TITLE : Give up オフコース・ストーリー
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目 次
はしがき
プロローグ 和合ハイツ107
第一章 ツアー
第二章 YES―NO
第三章 オフコースの《顔》
第四章 グッドバイ
第五章 リーク
第六章 スタッフ
第七章 長い一日
エピローグ ギブアップ
あとがき
はしがき
八二年の一一月末のことだった。
ぼくのところに一本の電話があった。あいにくと、ぼくはアンサ・ホンをセットして留守にしているときだった。聞き慣れた声が、あるメッセージを残していた。
〈彼〉は、無人の電話機に向かって、こういっていた。
〈……ごぶさたしております。ぼくは一二月二二日をもって、オフコース・カンパニーをやめることになりました。その報告をしたいと思って電話をしました。やめたあと何をするか、今のところ未定です。ただし、年末から一月にかけて三週間ほどニューヨークに行ってくるつもりでいます。帰ったら是非、一度、会いたいですね……〉
声の主は上野博という男である。ぼくが上野を知ったのは、ほかならぬ〈オフコース〉というグループの、彼がマネージメントを担当していたからだ。その世界のなかでは敏腕マネージャーの一人に数えられていいと、ぼくは思う。もう一〇年以上も前に、はしだのりひこというミュージシャンについて仕事をするようになったのが、上野のこの世界でのキャリアの第一歩だった。彼は半ばアルバイトのつもりでこの世界に入り、やがてしたたかなノウ・ハウを身につけるようになった。フォークソングとニューミュージックが、まだ明快に分離していたころ、上野はフォークソングに思いを寄せながら、ニューミュージックのミュージシャンたちと交流を深めた。小田和正、鈴木康博という二人で構成されていたオフコースというグループと知りあうのも、そのころである。
オフコースが、その二人に清水仁、松尾一彦、大間ジローという三人のメンバーを加え音に厚みが増したころ、上野は縁あってオフコースのマネージメントを担当するようになる。「さよなら」という曲で、オフコースが初めてヒット曲らしいヒット曲をリリースした直後のことである。
それはオフコースにとって、大きなターニング・ポイントだった。
それ以前のオフコースは、まちがいなく地味な存在だった。オリジナル・メンバーである小田和正、鈴木康博の二人はともに神奈川県の横浜で育ち、聖光学園という進学校で同級生だった。高校卒業後はそれぞれ東北大学建築科、東京工業大学制御工学科に進む。〈P・P・M〉あるいは〈フィフス・ディメンション〉といったグループを理想像として思い描いていた二人が、ヤマハのライト・ミュージック・コンテストに出場し、〈赤い鳥〉というグループに次いで第二位に入ったのは大学三年のとき、一九六二年のことである。それがきっかけになって、二人はプロ活動を始めた。鈴木は大学卒業を一年延ばし、小田は一浪したうえで早稲田の大学院に入った。理工学部の建築専攻コースである。
彼らはモラトリアムの状況を作り、ミュージシャンとして生きるのか、それをあきらめて社会に出るかの決断を数年間、延ばしたわけだった。その間、オフコースはLPも作り、地味ではあるが主に東京・横浜を中心にステージ活動も始めた。
新たに三人のミュージシャンを加入させたのは、小田、鈴木の二人にとっては次のステップを踏もうという意欲のあらわれだった。そのなかでアルバム『 Three and Two 』ができあがる。
上野博は、その段階でオフコースの、いわば第二期をプロモートするために加入してきたわけだった。
上野は、オフコースをさらにビッグな存在にするため、いくつかの手を打った。オフコースというグループは、ややもすれば無個性になりがちだった。いい音楽は作るのだが、誰《だれ》もリーダーになりたがらないのだ。「グループのリーダー」という概念を嫌ったというべきかもしれない。上野はプロモーション・マネージャーとして、そこにこのグループの弱点があるのではないかと思いオフコースのリーダーが小田和正であることをファンに知らしめなければならないと考えた。それ以前のオフコースは誰もがリーダーであり、誰もが単なるミュージシャンだった。上野はそこにオフコースの〈顔〉を、明快に作ろうとしたわけである。
ヒット曲は、小田の書くものが多かった。ファンに対して何かを語る役割も、鈴木よりは小田のほうが向いていた。理由は、それくらいのことだった。それによって〈小田和正の〉オフコースというイメージが定着した。
オフコースがメジャーなグループになりえたのは、それだけの理由では、もちろん、ない。鈴木康博は、音楽に対する造《ぞう》詣《けい》の深さからいえば、このグループのもう一人のリーダーであったし、あとから加入した清水、松尾、大間の三人は、それぞれに新しい息吹を、このグループにふきこんだ。そのことを忘れてはならない。
いくつかの要素が入りまじって、オフコースは徐々にビッグなグループになっていった。
その要素のいくつかを、外にあらわれたものに限ってあらかじめ指摘しておけば、次のようになるだろう。
第一に、彼らはじつに地道だった。ヒット曲を出したからといって舞いあがることはなかった。それくらいのことでVサインをかかげるほどおれたちは単純ではないという、それくらいのプライドを、五人のメンバーが、それぞれに持っていた。したがって、彼らはテレビ番組から強く誘われても、そこに出ていこうとはしなかった。出ていけば、おのずとヒットしたことに対して「うれしい」だの「感激」だのという言葉を吐かねばならなかったからである。
第二に、彼らは他の誰にも負けないくらい音楽好きだった。一つのフレーズをどういうアレンジでLPにおさめるか、五人がそれぞれがミュージシャンであると同時にプランナーであり、プロデューサーでもあった。限りないほどの意見を、彼らは持っていたし、それをLPを作るたびにたたかわせてあきないほどに、音楽を愛してしまっていた。
第三に、ファンの数が等比級数的に増えていったとき、それを当然だと思うくらいの自信を、彼らは持っていた。
自分たちの作るサウンドが、現代という時代のなかで受け入れられないはずがないし、多くの人が聴きたがって当然だと、彼らは信じていた。おれたちはいいものを作っているんだから、必ず認められるはずだと、彼らは考えていた。
その自信があるからこそ、彼らはちょっとした人気に有頂天になることなく、つづけてこられたのだと思う。
問題は別のところから起きてきた。それは今、指摘した三つのポイントからおのずとたちあらわれてくることなのだが、プライドを持ち自信を胸に秘め、それぞれにいいものを持っているがゆえの分裂志向である。
ことに、鈴木康博にその思いが強かった。鈴木がオフコースを離れて自分のフィールドで音楽活動をしたいと考えるようになったのは八〇年末のことだ。アルバム『 We are』を作って、ツアーに入ったころである。
単純にいってしまえば、鈴木は〈小田和正のオフコース〉でつづけていくのがいやになったのだ。「ぼくにはぼくなりの、別の関心があるし、テーマもある。それをやるためにはオフコースを離れたほうがいい」――鈴木はそう考えたわけだ。
ぼく自身がオフコースのメンバーと知り合い、彼らの作り出す音楽に耳を傾けるようになったのは、それ以後のことだ。
ぼくが最初に知り合ったのは、オフコースと外部の世界の境界線に立っている上野博という男だった。
何度かオフコースについて話をするうち、彼は苦悩を打ち明けた。
「じつをいえば、オフコースを解散させなければならないのだ」
と。
理由は、ぼくが先に書いたようなことのなかにあらわれている。
問題は、どういう形でオフコースを解散させるか。その一点にあった。しかし、それはやさしいことではなかった。オフコースは、全国どこの町でステージをやっても超満員の客を集めるグループになっていた。そのステージの数も、限られていた。LPを作れば、たちまち五〇万枚を売り上げてしまうグループになっていた。ファンは誰もがオフコースに関する情報に飢えていた。な《ヽ》ま《ヽ》の形で、オフコースのメンバーが何かを語ることはほとんどなかった。情報に対する飢餓意識がはたらいて当然だったかもしれない。
当初は、次のような解散スケジュールが考え出された。
八二年六月三〇日で終了する武道館公演の翌日に新聞発表をする――という案である。それまでは一切、極秘のうちに動き、突然、幕を降ろす、というものだった。
その案は〈六月三〇日〉という最後の日が近づくにつれて、否定的に傾いていった。なぜ解散を、わざわざ発表しなければいけないのか。そういう意見がグループの中から出てきた。それをつきつめていくと、なぜ解散しなければいけないのか、というところにまでいきついた。
ところで、オフコースは、なぜ、解散しなければならないのか?
答えはなかった。なぜなら、解散そのものが状況的なものであるよりも、むしろ個人的なものだったからである。
そして八二年六月三〇日が過ぎた。
オフコースの解散は、何の発表もなく、ごくごく内部的に了解された事項になってしまった。
七月三一日になると、オフコースのメンバーと、彼らが所属するオフコース・カンパニーとの契約が切れた。新たに継続的な契約関係を築こうという動きは、誰からも出てこなかった。秋になると、鈴木康博が自分のオフィスを設立し、独自の活動を始めた。彼は作曲、編曲というジャンルで新たな活動を開始することになっていた。年末になると、オフコースと東芝EMIとの契約が切れた。それもまた、時間がくれば当然やってくる結末だった。
上野博は、オフコースの残務処理をして、そこを離れることになっていた。一二月二二日をもって、彼がやめるという短いメッセージはそれが一段落したことを意味していた。
とにもかくにも、オフコースは、とりあえず幕を引いたわけだった。
あるいは将来、彼らが何らかの形で、元のように活動を再開するかもしれない。砂漠の中に蜃《しん》気《き》楼《ろう》を見つける思いでそれを待つのは、ファンにとって悪いことではない。しかし、そのときのオフコースは、かつてのオフコースではないだろう。ひとたび幕を降ろし、そのあとで第二幕が開いた場合、状況もキャラクターも時の流れのなかで変容を余儀なくされているはずである。
今後、あたりまえに時間が流れていけば、オフコースは、時間の流れに比例するようにして忘れ去られていくだろう。もちろん、あの時の、あのオフコースの音楽を心の糧として生きていく人がいるであろうことは想像に難くない。しかし、一般論として、人間に関する定理をいえば――人は忘れやすい動物である。
解散問題が、オフコースのメンバーにとって主要な関心事であったころ、彼らが語っていた言葉を、思い出すことができる。
「解散したくないな」――オフコースに限りない愛着をいだき、いつまでも仲間としてやっていきたいと願う大間ジローは、そういった。
「どっちでもいいや」――おれはおれで何とかやっていくさという、ひそかな自信を胸に秘めた松尾一彦はそういった。
「どういう形になるにせよ、音楽やっていくわけやから。そのうち次の形が見えてくるよ」――茫《ぼう》洋《よう》と、しかし、将来を見据えているように清水仁はいった。
「おれはとにかく、自分の進みたい方向に進んでいく。そういうことだよ」――鈴木康博は明快にそういいきった。
「オフコースというブランドは、何らかの形で残したいと思う。これからいろんな形で文化にかかわっていくという意味でね」――小田和正の考え方はそういうことだった。
そして、今現在の状況をいえば、それぞれのコメントどおりの形になっている。それ以上でもなければ、それ以下でもない。
それを残念に思うという立場からいうのだが、それでは一体、オフコースとは何だったのか?――あらためて〈?〉マークが浮かびあがってきてしまうのだ。
わかりやすく「時代史」という言葉を持ち出せば、七〇年代に入って以降、この国の音楽シーンのなかで、ニューミュージックは、その時代の空気をもっとも正確に反映させてきたジャンルだといわれている。ロックであるよりも、ジャズであるよりも、もちろん演歌であるよりもニューミュージックが社会の表層にいろどりを添えていた。そのなかから何人もの才能があらわれ、開花し、あるいは消えていった。オフコースは、そのニューミュージックのラスト・ランナーとも目されていた。彼らは、メッセージ少なく登場してきた。ステージの上から何ごとかをメッセージとしてファンに語るしらじらしさをわかったうえで、それを排斥した。ステージの上から生きざまを語ったところで何ものでもないと、彼らは達観していた。そのかわりに、彼らは心地よい音楽を提供しようと努めた。サウンドが、言葉に勝ると、彼らは確信していた。
それもまた、一つの主張だった。
形にあらわれにくいその主張が、八〇年前後のニューミュージック・ファンをひきつけたともいえるだろう。
しかし、それが何を意味したのか――つきつめる前に、とりあえず彼らはリタイアしてしまった。
良くも、悪しくも、しりきれトンボであったと思う。いつまでつづけようが、あるいはいつ解散しようが、第三者があれこれとコメントすべきものではないと思うし、どうでもいいことだとも思うが、オフコースというグループの末期に若干の関わりがあった第三者として勝手なことをいわせてもらえば、オフコースは、じつになんというべきか、早漏であったのではないか。
あるいは、こう考えることもできる。ニューミュージックとは、そもそもあいまいなもので、あいまいなところから始まり、あいまいに推移し、そしてあいまいに終わったのだと。オフコースの最後は、そのあいまいさの象徴であったのだ、と。
うなずけなくもないが、しかし、これでは皮肉すぎるような気がする。
透明感を持った音楽をクリエイトしてきたミュージシャンたちの不透明感、といったほうが、まだしも正解かもしれない。不透明感は、あながち否定できない。人の心は、たいてい不透明なのだから。それが今後、どのような形で、リバウンドしてくるのか。それを待つことが、今は必要なのだと、ぼくは考えたりしている。
ところで、以下に書かれたストーリーは、そのオフコースの解散前後の出来事を、どちらかといえば淡々と記したものだ。ファンにとっては、ずいぶんと気がかりな出来事であったと思う。しかし、書き手であるぼく自身は、極力、傍観者の位置を動くまいとした。
なぜか。いくつか理由がある。
ぼくはこの解散のプロセスを見ながら、ひょっとしたら彼らは解散せずにすむのではないかと、頭の一部で考えつづけていた。それくらい、彼らはしっくりとやっていた部分があるのだ。今でも、まだそう思っている。何らかの形で彼らがステージに立てば、ぼくはまっさきに見に行くと思う。
そういうことが、仮りにあるとすれば、彼らは、かつてとは別の何者かになっているはずである。以下に書かれたような出来事を経たうえで、あらためて五人が顔を合わせるのだから。そのときのことを思うと、オフコースの解散という出来事は、クールにパッケージされ、氷づめにされていたほうがいい。また、この先に、彼ら五人のミュージシャンにはそれぞれに続篇があるはずだ。解散によって何かが終わってしまったわけではない。それは同時に次のステップへの出発をも意味している。その展開を期待しながら、解散という出来事を考えると、当然のことながら、それが彼ら五人のミュージシャンの人生の、ある一つの季節の出来事にすぎないことがわかる。全てではない。一部である。ワン・スライス・オブ・ライフ。一方に感情移入することは、ぼくにはできない。それゆえ、つとめてクールに書き留めておく方法を選んだ。
プロローグ 和合ハイツ107
「では、オフコース解散に関するミーティングを始めます」
口を開いたのはプロモーション担当マネージャーの上野博だった。
小さな会議室である。いや、会議室と呼ぶのは不自然だろう。六畳と四畳半、いわゆる2Kというサイズの、何の変哲もない賃貸マンションにソファとテーブルが型どおり置かれているだけだ。
そこに五人の男が窮屈そうに座っている。
小さなガス・ストーブのスイッチを入れると部屋の中はすぐに暑くなった。タバコの煙が充満すると息苦しいほどだ。窓の近くに座った男が時折り窓を開けると冷たい空気が勢いよく流れこんでくる。まだ、四月の初旬である。夜の冷え込みは厳しかった。
「七月一日の件ですが――」
上野がつづける。
「ご承知のとおり、オフコースは六月三〇日の武道館におけるステージをもって解散することになっています。現在のプランでは、翌七月一日の新聞、朝日と読売の紙面を買って全面広告を打つ、それによって解散を告知する、そういうことになっています……」
事務的な口調だ。
上野は、今日こそこの話を一歩先へ進めなければならないと考えていた。オフコースが解散するなら、このグループにふさわしい方法で解散させたい。上野はそう思っている。そのためには準備の時間も必要だ。マネージャーは、まだラスト・ステージまで三か月もあるから、などとのんびりかまえているわけにはいかない。
上野は一度、間を置いた。
誰《だれ》も口を開く様子はない。
ミーティングに参加している他の四人は、あるいはタバコの煙をくゆらせ、あるいはコーヒーカップを手に持ち、さらに説明を求めている。
そのうちの一人は小田和正だ。オフコースのリーダー。オフコースは全国ツアーの途中だった。小田は鹿児島から東京に戻り、すぐにまた郡《こおり》山《やま》へ旅立たなければならない。ツアーの合い間をぬっての、ミーティングだった。
オフコースの総括マネージャー、西沢一彦も、この場にきている。〈ギルハウス〉という映像製作プロダクションのディレクターが一人参加している。ギルハウスはミュージシャンのレコード・ジャケット、ポスター等の企画・製作、プロモーション・フィルムの製作などを手がけているプロダクションだ。オフコースも、その仕事の一つに数えられている。
もう一人、五人目のミーティング参加者はコピーライターである。彼はオフコースの解散に関するコピーを考える役割を担っている。
上野は話をつづけた。
「まず、私のほうの現状を報告します。どういうコピー、デザインで解散を発表するかはのちほど話し合うとして、七月一日の新聞の紙面をおさえる準備はそろそろ本格的に始めなければなりません。コストは朝日、読売の二紙を全国版に載せるという規模で考えると約五〇〇〇万円という試算が、代理店から出されてます。
問題は、広告の原稿を七月一日以前に入稿しなければならないことです。その時点で解散という事実が外部にもれてしまうおそれがあります」
「ぎりぎりに入稿するとして、デッドラインはどれくらいなんだろう?」
ディレクターが聞いた。
「先方との話し合いにも依ると思いますが、発行の一週間ぐらい前には入稿しなければならないと思います。
しかし、その点はさほど心配していません。あらかじめ別原稿を入稿しておくこともできますから。同じ七月一日にオフコースのLPが発売されます。そのための広告ということで紙面をおさえておくわけです。そして、ぎりぎり、七月一日の直前になって解散の告知の原稿とさしかえるわけです。多分、これは可能です」
「やっぱり、途中でこの話がもれると、マスコミはあちこちで書きたてるのかな?」
小田がそんなふうに初めて口を開いた。
「そりゃ、書くだろうな」
コピーライターがいった。
「書くやろ。だっておれのところにかて、もう何か所か聞きにきてるんやから」
突然、くだけた関西弁で上野がいう。ふだんはこういう調子なのだ。多分、彼は時折りあらたまった感じになるのが好きなのだろう。そういえば、この席では上野だけがスーツを着て、きちんとネクタイをしめている。
正確にいえば、それは一九八二年四月八日である。
その時空間のなかでいえば、オフコースとは音楽ジャーナリズム、ファンのなかで最も注目されているグループといえた。
概略を説明しておこう。
オフコース――正確には Off Course と表記するのが正しい。
このグループが結成されたのは一九六九年のことだ。
小田和正、鈴木康博という二人が神奈川県にある聖光学園という中学、高校の一貫教育をしている私立学校で会う。小田は高校を卒業すると東北大学工学部へ進んだ。専攻は建築だ。鈴木は東京工業大学の制御工学科へ進む。この二人は大学へ進学したあともともに音楽から離れず、仙台、東京と地理的に離れていたにもかかわらず折りを見て顔を合わせては練習を積んでいた。この二人に、高校時代からの仲間を加えた三人のグループでヤマハが主催するライト・ミュージック・コンテストに出場した。それが一九六九年の一一月のことだ。
それまで〈The Off Course〉という名前でアマチュアとしてのコンサートを何度か開いていたが、公けの場に出たのはそれが初めてだった。彼らの身近かに〈Of Course〉という野球チームがあった。それにもう一つ〈f〉をつけて〈Off Course〉としたのに深い理由はない。意味は「もちろん」から「コースを外れて」と変わったが、彼ら自身、オフコースを組むことでコースを外れるとは思ってもいなかった。
ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストでは全国大会に出場、二位に選ばれた。優勝したのは〈赤い鳥〉というグループである。赤い鳥はその後解 散 し、中 心 メ ン バ ー は 今、〈ハイ・ファイ・セット〉というコーラス・グループを組んでいる。
初期のオフコースと現在のオフコースはメンバーを異にする。小田、鈴木と一緒にライト・ミュージック・コンテストのステージに立った地主道夫は、やがてごくあたり前のサラリーマンの道を歩んだ。彼は今、竹中工務店に勤務している。
プロとしての活躍を始めた小田、鈴木は一九七六年になって清水仁、大間仁《ひと》世《せ》、松尾一彦という若いミュージシャンをメンバーに加えた。これで五人になった。現在のオフコースである。オフコースはテレビの音楽番組に出て自らをプロモートしようという、そういうグループではなかった。ライフ・サイクルの短いアイドルたちと一緒にブラウン管に身をさらした場合、彼らと同じサイクルで消耗品と化してしまうことを、小田、鈴木という二人のインテリは気づかないはずもなかった。オフコースはていねいなレコードづくりと地道なステージ活動を積み重ねるグループとして徐々に、しかも確実にファンをつかみ始めた。
自らを過剰に語ることを、彼らは極端に嫌った。
ステージの上からファンに向かってあれこれと語り散らすミュージシャンたちとは明らかに違った。ギターをかかえて、まるで落語家のようにおもしろおかしく語るミュージシャンもいた。人生論をぶつ男もいた。これがおれの生きざまだと、自虐的なまでに自分をさらけ出し、それが本音だと誤解されるなかでスターになっていく男もいた。
様々だった。
ファンはショーウィンドウの中に並べられたファッション・リングを選ぶように、自分の気に入った音楽を選び、ひとしきり指にはめて見つめていたかと思うと、そのうちにリングは机のひきだしの中でほこりをかぶり始めるわけだった。
オフコースというグループは、極端にいえば、何も主張しなかった。歌とミュージシャンの生き方は密接不可分と考えられることがあった。例えば、ロック・シンガーはロックンロールしながら生きていかなければニセモノだといわれるように、である。そういう中で、オフコースは生き方、のようなものを主張したりしないことで、ユニークなグループだった。
彼らがインタビューにこたえることは稀《ま》れだった。もっとも、あえて何かを、ファッショナブルに語ろうとはしない彼らに話を聞きにくる記者も少なかったけれど。
語らないことによって何らかの価値が生まれてくると、半ば確信犯としてそういう方針を貫いてきたわけではなかった。
たまたま――だと、小田和正はいった。
しかし、結果としてこのグループは鮮度をおとすことなく、徐々 に ファン を 獲 得 し て いった。
ステージを見るといい。いかにも彼ららしいから。
オープニングから、オフコースはいきなり彼らの音の世界にファンをひきずりこんでいく。リーダーで、メンバーの中で最も人気を得ている小田和正は三台のキイボード、シンセサイザーに囲まれ、そこにヴォーカル・マイクをひいてきている。
「これじゃまるで……」
と、オフコースのステージをビデオに収録しようとしたディレクターがいった。
「穴グマだ」
小田がステージの中央に出ていくことはめったにない。ギターが二本、ベース、それにドラム。各パートを担当するミュージシャンも、前へしゃしゃり出るように何かを語ったりはしない。唯《ゆい》一《いつ》、音が止まって言葉が聞こえてくるのは、小田和正がキイボードの前に座ったまま簡単なあいさつをするときだけだ。
「こんばんは、オフコースです……」
ぼそぼそと、いくつかの言葉をつらねると、メンバーはすぐに次の曲に入っていく。
やがて予定された演奏が全て終了する。
メンバーはステージのそでに引っこんでくる。冷やした〈XL・1〉を飲み、アンコールに出ていくタイミングをはかっている。
「アンコール! アンコール!」
会場は熱狂している。そこで簡単に出てはいけない。まだまだと、抑える。じれて、さらに熱くなりかけたとき、彼らはおもむろにステージに出ていく。
わおーんと、コンサート会場が揺れる。
それを平均、二回ぐらいくり返すと、彼らはそそくさとステージから楽屋に引っこみ、そのまま裏口に待ち構えているクルマに乗り込むと、宿舎へ引きあげてしまうのだ。
ファンは、まだ何かがあるのではないかと待っている。音楽は十分に聞いたけれど何も語ってはくれないのだから。ひたすらに「アンコール!」をくりかえす。
オフコースのメンバーは、すでにそのころクルマを走らせてホテルに向かっている。熱心なファンは、あわてて会場を出て楽屋出入口のあたりに殺到する。しかし、そのころメンバーは、ホテルの自分の部屋に着いてシャワーを浴びている。
そういうものだ。
ファンは、そこに取り残されることによって初めて、自分がファンであることに気づかされる。
かくして――
オフコースは、この世界でいう「ビッグ」な存在になっていた。
一九八二年春、夏。
その季節、オフコースは全国ツアーを展開中だった。ツアーのスタートは一月二二日である。場所は千葉の県立文化会館。以後、六月末の連続一〇日間におよぶ武道館のステージも含めて、オフコースは全国の八大都市を中心に六九本のステージを消化する予定が組まれていた。観客総動員数は約二五万人である。
ツアーの規模を数字であらわすことが、この世界では好んで行われる。
「武道館を除く五九本のコンサートを消化するためには」
と、コピーライターは力をこめてオフコースのプレス・リリースに書いた。
「延べ二〇〇〇人のコンサートスタッフが動員され、舞台制作費に延べ一億二〇〇〇万円、一ステージに使用するPA・照明機材等の総重量は約二五トンになる」
ちなみにいえば、ステージにあがる五人のミュージシャンの総重量は約三二五キログラムだ。じつにと、そこで感心してみてもいい。人は、軽い――。
プレス・リリースはさらに力をこめていう。
「武道館コンサートについてみると、一〇日間のスタッフ動員数が延べ二三〇〇人、舞台制作費二億円、機材総重量は一ステージ五〇トンとなっている。又、この武道館コンサートのチケットはハガキによる抽選になっていたが、応募総数はおよそ五二万通にのぼった」
ツアーのスタートとほぼ同時に新しいLP〈over〉が発売された。
発売と同時にこのLPはチャートのトップに立った。その日のうちにファンが大量に買ったからではない。各レコード店が売れることを見こしてあらかじめ大量注文を出していたからだ。最初にプレスする枚数を「イニシャル」と呼んでいる。オフコースのLP〈over〉のイニシャルは三〇万枚。
すぐに、追加注文がきた。
「そうか、やっぱり解散となればマスコミに騒がれるのか」
小田がいった。
「しかし、あえて発表する必要があるのかなぁ」
それはつぶやきに近かった。
多分、小田はまだ迷っていたのだろう。何杯目かのコーヒーをのどに流しこんだ。MJBブレンドを紅茶のようにうすくフィリップスのコーヒー・メーカーで淹《い》れたものだ。ツアーの楽屋にも、同じものが置かれていた。コーヒーは、必需品に近い。
髪の毛に白いものが増えてきている。小田の頭髪はもう四割ほど白くなっている。それが不自然ではない。それがむしろ彼を、考え深げな人間に見せている。ソファにもたれかかりながら、彼はミーティング参加者を見まわした。いつもそうだ。小田が椅《い》子《す》に座って前のめりになりながら熱っぽく何かを語ることはない。彼はアジテートするタイプの人間ではなかった。むしろ身をひきながら、冷静に流れを見きわめようとする。
「マジョ、どう思う?」
マジョ。上野のことだ。高校時代、彼はバスケットをやっていた。背がよく伸びた。太ることはなかった。細い体の、キリギリスのような体を持った男ができあがった。顔も細く、角ばっている。それがほうきに乗って空をとぶ魔女を思わせた。以来、彼はどこへ行ってもマジョと呼ばれている。
「おれの立場からすればやな、発表したほうがやりやすいわ。うやむやにやめてしもうたら、どうしたんやとあちこちからいわれるのは目に見えてる」
「七月一日に発表という、そのタイミングはいいの?」
コピーライターが口をはさんだ。
「可能性は三つあるんですよ」
契約担当のスタッフ、西沢がこたえる。
「一つは七月一日。これは武道館のステージが終わった直後。一番インパクトが強いだろうということですね。二番目の可能性が八月一日。オフコースのミュージシャンとオフコース・カンパニーとの契約が七月三一日でいちおう切れるんです。その翌日ということですね。もう一つは、八三年の一月一日、かな。オフコースと東芝EMI、つまりレコード会社との契約が一二月いっぱいで切れる。その翌日というと、八三年の一月一日になる。それだけ、タイミングがある」
「七月一日にしようというのは、どうせ解散を発表するならインパクトが強いほうがええやろと、そういうことからいちおう決めているわけや」
マジョは、七月一日解散発表という計画を軸に全てを考えていた。いくつかの方法があった。ステージの上からリーダーの小田和正が解散を宣言してもいい。あるいはラジオの番組に出ていって、世間話をしながら「じつはね」と、軽いタッチでいう方法もある。
「おれたち今度、解散するんだけど」
さりげなくやればやるほどいい。記者会見は、絶対に避ける。ステージの上で姿をさらすのとは、わけが違う。テレビカメラの前にずらりと顔を並べ、何かを語るなんて……。
「みっともない」
その一言で、記者会見は否定された。
いくつかの方法のなかからマジョは「今までにやられたことのない方法」を考えようとした。それなりにインパクトがあり、印象的かつオフコースらしいものでなければならない。
そして、マジョが思いついたのが全国紙のある面を全面買いきって、そこで告知するという方法だった。
「今までにない。新鮮さがある。メンバーはいちいちマスコミからの質問にこたえる必要もない。どや?」
マジョがその計画をスタッフ、メンバーに話したのは、今ミーティングをしている八二年四月からさかのぼること、半年ほど前だ。
そのプランは可決された。
ただし、いちおう、である。
小田和正は迷っていた。彼は、どうやったら〈オフコース〉というブランドを傷つけずにフェード・アウトできるかと考えていた。
「社長! 話を先に進めるよ」
マジョが小田をうながした。
社長。そうなのだ。小田和正はオフコースというグループのリーダーであると同時に、オフコースをプロモートする〈オフコース・カンパニー〉、楽曲の原盤権、著作権などを管理する〈フェアウェイ・ミュージック〉の社長でもある。
コピーライターがレポート用紙をひろげた。
「どういう言葉で解散を位置づけるかということなんですが」
メモを見ながら、彼はいう。
「ギブアップ! どうですか、これは?」
