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魔群の通過
山田風太郎
目 次
湊《みなと》に天狗がいるわいな
わたしゃ立つ鳥 波に聞け
水戸《みと》の天狗に刃向かう奴《やつ》は
気は圧す四囲十万の軍
筑波《つくば》を出《い》でて幾夜か寝《ね》つる
幾個《いくこ》の男子これ丈夫
ここはいずこぞみな敵の国
勝敗|曷《いずく》んぞ極まりあらん
討つも又《はた》討たるるも又《はた》
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湊《みなと》に天狗がいるわいな
私、ご紹介にあずかりました福井地方裁判所判事、武田|猛《たけし》でございます。
この私が、武田|耕雲斎《こううんさい》の子であり、またかつて敦賀《つるが》に来たこともある人間だということで、この敦賀史談会から、ぜひ当地に来て当時のことを語れというお招きを受けたのは、もう三年ほど前のことになりますか。――それを私、甚《はなは》だご無礼ながら、ご辞退申しあげて参りました。
ご承知のように、ここには父耕雲斎をはじめ、当時の同志の方々の墳墓もありますのにもかかわらず、回向《えこう》に参る勇気さえ持たなんだのであります。
そのわけは、申すまでもなく、この敦賀の土地の想い出があまりに悲惨だからでござります。あまりに怖《おそ》ろしいからでござります。
実はこのたび約三十年ぶりに、勇気をふるってふたたびご当地を踏んだ次第でござりますけれども、これまで福井におりまして、この敦賀のほうを向くのもつらいように感じておりました。昨日、気比《けひ》の松原に打ち寄せる春の汀《なぎさ》など徘徊《はいかい》いたしまして、敦賀とはこんなに美しい所であったのかとはじめて驚いたくらい、記憶ではただ血の炎にけぶった土地であったのでござります。
本来なら、ご当地に対して、失敬千万なご挨拶《あいさつ》でござりまするが、この史談会の方々なら、必ずや私の心事をも諒《りよう》としてお許しくださるでござりましょう。
それがこんど、やっと敦賀へ参る気になりましたのは、あるきっかけがあったからで――そのきっかけと申しますのは、いずれのちほどお話しいたす所存でござりますけれども――その同じ原因から、私少し神経を病みまして、そのためしばらく静養の休暇を頂戴《ちようだい》したのを機会に、ようやく三十数年ぶりにこちらを訪れる発心をいたした次第でござります。
回向の気持ちもござります。しかし、それだけではござりませぬ。私はあの出来事については、この三十余年一日として忘れることなく、いったいあの惨劇はなぜ起こったのか、あの悲劇に何の意味があったのか、を考えつづけて参りました。
新しくわかって来たこともござります。ああ、あの人はああいう心情でああいう行動をしたのか、と、いまにして思い当たることもござります。しかしながら、結論から申せば、私は……いや、それはいま申しますまい。
ただ、これから何夜になりまするか、あの事件について私の知るかぎりの事実をしゃべって、この史談会のみなさまのご批判を――あの事件について、と申すより、むしろ私の感慨に対するご批判でござりまするが――を仰ぎたいと存じまする。実はそれをうかがうのが目的で敦賀へ参上した次第なのでござります。一方でまた、ここで語ることが、あのときに死んだ人々への鎮魂歌《ちんこんか》にもなるような気がいたして参ったのでござります。
三十余年前の元治《げんじ》元年の天狗《てんぐ》党の騒動については、ここにおいでになるほどのみなさまでござりまするから、一応も二応もご存知でござりましょう。それゆえ発端から委曲《いきよく》をつくしてお話し申しあげるのもいかがかと存じまするが、さきほど幹事の方の仰せには、この席にはお若い方々もあり、みながみなそれほど詳しく知っているわけではないからとのことであり、かつまた、いまだ一般には世に知られておらぬ事実もあるようでござります。
そこで、たまたまいま申したように私の頭脳がいささか疲れておることもありまして、ここでは思い出すまま、思いつくままに、あの事の経過について、あるいは人物について談話いたしたいと存じます。少々|煩雑《はんざつ》ないし混乱のこともあるかと存じまするが、何とぞ老人の――私はまだ四十六歳でござりますけれども――昔がたりでもお聴きになるつもりで、お耳をおかたむけくださればありがたき倖《しあわ》せでござりまする。
水戸の内戦は、まことに酸鼻《さんび》なものでござりました。
そもそも日本において内戦という状態にあたるいくさは、元治元年の水戸内戦以外にはないのではござりますまいか。
たとえば甲斐《かい》とか越後《えちご》とか、領主を異にすれば他国であった戦国時代以前は内戦とは申せますまいし、水戸のいくさの前年に起こりました天忠組《てんちゆうぐみ》とか生野《いくの》の義挙にしても、叛乱《はんらん》が即時に鎮圧されたという性質のものでござります。のちに起こった例の西南《せいなん》の役《えき》も、やはり叛乱軍に対する政府の討伐というかたちのものであり、かつまたその政府軍は薩摩《さつま》人以外の兵力が主力であり、いくさの大部分は薩摩の外の熊本などで行なわれました。内戦という以上、それまでまったく隣人友人としてつき合っていた人間たちが、敵味方に分かれて、同じ国の中で、いくさといえる時間と規模で相たたかうものでなければなりませぬが、まことに水戸の戦争は、その条件に叶《かな》った唯一の例ではござりますまいか。
半歳にわたる戦闘とその結果、士分その他姓名の判明している水戸人だけでも死者は二千人を越え――総計では五千人に及ぶとも申します――維新革命の烽火《ほうか》ともいうべき旗挙げをやりながら、明治新政の世となっては廟堂《びようどう》につらなる者は一人もない、というほど人材を消磨しつくし、それのみか、それから三十余年たってもまだおたがいの怨念《おんねん》の霧が、うす暗く水戸に沈澱《ちんでん》しておる始末でござります。実はこれより洩《も》らしまする私の感慨も、ふるさと水戸ではいまそのままのかたちでは洩らしかねる雰囲気《ふんいき》なのでござります。
なぜ水戸にそれほど凄惨《せいさん》な内戦が起こったか。
世には、元来水戸人には偏狭狂激の性があるからという説をなす者がありまするが、私、水戸人だからというわけではありませぬけれど、さような性質が水戸人に、特別に強いとはどうしても思えませぬ。その証拠に、幕末以前、あるいは明治以後、水戸において特に騒ぎが多かったという事実はない。ただ安政《あんせい》ごろから慶応《けいおう》にかけての十年間ばかり、あのような狂気の風が吹いて過ぎたばかりでござります。
また、古来、多くの藩にお家騒動に類するものがあり、特に幕末においてはどの大名の家にも、勤皇と佐幕の争いが起こりました。しかし、そのいずれもが内戦などひき起こすことはなく、小規模に、かつ急速に決着し鎮静しております。それなのに、なぜ水戸にかぎってああいう救いのない修羅相《しゆらそう》を呈するにいたったか。
私、その理由についていろいろ考えてみましたが、だいたい次のようなわけからではないか、と存じまする。
第一に、あれには思想がからんでおった。いわゆる尊皇と佐幕の争いでござりますが、他藩のたてまえ[#「たてまえ」に傍点]とちがい、その尊皇は黄門さま以来のもので、水戸学という思想、思想というより一種の宗教としてシミついており、一方、佐幕のほうも、これは水戸家が徳川ご三家の一つである以上、これはほかの藩とは同日に論じられない重さを持っておった。この尊皇佐幕が両立している間はよろしいが、たがいに矛盾して来るようになると、当然そのくいちがいが深刻化せざるを得なかった。しかもこれが観念的な思想問題にとどまっているならまだ口先の論争ですみまするが、佐幕論者は現状維持の上級藩士が多く、尊皇論者は現状打破の下級藩士が多かったというように、おたがいの生活と未来がかかった争いでもありましたから、事は机上の争いではすまなくなりました。
第二に、水戸が江戸に近かったということで、それが水戸人に集団行動の習慣をつけたということがござります。と、申しますのは、ご承知のように斉昭《なりあき》公が水戸家をつがれるときにひと騒ぎがあった。そのご先代の斉修《なりなが》公にお子様がなく、弟君の斉昭公がおわしたので、そのご相続について、江戸の将軍ご一族からお迎えしようという一派と、いや弟君の斉昭公を擁立しようという一派に分かれ、後者が集団を組織して幕府へ陳情運動におしかけ、ついに目的を達したのでありますが、これも江戸から三十里の水戸なればこそできたことで、これが百里もあったら、集団運動もなかなかしんどかったことでござりましょう。ともあれ、これで水戸の侍は味をしめて、以後何かといえば集団行動をとるように相なりました。
第三に、その集団が――二つに分かれていくさを始めるようになってから、単純に藩士だけではなくなって、攘夷《じようい》派すなわち天狗党には、内部でもいくつかの派があるのみならず、水戸とはまったく関係のない浪人どもが加わり、一方の佐幕派には幕府がつき――つまり外部の力が介入したわけで、しかもそれぞれに思惑《おもわく》があって、きわめて統制がとりにくかったということがある。敵とかけひきしようにも、味方がバラバラでは意志の統一も出来ず、また敵のだれかと交渉しても、すぐにひっくり返される危険があった。この敵味方に当事者能力のある者がなかったということが、事をこじらせた一つの大きな原因であったと申せましょう。
第四に、それとつながることですが、そのために何度も相手方との談判できまったことをひっくり返すという背信行為が――とくに、幕軍方にあった。このために起こった悲劇は、実に人間の常識では評しようもないほどのものになりました。
第五に、解決能力がないといえば、いちばん問題のお方がある。こういうことも、水戸では口にできぬことですが、かんじんの当時の藩主水戸|慶篤《よしあつ》公でござりまする。藩内がこれだけ分裂し、混乱し、はては戦争騒ぎまで起こしながら、この慶篤公がひどい無能のお方でありました。そのころから水戸では、あのお方のことを「よかろう様《さま》」と呼んでおりましたが、全然無能で争いの埒外《らちがい》におられるか、あるいはどちらか一方の立場を固守されるというならまだ救いがあったでしょうが、これが、きのう佐幕派におつきになって攘夷派を追放されたかと思うと、きょうはその正反対のことをやられる。こういうことを繰り返し、ただ両派の間をフラフラ、グラグラとして、まったくどうしようもないお方でおわした。これも事態を収拾つかぬものとした原因の一つであります。
第六に、このいくさが農民まで巻きこみ、しかもそれがただの被害者であるばかりでなく、農民のほうも武器をとって起《た》ちあがった。このことが戦火を水戸全域にひろげ、かつまたいまだに水戸領民に当時の記憶を陰惨なものとする原因になりました。
第七に、敵味方同士の、当事者はむろん、おたがいの家族さえも血祭りにあげた報復合戦ということがござります。万事野蛮な戦国時代は知らず、ほかのどんな叛乱事件、お家騒動でも、家族まで手にかけたということはない。せいぜい謹慎|蟄居《ちつきよ》を命じるくらいでしたろうが、水戸の場合はお互い同士が、その家族に対していわゆる私刑《リンチ》ともいうべき処刑をやりました。この点においては、水戸人の狂激性も私は認めざるを得ない。それは内戦の結果であって原因ではないともいえますが、水戸の内戦にかぎって、このことは新たな復讐《ふくしゆう》のたねをまいたということで、充分原因の一つになりました。
……ほかにも種々の事情がございましょうが、私の考えましたかぎりでは、以上の諸点が、他藩の例と異なって、水戸に内戦の規模にいたる死闘をひき起こし、これを長期化させ、深刻化させ、凄惨化させた主なる原因であろうと存じまする。
内戦のいきさつにつきましては、みなさまだいたいご承知のことと思いますけれども、まず一応ここで申し述べておきます。
元治元年春、藤田|東湖《とうこ》の遺児小四郎が筑波山《つくばさん》に志士を集め、幕府に攘夷の実行を迫るために示威運動を起こした。
これに対して幕府の討伐軍が出動し、かつ水戸藩の佐幕派も協力し、常陸《ひたち》西部でいくさが始まった。
夏になって、江戸にあった藩主慶篤公が、自分のご名代《みようだい》として支藩の松平|大炊頭頼徳《おおいのかみよりのり》公に、家老榊原新左衛門以下一千の兵をつけて、水戸へ派遣されて、これを取り鎮めなされようとした。
この松平勢に、やはり攘夷派ではあるが、藤田小四郎の行為には賛同していなかった水戸藩元家老武田耕雲斎が途中で加わって、いっしょに水戸に乗り込もうとした。
しかるに、このとき水戸を押えていた佐幕派が、松平公の入国を拒否したのみか、この藩公ご名代に鉄砲を撃ちかけた。そこで松平公も応戦のやむなきにいたり、対抗上|那珂湊《なかみなと》を軍の基地となされた。
そこに筑波から藤田小四郎も馳《は》せ加わり、一方佐幕派には幕府軍及び出動を命じられた関東諸藩の兵が加わった。その中心人物が、水戸佐幕派では市川三左衛門、幕軍の総大将が田沼|玄蕃頭意尊《げんばのかみおきたか》であります。
こうして夏から秋へかけて、三千の那珂湊連合軍と六万の幕府連合軍との間に、那珂湊を中心に、こんどは常陸東方で戦闘がつづけられました。これだけの兵力差があるにもかかわらず、両軍は一進一退といっていいたたかいでありました。
ところが、九月下旬に至って、那珂湊勢が主将と仰いだ松平大炊頭さまが、突如単独で幕軍に身を投じられた。ついで、十月下旬にその配下であった榊原新左衛門以下一千も同様に投降した。投降したのみならず、逆に味方を攻撃しようとした。
これで戦争は終わりました。
残った武田勢、藤田勢は、いちじは全滅を覚悟したが、自分たちが乱臣賊子の汚名を受けたまま死ぬのは残念だ、せめては京へ上って、朝廷と、禁裏《きんり》守衛総督一橋慶喜公に自分たちの志を知っていただきたいと望んで、残兵八百余人とともに、常陸から野州《やしゆう》、上《じよう》 州《しゆう》、信濃《しなの》、美濃《みの》と上洛の行軍を開始いたしました。
以上が、いわゆる天狗党の義軍一挙の概略のてんまつでござります。
天狗党とは、いま一般には筑波山に旗挙げをした藤田小四郎軍のことをさしているようでござりますが、実はこれはそれ以前から、斉昭公によって名づけられた水戸藩中の、革新派、攘夷派のことでござります。斉昭公が、水戸の天狗とは、高慢者のことではない、志高きやつばらのことだと申されておりまして、その代表者が藤田東湖だったのであります。
しかし、当時幕軍及び佐幕派は、那珂湊勢をひとかためにして天狗党と呼んでおりましたが、何にせよ、那珂湊勢はよくたたかいました。三千対六万という差がありながら、互角どころか局部的戦闘では互角以上のいくさをやったのは、相手側が――特に幕軍や関東諸藩の兵がお勤め気分の烏合《うごう》の衆であったせいもありましょうが、味方の那珂湊連合軍も、実は内部で分裂しておりましたから、約半歳にわたって持ちこたえたのは、いま考えてみてもふしぎでござります。
那珂湊勢が内部で分裂していたとは、第一が藤田の筑波勢、第二がこれに途中参加した武田勢、第三が江戸から派遣された松平大炊頭勢――これを大発勢と呼びましたが――の三つでござります。そして前者ほど闘志が旺盛《おうせい》で、逆に最後の松平大炊頭さまに至っては、敵のうち、幕軍とは戦うな、と命令されたほどでござりました。
それが、六万の敵に包囲されながら、那珂湊の町の南側に大発勢、北側に筑波勢、西側の館山《たてやま》というところに武田勢が陣をかまえ、まことに信じられないことですが、おたがいにほとんど交渉なく、それどころかそっぽを向きながら戦ったのであります。
この元治元年、私は武田源五郎と申し、数えで十五歳でござりました。
大発勢が、味方の武田勢や筑波勢を排斥していたというのは、こういうわけであります。
大将の松平大炊頭さまは、水戸の藩祖頼房公の第六男頼雄さまのお血筋で、常陸国茨城|郡宍戸《ごおりししど》一万石のあるじで、水戸家にとっては支藩ということになります。このとし三十五歳で、世に疑うことをご存知ない明朗の青年大名でいらした。
これが在府の藩主慶篤公からの、水戸本国の内争をとり鎮めてくれないかとのご依頼で、実に気軽く引き受けられて、榊原新左衛門以下千人の水戸侍をひきいて、威風堂々水戸へお出かけなされました。
大炊頭さまとて、水戸の騒ぎは、それ以前からの藩を二つに分ける攘夷派と佐幕派の確執が火を噴いたものだということくらいはご承知だったでしょうが、何といっても距離のある支藩ですから、その争いの根深さがお身にシミてはいなかったものと思われます。かつまた三十半ばのお若さであり、素直なご性格です。
水戸へ下る途中、ちょうど水戸の元家老で攘夷派の武田耕雲斎が手兵一千人をひきいて小金《こがね》まで来ているのとゆき逢《あ》われた。耕雲斎は同じ天狗党ながら藤田小四郎と行を共にするのをいさぎよしとせず、天狗党本来の真意を幕府に陳情するためにそこまでやって来て、筑波戦乱の余波で通行不能となって立ち往生していたものでありましたが、これが大炊頭さまに合流随行して、いっしょに水戸にひき返すことになった。
それをあえて大炊頭さまが拒否もなされなかったのは右に述べたごとく水戸の内争についてのご判断の深刻さがいまだしであった現われでござりまするが、まさか藩主慶篤公の名代として来た自分に、水戸の家臣たる佐幕派が弓引こうとは夢にも考えられなかったのも当然でござります。
水戸の町そのものは、筑波山の叛乱騒ぎのため天狗党ぜんぶが謹慎状態で、佐幕派が藩の権力を握っておりました。これが、水戸にはいろうとなされた大炊頭さまに向かって、
「大炊頭さまはよろしいが、それにお供をしている連中が気にくわないので、ご入国はお断わりいたしたい。もしたっての仰せなら、大炊頭さまお一人でお城におはいりくだされたい」
という使者を寄越《よこ》した。
これで大炊頭さまは、ご自分の行列のしっぽに武田耕雲斎の一党がくっついていることに、改めて気づかれたありさまではなかったか、と思われます。しかし、それにしてもこの無礼にして非常識な使者の口上をそのまま、ああそうか、それでは、とお受けになるわけにはゆきません。
大炊頭さまはむろんご立腹になり、余は慶篤公の御名代でまかり下ったものであるぞ、その門をひらけ、じゃまするな、と叱咤《しつた》なされ、無理にでも押し通ろうとあそばした。これをふせごうとする佐幕派の水戸侍と小競《こぜ》り合いになり、そのうちいきなり佐幕派のほうから発砲したのをきっかけに小戦闘が起こって、双方に死傷者が出た。
事の意外に驚かれながら、大炊頭さまは、とにかくそのまま水戸にはいることは容易ではないということを、はじめてお察しになった。しかし、さればとてオメオメ引き返すことなど、ご面目にかけてもできることではない。それにしても、改めて談判するにも、実力を行使するにしても、城外に手兵を野宿させるわけにはゆかない。そこで一応の基地として、水戸の東方三里の那珂湊に移動なされ、ここに本陣をかまえられたのであります。
のちに判明したところによると、水戸城のほうでも、主君のご名代のご入国を拒否するなどというむちゃなことにはみな逡《しゆん》 巡《じゆん》があって、それを主張したのは佐幕派の幹部の一人市川三左衛門だけだった。だからそのとき、大炊頭さまが本気になって出てゆかれたらご入城は可能であったろう、ということでござります。
それを、めんくらって引っ込んで、那珂湊のほうへ遠廻りしたものだから、敵に居直り、立ち直る決断と余裕を与えてしまった。あのとき大炊頭さまが水戸城にはいっていられたら、あとの事態の推移はすべて変わったと思うのですが、歴史というものはほんのちょっとした躊躇《ちゆうちよ》がとり返しのつかない結果をもたらすことがあるもので、これが一つの好例といえましょう。
さてこれから、改めて水戸へ進撃しようとして、こんどは本格的な戦いとなり、ついには幕軍さえも敵とするにたち至りましたことは、先刻申しあげたとおりでござります。
かくて松平大炊頭さまは、まったく思いもよらぬいくさにひきずり込まれなされたもので、お気の毒を絵に書いたようだ、というのはこのことであります。しかもこのお方の運命のいたましさは、それにとどまりませぬ。
私はこの天狗党戦争を考えれば考えるほど、歴史の無惨さということを痛感するのでありますが、このお方はその象徴であるかもしれませぬ。このお方こそ、天狗党にまさる犠牲者かも知れませぬ。
こういうわけですから、大炊頭さまは、はじめから戦いたくなかった。特に幕軍とは戦いたくなかった。あれよあれよという間に那珂湊に包囲され、有無をいわさず戦いに追い込まれただけで、幕軍に抵抗するなど不本意千万な心境でおわしたのです。
ですから、自分がこういう運命におちいったのも天狗党のせいだと思われたのも無理からぬことで、さればこそご自分を天狗党と同一視されることを怖れなされ、いっしょに戦いながら彼らと協同することを拒否なされたのであります。そしてこのご態度は、当然天狗党にもよい感じを与えなかったのはいうまでもござりません。
そこへ、九月の末に至り、はじめて幕軍の密使と接触することができた。それは、旗本で目付《めつけ》の戸田五助という人で、大炊頭さまの心情と立場がよくわかったといい、ひそかに投降されれば、自分が責任をもって、いままでのなりゆきを幕府に弁明するため江戸へお帰りなされるよう、とりはからって進ぜましょう、といった。
溺《おぼ》れる者がわらをつかんだとは、このときの大炊頭さまのお心でありましたろう。大炊頭さまが宍戸藩から連れて来た近臣三十五人とともに、那珂湊をぬけ出し、その南の夏海《なつみ》の幕営に投じられたのは、九月二十六日の夜明方のことでござりました。
大炊頭さまにとって、またまた大意外事が起こったのはそれからであります。大炊頭さまはそのまま江戸への道を急がれたが、そこへ、水戸にあった幕軍総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》から追手が来た。江戸へゆくことはまかりならぬ、こちらへ連行せよ、という命令でござります。
そして大炊頭さまは、一言の弁明も許されず、幕府に刃向かった天狗党の賊魁《ぞくかい》として、十月五日には切腹を命じられ、随行した三十五人の家臣ことごとく処刑の羽目におちいったのでござります。
そのご辞世は、
「思いきや野田の案山子《かかし》の竹の弓
引きもはなたで朽ち果てんとは」
というものであったと伝えられます。
大炊頭さまは、まったくつじつま[#「つじつま」に傍点]が合わない、と痛恨《つうこん》しつつ腹を切られたに相違ござりませぬ。しかし、みなさま、よくお聞きください、怖ろしいのは別の意味でつじつま[#「つじつま」に傍点]が合わなかったことでござります。
これが謀略にかかって死ぬことになったとしたら、まだそれなりにつじつま[#「つじつま」に傍点]が合うのですが、そうではないのだから怖ろしいのでござります。
実は目付戸田五助は、はじめから謀略にかけようとして降伏の斡旋《あつせん》をしたものではなかったのであります。全然善意をもってこのようなはからいをし、そしてその旨田沼総督に報告してあったのに、このことは一顧だにされず黙殺されたことでござります。
しかし、ひるがえって思うに、これに似た行為は、存外日本人には多いのではありますまいか。昔からしばしば見られる「だまし討ち」の例もさることながら、日常の生活においても、相手側と約束したことを、その上司が「部下の手ちがい」といってそ知らぬ顔をする。あるいは、折衝の結果中央が相手と確約したことを、出先の者が平気で破る。――古来、契約ということに日本人は甚だ鈍感で、このためどれほどおたがいに迷惑し、それも国内の話ならおたがいさまのことでまだがまんできるとして、外国相手にもしばしばこれに類した行為をやって、どれだけ日本の信用を失ったか計り知れませぬ。
しかし、それにしてもこの田沼玄蕃頭の「背信」はあまりにひどすぎる、として、彼の先祖の田沼|意次《おきつぐ》にまさるとも劣らぬ悪名を残すことになりました。玄蕃頭は、意次を初代とすればその六代目にあたる人物でござります。
松平大炊頭さまの単独降伏は、那珂湊《なかみなと》に立て籠る天狗党にとって大衝撃でござりました。なんといってもこちらが旗がしらとして仰いだお人でござりますから、当然のことであります。
このなりゆきはまったく秘密に行なわれたので、われわれは主将の離脱を後に知ったのですが、それを知ったあと、全軍を吹き過ぎた蒼白《あおじろ》い風のようなものを、私は忘れることができません。
さきほど申したように、私は十五歳の少年でありました。ですから、以上申し述べたようないきさつはまずほとんど知るところがなかったといった状態で、ただ父耕雲斎の動くままに従い、いくさとなってからは、無我夢中で伝令や弾運びなどに駈《か》けまわり、ただ戦闘精神ばかり盛んでありましたが、大炊頭さま投降のことを聞いたときは、さすがに、
「もう終わりにちかい」
と、感じました。そして、自分も近く死ぬことを覚悟しました。
すると、突然、母や弟妹に逢いたくなったのであります。水戸に残してあった母や弟妹たちは、この夏から、天狗党の指導者武田耕雲斎の妻や子として牢獄《ろうごく》に投げ込まれているということは、すでに耳にしておりました。
水戸はいま幕軍総督田沼玄蕃頭が本陣をおいている敵地であります。しかし、そこはむろん私どもの生まれ、育った土地であり、しかも那珂湊からたった三里のところにあるのです。
母たちが投獄されたということを聞いたとき、私はそれをやった人間どもに血も逆流するほどの怒りをおぼえました。それを命じたのは市川三左衛門だと知って、いまに見ておれ、そのうち必ず敗北させて縛り首にしてやるぞ、と心に誓いました。同時にむろん泣きました。
しかし、牢屋にいれられた家族は、私の母や弟たちだけではないのです。天狗党の人々の家族の大半が同じ目にあわされたのです。その涙は見せられません。
そして現実には、敵の大軍に包囲されているのです。かりにそこを突破して水戸へいったとしても、牢にいる母たちに逢えるはずもないし、だいいちウロウロしているのを見つかって、即座につかまるにきまっているのです。
私は、母たちのことを頭からふり捨てようと努力して参りました。
しかし、遠からず死ぬ、と考えたとたん、私はむしょうに母や弟妹たちに逢いたくなったのでござります。殺されてもいいから、何とか一目だけでもその顔が見たくなったのでござります。
私は武田金次郎にそっと相談しました。大炊頭さま離脱の日の夕方のことでござります。
武田金次郎と申すのは、実は私の甥《おい》にあたるのですが、私より年上の十七歳の少年でありました。
父耕雲斎には男女合わせて十人の子がありまして、私はその四男坊になるわけですが、金次郎は長兄彦右衛門の長男でありました。その母、つまり彦右衛門の妻は、藤田東湖の妹でござりました。むろんこれも投獄されておりました。
「それは、僕も逢いたい!」
金次郎は涙を浮かべてうなずきました。
「しかし、不可能だろう。……それに、お祖父《じい》さまに知られると、雷が落ちるぜ」
金次郎のお祖父さまは、むろん私の父の耕雲斎のことでござります。
「やはり、駄目《だめ》か」
と、私は溜息《ためいき》をつきました。
いま申したように、二人は血縁から申せば叔父《おじ》と甥になりますが、叔父の私のほうが年下でもあり、かつまた金次郎は武田家の嫡孫にあたるので、ふだんは対等の言葉遣いをしておりました。
すると、この問答をそばで聞いていた者があります。野村|丑之助《うしのすけ》という十二歳の少年でありました。
この春、藤田小四郎が筑波山に旗挙げをしたとき、主謀者はむろん彼ですが、何しろ年がまだ二十二の若さなので、父の東湖亡きあと水戸天狗党の指導者となっていた私の父の耕雲斎に、ぜひ大将となってくれるように頼み込んだ。しかし慎重な父は、首をたてにふりませんでした。父は、小四郎の直接行動は軽挙であり暴勇であると見ていたのであります。
そこで小四郎は、こんどは水戸の町奉行をやっていた田丸稲之衛門《たまるいなのえもん》に同じことを依頼した。稲之衛門は怖ろしく元気のいい老人で、たちどころに快諾し、筑波山へやって来てその大将となったのですが、その野村丑之助は稲之衛門の小姓をやっていた子供でござりました。
実はいま申したようないきさつで、藤田軍と武田軍も必ずしも意志|相通《そうつう》とはいえなかったのですが、しかし大発勢との間柄ほど疎隔した仲ではない。何といっても同じ天狗党に相違なく、しかも父は、小四郎の父故東湖の親友であった人間であり、東湖の妹――小四郎の伯母《おば》を、長男の妻に迎えたほどの関係である。
だから、作戦上、最小限度の連絡はしておりました。さきほど述べたように、藤田軍は那珂湊の北部に屯営《とんえい》し、武田軍は館山に布陣しておりました。館山とは、むろん千葉県の館山ではござりませぬ。那珂湊の西側の地名であります。
ここへ、その野村丑之助は、何度か、田丸稲之衛門の使者としてやって来た。
使者といっても、べつにどうということのない走り使いですが、これが十二歳、こっちが十五と十七ですから、まあ同じ少年同士として親近感があったのでしょう。べつに用もないのに、よくわれわれのところへ遊びに来ました。遊びに来たといっても、キチンと坐って、私どものすることやしゃべることを、黙って見聞《みき》きしているだけですが、その眼は尊敬の光にかがやき、私たちもこの少年を弟みたいに可愛がっておりました。
これが、その日もやって来て、私どもの話を聞いておりましたが、突然、片腕を眼にあてると走り去ってゆきました。
あいつも、おふくろのことを思い出したのだな、と、私たちは考えました。
ただし丑之助は、水戸に近いある村の郷士の倅《せがれ》で、その父親はすでに亡く母だけが残っていたのですが、まさか十二の子供が天狗党にはいっているからといって、その母親が牢にいれられることもなかったと見えて、これは無事村で暮らしているはずだが……しかし、おふくろが恋しくなったであろうことにまちがいはない。
私たちは、そのまま丑之助が那珂湊へ帰ったものとばかり思っておりました。
ところが、しばらくたって彼は、不動院全海という坊さまを連れてひき返して来たのでござります。
全海入道は、茨城|郡上入野《ごおりかみいりの》村の小松寺の住職の弟ですが、攘夷の思想に共鳴して耕雲斎のもとへ馳せ参じた坊さまでした。年は四十過ぎですが、まるで弁慶のような豪僧で、実際僧兵みたいに、いつも袈裟頭巾《けさずきん》をつけておりました。
これが大変な子供好きで、武田軍には私たちのほかにも何人かの少年兵がいたのですがいくさの間にはいつもこれといっしょになって遊んでいました。そして、ときどきやって来る丑之助も、全海入道をまるで父親みたいに慕っておりました。そこで、いま、この坊さまを探して連れて来たらしい。
「話は聞いた」
と、全海入道はうなずきました。
「ゆきなさい。三人ともゆくがいい」
まるで遊山《ゆさん》の旅でもすすめるような調子でいうのでござります。
「しかし、耕雲斎先生にはないしょのほうがいいだろう」
こちらはかえってまごつきました。
「でも、包囲軍を突破できるでしょうか?」
と、金次郎が訊《き》きました。
「みんな、まあ子供だからな。工夫すれば、何とかなるじゃろ。……待て待て」
全海入道はしばらく思案して、やがてこういう策を立ててくれました。それは三人とも、那珂湊の漁師の子に化けてゆく。これから夜になるが、そんな姿で夜歩けばかえって怪しまれるから、あした夜明方に出ていったらどうか、というのでござります。
その翌朝、三人は、そのとおりの姿になりました。髪は雀《すずめ》の巣みたいにモジャモジャにし、漁師の子らしいつんつるてんの着物に縄《なわ》の帯、それに魚までいれた籠《かご》にてんびん棒を二本、これをみな全海さんが用意してくれたのであります。それに、春から秋へかけての戦場暮らしで、みんな日に灼《や》けて、顔色はどう見ても漁師の子ですが、しかし中で比較的それらしくないのは、いちばん年上の金次郎でした。これが女のような美少年なので、顔だちのやさしさはどうしようもないのでござります。しかし、いまさらそれを気にしてはいられませぬ。
全海さんは、味方の前線まで送ってくれました。二本のてんびん棒に二つずつの魚籠《びく》をぶら下げて肩にかつぎ、しぶい声で唄をうたいました。
「夕暮れに
敵を見張りのかがり火に
月も風情《ふぜい》の峰の山
沖に軍船見えるぞや
あれ鐘が鳴る攻め太鼓
湊に天狗がいるわいな」
いつのころからか、陣中ではやっていた端唄《はうた》でござります。端唄「夕ぐれ」の替え唄でござります。それにしても水戸っぽにこんな粋《いき》な替え唄が作れるわけはないから、おそらく敵の――いくさより三味線のほうがうまい旗本などが作ったものでしょうが、それがどういう経路で伝わって来たものか、味方でも面白がってうたう者が少なくなかったのでござります。
いままで、別に何の感想もなく聞いていたこの唄を、なぜかそのとき私は、いかにも那珂湊の終わりの日が近いようなぶきみな印象で聞きました。
軍船とは、天狗勢の脱出をふせぐために沖に浮かんでいる幕艦のことで、ときどきそれが砲撃します。
まわりは、いたるところ土塁《どるい》が築かれ、雨露をしのぐだけの小屋が散在しておりますが、地面に横たわった十何人かの人影も見えます。疲労|困憊《こんぱい》して眠るにも、もうその場所がないのか、それとももう死体なのか、夜明前の暗い蒼白い光ではよくわかりませぬ。
この夏から毎日のように見馴れている眺《なが》めですが、それがいま、まるで死の世界そのものの風景のように、私の網膜に印象されたのでござります。
この場合に全海さんが、のんきそうにそんな唄をうたって聞かせたのは、おそらく私たちの緊張を和らげるためだったろうと思いますが――やがて、ふと、
「どうだ、君たち、うまく水戸へゆけたら、もうここへは帰って来ないで、そのままどこかへ逃げてしまわないか?」
と、とんでもないことをいい出しました。私たちは、あっけにとられました。
「どこへ逃げるのです?」
と、私はいいました。
「水戸で見つかれば、私たちは殺されてしまう。そして、水戸よりほかの、どこに逃げるところがあるのですか?」
「僕たちは、そんなつもりで水戸へゆくのじゃありません。全海さんがそんなことをいうなら、やめます」
と、金次郎も憤然として申しました。
全海入道は、そのまま黙って歩いておりました。……いまになってみれば、この坊さまの考えていたことはよくわかります。
全海さんは、この那珂湊にいても死、ここ以外の日本のどこへいっても、安全の保障される土地はない。大人はともかく、少年たちまでそんな立場に追い込んでしまったなりゆきに心をいためて、そもそも水戸へ家族の安否を探りにゆけといったのが、私たちを逃がすきっかけになると見たからにちがいありません。
「和尚さん」
いちばん小さな丑之助が、その腰のあたりでまるい顔をあげました。
「おれ、おふくろの顔をいっぺん見たら帰って来るよ。……おれ、きっと帰って来るからね。死ぬなら、和尚さんといっしょに死ぬよ!」
全海和尚は、けくっ、と、ふといのど[#「のど」に傍点]の奥で変な音を出しました。頭巾の中の大きな眼が涙でいっぱいになっておりました。
「よし、帰っておいで!」
と、全海さんはうなずきました。
「待っておるぞ」
やがて、ここからは敵兵が出没するというギリギリの地点――ある小川の水車小屋のそばで、全海さんと別れ、三人は暁闇《ぎようあん》の野道を歩き出しました。受けとったてんびん棒と魚籠を、私と金次郎はかついでおりました。
意外にも三人は、途中幕軍につかまることなく水戸にはいることができました。
約一ト月後、天狗党がげんに北方へ向けて突破したように、蟻《あり》一匹も逃さないと呼号していた六万の包囲軍も、実は幕軍や諸藩兵の寄せ集めで、実際に通行してみれば、案外網の目は粗雑だったのでござります。
もっとも、二、三度、哨戒《しようかい》の敵兵がこちらを見て近づいて来たこともござりましたが、すぐ向こうへいってしまったり、なかには「早くゆけ」と、あごをしゃくった者さえありました。私たちをほんとに漁師の少年だと見たらしいのですが、私たちがなまじ逃げ隠れするような不審な挙動をとらなかったせいもあると思います。
私たちははじめから決死の覚悟であり、かつまた、こうなったら、一刻も早く母たちのいる牢獄に近づきたいという望みに火のように煽《あお》られていて、ちょっとやそっとの危険などかえりみる気のなかったことが、逆によかったようでござります。
水戸藩の牢は、昔から赤沼《あかぬま》という町にあり、赤沼牢と呼ばれておりました。母たちがいれられているのもそこだということも聞いておりました。
で、水戸にはいるや、私どもはひたむきにそこに急いだわけでありますが、その間にも町の変化はいやでも眼にふれずにはいられませぬ。
もう秋の朝の白い光が町に満ちておりましたが――まだ朝だというのに、路地の軒下には濃い化粧をした女がならんで、けたたましい声で呼んでいるのです。その前を、槍《やり》をかかえて往来している侍たちも、もう酔っぱらっているのです。そして、空地には、鉄砲をほうり出した足軽連中が、車座になってサイコロばくちをやっているのでござります。
猥雑《わいざつ》といおうか、殺気|横溢《おういつ》といおうか。――そのあたりは、この夏私たちが出発するまで、いかめしく物静かな侍町であったところです。斉昭公が、同じ樹木でも梅干と筍《たけのこ》という食糧がとれる、と、おっしゃって奨励なさったので、水戸は梅と竹が多い町ですが、その竹林の向こうでは矢稽古《やげいこ》の弦《つる》のひびきや、梅の花のこぼれる土塀《どべい》の中では謡《うた》いの声くらいしか聞こえなかった場所が――厳しいけれど愉《たの》しい私たち少年の生活のあった場所が――何たることか。
何よりショックであったのは、横行する武装兵たちの言葉の大半が水戸弁でないことでござりました。
――水戸学の聖地が……尊皇攘夷の本山ともいうべき水戸が。……
雑踏の中を歩きながら、私たちは歯ぎしりしておりました。だれがこんなことにしてしまったのか。水戸にこんな幕軍や諸藩兵をみちびきいれたのは、佐幕派の連中だ。
それはともかく、目ざすは赤沼牢でござりまする。
金次郎と私は、その前に丑之助に向かって、
「お前は村のおふくろのところへゆけ、そして夕方にどこそこで待ち合わせて那珂湊へ帰ることにしよう」
と申しました。しかし丑之助は、ともかくいっしょに赤沼へいって、その首尾を見とどけたうえでそうさせてもらう、と、いうのです。思えば十二の子供にしては、実にけなげなものでござりました。
そのために丑之助は、思いがけない手柄と――私たちにとっても大変な戦利品を持って帰るめぐりあわせになったのでござります。
赤沼町に近いある土塀の角をまわったとき、私たちはゆくての馬場沿いの大|欅《けやき》の下で一人の雲水が、一団の鉄砲足軽に何か訊《たず》ねているらしい光景を見ました。
雲水は網代笠《あじろがさ》に手をかけて礼をいい、ついでに何か冗談でもいったと見えて、足軽たちはゲラゲラ笑いながら、向こうの角を曲がってゆきました。雲水は一人でお経を唱えながら、私たちのほうへ歩いて来ました。
すれちがおうとして、ふいにその坊さまが立ちどまり、
「金次郎君」
と、呼びかけたのには、私たちはぎょっとしました。
「ははあ、魚売りに化けて来たか」
坊さまは笑っておりました。
「やあ、こりゃ源五郎君、ほう、丑之助もいるか。……しかし、大胆なことをする。万一|奸党《かんとう》の知り合いに見つかったらどうするか」
大胆不敵とはだれのことをいうのか。
その網代笠の下の若い顔は、六万の敵のみならず、天狗党からさえ夢魔のように怖れられた人間の顔でござりました。それが悠々《ゆうゆう》と水戸の町の中にいることすら信じられないほどなのに、どうやらいま見たところでは、敵兵と何やら談笑していたようではありませぬか。
坊さまは、私の肩をたたきました。
「しかし、何しに来た?」
「田中さん……」
私は息を切らしました。
「あなたこそ、大丈夫ですか?」
「どうだか、わからん」
相手は爽《さわ》やかな声で笑い、
「せっかく来たのだから、君たち田中隊へゆかんか」
と、おどけた調子でいいました。
「田中隊はいまどこにいるんです?」
「助川《すけがわ》城におる」
助川城は水戸の北東十里ほどのところにある、家老筋の山野辺|主水正《もんどのしよう》どののお城です。なぜ田中隊がそんなところにいるのか、それより田中隊の頭領の田中|愿蔵《げんぞう》さんが、どうしていま水戸にいるのか、狐《きつね》につままれた思いでしたが、何にしてもそれは、そのときの私たちの関心の外にありました。
「それより、君たち、何しに水戸へ来たって?」
もういちど訊《き》かれて、私たちは母や家族の様子をうかがいにこれから赤沼牢をのぞきにゆくつもりだといいました。
「そりゃ、いかん!」
みなまで聞かず、田中さんは首をふりました。
「君たち、よくいままで見つからなかったものだと感心するが、赤沼牢はいかん。あそこには天狗党の家族の顔をみんな知りぬいた連中が眼をひからせておる。そこへ武田耕雲斎の子や孫が顔を出すなんて、飛んで火にいる夏の虫のようなものだ。これ以上、一歩も近づいてはならん!」
ここにおいでのみなさまは、むろん田中愿蔵の名はご存知でござりましょう。まことに彼の悪名は高い。常州野州においては、天狗党といえばその中のだれよりも、むしろ田中愿蔵という名が人々の頭に浮かんで、いまも恐怖と憎しみのまとになっております。
それは私も承知しております。にもかかわらず、この悪名と、記憶にある彼の実像とのくいちがいが、実はいまでも私を大変悩ませておるのでござります。
田中は、それ以前からよく知っておりました。筑波山以前に、藤田小四郎とともに、よく私の父の耕雲斎のところへやって来て、議論を吹っかけていたからであります。
元治元年、藤田が二十二歳であったと申しましたが、この田中はそれよりまだ若く二十歳でありました。
田中は藤田とならんで、非常な秀才でござりました。斉昭公は領内のあちこちに何々館と名づけるいくつかの藩校をお作りになりましたが、彼らはその若さで――しかも元治元年以前に――藤田は小川館の館長、田中は時雍《じよう》館の館長を命じられたことでもわかります。田中の出身は藩医の息子でござります。
ですから、二人が父に吹っかける議論も、烈しい攘夷論というだけで、詳しいことは当時の私などには理解できませんでした。もっとも、よく論ずるのは主として精悍《せいかん》な藤田のほうで、田中はむしろおだやかなたちに見えた。実際にまた彼は、一見、女にもまがうスラリとした美青年でござりました。
私たちから見ると、藤田は少々おっかない兄貴で、田中は実にやさしい兄さんでした。からかうことはあっても叱《しか》ったことはないし、だからいま、こうお話ししていても、実は田中さんと呼びたいほどなのでござります。
ただそれではほかの人とつり合いがとれず、みなをさん[#「さん」に傍点]づけで呼んでは話がまだるくなるので、あえて呼び捨てにいたします。
さて、藤田と田中は親友でありました。ただ双方ともに攘夷思想に凝《こ》りかたまった秀才であっただけではなく、前年の春、主君慶篤公に従ってともに上洛し、上方《かみがた》に渦《うず》巻く天下動乱の風雲をともに吸って来たことで、いよいよ意気投合したものと見えます。
その前年の秋ごろから、藤田小四郎が、府中《ふちゆう》――これは今の石岡《いしおか》であります――新地の紀州屋という女郎屋にたてこもって、藩内の同志や江戸で知り合った志士などを集め、攘夷の旗挙げについての談合をはじめたころ、田中愿蔵は江戸におりましたが、このことを聞いてたちまち馳せ参じました。
かくて彼らが、いよいよ三百人ほどの同志とともに筑波山に屯集《とんしゆう》したのが三月の末でありましたが、四月はじめになって、日光に移動することになった。
