TITLE : エンドレス・サマー
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。
本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。
目 次
はじめに
〓 エンドレス・サマー
●変身について ●ウサギとカメ 緒篇 ●ハードボイルド ●ある日の北の湖 ●ノックアウト ●目標? 6000勝だんべなあ ●スポーツマンのどアップ ●ホットコーナー ●ラビット・ランナー ●KONISHIKI ●テスト生 ●タマサブローのその後 ●あるラガーに関する二つの話
〓 オリンピックをめぐって
●ローカル・カウボーイ ●短い夏 ●ハンマーとスピードの関係 ●瀬古利彦について ●コー&オベット ●ウェイト・リフター ●予定どおり
〓 セカンド・ハーフ
●サイボーグ ●0―1のスコア ●トライ ●草魂について ●セカンド・ハーフ
はじめに
メA Touch of Gloryモ というアイ・キャッチのついた連載を、雑誌「ブルータス」でつづけていた時期がある。「エンドレス・サマー」というタイトルをつけたこの本に集めたのは、そのときに書いた文章が中心になっている。
タッチ・オブ・グローリーというフレーズは気にいっていた。どういう日本語に置きかえたらいいのだろうか。なかなかいい言葉が見つからない。文字どおりに理解しようと思えば、栄光に触れること、栄光をつかみかけた状態のことを指すのだろうが、それを日本語らしい言い方にするのはむずかしい。
知り合いのアメリカ人に聞いたら、例えばこんなときにそのフレーズを使うのだという。
時間をかけて、ゆっくりと第一線に登場してきたスポーツ選手がいる。才能がとぼしかったわけではない。彼は自分のなかにある能力に気づくのがおそかったのかもしれない。あるいはちょっとしたアクシデントで停滞を余儀なくされてしまったのだ。背景に何があるにせよ、彼は長い下積みの期間をすごすことになった。ある日、彼は突如として疾走しはじめる。それまでにたくわえていたエネルギーがあふれ出てきたかのように、急激に上昇していく。挫《ざ》折《せつ》から立ち直ったのかもしれない。ほんのわずかなきっかけをつかんだことがよかったのかもしれない。そして、ゴールへと進んでいく。
あの男が、栄光をつかもうとしている。
今、まさに、勝利に手をかけようとしている。
例えばそんなときが、タッチ・オブ・グローリーというフレーズを使うのにふさわしいのではないか、というのだ。
栄光という言葉、そしてグローリーといういい方は、いずれもぴかぴかと光りすぎていて、それがまた金ピカに近いニュアンスなので、じつをいうとぼくはあまり好きではない。燦《さん》然《ぜん》と輝くものに、どちらかといえば無縁だったせいかもしれない。栄え光るという言葉の組み合せには熟語としての慎み深さが感じられない。といってみてもたいした意味があるわけでもないのだが。
しかし、タッチ・オブ・グローリーというフレーズになると、なんとなくぼくは受け入れてしまう。じつになんとなく、なのだけれどね。
ところで、〈栄光〉と〈スポーツ〉は、同じ町内会に住んでいる者どうしのように、なじみあっている。スポーツシーンに栄光はつきものだし、栄光を求めようとすることはスポーツマンたちの心的モメントの一つになっている。
そしてぼくがいつも気になるのは、栄光はどんな人間にとっても一瞬のものでしかないのではないかということなのだ。それはゴールのように見えるが、本当のゴールなのではない。わかりやすくいえば、仮にオリンピックでゴールドメダリストになったからといって、そこで何かが終わってしまうわけではないでしょう。
何ごとにも、つづきがある。死ぬまで。
スポーツに限った話ではない。恋愛には、とりあえずのクライマックスはいくつかあるが、そこで終わるものではない。つづきがある。
それゆえ、心ある人たちはいつまでも、もがきつづけることになる。終わりのない、あつい季節をわたり歩こうとするのだ。
ここには、じつに沢山の男たちが登場してくる。めまぐるしいほどに。そのなかには、以下の文章が書かれた時点と今とでは立場を異にしている人もいる。しかし、終わることのない季節を歩きつづけていることには変わりがない。それゆえ、改めて大幅に書き直そうとはしなかった。これはあらかじめ書いておくべき、筆者としての注である。
〓 エンドレス・サマー
変身について
数年前の話だ。
日本ハム・ファイターズのリリーフ・エース江夏豊が、西武ライオンズの広岡監督をしきりにマークしている――と書いてもおかしくなかったころの話である。
「あのオッサン、たいしたもんや」
と江夏はいうのだった。
「西武いうたらチーム力というより、勢いで勝つチームだった。勢いにのれば五連勝ぐらいわけなくやってのけるくせに、負け始めると連敗する。せっかく五連勝したのにそのあと六連敗するとかね。それをわずか一年で優勝できるチームにしてしまったんだから。どうやってあそこまでまとめあげたのか……」
日ハムの江夏は八二年パ・リーグのプレイオフで、その広岡監督に徹底的にマークされ、バント攻撃で敗れた。そのこともあって、次の年は西武をメイン・ターゲットにしようとしているわけだった。
江夏が広岡監督の手腕を評価するのは、例えば田淵幸一という選手をその気にさせてしまったケースをまのあたりにしたからでもある。
西武と中日とのあいだで争われた八二年の日本シリーズ第一戦、田淵は一塁を守った。その田淵の前に、ふらふらとあがった小飛球をダイビング・キャッチしようとしたプレイをおぼえている人は少なくないだろう。ダイレクト・キャッチにならず、ワン・バウンド捕球で結局は内野安打になったのだが、あのプレイを見て田淵はいったいどうなったんだと、誰しもが思ったはずだ。まるでタブチ君らしからぬファイトだったのだから。
つまり彼は豹変してしまったわけなのだ。その後もその豹変ぶりはつづいた。タブチ君の練習ぶりは、じつに熱心だとレポーターはくりかえし伝えてくれた。
贅《ぜい》肉《にく》をかなり殺《そ》ぎ落しスマートにさえなっている。バットの振りは鋭く、フリーバッティングでは、面白いように打球をオーバー・フェンスさせているのだ。ちょっと待ってくれと、いってみたいほどである。
〈優勝〉という、彼にとっては初めての経験が、彼をして豹変せしめたことは想像にかたくないのだが、そこでおどろかざるをえないのは、彼がすでに三〇代の半ばをこえたあとで豹変したということなのだ。
タブチ君は、一九四六年生まれ。初めて優勝を経験したのが三六歳のときだった。ごくふつうの社会のなかでも大人であるし、プロ野球の世界でいえば大ベテランに属する。自分なりの野球観なり生き方なりを身につけていて当然だし、かたくななまでにそれを守りとおしても非離されることはない。そういう年齢なのだ。
かつて同じ法政大学のユニフォームを着ていた同期生、山本浩二と比較してみるといいだろう。山本は広島カープに入り、今やおしもおされもせぬチームの大黒柱である。セ・リーグの中心バッターの一人である。カープの次期監督は、この山本浩二をおいて他にいないだろうといわれている。その山本とタブチ君が同期生であるという事実に、ぼくは軽いめまいさえ感じてしまう。だって、あの山本浩二が今の年になって豹変することなど考えられますか? 功なり名を遂げた人間の常として、彼はデンとして自分を守りとおすだろう。
それはそれでちっとも悪いことではないのだけれど、他方にタブチ君という、平然と自分を変えていく人間がいることを思うと、山本浩二が広島という地方都市に根をおろしすぎてしまったきらいがあるのではないかと、思えてくる。
山本浩二は、彼自身の野球をほぼ完成させている。そのバッティングも、キャラクターも変わりがないだろう。〈ミスター赤ヘル〉それが山本浩二であり、それ以上でも、以下でもない。完成は、しかし、終《しゆう》焉《えん》をも意味する、彼には、もうこれ以上、がないのだ。
田淵幸一という男には、まだ何かがありそうな気がする。タブチ君には、無神経なまでに平然と時空間をとびこえてしまう、不思議な魅力がある。
「ぼくがプロの世界に入ったころ、体重がどれくらいだったか知ってますか?」
彼はそう聞いてくるのだ。三〇代の半ばで、田淵は90〓をこえていた。
「あのころは70〓台ですよ。もう、ひょろひょろだった。タイガースに入って、最初のころにいわれたのが、おまえそんな体で打球を遠くに飛ばせるわけがないじゃないか、ということでしたね。食え、もっと食え、太るんだ。そういわれましてね。好きなだけ食べて飲んでたらこうなっちゃった。ハハハ」
この無邪気なほどの素直さ!
タブチ君は六大学野球で二二本のホームランを打ってプロ入りした。学生時代から、背番号は〈22〉だった。そして、プロ入りした一年目、彼はちゃんと二二本のホームランを打ったのだ。一本多くも、少なくもなく、である。そのことについてタブチ君にたずねたことがある。あと二、三本、打とうと思えば打てたのではないか、と。その年、タブチ君が二二本目のホームランを打ったのは、残り試合がまだかなり残っている時点だったのだから。
彼の答えはこうだった――「打とうと思えば打てたでしょうね。でも、二二本打ったときに、これで背番号とちょうど同じだけの本数を打ったんだから、これ以上はいいやと思っちゃったんですよね。学生時代に二二本、背番号22、新人として二二ホーマー。わかりやすくていいじゃないですか。もうこれでいいやと思ったら、それ以上は打てないですからね」
この開放的ないいかげんさ!
女性とのつきあいにおいても、彼はみごとに豹変する。
タブチ君には学生時代からおつきあいしていた女性がいて、二人のあいだには子供も生まれたが、そのころにはタブチ君の心は別の女性に移っていて、タブチ君はこちらの女性と結婚した。それが前夫人である。二年ほど前、その前夫人と離婚して現夫人である八田有加さんと結婚。離合集散のたびに、タブチ君が深く悩んだのか否か、つまびらかではないが、そのたびに彼は心機一転、ケロリと前のことを忘れてひたすら前進するという特技をもっている。
前夫人にこんな話を聞いたことがある――あの人、ホントに赤ん坊みたいなところがあるのよね。下着をはかせてくつ下をはかせて、そこから私の仕事が始まるんだから。したいほうだいのことをする人ですよ。これから浮気をしにいくというときに、私にクルマで送っていけというのね。あるホテルに入っていくのに一人じゃ目立つから、途中までお前ついてこいって。しようがないから私、クルマで送り届けて、エレベーターの前まで一緒に行ってそこで別れてくるわけね。妙な夫婦でしょ、アハハハ。
たしかに。
ここらへんが、タブチ君の真骨頂であろうと、ぼくには思える。チャイルディッシュといっていいくらいの稚気。粗雑なおおらかさ。こういう人物は、なかなかいない。
三五歳を過ぎて広岡監督と出会い、ころりと豹変できるのは、自分の人生にこだわりとしてひきずっているものが少ないからである。過去を重々しくひきずっている人間は、簡単に変身することはできない。そういう人間は、まず何よりも自分の過去に対して恥じてみたりするものなのだから。
場面が変わる。
状況が変わる。
そのとき、自分の気分まで変えられる人間は強いのではないか。部屋のスイッチを消したとたん、頭のなかも真っ暗になって安らかに眠れる人間は、うらやましいほど、楽天的であるにちがいない。
八二年の日本シリーズ第六戦のことだ。西武が三勝二敗とリードしていた。そして第六戦はナゴヤ球場で行われた。3回の表裏に両チームとも4点ずつを加えて同点。しかし、西武は圧倒的に中日を押しまくった。7回に2点、8回に1点、さらに9回に2点を加えてスコアは9―4。
9回裏、中日の最後の攻撃。西武のマウンドは東尾が守っている。三塁側の西武ベンチは、勝ったあとの胴上げのことを考えている。
そのときタブチ君は、ベンチの最前列にいて、他のナインに大きな声でこういっていたのだ。
「いいか、おれが最初にとび出していくからな。おれより前に出るなよ。いいな。おれより前に出ちゃいかんぞ!」
真顔でこういうことがいえる選手は、貴重な存在であります。
このシーズンオフにタブチ君に会ったとき、彼はこういっていた。
「ぼくは長持ちしますよ。山本浩二は今まで必死でやりすぎているから、もうボロボロでしょう。ぼくは体をいじめてないからね、これからでもやれるんですよ。だってまだ、ピンピンだもん」
田淵幸一が引退したのは八四年のシーズンが終わったあとのことである。
ウサギとカメ 緒篇
尾崎将司は〈ジャンボ尾崎〉と呼ばれることが多い。
ぼくは、以前からその呼び名が気になっていた。はっきりいって、何とダサいネイミングだろうかと思っていたのだ。そもそもはスポーツ新聞かゴルフ雑誌のスタッフが見出し用に考え出したものだと思う。
尾崎のドライバー・ショットは、たしかに豪快だった。そのショットを生むだけのパワーが彼の肉体にたっぷりとつめこまれていた。ちょうどジャンボ・ジェット機が就航したころの話だ。〈ジャンボ尾崎〉というネイミングが出てきたのには、それくらいの理由しかない。それはサルに似ているからといってモンキーという渾《あだ》名《な》をつけるのと、センスのうえでは大差がない。知っていると思うが、そのころ青木は〈コンコルド青木〉と呼ばれていたのだ。
ちょっと待ってくれよ、といいたくなった。
〈コンコルド〉はすぐに消滅した。騒音公害をおそれてJALもANAもコンコルドを一機も買わなかったせいだろう。青木のためにそれはとてもよかったと思う。おかげで青木は今必ず〈青木功〉と書かれるようになった。
尾崎には、まだ〈ジャンボ〉という、ぼくにいわせれば趣味の悪い、冠詞がついている。もう取りはずしたらどうかというのが、ぼくの意見だ。
〈エクセレント〉という形容詞のついたウイスキーだの〈ビューティフル・スージー〉などと呼ばれる女のコもいるが、それはそういわなければエクセレントでもビューティフルでもないからだ。
尾崎には〈ジャンボ〉などという言い方は不要だ。昔から不要だったし、今もいらない。〈尾崎将司〉、それだけのほうが、ずっといい。
話が逆だ、という人もいるだろう。最近の尾崎は全然勝てやしないじゃないかと。坂をころげ落ちるように調子を崩した。その間に青木に抜かれ、中島常幸に水をあけられ、倉本、羽川、湯原といった若いゴルファーたちが台頭してきた。尾崎は〈ジャンボ〉という愛称があるからこそ生きながらえているのだ、というのだろう。
たしかにトーナメントで尾崎が優勝する回数は減っている。減っているどころか、勝てそうにないゴルフをしている。
これからも、せいぜいそんなペースだよ、という人もいる。
ぼくはそうは思わない。
なぜなら、尾崎将司ほど才能に恵まれたゴルファーはいないからだ。
ここ何年もの間、尾崎は才能を浪費している。それだけのことなのだ。
しばらく前、尾崎と語りあう機会があった。
「要するにおれは、一度、飽きちゃったんだな」
尾崎はそういった。
「何に飽きた?」
「勝つことにさ。プロ野球に早いとこ見切りをつけてプロ・ゴルファーに転向したでしょ。いくらでも勝てるんだよ。どうってことなかった。トーナメントからトーナメントにわたり歩いていれば、勝ち星が一つ一つ増えていくんだ。金も儲《もう》かるしね。アメリカのマスターズというビッグ・トーナメントに出ればすぐに八位に入っちゃうしね」
「やろうとしていたことが二〇代のうちにあらかた終わってしまった、ということなのかな」
「そう。野球をやめるとき、故障してやめたわけじゃなかった。ゴルフがやりたくてね。もう、しようがなかった。球団としては困ったと思うよ。高い契約金を払ったのに、わずか三年でやめるっていい出したんだから。ぼくは二一歳ですよ。道義的には、いいやめ方ではなかったと思うんだ。でも、それだけゴルフに熱中していたんだ。熱意があった。プロ・テストを受けて合格した。それから五年ぐらいは全身でゴルフに打ちこんでいた気がするね……」
かつて尾崎の時代があり、そのあとで青木が頭角をあらわしてきたから、尾崎はかなりのベテラン選手だろうと思っても不思議はない、正確なところを書いておくと、尾崎がプロ・テストに合格したのが昭和四四年、青木は三九年である。青木は第一線に出てくるのに時間がかかった。尾崎は彗《すい》星《せい》のごとくデビューした。
尾崎は徳島海南高校のエースとして甲子園のマウンドを踏んでいる。センバツの優勝投手である。その後西鉄ライオンズに入団した。西鉄の若手ピッチャーとしては池永のほうが注目されていた。尾崎はさっさと野球に見切りをつけた。
プロ・ゴルファーになって一年目に関東プロに勝って、これが初勝利。二年目に五勝、三年目は一〇勝、四年目に五勝して五年目は六勝――五年間で二七勝をあげてしまったのだ。
二〇代のうちにやることをあらかた片づけてしまったと尾崎がいうのは誇張でも何でもない。
「でも、ふつうはそこからもう一度新たな目標を見つけて頑張ったりするわけでしょう」
ぼくは聞いた。
「そうだろうな。そういうもんだと思うよ。あのころはアメリカ・ツアーに出ることはなかなかできなかったんだ。せいぜいマスターズぐらいだったね。ほかの試合には出られない。今はいいね。みんなどんどん出ていかれるから。当時からそういうシステムができあがっていたら、おれは間違いなく向こうに行ってたと思うね。ヤル気になったと思う」
飽きてしまうというのは、天才によくありがちなことだ。
努力型の人間は一つ一つ、石を積みあげるように自分のステイタスを作りあげていく。このタイプは、一歩先しか見えない。その見えている一歩を、まず踏み出そうとする。それをくりかえしているうちに、本人もびっくりするほどの高みに到達することもある。
先が見えすぎるというのは、考えようによっては不幸なことである。あとどれくらい努力するとどこらへんまでいくか、あらかた見えてしまう。たいしたことはないな、とそこで思ってしまう。第三者から見ればかなりたいしたことなのだが、自分でおのれの可能性を見とおすタイプの人間は、自分に見えていることに対して夢中になることができない。
尾崎はそういうゴルファーなのだと思う。
習志野にある尾崎の家をおとずれると、この男の生活が見えてくる。
ギターが何本も並んでいる。アコースティックを中心に様々な種類のギターだ。完《かん》璧《ぺき》なオーディオ・セットがある。ゴルフに飽きた尾崎が音に夢中になっていた時期があったことを、それは物語っている。数百本のゴルフ・クラブのコレクションもある。
そのクラブに手を加えるための工房にも、完璧な設備が揃《そろ》っている。ここ一年ほどの間に完成させたのがトレーニング・ルームだ。二階建ての別棟のすべてが筋力トレーニングのためのスペースになっている。会員制のヘルス・クラブでも、これだけのマシーンを揃えているところはいくつもない。
尾崎は、才能を浪費することにも飽きたようである。
何台もクルマを買いかえ、スピードに酔おうとしたこともある。可能な限りのベスト・サウンドを追求し、その世界に身をゆだねた時期もある。その合い間にゴルフをやって、それでもそこそこの成績を残してきた。
彼は今、三〇代の後半にさしかかった自分の肉体を作りかえることに夢中になりはじめたのではないか。
「結局、おれにはね、完璧さを追求する楽しみしかないんだ。それがまだ残っている」
「ゴルフに関して?」
「そう。日本人のゴルフは技のゴルフだと、いちおう、そういうふうに考えてみよう。短くきざんで、アプローチ・ショットの技とバッティングでスコアをまとめていく。おれはそういうゴルファーにはなりたくない。あくまでも大きく打つ。フルスウィングでね。スケールの大きさを保ったまま、まとめていく。おれがやっておかねばならないのは、そういうことなんだ」
そのためにどうするか。
尾崎は自宅にヘルス・クラブを作ってしまった。
ウサギとカメと競走したらどちらが勝つか、という設問は古典的でありすぎるくらいクラシックだ。寓《ぐう》話《わ》ではカメが勝つことになっている。
しかし、実際はウサギのほうがどうしようもなく速いはずなのだ。
二〇代をウサギのように疾走した尾崎は、寓話どおり休みをとった。カメが追い抜いた。そのあと、本当はどうなるのだろうか。ウサギは寓話の第二部を見せてくれなければ困る。
ハードボイルド
スポーツ選手を主人公とするハードボイルド・ノベルをそのうち書いてみようかと考えたりすることがある。
元ボクサーだというシークレット・エイジェントはときおりフィクションに登場するが、現役のスポーツ選手が主人公として設定されているものは存外、少ない。
果たして誰がモデルになりうるだろうか――と、考えてみよう。プロ野球選手は、すべからく失格してしまう。その理由をひとことでいってしまえば、野球選手というのは概してダンディではないからだ。
高校か大学を卒業してプロの世界に入ってくると、彼らはまずクルマを買いたがる。それぞれ運動神経に関してはすぐれたものを持っているから、彼らは並以上のドライビング・テクニックを持つようになる。マニアックといっていいほどのクルマ好きもプロ野球の世界には少なくない。現代のハードボイルドにクルマは欠かせない。そういう意味ではハードボイルド・ノベルの主人公になりうる条件を、彼らは一つ満たしている。
しかし、それだけでは足りない。固《ハード》 茹で《ボイルド》小説の主人公は、人間社会のメカニズムを知り抜いていなければならないし、人情の機微に通じていなければならない。それは作家が書き込んでいけばすむ問題だが、例えば、一方でハエ、ハエ、カ、カ、カ……とやられてしまうと同じキャラクターを使って〓“事件〓” の奥にひそむ人生の微妙な味わいを書くことは、かなりむずかしい。メンフラハップの世話になる主人公もさえないし、〓“小さな巨人〓” たちもサマにならない。
同様に「打ったのはストレート。気分は最高ス」というコメントしか出せない選手も失格だ。
主人公は、気の利《き》いたセリフをいつでも一ダースぐらい用意しておかなければならない。でないと、女一人口説けないではないか。
特に名を伏せる必要もないだろうから書いてしまうが、ジャイアンツの定岡クンが六本木のさるレストランでいい感じで食事をしているシーンにぶつかったことがある。定岡クンは一人先に来ていた。女を待つ姿勢に風情があった。相手はなかなかの女性でありました。ただ惜しむらくは、余分な連れがいたということなのだ。彼が二人きりで食事をしながらセリフの切れ味でいい雰囲気に持っていったとしたら拍手だったのに。もっとも、こっちは男ばかりの三人連れだったからデカイことはいえないのだけれど。
ともあれ――野球選手は固《ハード》 茹《ボイルド》で小説の主人公にはなりがたい。都会派の野球選手って、なかなかいないものなのだ。
前置きが長くなってしまったが、むしろぼくは、ラガーのなかにハードボイルド風な男がいると思っている。
ラグビーの世界には松尾雄治という男がいる。
松尾雄治。社会人ラグビーではその名も高い「新日鉄釜石」の選手であり監督であった男だ。ポジションはスタンドオフ。同時に、彼は全日本選抜チームのスタンドオフをつとめる一方、キャプテンという重責も担っていた。
この文章を書いている時点で、松尾はまだ現役の選手だった。
釜石にあるラグビーチームのスタンドオフがなぜ、ハードボイルドなのか? と疑問をさしはさむ向きもあることだろう。もちろん、カマイシは舞台になりにくい。新日鉄カマイシの溶鉱炉に卵を投げ入れたら瞬間のうちに、固《かた》茹《ゆ》でどころか溶けてなくなってしまうだろう。
しかし、松尾はシティボーイである。生まれは東京、成城。成城学園高校に進学したが、ラグビーを本格的にやるために途中から目黒高校に転校した。目黒高校は高校ラグビーの名門の一つだ。
大学は明治大学。一年生のときからレギュラーに選ばれた。ポジションは、最初はスクラムハーフ。二年のときからスタンドオフを命ぜられ、以後、ずっとナンバー〈10〉のジャージイを着つづけている。
松尾のプレイは「天才的だ」と、しばしばいわれてきた。
スタンドオフというポジションはフォワードとバックスをつなぐキイポイントである。フィフティーンのなかではコントロール・タワー的な役割を担っている。相手チームの動きを見ながら、どう攻めるのか、あるいはどう守るのか。状況を読みながら戦略をたて、チームをリードしていく。それがナンバー〈10〉である。
彼の評価は、まずその読みが正確であるという点に与えられている。フォワード主体で突進していくのか、ボールをバックスにまわしオープン攻撃を仕掛けるのが得策か、それは相手の力を判断したうえでなければ下せない。
自分でボールを持って走る。あるいはキックで敵陣深く攻めこむ。それもスタンドオフの重要な役割だ。この点に関しても、松尾は申し分ない。真っすぐに走るのは誰にでもできる。タックラーがいなければの話だ。タックルをかわしながらステップアウトして切り抜ける。このワザがなかなかにむずかしい。
キック力に関していえば、松尾は一試合で三つのドロップゴールを決めたことがある。八三年の一月四日に行われた全国社会人ラグビー準々決勝のことだ。対戦相手は神戸製鋼。前半五分、ラインアウト後にできたモールから出たボールをつかむと、松尾はその場でゴールを狙《ねら》った。距離は約20m。ゴールの右側から蹴《け》ったものだった。次いで、前半二〇分、ゴール正面20m地点でのスクラムから出たボールを蹴った。さらにその一〇分後、左中間、ゴールラインまで20mという地点でのスクラム。蹴り出されたボールをスクラムハーフがつかむと、後方の〈10〉番、松尾にパス。松尾はむずかしい角度からのキックを難なく決めてしまった。
一試合に三つのドロップゴールを決めたというケースは、過去の日本のラグビーにはなかったことだ。この試合、新日鉄釜石は37―3というスコアで神戸製鋼を下した。その後も勝ちつづけて社会人ラグビーを制し、同志社大学との間でたたかわれた日本選手権でも勝った。松尾雄治を中心とするこのチームは、とにかく強かった。
ラガーとしての松尾雄治は、そういう才能を持っている。
ぼくが松尾雄治と会うようになったのは、新日鉄釜石が五連覇を達成したあとのシーズンオフのことだ。
彼はしばしば上京してきた。ぼくらは何度か、銀座の片すみのバーや青山のちょっとした店で酒を飲んだ。そのうち、彼にはラグビー以外の才能があることに気づいた。
まず第一に、松尾雄治という男はいい感じで、女にモテる。モテかたのニュアンスを正確に伝えるのはむずかしい。彼に対して熱いまなざしを送ってくる女性が沢山いるわけではない。つまり彼は、アイドルや二枚目役者のようにミーハーも含めて誰からも注目されるのではない。ものをわきまえた感じの、女としてできあがった雰囲気を漂わせる女性が、彼にじっと視線をはりつかせていたりするのだ。それに対して彼は軽々しく反応したりはしない。その種の遊びのバカバカしいむなしさを知っている男の横顔をのぞかせるのだ。そこらへんの構え方が、悪くない。
同時に彼は、男と男がどういうふうに付き合うべきかも知っている。
彼が新日鉄釜石というチームの監督をひきうけたときのことだ。どういうチームづくりをしていくのかと聞かれて、彼はこういった。
「若い選手たちが、監督であるぼくに頼ろうとしてもダメだ。上に立つぼくが引っ張っていくだけでも、チームは強くならない。選手一人一人がその気になって自主的にやらなければね。
ぼくは、前監督の森さんより多分、アクが強いだろうと思う。ぼくは若手に迎合していこうという気も頭もありません。若いやつらから見ればとっつきにくいと思う。それでもいいと思っている。異質な個性のぶつかりあいのなかから芽生えてくるものでなければ本物じゃないですよ。妙な協調性よりも自立心を持つべきだと、ぼくは考えている……」
松尾は、とてもストレートにモノをいう男である。ラグビーという、チームプレイの必要な競技をしながら、それだけでは満足せず個性を磨けといっている。それは、男としての姿勢の問題なのだ。そこがあいまいであると、固《ハード》 茹《ボイルド》で小説の主人公になれない。
彼は男としての立ち方を知っている。だから、ラグビーを離れたところでも松尾雄治の世界を持っている。やがて引退したあとで証明されたことなのだが、松尾はラグビー以外の世界を自在に遊泳しはじめた。フィールドを走るがごとく、である。
こういう男なら、都会の夜を背景にした固《ハード》 茹《ボイルド》でストーリーができそうな気がしている。
ある日の北の湖
相撲を見に行った。北の湖の相撲を見ておきたかった。そのうち、一時代を画したこの横綱の相撲は見られなくなってしまう。
一月初場所の八日目。両国の国技館界《かい》隈《わい》は早い時間からにぎわっていた。
「今日は久しぶりに超満員になりそうですね」
と、同行してくれたSさんがいう。この人はたいへん相撲に詳しい。Sさんの話によれば、ここのところ相撲人気は下降線をたどっているという。それでも国技館のあたりに華やいだような空気が漂っているのは、大乃国、保志といった若い、イキのいい相撲取があらわれたからだというのがSさんの説明だった。
相撲は、テレビで見ると面白さがわからないというのが、ぼくの考えだ。たいていのスポーツに同じことがいえるのだが、特に相撲がそうだ。テレビカメラがどんな角度から中継しようと、あの小さなブラウン管にはおさまりきらないニュアンスが相撲にはある。例えば、関取たちの肉体だ。ブラウン管にうつしだされるあんこ型の力士は、どう見ても形はよくない。体全体のバランスは悪いし、あの体が土俵の上を右往左往する姿は、ときにこっけいですらある。
しかし、土俵の大きさを自分の目でたしかめ、力士の肉の大きさを確認し、筋肉のしぶとさをまのあたりにするとき、あんこ型の力士がじつは相撲取本来の姿であることに思い至るのだ。
できれば、一番相撲から見るのがいい。まだ閑散とした館内の、客が来ていない桟敷席に座りこみ、少年の面かげを顔や体に残している序ノ口、序二段の力士たちを見ていると、その表情にこれから何ごとかをなしとげようとしている人間特有の初々しさと戸惑いを見てとれる。
北の湖にもそういう時期があった。国技館のなかに相撲教習所という木造の建物がある。昔の、ぼくらが通っていた時代の小学校のように古い。一階に土俵があり、二階にあがるとそこは教室になっている。壁に相撲の歴史を記した年表が貼《は》ってある。入門すると、まずここで相撲を教えこまれるわけだ。すっかり古くなってしまった机が並んでいる。そのたたずまいも小学校の教室のようだ。机の表面はイタズラ書きが幾重にも書きこまれている。ナイフで彫りこんだものもある。正確に判読しがたいのだが、そのなかに〈小畑〉と読めそうな文字があった。
小畑敏満、それが北の湖の本名である。
ところで、横綱というのは、一度ゴールに到達してしまった男のことだ。横綱は攻めるのではなく、守るためにたたかう。どんなに若くして横綱になっても、横綱になったとたん、表情が大人びてくる。勝つためではなく、負けないためにたたかうせいだろうと、ぼくは考えている。北の湖は、そういう意味でいえば典型的な横綱である。
知っていると思うが、北の湖が横綱になったのは二一歳のときだった。初土俵が一四歳になるころだ。彼は一〇代の後半をかけて一つの課題に挑戦し、二〇代の初めにとりあえずのゴールに到達してしまった。
そのころから北の湖は、今の北の湖のような表情をしていたという記憶が、ぼくにはある。それはつまり北の湖がその若さで、もうこれ以上の上はない、あとは守るだけだという精神的立場に立ってしまったことを意味している。わずか七年間のうちに、彼は初々しい少年から老成した大人の世界までを走り抜けた。濃密な時間を体験した。その結末が、北の湖の表情に正直に見えていた。
力士の顔を見るとずいぶんとフケているくせに手もとの資料を見ると存外、若いのにおどろくことが、しばしばある。それは相撲の場合、一五、六歳からせいぜい三〇歳ぐらいまでのあいだに、ふつうの人の五〇―六〇年分を生きてしまうからだ。そう考えると、納得がいく。
なぜか、テレビの前ではそんなことをぼんやり考えたりすることができない。どちらが勝つかという興味しかわいてこない。勝ち負けとは別のものを見ようと思えば、実際この目で土俵の見えるところに足を運ばなければならないのだ。
そういう目で見ると、例えば十両の服部が、すんなりと幕内上位にはあがってこないだろうと、自信をもって断言できる。服部は将来の横綱だと期待され、騒がれてこの世界に入ってきたのだが、彼はまだ人生における青年の域を脱していない。土俵というところは、役者における舞台以上に、その人間の存在感がすけて見えてしまう。ヘボ役者かいい役者か、テレビや映画を見ているだけではわからないが、大きな舞台に立たせるとすぐわかる。それと同じように、土俵にあがった力士は、弁解しようもないほどに、観客の目によって裸にされてしまう。相撲は、舞台以上の見世物なのである。
ところで、北の湖である。
北の湖は引退を目前にしていた。周囲は時間の問題だと見ている。本人も、土俵を降りるべきときが近づいていることを知っている。