ギブアップ――それぞれがその言葉を頭のなかでころがした。
「ちょっと説明するとね」
コピーライターがつづけていう。
「最近のミュージシャンて、たいてい“ネバー・ギブアップ”の人たちでしょう。目標設定を次から次へと大きくしていって、それに向かって挑戦していく。ステージ活動をやり始めれば、まず全国ツアーを成功させるんだと目標をたてる。次に武道館をチョーマン(超満員)にすることを目標にする。その次は後楽園球場三万人動員ですよ。そこまでやると次は海外だという。そして、その目標に向かって負ケルモンカ! っていう感じで挑戦していく。目標を達成して成功することが勝利だと考えているんだ。勝つまではネバー・ギブアップ、諦《あきら》メナイゾとしゃにむに突進していく。みんな、ネバー・ギブアップ精神一色なんだ。
しかしさ、やった、勝ったというけど、何が勝利なの? ステージを成功させた、武道館にお客さんが一杯です、悪いことじゃない。でも勝利というほどのことじゃないと思うんだ」
説明しながら、コピーライターは、これ以外のコンセプトはないのではないかと思った。オフコースは武道館コンサートを成功させたぐらいで“勝利”などとはいわないだろうと思った。そんなことをいわないグループが一つぐらいはあってもいい。それがオフコースではないか。コピーライターはオフコースの解散というイベントを通して、そういうことをいいたいようだった。
「ふつうの人だってそうさ。日本人はネバー・ギブアップの精神が好きなんだ。負けないぞっていう感じで、みんなやっている。サラリーマンも、子供たちもね。だけど、ぼくらの世代の、三〇代のサラリーマンを見てみればいい。もうみんな、若かったころの夢なんか忘れてしまっている。会社と家、それに時たま寄る縄のれんかスナック、その三角地点をはげしく往復してるだけじゃないか。みんなじつはギブアップしているからネバー・ギブアップといわなければならないんだ。
ならばいっそ、ギブアップをいってしまったほうがいさぎいい。オフコースはたいていのことに成功してきた。ステージも成功させてきたし、LPを質のいいものを作って出せば何十万枚と売れる。武道館で一〇日間の連続公演を成功させたミュージシャンなんて、今まで一人だっていない。今までのやつなら大勝利だといってVサインを出すところだと思うんだ。だけどそんなことたいしたことじゃないんだといいたい。それでもなおかつ、ぼくらはギブアップだといいたい……。それが基本的な考え方なんだけどね」
コピーライターは自分とは本質的には関わりのない、グループの解散というイベントを自分なりのイメージで位置づけようとしていた。
「ギブアップ、か」
小田が反応した。
「悪くはないね。言葉の感じも新鮮にきこえるし。ほんとは勝ったわけでもない。そうなんだよな。くやしいけど、ここまでやってこの国の文化そのものが変わったわけじゃないし、どうにもならないくらいダメな部分ってあるからね」
「いい感じやないか。新聞の全面広告のスペースにその言葉がヘッドラインとしてくる。カッコいいかもしれんなぁ」
マジョがその日の新聞の紙面を想像してヴォルテージを上げた。
「ギブアップ、ギブアップ、ギブアップ……」
小田は何度かその言葉をつぶやいた。
いずれにせよ、それは言葉の遊びだろうと彼は思った。どういう言葉で解散を位置づけるか、そこでどんな表現をもってきても、ちょっとした観念ゲームでしかない。
別の言葉で解散を位置づければ、また違ったように見えるのだろう。実体は同じなのに、である。
そういうものだ。
全てを説明できるキャッチ・フレーズなどないのだろう。だとすれば、それなりに“らしい”言葉でこの解散というイベントに光を当てなければならない……。
「解散するなら」と小田がいった。
「ギブアップという言葉で押していくんだろうな」
「解散するならって、まだ決めてへんの? もうそれはしゃあないことなんやない?」
マジョがいった。
逡《しゆん》巡《じゆん》していた。小田はもうしょうがないことだと思いつつも、最後の決断はまだ先にのばしておこうと考えていた。
解散することをおそれていたわけではない。
理由はそれなりにある。メンバーの一人、最初からオフコースを一緒にやってきた鈴木康博がここらでオフコースのあり方を考え直したいといったのが端緒だった。
最初にその話が出てきたのは八〇年の一二月のことだ。それから一年半近い時間が流れている。その間、小田の頭の中にはたえずそのことが一定の位置を占めていた。
小田と鈴木はオフコースというグループを組んでもう一〇年以上になる。そのことのけりを、どういう形でつけるのがいいのか、考えれば考えるほど逡巡してしまう。やめてしまおうという思いと、何とか形として残しておこうという思いが、相半ばしている。
小田はそういう心の中を第三者にさらけ出すタイプではなかった。心の中に風が吹き荒れていることを極力、見せまいとするほうだろう。意志的に、そうしている。ちょっと厳しいくらいの端正なマスクが、そうしてできあがった。
「ギブアップ!」
その言葉に、異論は出てこなかった。
そのまま準備は進んでしまうかもしれなかった。それならそれでもいいと、彼は心のどこかで思っている。時の流れとともに変質していってしまうものもある。時には愛すらも。それは時の流れに勝てなかったからだと、小田は考える。
「それじゃ、その件は準備を進めていくとして、次にテレビの件に移りましょう」
誰かがいっている。
「今回の武道館ステージのライブを中心としたオフコースのテレビ番組を作るわけです。オン・エアは民放のゴールデン・タイムを考えています。時間枠は九〇分。ステージだけで構成するわけではなく、プラス・アルファとしてオフコースの何かを見せていきたい。その企画について……」
それもまた、決めていかなければならないことの一つだった。
オフコースはそれまでほぼ、テレビには出ていなかった。唯一の例外は八二年一月にオン・エアされたNHK教育テレビの番組〈若い広場〉でドキュメンタリーを撮ったことだろう。極めて地味な番組だった。だからこそ、選んだともいえる。いつもは一パーセント以下の視聴率を誇《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》る《ヽ》この番組が、そのときは三パーセントをこえた。
番組制作スタッフはNHKの編成局長賞を授与された。賞品つきだった。中身は〈VAN〉のロゴの入ったキイホルダーだった。値段は約一〇〇〇円。
ちなみに――
大阪フェスティバル・ホールでオフコースのコンサートが行われていたある日、宿舎のプラザホテルを出るところで小田和正はファンの女の子に小さな包みを手渡された。
「これ、使って下さい」
いらない、受けとって、と押し問答をするほどの仲ではない。とにかく、そのとき初めて会ったばかりなのだから。
楽屋につくとスタッフの一人がその包みを発見し、パッケージをといた。キイホルダーが入っていた。〈GUCCI〉のロゴの入ったゴールドメタルの一品だった。
ティーン・エイジャーは、ときどき、瞬間的にNHKよりも鷹《おう》揚《よう》になる。
「窓を開けよう」
と、小田がいった。
窓を開けると夜風が吹きこみ、青山通りを走るクルマの音がきこえてきた。
表参道から青山三丁目に向かって歩くと歩道橋が一つ、ある。その手前を左にはいると、そこは古くからある都営住宅に付随したフリースペースだ。広場のようなその土地をまっすぐに突っきると、その先は細い道。左側に何の変哲もないアパートのようなマンションが見える。入口には〈和合ハイツ〉と書かれているはずだ。そこにオフコースのオフィスがあることは壁に書かれたいたずら書きで、それと知ること が で き る。ハートのマークで、そ こ は いっぱ いだ。
一階を入ってすぐ左側の部屋が「和合ハイツ107号」、家賃は月に八万七〇〇〇円。
その晩、かなりおそくなって五人の男たちが、その部屋から出てきた。
マジョがいった。
「今日のミーティングの話の内容は、それぞれ極秘にして下さい。今の段階で外部にもれるとまずいんで……」
どうやら解散のための準備は進むかに見えた。
小田和正は、神宮前三丁目を抜けて原宿に向けて歩きはじめた。翌日、彼はまたツアーに出る。ツアーから帰ると、レコーディングも待ちかまえている。多忙な日 々 が 始 ま る は ず だった。
オフコースにとっての第四コーナーから、ホームストレッチが見える。風を避けるように、肩を少しまるめて、彼は歩きだした。
第一章 ツアー
二人の男が、まるで泣いているかのようにお互いの肩に顔をうずめあい、抱きあっている。
ステージが始まる直前の奈《な》落《らく》である。
オフコースのツアーにつきっきりで写真を撮っているカメラマンが、そのシーンに向けてシャッターを切ろうとすると「これは撮っちゃダメなんだ」と、一人が顔をあげていった。「おまじないみたいなもんだから」
いったのはジローだ。
ジロー。本名は大間仁世。オフコースのメンバー。担当はドラムスである。ジローは通称だが、誰もがそう呼んでいる。新聞、雑誌の記事でも〈大間ジロー〉と書かれることが多い。
「祈ってるんだよ。今日もステージがうまくいきますようにって。ヒトシさんと手を握り合ってお互いの肩を貸して祈り合うわけ。集中するんだよ、こうすると」
ジローに肩を貸しているのは、清水仁《ひとし》。オフコースのメンバー。ベースマンだ。年はジローのほうが若い。一九五四年五月一四日、秋田の生まれ。仁は一九五〇年一月二五日、大阪生まれである。
小田和正、鈴木康博。オフコースにはこの二人のオリジナル・メンバーを中心にジロー、仁、それにもう一人、松尾一彦がいる。松尾は一九五四年八月七日、秋田生まれ。ドラムスのジローとは同郷、オフコースに参加する前はジローと同じバンドにいた。彼はギタリストだ。
すでに三〇なかば近い小田、鈴木と二〇代後半の松尾、ジロー。清水仁がその中間にいる。
仁とジローは、ステージが始まる直前に必ず、一種のセレモニーのようにお互いの手を握りあい、祈る。ほかの三人がそこに加わることはないし、別の組み合せで同じことが行われることもない。
「それじゃ、皆さん……」
と、マネージャーの上野が舞台のそでのあたりに立ち、五人のミュージシャンにいう。
「がんばって下さい」
そういうときの上野は、たいていダークスーツに身を固めている。ミュージシャンたちはラフなスタイルだ。一見、背のひょろりと高い上野が全員を統率しているように見える。
そして、メンバーはステージへと出ていく。照明はまだ、当てられていない。暗い舞台にスタッフが照らす小さなパイロット・ランプで足もとをたしかめながらそれぞれのパートにつく。その小さな灯りが見えると、それだけで会場は熱く盛りあがる。ドラマのスティックが四つ、音を刻む。それがタクトだ。ジローの叩《たた》くリズムはエイトビート。小田のキイボードのメロディーがからんでくる。松尾のギターがコードを弾いてそれを追う。重低音は仁の右手の指が太いエレキベースの弦をかきならしているものだ。その上に鈴木のエレクトリック・ギターの音がかぶさっていく。
なんの迷いもなく あなたを選んでふり返らず この道を 歩いてゆくよ――小田のヴォーカルが流れだす。きかせて あなたの声を 抱かせて あなたの体を 心がことばを超えて 愛の中へ 連れてゆくよ……
〈愛の中へ〉――それがイントロだ。
ほぼ一時間半にわたって、オフコースは一五の曲を歌いつづける。小田がステージで身につけるシルクのシャツは汗で背にはりついてしまう。ジローは汗止めのために、手首にサポーターをまいている。
「あそこに立って演奏しているときにね」
と、小田が自分の立ち位置を指でさしながらいった。予定どおりの演奏を終え、一度、ステージ脇《わき》の暗がりへひきあげてきたときだ。客席は「アンコール」を強く求めていた。
「時々、気分がすーっと白くなるんだ。体でリズムを刻みながら指はキイを確実におさえている。歌も、ちゃんとうたっている。だけど妙にさめちゃうことがあるんだよね」
札幌の、北海道厚生年金会館でのことだった。
オフコースのツアーは中盤から後半にさしかかろうとしていた。
関東近郊からツアーは始まった。千葉、八王子、宇都宮、群馬とまわり、九州、福岡へ向かった。神戸、京都、横浜、松本でのステージを消化すると四国、山陽へ。さらに宮崎、鹿児島に寄って、次は東北、北海道である。その間、何度か東京へ戻った。落ち着く間もなく旅に出る。それがツアーだ。
札幌でのステージは、六九本のステージを消化する今回のツアーの四〇回目だった。疲れも出ていたのかもしれない。が、それだけではない。小田和正はある種の倦《けん》怠《たい》感《かん》も感じている。
ステージは、そこに集まってくる観客の目から見れば一回性のものだ。わずかな時間であっても同じ場を共有できたという体験は観客に特有のものでしかない。当然のことかもしれないが、ミュージシャンにとってステージは一回性のものではなく連続性のものだ。
スケジュールは毎日ほぼ、変わらない。起きるのは昼前ごろ。ホテルのコーヒーハウスへ行って軽い食事をすませる。一時間とかからないだろう。が、楽屋に入るのは三時すぎで十分に間に合う。それまでの時間を、まずつぶさなければいけない。ホテルのロビー、玄関あたりにはたいてい大勢のファンがたむろしているから、外へ出かけてみようという気はそがれる。
オフコースのツアー・スタッフは、どこのホテルでも、各人の部屋とは別にスイート・ルームを一つ確保している。なんとなくメンバーが集まっておしゃべりができるように、である。
楽屋に入る。全員顔をあわせてのリハーサルは、午後五時すぎから始まる。それまでは各パート別に楽器、PA(場内音響装置《パブリツク・アドレス》)のチェックが行われている。さほど長い時間はかからない。ここにもまた、ぽっかりと空き時間ができてしまう。
楽屋の中央に大きなテーブルが置かれ、果実、ケーキなどが並んでいる。オセロゲーム、将棋も見える。ゲームは、必需品だ。
「なんちゅう、非生産的な時間やろ。ここに電話があったらババーッとかけまくるんやけどなー」
上野が大きな声でいった。
といって、誰も反応するわけではない。そんなことわかりきったことじゃないかといいたげだ。
メンバーそれぞれに、手から離せないものがある。
小田は必ずゴルフのクラブを楽屋に持ちこんでいる。アイアン一本でもあれば、ちょっとしたスペースを見つけて軽いスイングをつづけている。あるいはICゲームだ。若いスタッフをつかまえて、勝負をいどむ。勝つのはたいてい小田である。それだけ、ゲームには習熟している。
鈴木は、ギターと一緒にいる時間が長い。ある意味で、彼が一番退屈していないのかもしれない。鈴木は楽器に面と向かっているのが好きな男だ。彼はステージで九台のギターを用いる。その弦を早いときで二日に一回は張りかえる。チューニングが毎日のように必要だ。彼は、誰よりも長い時間、音とたわむれている。
清水仁は、カメラを手離せない。まだキャリアは浅いが、いつどこでもカメラを手にしている。ボディーは日本製、ズームレンズを何本か揃《そろ》え、シャッターはモーター・ドライヴ。取材にきたカメラマンは、まず仁と仲良くなることができる。
ジローには二本のスティックが必要だ。畳の部屋があればそこで叩き、ない場合は椅子に座って自分の腿《もも》を叩いている。スティックがなければ手で叩いている。
松尾一彦。彼にはさほど必要なものはない。そのかわりに彼は、他のメンバーに比べるとよく動きまわる。問題なのは、それがステージもはね、食事も終わって皆が寝静まったあとでもつづくことだ。ホテルの廊下を浴衣一枚でうろうろとしている姿を、彼は何度か目撃されている。あやしげな話ではない。話し相手を求めて深夜、メンバーやスタッフの部屋のドアをたたき起こしてまわる。
そういう一面も、ツアーにはある。
小田と仁はしばしばゴルフに出かける。リハーサル前のワンラウンドで、体にたまりかけたフラストレーションを払いのけてくる。小田はコートさえあれば、テニスにもでかけていく。
放置しておけば淀《よど》み始めてくる時間の流れを、彼はそんなふうにして、なめらかにしようとしている。屋内の、熱い照明にさらされて流す汗ではなく、アウトドアで流れ出る汗をたしかめて、シャワーを浴び、気分を晴らしてステージにあがろうとしている。それでも、時々、正確な音を出しながらも、曇ってくることがあるのだ。
それは、非日常的な、一瞬のきらめきにも似た場であるべきステージが、日常性に侵蝕されてしまうときだ。
「ステージのあり方そのものを変えていかなければならないのかな」
小田は、そんなふうに考えることがある。毎年、同じような規模で、同じような街で、同じような顔ぶれのファンを迎えて例のごとくのコンサートをつづけていくことの不毛を、彼は感じている。
そんなとき、彼は、ここらで一度、オフコースというグループに区切りをつけてみることも必要かもしれないと、考える。
かつては、そんなことはなかった。
誰もが経験するような初々しい瞬間が、あった。
例えば、ヤマハの主催するライト・ミュージック・コンサートにオフコースが出場していったときだ。
第一回大会が開かれたのは一九六七年である。その前の年にビートルズが日本にやってきた。フォーク・ソングではボブ・ディラン、ジョーン・バエズがすでに注目を集めていた。当然、P・P・M(ピーター、ポール&メアリー)もだ。ブラザーズ・フォアというグループもいた。すでにプレスリーの時代ではなく、フォーク&ロックの時代だった。
小田、鈴木は、ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストの第三回大会に出場している。一九六九年のことだ。
それ以前のことも、ここに紹介しておくべきだろう。
この二人が知り合ったのは小学校六年生のときだ。
小田和正は、神奈川県横浜の、金沢八景の生まれ。家は薬局を経営していた。ちなみに、現在もそれはつづいている。彼の家族は横浜、自由ケ丘、原宿と三軒の薬局を開き、同時に原宿、自由ケ丘、日比谷、横浜・元町で喫茶店も開いている。和正の一歳上の兄が薬科大を卒業後、それらの店の経営にたずさわっている。
鈴木康博は、静岡県の修善寺で生まれたが、まもなく横浜に移ってきた。父親は京浜急行に勤めるサラリーマンだった。京浜急行は品川から横浜、そして横須賀を通り三浦半島まで線路を延ばしている私鉄である。康博の父親は、現在、同社の取締役をつとめている。
小田、鈴木の二人は小学校を卒業したあとは私立中学に進むことになっていた。今ほどの私立ブームの中でではない。圧倒的多数の子供は公立中学に進んでいたころの話だ。横浜、湘《しよう》南《なん》地区には二つの私学が知られていた。一つは栄光学園。中、高一貫教育をしており、神奈川県では県立湘南高校と並ぶ有数の進学校である。もう一つが、聖光学園。比較的新しい学校だったが、ここも中学、高校の六年制でレベルは高かった。
二人は、そのいずれかに入るため進学塾に通っていた。横浜・日の出町にある山手学院という。彼らの小学校六年は一九五九―六〇年だ。山手学院はそのころから組織的に受験にとりくんでいた。二人はそこで知り合い、ともに栄光学園の入試に失敗し聖光学園に合格した。
高校時代、フォーク・ソング・ブームがやってくる。彼らはギターを弾き、歌い始める。高校三年の学園祭ではP・P・M、ブラザース・フォアのレパートリーを歌い、喝《かつ》采《さい》をあびた。小田が東北大工学部、鈴木が東工大に進学したあとも、彼らは練習をつづけた。休みになると鈴木が、買ってもらったブルーバードに楽器を積み仙台へ出かけていった。
学園紛争の季節でもあった。
彼らが大学に進学したのは一九六六年。そのすぐ二年ほどあとに全国のキャンパスはどこでも紛争をかかえ始めた。
そのころ、彼らはフォーク・ソングに夢中になっていた。アイビー・ファッションに身を固め、地元、横浜でアマチュアとしてコンサートを開いたことも何度かある。
アマチュア活動の総決算としてライト・ミュージック・コンテストへの出場があった。
オフコースは東北地区からエントリーした。小田が仙台にいたからだ。そこを勝ち抜き全国大会に出た。六九年の一一月二日、場所は新宿の厚生年金ホール。
「当時はもちろん、プロになろうとは思ってもいなかった」
と、鈴木がいう。
「〈赤い鳥〉というグループが出ていたんですよ、ギターが二本、ベースそれに女性二人のヴォーカル。シンプルな構成のグループだった。その年は、結局この赤い鳥が一位になった。オフコースは二位ですね。その時、音楽っていうのはフルバンドみたいな形でガンガンやらなくても、きちっとしたいい音を出してきれいなハーモニーを出していればそれでいいんだと思った」
「あとで聞いたら赤い鳥もおれたちオフコースがライバルだと思っていたらしいんだけど、厚生年金ホールの裏の駐車場のところへ練習に行ったらそこに赤い鳥がいたんですね。彼らの音を聞いてびっくりした。これはすごい、と思った。勝てないなと思いましたね」
小田はそう語る。
彼らはまだ二二歳だった。若かった。ライバル視した相手に負けたくないという思いがステージを盛りあげた。
その当時、発行されていた雑誌〈ライト・ミュージック〉にこう書かれている。
「……北は北海道から南は九州まで、全国五〇〇〇をこえるバンドが参加して行われた各種の地区予選を勝ち抜いて、このグランプリ大会に勢揃いしたバンドは、文字どおり、アマチュア・バンド界を代表する精鋭ばかり。……兵庫県からやってきた男性三人、女性二人のグループ“赤い鳥”が、審査員ほぼ全員一致でフォーク部門一位、ならびにグランプリ受賞バンドに選ばれることになった。……フォーク部門第二位になった“ジ・オフコース”のテノール小田君はちょっと素人ばなれした幅のある音域の持ち主で、彼にも特別賞が与えられた……」
幸せな時代だった。そう思う。
小田和正は今のように白いものが混じっていない髪をやや長目に伸ばし、マッシュルーム風にカットしていた。額は、その髪でやわらかく隠されていた。アイビー特有の細いネクタイをしめ、スーツを着てステージに立った。鈴木も同じようにスーツを着ていた。鈴木は東工大でロボット工学を学び、その業界では最も進んだ研究を始めていた安川電機の研究所に就職がきまっていた。そのまま進めば、やがてくる未来を先取りできるはずだった。小田は大学院へ進んで建築をもう少し勉強してみようという意欲に燃えていた。
そのころはやっていた言葉が一つ、ある。ドロップ・アウト――彼らとは全く無縁の言葉だった。
そのヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで入賞したことがきっかけで、彼らはプロとしての活動を始めた。
レコードを出すという話が具体的に出てきてしまったからだ。
そのころからヤマハはミュージシャンを養成しようとしていた。コンテストで一位に入った〈赤い鳥〉、そして二位の〈オフコース〉をプロモートしようとのり出してきた。
小田は問題なかった。
彼は東北大を卒業したあと横浜へ戻り、早稲田の大学院へ進むつもりでいた。時間的余裕はある。
当時のオフコースには三人目のメンバーがいた。地主道夫。彼は聖光学園から小田と同じ東北大の工学部へ進んでいた。三年で専門コースに別れるところで彼は第一志望の建築科へ進めなかった。それで地主も横浜へ戻り、早稲田の理工学部建築学科へ編入するつもりでいた。
問題は鈴木だった。
「決まっていた就職をやめて、音楽をやりたいといったら親に反対されましてね」
と、鈴木はいう。
「当然かもしれないな。すったもんだの末、おれも大学院へ行くと、だから就職を一度断るといってオヤジを説得したんですよ。大学院の試験受けるために卒業はせずに、一年留年した。結局、大学院は受けませんでしたけどね」
オフコースが初めて出したレコードは〈群衆の中で〉というタイトル。ヤマハの作曲コンクールで入賞した曲に作詞家の山上路夫が詞をつけたものだ。
そのデビュー・シングルのプロモーションのために、何度かテレビにも顔を出した。
「その時だって、出たくはなかった」
と、小田はいう。
「〈ナイトジョッキー〉とか、朝の番組で〈ヤング720!〉かな。どうしても出ろっていわれて仕方なく出てはいったけど、おれたちとはちがうなと思っていた。どこが? 全般的に、だね。オフコースは一つ一つの音だとかハーモニー、音楽の美しさ、そういったものを追求するんだという意識がすごく強かった。テレビというのは、むしろその時どきのヒット曲、話題曲を追っかけていくわけでしょう。そこでどうしても、すれちがってしまうんじゃないか」
ともあれ、彼らはデビューしたわけだった。
オフコースのファンクラブ的性格を持った〈オフコース・ファミリー〉というオフィスがある。主な仕事はファンからの問い合せにこたえることとファンのための雑誌を編集することだ。スタッフは九人、ほぼ手づくりに近い形で三十数ページの雑誌を年に四回発行している。誌名は、季節ごとに〈春の音楽会〉〈夏の音楽会〉……と変わる。
その〈秋の音楽会〉のバック・ナンバーにデビューまもないころのエピソードがいくつか紹介されている。
オフコースのメンバーは小田、鈴木、地主の三人から地主が抜けて二人になった。小田、鈴木のレベルについていけなくなったからだという。一度、二人になったオフコースは、やはり学生時代の仲間二人を加えて、一時、四人でやっていた。
そのうちの一人、小林和行がこんな話を〈秋の音楽会〉にのせている。
「……たしか初仕事は幼稚園でやったコンサートだったな。友人の実家が幼稚園をやってて、そこへ行った記憶がある。あとは、デパートの屋上とか遠くの方まで行って前座の三曲ぐらい歌うだけとか、そんな仕事ばっかりだったなあ。
ひどい思い出がある。館《たて》山《やま》(千葉県)でコンサートがあってね。オレ達は車で行ったんだけど、館山があんなに遠いとは思わなくて、道は混《こ》むし全然間に合わなかったんだ。でも途中で遅刻だとわかっても、いちおう行ったんだよね。それで、着いたときはすっかり終わってて“どうもすいません”って謝ったら“ああ、いいですよ”って簡単にいわれて。まあ、オレたちは出ても出なくても同じだったんだろうけど、あんまりどうでもいいみたいにいわれて、傷ついちゃった」
失敗もまた、楽しく笑いとばせる季節がある。
ひどい話だが――といいつつ、この話にはどこか心はずむトーンがある。クルマに楽器を積んで、彼らはまだ行ったことのない町に向かおうとしている。そこにどんな人たちが待ちかまえていてくれるのか、わからない。何かが起こるかもしれない。そう思ってもいい。青春というのは、どこにでも可能性がころがっているように見える季節のことなのだから。
クルマが渋滞している。道路表示を見れば目的地はまだまだ先だ。「ヤバイぞ」といいつつ、何ごとも起こらずに平板に時間が流れてしまうよりもずっと自分たちが興奮していることに気づく。そういうものだ。高いギャラをもらえるわけではない。熱狂的な大勢のファンに囲まれるわけでもない。オフコースのことなど何も知らない、そういう人たちの中に入っていく。そのとき心の中にピンと張りつめるものは、あとから再び体験しようと思ってできるものではない。
オフコースはその後、また小田、鈴木の二人になり、そこで母体ができあがった。
当時は、ステージの上で進行係の役割を担ったのは鈴木康博のほうだった。今とは、逆だ。
「こんばんは、オフコースです」
と、鈴木がいう。
彼は肩まで届くほど髪の毛を長く伸ばしていた。当時のミュージシャンは、誰もがそうしていた。小田もまた、長かった。鈴木はギターを持ち、立っている。小田はたいてい、その隣りでギターをかかえ、座っていた。そういうスタンスで、客席に向かう。メンバーは二人だけだ。彼らが演奏する音に厚みはなかった。アンプを通して激しい音をたたきつけるわけではなかった。暴力的なまでの音の洪水と音楽が結びつかなければならない理由はないと、考えていた。
メロウ、といういい方は八〇年代に入るころから使われ始めるのだが、彼らはそれよりはるか前、世間にラディカルなサウンドが流れているころに、メロウだった。オフコースが、プロとして活動を始めたのは七〇年代の初めだ。彼らの対極にはニューロックがあった。
鈴木がステージの上で語りかけているあいだ、小田はたいてい黙ってそれを聞いている。たまに鈴木がいうことがあった。
「今日は、何か少し話してみませんか」
ステージの上でだ。
小田はいう。
「別に、話すことありませんから……」
一九七三年九月九日、お茶の水にある日仏会館で行われた〈グリーン・ラブ〉コンサートでの二人のMC(司会・進行の役割《マスターオブセレモニイズ》)を、さきに紹介したファンクラブ雑誌〈秋の音楽会〉が収録している。
この日、小田は少し話をしている。
当時の雰囲気が、そのなかから伝わってくる。彼らは、ステージで泉谷しげる(フォーク・シンガー)の歌をうたった。「いちばんオフコースらしくない人の曲だから歌います」といって、である。泉谷しげるの歌は、いわゆるメッセージ・フォークと呼ばれていた。人の生き方、思想までも歌にのせてしまおうとしていた。その泉谷の歌をオフコース流にメロウに歌った。
そのあとの二人のMCはこんな具合いだ。
小田「……というわけで、あの人(泉谷しげる氏)にも赤ちゃんが生まれました。僕らより年下ですけどね、あの人は」
鈴木「あ、そうですか」
小田「ええ。知らなかったですか?」
鈴木「知らなかったです。風《ふう》貌《ぼう》からいうと上かと思ってましたが……」
小田「年下です。年下ですがムコウは子供が居ますが……どうですか、その辺は……?」
鈴木「エエ。僕は、そのォ、子供ってのはね、ひとつ立派に育てたいと思うんですがね。こんなこといったら変だけど、どうも生まれた瞬間の醜さが、今ひとつ、気に掛ります」(笑)
小田「自分に子供が生まれて、自分に似てたら気持ち悪くないですか? 似てなかったらヤバイですけど(笑)。それと、よく電車に乗ってて思うけど、子供ってのは、親のしつけで全然違いますね。どんなに騒いで迷惑かけても、平気な親も居ます。あげくの果てに、車中で子供の歩行練習ですから……。皆さんも、これから子供を作ったら、人の迷惑にならない様な、立派な子供にして下さい(笑)。
ついでだから話しますが、恋人同士が別れる時、確率からいって、女の子の方が振られます。で、振られない方法はないかと考えてみたんですが、女の人は“もう、私にはこの人しかいない”と思う。これが間違いのもとで、男の人は、女の人が自分の好きなことに熱中している姿に惹《ひ》かれる。だから、男の人にばかりくっついてないで、レース編みとか……これは余りいい例ではありませんが、乗馬とか……(笑)そんなにアカデミックなことじゃなくていいですから、我が恋人を忘れていられるような趣味を持つことが大切だ。……という教訓でした(笑)。僕も、もう二六になりますからね。この位の教訓は……」
鈴木「あ、でも僕はそう思わないんですよ(満場爆笑・拍手)」
小田「あー、そうですか。では、その話をひとつ……」
鈴木「女の人っていうのは、性質上、それが出来ないと思うんですよ。好きな人を忘れることが出来ない。編物とかしながらも、相手のことを考えてるんです」
小田「あー、そうですか。じゃあ、テニスとかしていても“このテニス・ウエアはあの人が気に入ってくれるかしら”とか考えて……」
鈴木「当然そうです」
小田「マズイですね、それは」
鈴木「ええ。だから、あなたの考えは、割と身勝手な男の考えとも取れると思って……」
小田「うーん。……そうですか。じゃあ、その辺は聞いてる人に判断してもらって、立派な大人に成長してもらいましょう」
鈴木「そうですね」
決して器用な語り口ではなかった。
多分、彼らはこんな話を、つまずきながら、的確な間をとれるはずもなくステージの上から客席に向かってしていたのだろう。彼らがそんなMCでつないだ日仏会館のステージ、観客は五〇〇人だったと記録されている。
