THE DARK BLUE
山藍紫姫子
[#表紙(表紙.gif、横90×縦130)]
目 次
THE DARK BLUE
THE DARK SHADOW
あとがき
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THE DARK BLUE
[#改ページ]
T
十二月一日
ロサンゼルス
センチュリーシティー・マリオットホテル
午後一時
どこからか教会の鐘の音が聞こえていた。
オリヴィエは聞こえてくる鐘の音が、遠い記憶の底からのものであるのか、それとも、神の許《もと》へと召される時が来たがために聴《き》くことを赦《ゆる》されたのかを意《おも》った。
だがすぐさま思考は乱れて、まとまらなくなっていた。
頭の中がぼんやりとしている。
身体の感覚も麻痺《まひ》してしまったのか、指先すら動かせず、胸は息苦しく、下肢は鉛を詰められたかのように重かった。
瞳《ひとみ》を開けることすら億劫《おつくう》で、どうにか眼瞼《まぶた》をみひらくことができても、今度は、暗闇の中にいることしか判らなかった。
暗闇は暖かかった。
そして感じることができるのは、教会の鐘の音だけなのだ。
鐘の音は、風に乗ってくるのだろうか、遠のいたり、またはっきりと近くで聞こえたりもする。近隣に教会があっただろうかと考えて、オリヴィエは束《つか》の間《ま》、正気にもどった。
罷《まか》り間違っても、あの悪魔が、ロキシー・アルカードが、教会の近くに居を構えるはずのないことを思い出したのだ。
ここでまたも、頭の芯《しん》が虚《うつ》ろになっていく。
その時だった。
「レヴィ……」
耳元で、低くなめらかな声がしたのにオリヴィエはハッとなり、いっきに正気をとりもどした。
目の前の、闇の中に金色の双眸《そうぼう》が浮いていた。
魔物の眼眸《まなざし》だった。
「ロキシー……」
オリヴィエは、嫌悪をまじえた音《こえ》で、彼の名を口唇《くちびる》に刻んでみた。
すると、闇の奥で、妖しい篝火《かがりび》のように光っていた双眸《そうぼう》が、すうッ…と細められた。
「こうされるだけで、気絶するほど悦《よ》かったらしいな」
人間の姿をした魔物から、低く、魅惑的ですらある声音が発せられると同時に、オリヴィエは、自分の内奥に埋め込まれている塊が、脈動したのを感じた。
一瞬だが息が詰まりかけた。
「どうした、また気絶しそうか?」
揶揄《やゆ》するようなロキシーの声がして、オリヴィエは屈辱に口唇を噛《か》んだ。
今のオリヴィエは、寝台の上に押さえこまれ、仰《あお》のかされ、男に伸し掛かることを許しているのだ。
それも、より深く結合するために、割りさかれた両足の膝裏《ひざうら》にあてがわれた手によって、下肢を持ちあげられるというあられもない姿をとらされていた。
さらにこの時ロキシー・アルカードは、この世のものではない超常的な力で、オリヴィエが聴いていた救いの鐘の音を感じとったようだった。
すぐさま、顔の筋肉が歪《ゆが》み、嘲笑《あざわら》いがつくりだされていくのが、闇に慣れはじめたオリヴィエの眼に映った。
人間を惑わせるためにこの世に甦《よみがえ》った魔物であるロキシーは、獅子《しし》のたてがみを想《おも》わせる見事な金髪を持ち、容貌《ようぼう》は、男が見ても惹《ひ》かれるほどに整っていて、美しい。
その上に、鋼の筋肉に鎧《よろ》われたブロンズ色の肉体には、牡《おす》の生き物としての精悍《せいかん》さが備わっていた。
けれども今は、普段、それらの裡《うち》に隠されている凶悪な心が、嗤《わら》う顔に滲《にじ》みでて視《み》えた。
おもわず眼を閉じあわせようとしたオリヴィエを、ロキシーは許さなかった。
「眼をあけて俺を見ろよ、そのほうが、感じるぜ」
ロキシーは喉の奥で笑いながら、次に小さく、合図するかに指を鳴らした。
瞬間、――寝室の天井にパアッと、星空がひろがった。
アアッと、オリヴィエが息を呑《の》んだことを、彼の内奥に存在するロキシーが感じとっていた。
「星…」
掠《かす》れた声がそう口走るのを聞いて、ロキシーは、
「プラネタリウムだ。前から欲しがっていただろうが」と、耳元に囁《ささや》きかけた。
オリヴィエのために、彼は三週間もかけて、天界を彩る四季の星座が、調節次第ですべて観ることができるという、小型プラネタリウムを取り寄せていたのだ。
「…ああ、そうだ。欲しかったんだ、ずっと以前から……」
絶え絶えに答えたオリヴィエは、肉奥を犯す妖《なまめか》しい苦悶《くもん》から逃れようとでもするかに、人工の星空へと視線を彷徨《さまよ》わせた。
「お前の瞳の中に、星が宿っている」
濃いほどに青い瞳に映る星を覗《のぞ》きこみながら、ロキシーは下肢を持ちあげると、怒張で、オリヴィエの深層をこじあけるように突き進んだ。
「お…おぅ」
瞬間、オリヴィエは鋭い快楽の矢に射貫かれたかのごとくに悲鳴した。
「この都市では、星が拝めない」
繊細な美貌《びぼう》が苦悶に歪《ゆが》みながらも、上気していくさまを楽しみながら、ロキシーはわざとリズムを乱し、強弱を異ならせた抽送で、彼を責めたてた。
「あッ、あッ」
オリヴィエの肉が、ひき攣《つ》るように慄《ふる》えた。
「いつか、俺が見てきた星の話を、お前にしてやろう、オリヴィエ…」
甘く囁《ささや》かれても、もう、囁きなど耳に入らぬほどにオリヴィエは首筋を歪め、白い喉《のど》をのけぞらせ、喘《あえ》いでいた。
「く…うッ」
喘ぎながらも、いつしか、オリヴィエの肉体は歓びを貪《むさぼ》ろうとして、ロキシーにしがみつき、しめつけているのだ。
だが、締めつけることは、それだけ肉奥を圧迫している異物の存在を強く感じとることでもあった。オリヴィエは、自分では制御できない肉奥の作用によって、自分自身を責めたててしまうのだ。
「う…ううッ…」
呻《うめ》きがオリヴィエの口唇《くちびる》をついてでる。
彼は呻きに悲鳴がまじってしまわないように、奥歯を噛《か》み縛って、怺《こら》えなければならなかったが、やがて極まったのか、呻きが乱れた。
乱れたまま、吐息にかわった。
吐息は、嬌声《きようせい》を帯びた。
淫《みだ》らに反応しはじめたオリヴィエを、金色の双眸《そうぼう》で凝視《みつ》めながら、ロキシーは灼熱《しやくねつ》の楔《くさび》で踏み躙《にじ》り、秘密の園を蹂躙《じゆうりん》していく。
もはや気絶するほどの鋭い一瞬を与えるつもりはなく、狂おしいほどに永く、執拗《しつよう》な恍惚感《エクスタシー》に溺《おぼ》れ果てるまで、追い詰めることにしたのだ。
思うがままに犯され、屈辱を感じながらも、快楽の中へ堕《お》ちていくことをとめられずに、オリヴィエは咽《むせ》び泣きを洩《も》らした。
「い…っ…ああ…」
歔《な》きながら、我知らず、ロキシーに下肢をこすりつけ、双丘に埋めこまれている楔を締めあげてしまうのだ。
充溢感《じゆういつかん》と、圧迫感で、苦しい。
さらにそこを擦られ、掻《か》き回すかに捏《こ》ねくりあげられる。
「あ、…あ、ロキ…シー…」
オリヴィエの肉奥がビクビクっと収斂《しゆうれん》したのを感じた瞬間、ロキシーは素早く身を退《ひ》いて、すべてを抽《ひ》きずりだした。
「おお…う――」
激しい情熱が一気に削ぎとられ、オリヴィエは苦しみから解放されたが、突き放された肉体が、成就されなかった悦楽を恨んで、すすり泣くように小刻みに震えた。
だがロキシーは、焦《じ》らすつもりなどないのか、すぐさまオリヴィエの下肢を抱え、今度は寝台の上に這《は》わせる格好に組み敷いた。
「やめてくれッ、…こんな――…」
より屈辱的な姿に、快楽を求める肉体も萎《な》えて、オリヴィエの背筋から硬質な双丘にかけて、狼狽《ろうばい》の戦慄《せんりつ》がはしりぬけた。
しかし、獣の姿をとらされることへの逆らいの抵抗は、もろく撥《は》ね除けられ、その上のいかなる拒絶もロキシーには通じなかった。
そればかりか、圧倒的な力によって、掲げさせられた双丘が割りさかれると、オリヴィエはさらなる羞恥に悶《もだ》えさせられた。
秘裂の狭間にある、無理やりに開花させられた花がロキシーの眼に映っているのだ。
「めくれあがって、内部《なか》まで丸見えだぜ」
「ああッ…」
言うなりロキシーは、屈辱に喘《あえ》ぎながらも、切なげに息を弾ませているオリヴィエに肉の兇器《きようき》をあてがい、一気に貫いた。
「うううッ…」
背後から貫かれることで、もっとも深く結合する。
苦悶にオリヴィエは身をよじらせ、少しでも楽になろうとしてか、もがいた。
もがいて、逃れ出ようとしたが、四《よ》つん這《ば》いにさせられて、さらに掲げられた腰を落とすこともできないほどに深く、肉奥に芯《しん》を挿《い》れられていては、やがて力尽きて、支配を受けることになってしまった。
背後から挑みかかってくるロキシーを、満身で受け止めさせられるのだ。
だが、またも抽送を繰り返されていくうちに、ついにオリヴィエは怺《こら》えきれなくなり、シーツを握った両手を突っ張らせ、まるでおたけびをあげる獣のように、凶暴で、強烈な快感に呻《うめ》きを放っていた。
「――…」
絶叫に近い嬌声《きようせい》がほとばしるたびに、喉元《のどもと》が上下し、反り返った。
その、白く、なめらかな首筋がロキシーの眼にはいった。
かすかに、魔物の息遣いが荒くなり、まわりの空気が変わりはじめる。
昼間から、カーテンを引いてつくりだされた闇が、どろりとした粘液質なものになっていくのだ。
闇の中でロキシーは、歓《よろこ》びを極め、のけぞるオリヴィエの身体の上へと包みこむように覆い被《かぶ》さりながら、反らされてくる白い首筋に舌をはわせ、舐《な》めあげた。
舌先に、オリヴィエの肌のしたを流れる脈動が、さらには心臓の鼓動までもが感じられたのだろう、ロキシーは肉悦から得られるのとはまた違う歓びに慄《ふる》えたかとおもうと、首筋に口唇《くちびる》を圧《お》しつけた。
低く唸りながら、彼は接吻を繰り返し、オリヴィエの首筋の、やわらかく、かぐわしい肌を、口唇と舌先で愉《たの》しんだ。
まるで、餌《えさ》を与えられた犬が、匂いを嗅《か》いでいるような仕種でもあった。
あるいは、愉しみを引き延ばして、来るべき一瞬を、より劇的なまでに素晴らしくしたいと願っているかのようだった。
けれども、我慢も限界に近づいてきたのか、首筋から顔をあげた時、ロキシー・アルカードの口唇の端からは、ふだん隠されている二本の歯が、――歯というよりは、鋭い牙が突きだしていた。
オリヴィエの内部で、ロキシーがこれ以上は、というほどに膨れあがった。
同時に、首筋にはわせられた口唇《くちびる》からのびた鋭い牙が、やわらかい肌を裂き、肉に喰《く》いこんできた。
「―――」
瞬間、声もなく、オリヴィエは全身を硬直させたかとおもうと、かきむしるように掴《つか》んでいたシーツから指をはずして、身を反りかえらせ、背後にいるロキシーによって抱きとめられた。
「あううッ…」
抱かれながら、首筋から血を啜《すす》りあげられる感触に、瞬く間に肉体が極まって、快感に弾けた。
凶暴な快楽に翻弄《ほんろう》された一瞬が過ぎると、オリヴィエは耳の後ろを激しい勢いで血が逆流していくのを感じて、双眸《そうぼう》を閉じあわせた。
ロキシーの方は、首筋から血を啜りあげ、喉を鳴らし、嚥《の》みくだしはじめている。
――魔物のために、オリヴィエの心臓は、ふいごのように激しく脈打ち、新鮮な血を送り出しつづける。
首筋の苦痛と、下肢にもたらされる快感とが複雑に混じりあって、ふたたびオリヴィエは恍惚《こうこつ》となりはじめていた。
苦痛と、快楽と。
これがロキシーのやり方だった。
そして、血を吸われ、生気を奪われていくのとは逆に、オリヴィエのなかにロキシーの記憶が入り込んでくる。
この魔物は、どれほどの年月を生きてきたのか――…。
だが、ロキシーが満足してオリヴィエを突き放すころには、夜の夢を忘れてしまうように、オリヴィエの裡《うち》にはなにも残らない。
やがて、頽《くずお》れてしまったオリヴィエから身を放したロキシーは、肉の楔《くさび》を抽《ひ》きずり出し、寝台を降りて窓際へ行くと、勢いよくカーテンを開いた。
パァーッと、冥《くら》い部屋の中に、身を灼《や》きつくすほどに眩《まぶし》い陽光が入ってきた。
寝台の上で俯《うつぶ》せていたオリヴィエは、眩しさに眼を閉じなければならなかったほどだ。
反してロキシーの方は、全身に刺激的な光を浴びながら、聳《そび》えるように立ち、快晴の空を仰いだ。
「見ろ、いい天気だ」
その姿に――…、あらゆる悪を浄化するといわれる太陽の光も、十字架も、聖水も、ニンニクも、なにもかもが、この魔物には効力をもたないのではないかという恐れを感じ、オリヴィエは打ちのめされる。
それは、自分が、この魔物から逃れられないということでもあったからだ。
ここは、ロサンゼルスの中でも、開発と近代化が著しいセンチュリーシティー。
この都市《ロサンゼルス》で、もっとも太陽に近い高さにある高層ホテルの一室だった。
同じ土地に長くとどまれないロキシーは、数か月単位でホテルを移り住む生活を送っているが、なにをするにも便利がいいこのマリオットホテルがよほど気にいったのか、二十八階の特別室《スイート》には一年近くも滞在しているのだ。
二つの寝室のほかに広いリビングとダイニングルームがあり、サンタモニカの水平線が見渡せるバルコニー式の中庭がついたスイートに住んでいる吸血鬼。
ロキシー・アルカード。
二十一世紀を間近にした現代のアメリカに、古《いにしえ》の奥津城《おくつき》より甦《よみがえ》り、人の生き血を求めて彷徨《さまよ》い続ける吸血鬼が存在しているなどと言って、誰が信じるだろうか。
そしてオリヴィエが、彼の餌食《えじき》とされ、血の供給を強いられているなどと……。
―――誰が信じるだろうか。
だが、永遠の魔物であるロキシー・アルカードは、陽光を浴びた後で寝台のところへと戻ってくると、まだ貧血で起きあがれずにいるオリヴィエの枕元に腰を下ろし、自分のやり方に満足しているかのように双眸《そうぼう》を細めた。
男らしく整っているロキシーの容貌《ようぼう》から比べて、オリヴィエの美貌《びぼう》は繊細すぎた。
それは男の美貌ではなく、かと言って、女性的というのでもなかった。
麗《うるわ》しく、精緻《せいち》に細工された鋭角的な部分が、弱々しく青ざめている今ですらも、近より難い、冷たい雰囲気をもっていた。
いまだかつて、オリヴィエほど美しい男を、ロキシーは知らなかった。
ふっと、ロキシーは、オリヴィエの横顔に、教会に掲げられている聖堂画の中の、天使の一人を思い浮かべ、口元から笑みをこぼれ落としていた。
ロス=エンジェルス。
|天使の女王たる聖母マリア《ヌエストラ・シニヨーラ・デ・ロス・アンヘレス》の町に、俺のような魔物が居ようとはな――と。
そうしてロキシーは、このアメリカという国が気に入っていた。
ここには何でもあり、彼のような魔物が棲むには格好の国なのだ。
まずなによりも、土地が神聖の力を失っているからだ。
それは、先住民族の信仰を根絶やしにして、新しい信仰を強いた結果で、もちろんロサンゼルスも例外ではなかった。
カリフォルニアがスペインの植民地だった時代には、この地にはインディアンの小集落があるだけだった。
ロキシーには、この土地に封じ込められた旧い神のあげる悲鳴が聞こえるのだ。
旧い地名を変え、新しい名前を冠した時に、大地は加護を失う。人間は、なにも判っていないのだ。
寝台のオリヴィエが、かすかに身動《みじろ》ぎ、生気が戻ってきたようだった。
するとロキシーは、透けるほどに青ざめた肌、首筋からむき出しの肩、なめらかな背筋へと指をはわせていき、まだ欲望を満たされていなかったのか、
「この肌を引き裂いて、鮮血を浴びたい」と、言った。
「――今日は、駄目だ…」
オリヴィエは魔物の手を払いのけた。
それから、痛めつけられた身体を庇《かば》うように寝台の上に起きあがらせると、
「――これから人と会う約束がある」そう、続けた。
「ヘーゼル・ヴェイか?」
すかさずロキシーは、オリヴィエの恋人である東洋系の医師の名前を出してきた。
「違う」
オリヴィエは否定してから、注意深く寝台を降りた。
ロキシーが加減をしているためか、動けなくなるほどではなかったが、やはり血を吸われた後は、怠《だる》く、身体を動かすことが苦痛になっている。
それでもどうにか自力で立っていられることが判ると、今度は、寝室の壁にかけられている巨大な装飾鏡の前まで歩いて行き、噛《か》まれた首筋を確かめた。
オリヴィエの首筋には、血を吸われた痕《あと》がうすい痣《あざ》として残っていた。
確かに牙を突き立てられたのだが、ロキシーは伝説の吸血鬼のように、首筋に歯形を残すような真似はしない。
その上に、ドラキュラ伯爵がみたら気を悪くするのではないかと思われるほど、均整のとれた逞《たくま》しい肉体と、精力的な行動の持ち主で、獣じみているのだ。
また吸血鬼は処女の血を好むと言われるが、彼らにも独自の嗜好《しこう》がある様子だった。
ロキシーは――、彼に関して言えば、処女の血というよりは、人間の、恐怖に味つけられた血を好み、あるいは、エクスタシーに甘くとろけた血を好むようだった。
オリヴィエは、そんなロキシーを満足させられる血の持ち主だったらしい。
彼は、自分がひとおもいに殺されるのではなく、生かされ、定期的に血を吸われていることでそう思うのだ。
首筋の痕《あと》を、シャツで隠せるかが気になっているオリヴィエに、
「レヴィ…、今度はいつ逢えるんだ?」と、ロキシーが訊《き》いてきた。
オリヴィエは、巨大な鏡の中から、寝台にいる彼へと視線を合わせた。
「きみは、何時でも、わたしを呼び出せるだろう、こちらの都合などお構いなしに」
鼻先でロキシーが嘲笑《あざわら》うようにするのが、鏡に映ってみえた。
「ヘーゼルとの約束を、すっぽかさせたことを恨んでいるんだな」
またもヘーゼルのことを持ち出す彼に、
「少なくともわたしとヘーゼルとは、心が通じあっている」――だから、逢えなくとも、どちらかが約束をすっぽかしたとしても、許しあえる間柄だと、オリヴィエは言い返してみた。
「ちッちッちッ…」
嘲笑うように、吸血鬼は牙を擦《す》りあわせて不快な音をたてた。
一瞬だが、その音はオリヴィエの脳の深層を刺激して、遠い、子供のころの記憶を呼び起こした。
旧い家系に生まれたオリヴィエの生家には、広大な屋敷の地下に先祖の遺骸《いがい》を納めた霊廟《れいびよう》があり、幼い日のこと、彼は従兄弟たちとともに探検と称して、死者の聖域に足を踏み入れたのだ。
霊廟の内部に入った時、巣くっていた蝙蝠《こうもり》が一斉に飛び立ち、驚いた従兄弟の一人が大|怪我《けが》を負った。
ロキシーの立てた音は、あの日に聞いた蝙蝠の鳴き声に似ているのだ。
さらにロキシーは、牙をむきだしにして、
「レヴィ…」と、オリヴィエを呼んだ。
「その名で呼ぶなッ」
いやな過去の記憶が思い出されたことと相俟《あいま》って、おもわずカッとなり、オリヴィエはヒステリックに叫んでいた。
「呼んでいいのは、ヘーゼルだけってわけか?―――レヴィ」
ロキシーの金色の双眸が、あんな男の、一体どこが良いのか? と言っている。
だがすぐに、ロキシーは不機嫌な表情になり、
「ならばそのヘーゼルに、今のお前がどんなだったか、話してやろうか?」と、言った。
「好きにすればいい」
オリヴィエは投げやりに答えて、もう彼を相手にすることをやめた。
それから、身体を洗うために浴室へ向かった。
貧血で倒れてしまうことを警戒しながら、彼は壁づたいに歩き、二つある浴室の、普段ロキシーが使わない方に入った。
入るなり中から鍵をかけ、そこでようやく人心地ついたというふうに、安堵《あんど》の溜《た》め息《いき》をもらした。
白い大理石で統一された浴室の中いっぱいに、十二月とはおもわれないほどの陽光が降り注ぎ、金の蛇口が、眩《まぶし》く輝いている。
ロキシーがこの浴室を使わないわけは判っていた。
反対側の寝室についている浴室の方には、テレビが置かれてあり、彼は大理石のジャグジーバスにつかりながら、この国の娯楽番組を観《み》るのだ。
だから、こちら側の浴室を使うのはオリヴィエだけだった。
彼は、浴室の、縁に細かい装飾の入った鏡の前に立つと、またも全身を映し出して凝視《み》た。
血が少なくなったせいか、普段でも病的に青白い肌や爪先が、さらに透けるほどに白くなっているのに気がついた。
それなのに、口唇《くちびる》は、血を吸ったかのように、赫《あか》く、腫《は》れぼったいのだ。
「わたしは、吸血鬼に血を吸われた人間を見分けることができるだろうよ…」
自嘲《じちよう》的にオリヴィエはひとりごちて、それから、泣き笑うかのように口唇を歪《ゆが》め、噛《か》みしめた。
まだ首筋が、痛みと熱をもって、ずきずきと疼《うず》いている。
血を吸われた時のことを考えると、それだけで眩暈《めまい》に襲われ、満足に立っていることすらできなくなってくる。
ロキシーに犯されて下肢でひとつになり、血を啜《すす》りあげられ、その代償として、彼の想い出を共有させられたあの瞬間が、オリヴィエに眩暈を起こさせるのだ。
オリヴィエは、はじめて肉体を奪われ、血を啜りあげられた時に感じた恍惚《こうこつ》感に、自分がいまだに支配されていることも認めないわけにはいかない。
――あの日、すべてに失望し、死ぬ場所を探して夜の街を彷徨《さまよ》っていたオリヴィエの前に、ロキシーは現われたのだ。
闇の中で吸血鬼は、生《い》け贄《にえ》に選んだ人間の血を、恐怖で味付けさせ、空腹を満たしていた。
そこには、死と獣の匂いがあった。
オリヴィエは、その者こそが、神が自分のために遣わしてくれた死の使者であると信じた。
信じて、身を委ねたのだ。
だがロキシーは、まごうことなき邪悪の化身でしかなかった。
思い出したくないことを振り払うように、オリヴィエはゆっくりと瞬《まばた》きした。
眼を開けた時に、自分を取り巻く世界のすべてが変わっていることを願うかのように、ゆっくりと、深く。
――しかし、いつもと同じく、なにも、何一つも、変わらないことを思いしらされるだけだった。
身支度を整えて浴室を出ると、ロキシーがまだ全裸姿で寝台の上にいることが判った。
「レヴィ、本気で帰るのか?」
オリヴィエは、自分に注がれている金色の双眸を無視して、寝台から隣にある居間の方へと移り、ソファの上に投げ出したままになっている鞄《かばん》を取りあげた。
それから、部屋を出ていく前にもう一度、居間にある巨大な鏡の前に立って、髪の乱れを直した。
癖のないオリヴィエの黒髪は、絹糸のように艶《つや》やかで美しく、東洋系の人間で溢《あふ》れているこのロサンゼルスにいても、人々の注目を浴びることが多かった。
そして、青い、暗いほどに青い瞳《ひとみ》。
――ラピスラズリ。
オリヴィエは自分の青い瞳をヘーゼルがそう讃《たた》えてくれたことを思い出した。
神秘的な、宝石の名前。
いまその瞳は、苦痛と悦楽の余韻に濡れて、瞳孔《どうこう》が大きく開いている。
首筋には薔薇《ばら》色の吸痕《キスマーク》。
「自分の美貌《びぼう》にみとれてるのか? オリヴィエ」
いつの間にか、背後に立っていたロキシーに声をかけられて、オリヴィエはビクッと竦《すく》みあがった。
考えごとをしていたのは確かだったが、彼が近づいていることに気がつかなかった迂闊《うかつ》な自分が悔やまれた。
いまさら、こんな風にこの男に怯《おび》えたことがまた、オリヴィエは許せなかった。
そんなオリヴィエに向かって、ロキシーは腕を伸ばしてくると、ほっそりとかたちのよい顎《あご》を掴《つか》み拘《と》り、背後にいる自分の方へ、反りかえる格好で仰のかせようとした。
上背のあるロキシーがオリヴィエを見下ろすことになるが、すぐさま、ロキシーの顔が降りてきて、互いの口唇《くちびる》が触れ合った。
だが、鏡の中にはロキシーの姿は映っていなかった。
オリヴィエが淫《みだ》らにひとりで悶《もだ》えているかのようだ。
それが徐々に、ロキシーの輪郭が顕《あらわ》れ、鏡の中に、彼の姿が映し出されてきた。
やがて、引き締まったブロンズ色の、さながらギリシャの彫像にもにて、眩《まばゆ》いばかりの健康さを漂わせている肉体のすべてが鏡にあらわれた。
だが、彼こそが、まごうことなき邪悪の沈殿、呪《のろ》われた吸血鬼にほかならないのだ。
オリヴィエは、彼に囚《とら》われ、血の供給を強いられる贄《いけにえ》でしかない。
「悪魔め」
オリヴィエは、彼を罵《ののし》った。
「では、お前は一体なんだ? 悪魔を恐れないお前は…」
睦言《むつごと》のようにロキシーは耳元に囁《ささや》きを吹きかけてくる。
「恐れている、――誰よりも……」
身動《みじろ》ぎながら、オリヴィエは喘ぐようにいった。
「嘘をつけ」
熱い口唇がオリヴィエの耳朶《じだ》をくすぐり、軽く、噛《か》みついてきた。
「よせッ」
オリヴィエは、ロキシーに抱かれた腕の中で身を捩《よじ》らせ、腕《かいな》の桎梏《しつこく》から逃れ出た。
用心深く後退って、彼から距離を保ったが、追ってこないことが判ると、部屋を横切ってクローゼットの中からコートをとりだした。
「プラネタリウムを見ていかないのか?」
オリヴィエは、鏡に寄りかかったままでそう声をかけてくるロキシーを、出て行く前に振り返り、上目遣いの一瞥《いちべつ》をくれた。
「約束があるんだ」
そして素早くドアの把手《ノブ》に手を掛けると、逃げるように彼の特別室《スイートルーム》を後にした。
廊下に出てからオリヴィエは、エレベーターホールへ行く途中に電話が置かれてあるのに気がつき、店へと電話をいれた。
今までにも幾つかの職業に就いてきたオリヴィエだったが、半年ほど前からは、ロディオ・ドライブにある宝石店に勤めていた。
店で彼は、オリヴィエ・シェリダンという偽名をつかい、宝石の鑑定と販売をしているのだ。
宝石に特別な興味があったのは遠い昔のことで、もっぱら現在のオリヴィエにとっては、宝石という普遍的なもの、その輝きを見ることによって、心の一部分が慰められることの方が重要だった。
電話が通じると、店の支配人《マネージヤー》は外出したきり戻ってこないオリヴィエに対しての怒りを隠さなかった。
「――済みません、商談が長引いてしまって、――ええ、アルカード氏です」
惜し気もなく金を遣い、宝石を購ってくれるロキシー・アルカードの名前を出すことで支配人の怒りを少しはやわらげることが出来たが、オリヴィエはすぐに戻ると告げて電話を切り、急いでエレベーターホールへ向かった。
昼間から、スイートルーム専用の高層階へは、上がってくる者もなく、辺りはしんと静まり返っている。
手にしていた鞄《かばん》を床に置き、オリヴィエは深緑色のコートを身に着けた。
昨年の冬に、イタリアから生地を取り寄せて仕立てさせたコートだったが、また痩《や》せたので、大きく感じられた。
ふいにオリヴィエは、自分のためにプラネタリウムを買おうとしていたことが必要なくなったので、新しいコートをつくろうかとも思ったが、コートよりも、貯金していた金をヘーゼルへのクリスマスプレゼントに当てることを思い付いた。
彼のためにもう少し高価なものを、あるいは、特別に意味のある品物を選ぶのだ。
この思い付きは、オリヴィエを幸福な気分にした。
冷えきった胸の奥に、暖かな炎がともってくるようだった。
そこへ、微かに軋《きし》む音がして、エレベーターが上がってきた。
やがて眼の前で停り、左右に扉が開いた。
運良く、エレベーターボーイは乗っていなかった。
こういう高級ホテルになると、エレベーターボーイまでが気取っていて、出入りの商人を装っているオリヴィエを見下す仕種をみせる。気にしなければ良かったが、すべての時にそれが出来るわけではなかった。
だから今は、無用に傷つけられることがないだけでも、――ほっとして、地下にあるロビーへの直通ボタンを押した。
扉が閉じるとともに、ぐん、という感じでエレベーターは揺れ、いっきに下降しはじめた。
最初の縦揺れが起こった瞬間に、オリヴィエは眩暈《めまい》を感じて、壁に寄り掛からなければならなくなった。
「な……」
瞬時に、身体中の力が引き出され、頭の中を通りすぎて上へとぬけていくような衝撃があり、それが弱まると、意識が朦朧《もうろう》となってきた。