筑波で気勢をあげたのはいいが、たちまち幕府の鎮圧を受けては困るので、日光にいって東照宮を盾《たて》にして立て籠れば幕府もちょっと手の出しようがないだろう、という作戦を立てたのでござります。
そこで筑波山を下りて、日光へ移動したのですが、これが実に馬鹿馬鹿しいなりゆきになった。
日光奉行は、宇都宮藩、館林《たてばやし》藩の出兵を求めて防衛線を張り、何しに来たか、と詰問しました。これに対して筑波勢は、ついうっかりと、
「攘夷の祈願をしに参ったので、他意はない」
と返答してしまった。すると、
「それならみな脱刀して、十人ずつ参拝さっしゃい」
ということになり、とうとうそのとおりにやるほかはない始末になった。
そして、あっけらかんと日光からひき返して来ました。
むろん、そんな馬鹿げたことをやりに日光へいったわけではないが、ものの気合いというものは妙なものです。
もっともそうなったについては、彼らの旗挙げなるものに、どこか腰の坐らぬところがあったからでござります。つまり彼らは、ただ攘夷のデモンストレーションのつもりでやり始めたので、すると全国のあちこちに同じ共鳴運動が起こって、幕府も攘夷を実行せざるを得ないだろう、と考えての行動に過ぎなかったのでござります。
筑波勢は日光から追い返されて、こんどは一応、栃木の太平山《たいへいざん》に拠《よ》りましたが、筑波山ほど有名でない山上でのデモンストレーションは非効果的だ、ということと同時に、他国での運動はどうもやりにくい、ということがわかって、五月の末にまた筑波山に帰りました。
やりにくい、とは、主として徴発のことでござります。
最初に旗挙げしたころは、多少の軍資金も用意しておりましたし、また筑波周辺の商人や豪農に、尊皇攘夷のための御用金だといえば、ともかくも同じ水戸領内のことだから、シブシブながらそれに応じてくれた。
しかし、太平山は他領です。しかも、この野州を練り歩いている間に、諸国から浪人たちが馳せ参じて、もう千人以上の人数になっている。その毎日の食い扶持《ぶち》だけでも容易な量ではありません。
やむなく近くの百姓から徴発したのですが、当然のことながら、苦情はおろか、烈しい抵抗が起こりました。
こうして、筑波勢はまた筑波山にひきあげたのですが、この一見無意味な往復運動は、あとに凶々《まがまが》しい渦を一つ残したのでござります。
それは、筑波勢から分離して野州にとどまった一隊でありました。田中隊でござります。
総帥を田丸稲之衛門、中軍将を藤田小四郎とする筑波軍で、田中愿蔵は一隊長という地位を与えられておりましたが、以上の筑波勢の動きに徹頭徹尾不満でありました。
――なんだ、日光での醜態は。
――子供の使いじゃあるまいし、わざわざ筑波から砂塵《さじん》をまいておしかけながら、十人ずつ参拝を許されて、しっぽを巻いて退散するとは。
――そもそも、はじめから東照宮を盾にしようという根性がまちがっておる。
――いったいこんなことで幕府への示威運動になると思っているのか。
田中は、こう藤田を痛罵《つうば》したと申します。
以前の二人の仲を思うと信じられないようですが、田中愿蔵はこんどの挙に参加して以来、まったく人間が変わっていたのです。いえ、以前の仲といっても、それは私たちに、田中が藤田に従属しているように見えたというだけで、もともと田中は実に勇猛果敢な性質の持ち主だったらしいのですが、少なくとも子供の眼にはわからなかったのが、ここに至ってそのやさしい面貌《めんぼう》をかなぐり捨てたのであります。
藤田は攘夷を唱えるだけでまだ討幕を意図していなかったのですが、田中は幕府あるかぎり攘夷の実行は不可能だと見ぬいていて、はっきりと討幕を考えていたのでござります。
天狗党の中で、過激派の藤田にくらべ、これはまた一段と極点へいった最過激派といえます。――そして、後世になってみれば、田中愿蔵の歴史的直感のほうが的を射ていたのであります。
彼は、反対者があってあきらめましたが、そのまま一隊をひきいて野州から甲州へ迂回《うかい》進撃し、甲府を奪い、さらに駿府《すんぷ》まで占領して東海道を遮断《しやだん》しようという作戦まで立てたくらいです。
まことに破天荒な考えのようですが、どうもあとで調べてみると、当時の幕府の状態では、この作戦を実行していれば、相当以上に成功の可能性があったらしい。
実は藤田は、筑波一挙の前に長州の桂小五郎と、東西相呼応して攘夷運動を起こすことを打ち合わせていたので、これが七月になって京都における例の禁門《きんもん》の変《へん》で西の長州が敗れたことで、画餅《がべい》に帰し、ひいては東の天狗党も潰《つい》えるという結果になったともいわれます。
協同作戦のタイミングがくいちがったのですね。だから、その禁門の変以前に、もし田中が甲州まで占領していれば、こういう一手遅れの狂いが起こらず、あとの歴史の転回がまったく異なったものになったかもしれないという説もござりまするが、しかしこれはまあ、歴史によくある死児の齢《よわい》を数えるに似た愚痴かもしれませぬ。
さて、それはともかく、こうして田中愿蔵は藤田と喧嘩《けんか》し、袂《たもと》を分かった。そして、田中に同調する百数十人の浪人たちと野州に残った。
ところで、これも現実の悲しさですが、右のような大志をいだきながら田中隊はたちまち資金的に隊の維持に困窮しました。そこで栃木町にはいって、そこの陣屋に軍資金の提供を申し込み、拒絶されて、戦闘をひき起こしました。
このとき田中隊は、油樽《あぶらだる》を割り、篝火《かがりび》を投げ、松明《たいまつ》を持って商家に乱入し、火を放ちました。
そのために、当時野州第一といわれた栃木の町はほとんど灰燼《かいじん》に帰しました。
のちのちまでも「愿蔵火事」と呼ばれたこの暴挙で、彼らは完全に民衆の敵となりました。
筑波に帰った天狗党は田中愿蔵を除名し、田中隊とは無縁であることを宣言しましたが及ばず、民衆の恐怖と怨嗟《えんさ》は天狗党ぜんぶに向けられました。
このことがついに幕軍の出動を呼び、水戸内戦をいよいよ深刻なものとし、さらに天狗党に賊名を与え、その末路を悲劇的なものとした大きな原因の一つとなったのでござります。
やがて七月にはいって、筑波勢は、幕軍と、これに相呼応した水戸佐幕派と戦い始めるのですが、水戸に残した家族に迫害のかぎりをつくす佐幕派にこそ猛烈な敵意を燃やしたものの、幕軍に対してはやはりどこか遠慮があった。
そして、応援に来た田中隊には、依然として拒否の姿勢を示しました。
味方からも嫌悪《けんお》された田中愿蔵は、とんと意に介しませんでした。彼が洩らしたという傲語《ごうご》は、そのころ筑波勢とともに戦っていた私たち武田軍にも伝わって来ました。
――水戸の家族にいまさら何の心配をするのか。すでに天下に叛旗をひるがえしたわれらは、はじめから家族など捨てて然るべきだ。甘いぞ、小四郎。
――幕軍よ来《きた》れ、幕兵を一人たりとも多く殺すことこそ、われらの目的に叶《かな》う。
田中はこう呼号し、筑波勢とはつかず離れず、神出鬼没のゲリラ戦を展開しました。ゲリラ戦とは、ナポレオンに対するスペインの抵抗戦術から発しました言葉で、小部隊による遊撃戦のことでござります。
彼の部隊は主として水戸人以外の浪人軍で、戦闘ぶりも筑波勢以上でしたが、戦場となった土地の農民や町人にも無慈悲でありました。
他国人部隊のため掠奪《りやくだつ》ぶりも荒っぽかったが、彼自身、いくさのためには一切合財《いつさいがつさい》を犠牲にすることをいとわない風でありました。田中隊と聞いて抵抗する町や村は、容赦なく焼き払われました。
「刃向かうやつは殺せ、焼け、許すな」
この白面の美しい隊長に、甘さは髪一筋もなかった。実際に彼は、配下の兵の髪を、戦闘に便利なようにチョンマゲを切ってすべてザンギリ頭としたので、一名「ジャンギリ組」とも呼ばれ、その名は敵軍のみならず、常陸全土に魔神のような印象の波をひろげたのでござります。
田中愿蔵こそ、いわば革命の申し子でござりました。その歴史的直感は正しく、しかもその戦闘はもっとも勇敢であった。
しかるに、さきほど農民までも武器をとって起《た》ちあがったと申しましたが、それは主としてこの革命軍たる田中隊に対して起ちあがったのでござります。そして、筑波勢のもっとも強力な友軍でありながら、筑波勢に賊徒の汚名をかぶせたのもまた田中隊の所業だったのでござります。こういう矛盾が、客観的に見れば、歴史のアイロニーというものでござりましょう。
むろん当時、武田軍にあった十五歳の私に、そんなことを面白がる余裕はござりませぬ。客観的に見る判断力もありませぬ。
これは少年の私ばかりではない。武田軍のみならず藤田軍まで、みな一様に彼に対して憎しみをいだいておりました。
それは、いまや最後の関頭に追いつめられつつある那珂湊の天狗党のすべてが、なお田中隊の合流を拒否しているほどの悪名でござりました。
そのジャンギリ組の隊長田中愿蔵がここにいる。水戸の市内に、雲水姿で潜入している。
田中愿蔵は、私たちに、いかに赤沼牢に近づくことが危険であるかを、こんこんとして説きました。
実は私たちは、右に述べたような田中隊の所業をまざまざと目撃したわけではありませぬ。ただ、常陸の野にひろがる憎しみの声と、天狗党の中の、
「きゃつ、天狗党の名をけがした。天狗党を賊にしてしまった元凶はきゃつだ」
という痛憤の声を聞き、はじめ、「あの田中さんが?」と信じられないものに思い、やがてそれらの声に動かされて、その人に対して、同じ凶々《まがまが》しい印象を持ちはじめていたのでござりますが、いまやさしく誡《さと》されて、私たちは以前のなつかしい田中さんを思い出し、また昏迷《こんめい》におちいりました。
「いったい耕雲斎先生は、君たちのこんな行動をお許しになったのかね?」
「いえ、知られると叱られそうなので、まったくないしょでやって来たんですが。……」
「そうだろう、君たちも、もう戦争に参加しているんだ。戦士の一員なんだ」
と、田中はきびしい顔色に改まって申しました。
「いまこのときになって、家族の安否をうかがいに来るなんておかしい。そんなものは捨てなければ、いくさには勝てんぞ」
「勝つ?」
金次郎は問い返しました。
「田中さんはこのいくさに勝てると思ってるんですか?」
「戦争というものは、最後までわからんさ。いままでのなりゆきだって、意外の連続だ。われわれが旗挙げしたとき、水戸全域が戦乱の巷《ちまた》になるなんて想像もしなかったし、また幕府がこれまで六万の兵と五十万両の戦費を使って、まだ天狗党を鎮圧できず、総大将の田沼の罷免《ひめん》の噂《うわさ》まで流れているときに、突然こっちの大将の大炊頭さまが降伏するとも思わなかったよ」
「ですから、もう終わりだと。――」
「なに、絶望はまだ早い。戦争は絶望してはならんものだ。一日も長く頑張《がんば》って、一兵たりとも敵を多く殺すようにあらゆる努力をしているうちに、何とか活路がひらける可能性が出て来るんだ。そのために、おれも水戸へ出て来たんだ」
「田中さんは、何をしようというのですか」
私は、最初からの疑問を口にしました。
「敵の大将の田沼玄蕃頭の妾《めかけ》と、奸党の親玉市川三左衛門の娘を誘拐《ゆうかい》してやろうと思ってやって来たのさ」
網代笠の下で、白い歯がニヤリとしました。
「えっ、市川の娘?」
「田沼の、メ――」
私たちは、思わずさけびました。
「しっ、あまり大きな声を出すな」
と、さすがに田中はあわてた顔をしましたが、
「おれはそのつもりでいる。もっとも、はじめはただ偵察に来たんだ。すると、きのう大炊頭さまが降参したというじゃないか」
と、ささやき声でいいはじめたのでござります。
私たちは、松平大炊頭さまの件については、まだそのことだけしか知らない状態でありましたが、水戸にいた田中は、その他にいろいろなことを探知しておりました。
大炊頭さまは、田沼総督と直接交渉してではなく、前線の幕軍責任者との話し合いだけで降伏したらしく、水戸には寄らないで、そのまま南のほうを通って水戸街道にはいり、江戸へ向かって急ぎつつあるらしい。そのことを知った田沼が、勝手に江戸にゆかせては総督たる自分の面目が立たぬ、いそぎ水戸へ連れ戻せ、と命じて、市川三左衛門がきのう追跡に出ていったらしい。
「大炊頭さまはどういう条件で降伏されたのか知らないが、おれの見るところでは、どうせ甘い坊っちゃん大名だ。おそらくこれから、約束がちがう、と歯がみしても追っつかないことになるだろう」
「…………」
「ま、それはともかく、いま水戸は大炊頭一行をつかまえる騒ぎで、眼はみんなそっちへ向いている。それで思いついたんだ。田沼の妾や市川の娘をさらうのはいまだと」
「…………」
「田沼は本陣を水戸城内の弘道館に置いているが、いくら何でも妾を弘道館にいれるのははばかりがあると見えて、市川三左衛門の屋敷に泊めている。市川の娘とひとまとめにしてさらうには好都合だ」
「…………」
「と、思ったが、さすがにそう簡単にはゆかない。三左衛門はいまいったように大炊頭さま追跡に出ているが、屋敷は警戒厳重でちょっと手の出しようがない。思案投げ首でいたところへ、はからずも君たちに逢った。そこで天来の妙案がひらめいたんだ」
「…………」
「君たちに頼むことだ。市川屋敷にいる二人の女をさらうには、君たちの手をかりるよりほかない」
口をポカンとあけていた私どもは、やっとわれに返りました。しかし田中は、さらにふしぎなことをいうのでござります。
「もっとも、いまおれが頼みたいのは、いちばん小さい野村君だがね……。野村君、手伝ってくれるかね?」
十二の丑之助は、君《くん》づけで呼ばれたせいか、顔を真っ赤にして、
「ぼくにできることなら。――」
と、さけびました。
「ありがたい。では、こっちに来てくれ。……いつまでもこんなところで立ち話をしているわけにはゆかん」
雲水姿の田中は歩き出しました。人気《ひとけ》のない路地をえらんで歩きながら、私たちはこういう問答を交わしました。
「丑之助、君の顔を知っている者が、市川屋敷にあるかな」
「さあ。……わかりません」
「金次郎君や源五郎君の顔ならともかく、田丸さんの小姓をやってた十二の君を、まさか知ってるやつはあるまい。それにごった返している最中だから大丈夫だろう」
「それで、ぼくは何をやるんです」
「弘道館にいる田沼総督からのお使いだといって、田沼の妾に手紙をとどけてもらいたい」
やがて私たちは、田中愿蔵に、ある場所に連れてゆかれました。
水戸の町は、古くから上町下町に分かれております。上町は武家町ですが、私たちのいったのは、町人住居区域になっている下町の、ある路地の奥の一軒でござりました。
そこには、素姓不明の、二、三人の男女がおりました。――いまや水戸じゅうの人間から敵と見られている田中愿蔵ですが、やはり同志の者をそんなところに持っていたと見えます。
その人々を古着屋に走らせ、また手伝わせて、丑之助は、雀の巣みたいにモジャモジャにした髪を前髪立ちに直され、立派な紋付に着替えさせられ、よく古着屋にそんなものがあったと感心したのですが、小さな裃《かみしも》さえつけさせられたのです。
「さあ、手紙はこれだ」
その間に書いた一通の封書を、田中は丑之助に渡しました。その表には、
「至急ゆんへ、田」
と、書いてありました。
「田? ぼくは田丸さまの家来ですが、それじゃあ。……」
「田丸の田じゃない。田沼の田のつもりだ。幕軍総督が妾にどういう手紙を書くのか見当もつかんが、田沼の使者といって乗り込んだ以上、だれだって田沼の小姓だと思うだろう」
「ゆんへ?」
「おゆんというのが、妾の名なんだ……。すると、だな。九分九厘までそのおゆんが、手紙に指定した場所へ――藤沢小路《ふじさわこうじ》の庚申堂《こうしんどう》のところまでやって来るんだ」
「ほ、ほんとうですか?」
私たちは、眼をまるくしました。
「君たちに聞かれると恥ずかしいが」
田中はニヤリとしました。
「田沼の妾は、府中の紀州屋という女郎屋の養女で、実はおれの色おんなだった女さ。そいつを田沼が府中に進駐している間に、自分の妾にしてしまった。しかし、その女はすぐに田中の田の字だと見ぬくはずだよ」
「…………?」
「それもふつうの女なら来んだろうが、あれなら出て来るだろう。なにしろ一風変わった女だからな」
こういう次第で、丑之助は、奸党の首魁《しゆかい》市川三左衛門の屋敷へ乗り込むことになったのでござりまする。
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わたしゃ立つ鳥 波に聞け
奸党とは、いうまでもなく水戸藩の中の佐幕党のことでござります。
これは私ども天狗党がいい出した言葉ではない。斉昭公みずからそう呼ばれたので、当時われわれもそういっておりましたし、いまでも水戸ではそう呼んでおります。
しかし形容として「奸」ときめつけてしまえば公平を欠くと思われますので、私はいままでなるべく佐幕党と呼んで参りました。ただ、長年の癖として、ヒョイ、ヒョイと、奸党という名がいままで出て来たかもしれませぬし、これからも出るかもしれませぬが、どうぞお聞き流し願いとうござりまする。
ここで、水戸の奸党なるものについて、ちょっとご説明申しあげたい。
ただいま私、公平という言葉を持ち出しましたが、ともかく奸党について論ずるのに、公平という言葉を使うには、三十年の歳月を要しました。いや、三十年たったいまでも水戸では使えないでしょう。
これでも私、長年判事という職を奉じて参りまして、原告に言い分があるように被告にも言い分があるということを認める習性を体しましたから、この事例についてもこの見方を適用してみようと努力したのでござります。しかしほんとうに公平に考慮できるやいなや、われながら心もとないところもござりまする。
水戸における尊皇派と佐幕派の思想的な確執の歴史は古いものでござります。その根源は黄門さまにあるとはじめに申しあげたとおりでござりますが、これが先代斉昭公に至って、思想のみならず行動のうえでも、ついに分裂抗争する羽目に相なりました。
斉昭公が攘夷を鼓吹され、幕府に進言され、一方藩においてもその事態に備えるためさまざまな革新政治をやりはじめられた。この心酔者群がつまり天狗党であり、この反対者群が斉昭公のいわゆる奸党でござります。
ご自分の政策に賛成しないやつを、同じ家臣でありながら奸の字をつけて呼ぶとは、いかにも大天狗たる斉昭公ならではの傍若無人さで、そもそも、その奸党のめんめんが、最初に斉昭公が水戸家をつがれるときに反対したのも、そういう斉昭公の猛烈な個性を危険視したからでござりましょう。最初からの反対者であったから、以後斉昭公もこの派に好感を持たれるはずがなく、さればこそ奸党呼ばわりをなされた。
むろん奸党がみずから奸党と称するわけはなく、「諸生《しよせい》派」と称しました。藩士大勢派というほどのつもりであったのでしょう。しかし実際は、昔から上級の家柄の者が多かった。保守の体質を持っていたのは当然でござります。
彼らにいわせれば、ご三家の一つたる水戸家が、何の必要があって幕府の困る攘夷論などをさけびたてるのか、静粛にしておれば水戸はそのまま安泰であるものを、何の異常発作を起こしてきちがいじみた騒ぎを起こすのか、と、不審でもあれば、腹立たしくもあったでしょう。このままほうっておけば、水戸家そのものさえ滅亡するおそれがある、と恐怖したに相違ありませぬ。
実際は、たとえ水戸家が静粛にしていても、彼らの安泰は保持できなかった。頼みとする徳川幕府という柱にはひび[#「ひび」に傍点]がはいっていたのであり、いずれ倒壊のときを迎える運命は迫っていたのであり、斉昭公は知らずしてその柱をゆさぶるという歴史的役割を果たされていたのですが、当時においては、そういう歴史の流れはわからない。保守派にはいよいよわからない。
とはいえ、ともかく斉昭公がご当主である上に、その参謀が傑物藤田東湖でござりますから、彼らとしても当面は頭を低く下げて過ごさざるを得なかった。
しかるに、ここに佐幕派に一人のホープが出現して参った。結城寅寿《ゆうきとらじゆ》と申し、名門の出《で》で、東湖より十二歳年下でありながら充分|拮抗《きつこう》し、斉昭公でさえ一目も二目もおかれざるを得ない知力と胆力と政治力を持った人物で、しかも堂々たる美男でありました。これを首領として、保守派はみるみる力を回復しました。
両派の権力闘争は、いよいよ熾烈《しれつ》に内攻しました。一面、一種の均衡《きんこう》を保っていたともいえます。
ところが、突如|安政《あんせい》二年の大地震で、一方の実力者東湖がこの世から消えてしまいました。
それが結城寅寿の倖《さいわ》いとなったかというと、逆の目に出たのであります。
東湖の横死を聞いて、寅寿自身、
「これでおれは殺される」
と、さけんだそうですが、それは政敵が東湖なればこそ、いかに自分を憎んでも暗殺などというむちゃなことはやるまいが、その東湖が失せたあとになっては、もう自分の安全は保障できない、ということを予感したさけびであったと思われます。
果たせるかな、それから半年後、結城寅寿は「君臣の大義に叛《そむ》き」という漠然《ばくぜん》たる罪名をもって上意討ちになり、その関係者もみな処分されました。寅寿はわずか三十二歳の若さでござりました。
斉昭公が、東湖なき天狗派と均衡をとるために、その抹殺《まつさつ》を命じられたのです。
寅寿を斬ったのは、東湖の妹の一人を妻とした目付久木《めつけくき》直次郎という人であります。ちなみに申しますれば、私の長兄彦右衛門の妻、すなわち金次郎の母は、この久木の妻と姉妹にあたります。
当時私は七歳でありましたが、その久木がうちへ来て、
「寅寿が、執政まで承った拙者を、ただ一度のご糺明《きゆうめい》もなく……と、抗議するのをかまわずに斬ったが、最後に、天狗党にたたるぞ! と、わめいたのが耳について離れぬ。……」
と、水を浴びたような顔色で父に語ったのを憶《おぼ》えております。言葉はちがうかもしれませぬが、たしかにそういう意味でありました。父も寝覚めのよくない顔をしておりました。
とにかく内争はここに重大な血のたねをまいたのでござります。結城寅寿の名は、天狗派には妖、保守派には惨の印象をもって刻印されました。
それ以来水戸は、斉昭公が井伊大老と大衝突をして蟄居《ちつきよ》を命じられたり、京から攘夷の密勅を受けたり、それを幕府からさし出せという命令に対して抵抗運動が起こったり、さらに血盟した水戸藩士天狗派による桜田《さくらだ》の変《へん》が勃発《ぼつぱつ》したり、天下を震撼《しんかん》させるような大事件を相ついで起こすにいたりました。諸生派から見れば、それ見たことか、と、いいたいところであったでござりましょう。
そして、ついに斉昭公はお亡くなりになりました。
地に伏していた諸生派は頭を持ちあげました。もともとが昔から代々家柄の者が多い派でござりますから、その力はなかなかしぶといものがあったのでござります。
斉昭公のあとをつがれた慶篤公に、彼らは、天狗派こそ先年来水戸を動乱の渦《うず》に巻き込んでいる元凶であると訴えました。これに対して天狗派は、先代以来の政策の推進こそ、水戸藩の至上の使命であると訴えました。
この慶篤公が、さきに申したとおりのフラフラ型でありまするから、そのたびに、両派の一方を登用したかと思うとまた罷免《ひめん》される、などいうことを繰り返しました。
その春、藤田小四郎が水戸藩を離れてついに筑波山で旗挙げをしたのは、この収拾つかぬ泥沼《どろぬま》のような内部抗争に、ごう[#「ごう」に傍点]を煮やしたこともあったのでござります。
これに対して諸生派も、本格的に武器をとって決戦に乗り出したのですが、その中心人物が市川三左衛門でありました。
たびたび申すとおり諸生派は主として上級家臣団で、その巨頭は五千石の元家老鈴木|石見守《いわみのかみ》と目され、それまで市川は第三か第四の存在と思われておりましたが、このときに至ってこれが前面に出て参りました。
みずから陣頭に立って筑波勢攻撃の指揮をとったのみならず、幕軍の出動もとりつけた。天狗党こそ領民を悩ます国の賊であると宣伝して、農民兵を組織したのも彼でありました。水戸に在住していた天狗党の家族をことごとく投獄したのも彼でありました。そしてまた、江戸にある藩主の名代として乗り込んで来られた松平|大炊頭《おおいのかみ》さまの水戸入りを頑《がん》として拒否したのみならず、これに挑戦《ちようせん》するという、常識的には叛逆ともいえる行為に出たのも実に彼でありました。
天狗党こそ斉昭公以来水戸家の安寧と秩序をみだす獅子《しし》身中の虫、はねあがりのきちがい集団であると断じ、それを根こそぎたたきつぶす最初にして最後の、しかも最大の機会であると彼は見きわめたのであります。そのために、なまじ大炊頭さまのご仲介を受けて天狗党の息をつなぐことを彼は怖れたのであります。
かつての首領結城寅寿を殺し、流血のたねをまいたのは天狗党だ、この際何千人の屍《しかばね》を積もうと、いままでの怨みをはらすべきときは来た、という復讐欲にもむろん燃えあがったことでござりましょう。
市川三左衛門こそ、水戸の井伊大老とも呼ぶべき人間でござりました。彼はその年たしか四十九歳であったと記憶いたしております。
春以来の内戦で、天狗党の敵としていちばん頑強ぶりを発揮したのは、市川部隊でありました。
むろん当時の私どもに、奸党には奸党としての論理があると認める余裕はござりませぬ。市川三左衛門には市川三左衛門としての信念があるなどとは存じませぬ。
ただ、この元家老が自分たち天狗党への憎悪に燃えたぎっている怖ろしい人間であると承知しているだけで、従ってまたこちらも彼に対して憎しみの炎を燃やしているばかりでござりました。
ですから、その怨敵市川の娘を――やはり敵の首魁である田沼玄蕃頭の妾とともに誘拐する、という田中|愿蔵《げんぞう》の痛快な作戦に、野村丑之助はたちまち「やります」と答え、私たちもそれをとめる気は全然なかった。
やがて、小姓姿の丑之助が、水戸城の西南の角のすぐ下にある市川屋敷に一人で乗り込んでゆくのを、私たちは見送ったわけでござりますが、しかしさすがにあとでいささか心配にはなりました。
あとになって思えば、実際とんでもない冒険で、こんなことは二十歳《はたち》のゲリラ隊長でなければ思いもつかず、怖さ知らずの十二歳の少年でなければやすやすと引き受けることはなかったでありましょう。
私たちは、約束の場所の藤沢小路の庚申堂のかげで、胸をドキドキさせながら佇《たたず》んでおりました。そして、待つこと約四半|刻《とき》。――向こうから、丑之助が澄ましてやって来た姿のうしろに、二人のお高祖《こそ》頭巾の女を見たときは、いうべき言葉も知りませんでした。
「ここだ、ここだ」
田中愿蔵は呼んで庚申堂のかげに連れ込みましたが、眼を大きくひろげておりました。
「これは、どうしたことだ。おれはまずお前さんだけに来てもらうつもりだったのだが。……」
「そんな手間をかけては、かえって難しくなるでしょう。はじめからご一緒に出て来たほうが早道だろうと考えて、お登世さまをお連れして来たのですけれど、いけなかったかしら?」
と、一方の女が笑って答えました。お高祖頭巾の間からのぞいた眼だけでも、少年の眼にも、艶然《えんぜん》、といった感じがありました。これがおゆんという女性でしょう。
「そりゃ、こんなにうまくゆけば、それに越したことはない」
田中がそらうそぶいて、もう一人のやや小柄なお高祖頭巾に、
「ふん、ご存知かどうか知らんが、おれは悪名高いジャンギリ組の田中愿蔵だ。騒ぐと、ここでお命をいただくぜ」
と、いうと、さきの女が、
「田の字さん、お嬢さまをおどすことはありませんよ。わたしは何もかもお嬢さまに打ち明けて、納得ずくで来ていただいたんですから」
と、たしなめました。田中は狐につままれたような顔をしました。
「何もかも、打ち明けた?」
「そうなんです。わたしたち二人が人質になれば、田沼さまや市川さまの手がちぢんで、いまの水戸の恐ろしい戦争に少しは手綱《たづな》がかかるだろうと、お嬢さまもそうお考えになったのですよ」
田中愿蔵は鼻白んで、まじまじとその女――市川の娘を眺めやっておりました。
その間、金次郎と私は、小姓姿の野村丑之助をもとの漁師の子供風に戻《もど》す作業をやっておりました。
私たちは、田中が丑之助に託した手紙に何が書いてあったか知りませんでしたが、どうやらおゆんは、田中の要求以上のことをいっぺんにやってくれたらしい、と、感じました。おそらく田中は、自分の「色おんな」おゆんだけをまず呼び出し、それから相談のうえ、次に市川の娘も誘い出す手はずにしていたのを、おゆんがはじめから連れ出してくれたらしいのであります。
「やあ、ありがとう、ありがとう」
と、田中はやっと気がついて、丑之助の肩をたたきました。
「ほんとうによくやってくれた。えらいぞ、野村君」
田中はソワソワとしておりました。誘拐の目的を一応達してから、かえって恐怖にかられたようでありました。
「ここに長居は無用だ。とにかく、ゆこう。……ただし、坊主とお高祖頭巾の女と魚売りの子供がひとかたまりじゃおかしい。まず、子供たち三人、先へゆけ。少しおいて、女。……そのあと、おれがゆく」
そして、命令しました。
「少年諸君、水戸を出たら、君たちが来た道を逆に歩いてくれ、それがいちばん安全な道だという証拠だから」
私たちは、その隊形で水戸を脱出しました。
私たちが来た経路を逆にたどれといわれても、敵の哨戒にひっかからなかったのは偶然だったと思われるふしもあって、自信はなかったのですが、実際それは敵の盲点ないし盲線になっていたと見えて、私たちはうまく抜け出すことができたのでありました。
私たちは、丑之助がこの途方もない冒険をみごとにやってのけたことに心から感心しましたが、丑之助はどこかポカンとしておりました。
何とか聞き出したいきさつは、次のような次第でござります。
市川屋敷の界隈は、すぐ前の往来を、騎馬武者さえ混じえた鉄砲部隊が行進しているといった騒然たる雰囲気《ふんいき》につつまれておりましたが、その中をチョコチョコと縫って、裃《かみしも》をつけたちっちゃな小姓姿が門番に、
「田沼総督からおゆんのお方さまへ、お急ぎのご書状を持参いたしました」
と、告げた。
丑之助も実は心中ヒヤヒヤしていたのですが、これを迎えた市川家の侍たちは、むろん彼の顔など知りませんでしたし、さきごろから水戸城内三の丸の弘道館に本陣を置いたばかりの幕府若年寄からの使者に疑心を起こす者など一人もありませんでした。
「あ、さようか、それではどうぞこちらへ」
と、あわてながら、小さな使者を滑稽《こつけい》なほど鄭重《ていちよう》に奥へ通しました。
奥座敷で丑之助からその手紙を受け取ったおゆんの方は、表書きを見て首をかしげ、ちらっと丑之助を眺め、同じ部屋にいた二人の女中を遠ざけてから、封を切って中を読み出しました。
実に長い間、その手紙に眼を落としていて、読み終えても、おゆんの方はじっと考えこんでいたそうであります。
それから、顔をあげて、
「お前、天狗党かえ?」
と、いった。丑之助は返事のしようがなかったと申します。
「ご苦労さまでした。……わかりました」
と、おゆんの方は微笑しました。そして、手紙をしまい、手を打って女中を呼び、
「お登世さまはいらっしゃるかえ? いらっしゃるなら、申しわけないけれど、すぐここへおいでくださるようにいっておくれ」
と、命じました。
やがて、一人の娘がけげんな顔ではいって来ました。
市川三左衛門の娘お登世です。
「お殿さまから妙なお手紙が参りました」
と、おゆんはいい、女中をまた去らせたあと、しずかにいい出しました。
「お嬢さま、あなたは……この水戸の内輪喧嘩《うちわげんか》を恐ろしいことだといっていらっしゃいましたね。同じ水戸の人々が、どうしてこんな果てしのない殺し合いをはじめたのか、と歎いていらっしゃいましたね」
腑《ふ》に落ちないまなざしながら、お登世はこっくりうなずきました。
「それをやめさせる法が見つかりました」
「えっ、どうしたら?」
「このお使いは、田沼さまからではありません。天狗党からです」
お登世ははじめて丑之助を見て、それがあんまり小さいので、眼をまるくしました。丑之助はむろん相手以上に仰天しました。
「天狗党が、あなたとわたしに来てくれないだろうか、と、いって来たのです」
「そんなことは!」
と、お登世はさけびました。
「しっ、大きな声をたてないでくださいまし。もし聞かれると、この子供が殺されます」
「でも……わたしたちが天狗党へいったら……わたしたちが殺されるでしょう」
「いえ、そんなことはわたしがさせません。ご存知かと思いますが、わたしは府中の紀州屋の娘で……あそこはこの春まで、天狗党の方々が談合の場所にしていました。わたしは、みんな知り合いなのです。ですから、わたしにそんな手紙を寄越したのです」
お登世は息をつめておゆんを眺めておりました。
「わたしたちは人質になるだけです。……ご承知のように、天狗党の家族の人々も、こちらの牢屋にいれられています。その人々を殺したくなかったら、天狗党もわたしたちを殺しはしないでしょう」
「…………」
「わたしたちは、たった二人。でも、あなたは諸生派の大将市川さまのお嬢さま。わたしは、いまは幕軍総督田沼さまの妾。まあ、あいこ[#「あいこ」に傍点]にはなるでしょう」
「…………」
「それでこそ、頭に血がのぼって殺し合いをつづけている敵味方の男の衆たちに水をかけることになるでしょう。この果てしのない内輪喧嘩をやめさせる――少なくとも、そのきっかけの一つになるとはお考えになりませんか?」
「…………」
「いえ、おいやなら、むろんわたしだけゆこうと思っていたのです。いまいったようなわけで出ていったと、あとでどうぞみなさまにお伝えくださいまし」
おゆんの方のきれながの眼には笑いがあったといいます。
「わかりました」
と、お登世はうなずきました。
「わたしも参ります」
やがて、おゆんは、お登世と小さな使者を連れて玄関に現われました。
「田沼さまからの急なお召しで、これからお城に参ります」
市川家の老臣は眼をまろくしました。田沼玄蕃頭が城へ愛妾を呼ぶなど、はじめてのことであったからでござります。
「お登世さまも?」
「はい、どうやら間もなく松平大炊頭さまがこちらにおいでになるので、そのご接待にお登世さまを欲しいとの仰せです」
敵として戦った大炊頭ですが、何といっても主筋のご一族ですから、接待役にもしかるべき身分の女人を使うことは考えられます。
「しかし、そのお姿で?」
「とにかく急なご用で、支度はお城でするそうです。それから……わけあって、このことを外部に知られとうないそうで、二人だけ、供も連れずに忍びで参るようにとのお指図でした。わたしがついていますから大丈夫です」
と、落ち着きはらって、おゆんの方は申しました。
そして、三人が市川屋敷を出てゆくのを、老臣たちはあっけにとられて見送りました。
市川三左衛門自身がいたら、むろんこの妙なお召しに疑惑をいだいたでありましょう。
しかし、最初の小さな使者にさえ疑いを持たなかった人々でござります。
当の田沼総督のご愛妾がそういって出かけてゆくのを、たとえ屋敷のお嬢さま同伴であることがいぶかしいにせよ、そのお嬢さまも心得た顔をしている以上、どうしてとめられましょうか。
市川屋敷を出ると、二人の女は、お高祖頭巾をかぶりました。そして、堂々と濠《ほり》に沿って、大手門のほうに向かって歩いてゆきました。
そちらは城のすぐ西側にあたる場所で、むろんそのあたりにも、形だけはものものしい武装兵たちが往来しておりますが、諸藩の混合兵で、ちっとも統制がとれておりませぬ。お高祖頭巾をつけた二人の女とゆきちがっても、怪しむどころか、野卑な奇声をあげる手合いが少なくありませんでした。
しかし、大手門のはるか手前で、おゆんの方は左側へついと折れて、侍町にはいってゆきました。
――こうして三人は、藤沢小路で待っていた私たちの前に姿を現わしたわけであります。
むろん、以上、そっくりに、丑之助が語ったわけではござりませぬ。申すまでもなく、のちになって私の想像を加えたなりゆきでござりまするが、まず実際にほとんどまちがいはなかろうと存じます。
あどけない、といってもいい十二の丑之助の話に、しかし金次郎はあきらかに感動しておりました。
彼はなんども、遠くうしろからついて来る二人の女をふり返りました。
「それじゃあ、あの女たちは、だまされて来たんじゃない。自分の意志で来たんだ」
と、つぶやきました。
それからまたふり返って、女たちのそのまたうしろからやって来る雲水姿を眺め、
「しかし、このまま那珂湊へゆくのかね」
と、不安そうに申しました。
「どうして?」
「田中さんもいっしょだぜ」
「あ。――」
私も気がつきました。田中愿蔵が味方から総スカンを食っているのをはじめて思い出したのでござります。
田中が田沼の妾をさらう、といい出したときは、さらった人間をどこへ連れてゆくか、といったことまで私たちはよく考えておりませんでした。ただ、田中が自分たちに逢う前からその誘拐を企図していたらしいので、おそらく田中隊がいるという助川城へ連れてゆくのだろう、と、漠然と考えておりました。
しかし、いま、この奇妙な行列は、なるほど私たちの先導のもとに、那珂湊へ歩いてゆきます。
「とにかく那珂湊へゆくとして」
と、金次郎はつづけました。
「あの二人は、どうなるだろう?」
「さあ?」
私は、そのとき別の心配にとらえられていました。
「おい、こういうことをやった以上、父上も僕たちの水戸ゆきを叱られることはあるまいなあ? 大手柄だと、ほめてくださるだろうなあ?」
「さあ?」
こんどは金次郎が首をひねりました。
「お祖父《じい》さまのことだから、女などさらって来て何じゃ、と、やっぱり大眼玉をくらうかもしれないぜ」
実際、そういう怖れもある父の耕雲斎でござりました。
もういちどふり返ると、二人の女は――いや、ここらあたりまで来ればもう安心と思ったのか、田中愿蔵とおゆんは二人ならんで、何か話しながら歩いて来ます。それと、こちらとのまんなかあたりを、お登世はひとりでトボトボ歩いて来ます。
おゆんという人は、むろん私たちははじめて見たのですが、お登世のほうは、対立する市川の娘ですが、なんといっても同じ藩のことですから、いままで何度も見たことがあります。十五の私にも、あの剛腹な三左衛門に、どうしてあんな娘が生まれたのだろう、と首をひねったほど、やさしくきれいな顔だちの娘でござりました。それが私より二つ年上だ、ということまで知っておりました。つまり金次郎と同年の十七歳ということになります。
なぜか私は、愿蔵とおゆんがもとの「色おんな」云々《うんぬん》の仲をここでむき出しにして、平気なようすをしているのに怒りをおぼえ、いかにしてかまんまと連れ出された市川の娘に哀れをおぼえました。最初その二人を見たときの、「――やった!」という躍りあがるような感情が消えているのがふしぎでござりました。
「あれほどの恨みを受けている田沼や市川の身寄りの女が、とうてい無事にすむとは思われんが。……」
と、金次郎は申しました。
「おれだって、にくいよ!」
と、私は、いま市川の娘に感じた哀れみを見ぬかれたように思い、あわててさけびました。
「おれだって、あいつら、ただでおきたくない!」
「いかん!」
金次郎は首をふりました。
「それはいかん。さっきあの田沼の妾がいったことを聞いていたか。二人が人質になれば内輪喧嘩をやめるきっかけになりはしないか、と、二人とも承知で出て来たといってたじゃないか。市川の娘も、そう覚悟してのことなんだ。そう覚悟して自分から飛び込んで来た鳥をいじめるのは、これは卑怯《ひきよう》というものだ」
あまりのけんまくに、私はびっくりして黙ってしまいました。
「……ぼくは、わるいことをしたのでしょうか?」
しばらくいってから、丑之助がぽつんとつぶやきました。
金次郎はあわてました。
「いや、わるくなんかない。お前は大手柄だ。きっと田丸さまも、出かした丑之助とおほめになるよ」
「ぼくは。……」
茸《きのこ》のお化けみたいな大きな笠の下で、丑之助は溜息《ためいき》をつきました。
「ほんとをいうとね、あんなことをするより……いちどだけでいいから、やっぱりおふくろに逢って来たかった」
私たちは別として、彼は逢えば逢える母親に、ついに逢わずじまいで那珂湊へ帰ってゆくのです。
「おいっ」
ゆくてに、大入道が現われました。
「無事に帰って来たか。心配しておったぞ」
全海入道でござりました。気がつくと、そこは、けさ別れた水車小屋に近い場所でござりました。
「赤沼牢へ近づけたか。家族に逢えたか」
「いや」
金次郎と私は首をふり、そのほうへ駈け出しました。
「その代わり、田沼総督の妾と、市川の娘をさらって来た」
「なんだと?」
全海は大眼玉をむいてゆくてを眺め、
「やあ。……あれはだれだ」
と、さけびました。女二人に対してはむろんのこと、雲水姿の男にもただならぬ直感をおぼえたらしい。
「田中さんです。田中さんがやったんです」
みなまで聞かず不動院全海は走り出し、お登世をのぞきこみ、さらに走って、雲水とおゆんの前に立ちふさがり、
「ほんとうだ!」
と、大声をあげました。
「そうだ、田中愿蔵だ」
と、雲水は笑いながら答えました。
「それから、あんた、坊主のくせにさかんに紀州屋に出入りしてたから、おゆんも知っておるわなあ。……」
「貴公、この二人の女を、どういうつもりで。――」
「那珂湊の藤田への土産だよ」
「土産? すると貴公は、湊の天狗党に加わろうというのか。そりゃいかん! そりゃ駄目だ!」
全海入道は顔をのびちぢみさせて、手をふりました。
「これは何とも、信じられんほどの土産じゃが、しかし貴公はいかん。田中愿蔵の悪名はあまりにも高すぎる。湊じゃ、とうてい貴公を受けいれる空気じゃない!」
「おれが湊へはいるとは、だれもいっていない」
と、愿蔵は申しました。
「土産だけ渡して、玄関口で帰るということもあるんだ。おれの部下は助川城で待っている。――おれはそこへゆくからな、とは、もうおゆんにもいってある。おれは間もなく死ぬだろうから、この二人をたねに敵ととりひきしているひまはない」
全海だけでなく、私たちも口をポカンとあけておりました。
「これは藤田への贈り物なんだ。小四郎がどう扱うかはあれの勝手だが、しかし何かと役には立つと思う」
「こりゃ、どういうつもりだ?」
全海はいよいよ昏迷した眼で、おゆんの顔を見やりました。私たちも、田中という人の心理がさっぱりわけがわからなくなりました。
「では、おゆんさん――いや、二人とも」
田中愿蔵は、ちょっと頭を下げました。
「二人とも無事であることを祈る」
「ちょっと待ってください」
と、突然、おゆんが呼びかけました。
「あなたは、わたしがどういうわけでここへ来たかご存知?」
田中はけげんそうにふり返りました。おゆんの眼は、にっと笑っていました。
「あなたは、わたしがあなたに惚《ほ》れているから、あなたのいうことは何でも犬のように聞く、と思っているんでしょう。そうじゃあないんです」
「なに?」
「わたしにはわたしの考えがあるんです。あなたはあなた、わたしはわたし。……それじゃあ、あなたは好きなようにお死になさい」
田中愿蔵は、見えない棒か何かで殴られたような顔をしました。
この女の別れの挨拶を、私たちは、意外、不可解の思いで聞きながら、同時に、白い秋の日に照らされて立ったそのお高祖頭巾の姿を、なぜか世にも怖ろしいものに感じたのでござります。
田中愿蔵は、狐につままれたような表情で立ち去りました。
ともあれ、これで二人の人質のゆくさきがきまったわけでござります。
那珂湊へ連れて来た以上、私はてっきり武田軍のところへ同行するものと考えておりましたが、田中が藤田軍へと依頼し、またこの誘拐の実行者は筑波勢の野村丑之助なのですから、そうするのが当然であります。
もっとも、無理に武田軍へ連れてゆくといえばできたでしょうが、この二人の女を父のところへ伴うのは、何だがおっかない感じもした。大手柄だ、と、よろこんでくれるかもしれないが、女をさらって来て人質にするなどということは、武士の風上にもおけない、と叱られそうな気もした。