北の湖が明らかに衰えを見せはじめたのは、二〇代の後半あたりからだ。膝《ひざ》、腰……いたるところに痛みが出てきてしまった。昭和五七年五月場所で途中休場し、七月場所は全休。九月場所で一五日間、土俵をつとめたが一〇勝五敗の成績で終わった。
それ以後、北の湖は六場所連続休場という記録を作ってしまった。五七年一一月、五八年一月と途中休場。その段階で体が完治するまで休むと言いきって、三月、五月、七月を全休。九月場所は四日目、大乃国との相撲で再び故障、途中休場した。
ふつうの横綱ならば、とっくに引退しているところだろう。横綱が無残に土俵に這《は》うことは許されないという考え方が、この世界にはある。
北の湖は、しかし、引退を拒否しつづけてきた。
「六〇年の初場所までは、どうしてもつづけたい」
北の湖は、何度もそういいつづけてきた。
相撲協会は今、新しい国技館を建設中だ。それが完成し、実際に使われるようになるのが来年の初場所である。それまでは何としてでも横綱の地位を守りぬくというわけなのだ。
五九年の初場所、八日目を迎えた時点で北の湖は五勝二敗の成績だった。前半戦でとりこぼしがあると、千秋楽が近づくにつれ大関、横綱と顔を合わせるため、苦しくなる。
初場所は混戦になるだろうといわれていた。二敗を守りつつ後半戦にのぞめば、まだ優勝のチャンスはある。
そして、八日目――。
この日の対戦相手は大乃国だった。おっとりした顔と体に似合わず、たいへんなパワーを秘めている若手有望株だ。
花道を歩いてきた北の湖が東土俵下にどっかと腰をおろした。そして土俵を見あげる。
「今日の北の湖はおかしいね」
Sさんがいった。
「なぜわかる?」
「ウーン、何といえばいいのかな。一言でいえば落ち着きがないってことかな。どっしりしていない。浮いちゃってるんだ」
ぼくにはそれがわからなかった。Sさんはつづけてこういった。
「稽古場での北の湖は相変わらず強いんだ。なぜかというとね、他の力士が横綱に配慮するからですよ。万が一、稽古中にケガでもされたら大変でしょう。しかし、本場所の土俵になれば、そんなこといってられない。ガツーンとぶつかってきますからね。北の湖は強い当たりにびっくりしてるんじゃないかな」
結果は、Sさんの心配したとおりになった。
北の湖は真正面で大乃国の当たりを受け止めた。この横綱は、どんなに負けがこんでいても、立ち合いで変わることはない、突きあい、押しあいの力のこもった一番になった。あっ、と館内が一瞬息をのみ、そしてどよめいた。決まり手は突き落としだった。北の湖は土俵にバッタリと倒れた。惨敗だった。腹から落ちていくそのシーンが、スローモーション・フィルムのように見えた。大乃国はその北の湖に手をさしだした。横綱は膝を立て、自分の力で起きあがった。
巨象が倒れるときは、おそらくこの日の北の湖のように大地にかえっていくのだろうと、ぼくは思った。
北の湖が巨象とちがうところは、明らかに限界を通りこしているにもかかわらず、もう一度、立ちあがろうとしていることだ。
その日、ぼくは仕度部屋に顔を出してみた。沢山の記者が、北の湖のまわりに集まっていた。休場、あるいは引退を思わせる言葉を吐くのではないかとも思われるからだ。
「体の調子が悪いわけじゃないんだ」
と、横綱はいっていた。
「当然、やりますよ」
北の湖には、まだ守りつづけなければならないものがあるようだった。
ノックアウト
赤井英和はKOの新記録を狙っていた。それは冬の寒い日の、大阪府立体育館のことで、その日リングにあがった赤井英和はナニワのロッキーと呼ばれ人気を集めていた。
先にリングに姿を見せたのは、その日の〈敵役〉のほうだった。リングサイドでホーッという溜め息がもれた。悪くはないツラがまえだった。なによりも、そのひげがよかった。知念清太郎。名前から、彼が沖縄出身であると知れた。所属ジムは「鉄和京浜川崎ジム」。彼は沖縄から京浜工業地帯の川崎という街に、一〇代のある日、まぎれこんできたのだろう。工場。煙突。パチンコ屋。赤ちょうちん。ネオンの海はソープ街。そこで何者かになるために、彼はボクシングを選んだ。戦績は九勝六敗二分。明日のジョーにはもうなれないだろう。ランキングは日本J・ウェルター級の六位。
その知念のところに、赤井英和というボクサーからの試合申込みがきたとき、ふっと心の中で燃えるものがあったはずだ。
赤井英和。二三歳。デビュー以来、12連続KO勝ちをおさめている。かつてムサシ中野というボクサーが樹立した連続KOの記録と並んでいる。13連続KOの新記録の相手として知念が選ばれたわけだった。
リングに上がった知念は、みごとに〈敵役〉だった。ガウンの色は濃紺である。そのガウンをはらりと脱ぎ捨てると黒のトランクスである。左のもものあたりにネイビーブルーの刺《し》繍《しゆう》で〈知念〉と飾られている。毛深く、ひげは密生している。
ヒーローは対照的だった。赤井英和はテーマ・ミュージックにのって登場した。場所は大阪府立体育館。地元である。大阪・西《にし》成《なり》区の生まれ。活気あふれる猥雑なダウンタウン。それが彼のホームグラウンドだ。町のストリート・ファイターは高校でボクシングを始め、腕をみがいた。近大へ進み、モスクワ五輪の候補になった。日本がその大会に不参加を決めると、その直後にプロ入りした。以来、12連続KO勝ち。〈ナニワのロッキー〉それが赤井のニックネームだった。真紅のガウン。白のふちどり。背には鶴が舞っている。トランクスもシューズも、紅白模様。それは自他ともにヒーローであると認めているデザインだ。
知念は刑場にひきずり出されたようなものだった。リングサイドは九九%赤井ファンで埋まり、知念がリングにはいつくばるのを待っているのだから。赤井は過去一二試合を計62分54秒でケリをつけてきた。試合平均5分15秒。一二人のボクサーが赤井の前では二ラウンドともたなかった。
ゴングが鳴った。
何度もゴングは鳴りつづけた。
赤井は一試合でこれほど多くのゴングを聞いたことはないだろう。10回戦、フル・ラウンドをたたかい、ゴングは20回、鳴らされた。
知念はついに、府立体育館のリングに沈まなかった。ほとんどすべてのラウンドでポイントをとられはしたが、KOはまぬがれた。
「赤井のパンチ? たいしたことはなかったぜ。あれくらいのボクサーなら、東京にゴロゴロいるよ」
知念は、赤井のパンチで切られた左まぶたをしばたかせながら、そういった。負けはしたが、彼には高ぶるものがあった。少なくとも彼は倒されなかった。新記録がいかにむずかしいかを、全身でパンチを受けとめながら赤井に教えてやったのだから。
敗者はヒロイックな心情に酔っていた。
つまり、こういえる。赤井英和は敗者をもある種のヒーローに仕立てあげてしまうボクサーなのである、と。
KOこそのがしたが、デビュー以来13連勝という記録で、その日勝ったのは、まぎれもなく赤井英和のほうだった。
「13連続KOは、そもそもデビューするときから狙っていたんです」
赤井が所属する「三和ツダジム」の津田博明会長がそうつぶやいた。〈ナニワのロッキー〉のサクセス・ストーリーは二人の男によって、あらかじめ立案されたものである。南海電車の天《てん》下《が》茶《ちや》屋《や》駅。駅前商店街の裏にジムがある。津田会長が自分のジムを持ったのは二年半ほど前のことだ。ボクシングのトレーナーとしては一六年のキャリアがある。難波高でボクシングをやっていた赤井に、最初に注目したのが、津田博明だった。
「勝ちたいだろう?」
赤井を見たとき、彼はそういった。
「だったら、おれのところへ来い」
当時はまだ別のジムに所属する一介のトレーナーだった。なんや、このおっさん。一度目、赤井は無視した。さらにもう一度、誘われ、赤井は高校のクラブだけでなく、津田がトレーナーをしていた「神林ジム」にも通い始めた。
「いいものを持っていたけど、まるでケンカのようなボクシングをやっていた。いくつかのポイントをなおせば間違いなく強くなると思った。ジャブの打ち方ひとつとってみてもしかるべきノウ・ハウがある」
昭和五五年、モスクワ五輪に不参加が決まったとき、赤井はプロでやることを津田に申し入れた。
「大学卒業まで待っていたくない。すぐにプロ入りしたいんだ」
津田は自分のジムを開いた直後だった。選手は一人でも多く、欲しい。しかし、会長は一度、断った。
「おまえの力じゃ、まだプロは無理だよ」
突き放して、なおも赤井がヤル気を見せるか否か、津田はそこを見きわめたかった。
今度は赤井が、二度、頭を下げることになった。
「どうせプロでやるなら」
と、津田会長は赤井にいった。
「連続KOの日本新記録を狙わせる。いいな」
小さなジムである。当初はジムの広さが一二坪ほどしかなかった。リングを作り、サンドバッグを吊《つる》すと、それだけでいっぱいになってしまう。古い、床がきしむようなビルの一階である。夕暮れになると、近所からモツ煮込みの匂《にお》いが流れこんでくる。
アマチュアでどれだけやったにせよ、誰も赤井英和のことなんか知らないんだ、と、会長はいった。存在をアピールするためには、それなりの実績を残さなければいけない。誰もが注目せざるをえないような記録を作らなければ、何者かになるチャンスだってつかめないのだ、と。
スポンサーがついていたわけではなかった。やり手のプロモーターが赤井を世界の檜《ひのき》舞《ぶ》台《たい》におしあげようと、狙っているわけでもなかった。多少の記録を残すぐらいでは、せいぜい日本ランキングの上位にくいこむ程度である。大きくなるには、世界のタイトルを狙うほかない。そのためには力をつけることと同時に、大阪の天下茶屋に〈赤井英和〉というボクサーがいることを、知らしめなければならない。
会長は、デビュー戦のときから、赤井のためにキャンプを張った。まるでチャンピオン並みの扱いだった。チャンスがあれば、東京のジムへ、スパーリング・パートナーとして送りこんだ。マッチ・メイキングにも、気を配った。対戦相手のレベルを、徐々に、そして慎重に上げていった。ボクサーに自信をつけさせることも、トレーナーの重要な仕事のひとつだ。
赤井は、確実に力をつけてきた。4回戦ボーイから6回戦、そして10回戦。連勝をつづけると、地元のファンがつき始めた。西成の、喫茶店のオヤジであり、お好み焼屋のオバチャンであり、パチンコ屋のオーナー、赤ちょうちんの常連たちだ。〈ナニワのロッキー〉である前に、赤井はまず〈天下茶屋のジョー〉であり〈西成のロッキー〉だった。
連勝KOの日本記録は〈12〉だが、デビュー直後の新人の連続KO記録は〈8〉だった。それを破る九戦目。試合開始のゴングが鳴ったとき、赤井は「ウォーッ!」と吼《ほ》えて赤コーナーをとび出していった。
「バカかアイツは、と思われるかもしれないけどね、気合いをいれたかったんだ」
その叫び声と、KO勝ちしたあとに思いきってジャンプして喜びを表現するポーズが、赤井のトレードマークになった。
それを見て、会長は、やっとプロらしくなったなと思った。ファイティング・スピリッツをむき出しにすればするほどいいボクシングをするタイプのボクサーだと、思っていたからだ。
赤井の試合は、デビュー以後9連続KOの記録を作ると、大阪ローカルだが必ずテレビ中継されるようになった。マスコミも、こぞって赤井をとりあげるようになった。赤井英和は世界タイトルを狙って当然だと、いわれるようになった。
13連続KOの新記録は作れなかったが、赤井英和の第一期プロモートは成功したのである。
「KOできへんかったから、みんな怒っとるやろな。すんまへん。ごめんなさい。またイチから出直しや」
知念を倒せなかった夜、そういったのが赤井だった。勝ってそんなふうにいったボクサーを、ぼくは知らない。意地でも、KO勝ちしたかったのだろう。KOでなければ勝ったことにならない……そう考えるボクサーが赤井英和だった。
赤井は、しかし、ロッキーにはなれなかった。世界タイトルに挑戦する機会もあったが、失敗。再び挑戦しようとしたが、その途中でKO負けし頭を強打した。長い入院生活を余儀なくされた。
〈ナニワのロッキー〉の幕はおりてしまった。
しかし、赤井英和のエンドレス・サマーはこれからもつづく。
目標? 6000勝だんべなあ
この春さきから、企てていた計画があった。地元競馬の天才ジョッキーの騎乗ぶりを見に行くというものだ。
天才ジョッキーの名前は佐々木竹見という。ファンのあいだでは「ササキ」と呼ばれるよりもむしろ「タケミ」という名で通っている。
「タケミが、なぜ中央競馬に行かないのか。不思議なくらいさ……」
「いや、タケミはね、地元競馬を愛しているんだ。必ずしもいい馬ばかりとは限らない。それが地元競馬だよ。それでもアイツはいいと思っているんだ。どんな馬に乗っても、テクニックで勝ってみせると思っているんだよ……」
ファンはそんなふうにいう。
タケミに関する伝説は少なくない。
「アイツは死んだふりをする」
ぼそっとそうつぶやいたのは、たまたま川崎競馬場で隣りあわせて牛《ぎゆう》丼《どん》を食べた老競馬ファンだ。
「おれはね、タケミにはずいぶん勝たせてもらった。でも、いつもヒヤリとさせられるんだ。スタートする。第1コーナーから第2コーナー、タケミはするすると前へ出ていく。よしと、おれは馬券を握りしめる。ところが、第3コーナーあたりで、ずるずるっと後退するんだよ。どうしたんだ、オイ、心臓がちぢみあがるよ」
老競馬ファンはそういって、茶をひと口すすり、つづけてこういった。
「それがタケミの死んだふりっていうやつさ。ほかの馬の足を見て、そこでいったん力をセーブするんだ。4コーナーをまわり、直線。タケミの馬は内からでも外からでも、自在に抜け出してくる。ラクに儲けさせてはくれないね。冷や汗がすーっと背すじを流れて、そのあとでやっとじんわりと喜びがくるっていうわけさ」
佐々木竹見がらみの馬券は、てのひらの冷や汗でしっとりと濡れているのだという。そのスリリングな騎乗ぶりが、ローカル競馬のファンをひきつけて離さない。
昭和五八年の三月中旬。佐々木竹見は大記録を目前にしていた。
通算5500勝という、途方もない記録である。
佐々木がデビューしたのは、昭和三五年。彼はまだ一八歳だった。その年、195回騎乗し、37勝をあげた。それが一年目だった。以後、勝ち数は飛躍的に増えていく。五年目の昭和三九年、佐々木は320勝をあげて地元競馬のリーディング・ジョッキーになった。その年から昭和五三年までの一五年間、佐々木はリーディング・ジョッキーの座にすわりつづけた。年間最多勝は昭和四一年の505勝。この記録はもう誰も破れないだろう。当時は、騎乗制限がなかった。馬主に求められれば、一日に10レースすべてに乗ることもできた。今は一日、6レース以上は乗ることができない。
佐々木の所属は川崎の青野廏《きゆ》舎《うしや》。川崎競馬場がホームコースである。その川崎と大井、船橋、浦和の四競馬場で南関東公営競馬が開催されている。佐々木はホームコースだけでなく、大井、船橋、浦和で開催されるレースにも呼ばれることが多い。青野廐舎の馬だけでなく、他の廐舎の馬に騎乗するよう求められる機会が多いからだ。年間505勝をあげた四一年、佐々木は2384回、騎乗している。毎日、一日も欠かさずに6レース以上乗っている計算になる。騎手はレースでだけ馬に乗るわけではない。早朝の追い切りもある。そういうなかで505勝をあげ、二着には385回入っている。馬がどんな血統であろうと、その日のコンディションがどうあろうと、佐々木が乗るのだからといって馬券を買うファンがかなりいたであろうことは想像に難《かた》くない。
5500勝は、その積み重ねのなかでできたものだ。ちなみに、中央競馬では野平祐二(現・調教師)の1339勝が最多勝記録になっている。世界記録をいえば、アメリカの現役騎手、ウィリー・シュメーカーが8200勝台を記録し、まだその記録を伸ばしている。第二位がすでに引退したロングデン(アメリカ)の6032勝。佐々木の記録は第三位になる。
三月、佐々木は足踏みしていた。
五六年末に落馬。左大《だい》腿《たい》骨《こつ》を折った。下肢は複雑骨折。そのためにほぼ一年、棒に振った。昭和一六年生まれの佐々木は四〇歳になっていた。その年齢になって足が目茶苦茶になってしまったのだ。そのまま引退するのではないかといわれた。
彼はしかし、ほぼ一年でカムバックした。五七年末になってレースに出始め、その年は56回、騎乗。そのうち一着が16回。足のなかにはまだ補強用のスチールが入っていた。
五八年に入ってペースは落ちた。年末に56回乗るだけで16勝できたのに年があけると140レース以上乗ってやっと16勝というペースだった。その16勝目をあげたところで通算勝利数は5498になった。あと2勝で5500勝である。そこで勝てなくなった。ほぼ半月の間、一つも勝てない。5499勝目をあげたのは三月一八日のことだった。あと一つ。それはしばらく先のことになるのではないか――ぼくは漠然とそんなふうに感じていた。佐々木の足に埋めこまれたスチールのきしむ音が、ひづめの音とともに聞こえてきそうな気がしたからだ。
ところが、その翌日、三月一九日の第1レースで佐々木はドウカンキャニオンに乗り、あっさりと逃げ切ってしまったのだ。大記録はあっけなく決まる。そういうものなのかもしれない。
四月になったある日、川崎競馬へ行く機会があった。
第4レース、佐々木竹見はナニワボールに乗っていた。サラブレッド四歳、七頭立ての1500m。ナニワボールは四か月休養し、復帰して七着に入っている。それが最近の成績だ。買いではない。それでも予想紙では〇▲△あたりがついている。馬よりも佐々木のテクニックを買っているのだろう。
そのナニワボールの4枠を中心に馬券を買い、佐々木を見た。いいところはなかった。最後の直線で足が伸びず、五着。さらに第7レース、佐々木の乗るハーバーマドンナに賭けてみた。
スタートはよくなかった。馬群にまきこまれ、一度うしろへ下げて勝機を狙った。第2コーナー、決して無理をしないペースで先頭集団につき、第3コーナーでするすると抜け出した。それでもトップには立たない。抑えている。その呼吸が、スタンドにも伝わってくるようだった。これだなと、ぼくは思った。先頭馬は必死に逃げ切ろうとする。その足を見て、佐々木はまだハーバーマドンナを抑えているのだ。まだ、死んだふりをしている。
第4コーナーをまわり、直線。ハーバーマドンナは、それが当たり前といった感じの足どりで先頭に立った。そのままゴールにとびこむ。
それは佐々木竹見にとっては、5503回目の一着だった。何てことはない。勝つときは、あっさりと勝つ。佐々木はもう三万回近くレースに出場し、5500回以上も、その日と同じように一着でゴールインしてきたのだ。
勝つことは、彼にとって日常なのかもしれない。佐々木は、そのすぐあとの第8レースにも、別の馬に乗って出てきた。何ら、表情は変わっていなかった。
騎手のユニフォームは決まっている。佐々木竹見は〈赤、黄山形一文字〉と呼ばれるユニフォームを着ている。地色が赤、胸のあたりに黄色の〈山〉形模様が入っている。このユニフォームを着ているのは、地方競馬では佐々木竹見ただ一人だ。その〈赤、黄山形一文字〉は汗をかいたふうもなく、第8レース、そして第10レースも走った。死んだふりの天才騎手は、ちょっとのあいだ、勝てないふりをしていただけなのかもしれない。ぼくはふとそんなふうに思った。
「ふふっ」
レースが終わると、笑いながら佐々木竹見はいった。
「まだまだ勝てそうな気がすんなあ。次は6000勝かな。世界記録は無理だろうけんども、アメリカのロングデンの記録は破れるかもしんねぇ。目標つったら、それだべなあ」
青森生まれ、郷里の言葉のニュアンスを残していた。もう四〇をとっくにすぎている。ひょいとブルゾンをはおると、それは〈MEN'S BIGI〉の一品だった。背は小さい。馬の腹を抑えつづけてきた膝、そして下肢はみごとにO脚になっている。騎手服を脱げば、何でもないおじさんにしか見えないだろう。
表情はあくまで柔らかい。勝負師としての厳しさを内にしまいこむ術を身につけた人の笑顔だ。天才の晩年はたいていそういうものだ。
まだ勝ちつづける。新たな伝説を作りながらまだ勝ちつづけるなと、ぼくは思った。
スポーツマンのどアップ
そのときぼくは、テレビを見ながら妙な違和感にとりつかれたのをおぼえている。
ナニカ変ダナ、という感じだ。例えば、毎朝使っているコーヒーカップが、ある日まったく同じデザインの、サイズだけやや大きいものに、こっそり取りかえられていたとしたらどうだろう。いつものようにコーヒーカップを手にする。ちょっと重たい感じがするだろう。疲れてるのかな、と一瞬、思ったりして口もとに近づける。香りはいつものやつだ。ぼくはなにごともなかったかのように、カップのふちに口を寄せる。
唇に当たる感じが違うはずだ。陶器がほんのわずかだけ厚くなっているにすぎないのだが、唇はそれに拒絶反応を起こす。やはり妙だと思い、じっとカップを見つめる。触れてみる。そしてやっと、最初に感じた違和感がどこからきていたのかわかり納得する。時間にすればほんの数秒のことだが、空間が歪《ゆが》んでしまったのではないかというような心もとない気持ちになる。
さて、そのとき、ぼくはテレビを見ていたのだった。
ナイターの野球中継が行われていた。ぼくは、ほとんどテレビを見ない人間だ。
それでも、テレビの野球中継の場合、カメラの位置がどこで、アングルがどうなっていて、サイズの基本パターンがどういうものかは知っている。例えば、ネット裏のカメラからピッチャーの表情を捉える場合、ピッチャーの顔をどこらへんまでアップにするか、基本形がある。めいっぱい寄ったところで、肩から上がうつる。それ以上は寄らない。
打者がバッター・ボックスに入るときは、ベルトから上の、いわゆる上半身がうつる。そしてブラウン管の下部にバッターの名前と、打率、ホームランの数などがスーパー・インポウズされることになっている。日本人の誰もが、その角度、そのサイズに馴れていることと思う。滅多にテレビの野球中継を見ないぼくですら、その定形パターンがイメージとして頭のどこかに固定してしまっているのだから。
そのときは、その定形パターンが崩されたのだ。
カメラはバッターの上半身を捉えた。そこで止まらず、ズーム・アップしていった。どこか変だなと、思ったのは、そのときである。テレビが膨張したのかなと、最初は思った。次にバッターがカメラに向かって移動してきたのかと思った。
そんなバカなことがあるわけがない。バッターは、バットを構えているのだ。
カメラ・ワークはごく自然だった。自然にズーム・アップしているわけだった。しかし、テレビのプロ野球中継で、バッターにこんなにズーム・アップしていくのは初めてのことだった。
胸のあたりが見えなくなり、肩から上になった。その肩も見えなくなり、ヘルメットと顔だけになった。そしてついにヘルメットもフレームからはみ出した。顔だけがヌッと、そこにうつっていた。そのときは14インチのテレビで見ていたからよかったが、サイズの大きいテレビやビスタ・ヴィジョンで見ていた人は思わずうしろにのけぞったのではないか。
そこにうつっていたのは、原辰徳の顔だった。
以後、しばらくの間、ぼくは気をつけてテレビを見るようにした。
その結果、いくつかのことがわかった。
原がバッター・ボックスに立つたびに必ず超ズーム・アップが使われるわけではないが、後楽園球場の巨人戦の場合、頻度が高い。後楽園の巨人戦は日本テレビが放映権を持っている。
他球場の場合でも、原が超ズーム・アップされることが、頻度は低いが、ある。
他チームの選手の顔がそこまでアップにされたことは一度もない。
ジャイアンツの他の選手も、同様であるらしい。「らしい」というのは、ぼくが見たのは七月の、オールスター前後のいくつかのゲームだけであり、そのなかではなかったということである。
つまり――と、結論をいえば、原辰徳だけがブラウン管に超ズーム・アップされるわけである。
その後、日テレのスタッフと話をする機会があった。仮にそういうことがあったとしても意図的なものではないという話だった。ディレクターの好みでアップを使ったのだろうというのだ。ぼくはたまたま、何度か原のどアップを見ることになったのだろう。
ズーム・アップが、テレビを見る側に与える心理的効果については、今さらいうまでもない。テレビドラマで、ブラウン管が顔でいっぱいになるほどアップでうつるのは主役だけだ。通行人Aがどアップになったという話は聞いたことがない。
同様に、ニュース・キャスターの顔がどアップになることはないが、一国の総理大臣の顔が超ズーム・アップされることはある。アイドル歌手はしばしばブラウン管を顔だらけにしてくれる。
しかし、なぜなのだろう。
なぜ、原辰徳がことさらに〓“主役〓” として強調されなければならないのだろう。野球の場合、主役はまわりが作るものではなく、自らの力でなるものだ。
後楽園球場では別の演出がある。「四番、サード・原」という場内アナウンスのあと、バック・スクリーンのオーロラ・ヴィジョンにアニメーションがうつし出される。絵柄は拍手をしている手である。手の動きに合わせて、アンプで増幅された手拍子の音が流れる。四番バッター登場は、これによって印象づけられる。一度確かめてみたのだが、手拍子のアニメとマイクを通して轟《とどろ》きわたる拍手サウンドは、原がバッター・ボックスに立つときしか用いられない。わずかな例外は、9回裏になって巨人に一打逆転のチャンスがやってきたときだ。こういうときは、誰がバッター・ボックスに入っても、四番バッター用の演出をしてもらえる。
これも最近はずいぶんとかわっている。正確に研究したのではないが、手拍子の音がひんぱんに用いられているような印象がある。
かつて、長島にも王にも、こういう演出がほどこされたことはなかった。ことさらに彼らだけがブラウン管に大うつしされることはなかった。ズームにしても、せいぜい肩から上がうつっていた。彼らは、そんなことよりもむしろハッスルプレイを見せ、ホームランを打つことでファンをひきつけた。彼らは十分に魅力があった。
原辰徳に魅力がないとは、ぼくは思わない。
初めて原に会ったときのことを、ぼくはまだおぼえている。ジャイアンツへの入団が決まってしばらくたったころ、東海大野球部の合宿に彼をたずねていった。いろいろな話を聞きながら、情熱とクールさの両方を持っている男だな、とぼくは思った。自分がいかにジャイアンツにあこがれていたか、あのユニフォームを着て後楽園のグラウンドに立ちたいとどれほど願っていたか、思いのたけを語りながら、不思議に彼の目は醒《さ》めていた。例えば、あの中畑とは正反対のタイプの男だなと感じられた。
原は、長島でも王でもない、新しいタイプの、巨人の四番バッターになるだろうと、ぼくは思った。
長島は楽天的に振舞うことにかけては人後におちない選手だった。王は野球に対してストイックになろうと思えばいくらでもストイックになれる男だった。
原はそのどちらとも違った。心のなかに騒ぐものがあっても、あふれ出るほどのパッションが渦巻いていても、それをユニフォームで包みかくすことができる男だと思えた。包みかくしてパワーが臨界点に達したとき、激しく爆発させるタイプだろうと、ぼくは想像した。
しかし、こういうタイプの男の魅力は伝わりにくい。もっと明快なキャラクターのほうが伝わりやすいのだ。
雰囲気の甘さにひかれて、ミーハーのファンはついた。もちろん、人気の要素はそれだけではないが、その半面、クロウト受けはしなかった。ひ弱さがあるといわれ、存在感がないといわれ、もっと気のきいた男になったらどうかといわれもした。ぼく自身、短い新聞のコラムでそれに類することを書いたことがある。
力強さが甘さにとってかわるのに、彼の場合は、時間がかかるのだ。熟成は、待つほかない。
にもかかわらず、今の原辰徳は、イメージ増幅装置をつけられてしまっている。ぼくにはそう見える。メディアは、主役を作り出す術を心得ている。その方法に関しては、ここ三〇年ほど様々な試行錯誤をくりかえしてきた。この男こそが主役なのだと印象づけることなど、簡単にやってのける。
このままいけば、しらずしらずのうちに原辰徳は、日本のプロ野球の顔として認知されるだろう。彼は実像ではなくイメージで語られた初めてのプロ野球選手だった、とのちに位置づけられるかもしれない。
それは寂しいことではないだろうか――と、思ってみたりするのは、どアップに縁のない男のたわごとにすぎないが、今はあえてそう書いておく。
ホットコーナー
中畑清がジャイアンツの三塁を守った日、ぼくは後楽園球場に足を運んだ。この(一九八三年)八月の、ある日のことだった。
両チームのスターティング・ラインナップが発表され、三番を打つ原がセカンドを守るのだと聞かされたとき、いよいよ中畑があそこに帰るのだなと思われた。〈サード・中畑〉――ウグイス嬢はいつもの調子でその部分をアナウンスした。ちょっとしたどよめきが後楽園球場を包んだ。そのときの中畑の表情を、残念ながらぼくは見ることができなかった。中畑はまだロッカールームにいた。
中畑のことだから、ロッカールームで、あえて、はしゃぎまわっているかもしれないとぼくは思った。一時的なことであるにせよ、ジャイアンツの看板選手、原辰徳がセカンドへまわり、かつてあの長島が守っていたホットコーナー、サードベースを中畑が守るのだ。中畑自身が黙りこくってしまえば、他の誰もがそのことについて喋《しやべ》りにくくなってしまう。だからあえて中畑ははしゃいでみたりする。彼はそういう男である。
あるいは中畑は、平然とオトナ風に受け流したかもしれない。そのしばらく前、ぼくは中畑に会う機会があった。
「ナカハタです。会長と呼んで下さい」
彼はそういって、自分から笑い出した。中畑はそのころジャイアンツの選手会長をしていた。若い選手たちをひっぱっていかなければならない。が、同時にそういう役目を担うことに対する面映ゆさもある。おどけて自ら会長と名乗るほうが気がラクだと思っている。
〈サード・中畑〉――そのアナウンスが流れたとき、あえて会長然としていれば、それ自体が冗談のように思え、ロッカールームの空気はなごむはずだ。中畑清という男はそんなふうにも考えたりする男である。
いずれにせよ彼は、その場の空気をやわらげる術を知っている。
やがて、ジャイアンツのナインが1回表の守備についた。
中畑は一直線にサードベースに向かって走っていった。拍手がわきおこった。中畑はちょっと白い歯を見せたが、顔は真剣そのものだった。むしろ、むっつりとしていた。
本当のことをいえば、彼はうれしくてしようがないのだ。自分が一番似合うポジションは三塁であると彼は考えている。ぼくもそう思う。抜けたような明るさを持っている男に、なぜかホットコーナーがよく似合うのだ。
八一年のシーズンのことだった。
中畑はホットコーナーを失った。
それは原辰徳がジャイアンツに入団してきたシーズンだった。それでも当初中畑は三塁を守っていた。原はセカンドにコンバートされた。きっかけは中畑のケガにあった。中畑がベンチにひっこみ、ジャイアンツの守備の交代がアナウンスされた。
〈中畑に代わって、サード・原〉。そしてセカンドに篠塚が入った。
「こりゃ、もうダメだと思った」
中畑はいった。
「なぜって、ものすごい拍手だったんだからね。おれがひっこむのがそんなにうれしいのか? 正直いってガックリきたんだ。タツノリが三塁を守るのをじっと待っていたファンがそれだけいたってことなんだ」
以後、中畑はホットコーナーに戻ることができない。おそらくこれからもそうだろう。
この八月、中畑は6回、スタメンから三塁を守った。篠塚が欠場し、その穴を原が守ることで埋めなければならなかったからである。そのパターンが定着するとは、今のところ考えられない。中畑にとっては、つかの間の三塁なのだ。
それだけにぼくは、一九八三年の夏に中畑が三塁に戻ったシーンを見ておこうと思った。やがて時が経てば、それくらいのことなどすぐに忘れられてしまう。
ホットコーナーと呼ばれるサードベースは特別な場所だと、ぼくは思う。ここを守るためにはいくつかの条件を満たしていなければならない。
守備が上手であることは、必ずしも必要ではない。そんなことよりもむしろ打球をこわがらないことのほうが重要だ。三塁に向かっていく打球は、他のどのポジションで捕るものよりも、強い。
ほかにもまだ条件がある。
三塁を守る男はチーム内の派閥のボスでなければならない。
イエスマンであってはならない。
やさ男であるよりも、むしろイカつい顔をしていたほうがいい。
酒に強く、しかも女にも強くなくてはいけない。何ラウンドもこなすだけのスタミナを持てということではない。女にひきずられないだけの強さを持てということだ。
ファイティング・スピリッツを内に秘めるのではなく、常に外に向けて放射していなければならない。
バットを短く握ってバッター・ボックスに立ってはいけない。
ユニフォームの着こなしは、キザである必要はないが、十分に気を配らなければならない。すべりこんでユニフォームを汚すのはいいが、胸から腹にかけて全面的に汚すようではいけない。例えば二塁打を打つにせよ、頭から突っ込まなければセーフにならないような二塁打では不十分なのだ。外野手の間を完全に抜いてしまうぐらいの当たりが望ましいといえる。
野球というゲームにおいて、三塁とはいかなるポジションだろうか?