さらに、冷や汗が流れてきて、息苦しくなり、立っていられなくなっていた。
――倒れる。
気絶するだろうことが自分で判った次の瞬間、オリヴィエは、背後から力強い腕によって抱き支えられた。
「こんな状態で帰れると思っているのか?」
ロキシーの声がした。
「いやだ……」
抗《あらが》おうとしたが、オリヴィエの意識はそこで遠のいていった。
U
オリヴィエが眼を開けた時、自分をとりまくすべてが、旧い映画のように黄色いスクリーンが掛かってみえた。
ここがどこなのか、見知った場所であるのに思い出せない。
だが、こんな風に頭の芯《しん》がぼんやりとしていて、思考がまとまらないのは、貧血のせいだと判っていた。
こういう症状は始終だったからだ。
どこかで、電話の呼びだし音が鳴っていることに気がついたのは、それから間もなくだった。
物憂い身体をそちらへと向け、オリヴィエは意識を集中させた。
まず、ロキシーの姿が眼にはいった。
彼は上半身裸で、細いラメ糸を織りこんだストライプ入りのパジャマのズボンだけを身に着けていた。
裸の上半身は、健康な人間が金をかけてでも欲しがるような、素晴らしく均整のとれた肉体だった。その上に、夏の間中を浜辺で過ごしたかのように、ブロンズ色に灼《や》けているのだ。
眩《まぶ》しく、美しかった。
オリヴィエは、自分が夢を見ていたのかと思った。
確かにロキシーの部屋を出たはずなのに、まだこうして、――裸で、彼の寝台の中にいることで、いささか混乱しているのだ。
けれども直ぐに、エレベーターの中で貧血を起こし、気を失ったことが思い出されてきた。
――時間は…。
寝台脇にあるナイトテーブルの時計を見ると、午後五時をまわっていた。
もう、約束の時間はとうに過ぎていた。
――鞄《かばん》は…。
自分が持っていた鞄に、数点の宝石を入れていたことを思い出し、オリヴィエは慌てて寝台の中から起きあがった。
起きあがった位置から、窓際の寝椅子に、着ていたコートから、衣類、そして鞄が無造作に置かれてあるのがみえた。
安堵《あんど》した途端に、飛び起きたことによる反動が、眩暈《めまい》という形でやってきて、ふたたび寝台に身を横たえなければならなくなった。
ロキシーは、ホテルの交換手との短いやりとりの後で、まったくオリヴィエの解さない、この地上のどの国の言語でもない異国語で話しはじめている。
彼の不思議な言葉を聞いていると、オリヴィエの身体にふつふつと悪寒が走った。
おそらく、ロキシーと同じ仲間が、この世のどこかにいて、こうして連絡を取り合っているのだ。
同時にオリヴィエは、今まで思ってもみなかったことを、――相手の吸血鬼も自分のような餌食《えじき》を持っていて、束の間、生かしているのだろうかと、考えてみた。
考えると、ゾッとする。
その時だった。ドアがノックされる音がした。
ロキシーが電話の途中で振り返り、入ってくるように声をかけた。
それから彼は寝台の中にいるオリヴィエに向かって、
「食事を頼んでおいた」と、言い、ふたたび電話での会話を続けはじめた。
ハッとしてオリヴィエが起きあがったと同時に、居間の方のドアが開き、若いボーイが食事を乗せたワゴンを押して入ってきた。
ボーイは、豪奢《ごうしや》な家具で埋めつくされた居間をまっすぐ横切って、開け放たれたままになっている寝室の扉の所にやって来たが、中を見るなり、驚きを隠せない様子で立ちすくんだ。
今までにも、わざと情事の場に呼び付ける悪趣味な客がいない訳ではなかったが、彼は、男同士の現場に出会《でくわ》すのは初めてだった。
それも、ホテルの従業員の誰もが噂《うわさ》し、ある意味で憧れている美丈夫ロキシー・アルカードの部屋で、それを見せ付けられるとは思わなかったのだ。
さらにボーイは、オリヴィエのことを知っていた。
週に一度か、多くて二度、スイートに滞在しているロキシーを訪ねて来る宝石商として知っていたのだ。
ほっそりとした美しい男だとは思っていた。
美貌《びぼう》に恵まれた人間の中にも二種類あって、一方は、美しさを放射線のように輝かせながら放っているタイプで、もう一方は、内向しているタイプだ。
この宝石商のオリヴィエは、後者のタイプだと思っていた。
実際、オリヴィエは、男としては美しすぎるが、見るものに強烈な印象を与えるほどではなかった。
――それは、彼が永い時間をかけて身に着けたもので、目立つことを極端に恐れるが故のものだったが、今、ボーイは、寝台の中にいる全裸の彼から、普段では感じとれなかった艶《なま》めかしさを感じていた。
手折られた花のもつ物憂げなさまと、淫《みだ》らさがそこにはあって、彼を取り巻く空気すら、甘いような気がするのだ。
こんなにも美しく、妖《あや》しい色香のある青年だったかという驚きに、ボーイは戸惑わされていた。
だが、彼は、オリヴィエの美しさに幻惑される前に、肉体を使って商売をしている者への嫌悪を感じたようだった。
それでも努めて冷静を装い、寝室のテーブルに食器のセッティングを済ませると、電話中であるロキシーにではなく、オリヴィエの方に向かって、食前酒《アペリテイフ》の用命と、シャンパンの好みを尋ねてきた。
オリヴィエは、自分がロキシーの寝台の中に裸でいることに狼狽《ろうばい》しながらも、素早く済ませてしまいたいとばかりに、
「シャンパンは甘口を……」と指定した。
すると、すかさずボーイは、「いつもは、極辛口をご用意させていただいておりますが」と、付け加えたのだ。
瞳の中には、明らかにオリヴィエを男娼扱いしている様子がうかがわれた。
――それと、怒りだ。
ボーイは、ロキシーの女ともだちのために気配りを行き届かせた寝室や浴室を、美貌《びぼう》だが、商売のために客と寝ることも厭《いと》わない宝石商の店員がつかうことには、我慢がならないようだった。
オリヴィエは、それがロキシーの演出でなされたことを感じとった。
「わたしは甘口と言ってるんだ」
おもわずオリヴィエは、挑むように口にして、これ以上の侮辱は許さないとばかりに睨《にら》み付けたので、ボーイの方は黙って退《ひ》き下がった。
電話を終えたロキシーが面白がって見ているのを尻目に、オリヴィエの方は苛立っていた。
こうなることが判って、ボーイを招き入れたロキシーのやり方が、腹立たしいのだ。
「おい…」
さらにロキシーは、ボーイに合図をして、ドレッサーの中からガウンを取ってこさせると、自分で受けとり、寝台にいるオリヴィエの肩に掛けた。
「腹が空いているから苛立つんだ」
ボーイに聞かれることも厭わずに、ロキシーは口にする。そして見せ付けるかのように、着せかけ、襟元を合わせ、紐を結んでやろうとした。
彼ほどの男に奉仕を受けているオリヴィエに、ボーイは羨望と嫌悪の眼を向けていたが、訓練された無表情を保った。
だがオリヴィエの方は、頭の中に、青年《ボーイ》が考えていることが不快なノイズのように入り込んできて、屈辱的な差恥《しゆうち》に身体が強張ってくるばかりだ。
やがて、チップを受けとってボーイがさがって行くのを見届けてから、ついにオリヴィエは、発作を起こしたように慄《ふる》えを放った。
「あのボーイは、わたしが宝石を買って貰うためにこうしていると思っている」
口唇《くちびる》の端で笑いを噛《か》み殺しながら、ロキシーは、
「ならば、勘違いするなと教えてやればよかったんだ。ここにいる魔物を養っているのは、この私の方なのだとな」そう言って、したり顔で顎《あご》を撫でた。
「もう、ここへは来ない」
ロキシーの戯言をオリヴィエは無視した。
噂《うわさ》は直ぐにホテルの中を駆け巡るだろう。客のプライバシーよりも、ボーイは自分が感じた嫌悪の方に重点を置くのだ。
人間は、嫌悪を覚えた時に、その膿《うみ》を身体から吐き出すために誰かに喋《しやべ》らずにはいられない。でなければ、その毒で、自分が参ってしまうのだ。
「では、俺がお前の所へ行くぞ」
「やめてくれ、もう、わたしを解放してくれ」
悲痛な声を洩《も》らしたオリヴィエに、チッチッチッと、ロキシーは例の不快な音をたてた。
「その肉体、血の味、お前ほどの餌食《えじき》を持っている者は、おそらく俺だけだろうな」
口の中に残っている血の味を思い出してか、ロキシーは舌なめずりせんばかりになり、
「手放すと思っているのか?」と、言葉をついだ。
さらに、
「くだらん店員なんぞの仕事を辞めて、また俺と一緒に住めばいいんだ。ちゃんとした身形《みなり》して、鞄《かばん》の中のちっぽけな宝石の心配をすることもなく、全身を宝石で着飾り、旨い物を食――」
それがお前のことであると言わんばかりに、伸ばされてきたロキシーの指先が、オリヴィエの顎《あご》に触れ、首筋をすべって喉元《のどもと》でとまり、
「好きな酒を飲み、面白く生きる」と、言葉が続けられる。
つぎにロキシーは笑いながら、
「ともかく今は食事を摂《と》るんだな。元気になってもらわないと、俺が困る」と言って、テーブルの上から、肉皿を取りあげ、寝台の上にいるオリヴィエの前に、突き付けるように差し出した。
皿には、ローストされたばかりの巨大な肉片が乗っていて、まわりをたっぷりの果物で飾りつけられていた。
肉汁《グレービー》とソースが混ざりあった香りに、弥《いや》が上にも空腹を感じさせられ、オリヴィエは添えられたナイフとフォークを取りあげた。
ロキシーは非常に辛抱強さを発揮したので、オリヴィエは、彼が支えていてくれる間に、自分が食べられると思うだけの肉を切ってから皿を受けとり、膝の上に置いた。
つぎにパンと、少量の果物をロキシーが持って来たので、それも受けとった。
パンは、ロキシーが気を利かせたのか、蜂蜜がぬってあった。
かつてオリヴィエは、喉《のど》のために蜂蜜を溶かした飲み物を飲んだことを思い出したが、現在《いま》、蜂蜜パンを食べたいとは思わなかった。
食前酒《アペリテイフ》には、――ロキシーに囚《とら》われてから、オリヴィエはワインを飲まなくなったので、シャンパン用のフリュートグラスを手にした。
一通りの奉仕《サービス》が終わったとみるや、ロキシーは、自分のためにはグレンリヴェットをストレートで用意して、寝台へとあがった。
そうして、当然のようにオリヴィエの前に陣取り、互いに向かい合う形になった。
一瞬、オリヴィエは嫌な顔をしたが、諦めて、皿の肉を食べることに専念した。
そんなオリヴィエを凝視《みつ》めながら、ロキシーは酒を楽しみはじめ、時おり、思い出したかのようにグラスにシャンパンを注いでやっては、
「どうした? もっと旨そうに食えよ」と言ってみたり、腕を伸ばしてオリヴィエの身体に触れ、嫌がられたりした。
「雨が降ってきたな…」
しばらくしてから、窓の方を見るでもなく、ロキシーがそう言った。
一年中温暖な気候に恵まれているロサンゼルスだったが、十二月から二月にかけての間は冬季にあたり、肌寒く、よく雨が降る。それでも気温が十度以下に下がることは滅多にないのだ。
――傘がない。ということを思い出しながら、オリヴィエは、半分以上が残ってしまった肉の皿を脇に押し退け、寝台から降りた。
横になって休んでいたことと、食事を摂《と》ったことで、朦朧《もうろう》としていた頭の中も、身体の方も、随分としっかりしていた。だが廊下へ出ていくだけの気力を持ち合わせずに、彼は、寝室のテーブルに置かれた電話を取った。
オリヴィエは、店に電話を入れ、戻らなかった理由を説明し、あるいは言い訳しなければならなかったのだ。
案の定、電話の向こうでは、支配人が烈火の如くに怒っていて、このままでは馘《くび》にすると脅してきた。
対してオリヴィエは、ただ謝り続けるだけしかできなかった。
謝り続けることが逆に支配人を増長させるのか、あるいは、日ごろオリヴィエに対して感じている不満や鬱憤《うつぷん》がここぞとばかりに噴出したのか、彼の怒りはなかなか治まらない様子だった。
寝台の上から、電話口で謝り続けているオリヴィエを見ていたロキシーだったが、やがて見兼ねたのか、降りて行き、かわりに受話器を奪いとった。
ロキシーは、名乗った後で、
「俺が引き止めたんだ。先日のサファイアの件でな」と、支配人に向けて言った。
それは、余りに高価過ぎて買い手がつかずに困っていたスターサファイアのことだったので、支配人ばかりでなく、傍らで聞いていたオリヴィエの方も驚かずにはいられなかった。
「クリスマスまでに加工できるのならば、それを貰《もら》おうと思っている」
ロキシーの一言で、瞬く間に商談は成立した。
この魔物に不可能はないのか、彼は浪費を楽しみ、支配人のオリヴィエに対する怒りをも消失させてしまった。
「そんなことをして、わたしが喜ぶと思っているのか?」
だが、ロキシーのやり方にたまらなく不快を覚えるオリヴィエは、怒りを隠さなかった。
「何が不服だ? これでお前のゴッコ遊びが続けられるだろうが」
受話器を戻したロキシーは、なぜ不満を感じることがあるのだとむしろ不思議そうに問い返してきたが、不意にオリヴィエの腕を掴《つか》みとり、自分の方へと引きずり寄せた。
「この腕に、お前の瞳と同じ色のサファイアを嵌《は》めてやろう……」
掴みとった細い手首に顔を近づけ、ロキシーは、長い、赤い舌を差し出して、ゆっくりと舐《な》めあげた。
「ああッ…」
異様な感触に、オリヴィエがのけ反る。
すると、ニヤリッと、歯を剥《む》きだしてロキシーは笑った。
「サファイアの言い伝えを知っているか?」
さらに、にやにや笑いながら、
「恋人に贈られた愛の証しであるサファイアは、不貞を働くと色が変わるのさ。俺の、身持ちの悪い恋人には、ぜひとも必要だ」そう言った。
「よせッ」
これ以上触れられていてはたまらないとばかりに、オリヴィエは、ロキシーから自分の腕をもぎ取るようにひきはがすと、数歩後退って、距離を保った。
「なんだ、つれないじゃないかレヴィ。もはやホテル中公認の仲だというのにな」
大仰に肩を竦《すく》めてみせるロキシーだったが、もうオリヴィエを揶揄《からか》うつもりはないのか、寝台へと戻って、飲みかけのグラスに口を付けた。
それから、オリヴィエが残した皿の肉をフォークの鋒《さき》で刺し、口へと運んだ。
瞬く間に肉が平らげられていくのを見て、オリヴィエは、半ば吐き捨てるように、
「吸血鬼が、――食事をするとは思わなかった」
精一杯のいやがらせを口にした。
寝台にいるロキシーは金色の双眸をあげ、オリヴィエを嘲笑《ちようしよう》する声をあげた。
「これも、お前の好きな、人間のフリゴッコ遊びのひとつさ」
それから、
「ヘーゼルに電話しておかなくてもいいのか?」と、続けた。
無視をして、オリヴィエは窓辺に立つと、ガラスにつたわってくる雨の滴を眺めた。
すでに、空は群青に暮れて、夜がはじまっている。
陽光があればまだしも、もはや、ここから戻れないような気がしていた。
「今夜、俺のところに泊まると、電話しろ」
背後で、寝台が軋《きし》む音がした。
暗い窓ガラスに、寝台を離れて近づいて来るロキシーの姿が鏡のように映ってみえた。
オリヴィエは逃げなかった。
逃げたり、抵抗したりすることによって、この魔物の残忍な心が煽《あお》られることを知っていたからだ。
それでも、出来るだけ彼の意識を逸《そ》らさせようと、
「ヘーゼルとは逢《あ》う約束をしていない。わたしは、顧客をひとり失っただけだ」と、言ってみた。
ふんとロキシーは鼻を鳴らした。
「宝石商の店員でいることの、どこが面白いんだかな」
そう言いながら、窓際にオリヴィエを追いつめ、立たせたまま背後からガウンの裾《すそ》をまくりあげた。
青白い肌が露《あらわ》になり、オリヴィエの戦慄《せんりつ》までもが伝わってくる。
しばらくの間ロキシーは、手の中に包みこめるような双丘の感触を楽しんでいたが、両手を掛けて、未熟な果実を裂くように秘裂をひらかせた。
秘裂の狭間に隠されていた秘花がむき出され、アアッ…と、声にならない悲鳴をオリヴィエの肉体が放った。
「もうやめてくれ」
秘部を見られていることを察し、差恥に炙《あぶ》られながら、オリヴィエは頭《かぶり》を振った。
「今日は、もう、出来ない……」
その言い方が可笑《おか》しかったのか、ロキシーが笑った。
「何が出来ないんだ?」
腕に力が入り、蹂躙《じゆうりん》された秘所の花が、さらに曝《さら》け出された。
自分ですら見たことのないすべてが、ロキシーの眼におさめられてしまう悍《おぞ》ましさに、オリヴィエは口唇《くちびる》を噛《か》みしめた。
――なのに、凝視《みつ》められている秘部が熱い。
そこへ指先で触れられて、オリヴィエの喉《のど》が鳴った。
「なあ、レヴィ、一体、何をされると思ってるんだ?」
ロキシーの方は、指先で揶揄《からか》うように、やわらかく繊細な肉襞をなぶっていたが、次に、
「こうか?」と言うなり、揃《そろ》えた人差し指と中指とを挿入させ、ピクンッと、オリヴィエの前方を勃《た》ちあがらせた。
おおッ…と、オリヴィエの下肢が戦《おのの》き、慄《ふる》えをとめられなくなった。
「…つらいんだ、うッ…」
けれども、彼の肉は咥《くわ》えさせられたロキシーの指を締めつけていた。
執拗《しつよう》になぶられ続けた肉襞が、疼痛をうんでいた。度を越した悦楽は、苦痛以外のなにものでもなくなる。
なのに、内部で指先をうねらされると、またも、痺《しび》れるような疼《うず》きがオリヴィエの中で渦を巻いた。
「つらいだけじゃないだろう?」
素晴らしい内部の構造を指で確かめながら、――クックッと、ロキシーが喉を顫《ふる》わせて笑いをあげた。
「いや…、だッ」
だが、ゆっくりと指が引き抽《ぬ》かれていく感触の後で、熱い塊が挿《はい》り込んでくるのを、オリヴィエは感じた。
「んん…ッ」
苦しさに口唇《くちびる》をひらいて、息を吐き出すと下肢の強張りがとけて、ロキシーのすべてが、いっきに内奥まで収まった。
咄嗟《とつさ》のことで、喉《のど》から尖った悲鳴がほとばしった。
するとロキシーは、オリヴィエの首筋にまわした腕で、より深い結合のために、彼の身体をのけぞらせようとした。
「やめてくれッ」
肉奥が軋《きし》みをはなった。
「嘘をつけ、お前の内部《なか》が俺を締めつけてくるぜ」
「いや、だッ、やめて……」
そう口走りながらも、オリヴィエの下肢はロキシーを搦《から》めとったままだ。
「どうだ? これでも、いやか?」
ロキシーの肉楔が内部を抉《えぐ》り回し、妖《あや》しい蠕動《ぜんどう》を喰い止めようとでもするかに突きあがると、オリヴィエの口唇から続けざまに声があがった。
「あッ、あッー…」
声に煽《あお》られたのか、突きあげている男の欲望が、急速に凶暴性を増した。
「お…おう…ぅロキシー…」
受け止めきれずに、呻《うめ》きをあげたオリヴィエだったが、深々と抉《えぐ》られ、ロキシーを感じた瞬間、すべてを、プライドも差恥心も、なにもかも自分の裡《うち》から放棄しなければならなくなった。
V
アパートの前でタクシーを降りると、オリヴィエは、予定外の高額出費に心を重くしながらも、痛め付けられ、疲れ切った身体を引きずるように階段を登った。
オリヴィエの住まいは、老朽化している五階建てのアパートだったが、かつては、この住宅街《ダウンタウン》きっての高級さを誇っていたのだろう、入口脇にはガードマンが詰め所として使用していた一室があり、さらに、二|基《き》のエレベーターがついているのだ。
だが彼は、酔払いの吐瀉《としや》物とアンモニアの臭いがこびりついているエレベーターを使わずに、五階まで登った。
現在五階に住んでいるのはオリヴィエだけだった。
彼は自分の部屋へ辿《たど》り着くと、急いで鍵を開け、転がり込むように中へ入った。
気が滅入りそうなほど狭い居間と、独立した寝室がある、ワンベッドルームというタイプの部屋だった。
この部屋をオリヴィエは月に四五〇ドルの家賃で借りている。
あと一〇〇ドル上乗せすれば、もう少し広いリビングのある部屋を借りられるのだが、現在のところ、それだけの余裕はなかった。
そして、ここだけが、オリヴィエにとって落ち着ける場所だった。
ひとりになり、我が身に起きた忌まわしい災厄を嘆くことができる空間だった。
しかし、現在《いま》のオリヴィエは、ここへまでも、ロキシーが追ってくるのではないかという、おそれを感じていた。
ロキシーはこのアパートの場所を知らないはずだったが、彼ならば、この世のものならざる超常的な力によって嗅《か》ぎ当ててしまうのではないかと、恐れたのだ。
そう思うと、落ち着いていられなくなってくる。
彼に、――ロキシーに、この部屋を侵されたくはないのだ。
彼に対する嫌悪と、怯えとに衝き動かされたオリヴィエは、寝室へ行き、ベッドサイドのテーブルにひそませておいた銀の十字架と、聖水の入った小瓶を取り出した。
オリヴィエは、十字架を握りしめ、神に加護を乞いながら、部屋の回りに聖水を撒《ま》き、魔物が足を踏み入れられないことを祈った。
祈りながら、さらに念入りに居間の方も清めてしまうと、どうにかホッとして、肩の力をぬくことができるようになってきた。
それからようやく、着ていたコートを脱いで浴室へ入り、湯栓をひねった。
逃げるように帰ってきたので、身体を洗ってこられなかったのだ。不快感が残っていて、早く浴槽《バスタブ》につかり、ロキシーが注ぎこんだものをすべて吐き出したかった。
だが、ちょうど今の時刻は、アパートの住人が夕食の準備に取りかかっている時間帯なので給湯が間に合わないのか、湯量は少なく、浴槽を満たすまでには時間が掛かりそうだった。
しかたなく、台所へ行き、自分のために漢方薬を煎じることにした。
漢方薬は、貧血に効くからとヘーゼルが届けてくれるものだった。
オリヴィエの恋人であるヘーゼル・ヴェイは、二十七歳という若さでありながら、裕福な東洋系の人々を相手に、自然食品と漢方薬による診療所を開いて成功している医師なのだ。
ヘーゼル自身も中国人の血が混じっているということだったが、そう言われて観察《み》なければ判らないほどでしか、彼に遺伝していなかった。
彼は、上背があり、すらりとした姿は颯爽《さつそう》として、象牙《アイボリー》がかった肌の色も、榛色《はしばみいろ》の瞳も、ブラウンの髪も、おおよそアジア的な雰囲気を持っていないのだ。
むしろオリヴィエの黒髪の方が、神秘的な東洋の印象があるくらいだ。
そのヘーゼルの調合による数種類の薬草を、銅の薬缶《やかん》にいれ、専用の小さな焜炉《こんろ》にのせてランプの火で煮詰める。二十分ほど煮詰めてできた黒い汁を飲用するのが、オリヴィエの日課となっていた。
最初のころは、奇妙な匂いと味に驚かされ、砂糖を入れずには飲めなかったのだが、三か月も経ってみると、普通に飲むことができるようになった。
――三か月。
それは、ヘーゼルと付き合いはじめてからの時間でもあった。
正しい手順を踏んで漢方薬を焜炉にかけてしまうと、オリヴィエは配達されている新聞と手紙を取り、留守番電話の録音を確かめた。
伝言は二件入っていた。
最初の一つは、オリヴィエの居場所を捜している支配人からの、怒りの電話だった。
もう一つは、ヘーゼルからのものだった。
『店に電話したが君がつかまらないので、ここに掛《か》けたんだが、……もし、今夜、出て来られたなら、グリフィス・パークにある動物園へ行かないか?……夜の動物は生き生きとしていて素晴らしいよ。……七時まで診療所にいるから電話してくれ』
すぐさまオリヴィエは、ハリウッドにある彼の診療所へと電話をいれてみたが、聞こえてきたのは、『……本日の診療は終わりました……』という機械のメッセージだけだった。
「ヘーゼル……」
逢《あ》えなかったことが、オリヴィエのヘーゼルに対する気持ちをことさらに昂《たかぶ》らせ、愛しさを募らせた。
しかし、浴室に入って、鏡に映し出されている自分の姿をみた時に、オリヴィエは打ちのめされていた。
今のオリヴィエはひどい顔をしていた。
貌《かお》は、仮面じみて生気がなく、眼の下には青い隈《くま》ができていて、そのくせに、何度も吸われた口唇《くちびる》だけが赫《あか》く、腫れぼったかった。
さらに首筋には、薔薇《ばら》色の吸痕《キスマーク》があるのだ。
無意識のうちにも逃げようと暴れたので、身体中にロキシーに押さえつけられてできた痣《あざ》が残っている。
――そして、噛《か》み傷。
いまだに鈍痛の去らない下肢。
服を着て身体の大部分を隠したとしても、自分の姿が尋常でないことが判った。
こんな状態で、ヘーゼルに逢えるはずがなかった。
それでも、彼の優しさに触れていたいと願わずにはいられない。
逢いたいのに逢えない。
その哀しみが、オリヴィエの心を抉《えぐ》った。
だが、こういう時にこそ、奇跡が起きるのだ。
身体を洗って浴室をでたところでドアがノックされる音が聞こえ、半ば警戒しながら戸口に立ったオリヴィエは、
「レヴィ? 居るのかい?――」と、囁《ささや》くヘーゼルの声を聞いた。
「ヘーゼル?」
普段であれば、そして、ロキシーの所から逃げ戻ってきたばかりであったならば、直ぐにドアを開けるような真似はしなかったが、彼の優しい響きのある声が、逢えなかったことで心|掻《か》き乱されていたオリヴィエを急《せ》かした。
鍵を外すのももどかしく、オリヴィエはドアを開け、ヘーゼル・ヴェイの姿を確かめた。
今夜の彼は、濃紺のカシミアのコートに、内側には白いマフラーという姿で、素晴らしくスマートにみえた。
「ヘーゼルッ」
彼の姿を見た途端に、まさかと眼を疑うよりも先に、泣きたいほどの恋しさが胸の裡《うち》から込みあげてきて、オリヴィエは普通ではいられなくなった。
それはヘーゼルの方も同じだったようで、素早くオリヴィエを抱き寄せ、情熱的な抱擁《ほうよう》で応《こた》えた。
「しばらく逢えなかったから、どうしているかと心配だった」
耳元でヘーゼルの声音を聞《き》くだけで、オリヴィエの身体には甘やかな慄《ふる》えが走り、心が小波のように騒いだ。
「…今し方、電話を聞いたばかりで、でも、こうして逢えるとは思わなかった」
そうオリヴィエが口にすると、ヘーゼルの榛色《はしばみいろ》の瞳が注がれてきて、互いに今、なにを必要としあっているのかが判った。
ドアを閉じて、口唇《くちびる》をかすめあわせ、それから、深く、――深く、今度はお互いを確かめるかのように重ねあわせた。
時間が、流れを変え、二人の間にあった空白を埋めていく。
だがヘーゼルは、やつれたオリヴィエの様子、バスローブの襟首から垣間見える肌の傷から、彼の身になにが起こったのかを察したようだった。
さらには、部屋の中に立ち込める漢方薬の匂いに、
「貧血が酷《ひど》いのか?」そう尋ねてきた。
気づかれていることを意識しながらも、オリヴィエは小さく頷《うなず》いて答えた。
「診《み》てあげるよ。車の中から診療|鞄《かばん》を取ってくる」
「いや、行かないで…」
行かせまいとしてオリヴィエは、ヘーゼルの手を取り、指を、深く祈り合わせる形にからませた。
「…いつもの貧血だから、直ぐになおる。それよりもここにいて欲しいんだ、…ヘーゼル」
ヘーゼルの方も、オリヴィエから、なにかに怯《おび》えている様子が感じとられて、一時でも置いて行けない気がしたのか、頷いて、とどまることの方を選んだ。
今のオリヴィエは、掴《つか》まえていてやらなければならないような気が、したのだ。
ヘーゼルは、まさか、相手が魔物であるとまで思いもしないだろうし、ロキシーの姿を見たこともないはずだったが、オリヴィエを肉体的に所有している男がいることを知っていた。
そして、その男に抱かれた後のオリヴィエが、意識を失うほどの貧血状態に陥ることも知っているのだ。
出会った時から、そうだった。
――実際、二人が出会ったのは半年ほど前で、互いに決してよい思い出ではなかった。
オリヴィエはロキシーに暴行を受けた後で、人込みの中で気を失ってしまい、偶然居合わせたヘーゼルが診察したのだ。
ヘーゼル・ヴェイは、オリヴィエが性的な暴行を受けていることに気がつくと、そのあまりの酷《ひど》さに、警察へ届け出るように言ってみた。
当然オリヴィエは拒絶した。
それでヘーゼルが、「医者としても、黙っていられない」と言うと、
「放っておいてくれッ、わたしは、こういうセックスが好きなんだ」そう、オリヴィエは悲痛な声をあげたのだ。
嘘だということは判っていても、そこまで言い張るオリヴィエに、もうヘーゼルは口出すことはしなかった。
だが、そんな彼に心|惹《ひ》かれるものがあり、離れ難く思ったのだ。
