TITLE : ニューヨークは笑わない
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目 次
青山通りの追い越し車線
ロウ、ロウ、ロウ、ユア・ボート
旅の途中
ニューヨークは笑わない
永久歯のない町
穴のあいたウォーターベッド
インタビュー
チャンピオンの故郷
フォアマンズ・ナイト
ガヴェアの溜め息
ファイナル・ゲーム
青山通りの追い越し車線
ゆったりと、おごそかに一台のクルマが近づいてきた。
窓を閉めきったクルマのなかでステアリングを握っているにもかかわらず、背後から近づいてくるクルマの気配が首すじから背中にかけて伝わってくることがある。まるで、街を歩いているときにすぐうしろから歩いてくる人の息づかいが聞こえるように、である。
青山通りには薄暮の光が、西の低い空からさしこんでいた。カーラジオは810KHZ。FENの音を拾いだしている。歌っているのはエリック・クラプトンだ。パーティーに行くのに彼女は何を着ようかと迷っている。ドレスアップして、これでどうかしら、と聞く。クラプトンは歌う――I say メmy darling, you are wonderful tonightモ キミは素敵だ、と。だいぶ前のヒット曲だ。ミドル・テンポのバラードが、どこか間のびしているように聞こえている。
同じ曲を、しばらく前、別のところで聞いた。
NYのマンハッタンから北へ向かう87号線を走っているときだ。そのあたりだけでもFM局が百以上あるのではないだろうか。つまみをまわしていると、次から次へとラジオは異なる電波を拾いだした。そのうちの一つから、エリック・クラプトンの「ワンダフル、トゥナイト」が聞こえてきた。そのときは、何がワンダフルだ、とぼくは悪態をついたものだが。
ともあれ――
また、クラプトンだったのだ。
そのときは青山通りで、バックミラーを見たわけでもないのに、何かが近づいてくるのを、ぼくは感じた。気になって、ちらりとミラーをのぞいたとき、そのクルマはウインカーを点滅させ、右車線に出ようとしていた。
青山一丁目を過ぎて赤坂見附に向かうところだった。
ぼくは自分の仕事場に戻るところだ。三宅坂にぶつかり左折して半蔵門、イギリス大使館の裏手の方向に向かえば、ガレージは近い。
うしろから近づいてくるクルマの気配は感じていた。そのクルマが後方から威圧するように近づいてきたわけではない。そういう走りは生まれながらにして性《しよう》にあわないという、落ち着いた走りっぷりである。
ルームミラーをのぞきこむと、ぼくは思わず微笑した。
なるほど、あのクルマかと、わかったからである。
そのクルマが青山通りの追い越し車線に出てきた。
ドライバーは、ちょっとアクセルを踏みこんだだけだろう。ボディーが重たいから、レスポンスの良さは期待できない。それでも四〇〇〇リッターのエンジンは吠《ほ》えたてることもなく加速をうながしてしまう。
やがて音もなく、しずしずとぼくのクルマの横に並んだ。ゆったりとした走りだった。“仕事”の帰りなのだろうか。ドライバーは煙草に火をつけ、歌でも口ずさんでいるようだった。
リラックスしたドライバーの表情を見て、ぼくは妙なことを思いついた。あのクルマで関越道をとばしたらどんな気分なのだろうか、と。あのクルマにだってカーラジオはついている。今、FENにダイヤルを合わせれば、今夜のきみは素敵だと、クラプトンが口《く》説《ど》きの見本を示すように歌っているのだ。
追い抜かれた。
じつにスムーズな加速ぶりだった。
たいそうなというべきか、おごそかなというべきか、追い抜いていったのはこれでもか、これでもかといわんばかりに金《きん》箔《ぱく》をほどこした霊柩車だった。
タクシーに乗りあきたせいかもしれない。ぼくはこのところ、アルコールを摂取する予定がないかぎり、たいてい自分でハンドルを握る。そうなると、おのずとクルマに興味がわいてくる。ポルシェ959のような、今のところこれ以上はありえないというレベルまでいきついたスポーツカーをころがしてみたいとも思うが、そればかりではない。ちょっと珍しいクルマを見ると運転したくなる。そういう癖がある。
霊柩車も、オツなものだ。
早速、霊柩車を一台、天気のいいドライブ日和《びより》にチャーターできないものかと、手配してみた。
それでわかったのだが、この霊柩車業界というところ、かなり細かな法令によって、規制されている。いわゆる葬儀屋さんは、霊柩車を持っていない。霊柩車は一般貨物霊柩事業の認可を得た者のみが保有し、それをもって営業できることになっている。東京には百数十台の霊柩車を保有し、業界の大手として君臨している会社がある。
また、霊柩車は走れる範囲が限られている。例えば、東京の霊柩車は大阪を走ることができない。そういうことだ。
ニッサン自動車のトップの一人が亡くなったとき、葬儀担当者は大急ぎで自社の霊柩車を手配しようとした。その当時、ニッサン・ブランドの霊柩車が都内にはなく、担当者は地方の業者に納入した霊柩車を都内に呼ぼうとした。それだけのことなのだが、ひと筋縄ではいかない。手続きの複雑さに、担当者は音《ね》をあげ、諦めたという話がある。霊柩車を用意するために、葬儀の日どりを変えるわけにはいかない。
もう一つ、これもニッサンの話だが、会社にとってのVIPが亡くなって、その葬儀に、あろうことかトヨタの霊柩車が横づけされてしまったことがある。そのころ、まだニッサンは霊柩車を作っていなかったのだ。それがきっかけになって、ニッサンは霊柩車用のクルマを生産するようになった、という。
母体になっているのはプレジデントである。セドリックタイプもあるが、プレジデントのほうが需要は多い。4400tのマニュアル・ミッション。205タイプのラジアルタイヤをはいている。高速安定性は群を抜いている。なにしろ霊柩車の場合、ちょっとしたカーブで柩《ひつぎ》が傾いてしまってはたいへんなことになる。安定性は群を抜いてよくなければならない。
そのボディーに上物を乗せる。その専門業者がいる。いわゆる“宮造り”の上物である。これが高い。ボディーよりも高くつく。それで霊柩車は一台、最低でも一千万以上のものになってしまう。
今、この業界では徐々に、そして確実に国産化が進んでいる。ニッサンが霊柩車用のボディー提供を始めてまだ間もないのだが、すでにプレジデントの霊柩車はシェアを広げつつある。数年前、皇室のさる方がお亡くなりになったが、そのとき宮内庁からあらかじめ依頼され、霊柩車を納入したのはニッサン自動車だった。このときの車種はプリンス・ロイヤルだった。
霊柩車はむやみに増産できない。人口比当たりの台数が規定され、減価償却がすみ、老朽化したものを新車に代えていく。そういうシステムになっている。かつて、霊柩車といえばキャデラックをはじめとするアメリカの大型車が圧倒的なシェアを誇っていた。この世界をも、メイド・イン・ジャパンのクルマが「侵略」しはじめているわけである。
故障しない。
それがメイド・イン・ジャパンのクルマの強みだろう。
エリック・クラプトンの「ワンダフル、トゥナイト」のことを書いたが、この曲をマンハッタンから北へ、ニューヨーク州の州都、アルバニーに向けて走っているときに聞きながら悪態をついたのは、そのときに運転していたクルマが、日本車ではありえないような故障をおこしたからだ。
車種はビュイック。赤のビュイックである。マンハッタンのレンタカー会社から借りたものだった。
「ラッキーね。一番いいクルマよ」と、カウンターの女の子はいっていた。「ビューティフル、レッド・ビュイックなんだから」と。
ステアリングは軽い。ドライビング・シートは広い。運転しやすいクルマだった。
ところが、小一時間ほど走り、ニュージャージーのパークウェイ(紅葉のなかを走る、美しい道路だ)を抜けてフリーウェイに合流しようと減速したところで、イエローランプが点滅した。ステアリングがロックされたように固くなり、コントロールがきかなくなる。オートマチック車である。あわててギアをニュートラルに戻し、イグニッションのキイをオンにまわした。要するに、突然、エンストをおこしてしまったのである。
そんなことが二度ほどあって、三度目が87号線だった。高速運転をしている片側三車線の広い道路だ。マンハッタンでFMをつけるとイタリア語放送やスペイン語放送など、様々な言葉がとびこんでくるが、田舎に行くと、さすがに英語しか聞こえてこない。カントリー&ウエスタン、リズム&ブルースを流すFM局が増えてくる。そのなかに七〇年代のヒット曲を流しつづけるステーションがあり、エリック・クラプトンはそこから聞こえてきたのだった。
――家に戻る時間になって、ぼくは頭が少し痛いものだから、キミにクルマのキイをあずけると、キミはベッドまでぼくを連れていってくれる、ユー・アー・ワンダフル、トゥナイト。
ちっともワンダフルではなかった。
高速運転の最中に、また、インストゥルメント・パネルにイエローランプなのだ。
ギアをニュートラルに戻し、イグニッションをまわす。エンジンはかからない。しばらく、そのまま走らせる。バックミラーを見ると、うしろのクルマがウインカーを点滅させ、クラクションを鳴らして左に出るところだった。一、二、三……と、ゆっくり五まで数えて、もう一度、イグニッションを右に勢いよくまわした。
今度はかかった。ギアをドライブに入れなおす。アクセルを踏みこむ。ビュイックは、エンストしたことなどケロリと忘れたようにぐいと、加速した。
これは一体、どうなっているのか。
87号線をおりて、小さな町にさしかかったところにガソリン・スタンドがあった。セルフ・サービスのスタンドなので、誰も出てこない。レジのところに行くと、つなぎの上下を着たスタンドのおやじさんがアイスクリームをなめていた。
「どうも、あのビュイックはおかしいんだ」
ぼくはいった。
「どうしたんだい」
おじさんは立ちあがり、外に出てくる。
事情を説明すると、かれは腕組みをしながらビューティフル、レッド・ビュイックを見まわした。
「ニュージャージーから来たのかね」
かれは聞いた。
レンタカーにはニュージャージーのナンバープレートがついている。NYで借りたものだが、登録はニュージャージーのものだ。NY市は、クルマを登録するときの税金が高い。それで業者はニュージャージーで登録したものをNY市内に持ちこむらしい。
「いや、マンハッタンから来たんだ」
「マンハッタンね」
そんな話をしている小さな町もNY州の一部なのだが、同じNY州であっても、マンハッタンのあるNY市内と、そこから北へ五、六時間走ったあたりとでは何もかもが違う。
「マンハッタンからね――」
もう一度、ガソリン・スタンドのおじさんはいった。
「ここらは空気がちがうからね。それに山のなかだ。こういうところにくると、何ていうかな、街のクルマはおかしくなる」
冗談ではないようだった。
あくまで、真面目な顔でいう。
山のなかといっても、そこらは小高い丘の連なる田園地帯である。
「よくあることなんだ。そのうち慣れるよ」
かれはボンネットのあたりをドンと、そのぶあつい手の平で叩いた。
しばらく走って、ぼくは大声で笑った。
最初のエンストのときから、これはクセのありそうなクルマだと、いちおう警戒していた。オーバーヒートしないように、適度に休みを入れながら走ってきた。オーバーヒートが原因ではない。何かしら、原因はあるのだが、はっきり原因がわからないのだから、なだめすかすように乗るしかない。
数日後、マンハッタンのオフィスにクルマを返しに行ったとき、そこのメカニックに突然のエンストのことを話した。
「やっぱりね」
と、若いメカニックはいうのだった。
「こいつは、これまでも二、三回、同じようなクレームがついたことがある」
「何が原因なんだろう」
ぼくは聞いた。
「チェックはしているんだ。定期的にチェックしている。問題が起こらないようにね」
かれは手を抜いていないということをいおうとしたのだろう。自分の仕事にミスはない、と。決められたことはきちんとやっている。そうでなければ、かれは職を失ってしまう。
「だけど故障する」
ぼくがいうと、
「そういうことなんだ」
メカニックは、しようがないというように手を広げてみせた。
それを、NY州の片田舎のガソリン・スタンドの、油まみれになったつなぎの上下を着たおやじは「空気のせいだ」というのだった。
ピーター・キャメロンの短篇小説を読んでいたら、故障したクルマが小説の小道具として使われているものがあった。
アメリカの若手作家、ピーター・キャメロンのことは、ついこのあいだまで、ほとんど誰も知らなかったのではないかと思う。ジェイ・マキナニーのようにいきなりべストセラーを書いたわけではない。東京の、アメリカの作家の版権を扱うエージェントのあいだでも、かれはノーマークだった。
ピーター・キャメロンの初の短篇集には「ワン・ウェイ・オア・アナザー」というタイトルがついている。その本を、しばらく前、ぼくはNYの書店でみつけた。読んでいるうちに面白くなり、誰も翻訳する予定になっていない、つまり手つかずだというので、自分で翻訳してみることにした。日本語版のタイトルは「ママがプールを洗う日」とした。日本の出版社はキャメロンを「80年代のサリンジャー」というコピーで売り出したが、オリジナル版にも似たようなコピーがプリントされていた。
「キャメロンは――」
と、かれの本の表紙にセールストークが出ている。
「キャメロンは、中産階級の若者を描き出すサリンジャー以来のベストライターの一人だ」
サリンジャーは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)」などで知られる作家である。この二十年ほどは、何も書かないことで有名になっている。あのサリンジャーの描く世界に、キャメロンの小説は近い、ということだろう。違うのは、キャメロンの八〇年代のアメリカ東部に生きる人間たち、そしてその家庭を描いているという点だ。
ぼくの興味もそこらへんにある。
それで折りを見ては読み進めてきた。
故障するクルマの話が出てくるのは、短篇集「ワン・ウェイ・オア・アナザー」のなかの「The Last Possible Moment」という作品だ。
語り手の「僕」は大学を卒業して俳優のオーディションを受けるためにNYへ行くつもりだったのだが、なんとなくおじけづいてポートランドに居ついてしまう。ポートランドはボストンのさらに北にある静かな町だ。そこで観光船のガイドの仕事をしていたのだが、今は失業している。
「僕」は付き合っていたガールフレンドと別れたのだが、そのガールフレンドの部屋の前に故障したクルマが止めたままになっている。それを何とかしなければならない。
そういうシチュエーションのなかで、短篇は書かれている。
ピーター・キャメロンの文章には、無駄な力がこめられていない。難しい言いまわしも少ない。ふつうの言葉で、さらりと状況をすくいあげる。読者は知らずしらずのうちにその世界にいざなわれ、そしてときはなたれてしまう。なかなかのテクニシャンである。
「ザ・ラスト・ポシブル・モメント」にしてもそうだ。なぜ、ガールフレンドの家の前でクルマが故障しているのか、くどくどと書かれてはいない。だけれども、かれのクルマはそこにパークしたままなのだ。そういう形で、クルマが小道具として使われている。
ぼくはそこで、ふと考えた。
日本では、もはやこういう小説は書けなくなっているな、と。
なぜかガールフレンドの家の前で故障してしまったソアラを、小説のなかに出せるだろうか。わざとらしくなってしまう。ソアラが突然、故障するなんて、めったに起こることではない。
メイド・イン・ジャパンのクルマは、出来がよすぎる。
その点について、とりたてて文句をいうつもりはないが、しかし、故障しないのを当たり前のことだと思いこんでしまうと、クルマが結局のところ人間の手で――不完全なる生き物である人間の手で――作られていることを忘れてしまう。
アメリカの車検制度は、州によって異なるが、日本に比べるとずいぶんとルーズだ。エンジンが動き、ブレーキがきけば、通ってしまう。それくらいのところもある。それで、よくこのクルマが走るね、と驚かざるをえないようなガタガタのクルマがフリーウェイを平気で走っている。まだ一万キロそこそこしか走っていないレンタカーの「ビューティフル、レッド・ビュイック」も、故障する。空気のせい、でね。
それが背景にあるから、ガールフレンドの家の前で故障したクルマが、小説の小道具として生きてくる。
ここからも、完《かん》璧《ぺき》なる機能主義が、微妙な何かを消しさってしまう、ということがわかる。ぼくはそれを嘆いているわけではない。ただ、そういうものだということをいいたいだけだ。
キャメロンの小説のなかで、故障したクルマは突然、動きだす。それにもまた、語り手の「僕」はおどろかない。かれはエンジンの音に気づいたガールフレンドが家から外に出てくる前に、あそこの曲がり角を曲がっているはずだ、とつぶやく。
そこでこの短篇は終わっている。
キャメロンの短篇を読んでいるときにも、ぼくは青山通りの追い越し車線を走っていたクルマのことを思い出した。スムーズでパワフルで、仰々しくて、安定感はこの上なくいいニッサン・プレジデントの霊柩車。そのステアリングを握りながら、かつてはハードなギタリストとして知られていたエリック・クラプトンがぬけぬけと歌っている「ワンダフル、トゥナイト」のテープをガンガンと鳴り響かせ関越道を走ったらどれだけいいだろうかと、そんなことを夢想しながら、読書にいそしむのも悪くはない。
また、旅に出たくなった。
仕事を作ったり、やぼ用を仕込みながら、旅の準備にとりかかるわけである。
ロウ、ロウ、ロウ、ユア・ボート
飛行機のなかで読む本をカバンに入れ忘れるわけにはいかない。
そのときぼくが選んだのは、ゲイ・タリーズの「フェイム・アンド・オブスキュリティー」という本だった。「有名と無名」である。
その本のなかでゲイ・タリーズは「ニューヨークは、見すごされがちな生き物があふれている街だ」と、書いている。
「……駐車したクルマの下で猫が眠っているし、セントパトリック教会の壁を二匹の石のアルマジロがよじのぼっている。エンパイアステートビルの最上階には数千匹の蟻《あり》が這《は》っている。それがニューヨークだ」――と。
ゲイ・タリーズはノンフィクションライターで、マフィアの世界を描いた「汝の父を敬《うやま》え」や、一九五〇年代以降のアメリカの性の文化史ともいえる「汝の隣人の妻」などの著作で知られている。
そのゲイ・タリーズに、今でいうとボブ・グリーンのようなタッチで書かれた一連の文章があることは知っていて、それらをまとめたペーパーバック「フェイム・アンド・オブスキュリティー」を、以前からときどきひろい読みしていた。その巻末に、ニューヨークについて書かれた短い文章がおさめられているのに気づき、初冬のニューヨークに行くときに、カバンのなかに入れておいたわけである。
飛行機の中でページをめくり、ホテルに着いてからも、時差調整を兼ねて少し眠ろうと、ペーパーバックを手にベッドに横になり、読みついだ。すると、今、紹介したような文章が目に入った。エンパイアステートビルの蟻は、そこまで自力でよじのぼってきたのではない。風に運ばれたか、鳥に運ばれたものだろう、とゲイ・タリーズは書いている。
エンパイアステートビルには、何度か上っている。蟻が活動していそうな季節にも行っているが、蟻には気づきようもなかった。
過去に、たまたま蟻が強風にまきこまれてエンパイアステートビルの突端あたりを棲息の場とせざるをえないようなことがあったのか、あるいは毎年のように同じような現象が起こるのか、詳《つまび》らかではない。が、あの、石をふんだんに使った建造物としては類《たぐ》い希《ま》れな高さを誇るビルと、そのトップに棲《す》む蟻のイメージは新鮮で面白い。
ぼくの中でそれは後楽園球場の大《おお》鼠《ねずみ》と重なった。
ゲイ・タリーズの本を閉じると、午後のニューヨークのまだ明るいベッドルームでうつらうつらしながら後楽園の大鼠のことを思い出した。
東京ドームができたあとも、ぼくはあのあたりにいくと一匹の大きなネズミのことを思い出し、おもわず周囲を見まわしてしまう。あいつはどうしているだろう。
このあいだは東京ドームのモータープールで素早く動くものがあるので、はっとした。クルマのかげに何かが入りこんだのだ。紙が風に飛ばされてクルマの下に入りこんだのか、それとも何か生き物だったのか、わからずじまいだった。
後楽園の駐車場にクルマを停めるとき、野球のポジションでいえばどのあたりになるのかと、無意識のうちにぼくは確認することになっている。
東京ドームができて、旧《ふる》い後楽園球場がとりこわされた。
やがてそこは公園になるのか、隣りの遊園地が広がってくるのか。まあ、そんなところだろう。新しい施設ができるまで、あのぽっかりと、巨大な穴があいたようなスペースはモータープールとして使われている。それまで後楽園の周辺にはたっぷりとしたスペースをもったモータープールがなかったから、クルマで後楽園に行くには不便だった。
モータープールの入口は、かつてのライトスタンドのあたりにある。旧い後楽園球場には何度も足を運んでいるので、そこが駐車場になったにしても、野球が行われていたころのフィールドの、どのあたりにクルマをとめようとしているのか、おおよその見当はつく。
周囲にスタンドがあり、その内側に白いラインの引かれたフィールドがあると、野球場は広く見えるのだが、スタンドをとりこわし、のっぺりとした空間にしてしまうと、存外、広さを感じない。なんだ、こんな狭いところで夢のかけらを追っていたのかと、がっかりしないでもない。
マウンドのあったあたりには、いつもクルマがとまっていた。停《と》めやすい場所なのか、それともあそこには、人を吸い寄せる何かがあるのか、あのモータープールに行くたびにかつてのマウンドのあたりに視線を走らせてみるのだが、そこはすでに何ものかがいるわけである。
失われゆくものに感傷的な気分をいだいたわけでもないのだが、旧後楽園球場がとりこわされるとき、その様子を見に行ったことがある。
解体の現場である。
新しいものを作りあげるにもエネルギーがいるが、モノをこわすにも、たいへんな手間とひまがいる。
人工芝をはがすと、球場はとたんにのっぺりとした、そして殺風景な場所にかわってしまった。
ふつうの土のグラウンドも、ごくたまに手入れをするために掘りおこすことがある。大がかりな工事になるので、そうしばしば行われるわけではない。ぼくは、シーズンオフの甲子園球場の、グラウンドの掘りおこし作業を見たことがある。遠くから見ると、もぐらが一斉にうごめきはじめたのではないかとも見えた。もこもこと土が盛りあがり、整備されたグラウンドを見なれた目から見ると、異様なものに見えてくる。
後楽園球場は新しいドーム球場ができてもしばらくの間、放置されるのではないかと、漠然とそんなふうに考えていた。旧後楽園球場は、毎年、シーズンオフの十二月にサーカスに貸し出されていた。マウンドのあたりがステージになり、ネット裏と内野席の一部が客席である。ステージと客席だけがテントにおおわれ、外野には象やライオンがのっそりと歩いていたものだ。
旧後楽園の最後のシーズンが終わったあともまたサーカスがやってきて、そのあとはしばらく草野球ファンに貸し出される。やがて閉鎖され、人工芝のあいだから野草が顔をのぞかせるころ解体作業が行われるのではないか……。
役割を果たし終えた球場は定年退職したサラリーマンのようなものだ。その次の人生を始めるまで、しばしのんびりとした時をすごしてもいい。それが許されてしかるべきではないか。ぼくはそんなふうに考えていた。
解体作業は、しかし、すぐに始まった。退職した翌日に、オフィスの隅にあった机や椅子がさっさと片づけられ、そのかわりに鉢植えなどが置かれてしまう。そういう感じだ。
人工芝はぺろりとめくられ、客席は削りとられてしまった。巨大なクレーン車とパワーショベルカーの力はたいしたものだ。解体の現場を見に行った日、ショベルカーはちょうど一塁側のスタンドのぶあついコンクリートの壁と格闘していたのだが、そこらあたりが片づくのは時間の問題だろうと思えた。
後楽園球場にはよく足を運んだ。週に何試合か、野球を見に行く。そういう時期もあった。あちこちの球場に行ったが、そのなかでもやはり後楽園が一番多かったのではないかと思う。
この球場では草野球の試合もやっている。ぼくはショートを守った。もうだいぶ前のことだ。
スタンドは当然、がらがらで、声がよく通った。ぼくのチームには、高校時代に本格的に野球をやったという男もいたのだが、その男も含めて、皆とても下手クソに見えた。後楽園ではいつも、いいレベルの野球を見ているから、同じ場所にふつうの草野球選手が立つと、とても貧弱に見えてしまうのだ。内野ゴロを打った男は一所懸命走っているのだが、ぎくしゃくして、分解写真を見せられているようだった。
人のことはいえない。ぼくだって似たようなものだったに違いない。
ゲームには勝ったが、思ったほど盛りあがらなかった。草野球には、またそれなりの場所があるのだと思わざるをえなかった。
後楽園球場のマウンドにピッチングマシンをセットして時速一六〇キロを上回る速球を投げさせたことがあった。戦前、巨人で活躍したヴィクトル・スタルヒン投手の投げていた豪速球を再現してみようという試みで、当時のことを知る青田昇さんや千葉茂さんが、スタルヒンの速球は今でいうと一六〇キロは出ていたというものだから、それじゃ実際に再現してみようということになったのだ。ピッチングマシンを、わざわざメーカーから借りてきた。東都大学リーグに所属する大学の野球部のキャッチャーにその球を受けてもらった。徐々にマシンのスピードをあげていくと、球が自然にホップしてキャッチャーは受けられなくなる。
「こんなもんじゃなかったな。もっと速かったでえ」
青田さんは一五〇キロ台の速球を見ても、平然という。
「だけどスタちゃんはね、気の弱いところがあったな。登板する日にダグアウトで顔を合わすやろ。どうしたんやスタちゃん、そんな青い顔して、という。本当は何でもないんやけどね、わざとそういうんや。するとあいつ、本当に病気になってしまう。熱が出てくるんやね。そういうところがあった」
それでもスタルヒンは、日本のプロ野球では最初の三百勝投手になった。そのスタルヒンの球を「夢の豪速球」として位置づけておきたいという気持ちがあったのだろうか、青田さんも千葉さんも、マシンが投げこんでくる一五〇キロ台の速球では承知しない。もっと速かったで、と、いいつづける。
「あ、これや、これや!」
やっと二人が納得したのは、マシンの回転数をあげすぎた球で、キャッチャーはその速球をミットの端に当てただけで捕《と》れなかった。目がついていかないですよ、とこわばった顔でキャッチャーはいったものだ。
スピードガンで計測していた男がいった――「一八〇キロ」
「そう、それや!」。青田さんがいった。
そんなバカな。
実際に計測された投手の球で一番速いのは、たしか一六三キロで、これはアメリカ野球界の奪三振王、ノーラン・ライアンが投げたものだ。
その日、ぼくはマシンの投げる一五〇キロ台の速球を打ってみた。レフト前にふらふらとあがった当たりはバットの芯《しん》をはずれ、左手がしびれた。そのしびれは、数日、消えなかった。
一匹の大鼠の話だった。
その日は、ゲームの観戦記を書く仕事を頼まれていたのでゲームが終わったあと記者席の隅で原稿を書いた。江川が投げて敗戦投手になった日のことで、他には書くことも思い浮かばず、江川のことを書いた。
照明灯のあかりは消え、グラウンドは真っ暗になってしまう。記者席のあたりだけが、白く浮かびあがっていた。担当記者の人に原稿を渡し、ファックスで社に送ってもらう。そのうえで記者席を離れた。後楽園球場の記者席からはすぐに観客席に出ることができた。ちょうどネット裏のあたりだ。その階段をおりていき、通路へ出たところで、まるまると太った鼠と出くわした。
たいした鼠だった。
逃げようともせず、じっとこちらを見あげていた。体長、二、三十センチはあろうかという巨大なやつで、その界《かい》隈《わい》ではボスのような鼠だったのだろう。この時間になれば通路の中央を歩くのはおれのほうだといわんばかりの態度で、ふてぶてしい。
結局、ちょっとした緊張感を漂わせつつ、ぼくらはすれ違った。
後楽園で鼠と会ったのはそれ一度きりだが、そのときのことは今でも鮮やかにおぼえている。
解体される後楽園球場からビッグエッグ、新しいドーム球場に、かれらはすでに移動しているのだろうか。それとも他の場所に移動せざるをえなくなっているのだろうか。
ニューヨークに着いた翌日、ぼくが都市にひそむようにして棲みついている動物の話をしたら、知り合いのジム・シャピロは「数千匹の蟻ねえ……、ぼくはもっと少数のグループを知っている」といった。
ジム・シャピロはユニークな男で、かれは一度、九州の鹿児島から北海道まで自分の足で走破したことがある。ウルトラ・マラソンである。本州は山陰、日本海側を走った。一日も休むことなく、毎日、数十キロを走る。その間、宿泊するのは民宿。四十数日間で、北海道まで走りきってしまった、という。そのプロセスが撮影されTVでオン・エアされたことがあるから、それを見た人はジム・シャピロのことを知っているかもしれない。
すらりとした長身。長距離ランナーにはうってつけの身体つきだが、かれは職業ランナーであるわけではない。ショート・ストーリーを書きたいのだが――といっている。
「こちらの出版エージェントは、よほど売れるという確信がないと短篇集を編もうとはしないんだ」
「日本でも同じだよ。ウルトラ・マラソンのことを書けばいいのに」
ぼくはいった。
「そのつもりなんだ。準備している。それとは別にスポンサーをさがしているんだ」
「何のために?」
「今度は、中国あたりを走ってみようかと思ってね。中国大陸を横切るんだ」
「走って!?」
「もちろん」
「そのためのスポンサーね……」
そういうことに興味を抱きそうなのは、日本のTV局あたりだろうか。日本のテレビはびっくりするくらい外国好きで、あるディレクターの話によるとアマゾンの奥にある小さな町で日本のテレビのクルーが三チーム、出くわしたことがあるのだという。
それはともかく、ジム・シャピロの話だ。
かれによると、エンパイアステートビルを這《は》う蟻よりもずっと少ない人数だが、マンハッタンにはカヌーを楽しむ人たちがいるのだという。
「カヌー?」
「そう。カヤックともいう。マンハッタンは西にハドソン河、東にイーストリバー、二つの川にはさまれている。ここがカヌーにはうってつけの場所なんだ」
そういわれて、なるほどと思い当たった。
ニューヨークに海からアプローチすると、まずブルックリンとスタテン・アイランドのあいだの狭い水路を通ることになる。ベラゾノナロウス・ブリッジという巨大な吊り橋がかかっている水路だ。そこを抜けるとニューヨーク湾で、ここは地図で見ると大きな水たまりのように見える。外海とは狭い水路でしかつながっていない。そのニューヨーク湾に北から突き出しているのがマンハッタンで、その両側を、川というより水路という感じで、ハドソンとイーストリバーが流れている。潮流の影響は、さほど大きくはない。
そういう場所があるのだが、ニューヨークでカヌーを楽しんでいるのは、ほんの十人か十五人か、そんなものだという。
「世の中には常に二種類の人間がいるということだな」
ジムはいった。
「カヤックを漕いで静かに、ゆったりと川で遊ぼうとする人間と、モーターボートに乗りたがる人間の、二種類だ」
「このクルマだらけの街を、混雑に巻きこまれるのを承知でクルマに乗る人間と、そうでない人間、そういう二種類に分けることもできる」
ぼくがそういうと、ジムは苦笑した。
そのとき、ぼくらはクルマに乗ってヘンリー・ハドソンパークウェイ(マンハッタンのハドソン河に沿った自動車道路)にさしかかり、渋滞に巻きこまれていたからだ。
仕方のないことだった。
ジムの、必ずしも手入れがいいとはいいかねるブルーのポンティアックのルーフトップには、長さ五メートルほどのカヌーが積みこまれていたからだ。
マンハッタンの、ほんのひと握りしかいないカヌー好きの一人が、ジム・シャピロなのだった。そのカヌーを持ってぼくらはイーストリバー沿いの34丁目あたりへ行こうとしていた。
イーストリバーをカヌーで上ってみようという話である。
「イーストリバーを……カヌーでね」
意外な話だった。
そういうことができるとは、知らなかった。マンハッタンのビル群の、すぐ横を流れているのがイーストリバーである。そんなところでカヌーを楽しめるとは、盲点をつかれた思いだった。
「そう思うだろ? だから、ここでカヌーを楽しもうというやつは少ないんだよ。そりゃたしかにカヌーを浮かべるなら、こんな大都会を離れて渓流に行ったほうがいい。手つかずの自然が残っているところもある。マンハッタンには自然は残されていない。そのかわり、ここには意外性がある。場所によってはかなりハードなパドリングを要求される場所もあるしね」
ジムは、朝のうちがいいだろうといった。イーストリバーを通る船も少ないし、朝の光に浮かびあがるマンハッタンの風景も悪くない。
ぼくは念のために、アウトドアグッズを売っている店に行って防寒用の下着を買った。初冬のニューヨークの早朝の川である。相当冷えこむかもしれないと思ったのだ。
前もって、ジムはカヌーを組み立てておいてくれた。カヌーはコンパクトにたためば、クルマのトランクに入れることもできる。手慣れた人なら三、四十分で終わる作業だ。用途別に、じつに様々なカヌーが開発されているわけである。岩だらけの急流を下るカヌーは軽くて固いプラスチックで作られ、ゆったりとした川で遊ぶには、持ち運びにも便利なカヌーがある。
カヌーの初歩的な手ほどきを、ぼくはエッセイストの野田知佑から受けている。
野田さんは、日本の川、世界の川をカヌーで下っている。今はどこへ行っているのだろう。このあいだ会ったときは、アマゾンへ行ってきたという話をしていた。あの川は、カヌー好きにとってはちっとも面白くないといっていた。なぜかと聞くと、落ち着かないのだという。かれは冒険としてのカヌーの川下りを生業としているわけではない。かれはカヌーの上で酒も飲めば、読書も楽しむ。流れに身を委ね、居眠りもする。そういうペースで川を下っていく。アマゾンはそうはいかなかったのだと、いっていた。ピラニアがもぞもぞと尻の下で動いている。あれではね、というのだ。
野田さんが房総半島の亀山湖にカヌーを浮かべていた時期があり、そのころカヌーの漕ぎ方を教わったのだ。といっても、たいしたことではない。かれは一升瓶入りの焼酎をカヌーに持ちこんできた。その他、大きな鍋とインスタントラーメン。亀山湖に注ぎこむ支流の一つを逆に辿《たど》りながら、途中でクレソンを摘み、上流に向かった。
「疲れたら休むことだね」
かれはいった。
「競技カヌーじゃないんだから、ゆっくり右、左と順にパドルで水をかいていく」
それだけいうと、かれはひと口、焼酎を口に含み、はいといって一升瓶を手わたす。嫌いではないから、ぼくもぐびりと飲む。お互いにひと口ずつ飲むと、またパドルを手にする。そしてまた、ぐびり、である。
それでいいのだという。
カヌーの好きな男は、どこか似ている。
ジム・シャピロと野田知佑の違いは、ジムがカヌーにアルコールを持ちこまなかったくらいのものだ。
イーストリバー沿いの34丁目あたりは公営のモータープールになっている。その向こうは、もう川の流れで、モータープールの隅に川におりられる場所が一カ所だけある。そこだけちょっとした岩礁が突き出ているのである。重さ四〇キロほどの、組み立て式のカヌーを前後で持ち、その岩礁におりていく。水に浮かべたところで素早く乗りこみ、パドルで岩を押すと、静かにカヌーは岸を離れていく。
カヌーは西独製で、カバーは特殊繊維で作られている。二〇〇〇ドルぐらいで買えると、ジムはいっていた。二人が足を伸ばして坐りこみ、窮屈さを感じることなく水の上に出られる。
ボートとカヌーの違う点は、カヌーのほうが川の流れを直接、体で感じられるところにある。ボートを漕いでいると、揺れで水の流れを感じることはできるが、それ以上ではない。カヌーの底に坐りこみ、あのほっそりとした船体に包みこまれるようにしてパドルを漕いでいると、あたかも自分が水の中を音もたてずに泳いでいるような感じになる。尻の下を流れていく水の気配が、わかるのだ。
ぼくらは北へ向かった。流れを逆にのぼることになるのだが、川の流れは思ったよりもゆるやかだった。
「この位置から見るマンハッタンが、一番美しいと思う」
ジムがパドルを動かす手を休めていった。
カヌーはイーストリバーを北上し、ルーズベルト島に近づいていた。ルーズベルト島はイーストリバーに浮かぶ島で、その上にクイーンズボロ・ブリッジがかかっている。マンハッタンとルーズベルト島の間にはケーブルカーが通っていて、この島に住む人はケーブルでマンハッタンに通うことになる。
マンハッタンをのぞむと国連ビルが見え、その向こうに高層ビルが林立している。ひときわ美しいシルエットを見せているのは、クライスラービルだ。
「魚の視線でニューヨークを見ているというわけだね」
「そういえば、このあいだ、このちょっと北のあたりでシャークが釣れたという話だ」
ジムがいった。
「シャーク!?」
さ《ヽ》め《ヽ》である。
「体長一、二メートルのものだったらしい。どこからやってきたのかはわからないが」
どこからか、まぎれこんできてしまったのだろう。
それよりも、イーストリバーに釣り糸を垂らしている人がいるという、そのことのほうにおどろくべきかもしれない。
「そうかな――」
ジムはいった。
「こうやって、マンハッタンでカヌーに乗っている人間だっているんだぜ」――と。何も釣れそうにない、都市廃水で汚染された川に釣り糸を垂れる人間がいてもおかしくないじゃないか。
そう、たしかに。
おかしくはない。
マンハッタンに、どこからか泳ぎついてしまったシャーク。エンパイアステートビルに運ばれてきた蟻。ぼくにしたって東京から十数時間もかけてニューヨークへやってきて、気がつけばイーストリバーにカヌーなどを浮かべて漂っているのだった。
後楽園球場の大鼠はどこへ行ったのか。あの、ふてぶてしいツラ構えを、またそこで思い出した。
「夜、カヌーを出せる?」
ぼくは聞いた。
「出せるとも。ぼくが一番好きなのは、夜のパドリングなんだ。月のある日の、マンハッタンの、ここから見る風景はいいもんだ。一度、トライしてみるといい」
季節は夏がいいだろうな、やはり。
パドルの動きを止めて、川の流れに身を委ねながら、水の上でおしゃべりをしていると、どこからか声が聞こえてきた。
大きな声である。
ぼくらは周囲を見わたした。
どこへ行くんだ、と声はいっている。ウェア・ア・ユー・ゴーイング?