まださほど知られていないグループのコンサートに集まってくる初期のファン。彼らは通りすがりの通行人ではない。なにがしかの熱い思いをいだいて小さな会場に足をはこんできた人たちだ。失敗をあげつらう評論家でもない。客観的な視線で評価しようというジャーナリストでもない。つたなさをあたたかい拍手でくるんでしまうという人たちである。
ステージにあがるものにとっての、それは幸福な日々といえるのではないか。
少なくとも今よりは、である。
今、オフコースのツアーは、どこも超満員のファンでふくれあがる。
駅に着く。あるいは飛行場に着く。どこにも判で押したように、似たようなファッションの女の子たちが待ち受けている。ホテルの玄関、ロビーにも、同じく。
コンサート会場には、きまった時間にいつもどおりの数のファンがやってくる。その八〇パーセントはティーン・エイジャーだ。
そして彼女たちは、どのステージでも同じような反応を見せる。いつもの曲で手をたたき、席を立ちあがって熱狂するタイミングも、どのコンサートの観客も変わらない。
二時間ほどの幸せを舞台の上から与える人間が、日常性に足をすくわれるという不幸をかかえていることに、舞台の下からは気づきようもないだろう。
だからツアー・プランナーは、オフコースのツアー・スケジュールを組みホテルを予約するときに、同時に近くのゴルフ場にラウンドの予約をしておくことを忘れない。
札幌でのコンサートは五月の二日、三日、四日とつづき、一日休んで六日、七日、八日と計六回に及んだ。それでもチケットを入手できずに、会場の前で、かすかにもれてくるサウンドに耳を傾ける少女たちがいた。
一度、東京に戻り、次は名古屋。ここで四日間通しのステージをこなし、金沢、静岡とツアーはつづいた。また東京に戻ると次は仙台だった。リーダーの小田が、かつてこの町にある東北大学で学んだということもあって、ファンは少なくない。三日間のステージが組まれていた。
仙台の初日、楽屋につくなり小田がいった。
「大学時代の先生から突然、電話がかかってきたんだ。何かと思ったら、オフコースが解散するなんていう話を聞いたけど大丈夫なのかっていうんだ」
「そんなところにまで話が伝わっとるんか?」
マジョがびっくりした声を出した。
「だけど、まさかここにきて先生からそんなことをいわれるとは思わなかったな」
小田はそういいながら、思わぬ方向から思わぬ反応が出てきたことを面白がっている。
退屈が、しのげた。
仙台を終えて、また東京に戻ると次は大阪だった。中《なか》之《の》島《しま》にあるフェスティバル・ホールでの連続、五日間の公演。
松尾がいった。
「ワンフの顔がさあ――」
ワンフとはファンのことをいう。
「一人一人、バラバラに見えてきたんだよ。悪い傾向だな」
コンディションがよく、のっているときは違うという。会場の盛りあがりが一つのかたまりになってステージに向かって伝わってくる。そう感じられるとき、ミュージシャンは舞いあがれる。
「演奏しながらハッと気がつくと、全然別のこと考えてるんだ。ふだんは見えないものがやけに見えたりね」
ステージに投げこまれたバラの花束が落ちた拍子にひしゃげてしまっていることに気づいたり、花の大きさがふぞろいであることが気になったり、ステージの上のちょっとしたごみがやけに彼の視線をひきつけたり――といったことだ。
「そういうとき、おれは今オフコースしてないなって思っちゃうんだ」
松尾がつづけていう。
「オフコースしてるっていうのは、オフコースの一人としてその気になってるっていうことね。家に帰れば当然、オフコースしてるわけじゃないわけだから雰囲気が変わっている。そっちのほうの気分になっちゃうわけね。ステージの上で。しらけてくるっていうか。だから、東京でコンサートやるときも、たいてい前日ホテルに泊まるんだ。その日になって家からまっすぐ会場に行くとなんか変なんだよね。リハーサルやっても、まだオフコースしてないっていう気分で。一度、別のところへ行って気分をオフコースにしないとダメなんだ」
ツアー。ステージに立つ側はともすれば下がりがちなヴォルテージと格闘している。
「でも、オフコースしようっていう気分になるの、おれの場合、簡単だよ」
松尾の話だ。
「客席の最前列にカワイイ女の子がいると、おれ、すぐオフコースしちゃう」
だからといって、彼はステージがはねたあとまで「オフコースしてる」わけじゃない。ホテルに帰り自分の部屋に戻ると、松尾はまた、いつもの彼に戻る。シャイで、ファンの女の子に自分のほうから声もかけられないくらいの男に、戻ってしまうのだ。念のために、そう書き添えておく。
ところで――
一九八二年のオフコース・ツアーだが、この長い旅のあいだ、メンバー、スタッフには退屈をしのぐ格好のテーマがあった。
グループの解散、である。
誰もが、頭の片すみにこの問題をかかえていた。切実なテーマでもあった。
何度か、彼らはこのテーマのもと、ミーティングをひらいた。
そのたびにマジョはスーツに身をかためておごそかにこう宣言した。
「それではこれからオフコースの解散問題に関するミーティングを開きたいと思います。皆さん、よろしいでしょうか」
第二章 YES―NO
小田和正は、ジュラルミンでできた小さな旅行用携帯ボトルの栓を開け、そのまま口にもっていった。あおるように一口飲むと、顔が紅潮したようだった。中身はブランデーである。熱い液体がなめらかに喉《のど》をやき、体にしみこむように入っていく。
そうやって、さきほどから何回、ブランデーを口にしただろう。かなりの量が喉を通過したはずだ。
「結論的にいうと――」
彼はそこで言葉につまった。
考えてみれば、結論など出てはいなかった。出るはずも、ないのかもしれない。人間が何人か寄れば、そこに思惑が交錯する。当然のことだ。オフコースは五人で構成されているグループだった。そこにさらにスタッフも加わっている。思惑は入り乱れている。容易にまとまるはずもない。
小田はまた、ブランデーを口にもっていく。若干のいらだちが、湧《わ》きおこってきた。
札幌グランドホテルの四六四号室。スイート・ルームである。五月三日、休日の夜のせいか、窓から見える夜景にネオンの彩りは少ない。
ステージが終わったあと、オフコースのメンバーはこの部屋に集まってきた。スイート・ルームには珍しく、大きなダイニング・テーブルが置かれていた。八人はゆったりと食事をとることができる。今日はそこで食事をとるからと、メンバーは他からの誘いを断った。
そういうことなら――と、札幌にきていた雑誌のカメラマンが写真を撮らせてくれとマネジャーの上野博にいってきた。断るのも不自然だからと考えて上野はカメラマンを招き入れた。ひとしきりシャッターを切ると、カメラマンは出ていった。やがて食事が運ばれてきた。ナイフとフォークの動きが一段落したころ、上野は本題に入った。
ディナーの席はミーティングの場に変わった。テーマはオフコースの解散に関してである。そして、半ば予想どおり、話はスムーズに展開していかなかった。
「結論的にいうと――」
リーダーの小田は、意見をまとめようとして、あきらめた。
「……まだ何も決まっていないということか」
疲れがドッと出てくるようだった。
似たようなことを、もう一年半近く、くりかえしてきていた。
経緯を説明しておこう。
発端は、単純なことだった。
小田と、当初から一緒に音楽活動をしていた鈴木康博が「オフコースから抜けたい」といったのだ。八〇年の一二月のことだった。小田はそのとき、結論を出すのは待ってくれといった。そして翻意してくれるよう、説得した。それでも鈴木の意志が固いとみると、スタッフはとにかく契約がおわる八二年の七月末まで、オフコースとして活動してほしいと申し入れた。
オフコースのメンバーと、彼らが所属するオフコース・カンパニーとの契約は二年に一度更改されている。その契約の起点は八月一日である。オフコース・カンパニーが設立されたのが一九七六年の「八月一日」。以後、その日を起点としてミュージシャン契約はとりかわされている。
八〇年一二月に「やめたい」という意思を表明した鈴木は、その時点で約一年半の契約を残していた。鈴木はその契約が切れる前、八一年三月でツアーが一段落すると同時にやめたいという意向を持っていた。やめるなら一日でも早いほうがいいと考えたわけだった。
八〇年一二月――それはちょうど、アルバム〈We are〉の製作を終え、ツアーに入ったところだった。〈We are〉はそれまでのオフコースの、どのLPよりも魅力的に仕上がっていた。あらかじめ楽譜に書かれたとおりに演奏し、それをレコーディングしただけというくらいのレコードはいくらでもある。あるいは、ミュージシャンが自己満足的な世界にひたっているだけのレコードも、いくらでもある。才能きらめくミュージシャンの自己満足は、それなりに素晴らしいが、そういえるだけのレコードは少ない。アルバム〈We are〉は、そのどちらでもなかった。グループの調和がとれ、同時に、グループとしての個性が見えていた。メンバー誰か一人の個性ではなく、五人の総和としての個性だった。この調子でいけば、次のLPはさらによくなるだろう、あるいはオフコースというグループにとってのピークともいえるレベルのものが作れるかもしれないと思えた。そこまでやってから解散しようということで、妥協点が見出されたのは、まだ契約が残っていたからというだけでなく、その期間中にできるところまでやってみようという思いが、メンバーにあったからでもある。そして契約どおり、オフコースは八二年七月三一日まで活動を続けることになった。鈴木も、それに同意した。
その間、清水仁、松尾一彦、大間ジローという三人の、途中からオフコースに加わった若いミュージシャンたちも、鈴木を説得した。やめるなんていわないで、考え直してよ――一番熱心に説得したのはドラムスの大間ジローだ。彼は、このままオフコースを解散させてしまうのは惜しいと、ことあるごとにいっていた。
それでも、やり直そうということにはならなかった。
ならば、どういう形で解散を発表するか、それを考えていくほかない。それをまかされたのが、プロモーション担当の上野だ。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ……各メディアに対する交渉は上野のテリトリーである。
「みんな、かっこつけばかりやからな。イモっぽい方法じゃだめや。記者会見やるなんていうたら、おれ、ふくろ叩きにあうわ」
上野はいう。
「何か、ハッとおどろくような方法を考えんとな」
そして上野が考えついたのが、朝日・読売新聞の広告スペースを全面買って、そこで解散を告知するという方法だった。
上野は札幌のミーティングで、その企画に関するメンバーの合意を得ておくつもりだった。小田と上野の間にはその点に関する原則的な合意はできていた。「ほかにいい方法がないなら、それでいくしかないな」と小田はいっていた。
「マジョから話をしてよ」
小田が上野をうながした。
上野はゴールドの細ぶちめがねに軽く手を触れ、あらたまった様子でいった。いつものように。
「以前から断片的にお話はしてあったんですが、解散発表の方法に関する件です。ぼくのほうでは、いちおう朝日、読売に全面広告をうつということで……」
かたどおりの説明を終えた。声はなかった。ジェネラル・マネージャーの西沢から意見が出た。
「七月一日に発表するっていうのは、インパクトの強さからいえばその日が一番いいんだけど、スケジュール的にきついんじゃないかって気もするんだけど」
「なんでや」と、マジョ。
スタッフの間では七月一日、新聞紙上で解散発表ということは合意事項のはずだった。にもかかわらず、西沢から異見が出た。
「各方面に対する配慮なんだ。当然、ぼくらの解散に関しては、まだ誰にもいってないわけでしょ。レコード会社の人は何人か知っているけど、それ以外は知らない。各地方のイベンター(興行主)も知らないわけですよ。だから来年もまたオフコースのステージが組めると思っている。なんとなく当てにしてる部分もあると思うんだ。そういう人たちに、いちおう事前にいっておかなくちゃいけないんじゃないかって気がする。だけど六月いっぱいはステージでギッシリでしょ。六月三〇日まで武道館があるんだから。で、その翌日、突然の新聞発表じゃ、みんなおどろいてしまう。今後、どんな形でまた一緒に仕事をするかわからないわけだから、ぼくとしてはいちおう事前に何人かの人の耳に入れておきたいわけですよ。それを七月に入ってすぐにやりたい……」
「ということは七月一日に解散発表をせずに先に延ばすってことやな」
「そう。となると、次のタイミングは八月一日なんですよね。メンバーとの契約が切れるのが七月三一日だから、その翌日ということで」
西沢は、オフコースの解散には反対だった。
彼はオフコースの営業を担当している。今、どれだけこのグループがファンの熱い視線を集めているかを知っている。各地の興行主もオフコースのステージを一日も多く欲している。確実に客が入るからだ。「解散まであと一年あれば」と西沢は考える。「さらにオフコースを大きな存在にすることができるのに」。単純にいえば、あと何億も収益を増やすことができるだろう。できるものなら解散をストップさせたい……。
「しかしさあ――」
と、そこで鈴木が口を開いた。
「解散っていうのは、発表しないといけないの?」
「というと?」
マジョが聞いた。
「うん、解散発表すること自体、あんまりカッコいいことじゃないような気がするんだよな。だって、おれたちオフコースを始めるときには宣言して始めたわけじゃないだろ。それなのになんでやめるときにいちいち形をととのえて発表しなきゃいけないのかって思うんだよ」
鈴木はどちらかといえば、おしゃべりなタイプではない。話すときは、ゆっくりとした口調で語り出す。
「発表しなくちゃいけないゆうことはないけどな。いちおう今の段階で解散するんなら明確にしておいたほうが今後のいろいろな活動だってやりやすいやろ。それに、中途半端にしておけば、そのうちどこかの新聞か雑誌にかぎつけられて一方的に書かれるだけや、それもみっともないやろ」
「それはわかるんだけどね……」
鈴木はそこで黙りこんだ。
「でもな、マジョ」
清水仁が間に入ってきた。
「金出して新聞のスペース買うてな、解散しますいうのもカッコよくないで」
「うん。おれもそう思うんだ」
松尾が同調した。
「新聞っていうのがねぇ」
ジローも、否定的な雰囲気だ。
小田、鈴木を除くオフコースの若い三人は解散に、はじめから消極的だった。彼らにしてみれば、解散はいかにも早すぎるのだ。小田、鈴木の二人は高校時代から一つの方向を目ざしてやってきた。もう十数年の長きにわたっている。清水、松尾、大間の三人は、まだ六年目。時間的には短くないが、小田、鈴木のものだったオフコースに融合できてから、まだ日が浅い。〈Three and Two〉というタイトルのアルバムを作り、従来の二人に対して新しい三人のメンバーの存在を位置づけたのが一九七九年のことだ。三人のオフコースの中での活躍は、これからといってもよかった。
仕方なく解散に同意はしたものの、心のどこかにわだかまりがある。わざわざ新聞の広告スペースを買ってまですることか、と思ってしまうのだ。
「いや、おれとしてはな、もっとほかにいい方法があれば、そちらでもいいんや。新聞で発表するということに固執してるわけやない。ただ、具体的にどういう方法でやるのか、それを決めんことには話が先に進まんのや。もう、あんまり時間的余裕もないしな」
上野は早口でまくしたてた。
今さら何をいうのかという思いが、彼の中にはある。どういう形をとるのか、その方法はおれにまかせたということじゃないのか。それを今になって文句をつけられてはたまらない。
「そんなスペース買わんでも、各社に電話で知らせたら、書いてくれるとこは書いてくれるんやない? それでええんちゃうかな」――と、仁。
「それとか、ラジオに出て、さりげなくちょこっとしゃべるとかね」――これは松尾だ。
「そういうの、誰かがもうやってたんじゃない。ほら、昔、一時そういうのがはやったじゃない」――ジローはそういった。
「おれはなー」
と、仁が再びいう。仁は典型的にミュージシャン・タイプの人間だ。まず彼はロジカルではない。理屈っぽい話は好まないし、のってこない。そのかわりに彼は直感的にズバリと相手の本質をつかんでみせる。こんなことがあった。ビートたけしが楽屋に顔を見せたときだ。オフコースのメンバーとたけしとは互いに初対面だった。たけしの隣りに座った仁は、たけしの様子を一目、見るなりこういった――「やっぱりこの人、気の小さい人やわ。繊細や」。まろやかな大阪弁で、笑いながらいう。たけしはいきなりいわれてギクリとしただろう。仁にはしかし、他意はない。思ったことを素直にいったまでだ。直感がややもすると、理屈やら論理をこえてしまうところがある。
「おれらのほうから出向くような形でわざわざ解散をいうことがおかしいんちゃうかと思うんや。ちいちゃい記事でもええから、書きたいやつに書かせる。それで伝わっていくんやないか。わざわざ自分たちのほうから金払っていうことやないよ、マジョ」
「うん、わかるけどな」
「ニュースとして流れるほうが自然じゃないのかな。例えばNHKの〈ニュース・センター9時〉でやってもらうとかさ」
そういったのは松尾だ。
「とりあげてくれるかなー。あれ、視聴率どれくらい? うっかりしたら二〇〇〇万人ぐらい見てるんじゃない? スゲエな」
と、ジロー。
話がちらかり始めた。
いつもそうなのだ。それは解散に関して全員が納得していないことを意味していた。
松尾が、自分の経験からこんな話をしたことがある。
「オフコースに参加する前、〈ジャネット〉というグループをやっていたんだ。これが解散するときはもっとすさまじかった。メンバー同士、お互いに顔を見るのも不愉快になっちゃうんだよ。ステージの上で怒《ど》鳴《な》りあったりね。そのうち、そいつが身につけてるものまで嫌いになる。そばにいるだけでムカついてくる。たいていそこまでいっちゃうんだ。だから解散する。オフコースの場合、ちょっと違うんだよね。解散の話が出てからもちゃんとLPは作っているし、ステージもやっている。やめることなんてないじゃないかって思えるぐらいね。怒鳴りあうこともないし、顔を見るのもいやだなんてこともない。なんで解散しなくちゃいけないのか、正直いってわかんない部分もある……」
にもかかわらず、解散の話は、六月三〇日が近づくにつれて進行している。
「おれがマネージャーだったら、絶対に今のオフコースを解散させないよ」
松尾は、よくそういう。ジローも同じように考えていた。
上野は、意見がまとまりそうにないなと感じ始めていた。解散そのものに対するメンバーの意思統一が、この期に及んでもまだできていないのではないか。全員が解散に異存なければ、これほど話がちらかるはずもない。
上野は、話を整理してみた。
解散を発表するタイミングをいつにするか、七月一日か八月一日かという問題が一つ。それをどういう形で発表するのが「一番カッコいいか」という論点が一つ。そもそも解散を発表する必要なんてないのではないかという意見も出ている。自然消滅的に、気がついたらオフコースというグループがなくなっていたというふうにできないものか……。
そして、上野はその一つ一つに反論した。
「八月一日に発表を延ばすというのは考えないかんことかもしれない。でも、当初七月一日にしようと決めたのはその日が武道館でのステージを終えたすぐ翌日ということからなわけや。それだけにインパクトがあるんやないかと。それをくつがえさないかんだけの理由が、八月一日に延ばすというアイディアの中にあるか、やな――」
「ラジオで発表するのもいいよ。となると、六月三〇日やろ。ニッポン放送で武道館ステージの中継をやるときに流すわけか? ステージでいうのと一緒やないか。みっともないし、ほかの日にラジオでいうのはインパクトが弱い――」
「解散するなら、発表はせないかんと思うよ。どうせ、やがて聞かれるんだから。そのときバラバラで出ていくのも、おれはカッコいいとは思わんのや――」
小田は様々な意見を聞き流していた。
彼の心の中には、この問題に早くケリをつけたいという思いと、流れつくところにしか結論は落ち着かないだろうという思いがある。矛盾してはいるが、その両方とも正直な気持ちだった。
小田自身に関していえば、オフコースをやめてしまえば、もう二度とステージに立つことはないだろうという予感があった。新たなグループを組むつもりは、今のところない。今までとは違う形で音楽と接点をもっていくことは十分ありうるが、なぜかソロ活動をしようとか、コンサートを定期的にやっていこうかとは考えていなかった。
「初め、ヤス(鈴木康博)は自分がオフコースを抜けるから誰か別のギタリストを入れればいいじゃないかといったんだ」
小田はいう。
「だけどおれはそうなるとこのグループはもうオフコースじゃないと思った。いろいろな意味でね。長い間、一緒にやってきたというだけじゃなく、曲を作り、アレンジし、一枚のLPを作っていくというなかでお互いにお互いを必要としていた部分がある。それがほかの人間に変わることで、オフコースはオフコースでなくなってしまう。おれはそう思った。だから、ヤスが抜けるといったとき、それならオフコースは解散するしかないなと思った」
小田は、ある面、とてもスタイリストだ。長年、一緒にやってきたパートナーが抜けるという。そのほころびを、ほかの人間で間に合わせて縫いあわせるという発想は、彼にはない。むしろ、いさぎよくそこでピリオドを打つほうが美しいと、彼は考える。
だってさ、ジャイアンツにホワイトという選手がいるじゃないか――と、ひとりごとのように小田がいったことがある。あの男、もう四〇歳に近いだろ。かつてはニューヨーク・ヤンキースで活躍した選手なんだ。それが若い時ほど打てなくなった。しょうがないさ、もう年なんだから。それでも日本に来てやってるじゃない。例えば日本だったらどうかなと思うんだ。王貞治はホームランを三〇本も打っていたのにやめた。アメリカの大リーガーだったら絶対にやめないよ。まだ三〇本もホームランを打ってるんだから年俸を上げろっていうよ。ところが、王はやめちゃうんだ。ホワイトみたいに、日本に来てまで野球をつづけようとはしないんだよ。ホワイトのやり方は素敵だと思うよ。もしおれがアメリカで音楽活動をやっているなら平気で続けるだろうと思う。ホワイトみたいにね。でも違うんだ。日本でやっているんだ。この国の美学って、あるじゃない……。
そういって小田は黙りこくった。
ツアーの流れに身をまかせているあいだのひとときだった。
小田はこういうことをいいたかったのだろう。
――アメリカにドゥービー・ブラザースというグループがある。ウエスト・コーストを中心に活躍しているグループだ。じつによく、メンバーが変わる。現在のドゥービー・ブラザースには結成時からのオリジナル・メンバーは一人もいない。全員が入れかわってしまったのだ。それでも彼らはかつてと同じような評価を得ている。クォリティーとオリジナリティーが落ちさえしなければ、メンバーがどう変わろうと認められるのだ。それはメンバーのミュージシャン一人一人がドゥービー・ブラザースの一人という以前に個人として自立しており、それを前提にしてグループが成立しているからだ。と同時に、ファンもまたそれを認めている。
日本では、ニュアンスが違う。
ややもすると、グループ内相互の人間関係も、グループとファンとの関係も運命共同体的雰囲気に包まれてしまう。本来、それぞれがインディヴィジュアルな存在であるはずなのに、どこかでもたれかかり合う。そういう中で、ファンはメンバーの交替を、個人の問題として考えるよりも、グループ全体の問題として捉《とら》える。そしてある種の喪失感とともにその変化を受けとめる。ステージの上にいる人間も、個人としてそこに立っているはずなのに、どこかで世間の目を鏡として自らの姿勢を決めている。
そこから抜け出さなければいけない。抜け出せれば、例えば王貞治のようにまだ力を残しながらやめるという美学に立脚するのではなく、ホワイトのように場を変えても続けていかれる。
しかし、ここはアメリカではなく、日本なのだ――。
鈴木が抜けるといったとき、小田はそれでも自分はつづけていくという道を選択しえなかった。
ここにもまた、ジャパネスク。
そこから脱却したいという思いと、そこにすでに足を突っ込んでしまっている自分と――小田の中には分裂した自我があるはずだ。近代以降のこの国の知識人が皆そうであったように、だ。
「どう思う? 小田さん」
ミーティングにオブザーバーとして参加しているコピーライターが聞いている。
彼が今、メンバーのそれぞれの意見を聞きながら、じつに玉虫色の折衷案を出してきたのだ。
「みんなの話を聞いてるとね」
と、コピーライターはいった。
「要するに、広告スペースを買ってまでオフコースからのメッセージとして解散を告知することにカッコ悪さを感じてるわけでしょ。だけど、なんらかの形で解散はいわなければならない。しかもそれはインタビューを受けて答える形ではなく、何かの番組に出ていって語るのでもない。とするなら、小田さんがどこかの新聞に記事として原稿を書けばいいんだよ。例えば、朝日とか読売の夕刊の文化欄に。ぼくらは解散しますなんていうストレートな書き方をするのも芸がないから、ニューミュージックのさ、一つの時代が今終わろうとしているみたいなテーマで書くわけだよ。同世代のミュージシャンが、ここ数年、何らかの形でターニング・ポイントを通過してるわけでしょ。そういう現象をふまえて論評しながら、最後に“ところで”と書くんだ。“ぼくらのオフコースも六月三〇日をもって解散いたしました”って。これならさ、広告じゃないわけだから金もかからないし、今までにない方法でしょ?」
じつに第三者的な意見であり、アイディアだと、小田は思った。それに対する反論が出なかったことでも、それはわかる。が、どこか違うなと小田は思った。
オフコースのメンバーは、解散発表の具体的な方法に関して議論しているように見えるが、じつは、解散そのものの是非を模索しているのだ。半分冗談をいい思いつきを並べながらも、メンバーが心の底で考えているのは発表の方法ではなく、解散そのものだ。
ところが、スタッフ、あるいはオブザーバーは具体的方法だけがテーマになっていると思っている。その差が、出ているのだろう。
「そんな方法、簡単にできるの? 書かせてくれといってすぐに紙面を割いてくれるわけじゃないだろ」
小田はそんなふうに答えた。
「なんとかなるわ、そのくらい」
マジョが即座にこたえた。基本的には楽観的な男だ。彼はもう半ば、自分が考えた新聞に全面広告を打つというアイディアをあきらめていたのかもしれない。そのアイディアを無理に押し切れる形勢ではなかった。
その日のミーティングにいつもと違っている点が一つあった。
通常、オフコースのミーティングは次のような台詞《せりふ》で終わる。
「まあいいわ。マジョ、まかせるよ」
それはたいてい、仁に割りふられる台詞だ。
それをきっかけに、メンバーは「おれも」「おれもまかせるよ」とつづく。
ところが、今回はそうではなかった。「まかせるよ」が出てこない。上野は、いかにもミーティングらしい終わり方をあきらめた。かわって小田がいった。
「結論的にいうと――」
小田は、しかし、そこで言葉につまってしまったわけだった。ブランデーが妙に喉にからみつく。
しばらく間をおいて、小田がいった。
「七月一日にするか八月一日にするかは、事前にどれくらいの人に解散を伝えておかなければならないか、その重要性の度合いと、七月一日に発表することのインパクトとの比較の問題だな。方法に関しては今出た、どこかの新聞に原稿を書くというのが可能かどうか感触をつかんでみなければわからないし。そういう感じだ――」
五月三日。全員が札幌グランドホテルの四六四号室を出たあとに、誰かが忘れていったレコード・ジャケットが一枚、ソファのすみに置かれていた。オフコースの五人が静かに微笑《ほほえ》み、歌詞カードが見えた。
今なんていったの? ほかのこと考えて 君のこと ぼんやり見てた――という文字が見える。作詞・作曲小田和正。
次のフレーズはこうなる。
好きな人はいるの? こたえたくないなら きこえない ふりをすればいい 君を抱いていいの 好きになってもいいの 心は今何《ど》処《こ》にあるの……
彼は尋ねている。どちらなのか、と。おれではなく、君が決めてくれといっている。曲のタイトルは、
――〈Yes―No〉
一本のビデオ・テープがある。ベータマックスだ。
ビデオ・デッキにセットすると、やがて映像がブラウン管にうつし出される。応接セットが見えている。どこかの部屋のコーナーである。画面の左手前から男が一人現われて、カメラに背中を見せながら手ぶりで示しながら何かをいっている。音声は、聞こえてこない。やがて、その応接セットに一人、そして二人と男が座り始める。オフコースのメンバーである。
画面の左側に見える長《なが》椅《い》子《す》の左に小田和正が座る。その右隣りに清水仁。清水の右側にもう一つの長椅子がある。そこに松尾一彦、大間ジローが座る。さらにその右側に見える一人掛けの椅子に鈴木康博が案内された。もう一つ、小田の左側にも一人用の椅子が見える。そこにはマネージャーの上野博が位置を占める。
画面に背中を見せている男は、位置についた六人の人物たちにしきりに何かを説明している。カメラは、その全員を見わたせる程度に引いた位置から撮影しているようだ。アングルは変わらない。ブラウン管にうつっている人物がいっせいに笑った。声は聞こえないが、誰もがはじけるように白い歯を見せてうしろにのけぞるシーンが見える。
背中を見せている男は、ディレクター風でもある。これから撮影するシーンの説明をしているようにも見える。
やがて、ディレクター風は相変わらずカメラに背中を見せながら、あとずさりしてくる。
そこから音が入り始めた。
ディレクター風の男がマイクコードにつまずいたようだ。ガタゴトという雑音が聞こえて、男は体を泳がせた。その瞬間、横顔がちらりと見えた。どこかで見た顔だった。
カチンコがカメラの前にぬっと、現われた。〈Off Course on TV〉と、書かれている。ヨーイ、という声が聞こえて、そのカチンコがカタンと音をたて、すぐに引っこんだ。
テープを再現してみよう。
小田 問題はヤス(鈴木康博)の考え方なんだよ。こないだ解散発表そのものをする必要ないじゃないかっていってただろ? あれ、どういうこと?
鈴木 ウン。要するにさ、あえてそんなこという必要ないんじゃないかっていうことなんだけどね。
上野 ぼちぼち“オフコース、武道館公演後解散”なんていう記事が出始めたやろ。おれも、このまま七月一日に解散するのはイモだなって思い始めたんだ。
松尾 ということは、何? 解散じゃなくて休養みたいなことになるわけ?
清水 解散といわんわけやからな。
松尾 休養だなんて、それもあんまりよくないよ。
上野 形としてはアリスの場合と同じようになるわけ? 休養といって記者会見し、それは実質的な解散じゃないかといわれたら、そうとられてもかまいませんといった感じになっちゃった。あれはどうかな。
松尾 アリスなんて、何やったってイモだよ(笑)。
ジロー おれはさぁ、解散より休養をとるよ。もしかしてまたさ、やるときがくるかもしれないんだからね。オフコースっていうのはそういう使命感のあるグループだと思っているんだ。
鈴木 解散を発表しないからといって休養っていうわけじゃないんだ。解散は解散なんだけど、それを発表したりしないですむ方法がないのかなって思うわけだよ。
小田 おれも休養には賛成しないな。
ジロー それぞれメンバーが、ここでオフコースを見つめなおすためにも個人個人の活動に力を入れてみる、そういう時期だということなんだけど……おれが考えてるのは。……ダメかな?