この時ヘーゼルは、望まない相手に加えられる過度の性的|凌辱《りようじよく》が、オリヴィエを一時的なショック状態に陥れ、呼吸困難からくる血管の萎縮、それによって脳貧血が引き起こされているのではないかと診断していた。
一度精密検査を受けるべきだとも助言してみた。
その後二人は、ロディオ・ドライブの宝石店で、客と店員という立場で再会した。
ヘーゼルは、オリヴィエに別の男が存在することを承知で、求愛した。
オリヴィエもまた、もうひとりの男、――ロキシーの存在を隠せるとは思わなかったが、ヘーゼルの心と、肉体を、受け容れた。
それから百の昼と、百の夜の時間。
オリヴィエにとって、ヘーゼル・ヴェイはかけがえのない存在となった。
「咬《か》みつかれたの?」
部屋に入って間もなく、首筋の薔薇《ばら》色の痕《あと》に気がついたヘーゼルに訊《き》かれ、オリヴィエはかすかな戦《おのの》きをはなった。
身を捩《よじ》らせて、抱かれていた彼の腕からすりぬけると、台所へ行き、ランプの火を消した。
そして、シンクの所から振り返らずに、
「茉莉花茶《ジヤスミンテイー》をいれようか?」と言ったが、はぐらかそうとしているにしては、やり方をしくじっていた。
この時不意に、ヘーゼルから、彼が普段、心の裡《うち》で抑《おさ》えていた禁句がすべりでていた。
「――彼と、別れられないのかい?」
ハッとしたようにオリヴィエの肩が慄《ふる》え、向う側を向いたままで頷《うなず》くのが判ると、
「それは何故?――愛しているから?」
今度はヘーゼルの声の方が震えを帯びた。
「まさか…」
驚愕《きようがく》に振り返ったオリヴィエは、大きく頭《かぶり》を振って、全身で否定を示し、それから、怯《おび》えたようにヘーゼルを上目遣いに瞠《みつ》めた。
美しい濃青色の瞳が、哀しみを訴えかけている。
ヘーゼルは、急いでオリヴィエに近づき、その身体をかき抱いた。
――ヘーゼル・ヴェイの生い立ちは、決して恵まれていたわけではない。彼の孤独が、オリヴィエの裡《うち》にある魂と惹《ひ》かれあうのだ。
ゆえにヘーゼルは、オリヴィエが、孤独ゆえに過ちを犯し、現在はその枷《かせ》から逃れられずにいるのではないかと思っていた。
救ってやりたいと、愛するがゆえに思い詰めていた。
今できることの最大のこととして、彼は、オリヴィエが安心できるように、強く、暖かい腕で抱き締めながら、
「――もし、その男との間に金がからんでいるのなら、あと一年で、僕には母方の祖父が遺《のこ》してくれた遺産が入るんだ。その金を使ってもいい。君が自由になれるのならば…」
そうヘーゼルが言うと、オリヴィエはまたも頭を振って否定を示した。
「お金じゃない」
「ではなんだ? なんで、こんな目に遭わされなければならないんだ、レヴィ、君が…」
答えることが出来ない懊悩《くるしみ》に、オリヴィエは双眸を閉じあわせた。
「訊《き》かないでくれ、どうか……」
触れ合っている肌から、オリヴィエの哀しみを感じとったのか、ヘーゼルはこれ以上彼を追い詰めるような真似はしなかった。
すべてを分かち合った恋人といえども、互いに立ち入ってはならない部分があるのだということを、ヘーゼルは知っていた。
人には必ず、他人が理解したり、手助けできない領域というものがあるのだ。
「すまない……」
そう謝ったヘーゼルに、オリヴィエはしがみついた。
「君が、謝ることはないんだ。なにも、なにひとつ…」
それから、もう一度、互いの心が深く求めあっていることを確かめるように抱きあってから、ヘーゼルは狭い台所の、ひとつしかない椅子に腰を下ろした。
オリヴィエは、ジャスミンティーの缶を開けてヘーゼルのために淹《い》れたお茶を手渡すと、自分のカップには、煮煎じられて真っ黒になった薬湯を注いだ。
「店に電話を掛《か》けた?」
カップを片手に、椅子に腰を下ろしたヘーゼルの前へいき、オリヴィエは訊《き》いてみる。
「ああ、悪いとは思ったが、二度ほどね」
「支配人、怒っていただろうね?」
「あ、ああ、多少は…」
歯切れの悪いヘーゼルの返答に、支配人の対応ぶりが想像できた。
ロキシーがサファイアを買うと言ったことで一時は機嫌を直したろうが、それも長くは続かないだろうと判っていた。
「馘《くび》になるかもしれない…」
次にそう言ったオリヴィエに、ヘーゼルの方はあっさり、言い切った。
「辞めればいい、君の宝石を鑑《み》る眼は確かだが、あの店にいる必要はないと思うな」
そして、一つしかない台所の椅子に腰掛けているヘーゼルは、オリヴィエを自分の膝の上に座らせようと腰に回した腕をひいた。
微かに戸惑ったものの、オリヴィエは優しい力に引き寄せられるようにして、ヘーゼルの思うがままになった。
「でも、なにかして働かなければ、……それに、働いてお金を貰っている以上、いいことばかりじゃない…」
半ば諦めの口調で言ってから、彼は、甘えるように後ろにいるヘーゼルへと凭《もた》れかかった。
すかさず、ヘーゼルの腕が身体を支えて、胸元へと回されてくる。
オリヴィエは彼の手に手を重ね、それからもう一方の手に持っている漢方薬を口に含んだ。
そうして、
「にがい…」
長く煮過ぎたのだろう、簡単には飲めないほど濃くなってしまった薬湯に音《ね》をあげた。
「どれ?」
オリヴィエが手にしているカップの中を、ヘーゼルは覗きこみ、
「――舌を診《み》せてごらん?」と、言った。
舌を診てなにかを調べるのかとオリヴィエが、素直に口唇《くちびる》の中から差し出した瞬間、奪うかのようにヘーゼルの舌が触れた。
「本当だ、苦い」
一瞬の接触に、オリヴィエはピクンと肩を喘《あえ》がせたが、互いに触れ合った舌の先から身体の中へ入り込んできた甘美なるものに、抗うことはできなかった。
それはヘーゼルも同じだった。
背後から、オリヴィエを抱く力が強まった。
彼の熱を感じとり、オリヴィエは苦しくなった。
ヘーゼルに抱かれたいと想い焦がれる心が疼《うず》いて、切なくなってくる。
だが、ロキシーによって痛めつけられた肉体が、まだその行為に怯《おび》えを隠せずにいた。
怯えは、オリヴィエの身体を小波のように走り、膝の上に抱きあげている格好のヘーゼルにも伝わっていく。
オリヴィエの気持ちを察したヘーゼルの方は、裡《うち》に兆《きざ》した欲情の焔《ほむら》を消すための努力をはじめた。
そのためには、絶えず喋《しやべ》り続け、話を聞き続けるのが効果的だということを、彼は経験上から、知っていた。
「レヴィ、――もしも今の宝石店を馘《くび》になったとしたらどうする?」
会話を元に戻すことで、ヘーゼルは気持ちを切り替えようとした。
「新しい仕事を捜さなければならないが、わたしには、あまり取り柄がないんだ」
それは学歴のことを言っているのか、あるいは特定の仕事を選んでいることでそう言っているのかまでは、ヘーゼルにも判らなかった。
オリヴィエ・シェリダンは、ロディオ・ドライブで一番有名な宝石店に勤める美貌《びぼう》の青年で、上品な物腰と、正確な英国式英語を話す。
ゆえにか、金持ちの顧客を何人か抱えている。
ヘーゼルは、最初に知り合った切っ掛けが特殊だったものの、自分が医者として成功していなければ、――ああいう店に出入りできる身分でなければ、彼とこうまでも親しくなれなかったと思っていた。
「以前は、どんな職業に就いていたの?」
知り合い、互いに惹《ひ》かれ合うものを感じ、現在では恋人同士でありながら、まだオリヴィエには秘密の部分が多過ぎるのだ。
「仕事は、いくつかやってみたよ」
居心地の良いヘーゼルの膝の上で、オリヴィエは怯えに強張っていた身体の力をぬきながら、
「新聞記者だったこともあるし、葬儀屋でエンバーミングをやっていたこともある。もっと以前は、歌を歌っていた」と、言った。
「なに? 歌手《シンガー》だったの?」
ヘーゼルは、オリヴィエの若さから、歌手志望だったのかとも思った。
スターになる夢に挫折《ざせつ》したのならば、執拗《しつよう》に問い質《ただ》してはならないと思ったようだが、意外なオリヴィエの前歴が彼を戸惑わせもした。
新聞記者に、死体化粧人《エンバーミング》、そしてシンガー。
だがオリヴィエは、
「いや、歌っていたのはオペラだ」と言って、さらにヘーゼルを驚かせた。
「それは素晴らしい、どおりで、綺麗《きれい》な声をしていると思ったよ」
ヘーゼルの反応に、オリヴィエの方は微かにはにかむと言うか、あるいは、苦しんでいるかのような表情を見せて、
「結局、喉《のど》を痛めて歌えなくなった……」そう、付け加えた。
「もったいない。なんだったら、僕が診《み》てやろうか? そして、もう一度レッスンを受けて、歌ってみるというのはどうだ?」
宝石店の店員よりは、ずっとオリヴィエににつかわしい気がするのだ。それに、これならばヘーゼルが金銭的な援助を申し出ても、彼が傷つかないのではないかとも思う。
「いや、歌っていたのはずっと昔で、もう歌えない」
否定し、さらにオリヴィエは、「――歌いたくない。嫌なことがあったから…」と、呟《つぶや》くように言葉をついだ。
深く追及することはせずに、ヘーゼルは、傷つき、疲れているオリヴィエの身体を抱きしめた。
ヘーゼルの優しさに溺《おぼ》れていたいと、オリヴィエは眼を閉じ、ふたたび彼の身体に凭《もた》れかかった。
W
クリスマスが近づいてくると、宝石店は混みはじめ、オリヴィエは閉店時間が延びたこともあって、ヘーゼルと逢《あ》う時間がとれなくなっていた。
あの日以来、ロキシーの元へは出かけていなかった。
ダウンタウンのアパートの場所も、電話番号もロキシーには知らせていないので、いつも彼が連絡をしてくるのは店にいる時に限られた。
電話が来れば、居留守を使うつもりにまでなっていた。
だが、一度だけ、サファイアのことで電話があったきりで、それは支配人が受け、直接ホテルへ行ったのも支配人だった。
後になってオリヴィエは、スターサファイアを腕輪《バングル》に嵌《は》め込んでくれと、ロキシーが注文を出したことだけを聞かされた。
無断で仕事を休んだ代償に、客に高額な宝石を買わせたオリヴィエに対して、
「虫も殺さないような貌《かお》をして、なかなかやるもんだ」と支配人は嫌味を言ったが、まさか彼は、その腕輪がオリヴィエの腕に通されるとまでは思っていないのだ。
やがてクリスマスイヴの当日になって、工房から腕輪が出来上がってくると、支配人は届けに行く前に、店員を集めて最初のお披露目を行なった。
腕輪は、幅二センチほどの緩やかなねじりを加えた黄金の環に、スターサファイアが一粒嵌め込まれている極めてシンプルなものだったが、見た瞬間、オリヴィエは手枷《てかせ》を連想していた。
輝く黄金の爪に搦《から》め獲《と》られた青い宝石は、――もう、逃げられないのだから。……故にか、幾筋もの光条を放つさまは、まるで悲鳴をあげているかのようにもみえた。
「いいよな、値段を気にせずに買い物が出来る身分になって、こんな腕輪を恋人にプレゼントしてみたいな」と、陽気な店員のひとりが羨望の声をあげたことで、ハッと我に返ったオリヴィエは、その場から後退《あとずさ》って離れた。
「プレゼントされてみたい」と、女性たちは夢見心地に言いだしている。
なおも腕輪から遠ざかるために、集まった店員たちの輪を離れたオリヴィエだったが、あの時ロキシーに掴《つか》まれた手首に、すでに腕輪が枷のごとくに嵌め込まれたような痛みを感じていた。
息苦しい痛み。
舐《な》めあげられた時の、あの悍《おぞ》ましい感触が、肌に蘇ってくるのだ。
同時に、ロキシーの愛撫《あいぶ》が、身体の奥の、ずっと奥にあるものを疼《うず》かせた。
振り払うには、腕輪の幻影から逃れるしかないとばかりに、オリヴィエは手首を支えるように握りしめた。
と、背後から名を呼ばれ、店のドアボーイにヘーゼルが来たことを告げられた。
「ご指名のお客さんだよ、ほら、例のお医者さん」
おそらくヘーゼルからチップを貰《もら》ったかなにかしたのだろう、若いドアボーイは、「巧《うま》くやりな」とでもいうふうに片目をつぶってみせた。
「ありがとう」
小さく礼を言ってから、オリヴィエは店の奥から出て行き、いつも客を出迎える通りに、ヘーゼル・ヴェイの前に立った。
「いらっしゃいませ…」
でも自然と笑みが口元に浮かんでしまう。ヘーゼルの顔を見たことで、オリヴィエの裡《うち》に兆した不安、あるいは恐怖といったものが薄れはじめていた。
「うん、その…、今日は祖母へのクリスマスプレゼントを選んで欲しいんだ」
ヘーゼルの方も、単なる客のひとりを装うが、どうしても、顔がほころんでしまうのを隠せない。
幸いに、店は開店したばかりで他の客もなく、店員たちもまだ腕輪に見惚《みと》れていて、二人の様子に気がつくものなどいなかった。
そしてオリヴィエは、彼を顧客専用の展示室へ案内すると、陳列棚の中から天然真珠のブローチを数点選び出した。
「お飲み物は何をお持ちしましょうか?」
裕福な顧客を多くかかえているこの店では、観光客相手のような急ぎの取り引きを行わないかわりに、一人の客にゆっくりと時間をかける。
オリヴィエも、ヘーゼルが選んでいる間に、飲み物を用意しようと立ちあがったが、
「いや、飲み物は結構、それよりも僕はこちらの方が欲しいんだが…」
不意にケースの中を覧《み》ていたヘーゼルが身体を傾《かし》げてきて、素早く、口唇《くちびる》を奪われていた。
「ヘーゼルッ…」
驚いてオリヴィエは声をたてた。
監視カメラに映っていたらと思うと、心臓が高鳴ってくる。
「ごめん、我慢できなくて…」
悪戯《いたずら》をした子供のようにヘーゼルは笑ったが、今度は人目を憚《はばか》る仕種で、
「実は今夜、市長夫人主催のクリスマスパーティーが開かれるんだ。有名な俳優や、ロサンゼルス中の名士たちが一堂に集まる盛大なパーティーでね、一緒に出席してもらえないかな…」と言った。
思いがけない申し出にオリヴィエは戸惑いを隠せず、即答できずにいると、さらにヘーゼルは強引に、
「こんな時でもないと、僕は向こうの家族とは会えないからね。それで君に、僕の唯一の理解者でもある祖母を紹介したいんだ」そう、続けた。
中国の華僑《かきよう》の出であるヘーゼルの一族は、裕福過ぎるがゆえに選民意識にとらわれていて、母親をアメリカ人に持ち、その容姿のいずれにも中国人の特徴を持たずに生まれてきた彼を異端視しているという。そしてヘーゼルが私生児であることも、オリヴィエは聞いて知っていた。
「でも、君のおばあさまは、わたしを見て驚くかもしれない」
チラリッと、オリヴィエはショーケースの上にある鏡に自分の姿を映し出して察《み》た。
そこには、青白い顔が映っている。
「なぜ?」
理由が判らずに、ヘーゼルが訊《き》いてきたので、オリヴィエは鏡から視線を外し、彼に向き直った。
「君の相手が、宝石店の店員だなんて…」
おまけに、同性である男だ。という言葉は、口にしなかった。
「職業など関係ないよ。少なくとも祖母はそんなことで人を評価したりする人じゃないんだ。だから一緒に行ってくれるかい?」
そこまで言われて、今度はオリヴィエも迷わずに、行くことを承諾した。
「君のおばあさまは、どんな方かな」
「祖母は無邪気な人なんだ。直ぐに君のファンになるよ。それよりも……」
この時オリヴィエは、ヘーゼルが言わんとして戸惑っていることを敏感に感じとったので、彼を困らせないように先回りして、
「正式なパーティーなのだろう? ディナージャケットならば持っているよ」と、言ってみた。
「あぁ、そう、タキシードに、ブラックタイ着用とまではいかないかな、もっとファンシーなタイで構わないと思うよ…」
堅苦しく考えなくともいいのだとヘーゼルは説明し、もしオリヴィエがタキシードを持っていなければ、自分のを貸そうかと言わずに済んだことを安堵《ホツ》としていた。
「アパートまで迎えに行くよ」
オリヴィエは、クリスマスイヴの今日は四時に店を閉じることを話し、六時にアパートの方へ迎えに行くと、ヘーゼルは約束した。
約束の時間よりも十分ほど早く、オリヴィエの部屋のドアはノックされた。
すでに支度を整えていたオリヴィエは直ぐにドアを開けたが、その姿を見て、ヘーゼルの方は息を呑《の》んだ。
「やあ、――これは、驚いたな」
正装したオリヴィエは、美貌《びぼう》と相俟《あいま》って、貴族的といえるほどに際だった雰囲気を放っていたのだ。
昼間、自分のことを宝石店の店員でしかないと言っていたことが信じられなくなってくるほどに、堂々としている。
それとも彼は、自分の持つ高貴さに気がついていないのかもしれないとすら思われた。
さらにヘーゼルは、オリヴィエが着ているタキシードが、上等な仕立てものであることに気がついた。
それも、基本を崩さずに、なおかつ、オリヴィエの個性に合わせて誰かがデザインした一点ものなのだ。
おそらく、現在ヘーゼルが着ているタキシードよりも高価に違いない。
腕を動かすたびに煌《きら》めくカフリンクスの小さな宝石。
シルクのチーフ。
先が尖ったブラック・カーフスキンのパンプス。
オリヴィエが、どこからそれらの金を出しているのか、あるいは、誰が彼に買い与えているのか、ヘーゼルは問い質《ただ》してみたい衝動をこらえ、七時の市長夫人の挨拶に間に合うように部屋を出た。
パーム通りを車で四十分ほど走って、ヘーゼルの運転する車はライトヒルズにあるパーティー会場に到着した。
会場の入口には、やってくるハリウッドスターを待ち構えた野次馬と、特種やらゴシップを狙っている新聞社や、雑誌社のカメラマンたちがたむろしていた。
二人は、彼等が自分達には注意もむけないことを知ってはいたが、煩わしいことを避けようとしてか、急ぎ足でその場を通り過ぎ、会場に入った。
中へ入ると直ぐに、巨大なクリスマスツリーが二人の目をひいた。
ツリーのまわりには、大勢の招待客が集まっていて、中には有名な映画俳優や、映画監督、一流のモデルたちの姿がみられた。さらに奥まったステージの方には、別のきらびやかな人々が集まっている。
彼等は、日ごろの疎遠をこの席で解消しあおうと、一年かけて溜めこんできた愛想を振り撒《ま》いているのだ。
いたるところに用意された立食料理《ビユツフエ》テーブルの方も、様々な国の料理で盛りたてられていた。
それと同じくらいに様々な人種の、上流といえるのだろう人々がグラスを傾け合い、談笑している姿があちらこちらに見られる。
だが着いたばかりで、まだ二人ともどことなく違和感を感じていた。
そこへ、礼儀正しい物腰のボーイが近づいてきて、シャンパンのグラスを渡され、ようやく、まわりに溶け込んでいく気がした。
やっと、一枚の、巨大なクリスマスパーティーという絵の中の、登場人物の資格を与えられたように感じるのだ。
「まだ来ていないみたいだな、年をとると、誰よりも短気《せつかち》になるか、のんびりしてしまうかのどちらかだね」
素早く辺りを見回してヘーゼルはそう言い、オリヴィエを促して、壁際の方へと移動した。
壁際には、ほどよく茂った枝と、ちょうど人が隠れられるほどの高さのクリスマスツリーが等間隔で並べられていて、恋人たちのための特別席がつくられている。
その陰で、ヘーゼルはポケットの中の包みを取り出した。
本当はここへ来る途中、車の中で渡そうと思っていたのが、オリヴィエの姿に圧倒されるところがあり、つい、渡しそびれてしまったクリスマスプレゼントだった。
礼を言って受けとった包みの中に、文字盤にラピスラズリを使っている高価な腕時計が入っているのをみると、オリヴィエは驚愕《きようがく》の声をあげた。
「偶然だ、わたしのプレゼントも……」
そしてオリヴィエは、自分の手をヘーゼルの前へと差し出して、握り締めていた指を、まるで花が開花するかのように開いていき、中に隠していた指輪を見せた。
「工房に頼んで、造ってもらったんだ。気にいるといいのだけれど…」
それは、金の台座に、ラピスラズリで象《かたど》った神聖甲虫《スカラベ》の嵌《は》めこまれた指輪《リング》だった。
「これは凄《すご》いな、ファラオの指輪だ」
一瞬、感嘆したようにヘーゼルは呻《うめ》くと、
「気にいらない訳がないだろう、レヴィ。信じられないくらいだ」そう、歓びを顕《あらわ》した。
一見|厳《ごつ》い外見をしているが、古代エジプトのファラオと同じ指輪を持っている者など、そういない。またヘーゼルは、『ラピスラズリのスカラベ』が持つという『幸福と復活』の意味を識《し》っていた。
ラピスラズリは高額な宝石ではなかったが、お互いが選んだ石が同じものだったことや、交換し合うことで、二人は、神聖な儀式を執り行なったような幸せを感じることができた。
「なんだか、エンゲージリングを交換しあったみたいだ」
不意に洩《も》らされたヘーゼルの言葉に、オリヴィエは端麗さを崩さない、素晴らしく神秘的な微笑を返した。
その微笑が放射する抗《あらが》いがたい魅力に、ヘーゼルは我慢ができなくなり、今夜、もっと時間を過ごしてから話すつもりだった言葉を口にしていた。
「レヴィ、――この間から考えていたんだが、どうだろう、一緒に暮らせないかな…」
一度|口唇《くちびる》を湿った舌で舐《な》めてから、さらに、ヘーゼルは本心からの告白をする。
「君を愛しているんだ。これ以上離れて暮らすことには耐えられそうもない」
オリヴィエは驚いたように青い瞳を瞠《みひら》いていたが、衷心《ちゆうしん》に萌《きざ》した喜びを隠せない様子で、
「――わたしで、いいのか? ヘーゼル…」と、問いなおした。
「君でなければ、だめなんだ」
ヘーゼルは人目も憚《はばか》らず、オリヴィエの指の一本一本に口付けをして、自分の気持ちと言葉に嘘のないことを証明した。
「――わたしも、ヘーゼルでなければだめだ。君、だけを愛している」
同じように、オリヴィエもヘーゼルの爪先に口唇をつけた。
そして二人は、クリスマスツリーに飾られた小さな神様の前で、誓いの言葉を口にして、結婚式の真似ごとを行った。
やがて、時間どおりに市長夫人によるクリスマスとロサンゼルス市についての短いスピーチがおこなわれた。
この時だけでも儀礼的に一堂に会していた人々が、終わるやいなや、居心地の良い場所を探して散りはじめた。
ヘーゼルは、その中に祖母の姿を捜し、オリヴィエもまた、波が引いていくように人々が移動して行くのを眼で追っていた。
人々の立てるざわめきが、懐かしく感じられた。
彼はもう、随分と長いこと、大勢の人が集まる場に来たことがなかったのだ。
ざわめきに酔ってしまいそうになっている。
おりしも、ステージでは聖歌隊による合唱がはじまった。
少年たち特有の美しい歌声が、ホール全体を満たしていく。
心地好い空気に包まれて、オリヴィエは、衣擦れの音、グラスのかち合う音、宝石の煌《きら》めき、世辞、鳴り止まない拍手、花束――といった過去の幻惑にとらわれ、自分が立っている場所を錯覚した。
だが、その時だった。
不意に、金色の輝きに眼を射られ、オリヴィエはハッと現実に戻った。
散って行く人々の中に、その輝きはあった。
眩《まぶし》く、陽光をはじくかのような金色の髪。
やがて、人が居なくなったホールの中央に、彫像のようにロキシーが立っていた。
オリヴィエは、よろめき、後退《あとずさ》った。
ロキシーの方は、オリヴィエが放った戦慄《せんりつ》を感じとったのか、口元に皮肉な笑いをうかべた。
この聖なる夜に――。
すべての夜を支配する魔物は、聖歌隊の合唱の中でも身震いも起こさず、畏《おそ》れもせず、真っ直ぐに目的のオリヴィエへと向かってきた。
背を向けているヘーゼルはまだ気がつかない。
オリヴィエは戦《おのの》き、なおも後退ったが、背後にあるツリーに阻まれて逃げ場を失った。
眼もさめるような美男の上に、上背があり、獅子《しし》のたてがみのごとき黄金の髪をなびかせているロキシーは、人々の注目を集めはじめている。
彼は、自分が周りの者に与える影響というものをすべて承知の上で、堂々とオリヴィエを目指して近づいて来るのだ。
人々の関心がオリヴィエの方へも向けられる。
美男と、女と見紛《みまが》うばかりの美青年との間に存在する張り詰めたものを、二人に気がついた人々は感じとっていくのだ。
オリヴィエは、ロキシーの面差しに、飢えが浮かんでいるのを見てとった。
二人の距離がせばまり、より緊張が高まった、その時、
「ヘーゼルッ…」
小柄な老夫人の出現によって、唐突に、緊迫していた空気が破られた。
「まぁ、まぁ、こんな隅にいるなんて、ヘーゼル、随分と捜したんですよ」
二人の付き人を連れた中国人の老女が、老人特有の甲高い声を張りあげたのだ。
近づいていたロキシーが、口元に皮肉な笑みを刷《は》かせたかとおもうと、さり気なく身を退《ひ》いた。
束の間、オリヴィエは放心したように遠ざかって行くロキシーの後ろ姿を凝視《みつ》めていたが、少なくとも今は、彼が手を出せずにいるということに気がついた。
途端に、全身から強張《こわば》りがとけて、ロキシーを追いやってくれた老夫人に対しては、跪《ひざまず》きたいほどの感謝の気持ちがわいてきた。
ヘーゼルの祖母は、この国の老夫人が、少しでも若く見られたいと願って施す様々な努力を一切断っていた。
誇り高い民族の一人として、人生が終焉《しゆうえん》に近づいている姿を隠さずにいる。そんな女性だった。
そして彼女は挨拶もそこそこに、オリヴィエの黒髪を褒めた。
「何か特別の手入れをしているの? もっと伸ばせば、きっと綺麗だわよ」
そこには、ヘーゼルの髪がもう少し黒かったならば、あるいは瞳の色が濃かったならば、一族の中でもっと庇《かば》ってやれたかもしれないという思いが混ざっている。
「絹のような黒髪に、白磁の肌。――お人形みたいね、あなたは…」
まくしたてながら、ふっと腕を差し出して、老夫人はオリヴィエの頬《ほお》に触れた。
実際、白磁器で出来た人形のようにオリヴィエの肌は冷たいのだ。
夫人はそれに驚いたのだろう、一瞬会話がとぎれた。
だが直ぐに、生まれた時からアメリカに暮らしていても、決して中国人であることの誇りを失わない皺深《しわぶか》い顔が、満面に微笑をうかべた。
「お若いのね、お幾つ?」
「二十二です」
オリヴィエが答えると、さらに夫人は、
「うかがっていたよりもずっと綺麗《きれい》な方ね、俳優さん? それとも、モデルさんかしらね?」と言い、
「宝石店で店員をしています」という答えに、いささか面食らった様子を見せた。
しかし直ぐに、ヘーゼルから渡されたプレゼントのことを思い出したのか、
「そうなの、ではこのブローチを選んでくださったのも貴方《あなた》なのね。嬉しいわよ」と、微笑みながらあたたかく言葉をついだ。
「ありがとうございます…」
「なかなかどうして、声も綺麗ね、あなたは」
祖母がオリヴィエの声に気がついたと判ると、ヘーゼルは、
「以前は、オペラを歌っていたんだそうですよ」と付け加えた。
夫人はまたも、にっこりと微笑んだ。
「素晴らしいわね、わたしもオペラは大好きですよ。そうだわ、今度なにか歌っていただけるかしらね?」
「おばあさま、オリヴィエは喉《のど》を痛めて、それでオペラを断念したんだそうです」
戸惑っているオリヴィエの代わりに、ヘーゼルがまたも口をはさんだが、
「まあ、大変だったのね、素晴らしい声をしているのに」
見るからに残念そうに老夫人が労《いたわ》ってくれるので、つい、オリヴィエに、日ごろ保っていた自制心の衰えがみえた。
「――お二人のためならば、喜んで歌います…」
「本当に?」
老夫人がパァッと顔を輝かせた。
「嬉しいわ、わたくしはね、『オルフェオとエウリディーチェ』のなかの『愛しい人を呼んでも…』が好きなの、できたら聞かせてもらいたいわ」
無邪気に歓びを表わしてくる老夫人に、オリヴィエの方も緊張がとけていく思いがした。
そこでさらに、
「ええ、喜んで、オルフェオならば、舞台で演じたことがありますから」と、口にしてしまってから、オリヴィエはハッと我に返った。
二人が奇妙な顔をしていることに気がついた。
つい、喋《しやべ》り過ぎてしまったのだ。
「レヴィ、凄いことじゃないか、君が|主役級のオペラ歌手《プリモウオーモ》だったなんて、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだい?」
ヘーゼルが、興奮を隠しきれない様子でいうのを聞き、オリヴィエはなおも蒼白になった。
「いや、それは……」