ぼくは空を見あげた。
天から声が降ってきたような気がしたからだ。
初冬の午前中の太陽が川を照らしだしていた。朝の交通ラッシュの時間にイーストリバーにやってきて、パドリングを始めた。もう、だいぶ陽は高くなっていた。
空に何ものかがいたわけではない。
近くに船が通りかかったのでもない。
声はまだつづいた。
どこから来て、どこへ行くのか。とがめるようなニュアンスではない。拡声器を使っている声である。
「フロム・ニューヨーク、トゥ・ニューヨーク」
ジムがあたりを見まわしながら叫んだ。
「世界一周してきたみたいだろ」
かれはぼくの背中を叩いて、そういった。ニューヨークから出発して、地球を一周し、またニューヨークに戻ってくる。それがフロム・ニューヨーク、トゥ・ニューヨークだ。
何だって? スピーク・ラウダー、もっと大きな声で、と拡声器の声の主はいった。
その声がどこから聞こえているのか、まだわからなかった。
ぼくは岸を見た。
ヘリポートがあった。イーストリバーに面したヘリポートである。ヘリコプターが三機、とまっていた。観光客を乗せて空からのマンハッタンの眺望を楽しんでもらおうというビジネスだ。シーズンオフのニューヨークの、ヘリツアーの客は少ないらしい。ヘリコプターはプロペラをおろし、休んでいる。
そのヘリの向こうに、小さな小屋がある。そっけないプレハブの建物で、そこが管制塔兼待合室になっているのだろう。その小屋の中に、マイクを持ってこちらを見ている男の顔が見えた。
手を振ってみた。
かれはマイクを持つ手をあげた。
そして、もう一度、聞いた。どこから来たんだ、と。
「フロム・ニューヨーク、トゥ・ニューヨーク」
ぼくらは大声で叫んだ。
「アッハッハッハ」
声が届いたのだろうか、ヴォリュームをいっぱいにあげた声で、かれは笑った。
イーストリバーに、拡声器で増幅された声がひびきわたった。
「ウェルカム・トゥ・ニューヨーク」
そういって、かれはマイクを持って歌い始めた。
〓ロウ、ロウ、ロウ、ユア・ボート、ジェントリー、ダウン、ザ、ストリーム……。
拡声器の調子はいまいちだが、音程は外れていない。
ロウ、ロウ、ロウ、ユア・ボート、ジェントリー、ダウン、ザ、ストリーム……。
同じフレーズを、またくりかえした。
そのあとにつづくフレーズが聞こえてこない。間をおいて、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ……とマイクを持つ男はつづけた。歌詞を忘れてしまったのかもしれない。
ぼくは、あの歌の歌詞を知っている。
〓merrily, merrily, merrily, merrily ――
ときて、
Life is but a dream.
「人生はほんの夢のようなものなのだから」と童謡はいっているのである。だから、ボートでも漕《こ》いで川を下っていこう――と。
旅の途中
ぼくの記憶に間違いがなければ、その年の一月三十一日の東京は雨で、江川卓は赤いネクタイをしめていた。スーツはたしか濃紺で、かれの背広姿はまだどことなく板についていなかった。
頭を短く刈りあげていたせいかもしれない。床屋に行ってきたばかりのような、そんな顔をしていた。
場所は芝園橋の近くにある東京グランドホテルだ。記者やカメラマンが大勢おしかけてきていて、ぼくは傘の置きどころがなく、しばらく玄関のあたりに立っていた。
一九七九年の一月三十一日のことだ。
その日のことを思いだしたのは、それからほぼ九年後の、冬がはじまろうとしているニューヨークで、ぼくは旅の途中だった。
東京からファクシミリで電送されてくる日本の新聞を二番街の30丁目あたりにあるジャパニーズ・レストランで買い、スシバーの従業員募集、高給優遇といったニューヨークに住む日本人向けの求人案内などに興味をひかれながらページをめくっていくと、そこに江川の記事が出ていて、読んでみると江川が引退を表明したというのだった。
外国を旅行しているときに日本からのニュースに接するのは、いつも思うのだが、妙なものだ。ぼくの場合、あまりなつかしさを感じない。たとえばアメリカの、どこかの町のホテルでTVを見ていると、永田町のニュースがとびこんでくる。あるいは浅草か神田あたりのお祭りの映像がブラウン管にうつし出される。TVカメラに切りとられた人たちは、皆ちまちましている。そんなふうに見えてしまう。
江川引退か、とぼくはつぶやいた。
それがスポーツ新聞であったなら、もう少しセンセーショナルな書き方をしていただろうと思う。ぼくが見たのは一般紙で、記事の分量もせいぜい三、四十行程度のものだった。事実だけがポツンと紙面にほうり投げられている。
ジャパニーズ・レストランといってもそこはテイクアウト専用で、発泡スチロールの白い容器に盛られたカツカレーみそ汁つき7$50といったメニューが並んでいる。かたわらではインスタントラーメンや切り餠、醤油なども売っていて、日本の新聞も売っている。壁に向かってカウンターがあり、そこでテイクアウトしたものを食べることもできる。丸い椅子が四、五脚、並んでいる。
ぼくはそこに鮭弁当を広げ、紙コップにたっぷりと入ったあつあつのみそ汁をすすりながら新聞を読んでいた。
外は、今にも雨が降りだしそうな雲行きだった。ぶ厚い雲がたれこめている。
時折り、ドアが開き、客が入ってくる。そのたびに表通りを走るクルマの音がどっと、狭い店の中にあふれかえった。そのクルマの音に混じって何かしら、人が叫ぶような声が混じっていた。何なのかと、窓ごしに外を見るのだが、よくわからない。男の声で、歌っているようにも聞こえるのだが、メロディーにはなっていない。ドアが閉まるとその声は遠ざかり、またドアが開くと、近づいてくる。
やがてぼくは新聞を閉じ、ブルゾンのポケットに突っこんで外に出た。
そこで初めて、声の主がわかった。
かれは数メートル先の路上に立ち、左手に空き缶を持ち、空に向かって何ごとかを語りかけていた。いや、語りかけていたというニュアンスではない。単に語りかけている程度であったなら、数メートル先にあるジャパニーズスタイルのファーストフードの店の中にまで、その声が届くはずもない。おまけに、かれの目の前を走る二番街はクルマの往来が激しく、クラクションの音さえ混じっているのだ。それらの騒音を突き破るように、かれは野太い声をあたりに響かせていた。
いい声だった。
いったい、それほどの声量をどこで獲得したのか、聞いてみたいくらいのものだった。のどをふりしぼり、叫ぶといった類《たぐ》いの声ではなかった。鍛えられた声帯がおのずと生みだしてしまう、そういう声である。
ぼくは直感的に思った。かれは砂漠でそのの《ヽ》ど《ヽ》を作りあげたのではなかろうか、と。どちらを見わたしても砂、また砂の世界。そこで誰かに、何ごとかを伝えたいと思ったとき、人は内なるエネルギーを結集して、叫ばなければならない、砂漠には、オペラハウスのような声を鳴り響かせてくれる壁があるわけではない。
かれは陽に焼けていた。空き缶の中には数枚のコインが入っているようだった。時どき、左手をふりあげると、カラコロという切ない音が聞こえてきた。男はすっかり古くなったシャツを着て、結び目のあたりがすり切れかけたネクタイをしめていた。しかし、威厳を保とうとする気配は濃厚で、着ているものはどうにもならないくらい古びてしまっているのだが、背すじはぴんと伸びていた。そうでなければ、あれだけの声は出ない。
どう聞いても、英語ではないようだった。とっさに思ったのはそれがアルメニア語ではないかということで、そう考えたのは、かつてウイリアム・サロイヤンが書いた「わが名はアラム」という短篇連作集に、そういう老人のことが出てきたような気がしたからである。サロイヤンはアメリカに移民してきたアルメニア人の子として生まれている。
かれは通行人に、自分が何の目的でそこに立っているのかわかるように左手に空き缶を持っているのだが、実際のところ、ほとんどといっていいくらい、通行人には目を向けなかった。関心すらないようだった。いったい天に向かって何を叫んでいたのか。ときには、天をなじるようなニュアンスになり、祈るようでもあり、嘆き悲しむようでもあり、そしてまた時には歌うようでもあった。
直径数メートルの、白線が引かれているわけではないが、そのあたりがかれのテリトリーであるらしく、かれはその中央に立ったかと思うと歩きはじめ、ぐるりと円を描いて、また中央に戻るということをくりかえしていた。
そのとき、ぼくは思ったものだ――あそこは野球のピッチャーズ・マウンドくらいの広さだな、と。
七九年の一月三十一日に芝園橋の東京グランドホテルで行われたのは、江川と阪神タイガースの入団契約の調印であり、同時に阪神と巨人とのあいだのトレード契約の調印も行われた。
その一年数カ月ほど前、法政大の四年生だった江川はドラフト会議でクラウンライター・ライオンズの指名を受けた。江川は入団を拒否した。クラウンライターが西武に経営権を移譲するのは、それからほぼ一年後のことである。
江川は南カリフォルニア大学へ留学して一シーズンをやりすごす。七八年十一月に帰国すると、十一月二十二日のドラフト会議の前日、二十一日に巨人と入団契約を結んだ。いわゆる“空白の一日”事件である。
前年度のドラフトで、江川を指名したクラウンライターの交渉権は翌年のドラフト会議の前日で切れる。したがってその「前日」だけは、江川は全くフリーな立場で、どの球団とも入団交渉できるし、契約を結べる……という妙な理屈をジャイアンツが考え出したのだった。
そして巨人は翌二十二日のドラフト会議をボイコットした。巨人を除く十一球団は江川と巨人の契約を無視、ドラフト会議では阪神タイガースが江川との交渉権を獲得した。
七九年一月三十一日は、それらの一連の出来事に結着をつける日だった。巨人は“空白の一日”の契約を撤回し阪神が江川と契約を交わした直後のトレードを要求した。阪神は、トレードの話よりもまず入団契約だ、といっていた。入団しないことにはトレードも何もあったもんじゃない、という態度だった。しかし、入団と同時にトレードに応じるのは明らかで、すでに下交渉は行われていた。
つまり、その日が、江川投手にとってのプロ入りの日だったわけだ。
なぜ、その日の様子をぼくが見に行ったのか。
ぼくはある若者向け雑誌の仕事をしていた。その編集部のデスクが、その日のうちに、あるいは翌日には江川に会えるといっていた。そういう手はずになっていると、いうわけだった。デスクは、江川という男を好意的に見ようじゃないか、といっていた。“空白の一日”以後、江川は批判の的になっていた。デスクはその論調に与《くみ》したくないという気配が濃厚だった。世間の一般論に自分を沿わせるのが不愉快だったのだろう。かれは「しかるべき筋」を通じて、江川と間接的にコンタクトをとっているようだった。
ぼくはそのころから、再び野球に興味を持ちはじめていた。小さいころは、誰もがそうであるように、ぼくも野球ファンだった。それが、徐々にうすらいでいった。二十代になって、野球に関心を寄せるよりも前に自分でやりたいことが山のようにたまってきたせいかもしれない。一度、下がったヴォルテージがもう一度上がったのは、直接的なきっかけをあげると、アメリカ野球を見たことにあるような気がする。
七八年に、ぼくはアメリカに行っている。
ちょうど江川がUSCに野球留学しているころだ。
ロスにいるとき、せっかく来たのだからUSCのゲームを見ておこうと思って大学に問い合わせた。チームは遠征中、とのことだった。それでぼくはロスのドジャー・スタジアムへ行ってみることにした。LAドジャースのホームグラウンドである。
以後、ぼくはアメリカに行くたびに、たいていどこかで野球を見ることになった。
ニューヨークに行けば、ヤンキー・スタジアムかシェイ・スタジアム。シカゴのリグレー・フィールド、デトロイトのタイガー・スタジアム……。
ベースボールは面白い。
時速一六三キロの速球を投げていたころのノーラン・ライアンのピッチングを見た人は、文句なしにそう思うにちがいない。あるいは全盛期のレジー・ジャクソンのホームラン、フィル・ニークロのナックルボール、S・カールトンのスライダー、そして数年前のデビューした当時のドワイト・グッデンの、落差の大きい、スピードのあるカーブ……。
理屈も解説もいらない。かれらがグラウンドでプレーするだけで十分なのだ。
七八年はロスとニューヨークで野球を見た。日本に戻ると、セ・リーグは広岡監督の率いるヤクルト・スワローズが優勝し、パ・リーグは阪急ブレーブスだった。日本シリーズではヤクルトが勝つ。その第七戦、阪急の上田監督は大杉の打ったホームランに対して、それがファウルではなかったかと、一時間以上にわたって抗議をつづけた。あのころである。
日本シリーズが終わると、江川が帰国し、“空白の一日”が起きる。
一月末の江川とのインタビューは成立しなかった。
あいつはわかってないよ、とデスクはいった。いま、きちっと話しておくことがあとになっていい結果を生むはずなのに……。いや、あいつはあいつなりに計算しているんだよ、といってぼくはデスクをなぐさめた。お互いの計算が合うときがくれば黙っていても、こっちのプランにのってくるよ。江川はそういう人間だと、いったわけである。
もはや、一昔も前のことだ。
もっと以前の出来事のような気がしないでもない。東京グランドホテルの玄関で、置き場をさがして持っていた傘は、とうの昔にどこかへ行ってしまった。今では、それがどういう色の、どんな形をした傘だったのか、思い出すこともできない。
江川の引退からしばらくたって、ニューヨークの新聞にデイブ・リゲッティの話が出た。
リゲッティはニューヨーク・ヤンキースのリリーフエースである。ぼくは八六年のシーズンに一度、リゲッティのピッチングを見ている。サウスポー。リリーフエースに必要な速い球、そして角度のある変化球、いずれもかれは持っている。きっと、マウンド度胸もいいのだろう。小気味いいピッチングだった。八六年のシーズン、かれは46セーブをあげて、メジャーリーグのセーブ記録を書きかえた。その年、ヤンキースは優勝の可能性があった。ボストン・レッドソックスを追撃し、逆転すれば同じニューヨークを本拠地とするナショナルリーグのニューヨーク・メッツとワールドシリーズで対決できるところだった。実現すれば、ニューヨークは大騒ぎになったことだろう。デイブ・ジョンソンの率いるメッツがレッドソックスを破ってワールドチャンピオンになっただけでも、ニューヨーカーたちは大喜びだったのだ。
リゲッティは八七年にも8勝6敗31セーブという成績を残している。六十試合に登板して、防禦率は3・51。悪くはない数字だ。ヤンキースはアメリカンリーグ東地区の四位で終わったが、リゲッティはまずまずの成績を残した。
そのリゲッティを東京のジャイアンツが買おうと名乗りをあげた。それが記事の内容だった。
リゲッティはフリーエージェント宣言をしていた。メジャーリーグに六年間在籍すると、選手は移籍の自由を獲得する。それがアメリカのフリーエージェント制度だ。有資格選手は、在籍球団の拘束を受けずに他のチームと契約交渉を行うことができる。一時期、有資格選手のなかの、いわゆる“大物”の獲得をめぐって複数球団が争い、野球選手の年俸が大幅に上がったことがある。過去の実績を背景に、選手の代理人(弁護士か会計士)が契約にさいして高額のギャラを要求するようになったからである。人件費増が経営を圧迫することに気づいたオーナーたちは、共同戦線を張って、超高額を要求するフリーエージェント選手をボイコットしようとした。選手会側は、それが“談合”であると提訴。オーナー間の密約はルール違反であるという、調停人の裁決を得たが、しかし、オーナーたちの財布のひもは固く、ついに八七年のシーズンにはアトランタ・ブレーブスの中心打者ボブ・ホーナーがどのメジャー球団とも契約できず、日本のヤクルト・スワローズと二〇〇万ドルの年俸で契約するというケースまで出てきた。
リゲッティも、フリーエージェント宣言したものの、どこからも買い手がつかず浮きあがる可能性がある。東京のジャイアンツはそう考えたのだろう。
そして条件を提示した。
リゲッティは、その数字を、三度、電話で聞きなおした、という。信じがたいほどの金額を提示されたからだ。ジャイアンツがリゲッティに提示した数字は、一説によると二年間で一千万ドルだという。一千万ドル。約十三億円である。円高がここまで進行する前であるならば、二十億円をこえる金額である。
アメリカのメジャーリーガーたちの年俸が高くなったといっても、年俸一〇〇万ドルをこえているのはまだ一部の選手たちだ。リゲッティがおどろくのも無理はない。
しかし、リゲッティは、東京のジャイアンツとは契約しなかった。かれが選んだのは今までユニフォームを着ていたヤンキースで、その条件は三年間で四五〇万ドルだったという。
二年間で、一千万ドルと、三年間で四五〇万ドル。金額だけを見れば、ジャイアンツのほうが数倍、いい。にもかかわらず、リゲッティは、アメリカで、ニューヨークで野球をつづけることを選んだのである。
破格の条件を提示したにもかかわらず、フラれてしまった。このハートブレイクは、ジャイアンツに深い傷を残すのではないだろうか。
それが、江川がプロ入りして九年たち、突如、引退を表明したころの、日本のプロ野球の一つの姿だった。
七八年にアメリカの野球を見はじめたころ、ぼくが感じたことの一つは、これほど魅力的なベースボールの世界に、なぜ一人も日本人が挑戦しようとしないのか、ということだった。かつて巨人のユニフォームを着ていた小川邦和投手がアメリカへ行き、セミプロリーグから始めてバンクーバーのAAAチームまで行きついたのは、もう少しあとのことだ。かれが若ければ、メジャー入りが可能だったかもしれない。西武ライオンズを自由契約になったあとブリュワーズのスプリングキャンプに参加し、入団テストを受けた江夏豊の場合も同様だ。もっといい時期に、江夏がアメリカに行く気になっていたら……日本の野球環境はだいぶ変わっていたのではないか。
USCに留学していた江川に、ぼくは一瞬、期待した。
若い、イキのいい選手が揃っているAAクラスのチームに入り、実績をあげる。そしてメジャーに昇格していく。あのころの江川だったら、十分に可能だったのではないだろうか。もしかれが、どうしても東京のジャイアンツのユニフォームを着たいのであれば、そのあとでトレードという形で東京に戻ってくればいいではないか。その時、また、東京のジャイアンツの有望選手を一人、アメリカのベースボールの世界に送りこむことができる……。
現実は、そうはならなかった。
江川は“空白の一日”のために日本に戻ってきてしまったのだ。
そして、日本の野球ファンは、時どき、思い出したようにこういう議論をする。今、誰だったらアメリカで通用するだろうか、と。シーズンオフにメジャーリーガーのチームが日本にやってくると、必ずその話題になる。清原はどうか、いや秋山のほうが可能性があるかもしれない。ピッチャーなら槙原だ、いやむしろ広島の大野あたりが面白い……。
通用するかどうか、そんな話をいつまでつづければ気がすむのだろうか。一千万ドルの金額を提示して、あとになって悲しい思いをするよりも、その数分の一の資金を投入して、トップクラスの選手を「ベースボール」の世界に送り出してみることのほうが、ずっと実りのあることではないだろうか。若い選手を教育リーグに派遣するのではない。第一線の選手をメジャーに、少なくともメジャーリーガーになれる可能性のあるマイナーチームに送り出してみることだ。
雨が降ってくると、ニューヨーク二番街の、空き缶を手にもった路上のパフォーマーは、最後に両手を広げ、何ごとかを叫んだかと思うと、だらりとその手を下げた。それでも缶のなかからコインが落ちることはなかった。きっと、クォーターとダイムがほんの数枚、入っていただけなのだろう。
かれは白い息を吐き出していた。
ぼくは路肩に半分乗りあげてパークさせておいたレンタカーの運転席に坐って、しばらくかれを見つづけていたのだった。
目が合った。
かれは首をすくめてみせた。雨だ、ついてないとでもいうようだった。そして歩道のすみに置いてあった紙袋に歩み寄った。中からしわになったレインコートをとりだすと、羽織った。ぼくはブルゾンのポケットに突っこんでおいた新聞をさし出した。傘のかわりにでもなるだろうという、そんなつもりだった。
かれは近づいてきて、聞いた。これは何だ、と。日本の新聞だ。ぼくは答えた。いいニュースがのっているのか。かれは聞いた。いや、たいしたことはのっていない。ぼくはいった。江川の引退など、かれにとってはどうでもいい話だ。
かれは新聞をレインコートのポケットにしまった。まあ、それもいいだろうと、ぼくは思った。
雨が、かれの肩を打っていた。
かれはもう一度、空を見あげると、「サムバディ・アップ・ゼア……」と、つぶやくようにいった。天にいる誰かが――と。聞いたことのある台詞《せりふ》だったので、ぼくはニヤッとした。
古い、ボクシング映画のラストシーンでチャンピオンになったポール・ニューマンがニューヨークの五番街をパレードしながら天を指していうのだ。「サムバディ・アップ・ゼア・ライクス・ミー」と。神様が自分を好いていてくれたんだ、といったニュアンスだ。ツイていたのさ、ぐらいの感じだろうか。
二番街の男は、もごもごと口のなかで何ごとかをつぶやいた。ぼくには聞きとれなかった。「……アンライクス・ミー」。ツイてない、といったのなら面白いのだが。
江川はどうだろうか。かれの野球人生はツイていたのか、ツイていなかったのか。
ポール・ニューマンは、映画の中でボクシングのチャンピオンになって五番街をパレードしてからほぼ三十年後、年老いたハスラーの役を映画の中で演じることになった。
そのラストシーンも、ぼくはよくおぼえている。
かれは若くていきのいいハスラーを自分の手で育てようとするが、自分のやりたいことはそんなことじゃないと気づく。勝負をするのは自分だと、自分でなければいけないと思うのだ。
年老いたハスラー、ポール・ニューマンはビリヤードのプールに九つの球を並べ、自分の白の球を突いてブレイクしながら叫ぶのだった。
「カムバック!」
ニューヨークは笑わない
また、旅の途中だ。
仕事の都合もあって、長い旅ができない。それで何度も短い旅をくりかえすことになる。
どういうわけか、アメリカの東海岸に行くことが多く、この一年でもう五回ほど往復している。
マンハッタンに、好きな靴屋さんがある。イタリー製の靴を置いている。シンプルなデザインで、履き心地もいい。値段も、東京で買うよりはずっと安い。ニューヨークに行くたびにその店で靴を一足ずつ買ってくることにしている。その靴がだいぶたまってしまった。次に何を買うか、まだ決めていない。
週末の朝だったと思うが、ホテルの部屋のTVをつけていたら、ABCニュースがハワイの不動産を買いあさる日本人の特集をしていた。
レポーターはホノルルで不動産業を営んでいる日系のビジネスマンを追いかけていた。かれのところに強いYENを持って日本人の買い手がやってくる。億単位の物件をキャッシュで買っていくのだという。
対比するように、一組の若いアメリカ人夫婦が紹介されていた。夫がホノルルで仕事をすることになり、永く住むことになりそうなので家を買うことになった。ところが、物件があまりにも高くなってしまっているので面くらっている。
「これじゃ、ちょっと手が出ないよ」
若いアメリカ人夫婦は予想したとおり、そういっていた。
ぼくの知り合いが、つい最近、マウイ島のコンドミニアムを買った。すご腕のビジネスマンなので、コンドミニアムをそっくり買ってしまったのではないかと想像した。そういう人間がいるからハワイの不動産価格が異常に上昇するんだ、決して儲けすぎることのないように、もし儲けすぎているようだったら一部屋をおれにただ同然の価格で売ってみたらどうか――そういってやろうと思って電話した。
「ちがうんだ。買ったのは一部屋だよ」
かれはいった。
「まだマウイは安いんでね。今のうちだと思って買ってみただけさ」
不動産価格の上昇には、ほとんど寄与するところはなかったという。かれがいうには、毎日数千万株が取引されている大型株を気まぐれに千株ほど買ったようなものだという。
強いYENを背景に不動産を買いまくる日本人の列にかれが加わっていなかったことにホッとすべきなのか、それともガッカリすべきなのか、ぼくは複雑な気分だった。
ABCニュースは、現地からの報告を紹介すると、スタジオのキャスターがそれを受けてコメントを加える。現状をどう受けとめるべきか、キャスターのコメントが視聴者に与える影響は小さくない。
キャスターが何というか、ぼくは耳を傾けた。
かれはいった――「かつて、ドルがとても強かったころのわれわれアメリカ人の姿を思い出しますね」
そして話題は次のニュースに移っていった。
意外なコメントだった。
ドルが強かったころのアメリカ人が、夏になると大挙してヨーロッパに旅行に出かけていたことは知っている。ちょうど今の日本人がこぞってアメリカへ旅行するようなものだ。
同時にかれらは、モノを買い漁《あさ》っていたのだろう。キャスターのコメントには、われわれはもうそういう段階を卒業したのだという余裕すら感じられた。キミたちはそのあとをついてきているにすぎない、というニュアンスである。
「フレッドがアップ・ステイトに土地を買ったんだ」
と、ニューヨークに住む日本人のタカギさんがいった。タカギさんはニューヨークに十五年ほど住んでいる。ヴィレッジのコンドミニアムを借りていて、自分のほうから出ないかぎり家賃は急激に高くはならない。州法によって家賃の上昇が抑えられているからである。同じコンドミニアムでも、住人が何人も入れかわっている部屋は、新規契約のたびにオーナーが家賃を大幅にあげていくので、異様に高くなっている。タカギさんはテコでもそのコンドミニアムを動くまいと決めているので、何度も契約更改をしているのだが、更改時の値上げ率は州法によって上限が定められているので、比較的安い家賃の部屋に住みつづけているわけである。
フレッドはそのタカギさんと同じコンドミニアムの、割高の家賃の部屋に住んでいる。タカギさんは結婚していて、奥さんはアメリカ人だ。フレッドには、同居しているジョアンナというガールフレンドがいる。
そのフレッドが土地を買ったというわけである。
ぼくは一度、ヴィレッジのタカギさんの部屋でフレッドと会っている。ヴィレッジのあたりは学生が多く、夜遅くまであいている店が多い。ライブハウスで古いウエスタンを聞き、その足でタカギさんのところに行くとフレッドとジョアンナがいて、ぼくらは夜おそくまで酒を飲んだ。
それが一年ほど前のことだ。
フレッドはマンハッタンのSAKSというデパートで働いているといっていた。売り場に立っている男である。高い給料のもらえる仕事ではない。
だからぼくはおどろいた。
「どこの土地を買ったんだ」
「アップ・ステイト」
と、タカギさんがいった。
ニューヨークの北のほうである。
マンハッタンのあるニューヨーク市は、ニューヨーク州の南のはずれで、州本体はマンハッタンから北に大きく広がっている。州都アルバニーに行くにはクルマを四時間ほど走らせなければいけない。
「アルバニーまでは行かないが、キャッツキルよりも先だよ」
「いいところじゃないか」
「まあね。そこを見に行こうと誘われたんだけど、一緒に行く気はある?」
タカギさんはいう。
かれ自身、ニューヨークの北《アツプ・ステイト》に土地つきの家をさがしている。そのことは、以前から聞かされていた。ニューヨークから三時間ほど北へ行くと、冬にはスキーのできる場所がある。あたりはどこまでも広がる丘陵地帯で、ニューヨーク州は全体を眺めれば農業の州である。
そういうところに家を買う。
それが、かねてからのタカギさんのプランで、かれはヒマになるとクルマを走らせ、奥さんと不動産ハンティングに出かけている。
タカギさんの仕事はテレビのロケーション・マネジャーで、忙しいときは何日も家をあけるが、仕事のないときは退屈するほどヒマだという。奥さんは図書館で仕事をしている。窓口で本を貸出す仕事である。
「なにしろ、ニューヨークは笑わないからね」
タカギさんはそういっている。
「そうだな、たしかに笑わない」
ぼくはいう。
ニューヨークは笑わない――。
そもそもはタカギさんが奥さんにいった言葉がベースになっている。
あるときかれは、マサチューセッツ州生まれの奥さんにトーキョーは時々笑うのだと、そういう言い方で説明せざるをえなかったことがあった。
数年前、かれが一度、東京に戻ってきたときのことだ。
そのころかれは、ニューヨークをひきあげ、東京に住もうと考え始めていた。タカギさんの実家は横浜にある。しかし、そこにアメリカ人の奥さんと一緒にころがりこむわけにはいかない。住むのなら東京になるだろうと考えた。かれは、奥さんを連れて東京にやってきた。都内のホテルに泊まりながら、地下鉄や電車を利用して動きまわった。かれにとっても久しぶりの東京だったので、行ってみたいところはたくさんあった。浅草の仲見世通りを歩いて浅草寺にも行った。新宿の歌舞伎町にも行ってみた。あの町の変わりようにかれはおどろいたが、奥さんは活気のある東京の町を気に入ったように見えた。ニューヨークに戻ったら一度真剣に東京に住むことを話しあってみようと、かれは考え始めていた。
ところが、そんなとき、地震がやってきたのだった。
かれらの泊っている高層ホテルはよく揺れた。さほど大きな規模の地震ではなかったのだが、建物がゆらゆら揺さぶられることが、奥さんには信じられなかったらしい。彼女はおびえた。ベッドにしがみつき、揺れがおさまったあとも、枕をかかえて起きあがろうとしなかった。翌朝になって、余震があった。東京に住んでいる人間にとって、それはじつに些《さ》細《さい》な、感じるか感じないか程度の揺れだったのだが、彼女は地面が、そしてビルが揺れることに過敏に反応するようになっていた。
