TITLE : ナックルボールを風に
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目 次
プロローグ――ホーム・タウン
落球伝説――池田純一
スクイズ――西本幸雄
エース――江夏豊
「天才」――長嶋茂雄
熱球投手――金田正一
ミラクル・パット――青木功
敗戦投手――加藤初
つぶやき――足立光宏
アウトコース――落合博満
チャンピオン――渡嘉敷勝男
7回戦ボーイ――小林繁
仮 面――タイガーマスク
エピローグ――ナックルボール
ある日、ぼくは古いボールを見つける。
どこからでもボールは出てくる。これが不思議なところで、いろいろな球場に行き野球選手と会い、そのついでにサインボールをもらってみたりする。机の上に置いたボールがいつの間にか転がり落ち、部屋の片隅でじっと息をひそめている。
折りにふれて、そういうボールが姿をあらわす。なつかしい友人がたずねてきてくれたような気がする。
気づかないうちにボールはほこりをかぶっている。真っ白いタオルで、そのボールを拭《ふ》く。少し黄ばんでいる硬球が、しっとりと手の平におさまる。野球のボールの、あの微妙な重さ、赤い糸の縫い目のざらりとした手ざわり、牛皮のなめらかさ……。どれもこれも、いいものだ。ボールを持つと、いろいろなことを思い出す。
そんなに古い話じゃない。
サインボールには日付けが入っている。わざわざ書いてくれたのだろう。一九八三年の夏のある日を示す数字が並んでいる。
一九八三年――。
ぼくはよくゲームを見ていた。人生のなかにゲームのひとこまがあるのか、ゲームの断片のなかに人生があるのか、頭のなかが混乱するくらい、ゲームに熱中していた。
さて――と、そこでぼくは困惑する。
このボールのサインは誰のものなのだろう。あの、サインというやつは判読しようと思うと、お手あげだ。これも達筆、というのだろうか、直線と曲線が激しく交錯して、自分が何者であるのかを語りかけようとしているのだが。
さて誰であったか。
ぼくは目を閉じて、あのころの記憶をたぐり寄せる。イメージの中に浮かびあがってくるのはナックルボールだ。奇妙な変化を見せる魔球。投げた本人もどう変化するか保証のかぎりではないという変化球。ナックルボールが、赤い縫い目を見せながら、意識のなかに落ちてくる。
ナックルボールの季節だった。
ナックルボールを風に
プロローグ――ホーム・タウン
後楽園球場は、ネットの真裏に正面入口がある。そこから入って右側へ歩くと一塁側、つまりジャイアンツ・ベンチである。途中にガードマンが立っている。ここから先は「関係者以外立ち入り禁止」区域なのだ。
選手とのインタビューの約束がとれていると、そこからさらに奥へ入っていかれる。入って左に曲がればベンチからグラウンドに出てしまうが、左に曲がらずさらに真っすぐに行くとロッカールームだ。そこでは、選手たちはバスタオル一枚、あるいはすっ裸で平然と動きまわっている。
ロッカールームの手前右側に〈サロン〉がある。その言葉の響きほど優雅な場所ではない。いかつい体つきの選手たちがスパゲッティだのチャーハンだのを食べ、コーヒーを飲みながらしゃべくっている場所なのだ。奥まったところにテレビが一台置かれ、日曜日の夕方、ナイター前の練習が終わると何人もの選手たちが、ゴルフ中継をくい入るように見つめている。タバコの煙がもうもうとたちこめているのは、新聞記者が多いせいかもしれない。
ぼくは初めて〈ガイジン〉選手に会ったのは、そこだった。そのころぼくはまだ、スポーツのことをあれこれ書いてみようとは考えていなかった。ある週刊誌で連載していた人物ものの記事を書くためジャイアンツのロッカールームをたずねたわけだった。その前の週にはコメディアンと会い、翌週は政治家に会ってインタビューすることになっていたことをおぼえている。週が変わるごとに、ずいぶん違う人間に会ったなと思っていたが、よく考えてみればみな似たような人間たちだった。今は、そう思っている。
1976年、夏の終わり頃のことだ。ジャイアンツの監督は、あの長嶋さんだった。その前の年、期待のなかで登場した長嶋監督の率いる巨人は、さんざんな成績でシーズンを終えた。球団創設以来初めての最下位だった。そのシーズンの途中に、デイブ・ジョンソンというガイジン選手が巨人に入ってきた。これで、長嶋・巨人は勝ち始めるだろうといわれた。ジョンソンこそ、巨人の救世主だと。ところが、そのジョンソンはちっとも打てなかった。シーズンの後半には毎日のように新聞に〈ジョン損〉と書かれる始末だった。
そして、次のシーズンがやってきたわけだった。それが1976年だ。
長嶋・巨人は好調だった。
クライド・ライトという、気は荒いけれど、やる気を出すといいピッチングを展開する、そういうタイプのガイジン選手も加わっていた。
ジョンソンとライトは、試合前にあいついでぼくの前にやってきてくれた。
まわりには、ジャイアンツの選手たちがたむろしていた。まだ当然、王も現役でプレーしていた。張本の姿も見えた。
そういうなかで、ジョンソンはバットを一本持ち、チュウインガムをくちゃくちゃ噛《か》みながら、こんな風な話をしたのだ。
「〈ガイジン〉っていう日本語を、ぼくは最初におぼえたんだよ。日本人はなんでそういういい方をするのかな。それから〈スケット〉という言葉もユニークだね。通訳の人からその意味を聞いたとき、なんともおかしかったね。
たしかに、ぼくらは〈スケット〉なんだ。日本人のプレイヤーよりも高いギャラをもらっている。そしてマネージャー(監督)も、球団のスタッフも口を揃《そろ》えてこういうのさ――優勝するために君の力が欲しいんだ、と。優勝できたら特別ボーナスを出そう。ホームランを何本打ったらボーナスを出そう……そんなこともいわれたよ。
それはそれでいい。悪くない条件さ。
ところが、みんなは〈スケット〉がチームに加わったら、すぐにでも優勝できると思ってしまうらしいんだね。ジャーナリズムもそうさ。ぼくはずいぶん書かれたよ。〈スケット〉なのに打てないじゃないか、優勝するために来たはずなのにアイツはなんだと。いいたいほうだいいわれてしまうんだ。
〈ガイジン選手〉〈スケット〉だって人間だからね。日本のピッチャーに慣れるまでは打てるもんじゃないよ。もし、いきなり打てたら、それはラッキーということさ。
それなのに、みんな短気すぎるんだ。慣れるまで待ってくれない。それが一番しんどいことだったね……」
ジョンソンと話をしているところにライトがやってきた。大きな目玉が印象的な男だった。ジョンソンは、どちらかといえばもの静かに話をするタイプだった。ライトは、話題が〈ガイジン〉〈スケット〉のことだとわかると、「オレにはいいたいことがあるんだ」と、大声で語り始めた。声は意外にカン高かった。
「日本の野球をどう思うかって? 正直いってわからないね。オレは何度か怒ったことがある。例えば、ピッチャーの交代だ。オレは先発してマウンドにいた。大洋戦だった。6回まで投げて、オレは1点しかとられていない。味方打線も1点とってくれたから、スコアは同じだ。いいところじゃないか。6回、オレはノーアウトで二人のランナーを出した。よくあることさ。このあとのバッターを抑えればいいと、オレは思っていた。そこにピッチング・コーチと通訳がやってきたんだ。どういう調子かと聞くからオレは〓“快調だ〓”と答えてやった。事実、そのとおりだったんだ。ところが、コーチは下を向いたまま何もいわない。通訳にどうしたんだと聞いても、わからないという。そりゃそうさ。コーチは何もいわないんだから。そしたら、コーチはベンチを見た。それだけさ。監督は手を振って合図をした。それが交代のサインだった。オレは何の相談もされなかった。コーチの意見も聞かせてもらえなかった。そして、そのままマウンドを降りろというんだ。これは一体、どういうことだい?
契約の内容にしてもそうだった。オレはアパートを借りてもらう約束になっていた。経費は球団持ちということだった。そりゃそうだろう。オレはアメリカに一軒家があるんだ。どうしてもう一軒自分の金で借りる必要がある? 来てほしいといったほうの責任で家を用意するのは当然だろ? ところが、日本に来ると、まずその問題でもめたんだ。
まあ、それでもいいさ。オレは野球をやるために雇われたんだから。いい状態で投げさせてくれればいい。いくらだって勝ってやるさ。それがオレの仕事なんだから。ところがさっきいったようなディスコミュニケーションがあるわけさ。オレたちがマイッちゃうってことも、わかるだろ?」
ジャイアンツに初めてやってきた二人のガイジン選手の話はそんな調子だった。
冗談としてはよくできているエピソードを一つ、思い出した。あるガイジン選手がその日、決勝打を打ったのだ。試合が終わると彼はヒーロー・インタビューにひっぱり出された。インタビュアーが聞いた。「どんな球を打ったのですか?」よくあるタイプの質問だ。通訳は、その質問を英語にしてガイジン選手に聞いた。
メWhat kind of ball did you hit?モ
聞かれたガイジンは、多分、冗談の一つもいってみたかったのだろう。真《ま》面《じ》目《め》な顔でこう答えた。――メbase ballモ
通訳はもちろんそこで「野球のボールを打ったといっています」とはいわなかった。彼は自分の間違いに気づいたのだ。あわててこう聞き直した、という。
メWhat kind of pitch did you hit?モ
この話は多分、『菊とバット』という本の著者で知られているロバート・ホワイティングに聞いたのだと思う。ホワイティングとは六本木のパブ、バニーインでよくビールを飲んだ。今の話をしたあと、彼はボーイにこういった。メOne more pitcher pleaseモ
「ピッチャーをもう一人とはどういうこと?」とぼくが尋ねると、「いや、この場合の pitcher はちがうんだ。水さしのことだよ」といった。すると、ボーイがグラスに入ったビールではなく、大きな水さし(ピッチャー)に入ったビールを持ってきてくれた。そこからビア・グラスに注いで飲む。「このほうがグラス一杯ずつ注文するより安いのさ」
ディスコミュニケーションはいくらでもあるわけだ。
ジョンソンやライトよりも以前にやってきたガイジン選手もそれ以後にやってきたガイジン選手も、この二人と同じようなコメントを残している。その後、広島にいたギャレット、まだヤクルトにいた当時のマニエル(その後、近鉄へ。そしてまたヤクルトに戻り、帰国)にも話を聞いたことがある。彼らの話は、日本での野球のやりにくさと、それでもオレはスケットなんだから優勝に貢献してやるんだという自負心がメインテーマだった。
そんなことを思い出したのは〈ガイジン〉選手に関するいくつかのデータを見たからだ。あらためて〈ガイジン〉選手たちのデータをひっくり返してみると、彼らの立場がより一層、鮮明に浮かびあがってくる。
例えば、阪急ブレーブスが〈V4〉を達成していたころをとりあげてみよう。上田監督が阪急を率いていた1975―78年の期間だ。
このとき、阪急にはB・ウイリアムスとR・マルカーノという二人の〈スケット〉がいた。マルカーノは83年にヤクルトに移籍している。
彼らはまさしく〈優勝請け負い屋〉だった。例えば1978年のシーズンを見てみよう。ウイリアムスは、打率2割9分5厘、ホームラン18本、打点66をあげている。マルカーノは打率3割2分2厘、ホームラン27本、打点94である。二人でホームランを45本打っている。これはチーム全体のホームランの25・ 6 %に当たる。打点は二人で160だ。マルカーノはこのシーズンの打点王になっている。
彼らがいなければ、間違いなく阪急ブレーブスの黄金時代はありえなかっただろう。
1975年、広島カープの〈V1〉のときにはシェーン、ホプキンスという二人の強力なる〈スケット〉がいた。
1980年、近鉄バファローズがパ・リーグ優勝を遂げたときにはチャーリー・マニエルがいた。このマニエルはヤクルト・スワローズにいたとき、78年の優勝にも貢献しているのだ。
ここ数年の日ハムの強さはソレイタ、クルーズという二人のガイジン選手抜きには語れないし、西武ライオンズにもテリー、スティーブというスケットがいる。この二人がいなければ広岡監督がどれだけ秀れた采《さい》配《はい》を振るおうと、ペナントを獲得することはできなかっただろう。
もう一つ、別のデータが目にとまった。
それだけ優勝に貢献するガイジン選手たちの平均在籍期間だ。
2リーグ分裂後、1981年までに計二百十四人のガイジン選手が日本にやってきた。このうち三人は、来日したけれどゲームに出ていない。契約が途中で不成立に終わってしまったのだ。残る二百十一人が日本のプロ野球で活躍している。
彼らの平均在籍期間を計算すると、二・二五年という数字が出てくる。ほぼ、2シーズンでとりかえられてしまうわけだ。
まるで日本の野球になじまないうちにクビになってしまう選手も多いから平均値が下がっているのかもしれないが、それにしても短すぎる。
その立場に同情しようというのではない。アメリカ野球は、考えようによっては日本以上に過酷だ。シーズン中でも、オーナー、球団代表は常に選手のトレードのことを考えているし、現場の監督は毎日のように、誰をマイナー・リーグにおとしてそのかわり誰をメジャーにひっぱりあげようかと考えている。チームの看板選手でないかぎり、野球選手に安定したポジションはない。スーパースターであっても、しばしば、所属チームを変える。
彼らは、要するに、旅びとなのだ。野球のみならず、プロ・スポーツの選手たちはみな、そうかもしれない。二十代から三十代にかけて、彼らはちょっとした人生の旅に出る。その旅を永遠につづけることはできない。いつか、肉体はさびついてしまうものだから。それを承知で、この世界に入ってくる。そして、いい夢を見ようとする。誰もがそうだ。
しかし、夢は長つづきしてくれない。スポーツの世界を旅するうちに、彼らには様々な出来事がある。それはガイジン選手のみならず、どんなスポーツ選手でも同じだろう。あるいは、こういい直すこともできる。どんな人間の人生も旅であり、その旅には様々な出来事がある、と。道を間違えることもあれば、トラブルもある。
〈スケット〉たちは、どういう風の吹きまわしか、ある日、日本というこの国にまでやってきてしまった男たちである。流れ着いた、というイメージがある。それが、ぼくは嫌いではない。
ぼくは、ギャレットという選手が好きだった。身長188〓、体重86〓。広島カープにやってきたのは1977年のシーズンだった。三年間、プレーをするとアメリカに帰っていった。平均的ガイジン選手といえるかもしれない。
彼は、調子に乗り始めると信じられないほど大きな当たりを飛ばした。あっという間にホームランの数でトップに立ち、誰もがすごいバッターだと思い始めると、今度はやたらと三振の山を築いていくのだった。
ぼくは、あるシーズンの初め、ギャレットが何試合も続けてホームランを打ち続けたときに、広島までギャレットに会いに行った。試合が始まる前、ギャレットはこういった。
「試合が終わったら食事をしよう。そこでゆっくりと話をするというのはどうだい?」
「いいね。ホームランを打ったらワインを一本つけよう。これはぼくのおごりさ」
「ハハハ、いい話だ」
しかし、その日のギャレットはさんざんだった。たて続けに二つの三振を重ね、あとは内野フライを打ちあげた。妙な約束をしちゃったなと、ぼくは思った。
待ち合わせのレストランで待っていると、ギャレットはほんとにすまなそうな顔で現われた。
「今日は打ちたかったんだ。ワインは関係なしにね。打てると思っていた。せっかく見にきてくれてたのに、残念でしょうがないよ」
ぼくは、ワインのかわりにビールを飲まないかといった。彼は「いいね」といって、生ビールを注文した。
そして、いつまでも日本で野球を続けられないなといい始めた。そんなことはないだろう、まだ十分打てるじゃないかとぼくがいうと、「ちがうんだ」と、ギャレットはいうのだ。
「ここに永住できるわけじゃないだろ。広島は住みやすいし、監督も選手もいい人たちばかりだよ。文句はないんだ。でもね、ぼくらは、ここに居続けることはできないのさ。いつかはやはりホーム・タウンに帰らなきゃいけない。広島カープからもらっているギャラは大体、貯金してるよ。そのうちホーム・タウンでスポーツ・ショップをやろうと、ぼくはそんなことを考えているんだよ」
先ごろ亡くなった寺山修司さんが、あるところでこんな話をしていたことを憶《おぼ》えている。野球は〈ホームイン〉するのを見るゲームだと、彼はいうのだ。守る側は、塁上の男たちをホームにかえすまいとしてたたかう。そして、ホームに帰っていく男を阻止しようとするゲームに雨のなかでも一晩に、五万人もの人間が集まってくる……。ホーム(家庭)に帰るのを数時間、おくらせて。
毎日、ホームに帰ろうとグラウンドで格闘している男たちも、やがて、長い間置き去りにしてきたホームへと帰っていく。
誰もがいつか、どこかへ帰らなければならない。拍手と喚声、熱狂に包まれてスタジアムに佇《たたず》む日々は、あまりに短い。ドラマのあとには、日常がやってくる。それが現実というものだろう。
ぼくは、そんな話を聞きながら、ギャレットにもっとビールを飲もうよといったことをおぼえている。
落球伝説――池田純一
彼は、あの落球の男、といわれている。そんな言われ方をしてしまう選手は極めて少ない。彼は阪神タイガースの選手だったのだが、タイガース・ファンはもとより、プロ野球シーンをたんねんに追っているファンも彼の名前を聞くと、ああ、あの時の選手か、と、一つのシーンを思い出すことになっている。
名前は池田純一。1965年にタイガースに入団し、78年のシーズンが終わったところで球団から自由契約をいい渡され球界を去っていった。通算打率は2割4分1厘、80本のホームラン、295打点――という成績を残している。
「あの落球がなければね……」と、タイガース・ファンは語ることになっている。「あいつの野球人生は変わっていたはずや」と。
そうなのだろうか?
池田純一の〈落球伝説〉を掘りおこしてみようと思う。
その打球が、センターを守る池田に向かって飛んでいったのは1973年8月5日の甲子園球場、9回表のことである。時刻は九時半をまわったころだろう。巨人―阪神の18回戦は大詰めを迎えていた。
この試合、タイガースは先発に山本(和)をたてた。巨人は新浦である。阪神がまず3回裏に新浦をつかまえた。2死満塁のチャンスを作り、遠井がショートの頭の上を抜くヒットを打って2点を先取。山本(和)をリリーフした江夏が巨人打線を高田のホームランによる1点だけに抑えていた。ジャイアンツは江夏を打ち崩せないまま9回表を迎えた。
最終回、3番に入っていた高田がまずヒットで出塁。4番の王が倒れたあと5番の長嶋がフォアボールを選んで出塁した。1死一、二塁である。続く末次の打球はセカンドゴロになった。ここに一つの伏線がある。タイガース・ナインはこれでダブルプレー、ゲームセットになると思った。タイガースの二塁手・野田は末次のゴロを捕るとセカンド・ベースに入った藤田平に送球せずに走ってくるランナーの長嶋にタッチしようとした。長嶋はそれをかわそうとする。野田はさらにそれを追ってタッチ、それからあわてて一塁へ送球したが間に合わない。末次は一塁に生きた。2死一、三塁という状況になってしまった。
そこで試合が終わっていれば、池田のところに、次のバッター・黒江の打球が飛んでくることはなかったのだ。
黒江が打ったのは江夏の投げるインコース高めのストレートである。少しつまった当たりだったと、黒江は記憶している。その打球がセンターに向かって飛んでいった。
その日の甲子園球場には五万人の観客が集まったと発表されている。三日後には夏の甲子園大会が始まる。関西のタイガース・ファンはしばらく甲子園球場でのタイガースを見ることができない。その試合がどたん場で、こんな結果になるとは誰も思わなかっただろう。
「野田さんのプレーのすぐあとでしたから」と、池田は回想する。「ちょっと緊張していたことはたしかですね。打球を見て、ぼくはバックした。捕れると思った。守備範囲の打球ですからね。打球を見ながらバックしていったわけです。で、捕ろうと思ったら、体がうしろに倒れていくんですね。左足が、外野の芝生の切れ目を踏んでしまった。つま先のほうはまだ芝生の上にあって、かかとのほうが芝生の外に出た。うっかりすると数センチ高さが違うんですよ。おまけにバックしながら捕ろうとしたから、うしろ向きに勢いがついている。打球が落ちてくる。もうちょっとバックしなくちゃいけない。気がついたら、もう完《かん》璧《ぺき》に転倒してました。あわてて起きあがってボールを追っかけたんです。しかしそのときはもう……」
黒江の打球は池田のグラブに触れてはいない。倒れながらもさし出したグラブのさらに向こう側に落下して〓“120M〓”と書かれたセンターの一番深いところに向かって転がっていった。2死である。ランナーは黒江がバットを振った瞬間に走り出している。三塁ランナーはもとより一塁ランナーの末次もらくらくとホームベースを踏んだ。打った黒江は三塁に達した。記録の上では三塁打となっている。
これが池田の〈落球〉である。
3―2と逆転されて、池田はベンチに戻った。彼には、えらいことをしでかしてしまった、という気持ちが、当然、あった。ナインは何もいわない。それがまた池田の気分を圧迫する。彼は監督に向かって謝った。「どうも、すいません」それだけいった。当時の監督は金田正泰である。監督は横を向いて何もいわなかった、という。
9回裏の阪神の攻撃はなすすべもなく終わった。
試合後、江夏はこういうコメントを残している――「勝負っちゅうのはこんなもんや。誰も責めんし、文句はいわんよ」
金田監督は、タバコを持つ手をふるわせながらこういった――「今日が三連戦で一番のビッグゲームだった。それがあんなことになって。あんなプレーは初めてや。本人の話も聞く気がせん」
池田は、たまたま運悪く芝生の切れ目を踏んでしまったのだとは考えなかった。彼は、プレーの結果を人のせいにしたり、たまたまそこにあったもののせいにしたりするのが嫌いだった。自分が守っている外野の芝の状態をあらかじめ調べておくのがプロとしてのつとめだろうと考えていた。
「ホームグラウンドでの試合ということで安心していた」と、池田はいう。
「ヨソの球場に行くと必ずその日のグラウンドの状態を調べておくんですわ。外野をランニングするときにチェックしておく。いつも守っているところだからというんで、あのときはよく見ておかなかった」
彼は甲子園球場の特質を知り尽くしているつもりだった。雨が降るとグラウンドの土は流れやすい。芝が生えているところは流れずにそのまま残るが、芝のないところは雨に洗われるように流れてしまう。当然、芝の切れ目には段差がつきやすい。
その年、梅雨から夏にかけては例年に比べて雨が少なかったと、気象台の記録には残されている。六日前の7月31日に7oの雨が降っている。以後、8月5日まで雨は降っていない。それで油断したのかもしれない。「自分のミスだった」――池田はそう結論づけた。
その池田のプレーが、のちになって〈世紀の落球〉として語りつがれることになってしまう。阪神タイガースの歴史の汚点として語られるようになる。それは、その年のシーズンの結果とも微妙にからみ合っているのだ。
73年のシーズン、タイガースは惜しくも優勝を逃した。この年は最終戦を迎えるまで、阪神はトップを走っていた。阪神は62年、64年と優勝したが、ペナントからは見放されていた。65年以降はジャイアンツが圧倒的な強さを誇っていた。そのジャイアンツを抑えて、久しぶりに阪神がペナントを握るかに見えた。追うのはV9をめざす川上・巨人である。あと1勝すればいいというところまで阪神はいった。そこで阪神はつまずき、結局、130試合目の対巨人戦に敗れて、逆転優勝をプレゼントしてしまった。それが73年のシーズンだ。わずか1勝の差である。
「あの時の、あの池田の落球がなければ」とファンが思ってしまうのは自然かもしれない。〈世紀の落球〉といわれ始めたのは、正確にいえばシーズン後である。
〈落球伝説〉が、こうして誕生した。
時を経るにつれて、伝説にはいくつかの話がつけ加えられた。
「あの落球があってからというもの」と、伝説はいう。「池田は自信を失ってしまったんだね。ノイローゼ気味になってしまった。あの落球がなければ、池田はもっと活躍したはずなんだ」
その話は、それなりに説得力を持っていた。なぜなら、池田はどちらかといえば生《き》真《ま》面《じ》目《め》なところがあり、ものごとを素朴に真剣に考えこんでしまうタイプだったからである。
池田がプロ球界から注目されたのは、1964年の夏の甲子園に出場してきたときだった。熊本県の八《やつ》代《しろ》東高校である。彼はエースで4番を打っていた。開会式の直後の1回戦第1試合に彼はいきなり登板した。対戦相手は静岡県の掛《かけ》川《がわ》西高校。この試合はまれにみる好試合として、記憶されているはずだ。試合は延長18回まで続いた。得点は0―0。八代東は13本のヒットを打ち、掛川西は9本のヒットを打ったが、両チームとも守り切り、翌日、再試合が行われた。二回目の試合で、八代東は2―6のスコアで敗れ去るが、池田は投手としてよりもむしろ打者として評価された。2試合でホームラン1本を含む11打数5安打を打ったからだ。それが池田の甲子園だった。
いち早くスカウトに来たのが阪神タイガースだった。ドラフト制度が設けられる前年である。
当時のタイガース担当記者たちのあいだには「野球好きの、朴《ぼく》訥《とつ》ないなかの少年」というイメージが残っている。
何人かの担当記者が〈池田後援会〉を作ろうとしたことがある。それは一人の記者が池田からこういう話を聞いたからだ。
「ぼくの弟が名古屋の大学へ入ったんです。ぼくが学費を面倒見ているんだ。中日球場に行くのが楽しみでしてね。あそこでホームランを打ちたいんです。ホームラン賞をもらって弟にプレゼントできますからね――」
いい奴《やつ》じゃないかと、記者たちは話し合った。
レギュラーとして活躍し始めるのは入団三年目からである。収入も増えてくる。しかし池田は勢い勇んで遊びにいくというタイプではなかった。麻《マー》雀《ジヤン》もやらない。チームメートがやっているのをそばで見ているだけである。つまり、彼は真面目だった。真面目に考えこむタイプでもあった。
そういう背景もあって、池田の落球伝説は尾をひいてしまう。
しかし、これは訂正されなければならない。
あの落球によって池田は、少なくとも野球の面においては萎《い》縮《しゆく》してはいないのだ。73年のシーズンの最終打率は2割5分9厘である。これを〈落球前〉と〈落球後〉に分けて調べてみればわかる。落球前の池田は68試合に出場し、242打数67安打、打率は2割7分7厘、ホームラン5本、25打点をあげている。落球後はどうか。52試合に出場して199打数47安打、打率は2割3分6厘、6ホームラン、27打点――となっている。打率は下がったがホームラン、打点は、打数が落球前より少ないにもかかわらず増えている。落球によって逆に奮起しているわけである。
翌74年のシーズンから池田の打率は下降していく。それもまた事実だ。76年のシーズンはついに2割ジャストという成績だ。出場回数はこの年から極端に減り、年間40試合しか出ていない。
それはしかし、落球のゆえではない。
「世紀の落球といわれるようになったのは」と、池田はいう。
「あの年、優勝できずに終わったあと、いくつかのスポーツ新聞に書かれてからですよ。シーズン中はチームメートからも、そういういわれ方をしなかった。第一、あの落球のとき、たしかタイガースは二位にいたけど優勝をさほど意識していなかった。まだ前半を折り返したばかりですからね。相手のジャイアンツはたしか四位あたりにいたはずですよ」
たしかにそうなのだ。その後、タイガースは一度最下位にまで落ち、終盤戦で7連勝して一気に首位に立つ。シーズンの流れはそんな感じだった。池田がノイローゼ云《うん》々《ぬん》といわれる理由はない。彼が落ちこんでいったのはまた別の理由があったからだ。
