TITLE : スローカーブを、もう一球
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目 次
八月のカクテル光線
江夏の21球
たった一人のオリンピック
背番号94
ザ・シティ・ボクサー
ジムナジウムのスーパーマン
スローカーブを、もう一球
ポール・ヴォルター
八月のカクテル光線
1
たったの「一球」が人生を変えてしまうことなんてありうるのだろうか。「一瞬」といいかえてもいい。
それは真夏の出来事だった。
夏でなければ起きなかったかもしれない。夏は時々、何かを狂わせてみたりするのだから。
八月一六日。晴れ。気温は30度をこえるはずだとウェザー・キャスターはいっていた。
2
ふらふらっと、ボールが舞いあがった。
その打球に力はない。
甲子園球場にいた三万人あまりの観客は一人残らず、その打球のゆくえを追ったはずだった。白球はカクテル光線のなかを弱々しく上昇し、球場は溜《ため》息《いき》とも喚声ともつかないどよめきに包まれた。
打ちあげてしまったのは箕《みの》島《しま》高校の森川康弘である。甲子園のマウンドには星《せい》稜《りよう》高校の堅田外司昭がいる。
堅田投手が投げたのは、真ん中高目の直球だった。時刻は午後の七時半に近い。
箕島対星稜の試合は延長16回裏に入っていた。得点は3―2。4回に両チームともに1点ずつを入れ、試合はそのまま延長に入っていた。12回の表に星稜が1点を入れると、その裏、2アウトから箕島は同点に追いついた。ホームランによる1点だった。
16回の表に、星稜は1点を追加した。この試合、三度目のリードだった。
星稜の堅田は、その裏のマウンドに上ると簡単に2アウトをとった。セカンドゴロと、キャッチャー前のゴロ。簡単に2アウトをとりすぎた。だからといって気を抜いていたわけではなかった。
堅田投手が、最後になるかもしれないバッター森川に投げた一球は、やや高目に浮いていた。打ってくる、と思った瞬間、バットが動いた。振りの強さとはうらはらに、打球に力はない。
《これでおわりか……》
一塁側のベンチにいた箕島ナインは、一様にそう思った。
打球は、その一塁側ベンチに向かって舞いあがっている。星稜の一塁手、加藤直樹が、そのボールを追っていた。打球を見上げながら、小走りに追っている。
3
誰にだって失敗はある。
一九七九年の夏、一人の一塁手がエアポケットに落ちこんだ。数千万人がそのシーンを見つめていた。その「一瞬」は十分に彼を負のヒーローにしてしまった。
《……あの落球のことで、しこりが残っているわけじゃないんです。
その後、いろいろといわれましたよ。みんな冗談でいうんだ。〓あのエラーはお前の作戦通りや〓なんてね。でも、悪意はないんです。陰でこそこそいわれるよりはずっといい。ぼく自身、星稜の野球部出身だということを初対面の人にいうとき、自分のほうから先にいうんです。
甲子園の16回にカクテル光線のなかで落球した、あの加藤です、あの一塁手がぼくです、と。
だから、しこりはないんです、ホントに。
でもね、やはりスッキリできない部分があって、それはおそらくぼくの一生、ついてまわるんじゃないかと思うんです。
しっくりしませんよ、そりゃ。あれ、落球じゃないんです。ぼくのグラブにボールはまったく触れてないんです。グラブを出した時は、転んでいたんです。……そう思ってみたりすること自体、スッキリしてないからなんでしょうけど……しかし、見えてくるんですよ、あのシーンが。ファウルがあがった。落下点までダッシュした。ふつうなら簡単に落下点に入って落ちてくるボールを待っている。あの時は自分では落下点に行ったつもりが行っていなかった。ボールが一瞬、照明灯を横切り、見えなくなった。そのボールが見えた瞬間、一回転していた。自分では左足が人工芝にひっかかったと思っていたんですが、あとでテレビを見たら、左足は人工芝をまたいでおり、右足がひっかかっているんです。
あの一球をぼくが捕《と》っていれば――》
4
捕っていれば、その試合はちょっとした番狂わせという評価を残して終わったはずだった。優勝候補の箕島高校が惜敗し、選手たちは宿舎へ帰って涙を流し、シャワーで汗を流すと食事をして、明日のことを考えるはずだった。
そして、何ごともなかったように時は流れる。
しかし、真夏のシーンは次の「一球」をも作り出す。それは偶然だろうか、あるいは必然なのだろうか。
一塁手の加藤がその一球を捕りそこねたあと、打者の森川は堅田のボールをレフトスタンドに打ちこんだ。
《ぼくは》と森川はいった。《一度もホームランなんて打ったことなかったんです。県大会の予選でも打ったことがなかった。とにかく、センターを中心に打ち返す。それしか知らないんです。それがホームランになっちゃったんですから》
森川は、打った瞬間に手の平に残った感触をいつまでも忘れられない。また同じようにホームランを打てるのではないかという思いにとりつかれてしまった。
ホームランの快感が、否定しても頭をもたげてくる。気がついた時には、大振りになっている。
《あれから一年たって、やっとそのクセがなおったくらいなんです》
その「一瞬」の感触を頼りに、彼は、その後の一年を生きたということだ。ホームランを打てなくても、それは充実していたに違いない。
二つの「一球」を投げたピッチャーがマウンド上にいることも忘れないでほしい。彼もまた欠かせないキャラクターだ。
投手の堅田外司昭の話――《アウトコースの低目めがけて速球を投げたつもりなんですよ。それが真ん中高目に行っちゃった。自分でも気がついていたんです。あの回は、足が思うように上がらなくなっていた。自分じゃ疲れているっていう自覚はないんです。でも足が上がらない。それでコントロールが甘くなっていたんだと思う。一塁手のエラー? 全然気にしてなかった。あのファウル・フライがとれなくても、1点リードして16回の裏、2アウト、バッターのカウントは1―0になっていたんですから……》
たしかにそうだった。一塁手の加藤自身、落球を気にしてはいなかった。森川の同点ホームランが出るまでは、である。
一瞬の出来事だった。人工芝に足をとられて転倒するのに、時間はいらない。
延長16回の裏で、試合はふり出しに戻ってしまった。
5
ベンチにいて、尻《しり》が持ちあがらなかった人の話をしよう。
守備についていた星稜のベンチには控えの選手たちと監督がいた。監督とは、自らダイヤモンドの中に入っていかれず、やきもきするしかできない立場の人間のことである。参加しているようで、していない。心配することに全力を傾けているオブザーバーだ。
《あの一塁のファウル・フライ、ぼくは打球があがった瞬間から捕れないなと思っていたんです》
星稜の山下智茂監督は三塁側のベンチ、最前列でその打球を見上げていた。
《ぼくはそれぞれの選手の体調とか疲れ具合いを知っているわけです。もちろん、加藤の健康状態も見ている。ファウルを追った加藤のダッシュを見て、あの勢いでは落下点に入るのは無理だと判断していた。ぼくは、捕れると思った時は、自然にベンチからお尻があがって捕ったあと選手がうれしそうな顔をするのを見るクセがあるんですが、あのときはお尻があがらなかった。
ぼくは加藤に限らず、選手の疲労を考えると、責めたりなんかできないと思っているんです。14回あたりから、明らかにみんなの顔色がかわってきている。勝ち負けより、お互いの選手がグラウンドで倒れなければいいと思っていました。しかも、ぼくの場合、ふだん自分がしごいているから、子供たちの健康状態がよくわかっている。延長も16回になると、肉体的にはもちろん、精神的にもまいっていますからね》
6
監督という人種について考えることがある。彼らは楽しいのだろうか、と。彼の立場から見ると、グラウンドに見える光景は彼自身が失ってしまった過去を追憶させる。
たいていの監督は、すでにして若くはない。はじけるような肉体は失われている。それでも彼は野球にコミットしていこうとするのだ。誰よりも自分がひたむきであることを示しながら。哀しい情熱だって、この世界にはある。
《甲子園に来るまで、しごいてますね。七八年の県大会で、甲子園にあと一歩というところで金沢高校に大差で負けたんです。それからというもの、夏の強い陽差しのなか、それこそぶっ倒れるまで練習させた。エラーをすれば、こぶしやバットで殴《なぐ》ったこともある。冬は冬で、外で練習できませんから、室内でウエイト・トレーニングの毎日。バーベルの上げ下げや、ダッシュ、ハードル……。この冬の練習でやめていくのがほとんどですね。放課後の練習にしても、毎日午後三時半ごろから七時半、八時まで休む暇なくやらせる。選手も本当にひどい練習だと思っているでしょうね。そして、二日交代で選手を自宅に泊めていました。七九年の春、自分の実家から借金をして家を建て、生徒たちを順番に泊まりこませたんです。学校でいくら厳しくしつけても、家に帰って甘やかされたんでは、また元に戻ってしまう。ぼくとの裸のふれあいのなかから何かを学びとってほしかった。
生徒たちに正直な感想を聞けば〓かえって疲れるからイヤ〓というでしょうけどね。
そんな風にしごいてきて、甲子園にやってきた。箕島との延長戦では、練習の苦労を思い出して耐え抜け! といいました。選手たちも疲れてますから、強く怒ったのでは萎《い》縮《しゆく》してしまって、のびのびとしたプレーができない。それで〓負けたら、おれが責任をとるから、練習でやったとおりにやれ〓とだけいい続けたんですね。
負けても勝ってもよかった。選手にはいいませんでしたが、箕島を相手にして勝てるとは思っていませんでしたから……》
星稜の山下監督はそんな風にいっている。
箕島は、誰の目から見ても優勝候補の筆頭にあがっていた。その四か月ほど前の七九年春の選抜高校野球では、この箕島が優勝している。そのさらに前年、一九七八年の選抜、夏の甲子園にも出場しており、七九年の夏で四回連続出場を果たしていた。しかも、その四回ともエース石井が投げている。箕島の石井投手は甲子園のベテランだった。
7
「ゲーム」――なんと面白い言葉だろう。
人は誰でも、自分の人生の中から最低一つの小説をつむぎ出すことができるように、どんなゲームにも語りつがれてやまないシーンがある。それは人生がゲームのようなものだからだろうか、それともゲームが人生の縮図だからだろうか。
ゲームが始まる。
星稜と箕島のゲームは以下のように始まった。
8
甲子園のグラウンドは、砂の乾きが早い。水は撒《ま》いたそばから吸収され、あるいは蒸発していく。風が吹くと、かすかに水分を含んだ空気がスタンドに運ばれ、それはスタンドのファンには甲子園の土の香りとして知覚されるはずだ。球場の入口あたりにはイカを焼くにおいが充満している。それは涼しい香りではない。ねっとりと、まとわりつくような香りとして、在る。涼しさはむしろ、香りの少ないカチ割り氷にある。汗は流れるそばから蒸発し、塩気だけが残る。そしてさらに汗が流れ、夕暮れとともにじっとりと皮膚にしがみつく。
両チームともこの日の練習を開始したのは午前一一時すぎのことだった。星稜高校は住友金属総合グラウンド、箕島高校は厚生年金グラウンドで軽いウォーミング・アップを行った。
箕島のエース、石井毅投手は肩ならし程度にキャッチボールをすると、それだけで練習を切りあげた。
《苦戦するんじゃないかっていう予感なんてなかったよ。自分のピッチングをすれば勝てると思っていた。いつもそうだった。負けるときはたいてい自分のピッチングができないときさ。落ち着いて投げれば勝てる。それだけだね。
甲子園のマウンドに登って、アガっちゃうなんてことは考えられなかった。もう、これが四度目の大会でしょ。初めて甲子園のマウンドに登ったのは高校二年の春の大会だったけど、そのときもどうってことなかったんだ。初めての入場式のとき、ちょっとドキドキしたけどね。試合が始まる前にブルペンで二、三球投げたら、それだけで気分が落ち着いた。星稜戦も同じこと。試合前のミーティングで、星稜の選手のスコアカードを見せられて、星稜と宇《う》治《じ》高校との試合の打撃成績なんかが書いてあったけれど、それ以上細かいアドバイスもなかった。バッテリーの間でも、これといった話はしなかったね。とにかく、自分のピッチングをすればいいんだからさ。それだけだよ》
箕島のナインは、ひょっとしてこのゲームが延長戦にでももつれこむか、あるいは試合の進行が長びいてナイターになるのを楽しみにしていた。この日の第四試合は午後の四時試合開始と予定されている。第三試合までの進行が遅れるか、あるいは別の理由で第四試合がナイターになることは十分に考えられる。箕島のナインにとって、甲子園のナイターだけが初体験だった。
箕島の四番打者、北野敏史の話――《三回戦の抽選のとき、キャプテンに相手はどこでもいいから、とにかく第四試合を引いてこいって、みんなでいっていたんですよ。ナイターができるかもしれないからね。ぼくらが甲子園に入ったのは午後の二時半ごろかな。控え室っていうか、ベンチ裏の廊下のところに先に星稜のメンバーが揃《そろ》っていた。廊下をはさんで、向かい合って坐《すわ》るんですけど、ぼくらはきょうの試合がナイターになるかどうかで賭《か》けてたりしたんじゃないかな。口でいうだけですけどね。第三試合までの進行は、そんなに遅れていなかった。だいたい予定どおりの時刻に始まりそうだった。四時から始まったら何時には終わるとか、日没は何時ごろだとか、そんなことをいいあっていた》
星稜にはそれほどの余裕はない。
山下監督は、金沢を出発する前、校長にベスト8まではいく、といってきた。だから、そこまでは《なるべく弱い高校と当たりたかった》のだ。
《キャプテンに、一回戦は不戦勝を引いてこい、引いてこんかったら身体中の毛を剃《そ》るぞといっておどかしたら、ホントに不戦勝を引いてきた。二回戦のときは宇治高校をひいてこいといった。京都や大阪の高校なら、遠征試合でよく対戦していたし、大体、力はわかっていた。だから近《きん》畿《き》勢と当たりたかったんです。そう思いながら、宿で〓宇治金時〓のアイスキャンディーをしゃぶっていたら、突然ひらめいたんですね。二回戦は宇治や! そしたら、そのとおりになった》
その宇治高校には、予定どおり8―0の大差で勝った。そして、三回戦で箕島を引いてしまったわけだった。
後攻めの箕島ナインが守備につき、永野主審がプレーボールを宣告。高野連の記録委員が腕時計をのぞきこみ、「試合開始、午後四時六分」と公式記録に書きこんだ。
箕島のエース、石井が第一球を投げる。最初のバッターは、ほぼ三時間半後に一塁のファウルを捕り落とす、あの加藤直樹である。
そんな風にして、試合は始まったわけだった。陽差しはまだ強い。一塁を守っている箕島の北野はスタンドを見わたしていた。
《案外、客席があいてるなと思いましたね。大きい球場だから、三万ぐらい入ってもまだガラガラっていう感じ。箕島の試合は、地元の練習試合でもたいてい五千人ぐらい集まっていた。観客の多いのには慣れているんですよ。甲子園で三万は、少ない感じがする》
客が少ないね、燃えないよ――甲子園慣れした高校生はそう感じている。ゲームが始まるまでは、である。
9
ゲームが、その最もゲーム的なシーンを作り出すためには伏線が必要だ。
箕島高校の尾藤公正監督は、この試合も当然勝つつもりだった。ナインを厳しく、鍛えあげてきた。
《毎日、必ず誰かが殴られましたね。特に、レギュラーのぼくらが殴られた。ぼくらを殴れば、下級生にもその意味が通じるからでしょうね。ぼくなんか、怒鳴られ殴られなかった日を数えたほうが早いんじゃないかな。厳しかった》
箕島の四番打者の北野はそういった。
そうやってまとめあげてきたチームだった。いつもどおりの力を発揮させれば勝てるだろうと踏んでいた。が、尾藤監督にも気がかりがなかったわけではない。
《心配だったのはキャプテンの上野山の体の調子がよくなかったことでした。
星稜との試合の二日前から高熱を出して寝こんでいたんです。おたふくカゼにかかって熱は38〜39度にものぼっていました。食事ものどを通らないという状態です。地元の和歌山から野球部がいつも世話になっている先生(医者)に来ていただいて、つきっきりで診《み》てもらっていたんですが、試合の前夜も39度の熱があったんですね。翌日の試合に出られるかどうか、あやうかった。
それでも試合に出したのは、当日の朝になって熱が若干ひいたからなんです。先生に診てもらって、なんとか大丈夫だろうと、本人も絶対に出たいという、それで先発メンバーに入れたわけですね。それが、しかし、心配だった。気がかりでしたね》
10
病いをおしての出場。
美しい話ではないか。甲子園の野球なのだから、これくらいの悲劇性があっていい。健康であるならば何でもないことが、病いというだけで何ごとかに化身する。ゲームに勝てるか負けるかという以前に、野球をできるか否かという危機感が、彼を支えてくれる。危機感に支えられたとき、彼の体内にドラマが芽ばえてしまう。
熱がひいたといっても、まだ38度近くはあった。注射で一時的に下がっていただけの話である。
《何も食べてなかったんだ》病いの男はいった。
《練習もしていない。グラウンドに出た時、ボーッとしていましたね。だから、試合の経過も正確にはおぼえていないんです。ときどき、目がかすんで、ボールが見えない状態でした。試合が進むにつれて、熱が上がってくるのがわかってました。でも、引っ込む気はなかったですね。監督も途中でぼくに引っ込めとはいわなかった。
とにかく最後までやろうと。だって、9回で終わると思っていましたからね》
上野山善久の守備位置はセカンドだった。打順は三番にラインアップされている。1回の裏、さっそく上野山のところに打順がまわってきた。2アウト、ランナーなし。星稜のエース、堅田の投げる球を思いきり引っ張ると、打球は左中間へ飛んだ。さほど深くないレフト、センターの守備の真ん中を抜き、ツーベース。次いで4回にも打順がまわり、この時は箕島が1点リードされている。星稜に1点とられたあとの4回裏の先頭打者として上野山は再びライト前にヒットを飛ばした。これが1―1のタイスコアに追いつく口火となった。しかし、上野山のヒットはそこまでである。あとはただただ凡打が続く。
《しかし、ぼくはキャプテンの上野山を引っ込める気はなかった。彼が頑《がん》張《ば》っていることが、ナインの発奮材料になりますからね》
尾藤監督はそう考えている。
しかし、それはギャンブルである。熱でフラフラになっている選手のところに打球が飛べば、……エラーの確率は高い。それでもなお、キャプテンをグラウンドに出すのが、高校野球というものなのかもしれない。
上野山の守るセカンドに打球が飛んだのは2回、3回である。それを上野山は難なくさばいた。その後、延長の12回まで、セカンドゴロはない。それは恐らく、箕島にとってラッキーなことだったろう。
9回を終えてスコアは1―1。試合は延長に入り、同時に甲子園球場の照明灯のスイッチが入れられた。西のほうにはまだ明るいブルーの空が残っていたが、試合開始のころから比べれば陽の光ははるかに弱い。
カクテル光線が八月の空に輝き始める。ナイターである。
《きれいやな》
緊迫した試合とは別に、そう考えていたのはナイターを期待していた箕島ナインばかりではない。
11
異空間の出現。彼らはステージに立ったミュージシャンのようなものだったろう。なんとなく、ハイな気分。
星稜の、マウンドを守る堅田も同じように思っていたし、一塁の加藤もナイターに見《み》惚《と》れていた。
《今でも、あの甲子園でナイターをやったんだと思うと、自然と頬《ほお》がゆるむんですよ。思い出すたびにニターッとしている。それくらい、きれいでしたね》
試合が長びき、ナイターに入ったことは、箕島のキャプテン、上野山にとってはさほどうれしいことではなかった。朝、下がった熱は夕暮れとともに上昇する。そして、彼のところにゲーム展開のキイがまわってくる。
《守っていても、ほとんど打球が見えない状態でした。しばらくゴロが飛んでこなかったからよかったんですよ。
12回の表は、それがまたちょっと見えるようになっていたんですね。星稜の先頭打者がセカンドゴロを打って、それは難なくさばいたんです。そのあと石井がヒットを打たれてフォアボールも出した。1アウト一、二塁ですね。そのあとのバッター、たしか八番バッターがセカンドゴロを打ったんです。この時は、ぼくにははっきり打球が見えていました。それだけに口惜しいんです。目がかすんでいた時ならまだしも、はっきり見えている時に、ぼくはエラーしたんです。弱いセカンドゴロでした。荒れたグラウンドにゴロが転がってきて、一塁ランナーがぼくの前を走っていった。その瞬間、チラッとランナーを見たのかもしれない。気がついたら、打球はグラブの先っちょに当たって……トンネルしたわけです。そして、その間にセカンド・ランナーはホームを踏んでしまった。ライト方向に転がったボールを追って、ホームをふり返ったときには、ちょうどランナーがホームインするところでした。
タイムがかかって、内野手が全員、マウンドのところに集まっていました。でも、ぼくは行かれなかった。シマッタという思いとエラーをした恥ずかしさ、ですね。彼らのほうを向けなかった。スコアボードの電光表示に〓E〓のランプがついたんです。ハッキリ、エラーです。〓OK、OK〓〓気にするな〓っていう声がかかるんですけど、ぼくは顔をあげられないんですよ。もうこれで負けるんじゃないかと思っていました。これでダメだろうと。
12回の表の星稜の攻撃が1点で終わってベンチに帰ったあと、ぼくは泣いていました。口惜しさと申し訳なさで、泣くしかないみたいな気持ちだったんでしょうね。
12回の裏は、すぐに2アウトになってしまった。
ますます、もうダメだろうと。
そこで嶋田がホームランを打ったんですね。信じられなかった。同点ですよ。延長12回裏の2アウトからホームランが出るなんて》
12
その打球の行方を、打たれた星稜の堅田投手は呆《ぼう》然《ぜん》と見つめた。カクテル光線のなかを白いボールが落ちていく。スタンドが割れてボールが弾《はず》むと、ドッと歓声がわきおこった。《まるでドラマみたいだ》と堅田は人ごとのように思った。一塁を守っていた加藤はこう感じていた――《テレビを見ているようだった。ナイター中継のホームランはあんな感じでスタンドに入っていくんだ》
ドラマの内実を支えていたのは、あるいは光なのかもしれない。八月のカクテル光線。それが青春の光を導き出した……。
13
言葉が状況を作り出すのか、あるいは状況がある言葉をいわせるのだろうか。正確に測定することは不可能だ。延長12回裏に同点のホームランを打った嶋田は箕島高校のキャッチャーだった。
箕島の攻撃が2アウトになったとき、嶋田は尾藤監督のところに行き、こういった。
《監督、ホームランを狙《ねら》ってきます》
なんとヒロイックなせりふだろう。シナリオ・ライターだって、こんな言葉を思いつきはしない。昭和三〇年代の映画『背番号16』的世界。野球世界にとって六〇年代、七〇年代とは何だったのだろう、などといってみたりして。
尾藤監督は、その《気迫》におされて、思わずうなずいたという。シュアなバッティングを旨とする尾藤監督にしては、ありえないことだった。バッターの嶋田にしても、それはありえないことだった。彼は、甲子園でホームランを打ったことはない。ホームランを打ちたがるバッターなら、高校野球で一番打者という位置を占めるはずもない。
嶋田は、悲壮な決意で、そういったわけではない。むしろ軽い気持ちでいったのだった。
《ちょっと思い出を作っておこうと思ったんですよ。ひょっとしたら、これで最後になるかもしれない。ホームランを打ってきますといってバッター・ボックスに立てば、もし凡打で終わっても、笑い話ですむ。それはそれで思い出になるでしょ》
八〇年代的合理主義が、ここにもいる。
14
嶋田と尾藤監督の会話は、マウンド上の堅田投手には聞こえない。堅田は漠然とこう思った――《ヒットは打たれるかもしれない、でも、ホームランはないだろう》
根拠はない。ただ漠然と警戒しなければと感じていた。サウスポーの堅田が嶋田に対して投げた2球目のカーブは、山なりに落ちるように曲がっていく。右打者の内角に喰《く》い込むように曲がるのではなく、外角高目から真ん中へ、ミラクル・スポットに吸い込まれるようにして曲がっていく。
打球がレフトのラッキー・ゾーンに飛び込むのに五秒とかからなかった。
ヒーローは、背番号「2」をつけたキャッチャーだった。背番号「2」が12回裏のダイヤモンドを一周した。
15
試合はそのまま16回まで進んでいった。
箕島の石井投手の投球数が二〇〇球を超えたのが、この16回表である。石井―嶋田のバッテリーは被安打こそ多かったが、要所要所をしめていた。《エース》は、相変わらず《エース》であり続けようとしていた。
《バッテリーでマウンドのあたりで話をするときも、ぼくらは全然、野球の話なんてしなかった。相変わらずですよ。自分のピッチングを崩《くず》さなければ投げ抜けると思っていた。ハラ減った、早よう何か食いたい、早いとこ終わらせて宿舎帰ろ……そんなことばかり話していたんだ。あとは、投げればいい》
その石井が、16回表一死後、星稜の川井にデッドボールを与えた。すぐあとに続く堅田にも二塁内野安打を打たれ、一、二塁のピンチ。次のバッターをセカンドゴロに仕とめたが、星稜のキャプテン山下にライト前に打たれる。《打たれたのは外角低目の直球、ストライクともボールともいえるコースですね。打っても、恐らくファウルになると思っていた》――その打球はしかし、ライト線ギリギリに入り、デッドボールの動揺のすきをついて星稜は再び1点リードした。
その裏、箕島の尾藤監督はもうこれで負けても悔いはないという思いを抱く。シーソーゲームをくり返しながら両チームともにチャンスを作りあい、しかも堅田、石井の両エースは2点、3点という得点に抑えているのだ。両チームともに守りあっている。
14回の裏には珍しいプレーもとび出した。箕島は1アウト三塁にまで進めたランナーを星稜の三塁手、若狭のかくし球で殺された。若狭はいった。《それまで、ぼくは5三振だったんです。全然いいとこなかった。ここらで何かやってやろうと、狙っていたんです》
一塁側、箕島ベンチにいた尾藤監督が、バントのサインをいつ出そうか、そればかりを考えていたときだった。尾藤監督の頭の中には、スクイズ―サヨナラ勝ちのシーンがちらついている。それをかくし球という奇手が封じた。三時間半近く、そんな風に闘ってきたのだった。尾藤監督が、ある種の満足感にひたって16回裏、2アウト、ランナーなしという状況を見つめていてもおかしくない。
逆に星稜の山下監督は16回表に三たび1点をリードして《これで勝てると、この試合で初めて思った》。
その、ほんの二、三分後、一塁手、加藤の転倒であやうくゲーム・セットをのがれた箕島の森川は左中間のスタンドにホームランをたたき込み、とびはねるようにダイヤモンドを一周している。
試合は18回、最終イニングまでもつれてしまうのだ。
16
その間に、少なくとも二人のバッターがホームランを狙《ねら》っていた。一人は、箕島の四番打者、北野敏史である。彼はこの試合、1本もヒットを打つことなく16回まできた。
《16回裏の先頭打者はぼくだったんです。ここで一発入れてやろうと、一球目から狙ってました。打った瞬間、アッ早く打ちすぎたって思ったんですが、もうおそい。セカンドゴロです》
もう一人、16回裏に捕れたかもしれないファウル・フライを逃した星稜の加藤が、17回表にホームランを狙って打席に立った。ホームランを打って挽《ばん》回《かい》したい。切実だ。負い目は、その場でケリをつけたほうがいい。かすり傷にはマーキュロクロム。心の傷にはホームランがよく効く。
《あれを捕っていれば、同点にならなかった。勝っていたわけですよ。それを思うと、何とかホームランを打ちたいと思った。ところが結果は、レフトフライだったんです》
18回の表、星稜はチャンスを迎えていた。17回まで、ほぼ二四〇球を投げている石井投手にセンター前のヒットを3本集中させたのだ。しかしランナー一、二塁からの3本目のセンター前ヒットは当たりがよすぎ、前進守備のセンターにフォローされて、二塁ランナーは本塁へ突っ込めない。
《……このまま同点のまま18回を終えた場合、箕島、星稜戦は引き分けとし、明朝八時半から再試合を行います……》
甲子園球場にそういうアナウンスが流れたのはそのときだった。星稜のピッチャー、堅田はそれを、二塁ベース上で聞いていた。
《18回表、ぼくらの攻撃はこれしかないわけです。2アウト、フルベース。最後のバッターは、結局、三振でした。それをぼくは二塁のベース上で見ていたんです。なぜか、ガクッと力が抜けていくようでした。このまま引き分けたら明日はまた朝の八時半から投げるのか、ボンヤリそんなこと考えていたんですね。最終回、球が浮いてました。どうにもならないんですね。疲労感なんてないのに、球が浮いちゃうんですよ》
17
勝利と敗北は、どこかで分かれていかなければならない。
いつか、そういう瞬間が来る。例えば、熱にうなされている箕島の上野山の目を、星稜の堅田投手がチラリとのぞきこむシーンがある。延長18回の裏である。堅田はマウンドを降り、キャッチャーの近くに歩み寄ってボールを受けとる。その直後、堅田はバッター・ボックスの上野山の目を見つめる。その目が妙にやさしげだ。一瞬の勝負を背負う者の厳しさがない。自らを恃《たの》むことによってマウンドを守るピッチャーの目ではない。
堅田はいった。
《18回裏、先頭打者をフォアボールで出したところで上野山クンが出てきたんです。様子がおかしかった。マウンドの上から見ても、体が揺れているんです。試合前に、彼がカゼをひいているという話は聞いていました。18回の時は、もう無理じゃないかと思った。バントもできないだろうという感じでしたね。一球目、バントは一塁側へのファウル。ぼくはマウンドをかけおりた。そのときキャッチャーからボールをもらいながら上野山クンの顔を見たんです。もう、焦点が合っていない。大丈夫なのかなと思ってしまった》
同情したわけではないだろう。
勝ちたい、勝たねばと思いながらも堅田の気力がちょっとしたきっかけでしぼんでいく。
上野山はその、最後の打席をほとんどおぼえていない。
《あの前あたりから、鼻血が出始めていたんです。そのうえ熱で、どうにもならなかった。鼻血は、最初、片方だけだったんですが、そこに綿をつめると反対側からも出てきた。バッター・ボックスでは、ほとんど球が見えてないんです。二球目は、バントしようとしたバットにもかすらず、三球目は三塁側にころがしてファウル。スリー・バントに失敗したわけですね。正確にはあとからビデオを見て確認しました》
堅田は上野山を三振にうちとったあと、北野にフォアボールを与える。
星稜の内野手がマウンドに集まり、そこに三塁側ベンチから伝令が飛んだ。伝令は一片のメモを持っていた。そこには山下監督の走り書きが見える。
「悔いのないボールを、思い切り投げろ」
しかし、すでにボールは死んでいた――。
18
昭和三九年の高校野球大会で初めて高野連から審判を依頼された永野元玄は、以来、高校野球大会のたびに勤務先の住友金属鹿島総務部から休みをもらい甲子園に来ている。彼には、彼自身が現役選手であったころの甲子園野球に強烈な思い出がある。一九五三(昭二八)年、永野は土《と》佐《さ》高校の捕手として甲子園のグラウンドを踏み、決勝戦で松山商業と対戦した。試合は土佐高のリードで進んだが、粘《ねば》る松山商は最終回同点に追いつき、延長13回に逆転してしまった。
《その同点に追いつかれた9回なんですが、同点打を放った松山商の空谷君は、その直前に2―0と追いこまれているんです。そして、3ストライク目の球がチップして私のミットにおさまりかけた。捕っていれば三振、ゲーム・セット。土佐高の優勝です。そのチップを、私は落球してしまったんです。
星稜の加藤君が、16回の裏にファウル・ボールを落球しました。私自身の体験とオーバーラップしてしまいました。なんと不運なんだろうと、思わざるをえませんでした。
私のベルトのところには、ボールを入れる袋が下がっていまして、そこにはいつも四個のボールを入れているんです。ニュー・ボールもあれば、一度使ったボールもある。ここぞという局面で、ボールを交換するときは、私は使い古したボールを渡すようにしている。新しいボールはすべるからです。私がしてあげられることはそれくらいですからね。
そして、18回の表に星稜は得点機を逃して、その裏、つまり、18回の裏の堅田君の一球目を見て、私は点が入るかもしれないと思いました。予感がするんですね。私は投げやすいボールを渡したはずです。でも、球が死んでいた。17回までの堅田君の投球とは明らかに違うんですね。疲労がたまっていたのかもしれません。あの時点で、もう星稜に勝ちはないのですから、逃げきろうとしたのかもしれない。すべての球が死んでいました。
バッター・ボックスに立った上野山君も悲壮でした。彼がバントしようとしていた球はボールでした。上野山君のあと、堅田君はもう一つフォアボールを出して1アウト、一、二塁。バッター・ボックスには箕島の上野君が入りましたね。上野君に対する一球目は内角低目のボールです。二球目は真ん中高目のボールです。制球力が、どうしようもなく、なくなっていましたね。カウント0―2から堅田君が投げた球もボールになるはずでした。ストレートです。それを上野君が左中間にもっていったのです。
二塁ランナーの辻内君が三塁をまわってホームに突っ込んできました。スライディングをしなくても、十分に間に合うタイミングだったでしょう。彼はヘッド・スライディングでホームに生還してきました。
それですべてが終わりました。
ゲーム・セットです》
それは堅田の208球目のボールだった。石井は二五七球を投げている。計四六五球。
19
両チームの選手たちがホームプレートをはさんで整列した時、永野主審は他の審判に同意を求めるようにいった。《このゲームに限り、選手同士、握手するのを認めよう》。本来、それは妙な流行になるという理由で禁止されていることだった。
選手たちが、それぞれのベンチに帰っていくと、永野主審は、一塁側ダグアウト横の出口のところで堅田を待っていた。三塁側から引きあげてくる堅田を見つけると、この試合で使っていたボールを一個、堅田に手渡した。
堅田投手は帽子をとって、それを無言で受けとった。その夏に、カクテル光線の下で演じられたドラマはそんなふうに終わったわけだった。
20
その後のことも、やはり書いておくべきだろう。
星稜高校の一塁手、加藤直樹は、現在、北陸銀行に勤めている。野球は、やっていない。甲子園から帰ったあと、しばらくブランクがあり、就職して急にまた野球を始め、腰を痛めたことが野球をやめた直接的な原因になっている。が、彼はこうもいった。
《野球は中学、高校と六年間やりましたからもうやりたくないんです。プロに対するあこがれ? 野球してまでメシを食いたいとは思わないんです。ぼくは平凡なサラリーマンでいいんです。朝の九時から夕方五時まで仕事をしてあとは自分の時間。日曜日はのんびりと家庭サービスをしているような、そんな暮らしが夢なんです》
一九七九年八月一六日の箕島vs.星稜戦に出場した三年生のうち、二人がプロ入りした。一人は巨人に入団した上野(箕島)であり、もう一人は大洋に入団した北(星稜)である。彼らはファームにいる。ノンプロで野球を続けている選手は七人、大学で野球を続けている選手が二人。その日、ベンチ入りしていた選手の中で、野球からすっかり身をひいてしまった人は五人いる。
カクテル光線が消えたあと、敗れた星稜の堅田投手は何を考えただろうか。彼はこういった。
《ぼくは泣かなかった。眠れずにみんなと話し合っていたことは、これで野球からしばらく解放されるということだった。
翌日、地元に帰りました。
あの夏は、暑い日が続いていました。
しばらくして、また練習が始まりました。
グラウンドが妙に白く見えるんですね。
そのとき、終わったんだなと思った。すべてが終わったのにまだ夏が続いているのが、ぼくには嫌《いや》な感じだった。
九月になれば、とみんなで話していたんです。
なぜあれは「九月」だったのか……九月になると、三年生はクルマの免許をとり出しました。
スカイライン、カリーナ、セリカ……それぞれ家にあるクルマに乗って集まるようになったんです。
夜、ハイウエイを飛ばしていると、ヘッドライトがきれいなんですね……》
カクテル光線は、まだ彼らの心の中にある。
江夏の21球
近鉄バファローズの石渡茂選手は、今でもまだそんなはずがないと思っている。
9回裏である。近鉄、最後の攻撃。ワン・アウト・フルベースのチャンス。スコアは4―3。近鉄は1点の差を追っている。一打逆転、犠打で同点になる。ゲームの流れは、追いあげ、攻めたててきた近鉄に向いている。
マウンド上には広島カープの江夏がいる。江夏はスクイズを警戒していた。石渡に対する2球目、近鉄ベンチはスクイズのサインを送った。
そのスクイズはみごとにはずされる。江夏の投球は外角の高目に外れ、しかも、曲がるように、落ちた。
石渡が懸命に出したバットは空しく揺れ動き、ボールをとらえることができない。江夏の投げた球は、バットの下を通り抜けた。スクイズのサインで猛然とホームベースに走りこんできた三塁ランナーの藤瀬は、スクイズが見破られたと、気づく。
藤瀬史朗の話――《バッター石渡さんのカウントが1―0になったとき、ブロック・サインがでました。無死で三塁に来たときからいわれてはいたんですよ。〓スクイズもあるからサインをよう見とけ〓とね。
江夏さんはサウスポーやから、ぼくのスタートは見えんやろ……それがまず頭に浮かんで……。それに江夏さんはポンポン投げてくるタイプでしょう。そういう先入観があったものだから、スタートは余計早くしていいという気になってしまった。
キャッチャーのことまで気が回らなかった。満塁でしょう。ホームはフォース・プレイですね。タッチ・プレイなら、ふつうのスタートでもいいんやけど、フォース・プレイやから早よスタートせなあかんと、そればっかり考えていた。ホームに向かって走ってったところで石渡さんの空振りが見えましたね。もう、いっぺんに元気がなくなってしまって……》
その1球が、バッター・ボックスにいた石渡の頭の中にいつまでもひっかかっているのだ。
石渡茂の話――《江夏の投げたあのボール、あれはホントに意識的にはずしたのか……。信じられんのですよ。フォーク・ボールが偶然スッポ抜けたんじゃないか。
バットに当てられん球やなかった。スクイズってのは、速い球に合わせる気持ちでやるもんです。ピッチャーも、はずすときは速球ではずすんです。ところが変化球やった。フォークです。それだけに信じられない。ホントにはずしたんなら、そりゃもう、大変なことですよ……》
しかし、間違いなく江夏の投げた球は石渡のバットの下をかいくぐったのである。
偶然ではなく、である。
大阪球場はほとんど近鉄ファンで埋まっていた。近鉄ファンはここで落胆しなければならない。
しかし、このシーンに吸い込まれた人間の気分は落胆というものではなく、むしろ興奮だった。濃密に急転回する時間のなかには興奮しかない。
《見破られました! スクイズを見破られたのです。ツー・アウト! ツー・アウトになりました!》
実況中継のアナウンサーはマイクを握りしめた。
その1球は、このイニング、9回裏に江夏が投げた球のなかでは19球目に当たる。
一九七九年一一月四日。