とっさに言い繕う言葉を探して、だが次の瞬間、間近でたかれた激しいフラッシュの光に、今度は息を呑《の》んだ。
「失敬」
とだけ声をかけて、写真雑誌のカメラマンがもう一枚、三人でいる所をカメラにおさめようとした。
オリヴィエのなかで血の気が引いた。
そこへフラッシュが浴びせかけられる。
「わたしを写すなッ」
咄嗟《とつさ》にオリヴィエは声を荒げ、激しい拒絶を見せたかと思うと、さらに身を返してカメラマンに背を向けてしまった。
おもいがけないオリヴィエの剣幕に驚かされたのはカメラマンだけではなかった。
束の間、ヘーゼルも言葉を失っていた。だが、彼は直ぐに、オリヴィエを庇《かば》うようにカメラマンの前に立ちはだかった。
「君、いきなり失敬じゃないか」
意外だとでもいいたげに、カメラマンの方は肩をすくめた。
有名なこのパーティーで写真におさめられ、明日の新聞の社交欄なり、写真雑誌なりに載ることを夢見ている者が多いというのに、なにを嫌がっているんだと思っているのだ。
「なんだ、売り出し中じゃないのか?」
ならば無駄なことはしていられないとばかりに、カメラマンは捨て台詞《ぜりふ》を吐き、さっさと向こうへ行ってしまった。
「――大丈夫かい? オリヴィエ」
どことなく気まずいものが残る中でも、ヘーゼルは労《いたわ》ってくれることを忘れなかった。
だが、オリヴィエは、自分が犯した二つの失態に狼狽《ろうばい》を隠せなくなっていた。
「あ、あの、済みません。驚いてしまって、その、ちょっと失礼します…」
あげくに、しどろもどろになりながら、オリヴィエは二人の前から逃げ出してしまった。
ヘーゼルの祖母に対して心証を悪くしてしまっただろうことを悔やみながらも、今は、独りになり、心を落ち着けなければ、また何か失敗をするのではないかと不安でならなかったのだ。
オリヴィエは急いでホールの奥にある化粧室《ラヴアトリ》の方へ行き、誰もいないことを確かめてから中へ入り、鏡の前に立った。
何時のころからか、鏡を覗《のぞ》くことが彼の癖になっていた。
他人が見たらその美貌《びぼう》と相俟《あいま》って、大層なナルシストと誤解されるだろうが、これは、オリヴィエ自身にとっての儀式のようなものでもあった。
そして今、鏡の中のオリヴィエは、いつにも増して、頬《ほお》から血の気が引いて、青ざめていた。
内心の動揺がそのまま表情に顕れているかのように、今の自分の顔が、頼りなく、取り乱していることをみて、彼は自己嫌悪に苛《さいな》まれ、両手で顔を掩《おお》うと、懊悩《おうのう》の苦しみに唸《うな》るように喘《あえ》ぎを放った。
かつて、|主役級のオペラ歌手《プリモウオーモ》だったことを知られてしまった。
写真に撮《と》られることに対して過敏になっているのも知られてしまった。
異常に思われただろうと考えるだけで、いたたまれなくなってくる。
やがて不審をいだかれ、秘密が知られるのではないかという懼《おそ》れに、オリヴィエは衝きあげられているのだ。
彼は、ようやく掴《つか》みかけた愛を、――愛する人を、失いたくなかった。
その時だった。
化粧室のドアがひらいたかと思うと、ロキシーが入ってきたのだ。
咄嗟《とつさ》にオリヴィエは、化粧室の中を見回し、逃れる術《すべ》をさがした。
だがそこへ、伸ばされてきた手で顎《あご》を掴みとられ、顔をうわむかされた。
「わ、わたしに、触れるなッ…」
強張《こわば》った口唇《くちびる》から吐き出した嫌悪の言葉が、顫《ふる》えて、力を失っている。
そんなオリヴィエをロキシーが嗤笑《ししよう》した。
「なぜ、俺の所へこない」
威圧的な支配神の声が、頭上から浴びせかけられるが、
「お前の所へはもう行かない、二度と、行かない」
嫌悪をむき出しにして、オリヴィエは抗《あらが》った。
「わたしは、ヘーゼルと住むことにした」
「言ってろ」
ロキシーは鼻先で嗤《わら》った。
「そんなことがお前にできると思っているのか?」
言葉が終わるか終わらないうちに、伸ばされてきた腕にオリヴィエは拘《とら》われ、そのまま牽《ひ》かれるようにして、奥にある個室の一つに連れ込まれてしまった。
「や、やめてくれッ、ロキシー…ッ」
抗う隙《すき》もない。
力ずくで、オリヴィエは下肢のすべてを瞬く間にはぎ奪《と》られていた。
「あ、あッ」
それでも抗うオリヴィエの両手首を一纏《ひとまと》めに掴んだロキシーは、彼の身体を壁に押しつけ、下肢の白い肉丘をもう一方の手で割り裂いた。
「俺に身体の中をかき回してもらえなくて、寂しかっただろう」
指先で、拒むように、硬く花びらを閉じている秘所をなぞりながら、ロキシーはさらにオリヴィエの上体を屈《かが》めさせ、下肢を屈辱的に突きあげさせようとした。
そして、秘裂に息衝く秘花へと、顔を近づけ、なおも指先でくつろげさせる。
「やめろッ」
「今日はまだ、あいつを咥《くわ》え込んではいないようだな…」
言うなり、ロキシーは舌先を差し込んで、官能の凝集した蕾《つぼみ》を舐《な》めあげた。
「う…あぁ……ッ」
オリヴィエは信じられないほどに反応し、下肢の一点を苦しくさせた。
くッくッくッ…と、ロキシーが笑って、その前方に指を搦《から》めてきた。
「や、やめろッ、こんな、こんな所で…」
「俺の許へこないお前が悪いんだろうが――」
チロチロと舌で舐めながら、ロキシーは癇癪《かんしやく》を抑えているような声音《こわね》で、脅した。
「もう、お前の所へはいかないッ」
舌と指先で敏感な部分を同時に弄戯《なぶ》られると、オリヴィエは歯を噛《か》み縛って抵抗の声をあげた。
だが、ロキシーの熱い舌先が、花雷をこじあけてきて、媚襞を舐《な》めあげられた時にわきおこった快美感に、声音が窮したものに変わった。
「ああッ、…ヘーゼルッ」
ロキシーによって感じさせられる屈辱に抵抗しようとしてか、オリヴィエはここにはいないヘーゼルに助けを求めてしまう。
「あんな男のどこがいい? 優しくしてくれるからか?」
差し込んだ舌先を抽《ひ》き出して、ロキシーが嘲笑《あざわら》うかに言った。
「だがな、お前は俺を裏切れない。俺から与えられる快楽を、この身体が忘れられるはずがないのさ、判っているだろう?」
そしてロキシーは、オリヴィエが頭を振って拒絶し、息を乱している間に、下肢の狭間に猛《たけ》り勃《た》った肉塊をあてがい、突き挿《い》れた。
充分な潤いを与えられていない秘花に肉塊を突き込まれて、オリヴィエはひき攣《つ》った、動物的な悲鳴を洩《も》らした。
「お…お…う、ロキ…シ―――…」
それでもロキシーは容赦しなかった。
深く埋めこみ、抽《ひ》きずりだし、また埋め込んで、腰を揺さぶった。
オリヴィエの媚肉の襞が引き攣れて、軋《きし》んでいた。
さらにロキシーは、飢えを満たすのとは違う、凶暴な感情に衝き動かされて、苛《さいな》んだ。
同時に、前方にまわしている手で、兆《きざ》しているオリヴィエをとらえると、扱《しご》き、弄《もてあそ》んだ。
前後の刺激に、オリヴィエの官能がざわめきたった。
「あ、ああああッ…」
おもわず濡れた声が洩れでてしまい、咄嗟《とつさ》に恥じ入って、口唇《くちびる》を噛《か》み縛らなければならなかったほどだ。
けれども、そうして息を詰めると、異物によって貫かれ、圧《お》しひらかれている秘花の方もまた、きゅっと、口を噤《つぐ》んだ。
「クッ、ククク…」
ロキシーが喉《のど》をふるわせて笑い声をたてた。
埋め込んでいる牡《おす》の肉に、オリヴィエの兆しを感じとったのだ。
「――やめて、もう、やめろッ」
それでもオリヴィエは懸命に抗《あらが》った。
抗って、反発しようとしていたが、――不意に、ひとつに連なった秘所から、どろどろに蕩けていくような快感が生まれて、脳髄を侵された。
瞬間、オリヴィエは悩ましい呻《うめ》きをあげ、無意識のうちに下肢をロキシーに押しつけて歔《な》き声をはなっていた。
ガタンと音がした。
誰かが化粧室に入ってきたのだ。
とっさに、オリヴィエの息が止まる。
だが背後にいるロキシーは、抽送をやめなかった。
そればかりか、ロキシーはさらに執拗《しつよう》になった。
深く貫いた肉の楔《くさび》で、オリヴィエの内奥を突き、捏《こ》ねまわしながら、玉茎にそえた一方の手で、官能の凝《こご》りを擦りあげるのだ。
敏感な部分をこうも責めたてられていては、やがて屈服するしかない。
オリヴィエの苦鳴《くめい》が、喘《あえ》ぎにかわった。
「――だ…めッ、だ。口を、口を塞《ふさ》いで、声が――…」
ロキシーの、オリヴィエを押さえていた方の手が伸ばされてきて、口唇《くちびる》をおおった。
「あッ…」
口唇を塞がれたことで、より官能が高まったのか、オリヴィエは下肢をくねらせた。
「あッ、あッ…」
小さい爆発に、嬌声《きようせい》をあげていたが、やがて、ヒッ…と、喉《のど》を引き詰め、怺《こら》えきれない様子で指の間から呻《うめ》き声を洩《も》らしていった。
オリヴィエの中では甘美な嵐がわきおこっているのだ。そこへ抽送を続けられて、遂には、口を塞《ふさ》いでいるロキシーの指に歯を立てながら、激しい快感を感じている腰を揺すった。
首筋にロキシーの口唇《くちびる》がふれてきて、熱を与えられる。
脳を痺《しび》れさせるほどの絶頂が、被虐の歓びが、ひとつに繋がった秘所からわきおこって、オリヴィエを追いあげてしまった。
声を、物音を、化粧室に入ってきた誰かに聞かれるのではないかという心配は、激しい一瞬の前で、もはやどうでもよいことになった。
ロキシーが去り、心も身体も乱されたまま取り残されたオリヴィエがようやく化粧室から出て行くと、外で、ヘーゼルが待っていた。
「…ヘーゼル――」
ハッとしたと同時に、言葉に詰まり、オリヴィエは立ちすくんだ。
「大丈夫かい? 戻ってこないから、どうしたのか心配になってね」
それで探しにきたのだというヘーゼルの前で、オリヴィエは微かに視線を伏せた。
彼の祖母の姿はすでになく、中座した無礼をわびる機会すら失われたのだと絶望を感じた。
だが、ヘーゼルはオリヴィエを責めたりはしなかった。
それどころか、オリヴィエの熱っぽい潤んだ瞳を見て、
「どうした、泣いたの?」と心配を隠さなかった。
オリヴィエは、優しい言葉に反応し、いたたまれなくなってくる。
ヘーゼルが近くにいるという場所で、力ずくで犯されたのに、肉悦に翻弄《ほんろう》され、オリヴィエはかなりはしたない真似をした。
そのうえに、歓喜にほとばしり出てしまう喜《よが》り声を、ロキシーに口を塞《ふさ》いで止めてくれるようにとまで哀願したのだ。
今は、ひどい自己嫌悪に陥っていた。
「レヴィ、気分が悪そうだね」
さらに思いやってくれる言葉が、ヘーゼルから紡ぎだされる。
「済まないヘーゼル、君のおばあさまにも失礼なことをしてしまって、でも…」
この時オリヴィエは、どこからか自分に向けて注がれている金色の双眸に気がついて、もはや意地を張っていられる状態ではなかった。
「でも、…もう、ここにはいたくない」
オリヴィエは、連れて帰って欲しいとばかりに、ヘーゼルの手を握りしめた。
握りしめながら、手の中にヘーゼルの暖かさを感じとると、況《ま》して脆《もろ》くなり、彼の身体にもたれかかっていた。
すれ違う人々の視線が好奇心を孕《はら》んでいる。
「レヴィ……」
ヘーゼルは、繋《つな》いだ手をかるく引き、オリヴィエが自分の力で歩いて行けるということが判ると、そのままパーティー会場の外へと連れ出した。
X
夜の蒼い空気が張り詰めていた。
ダウンタウンのアパートに戻ると、ヘーゼルはまだ取り乱しているオリヴィエを支えるように抱いて、部屋へ上がった。
クリスマスのリースも飾られていない狭いオリヴィエの部屋。
家具は、年季が入った備え付けのがらくたで、絨毯《じゆうたん》はすり切れている。
ヘーゼルは、唯一新しい居間のソファにオリヴィエを腰掛けさせ、首筋のタイを緩めてぬきとると、喉元《のどもと》を楽にしてやった。
それから、襟元のボタンを外そうとして、白い首筋に印された薔薇《ばら》色の痣《あざ》をみた。
あるかなきかの、うっすらとした吸痕《キスマーク》。
ヘーゼルはオリヴィエに近づいて、その身体を抱きしめた。
冷たい頬《ほお》に口付けして、
「居たんだね?」と、言った。
抱かれた腕の中で、オリヴィエははっと顔をあげ、ヘーゼルを凝視《みつ》めた。
だが直ぐに、視線を逸《そ》らした。
瞳の奥の動揺を、そしてまだ冷めやらぬ情欲の焔《ほのお》をみられたくなかったからだ。
「あのパーティー会場に君の……」
「言わないでくれッ」
オリヴィエは鋭く遮った。
「二人でいる時に、あの男のことを思い出させないでくれ……」
悲痛な叫びをあげ、オリヴィエはヘーゼルの腕の中から逃れ出ると、しばし戸惑い、
「済まない…」そう詫《わ》びて、両手で身体をかき抱くようにした。
「君のおばあさまにも、お詫びしなければ……」
「レヴィ、おばあさまが、恋人は少しミステリアスな方がいいと言っていたよ」
微かに口唇《くちびる》の端を緩ませながら、ヘーゼルは、
「…それに、君は目立たないようにしているが、輝くものが内蔵されている。オペラの花形歌手だっただけのことはあるとね。――あのカメラマンも、そういう君に気がついて、写真を撮ろうとしたのかもしれないな」と、言葉をついだ。
「あれは――」
咄嗟《とつさ》にオリヴィエは取り繕った。
「嘘なんだ。その、見栄を張って、つい出任せを言ってしまったのだ……」
だが、ヘーゼルは、オリヴィエがそういうことで嘘を言う人間ではないと知っていた。
「いいよ、訊《き》かれたくないんだろう?――君の昔のことは、何も訊かないよ。でも、一度おばあさまのために歌ってくれないかな、元気そうにみえても、実は心臓が悪くてね、もう永くはない……」
オリヴィエは、約束すると、頷《うなず》いた。
「お茶をいれるよ、それとも、お酒にする?……」
それから気を取り直して、上着を脱ぎ、ソファの背に凭《もた》れかけた時だった。
――コトンと、ポケットからなにかが床に落ちる音がして、互いに気がついたが、ヘーゼルが先にそれを拾いあげた。
オリヴィエの上着から落ちたのは、四十カラットはあるスターサファイアを嵌《は》め込んだ金の腕輪《バングル》だった。
犯された時に、ロキシーがポケットに滑り込ませたのだ。
「アアッ」
オリヴィエは息をひき攣《つ》らせた悲鳴をもらした。
「彼が……」
そして喘《あえ》ぐように口にして、拒絶するかに頭を振った。
「彼が、――来る」
電灯に鈍い光を放った腕輪から、逃れようとでもするかにオリヴィエは後退《あとずさ》った。
「レヴィ……」
ヘーゼルは腕輪をテーブルに置き、口唇《くちびる》を顫《ふる》わせているオリヴィエの所へいくと、腕の中に抱き締めようとした。
しかしその腕から逃れ出て、オリヴィエは、
「十字架と聖水が……」と、口走った。
「なんだって?」
「寝室のテーブルに、十字架と聖水があるんだ。それを……」
「十字架、と聖水?……」
あまりの驚愕《きようがく》に、恐れに、オリヴィエが身動《みじろ》ぐ力さえ失っているのが判った。
ヘーゼルは、戸惑いを感じた様子を隠さなかったが、すぐさま寝室へと行き、言われた場所、ベッドのサイドテーブルにある抽出しをあけた。
開けて直ぐに、抽出しの中にはいっている一枚のクリスマスカードが眼についた。
それは、金で箔押《はくおし》されたクリスマスツリーの絵に、ホノグラムの星が無造作に貼り付けてあるという、ごく普通の市販されているカードだった。
だが、宛名が、ヘーゼルの注意を引いた。
宛名は、『オリヴィエ・ジョファロ・プランタジネット』
差出人は、『ロキシー・|アルカード《ALUCARD》』となっているのだ。
それ以外には、添え書きの一行もない。
――|プランタジネット《Plantagenet》。
オリヴィエの名は、『オリヴィエ・シェリダン』ではなかったのか……と、その名前は、ヘーゼルに疑問を抱かせた。
咄嗟《とつさ》に、どういう考慮が働いたのか、ヘーゼルはカードを取り出すと、自分の懐に隠した。
それから、抽出しの中に収められている銀の十字架と聖水の入った小瓶を取り出して、オリヴィエの元へと戻った。
ヘーゼルは、抽出しを閉める前に、最奥に、古びた絹のハンカチーフにくるまれて、半ば隠されている拳銃《けんじゆう》の存在にも気がついていた。
彼自身、二|挺《ちよう》の拳銃を所有していたし、年になんどか、射撃の練習にも通っている。ゆえに、オリヴィエが拳銃を隠していることには違和感はなかった。
むしろ、彼が戸惑うのは、オリヴィエが、十字架を握り締めたまま、聖水を撒《ま》き散らし、祈りの言葉を口にするいつもの方法で、部屋の隅々までも清めたということだった。
オリヴィエにとっても、この風変わりなやり方で、ヘーゼルに嫌われてしまうかもしれないというおそれは、すべてを済ませ、落ち着いた後からやって来ることになる。ではあるが、この時は、取り憑《つ》かれたかのように行動していた。
「神を信じている?」
オリヴィエのやり方を見守っていたヘーゼルだったが、すべてが済んで、寝室のテーブルに十字架と聖水がしまわれるのを見届けると、訊《き》いてみた。
抽出しの中からなくなっているクリスマスカードに気がつかないのか、オリヴィエは、
「神を信じている。だから、同じくらいに邪悪な魔の存在も信じている」そう、答えを返した。
身も心も疲れきったかのように、ベッドに腰を下ろしたオリヴィエは、定期的に教会へ足を向け、聖水を賜り、祈りを捧げていることをヘーゼルに話した。
そんな彼が、ヘーゼルには愛しく思われてたまらなくなって来る。
何に怯《おび》えているのか、――なぜ、話してくれないのか。
しかし、愛していることに変わりはなかった。
「大丈夫だ。僕が君を護るよ。何があっても、誰からでも……」
――だがヘーゼルは知らないのだ。
ロキシーが魔物であることを……。
誰もが敵《かな》うべくもない、時の支配者であり、夜の王なのだということを。
まだ動揺しているオリヴィエを、ヘーゼルは強引にかき抱いた。
咄嗟《とつさ》に、オリヴィエは身動《みじろ》いで、抵抗した。
抵抗したが、痛めつけるほど強くはないものの、決して離しはしないという力に溢《あふ》れた抱擁に、しだいに抗《あらが》う力を失っていく。
そればかりでなく、触れ合っている身体のすべての部分から、オリヴィエはヘーゼルの想いを感じることが出来た。
彼の心が、肌を通してしみこんで来る。
やがてそれが、オリヴィエの内奥に焔《ほのお》を点じさせた。
「あッ、あッ、ヘーゼル……」
オリヴィエは小さく叫ぶと、今度は自分からしがみつき、ヘーゼルの身体をベッドに押し倒してしまい、胸元をくつろげ、頬《ほお》を、鼻を、口唇《くちびる》を押しつけていた。
「レヴィ、いいの?……」
かすかに戸惑っているヘーゼルの胸元に跨《またが》り、オリヴィエは自分から着ているものを脱いだ。
すべてを脱ぎ捨てて、ほの白い肌をあらわにしてしまうと、今度は、ヘーゼルの着ているものを脱がせにかかる。
二人ともが、隠すものをなにも持たなくなると、さらにオリヴィエは大胆になって、淫《みだ》らに、ヘーゼルの胸元に数度にわたって下肢を押しつけ、擦《こす》るように腰を動かした。
すでに兆《きざ》しているオリヴィエのすべてが、ヘーゼルを感じた。
ヘーゼルもまた、オリヴィエのすべてを感じていた。
さらにオリヴィエは、衝きあげてくる欲情のまま、下肢を、自慰にもにた仕種で圧《お》しつけていく。
ついにたまらなくなって、ヘーゼルの方から掴《つか》まれていた腕を引いて、オリヴィエの身体を抱き締めて、上目遣いに、
「焦《じ》らさないで、レヴィ、君を――」そう、誘った。
なにを求められているのかが判って、オリヴィエはずりあがり、ヘーゼルの口唇《くちびる》に押しつけた。
すかさず、ヘーゼルが口付けし、舌先で巻き込むようにして咥《くわ》えた。
「ああっ……」
口に含まれた瞬間、オリヴィエからあえかな吐息がこぼれでた。
「あ…う…」
吸戯《フエラチオ》されて、美しい声が繊細に顫《ふる》えた時には、ヘーゼルはもはや、オリヴィエに夢中になっていた。
夜の闇に覆われた窓の外を、風が鳴きながら通り過ぎていく音がする。
カタカタカタ……ッと、窓がなった時、
「――あっ、あうッ」
口腔に含まれ、舌に搦《から》めとられたオリヴィエは、肉茎を慄《ふる》わせながら吐蜜してしまい、ヘーゼルは退きかけた下肢を抱き込むようにして、そのすべてを受け入れた。
さらには、悦楽の涙を最後の一滴まで搾りとるかのように刺激して、舌先でぬぐいとってやる。
「ヘーゼル……」
情欲に濡れた瞳で瞠《みつ》め返しながら、オリヴィエは彼の身体の上を移動し、昂《たかぶ》りを掌にとらえた。
オリヴィエは、象牙色の肉体の上に跨《また》がったまま、腰をくねらせ、屹立したヘーゼルの欲望をみずからの手で導き挿《い》れていこうとする。
ロキシーに注ぎ込まれたものは、――彼が拭き取ってくれたが故に、すでに体内に残ってはいなかったが、少なくともヘーゼルの侵入を助ける役割を担った。
そんな自分を罰するかのように、オリヴィエは、下肢を落としていく。
突き刺す感じで、ヘーゼルのすべてが深く押し入ってくると、オリヴィエは微かな身悶《みもだ》えを放ち、下肢を小刻みに痙攣《けいれん》させた。
痙攣は、互いへ、一瞬だが、狂おしい快楽をもたらした。
すると、オリヴィエはさらに内奥へとヘーゼルを求め、執拗《しつよう》なまでに、苦痛を、身に受けようとした。
「レヴィ、苦しいだろう?」
「――苦しい」
抑えていた息を吐き出し、肉体の、――内奥の力をぬいていきながら、
「――辛いよ、身体の中を思い切りひろげられて、苦しい。でも、こうしているとヘーゼルを感じていられる。ひとつになって、溶けていきたい……」
オリヴィエはうめくように口走った。
腰に手をかけ、もろく崩れる寸前のところを支えているヘーゼルもまた、欲望を怺《こら》えきれずに、
「動いてもいい?」と、訊《き》いた。
彼の腹の上で、美しく、しなやかな獣になったオリヴィエが、頷《うなず》いた。
「あぁ、動いて」
そう言いながら、オリヴィエは、自分でも腰を上下にすべらせた。
深く咥《くわ》えこんで、締めつけ、そして、繊細な肉襞で逆撫でるようにして抽《ひ》きだしていく。
そのたびに、くぐもった呻きを口唇《くちびる》からこぼし、同時にあえかな吐息も洩らしてしまう。
まるでオリヴィエは、今のこの瞬間が、直ぐに破滅してしまうという恐れと、闘っているかのようだった。
「ひどく、してもいい……」
オリヴィエは、内奥に渦巻き、たぎっていた欲望を解放した。
自分から腰を使って、積極的に快楽を貪《むさぼ》った。
絶頂感に我を忘れるオリヴィエの嬌態《きようたい》に、ヘーゼルの怒張が増した。
内奥の充溢《じゆういつ》感が、さらにオリヴィエを狂おしくした。
肉の歓びが、交わったところからわきおこって、やがて二人は、激しく昇りつめ、脳を、熱く、狂おしく、灼《や》かれた。
窓の外で、風が鳴いていた。
その闇の向こうで炯《ひか》る、金色の双眸に、二人はまだ、気がつかなかった。
オリヴィエが浴室を使っている間に、ヘーゼルは寝室から居間、台所を一通り見てまわり、一緒に住むことになった時に持っていく家具や、荷物といった具体的なものを知ろうとした。
だが、改めて部屋の中を見て、もともと部屋に備え付けてあった家具以外のものがないことと、驚くほど荷物が少ないことに驚かされた。
ヘーゼルの知る限り、オリヴィエは、このアパートに三か月以上住んでいるのだ。
それなのに、彼の持ち物といえば、いくつかの食器と、数冊の本、貴金属などをいれておく革張りの箱、唯一値打ちがありそうなものとしては、イニシャルを刻まれたアンティークな、少なくとも一八○○年代の代物と思われる銀の刷毛《ブラシ》と櫛のウェアセット。後はどう探しても衣類程度でしかなかった。
さらに、改めてヘーゼルは気がついた。
浴室、寝室から居間、台所のすべてに、鏡があるのだ。
以前、ヘーゼルの患者の中にハリウッドの映画女優がいて、彼女の家も、鏡だらけだったことを思い出させられる。
たえず美しい仕種を心掛けなければならないからだと女優は言っていたが、オリヴィエは、自分の美貌《びぼう》に見惚れて、悦に入ってるタイプとは思われなかった。
誰よりも美しいというのに。
だが、美しいというのは、他人が彼を見る時のものであり、オリヴィエにとっては、自分が誰よりも美しいというのは生まれつき当り前のことで、いまさら気にもならないのかもしれない。
今日のオリヴィエは特別だったが、日ごろの彼は、自分を引き立たせるように衣類に気を配り、装飾品で着飾ったりすることがないことで、ヘーゼルは、彼にナルシシズムの欠如を感じていたほどだ。
「レヴィ、鏡が、多いんだね」
浴室から出てきたオリヴィエに向かって、言ってみると、
「鏡は、魔よけなんだ……」そう、オリヴィエは答えたが、直ぐに、
「それよりも、なにか食事を作ろうか?」と、話題をはぐらかした。
「残念ながら、料理は巧くないが……」
じっと、青い眼を据えたまま、オリヴィエは困ったように言葉をついだ。
「実は、いまだにガスコンロを使うのが怖いので、まともな料理がつくれない……」
旧式のコンロは、着火の時に炎を吹き上げることがある。そのことを言っているのだと思うと、ヘーゼルは一刻も早く、こんな生活からオリヴィエを救い出したかった。
「今からでも僕の所へ引越して欲しいな」
オリヴィエは、真っ直ぐにヘーゼルを瞠《みつ》めた。
「君は、直ぐに後悔するかもしれない」
「何を?」
「わたしのことで……」
すでに後悔しているかもしれないという不安が、オリヴィエを苦しくさせている。
「もしも、君で後悔するのだとしても、早く後悔させて欲しいね……」
言うなり、ヘーゼルはオリヴィエを抱きよせて、口唇《くちびる》に、頬《ほお》に、首筋に、接吻の嵐をふりそそいだ。
オリヴィエがくすぐったがり、しまいには逃げようとするのを押さえて、彼に新たな兆《きざ》しが生まれるのを、半ば期待していた。
だがヘーゼルは、時刻が深夜零時を告げる前に自宅へ戻らなければならないことを思い出して、懸命に自制心を発揮した。
「泊まって行ける?」
敏感にヘーゼルの変化を感じとったオリヴィエが、顔をあげた。
「そうしたいが、明日は早朝から予約が入っているんだ」
「クリスマスなのに?」
「そう、病人は、情け容赦がない」
苦笑したヘーゼルだが、
「でも、僕を必要としているのなら、僕はなんでもしてやりたい」と、言った。
かすかに頷《うなず》いて、理解しているということを示したオリヴィエは、乱れたバスローブの前をあわせながら、満ち足りた、幸せに浸っている者が放つ微笑をうかべた。
「わたしも、明日は仕事だ。この時期は、忙しい、――幸福な恋人たちのために……」
「僕たちのように?」
エンゲージリングのように指に嵌《は》めたラピスラズリの神聖甲虫《スカラベ》指輪《リング》をみせながら、ヘーゼルもまた、微笑を返した。
「この週末に、僕の所へ越してきてくれるね」
それから、身支度を整えて部屋を後にするさいに、ふと思い付いたのか、ヘーゼルは振り返り、
「ねえ、レヴィ、前々から聞こうかと思っていたんだが、もしかして、イギリス人?」と、訊《き》いた。
「……そう」
隠しておくつもりはないのか、オリヴィエは答え、「バースデッドで生まれた」と付け加えた。
Y
開店と同時に、店はクリスマス休暇を利用してやってくる観光客で混み合っていた。
もともとは、顧客重視なのだが、かといって一見の客であっても無視することはできないと、顧客専用の店員であるオリヴィエも、朝から忙しかった。
忙しさの最中でも、腕を上げ下げするたびに、眼に入るプレゼントの時計が、彼を常に幸福な気分にさせてくれた。
昨夜のオリヴィエは、おそらく、ヘーゼルが驚いただろうほどに淫《みだ》らだった。
自分からヘーゼルを求め、追いかけ、鋭く反応し、互いに肉の悦びを貪《むさぼ》って、肉体の秘密のなにもかもすべてを曝《さら》け出しあったのだ。
結果として、オリヴィエは忌まわしいロキシーの愛撫を忘れることができ、同時に、深い歓びを身に受けた。
ヘーゼルもまた、神秘のベールに覆われているオリヴィエの一面に触れた気がするとともに、彼を狂おしく喘《あえ》がせている自分の男としての力に、満たされるものを感じたのだろう、愛しさが増したことを隠さなかった。
いまも、互いに交換しあったラピスラズリのことを考えると、オリヴィエは昨夜のすべてが思い出されて来て、胸苦しくなった。