父耕雲斎には、そういうところがあったのでござります。
また、不動院全海という坊さまが洒落《しやらく》な人で――全海も私と同様なことを考えたのか、あるいは人質にとった以上、どっちだって同じだ、と判断したのか――べつに異も唱えず、二人の女を筑波勢のほうへ連行することになりました。
前に申しあげたように、実は武田軍は筑波勢にまだ拒否感をいだいておりましたが、私たちと全海さんは、その中では例外的にそういう感情が比較的薄かったせいもござりましょう。
筑波勢の陣営へいそぎながら、金次郎は丑之助に申しておりました。
「丑之助、お前、責任をもって人質を守るのだぞ」
彼はなんども丑之助にそう念を押しました。
筑波勢の陣営は、館山に劣らず惨澹《さんたん》たるものでござりました。ただ、ここも館山同様、その日わりに静かであったのは、敵味方ともに大炊頭の離脱事件に気をとられていたせいでありましょう。
思いがけない一行を迎えて、本陣の総帥《そうすい》田丸稲之衛門と藤田小四郎が驚愕《きようがく》したことはいうまでもござりませぬ。とくに、おゆんに対し、小四郎はまるで幽霊でも見るような眼つきをしました。
金次郎は、いままでのいきさつを説明したあと、
「田中さんは、藤田さんへのお土産だ、といいました。それでこちらへ連れて来たんです」
と、申しました。
「それに、丑之助からお聞きになればわかると思いますが、あの女のひとたちは、どちらも進んで自分から人質になるつもりで出て来たんです」
「なぜじゃ」
と、田丸稲之衛門が、しゃがれた声で訊《き》きました。
「この殺し合いをやめるきっかけになるだろうと。――」
その陣営にならんだほかの天狗党のめんめんの眼が――とくに市川三左衛門の娘に、殺気に燃えてそそがれている中で、金次郎は頬《ほお》をあかくして申しました。
二人の女は、むろんお高祖頭巾をとっていました。
市川三左衛門の娘お登世、これは私たちも以前から知っておりましたが、ちょっと見ない間に、私から見ると、もう大人になったようで、しかもまるで白蝋《はくろう》を刻んだような美しさでありました。
もう一方の、田沼総督の妾のおゆん。――田中愿蔵の「色おんな」でもあったそうですが、これははじめてその顔を見たわけでござります。
身なりはまったく町娘の風に見えました。いえ、たしかに府中の女郎屋の養女らしく、どこか自堕落な感じがするのです。そのくせ、少年の私でさえ眼がクラクラするような、何と申しますか、さよう、豪奢《ごうしや》な感じがあるのです。
藤田小四郎は、黙って立っておりました。色は白いが、俊爽《しゆんそう》――俊爽というより精悍《せいかん》な小四郎に、いまから思うと、異様な、怖れに近い何かを感じました。
それに対して、おゆんの眼には、何やらからかうようなうす笑いの翳《かげ》があるのを見て、私は奇怪としかいいようのない印象に打たれたのでござります。
「よし、わかった!」
大声でさけんだのは、水戸藩軍学師範の山国兵部《やまぐにひようぶ》という老人でござりました。
「心配するな、天狗党はその名にかけて、女には手を出さぬよ、なあ、小四郎?」
と、笑って申しました。
「そもそも兵法のうえからも、大事な人質に危害を加えるなんぞ、下策の極じゃ、山国兵部、責任をもって人質は保護する、安心せい!」
それから、その座にあった幹部連を見まわしていいました。
「ま、馬鹿者を出さぬために、ここにおる者以外には、人質の正体は秘密としよう」
――館山の陣にも、那珂湊の陣にも、この戦争には珍しい矢が数十本射込まれたのは、その夜のことでござります。
矢文でござりました。そこに書かれた文字はみな同じで、
「赤沼牢を血の沼とするもせざるも、一に天狗党の覚悟にあり」
と、いうのです。
余人には、何のことかわからなかったでありましょう。
ただ、金次郎と私から、昼間の途方もない冒険とその成果について報告を受けたとき、叱りもせず、褒めもせず、何とも判断を絶した顔をしていた父耕雲斎は、この矢文を見てつぶやきました。
「人質の女二人を殺せば、赤沼牢のこちらの家族はみな殺しだぞ、という威嚇《いかく》じゃな。人質がこっちに来たことを、やっとつきとめたと見える」
右の事件が九月二十七日のことでござりまするが、それから十日ばかり、戦線は静かでござりました。
大炊頭さまの離脱は残念だが、しかし同行者は三十五人の近臣だけで、大発勢の兵力そのものに変化が起こったわけではない。
私はてっきり、あの人質のために、田沼総督や市川三左衛門の手が縛られたものと考えました。
しかし、別の解釈をした者もありました。それが右の大発勢で、つまり大炊頭さまといっしょに来た水戸家の家老榊原新左衛門とその兵たちでござります。
彼らは、人質のことは知らなかった。ただ、離脱した大炊頭さまが、江戸へゆくことは許されず水戸へひき戻されたことは聞いていたと思います。
そのあとのことは知らない。
大炊頭さまが水戸でどんな運命に逢われたか、その当座は私どもも知らなかったのでござります。
そこで何ともいいようのない悲劇――いや、悲劇も二度目になると喜劇になると申しますが、むしろ惨劇ともいうべき事態が起こったのでござります。
大発勢は千人ほどでしたが、榊原新左衛門以下、自分たちは何も水戸藩の佐幕派と戦う目的で来たのではない。いわんや幕軍を敵にするなど予想もしていなかったところだ。天狗党と同類視されるのは心外である、という意識は大炊頭さまと同様でござりました。
ですから、大炊頭さまが、その真意を幕府に訴えるといって離脱されたあと、榊原もその首尾を首を長くして待っていたわけでござります。
彼にしてみれば、たとえ大炊頭さまが水戸へひき戻されても、それでこちらの真意が田沼総督に通じて必ず吉報が来るはずだ、と信じ切っておりました。まさかその大炊頭さまが水戸でバッサリという目に逢われたとは想像もしない。
だから、十日ほどの攻囲軍の沈黙を、実は右の期待に添うものと楽観的に考えていた。
ところが、敵の攻勢がやがてまた再開された。大砲をつらねての猛砲撃で、しかもそれは主として大発勢に向けられたから、愕然《がくぜん》となりました。
私たちでさえ、はてな、田沼や市川は人質をかえりみないのか、と、首をひねったくらいでござります。
そして、十月二十日ごろになって、榊原のところへひそかに打診する者があった。「君が心ならずも天狗党に巻き込まれたことはよくわかっておる。何とかして君以下千人の大発勢だけは助けたいと念願している」それが、水戸藩では中立派の久木直次郎でござりました。
以前佐幕派の結城寅寿を上意討ちした久木直次郎ですが、その後の天狗党の過激な行動には眉《まゆ》をひそめ、この当時久木は中立派になっていたのですが、それがこう説いた。
「ただしかし、こうなった以上、君にも責任はある。大発勢が助命された暁は、君は水戸から離れて北海道の開拓にでもゆかないか。市川はそれも許さないといきまくかもしれないが、私も君と運命を共にすることを条件に話してみる」
さて、これがはじめから一杯食わせるための謀略なら知らず、久木直次郎は本気でこういう話を持ち出したから、榊原もひっかかった。これを承知するどころか、
「もしそういうことにしていただけるなら、こっちも幕軍と呼応して天狗勢を攻撃しよう」
と、さえいった。完全な裏切りでござります。
それで榊原新左衛門が命惜しさに裏切った卑怯者であったかというと、彼にいわせれば、そもそもはじめから自分たちは天狗党と同一ではない、と、それがいいたくてこの談判に応じたくらいなのです。にもかかわらずこの不本意ないくさに千人の部下を巻き込んでしまった。
自分の命はともあれ、この部下たちを救いたいという望みだけで動いたらしいので、どうも人間とは、そう簡単に善玉、悪玉では割り切れないものです。実際に榊原は、判断力も穏当で、責任感もあり、よくできた人柄であったといいます。
ただし、久木はともかく、その相談を受けた田沼玄蕃頭は、承諾したような顔をしていて、これははじめから、大炊頭同様、とにかく榊原を降伏させたら全部|誅戮《ちゆうりく》するつもりでした。柳の下の二匹のどじょう[#「どじょう」に傍点]をすくう気であったのを看破しなかったのは、やはり愚かとしかいいようがない。
だから、大発勢が右の所業をやって降参したあと、それまで幕軍に敵対した罪はまぬがれないとして牢にぶち込まれ、やがて榊原新左衛門以下四十三人の幹部は死罪、あとの兵卒たちも牢死するもの数百人に及ぶという始末になりました。これはもう悲喜劇を超えて、人間同士の約束というものがこの世にはあり得ないかに思われる、動物的惨劇というしかありませぬ。
さて、こういうわけで、十月二十三日未明、幕軍を那珂湊におびきいれ、大発勢は、戈《ほこ》をさかしまにして天狗党に襲いかかる手筈《てはず》になりました。
――大炊頭さまのときはまったくわかりませんでしたが、実は榊原のときのこの密約は、すでに二十二日の夜にこちらにわかったのです。大発勢の中にも、この降伏に反対者はありましたから、それが急報してくれたのでござりました。
榊原新左衛門にも同情すべき点はある、など申しますのは、三十余年後のいまだからいえることで、そのときの私どもの驚き、悲憤はいかばかりか、思い出しても胸が煮えくり返るようでござります。全海入道など、「いまただちに大発勢に斬り込んで、榊原の首打ち取って参りましょう」と駈け出そうとして、父耕雲斎にとめられたほどでござります。
ついに一つの終局のときが到来しました。
そもそも那珂湊勢は、敵六万に対して総勢三千と称していたのですが、そのうちの千人が裏切ったとあっては、万事休す。
全滅か、降伏か。
父耕雲斎の決断により、筑波勢と連絡のうえ、この敵の動きが始まる前に、前線に出ている小部隊などを呼び集め、那珂湊から撤退にとりかかったのは、十月二十二日から二十三日へ越えた夜半でござります。
闇夜《やみよ》の中の行動で、さいわい敵に感づかれず、午前十時ごろ、那珂湊の西北約五、六里の南|酒出《さかいで》というところまで来たとき、前方に待ち受けていた筑波勢に合流しました。
藤田小四郎の顔も見えました。田丸稲之衛門の顔も見えました。野村丑之助の顔も見えました。
そして、その中に二|挺《ちよう》の駕籠《かご》も見えたのでござります。
「あれです」
と丑之助がささやきました。
「ぼく、ずっとあれを守って来ましたよ」
二人の人質の女だ、ということはすぐに了解されました。
あとで聞いたところによりますと、あれ以来一ト月、丑之助はほとんど二人のそばを離れず、彼女たちを守るとともに、彼女たちの日常の用事をきいていてやったらしい。
いっときはわが武田軍も筑波勢も、それぞれ千人を上回るくらいの人数に達したこともあるのですが、数ヵ月にわたるいくさで、戦死者、病死者、捕虜、脱走者が出たうえに、なにしろ闇夜の脱出ですから相当な落ちこぼれがあって、いま勘定してみると、双方合わせても八百余名しかなかった。
ともかくもこれだけが無事脱出してここで落ち合ったことを、しかし手に手をとってよろこび合ういとまもありませぬ。ようやく敵も気がついて追撃を開始し、その先鋒《せんぽう》の兵は早くも南方にチラチラ姿を現わしておりました。
「待て、だれか立て札を作ってくれい」
と、兵学指南の山国兵部が命じました。
そして、だれか急造した荒けずりの大立て札に、兵部は矢立ての筆で、
「花籠を血の籠とするもせざるも、一に奸党の覚悟にあり」
と、墨痕淋漓《ぼつこんりんり》として書き、それを道のまん中に突き立てさせました。
いうまでもなくさきごろの敵の威嚇《いかく》へのお返しで、人質をもってこんどは敵を威嚇したものでござります。
むろん味方の大半の者には何のことか意味はわからなかったでしょう。わかった者も、だからといってこれで敵の追跡がやむという安心感は持たなかったでしょう。
ともかくも敗走に相違はありませぬ。砂塵の中になお騒然として混乱している天狗勢を鎮めたのは、そのとき朗々とうたい出した不動院全海の唄声でござりました。
「潮どきいつかと
千鳥《ちどり》に聞けば
わたしゃ立つ鳥
波に聞け」
それは大洗《おおあらい》の磯節《いそぶし》でござりました。みな、どっと笑い出しました。
われわれは北へ向かって前進を開始しました。おたがいに軍議を交わしているいとまもありませぬ。この時点においては、やはり敗軍の姿でござりました。
どこへゆくのか、その先に何が待っているのか、一切知らなかったこと、千鳥のむれ以上でござりました。
「おい、僕たちはあれのそばについてゆこう」
その中で、いい出したのは武田金次郎でござりました。例の二挺の駕籠のことであります。
「うん」
と、私は同意しました。
それはいまとなっては私たちの守護神となるものでしたが、ふしぎにそうとは考えなかった。
実はこの一ト月ほどの間、その二人の女のことは絶えず頭の隅《すみ》にひっかかっておった。それにいま、ふたたびめぐり逢うことができて、何だかほっとしたような感じがいたしたのであります。
われわれは行進し、瓜連《うりづら》村で昼の兵粮《ひようろう》をとり、午後、その北方の大宮《おおみや》村にはいろうとして、大砲を撃ちかけられました。それが木で作った百姓の大砲で、しかもこいつに味方の一人が戦死させられたのであります。
われわれは百姓を追い散らし、その夜は村民のだれもいない大宮村に宿泊いたしました。
二十四日。
大宮村を発して、やがて大沢《おおさわ》村にはいろうとして、峠からまた農民の狙撃《そげき》を受け、ここでも一人負傷者が出ました。その夜は大沢村に泊まりましたが、これまた無人の村となっておりました。しかも全員宿泊できるにはほど遠い村で、ほとんどが野営の状態でござりました。
二十五日。
大沢村を出て北上中、またも山上から鉄砲を撃たれ、大子《だいご》村の入口では、ここでも百姓が木砲三十挺をならべて撃ちかけて参りましたので、これも追い払って村にはいりましたが、ここでもまた一人戦死者を出しました。大子村でも野営同然と相成りました。
つまり、これまでの三日間、われわれに抵抗して来たのは、みな農民ばかりだったのでござります。彼らがともかく木砲まで作って自衛態勢をとっていたのは、これまで常陸北方でゲリラ戦をやっていた田中隊の行為のためでござりました。彼らは、天狗党来たると聞いて、それだけでわれわれを敵視したのであります。
この間、かんじんの幕軍や奸党軍はどうしていたか。それが追尾して来ているのはわかっておりましたが、べつに攻撃はして来なかった。われわれの逃げ足が早くて、まだ向こうの態勢がととのわなかったということもありましょうが、たしかに及び腰といった気配でもありました。
「あれのおかげじゃな」
と、山国兵部が、二挺の駕籠を見て、髯《ひげ》の中できゅっと笑いました。
大子村は常陸北端に近い村で、那珂湊から二十里以上はあるでござりましょう。ここまでを私どもは、三日間で行軍して来たわけでござります。
さて、かくのごとく、われわれを農民と戦わせるもとを作り、一方では敵の追撃をひるませたかに見える人質を残してくれた、あの田中愿蔵という男はどうなったか。
当時私たちはまったく知りませんでしたが、彼はすでにこの世の人間ではなかったのでござります。
のちに判明したことですが、あのとき別れた田中は、その足で助川城へ帰っていった。これは家老筋の山野辺|主水正《もんどのしよう》という人の小さな城ですが、これが戦乱のために城を出て右往左往している間に、その空巣にちゃっかり田中隊がはいり込んでいた。そして、愿蔵だけがあのとき水戸へ潜入していたのですが、また部下のジャンギリ組の待つ城へひき返した。
しかし、そのすぐあとに幕軍がおし寄せて来たので、ジャンギリ組は逃げ出しました。
そして、こんどこそ常陸西北端の八溝《やみぞ》山に追いつめられ、山中で饑餓《きが》のため全滅状態になり、田中は山小屋で捕まったのです。これが十月三日のことで、私たちと別れてから、わずか六、七日後のことでござります。
聞くところによると、彼は、包囲した代官所の捕手たちに、「ご苦労」と挨拶して笑ったが、それがあまりに若くて美しい青年であったので、それまで彼を鬼神のように思っていた人々はひどく意外に感じたという。
田沼の命令が水戸から来て、彼が久慈川《くじがわ》上流の塙下《はなわしも》河原《がわら》で斬首されたのが十月十六日のことであったと申します。処刑されたときの態度は実にあっぱれなものだったそうですが、とにかく田中愿蔵は、殺されるために助川城へひき返したようなものでござります。しかし、それは彼の望むところであったでござりましょう。戒名は「精威猛勇信士」と申します。
とにかく、はじめから攘夷を行なうには幕府を倒さねばならぬと明確に認識し、天狗党中もっとも激烈に戦ったこの天魔のような革命青年は、ここに燃えつきました。
あとに残ったわれわれ敗残の天狗党の手に、美しい二人の人質を投げ捨てたまま。――
さて、われわれは、明日《あした》どこへゆくのか、――その明日のことは、また明日お話しすることといたしましょう。
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水戸《みと》の天狗に刃向かう奴《やつ》は
那珂湊《なかみなと》の砦《とりで》を脱出した天狗党はどこへゆくのか。
昨日、私は、元治元年十月二十五日、天狗党が常陸《ひたち》北辺の大子《だいご》村へ逃げのびた事実まで申し述べました。
われわれはここに宿営し、翌日になっても出発はひとまずとりやめました。何しろ三日間に二十里以上という急行軍なので、疲労|困憊《こんぱい》していたせいもあったのですが、また、敵がまだまとまって大挙追い討ちをかけて来る態勢にないらしいと判断したからでござります。それどころか、味方のうちの落ちこぼれや、潮来《いたこ》など湊以外の場所でゲリラ戦を展開していた連中がなお加わって来て、総勢はふたたび千余人に回復しておりました。
大子村は久慈川上流の中心地ですが、何といってもものさびしい山中の村であります。村民はことごとく逃散しておりましたが、それでも千人は収容できず、半分は野営というありさまで、その状態で二十六日の午後、軍議をひらきました。
われわれは、これよりいかがすべき。
軍議は最初のうち、さすがに沈痛悲壮なものでありました。第一の論は、これからまず北方の奥羽にはいり反撃を計ろうというもので、これは筑波勢ならぬ山国兵部が唱え、筑波勢の多くが賛成しました。第二の論は、そんなことは事実上不可能だ、それよりここで、追撃して来る幕軍市川軍と最後の決戦をやり、はなばなしく全滅しようというもので、これは筑波勢の田丸稲之衛門が唱え、武田勢の多くが賛成しました。まあ、混乱状態といってよろしい。
父耕雲斎は黙って聞いておりましたが、やがて、
「……ただ、賊名を負って死ぬのが残念で喃《のう》」
と、つぶやきました。
そのときに、藤田小四郎が顔をあげていい出したのでござります。
「いっそこのまま京へいったらどうじゃ?」
みな、あっけにとられました。田丸稲之衛門が訊《き》きました。
「なんのために?」
「われわれは義兵であることを天子さまに申しあげるために」
と、小四郎は凜然《りんぜん》と答えました。
「いうまでもなくわれわれは、攘夷《じようい》の勅に応《こた》えて旗を挙げたものです。そのことを直接|闕下《けつか》に伏して奏上し、天下に明らかにしようではありませんか」
みな、顔を見合わせました。あまりにも放胆な提案だからであります。
しかし、だんだん一同の顔色がかがやいて参りました。なかんずく光に満ちて来たのは、父耕雲斎の眼でございました。
この年、武田耕雲斎は六十一歳でござります。
……考えてみればえらいもので、四男の私が当時十五歳であったことはさきに申しあげましたが、私の下にまだ同腹の九歳と二歳の弟がありました。これはまだ幼いので、母とともに水戸に残し、そのために市川党に捕えられ、赤沼の牢に投げ込まれていたのでござります。同腹の、と申しますのは、やはりこの天狗党の戦いに加わっておりました長兄の彦右衛門、次兄の魁介《かいすけ》とちがい、私は後妻の子でござりまして、母はまだ三十九歳でありました。ですから九歳や二歳の子供があったのですが、さらに父には、ほかに十七歳の妾さえあったのでござります。
六十を越えて十代の妾を持つというのは、旧幕時代には決して珍しいことではない――とくに父のように、ともかくも大藩の家老職まで勤めた人間にはむしろ当たり前の慣習ではあったのですが、ただ父に関するかぎり、このことが、悲哀とともに、私にはいささか滑稽《こつけい》感を催させるのであります。
悲哀とは、むろん父の妾となったために、あるいは幼くして父の子に生まれたために、彼らが受けることになった運命のいたましさを思ってのことですが、滑稽感は、あの父が、あの道徳の権化のような父が、と考えるからでござります。六十近くなって子供を生んだり、十代の妾を持ったりしてもおかしくはない、とはいうものの、あの父が、と思うと、やはりおかしい。
父はまさに君子《くんし》でありました。あとになって私は、武田耕雲斎は、押し出しも弁舌も堂々としているが、それにしても、異常に名分にこだわり、変てこなくらい威儀をつくろおうとするところがあった、という評のあることを知りました。たしかにその面はあったでありましょう。しかし、それだけにその日常、すること、いうこと、私にはまさに「大夫」にふさわしい父に思われました。当時十五歳の私には、父の子でありながら、雲煙のかなたに厳然と坐っている尊貴な老人に見えました。もっとも、押し出しのよさは昔どおりとはいうものの、六十を越えて、背は高いが鶴《つる》のように痩《や》せ、顔のあばた[#「あばた」に傍点]がかすかに浮き出して、やはり老いの翳《かげ》は覆うべくもござりませなんだ。
しかも、天狗党の戦いに加わって以来、父は急速に老け、その顔は愁いの雲につつまれているように見えました。
それがただ戦塵《せんじん》の苦労ばかりではなく、賊軍という名を幕府からも奸党からも、そして水戸の民からも受けたことに対するやり切れなさから発していることは、私にも感じられました。
藤田小四郎は、その父の悩みを見てとったようであります。
こちらは、若いだけに颯爽《さつそう》としております。若いせいばかりでなく、もともとが人一倍颯爽とした人物なのです。
きのう申しあげた私の縁戚《えんせき》の久木直次郎という人が、笑いながら私たちに話して聞かせてくれた話がある。
久木が東湖先生と座談をやっていると、そのころ七つか八つの小四郎が庭にはいって来て、縁側に近づいて「お父さん」と呼んだ。
「いまね、面白いもの見たよ。あそこの杉の木の下で、蛇《へび》がね、雉《きじ》を一羽グルグル巻いてるんだ。これはたいへんだ、助けてやろうとしてるとね、雉が二つ三つ羽ばたきしたんだ。するとね、蛇はバラバラに切れちまったよ」
大まじめな顔でいうので、久木はほんとうかと思って、「どれどれ」と立ちかけた。すると東湖先生が吐き出すように、
「また親を馬鹿扱いにするか」
と、叱りつけたので、やっとそれがホラ話だとわかった、ということです。こういう話はよくあったと見える。
それからまた、同じころのべつの日に、東湖先生と酒を飲んでいて、先生が手を打った。奥さまが襖《ふすま》をあけて、「何ご用でございますか」というと、縁側で遊んでいた小四郎が、
「お母さん
お手が鳴ったら
銚子《ちようし》とさとれ」
と、唄い出してはねまわったので、東湖先生が、「親に向かって無礼なやつだ」と、鞭《むち》をとって追っかけたという話も聞きました。
とにかく子供のころから、これほど眼から鼻へぬけるいたずら小僧であったのです。
正直に申しまして、年齢のせいもあり、私など寒巌《かんがん》のような老父より、この小四郎のほうによほど親近感をいだいておりました。
こういう奔放|不羈《ふき》の少年が青年になって、独断専行で筑波山に攘夷の旗挙げをやった。小四郎としては彼なりの成算があったのです。長州の桂小五郎とも同時|蜂起《ほうき》を打ち合わせていたという史料もある。攘夷は水戸がその密勅を受けているのみならず、その思想は日本じゅうを震動させている。ただ自分が火をつけるだけで、それは大爆発を起こすにちがいない。――
これに対して、私の父武田耕雲斎は、もとより攘夷には共鳴するけれども、いましばらく時を待て、単独のはね上がりは成功しないのみならず、水戸を困難に陥れるばかりだ、それよりまず水戸の藩論を一つにする必要がある、水戸藩が藩として攘夷の運動を起こしてこそ、はじめてものになるのだ、という考えでありました。だから、最初は小四郎の運動を止《と》めようとさえした。
で、小四郎が筑波山に旗挙げをし、果たせるかなその余波で藩中の天狗派が謹慎を命じられたとき、その元老たる耕雲斎もそれに従って謹慎しておった。が、そのうち奸党の威たけだかぶりにたまりかねて、ついに一党をひきいて小金まで出かけましたが、それは出府して主君の慶篤公に働きかけるためで、決して藤田小四郎の行動に参加するためではなかった。……それがヒョンなまわりあわせで、とうとう筑波勢と運命を共にするのやむなきに至ったのです。
だから、耕雲斎としては、同藩内の奸党にこそ対抗心は持っていたものの、幕府を敵とするなど思いもよらなかった。その意識が、松平|大炊頭《おおいのかみ》さまほど甚《はなはだ》しくなかったにせよ、那珂湊の戦いぶりにもチラチラ現われて、筑波勢から不満の眼で見られていたほどなのであります。
しかし、耕雲斎の危惧《きぐ》はあたって、ついに幕府からも藩からも、賊の名をもって呼ばれることになった。――
小四郎としては、自分がまちがっていたとは思わないまでも、大義名分を第一とする耕雲斎という人間を知っているだけに、その老人を自分と同じ運命にひきずり込むことになったのは、何とも気の毒だ、という思いがあったのでしょう。
「上洛《じようらく》して天子さまに、われわれの志を聴いていただく」
という破天荒な着想は、彼自身のためというより、耕雲斎のためにきざしたに相違ない。
「それに、慶喜さまも禁裏《きんり》守衛総督として京におわすのだ」
と、小四郎はさけびました。
「おう、そうじゃ、慶喜さまがおわす!」
鸚鵡《おうむ》返しに耕雲斎もうなずきました。
天子さまに何とかする、と聞いたときはやや唖然《あぜん》としていためんめんも、これには納得のいったどよめきをあげました。
慶喜さまは、主君慶篤公の弟|君《ぎみ》でござります。七男でおわすため、一橋家に養子にゆかれましたが、父斉昭公のご英邁《えいまい》の血をもっともたしかに享《う》けられたお方として、水戸家を離れられてからも、水戸の侍たち、とくに天狗派の希望の星でござりました。
水戸から離れられた――どころではない。おととし慶喜公が上洛されたとき、わざわざ実家たる水戸家の耕雲斎をお名ざしで、耕雲斎以下天狗党の侍たちを護衛兵として借りられたというほどご信頼を受けていたのであります。
……ちなみにいえば、この上洛の折り、耕雲斎は天子さまにご陪食《ばいしよく》を仰せつかり、そのとき天皇さまお召し上がりのお箸《はし》を頂戴《ちようだい》したのを、以来奉書紙につつんで家宝とし、げんにこの陣中にも、守り神のごとく捧持《ほうじ》しておりました。
「京へ!」
と、田丸稲之衛門が大声でいい、しかし、すぐに、
「ここから、どうして京へゆく?」
と、問い返し、これには才気|煥発《かんぱつ》の藤田小四郎も、はたと困惑した顔になりました。
田丸稲之衛門は、水戸町奉行をやっていたのを、筑波勢の頭領になってくれないかと頼まれ、安全な地位を捨ててたちどころに受けてくれた快男児でござります。快男児といっても、もう五十九、色の黒いふとっちょで、なんと歯はもう一本か二本しかない、しかも眉も眼じりも下がって、実に愉快な面相の老人でありました。そのくせ、何ともいいようのない活気が全身にあふれているのです。
しかし、さすが陽気な彼も、フガフガ声で、ここからどうして京へゆく、という疑問を提出せずにはいられなかった、と見えます。
それも道理、水戸から京にゆくには、むろん江戸へ出て東海道を上るのですが、むろんこの場合、江戸はおろか水戸へもひき返すことは出来ないのです。この常陸《ひたち》と磐城《いわき》の国境近い山の中から、どこを通って京へ上るのか?
「なあに、地面つづきである以上、西へ西へと歩いてゆけば、そのうち京へゆけるわい」
と笑ったのは、山国兵部でありました。
「ちがいない!」
と、全海入道が手を打ち、みな哄笑《こうしよう》しました。
山国兵部は、実に田丸稲之衛門の兄でありました。もともと水戸藩の兵学師範でしたが、さきに申した松平大炊頭さまの軍師役につけられて、大炊頭さまご降伏のとき、それと行を共にせず、武田軍に参加した人ですが、このとし七十一歳という大変なご老人で、その髪の毛はおろか眉もない。ただし血色はよく、これまた実に元気がいい。
「しかし、いまに幕軍や市川党が追撃して来るでしょう」
と、訊いたのは、私の長兄の彦右衛門でござります。
「そりゃ、追っ払うよりほかはない。それに……例の人質がある」
兵部は、きゅっと口をすぼめて笑いました。この老人は、すでにここへ来る途中、その手で追撃隊の先鋒《せんぽう》を撃退したのであります。
次に尋ねたのは、私の次兄の魁介でござります。
「途中の国々は? 諸藩が黙って通しますか」
「それじゃがな。諸藩といっても、東海道とちがって大藩はない。とにかくこちらは、千人もの比較的大軍となっておる。おまけに大砲までひきずっておる。これが決死の勢いで通過すれば突破できぬことはあるまい。その軍略は、はばかりながらこの兵部にまかせてくれい」
と、兵部老人は、木の瘤《こぶ》みたいなこぶしで胸をどんどんとたたいて見せました。
「天狗党上洛! 天狗党上洛!」
全海入道が吼《ほ》えて、起ちあがり、耕雲斎に訊きました。
「このこと、みなに告げてよろしゅうござりますか?」
「よかろう」
全海は、棒をかかえて飛び出してゆきました。
すぐに、村じゅうのあちこちから、どっと喚声《かんせい》があがり、波濤《はとう》のようにひろがってゆきました。戦い、敗れ、目途《めど》を失い、意気|銷沈《しようちん》をまぬがれなかった兵たちは、上洛して天子に志を述べるという天来の着想に、起死回生の思いをなしたのでござります。
つまり、後々まで沿道の語り草ともなったいわゆる天狗行列は、この大子の村まで追いつめられて、はじめてきまったことなのでござります。
この軍議は、無人の村の庄屋らしい家の大きな囲炉裏《いろり》を切った座敷で行なわれました。火はあかあかと燃えておりました。十月二十六日、というのはむろん旧暦でござりますから、あとで調べましたところ、今の暦では十一月二十五日に相成ります。火を焚くのも当然でござります。
この季節に、京に向かって幾山河を越えてゆく怖ろしさを――追って来る敵や、迎え撃つ敵よりも、もっと私たちを苦しめた寒気の辛さを、しかしそのときにおいては、私どもはよく考えなかったのでござります。
また考えたとて、どうなりましょう。私たちは、京へゆくよりほかはなかったのです。私と武田金次郎と野村丑之助は、その隣り座敷に坐って、この天狗党の幹部連の軍議を眺めておりました。
私たちの背後には、二挺の駕籠がそのまま置かれて、中にいま山国兵部がいった敵の人質が二人はいっておりました。私たちは、その人質の世話と護衛を命じられていたのでありました。
ここで武田軍筑波勢が合流したということもあって、これから先の進軍にそなえて新しい部隊編制が行なわれました。
総大将 武田耕雲斎
補佐 武田彦右衛門
大軍師 山国兵部
本陣  田丸稲之衛門
補翼 藤田小四郎
竹内百太郎
竜勇隊隊長 畑弥平
虎勇隊隊長 三橋金六
天勇隊隊長 須藤敬之進
義勇隊隊長 朝倉弾正
正武隊隊長 井田|因幡《いなば》
奇兵隊隊長 武田魁介
それから、軍規も定められました。
軍令状
一、無罪の人民をみだりに手負わせ殺害いたし候事。
一、民家へ立ち入り財産を掠《かす》め候事。
一、婦女子をみだりに近づけ候事。
一、田畑作物を荒し候事。
一、将長の令を待たず自己不法の挙動をいたし候事。
右制禁の条々、相犯すにおいては断頭に行なうもの也《なり》。
「軍律違反の者は斬れ。容赦なく斬ってしまえ!」
と、藤田小四郎は各部隊長に命じました。これは田中愿蔵による天狗党の悪名によほど懲《こ》りたせいもあったでしょうが、まさに秋霜烈日の印象があって、見ていた私たちも粛然としたほどでありました。
しかし、同時にそれは武者ぶるいでもありました。いま私は、京へゆくよりほかはなかった、と申しましたが、むろん主観的には、希望とよろこびのみがあったのです。京都には、いままで私たちが戦って来た意味の源泉たる天皇がおわし、この敗走を一挙に逆転させる魔法の力がある、と信じました。そこへゆく懸軍万里の道は、まぶしいまでの栄光の道に感じられました。
「京まで何里あるのですか?」
丑之助がそっと尋ねました。
「わからん」
と、私は首をふりました。
「何百里あってもゆくんだ」
「また帰って来れるのでしょうか?」
心細げな丑之助の声に、私は腹をたてました。
「そんな心配をするなら、お前ここから帰れ」
「お前、おふくろが気になるんだな」
と、金次郎が顔をのぞきこみました。丑之助は頬《ほお》を真っ赤にしましたが、私のほうをにらみつけました。
「ぼくは帰りませんよ、ぼくはみんなといっしょにどこまでもゆきます」
「丑之助、われわれは帰って来るよ」
金次郎は、やさしく、また元気よくいいました。
「必ず帰って来る。そして、きっと奸党の連中をたたきつぶしてやる」
しかし、そのあとで金次郎はちらっと二挺の駕籠のほうをふり返り、声をひそめて申しました。
「源五郎。……京都まで、あれも連れてゆくんだろうか?」
「さあ?」
私も吐胸《とむね》をつかれました。
上洛する、ということもその日はじめてきまったことだから、人質を京都へ連れてゆくなどということは考えてみたこともなかった。
まぶしいまでの栄光の道、といっても、それが物見遊山《ものみゆさん》の旅ではあり得ないことは、私といえども承知しておりました。その行軍にあの女性二人を従わせるということは少しひどい、と思いました。しかし、さればとてそれをここに捨ててゆくというのは――人質を放棄するという不利はさておいて――なぜか、たえがたいさびしさを私は感じたのでござります。
物見遊山の旅ではない、ということは、すぐその翌日に思い知らされました。
ようやく態勢を整えたと見えて、幕軍と奸党軍が本格的に追撃して来たのであります。
この追撃隊が、直接大子に攻め寄せないで、まず東側にある月折《つきおれ》峠に向かったのはどういうつもりか。思うに敵は、われわれがこれから遠く京都をめざして西進するとは思いもよらず、われわれが二十五日以来大子から動かないのを見て、ここで最後の抵抗をやるものと判断して、そのために附近で一番要衝となる――かつては城まであった月折峠を占拠しようと考えたに相違ありませぬ。
その指揮を市川三左衛門みずからがとっている――と、斥候から聞くやいなや、藤田小四郎は猛然と攻撃を命じました。いちど「ふむ、そんな見当ちがいの敵はほうっておけ」といい捨てた老軍師山国兵部も、「いや、何にしてもいまここで、一たたきしておかねば、これから先の西進にもさしつかえが生じましょう」という小四郎の言葉に「なるほど、そういうこともあるな」と、うなずきました。
天狗党が上洛を志向してから最初の戦闘が開始されました。
その結果はというと、案に相違してあまりかんばしいものではなかった。
すでに月折峠を占領していた市川勢の、上から撃ち下ろす乱射の前に、味方は三人の戦死者と、竜勇隊隊長畑弥平、義勇隊隊長朝倉弾正以下十数人の負傷者を出して、また大子村に撤退するのやむなきに至ったからであります。天狗党は、市川部隊の相変わらずの強さをまた思い知らされたわけでござります。
「ええわ、ええわ、これ以上あれにとり合えば、ばくちで小金《こがね》をとられて、のぼせあがって家屋敷とられるのと同然になるわい。捨ておけ、捨ておけ」
山国兵部老は平気な顔で制止しました。
ただし、敵も天狗党のこの反撃ぶりに、ただ意気|銷沈《しようちん》した敗軍ではないぞという意外感をおぼえたらしく、その日はもとより翌二十八日も大子村に近づいて来なかった。
その間にわれわれは一息いれ、負傷者の治療をするとともに、西上の支度にとりかかりました。
二十九日、敵はやっと押しかけて来たが、こちらから大砲を撃ったら、たちまちひっ込みました。
「小四郎、あの反撃はやはり効いたらしい。敵はへっぴり腰じゃよ」
と、兵部は笑いました。
そして天狗党はその翌朝未明、上洛の行軍を踏み出したのでござります。未明も未明、時に元治元年十月三十日午前二時でありました。
月はありませんでしたが、満天に星はありました。晩秋というより、もはや凍りつくような初冬の山国の星でござりました。
その下を、ものものしい大軍が巨大な爬虫《はちゆう》類のように動き出したのであります。
この大行軍に参加した天狗党の人数が、のちに千人余ともいわれ、八百余人ともいわれて一定しておりませぬが、実のところ私にも正確には申しかねるのです。というのは、途中で加わった者あり、脱落した者あり、かつこのうち士分や郷士などの身分の者は四百人未満で、あとは百姓や人足、それに浪人や少年、甚しきはやくざと呼ばれている連中までがいりまじっていて、員数のうちにいれていない者も少なくなかったからであります。しかし、大子|出立《しゆつたつ》時、まず千人余ということはまちがいござりませぬ。
千人を大軍というべきかどうかはわかりませぬが、戦場でない地域にあっては、やはりこれは大武装集団といってさしつかえありますまい。
なにしろ何百挺という鉄砲のほかに、十二門の大砲さえひきずっているのですから。――もっとも、このときは、湊から脱出して来たときと同様、砲身、車輪と、分解して人足に運ばせたのですが――それに、百五十頭ばかりの馬もいる。その他、軍装をいれた葛籠《つづら》、長持《ながもち》、それにむろん弾薬箱、兵粮《ひようろう》――輜重《しちよう》兵としても、六百人くらいの百姓や人足が要《い》るわけです。湊から、敵の攻撃以前に脱出したからこそ運び出せた兵器や品々でありました。
そして、星影と松明《たいまつ》に、十数流の旗がはためく。
それには、「尊皇攘夷」とか「奉勅」とか、「従二位大納言御霊」とか、「百花の魁《さきがけ》」とか大書してあります。従二位大納言とは、故斉昭公のことでござります。
侍たちは、陣笠をかぶるか、鉢金《はちがね》をつけた鉢巻をしめるか、それに陣羽織、どんすの袴《はかま》に朱鞘《しゆざや》の大小という姿でした。
午前二時という時刻とはいえ、この人馬の騒音が風に伝わらぬはずはない。だいいち、無数の松明が味方の手に手に燃えていたのです。
しかし、それでもなおかつ意表を突かれたと見えて、敵は黙って見送るよりほかなかった。
少なくとも、そのときは私たちも敵の裏をかいたと考えておりました。敵が拱手《きようしゆ》傍観していた理由は、必ずしもそれだけではなかった、ということはのちになって判明しましたが。――
私たちも、まったく隠密裡《おんみつり》に行動できるとは期待しておりませんでした。
ただ、夜の明けぬうちに下野《しもつけ》へ逃れようとは思っていた。
他領の下野へ出れば、敵の中、特に市川勢など何かとやりにくくなるだろうと見たからであります。
しかし、その期待とて、べつに敵と戦うのを怖れてのことではなく、いまやわれわれの至高の目的は上洛の一事にあったからでござります。
京へ! 京へ!
これは敗走ではない。進軍である。京都という目標は、行軍の性質を、魔術のように一変させたのであります。
私はその光景を見つつ、その昔上洛を志向した武田信玄の軍勢を思い浮かべておりました。実はわが武田家も、遠くは信玄の一族の末裔《まつえい》なのでござります。
げんに、ひるがえる旗の中の、「奉勅」とか「従二位大納言御霊」という文字は、天狗党が賊軍ではない、ということの証《あか》しであります。「百花の魁」という言葉に至っては、攘夷の先駆者である、という歴史的な自負の宣言でござります。
ここで、まったくの贅言《ぜいげん》かもしれませぬが、改めて一応、当時水戸人をとらえた攘夷という思想について申し述べておきたいことがござります。
わずか数年後、狐憑《きつねつ》きが落ちたように攘夷は開国にとって代わられ、その歴史的結果としてわれわれはここに存在しているのですから、今からするとあの攘夷思想は、まるでわけのわからない狂気の熱風のように思われます。
しかし当時は、水戸のみならず日本じゅうを吹きゆるがせた熱風に相違なかった。
異物排除の反応は、個人ばかりでなく国家にもある。かつ日本ばかりでなくどこの国にもあることで、国家というものを形成する以上、当然どころか、ある程度必要な反応ではないか、と私はいまでも考えているものでありますが、まして当時の欧米列強の傍若無人ぶりでは、いまにも日本は侵されるのではないかと、日本人が恐怖し、猛|反撥《はんぱつ》したのも決して異常反応ではござりませなんだ。
げんにイギリスが阿片《あへん》戦争やアロー号事件で支那を打ちのめし、フランスがインドシナに手をかけるのをまざまざと見たのみならず、日本もロシアに千島《ちしま》、対馬《つしま》を侵され、アメリカのペルリには「いうことを聞かないなら、白旗を渡しておくからよく考えろ」と恫喝《どうかつ》された。日本人に攘夷反応が起こったのは当然といえます。
事実としてこれらの国々があれ以上日本に手を出さなかったのは、あちらにそれぞれ別に不都合な事情が生じた歴史的偶然のおかげでありますが、また日本の激烈な反応ぶりに、これはほかのアジアの国とはちがうぞ、と、いささかひるんだせいも大いにあるだろうと思う。
一方で、これはいまだからこそ理解できるのですが、傲慢《ごうまん》無礼な列強に対して、幕府もよく隠忍した。その幕府の隠忍と国民の反撥が、たくまざるつり合いを保って、あの当時の危機をのがれる千番に一番のきわどい芸当を演じさせたのです。
幕府だって、実は開国などやりたくはなかった。それは、それまでの体制を崩す決潰《けつかい》の口になると自覚していたからです。それをあえて民意にさからってまでも開国の方針をとったのは、ただ一つ、戦争をしても勝つ見込みがない、という判断によるものでござります。
しかし、開国後の崩壊を待たず、これは、いわゆる志士たちを、攘夷するためには倒幕のほかはない、という考えに追いやった。例の田中愿蔵などはその例でござりました。もっとも薩長の策士たちも、途中で攘夷は不可能だ、ということに気がつきました。しかし彼らは、逆に倒幕のためになお攘夷をふりかざす、という反間苦肉の戦法をとり、ついにその目的を達したのであります。その目的を達したあと、薩長政府は口をぬぐって、ケロリとして開国開化に踏み切ったのはご存知のとおりでござります。
さて、私がかような話を持ち出したのは、私たち天狗党は、ただ攘夷のための攘夷という思想にとり憑《つ》かれた単純人間だった、ということを痛感するからでござります。それだけに純粋にはちがいない。――同時に狂信集団にも相違なかった。
きのう私は、水戸人は骨肉相争ったあげく、明治新政の廟堂《びようどう》につらなる者は一人もないありさまになったと歎き、しかし水戸人に偏狭狂激の性があってそうなったのではない、と弁解いたしましたが、いま考えますと、もし安政《あんせい》ごろからの天狗党派の英才俊傑がある程度生き残っていたとして、果たして薩長の指導者のごとく、それまでの呼号をケロリとして変改できる人間があったかどうか、というと、これには首をかしげざるを得ないのです。そう考えると、水戸人にはやはり偏狭な個性があるのじゃないか、と認めざるを得ないのであります。
これは、いまになっての意見であります。
そのころは、むろん私は狂信の火の子でござりました。
さきほど、深夜の出発の意味について何かと述べましたが、実はそのとき十五歳の私が、そんなことまで頭をめぐらしたわけではない。
京へ! 京へ!