そのコーナーをランナーが走り抜ければ、得点に結びついてしまう。守る側はそれを阻止しなければならない。ここは守るべき最後のコーナーなのである。
通過させてはならないコーナー。そこには、何者でもないフツーの男がいたのでは話にならないと、ぼくは思うのだ。いつも誰かのあとにつき従うような、そういう人間にはつとまらない。チーム内が二つに割れたらその一方のボスになるくらいでなければ困るのだ。
中畑が三塁から去ったとき、ジャイアンツの野球は変わるだろうなと思った。かつて長島がその場所を去ったときほど極端ではないにしても、ホットコーナーに誰が君臨するかによって雰囲気はガラリと変わる。
ぼくは三塁を守るキャラクターとしては、中畑のほうがふさわしい、と考えている。彼はボスになりうる資質を持っているし、イエスマンではない。
スポーツ新聞で大きく扱われることはめったにないが、彼は自分の意見を明快に語ることができる数少ない野球選手の一人だ。それくらい当たり前のことなのだけれど、自分の言葉で語ることをおそれている選手は存外、多い。どんな球をどういう感じで打ったのかは語れても、それ以上のことになるととたんに言葉をにごすという人間がかなりいるのだ。
例えば、そういう連中に対して中畑はいうのだ。
「野球選手なのに、みんな自分のことを芸能人だと錯覚しているんだ。そこんとこ、はきちがえちゃ、おしまいですよ」
中畑が三塁に戻った日のことに話を戻そう。
彼はしばらく落ち着かないようだった。それは長いこと人に貸していた家に立ち寄ったときの気分に近いはずだ。彼はそこに居つづけることはできない。つかの間のセンチメンタル・ジャーニーでしかない。しきりにあたりを見回し、今、自分がどこにいるのか、確認しているようにも見えた。
守備は華麗とはいいかねる。動きは大きくダイナミックだが、正確ではない。しかし、そんなことはたいしたことじゃないのだ。本人が自己陶酔して流れるようなフィールディングぶりを演じていれば、それで十分なのだ。
一つ、二つ、むずかしい打球をさばいた。途端に彼は元気になってしまった。
じつにうれしそうな笑顔を見せはじめたのだ。
お調子モンだと思う。波に乗りはじめると、手がつけられなくなってしまう。
中畑は何度かホットコーナーに里帰りするうち、めきめき調子をあげてしまった。そのシーズンの終盤戦、八月から九月にかけて中畑が打ちはじめた最大のきっかけは、ホットコーナーにある。
シーズン初めのころ、中畑は一塁のポジションを失いそうだった。
レジー・スミスが入団してきたし、駒田をはじめとする若手も力を伸ばしてきた。中畑を外野にコンバートするという案も出されてきた。とんでもない話だとぼくは思った。中畑自身、そう考えていたという。三塁を守るべき人間がなぜ、一塁からさらに外野に回らなければいけないのか? その点について、ぼくらの意見は一致を見た。
その中畑が、数試合であっても三塁に戻った。よしとしなければならない。
ラビット・ランナー
八三年のシーズンが終わろうとしているのでスコアブックをパラパラとめくってみる気になった。野球を見るときに必ずスコアをつけるようになったのはここ一、二年のことだ。最初はめんどうくさいと思ったが、スコアのつけ方の基本をおぼえてしまうとじつに簡単だ。
スコアブックの記録の仕方にもいろいろな方法があって、例えば公式記録員が採用している記入法は最も緻《ち》密《みつ》だけど、わかりにくい。逆に新聞記者のやり方はシンプルでわかりやすく、最低限必要なことはすべて記入できる。ぼくは、後者の流儀にしたがってスコアをつけている。一つのプレイを記入するのに一秒とかからない。
さほど頻繁に野球を見ているわけではない。ただプロ野球だけでなく、アマチュア野球も見に行ったりするから一シーズンが終わるとそれなりの量になる。
八三年のスコアブックをめくりながら気がついたことがある。たまたまぼくが見た巨人戦で松本匡史が必ず盗塁を記録していることだ。盗塁はスコアブックの上では〈S〉という記号で書かれる。STEALのSである。
もちろん、ぼくが巨人のゲームを見に行ったことと松本のスチールの間には、何の関係もない。松本はこのシーズン、セ・リーグの盗塁記録を書きかえるほどの成績を残したから、ぼくが巨人戦を見に行くたびに彼の盗塁を見たとしても不思議ではない。
従来のセ・リーグ記録は74盗塁である。『オフィシャル・ベースボール・ガイド』(という記録の本がある)をめくってみると、その記録の持ち主は松竹ロビンス(のちに大洋ホエールズに吸収された)にいた金山次郎であることがわかる。一九五〇年、日本のプロ野球がセ、パ二リーグに分裂した最初のシーズンに記録している。かつての盗塁王、柴田勲はいちばんいいときで70盗塁である。
もう少し盗塁の記録のことを書いておくと、この部門に関してはセ・リーグよりもパ・リーグのほうがはるかにいい記録を残している。阪急の福本はシーズン106盗塁というとてつもない記録を残しているし、「セ」の金山次郎が74盗塁した五〇年に「パ」の木塚忠助(南海)は78盗塁をマークしている。河野旭輝(阪急、現在は阪神コーチ)の86盗塁という記録もある。
ともあれ、松本匡史が三三年ぶりにセ・リーグ記録を書きかえたことはたしかなのだ。
その松本のスチールを何回となく見ているうちに、気づいたことがある。
松本の足は、たしかに速い。カンも鋭いものを持っている。広島カープの高橋慶彦とはちょっと違う。高橋はやみくもに走って失敗するケースが多い。松本は小憎らしいほどにスマートに塁を盗むのだ。
あるとき、ぼくは一塁側のスタンドからその松本が走るのを見ていてふと思った――彼は二塁ベースに向かって逃げるように疾走していくようだな、と。
かつて『トム&ジェリー』というテレビ番組があった。TVアニメの傑作の一つに数えられている。ネコのトムとネズミのジェリーが主人公だった。あらためて調べてみると、この番組は日本では六四年の五月にオン・エアがはじまっている。ずいぶんと昔のことになる。
トムとジェリーはいつも走りまわっていた。トムが追い、ジェリーが逃げる。狡《こう》智《ち》を働かせるのがジェリーである。同じように走るにしてもずいぶん違うものだと、ぼくは思った。追うために走るやつと逃げるために走るのとがいるわけだ。銭形平次は追うためにしか走らない。
野球というゲームのなかに人間の性格が反映されるものだとすれば、例えばタイ・カッブという男は何かを追うために走った男だ。
タイラス・レイモンド・カッブ。アメリカ野球のなかではかなりの有名人である。二四年間にわたって現役生活を送り、一二回首位打者のタイトルをとった。生涯打率は3割6分7厘。タイ・カッブは激しい盗塁をすることでも知られていた。彼はスパイクの底の金具をヤスリで研《と》いでいたという。二塁へすべりこむとき、鋭利な刃物のように研ぎすまされたスパイクが大いに役に立ったと、彼は語っている。
あるときピッチャーがタイ・カッブに向かってビーンボールを投げた。その次の球を彼は一塁線へころがした。一塁手が捕ってベースカバーに入ったピッチャーにトス。ベースを踏んだピッチャーは、あわてて逃げだした。タイ・カッブがおそろしい形相で追ってきたからである。ピッチャーはグラウンドを逃げまわり、外野スタンドへ避難しようと考えた。スタンドへよじのぼろうとしたとき、タイ・カッブは追いつき、ピッチャーの脇腹にすべりこみを決めた。例のスパイクで、である。
LAドジャーズで活躍していた盗塁王、モーリー・ウィルスもスパイクを研いだことがある。ウィルスは小柄な選手だった。一塁手は、帰塁しようとするウィルスを体で阻止し、グラブで激しいパンチをくりだしてくるのだ。ウィルスは錐《きり》のようにスパイクの金具をとがらせ、一塁手めがけて帰塁した。目の前に凶器が迫ってくる。一塁手がかろうじて避けるとスパイクはグサリとベースにつきささった。ベースからスパイクを引き抜くと、中の詰め物がとび出してきた。
タイ・カッブもモーリー・ウィルスも塁を盗むために、あらゆる面にわたって攻撃的になった。自分の走りを妨害するやつは蹴《け》散《ち》らすほかないと考えていた。彼らはいわば、ライオン型の男たちである。ライオンはネコ科の動物である。彼らは何かを追うためにしか走らない。
スチールとは、そもそもそういうものだった。
ピッチャーが投げると同時にランナーがスタートを切る。キャッチャーは矢のような速球をセカンドベースに送る。その間、おおよそ三秒である。ランナーはどんなに足が速くても間に合わないことになっている。そこでいかに速くスタートするかを研究すると同時に、いかにベースカバーに入る選手を蹴散らすかがポイントになってくる。最近の野球の特徴は、ピッチャーのクセを盗むなど前者の研究はさかんになっているが、後者はまるでかえりみられることがない。守備妨害になるギリギリの技を使ってセカンドに突進していくのも、また盗塁の技術の一つではないかと思うのだ。
松本の盗塁テクニックは、阪急の福本が下り坂にさしかかっていることを考えあわせれば、今のプロ野球界では〓1だろう。が、彼は今のところ〈ラビット・ランナー〉なのである。長い耳を伸ばしていち早く情報をキャッチし、脱《だつ》兎《と》のごとく走っていく。そのうしろ姿から、何かを追う男のニュアンスは漂ってこない。松本は何かから逃げるために走っているのだ。
松本の盗塁の記録を見るとわかることだが、彼には三塁が少ない。このシーズン、新記録となった「75盗塁」を樹立した時点で、セカンドベースからサードベースに向かって走り、成功したケースは二度しかない。去年の福本は54盗塁のうち12個が三盗である。高橋慶彦は昨年43盗塁をマークし、そのうち8個が三盗だった。
ジャイアンツの野球が松本の三盗をさまたげているという見方もできる。松本が出塁し、二盗をきめる。次のバッターはバントで確実にランナーを三塁へ進めてしまう。二塁にいる松本に三盗という危険をあえておかさせないという面もある。後続のバッターがヒットを打てば、二塁からでも悠々と生還できる足を、松本が持っているからである。もう一つ先の塁を盗ませる必要がないのだ。
じつに正論だと思う。理にかなっている。
しかし、それが松本の才能の開花をさまたげている。理にかなった確実性の高い野球を心がけるかぎり、松本は縦横無尽にダイヤモンドのなかを走りまわることができない。彼はチームのために自我を抑圧せざるをえないわけである。こういうことを長くつづけると、ホントにそれだけの人間になってしまう。ラビット・ランナーの殻を打ち破ることができなくなってしまうのだ。
ぼくは松本匡史がホームスチールを敢行する日を、待ちわびている。スチールの、最も劇的なケースがホームスチールである。松本はまだ一度も、決めたことがない。バッターを無視し、ホームを盗む。盗塁を商売にするプロ選手であるならば、これは絶対にしておかなければならないことの一つだ。
タイ・カッブには、わずか三球で一塁からホームまで生還したという記録がある。ピッチャーが一球投げるたびに、塁を盗んだというわけである。
ラビットのぬいぐるみなんて、早く脱いでしまったほうがいい。
KONISHIKI
小錦の、本場所の相撲を初めて見たのは去年(昭和五九年)の一月だった。
場所は蔵前国技館。その日は十両の相撲がはじまるあたりから見ることになった。途中で席を立ち仕度部屋に行くと、ちょうど小錦が出てくるところだった。
相撲の面白さはテレビで見ているだけではわかりにくいと、常々、思っていた。どれだけ大きな力士でも、あのブラウン管のなかにそれなりにおさめてしまうからだ。小錦の大きさは、自分の目でたしかめてみないとわかりにくい。
たしかに大きいのだ。
その年の一月、小錦は東十両の三枚目という位置で相撲をとっていた。身長187〓で体重は205〓と発表されていた。それから半年ほどたった九月場所で小錦は大関、横綱陣をなぎたおし準優勝をなしとげた。小錦旋風である。そのときの体重が215〓と発表されていた。一月の段階では10〓少なかったのだが、それにしても大きい。当時、体重のうえではすでに高見山を上回っていたはずだ。
話は横みちにそれるが、小錦を見つけだし育てあげた高見山は自分の体重をとても気にする男だった。
「一体、何キロあるの?」
と、高見山に何度か聞いたことがある。あるテレビのドキュメンタリー番組で高見山を取材していたときのことだ。その番組では、ほぼ半年近く、高見山を追った。巡業、稽古、本場所、そしてまた巡業とくりかえしながら相撲取りの生活は動いていく。その間、コンディションの良し悪しによって体重は変わる。
いつ聞いても、高見山は「198キロ」と答えた。前の場所でも198キロだったじゃないか、今場所はまたひとまわり大きくなったように見えるけどね。そういうと、高見山はニヤッと笑って「でも、198キロね」というのだった。
「本当は200キロこえてる。でも、大きすぎて恥ずかしい。だから体重はいつも198キロ」
高見山はそういった。
ジェシーには、自分が他人の目にどううつっているのか、どんな目で見られているのか、気にするところがあった。だから彼は、いつも人を楽しませようとした。テレビカメラが自分に向いているとき、気のおけないファンが集まっているとき、高見山はきまって三枚目を演じるのだった。
小錦は、高見山とはだいぶちがう。
高見山は自分の体重をひどく気にかけたが、小錦はそんなことはない。
ちょっと資料を調べてみた。
小錦が初土俵を踏んだのは昭和五七年の名古屋場所である。その二か月後、一〇月の秋場所で早くも序ノ口優勝をかざっている。その時点での小錦の体重は175〓となっている。
それから一年後、昭和五八年の秋場所では184〓に増えている。
そして五九年の一月場所では205〓になる。そこでまた増えて、九月場所は215〓というわけである。
この二年間で約40〓も体重が増えた。それだけ急激に体が大きくなったわけだ。その間、小錦は高見山のように自分の体重を気にすることはなかった。あっけらかんと、山のような肉体を獲得してしまったのだ。
高見山は昭和三九年に初土俵を踏んでいる。ハワイ生まれとはいえアメリカ国籍を持ったまま角界に入り、苦労を重ねて自分の地位を築きあげたのが高見山だった。ジェシーは、日本に帰化するときずいぶん悩んだ。自分が生まれ育ったアメリカの国籍を捨てなければならないのだ。当然だろう。悩みながらもなぜ帰化したのかといえば、相撲協会が日本人でなければ親方になれないという規則を作ったからである。
そういうことを現役時代に体験しているから、高見山はこの世界で生きのびるのにはどうしたらいいのか、いやでも考え、悩まざるをえなかった。
そんなふうな話を、高見山から聞いたことがある。
小錦はちがう。彼は相撲で勝つにはどうしたらいいかということだけを考えていればいいのだ。
ところで――去年の初場所の話である。
ぼくが蔵前国技館に行ったのは中日、八日目のことだった。その日の対戦相手は花乃湖。小錦は寄り切りで、花乃湖に敗れてしまった。敗れはしたものの、小錦の思い切りのいい相撲は注目に値いした。同じ日、小錦のライバルと目されていた服部も大潮に敗れた。こちらは気になる負け方だった。学生横綱から期待されてプロの相撲の世界に入ってきた服部は伸び悩んでいるように見えた。相撲が小さい、と専門家はいうのだろう。技に走り、おおらかさに欠けていた。それが服部という、前途有望なはずの関取を小さく見せてしまっていた。
小錦はその日の相撲で足を痛め、翌九日目から休場することになった。
しかし、彼の土俵は活力にみちあふれていた。やたら巨大な、決して美しいとはいいがたい肉体が土俵にあがっているのに、小錦には華があるのだ。あの、大きな肉体のまるみには明るさがあった。
服部よりも小錦のほうが先に出世するな――と、そのときぼくは思った。
小錦は、その後三月の大阪、五月の東京と十両で連続優勝し、新入幕を果たした。初土俵から二年で新入幕というスピード出世である。しかも、七月の名古屋場所は、八勝七敗だったが、九月の秋場所には多賀竜に次ぐ準優勝。番付は一気に関脇にあがってしまった。
「あいつは強い。すぐに幕内にあがるよ」
と、最初に教えてくれた相撲取りがいる。その相撲取りのシコ名は若高見といった。シコ名でわかるとおり、若高見は高見山二世になることを期待された力士である。ハワイ生まれ。本名はブライアン・ジョージといった。初土俵は昭和五二年の名古屋場所。若高見はしかし、ついに十両にあがることができなかった。最高位で幕下である。昭和五八年いっぱいで廃業し、ハワイに帰っていった。
「高見山関に見出されて日本にやってきたんだ。体はある程度大きかったから、それなりに自信はあった。スモーの世界でやっていけるんじゃないかと思った。でも、六年やってもダメだったね。芽が出なかった。なぜかな。努力がたりなかったのかもしれない」
若高見は、やさしすぎる目をした男だった。あんこ型の力士である。太っていて、性格的にはきびしさに欠ける。気がいいのだ。巡業などに行くと、いやな顔ひとつせずに雑用をこなすようなところがあった。
その若高見は後輩の小錦がめきめき力をつけてくるのに刺激されて自分も強くなることができなかった。稽古で、何度か胸を貸した。相撲を知らない小錦は最初のうちおもしろいようにころがされていたが、そのうち立場は逆転する。番付のうえでも小錦はすぐに若高見を抜いてしまった。若高見は、小錦の強さを最初に肌で感じた力士かもしれない。
若高見を箱崎のエア・シティ・ターミナルで見送ったのは五九年のはじめだったと思う。高見山、高砂部屋の若い衆などが見送りにきていた。若高見は四角い風呂敷包みをさげていた。そのなかには何が入っているのかと聞くと「チョンマゲ」と答えた。断髪してしまったマゲを手にさげて帰国するわけである。若高見のガールフレンドが、その場に来ていた。いつハワイに来られるのかと、若高見は彼女に聞いていた。必ず行くわと、ガールフレンドは答えていた。でも、仕事があるから……といいながら。
若高見はホノルルで日本と関係のありそうな仕事を見つけるといっていた。せっかく日本語が話せるようになったんだからそれをいかさなければね、と。
最後に、自分を追い抜いていった小錦をどう思うかと聞くと、若高見はいった。
「強くなると思う。スモーの世界は強くならなければダメなんだ。勝たなければね。強くなれなければ、こうやって帰るしかない。小錦はファイターだから、きっと強くなれるね……」
小錦を見ると、ぼくはどうしてもこの若高見のことを思い出してしまう。
彼は強くなれなかった。
いいやつだといわれても、勝てなければどうしようもない。それが勝負の世界というものだろう。
「小錦は強すぎる」
と、いわれている。
「あんな体で本気になってこられたら誰も勝てない。そのうちガイジン力士ばっかりになっちゃう」
といってみたりする人もいる。
小錦はしかし、強くて何が悪いんだと考えているはずだ。
本名はサレバ・アティサノエ。一九六三年一二月三〇日生まれ。ハワイのオアフ島出身。サモア系ハワイ人。兄はさきごろ、新日本プロレスのリングにあがった。
小錦は語っている。
「スポーツは何でもやっていた。小さいときから水泳をやっていたし、バスケットボールもアメリカン・フットボールもやっていた。クォーターバックやレシーバーはできなかった。タックルマンだね。たいていオフェンスのタックルをやって、ときどきディフェンスにまわることもあった。体はたしかに大きかった。でも、ぼくぐらい大きい人は何人もいた。ぼくはスモーをやるようになってまた大きくなったからね。動きにくいことはない。もっと大きくなっても大丈夫かもしれないね……」
「土俵にはお金が埋まっているっていうでしょう。勝てば勝つほどお金もらえる。強くなればランクもあがる。家にはお金がなかった。それで働こうとしてたときに高見山関から声をかけられたんだ。それでスモーをやってみようと思った。高見山関、ハワイでは有名だからね……」
「スモーは押すこと。プッシュ。これだね。ひいちゃいけないんだ。そのことをいつも親方からいわれている。まわりがどういおうとぼくはプッシュ、プッシュ。押しまくるほかないと思うよ。強すぎるといわれたって、強くなければ何も得られないんだから。そうでしょ。フットボールとパワー・リフティングできたえてきた体だから、そう簡単にこわれない。プッシュしつづけるよ……」
相撲は、他のスポーツと同様、強い選手が登場することによって質的に変わっていく。小錦が時代を画す関取になることができるのかどうか、まだわからない。ただいえることは、小錦が貪《どん》欲《よく》な相撲を見せてくれるだろうということだ。
勝つにせよ負けるにせよ、215〓の巨体が一個の白星を求めて土俵上で貪欲に遠慮なしに暴れまわる。それが相撲の世界の活性剤になるはずだ。
テスト生
ジャイアンツの多摩川グラウンドが、正規のユニフォームを着ない男たちに占領される日が、年に一日だけある。
その日、数百人の男たちがおもいおもいの格好で多摩川べりのグラウンドに集まってくる。自分が所属する草野球チームのユニフォームを着ている男がいる。帽子、スパイク、グラブ……。いちおうすべてコーディネートされている。ファッションは完璧だ。
スパイクだけは野球用、あとはトレーニングウェアを着ている男もいる。どう見てもサッカーの練習にきたとしか思えない格好の男もいる。
それは一〇月下旬の、ある一日のことだ。
ペナントレースの決着がつき、リーグ優勝していれば一軍の選手たちは日本シリーズに向けての調整に入っている。イースタンリーグの日程を終えたファームの選手たちには、ひきつづきトレーニングが待ちかまえているが、素人集団にグラウンドを明け渡すその日だけは、休息日だ。
多摩川グラウンドに集まった男たちの八割はピクニック気分だ。〈巨人軍テスト生募集〉――という小さな新聞記事を見てやってきたからといって、全員が本気でジャイアンツの選手になろうと思っているわけではない。「自分の力がどこまで通用するか、一度ためしてみたかったんです」
聞かれればそんなふうに答えるのが、一般的な例だ。自分の力に自信を持てていない。それでもジャイアンツのユニフォームを着たいという夢を抱くことはできる。
森田実は、そういう男たちのなかにまじって多摩川グラウンドに佇《たたず》んでいた。
昭和五七年の一〇月のことだ。森田は白地の、何の文字も飾りも入っていない練習用のユニフォームを着ていた。手にはキャッチャー・ミットを持っていた。注意深く見れば、彼が西武ライオンズのスパイクをはいていることに気づくこともできただろう。177〓、85〓。体はそれなりに出来あがっている。一度は本格的に野球をやったことのある男特有の体である。
森田実はその日、ジャイアンツのテストを受け、その足で秋田に帰ろうとしていた。転居の手続きもすませ、秋田での就職口も見つけてあった。
「面白くなかったんですよ。野球をやるために、秋田から千葉の社会人野球のチームにやってきた。自分がそんなにうまいとは思っていませんでした。たいしたレベルじゃないと思ってましたからね。社会人野球のチームに入れば、自分の知らなかったもっと面白い野球ができると思っていたんです。ところが、実際はそうでもなかった。チームが弱かったせいもあるね。どこかピリッとしたところがないんです。それが面白くなかった。
やめちゃったんです。もう野球なんてやめようと決めた。一度はね。田舎へ帰るほかないなと思った。それでいいと思ったんです。でもね。まだどこかにチャンスがあるんじゃないかと……、そのころ、ジャイアンツのテスト生募集のことを知ったんです。受けてもどうせだめだろうなと、最初は思いましたよ。冷やかしで終わっちゃうだろうなってね。みっともないからやめようかなと思った。
でも、いま、それをやっておかないと、二度とチャンスはないと思ったんです。落ちても自分にとってはいい記念になる。野球をやめる最後にジャイアンツのテストを受けたんだということで、逆にふっ切れる部分があるかもしれない。そう思って、多摩川のグラウンドにやってきたんですね」
彼の野球歴に関しては、あえて書き記しておくべきことは少ない。
昭和三八年一月三〇日、秋田県南秋田郡の生まれ。中学時代は体の小さい内野手だった。どの中学校にもある軟式野球のチームである。大活躍することもなかった。野球の強い高校の監督に注目されることもなかった。その時点で注目されていたなら、森田は秋田商業、秋田経大付属高校といったところに進んでいただろう。
「そんなところへ行ったら、ぼくは三年間、球拾いさせられたでしょうね。それはいやだった。野球をやりたかった。弱いチームでもいいからレギュラーとしてやりたかった――」
彼は金足農業高校に進んだ。それまでこのチームは甲子園に出場したことは一度もなかった。しかし、県大会では常に上位にくいこんでいく。そういうレベルのチームだった。夏の県大会では過去七回、決勝戦に進出している。そして七回とも敗れている。悲運のチームだ。地元の新聞は金足農を〈雑草軍団〉と形容している。野球エリートは一人もいない。みな、並みの選手たちだ。それが三年間でたくましく成長してくる。そして県大会ではいつも台風の目になるのだ。
森田は三年生になってやっとレギュラーのポジションを獲得した。最初は外野だった。向いてないといわれ、内野にまわされた。そこもダメだといわれ、キャッチャーになった。キャッチャーは練習のときに何度かやったことがある。結局、そこに落ちついた。
ほかのチームだったら、チャンスは何度も与えられなかっただろうと、森田はいう。
森田に自信らしきものがあるとすれば、それは肩の強さだった。
外野からバックホームするよりも、キャッチャーからセカンドベースめがけて、小さなすばやいモーションで矢のような送球をするのが、森田は得意だった。その点に関しては、誰にも負けない自信があった。
打順は四番だった。チームの看板バッターである。しかし――。
「ぼくは四番打者だなんて思っていなかった。ただの四番目に打つバッターですよ。打つことがあんまり好きじゃないんです。むしろ守備のほうが好きだった。変わってる奴だなとよくいわれますけどね。ぼくは守るほうが好きなんですよ。ホームベースに立って、よしここはおれが守るんだっていう感じになれるときがあるんですよ。そういう瞬間がなんともいえず好きなんですね。
ぼくは右投げで左打ちなんです。高校時代の監督さんが左で打ってみろとアドバイスしてくれて変えたんです。なぜかというと、右打席であまりに打てなかったからですね。右がダメだから左で打つ。そして四番バッターですよ。変なチームでしょう。ロングヒットは打てなかった。平均すれば一試合に一本ぐらいのシングルヒットですね。当てていって内野手と外野手の間に落とす。そういうバッティングなんです」
高校三年夏の県大会では準決勝で能代工に敗れた。スコアは0―3。その年は甲子園出場のチャンスでもあった。ピッチャーの小野和幸はプロのスカウトから注目されるほどの逸材だった。初回、小野のカーブがきまらず、速球主体のピッチングを組み立てると、そこを狙《ねら》い打ちされた。それが敗因になった。
バッテリーを組んだ小野は、その年、ドラフト外で西武ライオンズに入団した。ジャイアンツの入団テストのとき、森田がはいていたスパイクは、ライオンズの小野から譲りうけたものだ。森田にも高校三年の秋、大洋からドラフト外入団の話があったという。肩の強さを買われたらしい。ただし、その話は本人の耳には届かなかった。チームの監督が断った。その時のレベルでキャッチャーとしてドラフト外入団すれば、ていよく〓“壁〓” として使われるだけだということを、監督は知っていたのだろう。〓“壁〓” とは、ブルペンでひたすら球を受けつづけるキャッチャーのことだ。
森田は千葉にある三井造船に入った。
強いチームではなかった。千葉には電電関東、川鉄千葉、新日鉄君津という強豪チームがあり、そのワンランク下のレベルに千葉鉄道管理局、三井造船がある。どうあがいても、都市対抗の代表には選ばれないチームだった。三井造船という会社も野球に力を入れる余裕を失っていた。
金足農業を卒業した社会人一年目の森田は三井造船でいきなり、レギュラー・キャッチャーに抜《ばつ》擢《てき》された。森田には、それが素直に喜べなかった。それではまるで高校時代と同じレベルの野球ではないか。
彼はもっと鍛えられる場所を望んでいたわけだった。高校時代の三年間は、たしかにいい思い出だった。キャッチャーというポジションを通して野球を経験することができた。しかし、とことんやりつくしたわけではない。甲子園にでも出場していれば、それなりの満足感があったかもしれない。やるべきことはやったんだ、という思いである。現実は、七月の秋田県大会の準決勝での敗退である。その年の残された夏は長かったはずだ。
