TITLE : 男たちのゲームセット
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目 次
第一章 僕たちは迷宮のなかにいた
第二章 王と長嶋
第三章 十月十一日、後楽園球場
第四章 川上野球の落日
第五章 江夏豊という男
第六章 運命の落球
第七章 優勝まであと二百時間だ
第八章 エース対エース
第九章 ウィリー・カークランド
終 章 田淵の夏の終わり
第一章 僕たちは迷宮のなかにいた
不意に肩を叩《たた》かれ、ふりむくと一人の男性がここに座っていいですか、とぼくに尋《たず》ねていた。ある地方の町の、三、四十人の人たちが集まった会合の席でのこと。いくつかの円いテーブルを囲み、ビールのグラスを傾けながら皆、軽い夕食をとっていた。
ざわめくような話し声に笑いが混じっている。
どうぞ、といってぼくは空いている隣りの椅《い》子《す》をすすめた。
じつはあのとき私は大阪球場にいたんですよ。かれは唐突にいった。
それだけで、かれが何をいおうとしているのか、ぼくにはわかった。
そのテーブルではついさっきまで野球の話で盛り上がっていたからだ。一軍には上がれなかったが、昭和三十年代のはじめ、阪急ブレーブスのファームにいたという人は、もう五十代の半ばになり、地場産業の専務におさまっていた。セントラルリーグの審判をしばらくつとめたあと、地元の高校野球の監督を引き受け、甲子園大会にも出場したことがあるという人は、真夏の炎天下、ノックバットを振っていたのがつい昨日の出来事のような気がするといって、じっと自分の手の平を見つめていた。
広島、近鉄戦ですね。ぼくはざわめきのなかでいった。
そうです。近鉄、広島戦です。とかれはチームの名を逆にして繰り返した。グレーのスーツを着た、そろそろ定年を迎えてもおかしくないという年格好の紳士である。
……あの日は福岡から大阪まで出掛けていきました……。
物静かな口調だった。
一九七九年の十一月初旬。日本シリーズの最終戦が行われた日のことだ。
3勝3敗で迎えた第7戦、広島カープはわずかに1点をリードして9回裏、近鉄バファローズの攻撃を迎える。カープのマウンドにはリリーフエースの江夏豊がいた。近鉄はその江夏を攻略して、最終回、無死満塁のチャンスをつかむ……。
そのときのシーンはぼくの記憶のなかにしっかりと刻みこまれている。雨の降り始めた大阪球場のゲーム。その9回裏の江夏のことを原稿に書こうと、テープがすりきれるほどビデオを再生したことがあるからだ。
紳士は、その日のことをいっているのだった。
……いてもたってもいられませんでした。近鉄ファンだったんですよ。仕事を放っぽりだして朝の新幹線に乗ったんです。9回裏、無死満塁になりましたね。でも私は近鉄が勝てないとわかっていました。なぜ、って……近鉄だからですよ……。
そういうチームだったんです。帰りはすっかり雨にたたられました。難《なん》波《ば》から地下鉄に乗ったのは覚えていますが、どうやって新大阪の駅にたどりついたのか、記憶はないんです。新幹線の下りのプラットフォームに立っていたら博多行きがやってきました。切符を見ると自由席で、混んでいました。座るところがないんで、ドアの近くに立っていました。駅に着くたびにドアが開き、雨が吹き込んでくる。背広がびっしょりになるくらい濡《ぬ》れてしまいました……。
そのことを話しておきたかったんですよ。まだ誰にもいってなかったんでね。会社にも内緒だったし、家族にも話してなかった。笑われてしまうでしょう。いい年して、博多から大阪まで野球を見に行くだなんて……。
束《つか》の間《ま》の会話だった。
その言葉だけが、周囲の物音とは混じりあわずに、たしかな旋律としてぼくの耳に聞こえていた。
コンサートが始まる前のオーケストラの、様々な楽器が調律されているなかから第一ヴァイオリンの奏でる、記憶するに足るメロディーが聞こえてくるようなものであったのかもしれない。円卓に運ばれてきた料理を取り分ける音。グラスやフォークが皿に当たる音が間断なく聞こえていた。弾けるような笑い声。ゴルフ自慢に昨夜の酒の話。いつまでも続きそうなざわめきのなかで、ぼくは雨のなかを走る新幹線の姿を思い浮かべていた。
勝てない、あのチームが勝てるはずがない、と思いながらもわざわざ博多から大阪まで出掛けていった野球ファンが乗っていた新幹線。それでも私はいまだに近鉄ファンを続けているんですよ……。かれはそういって立ち上がった。突然、失礼しました、といって。
野球ファンは従順な恋人のようなものだ。結局のところ、相手のすべてを許してしまうのだから。
あのゲームでは、小さな歯車がひとつ変われば近鉄に勝利が転がりこんできたかもしれない。こぬか雨の降るスタジアム。照明灯の明かりに照らされた焦《こ》げ茶色のグラウンドで胴《どう》上《あ》げされるのはカープの古《こ》葉《ば》竹《たけ》識《し》監督ではなくバファローズの西《にし》本《もと》幸《ゆき》雄《お》監督であったかもしれないのだ。それを信じようとするのもファンだが、それを信じることに罪悪感にも似た思いを抱くのもまた、ファンというものなのだ。野球のファンは夢を安易に信じてしまうと、その夢が実現しなくなってしまうという恐怖心があることを知っている。勝てると思ったときからドラマが逆転し、敗北に至るプロセスが始まるという経験は誰にでもあるものだ。だから、あえて信じまいとする。恋人に愛されていないのだと、あらかじめそう思っていたほうが、失恋の痛手が小さいからだろうか。
気がつくと、グレーのスーツを着た紳士はもういなかった。
今、ここに話をしに来たのは誰でしたか。ぼくは、円いテーブルを共有している人たちに聞いた。さあ、誰だろう。誰か知っていますか? ざわめきのなかから返事はなかった。
記憶がよみがえってくるのは、例えばそんなときだ。
野球ファンであることが幸せだった季節。新聞のスポーツ欄のボックススコアが重大な意味を持つ情報であるかのように信じていられた日々。
数字の羅《ら》列《れつ》のなかに隠されている暗号を解読しようとするかのように毎朝、必ず、ぼくは数字を読みこんだものだ。その向こう側に夢のような世界がある、と信じこんだのはせいぜい中学生までのことで、やがてそのボックススコアの呪《じゆ》縛《ばく》から解放されたときこれでやっと大人になったなと、むしろさばさばした思いでそれを歓迎したのだが、不意にまたボックススコアの迷宮に入りこんでしまうことがあった。
一九七三年の夏、ぼくも含めて野球ファンは迷宮のなかにいた。
この年からパ・リーグは二シーズン制を採用し、前・後期の優勝チームによるプレイオフを日本シリーズの前に行うことになった。シーズンに二度の優勝決定、さらにプレイオフという節目をつくることで観客動員を促進させようという狙《ねら》いだった。前期優勝は南海ホークス、後期は阪急ブレーブスが勝ち、プレイオフではプレーイング・マネジャー(選手兼監督)の野村克也が率いる南海ホークスが阪急ブレーブスを下すことになる。
プロ野球の迷宮は、しかし、新しいシステムを導入したパ・リーグにあるのではなく、混《こん》沌《とん》としたペナントレースを続けるセ・リーグのほうにあった。
セ・リーグでは八月下旬から九月にかけて六つのチームがわずか3ゲーム差のなかにひしめきあっていた。
これほどの混戦はプロ野球が始まって以来、初めてのことだった。
九月六日の広島―ヤクルト戦では、勝ったほうのチームが二位になり、負けたほうは最下位に転落するという僅《きん》少《しよう》差《さ》のペナントレース。
そのなかから抜け出してきたのが巨人と阪神だった。
もし巨人が勝てば、九年連続優勝を達成する。
阪神が勝てば一九六四(昭和三十九)年以来、ほぼ十年ぶりの優勝である。ジャイアンツ黄金時代のなかでしばしば二位に甘んじてきたタイガーズが雪《せつ》辱《じよく》のチャンスをつかもうとしていた。
そのシーズンの十月――。
巨人、阪神はともに残り試合が一《ひと》桁《けた》になり、デッドヒートをくりひろげている。
日本列島の南の海上には台風17号がいて北に向かおうとしていたが、大陸から東に向かって進んできた、この季節特有の移動性高気圧の勢力が強く、北上を妨げられていた。
東京は晴れ上がっている。
ぼくは、その日、ペン先の形をした小さなバッヂをブレザーの胸につけ後楽園球場に向かって水道橋の歩道橋を軽い足取りで歩いていた。バッヂは東京運動記者会のもので、ぼくはメンバーではなかったが、当時仕事をしていた新聞社が発行する雑誌の編集部に割り当てられていたものだった。そのバッヂをつけていれば観客としてではなく、取材者として球場に入ることができる。バッヂは副編集長の机の引き出しに大事にしまいこまれており、管理は徹底されていた。新聞の運動部から借りていたものだったからだ。万が一なくしてしまった場合、もう二度とバッヂは貸し出せないといわれていた。そういう大事なものなのだということをくどいほど繰り返しながら副編はぼくにバッヂを手渡した。
「先発は誰だろうね。昨日は高《たか》橋《はし》一《かず》三《み》が投げてるから、巨人は堀内だろうな。ほかにはいない」
断言した副編は根っからのジャイアンツ・ファンで、かれは事情さえ許せば自ら後楽園球場に取材に行きたがっていた。
かれのいう「昨日」のゲームとは巨人―阪神の24回戦のことで、シーズン終盤の首位攻防戦には五万人の観客が集まった。
十月十日、体育の日。休日に行われた伝統の一戦はデイゲームである。九月の下旬から10勝1敗というハイペースで首位を行くジャイアンツに肉薄してきたタイガースは勢いに乗っている。
球場側は、この試合のために一万枚の当日券を用意していた。チケットのほとんどすべてが前売りで捌《さば》けてしまうというのはもうしばらく後の時代のことで、川上哲治監督に率いられた、九連覇をめざす巨人は強すぎることが災いしてかえって観客動員に頭を痛めていた。それでも伝統の一戦、しかもシーズン終盤の首位攻防戦ならではの人出が予想され、地元の富坂警察署は朝から警備の警官五十人を現場に派《は》遣《けん》している。ふだんは多くても二十人だから、倍以上の警戒態勢を整えたわけだった。
取り締まりの対象はダフ屋である。
ところが、その日はほとんどダフ屋の姿が見えなかった。
デッドヒートを続けてきたセ・リーグのペナントレースだが、阪神が終盤になってここまで追い上げてくるとは予想がつかなかったのだ。十月に入ったあとのジャイアンツ戦は客が入らないというジンクスもできあがっていた。例年、ジャイアンツが早々と優勝を決めてしまうから十月は消化試合になる確率が高く、ダフ屋も仕事にならない。阪神が急激に追い上げて十月の天《てん》王《のう》山《ざん》を迎えたのだが、かれらは事前にチケットをかき集めるのに失敗したらしい。
そのかわりファンは朝早くから行列していさえすればなんとかチケットを手に入れることができた。その人の列を見て、後楽園球場のスタッフは午前中のうちから国電の水道橋駅、地下鉄後楽園駅の出口で、今日の試合はすでに満員、札止めであるというアナウンスを始めた。
一万枚の当日券があるといっても、電車が駅に着くたびに黒山のようになって降りてくる人たちをすべて収容できるわけではないからだ。
実際のところ、内野席のチケットが売り切れたのは昼過ぎの一二時二五分、外野席は試合開始ほぼ四十分前の午後一時二〇分に売り切れている。
十月の巨人戦が満員、札止めになったのは三年前の一九七〇年、その日で巨人の優勝が決まるかもしれないといわれた十月十八日の対広島ダブルヘッダー以来のことだった。
試合は田淵幸一の逆転満塁ホームランで阪神が勝った。
スコアは6―5。それまでタイガース打線を1点に抑《おさ》えていた高橋一三が6回表、阪神の後藤和昭にソロホームランを打たれ、続く望月充にセンター前ヒットを打たれたところで降板した。リリーフのマウンドに立った倉田誠投手は代打の桑《くわ》野《の》議《はかる》、トップバッターの藤田平に連打され、満塁。長身の右の本格派ピッチャー倉田はつづく中村勝広、遠井吾郎を三振に打ち取るのだが、タイガースの四番打者、田淵にはつかまってしまった。田淵が打ったのはカウント1―2からの4球目のフォークボールである。
タイガースは、逆転するとその裏から江夏豊をマウンドに送った。その江夏が4イニングスを抑えきった。
最終回には王貞治、長嶋茂雄を連続三振に討ち取り、ゲームセット。ジャイアンツ・ファンにとってはタイガースの底力を見せつけられたようなゲームになった。
翌日、ジャイアンツ・ファンは苦々しげに新聞を読んだ。
巨人の活躍を常に一面に持ってくる報知新聞でさえ、トップの写真は満塁ホームランを打ち、両手を高々と上げて満面に笑みを浮かべる田淵である。グレーのビジター用ユニフォーム。胸には《HANSHIN》の文字と背番号22が浮き上がっている。
見出しには「阪神、劇的なトップ奪回」とある。
ジャイアンツは首位の座から引きずりおろされてしまったのだ。
ゲーム差はなく、勝率の差がわずかに1厘。生涯最高の一打だと、田淵は語っていた。
プロ入り五年目。かれはすでに100本以上のホームランを打ちながら、そのなかに1本も満塁ホームランがないという珍しい記憶を作っていたバッターだった。その田淵がプロ入り後、初の満塁ホームランを打ち、チームは首位に立ったのである。シーズンの残りゲームは阪神が5つで、巨人は4試合……。
朝の編集部にはまだ人は少なく、会議用に使っていたテーブルの上には当日の新聞が手付かずのまま積まれていた。一般紙からスポーツ紙、経済紙に地方新聞。それらを別の山にしてきちんと整えるのは編集部でアルバイトをしている学生の朝一番の仕事で、かれは昼間雑誌の編集部で働き、夜は大学の二部の授業を受けていることになっていたのだが、仕事が忙しいこともあり、また、そんなふうにして日々の出来事に追われているうちに大学にはほとんど行かなくなっていた。
ぼくがブレザーのポケットのあたりにつけていた小さなプレス用のバッヂに最初に気づいたのが、かれだった。
「今日は後楽園ですか」
うらやましそうな顔でかれはいった。
巨人―阪神の25回戦は十日にひきつづき翌十一日の午後に行われることになっていた。
ウィークデイのデイゲームだが、前日につづいて球場が満員になるのは間違いなかった。
「行きたいな。ぼく、ジャイアンツ・ファンなんですよ。王さんのサイン持ってますよ。柴田、高橋一三、あとキャッチャーの森のサインも持ってますよ」
ふだんは無口で黙々と仕事をするバイトなのだが、野球の話をするととたんにうちとけて目に輝きが出てくることに、ぼくは初めて気づいた。
かれは早口に、少し照れたように語った。サインは数年前、後楽園球場に行ったとき、選手たちの車が入ってくる駐車場でもらったこと。色紙とサインペンを差し出したとき、ゆっくりと立ち止まってサインしてくれたのは王と高橋一三で、森は歩きながらサインしたが握手してくれて、柴田はサングラスをかけたままサインし、そのまま振り向きもせず行ってしまったこと。でも、少しも腹が立たなかったこと、などなど。
今日は昼めしを食べずに雑誌の発送と調査部に資料をとりに行く仕事を片付けてしまい、午後の三時すぎに食事をとるのだともいっていた。編集部があったのは大手町のはずれだが、そこから神田方向に歩いていくと、テレビの野球中継を見せている喫茶店がいくつかある。日本テレビの中継が三時から始まるから、それにあわせて昼食をとるのだという。
こんな日だから午後の喫茶店は混むだろうけれど、一人で行っても窮屈な思いをしないですむカウンターつきの店を知っている。休みがとれるのは一時間だけだが、そのあと午前中にすませた調査部に行く仕事をしていることにしておけば一時間半は巨人―阪神戦を見ることができる。
「それが今日の作戦ですよ」
かれは、先発とリリーフ投手を決め、その日のゲームのシミュレーションを頭のなかですませた監督のような口調でいったものだ。
仕事中、うまくオフィスを抜け出して近くの喫茶店へかけこみテレビの野球中継を見る。同じような作戦をたてていた人は少なくなかったはずだ。
たかが野球ではあるけれど巨人―阪神伝統の一戦に優勝がかかってきている。
「優勝」などという大《おお》袈《げ》裟《さ》なことをいわなくても、巨人―阪神というカードならではの興奮もひそんでいた。
例えばこのとき、五年前、一九六八年の九月十八日の甲子園球場での阪神―巨人戦のことを思い浮かべた人もいるだろう。スコアは10―2という大差で巨人が勝ったのだが、この試合は荒れた。
阪神のジーン・バッキー投手がバッターボックスの王選手に対して2球つづけてビーンボールを投げたことがきっかけになった。王は珍しく、バットを持ってマウンドへ詰め寄った。前の打席でも同じような球を投げられていたからだ。その直後、三塁側のダグアウトから巨人の荒川博コーチが飛び出していた。乱闘になり、バッキーは右手の指を骨折し、荒川コーチは十日間の怪《け》我《が》を負った。
あるいは一九五九(昭和三十四)年六月二十五日の後楽園球場、いわゆる「天覧試合」となった巨人―阪神戦のことを思い出した人もいるだろう。
4―4の同点で迎えた9回裏、タイガースのエース、村山実がジャイアンツの四番打者、長嶋茂雄をバッターボックスに迎える。そして、延長戦に入る寸前、カウント2―2からの5球目を長嶋が打ち、レフトスタンド、ポールぎりぎりのところに決勝ホームランを打ちこんだのだ。うなだれてマウンドを降りる村山の横を長嶋が躍るような足取りでホームへ向かう。そのシーンを、ジャイアンツ・ファンはヒロイックなハイライトシーンの一つとして、タイガース・ファンは屈辱の記憶として忘れることはできなかった。
一九七三年のプロ野球は、そういう人たちによって支えられていたといってもいい。十月に入って、にわかに緊迫の度合いを増してきた巨人、阪神を中心とするセ・リーグのペナントレースは野球ファンの夢や期待を吸収するばかりでなく、例えば田中角栄首相の提唱する日本列島改造論に乗って急上昇した地価のせいでマイホームの夢が遠のいた都市生活者の嘆きや、持って行き場のない気持ちをも吸収しようとしていた。
森康夫は、その日のスポーツ新聞を自宅で読んでから地下鉄に乗り、大手町のチェース・マンハッタン銀行に出勤した。
かれはタイガース・ファンだった。人後に落ちないタイガース・ファンである。
かれは仕事のかたわら熱心に野球を見つづけ、資料も集めた。昭和三十年代のある時期のスポーツ新聞は完《かん》璧《ぺき》に揃《そろ》えており、それはのちに野球博物館の資料室に収納されることになる。縮刷版の発行されていないスポーツ新聞は資料として散逸してしまうことがあり、一年分、一日も欠かさずまとまったスポーツ新聞は古いものであればなおさら資料的な価値が出てくる。
かれはタイガースが田淵の満塁逆転ホームランでジャイアンツに勝ったゲームを複数の新聞で確認した。テレビの夜のスポーツニュースはどの局も毎晩五分の時間枠しかとっていなかった。野球に関する情報量はスポーツ新聞が圧倒的に多かった。
勝率でわずか1厘だけ上回った阪神が首位に立っている。
今日、再び阪神が勝てば、1ゲームの差がつく。そのあとに阪神はさらに4試合を残しており、対戦相手は広島が2つと、あとは中日に巨人。
スケジュールの上では対巨人の26回戦がシーズンの最後に組まれていた。巨人はその間、大洋、ヤクルトと1試合ずつを行い、最後に甲子園にやってくる。
今日のゲームで阪神が勝てば、巨人は残り3試合、ひとつも落とせなくなるだろう。森康夫は、そう読んだ。
このシーズン、阪神は広島にすでに17勝していた。最も楽に勝たせてくれたチームである。その対広島戦を2試合も残しているということは阪神にとっての好材料だ。
今日、阪神が勝てば限りなく優勝に近づくことになるな……。かれは無意識のうちに「今日、阪神が勝てば……」という仮定を繰り返していた。
後楽園球場まで試合を見に行きたいところだったが、ウィークデイの昼間の試合とあってはオフィスを空けるわけにはいかなかった。午後の時間、ちょっと席を外して近所までテレビを見に出掛けることもできなかった。かれは為替のディーラーという仕事をしていたからである。
二年前の一九七一年八月十六日、アメリカのニクソン大統領は弱体化しつつあったドルを防衛するための経済政策を発表した。突然のドル防衛策に、東京外国為替市場にはドル売り、円買いの注文が殺到した。東京証券取引所では記録的といわれるほど株価が暴落した。東京の外国為替市場は実質的に大蔵省の管理下にあり、どの銀行も毎日の取引量を大蔵省に細かく報告しなければならない、という時代だった。扱いのほとんどは輸出入に伴う円とドルの交換である。そこに初めて投機的な動きが出てきたわけだった。
その年の十二月、円はドルに対して切り上げられ、1ドル308円という新しい為替レートが実施された。戦後の日本の経済政策は曲がり角にさしかかっていた。
巨人と阪神がペナントレースの最後の最後まで優勝を争っている一九七三年は、春先にもう一度、大きな揺れがやってくる。ドルの弱体化がさらにはっきりとしてきて、ヨーロッパでドルに対する不安感が表面化する。それがきっかけとなり、日本でも変動相場制が実施されることになった。それが二月のことで、円はいきなり1ドル271円20銭という高値をつけている。
その流れが十月の銀行の、ディーリングルームにも影響を及ぼしていた。いや、この時期はまだ「ディーリングルーム」という言葉は流《る》布《ふ》していない。FX(フォーリン・エクスチェンジ)という当たり前の呼び方をしていた。
そのうえこの日、十月十一日の朝の新聞では悪化している中東情勢が長期化しつつある、という記事が出ていた。
エジプト、シリア軍とイスラエル軍がスエズ湾とゴラン高原で戦闘状態に入ったのが、つい五日前のこと。情勢は混《こん》沌《とん》としており、アラブの石油産油国では原油の生産削減が真剣に検討されるようになっていた。石油を外交上の取引の材料に使おうというわけである。それがやがて「石油危機」につながり、日本ではトイレットペーパーの買い占め騒ぎが持ち上がり、省エネのためにテレビの深夜放送が打ち切られる事態になるのだが、それにはまだあと一カ月ほど待たなくてはならない。
晴天、秋晴れの東京の町はいつものとおりだが、世界の流れの先を読もうとするFXルームでは原油の生産削減が実施された場合、それが為替市場にどういう影響を及ぼすことになるのか、慌《あわ》ただしいなかで検討されていた。イスラエルの立場を支持せざるをえないアメリカは中東からの原油が削減されることを見越して国内の原油を増産しはじめていた。輸出が削減されるにしても、産油国が日本に対してまで強硬な姿勢をとることはないだろう、という楽観論もあった。しかし、石油の備蓄のない日本に対しても原油の輸出削減が実施されたら、どういうことになるのか……。
午後になって、森康夫の席の電話が鳴った。
「いただきですよ」
電話線の向こう側から、仕事の電話とは思えない明るい声が聞こえてきた。電話をかけてきたのはブローカーの一人で、森とのあいだにはともに熱狂的な阪神ファンであるという太いつながりがあった。FXルームにはテレビはおろかラジオもなかったが、ブローカーはラジオに耳を傾けながら仕事をしているとのこと。
「もう始まってるのか?」
声の感じで、電話の内容が阪神情報であることはすぐにわかった。
「勝ってますよ。堀内を打ち崩して7対0。1回は打者一巡で4点、2回も打者一巡で3点。勝ったも同然ですよ」
「こっちは誰が投げてるんだ」
「先発は江夏」
「江夏か……やはりな」
前日、江夏はリリーフで6回から9回までの4イニングスを投げていた。それでもあえて江夏をマウンドに送る、というのがタイガースの野球だった。
黄金カードの、優勝をかけた一戦。そのシーズンのもう一人の阪神投手陣の柱、上田二朗は前日の試合に先発し3イニングスしか投げていないが、3点を失っている。江夏しかいないのはわかるのだが……。
不安感はあったものの、阪神は大量7点をリードしているという情報はFXルームで小躍りするに十分だった。
「優勝」の二文字が森康夫の頭に浮かんだ。仙台で過ごした中学時代に阪神の藤村富美男のファンになって以来のタイガース贔《びい》屓《き》。その学校に、戦前からの阪神の大投手、若林忠志がやってきたことがある。
戦後、間もないころ、若林はまだ現役で投げていた。野球部のキャッチャーが若林の球を受けることになった。そのキャッチャーが、若林の外角高めに外れる球をミットでではなく、何を思ったか右手を伸ばして捕ろうとした。ボールは人差し指と中指のあいだを抜け、指の付け根からは血が噴き出した。そのシーンはいつまでも忘れられない。プロ野球が2つのリーグに分裂し、阪神の主力選手の多くが毎日オリオンズに移った。その後の片肺飛行のような時期もタイガース・ファンでありつづけた。これで巨人のV9はない。阻止するのはやはりタイガースだ……。
阪神ファンは、一九七三年十月十一日の午後三時すぎまではタイガースが限りなく優勝に近づいていることを信じていた。
午後二時に始まったその試合が、タイガースの大量7点のリードのあとやがて大混戦になり、午後五時三五分すぎになったときに10対10のスコアで引き分けてしまうとは夢にも思わなかっただろう。
その後、巨人は連敗し、阪神はあと1つ、引き分けでもいい、負けさえしなければ優勝できるという状況になって名古屋に乗り込んだときに、最終戦のために大阪に移動するジャイアンツ・ナインを乗せた新幹線が中日球場のレフトスタンドの向こう側を走り去っていった。
そのときですら、阪神ファンは巨人の優勝を嫌う中日にタイガースが負けてしまうとは思っていなかったはずだ。
森康夫は、十一日の夕方、仕事から解放されたときに初めて、とんでもないゲームが後楽園で行われたことを知った。かれは呆《ぼう》然《ぜん》として、その日、取り返しのつかない、信じがたいほどの投機的な取引をしてしまったのではないかと思った。
「取材」という目的をもって初めて後楽園球場に行った日、ウィークデイにもかかわらずスタジアムの周囲には当日券を求める人の列ができていた。
正面玄関へ行くと、係員が出入り口のチェーンを外してくれた。
かれがぼくの胸元のバッヂを素《す》早《ばや》く目で確認していた。ぼくは額《ひたい》のあたりに汗をかいていた。そのバッヂをつけていれば本当に入れるものなのか、自信がなかったからだ。じつはプレスや関係者のための出入り口は別のところにあり、正面からは入ったりしないものなのだということは、後になって知った。
深呼吸をしてから歩きはじめた。
真正面から明るい日が差しこんでいた。まっすぐ階段を上がっていけばネット裏で、そこからは初秋の光を浴びたグラウンドが見渡せるはずだった。
目指すのはダグアウトだった。
一言だけでもいいから、試合前に聞いておきたいことがあったのだ。背番号3をつけた長嶋茂雄選手に対して。
質問は一つ。
川上監督から今シーズン限りで現役を引退し、監督の座を継がないかといわれているはずですが、本当にもう現役を退いてしまうのですか?