心配するなよ、とタカギさんはいった。東京ってところは時々、町全体が笑うことになっているんだと。ほら、日本人っていうのは勤勉だろ、働きすぎるくらいよく働くだろ、そのストレスがたまってくるんだよ、それでたまに思い出したように笑うんだ、地面も腹をかかえて笑うし、ビルも笑ってしまう……。
それだけのことなんだ,とかれは軽くいっておきたかったのである。
「でも、ニューヨークは笑わないわ」
彼女はシリアスな表情でそう答えたという。
東京に住もうかというタカギさんのアイデアは、結局、実現しなかった。
「安かったらしいんだ」
タカギさんがいう。フレッドが見つけた土地の話である。
「安いって、どれくらい?」
「タダ同然だといっていたからな、数千ドルの単位だろうな。広さが坪数にすると……百十五坪くらい、いやもっとあるかな」
「安いじゃないですか」
「あのあたり、キャッツキルの周辺は、ぼくも何度か見ているんだけどね……」
そういう物件があるとは気づかなかったと、不動産ハンターのタカギさんがいう。
かれと郊外をドライブしていると、どの家がいくらぐらいか教えてくれるので、面白い。ニューヨークから二、三時間北へ向かってフリーウェイを走り、幹線道路を外れて小さな町に入っていく。林のなかに点々と木造の、白いペンキを塗った家が見えてくる。裏庭には小さなプールがあるような家だ。
「これは……そうだな、せいぜい五万ドルぐらいだろうね」
今の為替レートでいうと六〜七百万円である。
家のつくりがよく、かなり広い家だと思われるものでも、タカギさんにいわせると 「一〇万ドルはしないと思う」
あちこちを見てまわっているから、自信をもって値づけをしてくれる。
しかし、かれ自身、まだ決断がつかないらしい。いろいろな物件を見すぎてしまったのかもしれない。なかなか決められない、という。
「それに、家を見てまわるという、そのこと自体が面白くなっちゃってるんだ」
「趣味の不動産ハンティング?」
「それに近いね。売りに出ている物件はたくさんあるんだ。その家をさがしていって、まず遠くから眺める。ここに住むことになったら、どういう生活になるんだろうかと、考える。もう少し近づいていって、家のまわりを見る。庭の手入れをしなくちゃいけないなとか、屋根の修理もしよう、その屋根の色はどうしようか……考えていくと、けっこう楽しいものだよ。そのうちに、どうしても家の中まで見たくなる物件がある。その段階で初めて不動産屋に連絡する。家の中を見せてもらえるでしょう。すると今度は家具をどうしようか、壁を塗りかえるか……あれこれ考えていくとキリがないくらいだ」
家を見てリフォーム計画をたて、インテリアを考える。そうしているうちに、また次の不動産ハンティングに出かけていく。
それをくりかえしていると、ハンティングそのものが趣味になってしまい、その中からどれか一つを選べなくなってしまう。
一つ選んでしまったら、もうハンティングは必要なくなってしまうからである。
そうこうしているうちに、自分より高い家賃を払っている同じコンドミニアムの住人、フレッドがアップ・ステイトに土地を格安の値で買ってしまったわけである。
タカギさんにとってはちょっとショックだったようだ。
たまたまニューヨークにいたぼくは、フレッドの土地を見にいくことにした。
フレッドのガールフレンドのジョアンナは野球が好きだ。
ガールフレンドといっても、もう三十歳をこえている。彼女の自慢は一九八六年のワールドシリーズの第七戦をシェイ・スタジアムで見たことだ。その年のワールドシリーズはニューヨークに本拠を置くナ・リーグのメッツと、ア・リーグのボストン・レッドソックスのあいだでたたかわれた。
メッツはその年、ナ・リーグのプレイオフ(東地区優勝のメッツと西地区優勝のヒューストン・アストロズのあいだで争われた)でも逆転勝ちしたが、ワールドシリーズでも後半もりかえして三勝三敗のタイにもちこみ、第七戦で逆転勝ちした。ニューヨークの野球ファンは大喜びだった。
ジョアンナは、その第七戦のチケットを手に入れてシェイ・スタジアムへ行ったというわけである。
ぼくはそのワールドシリーズの序盤戦のゲーム前半、メッツの調子が悪いときの試合を、シェイ・スタジアムで見ている。
野球の話をすると、お互いに話が尽きない。それに彼女は、日本のプロ野球についても知っている。
年に、三、四回、日本のプロ野球がニューヨークのTVで見られるのだという。
しかし、それにしては詳しすぎるくらいだ。カケフ、オチアイ、アキヤマ……何人かの選手の名前をジョアンナは知っている。
「ソフトボールをやっていたことがあるのよ、もう何年も前のことだけど」
「ポジションは?」
「ピッチャーもやったことがあるわ。かなり速い球を投げるのよ、知ってる?」
「知ってるよ。それくらい野球が好きなら、女性の野球チームに入ればいい。アメリカでは女性の野球リーグを作ろうという動きがまた出てきているんだろ」
「あら、なぜそんなことまで知ってるの?」
彼女にしてみれば、東京からやってきたぼくがアメリカの野球について妙にこまかいことまで知っているのが不思議らしい。
女性の野球リーグの話は、ニューヨークの新聞に出ていたものだ。アメリカン・ウィーメンズ・ベースボール・アソシエーションはとりあえず二チーム、三十四人の選手によってスタートするという。中心になっているのはダーリーン・マーハーという四十四歳の女性だ。
ぼくがそんなことまで知っているくらいだから、野球好きのジョアンナが日本のプロ野球選手について知っていてもおかしくはないのかもしれない。ジョアンナはニューヨーク生まれで、ミッキー・マントルが打ったホームランをヤンキー・スタジアムで見ているという。
「ミッキー・マントルのホームランを!?」
「そうよ。もちろん私はまだベイビーだったけど」
「おいおい、そんなこといってると、本当の年がわかっちゃうぞ」
フレッドがジョアンナにいった。
ウィークデイの午前中に、ぼくらはマンハッタンを出発した。
タカギさんの奥さんは仕事があるので来られない。フレッドは休みをとったのだという。フレッドの同居人ジョアンナが何をしているのか、まだ聞いていない。いずれにせよ、一緒についてきたのだから、その日はオフということなのだろう。
タカギさんがクルマを運転している。
トランクにフレッドが大きな荷物を積みこんだ。ランチはおれの土地で食べようと、フレッドはいっている。ランチを用意してきたにしては大きな荷物なのだが。
その日、マンハッタンは曇りがちで、北へ向かうと雨が降りだした。
フレッドはそのさらに北の空を指さし、向こうは明るいから晴れている、といった。
「先週もそうだったんだ。マンハッタンは曇っていたけど、キャッツキルの北は晴れていた。今日も同じだよ」
「先週も行ったの?」
「行ったよ。ヒマがあれば必ず行くようにしているんだ。もったいないじゃないか。せっかく買った土地なんだから」
フレッドがいう。
アメリカ人の土地に対する考え方が、ぼくにはよくわからない。
広大な国だから、さがそうと思えば、どこにでも安い土地がある。そのために、日本人のような「土地信仰」はない。それが一般論だろう。
しかし、フレッドはまるで日本人のように、自分が買った土地に執着している。そんなふうに、ぼくには見えた。
ドライブをしながら話を聞いているうちにいくつかわかったことがある。
当面、その土地に家を建てる計画はないというのが、その一つだ。
「家を建てない?」
「しばらくはね。だって、家を建てるにはカネがいるし、仮にそこに家を建てたら、そこから通わなくちゃいけない。マンハッタンに通うには遠すぎるよ」
「それはそうだけど……、それじゃ何のためにそこの土地を買ったんだい?」
「そう、いい質問だな。そこなんだよ、ポイントは……」
フレッドは言い澱《よど》んだ。
「かれは一人で契約してきたのよ」
ジョアンナがいう。
「一人でね」
自分には責任がない、という口ぶりだ。
「そう。ぼくが見つけて、ぼくが契約してきたんだ。だから、あそこはぼくのものさ」
「そのとおりよ」
ジョアンナがいう。「要するに、サインなしでスチールしちゃったみたいなものよね」
「まあ、何というか――」
フレッドが口ごもる。
「自分の目の前にあるものが、突然、素晴らしいものに見えることがあるだろう。しかも、安いときている。これなら買えるぞ、いつかここに家を建てる。夏は涼しくて、冬は近くの山でスキーができる。こんなに素晴らしいところはない。そう思ったら、すぐに行動に移すべきなんだ。そうだろ? だからぼくは即座に行動に移したんだ」
フレッドはおおよそ、そんなことを五分ほど喋《しやべ》りつづけた。
「衝動買いなんだな」
ステアリングを握るタカギさんが、やっと納得できたというように日本語でいった。
「それで、買ったのはいいけれど、使いみちがないんで半ばヤケになって毎週のように通っているのかな」
「そういうことだな。クルマにテントを積んでいたから」
「テント?」
「そう。トランクに入っているのはテントだよ」
幹線道路を外れて、脇道に入った。
小さな町を通りすぎた。クルマはなおも走りつづけた。舗装道路がいつのまにかでこぼこ道にかわっていた。タカギさんはギアをセコンドにおとした。
雨はやんでいた。林の枝のあいだから薄日がさしこんでいた。
フレッドが運転をかわろうといった。この先はおれが運転したほうがいい。
途中フレッドは道に迷った。本人にもまだ正しい道がわかっていないらしい。一度、丘の上に出るとあたりを見まわした。そうか、わかったぞといって、かれはもう一度運転席に戻った。
「あそこに川が見えるだろう」
フレッドが指さした。
ちょうど川を見おろせるあたりだった。その川の向こうに、ヨーロッパの古い町を思わせるような小さな町が見えている。
「ハドソン河だよ」
得意気にフレッドはいった。
ほかには、何もない。
みごとなくらい、何もなかった。
「ちょうど、新しい芽が出てきたころだった――」
フレッドがいった。
「このさらに奥にワイナリーがあってね。ワイナリーに用があって、たまたまこの前を通りかかったんだ」
ワイナリー。ワインの醸造所である。ニューヨーク産のワインは、こ《ヽ》く《ヽ》がないがフルーティーで飲みやすい。規模の小さいワイナリーがニューヨークのアップ・ステイトには点在している。
「林がいっせいに緑の小さな葉をつけ始めていた。あれはいいもんだよ。FOR SALE の看板が倒れそうになっていた。ずっと前から土地が売りに出されていたらしいんだ。ワイナリーのボスに聞くと、何年も前にこの斜面を買った人間がいるらしい。川を見おろせるところに家を建てるつもりだったらしいんだけど、結局、何もしなかった。持ち主に連絡すると、そもそもの所有者はもう亡くなっているのだという。奥さんが電話に出てね、いくらで売りに出したのかも忘れていた。相続の手続きはしたのだけれど、財産とみなされるほどのものでもなかったらしい」
家を建てるなら、まず水道を引くことから始めなければならない。
それもしていない。
そういう土地に高値がつくはずもない。
しかし、フレッドには、一瞬それが素晴らしいものに見えてしまったわけである。ノミの市で見つけた古い壺がどういうわけか、いいものに見えてしまい、どうしても欲しくなってしまうのに、ちょっと似ている。
「川が見おろせるからな、ここは」
タカギさんは、腰をおろしてつぶやいた。
かれはホッとしたようだった。こういうところなら、タダ同然で買えてもおかしくない。フレッドに先をこされたと思ったが、そういうことでもないらしい。
フレッドは浮き浮きとランチの仕度を始めた。ミネラル・ウォーターの栓を開け、コッヘルで湯をわかす。アイスボックスには冷えたビールとダイエットペプシが入っていた。湯をわかしたのはジョアンナがホットティーしか飲まないからだという。
タカギさんがサンドイッチを作ってきていた。大きな容器にはピクルスも詰めこまれている。
フレッドは、ものの五分とかからないうちにテントを組みあげた。簡単なものだが、強い風にはやられてしまうだろう。
一週間前にきたときは、そのテントで一晩すごしたという。
昼間でもテントがあったほうがいい。陽に焼けすぎると問題だ、とフレッドがいう。オゾンが少なくなっているから、紫外線にやられて皮膚ガンになる。
シックスパックのビールをあらかた飲んでしまうと、眠くなってきた。
草地の上にバスタオルを敷き、横になった。
タカギさんは、自分ならここにプール付きの家を建てるといっている。ここと似たような土地に建っている家をこのあいだ見たばかりだ。庭には組みたて式の、掘り下げないでもそのまま使えるプールが置いてあった……。
毎月五〇ドルのローンでここを買ったんだと、フレッドがいっている。五〇ドル? へえ五〇ドルか、といって皆で笑った。
どうせなら野球のできる平らなところのほうがよかったとジョアンナがいう。芝のある平らな場所……。彼女にとっては何の役にも立たない斜面の土地よりもシェイ・スタジアムの外野の芝のほうが価値があるのかもしれない。いつだったか、メッツがワールドシリーズに勝ったとき喜んだファンが外野にとびおり、芝をはがしてもっていってしまったことがあった。
眠くなってニューヨーク郊外の、とある町の丘の斜面で、ぼくはつかの間の眠りにおちこんでいく。タカギさんと、フレッド、それにジョアンナが笑いころげていた。何がおかしいのか、ニューヨークが笑っているようだった。
どこからか歌が聞こえてきた。女性ヴォーカリストがワイルドフラワーはどこでだって花を開かせると、歌っている。自分のことを、そう歌っているのだろう。私は大丈夫、どこでだって生きられるわ、あなたがいなくても……。そんなフレーズだ。
あとで気づいた。フレッドがカセットテープをカーラジオにセットして、クルマのドアを開けたままヴォリュームをあげたのだった。歌っていたのは、ドリー・パートンだった。
東京に戻ったある日の午後、ボブ・グリーンのコラム集を読んでいると、かれが、ニューヨークのホテル宿泊料金のあまりの値上がりぶりを嘆いていた。
ニューヨークのホテル料金がこのわずか十数年のあいだに異常に高くなっているのだという。一九七三年、パークレーン・ホテルに滞在したとき、一泊料金は三六ドルだった。同じ年のうちに料金が値上げされるというので驚いたが、それでも四二ドルだったという。それから十四年後の一九八七年――その年にこのコラムは書かれたのだろう――に、同じ部屋の料金が一泊二四五ドルになっていた、という。税金を含めると二八一・四六ドルになると、かれは細かく計算している。
ニューヨークのホテルがすべてこれほど高いわけではないことを、ぼくは知っている。一〇〇ドル台でかなり広いツインベッドルームを借りることもできる。しかし、ボブ・グリーンが指摘するような値上がりをしているホテルもあるわけだ。
最近の、東京の新聞の折り込み広告の中に、ニューヨークのトランプタワーの一室を買いませんかという案内が入っていた。ぼくが東京で毎日読んでいる新聞に入っていた折り込み広告である。トランプタワーはNYの五番街にドナルド・トランプが建てたビルで、たしか六階ぐらいまでは有名ブティックなどが入っていたはずだ。そこから上がコンドミニアムになっていて、そこをオフィスに使ったり住居に使ったりする「有名人」が少なくないことでも知られている。ドナルド・トランプは新世代の不動産業者で、自分が建てたビルには全てトランプという名前をつけてしまう。ニュージャージー州のギャンブルタウン、アトランティック・シティーに行くと「トランプ・プラザ」「トランプ・キャッスル」という名前の二つのカジノホテルがある。最近かれはアメリカの東海岸を舞台に、一週間ほどつづく自転車レースを主催した。そのイベントの名前は「ツール・ド・トランプ」である。何にでもトランプと名づけてしまう男は、エルビス・プレスリーに似てなくもない。プレスリーになりそこねたような顔をしている。
NYのトランプタワーは、かれの成功を誇示するかのごとく一階から六階まではゴールド・カラーで彩られている。
そのトランプタワーのコンドミニアムをセールスする広告が東京で配られる新聞のチラシとして折りこまれているというあたりが一九八〇年代末の東京の雰囲気を伝えていて面白いのだが、もうひとつおどろいたのはその売り値が日本円にして三億円近いということだった。2ベッドルームの、日本風にいえば2LDKだが、広さはウサギ小屋ではなく、たっぷりとある。それでも二億、三億というのは高すぎる。つい二年ほど前、ニューヨークにいるときに、ちなみにあのトランプタワーのコンドミニアムはいくらぐらいかと、「ちなみに」の部分を強調して地元の事情通に調べてもらったら、一〇〇万ドルという単位にはならなかった。一〇〇万ドルで一億二、三千万だから、いわゆる「億ション」にはなりきれていなかったのである。
それが、いつのまにか二〜三倍の値をつけられて東京の、新聞のチラシにさりげなく折りこまれて売りに出されるあたりが、おそろしい。
異常に高くなったと関係者が口を揃えていうのが、もう一つある。プロスポーツ選手の年俸だ。野球でいえば、日本では一億円プレイヤーが話題になっているが、八八年のシーズンオフにアメリカのメジャーリーガーたちの一部は「年俸二四〇万ドル」ラインあたりで激しい攻防戦をくりひろげていた。年俸二〇〇万ドル(二億五、六千万円)に達する選手が十数人いて、その中で誰が最高額の契約を勝ちとるか、注目されていたわけである。アメリカの契約更改には調停制度があり、選手、球団側の話し合いで折り合いがつかないと第三者の調停にゆだねられることになる。そこで自分の言い分がとおるかどうか、きわどいので、一方で調停に持ちこみつつ、他方で選手(の弁護士)と球団側はぎりぎり最後まで水面下の話し合いをつづける。他の選手がいくらで契約したか、その最終結果を待ちながら、それよりも一ドルでも多ければそこで妥協してサインしてしまおうと、そこらへんのかけひきが面白い。
年俸トップの座につきそうな選手が何人かいて、その一人、ミネソタ・ツインズのゲーリー・ガエッティーは約二四〇万ドルで妥結した。するとNYメッツの投手、ドワイト・グッデンが約二四二万ドルで契約をとりかわした。そこらあたりが限界だろうと思われたのだが、八八年のシーズンのワールド・チャンピオン、LAドジャースのエース、オーレル・ハーシュハイザーが最後に追いこみを見せ、グッデンを抜きさった。年俸、二七六万ドル(一ドル百三十円として三億六千万円)である。
年俸三〇〇万ドル時代は、二、三年後に確実にやってくる。
しかし、その三〇〇万ドルをもってしても、東京の都心にどれほどの住まいが買えるのかというと……。
値上がりのことをいえば、NYのホテル料金も、コンドミニアムも、メジャーリーガーの年俸も、東京の地価にはまだまだかなわないのである。
東京は時々、笑うんだと、タカギさんは地震のことを、そういって奥さんに説明した。一度、東京に「大爆笑」してもらったほうがいいのかもしれない。
永久歯のない町
ニューヨークから戻ると、また街の風景が変わっていた。
長い滞在であったわけではない。せいぜい十日か、そこいらのものだ。それでも、再び東京の、いつも暮らしている町に戻ると、街のたたずまいが変わっているのだから、いやになってしまう。
建物が一つ消えていた。
古い二階建ての家屋だったのだが、まるで一本、歯が抜けたようだった。
あとかたもなく見えなくなっており、土がむきだしになっていた。
地上げされたのである。やがてそこに、もやしのように痩《や》せたひょろっとしたビルが建つことになるのだろう。ここ数年、近所から建築工事の音がとだえたことがない。
東京には永久歯がない。いつまでたってもはえかえてばかりいる子供の歯のような町である。
ついこのあいだまでそこには鍵《かぎ》を作ってくれる小さな店があった。いつでも、即座に合い鍵を作ってくれるので、重宝していた。ぼくは小物をなくすことの多い人間で、特に鍵はいけない。一度に全部の鍵をなくしてしまうと困ってしまうので、いくつかのキイホルダーに分けて持っていたことがある。すると、そのうちの一つを、どこかで紛失してしまう。結局、大きめのキイホルダーにすべての鍵を束ねるようになったのだが、そのキイホルダーをなくしたら大変だと気をつかいすぎるあまり、どこか落ちつかない気分になってしまう。
キイホルダーを売っている店の前を通ると、しばらく立ちどまる。紛失することのないキイホルダーがあるのではないかと、一瞬、考えてしまうせいだ。
よく、鍵の束をベルトのあたりに結びつけている人がいて、あれもまた一つの安全策なのだろうが、どうも好きになれない。じゃらじゃらして目ざわりだし、スマートではない。
そんなこんなで、ぼくは何度も町かどの鍵を作ってくれる小さな店に足を運んだ。
あちこちにマンションや家を持ち、曜日によって通いわけているわけではないが――誰もそんなふうに誤解してくれないのが実情だ――どういうわけか、鍵はたくさん持っている。
今度はこの鍵のスペア、しばらくするとまた別のスペアと、ひところよくその店に通ったので、オヤジさんとは顔みしりになった。
鍵を渡すと、黙ってかれはそれを見つめる。これは、あのタイプだなと、つぶやくようにいうと、すぐに仕事にとりかかる。
仕事は素晴らしく、速い。電磁ロックのスペアづくりも、かれの仕事のテリトリーに入っている。仕事がないときは、いつも狭い、雑然とした店の中に坐って、ボーッと外を見ていた。あの、決して広いとはいえないスペースの中から往来を見つめているのは、どんな気分だろう。昔の、煙草屋の店先から道行く人びとを眺めわたしている感じに近いのではないか。ぼくはそんなふうに想像していた。
鍵をなくして、自分の仕事部屋として使っているワンルーム・マンションに入れなくなってしまったことがある。管理の行き届いたマンションで、一階にはフロントがある。それくらいのところだからきっとフロントにスペアキイがあるだろうと思っていたが、フロントの人はあずかっておくべきスペアキイを、すでにぼくに渡してあるという。
仕方なく、例の店に行った。
よくあるんだ……と、オヤジさんはいうと、小さなバッグを持ち、店の入口に鍵をかけて外に出た。開かないはずの、部屋のロックを開けてくれるという。
そのときにも、ぼくはかれの仕事ぶりに刮《かつ》目《もく》することになった。
どの世界にもその道のプロがいて、例えばキイを使わずに鍵を開けるということでいえば、それを専門としているプロフェッショナルたちが日夜、ひそかに、足音をしのばせて、活躍していることは知っている。かれらもきっといい腕をしているのだろうが、街かどの、目立たない一画に店を構え、スペアキイを作って生活しているこの人の腕もなかなかのものだった。
細い針金のようなものを使って、あの鍵の中を、目を閉じ耳を傾けてさぐったと思うと、左手でノブを握りゆっくりと左にまわした。ドアは開いた。
「これは一番、簡単なヤツだ」
つまらなそうに、かれはいった。
「ついでだからロックそのものをとりかえたほうがいいかな」
ぼくは聞いた。
「そうだね。キイが見つかればそのまま使えるけど、一度こんなふうにこいつで――(と、かれは細い針金をさしだした)――開けられちまったロックは、ケチがついたも同然だからねぇ」
「すぐにできますか」
「できるよ」
「じゃ、ロックごと取りかえてもらおうかな」
ぼくがそういうと、かれはバッグの中から、用意のいいことに、新しいロックをとりだし、ドアに取りつけ始めた。
さすが、である。
その仕事ぶりを見ながら話をした。
その腕を遊ばせておくのはもったいないといわれることがあるでしょう、とぼくは聞いた。
「そうだね」
と、かれはいった。
「もっとほかの商売もできるな」
「金庫も開けられるんでしょう」
「昔のヤツなら、だいたいわかるね」
「それはすごい!」
なぜかぼくはうれしくなって、拍手でもしたい気分だった。
「まあ、しかし、そんなこと考えていてもダメだね」
かれはつまらなそうにいった。
「本当は、開けることよりも閉めることのほうが商売になるんだ」
「…………」
「わかるでしょう」
そこで初めてかれは笑った。
「人が閉めたものを開けてまわっても、その稼ぎはたかが知れてますよ。苦労して開けても中にはカラッポ、何も入っていないこともある。それよりもですね、キチッと閉めるというノウ・ハウを考えて、安全なロックを作って売ったほうがずっと儲かる。なにしろ、ほっといても向こうから買いにきてくれるんだから」
「なるほど――」
「開けることを考えてばかりいるやつは、まあ、この道じゃ半人前だね。同じ腕と、それに頭を使って、キチッと閉めるシステムを作るやつが一人前だ」
そういっているうちに、ロックのつけかえ作業は終わった。
かれは、あとで請求書を送るといって、帰っていった。
その店が、短い旅を終えて戻ってみると、なくなっていた。
取りこわすには、ほんの数時間もあれば十分だっただろう。
その隣りの、以前からあったクリーニング店も見あたらないから、一緒に地上げされてしまったのだろう。
掘りかえされて整地された赤茶けた土を見ていると違和感をいだく。
こんなところにも土があったのかと、不思議に思えてしまうのだ。
ニューヨークではロングアイランドのゴルフ場をまわった。
うまいぐあいに週末にフリータイムができたので、ロングアイランドのかなり東のほうまで行ってみることにした。荷物はマンハッタンのホテルに置き、部屋もキープしたままレンタカーで出かけた。それが土曜日のことで、その日のゴルフ場は予約しておいた。大西洋からの風が吹き、一見、スコットランドのゴルフコースを思わせるようなところだった。プレイを終えてクラブハウスに戻ると、マネジャーと話をした。ここらへんには、静かなゴルフ場がたくさんあると、かれはいった。明日の日曜日、どこかでプレイできるかと聞くと、簡単なことだという。一緒に出かけた仲間もゴルフ好きなので、われわれはその日はモーテルに泊まり、日曜日もゴルフをすることになった。
日曜日の夜、マンハッタンのホテルに戻ると、キイをかえたいという話だった。ホテルのキイはカード式のもので、同じ部屋でもカードにインプットしてあるコードを定期的にかえるらしい。ふつうは宿泊客が入れかわるごとにかえるのだが、今回はなぜか、ぼくが泊まりつづけているのに、途中でかえたいのだという。
「何かトラブルがあったんだろう」
「いや、そういうことではない」
フロントの男は、断言するようにいうのだった。かれらは自分の仕事にミスがないことを主張するのは得意だから、高圧的ともいえるような態度である。
ぼくは新しいカードをもらった。裏面をコーティングされた、紙のカードだ。
旧いカードを返却すべきなのだろうが、忘れてしまった。どうせ使いものにならないカードである。まあいいやと、パスポートの間にはさんでおいた。
部屋に入ると、きれいに整えられており、サイドボードには花が飾られていた。このあいだまではなかったもので、サービスがよすぎるのでさて、不在中に何があったのかと、気になった。
荷物は荒らされていなかった。
何もかわっていないだけに、妙な気分だった。この部屋のドアを開けようとしてドジを踏んだやつがいたのかもしれない。ニューヨークである。考えられないことはない。
開けるよりも閉じることを考える人間のほうがしっかり儲けるものだ――あの鍵のプロフェッショナルのことを思い出した。
カード式のキイをあの男に見せて、どういう仕組みになっているのか聞いてみよう。
そんなことも考えたのだが、東京に戻ると店は消えてしまっていた。
さがせないことはないだろう。
しかし、ほんの短いあいだにあとかたもなく店が消え、決して広いとはいえない土地だけが残されているのを見ていると、みごとに消えたというそのことを記憶に残しておきたい気になってくる。
使わなくなったカード式のキイは赤茶けた更地の上にさしてきた。
何のことか、誰にもわからないだろう。
穴のあいたウォーターベッド
秋風が立ちはじめると、ぼくはプールに行く。
そういう習慣がいつのまにかできあがっていたことに、うかつなことなのだが、つい最近まで、ぼくは気づかなかった。
「ずいぶん久しぶりですね」
と、メンバーになっているアスレチック・クラブの水泳のコーチにいわれた。
「久しぶり? そうかな……」
ぼくはつぶやく。
「そうですよ。夏のあいだ、ずっと顔を見せなかったじゃないですか」
そこまでいわれて、今年だけでなく、ここ何年ものあいだ、夏という、最も泳ぐことに適していると思われる季節に一度も泳いでいないことに思いあたった。
なぜだろう。
かつて、ほとんど毎日のようにプールで泳いでいた夏があった。陽に焼けるというよりも、体がふやけてしまいそうな気分になったものだ。指の先から、いつも塩素の匂いが漂っていた。そこまでプールに漬っていたことに深い理由はない。そうしているのが、一番、安あがりな夏の過ごし方だったせいだ。プールは公共の施設で、そのころぼくはカネもなかったし、バイトをする気にもなれなかった。学生のころの、ある夏のことだ。
九月になれば――と、あのころは考えていたような気がする。九月になればプール漬けの日々がいやでも終わるだろう、と。
泳ぐというよりも、水に浮き、漂っている感じがよかった。
いや、待てよ。
それはあまりに説明的すぎる言い方だ。そのとき、そんなふうに考えていたわけではない。今になって改めて思い出すとそういうことだったのだろう、と位置づけているにすぎない。
しかし、なぜ、夏に泳がなくなったのだろう……。
あらためて不思議がることもないか。
近ごろは同じ野菜が一年を通して食べられるし、真夏に河《ふ》豚《ぐ》を食わせる店もある。発情期を忘れて、のべつまくなし子作りにはげむ猿もいる。
クラブのプールは、ビルの五階にある。
そのビルは一階から四階までいろいろなオフィスが入っており、六階にアスレチック・クラブの受付がある。六階にも他のオフィスがあり七階、八階にもオフィスが入っている。
プールに飛びこみ、25mプールを数往復し、ぽっかりと水に浮くと、ぼくはプールがビルの五階にあるということを思い出す。自分は今、ビルの真ん中あたりに浮いているのだ、と。