――中略――
小田 おれは、解散を発表しないなら、オフコースはあることにしておいて、何かまとまってやるときに、五人のミュージシャンとカンパニーがインディヴィジュアルな契約を結んでいくという方法があると思うんだ。解散でも休養でもない。それを何と呼ぶのか、その言葉は別に考えていくとしてね。
清水 おれはね、解散しないほうがいいと思うんだ。何年後にどうなるんかはわからんけど。とにかくつづけていたほうがいいよ。
上野 となるとさ、問題はヤスなんやね。解散を発表しなければ、オフコースはつづいていることになる。それが今後のヤスの活動にさしさわりがないんかという……。
鈴木 うーん。
上野 解散を発表しなくても解散やというんなら、どこかでインタビュー受けたとき個人的にしゃべってしまうやろ。そしたらそれは書かれることになるわけやし。
鈴木 そういうことだなー。うーん(と、しばらく沈黙がつづく)。
そこでまた、カチンコの音が入った。音声も切れた。
ディレクター風の男が画面にまた背中を見せて登場すると、やや緊張気味だったメンバーはソファにもたれかかって息を抜く。そして再び笑顔を取り戻す。鈴木康博も、白い歯を見せた。
ビデオがまわされたのは五月一六日のことだ。場所は名古屋の観光ホテルの一室。ビデオはオフコースが作ろうとしているテレビ番組の素材としてまわされた。シーンが面白くなれば使う、面白くなければ使わない、そういうつもりでまわされたものだ。
彼らは、ビデオという最も現代的な装置にグループの解散問題という、どちらかといえば、デリケートにヒューマンなものになりがちなテーマを記録させようとしていた。
第三章 オフコースの《顔》
一九八〇年一二月に、時間を戻そう。
オフコースはツアーの途中だ。アルバム〈We are〉を完成させ、同じタイトルをつけたコンサートが秋から始まっていた。
一二月中旬のある日、福島県郡《こおり》山《やま》市でのステージが組まれていた。
コンサートはとどこおりなく終わった。会場は空席がなく、どのシートもファンで埋まっていた。いうことはなかった。何もかも、うまくいきそうに思えた。そんな時期が、たまにはあってもいい。
そのステージに異を唱えたのは上野だ。
ホテルに引きあげて、メンバー全員が揃《そろ》っているなかで、上野はいった。
「どうしようもないな、このツアーは」
当時、上野は三〇歳になったばかり。まだ若い。小田和正は三三歳、鈴木康博が三二歳。オフコースの中心の二人は、いずれも上野より年上だった。
上野はストレートにものをいう。あるいはイントネーションに大阪弁を残したそのいい方がストレートにきこえるのかもしれない。上野はいつもそんなふうに波紋を投げかける。そして何かを変えていこうとする。郡山でもそうだった。
メンバーはその上野の言葉を聞きのがさなかった。
「マジョ、それどういうことよ」
「まるでニューミュージックやないか、あれじゃ」
上野はいう。そのいい方も、オフコースというグループに対しては、きついいい方だ。いわゆるニューミュージックと呼ばれている歌手、ミュージシャンたちと自分たちとは違うのだと、オフコースのメンバーは考えていた。どこが違うのかと追求された場合、明確な指標をあげることはできないが、例えばステージの上からファンに向かってやさしげな言葉で彼らが語りかけることはなかったし、また、一部のニューミュージックのスターがそうであるように、故意に孤高を保つこともしてこなかった。ナチュラルに音楽に取り組み、それ以上の作為をせず、いいものを作っていけば、それだけでいわゆるニューミュージックとは一線を画せるはずだと考えていた。
にもかかわらず、マネージャーの上野は、オフコースのステージを見て「まるでニューミュージックだ」と、挑発的にいったのだ。
「その気取りがニューミュージックなんだよ。今日、ステージ見とったら、みんな肩に力が入って気負いすぎている。おれたちは違うんだと、意識しすぎてるわ。そこが見えるからクサイんや」
いい方が容赦ない。
「ツアーに入ってやっと今のステージに慣れてきたんだ。内容もまとまりかけてきた。そういうときに、勝手にそんなこといってくれるなよ」
若いメンバーもそういって上野に反発した。ツアーがスタートしたのが一一月。メンバーの呼吸がやっと合い始めたときだ。ツアーは翌年の三月までつづく。先は長い道のりだ。それをこんなところでぶちこわしてくれるなと、いう。
「わかってるけどな」
と、上野。
「もう一度、考え直してみんと。今やらんとおれはこのツアーがいいツアーになるとは思えない」
ゆずらない。
いい合いになってしまった。上野にはどう考えてみても、その時点でのオフコースが、彼らの嫌ってやまないニューミュージックそのものに思えた。違うというなら、もっと明確にそれを見せるべきだ。
「話のプロセスを知らずに乱暴なことをいうなよ」
上野に対して、そういう批判もとび出した。
プロセスを知らない――たしかにそうだった。上野はその四月、つまり八〇年の四月にオフコース・カンパニーに入ってきた男だった。キャリアは浅い。それでもいいたいことをいえるのは、オフコースが小田、鈴木の二人で活動していたころ、彼らをマネージメントしたことがあったからだ。
一九六九年にヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで二位に入ったオフコースは、翌七〇年〈パシフィック・エンタープライズ〉という事務所に所属した。加藤和彦、〈かぐや姫〉、杉田二郎といった、のちにそれぞれのジャンルで活躍するミュージシャンたちがいたオフィスだ。パシフィック・エンタープライズはその三年後、解散する。加藤和彦は自分のオフィスを構え、〈サディスティック・ミカバンド〉を組む。南こうせつとかぐや姫は〈ユイ音楽工房〉に移った。杉田二郎も独立して自分のオフィスを設立した。オフコースは、加藤和彦からも杉田二郎からも誘われた。小田、鈴木はそのどちらへ行ってもいいと思っていた。結果的に杉田二郎が設立した〈サブ・ミュージック〉に所属したのは「二郎さんのほうが面倒見がよさそうだったから」である。そのサブ・ミュージックに上野がスタッフとして参加してきた。
上野は大阪で高校を卒業したあと、〈高石音楽事務所〉を起点にしてこの世界に染まり始めた。〈フォーク・クルセダース〉が解散し、メンバーの一人だったはしだのりひこが〈シューベルツ〉というグループを組んだ。上野が最初についたのが、このグループだった。やがてシューベルツは解散し、はしだのりひこは〈クライマックス〉というグループを組む。そこでも、上野は一緒に仕事をした。そんななかで、京都出身の杉田二郎とも知り合った。上野がサブ・ミュージックにやってきたのは、それ以前の経験でこの世界で身につけたノウ・ハウを新しいところで応用したくなってきたからだ。上野はまだ二三歳だった。一九七三年である。
この時期のオフコース、つまり小田、鈴木と上野の関係は必ずしもハッピーであったとはいえない。
何よりも、金がなかった。
「内容的には、杉田二郎の出演料でほかの人間に給料払っていたみたいなもんやから。発展しないわけですよ。そのうち杉田二郎が一年間、活動を停止しなければならなくなってしまった。二郎の家が金光教のお寺なんやね。彼が跡を継ぐ立場にいた。そのためには一年間、山にこもって修業せないかん、いうことになった。残ったのはオフコースと、そのころおれが大阪からつれてきた〈バッド・ボーイズ〉というビートルズそっくりの演奏をするバンド。どちらもまだたいして売れていなかった。あれやこれやで借金かかえて、どうにもならなくなった」
上野の話だ。
「マジョが、金をメチャクチャ使ってたからな」――小田はそういう。
上野にいわせると、こういうことだ。
「例えば、オフィスの金庫に一万円しかなかったとするわ。これをどうするか。全員で分けてしもうたら一人あたりたいした金にはならない。それならむしろ、その一万円を元におれが誰《だれ》かに会いに行って新しい仕事の糸口を見つけたほうがいい。そうやろ?」
たしかに。
理屈ではある。
それで成功すれば、誰も何もいわない。
オフコースはサブ・ミュージックを離れてオフコース・カンパニーを設立した。
上野は残って、借金をかかえ残務整理にとりかかった。一九七六年になっていた。サブ・ミュージックでの上野とオフコースのつき合いは三年間で終わった。
以後八〇年になって、再び一緒に仕事をするまで四年間のブランクがある。
「話のプロセスを知らないのに――」
と、上野がいわれてしまったのには、そういう背景があった。
しかし、だからといって遠慮するようなタイプではない。あえて強くオフコースを批判したのには、それによって自分の存在を主張しておこうという思いもあった。
郡山のあとは、新潟でコンサートが予定されていた。その間に数日間のブランクがある。メンバーは一度、東京に戻る。小田は上野とメンバーの論戦を聞いて、東京にいる間にもう一度、スタジオに入って練習しなおしてみようといった。
それはいい結果を生んだ。あえてもう一度、スタジオにこもって練習しなおすことにより、ステージの構成も変わった。さらによくなったように思われた。メンバーは全員、後半のツアーはうまくいくといいあった。悪くはないことだった。が、それが逆に一つの場を作った。スタジオを出る日、スタッフの西沢はこういう機会に懸案の問題を処理しておこうと思った。
彼らが練習に使うのは渋谷のマック・スタジオである。二四六号線を青山から渋谷に向かい、駅の横を走って旧環六を右に曲がる、そのすぐ左側にある、小さなスタジオだ。一階にティールームがあり二階、三階がスタジオになっている。
冬、一二月。外は冷えきっている。マック・スタジオの三階のスタジオに小田、鈴木、上野、西沢の四人が集まった。
時刻は夜の八時をまわっていた。
機嫌よく練習が終わったところで、西沢はこの四人で打ち合せをしておきたいテーマがあった。オフコース・カンパニーは有限会社であり、小田、鈴木の二人が役員になっている。その二人と主要スタッフの上野、西沢だけで行う打ち合せは、オフィスの経営に関するものだった。若い三人のミュージシャンは先に帰った。
小田はそのときのことをよくおぼえている。
「うまくいきそうだった。一度、マック・スタジオに入って練習しなおしたこともよかったし、オフィス自体もいい方向にいきつつあった。西沢がうれしそうな顔で話し始めたんだ……」
西沢はノートをひろげながらいった。
「スタジオを作る件なんですが、下準備ができたので、ここで概要を話してオフィスとしての意思統一をしておこうと思うんですが……」
彼らはスタジオを持つ計画をたてていた。そのために一度、山中湖の近くに土地も購入した。都内よりも、自然環境に恵まれたところのほうがいいだろうという考えからだった。その土地は、今は遊ばせたままになっている。メンバー全員がそこへ遊びに行って、あまりの不便さに音をあげたのだ。これでは退屈してしまう――、という意見が多数を占めた。計画は一度白紙に戻され、都内にスタジオを作るという方向に変更された。
その計画をいよいよ具体的に進めようという時期だった。ある程度、資金のメドもつき、小田、鈴木の合意を得て西沢は動き出そうとしていた。
「その計画、ちょっと待ってくれないか」
鈴木はいった。
「それを進められてしまうと、おれ、困るんだ。今度のツアーが終わったところで、オフコースをやめたいと思っているんだ」
「…………」
「だからさ、オフコース・カンパニーからも抜けたいと思ってる。将来のことを今決めるのは待ってほしいんだ」
鈴木は、このミーティングの場を利用してそのことをいっておかないと、タイミングを失ってしまうかもしれないと思った。いうなら早いほうがいい。決然と、彼はいったつもりだった。
その場の話し合いは、ものの数分で終わった。小田が「二人で話そう」と鈴木にいい、場所を変えたからである。
小田のクルマに鈴木が乗りこみ、二人は目黒通りを走った。開いているレストランに入るとそこで話をつづけた。夜中まで二人の話し合いはつづいた。
「ヤスはもう、やめることをすっかり決めているようだった」
と、小田はいう。
「要するに、もうおれとは一緒にやりたくないというんだ。説得はしたんだ。今が一番しんどい時期だろうけど、ここを乗り切ればヤスもよくなる、と。オフコース自体の、ちょうど曲がり角だった。オフコースは、誰がリーダーだと決めてやってきたグループじゃなかった。おれがリーダーでヤスがセカンド・マンと決めてやっていたわけじゃない。ところが、〈We are〉を作るころからマジョが意識的におれを中心にプロモートし始めた。一人一人、個性を出していこうという方針をたてたわけだよね。その一番バッターがおれだったんだけど……」
上野は、鈴木がやめるといったとき、自分のせいでもあるなと、直感的に思った。
八〇年の四月に上野がスタッフとして参加するまで、このグループは奇妙な平等主義に包まれていた。小田、鈴木の二人でやっていたころは、一枚のLPにおさめられる曲の数が、必ずといっていいくらい同数だった。いずれか一方が多く曲を書きレコードに入れれば、著作権収入に差が出てくる。それを避けるためでもあった。どちらか一方のキャラクターが浮かびあがるのを避けてもいた。オフコースとは、あくまでグループであり、いずれか一方の顔が前面に出ることは小田も鈴木も互いに自己規制していた。二人とも、前へ出るのが好きではないという性格も、その傾向に拍車をかけた。三人の若いミュージシャンが加入してきたときも、彼らをバックバンドとして位置づけるのを、小田も鈴木も嫌った。それによって小田、鈴木の二人が浮かびあがるべきではないと考えたのだ。一人一人がオフコースの、同じような位置を占めるミュージシャンであり、その総体がオフコースというグループであって、それ以外ではありえなかった。
上野は、サブ・ミュージック時代に一度はオフコースと別れたものの再び仕事を手伝ってくれといわれたとき、自分のすべきことはオフコースというグループをさらに幅広くプロモートすることであると理解した。
〈さよなら〉というオフコースの曲がヒットした直後だった。シングル盤として発売されたその曲はレコード売上げのトップ10に入っていった。テレビに出ていってさかんに歌ったわけではない。キャンペーンを打ったわけでもない。ごくふつうにステージ活動を行い、そのステージで歌いつづけた。その結果としてのヒットだった。
その時点でオフコース・カンパニーに参加してきた上野は、さらにこのグループを大きくするためにはと、次のように提案した。
「グループが大きくなるためには、そのグループの顔が必要だと思う。一人一人の個性が徐々にきわだっていかないとこれ以上にはなれないよ。だからおれはこういう方針で行こうと思う。まず最初に小田和正を前面に出していく」
ヒットした〈さよなら〉は小田和正の作詞、作曲である。ステージでも当然、小田が歌い四人がコーラスに参加した。そのままほうっておいても、小田がこのグループの顔になりつつあった。
「今のままのオフコースには何か足りんと思うんや。コンサートへ行けば客は入っている。レコードも売れ始めている。だけど、この業界の人間はほとんど誰も見にこない。注目してへんのや。取材にもやってこん。なぜか? 誰かがオフコースを代表するような形でコメンテーターとして発言しないからやと思う。そういうキャラクターを、まず作って前面に出していく。その方針でやろうと思う」
当然、上野はその戦略が鈴木になにがしかのショックを与えることを考えに入れていた。それまで同格として一緒にやってきたのに、外から見える範囲で自分がセカンド・マンになってしまう。
上野は鈴木にいった。
「ヤスさん、最初は小田を前に出すけど、これは一人一人順番にやっていかんとうまくいかないもんなんだ。その次にヤスさんをプロモートしていくからな」
「もっと売れるようにならないといけないわけだからな。おれはそういう方針でいいと思うよ」
鈴木はそういった。
小田のプロモーションはすぐに始まった。例えば音楽専門誌でオフコースの特集を組むときは、グラビアで五人のメンバーそれぞれの写真を載せつつ、インタビューを受け、発言するのは小田一人という具合いだ。それによってファンは、小田和正という顔、キャラクターを通じてオフコースというグループにアプローチするようになった。一度、そのイメージができてしまうと、それは容易に崩れない。小田以外の他のメンバーも発言するようになっても、最初につちかわれたイメージは変わりようもなかった。
その結果として鈴木がオフコースをやめたいといいだしたのではないかと、上野は思ったのだ。
マック・スタジオで話された内容は、しばらく他のメンバー、スタッフには伝えられなかった。清水、松尾、大間の他の三人のメンバーがこの話を知るのは八一年三月に〈We are〉のツアーが終わったあとである。
楼閣は些《さ》細《さい》なことから崩れていく。
そういうものだ。
例えば、ステージが始まる前のリハーサルのときだった。
「じゃ、やってみようか」
と小田がいい、ドラムスのジローがスティックを叩《たた》いて合図を送る。いっせいに、ギターが、ベースが、キイボードが、ドラムが音を出す。リズムが刻まれ、メロディーが流れる。ヴォーカルが旋律をたどり、コーラスがそのあとを追う。
そのままフィニッシュまで流れこめば、問題はない。ある日、それは鈴木がオフコースをやめるといい始める前のことだが、リハーサルで鈴木は、演奏するのをやめてしまった。彼を除く、他の四人が譜面とは異なった進行で演奏していたからだ。譜面どおりに演奏していた鈴木は、自分が間違えたのかと思い、やがて譜面が変更されたことを知った。
「あっ、そこ変更したんだ」
いわれれば、すぐにそれにあわせて演奏することはできる。リハーサルで一回だけやっておけば、本番のステージの上で間違えることはない。
些細なことだった。譜面の変更を話し合ったときに、たまたま鈴木がその場にいなかっただけのことだ。他の四人は、誰かがそのことを鈴木に伝えてあるのだろうと思っている。皆がそう思いこむから、結局、誰も変更を伝えてはいない。そして、リハーサルが始まり、鈴木は突然、自分だけに必要な情報が流れていないことに気づく。そこである種の怒りにも似た感情を抱いてしまっても不思議はない。
不協和音と、それを世間では呼んでいる。
そして、気がついてみると、鈴木は他のメンバーが知っていて自分だけが知らないことがらがいくつもあることを発見する。例えば、スケジュールのこと、例えばこれから作るLPの構成のこと……。
ひとつには鈴木が自分の世界に没頭するタイプだからかもしれない。他のメンバーが楽器のそばから離れ他のことを話しているときでも鈴木だけはギターに取り組んでいることが多い。ステージが始まる前、ほかの四人がメンバー・ルームでくつろいでいるとき、鈴木はチューニング・ルームにいる。彼は念入りにギターのチューニングをしておかないと気がすまない。その分、一人で楽器を相手にしている時間が長くなる。
上野の下でマスコミからの取材申込みの窓口になり、メンバーとの間に立ってスケジュール調整をしているオフコース・カンパニーの中山麻実は、インタビューの現場に立ちあうことが多い。そして彼女は鈴木が語ることがらに時々、ひやりとさせられる。――
「プライベートな部分では」
と、鈴木は取材にきた記者に語るのだ。
「おれと小田のつきあいはほとんどないからね。一緒に酒を飲むこともないし。……飲みたいとも思わないしね」
鈴木は意図的にそういっているわけでもない。ごくふつうの口調で、淡々と語っているのだ。記者はそのコメントを急いでメモ帳に記している。それがどんな書かれ方となって現われるのかと、中山は気にかかる。それだけをもって、小田と鈴木の「不仲」の傍証にされてしまうのではないかと、考えてしまうのだ。その図式はじつに、わかりやすいし、たしかに鈴木の語るとおりなので、仕方ないといえばそれまでのことなのだが。
最近になって、始まったことではない。二〇代のころから、小田と鈴木はお互いのプライバシーにふみこみあうような付き合い方はしてこなかった。
「例えば、小田が今どこに住んでいるか、おれは知らないし、それはそれでいいと思っている」
そういう考え方だ。
「互いに干渉しない。そういう付き合い方だった。最も深いところの結びつきは音楽を通してのもので、これはプライベートな部分とは関係ないところで、お互いにわかりあっている。相手がどういうセンスを持ち、どれだけの力を持っているか、お互いにわかっていると思う。あとは仕事の場に遅れることなくちゃんと来ればそれでいいんじゃないかと思っていた。必要以上にベタベタすると、トラブルが起きやすいでしょう」
その逆も、またあるのだが……。
かつて、まだ二人でオフコースを組んでいるころ、解散寸前にまでいったことがあった。杉田二郎とサブ・ミュージックを作り、プロとしての活動を本格的に始めたころだ。オフコースは新宿にあるライブ・ハウス〈ルイード〉のステージに何度か立った。同じころ、シンガー・ソングライターの〈イルカ〉も似たような活動を始めていた。当然、まだ売れ始める前のことで、オフコースにしてもイルカにしても、その後どういう展開になっていくのか、まるで見えていない。
イルカの作る曲、その歌に関心をもったのは小田和正だった。オフコースとイルカが一緒にルイードのステージに立ったこともある。そしてある日、小田が鈴木にいった。
「これから〈オフコース+イルカ〉でやろうよ」
「え? どうなってんだい?」
鈴木はおどろいた。小田は、ある程度、話は決まりかけているともいう。
「そんな勝手に決めるんだったら自分一人でやればいいじゃない」と鈴木。
「じゃ、お前やめろよ」
「やめるわ」
以上である。
それだけの会話でオフコースというグループがなくなりかけた。なくなったとしても不思議ではない。オフコースがなくなることで失うものが、さほど大きくはなかったから。トラブルの大きさは、それによって破壊されるものの大きさに比例する。
数日後、オフコースとイルカとのジョイントの話はなくなったと小田がいった。
「悪かったな」――小田のその一言だけでオフコースは存続することになった。
鈴木がいう。
「そういう話は、あとになって三人のミュージシャンが加わってオフコースが五人になるのとは質的に違う。二人から五人になるときも、新たに入ってきた三人はバックミュージシャンとして入ってきたわけではないんだ。二人と三人に別れるのではなく五人まとまってオフコースだという考え方だった。そういう形が純粋にオフコースだと思う。イルカと一緒にやるというのはイルカも含めてオフコースというのではなく、あくまで〈イルカ+オフコース〉でしょう。それをやってしまったらもはやオフコースではなくなってしまう。似たような話はほかにもあった。ユーミン(松任谷由実)のバックコーラスをやらないかという話もその一つだ。ハイ・ファイ・セットと一緒にやらないかという話もあった。そういうのを全て拒否してやってきた。オフコースはオフコースとしてやっていくことが大事なんだと」
それが鈴木のこだわりだった。
あるいは当時の鈴木、小田のそれが自信のあらわれであったともいえる。メンバーの数を増やし、サウンドに厚味を増すにしても、新たなメンバーをオフコース色に染めてしまうだけの自信があった。そういう形でならメンバーを増やしてもいいが、他のミュージシャンのカラーに包まれて、もしくは他のミュージシャンのカラーと融合する中では絶対にやっていきたくないというのだから。
その自信を支える点においてのみ、小田は鈴木を、鈴木は小田を必要としていた。音楽が、彼らのメディアだった。それ以外の、ナマの感情は、互いに内に秘めることを前提にしていた。
鈴木がオフコースをやめるといいだしたのは、それ故、感情的なもつれからだけではない。
もちろん、それに類することはある。オフコース・カンパニーは小田が社長であり、鈴木も代表権をもっている。共同経営だ。小田が社長になったのは、少なくとも鈴木よりは性格的に社長業に向いているだろうと彼ら二人が考えたからだ。が、二人のコミュニケーションにず《ヽ》れ《ヽ》が出てくると、信頼関係にもひずみがあらわれてきてしまう。
「お互いにお互いが、どこまでずるいのかわからなくなってくる」
鈴木はそういった。
オフィスの運営に関して、鈴木は結果だけを知らされるようになる。プロセスを聞かされ、相談されれば、まかせるよというだろう。鈴木はその種のことを考えるのが、得意ではないし、好きでもない。それをわかっているから、小田は結果だけを伝える。それが逆に、わだかまりとなって鈴木の中に残ってしまう。どちらが悪いわけではない。どちらがいいわけでもない。
ちょっとした感情の行き違いが、コミュニケーションのず《ヽ》れ《ヽ》を招く。そのず《ヽ》れ《ヽ》は放置しておけば、時とともに増殖する。ところが、この二人には、その種のず《ヽ》れ《ヽ》を回復させるのに役立つ、スキンシップに近い、野暮なほどにリアルなコミュニケーションがそもそも希薄だった。例えば、酒を飲んで感情をぶつけ合うような、である。
スタジオのミキシング・ルームの扉が少し開いている。
そこからギターの音が流れてきた。その曲のギターは、最初、小田が自ら演奏するつもりでいた。自分で作詞、作曲をしたものだった。しばらくギターを演奏してはいなかったが、久しぶりにギターを持ってみようと、小田は考えた。録音したが、今ひとつ、思うような音が出せない。何度か試みて、小田は鈴木を呼んだ。
「これ、ちょっとやってみない?」
鈴木はしばらく練習をすると、「OK、録ってみようか」といった。
小田の演奏と、一味、違っていた。毎日のようにギターを持っている鈴木の出す音は、クリアだ。
「やっぱりうまいや」
そういって、小田は鈴木の演奏したテープをまわしながらヴォーカルの吹き込みを始めた。
フリーダム・スタジオである。明治通りを新宿から池袋に向かい、大《おお》久《く》保《ぼ》通りとの交差点に出る。そこを左折すれば新大久保の駅が近い。明治通りから新大久保の駅方向へ曲がって最初の信号を右に入る。細い一方通行をしばらく歩くと、マンションが建ち並ぶなかに〈フリーダム・スタジオ〉という看板が見える。八二年春、最後のツアーの合い間をぬうようにして、オフコースのラスト・アルバムになるであろうLPの製作が、進行していた。
ぶ厚いガラスのドアの向こう側で、小田和正が何度も同じフレーズをくりかえし歌っている。スローバラードだ。
昨日のことは 誰もきかない 変わってゆくのは 心も同じ
走り疲れて ふり返れば 何もない 今は 誰もいない 今は…… 始まることも 終わることも きっと同じだね きっと同じだね(タイトルは〈きっと同じ〉)
小田のよく通るテノールが、スタジオからかすかに聞こえてくる。始まることも終わることも、同じだと歌っている。五月の下旬、オフコースは終わりかけていた。
小田のヴォーカル・レコーディングをかすかに耳にしながら鈴木が語っている。
「オフコースをやめる、解散させるというよりも、おれ自身、オフコースから離れなければならないと思ったんだ」
鈴木は、五人のメンバーのなかでは、人当たりのよさというものさしで見れば一番だろう。小田はどちらかといえば、人間関係において適度な距離をとることを基本としている。その姿勢が冷たさと理解されてしまうこともある。鈴木はむしろその逆だろう。マイルドな印象を誰にも与えるが、その内側に厳しさを秘めている。
「マジョ(上野)が昔みたいにおれたちと一緒に仕事をするようになったとき、オフコースはまだLPを二〇万、三〇万枚と売るグループじゃなかった。プロモーションをやらなければいけないと思っていても、それを担当してくれる人間がいなかったから、結局、自分たちでできる範囲でやっていたんだ。経営的なことも、もっと細かいスケジュールの調整にしても、自分たちでやっていた。そんなことをしていたんじゃ、大きくなれるはずもなかった。
どうすればいいかと、マジョと話をした。もっと売れるためにはどうしたらいいか、このグループの“顔”を出していかなければならない、誰かにそれを代表させなければならないと、そういうことだった。それをやるとオフコースらしくなくなってしまうことはわかっていたんだ。それまでは自分の作った曲にしても、自分の曲ではなくオフコースの曲だという意識だったからね。でも、その半面、もっと売れなければいけないとも思っていた。売れたいという気持ちもあった。誰かにオフコースを代表させてもっとわかりやすいグループにしなければいけなかったし、実験的に小田が前面に出ることも必要だろうと思った。マジョの考え方に反対ではなかったんだ。何かのきっかけを作ってそれまでの状況をこえていかなければならない。その上に行かなければならないんだから。
その場合、その役割を最初に担うのは小田以外にはありえなかったと思う。おれ自身、あのころは曲を作っていても自分の思うとおりにいかなかった。そういう時期だった。小田に対して“差”を感じていたこともあるしね。小田の作った〈さよなら〉という曲が一方でヒットしたあとだったし。おれが自分の思うとおりにやったらあれほどは売れないだろうとも思った。自分のペースで仕事をしたらダメだろうと。ほかの四人を、おれの音楽でひっぱっていかれるとは思わなかった。そんなふうに感じていたんだ……。
だからといって、そこでまいったなあといってばかりもいられないでしょう。
オフコースは小田和正を先頭の顔にして、とりあえず走りはじめた。おれは、そのあとを走ることになってしまった。マジョは、それは第一段階だといった。小田も同じようなことをいってくれた。次にプロモートの対象になるのはヤスなんだと、いうんだ。それが成功すれば素晴らしいことだと思うよ。小田がいくつもヒット曲を書き、しばらく沈滞したころ次に第二、第三のメンバーが今まで以上の曲を書き、オフコースは前進していく。それができれば、こんなに素晴らしいことはないだろうと思った。
しかし、曲を書くという側面では、おれは走り出すきっかけをつかめなかった。きっかけをつかんで波に乗るか乗れないか、つまり自信をつかむか否か。それによって結果は大きく違ってくる。ステージをやっていてもよくわかるんだ。自分の演奏にファンがひきつけられるように、こっちを向く。そういうとき、これでいいんだと思うんだよ。一回こっちを向いたんだという自信が力量を深める。そういうもんだと思う。
オフコースのなかでやっていく限り、おれは走り出すことができないだろうと思った。そのきっかけがつかめそうだったら、おれはオフコースというグループを抜けるとはいい出さなかった。これはたしかなことだ。
オフコースは小田色の強いグループになってしまった。それはしょうがないことでもあったと思う。おれ自身、ほかのメンバーにもっといいギャラを払ってやりたいと思っていたからね。でも、一度、色のついてしまった場所でおれ自身の走り出すきっかけをつかむのはむずかしいと思った。先に走り始めた男のうしろから走って、しかも同じフィールドで競争しなければならない。感覚が違うのに、まず、前に出られないだろうと思った。
自分で書いた曲をヒットさせたいという気持ちがある。日本のほかの人が歌ってくれてもいいし、外国でヒットするんでもいい。
そのためにも、一度、オフコースというグループから離れてやってみなければいけないと思った。
曲を書くという以外にもフィールドはあるわけだしね。アレンジをしたり、他のミュージシャンのプロデュースをするということに関してなら絶対にこなせると、おれは思っている。自信のあるフィールドでやりながら、そのあとでもう一度、曲を書くという元のフィールドに戻ってみてもいい。そう考えた。だから、オフコースから抜けるのは、早ければ早いほどいいと思っていた……」
つまり、こういうことだろう。
鈴木はオフコースというフィールドにおけるレースのスタートにおくれをとってしまった。最初は二人、のちに五人になったグループが、同じスピードで走ることを前提にして活動していた。もしくは、五人のスピードの総和としてあらわれてくるものがオフコースなのだと位置づけていた。そこで減殺されてしまうパワーがあることに気づき、このグループは牽《けん》引《いん》者《しや》を設定した。横に併行して並ぶのではなく、縦につらなろうとしたわけだった。そのラインができたとき、鈴木は自分が先頭を走っていないことに気づいた。そのレースを見ているファンは、圧倒的に先頭ランナーを見つめている。この世界、フィールドは一つではない。いくつものフィールドがあって、それぞれどちらが上でどちらが下というものでもない。売れているか否かをものさしにして計ることはできるが、もとよりそれは絶対的なものではない。孤高の中で自分の世界を築きあげることも可能だ。それは極端にしても、鈴木はともかく別のフィールドで走ろうと思ったわけだった。でなければ図式的にいう「敗者」「セカンド・マン」の位置で自己完結しなければならなくなってしまう。
もう一度だけ図式的ないい方を許してもらうならば、彼は〈敗れざる者〉の神話をつくるために、ひとまずここで荷物をまとめようとしたわけだった。鈴木にしてみれば、それは当然の選択だった。
一人の記者が鈴木にくい下がっている。
ラスト・ツアーの途中だった。いれかわりたちかわり、レポーターがやってきて、ミュージシャンからいくつかの言葉をひろいあげると帰っていった。
今まで何度も尋ねられたことだった。しかし、その部分に関してシロクロつけようと、記者はしきりに聞いている。
「鈴木さんは、大学を卒業するとき、エリート・コースを保証されていたんでしょう」
「エリート・コースかどうかは、わからないよ」鈴木は答える。
「だって、東京工業大学の制御工学科を出ている。つまりロボット工学ですよね。現代の花形産業じゃないですか。しかも安川電機という、その世界では最も研究の進んでいた企業に就職がきまっていた。素直に就職していれば七〇年に会社に入っているわけだから、今や中堅ですよ。それをなぜ捨てたのか……」
「なぜ、音楽を選んだのかってこと?」
「ええ、わざわざコースを外れて」
「そうねー」
と、鈴木はいつもここらへんでうんざりしてしまう。彼にしてみればコースを外れたとは思っていない。あえて組織に入ることを拒否したのでもない。当時、企業に入っていくことを「体制化」という言葉でいってみたりする人もいた。鈴木はしかし、そういう価値判断をしていたのでもない。彼がもし、体制―反体制という枠組みのなかでものごとを考え、行動していたのなら、企業ではなく音楽を選んだ彼は、いわゆるラディカルな一派にくみしてもっとストレートな歌を作っていただろう。
「要するにさぁ、音楽が好きだったんだよ」
鈴木はそんなふうに答えてしまうことが多い。音楽が好きだったことは間違いのないことだからだ。たいていのミュージシャンやタレントが、よく使う台詞《せりふ》だ。
それだけで説明のつかない部分が、当然のことながら、鈴木にはある。
東京工業大学に入学したのは一九六六年。聖光学園から現役で入った。康博は長男。父親は彼に東大に入学することを期待していた。
「それが東工大だったんで、オヤジはがっかりしていた」というが、工学系のなかでは最もレベルの高い大学に入学したわけだった。
康博の父親は東北大の工学部を出て、飛行機の設計に夢をはせていた。終戦直後の一時期、日本は飛行機の製造が禁止されていた。やむなく、父親は電鉄会社に入った。京浜急行である。