第二章 王と長嶋
一九七三年、十月――。
その季節のことを書こうとするときに見えてくる風景は、もちろん野球だけではない。
ひとたび記憶の底から蘇《よみがえ》ると脳《のう》裡《り》に張りついたように動こうとしない景色があるものだ。
例えばこの時期には新宿のアートシアター「新宿文化」では桜社の公演が行われていた。上演されていたのは劇作家の清水邦夫が演出家の蜷《にな》川《がわ》幸《ゆき》雄《お》と組んだ作品で、新宿文化の壁に貼《は》られていたポスターには――「泣かないのか? 泣かないのか、一九七三年のために?」というタイトルが刷り込まれていた。《一九七三》という記号がタイトルに含まれているせいで記憶しているのかもしれない。
幕が開くと舞台には浴槽が置かれ、芝居は銭湯の洗い場から動き出す。そこで出会うのは高校の教師と、その教え子だった男。二人は学園紛争で対立したことがあり、それから数年後、銭湯の洗い場などという場所で再会したわけだった。そこにサーカスであったかサドマゾショーだったか、その手の芝居がはねたあとの女装の役者たちが化粧を落とすためにどやどやと入りこんでくる。それが幕開けだった。そのときの、どうしようもなく奇抜でグロテスクな光景は、同じようなものをその後見ることがなくなってしまったせいもあり、あの時代の明瞭な一シーンとして記憶の襞《ひだ》に刻みこまれている。
やがてその芝居は連合赤軍事件をはじめとするあの時代の様々な出来事の混乱、迷走を暗示するものだと解説されるようになるのだが、今、不思議な感慨のなかで思うのは、その芝居とプロ野球の巨人―阪神戦をほとんど同じ時期に見ているということだ。
両者を結ぶ明確な糸はない。ないけれど、同じ交差点ですれちがう他人同士のように、かれらもまた一つの時代のなかで行き交っているわけである。
グラウンドではジャイアンツのバッティング練習が行われていた。
明るい日差しを浴びた後楽園球場のグラウンドは赤茶け、外野の芝は黄ばみかけている。
その外野に向かって鋭い打球が飛ぶたびにスタンドから大きなざわめきが起こった。
バッティング・ケージが二つ並び、一方には長嶋茂雄が、もう一つのケージには王貞治。それを見るだけでも後楽園球場に行く価値がある、といわれたものだ。
王貞治はケージの後ろにいるコーチと時折会話を交わしながらリラックスしてバットを振っている。
ここで王貞治という選手のことを少し書いておくと、かれは調子が落ちてくるときまって特打ちを志願し、バッティングフォームを固めなおすというバッターだった。フラミンゴ打法と呼ばれたかれのバッティングフォームには数十カ所のチェックポイントがあった。それをひとつひとつ確認しなおしながらフォームを微調整していくのである。
特打ちは、しかし、どちらかといえば精神論として理解されることが多かった。
打てないときにあえてハードなトレーニングをこなし、自分の体をいじめる。その「ガッツ」や「精神力」が苦境を脱するときの力になる、というのである。
それを認めないわけではなかったが、王貞治にはまた別の見方があった。
バッティングには好不調の波がある、しかし、本物の「職人」ならばその振幅を小さくしなければいけない、というのがかれの考え方だった。
王貞治はプロ野球の世界を「技術」を究極まで磨きあげるための「場」であるとイメージしていた。その結果としてホームランが「量産」され、タイトルがついてくるのである。球場にやってくるファンやテレビでゲームを見ている人たちにつかの間の「娯楽」を提供しているのだというとらえ方は、かれにはなじまなかった。「技」を追求しなければ「進歩」はありえない……。
そういった考え方は異端ではなく、やがて八〇年代に入って「ハイテク」を具現化していく日本人の律《りち》儀《ぎ》なテクノロジー信仰と無理なく重なり合っていく部分もあった。いいものを作り出すためには研究をかさね、惜しみなく努力しなければならない、という考え方である。
王貞治は自分のバッティングに「不良品」が出れば、すぐにその場でチェックした。世界のどこに出しても通用するバッティングを完成させるには当然のことだった。スランプの兆《きざ》しが見えたら、かれはすぐに「特打ち」を自分に課したわけである。
特打ちは他の選手たちがやってくる前の、まだスタンドには人影すら見えない時間の球場や多摩川の河川敷にあった練習グラウンドで行われた。
ボールをとらえる絶好のポイントを探しながら一心不乱にバットを振りつづける王貞治には近寄りがたいものがあった。
そのなかからあの、個性あふれるフラミンゴ打法が完成していくわけである。
しかし試合前の、スタンドに観客が入っているときのバッティング練習ではむしろリラックスして、バッティングそのものを楽しむかのように一球、一球、打球の行《ゆく》方《え》を確かめながらスイングを繰り返した。選球眼の良さには定評があり、ストライクゾーンの外側のボールには決して手を出さない。そのためバッティング練習のために投げるピッチャーも王選手に対してはコントロールに気を使っていた。
秋晴れの後楽園球場、スタンドは外野席と内野の自由席から埋まっていく。指定席のチケットを持ち、試合開始直前に球場にやってくる人たちはそのシーンを見ることができない。
この日――一九七三年十月十一日――の巨人―阪神戦、試合開始は午後の二時と予定されていた。
後楽園球場で試合がある場合、ジャイアンツの選手たちはその四時間前にはユニフォームに着替えてグラウンドに出ることになっていた。それがこのチームの慣例なのだった。
この日でいえば集合が朝の九時半で、十時にはウォーミングアップが始まる、というスケジュールである。遅刻する選手はめったにいない。それが統制のとれたチームの当然の姿だと選手たちは思い込んでいた。
監督やコーチ、主力選手たちは試合開始五時間前の午前九時すぎにはロッカールームに集まりはじめた。
前日、ジャイアンツは田淵幸一の満塁ホームランでタイガースに逆転されている。スコアは6―5。1点差を追うジャイアンツの前に立ちはだかったのは阪神のエース江夏豊で、かれはリリーフとしてマウンドに上がると終盤の4イニングスで6つの三振を奪い反撃を断ち切っていた。
その江夏の先発がありうるのか。
ジャイアンツのロッカールームの話題はその点にあった。
江夏はまだ二十五歳。この年は307イニングスを投げ、24勝をマークして最多勝のタイトルを獲得する。先発もリリーフもこなすピッチャーだった。
暑さと湿度の高さで疲労がたまってくる八月末の甲子園球場では一人で延長11回を投げ抜き中日打線をノーヒット・ノーラン(無安打無得点)におさえこむ、という信じがたいほどのピッチングを見せている。
無安打、無失点におさえながら試合が延長までもつれこんだのは中日の先発投手、松本幸行のピッチングもよかったからだ。阪神打線は松本からわずか3本のヒットしか打てず、スコアリングポジションにランナーを送ることができなかった。逆に江夏は10回の表、あわやホームランかという大飛球を打たれている。バッターはドラゴンズの井上弘昭。井上の打球はレフトスタンドに向かって飛んでいった。打球音が聞こえた瞬間に両軍の選手たちがダグアウトから身を乗りだした。その打球を追ったのはレフトを守る望月充である。かれはフェンスに体をぶつけるようにジャンプしながら逆シングルでグラブを差しだした。それをじっくりと確認してから、レフトの線審は右手をあげてアウトを宣告した。
そのゲームに決着をつけたのは江夏自身だった。11回の裏、先頭打者としてバッターボックスに入った江夏は松本の初球のストレートに的を絞り、バットを強振。打球はライトスタンドのラッキーゾーンに飛び込んでいった。自ら決勝のホームランを打ち、延長11回を投げきってノーヒット・ノーランを達成したのはこのときの江夏だけである。
夏休み最後の甲子園球場、スタンドには9000人のファンがいた。
劇的な試合の目撃者は1万人もいなかったのだ。
このときの中日は首位を争うチーム。その中日を追っていたのが、ほかならぬ阪神タイガースだった。にもかかわらず9000人の観客とは少ないのだが、当時のタイガースの年間の観客動員数はやっと100万人を超えるくらい。ここ二年ほどその100万人のラインも割り込み、一九七三年は大台の回復が目標になっていた。
江夏はノーヒット・ノーランを達成したあと、今日は調子があがらず困った、と語っている。
最初は体がえらくだるくてどうしようもなかった。3、4回ごろから汗が出てやっと動きがよくなりスピードが出はじめた。でも中一日の登板だから8回から疲れが出て、あとは全然ボールが走らんかった――と。
中一日の登板で延長11回を投げきってしまう……。
江夏の話を聞いていた記者は皆、そのことに気づいていた。二日前、たしかに江夏は上田二朗をリリーフして終盤の3イニングスを投げていたのだ。そのうえまた先発で江夏をマウンドに送ることに、しかし、誰も違和感を抱いていなかった。江夏はそれだけのピッチャーだし、首位攻防戦という大事な試合でエースがマウンドに立つのはタイガースの野球にとっては当然のことだった。
江夏がシーズン最後の天王山、阪神が勝率でわずかに1厘だけリードして首位に立った直後の巨人戦のマウンドに立つのは、前日にリリーフ投手として4イニングスを投げているとはいえ、不思議ではない。
ジャイアンツはバッティング練習用にサウスポーのピッチャーを用意した。
打撃練習は控えの選手から始まる。
やがてその順序は逆になり主力打者から打つようになるのだが、ONがいた時代、スタンドの客入れが始まる前に打撃練習を終えてしまうのは控えの選手たちで、いい席を争うように入場してくる自由席のファンや、指定席のチケットを持っているのだが一刻も早く球場へ行って打撃練習を見たいというファンがスタンドにやってくるころケージに入っているのは柴田や土井、高田、末次といったレギュラー選手たちであり、そのあとにONが、練習とはいえ拍手を浴びながらバッティング・ケージに入っていくのだった。
打撃練習を終えると長嶋茂雄はダグアウトを抜けロッカールームに向かった。
そのときの表情にも忘れがたいものがある。
かれはそのシーズン限りで引退するのではないかともいわれていた。
しかし、たっぷりと汗をかいた顔はその気配を感じさせなかった。ダグアウト裏からロッカールームへと続く通路はなだらかな坂になっている。天井は低く、手を伸ばせばひんやりとしたコンクリートの感触にふれることができた。
長嶋はその通路を小走りに駆け上がった。それは躍動感を感じさせるものであったが、まとわりつく記者たちを振り切るようでもあった。スパイクの歯がかしゃかしゃという音を立てた。背中で背番号3が揺れていた。長嶋はロッカールームに入るとユニフォームを脱ぎすてシャワーを浴びるはずだった。試合前の練習のあとは汗を拭《ふ》きとるだけでアンダーシャツを着替え、そのまままたユニフォームを着る選手が多いのだが、長嶋はそれがジンクスであるかのようにシャワーを浴び、ときには風《ふ》呂《ろ》に飛び込むこともあった。
そのまま長嶋はロッカールームの外に出てこなかった。
かれはこのシーズンを2割6分9厘という低打率で終えることになる。ホームランは20本。打点は76。何もかもが不満足なシーズンだった。
開幕戦ではヤクルト・スワローズの松岡弘投手からホームランを打ち、4年連続、通算で9本目という開幕戦本塁打を記録したが、勢いには乗れなかった。
このシーズン、打率3割をかろうじて越えていたのは最初の10試合だけで、以後、一度も3割を回復していない。五月の下旬には大洋ホエールズを相手に1試合19安打というめった打ちのゲームがあったが、スタメンに顔を出した選手のなかで長嶋だけはノーヒットだった。八月末のヤクルト戦では巨人打線が23安打を打ち、18点をもぎとって楽勝している。このときもスタメンのなかでノーヒットに終わったのは長嶋一人だった。
七月には苦手としていたホエールズの平松政次投手からじつに26打席ぶりにヒットを打っている。
長嶋は平松からほぼ一年、ヒットを打っていなかったのだ。オールスター戦を迎えた時点では打撃10傑から姿を消し、12位にランクされていた。そんなことはプロ入りしてから初めてのことで、オールスターのころの長嶋はいつも決まって打撃10傑に顔を出していたのである。そんな記録があったことに、自分では無《む》頓《とん》着《じやく》だったが、指摘されるとかれ自身やはりそうかと納得せざるをえなかった。
バッティングの不振は前年、一九七二年から始まっていた。もともと夏場には打率を下げるところが長嶋にはあったが、この年は八月に1安打をはさんで24打席無安打というスランプを経験した。
スランプを脱出すると俄《が》然《ぜん》打ちまくり、瞬く間に打率を上昇させるのが長嶋だったが、爆発力は衰えつつあった。
一九七三年の長嶋は三十七歳になっている。
スランプといわれていても、試合の最初の打席でヒットを打つとそのまま調子を上げ、連続してホームランを、スタンドを越えて場外にまでたたき出したこともあるのが長嶋で、そのアグレッシブなバッティングがかれの魅力だったのだが、ファンはそういうシーンを期待しながらもやがて溜《た》め息《いき》をつくことが多くなってしまったわけである。
九月初旬の中日戦では、長嶋は送りバントまでしている。
マウンドにいたのは星野仙一。
スコアは2―2の同点。8回表、先頭打者の王が四球を選んで歩くと、ジャイアンツのベンチから長嶋にバントのサインが出された。
「まさか、と思ったよ」と星野は後に語っている。
「意表を衝かれた。たしかに長嶋さんの調子はよくなかった。でも初回にレフト線にツーベースを打ってたんだ。長嶋さんにバントのサインを出すほうも出すほうだけど、長嶋さん、よくサインを見逃さなかったな」
「あの打球がおれのところにこなくてよかったよ」
とも、星野はいうのだった。
「あの長嶋さんがバントをするなんて、悲しくて涙で打球が見えなくなっちゃうからな」
星野はジャイアンツ、そのなかでもONという二人のバッターに激しいライバル意識を燃やしてマウンドに上がっていたピッチャーである。
まだルーキーのころ、星野が中日球場での巨人戦に登板し、接戦のまま9回まで投げてきたことがある。王にヒットを打たれ、次打者は長嶋。中日の水原監督はキャッチャーをベンチ前に呼んで星野を代えるべきか相談した。その話し合いの長さにしびれをきらし、星野はベンチに戻って怒鳴り声をあげた。おれに投げさすんか投げささんのか、はっきりせい、と。ルーキーは長嶋と勝負したかったのだ。監督が誰であろうと関係なかった。水原監督はその星野を見て、投げてみろ、という。マウンドに戻った星野は勢いこんで長嶋に速球勝負を挑んだ。
結果は見事なホームランである。ライバル意識はそういうなかから育まれてきた。敬遠の四球やバントはなしだ、という思いが星野にはあった。
長嶋のバントは三塁前に転がり、以前、一度長嶋にセーフティーバントを決められたことのある島谷金二があらかじめ二歩だけ前進して守っていたので難無く捌《さば》き、二塁ベースに駆け込む王を見ながらボールを一塁へ送った。
シーズンの、残り試合がひと桁《けた》になったころ、ジャイアンツの川上哲治監督は長嶋を呼び、今シーズンで現役を退いたらどうか、と打診した。
自分も監督をやめるつもりだ、ともいった。そのあとを引き継ぐのは長嶋しかいない……。
七三年の十月初旬のことだ。
ジャイアンツは勝率がやっと5割3分に届いたところだったが、ペナントレースでは首位に立っていた。強いから首位に立っているのではなく、勝率を計算してみるとどうやら5割3分でも首位に立ってしまうらしい、というぐらいのものだった。どのチームも決定力に欠け、抜け出すことができなかった。
ジャイアンツにしても、いつまた首位の座から転落するかわからない。優勝できるのか、どうなのか、見通しをたてることもできなかった。それでも野球のシーズンが終わってしまう前に川上監督が長嶋に、自分は今年を最後にユニフォームを脱ぐことを考えているといったのは川上自身、勝負に対する執着が以前に比べて薄れてきていたからだし、ペナントレース最後のヤマ場をもやもやとした感情を抱えたまま乗り切るわけにはいかなかったからだろう。
長嶋は、しかし、まだ現役を退くつもりはないと返事した。三十七歳という年齢は、ベテランではあるが野球ができなくなる年ではない。スランプがやってくるペースはたしかに早くなった。しかし、このまま終わってしまうはずはないし、終わってしまいたくもない。
せめてあと一年、現役でプレーしたいという長嶋の主張に、川上はあえて異を唱えなかった。
二人のあいだでそんな話が交わされたあと、ジャイアンツは名古屋、広島に遠征した。
それ以前から出ていなかったわけではないが、長嶋の現役引退説がしきりに取《と》り沙《ざ》汰《た》されるようになった。長嶋は名古屋の最初の試合で久々にホームランを含む3安打を放った。しかし、その次の試合では無安打。広島での三連戦、チームは2勝1敗と勝ち越し、巨人打線は3試合で合計17点をたたきだしたが、長嶋の打点はわずかに1だった。
バッティングがそんな状態だったとき、かれのところに神奈川県川崎の高津警察署から意外な情報がもたらされた。
長嶋さん、あなたは狙《ねら》われていたんですよ、というのだった。
その話は球団の広報担当者を通じて聞かされた。川崎に住む男を中心にした五人の仲間が球場帰りの長嶋選手の車を尾行し、車を止めてナイフをちらつかせ現金を脅《おど》しとろうと計画していたのだという。
「連中は九月に入ってから何度か尾行しながら地理を確認していたようだ」
そういわれても長嶋には尾《つ》けられているという実感はなかった。
「九月の二十六日には後楽園の中日戦のあと、ナイフもロープも用意して車のあとを追ったらしい。ところが途中でまかれてしまい、見失った。そのうちに仲間の一人がこわくなって警察に通報したんだな」
「連中は逮捕されたんですか」
「捕まったよ」
長嶋はそれを聞いてほっと胸を撫《な》で下ろしたが、シーズンの最後になってそんな事件があったことで嫌な思いをした。
かれは単なる野球選手ではなかった。読売ジャイアンツは長嶋茂雄の加入以前、年間に150万人以上の観客を動員したことがない。一シーズンの試合数を130とすれば、その半分の65試合がジャイアンツの「持ちゲーム」となる。後楽園球場に一試合平均で2万人を集めれば、トータルで130万人。長嶋以前は、せいぜいそんなものだったのだ。
そのジャイアンツの観客動員数は長嶋がデビューした一九五八(昭和三十三)年から増えはじめる。
年間で200万人を超えるのが、その五年後のことだ。七〇年に後楽園球場のスタンドを増築し収容能力を上げるとすぐに250万人を突破した。
読売ジャイアンツを中心にしたプロ野球の成長期に、先頭を走ってきたのが長嶋茂雄だった。かれはプロ野球にとってシンボリックな存在だった。そういう意味では他の選手ではなく長嶋茂雄がターゲットになるのは必然であったのかもしれない。五人の犯人グループはそれぞれ三〇万円ずつ、合計で一五〇万円ぐらいは強奪できるのではないか、と目《もく》論《ろ》んでいたという。
古沢憲司はその日の朝、水道橋のグリーンホテルのロビーでスポーツ新聞を広げた。グリーンホテルは阪神タイガースの東京における定宿で、ユニフォームを着てバスに乗り込めばものの五分もあれば後楽園球場に行くことができるという近さだった。
新聞に自分のことは何も出ていなかった。ヒーローは前日、満塁ホームランを打った田淵であり、1点差で緊迫する後半の4イニングスを投げ巨人打線をおさえきった江夏だった。先発の上田二朗が打ち込まれ、そのあと江夏につなぐまでの2イニングスを投げた古沢憲司というピッチャーのことなど、どこにも書かれていなかった。
ページをめくるとロッテオリオンズのピッチャー、八木沢荘六が仙台で完全試合を達成したというニュースが出ていた。相手は太平洋クラブライオンズ。スコアは1―0。投球数は94で奪三振が6。内野ゴロが7つで飛球が14。データを見ていると、どういうピッチングだったのか見えてくる。八木沢投手はプロ入り7年目で初完投、それが完全試合になったという。かつての甲子園の優勝投手、大学に進むと早稲田のエース。ドラフト一位指名でロッテに入ったが、これまでは期待どおりの活躍ができなかったらしい。八木沢は完全試合を達成したあとウィニングボールを包みこんだグラブで顔を覆い、涙を流した、と書かれていた。
その記事から、古沢はしばらく目が離せなかった。
新聞にはいくらでもほかの記事が出ていた。
野球ファンから編集部にかかってきた電話を紹介する囲み記事には江夏のことが載っていた。二十年来の阪神ファンだという男が新大阪の駅で東京に移動するタイガースの選手たちと一緒になったというのだ。うれしくなって選手たちの顔を見ていると一人のカメラマンが江夏に金田正泰監督と並んだ写真を撮らせてくれと頼んだ。江夏は監督以外ならだれとでもいいが、監督とだけはかんべんして、といっていた。どういう事情があるのかはわからないが、阪神にとっては大事なとき。好漢江夏よ、チーム内のしこりを忘れて全力投球してほしい……というのだ。
ファンはよく見ているもんだ、と古沢は思った。しかし、自分のチームに関するそんな記事よりもやはり八木沢の完全試合のほうが印象的だった。
同じピッチャーだったからだろう。古沢はプロ入り二年目、まだ十七歳になって間もないころの甲子園、大洋ホエールズとの試合に先発し、完封勝利をあげたときのことを思い出した。あのときは大騒ぎだった。十七歳の初勝利が初完封だと、新聞には書かれたものだ。古沢はまだドラフト制度ができる前にプロ入りしている。高校一年生のときにスカウトされたからだ。自分がプロのユニフォームを着ることになるとは思ってもいなかった。
愛媛県の新居浜東高校一年の夏、甲子園を目指す県大会でもいいところを見せたわけではない。地元の強豪、西条高校に負けているからだ。自信があったのは速い球を投げられる、ということだけ。コントロールは悪い。変化球も満足に投げられない。おまけに県大会で負けてふてくされていた。家出同然に大阪に遊びにも行った。ところが、おまえの球を受けてみたいというプロのスカウトがいるといって新居浜に戻された。それが佐川と名乗る阪神タイガースのスカウトで、かれはキャッチボールをしただけでまだ高校一年生の、ひょろっとした長身のピッチャーと契約するといいだしたのだ。
スカウト個人の「眼力」がすべてだった。選手のデータを並べビデオを見ながら選手の採否が決まるのはずっと後のことだ。契約金は一〇〇万円。年俸は一カ月あたりほぼ三万円。学校に未練はなかった。古沢憲司は体ひとつでタイガースの合宿所、虎風荘に入るのである。昭和三十八年末のことだ。あれはまだ十六歳の誕生日すら迎えていなかった。
十代の半ばから阪神のユニフォームを着ているから、かれはタイガースの選手らしさをおのずと身につけることになった。
ある晩、合宿で煙草《たばこ》を吸っていると、先輩の選手がやってきて屋上へ来いという。そこでいきなり殴られた。その後はコンタクトレンズを使うようになるのだが当時はまだかけていた眼鏡がその一発のパンチですっ飛んだ。その場で殴るのではなく、また、まず言葉で言い聞かせるのでもなく、屋上へ呼んでいきなり殴るのが説教するときのこのチームの流儀なのだと、かれは知った。
伝統的に投手力を誇るチームだったせいもあり、ピッチャーはよく走り込んだ。それが基礎になるのだと、教えられた。
甲子園球場の、野次を飛ばす観客とフェンスごしに怒鳴りあうのも、そのうちに平気になった。しばいたろか、待っとれや、とブルペンのあたりからスタンドに向かって大声を出すのである。酒を飲めるようになったのはだいぶ経ってからのことだが、夜遊びはすぐに覚えた。門限はしばしば破る。あいつはワルだといわれた。どうしようもないやつだ、と。自分ではそんなつもりはなかったのだが、若いくせに口答えはするし態度は横柄だ、と思われていた。だめならユニフォームを脱げばいいんだと、開き直ることもあった。ファームと一軍のあいだを往復していたころ、突然一軍へ呼ばれ試合前のウォーミングアップをしていると練習態度がよくない、と監督にいわれた。
みんなと同じことやって何がいかんのか。腹を立てた古沢は、そのままロッカールームに戻り、着替えをすませると球場を出てしまった。一軍滞在の最短記録だろう。ファームで何度も喧《けん》嘩《か》したコーチが自分より先に一軍のピッチングコーチになり、どうあがいても上にあがれない時期もかれは経験している。それでも頭を下げるのはいやだった。格好よくいえば、力だけで活路を見いだすことができるのがプロの世界であり、人の良さや性格で選抜されてはたまらない、とかれは考えていたわけである。
ツッパルときは監督が何をいおうがツッパルというのは、ややもすればまとまりを欠く阪神タイガースの選手たちに共通する点でもあった。それがチームのエネルギーにもなっていた。このシーズン、タイガースの金田監督は二度、選手に殴られている。
古沢憲司は後楽園球場に着くとロッカールームを抜けすぐにダグアウトに行った。
ビジターチームの練習が始まるころ、スタンドはもう八分の入りで、巨人の打撃練習の最後を飾るONのバッティングに一喜一憂していた。
古沢はその翌年には先発のローテーションに入り15勝をマークするのだが、このときはまだ中継ぎで使われることが多く、その日もまた後楽園のマウンドに立つことになるだろうと予想していた。そのつもりでONのバッティングを見た。ネット裏に中継用のテレビカメラがセットされていることも見逃さなかった。日本テレビの野球中継は試合開始の一時間後、午後の三時から始まる。テレビ中継のある試合ではみっともないピッチングはできない。
三時におれがマウンドにいるようなことになるとゲームはまずい展開になっているな、とかれは思った。
第三章 十月十一日、後楽園球場
《ジャイアンツ》とは何だったのだろう。
あるいは《タイガース》とは。
そのことにしばしば立ち返りながら一九七三年のプロ野球の世界を旅していくと、おのずと出会うのがその年の十月十一日に後楽園球場で行われたGT戦である。
タイガースが優勝を目前にして、このゲームでも序盤に大量点を獲得し7―0とリードする。ところが9回、時間切れで試合が終了したときにはスコアは10―10のイーブンになっていた。引き分けである。ジャイアンツのV9を阻止し、タイガースがペナントをもぎとるというドラマチックな展開が狂いはじめるのがこの試合だった、と位置づけることもできるだろう。
あらゆる意味で、このゲームは「総力戦」だった。
このふたつのチームほど対照的な球団はない。
フランチャイズは東京と大阪。ジャイアンツは王、長嶋を中心とした野手のチーム。堀内、高橋一三、倉田……この時期にもいい投手はいたが、その投手陣が背後に控えざるをえないほどの「打」のスーパースターがいたわけである。
対するタイガースは小山、村山両エースの時代から投手主体のチーム。
七三年には江夏、上田二朗という二人のピッチャーがフル回転でペナントレースを乗りきっている。江夏はこのシーズン、307イニングスを投げ、上田は287イニングス。二人とも先発だけでなくリリーフもこなしている。
両エースで全試合のほぼ半分をまかなうほどの登板ぶりだから、このチームではどれほどエースに負担がかかるかわかるだろう。江夏には中三日の先発登板があり、リリーフした翌日の先発もあった。
ジャイアンツからONを除いたらチームが崩壊しかねないのと同様、タイガースからエースが欠けたらチームはがたがたになってしまうわけである。
些《さ》細《さい》なことだが『阪神タイガース 昭和のあゆみ』と題された球団発行の分厚い資料集を見ても、年度別チーム成績は「投手部門」が先にきて、そのあとに「打撃部門」とつづいている。プロ野球の記録集はおおむね「打撃部門」が先にくるのだが、タイガースではまず「投手部門」が優先されるわけである。
ホームグラウンドは、一方が高校野球の舞台になり、他方は都市対抗野球の舞台。当時の後楽園球場ではダグアウトのすぐ上に陣取った私設応援団が紙吹雪で選手を迎えていたとすれば、甲子園球場では痛烈な野次が選手たちを待ち構えていた。
ジャイアンツの選手たちは常に球界の紳士たれ、と訓示されていたことも、ここに付け加えておくべきだろう。統制を乱すことは許されなかった。監督批判、球団批判には当然のように罰金が科せられた。
他方、タイガースではしばしば監督をも巻きこむ内紛が起きた。
ジャイアンツの外野手、高田繁が一死満塁というチャンスにバッターボックスへ向かおうとしたときのこと。川上監督はちょっと待てといって高田を制し、主審に代打・柳田を告げた。まさか自分に代打が出されるとは、しかもいいチャンスなのに……。高田にとっては心外だった。どこのチームにもあることだろう。高田は自分の気持ちを抑えることができず、ダグアウトを素通りしロッカールームにこもった。ダグアウトにいれば何をいいだすかわからなかったからだろう。これも、どのチームであろうとしばしば起こりうることだ。
川上監督時代のジャイアンツの場合、そのあとの対応が違った。
いつまでもロッカールームから出てこない高田に対して、のちにコーチをつとめることになる控えの内野手、滝《たき》安《やす》治《はる》が高田に一言いいに行くのだ。一年でも長くジャイアンツのユニフォームを着ていたいと思うんだったら、そんなところにいないでベンチへ来い、と。滝はそういって高田をダグアウトに連れ戻した。
一方にONのプレーに代表されるようなスポーティーで奔放な世界があり、他方には組織の規律を重んじる保守的な部分もあった。本来は相いれないふたつの要素を束ね、包含して不自然さを感じさせないところが当時のジャイアンツの強みだった。
スポーツには本質的に人間を解放させるところがあり、そのことは例えば広い球場でホームランを打ったことがある人、あるいは豪速球でもののみごとな三振を奪ったことのあるピッチャーならわかるはずだ。
かれらはスポーツがもたらす浮き立つような高揚感、なにものにも束縛されずに解き放たれている自分を感じるはずだ。しかしその同じ人間がダグアウトに戻ればまた規律の世界に立ち返っていくのである。
なぜなのか。それを疑わないのは、勝つためには自分が駒《こま》のひとつにもならなければならないことを選手たちがよくわかっていたからだろう。野球は犠打に象徴されるように、自己犠牲のゲームでもある。
タイガースは、そのジャイアンツと比べれば、まとまりに欠けたチームだった。
エースの江夏豊がプロ入りしたころは、まだ村山実の全盛時代。江夏はすぐに頭角をあらわし、村山は下り坂にさしかかる。しかし村山はやがてプレーイング・マネジャーをつとめるくらいだから球団からの信頼は厚かった。それだけのことでも、この二人のあいだには溝《みぞ》ができてしまう。同じユニフォームを着ていても、必要以上に激しくライバル意識を燃やしてしまうのだ。
ところがその村山の引退試合では、江夏が若手投手陣の先頭に立って村山を騎馬に乗せ甲子園のファンを泣かせた。そのシーンを唖《あ》然《ぜん》として見守った選手もいる。
おい、どうしちゃったんだ。江夏が監督をかついでるぞ、といって。
しかし、不思議ではなかった。エースとしてのプライドとプライドがぶつかりあってはいたが、それは同じような立場におかれていたがゆえの対立であって、一方が現場を離れてみればこれほど理解しあえる人間もいない、と気づくからである。
ところが村山のあとを継いでタイガースの監督になった金田正泰とエース江夏とのあいだにできた溝は深く、修復不能に見えていた。
二人は七三年のシーズンが始まる前、福井県の永平寺に出掛けている。俗世間を離れて、それぞれに自分を見つめなおそう。わかりやすくいえば、そういうことだった。
監督はサウスポー江夏の気持ちをつかめなければチームをまとめられない、と知っていた。江夏にしても毎年のように監督との消耗戦をくりかえすのにうんざりしていた。監督は江夏を「ユタカ」と呼び、エースは監督を「オジキ」と呼んでいた。壁は取り払われたように見えた。
それが、しかし、長続きしない。まもなく二人は口もきかなくなってしまうのだ。
その理由については、ここでは深入りするのはやめておこう。チームのなかで監督に対する不信感が醸成されたことはいうまでもなく、また、江夏が投げるなら今日は適当にやっとこうか、といってグラウンドに出ていく選手がいたことも事実だ。先発した江夏が打ち込まれて交代、ロッカールームに引き揚げると、さあ試合はこれからだと突然、ベンチが活気づくことすらあった。
タイガースがそういうチームだということを、あのころのファンは誰でも知っていた。タイガースでは派閥、人脈が複雑に入り組んでいるとスポーツ新聞や雑誌で解説されていたし、選手たちもあえてそれを否定しなかった。
にもかかわらず、例えば一九七三年の江夏は24勝13敗、防御率2・58という成績を残している。
チームとしてのまとまりがどうであれ、実際にゲームが始まってしまえばそれぞれが思いもよらぬ力を発揮してしまう。太陽の光を奪い合い、同じ土のなかで育ちながら隣りの木を侵食していく深い森の樹木のような選手の集まりがタイガースであった、と形容することもできる。その代表格が江夏豊という投手であり、かれに象徴されるように、タイガースは常にジャイアンツにとってはいやな対戦相手でありつづけたわけである。
萩原康弘はその年、背番号32をつけジャイアンツのユニフォームを着ていた。
かれがおぼえているのは選手生活の晩年を迎えた長嶋茂雄が江夏対策に特打ちを計画したときのことだ。
萩原はもっぱら代打で起用されていた外野手である。しかしその日は内緒でバッティング投手をやってくれないかと頼まれた。左投げであったからだ。誰にも気づかれたくないというので、長嶋は専門のバッティング投手を頼まなかった。多摩川の河川敷にあるジャイアンツのファームのグラウンド、その土手を越えたところに室内練習場があった。
朝の室内練習場は静まりかえっていた。
窓は閉め切られ、カーテンも閉ざされている。
萩原がユニフォームに着替えて練習場に入っていくともう長嶋は姿を見せていて、マウンドのあたりにはボールをぎっしりと詰めた籠《かご》が用意されていた。
なぜ内緒で自分が呼ばれたのか、萩原はすぐに理解した。
コーチの福田昌久がいたからだ。福田はピッチャーとして南海ホークスに入団し、やがて野手に転向するというキャリアを持っている。後にジャイアンツにトレードされたあとも野手としてベンチに入っている。