馬鹿ばかしい話だが、それがどうにも不思議に思えてしまうのだ。
思い浮かべるのはビルの断面図である。
ある断面でビルを、ちょうどケーキをカットするように切りとったら、そこに何が見えるだろうか。机に向かって仕事をしている人がいる。かれは、机に向かって何ごとかをしている。計算器を叩き、今晩のデート費用を計算しているのかもしれない。あるいは会社の資金計画をたてているのかもしれない。いずれにせよ、ある瞬間、ばっさりとその人の目の前で断面が切りとられたら、かれ、あるいは彼女は、とんでもないところを見られたという具合に、恥じるのではないだろうか。
電話をしている人も、会議室で妙に真面目くさって議論をたたかわせている人も、同様だ。
まあ、しかし、かれらは「仕事」という役割の決められた世界で芝居をしているようなものだから、突然、断面を切りとられたにしても、とりつくろいようはある。
困るのは、ぼくだ。
何とも場違いなような気がする。
なんだキミ、ウィークデイの午後だというのに、こんなところで泳いでいて。そういわれたら、答えに窮する。
同じビルのオフィスで仕事をしている人たちは、そのビルのちょうど真ん中あたりで水に浮かび、よしなしごとを考えている人間がいることなど考えもしないだろうが、プールに浮かんでいるぼくは、このプールの下にも、窓の向こうにも、天井の上にも、せわしげに仕事をしている人がいることを、考えてしまう。
浮いているな、とぼくは思う。
何と浮いた存在なのか、と。
そこで困ったりはしない。
水に気持ちよく浮いている感覚をとり戻し、また泳ぎだすだけのことだ。
記憶は不意によみがえる。
そのとき、何の脈絡もなく思い出されたのはウォーターベッドのことだった。
今でもウォーターベッドはどこかで売られているのだろうか。ぼくは買い物マニアではないのであまり自信はないのだが、東京のデパートの家具売り場でウォーターベッドが陳列されているのを見たことがない。
ぼくが見たことのあるウォーターベッドは、もうだいぶ前のことだがシアーズのカタログに出ていたものと、もう一つは南カリフォルニアの小さな町のモーテルに泊まったとき、その部屋にあったブルーのウォーターベッドである。
モーテルの名前までおぼえている。
サザンクロスである。
「モーテル南十字星」
星のネオンサインは、どこにもなかった。
ぼくはモーテル・サザンクロスのシャワーを浴びてバドワイザーのシックスパックを冷蔵庫からとりだした。チェックインする前に、近くのスーパーで買っておいたものだった。そのときはカメラマンのIと一緒で、チェックインしてそれぞれの部屋にひきあげるとき、シックスパックのビールを半分ずつ分けあった。六つ、つながった缶ビールからもぎとるようにして三つ引き離し、Iのバッグにのせた。ぼくの冷蔵庫には缶ビールが三つ、残ってつながりあっていた。エアコンを止めて小さな窓を開けると、網戸ごしに涼しい風が吹きこんできた。何の面白みもないモーテルで、ブロックを積みあげ屋根をのせただけの造りである。その内側に垂《たる》木《き》をわたし化粧板をはりつける。それで完成だ。
あまりの素っ気なさに、ぼくは感心し、そして缶ビールを開けベッドに腰かけた。そのときの奇妙なやわらかさを、おぼえている。沈みこむという感じではない。ベッドはそれなりにシャンとしているのだが、どこか心もとないのである。
白いシーツをひきはがしてみた。ベッドマットがその下にあった。
そのベッドマットをめくると、そこにウォーターベッドがあらわれたのである。表面は特殊繊維を使っているのだろう、厚手のビニール繊維でおおわれていた。色は淡いブルーに透きとおっているのでその内側に水がふくれあがるくらい入っているのが見えた。枕もとには水温を調節するためのダイヤルがあった。
ひんやりとして気持ちよかったが、しばらくのあいだ、栓が抜けて部屋が水びたしになるのではないかという思いが抜けきらず眠りにつけなかった。
そういう話を、その日の昼間、聞かされていたからである。
「かれは去年、結婚してね。よせばいいのにって、みんないったんだ。大学の三年で結婚なんてすることはない。ところが本人は聞かなかった。ジュディーは――ジュディーっていうのが相手の女のコさ――セクシーだったからな。ところが、一年もたたないうちに結婚はダメになった」
話してくれたのはキャッチャーである。名前は忘れてしまった。
「なぜ?」
ぼくは聞いた。
キャッチャーは、同じチームの一塁を守って四番を打つ男を手招きして、例のあの話をしてもいいか、と聞いた。
ぼくとIはその日、ボールパークに足を運んだのだった。ゲームをしていたのは、大学生のチームである。
一塁手はガムを噛んでいた。右投げ左打ちで、その日ぼくは一塁手で四番を打つ男の右中間をやぶる三塁打を見た。赤い顔をした男で、ぼくはかれを見たとき若いころのジャック・ニクラウスを思いうかべた。もっとも、目はあのころのニクラウスに比べるとずっとやさしげだったが。かれは次のバッターのセンターフライでホームにかえった。浅いフライだったので本塁で刺されるかと思ったが、かれは猛然と走り、ホームベースにすべりこんだ。センターからの返球は右にそれ、クロスプレーにはならなかった。それでもかれが期待されている選手なのだろうと、わかった。
一塁手は笑った。苦笑に近かった。
「ウォーターベッドさ」
キャッチャーはいった。
「ある朝、気がついたらあいつとジュディーのウォーターベッドの水がすっかり抜けていた。フロアは水びたしだった。そして、ジュディーはいなかった」
キャッチャーは笑いをかみころすように、それだけいうのだった。
それ以上のことは、よくわからない。ただ、そのときの雰囲気はよくわかるような気がした。野球をやっている大学生が学生結婚した。ジュディーというセクシーな女子大生と四番打者だ。かれらのベッドルームには巨大なウォーターベッドが置かれていた。シアーズのカタログを見て注文したのかもしれない。それとも、誰かが使っていたのを譲りうけたのだろうか。学生結婚だから、後者のほうがリアリティーがある。
ところが、二人の仲はうまくいかなくなる。ありあまる体力とウォーターベッドだけではどんな男と女だって、長つづきはしない。
ジュディーという女のコは、四番打者が寝ているあいだに部屋を出る。ついでに、ウォーターベッドの栓を抜いてしまう。
いや、栓は簡単には抜けないようになっているはずだ。何か、たとえばハサミのようなもので穴をあけたのかもしれない。
ということは、そこで四番打者が目をさますことをジュディーは期待していたのだろうか。そういう心理も考えられる。
ところが男は目をさますどころか、ウォーターベッドの水を抜かれる気配すら感じなかった。朝まで、ぺったんこになったベッドで眠りつづけたのだ。酒かドラッグかをやっていた可能性もある。それで男は夢の中だ。いよいよジュディーというセクシーな女のコはあきれはて、部屋を出ていく。
気がつかなかった男は翌朝、皮だけになったウォーターベッドに気づいて哀しんだろうか、笑っただろうか。
そのことをチームメイトが知っているということは、かれがあっけらかんと話してしまったからだろう。男は一人とり残されたベッドルームで笑いを噛みころしたかもしれない。
それがウォーターベッドの話だ。
その話が耳の底に残っていたので、モーテルのブルーのウォーターベッドは落ちつかなかった。
ぼくは隣りの部屋にいるカメラマンのIに電話をしようとした。そこにもウォーターベッドがあるだろうといって笑うのである。
そのうちに眠りこんでしまったらしい。
これといって目的のない「取材旅行」をしていたときのことで、二人とも疲れていた。Iはいつも重たいカメラを首から下げていた。かといって、これは絶対に撮りたいというものもなかった。ロスアンゼルスまでくれば何か面白いものがあるだろうと、それくらいのつもりで出てきた旅だった。かれは数百回シャッターを押していたが――事実、ロスでコーディネーターをつけ、この街の最新情報ともいうべきプレイスポットを撮りまくっていた――毎晩、フィルム整理をしながら、何が撮れてるんだろうと、つまらなそうにつぶやいていた。その場では面白がってシャッターを押せても、あとで何が面白かったのかさっぱりわからなくなるという感じだったのだろう。
結局、そのときのフィルムは、どこにも売らなかった。ぼくもキャプションを書こうという気はなかった。そのうちどこかの編集部に持ちこんで航空運賃ぐらいは取り返そうといっているうちに時間がたってしまった。
そういう「取材旅行」である。
ぼくとIはレンタカーを借りて、ロスを離れた。南へ下った。ボールパークを見つけ、そこでゲームをしている大学生のチームとすれちがったのはサンディエゴの手前である。
外野のフェンスにビールのクワースと、テキサコオイルの看板が出ているだけのボールパークだった。スタンドらしいスタンドもないのだが、ネット裏の最前列に陣どり超望遠レンズでカメラを構えると、かえってグラウンドにいる選手たちのほうが観客のようになってしまった。そんなところで何を撮っているんだ、という顔である。
話しかけてきたのはキャッチャーで、かれは「ボクハニホンゴハナセマス」といった。ゲームが始まる前のことだ。もっとも、かれの知っている日本語はそれくらいで、キャンパスで知りあった日本人のガールフレンドと何回か付き合ううちに、それだけおぼえたと説明した。「なかなかいいコだったけどね」。真面目な顔でいった。キャッチャーもフラれたのかもしれない。ロングビーチにある大学だといっていた。バスでカリフォルニア中をまわりながら転戦しているという話だった。四番打者のウォーターベッドの話が出たのは、ゲームが終わってからのことだった。
そのときのことを思い出すことは、ここしばらくなかった。
気がつくとウォーターベッドの水が抜けているというイメージは、ときどき朝方に、やってきた。あまり気分のいいものではない。しかしそれも、ここのところ忘れかけていた。
あの四番打者はその後、どうしただろう。
ウチのチームでドラフトされるとしたらあいつぐらいのものだ、とキャッチャーはいっていた。
アメリカのドラフト制度は日本と異なる。前年度、最下位のチームから選手を指名していく。指名される選手の数は多い。26のメジャー球団とその傘下のマイナー球団が総勢七、八百人の選手をピックアップする。そしてかれらはメジャー球団の傘下のマイナーチームからスタートする。
数年後、メジャーにあがってくるのは、そのなかのほんの一握りの選手たちだ。あのボブ・ホーナーが全米の野球ファンに知られているのは、かれにはマイナー経験がないからだ。ホーナーは大学を出ていきなり、メジャーでデビューした。そういうケースはきわめて少ない。
アマチュア選手のドラフトは毎年、六月に行われる。どのチームも各地にスカウト網をはりめぐらしているが、全米のアマチュア野球をもれなくカバーするのはむずかしい。それでおもだった都市にはスカウト専門の会社があり、そこのスタッフが受けもち地域のアマチュア選手に関するスカウティング・レポートを書く。それを契約している複数の球団に売る。そういうシステムができあがっている。球団はそのレポートを読んで、選手を指名していく。数百人目の指名選手はそんな具合に決まっていく。
あの四番打者も、そういうなかで指名されたかもしれない。パワーはあるのだが、変化球に弱そうだった。それでもかれは必死でプレーしていた。
ロスからサンディエゴに向かったのは四月だったろうか。大学野球の全米選手権が行われるしばらく前だ。六月のドラフトに備え、スカウティング・レポートの最終版が書かれる時期でもある。四番打者は意識していたのかもしれない。
もしプロ入りして、順調にいけば、もうメジャーにあがってきてもいいころだ。
アスレチック・クラブのプールから戻るとぼくはあらためて、写真つきの選手名鑑を広げてみた。アメリカ野球の選手名鑑である。名前はおぼえていないが、年齢と出身校などのキャリアを見ればあのときの四番打者を特定できる。
過去三年分の、メジャーのチームのユニフォームを着た選手の メWHO'S WHOモ をめくってみたが、見当たらなかった。
おそらくダメだったのだろう。ウォーターベッドの水を抜かれても気がつかずに眠りこけ、セクシーなジュディーに逃げられたような男だ。
そのかわり、別の選手のところに目がいった。
同じカリフォルニアの生まれで、こちらはUSC(南カリフォルニア大学)を卒業している。マーク・デヴィッド・マクガイアという名前の選手だ。
かれはとても有名な選手で、ぼくもかれのことは若干、知っている。八四年のロス五輪で野球が初めてエキジビションゲームとして取り入れられた。そのときの全米チームの四番を打っていたのが、このマクガイアである。オークランド・アスレチックスに指名され、マイナーからスタートした。そして八七年のシーズン、本格的にメジャーにあがり四十九本のホームランを打って新人王に選ばれた。
もうすこし違う角度からいうと、マクガイアもキャンパスで知りあった女子大生と結婚している。プロ入りしてからのことだと思うが、正確なことはわからない。いずれにせよ、学生時代に始まった恋愛を、マクガイアのほうは、うまくマネージメントしたらしい。かれが「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれることになったシーズンのおわりに、この夫婦には子供が生まれている。それが最終戦の日で、チームの順位が確定していたので、マクガイアは戦列を離れ、子供の生まれる病院にかけつけた。
そのエピソードは、ひとしきりアメリカの野球ジャーナリズムでとりあげられた。最終戦で五十本目のホームランを打てたかもしれないのに、かれは子供の顔を見に行ってしまった、という話がある種の美談としてとりあげられたわけである。
マクガイアはおもだったアメリカのスポーツ雑誌の表紙に登場した。カリフォルニアの田舎生まれの、家族おもいの青年がヒーローになる、そのことに好感をいだかれている。そんな雰囲気が伝わってきた。
マクガイアの写真や記事を、ぼくはたくさん読むことになった。
それも意識下にあったのだろう。
すくすくと伸びていく若い選手と、結局のところ華やかな舞台に立つことができなかった四番打者。それぞれに比較のしようはないのだけれど、ぼくの心のなかでは対《つい》になっている。
あのときの旅は面白かった。
翌朝、カメラマンのIはすっきりとした顔で起きてきた。ひさしぶりに熟睡したといっていた。ロスの町なかで右往左往しているよりも田舎に出たほうが落ちつくということだろうか。
「ウォーターベッドだったろ」
と、ぼくはいった。
「そうなんだ」
と、Iはいった。かれは気になって、どうやって水を入れるのか調べようとしたがわからなかった、といった。かれもまたシーツをはがしてみたらしい。それを聞いて、ぼくは笑った。Iも笑った。
それから数年後、Iは東京を離れた。かれの実家は静岡のある町で写真屋をやっている。スタジオがあり、記念写真を撮るのだという。新しくできたホテルにスタジオを出すことになったと、かれはいっていた。その仕事のほうがおれには向いている、と。
翌週、またぼくはアスレチック・クラブのプールへ行った。
「ウォーターベッドって知ってるか」
ぼくは瀬田クンに聞いた。
瀬田クンというのは、水泳のコーチの名前で、かれはいつも真っ黒に陽焼けしている。どうやって時間とカネを作るのか、かれはしばしば南の島に行くらしい。サイパンやグアムだ。スポンサーに恵まれているのかもしれない。水泳のコーチを海外に連れていきたがる女性会員がこのクラブにいたとしても不思議ではない。
「ウォーターベッドですか」
かれは意表をつかれて、目尻を下げた。
アメリカ人の四人に一人はウォーターベッドを使っているというデータを見たことがある。本当かどうかは、わからない。グアムやサイパンあたりにも、ありそうだ。確信はないのだが、そんな気がした。水を冷やしておくと、気持ちよさそうだからである。
「でれでれするなよ」
ぼくがそういうと瀬田クンは照れた。
かれはいつも、一緒に泳いでくれることになっている。一人で泳ぐと退屈してしまう。ペースメーカーになってくれるわけである。知らずしらずのうちに、ぼくのタイムもあがってきている。
ゴーグルをつけ、飛びこんだ。
すぐその横を、ぼくも泳ぎはじめる。プールの水がなまあたたかく感じられる。秋になったせいかもしれない。
「そういえば――」
ガバッと顔をあげ、瀬田クンがいった。
「妙なことがありましたよ。ウォーターベッドとは関係ないんですけどね」
ゴーグルを額のところまで上げ、いつもとは違ってゆっくりしたペースで泳ぐ。ぼくもそれにならった。
「いたずらなんでしょうけど――」
概略、かれの話を書くと、こうなる。
八月の、雨の日だった。
その日、このアスレチック・クラブにやってきたのは百十人だった、という。ごくふつうだろう。そのうち、会員が八十人で、ビジターが三十人。ビジターは会員が同伴する場合に限り、一人の会員がビジターを一名、連れてくることができる。百十人のうち、何人がプールを利用したか、正確な数字はわからない。早目に仕事を切りあげて、夕方、クラブにやってくる人が多い。仕事を始める前に一汗流していく人も多い。クラブが一番すいているのは、午後の時間帯だ。
百十人というのは、チェックインしたときの数で、これは正確に把握できる。チェックインしたときに施設の使用料を払ってしまうので、チェックアウトは、特に必要ない。シャワーを浴び、ロッカールームで着替えると、帰っていく。
その日、女性用のロッカールームに忘れ物があった。ヴィトンのバッグで、あとで中身をチェックしたところ、着替えが入っていた。着替えを忘れていくとは、そそっかしい人だと、皆で話をした。そのうちに取りにくるだろう。
プール掃除を始めた。
そのうちに、プールから素《すつ》頓《とん》狂《きよう》な声が聞こえた。悲鳴ではない。変だ、変だ、とアルバイトの学生が大きな声でいっている。
瀬田はプールサイドに行ってみた。
大学の水泳部から派遣されてきている学生がプールの中をのぞきこんでいた。
瀬田も、プールを見た。
「何がいたと思いますか」
瀬田クンは、ぼくの目をのぞきこむように聞く。
「さあ……」
「金魚なんですよ」
「キンギョ!?」
「金魚が一匹、泳いでいるんですよね。妙なことに」
「女性用のロッカールームに着替えの忘れ物があって、プールで金魚が一匹、泳いでいた……おいおい、よしてくれよ」
誰もプールに入ろうとしないので、瀬田がプールに入り、金魚を両手ですくいあげた。アルバイトの学生が、あわててコップを持ってくると、それが金魚鉢になった。
「で、その金魚は?」
「いちおう、届け出たんです、警察に。困ってましたよ。これも遺失物なのかなあ、とかいってね」
コーチは、そういって笑った。
「バッグのほうは?」
「誰もそんなもの忘れていないっていうんですよ、当日の利用者はね。それ以上、詮索するわけにもいきませんからね」
誰かがアスレチック・クラブのプールに金魚を一匹、泳がせて帰っていった。誰かがその日、突如、金魚になってしまったと考えるよりも、そう考えたほうが自然だろう。
誰だかわからないが、そういう人間が、夏のプールにはいた、ということだろう。
ぼくは久しぶりにプールに来たとき、不意にウォーターベッドのことを思い出した。ウォーターベッドに横になっていると、プールの上で寝ているような気がしないでもない。そういう連想だったのだろう。
プールのコーチは、ウォーターベッドのことを聞かれて、金魚のことを思い出した。金魚とウォーターベッドがかれの意識下で、どういう脈絡でつながっているのだろう。
「心あたりがあるんじゃないのか」
ぼくはいった。
「誰かがキミに、どうしても金魚をプレゼントしたかったんだよ」
「そんな、よして下さいよ」
かれはゴーグルをつけると、猛然と泳ぎ始めた。ぼくはそのあとを追った。
秋のプールは、水が透き通っていて、プールの底までがよく見える。プールの中で、水が揺れていた。
プールからの帰り道、クルマの渋滞に巻きこまれた。
カセットテープを次つぎと変えながら時間をやりすごした。
そのうちにある曲が耳にひっかかった。それまで何度も聴いているのに、歌詞が気になることはなかった。ビリー・ジョエルの歌だから、よほど注意深く聴いていないと、歌詞は耳に残らない。ビリー・ジョエルは若い恋人たちのことを歌っていた。大学のダンスパーティーのクィーンとキングが結婚したんだ、と。アパートを借りて、パイル・カーペットを敷きつめ、そこにウォーターベッドを入れたんだ……。
そんな歌である。
結局、二人は別れてしまう。「イタリアンレストランで」というタイトルの歌だ。歌のなかにウォーターベッドが出てくることに、ぼくは初めて気づいた。幸いなことにというべきか、ビリー・ジョエルの歌詞のなかではウォーターベッドの水は抜かれたりはしない。
インタビュー
ホテル・ニューオータニのスイート・ルームを予約しておいたと、担当の編集者が伝えてきた。
インタビューの場所である。
ひところぼくは、よくインタビューをしていた。インタビューをして、なにがしかの文章を書くというスペースを、ある雑誌の中に持っていたからで、その仕事をしているあいだに数百人のインタビューをこなした。その仕事で書いた原稿の枚数は、四百字詰めの原稿用紙で四千枚ぐらいになるはずだ。
その反動で、一時期、インタビュー嫌いになった。インタビューをするのも、されるのもおっくうになったわけである。
スイート・ルームには写真家のNさんが、先に来ていた。
窓からは赤坂見附が見おろせる。
外は小雨が降っていた。
Nさんは、奥のベッドルームの壁に布を垂らし、そのコーナーをスタジオのように模様がえしていた。
「監督と会うのは久しぶりですか」
Nさんが聞いた。
監督というのは、その日ぼくがインタビューすることになっている相手である。正確にいえば、元・監督ということになる。野球のシーズンが始まろうとしている季節だったのだが、かれはユニフォームを着ていなかった。キャンプにも行かず、かれはスーツを着て都心のホテルのスイート・ルームにやってくるはずだった。
「そうですね、久しぶりですね」
「よく、インタビューにOKしたなあ。あの人、どこにも出ていないんじゃないですか」
「そうみたいですねえ」
ぼくは人ごとのように答えた。
「監督」はユニフォームを脱いだあと、野球のことを語ろうとはしていなかった。
そのインタビューは、ぼくがセットしたものだった。「監督」に電話をして、落ちついたころ、一度、ゆっくり話を聞かせていただきたいのですが、とお願いした。
「監督」とは、何度も会っている。自宅に招かれ、長時間をさいてもらってインタビューしたこともある。しかし、さほど親しいわけではない。少なくとも、気軽に電話をして何ごとかを頼めるようなあいだがらではない。ぼくにとっては尊敬すべき人間の一人だ。常に、一定の距離を置いていた。ぼくは、人づきあいには距離感覚が必要だと思っている人間である。心の中で感じている親しみと、それをおもてに出すこととは、おのずと別ものだと思っている。
電話をしたときには、だから、少し緊張した。
「監督」の声は、案外、快活だった。そうだな、年があけて、いろいろと雑用が片づいたころに時間をとりましょうか、とかれはいった。なにしろ三十年分の雑用がたまっちゃっているからねえ……。
そういわれて、かれが三十年間ユニフォームを着つづけてきたことに、改めて気づいた。
インタビューの細かいスケジュールは、年が明けてから決めた。
その「監督」が、やがてそこにやってくることになっていた。数時間、ぼくはインタビューをすることになっていた。
写真家のNさんはベッドに腰をおろし、昭和三十年代によくボクシングを見ていた、という話をしはじめた。チャンピオンになることもなく引退したあるボクサーの話である。Nさんは何度もそのボクサーの試合を見た。時にはカメラを持って、リングサイドで見ていたのだが、話をすることはなかった。
それから三十年ほどたったある日のこと、Nさんはガソリン・スタンドでそのボクサーと出会った。元ボクサーは、Nさんのクルマにガソリンを入れてくれた。間違いなく、あのときのボクサーだった。Nさんは、あなたの試合をいつも見ていたんだと、話しかけるべきか、迷った、という。結局、話はしなかった。
コーヒーを飲みながら、ぼくはそんな話に耳を傾けた。
インタビューの前にメモを整理したり、質問事項を書きだしてみたり……ぼくはそういう作業をしない。かといって、いきあたりばったりに話を聞こうとしているわけではない。インタビューにはおのずと流れがあるのだが、それをあらかじめタイトに決めてしまうことはない、ということだろうか。
なぜ、「監督」はインタビューを受けてしまったのだろうかと考えた。
シーズンが終わると同時に、かれは三十年間、着つづけたユニフォームを脱いだ。とたんにかれはインタビュー嫌いになった。しばらくは何もしたくない心境だったのだろう。しかし、それが落ちついたころ、またかれは各方面からの求めに応じて「表」に出てくるのだろう。ぼくはそう思っていた。だから、年が明ければ、おのずと時間もできる、といってくれたのである。そう考えたほうがぼくにとっては自然だった。
「監督」は、しかし、「表」に出る気はなさそうだった。インタビューを申し込んでも断られた、という話をほかのところで聞かされていた。
だけれども、なぜか、ここにはやってくることになっていたのだ。
「なぜ、受けちゃったんだろうね」
「監督」はスイート・ルームに入ってくるとそういって笑った。
「ぼくのほうこそ、それを聞きたかったんですよ」
ぼくはいった。
「あのころは、いや今でもそうだけど、インタビューは全部断っていたんだけどねえ」
「そうでしたよね」
「でも……引き受けちゃったんだ。不思議だね。なぜだろうか」
かれは陽に焼けていた。オフのあいだに、ハワイで存分にゴルフをしてきたという。いや、もはやかれにとって「オフ」も「イン」もない。いつもならキャンプが始まっている季節、彼は三ツ揃いのスーツを着て、ホテルの一室のソファに深々と腰をおろしているのだ。
やがてかれは語り始めた。
「ユニフォームを着ていてもいなくても、一月まではあまり変わらないね。一月まではオフで、ぼくの場合、毎年のように恒例行事がある。新年会とか、だれだれとのゴルフ会とか。今年もそうだった。二月に入って変わった。チームはキャンプへ行き、ぼくはゴルフでハワイへ行った。その時期にハワイになんか行ったことないものね」
「ちょうど三十年間にわたってユニフォームを着ていましたね」
「そのわりにはハワイでゴルフをやっていても違和感はなかったな」
かれは苦笑した。
「それが人間のよさなのかな。ああもう自分はユニフォームを着てないんだと、それで自分が苦しくなっちゃうようじゃ困るしね。テレビの野球ニュースとかスポーツ新聞もたまたま目に入ることはあっても、自分から好んで見ることはないね。キャンプというのは、舞台の世界でいえば稽古みたいなものですからね。にぎにぎしく見せるものじゃないんだ。ぼくらが現役やってたころは稽古の時間帯はあまり人に見られなかった。マスコミは取材に来ていたけど、今ほどじゃなかったね。最近はキャンプの初日から見せ物になっちゃってるからね。紅白戦やっても勝った、負けたといわれてしまう。だから、まわりから文句つけられないようにやろうと、そういう意識がぜったいにないとはいえないと思う。ぼくなんか、一日二十四時間のうちの大体、三分の一はみんなの目の前に出ていたわけでね。その八時間のうち七時間五十五分はいいことをやって、残りの五分でちょっと変なことをやるとそれをクローズアップされてしまう。キャンプの時期ぐらいは、もうちょっとのんびりやらしてくれやというものはあったなあ」
「本来だったら、というか、今の季節、こういうところで話をしているはずではなかったですよね」
「そうね」
かれは話をつづける。
「自分の気持ちとしては次のシーズンに賭《か》けるつもりだったからね。自分自身ではやめるということは考えていなかった。むしろ最後の一カ月ぐらいは、自分としては来季につなげていくんだと、そう考えてやっていた。プロというのは、どんな形でも勝たなきゃいかんという、そこを基本としたミーティングをやりだしたんです。感じはよかったんだけどね。自分がやめるつもりだったらそんなミーティングなんかやらないよ」
「事実上の解任ですからね」
テーブルの上に置かれたコーヒーにやっとかれは手をつけた。
Nさんが写真を撮りはじめた。テープレコーダーがまわっている。「監督」は窓を背にして坐っている。小雨模様の天気なのだが、外の光のほうが強いので、「監督」の表情がぼくの目には見えにくい。
「いつもいうんだけど……監督をやれというのも向こうからいわれるんだし、やめろというのも向こうからいわれる。それについてこちらはどうこういえないしね」
「ただ、自分の気持ちは伝えられますね。自分にはビジョンがあるんだと、来年はこういう形でチームを作り直したいと。情熱を相手にぶつけることはできるでしょう」
「しかしねぇ……次の監督はだれだれだというところまでいわれちゃったからね。そこまで話が進んでいたら、こちらがいったところで覆《くつがえ》るわけじゃない。話がわれわれのところまで来るときは、もう相談じゃないんだ。もう代えようと思うんだけど、君はどうなんだ、というんだったら話のしようもあるけど、そうじゃない」
「監督交代の気配は伝わってきませんでしたか」
「伝わってこなかったね。だからオーナーに呼ばれたときも、来年も頼むといわれると思って自分はあがっていったんだけどね」
「話は逆だったわけですね」
かれはうなずいた。
「いつかそういうことがあることはわかっていましたけどね。『おまえ、もういいよ』といわれるときがいつかはくるとね……。オーナーから監督交代の話があった日、みんなはわからなかったというけど、自分自身では見抜かれているんじゃないかと思ってましたよ。解任とまではいかなくても、何かあったな、と。あの日のゲームでは、ぼくはかなりはしゃいでいたような気がするんだ。自分の気持ちを出すまいと思っていたからね。冷静に見ればわかったんじゃないかと思う。来年もやってくれといわれたんなら、今までと同じ、変わるわけじゃないから、ことさらに明るく振る舞う必要もない」