心のなかでくすぶりつづけているものを、燃やしつくそうと思い社会人野球の世界にとびこむが、そこもまた燃えつきることのできない場所だとわかる。
森田は一年半、三井造船に在籍した。そして、帰郷しようと決める。その前にあと一度だけトライしようと、ジャイアンツのテストを受けにきた。
「最初はまわりの気分につられて冷やかし半分だった。でも、テストが始まると真剣になってしまった。休みがあったから、休み肩といってすごく軽いんです。絶好調だった。遠投は軽く一〇〇mこえちゃうし、セカンドへのスローイングもよかった。五〇m走は規定の六秒五よりちょっとおくれたと思いますけどね。手ごたえはあった」
一次テスト合格。二次テストは二軍の選手に混じっての練習である。そこでも二軍のコーチング・スタッフのOKのサインを得た。
テストが昭和五七年秋。本来なら、その翌年からジャイアンツのユニフォームを着ているはずだった。
決定寸前に問題が出てきた。三井造船をやめたとはいえ、彼は社会人野球に登録された選手だった。プロ・アマ規定で高校を卒業して社会人チームに所属すると三年間はプロ入りできないことになっている。あと一年、待たなければならなかった。
来年もう一度受けてみたらどうか――。森田はそういわれて、一度秋田へ帰った。建築現場で働いた。一年待てというが、その間に体はなまってしまうだろう。もう矢のような送球をセカンドに投げることはできなくなってしまうかもしれない……。
雪の消えるのを待ち、春さきからひまを見て母校のグラウンドでトレーニングを積んだ。夏をやりすごし、一〇月のくるのを待った。ジャイアンツはセ・リーグ優勝を果たし西武ライオンズとの日本シリーズにのぞんだ。森田は再び、上京した。
今、彼はジャイアンツのユニフォームを着ている。背番号は〈63〉。山倉を筆頭として八人いるジャイアンツのキャッチャーの一人である。ドラフト外入団、契約金は五〇〇万、初年度の年俸は二四〇万円。
「金銭面での条件なんて、どうでもよかった。ぼくが三井造船に入ったときの初任給が九万六〇〇〇円だった。おこづかいなんて、ほとんど残らない生活ですよ。それに比べれば、年収二四〇万は十分です。
いまから思えば社会人野球を経験しておいてよかったと思う。いきなりプロに入ってしまうと、それなりに契約金をもらえるし、収入もいい。金銭感覚がマヒしちゃう。今年のキャンプでは水野と同室だった。あいつ、五万円どこかに置き忘れちゃったといって、ケロッとしてるんだ。さすが大物だけどね。ああいう感覚でいいんだろうかと、ちょっと心配になっちゃいますよ」
森田がジャイアンツのユニフォームを着て初めてバッター・ボックスに入ったのは、三月中旬のある日、多摩川グラウンドで行われた対大洋との教育リーグゲームだった。森田は突然、ピンチヒッターに起用された。彼は信じられないといった顔つきでブルペンからベンチに走ってきた。そして左のバッター・ボックスに入った。
森田のバットはピッチャーの球を捉《とら》えた。打球は高々とあがった。オーケー。キャッチャーがマスクをとって追った。三本間のファールフライだった。森田はしかし、うれしそうに笑っていた。彼は〓“壁〓” で終わるつもりはないといっている。
タマサブローのその後
誰《だれ》の人生にも分れ道がある。分岐点というやつだ。しかしそれは奥深く分け入った山道で出会う分れ道とは違う。山の中の分れ道には、たいてい道しるべが立っている。いずれか一方を進めばあと何キロで頂上にたどりつくと、表示されている。
日々、生きているなかで出くわす分岐点には、当然のことだが、道しるべはない。そこで、やっかいなのだ。右へ行けば成功するのか、左に行けば可能性があるのか、誰にもわからない。ただいえることは、その場所で立ち止まっていてはいけないということだ。立ち尽くし、考え込んでいても何も変わらない。どちらかに決めて、行動を起こすしかない。
「ここであきらめてはいけない。まだ可能性があるんだ。今が辛抱のしどころだ。ユニフォームを脱ぐな。もうちょっとなんだから――」
阪急ブレーブスの上田監督は三浦広之にそうアドバイスした。八三年のシーズン・オフのことだ。
三浦にしてみれば、それはうれしいアドバイスだった。自分ではもうダメだろうと思いこんでいた。プロ野球のピッチャーとして、公式戦のマウンドにあがれる見込みはない、と、諦めがちな自分を上田監督は、はげましてくれたのだなと、三浦は理解した。
しかし、三浦は人のアドバイスによって自分の生き方を変えようとは思わなかった。自分のことは自分で決めなければならない。そうでないと、一生、後悔することになる。
「今しかチャンスがないと思った」
と、三浦がいう。
「今年(一九八四年)の六月で、ぼくは二五歳になった。あと一年、野球に固執したらどうなるか。芽が出なかった場合、またシーズン・オフがやってくる。今度こそユニフォームを脱ごうと、その時に決めるのではおそいと思った。二四歳のうちに、次に自分がやることの足がかりを作っておきたかったんですね。なぜかわからない。でも、この一年がとても大事なように思えたんだ。それで、ぼくはユニフォームを脱ぐ決心をした」
それが昨年末のことだ。
三浦広之は、六年間、阪急ブレーブスのユニフォームを着てきた。背番号は〈22〉。いい番号である。それだけ彼が期待されていたことを物語っている。背番号にもユニフォームにも未練はあった。
しかし、それを断ち切らなければ、新たなアクションは起こせない。三浦広之が選んだのは、プロ・ゴルファーへの道だった。
すでに過去のことになってしまったが、三浦の野球に関するキャリアについて書いておきたい。
本格派の投手だった。身長は187〓。身体には恵まれていた。ルックスもいい。福島商のエースとして甲子園に登場したとき、たちどころに人気者になった。
昭和五二年の夏の大会である。三浦は県大会を無失点できり抜けてきた。すべて完封勝ちである。甲子園ではくじ運がよく、一回戦は試合なし。二回戦で、まず九州産業高校と対戦した。この試合も、三浦は無失点で完封勝ち。スコアは1―0。三浦の右腕だけが光った試合だった。
三回戦は熊本工戦。
このゲームのことをいまだにおぼえている人は少なくないのではないだろうか。
ゲームは3―3のまま延長戦にもつれこんだ。福島商が先に3点を先取、熊本工がその3点を追って攻めるという展開である。7回裏、熊本工はついに三浦投手を捉え、同点に追いつく。
そして、11回裏――。熊本工はまずピッチャー強襲ヒットでランナーを出す。それを足がかりにワンアウト・フルベースのチャンスをつかむ。1点とれば、その時点でゲームセットである。三浦の投球数は130球をこえていた。しかし、決して多いほうではない。疲れがたまっていたわけでもなかった。11回裏、一死満塁から投げた三浦のストレートは137球目である。手もとが狂ったとしかいいようがないだろう。三浦の投げた速球がバッター林田のヘルメットに当たった。デッドボール。三塁ランナーが自動的に生還した。
あっけない幕切れだった。
三浦は、その一球で敗れた。
プロに進む気はなかった。その年のドラフト会議が行われた時点でいえば、三浦は東京六大学の明大に進むつもりでいた。プロ入りはそのあとでもおそくはないと考えていた。
ところが、ドラフト会議で阪急ブレーブスが三浦を二位で指名した。一位は東洋大姫路高の松本正志である。
三浦はすぐに結論を出した。大学進学を諦め、プロ入りすることに決めた。
「どっちを選んでも失敗する可能性はある。どうせなら、プロで失敗したほうがいい。そのほうが、あとで後悔しないでしょう」
三浦はそう考えた。
大学の四年間で、自分がどこまで伸びるかは全くの未知数である。その未知数に賭《か》けるのも、たしかに面白い。しかし、それが単なる道くさに終わってしまうこともありうる。ならば、いきなりプロの世界にとびこんでしまったほうがいい。
彼にはニックネームがついた。〓“玉三郎〓”というのだ。背がスラリと高く、顔はいわゆる二枚目。相変わらず、人気はあった。
人気だけではなかった。
一年目のシーズン、三浦投手は公式戦で4勝をあげている。六月の対ロッテ戦で勝利投手になったのが、プロ入り初勝利だ。高校を出ていきなりプロの世界に入ったピッチャーが即戦力として活躍するケースは少ない。ほとんどのピッチャーが、まず基礎体力づくりからやり直さざるをえない。三浦の力が、他をひき離していた。
二年目は7勝をあげた。負け数は10。先発―完投型のピッチャーだった。完封勝ちが一つある。無四球試合が二つある。プロ入り二年目の、一九歳のピッチャーとしては上出来というべきだろう。
試合経験を積み、マウンド上でのかけひきをおぼえていけば、力は徐々についていく。将来のエースとして、三浦は期待されることになった。二年目には、人気でではなく、実力でオールスター戦にも選ばれている。
三年目も順調だった。昭和五五年のことだ。開幕からローテーションに入っていた。四月、五月の二か月で3勝3敗、悪くはない。防禦率は4点台だったが、先発すれば最後まで投げきれる力はついていた。そのままいけば、勝ち星が二ケタに届くのは目に見えていた。15勝近く勝つことも不可能ではなかっただろう。
ところが――。
五月末の対西武戦。
突然、肩に痛みが走ったのだ。原因ははっきりしない。何らかの形で肩に過重負担がかかったことは間違いない。ピッチャーは、常にその種の不安とたたかっている。
三浦はファームに送られた。ゆっくりと、時間をかけて調整し直せば元の状態に戻れるだろうと、周囲は見ていた。本人も、そのつもりだった。もう二度と公式戦のマウンドに立てなくなるとは、思いもしなかった。
肩を作り直すと同時に、フォームも調整しようということになった。以前から、フォームを直したほうがいいといわれていた。しかし、そこそこ勝ち星をあげているのだから、あえて手をつける必要はないじゃないかとも思われていた。ファームにおちて、やっと時間ができた。中途半端に直すのではなく、それを機会にエース級のピッチャーにふさわしいピッチングフォームを身につけさせようというわけだった。
「ところがね」
と、三浦がいう。
「どうしても、以前の感じがつかめないんですよ。思うように、球が走らない。あれこれと、考えこむでしょう。それがまた裏目に出たりして、どんどん泥沼におちこんでいってしまうんだ……」
投球フォームを、思い切ってアンダースローにしたこともある。阪急には山田というアンダースロー・ピッチャーがいる。ピッチングコーチの足立光宏も、現役時代はアンダースロー投手として活躍したキャリアを持っている。それも、しかし、裏目に出た。右のわき腹を痛めた。肉離れである。三か月、ほとんど球も握れない状態だった。昭和五七年のことである。
さらに、元のオーバースローに戻したが、一度歯車が狂いはじめると、もうどうにもならない。ピッチングは、じつにデリケートなものなのだ。
そして、五八年のオフがきた。三浦は二四歳だった。
「野球以外の、何をやるか。体を使うものなら、たいていのことには自信がある。ゴルフをやろうと思ったのは、オフのコンペでそれなりの成績を残していたからですね。本格的にゴルフの練習をしていたわけじゃない。シーズン中は、いっさいゴルフはできませんからね。オフにちょこっとやっただけですけど、人並み以上のスコアは出せた。これならできるかもしれない。そう思ったんです。しかもやり始めるなら今しかないと思った。
プロ・ゴルファーを目ざして、早い人は高校を卒業したころから本格的なトレーニングを始める。もっと早く始めている人もいる。二〇代の半ばからゴルフを始めるのではおそいくらいなんだ。でも、できると思った。そう思ったら一日でも早くスタートさせなければいけないと思った。
あと一年、野球に賭けてみろといわれた。それはうれしいことですよ。まだ、ぼくに期待してくれているんだからね。でも、自分のことは自分で決めようと思った。仮に、あと一年、ユニフォームを着てうまくいかなかったら、ぼくはものすごく後悔すると思う。ゴルファーとして仮に失敗しても、自分がそうしようと思って決めたことですから、後悔はしないと思う」
大宝塚ゴルフクラブ。そこに三浦は所属している。キャディをしながら、腕をみがいていこうというのだ。自分の練習ができる時間は早朝と、客がホールアウトしたあとのわずかな時間だ。大宝塚ゴルフクラブはアップ&ダウンの激しいコースだ。そこを毎日キャディバッグをかつぎながら、往復している。練習場の球を拾い集める仕事もある。
しかしそれは、野球のグラウンドで球拾いをするよりはましだと、彼は思っている。こちらには、新たな可能性があるのだから。
ゴルファーになるためのプロ・テストは三日間、4ラウンドで行われる。パー288。そこを300以内のスコアでまわらなければならない。1ラウンドあたり3オーバーというスコアだ。
「そんなに簡単なものじゃないと思いますよ。ベストスコアは、ハーフで35ですが、それをコンスタントに出していかなければならないんだから。
でも、もうこれしかないんですよ。自分でゴルファーへの道を選んだ以上、目いっぱいやるしかない」
三浦広之は、とにかく歩き出したのだ。
失敗したところで自分の人生を終わらせないために、である。
あるラガーに関する二つの話
バラの花が咲いていた。
ほどよく刈り込まれた庭の芝生は午後の日射しを浴びて、その青さが目にしみた。初夏の陽は、西の空へ傾こうとしている。窓を開けるとここちよい風が流れて頬《ほお》をかすめた。
「ついこのあいだまで――」
と、その家の主は冷えたビールの栓を抜きながらいうのだった。
「ここらへんにはなーんにもなかったんだ。畑だったんだ。一面が畑だよ。なにもなかった」
そういいながらグビリとビールをのどに流しこみ、深い息をはき出したのは、土屋英明というオールド・ラガーメンである。
場所は東京・世田谷の八幡山。京王線の八幡山の駅から一五分ほど歩くと明治大学のラグビー・グラウンドがある。明大ラグビー部がそこに練習グラウンドを造ると同時に土屋英明は、そのすぐ近くに家を建てた。土屋は得がたいラガーメンだった。学生時代は明大のスクラムハーフとして活躍した。全日本のメンバーにも選ばれた。もう二五年ほど前の話だ。フォワード中心の明大ラグビーのなかでは、彼は明らかにアウトサイダーだった。現役生活を退いたあとも彼は一時母校のコーチについたが、長くはなかった。彼はいわば〓“野に下った〓”わけだった。しかしそのかわりに土屋は別の財産を作った。豪放な性格、来る者は拒まずという姿勢に魅せられて、何十人、何百人ものラガーメンが八幡山の土屋宅を訪れた。明治OBのみならず、早稲田、立教、慶応……あらゆる大学のラガーメンたちがここにやってきて、庭のバラを眺めながらビールを飲んだ。
たしかに土屋のいうとおりだった。彼は「なーんにもない」ところから始めて、庭に美しいバラを咲かせるように、多くのラガーメンたちを、陰ながら育ててきた。
ぼくは、津布久誠という現役のラガーメンのことを書こうとしている。
そのために、まず土屋英明というオールド・ラガーメンのことを書いたのには理由がある。
ジャージーを着てグラウンドを走る津布久のプレイを見たことがあったが、あらためて言葉を交わしたことはなかった。一度、会って話を聞いてみたいと思っていた。そのことを何かの折に土屋英明にいうと、土屋はこういった。
「簡単や、おれんところに来ればいい」
津布久は八三年の春、早稲田を卒業し日新製鋼に入った選手である。もう一度書くが、土屋は明治のOBだ。ぼくが不思議そうな顔をしていると、「みんな仲間や」――土屋はそういった。それ以上はいわなかった。
したがって、ぼくは明治OBの家でビールをふるまわれながら、早稲田を卒業して日新製鋼に入っているラガーメンに会うことになった。
土屋英明のことを初めに書いたのには、もう一つ理由があるが、それはあとで書こうと思う。
「こいつはケガばっかりしやがってなあ」
津布久の顔を見て、土屋はいった。
「ケガをしているうちは一人前じゃないぞ。一流選手はケガなんぞしないもんだ。おれなんぞ、現役時代は一度もケガしなかった」
土屋は叱るようにそういうのだが、その言葉にはやさしげなニュアンスがあった。土屋は博多の生まれ。九州ラガーメン特有の厳しさとやさしさをあわせもっていた。
ぼくが津布久誠に会って話をしようと思ったのも、ケガの話だった。
八一年一一月七日のことだ。関東大学ラグビー対抗戦、早稲田VS筑波大の試合が行われた。早稲田は29―10のスコアで勝った。しかし、そのことよりも、その日〈15〉番をつけて早稲田のジャージーを着ていた選手が途中退場したことのほうが、ぼくには気になった。
それが津布久だった。
彼は〈15番〉、つまり、フルバックである。
彼はどういうフルバックであったのかを書いてみよう。
津布久誠がラグビーを始めたのは栃木県立佐野高校時代である。県下で有数の進学校。中学までサッカーをやっていた津布久は、そこで縁あってラグビー・ボールを手にする。
二年生の時、全国大会に出場している。彼はチームのキャプテンだった。試合は一回戦で石川県の羽《は》咋《くい》工業に敗れた。三年の時は、全国大会に出場していない。ふつうなら、それきりで津布久の名前は忘れ去られてしまうだろう。
「しかし、あのタックルを見たら、誰だって注目してしまうでしょう。とにかくタックルにはすごいものを持っていた」――と、佐野高校の粂川茂夫監督がいった。高校時代の津布久のポジションはSO(スタンドオフ)だった。彼は果敢なSOだった。全国大会ではわずか一試合しか出ていないし、それが負けゲームだったが、津布久は高校生のイギリス遠征チームにピックアップされた。
きらりと光るものは、負け試合でも見えるものだ。
津布久は大学受験ギリギリまでラグビーをやり、そして早稲田の教育学部に合格した。ラグビー部では、サントリーに入ったSOの本城が同級生になる。本城がSOになり、津布久はフルバックになった。
「昔ウェールズのチームにJ・P・R・ウィリアムズというフルバックがいたんですよ」――津布久がいう。
「身長190〓、90〓、それで100mを11秒台で走る。すごい選手だった。一番うしろにウィリアムズが控えていることが、ウェールズの強さを物語っていた。ぼくはそのウィリアムズにあこがれたんです」
津布久は182〓、82〓。体は大きい。その体でフォワードにまわらず、あえてフルバックにいる。強力な布陣になるはずだ。津布久は100mを12秒5で走る。決して速くはない。しかし、左右に巧みにステップを切りながら走るテクニックは並以上のものを持っている。しかも、津布久は類《たぐ》い稀《まれ》なタックル力を持っている。
彼の体には一〇〇ハリに近い傷がある。中学時代サッカーで右足をケガ。二か所をそれぞれ一五ハリ、一四ハリ縫った。右肘の軟骨を除去した時に六ハリ。ラグビーを始めると左耳を切って一〇ハリ。頭をケガして二ハリ、左肩に一二ハリ、そして問題の八一年の一一月七日の対筑波大戦で左膝を痛めた。
「ゴール前。ボールを持って走っていた。タックルをかわしてカットイン。そこからSOの本城のサインプレイをするはずだった。ところが、カットインした瞬間、雨でぬかっていたグラウンドに足をとられてすべった。左足が伸びきった。そこにタックルされた。左膝が外れて、モモのほうまできていたんです。初めは信じられなかった。だって、膝から下の部分が、モモから生えているように見えるんだから……」
その膝を元に入れ戻して、手術は控えた。ラグビーからは遠ざからざるをえなくなった。手術をしたのは一年以上たったのちのことだ。三〇ハリ、縫うことになった。
ケガが勲章だとは単純にはいえない。しかし、津布久がいかに果敢なフルバックであるかの一端を物語るだろう。
そのケガの回復はおそかった。それもまた津布久らしい。ある程度、回復すると彼はたまらなくなって、走り出してしまうのだ。無理せずに左膝をいたわろうという気持ちはあるのだが、走り始めると、他の選手に負けずに走ってしまう。それが津布久という男だった。ケガをしたのが三年生のとき。翌シーズンを、津布久は棒にふってしまった。
それでも津布久の伝説は消えはしなかった。津布久が全日本チームのフルバック、15番のジャージーを着るのを見たいというファンの思いは容易に消えないだろう。それは彼がラグビーの最もラグビーらしい部分を体現してきたからだ。
津布久はギブスをつけていた。本格的に動けるようになるまであと半年ほどかかるだろうといった。
なぜ、こいつがウチに来るかわかるだろう、と土屋英明がいった。
「それは、この男が本物のラグビーをやるからなんだよ」
土屋英明自身、現役時代は猛烈なタックルを決める男だった。彼はその後の人生でも、攻撃的でありつづけた。かなたに見えるゴールを目ざしてトライしつづけた。安易に引き下がることなく、妥協することなく、猛進した。明大ラグビー部のコーチをやめざるをえなかったのも、土屋があまりにもラグビー・スピリッツに忠実でありすぎたからだと、ぼくは解釈している。
その土屋が津布久をまぶしそうに見つめていた。その目を、津布久は忘れないはずだ。
なぜなら――土屋英明は八三年六月一三日午前一時、急逝した。心筋炎による心不全。突然のことだった。。享年五三歳。
オールド・ラガーメンが一人去り、若いラガーメンが今、再起しようとしている。
そのことを、ここに書いておきたかった。
土屋英明に関する話がもう一つある。それは森重隆が主人公となる話である。
あの、ヒゲをはやした名バックスといえばわかるだろう。森は全日本チームのキャプテンをつとめ、社会人ラグビーの強豪、新日鉄釜石のプレーイング・マネジャーであった。にわかラグビー・ファンでなければ森重隆がかつて明大ラグビーのバックスの要であったことも知っているはずだ。
博多の生まれ。福岡高校の出身である。家業を継ぐため惜しまれつつジャージーを脱いだのは五七年の二月のことだった。
ここに書くのはその森重隆の争奪戦に関することだ。
時は昭和四四年。季節は夏。場所は九州・博多。
それには土屋英明ともう一人の人物が介在している。
藤島勇一。早稲田ラグビーのOBである。土屋英明が福岡高なら、藤島は博多の修猷館高校の出身。いずれも名門校であり、ことラグビーに関しては互いにライバル意識をかきたてている。
福高と修猷館のラグビー試合は〈博多の早明戦〉とまでいわれている。福高のラガーメンたちは、伝統的に明大へ進み、修猷館からは早稲田あるいは慶応に進む者が多かった。そういう意味でも、福高VS修猷館戦は早明戦の前《ぜん》哨《しよう》戦《せん》だったわけである。
福高のバックスとして活躍していた森重隆を見て、明治OBの土屋も早稲田OBの藤島も、ともに森をほしがった。
じつをいえば、土屋と藤島は義兄弟という関係にある。土屋夫人の妹が藤島夫人、つまり奥さんどうしが姉妹なのである。
森重隆を何とか自分のほうに引っぱりたいと争っていた土屋―藤島兄弟が、ある日、ついにオトコの決着をつけた!――というのが話の骨子である。
その結果、ワセダOBの藤島の額がビールびんで割れた、という。
森重隆は、オトコの決着を必要とするほどの逸材であった、ということでもあるわけだが――。
「なに、いうとるんか、そんなにたいしたことじゃないぞ。藤島が二人がかりでやられたなんていうことになってるけどな。タックルされただけや(笑い)。今、本人が来るから確認してみい」
新橋の、とある飲み屋である。そば焼酎〓“雲海〓”のお湯割りをぐびぐびと飲みながら、土屋は乱れることがない。
「最初に森を見つけてきたのはあいつ(藤島氏のこと)のほうやった。あんちゃん、いい選手がいるぞいうてな。ワセダにどうしても欲しかったんじゃないかな。ところが、簡単に引っぱれそうもない。それでうじうじしておったんじゃ。夏に、おれんところで飲んでおったとき、またその話をするから、口惜しかったらワセダに入れてみいといったんだよ。そしたらあいつがテーブルをバーンとひっくりかえしおった。ちょうどそのとき、おれの弟が酒飲みすぎて隣りの部屋でダウンしていた。テーブルがひっくりかえる音を聞いて、何ごとか! と思ったんだろ。ふすまを開けるなり、藤島めがけて猛然とタックル。弟は現役時代フランカーや。そのタックルを受けて二人して土間にたおれこんだ。そこにたまたま、ビールびんのかけらがあってな……」
と、話が佳境に入るあたりで藤島が登場。今は共同通信のジャーナリスト。柔和な笑顔でアニキの話に耳を傾けた。
「酒をかなり飲んどったからな。たしかに血は流れたなあ。タオルを何本もしぼったからなあ。おい(と藤島に向かって)、二人がかりでやられたという話をあちこちで聞くぞ。訂正しとけよ。おれはテーブルの下敷きになっとったんやから」(笑い)
「ハハハハ。ぼくは二人がかりだなんていってないですよ」
修羅場ではあるが、どこか心あつくなる話なのだ。ラグビーのために大のおとながそこまで熱くなってしまうのだから。
年代は若干異なるが、かつて福高、修猷館というライバル校で学び、大学も早・明とライバル同士、生涯の伴侶として選んだ相手が姉妹で義理の兄弟となり、今はともにラグビーをこよなく愛する男たちである。今はどちらが深くラグビーを愛しているかという一点で争うほかない。
その二人が、ともに森を語ってくれた。
「ぼくが共同通信の福岡支社にいたときに森を見たんですね」
と、藤島がいう。
「のちに森は明治の北島監督から〓“糸の切れた凧〓”だといわれるんですが、じつは魅力的な足を持っていた。右に左にスウィングしながら相手陣内を突破していく。そのまますぐにワセダに連れてきてもやれると思いましたね。いきなりレギュラーとして使えるという感じでしたからね。明治にもっていかれたときは残念だったですね」
「しかし、森も明治にきたからあそこまで伸びたともいえるんだ」
と、土屋がいった。
「明治はフォワード中心のチームだから、バックスは苦労する。その体験がのちのちに生きてきたんじゃい」
「ワセダにきたら、あっという間にスタープレイヤーになっていたかもしれないな。あの機敏な動きは、ワセダ・ラグビーそのものですからね」
森が明治に入ったのは昭和四五年。卒業が四九年である。早明戦では早稲田が圧倒的に強かった。森の在学中、明治が早稲田に勝ったのは一度しかない。
もし、森重隆が早稲田に入っていたら強いワセダの中心選手。藤島のいうように、かなり早い時期にスタープレイヤーになっていただろう。
しかし、ぼくは森重隆は明治に進んでよかったのだと思う。
森が注目されるようになったのは昭和四八年春の、明大のニュージーランド遠征がきっかけになっている。大学四年の春である。それまでは、明大ラグビーの中では目立たない存在だった。走れども走れども、明大の重戦車ラグビーの中では脇役でしかない。砂を噛《か》むような思いで、彼は早明戦をたたかったはずだ。
その体験が、やがて新日鉄釜石に進んだあとに生きてきたのではないかと、ぼくは思っている。大器は晩成したわけである。
「明治だ早稲田だということじゃないんですよ。森重隆は博多ラグビーが生んだ逸材なんですね」
藤島がしみじみとした口調でいった。
「おれがラグビーを始めたのは、戦争直後に武道が禁止されたからなんだ。体を張ってたたかえるスポーツいうたら、文句なしにラグビーだった。博多ラグビーはファイティング・スピリッツのかたまりみたいなもんや」
土屋はいまにもタックルせんばかりに力説した。
「シーズンになると、ラグビーをやっていない日はないくらいなんですよ。仕事もやらんと、あちこちのラグビー試合に助《すけ》っ人《と》で参加しようとジャージーとシューズを持ってうろうろしているマニアが何人もいる町ですからね」
うらやましそうにそういったのは藤島のほうだった。
いくつになってもラグビー・フリークたちの心情は変わらない。
その中で、森重隆の〈伝説〉がはぐくまれてきたわけである。
森重隆の引退試合が行われた日の秩父宮ラグビー場は、雨だった。にもかかわらず、八〇〇〇人の観衆が熱心に森のプレイを見守った。
やがてノーサイドの笛が鳴った。
日本代表史上、最も多いキャップ二四を手にした男、全身に五五針の縫いキズをつけた男はそのとき、真っ白い歯を見せた。それはひどく印象的だった。
急逝した土屋英明は、身体つきといい雰囲気といい、森に近いものを持っていた。いや、森が土屋に似ているというべきだろう。土屋は、じつは明大ラグビー部のコーチになることを望んでいた。北島監督と折り合いが悪くなり、その夢は果たせなかったのだが。
九州に帰った森は、しばしば上京する。家業を継がなければならない立場にいることは承知の上なのだが、このあいだ会ったときも森はこういっていた。――「金なんていらないよ。食えるだけでいい。コーチやってくれっていわれたら、おれひきうけちゃうだろうな」