大阪球場で近鉄バファローズvs.広島カープの日本シリーズ第七戦が行われている。この日までの戦績は両チームともに3勝ずつをあげ、この日の第七戦で決着をつけなければならない。カープは初回に1点、三回に1点、そして6回には水沼の2ラン・ホーマーで追加点をあげ、勝ちに向かっていく。
近鉄は5回の裏に平野の2ラン・ホームランで反撃を開始し、つづく6回にはマニエル、栗橋のヒット、有田の送りバントなどで1点を追加、激しくカープを追いあげてきた。点差はわずかに1点である。
江夏がこの日、大阪球場のマウンドに登るのは、その直後、7回の裏、ワン・アウト・ランナー一塁という局面だ。ピッチャー福士をリリーフしたものだった。
予定の行動だった。
試合が始まるころ、江夏はそっとベンチを出てロッカー・ルームに向かった。それもまた、江夏のいつもの行動だった。リリーフに徹するようになってからできあがった習慣である。トレーナーがやってきて入念にマッサージを始める。江夏の左腕は、そういうことでかろうじて保たれているといってもよかった。江夏はプロ入り以来、公式戦だけでもう43311球もピッチングをくり返してきているのだ。
時折り、ドッと歓声がロッカー・ルームにも聞こえてくる。誰《だれ》かがヒットを打ったか、三振でもしたのだろう。その歓声が聞こえるたびに、江夏は筋肉を緊張させる。そして、自分の出番が一秒一秒近づいてくるのを、肌《はだ》で感じとっていく。
試合は3回に入った。《よし》といって江夏は起きあがった。それも、いつもの行動だ。そのまま、ブルペンへ向かった。
7回、江夏がマウンドに登るとき、空からは小雨である。腰の左ポケットにロージン・バッグを入れた。すでに照明灯のスイッチが入っている。
ゲームは江夏を軸に動き始めた。
7回、後続を断ち、8回も江夏は近鉄打線を三者凡退に打ちとった。
9回の守りにつく前、江夏はベンチの奥に坐《すわ》ると、ショート・ホープを一本とり出して火をつけた。点差はわずか1点リード、残るイニングは一回――。
《ここを投げ切れば》と、江夏は考えていた。《もうしばらく野球はせんでもいいだろう》
このシーズン、江夏は働きすぎていたのかもしれない。9勝5敗22セーブ。広島カープにとって重要な試合には必ずといっていいほど、江夏はマウンドにあがった。
ショート・ホープをゆっくり吸っている時間はなかった。
高橋慶彦が三振に倒れると、江夏はマウンドへ向かった。
それから約二六分間、江夏は大阪球場のマウンドに立ち尽くし、〓勝者〓と〓敗者〓の対角線上を激しく往復する。
そして、その間に江夏の1球1球をめぐって広島、近鉄両ベンチ、そしてグラウンドに立つ選手のあいだを様々な思惑が交錯した。野球とは、あるいはこの様々な思いが沸《わ》き立ち浮遊し交錯するところに成立するゲームであるのかもしれない。
その渦《うず》のさなかにいて、江夏はあるシーンを見るのだ。
江夏がマウンドに歩いていく。
これが最終回だという気負いはとりたててなかった、と江夏は語った。江夏は、再び、こんなふうに考えているのだ――。
《この回が終わればもう野球をせんでもいい。あと一回投げれば、休めるんだ》
バッター・ボックスに六番打者の羽田が入った。江夏は1球目から打ってくることはまずないだろうと考えている。
《最終回でしょ。とにかくこれが最後なんだ。慎重に攻めてくると考えるのがふつうやと思う。それでカウントをとりにいった。アウトコースの真っすぐだね。それをスコンとやられた。センター前やったな。あッ、痛っ! っていう感じ》
ドラマは唐突に始まった。江夏の1球目はコンダクターのタクトだった。その腕が振りおろされたとき、最終楽章はアレグロで動き出す。
大阪球場のグラウンドは擂《すり》鉢《ばち》の底のように見える。急《きゆう》勾《こう》配《ばい》のスタンドの喚声が、テレビのボリュームを突然大きくしたようにどよめき始めた。鳴り物入りで大阪球場がうなり出した。もう紙吹雪までが舞ってしまう。
羽田耕一の話――《外の真っすぐですよ。初球から真っすぐを狙《ねら》ってましたからね。バットはすんなり出たいう感じですね。直球がきたら、何でも振ってやろうと思ってました。まあ、会心の当たりというところですね。予定どおり代走に藤瀬が出てきて、ああ、こいつが本塁にかえってきたら同点なんだなと思って、一塁で交代するとき〓かえってや〓って声かけたんですよ》
藤瀬は近鉄の代走の切り札である。七九年のシーズンは27個の盗塁を記録している。
広島の田中コーチがベンチを飛び出した。カープの内野手がマウンドに集まる。近鉄の西本監督もベンチを飛び出して次の打者、アーノルドのところへ歩いた。
江夏は別のことを考えていた。
《羽田には、第三戦のときの印象があったんだね。こっちが1点リードしているときの9回やったな。ノー・アウト・ランナー・セカンドで出てきた羽田が、カウント1―2からじつに簡単にフライを打ちあげた。もうちょっと工夫して打てばいいのにと、オレが思ったくらいだった。あんまり賢こうない奴だなと思った。その記憶が残ってたんだろね。そこをスコンとやられたから痛かった。手を抜いて投げてるわけやないんだ。ただ、ときどき初球をスコンとやられるんだ、オレは。
七九年のシーズンに10本、ホームランを打たれた。そのうちの7本が初球。しかも、いわゆるホームラン・バッターではなしに、ふだんはめったにホームランを打たん奴にやられとる……》
カープの内野手が集まったのは、守備の打ち合わせである。バントでランナー藤瀬をスコアリング・ポジションに送ってくるか、藤瀬の単独スチールか、あるいはヒット&ランか……。
結果は、藤瀬の単独スチールになった。アーノルドのカウント1―2からの4球目に、藤瀬は走った。
江夏の投げた球は、右打者アーノルドにとっての外角球。直球である。が、サウスポー、江夏が外角へ投げた球はシュートがかっていた。主審のコールは「ボール」。キャッチャー水沼はあわててセカンドへ投げる。タイミングはアウトである。しかし、水沼の投げた球はセカンド・ベースの手前でワン・バウンドし、センターへ抜けた。藤瀬はそのまま三塁ベースに走りこんだ。
ノー・アウト三塁。近鉄に思わぬチャンスがめぐってきた。大阪球場は熱狂する。テレビ・カメラは一塁側ベンチ上に舞い散る紙吹雪を追った。実況中継のラジオのアナウンサーも、思わず絶叫調になる――《ノー・アウト三塁! ノー・アウト、ランナー三塁です! 近鉄にとっては願ってもないチャンス! 紙テープが舞っています! みかんも投げこまれています!》
ラジオの解説者はしごく当然のことを重々しくいった――《よほどのことがない限り、同点になるケースですね》
そのシーンは、たしかにランナー藤瀬が単独スチールし、あわてて水沼がセカンドに悪送球したように見えた。
ネット裏で観戦していた野村克也(現在・評論家)にも、それは単独スチールに見えた。客観的にはそう見えて当然である。
《野球の定石からいうと、ここでスチールさせるのはえらい冒険なんですよ。9回のドタン場。このランナーが殺されたら終わりですよね。それを走らせる。野球は〓結果オーライ〓いうて、作戦が成功すればそれでいいわけだけど、失敗したらまず間違いなく責められるポイントですね。江夏―水沼バッテリーvs.藤瀬というなかで考えて、100%成功するという自信がなければできない。西本さんは、ふだんはこういう作戦をとらない人なんですよ。非常に慎重。石橋をたたいても渡らないところがある。スチールのサインを出したのなら、作戦的に邪道じゃないかと、ぼくの目には見えましたね》
しかし、ユニフォームを着てこのシーンを見ている側は、また違った思惑を抱えている。
江夏がいう。
《何かしてくるのはわかってる。それはしゃあないっていう感じだね。日本シリーズに初めて出てきたとき(第二戦)が似たようなシーンだった。ランナーに藤瀬がいて、バッターはチャーリー(マニエル)。あのときは気負っていた。ランナーもなんとかしよう、バッターもおさえようと思うてた。それが失敗だったと思う。チャーリーに打たれた。今度はそういうわけにはいかない。
藤瀬の足はたしかに速いよ。オレのクセも見抜かれてるやろ。そんなら走ってもかまへん。そう思った。それよりバッターに集中したほうがいい。
1球目はバントを警戒してはずした。バントの気配は全然なかったね。2球目は、打ってくれればいいという、これもはずし球。全然、打つ気がないようだった。アーノルドもウェイティングに入ってるみたいなんですわ。藤瀬が走るのを待っている。ヒット&ランはないと思った。アーノルドは空振りが多いからね……》
しかし、近鉄ベンチ、西本監督の出したサインはヒット&ランである。
《当たり前やろ。あの場面でスチールがないのは当然。ヒット&ランのサインだった》
それが単独スチールになってしまった。藤瀬は「こりゃダメだ」と思って走っている。
《カウントが1―2になってからヒット&ランのサインが出たんですよ。ヒット&ランやから、スタートは多少おくらせますよね、見破られないように。だからスチールのときよりスタートは遅い。スタートしてから三歩ぐらいいったときにアーノルドがヒット&ランのサインを見逃しているのに気がついた。アウトのタイミングです。けど、万がひとつにセーフになることもあるやろと思うて走ったんですよ。ええ、もう諦《あきら》めてね……》
西本監督はベンチの奥に足を組んで坐り、苦《にが》笑《わら》いを浮かべている。作戦とは違った結果になり、しかもそれはいちおう悪い結末にならなかった。
ノー・アウト三塁。江夏vs.アーノルドのカウントは1―3。江夏は外野フライを警戒してインコース低目に投げる。主審は〓ボール〓を宣した。フォアボール。ランナー一、三塁。アーノルドに代わってピンチ・ランナー吹石が出た。
江夏は、
《1点はしゃあない》
と思った。それがマウンド上にいる者にとっての正直な実感である。
ベンチの古葉監督は、しかし、内野に前進守備の指示を出す。つまり、1点も与えまいとする守備態勢だ。
古葉監督の話――《あの場合、内野手をややうしろに守らせたほうがいいというのはわかるんですよ。前進守備をしていれば、一塁ランナー吹石は盗塁しやすい。吹石がセカンドへ行けば、一打逆転になりますからね。
しかし、ウチとしてはとりあえず1点もやりたくなかった。三塁ランナーの藤瀬はゆるい内野ゴロでもホームベースに突っこんでくるでしょう。1点とられて同点にされたらもう負けると、そう思ったわけですね。だから、一、三塁であっても前進守備をとらせた》
このシーン、いやもうしばらくあとのさらに緊迫したシーンにあっても、古葉監督は《冷静だった》という。
しかし、冷静に見れば、これは広島の敗因につながるかもしれないと、ネット裏の野村克也は客観的に見ている。
《あの場面で、守る側にとっては、三塁ランナーより一塁ランナーの吹石のほうが大変なんですよ。吹石をホームにやらなければ、カープは少なくとも同点のまま延長戦にもっていかれる。その吹石にただで二塁ベースへ走ってくれという守備になっていますからね》
江夏はさらに追いつめられる。
あるシーンが、江夏の目に飛びこんできたのである。
それは江夏にとっては、ゲームの流れよりも気になることだった。この場面でマウンドを守っている江夏の張りつめた気分はかき乱された。
あるラジオ中継のアナウンサーが、カープ、ピンチの状況を描写しようとして、グラウンドの動きに神経を集中させていた。そして、カープのピッチャーが三塁側のブルペンに向かうのを見た。
彼はそれをマイクに向かって説明した――《三塁側ブルペンでは池谷が出て投球練習を始めました。カープ、ピンチです!》
江夏は、三塁側、自分のベンチの動きも見逃すことがない。池谷がピッチング練習を始めたのも見ている。同時に、北別府がブルペンに向かって走っていくのも江夏は見ている。
《なにしとんかい!》
江夏はそう思った。それにはいろいろな思いがこめられている。
《このドタン場に来て、まだ次のピッチャーを用意するんかいうことですね。
そうか、オレはまだ完全に信頼されてるわけじゃないのかと、瞬間、そう思った。
ブルペンが動いた。なんのためにオレはここまでやってきたんや。そう思って、釈然とせんかった。ブルペンが動くとは思っていなかったからね》
それが3勝3敗で迎えた日本シリーズ第七戦、4―3とわずか1点だけリードしている側が、リリーフの切り札として自他ともに認める投手をたてて9回裏の最後の守備につき、大ピンチに襲われているときのマウンド上の投手の心理の一断面だった。
江夏はそのシーンを、そういう角度から見てしまっている。それは試合が終わって広島カープが〓日本一〓の座についたあとも、彼の心に長く居残っている。あれはどういうことなのか、オレでは不足なのか――端的にいってしまえば、そういう思いである。
そのわだかまりを残したまま、江夏はノー・アウト・ランナー一、三塁という状況に対処しなければならない。バッター・ボックスには平野が入っている。
1球目、江夏は速い球を高目に投げこんだ。スクイズを警戒しているのだ。平野はこれを見送る。ボール。
平野に対する2球目、江夏は、このイニングを左右する球を投げている。右打者のひざもとへ曲がりながら落ちていくカーブである。これをフォークと呼ぶ人もいる。江夏の指はプロの投手にしては短く、完《かん》璧《ぺき》なフォーク・ボールは投げられない。
江夏の話――《あのコースへのカーブは、それまで使えなかった。一番こわいコースなんや。ワン・バウンドになりやすいし、キャッチャーがパスボールすることもある。
そこへ投げて、平野がハーフスイングした。カラ振りになったけどね。あれを見て、このボールはいけると思った》
江夏はこのあと重要な場面でこの球を使っている。
平野に対する1球目は、いちおうスクイズを警戒してはずした。スクイズはないとみて2球目で打ち気を利用してボールになっていくカーブを振らせてカウントをかせぐ。それが江夏のこの状況での攻め方だった。
いちおう、というのは、江夏の目から見た場合――《平野は打ちたがりだからね。まずバントしてこないだろうと思ってた。しかし、あの場面だから何があるかわからん。それで1球目は外したわけや》
ところが、平野は、バッター・ボックスからマウンド上の江夏を見て、まったく違うことを考えている。
《1球目は完全にボール、2球目はカーブだかフォークだか……思わず振ってしまったけど、あれはボール球だったな。
それにしても、1球、2球を見てて江夏はそうとう動揺してると思ったね。初球のボールね。あんな高いボールになるなんて、江夏本来のピッチングとは思えないからね》
バッター・ボックスに立った平野は江夏の出来をそう見ている。たいしたことはない、と。その平野に対して、西本監督は、この場では特にサインを出していない。《ノー・アウト一、三塁いうたら絶好の攻撃パターンやな。その場で監督は何もいわんとまかせてくれた。気合いが入ったね》
その気合いを見て、江夏は内角に沈むカーブを投げているのである。
どちらが読み勝っていたのか……。平野が江夏の中に見た動揺は間違いなかった。江夏はバッターではなく、自軍のベンチの動きを見て動揺している。それを誰にも見せずに平静さを装っている。心の中から噴きあげてくる思いにふたをしている。そして、そういう思いがあるからこそ、江夏は自分が動揺している以上に冷静になろうとしている。
この勝負は、江夏の3球目に一塁ランナー、吹石がセカンドへスチールすることによって中断される。予定どおりのスチールだった。キャッチャー水沼はセカンドへ投げられない。三塁には足の速い藤瀬がいる。
これでノー・アウト二、三塁。
広島ベンチは平野を歩かせ満塁策をとる。敬遠のフォアボールである。
江夏は再び広島ベンチを見た。マウンド近辺に集まっている内野手と話を交わしながら江夏の目はベンチの動きを追っている。ブルペンにも目を走らせる。池谷、北別府は投球練習を続けている。ノー・アウト・フルベースである。
江夏は思わざるをえない――ここまできてマウンドを降りるわけにいかないじゃないか。誰がオレに代わるというのか……。
《ここで代えられるくらいならユニフォームを脱いでもいいんだ》
江夏はそう思った。
そういう思いを持ち、また、その角度からブルペンの動きを見ている江夏には、当然のことながら、〓自負心〓が脈打っている。
その自負心が一三年間のプロ野球生活を支えてきたといってもいい。マウンドを守るとは、つまりそういうことである。自らを恃《たの》むことによってしか、投手は投手たりえない。
このシーンのなかでブルペンの動きに気をとられている江夏は、自尊心を傷つけられている。
《なにしとんかい!》
と、江夏がつぶやくとき、その内側にはプライドを逆なでされた投手の戸惑いと、不安、そして怒りにも似た感情がないまぜになって、在る。
しかし、考えてみれば、江夏は誰によって傷つけられているのだろう。
池谷、北別府をブルペンに行かせ、ウォーミング・アップを始めるように指示したのは古葉監督である。
その古葉監督は、このシーンでこう考えている。
《仮にあの場面で1点とられたとしましょう。そのまま延長戦にもつれこんでいきます。やがて江夏のところに打順がまわってくる。そのときどうしてもピンチ・ヒッターを送りたい状況になったらどうするか。
そのときあわてて次のピッチャーにウォーミング・アップを命じてもおそいんですよ》
10回の表に入ると、広島は二番の衣笠から攻撃が始まる。ふつうに考えれば、11回に江夏のところに打順がまわってくることもありうる。
9回の裏、近鉄の攻撃のとき、時計の針は午後四時三〇分に近づいている。ゲーム開始から三時間半になろうとしている。
日本シリーズの場合、延長戦は試合開始から四時間を経過したあと新しいイニングに入らないという規定がある。あと一時間。同点のまま延長戦にもつれこんだ場合、五時半まで試合は続くのだから11回まで進んでいく可能性はある。
古葉監督はそのことを考えているわけだ。ブルペンに投手が走っていくのを見て、マウンド上の江夏が、
《なにしとんかい!》
とつぶやいているのを、古葉監督は知らない。
再び、古葉監督――《そこまでは考えませんでしたね。また逆に、あえて若いピッチャーにウォーミング・アップさせることで江夏を発奮させようとも、あの場面では考えなかった。
ただ一つ、同点になったときのことを考えていただけですからね》
実務的である。
このホットなシーンで古葉監督はひたすら実務的であろうとしている。それがゆえにマウンド上のピッチャーのエモーショナルな感情の揺れが見えない。
誰も、江夏の自尊心にナイフを向けようとしているわけではない。にもかかわらず、マウンドの上の投手は心に傷を作っている。多分、自分の手によって、である。彼自身を支えている自負心が、気づいたときには、自分に刃を向けている。
ノー・アウト・フルベース。9回裏。シーズンの掉《とう》尾《び》を飾る日本シリーズ最終戦。それによって全か無かが決まってしまう濃密な瞬間を、十数メートル離れたところで共有しながら、その立っている位置によって思いは異なったベクトルを描きあっている。江夏も古葉監督も、その熱気と緊張の中で、お互いの見つめているものが全然別個のものであることに気づきようもない。
さて、江夏である。
ノー・アウト・フルベースになったとき、江夏はこう思っている――《あきらめたね。これはもう負けや》
西本監督は笑い出さんばかりの表情でベンチを出た。ピンチ・ヒッター、佐々木を告げ、その佐々木にアドバイスをする。
西本監督の話――《勝てると思うとった。当たり前やろ。ノー・アウトなんやで。ランナーが三人いるんや。勝てるはずだ》
そして、しきりとベンチを出入りしている。うろうろと、落ち着かない。
江夏は、その西本監督を見ていた。《チョロチョロせんかてええやろ、もうお前ら勝ったんやんか》――と思いながら見ていた。江夏がそんな心境にあるのを、西本監督は気づきようもない。バッター・ボックスに佐々木が入った。江夏はいう。
《どうやったってゼロでは切り抜けられない。
なら、いっそきれいに散りたいと、そう思ったね。押し出しや外野フライで点が入るのはものすごいいやだった。むしろガツンと打たれたい。打てるなら打ってみろいう感じやね。ホームラン打たれたってええじゃないか。中途半端で決着つくのが一番いやだった》
そう思いこんだところで、江夏は佐々木に対して完璧なピッチングを展開してしまうのだ。
ネット裏の野村は、そのピッチングの組み立てに目をみはった。
《ここで江夏は佐々木のバントを全然気にしてないんですよ。佐々木が小細工のできないバッターということもある。江夏は南海にいたことがある。その南海時代に西本さんの野球を見て、どういうときにスクイズをやるかを知ってるということもあるね。西本さんという人は、ドタン場のスクイズをあまりやらない人だから。そういうのを見て知ってるということもあるけど、江夏の場合は、勝負師としての天性のカンだろうと思える。
1球目は右打者のひざもとへ落ちるボールのカーブ。佐々木は打ちにきて、かろうじてバットをとめている。それを見て、佐々木が打ちにきてることが江夏にはわかった。佐々木は直球にヤマをかけてたのがバレたと思ったんじゃないかな。第2球、佐々木はカーブに的をしぼっている。そこに江夏は外角の直球を投げている。これがストライクで1―1。
3球目に投げた球は、真ん中から低目に沈むフォーク・ボール。佐々木はこれを振って三塁ベースをわずかにはずれるファウルになった……》
近鉄は勝ったと思ったに違いない。一塁ベンチには紙吹雪が舞った。見る角度によっては三塁線を抜くヒットに見えた。
《きわどい! きわどい当たりです。フェア・グラウンドに入っていたらもちろん逆転! 勝負はまったく紙一重です!》
アナウンサーの声はうわずっている。それは同時に大阪球場を埋めつくした三万人の観客の思いだろうし、テレビ、ラジオ中継にくぎづけになっていた数千万人の人が感じた思いでもあるはずだ。
しかし、江夏は《何を騒ぐんだ!》という心境である。
《あのコースを引っ張っても、絶対にヒットにならないんだ。ファウルか、内野ゴロになってもボテボテの当たりになる。絶対フライにはならないはずなんだ。だからあのとき、オレは全然あわててなかったね》
このシーンを見つめている側は、マウンド上の江夏がそんな風に思っていることを知らない。気がつかないが、しかし、別の思いこみのなかで十分に盛りあがっている。
ネット裏の野村も、江夏と同様、この一打に驚かなかった。
《江夏のカウント稼《かせ》ぎに振らされたんですね。江夏は次に胸もとに思い切って捨て球を放った。ファウルされたけど、これはウイニング・ショットの前の捨て球です。次の5球目にもう一つ、内角低目に真っすぐを投げる。これも捨て球ですわ。で、最後に5球目とまったく同じ球道で、バッターの近くに来てスッと落ちるカーブを投げた。
目の錯覚を利用しているわけだね。さっきのボールと同じ球道でくるから。佐々木にはその球道が見えている。振る。落ちる。
佐々木にはボールが一瞬消えたように見えてるんじゃないか》
大阪球場にどよめきが走った。三振、ワン・アウト。
その息づまる緊張のなかを、カープの一塁手、衣笠が江夏のところに近づいていったことを記憶にとどめている人は少ない。
江夏が佐々木を2―1と追いこんだとき、衣笠がマウンドに近寄った。そこで衣笠はこういったのだ。
《オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな》
江夏がいう。
《あのひとことで救われたいう気持ちだったね。オレと同じように考えてくれる奴がおる。おれが打たれて、何であいつが辞《や》めなきゃいかんのか、考えてみればバカバカしいことだけどね。でも、おれにはうれしかったし、胸のなかでもやもやっとしとったのがスーッとなくなった。そのひとことが心強かった。集中力がよみがえったいう感じだった》
江夏が、バッター平野のときに投げた内角へ沈んでいくカーブを佐々木への勝負球にしようと思うのは、その直後のことだ。
おなじコースのおなじ球で、江夏はスクイズ失敗で気落ちした最終打者、石渡も三振にうちとることになる。
衣笠のいった《オレもお前と同じ気持ちだ》――とは、ブルペンが動いたことに対する何がしかの思いが同じだということである。ここまできてそれはないだろうという、つまりはダイヤモンドの中にいて、その中の空気を吸っている人間が、あのシーンの中であるがゆえに感じてしまう、それは思いであるのかもしれない。
ビッグ・タイトルがかかっているという緊張感と、それを背負っているという自負心が彼らにそういう気分を起こさせるのか。だとするならば、プレイヤーたちは、ビッグ・ゲームに心理的にあやつられている。主人公は1球1球、局面を変えていくゲームそのものなのではないか。
江夏は《冷静だった》という。
古葉監督もまた《冷静だった》といった……。ゲームはコミュニケーション・ギャップのなかでドラマまで形作ってしまう。
江夏は集中力を取り戻している。
石渡がバッター・ボックスに入った。
《1球目、投げたのは外角から入っていくカーブだね。石渡はまったく動かなかった。それでこれはスクイズが必ず来るとわかった。あそこで少しでも打ち気に来てたら考え直したかもしれない。あとはスクイズがいつ来るかだ。シリーズ七戦目に入って、近鉄のブロック・サインはだいたい読めていた。でも、あのときは近鉄ベンチからスクイズのサインが出ていたかどうかわからんかった。
次が問題の2球目だった。カーブのサインだった》
日本シリーズ第七戦の江夏―水沼バッテリーのサインは公式戦でのサインに戻っていた。日本シリーズの前半の数試合は、シリーズ用のサインを使っていた。公式戦でのサインはすでに解読されていると思ったからだ。が、数試合を戦ううちに、サインを見破られることのマイナスよりも、新しいサインにバッテリーが戸惑い、神経を使うことのマイナスのほうが大きいことに気づいた。
水沼がキャッチャー・ミットのかげで指を動かす。一本、二本、三本……と、水沼がアット・ランダムに指を示す。江夏は自分の投げたいボールのサインが出たところでうなずく。それが基本的なサインの交換である。その、いつもながらのサイン交換で江夏はカーブを選んだ。
江夏は、いつものように投球動作に入った。江夏のピッチング・フォームには一つだけ、クセがある。それがこの場の結果を左右するとは、江夏自身も思ってはいない。
《オレは投球モーションに入って腕を振りあげるときに一塁側に首を振り、それから腕を振りおろす直前にバッターを見るクセがついている。これは阪神に入団して三年目ぐらいのときに金田(正一)さんから教わったものなんだ。投げる前にバッターを見ろ、相手の呼吸をそこで読めば、その瞬間にボールを外すこともできる。石渡に対する2球目がそれだった。石渡を見たとき、バットがスッと動いた。来た! そういう感じ。時間にすれば百分の一秒のことかもしれん。いつかバントが来る、スクイズをしてくるって思いこんでいたからわかったのかもしれないね。オレの手をボールが離れる前にバントの構えが見えた。真っすぐ投げおろすカーブの握りをしてたから、握りかえられない。カーブの握りのまま外した。キャッチャーの水沼が、多分、三塁ランナーの動きを見たんやろね。立つのが見えた……》
それがバッター・ボックスにいた石渡には信じられない。あそこからスクイズを外してくるなんて、しかも変化球で外してくるなんて……ありえない。
瞬時の出来事である。
センターから江夏の背中を通してバッター・ボックスを狙《ねら》っているテレビ・カメラは、江夏のいつもながらの投球モーションを捉《とら》えている。江夏が腕を振りおろす。キャッチャーの水沼が立ち上がる。バッターの石渡がバントの構えをとり始める――。すべては同じ時間軸の上にあった。差し出された石渡のバットは、ブラウン管の上で一、二センチ上下にふらついた。体がもう、あえいでいる。
ただし、球種は石渡のいうようにフォークではなかった。真上から投げおろすカーブである。江夏はスライダー気味のカーブ、真上から投げおろすカーブの二種類のカーブを持っている。真上から投げおろす場合、手首は90度左に開いている。その握りで直球は投げられない。そのせいで、この1球は石渡をほんろうすることとなった。球はバットの下をかいくぐったのである。
三塁ベースから疾走してきたランナーの藤瀬は踵《きびす》を返して戻ろうとする。三塁ベースに向かってつんのめりそうになるその背中を水沼のキャッチャー・ミットが激しくたたいた。江夏は投げ終わった瞬間、ぴくりと背中をふるわせている。
そしてすべてが終わるのだ。
三塁ランナーは挟《きよう》殺《さつ》された。ツー・アウト。石渡のカウント、ツー・ナッシング。
江夏はそのまま勝負に出た。インサイド低目の直球である。石渡はかろうじてバットに当てた。江夏は早いテンポで4球目を投げる。インサイド低目に沈んでいくカーブ。石渡のバットが空を切った。
それは9回裏に江夏が投げた21球目のボールである。
正確にいえば二六分四九秒――その間、江夏はマウンドの一番高いあたりから降りようとはしなかった。マウンドは江夏のためにあった。
石渡が気《け》圧《お》されるように三振に倒れると、江夏はマウンドをかけ降りた。大きくとびあがり、その周囲に選手が集まり胴上げシーンが展開された。古葉監督、そして江夏の体が宙に舞った。江夏のブルーのビジター用ユニフォームの背中には赤く《26》という数字がぬいこまれている。その《26》が、大阪球場の今にも泣き出しそうな空の下で舞った。
その直後、江夏はベンチに戻り、うずくまって涙を流したという。
たった一人のオリンピック
使い古しの、すっかり薄く丸くなってしまった石《せつ》鹸《けん》を見て、ちょっと待ってくれという気分になってみたりすることが、多分、だれにでもあるはずだ。日々、こすられ削られていくうちに、新しくフレッシュであった時の姿はみるみる失われていく。まるで――と、そこで思ってもいい。これじゃまるで自分のようではないか、と。日常的に、あまりに日常的に日々を生きすぎてしまうなかで、ぼくらはおどろくほど丸くなり、うすっぺらくなっている。使い古しの石鹸のようになって、そのことのおぞましいまでの恐ろしさにふと気づき、地球の自転を止めるようにして自らの人生を逆回転させてみようと思うのはナンセンスなのだろうか。周囲の人たちは昨日までと同じように歩いていく。それに逆らうように立ち止まってみる。それだけで、人は一匹 狼《おおかみ》だろう。
一人のアマチュア・スポーツマンがいた。
昭和五〇年のはじめ、彼は東海大学に通う学生だった。ごく普通の学生であったという以外に特徴はない。日々、麻雀にあけくれ、これといった研究テーマがあるわけではなく、なんとなく無為に日々をすごす、つまり、ごく普通の学生であった。高校は教育大(現・筑波大)附属大塚高校。有数の進学校であり、彼も東大を目指した。一浪し二浪し、三回目も失敗して結局、彼は東海大へ進んだ。その挫《ざ》折《せつ》感もあって彼は押し流されるように日々を過ごしていた。そして二三歳になっていた。
ある日、彼は突然、思いついてしまう。オリンピックに出よう、と。その思いつきに、彼は酔った。「もし、それが実現すれば」と、彼は思った。「なんとなく沈んだ気分が変わるんじゃないか。ダメになっていく自分を救えるんじゃないか」
そこで彼は、自分の時間を一度、せき止めてしまった。遠大なビジョンに向かって非日常的な時間を生きてしまう。
すべてはそこから始まったわけだった。
*
一九八〇年六月一五日、日本時間の午後一時はスイスの朝の五時に当たる。ベルンの東、チューリヒの南にルツェルンという町があり、このいかにもスイス的な、山岳部の町にも朝の五時の光が漂《ただよ》っている。そこから経度でほぼ一三五度東へ行くとそこに日本があり、時刻は、くり返しいえば午後の一時である。
その差は、何ら意味を持たないが、しかし、その二つの場所から二つのシーンを同時にピック・アップすれば、その時、別の差が見えてきたりする。
例えば、この日、日本の札幌の町では〓タイムス三〇キロレース〓が行われることになっていた。本来ならば、ということはつまり、モスクワ・オリンピックに日本が参加することになっていたならば、それはオリンピックを一か月後にひかえたビッグ・レースになるはずだった。瀬古も、宗茂、猛兄弟もこのレースにエントリーしていた。
午後一時。スタートを四五分後に控えたこの時刻の選手団の中に瀬古も宗兄弟の姿も見えない。スタートの時刻になっても彼らがそこに現われることはないだろう。
《オリンピックがないわけですからね、このレースに出る意味はありません。走る気になんてならないよ》
宗茂はそういって、その時刻は地元、宮崎県の延《のべ》岡《おか》で走っているだろうといった。瀬古にはまた別の論理があった。彼は《オリンピックに参加できなくても、いい》とくり返し語ってきていた。毎日数十キロ走り続けていることの目的はオリンピックに参加することなどではないのだというのが瀬古、というより瀬古をここまで育ててきた中村清コーチの論理の出発点だった。
中村コーチはこういっていた。
《オリンピックに出ることがすべてじゃないんです。走るということ、走り続けるということは、例えば芸術家が何かを創造することと同じなんです。ロマンです。レースはその作品の発表場所ですよ。オリンピック以上の、いい発表の場所はいくらでもあります。不参加が決まる以前から、個人的には、ああいう形のオリンピックには出たくないと思っていた。オリンピックも、ヘリンピックもサヨナラです……》
瀬古が早稲田の競走部に入ってきた時、《失敗したらオレの腕一本くらいくれてやる》といって瀬古を中距離から長距離ランナーに転向させたのが中村コーチだった。瀬古を自宅近くに住まわせ、マン・ツー・マンでマラソン・ランナーに仕立てあげてきた。冬、正月の箱根駅伝、六五歳の中村コーチは鶴見―戸塚間を走る瀬古に伴走車の上に立ち、〓都の西北〓を歌って激励していた。そのシーンはこの師弟のホットな関係を語るに過不足はない。そして、もう一つ、別のシーンをここに挿《そう》入《にゆう》すれば、この師弟は瀬古が早稲田を卒業し、えんじ色に白で〓W〓と書かれた早稲田大学競走部のユニフォームを脱《ぬ》ぐと、ともにエスビー食品に就職していった。八〇年の春、四月のことである。それはエリート・アマチュア・スポーツマンにとって、選手寿命のある限り、心おきなく練習し、レースに出場し、中村コーチの言葉を藉《か》りれば《芸術作品》を作ることに没頭できることを意味する。
六月一五日。その瀬古はオホーツクに向かっている。網《あば》走《しり》から湧《ゆう》網《もう》線でさらに北へ向かい常《とこ》呂《ろ》に着く。この北の、誰にも、何ものにもわずらわされない町でヨーロッパ遠征にそなえてのスピード強化をはかろうとしているのだ。
瀬古は、もちろん、時差にして八時間違うスイスの小さな町に誰がいるか、知らない。知らなくて当然だし、知る必要もないだろう。スイスのルツェルンの朝の五時の空気のなかにいるのはまったく無名の、モスクワ・オリンピックの代表選手に選ばれてはいるが、それ以上でもそれ以下でもない、一人のボート選手にすぎないのだから――。
彼を瀬古との対比角度において一三五度違うその線上に浮かびあがらせてみたいと思うのには、しかし、それなりの理由がある。
彼はスポーツ・エリートではなかった。幸か不幸か、ある時、彼の頭に《オリンピック選手になろう!》という思いがとりついてしまった。そう思いつくことは、気分の悪いことではない。彼もその思いつきに酔った。その酔いは彼にとって、再び同じフレーズをリフレインさせれば「幸か不幸か」、一夜にして醒《さ》めてしまうものではなかった。たいていの人間にとって、そんなことは一瞬の思いつきで終わってしまうだろう。
彼は、しかし、その思いつきで自分の人生の流れを止めてしまった。そして、五年あまり、彼はそのことにこだわっていたのだ。
その結果として、彼は六月一五日の早朝、スイスのルツェルンという町にいる。
彼の名前は津田真男という。ボートのシングル・スカル、つまり一人乗りボートのオリンピック日本代表選手である。年齢二八歳になる寸前だった。
状況は最悪だった。
六月一五日、彼、津田真男は試合を控えている。〓ルツェルン・レガッタ〓、世界選手権ほどの規模ではないが、オリンピック参加国からは調整を兼ねた選手が来ているし、ボイコット国からはオリンピックのかわりにこの国際試合で勝とうという選手が集まっている。それはいいのだが、問題は彼がこのレースに勝てそうもないということだった。
すべてが狂ってしまっていた。
モスクワ・オリンピックが始まる七月一九日に合わせて、日本漕《そう》艇《てい》協会は西ドイツのメーカーにシングル・スカル用の新しい艇をオーダーしてあった。モスクワ・ボイコットが決まったあと、協会はこの“ルツェルン・レガッタ〓に間に合うように作ってくれるようメーカーに注文した。何とか間に合わせるという話になっていた。津田選手は新しい艇で練習し、恐らく最後になるだろうこのレースに出場するつもりだった。その艇がまだ届かず、彼は借艇でレースに臨《のぞ》まざるをえなかった。しかも、練習不足のままでだ。
それも、いいとしよう。
もっと大きな問題は、どうしようもなく力が入らないことだった。集中力が落ちているのか、どうしようもない。
ボイコットの話が出てからずっとそれが続いていた。
《二月の一日でしたか》と、津田は語った。《政府が事実上の不参加の方針を決めたでしょう。そのうち四月に入ってUSOCが不参加を決めた。アメリカがクシャミすれば、日本は風《か》邪《ぜ》をひくといわれているでしょう。日本が参加するはずがないと思っていました。それでもまだ参加できるかもしれないとJOCがいってたりしてたわけですよね。今年の一月からヘビの生殺しのような状態が続いていたわけですから、集中力がなくなってしまうのは当然ですよ……》
彼が〓シングル・スカル〓という競技にかろうじて執着できたのは四月二六日の〓モスクワ五輪最終選考〓までだった。その日、埼玉県の戸《と》田《だ》ボート場で、距離二千メートルの選考会が行われ、彼は西から東へと漕《こ》いでいくこのコースで、南東からの風、つまりサイドからの逆風を受けながら七分三七秒の記録で勝った。ボートレースにタイムの公認記録はない。コースの波の状態、風向きによって同じ二千メートルでも二、三〇秒の差が出てしまうからだ。それゆえ、対抗艇より早くゴールインすることがすべてになる。五輪選考会で津田艇は他の三艇を圧倒的に引き離した。その後、五月に入り国内での大会に二連勝したが、彼の集中力はそこまでだった。
JOCがモスクワ五輪ボイコットを最終的に決めたのは五月二四日のことだ。
《表面上は〓オリンピックなんか何だ!〓とか〓さて、ほかのことでもやるか〓なんていっていましたけどね、やはりかなりショックを受けました。練習していても、考えることはオリンピックのことじゃなくて、自分の一生の比重って何だろうってことなんです。学生選手だったり、実業団の選手だったら、オリンピック以外にもやることがあるんでしょうけどね。ぼくの場合、大学を出たあと、この五年間、アルバイトでかろうじて生活してきたんです。オリンピックに出てメダルをとろうっていう、それだけしかなかったんですよ。それがすべてだった。自分の生活というものがなかった。オリンピックが終わるまでは、少なくともその問題から逃避できるはずだったんですけど……オリンピックがなくなったら、ぼく自身の生活、人生に直面せざるをえない》
六月一五日、ルツェルンのレースでは、当然のように彼は敗れた。
が、しかし――
オリンピックに出るんだという発想は、日常生活者の思いつきにしては悪くなかったし、彼、津田真男の場合、その後の成り行きは、まるでスポーツ漫画のヒーローを地で行くほどに順調だったのだ。