この電鉄会社の特徴を一つあげれば、たえまなくスピード・アップをはかってきた会社、といえるかもしれない。京浜急行は品川から東京湾沿いに横浜を通り、横須賀、久《く》里《り》浜《はま》に通じていた。現在はさらに三浦半島を南下し三浦海岸まで延びている。似たようなコースを国鉄の横須賀線が走っていた。こちらは逗《ず》子《し》、鎌倉を経て横浜に向かうから若干遠まわりをしている。沿線の人たちのなじみは古くからある横須賀線のほうが深い。京浜急行は、その横須賀線にない魅力として高速運転を目ざした。そのため多少電車が揺れようが構わず、走った。路肩はさほど広くない。線路のすぐわきは人家が密集している地区も多い。そのなかを、じつに小気味よく、ガムシャラに走り抜けるのが京浜急行だった。戦後、そのスピード化を、中心になって推し進めてきたのが康博の父親だった。彼は今、同社の取締役に名を連ねている。彼はおそらくひたすら前進を旨としてやってきた人であるにちがいない。
その父親は長男に東大に入ることを期待した。当然だろう。東工大に入ってロボット工学を専攻するようになると、その方面での康博の将来に期待した。それも当然だろう。
康博は、しかし、期待したとおりの道を歩まなかった。何度もこの父と子は対立した。
「話を理づめでしていけば、オヤジが勝つにきまっていますよ。何しろ向こうは経験があるからね。説得力がある。こちらは、どう反論することもできない。おれはおれで、音楽をやっていくなかでちゃんといくところまでいくといっても、わかってもらえないんだ」
康博が所属する大学の研究室では「工業用ロボットにおけるバイラテラル・サーボ」の研究をつづけていた。簡単にいうとこういうことだ。遠隔操作されたロボットの手が何かをつかむとする。そのとき、それをコントロールしている人間がロボットと同じ触覚を感じることができれば、より的確な指示をロボットに対して出すことができるだろう。そういうシステムを作ることが可能ではないかというテーマに、研究室は取り組んでいた。試作品も作った。当時、工業用ロボットの研究は油圧式が主流だった。電気システムの中でロボットを開発しようと意欲的だったのが安川電機だった。康博はそこに就職も決まっていた。父親は、それをやめて音楽にのめりこむ気持ちがわからなかった。鈴木は、大学四年で卒業するのを一度、とりやめ、あえて一年留年し、大学院に行くという名分で父親との論争にピリオドを打った。結局、大学院には行かず、そのままプロのミュージシャンの仲間入りをしてしまう。
「今から思えば」
と、鈴木がいう。
「安川電機に行っても、音楽をやっていてもさほど変わりはなかったと思う。なぜ、ロボット工学を選び、なぜその会社を選んだかといえば、まず第一に当時はロボット工学がまだ新しいジャンルだったからだし、安川電機という会社が一番進んだ研究をしていたからなんだ。最先端でやれたわけだから、それでもよかった。音楽をやることも、おれにとっては最先端だという意識があった。つづけていくなかで、トップに立てるんじゃないかという意識だね。だから、就職しなくてもこっちをやればいいんだと思っていた」
鈴木なりの、それはエリート意識だろう。いずれの道へ進むにせよ、最先端でやれると思っていた。だから、ロボット工学ではなく、音楽も選べた。コースを外れたわけではない。
それが、今、オフコースというグループの中にいて壁につきあたっている。
トップにならなければいけない。
先頭を走っていたい。
でなければ、彼の人生の帳《ちよう》尻《じり》があわなくなってしまう。帳尻を合わせるために前に進もうと思えば、何かが崩壊することもある。壊すことによってしか前へ進めないこともあるというパラドキシカルな現実に、彼は初めて直面して、かまわずアクセルを踏みこもうとしている。
第四章 グッドバイ
フリーダム・スタジオ〈Aスタ〉のミキシング・ルーム――。
小田和正は、入ってくるなり、そこにいた清水仁にいった。「タイトル、決まったぜ」。小田は、ちょうどスタジオにやってきたところだ。ジーンズにスニーカー、上には白のトレーナーを着て、肩にブルゾンをはおっている。どちらかといえばショートカットに近い髪にはサンバイザーをかぶっている。「決まったか?」清水が顔をほころばせて聞いた。
小田はミキシング・ルームの壁に貼《は》ってある進行表の前に歩み寄った。模造紙に線を引いて表が作られている。縦には曲の符号が書かれている。タイトルが決まるまで、レコーディング中の曲は例えば〈小田@〉〈小田A〉……という具合いに名づけられている。横には進行具合いが書かれている。レコーディングは全ての音の同時録音によって行われるのではない。ワンパートずつ、音を積み重ねるように録音していく。進行表は、一工程進むごとに黒くぬりつぶされていく。
〈小田@〉と呼ばれている曲があった。作業は三分の二程度、進んでいた。リズム・セクション、弦、キイボード……といくつもの楽器を使ったレコーディングが終わり、いわゆるカラオケができあがっていた。次にやらなければならないのは詞を書くこと、そしてヴォーカルを吹き込むことだ。そのLPレコードは八二年の七月一日に〈I LOVE YOU〉というタイトルで発売される予定になっていた。そのスケジュールは動かせない。レコーディングにもデッドラインがある。
五月中旬にさしかかっていた。ツアーの合い間に東京に戻ると、オフコースのメンバーはフリーダム・スタジオにこもった。ツアーの間、小田は一冊のベージュのノートを手離さなかった。ノートを開くと、詞の断片がどちらかといえば女性的な、流れるような筆致で書きちらされていた。どこにいても、言葉のイメージが浮かんだところでそれを書きとめておくのが、彼の習慣だった。〈小田@〉の詞は、ほぼ完成していた。決まっていなかったのは、一行だけだ。
〈大切なことは 二人でいること〉
というフレーズがあった。そのあとに三小節、あいている。そこにどんな言葉をもってくるか。それがこの曲を左右するだろうと小田は考えていた。なかなか、決まらなかった。詞の言葉は理づめでは出てこない。一種の啓示のように、あらわれてくる。
「タイトル、何?」
清水仁が小田に聞く。〈小田@〉に関しては仁がプロデューサー的立場にいた。小田がスタジオの中で演奏し、あるいは歌っているとき、ミキシング・ルームでそれを聴きながら、小田とは別の視点からアドバイスしていくのが仁の役割でもあった。仁は〈小田@〉のタイトルになる言葉をさがして小田が苦慮していることを知っていた。
小田はマジックを持つと、進行表の〈小田@〉の〈詞〉の項 目 に 書 き こ ん だ――〈YES・YES・YES〉
「どう?」
小田が聞いた。
仁は、直感的に反応した。
「いいんちゃう。売れるよ、これ。シングル・カットできるんやないかな」
清水仁はタイトルになったその言葉が問題の三小節に入ることを知っていた。そしてその言葉を含めて小田がヴォーカルを吹き込んだときに、全体の仕上りがどうなるかをイメージすることができた。その上で「売れるよ」といったわけだった。
小田はすぐにヴォーカルのレコーディングに入った。小田の頭の中にも、仁がいったようにこの曲をシングル・カットする考えがあった。一枚のレコードに何曲も入ったLPではなく、A面の一曲でほぼ勝負が決まるシングル盤を出すには慎重でなければならない。いわゆるベスト10に入っていける自信がない曲は、シングル・カットしない。それが彼らの基本的な考えだ。新人の、アイドル歌手ではない。失敗してもともとという考え方には、立ちようにも立てない。
「いくつかのスケジュールを頭に入れて考えていた」
と小田はいった。
「まず、七月一日にLPが発売されること。と同時に解散を発表するかもしれない。六月末には武道館の一〇日間公演もある。そのときにオフコースの、シングル・カットされた曲がヒットチャートを上昇していれば、いうことないんじゃない?」
解散を発表するにせよしないにせよ、彼らはこの秋に、彼ら自身が製作するテレビ番組をオン・エアする計画も持っていた。それも成功させなければならない。そのためにも、この夏には思いきったプロモーションを展開する必要もあった。シングルがヒットすれば、その影響力は大きい。
その日一日を、小田は、〈YES・YES・YES〉とタイトルがつけられた〈小田@〉のヴォーカル・レコーディングに費した。カフェ・オ・レが何杯もスタジオに運ばれた。それは小田がレコーディングに入っているときの必需品だ。
翌日、コーラスが吹き込まれた。終わったのは深夜だった。できあがった曲をカセットテープにとると、小田はそれを東芝EMIの武藤敏史ディレクターに届けさせた。
ディレクターはそのテープをその次の日の昼前には聴くはずだった。小田は午後の早い時間に入るはずのディレクターからの電話を待った。
午後の三時すぎだった。フリーダム・スタジオのティールームでテレビゲームに取り組んでいる小田のところに電話がかかってきた。テレビゲームの前に座りながら、小田は受話器を持った。
武藤ディレクターはいった。
「聴いたよ。いけると思う。シングル・カットしよう。発売は六月一〇日」
「そういってくれると思ってました」
小田はこたえた。
短い会話だった。
受話器を置くと、小田は静かにほほえんだ。彼の心の中には、ある種の高揚感があった。それまでにも何度か、襲われたことのある感覚だった。それは自分の思いが、自分の作りだした一つの曲を媒介として確実に他の人に伝わっていったと信じられるときにたちあらわれてくる感情だった。
彼は音楽のもつ、不思議な魔力に改めて気づかされるのだ。
シングル・カットされることになった〈YES・YES・YES〉は、その後、超スピードでレコード化が推し進められた。
録音されたテープは、マスターテープとして工場に送られる前にミックス・ダウンというプロセスを経る。幾重にもかさねた音のバランスを、そこで慎重に決めるのだ。ドラムスの音をどれくらいにするか、ギターにエコーをかけるとしてその度合いはどれくらいがいいか……。オフコースのレコードに関してその工程に責任を持つのはロスに住むミキサー、ビル・シュネーである。テープをロスに持ち運び、メンバーとビルが一緒になってミックス・ダウンにとり組む。今回のLPに関してはオフコースがツアー中であることもあって、ビルがロスから東京にやってくることになっていた。そのビルの来日を待ってミックス・ダウンをしたのではシングルの発売が予定の六月一〇日に間にあわない。小田はシングル盤の〈YES・YES・YES〉に関してのみ、ビルの手をわずらわせずにミックス・ダウンをしてマスターテープを工場に送ることにした。レコード・ジャケットの写真はフリーダム・スタジオの二階の階段の踊り場に簡単なセットを組み、カメラマンの田村仁が撮影した。あわただしい作業だった。
そのシングル盤は先を急ぐかのように売れ始めた。六月末、オフコースが武道館公演をつづけているときレコード売上げのデータを毎週発表することで知られるオリジナル・コンフィデンス誌は〈YES・YES・YES〉が一気にシングル盤部門の第六位に入ってきたことを告げた。レコード発売から二週間後のことだった。
が、しかし――
シングル盤を出そうとした時点では、その曲がヒットするか否か、まだわかってはいない。
小田和正には、結果がまだどう出るかわからないときから、すでに満足感があった。自己満足に終わるかもしれなかったが、自分がいつもさがし求めているのはこれなんだという思いがあった。たしかな手ごたえで、メロディーと言葉がからみあっていく。
彼の心のなかで、カタンとスイッチが入った。
「オフコースを、形だけでも残しておかなければいけない」
そう思い始めた。
高揚感――。
それが確実な形で初めて小田の心におとずれてきたのは、さほど古いことではない。
ある日のことを、彼はよくおぼえている。例えばそれは一九七六年二月の、ある一日だ。小田和正は二八歳だった。
朝、目をさましたのは横浜、金沢八景にある自宅である。昼前には出かけなければならない。ジーンズにセーターという姿。机の上にはぶ厚いレポート用紙の束があった。前の晩、おそくまで彼はそのレポート用紙に向かっていた。
黒い固表紙のカバーをつけてレポートをたばねると、それを持って家を出た。ガレージに行き、紺のセリカのエンジンをかけた。カセット・デッキのスイッチをONにした。流れてきたのはフィフス・ディメンションだった。ギアを入れると、セリカは走り出した。これでやっとケリがつけられると、小田は思った。横浜に出て、高速道路にのった。そこからは一五分も走れば羽田を通過し、首都高速道路に入る。途中、渋滞にまきこまれなければ、午後の一時ごろにはキャンパスに着けるはずだった。
早稲田大学理工学部。新宿区戸《と》塚《つか》にあるその建て物に小田は向かっていた。建築専攻の大学院マスターコースの学生の身分と、その日で訣《けつ》別《べつ》するつもりだった。東北大学の工学部を出て一年間勉強しなおし、早稲田の大学院に入ったのが一九七一年。以後五年間、小田はそこに籍を置いていた。ふつうに単位をとれば二年間で、出られる。それを五年まで延ばしていた。
キャンパスに人かげはまばらだった。小田は研究室に向かった。同じ大学院で学んでいる下級生の顔が見えた。今日、発表ですかと小田にたずねてきた。期待してますよと小声でいうと、離れていった。小田はその日、マスターコースの卒業論文を発表することになっていた。ぶ厚いレポート用紙はその論文だった。その論文を担当教授に提出するとともに、その要旨を発表しなければならない。
小田はそこで、長い間学んできた建築に永久にさよならをいうつもりだった。早稲田大学理工学部の一連の建て物は、かつて日本建築学会賞を受賞している。その設計計画が評価されたわけだった。小田には、しかし、その建て物が単なるコンクリートのかたまりに見えた。建築家の目ざすべきものは、その建築物にはないと思っていた。そんなことを彼は論文発表の席で語るつもりだった。そうすることによって、建築から離れようと考えていた。論文のタイトルは素直な気持ちでつけたものだった。〈建築への訣別〉これ以上にふさわしいタイトルは思いつかなかった。下級生は、小田がそういう内容の論文を発表することを知っていた。期待していますよと小田の耳もとでいったのは、そのせいだろう。
彼は、理工学部研究室のある建て物の一七階にあがっていった。教室はそこにあった。学生は、かなりの数、集まっていた。人数でいえば四〇名程度だが、大学院で建築を学んでいる学生の数は、せいぜいそれくらいだった。やがて講座を持っている教授たちがやってきた。そのうちの一人が、簡単に論文発表に関する説明をすると席についた。小田が立ちあがった。
「かつて、建築に何が可能かと問いかけ、問題提起してくれた人がいました――」
小田は語り始めた。
「ぼくはここでは、建築がいかに可能でないかということに言及してみたいと考えています」
拍手がおこった。手をたたいたのは教室に集まっている学生のほうだった。建築を学びながら、その建築を否定しようとしている壇上の学生に、共感と揶《や》揄《ゆ》の混じった拍手が送られたわけだった。前列のほうに並んで発表を聞こうとしている教授たちは、反応を示さない。
「“オフィスビルとアパートという、産業社会のもっとも典型的な建築物は単なる箱である。これらは都市の崩壊を内部から遂行している”と、指摘されたのは、さほど昔のことではありません。この素朴な抗議に、建築家は丁寧にこたえなければなりません。ぼく自身のことをいえば、当初、建築についての積極的意識を持たないまま、集合住宅に対するなんの疑問も持たないまま、パース(パースペクティブ、遠近図法のこと)を綺《き》麗《れい》に仕上げることに専念していました。建築にあこがれていたのです。T定規を駆使して、細かく、細かく描きこんでいったのです……」
教室は静けさをとり戻した。
年齢を重ねることは、それだけ多くの現実を見てしまうことだと、彼は思っていた。今、彼が語ろうとしている建築に、あこがれた時期があった。小田和正は一〇代の後半にいて、現実に対する懐疑はさほど深くはなかった。懐疑をいだいても、同時に夢も持ちえた。何ら問題はないようにも、思えた。
小田和正の実家が薬局を経営していることは、先に書いた。兄は東京薬科大に入り、薬剤師になる道を歩んだ。和正は医者になるつもりだった。周囲もそれを期待した。彼は医者でなければならないと心に決めていたわけではない。
「そのころは音楽もやっていたし、絵を描くのも好きだった。医者という職業なら、大学を卒業して仕事をするようになっても、好きなことをつづけていかれると思った」
高校三年生のとき、千葉大学の医学部を受験するつもりで、キャンパスを見に行った。そこなら十分に受かるだろうといわれていた。見に行ったとたん志望を変えたのは、校舎、教室、白衣を着た学生たちの雰囲気が暗かったからだ。薄暗い廊下、薬品の臭いのしみついたカーテン、ほこりにまみれた実験器具……もちろん、それだけが大学の全てではない。が、しかし、最初の印象から伝わってくるもののなかに、なにがしかの真実もある。
そして次に見に行ったのが、仙台にある東北大学の工学部だった。そこで最も人気のあるコースとして建築専攻コースがあった。当時の彼は自ら語ったように建築に対して「積極的意識」を持っていたわけではなかった。建築を専攻したがる多くの学生がそうであるように、建築を文化、芸術の範《はん》疇《ちゆう》としてとらえていた。緑の多い、仙台という町も気に入った。親もとから離れることもできる。ここより他はないと思った。東北大学時代は、北山町に下宿し、合唱部に所属していた。教養課程が終わって専門課程に入る時点でも第一志望の建築科に進むことができた。成績は申し分なかった。「授業にはほとんど欠かさず出ていたから」――つまり、絵に描いたような模範学生だった。
その小田和正が二八歳になって、長く籍を置いた大学院を卒業していこうというとき、まるで変わってしまっている。
彼は、近代建築の基礎を作ったフランスの建築家、ル・コルビュジェに言及していた。
「……コルビュジェはこう書いています。“生命は決して止まらない。毎日を強烈に生きつつ創造し、行動し、変化する機能を永遠のよろこびと考えない限り、人間の苦悩は永遠に続くであろう……”。しかし、毎日を強烈に生きつつ創造して生きていくことは、ほとんど平均的現代人の本質に見られないことなのです。むしろ、誰もがその苦悩をいかにごまかしながら生きてゆくかということに、生活を賭《か》けている。身売りしたサラリーマンが、朝八時ごろになると無表情なグレイの背広姿に身を固め、いっせいに現われ、それが流れるように次々とエレベーターからはき出されてくる様子を、コルビュジェは思いうかべたでしょうか。それとも、居心地のよい環境に置かれた大衆は自発的に創造的意欲をもって活動を始めるというのでしょうか、輝ける都市に向かって……」
小田は多分、いらだっていたのだ。
その世界に深く入りこんでみれば、建築家はみごとにいくつかの極に分かれていた。贅《ぜい》を尽して建てる個人の邸宅の設計を半ば趣味的に手がけるか、大きな建設会社あるいは設計事務所に所属して巨大なコンクリートの塊を築くか、まるで理念のない集合住宅を作るか――ぐらいしかなかった。ル・コルビュジェは二〇世紀の初頭に高々と新しい集合住宅の理念をかかげた。しかし、今の日本はそのコルビュジェの考えたような意識的な市民とすぐれた才能を持つ建築家がいる理想的な状況ではない。建築の担い手である建築家にしても、それを受けとめる一般の人たちにしても、何の理念もなくただただ盲目的に生きている。
小田論文には次のようなくだりがある。
《……現在、社会を構成する絶対数は、ある程度の自由平等が確保され(しかしそれは対等なる人間関係とは無縁のことである)、しかもありあまる情報の流れに押し流されるままの民衆であるため、日々の不平、不満はつのっても、決して鋭い批判、観察の眼を有する行動者にはなり得ず、また我が国のように進学率の驚くべき増加に伴い、かつてほど明《めい》瞭《りよう》な位置づけのできなくなった知識者たちには、結局、貴族的方法により文明のうわずみを弄《ろう》することくらいしか期待できないことから前途は暗い、ということが問題なのだ……》
建築を学ぶ者としての目で、まわりを見まわしてみれば、例えば建て売り住宅の洪水があった。画一的なデザインの、クォリティーの決して高いとはいえない家があちらにもこちらにも建てられていた。狭い空間をやたらと間じきることによってともかく部屋数だけを多くしようとする集合住宅があった。それを買い求める人たちは、それでもないよりはましだといって、あるいは住めばどこも都だといって、多少の不平を述べつつもそれが現実なのだからと、うけいれている。
良心的であろうとすれば、建築家は途方にくれるばかりだ。限られた空間に限られた予算で、誰もが不満を並べたてたくなるようなものを作らなければならないのだから。具体的な社会との接点のなかで建築を考えれば考えるほど、小田は絶望した。うんざりした。
大学三年になって、初めて専門的に建築を学び始めたころは、まだしも楽観的だった。
東北大学工学部の建築専攻クラスには四〇人ほどの学生がいたが、その中に「小田」姓が二人いた。「安藤」も二人いた。「加藤」は三人いた。四人の「鈴木」もいた。小田はおのずと「カズマサ」と呼ばれるようになった。
「中央大学といういい方があってね。みんながチューオー、チューオーといっている。何かと思ったら、チューオー、つまり東京の大学のことなんだね」
小田はいう。
「東北大は地方の大学だから、学生は常に中央のことが気になっていたらしい。三年のとき、同級生の一人が東京へ就職のコネを作りに行ってきた。そして仙台に戻ってくるなりいうんだ。“オイ、東京の学生はみんな原公司を読んでるぞ”。原公司さんというのは、当時注目されていた建築家。その人の書いている本の内容がどうかというよりも、東京の学生がみんな読んでいるというので、仙台の学生はその人の本を買いに走ったんだ」
そこに何か、目を見開かせるものが書かれているかもしれないという期待をもって第一ページを開くことができる。それは幸せな時代だ。結局、どうにもならないのではないかと思わずにはいられない状況のほうが不幸だ。
そういう生活の中に、小田和正の場合、音楽があった。同じ東北大学に、聖光学園から一緒に進学してきた仲間もいたし、鈴木康博は休みを利用して、ブルーバードにギターを積みこんでしばしば仙台へやってきた。小田が横浜に帰ることも少なくなかった。アマチュアとしてのコンサートを横浜で開くこともあった。P・P・M、フィフス・ディメンション……メロディー・ラインとハーモニーの美しさでは群を抜くグループが彼らの目標だった。そのレベルに限りなく近づくことで、自分たちのレベルを引きあげていった。その 結 果 と し て ヤ マ ハ・ライト・ミュージック・コンテストにも入賞した。
学部を卒業するとき、小田は自分の将来をそこで決めてしまうことをためらった。音楽に関する力量がどれくらいのものなのか、明確にはかれるものさしはない。かといってどこかの設計事務所に入っていって他の可能性を自ら摘んでしまう気にもならなかった。いわば、モラトリアムの状態だった。そして大学院へ行こうと思ったのだ。一年浪人し、語学の勉強をしなおして早稲田の大学院を受験した。成績はトップだった。入学して一年目の授業であらかたの単位をとってしまった。いつでも卒業して社会に出ていこうと思えば可能な状態にしておいて、彼は他方でミュージシャン活動をしていた。建築家か、ミュージシャンか、そのいずれも明確に選べなかったのだ。
音楽のジャンルでもっと早く有名になれたかもしれないチャンスがあった。
一九七二年というから、小田、鈴木は二四歳のときだ。当時、所属していたパシフィック・エンタープライズのマネージャーが仕事を持ってきた。
「NHKでレギュラーやらない?」
マネージャーはそういった。悪い話ではなかった。何という番組? 小田が聞いた。見たことあるだろ、〈ステージ101〉というんだ。マネージャーは答える。それだけで小田はダメだよといった。
「だって、歌って踊ってみたいな番組だろ。あそこまではいくらなんでもできないぜ」
「いいじゃない、やってみようよ。チャンスじゃないか」
そういったのは鈴木だ。鈴木は歌うだけでなく踊りが入っても平気だと思った。軽い気持ちでやればそれでいい、深刻に考えるほどのことじゃない、と鈴木は思ったのだ。彼は東工大の卒業を一年のばしたあと、結局大学院にも行かず就職もせず、音楽一本に的をしぼっていた。小田と二人でオフコースというグループとして活動するだけでなく、他の仕事も始めていた。例えば、外国のアーチストのレコードを聴いて、その演奏を完《かん》璧《ぺき》にコピーする仕事があった。コピーしたものを楽譜にする。それを出版社が楽譜集として出版するわけだった。
「コピーしたのが一つでも間違っていたらみっともないからね、かなり真剣にやっていましたよ。どの曲にも、どうしてもわからない部分が一、二か所あるんだ。テープにとって回転数をおとしてその部分をくり返し、くり返し聴いていく。一か月にLP一枚コピーするぐらいのペースかな」
その仕事を紹介してくれたのはヤマハだった。鈴木はそのヤマハが開いている〈編曲教室〉にも通っていた。音楽を作っていくという仕事にどういう知識が必要なのか、いかなる方法があるのか、その基本を勉強しておこうと思ったわけだった。女子大のサークルへ行ってギターを教えるというアルバイトもあった。弾き語りもやっていた。赤坂のクラブ〈ミカド〉の近くにあるスナック〈シャーク〉が、それだ。この店は今でも同じ場所で経営をつづけている。
ヤマハも歌えて踊れるグループを作りたがっていた。その種のグループに対する需要はあったのだ。鈴木も一度、ヤマハが作ろうとしていたグループに、アルバイト的に参加したことがある。
「あんた、下手ねー」
レッスンをしているとき、そういわれたこともある。そういった女の子は、まあまあ上手に踊りをこなし、歌もうたった。その後、鈴木は彼女を別のところで見た。映画のポスターに、その彼女がうつっていたのだ。名前は桃井かおりといった。
ステップを踏みながら歌うことを、鈴木は経験していた。NHKの〈ステージ101〉もあれくらいのことをやればいいのだろうと思っていた。だからやってもいいんじゃないかといったのだ。
「ヤスはそういうけどさ、おれはやっぱりできないよ。それにオフコースがそんなところへ入っていったら、それきりじゃない」
小田はそういって、断固、ことわった。
ならばと、マネージャーは〈東京音楽祭〉の仕事をもってきた。一九七二年、第一回の東京音楽祭である。これは明らかにチャンスだった。何らかの賞をとればそれをきっかけに浮上できる。
小田は、その日、控えの席ですぐ隣りに座っていた歌手と交わした会話をおぼえている。小田はなにげなくいったのだ。
「いい声が出ますね。さすがに」
相手は逆にこういった。
「いや、あなたたちのほうが好きな音楽ができて、うらやましいですよ」
小田が話をした相手は布施明という歌手だった。
オフコースは、東京音楽祭でもののみごとに落選した。どの賞にも入らなかった。
本格的に音楽にのめりこむチャンスを失い、小田は大学院に籍を残しながらミュージシャン活動をつづけていた。
気持ちは、しかし、徐々に音楽のほうに傾いていった。なぜか? それを小田和正は早稲田大学理工学部、一七階の教室で語っている……。
「日本は三流の文明におおわれている。大衆の文明意識は、増長した欲求と鬱《うつ》積《せき》したフラストレイションのかげに隠れてしまった。そして科学を弄してその情況を準備するのに手を貸した知識人たちも、消極的であるにせよ、悪循環の片棒をかつぎ、もちろん、文明を堕落させた……」
小田はメモを見ながら、語っている。様々な目が彼を見つめていた。そのとおりだ、という若い学生の目。そんなことをいって今さらどうするんだという冷ややかな目。高校生のような青っちろい論をふりかざしたって何も変わりはしないんだぞといってやろうと待ちかまえる同級生の目。これで小田も建築から脱落していったなと心の底で思っている目……。
論文の中から引用する。
《恐しいことは、一部の知識人によって構成され、政府と癒《ゆ》着《ちやく》した企業体は、大衆の歪《ゆが》められた価値判断を頼りに、その利潤を追求するため多大なる経費、無形のエネルギーを注ぎ込んで、大衆好みの歪んだ「商品」を世におくり込むという悪循環の典型を完璧に構成していることなのだ。要するに、大衆は、なにをどう受けとったらよいのか、どれがより良いものなのか、一体、自分は何をすべきかという規準的価値判断を失っているのだ。自分の判断は歪んでいる。それを知らない。絶望的な、倫理感の喪失!》
《近代の建築家たちの存在理由とさえなった建築方法論は、「砂上の楼閣」のごときものである。何《な》故《ぜ》なら、建築方法論は、民衆の本質に立脚していなければその存在価値を失うものであるにも拘らず、彼等の方法論は多くの場合、民衆の本質に近づくことを放棄しているからで、さらに民衆はといえば、建築家が無意識においている、ある程度の信頼にすら答えることができない性格を帯びてしまっている。つまり、建築方法論は、芸術論、あるいは技術論としての有効性を問われるだけの思考形態にすぎない……》
《建築家は、結果的に、食っていくための建築に手をつけているのであり、かがやける文明を考えてみるなら、いかなる絶望的な度合いでも、功を奏していないということになる。……ビートルズは、音楽分野をとびこえてあらゆる文化に影響を及ぼした。それは、方法によっては無経典の宗教にまで高揚される可能性も充分にあったのだ。彼――第一線に浮かびあがったそれらの人々――は、まさにかがやける文明の第一の担い手として行動しなければならない。その啓蒙的行動が功を奏すかどうかは、すべて、彼の才覚にかかっている……》
キャンパスの中で、建築科の学生はエリートだった。学生に人気のあるジャンルだったせいだろう。
「例えば学生食堂で――」
と、小田は回想する。
「一番大きな声を出して語りあっているのが建築の学生だった。建築雑誌をかかえ、設計図を丸めて手に持ち、キャンパスを歩く。それだけで胸を張れたんだろうね。建築雑誌が公募する論文コンペで入賞したとか、設計コンペに入賞したとか、そういうことが大きな勲章になっていた。ある種のスター志向があったんだと思う。教授たちにしても、コツコツ研究を積み重ねるというタイプよりも、企業とタイアップして共同研究をしたりするほうが多かったし、そういう先生のほうがスターとして扱われていた。産学共同そのものを平然とやっていくほうが人気があった。学生は、まだ自分が何者でもないのに何者かになったつもりでいた」
そこから離れたいと、小田は切実に思った。自らを疑うことなく、自己否定することもなく自分が社会に対して何ごとかをなしうるのだと思いこんでいる人間たちと、手を結ぶことはできないと思った。
小田は、教室で語りながら、自分が過剰なほどに建築、そして建築家に対して批判的な目を向けているなと、思った。三〇をすぎた今ならば、それほどラディカルに語ったりはしないだろう。強すぎるほどの調子で語ることが、しかし、その時点での小田和正には必要だった。建築家なるものを批判しながら、じつは、そこに長く足をとどめていた自分自身に対してもケリをつけてしまいたいという思いもあったからだ。
ハンケチを出し、メガネを外して拭《ぬぐ》っている学生の顔が見えた。私語を交わしている学生もいる。結局のところ、彼が教室という世間と隔絶された空間でこんなことを語っても、何も変わりはしないのだ。聴いてる者は、この時間が終わればまたいつものように教室を出て、いつものように家に帰り、いつものように眠りにつく。そしてまた明日がやってくる。小田はそれがわかっていた。わかっていながら、語らざるをえない。自分のために、である。
その日の夕方、オフコースは新宿のライブ・ハウス〈ルイード〉でのステージが予定されていた。
早くルイードへ行きたいと、小田は思った。ステージには、教室とは異質の感動がある。音に託して伝えるメッセージは、少なくとも、教室のように拡散したりはしない。不毛なコミュニケーションはない。たかが二本のギターと二人の人間の声だけで作り出す空間だった。にもかかわらず、たしかに伝わっていくものもあった。
「要するに――」
と、前列に並んだ教授がいった。小田が発表を終えたあとである。
「君は建築がダメで、音楽ならいいというのかね」
その教授は小田が他方でプロとして音楽活動をしているのを知っていた。それもあって大学院に五年間在籍したことも、である。
「そうストレートにいってるわけじゃありませんよ」
小田は答えた。これは議論にならないと思った。小田が論文のなかでいおうとしたことに対して議論を深めるならばともかく、それは皮肉にも近い響きがあった。声をたてて笑う学生もいる。
「その論文、ちょっと見せてくれたまえ」
一人の老教授がいった。小田は、黒い表紙をつけた論文を手わたした。老教授は、それをパラパラとめくった。目次を読んだ。冒頭の部分を読み、結語となる部分を読んだ。そして、いった。
「ここに書かれていることは、君が今、語ったほど過激なことではないじゃないか」
そして、さらにページをめくりながら、いった。
「これね、君。タイトルを変えなさい。“建築への訣別”となっているが“私的建築論”とでも変えなさいよ。そうすれば、納得がいく」
「…………」
小田は答えようがなかった。
「タイトルをそう変えてもらえないと、これは受けとれないな」
受けとれない。つまり、提出したことにならないというわけだった。それは大学院を卒業できないことを意味する。
教室が静かになった。誰もが小田の次の言葉を待っていた。二つの方法があった。タイトルを変えるわけにはいきませんといい、席を立ってその場を去るか、じつに政治的な変更を求めてきた老教授をあわれむように静かにほほえみ、その提案を受け入れるか――。老教授は、建築を学びながらその建築を真正面から批判的に論断したこの論文が、あくまで小田の個人的な思考回路から出てきたものなのだと規定したかったのだろう。この研究室でそんなことを教えてきたのではないと、位置づけておきたかったのだ。
小田は論文の末尾に、サイモン&ガーファンクルが歌っている一つの曲を引用していた。タイトルは――〈So long Frank Lloyd Wright 〉
フランク・ロイド・ライトは建築家だった。アメリカの近代建築の基礎を築いた人だ。サイモン&ガーファンクルはそのフランク・ロイド・ライトに歌の中で“サヨナラ”をいっている。
「フランク・L・ライトよさようなら。夜を徹してぼくたちは語り、笑った。あんなに楽しいことはかつてなかった。さようなら、フランク・L・ライト」という意味の曲だ。建築との蜜《みつ》月《げつ》とそれへの訣別を象徴している。
そのフランク・ロイド・ライトがかつて東京をおとずれたときに語った言葉を、小田は結語としていた。フランク・ロイド・ライトはこういったのだ。
「ここにはすみずみにまで文明がある。どうしてこんなに人間のつくったものが洗練されていて、清らかなのだろう」
ライトが生きていた時代はそうだったのかもしれない。今はもう、誰もそんなことをいえないだろう。
小田は、老教授の顔を見た。
席を蹴《け》って出ていけば、彼は尻《しつ》尾《ぽ》をまいて逃げていったと喜ぶのだろうか。
小田はさりげなくいった――「いいですよ。変えましょう」
早く〈ルイード〉に行きたかった。心のなかにくすぶっていたわだかまりにケリをつけて、キャンパスを出たかった。
エレベーターに乗った。キャンパスを横切った。二月の空気はキリリと冷たかった。セリカのドアを開けた。イグニッションにキイをさしこんだ。もうここへ来ることはないだろうと、彼は思った。セリカが走り出した。風景が自分のうしろに流れて遠ざかっていく。さあこれからステージがあるのだと思うと、沈みかけていた気分が高揚し始めた。
新宿駅近くの駐車場にセリカを入れると、彼は外へ出た。東口の三越裏に向かった。雑居ビルの非常階段をかけあがった。こわれたギターが、雑然と置かれている踊り場に出て、ドアを開けた。そこが〈ルイード〉だった。
その日から六年の歳月が流れている。