試合が始まる前、ダグアウトの周囲には、何十人もの記者やカメラマンがいる。どこかでテレビカメラもまわっている。ゲームが始まると、球場にセットされた七台のカメラのうちの一台が常時、ダグアウトの動きをマークしている。監督交代を告げられた日、かれは何ごともなかったかのように振る舞ったつもりだったのだが、気がつくといつもと違っていた、というわけである。
毎日のようにあちこちに出かけていき、インタビューをしていたころ、何人かの人になぜインタビューを受ける気になるのか、尋ねたことがあった。
「なぜって……話を聞きたいっていわれれば、なんとか時間を割《さ》くものだと思っていたけどね。断る人もいるの?」
そういう人もいた。
ぼくがそのころインタビューしていたのは、「無名人」ではなく、いわゆる「有名人」というカテゴリーにいれてもよさそうな人たちばかりだった。
「断るときを考えてみるとね――」
と、ある人はいった。
「時間がないとき。これはよくあることだな。それと、インタビューをしたいのだといってくるときの態度が気に入らないときも断るね。横柄な電話をかけてくる人がいるからね。話をしたくないというときもあるな。なんとなくおっくうでね。話をしているうちにオチこんでしまいそうなときだな」
「オチこむっていうと……」
「話したことが活字になったり、テレビなら映像になったりするわけでしょう。それがいやだなと思うときがあるんだよ。どういったらいいのかな……したり顔でわかったふうなことを喋《しやべ》っているわけだろ、それがアホくさく思えるというのかなぁ……そういう気分のときは、断ってしまうな」
「監督」は、極力、インタビューに応じようという姿勢を持っていた。
時間の許すかぎり、問いには答えようという姿勢である。例えば、テレビの世界に対しては、一つの局を優先させるのではなく、どの局にも同じように出演していく、というところがあった。どのメディアに対しても過不足なく、等距離でつきあっていこうというわけである。
そして、ユニフォームを脱ぐと、今度は平等に、すべてのメディアを遠ざけた。それも、いかにも「監督」らしいやり方だと思えた。
ところが、ある日、ふと、あるインタビュー依頼の電話に答えてしまったのだ。そうだな、じゃあ、年が明けてからやりましょうか、と。
「ヤマギワさんだから受けてくれたんだよ」
という編集者がいた。
「ギョーカイ内の人間じゃないからよかったんじゃないか」
という人もいた。ぼくはしばしばスポーツのことを書くが、スポーツの世界にどっぷりつかっているわけではない。
ぼくは、そういうことではないような気がしていた。
一つ、仮説をたててみた。
電話で話をしたとき、「監督」は、一瞬、まだ自分がユニフォームを着ている人間だと、錯覚してしまったのではないか……という仮説である。シーズンが終わってまもないころのことだった。仮説だから、ぼくが勝手にそう考えたというだけのことなのだが。
話はまだ、つづいている。
「……あのチームのファンというのは、勝つことを一番望んでいる。いいプレーをすればそれでいいじゃないかという声もあるけど、やっぱり勝てば素《す》直《なお》に喜んでくれるファンが圧倒的に多いわけでね。だから勝つことが、われわれの目標になる。おもしろくない野球だといわれても、とにかく勝たないことにはしようがないんだね」
「しかし、毎年のように勝とうとするでしょう」
「勝つことによっていい形も出てくるんだ。ムードもよくなってくるでしょう。ひところの中日のベンチの勢いなんてのは、あれは勝っているから出てくるのであってね。勢いに乗ったら、広岡さんがやって優勝したときのヤクルトも元気あったし、堂々としてますよ。破竹の勢いで進みだしたら、すべてがよくなっちゃう」
「目先の勝利を追いすぎていると思いませんか。あのチームはいつも最大公約数的な布陣を敷《し》こうとするから、なかなか新人が出てこない。それに比べると、たとえば西武なんかは新人の育て方が、比較的うまくいっている。その差はどこにあると思いますか」
それで、いつものようにかれは、じゃあ年が明けたらインタビューを受けましょうと、気軽にいってしまった……。
しかし、その考え方にも無理があるかもしれない。
年が明ければ――といったあたりで、いつもとは違う新しい年の迎え方をすることに、かれが気づかないはずがない。
仮説は、やはり、仮説でしかない。
「こういうと怒られるかもしらんけど、まだ西武は厳しいものを要求されていないからね、まわりから。ぼくが監督をしていたチームは勝たなきゃぼろくそに叩かれるけど、西武は今年勝たなくたって、同じようには叩かれませんよ。森さんだって西武の監督を引き受けたときに、すぐに優勝しなくては、とは考えなかったと思う。ところがこっちは、引き受けた段階からまず最初に優勝ということで引き受けているわけだからね。チームの置かれている状況が厳しい」
かれはそういうチームの監督をしていたわけである。
「一年目から優勝を狙うのではなく、長期計画をたてるわけにはいかなかったんですか」
「たとえば、五年計画をね……。できれば素晴らしいね。しかし、チーム自体が耐えられるかな。現場の監督とフロントとのあいだに合意ができていて、意識的にこれからの戦力、選手を使っていこうとした場合、結果が悪ければなぜあそこで実績もないやつを使うんだと、絶対にそういう声が出てくる。ベンチには過去にこれだけやった選手がいるのになぜ、使わないんだ。そういうことになるね。そこで何とかしようと思うと、また監督を代えるしかないんだ。監督とフロントとのあいだで話し合いができてたとしてもさ。結局、球団としては何かしら手を打たなきゃいけないんだ。長期的にそういうことをやろうと思っても無理だろうな。一年間だけなら……、この一年だけ、優勝を忘れて基礎固めをしよう……、これはできると思う」
「監督をやっていたこの五年間に、そういう一年はありましたか」
「なかったね。代わったときの一年目なんて、やりやすいかもしれないね。でも、あのチームは……難しいだろうな。それにね、たとえば三年まかせるから三年間のうちにいいチームを作りなさいといわれたとする。気は楽だろうけど、張り合いはないだろうね。優勝を絶対条件としてやれといわれたほうが、しんどいけど、張り合いがあるんじゃないの。わりに合わんですけどね。ドラフト制度があって、ある程度戦力は均衡している。そのなかでひとつ負けたら袋だたきにあうようなチームを率《ひき》いる。収入の面も含めて考えればわりに合わんですよ。だけど、男の仕事としてはおもしろい。右向けというと、パッと右向く世界なんて、ほかにはないもん。だれをファームからあげてだれをおとすか、できるからね。ふつうの会社だったらぶつぶついう部下が多いだろうけど、野球の世界にはそれがない。実力の世界だから……」
「ひとつ負けたら袋だたき……。野球マスコミにはだいぶ懲《こ》りましたか」
「毎日が日本シリーズ第七戦みたいだね、紙面は。シーズンに入ったら、それはしようがないと思う。やったことについてどう書かれても、それについてぼくは反論しない。彼らは結果論で書くしかないんだから。うまくいけばよかったと書いてくれるわけですからね。結果論で書かれるのがわれわれの商売だし、これは監督という職業についたらしようがないでしょうね。ただねえ、野球と関係ない部分が、すごく多いでしょう。それによって振り回される部分もある。やっぱり人間だからね。自分のことを書かれたときは、あのやろう、こんな嘘ばかり書きやがってと思うけど、人のことを書いてあると、なるほどそうなのかと思っちゃうのが活字の怖《こわ》さでね……」
きょうはけっこう時間があるんだ。かれはそう言って語り始めたのだった。ユニフォームを脱いだあとの「次の仕事」を、かれはまだ決めていない。ほとんどすべてのテレビ局、新聞社から解説者としての力を貸してくれないかという申し入れがあった。そのすべてを一括して、断った。あわてることはない。悠然と、彼は構えている。
それにしても、なぜこういうところに出る気になったのかな。熱いコーヒーのおかわりをもらいながら、再び彼はいう。カメラのシャッターの落ちる音が断続的に聞こえている。今日になって断ったってよかったんだけどなぁ。そう言いながら口元は笑っている。引力みたいなもんですよ。だれかが言った。後悔してますか? そう聞くと、いや、そんなことはないよ。ただ、不思議だなと思ってね……。
話はつづいた。
「監督になったのが四十代の半ばでしたね。監督を引き受け、おもに二十代の選手を動かしていた。世代の違いを感じませんでしたか」
「考え方が変わろうと、どうでもいいんだよね。みんなをあっと驚かす記録を作っている分にはドライだろうが何だろうがいいと思うんですよ。残念なのは、われわれのようにおもしろくもおかしくもないようなのがやっていたときの記録を上回ってくれないことだよ。それじゃ、この世界ではドライだろうが何だろうがいいとはいえないわけだね」
「おれたちを超えてみろ、と。それを、しかし偉大なる先輩にいわれるとキツイだろうな」
「このごろでこそ記憶に残る選手だとか、印象がどうのというけど、結局、最後に残るのは数字だね。最近は人気とか、何かとか、野球界の外からの評価が大きい。われわれの時代は野球という業界の内部での評価が肝心だった。同じ仕事をやっている連中どうしで、あいつはできるなと相手に思わせるような選手にならないとね。それがあって外部の評価が高まる。それが本物ですよ」
「トータルでいい成績を残せなかったけど、一時期のプロ野球を代表するという、そういうピッチャーもいましたね。残念なことに早々とユニフォームを脱いでしまいましたが」
「野球界が魅力なくなっているのかもしらんけど、あいつにしても、十年やそこらでやめてほしくなかったね。体調の問題もあるし、考え方もいろいろだろうと思う。でも、小さいときから朝から晩までボールを追いかけまわしてきたんだから、それを乗りこえてやってほしかったという気持ちはあるね」
「引退にはがっかりした」
「事前に相談にこられたのなら、いくらでも説得します。でも、家族会議も開いてこういうふうになって、仲人にも話してこういうふうに決めましたという形で言われたら、もうダメなのか、としかいえないからね。彼はチーム内でも精神的な部分での柱だった。彼がいれば十勝できるとか、何勝は計算できるとかいう以上に抜けた穴は大きかったんじゃないですかね」
「結論を出して報告に来る前に、なぜ自分のところに相談にきてくれなかったのか。そういう意味で哀《かな》しさというか、むなしさのようなものは感じませんでしたか」
「それはまあ、ぼくでさえ現役をやめるときには、当時の監督に相談に行ったからね。現役をやめるという考えが芽生えてきているんで、相談というか、そういうことを話しにいった。
そんなこと言わないで、頑張ってくれよ、と言われた。しかし、まあ肩の痛みというのは他人にはわからんからね。それに、あれだけやってきたピッチャーでしょう。やめるという言葉は、よほどのことがなければいえない。芸能界みたいに、引退します、もう一回やりますとはいかないんだから……」
監督としてユニフォームを着ていたときよりも、体はむしろシェイプアップされているように見えた。体重は、「ほぼベストに近い84〜85キロ」だという。眉《み》間《けん》のしわもなくなっている。もうひとつ気がついたのは、ユニフォームを着ていたころよりも能弁になっていることだ。かつては語るべきことを、選びすぎるくらいに選んでいたような気がした。特に、活字になることを前提として話すときには、意識して慎重であろうとしていた。
ホテルのスイート・ルームの一室に作った仮設のスタジオで写真を、とNさんがいうと、本格的だな、こういう写真を撮《と》られるのは久しぶりだよ、と言った。
シャッターの落ちる音。そしてフラッシュ。
背をぴんと伸ばしましょうか。Nさんがいった。肩から背にかけてのラインが、たしかに丸くなっていた。ゴルフ焼けして気持ち良さそうな顔をしていると言うと、それじゃ少しは女の子にモテるかな、と言って笑った。「今まで女の子が寄ってくれないんだよ、そばにね。怖《こわ》いって言うんだ」
「球団はフロントに残ってほしいと、そう考えていたといわれていますね」
フラッシュの中でもインタビューはつづいた。
「やめてすぐ、じゃ、フロントに入りましたと、切りかわってそんなに簡単にできることじゃないと思うんだ、ぼくからすればね。普通の人は知らないよ。三十年間、ユニフォームを着てやってきたのに急にフロントに入って……そんなに器用にパッと変えられないよ」
「野球解説を聞いてみたいというファンも少なくないだろうと思いますけどね」
「急に裏側になんて回れない。今までこっち向いてたのに、急にくるっとはね、できない。それに人のことをああだこうだというのは好きじゃないから。自分が解説者、評論家になることは考えていない。どうしてもおれがやらなきゃならない商売じゃなさそうだからね。男として、おれじゃなきゃといわれるような商売をしたいじゃない、どうせやるなら。自分なりに仕事をある程度やってきたという自負心みたいなものがある以上、おれがやらなくてもいい仕事を無理してやることはない。それなりのプライドは持っていたいでしょう。マイクの前に出てああだこうだというよりは、変な言い方だけど、地面にどっしりと足のついた仕事をしたい。マイクの前の仕事だって、来年から契約しませんと言われればおしまいなんだからね。だから、人に決められない、人の決定で動かなきゃならない仕事を主にするのではなく、それをよしんば将来的にはやるにしても――こればかりは一生やりませんとはいえないからね――だけど、それとは別に自分の本拠というのは作っておくべきじゃないかな」
「野球とは関係なしに」
「今、考えているのは野球とは関係なしだね」
「ビジネスということになりますね」
「いうほど楽じゃないようだけどね、ビジネスというのも。でも、そういう夢は持っていたいと思う。具体的に何をするか、そこまでは決めていないんだけど。今年は区切りの一年と考えているからね。三十年やってきたあとの、区切りの一年。そこから先はどうなるかはわからないけれど……」
「それじゃ、開幕戦の日は何をしていますか」
「何をしてるかねえ。テレビでゲームを見てるか、ゴルフ場に行ってるか……」
「監督という仕事を経験して、選手時代よりも野球が好きになりましたか」
「まあ、単純じゃないということだね。自分の技術は複雑だったけど、打つという行為そのものは単純でしょう。これからますます日本の野球とアメリカの野球は差が出てきそうな気がするね、ゲームの進め方で。本来の野球が持っている豪快さがどうしても削られてくる。どうしてもね、そうなってくる」
「野球というゲームの奥まで見てきたという立場からすると、そういった野球の変質を寂しいと感じませんか」
「ぼくが野球少年のころにやっていた野球が一番、楽しかったね。しかしね、見ていて楽しい、やっていて楽しい、でもチームが最下位というんじゃだめなんだからね。それと気になるのは、今は選手が仲よすぎるな。チーム内もそうだし、よそのチームともね。選手会の運動会だ、やれ何だと、ああいうものが多すぎるんだ。あれでお互い、目をむいてやれっていっても、なかなかむずかしくなっちゃう。時代なのかもしれないけど。とにかく仲がいい。少なくともライバルじゃない。いいんだよ、それでも。いい仕事さえしてくれればね。時代がどう変わろうが、選手がどう考うようが、かまわない。野球選手として、いい仕事してくれよ。それだけだな」
シャッターの音が聞こえなくなった。
もう一度ソファに戻ると、かれは背もたれに、体を投げだすように坐った。
窓の外は相変わらずの小雨模様だ。カップの中でコーヒーが冷めている。かれはそれを飲み干した。
インタビューの終わり方はむずかしい。午後の空模様がいいほうに変わってくれればいいのだが……。雲のあいだから一条の光がさしこめば、それをきっかけに席をたちやすい。
あれだけ長くいたチームだから、今でも愛着を感じるもんでしょうね。ぼくは口ごもっていった。
そうだね、あのマークの入ったユニフォームを初めてもらったときの感激は未だに忘れられないからねえ。かれはいう。
あのときというのは解任を通告された秋のことだ。もう、それから四カ月はたっぷりと過ぎている。
「愛情が深いだけに、憤《いきどお》る気持ちも強くなる。そういう心理はあてはまるでしょうか」
「あのときはそういう気持ちもあったけどね……。今になってみると、実際に日本一になってないんだから、代えられてもしようがないじゃない」
かれはそういって笑った。
「ぼくは大体、後ろを振り返るほうじゃないからね。家の中にだって、野球のトロフィーとか、そういうもの、いっさいないからね。そういうものを飾って、おれは過去にこうだったんだと、終わったことにこだわるほうじゃない」
「いつもそういう姿勢ですね。繰《く》り言《ごと》をいわない。泣き言をいわない。過ぎたことに弁解しない」
「言って何とかなるとは思わないからね。あのチームとは、こういう人生の局面があったということとは別に、ぼくのなかには特別な存在としてあって、これからもありつづけるだろうと思う。だから、これをないがしろにはできないね。やっぱり、ね。ジャイアンツというのは、はっきり言ってオーナーといえども動かせないんですよ。ほんとうに、化け物みたいな存在ですよ」
短い沈黙があった。
さあ、帰ろうかな、王貞治は立ちあがった。
外は相変わらずの雨で、彼はしばらく窓の外を眺めつづけた。久しぶりに話をして、どうだったのだろうかと、ぼくは聞いた。やっぱり、インタビューは受けるんじゃなかったという気分になっていたかもしれない。インタビューでは、いわずもがなのことを口にしてしまったりするものだ。
「なんだか……」
つぶやくようにかれはいった。
「なんだか、気持ちが四カ月前(の解任の日)に戻っちゃったような気がするな」
その日、東京は終日、雨が降りつづいた。
チャンピオンの故郷
「やつはおれたちのホームボーイだったんだ」
男たちはいった。
「ホームボーイ?」
「そうさ」
「ホームボーイっていうのは、つまり……どういうことなんだ」
ぼくは聞いた。
ホームボーイも知らないのか、という顔で男たちは顔を見合わせた。皆、二十代だ。はたちそこそこの男もいるかもしれない。ウィークデイの午後だというのに、これといってすることもなく、屯《たむろ》している。例外なく肌は黒褐色で、一人はバスケットのボールを持っている。
「ホームボーイってのは……」
その言葉の意味をあらためて説明したことがないのか、バスケットボールを持った男が言い澱《よど》んだ。
「同じ町で育った仲間、ということだよ」
金メッキのブレスレットをじゃらつかせた男がいう。
それが〈ホームボーイ〉だ。
日本語でいう、幼馴染みに近いかもしれない。黒人英語のヴォキャブラリーだと、あとでマンハッタンに住む知人に教えられた。
かれらが「あいつはホームボーイだった」と、ちょっと得意気にいったのは「マイク」のことだ。かれらにとってその男はあくまでも「マイク」であって「チャンプ」でもなければ「タイソン」でもない。
もう何年も前にその町を去ってしまい、二度と戻ってこようとはしないのだが、その町に相変わらず居残っている男たちにとって、「マイク」は「マイク」以外ではありえない。
一匹の蛇をTシャツの上から体に巻きつけた若い黒人の女性が、通りの向こう側を歩いていく。長さ一メートルほどだろうか。ぽってりと太った蛇だ。子供たちが、その女の横を走り抜ける。ことさら蛇に目を向けるわけではない。町を走り抜けるのは、子供たちの日常だ。
「ペットさ」
ぼくがその蛇に気をとられているのを見て、一人の男がいう。「いや、ファッションだよ」。別の男がいう。
路上に放置されている、ボンネットのあたりに錆《さび》が出ているクルマに寄りかかりながらそんな話をしていると、おい、このクルマは椅子じゃないんだと、どこからか黒人のドライバーがあらわれていう。かれは夏だというのに紫色のコートを羽織った女を連れている。錆びてしまい、どうやっても動かなくなってしまったクルマにしか見えないのだが、ドライバーがキイをさしこみアクセルを少し踏みこむと、ぶるんぶるんと音をたててクルマは揺れだした。
運転席から外に出ると、ドライバーはどこかに傷をつけられていないか、丹念にボンネットのあたりを見つめる。そんなクルマでもかれには新しい傷がわかるらしい。ひとしきり、言い争いになる。おれたちが何をしたっていうんだ。何もしないのが当たり前ってことだ。こんなところに置いとくほうが悪いぜ。
大声でわめきあい、お互いに手を出さず、やがてドライバーは運転席に戻ると、こぶしを突き出してクルマをスタートさせた。助手席に坐っていた女が、かん高い声をあげた。何といったか聞きとれなかった。さっき蛇を首に巻いていた女の母親さと、マイクのホームボーイの一人が教えてくれた。
「母親?」
そんなふうには見えなかったのだが。
「そうだよ」
「じゃ、今の男が父親か?」
「……違うと思うけどな……」
それ以上説明しようがない、といった顔だった。
ブルックリンの路上である。
ぼくはマイク・タイソンに会うつもりだった。
会って話をする時間があるというので、ニューヨークまでやってきた。
ところが、かれは多忙だった。
なかなか最終的なアポイントがとれず、仕方なくぼくは野球を見にいったり、ヴィレッジのライブハウスで夜おそくまで、酒をのんだり、そんなことをして時間をつぶした。
そしてブルックリンに行くことになった。マンハッタンから川を一つこえれば、そこはもうブルックリンである。クルマで、すっかり古くなったブルックリン・ブリッジを渡ると「ウエルカム・トゥ・ブルックリン」という看板が見える。
ニューヨークのブルックリン。一口で、どういう町とはいいがたい。ブルックリンはかつてマンハッタンと同じように、発展する可能性を秘めていた。今はニューヨーク市の中に組みこまれているが、ニューヨークとは一線を画し、ブルックリン市として独自にヴィジョンを持つべきだと声高に語られた時期もあった。かつては野球場《ボール・パーク》があり、人気球団がフランチャイズをこの町に置いていた。ブルックリン・ドジャースである。その球団は西海岸のロスアンジェルスへ移った。球場は、もはやかげも形もない。
アイルランド人の移民が住み、イタリアンが住み、今は黒人が多く、ヒスパニックが増えている。しっとりと落ちついた、旧い町並が一部に残っているが、それを残すよりも朽ちて荒れていくペースのほうがずっと早かった。
――ブランズビル、ブルックリン、NY。
特別な用がなければ、誰もそこに行きたがらない。危険だというのだ。行ってみるとわかる。生命力の旺盛な町だ。エネルギーをもてあました若者と、次から次へと産みだされる、小さな子供たちでいっぱいだ。
マイクはこの町でタフに生きることを学んだ。
路上で話をしていると、通りがかる男たちが、皆、声をかけていく。何してるんだ、と。見ればわかるだろ、バスケットをしてるんじゃない。そういったのはバスケットボールを持った男で、かれはもうマイクのことを話すのにあきて、早く皆とバスケットのゴールのあるコンクリートで固められたコートに行きたいのかもしれない。
話していることは、他愛ない。あいつはいい奴だったよ。いわれてるようなワルじゃなかった。そうさ、静かな男でね……。
そんな調子だ。
やがて、ぼくは聞いてみる。誰か、そのころのマイクの写真を持ってないかな。
「写真ねえ」
「そうだ、写真だ」
「どうかな……」
タイソンのホームボーイたちは、あいまいな返事をする。
「あいつに聞いてみるといい」
一人が、通りの向こうから歩いてくる男を呼ぶ。すらりと背の高い男で、バスケットをやらせると、きっといいプレーを見せるにちがいない。
「マイクの写真だって?」
かれは、はっきりとした口調でいう。
「おそらくこの町には一枚も残っていないはずだよ」
「なぜ?」
「いつだったか、買いとりに来たんだ。マイクに頼まれたっていう男が、昔の写真を買い集めにやってきた。一枚一〇〇〇ドルだった。自分がこの町にいたことを証明する写真が出まわるのがいやだったんだろうよ。だからやつは一枚に一〇〇〇ドルも出したんだ。誰が売ったのか、おれは知らないが。そういうわけだからもう写真はないよ。ブランズビルに立っているマイクの写真は、一枚もないんだ」
「一〇〇〇ドルか――」
ぼくは苦笑した。
「五ドルとはえらい違いだ」
取材のためのENGカメラをかついでいるNYのカメラマンも笑った。
ブルックリンでは、TVのクルーと一緒だった。タイソンの番組を作るために東京の制作会社に雇われたアメリカ人のクルーである。カメラマンとビデオ・エンジニア、それにクルマのドライバーである。
ドライバーは若い黒人で、ブルックリンのことならおれにまかせておけ、といっていた。ブランズビル? OKさ。ダチの多いところなんだ。そういう調子だった。ピンクの帽子をかぶり、バンを運転しながらせわしなく、ラジオのチャンネルを変えていた。ロックやリズム&ブルースではダメで、レゲエ、ラップがかかると、かれは体をゆすり始めるのだった。
そのドライバーが、ブランズビルに入る前に、五ドル紙幣はないかと、ぼくに聞いた。何に使うのかと聞くと、ここじゃ五ドル紙幣が役に立つというのだった。
みんな小銭を欲しがっているんだ。だけどむきだしにしちゃまずい、ちゃんとしたやり方があるんだ。かれは五ドル紙幣を細長く折りたたんだ。超キングサイズの煙草のようになった紙幣を、折るようにして結び、小さくたたんだ。これでよし。
ぼくもそのやり方を真似た。一〇ドル紙幣もあったのだが、かれはあくまで五ドルだといった。インフレを警戒する役人のように生真面目な顔で五ドルに固執した。ぼくは折りたたんだ五ドル紙幣をドライバーに渡した。かれはそれをピンクの帽子の中に入れ、そのままかぶり直した。
「写真一枚に一〇〇〇ドルっていうのは高すぎると思わないか」
ぼくは白人のカメラマンに聞いてみた。
「考えようだな」
かれはいった。
「マイク・タイソンはこのあいだの試合で一〇〇〇万ドル以上も稼いだんだからね。それも、わずか91秒で一〇〇〇万ドルさ」
そういう人間にとって一〇〇〇ドルは、はした金にしか見えないんじゃないか、という意見である。
このあいだの試合というのは、八八年六月にアトランティック・シティーで行われたマイケル・スピンクスとのタイトルマッチのことだ。
世紀の一戦だといわれていた。
タイソンを倒すとしたらこの男しかいないといわれていたのが、マイケル・スピンクスである。人気は上々で、一枚一五〇〇ドルのリングサイドのチケットも売り切れていた。一般のテレビではオンエアされず、その世紀の一戦を見たければ、二〇ドル払ってペイTVと契約するほかなかった。申し込むと、ケーブルテレビを通じて自宅に映像が送られてきて、あとで銀行の口座から二〇ドルがひきおとされるという仕組みである。あるいは、ケーブルテレビと契約しているパブやレストラン・バーなどに行って見ることもできる。ただし、その日は、ドリンク付きで三〇ドル、高いところだと五〇ドル払わないと、席を予約できない。タイソンのボクシングで客寄せをするバーやレストランは、その日の売上げの何割かをボクシングの興行主に支払うことになっている。それがクローズド・サーキットと呼ばれているスポーツの興行のやり方である。
タイソン対スピンクス戦では、それが大成功した。全米のボクシング・ファンは、カネを払ってでも、テレビでその試合を見たがったのである。
タイソンのファイトマネーは、軽く一〇〇〇万ドルをこえてしまった。
1ラウンド、91秒KOされたスピンクスも、日本円にすれば億単位のカネを手にした。
ぼくはその日、アトランティック・シティーのコンベンション・センターに作られたリングの、前から十列めあたりに坐って試合を見ていた。
あっけなく試合は終わり、それから三十分ほどたつと、コンベンション・センターの中で記者会見が行われた。二人のボクサーが出てきて、試合の感想を述べたのである。スピンクスが、さっぱりとした顔をしていたのが、印象的だった。敗者のみじめさは、どこにもなかった。おれは「史上最強のチャンプ」とたたかったのだという満足感のようなものまで、スピンクスは漂わせていた。記者たちに試合の感想を問われて語りはじめると、スピンクスの話はとまらなかった。ジョークを連発しそうな勢いだった。とにかくおれはやったのだ、やるだけのことはやってきたじゃないかと、そんな気分になってしまったのかもしれない。ついさっき、リングに沈んだ男とは、とても思えなかった。
その後、しばらくして、スピンクスの消息を伝える新聞記事を読んだ。蝶ネクタイをしめたスピンクスの写真がうつっていた。記事には、「スピンクス舞台に転向」と書かれていた。マイケル・スピンクスは、かねてより念願していた役者として舞台に立つ夢を現実のものにした、というのである。スピンクスのコメントはこうだった――「これをきっかけに映画の仕事もしていきたいと思っている」
「鳩を撮りたいな」
と、カメラマンがいった。
鳩のことは、事前に話しあっていた。
タイソンはブランズビルにいるころ、鳩を飼う少年だった。アパートの屋上に鳩小屋を作り、そこで鳩を飼いならした。
かれの生まれ故郷、ブランズビルにタイソン自身のかげは残されていない。
母親は、すでに亡くなっている。父親が誰なのか、タイソン自身、知らないのではないか、ともいわれていた。ニューヨークのあるTV局が、タイソンの父親だという男をワイド番組に出演させたことがあった。かれもまた、ブルックリンに住んでいるといっていた。「父親」は、マイクがたずねてくれば、いつでもわが息子よ、といって抱きしめるだろう、と語っていた。ぼくはその番組を見ていない。その種の話になると一所懸命に報道するニューヨークの夕刊紙に、「父親」がテレビに出たという話がのっており、それを読んだのだ。