〓今日、Good idea が浮かんだ!! これでぼくも自信を持てるだろう!! 〓
と、彼が日記に書いた日があった。
昭和五〇年一月初めのことである。
その日、彼は《オリンピックに出て金メダルをとろう》と思いついてしまった。昭和二七年、東京生まれの津田真男は二三歳になっている。チャイルディッシュな年齢は過ぎている。しかし、彼がその発想にこだわる背景はあった。
《二浪して、三年目に三流大学に入った。そこで麻雀ばかりやっているうちに留年しそうになったんですね。おれは一体何をやってるんだという気持ちだった。滅入っていたんですね。東京女子大へ行ったガールフレンドはバリバリやってて、なんとなく気《け》圧《お》される雰《ふん》囲《い》気《き》もあったし……》
中学、高校は《教育大附属》である。現在の正式名称は筑《つく》波《ば》大学附属大塚高校。この学校の卒業生、在学生は単に「附属」と呼ぶ。筑波にはもう一つの附属高校があり、それは「附属駒場」と呼ぶのだという。地名などをつけずに単に「附属」と呼ばれるほうがワンランク上であるという意識が、彼らの世界にはある。彼はその「附属」の出身だといった。附属中学から附属高校へ進む段階でも試験があり、そこで約半数の生徒はほかの高校へ移る。彼はそこもクリアーしてきた。
《大学は東大の物理へ進むつもりだったんです。附属には東大以外は大学じゃないっていう雰囲気がありましてね。一クラス四五人のほとんどが東大に入っちゃうなんていうクラスもあるんです。ぼくのクラスはダメなほうだった。ぼくも現役で不合格。中学、高校とサッカーをやってたんです。サッカーをやる連中は皆、東大へ行くという話があって、サッカーと勉強を両立させているんです。学校ではサッカー、家では勉強という具合いにね。ぼくはサッカーしかやらなかった。成績は〓中の上〓くらいで、勉強があまり好きじゃなかったから、勉強をやっていないというひけ目もあって家に帰ってもサッカーの練習ばかりやっていたんですね。
それで二浪して、その時初めて東大以外にも都内にはいっぱい大学があるんだなと思うようになった。一浪している時、写真の専門学校にも通ったんです。東大がダメなら写真でメシを食ってやろうという気持ちもあったんですね。その写真の学校も、技術は教えてくれるけど〓何を〓撮《と》るかといった思想までは教えてくれない。それで技術はもういいから東大はダメでも私大に入って〓何か〓を学ぼうという気持ちになった。それで東海大の原子物理に入ったわけです。二浪して東海大に行くくらいなら看板学部に入らなければ……という気持ちもありましたね》
そして二年が終わる頃、留年の可能性が出てきてしまった。彼のようなキャリアを持つ人間なら、めげても不思議ではない。それをリカバーしようというのが《オリンピック》という発想だった。
そして《どうせやるなら金メダルをとるんだ》と思った。「自信回復」と「金メダル」の間には途方もない距離があって不思議はないのだが、彼の場合、それが短絡してしまう。《小さい時から体が大きかったんです。今は一八〇センチ、八二、三キロですが、小学校を卒業するころにすでに身長で一七四、五センチ、体重で六〇キロあった。小学校でバカみたいに伸びたんです。それだけに小さい時から運動では一番にならなければという強迫観念みたいなものがあった。運動だけは負けられないっていう感じですね。
それでもプロのスポーツマンになろうっていう気はなかった。野球にしても相撲《すもう》にしても、全然好きじゃなかった。第一、あの間のびした部分が嫌《きら》いだった。野球なんて特に間が多すぎますよ。それともう一つ、ぼくは運動、スポーツっていうものを勉強や研究といったものより一段下のランクに見ていた。頭を使わなくてもできるじゃないかという部分で馬鹿にしていたわけですね。だから頭も体も使って本気になってやればオリンピックで金メダルとることも不可能じゃないと思ったんですよ。
その時、モントリオール・オリンピックまでまだ一年半もあった。今からやってもまだ間に合うと思ったんです》
モントリオールは昭和五一年の秋。思いたって一年半のトレーニングで、彼はメダルをとろうとした。
本当に彼はそう思ったのである。
冗談ではなく。
《友だちがヨットをやっていたんで、初めはヨットをやろうと思った。しかし、よく話を聞いてみるとヨットの場合、ハーバーの陸置権をとるのが大変なんですね。一年半でモントリオールへ行けないでしょう。それともう一つ、自宅(当時は世田谷の成城)から江の島のヨットハーバーへ通うとすると第三京浜が車の渋滞で混乱するんですね。毎日通いきれないだろうと思った。
その次にアーチェリーをやろうと思いつきました。遊びでやっていると結構当たるんですよ、これが。ぼくはアーチェリーの天才じゃないかと思った。しかし、これもよく話を聞いてみると、オリンピックで金メダルをとるには、最終は一ミリ、二ミリの争いになるという。ぼくは目が悪いんです。左が〇・二、右が〇・一です。それで諦《あきら》めたんです。射撃もいけるんじゃないかと思いましたが、これは一発射つたびにお金がかかるし、それにやはり目の問題もある。サイクリングが好きでしたから自転車もいいんじゃないかとも考えましたね。しかし、これは練習場がないんじゃないかと思った。後楽園の競輪場は廃止されていたし、自宅の近所に手《て》頃《ごろ》な練習場もない。それと、自転車の場合、やがてはプロの競輪に行くという途もありますし、そのための組織もありますから、選手層が厚いんじゃないかと思った。ピラミッド型の組織ができあがっているところに急には入っていけませんよ。同じ理由で団体競技もダメですね。二三歳になって団体スポーツのチームに入り、〓オリンピックに出たいんです〓なんていったら〓お前、バカか〓といわれるだけですからね。
中学、高校とサッカーやってて、団体競技のカッタるい部分も見てきていた。どういうことかというと、ぼくがいくら一生懸命練習しても、仲間のミスで負けることが多いんです。団体スポーツの面白さは皆で一緒に勝ち負けをわかちあうことだといいますが、ぼくにはそれが納得できなかった。受験勉強ばかりやって練習不足のやつのミスで負けたりしたら、口惜しいじゃないですか。
ボート、それも一人乗りボートをやろうと思ったのは、ほんとにひらめきとしかいいようがないですね。何かを見て思いついたわけじゃないし、人からいわれたわけでもない。パッと頭にシーンが浮かんだんです。小学校六年の時に東京オリンピックがあって、その頃の『アサヒグラフ』にソ連の選手が一人乗りボートで三連勝を飾ったという記事が出ていた。その記事と写真を見たとき、ぼくはなぜか感動したんですね。そのことを思い出した。押入れをひっかきまわして、その時の雑誌を見つけましてね。三連勝した選手はソ連のイワノフという選手でした。
これならいけるんじゃないかと思ったんです。第一、新聞で一人乗りボートの記事なんかを見ることないでしょう。それだけポピュラーじゃないわけですよ。選手なんてほとんどいないんじゃないかと思った。高校時代、サッカー部の隣りにボート部の部室があって、彼らがよくいっていたんです。附属のボート部は都内でベスト8に入ってるんだと。それをからかったんです。ボート部のある高校が都内にいくつあるのか、と聞いてね。八校しかないんです。そういう会話がよくあったんですね。ボートなんかをやる奴はそんなにいないと思った。ということは、つまり、ちょっと一生懸命やればオリンピックに出られるということですよ。
ボートを選んだのにはまだ理由があって、ボートというのは手の力で漕ぐように見えますけど、実は足がポイントなんです。そのことを高校時代にボート部の奴から聞いていて、足ならサッカーをやっていたから自信があった。これでモントリオール行きだと喜んだんですよ。それに戸田の練習場へ行くにもクルマで環八を行けばいい。朝行くにも、混雑するのとは逆方向ですから都合もいいだろうと思ったわけです》
計画は滑り出してしまった。
彼、津田真男のプランによると、モントリオールまでのステップはこうだった。
まず、その年の二月から練習を始める。夏の国体に勝つ。秋の全日本選手権でも勝つ。そしてオリンピックの代表選考会に残る。そこでも、もちろん勝つ。
現に勝てるかどうか、そんなことは問題ではなかった。モントリオールに行ってメダルをとるんだという目的に合わせて、そこに至るまでのプロセスを逆に辿《たど》ってみると、国体にも全日本にも、選考会にも勝たなければならないことになった。そして、彼にとってそれらは大きな壁には見えなかった。《自分の思いつきに酔っていた》のである。長期にわたって自分の思いつきに酔える依《い》怙《こ》地《じ》さを、この人は持っている。
しかし、それだけでは前へ進めない。
当然のごとく、障害にぶつかる。
まず、彼にはボートそれ自体がなかった。いや、それ以前に難問があった。
津田は〓痔《じ》主《ぬし》〓だったのだ。手術をするのはかなりの苦痛を伴うといわれていた。苦痛だけではない。痔という病いには、どこか屈辱的な響きがある。それを切らなければならない。
しかし、まさかと彼は思う。そこまでやってしまうほどオレは本気なのか、と。痔は切ったけどボートをやらないでは話にならない。痔を切って何もしないというのが最悪だと彼は考えた。
次に悪いのは痔を切らずにボートを始めることだろう。いや、痔も切らずにボートもやらないというのが最低なのではないか。それならまず痔の手術をしよう、そしてボートを始めよう。
彼は意を決し肛門科の門をくぐった。正確にいえば、計画はそこからすべり出したのだ。
その次にボートを手に入れることが必要だった。
彼の、淡々たる語りを聞いてみよう。
《ぼくはボートは貸してもらえるもんだと思っていたんです。それがとんでもない話で、荒川区の尾《お》久《ぐ》に日本でただ一社のレース用ボートのメーカーがあり、そこにボートを注文しなければならないというわけですよ。ノコノコ出かけていきました。そこで一隻二〇万円もするといわれてガクッときたんです。そんなお金、ないですからね。それでも自分で惚《ほ》れこんだアイディアは棄《す》てられない。自分の身の回りのもので売れるものはないかと考えたら、中古のホンダS600があった。これは一〇万円で買ったんです。それを欲しがってる奴がいた。今でもすごい人気のクルマなんです。ぼく自身、東京中を探しまわってやっと見つけたクルマでした。それに修理を加えたりしてましたから、欲しがってる奴に三〇万円で売りました。その金で二〇万円のボートを注文したわけです。一か月でできるという話でした。ボート・メーカーの人の話だと腹筋と腕立て伏せが、両方とも百回以上できないとシングル・スカルは無理といわれたんで練習を開始。それと毎日一四、五キロ走り込んでいたわけです。ところが肝《かん》心《じん》のボートができてこない。なかなか作ってくれない。忙しくて後回しになっているんじゃなくて、一度もボートに乗ったこともないド素《しろ》人《うと》のボートなんて作れるかということだったんですね。ぼくとしては、とにかく夏の国体に勝たなければいけませんからね、困ってしまった。そのころ一度やめちゃおうかと思ったんです。六月になって漕艇協会の人が同情してくれてスイス製の一隻百万円もするボートに試乗させてくれました。これでスイスイ漕《こ》げば、協会の人も認めてくれるだろうと思ったんですが、結果は無残でしたね。戸田のコースをほんのちょっと漕ぐうちに三回転覆したんです。ボートはカヌーと違って、一度転覆するとその場で起こせないんです。岸まで泳ぎながら押していって、岸にいったん這《は》いあがったうえでないと乗り込めない。それを三回くり返したんです。協会の人は〓艇は大丈夫か?〓〓ボートこわさなかったか?〓――そっちばかり気にしてまして。
ぼくは競技種目を間違えたかなと思いましたね》
転覆したのは当然だった。彼は誰《だれ》にも教えを受けず、漕艇協会の人にもらった『図解ローリング』という一冊の本だけが頼りだったのだから。彼のプランは第一歩目でデッド・ロックにのりあげた。それでも続けたのは自分自身のボートができてきたからである。八月の国体優勝というプロセスは省略せざるをえなかったが、その年の秋、一一月の全日本選手権に優勝することをファースト・ステップにした。彼はまだ勝てると思っていた。転覆さえしなければ難しくないと思っていた。事実、そのとおりになっていた。
試合に出る前に、彼は、自分一人のクラブを作った。ボートの競技大会に個人参加することはできず、どこかのクラブに所属していなければならないことを知ったからである。かといって、入れるクラブはなかった。大学のクラブに入れば、まず下働きからやらされる。そんなことをしていたら、オリンピックなどおぼつかない。レースに参加するため、彼は自分一人のクラブを作った。名前は〓ザ・トール・キング・クラブ〓――金を取るクラブという意味である。
艇は戸田ボートコースの東端にある国立競技場三番艇庫に置いて、彼は毎日環八をオートバイで通った。保管料は年間二万四千円であり、毎日通うガソリン代のことを考えると――《なんとしてでもモントリオールで決着をつけなければならなかった。早いとこ目標を達成しないと大赤字になりますからね。その赤字はボートを売って埋めなければならない》
そういう計算もあった。オリンピックで金メダルを取るという半ば夢のような計画をたてる感性と、極めて日常的な部分でのこまごまとした計画をたてる感性とが、彼の場合ほとんど同居している。
戸田コースへの日参が始まり、午前中と夕方の涼しい時間帯は各大学のエイトのメンバーが練習しているので避け、昼間のカンカン照りの中を、水筒一つ持ちこんで漕いだ。
ちなみにいえば、彼の父親はサラリーマンである。突如、狂ったようにオリンピックを目ざし始めた彼に父親は何もいわなかった。これといった援助もしなかった。津田真男には姉が一人おり、彼女は芸大の大学院を出たクラシック・ピアニストである。津田理子といい、現在はヨーロッパで活躍している。時期からいえば、彼がボートで世界一になろうとしているとき、姉はヨーロッパで行われるコンクールに出ていこうとしていた。両親はむしろ姉のほうに興味と関心を寄せていたようだったという。
ボートを始めたことは、友人にも話さなかった。これでオリンピックに出るんだといえば《間違いなくバカにされる》からである。全日本で勝つまでは黙っていようというのが彼の姿勢だった。つまり、簡単にいってしまえば、彼は孤独だった。しかし、本当の意味で孤独だったわけではない。彼は孤独に練習する自分を対象化することができた。
彼はこういったのだ。
《〓明日のジョー〓〓巨人の星〓を見てて、ぼくこそ明日のジョーじゃないかと思っていた》
スポーツマンガのヒーローが、いわば彼の鏡だった。それは実に七〇年代的にヒロイックな鏡である。彼は挫折しようもない。
練習を始めてほぼ二か月後の昭和五〇年一〇月一〇日。読売レガッタのバッジ・テスト(記録会)が行われた。津田真男はそこで思いもよらぬいい成績を出してしまうのだ。
《距離は一千メートルの独《どく》漕《そう》。ぼくは三分四七秒の記録を出したんです。三分四五秒が日本での一流記録でしたから、まずまずでした。
その一週間後に〓相模《さがみ》湖《こ》レガッタ〓がありました。これがぼくにとっては初めての試合でしたね。どうせ選手なんて何人も集まってこないと思っていたんです。こんなマイナーな競技をやる奴ないだろうと。ところが、二四、五人集まってきたんですね。びっくりしました。でも、予選で一千メートル、三分台の記録を出したのは、ぼくだけでした。つまり、トップだったんです。やっぱりたいしたレベルじゃないんだと思いましたよ。
決勝でコースのブイに二度ぶつかっちゃったんです。まだ真っすぐに漕げなかったわけですね。オールがブイにぶつかって、オットット。それを二度くり返して、それでも三位に入りました。一一月の全日本では、相模湖レガッタでいろいろ学びましたから当然一位になれるものと思っていたんです。結果は三位。強い奴がいた。年は当時二三歳でぼくと同じなんだけど、キャリア一三年という田中選手に負けてしまった。ぼくは最初から全力で飛ばすので最後の五〇メートルというところで追いあげられてしまうんです》
オリンピックに出るためにまず全日本で勝つという階段をふみ外した。しかし、それでも彼は諦めたわけではない。勝算はあると見ていた。他の選手を見ていて、これなら十分に勝てると思える根拠があった。
それはこういうことだ。
漕艇協会に前田専務理事という人がいて津田選手がボートに関して何らかの教えを受けたとすれば、この人からだろう。前田専務理事はもっぱら海外のボート選手のテクニックに関する情報を集めては津田選手に教えた。世界のボート界の流れに関して詳しいのが前田専務理事だった。津田真男は日本のボート界に学ぶよりも、むしろ海外に目を向けた。なぜなら《日本のボート界は各大学の伝統とかを重んじるばかりで技術的には十年一日の如き状態だったから》だという。
彼がボートを始めて、初めてショックを受けたのは自分のボートを見た時だった。何に驚いたかといえば――《何十年も前に作られた艇とどこを見ても寸分ちがわない。まったく同じなんです。百年間、同じ設計で作ってるんじゃないかと思いましたよ。シートもリガーもまったく同じ。日本ではデルタ造船という一社しか作ってない。独占企業なんです。だから技術革新をしていくよりも手工芸品的に作っていくことになってしまうんですね》
同じようなことはボートの漕ぎ方についてもいえた。ここにもまた伝統がこびりついていた、という。
彼はボートの漕ぎ方に関してはこう考えた。まず、オールを切れ目なく楕《だ》円《えん》形を描いて動かすこと、これはどのテキストにも書いてある基本である。そして、オールが水から出たらいち早く水に入れること。それがピッチを早めることになる。当たり前のことである。しかし、そうでない流儀もあるのだ。
《オールをなるべく早く水に入れようと思うと、水面をするようになる。当然ですね。それがロスだというわけです。オールは高いところを波に当てないようもっていく。それがいいんだといわれている大学もあるんです。大学スポーツの伝統ですね。先祖代々の口伝としてそれが語りつがれ、まったく変わらない。体の使い方もそうです。ワセダ式口伝によれば、シートのスライドの距離を短くして、上体を目いっぱい前後に振るのがいいとされている。できる限り前屈して一番遠くの水をつかみ次に体をのけぞらせる。ナンセンスです。だから腰を痛めるんです。スライドの距離を長くして、上体よりも足の力をフルに使ったほうがいい》
彼が誰にも教わらずに一人でやっていこうと思った背景にはそういうこともある。これは先祖代々の口伝じゃといわれて盲目的に受け入れさせられたらロクなことにはならないと気づいた。つまり彼は突然ボート界にやってきた闖《ちん》入《にゆう》者《しや》の目でこの世界を見たわけだった。妙に客観的になれる。
ボートの改造にも注文をつけた。ボートは軽いほうがいい。それならばと、シートがスライドする部分の軽合金のレールに穴をあけた。スムーズにスライドするという機能を損ねない限り、穴をあけてもかまわないではないかというのが基本的な考えだ。間違ってはいない。艇のボディの部分にも手を加えた。ボディの横の部分にいくつも穴をあけ、そこを薄いプラスチックの板でおおった。その分、軽くなる。
オールの握りの部分は、すべらないようにゴムをかぶせ、突起状になっているのが日本製だった。これもいにしえから変わらないデザインだった。津田選手は、それよりも握りのゴムの部分に細かく凹《おう》面《めん》をうがったほうが漕ぎやすいとして、そこもデザイン変更した。
準備は念入りだったといえるだろう。
そこまで準備を重ねて、彼の気分はこうだった――《やるだけやった。あとはレースに勝つだけのことだ》
翌、昭和五一年、津田選手はモントリオール・オリンピックの年の四月に行われた〓お花見レガッタ〓で初優勝を遂げた。モントリオールに手が届きそうなところまでいったわけだった。
モントリオールに出かけていったのは、しかし、津田選手ではなかった。彼が出場した初めての試合〓相模湖レガッタ〓で争った田中選手でもなかった。シングル・スカルの選手を送らずにエイトのメンバーをモントリオールに送り込むというのが漕艇協会の決定だった。
夢、破れたわけである。
しかし、この挫折を、津田真男は楽天的に乗りこえてしまう。
《モントリオールでシングル・スカルの代表選手が出なくてよかったと思うんです。もし、シングル・スカルの代表選手が選ばれたら間違いなくぼくではなく田中選手だったでしょう。シングルの出場枠《わく》がなかったおかげで、敗北感も少なく、受けるダメージは少なかったんです。
次はモスクワがあると、ぼくは思い始めました。モスクワのころ、ぼくは二八歳になるんです。この競技は二七、八歳で力と技術の総合力がピークに達するといわれていた。ちょうどいいわけですよ。金メダルも不可能じゃないと思った》
金メダルを取るという計画はリアリティーを持ち始めたが、次のオリンピックまで四年も待つということは、彼の二十代のなにがしかを削りとることでもある。
モントリオールの年、五一年九月の佐賀国体で優勝したのを皮切りに、津田は一一月の全日本選手権も制し、それからは、負け知らずという状態が続いた。五二年はどの試合に行っても勝ち続け、五三年秋の全日本で二位になるまで、ほぼ二年間、国内の試合では一八連勝を飾ってしまったが、しかし、ふつうの生活をしていたのではそこまで行かれるはずがない。
大学を卒業すれば就職という問題も出てくる。が、ボートというスポーツに理解を示し、協力してくれる企業は少ない。
延岡の旭化成に就職しているマラソンの宗茂、猛兄弟は午後の早い時間から職場を離れトレーニングに入る。花形スポーツの、エリート・スポーツマンには保護がある。合宿、試合で遠征しても、それも仕事として認められる。
津田選手がボートを選んだとき、就職しながらも続けられるかどうかまでは考えていなかった。唯《ゆい》一《いつ》のミスである。五三年三月に東海大原子物理学部を卒業するとき彼に声をかけてきた就職口は競艇組合の警備員の仕事だけだった。
《その仕事は制服を着る生活が嫌いで断わってしまいました。カメラをやっていた関係で渋谷にある小さな企画会社に就職したんですが、ボートの試合があるたびに休んだりしているようでは仕事にならないといわれて半年でクビになりました。ぼくにとってもしんどかったんですよ。朝の五時に起きて七時まで練習。仕事に出かけ夕方の六時すぎに帰ってくるとその後また八時ごろまで練習。仕事と練習の両方でかなり疲れてしまい、おたふく風《か》邪《ぜ》にかかったり熱を出したり、さんざんでしたね。昼間の練習をしていなかったので、五三年夏の全日本選手権に備えて昼間の練習に切りかえたらとたんに日射病にかかってしまい、その年の全日本で二位に終わったのは、そのためなんです。
大学を卒業してからは戸田のボートコースの近くに引っ越しました。家賃四万円のアパートですが、もうボートをやるほかないですからね。就職まで棒に振って、こうなったら金メダルでもとらないと帳《ちよう》尻《じり》があいません。
同じボートの選手でも、エイトの連中はいいんです。古い競技ですから、各大学のOBが社会の一線に出ている。エイトは全員力を合わせていく競技ですから、チームワークの養成にもなる。大学でエイトをやっていたというと企業も喜ぶわけですよ。ところが、シングルの場合は一人で、エゴイスティックにやるスポーツでしょう。協調性がないんです。喜ばれないんですね、これが。
渋谷の企画会社をクビになったあとはアルバイト生活です。新聞と〓アルバイトニュース〓の求人欄で仕事をさがしました。最初が日刊の業界紙の輪転機係。仕事は午後だけで月に七、八万円になった。午前中はたっぷり練習ができるわけです。収入はそれと漕艇協会から出る月に二万円の補食費だけです。これは強化費みたいなものでしたが、ぼくにとってはそれが主食費ですね。
輪転機係のバイトも半年でやめました。五四年夏の世界選手権にシングルではなくダブル・スカルで出場することになり、ペアを組む相手と合宿することになったわけです。彼の勤務先が長野県下諏《す》訪《わ》の町役場の土木課で、その町長さんが県の漕艇協会の会長をやっていた。ぼくは土木課の臨時雇いの仕事をもらったわけです。要するに道路工事やどぶ掃除のバイトですね。日給が三千円。諏訪の艇庫に寝泊まりしていましたから、金はかかりませんでした。
ユーゴでの世界選手権では敗者復活戦で負けました。決勝に残れなかったわけです。それから帰るとまたバイト探しですね。次に見つけたのは業界紙の配達です。夜中の二時半ごろに起きて、バイクで虎《とら》の門《もん》の業界紙配達センターへ行く。神《かん》田《だ》、飯《いい》田《だ》橋《ばし》、お茶《ちや》の水《みず》界《かい》隈《わい》の会社に一五、六種類の業界紙を配達するわけです。朝の七時ごろには帰ってこられる。これで月に七、八万になりました。九時から一二時まで乗艇。その後、三〇分ほどウエイト・トレーニング。午後は三時まで買い出しに行ってすごしたあと三時からまた二時間乗艇、一時間のウエイト・トレーニング。
毎日そうしていると、いやになってくること、ありますよ。コーチがいるわけじゃないですしね。ぼくが試合に勝つようになると、コーチの人があれこれいってきましたが、ぼくは頼りにしなかった。納得できる部分だけは参考にしましたが、全面的に頼ることはしなかった。頼りにならないことを知っていましたからね。一人でやれば、行きづまることもあります。それを避けるためにぼくは練習量を自分と契約したんです。今日は何本漕ごうとあらかじめ契約しておく。途中でいやになると契約違反だといいきかせて練習をするわけです。あと一本漕げば金メダルだといいきかせたわけですよ……》
そして時が流れた。二十代の後半を、彼はボートとともにすごしてしまったわけだった。ほかのことに見向きもせずにだ。オリンピックに出るという、そのことだけを考えながら、である。
決算はついたのだろうか。彼が費した青春時代という時間の中から果実は生みだされたのだろうか。一つのことに賭けたのだから、彼の青春はそれなりに美しかったのだ、などとはいえないだろう。
彼がそんな話をしているのは、板橋区蓮《はす》根《ね》、高島平団地のすぐ近くにある1DKの借りマンションの一室である。部屋の中はボート一色になっており、キッチンには〓赤まむし〓ドリンクが三ダース積まれている。近くのスーパーで一本三〇円のセールをやっていたときに買いだめしたものだ。
バイトをしながら二十代の五年間をマイナー・スポーツのオリンピック選手になるという突然の思いつきに費し、たった一人のオリンピックを闘ってきた男の部屋の一本三〇円の〓赤まむし〓ドリンクが妙にまがまがしくリアルである。
彼はモスクワ五輪の代表選手に選ばれた。その五輪に日本が参加しなかったことは周知のとおりである。
《結局は》と、彼はいった。《自分のためにやってきたんです。国のためでも大学のためでもなかった。自分のため、ただそれだけです。だからボートを続けることにこだわることができた。バイトをしながらのカツカツの生活でもボートを続けられた》
津田真男は、現在、ある電気メーカーに勤めている。ボートはやっていない。
背番号94
1
《やあ! キミがクロダ君か》
例によって少しばかりかん高い声でそういうと、長島監督は学生服を着て直立している少年に歩み寄ってきた。
クロダ君は、こういう場合、どういう顔をしていいかわからずに、ただなんとなくという態で佇《たたず》んでいた。オイ、あいさつせんか、といったのは担任の先生だったかもしれない。右手で頭をかくようにしてお辞儀をする。顔をあげると、長島監督は目の前に立っていた。その場に関係はないのだが、クロダ君はふと、こんな風に思った――《長島さんの着ているスーツは、やっぱりバーバリーなんだろうか》
高等学校の校長室である。
千葉県立下《しも》総《うさ》農業高校。昭和五〇年の秋が深まっている。クロダ君は高校三年生。その夏まで、彼は下総農業野球部で四番を打つエースだった。この学校はいわゆる野球名門校ではない。過去に甲《こう》子《し》園《えん》大会に出場したことはないし、夏の千葉県予選でも優勝候補にあげられたこともない。県内には銚《ちよう》子《し》商、習《なら》志《し》野《の》商、勝《かつ》浦《うら》高、千《ち》葉《ば》商、一《いちの》宮《みや》商……といった強いチームが揃《そろ》っている。下総農業高校野球部は、そのなかでは光り輝きようもない。
しかし、そこに長島監督がやってきたのもまた、事実なのだ。長島がジャイアンツの監督として初めてのシーズンを終えて間もないころである。その年は《90番》にとっては、さんざんなシーズンだった。後《こう》楽《らく》園《えん》球場のマウンド附近にピン・スポットを浴びて立ち《巨人軍は永久に不滅です!》と絶叫して万人の涙をさそってから、まだわずか一年しかたっていない。にもかかわらず、監督としての評価は極めて低かった。セ・リーグのペナントを握ったのは広島カープであり、長島巨人は球団創設以来という11連敗も含めてトータル47勝76敗7分、勝率は3割8分2厘。当然のごとく最下位におちこんでしまった。
それでも、長島が長島であったことにはかわりがない。背番号は《3》から《90》に変わったけれど、ジャイアンツは相変わらず長島茂雄のものだった。負けがこんではいたが、後楽園球場の客は増え続けていたし、巨人戦のテレビ視聴率も下がりはしなかった。
クロダ君は授業中に呼び出された。その日に長島監督が来るらしいということは、あらかじめ聞いていた。そのために校長室には早くから野球部の監督や後援会長、クロダの両親なども集まっていた。クロダ自身は長島監督がやってくるまでは半信半疑だった。
《監督さんにお前のピッチングの八ミリを見せたんだ。気に入ってな。だからわざわざここまできてくれるんだ》――後援会長はそういっていた。
野球部のグラウンドのすぐ近くに食堂があり、後援会長はそこのオヤジさんである。クロダ君がこの高校に入学したときから、彼は後援会長をしている。そのフィルムはクロダ君が高校二年の時のものだった。
夏の大会が始まるまで、誰《だれ》も下総農のクロダ投手などに注目してはいなかった。彼はエースとしてマウンドを守るようになって間もなかった。投げてみると、しかし、彼の速球を打てるチームはなかなか現われなかった。なかなか負けずに、気がついてみると、彼は60イニングスあまりを一人で投げきり、チームは準決勝に進んでいた。その準々決勝のピッチングが八ミリにおさめられているはずだった。フィルムは後援会長から、同じ千葉県の佐《さ》倉《くら》市に住む、長島監督の同郷の友人にわたり、彼が長島監督にそれを見せたらしかった。
《巨人軍はですね。今、若い力を必要としているんですよ。V9のメンバーの力は衰えていきますからね。若い人たちのですね、ガッツを結集して、こう、バーッとですね、やっていかなければならないんですよ、エー》
長島監督はせっかちにまくしたてていた。
クロダ君は、単純に興奮していいのではないかと思っていた。あの長島監督が、わざわざここまできてみんなを説得しようとしている。
《あの新聞記事は間違いなくオレのことを書いたものだったんだ……》クロダ君はそう思った。
新聞記事とは、報知新聞の片すみに出ていたものだった。ジャイアンツに行くことになるかもしれないと考え始めたときから、彼は毎朝、報知新聞をなめるように見わたした。どこかに自分のことが出てくるのではないかと思ったからである。
記事は一面の左すみに目立たないように出てきた。〓ジャイアンツ日記〓という小さな囲み記事である。それを読んだ時、クロダ君の頬《ほお》の筋肉はゆるんだまま、数日間、元に戻らなかったのである。
〈ドラフトで投手を補強しなかった巨人は指名外の選手に食指を動かしている。すでに八幡大附属校の外園投手の入団が内定しているが、中尾スカウト部長は「まだとりますよ」という。ドラフト制度こそスカウトの腕のみせどころ。ドラフト外でいい選手を見いだした時は一番うれしい時かもしれない。「まだ名前はいえません。確実にもう一人とりますから期待していて下さい」中尾部長は〓秘密兵器〓の獲得に胸をはずませていた〉
名前こそ出ていないが、それが自分のことであることに、クロダ君は確信をもった。
校長室ではよもやま話が続いていた。
お茶が運ばれ、そのあとにコーヒーが出て、学校の事務員の女のコは伏し目がちに、しかし、それでも遠慮なしに長島監督を見て、カチャカチャと音をさせながらコーヒーを配った。話は、長島監督の現役時代へのノスタルジーに及び、突如として校長室の窓から見える風景へと移った。お互いの距離をつかみあおうとする時間が流れている。クロダ君は、ボーッとして坐《すわ》り続けているほかない。いまだに彼には、そこにあの長島さんがきていることが信じられないのだ。
《問題は》と、いったのは野球部の監督だった。《千葉の川崎製鉄に就職が内定していることなんです。野球部から引っ張られたわけでして》
《スカウトに処理させましょう》あっさりいうと、長島監督はクロダにいった。《一度、キミのピッチングを見たいな。多摩川に来てよ。ウン、そうしよう》
本題に入ると、話は早かった。
ある日突然、長島監督がやってくると、クロダ君の巨人入団はまたたくまに決まってしまったわけだった。
同郷の偉大なるプレイヤーが、この時点でまだ監督をやっていなければ、クロダ君は恐らく別の人生を歩んだに違いない。
その年の一二月二四日、大手町の球団事務所で開かれた入団発表記者会見で、クロダ君は一番最後に紹介された。最初に紹介された篠塚には数多くの質問が投げかけられたが、《……一日も早く一軍にあがってジャイアンツのために……》と、どきまぎしながら話したクロダ君には質問は出なかった。その場でユニフォームをわたされ、背番号を見ると《25》だった。《こんないい背番号を!》と、ハッとして驚く間もなく球団職員がこういった。
《コレ、あくまで撮影用だからね》
背番号25は、一時間たらずで球団に戻された。それは日本ハムに移籍したばかりの富田選手のユニフォームだった。入団発表というセレモニーが終わったあとでもらった背番号は《63》である。目立ちようのない番号だった。
その夜、彼は自分の名前をラジオで聞いた。
友人が運転するクルマのラジオのスイッチを入れると、突然、自分の名前がきこえてきたのだ。
《……クロダ・シンジ。もう一度、巨人入団選手の名前をいいましょう。まず、期待の新人、銚子商業の篠塚内野手……、六人目は下総農業高校の黒田真治投手》
《ヒャーッ!!》――クロダ君は意味不明の声を発した。
ドライバーの肩をわしづかみにするようにして揺さぶり、《オイ聞いたろ? な、聞こえただろ? 入ったんだよ、オレ、ジャイアンツに》ひとしきり騒ぎたて、昼間の記者会見の様子をくり返しくり返し語ってみせた。何度も語っているうちに彼は、新聞記者たちから質問を受け、それにカッコよく答えたことになっていった。
クロダ君はラジオを聞いて納得することができた。この放送を聞いているであろう友人たちの顔を思いうかべた。ニンマリと笑うことができた。彼はジャイアンツに入ったことに感謝した。ほかの球団だったら、全員の名前を放送してもらえなかったかもしれないのだ。
かくして、クロダ君は、あのジャイアンツの選手としての人生を歩み始めてしまったのだった。契約金は六五〇万円。一年目の年俸は一六八万円。一か月当たり一四万円である。契約金は親にあずけた。
《ここはやっぱし、祝賀会つうか、壮行会をやらねばなあ》――クロダ君を囲む人たちはその点において意見の一致を見た。地元、佐《さ》原《わら》市で盛大な壮行会が行われた。そこには三〇〇人ほどの関係者が集まってきた。契約金の何分の一かは、その一日で確実に消えてしまったはずだった。
2
……あれからもう五年になるね。
野球? 続けてるよ。うん、続けてますよ。ぼくなんか、毎日、登板してるものね。プロの世界に何人ピッチャーがいるかしらないけどね、毎日のように登板するピッチャーなんてそう沢山はいないんだよ、ハハッ。……自分で笑っちゃいけないな。
毎日、登板、ただし、試合が始まる前にシャワーを浴びて着替えてしまうピッチャーなんだ。
今は、ぼくの背番号は《94》になっている。入団したときから比べれば数字は増えたけど、こればっかしは増えればいいってもんじゃないですからね。
ジャイアンツの90番台っていうのは、最初は監督さんがつけましたけど、その後、91から99までを特別な選手のために使い始めたんですよ。バッティング・ピッチャーと、それから〓壁〓といわれているピッチング練習専門のキャッチャーですね。バッティング・ピッチャーの場合、古い人から順番に91、92、93……ときて、ぼくは4番目っていうことになる。まあ、バッティング・ピッチャーとしては中くらいのところかな。好きな番号とか、何かいわれのある番号とかじゃないんですね。ただもう、機械的につけられた番号。それがバッティング・ピッチャーってものなんですよ。毎日、毎日、機械のように投げつづけるわけだから。
後楽園球場の一塁側のロッカー・ルーム。ここは選手、球団関係者以外は入れないことになっている。ダグアウトの裏側にあって、入ったところはコーチ室とミーティング室になっててね。階段をあがって二階にいくと、そこがジャイアンツ専用のロッカー・ルームです。同じ一塁側を使う日本ハムはそのさらに奥にロッカー・ルームがある。
このロッカー・ルームにも秩序ってものがありまして、ロッカー・ルームに入ったちょうど中央あたりの、なんていうか、一番目だつあたりだね、そこに主力選手のロッカーが並んでいる。入って右奥がピッチャーのコーナー。バッティング・ピッチャーはロッカー・ルームに入って左のすみのほうですね。そこにいくつかロッカーが並んでる。登録されているピッチャーからは遠く離れているわけ。
ナイターの日だったら、ぼくらは二時にはロッカーに入って、二時半ぐらいからグラウンドに出る。軽くウォーミング・アップをすると、すぐにマウンドに立つんだ。バッティング練習は四時ごろまでですね。それが終わると、さっさとシャワーを浴びて着替えると帰っちゃう。着替えるころには、ロッカー・ルームもすいてますよ。みんながユニフォームに着替えてグラウンドにいるころ、こっちは帰り支度を始めるんだからね。閑散としたロッカー・ルームなのに、ぼくはやっぱり自分のロッカーの前でこそこそっと着替えているんだよな。もっと広々と使えばいいのに。
球場でゲームを見るってことは、ほとんどないね。実働は二時間ぐらいかな。
ラクな商売だっていうかもしれませんけどね、そんなもんじゃないよ。毎日、どれくらい投げるか考えてみればわかってくれると思うんだ。
正味三〇―四〇分ぐらいのあいだに最低一二〇球近くは投げる。 うっかりしたら一試合分を、毎日投げることになるんですよ。何年も続けていると、肩がガタガタになる。間違いなくやられる。肩のうしろの筋肉が痛くなるのは、さほど悪いことじゃないんだ。ただ単に肩が張っているだけですからね。肩の前の筋肉が痛くなることがある。注意信号なんだ。これは治療が必要です。鍼《はり》を打ったり電気マッサージをしたりね。治療費は球団から出ることになってるんだけどね、たいてい自分で出しちゃう。ひがんでるのかな。やっぱり負い目ってあるんだよ。いいにくいでしょ。こっちは勝ち星をあげるピッチャーじゃないんだから。
「肩をこわしちゃって」
なんていったら「なに? バッティング・ピッチャーでも一人前に肩こわすのか」なんていわれそうでね。
傷つきやすいんですよ、ぼくらは。