「全くプライベートな部分です。野球とは関係のない理由ですね」
池田はそういった。
それはファミリー・トラブルである。彼は二十代の前半に一度結婚していた。子供も生まれた。しかし、別れなければならない理由ができてしまった。その理由が結局何であったのかは、当事者だけがわかっているべきことだろう。周囲の人たちは「やっとあの、とうもろこしのようなヘアスタイルの女房と別れたのか」と噂《うわさ》しあった。そして池田は一時期〈祥浩〉と改名していたのを、元の〈純一〉に戻した。
親しくしていた村山実(元・阪神監督)のところに相談に来たことがある。その時は別の悩みを持っていた。77年のシーズンが始まる前である。キャンプで池田は当時の吉田監督から「今年は東田(日本ハムファイターズから移籍)を使うから」といわれたというのだ。つまり、だから池田を使わない、と。
そして池田はファームに送られた。そのことで池田は村山実にどうしたらいいかと相談に来たわけだった。77年、池田は一度も公式戦に出場していない。
村山はそのことで池田がノイローゼ気味になっているのだろうと考えた。池田はプロ入り十三年目、三十歳をこえていた。「その年でファームでやり直すのはきつかったですよ」といっている。髪の毛が抜けるようにパラパラになっているのを見て驚いた人は少なくない。どうしたのかと聞いても、池田は口を閉ざしてしまうことが多かった、という。
落球とノイローゼは結びつかない。
にもかかわらず、なぜ、彼の場合、全てが落球を起点にして語られてしまうのか。あの甲子園での、あの巨人―阪神戦だったからだと考えることもできる。しかし、それだけではない。
ここでもう一つ、73年のタイガースの最も重要な試合をふりかえってみよう。
10月20日の中日球場、中日―阪神最終戦である。この試合に勝てば阪神は優勝という試合だった。
V9をめざす巨人は病んでいた。10月16日、巨人は右指を痛めた長嶋を欠いてヤクルトとの戦いに敗れた。阪神が首位で二位の巨人との差は1ゲーム。巨人は残り1試合しかない。阪神との最終戦である。阪神は巨人戦の前に中日との試合がある。それに勝つか、悪くとも引き分けに持ちこめば優勝が決まる。10月20日の中日―阪神はそういう一戦だった。
中日の先発は星野(仙)。阪神は江夏。妙な試合だったと誰もがいう。ある阪神担当記者はスタメンに書かれた「上田(投手)」という文字を試合直前に、金田監督が二本の線をひいて消し、そこに「江夏」と書き込んだという。
そして、試合は中日が勝ってしまった。阪神ファンは、嘆いた。その直後の勝利投手、星野(仙)のコメントがこの試合の雰囲気を如実に語っている。星野はいった。
「やりにくい試合やった。阪神に勝たしてやりたいが、うちもAクラスがかかっているしね。阪神のバッターはいいボールを見逃して難しいタマを難しく打っていたよ。そんなに難しく打たなければならんタマはなかったはずなのに。遠井さんはボールを打って、田淵はいつもならスタンドへ持っていくコースを凡打していた。きょうは一番うれしくない勝ち星だったよ」
阪神の先発は誰もが上田だろうと予想していた。上田は中日に強かったからだ。その中日に強い上田をやめて江夏をマウンドに送ったのは「上田に微熱があったからだ」と金田監督は語っている。江夏に関しては、こんな風に書かれている。
「江夏は笑みを浮かべて登板した。立ち上がりの田淵の中犠飛で先取した1点を持って。だのに不調だった。1回、いつもの江夏なら捕れる谷沢の打球を逃し、続いてウイリアムの平凡な投ゴロさえもグラブにさわらず後逸する有り様。いつもと違った江夏だった……」
試合後、江夏はこういっている。
「なぜか自分のペースに乗れなかった」
スコアは4―2。かくして勝ちたいはずのチームが敗れ、勝たせたいとどこかで思っていたチームが勝ってしまった。
そして、阪神はその二日後の、甲子園における最終戦、巨人との優勝を賭《か》けた一戦にも負けてしまう。スコアは0―9だった。つまり、ほとんど優勝を掌《しよう》中《ちゆう》にしながら、ずるずると阪神は敗れてしまったわけだった。
最終戦が終わったあと、甲子園球場は荒れた。ファンがグラウンドに殺到し、巨人ナインの何人かは阪神ファンにこづき回され、ほうほうの態《てい》でロッカーへ逃げた。金田監督はラウドスピーカーを持ってグラウンドに立ち、ファンに陳謝せざるをえなかった。
この終盤戦を迎えて「阪神は優勝なんかしなくていいんだ」と、球団の首脳が語ったという話もある。優勝すれば、それだけ選手の年俸を上げねばならず、今のままでも巨人と争ってさえいれば阪神球団は安定経営をしていかれるという解説もネット裏に流れていた。
そして、そのシーズン後、池田のあの落球がなければ優勝できたんだという声があがり始めた。
「当時のチームの上層部が責任のがれにいい始めたことだと思いますよ」――といったのは村山である。優勝を逃した一戦というものがあるとすれば、それは10月20日の中日戦であり、池田が落球した8月5日の巨人戦ではないというのだ。
〈奇妙な中日戦〉からファンの目をそらし、象徴的で十分に劇的な池田の落球を語ることで、球団としてのタイガースは、その美しい悲劇性を保持しえた、ともいえる。
池田はいう。
「あの中日戦できわどい場面があったんですよ。たしか6回だったと思う。ランナーを一人おいてぼくはバッターボックスに入った。打ちごろの球がきたんです。打った瞬間、ぼくは入ると思った。ライトがバックしていって、フェンスにつかまるようにしてジャンプした。ライトを守っていたのはたしか井上だったと思う。ぼくは入ったと思った。6回の攻撃の時、スコアはまだ2―3でしたから、入っていれば4―3と逆転です。ところが、それを捕られてしまったんですね。
これにはあとで井上から聞いた話があるんです。彼はあの打球を捕る気がなかったというんですね。これはホームランだろう、どうせ捕れない、半ばヤケになって捕る気もなくジャンプしたら、半分スタンドに突っ込んだグラブにスポッと入ってしまった、と。
あとから考えれば、皮肉ですね。もしあれが入っていれば、阪神は優勝できたかもしれない。そうしたら、ぼくの落球のことなんて誰もいわなかったんじゃないかと思うんです」
運命の糸のもつれといってしまうには、あまりにもきわどすぎる。
もう一つ、こんな話もある。
池田はプロ入りする時、ジャイアンツに入りたいと思っていた。彼が野球を始めたのは、背番号16をつけた川上哲治にあこがれたからである。同じ熊本県人《ひと》吉《よし》の出身だった。川上の自伝的映画の撮影が地元で行われるというとき、池田は走って川上を見に行った。
中学三年のとき、池田は右肩を脱《だつ》臼《きゆう》した。元来、池田は右投右打である。ピッチングにはさしさわりなかったが、バットを握ると肩が痛んだ。やむなく彼は左打者に転向した。それでも彼はうれしかった。川上のように、左で打てるからである。高校野球の全国大会、夏の甲子園から帰ってくると、タイガースのスカウトが来て、数日おくれてジャイアンツのスカウトもやってきた。池田自身は巨人入りを望んだ。あの川上さんの下で野球ができる、と喜んだ。タイガースに入ったのは、彼の父親が初めてプロへ誘ってくれた阪神に恩義を感じ、阪神に行くよう池田を説得したからだという。
「もし巨人に入っていれば」と池田はいった。
「全てが変わっていたでしょうね。少なくとも〓“伝説〓”を作られることはなかったと思います」
池田純一は今、まるまると健康的に太って三十代の後半にさしかかっている。再婚して子供も生まれた。阪神電車の深紅駅から歩いて三分もかからないところでジーンズ・ショップを経営している。店の名前は「ラッキー・ゾーン」と名づけられている。
スクイズ――西本幸雄
監督とは、ベンチにいていかにして得点をあげるか、常にそのことばかり考えている、そういう人のことである。
ランナーが三塁にいる。無死、あるいは1死。得点差はわずか。1点がほしい。そういうとき、監督は必ずスクイズのことを思い出す。サインを出し、ランナーが走る。バッターはピッチャーの手から離れた球をバットの一部でコツンと受ければいい。前に転がしさえすればいいのだ。ランナーは素早くホームベースを走り抜ける。確実に1点がとれるのではないか――と、監督は思ってしまう。とにかく、コツンと当ててくれればいいのだから。スクイズという戦略は監督を誘惑する。
しかし、もし、失敗したら――。それも監督は考えている。結果は幾通りもない。成功か失敗か。オール・オア・ナッシング。打たせて凡打に終われば、バッターの責任だ。しかし、スクイズのサインを出して失敗すれば、監督の采《さい》配《はい》が問われる。それでも、ここはスクイズしかないと、監督が思いこんでしまう瞬間がある。スクイズに魅入られてしまう瞬間がある。
そして――。
「なぜ、あのときスクイズのサインを出したのだろうか」――と、西本幸雄は考えている。
もちろん、今となっては結果論でしかない。野球はプレーが完了した瞬間に幕を閉じるドラマである。そのあとに発せられるコメントは、どうあがいてみても、現に過ぎ去ってしまったシーンを説きあかす以上のものではない。
「それなりの理由はあったんだ」と、西本はいう。
1979年11月4日の大阪球場である。広島―近鉄の日本シリーズ第7戦9回裏。スコアは4―3。1点を追って近鉄の最後の攻撃が始まっている。時折り、冷たい雨が降ってくる。近鉄バファローズの西本監督は、ウインド・ブレーカーを着こんで一塁側ベンチに坐《すわ》っていた。
バッター・ボックスに石渡茂が入った。ベースは三つともランナーで埋まっている。
三塁には藤瀬史郎。彼はこの回、先頭打者としてセンター前にヒットを打った羽田耕一のピンチ・ランナーとして起用された。セカンド・ベースにいるのは、羽田の次にフォアボールを選んだアーノルドにかわるピンチ・ランナー吹石徳一。一塁ベースには敬遠のフォアボールで歩いた平野光泰。
マウンド上にいるのは江夏豊である。彼は広島カープのマウンドを守りきらねばならない。ノーアウト、フルベースという状況でバッター・ボックスに入った佐々木恭介は、江夏の頭脳的ピッチングに三振に倒れた。
そこでバッター・ボックスに入ったのが石渡だった。
「バッター・ボックスに向かう前、監督にいわれたんです。スクイズのサインが出るかもしれんけど、思いきっていけと。それならサインが出るまでは真っすぐ狙《ねら》っていこうと思った。打ってやる。ただそれだけを考えていました。第1球目は真っすぐがくると思っていた。ところが、そこにフォークのような球がきた。これは打てません。振りもしなかった……」
石渡はバッター・ボックスを外した。三塁コーチス・ボックスを見た。その一瞬――。
そのつかの間に、全てが決まってしまったのかもしれない。
一塁側ベンチにいる西本監督は、石渡がバッター・ボックスに向かう前から、タイミングを見て必ずスクイズのサインを出してやろうと決めていたわけではない。ワンアウト、フルベース。1点を追う9回裏。3勝3敗で迎えた日本シリーズの最終戦。その局面でスクイズという作戦がありうることは、いくつかの作戦とともに西本監督の頭のなかにある。しかし、そのサインは容易に出せるものでもない。
「スクイズのサインというのは、出すほうにも度胸がいるが、出されるほうも緊張するもんや」――西本監督はそう思っている。
と同時に、ここはスクイズしかないと、監督が思ってしまう瞬間もある。
このときがそうだった。
西本監督は1球目にはスクイズのサインを出してはいない。バッターの石渡も真っすぐのストライクがきたら打つつもりでいた。そこに変化球がきたのでバットをピクリとも動かさず、見逃した。
狙《ねら》い球と異なる第1球を、石渡が何ということなしに見逃したことが、マウンド上の江夏と一塁側ベンチの西本監督に微妙な影響を与えた。
江夏はこう思った――「1球目にはウエイティングのサインが出ていたに違いない。だから何の細工もなく見逃した。次に何か仕掛けてくるはずだ。この状況だったら、スクイズ以外にありえない」
ベンチの西本監督は、投げた江夏と、それをどうということなく見送った石渡を見て、初めて現実的に「これはスクイズしかないかな」と思うのである。
「その前に佐々木が三振している。そして石渡の初球のストライクの見逃し方を見て、これは外野フライは無理かなと、そういう感じがした。バッターとピッチャーを見比べて、ピッチャーのほうが強いかもしれん、スクイズでもせんと三塁ランナーを返せないなというときにスクイズがひらめくわけですね、だから、あそこでサインを出した」
一つのスクイズには様々な思いがからみあっている。
バッターはスクイズのサインが出るかもしれないと思い、出るまでは真っすぐのストライクだけを狙《ねら》っていこうとしている。そうアドバイスしたのは監督である。そこにピッチャーは、たまたま変化球を投げる。江夏が投げたのはカーブである。バットは動かない。動かす気もなかった。それはただ単に直球を待っていたからだという、それだけの理由である。ところが、ピッチャーは何かあるに違いないと感じてしまう。これは誤解である。ピクリとも動かなかったバットを見て、監督はいやな予感をいだいてしまう。打てないのではないか。これも誤解であるのかもしれない。
石渡は三塁コーチス・ボックスを見た。
西本監督から出たスクイズのサインを、コーチャーは中継している。
江夏は何かやってくるはずだと思いながら石渡に対する第2球を投げる。ランナーが走り、バッターはスクイズの構えに入った。
勝ったのは江夏である。
江夏はとっさの判断でアウトコース高目にボールを外し、さらに微妙に変化した球は、バントしようとした石渡のバットの下をかいくぐった。
サインどおり三塁ベースから飛び出してきた藤瀬が本塁寸前でタッチアウトされ、そのままゲームセットに向かって時間が急速に流れていく。
バッターの石渡はツー・ナッシングに追いこまれ、三振、ゲームセットになるのは時間の問題だ。
その一連の流れのなかで、西本監督のスクイズ・サインが出されたわけだった。
そして、1979年日本シリーズ最終戦9回裏における江夏の伝説的ピッチングが成立してしまった。〈江夏の21球〉――この回江夏は21球を投げ、ドラマを完結させた。それはまた、別のストーリーになっている。
しかし、そこで江夏が笑うか西本監督が笑うかは、じつに紙一重である。
一重の紙をつき破れなかったからこそ西本監督は“悲運”といわれるのだろうか。
スクイズのサインを送った西本監督の頭を横切ったシーンがある。
数秒後に、スクイズが失敗すると、そのシーンはまざまざとよみがえってきた。
「あのときのことと重ねあわせていわれるに違いない」――そう、監督は思った。
大阪球場の西、西宮市内の自宅で広島―近鉄戦の日本シリーズ最終戦、テレビ中継を見ていた谷本稔も全く同じように〈あのとき〉のことを思い出していた。谷本は〈あのとき〉に深くかかわった男である。彼はそのとき、大毎オリオンズの選手だった。
恐らく、あのときのことを思い出したのは彼ら二人だけではないだろう。西本監督のいう〈あのときのこと〉は1960年10月12日の川崎球場で起こり、公式記録によると一万八千四百二十一人の観客が見ていた。一塁側と三塁側のベンチには五十人あまりの選手たちがいた。グラウンドには九人の野手と三人のランナー。一人のバッターがいた。そのなかの多くの人たちが、1979年秋の西本監督の失敗を見て、思いを過去にひるがえらせたに違いない。
同じ日本シリーズの場だった。
1960年にセ・リーグのペナントを獲得したのは大洋ホエールズである。その前年は最下位であるにもかかわらず、西鉄ライオンズから三原脩監督を招くと、突然、力を発揮し始めた。
〈三原魔術〉だ、といわれた。
パ・リーグのペナントは大毎オリオンズが手にした。毎日オリオンズと大映スターズが合併して大毎オリオンズとなったのが昭和33年、1958年のことだった。それから3年目にして優勝したわけである。オーナーは永田雅一(当時、大映社長)である。
西本幸雄は昭和25年1月に毎日オリオンズと契約した。日本野球連盟が2リーグに分裂したのが前年の末。毎日オリオンズ創設と同時にプロ入りしたわけだった。大正9年4月25日生まれだから、プロ入りしたときは二十九歳になっていた。野球歴は古い。旧制和歌山中学の四年生のときにグローブとバットを持ち、立教大学では一塁手として活躍、昭和18年4月7日、六大学リーグ解散命令が出されたときはキャプテンをつとめていた。その後、軍隊に召集され、帰還後の昭和22年、ノンプロ全京都に入団。まもなく八幡製鉄に移り、24年には別府星野組に引き抜かれた。ここには荒巻投手(のちに毎日オリオンズ)がいた。西本は24年の都市対抗野球に監督・三番打者・一塁手のプレーイング・マネジャーとして出場、別府星野組を優勝に導いている。毎日新聞社はプロ野球球団を創設するに当たって別府星野組のほとんどの選手を入団させた。
その最初のシーズンに、毎日オリオンズはパ・リーグ優勝を果たした。オリオンズには阪神タイガースから若林、別当といった選手も移籍してきていた。まとまりのあるチームだった。西本は打率2割6分4厘、打点18、本塁打1という成績を残した。規定打席には若干不足していたが、これはランキング18位に入る成績だった。松竹ロビンスとの日本シリーズにも4勝3敗と勝ち、西本は〈日本一〉の気分を一度だけ味わっている。
27年には主将、29年コーチ兼任プレイヤー、そして昭和30年のシーズンを終えたところで現役を引退した。六年間のプロ生活での通算成績は、491試合に出場し打数1133、得点151、進打276、本塁打6、打点99、盗塁44、四死球140、三振58、打率2割4分4厘――である。
翌31年のシーズンからオリオンズの二軍監督に就任、34年、一軍のヘッドコーチに昇格するまで続いた。監督は別当薫がつとめていた。
大映、毎日合併後、永田オーナーは阪神から田宮謙次郎を引き抜くなど、優勝を目ざそうと、やっきになっていた。戦力は充実していた。田宮、山内、榎本、葛城という打線はミサイル打線と呼ばれていた。投手には小野、荒巻がいた。それでも昭和34年のシーズンは南海に優勝をさらわれた。それが原因で別当監督は大毎オリオンズを去った。西本が監督にノミネートされるのは、そのあとのことである。
監督一年目の昭和35年、西本の大毎オリオンズは優勝してしまう。
「シーズンの終盤に入って打力が落ちてきたので、あと一歩のところでもたついたが」と西本はいう。「監督一年生としては戦力に恵まれていた。のちに阪急や近鉄の監督を引き受けるようになったときの戦力と比べれば、大毎のほうがチームとしてははるかにできあがっていた」
打撃十傑の上位三人は大毎が独占した。首位打者は榎本である。打率3割4分4厘。二位は田宮の3割1分7厘。三位は山内で3割1分3厘。山内は32本塁打、103打点で二冠を獲得している。さらに六位には2割9分5厘の葛城が入っている。投手陣を見れば、小野が33勝、防禦率1・98をあげ、いずれもトップの成績。中西、若生というピッチャーも投手成績の上位に顔を出していた。
日本シリーズは、当然のごとく大毎有利と予想されていた。大洋の中心戦力は投手で秋山、島田(源)、権藤、鈴木(隆)、バッターで桑田、近藤(和)、近藤(昭)……といったところだ。
結果は、しかし、大洋の四連勝に終わってしまった。強いといわれていた大毎は、シーズン終盤からの打線の不振が響き、打って勝つチームがその本領を発揮できなかった。
この年の日本シリーズには、ターニング・ポイントとなるシーンがいくつかあった。
その一つが、大毎オリオンズのスクイズ失敗だったのだ。
1960年10月12日、川崎球場での日本シリーズ第2戦、8回表の攻撃である。
西本監督が近鉄の石渡にスクイズのサインを送ったとき、ふと思い出したのが、このシーンだった。
「あのときのバントは間違いなく成功、と思った」
と、谷本稔はいう。彼は今、球界から去っている。79年の日本シリーズで近鉄の石渡がスクイズに失敗したとき、そのシーンをテレビで見ながら「石渡はあのシーンを、いつまでたっても忘れられんだろうな」と、谷本は思った。彼が十九年前に、同じ立場に立たされたからである。
当時の谷本は二十三歳。若手のキャッチャーだった。この年の谷本は5番あるいは6番を打っていた。葛城の調子のいいときは谷本が6番を打ち、葛城の打力が落ちてくると5番にあがった。
日本シリーズ第2戦、谷本は5番打者としてラインアップされていた。8回表、スコアは3―2で大洋が1点リードしている。1回戦は1―0で大洋が勝っていた。大毎打線を抑えたのは秋山である。2回戦は大毎が先取点を取った。6回表に出た榎本の2ランホーマー。しかし、その裏大洋も2安打1四球で効率的に2点を返し、さらに7回裏にも3安打で1点。3―2とリードした。そのまま負けると大毎はピンチに立たされてしまう。何とか同点に追いつき、逆転して1勝1敗に持ちこまなければいけないシーンである。
8回表、大毎の攻撃は1番の坂本文次郎から始まった。彼は現在、近鉄バファローズのコーチをしている。昭和26年にプロ入りしたとき、支度金は十万円、年俸わずか三万円だった。結婚して、子供も二人いた。それでも野球をやりたかった。プロに入ると、打球の強さに驚いた。坂本が守っていたのは三塁である。ノンプロできたえてきたつもりだったが、三塁線に飛んでくる打球の強さはケタ違いだった。「それでも、打球をうしろにそらさなければアウトにできる」と、坂本は思った。グローブのなかにボールをおさめなくても、体で打球を止めれば「肩には自信があった」。彼は、守備においてはうしろにさがることを知らない選手だった。とにかく突進してゴロと向きあった。そういう男である。つまり、ファイターといっていい。
大洋のマウンドには島田源太郎がいた。完全試合を記録したことのあるピッチャーである。この日、彼は7回まで大毎打線を5安打2四死球に抑えていた。坂本は、ともかく塁に出ようと思った。60年のシーズンの打率は2割5分6厘。ミサイル打線のなかにあっては目立たない。坂本はセーフティ・バントを試みた。三塁線にゆるいゴロが転がる。大洋の三塁は桑田である。坂本は一塁に生きた。ノーアウト一塁。三原大洋監督はすぐに投手を代えた。二番手として登坂してきたのは権藤正利である。彼はその後、東映――阪神と移り、現在は故郷の佐賀県に帰って酒屋をやっている。
権藤は、シリーズが始まる前、大洋よりも大毎のほうが有利ではないかと思っていた。
「三原監督は日本シリーズは短期決戦、勝負は水ものなんだ、データなんか気にすることはないといっていました。それでも固くなっていましたね。第1戦に勝ちましたが、全然安心できなかった。第2戦もわずか1点のリード。どうなるかわからないというところで登板したわけですね。ネット裏で両チームのオーナーが並んで観戦していました。大洋の中部謙吉さんと大毎の永田雅一さんです。その二人を見たとき、会社の格でいえば、当時の大洋漁業のほうが上なんですけど、なぜか永田さんのほうが大きく見えたんです。多分、野球ということでいえば、永田さんのほうが派手だったからかもしれない。気持ちの上では、あの段階ではまだ大毎が勝っていたと思う。ウチのチームが簡単に4勝してしまうなんて、思いもよらなかった」
権藤投手が迎えた打者は田宮謙次郎である。センターを守る2番打者。このシリーズに初めて登板した権藤は固くなっていた。2球目はキャッチャー土井のパスボールを誘った。ランナーの坂本はセカンドへ。田宮は、コントロールの定まらない権藤からカウント2―3の後、フォアボールを選ぶ。これでノーアウト、ランナー一、二塁である。バッター・ボックスにはその年の首位打者、榎本が入った。
西本監督は、好んでバント作戦を行うタイプの監督ではないといわれている。もちろん、チーム力、そのときのチームの状態によって事情は異なるだろうが、この無死走者一、二塁という局面で西本が出したサインは、送りバントだった。
しかし、これはさほど不思議ではない。無死走者一、二塁を1死走者二、三塁に進めるのは理にかなっているし、西本監督自身、この状態でのバントは比較的多く行っている。
蛇足かもしれないが、データを一つ表にして示してみた。(*参照)1980年のシーズン中、西本監督は計123回、バントのサインを出した。そのうち無死一、二塁でのケースは34回ある。広島の古葉監督と比べてみよう。古葉は176回バントを命じている。そのうち無死一、二塁の送りバントは25回である。古葉監督の場合、同点もしくは1点リードという状態で無死一塁にランナーが出たときの送りバントが圧倒的に多い。同じ状態で西本監督がさほどバントにこだわっていないことが、表を見ればわかるはずだ。そこらへんから西本監督はバントが嫌いだといわれることになる。
無死一、二塁になると、話は別である。西本監督はしばしばバントを試みる。榎本がバッター・ボックスに入ったときもそうだった。「スコアがタイになればチームの空気も変わるんじゃないかと思っていた。だから、とにかく同点にもっていこう」――西本はそう考えていた。
榎本はサインどおり、バント。ランナーを二、三塁に進めた。次のバッターは山内である。マウンドの権藤はピンチを迎えてしまった。三塁側の三原監督は、ここで権藤に山内を敬遠するように指示を出した。
そして、秋山登をつぎ込む。
前日の第1戦で秋山は初回イニングだけを投げた鈴木隆をリリーフして最後まで投げ切っている。そして大毎打線を4安打5三振4四死球に抑えている。失点はゼロ、連投である。
日本シリーズ前のミーティングでは秋山をはじめとする投手陣は、三原監督から「西本さんという人は大毎の打撃力も考えあわせれば送りバントやスクイズをあまりやらないはずだ」と聞かされている。
ワンアウト、フルベース。バッター・ボックスに5番打者の谷本を迎えて、秋山はスクイズの可能性を全く考えていない。
秋山投手の話――「谷本はバッティングは悪くないけど、足はおそいと知らされていたんですね。ぼくとしては内野ゴロを打たせてダブルプレイをとる、それだけを考えていたわけです。スクイズを警戒する態勢は一切なかった」
サイドから投げる秋山の球は、調子のいいとき、打者の手もとへきてホップする。また、秋山には切れのいいシュート、落ちる球もある。いずれも内野ゴロを打たせるには格好の球種だ。
西本監督は〈背番号50〉をつけ、ビジター用のグレーのユニフォームを着て三塁コーチス・ボックスに立っていた。四十歳。白髪は、まだ一本もない。
彼はリリーフに秋山が出てきたときにはすでに谷本のスクイズを考えていた。秋山には第1戦でみごとに抑えられている。1回戦の初回、大毎は先発の鈴木隆投手から柳田が四球、田宮がショート頭上を抜くヒットを打ち、チャンスをつかんだ。3番榎本は三振に倒れたが、続いて山内が登場した。ここで秋山が登板し、離塁しすぎたセカンド・ランナー柳田を牽制球で刺した。それ以降、秋山にピタリと抑えられてしまったわけだった。
西本監督は、8回表の1死満塁をなんとか点に結びつけようとしている。打者の谷本はシリーズが始まってここまで、ヒットは出ていない。
「秋山は落ちる球を投げてくるだろうと思いましたね。となると、外野へ飛ばすより内野に転がる確率が高い。秋山がウォーミング・アップをしているころから、漠然とスクイズのことを考えていた」――西本監督はそういう。
バッターの谷本はスクイズのサインが来るとは考えていなかった。「スクイズで点をとるなんて、オリオンズの野球にはなかった。大体が大ざっぱだったんです。ピッチャーが何点とられても、打ってとり返した。そういう野球です。バッターとランナーの間でヒット&ランのサインを出しあうことはあってもスクイズは少なかった」
秋山VS谷本の1球目はヒッティングである。打球は一塁側のネット裏に飛んだ。それは観戦していた鈴木龍二セ・リーグ会長の左手に当たった。「こんなもん、痛くはない」と会長はいったという話が翌日のスポーツ紙に出ている。痛さよりもゲームの行方のほうが問題だったのだろう。スタンドは、ちょっとざわついた。そのざわめきが引き金になったのかもしれない。そのとき、西本監督は谷本にスクイズのサインを送ったのだ。