「父親」は、マイクが自分のところにやってくれば、と語ってはいたが、自分のほうから「息子」をたずねていくとは語っていなかった。「父親」のほうからは行かれない事情があるのだろう。
「父親」がテレビに出ても、マイクはブルックリンに行こうとはしなかった。故郷、ブランズビルとマイク・タイソンを結びつけられるのは、鳩ぐらいのものだ。
カメラマンは、自分なりにストーリーを作ろうとしていた。
たまたま、一日、雇われたにすぎないのだが、かれはその日のうちに、あとで編集すれば数分間のストーリーになりそうなシーンを撮ろうとしていた。
「鳩か。鳩ならまかせてくれよ」
ピンクの帽子をかぶったドライバーはいった。
「鳩を飼ってる友達なら、いくらでもいるぜ」
タイソンと会うときの場所は、決めていた。
ブルックリンにあるヨットクラブである。
そこはブルックリンといっても、かれが育ったあたりのブルックリンとは、やや趣きが異なる。
マンハッタンは二つの川にはさまれている。マンハッタンの西を流れているのがハドソン河で、この川はさかのぼるとニューヨーク州の北へ向かい、ずっと昔に作られた運河も経由すればやがて五大湖に至り、シカゴまで行くことができる。
そして、マンハッタンの東を流れているのがイーストリバーだ。そのイーストリバーをはさんでマンハッタンとブルックリンが対《たい》峙《じ》している。
イーストリバーのブルックリン側から見ると、川をはさんだ向こう側にマンハッタンの高層ビル群がそびえ立っている。そういうロケーションにあるのが、イーストリバー・ヨットクラブである。このクラブのレストランから見えるマンハッタンの風景は、なかなかのものだ。
タイソンは訴訟に追われていた。
マネジャーとのトラブルである。タイソンには、プロでデビューする前から、マネジャーがついていた。アメリカのボクシング・ビジネスの世界では珍しいことではない。
ブルックリンのブランズビルから、タイソンはニューヨーク州の北の小さな町、ジョーンズ・タウンに送られる。トライオン・スクールに入るためだ。トライオン・スクールとは矯正学校のようなもので、ジョーンズ・タウンの郊外、周囲を小高い丘に囲まれた、すりばちの底のようなところに学校がある。タイソンはそこで本格的にボクシングを始める。
そして、名トレーナー、カス・ダマトに紹介される。カス・ダマトは、かつて最年少でヘビー級の世界チャンピオンになったフロイド・パターソンを育てたトレーナーである。タイソンと会ったころのカス・ダマトはすでに引退していた。同じニューヨーク州のキャッツキルの町に住み、プロボクサーではなく、いわゆる問題児たちを集め、ボクシングを教えることで立ち直らせようという、ほとんどボランティアに近い仕事をしていた。
ダマトは、しかし、タイソンを見て、もう一度、チャンピオンを育てあげてみようと思いはじめた。タイソンと会ったころ、ダマトはすでに七十代になっていた。これが最後のチャンスと、老トレーナーの目にはうつったのかもしれない。
カス・ダマトはつきっきりで、タイソンにボクシングの基礎を教えこんだ。ダマトは、ボクシング界の理論派である。相手に打たせず、そしてスピードのあるパンチで相手を倒す。そのために何が必要かを説く。きわめてオーソドックスなボクサーが、そこから育っていく。
同時に、ダマトは古くから知りあいの、ジム・ジェイコブス、ビル・ケイトンという二人のマネジャーを、タイソンにつけた。タイソンは契約を結んだ。一九九二年まで、プロボクサー、マイク・タイソンのボクシングに関するマネージメントを、この二人に委ねるというものだ。
そこから、タイソンは、一歩一歩、チャンピオンへの道を歩み始める。
ところが、タイソンにとっては父親がわりでもあったカス・ダマトが亡くなってしまった。一九八五年のことである。タイソンはまだチャンピオンになっていなかった。
次いで、ジム・ジェイコブスもこの世を去った。対マイケル・スピンクス戦の行われる数カ月前のことだ。
ビル・ケイトン、一人が残った。
タイソンには、巨額のファイトマネーが入りこむ。
そのあたりから、二人の関係にひびが入りはじめた。そのうえタイソンは女優のロビン・ギブンスと結婚した。それもまた、マネジャーとの溝を深める要因になった。
タイソンは、いくらなんでもマネジャーの取り分が多すぎる、といいはじめた。ファイトマネーの三三パーセントだけでなく、その他、CM契約料の三三パーセントまでもっていってしまう、これはたまらない――端的にいえば、そういう話である。
マネジャーのほうは、契約書を盾《たて》に反論するしかない。対マイケル・スピンクス戦の前から、すべてをとりしきっているはずのマネジャー、ビル・ケイトンのかげはうすかった。タイソンが、徹底してケイトンを無視していたからだ。
今になってタイソンから契約破棄をいいだすのはおかしい、という趣旨の記事がニューヨーク・タイムスに出ると、ビル・ケイトンはそれをコピーしてボクシング・ライターたちに配った。
そのリング外のファイトが、対スピンクス戦の終わったあとの夏、ニューヨークではつづいていた。
法廷に出なければいけない。そのこともあってタイソンはナーバスになり、トレーニングを始める気にもなれないようだった。
かれは、転々としていた。
その夏、かれが住んでいたのはニュージャージーだった。
マンハッタンから見れば、ハドソン河をわたった西側である。マンハッタンから、東の川をわたった向こう側にあるブルックリンから見れば、二つの川をこえた反対側に位置している。
結婚した相手のロビン・ギブンスが見つけてきた豪邸である。
しかし、そこに落ちついていたわけではない。
カス・ダマトが住んでいたキャッツキルには、ダマトの従妹にあたるミセス・イワルドが住んでいる。雑木林のつづく山道をしばらく登ったところに、家がある。三階建ての大きな家で、リビングルームにはダマトの遺品が並んでいる。かつてはそこで、何人もの若者たちが暮らしていたと、イワルド夫人はいっていた。ダマトがボクシングを教えながら社会に送りだそうとした若者たちである。タイソンはイワルド夫人を「ホワイト・ママ」と呼んでいる。今でもちょくちょく、ここにやってくるんだと、夫人はいっていた。
「結婚したあとも?」
ぼくは聞いた。
「ええ。しょっちゅうね。だからマイクの部屋はいつでも使えるようになっているんですよ」
キャッツキルには、もう一つ、タイソンが買ったコンドミニアムもある。
その夏の終りにタイソンは交通事故を起こす。キャッツキル郊外でクルマを運転し、巨《おお》きな木に衝突したのだ。キャッツキルのコンドミニアムでロビンといさかいがあったあとだといわれている。
それが一部では、自殺未遂だと、報道された。
その前にも、一つ、事件を起こしている。ニューヨークのハーレムの路上で、かつてリングでたたかったことのあるボクサー、ダラス・グリーンと喧嘩になり、グリーンの鼻の骨を折ってしまうのだ。タイソンも右の拳を、骨折してしまう。
ブルックリンではなく、ハーレムだった。
ハーレムはマンハッタンの北の一画である。タイソンは、遊びに行くにも、イーストリバーの東、ブルックリンには足を踏み入れないようだった。
そのうちにタイソンは、ニュージャージーの家も出てしまう。
ロビン・ギブンスはタイソンが、躁《そう》鬱《うつ》病にかかっていると、テレビで語った。
タイソンもその席にいた。タイソンを前にしてロビンは、この人はときどき、とんでもない暴力をふるうのだと、テレビのキャスターに向かっていったのだった。ぞっとするくらい恐ろしいのだ、と。
その数日後、ニュージャージーの家にパトカーが呼ばれた。タイソンが家具を庭にほうりだし、暴れたのだという。
ニュージャージーの家も、かれにとっては心落ち着く場所ではなかった。
ロビンと別居したあと、タイソンは、ボクシング界のドンと呼ばれるプロモーター、ドン・キングと行動をともにするようになる。ドン・キングは自宅のあるクリーブランドにタイソンを連れていき、そこに落ち着かせた。クリーブランドの教会で、タイソンは洗礼を受けた。
そうこうしているあいだに、秋に予定していたイギリス人の黒人ボクサー、フランク・ブルーノーとの試合は、何度も延期になった。タイソンの怪我、訴訟問題、離婚問題……。何から何まで、一度に押し寄せてきたのだった。
夏が、転機だった。
ニューヨークに暑い夏がつづいているころ、かれは転機を迎えていたのである。
プールは黒人やヒスパニックの子供たちでいっぱいだった。
ブランズビルの近くにある、公営のプールである。
子供たちは水着姿ではだしのまま、プールへ遊びに行く。そして、そのままの格好で帰ってくる。
ピンクの帽子をかぶった黒人のドライバーは、町の中をぐるぐると走りまわっていた。
鳩を飼っている友達を見つけようとしていた。「ダチが何人もいる」のなら、電話ぐらいしてみればいい。ぼくがそういうと、たしかにそのとおりさ、でもここはブルックリンなんだ、とかれはいった。
ブルックリンでは電話をかけるよりも町をぐるぐるとクルマで走りまわったほうが、友人は見つかりやすいらしい。
テレビのカメラマンは両手を広げて肩をすくめた。おれにはどうしようもないよ、というわけだった。バンの背もたれを倒し、体を横にした。
ぼくも眠くなってきた。
うつらうつらしながら、おれはなんでこんなところまできているのだろうと、思った。チャンピオンの故郷へやってきて、鳩をさがしているのだ。考えてみれば自分自身の生まれた町に、あらためて帰ったこともない。ぼくには小学校に入る前までの六年間ほどを過ごした町があるのだが、どういうわけか、その後、その町に行く機会がない。思い出のつまっている町なのだが、行こうとはしない。
なのに暑いさなか、ブルックリンにまでやってきて、鳩をさがしているのである。
苦笑せざるをえない。
バンがガード下を通過する音が聞こえた。
目をあけるとバンは信号で止まっていた。その上を電車が走っている。ぼくは一瞬、そこが日本のどこかの町ではないかと錯覚した。いい匂いが漂ってきた。串にマトンをさして焼いている。シシカバブだ。その匂いが焼き鳥の匂いに重なった。
ロッカウェイだと、ピンクの帽子がいった。
それがブランズビルに近い地下鉄の駅の名前だとわかるのに、しばらく時間がかかった。
マンハッタンでは地下をもぐる電車が、ブルックリンのこのあたりでは高架線になっている。駅の名前が、ロッカウェイだと、ピンクの帽子はくりかえし説明した。うん、それはわかっているんだと、ぼくは日本語でいった。
ロッカウェイ駅のプラットホームにあがってみた。
ここではチケットではなく、コインのような「トークン」を買う。トークンは一枚一ドルで、そのトークンを投入してプラットホームの中に入れば、NYの地下鉄なら、どこまでも乗れる。トークンを売っているブースはぶ厚い特殊ガラスでプロテクトされている。
階段をのぼって高架のプラットホームに出る。線路は真っすぐに伸びている。電車が近づいてきた。遠くで、キラリとシルバーの車体が西日を浴びて光り、一直線にやってくる。
アナウンスも、発車ベルもない。ドアが開くと、ぱらぱらと人が降り、またドアが閉まる。電車は去っていく。
西の空を見ると、遠くにマンハッタンが見えた。貿易センタービル、それにマンハッタンの南側のダウンタウンの高層ビルが、上のほうだけ、顔をのぞかせている。
近いようで、遠いのか。
遠いようで、近いのか。
かつて、十代の初めころ、マイクがマンハッタンに行くとしたら、一ドルのトークンも買わずにゲートを飛びこえ、このプラットホームに立つしかなかった。
今、マイクはリムジンに乗っている。自分でクルマを運転するときはBMWかロールスロイスか、メルセデスか、ベントリーだ。全部、かれ自身のクルマである。
ロッカウェイ駅の、高架線のプラットホームからわずかに見えるマンハッタンの風景を、かれはもう忘れてしまっているにちがいない。いつかは思い出すことになるのだが、今は忘れている。やがてその光景を思い出すときがくるとすれば、そのときかれは気づくにちがいない。結局おれはあのときからたいして遠くまで行ったわけじゃないんだ、と。そして、ブルックリンのブランズビルから集めてきた写真に見入るのだろうか。
キャッツキルの、カス・ダマトのジムの壁にはタイソンの写真が何枚も貼られていた。ボクサーになったあとのタイソンの写真である。
ジムはひっそりとしていた。
カス・ダマトが亡くなってから、ジムは静かになった。いや、それ以前から、キャッツキルのジムはタイソンだけのトレーニング場のようになってしまったと、初期の、アマチュア時代のタイソンを教えていたトレーナーがいっていた。そのトレーナーは、それまでどおり、もっと沢山の若い連中にボクシングを教えたかったのだという。それが、タイソンと出会う前のカス・ダマトの方針でもあった。
ダマトはモハメド・アリがまだカシアス・クレイといっていたころ、あの天才肌のボクサーに興味を示したことがあった。一九六〇年代のことだ。そのカシアス・クレイは名トレーナー、カス・ダマトのことを知っていたが、プロ入りに際して、ダマトの門下に入らなかった。ダマトはとても残念がったと、当時のダマトの周辺にいたボクサーたちは語っている。ダマトは、以後チャンピオンを育てることに興味を失い、キャッツキルにひっこんだ。そして、タイソンと会ったとき、もう一度、チャンピオンを育てる夢にとりつかれてしまうのだ。
若いトレーナーはカス・ダマトと意見があわず、やめてしまった。今はブルックリンのジムで、ボクシングを教えている。
今でも、ときどき、タイソンはキャッツキルにやってくる。試合前、そこでトレーニングを積むのだが、かれは試合の三週間前になると、早くも現地に乗りこんでいく。アトランティック・シティーという、ニューヨークのすぐ隣り、ニュージャージー州で試合が行われるときも、ニューヨークからは目と鼻の先なのだが、タイソンはホームグラウンドのようなキャッツキルのジムを離れ、アトランティック・シティーへ行ってしまう。
それで、キャッツキルのジムがひっそりとしているのかもしれない。
新聞の切り抜きも、ジムの壁にところせましと貼りつけられていた。その壁にも、汗の匂いがしみこんでいる。
柱に、一枚の貼り紙があった。マジックペンで書かれている。メDon't say Can'tモ――できない、と言うな。諦めてはいけない。不可能はない。そういわれつづけて、ボクサーはジムでトレーニングを積むわけである。
いつまで、ここでタイソンはトレーニングをつづけるだろうか。
ぼくはそんなことを考えた。
やがてここにも来なくなる時期がくるのではないか。そんな気がしたからである。
誰もサンドバッグを叩く者がいない。
ゴングの音も聞こえてこない。
シュッ、シュッとシャドウ・ボクシングをするときの、あの鋭く空気を切り裂く気配もない。
ぼくはある映像を思い出した。
VTRである。
タイソンがこのキャッツキルのジムにやってきて間もないころ、一人のボクサーがジムに呼ばれた。呼んだのはカス・ダマトだろう。ボクサーは年をとっていたが、かつてプロで活躍したことがある。VTRの中で、誰もそんなことを解説してはいないが、そういう気配が伝わってくる。プロのリングにあがった男と、ためしに、グラブを合わせてみろ。ダマトはマイク・タイソンにそういったにちがいない。タイソンはまだ十六、七歳だ。そのときのファイトが、映像に残されている。たまたま、誰かがVTRをまわしたのだろう。
ぼくはそのVTRを見る機会があった。
百戦錬磨のボクサーは、さすがにうまい。真正面から突っこんでくるタイソンをジャブでいなし、巧みにステップを切る。そして、いい角度からフックを打っていく。そのボクサーの内側に、タイソンは強引に入りこんでいく。そして強いパンチを叩きつける。
数ラウンドのスパーリングだ。カス・ダマトはどことなく、かつてのイギリスの首相チャーチルに似ている。鷹のような顔をしている。そのダマトが、VTRの中ではコーナーに立ち、じっとタイソンのファイトを見ている。
ボクサーはいう。ストロング・ボーイ。マウスピースをくわえて、ファイトしながらいうのだ。ストロング・ボーイ、と。一度、そうやって口に出してしまうと、強さを認めることになる。そして、くりかえし、いいはじめる。ストロング・ボーイ、オー、ストロング・ボーイ……。
数日後タイソンはやってきた。
イーストリバー・ヨットクラブである。マンハッタンを見わたせるブルックリンの一画。かれはその日も、法廷に行ってきたという。例の問題だ。
かれはしきりに汗をぬぐった。
背はさほど高くない。握手をすると、手はやわらかかった。ぼくは握手をしながら、軽く、かれの背を叩いた。筋肉がやわらかいのにおどろいた。ごつごつしたところが、ひとつもなかった。じつにしなやかな筋肉だ。
なかなかいいところじゃないかと、かれはいった。ヨットクラブのことだ。タイソンはしばらくマンハッタンのビル群を見つめていた。それだけだ。そこがブルックリンの一部であることなど、どうでもいいようだった。また、タオルで汗をぬぐった。
毎日、こんなことやっているんだ、たまらないよ、とかれはいった。
訴訟のことだ。短期間で結論を出そうと、ニューヨークの裁判所は連日のように当事者を法廷に呼び、調停役を買って出ようとしていた。
正直いって、あまりいいインタビューにはならなかった。
かれの英語はわかりにくい。そう思って通訳を用意しておいたのだが、その人にもわからない言いまわしがいくつもあるようだった。
ミセス・タイソン、ロビン・ギブンスも一緒だった。ロビンの母親も一緒にやってきた。この母娘は、いつも行動をともにしている。ロビンは、マイクとの仲がどれだけうまくいっているか、のろけてみせた。出会いはロスアンゼルスで、あれほどファンタスティックな夜はなかった、といった。
タイソンは、おれは追われてばかりいる、といっていた。
「今日だって、どうやって調べたのか、このヨットクラブにプレスの連中がいるんだ」
だからまた、逃げださなくてはいけない、とつづけた。
「これからどこへ行く?」
ぼくは聞いた。
「さあな……あんたはトーキョーから来たんだろ?」
「そうだよ」
「これからどこへ行くんだい?」
「決めてないな」
「そうだろ。そんなもんだよ」
かれは、自分もまだ旅の途中だといいたかったのかもしれない。
あとで、ふとそんなことを考えた。
ブルックリンを出て、あちこち転々としながら、かれはボクサーとして旅をつづけている。どこへ行っても、まだ、旅の途中なのだ。チャンピオンになっても、まだ旅の途中なのだ。
ぼくは、鳩のことを話した。
ブランズビルに行ったついでに、鳩を飼っている少年をさがそうと思ったのだ、と。
「で、どうだった」
かれはブランズビルのことは話さず、鳩のことを聞いてきた。
「見つからなかった」
そういうとかれはうれしそうに笑った。おれがいないのだから、もうあそこには鳩もいない、とでもいいたげだった。
ブランズビルに鳩はいなかった。
そのかわりに雨が降ってきた。
陽ざしの強い午後だったが、どこからか突然、雲がやってきて、どしゃぶりの雨になった。
ブランズビルの子供たちはうれしそうに町中を走り回っていた。
ほこりっぽい町がしっとりと落ち着きをとり戻した。
窓から突き出されていた物干し竿が引っこめられ、かわりに窓辺には鉢植えの花が並べられた。
「どこにもいないな」
ピンクの帽子をかぶった黒人ドライバーがいった。
何人でもいるといっていた鳩を飼っている友達が、どこにも見えないというわけだった。
「ブルックリンのホームボーイは鳩と同じで……」
と、ピンクの帽子がうたうようにいった。
「小屋を捨てて、どこかへ飛んでいってしまう」
歌いながら、体全体でラップのリズムを刻んでいた。
ピンクの帽子が揺れていた。
そういえば――と、ぼくは思い出した。あの小さく折りたたんだ何枚もの五ドル紙幣はどうなったのだろう。謝礼として誰かに手わたしたところをぼくは見ていない。まだ、ピンクの帽子の内側にあるにちがいない。
小さくたたまれた五ドル紙幣も、ラップのリズムに乗って帽子の中で踊っていた。
フォアマンズ・ナイト
「おれにはわかるんだ」
と、語っているのは、ジョージ・フォアマンだった。
「彼女が何を考えているか、手にとるようにわかる。経験っていうやつさ。ミセス・タイソン、ロビン・ギブンスはタイソンを男として見ているんじゃない、マネーメイキング・マシンと見ているな。おれはタイソンに警告できる。気をつけろ、ってね――」
読んでいた新聞にジョージ・フォアマンからの「アドバイス」というタイトルのついたコラムがあり、そのなかでフォアマンがそんなふうに語っているのだった。
ニューヨークのグランド・セントラル駅を出たところのニューズ・スタンドで何種類かの新聞を買った。ニューヨーク・ポスト、ニューヨーク・ニューズデイといった、タブロイド版の新聞である。
町を歩く人たちはすっかり夏の装いになっていた。六月のニューヨークである。その日はヤンキー・スタジアムに行き、ヤンキースのゲームを見ようと決めていた。ウィークデイのナイトゲームで試合は午後七時半から始まる。マンハッタンのミッドタウンから地下鉄で十五分もあればブロンクスのヤンキー・スタジアムに着く。まだ午後の早い時間で、一度ホテルに戻り、新聞でも読んでみようと、ぼくは考えていた。
グランドセントラル駅は42丁目の通りに面している。フォーティ・セカンド・ストリートである。
それを東に歩き、一ブロック行くとレキシントン・アベニューだ。ホテルはそのレキシントン・アベニューに面している。フロントにはシンガポールとアメリカ人のあいだに生まれたハーフの女の子がいる。本人にたしかめたのだから、間違いない。
彼女は昼間だけ、そこで働いている。小さな、こぢんまりとしたホテルで、客は長期滞在者が多い。フロントも間口が一間ぐらいしかない。カウンターの向こうに、大柄なアメリカ人がいたら暑苦しく見えるだろう。そういう意味では、彼女はいいサイズだった。
部屋は広々としている。冷蔵庫があり、いつもビールが冷えている。
六月の、ニューヨークの、町なかの暑さを避けて、夕刊紙を片手に冷たいビールを楽しむ。午後の過ごし方としては申し分ない。
スポーツ面のトップは、ヤンキースのビリー・マーチン監督が解任されたというもので、毎度くりかえされる出来事だが、ニューヨーカーにとっては気になるニュースなのだろう、ビリー・マーチンの顔がタブロイド版の新聞の中央に大きくクローズ・アップされていた。
ビリー・マーチンは五度目の解任である。
ヤンキースのオーナー、ジョージ・スタインブレナーはビリー・マーチンをこの十年ほどのあいだに五度、雇い、そしてそのたびに解任している。お互いに首切り《フアイア》ゲームを楽しんでいるのだろう。そうとしか考えようがない。
ビリー・マーチンはニューヨーク州の北《アツプ・ステイト》にある友人の別荘で釣りを楽しむといってマンハッタンを出てしまった。今回はあらためてコメントを発表する気もないらしいと、記者は書いていた。
そんな記事を拾い読みしながらうつらうつらしているときに、フォアマンの記事を見つけたのだった。
ジョージ・フォアマン――その名前を見て、目がさめた。
かつてのヘビー級チャンピオンである。モハメド・アリ、ジョー・フレイジャー、そしてジョージ・フォアマン。この三人のボクサーがいたころのヘビー級のボクシングは面白かった。スピードのあるアリのボクシング、タフなフレイジャー、そして丸太ん棒で殴りつけるようなフォアマンのボクシング。
ジョー・フレイジャーが、徴兵拒否をしてリングから遠ざかっていたモハメド・アリの挑戦を受けたのは、たしか一九七一年の春さきのことだ。アリのスピードは全く衰えていなかった。
しかし、フレイジャーはアリを15ラウンドになって追いつめる。左のフック一発で、アリは腰からリングに沈んだ。
それから二年後、ジョージ・フォアマンはフレイジャーをわずか2ラウンドであっさりと倒してしまう。ジャマイカのキングストンで行われた試合である。フォアマンのパンチは象でさえも倒せるといわれたものだ。
そこに、もう一度、モハメド・アリが現われる。ザイールのキンシャサで行われた試合である。七四年十月、アリは8ラウンド、ジョージ・フォアマンを倒した。
一連の試合を、ぼくは日本にいてテレビで見た。テレビで見るしかなかったのだ。
ぼくはジョージ・フォアマンというボクサーが嫌いではなかった。
なぜだろうか。
一つには同世代の人間としての共感があった。モハメド・アリはローマ・オリンピックのボクシング・ヘビー級のゴールドメダリストになったあと、プロに転向した。ローマ五輪は一九六〇年である。ぼくはやっと、小学校の六年生になったところだった。
かれはまだ、カシアス・クレイといっていた。クレイに関する情報は、かれがソニー・リストンに勝ってチャンピオンになったあと、急速に日本にも入りこんでくる。対リストン戦は六四年二月のことである。ぼくは高校生になったばかりで、遠くにいるヒーローとしてカシアス・クレイを見ていたような気がする。
やがてクレイはベトナム戦争の徴兵を拒否して、反戦運動の中でシンボリックな存在として見られるようになっていく。ぼくは東京の大学のキャンパスにいた。日本の大学を包みこんでいた空気と、アメリカのそれとが相似形であると、あのころは勝手に思いこんでいた。そういうこともあって、シンボリックな存在となったアリを、どこか身近な人物として見ていた。
それが崩れたのは、実際にかれを身近に見たときだ。
モハメド・アリが東京にやってきたことがある。アントニオ猪木との“デスマッチ”のときではない。何か別の用があったのだろう。かれは、今はキャピタル東急と呼ばれている赤坂のホテルに滞在していた。かつてそのホテルはヒルトンと呼ばれていた。東京ヒルトンである。ぼくはそのホテルでモハメド・アリと、偶然、すれちがったのだ。そのときに、あらためて単純な事実に気づいた。モハメド・アリがずいぶん年をとっているということだ。かれはまだボクシングをつづけていたが、ハチのように刺す、といわれていたころのファイターとしての精彩はどこにも感じられなかった。のっそりとした一人のアメリカ人だった。
フォアマンは寡黙な男だった。
それもまた、ぼくにとっては好ましいと思える要素の一つだった。
逆のタイプのモハメド・アリが試合前に饒《じよう》舌《ぜつ》に喋《しやべ》りまくるのを楽しむことはできた。アリは対戦相手を刺激するだけでなく、数万キロも離れた国にいる、何の脈絡もないボクシング・ファンをも刺激することができた。そういう意味では大変なエンタテイナーだった。
しかしぼくは、心のどこかでボクシングに饒舌は似合わないと思っていた。
いや、饒舌そのものが嫌いだったのかもしれない。
今でもそうだ。
フォアマンには華やかさはなかった。アリには、自分こそが世界で一番有名な人間だという思いが常にあったような気がする。ローマ五輪で金メダルを獲得した晩、カシアス・クレイはオリンピックの選手村の誰かれなしに電話をかけまくり、おれはカシアス・クレイだ、チャンピオンになった男だと喋りまくったという。いかにもモハメド・アリらしいエピソードだ。
フレイジャーには、漲《みなぎ》るファイティング・スピリッツがあった。左のフックを武器に、フレイジャーは積極的に前に出ていくボクサーだった。クリンチを嫌い、どんな場面でもかれは、殴りあうことこそボクシングの基本なのだと思いこんでいるようだった。フレイジャーの試合は、だからいつも見ごたえがあった。フォアマンは、そのフレイジャーを、初回に三度、倒した。フレイジャーが、いつものように勢いよくコーナーを飛びだしていくと、フォアマンは、ほとんど表情を変えることもなく、フレイジャーを倒したのだった。2ラウンドになって、フレイジャーは、また打ち合いを望んだ。フレイジャーらしいたたかい方だった。フォアマンは、相変わらず表情を変えず、突進してくるファイターを苦もなく倒した。試合は2ラウンドで終わってしまった。
それがジャマイカのキングストンで行われた試合だった。
淡々としたボクシングなのだが、ぞっとするほどの怖さを秘めている。それがフォアマンだった。
かれは、ザイールのキンシャサでモハメド・アリに敗れると、当時まだ二十代の半ばという若さだったが、リングから遠ざかってしまった。その後、再びリングにあがるようになったが、七七年の三月に正式に引退を表明してしまった。ずいぶんとあっさりした男じゃないかと、ぼくは思った。必死になってチャンピオンベルトを奪いにいくという、そういう姿勢が見えにくい男だった。
そのフォアマンが、十年のブランクをおいて再びリングにあがった。
そのニュースは、東京にいるときから耳に入っていた。
しかもフォアマンはKO勝ちをつづけているのだという。
フォアマンの“復活”のことは知っていたから、かれが新聞に登場し、マイク・タイソンについてコメントを出していてもおどろきはしない。
ぼくがハッとしたのは、その記事の冒頭に〈Atlantic City ――〉と書かれていたからだ。記事の発信源がアトランティック・シティーであることを示している。
フォアマンがアトランティック・シティーに来ている。
ひょっとして――と、ぼくは考えた。かれはアトランティック・シティーのリングにあがるつもりかもしれない。
アトランティック・シティーではマイク・タイソンとマイケル・スピンクスの「世紀の一戦」が行われようとしていた。
ビリー・マーチンが解任されたのはその数日前のことで、ぼくはヤンキースのゲームをいくつか見て、そのあとアトランティック・シティーへ行くつもりでいた。
タイソンのタイトルマッチを見るために、である。リングサイドの一五〇〇ドルのチケットもすでに手配ずみだった。
そこにジョージ・フォアマンがぬっと顔を出してきた。記事はタイソンとその妻、ロビン、そしてタイソンのマネジャー、ビル・ケイトンのあいだに発生しているトラブルに関するフォアマンのコメントを中心に書かれているものだったが、そのことよりもぼくにはフォアマンの存在そのものに興味をひかれた。