シーズンに入ると、遠征にもくっついていって毎日投げるわけだから、肩を痛めたぐらいで何日も休んではいられない。三日のうちになおせ、なんていう命令になってくるわけですよ。実際。
妙な商売だと思うんだ。
ピッチャーってのは、バッターをうちとって、アウトをかせいで、点をとられることなく投げてね、それで勝ち星をあげてナンボっていう商売でしょ。それがピッチャーっていうもんですよ、本来は。
ぼくら、逆なんです。
どうやって、いい当たりを打たせるか。そればっかり考えている。バッターにいい感じをつかんでもらおうと、そのことばっかり考えているんですね。
だからって、真ん中にばっかり打ちごろの球を投げるのは、プロのバッティング・ピッチャーじゃありませんよ。甘いボールばっかり投げてたらドヤされますよ。一人のバッターに二、三球は、きわどい、コーナーいっぱいのボールを投げる。実際のゲームで相手のピッチャーが投げてくるくらいのボールをほうるわけですね。それができなけりゃ、一人前じゃないんですよ。バッティング・ピッチャーにだってプロとアマチュアの差ぐらいあるんだ。
これも修業だと思うんだ。
哀しい、修業ですけどね。
中畑さんにはイン・ハイを投げてあげるのが一番いいんです。彼、いい気持ちで打って、バッティングのカンを取り戻すんですね。七九年の秋にジャイアンツが若手ばかりを集めて伊東キャンプをやった。あのときなんか、中畑さんはぼくの投げるイン・ハイのボールの八〇パーセント以上を、山ごえにもっていきましたもんね。その調子がオープン戦にまでつながって絶好調だったんですよ。ぼくは、八〇年のシーズンに入っても、中畑さんのバッティング練習のときはイン・ハイのツボへほうってあげようと思っていた。ところが、シーズンに入ると思うようにいかないんだ。いいボールを投げようと思えば思うほど、妙なボールになっちゃったり、打たせようと思えば思うほど、打ちにくいところへ投げちゃう。バッティング・ピッチャーの心理も、微妙なんですよ。たかがっていう感じのバッティング・ピッチャーなんだけど、シーズンに入ればそれなりに、緊張しちゃったりするんだよね。
ストライク・ゾーンのわかりにくいバッターもいる。
ジャイアンツをやめていったシピンなんか、インコースの絶好球を投げてあげるのに、うしろにのけぞっちゃったりする。そのくせ、ひどいクソボールを平気でスタンドにもってっちゃうんだ。
バッティング・ピッチャーやるようになって、もう三年になりますけどね、オレ、性格が変わったね。なんていうか……人にあわせるようになった。自分のことばっかり考えて、オレがオレがでやるわけにはいかないでしょ。お前、妙に大人になったなー、なんていわれちゃうんですよ。
高校時代なんか、一人で野球やってたつもりだったんだけどね。ピッチャーで四番を打ってさ。
このあいだ、高校の同窓会があったんだ。昔の仲間ばっかり集まって。まだ若いでしょ。二三歳ぐらいなんだから。酒を飲んで仕事の話なんかしだすと、会社の文句をいったり、上司の悪口いったり、オレはもう会社やめるんだとかね、そういう話になる。そんな話、聞いてましてね、ぼくがいったんですよ。そりゃ違うんじゃないかって。
「仕事っていうのはそういうものじゃないんだよ」
そのセリフに妙に力が入っちゃいましてね、みんなおどろいてましたよ、エー。寿《す》司《し》食おうと思って手でつかんでいたやつが、それをポトッと落としたりしてね。「クロダ、お前いったい、どうなっちゃったんだ?」
そりゃそうだろうね。ワンマンでやってきたほうですから。率先していいたいこといってきたほうなんだから。
それがね……。思えば、遠くへきたもんだっていう感じ。
バッティング・ピッチャーやるようになってコントロールがよくなったんですよ。これも考えてみればおかしい話ですけどね。多摩川のファームにいて、いつか一軍にあがってやろうなんて思っていたときは身につかなかったコントロールが、今ごろになってついてきた。バッターに合わせて、その人なりのツボに投げたりしているうちに、微妙なコントロールがわかってきた。自分のピッチング・フォームが自分で見えてくるんだ。どのタイミングでボールを指先から離すとどこへ入っていくかがわかってくるわけ。
たまにいわれるんですよ。いいカーブ持ってるじゃない、なんてね。オレ、喜ぶべきなのかね。考えてみれば、わるい冗談ですよね。今さらそういわれたっておそいんだから。もう、あともどりできませんもんね。体は太くなりすぎちゃってるし。八五キロありますよ、今は。高校時代は七五―七六キロだったから、やっぱり太りすぎですよね。
気がついたときはおそい……。たいていそうなんですよ、ぼくは。
3
クロダが野球を始めたのは中学に入学してからのことだ。千葉県佐原市の新島町中学に入学。彼の在学中に近くの中学を合併して湖東中学になった。利根川の下流にあり、周囲を川が流れる三角洲地帯である。ボールが川に落ちると舟で球拾いに出る。最初はキャッチャーをやり、ピッチャーが肩をこわすと、監督にいわれてピッチャーに転向した。地区大会で勝ち抜き、県大会の代表に出ていくところぐらいまでは活躍していた。
彼には二人の兄がいて、いずれも野球をやっていた。上の兄は土浦日大の野球部に引っぱられた。すぐ上の兄も、同じ土浦日大の野球部に入った。一番注目されたのは、この兄だったかもしれない。中学生のとき、噂《うわさ》を聞いたプロのスカウトが一度見に来たことがあるという。ところが、高校に入って、首のリンパ腺《せん》が脹《は》れるという病気にかかり、野球はやめてしまった。三男のクロダ自身も土浦日大から誘われた。彼自身、行ってもいいと思っていたが、その時はすぐ上の兄がまだ野球部に在籍しており、兄弟で入っていくとチームの連中もいろいろやりにくいのではないかということで、結局、進路指導の先生のすすめる千葉県立下《しも》総《うさ》農業高校に進むことになった。
野球部の監督をしていたのは、ふだんは数学を教える石橋先生である。彼は《きびしい練習をやってもやめていく部員が出るばかりだから、のびのびと楽しく野球をやっていこう》と考えていた。そもそも野球名門校ではない。甲子園に出場しなければ、というプレッシャーもない。ごくごく自然の方針だったのだろう。
クロダが野球部に入っていくと、三年生のエースがいた。サウスポーの寺島投手。彼だけは、ほかの部員と違っていた。毎朝、授業が始まる前に、一人黙々とグラウンドを走っているのが、このエースだった。それを見て、ほかの部員がランニングに加わるわけではない。クロダは、しかし、このエースにひかれた。一時間早く家を出ると、早朝のランニングが日課になった。
一年の夏の甲子園大会予選で、クロダはライトを守った。千葉県のベスト16まで進んだ。あと一つ勝てば準々決勝というところだった。
一年の秋になると三年生はクラブを離れる。クロダがマウンドにあがるようになった。彼は器用に変化球を投げるという細かいピッチングのできるタイプの投手ではなかった。むしろ、速い球を力にまかせて投げるというタイプである。速い球が決まると、コースによってはナチュラル・シュートがかかったりした。カーブの投げ方を教えてくれるコーチがいるわけでもない。ピッチングのコツは、毎日投げつづけているうちに、おのずと身についてきたし、だからそれ以上のものではなかったともいえる。
高校野球が一番注目されるのは、シーズンでいえば夏だろう。夏の甲子園をめざして、全国の球児たちが試合をくりひろげる。地方紙は、その地区大会を詳細にレポートしている。当時の「千葉日報」を見ると、クロダと対戦して敗れたチームの選手たちは、いちようにこういうコメントを残している。
《あんなに速いピッチャーとは初めて対戦した》
新聞記事は、こんな調子だった――〈下総農の投手黒田は伸びのあるストレート一本。グイグイ押しまくり××高をおさえた〉
高校二年の夏の千葉県大会では、クロダはちょっとしたヒーローだった。
一回戦から三回戦まで順調に勝ちあがり、四回戦で対戦した相手は県立船《ふな》橋《ばし》高校である。ここで勝てばベスト8に進出できる。それだけでも下総農にとっては初めてのことであり、快挙だった。
先取点をとったのは県立船橋高である。6回表、内野安打を足がかりにバント、フィルダース・チョイス、そしてスクイズと手固く攻めて1点をあげた。そのあと、クロダがボーク、2点目をあげた。それに対する下総農は細かい野球ができるチームではない。7回裏、ノーアウト一、二塁のチャンスをつかんだ。2点リードされている状況を考えれば、当然、送りバントが考えられる。下総農ベンチの石橋先生は、しかし、バントのサインを出さない。《ふだん、そんなことやっていませんからね。やれば失敗する》
しきりにバントを警戒するピッチャーの甘い球をバッターは見逃さない。ヒットを打って1点を返し、この回さらにもう1点追加して同点においついた。そして、延長に入った10回裏、あっさり1点を入れて、これでベスト8進出。下総農はそういうチームだった。
準々決勝は、シード校である一宮商とあたった。
この試合は、高校野球はピッチャーさえよければ勝てるということを証明するようなゲームだった。
クロダは連投をつづけ、これが五試合目に当たる。ここまでの四試合で、彼は3点しか失っていない。速い球がおもしろいようにきまっていたわけである。対一宮商戦も、彼は快調だった。スコアは3―1で下総農が勝った。9イニングス投げて、クロダの投球数はわずかに86球だった。フォアボールを一つ出したが、それ以外にスリーボールになった打者は一人もいない。2回、7回は、たった5球でスリーアウトをとっている。奪三振が6個、内野ゴロ10、内野フライ4、外野フライ5、犠打2――それがこの日のクロダのピッチングだった。
その翌日は準決勝である。対戦相手は市立銚子高。千葉県内では強いといわれているチームである。のちに西武ライオンズ入りした石毛選手を中心にまとまっているチームであった。
ここで勝てば決勝進出である。クロダにとっては、高校時代の野球のピークになるかもしれなかった。ピッチングは波にのっている。チームもまとまっている。高校生のチームは波に乗れば、どこまでも力を伸ばしていくものだ。甲子園出場すら、不可能ではなかったかもしれない。
ところが――。
準々決勝に勝った日、下総農ナインは学校に戻るとその場で解散した。いわゆる野球名門校のように合宿所はない。それぞれが自宅に帰る、はずだった。何人かはまっすぐ家に帰り、翌日の試合に備えた。クロダは違った。酒を飲んでしまった。友人の家に寄り《ちょっと一杯》のつもりで飲んでしまったのが間違いだった。
彼は、自分から先に立って《帰る》といえないタイプの男だった。何人も友達が集まってきていた。明日また投げるんだというと、みんな一様におどろいた。早く帰って寝たほうがいいんじゃないかという人間もいた。当然だろう。連投が続いている。次の試合は準決勝である。それがいかに大事な試合かは誰《だれ》もが知っている。
《大丈夫さ。ちょっと寝れば酒なんか抜けちゃうよ》――クロダはそういって飲み続けてしまった。それが結果的にどういうことになるのか、というところまで頭はまわらない。気は大きくなるが、細心さは影をひそめる。
気がつくと明るくなっていた。
昼前にはマウンドにあがらなくてはならないことを思い出した。
まわりを見渡した。ダウンして眠りこんでいるやつがいる。ねむたそうな目をして必死になって起きつづけているのもいる。
クロダは眠ろうと思った。
一時間たつと、目をさました。
そして、水を大量に飲むと、そのまま学校へ行った。ユニフォームに着がえてベンチにすわっていると、はつらつとした顔でやってきた野球部の仲間が、どうした顔色が悪いぞといった。何でもないんだということを示すために、彼はグラウンドに出て軽く走った。まともではないなとわかっていた。しかし、汗をかけば元に戻るだろうとも思っていた。
この日の試合を見たある新聞記者は、こう書いている。
〈早朝より降り続いた雨で湿気は多く、しかもカンカン照りのグラウンドでは何となく立っているだけで気怠く感じる。しかも選手たちは連戦で疲労は積み重なっている。こういう時の立ち上がりは慎重な配慮が必要である。特に投手はウォーミング・アップ、投球練習に十分注意し、眠っている神経を呼びおこすように努力をしなければならない。下総農の投手黒田は昨日に引き続いての連投、スタミナは十分であるが何となく疲れている感じである。波乱含みの立ち上がりを予想させた。黒田投手の第一球は完全にボールとわかる直球……〉
マウンドにあがっても、まだ目はさめていなかった。一球目を投げた時、クロダは球が上ずっているなと感じた。投げようと思ったところよりも二〇センチほど高目にいってしまったからだ。アンダーシャツを着がえたばかりなのに、もう体がべたついている。湿度は高く気分のいい汗ではなかった。
バッター・ボックスにいるのは市立銚子高のキャプテン石毛である。二球目、クロダはとにかく低目に投げようとふりかぶった。直球である。ボールはインコース高目に入っていった。石毛は当然のようにバットを振った。レフト前にワンバウンドし、レフトはそれをややセンター方向に走りながら捕球した。レフトの動きも緩慢だった。石毛は一塁ベースを回ると、そのままセカンドへ走った。レフトが、あわててボールをセカンドに返したが、間に合わない。
そのあとは、目茶苦茶になった。
2番打者は2―0と追いこまれながらクロダの三球目をレフト前にたたいた。
3番打者は、前進守備のセカンドを強襲、ボールはライト前に転がった。これで1点。
4番打者がバッター・ボックスに入ると、バッテリーはサインの交換を間違え、クロダの投球をキャッチャーがパスボール。2点目が入った。4番打者はフォアボールを選んだ。
5番打者がピッチャー前にバントを転がした。マウンドをかけおりたクロダは、そのボールを拾いあげると尻《しり》もちをついてしまった。無死満塁である。
6番打者の打球はセカンドゴロ。前進守備のセカンドは当然、ホームへ投げるべきだった。4―2―3のダブルプレーが成立する状況である。ところがセカンドは打球を捕ると迷うことなく一塁へ投げた。あわてた一塁手はそれを後逸。二人のランナーが還ってしまった。
7番打者の打球もセカンドを襲った。二塁手は今度はゆっくりと一塁へ投げたが、その間にもう一人ランナーが還ってしまった。これで5点目である。
初回のマウンドを降りてきたとき、クロダは、たっぷりと冷や汗をかいていた。その汗でやっとアルコール分が抜けたのかもしれない。一塁手がクロダのピッチングを見ていて、いつもより左足のステップが小さいぞと、アドバイスすると、クロダにはピンときた。左足のステップを意識的に前のほうにもっていきながら投げると、コントロールは昨日までの調子に戻った。
しかし、5点のビハインドはチームにとってかなりの重荷である。
この試合、下総農は勝つことができなかった。
4
……飲まなきゃよかったと、あとでは思ったさ。でも、しょうがないでしょ。飲んじゃったんだから。見つかってたら、どうなってたんだろうね。高校生が酒飲んで、高校野球のマウンドに上がったんだから。「先生、クロダ君はいけないと思います」とか、いわれたりして。
でも、どおってことなかったろうな。下総農なんて高校は優勝候補でも何でもなかったんだから。つげ口したって始まらんでしょ。
でもなんであんなに飲んだんだろ。
準々決勝までは最高のピッチングだったと思うんですよ。まわりからもほめられたし、自分でも百点以上のピッチングだと思っていた。下総農としては今までいけなかった準決勝にまで進出した。だからって、それで満足しちゃったわけじゃないんです。もうやることはやったんだという気分で飲んだんじゃないんだね。
まわりで騒がれたでしょ。それでむしろテレちゃったようなところがあったんですね。
「すごいじゃない」っていわれたとき、それを軽く受け流して気取ることができないんですね。昔から騒がれていれば、そういわれてもどおってことなく「まあね」ぐらいいって聞き流せたんだろうけど。
酒でも飲まないとおちつかないっていうか、そんな気分になっちゃったんだね。違うんだよ、オレなんかどおってことないんだよってことをいってみたかった。オレだけ特別なんじゃなくて、みんなと一緒に遊んでいたいっていうのかな。何もいわずに超然と構えていられるみたいなことができれば、少しは違ったと思うんですけどね。
プロの世界に入ってますますそれを感じた。
プロ野球の世界は、選手一人一人にしてみれば個人営業でしょ。球団に入ったからといって何か保証されるわけじゃない。成績が悪ければ給料だって安くなるし、最終的にはそのまま見捨てられてしまう。
ぼくだって、それくらいのことわかっていた。入ったときから、わかっていたつもりだったんだ。
ファームの一日は、試合がないときは、朝の一〇時の練習から始まるんです。まず、ランニングを一時間ぐらいやって野手はバッティング練習に入る。これが二時間ぐらい。ピッチャーはピッチングですね。そのあとフィールディング練習をやって最後にまたランニングをして、これでおわりですね。
寮の門限は夜の一〇時なんだ。この時間に点呼があって、いちおう一日が終わることになっている。飲みに行ったり遊びに行ったりしている連中はその時間までに帰ってくることになっているわけだね。ところが、実際はそうでもないんですよ。点呼が終わったあと、またひそかに抜け出していけばいいんだから。監視している人がいますけど、厳しい人と、そうでもない人がいますから、抜け出ようと思えばいくらでも遊びに出られる。
寮の前にタクシー呼んで出るわけにはいかないけど、ちょっと離れたところまで行けばクルマだって拾える。みんなそうしてたんだ。
そんなわけだから、みんなラクにやってるように見えたんですね。「練習? テキトー、テキトー」――ガムシャラな顔して練習しているやつは、むしろ少なかったんじゃないかと思いますよ。
ぼくと一緒に入った連中も、慣れてくると合宿生活のテンポをおぼえてくるでしょ。そんなにしゃかりきになってやっているようには見えなかった。
オレ自身もそうだった。野球の練習だけしていればそれで日が暮れていくんだから。ファームって、こんなもんなんだなと思っていた。
ある日、ふっと気がついた。
合宿所は一階に食堂や風《ふ》呂《ろ》場《ば》があって、その上に各自の部屋があるんだけど、その部屋は畳敷きじゃないんだ。カーペットなんかが敷いてあるけど、それをめくるとタイル張りなんだ。どこの部屋もそう。こりゃなんだって、思ったわけ。
合宿所一年生は、よく先輩から叱《しか》られることになっている。練習が終わったあとボール拾いをするのは一年生の仕事なんですけど、終わったあと一個でも拾い忘れていると一年生全員に召集がかかる。お前ら、どういうつもりなんだって、いわれるわけ。連帯責任だっていうわけ。先輩が廊下を歩いているときにすれ違った。うっかりアイサツを忘れると、それも叱られるんです。どこへ行っても口うるさい人っているでしょ。あれですよ。そんなこまかいことでグチグチいわない人もいますけどね、一軍行ったり二軍へおちたり、ちょうどそこらへんでやっているベテランの人なんかになると、わりとそういうことをいいたがるんだね。おまえら、プロの世界のきびしさがわかってねーなっていってみたり。きびしさに負けそうになっている人って、そういうこといいたがるでしょ。一年生の一人でもアイサツを忘れると全員が呼ばれる。毎晩一〇時の点呼のあとで集められて、お前らしばらくそこで坐《すわ》ってろ! 先輩の部屋で正座させられるんです。けっこう痛いんですね、それが。
どの部屋も下がタイル張りだってことがわかったのは、長時間坐らされて、やけに足が痛いなっていうんでカーペットをめくったときだった。
なぜ、そんな作りになっているのか。部屋にもどっても練習するためなんだね。畳の上で素振りなんてやってたら、とたんにはがれちゃうでしょ。部屋は休むためのところじゃなくて、各人がひそかに練習をするトレーニングルームなんですよ。そんなこと誰も教えてくれませんよ。表では練習なんかテキトーにやってればいいんだといっているけど、そういうやつに限って部屋でひそかに練習してるんだなんて、誰も教えてくれない。
同じチームのメンバーでも、みんなライバルなんだ。ライバルは追い抜くか蹴《け》落《お》とさなけりゃいけない。そのことに気がついたとき、正直いってオレ、参ったね。シビアな世界だなと、思いましたよ。部屋に戻ったあと、どんなメニューで練習しているかをしゃべるやつなんて一人もいないんだから。
鉄アレイは、最低、誰でも持っている。夜、黙々とそれを持ちあげているんですよ。風呂に行って、ほかに誰もいないときは、そこで腹筋をやるわけ。そんなところに入っていっちゃうと、一瞬、気まずい空気が流れたりするんだ。見てはいけないものを見てしまったような感じだね。
「最近、ハラが出てきちゃってね」
そんなこといってみたりする世界なんだね。
合宿所の外でも練習することはできるんです。雨天練習場もあるし、グラウンドの隣りにはサッカー場もある。そこまで出ていってひそかに素振りをしてもいいし、シャドウ・ピッチングをしてもいいわけですね。だけど、みんなはそうはしない。それをやるときは二軍のコーチや監督にアピールするときなんだ。デモンストレーションですよね。
オレもやり始めたよ。
メニューを決めて、腹筋を毎日五〇回ずつ六セットやろうとか、シャドウ・ピッチングを何回とか決めてひそかに練習を始めたんだ。
シャドウ・ピッチングは投げるほうの手にタオルをつかんでやるんです。何も持たずにやると肩をこわしてしまう。タオルをつかんで、ふりかぶり、投げおろす。夜、窓に向かってやると、その姿が窓ガラスにうつるんですね。バサッと音がしてタオルが空気を切る。息がだんだん荒くなってきて、窓ガラスにうつる自分を見ながら、オレはいつ後楽園のマウンドに上がれるだろうかって考えながら。
深夜の秘密練習なんていうと、まるで星飛雄馬みたいでしょ。巨人の星だよ。でも、タオルつかんで黙々とやってると、時々、フッとバカバカしくなってくるんですよ。格好よくないしね。
これをやっていればいつの日か……なんて信じられないんだ。例えば、一軍のマウンドに上がれる投手になったとき、どうやって練習してましたかと聞かれる。
「タオルの端を片手に巻いてですね、アルミサッシの窓に向かってシャドウ・ピッチングしてました」
なんていったって、誰も感動してくれないよね。少年ファンが感動してくれないんだ。
月あかりのグラウンドで一人バックネットに向かって……なんていうほうがまだいいですよね。
シラけちゃうところ、ありましたね。
雨天練習場のバックネットに向かって投げるという方法もありました。でもそれは明るいうちですね。夜は真っ暗だからどうにもならないし、やれば明らかに嫌《いや》味《み》になりますよ。みんな黙々と部屋でやっているんですから。
結局のところ、シラケた人間から敗れていくんでね、この世界は……。
5
クロダはジャイアンツのファームで三年間を過ごした。
一年目、二年目は何ごともなくすぎていってしまった。朝、起きると彼はグラウンドに出ていった。ボールを握って投げた。食事をするとまたグラウンドへ出ていった。そしてまた投げた。多摩川グラウンドの土のにおいが体にしみこんでいくほかに変わったことはなかった。
ある夏の午後、彼は死んだように眠りこんでいた。じっとりと汗をかいていた。目をさました。壁に貼《は》った山口百恵のピンアップがかすかに吹き込んでくる風にハタハタと揺れていた。どこからか歌謡曲がきこえてきた。
ほんの数年前の夏にはたしかに自分のものだった夢や希望は、夏という季節をとおりすぎるたびに、その暑さに負けて溶けてしまったように思えた。クロダは、夢が溶けていくときにも汗が流れるものだということを知った。
イースタンのゲームには、わずかに三試合だけ登板した。いずれもプロ入り三年目になってからであった。最初はヤクルト戦で2イニングス投げ、これを無失点で抑えた。次は日ハムを相手にリリーフに立った。このときも2イニングスである。点はとられなかった。三度目は5イニングス投げた。相手は同じ日ハムだった。
多摩川グラウンドの試合である。夏の午後だった。彼はその日のリリーフを予定されていた。先発投手が思いのほかはやく崩《くず》れた。クロダが登板したのは5回からである。
彼はそのとき、高校三年の夏の大会のことを思い出した。
下総農は二回戦で薬園台高校と当たった。さほど強いチームではなかった。1回、クロダは先頭打者を歩かせたが、ランナーが出たところで逆に心地よい緊張感につつまれた。次の打者に対して三球続けてストライク・コースに速い球を投げ、その三球で三振にうちとった。つづく二人の打者も三振にうちとった。それで完全に調子に乗ってしまった。クロダは4回まで投げ、ヒットを一本打たれたが一二人のアウトのうち八人を三振にうちとった。薬園台高校のブラスバンドが一塁側のスタンドで必死に応援していた。そのメロディを口ずさみながら面白いように三振を奪っていったわけだった。
彼が4回でマウンドを降りたのは、その回ですでに9―0とスコアが開いていたからである。この試合は、結局、下総農が14―0で6回コールド勝ちとなった。……
そのシーンで、もうすべては終わったはずだったのかもしれない。高校を卒業して以後、夏には苦しい思い出しかない。鮮やかに輝ける季節ではなくなってしまった。白っぽい乾《かわ》いたグラウンドが見えるだけだった。
夏の多摩川の観客は少ない。応援団もいない。両軍のベンチから時折り野次が飛ぶ程度である。
クロダは、むかつくような思いにとらわれた。マウンドに立つと、誰もかれもが干からびているように見えた。暑さにやる気をなくしている奴がいた。いつまでたってもここから逃げ出せない自分にうんざりしている男がいた。練習のあとのビールと、ピンアップ・ガール相手のマスターベーションだけで、いやな夏をのりこえようとしている奴もいるに違いない。
カッと熱いものがクロダの体の中をかけのぼってきてもおかしくはない。対象が明確に見えない怒り。
クロダはファームの日ハム打線にヒットは打たれたが、5イニングスを無失点で切り抜けた。
登板のチャンスは、しかし、それきりなくなってしまった。当時のファームにはピッチャーが多かったせいもある。横山、小川、西本、定岡、中山、田村、そして同期入団の外園……一日も早く一軍に戻すよう調整命令がきているピッチャーが何人もいた。ローテーションは彼らのためにあった。
それだけではないだろう。
クロダは、自らをアピールすることにシャイでありすぎた。
ファームから一軍に這《は》いあがっていくには実力以外のいくつかの要素が必要だ。
例えば、ファームのピッチャーはバッテリーを組むキャッチャーと、いいコミュニケーションを保っておかなければならない。
ピッチング練習をする。キャッチャーのうしろにコーチが立っている。キャッチャーもそのことに気づいている。ピッチャーが投げる。その時、キャッチャーの捕球テクニックひとつで、ミットはいい音をたてるし、鈍《にぶ》い音もたてる。
《だからといって》と、クロダはいった。《キャッチャーにふだんから、何かとサービスするなんてことが、ぼくにはできないんですね。登板チャンスが少なすぎる、もっとアピールすればいいじゃないかって、よく野手の人たちからいわれましたけどね、そんなミットモナイことできるかって、いつも思っていましたからね》
そういう人間は、多分、誰よりも早く淘《とう》汰《た》されやすい。そのかわり、淘汰される側には、たいてい、いいがたいほどのやさしさと、それとは裏腹の弱さと、もろく崩れやすいプライドがある。
勝者といわれるために、はなばなしくそしてやみくもに階段をかけあがっていく者がいる。その陰にはそこから取り残される人間がいなければならない。歴然とした力の差でおちこぼれていく人間がいる。力の差ではなく、むしろ人生に対するスタンスの差で置き去りにされる人間もいる。
クロダは、当然のごとく敗れ去っていった。ジャイアンツのファームに入って三年がたっていた。彼の年俸は二一六万円になっていた。毎月一八万円という計算である。
プロの世界から淘汰されたとき、彼を《背番号94》が待っていた。つまり、バッティング投手である。もちろん彼は選手としては登録されていない。
合宿を出るという前の日、高校時代の担任の先生から電話がかかってきた。彼はこういった。
《負けたと思ってはいけない。人生は二度、勝負できるようになっているんだ。落ちついたら一度遊びに来なさい》
クロダは、ハイ、ハイとうなずきながら電話を切った。部屋に戻ると初めて涙が流れてきた。野球をやっていて、涙を流したのは初めてのことだった。
彼はボールを持って部屋を出ると、多摩川のグラウンドに行き、マウンドに上がると一球だけホームベースに向かって投げた。ボールはホームの上を通過して、そのままバックネットに当たり、ポトリと落ちた。
6
……今でもそうなんですけど、不思議とくやしいっていう思いがないんです。
バッティング・ピッチャーの話がきたときに、友だちがいうんですよ。「お前、そんなことまでしてジャイアンツに残りたいのか」とね。こういったやつもいたな。「そこまでやるなよ。まるで野球に未練タラタラじゃないか」と。
ちがうんだよね。そんなに重大に考えることないじゃないかと、ぼくは思うんですよ。ぼくの肩をまだ必要としているところがあるんなら、それに付き合ってもいいじゃないかっていう、それくらいのことですね。
「いつから、お前そんなに丸くなったんだ」といった奴もいたな。
そりゃ、生きてりゃ人間丸くなるよって答えたんだけど、だって、そうでしょ? 丸くならなきゃ……しんどいよ。
プロ野球の世界は、たしかに勝負の世界ですからね。勝つ人間、敗れる人間、それぞれ出てきますよ。ぼくは、負けた側の人間だけど、しかし、負けた敗れたといって生きてても、しょうがないでしょ。負けたことだけがぼくの人生のすべてじゃないんですから……。
おそらくぼくは、勝負の世界には不向きだったんでしょうね。ファームにも後援者のような人がついていますからね。時々、みんなをひきつれて飲みに連れていってくれる。楽しく飲み始めるでしょ。そうすると、必ず何人かは途中でそわそわし出すんですね。もうここらで帰らないと明日の練習に影響するとか、秘密練習ができなくなるとか……そういうことで帰ろうとする。
ぼくはダメなんですよ。せっかく飲ませてくれているんだし、楽しくやってるんだから、先に席を立つのは失礼だと思ってしまう。一緒に飲んでる人にはサービスしたくなっちゃうんですね。
それが敗因っていえば敗因だけど、でも、そういう人間がいたっていいでしょ。たしかに厳しい世界ですけど、なかにはそういう人間もうっかりまざっちゃったりするわけですよ、エー。
7
最後に一言、付け加えれば、ジャイアンツに入って以来、クロダは長島監督と話をする機会がついになかった。《90番》は、ドラマチックにジャイアンツを去り、クロダはアンチ・ドラマチックにいまだに巨人軍のユニフォームを着ている。現在、年俸は三四八万円になっている。一か月二九万円という数字である。
ザ・シティ・ボクサー
イギリスのロックグループ、スカイの演奏する「トッカータ」が控え室まで聞こえてきた。オリジナルは、ヨハン・セバスチャン・バッハが作曲したトッカータとフーガニ短調である。イントロダクションはフォルテッシモで始まる。
リングサイドに陣取っている連中はどんな顔をしているだろう。メインエベントが行われようとしている。そこに電気的に増幅されたクラシックが大音響で流れているのだ。
控え室。トッカータの冒頭が聞こえたところでトレーナーがボクサーを促した。
《さあ、行くぞ》
《ちょっと待てよ。まだ早い》
ボクサーはそういった。最近の体育館の控え室は蛍《けい》光《こう》灯《とう》が明るい。時には歌手が同じ控え室を使うことがあるのかもしれない。化粧台のようなものがあり、壁には鏡がはりついている。ボクサーは鏡に向かっている。
《ほら、行くぞ》
肩からタオルを巻いたトレーナーがまたいった。
《もうちょいだよ。このあと静かなメロディーになるんだ。その時にここを出るんだ》
数秒、ボクサーは流れてくるサウンドに耳をすました。もう一度、鏡を見て、ヘアスタイルを整える。グリースでピタリと固めたリーゼントである。その両わきを一度なでつけると《よし行こう。早くケリをつけような》立ちあがった。
トレーナーは、ボクサーがなぜそこで数秒待ったのか、リングに上がって気がついた。控え室を出て廊下を歩く。会場に出る。花道を歩く。リングサイドに辿《たど》りつき、ボクサーははずみをつけて一気にリングにあがり、ロープの間をくぐり抜けて白いマットの上に立つ。ボクサーはバンデージを巻いた両手をたかだかと挙げてみせた。わおーという歓声、拍手、口笛。大きな会場ではないが千人は入っているだろう。ボクサーは両手を挙げてほほえんでいる。
その時――会場に流れるトッカータはクライマックスを迎えていた。
トレーナーは苦笑した。こいつはちゃんとタイミングを計算してやがる、と思ったからである。コーナーに戻ってくると、ボクサーはニヤッと笑ってみせた。
一九八〇年一二月一七日。午後八時。神奈川県立横浜市体育館。ボクシング日本フライ級ランカー同士の対戦が組まれている。今、リングにあがってきたボクサーは春日井健という。このときは日本フライ級8位というランキングにいた。反対側のコーナーには須賀伸二がいる。同級5位のボクサーである。デビューした年のフライ級新人王に選ばれたキャリアがある。比較的地味な組み合せのメインエベントだが、観客がそれなりに入っていたのは、横浜が赤コーナーにいる春日井健の地元だからでもある。
数分後、ゴングが鳴るはずだ。
春日井健は、リングにあがるタイミングとBGMのクライマックスがぴったり一致したので気分は上々だった。
彼にしてみれば、しかしそれは当然のことだった。観客がつめかける前、彼は一度、控え室からリングサイドまで歩いている。三〇秒ちょっとでリングサイドに行きつく。それを確認したうえでメロディーを思い出し、どの部分で控え室を出ると最も効果的にリングに登場できるか、彼は計算ずみだった。
そればかりではない。リングに上がったときのポーズも、彼は研究してあった。
《リングに上がっておじぎをするボクサーがいるでしょう。ぼくはあれが大《だい》嫌《きら》いだった。もっと堂々とカッコよく登場すべきなんですよ》――それが春日井健の基本姿勢である。だから彼は両手をたかだかと挙げて歓声にこたえようと思った。そのポーズも試合前の数日間、自宅の鏡の前で練習した。おずおずと手を挙げたのではかえってみっともない。堂々と胸を張ってリングに登場するにはリハーサルが必要だと考えたからである。前の晩も、ベッドに入る前にひとしきりそれを練習した。ほぼイメージどおりのポーズができたはずだと、彼は今、リングの上で思っている。
《ヘアスタイルも完《かん》璧《ぺき》に近いはずだ》と、彼はナルシスティックに思う。
午前中の計量が終わったあと、彼は一度自宅に戻った。本《ほん》牧《もく》である。彼が生まれた昭和三〇年には、そのあたりには完璧な異国があった。今でこそ米軍の本牧キャンプは縮小され、キャンプ特有のフェンスはところどころ朽《く》ちてしまっているが、当時はフェンスの向こう側に色あざやかな芝生があり、真っ白いペンキを塗ったハウスが並んでいた。やがてキャンプが小さくなっても、本牧の町には例えば「GOLDEN CUP」のような、時代の空気にヴィヴィドであろうとするミュージシャンが集まる店があった。世間がグループ・サウンズに熱狂していたころ、この店にはリズム&ブルースが流れていた。北へちょっと行けば伊《い》勢《せ》佐《ざ》木《き》町《ちよう》があり、東へ行けば港がある。その街が、彼は嫌いではなかった。
本牧に戻ると軽い食事をし、それからベッドに入った。三時間ほど昼寝をすると起き出して、彼が最初にしたことは念入りにヘアをセットすることである。
鏡の前に坐《すわ》り、グリースを髪になでつけ、ドライヤーで決めていく。ほぼ一時間、彼はそうしていた。どの角度から見ても完璧だと思うまで、彼はくしを持ち続けた。ステレオからはアラン・パーソンが流れていた。それが終わるとマッコイ・タイナーをターンテーブルに置いた。彼はいつだって音を必要としている。
そこだけ光を浴びて白く光っているリングに登場するとき、自分なりのBGMが必要だと思い、この日スカイの「トッカータ」を選んだのも、当然、彼自身だった。その、ドラマチックな曲想が、彼は気に入っていた。
《メインエベントなんだから》と、春日井健はいう。《ボクサーはカッコよく登場しなければならない》
前回の試合ではボブ・ジェームスの「ワン・ロング・ナイト」をBGMに使った。ロックではない。リラックスした大人びたサウンドで聞かせるフュージョンである。八〇年の三月に茅ケ崎で行われた試合だった。それが春日井健にとっての最初のメインエベント・マッチであった。このときは、自分でデザインしたポスターも作った。原色と赤と黄と、あとは墨色だけの、活字だけが並んだボクシングのポスターに、彼はガマンできなかった。
自分でデザインしたポスターには、当然のように彼自身がうつっている。アングルはバスト・アップ。左から光を当て、顔の右半分にはシャドウがかかっている。ポスターの左側に、さりげない大きさでコピーがあり、そこにはこう書かれていた――《こいつに似合うのは、血の香りのオーデコロンかもしれない》。色調はブラック&ホワイト。試合の案内記事は左下のコーナーに小さく印刷されている。
つまり春日井健は、自分を限りなくカッコよく見せようと努めている。
《どうせ見られるなら》と、彼はいう。《中途半端であるよりも完璧であったほうがいい》それがプロのボクサーとしての、春日井健のテーゼである。
観客がそこまで気がついてくれるかどうかは別として、彼のはいているトランクスは、かつてジョー・メデルがはいていたものと同質、同色のものである。元バンタム級世界チャンピオン。一九六〇年代前半の日本のボクシング界は、この男を倒すために闘っていた。矢尾板貞雄、関光徳、ファイティング原田といったボクサーがメデルの前に屈している。ロープ際の魔術師と呼ばれたこともある。攻めこんでロープにメデルを追いつめると、一瞬ののち、追いつめたボクサーがマットに沈んでいるのだった。鋭いカウンター・パンチを得意としていたテクニシャンである。
猛牛のように突進していくボクサーよりも、春日井健はメデルのようなテクニシャンが好きだった。力だけで押すのを好まない。人間には頭脳ってものがあるではないか、と考える。
今、春日井健はビロード地の赤のトランクスをはいている。両サイドのストレッチは黒である。左のもものあたりに《KEN》という刺《し》繍《しゆう》文字が縫いこまれている。文字の部分は白。そのトランクスは特注したものだった。
羽織っているガウンは白のパイル地をベースに、えり元からすそにかけての赤のストレッチ。背中には《KEN KASUGAI》というステッチが入っている。色は当然、赤である。そして彼は真っ赤なタオルを首に巻いている。
そのコンビネーションは、彼が赤コーナーから登場することとも関係している。もし青コーナーであったなら、彼は別のコンビネーションに変えたはずだ。
シューズは黒。白のラインが入っている。それらすべてを、彼は自分で選んだ。
赤コーナーに坐って6オンスのグローブをつけていると、花束が届いた。会場のどこにいたのか、次から次へと花束が届く。計15セットの花束がリングサイドに届いた。すべて女性だった。そのうちの三人だけ、彼は顔と名前を思い出せた。あとは知らない人だろうと思った。
花束を受けとりながら、反対側の青コーナーを見ると、対戦相手がムスッとした目で赤コーナーを見つめていた。