そのときの福田はコーチの一人ではあったが、長嶋を担当しているわけではなかった。だけれども長嶋は、理論家といわれていた福田コーチにチェックしてもらいたいポイントがあった。それでバッティング投手も頼まず、もっぱら代打として起用されるサウスポーの萩原に江夏のようなフォームで投げてみてくれと頼んだわけである。気づかれてしまえば本来のバッティングコーチにいやな思いをさせる。萩原を呼んだのは、そのことに配慮したわけである。
萩原は喜んで練習を手伝った。
あの長嶋選手がひそかにバッティングをチェックするという、その現場を見てみたかったからだ。
早く来た長嶋がボールを用意するとは思ってもみなかったので、それだけでも萩原は驚いた。また、一球ごとに長嶋がポイントをチェックし、マウンドにいる萩原にまで真剣に今のはどうだったかと尋《たず》ねるのにも驚いた。プロのユニフォームを着て何年もたつと、もう教えてもらうことなど何もない、うるさいことはいうなとコーチにいいたくなってしまうのが普通であるからだ。
下降線をたどりつつあるスーパースターが、そのプライドを保つためにはここまでやるのだ……。
あるいはスーパースターであるからこそ、そこまで自分を追い込むのかもしれない。
いずれにせよ萩原にとっては、あらためてジャイアンツの強さを実感させられる出来事だった。
その萩原康弘にジャイアンツとは何だったのか、と問えば、なによりもまず「あこがれ」だったと答えるだろう。
一九四七年、神奈川県横浜生まれ。
かれは子供のころからジャイアンツ・ファンだった。
フランチャイズが近いのは川崎球場をホームグラウンドとする大洋ホエールズだったが、その川崎球場に行くときも三塁側のスタンドに陣取り、ジャイアンツを応援した。
野球好きの父親が熱狂的なジャイアンツ・ファンであることも影響していた。父親は家電メーカーに勤めていた。そのせいもあり、まだ街頭テレビしかないような時代に、かれの家にはテレビが置かれていた。自宅はタバコ屋も兼ねていたから、プロレスや野球中継がある日は近所の人達が集まってくる。茶の間は桟《さ》敷《じき》席《せき》で、タバコ屋の店先や窓の外にも知った顔が見える、という風景である。
一九五九(昭三十四)年六月二十五日の巨人―阪神戦も、テレビが家庭に普及しはじめて萩原家の桟敷席の観客数は減ったとはいえ、同じような雰囲気のなかで観戦している。
後楽園球場で行われた「天覧試合」である。ジャイアンツが藤田元司、タイガースが小山正明の先発で始まった試合は4―4の同点となり最終回、9回裏の巨人の攻撃を迎える。タイガースのマウンドには小山をリリーフした村山実。そしてバッターボックスにはプロ入り二年目の、長嶋茂雄。レフトスタンドにつきささる長嶋の決勝ホームランが飛び出して、伝統の巨人―阪神戦の歴史にあらたなる語り継がれるべきエピソードを加え、プロ野球の新しい時代の到来を予感させたのが、この試合である。萩原康弘は小学校の六年生だった。
その長嶋茂雄がいるジャイアンツに入ることになるだろうとは、ドラフトの日まで萩原は考えていなかった。
かれは東京の日体荏《え》原《ばら》高校三年の春に甲子園の選抜大会に出場している。一塁手だった。中央大学に進み、東都大学リーグでは優勝も経験した。しかしプロ入りの打診があったのは中日ドラゴンズであってジャイアンツではなかった。しかもその中日は、一位指名で早稲田の谷沢健一がとれなかったときにきみを指名する、という話だった。
ドラフトの会議の日、萩原は友人の家でマージャン卓を囲んでいた。中日の谷沢指名のニュースを聞いたのはそんなときだ。萩原はこれでプロ入りはなくなったと諦《あきら》め、横浜の自宅に戻った。
ところが、その自宅に巨人のスカウトから電話がかかっていた。きみをドラフト三位で指名した、というのだ。かれはいたずら電話だろうと思った。人をつかの間喜ばせて有頂天にしたところで急転直下、がっかりさせてやろうというわけである。
念のために球団に電話をかけると、たしかに指名した、信用しないならラジオ関東のニュースを聞いてみてほしい、とジャイアンツの担当スカウトにいわれた。萩原康弘がニュースのなかで自分の名前が読みあげられるのを聞いたのは、そのときが初めてだった。スカウト同士の情報網があり、指名しなくなった中日のスカウトから中大の萩原康弘に関するレポートが巨人のスカウトに流れていたと知ったのは、だいぶたってからのことだ。
こうして一人の野球少年のジャイアンツ入りがきまったわけである。
契約金は一〇〇〇万円。初年度の年俸は一八〇万円。契約が成立したのは一九六九年の年末のこと。翌七〇年のキャンプからジャイアンツのユニフォームを着ている。年俸を十二等分して月給になおすと毎月一五万円。大学卒のサラリーマンが手にする初任給の二・五倍程度だろうか。契約金のある部分はアマチュア時代に世話になった人たちへの謝礼で消えてしまった。契約金はそうやって使うのだとアドバイスしてくれる人がいたからだ。プロはグラウンドで稼《かせ》ぐもの、支度金は今まで自分を育ててくれた人達に恩返しの意味でかえすのが筋というものだ……。
そういう「常識」も、この世界には残っていた。
萩原康弘にとって読売ジャイアンツという球団はいい思い出ばかりではない。
かれはファームと一軍のあいだをしばしば往復した。一軍のトップ・プレーヤーにはなれなかったが、結局のところファームでおわってしまったというレベルでもない。この世界には公式戦の記録を残さずにユニフォームを脱ぐ選手も少なからずいるわけだから、そういう意味ではかれはごく平均的なジャイアンツの選手であった、と見ることもできる。
昼間はファームの試合に出場し、その足で後楽園球場のナイターに駆けつけることもしばしばだった。公式戦のスタメンに起用される機会が少ないからうっかりすると何日もピッチャーの生きた球を打たずに過ごしてしまう。それではいきなり代打に起用されても打てないのでファームのゲームで実戦を経験してくるわけである。たいてい試合前には後楽園に戻ってこられるのだが、東京の郊外から都心に向かう道路が混雑していて試合が始まる時間だというのにまだ遠くにいて渋滞にいらだつこともあった。
かれは公衆電話をさがして車を止め、球場に電話を入れる。
ベンチ入りのメンバーに入っているはずだから、試合開始前には球場に着いてないとまずいと思うわけである。
「わかった。心配するな、あわてずに来いよ。事故のないように気をつけてな」
電話の向こうではマネジャーがそういってくれる。
それを聞いてほっとしてまた車に乗り込むのだが、やがてまた別の心配が頭をもたげてくるのだ。要するに、自分がいなくてもなんの支障もなく試合が始まり、とどこおりなくゲームが進行していくという話じゃないか。代打を送ることもなく、すんなりと勝ってしまう。だから心配するな、ゆっくり戻ってこいといわれたわけである。おれは一体、何なのだ? と考えこんでしまう。
萩原康弘には「おばけ」というニックネームがつけられた。
かれは強引に自己主張するタイプではなかった。バットを振っても空気を切り裂くような音がするわけじゃない。いかつい体つきなのだが、静かなるバットスイングである。だからバットを振っているのだか、いないのだかわからない。そこにいるのだか、いないのだかわからない。すなわち「おばけ」というわけだ。
そのかわりボールをバットで正確にとらえるのはうまかった。速球でも変化球でも確実にミートしていくわけである。それが萩原のとりえで、プロのスカウトが注目したのもその点だった。
プロ入りした一年目、宮崎キャンプに行く前の多摩川グラウンドの練習で監督やコーチが一軍入りの可能性がある選手として萩原をリストアップしたのもミートのうまさが評価されたからだ。
しかしスタメンに名を連ねるには厚い壁がある。登録は外野手で、ここにはレフトに高田繁、センターには柴田勲、ライト末次民夫というほぼ不動のメンバーがいた。そのうえリザーブとして控えているのは広野功、柳田俊郎、槌田誠……といった選手たちだ。広野、柳田は萩原と同じ左打者で、対右投手用の代打として起用されるときも、この二人と争わなければならなかった。
代打として起用される数少ないチャンスをものにしないと、いつまたファームに落とされるかもしれないという心配は終始、ついてまわった。球場にやってきてロッカールームに入ると、まず黒板に目がいく。そこに選手の入れ替えの指示が事務的に表示されるからだ。
「不思議なもので、打ちたい打ちたいという気持ちと、あんなにプレッシャーがかかる場面で自分が代打として指名されないでよかったという気持ちが心のなかに同居してしまうんですよ」
萩原は語っている。
「せっかくのチャンスだから結果を出したい。でも、もしいい場面で三振したり併殺打で終わってしまったらどうなるか。次にもう一度失敗したらもう終わりじゃないか。二度とチャンスを与えてもらえないんじゃないか。そういう恐怖心もある。だからほかの選手が指名されるとほっとしたりしちゃうんですね。当たっていないときは、どうしてもそういう考えになってしまう……」
「反面、こちらが打ちたい打ちたいと思っていると、代打を使うチャンスがなかったり。ちぐはぐなんです。シーソーゲームになって、いつ自分が代打に起用されるかわからない。よし、来るぞと顔をほてらせて、体もほてらせて準備をしている。ベンチ裏の鏡の前で素振りを繰り返す。すると、そのままゲームが終わってしまったり。ぼくは体をほてらせたまま家に帰るわけです……」
代打ホームランの多くはまぐれだと、かれは考えている。ピンチヒッターの心理は、とにかく「結果」を出したいというその一点に拘束されてしまっている。一振りを大事にしたくなる。そのためバットを存分に振り回すことができなくなってしまう……。
のちに萩原は広島カープにトレードされる。代打ではなくスタメンで起用される機会が増えた。
そのときの気持ちの楽さはたとえようもなかった、という。一試合で平均四回は打席がまわってくるのだ。そのなかで結果を出せばいい。ここで失敗したら次はいつチャンスを与えられるのか、という不安からやっと解放されたからである。
ジャイアンツでは代打に対する評価が低かった。
それも球団の支配下選手のなかでは平均的なところに位置する萩原の不満のひとつだった。
ファームと一軍を往復していたシーズンにファームのチームがイースタン・リーグで優勝した。その報奨としてファームの選手には月額で一律二万円が年俸に上乗せされることになった。年間で二四万円の昇給である。
ところが、ファームのゲームにも出ていたがもっぱら一軍に登録されていた萩原は、公式戦の成績が査定の対象になり月額で一万円のダウンだといわれた。
トレードに出されたときもそうだ。
萩原康弘は六シーズン、ジャイアンツのユニフォームを着たあと、広島カープへ移籍した。かれは二十八歳になっていた。トレード話が出る前に翌シーズンの契約更改が行われた。球団から提示された額は三一二万円。入団のときと比べて、まだ倍にもなっていない金額である。萩原は三三六万円を要求した。その額ならば、月額に換算すると自分の年齢と同じ、つまり二八万になる。せめてそれくらいは出してほしい、といったわけである。
要求は通らなかった。
ジャイアンツの選手の年俸はONというスーパースターには厚く、そのしわよせで中堅以下の選手には薄いという構造になっていた。
一九七三年にプロ入りしたピッチャー、小川邦和は早稲田で大学野球、日本鋼管で社会人野球を経験してきた。ジャイアンツにドラフトされたときは二十代の半ばになっていた。サイドスローから、癖《くせ》のある変化球を投げる好投手だった。その小川邦和の契約金が一〇〇〇万円に届かず、年俸も税金を差し引くと月額一〇万にならなかった、という。
その話をかれは自著『ベースボール放浪記』に書いている。時代背景は一九七三年。『日本列島改造論』が話題になり地価は上昇。インフレのときである。小川はその年、即戦力のピッチャーとして期待されていた。川上監督はシーズン前から場数を踏み、粘り強いピッチングをする小川には期待している、と語っていた。小川は中継ぎのピッチャーとして3勝をマークした。悪くとも50%増し、ひょっとすると年俸が倍増するかもしれないと勇んで契約更改の場に臨んだのは、石油危機の影響で日本ではトイレットペーパーの買い占め騒ぎが起きていたその年の末のことだ。小川は唖《あ》然《ぜん》とした。現状維持だといわれたからだ。そのうえ球団の担当者はどこにでも売っているような三文判を用意しており、これでいいだろう、判はこちらで押しておく、とまでいった。それもまた、プロ野球選手が直面する現実のひとつだった、というべきだろう。
萩原もトレードの直前、せめて自分の年齢と同じ月額を、といって拒絶され仕方なく球団の提示額で契約を更改した。ところが、その数日後、もう一度、こんどは球団事務所ではなく新宿のホテルに呼び出された萩原は、もう一通の契約書を見せられた。そこには自分の要求した額、三三六万円という数字が書き込まれていた。前の書類は破棄してこちらに判を押してくれ、というのである。
「ただし、この新しい契約書を持って広島に行ってくれ」
つまりそれがトレードの通告だったわけである。年俸にゲタをはかせ、それを最低条件としてあとは広島と話し合ってくれ、という。萩原は野球をやめよう、とまで思った。好きなジャイアンツで六年間プレーできたのだ。もういいじゃないか、と。
かろうじて思いとどまり広島に行くと、別の現実が待っていた。
トレードにまつわる支度金として両チームがそれぞれ迎える選手に三〇万円ずつを支給するという取り決めがあったのだが、カープはそれだけでは不足だろうとその場で一〇〇万円の小切手を切り、萩原に手渡した。ジャイアンツの年俸は安すぎる、月額三五万でどうか、ともいった。球団によってこれほど待遇が違うのかと、かれは驚いた。
翌年、春先の対巨人戦で外野を守っているとき、ファインプレーでフェンスに激突し、萩原は鎖《さ》骨《こつ》を折ってしまう。入院するとその翌日には監督、コーチ、それに球団のスタッフが揃《そろ》って見舞いに来た。いいプレーだった、よくやってくれた、これはオーナーからだといって五〇万円の入った包みを置いていった。萩原は広島カープでは七年間プレーしている。ジャイアンツにいたときと同様、優勝も経験した。
それでもやはり、自分はジャイアンツの選手だったのだと、そのことにかれがこだわりを持つのは超満員の後楽園球場で、胃が痛くなるほどの緊張感に包まれてバッターボックスに向かっていくときの記憶が消えようとしないからだ。
ここで再び、一九七三年十月十一日の午後の後楽園球場に話を戻そう。
ペナントレース大詰めの巨人―阪神戦である。
萩原は試合前の3割バッターと呼ばれていた。フリーバッティングではすこぶる調子がいいからだ。その力が実際のゲームでは存分に発揮できない。
試合が始まると先発の堀内がすぐに打ち込まれた。タイガースは打者一巡の猛攻で4点を奪う。リリーフした玉井も2回に3失点。タイガースが7―0と点差を広げた。
しかし4回裏、ジャイアンツ、富田の3ランが出たあたりから萩原は顔をほてらせていた。その回、さらにもう1点を加えた巨人は6回に入り黒江のホームランで7―5と点差を縮めていく。さらにスタメン、ショートで出場していた上田武司がレフト前にヒットを打って出塁。途中からライトに入っていた柳田がセカンドへの内野安打を放ってそれにつづいた。キャッチャーの吉田はレフトフライに倒れたが、まだチャンスはつづいている。
次のバッターは、この日四人目のピッチャーとしてマウンドにあがっていた倉田である。ここで代打を出せば試合後半の投手陣のやりくりが難しくなる。
川上監督が立ち上がり、ダグアウトのなかを見渡した。右手をあげ、誰かを代打として指名しようとしている。その指先が右へ左へと揺れた。
その時間が萩原には長く感じられた。監督の指がぴたりと止まらないのだ。心臓が早《はや》鐘《がね》のように鳴っている。口のなかはからからに渇いていた。
「萩原、いくぞ」
やっと監督の指が止まった。
そのときからダイヤモンドを一周し、ホームベースに戻ってくるまでのことを萩原は覚えていない。
マウンドには上田二朗がいた。キャッチャーは田淵。しかしどんな球を打ったのか、それは何球目だったのか。思い出せないのだ。
打球は一直線にライトスタンドに向かっていった。一塁ベースを回ったところで歓声が津波のように背中に押し寄せてきた。7点のビハインドをはねかえし、ゲームをひっくりかえす一打になった。
萩原康弘は二塁を回り、三塁ベースを蹴《け》る。ホームベースにはナインが総出で集まっていた。萩原は思わずヘルメットを投げ捨てた。そんなことをするのは初めてのことだった。ジャイアンツの選手らしくない振る舞いだなと、一方で興奮しながら他方では冷静にそんなことを考えているのが不思議だった。グラウンドマナーに外れたことをするときまって誰かが一言いうのも、またジャイアンツというチームだったのだ。
第四章 川上野球の落日
ここで時計の針を少しばかり前に戻したい。
昭和四十四(一九六九)年の十月末。日本シリーズ巨人―阪急戦が行われている。阪急ブレーブスはV9時代のジャイアンツにくりかえし挑んでいるが、この年は3度目の挑戦に当たる。
巨人はこのシリーズを4勝2敗でものにするのだが、その四戦目に印象に残るシーンがあった。
ホームベース上でのクロスプレーがきっかけで阪急のキャッチャー、岡村浩二が主審に抗議、それが原因で退場処分を受けたのだ。
代わってマスクをかぶった岡田幸喜は、ピッチャーに高めの速球を要求した。バッターが見逃すほどの高いボールにバッターのみならずキャッチャーも手を出さなかった。速球はそのまま主審のプロテクターに激突した。明らかに「当てた」わけである。ジャッジに対するブレーブス・ベンチの不満のあらわれだった。
その後だいぶたってからプロ野球の試合にはほとんどすべてといっていいくらいテレビカメラが入るようになった。スタンドにいるファンだけでなく、人気のうすかったパ・リーグのチームもテレビの前の観客を意識せざるをえなくなったわけである。それによってこの種の番外編的なラフ・プレーは減ってきたが、当時はまだ荒々しいほどのパ・リーグらしさが残っていたわけである。
プレートアンパイアをつとめていたのはセントラル・リーグの岡田功である。
かれは試合後に、憮《ぶ》然《ぜん》としながらも、自分のジャッジは正しかったと語った。岡村捕手の退場のきっかけになったクロスプレーのことをいっているのだった。
ホームベースに突進してきたのはジャイアンツの土井正三である。
巨人のV9時代の二塁手。かれは当時のジャイアンツの野球になくてはならぬ存在だった。内野守備のキー・プレイヤーであり、攻撃のときには多彩なサインプレーをそつなくこなす器用さを持ち合わせていたからだ。現役を退いたあとはジャイアンツのコーチをつとめ、その後オリックス・ブルーウェーブ(阪急ブレーブスの後身である)の監督もつとめている。
それはさておき、クロスプレーがどういう状況でおきたか、である。面白いケースなので、このときのプレーはその後もくりかえし語られている。
舞台は短期決戦の日本シリーズの、第四戦だった。
ここまではジャイアンツが2勝1敗とリードしていた。タイに追いつこうとするブレーブスはこの試合3点を先取し、4回裏の巨人の攻撃を迎えていた。ジャイアンツはこの回の先頭打者、土井が出塁、つづく王もヒットを打って、無死一、三塁というチャンスをつかんだ。
バッターは長嶋である。
その長嶋が三振に倒れた。カウント2―3、フルカウントでの三振だった。一塁ランナーの王貞治はスタートを切っていた。阪急のキャッチャー、岡村はセカンドに送球。それを見て、三塁ランナーの土井もスタートを切る。ブレーブスのセカンドを守っていたのは山口富士雄。瑣《さ》末《まつ》なことだがここに書いておくと、かれは高松商業から立教、阪急と野球のキャリアを踏む選手で、三塁ランナーの土井正三は同じ立教の二年後輩に当たる。
山口は土井のスタートを見てキャッチャー、岡村の送球を二塁ベースの前でつかみ急《きゆう》遽《きよ》バックホームした。それが山口の、二塁手としての瞬間的な判断だった。
それがクロスプレーにつながるのである。
岡村はマスクを外して、左足でホームベースをブロック。送球はその左足のあたりにきた。好返球である。岡村は体を走り込んでくる土井に傾けながらボールをつかみ、タッチしようとする。土井はその岡村の背後に廻《まわ》り込もうとするのではなく正面からホームベースに迫る。土井にはキャッチャーの両足のあいだに隙《すき》間《ま》が見えていた。そこに足を入れようとしたから、滑り込むこともしなかった。ランナーの左足が、キャッチャーの左足にからむように入り込んでいく。岡村はそのランナーを完《かん》璧《ぺき》に撥《は》ね飛ばした。少なくとも、そう確信した。
土井は弾き飛ばされながらも、その寸前にホームベースを踏んでいる。その感触があった。
流れるようなプレーのなかで起きた、一瞬の交《こう》錯《さく》。
プレートアンパイアの岡田はホームベースの真後ろにいて、セーフのジャッジを下した。キャッチャーはまさか、という顔で即座に抗議した。場所は後楽園球場。アンパイアはセ・リーグの所属である。三塁側のダグアウトからブレーブスの西本幸雄監督も飛び出してきた。キャッチャーがホームベースをほぼ理想的な形でブロックし、ランナーは弾かれている。アウトではないかと抗議するのは当然だろうと思われたシーンである。
アンパイアは、当然のことだが、ジャッジを変えない。いきり立った岡村は岡田主審に手を出した。即座に退場である。
ところが、その翌日にスポーツ新聞の一面にクールな事実を伝える写真が掲載された。
ブロックされる寸前にランナー、土井の左足がキャッチャーの足をかいくぐるようにホームベースにタッチしている瞬間を、カメラのレンズがとらえていたのである。そこまで出てしまえば岡村の負けだった。しかもシリーズの第四戦は、クロスプレーがきっかけになって試合の局面ががらりと変わった。キャッチャーを代え、心理的にも動揺したブレーブスはがたがたと崩れ、この回に6点を奪われ逆転を許してしまう。結果的には9―4というスコアでジャイアンツが勝ってしまうのである。
しかし、話がそれだけならば、このシーンは野球のドラマチックな面白さを語るエピソードで終わってしまうだろう。日本シリーズの歴史に残るクロスプレーのひとつ、というわけである。
三塁ランナーだった土井正三は、その後、何度もそのときのプレーを思い出した。一塁ランナーの王貞治がスタートを切ったシーン。無死一、三塁でカウント2―3という場面だから、当時のジャイアンツの野球では自動的にヒット&ランになる。ピッチャーが投げた瞬間に一塁ランナーがスタートするのは間違いではない。それを見て、自分もスタートを切った。結果的にはセーフになったが、あのときの判断は正しかったのか、どうなのか。
それをかれは考えたわけである。
「結論をいうと判断ミスがあった、ということになる」
土井はいう。
「無理にホームベースに突っ込まなくてもいいシチュエーションなんですね。そう考えざるをえなかった。失敗したら一瞬のうちにツーアウトです。長島さんの三振、そして私のホームベースでの憤死。三振ゲッツー、になる。無死一、三塁のチャンスがあっという間に二死ランナー二塁にかわってしまう。ゲームは3点を追って、まだ4回の裏。ギャンブルプレーをする場面ではない」
その分析が面白い。
「でも、走ってしまった。なぜかというと、スタートを切った王さんがセカンドのクロスプレーでアウトになるのではないかと思ったからです。阪急側に立って考えると、あの場面はアウトカウントを確実に増やすこととランナーを取り除くことがポイントになる。3点をリードして、4回。あの試合、ジャイアンツは先発の高橋一三が打ち込まれて降板していた。浅いイニングでもう二番手、三番手のピッチャーをマウンドに送っていた。ゲームの流れは阪急のほうにあった。だったら1点ぐらいやってもいいからランナーをためず、アウトカウントを増やそう。そう考えなければおかしい。私がホームベースに向かっても王さんをセカンドで確実にアウトにして三振ゲッツー。二死無走者にしたほうが傷口を大きくしないですむんです。相手に1点もやらずに完封しようという試合じゃない。とにかく勝てばいい。しかも7試合のうちの4試合に勝てばいい。それが日本シリーズですからね。だから、あのシーンでは阪急の二塁手、山口もミスを犯したと思う。あるいはブレーブスのベンチの指示ミスかな。私の走塁とセカンドのミス。ふたつのミスがあったから、あのシーンが出てきたわけですよ」
考えに考えたあげく、そういう結論を出すのが土井正三という選手だった。
あるいはそれが、当時のジャイアンツのゲームに対する考え方だった、というべきかもしれない。
「ブレーブスのベンチがどう考えたのかはわかりません。まだ3点しかリードしていないのだからここで1点もやるわけにはいかない、と考えていたのかもしれない。だとしたら野球観の違いとしかいいようがない。なぜセカンドが前に出てキャッチャーからの送球をカットしバックホームするのか。それがあのころの阪急の野球だった、ということでしょうね」
このエピソードを書いたのはジャイアンツのV9時代の野球が凝縮されているように見えるからだ。
長嶋茂雄と王貞治。この二人のスーパースターの大活躍があってジャイアンツの連覇は達成されている。しかし、それだけではない。
一時代を画すことになる川上哲治がジャイアンツの監督に就任するのが昭和三十六(一九六一)年のこと。就任一年目に優勝するが翌年は四位。その翌年(昭和三十八)再びペナントを獲得したものの、その次のシーズンは三位に転落する。
連覇がスタートするのは昭和四十年からのことである。川上監督に率いられる巨人が四位、三位と優勝を逃したときにセ・リーグのペナントを握るのは阪神タイガースである。当時のタイガースは小山、村山、バッキーという投手力を誇るチームだった。
その阪神のことは、機会をあらためて書くことになるだろう。
ここではジャイアンツの「参謀」を視野に入れておきたいと思う。
牧野茂である。
すでに故人となっているが、かれの存在はジャイアンツにとって大きな意味を持っている。土井正三がひとつのプレーの意味するところを多面的に考え、何が正解だったのかと考えるとき、そこにはジャイアンツのコーチだった牧野茂の影が大きく尾をひいている。野球が単なるボールゲームではなく、考える要素の多いスポーツに変わっていったのは、時代の流れではあったが、その時代の流れに乗って積極的にことを推し進める人間も必要だった。そこに位置するのが牧野茂だった。
ここに書こうとしている一九七三年、ジャイアンツが黄金時代の最後の輝きをかろうじて見せようとしている季節にも牧野は72という背番号をつけて巨人のダグアウトにいる。攻撃のときは三塁コーチスボックスに立ち、守備のときはダグアウトからグラウンドにいる選手たちに細々と指示を出しているわけである。
かれは四十五歳になっていた。
小柄な体。頭髪には白いものがちらほら見えている。なで肩で、背は心持ち丸まっている。やや下がり気味の眉《まゆ》、穏やかな語り口。牧野には野球人特有のいかつさがなかった。当たりが柔らかいのである。勝負に対する厳しさを露骨に見せることも、めったになかった。恬《てん》淡《たん》としていた。
試合前のダグアウトに行き、昨日のゲームの敗因を話題に上《のぼ》せれば、かれは笑ってその話をさえぎっただろう。まあ、いいじゃないか、と。今日勝てばそんなもん帳消しだよ、と。
そのせいでかれは勝負になれきった、この世界のベテランという感じで人の目には映っていたはずである。しかしV9を目前にしたときにまだ――というべきだろう――かれは四十五歳だったのだ。
プロ野球の世界で「参謀」と呼ばれるようになったのは、おそらく牧野茂が初めてだろうと思う。
一九六〇年代前半のプロ野球、メンバー表を見ると、どのチームも一軍の専任コーチは二、三人である。監督とバッティングコーチにピッチングコーチ各一人ずつ。それに場合によっては補佐的なコーチがつくのが基本だった。
ファームを含めればその倍程度のコーチがいたし、かれらが全体として一つのチームを見ているのだと考えれば不十分とはいえなかったのだろうが、それでも例えば昭和三十七(一九六二)年に阪神タイガースが優勝したときのコーチを登録名簿で確認すると、藤本定義監督を除き、コーチは全体で六名。同じ年のジャイアンツも川上監督を除くと、選手を兼ねていた広岡達朗も含めて、全体で、六名である。
現在では、たとえばピッチングコーチが一軍だけでも二人いる。ダグアウトに一人、ブルペンに一人必要であるからだ。そのほかにバッティングコーチも二人、守備走塁担当のコーチもいるし、作戦担当の「参謀」的なコーチがダグアウトに入るのも当たり前になっている。
そういう状況は六〇年代の半ばからジャイアンツの連覇が始まり、その考え方やシステムが野球界で評価されるようになってから常識化してきた。ファームを独立させて二軍監督を置くようになり、一軍は一軍でコーチの数を増やすようになった。それだけ仕事量が増えたからである。
川上監督時代の連覇が始まった昭和四十年には、ジャイアンツのコーチは一、二軍を含めて九名に増えている。
牧野茂はコーチの仕事を飛躍的に増大させた人物として位置づけられるべきかもしれない。従来の野球界のやり方をとらえなおし、コーチとしての新たな仕事を作りだしたわけである。今風の言い方をすればジョブメイキング、ということになる。
かれは、もともとは中日ドラゴンズの内野手だった。明治大学を卒業して「名古屋」(ドラゴンズの前身)に入団するのが昭和二十七(一九五二)年のこと。以後、八シーズンにわたって遊撃手としてドラゴンズのユニフォームを着ているが、これといって目立つ活躍はしていない。守備のうまさが評価される内野手だった。
出場した試合数は756。445安打を記録し、ホームランの数は9本。生涯打率は2割1分7厘である。
現役を退いたあとドラゴンズでコーチをつとめ、その後牧野はスポーツ新聞の評論家になる。デイリースポーツの東京地区担当で、当然のようにかれはジャイアンツの試合を観戦し原稿を書くことが多かった。
その牧野の原稿をよく読んでいたのが川上哲治である。
川上監督は就任一年目に新しいコーチの物色を始めた。
川上はジャイアンツのOBだけでなく、外部の人材にも目を向けている。
例えばこの時期、大毎オリオンズの監督をやめていた西本幸雄にもジャイアンツのコーチ就任の打診をしていた、ともいわれている。西本はその後、阪急、近鉄の監督を歴任する。チーム作りの才能はやがて高く評価されるのだが、この時期は不遇だった。昭和三十五年に西本は大毎オリオンズをリーグ優勝に導き、日本シリーズに出場する。対戦相手は大洋ホエールズ。山内和弘、榎本喜八、葛城隆雄、田宮謙次郎といったそうそうたる打撃陣を擁したオリオンズが圧勝するだろう、といわれた日本シリーズである。ところが三原脩監督の率いるホエールズに、あろうことか4連敗してしまった。
秋、社会党の浅沼稲次郎委員長が日比谷公会堂の立ち会い演説会でテロリストに刺殺された日の新聞の号外を、西本監督は、スクイズの失敗といういやな負け方で2連敗した直後、川崎球場をあとにするときに読んでいる。翌日は移動日で、舞台は後楽園球場に移される。しかしそこでも連敗し、西本は悲惨な敗北を味わうことになるのだ。追い打ちをかけるように、その晩、球団オーナーの永田雅一から電話がかかり、采配を批判される。口論になって激しい言葉のやりとりがあったあと、西本は監督をやめる決心をする。
川上がコーチとしての入団を持ちかけるのは、その翌年のことである。西本は、断った。やがて西本は阪急ブレーブスの監督に就任する。
もう一人、川上は近鉄バファローズのコーチをやめ、大阪の朝日放送の解説者をしていた根《ね》本《もと》陸《りく》夫《お》にも声をかけている。のちに広島カープの監督になり、そのあとには西武ライオンズの監督、そして管理部長という立場で新しい球団の基礎固めを手掛け、今はまた福岡ダイエーホークスで、本人の言葉を藉《か》りていえば、チームの「基礎工事」をしている。その根本にも断られているが、川上の触手の伸ばし方が多方面に及んでいたことは面白い。ジャイアンツのユニフォームを着た者でなければ、という発想は希薄だったことがわかるからである。
牧野茂にしてもそうだった。それまでのジャイアンツとは縁もゆかりもない人材である。牧野はやっと三十三歳になるところで、若く、コーチとしての経験も浅かった。
川上は牧野の書く記事の巨人批判と、具体的な意見に惹《ひ》かれていた。
巨人はその年、初めてベロビーチ・キャンプを経験している。アメリカのメジャーリーグ、LAドジャースのフロリダのキャンプ地へ行ったのである。ドジャースはニューヨークのブルックリンからLAに本拠地を移すという大手術をしてまだ数年しかたっていない。ドジャースもチーム再建の真《ま》っ只《ただ》中《なか》にあった。なかでも問題はメジャー球団の裾《すそ》野《の》に広がるマイナー球団をいかに管理するかということだった。
プロスポーツとしての野球は、アメリカでも浮沈をくりかえしてきているが、このころはメジャー球団の傘《さん》下《か》に加わるマイナー球団が増えた時代。いい選手を発掘し、育てるためにマイナー組織は重要だが、問題はかれらの規範となる野球理論がないことだった。そこでドジャースはフィールド・スーパーバイザーという立場にいたアル・カンパニスにテキストを書いてもらうことにした。
アルは現役を引退してからメジャーとマイナーをつなぐパイプ役をつとめていた。スカウトの経験もあり、若い選手たちの実際のレベルも知っている。全米各地に広がる傘下のマイナー球団の選手たちに共通した野球理論を教えるためのテキストを書くには恰《かつ》好《こう》のポジションにいたわけである。
アルは『THE DODGER'S WAY TO PLAY BASEBALL』という本を書いた。プロのレベルで野球をやるには最低これだけのことはわかっていなければならない、という基礎をわかりやすく解説したものである。いわば、ドジャース流の野球のマニュアルである。これをもとにマイナーの選手たちを指導しておけば、いつメジャーに上がってきてもすぐにチームの複雑なサインプレーに加わることができる。
『THE DODGER'S WAY……』は、その当時のアメリカ野球の一般的な技術解説書という趣きもあった。そこに着目して日本語に翻訳されたのが一九五七年、昭和でいえば三十二年のことである。
邦題は『ドジャースの戦法』。川上は、この本の愛読者だった。新しい時代の野球の理論書がなかった時代だから、この本はバイブルのように扱われることもあった。そのうえ川上は監督就任一年目にドジャースのベロビーチ・キャンプにナインを引き連れていくことができたのである。川上監督もまだ四十歳になったばかり。すべてを貪《どん》欲《よく》に吸収しようという意欲があった。