谷本の話――「スクイズのサインが出た。それに驚いている余裕はありませんでしたね。スタンドは満員。すごい声援ですから。とにかくスクイズをするんだといいきかせて、バッター・ボックスに入った。直球だったと思います」
投げた秋山は何を投げたかおぼえていない。内野ゴロを打たせるつもりだったから落ちる球か低目の速球だったはずだという。おそらく、低目からホップしてくるような速球だったのではないか。そうであれば、谷本の打球を説明できる。谷本はそれをバットに当てることができた。三塁ランナーの坂本は本塁に向かって走っている。
「ボールが前に飛んだから、これで成功だと思って、一塁へ走り出した」――その谷本が一塁ベースに入るはるか前にボールは一塁へわたった。それはいい。しかし、それは2アウト目ではなく3アウト目であった。
本塁に向かって走ってきた坂本は、その奇妙な打球を見ていた。
「小フライになった打球がグラウンドに落ちると、捕りにいったキャッチャーの土井のほうに戻るようにはねかえってきたんですね。ピッチャーのほうに転がらずに、逆にキャッチャーのほうに転がってきた。土井はそれをつかむとすぐにぼくにタッチ、そして一塁へ送球。あっというまにダブルプレーです」
スクイズをした谷本にはそれが信じられない。その一瞬を、超スローモーション・フィルムを見るように、彼は何度も思い返した。その谷本がいうのだ――「スクイズを構えたバットの上のほうに当たったんだと思う。それで打球にバック・スピンがかかってしまった。ボールが逆回転してグラウンドに落ち、そのまま真っすぐ転がらずに戻ってしまった。ゴルフのスピン・ボールと同じですよね。もうあと1センチ、いや数ミリ上のほうに当たっていればファウルになっていたはずなんです」
またしても、紙一重である。
第2戦は、3―2のスコアのまま大洋が勝った。大毎ナインがガックリと川崎駅近くの旅館に帰ると、テレビのニュースは社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼の少年、山口二《おと》矢《や》に刺されたことを報じていた。ナインは敗戦よりもそちらの事件に気をとられていたが、他方では西本監督をめぐるもう一つのドラマも進行していた。
その夜、西本監督は後援者と一緒に気晴らしに赤坂へ出た。そこに自宅から電話が入る。永田オーナーがさがしているという。帰宅後、オーナーに電話を入れると、永田オーナーはいった。
「あの場面でスクイズをするとは何ごとか。大毎はミサイル打線じゃないのか!」
西本は、打線の状態を一番熟知しているのは自分であるといった。あのスクイズは間違っていないと。
「バカヤロー!」と、怒鳴ったのはオーナーである。その言葉を取り消すようにと、西本がいうと、電話はガチャン! という音をたてて切れた。
監督としての西本幸雄は一年で大毎オリオンズを去っていった。
スクイズを失敗した谷本はこう考えている。
「あのまま辞めずにすみ、パ・リーグ優勝監督として大毎に残ったほうがよかったのか。一度外へ出たからこそ阪急、近鉄というチームに行かれた、そのほうがよかったのか。今となってはわかりませんが……」
紙一重のシーンをくぐり抜けてきた西本幸雄の頭髪は、今ではすっかりと白くなってしまっている。
エース――江夏豊
江夏豊というピッチャーと、何度も会う機会があった。そもそもぼくがスポーツのことを書き始めたきっかけが、江夏に会ったせいかもしれない。1979年の日本シリーズ第7戦で江夏は、おそらく戦後プロ野球史のベスト3に数えられるだろう〈シーン〉の主人公になった。この本の第二話〈スクイズ〉にも書いた、あの日本シリーズのことだ。そして、ぼくは〈江夏の21球〉というストーリーを書くことによって「スポーツ」と書かれた部屋のドアをノックしたわけだった。こんこん。部外者ですが、ちょっとお邪魔します……。そういう感じだった。
「何だい?」――最初に返事をしてくれたのが、江夏豊だった。
83年の春、沖縄の名《な》護《ご》に彼を訪ねた。キャンプ中だった。そのとき、ぼくは、おそらくどうでもいい事柄に属すると思うのだけれど、江夏独特のポーズがあることに気づいた。ユニフォームを脱ぎ私服に着がえて、江夏は坐《すわ》っている。そのとき彼は体を右に傾けている。そう見えるのは彼の左腕が肩から左の膝《ひざ》に向かって真っすぐ伸ばされているからだ。タバコを吸い、コーヒーを飲む。それらの動作は右手で行われる。左腕は自然に、ゆったりと、真っすぐ伸びている。体をやや右に傾けることによって、左手を楽に伸ばしている。江夏は、左腕にムダな負担をかけまいとしているわけだった。
「もう野球をやめたいと、切実に思うことがあるんだ」
江夏がその日、大阪球場のマウンドに上がったのは7回裏のことだ。当然の起用だった。しめくくりは江夏以外にはありえなかった。
江夏はそんなふうにいうのだった。
まだ早すぎるじゃないか。82年のシーズンだって江夏のいる日ハムは優勝こそ逃したものの、その左腕はなくてはならないものだった。江夏のピッチングを見たくてスタジアムにやってくるファンだって大勢いる……。そんなことを、ぼくはいった。
「妙なもんでね。ユニフォームを着ていないときに、フッとそういう気になるんだよ。ボーッと、何を考えるわけでなしに風景を見つめていたり、麻《マー》雀《ジヤン》をしていたりとか、そういうときにフッと、フッとだよ、野球をやめたいなと思う。やめたらどれだけラクだろうかと思う」
その気持ちがわからないでもなかった。江夏は67年のシーズンからプロのピッチャーとして投げつづけているのだから。リリーフ投手としてマウンドへ歩いていく時は、なんともいえず恐ろしいんだと、彼がつぶやいたこともあった。肝心なところで打ち込まれるかもしれない。その不安は、何度ピンチを切り抜けても、消えるものではない、と。
もう、やめたいという思いと、ぼろぼろになるまで投げつづけたいという思い……その両方を江夏は持っている。
栄光を背にマウンドを降り、ユニフォームを脱ぐ。それはたしかに賢い方法だ。しかし、速い球が投げられなくなり、変化球とバッターとのかけひきだけでピンチを切り抜ける、そういうピッチャーになってもマウンドに固執しつづけるのもまた、美しい。
晩年の金田正一(現・評論家)は、時折り、超スローボールを投げた。バッターはアゴを上げ、天井を見上げるようにしてその球を追った。そして落下してくると不思議にストライク・ゾーンに入った。バッターは唖《あ》然《ぜん》として、見送った。金田はもう、速い球を投げられるだけの肩、肘《ひじ》を持っていなかったのだ。江夏にも、やがてその時がくる。
江夏はどうするだろうか。スローカーブを投げるのだろうか。
そんな話をしながら、ぼくは江夏が最も江夏らしかったころのことを思い出していた。
江夏豊がマウンドに立ち、乗り越えてきた数々のシーンに、江夏ではなく他のピッチャーが直面したら、一体彼らはどう立ち向かっただろうかと、考えることがある。
たとえば、1979年秋の日本シリーズである。
江夏は広島カープにいた。130試合の公式戦、ほとんどすべてにベンチ入りし、カープの二度目の優勝に貢献した。セーブ投手の地位が確立され、どのチームもリリーフエースをつくりはじめるきっかけになったシーズンである。
日本シリーズは、その広島カープと近鉄バファローズの間で争われた。バファローズの西本監督は、今度こそ日本一のタイトルを手にするのだと言って、陣頭に立った。
その近鉄の連勝からスタートしたシリーズは、もつれにもつれ、3勝3敗で最終戦を迎えた。
シーソーゲームになった。広島が初回に1点、3回に1点を入れると、近鉄は5回裏、平野の2ラン・ホームランで追いつく。6回表、広島は水沼の2ラン・ホーマー。その裏、近鉄は2本のヒットと送りバントなどを交えて1点を追加。3―4と1点差に追い上げた。
江夏がその日、大阪球場のマウンドに上がったのは7回裏のことだ。当然の起用だった。しめくくりは江夏以外にはありえなかった。
江夏は7回、8回と近鉄打線を抑え、最終回を迎える。そこで江夏はとんでもないピンチに見舞われてしまうのだ。先頭打者にヒットを打たれ、代走・藤瀬がスチール、キャッチャーの悪送球もあって、ランナーは三塁に達した。
続くバッター・アーノルドに四球。その代走・吹石もセカンドへ走って、無死二、三塁。広島ベンチはバッテリーに満塁策を指示した。次のバッターも歩かせるというわけである。
ノーアウト、フルベース。9回裏である。得点差はわずかに1点、日本シリーズの最終戦である。
そして、江夏はそのピンチを乗り越えた。
土壇場のノーアウト、フルベース。江夏は、そのとき、二つの面から試練に立たされた。一つは技術である。その状況を乗り越えるだけのピッチング技術があるか否か。もう一つは、いい古された言葉だが、精神力である。そのシーンに、気《け》圧《お》されずに立ち向かうことができるか否か。
その両者が揃《そろ》っていなければ、絶体絶命のピンチは乗り切れるものではない。
他のピッチャーが、同じ状況に立たされたらどうだっただろう……と、考えてしまうのは、あのときの江夏ほどの技術、精神力を兼ね備えたピッチャーがきわめて少ないからだろうと思うからである。
たとえば、江川だったらどうだろう。もちろん、野球は仮定の話の中で成立しはしない。もし……ならばというのは、実質的な意味を持つわけではない。それを承知のうえで、もし江川だったならばと考えてみたくなるのは、江川が江夏に匹《ひつ》敵《てき》する力を持ちながら、未だ渋皮のむけきれていない脆《ぜい》弱《じやく》さを感じさせるピッチャーであるからだ。
江川にしても、数々のピンチは切り抜けてきている。きわどい状況を乗り越えてきている。しかし、最近の例でいえば、江川に関して最も印象に残っているのは、82年9月28日、セ・リーグの優勝の行方がかかった対中日三連戦の緒戦に先発した江川が、9回裏、中日打線に突然つかまり、連打されて4点のリードを失い、さらに10回裏、逆転されてしまったシーンである。
あるいは同じ年の5月30日、後楽園球場の対ヤクルト戦、それまで完《かん》璧《ぺき》に近いピッチングを展開しながら、9回表、バッター大杉に対するきわどい一球がボールと判定され、そこから音を立てて崩れていったシーンである。
評論家的態度でいい切ってしまえば、江川の若さが見えた、ということだろうか。いずれのシーンにおいても、スピードが衰えていたわけではない。疲れ切っていたわけでもない。直前まで江川は完璧だった。にもかかわらず、一瞬、隙《すき》間《ま》風《かぜ》が吹いてしまうのだ。
江川には、その日、その時、その状況を乗り越える何かが足りなかった。
高校野球ではなく、プロ野球がなぜ面白いのかといえば、一球の行方に血眼になっている選手たちが、その一球に、若干大げさにいえば、人生をかけているからだ。
アマチュア野球には純粋さがあるが、プロ野球にはそれがないという。それは違う。アマチュアの選手は、野球というゲームで失敗しても、いくらでも取り返しがつく。彼らは勝利、栄光という抽象概念を追っているだけなのだから。
プロ野球の選手たちは、人生における自分の方向をはっきり選び取った男たちである。そこからの退却は、明らかに敗北を意味してしまう。一球にこだわり、執着することで自らの人生を支え、活路を切り拓《ひら》いていくほかない。しかも、プロ野球選手はチームという組織に所属しながら、立場はフリーに近い。
力ある者が人気も金も将来をも約束される。年功序列という概念は一切ない。むしろ年齢を重ねることは肉体の衰えを意味する。二十代の初めから三十代半ば過ぎまでの、ほんの十数年の短期決戦の世界なのだ。一人一人がベンチャービジネスのエグゼクティブであり、同時にフィールド・ワーカーなのである。
その中で、いかにして自分の成績を上げ、実績を積み上げ、付加価値を高め、将来を築き上げていくか。彼らは日々のゲームの中で格闘している。
その格闘の中で、江夏豊は、今の江川卓にはまだ備わっていない〈何か〉を持っていた。
話を再び79年秋の日本シリーズに戻してみよう。
無死満塁であった。江夏はピンチに立たされていた。そこを切り抜ければ日本一の座に就くのは広島カープであり、MVPに選ばれるのは江夏である。江夏は新たな勲章を手にする。プロ野球の伝説を一つつくり上げることにもなるだろう。当然、年俸も大幅にアップする。つまり、すべてを手にするはずだった。
逆に、そこで打ち込まれてしまえば、すべては相手チームに行ってしまう。広島は江夏によって敗れたことになり、江夏は敗者の烙《らく》印《いん》を押されたところから再び立ち上がらなければならないだろう。
雲泥の差である。
そういう場面である。
江夏は、そこで近鉄打線を封じ込めるだけの力、技術は持っていた。67年のシーズンからプロのピッチャーとして投げはじめた江夏は、その時点でキャリア十三年のベテランである。
そのシーンの江夏を理解するには、マウンドでピンチと対《たい》峙《じ》していた江夏の心の動きを追ってみなければならない。
ノーアウト、フルベースになったとき、江夏は同点にされることを覚悟した。「しゃあない」と思った。江夏はしかし、そこで開き直ったわけではない。
ピンチを迎えたマウンド上のピッチャーは、デリケートである。あらゆる周囲の動きに神経を研ぎ澄ましている。いつ、どこでスクイズがあるかもしれない。バッター、相手チームのベンチが今、その瞬間、何を考えているのか、あらゆるケースを想定して対処しなければならない。どんな動きに対しても、敏感にならざるをえない。
江夏は、一塁側の近鉄ベンチだけでなく、三塁側の広島ベンチをも見る。味方と視線を合わせたからといって安心できるわけではない。ベンチでこのシーンを見守る側は、何の手のほどこしようもないのだから。江夏はそこで妙なことに気づいてしまった。
レフトスタンド寄りにブルペンがある。ピッチャーの投球練習場である。そこに若い二人のピッチャーが出て投球練習を始めたのだ。池谷、そして北別府。
それを見たとき、マウンドにいる江夏の心のある部分が、インスパイアーされてしまった。江夏は「何をしとるんかい!」と、思った。
日本シリーズの最終戦、最終回、リリーフの〈切り札〉である自分がマウンドに登っているのだ。その決着は俺《おれ》がつけなければならない。そのシーズン、広島がセ・リーグ優勝を果たしたのも、そういう野球をやってきたからではなかったのか……。だからこそ今、自分がマウンドに立っているのに、さらに次のリリーフを用意するとは、どういうことなのか――江夏はそう思った。
俺を信用できないのか、という思いである。ならば、広島カープにとって俺は何だったのか、という思いである。
そう思う心情を、あまりにセンシィティブすぎるということはできる。しかし、その過敏さがあるからこそ、江夏はピッチャーとしての自負心を持ちつづけることができたのだ。
危機に直面した人間が、いかなる態度をとりうるのか。いくつかのケースが考えられる。
慌てふためき、落ち着きをなくし、自ら墓穴を掘ってしまうことが、まず考えられる。よくあることだ。状況を客観的に見る視点を失い、冷静さをも失う。そういうとき、人はたいてい失敗する。
次に考えられるのが、第三者に助けを求めるタイプである。どうやら自分はピンチに見舞われているのだと思い、それを一人で解決すべきではないと考える。自分一人で処理するほどの自信がないと判断し、無謀な玉砕を避ける。身近な人間と相談し、より良い方向を見つけ出そうとするタイプだ。
そういう人間が、この場面でマウンドに上がっていたら、早速、ベンチに相談を持ちかけただろう。彼は、監督に客観的に自分の状態を説明する。「自分の気持ちとしては投げつづけたいのだが……」と彼はいうだろう。しかし、チーム全体のことを考えれば、「この際、自分はマウンドを降りたほうがいい」と。正直なところ、ここで無理に投げつづければ自滅してしまう。どうしたって負けられない試合なのだから、ここでベターな選択をすべきではないか……そう考えるタイプの人間もいる。
それはごくごく常識的な、自らの分をわきまえた人間であるはずだ。組織を円滑に運営していくためには欠くことのできないタイプともいえる。
江夏は、違う。
彼はその場面で、攻撃的になった。
広島ベンチは何ということを考えているんだ、俺を何だと思っているのか、リリーフエースの看板を出し、それを1シーズンにわたって背負い切ってきたにもかかわらず、まだ不足なのか。
そして江夏は、ノーアウト、フルベースという場面に立ち向かっていった。逃げるのでもなく、仲間に助けを求めるのでもなく、昂《こう》然《ぜん》と、そして傲《ごう》然《ぜん》と攻めていく。
自分の心に火をつけて活路を開いていく人間を攻撃型とすれば、江夏豊というピッチャーはまさしくそのタイプに属する男だった。
さらなる過去をひるがえってみたい。
江夏のタイガース時代である。
江夏は1948年(昭和23年)の生まれ。大阪の園田中学では砲丸投げの選手として活躍した。県大会で二位に入ったこともある。本格的に野球を始めたのは大阪学院高校に進んでからだ。
高校野球の名門校ではない。江夏が投げ、江夏が打つというチームである。江夏が三年生のとき、甲子園に出場できるチャンスがあった。大阪学院のエース江夏は、夏の地区大会で絶好調だった。1回戦から準々決勝の6回戦まで、江夏の失点はわずかに2である。奪三振は81を数えた。一試合当たり13・5個の三振を奪ってしまうのだ。大量点を取られることなど考えられない。しかし7試合目の準決勝で、大阪学院は0―1のスコアで惜敗する。その1失点は、味方のエラーによるものだった。
ドラフトでは、ほぼ全球団から注目された。甲子園にこそ出て来なかったが、その左腕に価値があることは誰もが認めるところだった。その江夏を阪神タイガースが指名し、契約金一千万、年俸百八十万円という、当時の新人選手に対する限度額で契約が成立した。
江夏は自分の〈力〉を信じて投げまくる、そういうタイプのピッチャーだった。
「先発して完投する。それが一人前のピッチャーなんだ」と、彼は考えていた。
「本当のピッチャーというのは、取りたいと思ったときに、いつでも三振を取れるピッチャーのことやと思う」
そういってはばからなかった。
彼にとっては、ピッチャーこそが野球の中心だった。マウンドという他のどの選手よりも高いところに立ちふさがる、それを許されるのが投手であり、整備された直後の、まだ荒らされていないマウンドに上がることを許されるのが先発投手というものだった。
俺《おれ》が投げなければ試合は始まらないんだと、彼は思っていた。どんなバッターに対してであろうと、江夏は気《け》圧《お》されることがなかった。
江夏が、この人には打たれたくないとライバル視したのはジャイアンツの王貞治である。江夏がプロの選手として投げはじめた67年、王はもう一本足打法を完成させている。その年は、ジャイアンツのV9の三年目に当たっている。王も、そして長嶋も、最も脂《あぶら》の乗り切っている頃だった。
プロ入り二年目。江夏は十九歳から二十歳になろうという年である。江夏は、最も江夏らしいピッチングを見せた。
シーズン後半になると、奪三振記録を江夏が書き替えるのではないかといわれはじめた。
セ・リーグ記録は国鉄時代の金田が持つ350個、日本記録は西鉄の稲尾が記録した353個。金田はその記録をつくるのに400イニングス投げ、稲尾は404イニングスを要した。
ところが江夏は、269を投げたところで345という三振を奪ってしまった。信じられないほどのハイペースである。1イニング平均1・28個の三振を記録しているのだ。
68年の9月17日、甲子園球場の対巨人戦、江夏は先発した。江夏は王から奪う三振で新記録をつくろうと狙《ねら》っていた。68年は、その試合まで、王は江夏に対して29打数10三振を喫していた。長嶋は28打数10三振である。
なんという数字かと、呆《あき》れてしまう。王は江夏から2本のホームランを打ってはいたが、それと引き換えに10三振を奪われているのだ。長嶋はその年の江夏から1本のホームランも打てず、それでも果敢にバットを振り、10三振、江夏はしゃにむにこの二人から三振を奪おうと、真正面から投げていく。
新記録がかかった9月17日。江夏は1回から4回まで2個ずつの三振を奪った。あっさりと、である。これで稲尾の持つシーズン奪三振353個という記録と並んだ。そのあと5回、6回と三振は一つも奪っていない。なぜならば、7回に再び王貞治がバッター・ボックスに入ってくるのを待ち構えていたからだ。
「三振を取ることが生《い》き甲《が》斐《い》なんだ」
江夏は誰《だれ》にでもそういったし、それを実行してしまっていた。逃げのピッチングなどせずに、それができた。
7回1死から王がバッター・ボックスに入った。4回には2死からバッター・ボックスに入り、カウント2―1後の4球目、外角へのカーブで空振りの三振をしている。それがタイ記録だった。王は今度こそ打たなければならない。
1球目、外角への直球、ストライク。2球目、真ん中に入っていくカーブ、王はバットを出し、ファウル。3球目、真ん中高めに速球。捨て球である。ボールカウント2―1。
そして4球目――江夏は変化球を投げることは考えていない。自分の持っている最も速いボールで勝負すると決めていた。コースは外角高めである。王はそれを見送った。「ストライク!」と、球審が告げる。甲子園球場は熱狂した。入団二年目のピッチャーが、あの王から三振を奪い、日本記録を達成したのだ。
王もまた、三振を恐れて自分のバッティングを放棄することはなかった。江夏も、テクニックに走らず〈力〉で押し切った。これはもう英雄たちの神話的世界の出来事としかいいようがない。
68年のシーズンを終えたとき、江夏は奪三振記録を401にまで伸ばしていた。当時のアメリカのメジャー・リーグにおけるシーズン奪三振記録はコーファックス投手の持っていた382である。それをも大幅に上回る記録だった。
しかも江夏は、シーズン最後の対中日三連戦の第1戦と第3戦に投げている。第1戦で先発し、12個の三振を奪って393まで記録を伸ばし、翌日休んだだけで第3戦にも登板。その日は8個の三振を奪って401とした。
おそらく記録を400個台に伸ばすための志願登板だろう。力の限界を、そこまで突き詰めるほどアグレッシブなピッチャーは、もう容易に現われてこないのではないか。
もう少し、グラウンドの中での出来事を書いてみよう。
江夏は、翌69年から体のあちこちに故障を抱えることになる。端的にいってしまえば、左腕をあまりに酷使したことの結果だった。シーズン開幕直後の4月、江夏は左肩に痛みを覚えて戦列を離れた。さらに7月の初め、左足の筋肉痛と続く。その年のシーズン・オフには、盲腸炎の手術。これは9月に痛みはじめたものを注射で散らし、なんとかごまかしていたものだ。70年になると心臓病も抱えてしまう。9月26日のことだった。対中日戦。タイガース、ドラゴンズともに1点を取ることができず、江夏は中日打線を延長12回まで1安打無得点に抑えていた。
13回、2死まで取ったところで吐き気を催し、江夏はマウンドに坐《すわ》り込んだ。立ち上がってその回を抑え切った。14回、木俣にホームランを打たれてベンチに戻ると、そこで倒れた。病院に担ぎ込まれ〈心室性期外収縮頻発による発作〉と診断された。過労、ストレスが集積した結果である。
体はそんな状態だったが、その年江夏は〈二十勝投手〉になった。
その頃《ころ》の誰《だれ》もが知っているシーンを挙げれば71年のオールスター戦だろう。江夏はオールスター戦の責任回数3イニングス九人の打者に対して9連続三振を記録してしまうのだ。7月17日の西宮球場。先発が江夏である。
パ・リーグの1番打者は有藤(ロッテ)、カウント2―2から外角のカーブを空振りして三振。2番・基(西鉄)、カウント2―2から内角速球を空振り三振。3番・長池(阪急)、カウント2―1から内角へ落ちるフォークを空振り三振。
次の回は4番・江藤(ロッテ)、カウント2―2から内角速球を空振り。続く5番・土井(近鉄)は2―0から内角の速球を空振り。6番・東田(西鉄)は2―2から内角へのカーブを見送り三振。
3回は7番・阪本(阪急)から始まり、カウント2―2から高めの速球を空振り。8番・岡村(阪急)は2―0から内角速球を空振り。ラストバッターとして江夏に相対したのは加藤(英、阪急)である。加藤はカウント1―1からの3球目に手を出し、一塁ダッグアウト前あたりに落ちると思われるファウルボールを打ち上げた。キャッチャーの田淵が、マスクを捨てて加藤の打球を追おうとした。
そのとき、江夏が叫んだ。
「捕るな!」
そのファウルボールを捕ってしまえば、オールスター9連続三振の記録は消えてしまう。江夏は2―1と追い込んだ加藤を三振に打ち取る自信があった。というより、ここで加藤を三振に取らなければ、一人目のバッターから三振の山を築き上げてきた意味がなくなってしまうと考えた。そして江夏は加藤を高めの速球で三振にうちとった。
無失点に抑えられればそれでいいとは考えない。完《かん》璧《ぺき》でなければならないと、彼は考えている。そのためには、エゴイスティックなまでに自己を押し出していかなければならない。
遠慮などしていれば、記録をつくるチャンスが逃げていく。これくらいでもいいやと妥協すれば、それ以上にはなれない。さらなる記録を追い求め、もっと完璧なピッチングをと思えば、人はおのずと攻撃的にならざるをえない。
意識を奮い立たせ、心に点火し、猛然と走れば、人を蹴《け》ちらすかもしれないが、自分は次のワンステップを踏み出すことができる。
先にも書いたように、プロ野球の世界は、絵に描いたような競争社会である。自分で自分を支えつづけていかなければ、おのずと淘《とう》汰《た》されてしまう。
同時に、〈チーム〉という組織は、勝つために自分で自分の心に火をつける、そういうタイプの人間を必要としている。チームの〈和〉を重んずることは大切なことではあるけれど、それだけで最終目標は達成できない。プロ野球の世界は、趣味の仲良しクラブではない。
組織の側から見れば、江夏のようなタイプの人間は、おそらくアウトサイダーとして位置づけられるのだろう。アウトサイダーは、どんな世界においても、その世界を活性化させる。これは間違いのないことだ。
江夏は、自分の可能性を限界にまで突き詰めていこうとする。それによってチームの枠を越えてしまうこともある。しかし、江夏がそうすることによって、チームはインスパイアーされ、動きはじめる。攻撃型の人間は、常に前衛に立ち、強い風当たりを凌《しの》ぎながら、それでも姿勢を変えることがない。
タイガース時代の江夏に初めてトレード話が持ち上がったのは、73年のシーズン・オフである。
その年、タイガースは惜しくも優勝を逃した。終盤戦、タイガースは首位を走っていた。追っていたのが巨人である。優勝の行方は、最終戦までわからなかった。タイガースが、あと1勝すれば優勝というところでつまずいたからだ。
優勝がかった130試合目は、甲子園での対巨人戦だった。そのゲームでタイガースは完《かん》膚《ぶ》なきまで叩《たた》きのめされる。スコアは0―9。試合終了直後、甲子園球場のファンがグラウンドになだれ込み、三塁側・巨人ベンチを襲った。
タイガースの監督は金田正泰である。かつてのタイガースのダイナマイト打線を支えていた人だ。シーズン終了後、その金田監督と江夏の関係がこじれた。原因はどこにあったのか。監督の、エース江夏の使い方に問題があったともいうし、江夏のわがままに問題があったのだともいう。いずれにせよ、それは紛争であった。
「あの監督の下では野球はやれん」と、江夏はいった。「トレードに出されるならユニフォームを脱ぐ」ともいった。
強いいい方である。江夏はそれを陰でいったわけではなかった。メモ帳を片手に、江夏のコメントを求めている記者たちの前でいった。同じことを球団の戸沢代表に対しても、記者たちに聞こえる場所でいった。