さらには、身体の芯《しん》に焔《ほのお》が点じたようにすらなり、じっとしていられなくなってくるほどだ。
それでもオリヴィエは午前中いっぱいは我慢し、昼食を摂《と》りに外へ出たさいに、ヘーゼルの診療所へと電話を掛《か》けていた。
せめて声だけでも聞き、あるいは今夜の約束を交わしたいという気持ちがあったのだ。
だが、電話に出た看護婦は、ヘーゼルが入院していると、おもいがけないことを告げた。
昨夜|晩《おそ》くに、グリフィス・パーク付近で暴漢に襲われ、現在は絶対安静の状態であると、オリヴィエのことを知っている看護婦は教えてくれ、さらには、入院している病院の名前も知らせてくれた。
オリヴィエは決して後先を考えずに行動する方ではなかったが、この時ばかりは、店へ戻ることもせずに、真っ直ぐに病院へ向かっていた。
深夜、自分の所から帰る途中で暴漢に襲われ、絶対安静を言い渡されている恋人の元へ駆け付けるために、戸惑うことなど、なにもなかったのだ。
たとえ、支配人が今日限りでオリヴィエを馘にすることを決心したとしても、いまは、ヘーゼルのことだけが心配だった。
そして、オリヴィエは、教えられた総合病院の治療室で、傷を手当てされ、輸血を受けているヘーゼルの姿をみた。
「なぜ……、こんなことに」
呻《うめ》くように口走ったオリヴィエの声で気がついたのか、ヘーゼルは瞳をひらき、うっすらと笑った。
「君の夢を見ていたよ。レヴィ」
包帯が巻かれている手をとりながら、オリヴィエは、
「どんな?」と、訊《き》き返す。
「ごめん、それが思い出せないんだ」
弱々しく言って、ヘーゼルは瞼《まぶた》を閉じた。
ヘーゼルは、骨折させられ、頭部はもとより、身体中のいたるところに包帯を巻かれ、鼻孔にはまだ血がこびりついているといったありさまだった。
それは、彼がどれだけ酷《ひど》い目に遭わされたのかを物語っているようで、オリヴィエは、自分の身体にも同じ痛みが走るのを感じ、いたたまれなくなってくる。
「……一人で、帰すのではなかった」
悲痛な声でオリヴィエが呟くと、ヘーゼルは眼をあけ、かすかに笑った。
「僕が悪いんだよ。あれから、一人で動物園へ行ったのだから……」
「動物園?――なぜ……」
「夜の動物を見るのが好きなんだ。それで、昨日はどうしても行ってみたくなってね……」
ヘーゼルは告白する。
「あの動物園には、僕だけが知っている秘密の抜け道があるんだ。……そこを通って中に入り、出て来た時だった。突然、眼の前に――……」
言いかけて、ふと、不安気にヘーゼルはオリヴィエの方を瞠《みつ》めた。
頭を打ったがゆえの世迷言《よまいごと》と、オリヴィエがこれからの話を信じないのではないかと恐れたのだ。
だが、真摯な青い瞳が自分を凝視《みつ》めていることが判ると、力づけられるおもいがして、ヘーゼルは駆けつけて来た警官に対しても言わなかったことを口にした。
「信じられないかもしれないが、――突然、眼の前に金色の獣が現われて、僕に飛び掛かって来たんだ」
口にしてしまった途端に、ヘーゼルは、オリヴィエがはッと息を凝《こ》らしたことに気がついた。
そして、オリヴィエの口唇《くちびる》が、かすかに、喘《あえ》ぐように、「ロキシー……」と、形作られるのを見た。
――ロキシー。
クリスマスカードの名前だった。
ロキシー・アルカード。
「まさか、彼が?……」
まさか、と呻《うめ》いたヘーゼルの前から後退するようにしてオリヴィエは遠ざかると、そのまま、振り返りもせずに病室を飛び出して行った。
オリヴィエがホテルの特別室《スイートルーム》に乗り込んだ時、ロキシー・アルカードは、浴室の中にいた。
巨大な大理石の浴槽に張った冷たい水の中に、まるで瞑想《めいそう》しているかのように、静かに身を横たえていた。
ブロンズ色の肌が、ステンドグラスの窓から差し込む陽光に、金色に輝いてさえみえる。
「レヴィか?」
瞑目したまま、ロキシーはドア口に立ったオリヴィエに声をかけた。
だがオリヴィエは答えずに、アパートから取ってきた腕輪《バングル》を、ロキシーの胸元へと投げつけた。
「ん……?」と、金色の双眸が瞠《みひら》かれてきて、戻ってきた腕輪をみるなり、口元に嗤笑《ししよう》がうかんだ。
すかさずに、オリヴィエは腕輪とともに持ってきた聖水を、ロキシーに浴びせかけ、眼の前に十字架を翳《かざ》した。
「ぐッ……わあああぁ」
瞬間、予期せぬ攻撃にロキシーは獣じみた唸《うな》り声をあげた。
さすがに聖水を浴びせかけられて平静でいられなくなったのか、いきおい、浴槽の中で立ちあがり、十字架を翳しているオリヴィエを、睨《ね》めつけるかのごとくに凝視した。
だが、忌むべき魔物を退けようと翳した十字架を頼りに、オリヴィエは、浴槽の縁を跨《また》いで近づいて来るロキシーと対峙《たいじ》した。
「ヘーゼルを、襲ったのだなッ」
憎しみと、怒りと、さらには哀しみとで、オリヴィエの声音が顫《ふる》えてくる。
「クッククッ……」と、ロキシーが嗤《わら》いを放ったかとおもうと、これみよがしに右の手をかかげ、人差し指に嵌《は》められている神聖甲虫《スカラベ》の指輪をみせつけた。
オリヴィエがヘーゼルにプレゼントし、彼の指に嵌まっていたはずの指輪が、今、魔物の、ロキシーの指にあるのだ。
「アアッ……」と、オリヴィエが戦《おのの》きを放って、後退《あとずさ》った。
戦慄《せんりつ》はすぐには治まらなかったが、激しい憤りに脳を灼《や》かれた。
咄嗟《とつさ》に、聖水の瓶を投げつけ、ロキシーが怯《ひる》んだすきに、懐から拳銃《けんじゆう》を取り出した。
旧い拳銃だが、五発の弾丸が装填《そうてん》されている。
伝説の銀の弾丸が入っている訳ではないが、オリヴィエは、確実に心臓を撃ちぬくことが出来たならば、この魔物に致命的な打撃を与えられると信じていた。
信じていることが、神への信仰の篤《あつ》さが、魔物を滅ぼせるのだ。
「俺を撃つつもりか?……オリヴィエ」
しゅう、しゅうと、聖水をあびたロキシーの胸元が焼けて爛《ただ》れていくのが判った。
「ロキシーッ……」
だが、叫ぶなり、オリヴィエは、彼の胸元へと拳銃を撃ち込んだ。
最初の一撃が魔物のブロンズ色の胸元を貫き、肉の焦げた臭いと、血が、――おもいがけなくも赤い血が、飛び散った。
「レェ……ヴイィィィ……」
嗄《しわが》れたうめきがロキシーからほとばしり、日ごろ隠している吸血鬼の牙が、口唇《くちびる》の端を突き破るかのように姿を顕してきた。
――苦しんでいるのだ。
一瞬、オリヴィエは怯んで、引金《トリガー》を掣《ひ》けなくなった。
だが、ロキシーの腕が伸ばされてきて、強靭にして、邪悪なる生命力がまだ尽きていないことを悟った瞬間、オリヴィエは迷いを振り切るかに、続け様に二発の弾丸《プリツト》を胸に撃ち込んだ。
最初の一撃で被《こうむ》った痛手から立ち直っていないロキシーは、衝撃によろめいたかとおもうと、そこへさらに撃ち込まれて、後ろに倒れ、床の上でビクとも動かなくなった。
胸元から血が溢《あふ》れ、大理石の床を流れはじめた。
瞠《みひら》かれた双眸は、この世のものではない金色で、苦悶にカッとあいた口吻からは、牙が突き出していて、すべて、――彼が、魔の獣であることを余すところなく物語っている。
誰がこの姿を発見するだろうか……。
――伝説は語り継がれるだろうか。
「ロキシー……」
オリヴィエは、呻《うめ》いた。
そうして、いにしえより生きながらえてきた魔物の死を瞶《みつ》めながら、虚脱感に襲われているオリヴィエだったが、同時に、自分の破滅も、覚悟していた。
どのように抗《あらが》ってみたところで、ロキシーの運命はオリヴィエの運命でもあるのだ。
あの日、彼の、――魔物の腕の中に身を沈め、抱き締められた瞬間から、彼とは生死を分かち合う間柄となったのだ。
それでもオリヴィエは、両手で握りしめた拳銃と、十字架で身を護りながら後退《あとずさ》り、浴室をでた。
辺りの気配に耳を澄ませてみたが、銃声を聞き付けてくる者は居なかった。
磨りガラスのドアを閉めて、ようやく安堵《あんど》したかに、息がつげるようになり、強張った身体の中に新鮮な空気をとりいれた。
そして、早くこの場を立ち去るのだと、浴室の前を離れたオリヴィエは、寝室を通って、外へ出て行こうとしたが、――ふと、寝台の方に眼が止まった。
主を失った巨大な寝台は、まだ、彼の温みを残しているだろうか……。
オリヴィエは、抗い難いおもいに衝き動かされて寝台に近づくと、そのシーツに触れ、ロキシーの温もりを確かめた。
シルクのシーツが、――お前の男は、もはやいないのだと、語るかのごとくに、指先に冷たく触れた。
――お前が殺したのだ。
指を離し、オリヴィエは、迷いを断ち切るかのように頭を振って寝台から離れた。
真っ直ぐに寝室を横切っていき、居間へ通じる扉に手を掛けたが、把手《ノブ》を握ったまま、最後にもう一度振り返って、部屋の中を見た。
もはや、彼は、存在しないのだ。
今、寝室の空気の中には、ある種の喪失感が漂っている気がした。
だが、オリヴィエが把手《ノブ》を回して、居間へと通じる紫檀《ローズウツド》の扉を開いた時だった。
扉の向こうに、血塗《ちまみ》れの、――胸元の皮膚が弾け、肉が内側からめくれあがっているロキシー・アルカードが立っていた。
「ヒッ」と、喉がひきつって、オリヴィエは驚愕《きようがく》に瞳を瞠《みひら》かせたまま、寝室の方へとよろめいて、後退《あとずさ》った。
逃れようとしたのだが、衷心の驚愕に、さらには恐怖に、足元がガクガクと慄《ふる》えて、後退ったはずが、そのまま硬直しているだけとなった。
「何を愕《おどろ》いている? 疚《やま》しいことがなければ、そんなに驚くこともないだろう?」
言うなり、ロキシーが腕を伸ばしてきたので、刹那、オリヴィエはまだ握っていた拳銃の引き金を掣《ひ》いた。
ガチッと、撃鉄《ハンマー》が落ちる音がしたが、弾は発射されなかった。
オリヴィエは戦《おのの》いた。
永い年月の間に、忘れていたのだ。
五発しか残っていなかった弾丸のうちの二発を、すでに撃ってしまっていたことを……。
後悔と驚愕、失望に、オリヴィエは握っていた拳銃を取り落とした。
その姿に、
「これで、気が済んだか?」と、ロキシーが、凄味《すごみ》のある声音で訊《き》いた。
――これで気が済んだか。
気が済んだか……。
ああッ…と、オリヴィエは絶望に呻《うめ》いたが、それでも、十字架を突きつけながら、ロキシーに抵抗した。
神の力を借りて、夜の魔物を滅ぼし、焼きつくし、灰にしようとしたのだ。
しかし、そんなオリヴィエをロキシーは許しておかなかった。
十字架を片手に挑みかかったところを殴りつけ、彼がその勢いのまま背後に飛ばされて転び、寝室の床を滑り、さらには、家具にぶつかって、気絶しかかる寸前にまで痛めつけた。
ぶつかった拍子にオリヴィエは鼻血を出した。
それは酷《ひど》くはなく、すぐに治まったが、口の中をしたたかに噛《か》み切ってしまい、飲み込んだ自分の血に咳き込んで、ゼイゼイと肩をあえがせることになった。
オリヴィエが被ったダメージが予想以上だったことから、ロキシーは手加減を忘れていたことを思い出したが、
「オリヴィエ、――お前は、俺に殴られて当然のことをしたんだ」と、嗄《しわが》れた声で、なおも脅した。
肩で息をつぎながらも、オリヴィエは、離してしまった十字架を拾おうと、床に手を伸ばした。
まだ、闘うつもりでいる。
その手を、ロキシーの足が踏みつけた。
「お前は、少しくらい痛いめにあわされても仕方がない。そうだろう?……レヴィ」
手の甲を、爪先で踏み躙《にじ》られて、またも苦痛にオリヴィエはあえがされるが、そこへ、怒りのおさまらないロキシーから、
「お前は、俺を裏切って、あんな男を選ぼうとしたのだからな」そう、言葉がつがれてくる。
オリヴィエは、魔物の怒りが、自分にはむかい、十字架を突きつけ、弾丸で滅ぼそうとした行為にあるのではなく、ヘーゼルを選んだことにあると知らされた。
――ああ、それは、十字架も、聖水も、さらには拳銃すらも、この魔物が畏怖《おそ》れてはいない証しなのだ。
さらにロキシーは、オリヴィエが掴《つか》もうとした十字架を自分の手で拾いあげ、鼻先に持っていくと、哀れなものを見るがごとくに嗤笑《ししよう》をうかべた。
そして、ロキシー・アルカードは、握った十字架を、まるで飴細工を体温で蕩かすかのように手の中で熔《と》かし、床にバタバタと溶解した銀の滴をしたたらせた。
「こんなもので、俺を倒せると思ってるのか? レヴィ、お前が?」
ようやく、踏まれていた手を許されたオリヴィエだが、自分の信仰心を試されたかのごとくに、打ちのめされていた。
「わたしに信仰心がないというのかッ」
そんなはずがないと、オリヴィエは悲痛な呻《うめ》きをあげる。
魔物は、オリヴィエの前にしゃがむと、腕を伸ばしてきて、その、ほっそりとして形のよい顎《あご》をとらえ、自分の方へとうわむかせた。
「いや、そうは言わない」
あっさりとロキシーは否定した。
「レヴィ、お前は敬虔《けいけん》なクリスチャンだ。教会へも行く、俺とのことを懺悔《ざんげ》する。もっとも神父は、お前の言うことを誇大妄想狂のたわごととしか思っていないがな……」
さらにロキシーは、
「――お前は、俺に支配されている。それを望んでいるんだ」と、言った。
「嘘だッ」
悲鳴のように、オリヴィエは拒絶を放った。
途端に、切れた口腔の中でまたも出血が起こったのか、舌が、ひりッとする鉄錆《てつさび》の味を感じた。
どこかで血が流された匂いを感じたのか、ロキシーは、晩餐《ばんさん》の支度にとりかかっている台所の脇を通り抜ける人のような仕種で、鼻を心持ち上向かせた。
だが、
「嘘なものか――」
すぐに、効力を発揮しなかった十字架の、熔《と》けた残骸を見下しながら、
「――だから、俺を斃《たお》せないのさ」そう、ロキシー・アルカードは言ったのだ。
違う。――否定しながら、オリヴィエはよろめき、床から身を剥ぐようにして起きあがると、魔物から少しでも遠ざかろうとした。
オリヴィエは、ロキシーがわざと手を出さずにいて、高揚状態をたかめていこうとしているすきに、隣の寝室へ逃れる術を探ったが、本能的に、浴室の方へ向かっていた。
浴室には、まだ、血が残っているだろうが、聖水をいれてきた瓶が落ちているはずなのだ。
それを拾って、――それを拾ってどうするつもりなのか、オリヴィエは混乱しながらも、決して後ろ姿を見せないように壁づたいに移動して行き、磨りガラスの浴室のドアをひらいた。
中には、すでに血は残っていなかった。
浴槽から溢れた水が、床の血を洗い流しているのだ。
そればかりか、床に、三発の弾が落ちていた。
ロキシーに撃ち込んだはずの弾丸だった。
だがどこにも聖水の小瓶が、見当たらない。たとえ中身が一滴も残っていなかったとしても、今は、それだけが頼りだったのだ。
そのオリヴィエを、またもロキシーは愚弄《ぐろう》した。
「探し物は、これか?」と、彼は、手にしている小瓶を揺すって見せたのだ。
そして、「クックックッ……」と、牙を剥《む》きだして笑いをあげる。
笑いながら浴室に入ってくると、蛇口を捻《ひね》って水を止めるために屈みこんだ。その脇を、オリヴィエは走り抜けて、浴室から飛び出した。
ロキシーはオリヴィエを追うこともなくやり過ごしたが、彼が寝室から居間へと逃れようとした瞬間に、軽く指を鳴らし、居間へと通じる扉を閉じてしまった。
オリヴィエは、目の前で扉がバンと勢いよく閉まったことで、ハッと振り返り、こちらへと近づいてくるロキシーの姿を見た。
男の股間が、禍々しいまでに屹立していた。
やがて、背後から差してくる陽光に照らし出された、魔物の、長い影が、オリヴィエに到達した。
ヘーゼルに贈った指輪をはめている手が、オリヴィエの、――ヘーゼルに贈られた腕時計を、外し、代わりに、サファイアの腕輪を嵌《は》めさせようとしてきた。
オリヴィエは、抵抗らしい抵抗もできずに、手首に、ロキシーの支配の証しを嵌められてしまうことになり、「ああ……」と、身震いをはなった。
黄金の爪に囚われた青い宝石。
――もう、逃げられないのだ。
そこへロキシーが言葉をついだ。
「身持ちの悪い恋人をもつ男としては、どうだ、俺は寛大な方だろう?」
さらに、「俺がどれだけ慈悲深い男か、お前に教えてやるよ」と、ロキシーは言葉を吐き出した。
オリヴィエは、叫びをあげたつもりだったが、小さな、尖った息が喉《のど》をついてでただけだった。
そして、新たな血の味が口腔にひろがった。
今度は、ロキシーも見逃すはずはなかった。
逃がさぬようにオリヴィエの前に立ちはだかると、確かに愉しみながら、服を引き裂き、彼の身体を扉にはりつかせ、身動きできなくさせて口唇《くちびる》を奪い、口腔の中に滲《にじ》む血を味わった。
昨夜の吸血が充分なものではなかったロキシーにとっては、なにごとにも代え難い歓びとなったが、オリヴィエの方は、深い眩暈《めまい》を感じ、心ならずも、彼の抱擁に身を委ねなければならなくなっていた。
獲物が抗う力を失ったことを見たロキシーが、足元から掬いあげて抱きかかえると、寝台へ連れて行き、その上に放った。
落とされる衝撃と、シーツの冷たい感触にオリヴィエが正気を取り戻して、素早く、自分のおかれた状況から逃れようとした。
まだ抵抗するのかと、ロキシーの眼が笑った。
その方が、愉しめると、魔物は欲望をかきたてられていくのだ。
だがオリヴィエは、抵抗するかわりに、両手で顔を掩《おお》った。
「もう……」
彼は、自分が今にも泣き出すのではないかという恐れと闘いながら、呻《うめ》きをあげた。
「……わたしを解放してくれッ、いっそ、――殺して……」
ロキシーは、金色の双眸を細めただけで、オリヴィエの哀願を嘲笑った。
笑いながら、力を失っている身体を寝台の中央へと牽《ひ》きずっていき、その、内腿に手を掛けてひらかせようとした。
「……いや……だッ……」
けれども結局、オリヴィエは、絶望にうち慄《ふる》えながら、魔物の前に白い肉の奥をさらけださせられていくのだ。
さらには、邪悪なる精神の持ち主であるロキシー・アルカードは、割いた白い秘裂の奥に息衝く秘花に、指輪を嵌《は》めた人差し指で触れた。
「ああッ、うッ――」
まだ潤いを与えられず、そればかりか、屈辱に、かたくなに強張っている媚肉に爪先が捩《ね》じり込まれると、硬質な白い肉が痙攣《けいれん》を放った。
――痛い。と、オリヴィエの苦悶の表情が訴えかけているが、ロキシーは、わざとゆっくり、自分の指の感触をぞんぶんに味わわせてやりながら、最後に、ヘーゼルの指輪の、――神聖甲虫《スカラベ》の部分までもオリヴィエの中に捩じりこんだ。
「ううう……」
――神聖甲虫《スカラベ》が、媚肉の襞をえぐって、埋没する。
痛みと、屈辱と、惨《むご》い仕打ちに、オリヴィエは喚声《わめき》をはなった。
「や…やめて」
しかし、なおも指が埋められ、指輪の神聖甲虫《スカラベ》が肉奥に沈められる。
「やめて……」
繊細な肉襞が、痛めつけられて、血を滲《にじ》ませはじめた。オリヴィエはなんどか悲鳴した。
それでもロキシーは、どうしても彼から血を流させずにはいられない衝動に駆られている様子で、内奥を侵略した。
指で、狭く、敏感な肉筒を掻き乱すようにいたぶってから、指輪で、抉《えぐ》るのだ。
同時に、赤い、長い舌をつかってロキシーはオリヴィエの秘花の血を舐《な》めた。
肉奥の切なさ、ヘーゼルの指輪によって抉られる、痛みよりも――哀しみ。
「お…おお…ぅ…」
なのに、執拗《しつよう》に繰り返されていくうちに、屈辱と痛みの上に、妖《あや》しい感触がわきおこり、オリヴィエは平静ではいられなくなってくる。
その証しに、彼の肉体の変化がロキシーの眼に入った。
「なんど、|あの男《ヘーゼル》にしゃぶらせた?」
双果の付け根から先端へむけてロキシーが舌先を移動させ、舐めあげてきた。
だが、こみあげてくる羞恥にオリヴィエは下肢を強張《こわば》らせただけだ。
するとロキシーは、抱えていた足をひらかせ、膝裏にあてがった手でオリヴィエの下肢を持ちあげて、さらに、秘裂をさいた。
またも指をあてがいながら、
「まだヘーゼルが忘れられないなら、この奥に、あいつの指輪をいれてやろうか?」
そして、貫いて、責めて、苛《さいな》んでやろうというロキシーの考えに、オリヴィエは叫んだ。
「あッ、あッ……それだけは、やめ……てッ……」
悲鳴は、魔物を歓びの発作に慄《ふる》わせる媚薬でしかなかった。
「凄く、感じるはずだぜ」
「ロキシー、それだけは、赦し……て……」
その愉しみを、急ぐことはなかった。ロキシーはあっさりと退き、却って恩着せがましく言ったのだ。
「ならば、代わりに、俺をしっかりと受け止めるんだな」
言うなり、指を抽《ぬ》きとったロキシーは、秘裂の谷間に淡く咲く官能に、屹立した己が欲望の先端を圧《お》しあて、
「あいつなんかとは、太さが違うだろう」と、唸《うな》りをあげた。
「さあ、レヴィ。お前の腹の内部《なか》を、存分にかきまわしてやるぜ。二度と、他の男を咥《くわ》えられなくなるようになッ」
オリヴィエはもがいた。
この侵入を、自分が怺《こら》えられると思われなかったからで、不様に悲鳴をあげたくはなかったからだ。
だが、いつでもそうだったように、今もまた、まったくの徒労でしかなかった。
彼はやすやすと封じ込まれて、――ロキシーの男で、繊細な肉襞を刺激された。
ロキシーは、すぐには挿入せずに、弄撫《なぶ》った。
「アアッ……」
秘花にロキシーの先端が押しつけられるのを感じると、竦《すく》みあがるようにオリヴィエの花襞は窄《すぼ》まるのだ。
面白がって、ロキシーが先端で花襞を刺激しはじめる。その度にオリヴィエは下肢をびくつかせ、怯《おび》えをみせる。
ロキシーはそれを繰り返しながら、何時挿入されるかとびくついていた肉襞が、緊張を持続できなくなった瞬間をついて、肉の兇器で貫き、容赦なくすべてを納《おさ》めさせた。
思いがけないことが起こった。
「あうッ……」
オリヴィエは悲鳴を放ったかとおもうと、前方をはじけさせ、悦楽をほとばしらせてしまったのだ。
「どうした? 俺を挿《い》れられただけでもう、達《い》っちまったのか?」
向かい合っている自分の腹部に飛び散った悦楽の証しを見ながら、ロキシーが嘲笑《あざわら》うかのように耳元で囁《ささや》く。
オリヴィエは信じられない悦楽に顫えるだけだ。
「いいだろうよ、今度は、こっちが愉しむ番だ」
咄嗟にオリヴィエは、寝台の上をずりあがって逃れようとした。
だが、すぐさま、腰を抱えて牽《ひ》きずり戻され、両足を肩で抱えられると、より深く、虐《むご》い結合を強いられた。
「ううう……」
さすがに堪り兼ねて、オリヴィエは伸し掛かっている身体の下であがいた。
あがいたが、抱え込まれた下肢はびくとも動かせなかった。
痺れたような重苦しさ、塊を埋め込まれ、限界まで圧しひろげられた内奥が、充溢《じゆういつ》感に喘《あえ》ぐばかりだ。
そこへ、容赦なく、ロキシーの抽送がはじまった。
「――や、やめて、苦しい……」
慎《つつし》み深く、敏感になっている花襞をひらかせて、ロキシーは押《お》し挿《い》り、狭い内部をこじあけるようにして、内奥へと突き進める。
「――おう、お前の内臓に突きあたるぜ、オリヴィエ」
付け根まで納めてしまうと、ロキシーはさらに腰を揺すって、内部を思いのままに蹂躙《じゆうりん》した。
あまりの辛さに、オリヴィエの下肢が跳ねあがり、断続的に、細い悲鳴が放たれた。
「ひ…ッ、あ、あッ…あッ」
尖った悲鳴を放ちながら、オリヴィエが屈辱と、苦しみに長い睫《まつげ》を濡らしているのが判ると、ロキシーは、顔を近づけ、眼瞼《まぶた》に口唇《くちびる》を押しつけた。
「レヴィ、――そうか、可哀相に、苦しいんだな…」
そう言う声音が、歓びに震えている。
オリヴィエが苦しんでいるのが判っても、少しの容赦もなく、ロキシーは責め立て、内奥の妖しいうねりを、苦悶を、そして戦慄《せんりつ》を、ゆっくりと味わい、堪能した。
「く……うッ……」
やがて、深く穿《うが》つように肉奥を貫いていた楔《くさび》がゆっくりと抽《ひ》き出されていく時に、オリヴィエは小刻みに舌を顫《ふる》わせ、吐息ともつかない呻《うめ》きを洩らしはじめた。
狭い肉奥を押しひろげ、圧迫していた異物が去っていくことで得られる、ある種の快感が生じるようになったのだ。
しかしすぐに、敏感になっている内部の肉襞を逆撫でて、ロキシーが突き挿れられてくる。
圧迫が去り、収縮を取り戻そうとしていたオリヴィエの肉体は、ふたたび割りひろげられることになり、前にも増して、切なさが集った。
「おぉ……う……う……」
次第に怺《こら》えきれなくなり、オリヴィエが苦悶の唸《うな》りをもらすと、その苦しみの蜜を味わおうとして、ロキシーの口唇《くちびる》が被さってきた。
頭を振って逃れたが、口唇を塞《ふさ》がれて舌を搦《から》めとられ、吸われているうちに、オリヴィエの頭の奥に眩暈の渦が生まれて、酔ったようになった。
「オリヴィエ、お前の内部が、俺にからみついてくる」
口腔の中をロキシーの舌に舐《な》めまわされながら、オリヴィエは自分の秘部の肉襞が、反応していることを感じとっていた。
そこを、伸し掛かっているロキシーが追いかける。
「――俺を搦めとり、きつく締めあげてくる」
ゆるく、まわすように動いて、ロキシーはオリヴィエの肉の蠢《うごめ》きを味わい、言葉をついできた。
「感じてきたな?――どうしたっていうんだ? 俺はわざとお前を痛めつけているのに、感じてくるなんて、――なんて、淫《みだ》らな身体なんだ」
戦慄《せんりつ》が走るほどの羞恥に、身体を熱くしてしまったオリヴィエだが、それは同時に彼の内奥に作用するのか、体内にある肉襞が素晴らしい蠢きでロキシーを締めあげていた。
「そんなに締めつけるな……」
ロキシーがまたも揶揄《やゆ》するように声をあげた。
「まだだ、そんなに――、俺が保てないだろう」
「ああ、言うなッ」
オリヴィエは、自分の意志ではどうにも制御できない肉奥のうねりを意識して、両手で顔を掩《おお》い、少しでもロキシーの視線を避けようとした。
だが、ロキシーとの間に挟まれているオリヴィエ自身の昂《たかぶ》りが、すべてを雄弁に物語っていて、彼のプライドを傷つけた。
お前は、どうしようもない淫乱《いんらん》なのだと、肉体が、そう造り替えられてしまったのだと、妖しく濡れながら、物語っていた。
その、透明な泪を流しているオリヴィエを、ロキシーが腹部を圧《お》しつけて刺激した。
「お……ぉ……」
上体を慄《ふる》わせ、下肢を振るようにしてオリヴィエが呻きを放った。
「お前の声音は、蜜の味がする」
かたく締まった腹部の筋肉で、またもロキシーはオリヴィエの分身をこすりあげた。
「ロ……キシー……ッ」
とくん……と、泪が溢れて、滴りおちてくる。
眩むほどの快感が、オリヴィエを翻弄し、悩ませている。
「……は……やく、一思いにや……てく……れっ……」
おもわずオリヴィエは、自分から腰を揺すって、楽にしてくれるようロキシーを促していた。
――一思いに、どうか一思いに、これ以上の痴態を演じる前に、わたしを啖《くら》いつくしてしまえ、ロキシー――
そんなオリヴィエの哀願を、ロキシーは嘲笑った。
オリヴィエは、彼から伝わってくる嘲笑いを、肉体の内奥にある襞で感じとって、なおも惨めな気持ちにさせられていた。
だが、苦痛と快楽に、身体が蹂躙《じゆうりん》されて、溺れていく。
「く……」
口唇《くちびる》を噛《か》んで、オリヴィエは身体にともった熱を追い出そうとした。
ロキシーの動きが激しさを増し、同時に、深く突き挿《い》れた最奥で、暴れた。
瞬間、全身を痙攣するかのような快感が走った。
苦痛とない混ぜになっている最奥よりも先に、オリヴィエの男が弾けた。
「アーッ、アアッ」
オリヴィエは自分でも驚くほどの声を放ち、大半をロキシーに浴びせかけてなお、青白い悦楽をとめどなく溢れさせた。
その快美感に脳髄を支配されている間に、ロキシーが素晴らしい早さで、肉楔《くさび》をオリヴィエの内奥に打ち込んできた。
自身の欲望を凶暴なまでに昂《たかぶ》らせているロキシーが、オリヴィエの身体を壊そうとでもするかに、動きを早めたのだ。
満身で受け止めながら、オリヴィエの肉体が、いま以上の歓びを求めて、ロキシーの凶暴な動きに合わせていこうとしている。