ところが、その川上の野球を牧野は批判的に見ていた。ドジャースの野球を取り入れるといっても、具体的には何もできていないじゃないか、というのが牧野の視点だった。牧野はドジャース野球の移入に反対していたわけではない。新しいことをやろうとしているのはわかるけどサマになっていない、という角度からジャイアンツの野球を見ていたわけである。川上自身、現役時代に野球の理論家だったわけではない。打つこと、それに一塁の守備については多少なりともわかってはいたが、内野の連係プレーや、複雑なサインプレー、これが最も合理的だというバントシフトなどといわれても、自分たちでは実際にやっていなかったのだから、わかるはずがない。
ただ、かれには研究熱心さはあった。これだと思うと、とことんつきつめて考えるという性格も備えていた。必要なのは、自分と同じように熱心に新しい野球理論を研究し、しかもそれを現場で実践してくれそうな人材だった。
何人かの候補者に断られ、あらためて周囲を見回してみると、かつて守備には定評のあった内野手であり、具体的で積極的な意見を書いている牧野が川上の目に留まったわけである。即座に話が進み、牧野はシーズン途中の七月にジャイアンツとの契約を取り交わしている。川上の監督一年目の夏である。ベロビーチから帰ってまだほんの数カ月しかたっていなかった。
牧野は「正直いって驚いた」と、後年語っている。インタビューしたのは藤田監督の時代になって再びヘッドコーチとしてジャイアンツのユニフォームを着ていたころである。
「あらためてアル・カンパニスの書いた本を読み直しましたね。くりかえし、暗記するほど読んだ。川上さんがそれをやりたいというんだから、真剣にならざるをえない。最初はファームのコーチということだった。いきなり一軍に入って行ってもそこにいるコーチと摩擦が生じるということだったんだと思いますよ。しかし、実際は昼間はファームのゲームに行って、夜は一軍のナイター。ベンチには入らずにスタンドからゲームを見る。それで何が必要かチェックしていった」
翌年、牧野は一軍のコーチに昇格した。それにともなって背番号も50番から72に変えている。
シーズン途中にはヘッドコーチ格だった別所毅彦が退団した。
きっかけは、遠征先の旅館でビールを飲んでいたピッチャーの中村稔に別所が制裁を加えたことにあった。酒、マージャン禁止令が出ていたにもかかわらずビールを飲んでいた中村を見て別所が怒ったわけである。それだけのことなのだが、制裁に行き過ぎがあったのではないかといわれ、しかもそれが雑誌のゴシップ記事になって出たところから、ことはねじれてしまった。
別所は謹慎処分を受けた。川上はその別所を弁護しようとはしなかった。自分を庇《かば》ってくれなかった監督にヘッドコーチ格である別所は不信感を抱いた。それにかれは一軍のコーチになって発言力を強めてきた牧野を警戒していた。まだ若い牧野にはジャイアンツの選手たちを指導していく力はない、と当時の別所は語っている。
川上、牧野と別所のあいだには考え方の違いがあるのは明らかだった。そのうえ根底には主導権争いがあった。
どちらかがユニフォームを脱がなければ解決しない問題だった。監督の川上は牧野をとった。自分の考える野球を実行に移すために呼んだ男である。なぜ、何の実績もない外《と》様《ざま》のコーチを重用するのかと牧野に対する不信感をあらわにするマスコミ、ジャイアンツOBもいたが、川上は迷うことなく別所の退団を球団に進言した。
牧野のコーチとしての役割がはっきりしたのは、それからである。翌年の春には、彼は中《なか》尾《お》碩《ひろ》志《し》コーチとともにベロビーチに行った。実際にコーチの視点でドジャース野球を見てみたかったからである。帰国後の牧野は実際に、何から手をつけたのか。
「象徴的にいえばキャンプでの練習時間の配分を見ればわかりますよ」
と、牧野はいっていた。
「ウォームアップを終えたあと、午前中に何をするか。宮崎のキャンプ地は午前の一〇時から昼くらいまでが風も吹かないし、一番天気が安定するんだ。その時間帯に、かつてはバッティング練習をしていた。暖かい、いい時間ですよ。守備練習はそのあとだった。それを逆にしたんです。集中力も散漫になっていない、一番いい時間に守備練習をもってきた。チームプレーのためのフォーメーションの確立と徹底。バッティングはそのあとになった」
今でも、この時間配分は変わっていない。
牧野はクリエイティブなコーチではなかった。
川上や牧野が必死になって吸収しようとしたアル・カンパニスの『ドジャースの戦法』という本を読むと、それがわかる。V9時代に「管理野球」という言葉であっさり片付けられ、それがゆえに嫌われ、またそれが強かったジャイアンツの野球の背景にあるといわれたから他球団からは反発された野球のほとんどすべてが、ここに書かれているのだ。
牧野はそれを暗記するまで読み込み、実際にベロビーチのキャンプに行って自分の目でたしかめ、そのあとは忠実に実行した。かれはなによりも正確で熱心なコピーヤーだった。そういう意味ではかれは、当時の典型的な日本人の一人であったのかもしれない。いいものは、どこからでも吸収してくる。そして本家本元よりも性能のいいものを作ってしまうのである。家庭電化製品がそうだった。車がそうだった。それと同じように、牧野は野球の新技術を日本に移入し、それを日本風にアレンジし、より完成度の高いものとして作りあげたのである。
例えばアル・カンパニスは第14章「コーチ」の項目で、野球のコーチの資格について明確に規定している。コーチは次の九つの資格を備えていなければならない、と。
第1に知能、良識。第2に相手方の長所短所と、野手の位置とをよく心得ていること。第3、野球規則をよく知っていること。第4、ゲーム一般に関する知識を豊富にもっていること。第5、ゲームの特殊な状況をよく心得ていること。第6、自軍の選手の走力と、長所短所とをよく知っていること。第7、各種のプレーに対してコーチのなすべきことを心得ていること。第8、即座に判断を下せる能力。
第9、勇気。
これほど明快な規定も少ない。これだけの資質を備えていればコーチはつとまる。また逆に、これだけのものを兼ね備えていなければコーチとして失格だということでもある。
ジャイアンツは初回からバントでランナーをセカンドに送る野球をすることでファンの失望を買っていた。あんな野球をやっているからつまらないんだと解説するプロ野球のOBもいた。しかし、牧野は、それが先取点をあげるのに確率の高い方法であるだけでなく、いちはやくセカンドに達したランナーにバッテリーのサインを盗ませるのに最も適したやり方なのだということは誰も指摘しない、といって笑っていた。
セカンドに達したランナーはキャッチャーのサインの出し方とピッチャーの球種をチェックしてくるのである。それをデータとして積み上げていくのだ、という。ジャイアンツが生真面目に、しかも熱心にやっていたのはそういうことなのだ、と。
ランナーが出た場面で相手の攻撃をどう防ぐか。フォーメーションの指示はダグアウトが一塁側にあった場合(つまりホームグラウンドでの試合だ)ファーストの王選手に出される。王はゆっくりとマウンドへ行き、ピッチャーに話しかける。そのときに王選手がどこに立つか。一塁ベースを背にして立った場合、それはフォーメーションの1を示している。二塁ベースを背に立った場合、2番のフォーメーションである……。そういう形でさりげなく情報が伝達され、気づかれないうちにフォーメーションができあがる。それがジャイアンツの野球だった。
そういったゲーム管理の徹底に牧野はエネルギーを注ぎ込んだが、その基礎は徹底的にアル・カンパニスにあったわけである。かれの著書にはコーチスボックスからのサインの盗み方も、その伝達方法の各種パターンも書かれている。
要求されていたのはオリジナリティーではなく、技術を忠実にコピーし根気よく移植することだった、と書いたのはそういうことを意味している。
その点、牧野茂は極めて有能なコミュニケーターだった。かれは頭ごなしにこれをやれというのではなく、ソフトな語り口、論争にたえる説得力、該博な知識で選手たちを動かしていった。
シーズンを通しての選手の査定システムが導入されると、打撃に偏ってプラスポイントをつけるのではなく、守備や走塁にもプラスポイントの査定基準を設けるよう球団に進言するのも、かれは忘れなかった。
その牧野の趣味のひとつが、やがて監督にまで伝染した。
石磨きである。
日本全国の、珍しい石を見つけてきてはグラインダーで削り、ペーパーで磨きをかける。その趣味は、ある時期の川上をもとらえた。遠征先にまでグラインダーを持ち込み、自分の部屋にこもってひたすら石と向き合うわけである。かれらは新理論の、じつに忠実なる、愚直なほどの実行者たちであった。
しかし、ジャイアンツがそういうチームであるという分析に立って、最大のライバルであった阪神タイガースが野球というゲームをいかにたたかっていたかとなると、これはまた別問題である。
第五章 江夏豊という男
古い取材メモをめくっていたら、面白いコメントが出てきた。
「イワシはいくら育ててもハマチやブリにはならない」
というのである。
そう語っていたのは、かつて阪神タイガースの監督をつとめたことのある松木謙治郎である。
松木は「大阪タイガース」という名前で甲子園球場をホームグラウンドとする「職業野球」のチームが成立したときのキャプテンだった人だから、日本のプロ野球の歴史のなかでは最古参の一人といっていい。
かれは二度にわたってタイガースの監督をつとめ、一度も優勝することはなかった。もう何年も前のことになるが、オフシーズンの甲子園球場で阪神―巨人のOB戦が行われたことがあり、そのときにタイガースのそうそうたるメンバーを率いて監督としてベンチに入ったのが、かれ、松木謙治郎だった。
藤村富美男、三宅秀史、並木輝男、遠井吾郎、マイケル・ソロムコ……といったタイガースのなつかしい顔触れがラインナップを組み、マウンドには村山実、ジーン・バッキーなどが上がっていく。世代をこえたバトルロイヤル風のチームを組むと、その監督をつとめるのは松木しかいない。
タイガースのなかでいえば、かれはそういう位置づけになっていた。
ブリという魚は出世魚で、成長するにつれ関東では「わかし」「いなだ」「わらさ」「ぶり」と名前を変え、関西ではこれが「つばす」「はまち」「めじろ」「ぶり」となる。
松木は、ブリを例に出しながら素質のある選手を獲得しなければタイガースは強くならない、といおうとしていたのだった。どうも最近はイワシのような小魚ばかりとってくる、と。将来はブリになるような若手を、まだ「いなだ」や「はまち」のころに見つけてこなければダメだな……。松木謙治郎がそんなふうに語っていたのは、当然のことながら、タイガースが低迷していた時代である。
まず、ブリを見つけてくることだ、というかれの考え方は珍しいものではない。
どこのチームも将来のブリを発見するために血眼になっている。これは野球界に限られた話でもないだろう。サッカーであれ、相撲であれ、逸材は常に求められている。
一九七三年、ジャイアンツがV9を達成するシーズンを眺めわたしてみると、ジャイアンツの最大のライバルだった阪神タイガースに「ブリ」が見当たらないわけではない。むしろ逸材が揃《そろ》っていたというべきかもしれない。
松木の譬《たと》え話をもう少し敷《ふ》衍《えん》していうと、秩序ある野球を目指し組織化を進めてきたジャイアンツが、よく管理された、海洋牧場の漁業まで視野に入れるようにしてチーム作りを進めていたとすれば、タイガースはあくまで天然物のブリの、活きの良さで勝負しようとしていたように見える。いいものにはあまり手を加えずに、育つままに放っておけばいい、というスタンスである。
そういった文脈のなかで当時のタイガースにおける典型的な「鰤《ぶり》」は誰だったのかといえば、やはり江夏豊の名前をあげないわけにはいかないだろう。
辻《つじ》恭《やす》彦《ひこ》は一九六二(昭和三十七)年にタイガースに入団したキャッチャーである。名古屋の享栄商業を卒業して西濃運輸という社会人野球のチームに入り、タイガースにやってきたのが二十歳のとき。翌年にはもう一人の辻、明大でキャッチャーをやっていた辻佳《よし》紀《のり》が入団してきて、この二人はライバルになった。
辻恭彦は、ずんぐりとした、キャッチャーにありがちな体型、バッティングでは評価されなかったが、粘り強くピッチャーをリードしていくインサイドワークのほうは徐々にだが確実に身につけていった。
江夏豊がタイガースに入団してきたときは、まだレギュラーのポジションについてはいなかったが、江夏がプロ入り二年目にシーズン通算で401奪三振という途方もない記録をうちたてたときには、この若きエースとしばしばバッテリーを組み、辻恭彦は88試合にマスクをかぶっている。
これでレギュラーのポジション獲得に大きく近づいたかに見えたが、そうはいかなかった。法政大学の、というより東京六大学リーグのスター・プレイヤー、田淵幸一が阪神タイガースに入団してくるからである。
一九六九年のことだ。辻恭彦にとってはまたまた強力なライバルが出現したわけである。
田淵はキャッチャーだったが、すぐにそのポジションを自分のものにできたわけではない。じつをいうと、かれはキャッチャーミットだけを持って一シーズンを過ごしたことはない。一塁や、ときには外野を守ることもあった。チームにはベテランの、二人の辻がいたからである。そのうちの一人、辻佳紀は田淵が入団した翌年には近鉄バファローズにトレードされる。タイガースのキャッチャーは田淵と辻恭彦の二人ということになった。
プレーイング・マネジャーをつとめていた村山実は、田淵のバッティングと辻恭彦のインサイドワークをともに活かそうと、フルシーズン、辻にマスクをかぶらせたことがある。
一九七一年のことだ。
田淵はもっぱら外野と一塁を守り、キャッチャーマスクをかぶったのはわずかに一度だけだった。辻はそのかわり130試合にキャッチャーとして出場した。かれにとっては初めてのことだった。
ところが、村山実が投手に専念することになり、後任の金田正泰が代理監督として采配を振るうようになると、事情が変わった。金田監督は田淵をキャッチャーのポジションに戻そうとしたからである。
辻恭彦の出場試合数は急激に減ってしまった。七一年にフル出場していたのに、翌年はわずかに58試合である。七三年にはさらに減り24試合しかゲームに出ていない。
試合数は少なかったが、この年の辻には忘れがたいゲームがある。
一九七三年八月三十日の甲子園球場、対中日ドラゴンズ戦である。
田淵がほとんど毎試合のようにキャッチャーとして出場していたころのことだから、あの試合も田淵がマスクをかぶっていたと思われがちだが、田淵は腰痛で戦列を離れ、辻恭彦がスタメンからキャッチャーをつとめていた。
その試合に、先発投手としてマウンドに上がったのは江夏豊である。
球史に残るゲームになった。中日の先発はサウスポーの松本幸行で、二人のピッチャーは4回まで相手打線を無安打におさえた。先にヒットを打たれたのは松本投手のほうだったが、阪神打線は松本を打ち崩すことができなかった。江夏はフォアボールこそ与えたが中日打線を寄せつけず、無安打ピッチングをつづけた。試合は両チーム無得点のまま延長戦に入る。江夏は9イニングスをノーヒット・ノーランで抑えながら、まだ勝利投手になれずにいたわけである。
野球界には9イニングスをノーヒット・ノーランで抑えながら延長戦に入った投手は勝てない、というジンクスがあった。力尽きて無造作に投げた球を外野スタンドまで運ばれたり、エラーで決勝点を奪われたり、といったケースがいくつもあったのだ。江夏自身かつて中日戦で、2回にわずか1本だけヒットを打たれ、その後延長13回までノーヒット・ピッチングを続けたものの延長14回にホームランを打たれて敗戦投手になったことがあった。
その日の江夏の球威は衰えなかった。
かれは延長11回まで投げきり、まだ1本もヒットを許していなかった。そのうえ11回裏に先頭バッターとしてボックスに立つと、江夏は松本の投げる1球目を叩《たた》き、甲子園球場のライト側ラツキーゾーンまで運んでしまうのだ。決勝のサヨナラ・ホームランである。ピッチャーがみずから決勝ホームランを打ち、延長戦にまでもつれこんでいたノーヒット・ノーランゲームを完結させてしまう……。そんなケースは長いプロ野球の歴史のなかでも初めてのことだった。
その試合でマスクをかぶっていたのが田淵ではなく辻恭彦のほうだったと知ってなるほど、と納得する人もいるだろう。江夏は辻恭彦とバッテリーを組むのを好んでいたからだ。
このバッテリーは、時にはサインなしでも息を合わせることができた。辻はその日の江夏の調子と相手打線の様子を見て、この場面で江夏が何を投げてくるか、サインの交換をしないでもわかることがあったという。そういうときにはサインなし、どこにでも好きなように投げてこいといって江夏をマウンドに送りだすのである。速球系統の球がくるのか、それとも変化球がくるのか、江夏の投げる球が読めるから辻はミットを正確に出すことができる。
「野球の面白さがわかったのは江夏の球を受けるようになってからだ」
と、辻は語っている。
「なぜかというと、キャッチャーとして完《かん》璧《ぺき》にピッチングの組み立てができるからですよ。例えば、最初に外角にボールになるカーブを投げさせ、次にインサイドいっぱいに入ってくる速球を投げてもらう。そのあとはストライクゾーンから外に出ていく変化球……。キャッチャーがそういう組み立てを考えても、そのとおりに投げてくれるピッチャーはなかなかいない。狙《ねら》ったコースに投げられないからですね。それだけのコントロールがない。インサイドの低目いっぱいに、測ったようにシュートが投げられればそれを中心にピッチングの組み立てができるのに、そのコントロールがないからピッチングが組み立てられない。アウトサイドのストライクゾーンから入って外に出ていくスライダーが投げられれば、それを見せ球にしながら勝負球を決められるのに、スライダーのコースがずれてしまうから目《もく》論《ろ》見《み》どおりにはいかなくなる。キャッチャーがイメージする球をそのまま投げてくれるピッチャーは少ない」
江夏には、そういう意味でのピッチングの完璧さがあった。
どんなときでも完璧であったわけではない。しかし、辻は江夏の球を受けながら今日のピッチングは満点だと納得せざるをえない、そういうことを何度も経験している。狙いどおりのところに、イメージしたとおりの、あるいはそれ以上のスピードで江夏は投げこんでくるのである。
しかも、時にはノーサインでも狙ったところに投げてくる。バッターはきりきり舞いする。これほどキャッチャー冥《みよう》利《り》を感じることはない。
バッターとの駆け引きも含めて、野球はこんなに面白いのかと、江夏の球を受けながら辻は感じていたわけである。
「久しぶりに手が腫《は》れたよ」
と、その日の辻は言葉少なに語ってロッカールームに消えた。延長11回まで、球威の衰えることがなかった江夏の球を受けたからだ。延長10回の表に二死から井上弘昭にレフト線の、あわやホームランという大飛球を打たれているが、ひやりとしたのはその一球だけ。あとは完璧にドラゴンズ打線を封じこめていた。
辻はいい仕事ができたと思っていた。
キャッチャーはあくまで脇《わき》役《やく》だが、それでも何分の一かはチームの勝利、そして江夏の大記録に貢献しているのだ。しかし、だからといって自分がマスクをかぶる機会が増えるとは思えなかった。田淵が復帰してくれば、また自分は控えの捕手になるのだ。それがわかっていたから、かれは、いつものように黙々とプロテクターとレガーズを片付けロッカールームに向かったのだろう。
「その後、大洋ホエールズに移ったけど、マスクをかぶりながらあまり細かなサインは出さないようにしていましたね」
辻は後年、そう語っていた。
「なぜかというと、誰もが江夏のように注文どおりのピッチングをしてくれるもんじゃないとわかっていたからですよ。一球一球に無駄がなく、百点満点のピッチングなんて誰にでもできるわけじゃない。江夏にはそれが何度もあった。これ以上はありえないというピッチングですね。それを経験することができたんだから、タイガースでの野球はよしとしなければいけないでしょうね」
江夏はその後、南海ホークス、広島カープ、日本ハムファイターズ、西武ライオンズと移籍し、最後は東京の郊外、多摩市営一本杉球場というところで引退試合を行う。
球団主催の引退試合ではなく、ファンが中心になって企画するという珍しい形のセレモニーだったが、その試合で江夏の最後の球を受けたのは辻恭彦だった。
その江夏のピッチングが、阪神タイガースというチームのなかではどのように受け止められていたのかというと、そのノウハウや、ピッチング理論が形になって残ることはなかった、というべきだろう。
むしろ江夏は常にチームのなかで浮いていた。
ピッチングは評価されても、江夏の野球観やバッターとの駆け引きにまつわるノウハウが整理され、分析され、誰にでも伝わるような形で残されることはなかった。
あのピッチングは江夏ならではのものであり、したがって一代かぎりのものなのだというとらえ方である。
このチームのかつてのエース、村山実がそうだったし、小山正明がそうだった。
かれらはエースとしてマウンドに一人屹《きつ》立《りつ》して、そして消えていくのだ。つながろうとはしない。一人山脈を築いて独自のファンをつかみ、やがてチームを出ていくか、さもなくば同じチームのなかの対立する勢力に追われてしまう。
それがタイガースというチームだった。
一九七三年のシーズンも最後になって巨人と阪神が熾《し》烈《れつ》なまでにペナントを争う。
そういうときにライバルのジャイアンツの川上監督は、あんなにまとまりのないチームに負けて悔しくないのか、といって檄《げき》を飛ばしている。
選手たちは勝手なことをいい、チームはばらばら。
勝つことの苦しさも喜びも、そのために乗り越えなければならない壁も、何もかも知って団結してきたチームが、統制の乱れに乱れたチームに負けるわけにはいかない。そのことを肝《きも》に銘《めい》じておけと、川上監督はいったのである。
監督がそういってもおかしくないだけのまとまりを、ジャイアンツというチームは持っていた。毎年のように勝ちつづけるなかで培われた規律といってもいい。勝利はすべてを帳消しにするものだ。
監督の方針に対する不満も、結果としてチームが優勝すれば消えてしまう。不満をかかえているほうに理がなくなってしまうからだ。
タイガースはそうはいかない。
勝つことによってできあがる求心力が、このチームにはない。
村山、バッキーという二人のエースの活躍で優勝したのが一九六四(昭和三十九)年のことである。
それ以後、ジャイアンツを追って惜しくも二位に終わることは何度かあったが、独走するジャイアンツにどうしても勝てないのだ。
勝てないから監督が代わる。
江夏はまだプロ入り八年目の選手だったが、その八年のうちに早くも四人の監督とつきあってきた。最初が藤本定義、ついで後藤次男、そのあとを村山実が引き継ぎ、一九七三年には金田正泰が監督になっていた。
正確にいうと、金田監督は七二年のシーズンはじめに代理監督として村山のあとを引き継いでいる。投手兼監督をつとめていた村山がいい結果を出せず、投手に専念したほうがいいということになり、代理監督として金田に白羽の矢が立てられたのだ。
その背景には、甲子園球場の観客動員の減少という現実があった。
「青年監督」として話題になった村山は、一年目はかろうじて百万人の動員をなしとげたが、二年目の七一年はチームが五位に終わったこともあり、観客動員数を71万5500人まで減らしてしまった。前年度比でほぼ30パーセントのダウン。激減である。主催ゲームが六五だから、一試合あたり、わずかに1万1000人程度になってしまう。今から思うと信じがたい数字だが、当時の甲子園球場の観客の入りはその程度だったのである。
球団は危機感を抱いていた。それが村山をピッチャーに専念させ、代理監督を置くというアイディアの伏線になっている。
代理監督としての金田は江夏を中心にした投手のローテーションでチームの立て直しをはかった。江夏は期待にこたえ23勝をマークした。チームは二位になり、観客動員数は80万6500人と、前年を上回った。
その実績がチーム内に微妙な影響を及ぼした。
村山は一時、監督の座を明け渡したが、それは一シーズンだけのことで、翌年には監督として復帰するつもりだった。現役を退き、監督の仕事に専念しようとしていたわけである。
当時の選手たちは、ひとつのチームに二人の監督がいるようなものだった、と語っている。やがて村山が監督として戻ってくるのが既成事実のように語られていたから、金田よりもむしろ村山に気をつかう選手もいた。ところがチームは前年の五位から二位に上がり、観客も増えた。タイガースは村山を再び監督として迎える理由がなくなってしまった。金田監督の続投である。
江夏は不機嫌なまま、この一九七三年のシーズンを過ごしている。
その理由のひとつは、村山が金田に監督の座を明け渡した七二年のシーズンにある。
江夏は、チームの中心になっていた先輩の村山よりも金田に親近感を抱いていた。
実の父親と離ればなれに育った江夏は、父親を感じさせる世代の人間には弱いところがあるんだ、と語っていた。金田はその江夏に、ユタカ、おまえだけが頼りだ、といつもいっていた。ほかのピッチャーはあてにならない、計算どおりの成績を残してくれるのはおまえだけだ、というのである。
頼られると、自分のコンディションの悪さを隠してでもマウンドに立とうというメンタリティーが、江夏にはあった。義《ぎ》侠《きよう》心《しん》といってもいい。無視されると投げやりになるが、頼られると必要以上に何かをしてやろうと、表面ではブスッとした顔を見せながらも必死になってしまうのである。
江夏はそういう男だった。
シーズンが始まる前、オープン戦で肘《ひじ》を痛めていたのだが、それをずっと隠しつづけたのもそのあらわれだった。やがて肘を痛めていることが明るみに出ると、かれは痛み止めの注射を打ちながらマウンドに上がり、なんともないのだというそぶりを見せた。
このころの江夏の登板ぶりは常識をこえたものがある。シーズンを通しての登板回数は49で、投げたイニングスはほぼ270回である。特に、金田監督がチームの指揮権をひきついだ直後の五月には6回の先発と5回のリリーフ、合計で11回もマウンドに上がっている。代理監督の金田は、登板過多なのはわかっているが勝つためにはこれしかないのだと語っていた。
江夏にしても必死だった。
チームには田淵幸一というもうひとりのスター・プレイヤーがいたが、中心になってチームを引っ張っていくのは自分だという思いも、江夏にはあった。
タイガースはピッチャーのチームなのである。かつてのエース、村山は引退を間近にしていた。自分がそのあとを引き継ぐしかない。やる気があるのはおれと監督だけだ、とそのシーズンの半ばに江夏は語っている。
ところが、シーズンが終わってみると村山はチームを出ることになってしまった。自分が必死になって代理監督を支えてきたことが、結果だけを見れば村山をチームから遠ざけることになってしまったわけである。それを自分が望んでいたのか、どうなのか、江夏は悩んだ。
村山が投手兼監督であったころ、自分のコンディションに合わせてピッチャーのローテーションを決めすぎるという批判が村山にはあった。一人のピッチャーが、同時に投手陣全体の登板まで決めてしまうのである。自分は調子のいいときだけ投げて、そのツケを若手に払わせるといわれても仕方のないところがあった。江夏は、そのことで村山と対立したことがある。
エースが監督を兼ねるなど、どう考えても無理な方法だったのである。そのうえ世代も違うし、ピッチャーとしてのタイプも異なる。二人は不仲だということになっていた。
しかし、タイガースの投手陣の中心になって自分をここまで引っ張ってきてくれたのは村山だということを、江夏は知っていた。連帯感は抱きあうことができる。
翌一九七三年のシーズン開幕前に村山実の引退試合が甲子園球場で行われた。
マウンドに向かう村山を、江夏は他の若手投手たちとともに騎馬に乗せた。それを見て、江夏という男は何を考えてるのかわからんというチームメイトもいた。村山がいなくなってさばさばしてるのはおまえ自身やないか、というのである。それなのにエエ格好して……。
江夏はしかし、見せかけの格好をつけたわけではなかった。チームを支えるエースとしてわかりあえる相手は、結局、村山しかいないことに江夏は気づいていたからだ。
シーズンが始まってみると、江夏の登板回数は前年に比べてもさらに増えていった。
八月三十日の対中日戦で11回を投げ抜き、そのうえみずからホームランを打ってノーヒット・ノーラン試合を完結させたことは前にも書いたが、その前後の江夏の登板ぶりを見ればかれのフル回転ぶりがわかる。
前々日の八月二十八日に、江夏はリリーフとしてマウンドに上がっている。
そのうえ11回を投げてから中二日おいただけの九月の二日に、江夏は再び先発投手としてマウンドに上がっているのだ。
場所は後楽園球場、対戦相手がジャイアンツだったからである。
ジャイアンツとの三連戦で江夏が投げないなどということはありえなかった。さすがに九月二日の江夏は、リリーフを仰いでいる。しかし、それからまた中二日おいただけの九月五日の対大洋戦でも江夏は先発している。9回を投げきり0―2のスコアで敗戦投手になっているゲームである。
ローテーションなどないも同然だった。
要するに、監督はおれを酷使して、成績のうえでの帳《ちよう》尻《じり》を合わせようとしているだけじゃないか、と江夏は思わざるをえない。なにしろこのシーズンの江夏は、終わってみれば先発が39回、リリーフも含めた登板回数は53、投げたイニングスが307と、とんでもない数字になっていたのだ。
今と違ってエースの登板回数が多いのは当然と思われていた時代だが、そのなかでも江夏は過剰ぶりがきわだっている。
金田監督とナインのあいだではトラブルも発生していた。
そのひとつがピッチャーの権藤正利による監督殴打事件である。
それ自体はシーズンオフの出来事なのだが、伏線はシーズン中に起きていた。権藤は松竹ロビンス、大洋ホエールズ、東映フライヤーズ、そして阪神タイガースといくつもの球団をわたりあるいてきたサウスポーだった。もう先発することはなくなっていたが、左の中継ぎ投手としては貴重な存在だった。かれはタイガースをやめたあとでインタビューに答えて語っている。
「……五月、開幕間もないころだった。広島のホテルの食堂で煙草《たばこ》を吸っていた私に、金田監督は突然、ほう、サルでも煙草を吸うのか、といい放ったのだ。……ユニフォームを着ているときの発言だったらまだ許せたかもしれない。私に限らず、野球選手にとってユニフォームは一種の拘束着である。ユニフォームを着ているときの野球選手は、どんなスター・プレイヤーも監督がチームを勝利に導くための一兵卒。好むと好まざるとにかかわらず己れをシャット・アウトして、少々の罵《ば》倒《とう》にも耐えなければならない。しかし、食堂でくつろいでいるときは、いわばプライベート・タイム。監督といえども不用意に選手の容《よう》貌《ぼう》やスタイルを揶《や》揄《ゆ》するような発言は慎むべきだ………」
シーズン中に権藤が打ち込まれると、何であんなポンコツをベンチに入れたんや、とピッチングコーチが監督に怒鳴られることもあったという。それをナインは皆聞いている。煙草事件のこともナインに知れわたっていた。
そういった出来事が積み重なって、シーズンオフのファンをまじえた行事があった日のロッカールームで権藤は監督に謝罪を求め、それが無視されると思わず手を出してしまったわけである。
同じようなことはシーズン中にも起きていた。
ピッチャーの鈴《すず》木《き》皖《かつ》武《たけ》が遠征中の旅館でやはり監督に手を出したのだ。投手陣はローテーションを無視した投手起用に、一様に不満を抱いていた。それが背景にはあった。
このときは江夏も現場にいた。江夏は興奮した仲間のピッチャーを押さえ、なだめた。すると監督が灰皿を投げつけた。誰にも当たらなかったが、騒ぎは大きくなってしまった。
監督サイドに立っていると見られていた江夏だったが、かれは監督をかばう気はなかった。ある時期、親しみをおぼえてはいたものの、江夏はもううんざりしていたのだ。球団代表に事情を聞かれた江夏は、監督にも非がある、といった。
エースと監督のあいだによそよそしい空気が漂いはじめたのは、そのころからのことだ。
シーズンが深まるにつれ、二人は口もきかなくなった。投げろといわれればマウンドに行くが、それ以外は一切おれにかまうな、という頑《かたく》なな姿勢を江夏はとりはじめたわけである。
金田監督はユニフォームを脱いだあとで、完全にすりきれた、と語っている。もうしんどいわ、の一言に尽きる、と。
江夏との確執について聞かれると、巨人のV10を阻《はば》むことになる中日がなぜ成功したかという話をした。良くも悪くもあのチームの中心だった江藤慎一を水原監督が早いうちに切ったことがいい結果につながった、というのだった。いい収穫を得ようと思ったら、全体の成長を妨げるようなものは、涙をのんで間引かなければならない。チームという組織には秩序、統制が必要で、それを乱す者は排除しなければならない。それができる球団であればまた違った結果になったのだろうが………。
タイガースは大事なところでチームの内部に問題を抱えてしまったのだが、だからといって暗く沈みこんだわけではなかった。それによってかえって活気づくというところも、このチームにはある。
まず、タイガースを取り巻くメディアが元気になった。
内紛、お家騒動だといって、連日大きな見出しがスポーツ紙や夕刊紙の一面を飾った。タイガース・ファンはゲームだけでなく、その背後にある人間関係のドラマをも楽しもうという貪《どん》欲《よく》さにかけては人後に落ちない。プロ野球は単なるボールゲームではなく、日々の連続ドラマでもあるのだ。二重三重に楽しめる娯楽である。内部に不穏なドラマをかかえ、外にはジャイアンツという敵がいる。これ以上は望みようがないではないか。
タイガースはホットな存在となってシーズンの最終幕に向けて走っていくわけである。
第六章 運命の落球
残るものは何だろう。
スポーツを見ていると時折、そういう問いかけがふっと頭のなかをかすめていく。その日のスコアは残るだろうか。バッターのボックススコアは? ピッチャーの投球数は?