〓 オリンピックをめぐって
ローカル・カウボーイ
オリンピックをめざしている選手たちがいた。
様々な機会を得て、ぼくは彼らに会うことができた。その時に書いた文章をここにまとめておこうと思う。
マラソンはデリケートなスポーツだろうか。
イエス、と答える人は少なくないだろうと思う。例えば、瀬古利彦というランナーには精巧なガラス細工を思わせるところがある。瀬古はちょっとしたことでコンディションを崩すことがある。ロード練習をしているときにうっかり石を踏んでしまった。そして膝《ひざ》を痛めた――例をあげればそういうことだ。
瀬古は完《かん》璧《ぺき》にチューンアップされたレーシング・マシーンのようなランナーなのかもしれない。市販されているエンジンに改造に改造を加え、これ以上はありえないというところまでチューンアップする。限界ぎりぎりまで性能を上げるということはその反面で危険をも内包することになる。あと半歩、レベルをあげれば限界点を越え、エンジンはクラッシュしてしまう。
増田明美という女子マラソンのランナーにも似たところがある。一一月に行われた女子マラソンを前にして増田は絶好調だった。レースの前、増田は宮崎で合宿に入った。一年ほど前から、彼女は旭化成の陸上部と一緒になってトレーニングすることが多くなった。ここには宗茂、猛というマラソン・ランナーがいる。
宮崎合宿の成果は上がった。一一月の東京女子マラソンの約一か月後に福岡国際マラソンを控えている宗兄弟は、最後の調整に入ろうとしていた。その宗兄弟と一緒にロードを走りこんだ増田は、スタミナ、スピードともにひけをとらなかった。
増田が一番いい状態でできあがっていると見た宗兄弟は口を揃えて増田にアドバイスした――「このままの状態でいい。負けるはずがない。もうこれ以上は無茶して走りこむなよ」
増田は、しかし、そのいい状態を維持しようとしたのだろう。あるいは、いい状態を日々、確認したかったのかもしれない。宮崎合宿のあとも、かなり速いペースで走りつづけた。そして、試合寸前にクラッシュしてしまった。増田は東京女子マラソンに欠場し、その大会では中村清コーチの門下生である佐々木七恵が優勝した。
こういった例をいくつかあげていくと、マラソンがじつにデリケートな競技だと思えてくる。マラソン・ランナーの肉体が精巧であればあるほど、ほんのちょっとしたことが命とりになるというわけだ。それは微妙な温度、湿度変化に弱いコンピューターを想起させる。システムの完全さを追求すればするほど、シンプルなウィークポイントを内包することになるのだ。
宗茂、猛という双子のマラソン・ランナーはちょっとちがう。ぼくは彼らを〓“ローカル・カウボーイ〓”だと思っている。
あるTVディレクターと話をしているとき、瀬古よりも宗のほうがすばらしいランナーなのではないかという結論に達した。そのTVディレクターは福岡のFBS(福岡放送)のOさんという人で、彼は宗兄弟のドキュメンタリーを作るためにVTRをまわしていた。ぼくもその番組作りに若干、コミットしていた。
「夏の合宿を撮りにいったんですよ」
と、Oさんはいうのだった。
「場所は大分県の久《く》住《じゆう》というところで、阿《あ》蘇《そ》国立公園の東のあたり。海抜一八〇〇mぐらいの久住山という山がある。旭化成には旭陽会という陸上部があるんだけど、そのメンバーが合宿のおわりに山岳コースも含めて60〓のクロスカントリーをやるんだ。そのうち40〓ぐらいは山道。しかも、道がないみたいなところもある。ごつごつした山道ですよ。カメラかついでそこまで追っかけていかれないからヘリをチャーターした。あんなとこ走って足をくじいたりしないのかと、こっちがヒヤヒヤしてしまった。ことに下りは、一歩足を踏みまちがえたら、スピードにのっているからボキッといきそう。そのコースをね、本人たちはケロッとした顔で走ってるんですよ。あれにはマイッタな」
春先のニュージーランド合宿では120〓走破にトライしたこともある。通常のマラソンの三倍の距離を一気に走ってしまおうというのだ。
「でね、そのクロスカントリーのとき、途中で氷は食うし、川にとびこんでガブガブ水を飲むし、スイカにかぶりつくし、走りながらですよ。あんなことしてハラが痛くならないのかと思っちゃう。本人たちは全然平気でね、五時間ちょっとで走り抜いてしまった。こいつら基本的に野生児なんだなと、つくづく思いましたね」
Oさんはしきりと感心する。
その視点から見ると、都会の平《へい》坦《たん》な道を走りながら足を痛めるなどということが信じがたくなるという。
限界点ぎりぎりのところまでチューンアップするマラソン・ランナーとは別の、もう一つのタイプのランナーがいるわけだ。
八三年二月に行われた東京マラソンでは瀬古が二時間八分台の好記録を出して優勝した。宗兄弟の猛もまた二時間八分台で走った。この大会で好記録が出たのはアフリカの若い選手たちがペースメーカーになってとばしたからだ。アフリカのランナーは今、要注目である。
かつてマラソン界をリードしたエチオピアのアベベは自分のペースをキープしながら淡々と走ったが、最近の若いアフリカの選手たちはパワーとスタミナにすべてを賭《か》けるかのように、最初から猛然ととばしていく。マラソンでは先行型は不利であるという見方があるが、そのうち彼らが後続をぶっちぎったままゴールを走り抜ける日がくるのではないかと思う。
彼らもまた、完璧にチューンアップされたエンジンを体内にかかえているタイプではない。
東京マラソンにやってきたアフリカのある選手が大量の食事をとるというので話題になったことがある。都内のホテルに滞在しながら試合が近づいているというのに、ふだんの倍以上も食べてしまうのだ。しかも、いつも食べなれていないものを、である。
あんな調整をしていたらレースで勝てるわけがない、という見方が一般的だった。瀬古は毎日ビールの小瓶一本でガマンしている。それが唯一の楽しみだと、どこかで語っていた。瀬古はきわめてストイックに自己を律しているわけである。
夕食にステーキを何枚も食べていたアフリカの選手は、レースになると信じられないペースで先頭に立った。最後に抜かれてしまったが、未調整のエンジンでも、エンジン自体のパワーがあれば、優秀なメカニック付きのフォーミュラ〓を粉砕できる可能性があるということだろうか。日時計はときにクォーツ付きのデジタルクロックよりも役に立つことがあるのだ。
宗兄弟に話を戻そう。
この二人は、生まれたときは3000gに満たない、いわゆる未熟児だった。八か月で生まれてしまったからだ。小さいときは病気がちで、しばしば学校を休んだ、という。小学校の運動会で一位になったことがきっかけで、走ることが好きになった。すぐれたコーチがいたわけではない。中学、高校と、とにかく二人で走りつづけた。高校を卒業し、旭化成に入社。そこで、かつてのマラソン・ランナー広島日出国氏と出会った。広島さんは、精神論、根性論を一切、口にしないコーチである。ジープに乗って、ロードを走る選手たちのあとを追うのだが、備え付けのカーステレオからは演歌が流れていたりする。九州・延《のべ》岡《おか》の冷たい風が吹く県道を黙々と走る宗兄弟のうしろからジープがいく。そこに演歌が流れている。それを聞きながら、瀬古を育てた中村コーチがワセダのコーチをしていたころの箱根駅伝で、選手を励ますためにジープの上に立ちあがり歌った〓“都の西北……〓”を思い出した。
広島コーチは精神論を説かずに、宗茂、猛という二人のランナーを野性味豊かな選手に育てた。走るということに関してはよき管理者だが、それを私生活にまで広げようとはしなかった。
なぜそう毎日走れるのかと聞かれて、宗兄弟が次のように答えたことがある。
「酒が好きな人と、心理は同じなんですよ。飲みすぎると二日酔になって、もう酒なんか止めようと思うでしょう。ぼくらも苦しい試合が終わるともう走るのなんていやだと思う。ところが、すぐにまた走りたくなるんですよ。一日飲まなければ、また元気回復して飲みたくなるのと同じですね」
二人は五輪よりも大きな目標が自分たちにはあるのだといっていた。
「何歳まで第一線で走れるか。そのことのほうがぼくらにとっては大切だ」と、いうのだった。その考え方に、ぼくは素直に頷《うなず》くことができる。
短い夏
ホームストレッチを稲妻のように走り抜ける男たちを見ていると、彼らは一体、何に向かって突進しているのだろうかと考えてしまうことがある。
「それは決まってるよ。ゴールさ。きっかり100m向こうに見えている一本の白線。それがゴールなんだ」
彼らはそんなふうにいうのだろう。それも一つの答えだ。
しかし、その答えだけでは、まだ十分ではない。
陸上競技の男子100mは、10秒たらずのうちに決着がついてしまう。わずかな時間だ。瞬間のうちにできあがるというキャッチフレーズのカップラーメンだって、1分の時間を必要とする。そのカップラーメンの、ほとんど叫びに近いスポットCMの長さが、ちょうど10秒程度だろう。はかなく消えていってしまうほどの、時間だ。
100mランナーは、その10秒のなかでドラマを結実させてしまう。かつて、テレビドラマとCFを比較して、前者ではなくむしろ後者のほうに、短時間内に凝縮されたドラマのエッセンスがあるといわれた。今でもそうだろう。マラソンには時として、よくできた長編ドラマの趣があるが、100mをはじめとする短距離は切り口あざやかなCFにも似ている。
100mを疾走するスプリンターたちは、瞬時のうちに人生をも燃焼させてしまおうとしているかのように見える。なぜそんなに速く走るのかと問うことは、同時になぜそんなに生き急ぐのかと問うことでもある。
ほんとに彼らは生き急いでいるのだろうか。
むしろ、こういったほうがいい。彼らは、急いで〈何か〉をさがしている。自分を納得させる何かを、である。
カール・ルイスはこういっている――「なぜ、新しい種目に挑戦するのかって? ぼくはね、何度も勝ったことのある種目に出て、また同じように勝つことに興味がないんだ。またおれが勝った。それがどうしたと思ってしまうんだ。だから、新しい挑戦に心動かされてしまうんだろうな」
この夏(一九八三年)の陸上競技シーズンが始まったころ、カール・ルイスは珍しい記録を作った。インディアナポリスで行われた試合だった。ルイスは、それまで100mとロングジャンプ(走り幅跳び)の二種目をこなす選手だった。そのいずれにおいても世界のトップに君臨するアスリートである。100mでは平地で9秒96の記録を出している。つい最近、9秒93の世界記録を作ったカルビン・スミスも、それまでの世界記録を持っていたJ・ハインズも、いずれも2000mの高地に助けられている。気圧の低さ、空気抵抗……高地が短距離に有利なことは当然だ。カール・ルイスはロングジャンプでも8m70台の記録を何度も出している。世界記録は六八年のメキシコ・オリンピックでB・ビーモンが出した8m90。これもまた、高地記録だ。ルイスは平地でその世界記録に一歩一歩近づいている。
それがカール・ルイスというアスリートである。
インディアナポリスで行われた試合で、ルイスは100m、ロングジャンプに加えて200mにも出場した。さらにもう一種目、増やしたわけだった。
金曜日に行われた予選で、彼はまず100mを走った。10秒32。その一五分後の200m予選では20秒07。その二時間後にはロングジャンプを跳んだ。8m73。翌、土曜日、100mの準決勝で10秒15。向い風0・91m/秒というコンディションだった。一時間半後の決勝では10秒27。向い風2・37m/秒である。風がなければ9秒台の記録になっているはずだ。ルイスは当然一位になった。
日曜日にはロングジャンプと200mが行われた。ルイスはロングジャンプの一回目の跳躍で8m79。平地記録として世界最高をマークしてしまった。二度目のトライアルでは8m71。さらにあと四回跳べるのだが、彼は200mのトラックに向かった。一時間ほど休み、まず準決勝で20秒15。決勝では19秒75で優勝。ゴール手前10mから両手をあげて走り、そのために世界記録をのがした、といわれた。世界記録は七九年にメキシコシチー(またも、高地)でイタリアのP・メンネアが出した19秒72である。
しかし、カール・ルイスは難なく三つのタイトルを手にしてしまったわけである。100mとロングジャンプでは、いつものように勝ち、そのうえさらに200mも制してしまった。
カール・ルイスは、それでもまだガマンできない。彼がもう一種目増やして400mを走る可能性もあるのだ。
「ぼくが仮に400mを走るとしたら」
と、ルイスはいっている。
「43秒か44秒で走れると思う。それくらいの記録が出せればいいなと考えているんだよ」
これもまた、とてつもないスピードだ。現在の世界記録は、六八年のメキシコシチーでアメリカのL・エヴァンスが出した43秒86。一五年前に高地で作られた記録がいまだに破られていない。カール・ルイスはやろうと思えばその記録も書きかえることができるかもしれないというのだ。
彼は、すべてを欲しがっている。
アメリカのスポーツ誌『スポーツ・イラストレイテッド』がカール・ルイスをレポートしていた。そのなかで、インディアナポリスでルイスは二つの世界新記録をのがしたのではないかといっている。ロングジャンプを二回だけでやめ、残り四回の跳躍を放棄した。あの日のコンディションだったらもっと記録を伸ばせたかもしれない。もう一つは200mだ。ゴールする前、10mも両手をあげて走ってしまった。最後まで完璧なフォームで走れば当然、世界記録を書きかえていたはずだ。
それに対して、ルイスは答えている。
「すべてを一度に達成することはできないでしょう。あの日、ロングジャンプの世界記録に固執すれば200mでは勝てなかったかもしれない。200mで手をあげて走ったのは、あとから考えてみれば残念なことだったけれど、しかし走っているときにあんないい記録が出ているとは、自分じゃ気がつかないからね。あの日はあれでよかったんだよ。世界新記録を出すよりも、とにかく三種目ともすべてに勝つことがぼくのテーマだったんだから。それぞれの種目で世界記録を書きかえるのは、その次のテーマということになるね。自分にテーマを残しておくことは必要だと思うんだ。すべてをやりつくしてしまったら、もうやめるほかないでしょう。常にサスペンスがあったほうがいいんだよ」
ルイスの父親ビル・ルイスは「あいつにはタクティクスがある」といっている。「だから心配せずに見ていられる。いろんな種目をやりすぎてケガでもしたらどうするんだという奴もいるけど、私は全然、心配しちゃいないんだ」
ビル・ルイスもかつては陸上競技選手だった。母親もそうだ。妹のキャロル・ルイスも女子ロングジャンプの選手として知られている。カール自身はヒューストン大学の学生。今年、二二歳になる。
すべてを手にしようと思えば、タクティクスは必要だ。短距離ランナーの選手寿命は、長距離走者のそれと比べれば、はるかに短い。ピークは長く続かない。すぐに急勾《こう》配《ばい》の下り坂がやってくる。来年の今ごろ、現在と同じコンディションを維持しえているか、わからない。長い人生のなかでとらえれば、短距離走者がキラキラと輝いていられるのは、ほんのわずかな時間でしかない。カール・ルイスにとって、今は短い夏が始まったところなのだ。存外早く、秋がやってきてしまうかもしれない。
それまでに、すべてを――と、彼は考える。すべてを自分のものにしなければならない。
「ぼくはハイスクール時代まで、さほど大きな選手ではなかった。身長は167〓たらずだったんだ。今は188〓あるけど、これはハイスクールの最終年あたりから伸びたものなんだよ」
急激な成長だった。それにつれて彼のなかでスパークしたものがあったはずだ。そして彼は世界のトップアスリートになった。ビッグバンからスタートした宇宙が、果てしなく拡散し、やがて消滅するように、カール・ルイスの爆発もやがて終《しゆう》焉《えん》をむかえる。エネルギーの爆発が華々しいほど、また終わりも早い。すべての記録を書きかえてしまう巨大な花火が、今、打ちあげられたところなのだ。その光と色が消えないうちに、彼は何ごとかをなし遂げようとしている。
ハンマーとスピードの関係
重さ約7・26〓の金属の球がある。
その球にピアノ線が結ばれている。長さは約1・2m。球の反対側に三角形の取っ手がついている。それがハンマーである。
直径2・135mのサークルがある。
その端に立ってハンマーを持つ。体を軸にハンマーを回転させる。最初はゆっくりと。一回転、二回転。スウィングと、それは呼ばれている。次に体を勢いよく回転させる。瞬時のうちに、体は四回転する。回転しながら、直径2・135mのサークルの端から端へ移動する。ターンと、それは呼ばれている。まるで、こまのように体は回転する。四回転するのは、時間はわずかに2秒ほどだ。さらに細かく書くと、ターンの最初の回転は0・7―0・8秒、最後の一回転は0・3秒たらずである。ものすごいスピードで体を回転させながら7・26〓の鉄の球を四五度の角度で空中高くほうり投げる。
それがハンマー投げと呼ばれている競技である。
室《むろ》伏《ぶし》重《しげ》信《のぶ》はそのハンマー投げを、もう二十数年にわたってつづけている。
「あんな鉄くずを投げてどこが面白いんだといわれることもありますけどね」
と、室伏は笑いながらいった。しかし、ひきつけられるものがなければ、それほど長くつづけているはずがない。
ハンマー投げをはじめとして砲丸投げ、円盤投げといった陸上競技の投てき種目は伝統的にソ連、東ヨーロッパ諸国が強い。世界記録は84m台に到達しており、80mを投げる選手は数多い。室伏は日本記録を持っている。記録は75m台である。世界記録の壁は厚いが、しかし、彼はここ十数年、日本の第一人者の地位を一度もあけわたすことなく保ちつづけてきた。アジア大会でも、室伏に勝てる選手はいない。しかも彼は一九八二年、三七歳のときに自分の持っていた日本記録を書きかえた。肉体的には下り坂に向かっているにもかかわらず、記録を大幅にのばしたのだ。さらに八四年、オリンピックを目の前にしてまた室伏は自己記録を書きかえた。四〇歳を目前にして次々と記録を作りかえていくアスリートが、そう何人もいるものではない。
「鉄くずを投げる」
しかし、当然のことだが、そこには単に鉄くずを投げる以上のものがある。
室伏の話を紹介してみよう。
「どの種目も同じだと思いますけど、ハンマー投げのレベルも年々あがってきているんです。今、私が投げている75mというレベルはミュンヘン・オリンピック(一九七二年)では優勝して金メダルのとれる記録なんです。モントリオール大会(一九七六年)でも入賞できたはずですね。四位か五位に入れたでしょう。八〇年のモスクワのときでも入賞(六位以内)には入っています。ところが、記録はどんどん伸びて、今、世界記録は84mまで伸びてしまった。たいへんな伸び方なんです。なぜか。人間は限界をどんどんこえていくからですね。そこが、魅力の一つなんですね……」
7・26〓の金属の球を70m以上投げられるなんて奇跡だと思われていた時期がある。そこをこえると75mまではいくまいといわれるようになった。その壁もこえてしまうと、今度は80mが限界だといわれるようになる。それをもこえてしまう選手があらわれた。100mを9秒台で走ることは神ワザと思われていたのに、げんに走ってしまう選手が登場するのと同じことだ。一人が限界をこえると次々とそのレベルに到達する選手があらわれてくる。ハンマー投げも、そういうふうにして記録が伸びてきた。
スポーツには机上で考えられた限界をこえていくというスリルがあるのだ。
不可能を可能にしていく。これほどスリリングなものはない。
しかし、なぜそれが可能なのか。
「スピードですね」
と、室伏はいう。
「同じ力を持った選手がいたとする。どちらがいい記録を出すかといえば、スピードのある選手です。サークルの中で体を回転させるのは、ハンマーの初速度を高めるためなんです。初速度が速ければ速いほどハンマーは遠くまで飛んでいく。
しかもね、ハンマーはフラットに回転しているわけじゃない。上から下へ、下から上へ体の回転とともに上下しながら回転している。最後のターンが0・3秒とするでしょう。すると、その半回転は0・15秒ということになる。その0・15秒でハンマーが上から下へおりてくる。そしてまた上がっていくときに空中へとびだしていくわけですね。となると、その最後の0・15秒のスピードをあとどれだけ速めることができるかというところがポイントになるわけですよ……」
「もちろん、スピードだけじゃなく力そのものもなければダメですね。私は体重が今、90〓ありますけど、世界の第一線の選手たちは100〓をこえていますね。スピードがなければダメですけど、敏《びん》捷《しよう》性があれば100―110〓ぐらいの体重があったほうがいいと思う。それくらいの体を持っていて、しかもスピードがあれば80mをこえても不思議じゃない。それだけ技術のレベルが高まってきているわけですね。技術的にも、もうギリギリの極限に近づいているんじゃないかと思うんですよ……」
「仮にですね、今の二倍のスピードで動ける人間がいたら、その人はスーパーマンですね。100mを6秒、7秒で走る人間がいたら、間違いなくスーパーマンですからね。それはありえないと思う。あるところまでスピードをあげようとすると、人間の筋肉は硬くなってしまうんです。そこでブレーキがかかってしまう。そのブレーキをかけずに、スピードをどこまであげるか。そこがポイントになるわけです。たとえばハンマー投げのトレーニングにしても、少し軽いハンマーを使って回転のスピードを速めてみたり、いろいろと工夫しています。ここでもミクロの勝負をしているわけです。体の回転をほんのわずかでも速めることができたら、それだけハンマーを遠くに飛ばせるわけですからね。
もう限界に近づいていることはわかっていますよ。しかし、もう少し、伸びるんじゃないか。私の場合でいえば、77mまで記録を伸ばすことができるんじゃないか。私はそう思っているんです。ほとんど無理かもしれませんけどね。でも、五%ぐらいの可能性はありそうな気がしている……」
室伏は熱っぽく語りつづけるのだ。
「五%でも、あるいは一%でも、可能性があるならやってみる価値はあると思いますね。人間、欲がなければいかんのです。もうこれ以上はダメだと思ったら成長しないですからね。私は未だに技術上の改善がないかとさがしつづけていますよ。たえずそういう情熱を持っていないとダメです。新しい投げ方を考えていないとダメ。その新しさというのは、見た目の新しさじゃないんです。感覚なんです。たとえば、体操でウルトラCをやっている選手は、はたから見ればすごいと思いますけど、本人にとってはどうってことはないんです。すでに完成したものですからね。
完成したうえで、もう少しむずかしいものをやろうとする。見た目にはさほど変わっていなくても、微妙に変わったことが、本人には感覚的にわかるんです。そういう意味での技術上の改善の余地が、まだ私にも残されていると思う」
「だからつづけているわけです。他人にアイツはいつまでも何をやってるんだといわれようがいいんです。もっと先のレベルを追い求めていくなかに、いろんなものがあるんです。そのことが自分なりにわかっていればいいんですね。人がどう思おうがかまわない。もっと遠くへ、さらに遠くへと思いつづけてやっていくこと自体が自分を支えてくれるんです……」
室伏重信というハンマー投げの選手は、重さ7・26〓の金属の球を投げながら、じつは単に金属の球を投げているのではない。
ハンマー投げという種目のなかで限界点を遠くへ遠くへとおしすすめながら、じつは自分自身を、もっと遠くへ、未知の世界へ旅立たせようとしているのだ。彼はハンマーの球にロマンを託している――といってもいいのかもしれない。
彼はそもそもはハンマー投げの選手ではなかった。中学時代に陸上競技大会の砲丸投げと三段跳びの選手としてかりだされ、三段跳びで13mを跳んだ。当時、すでに身長は178〓あり、体重は75〓。相撲部から誘われるほどの体をもっていた。そういう体格の選手が三段跳びで好記録をマークしたので注目された。
高校に進学して本格的に陸上競技と取り組み、砲丸、円盤、ハンマーといった投てき種目の選手になった。ハンマー投げでは高校一年で高校新記録をマークし、二年生のときにはインターハイで優勝。そこらへんから徐々に頭角をあらわしはじめた。
ミュンヘン・オリンピックに出場したときに知りあったルーマニアの女子槍投げ選手と結婚。その直後、練習不足で国内大会で敗れたことがあったが、それ以後は、
「一度も国内、アジアの大会では負けたことがない」
というのだ。
モントリオール・オリンピックが終わったとき、一度は引退を考えた。ブランクは約一年つづいた。三〇歳をすぎ、もうこれ以上、記録は伸びないだろうと思ったからだ。ところが、国体に出場するために練習を一時的に再開してみると、最初のうちはブランクのせいでどうにもならなかったが、フォームが安定するにつれて以前にも増していい記録が出るようになった。そして競技にカムバックした第一戦で70mの大台をこえた。一九七八年のことだ。六年前、室伏が三三歳のときである。
そこでもう一度、室伏は記録への欲にかきたてられるのだ。
そして四年後、三七歳で75mのラインを突破する。
その後さらに、自分の記録は、77m台まで伸びる可能性があるのではないか、と彼は夢想している。
「75mを突破する一年前には、私が75m台の記録を出せるとは考えてもいなかった。一年ずつ年はとっていくわけでしょう。肉体、筋力は衰えていく。ここらへんが限界だろうと思っていた。ところが、それを突破できてしまうんですね。まだ利用していない力があったんですね。まだ、技術的に完璧なとこまでいってなかったんですね。それを追い求めているうちに75mをこえることができた。
人間ていうのはですね、自分が出しうると思っている以上の力を出すことができるんですよ。自分が持っていると思っている力だけで頑張ろうと思ってもダメですね。
それだけじゃたりないんです。そこからもう一つ別の力をひっぱりだしていく。そこで本当の勝負ができるんです」
孤高の陸上競技選手の、それがフィロソフィーなのだろう。
その言葉に対して、異論はない。
オリンピックが終わった。
室伏重信はハンマー投げで70m92の記録にとどまった。一五位の成績だった。
瀬古利彦について
ロサンジェルスに住む友人から手紙が届いた。昨年(八四年)の初めのことだ。
彼は日系人でもなく、ごくふつうのアメリカ人だから〈K・MIURA〉について何も知らなかったらしい。二月下旬になってLAタイムスに記事が出ると、面白がってそれを送ってきてくれた。
〈K・MIURA〉については、あらためて説明するまでもないだろう。もう立派に有名人だ。
ロスの友人は手紙のなかで一つ質問があると書いていた。「で、この男は本物の完全主義者なのかい?」
どういう返事を書こうかと、迷っている。
ところで、手紙にはもう一枚、LAタイムスの切り抜きが同封されていた。「この男も、ロスで有名人になるかもしれない。キミが読みたがるだろうから一緒に送る」というメモが付けられ、そこにも一つ、質問があると書かれていた。「で、この男は本物の完全主義者なのかい?」
こちらの質問にも、どう答えていいかわからず、困っている。
もう一枚のLAタイムスの切り抜きは、マラソン・ランナー瀬古利彦に関するものだった。
今季になって瀬古選手と中村清コーチはロス・オリンピックのマラソン・コースを下見に出かけた。そのときにLAタイムスのエリオット・アーモンド記者にインタビューを受けたようだ。記事にはE・アーモンドの署名が入っている。
アーモンドは概略、次のように書いている。
「瀬古を知るには、まず中村コーチを理解しなければならないだろう。中村コーチは一日に40〓のハードトレーニングを課すだけでなく、仏教、禅、バイブルの教えを説く。精神と肉体の調和が中村コーチの指導理念といえる。瀬古はそれを全面的に受け入れている。心技一体の、サムライ的鍛練法によって瀬古は成功した……」
そして、瀬古がその年の夏に行われるロス・オリンピックのマラソンで優勝する可能性は十分にあるという。この記事にはアメリカのトップランナー、アルベルト・サラザールもコメントを寄せていて、サラザールは勝負が最後の400mで決まるとしたら瀬古が勝つことになるだろう、といっている。