張り裂けそうな恐怖も、内奥を圧迫される苦しみも、抽送のたびに引き攣《つ》れる痛みも、すでに通り越して、オリヴィエの身体は、ロキシーに同調してうねり、突きあがり、追いかけていく。
この悪魔にはじめて凌辱《りようじよく》された時から、オリヴィエは狂わされている。
もう、オリヴィエには止めることなどできない。
ともに狂い、堕ちて、果てるだけだった。
脳髄をとろかされる激しい快感が、オリヴィエを襲ってきて、思考が定まらなくなってきた。
「ああ……ぁっ。ロキ……シ――」
オリヴィエの内部で閃光がはじける衝撃が起こった。
全身が浮遊するかと思われた瞬間、挿りこんでいるロキシーが膨れあがり、オリヴィエをえぐった。
おもわず、オリヴィエは悲鳴を放って、ロキシーの逞しい肩の辺りにしがみついてしまった。
「ロキシー……」
オリヴィエは、強く抱き締められながら、ロキシーを身に受け、同時に前方を刺激されることになり、苦痛と快感に翻弄《ほんろう》されて、崩壊していく自分を感じとった。
――もう、肉体の方が、オリヴィエを裏切りはじめている。
ロキシーは、オリヴィエの柔らかい黒髪を指先でかきあげ、白い首筋に口付けてきた。
熱い接吻。
吸血鬼は、恐怖に沸騰した血を好み、悦楽に甘くとろけた血を愛するのだ。
さらにオリヴィエの、白くなめらかな喉元《のどもと》に、ロキシーは舌をはわせ、舐《な》めあげた。
「あッ」
熱い舌に首筋を舐められた瞬間、オリヴィエは、溢れるように声を洩らし、激しい快美を感じている腰を揺すった。
羞悶に、すすり歔《な》きながらも、腰を振って彼を締めあげ、それでまた自分が甘美を感じて、オリヴィエは続け様に逐精して果てた。
彼の感じた悦楽を、ロキシーもまた、触れている舌先によって血のざわめきから感じとっていた。
だがオリヴィエは、甘美なる余韻に酔っている間もなく、喉首に触れていた口唇からのびた牙が、肌を裂き、喰い込んでくる激痛に、呼吸をとめられるほどの衝撃を受けていた。
そして、血をうばわれる。
一瞬、身体中の血が引いて、それから流れが速くなる。
「あああぁ……」
飢えていた魔物は、オリヴィエの首筋から血を啜《すす》りあげると、一度舌で味わい、嚥《の》みくだした。
「あッ、あッ、あ、ロキシー……」
オリヴィエは、身体の奥底から、生気を啜りあげられていく異様な感触にのたうった。
血を吸われ、生気を奪われていくのと逆に、ロキシーの記憶も、滔々《とうとう》と血管の中を流れて、オリヴィエの裡《うち》に入り込んできた。
オリヴィエは、首筋の激痛と、貫かれている秘部からもたらされる甘苦しい疼きとともに、身も心も蹂躙《じゆうりん》されて、泣き叫びたいほどの官能《エクスタシー》のなかへと突き落された。
「今のお前の血は、悲しみの味がする」
やがて、腕《かいな》の束縛《いまし》めを解き、肉の楔《くさび》を穿《うが》たれる責め苦を許したロキシーが、寝台に頽《くずお》れて身動きもできずに蹲《うずくま》ったオリヴィエに囁いた。
「ヘーゼルに対する切ない愛と、俺に対する憎しみ。そして自分の運命に対する悲しみの味だ」
痛めつけた自分の獲物を労るように抱擁しながら、次にロキシーは、
「あいつの血には、お前が感じた悦楽の残り香があった」と、言った。
ハッとしたオリヴィエは、抱かれていた腕を振りほどいて寝台の上に起きあがると、魔物を、青い双眸にとらえた。
「ヘーゼルの血を吸ったのか……」
声が顫《ふる》えて、語尾が掠《かす》れてしまったが、ふいに、こみあげてくるものがあって、オリヴィエは両手で目元を掩《おお》い隠した。
「なんということを、……ロキシー……」
オリヴィエの、目元を掩った指の間から、涙が零《こぼ》れ落ちてきた。
一度こぼれた涙は、止まらなくなり、さらに彼は、嗚咽《おえつ》が洩《も》れるのを塞《ふさ》ぐために、口元を手で覆《おお》わなければならなくなった。
「ロキシー……、ヘーゼルにだけは手を出さないでくれ……」
泣き出したオリヴィエの肩を掴《つか》んで自分の方へ向き直らせると、ロキシーは、軽く、啄《ついば》むように口唇《くちびる》を吸った。
「泣くな」
それでも指の間から涙があふれてくるのを見ながら、ロキシーは、煩わしそうに吐き捨てた。
「あの男のために、泣くな」
だが、オリヴィエは言葉を繰り返す。
「ヘーゼルに、手を出さないでくれ。ロキシー……」
涙に濡れた瞳で、オリヴィエは悪魔を瞶《みつ》めた。
「お願いだ、ロキシー……なんでもする」
哀しみで声が掠れた。
「なんでも、言う通りにする……」
他の男のために泣いているオリヴィエを突き放して、ロキシーが意地悪く言った。
「じゃあ、お前がいま、俺にどうして欲しいのかを言ってみるんだな」
その言葉に、――ああ……と、オリヴィエは身悶えた。
ロキシーの要求は判っていた。オリヴィエの口からそれを言わせたいのだ。そして、残酷な遊びがしたいのだ。
「どうした? 言ってみろよ、レヴィ。俺に、どうされたいのかを……」
言わなければ、どうされるのか、オリヴィエは判っていた。
彼だけは、ヘーゼルだけは、何としてでも護らなければならなかった。
オリヴィエは、口唇を噛《か》み締めたまま、彼の前に背を向け、双丘を突きあげた四つん這いになった。
ロキシーを、誘惑しなければならない……。
「見て……わたし…を……」
嗚咽がこみあげてくる。
「それだけじゃ、駄目だぜ、判ってるだろう?」
「もっと、――愛して…」
さらに、魔物が屈服を要求してくる。
「自分で開いて見せろよ」
「…あ…ああ、…ひどい…ことを――…」
オリヴィエは咽びながら、さらには、シーツの中に顔を埋め、肩で身体を支えると、両手を背後にまわして双丘を掴《つか》み、左右に割りひらかせた。
秘裂の奥が曝け出されて、犯され、花を散らされたあとの、妖しくも嬌《なま》めかしい肉襞が、ロキシーの前に剥き出しにされた。
屈辱に、顫え戦《おのの》いている媚肉の柔襞は、まだ緊密な花蕾にはもどっていない。
「……して」
嗚咽とともに、「もっと、犯して、――悦《い》かせてっ、ロキシー……」オリヴィエは言葉を吐き出した。
Z
アパートに戻ったオリヴィエは、翌日の昼過ぎまで、泥のように眠った。
彼は、時おり信じられないほど長い時間を眠り続けてしまうことがある。今もまた、凌辱《りようじよく》され、疲れ、打ちひしがれた身体をベッドに横たえ、疲れと、哀しみを克服するまでにそれだけの時間を必要としたのかもしれない。
時おり、留守番電話のメッセージ音が鳴っていたが、無視をした。
それでも、時計が午後二時を告げるころになると、ベッドから起きて、着替えを済ませた。
食事を摂《と》る気にはなれずに、居間のテーブルへ行き、ヘーゼルへ宛てて手紙を書いた。
ロサンゼルスを離れなければならなくなったこと。もう、逢《あ》えないこと。そして、『愛しい人を呼んでも』を、歌って聞かせられる機会がなくなったこと……、ここまで書いて、オリヴィエは口唇《くちびる》を噛《か》み締めた。
――愛しい人を呼んでも……。
離れ離れになってしまった恋人同士の歌だ。
オリヴィエは、書いた便箋を、指先で手繰ってシワにしていき、結局は破りすてた。
それからのろのろと立ち上がり、ベッドの下から旧いトランクを取り出し、荷物の整理をはじめた。
いつでもその土地を離れられるように、オリヴィエの持ち物は驚くほど少ない。
今も、いくつかの食器と、リネン類、――ヘーゼルがくれた薬缶と焜炉《こんろ》は置いて行くことにして、昔から使っている銀のウェア・セットと、宝石のはいった革張りの箱、衣類だけを選び出した。
トランクに詰めようとした時に、底に敷いた虫除けの新聞が黄ばんでいることが判って、オリヴィエは、ドアの下から差し込まれている新聞を取ってきた。
そして新しい新聞にかえるために黄ばんだものを取り除くと、さらにその下にもう一枚、敷いたままで忘れていた旧い新聞があることに気がついた。
新聞の日付は一九三六年。
この国に来たのがそんなに昔だったことを、オリヴィエは思い出した。
だが、感慨深くはなかった。
今、彼の心のすべては、ヘーゼルによって占められていたのだ。
自分が突然いなくなったら、ヘーゼルは悲しむだろうと思った。
行く前に、病院に逢いにいきたいとも思った。
最後に一目だけでも、逢いたいのだ。
きっと自分は、別れが辛くて泣いてしまうだろう虞《おそれ》がある。それで、どうしても決心がつかず、止めることにした。
指輪を返すこともできない。
なんという哀しみ。
――喪失感。
だが、少しでも、こういう哀しみに反応できる人間らしさを失いたくないと思った。
そして、オリヴィエは、新しい土地に移っても、また恋人を持とうと思う。
悲しい結果に終わることは判っていた。
それでも誰かを必要としていた。
誰かを愛し、信じなければならない。
少しでも、自分が人間であると思いたいがために、オリヴィエは、そう決心するのだ。
旧い新聞を捨てて、新しい今日の日付の新聞をいれた。
トランクに新聞を敷くなんて、旧い時代の人間のすることだが、オリヴィエは旧い時代の人間だった。
ロキシーの餌食《えじき》となり、ロキシーと同じく長い時間を、人の姿でこの世に彷徨《さまよ》っているのだ。
時計が、午後三時を告げた。
オリヴィエは、ロキシーが待っている空港へ向かうために、部屋を後にした。
[
四月
ロンドンから二十キロほど西方に位置するバースデッドの駅から、車で一時間の丘陵地に、城は建っていた。
ヘーゼル・ヴェイはその城が、予想していた以上に旧く、また、思っていたよりもずっと小さいことに気がついた。
それでもこの国の常としてか、城は一般公開され、年に数人しか訪れない観光客を待って、ひっそりとたたずんでいるのだ。
城の入口のところには、管理人を兼ねている村役場の職員とおもわれる中年男性が一人いて、しきりと点字タイプを打っている。
その彼に拝観料金の七ポンドを払い、パンフレットを貰《もら》ってから、ヘーゼルは城の中に入った。
パンフレットには、この城は、正式には領主館《マナー・ハウス》であると書かれていて、十二世紀のプランタジネット朝の流れをくむ貴族の館だったとなっている。
プランタジネット家は、後に有名な薔薇《ばら》戦争のランカスター家とヨーク家に分かれ、次第に衰退していく一王朝のことだ。
衰退ぶりを物語るかに、古城の中もまた、主だった家具も、調度もすべてなくなり、いにしえの栄華の名残も存在していない。
廃墟ともいうべき代物と化していた。
だが、ヘーゼルは、最後に入った広間で目的のものを見つけ、立ち止まった。
プランタジネット一族の肖像画が掲げられている広間の、その歴史的な人々の中に、美しく着飾ったオリヴィエの姿を見たのだ。
いにしえの肖像画の中から、彼は、かわらない青い双眸で、ヘーゼルを瞠《みつ》めていた。
ヘーゼルは懐から、クリスマスパーティーの時の写真を取り出すと、肖像画のオリヴィエとを見比べた。
「逢いたかったよ、レヴィ。君が、何者であっても……」
退院した後、ヘーゼルはあの時のカメラマンを捜しだし、三枚の写真を譲り受けたのだ。
カメラマンは、パーティーでの些細な諍《あらそ》いのことはすっかりと忘れていて、写真もまた、無用のものとばかりに譲ってくれた。
その写真を見た時に、ヘーゼルはすべてを理解した。
なぜにオリヴィエが自分の前から姿を消したのか。
何故に自分が、金色の獣に襲われたのか……。
それらすべてを解く鍵は写真にあった。
ヘーゼルが手に入れた写真のうちの一枚、最初の一枚には、オリヴィエの姿が映っていなかったのだ。
そしてロキシー・アルカードとは何者だったのか。
――ALUCARD は、わざとらしいアナグラムだった。
逆に読んで行くと DRACULA となるのだ。
ヘーゼルは肖像画に近づいて、額縁の裏に持ってきた写真を差し込んだ。
そして、管理人が不審を抱いて見にくる前に、肖像画の前を離れた。
ここにくれば、いつでも、彼に逢える。
いつでも――。
城をでて、門の外に待たせておいたタクシーに乗ろうとした時、ヘーゼルは背後から呼び止められ、走ってくる管理人に気がついた。
一瞬、置いてきた写真を見咎《みとが》められたのかと思ったが、管理人は、ヘーゼルの所へ来ると、まず、顔馴染みであるタクシーの運転手に軽く挨拶をしてから、息を切らしたまま、
「お客さん、今、これを落としましたよ」と、手を差し出した。
その手の中には、あの、神聖甲虫《スカラベ》の指輪が乗っていた。
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THE DARK SHADOW
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T
六月十七日
ロンドン
セント・グロスター教会
午後二時
「アメリカには、各地を転々としながら六十年ほどいたのです…」
それが罪なことであるかのように、伏し目がちになった青年の口唇《くちびる》から、今度は、消え入りそうな声が洩《も》れた。
「わたしたちは、同じ土地に長くは住めないからです」
「それは、あなた方が――…、年をとらない、つまり外見が若いまま変わらないという伝説《こと》からですか?」
ブライアン・スタンリー牧師は、かすかに戸惑いを有したが、懺悔《ざんげ》をしているオリヴィエ・シェリダンに話を合わせた。
「はい。特にロキシーは、…あの吸血鬼は目立ちすぎました」
さらに苦しげになったかと思うと、オリヴィエは、上着の内ポケットに忍ばせてきた一枚の写真を取り出して、格子窓の下に開いている隙間《すきま》から、差し込んで来た。
ブライアン牧師は、受け取った写真を背後から差してくる明りの元で見た。
つい最近、空港のロビーで撮影されたとおぼしき一枚の写真には、陽に灼《や》けたブロンズ色の肌に、男らしく整った顔立ちをした金髪青年の姿があった。
「彼が、ロキシー・アルカードです」
写真の男は、いささか大きめで、官能的な厚みのある口唇《くちびる》を持っていたが、むろん、突き出した牙などは無く、がっしりとした顎《あご》の形からは、隠れている歯並びの美しさを想像できるほどだった。
そこには、伝説で伝えられる吸血鬼という魔物の放つ、邪悪な神秘性と、幽暗な禍々《まがまが》しさなど微塵も存在してはいない。
若く、美しく、――裕福な青年が、人生を謳歌《おうか》しているという印象がもっとも強いのだ。
「しかし、吸血鬼は、写真には写らないというのではないですか?」
写真ばかりではない。
古から伝えられる吸血鬼は、鏡にも映《うつ》らず、影もなく、十字架を恐れ、聖水に皮膚を焼かれ、ニンニクの臭いを嫌う。そして陽光を浴びて灰になるか、胸に杭を突き刺されることによって、粉塵と化するのだ。
ついその疑問を投げ掛けてみると、オリヴィエ・シェリダンは、青白い貌《かお》をあげて、二人の間を遮っている格子窓の向こうから、ブライアン牧師の方へと視線を向けた。
懺悔《ざんげ》室の細かい格子窓は、光の関係で、告白に訪れた信者の顔が牧師には見えるよう細工してあったが、信者の側から牧師は見えないようにされていた。
その方が、懺悔しやすいからだが、今のオリヴィエは、はっきりとブライアン牧師が見えているかのように、視線が定まっている。
「それは小説の中の吸血鬼です。ロキシーは自分の意思で、鏡にも、写真にも姿を映しだせるのです。この美しい姿を……」
牧師は、憎むべき相手に対するオリヴィエの言葉に、賛美が混じっているのを感じた。
さらには、同意を求めているのが判ったので、
「確かに、美しい男性ですね、ハンサムすぎるくらいだ…」と、言ってやる。
「…魔物は、人を惑わすために、美しい姿をしているのです――」
だが、オリヴィエこそが、讃えられてしかるべき美貌《びぼう》に恵まれた青年でもあった。
肌の色は青白いほどに透き通っていたが、青い瞳と、細く通った貴族的な鼻筋に、写真の男とは対照的なほど薄い口唇《くちびる》は、知性と、ある種の冷ややかさが刻み込まれているのだ。
吸血鬼であると言うロキシー・アルカードの方が、真夏の太陽が照りつけるギリシャを思わせ、オリヴィエは、静寂と冷気に満ちた夜の気配を漂わせていた。
「わたしたちの関係は、あまりに悍《おぞ》ましく、邪悪なものです」
懺悔室の格子窓の向こうで、オリヴィエの視線が逸《そ》らされ、告白する声が、いっそう低く、小さくなった。
「彼は、わたしの血を吸う前に、――セックスを強要します。わたしが…どうにも抗えずに快楽に身をゆだねてしまうまで、執拗《しつよう》に、求めてきては、その瞬間に、わたしの首筋に牙を――…」
口にした途端に、オリヴィエは妖しい感触を思い出したのか、右手で、自分の首筋を覆い隠すかに押さえ、さらに慄《ふる》えを放った。
「――…そして、わたしたちは一時、一つの意識を共有するのです」
「意識の共有?」
「はい。ロキシーの記憶が…、あるいは考えていることが、失われていく血と入れ違いに、わたしの中に流れ込んでくるのです……」
オリヴィエの言わんとしていることを理解するのは難しかった。
「例えばどんな記憶ですか?」
「今は、苛立《いらだ》ち…、イギリスに戻ってからのロキシーは、苛立っています。自分にとって有害な神の存在を感じているからです」
「では、シェリダンさん。今まで、あなたは、その悪魔を滅ぼそうとはしなかったのですか?」
自分は、吸血鬼と共に長い年月を生きてきたと言うオリヴィエ・シェリダンの話を信じるのならば、そういう疑問がわいてくる。
「何度も、何度もやろうとしたのです。しかしロキシーは、十字架を手の中で溶かし、聖水も意味を持たなかった。たとえ、胸に銀の弾丸を撃ち込んだとしても、滅ぼせないのです」
静かだったオリヴィエが、心を乱させているのを感じて、ブライアン牧師は戸惑った。
「ロキシーは、わたしが自分を斃《たお》せないのは、信仰心が足りないからではなく、このわたし自身が、彼に支配されていることを望んでいるからだと、言うのです」
「支配されることを望んでいるのですか?」
牧師の戸惑いに気がつかなかったのか、オリヴィエは、さらに悲痛な声をあげたのだ。
「いいえ、決してッ」
「では、なぜ、逃げなかったのです?」
神秘的なほどに青い瞳が、真っ直ぐにブライアン牧師の眼を凝視《みつ》めてきた。
――彼には、こちらが見えているのだ。ついには、そういう結論に達せずにはいられないほどに、正確に、視線が定まっている。
「わたしが餌食《えじき》でいる限り、ロキシーは他の人間を襲わないと約束したからです」
完璧に対称な形をしている口唇が、――ゆえに冷淡に見えるのか――囁《ささや》くほどの声を洩《も》らした。
「餌食……」
次には、ブライアン牧師が心の裡《うち》で繰り返してみた言葉を聞きつけたかのように、
「わたしの血と、――肉体《からだ》と……」そう、オリヴィエは言った。
血を吸われているということよりも、吸血鬼だと言う男と、肉体の関係があることの方が、現実的で、生々しく、聴いている者の平静を乱させるのだが、次に牧師は、
「貴方だけの血で、彼は生きられるのですか?」
もう一方の罪――同性愛を問わずに、訊《き》いてみた。
「ロキシーは、伝説の吸血鬼のように、夜ごと生き血を求めて彷徨《さまよ》うことはありません。わたしから、必要なだけ嚥《の》んでしまうと、しばらくは飢えないようです…」
「それでは、あなたは何百年間も、身を呈して、わたしたち人間を守ってきたのですね?」
ブライアン牧師は、応えてやる。
だが、「いいえ」とでも言いたげにオリヴィエの方は、頭を振っていた。
「わたしなどには何の力もない。なぜならば、この世界に存在する吸血鬼は、ロキシーだけではないのだから……」
ジリリリリ…と、ブライアン牧師の背後でベルが鳴った。
懺悔《ざんげ》の時間の終りを告げるベルの音だった。
何時もならば、オリヴィエのためにもっと時間を割いているのだが、今日ばかりは違っていた。
予《あらかじ》め、ブライアン牧師の都合で、三十分という時間しか空いていないことは説明してあったのだ。
それでも懺悔したいとオリヴィエ・シェリダンは申し出て、ブライアン牧師は承諾した。
格子窓の向こうで、見えないと判っていても、――いや、オリヴィエには視《み》えるのかもしれないが、ブライアン牧師はチラリと、腕時計で時刻を確認した。
午後二時三十分を少し過ぎていた。
「何時もよりも短い時間で済みません」
ふと、この後、帰り際にオリヴィエが献金箱に差し込んでくれるだろう五十ポンド紙幣を思うと、ブライアン牧師には、申し訳ない気持ちがわいてくる。
同時に、教会の中でも蔓延《まんえん》している、時間や、労力を金で換算するという悪しき風潮に自分も毒されていることを、恥ずかしくおもうのだ。
「いいえ、わたしのほうこそ、無理に時間を割いていただきました…」
ひっそりと微笑み、オリヴィエ・シェリダンは、物音ひとつ立てずに、狭い懺悔聴聞室の中で立ち上がった。
彼の物腰は、何時も落ち着いていて、優雅であり、とても懺悔の内容とは結びつかない。なぜ、オリヴィエがその様なあらぬ妄想を抱いてしまうのか、ブライアン牧師には謎なのだ。
「また話しに来てください。わたしは、何時でもあなたを待っていますから…」
「はい、ありがとうございます」
帰り際に、ブライアン牧師はあやうく忘れるところだった写真を格子窓の隙間から返し、オリヴィエが懺悔室から出ていくのを待って、自分も反対側の扉から外へと出た。
そうして、箱型の懺悔室が並んでいる翼廊から、礼拝堂にいる信者たちの祈りを邪魔することなく、すべるかのような足取りで遠ざかって行くオリヴィエの後ろ姿を見守った。
入口の所でオリヴィエは、懐から真新しい五十ポンド紙幣を取り出して縦に二つ折りにし、献金箱に差し込んだ。
さらには、近くで用事を足していた牧師を呼びとめ、持参の小瓶に聖水を移して貰《もら》えるかを頼んでいる、なめらかな声が聞こえた。
実際に、かなり離れていても、ブライアン牧師には彼の声が聞こえるようだった。
「またあの青年かね、吸血鬼妄想の?」
背後に近づいてきた声で振り返ったブライアン牧師は、そこにこの教会の主任司祭であるジョンストン牧師をみて、頷《うなず》くことで肯定を示した。
ブライアンがオリヴィエの告解を聞くことになったのは、そもそもこのジョンストン牧師が、彼の『吸血鬼妄想』を持て余したからだった。
気の毒なことにオリヴィエ・シェリダンは、懺悔室で、自分はホモセクシャルの吸血鬼と何百年も暮らしていると告白して、牧師たちに正気を疑われたあげくに、たった二か月の間に、すでに三千ポンドちかい寄付と献金を、セント・グロスター教会に施してくれていた。
「あれは、金持ちの、贅沢《ぜいたく》病だよ」
そう言ったジョンストン牧師とともに、ブライアン牧師は窓の方へと移動して、去っていくオリヴィエをみた。
確かに、オリヴィエ・シェリダンは、金持ちだった。
身に着けている衣装も、装身具も、値の張るものばかりで、今日などは、上品で落ち着いた茶色のスーツに、緑の絹のネクタイを締めていたが、まるで、男装の麗人といった雰囲気を漂わせていた。
後ろ姿で見ると、背の中ほどまである長い黒髪のせいで、いっそうのこと、彼が男であるのか、女であるのかが判らなくなってくるほどだ。
まだ二十代後半であるブライアンはさておき、老域に差し掛かっているジョンストン牧師には、オリヴィエの長髪ですら、現代の若者の悪しき風潮として悪感情を抱かせるのだろう。
そのうえに、ホモセクシャル、未就労者の―――誇大妄想狂なのだ。
「夢に生きている者ほど、始末におえない者はいないのだよ」
露骨に軽蔑《けいべつ》を表わす主任司祭に、ついブライアン牧師は、――決して信じている訳ではないというのに、オリヴィエを庇《かば》う立場に立ってしまう。
「しかし、ジョンストン牧師。彼の話の一部分は、妙にリアルなのです…」
だが、今日などは、吸血鬼の写真を持参できたところなど、やはり、正常を疑わずにいられない。
ついそのことを話してしまうと、ジョンストン牧師は、得たりとばかりに頷《うなず》いた。
「君は、幻想症候群という言葉を聞いたことはあるかね? ブライアン牧師」
「いいえ」
聞いたことがないと、ブライアン牧師は頭を振った。
「若者が、映画や小説を読んでいるうちに、現実と空想世界との区別がつかなくなってしまう現象なのだ。アメリカでは特に広がっているらしい。魔物が攻めてくるといって、自分の部屋から出なくなってしまった少年や、戦士に生まれかわるという啓示を受けたと、ビルの屋上から飛び下りる者もいるそうだ」
そこまで言ってから、ジョンストン牧師は、教会に隣接した施設で預かっている子供たちがオリヴィエに気づき、まつわりついていくのを見咎《みとが》めるようにみた。
子供たちは、何時もたくさん献金してくれるオリヴィエのことを知っていて、自分たちで育てている花壇の薔薇《ばら》を、彼にプレゼントしたいと言っていたのだ。
急いでそのことをブライアン牧師が説明すると、ジョンストン牧師も納得して、先を続けた。
「とかく、彼のような青年は、自分の老いを否定したいが為に、不老不死の怪物の話を好むのだろうな」
ジョンストン牧師の口を突いて出た、その断定的な物言いに、ブライアン牧師の方は反発したくなっていた。
彼にとってオリヴィエ・シェリダンは、ジョンストン牧師が考えている幻想症候群の青年には思われなかった。
繰り返し話す彼の吸血鬼妄想に関しても、――ブライアンは信じている訳ではないのだ。だが、言っていることは終始一貫しているのが不思議だった。
「しかし、彼は……」
遮って、ジョンストン牧師が言葉を継いだ。
「考えてもみたまえ、辻褄《つじつま》が合わんだろう? 吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼になると言うじゃないか、白昼堂々と歩き回り、教会を訪れ、懺悔室で牧師と向かいあえる吸血鬼がいるはずがない」
教会自体が、十字架の形の上に構築されていて、魔物が、入り込めぬ造りになっているのだ。
「その上に、今日は吸血鬼の写真まで持って来たとはな」
話すのではなかったという後悔にブライアン牧師は苛《さいな》まれた。
「ええ、しかし…」
そこをさらに、ジョンストン牧師が言葉で衝いた。
「もはや彼は、自分の言っている矛盾に気がつかないのだ。けれども、我々はセラピストの役割も兼ねなければならない。特に、信仰心が薄れていく昨今では、教会を訪れる者を拒むことはできないのだからね。それに、彼のような信者は必要だよ」
ロンドンの中心部から南下したチェルシー地区にあり、歴史は古いが、誇るべき大聖堂も持たず、教区から忘れ去られそうなセント・グロスター教会では、オリヴィエがもたらしてくれる献金は有り難いことでもあったのだ。
「彼も、額に汗して働くことを経験してみれば、あんな妄想からは解放されるはずだ」
そのオリヴィエは、いま、子供たちが真紅の薔薇《ばら》ばかりを選び、ひとつひとつ蕾を吟味しながら切っているのに辛抱強く付き合っていた。
彼の周囲では、時間はゆっくりと、優雅な流れ方をしているのだろう。
「ところでブライアン牧師、そろそろ君のお姉さんがこちらへ着く時刻ではないのかね?」
今日は、未亡人となったブライアン牧師の姉がロンドンへ出てくることになっていたのだ。
「ヴィクトリア駅に着いたら、そこから電話を掛けると言っていたのですが、もう到着してもいい頃だと思いますので、これから迎えに行ってきます」
時間は三時を過ぎている。ブライアン牧師は、予定の到着時間を過ぎていることで少し不安を覚えて言った。
「未亡人になられたからといって、これからの生涯を神に仕えることに捧げようとは、今時珍しいほどに、立派な心掛けの女性だよ」
ジョンストン牧師にとっての美徳は、彼女のような女性をいうのだ。
「姉は、昔から信心深い人でしたから……」
そしてブライアンが、牧師の道を選んだのも、その姉、――メアリーの影響を受けてのことだった。
「落ち着く先が見つかるまでの間、特別にわが教会への滞在を許可するよ」
勿体ぶり方からして、特別の配慮であることは判る。ブライアン牧師は丁寧に礼を言ってから、急いで奥にある住居の方へ戻り、十分後には、自分で車を運転して教会を出ていた。
街路樹が植えられ、色合いと素材を統一して造りあげた家々が並ぶ一角を通り過ぎ、また別の色彩に彩られた一区画に差し掛かったところで、ブライアン牧師は、前方を歩いているオリヴィエの姿を見つけた。