公式記録として残されることは間違いない。その点は野球であろうがサッカーであろうが、あるいはゴルフの場合であっても変わらない。得点、シュートの数、オフサイド、ファールに関するデータ、ゴルフのストローク数、パットの数……。どれもこれも記録として残され、ファイルされる。その一部は翌日の新聞に掲載され、ファンの想像をかきたてることになるだろう。
プロスポーツに関するデータ、記録は、今はコンピュータにファイルされフロッピーディスクのなかで眠りつづける。そういう意味では、ほぼ永久に残るといってもいいのかもしれない。
しかし、人間の記憶のなかからは徐々に抜け落ちていく。
ある年の、ある日のゲームの結果がどうだったのか、データをファイルするようにして記憶している人は少ない。一シーズンにいくつもない、強烈な印象を残すメモリアルゲームは別にして、ほとんどのゲームの記憶は、あらためてファイルのなかから呼び出さないとわからなくなってしまうわけである。
むしろ断片的なシーンのほうがいつまでも記憶に残りつづけるものだ。
野球でいえば、ある投手が投げたマウンドからホームベースにかけて真っ白いロープをぴーんと張ったような豪速球の記憶。バットがボールをとらえたときの乾いた音。外野手のあいだを、まぎれもなく二つに割った打球の白い軌跡……。
もっと具体的なシーンとしてファンの記憶に残っているものもある。
例えば長嶋茂雄や王貞治が打ったホームランや村山実、江夏豊のピッチングに関する記憶である。
G―T戦は、野球ファンの記憶に残るシーンを膨《ぼう》大《だい》に積み重ねてきた。それがG―T戦を際立たせる特徴になっている。
得点経過や最終スコアははっきりと覚えていないが、あの、後楽園球場で行われた天覧試合で長嶋茂雄が村山実から打った9回裏のサヨナラ・ホームランのイメージは――その後、折にふれて繰り返しテレビで放映されたせいもあり――野球ファンの意識の深いところに根をおろしている。
それとは逆に村山投手が長嶋を相手に奪三振の記録を達成したときのシーンを覚えているファンもいるだろう。
あるいは江夏が王から奪った三振の数々。特に、江夏がシーズン通算奪三振の新記録を達成するときのことは、今でも語り種《ぐさ》になっている。
それは一九六八年の九月のことで、このシーズン、江夏は通算で401奪三振をマークするのだが、そのしばらく前、稲尾和久投手が持つシーズン353奪三振という記録に追いつき、追い越すという場面があった。
場所は甲子園球場である。
江夏は絶好調で、4回までに早くもジャイアンツ打線から8三振を奪い、王を相手にシーズン353個目、つまり稲尾の記録に並ぶ三振をマークしてしまった。江夏はそこで、あえて三振奪取のペースを落とす。354個目の新記録は、再び王貞治から奪う、というのだった。打者一巡して王がバッターボックスに入ると、江夏は明らかに三振しか考えていないという豪速球を投げていく。そして、みごとに新記録を達成してしまう。
こういうシーンは、前後の記憶が脱落しても鮮やかに印象に残るものだ。
その試合が、じつは0―0のスコアで江夏と高橋一三が投げあっていたのだという、そういうことを記憶の隅に残している人もいるかもしれない。
緊迫した投手戦だったわけである。そういうゲームのなかで江夏は、新記録のために再び王貞治をボックスに迎えるまで5人のバッターに打ちごろの球を投げている。どうでもいいバッターから三振を奪ったりしたくないために、あえて打たせているわけである。0―0のスコアでそういうピッチングができてしまうのだから、あのときの江夏はただ者ではなかった……。そんなふうに一九六八年九月のゲームを思い出す人もいるはずである。
あるいは、その試合が0―0のスコアのまま延長戦に入り、11回の裏、ほかでもない江夏が決勝打を放っているという、最後の場面を覚えている人もいるかもしれない。それもまた、まぎれもなくあのゲームのなかの一部であったのだ。
いずれにせよ、野球においては断片の記憶が強いインパクトを持ちつづける。
江夏が王から奪った三振で新記録を達成した翌日には、また別の、これもまたファンの記憶にいつまでも残りつづける出来事が起きている。
ダブルヘッダーの第二試合、タイガースの先発、バッキー投手が王の頭の近くに2球つづけて速い球を投げるのだ。王は珍しくマウンドに詰め寄ろうとする。ジャイアンツのダグアウトからはバッティングコーチの荒川博が走りだし、マウンドのバッキーに向かっていった。乱闘になり、バッキーは右手の指を骨折し、荒川コーチも十日間の怪《け》我《が》をした。甲子園が荒れた試合である。
バッキーに代わってマウンドに上がったのはサウスポーの権藤正利投手。かれは、意図したのではないのだが、手元が狂って初球を王選手の頭部にぶつけてしまった。王はそのまま退場。次の2試合を休んでいる。
あの試合はいったいどちらが勝っているのか。スコアは? そういうことは忘れられても、あの乱闘シーンはファンの記憶に強烈に残ってしまうわけである。ちなみに、ゲームは10―2のスコアでジャイアンツが勝っており、王がデッドボールに倒れた直後、長嶋が権藤投手からレフトスタンドに突きささるホームランを打っている。
ジャイアンツ・ファンは、このときの長嶋のホームランを忘れがたい一本として記憶していることが多い。
一九七三年のG―T戦にも、誰もが思い出すシーンがいくつかある。
ジャイアンツのナインの乗る新幹線が中日球場のレフトスタンドの向こう側を走っていく、というシーンもそのひとつだろう。
中日球場では中日―阪神戦が行われていた。長かったシーズンもいよいよ最終場面を迎えようとしているころである。
その時期にジャイアンツナインの乗る新幹線がなぜ野球ファンの記憶に残っているかといえば、中日球場で行われていた中日―阪神戦が、セ・リーグのペナントレースの行方に重大な意味を持っていたからだ。
十月二十日、土曜日のデイゲームである。テレビはNHKがこの試合を中継していた。
タイガースにとってはこの試合が一二九試合目に当たる。
残りゲームはあと二つしかない。優勝を争っていたのがそのタイガースとジャイアンツで、この試合の翌日、十月二十一日、日曜日の甲子園球場で両者はシーズンの最終戦を行うことになっていた。
その時点で首位に立っていたのはタイガースのほうだ。
ちょうど十日ほど前に後楽園球場で直接対決の二連戦をたたかい、10―10というプロ野球史上まれにみる激戦を経験した両チームは、その後決定的なリードを奪うことができず、僅少差の争いをつづけていた。
それでも有利な立場にあったのがタイガースのほうで、名古屋での中日戦が行われる前、二位のジャイアンツには1ゲームの差をつけていた。
タイガースはこの試合に勝てば、文句なしに最終一三〇試合目のジャイアンツ戦を待たずに優勝。この試合を引き分けて最終戦でジャイアンツに敗れても勝率で上回り、タイガースが優勝できる、という位置にいた。つまり、名古屋でのタイガースは負けさえしなければ優勝がころがりこんでくるというゲームをたたかおうとしていたわけである。そうなれば、ジャイアンツのV9はなくなり、川上監督に率いられた巨人の連覇を阻止したのはタイガースだった、という歴史が築かれたわけである。
タイガースは限りなく栄光に近づいていた。
その試合が始まるのとほぼ同時に、ジャイアンツナインはひかり351号で東京から大阪に向かった。定刻の午後二時に発車した新幹線である。中日球場の試合開始もまた、午後の二時だった。
その時刻に発車する新幹線のチケットを手配するよう指示を出したのは、ほかならぬジャイアンツの監督、川上哲治だった、といわれている。
翌日には甲子園でデイゲームが予定されている。それを考えれば、この日は午前中のうちに大阪に移動しておき、午後に軽い練習をしておきたいところだ。
午後二時発の新幹線で大阪に向かえば、宿舎にしている芦屋の竹園旅館に入るのは午後の六時すぎになってしまうだろう。もう食事の時間である。できるのはミーティングだけで、汗を流す余裕はない。
それでも午後二時発の新幹線を選んだのは、名古屋での試合の趨《すう》勢《せい》が見えたころ、あの球場の横を通りたいという思いがあったからだ。
おそらくタイガースが勝つだろうと、川上監督は思っていた。
タイガースがここにきて相手にする中日ドラゴンズは、親会社が中日新聞で、ジャイアンツの親会社、読売新聞とはライバル関係にある。そういう意味で、この両チームは常に相争ってきた。ドラゴンズが心情的にはジャイアンツの優勝よりもタイガースの優勝を望んでいるのは間違いなかった。そのうえ、過去八年間にもわたってジャイアンツはペナントを独占してきたのだ。これ以上、ジャイアンツを勝たせるわけにはいかない。そういう意識がドラゴンズの選手たちにあったとしても不思議ではない。
タイガースがこの試合に勝って優勝を決めるなら、そのゲームのある部分を時速200キロに近い速度で走る新幹線のなかからでも共有したい。そういう思いも川上のなかにはあった。
逆に、ドラゴンズがタイガースをリードしている場面で中日球場の近くを通りすぎるなら、翌日のゲームに向けてジャイアンツナインの士気は上がるだろう。そういう目論見も、もちろん、川上監督の意識のなかにはあった。
試合は新幹線の速度を考慮に入れたのではないかというくらい速いペースで進んだ。
試合時間は二時間二分だったと、公式記録には残されている。ちょうど新幹線が東京駅から名古屋の駅に到着するまでの時間である。ひかり351号がレフトスタンドの向こう側を通過する映像を、中継していたNHKのカメラはとらえている。そのときゲームは4―2のスコアでドラゴンズがリードしており、その数分後に新幹線が名古屋の駅に到着したとき、点差は変わらず、ゲームセットを迎えていた。
タイガースはあっさりと、じつにあっけなく敗れてしまったわけである。
そのあっけなさと、音もなく東から西へと疾走するひかり号のイメージは、その日のゲームとは直接関係ないのだが、セットになって野球ファンの記憶に残っているわけである。
不思議な試合だった。
タイガースの担当記者たちは、先発は上田二朗だろうと見ていた。そのシーズンの上田はドラゴンズを相手にとてもいいピッチングを見せていたからだ。
一九七三年のT―D戦は、タイガースの13勝9敗4引き分けという成績で終わっている。その13勝のうちの、じつに8勝をマークしているのが上田二朗だった。敗戦はひとつしかない。この年のドラゴンズ戦に関しては8勝1敗という圧倒的な強さを見せていたのが上田投手だった。
もう一人のエース、江夏豊はドラゴンズ戦に登板することが少なかったこともあり3勝1敗2引き分けという成績。しかもその3勝はすべて甲子園球場でのものであり、江夏はほぼ二シーズンにわたって名古屋では勝っていない、とも分析されていた。データから見れば江夏ではなく上田が対中日戦に先発するのが順当だろう。
しかも江夏は、前日にパ・リーグのプレイオフを見に行っている。
二シーズン制をとっていたパ・リーグは南海ホークスと阪急ブレーブスのあいだでプレイオフをたたかっており、その第1戦が十月十九日、大阪球場で行われていた。
午前中、甲子園で軽くピッチング練習をした江夏は、報知新聞の記者と一緒にタクシーに乗り、大阪球場に向かった。そして翌日の紙面に「ちょっとだけ観戦記」という記事を載せている。
「……練習を終えて、タクシーを拾ったら、ラジオがプレイオフを中継していた。名古屋への出発までにはまだ時間がある。行き先を変更して、大阪球場にとび込んだ……」
という記事である。
それを見て、翌日の中日戦の江夏先発はないだろう、と予測する記者は少なくなかった。いかに監督との不和が伝えられている江夏であっても、もし翌日の、引き分けても優勝が決まるゲームの先発を言い渡されていれば、目の色を変えるだろう、というのだった。
タイガースのピッチングコーチ、藤村隆男は、正直いって迷っている、と語っていた。
数日間、ゲームから遠ざかっていたから、江夏であれ上田であれ、登板間隔は十分にあいている。
上田がドラゴンズに強いこともわかっている。しかし、その上田が、シーズンの最後になって調子を崩していた。それがピッチングコーチにとっては気掛かりだったのだ。そのことを考えると、中日戦では江夏をたてたいのだが、もしその江夏で勝てずに、最終戦で上田を先発させると連敗のおそれもある。
そうなれば、ほとんどつかみかけた優勝が一気に遠のいてしまうのだ。
先のことを考えずに、とにかく中日に強い上田を先発させた場合はどうか。
その場合は江夏を最終の対ジャイアンツ戦に先発させることになるのだが、中日戦での上田の起用が裏目に出て大量点を奪われて負けるようなことになれば最終戦に向けてのナインの士気にまで悪影響を及ぼす。しかも、この土壇場に来て両エース以外の先発はありえない。
タイガースは先発投手の人選に苦しんだ。
他方のドラゴンズはペナントレースでは三位に位置していて、四位の大洋ホエールズから激しく追い上げられていた。残り試合数はホエールズのほうが多く、ほとんど消化試合になっているのだが、その成り行きによっては三位と四位がひっくりかえってしまう。
ドラゴンズはエースの星野仙一をマウンドに送ってきた。
タイガースのほうは迷いに迷ったあげく、江夏をこの試合に起用した。最終のジャイアンツ戦のことはさておき、目前の試合にエネルギーを集中させようというわけだった。
江夏は、理由はいいたくないが、この試合には集中できなかった、と後に語っている。
優勝はしたい、胴上げ投手にもなりたい、しかし、のちにかれが広島カープのリリーフエースとして優勝を経験したときのようにマウンド上で集中することができなかった、というわけである。こんなピッチングでいいはずがない、もっと切れのいいピッチングができるはずだと思っているうちにゲームは終わってしまったわけである。
当時の新聞にはこんなふうに書かれている。
「……江夏は笑みを浮かべて登板した。立ち上がりの田淵の中犠飛で先取した1点を持って。だのに不調だった。1回、いつもの江夏なら捕れる谷沢の打球を逸し、続いてウイリアムの平凡な投ゴロさえもグラブにさわらず後逸する有り様。いつもとは違った江夏だった。6イニングス投げて投球数92球。9安打されて得点のすべてが自責点という成績だった……」
ここ数日、本格的なピッチングをしていなかったことが影響したのではないかと聞かれた江夏は、ランニングや遠投で調整するのがいつものやり方だと答えている。疲れがたまっていたわけでもない、このところずっとこんなピッチングなのだ、むしろなぜ途中で降板させられたのかわからない、とも語っている。
江夏がマウンドを降りたのは6回を終えたところで、その時点ではまだ3―2のスコアで中日がわずかに1点をリードしているだけだった。リリーフした谷村智博が追加点を許すのは8回の裏のことである。
ドラゴンズの星野仙一は、勝ってもうれしくない1勝だと、正直に試合後に語っている。
かれはタイガース打線が自分を打ち崩して優勝するなら、それはそれで祝福しようじゃないか、という気分だったのだ。ジャイアンツに対する愛憎あい半ばする思いが、かれをそういう気にさせたのかもしれない。星野はジャイアンツに入団するつもりでドラフトを待っていたピッチャーである。同期には東京六大学リーグでライバルだった田淵幸一がいた。その田淵を指名できなかった場合、ジャイアンツは星野を指名するといっていた。
ところが、ジャイアンツは神奈川県の武相高校、一度だけ甲子園に出場した高校のエース、島野修をドラフト一位で指名した。誰もが驚く、意外な人選だった。
星野は、ドラフト会議に出席していたジャイアンツの関係者が何かの間違いで「星野」と「島野」をとりちがえたのではないか、と思った。それくらいかれは、ジャイアンツに期待していたのだ。それゆえ、星野はドラゴンズのユニフォームを着ると人一倍、ジャイアンツをライバル視した。特に長嶋、王という二人のスーパースターに対しては敵《てき》愾《がい》心《しん》を燃やした。
自分がここまでライバル視するジャイアンツは、あくまで強くなければならない、という思いも星野にはあった。倒すべき敵は強大でなければつまらない。そういう意味では、このシーズンもジャイアンツが勝ってもいいのだが、V9を目指すジャイアンツにはかつての強さはなかった。少なくとも星野はそう感じていた。シーズンの最後になって、よたよたとあえぎながら、かろうじて優勝戦線に残っているのがジャイアンツだった。そんなジャイアンツに優勝させていいのか。冗談ではない、という思いも星野の意識のなかにはあった。
「タイガース打線が硬くなっていたとは思わないが、いい球を見逃して、むずかしい打ち方をしていたな」
とも、その日の星野は語っている。アイロニカルな言い方である。真ん中にずばっと投げればそれを見送るし、見送ればいい変化球に手を出してくる。こいつら勝つ気があるんかいな、という感じだったのだろう。
優勝を目前にしたプレッシャーもあったはずである。
試合を終えて自宅に戻ると、知り合いの新聞記者が星野を訪ねてきた。ジャイアンツを担当している記者だったが、星野とは旧知の間柄だった。勝ったのはいいけれど、タイガース打線は情けないと、星野はいった。
「あんなことじゃ、明日のジャイアンツ戦にも勝てるはずがない」
この試合で優勝を決めたいという思いを空回りさせず、気力を充実させていた選手が、当然のように、タイガースにもいた。
例えば、池田純一である。タイガースの外野手としてかれは背番号7をつけていた。プロ入りしてから一度名前を変え、一九七三年は「祥浩」の名前で登録しているから「池田祥浩」として記憶している人もいるだろう。
かれは十月二十日の対中日戦、4回の表に星野投手からタイムリーのツーベースを打っている。タイガースは初回に田淵の犠牲フライで先取点を奪っているが、もう1点はこのときの池田のタイムリーによって記録されたものだ。
それだけではない。池田にはずっとあとになってユニフォームを脱いでからも忘れられない一打があった。
「なぜかというと、その打球があの試合をまったく別のものにしてしまったかもしれないからですよ」
池田は語っている。
「たしか6回のことですね。ランナーを一人おいてぼくがバッターボックスに入った。手応えのあるスイングです。打球はライトのスタンドに向かっていった。ライトを守っていたのは井上(弘昭)ですね。ぼくは入ったと思った。あの時点でいえば、スコアはまだ2―3だったから、あの打球がスタンドに入っていれば4―3と逆転になる。結果的にはとられてしまうんだけど、あとで井上から聞いた話があるんです。かれはそれを捕れないと思っていたというんですよ。ホームランだろう、諦《あきら》めてた、と。無理だと思ってグラブを出したら、ほとんど偶然のように差し出したグラブに入ってしまったというんですね」
あくまでこれは仮定の話である。
あのとき、もし打球が数センチずれていたら……あそこで別の球を投げていたら……その後の展開は変わっていただろう。そういうエピソードは野球というゲームのなかにはたくさんある。野球だけではない。スポーツにはその手の後日談がつきものだ。ゲームというものが限られた時間のなかで行われ、きわどいプレーによって決着がつくことが往々にして起きるからだろう。
しかし、池田がこのときの打球のことを語るのにはそれなりの理由がある。
かれは一九七三年のシーズンが終わり、タイガースが最終戦で優勝を逃したあとになってクローズアップされることになった。
タイガースのファンが、なぜ阪神は優勝できなかったのか、もう一度シーズンを振り返る時期がきたからだ。
監督はいくつものミスを重ねた。あの、せっかく7―0とリードしながら終わってみれば10―10になっていた十月の対ジャイアンツ戦は何やったん?
そういうなかで八月のある日、甲子園球場で行われたゲームのことがファンの記憶の底から蘇《よみがえ》ってきた。それもまた、対ジャイアンツ戦だった。
阪神―巨人の18回戦である。タイガースの先発は山本和行。ジャイアンツは新浦寿夫がマウンドに上がった。
先取点を奪ったのはタイガース。3回裏にツーアウト満塁のチャンスを作り、遠井吾郎がショートの頭上を抜くタイムリーヒットを放って2点を先取した。ジャイアンツは山本を攻めあぐね、高田繁がソロホームランを打つが、それだけ。タイガースは終盤、山本に代えて江夏をリリーフとしてマウンドに送り、必勝を期した。
最終回になってジャイアンツはやっとチャンスらしいチャンスを迎えた。
この日、三番に入っていた高田がヒットを打って出塁。つづく四番の王は倒れたが、五番打者長嶋は四球を選んでランナーを一、二塁に進めた。六番打者の末次民夫はセカンドゴロ。ダブルプレーでゲームセットになるところだったが、阪神の二塁手、野田正稔が一塁ランナーの長嶋に直接タッチしようとしたからプレーのリズムが崩れた。タッチを避けようとする長嶋を野田が追ってしまったのだ。その間に末次が一塁に走りこんでダブルプレーは成立しなかった。二死でランナーは一、三塁である。
そして次打者、黒江透修がセンターを守る池田のところへ飛球を打ち上げるのだ。
平凡なセンターフライだった。これでゲームセットだと、誰もが信じただろう。江夏はマウンドを降りようとしていた。ところが、そこで池田は転んでしまうのだ。バックしながら打球を追うときに、芝が流されて段差がついているところを左足で踏んでしまい、バランスを崩した。倒れながらも池田はグラブを差し出したが、打球はそのさらに向こう側に落下し、120mと書かれたセンターの一番深いところまで転がっていった。
ツーアウトだから、打球音とともに一塁ランナーの末次も走りだしている。起き上がった池田がボールを追う間に、三塁ランナーの高田だけでなく末次も悠々とホームベースに戻ってきた。1点差をひっくりかえして、ジャイアンツの逆転である。タイガースはこの試合に敗れた。
公式記録員は、池田のプレーをエラーではなく三塁打としている。甲子園球場の外野の芝が思わぬ結果をもたらす可能性があることを知っていたせいかもしれない。芝の生え方は均一ではなく、ところどころ剥《は》がれていた。雨が降ると、芝の剥がれたところの土が流れる。そのため、場所によっては数センチの段差ができているところもあった。それをよく知っているのは、ここをホームグラウンドとしているタイガースの外野手のはずで、池田ももちろん、そのことはわかっていた。特に、後ろに下がりながら打球を追うときは踵《かかと》を段差にとられやすいから注意しなければならない。
そこまでわかっていて咄《とつ》嗟《さ》に対応できなかったのだから池田の不注意でもあるのだが、打球が外野手の頭上を越えていったこと、打球がグラブに触れていないこと、それに外野手にとっての不可抗力が働いた可能性があることも考えあわせて公式記録員は黒江の一打をエラーではなく三塁打にしたのだろう。
しかし、ファンの目から見れば、それは池田の落球だった。
9回の表、二死からのプレーであったことも、池田のプレーの印象を強めている。しかも八月初旬の、甲子園球場には最も観客が入るジャイアンツ戦である。数日後にはここで高校野球の全国大会が始まる。タイガースは長い遠征に出る。その前にタイガースの野球を見ておきたいという人たちが注目する好カードでもあった。
池田の落球は、その前後のことは忘れてもこれだけは覚えているという、そういうシーンのひとつになってしまったわけである。
敗戦投手になった江夏は、勝負っちゅうのはこんなもんや、誰も責めんし文句もいわんよ、といっている。
そんなことがあってしばらく経ったころのゲームでは、やはり同じ江夏がマウンドにいるときに、池田は決勝のホームランも打っている。それが野球というものだ。一振りのバットスイングが勝利に結びつくこともあれば、雨に流された芝がなんでもないプレーを邪魔することもある。
ところが、印象の強さが災いして池田の落球は、シーズンが終わったあとになってファンの記憶の底から浮かびあがってきてしまったのだ。
あの試合で当たり前に勝っていればタイガースは楽々と優勝していた、という具合である。
それをいうなら、決勝ホームランのことも、あるいは逆転の可能性があった十月二十日の名古屋での、外野手が差し出したグラブに偶然おさまってしまった大飛球のことも同じように語ってほしいというのが池田の気持ちだろう。
それもまた一九七三年の、プロ野球が熱い視線を浴びていた時代の、出来事のひとつだ。
その池田純一は、熊本県人吉の出身で、子供のころからのジャイアンツ・ファンだった。野球を始めたのは同郷の大先輩、川上哲治にあこがれたからである。本来右利きだったのだが、中学生のときに右肩を脱きゅうし、打席に立つときだけは左のボックスに入るようになった。それもまた川上に似ていて、川上は本来右利きだったのだが、子供のころ右手を怪《け》我《が》して左で投げるようになり、やがてボールを打つときも左になった。後天的な左利きである。
池田は八代東高校の選手として甲子園大会に出場した。大会を終えて故郷に帰ると、タイガースのスカウトがやってきた。その数日遅れでジャイアンツのスカウトもやってきた。ドラフトが制度化される前年のことだ。池田はジャイアンツ入りを望んだが、先にプロ入りの話をもってきてくれたタイガースの恩に報いるべきだといって、父親がタイガースとの契約をすすめた。そういう選手が、きわどいところでジャイアンツがV9を達成するシーズンの遠景のひとつとして、その背後に存外くっきりとした姿を見せている。
第七章 優勝まであと二百時間だ
ところで、手元に一冊のノートがある。
ぼくにとってはなつかしいノートだ。
資料やノートの類いは定期的に整理するのが習慣になっている。テーマごとに紙袋に入れ、さらにそれを段ボールの箱に詰め資料置き場に積み上げていく。きわめて原始的なやり方である。
そういう整理の仕方をしていてもいつの間にか消えてしまう資料もある。知らぬ間に処分してしまったり、ほかのものと一緒にどこかに入りこんでしまったりするわけだ。そうなると、もう探しようがない。
かつて――二十代のころ――ぼくはある雑誌の編集部にいて、毎週のように記事を書いていた。
長く書きつづけていたのは人物モノのシリーズで、毎週、一人の人物をとりあげ、インタビューして四〜五ページの記事を作っていた。その仕事のなかでとりあげた人の数は二百人以上にもなり、今読み返せばおそらく七〇年代のグラフィティとして振り返ることができるかもしれない。その記事のファイルも、かつては保存していたのだが、おそらく誰かが読みたいといって持ち出したきり、行《ゆく》方《え》がわからなくなってしまった。そういうことはしばしばあり、それだけに、かなり以前に使っていたノートがちゃんと残っているのが不思議なくらいだ。
資料を整理するたびに、これはそのうち見直す機会があるだろうと、そう思いながら別のところにキープしておいたノートである。
かといって大事に保存しておいたものではなく資料棚の隅に雑然と積み上げられていたものだから、表紙の一部は黄ばんでおり、ページをめくると紙が乾燥してばさばさになっている。
表にはボールペンで単に《GT》と書かれているだけだ。そのほかに《一九七三年十月》とマジックで書かれており、これはだいぶあとになってノートを整理したときに、その時期の取材メモであることを明確にしておこうと思って書き加えたものだ。そうしておけば、このノートが一九七三年十月の巨人―阪神戦にまつわるものだと、すぐにわかるからだ。
そのノートをめくっていくと、あの年のペナントレースの最後になって白熱したGT戦をぼく自身がどう見ていたのか、くっきりと思い出すことができる。
ノートの冒頭に出てくるのは走り書きである。
字は斜めになっており「タイガースの迷走ぶり」とか「阪神のウラ情報」といった言葉が並んでいる。
どういう状況のなかでその言葉をメモしたのか、すぐに思い浮かべることができる。電話をかけながらメモをとっていたのだった。
電話の相手は編集部のデスクで、かれはいつものように低い声で、ぼくに指示を出していた。そのデスクの、電話をかけるときのいつもの姿勢も見えてくる。かれは背を丸めるような姿勢で左手で電話をとり、左の肘《ひじ》を机に置き、視線は常に右上方の虚空に向けられていた。足元の、元々は灰色だったのだがすっかりと黒ずんでしまったプラスチックの歪《ゆが》んだ屑《くず》籠《かご》に足を載せていることもあった。
「長嶋のことはわかったよ」
と、デスクはいった。
「引退の確認はそう簡単にとれるもんじゃない。引退説ってことで記事は作るんだからそれはいい。むしろ来週だな。どうせタイガースはこけるぜ」
「いや、わかりませんよ」
と、ぼくはいったはずだ。
「どうしてだ」
「なんていうか、けっこう感動的な試合してましたからね」
「テレビで見てたよ。次のこと考えろ。来週、何をやるか。タイガースの内紛を取り上げない手はないぞ……」
その文脈のなかで「タイガースの迷走ぶり」「阪神のウラ情報」といった言葉がデスクの口から出てきたわけである。
そのときの違和感は、今でもはっきりと説明することができる。
ぼくは十月十一日の、後楽園球場で行われた試合をスタンドで観戦したばかりだった。
三塁側の内野席である。試合前には、その時点で引退説の出ていたジャイアンツの三塁手、長嶋茂雄の談話をとるつもりだったが、かれは一度ロッカールームに姿を消すと、もうダグアウトには出てこなかった。
その日の長嶋はバッターボックスにも立たなかった。いつものように四番打者としてスタメンに顔を出したが、2回の表の守備についていたときタイガースのバッター、後藤和昭が長嶋の前に強いゴロを打った。打球は長嶋の目の前でイレギュラーに弾み、右手の薬指を強打した。治療のために一度ロッカールームに引っ込んだ長嶋は、それきりグラウンドに姿を見せなかった。
薬指が骨折していることがわかり、すぐに慈恵医大病院へ向かった。爪《つめ》も剥《は》がれかけており、全治四週間と診断されるのは、それから間もなくのことだ。その日は練習中にもノックされた打球がイレギュラーバウンドして顎《あご》に当たった、いやな予感がしていたんだ、とロッカールームでの治療中、長嶋は語っていたらしい。グラウンドは硬く、手入れが行き届いてなかった。
しかし、ゲームはその長嶋が不在でも白熱した。
タイガースが初回に4点、2回にも3点を加えて7―0と一方的にリードするが、ジャイアンツは反撃する。
4回裏、長嶋に代わって四番に入っていた富田勝がレフトスタンドへ3ランホーマー。さらに塁上にランナーをため、代打柳田俊郎がタイムリーヒット。これでスコアは7―4である。
ジャイアンツはさらに6回裏に黒江透修のソロホーマーで2点差に追いつき、代打萩原康弘のライトスタンドへの3ランで8―7と逆転する。この回にはもう一人、高田繁もホームランを打って9―7とタイガースに2点差をつけた。
それでもまだ決着がついたわけではなかった。
タイガースは7回表、2点のビハインドをすぐにはねかえし、同点。8回には追加点もあげて10―9と再びジャイアンツを抑えにかかった。
そして、その1点差にジャイアンツが追いつくのだ。
代打したあとも外野の守備についていた柳田が後楽園球場のライト側のポールに直接当てるソロホームランを放ち、ついに10―10の同点である。
午後の二時、デイライトのなかで始まったゲームはいつのまにか照明灯のなかで行われていた。
十月、日没の時間は日増しに早くなっている。9回の攻防を終えたとき、バックスクリーンの時計の針は五時三五分を指していた。
時間切れの引き分け……。当時の理屈ではわかるのだが、なぜこのままゲームが終わってしまうのか、釈然としなかった。
いやあ、ほっとしたよ、という声も思い出すことができる。スタンドではそういって立ち上がる人もいたのだ。ここまでやったらどちらが勝っても後味が悪い。引き分けなら両チームとも納得がいく。どっちも勝たせたかったからなあ……というのだった。
それは巨人、阪神のどちらかを応援するのとは別の、その日のゲームを見ていた人たちの第三の感情だろう。しかし、それとはまた別の、第四の感情ともいうべきものもあったはずだ。なぜ、こんなところでゲームが終わってしまうのか。ファンは中途半端なところで放りだされてしまった、という思いである。
いいゲームだったが、まだ何も終わっていない。そう思って、球場を立ち去りがたく、スタンドのあたりをうろうろと歩き回っている人たちもいたのだ。
その気持ちが、ぼくにはよくわかった。
ダグアウトを見ると、もうそこには誰もいなかった。
選手たちはさっさとロッカールームに引き揚げてしまったのだ。
バットの一本も残されていなかった。選手たちは今日のゲームの余《よ》韻《いん》にひたっているだけでなく、もう次のことを考えているのかもしれない。
グラウンドではいつものように係員が出てホームベースのあたりや内野の土をかきならしていた。
一シーズンに一度あるかないかのゲーム、いや、ひょっとしたらこんなゲームは十年に一度しかないのかもしれない。それなのに、皆、いつもと同じように淡々と仕事をしているのだ。それが不思議ですらあった。グラウンド整備を始める前に何か残しておくものがあるのではないかと、そんなふうに思えてきたのである。
所《しよ》詮《せん》、これはゲームなのだということはわかっていた。一シーズンに130試合行われるゲームのなかの一つでしかない。そこで立ち止まっていると、何も先へ進まない。また次のゲームがある。
時は容赦なく刻まれ、次の現実が目の前に迫ってくる。
しかし、一瞬であっても時間が凍りついたかのように感じさせるのも、またゲームというものなのだ。もうしばらくスタンドに座っていよう、何があるわけでもないのだが、もうしばらくゲームの余韻にひたっていよう……。
観客をそんな気分にさせてしまう力も、時として、ゲームは持っている。たかだかゲームが、人に希望を抱かせたりもするのだ。
内紛を伝えられていたタイガースにしても、これほどのゲームのなかでは、あらゆる問題が消えてしまう。瑣《さ》末《まつ》な問題などゲームの熱気に溶かされてしまうようにどこかにいってしまうのだ。
それもまた、ゲームの力だった。
充実したゲームのなかでは監督とエースの反目や、選手どうしのよそよそしい態度などが入りこむ場所がない。
それが後楽園球場の正面玄関の脇《わき》にあった公衆電話の受話器をとったときの、率直な思いだった。
編集部にいるデスクとの会話はちぐはぐなものになった。
タイガースの内輪もめ? まだそんな角度からの記事を作ろうとしているんですか?