この記事を読めば、瀬古は、パーフェクトランナーであるという印象を持って当然だろう。スポーツの世界でトップに立つためには肉体を完全に作りあげるだけではまだ不足だというのが、最近の考え方だ。同時に精神的強さを持たなければならないというわけである。集中力を高めるためにはどうしたらいいか、弱気になって失敗しないためにはどうすべきか――ということを研究するスポーツ・サイコロジーというジャンルがアメリカでは脚光を浴びている。その中には、当然〈禅〉の教えなども含まれている。
そういったバックグラウンドのなかで瀬古をみると、ハードなトレーニングを積みながら心も鍛えるというやり方が、とりわけ高く評価されることになるのだろう。アメリカ人は瀬古にサムライのイメージをダブらせておそれをいだいてみたりするわけだ。
妙なものだなと思うが、彼らはそういうイメージをいだきたがっているのだから、それはそれでいいのだろう。
ぼくはむしろ、瀬古は弱い男だと思う。
あるいはそれは、中村コーチの弱さなのかもしれない。自らの弱さを自覚している人間が自分を強く鍛えあげようとするとき、たいてい〈中村式〉と呼ばれるやり方をとるものだ。
例えば、中村コーチはバイブルをぼろぼろになるまでくりかえし読み、アンダーラインを引き、そこに書かれている言葉を通じて精神の王国に入っていこうとする。それを彼は自分の心のなかにしまっておくことができない。くりかえし語ることによって、自分のなかに血肉化しようとする。中村コーチが選手たちを前にして、あるいは話を聞きにきた記者を前にして、滔《とう》々《とう》と信仰の世界を語るとき、それはほかでもない自分に対して語りかけているのではないか。そう思うのは、中村コーチが教育者ではなく、どうしても信仰者に思えてしまうからだ。
人が本当に自分を信じきることができるなら、禅の言葉などいらない。
瀬古選手のレース展開を見て、いつも思うことがある。
彼はなぜいつも、人の背中を見ながら走るのだろう。
瀬古は最後の最後まで、トップに立とうとしないのだ。先頭集団に入り、誰かがそこから抜け出すとピタリとマークしてあとにつく。35〓、40〓……、瀬古は容易に前に出ない。
それがマラソンにおける古典的必勝法なのだといえば、それまでのことだ。うしろから走りながら相手のペースを読み、疲労度、残されたスタミナを読みとり、慎重に、スパートすべきタイミングを待つ。八三年一一月の朝日国際マラソンでは、瀬古はゴールの100m手前まで、そのタイミングを待ちつづけた。42〓走りきって、もうあと100mたらずでレースは終わるというところで、おもむろに瀬古はトップに立った。
それは、誰もができることではない。まず第一に、そこまでトップにピタリとついていけるだけの力がなければならない。一度脱落してしまえば、そのまま引き離されてしまうのがマラソン・レースだ。と同時に、最後のスパートのために力を残しておかなければならない。ひとことでいえばスタミナとスピードということになる。
そして瀬古は最後に逆転する。
最近の彼のレース運びは決まってそういうパターンをとることになっている。サラザールがラスト400mでの勝負になれば瀬古が勝つだろうというのは、最後でスピード走ができるスタミナをとっておける瀬古の強さを率直に語ったものだろう。
そのタクティクスを否定する必要はないだろう。
しかし、ぼくはその走り方がどうしても好きになれない。
タンザニアのジュマ・イカンガーというランナーがいる。彼が初めて日本にやってきたとき、マラソン・ランナーとしては新人に近く、まだキャリアの浅い選手だった。
八三年二月の東京マラソンで、イカンガーは鮮烈な印象を残した。最初からトップに立ち、おどろくべきハイペースで先頭集団をひっぱっていった。そのペースにひきずられて瀬古と宗猛が二時間八分台の好記録をマークしたのが、イカンガーの日本におけるデビュー戦である。
イカンガーは、瀬古とは全く対照的なランナーだ。彼は人の背中を見ながら走ろうとはしない。
八三年一一月に、福岡で行われた朝日国際マラソンでも似たようなレース展開になった。ジュマ・イカンガーはトップを走りつづけた。そのうしろに瀬古、宗兄弟、サラザールといった先頭集団がつくという形になった。ゴールまであと100mあまりというところで抜き去られたのが、イカンガーである。
八四年の二月一二日に行われた東京マラソンにも、イカンガーはやってきた。そしてまた、彼は終始、先頭を走りつづけた。このときは他に有力選手がいなかったこともあって、イカンガーが優勝した。
その肉体が持っている力でいえば、瀬古がイカンガーを上回っている。スタミナ、スピード、いずれをとっても瀬古が上だろう。イカンガーには、有力選手にまじって彼らを完全に引き離すだけの力が、今のところまだない。
しかし、そのレース運びに何がしかの魅力を感じてしまうこともたしかなのだ。
ぼくがひねくれた見方をするせいかもしれないが、瀬古がひたひたとイカンガーを追うとき、このままイカンガーが逃げきれば面白いのにと思った。
瀬古がドタン場で逆転するのは目に見えていた。瀬古の走りは完璧だったし、あとは抜き去るタイミングだけを推しはかっていたのだから。瀬古は冷静で、慎重だ。あらゆる状況を考え、そのうえで勝つにはどうしたらいいかを考える。そうしなければ勝てないことを知っているからだろう。彼はスーパーマンなどではないのだ。
そのことが、じつをいえば哀《かな》しい。瀬古はアマチュア・スポーツのジャンルで世界のトップに立てる数少ない同胞の一人だ。その彼に、終始、他のランナーに背中を見せつづけてトップでゴールインするだけの強さがあればいいのにと、ぼくは考えてしまう。こんなことは多分、本人にしてみれば余計なお世話なのだろう。実際に走るのは、彼自身なのだからね。
観客としては〓“グッド・ラック〓”といって見守るしかない。
コー&オベット
その夏のある日、ぼくはイギリス北部の、とある小さな町にいた。そこでちょっとした陸上競技の大会が行われることになっていた。ヨーロッパの夏は陸上競技の季節なのだ。世界のトップアスリートたちが一堂に会すような、大きな競技会ではない。しかし、関心の持ちようによっては、興味深い試合になるはずだった。
ゲイツヘッド。それが町の名前だ。ロンドンから飛行機で北へ一時間ほど飛びニューキャッスルへ行く。そこからレンタカーを借りて東へ向かう。北海につきあたる手前にゲイツヘッドの町がある。その日、競技場にはサンドイッチと飲み物を携えた家族連れがたくさん集まってきた。彼らはまるでピクニックに行くように、スタジアムにやってくるのだった。
ぼくはそこで、二人のアスリートに会う予定だった。セバスチャン・コー、それにスティーヴ・オベット。いずれもイギリス人の中距離ランナーである。
コーとオベット。この二人に関するニュースは、日本のマスコミではほとんど扱われることがない。時折、新聞の片すみに小さな記事が出る程度だろう。それくらいの記事でも、丹念に読んでいればコーとオベットに興味をおぼえたはずだ。
彼ら二人は、まるで絵に描いたようなライバル同士だった。
例えば、マイル・レース(約1・6〓)がある。日本ではもっぱら1500mが行われるが、ヨーロッパではそれよりもちょっと距離の長いマイル・レースのほうがポピュラーだ。
セバスチャン・コーがマイル・レースで3分48秒95というタイムで世界記録を書きかえたのは七九年七月のことだ。場所はオスロである。その一年後、スティーヴ・オベットは同じオスロで3分48秒80で1マイルを走った。コーの記録は破られたわけだった。それで終わりはしない。八一年に入ると、記録レースはさらに激しくなった。
八一年八月一九日に、コーがチューリッヒで3分48秒53という記録を出し、再び世界記録保持者になった。が、その一週間後の八月二六日、オベットはコブレンツで行われたマイル・レースで3分48秒40の記録を出しコーを抜いた。しかし、そのオベットの世界記録は、わずか二日間しかもたなかった。八月二八日、ブリュッセルでコーは3分47秒33で走った。ついに3分48秒の壁を突き破ってしまったのである。
八二年は、記録の面での前進は見られなかった。コーもオベットもコンディションを崩してしまったからだ。
二人が同じレースを走ったケースは少ない。一緒に走れば二人のうちのいずれかが敗者になってしまう。それをお互いに避けたともいえる。
彼らが最後に同じレースに出場したのは八〇年のモスクワ・オリンピックである。800m、1500m。この二種目に二人ともエントリーした。
年齢は、オベットのほうが一つ上だ。一九五五年、ブライトンの生まれ。コーは一九五六年にウエスト・ロンドンのチスウィックで生まれた。身長185〓のオベットはコーよりも10〓高い。
モスクワ・オリンピックが行われた段階で、コーとオベットはそれぞれ二種目ずつ世界記録を持っていた。コーは800m、1000mを制していた。オベットは1マイル、2マイルの世界記録保持者だった。そして1500mでは二人とも同じタイムのベスト記録を持っていた。3分32秒1。これは世界タイ記録である。彼らが世界の中距離界を完全にリードしていたことが、これでわかるだろう。
そしてモスクワでの勝負も、引き分けに終わった。
「800mに強敵はいない。この種目でぼくがスティーヴに負けるとは思えない」
コーはそういっていたが、800mの決戦レースで勝ったのはオベットのほうだった。逆に、長い距離になれば強いといわれていたオベットが、1500mでコーに屈してしまった。このレースに勝ったセバスチャン・コーの、ラップ記録が手もとにある。それによるとコーは、最後の200mを24秒7、ラスト100mを12秒1で走っている。1400mを全力で走り、その最後の100mを12秒1である。コーはゴールインするとトラックにひざまずいた。
それ以後、二人は一度も同じレースを走っていない。
ゲイツヘッドでなら会って話ができるといってきたのは、オベットのほうだった。
「本当にオベットがそう返事してきたのか? 信じられないな。コーがそういったんじゃないのか?」
途中から一緒に行動することになったイギリス人のカメラマンはしきりに首をひねった。彼によると――
「コーはプレスに愛想がいい。いつもニコニコ顔でカメラの前に立ってくれる。オベットは逆だ。インタビューに応じるなんてことはめったにないんだ」
ゲイツヘッドでの試合の一週間後、フィンランドのヘルシンキで第一回世界陸上選手権が開かれることになっていた。そこで二人が同じレースを走るかもしれないという期待を抱いているファンは少なくなかった。ゲイツヘッドはそれに向けての最終調整の場でもあった。
「ぼくは別にインタビュー嫌いじゃないんだ」
オベットがいった。意外なほどマイルドな語り口だった。
「ぼくのやるべきことは走ることであってしゃべることじゃない。基本的にはそう考えているんだ。でも、インタビューを受けなかったのには別の理由もある。セブ(コーのこと)がグッド・フェイスでTVインタビューにこたえているんだから、ぼくは逆をやったほうがいい。そのほうが面白いだろう。セブはいい奴だと書かれ、ぼくは悪者のイメージさ。まるで陳腐なウェスタン・ムービーみたいだけどね。そのほうが新聞も売れる。そういうシチュエーションを楽しんでいたともいえるね」
「それで、最後は悪者が勝つというドラマツルギーが好きなのかな?」
ぼくはそう聞いた。
「ちょっと違うな。ぼくは偽善者よりも偽悪者のほうが好きだということだよ。世の中には正義の人と悪者がはっきりした形でいるわけじゃない。そうでしょう?」
「で、このライバル・ストーリーの結末はどうなるんだろう」
「もちろん、ぼくが勝つさ」
そういうとオベットは楽しそうに笑った。
「ぼくは勝つために走るんだ。いつでもそうなんだ。記録を狙《ねら》うのではない。レースに勝つことがぼくの目的なんだ」
コーはむしろ逆だった。800m、1000m、1500m、1マイル、2マイル……中距離レースのすべてのワールド・レコード・ホルダーになろうとしているかに見える。事実、それは着々と成し遂げられている。そういうなかでオベットは記録よりも一つ一つのレースに勝つことに執着し始めたのかもしれない。ぼくはそんなふうに思った。
オベットは陽気だった。試合前なのにこんなにしゃべっていていいのかとこちらが気をつかうほど、リラックスしていた。
「セブは最近どうなんだろう」と、ぼくはオベットに聞いた。セバスチャン・コーはここのところ三週つづけて敗退していたのだ。
「苦しんでるように見える。苦しみは誰にでもあるものなんだけど……」
オベットの表情がちょっと沈んだ。
コーとはゆっくり話をすることができなかった。彼は不安げな面持ちでウォーミング・アップにとりくんでいた。ちょっと話しかけると「また今度にしようよ」――コーはそういった。
ぼくは、ひょっとしたらセバスチャン・コーの最後のレースを見たのではないかとも思う。その日、コーは800mを走った。レースの顔ぶれからすれば、当然、コーが勝つだろうと思われた。スタンドの人たちもそれを期待していた。コーは三連敗している。よもや四連敗するはずがない。いつだってコーは逆転してきたじゃないか。ファンはそう信じていた。
しかし、コーに力はなかった。最後の第四コーナーで一度トップに立ったものの、スピードが鈍った。そのコーを三人のランナーが抜いていった。四位。惨敗だった。
オベットはそのシーンを見ながらポツリともらした。「敗れるというのは寂しいものだね……」
ライバルを失ってしまうのではないか。そういう思いがオベットの胸に去来したようだ。
二日後、ぼくはヘルシンキに向かった。新聞を開くとスポーツ欄に大きな見出しが出ていた。
「コー、世界陸上に棄権。原因不明のリンパ炎で再起不能!?」
ヨーロッパは暑い夏のさなかだった。
その後、この二人はロス五輪に出場した。イギリスの代表選手に選ばれたわけだった。しかし、勝つことはできなかった。
ロスのメモリアル・スタジアムのトラックをこの二人が肩を組んで歩いているうしろ姿が日本の新聞にものった。一つの時代が終わったと、キャプションには書かれていた。
ウェイト・リフター
人間という生き物は自分で気づかないうちに自分の限界を作ってしまうものらしい。
前にも書いたことだが、かつて、巨大な岩のような肉体を誇ったソヴィエトのウェイト・リフター、ワシリー・アレクセイエフがこういった。
「人間というものは自分の望むとおり、強くなることができるのだ」と。
この言葉にぶちあたったとき、ぼくはそんなバカなことがあるものかと思った。それは、アレクセイエフの自伝という体裁をとった本であったから、自伝であることをいいことに大ボラを吹いているにちがいないと思ったのである。望むとおりに強くなることができるなら、世の中はスーパーマンであふれてしまうではないか。
しかし、徐々にその考え方を改める気になった。〓“限界〓”というものは誰にでもあるが、それを突き破るには、まずその限界を突破しようとする意志が先行することを知ったからである。まず、限界を超えようと思う。次に、超えられるのだと思う。そもそも限界というのは、人間がイメージのなかで勝手に作りだしたものでしかないのだと考える。そうすることによって初めて、限界と対《たい》峙《じ》する基本姿勢ができるのだ。
ところで、世の中には非凡なる人と凡人とがいる。前者はごくごく少数で後者が圧倒的に多いことはいうまでもないことだ。
凡人にも、ある程度のことができる。ある水泳のコーチと話をしていたとき、コーチがぼくに尋ねた。
「第一回のオリンピックで、100m自由形の選手がどれくらいの記録を出したか知っていますか?」
「アテネで行われた大会だから、一八九六年ですね。さて、どれくらいのスピードで泳いでるんだろう」
「ハンガリーのハヨスという選手が優勝してましてね。タイムは1分22秒2だったといわれている。そんなものだったんです。100mを泳ぐのに1分の壁を破るのはむずかしいだろうと思われていたと思いますよ。ところが、一人の非凡な力を持った選手が出る。アメリカのジョニー・ワイズミュラーですよ」
「のちにターザン俳優になる人ですね」
「そのワイズミュラーが58秒6という記録を出した。一九二四年のことですね。そうするとね、ぞくぞくと1分を切る選手が出てくるんですよ。不思議ですね。一人が壁を突き破ると、そのあとからついてくる選手は平気でその壁を超える。壁が壁でなくなっちゃう。今じゃ、日本の高校生だって1分以内で泳ぎますよ。世界記録は一九七六年にアメリカのジェームス・モンゴメリーが49秒99を出して以来、40秒台の争いになっていますからね」
最初に〓“壁〓”を突き破るのが非凡なる人間だ。一度、破られた壁はもはや壁ではなく、単なるハードルになってしまう。ハードルを超えることくらいなら凡人にもできる。
「ぼくは限界を作らないんです。記録の面での目標も作らない。それを超えちゃったとき困るでしょう。目標を達成したところで、もうこれで十分だと考えちゃいますからね」
砂《いさ》岡《おか》良治はそういっている。彼はウェイト・リフティングの成長株である。82・5〓級で国際大会に出場している。体重110〓以上のスーパーヘビー級には及ばないが、82・5〓級はいちおう重量級に属する。身長171〓、胸まわりは100〓、ウェスト82〓、腰が100〓、上腕部の太さ37〓、大腿が64〓、首の太さが42〓。この原稿を書いている時点でいえば、二一歳。日体大の学生である。砂岡は国内ではもはや敵なし。国際大会で優勝を狙えそうなところにきている。
どれだけ重いものを持ちあげることができるか――ウェイト・リフティングはそれだけを争う競技である。種目はスナッチとジャーク。その総合重量で優勝が決まる。きわめてシンプルな競技といっていいだろう。自分の限界重量を高めていけば、おのずと栄光がころがりこんでくる。
しかし、シンプルであるがゆえにこの競技にはデリカシーがともなうのだ。
「壁っていうやつですね」
砂岡選手につきっきりでコーチしている日体大助教授、関口脩がいうのだった。ここにもまた、壁である。
「わかりやすくいうと、まず100〓というところに壁がある。97〓とか98〓を何度も平気であげているのに100〓にすると、どうしても持ちあがらない。そういうことがある。その差、わずかなんです。90〓や95〓の壁は平気で超えられたのに100〓の壁が超えられない」
「三ケタになるからですかね。お金の場合、ケタが増えるとだいぶちがいますからね」
「メンタルなものなんですね。だから、そういうときはですね、だましてあげるわけです。付属物をわからないようにつけて、実際は100〓以上になっているのに選手にはこれで98〓という。本人はそれならどうってことないと持ちあげてしまう。そのあとで、実は100〓を持ちあげたんだといってやるわけです」
「その結果、逆にコーチを信頼しなくなることはないんですか?」
「大丈夫ですね。自分で限界だと思っている線を一度超えてしまえばいいんですよ。一度超えると、スーッとまた記録が伸びていく。限界は超えられるんだと思うようになる。そういうふうにして限界重量をどんどんあげていくわけですね」
ぼくはアレクセイエフのことを思い出した。この〓“巨人〓”は、世界記録を六十数回、書きかえている。ライバルが自分を追い越し、それをまた抜きかえすというパターンではない。彼には、ライバルはほとんどいなかった。もっぱら自分の作った記録を自分で書きかえているのだ。そこらへんが、じつになんというか、すごい。
話を砂岡に戻そう。
彼の最近のベスト記録は、スナッチで160〓、ジャークで202・5〓。82・5〓級の世界のトップはそれぞれ180〓、223〓ほどのウェイトをあげている。砂岡は各種目とも20〓ほど足りない。が、それはさほどのハンデではない。ここ二年ほどのあいだに彼はスナッチ、ジャークとも約30〓、記録を伸ばしている。ウェイト・リフティングの選手がピークに達するのは二〇代後半だといわれている。砂岡はこれからのぼりつめようとしているのだ。彼が今のところ自分の限界について考えたりしないのは、当然のことなのである。
ウェイト・リフティングほどストイックなスポーツも珍しい。パワーは筋肉の断面積に比例して強くなるといわれている。まず、筋肉を太く、大きくしなければ記録の上昇は望めない。そのために毎日、彼はマシーンと取り組む。試合に向けて長期的なメニューがたてられている。最初は比較的軽いものを数多くあげるようにし、試合のしばらく前に限界重量を超えるバーベルにトライする。そしてまた、力をセーブしながらトレーニングをつづけるのだ。
競技時間は短い。選手は各種目、三回ずつ試技が許されている。一回の試技に与えられている時間は二分である。名前をコールされてから二分以内にバーベルを床からあげなければならない。そのわずかな時間に集中し、自分の持てる力を発揮しなければならない。
もうすこし細かいルールを紹介しておくと、一回目をクリアした選手は二度目の試技で一回目より最低5〓以上重いウェイトに挑戦しなければならない。二度目もクリアした場合は、三度目に前回より2・5〓以上ウェイトを重くしなければならない。それがこの競技のルールだ。一度目の試技で失敗すれば、チャンスはあと二度しか残らない。そのなかで勝負をかける。何〓の重さからスタートするかが重要なポイントになってくるわけである。優勝を狙って重いところからスタートすれば三度とも失敗し、失格してしまうこともありうる。かといって、自分にとって安全すぎるところからスタートすれば、それなりの順位にしかくいこめない。
試合場には4m四方の広さの台がセットされる。そこがいわばフィールドだ、そのなかで限界重量とのたたかいが行われる。
砂岡は栃木県小山高校時代にバーベルと出会った。ヒマつぶしではじめたのだという。スナッチ60〓、ジャーク80〓。それが最初のデータだった。今はその二・五倍ほど重いものを平気で持ちあげる。トレーニングを積みテクニックをおぼえる、それだけではそこまで伸びない。プラス・アルファの力がある。
「限界を作らなければどこまでも伸びると思いますよ」――彼は今、自分で自分の限界を突き破り、非凡なる人になろうとしているところだ。
オリンピックでは入賞できなかったが、つい最近、八五年六月に砂岡が日本記録を書きかえたという新聞記事を読んだ。八八年のオリンピックに、彼は的をしぼっている。
予定どおり
レフェリーがリング中央に立ち、両コーナーからボクサーを呼び寄せる。肩を振り、ステップを踏むように出てくるのはファイター・タイプのボクサーだ。ゴングが鳴る前から入れこんでいる。レフェリーが二言、三言、注意を与える。バッティング、ローブロウに気をつけるように。いうことはせいぜいそれくらいだ。ファイターは、レフェリーの言葉を意識的に無視する。話を聞くことよりも相手から視線をそらさず、ゴングが鳴る前に射《い》竦《すく》めてしまおうと考えている。
このヒョロッとした男がなんだってんだ。ファイターはつぶやく。まるでキリンみたいに長い首をしやがって。リーチがあるって? 腕が長いだけで勝てるならサンドバッグはいらない。要はパンチ力なんだ。アゴを叩《たた》き割り、こいつの首をムチ打ち症にかかるくらいのけぞらせてやるパンチ力があればそれでいい。それにこいつのボディときたらどうだ。おれのアッパーがスタマックに入ったら胃袋が背骨にまきついちまう。おれの勝ちだ。
――そう思ったボクサーが何人いただろうか。
キリンのような長い首の、ヒョロリと背の高いボクサーは無表情だ。肌はブラック。黒々とした大きな目は野獣のように光っているわけじゃない。あくまで静かだ。長い手はだらりと下げたまま。肩の筋肉をひきつらせてさかんにしかけてくるファイターをじっと見おろしている。
やがて、ゴングが鳴る。
ファイターは勢いよくコーナーをとび出し、出合いがしらに鋭いストレートを放つ。ちょっとしたあいさつがわりだ。そのあと一気に内懐にとび込み、短いが力のあるパンチを叩き込んでやればいい。そう思っている。試合の主導権はおれが握れる。
最初のストレートは間違いなくノッポの顔面を捉えたはずだ。しかし左のこめかみの下あたりに衝撃を感じるのは自分の方だ。ノッポはファイターの先制攻撃を難なくかわし、下がりながら的確なパンチを決めてきた。
なんだこいつはと、その段階ではファイターはまだ気づかないだろう。今のパンチは偶然なんだと思うはずだ。腕が長いからたまたま当たっただけなんだ、と。ファイターは距離をとり直し、ガードを固めながらノッポを追いつめていく。ノッポはロープを背にして、ガードは極端に低い。顔面は全く無防備だ。ファイターはそこを狙《ねら》って思い切りのいいパンチをくり出す。確かにそのパンチはノッポの顔面を捉える。しかし打ち込んだという実感がない。ノッポはパンチとほぼ同じ速度で、顔を横にスウェイさせている。そしてほぼ同時に重いボディブロウをファイターの腹に叩き込んでいる。
そこらあたりで、ファイターは気づくのだ。こいつはただものじゃないぞ、と。
マーク・ブリーランド。それがキリンのように長い首をした、やたらに手が長いノッポのボクサーの名前だ。もう一度、名前を書く。マーク・ブリーランド。覚えておくべきボクサーだ。
今はアマチュアのリングに上っている。クラスはウェルター級。アマのウェルターの世界チャンピオンだ。アマチュア・ボクシングの世界では七四年以来、四年に一度、世界選手権が行われている。その第三回目は八二年、ミュンヘンで行われた。マーク・ブリーランドは当然のようにチャンピオン・ベルトを手にした。そのまま四年間、タイトルを持ち続けるわけじゃない。次回の世界選手権までにチャレンジ・マッチが組まれる。
八三年の五月、後楽園ホールでアジア大会のゴールドメダリスト、韓国のクン・ヨン・バムがブリーランドに挑戦した。クンは太い腕、たくましい肩を持ったファイターである。どんな距離のとり方をしても、クンのパンチはブリーランドにダメージを与えなかった。せいぜい三ミリほど皮膚にくい込むだけで、力はブリーランドに吸収されてしまった。クンのパンチは剛速球投手が生卵を投げたようなものだった。ブリーランドはそれを一つも割ることなく、ふわりと受けとめてみせた。そして逆に小気味のいいコントロール・ショットを送り込む。卵はすべて、クンの顔面、ボディのあたりで破裂した。
ボクシングは根性でやるスポーツじゃない。才能だ。
「マービン・ハグラーをどう思うかって?」
やわらかな微笑を浮かべながらブリーランドはいっている。マービン・ハグラーは世界ミドル級の、WBC、WBA両方のタイトルを持っていた。
「彼はぼくより多くの経験を積んでいる。でもそれだけのことさ。ぼくがチャンプになるころは、もう年老いてるじゃないか」
ブリーランドは六三年、ニューヨークのブルックリン生まれ。まだ十分に若い。ボクシングを始めたのは九歳のとき。ブルックリンのジムに通って本格的にやり出したのは一一歳からだ。戦績は88勝1敗。七九年―八三年、四年連続してニューヨーク州ゴールデン・グローブ賞を受賞している。八一年、八二年の全米チャンピオン。八二年の世界選手権も制したことは、先に書いた。
ブリーランドのボクサーとしての設計図は完璧にできあがっている。
「チャンピオンの座を保ちながら、ロス・オリンピックを迎える。当然狙いはゴールドメダルだよ。それが八四年のことだ。ぼくは二一歳。そのあとでプロ入りする。モハメド・アリやシュガー・レイ・レナードと同じルートさ。クラスはウェルターかミドルだね。そして二三歳のときにぼくは世界チャンピオンになる。八六年だ。そのあとがまだある。チャンピオンになったら五、六年はタイトルを保持していくんだ。引退するのは二八か二九歳、そういうことになるね。そのあとどうするかって? 儲《もう》けた金でビジネスをやる」
「決まってるのかい?」
「決まっている。そういうことになってるんだよ」
才能がありすぎる。
ブリーランドには、シェリー・フィンケルみたいなプロモーターが、すでについているかもしれない。マービン・ハグラーの次に世界ミドル級のタイトルを手にするに違いないといわれているトニー・アヤラJr.を捉えている腕っこきのプロモーターだ。そのフィンケルはこういっている。メBreland has the potential of being everything he want to beモ
ブルックリンのサムナー・アヴェニューにボクシング・ジムがある。コーチはジョージ・ワシントン。かつてのヘビー級チャンプ、ジョー・ルイスなどと闘った男だ。
「何人もの若い奴がボクシングをやりたいといってくる。しかし、おれが鍛えてやろうというと、たいてい帰っていくよ。マークは残った。ほかの奴らとは違った。動きは最初からスムーズだった。だからこの男をチャンピオンにしようと思った。間違いない。チャンプになる。決まってるんだ」