江夏は、いわゆる〈寝技〉が得意ではないらしい。思いきった監督批判を展開するならば、事前になにがしかの根回しをしておくのが、ごく普通の世間で見られる方法だ。公言してしまうことの反響は大きい。全面的な対立になってしまうだろう。だからこそ、事前に多数派工作をしておくのが、この国では〈知恵〉だといわれている。少なくとも何人かの選手を味方につけ、あらかじめフロント・スタッフの人間をもこちらサイドに巻き込んで、ある日、一気に監督批判の砲列を揃《そろ》える。クーデターは、たいていそういう方法で行われる。
ところが、江夏の監督批判は違った。
誰かを味方につけたとも、思えなかった。事前工作があったとも思われない。むしろ、一人、果敢に突き進んで行くのだ。そして江夏は、容易にあとへは引かない。多分、守りのことは考えていないのだ。
その押しの強さに、騒ぎは徐々に大きくなっていく。一方の当事者が江夏で、他方の当事者が監督であり球団だった。スポーツ新聞は毎日のように江夏を一方の主人公として書いた。対立は続き、江夏は批判されもした。
「自分がいいすぎた分はあやまる」のちに江夏はそういって、一歩あとへ引くのだが、考えてみれば、江夏は攻めて攻めて攻めまくって、一歩引いただけである。江夏はわがままな奴《やつ》だ、ワンマンだといわれながら、彼は自分のいいたいことを、きっちりといい切った。
立場は鮮明だった。妥協を強いられたわけではなかった。そしてまた、阪神タイガースのエースとしての立場を失ったわけでもなかった。
73年シーズン・オフのトラブルは結局のところ、何も生み出すことなく幕が引かれた。金田監督は留任し、江夏は相変わらずタイガースのエースだった。そして江夏は、動かしがたい発言力を持つ存在になってしまった。ひとたび事が起これば、球団もジャーナリズムも江夏の考えを聞かざるをえない。なにしろ江夏は、タイガースというチームの中で、一方の主人公としての地位を認めさせてしまったのだから。
ここで教訓を残しておけば――攻めるときは中途半端に攻めるべきではない。小さな反乱は、揉《も》み潰《つぶ》される。大きな反乱は、顧慮される。そういうことだ。
やがて、江夏はタイガースを離れた。二年後の75年のシーズンが終わった直後だ。
球団は極秘裡にトレード話を進めた。密かに話を進めていたのは当時、南海のプレーイング・マネジャーだった野村克也(現・評論家)と阪神の吉田監督である。移籍先が野村のいる南海でなければ、江夏のトレード話はさらに紛糾していたかもしれない。
野村は江夏に会うなり、野球の話をしたという。江夏のピッチングをどう見ているのか、自分のやってきた野球がいかなるものであったか、そして野球自体の面白さがどこにあるのか……トレードの話ではなく、野球のさまざまなる面白さを語り合ううちに、江夏は南海でプレーしてみようという気になった。
その南海というチームで、江夏はリリーフという仕事の面白さを発見する。
ピッチャーは先発して完投しなければ……と思い込んでいた江夏を、リリーフに転向させたのは野村である。
江夏は、簡単に首を縦に振ったわけではない。野村は事あるごとに、これからは野球の質が変わっていくんだと江夏に向かって説いた。
「バッターの練習方法は、年々改良されている。バッターは毎日のように、バッティング投手の球を打ち、マシーンで打つ。ありとあらゆる球種に備えてレベルを上げている。ピッチャーはどうか。ピッチャーの鍛え方に王道はない。このままいけば打高投低の傾向はますます強まるんだ。どうしたらいいか。先発投手は完投を考えるのではなく、終盤でいかにリリーフ投手にバトンタッチするかがポイントになるんだ」
江夏にも、そのことはよくわかる。しかし、自分が先発からリリーフに回ることが耐えられなかった。前の投手に荒らされたマウンドに上がるなんて、彼にしてみれば屈辱以外のなにものでもない。
そこで、野村はこういった。
「リリーフエースは野球を変えるんや。これは〓“革命〓” だよ」
「革命ですか?」
革命というその言葉を使ったとき、初めて江夏の表情が変わったと、野村にそのときの話を聞いたことがある。
それもまた、江夏らしい。
リリーフエースの座を築き上げることが野球にとって革命的であるならば、身を粉にしてでもやってみる価値がある。江夏はそう考えたわけである。
セーブポイントという記録が公式記録として採用されたのは74年のシーズンからである。当初はさほど注目されたわけではない。江夏が南海でプレーするようになった76年の記録は6勝12敗9セーブである。
江夏は肘《ひじ》を悪化させていた。長年にわたる左腕の酷使がたたったのだ。血行障害を起こし、肘をだましだまし投げるという状態だった。投げすぎると左手の握力が極端に低下してしまう。右手の握力が48―50、それに対して左手は24―25に低下することもあった。ボールを握り切れない。それもまた投球数の少ないリリーフに専念するきっかけになった。
翌77年。江夏は4勝2敗19セーブという記録を残した。19セーブはその時点でのパ・リーグ新記録だった。
そのシーズン・オフ、再び江夏は紛争の中に身を置いた。南海が野村監督の解任を発表。それならばと、江夏はいった。俺《おれ》も南海にいるわけにはいかない、と。ボロボロになった左腕に、もう一つの道を教えてくれたのが野村なのだ。その野村が解任されたと聞いて、南海と契約を更改するわけにはいかない。その江夏の主張は強硬だった。そこでまた江夏は、不退転の行動に出るわけである。
他の選手が同じことをいったらどうだろう。プロ野球協約では、選手が辞めるといったからといって、他のチームがその選手と交渉することはできないことになっている。南海は江夏に対して強硬に、ウチと契約するか、さもなければユニフォームを脱ぐかと、二者択一を迫ることができる。82年のシーズン・オフにロッテの村田投手が巻き込まれたようにである。
戦旗を揚げたら容易に引かないと思われている人間は、そこで相手にプレッシャーをかけることができる。くみしやすしと思われる人間は、押し切られてしまう。契約という場においてもプロ野球選手は、戦いを強いられている。攻めておかなければ、逆に攻め込まれる。そういう社会である。
それゆえ、江夏は攻撃的に出て行く。南海が自分のトレードを拒否するならばユニフォームを脱ぐ。江夏豊という投手が球界を去らざるをえないことに関して、ファンに向かって釈明できますか――江夏は、ギリギリの選択を逆に球団に対して迫った。実績を挙げ、力を持ち、プライドを心に育みながらアグレッシブに球界を生き抜いた男だからこそ、そういえる。そして江夏は、広島カープへと移籍していくのだ。
79年秋の日本シリーズ。第7戦の最終回、ノーアウト、フルベースというピンチでカープのマウンドを守っていた江夏は、そういうキャリアを持っていた。
若い広島のピッチャーがブルペンに走った。江夏は「何しとるんかい!」と思い、心の中で火がつくのを感じる。
彼はプライドを守るために、近鉄打線に立ち向かう。打たれるならばきれいサッパリと打たれ、散ればいい。中途半端なピッチングはしたくない。
江夏は数分後、紙吹雪《ふぶき》の中で胴上げされていた。ピッチャーズマウンドは、おびただしいほどのエネルギー放射を要求する場所なのである。
それから3年後、ぼくはまた別のシーンを見ることになった。
後楽園球場だった。陽が暮れようとしていた。空から青さが消えると茜《あかね》色に染まることもなく、都会の空は鈍い輝きのグレーに変わっていく。色とりどりの紙吹雪が、かろうじて残っている西陽に照らされ、あのときは三塁側のダグアウトの上で舞っていた。82年の10月。パ・リーグはプレイオフの末、広岡監督の率いる西武ライオンズが日ハムに勝ち、ペナントを手にした。江夏は一塁側、日ハムのベンチに腰をおろし、身じろぎもせずに、三塁側の熱狂をじっと見つめていた。
その年のプレイオフは、日ハムがというより、江夏が敗れた。西武の広岡監督は江夏がマウンドに上がると、執《しつ》拗《よう》にバントのサインを出しつづけた。江夏は何度もマウンドをかけ降りなければならなかった。それはボクシングのボディ・ブロウに似ていた。
かつて、西本監督のスクイズ・バントに勝った江夏が広岡監督のバント攻撃に敗れたわけだった。
スポーツに限らないが、どんな人間でも敗れ去るときは寂しいものだ。
幕は必ず、降りてくる。
ただ、ぼくは江夏豊というピッチャーが、そう簡単にマウンドを降りないだろうことを知っている。根拠があるわけではない。十数年のプロ野球生活の、数々のシーンを思い出してみたり、西武に敗れたときの江夏の顔を思い出したりすると、そう思えてくるのだ。ぼくが江夏に関して知りえたことは、多分、そういうことだと思う。
「天才」――長嶋茂雄
1980年の秋、かつて天才といわれたプレイヤーが危機に瀕《ひん》していた。
その人の名前は〈長嶋茂雄〉といった。
〈神話〉が崩れつつあった。
しかし、崩れ去らない〈神話〉など、ありうるだろうか。いかなるヒーローも、ヒーローであった瞬間を凍りつかせたまま生きながらえることなど、できはしない。彼もまた、例外ではない。彼が自らの力でヒーローになりうる場を離れてほぼ六年が経過していた。
六年――。
十分な時間だ。
十五歳の女の子は二十一になっている。少女は、とりあえず何でも知っている顔をする年齢になっている。学生はサラリーマンになって、スーツが身についている。六年あれば――歌手は三回ほどイメージ・チェンジをするだろうし、作家は文体を変えられる。
長嶋茂雄。あの日から数えると今年(80年)の4月5日、つまり開幕戦の日がちょうど二千日目に当たっていたことに本人は気がついていないだろう。
あの日、というのは昭和49年10月14日のことだ。
「……私はきょう、ここに引退しますが、わが巨人軍は永久に不滅です!……」
それは間違いなくヒーローの宣言だった。
それから二千日後、彼の率いるチームは、結果的にいえば1980年のシーズンを象徴するような形で敗北した。開幕戦、横浜球場のマウンドには江川がのぼり、3―4、1点差のスコアで大洋に負けたわけだった。以来、1点差には悩まされ続けた。前半戦の1点差ゲームの勝敗は8勝19敗、勝率は2割9分6厘でしかない。彼の率いるチームは、当然のように、五位に低迷していた。
長嶋の談話には、すでに力がない。
「タイムリーが出ない。勝たなければいけない試合だったのに……」――6月21日、再び大洋に3―4で負けた時はそういった。
7月12日、ヤクルトに1―2で負けた時はこうだった――「アー……そうねー、ウーン……」
彼はもう、すっかりと苦悩の人になってしまっている。
かつて彼は「燃える男」と呼ばれていた。こんなにストレートな形容詞をつけられる人間は、そう何人もいるものではない。その時代の長嶋茂雄を〈長嶋A〉とするなら、今の長嶋は〈長嶋B〉になってしまったのだろうか、それとも〈A〉の変形である〈長嶋 A'〉なのか。
〈長嶋A〉とは、例えばこういうことだ。
現役時代の長嶋のシチュエーション別バッティング・アベレージを見てみるべきだろう(*表1参照)。ランナー二、三塁。背番号3がバッター・ボックスに入る。そこで打てば、同点か逆転か、相手を突き放す一打になるはずだ。打てばヒーローになれるシーンで、ヒーローは打った。ランナー二塁以上の場合は3割1分4厘だが、ランナー二、三塁という場合に限っていえば長嶋のアベレージは3割8分となっている。これを例えば無走者の時のアベレージと比べてみるといい。十七年間の現役生活の、無走者の時の成績は2割9分4厘。ほぼ1割といえばおおげさだろうけど、二、三塁の時とは、それに近い落差がある。それが〈長嶋A〉である。彼は、リードされているジャイアンツの試合を見ているファンにとっては、サーモスタットだった。彼がバッター・ボックスに入ると、オーバーヒートしかかっているファンに、電子回路つきビーバー・エアコンなみの涼風を送り、それによって、何十パーセントかの日本人は大いにハッピイになってしまうのだった。
昭和35年――。
それは〈長嶋A〉がただならぬプレイヤーであることを世間が認知した年といえるかもしれない。
彼がジャイアンツに入団したのはその二年前、昭和33年だった。もちろん、入団の時から、彼はすでにただならぬプレイヤーだった。昭和33年1月1日、つまり、ジャイアンツと契約を交わした直後の元旦の報知新聞の第一面をにぎにぎしく飾ったのは長嶋であり、プロ公式戦初試合で4月5日に金田投手(当時、国鉄スワローズ)と対戦し、4打席4三振に倒れたあと「ごらんのとおりのありさまですよ」とケロリとしたコメントを残したのが長嶋だった。その年、打率3割5厘、ホームラン29本、打点92の成績を残し、彼はホームラン王、打点王の二冠を獲得し、当然、新人王にも選ばれた。
翌34年には首位打者のタイトルもものにしている。その年には、長嶋が長嶋であることを強く印象づけるゲームがある。6月25日の対阪神戦、それは天覧試合だった。試合は3回表、阪神の先取点で動き始めた。5回裏、ジャイアンツは長嶋、坂崎の連続ソロ・ホームランで2―1と逆転。6回表、阪神は吉田、三宅のヒット、藤本のホームランで4―2と逆転。7回裏、今度は王が2ラン・ホーマーを放ち同点。シーソー・ゲームである。同点のまま最終回までもつれこみ、9回裏、ジャイアンツの先頭バッターは長嶋。マウンドには村山がいる。長嶋が打ったのは、カウント2―2からの5球目だった。内角の直球。長嶋の打球はレフト上段に飛びこんだ。
スペシャル・イベントに強い――それが、〈長嶋A〉の特徴だった。
昭和34年6月25日の天覧試合以後、46年10月16日の対阪急日本シリーズまで、長嶋が出場した皇室観戦試合は計10試合ある。この10試合のバッティング・アベレージは35打数18安打で5割1分4厘。ホームランは7本を数える。
各年度のオープニング・ゲームのデータもここに示しておこう。プロ・ベースボール・プレイヤーにとっての〈ハレ〉の日であるオープニング・ゲームを長嶋は十七回迎えている。その一回目が金田投手と対戦し4打席4三振であったわけだが、しかし、それもまたデビュー・ゲームの記録としては十分にユニークなものだった。これほど派手な打ちとられ方でデビューした新人はいない。昭和49年まで17試合を数えたオープニング・ゲームの成績を見ると、56打数17安打、打率は3割4厘と決して高くはないが、ホームランは10本を数えている。1・7試合に1本の割合でホームランを打っていることになる。
また、日本シリーズ、オールスター戦というスペシャル・イベントでの長嶋の成績に着目してもいいだろう(*表3参照)。日本シリーズの場合、68試合に出場し、打率3割4分3厘、ホームラン25本、打点66。このペースで公式戦を闘えば、間違いなく三冠王を獲得できてしまう。
そういう男が〈長嶋〉であった。彼は、この日ばかりはと、テレビの前に坐《すわ》りこむファンにとっては、テレビドラマの主人公以上の存在だった。テレビドラマの主人公のように愚かしいことに巻き込まれず、妙な台詞《せりふ》を吐いたりもせず、不必要な笑顔を浮かべる必要もなかった。ただバッター・ボックスに入り、そして打てばよかった。それだけで、何十パーセントかの日本人は大いにハッピイになってしまうのだった。
さて、話は昭和35年のことだ。この年の長嶋は、いくつかのユニークなプレイを見せた。
妙なところは、かねてからあったのだ。
ホームランを打ちながら、一塁ベースを踏みそこねたためにピッチャーゴロになってしまったというケースがその一つである(昭和33年9月19日)。その日、長嶋は2打数2安打で三度目の打席に入り、広島・鵜狩投手の球を左中間スタンドへ持っていった。グラウンドを回り、ベンチで祝福されているとき、次のボールがアンパイアから投手にわたり、さらに一塁へ転送されて、アウト。一塁の竹元塁審は長嶋はベースから10〓も離れたところを踏んでいったといった。ゲーム再開後のボールが投手から一塁手にわたったから、記録上はピッチャーゴロになってしまった。プロ野球史上初の記録だった。
昭和35年は開幕戦でファンの度《ど》肝《ぎも》を抜いた。オープニング・ゲームの対戦相手は国鉄スワローズである。先発の金田は1回でKOされ早々とマウンドを降りた。2番手投手の村田に対して長嶋は5回の裏、バッター・ボックスに入る。ツーアウト、ランナーは一塁。カウントは2―1。村田の4球目は内角高目の、だれが見てもボールとわかる球である。キャッチャーの平岩は、完全に立ちあがり、顔の高さにミットを構え、それを捕ろうとした。
長嶋はそれを打ったのだった。ボールは肩よりもはるかに高く、長嶋の目の直前を通過するはずだった。それを体をのばすようにして、長嶋は強引にバットをたたきつけた。打球は後楽園球場のレフト中段に向かって飛んでいった。
同じ年の7月16日には、敬遠のボールを強引に打ち、ツーベースにしてしまった。
7月17日には大洋の鈴木隆―土井のバッテリーが妙な作戦に出た。5回、ツーアウト二塁で、長嶋はバッター・ボックスに入った。1球目は内角のストライク。2球目、土井捕手が突然立ちあがって、とてつもない高いボール。3球目は逆に立ちあがっていた土井が急に坐り、内角ヘストライク。その次の4球目高目の、これも明らかにボールとわかる球をレフトへ打ち返した。レフトはあわてて打球を追おうとして転倒。頭を打って動けなくなったところを、長嶋はホームまで駈《か》けこんだ。ランニング・ホームランである。
35年6月25日には、また別のユニークな記録を作っている。広島球場の巨人―広島戦である。4回裏、先頭打者・長嶋はヒットを打ち、一塁へ。次のバッターは国松である。ベンチからサインが出た。ヒット&ラン。長嶋は投球と同時にスタート。一目散に走った。国松の打球はレフトへ。広島のレフトは打球を捕ろうとしている。長嶋は一塁へ引き返さなければならない。そこまでは、いいのだ。
すでにセカンド・ベースを回っていた長嶋は、何を思ったか、いや恐らく何も思わなかったに違いない。走塁をストップした地点から真っすぐに一塁ベースに向かって走り出した。二点間の最短距離は直線である。それは真理だが、ルールは真理の前に堂々と立ちはだかることができる。ルールによれば――、ランナーは二塁ベースを踏んだうえで一塁へ戻らなければならない。
ボールは二塁へ送られ、アウト。長嶋は一塁ベース上で頭を抱えた。
しかし、それから四年たった昭和39年5月21日の対中日戦でも同じことをくり返している。フォアボールで出塁したあと、王のレフトフライで二塁ベースをまわり、捕球されると見るや、一直線に一塁へ向かった。
さらに、である。
昭和43年5月16日、後楽園球場での対大洋戦。フォアボールで出塁したあと、森のセンターフライで好スタートをきりすぎた。例によって二塁をまわり、センターに捕られるとみるや、そのまま二塁ベースに目もくれず一塁へ駈けこんだ。
俗にいう〓三角ベース〓” である。それを三回、彼は記録している。さらにシーンを並べよう。昭和35年の8月21日、後楽園球場での対国鉄戦である。1―1のスコアで迎えた5回表、長嶋は藤尾に続いてセンター前にヒット。ワンアウト一、二塁である。続く王が大きなレフトフライをあげた。あわやホームランという当たりである。長嶋は、多分、2死と勘違いしたのだろう。素晴らしい勢いで走り続け、フライがとられてあわてて戻ってきた藤尾を追い抜いてしまった。アウト。
ミスであり、チョンボである。それでも彼は、申し分なく親しまれた。チョンボは彼が超人でも神でもなく、ただの人間であることの証左になり、ファンはそれを許したわけだ。
昭和34年9月20日には、こんなミスもある。
対阪神戦である。長嶋はヒットを打って一塁にいる。次打者は国松。ヒット&ランのサインが出された。国松の打球は詰まり、センター前の小飛球になった。
長嶋は、コレハマズイ! と二塁ベース手前でストップ。打球が捕られると思って一塁へ猛然と引き返した。打球は、しかし、センター前に、ポテンと落ちてしまった。ボールはすかさず二塁に送られ、長嶋は封殺。打った国松は、長嶋があまりの勢いで一塁へ戻ってくるので、てっきり捕られたと思い、ベンチへ引き返してしまった。ボールは一塁へも転送され、これでダブルプレイ。
まだ、ある。
昭和36年9月21日の対中日戦。ピッチャーは板東である。ワンアウト一塁で長嶋は登場し、板東の6球目を空振りの三振。その球をキャッチャーが後逸したと見るや、長嶋は一塁へ向かってスタートを切った。懸命に一塁に駈《か》けこんだが、それは必要のないことだった。ノーアウト、あるいはワンアウトで、ランナー一塁の場合、バッターが三振すると同時に、ボールデッドになるというのがルールだ。このシチュエーションでは振り逃げはないことになる。にもかかわらず、彼は走ったのだった。
勘違いの例を、もう一つだけあげておこう。昭和34年8月13日の対国鉄戦。長嶋はカウント2―3でバットを投げ出し、一塁へ向かって走ってしまった。カウント2―2からファウル2本を打って粘り、次の投球がボールと判定されるや、フォアボールと思い込んでしまったわけだった。主審に注意され、苦笑いしながらバッター・ボックスに入り直し、次の球を空振り三振――。
数々のチョンボがあり、そして同時に彼はエンタテイナーであった。〈長嶋A〉は、そういう人間であったわけだった。長嶋のドジを見て、本気になって怒り出す人間は少なくむしろ逆に何十パーセントかの日本人は思わず微笑を浮かべてしまうのだった。〈長嶋A〉――そういう意味でも、彼は申し分なかった。完《かん》璧《べき》だった。
同じ人間が背番号90をつけるようになると〈長嶋A〉から〈長嶋 A'〉もしくは〈長嶋B〉になった。
彼はすでに完璧ではない。
あまりにも多くの負け試合を見すぎてしまったジャイアンツ・ファンは不寛容になりつつある。
存外マジメなジャイアンツ・ファンたちは、〈笑ってごまかせ自分の失敗、スルドクとがめろ他人の失敗〉的な乾いた批判を向けるのではなく、ごくごくまじめに長嶋采《さい》配《はい》の非をつく。
そして、「もう、あの長嶋はいないのだ」と、落胆する。現役時代の、あのという連体詞を口にするだけで全てが了解できてしまう、そういう時代の長嶋はもういないのだ、と。そこにいるのは〈長嶋B〉だというのだ。
「あの采配はなんだ,バントばかりじゃないか、ピッチャーはしょっちゅう代えればいいってもんじゃないのだ。長嶋はそんなセコイ男ではなかったはずだ」
ともいう。
データは示している。
たしかに長嶋野球は投手の交代が早く(*表5参照)、また、バントが異様に多い。さらにいえば代打も多い(*表4参照)。
ジャイアンツの先発投手とカープの先発投手が何点失った何イニングに交代させられたかを図示してみると、それがわかる。ジャイアンツは6回まで2失点で切り抜けてきた投手が80年のシーズン前半戦で延べ二十二人いる。カープは八人である。
さらにジャイアンツには7回まで無失点で投げてきたにもかかわらず交代させられた投手が二人いる。一人は4月26日の対カープ戦に登板した藤城である。藤城は6回まで1安打に広島打線をおさえてきていた。スコアは4―0である。圧倒的に有利なのはジャイアンツのほうだ。7回に藤城は水谷にセンター前テキサスヒットを打たれた。続く三村をレフトフライにうちとり、デュプリーには四球、萩原を三振にとったところで、突然、交代させられた。もう一人は定岡である。6月14日の対ホエールズ戦。5回まで1安打ピッチング。6回、2安打を浴びたが切り抜け、続く7回に田代を歩かせると、定岡はマウンドを降りるように指示された。
いずれの試合も、ジャイアンツは勝っている。勝っているから、それ以上の非難はないが、もし、このスイッチで失敗したら、長嶋はさらに批判の矢《や》面《おもて》に立たされたに違いない。なぜ、あのまま続投させなかったのかと、世間はきまっていうのだ。
長嶋采配のバント(スクイズを含む)を見てみよう。たしかに数は多い。カープと比べれば、圧倒的に多い(*表6参照)。しかも、初回からのバントが多い。シチュエーションでいえば、無死一塁のケースが極めて多く、次いで無死二塁、1死一塁が多い。長嶋はともかくランナーをスコアリング・ポジションに送ろうとする。1死一塁でランナーを送れば、アウトカウントは二つになる。チャンスはあと一つしかない。それでも彼はバントを命ずる。
それはなぜか。単に消極的になっているからというだけではないだろう。
ここで長嶋の現役時代のデータを一つ思い起こしてみたい。最初に示したとおり、彼はランナーがいると無類の強みを発揮するバッターであった。そこで打てば、日本人の何十パーセントの人間たちだけが大いにハッピイになったわけではなく、だれよりもヨイキモチになっていたのは彼自身だった。だから彼は打とうとする。そして、打った。それが恐らく長嶋茂雄という人間にとっての〈野球〉というものなのだ。彼の意識裡には、ランナーがスコアリング・ポジションにいれば点が入るんだという、哀しい幻想がある。その幻想の持ち主がダグアウトで采《さい》配《はい》を振るっているのであるとすれば、そこにいるのは〈長嶋A〉とヘソの緒をつながらせた〈長嶋 A'〉であるはずだ。
人はいう。なぜ、かくも代打を投入するのかと。淡口の場合など、あんまりじゃないかと。なにしろ、左投手が出てくれば、即、代えられてしまうのだから――。長嶋サンはそんなに非《ひ》道《ど》い人なのかと思う人間が出てきたって、おかしくはない。
しかし、もう一度、〈長嶋A〉を思い出してみたい。彼はじつに、せっかちな男だった。彼は現役生活で8094の打数を数えている。そのうちの1137打数は初球から打っている(表2参照)。初球から2―3のフルカウントまで12のカウント・シチュエーションがあるが、その中で最も多いのが初球打ちである。待つことをしなかった。それが〈長嶋A〉なのである。
愛すべき〈長嶋〉は、相も変わらずそこにいて、90番のユニフォームを着ている。いつ、だれを代えようかと、こっけいなくらい必死になって考えながら、そこにいる。
〈神話〉は崩れても、彼は相変わらず彼のままなのである。
それをぼくは〓“偉大〓” と呼んでみても、差しつかえないと思っている。
熱球投手――金田正一
昔むかし、力いっぱい野球をやった人がいました――という感じでこの話は始めるべきだろう。最近、〈力いっぱい〉の思想はすっかりすたれてしまっているようだから。
さて、いきなり、時計の針を昔に戻す。
それは昭和25年の夏に始まった。
金田正一は愛知県の享栄商業のエースだった。夏の甲子園大会に向けての地区予選が行われている。シーンは、そういうことだ。
――無死で、ランナーは二、三塁にいた。ピンチである。高校生の金田クンはマウンドの上だ。敵はスクイズをやってくるだろうと、思われた。そのスクイズを外すことができれば、この絶体絶命のピンチを脱することができる。
金田はモーションを起こす。ランナーがスタートする。バッターがバットを横に構える。金田は豪速球を投げた……。
そして――。
金田は、みごとにスクイズを外した。
バッターは、金田の速球にバットを出したが、当てることができなかった。速さにつられて空振りだ。信じがたいほど速い球だった。キャッチャーもまた、捕ることができなかった。とてつもなく速く、そしてストライク・ゾーンを全く無視した投球だったからである。
金田正一の野球人生は熱球で始まった。
金田正一がプロ入りしたのは昭和25年8月。プロ野球が2リーグ制になって初めての年の、シーズン途中に国鉄スワローズにスカウトされた。名古屋の享栄商業のエースだったが、夏の高校野球が終わってしまえば、もはや学校に行く必要もない。迷うことなく彼はプロ入りした。
初登板は昭和25年8月23日、松山市営球場で行われた対広島戦である。その試合に投げる前のことだ。
カネやんがいう。
「とにかく初めての旅行や。道《どう》後《ご》温泉へ行ってホテルに泊まった。三人部屋で、同じ部屋になったのは成田、福田いう選手。先輩やね。ビールの配給があった。そのころ、ビールは貴重だったんです。で、その二人が俺《おれ》のビールまで飲もうとした。新人やったけどね。ワシいうた。
〓“じゃかましい! 何するんじゃ。何で俺のビール飲むんか!〓”まだ十七歳だったけど、プロに入れば年齢も、先輩、後輩もない。みな同じや。ワシはそう思っとった。そしてビールを飲んだあとは、道後温泉やから……この話は、まァ、野球とは関係ないか、ハハハ」
初登板の前夜に、もう一つの登板があったわけでありますね。熱投一番!