リングアナウンサーが登場する。
紹介されると、春日井健はガウンを脱ぎ捨ててリングの中央に歩み出る。そして今度はグローブをはめた両手をたかだかとかかげてみせた。
レフェリーが二人をリング中央に呼び寄せる。いうことは決まっている。《WBCのルールはわかっているね》と、レフェリーはいうのだ。《それから反則、クリンチはしないこと、いいね。よし》
ボクサーはそれを耳で聞いて目は相手を見つめている。
春日井健は、自分より背の高い対戦相手を見つめた。話には聞いている。その情報と自分の観察データをクロスチェックした。
《ファイター・タイプではない。どちらかといえば技術で勝とうとするボクサーだ。パンチ力はさほどないだろう。こういう相手のことはよくわかる。自分もテクニシャン・タイプだからね。こういう場合どうすればいいかもわかっている。ぼく自身がやられたらいやだなと思うことを相手にしてやればいいんだ。連打に弱いだろうし、低く入っていくボクシングを苦手とするタイプだ。低く構えて、もぐりこむように入っていけばいい。勝てるはずだ、これは……》
赤コーナーに戻る。セコンドがリングの外に出ると同時にゴングが鳴り響いた。
第1ラウンド。それは例によってジャブで始まった。力の差は1分半をまわったあたりで現われた。春日井健が左足を踏み込んで左を出す。フックである。それを何度かくり返しながら、同じように左のフックを放った。しかし、それはフェイントで、次に右が出てくると読んだ相手が体を右に振る瞬間をカウンター気味に春日井の左のフックがとらえた。絵に描いたようなパンチが入ると、須賀のヒザががくりと折れ、そのまま崩《くず》れおちた。
わおーッという歓声が場内にあふれ、青コーナーではセコンドがしきりにわめいている。須賀は、そのセコンドのほうをチラッと見て頭を二、三度強く振った。突然のダウンに気が動転している。
春日井はニュートラルコーナーで構えている。今の一発で終わってしまうとは考えていなかった。
《カウント・エイトで立ちあがるはずだ》と思っている。同時に、彼はこんな風に考えた――《この客の驚きようったらないな。おれはひょっとしたら天才的なボクサーなんじゃないかな》
カウントが始まっている。《ワン! ツー!……》レフェリーは大きなジェスチャーでわめいている。
春日井健がボクシングを始めたのは一二歳のときだった。今、こうしてリングにあがっている日、一二月一七日は彼の誕生日である。ちょうど二五歳になった。
ボクシングをすすめたのは両親だった。母親は健の体が丈夫ではなかったので何かスポーツをやらせたがった。父親は、やるなら絶対にボクシングだといった。横浜の港の沖仲仕を監督する仕事をしている父親はボクシング・ファンだった。横浜にある河合ジムのオーナーとは知り合いでもあった。それで健を河合ジムに入門させたわけである。二人の兄も同じジムに通っていた。
春日井が、自分の強さを知ったのは、多分、高校時代のことだろう。
彼は進学して横浜高校のボクシング部に入った。高校野球では毎年のように甲子園を狙《ねら》える位置にいる。愛甲猛がエースとしてチームを引っぱり全国優勝をとげたのは八〇年夏のことである。その野球ばかりではなく、横浜高校はボクシングも強いことを知っている人は少ないかもしれない。
春日井は体の大きいほうではない。身長は165p、自分自身でハード・パンチャーであると思ったことはなかった。それでも相手を倒せるとわかったのは、横浜高校のリングに横須賀にある防衛大学のボクシング部が練習に来たときだった。春日井は高校二年生である。
ひとしきり汗を流すと、監督がスパーリングをやるといった。ウエイトの比較的近い者同士での練習試合のような趣きになった。
春日井が当たったのは、バンタム・ウエイトの四年生である。
《あのときのパンチで、わかったんだ》と春日井はいう。それは右ストレートだった。
お互いにヘッドギアをつけている。グローブは練習用の16オンスである。この条件でスパーリングをやっても、めったにダウンすることはない。重いグローブはパンチ力を弱めるしそのうえヘッドギアまでつけている。にもかかわらず、春日井と対戦した防大生は、一発の右ストレートでヒザをがくりと折り、その場に崩れた。
ダウンするのを見て一番驚いたのは春日井自身だった。それまでダウンを奪ったことはない。狙いすましたパンチを思い切り決めても、そう簡単に相手は倒れないと思っていたのだ。
それが倒れた。
《力じゃないんだって、ピンと来たんだね。むしろタイミング。何度もそのシーンを思い返して考えたんだ。いつものパンチとどこが違ったのか。スローモーション・フィルムを見るように思い返した。あのときはひらめきがあった。今、打てばいいと思うより先に吸いこまれるようにパンチが炸《さく》裂《れつ》した。インスピレーション。パンチを出した。手ごたえがあった。そして倒れた》
それ以来、春日井は負けなくなった。高校三年間の戦績は三五勝八敗二三KOである。二年の後半から三年にかけては二三連勝している。そのうち一七勝がKOである。
春日井は、ボクシングは力ではない、むしろ技術だと信ずるようになった。と同時に、一秒一秒、毎日毎日、汗を流して練習を積み重ねればそれだけで強くなれるものではないと思うようになった。ただやみくもに練習したってダメな奴はダメなんだ。ボクシングは才能だよ――と、彼は思った。
練習をさぼるようになった。特に彼はランニングが好きではなかった。
《健! 髪を切ってボーズにしてこい!》
いったのは監督である。
《髪の毛伸ばしてチャラチャラしてるから遊びに行きたくなるのだ。切ってこい》
ヘアスタイルは、今のようにリーゼントだった。練習をさぼって上《かみ》大《おお》岡《おか》の近くの学校から京浜急行に乗って横浜へ出る。そこから西口のあたりで遊ぶこともあったし京浜東北線で桜《さくら》木《ぎ》町《ちよう》へ出て伊勢佐木町、あるいはもう少し先の石《いし》川《かわ》町《ちよう》で降りて元《もと》町《まち》へ行く。そのほうが、彼には面白かった。
《どうしても切れというなら》と、春日井はいった。《オレ、ボクシングやめます》
《とにかくだな……》と、監督はいった。《つべこべいわずに切ってこい!》春日井はやめたつもりになって練習に行かなかった。
《もし、あそこで監督のいうことをきいていたらどうなっただろう》と、春日井は考えることがある。
のちになって、過去のことをそんな風に考えるとき、たいていの人間は少しばかり後悔をしてみたりするものかもしれない。しかし、彼はこういう。《ボーズになってもならなくても基本的には何もかわっちゃいないさ》
《ファイブ! シックス! セブン!》
レフェリーのカウントが続いている。
須賀が立ちあがってファイティング・ポーズをとったのはカウント・エイトだった。
直情径行型のボクサーなら、ここでムキになって反撃してくるはずだ。須賀はそうではなかった。春日井に対して警戒しながらパンチをくり出してきた。春日井にとっては、こんなとき、ムキになってかかってくるボクサーのほうがやりやすい。動きが単純になるから、その分、カウンター・パンチを決めやすいのだ。
同じパンチはもう食ってくれないだろうと春日井は思った。だから無理には突っこまない。
そういう呼吸は、高校時代から身につけていた。
気の弱そうな相手だと、試合が始まる前に相手のそばへ行って言葉でおどした。《お前はそこにぶっ倒れるんだぜ!》リングに上がる寸前に、すご味のある声でそういわれると、それだけで動揺する人間がいることを知っていたのは、彼自身、リングにあがるときはいつでもこわいと思っていたからだった。一見、手《て》強《ごわ》そうな選手と当たると、春日井はなるべくその男の顔を見ないようにした。
リーゼントを変えない春日井を、もう一度ボクシング部に連れ戻したのは監督だった。関東大会がある、その試合に出ろといってきた。
春日井は実は、その前の数日、友達の家を泊まり歩いていた。その場所を試合の前日になってやっとつきとめられて、翌日の試合に出るようにいわれたわけだった。
《だけどオレ、髪の毛切らないよ》
春日井がそういうと《早く仕度しろ》とだけ監督はいった。
試合は栃木県の宇《う》都《つの》宮《みや》で行われた。その日のうちに栃木へ行き、翌日はほとんど練習もせずにリングにあがった。試合は五人ずつの選手が出て対抗戦になる。結果的には横浜高校が2―3のスコアで負けたが、春日井はフライ級で出て3ラウンドを戦い、判定で勝った。それが高校二年のことだ。
三年になると、自分のペースでボクシング部へ通うようになった。ヘアスタイルも変えず、練習法も変わらなかった。それがまた監督の不満でもあった。
監督はよくこういった。
《高校のボクシングはパンチの強さじゃないんだ。手数を多く出せ。ダウンさせても1ポイントにしかならないんだ。多く打って多くヒットさせる。それで勝てるんだ》
試合用のグローブは12オンス。重い。よほどいいタイミングのパンチが入らなければ倒れるもんじゃない、といわれていた。だから、絶え間なく相手を攻め続け、くまなくパンチを出すボクシングが有利だとされている。練習はそのために行われる。
春日井は、違うことを考えていた。
ひたすら一発のパンチ力をつけようとしていた。《本来、ボクシングは相手を倒すためにやるんだから》というのだ。
パンチ力をつけるためには腕の力だけではダメだ。足で蹴《け》る力も必要だと知ると階段を四段ずつ登るトレーニングをくり返した。キックする力が強くなれば、それだけ上半身の動きは速くなり、パワーが増大する。
あるときはこう考えた。《二点間の最短距離は直線なんだから――》と。《直線的に入っていくパンチが最も速くパワーがあるはずだ》
サンドバッグを押し、戻ってくるところを自分の腕がまっすぐに伸びた状態でとらえる。サンドバッグをたたきつけるのではなく支えるようにパンチをくり返す。それをくり返しくり返し続けた。彼の練習とは、つまりそういうことだった。
夏になるとインターハイがやってきた。ボクシングの高校選手権である。六月の県大会でも優勝していたし、春日井は勝てるのではないかと思っていた。
相変わらずロードワークはさぼりがちだった。
《そんなことじゃチャンピオンになれないぞ》と、監督はいった。しかし、春日井はこう思ってしまう。《冗談じゃない》
『あしたのジョー』を夢中で読んでいて、気に入ったセリフがあった。彼はそこを読んだとき、これは絶対に忘れないだろうと思った。
矢吹丈と力石徹の戦いが終わる。矢吹の前に現われるのは東洋チャンピオンの金竜飛である。すでにフェザー級の体重になっていた矢吹は下剤をのんでサウナに入り体重を落とす。そしてからくもバンタム・ウエイトになって計量を終えた。レストランで食事をしていると、そこに金竜飛がやってくる。そしてこういうのだ。
「きみの、その、わたしは飢えた若者でございます、しかし飢えた若者でなければハングリー・スポーツであるボクシングの栄光はつかめないのであります――といった悲《ひ》愴《そう》気取りがなんとも鼻もちならなくてね。よけいなお世話のようだが訂正してやりたくなったんだよ」
ハングリーだ、ハングリーだといい続け、苦しい、つらいといいながら練習に耐えなければチャンピオンになれないんだというテーゼを、春日井はくつがえしたかったのだ。なぜなら、どうあがいてみても彼はハングリーになどなりえなかったからだ。昭和三〇年生まれ。生まれたときから何でも揃《そろ》っていた。食えないという思いなどない。真底ハングリーであるという心情は、あらかじめ失われている。それでもハングリーさを求めれば、仮説として自分のなかに作らざるをえない。そのフィクションは、しかし、現実に裏打ちされていない。逃げ道は二つしかない。ハングリーであることにあこがれ自分もハングリーなんだと思いこむか、開き直ってハングリーなんてありえないんだと決めるか。春日井は、その後者を選んだ。
彼のボクシングに対する態度は、そこから決定されている。
「カーン!」
1ラウンド終了のゴングが鳴った。リーゼントに真っ白のガウン、赤のトランクスというスタイルで、ロックをBGMに登場した色白のボクサーがあわや1ラウンドKOをきめそうになって、場内の気分は盛りあがっている。春日井自身は、ほとんどパンチを打たれていなかった。汗もさほどかいていない。したがって、ヘアスタイルも乱れていない。それが、彼にしてみれば大切なことだった。第3ラウンドぐらいまではもつだろう。いつもそうなのだ。試合前に二時間かけてドライヤーを当てれば6ラウンドまでもつのだとすれば、彼はすすんでそうしたはずだ。
第2ラウンド開始のゴングが鳴った。
春日井は軽快なフットワークで飛び出していった。
高校三年のインターハイではみごとに優勝してみせた。トーナメント戦で行われ、決勝戦まで五試合がある。その五試合のうち二試合をKOで勝った。決勝で当たって春日井に敗れた相手は、のちにプロ入りし、新人王に選ばれている。バズーカ庄司というリングネームのボクサーである。
春日井が出場したのはライトフライ級である。その下にさらに軽いクラスがあり、モスキート級と呼ばれている。そのクラスで勝ちあがってくる選手に、春日井の目がいった。さほど印象的だったわけではない。
《おじさんみたいな顔をした奴だな》
彼はそう思った。髪の毛がなんとなくうすいという印象なのだ。無口でおし黙り、ふけたような顔をしている。言葉を交わすことはなかったが、その名前を見て、多分沖縄の選手だろうと思った。名前は具志堅用高といった。
具志堅用高とは、その年の秋に再会した。ミュンヘン・オリンピックが終わって一年たっているころである。アマチュア・スポーツ界はモントリオールに向けて調整していた。インターハイで優勝した選手は、五輪候補選手としてマークされた。東京で一週間ほど、合宿が行われた。春日井が選ばれて合宿所へ行くと、そこに具志堅も来ていた。
《どうも》
《よろしく》
それが最初に交わしたあいさつである。合宿ではいくつかの班が作られ、春日井はその一つの班の班長に任命された。そこに具志堅が入ってきた。相変わらず、具志堅は無口だった。話しかけてきたのは具志堅だった。
合宿所に来るまでの交通費を支給する、と役員がいい、各自、往復いくらかかるかを計算して提出した。春日井は横浜―東京間だから、当時の交通運賃では五〇〇円にもならない。具志堅には沖縄―東京の飛行機代があった。
《あの、いくらもらいましたか?》
と、具志堅は聞いてきたのだ。
《おれなんか五〇〇円にもならないよ》――春日井がそういうと、具志堅は自分がもらった袋をとり出し《かわいそうですね。少しあげましょうか》といった。《バカ、それは飛行機代だろ》――妙な奴だなと、春日井は思った。
一度、相談をもちかけてきたことがあった。
《おにいさん、ちょっといいですか》
具志堅がいうのだ。
《どうしたの?》
《調子悪くってね。出ないんですよ》
夕食が終わってしばらくたったころである。
《便秘しちゃってるみたいでね……》
環境が急に変わったので出なくなってしまったらしい。
春日井はちょっと考えて立ちあがり、カバンのなかからタバコとライターを出すと、一本だけ具志堅に渡した。
《トイレ行って吸ってきてみな。これ、わりと効くから》
《大丈夫かなー》
まだ高校生である。オリンピック強化合宿でタバコを吸っているのを見つかったらまずいことになる。《見つかりゃしないよ》春日井がそういうと、具志堅はトイレへ行った。戻ってくると《ありがとう》といった。少しは出たらしい。
具志堅とは、その後しばらく会わなかった。出会うのは昭和五三年秋のことだ。オリンピック合宿から五年がたっている。
具志堅用高はすでに世界チャンピオンになっていた。WBA世界ジュニアフライ級チャンピオン。昭和五一年の一〇月にホワン・グスマンからタイトルを奪取すると、着々と防衛回数を増やし、安定感も増していった。五三年秋、具志堅は六度目の防衛を目前にしていた。相手は韓国の鄭相一。試合日は五三年一〇月一六日。場所は東京の蔵《くら》前《まえ》国技館。
春日井は、同じ日、同じところで試合をすることになっていた。前座である。しかもそれが、春日井にとってはプロ第一戦でもあった。つまり、デビュー戦である。
高校から近《きん》畿《き》大学へ進んだところで、春日井はボクシングを一度やめてしまった。それなりの理由があってのことなのだが、ともかくその日は、春日井にとっては三年半ぶりのリングだった。
試合の一週間ほど前、春日井は代々木の協栄ジムへ行った。ジムを通じて具志堅のスパーリング・パートナーをやってくれと頼まれていたからである。春日井はボクシングを再開して間もなかった。相手が、あのときの具志堅であることは知っていた。
久し振りに顔を合わせると具志堅はいった。《どうも》無口なのは変わっていなかったが、ボクシングは変わっていた。
体操をしてグローブをつけ、春日井は協栄ジムのリングに上がった。リングがこんなにやわらかかったのかなと、春日井は思った。それは多分、彼のフットワークが本物ではなかったからだろう。
いきなり、具志堅のパンチが飛んできた。みごとに春日井の顔面をとらえた。どういうことなんだ、これは、と春日井は思った。数年間のブランクを、春日井は忘れていたのかもしれない。
次から次へと、具志堅は打ってきた。それがことごとく春日井の顔面を、ボディを、とらえた。
《よし!》そのたびに、具志堅のトレーナーが声を出した。
スパーリングを見に来ていたボクシング記者たちの口もとには冷たい笑いが浮かんでいる。
《この野郎》といって、春日井は反撃に出た。それはみごとにかわされ、かわりに鋭いパンチが入ってきた。
《あれほど打たれたことはなかった……》
その日、春日井は初めて泣いた。
ボクシングをやっていて、泣いたことなど一度もなかった。優勝しても、うれし涙を流したことはなかったし、口惜しくて泣いたこともなかった。
涙を流しながら、ついてきたトレーナーに彼はいった。
《明日のスパーリングでは、絶対打ち返す》
一週間の予定のスパーリングは三日で中止になった。四日目からは別のボクサーが具志堅のスパーリング・パートナーになった。春日井は、《三日間で、ぼくが完全に元に戻ったからだ》という。
春日井のリングに目を戻そう。
第2ラウンドは、第1ラウンドと同じようにジャブの応酬で始まった。リーチは春日井のほうが短い。それでも優勢に試合を運んでいるのは春日井のほうだった。須賀はときおり鋭いパンチを放つが、春日井はそれを確実にブロックし、かわしている。
春日井は、相手の足を見ていると、パンチの出てくるタイミングがわかるという。相手が打ってくると低く構えて平然とそれをかわす。そのときは相手の足を見ている。手よりも先に、足の筋肉が動く。それを見て、またよける。そして打ち込む。それがみごとに決まるとき、試合は完全に春日井のペースになってしまう。
第3ラウンドになると、さらに形勢は春日井に有利になった。ショート・パンチが確実にヒットした。追いこんでいき、右のストレートを放つと、須賀はロープにとばされた。ロープに追いつめ、春日井は打ち続ける。須賀もパンチを出すが、当たらない。ロープにすわりこむような姿勢になり、レフェリーがロープダウンをとろうとするとき、第3ラウンド終了のゴングが鳴った。このラウンドも、完璧に春日井がとった。
少しヘアスタイルが乱れてきた。汗も流れ出ている。
《ここらへんでケリがつけばな》と、春日井は思うのだ。《控え室に戻るときもカッコいいのに》
彼は、冷やかし半分に仲間のボクサーからこういわれたことがある。《お前はな》と、そのボクサーはいった。《3ラウンドまでは世界チャンピオンだよ》
なぜ、高校を出たところでプロ入りしなかったのかと考えることもある。その話もあった。横浜の河合ジムでは、春日井をアメリカでデビューさせる計画をたてていた。日本のプロボクシング界は沈滞期を迎えていた。ファイティング原田も藤猛もいなかった。世界チャンピオンは一人もいなかったし、その可能性を秘めたボクサーも、現役のなかにはいなかった。具志堅が世界チャンピオンになった昭和五一年でさえ、日本のボクシングはまだ低迷期から脱出していなかった。それならむしろ、アメリカのボクシング界でデビューさせたほうがインパクトがある、と読んでの計画だったが、いつの間にかその計画は頓《とん》挫《ざ》してしまった。
大学からはいくつも誘いがきていた。関東でいえば中央、専修、日大……、関西では近畿大学からスカウトがきた。
高校の監督はいった。《お前に向いているのは近畿大だろうな》
関東の大学は練習が厳しく、上下の関係、規律も厳しい。そういう点でいえば、近畿大はゆるやかであることを、監督は知っていた。高校時代からマイペースで好きなようにボクシングをやってきた春日井には、関東の大学は不向きだといったわけである。その説明は、春日井にもよく納得できた。近大へ進んだのは、そういう理由である。
大阪へ行くと、酒を飲むと必ず歌をうたい出す男がいた。やたら体が大きく、相撲部の男だった。
《長岡や。よろしゅう》
そういって飲みに行ったのが最初で、以後、何度か顔を合わせた。そのうち彼は学生横綱になり、プロの相撲界に入っていった。朝汐という名前で、今は相撲をとっている。彼は同期の入学だった。
近大は、たしかにのんびりした雰囲気があった。試合の前日、平気で酒を飲んでみたりする空気が、このボクシング部にはあった。それは居心地の悪いほうではなかった。
ボクシングを続けるのがバカバカしくなってしまう出来事があったのだ。
秋になると関東、関西の対抗戦が行われる。関東大会を勝ち抜いてきたチームと関西大会を勝ち抜いてきたチームがぶつかる。王座決定戦と呼ばれている試合である。
近大は、毎年のように関西の代表校として出場していた。春日井が一年のとき、関東代表として出てきたのは中央大学である。昭和四九年秋、中大のフライ級にはのちにオリンピック選手にもなった内山がいた。全日本のチャンピオンにもなったことがある選手だ。
春日井は、一年生でレギュラーに選ばれた。各校五名ずつの代表選手として出場したわけだった。
《いい試合だったんだ。少なくともぼくにとってはね。試合が始まって1ラウンド、ぼくはダウンを奪った。開始直後の三〇秒。あっという間の一発だった。気分はよかったよ。第2ラウンド。内山はしつこくクリンチをしてきた。攻めていこうとするとクリンチなんだ。レフェリーはジャッジに減点を要求した。これで最低2ポイントはリードした。第3ラウンド。これは互角だったと思う。少なくともぼくはダウンをしなかったし、決定的なパンチもあびなかった。終わったとき、勝ったと思った。ダウンを奪ったのは空気パンチというやつなんだ。右でパンチを出す。それはじつはスピードのあるフェイントで、その直後にハイスピードのパンチをくり出す。それがみごとに決まったんだ。あとで聞くと、内山は倒れたときのことをおぼえていないというんだ。後楽園ホールで試合をやっていると思っていたというんだ》
実は、試合場は大阪府立体育館だった。それほどのパンチだった。
ところが、試合の判定は、内山の勝ちだった。
《少なくともぼくは2ポイントはリードしている。それなのに5ポイント差でぼくの負けになった。どういうことだい? 都合ぼくは7ポイントどこかでリードされたってことじゃないか。そんなこと信じられなかった》
観客も騒いだ、という。
しかし、結果は変わらない。
春日井が、ボクシングにうんざりし始めたのはこれがきっかけになった。
そういう出来事のあとで大阪の町を見てみると、そこが住みやすい町にも見えなかった。横浜に戻ればガールフレンドも沢山いる。何もかもラクチンだった。横浜にいれば、母親は時々、こんなことをいってくれた。《遊ぶならちゃんとコンドームぐらい持ってなさいよ》
父親は、春日井がボクシングをやっていさえすれば文句はいわなかった。
ボクシングをやめて横浜に帰ると、父親はいった。
《それがどういうことなのか、わかっているんだろうな》
《わかってるよ。ボクシングをやめるなら家を出ていけっていうんだろ》
《そうだ》
そして、春日井は家を飛び出してしまった。伊勢佐木町にアパートを借りて、仕事をさがした。最初に見つけたのは、クラブのボーイの仕事である。そこは一日でやめた。客とホステスが飲んでいるところへ行って、ひざをついてサービスしなければならない。それにたまらなくハラがたった。次にトルコのボーイをやった。給料はよかったが、ここは二か月で潰《つぶ》れてしまった。その次にジーパン屋の店員になった。
ものごとや世間が見えすぎてしまうことは、結局のところ、遠まわりすることになってしまうのかもしれない。
《ボクシングなんて》と、彼は思ってしまったわけだった。《所詮、あんなもんだよ》
ウソでも冗談でもいいから《ぼくの青春はボクシングにあるんです!》とでもいえたらちょっと気分がかわっていただろう。
自分からボクシングをとったら何もなくなってしまう、ボクシングのためならどんなことにでも耐えられる、一日一日努力することがやがて報われるんだ――と思い、毎日ボクシング、ボクシング、ボクシング、ボクシング、ボクシング……といっていられたら、そのほうが、多分、希望や夢や目標に向かって最短距離を走れる。
家を出て半年ほどすると、春日井は同棲していた。ディスコで働いている一つ年下の女のコだった。ある日、彼女は家を出てきたといって彼のアパートにやってきたわけだった。
《だからしばらくここに置いてよ》
《だからってずるずるいるわけにはいかないだろう》
《…………》
《お前とは、オレ、結婚しないよ》
そのうち子供ができた。春日井の母親がやってきて、どうするんだという。オレ、結婚するよといったのは、春日井健が二〇歳のときである。そのころ具志堅用高は飯田橋のトンカツ屋の出前持ちをしながら代々木の協栄ジムへ通い、三畳一間のアパートに住みながらボクシング、ボクシング、ボクシングといって生きていた。
春日井は、本牧の実家に戻った。上の兄は独立し、下の兄はアメリカへ渡っていた。健には女のコが生まれ、彼は父親の紹介で会社に就職し、サラリーマン生活を始めた。
そしてまた、時間が流れてしまう。
第4ラウンド開始のゴングが鳴ったとき、春日井健は、今日の試合が10回戦であることを思い出した。それは、彼にとっては二回目の経験である。アマチュア時代は、長くても3ラウンド・マッチしかしていない。
プロでのデビュー戦は6ラウンドだった。昭和五三年一〇月一六日、蔵前国技館。近くの控え室では具志堅用高が軽いウォーミング・アップを始めている。新聞記者がそのまわりに人垣を作っていた。春日井健は、その間をぬうようにしてリングに向かった。もちろん、BGMはない。勝っても負けても、翌日の新聞には出ないだろう。ただし、リーゼント・ヘアだけは念入りにセットしておいた。トランクスも赤である。第1ラウンドが始まるといきなり、春日井はダウンを奪った。右のストレートが相手の顔面をとらえると、ぐしゃという音がして、青コーナーから飛び出してきたボクサーは倒れた。そして、今日と同じようにカウント・エイトで立ちあがったのだ。
それは春日井にしてみれば、じつに四年ぶりのダウンの感触だった。大学王座決定戦で内山を倒して以来である。
《あのときは、その一発だけで右手首を痛めてしまった》
ブランクは筋肉を衰えさせる。
結局、デビュー戦はKO勝ちをおさめられなかった。6回まで戦って、判定勝ち。ただし、失ったラウンドは一つもなかった。
デビュー第二戦もまた、具志堅の世界タイトルマッチの前座であった。昭和五四年一月七日。川崎市体育館。ノーランカー同士の6回戦。春日井は、執《しつ》拗《よう》にパンチをくり出しながら、相手を倒せなかった。その年の夏、8回戦に進出した。デビュー第三戦である。真夏である。熱さでヘトヘトになりながら、8ラウンドを戦い、ジャッジは引分けと出た。
春日井にとっての問題はただひとつ、スタミナだった。
それでも彼は毎日ひたすら走りこもうとはしなかった。たいていの場合、彼は《一週間あれば調整できる。最低三日あればいい》と思っている。第四戦で初めてランキング・ボクサーと対戦した。日本フライ級第5位、海音寺龍。それを簡単に一回、マットに沈めた。KO勝ちは久しぶりのことだった。
その次の第五戦で初めて彼はメインエベンターとしてリングに登場した。ポスターを作り、ほぼ完璧に自己を演出しきったのはこのときである。10回戦だった。そして春日井は10回のフルラウンドを戦い、判定で勝った。
10ラウンドは、今日が二度目の経験である。
《世界タイトルマッチは15ラウンドなんだから》と、彼は思う。《とりあえず10回戦のペース配分を考えておいたほうがいい》
リングサイドでは、客が《早くぶったおせ》とわめいている。《リーゼントが泣くぞ!》という野次がとぶと、客席がドッとわいた。《ガウンが泣くぞ!》という声もとぶ。
そういう野次が、彼は嫌いではない。ちゃんと自分のセールスポイントを見ていてくれた証拠でもある。
なぜ、四年もブランクをおいてボクシングを再開したのか。
ひょっとして、そんなふうに注目されることに飢えていたんじゃないかと、彼は思った。二十代の前半の二年ほどを、彼はサラリーマンとして送ってきた。
《ぼくは何者かになろうと思っていた。サラリーマンをやっていると、それがだんだん見えなくなるんだ。子供が大きくなる。家庭ができてくる。あ、このままいったらヤバイな、と思った。何の刺激もない。面白くもない》
ボクシングを再開するというと、かつて入門していた河合ジムからまた誘いがきた。春日井はそれを断って、茅ケ崎にある堀口ジムに入った。かつてのピストン堀口が作ったジムである。もうすぐ二三歳になるというころである。それなりに見栄も恥じらいもコンプレックスもある。元のジムで元どおりにボクシングをやるわけにはいかない。
河合ジムの人間がいった。
《ボクシングやってるなら、なぜウチにこないんだ》
春日井はこう答えた。《健康のためのボクシングですよ。体動かしてないと、なまっちゃうじゃない》
そういったあと、なんでそんなにカッコつけるんだろうと我ながら思い、そういえば自分は、格好をつけてないと生きてる気がしないんだなと納得した。いつもそうだった。あれはまだ小学校に通っていたときだろうか。新しくできた友達に、オレ、ボクシングやってるんだというと、友達は目を輝かせた。その瞬間、友達の目が春日井にとっての鏡になった。鏡の中の自分は完璧でありたいと思った。人は、他者との関係のなかでしか、自分を支えられないときがあるし、たいていの人間はそんな風に生きている。
とすれば、この試合も《リーゼントが泣くぞ!》といわれたからには、最低限の格好をつけなければならない。
第4ラウンド終わりのゴングが鳴り、第5ラウンド開始のゴングが鳴った。やがて三分はすぐに経つ。そのままいけば、優勢のうちに10ラウンドまでいってしまうだろう。時間にすれば、あと二〇分たらずである。
その二〇分を無為に費してしまうことが、何か不愉快に思えた、としてもおかしくはない。そうすれば、第6ラウンドの春日井のラッシュは説明できる。
《早く終わらせたかったんだ》
春日井はそういった。
四年間ものブランクを置いた人間が二〇分の時間をガマンできないはずはない。しかし、ブランクの四年間と同じようにして残りの二〇分を費してしまうのが、彼にしてみれば不愉快だったのだ。
《ぼくの日常生活はまるでボクサーらしくないんですよ》
と、春日井健がいったことがある。
《ボクサーであるならば……》と、彼はいうのだ。《早朝に起き出してトレーニングを積み、午後からまた練習、そういうもんでしょう。ぼくは朝にすごく弱いんだ。一二月一七日の横浜での試合の日、ぼくは計量のあと家に帰って昼寝したでしょう。ぐっすり眠れたんですよ。人が聞けば、試合の直前によくそんなに眠れるな、というけど、あの日は午前中に計量があるからというんで朝の八時には起きていた。ぼくにしては異常に早いんですよ。だから計量をすませたあと、一度家に帰ってゆっくり眠りたかったんだ》
それは変えようがない。急に早く起き出して早朝ロードワークを始めたら、まず自分で笑ってしまうだろう。二十数年間、生きているうちに生活のペースは血肉化されてしまっている。
しかし、ほんのわずかの時間が浪費と思えるときも、人間にはある。例えば、今、リングの上にいる彼のように、である。
第6ラウンド開始のゴングが鳴ったとき、春日井はいち早く飛び出していった。リーゼントはかなり崩れてしまっている。トランクスも汗でぐしょぐしょになっている。心地よくはない。リングサイドに置いた花束だってしおれてしまうだろう。
《ぼくは打たれるのが嫌いなんです。長いラウンドをやればやるほど打たれる可能性がある。目茶苦茶打たれてパンチ・ドランカーになんてなりたくないですからね。ボクシングに一段落ついたら、そのあとまだぼくは延々生きていかなくちゃならない。それなのに頭までイカれたんじゃたまんないですよ。だからぼくは、なるべく早くケリをつけたいんだ》
彼はそう話したこともある。
一気に攻めていくと、突破口は簡単に開けた。顔を見て、フックを振るように見せかけてボディを打ち、ボディを打つようにしてフックを打った。フィニッシュ・ブロウは右のフックだった。須賀の左目のあたりがぱっくりと割れて血が流れた。須賀は戦意を喪失したように見えた。
レフェリーはドクター・ストップをかけた。コミッショナー・ドクターがリングのエプロンにあがり、傷口を見た。そして首を横に振った。
レフェリーが春日井健に近づいてきた。そして右腕をつかむと、たかだかと掲げた。
春日井は、両手をあげて観客の歓声にこたえながら思った――《このポーズは昨晩練習したとおりに決まっているだろうか。ヘアスタイルが乱れてしまっているのは仕方ないにしても、ポーズはどうかな》
リングの上に鏡があればいいのにと、彼は思った。
ガウンを羽織り、頭から真っ赤なタオルをかぶると、彼はリングを降りた。音がほしいと、彼は思った。《今度からは退場のBGMも考えようか》
シャワーを浴び、家に戻ってリーゼントを整えると、胸にイギリスのコインで作ったペンダントを下げ、ジーンズをはき皮ジャンをひっかけると、春日井健は街へ出た。
どこへ? と聞くと、彼は答えた。
《ディスコへ》
春日井健。二五歳。現在、日本フライ級第4位。八〇年末に二人目の子供が生まれた。ボクシングのほかに本牧で商売も始めようとしている。彼はまだボクサーとしてチャンスがあると信じている。
ジムナジウムのスーパーマン
「セリカに乗って畑仕事に行くっていうんだよ、まったく」
電話の向こう側の男はそういっている。
「クルマをねだるにしたって、もっとほかの言い方ぐらいあるだろうに……ねえ、そう思いませんか」
「ええ、まあ。しかし、今の世の中、クルマは若者の必需品ですからね。無理もないんじゃないですか。カタログを持ってすぐにお伺いします、ハー。そうですね。早速、今からでも出ましょう……」
電話を受けていたのはセールスマンである。客は電話をかけてきて、いきなりもう一台クルマを買うんだといった。以前から付き合いのある客だった。横浜の郊外で農業を営んでいる男である。収入は、都市向けの野菜を作るよりも農地を少しずつ処理して建売住宅として売るほうが多いかもしれない。それでも、しぶとく農業の看板だけは下ろさない。たしか長男は大学を出てサラリーマンになっているはずだ。セールスマンは顧客リストを広げて客の家族をチェックした。工業高校を卒業した次男がいる。父親にクルマをせびったのは、この次男だろう。
たずねていくと、父親はまた同じ話をむしかえした。
「こいつがね」と、隣りに坐《すわ》っている次男をあごでさし示した。「畑仕事をやるっていうんだ、農業をつぐんだってね。いいだろう。そしたら今度はクルマを買えといい出しやがって。まったく、近頃のはしっかりしてるよ、ねえ、そう思うでしょ」
息子は髪の毛を刈りあげている。FILAのシャツを着て、下にはコットンパンツ。悪びれもせず、坐っている。ニコリと笑うと、屈託がない。
「いいじゃんか。家の仕事手伝うんだから。フェアレディだっていいくらいさ」
ニッサンのスポーツタイプの車種の名前を口にした。セリカを売ろうとしているセールスマンはトヨタ系列の販売店に所属している。何かいわねばと思うより先に父親が口をはさんだ。
「バカいえ! あんなクルマで畑行ったら、それこそもの笑いのタネだ」
それで話は決まったようだった。息子は最近までバイクを乗り回していたに違いない。短く刈りあげたヘアスタイルが、その名残りだ。二輪を卒業したのだろう。FILAのシャツを着てシティ派に転向したわけだ。当然のように四輪が欲しくなってくる。テニスウェアを着ているからといって、テニスをやるわけではないだろう。セールスマンは肩のあたりの筋肉を見てそう感じた。第一、足がひょろりと細い。鍬《くわ》も満足に使えやしないだろう。
「それじゃ、契約書を用意しましょう」
セールスマンがいうと、オヤジは即座に答えた――「現金で買うよ」
麦茶をぐびりと飲みこむとさらに言葉をついだ。「オレは、金利を払うのが嫌《きら》いなんだ」
セールスマンは、それはどうもといったニュアンスのことをごにょごにょといった。うまく笑えない。早目に退散しようと思った。
仕事を一つまとめて自分のクルマに戻ると彼はネクタイをゆるめた。汗がドッと吹き出してくるようだった。クーラーのスイッチを入れようとしてやめた。かわりに窓を思いっきり広くあけると、ギアを入れ、アクセルを強く踏みこんだ。
心のどこかに、わだかまりが残った。
朝。
陽がのぼり始めて、まだ間もない。近くの豆《とう》腐《ふ》屋が、まず動き始める。ガラガラと旧《ふる》い機械が動きだす。あれは大豆をすりつぶす音なのだろうか。わずかに開けた窓からその音がしのびこんでくる。そのうちに豆腐屋はラジオのスイッチを入れるはずだ。早朝の労働のBGMに演歌を選ぶのは、豆腐屋のオヤジの世代感覚なのだろう。そのメロディーが、ほかに何の音もないせいで動きようのない朝の空気をかすかにバイブレートさせ、マイナー・タッチの波動をつくり出す。
起きるのはその時刻だ。
冬ならば、街は死んだように眠っている。夏が近い。東の空にうすい雲を見ることができる。こぼれ出るような光は、あと十分もすれば、あたり一面を支配してしまうだろう。
目をさますと、その日の彼はいつもの気分とは違う。会社には休暇届を出してある。今日一日はまったく個人的な一日になるはずだ。
一気にベッドをおりた。そのまま腕立て伏せをするスタイルになり、両足はベッドの端に置いた。手の位置は肩の真下ではなく頭よりさらに前方へ置く。そして腕を屈伸させるのだ。ふつうの腕立て伏せよりも、かなりヘビイなトレーニングになる。
一、二、三、四……数えながら腕を機械的に曲げ、伸ばす。筋肉があたたまってくる。血液が倍以上のスピードで流れ出すのがわかる。……一五、一六、一七……うっすらと汗がにじみ出てくる。悪くないコンディションだ。腹筋がぷりぷりと緊張しているのが感じられる。太ももの筋肉はしなやかに伸びているはずだ。回数をかぞえながら彼は左肩のあたりを見た。もっこりと盛りあがった筋肉が精密に稼動している。……四八、四九、五〇……。彼は突然に、昨日の仕事のことを思い出した。
セリカで・畑へ・行けば・いい、と彼は口に出していってみた。その間に腕は二回屈伸をくり返した。そのうち・畑・なんか・なくなる・はずさ……。
そしてちっぽけな家が建ち並ぶのだ。セリカはさらに大型の高級乗用車にかわっているかもしれない。それだけのことだ。彼らの肉体は、見るも無残に衰えていくだろう。心のなかにできあがる大きな空《くう》洞《どう》をかかえて生きていくだろう。……七一、七二、七三……オレは大丈夫だ。この肉体を保持しつづけてやる。OK、あと五回だ。七六、七七、七八、七九、八〇!