もうみんな、決めてしまっているようなのだ。ファイト・マネーがいくら入るかも計算済みなのだろう。問題はどのクラスからスタートするかぐらいだろう。ウェルターから始めれば、ジュニア・ミドル、ミドルと三階級制覇を成し遂げることになる。ミドル級はアメリカでヘビー級と並んで人気のあるクラスだ。アメリカ人の男の平均ボディ・サイズがミドル級だからである。モハメド・アリがリングを去ったあとプロボクシング界はシュガー・レイ・レナードという超スーパースターを生んだ。レナードもウェルターからスタートし、ジュニア・ミドル級までかけのぼった。そのレナードがリングから去った。マーク・ブリーランドは、あらかじめスーパースターになる才能と運を持っている。
コンセントレーション。ブリーランドのボクシングにはそれがある。冷静な視線が突然、狂暴になる瞬間がある。全身に力が漲《みなぎ》り、激しいパンチがくり出される。KOシーンは一瞬のうちに成立する。そしてまた、いつもの、何ごともなかったような表情に戻るのだ。
「それは多分、ヨガのせいだろう。これは芝居をやっている友人が教えてくれたんだ。ぼくは試合の前の晩、ベッドに入る前に深い瞑《めい》想《そう》に入るんだ。呼吸を整えて、深く、静かに瞑想する。何も考えない。自分の心の中に帰っていくのさ」
シェルドン・バートというアメリカの作家がブリーランドの絶妙のパンチを次のように形容している――
「それはカウント2―3からコーナーぎりぎりに入っていく鋭いカーブ・ボールみたいなものだ」
ブリーランドは八三年の夏に公開の『Lords of Discipline』という映画で準主役をつとめている。すでにスターなのだ。
そして八四年夏、彼は予定どおりオリンピックで金メダルを獲得した。
ブリーランドの次のスケジュールは、八六年に世界チャンピオンになることだ。
そのとおりになるだろうと、ぼくはここに予想しておく。
〓 セカンド・ハーフ
サイボーグ
あの〈Vサイン〉というやつが、どうしても好きになれない。
どんな場合でも、勝者はVサインを出すことになっているらしい。スポーツのみならず、若い歌手がベスト10に登場したといってはVサインを出しているし、新人賞にノミネートされたといってはニッコリ笑って人さし指と中指を突き出してみせていた。三流大学にやっとひっかかっただけだというのにVサインで記念写真を撮っているのを見たりすると思わず、目をそむけたくなってしまうのだ。
悪い習慣だと決めつけてからんでいるわけではない。ただ、いい趣味ではないことだけはたしかだ。
一体、彼らは何に勝ったというのだろう。
生きている限り、たたかいは日常的にある。若ければ若いほど、人はその結果に大きく心揺さぶられる。歓喜と絶望がすぐそばに住んでいる年ごろなのだから、いたし方ないといってしまえばそれまでのことなのだが、しかし同時にその歓喜も絶望も、えてして一過性のものでしかないことを知っていてもいいのではないか。
本物の喜びと、どうにもならないくらいの絶望は、もっとずっとあとになってやってくる。そして、それを知ったとき、どうやら人は〈子供〉から〈大人〉になるらしい。
プロ・ゴルファーの中島常幸が、それまでの彼とは違うのではないかと思われるようになったのは去年、つまり八二年のシーズン開幕間もない四月の、ダンロップ国際トーナメントに勝ち、さらに五月のフジサンケイ・クラシックにも勝ったころからだ。
ことに、フジサンケイ・クラシックは面白い展開になった。初日、中島は〈67〉のスコアで首位。二日目〈73〉を叩《たた》いて五位に後退。三日目には再び〈66〉と粘《ねば》って首位に返り咲き、最終日には二位のグラハム・マーシュに一度は抜かれながら再度追いつき、プレイオフに持ちこんだ。マーシュはこの大会、過去に二度、優勝している。プレイオフにもつれこめばベテランのマーシュが有利だろうと思われた。ところが、サドンデス方式の、一打のミスも許されないプレイオフで、勝ったのが中島常幸だった。
どうなってるんだいと、誰もがいった。中島があそこまで粘れるなんて信じられない、と。中島は笑いながら、こう答えた。
「もう昔のぼくとは違うんですよ」
しかし、それでもゴルフ・ジャーナリストたちは半信半疑だった。どうせ、すぐにまた崩れるのではないかと、訝《いぶか》ってみたりもした。
ここ数年の中島は、気の抜けたサイダーのようなゴルフをしていたからだ。
八二年のシーズン、その中島の調子が大きく崩れることはなかった。七月の長野県オープン、八月の東西対抗ゴルフ、そしてシーズンの最後を飾る日本シリーズゴルフに優勝し、年間に五勝をあげた。出場した試合数は三四。そのうち二四回、ベスト10に入っている。二位も五回ある。賞金ランキングは文句なしのトップ。二位の青木功に二五〇〇万円の差をつけて、中島の賞金獲得総額六八二二万円。1ラウンド当たりの平均ストロークは70・83で、これもトップ。八二年のプロ・ゴルフ界は中島常幸のためにあったといってもいいだろう。
あらためて、何が中島に起こったのかと聞くと、彼はこう答えた――。
「シーズン初めにいったでしょう。ぼくは変わったんですよって」
口もとに笑みを浮かべながら、いうのだった。
「昔、といっても、ほんの数年前のことだけどね。ぼくは日本のメジャー・タイトルもとったし、世界の檜《ひのき》舞《ぶ》台《たい》にも出ていった。そのときはそれでいいと思っていたんだけどね、だんだんちがうと思い始めたんですよ……」
中島常幸が有頂天になってVサインを出していた時期がある。彼がいうように、それはさほど昔のことではない。ゴルファーとしての中島のキャリアは、ちょっとユニークだ。
初めてゴルフのクラブを握ったのが九歳のとき。彼にゴルフを教えたのは父親である。中学、高校と進みゴルフが上達するにつれ、ゴルフに対するのめりこみ方は尋常ではなくなってきた。自宅に専用の練習場を作り、特訓を始めた。夏休みは朝から晩までクラブを振りつづける。そのころ、プールに泳ぎに行くことなど、一度もなかったという。ゴルフに専念するため、高校も中退。ジュニアの試合に出ていくと、敵はいなかった。一八歳で日本アマのタイトルもとってしまった。ドライバー・ショットの飛距離もアイアンのコントロールも群を抜いていた。二〇歳でプロ・テストに合格すると、〈キカイダー〉というニックネームがつけられた。新人にしては信じられないほど正確なショットを見せたからだ。〈サイボーグ〉と呼ばれたこともある。400mのドライバー・ショット、四日間のトーナメント72ホールで72アンダーというスコア――いずれも常幸なら将来達成できるはずだと、父親はいった。常幸自身、自分にできないことは何一つないと思いこんでいた。力もあれば才能もある。こわいものなんて、何一つなかった。
プロとして最初のシーズンに三勝をあげ、二年目も三勝。そのなかには〈日本プロ〉というビッグ・タイトルも入っていた。
そして七八年、二三歳でアメリカのマスターズ・トーナメントへの出場権を得た。毎年春、四月に、ジョージア州オーガスタで行われるこのトーナメントはプロ・ゴルフの世界では最も権威ある試合だと位置づけられている。中島は自信満々で、オーガスタへ飛んだ。
「一日に2アンダーのペースでいけばいいんですよ。2ホール、バーディーをとればあとはパーでいい。それだけで四日間8アンダーだって可能ですよ」
中島はそういっていた。
「このマスターズに出たくてゴルフをやってきたわけですからね。研究はしつくしています。想像していたとおりのコースですね。かなりいけそうな気がするな」
日本のプロ・ゴルファーは、もう追いこした。あとは世界のレベルに並ぶだけだというのだった。
彼は日本でVサインを出しすぎていたので、何か誤解してしまったのだろう。
初日、80を叩き後退。二日目はスコアを伸ばさなければ予選を通過できない。12番ホールまでイーブン・パーできたが13番ホールでつかまってしまった。マスターズの11番―13番は右に大きく曲がりくねるように設計されており、〈アーメン・コーナー〉と呼ばれている。ゴルファーが思わず神だのみしたくなるような難コースがつづいている。その13番はパー5のロングホール。グリーンの手前にはクリークが流れている。中島は第2打でそのクリークに打ちこみ、無理に出そうとして失敗。さらにボールをかかとに当ててペナルティー、その後ハザードにつかまり、バンカーにつっこみ……結局そのホールで13打を叩くというワースト・レコードを記録してしまった。
中島は以後、容易に勝てなくなってしまった。
七八、七九年と一勝もできず、八〇年の六月の三菱ギャラン・トーナメントで久々の優勝を飾ると、次は八一年三月まで勝てない。どうにもならない状態がつづいた。
「自分に不満を持ち始めた。世界の壁を知って、それまで張りつめていた風船が割れたようなものですね。パチン。スランプになった。国内のトーナメントに出ても、集中できない。練習にも必死になれない。クラブを振ると、クラブのほうが持たれるのをいやがっている感じなんですね」
得意絶頂だったころのはしゃぎようは何だったのかと思ってしまったわけだった。クラブを握るのが苦痛だから、遊ぶ。練習をしなくてもある程度の成績を残せるから、とことんまで落ちることはない。そんな状態でゴルフをやりながら、本当のゴルフというのはこんなもんじゃないと、わかっている。わかっていながら気持ちがついていかない。
マスターズに失敗して数か月後の夏のことだ。
中島は一つだけ、思いきった行動に出た。〈家〉を出ようと、彼は考えた。結婚して子供が生まれようとしていた。その時期に、あえて、ゴルフの上では〓“師〓”でもある父親の勢力圏から脱出しようと試みたわけだった。
「そのことについては、ずいぶん悩みましたね。ぼくは長男だし、弟や妹も、ぼくと同じようにゴルフに手を染めていた。ぼくだけが独立することに躊《ちゆう》躇《ちよ》していたわけですね。でも、一度そこから離れないとダメなんじゃないか、親から精神的に自立しないとそれ以上になれないんじゃないか。そうも思うわけですよ」
スランプは、じつはそこから始まったともいえる。精神的なヘソの緒を断ち切るための脱出が、彼を座標軸の見えない異空間へと運んでしまうのだ。
中島は今でも、ゴルフの師は? と問われると迷うことなく〈父親〉と答える。
その父親、中島巌氏はプロ・ゴルファーだったわけではない。アマチュアとしてゴルフというスポーツにのめりこんだ一人である。父親は長男の常幸が大きくなると自分のゴルフのスコアを伸ばすことよりも、息子をプロ・ゴルファーとして育てることに夢中になった。常幸自身、その父親の方針に異論はなかった。
ただコースに連れていくだけではない。自宅の庭に練習場を作り、どんな天気だろうと毎日、クラブを握らせた。サーキット・トレーニングもとり入れ、筋肉の強化を図る。ゴルフに専念するため、高校は中退。常幸はそのことにとりたてて疑問をいだかなかった。やがてプロになり、トッププレイヤーの座につく。目的は明快だった。ただ中途半端に学校に通うことのほうが、無駄なのである。
一〇代の夏のある一日。中島は陽を背にうけてスタンスをとり、小さな白いボールに向かう。自分の影が、朝は左前方に長く伸びている。太陽が中天に近くなると、その影は右に移動し、そして短くなる。真上に近い角度から、彼は太陽に焼かれる。夕方になると影は長くなり、さらに右に移動する。その自分の影の位置で、おおよその時刻を知ることができたと、中島はいう。
ゴルフ以外に、彼は何もしなかった。遊ぶこともない。ディンプルのついた、適度に重みのある小さな白球をいかに正確に、遠くに飛ばすか、それだけを考えていれば、心も満ち足りた。スコアはおのずと伸びる。ジュニアの大会では敵がいなくなり、一般のアマチュア選手権に出ていっても勝ってしまうのは、彼にとっては不思議でも何でもなかった。それだけのことをしてきているのだから、勝って当然だった。
強くなるにしたがって、父親の巌氏との関係はますます密になっていく。父親は息子を日本一のゴルファーにしようとのめりこみ、息子はその期待に応えることが自分の人生なのだと思う。
プロになって一年目、宇《う》部《べ》カントリーで行われたペプシ・ウィルソン・トーナメントに出場した中島は初日1番ティー・グラウンドである女性の視線を感じる。目を上げると視線が合った。中島は瞬間的に、この人だと思いこんでしまう。この人以外にはいない、と。中島は最初に親しく話をするようになったその女性と、まもなく結婚する。その結婚に、中島の父親は当初、反対した、おまえはまだ若すぎる、というわけだった。それでも本人を引きあわせると、すぐに了解はとれた。その結婚によってゴルファーとしての将来があやうくなることはないと、判断したからだろう。
そのとき、中島常幸はまだ家を出て独立しようということまでは考えていなかった。
しかし、誰の人生でも、いつかそういう瞬間がやってくるものだ。親の精神的な勢力圏から脱出したいと思う時期がある。その引力がたまらなくうっとうしくなったとき、自分の足で、自分の速度で歩くようになる。
きっかけが必要だった。
ちょっとしたことでもいいのだ。新しい世界を垣間みることができれば。そのとき、それまでの自分がしてきたことが、じつはたいしたことではなかったことに気づく。そして、淀みに佇《たたず》んでいるだけでは何も始まらないのだと痛いほど感じてしまう。
中島常幸がプロとして海外のトーナメントに出場したのは、七八年のマスターズが最初である。オーガスタ・ナショナルゴルフクラブの、あのグリーンを一度踏みしめてみると、よくわかる。コースのレイアウト、バンカーの位置、カップの切られる位置をこの目でたしかめてみると、如実に見える。プロ・ゴルファーが、なぜマスターズのタイトルを至上のものと考えるのか。このクラブは、年に一度のマスターズ・トーナメントのために、ほぼ半年間、メンバーでさえもコースからシャットアウトする。芝のコンディショニングは完《かん》璧《ぺき》という以外、ない。
二日目の13番ホールで13打。その記録を出したからではなく、その場に身を置いたことで、中島に見えたものがあるはずだ。大げさな表現であることを承知のうえで書くのだが――その日、彼はプロ・ゴルファーとしての〈彼岸〉を見たのである。となれば、いつまでも此岸に佇みつづけているわけにはいかない。
数か月後、彼は父親であり師でもあった人のもとを離れる。
そこから中島が勝てなくなるのは、さほど不思議なことではない。厳しかった父親のそばを離れて遊びまくったからというわけでもないはずだ。ある引力圏から脱出して、次の宇宙を作りあげるまで、どんな天才であろうと、時間をかけなければならない。座標軸は一度、見失われてしまう。
七九年から八一年までの三年間、中島にとっては二〇代半ばの重要な時期、彼は新たなる座標軸を求めるさまよい人だった。そしてまた、次のきっかけがやってくる。ある日、中島は気づいたという――「ゴルフはクラブをまっすぐふりあげ、そのまま素直にふりおろせばいいんじゃないか」と。
そういう結論に、身体が導かれていかないと、ゴルフにおいて何かがわかったということにならない。
しかし、ゴルフというのは不思議なスポーツで、一度わかったと思っても、その悟りにも似たものがするりと逃げていく。そういうこともある。ぼくがここでわかったふうなことを書いたからといって、それが真実を語っているともいえない。中島が何かを本当に得たとしたら、彼はもっと別の存在になっているはずだ。
一つの角をまがるたびに、人はきっかけを必要とするものらしい。
0―1のスコア
西本聖《たかし》が江川卓と投げ合ったことが、一度だけある。
その日のことは、江川よりも、むしろ西本のほうが細かにおぼえている。江川にとってそれは何でもないただの練習試合だったはずだ。昭和四八年のことである。今から一〇年以上も前、江川は〈作新学院〉のユニフォームを着ていた。西本は〈松山商業〉のユニフォームを着ている。その年の夏の高校野球シーズンが始まる前のことだ。松山商業が作新学院に練習試合を申し入れた。江川はすでに〈怪物〉だった。春のセンバツ高校野球には準決勝で敗れたものの60奪三振という記録を作った。一回戦から準決勝まで、わずか四試合のうちにである。それ以前に江川はノーヒットノーラン八回、連続108イニングス無失点という記録も作っていた。
松山商業は栃木に赴いた。場所は作新学院のグラウンドである。西本聖は江川より一級下になる。このときは高校二年生。その西本が江川と投げ合った。
「スコアは1―0だったと思う」
西本の記憶である。
「投手戦だった。松山商業は江川さんを打てない。ぼくも作新を抑えた。決勝打は、たしか江川さんに打たれたんです。タイムリーヒット。そのまま1―0でゲームセット」
西本は敗れた。
その日のゲームをたまたま見ていた新聞記者がいる。彼は当然、江川に注目していただけだが、同時に松山商業の予想外の善戦も記憶に残った。
それから一年半ほど経ったとき、その記者は思わぬ発見をする。四九年秋、ドラフト会議が行われ、年末に各チームの入団選手が発表される。巨人は鹿児島実業の定岡正二を筆頭に六人の選手を指名、獲得した。そして、そのほかに三人をドラフト外選手として獲得したと発表した。そのドラフト外選手のなかに〈西本聖・松山商業〉という名前があったのだ。西本は一度も甲子園出場を果たせず、全く無名の投手だった。
あのときのピッチャーがドラフト外で巨人に入ってきた。対する江川はその一年前のドラフトで阪急に指名され、それを蹴って法政大へ進んでいる……。記者は巨人のファームに入った西本をひそかに注目するようになった。
そのまま西本が芽を出さず、ジャイアンツのユニフォームを脱いでしまえば、これ以上の話はない。多摩川グラウンドに汗の結晶だけを残して去っていく男は少なくない。むしろ、何者にもなれずにUターンしていく男たちのほうが多数を占める。「今から思えば」と、すでにユニフォームを脱いでしまった男たちはいう。「今から思えば、努力の差なんだと思いますよ。天分としかいいようがない力を持った選手もいますけどね、それはほんの一握り。高校を出てプロの世界に入ってくる選手の力なんて、さほど変わりませんよ。要は、そのあとなんだ」と。
幾度か、二軍選手の合宿を訪れたことがある。午《ひる》下《さが》りだった。陽光は容赦なくグラウンドを照りつけていた。あるとき、ユニフォームを着た男たちはその光に晒《さら》されて、あえいでいた。また、あるとき彼らは部屋の窓を開け放し、うつろな目をして横たわっていた。とりあえず、練習を終えてしまえばすることがない。アイドル歌手のスローバラードを聴きながら暴発しそうな肉体をもてあましている。いつ、大観衆の前でプレイできるのか。保証はない。自分の力に対する懐疑の念も頭をもたげてくる。それをふり払うように白球を追う。昨日もそうだった。一か月前も同じだったような気がする。何ひとつ、前へ進んでいないのではないかと、呆《ぼう》然《ぜん》として体を横たえる。溜《ため》息《いき》をつけば、そこにもまた午後の光が射し込んでくる。まぐろのように投げ出された体は光に串刺しにされているように見えた。
ぼくは、そのなかから這《は》いあがれずに終わった男を何人か知っている。いずれも、西本と同じように、ドラフト外でジャイアンツに入団した。あこがれのユニフォームが着られることを、最初は喜び、はねまわり、やがてそのユニフォームに汗のしみができるころに野球に疲れ、倦《う》んでしまった。
一人は今、バッティング投手をしている。
「西本さんは、ぼくより一年先輩だったんです。強い人です。本当にそう思う。ファームの連中はみな、上から与えられる練習メニューのほかに、ひそかに自分なりの練習をするんです。自分の部屋にこっそりダンベルを持ち込んで筋力トレーニングをしたり、深夜、外へ出て素振りをしたり、でも、どこかで息を抜いてしまう。酒を飲みに行って、みんなで憂さを晴らす。週に一度のつもりが二度になり、三度になる。そうなるともう、二軍の色に染まってしまう。あの人は違った。おれは負けないんだと、かたくなに信じ込んでいた。付き合いが悪いといわれて孤立しても、それを恐れなかった」
もう一人、やはりドラフト外で巨人に入り、退団して、一昨年、韓国プロ野球ができると同時に、ソウルへ行った男がいる。彼はこういった。
「ジャイアンツの選手というだけで外へ出ればちやほやされる。二軍だって同じですよ。今はファームにいるけど、将来はスター選手だと周囲からは見られる。酒、女……。その誘惑に一度のってしまうと歯止めがなくなる。あとで気がつくんだ。あのとき必死にやっていればとね。それに気づいたときにはもう弁解しかできない」
西本は、同じ年にドラフト一位で巨人に入団した定岡というライバルがいた。定岡は甲子園のアイドルだった。ピッチャーとしての力では負けないはずだ。しかし一方は莫大な契約金をもらい、他方は仕度金程度でしかない。西本にしてみれば、不条理である。それをくつがえすには、力で勝るほかない。
西本が公式戦にデビューするのは二年目のシーズン、五一年四月一五日の対阪神戦だ。リリーフとして1イニング投げ一本のホームランを含め被安打は3、失点1。その年はそれきり登板のチャンスはなかった。翌五二年は8勝5敗。レギュラーの切符を手にした。定岡が初勝利を飾るのはそれから三年おくれた五五年のことだ。
一軍に上がると、西本はこういわれた。「みんなが休んでいるときでもアイツはランニングをしたりする。監督やピッチングコーチに見えるようにね。やりすぎだよ」
目立ちたがり屋だと。わざとらしいんだというわけだった。西本はしかし、一切、気にしなかった。チャンスをつかみ、実績を上げた者こそが、プロの世界では勝者として認知されることを知っていたからだ。
かつて作新学院のグラウンドで投げ合った江川が巨人に入団してきたのは昭和五四年のことだ。江川は相変わらず〈怪物〉であり、〈スタープレイヤー〉だった。
その年の六月からマウンドに上がった江川は9勝10敗。西本は8勝4敗6セーブという記録を残した。その後、西本は江川が勝ち星を増やすのと比例するように成績を上げた。
あのときの江川と西本の投げ合いを偶然見ていた記者は今、あるスポーツ紙のデスクをしている。彼は、江川と西本が、巨人という一つのチームのなかでエースの座を争うようになったとき、西本に聞いたという。
「作新学院のグラウンドの練習試合のこと、おぼえている?」
「もちろんですよ」と、西本は答えた。「ぼくにとっては忘れられない試合なんです。試合が終わったあと、ぼくらはマイクロバスに乗って帰ったんです。そのとき作新のナインがマイクロバスのところまで送ってきてくれたんです。江川さんも手を振っていた。やがて同じチームでやるようになるとは思いませんでしたけど、今度投げ合うときは絶対に勝ちたいと思いましたね」
それから一〇年が経過した。
西本に、あらかじめ与えられている力は、おそらく江川に勝ることはないだろう。素質、肉体、いずれも江川は稀《け》有《う》なものを持っている。それに対して西本は、類《たぐい》まれな集中力で江川をこえようとしている。
ある日、ぼくは神宮球場で野球を見ていた。一、二年前のことだ。
西本とヤクルトの尾花が投手戦を展開していた。スコアは1―1。8回表になった。西本はバッター・ボックスに入る前、思いきりバットを振った。そのとき西本が発した気合がネット裏に聞こえてきた。そして尾花の二球目を右中間へ運んだ。西本は二塁をまわり三塁に達した。次のバッターは松本だった。松本の打球はセンターへ上がった。センターのブリッグスが捕る寸前、三塁ベースにタッチアップした西本はヘルメットをグラウンドにたたきつけるように捨てた。そして猛然と本塁へ向かって走った。
ああ、ここにプロがいると、ぼくは思った。
トライ
これで〈壁〉を突きぬけることができたのだと、たしかなる手ごたえをもって信じられる瞬間が誰にでもあるはずだ。
野球のピッチャーは何百球、何千球と投げつづけるうちに、ある日、その瞬間がやってくる。例えば、バッターに対してカーブを投げたとしよう。いつものフォーム、いつもの握りでカーブを投げる。第三者が見れば、マウンド上にいるのはいつもの彼でしかない。しかし、彼自身はボールの微妙な、いつもと違う変化を体で感じている。これだと、ピッチャーは思うのだ。これこそが、理想のカーブなのだ、と。
サッカーの奥寺康彦にとって、その瞬間は七八年四月後半のある土曜日にやってきた。
奥寺は西ドイツ・ブンデスリーガ(サッカーの一部リーグ)1FCケルンのユニフォームを着ていた。西ドイツのプロサッカー・リーグは毎年八月中旬に始まり、翌五月上旬に終わる。一部リーグは18チーム。各チームと2試合ずつ、計34試合が行われ、リーグ戦がたたかわれる。四月後半、リーグ戦は終盤にさしかかっている。
その年、1FCケルンは優勝戦線に残っていた。
対シュツットガルト戦。前半、1FCケルンは1点をあげ、リード。そのまま逃げ切れば、ケルンはリーグ優勝に大きく前進する。ところが後半30分、シュツットガルトは貴重な1ゴールをねじ込む。1―1の同点。残り時間は少ない。ケルンはもう一度、シュツットガルトを引き離さなければならない。
残り時間7分――その後の奥寺にとって極めて大きな意味を持つボールが、彼の目の前にとんできた。
シュツットガルトのゴール前である。センターリングされたボールは相手のバックスによってクリアされた。と、その直後、ボールはワン・バウンドし、奥寺の目の前。奥寺にはそのボールと、相手バックスの動き、キーパーに守られたゴール……すべてが見えた。そしてゴールポスト近くのコーナーに白い、静かなる空白があるのも見えた。
その瞬間をスローモーションで辿《たど》ることができれば、すべてが明らかになる。その一角に奥寺はシュートを蹴《け》り込んだ。相手バックスはそのボールに向かって体を伸ばし、キーパーは、腕を伸ばし、飛ぶ。ボールはキーパーの指の数センチ先を走る。そして、ゴールネットを激しく揺さぶるのだ。
ゴール! スコアは2―1、奥寺の、そのシュートが決勝点になった。
「あのシュートがなかったら」
と、奥寺はいう。
「あの年の1FCケルンの優勝はなかったかもしれない。それだけじゃない。ぼく自身、西ドイツのプロサッカーで、ここまでやれるかどうかわからなかった。あのシュートで、ぼく自身変わった。不安が自信になり、ためらいが勇気になった」
奥寺がプロ入りしたのは七七年の秋。以後、現在まで1FCケルン、二部リーグのヘルタ・ベルリン、そして再び一部リーグのベルダー・ブレーメンと三つのチームをわたり歩き、六シーズンのキャリアを積んできた。奥寺はブレーメンの、というより西ドイツ・プロサッカーの中心選手の一人である。
その奥寺が、プロ入りを誘われたとき一度、断っているという話はあまり知られていない。
奥寺は昭和二七年三月一二日、秋田・大館市の生まれ。横浜の舞岡中学でサッカーを始め、相模工大附属高校のとき日本ユース代表に選ばれた。高校卒業後は古河電工へ。全日本チームでは左ウィング、あるいはMF。左のシュートの鋭さに定評があった。それでも、群を抜いていたわけではない。日本のサッカー自体が、地盤沈下していた時代だったし、プレイヤー個人の魅力ということでいえば釜本をこえるだけの選手は依然として現われていなかった。奥寺は、そういうなかの一人にすぎなかった。
全日本のメンバーとしてヨーロッパ遠征に出る機会が何度かあった。各地のクラブ・チームと練習試合を重ね、合宿をする。奥寺に注目したのは1FCケルンのバイスバイラー監督である。バイスバイラーは、当時の二宮全日本監督を通じて奥寺のスカウトに動き出す。
奥寺は断った。「自信がない」というのが、その理由である。彼は二五歳だった。結婚していて、子供も一人生まれていた。日本のサッカー界には釜本、杉山……などプロ入りを誘われた選手は何人かいたが、実際にプロ入りした選手は一人もいなかった。レベルが違うと、誰もが考えていた。さらに外国で生活していかなければならないというハンデもある。気候、風土、言語……。違いをあげていけばキリがない。奥寺には自分がその中に入って活躍できるとは考えられなかった。
バイスバイラー監督は、一度ならず再三にわたって誘いをかけた。ケルンの左ウィングをつとめていたレア選手の引退が近かったからだ。
奥寺は、迷い、不安をいだきつつケルンへ向かった。それが七七年秋のことだ。リーグ戦はすでに始まっている。チームに合流し、出場のチャンスを待った。北ヨーロッパの冬は雲が厚くたれこめて、気分まで重くする。彼は、そういうところでチャンスを待った。初出場では、いきなりファウルを犯し、相手にPKを与えてしまった。そのPKはゴールキーパーがみごとにブロックしてくれたが、彼が固くなっていたのは、たしかだった。