言葉には出しがたかったが、そういう違和感がたしかにぼくのなかにはあった。
ビー、というブザーの音が聞こえてきた。電話に投入していた十円硬貨がボックスのなかに落ち、あと三分しか話せないということを知らせる音だった。
「まあ、とにかくあがってこい」
デスクはいった。
「原稿があがってくるまでまだ時間があるから、少し話をしよう」
その日は木曜日で、雑誌の一折りの締め切り日だった。一折りというのは、中綴じ印刷をする雑誌の一番外側にくる活版の三二ページのことで、その部分を最後に校了、印刷するといよいよ製本にかかる。一冊の雑誌の最終入稿が一折りということになる。なぜそれが三二ページかというと、そのページ数をひとつの単位として輪転機を回すからである。
デスクは現実主義者だった。
観念的なことを書いても読者はついてこない、というのがかれの姿勢だった。
毎週、数十万の読者に向けて雑誌を作っていれば誰でもそういう教訓を身につけてしまうだろう。
具体的な、ナマのエピソードが読者をつかむのであって、野球を扱うにしてもゲームのことより選手たちのプライベートな出来事のほうが面白がられる、というわけである。
「ゲームが面白かったといったって、そんなものは明日のスポーツ紙を読んだところで終わりだな」
かれはにべもない口調でいった。
「読者の関心はその先に行ってるよ。関西の連中はもうシーズン後のことをいってるぞ」
「監督問題ですか」
「それだけじゃないな。江夏と金田監督の不仲は野球ファンなら誰でも知っている。球団の代表はこの問題を解決できるような男じゃない。それに……」
かれは、そこで声を落とした。
「例によって妙な噂《うわさ》も聞こえてきている」
「何ですか」
「やばい話だ。プロ野球が賭《か》けの対象になっているのは知ってるだろ。こういうときは必ず、その手の話が聞こえてくるんだ」
デスクは独自の情報網からその手の、確度の高い話をつかんでくることがあった。
雑誌が、後に映画にもなる広島ヤクザの世界を題材にした連載もので多数の読者をつかんだとき、かれはその方面にもだいぶ深入りしていた。ただし、情報源を編集部内でも明らかにすることはなかった。それがかれなりの情報源に対する仁義のようなものだったのだろう。しかし、若手の編集部員や記者のあいだでは、もったいぶったあの情報がどこまで確度の高いものなのかわかったもんじゃない、と受け取られていた。もっともらしい情報をちらつかせながら、デスクとして優位に立とうとしているだけだというわけである。
かれの原稿チェックは厳しかった。
原稿用紙はザラ紙に近い二百字詰め。一四字のところに太い罫《けい》が入っているのは、普通の記事は一四字詰めで組まれるからだ。原稿も一四字詰めで書かなければいけない。紙質のせいでボールペンや万年筆は使いにくく、もっぱら2Bの鉛筆が使われていた。その原稿に、デスクは赤のサインペンで手を入れていく。せいぜい二百字程度の記事のリードの部分は何度も書き直しさせられるのが常だった。本文はデスクの手が入って真っ赤になり、原型をとどめないこともあった。
それもまた、反発を買う材料になっていた。
そこまで直すなら最初から自分で書けばいい。直しのポイントを指摘して、記事を書いた本人にもう一度トライさせたほうがまだましだ……というわけである。
徹底的に赤を入れるから、入稿は遅くなる。
市谷の大日本印刷に原稿を持ち込むのは翌、金曜日の朝になることも珍しくなかった。
特集記事を担当していたもう一人のデスクは、最低限のチェックしかせずに入稿していた。かれは新聞社の文化部から異動してきた人で、後にまた文化部へと戻っていった。専門は現代美術で、毎週発行される雑誌の特集記事に本気になって手を入れる気にはならなかったのだろう。
赤ペンを大量に消費するデスクは、一度、新宿のゴールデン街で身内の記者に殴られた。日頃の鬱《うつ》積《せき》が記者のほうにたまっていたのだ。酒を飲みながら口論になり、先に手を出したのが記者のほうだった。
それでも、翌日、デスクはいつもの時間に片方の目に眼帯をつけて出勤してきた。照れたような笑みを浮かべたが、前の晩の出来事については何もいわなかった。そして、相変わらず、原稿のチェックは厳しかった。
活字になってしまえば、たいていの文章は読めるもんだよ、とかれがいっていたことがある。
もっともらしく見えるからな。でも、違うぞ。目の肥えた読者もいるんだ。そういう連中は中身のない、だらだらとした文章を読まされたら、それっきり雑誌を買わなくなる。そういうもんだ。それにおれはナマの原稿を読まされてるんだ。原稿の粗がいくらでも見えてくる。腹を立たせながら赤を入れてるんだ……。
「このあとの試合スケジュールはどうなってる?」
デスクは聞いた。夜の九時をまわり、そろそろその日に入稿する原稿があがってくる時刻だった。デスクはまた赤ペンを手に、ベテランの理容師のように原稿を刈り込んでいくのである。
「点々ですよ。巨人も阪神も明日、明後日はゲームがなく、日曜日に巨人が川崎で大洋戦。阪神は広島へ行って、日、月とカープと二連戦ですね」
「そのあとは?」
「ひどいなこのスケジュールは。タイガースは火曜日から金曜日までゲームなしですよ。次の土曜日にやっと名古屋で中日戦があって、その翌日が甲子園で巨人との最終戦ですね。巨人は火曜日にヤクルトと試合をしたあと日曜日の甲子園での最終戦までゲームなし。無茶苦茶なスケジュールですね」
雨で順延になったゲームがシーズンの最後に組み込まれ、そのためこの年は十月の中旬になっても全試合が消化できずにいた。巨人、阪神のゲームが飛び飛びなのは、その間にセ・リーグの他球団が試合をしているからである。
「阪神はつまずくだろうな」
デスクはいった。
「そういうチームなんだ、あそこは。期待させておいてころっと転ぶんだよ。優勝なんかしないほうがいいと思ってるふしもあるな」
「誰がそう思ってるんですか」
「球団が、さ。優勝すれば選手の年俸は上がる。その割りには観客動員は少ない。巨人とは事情が違うんだ。球団経営のことを考えたら、いいとこまで競り合って結局は二位で終わるほうがいいんだ。また来年に希望をつなげるしな」
「それはないでしょう」
「いや。そういう憶《おく》測《そく》も、すでに関西では流れてる」
「でも、ここまできたらタイガースだって優勝を狙《ねら》ってきますよ」
「おれは巨人のほうに賭《か》けるな。タイガースは広島にころっとやられて首位の座を明け渡すよ」
デスクはいった。
「出張の手続きしておけよ」
「行っていいんですか」
「広島での阪神戦を見て、帰りに大阪に寄ってくる。これで来週の企画は一本決まりだな。狙いはタイガース。優勝を逃したあとのドタバタだ」
そういっていたデスクがじつは阪神タイガースのファンであるということは、あとで知った。
ノートには、そのときのデスクとの打ち合わせのことも書き残されている。ほとんど文章になっていない。言葉の断片である。覚えているのは、つい数時間前に後楽園球場で見てきたゲームが、同じ日のゲームとは思えなかったことだ。
編集部はいつものようにごったがえしていた。
取材した内容をもう一度電話で確認しておこうという人がいる。
中東で始まっているイスラエルとアラブの戦争が、日本にどんな影響を及ぼしてくるのか、電話でコメント集めをしているグループがある。その結果としてトイレットペーパーの買い占め騒ぎが起きるのは二、三週間先のことだが、アラブ諸国はすでに石油の輸出削減を戦略のなかに取り入れており、その影響が出始めていた。
それが現実だった。
慌《あわ》ただしく時を刻みながら、世の中は動いている。そのなかで立ち止まり、野球のゲームのことなどを考えているわけにはいかないぞと思わせるだけの勢いは、たしかにその現実のなかにあった。
しかし、数時間前に見た野球の試合もまた現実に起きた出来事だった。その手応えは依然として、ぼくのなかに残っていた。
取材ノートには、その後、何人かの記者のコメントがメモされている。
10―10の引き分けで終わったG―T戦の翌日、大阪から来ていたスポーツ紙の記者の人たちと会っているからだ。それが金曜日のことで、その日のうちにかれらは一度大阪に戻り、翌土曜日には広島へ移動するといっていた。かなりきついスケジュールだが、疲れているようには見えなかった。このまま一気に広島を連破すればタイガースの優勝の目はある、というのがかれらの見方だった。
「問題は広島との第一戦やろな」と、メモには書かれている。
「ピッチャーがおらんから。月曜日の第二戦は江夏が放るやろ。そのあとしばらくゲームがないんやから」
かれらはまだ10―10のゲームの余《よ》韻《いん》をどこかにひきずっていた。シーズンオフに予想されるチームの内紛は、あの壮絶な試合を見ているだけに、まだリアリティーがないようだった。
長いシーズン、かれらはずっとタイガースのゲームを見てきている。春先のスタートは悪く、また今シーズンもだめかと諦《あきら》めたが、夏になって勢いを盛り返してきたのだ。タイガースの順位は目まぐるしく変わっていった。七三年のセ・リーグのペナントレースはすべてのチームに優勝のチャンスがあったといってもいいくらい、六球団が激しく争った。それだけに、自分が担当しているチームが一歩でも優勝に近づけばうれしくなる。
シーズン最後の野球を冷ややかな態度で見たくないと思っていたぼくは、少しほっとした。斜《しや》に構えた見方はしたくなかったのだ。
土曜日には、もう一度、後楽園球場に行っている。
日拓ホームフライヤーズと太平洋クラブライオンズの試合が行われていた。
どちらのチームも、今はもう名前が変わっている。日拓は現在の日本ハムファイターズに、太平洋クラブは西武ライオンズにつながってくるのだが、そのつながりがはっきりと見えるほど過去のチームと現在のチームの関係が深かったわけではない。選手たちにしてみれば球団名とユニフォームが変わっただけのことだった。
日拓―太平洋クラブなどという試合を見にいったのは、日拓の四番打者、張本勲の首位打者のタイトルがその試合にかかっていたからだ。張本は打撃ベスト10の二位にいて、トップの加藤英司を追っていた。加藤はプロ入り五年目の選手。かれは阪急ブレーブスの主力バッターとして二度首位打者のタイトルを獲得するのだが、このときが初めてのチャンスだった。
張本はこの日に行われたダブルヘッダーで7打数1安打に終わり、打率を下げた。
第二試合では太平洋クラブの東尾修もリリーフでマウンドにあがった。東尾はまだ23歳だった。そういう時代の野球である。
タイトルを貪《どん》欲《よく》に獲りにいく張本の、シーズンの最後のバッティングを見ておこうという狙《ねら》いもあったが、もうひとつ、つい二日前、大激戦の舞台となった後楽園球場を見ておきたいという気分も、ぼくにはあった。好奇心、やじ馬根性だ。
ダブルヘッダーが予定されていたため、昼過ぎに始まった第一試合に、観客はほとんどいなかった。
そのときほどがらんとした後楽園球場は見たことがない。
公式記録を見てみると、当日の後楽園には第一試合で1000人、第二試合に2000人のお客さんが入っていることになっているが、実際はもっとずっと少なかった。ことに第一試合が始まったころはネット裏の一部を除くあちらにぽつり、こちらに数人といった具合で、観客はグラウンドに選手の姿が見えなければどこか別のスタジアムに入りこんでしまったのだと思ったことだろう。
たしかにそこは五万人の観客がぎっしりとつまったGT戦のときとは別の空間だった。
欠伸《あくび》まじりで野球を観戦している人たちのなかに、二日前にもここにいた人がいるだろうかと、そんな目であたりを見渡してみた。
根拠はないのだが、多分いないだろうと思った。そう思うと、じつに子供っぽい、些《さ》細《さい》なことだが、得意気な気分になったものだ。自分だけが珍しい野球カードを持っていることを自慢したくなるようなものだ。野球には人をそういう気分にさせるところがある。
ぼくはその日、ネット裏で弁当を売っていたアルバイトに声をかけている。
そのときのことを、例のノートにメモしている。メモするほどの内容ではないのだが、そのときはメモしておきたいと思ったのだろう。かれはこんなふうな話をしていたのだった。
「……どうせバイトするならこないだみたいな試合のほうがいいですよね。あの日はぼくの担当じゃなかったんですよ。今日みたいな日は何も売れないし。別に巨人―阪神戦だからというんじゃなく、面白い試合のほうがビールもよく売れるっていいますよ。弁当とかもね。そういうもんじゃないですか。やっぱり接戦のほうがハラ減るし。あのときは、ぼけーっと通路歩いてると怒鳴られたっていってますね。お釣りの計算してるときも通路にしゃがんでないと見えねえぞっていわれちゃうんですよ。だから、あの日バイトしてても試合なんか見てるヒマほとんどなかったと思う。でもやっぱり、ああいう試合のほうがいいですよ。あとになって、あのすごい試合のときおれも後楽園球場にいたんだぞっていえるじゃないですか……」
阪神タイガースは広島に遠征した。ゲームが行われたのは十月十四日の日曜日のことだ。
タイガースは、そのシーズン、カープには強かった。試合前までの成績は阪神の16勝8敗、である。
タイガースの金田正泰監督は、試合前のダグアウトでつとめて明るく振る舞おうとしていた。
「優勝まであと二百時間だ」という言葉がノートに書き残されている。
金田監督がそういって、な、そうやろといって笑ったのである。
まわりにいた記者たちは一瞬、えっという顔を見せたが、一週間後の、十月二十一日の日曜日にはペナントレースの一三〇試合目に当たる巨人戦が予定されており、泣いても笑ってもその日までには優勝が決まっている、それまでの時間を計算すればおよそ二百時間になるということに気づいた。
やはり監督は最終戦までもつれると思っているのだろうか……。
そういう疑問が投げかけられてもよかったのだが、誰もが無言だった。何人もの記者がいると、互いに牽《けん》制《せい》しあって発言しようとしない。こういう場面はしばしばあるもので、緊張感のある沈黙があたりを支配する。監督は独《ひと》り言《ごと》をいうように、また次の言葉を発しなければならない。
そうはいっても決まるもんやったら早いとこ決めたいわなあ、と監督はいった。
「自動車レースやないけど、そろそろピットに入りたくなってきた」
それもまた、ノートに書き記されている言葉だ。監督は笑いながらそういっていたのだが、あとになって考えてみれば、存外、本音だったのかもしれないと思えてくる。
十月のデイゲームは肌寒いなかで行われた。広島市民球場の観客は1万3000人、とメモされている。
試合展開は速かった。カープの先発投手、外《そと》木《こ》場《ば》義郎は、速いテンポでどんどん投げこんでくる。タイガース打線はその外木場のペースに合わせるかのようにバットを出し、凡打の山を築いていった。
9回表のタイガースの攻撃がやってきたとき、試合開始からまだ二時間とたっていなかった。その間にカープは5点を奪い、タイガースはチャンスらしいチャンスをつかめない。そういうゲームである。
「……タイガースというチームは期待させておいてころっと転ぶんだよ……」
編集部のデスクがそういっていたのを、ぼくは何度か思い出していたはずだ。そのとおりだとしたら、タイガースをからかうような記事を作らなければならない。
それには気乗りがしなかった。ぼく自身、タイガースのファンだったわけではない。しかし、よくありがちな手法で(実際、その手の記事は山のように書かれていたのだ)タイガースを取り上げるのはうんざりだった。
試合は9回表に田淵の2ランホーマーが飛び出したが、それだけだった。外木場投手は2失点を気にもせず投げつづけ、そのまま完投勝利を飾った。
救いは同じ日に、ジャイアンツも川崎球場で大洋ホエールズに敗れたことだった。
相変わらず首位阪神と二位巨人のゲーム差はなく、阪神が勝率でわずかに1厘だけリードしているという状況は変わっていない。
一九七三年十月の、野球をめぐる旅は意外なほど長くなっていくわけである。
第八章 エース対エース
あのとき、もし……だったら……。
野球では、その手の話は意味をなさない。
あのときの甘いカーブにバットを出していれば……。
キャッチャーのサインに首を振っていれば……。
それをいいはじめたらきりがないからだ。
ひとたびゲームが始まれば、勝負の分かれ目はいたるところにひそんでいる。
ひとつのゲームのなかで両チームの投手は、合計すると250球以上の球を投げる。ときには300を超えることもある。その一球一球がゲームのターニングポイントになりうる可能性を秘めている。
ゲームとはそういうものだ。
そのゲームと、公式戦だけでも年間に130回もつきあっているから、プロ野球選手たちはあそこでこうしていれば、などとは考えないようにしている。それをいいはじめたら収拾がつかなくなることを、皆知っているからだろう。
倉田誠もそのなかの一人だった。
かれは一九七三(昭和四十八)年十月十日の後楽園球場、一塁側のブルペンに向かってゆっくりと歩いていくところだ。
午後の二時すぎに始まったゲームは中盤にさしかかっている。
ゲームは巨人―阪神戦。
週日のデイゲームだが、五万人の観衆がつめかけていた。
超満員である。
シーズンはおしつまり、残るはあと4、5試合だけ。そのなかで優勝戦線に残ったのがジャイアンツとタイガースだった。ファンにとってはまたとない展開である。
翌日の試合も含めたG―T二連戦が優勝の行《ゆく》方《え》を左右することは間違いなかった。
ゲームはジャイアンツがリードしていた。
初回には長嶋、末次のタイムリーで2点。3回にはランナー柴田を三塁に置いてまた末次がタイムリー。5回には再び長嶋、末次のタイムリーで2点を追加。小刻みに、しかし、確実に追加点をあげタイガースを突きはなそうとしていた。
この試合は――これまでに繰り返し書いてきているように――タイガースの主砲、田淵の満塁ホームランで決着がつく。
ジャイアンツは逆転されてしまうのである。
そして、その翌日はタイガースが序盤戦で7―0とリードしながらジャイアンツにおいつかれてしまい、結局のところ10―10で引き分ける。
ペナントの行方は最後の最後までわからなくなり、決着は一三〇試合目、甲子園球場の阪神―巨人戦でつくわけである。
倉田誠はブルペンで投球練習を始めながらスコアボードを見た。
ジャイアンツが5―1とリード。ジャイアンツのマウンドにいるのは高橋一三投手。そのシーズンのエースである。高橋は中二日の先発だが、今のところ危なげないピッチングでタイガース打線を1点に抑えている。
どっちなのだろうか、と倉田は考えた。
かれは翌日のゲームの先発を言い渡されていた。
それもまた大切な試合であることはわかっていた。
今日の試合に勝てば、明日は優勝をほぼ確実にするためのゲームになる。
もし今日の試合を落とせば、明日はますます負けられなくなる。
と同時に、そのシーズンの倉田はリリーフ投手としてもしばしばマウンドに上がっており、試合展開によってはその日の試合で高橋一三をリリーフすることになる可能性もあった。
先発だろうがリリーフだろうが、与えられたチャンスには投げなければいけない。
そう思ってフル回転してきた倉田は、そのシーズンすでに18勝をマークしていた。
プロ入り九年目になるピッチャーだったが、勝ち星がそれほど増えたのは初めてのことで、かれはひそかに20勝も夢ではないと思っていた。
実際のところどうであったのかというと、倉田はそのゲームでリリーフを命じられている。
先発の高橋一三は6回になってタイガース打線につかまってしまった。
その回、先頭打者の後藤和昭にホームランを打たれ、次のバッター望月充にはセンター前に弾きかえされた。
巨人はそこで倉田を投入するわけである。
それが裏目に出て、倉田は田淵に満塁ホームランを打たれてしまう。打たれたのはフォークボール。決していい当たりではなかったが、打球は後楽園のレフトスタンド、前から数列目のあたりに落下していった。
打ち込まれたという実感のないホームランである。
その一球が、この年のもつれにもつれた優勝争いの、いわば序曲になっていくのだが、話をその田淵のホームランが出る前に戻してみよう。
倉田は、マウンドに向かって歩きながら、これで翌日の先発はなくなったなと思わざるをえなかった。
チームは、明日のゲームはともかくとして、まず目前のゲームに勝負をかけるというわけだった。
そう考えなければ、明日の先発から今のリリーフへと気持ちを切り替えることはできない。
どうしても今日の試合に勝つのだ、そのために監督は自分をマウンドに送ったのだ、と考えるわけである。
先発投手として翌日のマウンドに上がりたいという気持ちがないわけではなかったが、倉田はそのことは考えないことにした。
かれはチームの方針に忠実であろうとした。
いつだってそうだった。
ジャイアンツのユニフォームを着ているかぎりそれは求められる。与えられた状況のなかでベストを尽くすのが選手の役割なのだ。
かれはそう信じていたから連投も厭《いと》わなかった。
特にそのシーズンは、いつになく自分のピッチングに自信をもっていた。プロ入りして以来の課題だった投球コントロールが安定していたからだ。
コントロール。
これはじつにやっかいな課題だった。
それさえクリアできればすぐにでも10勝や15勝をマークできるだろうというピッチャーは少なくない。びゅんびゅんと勢いのある速球を投げながらコントロールに難点があり伸び悩むピッチャーのことだ。
倉田自身、そのなかの一人だった。
かれは神奈川県の鶴見高校の出身である。
進学校で、野球部が甲子園に出場するようなことはなかった。
倉田は、チームのエースで四番打者だったが、三年生のときの県大会でも、早々と姿を消している。
身長が185センチ、オーバーハンドからめっぽう速い球を投げ込むピッチャーがいても、それだけで県大会を勝ちあがっていかれるわけではない。
そのかわり高校生ばなれした速い球を投げるピッチャーを見てみようじゃないかというスカウトはゲームを見にきていた。時速140キロ台の速球を投げるピッチャーは、コントロールはともかく、速い球を投げられること自体が才能のあらわれなのである。
倉田は当然のように進学を志望した。
野球だけやっていればそれでいいとは考えなかった。
野球にすべてを賭《か》ける気もなかった。
それよりもまともな大学を出ることのほうが大切だと思っていた。
高校三年生の夏の終わりには大学の野球部の練習にも参加している。
セレクションといって、そこでいい評価を受ければ、入試の段階でクラブの推薦を得ることができる。
かれは中大のセレクションでマウンドに上がり、レギュラークラスの打者を相手にいくつもの三振を奪った。
大学に入るなら学部はどこがいいのか、とも聞かれた。
どこであろうと推薦する、というわけである。
倉田は法学部を志望した。野球だけでは入れないだろうから必要な勉強はするつもりだった。
そこまで考えていたのに進学を諦《あきら》めたのは、ジャイアンツがスカウトに来て六〇〇万円という額の契約金のことや年俸のことなどを具体的に提示しながら話してくれたこと、それにもう一つ、大学の野球部に入ると勉強どころではなく、ほとんど毎日のように合宿とグラウンドを往復するだけだということに気づいたからだ。
それなら大学に行っても意味がない。かれは進学を諦め、ジャイアンツと契約を結んだ。
入団は昭和四十年のことで、その翌年から新人選手のドラフト制度が導入されているから、大学に進んでいたら四年後にどういう進路をとることになったのか。少なくともジャイアンツのユニフォームを着る可能性はずっと少なくなっていただろう。
プロ入りした倉田は速い球を投げる、本格派の大型投手として期待された。
練習も熱心だった。
ジャイアンツの投手陣を見渡すと、国鉄スワローズからジャイアンツに移籍してきた金田正一は長身のピッチャーだったが、それ以外は倉田から見ると小柄で、なぜ自分が「大型投手」といわれるのかわかったような気がしたものだ。そして投球フォームは真上から投げおろす、最もオーソドックスなもの。球速だけを見ていればすぐにでもプロで通用しそうだった。
期待されないほうがおかしい。
ところが、倉田はなかなか一軍に定着することができなかった。コントロールに難点があったからである。
狙《ねら》いどおりのところに投げられない。コントロールのことばかり考えると、今度はフォームが小さくなってしまい、本来の持ち味である速球が生きてこない。
大きな体を折りたたむようにしてストライクゾーンに投げ込むときは、決していいピッチングができているとはいえないのだ。
プロ入り一年目は勝ち星ゼロで、二年目には6勝をマークするが、その翌年はまた一つも勝てない。そんな具合だった。
そのピッチングにやっと安定感が出てくるのが、倉田の場合、一九七三年なのである。
ピッチングフォームをオーソドックスなオーバーハンドからスリー・クォーターに変えてみた。腕の出てくる角度をやや下におろしてみたわけだ。それがきっかけでコントロールにも自信をもつことができるようになった。
実際、このシーズンのジャイアンツは倉田の活躍がなければ十月に優勝戦線に残っていることもなかったはずである。
エースの堀内が不調で、信頼できるピッチャーといえばサウスポーの高橋一三と、それにもう一人名前をあげるとすれば倉田だった。
しかも倉田はキャンプ後半からオープン戦にかけていいピッチングを見せることができず、開幕はファームで迎えている。
一軍に上がってくるのは開幕のほぼ一カ月後のことだ。
そこから十月までのあいだに倉田は49試合に登板し、イニング数でいうと180回以上も投げている。当初はリリーフ専門だったのだが、やがて先発もこなすようになり、気がついたら先発の柱であると同時に抑えの切り札でもあり、時にはロングリリーフもこなすピッチャーになっていた。
もし、あのときリリーフではなく、予定どおり翌日の阪神戦の先発投手として後楽園のマウンドに上がっていたら……。
倉田はあとになってそのことを考えなかったわけではなかった。
もし自分が先発していたら、少なくとも10―10などというスコアの乱戦にはならなかっただろう。G―T二連戦の二戦目はジャイアンツが堀内、タイガースが江夏という先発でスタートし、不調だった堀内がまっさきにノックアウトされた。
逆転、また逆転のシーソーゲームはそこから始まったのだ。
しかし、倉田は対阪神二連戦の第一戦で高橋一三をリリーフするようにいわれたとき、それを断ることはできなかった。
明日の先発はどうなるのかと、そういって抗議をすることもなかった。かれは当然のようにマウンドに向かったのである。
エースと、そうではない投手陣のなかのワン・オブ・ゼムのピッチャーの差はこういうところにあらわれてくる。