呼吸をととのえるとトレーニング・ウェアに着がえる。ランニング・シューズは白にブルーのストライプが入っている。ひもをほどき、足をぐいと突き入れると、足首に心地よい緊張が漲《みなぎ》る。甲に痛みが走るほどひもを強く結んでみた。それくらいでちょうどいい。
勢いよくマンションのドアを開け、階段をかけおりた。
ドアには、表札がわりに名刺が貼《は》りつけてある。
坂本聖二。
肩書きはこうだ――トヨタカローラ神奈川株式会社 鶴見営業所 営業課 係長。
つけ足しておこう。年齢は三四歳。いちおう、独身。なにくれとなく世話をしてくれる女性はいる。
坂本は試合を控えている。
競技はスカッシュだ。本家のイギリスではこれをスクウォッシュと発音する。アメリカではスクワァッシュだ。テニス、バドミントンよりもフェイスの部分が小さいラケットを使う。ボールはピンポン玉より大きくテニスボールよりも小さい。材質はゴム。コートは、壁に囲まれている。競技は二人で行われる。一人がサーブを打つ。壁に向かって、小さな固いゴムのボールをたたきつける。それがスタートだ。相手はそれをノーバウンド、あるいはワンバウンドで壁に打ち返す。壁はどう利用してもかまわない。フロアにツーバウンドする前に打ち返せばいい。それがこの種目の原則である。
坂本聖二は、この種目の、日本の第一人者である。この国でのスカッシュの歴史は浅い。今年、一〇回目の全日本選手権が行われる。坂本は第一回からこのタイトルを取りつづけている。公式戦で敗れたことはない。勝利の数をかぞえていくと一三五連勝という、とほうもない記録が出てくる。
と同時に、彼は自動車のディーラーに勤めるサラリーマンでもある。
その両方をこなしていこうとしている。
彼にとっては、クルマのセールス台数を増やすのと同じくらい、自分の連勝記録を伸ばすのも大切なことだった。休暇は、ほとんどすべて試合の遠征のために使った。海外遠征にも出かけた。留守のあいだにセールス活動ができないことは覚悟した。コートには、ほぼ毎日、立ってきた。ラケットを握らない日はなかったといっていい。ラケットのフェイスを張りかえるとき、自分の手かげんだけで完璧にバランスよく張ることができるようになった。
クルマが売れない日はあっても、スカッシュを忘れた日はない。セールスマン仲間とのつきあいは避けてもトレーニングは欠かさなかった。
その結果として得られたものに、彼は満足している。さほど背が高いほうではない。身長は165p。体重はベストで63s。太ったにしても65sをこえることはないはずだ。筋肉は一向に衰えを見せない。腹のたるみとは縁遠い。二本の腹筋がくっきりと見えているはずだ。バストは93pと計測されている。ウエストは74p、ヒップは98p。尻の筋肉も、もっこりと盛りあがっている。太ももは左足が66p、右足は63p。その太さも、彼は気に入っている。サウスポーである。シャツを着たままでも、腕の太さがわかる。特に左の上腕部は太い。
スリムという言葉は、彼の美学のなかにはなかった。
「たいていの人間は」と、彼は考えている。「どこかで、何かを投げ出してしまうんだ。仕事を始めたことを理由に人生観を変えてしまう。女ができたといって生活態度を変えてしまう。仕事が忙しくなったといって現実に足を突っこみすぎる。結婚したからといって腹が出たのを恥じながらもどこかで自慢している。役職についたとき、あわてて自分の肉体を取り戻そうとする。そのときはもうおそいんだ。肉体を投げ出した奴は肉体に復讐される。そういうものなんだ」
だから走る。
この朝も走っている。
試合を控えているときは尚《なお》更《さら》だ。いつもはランニングかベッドに足をのせた腕立て伏せ八〇回か、そのどちらかのメニューを消化することにしているが、ゲームを控えているときはその両方をこなしていく。
アスファルトの道路に出た。ゆっくりと五、六分走ると公園にたどりつく。ランニングをしながら、足首、膝、腰、手首、肩、首……関節を一つずつほぐしていく。もう何年も同じことをくり返してきている。
エンジンをかけた瞬間の音で、愛車のその日の調子がわかるように、彼は朝のトレーニングでその日の体の調子を把握することができる。
公園を走る。まだほかに人かげは見えない。やがて、白いトレパン姿の老人がやや早足でやってくるはずだ。太い腹を赤のトレーニング・ウェアで包んだ熟年の男もやってくる。朝の公園の常連である。
坂本は、ももを思いきり高くあげ、10mダッシュをくり返す。そしてスピードを落として流し、再びダッシュ。ジョグ&ダッシュ。自分のイメージどおりに太ももがあがっているのをたしかめると、彼は人生には何の問題もないと思った。
部屋へ戻ると、バスルームに急ぐ。熱い湯をいきおいよく体に放射する。汗が飛び散った。褐《かつ》色《しよく》の皮膚は湯をはじきとばした。
今朝は一人だ。
バスルームを出ると、彼は冷蔵庫を開ける。オレンジ・ジュースをコップに注ぎ、のどを鳴らして飲み干した。
それから食事の仕度にかかる。
気になることは一つもない。
勝てるはずだと、彼は確信した。
ゆっくりくつろいで、一〇時になったところで部屋を出るだろう。今日は仕事に行く必要はない。
坂本聖二がスポーツを始めたのは、高校に入ってからだった。
生まれは、横浜市磯《いそ》子《ご》。今は京浜東北線が磯子まで伸び、典型的な住宅地になっているが、かつては東京湾が近い静かな町だった。
彼は、ワルだった。中学時代は仲間とつるんで伊勢佐木町へ出て肩で風を切って歩いた。恐《きよう》喝《かつ》したこともあるし、恐喝されたこともある。誰かを殴《なぐ》る回数と誰かに殴られる回数はほぼ等しかった。
神奈川県立緑ケ丘高校に入ると、二歳年上の兄が、同級生を一人連れてきた。
「バドミントンのインターハイで優勝した男だ」
といって兄は紹介した。
坂本はそれを聞いてふふっと笑ってしまった。あんなものは羽根つきじゃないかと思ったからだ。バドミントンの高校チャンピオンは怒らずに一言だけいった。「うちのチームに入れば日本一になれるんだぜ」
バドミントンを始めた動機はそれしかない。一六歳だった。単純に強さにあこがれてもおかしくない年齢だ。強さを測るメジャーは日本一という言葉だけで十分だ。
高校のバドミントン・クラブに入っていった初日に彼は吐いた。体をしごくように動かし続けることに耐えられなかった。こんなはずではないのにと思いながら、嘔《おう》吐《と》した。トレーニングのあと、すでに喫《す》うようになっていたタバコの煙を口に入れると妙にしめっぽく、なまぐさかった。
コートに立つと、羽根つきと思っていたものが思いのほかハードなのに気づいた。コートは広くない。幅は6mほど、タテは7m程度。そのエリアに入ってくる羽根を打ち返せばいい。それだけのことだ。しかし打ち返せない。容赦なく打ち込んでくる羽根についていけない。右に左に、前に後ろに走らされ、息はすぐに切れた。倒れると水をぶっかけられた。そこまでしなければ強いチームは作れない。
くたくたになって練習を終えると、先輩が恫《どう》喝《かつ》するようにいった。
「なぜ、こんなに苦しい練習をしなければならないのかなんて考えるなよ。ロボットになればいいんだ。黙って耐えろ。練習しろ。それで強くなれる」
「はい、頑張ります」坂本は答える。しかし、半信半疑だった。ゲームをやれば、どうやっても先輩に勝てない。これで一体、強くなれるのか。一年の終わりに新人戦が行われた。そこで勝っていなかったら、彼はバドミントンなどやめてしまっただろう。なぜか、勝ててしまったのだ。優勝である。オレは強いんじゃないかと彼が思い始めたのはその時からである。
バドミントンの羽根は軽い。ふつうに打ったのではシャープに飛んでいかない。ポイントはスナップの力だった。リストに力がつくと、球のスピードがあがった。コントロール・ショットをおぼえるとネットすれすれのところに球を落とすこともできるようになった。
高校時代は、結局、全国のベスト8に入ったところで終わった。そのままバドミントンを続けるつもりで中央大学の経済学部に進んだ。上位の選手は中大と法政大学に集中的に集まっていた。
勝つことだけが目標だった。ライバルを設定して、その選手に勝つことだけを考えろといわれつづけてきた。
大学のクラブに専用コートはない。葛《かつ》飾《しか》の柴《しば》又《また》に合宿があったが、そこにコートがあったわけではない。体育館のコートを借り歩いた。毎日のようにコートが借りられるわけではないから、一つコートがとれるとクラブの全員が集まってしまう。それでは練習にならないというので、午後からは少人数のグループにわかれて練習をするようになっていた。坂本をひき連れて歩いていたのは同じ高校出身の先輩だった。容赦がなかった。
倒れると制裁が待っている。水をかけられても意識がもうろうとしている。
「いいか、グロッキーになってもだな」と、先輩はいった。「ライバルの顔が思い浮かぶようにならなければダメだ」
大学時代はバドミントン以外、何もしていない。ボウリングが流行していた。坂本はしかし、一度もあのボウルを持ったことがない。麻雀パイも握ったことがない。朝の六時に起きてトレーニングを開始し、九時から昼までは合宿でクラブの練習がある。午後は借りたコートを使い、あるいは高校の体育館を借りてラケットをふりつづけた。酒は飲まない。タバコは大学に入ってから、やめた。正月も元日からラケットを握った。同じクラブのほかの選手たちがどんな練習をしているのか、ひそかに偵察もした。合宿から出かけるときはいかにも遊びに行く風を装い、その実、コートに出かけていった。映画を見たいとも思わなかった。家と合宿とコートの三角点を、毎日、激しく往復した。その外側の世界は騒がしかった。六〇年代の後半である。キャンパスは戦場だった。勝つことの幻想がうずまいているなかで、彼は個人的な勝利だけを考えていた。なぜか。これだけはいえた。バドミントンだけをやってきたのだから、そこで何らかの結果を得なければ、すべては無じゃないか。
大学時代、坂本は全日本の五位に入った。
昼。
坂本はコートに立っている。シードされている彼が出ていくのは二回戦からだ。
ビッグ・ゲームではない。東京周辺のスカッシュ・プレイヤーが集まったトーナメントだ。が、実質的には強い選手は東京に偏在している。スカッシュのコートのほとんどが東京にあるからだ。ほかには名古屋、大阪、福岡あたりに何面かずつある。東京地区のトーナメントは、全日本のレベルに匹敵する。
敵はほとんどいない。
ゲームは9ポイント制で行われる。サーブ権を持っているときの点だけが加算される。先に9ポイントをとった者がそのセットをとる。試合は5セット。先に3セットを取れば勝ちだ。サーブのとりあいを重ねながらデュースをくり返し、フルセット・マッチにまでもつれると試合時間は一時間半に及ぶこともある。実力の差が開いていれば三、四〇分でけりはつく。
選手が壁に向かって立つと、そのうしろも壁である。たいていのコートは、バックウォールが強化ガラスで作られ素通しになっている。ギャラリーはそこからゲームを見ることができる。その上、中二階程度の高さから下をのぞきこむようにして見ることもできる。スカッシュの盛んな国に行くと、そこが観客席になっており、壁にはテレビ・カメラが設置されている。そこまでの設備があるコートは、日本にはまだない。
「おてやわらかに願いますよ」
二回戦の相手がいう。
「組み合わせさえ違っていたら準々決勝ぐらいまではいけるのにな、ハハハ」
屈託なく笑った。まだ、趣味でスカッシュをやっているクチなのだろう。
ばかだなと、坂本は思う。まるで試合を始める前からもう負けることを前提にしているようではないか。卑屈になったら、勝てはしないのだ。
チラッと、昨日の仕事のことが頭をかすめた。オレはなぜハラをたてたりしたのだろう。いや、そんなことは忘れよう。今日はスカッシュの日なのだから。
坂本は黙って笑った。
そして、ゴムのボールを思い切って壁にたたきつけた。コンマ何秒という時間のなかでボールは戻ってくる。打ち返す。はね返る。さらに打ち返す。バシッという音が小気味よく響く。フォアハンドの練習が終わるとバックハンド。さらに壁をたくみに使ったショットをくり返す。ギャラリーからホーという溜息がきこえた。
ゴムのボールは、冷えているうちは弾《はず》みが少ない。しばらく打ちこむとよく弾むようになる。
壁のどの部分にどういう角度で打つと、はね返ったボールがどこへ来るか、坂本はほぼ知り尽くしている。例えば、サーブだ。コートの右側に立ってサーブする場合、正面の壁のセンターからやや左側のあたりに打ちこむ。はね返ったボールは、コートの左側の後方、しかもサイドウォールぎりぎりのところへ落ちていく。右利《き》きの選手なら、それをバックハンドで壁にラケットをぶつけるようにして打ち返さなければならない。ラケットのスウィート・スポットで球をとらえることはむずかしい。返球に威力はない。
試合は、完全に坂本のペースで進んだ。
サーブ権を持つと、坂本は面白いように相手を走らせた。強いボールを打ち、フェイントをかけ、右に左に球を散らせた。そのたびに相手はコートの中を走った。無駄な動きが多い。第1セットを9―0のスコアでとったとき、相手は肩で息をしている。
誰にも、そういう時期がある。
「さっきの試合、見てましたよ。……あの、坂本さんでしょ」
女性から声をかけられたのは大学四年のときだ。バドミントンの試合で北海道に来ていた。その女性もバドミントンのラケットを持っている。仙台の女子大の選手だといった。
「いや、どうも」
坂本はそれくらいの返事しかできなかった。彼はそれまで女性と付き合ったことがなかった。余裕がなかった。話をリードしてくれたのは相手のほうだ。ぎこちなかった。そして、文通という、何となく古めかしい交際が始まってしまった。
坂本は驚異的に夢中になった。
毎日、手紙を書いた。一日に二通、書いたこともある。二二歳までほったらかしにしておいた感情に火がついた。会わなければけりはつきそうになかった。卒業が近い。就職はまだ決まっていなかった。
〓仕度金六万円〓――という募集広告を新聞で見つけ、即座に応募したのは会社、職種がどうのというよりもその六万円がデート代に見えたからだ。
募集していたのはトヨタカローラ神奈川という会社である。それはセールスマン募集の広告だった。昭和四四年、初任給三万八千円である。そのうえにさらに六万円の仕度金がつく。自動車ディーラーが人材集めにやっきになっていた頃の話だ。
面接で、クルマの免許を持っていないねと聞かれた。
「はい、これから取るつもりです。学生時代はスポーツに熱中していましたので、免許をとるヒマがありませんでした」
そう答えながら、カローラについて聞かれたらどうしようかと思った。彼は町を走っているどのクルマがカローラなのか、ブルーバードなのか、見当がつかなかった。ただ、カローラという車種があることは三億円事件に登場してきたから知ってはいた。
彼女は東京に遊びに来た。
坂本は仕事を始めた。
入って気がついたことは、オレはとんでもない会社に入ってしまったということだった。営業所長は、トヨタカローラ神奈川は全国一のディーラーなんだと、ことあるごとに叫んでいた。業界のなかでは「あそこに入ったらコロされる!」という伝説が流れていた。
「戦いながら学べ! 学びながら戦うんだ!」
毎朝、所長は絶叫していた。
クルマの生産台数は急激に伸び続けている。オイルショックの数年前だ。ディーラーは必死になって売りまくった。同じトヨタのクルマを扱うディーラーが同一地区内で張り合っていた。神奈川トヨタもあれば、横浜トヨペットもある。トヨタ・オート神奈川というディーラーもある。身内同士でも競わせる。セールスマンは毎日のように「戦場」に送り出された。
研修期間が終わると、新入社員だけを集めて実践特訓が行われた。ある商店街へ行き、区域割りをした上で全員が散る。集合時間は数時間後である。
「研修で習ったことを実践してこい!」
紺のスーツの新入社員集団は散った。坂本も散った。一軒一軒、訪ね歩く。まだ、セールスマンとしての実践的テクニックはもちろん身につけていない。例えば、玄関を開ける。クツが揃《そろ》って並んでいる。「ごめん下さい」家の人が出てくる前に、そのクツを蹴《け》る。列を乱す。家人の顔が見えたときには、セールスマンはかがんでそのクツを直している。そして顔をあげて明るくほほえみ――「こんにちは」
そこまでは新入りにはできない。ただ素朴に歩きまわるだけだ。
その日、坂本は当然、一件の契約もとれなかった。さらに集合場所を見失ってしまった。町の中を歩きまわってみたが、仲間は見当たらない。そこから営業所へ戻る道もわからない。
思いあまって彼はたまたま通りがかった美容院に入った。
「あの、ちょっとおたずねしたいんですけどね。トヨタカローラ神奈川の本社って、どこですか?」
「…………?」
「いや、あの。ぼくこういうものですが」
名刺をさし出した。
「自分の会社じゃないの」
「そうなんですよ」
「なんでわからないの?」
「いやー、新入社員で、この近くに売りに来たんですけどね。帰れなくなっちゃったみたいなんですよ」
「イヤーネー、セールスマンの迷い子だって。キャハッ」
美容院の女のコたちは遠慮なしに大声で笑った。
結局、タクシーを拾って帰った。それが初日だった。
「歩け!」
それが新人の基本だった。
「一日一〇〇件、新顔訪問!」毎日それを唱和させられた。朝は全員が社屋の屋上に揃って並び、一斉に声を出した。〓オハヨーゴザイマス!! 〓〓イラッシャイマセ!〓
二十代の新人も、三十代の中堅も、四十代の管理職も、毎朝一緒に叫んだ。〓オレハヤルゾーッ!〓個別的に絶叫させられることもあった。ヤル気、それがすべてだった。モーレツは、立派な価値観だった。新入社員の半数近くが、数か月のうちにやめていった。
「いらっしゃいませッ!」
坂本が初めてクルマを売ったのは店頭に現われた客が相手だった。
「クルマ欲しいんだよ」
客はいった。
「ハイ、アリガトーゴザイマスッ!」
坂本は叫んだ。
「そんなデカイ声出さなくたっていいよ。オレ、クルマ買うんだからさ」
あわてて坂本はパンフレットなどを揃えた。客はザッと見ると簡単に決めた。「オレ、これ買うよ。なんぼ?」
カローラだった。初めて契約書を書くとき坂本の手はふるえてしまった。
新人セールスマンとしては優秀だったはずだ。入社した年の四月から一二月の九か月間に五九台を売った。新人としてはトップの成績だった。
それでも、この仕事を始めて数年間は自分がクルマのセールスマンをしていることを友人たちには内緒にしていた。セールスという仕事に誇りを持てなかった。一つには、自動車ディーラーが、いつでも、どこでも人材を募集していたからだ。
「あんまり大きな会社って感じがしないわね」
仙台のガールフレンドがなにげなくいった言葉もこたえた。
しょっちゅう会うこともできない。おのずと疎《そ》遠《えん》になっていった。気分は落ちこむ。さらに彼は膝を痛めた。バドミントンを、かろうじて続けていたが、トレーニングは規則正しさを失った。
バドミントンの選手として最後の国体に出たとき、坂本の左膝は、そこにたまってしまった水で痛みを発していた。成績はベスト16にかろうじて入ったところだった。麻酔を打って、彼は試合に出た。
それがバドミントンの最後のゲームだった。
スカッシュの二回戦は坂本の一方的なゲームになった。
相手は歯が立たない。
坂本はゲームの途中で1ポイントも失うまいと考え始めていた。実力の差は誰が見ても明らかだ。軽く流してもいい。坂本は、しかし、手を抜く気になれなかった。むしろむきになっていた。オレはこいつに1ポイントだってとられちゃいられないんだ。
坂本は、国際試合に臨むときのような細心さとパワーで打ちまくった。
サーブは寸分狂わず、サイドウォールとバックウォールのクロスするあたりに打ちこんだ。相手がやっとの思いで当てた球が返ってくる。それをサイドウォールに叩きつける。ボールはサイドからフロントにリバウンドし、フロアに落ちてくる。坂本の前をよたよたと対戦相手が駈《か》け抜けていった。かろうじてラケットでとらえると体勢をたて直す。坂本はさらにドロップボールで追いうちをかける。敵はもう、完全にバランスを崩《くず》している。
長いラリーの応酬があった。コートの二人は確実にボールをとらえ、壁に向かって打ち返している。ゲームは一見、単調に見える。
しかし、坂本はこのラリーはオレのほうが勝っているとわかる。例えば、ラケットの音だ。すべての球をラケットのスウィート・スポットでとらえていれば、ボールが弾かれる時の音も一定だ。リズムも崩れない。フォームは完璧だ。ラリーが続くうちに、わずかに相手のラケットの発する音が乱れた。それは集中力の低下を物語っている。黙っていても、自滅するはずだ。
力で攻めていった。
技術で相手を翻《ほん》弄《ろう》した。弱点を見つけたらそこを徹底的に攻める。欠点を発見したら、そこをいたぶる。球技とは、本来、そういう側面を持っているものなのだろう。それは人間がどうしようもなくかかえてしまっているものの投影された姿でもある。
パーフェクトゲームで坂本は勝った。
ギャラリーから拍手が起こった。敗者は汗をしたたらせて、あえいでいた。
「やっぱり……強いや」
笑いながらいった。その口にも汗が流れこんでいる。心地よさそうだった。
坂本は、妙な疲労感をかかえている。
1ポイントも失うまいとして力みすぎたのだろうか。そういうときだってある。
「すごい汗ね」
女性の声に、彼はふりかえった。せいこと彼は彼女のことを呼んでいる。政《まさ》子《こ》というのが本当の名前だ。恋人であり、時にはマネージャーであり、疲れた筋肉をほぐしてもらう時はトレーナーでもある。
「今日は暑いからさ」
「まだこれから試合もあるのに」
「調子がよすぎるんだよ。だから目一杯やりすぎちゃったのさ」
しかし、なぜこれほどまでにスカッシュに夢中になるのだろう。
仕事がつまらないからだろうか。そんなこともない。坂本はカー・セールスマンの仕事を始めて四年目に年間一五〇台のクルマを売り、トヨタの〓優秀セールスマン〓に選ばれた。その翌年も成績を落とさず、二年続けてトップセールスマンでいつづけた。今だって、平均点以上の成績はあげている。年収は約四〇〇万円。海外遠征で休むこともあるからこんなものだろう。
しかし、それだけでは足りないものもある。彼は高校時代に自分の「サイン」を考えていた。誰もがやることだ。
「もしオレが有名になったら」と、少年は夢想するのだ。「サインをしなければならない。今から、そのサインを決めておこう」
ノートを取り出し、自分の名前を書いてみる。最初は漢字を崩して書く。タテに長く、あるいは大きく。次に英語で書いてみる。〓SEIJI SAKAMOTO〓特徴は、二つの〓S〓の頭文字にある。S&S。その〓S〓をくねくねと丸っこく書いてみたらそれが気に入った。「オレは絶対にこのサインをするようになるんだ」
たいていの人間は、そんな記憶にほこりをかぶせてしまう。いつか白昼夢からさめるのだ。自分だけは何者かになれるんだという思い込みから解き放たれてしまう。
彼はしかし、いつまでもその思い込みを持ち続けていた。
自分のサインを考え出したのはバドミントンを始めたときだった。以来、彼は勝つことだけを考えていた。ほかに目標を見出しようもなかった。勝つための何かをしていなければ、自らの足もとが崩れていってしまう。となれば、次から次へと自転車操業のように、勝つための場を作っていかなければならない。それもまた、一種のとらわれの身なのだけれど。
「はい、これ飲んで」
せいこが差し出したのはレモン・ジュースである。初夏の午後のアスレチック・クラブは汗ばんでいる。
バドミントンで膝を痛めた時、坂本は自分はどうなってしまうのだろうと思った。
それまで、これ以外には何もないというくらい打ち込んできたものから見離されてしまう。
「どっかにいい医者いないかな」
たいていの人に聞いた。セールスマンの世界は、そういう情報があふれている。どこそこにいい医者がいる、指圧が効くそうだ、いや、やっぱりハリでしょう。客が聞いてきたときにいつでも答えられるように、セールスマンは、実際の効能は別として、それなりの医者の固有名詞を頭の中にファイルしてある。
様々な治療を試みたけれど、結果は思わしくなかった。川又治療院を見つけたのは、彼自身だった。横浜市内をクルマで走っていたとき、赤信号で止まった。たまたま、その左側に「スポーツ・トレーナー」という看板が見えた。坂本は迷うことなくそこに入っていった。新しい治療法なら何でも試すつもりだった。スポーツができなくなるくらいなら治療に失敗したほうがましだった。
以後、川又治療院とは縁が切れない。
左膝が回復したことで、スカッシュと出会うこともできた。川崎にあったボウリング場が時代の流れに乗ってアスレチック・クラブに衣がえした。そこにスカッシュのコートが作られていた。エンジェル・クラブという。
坂本はそこで初めてスカッシュを見た。ラケットを用いる、室内の球技である。バドミントンとは近い。スカッシュのラケットを持ち一、二週間練習すると、たいていの人には負けなくなった。
スカッシュの普及のためにオーストラリアからコーチが来たのはその頃である。
基礎から高度なテクニックまでを披《ひ》瀝《れき》し、
「さて、誰かと試合をしてみましょうか」
坂本がコートに立った。勝てないかもしれないが、こてんぱんに負けることもないだろうと思った。
一緒に並んでコートに立つと、コーチの打つボールのスピードは予想以上だった。
「セイジ! そうじゃない。今のショットは間違っている」
「ダメだ。コートの中を走りまわっていればいいってもんじゃないんだ。自分が走るより相手を走らせる。そのためにどこにボールを打ち込むかを考えなさい」
試合にならなかった。ゲームをしながら、コーチはいらだたしげにアドバイスした。それほど、こちらのレベルは低かった。
坂本が、再びむきになってスポーツを始めたのはそれからだ。まず、基礎体力の回復を心がけた。酒を飲まなくなった。何があっても毎日一回必ずラケットを持ち、コートに立った。昭和四七年一二月に第一回全日本スカッシュ選手権が行われた。坂本があっさりと優勝してしまった。
その翌年、オーストラリアのプロ・コーチのレッスンを受けるチャンスに恵まれた。休暇をとって彼はシドニーへ飛んだ。
以後、毎年のように海外遠征に出た。スカッシュの盛んな国は、かつての大英帝国の勢力圏にある。アジアでいえば、シンガポール、マレーシア、パキスタンなどだ。
海外での試合経験を重ねれば重ねるほど、国内では無敵になった。勝つから、また代表に選ばれる。遠征費用は協会から補助が出ることもあるし、招待されることもある。が、その多くは自己負担だ。年収の約四分の一はそういう経費に消えていく。
長期にわたって日本を離れるとき、彼は自分の顧客に手紙を出した。
例えば、それはこんな具合いだ。
「……さて、私が仕事の余暇としてやっているスカッシュラケット競技において昨年は東アジア大会、世界選手権大会……と海外遠征をし、全日本選手権では八連覇を成しとげることができました。今年も新春早々ですが一月一五日より二月末までの約四五日間、全英選手権をはじめヨーロッパで数々の大会をサーキットしながら、ますます、坂本聖二の名声を世界に広めてくるつもりです。もちろん本業はトヨタのカー・セールスマンです。皆様にはくれぐれもご迷惑のかからないようにする所存です。私が不在中、お車の購入、ご紹介、その他ご用件がございましたら、新所長の谷田部がおりますのでよろしくお願い致します……」
それによって客を失うかもしれない。理解のある上司ばかりでもないはずだ。極力、休暇を利用しているのだが、あいつはスカッシュばかりやってるくせに給料をもらってやがるという同僚の嫉《しつ》妬《と》もある。本人の心の中には、本業以外でここまでやってしまったのではサラリーマンとしての将来にさしさわりが出てくるかもしれないというおそれがあってもおかしくはない。
にもかかわらず、坂本はスカッシュの時間を減らそうとはしない。年を重ねれば重ねるほど、スカッシュというゲームに淫《いん》しつつあった。
恐らく、彼の心の中には、誰もがそうであるように仕事だけでは埋められない空洞があるのだ。彼の場合、その空洞はスカッシュのボールの形をしている。一か月にクルマを一〇台売った。なかなかの成績だ。二〇台売った。驚異的な数字だ。しかし、だからといってどうしたというのだろう。空洞は埋まらない。
例えば、結婚して、子供を作ったとしよう。それでも埋まるものではない。あるいは、そんなことでは埋められない何かがあるのだと自ら信じこむほどに、彼はエゴイスティックである。
午後二時。
坂本は再びコートに立った。フロアは固い材質の板が敷きつめられている。幅五、六pの板が一一〇枚。その床の左右中央と前後中央の部分にラインが引かれている。ほかにはサーブを打つときの場所を示す枠《わく》が左右に一つずつ。坂本はフロアに立っただけで心地よい緊張に包まれる。
ゴムのボールを持ち、ラケットで壁に向かって打ちつければ、あとはもう何も考えることはない。瞬間的な判断で筋肉が動くまま肉体をコントロールしていけばいい。
坂本は、その日の二つ目の試合も勝ち進んだ。
ファイナルゲームで対戦したのは潮木選手である。どんな試合でもこの選手と決勝を争うことになる。そして潮木は坂本に勝つことができない。
一年前の夏は、坂本がケガから立ち直った直後の試合だった。坂本はイギリスに遠征した際、左足のアキレス腱《けん》を切った。真冬のスコットランドである。ウォーミング・アップが十分でなかったのかもしれない。試合が始まって数分たった時、坂本はコートをクロスするようにダッシュした。相手のドロップボールをコーナーで拾おうとしたわけだった。その時、左足がずぶりとフロアにめり込むのを感じた。フロアの板が、信じられないことだが折れたのだとしか思えなかった。板の中に足を突っ込む感覚。立ち止まってフロアを見た。何ともない。冷や汗が流れている。ゲームが再開され、坂本は真っ青になって動けなかった。
それから半年後には、もう全日本のコートに立った。そしてまた無敗の記録を伸ばした。
「どんな試合でも」と、坂本は考えている。「潮木に1セットもとられてはいけないんだ。潮木を容赦なくたたいておけば、ほかには誰もオレに勝てる可能性のある奴はいない」
第1セット。坂本は、いきなり5点を連取した。サーブをとられると今度は3点を失った。疲れが出ているのかとも思う。白い壁に囲まれたコートは天井に近い部分が開いているが、やたらと暑い。試合が始まって一〇分もたつと本人もびっくりするほどの汗が流れ出てくる。
暑さ。そう、これに負けたことがある。
パキスタンのカラチだったはずだ。飛行機を降りると吹きつけてくる熱風にうろたえた。ホテルへ着いてシャワーをひねると石灰のにおいが鼻をついた。単なる水というよりも、それは一種の薬用水を思わせた。石《せつ》鹸《けん》を使っても、あわがたたない。汗のしみこんだシャツを洗うとシャツの色が漂白されてしまった。冷房が効いているはずのコートは、試合が始まるとヒーターが入っているのではないかと感じられた。水の中にいるように体が動かなかった。坂本は納得できる試合ができずに敗れた。
マニラで行われた東アジア選手権も、結局、暑さに負けたとしか思えない。
準決勝でアメリカの選手と当たった。ディックという男だ。
「おれはオリンピック選手だったんだ」というのが彼の口ぐせだった。「何年も何年も、オレはボートを漕《こ》いでいたのさ。この腕を見てくれ。あんたはパワー・リフターかって聞いた奴がいるよ。おれはいってやったね、あのばかでかいアレクセイエフがおれのボートに乗っていてもおれは勝てるぜって」
ディックは大男だった。身長は190p以上あるだろう。しかも動きは鋭い。壁にたたきつけられてぺちゃんこになったようなボールがとんでくるのだ。ディックは準々決勝でシンガポールのチャンピオンを簡単に退けた。
ディックと並んでコートに立つと、坂本はまるで子供のようにしか見えない。試合が始まる前、ディックはわざと腰をかがめて握手を求めてきた。ギャラリーの笑い声が聞こえた。坂本はディックの下にもぐり込むようにしてボールをすばやくとらえなければダメだろうと思った。
そのディックには勝てた。第1セットをデュースにまで持ち込み10―8でとると、それで勢いがついた。第3セットは失ったが、第4セットでけりをつけた。スカッシュは三つのセットをとった者が勝つ。スコアは3―1だった。その翌日が決勝だった。
ディックに勝った晩、パーティーがあった。マニラのスカッシュ後援者のパーティーだ。陽は落ちているのに、風は熱い。決勝で当たるはずのスペイン系フィリピン人であるプレスラという選手も来ていた。フィリピンのチャンピオンである。
フィリピン・チームのマネージャーが坂本のところにやってきた。
「今日はいい試合だったね」
「ありがとう」
「明日も勝てよ」
「…………」
「おかしいか? おれがフィリピン選手じゃなくて日本人選手にこんなこというのは」
「おかしくはないけどね」
「お前に賭《か》けてるんだ。かなりの額をね」
マネージャーは日本円にすると五〇万円程度の金額をいった。
「だからさ、セイジが勝ったら何でも好きなことをさせてやるよ」
そういって笑った。どこまで本気かわからない。
「もし負けたら」と、その男はパーティー会場の大きな一本の木を指していった。「あそこに吊《つ》るしちゃうから。ハハハ」大声で笑った。「もちろんジョークさ」
翌日の朝は、相変わらず暑い。さわやかでなければならない朝の気温が三〇度を超している。坂本のコンディションは良くはない。夕刻、試合が始まった。
第1、第2セットともにデュース。それを一つずつとりあった。第3セットは坂本がとった。第4セットはプレスラがとった。2―2。フルセット・マッチになった。ふつうセットとセットの間のインターバルは一分間だが、ファイナルセットの前には二分間が与えられる。
これが日本での試合なら絶対に勝てると、坂本は思った。バスタオルでいくらぬぐっても汗があふれ出てくる。下着までぐっしょりとしみこんでいるはずだ。下半身の汗はシューズのなかに入りこんでいる。試合が始まって、もう一時間は優に経過している。
コートに出た。このセットをとれば勝ちだ。またサーブのとり合いが始まった。交互に勝つからサーブが移動するだけでポイントがなかなか動かない。先にポイントをとり始めたのが坂本でプレスラはあとから追ってきた。7―5と、坂本がリード。このまま逃げ切れるかもしれない。微妙なプレーがあった。プレスラの打ったボールがたしかにアウトラインに当たったのだ。坂本はこれで勝てると思った。ジャッジはしかし、アウトをとらなかった。
「今のがアウトじゃない?」
坂本はそれだけいうのが精一杯だった。頭の中が周囲の壁のように真っ白になった。何も考えられない。プレスラも目の輝きを失って、壁にもたれかかっている。ジャッジは再びいった。
「サーブ、プレスラ」
足の裏が汗でぬるぬるする。暑い。周囲にある壁をとっ払ってほしいと、坂本は思った。冷たい空気がドッと流れ込んでくるだろう。このとき、坂本は負けていたのだ。
ファイナルセットもデュースに持ちこんだが、最後のポイントをとったのはプレスラだった。試合時間は一時間四〇分。勝ったプレスラはそのまま、コーチにかつがれて退場した。坂本は全身に鳥《とり》肌《はだ》がたっていた。肛門がやけどをしたように熱い。カッカと、そこだけが存在感を主張している。
いずれにせよ、負けたわけだった。三年ほど前のことだ。
それに比べれば、東京の暑さなどたいしたことではない。
潮木は、今日こそ坂本に勝とうと、3点連取したところで積極的に攻めこんできた。
坂本は疲れていた。暑さのせいばかりではないだろう。あるいは日本で勝ち続けることに疲れ始めたのかもしれない。スコアは5―5と並んだ。
坂本には潮木の緊張しきって脈打っている心臓の音が聞こえるようだった。多分、潮木はおれに勝てるかもしれないと思い始めているのだろう。悪くない考えだ。それもいいだろう。
坂本の肉体は、しかし、気持ちとは違った動きをしてしまう。負けまい、とするのだ。左腕の筋肉は、意識がどうあれ、激しいショットをたたき出す。考えるよりも先に、足はボール目ざしてダッシュしている。前の壁に向かって走りながら、相手がどのあたりにいるかを感じとるのは坂本の意識ではなく多分、背中の筋肉なのだ。そこでフェイントをかければ、勝負は決まってしまう。
坂本は、また勝った。
1セットもとらせずに、だ。
コートを出た。やっぱり強いや、おめでとう、といった声が聞こえる。坂本は疲れていた。汗が目にしみた。何も考えたくなかった。
その瞬間、彼は自分の脳みそまでが筋肉と化してしまったような気がした。
夜。
家に戻った。
スカッシュの一日が終わる。
せいこが疲れた筋肉をマッサージしてくれるだろう。筋肉のようになった脳みそはどうしようか。そのままにしておこう。とにかく勝ったのだ。それでいい。おれは完璧じゃないか。
ハピネスなんて、そんなものだ。
スローカーブを、もう一球
三塁側のスタンドが狂ったように騒ぎ始めたのは、9回の裏になって先頭バッターがショートのエラーで出塁し、次のバッターが一、二塁間を抜いて最後のチャンスがやってきたからだろう。
マウンド上の川端俊介は、三塁側の応援をうるさいなと感じながらも、同時に、敵地にのりこんで試合をする場合の〓心得〓を思い出していた。《応援はすべからく自分に向けられていると思え》――それを思い出せるんだからまだ自分はかなり冷静だなと思い、勝ちを急ぎすぎたことを少しばかり反省した。
グラウンドは茨城県の水戸市民球場である。三塁側に陣取って最後の攻撃をしているのは地元、茨城県の日立工業高校だった。得点は2―0と、群馬県からやってきた県立高崎高校がリードしている。そのマウンドを守っているのが、川端俊介である。ノーアウトでランナー一、二塁、9回裏、点差は2点……三塁側が興奮するのも無理はないだろうと、川端は思う。
《なにしろ、この試合に勝てばほぼ確実に甲子園に行かれるんだから》
一九八〇年一一月五日、時計の針は昼の一二時を二〇分ほどすぎている。午前一〇時にプレイボールの声がかかった高崎高校対日立工業の試合は秋の関東高校野球大会の準決勝第一試合だった。
毎年、春に甲子園球場で行われる〓センバツ〓高校野球は、各県ごとのトーナメント優勝校が出てくる夏の甲子園とは違って、「高野連」が出場校を指名することになっている。そのときの、最も基礎的な判断材料が秋の地方大会にあることは、高校野球関係者なら誰でも知っているはずだ。秋口に、まず県大会が始まる。これはトーナメント戦で行われ、決勝戦に残った二校が地方大会への出場権を得る。関東大会は、東京都を除く神奈川、埼玉、千葉、茨城、群馬、栃木、山梨の七県からその代表が集まってくる。一九八〇年の場合、開催県である茨城からは三校が代表に選ばれ、計一五校で関東大会が行われた。そして、この大会で決勝に進出すれば、ということはつまり優勝か準優勝すれば、ほぼ自動的に翌一月末に発表される〓センバツ〓出場校として選ばれることになっている。
川端俊介が投げている準決勝の9回裏は、甲子園に行かれるか否かを決める、かなり重要なイニングだった。
彼は、しかし、ほとんど冷静だった。
こういうとき、いつもそうするように、彼はネット裏を見た。
ゆっくりと見渡し、一人一人の顔を識別する。ひょっとしたら、と川端は思う。《見ているほうが、ぼくより興奮してるんじゃないかな》みんな、肩に力をこめて、このシーンを凝《ぎよう》視《し》していた。それを見ると、落ち着ける。自分が誰よりも冷静かもしれないと思って、落ち着けるのである。
川端は、ここで打ちこまれて逆転されるとは思ってもいなかった。むしろ、なんとかなるだろうと高をくくっている。
オレの球がそう簡単に打てるか、という自負心が彼の心のなかにあるわけではない。それは例えば少年野球をやり始めたころから天才野球少年などと呼ばれ、そのまま高校野球のマウンドにあがってしまった生まれながらのエースの心情だろう。川端は、誰が見てもそういうタイプではなかった。第一、彼は〓本格派投手〓のような体つきをしていない。
身長は180p前後はありユニフォーム姿もきまっていて、表情には凜《り》々《り》しさなども漂《ただよ》い、派手な大きなモーションからプロ顔負けの速球を投げて見せるのが甲子園にやってくるエースであるとするならば、彼はすべてにおいてアンチテーゼであった。
身長は173p。スポーツをやっている高校生にしてはとりたてて大きいほうではない。体重は67sで、体つきはどちらかといえば、丸い。ユニフォーム姿が映えるほうではないだろう。顔の表情は、たいていの場合、やわらかく、時には真剣味に欠けるといわれることもある。ピッチング・フォームも、いわゆる変則型である。中学で軟式野球をやっていたころ、アンダースローを得意としていた。それをオーバースローに変えてから、まだ一年もたっていない。自分ではオーバースローで投げているつもりでも、形としては横手投げになっている。腕を振りおろす直前までがオーバースローで、そのあとサイドスローになるといえばいいかもしれない。
つまり、川端俊介は、パターン化されたスポーツ新聞の文章では書きにくいピッチャーだった。「大きなモーションでズバリ速球を投げこむ本格派」ではないし「群馬に川端あり!」と書かれるタイプのピッチャーでもなかった。
その川端投手がマウンドを守る高崎高校が関東大会へ出場して、しかも準決勝に駒を進め、9回裏まで2―0でリードしている。甲子園出場は目前であった。
一塁側のベンチにいる飯野邦彦監督は、ここまで勝ってきて、しかも甲子園の代表校が決まるこの試合でも勝っているという現実を目の前にしながらも、《こんなはずはない》という思いが心のどこかにある。飯野監督には、甲子園に行くということがどういうことなのか、わからない。彼が、高崎高校野球部の監督をひきうけてからまだ三か月あまりしか経っていない。しかも、彼自身はほとんどといっていいくらい野球経験がなかった。
《甲子園に出場するなど、考えたこともない》と、自信をもっていう人である。こんなはずがないと、感じるのは彼にとっては自然のことだろう。
こんなはずはない、という感じはマウンド上の川端も持っている。甲子園に行きたい、というのは野球をやっている高校生の共通の夢である。川端自身、同じ夢を持っていた。しかし、その夢が現実のものとなる寸前で、彼にもさほどのリアリティーはない。
これじゃ、まるでマンガじゃないか――マウンドでそんな風に彼は感じている。だとするならば、9回裏、ピンチを迎えながらも、劇的な幕切れでゲーム・セットになるはずさ。人ごとのようにそう思うと、バッター・ボックスには緊張した面もちで次の打者が入っていた。
九番打者だった。多分、送ってくるだろうと、バッテリーは考えた。一球目をファウルすると、バッターは三塁側のベンチを見た。キャッチャーの宮下は速球のサインを送った。川端はうなずいた。バントさせればいい。腕をふりおろすとき、バッターがバントの構えに入ったのが見えた。川端は、投げおえるとマウンドをかけおりた。そこにボールが転がってきた。キャッチャーが「サード!」と叫び、川端は即座に三塁に送球。これでワンアウトになった。次の一番打者には、川端は一本もヒットを打たれていなかった。ほとんど速球だけを投げ、二つの内野ゴロと二本の外野フライに抑えていた。
川端投手は、いつもそうなのだけれど、一試合に何球か、超スローカーブを投げる。スピードガンで計測すれば60〜70q/hぐらいのスピードだろう。まるで小さな子供が投げるような山なりの、カーブである。それはバッターをからかうようにふらふらとやってきて、ホームベースの上を通過するときは、低目に曲がりながら入ってくる。打ち気になっているバッターは、それによって気分を乱されてしまう。この試合でも、川端は、そのカーブを一四〜一五球投げていた。9回裏の、この一番打者にも投げてやろうと考えた。