シーズンが後半にさしかかると出場のチャンスは増えてきたが、これだというシーンにはぶつからなかった。四月後半の対シュツットガルト戦は、最終戦の一つ前の試合である。それがプロ入り初シュートではなかった。それ以前に、シュートは決めている。が、優勝を目前にしたゲームで決勝のシュートを決めた奥寺は〓“何か〓”をつかんだのだ。
彼は、その直後からチームにとけこめたはずだ。力を認めたとき初めて、プロフェッショナルたちはルーキーを仲間として迎える。どんな世界でも、これだけは変わらない。
「オク」――と、彼は呼ばれている。
「祝杯だ。オク、ビールで乾杯しよう」
そういわれて、他のイレブンから肩をたたかれたとき、奥寺はドイツという国でサッカーをやりながら生きてみるのも悪くないと、思うようになった。
1FCケルンには三年間、在籍した。奥寺がケルンを去ったのは、バイスバイラー監督に代わってケルンにやってきたヘダコット監督と方針が合致しなかったからだ。西ドイツ・ブンデスリーガでは試合に出られる外国人選手は一チーム二名までと決められている。ケルンには奥寺のほかにもう一人、外人選手がいた。ヘダコット監督はそこにさらにもう一人、外人選手を連れてきた。その結果、奥寺はレギュラーから外された。
奥寺はそこで黙っているべきではないと考えた。監督が自分を使わない方針なら、新しい場を求めたほうがいい。プロ選手は、試合に出なければプレイに対しての勘も狂い、実績を上げることができない。奥寺は、すでにプロ選手としての誇りと自信を身につけていた。
彼はチームに対して、即座に「移籍」を申し入れた。
そして、ベルリンへと移った。八〇年一一月のことだ。八〇―八一のシーズンをベルリンで過ごし、八一年八月に始まるシーズンからはベルダー・ブレーメンへ。ブレーメンは一度、二部リーグに落ちていたものの、ちょうど一部リーグに返り咲いたところだった。
八二―八三シーズン、奥寺のベルダー・ブレーメンはブンデスリーガの優勝争いに最後まで残った。勝率では首位に並んだ。得失点差で、惜しくも二位になった。奥寺は全試合に出場し、チームを引っぱってきた。一部リーグ、ブンデスリーガのベスト・イレブンにも選ばれた。
フランツ・ベッケンバウアーが奥寺に関してこういっている。
「ポイントになるシーンになると、必ず〓“オク〓”がそこにいるんだ。彼は通常のプレイヤーの二人分の働きをする。どんなポジションにも起用可能であり、チーム戦略の要になっている」
奥寺が日本を発つとき、サッカー関係者の多くはその将来を案じた。失敗するのではないか、と。奥寺自身、ケルンの街に着いた日の、冬の寒々とした空の色をおぼえている。それは当時の奥寺の心の色そのものだった。
「トライしてみるべきだ」
今、彼はそう語る。
「新しいことを始めるには、いつだって不安がつきまとうものさ。失敗するかもしれない。とりかえしのつかないことになるかもしれない。それでも勇気をもって、やってみるべきだと思う。自信をつかめる瞬間がやがて、やってくるかもしれない。トライしないことには、何も始まらない」
そのとおりだと、思う。
草魂について
新しい記録を作るとは、一体、どういうことなのだろうか。
近鉄バファローズのピッチャー、鈴木啓示は数々の記録にかこまれている。プロ野球の現役投手のなかで、鈴木ほど沢山の記録を持っているピッチャーはいない。
ことに八四年のシーズンは、鈴木にとって記録ラッシュだった。
シーズンが始まってまもない五月五日、通算300勝を達成した。今後、300勝投手はあらわれないだろうといわれている。現代の野球は分業化が進んでいる。先発、中継ぎ、救援という形で役割が限定されているのだ。そうしなければ勝てないともいう。きめこまかな作戦が必要だというわけである。そのなかで年間15勝をあげれば「大投手」だといわれている。300勝ラインに達するにはベストコンディションを二〇年間、つづけなければならない。
鈴木は先発―完投にこだわりつづけてきたピッチャーである。300勝のうち、248勝が完投勝ちだった。これもまた決して破られることのない記録だろう。
300勝を達成してほぼ四か月後の九月一日、鈴木は通算3000奪三振をマークした。これもまた、偉大な記録だ。
その3000個目の三振を奪ったときのことを書いておこう。バッターは南海の、というよりパ・リーグきっての強打者、門田博光だった。鈴木は「最後は変化球なんかで勝負したりはしない。堂々と速球で勝負する」と公言していた。しかも、3000個目の三振は門田から奪いたいといっていた。門田はその話を聞いて「自分も中途半端なバッティングはしない」といっていた。「ただバットに当てるだけのバッティングはしない。フルスウィングする」と。
その日のゲーム、2回裏に門田の打順がまわってきた。その時点での通算奪三振の数は2999。鈴木―門田の対決はカウント2―3になった。鈴木は当然のように、速球を投げた。門田はバットを振った。フルスウィング。そして、門田のバットは空を切った。
鈴木は大記録を、予告したうえで、達成したわけである。
気がついたことが一つ、ある。300勝を達成したときも、3000奪三振をマークしたときも、鈴木はマウンドの上で淡々としていたことだ。300勝のウイニングボールを鈴木はスタンドに投げ入れてしまった。3000奪三振を記録したときは、左腕を軽くあげ、ファンの歓声にこたえただけだった。
そこまで記録を伸ばしても、自分の野球人生が終わったわけではない、まだまだこれから先があるのだ――という気分だったにちがいない。
そして、シーズンが終わった。
鈴木は16勝10敗の成績を残した。パ・リーグのピッチャーのなかではベスト3に入る成績である。通算で312勝。奪三振は通算3023個。記録はまだまだ伸びる。
そのほかにも更新中の記録がある。鈴木はプロ入り後、一九シーズン目を終えたわけだが、そのうち一七シーズン、一〇〇個以上の三振を記録している。無四球試合の数は他を圧倒的にひきはなしている。また、完投数も他の追随を許していない。
彼は、投げるたびに自己記録を伸ばしていく。
「わしは、器用な人間やない。無器用やね。しかし、それがよかったと思う」
鈴木はいうのだ。
「守備はうまくなかった。フィールディングはぎこちないもんやった。牽《けん》制《せい》球《きゆう》を投げるのも左ピッチャーにしては下《へ》手《た》やったね。ピッチングフォームもできあがっていなかった。そこからスタートしたんやね。器用やないからすぐにおぼえられた。あいつまだあんなことやってるのかと、よういわれたもんです。どうすればいいかわかっていても、すぐにそこに行けない。まわり道するんやね。一つのことを身につけるのにえらい時間がかかった。そのかわり、わしは二《に》兎《と》を追わんかった。一つずつ、トコトンやっていった……」
昭和二二年九月二八日まれ。三七歳。兵庫・育英高校から近鉄バファローズに入団したのは昭和四一年のことだ。鈴木は自ら望んで背番号1をつけた。プロの世界で背番号1をつけるピッチャーはいなかった。一般的にいえばヒトケタの背番号は野手のものでピッチャーは10番台、20番台の背番号をつけることが多かった。鈴木はしかし、1番をつけたいと主張した。
「プロの世界で一番のピッチャーになる。それをずっと背中に背おいつづけてマウンドにあがりたい」――というのだった。
鈴木は自己主張の強いピッチャーだった。他の選手を真《ま》似《ね》ようとはしなかった。近鉄バファローズというチームのカラーに染まろうともしなかった。むしろ、チームメイトを批判的な目で見つづけてきた。
それにはいくつかの理由がある。
鈴木が語るのだ。
「入団一年目のことやね。オールスターに選ばれた。あこがれていた金田さんや、いろんな人がおるわけや。いい機会だと思って、金田さんに聞いたんです。カーブはどないして投げるんですか? そのときに金田さんにいわれた言葉を今もおぼえています。プロの世界はクラブ活動やないで。教えてもらいたかったら授業料もってこい。そういわれたんですね。金もってこいといわれても新人のピッチャーにゼニはない。自分で努力するほかない。自分でおぼえるほかない。それがプロの世界なんやと、そう思った」
当時の金田投手はジャイアンツのユニフォームを着ていた。400勝を目前にしていた投手である。その金田が新人をあえて、突き放したわけである。それをバネにして鈴木は立ちあがった。
「プロ野球の世界はこんなもんやないと、いつも思っていた。野球を仕事にしているんだから、もっと野球にひたむきであって当然やと思っていた。実際はちがうんですな。遊びが中心で、そのあいまに野球をしている。そういう感じやった。当時の近鉄バファローズはそういうチームやった。そのペースにはまったらいかんと思うてましたね。そんなことをしとったらいい成績も残せん、いい金もとれん、いいクルマにも乗れん。それでわし、みんなから離れた。孤立してもいいと思った。まわりから何といわれてもいい、自分のことは自分なりにやっていくんやと決めたんやね」
入団二年目に鈴木はバファローズの合宿を出た。自分の家を買った。それがじつに鈴木らしいやり方だ。彼がみつけたのは西宮の家だった。彼の所属する近鉄は大阪の南を勢力圏とする私鉄である。ホームグラウンドはその近鉄沿線の藤《ふじ》井《い》寺《でら》にある。鈴木は関西では近鉄のライバルになるもう一つの私鉄、阪急電車の走る西宮に居を構えたのである。
しかもまだ二〇歳になる前の時点で一国一城の主になった。
鈴木はドラフト一期生である。鈴木がプロ入りする前年までどの球団も、野球選手の卵を高い金額で買いあさっていた。そういう競争をやめようということでドラフト制度ができた。新人の契約金は最高額が一〇〇〇万円とされた。ドラフト二位で指名された鈴木が手にした契約金は八〇〇万円だった。一年前だったらその数倍の契約金をもらえたはずだ。一年目の年俸は一二〇万円。決して高くはない。その大部分を、鈴木は家に投資したのである。家そのものにというよりも、自分に対して投資したのだろう。
「まわりの抵抗はあったんやろね。けど、わしはそれが抵抗だとは思わんかった。近鉄バファローズというチームで、わしは新しい選手像をつくろうと思うたんです。自分がその新しい選手像になろうと思った。孤立したからといって、わしにとっては何ら問題はなかった。野球が好きやったからね。野球をせんがためにやってることやった。
わしは一人が好きなんやね。子分もいらんかわりに親分もいらん。そういう人間や。そのかわり、人に左右されたくない。人が行くからわしも行くというのは嫌いやね。自分が決めたことを自分でやっていく。やらされたことは一度もない」
鈴木は淡々と語るのだ。
一年目、鈴木の成績は10勝12敗。しかし、二年目には早くも20勝投手の仲間入りを果たした。20勝以上あげたシーズンが五年つづくと、そのあとしばらく10勝台の年がつづいた。決して悪い成績ではないのだが、20勝に達しない鈴木はもう終わりだといわれたこともある。
鈴木はそこでもう一度、奮起する。
そのころから彼は、色紙にサインを求められると〓“草《そう》魂《こん》〓”と書くようになった。自分は雑草の魂を持って生きていくんだという、決意がうかがえる言葉である。
「少々、ふみつけられてもへこたれん。きれいな花、よく手入れされた植木とはちごうて雑草にはたくましい生命力がある。それに自分を託したんやね。セ・リーグのピッチャーやったら一試合完封しただけで大騒ぎしてもらえる。一年いい成績のこしたら鬼のクビでもとったような騒ぎになる。わしらはそうやない。一〇年、いい成績を残しても、まわりは静かなもんや。そういう風潮、マスコミのセ・リーグ偏重にも反発を感じていた。わしらはアイドルやない。本物の力をもったスターなんやと思っていた」
鈴木ほど体の手入れをおこたらない選手はいないだろう。若いときは、いくら無理をしてもコンディションは崩れない。が、ピッチャーは最も肉体の消耗の激しいポジションである。長く、第一線で投げつづけるためには、常にコンディション調整に気を配らなければならない。
鈴木は走りこみを欠かさなかった。エピソードが一つある。三年前の冬、名球会のハワイ・ツアーに出かけたとき、鈴木はホノルルマラソンに挑戦した。他のメンバーがゴルフにあけくれているとき、鈴木はマラソンを走ってみようとしたのだ。結果的には、二七キロ地点でリタイア。しかし、彼はこういったのだ――「棄権するまで、わしは決して手を抜かんかった」
体をこわすほどの、無理なトレーニングを積んでいるわけではない。自分に合った範囲内で、最大限の努力をする。それが鈴木のやり方だ。その結果、一九シーズンにわたって彼はマウンドに立ちつづけることができた。
「〓“足〓”というのは〓“口〓”を〓“止める〓”と書く。正確にいえば〓“止める〓”という字じゃないけど、まあ、よく似てますわね。足腰をきたえるのに口はいらんのですよ。黙って、口を止めて走らないかん。そして、足が満ちたりれば〓“満足〓”ということになる。たらんかったら〓“不足〓”ということになる。わしが勝手に考えたことやけど、わしはそう思ってつづけてきたんですわ」
黙々と、雑草のようにたくましく生き抜いてきた。鈴木啓示はすでに4500イニングスを投げている。これも現役投手のなかでは最高である。今後、これほどのピッチャーはあらわれないだろう。また、鈴木は被本塁打の記録も持っている。通算543本。アメリカの大リーグにもない記録だ。
「真っ向から勝負していくのが好きやね。フォアボールを出すのは嫌いや。だから無四球試合が多い。それも勲章です。真っ向から勝負して空振りしてくれれば三振の数が増える。打たれればホームランの数が増える。真っ向から勝負するから三振もホームランも多い。それでいいと思っている。ホームラン打たれれば、そりゃ、くやしいわ。腹立ちます。なにくそと思う。そう思うから、また次の勝負に燃えることができる。腹立たなくなったときが、ユニフォームを脱ぐときでしょう」
鈴木啓示はそんなふうに語ってくれた。
まだ、ユニフォームを脱ぐ気はない。
鈴木のような選手はだんだんといなくなっていく。
彼のような語り口で野球と人生を語る人は、もうあらわれないのではないか、そう思うと〓“草魂〓”という言葉も悪くはないなと思えてくるのだ。
セカンド・ハーフ
八二年の二月一三日、兵庫県尼崎にあるヤンマーディーゼル体育館で一人のサッカー選手の引退記者会見が行われた。
いつも身につけているトレーニングウェアのうえにウインド・ブレーカーを着て、彼はその場に姿を見せた。長い現役生活を送ってきた。彼ほど長くプレイしたサッカー選手はいないだろう。その四月で四〇歳。もう限界といってよかった。七年前から選手として活躍するだけでなく、ヤンマーの監督もつとめていた。
「心に残るシュートはいくつもあります……」
そういうと、彼は遠くを見つめた。
目にキラリと光るものがあった。
サッカーをはじめたのは、彼が京都の蜂ケ岡中学に入ったときである。
以後、彼はずっとサッカーの第一線で活躍しつづけた。京都の山城高校、早稲田大学、そして社会人チームのヤンマー。日本のサッカーは、この選手とともに発展してきたといっても過言ではない。一六年前の昭和四三年、全日本サッカーチームはメキシコ・オリンピックに出場し、三位に入賞した。銅メダルである。それ以前も以後も、日本チームがこのとき以上の成績を残したことはない。サッカーはヨーロッパ、南米を中心に世界的な広がりを持つスポーツである。ぶ厚い選手層をもつ国は少なくない。その世界の壁を、日本チームが一度だけ突き破ったのだ。
そのときも彼は、エース・ストライカーとして大活躍した。
メキシコ五輪のレギュラー選手たちはその後、一人また一人と現役をやめていった。サッカーは激しいスポーツである。プロ野球には四〇歳をすぎても第一線で活躍する選手がいるが、サッカーではありえないだろうといわれていた。試合時間は前半、後半あわせて九〇分。選手たちはその間、一個のボールを追って広いフィールドを走りまわる。ボールの奪いあいがある。パスワークがある。その激しさとスピードについていけないと思ったとき、選手はユニフォームを脱ぐ。三〇歳をすぎると、第一級の力を持つ選手たちについていくのが苦しくなる。それがふつうだ。
しかし、彼はかつての仲間が第一線を退いたあとも、延々、頑張りつづけた。
そのエネルギーはどこから出てくるのだろうか。
四〇歳を目前にして、やっと現役を退いたサッカー選手の名前は釜本邦茂という。
「ピンチは二度ありましたね」
釜本はいう。
若い選手たちがグラウンドを走りまわっている。それをベンチに座って眺めながら、釜本の表情は柔和である。センター・フォワードという攻撃のかなめのポジションを守りとおし、今やっとそのポジションをあけわたすことができた。ホッとするものも、心の中にはあるのだろう。
「最初、ぼくが倒れたのは昭和四四年です。メキシコ・オリンピックから帰ってきて、さあこれから日本のサッカーもおもしろくなるというときですよ、肝臓をやられてしまった。肝炎ですね。ぼくは全日本のチームも離れ、ヤンマーの試合にも出られなかった……」
あまりにも激しいトレーニングを積んできた結果が、肝炎だった。
闘病は大きなターニング・ポイントになった。
その時点でいえば、釜本自身にも、日本のサッカーにもあらゆる可能性が秘められていた。
釜本は所属するチームすべてを優勝させてきたという男である。山城高校時代はインターハイで優勝、早稲田では大学選手権に勝ち、ヤンマーも何度も日本一になっている。メキシコ・オリンピックに出場するためのアジア地区予選でも大活躍、そしてメキシコに行くと、堂々三位に入った。メキシコ大会では一人で7得点をあげ、得点王に選ばれた。釜本はヨーロッパや南米のプロサッカーチームから誘われた。これだけの力があればすぐにスタープレイヤーになれるというわけだった。
全日本チームは、メキシコ五輪のあとワールドカップ・サッカー大会に照準を合わせていた。サッカーのワールドカップはオリンピック以上の価値のある大会である。プロチームも参加してくる。観衆がこれほどエキサイトするイベントはほかにはないといわれている。
そのワールドカップに、全日本チームも出場しようとしていた。またアジア地区予選で勝ち抜かなければならない。勝てる可能性は十分にあった。未だに日本はサッカーのワールドカップに一度も出場できていない。メキシコ五輪の直後の、この時が唯一のチャンスだった。
「あの当時の全日本はホントに強かったと思いますよ。個性的で、力のある選手ばかりが揃《そろ》っていた。最近のサッカーはつまらんという声をよく聞きますが、ぼくもそう思いますね。今は個性的な選手がいない。技術はうまくなっているけど迫力がないんですね。
あのころの選手はみな、存在感があった。それぞれ役割分担が明確だった。ぼくの役割は点を入れることです。要するにおまえはゴールにボールを蹴《け》りこめばそれでいいんだとコーチにいわれてた。守る選手もいます。ディフェンスですね。そしてボールを敵陣にうまく運び入れ、ぼくのところにパスする選手がいる。杉山さんというウイングの選手がいました。うまかったですね。ボールを運んでいくときのスピード、そしてセンタリングのうまさ。ボールがセンタリングされたとき、シュートするはずのぼくがそこにいないと、えらく怒るわけです。おれがいいところにボールをまわしとるのにお前は何や、いうてね。カチンときますよ。それで必死になってついていく。ぼくがいいポジションに入る。そのときセンタリングのタイミングが悪いと今度はぼくがいうわけです。せっかくおれが絶好のポジションに入ってるのに何や今のパスは、打てへんやないか! けんかごしですよ。真剣になってお互いの力をレベルアップしていた。だから強かったんです。今のは惜しかったな、しようがないな、なんてぜったいにいわない。必死だった。そういうチームだったですね」
釜本にはスポーツ選手としての図抜けた素質があった。仮に彼が野球をやっていれば間違いなくプロのトップレベルの選手になっていただろう。身長は178センチ。肝炎で一度は戦列から離れるが、回復も早い。鍛えあげてきた筋肉は一度おちてしまったが、トレーニングを再開するとすぐにまた元に戻った。ことさらにパワーアップ・トレーニングをしなくても大丈夫な体なのだという。胸の肉が落ちたなと思ったときは、例えば腕たて伏せを一日一〇〇回ずつ数日間つづける。それだけでまたシェイプ・アップできるという。それだけ恵まれた肉体を釜本は持っていた。
その釜本がプロ入りして世界の檜《ひのき》舞《ぶ》台《たい》で活躍することができなかったのも、肝炎でダウンしたことと無関係ではない。釜本を欠いた全日本チームは、ワールドカップへの出場権をかけたアジア地区予選で勝つことができなかった。
釜本は当時二五歳。十分に若かったし、また自信にあふれていた。サッカーの人気は釜本を中心にして盛りあがっていた。サッカーの日本リーグの試合には必ず万単位の観客が集まった。サッカーチームを持ちたいという企業がいくつも名乗りをあげた。サッカーのプロチームを作り、リーグ戦をやろうという話も出た。ジュニア・サッカーのチームが全国いたるところで作られた。
三年間、釜本は全日本チームのメンバーから外れた。入院していたのは五〇日間。その後、一か月ほど静養してヤンマーにはまもなく復帰したが、再び全日本チームのセンター・フォワードとして活躍するようになるのは二八歳のときだ。
「再起不能とまでいわれたんですね。ヤンマーのユニフォームを着てまたフィールドに立つようになったときは、まあふつう程度にはできるだろうという感じだった。でも、足の筋肉はみごとにおちてましたね。
シュートを蹴るには、まず全速力でボールのところに走っていくスピードがなければならない。そこで一瞬、止まるんです。ものすごいスピードで動いてきた自分の体をふんばって止める。でないと体が流れてしまう。安定した姿勢でボールをキックするには瞬間的に体を止めて、そして一気に蹴りこむ。ところが、やっぱりすぐには体が動かない。しょっちゅうケガしたり足を捻《ねん》挫《ざ》したりしてた。ふんばりがきかないんです。姿勢が安定せず不安定な格好で蹴るから、どうしてもどこかを痛めてしまう。あのころが一番苦しい時期だった」
やめようとは思わなかったという。あきらめもしなかった。まだ十分やれると思っていた。こんなはずはない、と。
ケガをするたびにハラが立つ。あれくらいのことでなぜケガするのか。自分のふがいなさにハラが立つわけである。かつてはもっと激しく動くことができたのだ。
元の状態に回復させるにはトレーニングを重ねるしかない。実戦で鍛えるしかない。
その時期をのりこえたとき、釜本はまたひとまわり大きな選手になっていた。
釜本には大学時代から数えると通算543得点という記録がある。
サッカーは、大量点の入るゲームではない。一試合3得点をあげるとそれはハットトリックと呼ばれる。めったにないことだ。試合数もさほど多くはない。そのなかで543得点をあげるというのは容易なことではない。釜本の生涯得点記録は、今後もおそらく破られることはないだろう。野球における王貞治の通算ホームラン記録のようなものなのだ。
やがて三〇歳になり、三五歳になる。
その間にヤンマーの監督も兼ねるようになるが、釜本には現役をしりぞく気分はみじんもなかった。
なによりも、彼をこえる選手があらわれてこないのだ。釜本は日本リーグでヤンマーを何度も優勝に導いている。得点王には七回選ばれている。
「メキシコ・オリンピックのときに一〇歳だった子供がいたとしますね。日本のサッカーが銅メダルをとったのを見て自分もサッカーをやりたくなったとしましょう。あのころ各地にスポーツ少年団というのが沢山できましたから、そこでサッカーをはじめた子供の数は多い。そういうなかから優秀な選手も育ってきた。彼らは今、二〇代の半ばですよ。ぼくらの活躍を見て刺激され、それからサッカーをはじめた連中と、ぼくは一緒になってやってきたわけですよね。これはきついですよ」
にもかかわらず、彼は選手であることをやめようとはしなかった。
「記録を伸ばしたいとか、そういうことじゃないですね。自分が先頭に立って引っ張っていかなくちゃいけないという気持ちはありました。次の世代の選手を育てていかなくてはという気持ちもあった。それと、やっぱりサッカーが好きなんですよ。センター・フォワードというポジションも自分に向いていたと思う。先頭に立って相手陣内に攻めていくわけですね。そしておれのところへボールをまわせというてるわけですね。おれが点をとってやるんや、と。それが自分の性格にぴったりだと思ってましたからね。バックスをやってたら、これほど長くはつづかなかったと思う。フォワードのうしろからついていくというのは嫌いです。人の尻《しり》を追いかけていくなんて性に合わない」
二度目のピンチさえこなければ、釜本は四〇歳をすぎたあとも現役でありつづけたかもしれない。
五七年五月末、釜本は右足のアキレス腱《けん》を切った。試合中の出来事だった。飛んできたボールをジャンプして受けようとして体を躍動させた。着地したとき、グラウンドの窪《くぼ》みに右足をとられた。ひねったときにアキレス腱がプツリと切れた。
「半年間は絶対にハードな動きをしてはいかんと医者にいわれてた。自分もそのつもりだった。ここで無理したらホントに足がつかいものにならなくなってしまう。そのまま試合に出られずに終わってしまうなんて口《く》惜《や》しいですよ。ところがね――」
アキレス腱を切って三か月ほどたった五七年の八月、釜本をはじめとするヤンマー・イレブンはジュニア・サッカーチームに教えにいった。釜本は話だけするつもりだった。無理をするつもりはなかった。釜本の話が終わると、若手選手たちが実際にプレイをしてみせた。釜本は出なかった。そこまではよかった。もう一度アキレス腱を切ったのは、なにげなく転がっているボールを左足で蹴ったときである。自然に右足がのびあがった。まだ治りきっていないアキレス腱をそこでまた痛めてしまった。
治療を、またやりなおすことになった。
これでもう終わりだろうと、釜本も考えざるをえなかった。しかし、ケガをしたからやめるというのは、気持ちの問題として納得できなかった。
「もう一度、試合に出られるようになって、そのあとで引退しようと、そう考えたわけですね。若い選手たちと互角にできるところまで回復させたかった。ケガしたからやめるなんていうのは、あまりにフツーすぎるじゃないですか。足がなおったらきっちりとトレーニングを積んで、ちゃんと試合に出る。そのあとならやめられる」
最後まで第一線で活躍する。そのことにこだわったのは、釜本がこの二〇年あまり常に日本のサッカーの第一人者として先頭に立ちつづけてきたからだろう。
その自負心に支えられて、右足アキレス腱を切るというケガを克服したのだ。
釜本邦茂にとって最後の試合になったのは八四年一月一日の天皇杯決勝戦である。対戦相手は日産自動車。この試合の途中から出場した釜本は、数十分後にゲーム終了のホイッスルの音を聞いた。そのゲーム、釜本はシュートを決めることができなかった。彼にとってのファイナル・ゴールは五七年五月一五日、対日立戦で記録したものだ。それが大学サッカーで活躍しはじめて以後543点目のゴールになった。
彼に残された仕事は、まだある。
次代の「釜本」を見出し、育てあげることだ。釜本のサッカーは、やっと今、前半戦が終了したばかりなのだ。
そして、この「前半戦」という言葉が、この本のいちおうの結語になる。
現役のスポーツ選手であれ、現役を退いた人間であれ、彼らのすべきことが全ておわってしまっているわけではない。本人が望むかぎり、どの時点からでも「セカンド・ハーフ」(後半戦)が始まるのだ。
そのことを、蛇足ながら最後に書きそえておきたい。
エンドレス・サマー
山《やま》 際《ぎわ》 淳《じゆん》 司《じ》
-------------------------------------------------------------------------------
平成13年3月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Junji YAMAGIWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『エンドレス・サマー』昭和60年7月20日初 版 発 行
平成11年4月20日改訂9版発行