ところで、初登板である。
25年8月23日。何の予告もなしに5回裏、金田正一は登板を命ぜられた。スコアは4―5と1点差で負けていた。初めて対戦した打者は樋笠一夫(のちに巨人)。その樋笠を、金田は三振にうちとった。プロ入りして初登板、初打者を三振にうちとった投手は少ない。主な投手の中ではわずかに戦前、スタルヒン(巨人)が記録しているくらいである。
「この日は、最後まで投げた。投げ始めてすぐ、6回表に国鉄が同点に追いつくんや。5―5になる。初登板、初勝利もありうる」
ところが、である。
「9回裏に、当時広島のキャッチャーをしていた坂田(清春、のちに阪急)いう、チビのバッターに打たれた。わし、高校時代から小さいのきらいやった。投げにくい。その坂田いう選手にセンター前にもっていかれた。カウント2―1。ちょこんとバットを出されて、それがサヨナラヒットや。打たれたのはカーブやね。あのころのわしはカーブの投げ方にクセがあった。フォームが三段クッションぐらいある異常な投げ方をしておった。それで配球を読まれたのかもしれない」
スコアブックをひもとくと4イニングスを投げて1失点。奪三振は6。打たれた安打はこのサヨナラの一本だけ。初黒星の敗戦投手。しかし、本人は気にしなかった。その場に新聞記者がいたら、金田はこういうコメントを残しただろう。
「打たれたことは全く気にしなかった。高校野球と違って、今日負けてもまた明日がある」
初期のエピソードを、もう一つ――。
昭和26年のことである。金田正一は国鉄スワローズのマウンドを守って、入団二年目である。年齢はまだ十八歳。その日の対戦相手は阪神タイガースである。阪神には藤村富美男という選手がいる。〈ミスター・タイガース〉というキャッチ・フレーズを最初にたてまつられた名選手である。戦前から活躍していた、この大ベテランは、戦後になっても力おとろえることなく〈物干し竿《ざお》〉と呼ばれた39インチの長いバットを振りまわし、プロ野球が2リーグに分裂して最初の年である25年には3割6分2厘の打率を残して首位打者のタイトルを獲得している。
その藤村富美男と金田正一が対戦した。くり返しいえば、金田は二年目のひよっこである。藤村はスター選手だ。
金田の球は速かった。長身、ムチのようにしなる体には若さがみなぎっている。スピードには自信がある。さらにカーブがある。「わしのカーブいうたら地面ぎりぎりまで曲がっていくカーブやで」――金田はそういう。
藤村はその金田の低目のカーブを打った。39インチのバット、それでなくとも変化球は打ちにくい。にもかかわらず藤村は打った。さすがに〈ミスター・タイガース〉である――と、それだけのことであれば、二人の当事者はこのヒットのことを鮮明におぼえてはいないだろう。
藤村にヒットを許したものの金田は後続を断ち切った。金田はマウンドを降り一塁側のダグアウトに向かう。藤村は三塁側ダグアウトに戻ろうとする。金田が小高いマウンドを降りきったあたりで二人が交錯した。
そのとき金田は藤村にこういった――「すごいな。あんた、よくあのカーブを打ちよったなァ」
金田にしてみれば他意はなかった。打たれるはずがないと思っていたカーブを打たれて驚嘆したわけだった。それを素直に口に出した。
藤村は、しかしそこでカチンときた。ポッと出の新人投手が〈ミスター・タイガース〉に向かって「よく打ちよった」とは何だ! と腹を立てたのだ。「バカヤロ! 当たり前だ。おれを誰だと思ってるんだ!」
翌日の新聞には新人投手とベテランバッターのグラウンドでの口《くち》喧《げん》嘩《か》のことが書かれている。
金田の話を聞いてみよう。
「あのときは、監督が藤村さんを歩かせろというたんや。俺《おれ》はイヤだといった。小さいころからオヤジによういわれたんです。歩かせるとか敬遠するいうのは卑《ひ》怯《きよう》や、そんな野球はするな、と。だから監督に敬遠はイヤだというた。そしたらカチーンと打たれた。センター前やったな、あれは」
藤村の話はこうだ――「あれはね、インコースの速球ですよ、カーブじゃなかった。それを三遊間へもっていった。痛烈なヒットやね。そしたら、よう打ちましたねという。肝《きも》っ玉《たま》のでかいやつが入ってきたなと思いましたね」
二人のあいだで、記憶はくい違っている。そりゃそうだろう。もう三十年以上も昔のことなのだ。しかし、この二人のあいだで共通している認識もある。
藤村がいう――「面白かったし、いい時代やった。金田はコントロールはめちゃくちゃ。速いばっかりの投手やった。あんまり速いから捕手がようポロポロやっとった。三塁コーチャーズ・ボックスから私が金田を野次ったことがある。〓“捕手もよう捕らんボールを投げるな!〓”と。
金田はこういい返したね――〓“そのとおりや〓”」
青田昇(巨人―大洋、現・評論家)の話を聞いたことがある。
「とにかく、カネの球を打ったという記憶があまりないんや。昭和33年やったかな、カネが開幕から9連勝していた。それが最下位の大洋戦でストップされた。その試合でワシが2ラン・ホーマーと決勝打を打った。その決勝打はカーブの当たりそこないで、偶然、打球が一塁キャンバスの横を抜けた。カネの怒ったこと、怒ったこと。試合が終わって新聞記者に水ぶっかけたというのを記憶しとるわ」
ちなみにこの年は長嶋がデビューした年。そして青田は翌年、長嶋の打球が自分の頭上を抜けるのをみて引退している。青田の話をもう少し聞こう。
「それと、いつやったか、2死満塁でワシがショートフライを打ちあげた。カネはこれでオワリとマウンドから降りかけた。そしたらショートが落としてなあ、満塁一掃になってしもた。
もう一つ、ある。金沢での試合やね。2対1のスコアでウチが負けていた。9回、2死でランナー一塁。ワシがセカンドゴロを打った。カネはベンチへ帰る。そこで二塁手の箱田がみごとにトンネル。結局、同点になった。
しかし、カネのカーブが決まり始めてからは打てんかった。バッター・ボックスからよういったよ。〓“おい、もっとましなボール投げられんのか!〓”〓“ちゃんとコース狙《ねら》って投げんと危ないやないか!〓”そういって攪《かく》乱《らん》しようとした」
青田昇の話から、二つのことがわかる。一つは、昭和25年に十七歳でプロ入りした金田が、二十代に入ると手がつけられないほどの力を持つピッチャーになっていたことであり、もう一つは、その金田がマウンドを守っていた国鉄スワローズというチームが、じつにエラーの多い球団だったということである。
もっとも金田にもエラーがある。例えば、サヨナラ暴投だ。昭和27年8月9日の巨人戦、4―4のスコアで延長13回裏を迎えた。巨人の攻撃は1死、ランナー一、三塁。ピンチヒッターに藤本英雄が出てきた。国鉄ベンチは金田に敬遠を指示した。金田は敬遠の一球目を投げた。それが大暴投になってしまった。三塁からランナーが帰ってゲームセット。
金田がいう――「中途半端できへんのやね。外すなんてできないわけだな。ど真ん中に思いきり放れば高目にいくのに、ベンチが最初から外せという。わし怒ったね、あのときは。何で外さんといかんのか!? わし、力いっぱいに外した。そしたら力いっぱいに飛んでいってしもうた」
ところで、以下の話は、熱球投手、金田正一が迎えた〈ピンチ〉に関するものだ。
「ピンチがあった。ワシにも幾度もピンチがあった。2死満塁、カウント2―3。これ以上、一歩もひけないという場面があったんや」――金田はそう語る。そして、そのあとはじつにカネやんらしい話になる。例えばこうだ。
「そのたんびに、ワシは力いっぱい投げこんだ。力いっぱいやで」
なるほど。
「ピンチを迎えて、カウントが2―3になる。そこでワシはストライクを投げようと考えたことはない。ストライクを投げようと思うより先に、力いっぱいドマン中に向かって投げた。人生、そうでなければあかん。どんなピンチでも逃げたらいかん。真正面から立ち向かっていかな、男のコやないで」
かくして野球はおのずと人生論を生み出していくのだが……。
「あれは昭和35年のシーズンやった」
金田がいう。
「コンディションは最低だった。9月に入って、もうすぐシーズンも終わってしまうというのに、まだ20勝できとらんのや。ワシ、早いときは6月中に20勝をあげたことあるんやから。どれだけ調子が悪かったか、わかると思う」
6月中に20勝をあげたというのは、昭和33年のことだ。開幕戦は巨人が相手で注目の新人、長嶋茂雄がデビューする試合でもあった。その長嶋を相手に4打席4三振にうちとったというエピソードはあまりにも有名だ。その試合、延長11回まで投げ切って勝利投手になったあと、金田はトントン拍子に勝ち進んだ。4月に10勝(!)5月に6勝、そして6月は13日の時点で4勝をあげ、これではやくも20勝である。そのシーズンの通算成績は31勝14敗だった。
「20勝なんて、へでもない」――と、彼は考えていた。20勝ラインまでいくと、ペースを落とした。それでも30勝近くまで記録が伸びることが幾度もあった。
昭和26年から始まった連続20勝の記録は昭和35年で10年目を迎えていた。その年、20勝をあげれば〈10年連続20勝〉ということになる。一区切りである。
が、そこでこの熱球投手はつまずきかけるのだ。
「いろいろあったんや」
そうだろう。
「過労やね。その年の前のシーズン・オフには自動車事故もやった。水原茂さんのゴルフの会があって、ワシはクルマを運転して湯河原へ向かう途中だった。大磯の駅の近く、ガードをくぐったところやね。ワシ、だいたいスピード狂やから、クルマも飛ばすほうなんやね。ところが、あのときはなぜかスピードを落としたんや。オヤジのことをふっと考えてた。病で倒れておったんや。そのオヤジのことを思い出したとたんにスピードを落とした。それで助かった。トラックがこっちにとびこんできて、ワシ、全身打撲や。血は流れてくるし、たまらんかった」
しかし、それでも彼は――「ゴルフに行った」。コンペにはおくれて参加。ホールアウトしたところで、ダウンした。
「それだけやないな。35年のシーズンはオヤジの看病にも疲れていたし、胃腸障害もあった。夏になると下《げ》痢《り》が始まった。四十五日間、下痢がつづいたんや。そのうえ眠れん。ワシ、そのころ精神科の医者にも行った。とにかく食欲がないし、眠れんのやから。夏のこわさを初めて知ったね。名古屋での中日戦がこわかった。暑くて、暑くて、とにかく気が狂うほど暑いのやから」
エピソードがある。
ある日、カネやんはサウナに行った。東京温泉である。
じっとサウナに坐《すわ》りこんでいると、男が一人、近づいてきた。そして、こういったのだ。
「おまえ、そんな体でオチンチン立つんか?」
「余計なお世話や」
カネやんは答えた。そりゃ、そうだろう。サウナである。裸である。突然、オチンチンのことをいってくるなど、話の成り行きによっては、あやしげだ。
「そんな姿勢じゃ、オチンチンは立たんはずや」
なおも、男はいう。彼は「元オリンピック選手だ」ともいった。
そして、さらに追いうち。
「オレを見ろ!」
そういって男は、バスタオルをとり、前をはだけたのだという。
「うーん」
と、カネやんはうなった。
「おまえみたいに前かがみになって沈みこんでたら、立つものも立たん!」
男は一喝した。
「胸を張れ、胸を! そっくりかえれ。それくらいでちょうどいいんだ」
なるほど――と、カネやんは思ったという。「ワシ、じつにみごとに洗脳されやすいねん。そっくりかえるくらいの姿勢で歩いていれば、気持ちがいい。いわば呼吸法やな。それ以来、ワシ、ずっとそっくりかえっとる」
話を元に戻そう。
そのシーズン、彼はサウナで自らの「オチンチン」を一喝されるほど、調子を落としていたわけだった。
昭和35年9月30日。場所は後楽園球場である。国鉄vs中日25回戦。
金田はその前日にも投げ、やっと19勝目を記録した。あと1勝で〈10年連続20勝〉という大台にのる。
「ワシ、この試合で絶対に20勝をあげようと思ってた。たしか、もうそのシーズンの最終戦だったんじゃないか。前の日にも投げてたけど、そんなことかまわへん。連投するつもりやった。ワシの野球人生にとってはドタン場や。国鉄は弱小球団やった。ワシ一人がどんなにいいピッチングをしても勝てるとは限らん。国鉄時代、ワシが投げて0―1というスコアで負けた試合が二十いくつもあるんや。相手打線を1点に抑えきっても、よう勝てん。9月30日の中日戦に途中から出ていって、何としても勝利投手になるつもりやった……」
つまり、金田は意気ごんでいた。
「ところが、ワシを先発させてくれんかった。そして、前半、国鉄が2点を入れた。2―0や。島谷というピッチャーが先発していたんや。4回まで中日打線をシャットアウトしていたわけやな。5回からワシが投げれば、勝利投手はワシのほうにくる。ワシはそのつもりやった。ブルペンでウォーミング・アップして、すぐにでもマウンドに上がれる準備をしていた。OKや。いつでもこいと思ってた。
ところがやなー。監督が5回になってもピッチャー交代といわん。宇野光雄という監督やな。ワシがブルペンからベンチに戻っても知らん顔や。あさってのほうを向いて、ワシの顔も見ない。5回裏、そのまま島谷がマウンドへ上がってしもうた。ワシ、腹立ったでェ……」
マウンドへ上がってピンチを迎えるよりも、こちらのほうがより大きなピンチだった。20勝に向けて、本人はマウンドへ上がるつもりになっていても、肝心の監督がピッチャー交代を審判に告げてくれないのだ。
翌日の新聞にはこう書かれている。
「……中日の広島(投手)は二回、岩下に左前安打されると、二つのバントを野選、安打にして無死満塁のピンチを招いた。ここで金田をブルペンに送った国鉄は根来の押し出しと佐藤の三塁内野安打で2点をあげ、金田登板への舞台装置はでき上がった。
しかし、今季初めて先発した島谷は中日の無気力な攻撃もあり好投した。シュートを生かしタマを低めに決めて4回まで2安打、二塁も許さなかっただけに交代のキッカケはなかった。
5回になると、金田は当然のようにブルペンを引きあげてきたが、一度降板してきた島谷が再びマウンドにあがると、手にしたボールをたたきつけて怒りの色を見せた……」
国鉄の先発、島谷は5回からはエース金田が投げると思っていた。だから一度マウンドを降りかけた。ところが、宇野監督は、そのまま続投を命じた。金田はボールをたたきつけてデモンストレーション。それでも、監督は動かない。
で、どうしたか――。
「あのときは、ボールをたたきつけただけやない。ベンチの中で湯のみ茶《ぢや》碗《わん》もたたきつけてしもうた。それでも監督は知らんぷり。運よくいうか、島谷がそのすぐあとに打ちこまれた。無死満塁かなにか、とにかくピンチになった。それでも監督は動かへんのや」
記録を見ると、無死満塁ではない。島谷が5回裏、中日の先頭打者にいきなり三塁打を打たれたのだ。ノーアウト、ランナーは三塁。もう一つ、訂正しておけば、この試合は最終戦ではなかった。国鉄は、あと4試合残していた。どたん場であったことにはかわりはないが。
金田の話はつづく。監督はテコでも動かない。そこでどうしたか、である。
金田の話をつづけよう。
「ワシ、自分からマウンドへあがっていった。監督が決めるのを待っててもラチあかん。マウンドに行きながら、自分で審判にいうた。〓“ワシ、投げるから〓”」
その日の後楽園球場の観衆は二千人となっている。実質的には、そこまでも入っていなかっただろう。ほんのひと握りの野球ファンだけが、この珍妙な、そして金田にとっては真剣な投手交代劇を見られることになった。
金田はエゴイスティックで強引なほどの自分の〈力〉をもってしなければ、大記録は生まれないことを知っていたのだろう。黙ってベンチに坐《すわ》って監督の声がかかるのを待っているだけでは、途方もない記録は生まれてこない。
彼は、ピンチを迎えると「ストライクを投げようと思わなかった。とにかく力いっぱい投げこんだ」という人間だ。
誰《だれ》もが正当(ストライク)だと思うようなやり方ではなく、このピンチに、思う存分「力いっぱい」行動したわけだった。
降板した島谷は、その日5回を投げ切れば、その後の展開にもよるが、勝利投手になれる可能性は大きかった。それは島谷にとってプロ入り初勝利になるはずだった。記録を見ると、島谷はプロ生活でついに1勝もあげられなかった。その日に勝利投手になっていれば、それは島谷にとって輝ける1勝になったと思われる。
しかし、島谷は降板した。
金田がマウンドに上がった。
そういうことだ。
その日のゲームの結果を書いておこう。
無死三塁。スコアは2―0。1点を失ってもいいというピッチングでいいはずもない。金田は次の二打者を連続三振にうちとり、四球を一つ与えるが、2死一、三塁からバッター・中を三塁フライにしとめた。
14年連続20勝という大記録のなかで最もしんどかった昭和35年のシーズンの、20勝目の足がかりを、金田はそうしてきずいた。その試合、8回に中日に1点を与えたが、あとは無難に5イニングスを投げ切って勝利投手。かろうじて20勝に到達したわけだった。
かくして、熱球投手は以下のような教訓を残すのだ――「逃げたらあかん。弱味を見せたらあかんよ、キミタチ」
逆に、金田がピンチに立ち、監督がベンチを出てマウンドにやってくると、金田はよくこういって、怒鳴った。
「アホ! 引っこんどれ! せっかくワシが集中しとるときに、何しにくるんや!」
金田正一にとって、公式戦最後のマウンドになったのは、昭和44年10月18日の対中日戦だった。国鉄スワローズのユニフォームをジャイアンツのそれに替えて五年目のシーズンだった。そのシーズンかぎりでユニフォームを脱ぐことは決まっていた。
その試合でも彼は自分の記録を前進させた。ドラゴンズの一枝から三振を奪った。それは通算4490個めの奪三振だった。とほうもない記録だった。その七年前に、金田はすでに奪三振の米大リーグ記録を破っていた。ウォルター・ジョンソンがレコード・ホルダーだった。3508個である。37年9月5日、後楽園球場の巨人戦で坂崎から3509個めの三振を奪い、これで世界新、それ以後、さらに981個の三振を奪ったわけだった。
金田はしかし「まだまだ投げられる」と思っていた。
「ワシをあの年で引退させたのは川上のおっさんや」
といって、彼は44年10月10日のゲームのことを語るのだ。
「その時点でワシは通算399勝をあげていた。あと1つ勝てば400勝や。川上さんが、ワシのいないところでナインを集め、こういったというんだ。〓“金田に400勝を記録させて引退の花道にしようじゃないか〓”9回、試合が終わるとナインがワーッとワシをとりかこんだ。胴上げするわけや。シゲ(長嶋)は、ベンチ裏の通路のところにうずくまって涙を流しとる。これでもう最後なんやと、みんな思うとるわけやね。
まいったでェ。ワシはまだまだやるつもりやったんやから」
その400勝が、金田正一投手の昭和25年から始まった二十年間にわたるプロ野球人生の通算勝利数になった。
金田正一の、他の追随を許さない主な記録も並べておこう。
十四年連続20勝(昭26―39)。
通算投球回数は5526イニングス。
十一年連続200奪三振。
連続64イニングス無失点。
通算298敗。
通算1880与四死球……。
ミラクル・パット――青木功
昼にロスアンゼルス空港を飛びたち、時差を縮めながら東に向かうと、ジョージア州アトランタの空港に着くころには、あたりはもうすっかり暗くなっている。オーガスタに行くには、そこからさらに南東に向かって小一時間飛ばなければならない。アトランタ空港は、カウボーイ・ハットをかぶった南部の男たちでごったがえしていた。
デルタ航空の地上係員にチケットを渡すと「アガスタへ行くのか」という。「いや、オーガスタだ」というと、チケットの行先のところを指で示しながら「アガスタ」といった。AUGASTA――日本じゃ、これをオーガスタというのさというと、その男は「オ・ー・ガ・ス・タ」といって「悪くはないが、オレの町じゃないような気がするよ」という。彼はアガスタ生まれだといった。
「マスターズ・トーナメントを見に行くんだろ? オレの両親はあのゴルフ場のすぐ近くに住んでいるんだ。いいところだよ。今は家をどこかの国のプレスに貸して旅行中だけどね。日本からもプレイヤーが来るのかい?」
「イサオ・アオキを知ってるかな?」
「ア・オ・キ?……そいつはジャンボのことかな?」
1980年4月のことである。
全米オープンでニクラウスと競い、惜しくも敗れたが、青木功がその〓“ミラクル・パット〓”で堂々2位に入り、アメリカ中のゴルフファンに知られるようになるのは、その数か月あとのことである。ハワイアン・オープンで奇跡的なチップイン・ショットを打ち、米ツアー初優勝を飾るのには、さらに3年ほど待たなければならない。ジョージア州あたりでは、かつてマスターズ・トーナメントで八位に入ったことのあるジャンボ尾崎のほうが名前を知られているようだった。
「アオキを知らないんじゃゴルフファンではないな。彼のアプローチ・ショットは信じられないくらい正確なんだ。パットはユニークだ。パターのヘッドをたてて打つんだから」
ぼくがそういうと、彼は、それはどういうことなのかと聞いてきた。青木功の、あの独特のパットを簡単に説明すると、彼は言下に否定した。
「そんなバカな」
「そんなことはないさ。『スポーツ・イラストレイテッド』だって、その独特のパットを紹介したくらいさ。知らないの?」
ぼくはそういってやった。その時点では、それはウソだった。アメリカで最もポピュラーで、最も権威があるスポーツ誌とされている『スポーツ・イラストレイテッド』の名前を出せば相手は多分おどろくだろうし、ぼくが、そのスポ・イラの提携誌である『ナンバー』の取材のためにそこに来ていたせいでもある。
「スポ・イラが紹介したって? それはすごい奴《やつ》だ」
単純に彼は喜んだ。いい奴にちがいない。実をいえば、スポ・イラが青木を紹介したのは、80年夏の全米オープンのあとのことである。
「だからね」と、ぼくはいった。「アオキは近々、TOYOTAやSONYのように有名になるはずさ」
それを聞くと、地上係員は複雑な表情になった。
「TOYOTAはいいクルマだけどね」
といって苦い顔をしてみせるのだ。一瞬、彼の頭のなかで、メイド・イン・ジャパンのクルマに押されているアメリカ自動車業界と、ひょっとしたら日本のゴルファーに席巻されてしまうかもしれないアメリカ・ゴルフ界のシーンが重なったに違いないのだ。
「トム・ワトソンが絶好調だという話を聞いてるよ……」
彼はもごもごと、そんなことをいった。それはGMの“X《エツクス》カー〓”だって負けてはいないのだ、というニュアンスだったのかもしれない。
アガスタ(と、書くことにしよう)の4月は、むせかえるような緑のなかにあった。
空港のゲートを出ると、そこは日本の国鉄の、地方の小さな駅というたたずまいで、違うことは、みごとに刈り込まれた芝生とそれを取り囲むさらなる緑であり、まるで“南部〓”を絵に描いたような、白いペンキでふちどられた駅舎であった。
緑はどこまでもつづき、クルマで二十分ほど走ると、そこにさらなる緑があり、そこが、ナショナル・ゴルフ・クラブ、つまり、マスターズ・トーナメントのコースである。その周囲をぐるりとまわり、林のなかを抜けるように舗装道路を走ると、ポツリポツリと住宅が現われ、青木功は、そのうちの一軒を借りて滞在していた。
アガスタは、年に一度だけにぎわう町である。〓“ゴルフの祭典〓”と呼ばれるマスターズ・トーナメントを見るために全米からファンがやってくる。ホテルが少ないから、選手たちとギャラリーの一部は〓“民宿〓”することになる。町の人たちは、自分の家を貸して、そのお金で〓“マスターズ・ウィーク〓”には旅に出る。青木功が借りていたのは、アガスタに住む、インド人の大学教授の家だった。
木曜日から予選が始まる。青木はその週の初めからアガスタに来ていた。もう一人の日本選手・中村通が来ると、練習ラウンドを一緒にまわるようになった。
1ホールごとに解説しながらまわるのが青木である。中村は時折りメモをとりながら、コースを確認している。中村はマスターズ初出場であり、青木は六度目の出場だった。
その差は、ゴルフにだけ現われるわけではない。
中村通も、コースに近い林のなかの静かな一軒家を借りていた。その家をたずねると、ダイニング・テーブルの上には日本から持ちこんだ、あるいは旅の途中で買いこんだ日本の食品がうずたかく積みあげられていた。
例えば、海《の》苔《り》であり、梅干しであり、パックされたお新香であり、インスタント食品である。そして毎日のように米をとぎ、ふっくらとたきあげている。
過剰なほど、そこに日本を持ちこむことによってバランスをとろうとすることは、海外に出ていく日本人が一度は通過するポイントである。その大量の食品を前にして中村夫人は、毎日、食卓に日本を演出している。
青木は二階建ての広々とした家に、宏子夫人と二人で住んでいた。そこを訪ねると、青木はリビングルームのソファーにどっかと腰をおろし、ビールを飲みながらタバコをくゆらせている。
食事のことを聞くと、もうほとんど日本から食料を持ちこむことはないと、宏子夫人がいった。部屋に流れているのは、日本から持ちこんだカセットテープではなく、テレビが絶え間なく吐きつづける英語である。
時の流れは、ずいぶんと人を変える。人を成長させるのは、ひょっとして時間ではないかとさえ思えるのだ。
青木功というゴルファーに関していえば、それはこういうことである。
1974年の4月、青木は初めて、アガスタのナショナル・ゴルフ・クラブにやってきた。マスターズ初出場のときである。そのときも、青木は、同じように一軒の家を借りていた。コースに慣れるために、試合の一週間ほど前からそこに滞在していた。その家に一度だけ尾崎将司がやってきたことがある。
その前の週、フロリダで行われた試合に出場したあとで尾崎はマスターズにやってきたわけだが、彼が予約しておいた家はその翌日からでなければあかない。そのために青木の家に一晩泊まりに来たわけである。
尾崎は、その前の年、73年にマスターズ八位という成績を残していた。尾崎は自信を持っていた。練習ラウンドをまわるときも、ギャラリーから「ジャンボ!」という声がとんだ。青木は当然のことだが、全くの無名である。
その晩、尾崎はそそくさと眠ってしまったが、青木はお新香をつまみながら酒を飲んでいた。食事は日本から持ってきたシャケであり梅干しであり、お新香である。
翌日、尾崎が予約しておいた家に引き取ると、青木が一人、残された。広い、4LDKほどの家を、彼はもてあましていた。荷物を広げるのも、酒を飲むのも、おしゃべりをするのも、すべてリビングでたりてしまう。
ヘアスタイルは、今のように長髪ではなかった。スポーツ刈りというか、当時はたしか大工刈りという言葉があったように思う。あくまで短く刈りあげ、半そで、タートルネックのシャツを着て、ひときわ派手なズボンをはいていた。
その姿が、どうしてもマスターズ・トーナメントのなかで浮きあがってしまったのは、肌の色やファッションなどのせいばかりではなく、それ以上に心理的にプレッシャーがかかって、彼自身どこかで気おくれしていたせいだろう。
日本に帰ると、当時の青木は埼玉県飯《はん》能《のう》に住んでいた。狭い、公営住宅である。2DK。隣りの家との間に猫の額ほどの空間があり、そこは青木のクライスラーが横づけするといっぱいになってしまった。口の悪いゴルフ記者は、家とクライスラーのどっちが大きいかと話していた。
そういう時代である。彼は三十二歳だった。地方のトーナメントで優勝すると、その賞金は東京に戻るころにはあらかたなくなっていた。仲間をひきつれて遊びまくってしまうからである。
ゴルフファンなら誰でも知っているとおり、青木のそのころの口グセは「しゃんめえ」だった。好成績で最終日を迎え、最終日には大《おお》叩《たた》きして後退してしまう。ホールアウトすると、開口一番、青木は決まったように「しゃんめえ」といった。そして、夏ならば、冷やしたトマトに丸ごとかぶりついてみせる。ホテルか家に戻れば、ビールを飲み、酒を飲む。
「しゃんめえじゃんよー」といういい方をやめたらどうかといったゴルフ記者がいた。そのとき、青木はこういった――「しゃんめえじゃんよー。これはオレのトレードマークなんだから」
そのころから、まだ十年もたっていない。青木は80年のマスターズに出場した時点で、三十八歳である。マスターズのコースに現われても、彼は違和感を感じさせない。原色のゴルフウェアは、あまり着ないようになってきている。着る場合には、色のコンビネーションの基礎を崩さないようにしている。そして、アメリカという異文化のなかにとけこんでいる。
「しゃんめえ」という言葉も発しなくなった。そのかわりに彼は自分のゴルフについて語るようになった。コース攻略に失敗すると、その経緯を説明するようになった。お新香とシャケがなければめしが食えないなんてこともない。ミソ汁のかわりにコーヒーであってもかまわない。
ゴルフそのものも、変わってきている。青木が口グセのようにいうのは〓“ガマンのゴルフ〓”ということだ。
1978年、マスターズの15番ホールで青木は、小さなターニングポイントに立っていたのかもしれない。パー5のロングホールである。かつて、ジーン・サラゼンがここでアルバトロスを決めて逆転優勝したことがある。アルバトロスとは、パー5のコースをわずか2打で攻略してしまうことだ。マスターズの15番は、第1打を好位置にもってくると、ギャラリーは、プレイヤーが2オンを狙《ねら》うのを期待する。2オン、1パットならイーグルになる。しかし、グリーンの手前には大きな池があるのだ。チャージしようと第2打でウッドを持つと、ギャラリーから猛烈な拍手がわきあがる。ギャラリーの目を意識すれば、ウッドを持ちたくなるのだ。そして往々にして失敗する。
77年の青木は、その15番ホールで失敗した。最終成績は二十八位タイで終わった。78年、結果的には予選落ちしたが、青木はこの15番をアイアンで刻んでいった。3オンすればバーディをとるチャンスはあると考えたからである。正確なアプローチ、的確なパットという、グリーンまわりの〈技〉で勝負しようというわけだ。
それは、かつて〓“ぶっちぎりの青木〓”といわれた時代から〓“ガマンの青木〓”といわれるようになったプロセスの一コマだろう。青木功ニューモデル完成のためのワン・シーンである。
かつて青木は、勝つときには二位以下を面白いように引き離すことが多かった。それは、接戦になって一度後退してしまったときにガタガタとスコアを崩すということでもある。その壁をこえようとしたとき、青木は〈ガマン〉という言葉を使った。大向こうをうならせる大技のゴルフではなく、切れ味鋭い的確なゴルフを目ざそうとしたとき、彼はニューモデルへの一歩を踏み出していたはずだ。
ある資料を眺めていたら、こういう一節にぶつかった。『世界への歩み』と題されたトヨタ自販三十年史、である。トヨタが初めてアメリカに自動車を輸出したのは昭和32年のことだった。車種はクラウンである。〓“大型車の乗心地と小型車の経済性を備えた車〓”というのが、セールス・コンセプトであった。
が、しかし――「一部で心配されていた問題がやはり発生した。パワーの不足、ボデーの過重、最高速の不足……」などがウィーク・ポイントになってしまった。「ハイウェーでの使用に耐えない弱さを露呈し、ディーラーはあいついで離反していった。かくて当社はついに乗用車の対米輸出を一時断念せざるをえない苦しい局面に立たされたのである」
パワーで勝負しようとしてパワーに負け、再び対米輸出が盛り返すのは、新型コロナが登場する昭和40年代を待たなければならない。昭和54年(1979年)度のトヨタの輸出は計百四十万台に近い。セールス・ポイントは一貫して経済性と小回りの良さ、である。それを支えていたのは、ソフト、ハードの両面の技術、テクノロジーである。
ゴルフもマーケティングも同じコンセプトを共有している。
青木のゴルフ技術そのものにしても、例えば国産車がずんぐりむっくりのデザインから現代のそれへと変わってきてレベルアップしてきたのと同様、変わってきている。
昭和10年に完成した国産自動車第一号は古すぎるとしても、戦後に開発された、初期のトヨペット・クラウン、コロナ、日産といえば、セドリック、ブルーバードなどを今見たときの印象は、おそらくプロ入り当時の青木のフォームを見たときの印象とさほど変わらないはずだ。
青木がゴルフを始めたのは、十五歳のときというから、昭和30年代の初めである。どうしたって「戦後」をひきずっている。中学時代、我《あ》孫《び》子《こ》ゴルフ倶《ク》楽《ラ》部《ブ》でボール拾いのアルバイトをしていた。その延長でキャディーになった。当時のフォームは、日本のゴルフ界が大正時代の終わりから日本人向きにじわじわと積みあげてきたフォームである。
日本のゴルフ界は、過去、様々な打法をあみ出してきた。大阪の宮本留吉はプッシュ打法を考えた。フィニッシュまで振らないでいい、押し出すように低いボールを打てばいいといった。戸田藤一郎はパンチ打法だといった。飛距離はパワーではなくショットのスピードで生まれる。スイングのスピードをあげてボールを叩《たた》くように打てというのだった。橘《きつ》田《た》規《ただす》は水平打法だといった。ドライバー・ショットはアップ・アンド・ダウンに振るのではなく、なぎなたで相手の足を払うごとく横から振れというわけだった。
いずれにせよ共通していることは、日本人はアメリカ人と違って背たけがないから、上から叩くように振れない、つまり、ある程度横から振るほうがよいということだった。
青木功にゴルフを教えたのは林由《よし》郎《ろう》プロである。〓“林のヨッさん〓”と呼ばれている。俗に〓“我孫子一門〓”と呼ばれているゴルファーは、大なり小なり彼の影響を受けている。
その林のヨッさんの教えるゴルフは、典型的なフラット打法である。つまり、横振りなのだ。そして、スタンスは思い切って広くとる。スイングしたあとは左ヒジを曲げ、クラブを抱くような格好になる。それを、いわゆるアメリカ打法と比べれば、その差は一《いち》目《もく》瞭《りよう》然《ぜん》だ。
端的にいってしまえば、日本打法の特徴は次のようにいえる。即ち、
カッコよくない――
のである。
アメリカ打法では、スイングしたあと、体は逆Cの字を描く。ひざ、ウエストが前に出て上半身はうしろにそっている。日本打法では、誇張していえば、前のめりになっている。肉体の動きの美しさからいえば、彼《ひ》我《が》の差は歴然としている。ダットサン一号車とフォードなみの差であるかもしれない。
青木はゴルフを始めたころから180〓程度身長があったにもかかわらず、最初におぼえたのは林のヨッさんの教えるフラット打法であった。その名残りは、今でも若干、残っている。
それを〈青木オリジナル〉とすれば、以後彼はいくどかのモデル・チェンジをしてきている。