《スローカーブを投げたときのバッターの表情を見ていると、バッターがどんな気分か、手にとるようにわかるんだ》――川端はそう考えている。
ムッとした顔をする打者がいる。バッター・ボックスを外《はず》してことさら無視する打者がいる。そのスローカーブを打ってやろうという打者がいる。思わずニヤッとしてしまう打者がいる。
《なんとなく、バッターが動揺したなっていうときが一番楽しい。スローカーブに気をとられて集中力がにぶる。そのあとで速球を投げると、さほどスピードはなくても、前に投げたスローカーブとのスピードの差があるから、バッターにはかなり速く見えるんだ》
9回裏、一死一、二塁で迎えたバッターにそのスローカーブを投げたのは、左打者の外角に直球でストライクをとったあとの二球目だった。例によってふわっと弧を描き、スローカーブは外角の低いところへゆらゆらと落ちていった。球審は、その球を最後まで見届けると、うなずくように「ボール」と宣告した。
川端はスローカーブを投げたあと、いつもニヤッと笑いたくなってしまう。ストライクが入ったときは、たいていそうだ。それは、「やった!」と快《かい》哉《さい》を叫ぶ笑いではない。ざまあみろと相手を嘲《ちよう》笑《しよう》する、そういう笑いでもない。ただ、スローカーブを投げたときが、一番自分らしいような気がしている。
二球目にスローカーブを投げたあと、間を置かずにサインどおりに直球を投げた。
バッターは、躊《ちゆう》躇《ちよ》することなく、その球をはじき返した。
打球はセカンドの真正面にライナーで飛んだ。
セカンドの植原は打球をつかむと、そのまま一塁へボールを送った。
とび出したランナーは、一塁ベースに戻れない。
ダブルプレーだった。
ゲーム・セット。
「やった!」川端俊介は丸い顔をさらに丸くしてマウンド上でガッツポーズをとった。わーっと、言葉にならない声を出してナインがかけ寄ってくる。
ホーム・ベースの前に整列してあいさつをすませると、ナインは一塁側ベンチに突進していった。
一塁側には一〇〇人ほどの応援団がきていた。選手たちの父兄と、高崎高校野球部のOBたちと、高崎高校の応援団の連中である。スタンドのほうがむしろ興奮していた。
誰も予想していなかった甲子園出場である。
「ついに、……ついにやってくれたんだ。ウン、やってくれたんだよな。ウン、これでもう思い残すことはないぞ……」
涙を流すOBもいた。
高崎高校に野球部が創設されたのは明治三八年のことだった。それから七六年が経過している。その間、一度も甲子園に出場したことがなかった。いわゆる進学校であり、野球名門校がしのぎを削りあう最近の高校野球のなかでは、甲子園出場は容易ではなかった。だからこそ、OBたちは涙を流せる。
高崎高校の卒業生である福《ふく》田《だ》赳《たけ》夫《お》、中《なか》曾《そ》根《ね》康《やす》弘《ひろ》という二人の政治家はこのニュースを聞くと同じような感想をもらした――《早速、寄附せねばいかんな》
この事態を一番信じられなかったのは、ベンチの中にいた当事者たちだろう。
飯野監督は、ベンチに戻ってきた選手たちに、よくやったと声をかけながらも、半信半疑だった。なにしろ、彼は野球に関してはズブの素《しろ》人《うと》である。うれしさよりも困惑が先に立つ。《これは困ったことになった、大変なことになった》と思っている。
ピッチャーの川端は、なぜか漫才のツービートのことを思い出していた。テレビでツービートはこういっていた――〓落ちこぼれ、甲子園では人気者〓それがあまりに当たっているので、思わず笑ってしまった。そのことが、このシーンで川端の頭にポッカリ浮かびあがってきた。
三塁を守るチームのキャプテンで四番打者の佐藤誠司はベンチで大きな声を出した――《や、や、や、やった!! かッ、か、勝ったんだ!》
彼には、小さいときからどもる癖があった。
その誰にも共通している感想は、こうだった。
《それにしても、何故、ここまできてしまったんだろう》
毎年、夏の高校野球大会が終わると、高崎高校野球部は数日間の合宿に入る。
ふつうの野球部なら逆だろう。甲子園を目ざして、夏の大会の直前、もしくは大会の最中に合宿をする。専用合宿所を持つチームは、レギュラークラスがほとんど一年中、共同生活をしながら野球を続けていることもある。
高崎高校野球部に合宿所はない。用具置き場がそのまま部室になっている。校庭のすみにブロックを積みあげ床にコンクリートを敷き、ブロックで壁を仕切っただけの建造物があり、その左すみの枠《わく》が野球部の用具置き場兼部室になっている。
部員は二三名。練習中に雨が降り出しメンバーが揃って部室に避難すると、それだけで人いきれでいっぱいになった。汗と雨のにおいが狭い空間に充満した。全員揃って着替えることもできない広さである。
メンバーは、ここに集合して練習し試合に行き、再びここに集まって解散する。それは大会が始まっても変わらない。彼らが練習をするのはサッカー、ラグビー部が練習するのと同じグラウンドであり、その限られたスペースを分けあっていた。
夏の大会が終わると合宿に入るのは、その時期にそれまで主力だった三年生がクラブを離れるからである。夏が終わると、二年生を主体とした新チームが結成される。三年生にとっては打ち上げであり、一、二年生にとっては新チームの端緒となるタイミングに、夏の休暇をも兼ねた合宿をやるのは、高崎高校が高崎工高と区別して〓高《タカ》高《タカ》〓と呼ばれているのと同様、慣例になっている。
一九八〇年夏の群馬県大会で、タカタカ野球部は準々決勝で敗れた。新潟県柏崎近くの鯨波の海岸に合宿に出かけたのは七月の末である。新聞は毎日のように、各地の甲子園出場校に関する詳報を載《の》せていた。その夏、甲子園のヒーローになった早実の一年生投手、荒木大輔の名前はまだ出ていない。彼は予選では控えの投手だった。横浜高校の愛甲猛が取材攻勢をうけている。そういう出来事は、すでに敗れ去ってしまったチームにとっては彼岸の一コマである。
鯨波の海岸にいるタカタカ・ナインにとって最大の関心事は誰が次のチームのレギュラーになるかということであり、誰が新監督として来るかということだった。
その夏までの三年間、タカタカの監督は電電公社の職員で野球部のOBでもある島方昭夫がつとめていた。仕事のスケジュールをやりくりしながら母校の野球部をみていたわけである。その島方監督が仕事の都合でこれ以上監督を続けられないことは、ナインの誰もが知っていた。九月には配置がえが待っていた。
今度は学内から監督を出さなければならない。しかも、ある程度若くなければつとまらない。野球を、多少なりとも知っていたほうがいい。島方監督の前に監督をしていた高井先生に再びやってもらおうという声があった。高井先生は《疲れたからやめさせていただいたわけで……》といって、この役を辞退した。また監督をやらされるのはしんどいといった。
野球部長をしている田端穣先生は三十代ではあるが、野球をやったことがなかった。
世界史を教えている飯野邦彦先生のところにその話がきたのは、飯野先生が中学時代に多少、野球というものをやったことがあるという経歴があったからである。
《野球をやったことがあるといっても》と、飯野先生はいった。
《わずか三か月だけですよ》
自信がないと彼は固辞した。
いや、技術は問題じゃないんだ、先生は若いし、生徒の気持ちをつかんでリードしていってくれればいい。そういって飯野先生が口説かれたのは、学内にはほかにもう候補者がいないせいもあった。
《ほとんどキャリアがない》という飯野先生の言葉は、控え目にいっているわけではなく、本当のことだった。三六歳。生まれたのは戦時中、昭和一九年のことだ。中学時代は昭和三十年代の前半に当たる。群馬県の甘《かん》楽《ら》町立福島中学校時代のことである。高崎から上信線に乗りかえると三〇分ほどで上州福島という駅に着く。福島中学はそこにあった。
《ぼくは、そもそもは柔道をやっていたんです》と、飯野先生はいうのだ。
《ところが、町村合併がありまして、通学区域が変わってしまったんです。それまで福島中学に通っていた生徒の約半分が富《とみ》岡《おか》市のほうの中学に組みこまれてしまったわけですね。それほど生徒数の多い学校じゃありません。学校全体で二クラスあったものが一クラスになってしまった。柔道部というのは最低五人はいないと試合にならないんです。ほかの学校との対抗戦ができない。ちょうどそういうとき、野球部も人数が足りなくなっていたわけですね。野球部の連中を柔道部に入れるか、柔道部が野球部に入るか、どっちかだった。それなら野球をやろうということになったわけでしてね》
そういうチームだから、たいていのポジションはこなした。やらなかったのはピッチャーとサードとライトである。それ以外はどこでもやったが、彼が中学で野球をやっていたのは、くり返しいえばわずか三か月間でしかない。三年生の五月に野球部に入り、七月にはやめている。その三か月間に六つのポジションを守った。極端にいえば、その日によってポジションが変わるということになるのだろうか。そういうチームである。
その後、彼は野球のことなどすっかり忘れていた。彼は東北大学を卒業し、高崎高校に赴任してきたが、特別な関心をもって甲子園野球を見たこともなかった。世界史を教え、演劇部の顧問として生徒を指導するという日々を送っていた。監督など思いもよらないことだった。それでも引き受けたのは、このチームが県内でも有数のチームではなかったからでもある。甲子園出場を常に期待されているチームであったなら、飯野先生はとてもじゃないが監督を引き受けられなかっただろう。
彼が野球部のメンバーの前に監督として初めて立ったのは八月八日のことである。
自分にはほとんど野球経験がないことを、最初に話した。そして、高校生らしく、のびのびと、胸を張って野球に取り組んでもらいたいと話した。それだけいってしまうと、もうそれ以上、話すべきことはないように、彼には思えた。
それが新チームの初日だった。
間違っても、彼は強くなって甲子園へ行こう、とはいわなかった。それをいえば、ジョークとして全員に受けたに違いない。笑い声でミーティングを終えることができたはずだが、そうしなかったのは彼にとってそもそも《甲子園》という言葉にリアリティーがなかったからにほかならない。
それから一か月半ほどたって、九月の中旬から県大会が始まる。それまでには、レギュラー・メンバーを決めなければならない。と同時に、少しは野球のことを勉強しなければならない。
飯野監督は野球の技術解説書を一冊と、都立東《ひがし》大和《やまと》高校の佐藤監督が書いた本を一冊、それともう一冊〓生《しよう》涯《がい》一捕手〓というキャッチフレーズの野村克也の本を一冊買いこんで読み始めた。野村の本のタイトルには『敵は我に在り』とあった。その言葉が、なんとなく気に入った、という。
スポーツ新聞にも目を通すようになった。プロ野球の監督がどんなシチュエーションで何を考えているかが、気にかかるようになってきた。
ジャイアンツの長島監督がスポーツ紙上で毎日のようにたたかれていた。その戦術が批判され、悪しざまにいわれていた。そういった記事を読みながら、飯野監督はこう考えた――《投手起用にしても選手の使い方にしても長島監督には安定性がないわけだな。ベンチでもうろうろと動きすぎる。それではいけない。ぼくはベンチに坐《すわ》ったらなるべく動かないようにしよう。監督が落ち着きをなくしたらチーム全体が動揺しちゃうだろう》
やがて近隣の高校と新チーム同士の練習試合が始まったとき、その監督心得は飯野監督によって忠実に守られた。彼は試合が始まると、ほとんどといっていいくらい、ベンチの、最初に坐った位置を動かなかった。
ミーティングの短さも、監督第一声のときから変わっていない。長いときでも三分、たいていは一分ぐらいで終わってしまう。試合のときにいうことは決まっている。
《練習のときと同じようにやればいいんだ。ふだん着野球に徹しろ》
それが毎試合ごとにリフレインされる。そのほかにも守備から戻ってくるときは全速力で走れといってみたりすることはあるが、概してミーティングでの話は総論に限られた。飯野監督自身、その種の訓話的総論を垂れるのがとりわけ好きだというのではなく、野球に関する各論を展開するにはあまりにも現場での経験がなさすぎたからである。
前監督時代のサインは引き継がなかった。
チームの気分一新ということもあったが、それ以上に監督自身、第一歩から始めなければという思いもあった。
慣れていないから複雑なサインは出せない。
《三つだけサインを決めよう》
初めての練習試合の前に飯野監督はナインを集めてそういった。
《バント、盗塁、それにヒットエンドランだ。それ以外はサインなしでやる》
サインの出し方は複雑なスタイルではない。監督がユニフォームのある部分をさわるとそれがサインになる。例えば、帽子をさわったらバント、胸をさわったら盗塁……という具合だ。せわしなくあちらこちらをさわりそのなかにキイワードとなる部分をかくしておくというブロック・サインではない。
それでも、ミスが出た。
ランナーが出た。飯野監督はここでじっくりと攻めなければならないと考えていた。
ところが――ランナーがするすると走り出し、スチールを敢行してしまったのだ。タッチアウト。戻ってきた選手は悪びれる様子もない。
《なんで急に走ったんだ?》
監督は聞いた。選手はキョトンとした表情をしている。
《なぜって、サインが出てたよ》
《盗塁のサインなんか出してないぞ》
《いや、出てましたよ》
《コーチのほうがよく見ていたはずだから聞いてみろ》
三塁コーチスボックスにいた選手は、当然の顔をしてこういった――《先生、盗塁のサイン出していたじゃないですか》
《…………》
いうべき言葉がなかった。
気づかないうちに、ユニフォームのその部分に触れてしまったらしいのだ。多分、夢中になっていたせいだろう。
そのことがあってから、飯野監督はベンチのなかで、ますます無《む》駄《だ》な動きをしなくなった。
飯野先生は甲子園に出てきたときの箕《みの》島《しま》高校の尾藤監督のことを記憶していた。名監督といわれ常勝チームを作りあげた監督である。尾藤監督はベンチの中央にドッカリと坐りこむと悠《ゆう》然《ぜん》と試合を見つめる。どんなシーンになってもおだやかな表情で生徒たちの野球を見つめている。
《あのセンでいけばいいんじゃないか》
飯野先生はそう考えた。
かくして、ベンチに静かに坐りこむ監督が一人、誕生したわけである。
川端俊介は、自分がエースになれるとは思っていなかった。
八〇年夏の大会が終わるまで、彼はチームの三番手ピッチャーだった。三年生のエースがいて、二番手のピッチャーには川端と同じ二年生の桜井がいた。桜井は左腕で、どちらかといえば速球派投手である。打つことも投げることも好きだという、そういうタイプの投手である。そのままいけば、桜井がマウンドを守っていたかもしれない。
川端は高崎一中時代からピッチャーをやっていた。アンダースロー投手だった。学校の成績は、いいときで学年で一〇番以内に入ることもあった。しかし、それ以上に、ひそかに野球には自信をもっていた。
タカタカの近くには農二と呼ばれる農大二高がある。ここの野球部は強いといわれていた。甲子園にも出場したことがある。川端は、そこから誘いがくれば行ってやろうと考えていたこともある。やがて、ひそかにもっていた自信は個人的な思いこみでしかなかったことに気づく。
《野球進学の話なんか、ひとっつもこなかった》からである。
タカタカ野球部に入ってからも、川端のアンダースローはさほど注目されなかった。左腕から投げおろす桜井の速球のほうが買われていた。
川端のピッチングが変わったのは二年になってからだ。ある野球部OBがアンダースローをやめて、上から投げてみろとアドバイスした。そしてカーブの投げ方もコーチした。そのなかに、スローカーブも含まれていた。
ポイントは――と、そのOBはいった。
《ホームベースの上では必ずバッターの低目をつくことだ。高目に入ってくるスローカーブなら、打たれてしまう。ショート・バウンドになってもいいから低目に投げなければいけない。これはストライクにならなくてもいいんだ。バッターのタイミングを外せるし、打ち気をそらすこともできる》
いわれてみるとたしかにそうだった。
速い球に混ぜて、ときおり、超スローカーブを投げてみた。バッターはタイミングを一度、とりなおさなければならない。無理に打とうとすると、たいていスウィングを乱し、ボールはバットの端っこに当たってファウルか内野ゴロになった。そのまま見逃して、ストライクになったりすると、バッターはおだやかならざる気分になってしまう。
それでなくとも、高校野球はひたすら基本に忠実に打ってくる。それはいいのだが、基本だけでやっているから、ふつうの種類のボールがきたときはいいが、基本から外れた球がくるとうろたえてしまう。無理に打とうとすると、一気に型は崩《くず》れてしまうわけだ。
投げるほうの川端にしても、いささかフォームを崩してしまう。腕の振りよりも体が先に前にいってしまうから、投げ終えたときにつんのめりそうになる。オットットと、二、三歩、たたらを踏むような格好になる。たたらを踏んでやっと体勢をたて直したころ、球はホームベースに到着するのである。
スローカーブにコントロールがつき、オーバーハンド気味のサイドスローにも慣れてくると、川端はバッターと対戦するのが面白くなった。
スピードに緩急の差をつけ、コーナーをたんねんに狙《ねら》うと、たしかに打ち込まれないのだ。
《多分、高校野球のふつうのレベルはそこらへんにあるんでしょうね》
と、川端はいう。
大きなモーションから投げおろす速球派投手は、どうしても手首のスナップでコントロールをつけようとする。《それは調子に波ができやすい》と彼は考えている。速球が面白いようにコーナーにきまるときもあるが、いったんコントロールが狂い始めると、どうにもならなくなってしまう。
それよりもむしろコーナーワークだけは確実なタイプのピッチャーのほうが打たれにくいのではないかと、彼は考えた。もちろん、自分はそちらのタイプにしかなれないことを十分に知っていたからである。
力で押していくピッチングは自分に全然、似合っていないことぐらいわかっていた。スローカーブを投げる時の自分をイメージすると、自分の手を離れてゆらゆらと本塁に向かっていくボールがまるで自分のように思え、妙に好きになれるのだった。
《なぜ、野球を続けているかって聞かれれば、惰性ですね、惰性》
そんなふうに、彼はいうのだ。
きびしい練習を、彼は好まない。
まず第一に、走ることが嫌《きら》いである。ベースランニングと聞いただけでうんざりするという。足がおそいこともある。100mを走らされると16秒5というタイムを切れない。チームのなかでおそらく一番おそいだろう。0秒1でもタイムをちぢめようという気も、彼にはさほどない。速ければ速いにこしたことはないとはわかっているのだが、いくら走っても速くならないんだからしようがないと思っていた。
彼はピッチャーであるという特権を利用して、適当にランニングを抜け出してピッチング練習に入る。おのずと投げている時間が長くなる。それを見ていると、あのピッチャーは熱心に投げこんでいるな、と見える。
《ところが、実はランニングをさぼっているんですよ》
冗談とも本気ともつかないように、川端はいう。
家に帰れば素振りをする――それが高校野球少年の熱心なる姿だろう。とするならば、川端は熱心な野球少年ではない。素振りを始めても、すぐにあきてしまうという。練習がない休日は、一日じゅうパジャマを着て家でゴロゴロしていることが多い。疲れることは嫌いだった。つまり、ものぐさ少年である。それは一つのポーズであるのかもしれないが、いかなるポーズをとるかも、その人間の表象の一つだろう。
彼の部屋には野球に関する、例えばポスターであってみたり写真であってみたり、ペナントの類《たぐ》いは一つもない。唯《ゆい》一《いつ》あるものといえば、八〇年秋の関東大会の入場式のパネルである。それが二五〇〇円であると聞いたとき、それほどの価値はないだろうと考えた。買えといったのは、むしろ家族のほうだった。
その写真が、ただ一つ、ときに違和感を漂わせながら、川端俊介の部屋にある。
彼は周囲を圧するばかりの闘志をみなぎらせて力まかせに投げこむことはなかったし、そういうタイプになろうとも思わなかった。きびしい練習に耐えて耐えて耐えぬいたところでパワーを身につけようとも考えなかった。
《ピンチになれば……》と川端俊介はいった。
《逃げればいいんです》
無理に抑えこむことはないのだという、その姿勢に、一九六三年に生まれて、ごくふつうに勉強してそれなりに優秀であり、生活の全部としてではなく一部として野球をやっている高校生のごくナチュラルな心情の一端を見てとろうとすることは、いきすぎだろうか。
《一生懸命なんて、カッコよくないよ。第一、照れるじゃないですか》――という言葉が彼の口から出ても、おかしくはない。
彼は学芸大学の体育学科に進もうなどと考えている。
《あそこは甲子園に出たことがポイントに加算されるんですよね》
キャリアは利用すればいい、当然のごとく彼はそんな風に考えている。《さもなければ青学あたりへ行って遊びたい》――彼は人生もスローカーブのように、なだらかに曲線的に渡っていきたいと思っている人間だった。
八月から始まった練習試合、新人戦を消化するうち、川端はタカタカ野球部のエースになっていった。
関東大会の前《ぜん》哨《しよう》戦《せん》になる県大会がスタートしたのは九月二〇日である。
それ以前の新人戦の成績がよく、タカタカはシード校とされていた。九月二〇日の試合は二回戦となり、対戦相手は県立沼田高校である。沼田高校も新人戦を好成績で戦ってきた。この試合、タカタカが勝てたのは、八月の新人戦で一度試合をやって勝ったことがあるという実績からくる余裕だけではない。
沼田高校の角田監督は《タカタカは何をやってくるかわからないチームだ》と思っていた。
タカタカの監督がズブのシロウトだからである。セオリーなんか無視して攻撃してくるのではないか、オーソドックスな高校野球をやってこないのではないか……そんなふうに警戒していた。
例えば、4回裏のタカタカの攻撃。先頭バッターの五番打者桜井がフォアボールを選んで出塁した。次のバッターは川端である。
飯野監督は一球目からバントのサインを送った。とにかくランナーをセカンドに送ろうという、ごく常識的な作戦である。得点は0―0、先取点をとることだけを考えていた。セオリーどおりである。
ここでバントを決めて確実に送っていれば、沼田高の角田監督もさほど悩まなかったに違いない。
川端は、そのバントのサインを見逃し、一球目のストライクをそのまま見送ってしまった。バントのサインが出ていたことに気づかなかった川端は、バッター・ボックスで平然としている。
そこから角田監督の調子が狂った。
二球目のボールを見送って、三球目で再びバントのサインを送ると、川端はバントをしたものの、ファウル・グラウンドに転がってしまった。ドジめ! とタカタカ・ベンチでは思っているが、沼田高にはそれがわからない。送るなら一球目から送ればいいのに様子を見てきた……ここもどうでるかわからない。そんな風に思っている。
四球目のカーブに川端はチョコンとバットを出した。打球はふらふらっとあがって、やや浅く守っていた一塁手の後方に落ちた。一塁ランナーは三塁まで走ってノーアウト一、三塁。バントのサインの見逃しがチャンスを生んでしまった。
次はスクイズかと、沼田高のベンチは警戒した。とにかく先取点をとるなら、そういう方法もある。何を、どういうタイミングでやってくるかわからないチームなのだから……と、沼田高は考えすぎてしまう。
タカタカの飯野監督はスクイズなど、まったく考えていなかった。
《スクイズをやっても、確率は五割でしょう。それなら打たせたほうがいい》
打たせた場合、ヒットの確率は五割以上はないはずなのに、監督は自信をもってそう考えた。ところが、この強攻策が成功してしまう。七番の岩井は一、二塁間を抜き、これで1点。野球は偶然のゲームであり、成功は往々にして偶然によってもたらされる。
いくつかの偶然が重なると、沼田高校のベンチは、揺さぶるように攻めてくるタカタカを、やりにくいチームだと感じてしまう。この回はその後、もう一本のヒットが出て、計3点をとった。
タカタカは6回、8回にもランナーを出してチャンスをつかみ、このときは次打者に確実に送らせている。
飯野監督としては、ランナーが出た場合、常に確実に送ろうとしているのだが、その作戦の一つが失敗したことと、彼が新人監督であることとが重なって、相手チームを攪《かく》乱《らん》させてしまったわけだった。
《気がついたら、ゲームが終わっていたよ》
沼田高の角田監督は、試合後、そんなふうに語っている。
ピッチャーの川端は、一二四球のうち四五球ほどのカーブを投げ、その多くはスローカーブだった。
それは例えば、こんな風にだ。
3回表。沼田高の一番打者笹川が打席に入った。その前の九番打者を速球で空振りの三振にとった直後である。
川端は一球目から超スローカーブを投げた。ふわっと高く投げあげるような球をバッターは目で追う。これは見逃そうと思うと、その球はゆらゆらと右バッターの内角低目にするっと入ってきた。《ストライク!》球審はおもむろに宣告する。
川端はマウンドでニコリと笑った。丸っこい顔が、さらに丸くなる。
二球目も、また、彼はスローカーブを投げた。同じような弧を描きながら、外側に流れるように落下してきて、外角の低目いっぱいに入った。《ストライク!》投げ終わったあと、たたらを踏んで投球の行方を見つめると、川端はまたニコッと笑った。
さらに三球目、川端はまたスローカーブを投げた。じれるように待ち、バッターは落下してくるボールをたたいた。打球はゴロになって三塁の前へ転がった。キャプテンの佐藤が難なく、それをさばいてみせた。バッターの心理的ダメージは速球を打ってアウトになるよりも、大きい。
《ピッチングはかけひきだ》と、川端はいった。《それだけで、高校野球だったらある程度までいかれるんじゃないかな。考えればいいんですよ》
あとはコントロールさえあればなんとかなるもんさと、彼はいうのだ。ただガムシャラにやればいいってもんじゃないんだ……。
そういいながら、川端のイメージのなかには、例えば一年中合宿生活を送っているようなチームがある。《あんなに野球ばっかりやっていたらあきちゃいますよ。くり返し同じことをやれば作業の能率が下がるのと同じですね。短時間で集中してやれば同じ効果が得られると思うんですけどね》
タカタカの野球部も、以前はガムシャラに練習をするチームだった。当然、ランニングの量も多かった。そのせいもあって、川端は何度かやめようと思ったことがある。惰性で野球をやっているというのは、そういう時期に抱いてしまった感覚である。その後、どちらかといえば選手の自主性にまかせてやるようになった。それと川端が力をつけてきたのとはパラレルの関係にある。
そういう川端は当然のごとく、江川のファンである。走りこみが足りない、太りすぎだ、手を抜いたようなピッチングをする……そういわれている江川が好きなのである。多分、江川は考えすぎるほどバッターについて考えるピッチャーなのだろうと、川端は思う。考えるから、すべてのバッターに対して同じようなパターンで投げることができない。誰に対しても同じようにガムシャラに投げるなんて、まるでパワーをマキシマムに調整したピッチング・マシンのようなものではないか。そんなのは、つまらない。考えすぎるくらい考えるからバッターがどう打ってくるかに関する仮説をたてて、その仮説を証明するために投げる。たまにはそれが外れることもあるだろう。
川端は江川がそういうタイプのピッチャーなのではないかと思った。江川は自分のこともよくわかっているはずだ。だからワンパターンのもの言いで手抜きだなどといわれたりすると腹が立つに違いないと思う。江川はエゴイスティックなほどマイペースであり、だからこそ今、江川はジャイアンツに入っている。それも川端は大いに認めたいと思っている。《それを失って、誰もと同じように生きていたって魅力ないでしょう》
満々たる微笑を浮かべて原辰徳がジャイアンツに入ってきた。それによって川端は、ますます江川が好きになってしまったといった。
そういう人間は、間違いなく少数派に属するのだろう。多分に、ひねている。ひねているから、しかし、彼はのっぺりとした高校球児のように汗と涙だけで甲子園を夢みたりはしない。
県大会の三回戦では群馬育英高校と対戦した。七回を終えたところで13―0のコールド勝ちとなった。川端は5回までを投げ2安打に抑えた。投球数八四球のうち、スローカーブは一二球である。
四回戦、準々決勝の対前《まえ》橋《ばし》商業戦でも、川端は5安打、失点2に抑えた。味方の得点は7点である。この日も一二〇球投げたうち、スローカーブは二〇球以上を数えた。
準決勝、対高崎商業戦は、これに勝てば関東大会へ出られるという試合だった。
高崎商業は早打ちをしてきた。川端の球は決して速くはない。打ちやすく見えるはずだ。それを打ち急いだ。わずか四球を投げただけで一イニングが終わってしまうという回もあった。
《コーナーワークだけはきちっとおさえているから集中打は打たれないと思っている。ぶつけてもいいからバッターの内角いっぱいに投げればいいわけです、エー》
タカタカは前半に3点をとると、それを守りきってしまった。これで関東大会への出場権を得たわけだ。
試合前のミーティングで飯野監督はいつもと違ってやや各論に及ぶ話をした。それはこういうことだった。
《今日はテレビ中継がある。
みんな、いい顔でプレーしてみようや》
そんな話ができたのは、もうここらへんで負けるかもしれないし、負けてもいいという気持ちがどこかにあったせいかもしれない。
飯野監督にしてみれば、準決勝に進出できたことだけでも満足だった。夏の大会は準々決勝で敗れている。それを上回る成績を残せたわけだった。関東大会へ出られなくても、いちおう満足できる成績といわなければならない。
試合は、しかし、タカタカが優勢のうちに進んでしまった。高商は後半に入っても相変わらず早打ちをして川端を打ち崩せない。川端も、大きく崩れそうにない。一時間半ほどで、試合はあっけなく終わってしまった。スコアは3―0である。川端は九イニングスを八七球で投げおえた。そのうちカーブは一三球であった。
喜ぶナインを見て、困ったなと思ったのは監督と部長である。関東大会は茨城で行われる。泊まりがけの遠征になる。しかし、タカタカ野球部の予算は年間四五万円程度しかなかった。それは例年、用具代等、こまごまとした経費で消えてしまう。
その翌日の対吉井高校との決勝戦は、関東大会への出場がすでに決まっているとはいえ負けられない試合だった。この試合が行われる前に、すでに関東大会での組み合わせが決まっており、ここで負けると関東大会で二回戦に進んだ場合、千葉県の強豪、印《いん》旛《ば》高校と当たることになってしまう。勝てば、関東大会で比較的やりやすいチームと対戦できる――組み合わせ表を見ながらそのことに気づいたのは、すでにチームが波に乗って関東大会でも勝つつもりでいたからだろう。
《守り切れたから勝てたんでしょう》と、飯野監督はいった。《しぶとく守り抜く。そのうち向こうのチームがじれてくる。そうすればこっちのものです》
そう分析しながらも、彼はすぐそのあとに、こう付け加えるのも忘れなかった――《組み合わせもよかったんです》
つまり、比較的、くみしやすいチームと当たってきたということだろう。
県大会の決勝戦は、接戦になった。1―1の同点のまま9回裏まで進み、タカタカはエラーで出たランナーを内野安打一本で本塁に還した。しぶい野球である。
チームの主砲でもあるキャプテンの佐藤誠司がいった。
《うちのチームは、ホームランをまだ二本しか、打ってないんです。そのうちの一本はレフトスタンドのないグラウンドで外野の間を抜けた、ラ、ラ、ランニング・ホームラン》
もう一本は利《と》根《ね》川《がわ》商業戦で出たもので、このときのグラウンドは外野手の定位置のすぐうしろがフェンスになっているくらい狭かったという。
このチームは、長打力という言葉にも無縁だった。
一一月二日に水戸市民球場で行われた関東大会第一回戦、対水戸農業戦に8―0のスコアで勝つと、田端野球部長と飯野監督は高崎に電話を入れた。
田端部長は、学校に電話口でこういった。
《勝ってしまったんですよ》
《そうか、勝っちゃったか……》
電話口の向こう側には校長がいる。二人ともうれしさが半分と、困惑も半分ほどあった。
《で、問題はですね……》
《わかっている。いくらぐらい足りないかね》
《もう、ほとんど残っていません》
《うーむ。……とにかく何とかしよう》
ナインは一〇月三一日から水戸に来ていた。一一月一日の練習時間が割り当てられていたからである。宿泊先の旅館には一一月二日までの予約しか入れていない。それが延びることになった。二回戦は一一月四日に予定されていた。最低あと二日は滞在しなければならない。とりあえず届いた額は八〇万円だった。
旅館も、勝って戻ってきたと知って、よかったですねといいながら、困ってしまった。次の予約が入っているのである。断るわけにはいかない。部屋割りを変え、やや狭い部屋に分散してなんとかおさまりをつけた。
飯野監督は、自宅に電話を入れた――《長くなるんで、下着を届けてくれ》
彼は当初の二泊分の仕度しかしてこなかった。
せっかくの関東大会だからというので、学校側はバス四台をチャーターしてOB、父兄の応援をつのった。バス四台もの応援は異例のことだった。高崎から水戸までの道のりは四時間あまり。試合開始予定は午後の一時だった。それに間に合わせるためには、八時前には高崎を出なければならない。それでもバスがいっぱいになるほどの参加者があった。ここで晴れの姿を見ておかなければ、見るチャンスはそう簡単にないだろうと考えたからである。
落ち着いていたのは選手のほうだったのかもしれない。
ピッチャーの川端は、決勝戦が終わるまで約一週間分の旅行の準備をしてきている。やるかぎりは、勝つつもりで臨《のぞ》まなければならない。
打線は1回表でほぼ勝敗を決めてしまった。一番打者の菅原がセンター前にヒットを打ち、二番の植原が送ると、三番宮下が四球を選び、四番佐藤が三振に倒れたものの、そのあと五番岩井、六番桜井に連続三塁打が出た。
《2本も続けて三塁打が出るなんて――》
チーム結成以来初めてのことだと監督はいった。そのあとさらに2安打が続いた。これで4点。その裏、川端は2アウトからヒットを一本打たれたが、そのランナーの盗塁をキャッチャーの宮下が刺した。これで完全にタカタカ・ペースになってしまった。9回を投げおえて、川端の投球数は九一球である。シャット・アウト。
苦しかったのは二回戦だった。対戦相手は国学院栃木。1回裏、川端は二塁打とエラー、そして一、二塁間のタイムリー・ヒットで1点を失った。3回裏にも2安打で1点を失った。長い試合になった。両チームとも、毎回のようにランナーを出しあった。ふつうなら一時間半から二時間で終わる試合が、この日の試合は三時間五分かかっている。
川端は、しかし、要所要所をしめているつもりでいた。1回、3回と直球を打たれると、中盤、後半に例のカーブを多投した。4回には一九球のうち一〇球、カーブを投げている。打たれそうだと思ったら、すぐピッチングの組みたてを変える。そして、打たれれば逃げる。相手がひるめば、押す。のらりくらりとかわしていく。川端は県大会、関東大会を通じて一本もホームランを打たれてはいない。
《かわしていれば、いつかチャンスはまわってくるもんですよ》
彼はそう考えている。
そのチャンスがまわってきたのは6回表であった。デッドボールで出たランナーをヒットでつなげると、二死後、2安打、一エラーを重ねて3点を入れた。これで逆転である。
国学院栃木がさらに追いつこうとするところから、試合は川端ペースになった。
《バッターをかわすにはいろんな手口がある》と、彼はいった。
例えば――打者がバッター・ボックスに入ってくる。
《ヘルメットをとってあいさつしたりすると、額の両わきを剃《そ》りあげちゃっているような、そういうタイプって案外いるんですよね。キッとにらんでくる。なめんなよっていう感じかな。そういうとき、わざとニターッと笑ってあげるわけ。意味もなくね。ときにはあざ笑うみたいな笑い顔を作るんですよ。相手は妙な気になるみたいですよ》
キャッチャーがサインを出してくる。投げる球は決めているんだけれど、延々と首をふりつづける。キャッチャーがサインを出していないときも、振ってみたりする。そうやって、じらす。投球モーションに入る前、グラウンドの砂を軽くつまんで投げあげる。風の方向を見るふりをして、時間を稼《かせ》いでいるわけだという。キャッチャーを呼び寄せる。何ごとかを話しているようでいて、じつは野球のことはほとんどといっていいくらい話をしていないという。
緊迫したシーンで、川端はキャッチャーを呼んだ。そして言うのだ。
《なぜオレにはガールフレンドができないのかな?》
また、ある時はこう言った。
《今、ラーメンを食ったら、うまいかな?》
キャッチャーは真面目な顔をして答えた――《コーヒー飲んだら気分いいはずさ》
そうやって、打者をじらしておいて、山なりのカーブを投げる。バッターがムッとしたところに、インコースに入るシュート気味の速球を投げる。
国学院栃木戦に勝って宿舎に引きあげると監督は全員を休ませた。一番疲れていたのは監督かもしれない。その晩、食事が終わったあとで、監督がいった。
《リラックスしたいなー。芸能大会でもやろうじゃないか》
準決勝の日立工業戦との試合に勝って、甲子園行きをほぼ確実にしたのは、その翌日のことだった。
決勝戦の印旛高との試合に勝つつもりであったかと問われると、川端はノーだと答える。監督も、ほかのナインも、これは違うと感じざるをえなかった。
練習風景を見た。動きが違うと、飯野監督は思った。
《いい当たりが飛ぶ。ウチのチームの常識ならヒットだなという当たりが捕られてしまうんですね。体もしっかりしているし、プロ並みですよ》
試合開始前、整列すると、体の違いは一目瞭《りよう》然《ぜん》だった。ベンチから見ると小さいのや大きいのが並んでいる向こう側に印旛の大柄の選手たちの顔が見えた。
印旛にはすでにプロ球界からマークされているキャッチャーの月山栄珠がいる。三番バッターである。攻守ともにスケールの大きな選手だといわれていた。
例えば、月山はこういう選手だった。
守備につく。ピッチャーの投球練習に付き合う。そして最後の一球を受けると、そのボールを二塁に送る。その時、二塁手は、あえて二塁ベースの後方で待ちうけている。その二塁手めがけて月山は矢のような送球をしてみせる。デモンストレーションである。その肩に、相手チームはびびってしまう。
タカタカのOBは《コールドゲームのようには負けてくれるなよ》といった。決勝戦にコールドゲームはない。何点、入れられようと9回裏までやらなければならない。OBは冗談のつもりでいったのだが、妙にリアリティーがあった。
川端は、その月山と対戦してみたいと、ひそかに考えていた。
月山は、川端から見れば対極にいる選手であり、高校生だった。もう、スカウトが何人も月山の野球を見にきているだろう。月山はプロの目を意識してバッター・ボックスに立ったこともあるはずだった。そして、みごとにヒットを打ったことも。やがてプロに行くだろう。月山は野球を通じて、直線的な人生を歩んでいくタイプなのかもしれない。川端はまったく逆だった。いつも彼は、注目されないピッチャーだった。マウンドの上にいるとき、彼はふとこんな風に思うことがあった。《キャッチャーの宮下にはたしかガールフレンドがいたな。一塁はどうだっけ。あいつにもたしかいるはずさ。……二塁、三塁、ショート……みんないそうな気がするな。オレは一番目立つところにいるのに、どうしてガールフレンドもいないのかな》
川端は曲がりくねった道を歩いていきそうな自分を、感じることがある。夢がそのままの形で実現するようなことはないだろう。ヒーローになんて、なれるわけないんだと思う。人生、劇画のように動きやしない。
川端は月山を見た。無性に抑えたくなった。
1回、一死二塁で出てきた月山は気負った川端の四球目のストレートを右中間にもっていった。三塁打である。それが印旛の先取点になった。
4回に、再び月山が打席に入った。川端はカーブ主体で攻めるつもりでいた。
一球目、外角にストレートを決めると、二球目、ゆっくりしたモーションから内角にスローカーブを投げた。《ボール》
川端はさらにカーブを投げた。内角低目に、ゆるゆると落下していく。月山はそれをむきになったように、打った。打球はショートの前にぼてぼてと転がっていった。
6回、三度目のバッター・ボックスがやってきた。ストレートで二球つづけてストライクをとると、そのあと今度は三球続けてスローカーブを投げた。月山はそのすべてを見逃し、ボールになった。川端は間を置いた。どうしても、三振にとりたいと思った。六球目に投げたのは、恐らくその日で一番速い球である。月山のバットは空を切った。《ストラック・アウト!》球審が大きく叫んだ。
8回、月山の四度目の打席がやってきた。午後の二時、秋の水戸市民球場は晴れている。スコアは2―3と、タカタカが1点差を追っていた。善戦である。
川端は月山との最後の対決にスローカーブで入っていった。ボールを握るとゆっくりとふりかぶり、サイドから投げあげる。ボールは真ん中から外側に逃げるように落下していった。外角低目。ストライクである。さらに続けて、カーブを投げた。インコースに外れた。月山はカーブを捨てているように見えた。
キャッチャーの宮下はサインを送った。
この直後、川端は月山を三振にうちとり、そこで力が抜けてしまったかのように4安打を浴び、県大会以来初めて敗戦投手になった。スコアは2―5であった。
その結果が出てしまう前の、月山の第四打席三球目のシーンで、川端俊介の話を終わらせてみたい気がする。
キャッチャーの宮下がサインを送ったわけだった。川端はその指先を見た。
その指の形はこういっている――《スローカーブを、もう一球》
川端俊介は、微《ほほ》笑《え》んだ。そしてうなずくと、ゆっくりとスローカーブを投げる、あのいつものモーションに入っていく……。
ポール・ヴォルター
1
過去はなぜ、セピア色に見えるのだろう。記憶は、遠くなればなるほどモノトーンになり、やがてセピアがかかってくる。
《彼》の、セピアに包まれた過去をたぐりよせてみれば、こんな具合いだ。
《ボクハ中学生デシタ。マダ入学シテ間モナイコロデス。アル日、ボクハぐらうんどノスミニアル棒高跳ノふいーるどニイマシタ。ソコニ竹ノ棒ガアリマシタ。向コウニハばあガアリ、ソノ竹ヲ使ッテばあヲ越エヨウトシテイタノデス。2mホドノ高サダッタデショウ。ボクニハ、シカシ、ソレガトテツモナク高ク見エマシタ。ボクノ身長ハ1m50グライシカアリマセン。ボクハ走リ、竹ヲぐらうんどニ立テ、ソレヲ支エニシテ、体ヲ持チアゲタノデス。ソノ時、空ガ近ヅイタヨウニ見エマシタ……》
一九六八年のことである。《彼》は一二歳だった。さほど古い話ではない。しかし、まだ二五年しか生きていない人間にとって一三年前の出来事は十分に過去形で語ることができる。
季節は春である。四国、香川県の西に大《おお》野《の》原《はら》という小さな町があり、中学校があった。季節が変わったことを知らせる桜の花はすでに散っている。みずみずしい緑が、淡い桃色にかわって勢いづいている。