真っ向から顔を打つ夜の山風にも、わらじを通す冷たい土の感触にも、まるで若い獣のような快感をおぼえつつ歩き出したのでござります。
京まで何里あるか、と丑之助に訊《き》かれて、わからない、と私は首をふりましたが、私どころか、総大将の耕雲斎にも軍師の山国兵部にもわからなかったでしょう。どこをどう通ってゆくか、出立時にはかいもく不明だったからでござります。
……後年私は、それが、那珂湊からこの越前敦賀《えちぜんつるが》まで、勘定すれば二百余里であったことを知りました。これはただ地図上の距離の計算であります。その大部分は山道でした。途中まで進んで道を失い、ひき返したこともたびたびありましたから、それらを合算するとどれほどになるか、見当もつきませぬ。それをわれわれは、五十日間歩きつづけたのでござります。
歩く。
歩く。
ひたすらに歩く。
この間、いくどか戦闘をやりました。雪の中に凍えつつ野営をしたこともありました。いろいろなことがございました。
が、三十余年後のいまも、ときに夢にうなされるのは、敦賀の血の海と、それからこの、ただ歩きに歩いたという記憶だけである、と申しても過言ではござりませぬ。
しかし、この二百余里、歩きに歩いたという体験は、いくらひとさまに話してもどうにもなりませぬ。話す言葉もござりませぬし、面白くもありますまい。そこで、これから、その「大行軍」の中の物語をすることにいたしましょう。
それも五十日間の一日一日の行程における事どもを詳細に述べたところでご退屈と思いますから、それは概略といたしまして、特に記憶に残ったいくつかの事件、またのちに知って私が興味をおぼえたいくつかの物語を、思い出すままにお話しいたしたいと存じまする。
(作者いう。――昭和五十一年六月、作者は天狗党行軍のコースを辿《たど》ってみた。極力そのコースを同じくすべく努めたのだが、実際問題として車を利用せざるを得ないので、車で通行不可能な道はあきらめるよりほかはなかった。
車のメーターは最終的に九百キロを超えた。そしてまた天狗党は、車はおろか現在では人間も通行不可能な道を踏破したことを知った。しかも彼らは、厳寒の季節に進軍していったのである。
私は、後年のいかなる天狗党長征の研究家も、そのコースを完全に再踏査した人は一人もあるはずがない、ということを確信することができた。
六月、車で走ってすら、大山岳の上や大峡谷の中で、私は立ちきわまって歎声をあげることしばしばであった。
この踏査を了《お》えて、私は人にいった。
「体験しない人間には、話してもダメだ」
期せずして私は、武田猛氏と同じ歎声を口にしたのである)
大子《だいご》から下野《しもつけ》へ向かうのに、真西へ走る街道を通れば三、四里ですが、大子滞在の間にそちらの百姓が騒いでいるという知らせがはいっておりましたので、北西への道をとりました。これは八溝《やみぞ》山地を越える道の中でもとりわけ嶮しい山中の道で、天までそびえる杉林の中の、一列の人間しか通れない道でござります。
しかも、その山道でさえ、もう到るところ木を倒してふさいであった。――百姓のしわざです。例の田中愿蔵が処刑されたのは、その近くの塙《はなわ》という土地で、そのことは当時私たちはまだ知りませんでしたが、おかげであたりの百姓は天狗党という名を魔物のように恐怖していたのです。
この倒木をとり除きとり除き進むので、われわれは夜のうちに下野へ出ることができなかった。それどころか、夜があけて昼ごろになっても、まだその八溝山中で苦闘しているありさまでござりました。
夜の底に千人が一列の縦隊を作って、蛇のようにのたうちまわって進む。そのまんなかあたりにいわゆる「本陣」が位置していたのですが、その中に例の二挺の駕籠がある。金次郎と私と丑之助は、その前後にくっついていました。
「下ろしてください。みんなこんな苦労してるのに、こんなものに乗ってはいられない」
途中、駕籠の一つから、たまりかねたような声が流れ出しました。
「逃げやしませんよ。こんなところで逃げられるもんですか。下ろしてください」
あの、田沼総督の愛妾のおゆんでした。
「あっ、待ってくれ!」
私はあわてて金次郎を見ましたが、金次郎は当惑した顔です。実際、この難所で駕籠の中に閉じ込められているのは、歩いているより大変でしょう。
しかし、山国兵部や藤田小四郎たち幹部連からかたく命じられていることがあるので、ともかく私は前方の小四郎のところへ走りました。
私たちへの命令とは、こういうものでした。
二人の女を、追手にさらわれてはならない。
味方のだれかに、殺傷させてはならない。
前の事項は当然ですが、あとの命令はちょっと説明を要します。一人は田沼総督の妾、もう一人は市川三左衛門の娘なので、行軍の参加者の中には、この両元凶に対して、肉をすすり骨をくだいてもあきたりぬほど怒りと恨みをいだいている者がある。いる者があるどころか、全部が全部そうだったでしょう。で、その中のはげしいやつに、人質に危害を加えられたりすると、人質というせっかくの切り札をみずから失うことになります。その危険は、敵以上にあった。
ですから、味方でも幹部連以外には、彼女たちの正体はかくすことにしました。
これは、この行軍が始まってからのことではない。
約一ト月前、私たちが二人の女を館山の陣へ連れていったときからの山国兵部の意見でそうしたのですが、脱出以来、その責任は私たち三人にゆだねられたのです。
「身のまわりの世話もかねる必要があるから」
大子の村でそういい出したのは、藤田小四郎でした。
「その護衛は、あの三人の少年にまかせてはどうだろう?」
それは湊で丑之助がやっており、大子までは、自発的に私と金次郎も協力していたことです。
――みな、賛成しました。
で、それ以後の話になりますが、道中宿泊するときは駕籠のまま「本陣」にいれ、歩いているときは、その正体を知っても大丈夫なめんめんのみで前後をつつむ、という形で進みました。
それでも、五十日間もいっしょに旅すれば、そのうちみんな正体を知ってしまったろう、と思われるでしょうが、実にふしぎなことにこの秘密が、最後まで保たれたのでござります。
……天狗党の上洛については、すでにいくつかの著書があります。諸君の中には、お読みになったかたもおありでしょうが、そのどれもが、天狗行列には数挺のおんな駕籠がまじっていたことを記しております。天狗党の隊員の告白ではなく、沿道の目撃者の報告としてです。ところが、その正体については何も書いてない。
――いえ、書いたものもあります。それが実に途方もない推察で、あれは大納言|御簾中《ごれんちゆう》貞芳院さまとその侍女ではなかったか、など書いてある。つまり、故斉昭公未亡人のことであります。
(作者いう。ずっと後年の昭和初年代の作品だが、藤村の「夜明け前」にもそのような記述がある)
貞芳院さまはずっと水戸城に、市川一派のために閉じこめられておいでなされて、われわれ天狗党がお助け出ししたくても、そんなことは出来なかったし、また元は有栖川宮家《ありすがわのみやけ》の姫君という尊いお方を、この艱難《かんなん》の旅にご同行願うわけがありませぬ。それに貞芳院さまなら、たしかこの年六十歳前後のお方でござります。
このまちがいは、次のようなことから発したのです。愉快な老軍師山国兵部が、冗談か本気か、「おんな駕籠を疑うやつがあったら、大納言さま御簾中だといっておけ」といったので、それを真《ま》に受けて、関係者以外はあえて近づこうとする者もなかった。また人質の二人も、余人の眼にふれるときは、必ずお高祖頭巾に面《おもて》をつつんでいたからでござります。
……さて、私は藤田小四郎のところへ飛んでいって、おゆんの要求を告げました。兵士にまじって泥《どろ》だらけの材木をかかえていた小四郎は、その姿勢でしばらくうしろをふり返っておりましたが、
「いや、この道では駕籠に乗っているのもらくじゃない。といって、歩くのも大変だ。だれか負ぶっていってやれ」
と、うなずきました。
「藤田さん」
と、私はいいました。
「藤田さんがいって、負ぶってあげたらどうです?」
「馬鹿っ」
小四郎は怒鳴りつけました。
私は、からかったわけではない。田中愿蔵が、以前、小四郎にあの女をわざわざお土産だといって連れてきたくらいだから、そのほうがいいだろうと思っていってみただけです。
その小四郎が、那珂湊以来、一人ではほとんどおゆんに近づかない。
あれほど勇ましい人が、何だかあの女をこわがっているように見えるのが、私にはふしぎ千万でしたが。――
私は大まじめにいったのですが、一喝《いつかつ》されて、驚いてもとの場所へ戻りました。
すると、もうおゆんを背負って歩いている者があるのです。全海入道でした。
「これは、らくちんよ!」
と、おゆんは笑っておりました。
「ねえ、静《しずか》を背負ってゆく弁慶のお芝居はなかったかしら?」
「安宅《あたか》の関でも木曾《きそ》の関でも、京まで負ぶっていってやるぞ! わははははは!」
と、全海入道は、軽々と歩いておりました。
その少しうしろに、これも駕籠から出たお登世がこわごわと歩き、そばを武田金次郎が心配そうについて歩いている姿が見えました。
数間いって、金次郎はうしろからついて来る侍たちを眺め、
「えい、そんな足つきで歩かれちゃ邪魔っけだ。さあ!」
といって、お登世の前に出てしゃがみこみ、背を向けました。
お登世はちょっとためらいましたが、実際うしろにつづく長蛇の列が滞っているのを見ると、気をとり直して金次郎におぶさりました。うしろから、笑いのどよめきがあがりました。
二人の女はむろんお高祖頭巾をつけたままです。それでも、どういうものか、黒い杉林を背景に、飛び散る松明の火の粉の中に、まるで花が二つ咲いたように見えたのであります。
数町いったときでした。
「おうい。……もう、代わってくれえ」
全海入道がさけび出しました。
「あら、どうしたの?」
と、おゆんが訊きます。
「重いの?」
「重くはない。どうもせんが……とにかく、だれか代わってくれえ!」
悲鳴のような声でした。ほんのいましがた、京まで負ぶっていってやるといった豪傑が、です。
別の侍がかつぎました。――すると、これがしばらくゆくと、またもや、
「おういっ、だれか交替を頼む。――」
と、悲鳴をあげ出す。この騒ぎが、数町おきにくり返されました。
何がどうしたのか、わからない。とにかく、かついでいるうちに、みんな変になってしまうらしい。
一方のお登世のほうの金次郎は、黙って一人で背負いつづけて歩いていました。前に申したように金次郎は、私より二つ年上の十七歳ですが、どちらかといえばスラリとして痩せがたの少年です。
それが、これこそまるで京へでも一人でかつぎつづけてゆくのじゃないか、と思われるばかりでありました。
その日、われわれは何とか下野《しもつけ》に出て、川上《かわかみ》村という村にはいりましたが、村は小さく、また村民逃亡して宿泊しがたいので、道案内の男一人つかまえてなお進みましたが、この道案内も途中で姿をくらまして、山中に迷い、またもとの川上村にひき返して、半野営したのが、午後十時ごろであります。つまりわれわれは大子からの行軍第一日は、二十時間歩きつづけたわけでござります。
そのころはむろん旧暦ですから、あくれば十一月一日です。
川上村を出立して西へ進みますと、山中より大砲や鉄砲を撃ちかけられ、味方は一人戦死、二人負傷しました。
われわれが猛然と応戦すると敵は退却しましたが、これはこの一帯の領主|黒羽《くろばね》藩の侍二百人でした。
天狗党は進んで奥州《おうしゆう》街道へぶつかり、そこの川原という村に泊まりました。
二日。
この日、耕雲斎は、近くの名主《なぬし》に託して改めて黒羽藩に、天狗党がこの地に入《い》らざるを得なくなった経過を述べた一書を送りました。
黒羽藩から返書がありました。幕命あり黒羽城下を通過されては困る。どうか黒羽を避けていってもらいたいと。
そこでわれわれは険阻な北方を迂回《うかい》することにしました。途中の芦野《あしの》の陣屋では、奉行が酒代として三百両を贈って来ました。むろんわれわれの志に共鳴したわけではない、ただ何もせず通過してくれという、いわば首代でござります。このあたりには八州《はつしゆう》取締役が出張していたようですが、天狗党至ると聞いてどこかへ逐電してしまったそうでござります。
「強盗はしないが、軍用金の献上は受ける」と、田丸稲之衛門は笑いました。事実また千人をひきいて京へ上るなどいう軍資金は用意してなかったのです。
三日の夜には、太田原《おおたわら》藩の家老二人が、われわれの宿営している越堀《こえぼり》の宿場をひそかに訪れて、「わが藩は小藩で、とうてい諸君らには当たり得ない。しかしながら太田原城下にはいられるとあれば、全滅を賭《と》しても抵抗するほかはない。願わくば、こちらで案内をつけるから間道を通っていただけないか」と、必死の顔色で切願いたしました。
われわれとしても、無用の血は流したくない。
われわれは太田原への道を避けて北上し、高久《たかく》を廻って西へ進みました。この一帯は広漠《こうばく》たる那須《なす》原野でござります。
この二百余里の旅は、どこをとっても吹きなびく枯れ草と、飛び散る枯れ葉を背景としていたような気がいたしますが、なかでもこの那須野《なすの》ガ原《はら》の、雲の低く垂れた、黄と褐色《かつしよく》の蕭《しよう》 条《じよう》たる大曠原《だいこうげん》を、幾十本かの旗をひるがえし、人馬黙々と動く天狗党の光景は、名状しがたい悲壮美にみちた絵として、いまでも網膜に強く残っております。
実際に、五日、高久の宿駅を出たわれわれは、この人煙を絶する原野の中で、昼飯はおろか晩飯もとるによしなく、夜にはいってふりはじめた冷雨の中を、那須原野の西はずれの矢板の宿《しゆく》に到着したのは、その翌朝の午前四時という時刻でござりました。
しかも、雨ますますはげしく、ゆくての鬼怒川《きぬがわ》が氾濫《はんらん》するおそれがあるというので、そこも暫時休憩しただけで出立し、雨中難渋しつつ鬼怒川を渡って、やっと小林村という村にたどりつく強行軍でござりました。
われわれは、客観的には、風の音にも追われる「賊軍」の行進でありました。しかし、ゆくての宿場宿場はもとより、諸藩にとっても、いままでの反応を見てもわかるように、地平の果てから大地をとどろかせて近づいて来る魔群だったようでござります。
事実、われわれは刃向かう者には仮借《かしやく》なく戦闘を展開しましたし、無辜《むこ》の人民を殺傷したり、民家の財産を掠奪《りやくだつ》することをかたく禁じる一方で、やはりそれに近いことをやった連中もあった。また、やらざるを得なかった。この小林村でも、鬼怒川の漁師が逃げるときほうり出していった沢山の投網《とあみ》から、鉛の錘《おもり》をみんな切り取って手にいれました。これからの弾丸に使用する目的からでござります。
こういう不眠不休の行軍をつづけながら、私はどこか浮き浮きしておりました。十五歳の足の軽さもさることながら、心もなぜか華やいでおりました。
いまにして思うと、甚だお恥ずかしい次第でござりまするが、それはどうやら同行している二人の女性のせいであったらしい。
むろん、その年齢ですから、はっきり意識してはおりません。しかし私はたださえ厳格な家に育てられたせいもあって、そんな若い女性と身近に暮らしたことはまだ経験がありませんでした。
身近も身近、この苦しい旅に耐えつづける二人の女性の姿、表情、吐息まで、昼夜間断なくといっていいほどまざまざと見つづける羽目になったのでござります。
実は、おゆんのほうは、私には少々|怖《こわ》かった。完全に成熟した女性なので、当時の私に少年らしい怖れを与えた一面もありますが、そればかりではなくて、この田沼総督の愛妾がもともとひとすじ縄ではゆかない女性であったことを、私たちはのちに思い知らされることになります。
このおゆんが、人質とは思えないほど笑い、ふざけ、傍若無人なのにくらべて、市川の娘お登世のほうは、気の毒なくらいおとなしくしていました。
美しい顔は梨《なし》の花のように蒼白《あおじろ》く、ほとんど笑ったことがないのです。身体もあまり丈夫ではないようでした。
この娘のひきずり込まれた運命を思えば当然であり、私はだんだん、自分たちがその運命にひきずり込んだことに、罪の意識を持ちはじめました。
「いったい、あの二人の女はこれからどうなるんだろう?」
と、私は、二人に聞こえない距離で、歩きながら金次郎に訊きました。
「さあ?」
こんどは金次郎が首をふりました。
「おれたちだって、どうなるかわからないんだから。……」
「あの市川の娘のほうだけでも逃がしてやったらどうだろう? あのひとの身体は、このままじゃ保《も》たないぜ。……」
「逃がすことができるかな?」
金次郎は真剣な眼で私を見ました。
「たとえこんなところで逃がしても、女の足で水戸へは帰れないだろう。……」
「いや、追手がうしろに来てるから。――」
と、私はふり返りました。
実は大子出発以来、はるかうしろを――二十里も後方を、幕軍だか市川軍だかが追尾して来ているらしい、ということは、そのころ判明しておりました。
この追跡軍のことについては、またあとで申し述べたいと存じます。
「あれに逃げ込めば助かるじゃないか」
「しかし、あれを牽制《けんせい》するための人質なんだが。……」
二人がまるで裏切者の密談のようにヒソヒソ話しておりますと、横から丑之助がオズオズと問いかけました。
「……ぼくは、わるいことをしたのでしょうか?」
私たちはわれに返りました。丑之助がこんな言葉を発したのは、あの人質をさらった直後とこれで二度目です。
金次郎は、またあわてて申しました。
「いや、お前は気にすることはない。大事な人質だ。あの人質を、命令どおり、敵からも味方からも護って、無事京都へ辿《たど》りつけばいいんだ」
十七歳と十五歳の私たちは、その人質についての考えが、感情的に混乱し、論理的に矛盾し、しかも一日一日、一刻一刻ごとに潮騒《しおさい》のように動揺していたのであります。
その心や頭の混乱矛盾が傷口となってひらくような怖ろしい事件が、相ついで起こりました。
一つめの事件は、小林村から、徳次郎村、大谷村と過ぎて鹿沼《かぬま》に到着した、たしか十一月七日の夜のことでござります。
宿営した夜は、人質を休ませる座敷の隣室に私たちがいて、小さい丑之助は別として、私と金次郎が大体午前二時か三時を境に交替で警戒にあたります。むろん双方とも眠らずにはいられないのですが、一方はわらじをはき、刀をそばにひきつけて、まあ仮眠といった姿をとるのです。
その夜は、その時刻まで金次郎が、その番に当たっておりました。
とにかく物凄《ものすご》い強行軍だから、寝ることを許されたとなったら死人のように眠りこけ、突然、どこかでただならぬ声が聞こえたような気がしてから、数分たって、私はがばとはね起きました。
そして、声のする方角を探して、宿とした家の庭に、武田金次郎と、隊士の田中平八という男が、一つの影を地べたにひきすえて立っているのを見いだしたのです。寒月に照らされたその姿は、もう七十に近い老人でありました。
「市川の家来という以上、処刑はしかたあるめえな」
と、田中平八はいいました。蒼い月光の中に、金次郎は凍りついたように棒立ちになっておりました。
「いや、おいらが斬る。……田丸さんのほうにはあとであっしが報告しておきやしょう」
そして田中は白刃を抜いて、その老人を斬首したのであります。
この男は、水戸の侍ではありません。筑波義軍に馳《は》せ参じた浪人の一人で、だから私たちは那珂湊脱出以後しか知らない顔といっていいのですが、それでも異様な言葉づかいに注意をひかれておりました。
聞くと、その前は横浜で商売していたこともあるとかいう妙な男で、どこか人を食った人物でした。父たちも首をひねっておりましたが、闊達《かつたつ》な小四郎は「あれは侍たちより度胸のある、役に立つ男です」と、かばっていたようでした。ですからこの田中平八も、人質の正体を知らされている一人だったのです。
「考えがあるから、屍骸《しがい》はこのままにしておきな」
といって、田中平八は刀を朱鞘におさめて悠々《ゆうゆう》と立ち去りました。
夜気を通して、その唄声が遠ざかってゆきました。
「水戸の天狗に刃向かう奴《やつ》は
出らば出て見ろ
ぶッ殺す」
流血には馴れた私も、いまの光景はあまりに無惨であったという印象に打たれ、裏口に立ちすくんでおりました。金次郎がやって来ました。私は訊ねました。
「あの爺いは、どうしたんだ?」
「この家に来たとき、家人はみんな逃げていて、あの爺さんだけがウロウロしていたのをつかまえて飯炊きに使った――その爺いだ」
「それが、市川三左衛門の家来だって?」
「この村の者と思っていた。ところが、水戸から来て、先廻りしてここに待っていたというんだ」
「えっ、あんな爺さんが?」
「うん、夜も眠らずに歩きつづけて来たそうだが。――」
――さっき、その老人が握り飯を山盛りにした盆《ぼん》とお茶を持ってやって来た。
刀を抱き壁にもたれて仮眠していた金次郎が眼をあけたのを見ると、老人は、半分を奥のおんな衆に持っていってあげてもいいか、と訊いた。
馬鹿に親切な爺いだとは感じたが、この家の下男か何かだと思って金次郎は、よかろう、といった。
老人は奥へはいっていった。
――と、数分後、女と老人の泣く声がしたので、はっとして自分もはいって見ると、老人はお登世を抱きしめて泣いていた。そして、金次郎をふり返ると、たたみに這《は》いつくばって訴えた。
彼は――金次郎は知らなかったが――市川家に昔から仕えている下男であった。その妻はお登世の乳母を勤めたが、彼自身もお登世を自分の子供より可愛がった。それでこんどお登世が天狗党にさらわれ、こちらに連れて来られたと知るやいなや、妻と相談のうえ、いのちをかけて奪い返しにやって来た、という。
老人は、皺《しわ》だらけの頬に涙を流し、はらわたをしぼるような声で哀願した。
三左衛門さまと天狗党の間に何があろうと、十七のお登世さまに何の罪のあろうはずがない。どうかここから釈《と》き放してあげてください。――「しかし、何の罪もない天狗党の家族は市川のために牢に投げ込まれているのだぞ」と、金次郎はいった。
それについては、私がこの身にかえて三左衛門さまに釈放をお願いする。
それどころか、お登世さまを返してくだされば、それだけで三左衛門さまはそうなさるだろう、と老人はいった。
その保証はあてにならないが、金次郎は心を動かされました。
もともとお登世に関するかぎり罪の意識があったのです。
そこへ――いや、爺さんの言葉より、爺さんの必死の声、表情、態度にゆり動かされました。
で、ふと、すがりつくように眼をおゆんのほうに投げると、夜具の上に坐っていたおゆんが、しずかに首を横にふった。そして、笑いをふくんだひくい声でいった。
「人質を逃すと、天狗党の最後ですよ。それを承知のうえでなら、どうぞ」
金次郎は水を浴びせられたような思いになりました。
そのときに、庭の向こうで跫音《あしおと》と詩吟の声が聞こえたのです。
おゆんが申しました。
「あれは見張りの方でしょう。どうなさる?」
それはまさしく、宿営中哨戒を命じられている者の声に相違ありませんでした。巡邏《じゆんら》中、哨兵はたえず詩吟を口ずさみ、かつ夜ごとにその詩を変えて、忍び寄って来るかもしれない敵と見わける手だてとする、というのが、山国老軍師の馬鹿に芸のこまかい兵法でございました。
金次郎は、あやつり人形みたいに立ちあがりました。
異常事があれば、ただちに当番兵に報告しなければならない。ということはむろんであり、ましてや市川三左衛門の家来が潜入しているとあれば、いよいよそうしなければならないことは申すまでもありません。
こうして、その老人は庭にひきずり出され、私が目撃したように処刑されたのでござります。
ともあれ、怨敵市川三左衛門の手の者が、こういうかたちにしろ天狗党内部にはいり込んで人質の奪還を計った、ということは、覚悟していたとはいえ、「本陣」にとって、やはり驚くべきことであったのでしょう。その翌朝出立時、鹿沼《かぬま》の宿《しゆく》の辻《つじ》に、その老人の首といっしょに、
「此者《このもの》、奸魁《かんかい》市川三左衛門の密偵として義軍本陣に入り込みたるを以て天誅《てんちゆう》を加え、みせしめのため梟首《きようしゆ》せしむるもの也」
という立て札を置いてゆきました。田中平八が屍体をそのままにしておけといったのは、そのときから彼も同じ考えを持っていたと見えます。
しかし、あの老人は、どう考えても主人の娘のために忠義を尽くそうとしていたのです。私の心は、かぎりなく重うござりました。金次郎も、実にやり切れない、暗い顔をして歩いておりました。
九日には葛生《くずう》の宿《しゆく》に泊まったのでありますが、そのとき宿場役人があとで公儀に出した届け書なるものが残っております。二、三、間違いもござりまするが、天狗党の乗り込んで来たときの大体のようすが分かりますので、その写しをここに持参いたしましたから、一部を読んでごらんにいれましょう。
「……九日朝四半時(午前十一時)一隊は、旗指物まっさきに押し立て、行列正しく、馬上あるいは歩行立《かちだち》にて、陣羽織、鎖かたびら小袴《こばかま》など着用にて、鉄砲または手槍《てやり》をたずさえおり、大砲は一挺ずつ車に乗せ、都合八、九挺|曳《ひ》かせ、総人数八百七十五人、乗馬ならびに小|荷駄《にだ》、都合百五十頭、右人数のうち怪我人と相見え候者三十人ほど馬ならびに駕籠に乗り、また面体《めんてい》は頭巾を以てつつみ候女、五、六人、駕籠に乗り到着いたし候。……」云々。
まさに、向こうから見れば、「水戸の天狗に刃向かう奴は、出らば出て見ろ、ぶッ殺す」威風あたりを払う大軍勢でありましたろう。
こうしてわれわれは下野《しもつけ》を、西方の山沿いに南下し、渡良瀬《わたらせ》川河畔の梁田《やなだ》に至ったのが、十日の夜でした。つまり私たちは、十日間かけて、野州を北東から西南へ、ななめに横断したのであります。
その夕方、二つめの事件が起こりました。
ここのところ行程としては、最初のうちにくらべて比較的余裕のあったせいでしょうか、夕方宿に着くと、おゆんが行水《ぎようずい》を使わせてくれまいかと申しました。で、幹部連へ相談したところ、もっともであるということになって、奥座敷の縁側の下に盥《たらい》を持ち出したのですが、何しろ今の暦で十二月十日前後のことです、べつに大釜《おおがま》に湯を沸かして、その湯と水を手桶《ておけ》で何度も運んでやることになりました。
丑之助はいいとして、金次郎と私は困りました。裸の女は困る。
そこで――この一行には、私と丑之助をふくめて当時十五歳以下の少年が十四人参加しておりましたが、そのうち筑波勢に属し、丑之助と仲のいい、鶴太という、やはり十二歳の少年にこの役目を頼むことにしました。
この年ごろは、二つ三つのちがいでも事柄によってはだいぶちがって来ることがある。金次郎と私は、二人の女が行水を使っている光景が見えない木戸の外で立ち番をしておりました。
そこへ薄井督太郎《うすいとくたろう》という隊士がやって来て、冗談をいいはじめました。この薄井という人は、もとは信州浪人ですが、筑波の義挙には藤田の府中紀州屋の謀議のころから参加して、藤田の信頼篤く、むろん人質の素性を知っている人でした。
「どうだ、おれに三助《さんすけ》をやらしてくれんか」
「いけません。ぜったい、だめです」
などとやっているところへ、庭のほうからたまぎるような悲鳴が聞こえました。
私たちは、われを忘れて駈け込んでいった。そして縁側の庭に置かれた盥《たらい》の中にお登世がしゃがみこみ、そばで刀をふりまわしている鶴太を、うしろから死にもの狂いに丑之助が抱きとめているのを見たのであります。
「市川の娘なら、ぼくのかたきだ!」
と、鶴太はさけんでおりました。
「ぼくの父上は、市川のために殺されたんだ!」
まるで気がちがったような声でした。お登世はむろん一糸まとわぬ裸でしたが、その雪のような肩から背にかけて血が流れ、盥の湯は真っ赤でござりました。
金次郎はまろぶように駈け寄って抱きあげたが、私は棒立ちになっていました。
鶴太はなお声をはりあげました。
「おういっ、市川の娘がここにおるぞ。みんな来い!」
「……いいんですか?」
と、縁側に立っていたおゆんが声をかけました。やはり金縛りになっていた薄井督太郎に、です。
はじかれたように薄井は歩き出し、
「丑之助、その手を離せ」
と、うめきました。
そして、私を離させて、つんのめるようになお刀をふるって盥のほうに駈け寄ろうとする鶴太は、薄井の朱鞘をほとばしり出た光の下に血けむりとなったのでござります。
「やむを得ん」
薄井督太郎は、さすがにしらちゃけたような顔色でつぶやきましたが、すぐに、
「高橋一楽を呼んで来い。あれは医者だったはずだ」
と、あごをしゃくりました。
高橋一楽はやはり隊士です。金次郎はころがるように飛んでゆきました。むろん、お登世のためでござります。
丑之助は、わあわあ泣いておりました。その口から何とか聞き出したところによると、厳命に従って彼は、人質の正体を、仲のいい鶴太にもいわなかった。ただ「とうとい身分の人だ」といっていたらしい。それで鶴太は、どうやら例の大納言さまの御簾中かそれに類する方《かた》と思っていたようです。それで、おそれいって近づかないものだから、たまりかねて丑之助が、「そんなに遠慮するな、あれは市川三左衛門の娘だよ」と、つい口外したというのでござります。
むろん、そのあとで説明をつけ加えるつもりでした。
ところが、鶴太の父親は元来天狗派でござりましたが、筑波の旗挙げのとき、病気で動けなかった。それを市川の手でつかまって赤沼の牢にいれられて、その夏獄死してしまいました。
そこで鶴太は、その母親を説得して、少年の身ながら那珂湊の藤田の陣に馳せ参じました。その小さな身体は、市川三左衛門への恨みにかたまっていたのだから、丑之助の白状に激発したのも無理はない。ほんとうに、無理はない。しかし、それを天狗党としては斬らなければならなかったのです。
すぐに高橋一楽先生がやって来ました。さいわいにお登世の傷は浅傷《あさで》でござりました。
しかし、真紅に染まった盥でうごめく白い裸と、そのそばにほとんど両断された小さい少年の身体と、その光景は、那珂湊の戦場などよりもっと無惨の印象で私たちの網膜に残ったのであります。
野州で私たちは、市川三左衛門の娘を、それぞれ別の意味ながら狙う二方面の手を、早くも経験したわけでござります。
十一月十一日、私たちは渡良瀬川を渡って、上州へ進入いたしました。
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気は圧す四囲十万の軍
十一月十一日、上州へはいったわれわれは、太田《おおた》の大光院金竜寺に本営をおき、翌十二日もとどまって、ここに宿泊しました。
大光院は、家康が徳川家の祖先であると称する新田義重を供養《くよう》するために建立《こんりゆう》したもので、開祖を呑《どん》 竜《りゆう》 上《しよう》 人《にん》といい、そのため関東一円に子育て呑竜といって信心する者が多い。こういう徳川に縁の深い寺へ、徳川にたてついた部隊がおしかけたのですが、坊主どもは逃げ去り、べつに何の抵抗もなかった。それどころか、ここは例幣使《れいへいし》街道の宿場町にも当たるのですが、名主総代の藤掛寅左衛門という者がわざわざ千両という金子《きんす》を献上にやって来たのみならず、数日前、宿場に廻されて来た田沼幕軍総督の通牒《つうちよう》を見せてくれました。
「賊徒武田伊賀、田丸稲之衛門を討ち取り、首級持参に及ぶにおいては、たとえお尋ね者たりともその罪を赦《ゆる》し、御褒美くだしおかれ条条、二心なく忠節をぬきんずべきもの也《なり》」
その幕軍は、われわれの二十里あとまで追っかけて来ているのでござります。しかし、それ以上は接近して来ないのでござります。
私たちが二日間とどまったのは、背後の追跡軍の動静をうかがうためと、それから前途について軍師山国兵部の思案があったからでござりました。
この太田からは、西へ、木崎《きさき》、境《さかい》町、玉村《たまむら》などを経て中仙道《なかせんどう》の倉賀野《くらがの》に至るいわゆる例幣使街道が通じておりますが、右の通牒によったものでしょう、伊勢崎《いせざき》藩兵が境町まで出動して待機しているという情報がありました。
山国兵部は、十二日、そこへ使者をやって、天狗党の通行を許せ、許さぬとあれば力をもってしても押し通ると談判させた。むろん向こうは拒否します。拒否はしたが、さればとて、進んでこちらを討伐にやって来るという気配もないようだ。あちらも戦争をしたくなかったのであります。
その談判がまだつづいている十三日、突如として天狗党は太田を発し、木崎の先から南へ折れ、世良田《せらだ》から利根川《とねがわ》を渡りました。
ここも船は一応隠してあったのを、やっと数|艘《そう》探し出したくらいで、午後四時ごろから翌朝三時までかかるという長時間の渡河でありました。向こう岸にいた岡部《おかべ》藩兵は、はじめちょっと鉄砲を撃ちかけて来ましたが、無数の松明が水に映ずる渡河の光景に気圧《けお》されたか、早々に退却してしまいました。
われわれは、対岸の村で仮眠をとり、やがて日の暮れ、岡部にはいったが、その未明利根川で若干の抵抗を見せた岡部は、呆《あき》れたことにからっぽになっていて、猫の子一匹も見えない。しかしわれわれがそこを通過して町はずれに至ったとき、背後から二、三発、申しわけのように鉄砲を撃ったやつがあったから、どこかに人間はいたのでありましょう。
ここにおいでの諸君にはよくおわかりにならんと思われますが、いま申した地理的関係は、まあ逆さになった三角形をお考えになっていただきたい。上の底辺の右が木崎、左が倉賀野、下の頂点が岡部に当たる。われわれは、上の底辺の半分あたりまで出て待ち受けている伊勢崎藩兵とかけ合い、そちらに向かうと見せかけて、下の頂点へ向かったのであります。山国兵部の工夫でござりました。
こういう細工は、ここばかりではない。いわゆる天狗行列のいたるところで、これと大同小異のめくらましをやった。われわれとしても、目的は京へゆくことであって、叶うことなら途中の戦闘は避けたかったのであります。
そこで敵方にも、さまざまな混乱が起こりました。これから申しあげるのも、むろんあとになって知ったことですが、その一つ、岡部藩の悲喜劇でござります。
岡部は二万石、安部摂津守の所領であります。
ここに、茅岳天骨《かやだけてんこつ》という軍学師範がおった。髪は総髪にしてどじょうひげをたらし、体格は堂々として、みるからに荘重の気を漂わせていたと申します。長崎でオランダ流の兵学を学んで来たと称し、それがわずか二万石の小藩では生かしようがない、と、かねがね歎いておりました。
なにしろ岡部藩はあまりに小藩で、水戸内戦に関東諸藩の多くは出兵を命じられたにもかかわらず、ここにはその下知《げじ》も来なかったほどです。
その幕軍が、六万の兵を動員しながら、那珂湊では三千の天狗党をもてあましているのを見て歯がみし、せめて百人の兵をお貸しくだされば拙者が指揮して、たちどころに武田耕雲斎の首を討ちとってみせる、と豪語し、かつ義勇軍を志願して、殿様の摂津守から、そんなことをする必要はない、とあわててとめられたほどであったと申します。
そこへ、その天狗党の残党が、水戸からこちらへ向けて進軍して来るという事態が生じました。その人数は千人といい、鉄砲はおろか、大砲までひいているという。
それが太田まで到着したと聞いて、その夏から帰国中であった摂津守は色を失い、茅岳天骨を呼びました。
「これ、天骨、天狗党が来たら何とする?」
「残念ながら、参りますまい」
と、天骨は歎息しました。
「天狗党は、太田から例幣使街道を通って倉賀野へ向かい、そこから中仙道を北上するにきまっております。その南にある岡部などに迂回して来るわけがござらぬ」
「しかしきゃつらは、これまでも正規の街道を通らず、しかも気まぐれに南下したり北上したりして進撃して来たと聞く。……それにまた、たとえお前のいう道を辿《たど》るとしても、それでは伊勢崎藩と衝突するだろう。例の田沼総督よりのご下知もある。すぐ近くの当藩としても、まさか頬かぶりではいられまい」
「むろん、助勢の必要がござる。実は拙者、そのことについてのお指図かと存じて出て参りましたが」
「うん、いや。……」
摂津守はヘドモドして、
「ただ本藩は、侍を動員してもせいぜい二百人じゃぞ。相手は千人という。――」
「二百人もの手勢があれば、拙者、天狗党をたちどころに粉砕してごらんにいれる」
「あ、それはお前のかねてからの大言壮語であるな。しかし、当方も無傷ではすむまいが」
「それは侍である以上、職分として当然で」
「それは困る。いまの幕府では、たとえこちらに死人怪我人が出ても、なんの補償もないことは明らかじゃ、あとあとの手当てが容易でない。いや、それどころか、まったく当藩とは関係のない天狗党などのため、一人二人でも死傷者を出すのは馬鹿馬鹿しい」
天骨はジロリと摂津守を見やりました。
「いったい殿は、いかなるご用で拙者をお召しになったので?」
「そちゃ先日、城下陀経寺に泊まっておる雲水が、公儀の隠密らしいと申したな?」
摂津守は声をひそめました。
「天狗党に対する諸藩の措置《そち》を見るための諜者らしい、と」
「さようで。……ほかにもまだおるかもしれませぬが、拙者が気づいたのはあれ一人で」
「そこでじゃ。忌憚《きたん》なくいえば余の本意は、天狗党とかかわり合いを持ちとうないことにある。といって、それがすぐ近くを通過するというのに知らぬ顔の半兵衛をきめこんでおっては、あとその諜者の報告によって、公儀がいかなる処置をもって酬《むく》いるか。――」
摂津守は真剣な苦悩の顔でありました。
「天骨、余がお前に頼みたいのは、天狗党とたたかうことでなく、公儀の隠密をいかにすべきか、ということじゃ」
茅岳天骨はじっと殿様の顔を見ておりましたが、やがて大きくうなずきました。
「殿のお望みがさようであれば、天骨|智嚢《ちのう》をしぼってしかるべく処置いたしまする」
天骨の工夫とは、次のようなものであったらしい。
自分が公儀隠密と見込んだ雲水にじかに逢い、岡部藩の天狗党退治への協力ぶりをよく見てくれといって手もとにひきつけておく。しかし天狗党は岡部などへ来はしないだろう。北のほうの例幣使街道で待ち受けている伊勢崎藩の藩兵との間に戦闘が起こるだろう。そこへそっと何十挺かの駕籠を運ばせて、天狗党の戦死者を詰め込んで、岡部へ運んでおく。一方で公儀隠密も斬殺してしまう。そして幕府へは、天狗党の一部が岡部藩にもやって来たから、かくのごとく誅戮《ちゆうりく》した。隠密はその騒ぎに巻き込まれて、気の毒にも討ち死にした――と、報告する。
さすがに、岡部藩には過ぎたる者といわれた軍学者の思い切った兵法でござりました。事実、右の雲水は天骨に名指されてたちまち公儀隠密であることを白状し、それのみか、他にも潜入していた二人の仲間さえ呼びよせて紹介したそうであります。揃《そろ》ったところで天骨は、どうせやるなら早いうち始末しておいたほうが面倒がなかろう、と、いきなり三人とも斬らせてしまった。
ところが、さて。
その天狗党の全軍が例幣使街道からそれて南下し、利根川を渡って、もろに岡部へ乗り込んで来たとき――それを知ったとき、軍師茅岳天骨の驚きはいかばかりか。
われわれが利根川を渡河するとき、二、三発鉄砲を撃ちかけて来た者があったのは、右の計画による屍体拾いにそこまで出かけていた岡部藩兵が、びっくり仰天しての盲撃ちでござりました。
さて、そのあと、岡部城下は上を下への大騒動となりました。殿様が逃げ出せば、侍たちもみな逃げる。
「逃げろうっ、みんな、逃げろうっ」
脳天から出るような声でこうさけびながら駈けまわっている茅岳天骨の姿を、何人か見た者がある。
むろん、領主みずから天狗党とたたかうのは本意でない、といっているのです。また、そういうわけで、天骨としてもたたかう用意などしていなかったのです。
しかしそのときの天骨の声や形相《ぎようそう》は、とうていそんな軍法からではない、ただ恐怖から半分正気を失っているのではないか、と、だれしもが思ったほどぶざまなものであったと申します。
この兵学者が大言壮語したのは、まったく敵とたたかう可能性のない場合にかぎるので、実際に敵の部隊を見ては抱腹絶倒の臆病者《おくびようもの》であったことは、そのあといよいよ明らかになりました。
われわれは、こうして無人の岡部を通りぬけたのであります。しかし、逃げ出した侍や町人や百姓は、みな町はずれの藪《やぶ》や林や草むらにひそんでいた。そして、夜もすがら、地ひびきたてて天狗党の馬や大砲が通過してゆくのをうかがっていたのですが、それはもう怖ろしい眺めであったでありましたろう。
それが北へ通り過ぎてから、天骨はやっとわれに返ったようであります。
「不戦は殿のおぼしめしである!」
と、彼は立ちあがってさけび出した。小わきに鉄砲をかかえていた。
「むろん、わしは反対であった。しかし、わが岡部藩士民に一人の犠牲者も出しとうはない、という殿のおぼしめしには、わしも黙せざるを得なんだのじゃ。ただ、岡部藩にも人ありと知らしめるためにも――」
と、いって、天骨は、もう天狗党の物音も聞こえない北方へ向かって、鉄砲を、二、三発撃ちました。
「これでよい。これにて解決。ひきあげろ」
士民は夜の底を、よろこび合いながら、ゾロゾロと岡部のほうへ戻り出した。
その天狗党が反転して来る――という知らせが来たのは、それから十分ばかり後であります。念のため、しばらく追っていった侍の一人が、顔色変えてすッ飛んで来て、そう告げたのでありました。
「なに? 天狗党がひき返して来るウ?」
茅岳天骨は棒をのんだようになりました。
さあ、それからの混乱というものはひととおりでなかったが、とにかく人々はまた道の両側の藪や草むらにもぐり込んで、息をひそめて隠れました。
なるほど向こうから天狗党がひき返して来ました。
そのとき、茂みの中で、突然赤ん坊が泣き出した。
「しいっ」
「泣かせるな、おい、泣かせるな。……」
「な、何とかしてくれ!」
まわりは狼狽《ろうばい》その極に達しました。母親は狂気のごとく抱きしめて黙らせようとするが、赤ん坊はいっそう火のついたような声をはりあげる。と。――
「これ、黙らせろ、黙らせぬか。……」
それは押し殺したような、しかし身の毛もよだつ怖ろしい声であったと申しますが、茅岳天骨のものでありました。
それでも子供は泣きやまず、ついに彼はそばに四つん這《ば》いに這い寄って来ました。そして、放心状態の母親からその赤ん坊を奪いとって、ぐいとその首を絞めてしまいました。
そこまで反転して来た天狗党が、ふたたび反転して北へ走っていったと知らせが来たのは、それから数分後のことでござります。
それがたしかな話だと判明したとき、いっせいに怒号が起こりました。
「赤ん坊を殺すとは、む、むげえことを!」
「ふだん、えらそうな軍師|面《づら》をしやがって。――」
「な、なんてえ畜生だ、この野郎!」
そして、みんながつかみかかり、岡部藩の名物軍師は、百姓町人たちの手にかかって、鶏のように絞め殺されてしまったということでござります。
むろん、赤ん坊が泣き出したとき、みんな閉口したに相違ありませんが、それを絞め殺した茅岳天骨が、一同を助けるためではなく、自分の恐怖からそんなことをやったのだということが、みなにはっきりしていたからでござりましょう。
ここに安部摂津守から、のちに公儀に提出した届け書がござります。その一節を読んでごらんにいれますると、
「……摂津守人数も戦陣つかまつり、大小砲相発しはげしく追い討ちつかまつり候ところ、賊徒恐怖いたし候や、駈け向かい一戦もつかまつらず敗走つかまつり候えども、何分|場広《ばひろ》の畑地、かつ間道多く、いずれの道筋にや散乱つかまつり候」云々。
まことに噴飯すべき報告書でござりまして、実状は右のごとくでござりました。文書だけから歴史を判定できない、といういい例でござります。殺した三人の公儀隠密のあと始末は、どうしたのかわからない。
さて、われわれは、岡部から改めて中仙道を北上しました。西へ向かうなら、常識的にはこの街道しかない。沿道諸藩は、さてこそ、と色めき立ったことでしょう。
しかるにわれわれは、本庄《ほんじよう》に宿営するや、翌日中仙道をそれて、鏑川《かぶらがわ》に沿い真西に進み出したのであります。
右の岡部藩への隠密の例もあるように、幕府は隠密だけは先々に飛ばして、刻々その報告を受けておりました。その探索書の一つに、
「武田勢いずかたを目的とつかまつり候や、ことのほか道を急ぎ」
と、いう文句が見えます。向こうにも、天狗党がどこを通ってどこへゆくつもりなのか、見当がつきかねていたのでござります。つづいて、
「こなたより手出しつかまつらず候えば、彼さらに乱暴つかまつり候|様子《ようす》相見え申さざるのみならず、丁寧に取り扱い候者御座候えば、かえって過分の恩賞等を与え罷《まか》り通り候由に相聞こえ候」
とあります。
さきほど申したように、すべては、たたかうのが目的ではない、京へゆくことを悲願とする天狗党の意志からの行動でござりました。岡部をぬけて、いちどまたひき返してみせたのもその考えからでござります。中仙道を避け、鏑川街道をとったのもその方針ゆえでござります。
しかし、このコースをきめた山国兵部とて、かつてこの道を通ったことはない。従ってこの街道がいかなる道か、果たしてこんな「大軍」が無事信州へ越えられるのか、まったく出たとこ勝負であったでありましょう。
ところで、われわれは、われわれの進路についての敵の判断を迷わせ、かつその意表に出ることを心がけましたが、そのわれわれにも、その意図について、かいもく見当がつかない存在があった。――すなわち、うしろから追っかけて来る幕軍総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》と市川三左衛門の一軍でありました。
最初のうち、われわれは、いつそれが追いつき、戦闘となるか、背中を眼にしておりました。彼らが襲って来ないわけがない。――ところが、那珂湊を出てからすでに二十日間を経ているのに、いっこうにその気配がない。
どうやら田沼には、手を出す気はないらしい、と、そのうち私たちも考えるようになった。そのくせ、やつらはどこまでもついて来るのです。その間隔二十里。――可笑《おか》しいほど正確に、二十里の距離を置いて。
と、いって、それがいつまでも何もやらない、という保証はない。どうやら人数はこちらの半分、五百人くらいということはわかりましたが、それがどこかの藩兵といっしょになって、いつ行動を起こすかわからない。そうでなければ、幕府若年寄ともあろう者が、軍をひきいて追尾して来る意味がない。
何にせよ、実におかしな、かつぶきみな送り狼《おおかみ》ではありました。
ところで、敵の人数や、また二十里の間隔など、それはこちらから絶えず背後に斥候を出していたからこそ明らかになったことでござります。同様に敵側も、その距離を保つには、やはり斥候を出して見計らっていたのであります。
そこで、滑稽な、またにがにがしい事件も起こりました。
この斥候は、悪くすると敵につかまる怖れがあるので、よほどすばしこい、かつ度胸のある人間でないと勤まりませぬ。で、山国兵部がとくに選んだ何人かに、交替でこの役をやらせていたのですが、その中に田中平八という男がいた。
野州|鹿沼《かぬま》の宿《しゆく》で、本陣のお登世のところへ忍び込んで来たあの密偵――と呼んでいいかどうかわかりませぬが――市川家の老下男を処刑した例の男です。
この人物は信州|飯田《いいだ》在の百姓の子に生まれながら郷士の養子となり、同じ信州の傑物佐久間象山に弟子入りし、象山先生のすすめで横浜にいって商人となり、失敗して駕籠かきまでやったという、実に変わった経歴の持ち主でした。それがこのころは浪人となって藤田小四郎と知り合い、筑波の旗揚げに馳せ参じた。筑波軍には、こういうえたいの知れない浪人がうんと混じっておりました。
ただし、そんなえたいの知れない浪人の中では、この人物など比較的しっかりしているように私など少年の眼にも見えた。言葉はやくざ風だが、やることはきっぱりやる。いいか悪いかは別として、右の老密偵を斬ったのも彼であります。
奔放闊達な藤田小四郎がひどく彼を買い、「あれはへたな侍より役に立つ男だ」と父たちに言明していたのは、さきに申しあげたとおりでござります。
だから、この追跡軍に向けて出す斥候には、よくこの田中平八が使われた。ふだんは陣羽織に朱鞘の大小という浪人姿だが、その役を勤めるときは、尻《しり》っからげに頬かぶりしたり、菅笠《すげがさ》をかぶったいわゆる渡世人風になったりする。それがまた実にぴったりして、なるほどこの人は元来侍じゃあなかったんだな、と、妙なところに私たちも感心したものです。
果たせるかな、追跡軍のうち、市川三左衛門は地団駄《じだんだ》踏んでいるのに、これを押えているのは田沼総督だ、とか、あまり接近するとみずから軍を停止させて、土地の宿場女郎など集めて酒盛りをしている、とか、それでは何のために追跡するのか、と抗議する三左衛門に、なに諸藩の尻を叩いて歩いているのよ、それより、三左、へたにこちらから手出しをすれば、わしの大事なおゆんやお前の可愛い娘が無事にすまなくなるぞ、と笑っていった、などという話を聞き出して来たのは彼でありました。
「――腰抜け総督が!」
と、藤田小四郎が吐き出すように申しました。
「さすがはワイロの田沼意次の子孫じゃわい」
と、田丸稲之衛門も苦笑しました。しかし、
「わしはあいつが少々気味が悪い。まるでカミソリの歯を持ったナマコみたいなやつじゃ」
と、山国兵部は首をかしげました。そこにいた者すべて、この奇矯な形容に笑いましたが、すぐ顔見合わせて、いかにも同感といった表情になりました。
実際そういわれてみれば、幕軍総督田沼玄蕃頭という人物はうす気味の悪いやつでありました。三千の天狗党を六万の兵で包囲しながら、半歳たっても持て余し、しかも前面には市川三左衛門らの水戸佐幕軍、また呼び集めた諸藩の兵をおしたてて、幕軍はたいていうしろにひっこみ、当の総督は府中の女郎屋の養女を妾にして、まあ優雅に暮らしているといった始末だったのでござります。
そのくせ、こちらの大将の松平大炊頭や家老の榊原新左衛門が降伏すると、武士としての礼も約束もあらばこそ、平気でみな殺しといった処置に出たのです。
武士の風上にもおけないやつだ、とは、みな蔑《さげす》み切った口で申しましたが、一方では、それ以上に、まったく人間同士のルールというものに無感覚な怪物のように思われるのでありました。
それはともかく、田中平八の右のごとき報告に、山国兵部は首をかしげ、じろっと見やって尋ねたことがござりました。
「田中、それにしてもお前、どうしてそんなことを聞いた。ただの探索で聞き出せることではないようだが」
なるほど、いわれてみればそのとおりです。それまでみな、平八の報告に、なるほど平八だ、と、ただ感心しておりましたが、そう突っ込まれて、みな改めてふしぎそうに平八に眼をそそぎました。
田中平八は、ちょっとまごついたようでしたが、
「いや、実はね、それが可笑《おか》しいんで」
と、ニヤニヤしながら話し出しました。
それによると、田沼からも物見を出して、こちらの動静をうかがっている。ふつうの人間には、それが田沼の物見だとはわからないが、自分はそれを見破った。
そこで、からかってやるため、わざと近づくと、向こうはコソコソと逃げる。――
「追っかけるやつの物見のほうが、追っかけられてるやつの物見から一目散に逃げるんだから、あの光景はみなさまにお見せしてえ」
いまの言葉なら、一幅の漫画ということになりますか。
が、そのうち何とか接触し、はては敵味方の密偵同士が道ばたの草の上で、いっしょに弁当を食いながらおたがいに苦労話を交わす仲になり、かくて右のような総督の内幕まで聞くようになった、ということでござりました。
「そうか。……それでは、いったいどこまで追っかけて来る気か、そいつも訊いてくれ」
と、山国兵部も笑いながらそう命じましたが、田中平八が去ってから、
「しかし、あいつ、あぶないぞ」
と、ひとりごとのようにつぶやくのを私は聞きました。
私には、何があぶないのか、よくわからなかった。まあ、調子に乗ってそんなに深入りすると、敵につかまる心配がありはしないか、というくらいの意味だろうと考えておりました。
……さて、本庄から鏑川街道にはいって、吉井《よしい》の宿《しゆく》に泊まった十一月十四日の夜のことでござります。
その夜の前半は、私が、おゆんお登世を守る番でありまして、宿とした家の離れの隣り座敷におりますと、おゆんから声がかかりました。
「源五郎さん。……小四郎さんはいるかしら?」
「は、母屋《おもや》におると思います」
「あとで呼んで」
「は。――」
私は返事をためらいました。
だれにもわけへだてなく快活に話しかける藤田小四郎が、どういうわけかこの人質のそばにはめったに近寄らない。
あれこれと気を遣っていることはよくわかるのに、なかなか近づこうとはしない。ということは、私たちにも変な感じを与えていたからであります。
「フ、フ、フ」
おゆんのふくみ笑いする声が聞こえました。
「源五郎さん、こんなお話知ってる?」
「何ですか」
「小四郎さんには、三人のお兄さまがあるでしょ? いえ、ご長男は子供のころ亡くなられたそうだけど、まだ健二郎と大三郎というお兄さまがおありになる、小四郎さんは四男で、しかも東湖先生のお妾の子」
私は黙っておりました。
「それはともかく、お父さまの東湖先生がおっしゃったというお話よ、……ここに一室に大変な美人がいて、その鍵《かぎ》番を命じたとする。すると健二郎は、いつまでもおとなしく鍵番をしているだろう。大三郎は、もしその気になれば、何とかその部屋にはいらせてくれ、この鍵を使ってよろしいか、と命じた人間の許しを求めるだろう。しかし小四郎ならいきなりその鍵で闖入《ちんにゆう》して、その女をものにするだろう、とねえ。……」
私は真っ赤になりました。
「あら、あなたいくつだったかしら? 十四? 十五? そんならこんなお話してはいけないわねえ」
オ、ホ、ホ、と、おゆんは笑いました。
「そんな小四郎さんが、わたしのところへ来ない。おかしいとは思わない? いえ、わたしがそんな美人だとはいわないけれど」
私には、返事のしようがない。
「ただね、わたしがあの田中愿蔵の色おんなだったということはあなたも知ってるでしょうけれど……その前は、わたし、藤田さんの色おんな」
「え?」
「とまではゆかないけれど、まあ、モヤモヤしてた仲だったのよ。そこへ田中さんが割り込んで、腕ずくで、わたしを自分の色おんなにしたの」
私は愕然《がくぜん》としていました。そんな話ははじめて聞いた。
私の耳に、田中愿蔵がこのひとを那珂湊の陣へ送りとどけたとき、「これは藤田への贈り物なんだ。小四郎がどう扱うかはあれの勝手だが、しかし何かと役に立つと思う」といった声がよみがえりました。
あのときも変な挨拶だと思ったが、そうか、そういうわけであったのか。――といっても、ほんとうのところをいうと、私には依然としてわからない。どうして田中愿蔵が藤田さんへの贈り物にしたのかわからない。
わからないながら、なお何かいうかと、かたずをのんでいる私に、
「まあ、そういうご縁があるんだから、いちど小四郎さんを呼んで来てよ」
と、おゆんは申しました。それまでの話はそれっきりです。そしておゆんは、こんどは別の話を持ち出しました。
「それよりね、小四郎さんに知らせたほうがいいことがあるのよ。きょうね、田中さんから――田中愿蔵じゃない、田中平八さんのことだけど――今夜、ちょっと内密の相談があるからという話があって、もうそろそろここへやって来るかもしれない。どんな話かわからないけれど、あの人、少し気がかりなところがあるから。――」
どうやらおゆんは、田中平八とは天狗党が府中の紀州屋で旗挙げの謀議をこらしていたころからの知り合いであったらしい。
「内密の相談とはいうけれど、事によったら小四郎さんに来てもらったほうがいいことになるかもしれない。――そんな虫の知らせがするの」
そのとき、庭のほうで足音がしました。
果たせるかな、やって来た田中平八は、
「おい、ちょっと人質に話すことがあるから、君は外で待っていてくれ」
と、あごをしゃくりました。
藤田小四郎の信用している田中ですから、いまのおゆんの話がなくても異議なく私はその場をはずしたでしょうが、そのときはそうしたのみか、すぐに私は母屋のほうに藤田を呼びにゆきました。
けげんな顔の藤田を庭にひっぱって来てから数分後であります。
「藤田さん? いる?」
と、おゆんの声がしました。
「この田中さん、わたしをかどわかして、田沼総督のところへ連れてってやるというんだけど、いいかしら?」
私たちが驚くより、田中平八のほうが驚いたと見えて、転がるように飛び出して来て、藤田と鉢合《はちあ》わせして棒立ちになりました。
「ははあ、あの女、あんたを呼んでたのか。……やっぱり、わけのわからん女だ」
と、彼は歎声を発しました。小四郎は、気色ばんで詰問しました。
「おい、田中。いまおゆんのいったのはほんとうか」
「まあ、そんな話をしたが。……」
「なに? 山国先生が案じておられたが、さてはきさま、田沼に買われたな」
「まあ、そういうことになるが。……」
煮え切らない返事をしながら、田中は図々しくニヤニヤしておりました。
「しかし、田沼のところへ連れてゆくか、それともおれが頂戴しようか未定だったよ。田沼のところへ連れてゆかず、おれがさらってゆきゃ、おれはお尋ね者になる。それを承知でなおそういう迷いを起こさせるんだから、あれはたいした女さね」
田中は、ふとまじめな顔で、
「どうもあの女の気が知れねえ。気が知れねえが、ろくなことを考えてるわけがねえ、藤田さん、あれをこのまま天狗党へくっつけておくと、きっとよくねえことが起こるぜ。……あんたのためにいうが、この際、やっぱりおれに寄越さねえかね?」
「馬鹿っ」
小四郎の手が陣刀のつかにかかりました。
「きさま……天狗党を裏切ったな!」
「おっとっとっと!」
田中平八はうしろ飛びに、二、三歩逃げ、そこにあった松の木の枝に飛びつくと、まるで振り子みたいに背後の塀《へい》の上を、尻を瓦にこするようにして逃げ去りました。
「痛《い》ててて!」
という尻餅《しりもち》の音につづいて、
「藤田さん……。あの女は、魔性《ましよう》だぜ!」
という声を残して。
小四郎は大声で味方を呼んだが、結局この田中平八は、この上州吉井の宿《しゆく》で姿をくらましてしまいました。
あとで小四郎がおゆんに聞いたところによると、平八は、ここ一両日のうちにも高崎藩兵が追いついて来て合戦になるはずだ。へたすれば天狗党はみな殺しになるが、とにかくそのドサクサにまぎれて、おゆん、できればお登世も連れて逃げる。もしうまくゆけば、自分の天狗党参加が冤罪《えんざい》になるのみならず、田沼から千両もらう約束をとりつけて来た。それを資本《もとで》にして、横浜へいってまた一旗あげるんだ、と、ぬけぬけいったそうでござります。
それにしても、ほんの先日――七日ばかり前、野州鹿沼の宿で、お登世をかどわかしに来た市川の下男を処刑し、みせしめのためにその首を晒《さら》して来た男が、こんどは自分でおゆんを連れ出そうとは!