いかにそのシーズン好調だったとはいえ、倉田はエースではない。エースならば使われ方にもう少し配慮されただろうが、エースではないピッチャーは好調だからこそありとあらゆる場面で使われ、いわば酷使される。翌日の先発のことよりも目の前のゲームに投入しようと、そういう判断を下す場合の有力な材料になってしまうわけである。
それをまた歓迎するというメンタリティーも、ピッチャーのなかにはある。
登板のチャンスを与えられるなら、どんな場面でもものにしたいという意識がピッチャーにはあるからだ。
ピッチャーは働き者だった。
そういう時代だった。
どのチームでもそうだ。
倉田投手がこのシーズン、五月から一軍に上がり、49試合に登板、リリーフを中心に180イニングスも投げたことは先に紹介したが、同じシーズンにジャイアンツの先発の柱だった高橋一三投手は45試合に登板、306イニングスを投げている。
もう一人のエース、堀内恒夫は39試合に登板、221イニングス。これは堀内投手にとっては少ないほうだった。
かれは前年(一九七二年)に48試合登板、312イニングスを投げきっているからだ。
ジャイアンツだけではない。タイガースにしても、このシーズン、エースの江夏豊は307イニングスを投げ、もう一人のエース、上田二朗にしても287イニングスを投げている。
江夏は、この年、チームの監督と鋭く対立していた。シーズン後半は、ほとんど口もきかなかったほどだ。
しかし、マウンドに立ったときの江夏は別人だった。監督とのわだかまりがどうあれ、かれは投手としての役割を果たそうとしたわけである。
今ここに書いている七〇年代からほぼ十年後、八〇年代に入ったとき、プロ野球のピッチャーは以前に比べるとずっと働かなくなっている。
例えばジャイアンツのエース、江川卓は最も多いときでシーズンに263イニングス投げているが、たいていは160〜200イニングスといったところで、登板数も30試合前後に限られていた。
それを思うと、七〇年代の投手たちがいかに働き者であったかがわかるだろう。
登板過多に文句をいうピッチャーはまだ少なかった。
かれらは、世代的には戦後の第一世代、いわゆる団塊の世代に属しており、何をするにも競争が激しかった。与えられたチャンスは無駄にせず活かしていこうと、本能的に考えてしまう世代である。
そして、そういうピッチャーたちがファンの支持を得ていたのだ。
一人のピッチャーが先発とリリーフを兼ねることなど不思議でもなんでもなかった。
先発、中継ぎ、抑えという役割分担が進むのは、まだずっと後のことである。
エース級のピッチャーがゲームの終盤になって登板してくる。
試合のしめくくりに1イニング程度投げただけならば、相手チームは同じピッチャーが翌日の先発投手として登板してくることを十分警戒しておかなければならなかった。シーズンに300イニングスを投げるようなピッチャーはそれだけベンチの信頼が厚く、1点差を争うゲームの終盤にもマウンドに上がるケースが増えてきてしまうわけである。
しかし、その割りには、かれらは報われることがなかった。
ジャイアンツのエース、堀内はその活躍ぶりの割りには年俸の低かったエースとして記憶されるべきだろう。
かれは昭和でいえば四十年、一九六五年秋に行われた第一回ドラフト会議でプロ入りしたピッチャーである。
その前年、新人選手の契約金があまりに高くなりすぎたことが問題になった。
埼玉県上尾高校の山崎裕之選手が、じつに五〇〇〇万円という契約金で東京オリオンズと契約を結んだからである。
当時とすれば破格の金額で、このまま契約金が高騰していくと球団経営が破《は》綻《たん》するのは目に見えていた。ジャイアンツを除けばテレビ局に放映権が高く売れた時代ではない。球団の収入はもっぱら入場料に頼っていた。
堀内はまだ高校二年生だったが、上尾高校の山崎選手が五〇〇〇万円の契約金でプロ入りしたことは知っていた。自分のところにもプロのスカウトがやってきて四〇〇〇万円という契約金を提示していったからである。
ドラフト制度はなかったから、高校を中退してプロと契約することも簡単だった。スカウトは、いつまでも高校生の野球などやっていないで学校を中退してプロに入ればいいとすすめたわけである。
本人にはその気はなかった。
高校を卒業したあとは大学で野球をやることも考えていたくらいなのだ。
高校を中退することなど考えられなかった。
それから一年たって高校三年生の秋を迎えたとき、プロ野球界の情勢は大きく変わっていた。ドラフト制度ができあがり、契約金は最高で一〇〇〇万円と決められてしまったのだ。
やがて契約金の上限は、ルールとしては決められていても誰も守らなくなり、契約金は再び際限なく上昇していくのだが、ドラフト制度ができあがった一年目、二年目あたりは各球団とも意識的に支出を減らそうとルールを守った。
その一年目にプロ入りしたのがジャイアンツでは堀内であり、ドラフトの二年目に契約したのがタイガースでいえば江夏豊である。
かれらはいずれも、球界のルールがあってこれ以上は出せない、という金額で契約を結ばざるをえなかった。
年俸は、堀内の場合で一四四万円。月額に直すと一二万円である。
大卒の初任給がまだ三万円にも満たないころだから、この金額はそれなりに満足できるものであったかもしれない。
しかし、その後、堀内投手が実績に見合った年俸を得ていたかというと、必ずしもそうとはいえない。
ジャイアンツは長嶋、王両選手の年俸は群を抜いて高かったが、そのぶん他の選手たちの年俸は低く抑えられていた。
堀内投手はプロ入りした一年目に16勝をあげて新人王に選ばれた。川上監督に率いられたジャイアンツが連続優勝、V2を達成したシーズンである。
その後、堀内は20勝こそマークしていないが、毎シーズンのように二《ふた》桁《けた》の勝利をあげ、優勝に貢献している。
かれはジャイアンツの黄金時代に欠くことのできない戦力だった。
年俸一〇〇〇万円からスタートしたピッチャーが連続優勝に貢献し、毎シーズン15勝以上の勝ち星をあげていれば、おそらく三〜四年で年俸が一億円に達するだろう。それが近年のプロ野球のピッチャーの年俸の伸び具合である。
そのことを念頭に置いて考えると、プロ入り直後から16勝、12勝、17勝、14勝、18勝、14勝……と勝ってきたピッチャーの年俸が――昭和四十七年の段階でだが――まだ一五〇〇万円程度だったことは信じがたい。
年俸一四四万円からスタートした堀内は、毎年優勝にかかわりつづけながら、その程度の年俸しか得ていなかったのである。
昭和四十七年には、その堀内が20勝投手になるチャンスがやってきた。
かれは開幕から絶好調で飛ばした。
連投も厭《いと》わなかった。
ライバルのタイガースとの三連戦では先発とリリーフ登板があるのが、かれにとっては当たり前だった。三連戦のうちのひとつでは完投が期待され、そのほかに終盤までもつれた試合の最後を締めくくるためにマウンドに行くのである。
このシーズンの堀内は完投26試合を含む48試合に登板している。
投球回数は312イニングスで、シーズンのリーグ最多である。成績は26勝9敗で、勝率は7割4分3厘。防御率は2・91。勝利数も勝率も、リーグでナンバーワンだった。
この年の堀内の活躍ぶりは、八月中旬の巨人―阪神三連戦に集約できる。
高校野球、夏の甲子園大会のために本拠地をあけわたし、タイガースはいつものように遠征に出ていた。そして後楽園球場に乗り込んできたのである。
巨人、阪神はともに首位に並んでいた。
それでなくとも、客の入りのいい後楽園のスタンドがますます観客でふくれあがるゲームである。
お盆を過ぎたあたりの、真夏日のナイター。幸運にもチケットを手に入れることができた家族連れのファンが、水道橋の駅から続々、球場を目指して歩いてくる。おまけに巨人、阪神の、首位攻防戦。
テレビの視聴率は上がり、ビールの消費量が増える夏の夜である。
タイガースは、当然のように江夏をマウンドに送ってきた。ジャイアンツは堀内だ。
この三連戦、有利だと見られていたのはタイガースのほうだった。エースの江夏はその時点で18勝5敗。三連戦の緒戦を江夏で勝つというのが、タイガースのたたかい方だった。
他方、堀内は絶好調のシーズンではあるのだが、食あたりで一週間ほど入院し、退院したばかりだった。
本人は夏バテしがちな時期にいい休暇になったよといっていたが、周囲は入院によって好調の波が途切れてしまうのではないかと心配していた。退院したあとミニキャンプを経て登板させるくらいがちょうどよかったのだが、首位攻防戦とあってはそんな呑《のん》気《き》なことをいっていられない。大《おお》慌《あわ》てでエースをマウンドに送りだしたわけである。
このシーズンのジャイアンツは堀内がいなければ首位争いに顔を出すことすら不可能だった。連敗して下位に転落しそうなときに先発、リリーフで連投、チームをなんとか立て直してきたのが堀内だった。病み上がりであろうが何であろうが対阪神の三連戦、堀内が先頭を切って投げなければ話にならなかったわけである。
その堀内が第一戦、タイガース打線をあっさり完封してみせた。スコアは6―0。江夏が王に二本のホームランを打たれ、早々と降板した。
それだけでなく、堀内は第三戦にもマウンドに上がった。リリーフとして終盤の3イニングスを投げきったのである。
これだけ働くエースはめったにいるものではない。
当時のピッチャーの起用の仕方は、一言でいえば少数精鋭主義。たまにローテーションの谷間をつくり四番手、五番手の投手を先発させたが、ここぞというときにはエース級のピッチャーを連投させた。そのため、極端に投球回数の多いエース級のピッチャーと、なかなか登板のチャンスがまわってこない二線級のピッチャーとが、はっきりと分かれていた。
一流のピッチャーとして認められるためには、投げられるだけ投げることも必要だった。
よく働くことは、まだ美徳だった。
そういう時代だった。
働きすぎたとしても、それは本人にそれだけの期待が集まっているからであり、登板過多は能力の証明でもあったわけである。
そのシーズンの堀内には満足感があった。
課題だといわれていた20勝の壁を突破し、通算26勝をマークしたのである。
かれはまた、シーズンのMVPにも選ばれた。
当時のセ・リーグはジャイアンツが連続優勝しており、その中心になっていたのが王、長嶋という二人のスーパースターだったからMVPというと、かれら二人に票が集まるのが常だった。そのONではなく、やっとピッチャーにもMVPがまわってきたわけである。
堀内はまた沢村賞投手にも選ばれた。ダイヤモンドグラブ賞の投手部門でも選ばれたのは堀内だった。
日本シリーズでも、かれは活躍した。
ジャイアンツが阪急ブレーブスを4勝1敗で下す日本シリーズである。
その5試合のうち堀内は4試合に登板している。
第一戦が先発で勝利投手。
第二戦は8回の途中からリリーフし、みずからタイムリーヒットを打ってまた勝利投手になった。
中一日置いた第三戦には再び先発。敗戦投手になったが、翌日の第四戦では9回の裏、ノーアウトでランナー一、二塁というピンチでマウンドに立ち、後続を断ち切った。
フル回転である。かれは当然のようにシリーズのMVPにも選ばれた。
これほどの活躍は長いプロ生活でも二度とあるものではない。ピッチャーとしてのタイトルを獲得し、MVPにも選ばれ、日本シリーズでも思う存分の活躍ができた。チームは八年連続して日本シリーズに優勝。
オフになると、かれはいったい年俸がどれくらい上がるのか、楽しみになった。
今の感覚でいえば、倍増だろう。リーグ優勝にシリーズの制覇。そのすべてに貢献し、個人タイトルも獲得。これで一五〇〇万円が三〇〇〇万円にならなければ、年俸を上げる理由などなくなってしまう。
監督の川上は、倍増は無理にしてもそれ相当な評価はしなければならない、といっていた。
堀内は監督がそこまでいってくれるのだから、球団もしかるべき金額を提示してくれるだろうと思っていた。
ところが、実際はわずかしか年俸は上がらなかった。
シーズンオフの契約更改の席につくと、堀内は愕《がく》然《ぜん》とした。
あれだけの活躍をしたのに、球団が提示したのは三〇〇万円ほどアップの一八〇〇万円という金額だったからだ。
契約更改では、まだ圧倒的に球団側が強かった。
成績が悪くて年俸を下げるときだって25パーセント以上は下げない、上げるときにも上昇率にはおのずと限界がある、これからも球団とは長く付き合っていくのだから、長い目で見ていこうじゃないか……。そういう説得に首を縦に振るのが契約更改というものだった。
堀内はがっかりした。これだけ働いてもピッチャーは評価されないのかと思うと愕然とせざるをえない。
だから、というわけではないが、翌シーズン、つまりここで書いている一九七三年のシーズン、堀内は気の抜けたように勝てなくなってしまった。
エースの勝ち星はわずかに12勝。
そのせいもあって、巨人、阪神はシーズンの最後の最後まで混戦、もつれあっていくのである。
第九章 ウィリー・カークランド
ウィリー・カークランドは昨日見た映画の話をしていた。
広島球場でのことだ。
ストーリーを聞いているうちに「ジャッカルの日」だろうと思い当たった。フレデリック・フォーサイスの原作を映画化したもので、ちょうどそのころに封切られていたのだった。
カークランドはその映画が面白かった、といっていた。
しかし、それ以上話は続かなかった。
今、カークランドに映画の話を聞いても記事にはならないと、その場にいた人たちは思ったのかもしれない。記事になるのはタイガースが優勝できるかどうか、というそのことに関することだった。
映画の話が受けないとわかると、カークランドは一人、声をたてて明るく笑い、ダグアウトの奥へ消えていった。おそらくアンダーシャツを着替えて、またグラウンドに出てくるのだろう。かれはまだその日のフリーバッティングを終わらせていなかった。
試合前のダグアウトのあたりはいつもごったがえしている。
この時間帯なら、新聞記者たちは気軽に選手に声をかけることができたからだ。
監督が、グラウンドに出ていくのではなくダグアウトに腰を下ろしたとき、それは話を聞いてもいいぞ、という合図でもあった。
タイガースの金田正泰監督はダグアウトに姿を見せると、そのままグラウンドに出ていった。にこりともせず、憮《ぶ》然《ぜん》とした表情だった。
こういうときは誰も話しかけられない。
昨日のゲームがあまりにあっけなく終わってしまったからだろう。
一九七三年のシーズン終盤に入って、タイガースはジャイアンツと激しく首位の座を争っていた。
ゲーム差なし、タイガースが勝率でわずかに1厘だけリードしている。
その状態で広島に遠征してきたタイガースは、第一戦でじつにあっけなくカープに敗れてしまうのだ。
スコアは5―2。田淵がホームランを打ったが、試合時間はわずかに一時間五十五分。カープのエース、外木場は淡々とした表情で投げつづけ、最後まで顔色を変えることはなかった。
タイガースにとってはいやな負け方だった。
このシーズンの阪神は広島に相性がよかった。カープとの試合をあと2つ残した段階で、すでに16勝をあげていた。最後の二連戦に連勝すれば18勝。それは同時に、タイガースが優勝への安全圏に入ることを意味していた。
シーズンの最後の最後になって阪神がカープとのゲームを2つも残していることはタイガースにとって有利な材料だと、誰もが思っていた。ここでタイガースが連勝すれば、もたつくジャイアンツは息の根を止められてしまうだろう……。
ところが、肝心なカープとの二連戦の緒戦にタイガースはあっさりと負けてしまったわけだった。
やっぱりそうか。
またタイガースはドジを踏むのか……。
そういう雰囲気が漂いはじめていた。
明るいのはウィリー・カークランドぐらいだった。
タイガースの黒人のガイジン選手は、このシーズンかぎりでアメリカに帰ってしまうのだが、根強い人気を保っていた。
ライトを守る右投げ左打ちのスラッガー。ウィリー・カークランドがタイガースと契約したのは六八年のシーズンから。アメリカではジャイアンツ、インディアンズ、(ワシントン)セネタースなどに在籍し、メジャーリーグで十年ほど活躍している。ポジションは外野手。メジャーリーグで150本近いホームランを打っているというのが、カークランドのセールスポイントだった。阪神は、当時不在だった長距離打者としての役割をカークランドに託したわけである。
タイガースにやってくると、一年目にかれは37本のホームランを打ち、すぐにタイガースの四番打者におさまってしまった。
打率は2割4分7厘。打点89。シーズンをとおして考えればけっして満足できる成績ではなかったが、打ちはじめると集中的にホームランを量産するカークランドは弱体気味だったタイガース打線の核になった。
六八年のシーズンだけでも、かれは3試合連続ホームランを4回記録している。
打ち出すと手がつけられなくなってしまうバッターである。
そのかわりもろいところもあり、じつにあっけなく三振もするのだが、次の打席ではきっと爆発してくれるにちがいないとファンに期待させる何かを、かれは持っていた。
打率はおおむね低かった。2割5分のあたりをいったりきたりしているのである。
ホームランは、最初のシーズンに37本打ったが、そのあとは一度も30本をこえていない。
期待にこたえてくれるよりも凡打で終わることのほうが多いのだ。
やがて田淵がタイガースの四番を打つようになると、カークランドはその後ろを打つようになった。
五番、ライト、カークランド。それが定位置といったところだろうか。
七三年のシーズンも、結局のところかれは14本のホームランしか打てなかった。ロングヒッターとして期待されながら、その期待にこたえることができなかったわけである。
それはわかっているのだが、しかし、この男は凡打で終わっても憎めないところがあった。
むしろ次に期待してみたい。そう思わせる雰囲気を、ウィリー・カークランドは漂わせていた。
かれの性格のせいだろう。
カークランドは「ショー」としてのプロ野球を楽しもうとする選手だった。
日本にやってきて数年後、テレビを見ていると、長い爪《つま》楊《よう》枝《じ》を口にくわえた男が主人公の時代劇がオンエアされていた。
ずっと昔の、日本の江戸時代のアウトローが主人公になったストーリーだという話だった。ウェスタンでいえばバッファロー・ビルやビリー・ザ・キッド、といったところである。
日本風のウェスタンのストーリーまではわからなかったが、その主人公が人気になっているのだけは、カークランドにもわかった。主人公の名前、モンジローのことはしばしば聞かされていたからだ。モンジローを真《ま》似《ね》て爪楊枝をくわえて歩く人もいた。
同じことをカークランドがやってみせると、どこのレストランでも拍《はく》手《しゆ》喝《かつ》采《さい》だった。
黒人の野球選手が中村敦夫の「木枯し紋次郎」の真似をしてみせるのだ。
丸顔で愛《あい》嬌《きよう》のある、笑うと真っ白い歯をのぞかせるカークランドだから、よけい喜ばれたのかもしれない。
受けることがわかると、かれは早速、グラウンドでも爪楊枝をくわえてみせた。モンジローを気取って、バッターボックスに立つのである。すぐにニックネームがつけられた。ガイジン紋次郎、である。
かれはエンタテイナーだった。
タイガースにとってジャイアンツ戦がポイントになっていることは、すぐにわかった。
そのころの甲子園球場はめったに満員にならなかったが、東京からジャイアンツが遠征してくると、球場はファンでいっぱいになった。タイガースが後楽園球場に遠征したときもそうだった。タイガースの選手たちもいつもとは違う雰囲気に包まれるのである。緊張感を漂わせ、口数が少なくなった。
カークランドは巨人―阪神戦を、アメリカ野球のなかでいうヤンキース―レッドソックス戦のようなものだと理解した。
同じアメリカンリーグに所属する、昔からのライバルである。しばしば優勝を経験しているのはヤンキースのほうで、レッドソックスはその昔、ベーブ・ルースをヤンキースにトレードしていらい、ケチがついたように優勝から見放されていた。しかし、ヤンキースの足元をつねに脅《おびや》かすのがレッドソックスなのだ。ニューヨークでもボストンでも、このカードはいつもスタンドが満員になった。
カークランドはジャイアンツ戦がやってくるのを楽しみにしていた。ジャイアンツ戦で活躍すると、それがサラリーにはねかえってくることもわかっていたし、ジャイアンツのピッチャーからホームランを打てば打つほどカークランドのファンは増えていくのがわかっていたからだった。
堀内や高橋一三といったジャイアンツのエース級のピッチャーからホームランを打ったときはジャイアンツのダグアウトに向かって帽子をとり、一礼するのがカークランドだった。そもそもは、会心のホームランが打てたときに思わず帽子をとり喜んだのがはじまりだった。やがてそれを意識的にやるようになった。チームメイトやカメラマンが面白いからもっとやったほうがいいといっていたからだ。
そんなふうに面白がって野球をすることが、かれは好きだったのだ。
野球にはシリアスな面もあるが、そればかりじゃない。ユーモアも悪ふざけも、このゲームにはつきものだ。
雨の降る日のゲーム、これは中止にしたほうがいいというようなとき、カークランドは泊まり先の旅館から持ってきた蛇《じや》の目《め》傘《がさ》をさしてライトの守備位置についた。
もちろん、そのままで野球ができるわけではないが、スタンドのファンも、また、テレビを通じてゲームを観戦していた人たちも、それを見て大喜びだった。それまで、そんなことをする野球選手はいなかったからだ。
少なくとも日本人の選手のなかにはいなかった。その種の悪ふざけは許されない、という雰囲気が日本の野球の世界にはあったからだ。
特にジャイアンツはユーモアとはかけはなれたところがあった。
ジャイアンツの選手たちが皆、生真面目だった、というのではない。
ダグアウトやロッカールームのなかではかれらは時に子供のように振る舞ったし、夜の町に飛び出していけば抑えのきかないこともあった。しかし、ことゲームになると、かれらは真面目だった。統制から外れたことを嫌う体質があった。自分のかわりに代打を送られてハラを立てるのはいいが、もうおれの仕事は終わったのだといってロッカールームに引き揚げ、帰り支度をしはじめるのは許されなかった。最後までゲームにつきあうこと。それがチームの一体感を高めるのだと、信じられていたわけである。
合理的に考えれば、用のなくなった、その日はもうゲームに出場できない選手がその場にいても何の役にも立たない。ロッカールームに引き揚げてもよさそうなものだ。
しかし、勝つときも負けるときもチームは一緒なのだという考え方が、日本では一般的だった。エモーショナルなつながりあいを大事にしようという発想があるからである。
その典型がジャイアンツだった。ジャイアンツの選手たちはそのやり方に疑問を抱いていなかったはずだ。勝ちつづけていたからである。リーグ優勝だけでなく日本シリーズにも勝ちつづけて、もう九年目を迎えている。それがジャイアンツである。
タイガースにもその種のエモーショナルなつながりあいがないわけではない。
ただし、一体感はジャイアンツに比べれば、欠けていた。
カークランドにとっては、しかし、タイガースのほうが居心地がよかったはずだ。仮にかれがジャイアンツのユニフォームを着ていたら、どうだろう。ジェントルマンとして振る舞うことばかりを求められ、うんざりしていただろう。
タイガース・ファンもカークランドのキャラクターを愛した。
かれは年々、太っていった。もともとがっしりとした丸い体型だった。日本の野球に慣れるにつれて、その丸みに勢いがついた、という感じだった。それもまたカークランドの場合は、とりたてて批判の対象にはならなかった。それでもかれは速い打球の、目の覚めるようなヒットを打ったし、太ってはいてもユニフォーム姿には愛嬌があったからだ。
ペナントレースもここまでくると、すべてが「優勝」に結びついていく。
1勝すれば俄《が》然《ぜん》有利になり、逆に1敗すれば急激に優勝から遠ざかってしまう。なにしろ、残るゲームはジャイアンツが2試合で、タイガースは3試合。そして両チームのゲーム差はゼロなのだ。
広島カープとの第二戦、阪神は江夏豊の登板を予定していた。ここは確実に勝っておかなければならない、という構えである。
選手たちは誰もがぴりぴりしていた。
リラックスしていたのはカークランドぐらいだったかもしれない。
かれはにこやかに笑いながら映画の話をして、それが場違いだとわかると、そう硬くなるなよとでもいうように近くにいた担当記者の肩をぽんぽんと叩《たた》いていた。
一度、ロッカールームに消えたカークランドは、ほどなくバットを持ってグラウンドに出てきた。
広島市民球場は閑散としていた。試合は午後の二時から始まる。
タイガースの練習が始まったのは昼頃からで、すでに観客を入れはじめていたが、客席はなかなか埋まらないのだ。前日の試合は日曜日のデイゲームだったせいもあり、1万人は入っていたが今日はほんの数千人といったところだろう。
うまく英語が出てくるか、あやしいものだったが、ぼくはカークランドに話しかけてみようとした。
――ドチラノちーむガ勝ツトオモイマスカ?
「なんだって? 今日のゲームか? それとも」
――たいがーすorじゃいあんつ。
「いいチームが勝つよ」
グッドチーム、ウィル、ウィンとかれはいった。
――ドチラガイイちーむダトオモイマスカ?
「いい質問だ」
とカークランドはいった。そして、たしかこんなふうにいったのだった。
「そりゃあ、最後に勝ったほうがいいチームってことだろうな」
かれはからかうように笑っていた。
カークランドのフリーバッティングは見る価値があった。
のびのびとしたフルスイングを繰り返すからだ。
ガイジン選手のフリーバッティングは、おおむねそういうものだった。ウォーミングアップを兼ねて、気持ちいいくらいのフルスイングを繰り返すのである。バッティング投手に難しい変化球を要求したりはしない。真っすぐか、あとはせいぜいカーブぐらいのもの。それを自分のタイミングで打ち、納得すればそれでおしまい。
白球が面白いように外野に飛んでいく。
そういうシーンを見ていると、何か違うなと思えてくる。
ついさっきまで、巨人か阪神、どちらが優勝するのだろうかと、そのことしか頭のなかになかったことに、ぼくは気づいていた。その場にいた人のほとんどが、同じようなことを考えていたにちがいない。
今日は巨人の試合がないから、もし阪神が勝てば、ここで0・5ゲームの差をつけることができる。
逆に阪神が負ければ、わずか1厘だけとはいえリードして首位に立っていたのに、転落してしまう……。
そして最後はどういうことになるのか。
ペナントを手にするのはどちらのチームなのか。
ヒーローは誰になるのだろうか?