簡素な住宅街に囲まれているセント・グロスター教会の周辺では、午後のこの時間は交通量も少ない。
オリヴィエは、両手に抱えている薔薇《ばら》の花束のこともあって、バスに乗らず、タクシーが掴《つか》まえられる通りまで歩いているのではないかと思われた。
子供たちがプレゼントした薔薇のせいならば、ブライアン牧師は、自分が手を差し伸べる必要性と、義務を感じ、ほとんど衝動的に車の速度を落とすと、彼の方へ向かってハンドルを切っていた。
「シェリダンさん……」
少し追い越してから車を停め、急いで下ろした窓越しに呼んだ。
「良かったら、乗っていきませんか?」
普段ならば、きっと避けただろう。特に告解後の信者と牧師という関係であればあるほどに――。
だが、今のブライアン牧師には、オリヴィエとの面談の時間が短すぎたことを申し訳ないと思う気持ちと、その理由を言い訳できるという思い。さらには、少し前まで、ジョンストン牧師によって彼が侮辱されていたことを労りたい気持ちが交じり合った結果のことだった。
「済みません、タクシーに乗りたかったのですが、なかなか掴まらなくて…」
最初、オリヴィエの方は驚いた様子だったが、断ることもなく、乗って来て、車の中が薔薇の香りでいっぱいになった。
「この辺りでタクシーを拾うのは、難しいんですよ。駅前まで送りますよ」
間近で見ると、オリヴィエの茶色のスーツには、金茶の細いストライプが入っている、洒落ているものだと判った。
そして、懺悔室の格子窓を離れてこんな風に二人きりでいることに、ブライアンは緊張を感じていたが、オリヴィエの方は、子供たちが切ってくれた薔薇の礼と、駅へ行くのは、遠回りになるのではないかと心配していた。
「いいんですよ、ちょうどヴィクトリア駅に姉を迎えに行く約束なんですが、予定の時間になっても連絡がこないから出て来てしまったのです」
そこでブライアン牧師は、カンタベリーに住んでいる姉が、今日ロンドンに出てくるのだと説明して、そのため懺悔の時間を充分に取れなかったことを詫《わ》びた。
「ひょっとしたら、次の電車かもしれないから時間はあるんですよ」さらには、そう続けて、「近くであれば、お送りしましょうか?」とまで口走っていた。
「いえ、現在はハイド・パークの方に住んでいますから…」
穏やかに、それほど近くないということを、オリヴィエは示した。
「ハイド・パーク? そこからセント・グロスター教会に通ってくださっていたのですか…」
テムズ川沿いのセント・グロスター教会は、近くにチェルシー・オールド教会もあり、ブライアン牧師には、なぜオリヴィエがわざわざ自分たちのような小さな教会を選んでくれたのかが判らなくなった。
察したのか、それともタイミングだったのか、オリヴィエは、この世のものとも思われぬほどに青い双眸《ひとみ》で運転席のブライアン牧師を瞶《みつ》めた。
すぐに視線は前方に戻されたが、口にする決心はついた様子だった。
「セント・グロスター教会に入った瞬間に、神様が降臨《お》りてこられるのを感じたのです。それで、この教会ならば、わたしを救ってくれるのではないかと……思ったのです――」
ハッと、ブライアン牧師はオリーブ色の瞳で、オリヴィエを瞶め返した。
「実は、僕も感じるんですよ」
いまやオリヴィエ・シェリダンに対する牧師の気持ちは、いっそう好意的になっていた。
「教区の中では小さな教会ですが、僕が知る限りでは、唯一、神様がいらしてくださるのです。…ですから、僕はわざわざセント・グロスターへの配属を志願して、昨年ようやく叶ったのです…」
さらにブライアン牧師は、いまだかつて、誰にも話したことがないことを、興奮のまま続けていた。
「今日来る姉もたいそう信心深い人で、子供のころは日曜ごとに四つも駅を離れた教会に通っていました。なぜならば、姉はその教会に神様が降りてこられるのを見たとかで…、僕の方は彼女の付き添いで、毎週その教会に通わされたんですが…」
そのうちに自分も、神が降りて来る教会を見分けられるようになったのだと、ブライアン牧師は説明した。
オリヴィエは黙って聞いていたが、信じている様子だった。
やがてヴィクトリア駅が見えて来ると、タクシー乗り場近くで車を停めたブライアン牧師は、自分が身に着けている銀の十字架を外し、
「あなたに、神のご加護のあらんことを…」
そう、祈って、オリヴィエの首に架けてやった。
「感謝します。ブライアン牧師…」
思いがけない贈物に、オリヴィエは微笑を返し、薔薇《ばら》の花束とともに車から降りた。
ブライアン牧師は、バックミラーの中で遠ざかっていく彼を、見えなくなるまで見守っていた。
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六月十七日
午後三時四十分
ブライアン牧師と別れたオリヴィエは、タクシーに乗り込むと、ホテルを指示してから、バックシートに深く凭《もた》れ掛かった。
教会を出てからも、すぐにホテルに戻る気になれず、しばらく町並みを見ながら歩こうとしていたところを、思いがけなくブライアン牧師に呼び止められたのだ。
彼の好意を無にしないためにも、車に乗らなければならなかった。
いまも、見送っている彼の視線を感じるがために、タクシーに乗ったのだ。
タクシーの中には、黴臭さと、それを消すための消毒薬の臭いがしていて、オリヴィエの裡《うち》にある遠い記憶と繋《つな》がった。
オリヴィエにとっての、――イギリスの記憶だった。
感じる空気に、肌に触れる独特の湿気にすら、懐かしい喜びを感じることができた。
だが、時にふと、不安を感じることがないわけではない。それはロキシーが苛立《いらだ》っているためでもあるかもしれない。
ロキシーは、ふたたびアメリカに戻ることを考えているからだ。
あるいは、ローマか、ギリシャへ行くということ。
特にローマは、ロキシーにとって特別な想い出のある場所なのだ。
彼は以前ローマで短期間暮らしたことがあって、――それが何時の時代なのか、オリヴィエには判らないが――、そこで、いくつかの素晴らしい想い出をつくったのだ。
その想い出の断片を、オリヴィエも味わうことはできた。
二人で肌を合わせ、もっとも深く繋がりあっている瞬間に、オリヴィエの中に流れ込み、浸透してくるのだ。
いつしか、口にはしないものの、二人でローマへ行くことは、特別の意味となっていた。
だがそれはもっと先のことで、もしかしたならば、永遠に訪れないかもしれない。
ロキシーがローマを想っているように、オリヴィエも故郷《イギリス》を想って来たのだ。
そしてようやく、アメリカから戻って来たのが、今年の一月だった。
ホテルに落ち着いてから最初の一か月は、六十年以上も前、ロキシーとともにイギリスを離れる前に行った場所や、店や、想い出の地がどう変わっているのかを知りたくて、出歩いてみた。
ついには、バースデッドの方へも出掛けてしまい、遠目に、一族で暮らしたこともある領主館をみたりもした。
現在は、拝観料をとって観光客に中を見せている様子だったが、さすがに、自分の城に七ポンド払ってまで入ろうとは思わなかった。
入ろうと思えば、城壁の一部分に隠されている入口を利用すればよかったし、川沿いの石垣にも、秘密の通路があるのだ。
もっとも現在のオリヴィエは、近づいて見る気にもなれなかった。
そこには、輝かしい想い出など残ってはいなかったからだ。
オリヴィエの時代には、落ちぶれていくだけだった。
由緒ある大貴族の末裔《まつえい》が、一族の生活のためにロイヤル・オペラ・ハウスで歌わねばならなかったのだから……。
コヴェント・ガーデンで青物市場と共存していたその劇場は昔のままだったが、市場のほうは何時しか移動されて、改築された後に、今度は若者の文化を助けるかに、高級ではないが、個性的な店舗が入り込んでいた。
いかにもロキシーが好みそうな雰囲気に変わってしまっていて、オリヴィエの方は微かに失望した。
同時に、あの夜が思い出されてきた。
――喉《のど》を痛めた夜。
歌えなくなったオペラ歌手がどうやって生きて行くのか、おもいしらされた夜。
死に場所を探して街を彷徨《さまよ》っていたオリヴィエの前に、ロキシーは現われたのだ。
邪悪な夜の魔物、時の支配者である吸血鬼ロキシーに、血ばかりではなく、身も、心も奪われた翌日には、船でフランスの港町に連れて行かれた。
温暖な気候に恵まれた港町で、夜毎に貪《むさぼ》られる日々が続き、それからも、いくつもの国を渡り歩いた。
時に、思い出したかのようにイギリスに戻ってくることはあっても、また直ぐに別の国へと旅立った。
時代時代に、暮らしやすい国を選び、移り住んだのだ。
だが、現在のオリヴィエは、自分の戻るべき国は、やはりここであるという思いに満たされていた。
望郷心が満たされ、心が落ち着いてくると、今度はロンドン中の教会を回った。
イギリスは、一五三四年に、国王ヘンリー八世の離婚問題でローマカトリック教会から、独自の英国国教会へと宗教改革を果たしている。貴族でもあるオリヴィエにとっては、国王を首長とする英国教徒であらねばならないのだが、彼は、神を求めて、様々な教会を回ったのだ。
時間も、金銭的な余裕も、充分にあった。
ようやく捜し当てたのが、チェルシーにあるセント・グロスター教会であり、ブライアン牧師に言ったことは嘘《うそ》ではなかった。
だがオリヴィエは、セント・グロスター教会の牧師たちが、自分を『吸血鬼妄想』として扱い、持て余していることも知っていた。
唯一親身になってくれているブライアン牧師ですら、――瞳の中に困惑と、同情を宿しているのだ。
それでも、今日は車に乗せてもらい、懺悔《ざんげ》室の中では話さなかったことを喋《しやべ》ってしまった結果、牧師が自らの十字架を授けてくれた。
彼を信じよう。
彼ならば、自分を救ってくれるかもしれないのだ。
そう思うだけで、心が安らぐ。
やがてタクシーがホテルの前で停車すると、素早く降りた運転手によってドアが開けられ、オリヴィエは、料金とサービスに見合っただけのチップを支払ってから降りた。
すぐさま、鮮やかなブルーの制服に身を包んだホテルのドアマンが、薔薇《ばら》の花束を抱えたオリヴィエを見つけて飛んで来ると、回転扉を回して恭しく招き入れた。
ホテルのロビーは、入った途端に外の喧騒《けんそう》を忘れ、異国の宮殿に迷い込んだかのような錯覚を起こさせるアトリウム型で、七階まで吹き抜けになっているその両脇に、隠れ家のように客室が配されている。
先月から、オリヴィエとロキシーは、このハイド・パークの東に面した優雅なホテルに滞在しているのだ。
ロキシーが選んだロイヤル・スイートは、レストランの食事がそのままサービスされるように、厨房に直結したエレベーター付きの、来客用サロンを兼ねる広いダイニングルームと、それから小規模なドレスルームを経て、二つの寝室という間取りになっている。
それぞれの寝室からは、観葉植物に囲まれたテラス型のサンルームへ出られるようになっていて、そこがまた豪華なバスルームでもあるのだ。
二ベッドルームでなければならないのは、ホモセクシャルな関係を隠すためにオリヴィエが主張したことであり、採光天井から燦々《さんさん》と陽光が降り注ぐサンルームが浴室になっている部屋を選んだのは、ロキシーが、吸血鬼であることを疑われないため…、というよりは、彼の挑戦のような気がした。
けっきょくオリヴィエは、教会とホテル以外に行くところがないのを思い知らされながら、七階にある部屋へ戻ることになった。
観音開きになっている部屋の扉を開けてサロンに入ると、すぐに、ロキシーが買ってきたのだろう今日の新聞と、雑誌がテーブルに置いてあるのが見えた。
オリヴィエが教会に行っている間に、ロキシーもどこかに出掛けていたのか、だが、戻っている気配が感じられなかった。
戻ってきて、ふたたび出掛けたのか…、午後のこの時間はホテルの地下にあるローマ風のプールにいるのかも知れない。
こんな昼日中から、でもあの吸血鬼は、太陽の光を恐れてはいないのだ。
人々は、吸血鬼は夜にしか生きられない魔物だと信じているというのに、彼には当てはまらないのだ。
その上、レストランで食事をして、バーでは酒を楽しむ。
オリヴィエの血は、ロキシーの生命の糧であったが、人間の食物を食べることは、彼の味覚を楽しませることだった。
それをロキシーは、『人間のふりごっこ』遊びと称する。
オリヴィエは、ポケットの中からロキシーの写真を取り出して、見た。
やはり一般の人間の認識で言えば、吸血鬼は写真には写らないことになっている。
だがそれとは別に、オリヴィエ自身も写真を撮影されることには神経質になっていた。
それは、その写真が残ってしまうことによって、自分の外見が変化しないことを、何時か、誰かに見破られるかも知れないからだ。
だから決して、写真を撮られないように気を遣っているのだ。
すると、今日、ブライアン牧師にこの写真を見せたことは間違いだったかも知れないという不安が、衝きあげてきた。
振り払うように頭を振った時だった。
オリヴィエは、その瞬間に、ふっと血の匂いを嗅《か》いだ気がした。
勢い、ダイニングを横切って、ドレッシングルームに通じるドア、さらに、奥にある寝室のドアを開けると、血の匂いの濃密さがました。
まさかと思い、息を深く吸い込むと、その濃厚な匂いに、頭の芯にくらりとする眩暈《めまい》が起こった。
紛れもなく血の匂い。
ほとんど飛びつくような速さで、オリヴィエはサンルームに通じている金板とガラスとで装飾されたドアを開けて、中の光景を眼にした。
さんさんと陽光が差し込んでいるバスルームの中、そこに、女性の首筋に牙を食い込ませているロキシー・アルカードの姿があったのだ。
抱えていた薔薇《ばら》の花束がオリヴィエの腕を離れ、白大理石の床に落ちた瞬間、信じられないことに、その薔薇たちは、ガラスが割れる音を響かせて砕け散った。
あたかも、今のオリヴィエの心のように……。
だが、砕けた薔薇の放った芳香は、浴室に充満していた血の匂いと交じり合って素晴らしいエッセンスとなり、オリヴィエを狼狽《ろうばい》させた。
生《い》け贄《にえ》の首筋から血を啜りあげていたロキシーが、金色の双眸《そうぼう》を上目遣いにして、オリヴィエを見た。
「こんなに早く戻ってくるとは思わなかったな。お前の新しい牧師《おとこ》は、そんなにつれないのか?」
口唇《くちびる》が離れた首筋から、鮮血がひとすじ滴り落ちて、女性がまとっている旅行服の襟元から胸元へ流れていった。
「ロキシー……なぜだ。わたしとの約束を破ったのか?」
「約束?」
磨き抜かれた大理石の床に女性を突き放して、ロキシーは立ちあがった。
「破ってはいない」
抗議の声をあげたロキシーだが、すぐさま揶揄《からか》っているかに口元をほころばせていた。
彼の肉感的な口唇《くちびる》から、顎《あご》、さらには胸元までが、血でぬらぬらと濡れていたので、一瞬の間、オリヴィエは別の生き物を見るかのように、ロキシーを見た。
「殺してはいないぞ、少しばかり、血を貰《もら》っただけだ」
すでに女性の肌は紙のように白くなっている。オリヴィエが戻ってこなければ、ロキシーは殺すまで血を奪っていただろう。
「殺すなど以ての外だ」
憤りにオリヴィエの声音も険しくなる。だが、すぐに、彼は、哀しみに声を詰まらせた。
「それ以前に、決して他人の血を吸わないという約束だったはずだ、ロキシー。だからわたしは…」
「今まで、俺に付き合ってくれていたというわけか?」
手の甲で無造作に口元の血を拭ってしまうと、ロキシーは苛立《いらだ》っている様を隠さなくなった。
「イギリスに戻ってからのお前は、苛立っている」
苛ついているロキシーを、オリヴィエはどこか憐れむように見た。
「そうだッ」
やっと気がついたのかとでもいいたげに、ロキシーが両腕を、――蝙蝠《こうもり》の翼のようにひろげた。
「感じないのか? この国の奴等は、いまだに神を信じてるぜ、それもこの土地の下を見ろ、凄まじいまでに|地霊の道《レイライン》が張り巡らされていて、俺たちを拒んでる。こんな所にいては、身体が渇く……」
イングランドの大地の下を超自然的なエネルギーが流れているという説は、一九二〇年に考古学者アルフレッド・ワトキンスが、各地に点在する、先史時代の巨石建造物跡、――環状列石、立石や机石。そして聖堂の建てられた聖地などの多くが、ほぼ直線上に並んでいることを発見して広まった。
ワトキンスは、それらを『重要な意図を持った配置』と考え、存在する地名の多くに、LEが混じっていることから、レイポイント、あるいはレイラインと名付けたのだ。
ロキシーほどの魔物ともなると、そういう信仰や、自分以外の超自然的な力が、随分と苛立たしいのだ。
彼にとっては、致命的なものはないが、喉《のど》の奥に突き刺さった魚の骨のように、神経を逆撫でるのだ。
特に、いまや彼は、決して教会の近くに近寄ろうともしなくなっていた。
「だから、わたしだけでは血が足りないのか? ロキシー…」
胸の奥から湧きあがってくる憤りに、オリヴィエは、熱くなっていた。
「他に生《い》け贄《にえ》を求めるというのかッ」
「お前のためだ、オリヴィエ…」
今度は、思いがけないロキシーの言い分を、オリヴィエは認めなかった。
「わたしのため? わたしのためにイギリスに居てやっているからということなのか?」
さらにロキシーの言葉の意味を、オリヴィエは正しく解釈しなかったが、床の女性が身動《みじろ》ぎ、微かな呻《うめ》きをあげたことで、思い違いが正される機会は失われた。
「うう…」
苦しげな呻きが、色を失った口唇《くちびる》から漏れてくる。
「早く手当てをしなければ…」
歩み寄ろうとしたオリヴィエを、ロキシーが阻んで引き止めた。
「放っておいても気がつく、殺すほど血は吸っていないし、仲間になるほど、俺の精髄を注いでもいないからな…」
突然、「俺の精髄を注いでもいない」という言葉が、オリヴィエの動悸《どうき》を乱した。
そんなオリヴィエの背後にロキシーは立ち、両腕を回して抱き締めようとしたが、首に掛けられた十字架を見つけて、顔をしかめた。
「よく、こんな物を着けていられるな」と、言うなり、ロキシーは長い爪の先で十字架の鎖を持ちあげ、力任せに引き千切った。
「痛ッ」
首筋に火のような痛みが走ったと同時に、鎖の切れた十字架は床に落ち、天井から差してくる午後の光に白い輝きを放った。
オリヴィエの身体から邪魔なものがなくなると、ふたたびロキシーは顔を近づけて、囁《ささや》いた。
「まだ血が足りない…」
甘く、低い声が耳朶《みみたぶ》をくすぐっていく。
「判った、わたしの血を吸うのだ。だから、この女性は殺さないでくれ…」
床の上で、身体を丸めて横たわっている女性は、まだ目覚める様子はない。それでも時おり、指先や、口元を痙攣《けいれん》するかのように震わせているので、死んでいないことは確かだった。
「いいだろう。約束する」
ロキシーがそう言うのを聞き届けてから、オリヴィエはサンルームの中にある寝椅子《カウチ》が置かれた所へ行き、バスタオルやローブを入れておく籐籠の上に、次々と着ているものを自分から脱ぎ落としていった。
最後にはワイシャツ一枚になって、防水布が張られたカウチの一つに腰を下ろすと、ロキシーのために、両膝を少し開きかけ、その奥をみせてやった。
口笛を鳴らしたロキシーは、すぐさま自分も血まみれの服を脱いで行き、ひらかれたオリヴィエの足の間に入ってきた。
キャラメル色のヘアに縁取られて、すでに彼の股間は恐ろしいほどに昂《たかぶ》っている。
目を逸《そ》らさずに、オリヴィエは着ているワイシャツのボタンを外して前を開くことで、さらに自分のすべてを、彼に見えるようにした。
待ち切れない様子で、ロキシーが覆い被さってきて、オリヴィエの口唇《くちびる》を奪った。
彼の舌にからみついている、血の味がする口づけに眩暈《めまい》を感じたオリヴィエの全身から、力が脱け落ちた。
「レヴィ…」
口唇を放した時に、ロキシーは、オリヴィエが感じている酔いに気がついたのか、ニヤリッと笑った。
それからいまだ床に昏倒《こんとう》したままの女性を指差し、皮肉に口元を歪《ゆが》めたのだ。
「駅で拾った女なんだがな、見ろよ、十字架なんか下げて、神様とやらを信じてるんだぜ。それで、俺の正体に気づいた瞬間から、逃げることも忘れて祈り続けてるばかりだった。祈りなんかで俺を追い払えるとでも思ったのか、馬鹿馬鹿しい。でもな、その血をもらったのさ、一味違う……」
思い出して舌なめずりせんばかりのロキシーを、オリヴィエの方は嫌悪感をもって見た。
「奇妙な苦みがあって…トリップしそうな血だった…」
「聞きたくないッ」
この時、叫ぶとほとんど同時に、オリヴィエは心の奥深くに潜んでいた苦渋に気がついた。
気がついてしまったが、それを無視することにした。
きっと、これは何かの間違いなのだ。
そうに違いなかった。
なぜならば、いま、オリヴィエは、半ば意識を失っている女性、――ロキシーが生《い》け贄《にえ》に選んだ女性に、嫉妬《しつと》に似た感情を抱いたのだから……。
嫉妬とは自己愛、そして自信の無さの裏返しだ。
オリヴィエの困惑を知ってか知らずにか、ロキシーは手を掛けていた両膝を、開かせながら持ちあげてきた。
ハッと我に返るや否や、オリヴィエはおもわず両手で顔を掩《おお》ってしまったが、いまやカウチに上体を押しつけられて、下肢をいっそうむき出された格好になっていた。
晒《さら》けだされた中心に、魔物の口付けが繰り返され、やがて、熱い舌が触れてきた。
オリヴィエのすべてをなぞるかのように、舌先で触れていくと、最後には敏感な先端にディープな口付けを与えてから、ロキシーは口唇《くちびる》と舌と、歯で、吸い込み、巻き込むかのように含んでいった。
「うっ…うっ…」
凄《すさ》まじい感触に、オリヴィエの白い喉元《のどもと》が反り返って、尖り気味の声が洩《も》れでた。
ロキシーは、口腔の中にオリヴィエのすべてを引き入れてしまうと、今度は、頬張った果肉から果汁を搾りだすかのように、舌を使った。
途端に、オリヴィエの肉体は開花をはじめた。
激しく吸いあげられ、舌先で翻弄《ほんろう》され、歯を当てられると、一瞬オリヴィエは息がとまったかのようになって、次には、短く喘《あえ》いだ。
さらにロキシーは、素早く濡らした指先を薔薇色の肉襞にあてがうと、閉じていた花びらをこじあけるかのように、挿し入れて、オリヴィエから、音色の違った呻きをひきだした。
柔らかく繊細な肉の花びらが、淫《みだ》らに、弛《ゆる》んだり締めつけたりを繰り返しながら、指に吸い付いてくるのが判ると、今度はロキシーのほうから蠢《うごめ》かせて、より強い官能を与えてやる。
オリヴィエの裡で欲望が昂《たかぶ》ってくると、甘美なる血が醸成されて、この上もなく素晴らしいものになるのだ。
だが、オリヴィエの洩《も》らす声が嬌声《きようせい》を帯び、怺《こら》えられないものになってくると、その声に刺激されたのか、床の女性が、閉じていた瞼《まぶた》をひらいた。
虚ろなオリーブ色の瞳が瞠《みひら》かれたが、彼女はまだ、多量の血を失ったことで眼が見えていない様子であり、思考も働かないのか、冷たい大理石の上に横たわり、じっとしていた。
ロキシーのほうは、女が眼を開けたことも、意識が戻ろうとしていることも、構わなかったのだが、オリヴィエにとってはそうもいかなかった。
彼は、ロキシーによって焚《た》きつけられていた肉欲の炎を鎮めようと努力し、女性が身動ぐのを見るにいたっては、完全に、我を取り戻した。
「ロキシー、向こうへ行っているんだ」
内奥に入り込んでいる指と、熱く吸いあげられている口腔の中から逃れるのには、甘苦しい辛さがあった。しかしオリヴィエは、自ら腰をひねらせるようにして、すべての愛撫を退けると、女性が倒れているのとは反対側にある寝室への扉《ドア》を指して、急ぎ、ロキシーを追いやった。
ロキシーが出て行き、ドアが閉る頃には、もはや女性の意識は戻りはじめており、虚ろだった双眸《ひとみ》に光が差して、口唇《くちびる》からは、はっきりと苦痛を訴える呻《うめ》きが漏れていた。
すばやくワイシャツの前を合わせたオリヴィエは、壁の一部分に嵌《は》め込まれた飾り棚から、スコッチウィスキーを取り出すと、グラスに注ぎ、彼女の所へ戻った。
彼女には、ロキシーが吸った痕跡が赤い痣となって残っていたが、もはや血は乾いており、オリヴィエが抱きあげた拍子に、よじれた首筋から薄皮のように剥《は》がれて、落ちた。
口唇は、まだ土気色をしている。
オリヴィエは、口唇の端をウィスキーで湿らせてやった。
「うッ…」
鼻孔に、強いアルコールを感じたのか、いっそう、彼女の意識ははっきりとしてきた様子だった。
それでもう少し、口唇を湿らせてやり、舌先に、じいんと痛みにすら感じる強い酒を注ぎ込んだ。
ひゅッと、息を呑《の》んだかとおもうと、彼女は完全に覚醒《かくせい》した。
彼女は、この世のものとも思われない青い瞳を見て、さらには自分の身に降り懸かった恐ろしい出来事を思いだし、叫んでいた。
「ひッ、吸血鬼ッ」
叫ぶと同時に、その女性はオリヴィエの腕を振りほどいて逃げたが、身体がいうことをきかずに、床に頽《くずお》れた。
それでも床の上を、懸命に、溺れた人間が足掻《あが》くように手足を使って這《は》いずっている。
「ま、待って、大丈夫、わたしは……」
追おうとしたオリヴィエに対して、さらに女性は、辺りに響き渡るほどの声で叫んだのだ。
「こないで、悪魔、吸血鬼ッ」
どこからそれだけの力を振り絞ったのか判らないほどに、甲高い悲鳴は、閉ざされたサンルームのガラス窓に反響して、ことさらに大きくなった。
「安心して、わたしは、吸血鬼ではない」
だが、恐ろしい体験をした女は、心底怯え切り、オリヴィエをも憎悪の目で見るのだ。
「嘘《うそ》よ、わたしには判るわよッ、悪魔ッ」
首筋から取り出した十字架を持つ手が、激しく震えている。
なぜ判ってくれないのだ。オリヴィエの裡に哀しみが翼を広げて、羽ばたきをおこした。
「本当だ、わたしは、人間だよ」
胸の奥の哀しみが羽ばたくので、声が、顫《ふる》えてしまう。
オリヴィエは、彼女をなだめ、手当てを施し、安全な所へ送ってやりたいのだ。ロキシーから、守ってやりたいのだ。
だが、次の瞬間に、
「じゃ、その牙はなんなのッ」
震える女の指先が、オリヴィエの口元を指していた。
「ええ?」
反射的に口元を押さえたオリヴィエは、すぐさま後退って鏡のある所へ行き、自分の姿を映しだしていた。
相変わらず青白い顔。
――だが、牙などなかった。
女性の方は、オリヴィエが離れたすきをつき、恐怖心から得た精神力を使って転がるように浴室を飛び出した。
続いている寝室を通り抜け、さらにドレッシングルームのドアを押し開け、ダイニングとサロンになっている部分の家具にぶつかりながらも、ついには、彼女にとって魔物の巣窟にも等しい部屋から外界へと逃げ出して行った。
牙があると言ったのは、オリヴィエの注意を逸《そ》らすための嘘だったのだ。
オリヴィエは、二重の意味で傷ついていた。
人に恐れられたこと。そして信じて貰《もら》えなかったことで……。
それも彼女の感じた恐怖と、身に受けた苦痛を考えれば仕方のないことかも知れないと思いながら、白い大理石の床に落ちている血を見た。
真紅の薔薇《ばら》よりも、赤い血だった。
ふと、屈み込み、その血に指先で触れてみた。
指の先が、ドキドキと鼓動しはじめた。
同時に、気分が悪くなってくる。
人の血に触れてしまったからだと思えた。
辺りには、ガラスのように砕けた薔薇が散らばっている。
それから、彼女は、人々を煽動《せんどう》して、ここへ攻めて来るだろうかを考えた。
しかし、吸血鬼は夜の生き物だと人々は思っているのだ。
昼日中に、サンルームで吸血鬼に血を吸われましたと、首筋の吸痕――ほとんどキスマークにしか見えない――を司祭に見せて信じ込ませることなどできないだろう。
たとえ信じてくれる者が現われても、ロキシーを滅ぼすには、篤《あつ》い信仰が必要なのだ。
だが、こんなことが続いたら、ロキシーは破滅する。
これからもロキシーは、自分以外の者の血を必要とするかも知れないのだ。
憤りと、悲しみが衝きあげてきて、オリヴィエは、息苦しさを覚えた。
「ロキシーを、このままにしてはおけない…」
では、誰かの手を借りて滅ぼすか?