彼のこの裏切りは、鹿沼以後のあちらの物見との談合の結果か、それともそれ以前からそのつもりで、あの処刑はカモフラージュであったのか不明ですが、私にはどうも後者のように思われてならない。……藤田小四郎は、田中平八を見そこなっていたのです。
何にしてもゆだんのならぬことだ、と改めてみなの背をうす気味悪く撫《な》でた事件でござりました。
「存外馬鹿なやつじゃ。よほど千両に眼がくらんだと見えるが、たとえ女を連れ出したとて、あの田沼が千両くれてそのまま平八を離すと思うか」
と、山国兵部が苦笑し、
「それさえしくじったとあれば、きゃつ、三日もたたぬうち、そこらの上州路の辻にこんどは自分が晒し首になるにきまっておるわ」
と、田丸稲之衛門が痛罵《つうば》しました。
藤田小四郎の眼には、自分の眼力の狂っていたことについて慙愧《ざんき》の色がありました。
――しかし、別の見地からすれば、彼が田中平八について買いかぶっていたのは的中していたと見えます。
天狗党から脱走したとしても、無事に逃げ切れるものではない、というのが一同の見解でしたが、そいつを平八は何とか逃げ切ったらしい。のみならず、この男は横浜へいって、どこをどうしたか、御一新後生糸商人兼相場師として、めきめきと頭を現わして来た。いっときは日本一の生糸貿易商にまでなった。糸の平八、つづめて糸平と称した。そしてこの人は、天下の富豪として、たしか明治十六年ごろ大往生をとげたと記憶しておりますが、みなさまもその名はご承知でござりましょう。世に「天下の糸平」と呼ばれたのは天狗党の脱走者この田中平八でござります。
藤田は、百姓から町人へ、町人から浪人へと、波瀾《はらん》に富んだ過去からすぐれた機略を身につけて、決死の天狗党にはいって来た田中平八を買ったのでしょうが、平八のほうでは、天狗党も、藤田の考えていた以上の波瀾万丈の人生の一断片に過ぎなかったのかもしれない。天狗党には、実にさまざまな人間がおりました。それをいちいち述べてはきりがないので数例をあげるにとどめますけれども、この天下の糸平など、やはりもっとも変わった例の一人でござりましょう。
――この人物は、もういちど、ヒョンなことで私の人生に登場して参ります。
それにしても、昼間平八からちょっと耳打ちされたとき、どの程度の話を聞いたか知りませんが、そのことからあらかじめ藤田を呼び、自分の脱走[#「自分の脱走」に傍点]を阻止したおゆんという女は、実にふしぎな女でござります。
あとで、そのいきさつを、私から聞いた武田金次郎は、
「では、何か、あの女は藤田さんの色おんなだったというのか」
と、真剣な表情で訊き直しました。
「いや、そうだとはいわなかったようだ。モヤモヤした仲だったとか、何とか。……」
「とにかく、そんな仲だった女が、こんどは仲間の田中愿蔵さんの色おんなになり、次には敵の大将田沼の妾になる。……なんという女だ!」
それから、声をひそめて申しました。
「そんな話を、あのお登世は聞いていたのか?」
「そりゃ、そばにいるんだから、聞いてたろう」
金次郎は、白い頬を紅潮させて、
「あの二人は、離して護送したほうがいいのじゃないか?」
と、さけびました。
「離して? こんな行軍で、そんなことはできないだろう」
と、私が首をかしげても、金次郎は思いつめた眼つきで、
「……あのけがらわしい女は、殺してしまったほうがいいかもしれない」
など、つぶやくのです。あまり異常な反応なので、私はあっけにとられ、まじまじとその顔を見まもるだけでありました。
……さて、しかし、問題は田中平八よりも、平八が口走ったという、ここ一両日のうちに高崎藩の藩兵が追いついて来る、という予言でありました。天狗党は色めき立ちました。
これまでの道程、あちこちの諸藩が動員されている、という情報はいくども得ていたが、しかし実際はどこも駈け向かっては来なかった。みんな、見て見ないふりをしていたが、すべてがそうしてくれるはずがない。げんに例の送り狼田沼総督は、本人は手を出さないにしろ、諸藩を督戦するために歩いている、ということは明らかになっているのですから、その鞭《むち》に追い立てられる藩は必ず出る。
「高崎藩ならあり得ることじゃ!」
と、山国兵部は軍扇で膝《ひざ》をたたきました。
「あれは水戸で手ひどくいためつけてやったからの」
この夏から秋へかけて、幕命により水戸へ駆り出された諸藩兵のうち、高崎藩は、下妻《しもつま》の戦いや部田野《へたの》の戦いで、さんざん天狗党にやっつけられたことがあるのでござります。さだめしその報復にのぼせあがっているに相違ない。
「それに、高崎藩の領主松平|右《う》 京《きようの》 亮《すけ》の何代前かの先祖は、田沼意次に馬鹿にひいきにされて老中にまで出世し、六万石が八万何千石かになったという家柄じゃ。田沼家には尾をふらなけりゃならんわけがある。――」
いくさをするには、もっと奥の方の山にはいったほうが都合がいい、という兵部の意見で、十五日われわれは吉井を立ち、富岡《とみおか》を通過しました。すぐ北方に奇怪な山影を見、それが音に聞こえた妙義山《みようぎさん》だと知りましたが、しみじみと眺める余裕もござりません。道は次第に上り坂になり、両側は葉のない桑の木のだんだん畑ばかりです。
やがて、南蛇井《なんじやい》村を過ぎ、その西、下仁田《しもにた》町に宿営しました。
「ほっ、ほっ」
山国兵都は南蛇井村で笑いました。
「いまに敵を、こりゃ何じゃい? という目に会わせてやるわ」
下仁田は、西牧《さいもく》川と南牧《なんもく》川の合流点にある谷口の集落であります。典型的な山峡の町で、流れる川の両岸は絶壁をなしております。
ここへ、十六日の朝から、果して高崎藩兵の大軍が進撃して来た。なるほど水戸での敗戦の恥をすすがんと、凄《すさ》まじい勢いでありました。
われわれはこれを迎え撃ったのでありますが、全軍を三つに分け、中央の部隊がまずこれとたたかい、わざと退却して敵を目的地まで誘導し、そこで両側の山から二部隊が猛射撃して敵を袋の鼠《ねずみ》といたしました。
二時間ばかりの戦闘でしたが、大子《だいご》出発以来のいくさらしいいくさで、しかもみごとな快勝でありました。高崎藩は二十五の屍体、十人の捕虜、三門の大砲、五十余挺の鉄砲、百数十|振《ふり》の刀などを残して、命からがら潰走《かいそう》しました。負傷者はおびただしいものにのぼったことでしょう。私たちは、頸《くび》から上には一本の毛もない、蛸《たこ》坊主のような七十一歳の老軍師山国兵部の軍法が、まことに馬鹿にならぬことを改めて知ったのであります。
しかし、味方にも犠牲者が出ました。三人の戦死者と一人の重傷者、その他十余人の負傷者であります。その戦死者の一人が、ほかのだれよりも私たちにショックを与えた人間でした。
十二歳のあの野村丑之助でござります。
ちょうど午前十時ごろでした。本陣近い場所で、私たちは二挺の駕籠を守って、ある山陰《やまかげ》にいたのですが、敵が潰走をはじめたと知って、金次郎も私もたまりかねて銃をとり、ちかくの杉の木立ちの中まで出て、山の下の細い道をこけつまろびつ逃げる敵影めがけて撃っておりました。一発撃つたびに、面白いほど命中する。
その歓声に釣《つ》られたものか、おゆんが駕籠から出て、のぞきに歩いて来ようとした。――
そのとき本陣へ急ぐために通りかかった不動院全海入道が、突然、
「あぶない!」
という透《す》きとおるような絶叫を聞いたという。
同時に、歩いているおゆんめがけて、小さな身体が水平になって飛び、ぶつかるのが見えた。二人は倒れ、小さな影だけがはね起き、指さした。
「あそこに敵がいるよ!」
同時に、すぐ近くで轟然《ごうぜん》たる音があがり、小さな影はふたたびもんどり打って転がっておりました。
全海は、いまの銃声の起こった方角の熊笹《くまざさ》めがけて突進しました。その阿修羅《あしゆら》のような姿めがけてまた鉄砲の音がひびいたが、あわてていたと見えて、弾はあらぬ方角へ飛び走り、次の瞬間、全海の八角の樫《かし》の棒は、そこまで潜入していた一人の敵兵の陣笠から脳味噌を四散させておりました。
「丑之助! 丑之助!」
敵の屍体もたしかめず、全海はとって返しておりました。
最初の「あぶない!」という絶叫からこのときまで、二、三分のことであったでしょう。あきらかに丑之助のその声を聞き、私たちが杉の木立ちから飛び出したとき、その全海入道の姿が見えた。私たちも、髪の毛を逆立《さかだ》てて駈けた。
全海は、棒を投げ出し、ひざまずき、小さな身体を抱きあげました。
「丑之助!」
まろび寄った金次郎と私は、丑之助の左の胸に血の花がひろがり、のけぞった顔がもう蒼白く変わっているのを見ました。
あとで考えると、彼はその狙撃者を発見したものの、おゆんに方角を教えるにいとまあらず、身をもってつき飛ばし、そのあとはじめて敵の位置を教えたものと見えます。
「丑之助、しっかりしろ!」
「これしきの傷がなんだ!」
私たちはさけびました。しかし、丑之助の眼はとじられたまま、ひらこうともしません。
「死んではだめだ。丑之助、おふくろが国にいるじゃないか。生きて、無事に水戸へ帰らなくっちゃだめだ!」
全海が吼《ほ》えて、ゆさぶりました。
すると、ぽっかりと丑之助の眼があいた。
「おっか。……」
と、いいかけた。が、すぐに首を横にふり、
「全海さん、小四郎さまの詩をうたって」
と、いった。
「なに、どんな詩」
「小四郎さまが、剣をぬいてよくうたう詩」
「あれか。しかし――」
「うたってよ。それを聞きながら、ぼく、死ぬんだ」
「死にはせん! お前のような少年を、わしたちのいくさで死なせてたまるか、わしが死なせはせん!」
「全海さん、ぼくは、あの女の人をまもるお役目は果たしたね。おっかさんにそれだけいって」
がくがくと大きな頭をふる全海の眼から、滝のように涙があふれ落ちておりました。私たちも土をつかみ、のたうちまわらんばかりでありました。
丑之助の眼がまたとじられたのを見ると、全海はしぼり出すように詠じはじめました。藤田小四郎の愛誦する陣中詩です。
「朗吟|槊《ほこ》を横たう陣頭の月
気は圧す四囲十万の軍……」
蒼い空には、陣頭の月ならぬ太陽がかがやいておりました。しかしそれは霜月なかば――いまの暦では十二月半ばの寒風に吹き研《と》がれた太陽でござりました。北にそびえる妙義の山影も、美しいというより荒涼たる岩肌《いわはだ》をあざやかに見せております。
丑之助はもう動きませんでした。しかし、そのまるい頬には、徴かに笑いが刻まれておりました。
こうして、この十二歳の少年戦士の魂は、上州の山中での戦いで、雄々しく太陽へ向かって飛び去ったのでござります。
やがて私たち三人は、慟哭《どうこく》しながら丑之助の髪の一部を、それぞれ懐ろにおさめました。いつの日か、もし水戸へ帰る日が来るならば、この少年の遺髪だけは、あれほど恋しがっていたその母親のところへ届けてやらなければならない、と決意したからですが、しかし三人とも、同様に明日のいのちは計りがたいものがあったからでござります。
それから、彼の小さな遺骸《いがい》は、あと二名の戦死者とともにこの下仁田の墓地を借りて埋葬してやりました。(作者注、のちにこの地には、伏見宮|彰仁《あきひと》親王の、義烈千秋の題字を刻んだ弔魂碑が建てられた)
さてそのあと十人の捕虜を合《あい》の字《じ》河原にひき出し、そのうち士分の七人には切腹を命じ、あと三人は人足でありましたが、これは斬首いたしました。侍はともかく人足まで処刑したのは、やはり少年丑之助まで戦死させたわれわれの悲しみと怒りのなせるわざでありました。
遺棄された武器のうち、三門の大砲は、残念ながら薪で焼いて使用不可能といたしました。大砲はあってもそれに合う弾がないからですが、また、水戸からここまで運んで来た十二門の大砲が、それなりに役に立つことを確認しながらも、実は一方でその重さを持て余していたせいもある。
それから、下仁田の町には迷惑をかけたとして、ここで入手した食糧代金はもちろん、焼かれたり壊《こわ》されたりした家屋の修繕代も支払い、われわれが出発したのは午後四時ごろでありました。
道は急速に険しくなって参ります。両側は千古の杉林でなければ、万丈の絶壁です。そしてその夜は、甘楽郡西牧《かんらごおりにしまき》村本宿という山中の寒村にともかくも半野営をいたしました。
すぐ西方には、のしかかるように大山脈がそびえ立っておりました。
――いったい、この山を越えて京都へゆけるのか?
と、いう疑問より、
――そもそも、おれたちはどこへゆこうとしているのだ?
という根本的な疑惑のほうが、まず迫って来るような眼前の山脈でありました。
山脈というより、天に接する絶壁に見えました。絶壁といっても、それを越えればまた向こうに低い平地があろうとは、とうてい信じられない。それはそのまま、無限の果てまで連なる大地の隆起に見えました。上州と信濃を隔てる山脈は、それほどの圧倒感を持っていたのです。
ですから、上州から信州へ越えるには、古来の街道としては、碓氷《うすい》峠を通る中仙道一本しかない。現今の地図で碓氷峠を見ますと、海抜九五六メートルとある。これが上信の間のいちばん低い峠なのでしょう。
ただ、この両国をつなぐ道が――土地の猟師だけが、往来できるような無名の山道は別として――道と名づけられているものが、中仙道の南側にもう一本ある。それがこの上州下仁田と信州|佐久平《さくだいら》をつなぐ街道でありました。実に名だけはものものしく、中仙道脇往還とも呼ばれておりました。だからこそ、山国軍師も、この道をいって見る気になったのでありましょう。
われわれは、しかし上州最後の宿営地本宿を出て、この山道にくらいつきました。いくさをやったばかりの翌日の、十一月十七日の朝のことでござります。
往還とは、あつかましくも名づけたりな。――それは、ふつうの人間の通る道ではなかった。話に聞く、鹿やいのししの通るけもの[#「けもの」に傍点]道というやつとしか思われなかった。いままでだって、一列縦隊で歩くしかない道が大半だったのですが、道そのものに不安をいだくことはなかった。ところがここは、稲妻形に曲折する道の、上から下へ、人が歩かなくても、ただ風が吹くだけで、簾《すだれ》のように岩や石が絶えず崩落しているありさまなのです。
そこを千人の部隊がゆく。若い隊士ばかりではない。七十過ぎた老人や、いまなら中学初年級にあたる少年もふくんだ集団が上る。丑之助以外にも、同年配の少年が十人以上もいたのです。のみならず、戸板に乗せられた怪我人や病人が混じっている。前日の戦いの負傷者ばかりではない。これまでの行軍中、散発的に出た病人や怪我人が数十人あり、これをただ戸板に乗せたのでは転がり落ちてしまうから、四谷怪談隠亡堀の幽霊のように、戸板に縛りつけてある。
人間ばかりではない。百五十頭の馬がいるのです。おびただしい小荷駄があるから、馬は捨てられない。それでもここまでの行程で落伍《らくご》した馬が三分の一近くあり、それを途中の村々で徴発して補《おぎな》ったのですが、信州路でどれだけ徴発できるか見当がつかないから、絶対に馬は捨てられない。
しかし、その小荷駄もいまは人間が運んでやるよりほかはない。長持もあれば葛籠《つづら》もある。それに弾薬箱に、十二門の大砲。
この大砲というやつが!
この大砲は、斉昭公が、黒船を撃退するために、水戸一国の梵鐘《ぼんしよう》や金銅仏を鋳《い》つぶして作らせたものの一部であります。水戸の士民が斉昭公に首をかしげたのみならず、天狗党にも違和感を持った原因の中には、このことによる国じゅうの坊主の悪口の影響もござりました。
短六斤砲と申しまして、あちら風に申しますと、口径九・三センチ、長さ一・八四メートル、重量一〇二三・七五キロのものであります。すなわち長さ六尺足らず、重さ二百七十三貫ということになります。砲身にはみな「発而皆当節・源斉昭」――発シテミナ節ニ当ル、源《みなもと》の斉昭、と篆書《てんしよ》で鋳込《いこ》んでありました。
現今の大砲を見る眼で見ますると、まことにぶざまな、おかしげなものであるのみならず、那珂湊の沖合に幕府の軍艦が参って砲撃を加えましたときは、これを海岸に持ち出して反撃させた。ところが、撃ち出した砲弾は、その飛ぶ姿が人の眼にも見えるほどの速度で、すぐ向こうの海へ、ボチャンボチャンと落ちてしまう。射程距離はいちばん遠くへ飛んでせいぜい十町――千メートル強のしろものでござりました。
ただ、これが陸上のいくさでは、なかなか威力を発揮しました。それほど殺傷力はないのですが、敵を恐怖させるには足りました。少なくとも、向こうも西洋式の大砲を持っている以上、対抗上、手放すことの出来ない武器でありました。
だから、天狗党は、大苦心してここまでひきずって来たのであります。
はじめは砲身や車輪を分解して人力で運んでいたのですが、野州の平地へ出て以来は、徴発した車を補強し、これに乗せて曳いて来た。
しかし、もう車も通れぬ山であります。山道を上るというより、崖《がけ》の登攀《とうはん》といった場所のほうが多い。ふたたび分解して、人の力でかつぎあげるよりほかはない。
――とはいえ、分解しても、二百七十三貫という重さは変わらない。それが十二門、三千三百貫になんなんとする。かりに一人、十貫目分を分担したとしても、それだけで、三百三十人を要するという計算になります。
それはわれわれの守護神であると同時に、行軍の途中では、とくにこのような山越えでは、それ以上にわれわれを悩ます大難物となりました。
前に申したように、人足は六百人前後はおりましたが、運搬しなければならないのは大砲だけではない。いまいったように、ほかに荷は一杯あり、怪我人病人の戸板から馬まで面倒を見てやらなければならない。
それらを背負い、また分解した大砲には、無数の綱を結びつけてひっぱりあげる。途中、道が陥没してとぎれているところも少なからずあり、これには木を伐《き》って渡し、露営用の蒲団《ふとん》をその上に投げかけ、架橋をかけて通りぬけるという悪戦苦闘ぶりでござりました。
いまの暦で十二月半ばの山は、上るにつれて怖ろしい寒気を加えて来ます。しかし、もう寒いどころではござりません。むき出しの手や足はもとより、上半身まで裸になった連中の肉塊は汗にぬれてひかり、まるで燃えているように湯気が立っております。それにしても、あのあたりが雪に覆われるのはいつごろのことでありましょうか、その年は、まだその道だけには降雪のなかったのが、せめてもの救いでござりました。
「頑張れ! 頑張れ! もう一息だ!」
すぐ上のほうで、藤田小四郎のさけぶ声がしました。
「昔、フランスのナポレオンという英雄は、遠征軍をひきいて、もっと高いアルプスという山を越えてイタリアを征服したのだぞ。それにくらべれば、こんなものは子供だましだ!」
しかし、汗ばかりでなく、人足たちの中には、涙も流しているものが少なくなかった。
彼らの大半は、水戸から連れて来た百姓です。そのほかに、何となく面白そうだというので天狗党に加わった無宿無頼の徒、行軍の途次道案内や人質の意味をかねて無理に連行して来た野州上州の百姓が混じっておりますが、少なくとも水戸の百姓の多くは、いやだいやだというのに、刀で脅してひっぱって来た者ではない。水戸内戦の余波で、彼らまで二派に分かれ、そのあげく水戸に残りたくても、いられなくなった連中です。そして、ここまで来ては、いっそう逃げることはできない。逃亡脱落は、ただちに死を意味したからであります。こちらが処刑しなくても、野たれ死《じ》にするか、幕府なり諸藩の手でたちまち逮捕され、首を斬られることは必至だったからでござります。
とはいえ、この連中の大部分が、われわれのように尊皇だの攘夷だのということに頭を熱くしていたわけがありません。ただ運命の奔流に、抵抗のしようもなくここまで押し流されて来ただけでありましたろう。ナポレオンなんか持ち出されたって、なんのききめもあるはずがない。
「ああ、ああ」
私もすぐ近くで、息のふいご[#「ふいご」に傍点]が切れたような声を聞きました。
「何のためにおらたちゃ、こんな苦労をするんだ!……畜生、なんてえ重さだ、こいつは!」
まだ四十半ばなのに、皺《しわ》に埋まったような顔をした百姓でありました。砲身を何人かでかつぎ、また綱をかけてひきあげるのですが、かつぐほうは十分おきくらいに交替しないと、肩が砕けてしまう。ほんのいま、その砲身の一番うしろをかつぐ役に回された男ですが、こう歎いたあと、
「おや? 吾妻《あづま》十七番、とある。――」
と、さけんだ。
吾妻とは、大砲を作った那珂湊の吾妻台という地名で、鋳造番号が十七番という意味だったのでしょう。それが鋳込まれているのを、砲身のどこかに発見したと見える。
「ああ、こりゃ、おらの村の寺の鐘だ。おらの村の鐘が、吾妻台で十七番という大砲になったと、和尚さんから聞いたことがある」
うわごとみたいな声でした。
「あれが、――子供のころから、あんな鐘の音を聞かせてくれたあいつが――」
この事実が百姓の胸に、どんな感慨を与えたか知る由もありませんが、突然その男は、
「こいつめが! こいつめが、同じ潮来《いたこ》村の人間にこんな苦労をさせやがって!」
と、さけんで、肩をはずして、砲身を殴りつけようとした。まるで子供が、ぶつかった石を殴るような所業ですが、よくよくのことだったのでありましょう。
いっせいに悲鳴があがりました。きわどい崖っぷちで、一人が肩をはずしただけで、砲身がグラリと大きくかたむいたのです。
「何するか、この馬鹿っ」
そばで、鞭をふるって叱咤《しつた》していた二人の武士のうち、一人があわてて肩をいれ、もう一人が――薄井《うすい》督太郎という隊士が――もろにその百姓の顔を鞭でたたきつけた。
「うわっ」
百姓は両手で顔を覆い、よろめいて――そして、崖から飛び出し、石ころみたいに谷の底へ落ちてゆきました。
私は三挺の鉄砲をななめに背負い、腰につけた縄《なわ》でおゆんをひっぱっていたのです。武田金次郎も五挺の銃を背負って、お登世をひっぱっておりました。
実際に目撃したのはその一人だけですが、結局峠にたどりつくまでに、五人の人足と十三頭の馬が転落して消え、戸板に乗せられていた隊士――きのうの戦いの重傷者――が一人、途中で息をひきとりました。
足は鉛のように硬直し、くらげみたいにブルブル震える。それでも何が起こっても、立ちどまってなんかいられない。
私たちは、やっと峠に達しました。内山《うちやま》峠と申します。
すぐ南側に、全山岩のみの屏風のような山が見えました。兜岩《かぶといわ》山といい、のちに調べますと、標高は一三六八メートルもあります。それがそれほど高く見えなかったところを見ると、峠というものの、その地点だってそれに近い高さであったのでしょう。
全身をひたした汗は、たちまち氷滴と変わるようでありました。そこにこそ雪はなかったが、重《ちよう》 畳《じよう》と北方に連なる大山脈はすでに真っ白な雪をかぶってけぶっております。
なんのためにわれわれは、こんなところにいるのだ? という例の疑いが、名状しがたい絶望感とともに、期せずしてみなの顔に現われたのを見たのでしょう。
「西を見ろ、西のほうを見ろ。……あちらに京がある。みかどと慶喜公のおわす花の京がある!」
また藤田小四郎の声が聞こえました。
その西のかなたも、まさに雲煙万里といった景観でありました。その向こうにほんとうに京があるのか。いや、この地上に、京という町が存在するのか。……
しかし、ここで絶望に足をとめてはいられない。だいいち、多数の人間が休息できるような場所すらありません。下から千匹の虫のような行列が、あとからあとから這いあがって来るのです。
われわれは息つぐひまもなく、西へ――信濃の大地めがけて下りはじめました。
それからの物語は、また明日《みようにち》。
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筑波《つくば》を出《い》でて幾夜か寝《ね》つる
天狗党は上州|下仁田《しもにた》でいくさをやって、その翌日、上信をへだてる大山脈を越えたのでありますが、信州にはいって三日目には、それにまさる一大戦闘を展開しなければならないことになりました。
われわれは、内山峠を越えた日の夜は、平賀《ひらが》村という山中の部落に宿営した。ここに、当時の平賀村名主から、あとで代官所にさし出した始末書を持って来ておりますが、それを読むと、
「……賊徒ども、村内数百ヵ所、篝火《かがりび》を焚き、番人とおぼしき者、切火縄に鉄砲相かかえ、または白刃、槍等を持ち、厳重に出口出口を相固《あいかた》め、ときどき騎馬武者見廻り。……」
云々《うんぬん》とある。
それで私も、当時のものものしい光景がまざまざと眼によみがえります。こういう警戒はここだけではないが、とにかくあれだけの大苦労をした日の夜もこのありさまですから、いかに天狗党が超人的な気力を失わなかったかがわかっていただけると思います。
それからまた、この届け書を見ると、この村にも事前にもう田沼総督からの触れ状が回っていて、村にはいる橋をいくつか切り落としてあったのですが、それを指図したのは喜平という百姓だということがわかりましたので、たちまちこの男をひっつかまえて痛めつけ、村から百両召しあげて許してやったという天狗党の所業が書いてある。
このことは私、記憶にありませんが、むろん事実でしょう。これに類したことはどこでもやった。そのわけの三分の一は、天下の義軍の往来のじゃまをするとはけしからん、という怒りのため、三分の一は、こういうみせしめの風聞を伝えて、これから先の沿道の百姓を戦慄《せんりつ》させるため、そしてあと三分の一は、やはり手にはいるかぎり軍資金を入手するためでござります。
その翌日は、千曲《ちくま》川上流を渡って、望月《もちづき》へ出ました。これは中仙道の宿駅であります。
われわれは碓氷《うすい》峠こそ越えなかったが、ここでふたたび中仙道に出たことになる。いままでわれわれが極力|脇《わき》街道を選んだのも、なるべく沿道諸藩との衝突を避けるためであったのですが、このあたり、少なくとも下諏訪《しもすわ》までは、これ以外に道はないのですから、中仙道を行軍するよりほかはなくなった。
そして、果然、翌十一月二十日、和田峠での戦争と相成りました。
待ち受けていたのは、諏訪|高島《たかしま》藩と松本藩の藩兵二千余人でありました。
越えれば諏訪湖という和田《わだ》峠は、実は標高一五三一メートルという、上信国境の碓氷峠はもちろん、私どもが踏破した内山峠などよりはるかに高い峠でござります。峠に立てば美しく雄大な風景の中に、遠く北東に浅間《あさま》山を見ることができる。上り下りが七、八里あるというだけに、碓氷峠や内山峠のような険峻な感じはないが、高さといい長さといい、中仙道屈指の難所であることに相違はありませぬ。
とにかく中仙道は、東海道につぐ天下の街道でござります。これを大手をふってやって来る天狗党を、黙って通すわけにはゆかない。とくに諏訪高島藩――これは上諏訪にある藩ですが――の当主、諏訪|因幡守《いなばのかみ》は、当時の閣老の一人でありました。その面目にかけても何とかせずにはいられないうえに、のちにわかったことですが、われわれのあとをなお追尾して来た幕軍から、烈しく出動を督促されたという事実がある。和田峠で、天狗党を前後から挟《はさ》み討ちにしようというのであります。
実に驚くべきことに――あの内山峠の険を、われわれのあとを追って幕軍も越えておりました。
で、この諏訪高島藩が松本藩にも出動を要請して、和田峠に大砲から銃隊を布陣した。峠道には大木を横たえ、両側の山の要所要所には大石を積んで落とす用意をした。山中の橋は切って落とし、部落も天狗党の盾となるのを防ぐために焼き払った。
これをわれわれは撃破したのであります。
戦いは午後二時ごろから始まり、夕刻に渡りました。
われわれは苦戦しました。これがどれほど苦戦であったかは、峠を三度も追い落とされ、戦死者は士分、浪士六人をふくめて十余人、手負い百余人を出したことでもわかります。
染めたように蒼い冬空の下の山岳戦でしたが、それだけに夕刻になると、東から攻める天狗党はまともに落日に面し、敵を撃つのにこれもなかなかの不利となりました。
これを逆転して勝利に変えたのは、またも老軍師|山国兵部《やまぐにひようぶ》の作戦でござりました。
兵部は、大砲を右側の山にひきずりあげ、敵の神経をそちらに集めておいて、六十人ほどの決死隊を左の深沢山という山を縫って密行進出させ、渓流を渡り、諏訪軍の側面を衝《つ》かせたのであります。
これは敵も事前に調査して、絶対に通行不能と認めたコースであったといいます。これを指図した山国兵部は、ここがまったく不案内の敵地であることを思えば、実に大変な軍師であったといわなければならない。
冬の太陽は急速に落ちて、ちょうど敵味方の姿も数も判然とせぬ夕闇《ゆうやみ》のころであり、これで敵は混乱状態となり、ついに潰走《かいそう》をはじめました。
実はこの奇襲部隊に私は加わったのであります。隊長は私の次兄武田|魁介《かいすけ》でござりました。魁介このとき三十七歳、水戸藩でも知られた剣術の使い手で、兵部がこの役目を命じたのも当然な男でござりました。
こういうわけで、このいくさそのものには大勝したのですが、ここに甚だ悲しむべきことが起こった。それは不動院全海の戦死であります。しかも異様な戦死であります。
いま申したように、私は挺進部隊に同行していたから、それを見ていないのですが。――
全海入道は、天狗党の一番後方にいた。――といってこの豪快な坊さまが、すき好んでそんなところにひっ込んでいるわけがない。実は、うしろから幕軍が接近中だという斥候の急報があったので、それに備えて、三国志の張飛《ちようひ》のごとく棍棒《こんぼう》を横たえて、背後にむけてにらみをきかせていたのであります。
聞くところによると、その戦死の状況は次のごとくでありました。
その近くに、例の人質の二挺の駕籠が置かれてあり、それを金次郎らが監視していた。もし天狗党が敗北するならば、その人質を刺し殺せ、という命令も下っていたそうでござります。
ところが、その幕軍がなかなか姿を現わさない。一方で前線のいくさは苛烈《かれつ》をきわめ、いちじはこんどこそもう駄目《だめ》か、と思われたほどの戦況で、後方に備えたこの連中も祈るように銃弾や喚声のひびきに耳をすまし、いつしか背後をふり返る者もないようになっていた。
と、その中で、女のさけび声が流れた。はっとしてふりむいた人々は、峠をトットと東へ駈けてゆくお登世と、それを追っかけている金次郎の姿を見た。さけんだのは、駕籠の中のおゆんでありました。
気がついたときはこの両人はもう一町も離れていて、しかもさらに向こうに、明らかに味方ではない一団が出現して、十数挺の鉄砲を構え、銃口をこちらに向けているのが見えた。
――追跡軍だ!
と、みな全身の毛穴がそそけ立つのをおぼえたが、とっさには身動きできなかった。驚愕《きようがく》したせいもありますが、そっちへ二人が駈けてゆくわけがわからない。
――人質が逃げて、それを金次郎が追っているのだ!
と、事態をのみ込んだものの、さて向こうの鉄砲がこちらを立ちすくませてしまった。と見るや、敵は路上に半円をえがいた陣形のまま、二人を呑み込むように前進して来る。
「市川だ!」
一人が、絶叫した。
「三左衛門だ!」
みな、髪の毛も逆立つ思いがしたと申します。
まだ相当の距離があったのに、忘れてなろうか、それは面長《おもなが》の銅の仮面のような怨敵市川三左衛門でありました。彼が天狗党を追って来ているということはすでに承知しておりましたが、その顔をまざまざと見たのはこのときがはじめてでありました。それにしても水戸の一家老でありながら、信州のここまで追って来るとは何たる執拗《しつよう》さよ!