ぼく自身そうだったのだが、選手たちも同じようなことを考えて体を硬くしていた。
それがある種の重苦しい雰囲気となってタイガースのダグアウトのあたりをおおっていた。
しかし、野球の面白さは、本来そんなところにあるわけじゃない。
ピッチャーが渾《こん》身《しん》の力をこめて投げ込んでくる速球を打者がバットでみごとに弾きかえす。
その瞬間の、観客の心まで弾けさせるような躍動感こそが、野球の醍《だい》醐《ご》味《み》ではないか。
野球ファンは打球の速さや、野手のフィールディングの素晴らしさに溜《た》め息《いき》をつきたいと思っているのだ。あるいは、白い糸を延ばしたように外野席に飛び込んでいく白球の軌跡……。
そういうところにこそ野球の面白さはあったのだと、のびのびとしたカークランドのフリーバッティングは気づかせてくれるわけである。
タイガースの練習が始まる前、広島カープの打撃練習を見ているときにも、ぼくは同じようなことを感じていた。
カープの練習は午前十時すぎには始まっている。
球場のゲートはまだ閉まっていた。開いているのはむしろ正面玄関で、ここは球団のスタッフや記者、カメラマンなどが出入りしていた。入り口にはガードマンが一人、立っていたような記憶がある。そこを誰《すい》何《か》されずに通過できたとき、自分がいつのまにか野球の世界の関係者に見えるようになっていたのかと、どきどきしながらも妙に感心したものだった。
市民球場は、正面玄関を入ったところのホールからなだらかな階段が二階に向かって延びている。
その階段をのぼればネット裏に出ることができるのか、どうなのか。わからないままぼくは階段を避け、その下をくぐるようにしてホールの奥の通路を右に進んだ。
するとほどなく、あの、野球特有の打球音が聞こえてきたのだった。
通路はダグアウトにつながっていた。
天《てん》井《じよう》の低い、トンネルのような通路を歩いていくと、その向こうにぽっかりと明るい、まぶしいほどの空間が見えてきて、目をこらすとバッティングケージのなかでスイングを繰り返すバッターの姿があった。
ケージのなかのバッターが誰であるのか、すぐにわかった。
カープの一番を打つ、外野手。背番号8をつけた選手だった。
名前は山本浩二といって、タイガースの田淵幸一とは大学野球、法政大の同期。プロ入りするときは田淵ほど騒がれなかったが、このところ着実に力をつけ、やがてカープの四番を打つようになるのではないかといわれていた。
山本は黙々とバットを振りつづけた。
打球はどれもいい角度で外野に向かって飛んでいった。
無人のスタンドに入る打球も少なくなかった。見ていて気持ちいいくらいのバッティングである。
広島カープは、そのシーズン、最下位こそ免れたが五位と低迷している。シーズンの終わりにさしかかって、残すは消化試合のみ。目標を失ったチームだった。そう見られていた。
しかし、伸び盛りの若手選手のバットから発せられる打球音に耳を傾けていると、そんな見方は当たっていないな、と思えてくるのだ。シーズンが始まって間もないころの、若々しい打球音。低迷するチームから聞こえてくるこの打球音は何なのだろうと、こちらは考えこんでしまうわけである。
やがて背番号28をつけた選手のフリーバッティングが始まった。
かれもまた、見ていて気持ちいいくらいのバットスイングを見せてくれるバッターだった。
名前は衣笠祥雄。一塁を守る五番打者である。
見上げるとスタンドにはまだ誰もいない。ゲートは開いていなかった。開いていたとしても、フリーバッティングを見たがる人がどれくらいいるかわからない。きっと少ないだろう。
しかし、いいものを見たなと、ぼくは思っていた。やがてカープが強くなるだろうと、そんなことまでを実感したわけではない。実際のところ、カープはその数年後から黄金時代を築きあげるようになるのだが、その予感というよりも、野球の素朴な面白さ、若い、パワフルなバッターが存分にバットを振るのを見るときの快感のようなものを、ぼくは感じとっていたのだと思う。
だから、どうなのか。
そのことをあえてメモに残しはしなかったし、そのときの取材テーマとも何のかかわりもなかった。忘れてしまってもいいことだった。しかし、七三年のカープ―タイガースの最終戦、試合前の雰囲気は不思議とよく覚えている。
ゲームはエース江夏をマウンドに送ったタイガースが勝った。タイガース4、カープ1、である。先頭打者の山本浩二は一人で3本のヒットを打った。衣笠祥雄は江夏からヒットを1本奪っている。
タイガースのウィリー・カークランドは、その試合、いいところがまったくなかった。
だいたいかれは、このシーズン、特に終盤に入ってからはバッティングが不振で、三振の数も増えていた。日本にやってきたときは三十代の前半だったが、このときはすでに三十九歳になっており、変化球についていかれずに三振するときなどは、がっかりするほどのフォームの崩れようだった。
それは、このシーズンの最後の最後のゲーム、甲子園球場で行われた阪神―巨人戦の印象がだぶっているせいかもしれない。
一三〇試合目の決戦でタイガースが敗れ、ジャイアンツが9年連続してリーグ優勝を達成するゲームである。
スコアはジャイアンツ9、タイガース0。
その試合の最後のバッターになったのが、じつはウィリー・カークランドだった。
ジャイアンツのピッチャーはその日の先発、高橋一三。かれは9回を投げ抜き、最後にカークランドをバッターボックスに迎えたのだった。
背番号31をつけたカークランドは高橋一三のピッチングにタイミングを合わせることができず、上半身と下半身を分断されたかのようなフォームで三振。
それがカークランドにとっては日本の球界での最後のバッターボックスになってしまった。
七三年は雨の多いシーズンだった。
五月の連休が始まろうとしたときには、関東地方にメイストーム警報が出されている。
五月の嵐。風雨ともに強く、ぐずついた天気が続くという状態である。
ジャイアンツは五月の連休明けに甲子園に遠征したが、その第一戦は雨で中止になった。
六月に入るとまもなく西日本は梅雨入り。関東地方も七日には梅雨入りしている。
台風はなかなか発生せず、赤道付近には高気圧が居座るという妙な天気図ができあがっていたが、雨だけはしっかりと降った。その影響で六月十三日に予定されていた後楽園球場の巨人―阪神戦が中止になった。
六月末には中日球場で行われるはずだった中日―阪神戦が2試合、雨のために中止になった。
プロ野球の日程は、あらかじめ雨で中止になる試合が出ることを想定して組み立てられる。
中止になったカードをペナントレース終盤、九月の後半あたりで復活させ、予定どおりの試合数を消化していくわけだ。
そのために九月以降にあらかじめ予備日を設けておくのである。
甲子園で行われる阪神―巨人のゲームは九月十八日から二十日にかけての三連戦で終わるはずだった。あらかじめこのなかに予備日を組み込んでいたから、前半戦で流れた阪神の持ちゲームもここで吸収できるはずだったわけである。
ところが、ちょうどその三連戦の初日に甲子園は再び雨に見舞われ、ゲームがひとつ流れてしまった。
そのゲームをどこで復活させるか。
セ・リーグの事務局では頭を痛めた。
どのチームも雨で流れた試合をかかえていたから日程の調整がつかないのだ。
結局、甲子園での阪神―巨人戦は十月二十一日の日曜日にずらすことにした。パ・リーグのプレイオフはもう始まっている。日程上ぎりぎりだったのだが、仕方ない。ほかに日がなかったのだ。
ところが、実際のところ、このシーズンの終盤の日程はところどころ歯が抜けたようにオフが入りこんでしまっている。
例えばジャイアンツは十月十日、十一日とタイガースとの後楽園での二連戦をたたかったあと、二日おいて大洋ホエールズと試合を行い、さらに一日おいてスワローズと一試合。そこから最後の阪神戦まで、じつに五日も待たなければならなかった。
タイガースのほうはジャイアンツとの二連戦のあと二日おいて広島と二連戦。そこから四日おいて中日との最終戦。そしてそのあとの十月二十一日にジャイアンツとの最終戦を行うという日程である。
両チームは、よく考えてみると十月の十七、十八、十九日の三日間、何の試合もなくオフの日を過ごすことになった。
最終的にどちらが勝つのか、ペナントレースのきわどいたたかいが行われていたにもかかわらず、間の抜けたオフが途中に入りこんでしまったわけである。
それもまた日程調整の難しさだった。
結果的にオフになったその三日間には、本来、別の組み合わせの予備カードが入っていた。
例えば、巨人―大洋、阪神―中日といったような組み合わせの雨で流れたカードをここで復活させようと目《もく》論《ろ》んでいた人がいたわけである。ところが、例年ならば必ずといっていいほど必要になるその予備日が、その年は必要なくなってしまった。意外なほど順調に消化できてしまうカードもあるわけだ。
かくして、緊迫したペナントレース終盤に数日間のブランクができてしまった。
タイガースは広島での対カープ戦を1勝1敗の五分で切り抜けると、地元大阪に戻った。
その翌日、十月十六日にはジャイアンツが後楽園にヤクルトを迎えている。
スコアはヤクルト4、ジャイアンツ2。
ジャイアンツは先発の高橋一三が打たれ、打線は沈みこんだまま。肝心なところで勝てないジャイアンツにはもう往年の勢いはなかった。タイガースとの大事な試合で7点のビハインドをはねのけ同点引き分けまでもちこんだが、今のジャイアンツの力はそこまで、自力でペナントをもぎとる迫力には欠けていた。タイガースとのゲーム差は1。
そしてジャイアンツもつかの間の休暇に入るのだ。
十七日から十九日は多摩川グラウンドでの軽い練習のみ。二十日は、新幹線のなかのラジオで中日―阪神戦の中継を聞きながら大阪へ向かう。そのゲームで阪神が勝つか、引き分ければ、その時点で優勝はタイガースのものになる。タイガースが負けたとき、はじめて大阪遠征の意味が出てくる、という状況である。
ぼくは広島から大阪に移動し、甲子園球場でのタイガースの練習を見た。
数日間のブランクをどうしていいのか、皆もてあましているようだった。
いずれにせよジャイアンツの黄金時代はもう終わったのだと、思わないわけにはいかなかった。
あれほどの強さを誇ってきたジャイアンツが、どうしようもなくもたつき、あえいでいたのだ。
中東ではじまっていた戦争も、どうやらイスラエルが優勢のまま決着がつきそうだった。そのかわりアラブ諸国は「石油」を切り札とした外交攻勢に出ようとしていた。それもまた、時代の変化を感じさせていた。
終章 田淵の夏の終わり
藤井勇は――最近では野球ファンの記憶に蘇《よみがえ》ることはなくなってしまったが――日本のプロ野球の公式戦で初めてホームランを打ったバッターである。
甲子園球場は大正十三(一九二四)年に造られたもので、外野を使ってラグビーの試合もできるように設計されたから、サイズは今では考えられないほど大きかった。
両翼の110m、センターの119mはいいとしても、左中間、右中間が128mと異様に深く、ホームランが出るような球場ではなかった。
その甲子園では主に学生野球が行われ、来日したアメリカチームも試合をしているが、最もサイズの大きかった甲子園球場ではスタンド入りのホームランは一本も記録されていない。
昭和十一年になって職業野球のリーグ戦が始まったころも、甲子園はまだビッグサイズのままである。外野スタンドを改築して両翼を91m、センター、右中間、左中間とも119mにするのはその年の夏のことで、春のリーグ戦で藤井勇が打ったホームランも柵《さく》越《ご》えではなくランニング・ホームランだった。プロ野球第1号のホームランは広すぎた甲子園の外野フィールドを転々と転がっていったわけである。
ちなみに、改築した甲子園球場も他の球場に比べればまだ広く、一九四七(昭和二十二)年になって両翼にラッキーゾーンが設けられることになった。
ところで、藤井勇のことだが、今、こうして書いている一九七三(昭和四十八)年の時点でも、かれがプロ野球第1号のホームランを記録したバッターであることを知っている野球ファンはだんだんと少なくなりつつあった。
かれはタイガース草創期の選手の一人だったが、年齢も五十代の半ばになり、この時点では阪神タイガースのバッティングコーチをつとめている。
話は少し横道に逸れるのだが、かれの野球のキャリアもまた興味深い。
入団したのは昭和十一年のこと。鳥取生まれの、朴《ぼく》訥《とつ》という言葉がぴったりの選手だったと、タイガース関連の資料には出てくる。
同じ年に、同年齢の山口政信という選手がタイガースに入団している。二人とも旧制中学を出たばかりの若手である。この二人が対照的だった。
「……打撃人としては問題なく藤井に軍配があがるが、人気度にしぼるとどうであったか。これは文句なしに山口が藤井を凌《りよう》駕《が》していた。素朴で地味な人柄の藤井に比べ、山口は地元大阪出身の地の利に加え、スリムな体型にハンサム。さらにいうならプレーにイナセなツヤがあった。一見、やや崩れた感じのふてぶてしさも、多くのファンを引きつける要素であったといえよう……」(「阪神タイガース昭和のあゆみ」より)
左投げ左打ちの藤井も、バッティングフォームのいい中距離打者。しかし自分をアピールするのは下手だったのだろう。人気の点では山口政信に負けてしまうのである。
その藤井勇は、戦後になるといくつものチームを転々とするようになる。
「パシフィック」「太陽ロビンス」「大洋ホエールズ」。
打率はコンスタントに2割7分から9分を打っている。長打力はないが、バッティングに関しては職人的なうまさがあったことが、残された記録のなかからは見えてくる。
素朴で地味な人柄といわれたが、このころにはチームのキャプテンをつとめるようになり、やがて助監督、監督にもなる。
かれらしさがうかがわれるのは、例えば一九五四(昭和二十九)年のシーズンだ。
この年の「大洋松竹ロビンス」(ホエールズの前身である)の選手登録を見ると、藤井は主将と助監督を兼ねている。
背番号は3。かれは2割6分4厘の打率を残し、15本のホームランを記録している。
選手としてフル回転のシーズンだったことがわかるだろう。ロビンスで、かれ以上の成績を残しているバッターは、この年、青田昇しかいない。
そのうえ、かれは主将で助監督でもあったのだ。
この時代のプロ野球は、コーチの数が少ない。
ロビンスを例にとると、一九五四年の場合、監督、二軍監督がそれぞれ一人ずつ、そのほかにはコーチとして登録されているのは一人だけである。どこも似たようなもので、あのジャイアンツですら水原茂監督以下、選手兼任の助監督が二人いるが、コーチは三人だけ。チームは少人数で運営されていたわけである。
藤井のように主将で助監督となれば、監督と選手たちのパイプ役として、あらゆる局面で重宝されたはずである。選手としてやらなければいけないことがあり、たまには若手のバッティングも見なければいけない。
現場の意向を監督に伝え、監督の方針を現場に浸透させるのもかれの役割のひとつだっただろうと思う。
面倒な役割である。
しかし、それを厭《いと》わないところが藤井勇という野球人にはあったわけである。口数は少ないが、人がよくて素朴で地味。チームにはいなくては困る類いの人である。
その藤井が助監督ではなく監督になるときがやってくる。
一九五五(昭和三十)年のことだ。球団名はロビンスではなく大洋ホエールズである。
このころのホエールズは絵に描いたような弱小球団で、シーズンが終わってみると首位に40〜50ゲームも引き離されているようなチームだった。そんなチームをまかされたものの、シーズンが終わってみれば31勝99敗という成績で、当然のように最下位。藤井は引き続き監督をつとめたが、そのかわり監督の上に総監督がやってくることになった。
実質的には降格である。
試行錯誤というべきか、単なる混乱期だったのか、この時代のプロ野球は監督、コーチの在り方に関しては様々な試みをしているわけである。
総監督がいなくなると、藤井は監督として前面に出るのではなく、今度はコーチになった。自分は監督の器ではない、と考えていたのかもしれない。打撃コーチのほうが性に合っていると自分だけでなく周囲もそんな評価を下していたのだろう。
そのうちにフロントに入り、スカウトも経験。二軍の監督としてユニフォームも着ている。
プロ野球の草創期から一九六〇年代にかけて、いくつもの球団を歩きながら幅広い経験を積んだ藤井のような人も、プロ野球界にはいたわけである。
その藤井勇のことを紹介しておこうと思ったのは、じつは田淵幸一のことを書こうとしていたからだ。
田淵が阪神タイガースに入団するのは一九六八(昭和四十三)年の末のこと。
法政大学のスラッガー。
かれは神宮球場で通算22本のホームランを打ち、東京六大学野球の記録を書き換えた。ポジションは捕手。すらりとした長身のキャッチャーで、ホームランバッター。それだけでも、かれは日本の野球の質を変えるに十分な逸材だった。
キャッチャーで四番を打つスラッガーといえばパ・リーグの南海ホークスに野村克也がいたが、野村が十代のうちにテスト生としてプロ入りしたのに対して田淵は東京六大学野球という、いわばエリートコースを歩んでプロ入りした期待の星である。
田淵はジャイアンツ入りを望んでいたが、ドラフト会議でかれを指名したのは阪神タイガースだった。そのことで悩むのだが、田淵は入団を拒否するようなことはなかった。
決断すれば、その時点でわだかまりは捨ててしまうというのが、かれの性格である。
その田淵幸一がプロ入り二年目のシーズンに出会うのが、阪神タイガースにコーチとして復帰してきた藤井勇だった。
田淵は一年目、一九六九年のシーズンに背番号と同じ22本のホームランを打ち、セ・リーグの新人王に選ばれた。間違いなくこれからの時代のプロ野球を背負っていく選手だと絶賛されていたが、田淵本人はしかとした手応えを感じていたわけではなかった。このままで大丈夫なのかと、かれはどちらかといえばまだ不安をかかえていた。
特にショックだったのは、開幕戦、初めてプロ野球の公式戦のバッターボックスに立ったときのことだ。
マウンド上には大洋ホエールズの平松政次投手がいた。
プロ入り三年目の、速球とシュートに鋭い切れ味を見せはじめていたころの平松である。
田淵はその日、スタメンで起用されたのではなく、ピッチャー江夏にかわるピンチヒッターとしてだった。
ボールが見えなかったと、田淵は、そのときのことをしばしば語っている。
プロ入りしてまだ数カ月。キャンプ、オープン戦ではピッチャーの投げてくる球が見えないなどということはなかったのだが、開幕投手が公式戦で投げる球はまた別物だったわけだ。
たったの三球で、田淵は平松に三振に討ちとられている。
「その日は宿舎に帰り、このままではまずいなと考え込んだ。できることはバットの振りを速くすること。そのためにはスタンスを変えなければいけない。右《みぎ》肘《ひじ》を上げてバットを高いところで構えていたのを下に下ろすことにした。それまでは大きく構えていても速い球についていくことができた。でもこれからはそういうわけにはいかないだろう。右の脇《わき》を閉じるようにして肘の位置を下げた。そういった対応は素早かったと思う。だめだと思ったらすぐに次の方法を考える。そういうときに、従来のやり方にいつまでもこだわっているほうじゃないからね……」
すぐに対応したから、翌日の開幕第二戦で田淵は早くもプロ入り第1号のホームランを打っている。
シーズンを終えれば22本のホームランも打てた。
新人王にも選ばれた。
しかし、打率は2割2分6厘で、ヒットの数は81本しかない。キャッチャーとしてマスクをかぶったのは80試合だけ。
本人にしてみれば到底満足できるような数字ではなかったのだ。
そんなときに打撃コーチとして藤井勇がタイガースに復帰してきたわけである。
藤井は、これはと思うバッターには丁《てい》寧《ねい》につきあった。性急に結果を求めるのではなく、じっくりとバッティングを見ていくというコーチである。
かれはトスバッティングよりもティーボールを好んだ。ボールをティーの上に置き、それを打たせていくのである。
トスバッティングは、トスを投げる人とバッターのあいだで一定のリズムができあがる。
餅《もち》をつく人と水をやる人のような関係だ。バッターはトスが上がってくるリズムをつかむと、そのテンポに合わせてタイミングをつかみ、バットを出していく。体を振りながら、そのリズムでトスバッティングをこなしてしまうのである。
ティーの上にボールを置くと、そういうわけにはいかない。
リズムで打つのではなく、一球一球スタンスを確認し、スイングをたしかめながらバットを出していくことになる。軽快さはないが、こちらのほうが自分なりのスイングを身につけるには向いている。
藤井はそういうバッティングコーチだった。
新しいバッティング理論を考えだし、それを売り出すというようなことは苦手だったが、こつこつと、じっくり選手を育てるのは上手だった。
田淵は、自分のバッティングは誰かに教わったものではないという。
高校生のころ、夏の合宿で熱を出して寝込んだ。数日練習を休み、久々にグラウンドに出たとき、打球が面白いように飛んだ。田淵は正確に覚えているわけではないのだが、フリーバッティングのピッチャーをつとめた仲間は19本つづけて柵《さく》越《ご》えのホームランを打ったと興奮したようにまくしたてた。
自分の打球が飛ぶのだと意識するようになったのは、それからのことだ。
基本はスイングの大きさ、速さにある。
外角低目の速球をバットにのせ、レフトスタンドまで運んでいくようなバッティングだ。これは教わってできる類いのものではない。
しかし、藤井コーチのアドバイスはなくてはならないものだった。
藤井はいつも、いいときの田淵のバッティングフォームを連続写真で撮影したものを持っていた。
それを見ればバッティングの原点に立ち返れるという写真である。
スランプがやってくると、藤井はその写真を手に田淵とフォームのチェックを始める。
どこがおかしくなっているか、そのポイントを指摘してくれるわけである。
写真を見なくても藤井の頭のなかには田淵のバッティングフォームが刷り込まれているから、正確なアドバイスができた。
その関係は、長いことつづいた。
田淵はやがてトレードされ西武ライオンズに移籍する。
藤井は、もはや直接田淵のバッティングをチェックする立場にはないのだが、テレビなどを見ていて田淵のバッティングが原点からずれてきていることがわかると、わざわざ田淵に会いにいき、例の連続写真を示しながら、今はここのポイントがずれていると、具体的に指摘するのである。
それくらい熱心なコーチがいたことは、プロ入りしてやっと一年、まだ本物の自信をつけていない田淵にとって重要だった。
大物ルーキーといわれて入団した田淵にはプレッシャーもかかっていた。
どれだけ打てるのか見せてもらおうじゃないかという視線が、かれにはまとわりついてくる。
プロ入り二年目には頭にデッドボールを受け、数カ月、戦列を離れなければならなかった。夏のさなか、広島カープとの試合である。
相手のピッチャーは外木場投手。
その場に倒れた田淵は即座に病院に運びこまれた。鼓膜は破れ、その内側にまでダメージが広がっていた。切開手術をすべきか、どうなのか、医師は迷ったといわれている。手術をすれば、もはや野球どころではなくなってしまう。結局のところ大掛かりな手術はせず、時間をかけて回復を待つという方法がとられることになった。耳当てのついたヘルメットがプロ野球界にも導入されるのが、この田淵の死球以後のことだから、関係者に与えたショックがどれだけ大きかったかわかるだろう。
そのアクシデントもあって、二年目の田淵は89試合しか出場していない。
不本意なシーズンだった。
その翌年、プロ入り三年目も、田淵はじつは公式戦の80試合に出場しているだけだ。
デッドボールの後遺症もあったし、キャッチャーのポジションを辻恭彦に奪われ、自分は外野か一塁を守ることが多かった。そのほうが田淵のバッティングをいかせるのではないかと、当時の村山監督は考えたのだが、田淵にしてみればかえって中途半端なことになり、バッティングにも集中ができなくなっていた。
そういう時期が、あのホームラン・バッター田淵にもあったわけである。
大きな弧を描く、滞空時間の長いホームラン。
それが田淵の打球の特徴だった。ライナーでスタンドに突き刺さるのではなく、空に高々と舞いあがった打球は放物線を描き、ゆっくりと外野スタンドに舞い降りてくる。
グリップエンドいっぱいのところを握ったバットのスイングは大きく、田淵は振り切ったあとのフォロースルーでバットを虚空に投げ上げることがあった。バットにボールをのせ、そのまま外野席まで運んでいってしまうようなスイングである。その流れのなかで、バットも同じように空中に舞ってしまう。
それが田淵のバッティングであり、それまでのホームラン打者とは違った特徴だった。
ゆったりと、自然なフォームで構え、大きなスイングでボールを遠くまで運んでしまう。田淵のバッティングは力強さよりも、むしろ優雅さを感じさせることがあった。そういうバッターがいつの時代にもいるわけじゃない。かれは、十分に個性的なバッターだった。
その田淵らしさが発揮されるのは、プロ入り四年目あたりからだろう。デッドボールの後遺症も癒《い》え、このシーズンにはキャッチャーとして114試合にマスクをかぶっている。ホームランは34本。バッティングフォームも固まってきた。
かれがコーチの藤井と話していたのは、いかにボールを前で叩《たた》くか、ということだった。
そのためにはポイントを前に置くだけではだめで、ボールがベースの上を通過するときにはすでに手首が返っていなければならない。それが前で叩くということで、そのためにはボールの見きわめとスイングの速さが要求されてくる。
グリップの位置、ステップしながら出ていく左足、左肩の開き……。
チェックポイントはいくつもあった。
それを丹念にやっておかないと、あの優雅なバッティングフォームからフェンス越えのホームランは生まれないのである。
特に、左肩の開きは重要なポイントだった。
バットスイングに力を与えるには体の軸がしっかりしていなければならない。そのためには、バットがボールをとらえるまでは体が開いてはいけない。ピッチャーから見て、バットが打者の左肩に隠れるくらいがちょうどいい、と田淵はいわれていた。そのくらい左肩を内側に入れ、両《りよう》脇《わき》を締《し》めてバットを出していくのだ。
それが、あの滞空時間の長い田淵特有のホームランを生みだしていたわけである。
のんびりとした風《ふう》貌《ぼう》、ふだんの芒《ぼう》洋《よう》たる態度から、田淵はなにごとにおいても大ざっぱなところがあるといわれていたが、じつはそうではなく、バッティングに関してはデリケートなほど気をつかっていた。
ことにジャイアンツとの試合になると、かれはナーバスになった。
試合前夜は翌日の先発投手との対戦を考え、眠れなくなるのが常だった。
ピッチャーがどうやって攻めてくるか、あらゆる可能性を考えているうちに白々と夜が明けてきたりするのだ。
三連戦が始まる前の晩だけではない。
眠れぬうちに朝がきて、すこしうとうととしたと思ったら、もう起きる時間。
いつものように球場へ行き、試合を終えて戻ってくると、もう翌日のジャイアンツ戦のことで頭が一杯になってしまう。
そんな中で考えたシーンなのか、それとも夢に見たものなのか、実際の試合のなかで既視感がやってくることもあった。このシーン、どこかで見たことがあるぞ。それが本当ならここでおれはホームランを打つのだが……。すると実際にホームランが飛び出したりするわけである。
デジャヴュ、である。
スラッガーは、ジャイアンツ戦になると思いつめるように集中力を高めていた。
当然のように、他球団との対戦よりもいい成績が残った。しかしその半面、ジャイアンツとの三連戦が終わったあと、ぐったりと疲れが出るのもまた、いつものことだった。
かれは、しかし、自分のなかにあるそういう一面を見せたり語ったりするのを嫌った。人に指摘されるのも嫌いだった。
そういう意味ではバッターの成長を自分の手柄にしたりはしない藤井は田淵にとって二人といないコーチだったのかもしれない。世話になったコーチの名前をあげるとすれば、真っ先に藤井さんの名前が出てくる、あの人は「師」ですから、と田淵はいうのだ。
一九七三年は、その田淵にとって初めて「優勝」が見えてきたシーズンだった。
プロ入り五年目を迎え、自信もついてきた。
ジャイアンツ戦になるとひときわいいプレーを見せるのが常だったが、このシーズンはまた特別だった。
ホームランだけを見てもわかる。田淵の、このシーズンのホームランは37本。
ジャイアンツの王貞治が三冠王になるシーズンだから田淵は無冠だが、決して悪い成績ではなかった。
その37本のホームランのうち、じつに16本がジャイアンツ戦で打ったものだったというデータをあげればこのシーズンの田淵の姿がおぼろげながらでも見えてくるだろう。
とくに序盤戦がすさまじい。
開幕の対ヤクルト、そのあとの対広島戦ではまったく当たりの出なかった田淵が、その直後、後楽園球場に遠征してジャイアンツ戦を迎えると別人のように打ちはじめるのだ。
三連戦の緒戦でまずシーズンの1号。翌日の第二戦で2号。さらにその翌日の第三戦では3、4、5号と一試合で3本のホームランを打つ。
それから二週間後の五月初旬、今度は甲子園球場にジャイアンツを迎えると、ここでもまた田淵は一試合で3本のホームランを打つのである。
ピッチャーはいずれも高橋善正。ゲームはジャイアンツが大量点を奪い、そのまま逃げ切るという展開。そのため、高橋は田淵に3本のホームランを打たれながらも勝利投手になった。打たれたのは失投が2球、あとの1球は打たれるはずがないシュートだった、と高橋は語っている。よほど自信をもって投げこんだ内角球だったのだろう。
その翌日、田淵は、第一打席で高橋一三からまたレフトスタンドにホームラン。前夜から数えれば四打席連続、開幕以来のジャイアンツ戦では5試合連続、しかもその5試合で9本ものホームランを打った計算になるから、この季節、たしかに田淵はヒーローだった。
バッティングの調子が極端に落ち込むようなときを除けば、田淵は監督やコーチから口うるさくいわれることはなかった。
監督の金田正泰はエースの江夏豊とのコミュニケーションギャップに悩むが、チームのもう一人の中心選手、田淵とのあいだには同じような問題は起きなかった。
田淵自身、マイペースでやらせてくれれば不満はいわないという性格である。構われるより放っておかれたほうがいいのだ。
かれはチームの四番バッターであると同時に、ゲームの要であるキャッチャーをつとめている。ゲームの組み立てには欠くことのできない存在だ。しかし、当時のタイガースはまだデータを分析し、それにもとづいてピッチングの組み立てを考えるというような野球はしていない。
試合前のミーティングはバッテリーが中心になっていた。その日の先発投手と、大《おお》雑《ざつ》把《ぱ》な打ち合わせをするわけである。
心配するのはバッテリー間のサインを盗まれないようにすることぐらいだった。サイン盗みは、この数年後に各チームで本格化するのだが、田淵自身、キャッチャーをやりながらすでにスパイ合戦が始まっていることを意識しないわけにはいかなかった。
例えば、ピッチャーの古沢憲司とバッテリーを組んだときのことだ。古沢はナイターになるとサインが見にくいといっていた。キャッチャーが指先で示すサインが、グラブのかげになりはっきりと見えなくなってしまうのだ。そのため田淵は、右手の指先に絆《ばん》創《そう》膏《こう》を巻くようにしていた。真っ白な絆創膏を指先に巻いてサインを出せば、マウンドからもはっきりと見える。
ところが、そのサインが読解されているとしか思えないことがあった。どこからかサインをチェックされてしまうわけである。
疑われたのは、ネット裏の視線だった。ネット裏に陣取ったスコアラーが、キャッチャー田淵の尻《しり》の下から見えてくる絆創膏を巻いた指を見てバッテリー間のサインを読んでいた可能性がある。とするならば、白い絆創膏はピッチャーだけでなく、相手チームのスコアラーまで助けてしまったことになる。指に絆創膏を巻くのは取りやめになった。
そういうことが話題になりはじめた時期だから、田淵はバッテリー間のサインの交換には気を使った。しかし、それでもジャイアンツに比べれば、ゲームのなかで使われるサインはずっと少なかった。
四番を打つ田淵の場合は、特にそうだった。
後年、西武ライオンズに移籍したあと、かれは野球の違いに驚くのだが、それはタイガース時代にわがままなほど自分の野球に耽《たん》溺《でき》していたからだろう。
かれはホームランの美学を追求していればよかった。
ピッチャーにどんな球を投げさせるかも問題だったが、それ以上に関心があったのは、どうやったら一本でも多くのホームランを打つことができるか、だった。かれの耳に残るのはバッテリー間の配球術に関するアドバイスではなく、むしろバッティングに関するものだ。
内角のシュート打ちの名人といわれた山内一弘が、田淵にアドバイスしたことがある。インサイドの球は右手で押すようにして打て、という内容だった。
押すようにして打つ?
叩《たた》く、弾く、引っ張る……。
バッティングを語るときの動詞はいろいろあるが「押す」という言い方は初めてだったので、田淵の耳に消しがたく残った。しかし、その感じがすぐにわかるわけではない。バットスイングと「押す」という動きがまるで別物に見えるからだ。
それも、しかし、わかるときがくる。
内角低めの球を強引に引っ張るのではなく、体を回転させながら、ちょうどゴルフのバンカーショットを打つように力を抜き、右手を打球の方向に出していった。すると打球は右に向かって飛び、スライスするようにライトスタンドに入っていくではないか。
それが「押す」バッティングだった。
そうやってひとつ、またひとつとバッティングの面白さを体験していくわけである。
初めて王貞治の記録を上回り、セ・リーグのホームラン王のタイトルを手中にするのは二年後のことだが、一九七三年の田淵幸一はその予感をつかみかけていた。
それでも優勝には手が届かなかったのだから、かれは落ち込んだ。
田淵が覚えているのは一三〇試合目のゲームが終わり、甲子園球場でジャイアンツを相手に9―0というとんでもないスコアで敗れたあとのことだ。
タイガースは最後の最後まで期待を抱かせ、そして気の抜けたような試合で一九七三年のシーズンを終えるわけである。
試合終了直後、グラウンドには観客がなだれこんできた。
十月二十一日、日曜日のゲームは雨で順延になり、翌日、月曜日の甲子園球場。スコアは9―0で、試合時間は二時間十八分。
決戦らしくない、じつにあっさりとしたゲームである。それだけに、わざわざ甲子園までやってきた観客は憤りを感じたのかもしれない。大勢のファンがなだれこんだグラウンドは大混乱に陥った。
タイガースのナインは逃げるようにしてロッカールームにかけこみ、シャワーを浴びると短いミーティングを行った。
負けた直後に気のきいた言葉でシーズンを総括できる人などいるはずもなかった。
一週間後に秋季トレーニングが始まる。そのスケジュールを確認すると、もうミーティングをつづけている必要はなかった。
通路に立ったままでインタビューを受け、記者たちが原稿を書くために記者席に戻っていくと、田淵も自分で車を運転してマンションに戻った。
何もかも面倒だった。たまっていた疲れが一度に出てきた。負けた悔しさもつのってくる。そんな体験は、かれにとって初めてのことだった。
それから一週間、かれは一歩も外に出なかった。
本書は一九九五年七月、マガジンハウスより刊行された単行本『最後の夏』を改題のうえ、文庫化したものです。 男《おとこ》たちのゲームセット
巨《きよ》人《じん》・阪《はん》神《しん》激《げき》闘《とう》記《き》
山《やま》際《ぎわ》淳《じゆん》司《じ》
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平成13年3月9日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社  角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Junji YAMAGIWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『男たちのゲームセット』平成10年 8月25日初版発行
平成11年11月10日 5版発行