小田和正は三四歳になっていた。オフコースは、六年前と比べてケタ違いに多くのファンをつかんでいた。存在自体が、大きくなっていた。そのままでありつづけることは不可能だろう。この六年間に大きな変化があったように、これからも変わっていくだろう。変わらざるをえない。
〈YES・YES・YES〉のシングル・カットが決まった日、小田はマネージャーの上野にいった。
「(解散)発表のこと、これから先どうなるかわからないな。まだ、いくつかの動きがあるかもしれない」
上野は、新聞発表する案を白紙にもどそうと、決めた。
第五章 リーク
「おおーっ、出てるぞ」
叫んだのはジローだった。
彼はホテルの自室で新聞をひろげたところだ。昨夜の、ジャイアンツの試合の結果に満足し、スポーツ新聞をめくっているうちに彼ら自身について書かれた記事を見つけた。
「オフコース解散だってよ」
見出しを、声をあげて読みあげ、ジローは真剣なまなざしで本文に目をおとした。
オフコースは大阪に来ていた。八二年六月七日、新幹線と飛行機に乗りわけて東京から大阪に着くと、彼らはそのまま、大阪フェスティバル・ホールに入った。大阪公演は五日間つづく。七日がその初日だった。ジローがオフコース解散を断言する新聞記事を見つけたのは、大阪入りして四日目の一〇日の朝のことだった。
「ホントに解散しちゃうんだってよ、ハハハ」
ジローは笑って見せた。
が、しかし、おだやかな気分ではいられない。メンバーのなかで解散に一番反対していたのが、彼なのだから。
「ねぇ、ねぇ、こんなふうに書いてあるよ」
と、そばにいるスタッフに語りかける。誰《だれ》かに話してしまわなければ、落ちつかないのだろう。
「六月三〇日の武道館の最終ステージのあとオフコースは解散する。原因は以前から取り沙《ざ》汰《た》されていた小田和正、鈴木康博の不仲にあるんだって。レレレレ、こんなことも書いてあるぜ。七月一日に発売されるはずのLP製作が暗礁にのりあげてるんだって。関係者は心配してるんだって。いいかげんなこと書くやつだなぁ。どこで聞いたんだかわからないけどさぁ」
大阪に来る前の晩までかかりはしたが、オフコースはフリーダム・スタジオでのレコーディング作業を全て完了させていた。予定よりおくれたわけでもなかった。七月一日にLPを発売することは以前から決められていたスケジュールだ。メンバーはそれに間に合うように作業を進めている。LP製作が暗礁にのりあげるようなことはなかった。
「でもさあ、おれ、知ってるんだ。誰がリークしてるか」
ことさらに、ジローはそういってみせる。彼はどちらかといえばエモーショナルな人間だ。ドラムを叩き始めると、それがわかる。彼は他のどのドラマーよりも大きな音を出したがる。
「ジローがミックス・ダウンをやったら、やたら太鼓の音を大きくするやろな」
清水仁はそういってよくジローをからかった。コンサートでは、ステージの中央、やや高いところにドラムセットが組まれている。直径一メートル半ほどの円に近いスペースだ。そこにじつは一〇本近くのマイクが仕込まれている。ジローがドラムを叩くと、その音をマイクがひろい、PAのコントロールによってすさまじく大きな音を出せる。PA担当スタッフは、当然のことながら、全体の音のバランスを考えてヴォリュームを調節するが、ジローはもっと太鼓の音を大きくしてもいいんじゃないかと思うのだ。
誰がリークしたか、ジローが知っているといったとしても、それは彼らしく直感的にということだろう。彼は様々な情報を冷静に分析して断を下すタイプではない。
ジローは、そのスポーツ新聞を持ってスイート・ルームに向かった。ステージに出かける前のひととき、そこにはメンバーかスタッフの何人かが所在なげに集まっている場合が多い。
「アタマに来るよなぁ、こんなこと書かれちゃってるんだから。なんとかしようぜ。このまま解散なんかしちゃったら、まるでいうなりじゃない」
そこには小田、清水、西沢たちがいた。全員がもう、その記事のことを知っていた。目を通しおわって、どうしてやろうとそれぞれ頭の中で考えているようだった。
「実際、こうストレートに書かれてみると、“解散”っていうこの文字面がいやだな」
小田がいう。
「中身がある程度、正確なだけにな」
といったのは西沢だ。たしかに、LPの製作が暗礁にのりあげているというくだり以外は、ほとんど事実に近かった。
ジローはそこで、何らかのアクションが起こるのを期待していた。ここまで書かれちゃ黙っていられない――と、例えばリーダーの小田が立ちあがるような、である。意地でもオフコースを存続させてやると、感情的にでもいってくれれば、ジローは納得できたはずだ。小田がしかし、そういうふうに反応するタイプでないことは、ジローだって知っている。
ジローは、新聞を手にしたまま深々とソファにすわりこんでしまった。
彼がオフコースに固執するのには、それなりに背景がある。彼の目から見ると、このオフコースというグループが、まれにみるほどの音楽的まとまりをもった集団に見えた。一つの曲の原型ができる。それにアレンジを加えていくのはメンバー全員だ。スペシャリストとしての編曲者は必要ない。五人それぞれが持っているものを出しあって、現在のオフコースのサウンドができあがっている。その点に関していえば、うまくいっている。ツアーをつづけながら、あるいはレコーディングの途中で、メンバー間に険悪な空気が流れたことは、一度もない。オフコースをやめたいと鈴木がいいだしたのが八〇年の一二月。以後、LPを二枚作った。長いツアーも、進行中だ。一年半にわたっていがみあうこともなくやってきた。人間関係のルールを守ることにかけては、誰もが大人だった。その間の仕事は、かつてよりもはるかにヴォルテージが上がっている。
ステージが散漫なうちに終わったのか盛り上がって終わったのか、他の四人のメンバーを背中から見つめながらドラムを叩いているジローにはよくわかる。例えば、小田がむっつりして演奏しているときは、意識が散っている。鈴木は声に出る。松尾はステージの上での動きが少なくなると、その日、ダメな証拠だ。
「仁《ひとし》さんは、あんまり変わらない。あの人、大人物ふうなところあるからね」ジローはいった。
逆にいい感じでステージが終わると、誰もがハッピーだ。やめるといい出した鈴木ですら、こういったことが何度もある――「このツアー、すごいよ。このままであと何年だってつづけられるな」
ジローはそれを聞くたびに、鈴木がもう一度オフコースをやりなおそうといってくれるのではないかと期待した。解散しなければならない理由など、ないではないかといいたくなるのだ。一度、解散をいいだして引っ込みがつかなくなってしまったのではないかとも思い、折りを見て何度か、仲介の労をとるに近いようなこともしてきた。その結果は思わしくなかったのだが、ステージに立つたびに、ジローは一体感のようなものを感じ、これがなぜつづけられないのかと思ってしまうのだ。
八二年のツアーが進行するにつれ、「あと何回」と、ステージが終わるたびにジローは数えていた。
かつてジローは、松尾と同じグループに所属していた。
松尾一彦とジロー、つまり大間仁世はともに秋田県の生まれだ。
松尾は日本海に近い八《はち》森《もり》町というところで生まれた。まもなく大《おお》館《だて》から一時間ほど山に向かって入った立又鉱山へ移った。父親は鉱山会社に勤めていた。冬になると二メートルほどの雪が降り積った。家が山と山の谷間のようなところに建っていた。その山あいの土地に、何軒もの家が集まっていた。玄関を開けて外に出ると、すぐ目の前に山が迫っていた。反対側をふりあおぐと、そこにも山が迫っていた。陽は、夏でも午後の四時をすぎるとその山の向こう側に落ちていった。
「子供のころ、東京に住む叔父さんが遊びにきたんだ。叔父といっても当時まだ大学生だったけど。その人が立又に来るなり、静かだなといったんだ。どれくらい静かかというと、マンガで静かなシーンを描くと文字で“シーン”と入れるでしょ。あの“シーン”という文字が見えるくらいだといっていた」
つまり、何もないところだ。テレビはNHKと民放一局しか入らなかった。民放はNTV系が入った。〈シャボン玉ホリデー〉という番組のファンだった。だから彼はタイガースに熱狂した。
大間が生まれたのは十《と》和《わ》田《だ》湖の近く、小《こ》坂《さか》町というところだ。松尾も大間も一九五四年生まれ。同学年である。大間の家は料理屋をやっていた。近くに銅山があり、小坂町はちょっとした歓楽街のおもむきがあった。彼は自分が、ほかの子供と違うところがあるなと思っていた。学校へ行くと、勤め人の子供が多かった。ジローは小学校の上級生になるころから家の仕事を手伝って出前持ちをしていた。そうするのが当然だと思っていたし、それでいいと思っていたが、日常生活のパターンが違うことが大きな違いのようにも思えた。例えば、テレビで相撲を見ていると、誰もが大鵬や柏戸が好きだといっていた。嫌われていたのが佐田の山だった。
「みんな佐田の山は嫌だ嫌だゆうんですよ。おれぐらい、ファンになってやんなきゃって思ってね、好きになった。それでね、ファンレター出したんですよ、ハハハ。佐田の山にファンレター出したんだから、おかしいね」
そういうことだって、ある。
松尾はタイガースにファンレターを出した。沢田研二のいた、あのタイガースである。
「そしたらね、返事が来たんだ。それも印刷したやつじゃなくてね、自筆のもの。“僕らはこれから仕事で浜松へ行くところです。君も頑張って下さい”なんて書いてあるわけですよ。それでね芸能雑誌調べたら“タイガースのスケジュール”なんていう記事があったりして、見るとちゃんと浜松へ行ってるんだよね。あー、このときに返事を書いてくれたんだなって思って妙に感激しちゃったんですよ。でもね……」
でも、の先にも話がある。
「そのファンレターのなかの“僕”っていう字がちがっていたんだ。“”と書いてあるんだよな。それに気づいたときは複雑な気持ちだったね、フフフ。今から思えば、どうせあれは誰かが代筆したんだろうけど」
オフコースのスタッフにもサインの名人がいる。ロード・マネージャーの竹下伸一はメンバー五人の筆づかいのクセをつかむのがじつに上手だ。気がつくと、コンサートのプログラムや色紙に本物そっくりの五人分のサインをさらさらと書いている。できあがって置いてあるサインの山を見ると、メンバーは、気づかないうちにおれたちもずいぶんサインしたんだなと、思うのだ。本人たちでも、気づかない。
それはともかく――
松尾とジローが一緒にグループを組むのは高校三年になってからだ。同じ高校ではない。松尾は能《の》代《しろ》高校、ジローは大館鳳《ほう》鳴《めい》高校に通い、それぞれ仲間でバンドを組んでいた。高校生のアマチュア・バンドばかりが集まるコンサートが秋田にもあり、そこでお互いに顔見知りになった。同じようなロック・バンドだった。ジローのバンドの仲間が一度、東京の様子を見ておかねばと上京し、秋田に帰ってくるとロックンロール・カーニヴァルが行われるんだと報告した。矢沢永吉が所属していた〈キャロル〉というバンドがあり、横浜、川崎あたりで熱狂的な支持をうけていた。そのキャロルが所属する事務所に行って聞いてきたという。お前らも出てみなよとまでいわれ、興奮して帰ってきたわけだった。ジローはすぐにその話にのった。そして別の学校のバンドだったが、松尾を誘った。歌がうまかったからだという。高校三年の三月である。大学入試もかねて彼らは上京した。大学どころではなかった。新宿の伊勢丹デパートの屋上で行われたロックンロール・カーニヴァルに出ていった。全国からいくつものバンドが集まり、コンテストが行われることになっていた。ジローはシャツ一枚で、吹きっさらしのデパートの屋上のステージにあがった。寒さは感じなかった。フェンダーのアンプがセットされていた。それだけで彼らは興奮した。ヴォリューム調整などする気分ではなかった。全てのつ《ヽ》ま《ヽ》み《ヽ》を〈10〉、マキシマムにセットして彼らは演奏した。さほどうまかったわけではない。ドラムスのジローにしても自前のドラムセットを持っていたわけではないのだ。必要なときは、サントリー・レッドを一本持って、ドラムセットを持っている友達のところへ借りに行った。
しかし、なぜか二位に入ってしまった。入賞グループは日比谷の野音で行われるロック・フェスティバルに出られることになっていた。彼らのグループ名は〈ドナルド・ダッグ〉。あっという間の日比谷野音デビューである。
「レコード会社の人なんかも必ず見にくるはずだから、もう絶対成功と思ったね。冷静に考えれば、そんなことないんだけどさ」
と、ジロー。ところが、いとも簡単にデビューの話がきてしまった。そういうこともある。東芝EMIと東京12のディレクターが話を持ちかけてきた。キャニオンのスタジオでデモンストレーション・テープをとり、テレビ番組にも出た。似たようなバンドをいくつか抱えているオフィスに所属し、そのオフィスの根回しによってテレビ局が主催するロック・コンテストで優勝して華々しくデビューという筋立てもきまった。そしてデビュー・シングルのレコーディングはロンドンで、という演出だった。グループ名も〈ジャネット〉と変えた。彼らと関係のないところでレールが敷かれた。
ロンドンでレコーディングといっても、ほとんどは日本ですませ、ヴォーカルだけはロンドンでやるという話である。ところが、そのロンドンへ行くと、予約していたはずのアビーロード・スタジオは休暇中。結局、全て日本で録音した。デビュー曲は作詞・阿久悠、作曲・平尾昌晃。曲名は〈美しい季節〉。
素晴らしい。
「五木ひろしが歌えばヒットしたかもしれないね」
と、ジロー。そういうものだ。そこまでが高校を卒業してから一年間の出来事だった。ジャネットはシングル盤を四枚、LPを一枚出して、消えた。
「めちゃくちゃなプロモートをするんだよ。ダウンタウン・ブギウギ・バンドが売れてくると、お前たちもあれ風にツッパれっていうし。その前までグループ・サウンズ風に歌謡曲っぽいの歌わせていたのにね。GIカットにして売りだそうかとか、ラグビー・ジャージー着てやらせるとか、思いつき並べてあれやれ、これやれでしょ。うまくいくわけないですよ」
ジャネットは二年間つづいた。最後は、坊主に近いくらいのスポーツ刈りにしてテレビに出ていった。目新しさで勝負しようと思ったわけだった。そう考えたのはメンバーではなくスタッフのほうだった。それにも、当然のように失敗して、ジャネットは終わった。
松尾は、それまで所属していたレコード会社、東芝EMIの配送センターでアルバイトを始めた。ミュージシャンから、翌日は注文伝票を見ながらレコードを倉庫から運び出す仕事である。落差は大きい。それでも「ジャネットをやめてホッとしていた」という。それだけしんどかったからだ。満足にギャラが払われるわけではなかった。仕事もたいしてあるわけではなかった。たまにステージへあがると、曲の途中でメンバー同士がけんかを始めた。ジャネットは松尾、大間のほかに同じ秋田で一緒にやっていた仲間が二人いた。そこまで行ってしまったら、もうやめるほかない。
ジローは板前にでもなるかと思った。が、とりあえず簡単にできることといえば、喫茶店のウエイターぐらいだ。サパークラブのボーイもやったし、街角のカレーハ ウ ス で も バ イ ト した。
ふつうはそのまま市井に埋もれていってしまう。そういうものだ。
オフコースのもう一人のメンバー、清水仁も、どうなるかわからなかったところがある。清水は大阪、西《にし》成《なり》区生まれ。「お前なんか町工場で働きゃいいんやいわれてたからね。おれは」
「高校時代、いうてもたいして行っとらんけどね」
清水がいう。
「姉がいてね。その姉が友達からギターを借りてきた。それで練習しているうちに、姉が間違うてそのギターに穴をあけてしまった。それ返すわけいかんでしょ。別のを買って返したら、おれの手もとに穴のあいたギターが残った。音楽のことなんて全然、知らなかった。チューニングもコードも知らなかったわ。そのとき使ってたのがガットギターいうて、エレキギターとは違うということも知らんかった。レコード聴いてるときの音とおれのギターの音が違うなとは思っていたけど、どうせ仕組みは同じやろ思うて全然、気にしなかった」
それがスタートだ。高校三年のとき一万円でエレキギターを買った。仲間ができて、彼らのほうがギターははるかにうまいから、清水は歌をやるといって、ヴォーカル担当になった。毎週、日曜日に大阪港の近くにある遊園地に人が集まる。そこへ仲間と行って演奏すると一人一〇〇〇円ぐらいのバイトになった。それだけのことだが、プロになったつ も り で 高 校 を や めたあとも続けていた。近くにディスコができたときけば売り込みに行った。ギャラを要求すると断られるだろうと最初から交通費とメシさえ食えたらいいという条件を申し出た。食えないから、昼間は力仕事をする。夜になるとディスコへ行く。そういう生活だ。グループの名前は〈バッド・ボーイズ〉といった。続けているうちにビートルズの曲をかなりおぼえた。ほとんどビートルズのナンバーばかりを演奏するようになった。何軒かディスコをかわり、大阪の繁華街に出ていくたびにら《ヽ》し《ヽ》く《ヽ》なっていった。ビートルズそっくりのバンドだといわれるようになった。
バッド・ボーイズに目をつけたのが、オフコースのマネージャーをしている上野博だ。上野は当時〈音楽舎〉というプロダクションではしだのりひこと組んでいた。二〇代になってまだ間がないころだ。上野は自分でミュージシャンを発掘し育てなければダメだと考えていた。でなければ、この世界で一本立ちできない。大阪は上野が生まれ育った町だった。上野に「面白いバンドが出ている」と教えたのは四角佳子。のちに吉田拓郎と結婚し、離婚した。彼女もまた大阪には詳しかった。上野はミナミにあるディスコ〈ガボ〉へバッド・ボーイズを見に行った。そしてアプローチしてみようと思った。演奏が終わりメンバーが楽屋へ引きあげると、そのあとへついていった。楽屋に入りこんで話をするほどの自信が、上野にはなかった。メンバーの一人がトイレへ入った。上野もそのあとへついていき、用をたしながら話しかけた。
「面白いバンドですね」
相手は何もいわない。
終わると上野は名刺をさし出した。音楽舎と社名が入り、裏には〈はしだのりひこ&クライマックス〉と印刷されていた。それを見せれば少しは信用するのではないかと上野は思った。当時の上野にはそれ以外に説得材料はなかった。
上野は楽屋へ案内され、清水とも話をしたが、何の反応もなかった。東京のプロダクションの若いモンがエラそうにやってきたわといった程度にしか受けとられなかった。上野はその後、大阪に行くたびに、顔見知りのミュージシャンをディスコ〈ガボ〉へ連れていった。かまやつひろし、……、そのうちバッド・ボーイズのメンバーも上野を信用しはじめた。
杉田二郎を社長とするサブ・ミュージックが設立されると、そのオフィスに参加した上野はバッド・ボーイズを東京へ呼んだ。おれが育てると、意気込んだわけだった。日比谷野音で定期的に開かれ る よ う に なって い た ロック・フェスティバルにも参加させた。ちなみに、バッド・ボーイズと、松尾、ジローたちがやっていたドナルド・ダッグは同じ日に日比谷野音のステージに立ったことがある。秋田から出てきていきなり野音で演奏のチャンスをつかんだのがジロー、松尾のバンドなら、清水のバッド・ボーイズは大阪のディスコで場数だけは数多く踏んだ、手なれたステージぶりを見せるバンドだった。
そのバッド・ボーイズもサブ・ミュージックが空中分解したあと東京のディスコで仕事をつづけてはいたが、やがて崩壊した。将来のヴィジョンはなく、行きあたりばったりの仕事をして、要するに遊びまくっていただけだったのだから。
清水、松尾、ジローの三人がオフコースに参加するのは偶然ではなかった。
清水はオフコースとは一時期、同じ事務所に所属していたわけだし、小田、鈴木とも顔みしりだった。ジロー、松尾が加入していたグループ、ジャネットはオフコースと同じ東芝EMIからレコードを出していた。共通のディレクターがついていた。
サパークラブでバイトをしていたジローが、まずオフコースのレコーディングを手伝ってくれるよう頼まれ、清水、松尾も順次、合流した。初めのうちは、小田、鈴木二人だけのオフコースに交通費のかからない都内の学園祭のステージがあると、バックバンドとして手伝い、オフコースが安定した仕事をできる目途がつくと正式にメンバーとなった。
それが一九七六年、オフコース・カンパニーが設立されるのと、ほぼ同時だった。カンパニーは有限会社であり、小田、鈴木の二人が代表権を持った。
カンパニーは、例えばかつてジャネットが所属していたプロダクションとは、かなり違った。ミュージシャンである小田、鈴木が自ら運営し、彼ら二人は短期的に売ることに急ぐよりも長期的な視点を持とうとしていた。地道にやってきたペースを変える気配はなかった。グループとしての方針は全てメンバー全員の合議によって決めることを基本としていた。そのために結論を出すのがおそくなるという弊害はあったが、それによる損失よりも、むしろ得るもののほうが大きいのではないかと、小田は考えていた。
それが、オフィス設立から六年を経過して解散という瀬戸際にくるまでつづいていた。彼らが、しばしばミーティングを開くのには、そういう彼らなりの歴史がある。
そのやり方には清水にしても、松尾、ジローにしても納得していた。少なくとも、彼らがそれまで見てきた世界とは違っていた。
そして、五人でやりながらここまで伸びてきたんじゃないかという思いが、若い三人のメンバーにはある。
「おれ、ヤッさんが抜けてほかに一人入ればそれでええんちゃうかって、最初は軽く考えたんだけどね」
清水はそういった。それでもオフコースは変わらないよと、松尾も、ジローも思った時期があった。今でも、そう思いたい。が、小田はそれはありえないと一言のもとにはねつけた。若い三人は、その小田についていこうとしていた。別の形でグループを組むならそれでいいし、小田が何もやらないというなら、そのとき自分たちのことを決めればいいのだと――。
「しかしな、こういうときは何も動かんほうがええで」
仁がいう。
六月、ツアーが終わりに近づいたところで、“オフコースが解散!”という断定的な記事が出たことを彼はいっている。
「ほっとくのが賢明やね」
例えばそこでオフコースは解散しません、などといえばよけいに、何でもいいから書いてしまおうとしている側を喜ばせるだけのことだというのだ。それは解散と決めつける記事に敏感に反応したことでもある。
「そんなのカッコ悪い」
一言のもとに、仁は決めつけた。
「おれもそう思うな」
上野がいった。
「何もこちらから刺激することはない。ファンはやきもきするだろうけど、あれを見て解散するんだと思うやつはそう思うだろうし、絶対解散なんてするはずがないと信じるファンはマスコミがどう書いたって、そんなもの信用せん。こちらが無視していれば、おのずと流れるようになるんちゃうかな」
それが冷静な判断だろう。
上野には、その情報がどういうルートで流れたか、ある程度わかっていた。記事の最後の書き方が気になった。解散のごたごたでLP製作がおくれている、関係者はそれを心配している――と、最後の部分はしめくくられている。LPが出ないかもしれないぞというファンにとってはスリリングで気になる情報になっているわけだ。しかも、記事のほかの部分がかなり正確であるにもかかわらず、LP製作に関する部分だけがちがっている。そこが、上野には妙にひっかかった。その部分でのプロモーションを意識した側からのリークではないか……。
「やるなあ」
と、上野は思った。プロダクションの側としては、せっかくここまで秘密を守ってきたのだから、リークされたこと自体は愉快ではない。ハラも立つ。が、しかし、マスコミとの関係のなかでそれくらいのことをするだろうことは予測できた。むしろ、それ以前にちらほらと書かれていた解散説を読む限りではわからなかった情報源がぬっとここで顔をのぞかせたことが、おかしくもあった。
小田は右手の何か所かにサビオを貼《は》りつけていた。この日は、朝早く起きだし、芦《あし》屋《や》まで出かけてテニスをやってきた。とたんにマメができ、つぶれた。それをたんねんにサビオでおおい、これで大丈夫かなという具合いに指を大きくひろげて、閉じた。
「不愉快なことは不愉快だな。こういうのをまのあたりに見せられるとムカつくしね。なんとか……するか」
小田はそういって立ちあがった。自分の部屋に戻っていった。彼は性急にアクションを起こすつもりはなかった。仁や上野のいうように、ここは無視するのがいいだろうと考えていた。第三者からの情報提供だけを頼りに、間違っていても先に書いてしまったほうがトクだと判断して強引に書いてしまった、そういう記事であるはずだった。間違っていたにしても訂正を出す種類のことでもない。その日かぎりで消えていく記事だ。まともに対応しなければならない事柄ではない。
どこかで逆転したいと、小田は思った。
ジローはラスト・コンサートまで「あと一二回」だとかぞえた。あと二回で大阪が終わるという日の午後だった。東京へ戻ると一〇回の武道館コンサートを残すのみだ。
清水はカメラを持って、そのジローの顔をうつした。
「ええ顔してるで、おい」
シャッター音が、部屋に響いた。
第六章 スタッフ
コンサート会場にビートルズの曲が流れている。BGMである。
メンバーの最終リハーサルが終わると、開場となる。開演のほぼ一時間前だ。ロビーでは一冊一〇〇〇円の、プログラムをかねたパンフレットがとぶように売れている。メンバーのスナップ、そしてインタビューで構成されたパンフレットは、今回のツアーのために編集されたものだ。らくに一〇万部をこえる部数が、その間に売れる。かくれたベストセラーといえるかもしれない。
会場は、人が埋まるにつれてざわめきも大きくなる。ステージに緞《どん》帳《ちよう》はおりていない。黒と白のコントラストを基調としたステージ設計だ。ドラムの左右にセットされたアンプは白く塗りこめられている。それはコンサートの半ばで、スクリーンの役割も果たす。会場の地あかりのなかで、そのステージがおぼろげに浮かびあがっている。
ビートルズの曲がひとしきり流れたあと、オフコースの曲に変わる。〈心はなれて〉、そのイントロがテープから流れてくる。そこがステージにメンバーが登場するタイミングになっていた。
あかりが落ち、ステージは闇《やみ》に包まれる。ステージ・サイドにメンバーとスタッフが集まった。パイロット・ランプで足もとが照らされる。会場が割れるような拍手に包まれ、メンバーが楽器を持ってスタンバイすると、ジローのスティックが四つ、音を刻む。光と音が同時に生きもののようにあふれだし、オープニングは華やかさに包まれる。
マネージャーの上野博は、オフコースのオープニング〈愛の中へ〉をステージ・サイドで見守ると、静かにそこを去り、ロビーへ向かった。重いドアを押し開けると、ロビーにはぶあついじゅうたんが敷きつめられている。そのロビーにも、会場の熱気が伝わってくる。正面入口のあたりまで歩き、上野は点検するようにあたりを見回した。息せききって会場へ走りこんでくるファンがいる。開演はいつも六時半すぎだ。仕事が手間どり、あわててかけこんだOLだろう。
あとはスタッフばかりが、ロビーのあたりをうろついている。会場を仕切っているのは各地のイベンターである。オフコースの興行権を買い、チラシを配り、チケットを売ってコンサートを主催する。単純な話、客が入れば入るだけイベンターの収益は大きくなる。二〇〇〇人入る会場で一枚平均三〇〇〇円のチケットを売れば総収入は六〇〇万円になる。そこから経費を引いたものが、イベンターとオフコース・カンパニーの収入になる。経費とは例えば会場費、機材費、交通費などだ。地方都市の市民ホールなどを借りる場合で会場費は、一日だいたい二五万〜三〇万といわれている。照明、PAなどの機材、仕込みで約七〇万〜一〇〇万円。大きな経費はミュージシャン、スタッフの交通費、宿泊費だろう。多いときで三〇人ほど移動する。一日だけのステージで、仮りに東京―大阪を一泊しながら往復するとそれだけで一〇〇万円をこえる費用がかかる。その他、イベンターがコンサート当日に動員するバイトの人件費、チラシなども経費のなかに含まれる。平均すれば、経費率は五〇パーセント程度になる。一ステージあたり三〇〇万が経費で消え、残りが三〇〇万、それをほぼ半々の率でイベンターとオフコース・カンパニーがわける。そういうシステムになっている。
立ち見が出るほどに客をつめこむケースもある。ステージの上からそれを見ると、メンバーは「あれがイベンターにとっては現金が立っているように見えるんだろうな」と思うのだ。
上野は、横の入口から会場に入り、立ったまましばらくステージを見つめている。
彼は一抹の寂しさを感じている。その正体が何なのか、よくつかめてはいないが、それがオフコースの解散にまつわるものであることはたしかだ。
「どっちにせよ寂しさからは逃れられないだろうな」
と、彼は思う。
オフコースという、彼がプロモーションを手がけてきたグループが解散してしまえば、このステージを二度と見られなくなってしまう、というのがファンの感じる寂しさだとしたら、スタッフの寂しさはもうこれを二度と作らなくていいという解放感のなかからにじみ出てくるそれだ。ツアーのためのプロモーションもしなくていい。オフコースに関しては、何もかもしなくてよくなってしまう。それには、当然のように寂しさがついてくるだろう。
逆に、解散しないとしたら――。
そうなったにしても上野には寂しさが残る。上野はオフコースのプロジェクトに参加して一年もたたないうちに解散という問題をあずけられてしまった。
八〇年の春、オフコース・カンパニーに彼はやってきた。それ以前にも、上野とオフコースのつきあいがあったことは前に書いた。知らないオフィスでもなかった。彼は勝手知ったる他人の家のつもりで入っていった。そのとき、彼は「誰もが窓に向かってムッツリと仕事をしているな」という印象をもった。静かな、どちらかといえば陰気なオフィスだった。上野はそのペースに巻きこまれまいとした。例によって例のごとくざっくばらんな関西弁の、しかも大きな声で話した。上野の下で働くようになった中山は「まるでヤクザみたいな」という印象を持った。それでよかったと、上野は思っている。上野が加入することでオフィスの雰囲気も変わった。
その半年後に、解散という問題が浮かびあがってきた。
鈴木がやめたいといい、小田が説得した。どうやら鈴木の意志が固そうだとわかったあと若い三人のメンバーも集めて、全員でミーティングを開いた。八一年の三月、ツアーが終わった直後のことだ。清水、松尾、ジローの三人はそのことを知らされていうべきこともなかった。しょうがないと、納得せざるをえなかった。その後、メンバーは個別的に、あるいは何人かまとまって鈴木を説得した。いくらなんでもまだ早すぎるじゃないか、と。それでも、鈴木の方針は変わらなかった。
上野は、そのころから解散のための準備を始めた。八一年の春から八二年夏までの一年あまり、彼の頭の中には常に解散問題がちらついていた。「どういう形で解散をプロデュースするか」――テーマはそれだった。
それが、解散しなくなると、全て水泡に帰してしまうことになる。この一年間の画策は何だったのかと、考えてしまうのだ。それにも寂しさのようなものがついてまわる。解散しないことが、うれしくないわけではない。しないですむなら、それにこしたことはない。が、ミュージシャンたちがステージの上で演奏するのが仕事であるならば、上野にとっては解散をプロデュースすることが仕事だった。その、仕事の上でのゴールが、なくなってしまう。彼は、足もとがおぼつかなくなるような不安を抱いてしまうこともあった。
上野の頭から離れそうにないシーンがある。名古屋でミーティングを開いていたときのことだ。彼はあくまで、オフコースが解散することを前提に話をすすめていた。
鈴木は、自分はやめたいが、解散を発表することはないじゃないかといった。
「それだったら解散しないことになってしまうよ」
と、上野がいった。「いかなる形でも発表しないというなら、個人的にインタビューをうけたときでも解散していないといわざるをえないやろ。そこでいうてしまったら解散と書かれてしまうわけやから」
「…………」
しばらく考えたあとで鈴木はいった。「それならやっぱり、ダメだな。解散ということになるなぁ。発表しなくちゃいけないのか」
「そういうことになるかな。だからどういう形で発表するかが」
と、そこまでいいかけたとき、清水仁がいったのだ。
「マジョ、お前、オフコースを解散させたいんか? ちがうか?」
一瞬、メンバー全員の視線が上野に集中した。
「そういうわけやない……」
そう答えたが、上野は心の中をのぞかれたような気がした。解散させたがっていたわけではないが、解散をありうべきイベントとして、捉《とら》えていたことはたしかだった。うまく解散させることが、彼の仕事だったのだから。
「オフコースを解散させたいんか?」
その言葉が、こびりついている。
上野はこれまでに何度か、グループの解散を見てきた。これほど最後まではっきりしないのは初めてだと思った。
高校時代のことだ。上野は大阪市内にある桜宮高校に通っていた。バスケット・ボールをやり、フォーク・ソングを歌うことが、当時の誰もがそうであったように、好きだった。仲間とグループを組んでアマチュアとしてラジオ番組に出ていったこともある。たいしたレベルではなかったが、それなりにフォーク・ソングに対する思い入れはあった。
今でも彼がおぼえているのはフォーク・クルセダースの解散コンサートだ。大阪のフェスティバル・ホールに彼は見にいった。
「あのとき、フォーク・クルセダースが最後に〈イムジン河〉を歌った。あれがよかった。ものすごい強烈にそのことをおぼえているんやな」
大学受験に失敗したとき、バイトをしながら浪人しようと決めた。そのバイト先として音楽事務所を選んだのも、フォーク・クルセダースの解散コンサートの印象が強かったことと無関係ではない。彼はフォーク仲間のつてをさがして、クルセダースが所属していた高石音楽事務所のバイトの口をさがした。
「バイトの口はないけど、正社員になってやる気があるなら入れてやるよ」
社長からそういわれたときも、さほど迷わなかった。この世界の仕事もそれなりに面白いのではないかと、むしろ期待した。
上野が最初についたのは、〈はしだのりひこ&シューベルツ〉。つ《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》といっても、マネージャーのアシスタント、楽器はこびをしたり使いばしりをしたりするわけだった。
そのシューベルツは、上野がつくようになって一年後に、解散した。ミュージシャンの離合集散をま近で見たのは、そのときが初めてだった。
「メンバーの意識がどんどんバラバラになっていった」
上野は語る。
「シューベルツはあの当時、売れていたから事務所のドル箱という感じだった。大阪から東京へ仕事でくると、ほかのミュージシャンだったらホテル代を浮かすために東京の事務所に寝泊まりしておった。シューベルツだけがホテルに泊まれた。それでもメンバーが一緒に行動するいうことは少なかった。夕方東京で仕事が終わると、そのまま東京に泊まるやつもいれば京都、大阪に帰りたがるやつもいる。メンバー間の対立もあった。ベースを担当していた井上博いう男が、アイドル的に人気が出てきたりしたんやね。わりとカッコええし、やさしい感じのする男だったからね。これはもめそうやなと思っていた。関係が、どこかぎすぎすしてくるし、ちょっとしたことで誰かが怒りだしたり――」