反射的に一同は銃をとりあげました。どっと数人、駈け出そうとしました。
「待てっ」
雷《らい》のごとくさけんだのは全海入道でありました。
「あの二人を殺してはならん! おれがゆく!」
と、手をふってみなを制し、一人、魔風《まふう》のごとく駈け出しました。
なるほど、へたすれば、人質のみならず金次郎まで敵味方の弾丸のいけにえになります。一同が息をのんで棒立ちになっている間に、入道は韋駄天《いだてん》のように飛んでゆきます。
向こうの銃口が乱れました。撃てば坊主よりも人質を撃つおそれがある、ということに気がついたからでしょう。敵は発射せず、六、七人が刀を抜いていっせいに殺到して来ました。
突然、お登世が伏しまろび、折り重なるようにして金次郎も倒れた。何かさけびながら全海はそれを躍り越え、敵へ突撃しました。
砂塵を巻いて凄まじい格闘が起こりました。その渦の中から血しぶきが立ち、まるで氷柱《つらら》が砕けるように何本かの刀身が折れて飛ぶのが見えた。全海の棒の威力です。
この坊さまを今弁慶と呼んではいたが、これほど強いとは思わなかった。……たちまち、六、七人の敵がことごとく打ち倒されたのを見て、味方すらあっけにとられたそうであります。
もっとも全海入道も、その袈裟頭巾《けさずきん》は真っ赤になり、黒い衣《ころも》からも雨のように血のしずくが垂れておりました。しかも彼はなお、市川三左衛門めがけて突進した。
さしもの三左衛門も狼狽の態で、身をひるがえして逃れようとする。あとに残った七、八人の敵が狂気のように射撃した。
全海は立ちどまり、しばらく仁王立ちになっていましたが、数秒後、地ひびき立てて倒れました。
はじめて味方も、呪縛《じゆばく》を解かれたように走り出した。そしてそこへ駈けつけたときには市川三左衛門をはじめ敵の姿はみな消えていた。追っかけてみたが、もう敵の影は一切見えなかったと申します。
全海入道の満身は、敵の乱刃と銃弾のために、名のとおり赤不動のようになっておりました。それでも、市川をとり逃がしたことを聞くと、
「残念」
と、うめきましたが、やがて大の字になったまま夕焼けの空を見て、
「丑之助、いって抱いてやるぞ」
と、笑い、持っていた丑之助の遺髪を同志に託し、それから詩を吟じ出しました。
「朗吟|槊《さく》を横たう陣頭の月
気は圧す四囲十万の軍……」
声は急速に弱くなり、ついにこの天狗党|名代《なだい》の豪僧は息をひきとったのであります。実に、少年野村丑之助の戦死後四日目のことでござります。
天狗党中の名物男であっただけに衝撃は大きく、みな、これがあり得ることかと茫然《ぼうぜん》としていたが、やがて一同の眼は、この悲劇を招来した張本人、市川三左衛門の娘お登世にぎらと向けられた。
このとき武田金次郎は、お登世をかばうようによりそい、両人蒼白な顔色で立ちすくんでおりましたが、突然、金次郎が異様なことをさけび出した。
「おれが逃がしたんだ! あそこに、市川が来たことがわかったから、おれが逃げろといったんだ。いや、おれが連れていってやろうとしたんだ。われわれが敗北するからって、この娘を殺すことはない!」
すると、お登世がはげしく首をふり、これもさけび出しました。
「いいえ、ちがいます! わたし一人で逃げ出したんです。いえ、父にこれ以上天狗党を苦しめないでといいにゆこうとしたんです。罰するなら、わたし一人を罰してください!」
このことについて訊問する余裕は、そのときはなかった。それはいくさが最高潮、というより、味方が敗れるかもしれないという危機が見えた夕方のことだったからでござります。
そしてまた、この天狗党長征における最大の戦闘が勝利に終わったことを知ったのは、それからほんのしばらくの後でありました。
われわれは、潰走する敵を追って、いっきに下諏訪まで峠を下りました。
下諏訪は、当時から名高い湯の町でありました。しかし、もとより湯にはいるなどという悠長《ゆうちよう》な真似はしていられない。全軍到着したのは午後十時ごろでしたから、湖さえも見ることができなかった。
潰走した敵はもとより、町の住民全体が逃げ去って、われわれは無人の家々に宿泊したのであります。
和田峠の戦いのあと、全海さんの戦死を知って、私は眼がくらむ思いがしました。奇襲の苦労も、その結果の勝利も、ぜんぶ無駄《むだ》になったような気がしました。
夜の峠に松明《たいまつ》を燃やし、全海和尚はじめ味方の戦死者を葬っているときから泣きはじめ、下諏訪に着くまで私は嗚咽《おえつ》しつづけました。
ですから、そのときは、全海入道が討ち死にするに至った顛末《てんまつ》はよくわからなかった。ただ、全海さんが死んだ! 全海さんが死んだ! という声ともつかぬ声が、風みたいに耳に鳴りつづけているばかりでありました。
それでも、諏訪の宿《しゆく》につくと、何しろ昼間、例の奇襲部隊に参加した疲労が、どっと出て私は死んだように眠りこけました。
しかし、幹部連は、この夜も晩方近くまで軍議をひらいたらしい。そして、その座に金次郎も呼び出され、烈しい査問を受けたということであります。
金次郎は、ここでまた自分がお登世を逃がそうとした旨を述べ、父親の――私にとっては長兄の彦右衛門はみずから成敗《せいばい》するといきまき、それを藤田小四郎が何とかなだめたということであります。
結局彼は許された。
それは、とにかく彼はまだ十七歳であるということや、耕雲斎の嫡孫であるというような理由もあったからでしょうが、それより、この夜はもっと重大な軍議の必要があったからでした。
ついでにいえば、逃亡を計ったというお登世もそのままになりましたが、それは市川三左衛門自身信州まで追って来ているという事実がいよいよ明らかになった以上、やはり人質として捕えたままにしておいたほうが好都合だという山国兵都の意見によるものであったということでござります。
さて、その夜の重大な軍議というのは、これからの進路をどうとるか、ということでありました。望月から和田峠を越えるまでは中仙道一本しか道はなかったが、下諏訪へ出ると、ここから道は二つある。一つは塩尻《しおじり》へ西進して木曾《きそ》街道を通過する道であり、もう一つはこのまま南下して天竜《てんりゆう》川沿いに伊那路《いなじ》を通過する道であります。
結局、木曾路はつまり中仙道ですから、その日のいくさを見ても明らかなように、やはり抵抗が大きいだろう。とくに木曾には福島《ふくしま》という大きな関所がある。この際は伊那路をとったほうが賢明だ、ということになったのですが、この問題で一人、幹部の脱落者が出た。
下野《しもつけ》の梁田《やなた》に泊まったとき、お登世に斬りつけた少年鶴太を始末した薄井《うすい》督太郎という人であります。
これはその際申したように水戸人ではなく、もとは信州浪人で――あの田中平八も飯田出身でしたが、偶然この薄井も飯田の人でした。やはり貧しい商家の生まれで、これが志を立てて江戸に出て佐久間象山の門にはいり、また京へいって頼三樹三郎《らいみきさぶろう》の弟子になったりして、あっぱれ天下の志士となった。頼三樹三郎が安政《あんせい》の大獄《たいごく》で斬られたとき、小塚原《こづかつぱら》でその屍体の後始末をしたのはこの薄井であります。そして、筑波の義挙には最初から参加して、以来一党の参謀の一人となっていた。
これが伊那路をとることに猛反対しました。伊那路には故郷の飯田があるからであります。いままでの経験からみて、へたをすると飯田も戦場となり、焼け野原になるおそれがあるからであります。
しかし彼の木曾路説はしりぞけられ、その夜のうちに彼は姿を消しました。天狗党の幹部の脱走は、これがはじめてでござります。
脱走したところで生命の保証はない。まして幹部であった人間がしょせん無事であるはずがない、と思われたのですが、結果論的には、彼はまんまと生きのびました。
しかも、維新となるや、名も薄井龍之《うすいたつゆき》と改め、北海道開拓使の役人として姿を現わし、札幌建設にかかわり、町の一角に自分の姓の一字をとって薄野《すすきの》とつけた。いま薄野といえば札幌の有名な歓楽街となっておりますが、この人は天狗党より、変なことで自分の名の一部を残したものです。
いや、こんなことをいうと叱られるかもしれない。この方はその後裁判官になられ、ただいま名古屋裁判長という私の大先輩になる地位にあられる方ですから。――しかし、何にしても、天下の糸平とならんで天狗党列伝中、異色の双璧《そうへき》でありましょう。
翌二十一日、天狗党はまた鬼神のごとく進軍の歩を踏み出しました。
思いがけずこれ以後、まるで無人の境をゆくような行軍でござりました。
和田峠の勝利は、当然沿道諸藩を改めて恐怖させたのでござります。諏訪・松本両藩連合軍でも粉砕されたのだから、なみたいていの力で防禦《ぼうぎよ》できるわけはない、と、みなすくんでしまったのであります。無敵天狗党、という風評さえ伊那谷にとどろき渡ったようでありました。
もっとも、もう大丈夫という保証は全然ありません。ないどころか、実は高遠《たかとお》藩などいちど出動したのですが、家老の子息で岡野元蔵という人が物見に出て、天狗党の斥候を見ただけで仰天し、落馬して捕虜になり、金とひきかえに、襦袢《じゆばん》とふんどしだけの姿で追い返されるというていたらくで、天狗党が通過したあとで、だいぶたってから大砲を三発撃っただけであったそうでござります。
いたるところ、ゆくての町や村で半鐘が鳴っているのが聞こえる。しかし、いってみると逃げ去っているのは武士ばかりで、住民の大半は残って、われわれに小旗でもふらんばかりでありました。これはそれまでに見られなかった光景でござります。どうやら天狗党は、敵対しない以上、焼きも殺しもしない。少なくとも多少の金さえ出せば乱暴はしない、ということがわかって来たようであります。
その雰囲気がこちらにもわかって、隊士の中には宿場宿場で女を買うやつも出て来る。士気のこともあって、幹部連もこれは黙認するどころか、その費用さえ出してくれた。
その金はどこから出たかというと、ゆく先々の宿場に、国恩冥加《こくおんみようが》のためと称して献納させた軍資金です。のちに知ったところによると、伊那路だけでも八千五百三十三両召しあげたということです。
客観的に見れば、ていのいい大強盗団であったかもしれません。しかしわれわれはその意識は全然なかった。まったく義軍の上洛費だと信じて疑わなかったのです。それに八千何百両といっても、大変な額にちがいありませんが、隊士が千人前後あったということも考える必要がある。一人あたまにすれば八両と若干《じやつかん》でござります。
とにかく住民に被害は与えてはならないという意識はあって、右の女郎屋でも、無銭遊興はきびしく禁じた。その金は右の徴発金なのですから、考えてみればおかしな話ですが、少なくとも踏んだり蹴《け》ったりではない。
「水戸の天狗に刃向かう奴は、出らば出て見ろ、ぶッ殺す」
あるいは、
「朗吟|槊《さく》を横たう陣頭の月
気は圧す四囲十万の軍」
など高唱しつつ進むこの前後の天狗党の中にあって、しかしひとりだけ、もの哀しそうに歩いている者がありました。武田金次郎でござりました。下諏訪を出立したころは、私も黙りがちでした。私も、全海さんの死で胸が一杯だったのです。ひいては丑之助のことも頭に浮かび、もう京都へゆくのも意味がないように思うほど、悲哀につつまれておりました。そして、金次郎も同じ心境だろうと考えておりました。
しかし、数日たって、そうだ、全海さんは丑之助を抱いて、二人の魂はいっしょにわれわれと歩いているのだ、と考え、私が何とか気をとり直しても、金次郎のほうは依然物思わしげです。
そのころには、全海和尚の戦死前後のいきさつが私の耳にもはいり、また金次郎が下諏訪で査問を受けたこともわかって来ました。
それでも何だかよくわからないふしもあるが、どうやら金次郎は、逃げようとしたお登世をかばったのではなく、自分のほうからお登世を逃がそうとしたのではないか、と私には感じられたのであります。そのことは前に私が、金次郎に持ちかけたこともある思いつきなのです。
しかし、それはただ、あの娘が可哀そうだという感情からのことでした。そして、私より心やさしい金次郎も同じ思いからやったことに相違ない、とはじめ考えました。
ところが、すぐそのあとから私は、どうもそれだけじゃないらしい、と、感じ出したのでござります。では、それが何か、というとわからない。しかも、なぜか詳しいことを金次郎に訊くのが怖ろしい。……私は十五歳でござりました。
天竜川に沿って、砂塵をあげつつ天狗党の行進はつづいております。私は、ちらちらと金次郎のほうを見ました。と、ふしぎなことに、それまで憂わしげに見えた金次郎の横顔が、何かのはずみに夢みるようにも見えるのです。その身体には、砂塵ならぬ靄《もや》のようなものがまつわりついているような感じがしました。私は、それまでいちばん身ぢかだった金次郎が、急に私の知らない――大人の別の世界の人間になったような気がしたのであります。
奇妙なことに、一応の危険が去った、と思われるこのころから、天狗党にやや隊規の乱れが生じはじめました。
那珂湊を脱出したときからでも、ちょうど約一ト月、以来、全体力、全神経を張りつめて不眠不休の旅をつづけて来たのだから、人間として無理もない現象ともいえますが。――
われわれは、二十四日、飯田を通る予定でありました。ここは堀《ほり》藩一万七千石の城下町だけに、そのため数日前から疎開騒ぎまで起こるほどの大混乱であったそうでござります。
その飯田の名主や問屋から――おそらく堀藩の指令で――城下の大手先町を避けてくれるなら二千両献上するというので、こちらはわざと町を遠廻りして通過しました。また、さきに薄井がひどく心配していたということもあります。そして、その夜は、その南三里――下諏訪から二十里の駒場《こまば》に泊まりました。
ここはその昔、わが武田一族の遠祖武田信玄が上洛を果たさず陣歿《じんぼつ》した村であります。そのことを父の耕雲斎から聞き、妙な気分になっているところへ、二人の隊士が行方不明になっていることが伝えられた。藤田小四郎が大変信頼している筑波以来の同志、片波見《かたばみ》新蔵、高橋賢治という若い浪士でござります。
これが駒場に着いてみると、姿を消していた。「あの二人にかぎって脱走するはずがない!」と、小四郎が断乎《だんこ》としていい、しかし現実にいないのだから、ちょっとした騒ぎになりました。
ところが、その翌二十五日朝、出発時になると、両人が忽然《こつぜん》と現われておりました。そして、しゃあしゃあとした顔で「実は昨夜飯田に寄って、二本松の遊廓《ゆうかく》で遊んで来た」と白状したから、みな唖然《あぜん》とした。
「しかもじゃ、揚代《あげだい》を払おうとしても、そんなものを頂戴してはバチがあたる、といって、どうしても受け取らん。そんなことはどうでもいいが、とにかく廓《くるわ》へ上がってこれほどモテたのは、臍《へそ》の緒《お》切ってはじめてじゃ。わはははは」
と、哄笑《こうしよう》するのを聞いていた小四郎が、ふいに、
「こやつらを縛れ」
と、命じました。
あっけにとられた顔のまま縛られた二人は、急にわめき出した。
「藤田さん、女郎買いは禁制になっておらんはずだぞ。……だいいちわれわれは、今日もちゃんと行軍に従う。党に迷惑は断じてかけん!」
「あれほど苦労した隊士を、こんなことで縛るとは、これからの士気にもかかわる。こ、この縄は何だ!」
これに対して、小四郎は、
「軍律違反だ」
と、答えました。
「なに、どこが軍律違反だ」
「無断離脱と、無銭遊興と――よし、出発しろ!」
と、彼は手をふり、天狗党は行進を始めました。
駒場をまっすぐに南へ進めば三河《みかわ》にはいりますが、われわれは北西への道をとり、ゆくては清内路《せいないじ》でありました。
実は三河にはいるつもりで駒場まで来たのですが、その先の浪合《なみあい》の関所の庄屋が必死の顔でやって来て、道の険阻と尾張藩の鳴動ぶりを吹きたて、かつは木曾谷は水戸学の信者が多いことを力説したので、木曾へ廻ることに急に予定を変えたのでござりました。――ここにかぎりませんが、こういう出たとこ勝負の行軍が、どれだけ敵を奔命に疲れさせたかわかりません。
縛られた片波見、高橋の二人を見て、私は心中、気の毒に思う一方、いい気味だとも思いました。それというのは、こういうわけがあったからでござります。
前に申したように、大子《だいご》出発以来、人質の女人二人の監視及び世話は、金次郎と私と丑之助がやることになっておりました。三人が少年であることが見込まれたのでござります。ところが、そのうち丑之助は上州で死んでしまいました。加うるに、下諏訪で、お登世が逃亡を計るという事件が起こった。お登世が逃亡を計ったのを金次郎がかばったのか、それとも金次郎がお登世を逃亡させようとしたのか、そこはよくわかりませんが、とにかく幹部連は不安感をいだいたのでしょう。また日中行軍した夜、いくら交替するにせよ二人の少年だけで見張らせるということは、やはり無理だと判断したのでしょう。伊那路にはいってから、とうとうほかに大人の隊土も、何人かこの役を勤めることになりました。それらが私たちと組むこともあり、また彼らだけが二人相棒となることもありました。
すでに人質の正体を知っている連中の中から藤田小四郎が選んだもので――片波見新蔵も、高橋賢治もその中にはいっておりました。
これが甚だ感心しない。下諏訪以後の、松島とか、上穂とか、片桐とか、どこの宿場であったか、私は片波見と組んだことがあるのですが、これが人質の、特におゆんと、いかにもなれなれしく話す。――どうやらおゆんが府中の遊女屋にいたころからの知り合いらしい。
またそのおゆんが、平気で彼と話し合う。それどころか、片波見を自分のほうから呼び寄せて、何かささやくのです。いえ、二人の話していることの内容は、当時の私にはよくわからない。わからないなりに、胸がドキドキせずにはいられないような会話なのです。
いったいお登世はどうしているのだろう? と気がかりで――交替だから、私は寝ていいのですが、眠られないので、隣りでイライラしていると、
「源五郎君、起きてるか?」
と、片波見が訊き、こちらが憤然として、
「起きています」
と、答えると、
「それは困ったな。あはははは、子供は早く寝ろ寝ろ」
と大笑いし、またヒソヒソと話をはじめる。
私は、金次郎と二人でこの役をやっていたときより不眠症におちいりそうでした。
そして、金次郎も同様の状態だったらしい。彼と組んだのがすなわち高橋賢治だったのです。
「あんな男を、見張らせるなんて!」
と、金次郎は顔を赤くして憤慨しておりました。
「いや、あんな男が天狗党にいるなんて!」
考えてみると金次郎だって、お登世を逃がそうとしたのか、かばおうとしたのか、いずれにせよ不可解な行為があったのですが、そのことは頭に浮かばなかったらしい。私もそのことは連想しませんでした。二人で怒っていることの性質がちがうのです。
「斬るべきだ!」
金次郎はそんな激越なことまで口走りました。
「あの男ばかりじゃなく、あの女も。……田中平八が、あれは魔性《ましよう》の女だといったがほんとうだ!」
――そんな二人の浪士があったのでござります。
さて、天狗党は、駒場から清内路へ向かった。清内路は、伊那谷の南端から木曾へはいる道であります。その道をとったことで、ある悲劇が起こりました。
ご承知か知りませんが、駒場から清内路へゆくには、当時は飯田方面から来た道を半分ほど、山本という部落までひき返さなければなりません。で、そのため飯田には、せっかく通過した天狗党がまたひき返して来る、という知らせが走って、ふたたび大騒ぎとなりました。
ここにそのころ飯田で油屋をやっていた桜井弥右衛門という人が親戚に知らせた手紙の写しがありますが、それには、堀藩の侍たちがあわててまたお城に集まるのに、鎧《よろい》かぶとは着けていても刀を忘れた者、陣羽織を裏返しに着た者等、「総家中《そうかちゆう》、ことごとく驚きいり、半死半生の態《てい》」とあります。一面では、侍を揶揄《やゆ》的に見ていた町人の心理も類推される。
しかしわれわれは、山本村から北西へそれて、木曾山脈を越える清内路へはいったのでござります。
ここには、飯田の堀藩預かりの清内路関所というものがござります。
清内路は大変|険阻《けんそ》な道でありました。いったい木曾路より伊那路のほうが谷が広いのに中仙道が木曾を通るようになったのは、伊那と美濃との間をこの清内路がへだてているからではないか、と思われるほどの大難所でございました。
それはともかく、逃げもかわしもならぬ、というのはこのときの関所役人でありましょう。ここに詰めていたのは堀藩の藩士斎藤長右衛門、合田|肇《はじめ》と、その他侍、足軽二十八人でしたが、全員刀と槍をとり、決死の顔色で天狗党を迎えました。
これに対して、藤田小四郎は朗々と呼びかけました。
「われら天狗党、御藩にご迷惑をかけざるように志して参ったが、はからずも昨晩、同志中の二人が飯田城下で無銭遊興という軍律違反の所業を行ないました。おわびまでに、ここで両人の首|刎《は》ねてご覧にいれる」
そして、虎勇隊長三橋半六と義勇隊長朝倉|弾正《だんじよう》が進み出て、関所前の地べたにひきすえられた二人の背後に立ちました。
ここに来るまで縛られたことさえ心外な顔をして歩いていた片波見と高橋は、途中でこのことを知らされて、
「なに、女郎買いしただけでおれたちは処刑されるのか。ば、ばかな!」
「ほんとうにやるつもりなのか。それがこれまで懸軍万里、奮戦力闘して来た士への報酬か!」
と、仰天し、かつ悲鳴をあげてもがいておりましたが、やがてそれがほんとうのことだと覚悟したらしく、しだいにしんとして考え込んでおりましたが、やがて二人、こもごも、
「藤田君に伝えてくれ。おれたちが誤ったというなら、誤らせたのはあの女だ、と」
「あの女が、なけりゃ、おれたちも女というものを思い出しはしなかったんだ。そう藤田君にいってくれ」
と、妙にしみじみした調子で述懐したそうであります。
そしてこの清内路関所で断頭の座にすえられて、二人はこがらしの風音の中に、うす笑いさえ浮かべて斬られました。
どういう心境であったか、いまの私にも見当がつかない。
それをまた、関所役人もどう見たか。……彼らは何の抵抗もなく、われわれが関所を通るのを許しました。
まかりまちがうとまた味方に何人かの怪我人が出ずにはいられないところだったのですが、そこまで考えて藤田が二人を処刑したのかどうかわかりませんが、とにかくその凄まじさに相手を気死させたことだけはまちがいない。
われわれは清内路を越えて、右は山の断崖《だんがい》、左は蘭《あららぎ》 川《がわ》の渓流に沿うつづら折りの山道を、途中からふり出した雨にぬれながら、木曾へ向けて粛《しゆく》 々《しゆく》と進軍してゆきました。
……さて、のちに知ったことですが、われわれが飯田を通過したあと二日目の二十六日に、幕軍がドヤドヤと飯田にはいって来た。その行状についての記述が、やはり右の油屋桜井弥右衛門の手紙にあります。
「……諸々の茶屋などへ参り難題申しかけ、人々を鉄扇などにて打《ちよう》 擲《ちやく》いたし、賃金も払わず食い逃げ同断のありさまにて、町の女子供までも歩兵組をことごとく憎み候。いまとなりては水戸浪土方を大切に存じ、風聞もよろしく御座候」云々。
そのくせ幕軍は、天狗党には決して追いつかない。げんに和田峠でも、挟み討ちにしようと諏訪・松本両藩を督促しながら、ついに知らぬ顔の半兵衛で通しました。
また、これは十二月になってからのことですが、この清内路関所の斎藤長右衛門は、なすところなく天狗党を通したという罪で切腹を命じられ、合田肇はいったん逃亡したが逮捕されて斬首されるという気の毒な運命におちました。そして堀藩も二千石減知され、清内路関所預かりは召しあげられました。
ところが、その前に、天狗党が通過したあと、冗談のように大砲を三発撃っただけの高遠藩は、その闘志|嘉《よみ》すべきであると、代わってこの関所預かりの恩命に浴し、あの落馬して捕虜になった家老の息子岡野元蔵がその奉行になったというのだから、天狗党もとんだ悲喜劇のたねをまいていったものであります。というより、世の中にはほんとうに、漫画よりもつじつま[#「つじつま」に傍点]の合わないことが実際に起こるものです。
すべて、伊那路まで乗り込んで来た田沼玄蕃頭のやった処置でありました。
十一月二十六日、われわれは馬籠《まごめ》に宿泊いたしました。
――実は私、数年前しばらく東京の裁判所に勤務しておりましたころ、明治女学校の教師の島崎春樹という人と知り合いました。知り合いといっても、非常に若くてそのころまだ二十歳《はたち》過ぎの人でしたが、とにかくこの島崎君が木曾馬籠の本陣の子息だと知って、大変懐かしく思ったことでござります。
もっとも島崎君は、たしか明治五年――この天狗党騒ぎのときから十年も後に生まれられたそうですから、実際にはご存知ない。ただ父親の吉左衛門氏が、生前なんども、馬籠に天狗党が来たときのことを物語られたとかで、それによっても、いかにこの事件が木曾一円の大事件であったかがわかる、と申されておりました。その父親の話のあまりに印象深いところから、島崎君は――将来何とか小説家になりたい、という希望を持っておられましたが――いつの日にか、そのことを小説に書いてみたい、といわれ、さらには幕末の木曾谷を書いてみたい、その題は「夜明け前」としたい、とまで情熱的に申されておりました。
何でも当夜は、本陣の主《あるじ》たる父君は、以前から国学に心を傾けていた人ほどのことはあって、天狗党としみじみと話し込まれたそうで、そのとき浪士の一人が残していった歌も書きとめ、まだ家に残っているとかで、その一首はこういうものであったそうでござります。
「木曾山の八岳《やたけ》ふみこえ君が辺に草むす屍《かばね》ゆかむとぞ思う」
思い出せば、まことに天狗党は、夜明け前の地平線を行進する黒い群像でござりました。ただし、太陽が上って来たとき、それはことごとく草むす屍となっていたのでござります。
馬籠の宿《やど》りは珍しく静かなものでありました。とはいえ、依然、村々の処々に篝火《かがりび》を焚いて浪士が警戒をおこたらなかったことはいうまでもありませんが――冬の木曾には珍しく、雨までふっておりました。
しかし私は、残念なことにその島崎君のご父君のお顔などまったく記憶しておりませぬ。それは、その静かな馬籠の一夜、ほかに甚だしく心を乱されたことがあったからでござります。
清内路で冷雨に逢ったからでしょう、もともと身体のあまり丈夫そうでないお登世が、宿に着くなり発熱しました。で、本陣の心づくしで、お登世はおゆんとは別室に寝かされ、医者まで呼んでくれ、あと私一人がその世話をまかされた。一方、金次郎は、おゆんの見張りを命じられました。
これは幹部連が何か考えるところがあってというより、偶然のことだったろうとは思うのです。――しかし、とにかくその夜にかぎって、一人対一人の分担となりました。
それまで人質の見張りを命じられていたほかの連中も、その夜は軍議に連なりました。軍議は、美濃にはいってからの道程をどうとるか、というこれまた重大なものであったそうでござります。
医者の薬のせいか、熱のせいか、お登世はスヤスヤと眠っておりました。私は医者に命じられたとおり、そのひたいにのせた濡《ぬ》れ手拭いを、三十分おきくらいにとりかえてやりました。
この一ト月ばかり、昼も夜も同行しながら、ほとんどまともにその顔を見たこともなかったのですが、この晩ばかりは、顔色で熱のようすを見るためもあって、暗い行灯《あんどん》のひかりに、しげしげとのぞきこむ機会がありました。白いひたいに細い眉、とじられたながいまつげ、少しひらいて、やや短めに息をもらしている小さな唇《くちびる》。……
――ああ、きれいだ。
と、私は心から讃歎を禁じ得なかった。
しかもお登世は、あんな旅の苦難をなめながら――駕籠にも乗っていられない山坂の旅が大半だったのです――出発したころにくらべ、やつれはひどくなっているはずなのに、さらに美しくなったようでした。その美しさが、急に深まって来たようなのです。私より二つ年上の十七歳ですが、いつのまにかそれよりもっとおとなに見えて来たのです。
――これがあの怖ろしい市川三左衛門の娘だとは?
と、改めて奇怪にたえず、また、
――いったいこの娘は、これからさきどうなるのだろう?
と、考えると、心臓も痛くなるようでした。
われわれが念願どおり京にはいって、人質が用済みとなったら、天狗党はどう処置するつもりか。あるいは今後天狗党が破局の運命を迎えるような時が来たら、どうするつもりなのか。
あれこれ思っても何とも判断つかず、そのうち考え疲れ、また病人がおとなしく眠っているのに誘いこまれて、私は壁にもたれて眠ってしまいました。
突然、声が聞こえた。
「金次郎さん……金次郎さん」
お登世の声でした。
「金次郎さんを呼んで来て」
お登世は、眼をつぶったままいうのです。はじめ私は、お登世のぽうっとあからんだ顔色から、熱にうかされているのか、と思いました。が、呼んで来て、といっている以上、うわごとではない、と気がつきました。しかし、ただならぬ様子であることにまちがいはない。
どういうわけか、私は――私も、理由は訊かずこれは金次郎を呼んで来なけりゃいけない、と思い込みました。それで、あわてて、金次郎のいるはずのおゆんの部屋の方角へ廊下を駈け出しました。
障子をあけようとして――私は、一応、呼びました。
「金次郎、おい、金次郎」
すると、数十秒たってから、
「なに?」
と、変な返事が返って来ました。なぜか遠く、しかも狼狽《ろうばい》した声でした。
「お登世さんが呼んでいる」
これに対しては、応答がない。障子に手をかけると、まるでそれに眼があるように、
「あけちゃいけない!」
という声が遠くから飛んで来ました。
「いま、ゆく。……」
まるで病人のようなあえぎ声です。ここにも何だか異変が起こっている――と、やっと気がついて、廊下に立ちすくんでいる私の耳に、次に聞こえて来たのは、なんとおゆんの笑い声でした。何かいたずらをしたのを見つかった少女のような、また相手をからかっている年増おんなのような――ふしぎな高笑いでありました。
やがて、障子があいて、金次郎が出て来ました。
「お登世さんが、どうしたって?」
彼はかすれた声で訊《き》きました。
こんどは私が黙る番でした。
いまひらいた障子の間から、ずっと奥のほうに夜具が見えた。そこから白い腕が一本だけ出ているのが見えた。それがなぜか、おゆんがまるはだかでいるような、なまなましい直感を与えた。
いえ、それはほんの一瞬のことです。それより私の眼を洞穴《ほらあな》みたいにさせたのは、金次郎自身の姿でした。といって、べつにふだんとどう変わっているというのではない。ただ、幾分髪が乱れ、こころもち衣服が乱れている程度ですが、それにもかかわらず、実に異様な――さよう、惨気、とでも形容するしかないものが全身にまつわりついているのです。
「お登世さんが、どうしたというんだ?」
もういちど繰り返す金次郎の口の中から、歯がカチカチ鳴る音さえ聞こえました。
「呼んでるんだ」
私は馬鹿みたいに同じことを答え、しかし、あとは二人、口もきかず、足早に歩き出しました。お登世の部屋にはいると、彼女は眼をあけて、
「何だか、変な気がして、ちょっとお顔を見たくなっただけなの。すみません。……」
と、恥じらったように、また安心したように微笑しました。
金次郎は怒りもしませんでした。ただ黙ってうなずいただけでした。私もなぜか、べつに拍子《ひようし》ぬけもしませんでした。何か大変なことが起こった、という意識がありました。お登世はうわごとをいったのではない。どういうわけか彼女はそれを感得《かんとく》して、おびえて、金次郎を呼んだのだ、と感じました。
しばらく坐っていて、やがて座にたえぬかのように、金次郎は廊下に出て、追って出た私に、「余分の蒲団はあるか。今夜はここで寝ることにする」と申しました。
「いいのか、あっちは?」
と、私もかすれた声でいいました。
「いいんだ」
「わかったら、叱《しか》られないか」
「処罰されてもいい」
「おゆんさんと、何かあったのか?」
何かが起こった、とは感覚しているものの、それがまったく見当がつかない。十五歳なればこその問いでありました。金次郎の顔はぱっと赤くなりました。唇は動いたが、声は出ませんでした。
遠くでまだ酔った声が聞こえました。軍議とは別に、酒盛りをやっている連中があったのです。それでも、これまでにくらべては、静かな夜でした。昼間からふりつづいていた雨の音はいつしか消えていました。それが雪に変わっていたことを知ったのは、その翌朝であります。
二人は、黙ってそこに立ちつくしておりました。
何が起こったか、見当がつかない、と私は申しましたが、実は漠然と私はそれを感づいていたのです。しかし、それがどういうことか、具体的な影像をえがくことができなかったのも事実です。そのくせ私は、胸がドキドキしておりました。――あのときの変な感じを、変な感じとして思い出すだけで、十五歳の心理を、いまとなってはかえって説明できませぬ。
この木曾馬籠の一夜のことは、父にも兄にも、だれにも申しませんでした。本陣の人々も知らなかったでしょう。
翌二十七日、うすく積もった雪の道を西へ向けて天狗党はまた出立しました。お登世は昨晩よりよくなっていましたが、まだ熱はあるようでした。それでも旅立ってゆかなければならないのです。
白い十曲峠を上りながら、金次郎がささやきました。
「源五郎、僕は脱走するか……ひょっとしたら、死ぬかもしれない」
彼のほうが病人みたいな顔をしておりました。
「しかし、その理由を訊かれても、知らんといってくれ」
この途方もない言葉に、なぜ、とも訊かず、私はワクワクして答えていました。
「そんなことをしたら、あと、あの人質はどうなる?」
「おゆんなど、死んでしまえ」
私は、出発時、駕籠に乗るおゆんをちらと見たことを思い出しました。いつものとおり、愛嬌《あいきよう》よく微笑《ほほえ》んだ顔でしたが、実に何とも怖ろしい感じがした。
「お登世さんもか?」
金次郎は黙りこみました。
「天狗党が無事京へ着いても、途中で破滅しても、あのひとの命はあぶない。それを僕たちは守ってやる義務があるとは思わないか?」
雪はまばらでしたが、身を切るような寒風に乗って烈しく吹きつけておりました。天狗党が行軍中、はじめて逢う雪でありました。
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幾個《いくこ》の男子これ丈夫
十曲峠はその名のとおり、峠の道が稲妻のように幾曲がりもしているからつけられた名前でしょうが、また土地の人は十国峠《じつこくとうげ》とも唱えております。その頂上に立てば十国が見えるからだということで、いずれにせよ、それほど嶮《けわ》しく高い峠でありました。
木曾側からこれを越えると、美濃国《みののくに》でござります。ついに、というべきか、やっと、というべきか。何にしろ、京はあとひとがんばりだ、という実感が湧《わ》いて来て、われわれは勇み立ちました。
実は、天狗党二百余里の旅で、これから最大の難行軍《なんこうぐん》が待ち受けていたとは知らず。――
勇み立っても、実はわれわれの姿はひどいものでありました。何しろ、夜を日についでの旅です。しかも、なんどか戦闘をまじえている。風雨にさらされ砂塵《さじん》にまみれ、入浴したり洗濯《せんたく》したり、さらには繕《つくろ》いなどするゆとりはまったくない。よほどの場合は、途中で手にはいるかぎり衣服をとりかえた者もありますが、とりかえたところですぐに風雨と砂塵にいたみ、またそのことがわかっているから、そのままにしている者が多い。
さきに、野州でしたか、天狗党の堂々たる軍容を、宿場役人の報告書で紹介いたしましたが、ここでは、この濃州にはいってからのわれわれの姿を、当時の風聞書でお察し願いたい。
「……浪士ども数度の戦争、かつ昼夜となく横行つかまつり候ゆえか、顔色いずれも憔悴《しようすい》、生色はさらにこれなく候」
と、あります。私の記憶では、憔悴どころか、戸板に乗せられている負傷者や病人も、このころは数十人ござりました。
また、ついでながらこの風聞書には、
「……十二、三歳と相見え候少年、五、七人これあり、いずれも陣羽織を着しあり、見物の者みな、可憐の姿と相ささやきおり申し候」
と、ある。汗顔ながら、私なども彼らには、そう見えたでありましょう。
過労と汚《よご》れのためか、みな殺伐になった。いえ、殺伐は最初からのことですが、それが外に向けてではなく、おたがい同士に爆発することが多くなりました。伊那路あたりから多少軍規が乱れて来た、と申しましたが――またその乱れを、軍律違反の咎《とが》をもって二人の隊士の首をはねるという秋霜の法で、いっときは藤田小四郎が正しましたが、すぐにまた、身心の苦しみや不満が、こんどはおたがいの喧嘩というかたちで現われるようになった。
途中で、刀の鍔《つば》を買った者がある。もう一人の浪士がそれをゆずってくれといい、一分《いちぶ》で売る約束をした。ところがそのあと別の浪士が一分二朱で買うといったので、そっちのほうへ売ることにした。これで最初の男が怒り出し、鍔を売るといった男と、行軍中斬り合うという騒ぎを起こしました。たった二朱のちがいで約束を破るやつも破るやつですが、またたった二朱のことで武士ともあろうものが刃傷沙汰《にんじようざた》を起こすとは、お話にならないお話です。
その騒ぎがおさまるかおさまらないかに、長い行列のべつのところで、三人ずつの集団闘争が始まりました。それは、先をゆく三人の中の一人がふりむいて「いま何どきだ?」と訊いたところが、うしろの三人の中の一人が、めんどうくさそうに、「きのうの今ごろ」と返答したのに立腹したのが、喧嘩の発端だというのだから馬鹿馬鹿しい。
これがどちらも、十曲峠から中津川《なかつがわ》へ至る三、四里の間のことでありました。
当時私は、これはまったくの偶然だと思っておりました。まさに偶然つづいて起こった事件でした。しかし、ある意味では、それは偶然のことではなかったのです。
あとになって考えてみると、喧嘩したのはことごとく人質の番をさせられた人々でした。彼らはもののはずみで争ったのではなく、おたがいに敵意を持っていて、それが機を得て爆発したのでござりました。
喧嘩した連中のこの一致に私が気がついたのは、ずっと後になってのことですが、藤田小四郎がこれを知っていたか。――私はおそらく気がつかなかったのではないかと思いますが――かりに知ったとしても、どうして次のようなことを思いついたかわかりませんが、彼はこれらを隊規違反の罪で罰することはせず、それどころか、大井《おおい》の宿《しゆく》(作者注・今の恵那《えな》市)に着いたとき、盛大に女郎買いを許しました。
藤田は、こんどの行軍中、純潔|清廉《せいれん》の若武者で通していましたが、以前は、奔放闊達な気性もあって、なかなかの遊び手であったのであります。そもそも筑波挙兵の談合を遊女屋で始めたくらいの男なのであります。で、何となくイライラし、トゲトゲしくなった隊員の鬱気《うつき》を吹き払うために、そんな方針を思いつき、田丸|総帥《そうすい》らに進言したのかもしれません。
もっとも大井は、美濃における中仙道で、まあわりに大きいほうの宿場ですが、遊廓というものはない。名目からすれば飯盛女《めしもりおんな》で、しかもむろん千人を処理するなど、とんでもないことです。
それなのに天狗党の幹部は、これを大々的に勧誘したから大変な騒ぎになった。千人全部が希望者であったわけはありませんが、どうも、それまで戸板に乗せられて来た人間で、ムクムクと起き上がって参加したやつもあったらしい。
やはり、このあたりの風聞書に、
「……若武者多きにつき、女のこれある場所にては殊《こと》のほか散財いたし候由。いささかのもの飲食いたし候ても、必ず出銭《しゆつせん》候由」
と、明記してあります。遊興代は必ず支払うことを厳命し、その金は要求者には幹部が手ずから渡したのでござります。
その点はいいとして、私は甚だ感心しなかった。各|旅籠《はたご》の女の部屋の前に、希望者が行列して待っている、というような話が、そのときまでに耳にはいり、わけはわからぬなりに、きわめて憤懣《ふんまん》にたえなかった。
――何が攘夷の同志だ。何が義軍の上洛だ。
私は、天狗党が獣の集団に化したかのように感じました。
その意味のことを口にして、金次郎をふり返りましたが、金次郎はふしぎに黙って空中を眺めておりました。馬籠《まごめ》以来の彼の沈鬱《ちんうつ》はまだつづいていたのです。
ところで、私の不感心は別として、この幹部の大盤ぶるまいは、公平に見て余りいい結果をもたらしたとは思えない。
美濃路にも、伊那、木曾と同じく天狗党の旗風は鳴りひびいていて、ここの女も非常に歓迎してくれたそうでありますが、いかに奮闘しようと、とにかく需要と供給の絶対差はいかんともしがたい。そこで、どこの旅籠でも、またこっちのほうの喧嘩が起こりました。
――百姓は遠慮せい! この次の宿にせい!