フォアマン、フォアマン……とつぶやいてぼくはアトランティック・シティーに電話をかけた。地元の新聞社の電話番号を調べ、問いあわせた。フォアマンがアトランティック・シティーに来ているようだが、かれはタイソンの試合を見るのが目的なのだろうか――と。
「いや、そうじゃない」
若い男の声が答えてくれた。
「フォアマンはタイソン戦の前の日に、トロピカーナ・ホテルでリングにあがる予定になっているんだ。チケット? 売り切れてはいないはずだよ。トロピカーナに聞いてみるといい。高くはないよ。タイソン戦に比べればね。ずっと安い」
かつてフォアマンがいったことがある。
「おれのパンチが相手の頭の中にめりこんでしまいそうな気がしたもんだよ」
かれは自分の拳を見つめながらそういって、
「しかし、それももう終わりさ」
とつづけた。
十年ほど前のことだ。どういうわけか、かれはそのころ一度、東京へやってきて、芝の東京プリンスホテルに滞在していた。すでに引退を表明していて、ボクシングとは関係のない“仕事”で東京に来たのだといっていた。
ぼくはそのとき、一杯の水を前に話をするフォアマンの表情を見て、もうすっかりボクシングと縁が切れてしまったのだなと、しみじみ思ったものだ。
フォアマンは、脂の抜けたような顔をしていた。それが最初の印象だった。
ぼくはよくおぼえている。ホテルの一階から部屋に電話をすると、今おりていくよ、とかれはいった。フォアマンは一人でやってきた。連れは一人もいなかった。あの、ジョージ・フォアマンなのだ。誰かが身近でサポートしていてもよさそうなものだが、かれは一人だった。
フォアマンはラフな格好をしていた。金のブレスレットもネックレスもつけていなかった。かつて世界ヘビー級のチャンピオンだったことを、少しでもうかがわせるものがないかと、ぼくはひそかに観察した。
何もなかった。
ジョージ・フォアマンという一人の男が、ただそこにやってきただけだった。
引退してしまったあとに、一体、何をしに東京に来たのか、とぼくは尋ねた。かれはいった。神を見てしまったんだ、と。
ぼくは聞きかえした。何を見たって? ゴッド! ジーサス・クライスト! かれは、はっきりとした口調でつづけた。
「試合が終わって、控え室に戻った。すると、おれの顔、両手の平、そして足……、ちょうどジーサス・クライストがはりつけになって血を流した同じ個所から血が流れ出ていた。そして気がつくと、おれは聖書の言葉をつぶやいていた……」
ぼくはそのころ、雑誌の仕事で毎週、誰かにインタビューするという仕事をつづけていた。様々な人間をたずねることになった。一週間はすぐにたってしまう。次は誰をとりあげるべきか、毎週、週の初めにそのことで頭を悩ますという生活だった。そういうとき、フォアマンが、なぜか日本に来ているという話を耳にしたのだった。
会ってみるとフォアマンは、自分は神と出会ったんだと語りだしたわけである。
まいったなあ、とぼくは思った。
そういう話の展開になるとは思ってもみなかったからである。
話がどう展開しても対応しきれるほど英語が堪能であるわけではない。
ぼくはブラックでコーヒーを呑んだ。
フォアマンは言葉を選びながら、ゆっくりと話をしてくれた。それで、どうやらかれが、冗談をいっているのではないことがわかった。
一所懸命、自分の体験を伝えようとしているようだった。引退したあとは、かつて自分がリングにあがった町をたずね歩いているといっていた。アメリカ国内だけではない。キングストンは、ジョー・フレイジャーを倒してヘビー級チャンピオンになった町だ。アフリカのザイールの首都キンシャサはモハメド・アリとの一戦で敗れた町。ベネズエラのカラカス、トロント、そして、東京。東京ではジョー・キング・ローマンと対戦している。このときは1ラウンドでKO勝ちしている。
「七七年三月のことだよ――」
フォアマンはいった。
「おれはプエルトリコのサンファンにいた。ジミー・ヤングと試合をするためだ。ノンタイトルの12回戦だったね。判定で負けた。最後のラウンドでヤングのパンチをだいぶくらった。そして控え室へ戻ってきたんだ――」
かれが「神」と出会ったという控え室はサンファンのボクシング会場の、控え室である。
かれはもう、これ以上、ボクシングをつづけられないと感じた。
対ジミー・ヤング戦は、フォアマンにとって二度目の敗北だった。一度はキンシャサでアリに敗れ、二度目がヤングだ。かれはまだ二十代の後半だった。
しかし、そこで引退してしまった。
フォアマンはテキサスに農場を買い、家畜を追う生活に入った。「神の言葉を伝える」ことがかれの仕事になった。手短かにまとめてしまえば、そういう話である。
なぜ、突然、神を見ることになったんだ? ぼくがそう聞くと神と出会うのに理由などいらない、とにかくおれはジーサス・クライストの姿を見たのだから、それでいいじゃないか……フォアマンはそう語るのだった。
フォアマンは頭にダメージを受けるほどのパンチは喰っていない。かれは強すぎるほどのボクサーだったのだ。
終始にこやかに語られてしまうと、そういうことなのかとつぶやいてテープレコーダーを止めるしかなかった。そういうことだよ、だから今のおれはハッピーだと、フォアマンはいった。
ハッピー……ハッピーだというわけだな。ぼくはつぶやいた。
その後、時折り、かれはファンの前に姿を見せた。テキサスの農場でつなぎの服を着て、家畜の世話をしているフォアマンの写真を見たことがあった。
ラリー・ホームズのヘビー級のタイトルマッチが行われたとき、リングサイドにフォアマンが招待されたこともある。あの時代のもう一人のチャンピオン、モハメド・アリは筋脱力症にかかり、うつろな目でリングサイドにやってきた。フォアマンは、そのアリを複雑な表情で見つめ、何ごとかを口の中でつぶやく……そういう感じだった。
トロピカーナ・ホテルのリングは大きな劇場の中に作られていた。
アトランティック・シティーはカジノの町である。大西洋に面した海沿いに大きなホテルが建ち並び、それぞれにカジノがある。ニューヨークからクルマで三時間という距離だから、朝、バスでやってきてギャンブルを楽しみ、夕方のバスでニューヨークに帰っていく、という人も少なくない。
どのホテルにも、劇場がある。
ギャンブルを楽しみ、食事をしてカクテルをやりながらショーを見る。それが滞在客の平均的なパターンである。フランク・シナトラ、サミー・デイヴィスJr、サラ・ボーン……週末にはアメリカ人にとってのナツメロを聴きに、年配の客が集まってくる。
トロピカーナ・ホテルは、タイソン戦が行われる前日の、週末のシアターを、歌手ではなくボクサーを登場させることで客を集めようとしたわけである。
リングは客席の前列のあたりに組まれていた。舞台には鉄パイプを組み、客席にしてしまう。客席の一部はボックスシートになっている。テーブルがあり、バニーガールに注文すると、そこに飲み物が運ばれてくる。
テレビカメラがセットされていた。スポーツ専門のCATV局がフォアマンのボクシングを中継するのかもしれない。
開場は夜の八時ごろだ。
ジョージ・フォアマンはその日のメイン・エベントに登場すると、トロピカーナ・ホテルのパンフレットに印刷されていた。前座の試合がいくつか組まれていた。フォアマンがリングにやってくるのは夜の十一時ごろになるだろう。
チケットは一五ドルである。
タキシードを着たシアターの案内係にチップを渡すと、かれはいい席に案内してくれる。ぼくはボックスシートに坐り、バーボンのオン・ザ・ロックをやりながらフォアマンの登場を待った。
そのさらに前夜、同じトロピカーナのリングにヘクター・“マッチョ”・カマチョがあがったという話だった。カマチョは中南米生まれのボクサーで、中量級だが世界チャンピオンになった。そのスピーディーなボクシングは人気があった。リングにあがるとき、トランクスの上にかれはターザンのように、腰に毛皮を巻く。そういうボクサーだった。そのカマチョも一度、引退し、その夜が再起戦だった。
「なぜまたリングに復帰したのかって?」
カマチョは記者に聞かれて率直に語っていた。
「オフクロが電話してきたんだ。お金がないんだよ、マッチョってね。ぼくにもカネがないのさ。そう答えると、一体どうしたのかという。使っちゃったからないんだよ、ママ。でも、と母親はいった。お金は必要だよ、マッチョ、お前はもう一度、リングにあがらなくちゃいけないね――と。そういうことさ。それでぼくはカムバックすることになった」
フォアマンは四十歳になっているはずだった。
あのとき、おれはハッピーだといっていたのに、どうしてまたリングにあがり始めたのか。理由はカネ以外にはありえない。「神」と出会ったからといって、カネが不必要になるわけではない。
しかし――。
フォアマンは、白いガウンを着てリングにあらわれた。
拍手がわきおこった。
翌日のタイソンとスピンクスのチケットは買えないが、フォアマンのチケットなら買えるというファンが、トロピカーナの、素晴らしく天井の高い、大きな劇場につめかけていた。三千人ほど入っていただろうか。翌日のタイソン戦は、一番安い席で一〇〇ドルである。そのチケットにもプレミアムがつき、町ではほぼ倍の値で取引されていた。フォアマン戦は、一五ドルである。
フォアマンは短く頭を剃りあげていた。昔ふうの言い方をすると、五分がりだろうか。
いや、もっと短い。
無表情である。
リングの固さを確認するようにかれは二、三度、ステップを踏んだ。体を前にかがめて、膝の裏側の筋を伸ばした。軽いストレッチングである。それだけだ。あとは何もせず、かれは自分のコーナーに引きさがりコーナーポストに身をあずけた。トレーナーがフォアマンの耳もとで何ごとかをささやきながら、ガウンを取った。
四十歳になったフォアマンの、ファイトに臨もうとしている黒い肉体があらわになった。ウエイトは二四五ポンドだと、発表されていた。約一一〇キロといったところだろうか。リングにあがるには、重たいほうだろう。腹は太くなっている。かつては、太い二本の腹筋が腹をガードしていたはずだ。その腹筋が、どの角度からも見えていない。
リングサイドには、翌日のタイソン戦を見にきた、フォアマンよりもずっと若い世代のボクサーが並んでいた。ウェルター級からミドル、スーパーミドルと中量級をことごとく制してきたシュガー・レイ・レナード、八〇年代のミドル級に君臨しつづけたマービン・ハグラー……。フォアマン戦が始まる前に、かれらがぞくぞくとトロピカーナ・ホテルにやってきたのである。
四十歳でカムバックしたフォアマンは、かれらを一顧だにしなかった。気負うことも卑屈になることもなかった。
劇場はざわめいた。
かつてのフォアマンを知っている世代の観客が多い。
野次は聞こえてこなかった。
すっかり太ってしまったけれど、フォアマンが若いヘビー級のボクサーを相手に連続KOで勝ちつづけてきていることを、皆、知っているからだ。しかもフォアマンは、リングにあがって客席に向かって手をあげるでなく、リングサイドに視線を投げかけるでもなく、無表情をきめこんでいる。
そのポーズを見て、ぼくはほっとした。
なぜだろう。
ボトルネック・ギターの、ヘビーなスチール弦の音が聞こえてきたような気がした。アメリカの田舎町の、何てことのないバーに行くと、ボトルネック・ギターの、重たい低音がどこからか聞こえてくる。酒を飲んで外へ出ると、夏ならば空はまだ明るくて、果てしなく広がる地平線が赤く染まり、明るさはそのせいなのだが、見上げると町の上空に黒い雲があり、夕焼けを信じればいいのかそれとも黒い雲の告げる空模様を警戒すべきなのか、一瞬わからなくなる。昼間は青一色の空だったのに、やっと陽が落ちかけた夏の夜の八時すぎ、空は分裂してしまっている。
そのことにおびえつつ、大地に這いつくばって生きようとする生き物のつぶやきを音にすると、あのギターの重低音になる。
フォアマンは、自分のコーナーのポストに体をもたれかけさせ、グラブをつけた手を左右に伸ばしてロープを軽く握っている。
そのまま、何の表情も見せない。
若いボクサーが、反対側のコーナーから登場してきた。
また、拍手だ。口笛を吹く者もいる。若いボクサーは、威勢よくリングの上で跳びはねた。白人で、背は低いが、ガッチリとした体型をしている。かれはアトランティック・シティーのあるニュージャージー州のボクサーだと、プログラムには紹介されていた。地元のファンをつかんでいる。
カルロス・ヘルナンデス、と紹介された。18勝5敗1分、18勝のうち13回がKO勝ちである。ちなみに、ジョージ・フォアマンは54勝2敗、51KO。突然、カムバックしてからは九試合連続でKO勝ちしている。その夜が再起十戦目だった。
フォアマンは、反対側のコーナーでしきりにシャドウ・ボクシングをつづけるヘルナンデスを、自分のコーナーポストに寄りかかりながら姿勢を変えず、冷ややかに――としかいいようのない視線で――見つめていた。
「タイソンは、何よりもまずボクサーなんだ」
フォアマンはマンハッタンで読んだ新聞の中で語っていた。
「リングでたたかうこと。それがあいつの仕事だよ。そして、ボクシングで稼いだカネは誰にも見つからないところに隠しておくんだ。さもないと、たいへんなことになる。それをやったうえで、離婚するんだな。それがいい」
タイソンに対するアドバイスとしては、それ以上のものはないだろう。タイソンのまわりにはカネがあふれている。しかし、そんなものはすぐにむしりとられてしまうんだと、フォアマンは語っていた。新聞のコラムである。おれがいうんだから間違いない、誰にも見つからないところにカネを隠しておけ、と。リアルなアドバイスなので、ぼくはその記事の中のコメントを一語、一語、おぼえていた。
トロピカーナのリングに無表情に立っている男と、タイソンに対する親身なアドバイスがうまく重なりあわなかった。
ゴングが鳴った。
若いボクサー、ヘルナンデスは跳びはねるようにリングの上を動きまわる。
フォアマンは熊のように、若いボクサーを見つめる。
ヘルナンデスが体を紅潮させてとびこんでいく。腕をふりまわすようなボクシングである。フォアマンは手を出さない。ヘルナンデスは、叫び声をあげるように殴りかかっていく。そのうちの一発が、したたかにフォアマンの腹を打った。トロピカーナの客は、立ちあがった。フォアマンの表情は相変わらずだ。ガードを低く構えて動じることがない。
1ラウンドは、そこまでだ。
ゴングが鳴り、自分のコーナーに戻ると、フォアマンは椅子に坐らずコーナーポストに体をあずけ、立ちつづけた。
そこからじっと、相手を見つめている。
最初のゴングが鳴る前と、少しも変わっていなかった。
腹の肉を波打たせて荒い息をしているわけではない。汗もかいていない。
ヘルナンデスは興奮していた。セコンドの動きはあわただしかった。どうってことないじゃないか、あの丸太ん棒なんかぶっ倒してやる。そんなふうにわめきちらしているのだろうと思えた。
フォアマンのペースだった。
2ラウンドになると、フォアマンがパンチを出しはじめた。パンチを受けるたびに、ヘルナンデスの体がガクリと揺れた。上から叩きつけるように重いパンチを打ちこむのだ。鈍い音が聞こえてくる。しかしヘルナンデスはそのたびに、グラブをつけた両手の平を広げ、もっと打ってこい、さあやってみろと、ジェスチャーで示してみせた。
リングサイドからは拍手だ。
しかし、ヘルナンデスはおびえていたのだ。
相変わらず、フォアマンのパンチは強かったのだろう。そのことにおびえて、ヘルナンデスは虚勢を張ったのだろうと思えた。
フォアマンはどうだろう。
「神」と出会ったといってリングを降りたフォアマンには、こわいものなどなかったはずだ。しかし、かれはもう一度、リングにあがらざるをえなくなってしまった。
ゆっくりとしたテンポの、しかし力強いパンチを、四十歳になったフォアマンが、坊や、もうこれくらいにしておけといわんばかりにくりだしていく。
ラウンドが終わるたびに、かれは自分のコーナーに戻り、マウスピースを外すとそこに立ちつづけた。コーナーポストに身をあずけ、腕を左右にのばしてロープを軽く握り、表情を変えない。結果はわかりきっているのに何だってこんなことをしているのか、という顔である。フォアマンは苦しそうでも、うれしそうでもなく、むしろ哀しそうだった。
4ラウンドになって、ヘルナンデスのマウスピースが、フォアマンの一発のパンチで吹っとんだ。劇画のボクシングシーンでも、あんなにみごとにマウスピースが飛ぶことはないだろう。ヘルナンデスは膝にきていた。フォアマンは、まだこれ以上やらせるのかと、レフェリーに聞いた。ヘルナンデスは目をまわしながら、もっとこい、もっと打てと、ジェスチャーでいっている。ヘルナンデスにとっては、そういうポーズをとりつづけることが、プライドを保つ唯一の方法だったのだろう。おれはまだやられてないと、遠ざかる意識のなかで、そう言い張っているのだ。
フォアマンがのっそりと近づき、ぼこっという音をたてて右のフックを打った。叱りつけているようなパンチだった。虚勢を張って格好つけてどうするんだ、ボーイ、生きるってのはそんな簡単なことじゃないんだ、わかってるのか。そういうパンチである。
ヘルナンデスはロープにもたれかかった。それでもまだヘルナンデスは、左手でフォアマンを挑発した。
フォアマンは、そのヘルナンデスに背を向けニュートラルコーナーに歩いていった。
レフェリーがTKOを宣した。
フォアマンは、黙ってリングを降りた。
ジョージ・フォアマンは四度離婚して、今は五度目の結婚をしている。子供は八人いて、そのうちの四人に「ジョージ」という名前をつけている。過去、四度の結婚でそれぞれに男の子が生まれ、四人の「ジョージ・フォアマン・ジュニア」がいる。そして皆、別々に生活している。
「食わせること、生きることは大変なことなんだ」
かれはいっている。宣教師になるはずだったフォアマンは、その日、なにがしかのファイトマネーをアトランティック・シティーのカジノのあるホテルの劇場で稼ぎ、リングを降りた。
その晩、ぼくはブラック・ジャックでとられ、ルーレットで大勝ちし、まだしわのついていない現《グリーン・》金《マネー》をつかんで、朝方、表通りに面したホテルの部屋に戻った。
タイソンのチケット三〇〇ドル、三〇〇ドル! と叫ぶダフ屋の声で目をさましたのは昼ごろのことだった。
ガヴェアの溜め息
どこからか聞こえてきたのは、間違いなく、どよめきだった。
ぼくは足を止め、耳をすました。
気のせいだったのだろうかと、自分の耳を疑った。町を歩いている人たちは、何ごともなかったかのように、いつもと同じように散策しているからである。かれらには聞こえなかったのだろうか。いや、そんなはずがない。時計を見ると、午後の六時前で、季節は南半球の夏だから、陽はまだ高い。西日が古い石造りの建物が並ぶ街かどを海のほうから照らしだしていた。
ぼくはスーパーマーケットで買いこんだ缶ビールをかかえていた。ついでにミネラル・ウォーターも買おうと思ったのだが、「アグア(水)」というだけでは、話が通じない。ミネラル・ウォーターにも二種類あり、ガスの入っているミネラルと、入っていないミネラルがある。ぼくがほしいのは「ノン・ガス」のミネラルで、英語でこれは「ノン・ガスか」と聞くと、店の人はラベルを示しながらポルトガル語で、ここに書いてあるじゃないかという。首をタテに振るか横に振るか、どちらかで答えてくれればいいのだが、ぼくの問いに対して、ラベルに書かれた文字を指で示すのである。
ガスの入ってないやつがほしいんだよ。思わずぼくが日本語でいうと、店の人は両手を広げて、わからないという仕《し》種《ぐさ》をしてみせた。
アグアはなくても、ビールがあれば何とかなるほうなので、水はやめておいた。
それはいいのだが、今、聞こえたどよめきは何だろう。
一度きりで、聞こえなくなってしまった。
風が吹いてきて、耳のあたりをかすめていったのだろうか。そんな天気でもなかった。太陽が西に傾いている時間に特有の、涼しい風が吹いてはいたが、突風の吹き荒れる気配はない。
と、すると、空耳だろうか。
たしかに、人のうなり声、それも大勢の人間の溜め息のようなものが聞こえたはずなのだが、表通りを走るタクシーは相変わらず匂いのきつい排気ガスをまきちらしているし、街かどではほとんど裸の、肌をさらした男たちが、派手なシャツを着てたむろしている。
何も変わってはいない。
ぼくはゆっくりと、ホテルに向かって歩いた。紙袋の中の缶ビールの冷たさが左の腕に伝わり心地よかった。
ホテルの部屋に戻ったとき、もう一度、さっきのどよめきのようなものを聞いたような気がした。今度は、人の声には聞こえなかった。どこかで、巨大な扇風機がぶるんと回ったようでもある。
ベランダに出てみたが、何も見えなかった。
見えるのは、イパネマのビーチと、それに山のてっぺんから町を見おろしている大きな石像である。山はコルコバードの丘で、その頂上には高さ三十メートルをこえるキリスト像が、両手を大きく広げて佇《たたず》んでいるのだという。
ぼくはリオの町にやってきているのだった。
ブラジルの、リオ・デ・ジャネイロである。
滞在しているホテルのベランダから見える風景が、ぼくは気に入っていた。
ホテルといっても、そこは長期滞在者用のフラットである。リビングとベッドルームが別になっていて、そのほかにキッチンがありバスルームがある。
ベランダに置かれているデッキチェアに身を横たえ、冷たいビールを飲むのが毎日の習慣になった。
夏の光が差しこんでいた。イパネマのビーチは歩いて数分のところで、ビーチに行けば二本のひもを体にまとっただけとしか見えない、そういう水着を身につけた女の子たちが肌をチョコレート色に焼いている。そこに行くのすらおっくうな、そんな怠惰な午後をベランダで過ごしていると、ある日、タコがとびこんできたことがあった。
風にのせて空高く飛ばす、凧《たこ》である。
野球のホームプレートのような形をした凧だった。長い尾をつけていた。尾はきらきらと光る黒いビニールのひもだった。
そこまで飛んできて風をつかまえることができなくなり、ゆらゆらとベランダに不時着したのだろう。外を見ると、遠くの、といっても空地を隔てた向こう側にある集合住宅の踊り場のようなところで子供たちが何人かかたまり、こちらに向かって手を振っていた。目をこらして見ると、たこ糸はたしかにそこにつながっている。かれらはたこ糸をぐいぐいと引っ張った。凧をベランダから外へ出してくれと、身振りでいっている。
ぼくは凧を両手に持ち、たこ糸がぴんと張ったところで手をはなした。凧はびゅっという音をたてて空を泳いでいった。
ベランダのデッキチェアに身を横たえて空を見るのではなく、ベランダごしに下を、あらためて見てみると、なかなかおもしろいロケーションだった。
部屋は六階だが、地上から数えるとそこは十二番目のフロアになっていた。一番下のフロアがフロントのあるオフィスである。次にSフロアというのがあり、ここは何に使われているのかよくわからない。その次から三フロア、駐車場がある。さらにその上にPフロアがあり、そこにはちょっとしたレストランとガーデンプールがある。そこまでですでに六フロア。その上に客室がつづく。客室の六階は十二番目のフロアにある。
ガーデンプールは壁に囲まれていた。外から見えないようになっている。六階の高さにあるプールなのだが、わざわざ壁を作ったのはフラット自体が低地に建てられていて、プールの壁のすぐ隣りに荒地がつづいているせいだ。
荒地には、赤いレンガの家が、途中まで作られ、そのままになっている。壁の半分ほどの高さまでレンガが積みあげられ、そこで作業をストップしてしまったらしい。その未完成の家にデッキチェアを持ちこみ、日光浴をしている女性がいる。
上から見おろすと、フラットのプールサイドに横になっている人と、荒地の赤レンガの家にどこからかやってきて日光浴をしている人と、壁一枚隔てて、ほんの数メートルしか離れていない。
しかし二人は、お互いの存在に気づきようもなく、同じ太陽の光を浴びている。
そして、その荒地の向こうに、壁の崩れかけた、色とりどりの洗濯物のはばたく集合住宅がつづいている。
リオにやってきたのは、ビーチバレーの世界選手権を見るためである。
ビーチバレーは砂浜で行われるバレーボールで、そんな競技にも世界選手権があるのかと、疑いつつ、日本から見ればちょうど地球の反対側までやってきたのだが、実際にビーチバレーの世界選手権をまのあたりにしてみると、納得するほかなかった。
いや、それ以上だろう。ぼくは正直いって、ビーチバレーの世界選手権を見て軽いショックをおぼえた。砂浜でバレーボールを、というと、ビーチボールを相手にたわむれる日本人を思いおこしてしまうせいかもしれない。そんなもののどこが面白いのかと疑ってしまうのだが、それは単に、ぼくがビーチバレーを知らなかっただけのことだと、すぐに気づかされた。
ブラジルでは、インドアのバレーボールよりも、ビーチでのバレーボールのほうが盛んなのではないだろうか。イパネマ、そして隣りのコパ・カバーナの海岸にはバレーボールのネットを張るためのポールが並び、どこまでもつづいている。
そのブラジルに、アメリカからプロのビーチバレーの選手たちがやってくる。かれらは、夏のアメリカのフロリダ、西海岸を中心に、週末ごとに転戦している、という。ビーチバレー・ツアーである。試合にはスポンサーがつき、選手たちは賞金を得ている。インドアのバレーボールではナショナル・チームの代表になるような選手たちが、夏のあいだはビーチバレーで稼いでいるわけである。
その他、ヨーロッパからはイタリア、フランスの代表チームが参加している。カナダ、オーストラリアからも選手たちがやってくる。中南米ではメキシコ、キューバ、ペルー……。意外に国際色豊かなイベントなので、ぼくはおどろいた。
イパネマのビーチに一万人ほど詰めこめるスタンドを築き、その中心にコートが作られる。砂のコートである。サイズはインドア・コートと同じだが、ビーチバレーは一チーム、二人の選手でたたかわれる。テニスのダブルスだと思えば、おおよその試合運びは理解できるだろう。
ブラジルのトップクラスの選手たちは、ビーチでのバレーボールを存分に楽しむ。高いサーブを打ちあげ、風を利用して、ネットすれすれのところに落とす。あるいはフェイントをしかけ、相手チームを右に左に揺さぶっていく。そうしておいて、真正面からパワフルなシュートを打ち込む。夏のイパネマの、ビーチに作られたセンターコートは、リオの人たちにとってはウィンブルドンのセンターコートにも匹敵する聖なる場所なのだろうと思われた。
日本からも、代表チームが送られてきていた。
やがてビーチバレーは、ブラジルだけでなく、世界各地を転戦しながら、規模を広げていくことになっている。ビーチバレーのワールド・サーキットである。その中に日本も含まれているから、夏の湘南海岸でも世界選手権が開かれることになるだろう。
午前中を、イパネマのビーチで過ごし、昼になると海岸通りのシーフード・レストランでランチをとる。ビールはすぐに汗になって発散していく。午後はホテルのプールで泳ぎ、時間があるときは、隣りの町のゴルフ場に出かけていく。
そういう日々を送っていたわけである。
時間は、ぜいたくに使わなければいけない。
ホテルのある地区は、ガヴェアと呼ばれていた。
ガヴェアには、いろいろな人間がいた。
ガードマンのいる高級コンドミニアムから、毎朝、陽ざしが強くなりすぎる前にビーチに出てくる女性たち。水着姿にはだしで、バスに乗ってビーチにやってくる女性たち。ビーチには行かずにマッチ箱を積みあげたような共同住宅の、ひさしのかげで涼をとっている女性たち……。
ホテルの、若いフロントマンは、いつも“ガロータ・デ・イパネマ”を口ずさんでいた。イパネマの娘がどうした、こうした、という歌である。
それはさておき――。
ある日、ベランダでうつらうつらとしているうちに陽が傾き、ぼくは時ならぬ歓声で目をさました。かん高い声だった。
ベランダから外を見ると、ちょっとした空き地を利用して、子供たちがサッカーをしていた。そのサッカーでゴールが記録されたようだった。
子供といっても、プレーをしているのは十代の少年だろうか。揃いのシャツを着ていた。本物のサッカーのフィールドほどの広さはない。フィールドの半分にも満たない場所である。そこでゴールキーパーを含め、一チーム五人でプレーしていた。
そのミニ・サッカーを囲んで、これもまたどこから集まったのか、ざっと見わたしたところ、百人以上の子供たちが集まってゲームを見ているのだった。
ぼくは外へ出てみた。
フラットの横を通り抜け、荒地へと出ていった。
一個のサッカーボールをめぐって、少年たちが技《わざ》をきそいあっている。ボールさばきはびっくりするほど巧みだ。うまいから、十分な広さとはいえないそのスペースでもサッカーらしいゲームができるのだろう。相手のマークをはずして、ドリブルで攻めこんでいく。短いパス、長いパス、自在にボールを運び、それをブロックする側も、同じだけの技量を持っているから、接戦になる。
あの、かつてのスーパースター、ペレもこういう場所で育ったのかもしれない。
子供たちのサッカーゲームは、すっかり陽が落ちるまでつづけられた。それを見つめる小さな子供たちの「観客」は少しも減らなかった。
背の低い少年が前に立つ少年のわき腹のあいだに首を突っこむようにしてボールの行方を追っていた。その少年と、視線が合った。何かいおうとしたが、ぼくのほうから言葉が出てこなかった。
気がつくと、あたりは暗くなっていた。
荒地のずっと向こうには明りがもれていた。
その明りが何であるのか、フラットのベランダから見おろしたことがあるので、ぼくは知っていた。
テニスコートである。会員制のアスレチック・クラブのテニスコートの照明だ。そこには、ほどよく緑が配置され、おまけに照明設備もあるのでアンツーカのコートに立てば昼でも夜でも気持ちよくプレーできるというわけだった。
そのこちら側の、荒地のサッカーゲームには、照明などはない。暗くなってボールが見えにくくなっているはずなのに、ボールはいつまでたってもわずかな光をてり返し、輝いているように見えた。