当初、彼は〓“フックの青木〓”と呼ばれていた。グリーンのはるか右に向かってボールが飛び出し、シャンクしたのではないかと思うと、ボールはみごとに(というべきかどうかは別にして)左へ曲がり、グリーンをとらえるという塩《あん》梅《ばい》だった。
グリーンに向かって真っすぐ飛んでいったボールの行先は悲劇的ですらある。そのフック・ボールをフェード・ボールに変えた。それが最も大きなモデル・チェンジだろう。
昭和47年のシーズンを終え、48年のシーズンを迎える前である。手首の返しをできる限りおくらせ、体重を右に残すようにした。そのフォームをシーズン・オフに徹底的に体におぼえこませることにより、球筋はやや右に流れていくフェード・ボールに変わった。
パットはそれ以前にモデル・チェンジしている。昭和42年、座《ざ》間《ま》のゴルフ場でT字型のパターを見つけたときから、今のスタイルになった。青木にいわせると、パターのスウィート・スポットは、シャフトの真下にあるという。つまり、根っ子に近い部分だ。
「そこが一番フェースが開いたり閉じたりすることが少なく、ボールの転がりが一定するんだ」――だからヘッドを上に向けるという独特のスタイルがいいのだという。もちろん青木が生来的に持っている握力とリストの強さがそれを補っている。
パッティング・フォームも、モデル・チェンジを重ねてきている。当初は、オープン・スタンスに構えていた。そうすると、テイクバックしたときに、クラブヘッドが右足にぶつかってしまうことがあった。そこでボールから離れ、右足を引いてクローズド・スタンスに変えた。かなり前かがみの姿勢になる。それをさらに、スクエア・スタンスに戻した。それだけモデル・チェンジをくり返して現在のスタイルに辿《たど》りついている。
〈青木オリジナル〉がモデル・チェンジされ、シェイプ・アップされてくると、まず、国内市場を席巻した。それは、ニューモデルが登場した昭和48年のことである。その年、青木功は日本のツアーで六回優勝し、5勝の尾崎を上回った。前年の平均ストロークは、71・57であったが、48年には70・40にまで下げた。尾崎は70・80である。賞金獲得額を、初めて三千万円台にのせたのも、この年である。
そして、翌49年(1974年)春に、初めてマスターズ・トーナメントに招待されたわけだった。
日本の企業が海外に進出していくには、時には偉大なるパイオニアが必要だろうし、時には媒介者が必要となる。文化が伝わる時にもメディアがなければならない。その原則は、どんな場合でも変わらない。
青木功が海外に出ていくとき、そのメディアの役割を果たしたのが、恐らく宏子夫人なのだろう。少なくとも、異文化とのブリッジの役割を果たしている。彼女はそもそもアメリカ人のエンジニアと結婚していた。青木と会ったのは沖縄である。アメリカでの名前を、チエ・ブッシュネルといっていた。二人ともそれぞれ離婚し、再婚している。
以後、青木のデザイン・ポリシーが変わってきた。
青木がヘアスタイルを大工刈りから長髪に変え始めるのは1977年のシーズンの途中からだ。昭和52年、マスターズ、全英オープンに出場し、それぞれ二十八位、予選落ちという成績で帰ってきてからのことである。
ゴルフウェアも変わった。「私は原色が嫌い」だといったのは宏子夫人である。日本人が、赤や黄のウェアを、アメリカの彩度の高い乾燥した空気のなかで、しかもあざやかすぎるくらいあざやかなグリーンのなかで着ても似合うものではないということを、経験的に知っていたからだろう。
現地でのコミュニケーションがラクになったことも、あげられる。言葉を通じてのコミュニケーションが、〓“ワイフ・セクレタリー〓”を持ったことでラクになった。となれば、ミソ汁からコーヒーへと移行するのは、時間の問題であったはずだ。
1978年の全英オープン七位タイ、世界マッチプレー優勝、そして翌79年の全米オープン七位タイ、さらに80年の全米オープン二位、81年のハワイアン・オープン三位、83年ハワイアン・オープン優勝という成績は、そういうバック・グラウンドがあって初めて出てきた結果であるはずだ。
それは、極めて図式的であることを承知のうえであえていえば、〈日本株式会社〉なるものが、技術革新と独特のマネージメントで世界に飛び出していったことと、どこかで相似形であるに違いない。
青木功の背中に、戦後日本の栄光と苦《く》衷《ちゆう》をうなずきながら読みとっておかしくはない。
ところで、80年のマスターズである。
青木功は惜しくも予選落ちしてしまった。帰り途のアトランタ空港には、デルタ航空の例の男がいた。
「ミラクル・パットはどうした?」
彼は笑いながらいう。
「予選落ちだよ」
そう答えると、彼は満足気にうなずいた。
ぼくとしては、何とか、気の利いた捨てゼリフを吐かなければならない。
バッグのなかからおもむろにウォークマンを取り出し、中学校時代の英文法テキストの決まり文句をひとひねりしてみた。
「The smaller, the better」
「聴いているのは、ビリー・ジョエルだろ」
男はいった。
「違うよ」といって、彼にウォークマンを渡した。「いい音楽だ」という。「誰だい? これは」
ぼくは答えた――「イエロー・マジック・オーケストラさ」
敗戦投手――加藤初
ゲームには敗者が必要だ。
試合が始まる。その瞬間は誰もがヒーローになる可能性を秘めている。それはこのオレだと思いつつ十八人の男がグラウンドに向かうのだ。
それから三時間――わずかな時間だ。ラブホテルに入った男女が数回、つかの間のきらめきを体験してげんなりする頃、それくらいの時間が経っている。
その間に、スタジアムでは不運を嘆く一人の男が悲劇の仮面をかぶらされている。
「悪くはなかったんだ」
ジャイアンツのピッチャー、加藤初はいった。横浜スタジアムの三塁側ダッグアウトである。
「高木(嘉)に打たれたホームラン。ストレートだよ。あれだけは悔やまれる。だけどあれ以外は……」
加藤はそのあとにつづく言葉をのみこんだ。あの1球以外は悪くはなかったといっても、敗者であることにはかわりがない。
1982年のペナント・レースが始まったところだった。ジャイアンツは開幕三連勝をマークしていた。
しかも江川、西本、新浦と完投勝利が続いていた。加藤は四人目の先発投手だった。いつ、誰が初の敗戦投手になるか。「いやな感じ」で、加藤はマウンドにあがらざるをえない。
ひょっとしたらオレがその役回りを演じなければならないのかもしれない――そんな思いがちらりと頭をかすめる。
それが敗者への第一歩だ。
ホームランを打たれる。1本、2本。味方打線は相手投手を打ちあぐねている。このままじゃ、本当にオレが貧乏くじを引いてしまうじゃないか――そう思った時にはドラマは第二幕に入っているのだ。
試合後、加藤はこれ以上はないというくらいの仏頂面で引きあげてきた。
「ベスト・ピッチングだと自分では思っても、ダメな時はダメだよ」――加藤は力なくつぶやいた。そうなのだ。敗者は常に力なく、つぶやかねばならない。陽気な敗戦投手なんて様にならない。加藤は役柄どおりの表情で、その日の役柄にふさわしい台詞《せりふ》を吐いてくれた。それが第三幕だ。
シャワーを浴びると、加藤は急ぎ足で出口に向かった。
そう。逃げるように、である。
黒のスラックス、茶とグリーンのチェックのカッターシャツ。ブルーのセーターを着て、スニーカーは白だ。
何という分裂カラーだろう。
敗者がダンディーであってはならない。加藤はフィナーレまで、きっちり敗戦投手の役柄をこなしてくれた。
ジャイアンツの〓“敗者第一号〓”加藤初。三十二歳。
彼は完《かん》璧《ぺき》だった。
つぶやき――足立光宏
その日のゲームを、ぼくはどこかの街角の電気屋さんが映し出すテレビで見ていたと記憶している。
晩秋の午後。街を行く人はあわただしげだったから、ウィークデーの、もう夕方に近い時刻だったのだろう。道行くサラリーマンの何人かが、ぼくと同じようにテレビの前で、今にもまた歩き出しそうにちょっと立ちどまり、最初は時間を気にしながら、やがてテレビに向かってのめりこむように、あるいは腕を組みあるいはタバコに火をつけ、佇《たたず》んでしまっていた。
後楽園球場のマウンドには阪急の足立光宏がいた。彼がホームベースに背を向け外野に向かって声をかけると、背番号〓“ 16 〓”が見えた。
その日のゲームのことで、ぼくがおぼえていることがいくつかある。
9回裏だった。守っているのが阪急、攻めているのが巨人である。日本シリーズである。第7戦。ここまで3勝3敗と星をわけている。シリーズの勝敗の行方は最終戦までもつれこみ、9回裏のスコアは4―2、阪急が2点をリードしていた。
最後の攻撃にかけているジャイアンツは二人のランナーを出していた。アウトカウントは二つ、バッター・ボックスに入ってきたのはピンチ・ヒッターの山本(和)だった。
昭和51年の日本シリーズである。
一塁側のベンチでは〈90番〉をつけた長嶋監督が采《さい》配《はい》をふるっている。監督として二年目のシーズン、長嶋は念願のセ・リーグ優勝を果たしたわけである。三塁側のベンチでじっとグラウンドを見つめているのは上田監督である。
その日の後楽園球場は、この球場に集まるいつものファンと趣きを異にしていた。熱狂することはあってもしすぎることはなく、大きな声で絶叫することはあってもグラウンドにモノを投げないのが、後楽園球場のファンだといわれていた。それは、セ・リーグでいえば広島球場、あるいは中日球場に集まってくるマニアックなまでに熱狂的なファンとは違うのだといわれていた。
が、その日ばかりは違っていた。
ゲームの途中で、アンパイアはしばしば試合を中断せざるをえなかった。観客席からグラウンドに向けて様々なモノが投げこまれた。ちょうど投げやすい大きさのミカンは、スタンドから投げると面白いようにグラウンドにころがっていった。紙テープはもとより、空きカン、空きびん……etc、そのたびに球場職員が走った。
9回裏――このイニングだけでも、三回ほど、ゲームが中断されたと記憶している。
マウンド上の足立光宏は、最後のバッターになった山本(和)に対する配球を今でもよくおぼえている。
1球目は、インコースに入っていくシンカーだ。山本(和)は積極的にバットを出した。
足立が回想する――。
「ファウルになったんですね。レフト線に強い当たりがとんでいった。これはちょっとヒヤリとしましたね。
ただし、この場面で山本に打たれるとは思っていなかった。キャッチャーの中沢の次のサインはカーブだった。ぼくもカーブを投げようと思っていた。そのあとは3球つづけてカーブです。2球目はアウトコース高目に流れていくカーブ。山本はこれを空振りした。カウントはツー・ナッシング。3球目はやはりアウトコースに流れていくカーブです。山本はかろうじてバットを止めた。ぼくは入ったかなと思った。ジャッジはボール。少し低すぎたんでしょう。そして、最後の1球は、3球目とほぼ同じコースに入っていくカーブでした……」
足立は変化球を投げつづけた。山本(和)のバットは今度は出てしまう。そして、そのバットは足立がグラウンドすれすれの低いところから投げてくるカーブをとらえることができない。
ほんの一瞬だけ、後楽園球場は息をのんだように静まりかえったはずだ。そして、大きなどよめきに包まれた。
ゲーム・セット。阪急は昭和51年の日本シリーズ第7戦に勝ち〓“日本一〓”の座についた。それは阪急が初めて巨人をやぶった瞬間でもあった。
それ以前、阪急は五度、巨人と対戦し、いずれも敗れ去ってきた。
巨人―阪急という日本シリーズが初めて行われたのが昭和42年。日本シリーズに初めて出てきた阪急は2勝4敗でジャイアンツの前に屈した。当然の結果だろう。ジャイアンツは川上監督に率いられ、長嶋も王も最盛期を迎えていた。続く43年にも2勝4敗、44年も2勝4敗と連敗した。一年おいた46年は1勝4敗である。47年、同じく1勝4敗――つまり、シリーズ5連敗を喫していた。
やがて阪急は西本監督から上田監督へと引きつがれた。若い選手が育ってきた。福本、加藤(秀)などである。二人の外人選手も予想外の活躍をした。51年のシーズン、阪急にはマルカーノ、ウイリアムスという二人の外人選手がいた。投手陣の柱になっていたのは山田、山口、そして足立である。
その前年、阪急はパ・リーグのペナントを握り、セ・リーグの広島と日本シリーズをたたかった。日本シリーズ初出場の広島は阪急にかなわず、阪急はここで一度、日本一を経験している。その翌年に、監督就任二年目の長嶋が巨人を率いて日本シリーズに出てきた。阪急としては初めて巨人を倒して日本一の座につくチャンスを迎えたわけだった。
第7戦までもつれこみ、敗れた長嶋監督は試合後にこんなコメントを残している。
「足立の老巧さというか、彼の執念のピッチングに負けましたね。阪急は粘りがあり、バランスのとれたいいチームです。いい教訓を得たと思っている……」
長嶋監督のこのコメントは、後楽園球場で阪急の上田監督が胴上げされ、勝利投手・足立が黒山の記者団を前にその日のゲームをふりかえっているとき、その姿を片目で見ながら一塁側のベンチで発せられたものだ。
そんなシーンをブラウン管で見つめながら、ぼくには一つだけ、気になることがあった。
足立光宏がマウンドに立っているとき、テレビカメラはしきりにその表情を捉《とら》えようとしていた。
キャッチャー・中沢のサインをのぞきこむ足立の顔、三塁側、あるいは一塁側ベンチの動きをさぐる足立の顔、そしてグラウンドにしきりにモノが投げこまれ試合が中断されたときの顔……。
そのとき、足立は何かをつぶやいていた。一球投げるごとにスタンドは信じられないくらいのうなりを発した。投げようとする足立に圧力を加えるように、誰もが声を出して叫んだ。場所は後楽園球場である。観客のほとんどがジャイアンツ・ファンであると思っていいだろう。公式記録員はこの日の有料入場者を四万五千九百六十七人と発表している。そして多数の報道関係や球場関係の人たち。足立がピッチング・モーションに入ろうとする時、四万六千人の発する声がマウンドに立つ一人の男にあびせかけられるのだ。そして何度かゲームは中断された。球場の何か所かに仕掛けられた集音マイクは、アンパイアのジャッジよりも、またボールがキャッチャー・ミットにとびこむ音よりも、もっぱら観客の熱声をキャッチした。テレビのアナウンサーは半ば叫ぶように話さなければならなかった。
そういうなかで、テレビカメラはマウンド上の足立の顔をとらえた。
足立は何かをいっていた。
キャッチャーの中沢に何かをいっていたのではない。足立はキャッチャーをではなく、もう少し顔をあげてスタンドに向かうようにして、何かをつぶやいているのだ。
あの時、足立は四万六千人余りのプレッシャーの中で、何をつぶやいていたのか。ぼくには、そのことが気がかりだった。
足立光宏という、今はもうマウンドを離れてコーチになっている人に会ったとき、聞いてみたかったのは、そのつぶやきに関してである。
その日のゲームをもう一度ふり返ってみよう。
そこからおのずと、足立のつぶやきが導き出されてくるかもしれない。
いや、その前にこのシリーズの流れを解説しておくべきだろう。
シリーズが始まる前、大方の予想は阪急有利というものだった。ジャイアンツにはかつての黄金時代の強さはない。長嶋が引退したあとを張本が埋めていたが、その張本も看板バッターの王も、すでにピークをすぎていた。ジャイアンツのスターティング・メンバーは柴田、土井、張本、王、淡口、高田、吉田、河埜、そしてピッチャーのライトにつながるというものだ。V9時代の遺産は、すでに利子生活者の生活を圧迫している。
そして予想どおり、阪急は三連勝した。第1戦は山田―山口という継投で6―4のスコアで勝ち、第2戦は足立―山口というリレー。スコアは5―4である。足立は第2戦で勝利投手になったあと、こういっている――「もう、ぼくの投げるチャンスはないよ」。エース山田、そして若い速球派の山口はともに絶好調だった。ベテラン足立は1勝をあげたところで十分にその役割を果たしたともいえる。第3戦では山田が完投した。これでもう阪急が楽勝すると、誰もが考えた。
シリーズの流れは4戦目から変わった。
西宮球場の第4戦、巨人は堀内、小林とつなぎ4―2で逃げきった。つづく第5戦はライト、加藤、小林が投げて5―3。第6戦は一日置いて後楽園球場に舞台を移した。先発は巨人が堀内、阪急が山口だ。
その第6戦が始まると間もなく、足立はベンチの中で力を抜いた。
「第6戦は楽勝だと思いましたよ。5回までに7点をとった。山口のできは悪くなかったし、この日はイザというとき山田がリリーフに出ることになっていた。スコアは7―0。これで勝てたと思った。
それがあんなことになるんだから――」
この試合、昭和51年の日本シリーズ第6戦も稀《ま》れにみる面白いゲームだった。0―7とリードされた巨人が5回裏に柴田の二塁打、王のヒットなどで2点を返したのを皮切りに、じりっじりっと阪急につめよっていくのだ。6回、淡口が3ラン・ホーマー、8回、柴田が2ラン・ホームラン。これで同点だ。阪急の先発山口が打たれ、リリーフ山田も打たれた。
足立はブルペンに走った。第6戦に阪急が敗れ、第7戦にもつれこんだ場合、先発は足立しかいなかった。
足立がいう。
「軽く肩ならし程度のウォーミング・アップを始めたわけです。第6戦は延長にもつれこんだ。10回裏ですね。ジャイアンツはノーアウト、フルベースと攻めて、高田がライト前にヒットを打った。
これはとんでもないことになったと思いましたね。もう、この第6戦でケリをつけるつもりだったし、あれだけ勝っていた。その試合をひっくり返されたんだから。巨人は勢いにのっている」
阪急ナインは言葉もなく宿舎、神田のグリーンホテルに戻った。明日のスポーツ紙はどこもジャイアンツ有利と書くだろう。
宿舎に戻り、食事をとりミーティングをすませると足立は落ちつかなかった。第7戦の先発は監督からいわれるまでもなく自分であることはわかっている。その晩、彼は一人、酒を飲みに出た。東京に遠征に来たときに行くバーが数軒ある。場所は銀座の、いずれもスタンド・バーだ。三、四軒、飲み歩き、ホテルに戻るとベッドに入った。
「飲みに行ってよかったんでしょうね。ぐっすり眠れた」
足立はいう。
その後のことを足立に語ってもらおう。
「翌朝、選手だけが集まってミーティングをしました。ここまできて負けるわけにはいかない、勝って帰ろうと、そんなことをこもごも話しあった。バスに乗って後楽園球場に行くと、水道橋の駅のあたりはすごい人の列なんです。あのシリーズは第7戦の前売りを控え目にしていたんでしょうね。それ以前に決着がつくと思っていたんやろな。だから当日券が多かった。それを手に入れようと朝からすごい人の列だった。これはエライ試合になるやろなと思った……」
「ぼく自身は何とかなるやろと考えてたね。ユニフォームを着てグラウンドに立ったら、気持ちが落ちついてきた。打線は好調なんやから、3、4点に抑えておけばなんとかなるやろと考えた。それに巨人打線はさほどこわくなかった。昔に比べたら、迫力は格段におちている。左打者をズラリと並べてくるだろうけど、ぼくにはさほどこわくはなかった。
スタンドは超満員ですね。五万人近く入っている。ほとんどがジャイアンツ・ファンでしょう。雰囲気でわかります。でも、それくらいのほうがかえってやりがいがあるもんですよ。プレッシャーにはならなかった……」
「マークすべきは王選手でしょう。衰えつつあるといっても一番こわいバッターですからね。
しかし、これも考え方なんです。どんなすごいバッターでも4打数で4安打を打つのはむずかしい。逆にこういう試合で1本もヒットが出ないということもない。1、2本のヒットは覚悟しなけりゃいけない。問題はそのヒットをどこで打たせるか、なんやね。王選手には、ぼくがどんなに調子がよくても最低1本のヒットは打たれてきた。1本も打たせまいと思っても打たれてしまうんです。
ランナーがいない時に打たせればいい。ぼくはいつもそういうつもりで投げている。ランナーがいない時に1本なり2本なりヒットを打たせておく。そうするとランナーがいる時にパッター・ボックスに立つと、ここでもう1本打ってやろうと思うんだけど、同時に今度はもう打てんのやないかと考えてしまう。それがバッターの心理じゃないですかね。ピッチャーいうのは、バッターとそういう心理的なかけひきをやっているもんなんですわ……」
「先に点をとったのはウチのほうやった。大橋のフォアボールと福本の二塁打で1点。3回の表だった。1―0。ピッチャーとしてはしんどいんです。最少得点差でしょう。気を抜けない。1イニング、1イニング、マウンドからおりるとタバコを一本すっていた。セブンスターやな。クセなんです。一回ごとにそうやってアクセントをつけておかんと、気が重くなってくる。ああこれで一仕事おわったんだと思うためにタバコに火をつける。すわなくてもいいんやね。ただ火をつけて持っているだけでもいい。
すいおわるとベンチの一番左のすみに坐《すわ》る。あるいはベンチの裏にひっこむかどちらかですね。投げている時はベンチの雰囲気にまざらんほうがいいんです。ベンチが意気消沈するとそれがこっちにも伝わってくるし、ベンチが楽勝ムードになるとピッチャーもどことなく気が抜けてしまう。だからぼくはどんな試合でもマウンドに立っているあいだはほかのナインと話もしないことにしている……」
「5回、6回にジャイアンツに1点ずつとられた。逆転ですわ。しかし、ぼくはさほど気にしてなかった。
むしろほかのことが気になっていたんですわ。4回、淡口が一塁ゴロを打った。ベースカバーに入らなければいけない。加藤(秀)がゴロを拾ってぼくにトスをした。その時、淡口と一塁のベース上でクロスしたんです。右足を踏まれた。ちょうどくるぶしの上あたりですね。何か所かから出血した。その痛みがずっと残っているんやね。骨にまでは影響してないけど、右足のけりがその分、弱くなっているのに気づいてた。
5回の1点は高田に打たれたホームラン。これは失投やった。シンカーがアウトコースに行かずに真ん中に入っていった。一番打ちやすくて飛ぶところやね。甘い球。ミスしたな、いう感じです。
むしろ6回のほうがピンチやった。ライト、柴田に打たれ、張本の一塁ゴロを加藤が本塁に悪送球。これで1点。そのあと1死フルベースまで追いつめられた。バッターは淡口ですね。その淡口のバッティングに救われた。簡単に打ってきて内野ゴロ。ダブルプレイになった。2―1と逆転されたけど、このピンチを最少得点差で逃げきったんだから、今度はこちらにゲームの流れがくるんじゃないかと、そう思ったんですわ……」
足立光宏。彼はマウンド上で冷静にゲームの流れを読もうとしている。ベテランの域に達していたピッチャーならではの味だろう。
入団が昭和34年。大阪大丸でサラリーマンをしながら野球をやっていた。プロ入りしてすぐに頭角をあらわしたピッチャーではない。脚光を浴びるのは昭和42年に初めて20勝をあげたときだ。阪急がペナントを握る原動力になった。プロ入り九年目の開花である。
その翌年、肩を痛めた。初めて20勝をあげ、パ・リーグのMVPに選ばれ、43年のキャンプでは張りきりすぎた。そのせいだろうと、足立はいう。43年、44年と2シーズンのほとんどを彼は棒にふる。改めてローテーションに入るのは昭和45年のことである。プロに入って十年以上が経ってしまっている。そこから立ち直るのはやさしいことではない。
「一度、ダメになってしまったピッチャーは再起してもバッターになめられてしまう。新しいピッチングの組みたてを考えるか、新しい球種を身につけないと、ダメですね」
足立は、ブランクのあいだに変化球に磨きをかけた。力だけでバッターを抑え込もうとは思わなかった。速球でバッターを三振にうちとるのは気持ちのいいものだ。しかし、それができなくなっても、マウンドを守ることはできる。
足立はいくつもの〓“壁〓”をこえてきたピッチャーである。日本シリーズ最終戦、シーソー・ゲームの中でも冷静でいられる。第6戦の大逆転劇に、巨人ファンは酔った。そしてその勢いを第7戦にも期待して、後楽園球場は熱気をはらんでいる。しかも6回、巨人はついに逆転した。長嶋監督は例によって大きなジェスチャーで6回、逆転のホームを踏んだライトを迎えた。長嶋監督は一気に勝負をつけるつもりだった。ピンチ・ヒッターも早目に使っている。
それが最後のシーンでたたってくるとは、長嶋監督は多分、考えていなかったろう。
7回表、阪急は2点を追加し、あっさりと3―2と逆転した。森本の2ラン・ホームランである。そして8回には福本がライトスタンドにソロホームランを打った。これでスコアは4―2だ。
「最初は完投するつもりはなかった。とにかく投げられるところまでいく。最低限、終盤戦まではもちこたえよう」と考えていた足立は、6回のピンチを脱したあと立ち直り、ゲームは最終の9回裏に入っていく。
足立がいう。
「9回の先頭バッター・王をうちとった。自分じゃ、そんなつもりはなかったんだけど、これでホッとしたんでしょうね。次のバッター・淡口に対しては全然ストライクが入らない。急に腕が縮まってしまった。プレッシャーがかかったのかもしれない。あんなことは初めてだった。でも、次の高田のときはもう立ち直っていた。セカンドフライにうちとってこれでツーアウト。そこにピンチ・ヒッターの原田が出てきた。代打の切り札でしょうね。この試合でもう柳田、山本(功)は使われていた。原田が左の最後の代打ですよ。その原田にヒットを打たれた。この時、もう一人左の代打が残っていたらこわかったでしょうね。原田に打たれたあと、2死一、二塁でもう一人左打者と対決しなければならない。長嶋監督は早い回に柳田、山本(功)を使ってしまったから、残りは山本(和)しかいないんですよ」
それゆえ、マウンド上の足立は原田にヒットを打たれ、2死一、二塁になった時も、心配はしていなかった。次打者、河埜はその日2三振。かわるバッターは山本(和)しかいない。キャリアの浅い、日本シリーズ初出場のピンチ・ヒッターである。
後楽園球場は、しかし、第6戦の逆転劇のイメージをだぶらせて熱狂している。その前年、一年目の長嶋・巨人は最下位におちこんだ。51年は、そのドン底からはいあがってセ・リーグのペナントを握ったわけだった。長嶋監督ならば……と巨人ファンは思ったはずだ。奇跡をおこしてくれるはずだ、と。
四万六千人の観客は我を忘れてそのシーンにのめりこんでいった。声を出すだけでは足りず、手近かにあるものをグラウンドに投げ入れた。それが、最後まで踏んばりつづけている足立投手のペースを乱すのに役立つのではないかと考えたのかもしれなかった。
足立は、陽が西に傾きかけている後楽園球場のおわん型のマウンドに立って、四万六千人の熱狂を見つめていた。
そして、一人、こんなふうにつぶやいていたのだという。
「もっと騒げ! もっと騒げ」
と。
スタンドが、マウンド上のピッチャーに対して敵意を見せるとき、足立はむしろ逆に冷静になれた。声援のおかげで一塁側、巨人ベンチから放たれるヤジも聞こえてこない。このどよめきはピッチャーだけでなく、若いバッターにも同時に聞こえているはずだ。「ならばもっと騒げ!」と、彼はマウンドの上で思う。
やがて足立はセット・ポジションに入る。二人のランナーを見つめ、左足があがる。右の腕は地を這《は》うように低いところから振りあげられる。
パ・リーグがセ・リーグを名実ともに倒した一瞬は、その直後にやってきた。
アウトコース――落合博満
野球に関して好きな話が、いくつかある。
例えばこれは、ちょっと昔のアメリカ野球の話だ。とてつもなく足の速いキャッチャーがいてね――と始まるやつがある。
ある日、バッターが一、二塁間のゴロを打った。一塁手は打球を追って走る。ピッチャーがベースカバーに入るところだ。ところが、一塁手がかろうじてその打球をつかむと、ピッチャーはまだマウンドにいた。彼はヒットを打たれたと思ってマウンドから動こうともしなかったのだ。それでもバッターは一塁でアウトになった。なぜかって? キャッチャーがバッターより先に一塁ベースに辿《たど》りつき、一塁手からの送球を受けたからさ。
「あんなに足の速いキャッチャーはそれ以後お目にかかったことがないね」
そんな話を メA Season in the Sunモ という本の中でアーティ・ウィルソンがスポーツ・ライターのロジャー・カーンに向かって語っている。
余談になるけれど、この本は日本ではなぜか『輝けるアメリカ野球』というタイトルで翻訳されている。ケチをつける気はないが、これはメイン・タイトルにすべきではなく、あくまでサブ・タイトルにしておくべきだと、ぼくは思う。同じロジャー・カーンには メThe Boys of Summerモ という本がある。直訳すれば「夏の少年たち」となってしまうが、これはかつてニューヨークにあったブルックリン・ドジャース(今のLAドジャースの前身)の名選手たちのその後の人生をフォローしたものだ。同時にそれは1950年代のニューヨークに対するノスタルジーにもなっている。メSummerモ あるいは メin the Sunモ というニュアンスがなぜ野球につくのか、ぼくは詳《つまび》らかには知らないが、野球がそもそも夏のスポーツであることと無関係ではないだろう。ともあれ、ぼくはロジャー・カーンの本のタイトルのつけ方が好きだ。メThe Boys of Summerモ のほうはまだ翻訳されていない。が、いつか訳が出ることがあればそのタイトルに気をつかってほしいなと、思ってみたりする。
話を戻そう。
アーティ・ウィルソンはニグロ・リーグ(というのが昔はあった)から戦後メジャー・リーグに入ってきた名選手だ。同じようにニグロ・リーグからメジャー入りした選手の中には例えばサッチェル・ペイジというピッチャーがいる。ユニークなピッチャーだった。黒人選手がメジャー・リーガーとしてプレイできるようになったとき、サッチェル・ペイジは五十歳をこえていた。それでもペイジはスカウトされ、かなりの働きをした。そのサッチェル・ペイジの思い出話がある。
「ジョッシュ・ギブソンというバッターがピッツバーグで行われた試合でホームランを打ったんだ」というのだ。打球はスタンドをこえてはるか東の空へ飛んでいった。翌日、ギブソンはフィラデルフィアで試合に出た。すると相手チームのセンターが突然、バックし始めボールをキャッチした。審判は、そこでギブソンにいった――。
「昨日のホームランは取り消しだ」
残念ながら昔の話だから、もう記録は残ってないかもしれない――と最後に一言つけ加えられるお話なのだけれど、アメリカ野球の気分が伝わってくるようで面白い。
前置きが長くなってしまった。
ぼくはロッテ・オリオンズの落合博満の話を書こうとしているのだ。
アメリカ野球の話を先に書いたのは、日本でいえばセ・リーグよりもパ・リーグの野球のほうが、アメリカ野球に近いものを持っているのではないかと思われるからだ。もちろん、アメリカ野球といってもいろいろなタイプがある。巨人がかつて、そのきめ細かさを学んだのはLAドジャースからだった。そうではない、あらっぽい野球も、もちろんアメリカにはある。パ・リーグ野球とイメージの地下水脈でつながっているのはちょっと前の、アメリカ野球かもしれない。
巨人軍のユニフォームを着る者は紳士でなければならない、という戒めがある。それが圧倒的多数のファンを集めているジャイアンツ野球を象徴している。ブロンクスの動物園にいてもおかしくないような荒々しさを持った男たちが血眼になって一個の白球を追いかけるところに野球の面白さがあることは、ジャイアンツ野球を見ていたのではわかりにくい。
プロ野球の伝説は、何本ものCFに登場した選手ではなく、ユニークなキャラクターで一時代を走り抜けていく選手から生まれるものだ。そう思いたい。
落合博満のバッティングは、一度は見る価値がある。
ネット裏の、やや高いあたりか、一塁側の席がいいだろう。ぼくは何度か、アウトコースの変化球を落合のバットが絶妙のタイミングで捉《とら》え、打球がライトスタンドにとびこんでいくのを見たことがある。ストレート、カーブ、スライダー……球種に関係ない。アウトコースにきた球を、アッパー・スイングで、払うようにバットを振ると打球はピンポン球のように高々と弧を描き、あるいはラインドライブで右中間へ飛んでいく。
もちろん、アウトコースしか打てないわけじゃない。落合は81年、82年と2シーズンつづけてリーディング・ヒッターのタイトルをとっているし、82年はホームラン、打点の部門でもトップに立った。つまり、三冠王だ。決定的なウィーク・ポイントを持っているバッターなら、三冠を手にすることはできない。インコースのシュートボールを、つまりながらも三遊間へ持っていくテクニックも、落合は持っている。しかし、ぼくは、落合は真ん中から外側、つまりアウトコースのバッターであると、思うことにしている。
82年の夏の終わりだったと思う。野球のシーズンが幕を閉じるにはまだ間があったが、ぼくは落合が三冠王をとるのではないかと勝手に思いこんで早目のアポイントをとって会いに行った。
「アウトコースの話を聞きたいと思ったんだ」
ぼくはいった。
「それは野球のアウトコースのことかい? それとも人生のアウトコースのこと?」
落合はそういってニヤリと笑った。
「ぼくは落合博満という男がジャイアンツ・ファンであった時期は一度もないと思っているよ」
そんな会話から始まったことをおぼえている。
落合の語ったことを書き記してみよう。
「知ってると思うけど、おれは一度も甲子園に行ったことはないんだ。高校野球の話だよ。野球は嫌いじゃなかったし、それなりの選手としてやることはやってた。練習を除けばね。甲子園に出るのが夢じゃなかったのかって? おれにとって、夢はむしろ映画館にあったような気がするな。学校さぼって、練習もさぼって映画ばっかり見てたからね。年間、百本近く見てたんじゃないかな。何度も見たのが『マイ・フェア・レディ』。朝一番に映画館にとびこんで最後まで見てたんだ。それを七回ぐらいやったからね。合計すれば二十回以上見てるんじゃないかな」
「アッパー・スイングっていうのは子供の時分に野球をやってるときにおぼえたんだろうね。
小さいとき、田舎《いなか》で育ったからね。野球の道具が揃《そろ》っていていつでもできるっていう話じゃないんだ。テニスの軟式のボールがあるでしょ。あれを投げて打っていた。あのボールはいくらでも変化するんだ。投げた奴《やつ》だって、どう変化するかわからない。手もとにくるのをひきつけて、思いきりすくいあげる。遠くまで打つにはそれしかない。それでクセがついたのかもしれないな。三角ベースでおぼえたワザだな。
中学に入ってからもそうだね。雨の時、体育館で野球しようとするでしょ。雨天練習場なんてないから、そこでもやっぱりスポンジ・ボールでやるわけ。フニャフニャのテニスポールだね。ずっとそんなことやってたな。