それがある日、あっけなく解散しようということになった。ベースの井上が肺《はい》水《すい》腫《しゆ》という病気にかかり、突然、入院した。肺にリンパ液がたまってしまうものだ。そして、そのまま亡くなった。入院して一週間後のことだった。メンバーは井上の死を悲しんだが、悲しむ時期をすぎると、現実にひきもどされた。そして、このままやっていってもしょうがないという結論に、すぐにたどりついた。
はしだのりひこは、別のグループを組んだ。今度は〈クライマックス〉という名前だった。上野は、ひきつづき、このグループにつくことになった。一つのことが終われば、すぐに次のことが始まるんだ。上野はそう思った。
人気というものが、どういうものなのかもこの時期に知った。
仕事をしてくれと、事務所に電話がかかってくる。
「拘束時間、どれくらい? うん、それで何曲うたえばええねん? まぁ、それやったら五〇万やな。OK、ほな、こまかいスケジュール決まったら教えて」
あるときまで一単位あたり一〇万円だったものが、急に高くなる。そして、その仕事の現場に行くと、じつは一〇〇万のギャラが出ていたとわかることもある。主催者とタレントの間に入って電話をかけてよこし、話をまとめた者がその差額を抜くわけだ。企画料という名目で。上野がこの仕事を始めたころ、給料は一万八〇〇〇円だった。一九六九年のことだ。一八歳、である。五万円でも大金だった。それが一、二年もたつうちに五〇万、一〇〇万という単位の金がなんでもなく感じるようになってしまった。
「要するに――」
と上野は考えた。
「この世界、いくらでもどうにでもなるわけや」
あながち間違った認識とはいえない。
はしだのりひこ&クライマックスは、ヒット曲をとばした。〈花嫁〉というタイトルだ。紅白にも出ていった。高石音楽事務所は音楽舎と名前を変え、はしだはそこから独立して〈マホロビ舎〉というオフィスを作っていた。上野もはしだと行動を共にしていた。二〇歳をこえてまだ間もないうちに、上野はこの世界の妙な魅力にとりつかれてしまったわけだった。
はしだのりひこも、ヒット曲を出すことの面白さにのめりこんだ。〈クライマックス〉があきられ人気が落ち始めると、彼はまた別のグループを組めばいいと考えた。そして〈エンドレス〉というグループを組んだ。
「今度はソロでやったほうがええんちゃうかなと、おれは思ったんやけど」
上野がいう。
「メンバーを変えて、グループを変えてしまえばリフレッシュされると考えたんやろな。もう一発、当てようとしていた。おれはもうそのころには、この世界で必要な最低限のノウ・ハウを身につけたつもりでいたんや。今、のりちゃんと別れてやっても、こわくないと思うた」
そして、杉田二郎、オフコースの小田、鈴木が設立しようとしていたサブ・ミュージックに参加したわけだった。
彼は、単なるマネージャーという仕事には将来性がないことに気づいていた。時代的にいえば、フォーク・シンガー、シンガー・ソングライターたちが、ただ歌うだけではなくそのほかにも収入を増やす方法があることに気づき始めたころだ。
音楽出版、である。
簡単に説明してみよう。
レコードを製作するには、まずレコーディングに費用がかかる。それを、かつてはレコード会社が負担していた。そのレコードを売り出したときにどれくらい売れるかわからない時点で、一種の危険負担を負っていたわけだ。そのかわりに、商慣習上、その費用を負担した者が「原盤権」と呼ばれる権利を所有することになっていた。LPの定価の一〇パーセント弱が、それにあてられているが、ここではわかりやすく一〇パーセントとしておく。仮りに、レコードがヒットすれば、その総売上げの一〇パーセントをロイヤリティーとしてとれるわけだ。
その原盤権が、レコード会社からプロダクションに、徐々に移ってきた。それは各プロダクションが、レコード会社にかわって新人を発掘するようになり、自前でレコーディングまで管理できるようになったことと期を一にしている。レコードのカッティングをする寸前、つまりマスターテープを作るところまでプロダクションが費用を負担し製作してしまうのだから、当然、原盤権もプロダクションに移ってきた。いわゆるニューミュージックだけでなく、アイドルソング、演歌の世界でも、これは同じだ。同時に、ラジオ、テレビなどメディアの側も、この原盤権に注目しはじめた。放送局は、時間枠を持っている。そのなかでありとあらゆる歌手のレコードをかけることができる。レコードをかけることは、そのままその曲のPRにもなりうる。
「PRしてあげるわけだから」と、放送局は考えたわけだ。「うちにも原盤権の何パーセントかをよこしてもいいのではないか」
この傾向は、テレビ局がスター誕生番組に力を入れるようになって拍車がかかった。自分の局の番組で新人を発掘してあげるわけなのだ。その歌手が売れるようになった場合、なにがしかのロイヤリティーを要求するのは半ば必然だった。
古くはTBS系の〈日音〉、比較的新しいところではNTV系の〈日本テレビ音楽(NTVM)〉などがテレビ局系の音楽出版会社として知られている。
音楽出版社は、その機能の一つとして原盤権を管理するわけである。
オフコースの場合はどうか。
彼らはオフコース・カンパニーのほかにフェアウェイ・ミュージックという会社を作っている。これが音楽出版を業としている会社である。オフコースのLPは、このフェアウェイ・ミュージックとP・M・P(ニッポン放送系列の音楽出版社)がそれぞれ七五パーセント、二五パーセントという比率で原盤権を所有している。LPは、現在、二八〇〇円の定価がつけられている。実際は、そこからまずレコード会社が〈ジャケット代〉として一〇パーセントをとる習慣になっている。残った二五二〇円が基準となる数字だ。原盤権はその一〇パーセントだから、額にすると二五二円になる。その七五パーセント、つまり一八九円が、フェアウェイ・ミュージックに入る。六三円がP・M・Pだ。オフコースのアルバム〈over〉は五〇万枚をこえている。原盤権収入を計算するには単純に掛け算をすればいい。つまり――一八九×五〇〇、〇〇〇 = 九四、五〇〇、〇〇〇。約一億円という額になるわけだ。このほかに、カセット・テープもある。これにも同様の権利が派生すること、いうまでもない。
音楽出版社の機能にはもう一つある。著作権の管理である。典型的にいえば、作詞、作曲者に与えられるロイヤリティーのことだ。
これにも、LP一枚のほぼ一〇パーセントの枠がある。二八〇〇円のLP定価から「ジャケット代」を引いた二五二〇円、その一〇パーセント、つまり二五二円が著作権者に与えられるわけだ。そして、著作権者は作詞、作曲者だけではない。音楽出版社も、そこに権利を持っている。著作権はJASRAC(日本音楽著作権協会)で管理されている。著作権収入は、手続き的にはJASRACを通過して、直接の著作権者に与えられる。そのとき、音楽出版社は著作権の五〇パーセントを得る。残りの五〇パーセントを作詞者、作曲者がそれぞれ二五パーセントずつ分け合うわけだ。
ここでもオフコースを例に出そう。
著作権収入はLP一枚につき二五二円になる。その半分を、フェアウェイ・ミュージックとP・M・Pで、この場合も七五パーセントと二五パーセント の 比 率 で 分 け よ う。フェアウェイ・ミュージックの収入は一二六円の七五パーセント、つまり九四・五円になる。それが、五〇万枚売れたら――この場合も単純に掛け算をすればいい。四七二五万円になる。作詞、作曲者に支払われる分は、これとは別だ。両者あわせて五〇パーセントだから、LP一枚あたり一二六円になる。五〇万枚で六三〇〇万円だ。オフコースの場合、作詞、作曲は小田、鈴木、そして松尾の三人が主に担当している。仮りにLP一枚に収録されているのが一〇曲として、そのうちの半分を小田和正が作詞・作曲したものだとすれば、小田の著作権収入は半分の三一五〇万円ということになる。
レコードには、以上のような権利が附随している。売れれば売れるほど、音楽出版社の利潤は等比級数的に大きくなっていく。
話を元に戻そう。
上野は、はしだのりひこのマネージャーをしながら、その周辺のミュージシャン、スタッフの動きを見ていた。そして、単なるマネージメントだけでなく音楽出版社も同時に持たなければならないことに気づいた。当然のことだろう。
杉田二郎、オフコースの小田、鈴木、そして上野が設立したサブ・ミュージックは正式にはサブ・ミュージック・パブリッシャーという。つまり音楽出版《ミユージツク・パブリツシヤー》会社だった。
レコードが売れれば、このオフィスの経営は何ら問題はなかったは ず だ。オ フ コ ー ス は サブ・ミュージックに参加して初めてLPを出した。一九七三年六月五日発売、レコード番号はETP―72118。タイトルは〈オフコースT/僕の贈りもの〉である。
LP製作にはある程度の資金が必要だ。オフコースのファーストアルバムは経費をかけたわりには売れなかった。音楽出版社としての利潤は出てこない。小田はまだ早稲田の大学院にいて、鈴木は弾きがたりのバイトをしていた。東京音楽祭に出ていって何の賞もとれずに終わってほぼ一年後のLP発売だった。売れるほうがおかしい。それでもオフコースのLPを早く作るべきだといったのは杉田二郎である。上野の話によれば、杉田二郎にしてもはしだのりひこにしても、譜面は読めなかった。譜面は読むよりもむしろ耳で聴いておぼえていくタイプだった。小田、鈴木の二人はいとも簡単に譜面を読んだ。小田は小学生のころバイオリンを習っていた時期がある。鈴木は外国のアーティストのレコードを聴いてそれを譜面化するという仕事をしていた。編曲のテクニックも学んでいる。譜面を読み、そこに書かれている記号がどういう音を示しているのか、即座にイメージ化し、具体的に音にすることができた。ギターと歌が好きというそれくらいのことで音楽を始めたにしても、音を通じて自分の世界を表現することができれば、譜面など読めなくてもやっていける。人に何かを感じさせる。そういう曲が作れ、歌えればいいのだから。システム化された音楽教育の場からではなく、アウトサイダーの立場からすぐれたミュージシャンが多く出てきたことにはそれなりの必然性もあった。
が、しかし、杉田二郎の目から見れば、基礎がしっかりとできていて、真正面から音楽にとり組んでいる小田、鈴木は、ある種、敬うべき対象でもあった。杉田はレコード会社にしきりにオフコースのLPづくりを働きかけた。そして話をまとめてきた。そのLPが、売れなかった。
「結局、こまかい仕事になっちゃったわけやね」
と、上野がいう。
「CMソングを歌ってくれという仕事は多かったな。しかもギャラは安かった。はしだのりひこなら前の日にカラオケをもらってあらかじめ練習してスタジオに行き、それで一〇万、二〇万のギャラをとるところを、オフコースは譜面が読めるから、その場で譜面を見て歌って、それで五〇〇〇円とかな。能力とギャラは関係あらへんのや。人気があれば高い。それだけや。そのCMを歌う仕事のギャラをどんどんつりあげていった。五〇〇〇円から一万、一万五〇〇〇円、二万という具合いやね。二万円までいったところで文句がきた。いくらなんでも高すぎるいうてな。ちっとも高すぎるとは思わなかったけど」
小田は、そのころに歌ったCMソングをおぼえている――「例えば、カルピス、資生堂、明治製菓。ロレアルのミニバーグ、これは今でも流れているんじゃないかな」
上野は、しかし、それくらいの仕事をしていても面白くないと考える人間だ。ちょっとしたバクチを打った。
〈ラブ・ジェネレーション〉というタイトルのイベントを思いつくのだ。一人だけでは客を集められないミュージシャンを集めて全国ツアーを組もうとした。東芝EMI所属のミュージシャンが中心になった。〈アリス〉、〈イルカ〉、〈チューリップ〉、〈杉田二郎〉、〈はしだのりひこ&エンドレス〉、〈加藤和彦とサディスティック・ミカバンド〉、〈トワ・エ・モア〉……もり沢山のミュージシャン、グループを集め、形としては東芝EMIのプロモーションという体裁をとった。こうすればレコード会社から宣伝費の枠である程度の予算をとることができる。東京を中心に全国何か所かでコンサートを開く。入場料をとり、黒字が出ればミュージシャン側がとるという設定だった。
結果は、しかし、五〇〇万円の赤字と出た。それを主催のサブ・ミュージックが背負いこむことになった。やがて、サブ・ミュージックの稼ぎ頭である杉田二郎が金光教の修業で山に入った。ますます経営が苦しくなる。オフコースはあべ静江の前座としてステージに立ったことがある。そういう仕事をしてオフィスの家賃とした。給料は払えないことのほうが多くなった。
「マジョ、お前が金、使いすぎるから給料払えんのと違うか?」
という問題が起きてくるのは当然だった。サブ・ミュージックには上野が大阪からつれてきた〈バッド・ボーイズ〉もいる。清水仁は今でも上野に冗談半分でよくこういう。
「マジョ、お前はおれを幸せにする義務があるんや」
それだけ上野はサブ・ミュージック時代にミュージシャンに苦労をかけたということでもある。
オフコースはそこから離れ、オフコース・カンパニーを設立。バッド・ボーイズの清水もオフコースに加わった。上野は、とり残された。
そして再び――
上野は、オフコースのスタッフとして仕事をするようになっている。
彼には「解散のきっかけを作ってしもうたのはおれじゃないか」という思いがある。小田を中心とした急激なプロモーションを推し進めたのは上野だった。「それは必然的な成りゆきだったんだよ」と、鈴木はいうが、しかし、上野はどこかで自分がひきがねの一端を握ったように思えてならない。
そのうえ、さらにその解散問題の対外的な処理という課題を、彼は背負わされた。
上野を中心とするオフコース・カンパニーのスタッフがそこで最初に考えたのは、メンバーに何をのこせるかということだった。解散すれば、音楽活動はしばらくストップするはずだ。次のステップに向けての充電期間も必要だろう。その間でも生活はしていかなければならない。カンパニーとミュージシャンの契約は二年ごとにかわされ、契約金は年々、高くなっている。が、高くなっているといっても、プロ野球のトップ・プレイヤーほどにはなっていない。作詞、作曲を手がけ印税収入の多い小田、鈴木はともかくとして、若い三人はこの二人に比べれば当然、収入は少ない。それが、オフコースの解散、カンパニーとの契約延長なしというなかで、途切れてしまう。
「それまでに、どこまで彼らに残してやれるか、それがポイントや」と、上野は考えた。
そのためには、解散までにLPを何枚か作り、ツアーもやらなければならない。
レコード会社との契約は八一年の五月三一日で切れることになっていた。東芝EMIは、もちろん、契約の更改を希望していた。ミュージシャンとレコード会社の契約は通例二年間である。もう一度、いつもどおりの契約を結べば八三年の五月三一日までつづいてしまう。鈴木の意思を尊重すれば、そこまで延ばすことはできない。
上野、そして営業担当スタッフの西沢は、東芝EMIの担当部長に話をもっていった。一つは契約期間を短縮してほしいと申し入れるためだ。もう一つ、その間に、多くなりすぎない程度にレコードを出していきたいという希望も伝えておく必要があった。
「解散はどうしても避けられないのかな」
部長はいった。やっと安定した営業成績を残せるようになったグループが消えてしまうことは、レコード会社にとっては痛手だ。
「むりでしょうね」
上野らがそういうと、話は具体的なツメに入っていった。
カンパニーとしてはほぼ一年半の契約を希望していた。八一年六月一日から八二年一二月三一日まで、である。変則的だが、それ以上長くするのも短くするのも避けたかった。メンバーとカンパニーの契約は八二年の七月三一日で切れる。武道館のステージが終わるのは六月三〇日だ。そのライブ盤を出すことも考えられた。その時期は、その前に出すLPの発売がいつになるかにも依っている。短期間にたてつづけにLPとライブ盤を出すべきではない。が、ある程度集中的に出さざるをえない部分もある。そのときにダブらないように、カンパニーとミュージシャンの契約が切れたしばらくあとまでレコード会社との契約を延ばしておくことも必要だった。
何度かの話し合いの末、合意したのは、以下のようなことだ。
契約期間は八一年六月一日から八二年一二月三一日までとすること。その間にオフコースはオリジナル・アルバムを二枚、ベストアルバム(過去のヒット曲等を集めたもの)を一枚、それにもう一枚武道館ライブかそれにかわるものを一枚製作すること。そして、シングル盤を三枚出すこと――以上である。
これを一年半のあいだにふりわける。しかもミュージシャンが活動できるのは八二年七月三一日までである。期間は短い。
上野、西沢はスケジュール調整に入った。今度組むツアーは最後のものになるはずだった。それなりの規模にしたい。スタッフはそう考える。ツアーの最後をしめくくる武道館公演でも、今までにない動員を記録してみたい。スタッフはそう考える。八二年六月の武道館を一〇日間にわたっておさえるというスケジュールが決まったのは八一年一一月のことだった。それをエンディングにして、一月から夏のはじめまで全国のコンサート会場をおさえた。第一回目のステージが一月二二日の千葉県文化会館と決まり、総計六九ステージのスケジュールが出た。
次に、レコーディングのスケジュールだ。一年のあいだに、ツアーをはさんで二枚のオリジナル・アルバムを作らなければならない。オフコースにしてみれば、今までにないハード・スケジュールになる。
上野には、もう一つ別にやっておきたいことがある。
「テレビに出ないか?」
彼は提案した。メンバーが反対しそうになると、こういった。
「ちゃう、ちゃう。歌番組に出よういうわけやないわ。地味な感じでドキュメンタリーを撮ろうと思うんだ」
リーダーの小田も、それに近いことを考えていた。上野は何らかの形で、記録に残しておきたいという気持ちがあった。それを民放でやろうとは考えていなかった。視聴率を上げなければならないという要請のなかで作られたら、おそらく途中でけんかになるだろうと思った。カンパニーにとっては高視聴率番組を作る必要は全くないのだから。ましてや、オフコースが解散を前提にドキュメンタリーの素材になると知れたら、それを柱に番組編成を考えてくるにちがいない。上野はNHKの教育テレビを考えていた。日曜日の夜一〇時半からオン・エアされている〈若い広場〉という番組があった。高い視聴率をあげることはまずないが、時折りユニークなドキュメンタリーを撮っているなという印象があった。上野は、以前に一度一緒に仕事をしたことのある〈若い広場〉担当のディレクター、小谷秀穂に企画を持ち込んだ。小谷は、しばらく考えてこういった。
「オフコースのレコーディングを集中的に撮らせて下さい。そうすると今までにない番組が作れそうな気がする」
上野はそれを了解した。時間的にも助かる企画だった。八一年の夏の終わりから、オフコースはレコーディングに入ることになっていた。それは、一一月までつづく。〈over〉というタイトルになるはずだった。それが終わったあと、契約期間中にもう一枚のオリジナル・アルバムを作らなければならない。しかもそれはツアーと重なる。こういうなかでテレビのための時間を大幅に割くことは不可能に近かった。
八一年八月。〈若い広場〉のディレクター、カメラマン、照明、音声のスタッフ、それにインタビュアーが渋谷のマック・スタジオにやってきた。上野は、そのインタビュアーの氏、素性をメンバーにあらかじめ説明しておいた。
「本職はライターをやってる人なんやけど音楽のことはほとんど知らん人や。スポーツ・ノンフィクションを書いたりしてるらしい。ひょっとしたらオフコースのことなんか何も知らないかもしれない。全然気にすることないんやないかと思うわ」
そして、そのライターが文章を書いている雑誌、〈スポーツ・グラフィック・ナンバー〉のバックナンバーを何冊か見せた。小田は、そのライターがゴルフのマスターズ・トーナメントのことを書いている記事を読んだ。別に何も感じなかった。
オフコースが、まだ曲作りをしている段階から、カメラはまわり始めた。上野は、曲作り、レコーディングの技術、音の重ね方、ヴォーカル、コーラスの入れ方――いわばオフコースの企業秘密ともいうべき部分を全てカメラの前にさらしてしまおうと考えていた。これで、このグループが終わるのだということを意識したからだ。メンバーからも異論はなかった。
シングル盤の三枚は比較的、楽に決まった。レコード会社との最後の契約が始まった時点で、すでにできていた〈 I LOVE YOU 〉を八一年六月一日に出したのを皮切りに〈愛の中へ〉を一二月一日に、〈言葉にできない〉を八二年二月一日にリリースした。
冷静にそのプロモーションを見つめている人がいれば、オフコースに何かが起こっていると見ることはできたはずだ。
「ボチボチ、オフコースもメジャーにならんとな」
人に聞かれると、上野はそんなふうに答えていた。
尋常ではなかった。それまでのオフコースは年にアルバム一枚、そしてツアーを一シリーズやるだけであとは休養していたのだから。
〈over〉が発売されたのは八二年の二月一日だ。その前に、オフコースは契約書に義務づけられていたベストアルバム〈 SELECTION 〉をリリースした。八一年九月一日発売だ。それはアルバム・チャートのトップに立った。ラジオ・スポットCMを集中的に打った効果かもしれなかった。ともあれ、プロモーションの導火線に火がつけられたわけだった。
それを追って八一年の冬から男性誌、女性誌のなかから七誌を選び八二年のツアーを予告する広告を打ち始めた。レコードの宣伝でもなく、イメージ広告でもなく、単にツアー・スケジュールを知らせるそっけないほどの情報広告の形をとった。武道館ステージを一〇回組むということが、驚きをもって迎えられた。業界の目が、オフコースに向きはじめ取材申込みが、確実に増えていった。
八二年の正月、一月三日、NHK教育テレビ〈若い広場〉のオフコース特集がオン・エアされた。視聴率は三・〇パーセント。高くはないが身近かにいる関係者の注目率は高かった。
「あそこまで見せちゃっていいの?」
何人かが上野にそういった。
「メジャーは何をやっても許されるんや。わかっとる?」
上野はそんなふうに、かわした。
二月に〈over〉が発売されると、これもアルバム・チャートのトップに立った。二月一日、武道館公演のチケットを葉書きで公募すると、全国から約五二万通の申し込みがきた。一〇回公演で観客動員数は約一〇万人。これで失敗はなくなった。
さらにスタッフは、オフコースが六月三〇日に武道館のステージを終え、七月一日に最後のオリジナル・アルバム〈 I LOVE YOU 〉を発売すると同時に解散発表をしたあとのことを計画ずみだった。
まず武道館の最終ステージをVTRにおさめ、それをもって各地でフィルム・コンサートを展開すること。同時にVTRとして売り出すこと。それとは別にビデオディスクを一枚製作すること。さらにカンパニー独自で製作するテレビ番組を一本作ること。これは民放のゴールデンタイムにオン・エアするつもりでいた。
以上のような計画を、スケジュールどおりに実施していけば、解散したあともオフコースの幻影は生きつづけるはずだった。少なくとも、上野はそう考えていた。それだけに、解散発表はインパクトの強い方法でなければならなかった。
会場は、アンコールの声がわきおこっている。
上野は熱狂する会場をそっと抜け出し、ぶあついじゅうたんを踏みしめながらステージへ通じるドアに向かった。そこで警備しているはずの係員の姿が見えない。多分、会場のすみでステージを凝視しているのだろう。
ステージ・サイドに行くとメンバーが顔を上気させて話をしている。汗のはりついたシャツを脱ぎ、Tシャツに着がえたところだ。
「だから、あそこの出だしがさあ」
「あんときおれ、聞こえなかったんだよね」
「いいじゃん。すっごく盛りあがってたよ。ドラムたたきながら、わかったもん、おれ」
声がオクターブ上がっている。アーティストの最も幸せな瞬間かもしれない。
「よし、じゃあアンコール、行こう」
最後には小田がそういってメンバー全員がステージへ出ていった。
上野はそういうとき、この五人の輪のなかへ入っていきがたい思いにとらわれる。同じ体温で話の輪に入ることはできない。彼らはミュージシャンでおれはスタッフなんだと思い知らされる。その間には深い溝がある。スタッフがたてた計画が、途中でカラまわりしてもしょうがないのかもしれないと、ふと思ってみたりするのだ。
熱狂するステージを、上野は黒い緞帳のかげから茫《ぼう》然《ぜん》と見つめている――。
第七章 長い一日
いつものように、その日は始まった。
大間ジローは目をさますとシャワーを浴び、「あと五回」とつぶやいた。六月二三日である。その日と翌二四日のステージを終えると三日間休み、二八、二九、三〇日とつづく武道館における最後のシリーズでオフコースのツアーは終了することになっていた。どう数えてみても、あと五回しかない。
武道館公演が始まったのは六月一五日だった。メンバー、スタッフは、自宅から武道館へ直行するという鈴木康博を除いて全員がその前の晩からホテル・ニューオータニに部屋をとった。ジローは何かのきっかけで、この武道館公演の際に事態が変わるのではないかと思っていた。初日、楽屋へ行くと、しかし何も変わっていなかった。
半《はん》蔵《ぞう》門《もん》から千《ち》鳥《どり》ケ《が》淵《ふち》へ向かいその交差点を右折。竹橋の手前で左に入る。科学技術館の前を通り、武道館へ向かった。正面玄関のあたりに、人の列ができていた。道路の近くにいたファンが走ってくるクルマの中をのぞきこみ、おどろいたように奇声をあげた。それもいつものことだった。クルマは、それに構わず北口玄関に向かい、その前でジローをおろした。楽屋は地下一階にある。コンサートでは楽屋となるが通常は貴賓室と呼ばれている。細長く、天井の低い部屋だ。変わったことといえば、いつもより花束が多いことぐらいだろう。タイガースの名前でも花束が届いていた。この四月に同じ武道館で行われたタイガースの復活コンサートをジローは松尾と一緒に見に行った。そのとき〈オフコース〉の名前で花束を贈り、ステージが終わったあとの打上げにも顔を出した。六本木の〈クレイジー・ホース〉だった。タイガースの関係者を中心とする内輪のパーティーになった。その席で沢田研二に紹介された。ジュリーがこう聞いたことをおぼえている。「オフコースって何人なんですか?」。オフコースのことを知らない人間がまだまだ沢山いるのだなと、ジローは思った。そのタイガースからオフコースに贈られた花束には派手なリボンがついている。
楽屋のテーブルの上にはいつものように、ゲームだの雑誌だのが置かれている。果物にはこぎれいにナイフが入り、その一つ一つにつまようじがついている。部屋のコーナーにあるテーブルには〈井泉〉のトンカツ弁当が積みあげられていた。オフコース・カンパニーのすぐ近くにある店から誰かが買ってきたものだろう。
メンバーは、いつもと変わったところは何もなかった。少なくともジローにはそう見えた。小田はゴルフのパターを握っていた。鈴木はチューニング・ルームに行っている。松尾はステージが始まる寸前に、いつものようにイアリングをつけるだろう。清水はカメラマンの田村仁が持ちこんだ巨大な望遠レンズつきのカメラを見ながら話をしている。
初日。例によってマスコミの人間が大勢おしかけ、正面玄関あたりでは、この公演が終わり次第オフコースは解散するのしないのとかまびすしかったが、メンバーのいる空間はいつもと何も変わっていなかった。
そして、もう武道館の公演も半分消化してしまった。「あと五回――」ジローは深いため息をついた。
六月二三日。清水仁はこのツアーが終わったあとのことを考えていた。彼は、すぐさまハワイへ行くつもりだった。
「松尾、ジロー、それにおれの三人は、オフコースの中では脇《わき》役《やく》やと思う」
彼はいった。単なる脇役ではない。むしろ意識的に脇役を演じているといったほうが正確だろう。小田が、表面的に、主役のふりをしているのだとすれば、若い三人はそれぞれの思いを内に秘めながら脇役に徹している。それによって、ほどよくオフコースのバランスは保たれていた。鈴木がやめたいといい出すことによってそのバランスが崩れかけたときでも、清水はそれまでのやり方をやめようと思わなかった。
スタッフに一度、解散について真剣なまなざしで聞かれたことがあった。
「仁さん、どうしたらいいと思う?」
「本当いうたらな」と、彼はそのときに答えた。
「どっちでもええねん」
どっちでもいいはずがない。しかし、どうでもいいとあえて軽くいうことによって、ともすれば崩れがちなオフコースのバランスを支えようとしていたわけだった。清水だけでなく、ジローも松尾も、その点に関しては同じだ。鈴木、小田に対しても、そしてスタッフの上野に対しても、いいたいことは山ほどある。それをのみこんで、清水はいうのだ。
「これから先、レコーディングもツアーもなんもせんでも、おれは全然、平気やね。一年や二年、すぐたつわ」
神経は太い、同時に繊細だ。
だからその日、六月二三日も、ニューオータニ、新館二四階の部屋で目をさますと、彼はいつものようにコーヒーを飲みに部屋を出た。
松尾はそのころ、まだ眠っている。
彼は起きだすのはいつも午後になってからだ。眠りにつくのは、たいてい朝方だ。何をしているというのでもない。部屋に一人いるときでも、彼は朝方まで起きている。じっと窓から見える景色をながめている。ながめながら、じつは自分の心のなかをのぞきこんでいる。スタッフと話しこんでも、同じように朝方になる。あとから思い出しても何を話したんだか思い出せないようなとりとめのない話だ。「もんもんルーム」とそれは呼ばれている。悶々という字を当てるのが正しい。朝、うっすらと外が明るくなるまで悶々として眠りにつくことがない。
昨夜もそうだった。暦の上では、最も日が長い季節だ。朝の三時半をまわったあたりで外がほのかに明るくなってくる。四時になれば、遠くの街並まで見わたせるようになる。それをたしかめてから、彼は眠りについた。
ジローや清水が起き始めたとき、したがって、松尾はまだ眠っていた。彼が目をさましたのは昼すぎだ。まだ少し眠そうな目をして、彼はホテルのラウンジへおりてきた。
鈴木康博だけが他のメンバーと離れて自宅から武道館に通うのに深い意味はない。ただ自分の家のほうが落ち着くからにすぎない。
結婚していて、子供はいない。結婚したのは二八歳のときだ。もう、六年も前のことになる。パートナーとはそれ以前からのつきあいだから、決して短くはない。そもそもはまだ小田と二人でオフコースをやっているころ、友達と一緒に楽屋に遊びにきたときに知りあった。ファッション・モデルをしていると、彼女はいった。仕事の内容を聞くと文字どおりファッション・モデルでオートクチュールのショーなどの仕事をしているといった。鈴木がまだ月に三、四万ぐらいの収入しかないとき、彼女はその一〇倍ほどの収入があった。鈴木が横浜の自宅に帰りづらかった時期だった。決まった就職を蹴《け》ってプロとしてやり始めたものの、うまくいってはいなかった。半ば必然的に鈴木は、当時千《せん》駄《だ》ケ《が》谷《や》にあった彼女のアパートに棲《す》みついた。それが結婚以前のつきあいだ。
気がつくと、鈴木はメンバーと単独行動をしていることが多い。今回もそうだ。コンサート期間中だというので、毎日、黒塗りのクルマがさし向けられた。
その日、六月二三日も、午後二時すぎに彼はクルマに乗りこんだ。
「あの問題はどうなっているのか」
と、彼は考えた。
ツアーが後半にさしかかり、最終日の六月三〇日が近づくにつれて気がかりになってきた。解散問題に関しては、オフィシャルには名古屋でのミーティング以後、話をしていない。が、彼は彼なりに自分の考えをスタッフに伝えてあるつもりだった。ツアーで仙台に行ったとき、マネジャーの西沢に「発表しない方向で考えている」ことをさりげなく伝えてあった。
鈴木は、ぎょうぎょうしく解散を発表することに、どう考えても耐えられなかった。記者会見をするなどというのは論外だが、新聞紙上でそれをいうのも腑《ふ》に落ちなかった。なぜ、そんなことをしなければいけないのか。彼にはわからなかった。たしかに上野のいうように、発表をしなくても個人的なインタビューを受けたときに語ってしまえば同じことになるのだろう。それはわかる。ならば自分もそれを語らなければいい……。しかし、彼はオフコースから離れて新しいことを始めようとしている。語らないことが、次のステップに影響するのではないか、とも考える。そこで逡《しゆん》巡《じゆん》していた。
西沢に「発表しない方向で考えている」と伝えたのは、そのふんぎりがついたからだ。オフコースがつづいていることになってもいい、と。ただし、彼は条件をつけたかった。他の四人も含めてオフコースのメンバーがオフコースとして何らかの活動をする場合は、五人全員の合意がなければならない、というものだった。
つまり、自分を除く他の四人がオフコースとして活動することはありえず、仮りにオフコースが何かをやるときは、自分もそれなりに発言権を留保しておくべきだろうと、考えたわけだった。
その話が、小田に伝わっているのか――それが鈴木にはわからなかった。六月二三日。その日だけは、鈴木はメンバーと一緒にニューオータニに泊まるつもりだった。ステージが終わったあと、全員でミーティングを開こうということになっていたからである。そこで一体、どんな話になるのか、彼はわかっていない。
小田和正は、あるジャーナリストのインタビューを受けていた。質問にこたえながら、彼はその日の夜のミーティングのことを考えていた。
ひとしきり、ステージの話を聞いたあと、ジャーナリストは、ついでだから聞いておくんだけど、という感じをとりつくろって、たずねた。「今後のオフコースの活動についてなんですが……」
やっぱり聞いてきたな、と小田は思った。
「いろいろ考えられると思うんだけどね」
小田は淀《よど》みなく答えようとした。
「ただ、これまでのような形でやるのはこれが最後だと思うね。毎年必ずツアーをやってレコーディングをして、みたいなね。ルーティンワークになっちゃうとパワーが落ちるでしょう。グループの基本的な考え方を変えてみたいという思いはあるね」
「例えば、どういうことでしょう」
ジャーナリストはメモ帳をめくってペンを構え直した。
「例えば、ミュージシャンとの契約にしてもただ漫然とつづいていくんじゃなくてね、一つ一つのテーマごとの契約にしたい。例えばツアーをするとするでしょ。日本国内のツアーを同じような形でやることはありえないから、例えば海外ツアーかな。おれたち、前から一度、それをやってもいいと思っていたしね。それも海外だけでやるんじゃなく、東京を起点として、ウエスト・コーストへ行くツアーとか。そういうツアーをやるときに、そのためだけに契約するとかいうことも考えている」
「要するに、オフコースに所属しているというんじゃなくて、メンバーそれぞれがフリーになるみたいな?」
「うん、それに近いかもしれない。特に若い三人にこないだも話したんだけど、オフコースにしがみついてるみたいじゃダメだってことだと思うんだ。それぞれがシビアにパワーをつけていかないとね」
「その場合、小田さん自身はどうするんですか?」