放課後のことだった。《彼》は学生服を着てカバンを持っている。陸上部の練習が始まっている。香川県は棒高跳の盛んなところだった。たいていの中学校に棒高跳用のピットがある。陸上部の生徒に混じって何人かが竹のポールを持って遊んでいる。《彼》はそこに歩み寄る。2mのバーは、ポールを使うことを考えなければ、越えがたい高さに見える。
すすめられるままに《彼》は竹を手に持った。上着を脱ぎ捨てる。見よう見まねでポールを構え、走る。バーは近づけば近づくほど高く見える。そして、ポールを杖のようにして、跳ぶ。
バーは《彼》の体の下にあった。落ちたところには、多分、おがくずのマットがあったはずだ。《彼》は跳びあがったときに空が近づいてくるのを感じた。わずか2mのことでしかない。無限の宇宙空間とその距離を比べれば、それは何ほどのことでもない。しかし、自分の背の高さと比べれば、それは何がしかの意味を帯びてくる。
コーチがいった。
《いいじゃないか。センスあるぞ》
少年は照れるように笑ったはずだ。気分が昂《こう》揚《よう》するのを感じた。そんな時、人は、自分が何者かになれるのではないかと感じてしまう。
《いいじゃないか。センスあるぞ》――コーチが腕組みしながらいったその言葉が、少年の頭の中で何度もリフレインしている。
《ボクハソノ時、初メテ自信ヲ持テタノデス。ソレマデノボクハ、目立ツコトナンテアリエナイ、ソウイウ子供デシタ。人ヨリモ速ク走レルワケデハナイシ、ケンカガ強イワケデモナイ。トビ抜ケテ成績ガイイワケデモナイシ、野球ガ上手ナワケデモナカッタノデス。ソノボクガ、ホメラレタノデス……》
そのシーンを《彼》が思い出すとき、少年の顔は傾きかけた春の陽ざしに染まって紅色に輝いている。そして、そこにセピアをかぶせると、めくるめく時間が流れ、二五歳になった現在の《彼》がいる。
2
《彼》――名前は高橋卓己という。
ポール・ヴォルター、棒高跳選手である。この国の第一人者といっていい。彼は一九八〇年の秋に、5m43pのバーをクリアーした。新記録だった。さらに一九八一年春には、室内フィールドで5m50pのバーをクリアーした。それもまた、新しい記録だった。一九八〇年のモスクワ・オリンピックの〓幻〓の代表選手にも選ばれている。日本のトップ・アスリートといっていい。スポーツ・エリートという言葉もあてはまるかもしれない。香川県小《しよう》豆《ど》島《しま》にある県立土《との》庄《しよう》高校に職も得ている。定時制の体育教師である。
彼は、しかし、スポーツ・エリートという言葉に戸惑いを見せた。
そして、一つのシーンを語った。
比較的、最近のことだという。
彼は、赴任してきた高校のグラウンドで練習をしていた。雨が降っている。彼は一人だった。いつものように、というべきかもしれない、教師になって以来、彼には、ともに練習する相手はいない。
棒高跳の基礎は助走のスピードにある。5mほどの長さのグラスファイバー・ポールはそれ自体の重さをはかればせいぜい4s程度である。しかし、その一方の端に近いあたりを握って構えると、10sほどの重さに感じられる。
彼はいつものように、トレーニング・ウェアに身を包んでグラウンドに出るとウォーミング・アップに入った。黙々と体をあたため、やがてポールを握った。目標としてのピットを30mほど先のグラウンドにイメージする。おもむろに彼は走り出す。ももを高くあげる、短距離の走り方だ。スピードがのってくる。ピットの直前でスピードは最高になっていなければならない。イメージのなかのピットが近づいてきて、彼はそこを通りすぎるとスピードを落とした。再び彼は、30mほど先の空間にピットをイメージする。そして走り出す。それを何度もくり返す。雨が降っていた。
彼はふと、妙な感覚におそわれた。
《ぼくは涙を流すんじゃないか》
と、彼は思った。
《しかし、なぜ泣くのだろう》
彼は立ちどまりグラウンドのすみに佇《たたず》んでしまった。
ポールを肩に置き、あたりを見回してみる。静かな雨の音だけが聞こえてくる。夕《ゆう》闇《やみ》が迫りつつある。それ以外には何もない。彼は一人だった。
再び走り始める。額に当たった雨がゆっくりと流れ始め、まぶたを濡《ぬ》らす。彼はホントに泣くんじゃないかと思い、雨と一緒に涙を流してしまえばいいと思ったとき、涙がポロポロとこぼれ、そのとき初めて彼は自分がなぜ涙を流すのかを悟った。
何を、だろう。
《むなしさ》という言葉を見つけてしまったのだと彼はいった。
《むなしかったんですよ。何もかもが。なぜぼくはこんなところで走っていなければならないのか。なぜ、高く跳ばなければいけないのか。ぼくにはわからなくなってしまったんですね。新しい記録を作った。それはいい。しかし、それだからどうしたというのか。そこまでいけば、ぼくはもっと自信を持てるようになるんじゃないかと思っていた。もっと自信にあふれて生きているはずだった。
でも、何も変わらないんです。
ぼくは目標を失って、自分の身の置きどころを失ったように不安でした。哀しくて、むなしくて、どうにもならなかった……》
そして彼は、一人きりで雨のグラウンドに涙を流したわけだった。
あの、セピア色の風景から、まだ一三年しか経っていない。いやもう一三年も経ってしまったというべきだろうか。
3
限りない速さを求める人間がいる。
限りない重量を、重力に逆らって持ちあげようと望む人間がいる。
そして、限りない高さをきわめようとする人間がいる。
共通項は次のようにいうことができるだろう――そのいずれもが限界を走り抜けようとしている、と。
ぼく自身のことを、ここで語っておけば、ぼくは一度たりとその種の限界に遭《そう》遇《ぐう》したことのない、いわば、日常生活者である。肉体の限界に遭遇したいと夢見ながら、目がさめるとぼくは、哀しいかないつも観客席の立場にいるわけだった。
好きな話がある。
それは古代ギリシャのあるスプリンターに関するものだ。
名前はポリムネストール。紀元前六三二年のオリンピック・チャンピオンである。これはもう、完璧にセピア色の世界だ。
ポリムネストールに関する伝説はまずこう語られる――「彼はね、牧童だったんだ……」
彼は草原で家畜を追い、家畜の前を走り、彼らをひきつれていた。ある日、突然、彼の前にうさぎが現われた。ポリムネストールはそのうさぎをつかまえようとした。うさぎは逃げる。ポリムネストールは追う。そして、遂に追い抜きざま、うさぎの耳をキャッチしてしまった。
その瞬間、ポリムネストールが何といったかは伝説に含まれてはいない。しかし、彼はこういってもよかったのだ。
「ぼくはうさぎよりも速く走った。この記録は20世紀まで破られないだろう」
うさぎは1秒間に14m走るといわれている。そのペースでいけば100mを7秒2で走るはずである。
この話が伝説として生き残っているのは、うさぎがどのように逃げたかを語っていないからだ。うさぎは果たして全速力で逃げたのか、曲がりながら走ったのか、時折り立ち止まってはまた走り始めたのか、説明はない。ただ一つ、ポリムネストールがうさぎより速く走ったということだけが伝えられている。
するとそこに、とてつもない記録があらわれてくる。
それをまさかと思いながらも、しかし、ぼくらはそのスピードに向かって進んでいかなければならない。人間が、現在のような肉体をひきずっている限り、それは永遠の壁である。超えることのできない壁があることを承知のうえで、それでも壁を超えようとする。それは徒労の美学といっていいのかもしれない。
驚嘆に値するコメントにぶつかったことがある。
それはロシアのパワー・リフター、ワシリー・アレクセイエフのいった言葉だった。
「人間は誰でも……」と、アレクセイエフはいった。「自分の望むとおり、強くなることができる」
ちょっと待って欲しい、とぼくは思ってしまう。アレクセイエフは「ぼくは、自分の望むように強くなってきた」といい直すべきなのだ。彼はヘビー級の重量挙げ選手として六〇年代、七〇年代を制してきた。彼は八十数回、世界記録を書きかえた男として知られている。
プレス、スナッチ、ジャーク。この3種目の合計重量は、アレクセイエフが初めて世界記録を作った時、600sには達していなかった。一九六七年に世界記録を更新したジャボチンスキーは計590sを持ちあげた。それから三年後、アレクセイエフは592・5sを持ちあげた。しかし、600sを超えるのは至難の業《わざ》であろうといわれていた。不可能であると。
にもかかわらず、アレクセイエフは、トータル記録を計17回、書きかえている。そして3種目合計645sという記録を作ってしまった。
あるインタビューで、人間の限界について聞かれたアレクセイエフはこう答えている。
「限界はありません。ぼくがそのラインを引いてる限りはね」
これもまたすごい。ぼくにとっては恐ろしいコメントだった。
ついでにもう一つ。試合の当日、今日の食事量はと聞かれた時、アレクセイエフはこう答えた。
「自分を少しでも強く感じるために、少しだけ食べました」
食事量の〓少し〓でさえ、アレクセイエフにかかると、強くあるための一つの理由になってしまうのだ。
しかし、本当に人間は、アレクセイエフのいうように「自分の望むとおり、強くなることができる」のだろうか。
限りない高さを求めるという競技に関しても、限界はある。羽を使わず、一本のポールを用いて人間の力で、いったい人はどこまで高く跳ぶことができるのか。
4
ぼくが初めて高橋卓己というポール・ヴォルターを見たのは、一九七三年のことだった。まったくの偶然であったというべきだろう。ぼくは彼を見るためにその競技場にいたわけではなかった。
彼のちょっとしたアクシデントがない限り、ぼくは彼の跳躍のことも、そしてまた彼の名前もおぼえていなかっただろう。
三重県の伊《い》勢《せ》である。県立競技場。八月。夏は盛りである。陸上のインターハイが、そこで行われていた。高校生の総合体育大会と思えばいい。
暑い一日だった。ぼくは二十代のちょうど半《なか》ばあたりを、あえぐように生きていた。たいした夢もなく、「希望」「幸福」関係の言葉とはおよそかけ離れたところをうろついていたというイメージが、残っている。
こういってしまうとあまりにコンセプトが明快すぎるいい方になってしまうかもしれないが――ぼくには出口が見つかりそうもなかった。
時たま空を見上げてはこんなことをつぶやくありさまだった。「ずいぶんと、遠くへ来てしまったな」それは、十代の後半あたりを起点としていっているに違いなかった。歩んできた距離を確認することで、かろうじて安心しようとしていたのかもしれない。
誰もがそうであるように、やりたいことができずにうんざりしていた。そもそも、やりたいことが何なのかわからないという状況もあった。つまり、最悪だった。
伊勢の町まで来たのは物見遊山でもなければ、センチメンタル・ジャーニイでもなかった。
ぼくはまるでビジネスマンのふりをして新幹線に乗り、伊勢までやってきたわけだった。用件は取材である。犬が人間を噛《か》むのではなく人間が犬を噛んだ、という類《たぐ》いの事件の取材であったと思う。ぼくは町から町へと人を訪ね歩き、時には、人間が犬に噛みつきたくなるような気分になることもあるのだと思い始めていた。具体的にいえば、それは「夫」が「妻」を殺したという「事件」だった。ぼくは当初、そのケースを「犬」が「人間」に噛みついたのだろうと解釈していた。ところがどうやら「人間」が「犬」に噛みついたようなのだった。ぼくは、噛みつかざるをえなかった「人間」に思いを致し、ひどく疲れてしまっていた。
そんなときは、気分を変えて伊勢神宮へ、という発想に立って玉砂利を踏んでもいい。何かの間違いでもなければ、そういうところには足を踏み入れないだろうから、だ。少なくともホテルのベッドにうずくまっているよりはいいだろう。
それをせずに競技場に向かって歩き始めたのは、そこがインターハイの行われているスタジアムであり、そこに行けば絵に描いたような〓若人たち〓がいるだろうと思ったからだった。ぼくは恐らく青春の〓使用後〓の世界にいて、彼らは〓使用前〓の世界にいる。そのコントラストを見てみたいという気分もかすかにあった。あるいはもっと単純に、すべてが白く見えてしまうほど強い真夏の太陽に体をさらしながら昼寝をするのもいいと考えたのかもしれない。要するにぼくは、日光干しを必要としていたらしいのだ。
トラックの第3コーナーを見下せるあたりにぼくは陣取った。そこらあたりの観客席が比較的すいていたからである。
たまさか、そこが、棒高跳のピットに近かった。
上から見下す棒高跳のバーは、さほど高くは見えない。高さは、バーのかたわらに立っている大会役員の背の高さと比べることで初めてわかる。バーをセットするには長い棒をもってしなければならない。フィールドには数人の選手が残るばかりになっており、ピットの近くにある表示板には「4m50」という数字が掲示されている。
跳躍する選手は、バーの真下へ行ってそこにポールを立てながら高さを確認している。当然のことながら、ポールの長さよりもバーは高いところにある。選手はそのバーを、あごを突きあげるように見上げている。そして助走の距離を測り、スタート地点を確認して走り始める。
4m50というその高さがかなりのものなのかもしれないと思ったのは、フィールドに残っている選手の一人がバーを、まるで天空を見はらすように眺《なが》めたからである。
それが高橋卓己だった。彼の、バーを見上げる角度が大きいのは、彼がほかの選手たちと比べて背が小さかったからだと気づいたのはしばらく後のことだ。
当時の彼の身長は170pであったという。体重は55s。今でもそうだが、彼は棒高跳の選手としては小柄なほうだった。
何人かの選手がバーに向かって走っていった。そして、ピットのすぐ手前にあるボックスにポールを突っ込み、体を振り、グラスファイバー・ポールを曲げて自らの体をおりこみ、体をひねるようにしてバーを越えようとした。
時計の針は昼の一二時をまわっている。これも後に知ったことだが、棒高跳という競技はフィールド内で最も早い時間から始まる。ふつうは午前九時ごろから競技がスタートし、うっかりすると終了時間は夕方近くになることもある。一回一回の跳躍の前には、相撲の仕切りに近い、バーと選手とのにらみ合いの時間がある。
夏の一日、午後になってもフィールドに残っている選手たちは、そんなふうにしてもう三時間あまりバーとにらみ合い続けてきたわけだった。
「4m50」をクリアーしたのは五人の選手である。そのうちの三人が同じユニフォームを着ていた。当時の記録を見ると、その時のメンバーの名前がわかる。同じユニフォームを着ていたのは、香川県三豊工高の木川、小西、そして高橋の三人だ。残りの二人は不動岡高校の中野選手と磐田農高の佐藤。
バーは「4m60」にあげられた。
観客席にいたぼくの記憶によると、それはやたら暑い午後であったという印象が残っている。したがって、ぼくは真夏の太陽に照りつけられていたのではないかと思っている。高橋は、その日はたしかに暑い一日だったが、空には雨を誘うような雲が現われていたという。彼はフィールドの中にいて、その日のむし暑さのほうが印象強い。
彼が果たして何番目に「4m60」に挑戦したのか、定かではない。わかっていることは最初の跳躍でバーを落としたことだ。そして彼はポールを持ってうつむくようにスタート地点に向かって歩いていった。フィールドに腰をおろすと、しきりに両脚をマッサージしていた。
やがて、他の選手が跳んだ。誰もが、あえぐようにして高みを極めようとしていた。一本のポールに身を託し、そのポールの長さを利用し、バネを利用し、筋肉を緊張させ、伸縮させ、足をバタつかせて一本のバーをのり越えようとしていた。体がバーに向かって伸びあがっていく瞬間、彼らには何が見えているのだろう。一本のバーで仕切られた空だろうか。ムービー・カメラで撮《と》れば、すべての動作は40コマ程度でおさまってしまうはずだ。時間にすれば2秒弱である。そこに具体的風景を見ようとするのは、多分、プレイヤーの目ではなくオブザーバーの目だろう。
落ちていくバーか、あるいは体に触れずにそこにとどまっているバーだけが見える――と、高橋はいった。
彼が唯《ゆい》一《いつ》、そうではない風景を見たのは、伊勢競技場のインターハイ、「4m60」の二度目のトライアルの時だった。その時、彼は目の前に迫ってくるボックスを見た。グラウンドに埋めこまれ、ポールを支えるケースである。
誰の目にもそれは不自然な助走に見えたかもしれない。助走路は、ほぼ30m。スピードは走るにつれて増し、ピットの直前で最高になっていなければならない。高橋の助走は途中で一度スピード・ダウンしたように見えた。
それでも彼は走りつづけ、ボックスにポールが入り、右足を先に振り上げた。そのまま体が、スピードにのって時計の振り子のように前に振りあげられ、それにともなってポールがしなり、スピードとバネによって体が上昇すれば、それで棒高跳の典型的フォームが成立するはずだった。
高橋の二度目の跳躍は、スピードを失っていた。ポールは十分しなり切っていなかった。腕の力は抜けていた。体が伸びあがっていくべきときに、彼の足はバーを蹴《け》っていた。そして、そのままの姿勢で、彼は、すべての力が抜けてぬけがらのようになったまま、落下した。
彼はクッションのあるピットには落ちなかった。手前のボックスに向かって落下していった。高橋の握っていたポールの端がピットに落ちて二、三度弾《はず》んだ。
彼はそのまま起きあがらなかった。
役員、選手がその周囲に集まると、その輪を切り離すように担架が運びこまれた。
ぼくが見た高橋卓己は、そんな風にして敗れ去った。
試合は「4m60」をただ一人クリアーした三豊高校の二年生、木川泰弘が優勝した。その前の「4m50」を一回目の跳躍でクリアーしていた高橋は二位になった。
5
《ぼくは、あそこで勝たなければならなかったんです》
のちに、高橋卓己は語った。
《コンディションは、決してよくはなかった。暑さのせいばかりじゃないですね。暑さは誰にも共通したハンデです。
問題は足の調子が思わしくなかったことなんです。一回目に4m60を跳ぼうとしたとき、これならいけるという感じがありました。助走も悪くはなかったし、踏みきりもよかった。もうちょっとのところだったんですね。バーが落ちてきたとき、自分でも惜しいなって思いました。
ただ、ちょっと気になったことがありました。脚のふくらはぎのあたりがけいれんしそうになっていたんです。緊張と疲れのせいでしょう。
マッサージをしながらしばらく休みました。そして二度目の助走に入ったんです。走り始める前、ひょっとしたら足がつるんじゃないかなっていう感じがしました。でも、とにかく跳ばなければいけない。走り始めました。途中で足がつる、間違いない、という感じがあった。スピードが鈍《にぶ》ったのはそのせいでしょうね。
それでも走りました。4m60を今クリアーしておかなければならないと、そればっかり考えていたんですね。ポールをボックスに突っこんだとき、足は完全にけいれんしていました。これはダメだと思ったとき、体はもう次の動作に入っていたんです。足でバーを蹴ったのはおぼえています。このままではピットの中ではなく外に落ちてしまうなんて考える時間はなかった。落下しながら目の前にボックスが迫ってきて、ぼくはその上に落ちてしまったんですね。気を失っていた。気がついたのは医務室に運ばれてからです。
結局、ぼくは敗れたんだと、最初に思いました。やっぱりダメか、と。
ぼくにとっては、あれが最後の試合になるだろうと考えていたんです。高校三年の夏のインターハイですから、それが終わったらもう次はないと思っていた。大学へ行って棒高跳を続けるつもりもなかったし、どこかの会社に就職して続ける予定もなかった。高校時代はそれほどの記録を出していたわけじゃないんですね。
ただ、一度でいいから勝ちたかったんです。バーが4m60にあがったとき、ぼくと同じ学校の選手がほかに二人いました。木川と小西の二人ですね。彼らはぼくより一級下だったんです。そしてぼくは、たいていの試合で彼らに負けていた。
ぼくはたいした選手じゃなかった。それはいえます。初めて竹のポールを握って中学のグラウンドでバーを越えた時にほめられて、ぼくは棒高跳を始めたわけですけど、記録はそれほど伸びなかった。中学三年のときの全国放送陸上でも、ぼくは県で七位ぐらいの順位だったんです。
4mラインを初めて越えたのは高校二年になってからです。そのとき一年生に入ってきた二人は、すでにぼくの記録を上回った。つまり、負け始めたわけです。
高校二年のインターハイの時、ぼくは何としてでも出たいと思ったんです。上級生が一人いて、そのほかに一年生の強敵が二人いた。ぼくはその一年生の一人に勝てばインターハイに出られると思っていた。校内選考がありました。そのとき、ぼくはたしか二位か三位の成績だったと思う。それでぼくはてっきり出られると思っていた。ところが、もう一度、記録会が行われたんですね。そして、ぼくは負けた。陸上部の監督さんは、最初から二年生のぼくをインターハイに出す気はなかったんじゃないかと、そのころ、ぼくはひがんでいたんです。いくら頑張っても5mを跳ぶのは無理だろうといわれていた。ずっとあとになって、そのことを当時の監督に話したら彼は笑って否定しました。
ぼくは個人的にひがんでいたのかもしれない。
でも、そういうライバル意識があったから、三年生になって初めて出たインターハイで優勝したかった。初めて4mをこえたあと、記録は10pきざみで順調に伸びていたんです。勝てるはずだと思ったし、勝つならこのインターハイしかチャンスはないだろうと思っていた。
そして負けた。
転落して一瞬気を失って、気がついたら医務室にいた。
もうこれで、すべてが終わったんだと、ぼくは思いました。もう二度とポールを握ることはないだろうと、思ったんです……》
6
七三年八月。三重県伊勢の競技場で敗れたポール・ヴォルターには、そういう背景があった。
自分の可能性を夢見るようにして始めた棒高跳は、ひとまずそこで終止符を打った。
彼は、高さを極めるというスポーツの限界に敗れたわけではなかった。むしろ、身近なライバルとの相克にひとまず敗れ去っただけのことである。
そのことに彼が気づいたのは、しかし、しばらく後のことだ。
たいていのスポーツ選手たちは、そこから過去へとターンしていく。1p、1秒の記録を伸ばすことにしのぎを削るのではなく、かつて、自分がそのスポーツをやろうとした瞬間の、浮きたつような気分のなかにたちかえろうとする。そこには趣味としてのスポーツがある。悪いことではない。少なくともそこには跳ぶこと、走ることの楽しみがある。
高橋は高校三年夏のインターハイで落下して手首を痛めていた。大学へ進学することはあきらめていた。農業を営む父親はしばらく前に肝《かん》臓《ぞう》をこわして臥《ふ》せっている。就職を前提として一八歳の春を迎えなければならない。かといって、企業の陸上部から棒高跳をやるために就職しないかという誘いもこなかった。とりあえず、日本のポール・ヴォルターの第一線にとび出すためには、5mの壁をこえなければならない。
そこですべてが終わったとしても、何の不思議もない。
棒高跳に関する唯一の話がとびこんできたのは年を越して卒業が具体的スケジュールに入ってきたころである。
京都に工場を持つユニチカからの誘いだった。
「もう少し続けてみてもいいのではないか」――監督はそういういい方で高橋を誘った。
高橋は自分の限界を知っていた。何よりも体がほかの棒高跳選手に比べて恵まれていないということが最大のネックだった。
身長はさほど伸びていない。171pでほとんど止まったかの如くである。その体で使えるグラスファイバー・ポールは、おのずと限られている。
より高いバーを越えるには、それだけ長いポールを使えばいい。自明のことだろう。しかし、体の大きさによって、どの高さの部分を握れるか、おのずと限界がある。
グリップをどの高さにするのがベストか――それは助走のスピードと筋力にかかっている。無理に高い部分を握って、しかも助走にスピードがなければ、体は上昇していかない。ポールをボックスに突っこんだまま、つっかえてしまうだろう。また、スピードがあっても筋力がなければ、自分を支えることができない。
弾力のある、軟らかいグラスファイバーを用いればいいではないかと、考えるかもしれない。そうすれば長いポールを使っても、そのたわみを利用できるのではないか、と。
それも、しかし、正しくはない。ポールはやわらかければやわらかいほど弾性に欠ける。つまりポールが軟らかくしなっても、体をはじくように高みへとあげてはくれない。
高校時代の高橋は4mほどのポールの3m80pの高さの部分を握っていた。それは右腕、つまり、上にくる腕の位置である。仮りに同じ助走のスピードと同程度の筋力を持ち、背が10p高い選手がいれば3m90pのところを握れることになる。そして同じ技術を持っていれば、高橋よりも10p高いバーを越えることができるだろう。
高橋は3m80pの部分を握って、4m50pを跳んだ。その間の幅は70pである。それは〓抜き〓の幅と呼ばれている。背が低く、握りの位置が低い選手は、この〓抜き〓の幅を広げることによって、握りの高い選手を抜くことができる。それはひとえに、体を上昇させてからバーを越えるまでの技術にかかっている。
スウェーデンにイサクソンという選手がいた。高橋の好きな選手だった。イサクソンも高橋と同様、背の低いポール・ヴォルターであった。しかし、イサクソンは〓抜き〓の幅が1m20pあった。
イサクソンは、例外といってもいいほどのテクニシャンだといえる。ごく普通のポール・ヴォルターは80pから1mほどの抜きでバーを越えている。
ユニチカでもう一度、棒高跳をやってみないかと誘われたとき、高橋が考えたのは、背が低くても技術を伸ばせばある程度高さを伸ばせるのではないか、ということだった。
助走のスピードを上げ、筋力トレーニングを積めば、とりあえずそれだけでグリップの位置を高くすることができる。仮りに20p高くすれば4mのところを握れることになる。30p高くすれば4m10pの部分を握れる。さらに抜きの幅を20p広げてみよう。高校時代より、計50p高いバーを越えることができるはずだ。つまり、5mのバーを越えることができる。
5mは、当時の彼にとっては夢のような高さである。ピットの下に立って5mのバーを見上げると、それはとてつもない高さに見えてくる。
人は、あらかじめ与えられた肉体の条件内で勝負することしかできない。
171p、60s程度の肉体が与えられているなら、おのずとその限界値が見えてくる。ただし、その限界に向かい、さらに限界を超えようと努力することはできる。
ポール・ヴォルト、棒高跳の世界ではこれが限界だろうという数字が計算されている。
身長を仮りに180pとする。その人間がポールを持たずに100mを10秒台で走れるスピードを持っていたとしよう。その選手はポールの5mの高さの部分を握れるはずだという。そして抜きの幅を1mとすれば、人は羽を使わずに、ただ一本のポールを握って6mの高さのバーを越えることができる。
身長がそれよりも低くなり、スピードが落ちればグリップの高さは等比級数的に低くなる。身長171pの高橋の場合、限界グリップの高さを4m50としてみよう。抜きの幅を1mとすれば、彼は5m50pを飛ぶことができる。そこらあたりが、彼にあらかじめ与えられた限界だといえる。
彼はその限界に向かって進み、それを超えようとすることによって自らの夢と可能性に決着をつけるしかない。
高橋卓己の再出発は、そこに向けてのものだった。
7
高橋が七三年度のインターハイで落下したとき、ぼくには棒高跳に関する細かい知識はなかった。担架で運ばれていく彼は、ただ単に敗北した少年にしか見えなかった。高さにあこがれ、1pでもより高くと夢見る少年の敗れ去っていく姿である。あるいは、体が棒高跳の選手としては比較的小さいために努力むなしく負けていく姿である。
それが違うのではないかと思ったのは、数年後、たまたまめくっていた地方新聞の運動面を見ていたときだった。
小さな見出しがあった。
〓高橋卓己(中京大)5m30で優勝〓と書かれている。一九七八年の夏である。それは棒高跳の四国選手権における結果だった。四国、松《まつ》山《やま》で競技は行われていた。棒高跳は四国の香川県で最も盛んであることは先に書いた。四国選手権には有力な選手が集まってくる。それだけに意義のある勝利だった。そのことを報じる記事の片すみに、「インターハイでは惜しくも二位になったがその後、ユニチカ、中京大へ進み……」という解説記事が見えた。
あの時の選手が5mを越えたのかとわかったのは、その時である。
《ユニチカに入ってからは――》
と高橋は語る。
《記録が面白いように伸びたんです。一年目には4m80の記録が出た。二年目にそれが4m90に伸び、シーズンの途中で5m10の記録も出した。秋の全日本実業団大会では5m12まで伸びたんですね。グリップの高さは4m10まで高くなった。助走にスピードがついて、筋力もついてきたからでしょう。それにつれておのずとグリップの位置は高くなるものなんです》
会社とフィールドと寮。その三角点を往復するだけの日々である。酒はほとんど飲まない。趣味もこれといってない。几《き》帳《ちよう》面《めん》な暮らしを、毎日、毎日、くり返した。ポールを握って走りつづけ、その結果、記録が伸びることだけが彼の生活のリズムになった。
変わったことといえば、同じ会社の女子バスケット部に所属するガールフレンドができたことぐらいである。バスケット部の選手とは、彼が体育館練習をするときに、時々、顔を合わせていた。棒高跳の、足を振りあげ体を上にあげ、ターンして腕を伸ばしきるフォームは、吊《つ》り輪を使って練習することがある。トランポリンを使って、フォームを体におぼえこませる方法も行われている。そのために、彼はしばしば体育館へ行った。
バスケット部のガールフレンドとは、彼のほうから声をかけて友達になったわけではない。彼女のほうがきっかけを作り、それから交際が始まった。彼は積極的なタイプではなかった。相変わらず会社とフィールドと寮の三角点を往復する日々が続き、たまに二人は映画に出かけた。
ユニチカで5m12の記録を出したとき、中京大のコーチが彼をスカウトに来た。そして彼は進学した。場所は名古屋である。ガールフレンドは静岡の実家に戻った。二人の関係はそれだけのことだった。彼は何よりもまず、棒高跳に向かわなければならなかったし、それが終わるとアルバイトをしなければならなかった。中京大の宿直室に泊まり込み、深夜、早朝の警備をする。それが彼のバイトである。そうしなければ、大学生活は維持できなかった。
ストイックに、高橋は棒高跳に取り組んだ。大学に入ると、彼のポールのグリップの位置はさらに高くなった。4m20、である。そしてさらに10p高くなった。4m30である。身長は高校時代からほとんど変わっていない。にもかかわらず、ポールの握りの位置は50高くなったわけだ。そして、記録は5m10をコンスタントに出すようになった。高校時代から比べれば60pのびたことになる。
当時、日本記録を持っていたのは高根沢威夫である。記録は5m42。彼は身長が181pあった。高橋は10p低い。
その高橋を見て、高根沢がいったことがある。
《キミは5m20までは飛べるだろう》
それ以上は無理だというわけだった。
高根沢から比べればキャリアも浅く、肉体的条件も不利な高橋がおのずとかかえている限界がそこにあるのではないかと見たのは、高根沢なりの評価基準があったのだろう。
しかし、高橋は高根沢よりも当然低い位置を握って、高根沢の日本記録にあと12pに迫る5m30の記録を出した。それが七八年夏の四国選手権だったわけである。
《ぼくは特別なことをやったわけではないんですよ。ごくふつうの選手がやるように練習してきただけなんです》
ほかの選手に比べれば、彼がよりストイックであったとはいえるかもしれない。大学時代、彼には一人のガールフレンドもいなかった。午前中は授業に出て、午後に練習、夜はバイトという生活のリズムは、試合があるときには変わっても、それ以外では乱れようもなかった。
黙々と、1pずつ、記録を伸ばしてきた。七三年夏のインターハイから七八年夏の四国選手権までの記録の伸びは、そういうことによってしか、語りようがない。
高橋が克明につけている試合ごとの記録がある。それは折れ線グラフになってまとめられている。グラフはアップ&ダウンをくり返しながら徐々に、徐々に上を向いていく。5p伸びては3p下がり、再び4p伸びては2p下がる……。それは地震の前触れのように見える。そういう時期が終わると、記録は突然、10p単位で伸びる。そして、そのレベルで余震が続き、それは次の地震へとひきつがれていく。
高橋自身が一番よく知っている自分の限界値へ、彼はそんな風に近づいていったわけだった。
8
八〇年三月に大学を卒業すると、彼は小豆島の土庄高校に赴任した。定時制の体育教師である。
そこには棒高跳のピットはなかった。
モスクワ・オリンピックも不参加に傾きかけていた。やがて、オリンピック・ボイコットは正式に決まる。彼はそれをショックをもってうけとめたほうではない。
《オリンピックに出ていけば、メダルをとれるというレベルではなかったからでしょうね》
と、高橋は語った。
ボイコットが決定されたあとの、形だけの五輪代表選考会で彼は一位になったが、それ以上は望まなかった。何人かのスポーツマンは涙を流して口惜しがったが、高橋はその現実を淡々と受けとめた。
彼にとって興味があったのは、棒高跳における自分の限界を見極めることであり、その限界に向かって、限界との距離を積分しながら近づいていくことだった。
高橋が初めて、大きなジェスチャーで、バーを越えたことを喜ぶのは、オリンピックの代表選考会があった半年ほど後のことである。
八〇年一〇月一四日。栃木県宇《う》都《つの》宮《みや》で行われた栃木国体。彼は、その四日前に小豆島を出てフェリーで大阪に向かった。東京を経て宇都宮に着く。宿舎は競技場近くの民宿である。
一三日に予選が行われ、4m70の予選通過ラインを越えると、彼はすぐ民宿に戻った。
翌日は、台風が通過しそうな天気予報が出ている。それだけが気になった。
試合の日、競技場に持ち込むものは決まっている。トレーニング・ウェアに着がえ、スパイク、フードつきのウインド・ブレーカー、それに簡単な食料。この日はサンドウィッチにくだもの、ジュースをバッグの中にしのばせた。競技は九時半に始まる。おそくともその一時間前には、フィールドに行き準備体操、ポールの点検を始めるのがふつうだ。最初の選手が跳び始める三〇分ほど前に、役員からコールがかかり、選手の点呼がある。この日は、それがちょうど午前九時だった。スタンドからは、まだ少数の観客が見ているだけだ。
決勝は4m70からスタートした。エントリーしているのは一三名の選手である。強かった風は徐々におさまってきた。
高橋は5mの高さから跳ぶつもりでいた。4m70、80、90と、10pきざみにバーは上げられていく。そのいずれをもパスすると、彼にはしばらく時間ができた。
彼は、いつもそうなのだけれど、他の選手たちとはほとんど口をきかない。《敵はピットの上に横たわっている一本のバーだけなんだから》
黙って準備運動をし、短いダッシュを何本かくり返すと、あとはじっと坐っている。
バーが5mに上がった。高橋はそれを一回でクリアーした。5m10に上がった。その時点で残っている選手は、高橋を含めて四人だけになった。高根沢、成瀬、井上――いずれもトップレベルにいる選手たちである。
高橋は5m10をパスした。その次の5m20を跳べばいいのだと、彼は考えた。風もほとんど止まっており、それは跳べない高さではないと思ったからだ。
5m10というその高さで、しかし、他の選手は一人ずつ敗退していった。
高根沢は4m90を跳び5mをパスして5m10に挑《いど》んだが、3回のトライアルでいずれもバーを落としてしまった。5mを跳んで5m10に挑んだ成瀬、井上も、そこで失敗した。
次に5m10をパスした高橋が5m20を跳べば優勝ということになる。
彼は165ポンドのグラスファイバー・ポールを使っていた。165ポンドとは、その程度の体重の人が平均的に用いるべきポールだという表示である。換算すると約75sになる。グラスファイバー・ポール自体の硬度は、また別の数字であらわされる。フレックス・ナンバーと呼ばれ、これは一定の長さに切ったポールの両端に同重量のおもりを下げ、その時にたわむ長さをインチであらわしたものだ。数字が少なければ少ないほど、ポールは硬くなる。
その日、高橋が使っていたポールのフレックス・ナンバーは22・4。これは平均よりもやや硬いほうに属する。
助走は30m。ももを極端に高くあげる走法で、彼は走り始めた。グリップの位置は4m40。抜きの幅が80pあれば、5m20をクリアーできる。
いつものように、高橋は走り始めた。
目はバーだけを見つめている。
ポールは自然にボックスに向かって吸いこまれていく。
体が浮く。
スピードは、ボックスに突きささった一本のポールによって上昇のエネルギーに変わる。
体が、振りあげられるように高みに向かっていく。
その瞬間、体はターンしてポールの真上に達している。
腕の力がそれをさらにひきあげる。
クリアランス。
バーは、何もなかったように、そこを動かない。
その瞬間、高橋卓己の優勝が決まった。
高橋が、いつもと違って大きなジェスチャーでクリアランスを喜んだのは、しかし、このときではない。
優勝が決まったあと、彼は記録に挑戦した。バーの高さは挑戦者が自由に決められる。
彼がまず指定したのは5m36の高さだった。その一か月ほど前に出した5m35の自己最高記録を、まず超えようとした。そして、それを二回目のトライアルでクリアーした。
その次に高橋は5m43を指定した。これを越えれば、四年前に作られた高根沢威夫の日本記録は書きかえられることになる。
時刻は午後の一時をまわったころである。
一度目のトライアルに失敗すると、彼はしばらく、間を置いた。何人もの選手が残っている場合、次に跳ぶ選手は前の選手が跳んだあと三分以内に跳ばなければならないという規定がある。一人だけ残っている場合はその限りではない。高橋は一呼吸入れて、助走の位置を確認すると、ポールを構えた。ポールの先端は目の高さにある。それを確かめると、彼は走り始めた。
それから六秒ほど経ったとき、ピットに照準を合わせていたカメラマンは一斉にモータードライブのシャッターを押し続けた。
バーは微動だにせず、止まっている。
高橋卓己は、そのバーを間近に見て自ら手をたたきながら、クッションに落下していった。
落下しながら、動かないバーを目前に認めて、手はもう拍手している。記録を更新したというだけではない。彼は4m40のグリップで5m43を越えたのだった。抜きの幅は1m3になる。
その晩、彼は飲みなれないビールを飲んだという。
にもかかわらず、眠れなかったと、照れながら語った。
9
高橋にとっての〓壁〓が近づいてくる。
もう少し、グリップの位置を高くすれば、あと数センチ、記録を伸ばすことができるはずだ。5p高くすると4m45が、彼のグリップの高さになる。恐らく、そこらへんが彼の限界だろう。さらに硬いグラスファイバー・ポールを使ってみることもできる。これも限界に近づいている。無理にグリップを高くし、硬いポールを使えば、跳躍そのものが、バランスを失ってしまう。
グリップ4m45、フレックス・ナンバー(硬度)22・0というポールを使って試合に臨《のぞ》んだのは、彼が日本新記録を出してから、ほぼ五か月後の八一年三月二四日だった。
場所は名古屋。室内国際選手権である。
この大会で、高橋は5m50をクリアーした。記録をさらに伸ばしたわけだった。
壁を無理矢理こえようとするとき、人はたいてい、代償を支払わなければならない。多くの人間にとって肉体は最も直《ちよく》截《せつ》的にみずからの限界を知らしめてくれる。
高橋卓己は、ポールの4m45の高さを握り、フレックス・ナンバー22・0の硬いポールを用い、グリップの位置より1m5高いところにあるバーを越えたとき、その限界をこえてしまったのかもしれない。
彼は、右の肩の筋肉を痛めた。
ポール・ヴォルターがバーに向かって、高みを極めようとするとき、体をエビのように高く振りあげ、バーに向かって背を向ける姿勢から腹を向けるようにターンするまで、イメージの中では信じられないかもしれないが、彼の右腕はまっすぐに伸びきっている。その右の腕から肩にかけての部分に負担がかかったわけだった。
それは、高橋卓己というポール・ヴォルターが、自分自身の限界に近づきすぎたことを警告するものなのかもしれなかった。
しかし、彼はまだ跳び続けるつもりでいる。誰《だれ》だって、自分の限界など認めたくはないのだ。
と同時に、行くべきところまでいってしまったときに立ち現われるむなしさという感情も、彼の心の中にはある。
《なぜ、むなしいのか……》と、彼は語った。
《やるところまでやって、ぼくは何を得たのだろうかと、考えてしまったんです。記録……それだけなのではないか、と。例えば、ソ連や東ヨーロッパの国のように、スポーツで記録を作ることによって社会的なステイタスを与えられるなら、ぼくは記録以上の何かを得たのだと思えるでしょう。そういう制度がいいか悪いかは、あくまで別問題として、現実にぼくは、何もないのではないかと思ってしまうんですね。
第一、ぼくは、学校の教師という立場にいながら、生徒たちに何かを教えていくという自信がまだないんです》
それは哀しい結末なのだろうか。
それとも、単に第一章が終わったことを示す台《せり》詞《ふ》なのだろうか。
彼の第一章は、こんな風に始まっていたわけだった。
《ボクハ中学生デシタ。マダ入学シテ間モナイコロデス。アル日、ボクハぐらうんどノスミニアル棒高跳ノふいーるどニイマシタ。ソコニ竹ノ棒ガアリマシタ。向コウニハばあガアリ、ソノ竹ヲ使ッテばあヲ越エヨウトシテイタノデス……》
ふと思い出した台詞がある。
ヘミングウェイが、ある短篇小説のなかでこんな風にいっているのだ。
「スポーツは公明正大に勝つことを教えてくれるし、またスポーツは威厳をもって負けることも教えてくれるのだ。
要するに……」
といって、彼は続けていう。
「スポーツはすべてのことを、つまり、人生ってやつを教えてくれるんだ」
悪くはない台詞だ。
初出誌
「八月のカクテル光線」――「465球の奇跡」(Sports Graphic. Number 9) を改題
「江夏の21球」―― 「Sports Graphic. Number 1」
「たった一人のオリンピック」――「文藝春秋」一九八〇年八月号
「背番号94」――「野性時代」一九八一年三月号
「ザ・シティ・ボクサー」――「野性時代」一九八一年五月号
「ジムナジウムのスーパーマン」――「壁に向かって打て」(「小説新潮」一九八一年八月号)を改題
「スローカーブを、もう一球」――「野性時代」一九八一年四月号
「ポール・ヴォルター」――「野性時代」一九八一年六月号
スローカーブを、もう一球《いつきゆう》
山《やま》際《ぎわ》 淳《じゆん》司《じ》
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平成 13 年 1 月 12 日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Junji YAMAGIWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『スローカーブを、もう一球』昭和 60 年 2 月 10 日 初版 刊行
平成 12 年 7 月 20 日 43 版刊行