と、武士や浪人の隊士が、血相変えて怒鳴りつける。
そのけんまくに、たいていの農民隊士はすごすごと追い払われたらしいのですが、やくざ隊士が承知しない。
やくざ隊士、というのも妙な言葉ですが、筑波のときから天狗党には、少なからぬ遊侠無頼の徒がまじっていたのです。
最初はおそらく、飯は食わせてくれる、威張って刀はふりまわせる、というだけのことで参加したのでしょうが、これが存外よく働いた。斬った張ったの活溌《かつぱつ》な生活が性《しよう》に合ったのでしょう。それにしてもこの連中が、行軍開始以来、目立つほどの落ちこぼれもなく、いっしょにあの山河を越えて来たのはえらい。
これが、「やくざは退《さが》れ」といわれて、おとなしくはしていない。同じ天狗じゃあねえか、と、ひらき直ってタンカを切るやつがある。|二本差し《りやんこ》と|長脇差し《ながどす》とどっちが強いか、表へ出ろ、と、すごむやつがある。実際にやり合って、数人怪我人も出たということです。
しかも、結果のよくなかったのは、この大井の一夜に限らなかった。
そこで差別された不満からか、あるいはしばらくぶりに味わった快楽で、急にいままでの労苦がたえられないものに感じられ出したのか、その翌日、集団脱走事件が起こりました。といっても、十何人かですが、それがぜんぶいわゆるやくざ隊士でした。
これが、追いかけられて、とっつかまった。
藤田や私たちがそこへ駈けつけたとき、とりかこまれ、路上にひきすえられた彼らに向かって、三、四人の侍隊士が説得しているところでありました。
名も記憶しておりますが、安藤|信義《のぶよし》とか、国分雄之介とか、森忠兵衛とかのれっきとした水戸侍で、かついずれも熱血漢たちでありましたが、これらがこもごも、
「うぬら、この一党から離れてどうするか。全軍千人そろってこそ力ある天狗党だ。そこから離脱すれば一匹ずつの虫ケラにひとしい天下のお尋ね者ではないか」
「本来なら、うぬらここで軍律違反で成敗するところじゃが、千人そろってこそ力ある天狗党だということは、なるべく一人の兵力も失いたくないということだ。みんな大事な天狗党の一員だ」
「みんな大義の同志じゃ。京へさえゆけば、烈公のお申し子慶喜公がおわす。われらを罪せられるはずがない! いや、天子さまからご嘉尚のお言葉があるにきまっておる」
「うぬら、必ず水戸の士分にとりたてられて、おれたちとまったく同格の同志となるぞ。自愛せよ、自愛せよ!」
情理かねそなわり、声涙ともに下る演説でありました。
「また万一、これから先、天狗党敗れるときあらば、いっしょに死のう」
「ともにならんで草むす屍《かばね》となろう」
「何はともあれ、今夜、女についてはお前たちに一番|籤《くじ》をひかせる。それでがまんしろ。……」
やくざ隊士たちも、声をあげて泣き出しました。
脱走と聞いて、凄まじい顔色で駆けつけた小四郎ですが、この訓戒を聞き、この光景を見ると、微笑して、「よかった、よかった」と、うなずきながらひき返してゆきました。
その夜の宿営は、大井から八里二十一町の御嵩《みたけ》でござりました。ここもわりに大きな宿場ですが、昼間、今夜の女の一番籤とか何とかいったようですが、それどころではなくなった。
西の方から、金沢、大垣《おおがき》、彦根《ひこね》、福井等の諸藩が出動を命じられ、続々中仙道をこちらに向かいつつある。むろんこちらを賊と認めてのことですが、その指揮をとっているのは、どうも禁裡守衛総督の慶喜公らしい、という知らせがはいって来たのでござります。十一月二十八日のことでござりました。
実は、たえず前方に出している斥候によって、京都方面で諸藩が天狗党に対して動員されているらしい、という情報は木曾馬籠で受けていたのであります。これにどう対処するか、というのがあの夜の軍議なのでした。その結果、まずゆけるところまでいってみよう、という結論しかそのときは出なかったらしい。
ついでにいうと、この美濃路にはいってから、同じくうしろに残してある斥候によって、後方を追尾して来た田沼の幕軍はどうやら飯田でやっとあきらめて、そこからひき返したようだ、という情報を伝えておりました。
「美濃まで追って来ると、なぜ天狗党に追いつかんか、ということが、京方面にふしぎがられるからの。田沼も具合が悪いのじゃろ」
と、山国兵部は笑ったそうでござります。
で、後門の狼はやっと退散したようですが、前門に新しい虎が出現したことが判明した。しかも、諜報《ちようほう》によると、追跡の幕軍や、これまで抵抗を試《こころ》みた小藩の藩兵とちがい、はるかに大規模なものらしい。さらに、その大将が慶喜公だという。――
はじめ、大将が慶喜さまだと聞いたとき、みなどっとどよめきました。それはよろこびの声でござりました。
なぜなら、われわれは斉昭公のご遺志を実現するために行動を起こしたものである。そして慶喜さまは、斉昭公の最も愛され、期待されたお子さまである。そもそも、われわれが上洛を志向したのは、慶喜さまが京におわすからです。あのお方なら、われわれの志を、「よくわかった。よくやった」と嘉尚してくださるだろうと信じたからです。
御嵩《みたけ》の宿《しゆく》で、また軍議がひらかれました。私も金次郎も、小姓代わりに隅《すみ》っこにひかえておりました。
「慶喜さまがおいでくださるとあれば、もっけの倖《さいわ》い」
「もう大丈夫じゃ!」
父の耕雲斎も藤田小四郎も、悲願がもはや実現したような歓喜と安堵《あんど》の表情を見せました。これに対して首をかしげたのは、山国兵部でござります。
「ちょっと待て、それはわからんぞ」
「何がわからん?」
田丸稲之衛門が訊《き》きました。
「慶喜さまがよろこんでわれらをお迎えくださるか、どうかがじゃ」
「あのお方が、われわれに敵意を持っておられるはずがない」
「そりゃ敵意は持たれてはおるまいが、まわりの空気というものもあるからの。幕府から命じられた禁裡守衛総督というお役目からしても、個人的感情のまま動かれるわけにはゆくまい。ましてやあのお方は、斉昭公のお子ではあるが、斉昭公ではない。むしろ、優柔不断の慶篤公の弟君だ、と思われるところもある」
この蛸《たこ》入道みたいな、そのくせ一筋縄ではゆかない老軍師は、思いがけない懐疑のつぶやきをもらすのでありました。
「だいいち、慶喜公が出ておいでになるとして、その前面の幕軍が打ちかかって来たら、そのときわれわれはどうするのじゃ?」
「それはこっちが、お前さまに訊きたい」
と、多血質の稲之衛門は、顔を赤くして兄の兵部に反問しました。
「それでは天狗党は、何のためにここまで来たのじゃ。いったいどうせよとお前さまは申されるのじゃ?」
「われわれはもうひき返すことはできん」
兵部は申しました。
「前へ進むしか道はない。もし敵が攻撃して来るなら、邪念なく決死の戦いをするよりほかはない」
「それでは、さっきのお前さまの、水をかけるような言葉は何じゃ」
「いや、慶喜さまを助け舟のように思うのはよしたほうが賢明だろう、といったまでじゃ」
「では……慶喜さまが指揮をとっておられるとしても、その敵と戦えというのか?」
「さよう」
平然として、山国兵部はうなずくのです。
「それをなおかつ打ち破れば、状勢は変わる。お利口な慶喜さまでおわすから、そうなったらなったで適当に動かれるじゃろう。むしろそうなることを望んでおられるかもしれん。何にしてもわれわれは、最後まで屍山血河《しざんけつが》の戦いをやりぬくことによって、はじめて京にはいることができると覚悟したほうがいい」
この軍議の内容はもれて、全軍に一大衝動を与えました。もう飯盛女どころではない。
実にとんでもない話になって来たものです。われわれがすがりつこうとした頼みのお方、はるかかなたから仰ぎつづけて来た希望の星、その慶喜さまと、状勢次第では戦わねばならぬとは! 前方から迫りつつある敵は、一万とも二万ともいう風評さえひろがりました。
その翌日です。木曾川を渡り、西の鵜沼《うぬま》へむけて行軍中、またも十数人の脱走者が出ました。
これが勇ましい安藤信義、国分雄之介、森忠兵衛らの水戸侍であったのに驚きましたが、追っかけてこれをとめようとしたのが、例のやくざ連中であったことも意外でありました。
これは行列のずっと後ろのほうで起こったので、騒ぎを知って、藤田や私たちが走っていったときには、安藤たちはすでに全員逃亡していて、やくざどもが昂奮してくやしがっておりました。
「あっしら、安藤さまがたへ、旦那《だんな》がたはお侍かもしれねえが、天狗党を離れりゃお尋ね者の一匹狼だって、口をすっぱくしていったんだがね。……」
「天狗党は千人|揃《そろ》えてこその天狗党だ。一人でも欠けちゃあならねえのに、旦那がたみてえな強いのが抜けちゃ困るじゃあねえか、と、馬にとりすがってとめたんだが。……」
「死ぬときゃ、あっしらもいっしょにお供をするから、といっても、耳にはいらねえ」
第三者がこれを聞いたら、抱腹絶倒したでありましょう。それは、ほんのきのう、彼らがくらった説教と同じものでござりました。
しかし、彼らは皮肉をいっているつもりでもなかったようです。みんな、大まじめでありました。
「旦那がたのいうには、だ。おれたちゃ慶喜さまといくさをするために来たんじゃねえ。慶喜さまといくさをしなけりゃならねえなら、もうやめたってんだ」
「慶喜さまが天狗党とやるはずはねえ、と、きのう旦那がおっしゃったじゃあござんせんか、といってもとり合わねえ」
「お前らのいうとおり、逃げるほうが危ねえ、しかし拙者らは、主筋の方には刃向かえねえ、という大義のために、あえてその危険な道をえらぶ、とか、何とか、弁解の口に不足はねえ」
「しかしね、その面《つら》つきや口つきで、あっしらにゃわかるんだ。やくざ連中にゃ意気地《いくじ》なしが多いから、かえってよくわかるんだ。あいつらは、臆病風に吹かれて逃げたんだ。この先に何万とかの敵が控《ひか》えてるって聞いて、もういけねえってんで逃げ出したってえことがね。……」
まったく、そのとおりです。安藤らが全部大事な馬もろとも逃げ去ったという事実が、彼らの理屈が口さきだけのもので、大義もへちまもない行動であるといえます。
彼らは北の飛騨路《ひだじ》へそれて逃げていったとかで、われわれがいったとき、そのゆくてに蹄《ひづめ》の音はおろか砂塵の影もなかったから、いまさら追跡しても間に合わないことはあきらかでした。
「きゃつら、見そこなった!」
むろん、藤田は切歯しました。
「じゃが、お前たちのいうとおりだ。本隊を離れて逃亡したところで、結局助かる道はない。きゃつら、自業自得《じごうじとく》の自滅におちいるにきまっておる」
「へっ、そして、天狗党についてりゃ、あっしらは大丈夫ですね?」
「大丈夫だ。慶喜さまが天狗党にむごいことをなされるはずがない。また、たとえどんなに悪い目が出ても、お前たちに咎《とが》めの及ぶはずがない!」
その間も、寒風の中を行進はつづいております。西へ、西へ。――天狗党は運命の果てへ、雪崩《なだれ》のように進んでゆくのでありました。
この時点においては、逃亡した連中への怒りはもちろんですが、私たちもまた、小四郎同様、逃亡者の自滅を信じておりました。
しかし、後になってみれば、彼らは結局助かったのであります。われわれは幕府と戦いつつ、まだ幕府の力を過信していたのであります。
そしてわれわれと行《こう》を共にしてくれたやくざ隊士らの運命については、いまいうべき言葉を知りませぬ。
――この日、脱走した侍の半分くらいが、人質の見張りを命じられた連中だと気がついたのは、これまたあとになってのことでござりました。
御嵩《みたけ》から五里、鵜沼《うぬま》。――やはり中仙道の一駅でござります。屏風《びようぶ》のような岩山に樹《き》の生えた町でありました。
われわれはここで、「京へ三十五里四丁」という道標を見ました。いままでの行軍ぶりで中仙道を押してゆけば、あとわずか、四、五日で京へはいれるはずでありました。
しかるにこの鵜沼は、われわれが宿営した最後の中仙道の町となったのでござります。
ふしぎなことに、わが斥候によれば、ゆくてには諸藩が動員されつつあるというのに、ここらあたりでは、住民はなお歓迎の空気でありました。それどころか、すぐ先は加納《かのう》の宿《しゆく》ですが、領主の永井肥前守が、「こちらに来るなら抵抗せざるを得ないが、避けてくれるなら千両進呈しよう」と、甚だ哀れなことを申し込んで来た始末でした。
やはり、例の風聞書に、このあたりの天狗党の形相《ぎようそう》を、
「……江州にては一戦いたさざれば相叶《あいかな》うべからずと覚悟いたし候か、弾薬はなにぶん大切にいたし候ようすにて御座候」
と、あります。同時にまた、
「疲労も格別つかまつり、かつは存外厳重の警固ゆきとどき候ゆえ、在へ引っ込み避け候やに御座候」
ともある。
ひどくみな疲労しているうえに、思いのほか前途の警備がきびしいようだから、中仙道からそれて進むかもしれない、というので、実に驚くべき観察でござります。
何にしてもわれわれは、いささか幽鬼の軍隊の観があって、それが見る人によって惨澹《さんたん》とも見え、あるいはまた何かにとり憑《つ》かれた部隊のように怖ろしいものに見えたでしょう。
この鵜沼の宿《しゆく》の本陣に、藤田小四郎を訪ねて来た深編笠の武士がありました。
「藤田どんと旧知の、薩摩の中村半次郎でごわす」
と、取次ぎに出た私に、その人は名乗りました。笠をとると、二十半ば過ぎと見えましたが、髯《ひげ》をはやした堂々たる偉丈夫です。
彼は、藤田ばかりではなく、耕雲斎、兵部、稲之衛門その他首脳連にも逢い、演説しました。
彼は京都方面の状勢を伝えましたが、それによると、慶喜公が天狗党討伐の役を買って出たのは事実である。天下を悩ました天狗党は、それに縁ある自分の責任にかけて、自分の手で始末させていただきたい、と申し出てその役をひき受けた。ただしかし、その兵はというと、例によって諸藩の寄せ集めで、天狗党が常陸《ひたち》で相手にした幕軍と大差ない、まず烏合《うごう》の衆《しゆう》といってさしつかえない。あれならば天狗党は突破できる。この歴戦決死の軍隊なら、必ず彼らを潰乱《かいらん》させて京へ突入できることを保証する。――
中村は、腹にひびくような声で、こういうのでした。
それで思い当たりました。加納藩で千両献金したり、またこの宿場が天狗党にチヤホヤしたりしているのは、彼らが敏感にそういう幕府方の頼りなさを嗅《か》ぎとっていたせいかもしれない。
中村半次郎はいうまでもなく、後の桐野利秋であります。どうやら、藤田が遊歴時代に知り合った仲らしい。この人物が天狗党上洛の途次、ひょっこり出現して、こんな半分|煽動《せんどう》に近い示唆にやって来たのは奇談といえますが、当時彼は西郷さんの手足として諸国を飛び歩いていたようですから、それも西郷さんの維新回天のためのさまざまな秘策の一つの発現だったのでしょう。
この薩摩の密使が去ったあと、また軍議がひらかれたことはいうまでもありません。
慶喜公みずから天狗党討伐に向かわれる。――それまで、まだどこか未確認情報であり、そんな馬鹿なことはあってほしくないと祈っていたこのことは、ついに事実として覚悟しなければならないことになったわけであります。
考えてみれば、京へゆけば慶喜公がわれわれを双手をひろげて抱きとめてくださる、というのは、何の保証もあったわけではないのです。それは大子《だいご》に追いつめられて、全滅以外に何か道があるのか、という事態になったとき、苦しまぎれに見つけ出した幻想の星であったのです。さらに、これまでの苦難の旅で、みずからを鼓舞するために、ますますこちらで眩《まぶ》しいものとして夢みた光であったのです。
当時の慶喜公は、もう水戸家をバックにした貴公子ではなかった。われわれのパトロンではなかった。その少し前までは将軍後見職であり、現在ただいまは禁裡守衛総督であるというご地位が物語るように、幕府と、朝廷と、攘夷と、開国と、複雑をきわめ、転変をきわめた当時の政情の渦《うず》のまっただ中におわしたので、その一挙手一投足の動きが、こちらが単純に期待するようなわけにはゆかないお立場にあったのであります。
いまでこそ、そのときの慶喜公のお立場にいくばくかの同情はできますけれど、それでもなおかつ、この前後における天狗党へのご態度については、私に納得できないものがあるのであります。ましてや当時は、いよいよ納得できなかった。
われわれの心を聞いてくださる方、と、頼りにして来たご当人を、なんと、敵の大将として相見《あいまみ》えようとは!
あてがはずれた驚きは、たちまち怒りと変わりました。中村半次郎の情報によれば、しかしその敵はヒョロヒョロらしいし、また前夜に山国兵部から、「邪念なく、屍山血河の戦いをやることによって、状勢はまた変わる」云々《うんぬん》の言葉を聞いておりましたから、
「よし。……こうなったら、相手がだれだろうと、決死の戦いをやるほかはない。そして勝って、慶喜さまにこちらのいうことをきかせるまでだ!」
と、子供心にも覚悟いたしました。
そもそも慶喜さまが一橋家へご養子にゆかれたのは、私が生まれる前のことですから、私にはほかの大人《おとな》のような主君意識も薄かったのでござります。
ところが――私でさえそう判断したのに、父の耕雲斎が突如よろめいた。
「兵部、やはりわしは、慶喜さまにはお手向かいできぬよ。……」
じっとうつむいて考え込んでいたのが、首をあげてこういったときの父の悲しみに満ちた顔を、私はいまでも忘れることはできませぬ。
「慶喜さまを、お苦しめすることは、わしにはできぬ。……」
――たとえ相手が慶喜公でも戦うのだ、という山国兵部の意見には黙ってうなずいていた耕雲斎は、その慶喜公のひきいるのが烏合の衆だ、と知ってかえって心に乱れを生じたらしいのです。
「では、降参するのかな」
と、兵部は申しました。
「われらは、ただわれらの衷情を慶喜さまに聞いていただけばよいのじゃ」
と、耕雲斎は申しました。兵部は首をふりました。
「心はちがうが、同じような立場で、松平|大炊頭《おおいのかみ》さまは降参された。しかるに大炊頭さまは、幕府はおろか田沼総督にも、一言の弁明も吐く機会を与えられずご切腹の運命に追い込まれなされた。榊原新左衛門またしかり。……その二の舞い、三の舞いを演じるつもりかな」
耕雲斎の顔には、名状しがたい苦悩の色がありました。
さきに申したように、耕雲斎は名分にこだわり過ぎるという評を受けた人です。過ぎる、という以上、これは決してほめた言葉ではありません。その癖《へき》が、この土壇場でまた現われた。――あるいは、このときこんなことをいい出したのが、そういう評を受けるもととなったのかもしれません。耕雲斎のこの乱れが、天狗党を破局の罠《わな》に追い込んだのですから。――
しかしまた耕雲斎にしてみれば、慶喜公は、七郎麿と呼ばれたご幼少のころから、自分がだれにもまして心をかけてお抱き参らせて来たお子である。特に慶喜公も、一橋家へゆかれたあとでも、特に耕雲斎を名ざしで呼ばれて親衛隊としてお使いになったような仲なのです。
慶喜公とは戦えぬ! 慶喜さまをお苦しめできぬ!
耕雲斎がこう考えたのもまことに当然のことで、たとえこの動揺と決心が天狗党を破滅におとしたとしても、わが父というせいばかりではなく、私はどうしても耕雲斎を責め切れないのでござります。
慶喜公とは戦えぬ、ということは、その日逃亡した連中も口にしたことで、だからといって逃げ出す法はない。その逃亡という事実は、彼らにとっての文字どおりの逃げ口上に過ぎなかったことは明白ですが、しかし、一面の真理はありました。そして父は、この真理にもっとも純粋な人間だったのでござります。
耕雲斎は沈思の末、途方もないことをいい出しました。それは、慶喜さまが待ちかまえられているというこの中仙道は避けて、何とか北陸のほうに道を転じ、そちらから京へはいることにしたらどうか、と、いうのでした。
「馬鹿な!」
と、田丸稲之衛門が眼をむき出しました。
「ここまで来て、北陸へ廻るとは……江戸から水戸へゆくのに、上州廻りするようなものではないか。それにだいいち、そっちへ廻っても、慶喜さまもまたそっちへ廻られるかもしれんではござらんか」
「それはそうじゃが……しかし、われわれがなぜそちらへ廻ったか、ということを慶喜さまはお考えくださるじゃろう。われわれの衷情はお察しくださるじゃろう」
耕雲斎は苦しげでありました。
「それでまた風向きが変わるかもしれぬ。また、風向きが変わるだけの時のゆとりも出て来よう」
甚だ漠然たる期待です。しかし耕雲斎は思いつめた顔色でござりました。
「何としても、いま、全面衝突という事態は避けたい。……」
「しかし、ここから北陸へなんぞ廻る道があるのかな。……」
と、兵部は首をかしげました。
このとき兵部が怒りもせずに、本陣の主人に命じて美濃一円の地図をとり寄せたのは、耕雲斎の悲心を理解したからでしょうが、それにしても実にえらい老人です。
その結果、このあたりから美濃を縦に突っ切ってゆくには、三本の道があるということがわかった。一本は中仙道を少しひき返して飛騨路をたどる道、次の一本は長良川《ながらがわ》に沿って、白川郷《しらかわごう》から礪波《となみ》へぬける道で、いずれも越中――富山県にはいります。
もう一本は、それより西側の、いわゆる根尾谷渓谷《ねおだにけいこく》を北上して、越前――福井にはいる道でありました。
しかしそれは道とはいうものの、土地の猟師くらいしかゆかない道で、しかもこの季節、人間が通れるとは思えない、と、主人は蒼くなって申しました。実はこの鵜沼に泊まった十一月二十九日は、今の暦にすれば十二月二十七日、大晦日《おおみそか》の四日前にあたるものであったのでござります。
「じゃが、山の高さ、雪のおそれは、どの道も同じじゃろ? それに、いくらなんでも、越中にまで廻るのはまどろこし過ぎる」
と、兵部はいい、そして、いちばん誰にも知られぬ、従っていちばん様子の不明な根尾谷に沿って北上することを提案したのであります。
「そんな道なら、少なくとも邪魔する敵はおるまいから」
と、いい、それからしばしキョトンと空《くう》を見つめておりましたが、やがてまた驚くべき遠大な計を持ち出したのです。
「伊賀どの、越前へ出たらな。京入りはしばらく見合わせて、いったん若狭《わかさ》から山陰道へ抜け、長州へゆくことにしたらどうじゃ?」
長州がいわゆる蛤御門《はまぐりごもん》の変に破れ、かつはそれにつづく幕府の長州征伐にも屈したことはわれわれも承知しておりましたが、その結果として、あわや亡国の運命にさらされている状態は、ちょうどわれわれが上洛の旅をつづけている期間と同じでありましたから、実はよくわからなかった。
正直なところ、幕府はそのほうの始末に血道をあげていて、わが天狗党には手がまわりかねたということもあります。
ですから山国兵部のこの提案は、知らぬが仏の買いかぶりであったともいえますが、しかしその長州は、翌年その敗勢を逆転して幕軍を破るに至ったのですから、その底力を兵部は見ぬいていたのかもしれません。この老いたる大軍師の心眼は、とうてい私などには推量できませぬ。
「ま、それは無事に越前にはいれたら、という、鬼が笑うような話じゃが、一応考えておいてもらいたい」
と、兵部は破顔しました。
こうして天狗党は、京へあと三十五里の地点まで到達しながら、なんとまっすぐに北へ、越前への道をとるということに決したのであります。
「ああ!」
それを知ったとき、全軍には、声なき悲鳴のようなものがながれました。
敵の大軍とやり合うことは一応まぬがれたものの、ゆくてに待つのが、また山とは。――実は、木曾から美濃へ出たとき、何よりみなをほっとさせたのは、これからは山から逃げられる、というよろこびでありました。われわれは、ほんとうに山道には吐き気のようなものを感じていたのです。
しかるに、なんとまた山にはいるという。――
しかしわれわれは、それでもまだこのとき、美濃から越前へ越える山脈の真冬のきびしさがよくわかっていなかった。それは行軍というより、探険でありました。上部の方針だからやむを得ないとはいえ、これまた知らぬが仏で、この酷寒の新しい旅の第一歩を踏み出したのであります。
ところが、この鵜沼の宿で、意外なことがまた起こりました。
十一月三十日、出立の用意をととのえているところに、五人の女郎が現われて、自分たちも同行したい、と申し出て来たのであります。
天狗党の旅に参加したい、という五人の女郎の申し出には、みなあっけにとられました。
女たちは、むろん顔こそそれぞれちがいますけれど、みな色白でよく肥《ふと》って――決してふとっちょではありませんが――美しい女ばかりなのです。少なくとも少年の私の眼には、濃い化粧をした彼女たちが、まあ妖精のように見えたのであります。とうていこの凄まじい強行軍に耐えられようとは思われない。
それが口々にいうのには、昨夜お泊まりの天狗党のみなさまのお話を承り、ほんとうに心を打たれました。女としても何とかお慰めしたいと力の及ぶかぎり努めたけれど、一夜ではとうてい心が満たされない。しかも聞けばこれからだんだん宿場もない山中の街道へはいってゆかれるとのこと、それではせめてお供できるところまでお供をして、炊事、つくろいもの、その他何でも雑用のお手伝いをしたい、それほどお役に立たなくても、一生の想い出までに、しばらくでもお供をしてそのご苦労を味わいたい――と、ふだん気の合う五人が相談の上まかり出ました。どうぞ、私たちの志を叶《かな》えていただきとう存じます。と、熱心にいうのです。
幹部連中もこれには唖然《あぜん》として、しばらく顔見合わせるばかりでござりました。
「馬鹿なことを」
と、まず吐き出すようにいったのは、藤田小四郎でした。
「天狗党が、女郎を連れて行軍するとは。――」
私もまったく同感でした。
それ以上、一議にも及ばず追い払われることと思っていたら、意外にも、
「ちょっと待て」
と、呼びとめたのは山国兵部でござりました。そして、
「いまのお前たちの願いは、お前たちだけが思いついたことか。それなら、そもそも宿の亭主《ていしゆ》が許すまいが」
と、訊《たず》ねました。
すると女郎たちは、それはむろん主人の許しは得てある。実はその主人が、自分などが顔を出してはかえってうまくゆかないかもしれないから控えているが、もし何だったら自分も口添えしてやろう、といって、隣りで待っている、というのです。これで一同は改めて好奇心をもよおし、ともかくその亭主を呼びいれろ、ということになりました。
それは、むろん本陣の主人ではありませなんだ。――女郎と申しましても宿場の飯盛女郎であり、亭主とは、隊士が分宿した旅籠《はたご》の一軒の亭主だったのでござります。
がさがさと蟹《かに》みたいにはいって来たのは、蟹のような顔をした男でござりましたが、これが驚くべきことを申したのでござります。
なんと、この飯盛女郎を置いた旅籠の亭主が、国学の信奉者――というより信者だったので――木曾|馬籠《まごめ》の本陣の主人もそうでござりましたが、そのころ、伊那谷、木曾谷からこの美濃の出口あたりへかけて、ふしぎに平田|篤胤《あつたね》の流れを汲《く》む門人が多く、その余波が、こんなところにまで及んでいたのでござります。
さらに、亭主は思いがけぬことを申しました。
その五人の女郎は、実はさんぬる安政の大獄で処罰された公卿《くげ》 侍《ざむらい》の娘たちだというのであります。あのとき、死罪にならないまでも追放の憂き目にあい、事実上地上から抹殺《まつさつ》された人々の娘だというのであります。
「これでおわかりいただけましょうか。この女どもや私めが、まかりまちがえば首になるこんなお願いをしましたわけが。……どうぞ、一つ聞きいれてやってくださいまし」
と、亭主は蟹のように泡《あわ》を吹き、熱誠こめていうのです。
「もっとも、女どもは、ただ昨夜からのみなさまを拝見していて、心を打たれて、こんなことを申し出たので、他意はござりませぬ」
これには、幹部連中も打たれたようでした。
「では、来れるところまで来てもらおうか」
と、まず山国兵部がいい出しました。そして、一同を説得するように、
「それに、今回にかぎり、これは悪くない。みなを山にはいらせる活力のもとになるかも知れぬ」
と、申しました。
これからまた美濃の山脈《やまなみ》を越前へ越える、という方針変更に、隊士たちのあいだにどうしようもない動揺が起こっているのを、兵部も見てとっていたのであります。この点についての彼の心配は、私どもの想像以上で、女郎の同行志願は思いがけぬことであったとはいえ、これを聞いた瞬間、彼は突然一つの解決法が天からふって来たような気がしたに相違ありません。
なお、反対者はありました。もと藩で徒士目付《かちめつけ》をやっていた荘司《しようじ》宗介、久保田|蔵人《くらんど》、難波外記《なんばげき》などという人々で、宿場女郎など同行させては、壮烈悲壮な天狗党の行軍がけがれる、というのです。
これも兵部は説得しましたが、女たちには申しわたしました。
「お志はありがたく受ける。ただ、見るとおりわれわれは、われわれの武器や食糧を運搬するだけで精一杯じゃ。お前たちの食い分まで運んでやる余裕がない。自分たちの食い扶持だけは自分で持参してもらわねばならんが、それでよいかな?」
すると亭主が、「それはおっしゃるまでもございません。出入りの若い者に、女どもの食い物や寒さしのぎの衣服、手廻りの品は、つづら[#「つづら」に傍点]でかついでいってもらうことにいたしましょう」というのです。
こうして、天狗行列に、五人の女郎が加わることになりました。
私はむろん不服でした。荘司さんらと同じ考えでありました。
「おい、金次郎、君はどう思う?」
意気ごんで訊《き》くと、金次郎は、
「ああ」
と、いったきり、放心状態なのです。
もっとも金次郎の奇妙な状態は、このときがはじめてではありません。それはその前から――さよう、木曾以来のことでござりました。
金次郎がまったくほかのことで頭を占められていたことはすぐにわかりました。
「源五郎。……もう田沼や市川は追って来ないね」
「うん」
「すると、人質はもういらないのじゃないか?」
おゆんとお登世のことです。
「山にはいるまえに、ここから帰してやったらどうだろう?」
こんどは私が、
「ああ」
と、いったきりでした。まったく金次郎のいうとおりです。しかし、私は、あの二人を釈放することに、何ともいえないさびしさをおぼえました。私はつぶやきました。
「それはしかし、山国先生に相談してみなくちゃいかんだろう」
また行軍がはじまりました。道は中仙道からそれ、北西へ向かいます。
歩き出して間もなく、藤田小四郎が近づいて来て、
「おい、金次郎、源五郎。……すまぬが行列を見まわってな、荘司、久保田、難波らが騒ぎを起こしたら注進してくれ」
と、耳打ちしました。
「騒ぎとは?」
と、訊き返しますと、
「あの女郎衆に対してだよ。せっかく同行してくれたものにあまりな仕打ちをすれば、やはりとめなきゃならん」
と、いうのです。……いったんは反対した藤田ですが、考えを改めて、こんな注意をしに来たものと思われます。
それで私と金次郎は、長い行列のあとになり、先になりして、命じられた監視役を勤めることになりました。
山国兵部は、どういうつもりか、五人の女郎をひとかたまりにせず、千人の行列のあちこちに適当にばらまいたのでござります。
兵部にとっては、果たせるかな、というところでありましたろう。行列のその五ヵ所から、まさに「活力」が波動しておりました。そこから異様な昂奮《こうふん》が爆発しているのです。近づいてみると、それぞれ女をとりかこんで、少年の私には耳を覆いたいような冗談が、笑いとともに飛んでいる。
いまにして思うと、女たちは感心なもので、五人ばらばらに分離されたにもへこたれず、それぞれの場所で、これも笑いながらやり返しておりました。
女たちは笠に蓑《みの》、杖《つえ》にわらじ、という、一見したところでは女とは見えない旅装束でしたが、まさしく寒風の中の五輪の花でありました。
しかし、そのときは私はただあさましく、にがにがしかった。なぜ、こんなものを連れて来たのだろう、と思った。
とはいうものの、こちらは少年ですから、ただしかめっ面をしただけですが、大人でどうにもがまんならなくなった連中もある。藤田が心配したとおり、例の人々でした。
たまたま私が見たのは荘司宗介ですが、一里ばかりいったころ、果たして騒ぎをひき起こしました。
「物見遊山《ものみゆさん》ではないっ――この行軍を何と心得ておるか?」
と、笑いの渦《うず》の一つに近づいて来てわめき出したのです。
「天下の大義につき、天皇さまへ奏上の旅であるぞっ。その眼で世人はみなわれらを眺めておるのだ。しかるに、何ぞや――」
と、女の肩に手をかけんばかりにしていた下郎の一人を、鞭で打ちすえました。
その尖端《せんたん》が女の顔をもかすめて、女が悲鳴をあげる。
「何さらすっ」
と、まわりの下級隊士たちが血相変えてつかみかかり、一間ばかりつき飛ばされて街道に尻餅ついた荘司は、逆上してはね上がり、
「その女、何の魂胆あって、くっついて来たか。どうせろくな魂胆ではあるまい。――よしっ、おれの責任において、その売女《ばいた》はここで処置する。そこのけっ」
と、抜刀しました。みんなが、それにむしゃぶりつく。――
私は転がるように藤田を呼びにゆきました。で、藤田が駈けつけて来てこれをとり鎮めましたが、こればかりではない。途中長良川を渡ったのですが、それまでも三、四回、あちこちで、こんな騒ぎが持ち上がりました。
その夜は三王(今の高富《たかとみ》)に泊まりました。ここはむろん中仙道の宿駅ではありませぬ。したがって、一般の人家への強引な分宿です。
ここで武田金次郎は、おずおずと山国兵部に、例の人質はもう不要ではあるまいか、という意見を持ち出しました。
「いや、それはならぬ」
兵部は言下に斥《しりぞ》けました。
「われわれ自身にとっては、なるほどもはや人質は不要じゃが、水戸に残った天狗党の家族の安全のために必要なのじゃ。市川らはひき返したとはいえ、密偵はなお追跡しておるものと思われる。ここで人質が解き放たれたと知れて見よ。三左衛門のことじゃ、水戸のほうで何をやり出すかわからぬ」
いわれてみれば、そのとおりでありました。そして、のちに事実となったのですが、兵部の危惧《きぐ》はまさに的中していたのでござります。
あくれば十二月一日であります。われわれはこの日、谷汲《たにぐみ》川を渡って、揖斐《いび》に宿泊したのでありますが、到着前に揖斐に来て、妙な手紙をおいていった者がある。
名も名乗らず、天狗党が来たら渡してくれといって、逃げるように立ち去ったということですが、どうやら大垣藩の使者らしく、その書状を見ると、われわれは貴軍討伐の幕命を受けた、「然《しか》レドモ我軍羊ノ如ク、足下ノ軍風ノ如シ。我ガ孤弱ヲ以テ足下ノ鋭鋒ニ当タル、モトヨリ蟻ノ火ニ投ズルノ勢イアリ」それでも来るというなら、われわれは勝敗を度外におき武士として戦わねばならない、貴軍入京の土産としてわれわれの首を献ずるであろう、という、悲壮といえば悲壮、ふざけているといえばふざけている、とうてい戦意旺盛とはいいかねる文言が書かれておりました。
しかしわれわれは、もう西進して彼らと衝突するつもりはなかった。揖斐から北の山中へ上る方針はもう動きませんでした。そして翌二日、いよいよ山にかかったのですが、その大垣藩以下の敵軍は、ついに進んで追尾しては来なかった。
さて、それからの十日間、われわれは、いまの岐阜県から福井県へかけての山岳地帯を越えていったのでありますが、それこそ全行路中、最大の惨苦の旅でござりました。
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ここはいずこぞみな敵の国
揖斐《いび》を発して谷汲《たにぐみ》へかかるころから、道は山にかかります。
二日、日当村泊まり。三日、長峰泊まり。
村とはいうものの、猟師か炭焼きばかりの十数軒程度の山中の部落でした、その住民は、いずれも姿をくらましておりました。
道は根尾川の渓谷に沿い、絶壁を削ったもので、山にかかったころから雪がありました。しかも、一歩ごとにわらじを没し、足首を埋め、しだいに深さを加えてゆくのでござりました。
北へ向かって全軍は一列縦隊となり、例によってことごとく大砲、銃、行李《こうり》その他を背負い、ふいご[#「ふいご」に傍点]のようにあえぎあえぎ上りつづけます。いったい、われわれはどこへゆこうとしているのか、という疑いが、また一同の頭に浮かみつ消えつしました。いったんは三十五里の近さまで京に迫ったのですから、なおさらのことでござります。
しかし、われわれはどこへゆくのか、などいう疑いが揺曳《ようえい》したのも半日か一日、やがて頭はただ肉体の一部となり、その肉体はひたすら重力と重心との格闘にかりたてられます。
重力、重心とのたたかいというわけは、少なくとも長峰以後、道は数十里にわたって、ただ上りつづけの山道ばかりであったからでござります。しかも、それが人一人通れるだけの――いや、ほとんど道とはいえないもので、半分以上は、根尾谷渓谷に切り立つ絶壁の岩角を利用し、わずかに崖《がけ》をうがってそれを結んだものであったからでござります。
あちこち頭上から山水が滝となって落ちてその道を横断している。夏ならば濡れずに通れない場所ですが、それが凍って、さらに雪がつもっている。
もはや、声を出す者もありません。分解した大砲をかつぎつつ、発するのはのどぶえも切れそうな呼吸音のみです。それも北に重《ちよう》 畳《じよう》と重なる雪の山岳から見下ろすと、白銀の世界の中の細い亀裂を、ただ黙々と這《は》い上がって来る蟻の行列と見えたでありましょう。
足を滑らせて、千仞《せんじん》の谷底に落ちていった者が、ここで七人、馬も数頭ありました。怖ろしい絶叫がこだまするのは、そのときだけでした。
鵜沼の宿の主人が、この季節、人間が通れる道はないといったのは、まことでござりました。
(そして作者が、天狗党の行路を再踏査した者はないはずだと確信したのも、このコースを現実に見たからであった。谷汲温泉のタクシーの運転手がすべて、そんな道の存在を知らず、からくも応じた一人が、途中あまりの難所に悲鳴をあげ、しかも天狗党の通っていった道は車の通行不能なところ少なからず、ついに正確には通れなかったのである。そして目的地に達したとき運転手は、二度とあの道は帰らない、といった)
十二月四日、大河原という部落に至ったのは、もう夕方でありました。実にこの日は、今の暦でいえば、一月元日にあたります。午後から氷片のような雪が吹きつけはじめ、到着時積雪二尺、それになお吹雪がつづいておりました。
餅をくらい、屠蘇《とそ》をのむ――それどころでありません。難路も想像以上でしたが、それよりももっと意外な事態となったのです。それは食糧の不足でありました。
揖斐で用意した米は、各自五、六日分。だいたいいままで食糧は到着先で徴発したので、それすら兵部の思慮は過分だと思われたのに、さて長峰以来、各部落からは一粒の米も見いだせない。住民はそれを総ざらいにして逃げていったのでござります。これまでは、たとえそういうことがあっても、徴発隊がちょっと足をのばせば近くの村から入手することができた、ところが、大山岳地帯の中の細い渓谷をゆくこのコースでは、それがまったく不可能だということが判明したのであります。
で、揖斐以来三夜目ですが、あとこの雪中の山越えに何日かかるか、その見込みが怪しくなって来たこともあって、この夜から糧食の量は半分にせよ、という命令が出た。
不幸中の倖いに、この大河原は、納屋《なや》、木小屋などふくめると、三、四十棟あり、おしくら饅頭《まんじゆう》式に詰め込むと、雪だけは何とかまぬがれることができた。
囲炉裏《いろり》のあるところでは囲炉裏で、それのないところでは軒下で、火だけはどんどん燃やしましたが、何しろ極度に体力を消耗したあと、満たされぬ腹をかかえて寒夜をしのげ、というのですから、分宿した家々からは、何ともいえぬ歎声が溢《あふ》れる。はては、あちこち喧嘩が始まる。――
藤田小四郎は、各隊長らにきびしく下知しました。
「みな見廻って、喧嘩、火事など取り締まれ。命令違反の者は斬ってさしつかえなし」
それで、私も金次郎も見廻りに出かけました。
霏々《ひひ》としてふりしきる雪の中に諸所|焚《た》き火が燃え、見ようによっては異様な美観でもありますが、こちらの精神状態からは、ただ凄惨《せいさん》の景としか見えない。実状も凄惨でありました。
その中で、わっという喚声のもれた一軒があった。それに、ほかの棟の殺伐な声とちがうひびきがあるのを、たまたま通りかかった私たちが聞きとがめました。
のぞいて見ると、意外な光景が眼にはいりました。
それは、例の五人の女郎が宿泊している家でありましたが――女郎たちだけ、というわけにはゆかない。ほかの隊土もいっしょでしたが、燃える囲炉裏のそばに思いがけぬものがひろげられているのです。
大ご馳走でした。
十数個の大きな重箱のふたがひらかれて、そこに見えるのは、赤飯、いなりずし、ゆで卵、卵焼き、てんぷら、うなぎの蒲焼《かばや》き、塩鮭《しおざけ》の切身、高野豆腐《こうやどうふ》や、こぶまき[#「こぶまき」に傍点]やかまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]の煮しめ、煮豆、油あげやがんもどき[#「がんもどき」に傍点]、きんとん、それに饅頭やようかんまであるではありませんか。……
そんなご馳走の大陳列は、こんどの行軍以来どころか、平和な水戸での暮らしのころでも見たことがありません。私たちは、夢ではないか、と眼を疑いました。
「ああ、若衆さん」
と、女たちがこちらに顔をむけて笑いかけました。
「いいところへおいででござんした。さあ、いらっしゃいな」
見れば、はなやかな裲襠《かいどり》まで羽織っています。その膝にあるのは大きな瓢箪《ひようたん》で、手にしているのは朱《あか》い盃《さかずき》です。酒まであるのです。
これは彼女たちが持参したものだと、気づきました。そういえば、鵜沼の旅籠《はたご》の主人が、女たちの食い物は若い者に持ってゆかせる、といい、事実、行列の中に、それらしい男が二人、つづら[#「つづら」に傍点]を背負って加わっているのをチラと見かけたのですが、これほどの大ご馳走を詰め込んで来たとは思いもよらなかった。
「食糧は制限せよとのご命令だぞ!」
やっとわれに返って、金次郎が申しました。
「はい、でも、私たちはいいでしょう」
「これで精をつけて、あした元気で歩いて下されば、せっかくこうして持って来た甲斐《かい》があるというもの。――」
と、女たちは答えました。
「そっちの食い物がなくなったらどうするか?」
と、私が訊《き》きました。
「でも、もう五日もあれば越前へ越えられるでしょう」
「それくらいの間なら、一日一つのお握りがあれば大丈夫」
「一日一つのおむすびなら、どなたかくださるわねえ」
女たちは笑ってまわりを見まわしました。
「やる、やる!」
「おらの食い扶持《ぶち》みんなやる!」
「おらが、お前たちかついでいってやる!」
「お前たちゃ、観音さまだ!」
舌なめずりし、顎《あご》の骨が鳴り、胴ぶるいまでしているような声でありました。すると女たちは、いたずらっぽい笑顔を作り、
「それはむろんみなさまに食べていただくつもりですけれど、まずあのお若いお方からお先ということにしてくださいな」
と、私たちを指さしていうのです。
私たちはフラフラと近づきました。いまの女たちのあどけないような笑顔が誘いとなったに相違ありませんが、何より、正直なところ、その素晴らしいご馳走に、理も非もなく吸引されたのです。
そのときでした。また戸口で声がしました。
「何を騒いでおるか」
荘司宗介、久保田蔵人、難波外記の諸氏でありました。
「そりゃ何だ?」
これに対して、女郎たちは、同じ説明をしました。そして、ここへ来る途中、あんな目に逢ったことは忘れたような――荘司の顔も忘れたとしか思えない愛嬌《あいきよう》にみちた声で、
「さあ、あなたさま方もいらして、どうぞお召しあがりくださいな」
と、呼びかけるのです。
「そうか、それは奇特な。――」
「なるほど、そういうことでもしなけりゃ、わざわざ同行して来た意味があるまい」
一瞬、照れたような表情が、その面上をかすめましたが、すぐに彼らは大声で、
「しかし、毒味をせんけりゃ、あぶないぞ!」
「敵に買われた密偵ということもある」
「おいこら、平隊士はそこどけ!」
と、わめいて、隊士たちを蹴飛《けと》ばさんばかりにやって来て、もう手づかみで卵焼きやら蒲焼きやらにむしゃぶりつきました。
彼らは見廻りに出ていて、乏しい夕食さえまだとっていなかったらしい。そうとしか見えない、餓鬼のような食いぶりでござりました。その凄まじさに度胆《どぎも》をぬかれて、二、三分黙って眺めていたほかの隊士たちも、たちまちわっとたかりました。
「まあまあ、みなさま、ごゆっくり……こういうものもございます」
女たちは、ほんとうにうれしそうにそれを眺め、やおら膝においた瓢箪と盃をとりあげるのです。
大の男たちの恥も外聞もなく食いちぎり、呑み下す音の潮騒《しおさい》の中に、私たち少年二人は、あっけにとられて茫然《ぼうぜん》と立ちすくんでいるばかりでござりました。そして、もう少し酔って、女たちに下等な冗談をいっている濁声《だみごえ》をあとに退散したのであります。
夜はあけても、雪はなおはげしく降りつづき、一帯の雪は、三尺ほどの深さになっておりました。
それでも、われわれは大河原にとどまっていることはできない。とどまれるような場所ではないし、だいいち一日として無駄な糧食を費やすわけにはゆかない。それに、待てば前面の峠の雪はいよいよ深くなり、それが溶ける日は春でしょうから、ますます事態は悪化するばかりでござります。
われわれは進発を開始しました。
前面の峠――蠅帽子《はえぼし》峠と申します。
それこそは、美濃から越前へ越える峠でござりました。標高九七八メートル。それでも美濃越前をへだてる千二百から千五百メートル級の山々の中では、猟師の通るせめてもの道であったのでござります。
そこを、特別の防寒衣とてなく、大砲|行李《こうり》を背負って越える――まさに狂気の沙汰《さた》で、それが狂気の沙汰であることはすでに私たちは自分の身体で承知しておりましたが、それでも越えてゆかなくてはならなかった。あとに引き返すことができない、ということもまた承知していたのであります。
しかも、われわれは、ただ大自然との死闘のみならず、ここで異常な事件に遭逢《そうほう》した。
長蛇《ちようだ》の列のまっさきが、そろそろ蠅帽子峠にかかったと思われるころ――その隊士数人が転がるように駈け戻って来て、本陣に思いがけぬことを報告した。
前方に、二十人余の敵が待ち構えており、渓谷にかかる吊り橋に薪《たきぎ》を積んで、あわや火をかけんとしているというのです。しかもそれは彦根《ひこね》侍だというのです。
越前のほうから来たわけはない。この険阻《けんそ》を、われわれに先行していた一隊があったのでござります。――そういえば、それまでにその徴候があった。前方の雪に、いくつかのふしぎな足跡があった。しかし、それにさらに雪がつもって不鮮明な跡となっており、また逃亡した住民のものとも考え、まさか「敵」が先行していようとは想像のほかであったのでござります。
しかし、それが彦根侍なら――あり得ることだ!
衝動の次に、われわれはすぐに納得しました。
いうまでもなく井伊大老を討ったのは、わが水戸藩士たち、それも天狗党であり、以来彦根藩が水戸天狗党に対し、血をすすり肉をくらってもあき足りぬほどの深讐《しんしゆう》をいだいているということは、われわれも聞き伝えていたからでござります。
われわれが鵜沼あたりまで進んで来たとき、すぐ西方の大垣《おおがき》あたりには諸藩兵が押し出して来ていたことはすでに申しました。その中に、むろん彦根藩勢もいることは耳にはいっておりました。その諸藩兵はしかし戦意なく、大垣藩のごとき、あのように滑稽で哀れな書面をとどけて来たくらいで、その後われわれは北方へ道を避けたものの、まだ平野のうちのことですから、追撃して来ようと思えばできたものを、ただじっとわだかまっているばかりでした。思うに、その中で彦根侍だけは切歯扼腕《せつしやくわん》して、先廻りの行動に出たものと見える。しかし、それが、わずか二十余人とは?
――さすがだ――
みな心中に感歎をおぼえつつ、
――やるか? やれ!
と、その報告を聞いた範囲の人間は武者ぶるいして、どよめきました。
が、その次に報告が、「その敵は、談判したいことがあるから、軍使をよこせ、といっている」とつづいたのを聞くに及んで、幹部連中は首をかしげました。
「談判のことがある? はて?」
藤田が首をかしげたのについで、
「われわれの進路を妨害するつもりなら、まずその橋を焼き捨てればいいはずじゃがの」
と、つぶやいたのは山国兵部でござります。
「よし、わしがいってみよう。稲之衛門、小四郎その他、三、四人だけついて来い。あとは騒ぐな。騒がせるな」
と、命じて、彼は先に歩き出しました。同行する一群に、私と金次郎もついてゆきました。
駈けつけて見ると、なるほど眼もくらむような峡谷にかかった藤蔓《ふじづる》の吊《つ》り橋のたもとから、三間ばかり離れて木樵《きこり》小屋らしきものがあり、その前に、二十数人の侍がならんでおりました。彼らと橋のたもとにかけて、山のように薪《まき》や枯れ枝が積んでありました。
なお降りしきる雪の中に、武士の数人は燃える松明《たいまつ》ようの木の束を手にしております。さすがに向こうも決死の眼光で、それは魔人の群像のように見えました。
藤田と本陣輔翼の竹内百太郎だけが、そこに近づいて話しはじめました。どういう内容なのか、談判は十分以上にもわたりました。
やがて、二人がひき返して来て報告しました。
そして向こうは、ここで天狗党と一戦やるつもりはない。条件によっては無事通過させる。ただし、向こうの安全を保証させるために人質をとる。それは天狗党中に数人の女人がいるはずだ。それを人質とし、全軍が橋を渡ったあと、釈放する。この条件がいれられなければ、自分たちは橋を焼き落として、最後の抵抗を試みる、と申し出たことが判明しました。
戦うつもりはない? それでは何のためにここまで来たのだ?