「これも前から考えていたことなんだけど、おれはおれで別のこともやり始めると思う。例えば、映画なんてすごく興味あるしね。映画音楽を作るのもいいし、じっくりと時間をかけてできるなら、自分で脚本を書くところからやってもいいと思ってる。そんなこともあるから、しばらく前から意識的に映画、映画っていい始めてるんだ。誰かがどこかでおれがそういってることに興味を持つかもしれない。そのためにも、スタッフって大事だなと思うんだ。映画を作れるだけのスタッフなんてかかえきれないけれどね。そういうことを考えていかれるだけのスタッフっていうのかな。と同時に、おれたちがこれまで作ってきた〈オフコース〉っていうブランドを大事にしたいと思う。オフコースが映画を作ってるらしいとなれば、それなりに耳を傾けてくれる層がある程度、いるわけでしょ……」
そんなふうに語りながら、小田は〈オフコース〉というグループの形をどう残すかを考えていた。
鈴木が解散発表するのをやめようといっていることは、西沢から聞いて知っていた。それだけでなく、鈴木個人としてのインタビューを受けるなかでもいうつもりはないということも、聞いていた。
それでいいと、小田は思った。鈴木がその気ならオフコースは、形のないまま、つづいていく。ただし、五人の合意を得て具体的に何かをやっていくのは容易ではないことも、彼はわかっていた。
「オフコースというブランドねぇ」
ジャーナリストがつぶやいている。
「うん、ブランドとなっている部分はあると思うよ。例えば、おれ個人が個人として何かをやろうとしても、マスコミとかファンは〈オフコースの小田和正〉が何かをやるというふうにうけとるでしょ。少なくとも今だったら、そうとられると思う。それはどうしようもなくブランドじゃないかな」
ブランド、とメモしてジャーナリストはその言葉をマルで囲んだ。
メンバーの控え室に行くと全員が、なんとなく時間をもてあましている。同じ場所で一〇日間のステージをつづけるのはミュージシャンにとってはラクなことではない。
「たしかに武道館でやってるんだけど、会場がライブハウスみたいに見えてきた」
清水がそんなふうにいう。
「ちっともデカく見えんわ」
「ステージの上から見てるからや。アリーナ席(一階席)のすみから見上げるとやっぱりすごいわ。三階席までワーっと埋まっとるからな」
答えたのは上野だ。
小田はテーブルの上にあった週刊誌をパラパラとめくっているうちに、オフコースについて書かれたコラム記事を見つけた。そこにはこう書かれていた――オフコースの解散騒動は武道館公演を盛りあげるための演出だ、と。小田はそれを読んでおかしくなった。
「松尾、インタビューするぞ。エー、うがった見方なんですが、オフコースの解散騒動は武道館公演のための話題づくりじゃないかという声もあるんですが、どう思いますか?」
「エー、それはですねぇ」
と、松尾が答える。
「ありえないと思います。なぜならばですね、武道館公演はすでに去年の一一月に決まっていてですね、今年の三月に全てのチケットは売り切れてるわけですね。オフコースは改めて話題作りをする必要がないんですから。以上です」
そういう記事が多くなってきたのは、それだけオフコースが世間の注目を浴びるようになってきたからだろう。
小田は、オフコースに関するニュースの方向を変えなければならないと思っていた。このままでいけば、六月三〇日の公演が終わったあとで、またあれこれ書かれてしまうだろう。
どうしたらいいか。
彼には思うところが、一つ、あった。
「開場します。よろしいですか?」
スタッフの一人が、開演の一時間前にいいにくる。時計の針は午後五時四五分をさしていた。そこからステージに出ていくまでの一時間が、長い。スタッフが口にくわえるタバコの煙で控え室が一番けむる時間だ。どこからか差し入れられた寿司をつまみ、お茶を飲む。その時の気分によってはリポビタンDを飲むこともある。ゴルフのクラブは、こういうときに役に立つ。
六月二三日。その日に楽屋に、中日ドラゴンズの星野仙一投手がやってきた。つきあいは、以前からある。友人だ。
「今日のジャイアンツ戦で投げるんじゃなかったの? さっき誰かがそんなことをいってたような気がするけど」
「いや、明日だよ、明日。せっかく招待状もらったからね。見とかんと」
珍しい客の来訪で、メンバーの表情に活気が出てきた。
「六時半になったら衣《い》裳《しよう》替《が》えをお願いします。開演は六時四五分です」
スタッフが、全員にきこえるようにいった。
やがて、ステージが始まる。
アルテックの604 ― 8 ― G。モニター・スピーカーからメンバーのヴォーカルの声が聞こえてきた。小田のすぐ右横にあるスピーカーだ。「おれは、これとコンサートをやっているみたいなもんなんだ」と、彼はいう。メンバーはステージの上に立ちながら、モニターなしで全員の楽器の音を聞くことはできない。メンバーそれぞれのすぐ近くに一台ずつモニター・スピーカーが配置されている。その音が耳に入るから、音のバランスは崩れない。小田の使っているアルテック604 ― 8 ― Gからは、主に他のメンバーのヴォーカル、コーラスが聞こえてくるようにセットされている。彼にとっては、そこから聞こえてくる音がたよりだ。
コンサートが後半に入り〈言葉にできない〉を歌っていたときだ。客席の最前列に大きなひまわりの絵を頭の上にかざして振っている女の子がいた。その曲の途中、ステージの両サイドとバックを使って四面のスクリーンでソフィア・ローレンが主演した映画〈ひまわり〉の冒頭シーンを見せている。気の遠くなるほど広大な、地平線が尽きるところまでひまわりが咲いているシーン。それを知って、彼女はひまわりの絵を用意してきたのだろう。それはそれでいいのだが、やがて彼女はそれを頭からかぶったのだ。小学校の学芸会で使うお面のように、なっているらしかった。顔がかくれて、ステージから見るとひまわりがそこで体をゆすり手をたたいている。
「いくらなんでも」
と、小田は思った。
「そこまでしなくたって……。あれは松尾のファンであるにちがいない」
あとで聞いてみると、そのひまわりにはメンバー全員が気づいていた。そして誰もが、あれは絶対におれのファンではないと思いたかった。そして何人かが、思わず吹き出しそうになった、という。
一五曲。アンコールを除いて、それだけ歌うと、メンバーは一度、ステージの真裏に用意された控え室に戻る。今日のステージはやけに長く感じると、小田は思った。
午後八時半をまわって、ステージは終わった。武道館には、北側にエレベーターがある。ステージが組まれているフロアは〈B2〉である。そこから〈B1〉の楽屋に上がっていく。エレベーターのドアが開くと、この公演の期間中メンバーを警備しているガードマンが鋭い視線でふりかえり、ハンディー・トーキーに向かってボソボソと何かつぶやいた。
午後九時半をまわった。
ニューオータニにひきあげると、メンバーはそれぞれの部屋に行き、シャワーを浴びてスイート・ルームに集まり始めた。
小田はシャワーを浴びるとビールをひと口飲んだ。そして、部屋に置いてあった例のポケット・ボトルの栓を開きブランデーに口をつけた。顔がほてってくるようだった。
全員が集まったのは一〇時すぎだ。一番おくれてきたのは上野だった。
上野はこの場でどういう話をしていいのかわからなかった。上野も、鈴木が解散発表しないでいこうといっているのを聞いていた。それはいちおうオフコースがつづいていくということを意味している。それでもいいと、鈴木がいうなら、それでもう結論は出てるやないかと思っていた。これ以上、話をすることで話がよけいにこみいってしまうことも考えられた。上野は久しぶりに全員で雑談でもすればいいのではないか、と思っていた。
「今日はいちおう皆さんの気持ちを確認しておきたいと思いまして……。要するに解散はない、と。そういうことだと思うんですが」
誰も特に発言しない。
「で、七月三一日にオフコース・カンパニーとメンバーとの契約は切れるわけで、今後はその契約を続行するというのではなく、オフコースがレコーディングなりツアーをやるときに単発契約をすると、こういうことだと思うんですが……」
しばらくの沈黙。それでいいのだろうかと誰もが考えているはずだった。
しかし――と、そこで立ちどまってみるならば、これは何という結論だろう。ここまで思い悩み、ああでもないこうでもないと戦略をたててきたのは、あれは一体何だったのかと、上野は思うのだ。そういう思いがあるから、おのずと彼の口は重くなってしまう。解散しないなら、それでいい。今までどおりにやっていくならば、だ。どうやらそうでもないらしい。小田はシステムを変えたうえで次のステップにいくという。鈴木は、どうなのか。今、それを突っこんで聞いていけば、鈴木はいいようがないだろう。次のステップなんて、おれはやる気がないとしかいえないのではないか。
「いくつか確認したいんだけど……」
鈴木がいいだすのを、小田がとめた。
「ヤス、それはもうみんなわかっているからいいよ。これから何をどうやっていくにせよ。オフコースが何かをやるときは五人の合意があって初めてできるんだから。それはもう、いいんじゃない」
鈴木がその小田を見た。小田は鈴木を見た。五人のメンバーがいて、一番左に座っているのが小田だった。一番右には鈴木がいた。彼らはいつもステージの上のように並び、座る。ステージが、今と同じ順なのだ。小田と鈴木はいつも両極にいた。小田は、そこで再び議論を始めれば、今までやってきたことのくり返しになるだろうと、思った。オフコースを存続させるための細目を決めようと思えばできないことではない。しかし、生身の人間と人間との関係のなかで細目を決めることのむなしさもある。やがて、細かなとり決めだけが残って、内実は崩壊してしまうだろう。
鈴木には、小田が何をどう考えてそういうのか、わからない部分がある。わかるのは、小田が自分とは違うことを考えているということだ。それは仕方がないことでもある。おたがいにそれぞれの人生を自覚的に歩いている人間なのだから。おたがいに、もう夢だけを語って生きていける年齢ではない。
また、しばらくの沈黙。
「なんにせよ、つづけているってことのほうがええわ」
清水がいった。
「チューリップはやめないと思わない?」
松尾が話題をかえようとした。〈チューリップ〉というのは、ニューミュージックのグループだ。キャリアはオフコースと同じように、長い。
「メンバーは三五、六になってんのに、まだ“チューリップ”やからな」
清水がそういうと、皆笑った。「あいつらやめんよ。なにせ、こわがりやから。いなかモンの結束の強さや」。そこでさらに笑い声が大きくなった。「おれ、秋田生まれなんだけど」――松尾がいうと、今度は松尾が笑いの対象になった。「ローリング・ストーンズはどうするのかな。あいつら今、二年に一度ぐらいしかツアーをやらないだろ」小田がいうと清水がすぐにいい返した。「あいつらかて、銀行預金が減ったらなんぼでもやるわ」そしてまた、笑った。ジローがいった。「じつはおれ、村田英雄がスゴイと思ってるんだ。こないだ天安門の前で撮った写真を見たけどさ、まるで坂本竜馬っていう雰囲気なんだぜ。歌詞がすごいよ。〈皆の衆〉なんてさ。皆の衆、皆の衆、おかしかったらハラから笑え……っていうじゃん。あれ、ロックンロールだよ」。あまり真《ま》面《じ》目《め》な顔をしていうものだから、また笑い声がうずまいた。そんなふうに笑って話をしていることのほうが、解散云《うん》々《ぬん》をいいあっているよりもずっと貴重なことだった。五人とも、先を競うように笑い声を出した。笑っているうちは、シビアな問題を避けることができると思いながら。いつまでも、そんな話がつづきそうに思えた。
「ぼくはね、じつはね」
小田が、突然、いいはじめた。
彼がメンバーとの話の中で「ぼく」というのは珍しいことだった。
「横浜球場でやりたいと思っていたんだ。今までいわなかったけどさ、後楽園なんかではやりたいとは全然、思わないんだよ。おれとヤスは横浜だろ。だから仁の場合は大阪球場でやってさ、ジローと松尾は秋田だから秋田県営球場でやるとかね」
小田は、この話をこの席で持ち出そうとしていた。
「おれ、ステージに立たんと前で見てるわ」
清水が冗談まじりにそういったが、ジローがすぐに反応した。
「それいい! 秋田はいいからさ。横浜球場やろうよ。ねぇ、西さん――」
と、ジローはスタッフの西沢に聞いた。
「すぐできるんでしょ」
「規模によるんだよね。一日だけだと“赤”が出ちゃうんだ。仕込みが大変でしょ。一回あそこでやると二万五〇〇〇人入るんだけどそれだけじゃちょっと苦しいね。二回やれば大丈夫だし。三回やればかなりの“黒”になるな。問題は球場があいてるかどうかってことだろうね」
「大丈夫! できる。空いてるよ。やろう。バンザーイ」
ジローが一人、走った。
鈴木は、どこまで本気なんだという顔で小田を見た。小田は冗談でいってる感じではなかった。
鈴木はふっと、笑った。
横浜――彼らにとっては思い出の多すぎる町だ。
大学に入った年だから一九六六年だ。八月に横浜、石川町の県立勤労会館でアマチュアながらコンサートを開いた。〈FOLK SONGの……〉というタイトルをつけた。三〇〇人、観客が集まった。小田はギターを持ち、鈴木はウッドベースを担当した。翌六七年二月にも同じ場所でコンサートを開き、そのほぼ一年後の六九年四月には、横浜青少年ホールで三回目のコンサートを開いた。この会場は一〇〇〇人ほど収容できる。それでも関係者も含めよく入っていた。
その経験が、ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストへの出場へとつながっていったわけだった。
横浜はいわば、彼らの原点でもある。
五人でオフコースを組むようになってから、何度か横浜の県民ホールのステージに立った。清水は、そのステージの上で小田が涙を流しているのを見たことがある。
鈴木にしても、その横浜でやろうという話には心動かされるものがあった。それをわかっていて小田はあえてこんな場所でその話を持ちだしてきたのかなと、彼は思った。だとするならば、作戦勝ちだ。横浜球場でやるとしても、どうしたって八月以降になるだろう。カンパニーとの契約が切れたあとになる。鈴木はもうすでにカンパニーの役員の座をおりている。そこでステージをやるとなれば、小田のいうオフコースの新しい契約関係の、最初の具体的ケースになるだろう。
横浜球場か――と、鈴木は小田の顔を見ながら思った。やってもいいかな、と。
「ヤスさん、やろうよ」
ジローが、その鈴木の背中をポンとたたいた。
「じつはね、横浜球場でやらないかっていう話があったんですよ」
西沢がいった。「今年の四月ごろかな。七月に空いてるからという話だったんだけど、そのころはホラ、六月で全て終了ということだったじゃない。それで断っちゃった。もう一度、話をしなおすことができるかもしれないんだ」
「よし、それでいこう!」
ジローの声だ。
「後楽園球場のサイモン&ガーファンクルがすごかったからな」。鈴木はいった。「面白いかもしれないな、横浜球場でやるっていうのも」
上野は、話の推移をただ、見守っていた。
「このグループは……」
と、彼は考えていた。
「要するに既成事実を作っていったほうが勝ちなんや。グループというのはだいたいそうなのかもしれない。ああでもない、こうでもないといっているうちに誰かが走りだすとそれについていく。観念的に方針をたてるだけでは、どっちへも動かない。具体的な形を提示してそこに巻きこんでいった者がリーダーシップをとる……」
仮りに上野が、いちはやく新聞のスペースをおさえ、版下原稿を作っていたら、この日ここではこんな話にならなかっただろう。もう、突っ走るしかないだろうという点で全員の意見がまとまったはずだ。切り札は、九回裏に出すべきだったなと、上野は思った。先に先頭を走り出した者は、途中の風当たりが強い。そしてその風当たりの強さに疲弊し、抜かれていく。上野の解散プロジェクトがまさにそれだったのではないか。
「解散するなら、解散コンサートは絶対に横浜でやろうと決めてたんだよな」
小田がいった。
それをこの場になるまで、彼は口に出さなかった。解散という形をとることを、心のどこかで拒否してきたからだ。それを十数年間にわたってつづけてきたグループに対するノスタルジーだといってしまうとウソのように思える。たしかにそれは、彼にとっての〈青春〉の時代だった。あとからふりかえってみれば、ノスタルジーを感じる部分もある。が、それだけではなかった。解散、という活字が自分たちがやっているオフコースにかぶせられたとき、彼はいいようのないいらだちを感じた。解散とは単なるプロセスにしかすぎない。何かをクリエイトしていこうと思えば、考え方が変わることもあれば、感性そのものの転換を迫られることもある。同じ感性から生まれるものの連続性に埋没してしまうのなら、それまでのことだ。そうではなく、次のステップを踏もうと思えば、何かを変えていかなければならない。そういう意味で、小田は鈴木を理解できた。鈴木がやめるといったとき、それは同時にオフコースから次のステップを踏むときがきたのだと、思った。が、現実に活字となってあらわれてきた〈解散〉は、それとはほど遠いニュアンスだった。人気を得てしまったグループは、クリエイティビティーとはまた別のところで〈解散〉が語られてしまうのだ。その勢いは、決して小さなものではない。うっかりすると〈解散〉ということによって、オフコースのキャラクター性だけではなく、メンバー個人個人のクリエイティビティーまで終わったものと位置づけられてしまいそうなニュアンスがある。単に〈場〉を変えようとするだけであっても〈あの人はもう終わったのよ〉と、いとも簡単にイメージのなかで消去されてしまう。それが現実であるならば、それにあらがうよりも〈オフコース〉という幻想としての〈場〉を残しておいたほうがいい――彼はそうも考えた。解散せず、ということにこだわった理由の一つは、そこにある。
「よし、じゃあ決《ヽ》をとるで」
清水がいった。
その場にはオフコースのメンバー五人のほかに六人のスタッフがいた。
「横浜球場でやることに賛成の人」
手があがった。小田はもちろん、鈴木も手をあげていた。一、二、三……と、清水はその人数をかぞえた。「九名」
「じゃ次に、どうでもええ人」
ハーイと手をあげたのは松尾と清水だった。
「よし、じゃあこうしよう。横浜球場が決まったら、その収益はメンバー全員で分けちゃおう」
西沢がいった。
「一日だけいうことはないやろな。一日やって赤字になって収益ゼロなんていわれたら、たまらん」
そういい返したのは清水だ。そして、皆は笑った。
どうやら、決まったようだった。横浜球場のスケジュールがとれれば、七月三一日の契約切れのあとであっても、やる。
時計を見ると一二時をまわっていた。
小田は立ちあがって、廊下へ出た。
「今のは本気なの? 冗談なの?」
誰かがいっている。
「おれ、本気で話を進めるよ」西沢がいっている。
「これでいいんだよ」
そういった。少なくとも、小田は今の結論を本気にしたかった。シリアスに論じあうよりも、今のような寓話を積み重ねることで、事態を前に進めたほうがいいと、彼は考えていた。
小田は一人で歩き出した。「ハラ減っちゃった。メシ食ってくる」
深夜。ニューオータニに人影は少ない。エレベーターはノンストップでロビー・フロアに降りた。本館一階のコーヒー・ショップ〈アゼリア〉へ行くと、小田はスコッチの水割りをダブルでと注文した。スープを選び、ビーフストロガノフをオーダーした。そして、つぶやいた。
「長かった、今日は」
エピローグ ギブアップ
現実は、ドラマほどドラマチックではない。
ツアーはとどこおりなく終わろうとしていた。
オフコースのマネジャー、上野博は武道館の正面入口の横にセットされた招待者入口のあたりに立っていた。六月三〇日。五時をすぎたあたりから、そこにも長い行列ができ始めた。五時半をまわると、さらに長くなった。取材のために最終日のステージにやってきた人も少なくなかった。開場し、先頭から順番に受け付けていくと、そのあとからまた人が増えた。一日あたりの招待席には限度があった。最終日だということで、いつもよりは余分に席を確保しておいたつもりだった。それでもひっきりなしに、やってくる。ゲストはほかの日ではなく、最終日のステージをマークしてやってきたわけだった。それでも入れないわけにはいかない。途中で全員に決まった座席を確保するのをあきらめざるをえなくなった。
やっと人の列がはけると、六時半をまわっていた。
まもなく、コンサートが始まる。外はまだかすかに明るさを残していた。
武道館の外へ出ると、チケットが手に入らなかったファンがそこかしこに佇《たたず》んでいる。当日券を期待してきたのだろうが、チケットは全て前売りで処理してしまっていた。歓声が遠くから聞こえてきた。コンサート会場の音が外にまでかすかに聞こえてくるようだった。その歓声が途切れたと思うと、演奏が始まった。いつものように、小田は何もいわずにプログラムに入っていった。
上野はそこで聞いていようと思った。
三曲、つづけて演奏したあとで、小田がいつも簡単なあいさつをする。そこで何をいうか、特に打合せはしていない。何かをいわざるをえない。その言葉を聞いてみようと思ったわけだった。
小田の話し声は、さほど明《めい》瞭《りよう》ではない。ぼそぼそと、つぶやくように語る。
「みなさん、どうも今日は……」
会場の中のファンが発する声のほうが大きいくらいだ。
「ツアーは今日で終わりですが……」
小田はいっている。
「いろいろいわれていますが、ぼくたちはこれからも頑張っていこうと思っています……」
また大きな歓声がわきおこった。
それ以上、小田は語らなかった。会場が再び静まりかえって、次の言葉を待つ雰囲気になる寸前に、小田はマイクを遠ざけ、楽器に向かった。
それ以上に何かを語ることもできた。もっと言葉を尽して語ることもできたはずだ。しかし、ステージの上から下へ流れていく言葉は、客観的にうけとめられることがない。ステージの上では、ミュージシャンだけではなく、その言葉までカラフルな照明に当てられてしまう。そして、小田は口をつぐんだ。
あっさりと片づけたなと、上野は思った。これでいいのだと、彼は自分にいいきかせた。スポーツ新聞の記者が一人、上野を見かけて近寄ってきた。
「解散しないんだね」
「しないよ。いってたじゃない」
そういいながら、上野には自信がない。
「これからのスケジュールを教えてよ」
「えーと、メンバーは今日のステージが終わり次第、休暇に入ります。外国に行くのが二人いるな。清水と松尾。あとの三人は日本にいるんちゃうかな。七月の後半は、また仕事をするよ。カンパニーで作ろうと思うてるテレビ番組があるからね。そのサウンド・トラックを作ろうという計画がある」
「そのあとは?」
「そのあとは……まだ正式に決まっとらんからいえんけど、いくつか考えてることがないこともないよ」
記者は深追いはしない。そこでどれだけくいさがっても、何も具体的な話は出てこないことはわかっていた。適当にきりあげて早く原稿を書いたほうがいい。翌朝の新聞に、その記事を載せるスペースがあけてあった。
「あらかじめ教えといてよ。書かないから」
「そりゃまずいわ」
「それじゃ、ま、そんなところだな……」
そういって、記者が立ち去っていった。
翌朝、オフコースは解散しないという記事が出るだろうと、上野は思った。しかし、そのあとをどうプロモートしていったらいいのか、彼にはアイディアが浮かんでこない。
小田和正は、その日の午後まで返事がくるのを待っていた。
六月二三日のミーティングのあと、スタッフはすぐに横浜球場でコンサートを開ける日があるかを打診しはじめた。正面から聞いたら、おそらくノーといわれるだろう。仮りに、なんとかあけられる日があったにしても、一度、オフコースの側が申し入れを断っているという経緯がある。西沢は、いくつかのルートから球場スケジュールの空白をさがし始めた。小田も西沢も、やるなら八月を考えていた。それ以上おそくなるのならやめようという点で意見が一致していた。今度のツアーの〈追加公演〉という形でコンサートは開く。ラストコンサートが行われる六月三〇日から日がたちすぎたのでは意味がない。
小田は、ステージに間にあうまでにOKの返事がくれば、武道館最終日のステージでそれを発表するつもりでいた。解散をその場で宣言するのではないかともいわれているなかで、逆に近い将来のコンサート・スケジュールを発表してしまう。それによって解散ムードは簡単にふきとんでしまう可能性があった。
この日、ニューオータニを出る前に、西沢から報告があった。
「ほぼ決まりかけているんですけどね」
と、西沢はいった。
「今日の段階で日程を発表するのは避けて下さい。ドタン場でひっくりかえる可能性もあるから」
「いつなの、いちおうの予定は?」
「八月の一二、一三日の二日間です。多分、OKだと思うんですけどね……」
小田は、わかったといった。
ならば武道館最終日のステージでは、ごく自然に、いつもどおりにいっておこうと決めた。解散については、ことさらに触れるのはよそう、と。
だから、彼の気分も、いつもと同じだった。いつもとかわったことといえば、最終日にはステージを撮るテレビカメラが入っていることだった。計一四台のカメラを動員してあった。ありとあらゆる角度から、テレビカメラがその日のステージを収録しているはずだった。それにしても、初めてのことではない。各テレビ局からコンサートの中継をやらないかという話があったが、それを断って、オフコースはまず身近かなスタッフの力を借りて武道館のステージを撮ったことがある。八一年の三月に前回のツアーが終わった。その途中で解散問題が出てきたツアーである。その最終日は、今回と同じ武道館だった。経費はカンパニーの負担でその日のステージをVTRにおさめた。小田はテレビのブラウン管でオフコースのコンサートを見るのがどういう感じなのかをつかんでおきたいと思った。それを見た結果、彼はこう結論を下した――「テレビで一時間以上、コンサートを見せられるのは、よほどビッグなグループじゃないと苦痛だろうな」
客観的な見方をしたわけだった。彼は、自分のやっているオフコースというグループを主観的に見ることをしなかった。おれたちは〈ビッグな〉存在なのだと誤解しすぎることはなかった。
半ば自主製作に近い形でオフコースのテレビ番組を作ろうとしたとき、小田は「ステージを中心に構成するのは避けよう」という意見を述べた。
どこか、醒《さ》めていた。
その醒めた目が〈解散〉ではなく、形の上だけであるにせよ、〈存続〉を選択したわけだった。
ともあれ――
最後のコンサートが行われる日、表面的には変わったことは何も起きなかった。
華やいでいたのは、彼ら五人のメンバーが着る衣裳ぐらいだっただろう。
小田和正は淡いクリーム色の上下のステージ衣裳をあつらえた。ステージの上では白に見えるはずだった。同じ色の上下を清水仁、大間ジローも作った。鈴木康博はスラックスを皆と同じ色にして上にはピンクの上着を着た。それが不思議と似合っていた。松尾一彦は同じ色のスラックスに、派手なステージ衣裳を身につけた。松尾は耳にイアリングをつけるのを忘れなかった。ジローはいつものようにステージに出る直前に頬《ほお》にファンデーションを軽く塗った。
午後の六時四五分をまわったころに、スタッフがメンバーに知らせにきた。
「時間です。ステージにおりて下さい」
五人は控え室を出てエレベーターに乗った。〈B1〉から〈B2〉へ。ステージの真うしろに当たる踊り場のところで小田がいった。
「久しぶりに、アレをやるか」
よし、と残りの四人がいった。
五人がそれぞれ、右手をさし出した。そして順々に重ねあわせた。一番最後に、小田が四人の手の平が重なった上に自分の右手の平を重ねた。
ジローがいった。
「今日でツアーは最後なんだからくれぐれも、悔いのないステージをやるように。いいね!」
その瞬間、彼らの中にわだかまりは何もない。最後のステージが終わったあとどうするのか、と考えている者は一人もいない。横浜球場でのコンサートもまだ決まっていなかった。希望というレンズで将来を見つめても、絶望的に考えても、その先にはとりあえず、空白の時間が見えているだけだ。それでも、彼らは手を重ねあわせることができる。あるいは、これが最後なんだと、心のどこかで決めているからかもしれない。いずれにせよ、このあと五人は、今までとは違った方向の活動をしていかなければならない。それに向かってアクセルを踏み込むためにも、けじめとして手を重ねておかなければならない。
「よし!」
全員でそう叫ぶと、彼らは薄暗い通路をステージに向かって歩いていった。ステージへ上がる階段の下までくると、立ちどまることなく、そのままかけあがっていった。
スモークがたかれていた。五人はパイロット・ランプに足もとを照らされてそれぞれの持ち場に散っていった。いつものように。音が流れ始めると、光が交錯し、もやに包まれたなかに五人の姿が浮かびあがった。
小田和正と、取材の最後に話をしたときのことを記しておこう。
彼はこう語っていた。
「オフコースっていうのは、珍しいくらい音楽という部分で結びついていたグループだと思う。特に、最初はそうだった。おれとかヤスはそもそもはP・P・Mやフィフス・ディメンションが好きで音楽をやっていた。おれ自身のことでいえば、そもそも音楽が好きになったのは映画音楽というものに出会ってからだからね。仁は最初がベンチャーズであり、次にビートルズでしょう。松尾、ジローはまたちょっと違ってタイガースが好きで音楽を始めて、ビートルズに行ったりロックに行ったりしていた。ジローなんか、それでいて村田英雄がいいという部分があったりする。
考えてみればみんなバラバラなんだけど、共通していることが一つ、あったと思う。それはみんな音楽というものに偏見がなかったということだろうね。自分が偏愛するものだけを認めてそれ以外は音楽じゃない、なんていうのは一人もいなかった。それぞれが、他の人が好きなものを認めて、自分も本気に好きになってやってきた。音楽のいいところは理屈や趣味のレベルをこえて認めながらやってきたということだと思うんだ」
「それが暗礁にのりあげた」
「音楽とは関係ないところでね。イーグルスが解散したときにも、音楽的行きづまりだとかいわれたけど、おれはそうじゃないと思うんだ。むしろ、人間関係だと思う。そういうところで行きづまるのはよくわかる。たいていそうなんだ。考えてみてごらん。音楽が行きづまるなんてことは、ありえないよ。
ある人にこういわれた。片方で解散という問題をかかえながら、オフコースはそれ以前よりもずっといいLPを作ってきた。〈 We are 〉より〈 over 〉のほうがいいし、それよりもいちばん新しい〈 I LOVE YOU 〉がいいという。それが不思議だというんだ。片方で解散という問題をかかえながら、作るレコードはどんどんよくなっていく。なぜなのかわからないといわれた。おれはね、いいものができてしまうときは人間関係の部分を超越して、ちゃんといいものができてしまうということだと思う。少なくとも、おれはそうだね。作り手がきちっと自分の作品に対《たい》峙《じ》していれば、いいものができてくる」
「じゃ、オフコースがこれからもクォリティーをおとすことなくやっていける?」
「そこだね、問題は……。具体的に何をやるかが決まったときは今まで以上のパワーを発揮する自信はあるけれどね。……ところで」と、小田は聞いた。
「本のタイトルは何にするの?」
「ギブアップ」
「やっぱり。……最初と変わらないね」
「変わっていない」
その日、三度、アンコールにこたえると彼らはステージをおりた。いつものように控え室に戻ると、荷物をまとめた。
別れぎわのあいさつはこうだった。
「じゃ、また」
あとがき
まず初めに、いくつかのことがらに感謝しておきたい。
ぼくは音楽を専門とするジャーナリストではなかったし、ミュージシャンの動向に通暁している事情通でもなかった。音楽の世界とぼく自身の関係をいえば、その世界に何人かの友人がいることと、時折り気まぐれにレコードを買うぐらいのことでしかなかった。つまり、ぼくはごくふつうの目で、この世界をながめていたのだと思う。
そういう視点からミュージシャンとその周辺の動きを見ていて、不思議なことが一つ、あった。活字、写真、電波……あらゆるメディアを通じて見えてくる彼らが必要以上に増幅されているのだ。彼らはメディアに対しては、たいていヴォルテージ高く、何かを語っているようだった。それは彼ら自身がそうしたいというよりも、メディアの側がそれを求めているようでもあった。カッコよく何かを語らなければおさまりがつかないところに追いこまれているように、見えた。ぼくの目には、たいていのミュージシャンが厚化粧をしているように、見えた。等身大の彼らのなかには、まるでた《ヽ》だ《ヽ》の《ヽ》人《ヽ》もいるだろうけれど、等身大の自分を見せても十分に第三者を説得できる人間もいるはずだった。
そういう人たちの非日常ではなく、日常を書いてみたいと、ひそかに願っていた。いくつものキャッチ・フレーズのついた華々しいイベントの中におけるミュージシャンではなく、誰もが生きるような日常を生きている彼らを書いてみたかった。そのほうが、はるかにくっきりと〈ミュージシャン〉と呼ばれる人間たちの像が見えてくるのではないかと思えたのだ。
ノンフィクションという形でそれを書くには、チャンスが必要だ。非日常ではなく、ごくあたりまえの日々を見て、体験できなければ、筆は動かない。この本は、それゆえ、まず機会を与えられたことから始まった。第一に、そのことに感謝したい。オフコースというグループは、その日常のなかに、たまたま、〈解散〉問題というテーマをかかえていた。自分たちの日常の質を変えていかなければならないと考えていたわけだった。そういうケースのなかで、ぼくは日常の中に時折り非日常が顔を出すというシチュエーションを見ることができた。たまたまとはいえ、ターニング・ポイントに立つ彼らを取材の対象とさせていただくことができた。そのことにも、深く感謝しなければならない。
なかでも、オフコースのリーダーである小田和正氏からは、本人は気づいていないかもしれないが、いくつものヒントを得た。何げない会話のなかから、あるいはレコーディングをしているときの姿勢から、ぼく自身、得たものが大きかったと思っている。また、鈴木康博氏の、決然と新しいステップを踏み出していく姿勢には、ぼくだけでなく、読者の何人もが共感しうるはずだ。人生は、あらかじめ自分のために用意されているわけではない。つくりあげていこうという意志がなければ、形として凝固していかない。そういうものだと、ぼくは思っている。
清水仁、松尾一彦、大間ジロー。この三人のキャラクターは得がたい。彼ら三人がいなければ、この本は味けないものになっていただろうと、思う。
その後のことを、書いておきたい。
筆者が単行本という形でこの本を上《じよう》梓《し》したのは八二年の夏、オフコースが、カギカッコつきの「解散」をした直後だった。秋になって鈴木康博が自分の事務所を設立し、冬にマネージャーの上野博がオフコース・カンパニーを離れたことは冒頭の〈はしがき〉で書いた。この一年間、オフコースは、具体的活動を何もしなかった。
しかし、彼らが何もせずにこの一年間を過ごしてきたわけではない。無為もまた、貴重な時間であると信じたい。彼らはミュージシャンであることをやめてはいない。それぞれが、それぞれの方法で次のプロジェクトをスタートさせるだろう。文庫版のあとがきで、そのことを強調しておきたい。
一九八三年 初夏
山 際 淳 司
Give up
山《やま》際《ぎわ》 淳《じゆん》司《じ》
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平成12年10月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Jyunji YAMAGIWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『Give up』昭和58年6月25日初版刊行