オリヴィエは、自分の力ではロキシー・アルカードを滅ぼすことが出来ないと判っているのだ。
それならば、――ブライアン牧師に頼むのだという考えがわいた。
ロキシーは、ブライアン牧師が授けてくれた銀の十字架を嫌った。
十字架に触れないよう、鎖を引っ張ってオリヴィエの首から引き千切ったのだ。
牧師に頼めば、ロキシーの、彼の呪われた生を終わらせられるかも知れない。そして、彼ならば、聞き届けてくれる気がする。
では、どこでロキシーを斃《たお》せばいいのだろうかと考えて、場所はすぐに思い浮かんだ。
バースデッドの城には、オリヴィエの一族が瞑《ねむ》る霊廟《れいびよう》があるのだ。そこへロキシーを誘いだし、ブライアン牧師の信仰にすがって滅ぼしてもらう。
この計画は、実行できそうな気がした。
そしてオリヴィエもまた、本来、自分が瞑るべき場所で、ロキシーとともに死を迎えるのだ。
ロキシーと共に……。
「お前だけをいかせはしない…ロキシー…」
生《い》け贄《にえ》に選ばれ、血を供給するために永く生かされてきたオリヴィエなのだ。自分を生かしていたロキシーが滅びると同時に、自分もまた死を迎えるだろうと思っている。
それでも、この罪深き日々を終わらせなければならなかった。
覚悟が決まると、オリヴィエの裡に落ち着きが戻ってきた。
それから床に落ちている十字架を拾いあげてみた。
鎖は切れてしまっているので、補修しなければ使えないだろう。明日にでも直して、ブライアン牧師に会いに行こうと思った。
だが、指先で、その十字架を撫でていると、突然、爪の先が割れた。
「残念だったな、信じて貰《もら》えずに…」
ハッとしたと同時に、ロキシーの声がして、オリヴィエは寝室のドアに寄り掛かっている彼に気がついた。
何時からそこに居たのだろうか。
心を読まれたのだろうか――、狼狽《ろうばい》しているオリヴィエの前へ、意味深な含み笑いを浮かべながらロキシーが近づいてきた。
手にしていた十字架を放して、オリヴィエは立ちあがると、ロキシーが目の前にくるのを待った。
「ロキシー、バースデッドに行こう。城を見に……」
考えていることを悟られないように、オリヴィエは、言った。
ん? と、一瞬だけ怪訝《けげん》そうな顔をしたが、ロキシーは口元に笑いを浮かべた。
「いいさ、お前がそうしたいならな」
頷《うなず》いて、オリヴィエはさらに言葉を継いだ。
「最後に、城へ行ってみたいんだ。それから、……どこか遠くへ行こう」
今日のことに、――ロキシーが何時もよりも血を多く必要として、自分以外にも餌食《えじき》を求めているということに――ショックを受け、イギリスを離れるつもりになったと思わせるよう、オリヴィエは振る舞おうとした。
「それはいい考えだが――…」
金色の双眸《そうぼう》が、真っ直ぐに向けられてきて、オリヴィエは、目を逸《そ》らすことが出来なくなった。
「今の俺は、お前が欲しいんだ、レヴィ…」
「…わたしもだ、ロキシー…」
心を読まれることを恐れたオリヴィエは、中断された愛撫によって、肉体の奥に残ったままになっている炎をかきたてようとした。
思いがけなくも、それは容易に熾《おこ》った。
あるいは、午後の短い時間の間に起こった様々な感情。ロキシーに裏切られた哀しみと怒り、そして今、助けようとした女性から受けた仕打ちに対する悲しみなどで敏感になっている心には、どんな感情も入り込むのはたやすかったのかも知れない。
オリヴィエは、肉体の内部に残っていた熱と、鼓動が、たがいに縒《よ》り合い、欲望を高めていくのを感じて、ためらわず身を委ねた。
「嫌なことを、忘れさせてくれ、ロキシー……」
もはや自分でも判るくらいに、声が、濡れていた。
長身を揺らめかせて身を屈めたロキシーは、足元から掬《すく》うようにして、そんなオリヴィエを抱きあげ、ベッドルームの方へ連れ去った。
「そうさ、嫌なことがあった後は、愛し合うに限るさ。…俺がすべて忘れさせてやる」
寝台の上へともつれこみ、まずは出会ったばかりの恋人同士のような口付けを繰り返してから、首筋の、引き千切った鎖が擦った肌を、労《いたわ》るようにロキシーが舐《な》めあげた。
足の爪先まで、痺れるほどの快感が走り、オリヴィエはハッと双眸《そうぼう》を瞠《みひら》いたが、すぐに、その甘美に自分が抗《あらが》えないことを悟った。
「ロキシー……」
彼の名を呼びながら、オリヴィエのほうが、今度は積極的になった。
自分に覆い被さっているロキシーを、抵抗するのではないが、押し退け、寝台の上での立場を逆転させたのだ。
さらにはロキシーの身体のうえを移動して、硬く昂《たかぶ》っている彼の下肢に自らの手で触れ、指先でなぞりあげていた。
尊大な形を指で確かめたオリヴィエは、ロキシーの胸元に口付けし、舌で肌を濡らしながら這《は》い下がり、下肢へ到達した。
オリヴィエの濡れた舌が、ロキシーを受け入れるのに、それほどの時間も、戸惑いも必要はなかった。
ロキシーは、神秘的に蠢《うごめ》く舌の愛撫を受けたが、彼自身もオリヴィエを欲して、いつしか二つの肉体は寝台の上で淫《みだ》らな形の輪となった。
双口淫とともに、ロキシーは奥まった柔襞への愛撫を強行したので、すぐさま、オリヴィエのほうは余裕を失っていった。
「駄目…だ」
官能が昂《たかぶ》る度に、指を外そうとして、オリヴィエは腰を捩《よじ》らせた。
ロキシーは、逃がしはしなかったが、昇りつめるほどには追い詰めずに、焦《じ》らし続けていた。
「う…うう…」
やがてオリヴィエは、ロキシーの上に乗った身体を硬直させ、淫《みだ》らな呻きを怺《こら》えなければならなくなり、歯を食いしばった。
焦らされ続けてきたために、その瞬間は凄まじく高められ、そして永く、オリヴィエを牝《めす》の淫獣《いんじゆう》に変えてしまったのだ。
かつてないほどに、積極的に燃えあがっているオリヴィエの異常に、ロキシーは気がついているのだろうか?
あるいは、これが、自分がもたらしたものであると、判っているのだろうか?
ロキシーに判っていることは、オリヴィエの目覚めの予兆だった。
だが、まだそれを、オリヴィエは知らない。
それでもオリヴィエにも判っていることがあった。
これからが、自分を罰する番だった。
オリヴィエは、あおのいているロキシーの腹部に跨《また》がると、屹立《きつりつ》している欲望の楔《くさび》に、内腿をひらくことで割れた双丘のはざまを、圧《お》しつけたのだ。
互いに熱を感じとった瞬間、濡れた肉襞にからめとったロキシーを、オリヴィエは内奥へと招じ入れていた。
「ん――…」
瞼《まぶた》の裏を、苦痛の閃光が駆けぬけて、身動きが止まってしまうと、今度は下からロキシーがねじり込んだ。
「ああッ…うッ…」
さすがに腰が引けて、逃げ掛けるのを、ロキシーが追った。
すべてが収まるころには、オリヴィエの内部が痙攣《けいれん》していた。
今度はゆっくりと、ロキシーが下からオリヴィエの聖域を味わった。
オリヴィエもまた、身体の奥に収まっている熱い塊に身悶《みもだ》えながらも、快楽の発作を起こしていたのだ。
血と、薔薇《ばら》と、夜の匂いが、部屋の中に強くなっていた。
いつしか夕暮れが始まっていたのだ。
その薄闇の中に、ロキシーの牙が見えた。
オリヴィエは、自ら身体を屈めて上体を倒して行くことで、その牙に、身を、――喉元《のどもと》を、捧げた。
ためらいもなく、ロキシーの鋭い牙が、オリヴィエを受け止め、白い喉に食い込んでいった。
「う…ッ…」
身体中の血が、流れを変えた。
陶酔と、苦痛とが、ほとんど同時にオリヴィエを狂おしく満たしていくその渦の中に、さらにロキシーの記憶が入り込んできた。
紺碧《こんぺき》の空が見えた。
白い石灰岩で築かれた建物。
廃墟《はいきよ》と化した神殿。
旋律のある異国の祈り――。
場面が変わる度に、オリヴィエは翻弄《ほんろう》されて、身悶《みもだ》えを放った。
口唇《くちびる》からは、あられもない呻《うめ》きが、洩《も》れ続けてしまう。
今や苦痛よりも、快楽のほうが勝っていた。
もっと、もっと深く味わおうと、オリヴィエ自身がロキシーを求めているのだ。
だが、突然に、陶然としている間もなく、オリヴィエは飛翔していた高みから、失速して堕ちた。
「…ロキシーッ」
一瞬、気が遠くなり、何かにしがみつこうと伸ばした腕を、ロキシーが抱きとめて応えた。
力強い、馴染んだ腕に抱かれたオリヴィエは、我に返り、金色の双眸《そうぼう》をしている魔物を瞶《みつ》めた。
ロキシーもまた、オリヴィエを瞶め返したが、すぐに、暗いほどに青い瞳が虚ろになり、重たげに瞼《まぶた》が閉じていった。
「お前だけをいかせはしない…だから…」うわ言のように口走って、オリヴィエはロキシーの身体の上に頽《くずお》れたのだ。
V
六月十七日
午後八時
揺蕩《たゆと》うていたオリヴィエの意識は、突然、ノックの音によって中断された。
異常に研ぎ澄まされている聴覚が、何枚かの扉を隔てていても、ノックの音を聞き逃さなかったのだ。
寝台の傍らでは、満足しきったロキシーが深い眠りに就いている。
そこへふたたび、急《せ》かすようなノックの音がした。
仕方なく寝台を離れたオリヴィエは、クローゼットからローブを取り出して身にまとうと、急いでサロンへ通じるドレッシングルームのドアを開いた。
ダイニングの部分からサロンを横切っていく間に、素早く、マントルピースの上にある巨大な鏡に自分の姿を映しだし、開いた襟ぐりからのぞく喉元《のどもと》の痕を確かめた。
牙を突き立てられた痕跡はなく、あるのは、薔薇《ばら》色の吸痣だけだが、指先で圧《お》すと、痛みが走った。
間を置いて、またもノックの音。
「はい」
声を出して応えたオリヴィエは、ドアの前に辿《たど》り着くと、鍵を外して、豪奢《ごうしや》な観音開きの扉の一方をあけた。
扉の向こうに、思いがけない人が立っていた。
「牧師様、どうして、ここに?」
訪ねてきたのは、ブライアン牧師だったのだ。
牧師のほうも、オリヴィエが現われたことに驚いている様子を隠せなかった。
「シェリダンさん、あなたこそ、どうしてここに?」
いまのオリヴィエ・シェリダンは、白い絹で仕立てられ、カフスの部分には金糸の刺繍《ししゆう》が施されているといった優雅な部屋着をまとっていて、懺悔《ざんげ》室の中で見る殉教者めいた印象はまったく感じられずに、ブライアン牧師を困惑させている。
「とりあえず、中へどうぞ、わたしは今、ここに住んでいるのです…」
オリヴィエの方は、何時までもブライアン牧師を廊下に立たせておくつもりはなく、部屋の中へ招じ入れようとした。
だがこの時、身を退いたオリヴィエの前に、今まで視覚に入らなかった所から、――観音開きになった扉の、閉じていた方に隠れていた女性が姿を現わした。
「姉さん、待って」
ブライアン牧師が止めようとしたが、女性は部屋の中へと飛び込んでくると、オリヴィエに向けて、銀の十字架を巻いた拳銃を突きつけたのだ。
「す、すみません、シェリダンさん。彼女は、今日、ロンドンに出てくる予定だった僕の姉なんです…」
そして彼女は、ロキシーが餌食《えじき》にした旅行者だったのだ。
新たな驚愕《きようがく》にオリヴィエが後退《あとずさ》りかけるのを、追って、女は歩を踏み出した。
「悪魔ッ」
嫌悪と恐怖に顔をひき攣《つ》らせた女が、叫びをあげる。
「落ち着いて、姉さん、この人のことなら僕の方が知ってる。熱心な信者の一人で…」
だが、彼の姉であるメアリー・オールコットは甲高く遮った。
「騙《だま》されちゃだめよ、ブライアン、この男は吸血鬼なのよッ」
言うなり、メアリーは、ポケットの中に隠し持っていた聖水の瓶をオリヴィエに向かって浴びせ掛けたのだ。
飛び散った聖水はオリヴィエのローブを濡らしたが、害を為すことなどなかった。
しかし、当のオリヴィエは、自分が受けたこの扱いに衝撃を隠し切れず、呆然と立ち竦《すく》んでしまったのだ。
「やめてくれ、姉さんッ」
止めに入ろうとしたブライアン牧師も、いまや超人的な力を得ているメアリーの妨げにはならなかった。
「邪魔しないでブライアン、こいつを滅ぼさなきゃならないのよッ」
彼女は、間髪を容れず、手にしていた拳銃《けんじゆう》をオリヴィエに向かって撃ち込んでいた。
「姉さんッ」
拳銃の発射音に、ブライアン牧師の叫びはかき消された。
だが、拳銃の音が部屋中に響き渡った直後、悲鳴をあげたのは、メアリーの方だった。
いま、彼女の目の前にいるのは、オリヴィエではなかった。
撃ち込まれた銀の弾丸によって、胸元を血で染めているのは、ロキシー・アルカードだったのだ。
邪悪な黄金の男に囚われ、血を奪われた記憶が、彼女を怯《おび》えさせ、続け様に悲鳴をあげさせていた。
「ロキシーッ」
オリヴィエが叫んだ。
その声が、メアリーの悲鳴を止めさせ、彼女は、勇を鼓して、手にした拳銃の引金をオリヴィエに向けて掣《ひ》いた。
「オリヴィエッ」
戦《おのの》いたオリヴィエを庇《かば》って、ふたたびロキシーがその身に、胸に、弾丸を受け、鮮血がほとばしった。
瞬間、凄《すさ》まじい落雷の音が、辺りに響き渡ったかと思うと、ロキシーのまとっていたガウンだけが、ひらりと床に落ちてきた。
「消えた」
眼にした衝撃を、ブライアン牧師が喘《あえ》ぐように叫んだ。
「ひッ」メアリーの方は、腰が抜けてしまったかのように、床に座り込んで、ガタガタと慄《ふる》えはじめている。
「ロキシーッ」
一声大きく叫んだオリヴィエは、次の瞬間、カッと女を振り返っていた。
青い、この世のものとも思われぬほどに青かった双眸《そうぼう》が、妖しい篝火《かがりび》のように燃えているのをメアリー・オールコットは見た。
「ロキシーを、よくも、わたしのロキシーをッ」
この時、オリヴィエは、自分の裡でなにかが弾けるのを感じた。
込みあがってくる強い衝動に、身も心も捩《よじ》れて、裏返りそうだった。
「お前が――ッ」
オリヴィエは、自分の身体が、女までの短い距離を飛んだことに気がついていなかった。
そればかりか、激しい怒りと、悲しみと、憎しみで、我を忘れた瞬間に、今まで隠されていた本性が、オリヴィエの、吸血鬼としての本性が顕われて、女の首を噛《か》み砕いていたのだ。
ガリガリ…と、首の骨までが砕ける音がした。
恐怖に味付けされた血が溢《あふ》れ出て、オリヴィエの喉《のど》を潤し、身体のなかへと流れ込んでいく。
やがて、ゴトッと、屍になった女を床に倒した時、はじめて、オリヴィエは自分の姿に気がついた。
「君は、オリヴィエ…、君も、吸血鬼……」
後退《あとずさ》っていきながら、首の十字架を突きつけるブライアン牧師を振り返り、オリヴィエは、腕を伸ばし、その十字架に触れた。
途端に、指先が熱を感じ、爪と肉が焦げる煙があがった。
「そうか…、そうだったのか…」
火傷を負った指先を見て、オリヴィエが、呻《うめ》いた。
「なぜ、気づかなかったのだ、わたしも、もはや夜の獣になっていたのだ……」
「信じられないッ、オリヴィエ……」
ハッと、ブライアン牧師がいたことを思い出したかのように、オリヴィエは顔をあげた。
青白く整った顔が、ゾッとするほどに美しかった。
そしていま、信じられないほどの情熱に、オリヴィエは昂《たかぶ》っていた。
だれか、餌食《えじき》が必要だった。
長い間の飢えを満たすための、生《い》け贄《にえ》が必要だった。
「見られたからには、あなたも生かしてはおかない…」
ひどく残忍な心が、オリヴィエの裡を歪《ゆが》ませ、心を捩《よじ》らせ、突きあがってきていた。
もはやブライアン牧師の十字架は、オリヴィエの敵ではなかった。
オリヴィエは、うっすらと口唇《くちびる》を開き、自分でも感じるほどに魅力的な微笑を浮かべたまま、逃げ惑う牧師の首筋に牙を突き立てていた。
遠のいていく意識の中で、ブライアン牧師は、
「わたしも吸血鬼になるのか…」と、オリヴィエを見た。
冷たい、ぞッとするほど冷たい目で見下しながら、オリヴィエは、「いいや」と言って、吸痕を舌先で舐《な》めた。
「仲間にするほどの精髄も注いでいない」
声音には、冷たい深みが宿っていた。
魂切《ことき》れた身体を突き放したオリヴィエは、顔をあげて、マントルピースの上にある鏡を見た。
血に濡れて、牙のある自分の姿が映し出されていた。
「おおお…」
目元を掩《おお》って、その手を放し、もう一度確認するように自分の顔を見た時に、オリヴィエは、鏡に映っているのが、はるかな過去に葬ったはずの、自分の姿であることに気がついた。
ウェーヴのなかに、金色の房がいく筋も混じっている長い髪。
人を見下した視線。
――ラピスラズリの青。
今は、ブルーの中に混じっている金色が、いっそう増して、金色に近い双眸《そうぼう》になっている。
そして、真っ赤な口唇《くちびる》の両端に突き出た真珠色の牙は、なんと美しく、官能的なのだろうか。
尖った長い爪が、銀色に輝いていた。
「わたしは――…」
乾いた笑いが、オリヴィエの口唇を突いてでた。
「わたしは、こんなにも魔物だったのかッ……」
叫ぶと同時に、ピシッと鏡が割れて蜘蛛《くも》の巣状に亀裂が入った。
さらには、映っているオリヴィエの顔が、姿が、徐々に鏡の中から消えはじめた。
オリヴィエは、自分も吸血鬼になっていたことをはっきりと認識した。
今まで気がつかずにいられたのは、ロキシーが気づかせないようにしていてくれたからだったのだ。
「ロキシー…、お前が気づかせなかったのだな、わたしも、もはや、お前と同じ生き物になってしまっていることを……」
「そんなことを知ったら、お前が悲しむだろう?」
ふいに、ロキシーの声が高い所から響いてきた。
「ロキシー?」
「愛しているよ、オリヴィエ……」
語尾が掠《かす》れて、漂うようになって消えた。
「どこだロキシー。どこに隠れているッ」
すぐさま、オリヴィエはすべての部屋を探した。
彼は、どこかに隠れていて、オリヴィエの狼狽《ろうばい》を楽しんでいるのかもしれないのだ。
だが、どこにもロキシーの姿はなかった。
「ロキシーッ…、どこへ行ったのだ、わたしをおいて、どこへ……」
オリヴィエの心に裂け目が走り、そこから、ロキシーとの想い出が溢《あふ》れだしてきた。
「ロキシー、わたしはお前のことは何も知らない。何も知ろうとしてこなかった……」
すべてが溢れて、時と共に流れてしまった最後に、残ったルビー色の結晶《あい》があった。
――知らなかった。
オリヴィエは、呻《うめ》いた。
知らなかったのだ。
自分が吸血鬼になってしまっていたことを…、ああ、そうして、知らなかったのだ。
自分が、ロキシーを愛していたことを……。
判ったのだ。もはや……。
その時、バンッと音がして浴室にあるサンルームの窓がひらき、黒い影のようなものが飛び立っていくのが見えた。
「お前が、死ぬはずはない。あれしきのことで、死ぬはずがないのは判っているぞ…」
一時間後、身体を汚している血を洗い清め、旅支度を整えたオリヴィエは、二つの死体を部屋に残したままでホテルを出た。
ホテルのロビーを横切る時に、その輝かしい美貌《びぼう》と、身にまとっている雰囲気に、誰もが圧倒されて振り返ったが、誰一人として、ロイヤル・スイートに滞在していたオリヴィエ・シェリダンであるとは気がつかなかった。
もはやオリヴィエは、かつてのオリヴィエ・ジョファロ・プランタジネット伯爵に戻っていたのだ。
そして彼は、ロキシーを捜しだすために旅立った。
ふたたび出会い、言わなければならないことがあったのだ。
愛していることを……。
W
六月十八日
午前三時
ロキシー・アルカードは、ロイヤル・スイートの中に置き去りにされた二つの屍《しかばね》を、サンルームへ引き摺《ず》って行き、床に放置した。
朝日が差し込むことによって、オリヴィエが奪った二つの命は、転生も叶わない灰と化すのだ。
二人は吸血鬼として蘇ることはないが、もはや、陽光によって灰燼《かいじん》に帰する魔物の仲間になっていた。
信じる心が、そうさせるのだ。
すくなくとも、この二人の姉弟は、オリヴィエに血を吸われて死ぬまで、『吸血鬼に血を吸われた人間が吸血鬼として蘇る』ということを信じていたはずだ。
そして、吸血鬼が、陽光によって滅ぼされるとも信じているのだ。
信じている自分の力によって、滅びるのだ。
魔物は、――いや神ですら、信じ、畏《おそれ》る者がいなければ、消滅してしまう存在なのだから…。
ロキシーは、まだ手際の悪いオリヴィエを、助けなければならなかった。
そうして、彼もまた、ふたたびオリヴィエと出会うために、出掛けなければならなかった。
こんどこそ、永遠の恋人として、生きていくために――…。
[#改ページ]
あとがき
はじめまして、山藍紫姫子です。
『ザ・ダーク・ブルー』は、吸血鬼カミーラが連載されていた雑誌の名前と聞いた記憶があり、タイトルに頂いてしまったのですが『ダーク・ブルー』に、私は、夕闇の色を連想しています。
夕暮時の色。擦れ違う人と魔物との区別がつかなくなる黄昏時(誰《た》そ彼《かれ》時)。
そう逢魔《おうま》が刻《とき》のことです。
この世の生き物ではないロキシーたちとの時間です。
今回書き下ろした『ダーク・シャドウ』の方は、吸血鬼ドラキュラが掲載された雑誌の名前らしいと教えられたことはありますが、本当かどうかは判りません。
でも、オリヴィエを影から護っていくロキシーの存在を暗喩しているようではありませんか?(え、こじつけっぽい?)とにかく、最後までタイトルが決まらない私の苦肉の策であります。
『ザ・ダーク・ブルー』『ザ・ダーク・シャドウ』ともに、どんな内容なのかを一口で言ってしまうと、自分を人間と信じている誇大妄想狂の吸血鬼の話です。
ところで、エンバーミングというのは、死化粧人のことで、ぐちゃぐちゃになった死体とかを修復して、一応見られる形にする仕事です。
じつは、オリヴィエは、宝石とか、死体とかが、好きです。
それは永遠に死んでいるから。
だから好き、というか、憧れているのかも知れません。
挿絵は、舞方ミラ先生にお願いしました。同人誌の時からですから、もうロキシーたちを何度も描いていただいていますが、今度はどんな風に描いてくださるでしょうか、楽しみです。
ところで、この『ザ・ダーク・ブルー』は、ドラマCDにもなっているのです。
オリヴィエは塩沢兼人さん。ロキシーは玄田哲章さん。ヘーゼルは堀秀行さんです。
それぞれ声をイメージしてもう一度、読んでいただけたら、とも思います。
また機会がありましたら、CDも聴いてくださいませネ。でも、いきなり危ないので、ご注意。どうかお一人でこっそり聴いてください。
さてそろそろ山藍は、周期的にいうと『男同士のハーレクイン』を書きたくなる時期でありますが、今度はどんな話になるでしょう…か。
では、また、皆様にお逢いできますように※[#ハート黒、unicode2665]
1995年 秋
[#地付き]山 藍 紫 姫 子
初出
「THE DARK BLUE」『JUNE』一九九四年十一月号
「THE DARK SHADOW」 書き下ろし
角川ルビー文庫『THE DARK BLUE』平成7年12月1日初版発行