なぜだろうか。
子供たちがちりぢりにそれぞれ家路へと向かうと、もう空には星が出ている。
そんな中でも、サッカーのボールは蛍光塗料がついているわけでもないのに、くっきりと見えていた。見ようとする意識が、そうさせるのだろうか。
すっかり夜が更けると、ぼくはもう一度、あの荒地へおりていくことになった。
金曜日の、夜だった。
荒地には、きらきらと色とりどりの光が交錯していた。
かすかに、にぎやかな音も聞こえてくるようだった。そこは劇場の裏手にあたる。観光客用にサンバのショーを見せる劇場である。
カーニバルの季節は終わっていたが、週末を控えた金曜日の夜になると、劇場はにぎわう。夜の十時すぎになって、突然、あたりに音と光をまき散らしはじめるのだ。それは土曜日の朝までつづく。
その光と音に吸い寄せられるように、子供たちが荒地に集まってくる。そこにいると劇場の裏窓から漏れてくる音と光を浴びることができるのだ。
そんなところに、どこからともなく子供たちが集まってくるのが不思議だった。
いや、そうだろうか。不思議だと思ったわけではない。
かつてぼくが住んでいた町にも、似たような劇場があった。クラブ、とそこは呼ばれていた。フェンスの向こう側の、アメリカ軍の将校たちのためのクラブである。金曜日の夜は、そこからもおそくまで七色の光がこぼれだし、フォービートのサウンドが流れつづけた。
それを知っているぼくは、夏の夜に裏窓からこぼれ出てくる光を浴びていた一人なのかもしれない。
別に何をするというわけでもなく、子供たちは家を出て、草履をつっかけてそこにやってきているようだった。
むし暑くもなく、過ごしやすい、南半球の夏の夜である。
あるものは荒地の岩のうえに腰をおろし、あるものはそこに佇《たたず》み、劇場を裏から見あげて飽くことがない。アップテンポのリズムをドラムが刻みつづけている。やむことのないリズムは、サンバだ。
夕方、荒地のサッカーで視線を合わせた少年が、そこにも来ていた。かれはポケットから一枚の紙切れをとりだした。
それをぼくに見せびらかすように振ってみせた。
少年のまわりに、わっと人だかりができた。皆、口ぐちに何かいい始めた。はちの巣をつついたような騒ぎになった。少年は、手のなかに紙切れをしまいこみ、タックルをはねのけるラグビー選手のような姿勢で、金曜日の夜に劇場の裏手に集まる子供たちの作る人垣の中から抜けだしてきた。
どういうことなのか、理解するのに時間がかかった。
少年は、手の平を広げた。
しわになった紙切れが見えた。
裏返しになっているのをひっくりかえすと、そこにサッカーのイラストが見えた。チケットである。サッカー場に入るための入場券だった。
「売ってくれるのか」
と、ぼくは英語で聞いた。
ポケットから小銭をとりだし、どうだといった。
かれは首を振った。そして、チケットをまた手の平のなかに隠した。
ぼくはクルザード紙幣をとりだした。インフレの進行する国だから、どっさり紙幣を出しても、さしたる金額ではない。
かれはノー、ノーといった。
「ドルが欲しいのか、ドルなら売る気があるのか?」
かれは、数歩、あとずさり、そこでまたチケットを両手に持ち、ぼくのほうに広げてみせた。そして、笑った。
少年はチケットをていねいに折りたたむと、ズボンのポケットにしまいこんだ。
そのとき初めて気づいたのだ。
少年はサッカーのチケットを売る気だったのではない。貴重なチケットを手に入れ、それを見せびらかしたかったのである。この町で、プロのサッカーの試合がある。自分はそのチケットを持っている。どうだ、すごいだろ……。そういいたかったのである。
ぼくはクルザード紙幣をポケットにしまった。
そして、もう一度、チケットを見せてほしいと手ぶりで示しながらいった。
かれはまた、近づいてきた。
ポケットからサッカーのチケットをとりだすと「ガヴェア」とかれはいった。ガヴェアだ、と。そういいながら、かれはチケットの隅を指さした。そこには、サッカー場の名前が書かれていた。
ガヴェアのサッカー場……。
ひょっとしたら――と、ぼくには思いあたることがあった。
いったい、どこからそれだけの人が集まってくるのか、午後の二時をすぎるとガヴェアのサッカー場はごったがえし始めた。
土曜日の午後である。
ガヴェアはリオ・デ・ジャネイロ市内にある。市の中心、セントロから見ると南西の方角に位置している。
ガヴェアには魚や野菜の市場があり、午前中はその市場に買い物にやってくる人たちでにぎわう。昼になると人通りが少なくなる。夏のことだから、午後には気温が三五度くらいまで上昇する。
午後の二時は、まだ暑いさかりだ。
それでもバスに乗って、あるいは徒歩で、どこからともなく黒々とした人の集団がサッカー場にやってくる。
リオには二十万人の観客を収容するという巨大なスタジアムがある。マラカナン・スタジアムである。その巨大さは、日本の野球場を思い浮かべたのでは想像つかない。
そのマラカナンと同じリオ市内にもう一つ、ガヴェアのサッカー場があることは知らなかった。チケットを見せられれば、見に行きたくなる。ゲームは地元で一番人気のあるチーム、フラメンゴがヴォルタ・レドンダを迎えうつというものである。
チケットは二〇〇クルザードで売っていた。日本円にするとちょうど200円ぐらいだろうか。
当日になって、それを手に入れるところから、すでにゲームは始まったようなものだった。
人だかりのするあたりへ歩いていくと、どうやらそこが入場券の発売所であるようだった。あるようだった、というのは、外側からでは一体、どこでチケットが売られているのか、見えないからだ。
黒山の人だかりが、サッカー場のコンクリートの壁にへばりつき、まるでその壁を突き崩さんばかりに押しあっていた。それを見た瞬間、ぼくは思ったものだ。チケットが売り切れ、入口が閉ざされたに違いない、と。それに怒って熱狂的なファンが力ずくで入口を押し開けようとしているのだ、と。
コンクリートの壁は夏の午後の倦怠を吹きとばすほどの迫力で押され、みしみしと音をたてているように見えた。
ところが、その黒山の人のなかから奔流にさからうように、必死になってこちらに、さながら激流のなかを泳ぐかのごとくエネルギーをふりしぼってやってくる男がいるではないか。容易なことではないと思われた。かれは、壁を突き崩そうとする一群に、一人、拮《きつ》抗《こう》しているのである。
かれは右手を高だかとあげていた。
その右手の先に握りしめたものを誰にも触れさせまいとしていることは明らかだった。自分は聖なるものを右手の、手の平のなかに握っているのだ、ということを誇示しているようだった。
黒山の一群は、その男を群れのなかから出してやりたいのだが、その男の抜けたところに他の男がするりと入りこむのをおそれて、道を開けることができない。
かれは大声で叫び、わめきたて、右手をふりかざしこの十字架が目に入らぬのかといわんばかりにあたりを蹴散らし、やっとの思いで群衆の中から抜け出てきた。
拍手がわきおこった。
汗で体をぬるぬるにした男は――なにしろ真夏の午後のおしくらまんじゅうなのである――勝ち誇ったように両手をつき出し、そしてやっと安心して右の手の平をひろげた。
紙切れだった。
いや、単なる紙切れではなかった。
しわになった、その小さな紙切れをかれはふるえる指先でひろげた。そうやって確認すると、かれはまた右のこぶしを突きあげた。
入場券だった。
一枚、二〇〇クルザードのサッカーのゲームの入場券を手に入れて、かれはそれをふりかざしながら、ゲートへと向かって走っていった。
それを見て、壁の前では入場券の争奪戦が演じられていることがよくわかった。
さらによく見ると、そこには三つの窓口があることがわかった。コンクリートの壁にぽっかりと小さな穴があり、穴は鉄格子でガードされている。その鉄格子のあいだから、われさきにと一〇〇クルザード紙幣を二枚握りしめた手が差しこまれる。そうはさせじと、その手を引っ張るもう一つの手がある。そのすきを見てうしろから別の手が出てくる。その手はまた別の手で妨害される。それが最前線で行われている出来事であり、そのすぐうしろでは鉄格子に一刻も早くたどりつこうとする男たちのおしくらまんじゅうである。
順番に並んだほうが、どれだけ早いか。わかってはいるのだろうが、誰もそんなこといわないし、警備の警官も笛ひとつ吹こうとはしない。
スタジアムでは本物のゲームが始まった。
それを知って一刻も早くスタンドに入ろうと、入場券売り場でのもう一つのゲームも白熱化し始めたようだった。
ぼくは、その人ごみの中に飛びこんでいった。そうしなければチケットは手に入らないのである。
どれだけ時間がたったのだろうか、やっとの思いで鉄格子の近くまでたどりつき、鉄格子をぐいと握りしめた。その手を引っ張るようにして、体を窓口に近づけていく。そこでぼくが見たものはうす暗いボックスのなかで手早くクルザード紙幣を数え、事務的にチケットを切りとる褐色の、女性事務員のしなやかな指さきだ。
ガヴェアのサッカー場はフィールドは広く、スタンドは小さかった。そのスタンドから、こぼれ落ちるのではないかというほどのサッカー・ファンが鈴なりになっていた。あの少年も、この中にいるのだろうが、とても見つけることはできない。
二〇〇クルザードを払ったにもかかわらずスタンドに入れない人たちがいる。二〇〇クルザードのチケットは、立見席である。勝手に通路に坐りこむか、そこもいっぱいなら、どこかにぶら下がってでも見るしかない。フィールドを囲むフェンスの外側から、フェンスにはりつくようにしてゲームを見ている人たちがいた。そこもまた、施設の中だからチケットを持っていないと入れない。不幸にしてチケットを買えなかった人たちは、さらにその外側の、もう一つのフェンスの向こう側から、ときどきちらりと見える選手の動きを目で追っている。あるいはそのフェンスを見おろす位置にある木によじのぼり、あるいはもっと遠く離れているのだが、サッカー場をのぞめる高層集合住宅の屋上に入りこみ、そこからゲームを見ている。
ゲームは白熱していた。
リオのチーム、フラメンゴがゴール近くまで追いこんでいくのだが、シュートのタイミングをつかめない。
得点が入ったときだろうか。
それとも、シュートが外れたときだろうか。
そのときに聞こえてくるはずだ。
ぼくは待った。
フラメンゴの選手がラインぎわをドリブルでボールを運んだ。うううう、という地鳴りを思わせる声が聞こえてきた。さあ、行け、さあ行け、シュートだと、その瞬間を待ちわびるような声である。数万の観衆が低く、うなっている。ヴォリュームが、徐々にあがっていく。相手ディフェンスをかわし、ボールをセンターリング。数万人の声が一気に爆発する寸前だ。
シュート。キーパーが左へ跳んだ。
ボールは、そのキーパーのさし出した手のさらに上、ゴールの上を通過していった。
そのときだった。
爆発できずにおわった、スタンドの声がいっぺんに溜め息にかわったのである。
なんという溜め息の深さ、そして大きさだろう。ゴールへの期待で胸をいっぱいにふくらませていく。そのシュートが外れたとき、体じゅうの空気が抜けるような深い溜め息が出て、それがあたりの空気を揺さぶってしまう。観衆はスタジアムの空気を溜め息で押し出し、それを町の中まで伝えてしまうのである。
やっぱりこ《ヽ》れ《ヽ》なのだと、ぼくは思った。
あのとき、夕方のガヴェアの町で聞いたのは、この溜め息なのである。溜め息がサッカー場から聞こえてくるのである。
シュートが決まったときには、ガヴェアの町は揺れるかもしれない。
その夜、ベッドルームのラジオから、おそろしく早口のポルトガル語が聞こえてきた。
サッカー中継のアナウンサーの喋《しやべ》りだった。まくしたてるように、息つく間もなく喋りつづける。サッカー以外では、あの喋りを聞くことはない。その時間だから、スポーツニュースかも知れない。実況のさわりの部分をニュースで流したのだろう。
アナウンサーは、F1ドライバーのアイルトン・セナがクルマのアクセルを踏みこむように加速度をつけ、呼吸もせずに喋りつづけた。オクターブ、そしてまたオクターブ、声の調子をあげていき、突然、静かになった。
遠くの丘に照明が当たっていた。
すべてをその手のなかに受け入れようというキリスト像が、ブルーの照明を浴びてガヴェアの町を見おろしていた。
ファイナル・ゲーム
エアポートに着くと、出発便はおくれるだろうというアナウンスがあった。
ホテルのチェックアウトで手間どってしまい、おおあわてでタクシーを飛ばしてきたのだった。この時間、フリーウェイは大混雑だ、だから途中まで下を走るよと、タクシー・ドライバーはいった。それはいいのだが、ミッドタウンからクイーンズボロ・ブリッジを渡るあたりで、こちらのルートも混んでいることがわかった。
ニューヨークである。
一般道がこんなに混んでいるなら、イーストリバーのその下を掘って作ったミッドタウン・トンネルをくぐりそのままフリーウェイに入ってしまったほうがよかったかもしれない。ぼくがそんなふうに考えているのをドライバーは察知したのだろうか、ミッドタウン・トンネルを出た先で工事をしているからこっちのほうが速いと思うと解説してくれた。
「どこへ行くんだ」
「東京……これから帰るところさ」
ぼくはいう。
「トーキョーか……」
かれはつぶやく。ローマへ行くんだ、とでもいえば、かれは大喜びで何かを語り始めたかもしれない。イタリア系の顔をしていた。トーキョー。かれには全く接点がないのだろう。橋を渡り、クイーンズの町のなかをのろのろと走りながら、ここを左に行くとシェイ・スタジアムだ、と左手でステアリングを握りながら右手で前方左を指し示した。
ぼくは時間が気になっていたので、シェイ・スタジアムの話には乗らなかった。
かれはメッツのファンだったのかもしれない。シェイ・スタジアムはニューヨーク・メッツのホームグラウンドである。ニューヨーク・メッツは地区優勝を決め、ナショナルリーグ西地区の優勝チーム、ドジャースとのプレイオフをたたかい始めたところだった。季節は秋、野球のシーズンが終わろうとしている。ファイナル・ゲームが近づいていた。
出発便が遅れるというアナウンスを聞いたあと、念のためぼくはエアポート特有の、あの黒いボードを見あげた。航空会社の名前と便名、それにフライトスケジュールが白い文字で書かれているやつだ。その表示が変わるとき、カタカタカタと、乾いた音をたててボードが回転していく。
あの音は、嫌いではない。
出発時間の遅れが、ボードにも表示された。例によって、ボードはカタカタカタと乾ききった音を発していた。
背の高いアメリカ人がチェックイン・カウンターに行き、どうしたのか、と聞いている。準備が遅れている。カウンターの向こう側で制服を着ている黒人の女性が早口で答えた。あの時間には、ちゃんと出発するんだろうね。背の高いアメリカ人が聞く。アイ・ホープ・ソー。答えはそれだけだ。そっけない。
やれやれ、とぼくは一息つく。ふう、と息を吐きだしながら、ほっとしている自分に気づく。
空白の時間ができたせいだろうか。
便を変えれば、どこへでも行かれるってわけだ……黒いボードに表示された様々な都市名を見ながら、そんなことを考える。
どこへでも行かれる。そういう地点に立っているのは、悪い気分ではない。空白の時間が、そのことをあらためて気づかせてくれる。
ぼくは、新聞を買って、バーに行った。
作家のスティーヴン・キングがボストン・レッドソックスに対する熱い思いを寄稿していた。かれは昔からレッドソックスのファンだったようだ。一九八六年のメッツとのワールド・シリーズ最終戦、メッツが逆転勝ちをおさめると、キングはリビングルームのライトを消し、十五分ほどそこに坐りつづけていたという。そして自問自答した。私が何か、悪いことでもしただろうか……。
ファン気質というのは、そういうものだ。好きなチームが負けると、自分の観戦の仕方や、日ごろの行いが悪かったのではないかと考えこんでしまう。
あの年、八六年のレッドソックスは強かった。ライバルチームを蹴おとすようにしてア・リーグの東地区を勝ち抜き、プレイオフも勝った。ワールド・シリーズもレッドソックス有利と、予想されていた。対戦相手のニューヨーク・メッツのシェイ・スタジアムでの二連戦からシリーズは始まり、レッドソックスは二勝〇敗といいスタートをきった。名門、レッドソックスは一九一八年以来、ワールド・シリーズには勝てないでいる。いつも、リーグ優勝までなのである。今年こそ、とあの年のレッドソックス・ファンは思ったにちがいない。
スティーヴン・キングもその中の一人だった。
一九一八年はベーブ・ルースがまだ、レッドソックスにいた。かれがNYヤンキースに移籍するのは、その二年後のことだ。ベーブ・ルースは――案外、知られていないのだが――当時はピッチャーで、その年のワールド・シリーズでは二勝〇敗の成績を残している。
もし、レッドソックスがメッツを破れば、じつに六八年ぶりのワールド・チャンピオンということになる。
ところが、最終戦、3点をリードしたレッドソックスは、同点に追いつかれ、6―3と引き離され、一度は6―5と一点差までつめよるのだが、メッツにさらに2点を許し、8―5のスコアで突き放されてしまった。
それから二年後、八八年秋にもレッドソックスは地区優勝を決めた。
今年は七十年ぶりのワールド・チャンピオンの可能性がある。スティーヴン・キングはそのチャンスに、全米向けの新聞に文章を書いてみたかったのだろう。キングが野球について書いた文章を読むのは、初めてのことだった。
レッドソックスがワールド・シリーズに駒を進める前にプレイオフで対戦しなければならないチームは西海岸、オークランドのアスレチックスである。滅法、強いチームだ。
スティーヴン・キングの大喜びする顔が十月下旬のある日の新聞で見られるかどうかは、微妙なところだった。かれはまた、TV観戦していたリビングの灯りを消し、一人じっと考えこむことになるのかもしれない。
スティーヴン・キングは、そのしばらく前、アトランティック・シティーで行われたマイク・タイソンの世界タイトルマッチにも来ていた。わずか91秒でケリをつけてしまった、あのマイケル・スピンクスとの一戦である。
席は比較的、近かったのだが、大混雑に加え、1ラウンド91秒で終わってしまったファイトのあとの、なんともいいようのない混乱状態のなかで、気がついたらかれはもう、姿を消していた。アメリカの超ベストセラー作家はクリーム色のタキシードを着て、ブラック・タイを締めた息子を連れてきていた。どういうわけかぼくは、スティーヴン・キングが筒井康隆さんに似ているな、と思った。まあ、それだけのことなのだが。
あのときも、ぼくは短期滞在者だった。
今もそうだ。
ほんの数日の、短期滞在を終え、東京に戻ろうとしている。
短期出張のビジネスマンの気持ちがわかるような気がする。時差を調整する間もなく、また東京に戻る。そのかわり、半徹夜がつづいているときのような、ちょっとハイな気分が、その間、持続している。気がつくと、短い滞在だったわりには、ずいぶんといろいろなことができている。必ずしも毎回、そううまくいくわけではないが、平均すると、そんな具合だ。
時差のせいだろうか、朝方に目がさめる。それもきまって四時とか五時という時間だ。ぼくはそれ以上眠ろうとせず、起きだして本を読む。
自分が短期滞在者だという意識があったので、いつだったか書店で「ザ・ショート・タイマース」という本を買ってみた。読み進めるうちに、どこかで読んだ記憶があると思いはじめた。アメリカの海兵隊に入った男の話である。訓練の様子が淡々と書き進められていく。同期に入った仲間の一人が、その訓練の中で発狂していく。そこらへんまで読んだときに、これは「フルメタル・ジャケット」ではないかと気づいた。スタンリー・キューブリックが監督して映画にもなった。著者はグスタフ・ハスフォードで、日本では高見浩さんが「フルメタル・ジャケット」というタイトルで翻訳している。いわゆるベトナム物の小説の中では、かなり面白い部類に入る。あの本のオリジナル・タイトルが、ザ・ショート・タイマースである。
やがて、搭乗案内が始まった。
時計を見ると、一時間半ほど予定よりも遅れたことになるだろうか。例の黒いボードを見ると、出発予定時刻が、さっきとはまた変わっている。気づかないうちに、また、カタカタカタと音をたてて回転したようだ。
航空会社の職員は、出発の遅れについて、特に言い訳するわけでもない。そこが、日本の航空会社と違うところだ。JALにすればよかったかなと、一瞬、思うのだが、まあ仕方がない。予約はアメリカの航空会社のほうに入れてしまったのだ。
スチュワーデスも、何ごともなかったかのように客を迎えている。日本のエアラインなら、出発がおくれて大変申しわけございませんと、くりかえしいうところだろう。
誰も、そんなことをいわない。むしろ遅れを取り戻そうと、せかせかと出発準備をしているように見える。スチュワーデスは大股で、ぐいぐい通路を歩きながら新聞はどうだ、と聞いてくる。雑誌もあるぞ、と。粗雑だが、事務的だ。サービスに見せかけの感情は入れないというポリシーが、ここではできあがっているらしい。それをサービス不足だと思うか否かは、受けとめ方の問題だろう。うやうやしく、低姿勢に、膝をフロアにつけるようにしてサービスするのが、いいサービスだと感じる人もいるだろう。そういう人にしてみれば、新聞はどうだ、雑誌もあるぞ、といったニュアンスのサービスは断じてサービスではないことになる。
ぼくは、日本の航空会社にしても、外国のエアラインにしても、スチュワーデスという職種の女性たちに、あまり期待するところがない。スチュワーデスだから美人で、スタイルがよく、品があり教養もある……という幻想はとうの昔に崩れ去っているはずで、ぼくはデパートに行って店員にほとんど何も期待しないのと同様、スチュワーデスにも期待するところがない。
新聞はどうだと、鼻の下あたりにうぶ毛が密生しているスチュワーデスに聞かれたとき、なぜそのエアラインに予約を入れたかを思い出した。
念のため書きそえておくと、鼻の下のうぶ毛が目についたスチュワーデスは、とてもチャーミングだった。アトランティック・シティーのカジノのブラック・ジャックのテーブルでカードを配っていた女の子に似ていた。彼女はニューヨーカーらしい三人組の男にカモられ、おまけに胸のあたりに見えているホクロをほめられてポッと頬を赤く染めていた。
「ヘラルド・トリビューンはある」とぼくは聞いた。
「ヘラルド・トリビューン?」
うぶ毛のスチュワーデスは首を横に振った。
それならいいんだと、ぼくはいう。
しかし、あのときはあった。誰かが忘れていったものだったのだろう。そう考えるのが自然だ。
前々回だったか、その前だったか、例によってショート・タイマーでニューヨークにやってきたぼくは、帰りの今回と同じ便のなかで、マガジンラックに入っているヘラルド・トリビューンを見つけた。ニューズウィークの内側に見えていたのだった。
何気なく読んでいるうちに、日本の野球に関する記事を見つけた。「ヴィンテージ・ポイント」というロゴマークの入ったコラムである。日本の野球も“本物”を目ざすべき時期が来た(It's Time to Play Someメ RealモBaseball in Japan)――というタイトルがついていた。
そのとおりだと、ぼくは考えているほうなので記事を読みはじめた。
ちょっとみっともない話なのだが、その記事の三分の一ほどを読みすすめるまで、じつはその文章がそもそも誰によって書かれたものなのか、気づかなかった。
それもまた、どこかで読んだ話なのである。
いや、どこかで書いた、というべきだろう。
ぼくはあらためてコラム全体を見なおした。筆者名が出ているはずだ。そして――案の定――そこに自分の名前を見つけた。
その数カ月前に、日本のある新聞社に依頼されて書いたものだった。その後、しばらくして、アメリカの各新聞社に定期的に、日本のマスメディアにあらわれたアメリカに対する論説、エッセイなどを翻訳して送稿する、そういう仕事をしているというエージェントから電話があり、件《くだん》の記事を英訳のうえ、全米の新聞社に送ってもいいかという問合せがあった。
ぼくはそれを了承した。やがて英訳のコピーが送られてきたが、目を通すこともなく、ファイルケースに入れてしまった。
アメリカの野球と比較してはいるのだが、どちらかといえば日本の野球の閉鎖性について書いたものである。そういうエッセイに興味を示す新聞はないだろうと、漠然とそんなふうに考えていた。それで、そのことはそれきり忘れていた。
世間は狭い。
じつに、狭いものだ。
忘れさられ、座席の後部のマガジンラックに置いておかれた新聞のなかに、別の言葉に置きかえられた自分がいて、ぼくが偶然、それを見つける。
奇妙な体験だった。
「サービス」の行き届いた日本の航空会社だったら、マガジンラックに無造作に投げこまれた新聞を素早く片づけ、棚の雑誌を整然と並べかえたことだろう。
ウオッカ・マティニーをダブルでもらい、ショート・タイマーはまどろみはじめる。
ここは眠っておいたほうがいい。
十三、四時間のフライトを耐えるのは、睡眠だけである。
エアラインの用意してくれたヘッドホンを耳に当て、音楽に耳を傾ける。チャンネルを次々に変えていく。スイッチを切り、小さなバッグの中から自分のヘッドホン・ステレオをとりだした。
ビリー・ジョエルの、もう何年も前に発売されたLPの、カセットテープにダビングしたものを、今度の短期滞在中、ぼくはプレゼントされた。用意しておいてくれたのは、TVのロケーション・マネジャーをしている友人だ。
もう十二年も前の作品じゃないか、とかれはいった。その後、何度もリ・プリントされているのだろうが、そもそもは七〇年代の後半にプロデュースされたものだという。それがほしいのだと、かれに話したことがあった。かれはまずカセットを買いに行ったらしい。見つからないのでLPをさがし出し、それをテープにしてくれた。
ビリー・ジョエルはニューヨーク生まれのシンガー・ソングライターである。一時、西海岸に行くが、やがてニューヨークに戻り、頭角をあらわす。
昔から熱心に聴いていたわけではないが、二年ほど前――あのときも季節は秋だった――ニューヨークのマジソン・スクェア・ガーデンでビリー・ジョエルのコンサートを見た。そのときに、あらためてビリー・ジョエルというミュージシャンを見直す気になった。八六年だから、メッツとレッドソックスのワールド・シリーズが始まるころだ。スティーヴン・キングは胸をわくわくさせながらシリーズの始まりを待っていたことだろう。
そのときのビリー・ジョエルのコンサートには、ニューヨーク・メッツの選手たちがやってきて、コンサートの途中、ビリーはかれらをステージの上に呼びあげた。キャッチャーのゲイリー・カーターがステージにあがると、ビリー・ジョエルがずいぶん小さく見えた。
「ビリーはメッツじゃなくてヤンキースのファンだったはずだけどなぁ」
一緒に行った友人がそういったのを、おぼえている。
ビリー・ジョエルはニューヨークのファンなのだろうと思いあたった。ヤンキースもメッツも、ニューヨークのチームだから、かれは好きなのだ。
そのことが、さがしていた昔の、ビリー・ジョエルのテープに耳を傾けるとわかる。メTurnstileモ――というアルバム・タイトルがつけられている。ターンスタイル。「まわり木戸」のことだ。日本ではこのアルバムが、たしか「ニューヨーク物語」というタイトルで発売されたはずだ。“ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド”という曲が真ん中あたりにおさめられている。その曲にヒントを得たタイトルだろうか。
ぼくは、うつらうつらしながら、古い、ビリー・ジョエルの曲に耳を傾ける。
ピアノを叩きながら、かれは歌いだす。まだスーパースターになる前の、ビリー・ジョエルの声だ。休みになると、みんなは出かけたがる。飛行機に乗ってマイアミや、ハリウッドへ……そういう歌だ。かれは、しかし、そんなところへは行きたがらない。リムジンに乗った映画スターにも会ったし、ロッキーの山々にもいってみた。でも、もうそんなものは必要ないし、時間を無駄にしたくはない。ぼくはハドソンリバー・ラインのグレイハウンド(バス)に乗って、ニューヨークを感じている……。
メロディー・ラインがニューヨークに対する切ないほどの思いをつづっていく。
そういう曲だ。
ニューヨークか……。
ぼくはつぶやく。
どこがいいんだか……。
それにしては、何度も何度も足を運んでいるのだが。
深い眠りからさめた。
オート・リバースのカセットはまだまわりつづけている。
日付変更線をこえるところだと、アナウンスで告げられる。
熱いコーヒーをもらう。うぶ毛のスチュワーデスがやってきて、食事はどうかと聞く。水平飛行に入ってすぐ食事が出されたはずで、ぼくは眠っていたので、食べていない。
そうだな……と口を開けると、大きなあくびが出た。肺の中の空気がすっかりいれかわってしまうほどの、あくびだ。
旅の終りは大あくびか。あわわわわといいながら、ぼくは苦笑する。彼女はどう理解したのか、ニッコリ笑ってうなずいた。
そして、食事は運ばれてこない。
さて――と、ぼくは坐りなおした。
東京が近づいている。
「ファイナル・ゲーム」というタイトルにしよう、と思いつく。
東京に戻ったらすぐに、この原稿を書かなければいけない。
ニューヨークは笑《わら》わない
山《やま》際《ぎわ》淳《じゆん》司《じ》
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平成12年10月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Jyunji YAMAGIWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『ニューヨークは笑わない』平成5年8月25日初版刊行