高校時代もそうだね。監督はそのフォームを直せともいわなかった。三年の夏の大会かな。地区大会のある試合で監督が怒り出してね。もう知らん、お前ら勝手にやれっていうわけ。それじゃってんで勝手にやったら同点に追いついた。監督がそこで色気を出した。負けましたね、その結果。そういうチームでしたよ。
大学(東洋大)へ進んで、そこでも野球をやったけど、すぐにやめてしまった。ケガしたせいもあるけど、大学の野球部というところが、おれの体質に合わなかった。嫌いでしたね……。田舎へ帰ってふらふらしてた。工事現場のアルバイトをしたり。ボウリングの腕もあげたな。アベレージで200点ぐらいコンスタントに出してた。プロになるかなと思ったりしたけど、あれはプロになっても食えないだろう。
……二年間、そんなふうだったんだ。野球なんて全然、やっていなかった。何も考えていなかったね。それから東芝府中に入ったんだ。野球再開だね。よかったと思ってる。いろんな人と接することができたからね。それとおカネのありがた味がわかった。
東芝府中で野球だけやってたわけじゃない。発電所に納める制御盤を作ってたんだ。同じ職場に、十代後半のやつもいれば、五十代の人もいる。世間には、いろんな人間が生きてるんだってことを知ったんだ。それがよかったと思う」
ノンプロで、落合は光り始めた。突然、ではない。東芝府中には四年間、在籍した。そこで活躍するまでは、プロのスカウトも、落合の力に気づかなかった。
77年の秋、阪神のスカウトが落合を見にきた。落合はいった。ドラフトで指名してくれればどこへでも行くよ。阪神は指名しなかった。78年秋、十球団のスカウトがやってきた。落合はまたいった。おれはどこへでも行く、と。
そして、落合を指名したのがロッテだった。
「正直いって不安もあった。もう二十五歳だったからね。プロ入りするにはおそい年齢だよ。でも、チャンスはつかむほかないんだ。だれのでもない、おれの人生なんだから。やりたいようにやる。そう決めた。おれを買ってくれるところがあるんだ。やらなきゃウソだよ。自分の生き方に、後悔したくなかったんだ」
アウトコースのきわどいところを歩いてきた。スピン・アウトしたっておかしくない場面もあったはずだ。しかし、不思議にこの男は三振をしない。ワンテンポ、タイミングがおくれたかなと思うあたりでバットを出す。その瞬間の、スイングの速さが身上だ。投げられた球を払うように、打つ。気がついたら落合は、ロッテの四番打者の座につき、三冠王のタイトルまでものにしている。
日ハムの江夏が「落合っていう奴《やつ》はわからん」といっていた。
「あいつはバッター・ボックスに入るとピッチャーの投球コンビネーションを読んでくるはずなんだ。そういうタイプだと思う。ところが、思わぬところでバットを出してくる。スコンと打たれることがあるんや。で、聞いたことがある。なんであの球を打てたんや? と。あいつはこういうとった、だっておれ、何も考えとらんからね。真顔でそういうから、わからなくなる」
趣味、特にナシ。酒、かなり飲める話になっているが、じつはさほど飲むわけじゃない。クルマにも、感動的なほど興味を示さない。ゲームが終わると、遠征先ならばホテルに戻り、しばらくは呆《ぼう》然《ぜん》としてベッドに横たわっているという。何かを考えているわけじゃないさ。本人はそういう。ただじーっとしていればいいんだ。ボリュームをしぼったテレビがチカチカと見えていたりして、でも、それを見ているわけじゃない。何もしていない。そういう時間が嫌いじゃないね……。
ロッテというチームに執着してるわけじゃない。どこだっていいんだよ。ほかのチームに行けといわれりゃ、いつだって行くよ。ホントに、おれはどこだっていいのさ。それもまた落合の口グセの一つだ。
どこへ行ったって一人前以上の仕事をしてみせるという自信のあらわれでもあるけれど、それだけじゃない。彼はいつか、どこかで一度、自分を放りなげてしまったことがあるのではないか。どうだっていいのさ、と。だから世間も自分も、野球をも、冷たく見つめているもう一つの目が彼自身の中に棲《す》んでいる。
アウトコースの球を、うるさそうに払い打つバッティングを見ていて、ふとそんなふうに思ったことがある。
「アウトコースばかり打って4割を打ちそこねたバッターがいたんだよ。あるシーズンの最後だった。あと1本ヒットを打てば4割というところで、そいつは内角の絶好球を見逃したんだ。もう昔の話だけどね……」
そんな話を書いてみたい気がする。
チャンピオン――渡嘉敷勝男
数字がいつも、頭のすみから離れない。
ボクサーは無意識のうちに数をかぞえている。ジムの壁にかかった時計の秒針がコチ、コチと時を刻む。その音が聞こえてくることがある。1、2、3……秒針に合わせてかぞえるが、“テン”まではかぞえない。テン・カウントの前で、素早くほかのことを考える。
時を刻む音が聞こえてくるのは、まだ練習生がさほど集まっていない午後のジム。三分、一分、三分、一分……と、リングに上がっているときと同じ間隔でくりかえされるトレーニングの、一分のインターバルのときだ。ゴングが鳴る。サンドバッグを叩《たた》いていた男がピタリと動きを止める。シュッ、シュッと、シャドウボクシングを続けていた男がふーと長い息を吐き、宙をにらむ。カタ、カタと規則的にフロアを打っていた縄とびのロープの音も消える。一瞬、静けさがやってくる。汗が流れ落ちる。ジムはその汗の結晶でみがかれるのかもしれない。汗の水分は蒸発しても、臭いがそこかしこにこびりついている。ハア、ハア、荒い息づかいが聞こえる。時が刻まれる。再びゴングだ。物理的に六十秒が経過すると、ゴングが即物的な音で次のトレーニングをうながす。三分、一分、三分……。それを何セットくりかえしたか、ボクサーはそれだけをかぞえている。
渡嘉敷勝男はサンドバッグを叩いている。叩きつづけている、といったほうがいいだろう。自分の体重よりも重い砂のつまった皮袋が大きく揺れる。ワンツー、ワンツー、スピードのあるパンチがくり出される。そこでもまた、数字だ。
ボクサーとは、三分、一分、三分、一分と流れていく時間の感覚を体に覚えこませている人間のことだ。
サンドバッグに向かって、渡嘉敷は三分間に平均して百発のパンチをくり出す。それが彼の三分だ。ゴングが鳴る。彼は深い呼吸を四十回ほどくり返す。それが彼の一分だ。
三分、そして一分。まるでチェーンのようにつながっていく時間のなかで、プロボクサーは苦闘している。
ワンセット四分、それが十五回くりかえされるのが世界タイトルマッチである。一時間。いや、正確にいえば十五番目のラウンド終了のゴングが鳴るのは最初のゴングが鳴ってから五十九分経過したときだ。
1981年12月16日、渡嘉敷は五十九分間という時間に耐えてチャンピオン・ベルトを手にした。場所は仙台の宮城県スポーツセンター。
挑戦者・渡嘉敷は負けるだろうといわれていた。WBAジュニア・フライ級チャンピオン、韓国の金煥珍はベテランのハードパンチャーである。二十七歳。20勝(8KO)2分けという戦績のほか、アマチュア時代には29勝(20KO)5敗という記録を残している。渡嘉敷は世界タイトルに挑戦する段階で、まだ15戦しかたたかっていなかった。13勝1敗1分け。それが彼の全成績だった。KO勝ちは、わずかに二回。15試合の内訳を書けば4ラウンド・マッチが6試合、6ラウンドが3試合、8ラウンド1試合、10ラウンドが5試合だ。
キャリアは浅い。パンチ力も弱い。
タイトル挑戦の試合だけでなく、渡嘉敷はいつも今度は負けるのではないかといわれてきた。チャンピオンになった直後、金平会長の〈オレンジ事件〉が発覚した。最初のタイトル防衛戦で渡嘉敷は自分がホントのチャンピオンであることを証明してみせると意気ごんでリングにあがった。15ラウンドをたたかい抜いたあと、渡嘉敷はリングの上で絶叫した。
「こ、こ、これが、ボクシングだ!」
その試合、渡嘉敷は判定で勝ったが、テレビを見ていたボクシング・ファンは渡嘉敷が負けていたのではないかと思った。そのうえ「これがボクシングだ!」と叫ばれたのだから、鼻じろむほかなかった。本人の意気込みが、ボクシング・ファンに伝わりきらず空まわりしてしまうのだった。
それはともかく、話を戻そう。タイトル挑戦のとき、渡嘉敷はパンチ力不足をいわれたわけだった。
そのハンディを克服するためには積極的に、的確なパンチを数多く打っていくほかない。
世界タイトル戦ではファースト・ラウンドから渡嘉敷の手《て》数《かず》がまさっていた。2ラウンド、3ラウンドと進むうちに渡嘉敷の優位は誰の目にも明らかになっていく。左のジャブから右のストレート、左右のフックでチャンピオンをコーナーに追いつめ、上下に正確なパンチを決めていく。
「それにしても――」
と、渡嘉敷は思った。
「15ラウンドは何て長いんだ」
ボクシングを始めたときから〓“三分〓”という時間の長さを彼は感じていた。リングにあがる。ゴングが鳴る。そこまではいい。そこから始まる三分が、とてつもなく長い。
渡嘉敷が初めてグローブをつけてリングにあがったのは、まだボクシングを始めて間もないころ、ジムでスパーリングをやらされたときだ。反対側のコーナーにはヘッドギアをつけた選手がいた。彼は拓大の学生だといった。
ゴングの音と同時にトレーナーが「行け!」と、渡嘉敷の背中をどついた。
たかが三分のことだ。どうってことないと渡嘉敷は考えた。めいっぱい打ちまくってやればいい。さんざん、ケンカで殴りあいはしてきた。それと基本的に変わることはない。要は相手の顔面にグローブをめりこませてやればいい。
が、しかしだ。いいように殴られ、パンチをあびせられたのは渡嘉敷のほうだった。ヘッドギアの上から殴られているのに、思わずアゴがあがった。一発、二発……ゴングは聞こえてこない。ぬやろー、とむきになって殴りかかっていく。慣れた選手はいとも簡単にダッキングでそれをかわす。ボコッ! いっそ気持ちいいくらいのパンチが、その直後にやってくる。
「ちょっと待て……」
と、渡嘉敷は思った。「これはケンカとは違うぜ」
「おれはケンカはしてきたけど」と、彼はあとになって冷静に考えてみた。「ケンカは一瞬のうちにケリがつく。長くて数分だ。五分も十分も殴りあいをつづけるなんてことは、めったになかった……」
それが渡嘉敷のプロボクサーとしての第一歩だったのだろう。
ケンカは嫌いではなかった。
ちょっとしたワルがたいていそうであるように、渡嘉敷もケンカに勝つことが生きがいだったりした時期がある。
生まれたのは沖縄だが、沖縄のことはほとんど何ひとつ、おぼえていない。生まれて間もなく家族は宝塚に移った。ここは遊園地と劇場、温泉だけの町じゃない。阪急電車にちょっと乗れば大阪の街に出る。
父親は自動車の修理工場をやっていた。殴ることは、オヤジを見ておぼえたのかもしれない。
なにかいうと、殴りとばされた。
「イッパツ、バチーン。それだけで窓ガラスのあたりまですっとんだからね」
父親が酒を飲みに出る。飲んだ先で知りあった男どもを家に連れてくる。そこでまた、飲む。そしていさかいになる。「オヤジはいつもそうなんだ。で、最後は殴りあいや」
中学を卒業するころまで、このオヤジがこわくて渡嘉敷は口もきけなかったという。
そのくせ、外へ出ればいっちょまえのワルだった。タバコ、酒……中学のころにはもうしっかりとおぼえていた。
157〓。現在の身長だ。小さい。それが渡嘉敷にとっては問題だった。もっと大きくなりたいと思った。なめられてしまうからだ。スポーツもやった。ガキのころは野球だ。御所前ジュニアーズ。それがチームの名前。セカンドかライトを守って打順は1番。そんなところだった。中学ではいちおうサッカー。それでもたいして背は伸びなかった。
「なめんなよ」――渡嘉敷はいつも、そういう雰囲気で歩いていた。気張ってないと、背が小さいから無視されてしまう。それはガマンできないことだった。
高校に進む。浪速工業高校。リーゼントのツッパリにいちゃんが集まってくるところだ。
渡嘉敷が気に入っているエピソードがいくつかある。
入学式の日、渡嘉敷は精一杯、キメてやろうとした。
ヘアスタイル。当然、リーゼントだ。いつもより早く起きて、念入りにクシを入れた。ガクラン。当たり前のものを着れば、それだけの男としてしか認知されない。大きなカラーの、応援団が着るようなやつを見つけてあった。首が長いわけじゃない。当たり前の、サイズだ。その渡嘉敷がアゴを心もち上向きにしながら、入学式の会場に入っていく。なめんなよ。渡嘉敷はゆっくりとした歩調で歩いた。
隣に男が一人、やってきた。
バカでかい男だ。身長180〓はあるだろう。
「オニイさん――」
その男がいった。
「格好いいけど、どこの学校から来たん?」
男が少し背をかがめるようにして話しかけてきたのが、渡嘉敷にはうれしかった。まわりの人間から見れば、あのデカイ男が、何やしらんなまいきそうなちっこい男に頭下げてるで。そう見えればいいと、渡嘉敷は思った。
カッコつけなあかん。「それも、実力以上にカッコつけるべきや」――それが渡嘉敷のテーゼだった。
電車の中で「ちょっとした女のコ」に出会った。渡嘉敷はジッと彼女の顔を見つめる。チラリと視線が合う。さらに見つめる。のぞきこむように、だ。そのうち、女の子が笑い出した。ニコッ。それでいい。彼女が降りた駅をマークして、数日後徹底的にさがし始めた。まず、出身中学のあたりをつける。制服から今通っている高校を割りだす。そのクロス・チェックで浮かびあがる何人かの女のコの家に、卒業名簿をたよりに電話をかけまくる。アゴの下に小さな傷があったはずだ。見つけだすまでは必死だ。
やがて見つかった。一か月ほどたってからだ。「あ、わかった。電車ん中でのぞきこむみたいにしてたあの小さいんでしょ」
デート成立。阪急沿線の、ある駅前が待ち合わせ場所だ。
渡嘉敷は仲間と一緒に待った。彼女も何人かの友達をつれてくるという。季節は夏だ。ゴムぞうりにアロハを着て、目にはグラサン。タバコふかして、リーゼント。やりすぎだ。
彼女はやってきた。遠くからアロハのツッパリにいちゃんたちを見ている。そして、おずおずと寄ってきていったのだ。
「あの……私たち、帰ります」
「ええやろ。喫茶店、行こ」
「でもー、こわいから。帰ります」
結局、その日はソフトクリーム食べて別れたのだが、渡嘉敷はその女のコと、その後しばらくつきあうことになる。
ええかっこしい。渡嘉敷はまるでそのタイプだった。
高校の食堂。お茶の入ったやかんを独占しているのは、たいてい二年生だった。一年生は、何となくそれをとりに行けない。
渡嘉敷は自分の出番がそこにあることを知っている。
例のガクランを着て、ゆっくり歩いていくのだ。で、一言――「おい、そこのやかん、とれや!」
ナマイキ。「いわれてたね。たしかにナマイキやったから。相手から目え離したらいかんのや。にらみつける。ケンカになったら、力じゃない。いくんだね。やるとなったらやる。あとは何もない」
渡嘉敷の仲間が呼び出しをくらった。呼び出したのは、ほかの高校のグループだ。が、出かけていったのは、彼一人だった。
また、例の、大きなエリのガクランだ。むこうのほうで木刀なんか持って数人、たむろしている。
「おい」
「なんや」
「来たで」
「……来たでって、お前一人か?」
「やるんやろ」
「けどさあ」
相手はいった。
「こんなちっこいの一人なんて、やれんよ」
以上が渡嘉敷の好きなエピソードだ。
補導されたのも高校一年の時だった。
喫茶店で仲間とタバコをすっていた。よくあることだ。男と女、つまりカップルと見える二人が近づいてきた。いったのはそのうちの女のほうだった。
「タバコ、消しなさい!」
「アホか、お前!」
すかさず目の前に警察手帳。こりゃ、まずい。調書をとられ、その通知が学校に届く前に彼は担任にいった。補導されたんだと。
担任はいった。「お前なんか、学校こなくていい!」
そこまでいわれれば、渡嘉敷はこういってカッコつけざるをえない――「くるか、こんな学校!」
家出して東京に来たのはその直後だ。友だちと二人。所持金はわずか三万円である。ちょっとしたドジを踏んだのだ。家を出ると書き置きをして、夕方一度、銭湯へ行った。そのあとでコッソリ、金を持ってぬけ出すつもりだった。風呂から帰ると、弟が窓のところから彼を呼びとめた。「手紙、見られちゃったよ」。風呂あがりのまま、家出した。金はほとんど持っていない。仲間がわずかに持っていたのが三万円だった。
東京駅の地下街で一泊、野宿。翌朝、手配師がやってきた。そこでいさかいになろうとしたところで警察官が現われてしまった。家出失敗である。
ボクサーになろうと思ったのは、そんなときに具志堅用高の試合をテレビで見たからだ。具志堅はまだチャンピオンになったばかりだった。第一回目、第二回目の防衛戦を渡嘉敷はテレビで見た。
何よりも印象に残ったのは、具志堅の身長、体重がスーパーで出たことだ。そこにはこう書かれていた。〓“具志堅用高 157〓、48〓〓”
おれとほとんど体つきのかわらない男が世界チャンピオンになっている。
それが協栄ジムに入るきっかけだった。ほかに理由はない。それだけあれば十分だろう。1977年の3月、横浜にいる兄を頼って上京し、4月、ジムの練習生となった。十七歳だった。
プロになるのはさほどむずかしいことではない。まず、ボクシングの基本を身につける。プロテストがある。そこでチェックされるのはテクニックではない。
「プロとしてのファイトがあるかどうか。そこだね」
三十秒のスパーリングが行われる。とにかくファイトを見せればいい。78年9月29日、渡嘉敷勝男はプロボクサーとして登録された。
4回戦ボーイとしての試合が組まれる。ファイト・マネーなど、ほとんどないも同然だ。バイトをしながら、ボクサーはじっとチャンスを待つ。
デビュー戦はその年の12月28日の後楽園ホール。相手は浜田信男。渡嘉敷は判定で勝った。
プロらしい試合なんかじゃない。
第一、減量の仕方を知らなかった。
「食べなけりゃ、体重は増えないと思っていたんですよね。そのかわりに水やコーラばっかり飲んでた。実は水分が一番太るんだ。ジュニア・フライ級のリミットが48・9〓。なのにオレ、52〓もあった。汗出してサウナ入って、数日間で必死になっておとしたんだよね。三日間ぐらい、ほとんど何も食わなかった」
それで計量はパスしたが――
「人間の胃っていうのは、食べてから五時間ぐらいたたないと食べたものを消化しないんだ。そのことも知らなかった。何日間も食ってなかったから、一気に消化するだろうと思ってたんだよ。ハハハ。試合前、ハラへってね、あと一時間ぐらいで試合が始まるというときにメシ食って、それでも足りずにケーキ、ジュース……。めいっぱい食べた。ケーキは小さく切ったやつじゃなくて、丸くて、大きいのを全部。リングにあがってからが苦しかった。そりゃそうですよね。あれだけ食べてるんだから。ハラはきついし、動けない。バン、バンと打っても、すぐ自分のほうからクリンチしたりして。コーナーに戻ると、ウッ、もどしそうになっちゃうんですよ」
それがデビュー戦だ。
第2戦は、その一か月後、79年の1月26日だ。このときも、まだプロらしくはない。
「試合の五時間前なら何食っても大丈夫だろうと、このときは冷たいものばかりほしくてね。チョコレート・パフェとか、コーラとかジュースとか。それが失敗。第2戦もベスト・コンディションじゃなかったね」
計量は、試合の八時間前に行われる。そこをパスしてしまえば、あとはOK。食う選手もいれば眠る選手もいる。
渡嘉敷が強くなってきたのは、試合を経験することよりも、むしろ具志堅のスパーリング・パートナーをつとめたからだろう。
練習生としてボクシングを始めて三か月ほどたったころから、渡嘉敷は具志堅の殴り相手だった。
渡嘉敷はアマチュアの練習生とスパーリングをしても、まだタイミングがつかめないころだ。
具志堅は、その渡嘉敷を相手に、手を抜かない。初めて3ラウンドのスパーリングをつとめた晩、渡嘉敷は熱を出した。
ヘッドギアの上からでも、角度とタイミングのあったパンチをくらうと、ダメージはかなり大きい。チャンピオンは容赦がない。絵に描いたようなストレート、アッパー、フックの連打がとんでくる。渡嘉敷はグローブでガードすることができない。顔で受けるのだ。その関係は、具志堅がチャンピオン・ベルトを失うまで続いた。
「むきになって打ってくるんですよ……」
渡嘉敷はいう。
「このヤロー、つぶしてやるっていう感じでね。チャンピオンはただ打つだけじゃなくて、ひっくりかえしてやろうっていう気迫で打ってきた。力を比べると、ぼくのほうが強い。腕《うで》相撲《ずもう》をやっても、引く力、押す力、はるかにぼくのほうが強い。それなのにパンチはチャンピオンのほうがはるかに強い。なんでかなと、思いましたよ。そう思いながらバッシバシ、殴られた……」
それがよかったと、渡嘉敷は素直にいう。
一瞬、具志堅のふところがあくときがある。渡嘉敷は今だと、そこに踏みこんでいく。そのとき、しかし、渡嘉敷は絶妙のタイミングのパンチを受けている。パンチはパワーだけではないのだと、いやというほど思いしらされる。
ゴングが鳴る。具志堅がすぐに鋭いパンチをくり出してくる。ガードする。その上からも重いパンチが入る。足を使ってまわりこみ、パンチを出す。チャンピオンのパンチは、それよりも速い。打たれる。一方的に打たれていくなかで、時計の針は殴られているボクサーにまるで無関心のように正確に時を刻みつづける。三分。ゴングが鳴る。一度、ゴングが鳴るたびに渡嘉敷は、したたかに打たれ、きたえあげられる。
倒れそうで、倒れない。具志堅はここぞとばかりに打ちこんでくる。それでも倒れない。パンチの数は具志堅に負けずに出してくる。ボクサーはエネルギーの総てをリングの上ではき出す人間だ。試合前、一か月はセックスも控える。スパーリングであっても、リングの上であることにはかわりがない。まるで本気になって、チャンピオンは打ちこんでくる。ゴングが鳴り、一分たつとジムのゴングはまた事務的に鈍い音をたてる。そしてまた――。
具志堅が息を切らせながらいったことがある。
「こ、こいつさあ、ハー、ハー、根性、あるよ。なかなかさ、フッ、ハッ、いいよ」
さほど昔のことじゃない。渡嘉敷がチャンピオンになる二年ほど前のことだ。
その渡嘉敷が、やがて、チャンピオンになった。
彼は具志堅から多くを学んだ。例えば、渡嘉敷が次のようにいうとき、そのなかに、具志堅を反面教師として、学んだことも含まれているはずだ。
世界で最も体の小さいボクシング・チャンピオンはいった。
「オレ、しっかり金ためます。億単位ぐらいね。そしたらボクシングをやめてマンションでもたてて、その一階でステーキ屋を開くんだ。それが夢です」
チャンピオンが、あまりにもリアルな夢を見るようになってしまったことを嘆くべきなのだろうか――。
7回戦ボーイ――小林繁
突然、不安がしのびよってくる。そういう瞬間が誰にでもある。それまで当然のようにできたことが、その瞬間、できなくなってしまう。あるいは、うまくできないのではないかという思いに包まれてしまう。
阪神タイガースのマウンドを守る小林繁がその不安にとりつかれたのは、1982年の春のことだ。
彼はマウンドに立っていた。悪くない調子だった。ストレートの伸びもまずまずだ。アンダースロー投手特有のシュート・ボールも切れがいい。コーナーも見えていた。これは重要なことだ。ピッチャーズ・プレートからホームベースまでには18・44mの距離がある。ストライク・ゾーンの左右の幅は43・18〓。極端に狭いわけじゃない。
プロのピッチャーは、しかし、その内側のどこへでも投げればいいわけではない。真ん中に投げることはさほどむずかしくはない。球一つ外れればボールと判定されるかもしれないコーナーに、狙《ねら》いどおりの球が投げられるか、それが問題だ。調子のいいときのピッチャーには、指の先からコーナーいっぱいに、ピンと張った糸が見えている。パターを構えたプロ・ゴルファーには均一に刈り込まれた芝に溝が見えることがあるという。パッティング・ラインが見えるのだ。同じように、ピッチャーはマウンドからホームベースの間に、一本の糸を見る。イメージの中の弾道、である。
その日の小林には、当然、それが見えていた。調子は悪くなかった。いいテンポで、投げつづけていた。不安は、そんなとき、突然やってくる。例えば、マウンドの土をかきならしている時である。例えばロージン・バッグを手にとり、白い粉をてのひらに感じた瞬間である。あるいは三塁を守っている掛布が所在なげにグラウンドに立ち、手首のサポーターをとめなおしているようなときだ。つまり、何気なく時間が流れているとき、不意に小林は、ある思いにとりつかれてしまう。
うまく投げられるか、と。
ちゃんと投げられるのだろうかという不安が頭をもたげてくるのだ。
何をいってるのかと、自分でそれを打ち消す。今までこれだけのピッチングをしてきたではないか、突然、調子が崩れるわけがない。しかし、小林は思ってしまう。今、右手に握っているボールがうまく手を離れてくれないのではないか……。そのとき、小林にはコーナーが見えなくなっている。ストライク・ゾーンに投げることはできる。しかし、コーナーが見えない。ついさっきまで、イメージのなかでピンと張られていた一本の糸が、どこかに消えてしまう。
小林はつとめて平静を保とうとする。そんな不安にとりつかれていることをバッターにさとられてはならない。ピッチングに間を置き、あたりを見回す。
しかし――。
その不安は去らない。ピッチングに対する集中力が急激に落ちる。そういうことが何度もあった。
コントロールが乱れるくらいなら、誰にでもあることだ。試合が後半にさしかかればピッチャーは100球近い球を投げている。集中力が落ち、甘い球がスッと真ん中に入っていく。それはどんなピッチャーにもあることだ。
小林が感じる不安はそれとは違う。後半で突然、疲れが出るわけでもない。ただうまく投げられないのではないかという思いにとりつかれてしまうのだ。バッターと対《たい》峙《じ》しながら、彼は他方で自分と格闘しはじめる。ひそかに、心の中でもがき始める。ピッチングにいいはずがない。その結果、打ちこまれる。そんなことが何度もつづいていた。小林は〈7回戦ボーイ〉と、呼ばれる始末だった。つまり、後半7回に入ると、突然、制球力が落ちるのだ。
理由はわかっていた。
すべては82年の開幕戦にある。横浜スタジアムでの対大洋戦。小林は先発した。
「完《かん》璧《ぺき》だったよ」
彼はそういった。
「おそらく、プロに入ってあれほどのピッチングができたことはなかった。スピード、コントロール、バッターとのかけひき、すべてにおいて、ぼくは完成の域に達したと思っていた。あんなピッチング、めったにできるもんじゃない」
たしかに小林のいうとおりだった。大洋は1回、2回に各1本のヒットを打ったが、それだけだった。3回以降は、小林にパーフェクトに抑えられている。2安打に大洋打線を抑えたから完璧だと思ったわけではない。その日の小林にとっては、ヒットの数は問題ではなかった。あらゆる局面で思いどおりのピッチングができた。例えば、三振を狙《ねら》ったとき、あらかじめ考えたとおりのコースに球がいき、バッターは思ったとおり空振りした。そういう日は、めったにない。
阪神は2点をとっていた。最終回、マウンドに向かった小林の気分は高揚していた。開幕戦の完封。しかも、思いどおりのピッチングを展開している。
ところが、小林はその十数分後、青白い顔でベンチにひきあげることになる。高木(豊)、基にヒットを打たれ、長崎をうちとったものの、田代、ラムに連打を浴びた。あっという間に同点に追いつかれてしまった。
バッター・ボックスに迎えたのは高木(嘉)だった。その次のバッターはガイジン選手・マークである。阪神ベンチは高木(嘉)を歩かせるように指示した。小林は迷った。キャッチャーの若菜が立ちあがる。1球、2球、ボールがつづいた。それはいい、歩かせようとしていたのだから。3球目、小林は、ごくふつうにボールを投げた。まるでキャッチ・ボールをするように。
おどろいたのは小林自身だったろう。自分の投げた球は、若菜がジャンプして捕ろうとしても届かない暴投になってしまったのだから。
三塁ランナーは、信じられないという顔つきでホームベースに走りこんだ。サヨナラ暴投だった。
小林の苦悩はここから始まった。
アンダースロー投手は、もともとキャッチ・ボールが得意ではない。ことに小林はキャッチ・ボールが苦手だった。ブルペンでもキャッチ・ボールをすることは少ない。2、3球軽く投げたかと思うと、すぐに生きた球を投げ始める。オーバースローで、軽く投げようとすると、ボールは思わぬところにいってしまう。そういうことが何度かあった。ピッチャーゴロを捕ったときでも、小林はアンダースローで一塁へ投げるのだ。しかも、速い球をである。彼にとって、投げるとは常に全力投球を意味していた。
サヨナラ暴投は、小林の心の深いところにからみついてしまった。
「ブルペンでね、ちょっとしたときに投げそびれることがあるんだ。そんなときは足がもつれたふりをしてね、ごまかす。ところが自分ではわかっている。またやったなと。マウンドの上に立っているときに、その思いにとりつかれてしまうと、たまらないね。泣きたくなることもあったよ。しかし、これは誰かにいってもしようがないことなんだ。キャッチャーを呼んで、どうも次の球がぼくの手からうまく離れてくれそうにないんだといってどうなる?」
誰も解決してはくれない。
助けてもくれない。不安を背負ったピッチャーは、マウンドの上で孤独である。
忘れればいい。そういってくれる人もいた。そのとおりだ。不安を消すための催眠療法だってある。野球のことばかり考えずに気晴らしをしたらどうか。そういうアドバイスもあった。しかし、そんなことじゃないだろうと、小林は思った。
小林はこう考えた――「マウンドの上で起きたことはマウンドの上で解決しなければいけない」と。
そのとおりだ。しかし、実際のところ、どうしたらいいのか。〈7回戦ボーイ〉といわれた小林は、82年6月のある日、安藤監督にこういった。
「登板間隔を中3日にして下さい。そのかわり、6回、7回で降りる。崩れる前に、ぼくは次のピッチャーにバトンを渡します」
エースが完投を諦《あきら》める。そして登板間隔をちぢめる。
「ホントにそれでいいのか?」
監督は聞いた。
「それでいいんです」
小林は中3日でフル回転した。阪神が11連勝を記録した時期だ。しかし、また別の問題が出てくる。小林は6回、あるいは7回だけ投げきろうと考えた。すると、おのずと手先だけのピッチングになってしまった。その結果、肩をこわした。
11勝9敗――それが82年の小林の成績である。
その年の秋、11月。小林は誕生日を迎えた。ちょうど三十歳になった。
彼はあらためて自分のまわりを見つめてみた。もう半分まできてしまったのかと、彼は思った。何ごとかをしつづけることができる年齢を六十歳とすれば、ちょうど半分だ。
そして自分を見つめる。
何もなかった。
一人住まいにしては広いマンション。テレビがけたたましい笑い声を発していた。小林は酒を飲んでいた。そんなふうにして、一人呆《ぼう》然《ぜん》と時間を過ごすことが、彼は好きになっていた。離婚したのは、ちょうど彼が巨人から阪神に移籍した54年のことだ。その年、小林は22勝をあげて沢村賞に選ばれた。
「あの年は……」
小林はつぶやくようにいった。
「江川とのトレードで燃えたんじゃない。むしろぼくには離婚後の寂しさのほうが強かった。それまで一滴も飲めなかった酒を飲み始めたのも、あの年だった。午前二時より前にマンションに戻ることなんてなかった」
その寂しさをふり払うように、小林は野球にのめりこんだ。その結果としての22勝だった。
三十歳になって、あらためて自分には何もないことに気づいた。テレビだけが音を発している生活。再婚する気はない。孤独のままでいいのだと、彼は思う。
82年のシーズンの不安を、もう乗り切ったと書ければ、それにこしたことはない。しかし、実際のところ、それは小林の心のひだにまだからみついている。決して快適とはいえない生活も含めて、彼は〈苦〉を背負っている。それが現実だ。
しかし、とぼくは思う。小林にとって、それは悪い状況ではないのだ、と。一羽のインコとのみ対話し、心に病をかかえながら、冷酷無比に仕事をしていく殺し屋の映画が、かつてあった。そのフランス映画を、ぼくはふと思い出してみた。
仮 面――タイガーマスク
何年か前の、春のことだ。
一人のレスラーが、突然、マスクをつけマントをひるがえし、まるで冗談のようにリングに登場した。
タイガーマスク、と彼は名のった。
劇画、アニメの世界からとび出してきたごとく彼は振るまった。ファンは劇画のタイガーマスクの立体コピーであることを、彼に求めた。それがはじまりだった。
現実世界のタイガーマスクは、おのずと一人歩きし始める。当たり前だ。彼は劇画からとび出してきたのではないのだから。
一人歩きし始めた結果として、彼は一年後には、新WWFジュニア・ヘビー級のタイトルを獲得した。それが一年後の現実だった。
ある日のことだ。
ぼくはスリーピースのスーツに身を固めたタイガーマスクに会った。ダイナマイト・キッドとのタイトル防衛戦を翌日に控えていた。
「ぼくは今、二重の人格を持っているんですよ……」
と彼は切り出した。その表情は少し堅い。
タイガーマスクが続けた。
「練習が始まる前、マスクをつける。その瞬間を境い目にして、ぼくはタイガーマスクになる。体をほぐして控え室に入る。練習用のマスクを外して試合用のマスクをつける。リングに出ていく。試合が終わる。宿舎に戻ってマスクを外す。その瞬間を境い目にして、ぼくはぼく自身に戻る。そういうことですね」
以下の話は、タイガーマスクと呼ばれる男の〓“仮面の告白〓”になるはずだ。
――マスクの話をしましょう。ぼく自身そうなんだけど、人間誰しも、もう一つの顔を持ちたいと思っているんじゃないかな。そういう心理ってあると思うんだ。
タイガー 面白いですよ、これをつけると。自分がタイガーマスクだと思うのは、とにかくマスクをつけてるときだけなんですよね。
例えば試合で地方に出ているときね。旅館に泊まるでしょう。そこではマスク、全然つけてない。試合場に入る寸前までつけない。でも、バレないんです。似たような体格のレスラーが何人もいますからね。旅館の人も、ぼくがタイガーマスクであるとは気づかないでしょうね。
――ホテルや宿舎まで追っかけてくるファンはどうだろう。
タイガー わからないでしょうね。街をマスクつけて歩くこともない。外、歩くときは取材なんかの場合を除いて、絶対にマスクを外してる。だから、絶対にわからないですよ。
一流スターが街歩いているときはね、どんなところに行っても一流スターの扱い受けるんですよ。そうでしょ? ところが自分は、マスクとってるときは全然、そういう扱い受けない。
――そのかわり、マスクつけた瞬間、意識が変わりませんか?
タイガー 変わるね、たしかに。ああ、これかぶると注目されるなと思うみたいなことですね。ありますね。これで注目されるんだと、痛いほど感じる。
――逆に、マスクつけてないときはただの人に見られてしまう。街を歩いていても、あっ、あれがタイガーマスクだと誰も注目してくれない。そのさびしさはない?
タイガー いや、それはさびしさじゃなくて、その反対にホッとするというか、すごく恵まれてるなと思いますね。マスクをとってるときはふだんの人に戻れるんだから。プライベートな時間まで侵されないわけですよね。だから、旅館なんかにいるとき、素顔でいてもなんとなくぼくがタイガーマスクだとわかってしまうことがある。それで、サインしてくれといってくる。受けつけませんね。
――なぜだろう。なぜ、タイガーマスクでいるときとそうでないときの自分を分離したがるんだろう。
タイガー なぜでしょうね……。うーん、何といったらいいか、マスクつけてるときしか、自分はタイガーマスクになれない。そういうもんでしょ。
はずしたときはもう別の誰かになっている。そういうことですよね。その気楽さを楽しんでいるというのかな。
――じゃ、こういう質問はどうだろう。恋をしたとする。相手の女性はタイガーマスクを好きになった。素顔のあなたを見ても気づいてくれない。気づいたあとで失望されてしまう。
タイガー そういうパターンはないんじゃないかな。その逆じゃないと、ぼくが好きにならない。つまり、自分がタイガーマスクだから好きになる女性ではなく、そんなこと知らずに、まず素顔のぼくを好きになってくれる女性でないと、ぼくの方が好きにならないと思うんですよね。
――タイガーマスクというキャラクターが、まずあった。それを具体化しようとした。さて、そこでだ。タイガーマスクとしては劇画のキャラクターとしてのタイガーマスクのイメージを追わねばならない。イメージにふりまわされてしまう部分があるんじゃないか。
タイガー それはないと思いますよ。自分のファイトは、よくマンガと同じだなんていわれますけども、マスクをつける前から、ぼくはああいうファイトをしてきた。
さっき、マスクをつけたとき自分はタイガーマスクになるといったでしょ。リングにあがってファイトが始まると、もうそんなこと意識してないんですよ。だって、ぼく自身にタイガーマスクは見えませんから。リングに鏡でもあれば別だけど、そんなものあるわけないでしょ。ということは、ぼく自身にマスクは見えない。そういうところで、タイガーマスクを意識することはないですね。ただ自分のファイトをするだけです。
翌日――。
千《せん》駄《だ》谷《がや》の東京体育館へ行くと、彼は控え室に静かに坐《すわ》っていた。
やがて時間がくると、控え室からリングへ向かって走った。ゴールドに黒でふちどられたマスク、マントをつけ、チャンピオンズ・ベルトを巻いてリングへ。ロープの最上段に素早くかけのぼると、タイガーマスクは右手を高々とかかげた。マントがひらめくと、その内側は真紅だ。
タイガーマスクの試合。ロープは常に揺れ、マットは弾《はず》んでいる。ドロップキック。モンキーホイップ。ダブルアームスープレックス。ブレーンバスター。そして、ジャーマンスープレックス・ホールド。
ダイナマイト・キッドとのタイトル防衛戦は技で始まり技で終わった。勝ったのはタイガーマスク。最後の決め技は豪快なジャーマンスープレックスだった。
タイガーマスクvsダイナマイト・キッド。
タイガーマスクがタイガーマスクとして初めて蔵《くら》前《まえ》国技館のリングにあがったときの対戦相手が、このダイナマイト・キッドだった。
――初めてリングにあがったときのこと、おぼえてます?
タイガー うん。自分はイギリスにいたんですよ。突然、日本に呼ばれて来た。最初はタイガーマスクの映画を撮るとかいう話だった。そのついでに1試合ぐらいやってもらうかもしれないという。で、来たんです。マスクとマントを渡されましてね。それが、ひどいやつでね。今使ってるようなちゃんとしたものじゃない。マスクは目のところが小さいし、ちょっとずれると見えなくなっちゃうんだ。マスクの黒い線も、縫い込まれたものじゃなくてマジックかなんかで描いたみたいなものだった。あわてて作ったものだから粗製乱造もいいところですよ。いざ、リングに向かおうとする時、新日本プロレスの人がいうんです。「いいよ! カッコいいよ!」そうかなーって思ってましたけど自分はリングに向かった。チビッコ・ファンは喜んでたみたいですね。
リングサイドに来て、いざロープにあがろうとしたら、さっきの新日本プロレスの人が、あわてていうんですよ。「おいっ、マントとれ! みっともない!」――ですからね。やっぱり、ちょっとみすぼらしかったんでしょうね。これが最初でした。
――その時点では、タイガーマスクとして本格的にやって行く気はなかった?
タイガー ないですね。自分はむしろイギリスのほうが気になってた。ロンドンを中心としたリングでは、かなりいいセンいってたんですよ。サミー・リーっていうリングネームを持っていた。
――サミー・リー。いかにもっていう感じだね。
タイガー 東洋っていうと、ブルース・リーのイメージなんでしょうね。イギリスに行く前はメキシコで二年間、ファイトしていました。
――プロレスを始めたきっかけは?
タイガー 小さいときから好きだったんです。中学のときからプロレスラー目指してましたからね。レスラーしかない、そう自分に決めてましたからね。
――ケンカは強かった?
タイガー うーん、まあ、腕に自信があったから、若いころはよくやった方ですね。今でも若いんだけど。
――何人も子分を引き連れてやったタイプ? それとも一人でやるタイプ?
タイガー 一人でしたね。ケンカはよくやったけど、悪いことはしなかったですよ。不良グループとのつき合いはありましたけど、恐喝なんかは絶対やんなかったですよ。
――よく、そういうグループに入ってデカイ面《つら》をしたがるのっているでしょう、中学とか高校なんかで。そういうのはきらい?
タイガー あんまり好きじゃないですね。
――自分が親分になってという気はなかったですか?
タイガー うん。そういう気もないんです。ただ、あの当時は、やっぱり腕に自信があったからね。それで、ちょっとやっただけで。だから、授業なんかしててもね、先生にはけっこう信頼あったしね、ぼくは劣等生だったけど、自分に授業を任せてもらったりしてたんですよ。授業をまとめるように。
――へえ。何の授業?
タイガー 理科とかです。不良グループからは一目置かれてましたからね。
――プロレス以外のスポーツに興味はなかったの?
タイガー もうプロレスしかない。プロレスやりたくて、やりたくて。中学を出るときも、そんなにやりたいんならアマチュア・レスリングやれって高校紹介してもらって入った。
一年生でラッキーにも優勝しちゃったし、ますますプロレスやりたいわけですよ。
――何級?
タイガー 75〓級のフリースタイルです。それで、一年生で高校もやめちゃった。
――すぐプロになった?
タイガー レストランで仕事しながら練習やって、しばらくしてからテスト受けたんです。もうケチョンケチョンにやられちゃった。
――そしていちおう新日本プロレスに入り、メキシコへ行くわけだ。ここもプロレスのさかんなところですね。
タイガー レスラーが三千人ぐらいいるんじゃないかな。行くときはいちおう帰りの航空券と現金で四十万円ぐらい。それしか持っていかない。それで三年間やっちゃう。
――しかし、そういう経験を経て鍛えられるわけですね。
タイガー 自分のように動きのあるレスラーは人気者になるんです、あの国では。だからうってつけだったと思う。体が小さくても、体重による階級があるからハンデはない。それはいいんだけど、環境がね。たいていの町は高地にあるでしょう。気圧が低いんですよ。そのせいか、慣れるまで下《げ》痢《り》をしやすい。メキシコには二年間いましたけど、結局、そのあいだじゅう下痢に悩まされてたね。ホテルのトイレ入っても紙がないんだもん。部屋はきたないし、便器のフタはないし、紙も入ってないことが多い。だから、いつもトイレットペーパーを自分で持って移動する。レスリングの荷物よりトイレットペーパーのほうが必需品。体重は10〓減ったですね。
――そのメキシコでNWAミドル級のチャンピオンになった。タイトルを手にしたのは、これが最初だね。
タイガー そうです。メキシコのマットは固いんですよ。日本のマットは畳ぐらいの感触なんだけど、あちらは板の上に薄くオガクズみたいなものを敷いて、その上に布をかぶせてある程度。試合してると、そのオガクズがどんどんリングの周辺のほうに寄っちゃって、真ん中あたりは板そのものですよ。投げられて受け身をとってもヒジのあたりが真っ赤にはれあがっちゃう。ケガはしょっちゅう。
それでも試合に出なくちゃ食っていけないわけです。
メキシコで予定どおり三年修行し、そのまま再び日本にやって来ていたら、彼はタイガーマスクになっていなかったはずだ。
メキシコのリングを二年つとめたときカール・ゴッチがメキシコに来た。世界のレスラーで彼の教えを受けた選手は少なくない。カール・ゴッチがタイガーマスクを見ていった――「オレのところに修行に来い」。
そして彼はメキシコからフロリダへ向かう。1980年の春だ。フロリダのカール・ゴッチのところで「レスリングの何たるかを教わった」と、彼はいう。そして、イギリスへ送りこまれた。名前はサミー・リーである。
タイガー プロモーターがつけた名前ですね。イギリスのプロレスもさかんなんです。週に一回テレビ中継があるんですが、視聴率は20%ぐらいになる。かなりのもんです。試合運びとか技なんかは今の自分と変わりません。今のタイガーマスクみたいなレスリングだった。
――イギリスでの戦績もかなりよかったと聞いている。
タイガー ほとんど負けたことがなかった。日本とシステムが違うんです。ラウンド制で五分間1ラウンド。それを6から8ラウンドやる。勝負がつかないときは判定もある。イギリスには八か月いまして100戦ぐらいやってますね。引き分けはあっても負けはない。
――それだけ勝ち続けてれば当然、タイトルマッチの話が出てくるはずだけど。
タイガー ありましたよ。ライト・ヘビー級の新しいタイトルを作るから争ってみないかという話がきた。相手はイギリスのかなり強いやつなんだ。そのころ、自分も人気者になってましたからね。イギリスのプロレスファンでサミー・リーを知らないやつはいないくらい。ぼくはその試合に賭《か》けてみるつもりだった。ちょうど一年ぐらい前のことですね。
――そこでタイガーマスクの話がくるわけだ。東京から声がかかった。
タイガー 悩んだんですよ。イギリスという国、気にいってたし、英国病とかいわれてるけど、いい国なんです。暮らしやすい。普通に暮らしてる人の幸福度は日本以上じゃないかと思う。自分としてはロンドンを中心に、もっと暴れてみたいという気持ちがあった。ところが、東京から三日に一度ぐらいの割で電話がかかってくる。
――劇画のタイガーマスクは知っていた?
タイガー もちろん。どういう話で、どういう技を得意とするか、知ってた。マスクというものは、つけるには相当な覚悟がいるんですよ。それをハギとられたとき、すべて終わってしまう。負けられないんですよ。
――負けてマスクをとられたら、タイガーマスク自体がプロレス生命を失うと同時に、それをかぶっていた一人の若いプロレスラーの将来性も失われてしまう。
タイガー そう。ただ単に日本のリングでデビューするという以上のものがある。
――タイガーマスクというフィクショナルな存在が消えるとき、同時にこれまでのプロレス人生も消える可能性もあるわけだ。
タイガー それだけにスリリングだなと思ったんですね。一度、このマスクをつけたら脱ぐことは許されない。もう、あとへは引けないんですよ。そんなことを考えながら、だんだん、よし、やってみようという気になってきた。面白い。やってみようと。
――サミー・リーという、イギリスで人気を博していたレスラーを自ら抹《まつ》消《しよう》したわけですね。そのうえで日本に来た。
タイガー 81年の4月21日です。その二日後にタイガーマスクとしての最初の試合が組まれていた。タイガーマスクが何者なのか、誰も知らなかったはずです。知っていたのはアントニオ猪木さん、新日本プロレスのごく少数のスタッフ、それにぼくだけですね。最初の試合のときは控え室も自分だけ別のところに作ってもらいましてね。そこで初めてマスクをつけた。
――布切れ一枚かぶるだけのことだけど、それによって状況はガラリと変わってしまう。それまでリングネームとして使っていた本名やサミー・リーという名前ではもう呼ばれなくなる。まったく別のプロレス人生を歩むことになってしまうわけですよね。
タイガー そのたった一枚の布切れが、ホント、最初はみすぼらしかった。ニットの薄っぺらいやつでね。アゴの下で留めるようになってるんですよ、ヒモが入ってて。ちょうどパンツをさかさまにしたような感じでね。ほんとに。
――違和感があるでしょうね。
タイガー ありましたね。妙な感じなんです。リングに出ていくと、まわりが騒いでるけどよく聞こえないんですよ。ゴーッという感じかな。ああ、オレはとうとうマスクをつけてしまったんだなあと、切実に思いましたね。
――ダイナマイト・キッドとの初戦、どんな気持ちで戦った?
タイガー そう、初めて対戦する相手だった。ただし、イギリスで見たことはあるんです。どういうファイトをする選手か、知っていた。それがよかった。相手がかけてくる技がわかるわけだから。逆に向こうは、ぼくが何者かわからない。キッドにしてみれば、やりにくかったでしょうね。それで勝てた部分もあると思う。勝ったあと控え室に戻ってホテルへ帰った。そこで初めてマスクをとった。サウナから出たあとみたい。サッパリするんですね。あの日の試合に勝って、よしタイガーマスクとして生きていこうと決めた。それまでとは違う、もう一つの人生を生きてやろうとね。
それからほぼ一年後、タイガーマスクはWWFジュニア・ヘビー級のタイトル防衛戦に成功した。「マスクを脱ぐことは考えていない。最後までタイガーマスクとしてリングでたたかっていく」
彼はそう言った。
マスク。覆面。仮面。
奇妙にそれは人を引きつける。内側の表情を隠しつつ、表に向けてもう一つの表情を見せつづける。どんなときでも、マスクの表情は変わらない。ピンチに顔を歪《ゆが》めても、仮面はいつもの表情であることをやめない。マスクはクールで、タフだ。そのマスクのキャラクターを、彼は背負っていこうとしている。
ぼくはマスクごしに、彼の表情を凝視した。間違いなくいえることが一つ、ある。それは彼がアクション劇画の主人公のようではないということだ。もっとやさしげな表情が、マスクの向こう側に垣《かい》間《ま》見えた。
もう一つ、書いておきたい。
リングにあがる前、タイガーマスクはマントをはおり、チャンピオンズ・ベルトを巻いてカメラの前に立った。フラッシュが光った。その瞬間、アッとぼくは気がついた。唇がほんのりと、赤い。彼はうすく紅をさしていたのではないか。タイガーマスクは勢いよくリングへと向かった。大観衆が彼を迎えた。テレビカメラが彼を捉《とら》えた。ロープの最上段にかけのぼる。右手をあげ、声援にこたえる。
彼はそれまでの彼ではなく、明らかにタイガーマスクになっていた。
インタビューを終えて、カメラマンも帰ってしまった。タイガーマスクは、頭にたまった血をふり落とすように、ブルブルと顔を激しく振り、マスクをはずした。
エピローグ――ナックルボール
例えば、ぼくはナックルボールを投げるピッチャーが好きだ。
ナックルボールは投げた本人もどんな変化をするかわからないくらい、微妙で面白い変化をする。ナックルボールでバッターを三振にうちとったピッチャーの浮かべる笑みはちょっとばかり複雑なんじゃないかと思う。彼はもう、豪速球で三振をとることができないのだ。力の衰えを自覚している。自《じ》嘲《ちよう》気味に、しかしマウンドを守る者としてのプライドを保つために、情熱をこめて奇っ怪な球を投げるわけである。
ジム・バウトンというピッチャーが、かつてアメリカのメジャー・リーグにいた。60年代の前半、ニューヨーク・ヤンキースで活躍したこともあるのだが、そんなことよりもジムは メBALL FOURモ という本を書いたことで有名になった。メジャー・リーグの内幕を暴いたセンセーショナルな本、という受けとめられ方でベストセラーになってしまったのだが、ジムの書いたこの本は、哀《かな》しくなるくらいのユーモアとペーソスにあふれたメジャー・リーグ・スケッチ集である。ジムのユニークな観察眼が随所に冴えを見せている。
そのジム・バウトンはナックル投手だった。彼はナックルについてこう説明している。
「……その本質は球が手から離れる瞬間に、指先で球に回転を与えないように押し出すのだ。あとは空気の流れと湿度が球を運んでゆく過程で、思わぬ方向に回転を与え、したがって球が意外な変化をみせるのである……」
あとは空気の流れと湿度が……回転を与え、というあたりが何ともいえず、いい。肩、肘《ひじ》、手首のスナップのせいではない、空気がこの球を作り出す主役だというのだ。ジムは三十歳そこそこで現役を引退してしまうのだが、最後はひたすらナックルを投げつづける。全盛期のピート・ローズに5球つづけてナックルを投げ、三振にうちとったりしている。
ジムが、風の強い日はナックルが投げにくいと語るくだりがある。ことにセンターからホームに向けて強い風が吹いていると、ナックルボールが風に乗って、ちょうど打ちごろの球となってバッターの手もとに届いてしまうというのだ。
その話を聞いて、別のピッチャーがこういうのだ。「そういう日は、風のぶんだけ少し強めに投げればいいのさ。そうすれば、追風の影響を受けず、無風状態で投げてると同じことになる」
瞬間、なるほどと思うが、しかし、やがてジョークだということに気づく。スピードのこもった球は、もはやナックルではない。
素晴らしいスピード・ボールを投げるピッチャーは、たしかに見ていて気持ちがいい。それは誰よりも速く走る100mランナーが人の目をひきつけるのと同じである。オーソドックスな構えからハードパンチをくり出すボクサーも、なかなかに素敵だ。誰もが、彼らをヒーローと呼ぶだろう。
しかし、待てよと、ぼくは思うのだ。彼らは本当にヒーローなのだろうか、と。
小さいころは誰でもそうだと思うが、スポーツのヒーローは、ホントに英雄に見えるものだ。例えば、長嶋茂雄という偉大なプレイヤーは、ぼくが十歳のとき巨人に入ってきた。彼はホントにすごいやつだと、ぼくは思った。ここぞというところでよく打ってくれたし、突拍子もないダイナミックなプレイも見せてくれた。長嶋が捨身のフルスイングをする。打球はラインドライブを描いてレフトスタンドに突きささる。それだけで、かつてのぼくらは彼を英雄と認めた。
しかし、そういう時期を過ぎてしまうと、また別の見方が出てくる。
彼らはその瞬間、ヒーローでありえても、人生という長丁場のレースで勝者の栄光を手にしたわけではないのだ。現役を引退し、監督として華々しい実績をあげられないとなると、彼はヒーローの座からひきずりおろされてしまった。かつて長嶋をあがめ奉った人たちが、その同じ口で、あいつはダメな奴《やつ》だといってみたりするのだった。そんなことで駄目の烙《らく》印《いん》を押されてしまうなんて、本人にとってはたまらないだろうと思うが、世間は冷酷かつ簡単に自分たちで作りあげたヒーローをひきずりおろすものらしい。
永遠のヒーローなど、どうやらいないらしいと、大人になったぼくらは知ってしまうのだ。ヒーローを求めながら、ヒーローに裏切られ、あるいはヒーローを裏切っていく。それがスポーツにおけるヒーローとファンとの関係なのかもしれない。
今のぼくはそういう愛憎入り混じる関係を、好まない。それはベタベタとした男女関係を好まないのと同様だ。むしろ、ジム・バウトンのような、ナックルばかりを投げつづけて、人知れず引退していくピッチャーとの、ほとんど無関係に近い関係を好んでみたりする。彼らには、絵に描いたようなヒーローとは違った味があるのではないか。
ぼくがスポーツのことをあれこれと書くようになって三年ほどになる。
その間、ずいぶんいろいろな人に会い、話を聞き、数々のゲームを見てきた。波長の合う人間もいたし、こういう男とルームメイトにならなければならないとしたらこっちが疲れてしまうだろうなと、そんなふうに思わざるをえない人もいた。それは、しかし、当たり前のことだ。どんな世界を見たって、いろんな人間が生きている。
プロ野球に限っていえば、日本にはジム・バウトンのようなピッチャーは現われにくいだろうと思う。公式戦に出てきてナックルばかりを投げ、それが成功すればいいが、仮りに成功したとしても長続きはしないだろう。まず第一に、キャッチャーが承知しない。速球を投げろとことあるごとに要求し、そのたびにナックル投手は首を横に振りつづけなければいけないのだ。ゲームを見ている評論家も新聞記者も、ナックルしか投げられないピッチャーなんてプロじゃないと本気に怒ってみたりするだろう。ピッチング・コーチや監督も同様だ。ファームに行けというぐらいならまだしも、登板のチャンスを与えずに潰《つぶ》してしまうのは簡単なことだ。
バウトンですら、そうだった。違うのは、アメリカ野球の場合、マイナー・リーグの層が厚いことだ。日本のプロ野球の二軍は、いわゆるファーム(調整の場)的側面が強いが、アメリカで3Aのチームはメジャー球団のファームであると同時に独立したチームでもある。3Aから他のメジャー球団へのトレードも頻繁に行われている。ある球団で干されても、買い手がつけば他の球団へ容易に移れるのである。ジム・バウトンはしばしば、トレードで球団を変わっている。
日本のプロ野球チームは家族意識が強い。それは決して悪いことではない。一度、契約を結んだらそこでじっくり腰をすえて野球に取り組めるのだから。しかし、放浪癖があり、家出願望の強い男には向かないだろうなとも思えるのだ。チームの中にオトーサン的な人がいて、オジサンやオバサン的に口うるさい人もいて、兄や弟が沢山いる。その大家族がかもしだす空気の息苦しさに耐えられないタイプの男も、当然、いるはずだ。彼らは人一倍クセが強く、妙な個性を持っている。
お山の大将になって好き勝手に振る舞えればいいのだが、そこまでいかずにおのずと淘汰されてしまった選手も多いことだろう。バウトンのような男は、日本では淘汰されるのではないかと思う。
それを一方で哀《かな》しみつつ、他方を見わたせば、日本のプロ・スポーツの世界も多士済々であるこというまでもない。
ここしばらくのうちにいくつかの雑誌に書いた文章を集め、整理しなおしたのがこの本である。
プロ野球の話が多くなったのはそれだけ野球の人気の高いことをあらわしているのだろう。
書き手が豪速球を投げるようにして、直線的に、短い文章のいくつかをたばねることがある。そういう本を読むと力ワザできたなと、ぼくは思う。ぼくはむしろ、ここでは変化球を投げたいと思った。編集者とかわしたサインも、そういうことだったと感じている。
その変化球を追いながらスポーツの世界を垣《かい》間《ま》見ていただけたとしたら幸いである。
山 際 淳 司
本書は筑摩書房より一九八三年八月三十日に単行本として発行されたものを文庫化したものです。
ナックルボールを風《かぜ》に
山《やま》際《ぎわ》淳《じゆん》司《じ》
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平成13年3月9日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社  角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Junji YAMAGIWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『ナックルボールを風に』昭和63年 7月10日 初 版 発 行
平成12年10月30日改訂12版発行