――やがて藤田が、推測をも混じえて語ったところによると、彼らが天狗党を見のがすのに我慢なりかね、彼らだけ単独行動で急遽《きゆうきよ》挺進隊を作って突出して来た、というところまでは、こちらの想像どおりでござりました。ところが頭を冷やしてみると、自分たちは二十余人、うしろから来る天狗党は千人です。戦ってみたところで、歯の立つ道理がない。といって、どこかに隠れて、天狗党をやり過ごすのも無念残念だ。――と、怖れつつ、また執念を残しつつ、実態はかえって天狗党に追われるかたちになって、どんづまりのここまで来た。
ところが今や前方にそびえるのは、雪の蠅帽子峠である。とうていあれを越える気力はない。橋を渡ってから橋を焼き落とせば、自分たちが山岳と峡谷の間に立ち往生してしまう。橋の手前で焼き落とせば、こんどは峡谷と天狗党の挟み討ちになってしまう。――彼らはみずから好んで、飛んで火に入る夏の虫ならぬ、飛んで山に入る冬の虫になってしまった、ということがわかった。
客観的に見ると竜頭蛇尾《りゆうとうだび》で滑稽千万ななりゆきですが、彼らにすれば絶体絶命の正念場で、彼らなりに死物狂いの覚悟をきめていることは、その面だましいから明らかでござりました。また、実際彼らが火を放てば、橋の焼け落ちることもたしかでござりました。
「ところで、その人質の女人とは、あのおゆんとお登世のことか」
と、兵部が訊《き》きました。
「いや、それが、きゃつら、ただわが軍中に女が何人か混じっておる。よほど貴重な女人らしい、という風聞を耳にして、そんな要求を持ち出したらしい。カマをかけて見ると、正体を知っているような返事をしたが、実は知らないと見た。――いや、天なり命なり、こんな用のためにあの五人の女たちがついて来たか、と思う」
と、藤田が薄く笑ったのは、五人の女郎を頭に浮かべたからに相違ない。
田丸稲之衛門が不安そうに、
「何にしても、きゃつら、まさか鵜沼から仕入れた飯盛女郎を人質にしたいつもりではあるまい。もし、ばれたらどうする?」
と、いうのに、小四郎は答えました。
「なに、そのときはそのときですよ。私は大丈夫と思う。ちょっと待ってください。あの女たちに頼んでみる」
行列のあちこちにいる五人の女を呼び集め、藤田は右の事情を打ち明け、天狗党が全員橋を渡れば釈放するといっているが、何ならここから彦根侍たちといっしょに鵜沼に帰ったらどうじゃ。お上《かみ》に知られたら、天狗党にむりに連れ出された、とでもいうがよかろう、と説明しました。
すると女たちは、思いがけぬ拒絶反応を示したのでござります。
「いやです! 井伊の侍は――」
「それだけは、死んでもいや!」
その場になって、藤田はやっと、彼女たちが安政の大獄で落ちぶれた公卿侍の娘だということを思い出したようです。
「ああ、そうか。――これは、いかんかな」
と、頭をかいたとき、隊士をかきわけて、荘司、久保田、難波らが出て来ました。彼らも事情は知ったらしい、そして、口々に叱咤《しつた》しました。
「うぬら、何のためについて来た。天狗党のためなら、どんなことでもするといったではないか」
「それくらいのことで、志士千人の無事通行が叶《かな》うなら、それほどお易《やす》いご用はないではないか」
「よしや、うぬらが彦根侍のおもちゃとなったとしてもそも何じゃ。どこかの姫君ではあるまいし――うぬらの汚れ切った道具を大義のために使用する――むしろそれでこそ、その道具が、みたみわれ、生けるしるしあり、と歓喜の声をあげるではないか!」
胸ぐらをつかまんばかりの勢いでござりました。
その結果、女たちは了承しました。ま、それほど簡単にではありませんが、とにかくある瞬間から、女たちはキョトンとなり、蒼白くなった顔を見合わせ、ふいに俎《まないた》にのった魚みたいに、あっけないほどおとなしくなって、こっくりしたことは事実でござりました。
藤田は、五人の女郎を連れていって、彦根侍にひき渡しました。意外にも、というべきか、案の定《じよう》、というべきか、彼らは何の異議もなく女たちを受け取りました。
女を前にならべて、凄い形相《ぎようそう》でうしろから白刃をつきつけて、牽制《けんせい》したつもりの彦根侍の前を、天狗党は粛々と通って吊り橋にかかります。
彼女らの前を通るとき、山国兵部と田丸稲之衛門がそれとなくお辞儀をしたが、それも彦根侍に何か錯覚させたかもしれません。
なおふりしきる雪の中に、涙を浮かべて立って見送る女たちは、これまで私の眼には、なまめかしい、というより、なまなましい、という感じがありましたのに、このときばかりは、あの「雪女郎」という言葉さながらに、私ははじめて哀艶《あいえん》の気に打たれたのであります。
私たちの頭からは、すぐにその女たちのことは薄れてしまいました。
蠅帽子峠を越える苦しさのためでござります。峠の積雪は、四、五尺に及び、それになお雪はふりつづいているのです。その行軍の惨苦は、もう一々申しあげませぬ。そもそも形容の言葉もなく、また千万言を連ねてもその実状を伝えることは不可能だからであります。ただ、これこそ天狗党長征の全コース中、最大の苦闘であったとだけは申しあげておきましょう。
とにかく、十二月五日ここを越え、その夜、やっと黒当戸《くろとど》という部落に至りました。
しかるに村は、ことごとく焼き払われておりました。雪の中に灰燼《かいじん》がひろがり、なお鼻を刺す煙さえただよっておりました。わずか数人残って、その焼け跡で嗚咽《おえつ》している百姓をつかまえて訊《き》きますと、その日、越前|大野《おおの》藩の侍たちが来て火をはなったもので、その大野藩は六百人を動員して、前方の笹又《ささまた》峠まで出張している、とのことでござりました。
一同はしばし言葉を失って、顔見合わせるよりほかはありませんでした。
われわれは蠅帽子峠を越えて越前にはいった。しかし、幕命はすでに越前に廻っていて、敵軍はここにも待ち受けていたのでござります。
「越前は囲炉裏に酒を暖めて待っておってくれる、と思っていたか?」
豪快に肩をゆすって田丸稲之衛門が笑いました。
「四面みな敵、とは覚悟の前ではなかったか。ただ敵あらんかぎり、一路突破して進むのみじゃ!」
それはそのとおりです。が、その日の労苦があまり極限的であったために、どうしようもない落胆と絶望に襲われて、われわれは佇立《ちよりつ》せざるを得ませんでした。
それよりも現実に、その夜をいかに過ごすべきか、われわれは立ちすくんでしまいました。いや、佇《たたず》むことさえできません。その間にもふりつづける雪、峠よりなお深い五尺の雪の中に、われわれはその雪をしのぐ一つの屋根も持たなかったのでござります。
人々は、傘《かさ》にもならぬ樹々の下に寄り、焚き火をたいて暖をとりました。本陣の場所は、なんと小さな木橋の下でありました。おゆん、お登世の駕籠もそこに置かれました。
天狗党の旅で、忘れようとしても忘れられない記憶の一つは、冥府《めいふ》の世界ともいうべきこの夜の光景でござります。
六日未明、私と金次郎は、藤田小四郎に連れられ、歩きまわっておりました。
焚き火の数は、めっきり少なくなっている。前日のあまりの疲労のため、交替で木をくべる者がなくなって、消えた焚き火のまわりにみな倒れて、眠っているのでござります。
実は莚《むしろ》は相当に携行していた。雪の中を大砲を運搬するとき、雪の上に、これを投げかけ投げかけ、それを踏んで前進する。まことに根《こん》の疲れることですが、それでも無いよりはいくばくかの効用はあった。そのボロボロになった莚を敷いて寝ているのですが、むろん足りないことはいうまでもなく、じかに雪の中にうずくまったり、横倒しになったりして、みな眠りこけているのです。
藤田はこういうことを心配して、傍に眠っていた私たちをたたき起こして見廻りに出かけたのです。われわれはそれらの人々を連呼し、はては蹴飛ばして起こして、焚き火の火をつけさせた。
――それでも、この夜凍死した人間が三人ありました。
藤田は本陣に帰り、相談の結果、まだ夜は明けないのに、全員を起こし、食糧制限を解き、みな食えるだけ食え、と命じました。あとは知らず、みなを鼓舞して、なかばはいりかかっていた死の世界から生の世界へ引き戻すには、その法しかないと決断したからでござります。
たちまち、わあっという喚声があがりました。
焚き火は前に増して燃えあがり、みな手持ちの握り飯、餅などを焼きはじめる。焼け跡から拾って来た黒焦げの土鍋《どなべ》などをかけて、持参の味噌《みそ》で味噌汁を作る者もある。
私たちもやりはじめましたが、握り飯がただちに肉となり、芋《いも》や大根の汁が、まるでたちまち熱い血に変わるような美味《うま》さでありました。
その騒ぎもややおさまって来たころ――ちょうど空が白みかかって来たころ、遠いところで、ふと女の声を聞いたような気がした。私と金次郎は顔をあげました。すぐに私たちは箸《はし》を投げ捨て、駈け出しました。
部落の入口に近い焚き火の一つに照らされているのは、峠の向こうに残して来た、あの五人の女郎ではありませんか?
彼女たちは、髪は乱れて背に垂れ下がり、眼はくぼみ、頬《ほお》はこけ、着物はズタズタになって、しかも雪まみれでした。どうしたのか、顔や手足に血まで見えました。
「ああ!」
うめいたきり、私たちはしばし声もありませんでした。
女たちは、あれからどうしたか。とにかく、大部隊のわれわれも精根つき果てたあの怖ろしい雪の蠅帽子峠を、夜じゅうかかって越えて、私たちを追って来たのでござります。
それが、
「どうぞ、食べるものを……」
「お粥《かゆ》でも、餅のかけらでも……お慈悲でございますっ」
と、膝をつき、両掌《りようて》を合わせて小さく拝んでいるのです。
百姓兵たちは顔見合わせ、当惑したようにつぶやきました。
「それが……食っちまったんだよ。みんな。――」
土鍋の中は、からっぽでした。
その向こうの焚き火の連中も、茫然とこちらを眺めているところを見ると、女たちがそこでも同様の運命に逢ったことは、間違いありません。
われに返って私たちが声をかけようとしたとき、背後から荒い鼻息が聞こえました。
「なんだと? あの女郎たちが追って来た?」
あの荘司たちでござりました。
「ほう、なるほど。――」
彼らは手に握り飯や餅を持ち、どこにあったか、酒でも飲んだような顔色でしたが、さすがに驚いた表情でした。
「こちらに来なさい、話を聞こう」
女たちを助け起こすようにして歩かせながら、
「あれから、どうした?」
「お前たちを釈放したところを見ると、お前たちの素性がわかったからだな?」
「素性が知れて、彦根侍たちは何をした?」
ふいに彼女たちは荘司らにむしゃぶりつきました。
「くやしい!」
そして、おんおん泣き出したのです。男の胸を白いこぶしで、どんどんたたく者もありました。
それが、何も直接相手に怒ってしている行為ではない――いまの問いや、さきに自分たちが受けた仕打ちに腹をたてているのではない――ということは、見ている私にもわかりました。それは、よそでひどい目にあった女の子が、兄か父かにむけてだだ[#「だだ」に傍点]をこねているような可憐な姿に見えました。
「なに、やられた?」
「ぜんぶが……ぜんぶにか?」
「そりゃひどい、言語道断じゃ!」
男たちは大声をあげました。
しかし、これは、ほんとうに驚き、彼女たちに同情しての反応ではない、ということも私にわかりました。ところが、かえって女たちにはわからなかったらしい。
「とにかく、何か食べさせて――お慈悲を!」
と、あえぐのを、荘司はふいにつきのけました。
「馬鹿っ、敵のおもちゃになって、うぬら、生きてヌケヌケと天狗党を追って来たか!」
すると、久保田、難波も口々に、
「汚らわしい。じゃからはじめから、うぬらを同行するのに異議を述べたのじゃ」
「飢えて死ね、この世から消えてしまえ。それがうぬらの天狗党に対する最大の献身じゃ!」
と、罵《ののし》りました。
餅や握り飯を持った両手を高く空へあげているのです。
私も、彼女らを同行するのに反対であったのは、彼らと同じであったのですが、聞いていて、これはあんまりだと思った。もっとも、荘司たちを、むろん少年の私はよく知らなかったのですが、それまで、それほどむごい人だという評判は聞いたことがない。彼らにしてみればもともと心理的抵抗があった上に、苦しい旅で気が立っていたのでしょう。それにしてもこうまでにくていな口をきいたのは、いまにして思うと、男性としてのヤキモチ的心理も作用したのかもしれません。
実は私は、そのときは、女たちがどういう目にあったのか、はっきり理解できなかった。ただ、ひどい目に逢ったらしい、とは知った。そしてまた、いまも黙過できないひどい目に逢っていると感じた。
「こっちへおいで」
と、金次郎が進み出ました。金次郎も同様の心であったのでしょう。
「食べるものをあげる」
そして金次郎は、棒をのんだように立っている荘司たちに、
「あなたがた、このひとたちにこうしたことをいうのは、きのうこのひとたちから、もらって食べたものを出してからにしてください」
と、申しました。
一見やさしい顔だちでもあり、事実やさしい性質でもありますが、激すると、怖さ知らずになる武田金次郎でござりました。
私たちは五人の女郎の手をひくようにして、橋の下へ連れてゆきました。その途中、顔を両掌で覆い、むせび泣きをつづけた哀れな女郎たちの声は、いまも耳に残っております。
その日、われわれはまた出発した。
越前にははいりましたが――ここにおいでのみなさまはご承知のように、あのあたりは山また山でござります。笹又峠、湯《ゆ》の尾《お》峠その他、村から村へゆくには、ほとんどみな山を越えなければならない。しかも大変な風雪の中でござりました。
その笹又峠には、大野藩の藩兵が待ち受けているということでありましたが、われわれが接近すると、これまた退却してしまい、それどころか、どうか大野を避けて今庄《いまじよう》のほうへいってくれ、という哀願とともに、多額の金子と食糧をとどけて参りました。黒当戸《くろとど》で、せっぱ詰まってほとんど食いつくした食糧の件は、望外にも向こうから一応解決してくれた次第でござります。
六日、木ノ本村。
七日、宝慶寺。
八日、谷口。
九日、小倉谷。
十日、今庄。
どこまでいっても、背丈に近い雪また雪。まるで白い夢魔とたたかっているような日と夜がつづきました。
「尊皇攘夷」の旗は風になびくボロとなり、もうわらじも手にはいらず、凍傷をふせぐために布きれを巻いた足は、みな泳ぐようでありました。全員の頭に、もう尊皇攘夷などかき消え、いったい何のためにどこへゆこうとしているのかわからなくなり、はては、これはこの世のことでなく、みずから亡者の行進ではあるまいか、と思われて来るほどでござりました。
そしてわれわれは十一日、木《こ》ノ芽《め》峠を越えました。
ここで私は変てこな心理的体験をした。
この木ノ芽峠は、みなさまご承知のとおり、その昔新田義貞が北国へ落ちてゆくとき足利勢に襲われ、兵、風雪の中に凍えて苦闘のかぎりをつくしたと『太平記《たいへいき》』にある峠ですが、われわれもここで背後から、久しぶりに、ふいに相当数の銃声を聞いたのです。
あとでわかったところによると、それは福井藩兵でありました。われわれはただちに応戦した。何しろ実に七、八尺という雪の中なので、戦闘らしい戦闘にもならなかったのですが、この鉄砲の応酬で、私は恐怖より、奇妙なよろこびをおぼえた。それは自分たちがまだ人間世界と関係があることを確認したうれしさであったのです。
そして私たちは、新保《しんぼ》村に到着しました。
なんぞ知らん、そのすぐ前面には、加賀藩兵以下三万の敵軍が待ち受けていようとは。――
それからのいきさつは、また明日のことにいたしとうござります。
……一晩、休ませていただき、申しわけありませぬ。昨日も、いろいろと考えておりますうち、また軽い神経症状を起こしまして、失礼申しあげました。やはり、これ以後のことは語りたくない心が働くからでござりましょう。実際いまも、ちと大袈裟《おおげさ》でござりますが、舌もしびれ、歯もカチカチ鳴りそうな思いに襲われているのであります。
しかし、お話し申しあげなくてはなりますまい。そのために私は、この敦賀史談会に参ったのでござりますから。――
もっともこれからのいきさつは、史談会の方々はたいていご存知でござりましょう。で、そのあたりは、なるべくとりまとめて申しあげますが、ただその中で、余り人の知らない――甚だ突飛な、私だけの見方でござりまするが、「幽霊」という現象について、ちょっとご一考願いたい出来事がある。
さて、われわれは新保村にはいったが、ここがはからずも天狗党が武力集団としてかたちをなした最後の土地と相成りました。
(作者曰く、私も新保村にいって見た。村は細長い急な坂道を中にした寂しい村である。往来と家々との間の溝《みぞ》の水は、急流となって冷たいひびきをあげている。
坂を上りつくして村のはずれに出ると、道はそのまま山へはいってゆく。その先が木ノ芽峠なのである。そこはむろん、海辺には遠く、曠野《こうや》ともまた正反対の――私のいったときは六月であったので、山に囲まれて蓬々《ほうほう》とそよぐ草の中に黒ずんだ木立ちがあり、その間に古い水車がまわっているといった風景であったのに、なぜか地の果てのどんづまりといった印象があった。
天狗党はここを逆に、峠のほうから雪まみれになって、それこそ雪崩《なだれ》のように下りて来た、というより、半死半生で転がり落ちて来たのである)
新保村は焼かれてはおりませんでしたが、ここにも村民の影はなかった。が、わずかに居残っていた老人から、すぐ前面の葉原《はばら》村まで加賀勢が押しかけていることを、はじめて知ったわけであります。
先に、われわれを待ち受けていた敵は三万と申しましたが、それは天狗党越前に向かう、と知った幕府がそちらに向けて動員を下命した加賀、彦根、桑名《くわな》、小浜《おばま》などの藩兵の数で、当面、すぐ前まで来ていたのは加賀藩でござりました。
しかし、これはいままでの小藩の敵とは同日に論じられない。百万石の兵である。
新保村の一番大きな屋敷に本陣を構えた耕雲斎は、すぐに使者を送りました。これまでの同様な場合とひとしく、われわれがここまで西上して来たいきさつを述べ、決して叛乱《はんらん》を企てているわけではない、ただ京へ上って、われわれが攘夷のために起《た》った志を、天朝さまか、あるいは一橋慶喜公に訴えたい一心からだけで、何とぞこれから先の通行をお許しに相成りたい、と申しこんだわけでござります。
しかるに加賀藩の返答は、われわれはその一橋慶喜公からのご依頼によって出動したものである。すでに大津まで出陣された慶喜公のご下知には、天下を騒がす天狗党のやつばら、一人たりとも京へはいらせることは相ならぬ。あえて進んで来るなら討ってとれ、とある。よって、それでも罷《まか》り通りたいというならば、われらと兵馬の間に相まみえよう。と、いうのでありました。
天狗党は衝撃を受けた。
それは加賀藩の戦意よりも、それが慶喜さまのご指揮によるものだ、ということを知ったからでござりました。
「そっちにお化けが出るというので、廻り道をしたら、こっちからも同じお化けが、ばあ! と出たようなものじゃな」
形容ではなく、氷のような沈黙を、まず破ったのは山国兵部でございました。
「だから、いわぬことじゃない。――」
声は笑いをふくんでいますが、痛歎のひびきもおびております。
父の耕雲斎は、暗澹《あんたん》たる顔をこわばらせたままでした。
慶喜さまがわれわれを討伐のため中仙道へ出て来られる、と知って、その中仙道からそれて越前へ廻る、ということを考え出したのは耕雲斎でござりました。それに対して、田丸稲之衛門は、「そっちへ廻っても、慶喜さまもまたそっちへ廻られるかもしれないではないか」と、当然な問いを発した。すると、さらにそれに対して父は、「われわれがなぜそっちへ廻ったか、ということを慶喜さまはお考え下さるだろう。そして、そっちへ廻っている間に、風向きが変わって来るだろう」と、いった。――
風向きは変わらなかった。田丸稲之衛門のいったとおりでした。鵜沼から北方に道を転じて十二日間、あの人間わざとは思われない山と雪との苦闘は、まったく無意味な愚行に過ぎなかったのです。
当然覚悟していい事態なのに、それにもかかわらず、その愚行の結果の消耗ぶりがあまりに徹底的だったゆえに、われわれはやはり凍った身体にとどめの冷水を浴びせられたような気がした。いえ、正確にいえば、私個人より、天狗党全般の空気でありますが。――
ただその中で、山国兵部の声だけがつづきました。
「こっちも、はじめからの予定の行動だと思えばよい」
痛歎のひびきは、総大将耕雲斎の愚行への非難というより、自分たちの精力の浪費に対してであったでありましょう。しかし、この七十一歳の老軍師は、少なくとも心の精力――精神力においては、屈服ということを知らぬ大変な爺《じい》さまでござりました。
「豚一じゃろうが、百万石じゃろうが、気にすることはない。邪魔する者は無二無三に踏み破れ。そして天狗党は長州まで大行軍をつづけるのじゃ!」
豚一とは、いうまでもなく慶喜公の綽名《あだな》です。慶喜公はハイカラ好みで、豚を食うのがお好きだったそうで、それと一橋と組み合わせて、当時そういう異名をつけた者があった。
そこへ、もう夜にはいっているのに、雪の中を加賀勢からやって来た人がありました。先刻のこちらからの使者との応答にあき足らず、大胆にも向こうから直接に訪れて来たのです。もちろん一人ではありませんが、その正使ともいうべき人が、天狗党にとって、文字どおり、あの世まで忘れることのできない一人となりました。
加賀藩馬廻り役、現天狗党討伐軍軍監、永原甚七郎といい、年は五十歳前後、実に沈毅《ちんき》な顔と、がっしりした身体を持った人でありました。
で、重ねてここで応酬し、永原氏は「了解した」と、うなずきましたが、こちらの陳情もさることながら、彼は、惨澹《さんたん》たる天狗党の状態のほうに打たれたらしい。
帰りぎわに永原氏は、
「来てよかった。……実はわがほうでは、今夜にも攻撃を開始するところだったが、ちょっと待て、と、とめて、偵察に来たわけだ」
といって、われわれをぎょっとさせました。
そしてこの人は、二、三日後、天狗党に、白米二百俵、漬《つ》け物十|樽《たる》、酒二石、するめ二千枚、その他馬の飼料などをとどけさせて来たのでござります。
一方で彼は、われわれの陳情書を、すでに琵琶湖《びわこ》北岸の海津《かいづ》まで出陣していた慶喜公にとりついでくれようとした。ところが、これは、間に立った督戦の幕府の大監察、小監察――旗本上がりの役人ですが――に、冷たくつき返されました。のみならず、加賀藩には討伐を命じたはずだが、降伏書とは思えぬかようなものをとりつぐとは、臆病風に誘われたか、と叱責しました。
これに対する永原甚七郎の反論書が残っていて、その写しがここにあります。彼は、実情を見るに天狗党は、あの地でほうっておいても饑餓《きが》のために衰弱死してしまうありさまだ、と述べ、さらに、
「……武田勢が事情ここに至れるをお汲《く》みわけもなく、無惨に討てとの御下知は不憫《ふびん》の至りと申すべく候。よくよく処置すれば百万の軍にも当たるあたら勇士を討伐す。その責《せめ》だれに帰し申すべきや。加うるに彼らは、信義を主としていささかも疎暴《そぼう》のふるまいなきに、突然討ちかかり候わんこと、武門の本意に候わず」
とまで申してくれております。いま読んでも私どもは、彼の同情に感涙を禁じ得ないものがあります。
加賀藩のいうように、しばらく天狗党の出様《でよう》を見て待つべきか、進んで討伐すべきか――これは彦根藩など最も強硬だったそうでござりまするが――あちら側でも両論があったらしいが、結局、
「ただちに無条件降伏せよ。しからずんば、十七日攻撃を開始する」
ということに決定し、それが天狗党に通告されたのは十六日の夕刻でありました。
十六日の夜、新保村の天狗党の幹部会議で烈しい議論が行なわれたことはいうまでもありません。
降伏をやむを得ずとするのは、もはや天狗党はたたかう力の限界を超えた。前面の加賀勢はともあれ、その背後に雲のごとく集結しつつある諸藩の兵をどうするか。とくにその采配《さいはい》をとられているのが慶喜公とあっては、その慶喜公にわれわれの悲願を訴えるという大目的にそわないではないか。歎願書をつき返されたままで降伏するのは残念だが、しかし当面の相手たる加賀勢を見るに、すこぶるわがほうに同情の心があるようである。とくにあの永原甚七郎という軍監は誠実であり、血あり涙ある武士と見える。加賀藩ならば悪くはすまい。しかも、その背後の慶喜公は名目上討伐軍の大将となっておられるとはいうものの、おん父斉昭公のご意志を奉じて決起した天狗党を、空しく誅殺《ちゆうさつ》なされるはずがない、というのでありました。
これは、田丸稲之衛門、藤田小四郎らが唱え、隊長の三分の二が賛成しました。豪快な田丸、颯爽《さつそう》たる藤田が降伏論を口にしたのですから、よくよくのことですが、しかし彼らはただ弱気からこういい出したのではないようでした。どこか非常に楽観的な感じがありました。今にして思うと彼らは、みずからの立場の純粋性と、慶喜公と加賀を信ずるところ極めて堅《かた》かったらしい。
これに対して降伏反対論は、力の限界を超えたことをやろうとしたのは、最初の出発時からのことではなかったか。諸藩の大軍が烏合《うごう》の衆であることは那珂湊の戦い以来明らかなことだ。決死の覚悟で進撃すれば、加賀勢とて何かあらんやだ。決死の覚悟というのは、たんなる形容ではない。降伏すれば死以外にないからだ。その死も、無駄死にだ。われわれはただの賊として処置されるだろう。見よ、那珂湊で松平|大炊頭《おおいのかみ》さまは一語の弁明の機も与えられず切腹に追い込まれなされたではないか。加賀勢信ずるに値せず、というのではない。幕府の役人のやりくちが常に小人的なのだ。そして、甚《はなは》だ恐縮だが、諸君の頼みとする慶喜さまがあてにならない。悪いお方でないことはむろんだが、貴人の秀才によくある型で、自分の保身のためには、下々のだれかれを問わず、間が悪いとも思わず切り捨てて恬然《てんぜん》としているお方である。と、われわれは見る、というのでありました。
これは山国兵部の論で、隊長の三分の一が賛成しました。
論争は夕刻から十七日の未明に至りました。囲炉裏《いろり》をかこんで、怒号し、涙さえ流す軍議――それは常陸《ひたち》の大子《だいご》以来、いくたびか見た光景ですが、この越前新保村のそれをいま思い出すと、赤い炎が濃い影を作ってゆらめく顔、顔、顔が、もう地獄の相をおびていたように思われてなりませぬ。
その結果、決定は耕雲斎にゆだねられた。
そして耕雲斎は、降伏説に軍配をあげたのです。その最後の言葉は、またも、
「兵部、やはりわしは、慶喜さまにはお手向かいできぬよ。……」
という、あの天狗党北進を決めた鵜沼での軍議と同じものでござりました。のちになって思えば、耕雲斎はここで、二度目の愚行――決定的な愚行を犯したのでござります。
で、父が、またも慶喜さまの信ずるに足ることをクドクド述べている間に、山国兵部はふいと起《た》った。
不安げに見まもる一同に、
「小便じゃ」
と、いってこちらに歩いて来て、私のそばを通るとき、
「源五郎、人質の番をしておるのは金次郎かな」
と、ささやいた。
人質とは、おゆん、お登世です。彼女たちは、あの怖ろしい雪の山を越えて、新保まで同行させられていたのです。そしてこの夜、彼女たちの見張り役は、たしかに金次郎でござりました。
「そこへ連れていってくれ」
べつに立ちどまりもせず、兵部は縁側へ出ていった。私はそのあとを追いました。
本陣としたその家は、新保村にはただ一軒の、部屋数が十二、三もある大きな家でしたが、むろんどの部屋にも浪士が充満していて、息をこらして軍議の気配をうかがっているようすです。その部屋部屋の行灯《あんどん》の灯が、かえって陰惨に縁側にゆれておりました。
そこを、厠《かわや》にゆく風でもなく歩きながら、ふいに兵部は申しました。
「源五郎……。人質を殺したら、お前怒るか」
あまり思いがけないことで、私が棒をのんだように立ちどまると、兵部も足をとめてふり返りました。
「降参すれば、天狗党はみな首になる。人質はもはや無用じゃ」
毛一本もない入道頭、眉さえない兵部の半面が、片側の破れ障子からもれる灯《ひ》に浮かんで、私はこのときほどこの老人を怖ろしいと思ったことはありません。その眼には、たしかに殺気の光がありました。
私はうろたえながら、さけびました。
「そ、それは、しかし」
「いや。――心配するな」
老人は顔を笑いに変えました。
「殺してしまっては、水戸に残った天狗党の家族がみな殺しになる」
「…………」
「しかしな、われわれが降参して、あの人質が敵の手にはいれば、やはり同じことになる」
「…………」
「源五郎、金次郎といっしょに、人質を連れて、どこかに逃げてくれぬか?」
私は、はっとしました。
「そして、水戸の家族が大丈夫、という見きわめがつくまで、あの人質をどこかに隠しておくのじゃ。万が一、市川らがわれらの家族を手にかけたら、そのときはあの二人を殺してその首を水戸に送ってやれ」
やはり、怖ろしいことをいう老人でした。兵部はこれを命じるために、私を連れ出したのです。
――しかし私にも、兵部の最後の危惧《きぐ》と作戦は、尤《もつと》も千万に思われました。私はふるえながら訊《たず》ねました。
「でも……私たちがあの二人を連れて、ここから逃げ出せるでしょうか?」
「お前たちだから頼む気になったのじゃ。そもそも水戸からあの女たちを誘い出したのは、お前たちではないか。大人なら、むろん不可能じゃ。それをどういう具合にやるか、また人質を連れてどこへ逃げるか、どうして潜伏しておるか、それをこれから相談するとしよう。――女たちはどこだ?」
「ここです」
私は一室の障子を指さしました。
それをあけて、中にはいる。――そこには、おゆんとお登世と、そして金次郎がいるはずでした。
ところが、いません。だれもいません。
向こう側の雨戸があいて、そこには、水底のような夜明けの光と、チラチラ降る雪片さえ見えます。部屋の中はがらんとした冷気が凍りついているばかりでござりました。
そこへ――その外から、武田金次郎がひょっこり帰って来ました。そして、縁側からあがって来て、私たちを見て、ぎょっと棒立ちになりました。
その全身に浴びた雪のようすからも、彼の外出が十分や二十分でないことが明らかでござりました。
「金次郎」
私はさけんだ。
「人質は?」
「逃がした」
金次郎は答えました。
「逃がした? どこへ?」
「葉原《はばら》村のほうへ」
「なぜ?」
「明日は最後のいくさだろう。もう天狗党にとって、あんな人質は無用だと考えたからだ」
金次郎は、山国兵部をにらみつけるようにして、昂然《こうぜん》と眉をあげていうのです。
さっきの兵部と私の問答を聞いていたわけはありませんが、期せずして、兵部がいちど口にしたことと似たようなせりふでした。
「女の人質を死の道連れにしては、天狗党の恥になる。――ついでに、あの五人の女郎も逃がしてやった」
人質はもう無用だから殺す、と兵部はいい、だから逃がした、と金次郎はいうのです。兵部の言葉はすぐにみずから否定されましたが、その可能性も考えられるわけで、知らずして金次郎が、もののけ[#「もののけ」に傍点]に襲われたように動いたかと思われました。ただ、予想外の反応ではありました。
「責任はおれがとる。斬るなら、斬ってください!」
兵部は一語も発せず、しげしげと金次郎の顔を見つめていました。
唖然《あぜん》としていた私が、兵部に代わって申しました。
「金次郎、天狗党は降伏ときまった」
「えっ、降伏?」
「一応降伏のかたちをとるが、あとは慶喜さまを信じて、そのお心にまかせるというんだ。それにしても、水戸に残った天狗党の家族の安全のために、あの人質は大事だと山国先生はおっしゃるんだが。――」
金次郎は鞭《むち》打たれたようでした。彼は、降伏ということは考えなかったし、いわんや、降伏後もその人質が切り札になるとは予想もしなかったらしい。
「金次郎。……お前はそれほどあの女たちを助けたかったか?」
兵部は笑顔になり、近づき、ささやきました。
「どっちが好きだった?」
私にも、おゆんかお登世か、という意味だとわかり、しかも、私もまた鞭打たれたような感じになりました。
ふいに金次郎は子供みたいな泣き顔を作り、その顔に両掌をあてました。実際に、泣き声が溢れ出しました。
「罰してください。……私を処刑してください!」
「もういい、もういい」
老軍師はやさしくその肩に手をかけました。
「お前のしたことのほうが正しかったかもしれん。これ以上、女の人質を利用するのは、まさに天狗党の恥だ。何にしても、人質より、お前のほうが大事だ」
そして、彼は申しました。
「敵はな、降伏承知なら、その使者は武田耕雲斎身寄りの者を敦賀に寄越せ、といって来ておる。だまされることを怖れて、それこそ人質にとるつもりだろう。その使者に、お前、耕雲斎の孫、武田金次郎が立ってくれ。大事な用だぞ。……」
――あとで知れたことですが、金次郎は二人の人質と五人の女郎を連れ出した。新保村の入口には、むろんあちこち篝火《かがりび》を焚いて哨兵《しようへい》が立っていたのですが、「軍議の結果、至急女たちは釈放することになった」というのが、総大将の孫、武田金次郎ですから、そのわけを、それぞれ納得したような気になって――彼らの証言によれば、降る雪の中に、みんな女郎かと思った、という――べつに本陣に訊《き》き合わせることもなく通してしまったらしい。で、金次郎は女たちを連れて、新保村と葉原村との中間あたりまで送っていって、そこで別れてひき返して来た、というのでござりました。
金次郎はこのことについて、あれこれ考えている余裕はなかったでしょう、朝になって、敦賀に本陣をおく幕府目付のところへ降伏承諾の使者にゆかされたのですから。――
だれもうれしくない使者で、本来の性質からいえば金次郎などいちばん拒否したかった役目にちがいないが、右の事件の負い目があるから、彼もこの義務を果たしました。
私も――私は、あの女たち、とくに二人の人質が突然消えたことについて、ぽっかり胸に穴があいたような気がしましたが、私もまた、それについてそれ以上あれこれ考えているひまはなかった。なにしろ天狗党降伏という大事を迎えたのです。
こうして十七日から二十四日にかけて、天狗党はいくつかの組に分けられて、雪中を敦賀に送られました。
――思えば、海の見える那珂湊から旅をはじめ、海の見えない土地ばかり二百余里、六十余日を歩きつづけたいわゆる「天狗長征」は、最後は捕虜として、この海の見える敦賀で終わりを告げたのでござります。
この護送の役を引き受けたのは加賀藩で、天狗党を迎えると彼らはいっせいに笠をとり、しかも幕府の目付が、全員縛りあげて護送せよと命じたのに、武士として待遇するとした天狗党との約にそむく、としてこれを拒否したという話が伝えられたのも、われわれを感激させました。
敦賀に送られて、天狗党はご承知のように、本勝寺、本妙寺、長遠寺という三つの寺に分けて預けられましたが、その世話を引き受けたのも加賀藩でござりました。例の永原甚七郎が、「彦根藩などが預かることになったら大変だ」と心配して特に願い出、海津にあった慶喜公がその意味を察し、加賀藩に謝意を表してまかされたという話も、われわれに感涙を流させました。
永原氏は、われわれを遇するに「義士」を以てし、加賀の侍たちにも、赤穂浪士を預かった元禄《げんろく》の細川家の話をしばしばされたそうです。
さて、この永原甚七郎氏が。――
ここで私は、さきに申した「幽霊」云々の件を持ち出さないわけにはゆかないことを遺憾とします。天狗党は翌年早々ご存知のような無惨な終局を迎えるのですが、のちに永原氏は、「天狗党よ許せ、天狗党よ許せ」と口走るようになり、あれほど武士の中の武士とも見えた人が、ついに精神異常を呈されるようになったという。
天狗党にその無惨な仕打ちをした人間どもが発狂したという話はないのに、それを護ろうとした誠実で親切な人が、不本意な結末を苦にやんで精神異常となる。世に幽霊を見るのは悪いことをしたやつだということになっておりますが、しかし実際にそういう現象が起こるのは、むしろ良心なるものを持つ人間のほうらしい。――これも終始「つじつま[#「つじつま」に傍点]の合わない人間世界」の物語ともいうべき天狗党始末の中の一例として、お心におとどめ置き願いとうござります。
しかし、われわれもまたその運命を知らなかった。
敦賀の寺での生活は、むろん謹慎状態とはいえ、先日までの地獄旅にくらべれば、極楽のように思われました。内密ながら酒まで出て、天狗党の連中は、これは決して内密ではない声で詩まで吟じました。それをまた加賀藩の世話役の人々は、微笑して知らぬ顔をしていてくれました。
山国兵部の危惧はまったく妄想《もうそう》であったとしか思われず、一同は、天狗党をとりまく妖雲はとり払われ、すぐそこの都から、今にも義士として迎えの白馬がやって来るような夢にとらえられていたのであります。
こうして、怖ろしかった元治《げんじ》元年は暮れてゆきました。その春、水戸にあったわれわれのだれが、暮れには敦賀にいると想像したろうか、と、十五歳の私も感慨をもよおしましたが、しかし、そういう運命を刻んだ悪戦苦闘も、いまは一篇の男の史詩であったような、誇らしい悲壮美にけぶって思い出されたのでござりました。
明くれば、元治二年。――
[#改ページ]
勝敗|曷《いずく》んぞ極まりあらん
元治二年は、すなわち慶応《けいおう》元年でござります。しかし敦賀の天狗党は、その四月に改元された徳川最後の年号を知ることなく地上から消えてゆきました。
一月二十日のことでござります。三つの寺に謹慎していた天狗党は、世話役の加賀の藩士から、衝撃的な事実を告げられた。田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》が一昨日十八日上洛し、慶喜公に天狗党の引き渡しを要求しているというのでござります。
前年の夏から秋へかけての那珂湊をめぐるいくさで、幕軍総督として戦った田沼玄蕃頭、それから、天狗長征の行程で、少なくとも伊那路の飯田あたりまで、執拗《しつよう》に追って来た田沼玄蕃頭。
さすがの彼もそのあたりであきらめたかに見え、その後の消息は知らなかったのですが、それがいま突如として京に現われ、慶喜さまに対し、天狗党の処分は自分に一任されたい、と申し込んだ、というのでござります。
山国兵部が慶喜公について、
「……廻り道をしたら、こっちからも同じお化けが、ばあ! と出たような」云々。
という形容をしたことがありましたが、これこそわれわれにとって正真正銘の大化け物が出現したようなものでありました。
「田沼どのと天狗党との関係は、慶喜公もご承知のはず。万一さようなことになってはとり返しがつかぬこととなるゆえ、永原どのも絶対反対との意向を慶喜公に伝えられたが。……」
加賀藩の侍は、憂色を浮かべて申しました。
しかし、事態は最悪のものとなりました。
田沼は慶喜公にこう申し込んだそうであります。「天狗党が事を起こしたのは水戸であり、そこで彼らを鎮圧した自分に、その処分について権限がある。かつは水戸で捕えた天狗党の一味の者も多数あり、それと法的に一致した処置をしなくては、公平を期せられない。何にしても天下の眼というものがあるから。自分としては寛大な方針でのぞむつもりである」
これを慶喜公はあっさり了承された。
私がこのときの慶喜さまのご行為に釈然としない、と前に申したのはこのことでござります。
天狗党は、故烈公のご遺志を旗じるしにして、懸軍万里、上洛しようとした。その目的は烈公最大のご愛子たる慶喜公にその志を訴えんがためである。そのわれわれに対して、慶喜公は、禁裡《きんり》守衛総督という現在の職責にかけて、幕府から見れば「賊」の上洛を阻止せねばならぬ立場となった。これは双方ともに大悲劇でありました。
かくて天狗党討伐の総大将をみずから買って出られた慶喜公が、「彼らはもと同藩の同志、他藩の手にかけては彼らも不憫《ふびん》、余もまた不面目である。必ず自分が処置して見せる」といい切られたという話も――私は腹をたてましたが――山国兵部をのぞく大半の幹部には、それも慶喜さまの当面のお立場としてはやむを得ぬ、というより、むしろ一種の感激をもって受けとられたようでござります。
慶喜さまのお気持ちはよくわかる。同時にこちらの心をよくわかっていただいているはずだ、というのが、彼らの暗黙の了解でありました。彼らおたがい同志のみならず、慶喜さまとも腹芸の交わし合いをしておるつもりだったのでござります。耕雲斎発案の越前|迂回《うかい》など、その現われでござります。
で、降伏後も、加賀藩の優遇ぶりを慶喜公がよろこんでおられる、という噂《うわさ》に、いよいよ右の以心伝心《いしんでんしん》が着々進行中である、と思い込んだ。
ところがその慶喜公は、実に簡単に、天狗党を、最も怖るべき宿敵の手にゆだねられてしまった。
後に回想すれば、この元治元年から慶応元年にかけては、幕府は西に長州攘夷派をたたきつけ、東に水戸攘夷派をねじ伏せ、あたかも灯の消える前、いっときめらめらと燃えあがったような時期でありました。
その幕府の要職にある慶喜公は、おくびにも攘夷派をかばうようなそぶりを見せては、地位どころか生命すらおびやかされる立場におわした。それでなくてさえ、ご自身が天狗党の宗祖斉昭公のお子で、幕閣から疑惑の眼で見られていたお人だから、なおさら天狗党と劃然《かくぜん》たる一線を切って見せなくてはならなかった。――それは、わかるのです。
それはわかるのですが、それにしても、田沼の要求をかわす方便が、何かほかにあったろうと思われます。
慶喜公は、田沼の要求にも一理あってむげに拒否はできず、かつまた寛大の処置をほのめかされたので、うかと信じたと後に仰せられたようですが、私想像しますに、田沼は右の口上のみならず、いま申したような慶喜公のお立場を見すかして、相当に脅迫的な言辞を弄《ろう》したのではないかと思われる。それに恐怖して、慶喜公は――要するにご自身の保身のために、自分を頼って来た天狗党を、あっさり売り渡されてしまったのです。
幕府の命令がそうであり、慶喜公が屈服されては、もう加賀藩もどうすることもできない。
永原甚七郎自身が、本勝寺の耕雲斎のところへ来て、右の次第を告げた。
耕雲斎は、「仰せの趣き、かしこまってござります」と、平伏し、さて、
「旧臘《きゆうろう》以来のご親切、しばらくの間ながら、三年も生きのびた心地がいたす。子孫のうち一人でも生きてこの世にあれば、ご恩の万分の一でも報じさせたく存じますが、もし一族|刑戮《けいりく》の運命にあうならば、残念ながらそれも叶《かな》わず、せめてあの世からご恩に報じたく存ずる」
と、いった。
永原甚七郎以下、加賀の侍たちは胸をつかれた表情で、一語もござりませなんだ。
彼らがうなだれて去ったあと、私の兄の武田|魁介《かいすけ》が、
「梅鉢の花の匂いに浮かされてわが身の果てを知らぬつたなさ」
と、口ずさみました。梅の鉢は座敷に置いてあったものですが、また加賀前田家の紋でござります。
どこか加賀藩が期待に反したのを恨むがごときひびきが感じられますが、そのときの魁介の自嘲《じちよう》的な苦《にが》笑いの顔を、私はよく記憶しております。彼はただ、頼みにすまじきものを頼みとしたおのれたちの至らなさを嗤《わら》ったのであります。
われわれは決して加賀藩を恨むことはできない。げんに永原甚七郎氏が、のちに精神異常を呈されるに至ったことは、さきほど申しあげたとおりでござります。慶喜公はご自分一個の保身のために、千人の命を見捨てられましたが、しかしこれが人間というものの常態でもあります。しかるに、本来自分とは何の関係もない人間のために尽くして、不可抗力的に尽くし足りなかったことを苦に病んで、あたら分別ある武士が乱心する。永原氏は天狗党を武士の花だと買いかぶられましたが、実は永原氏こそ、千人の天狗党にまさる真の武士の花と申すべきでありましょう。
天狗党が、加賀藩の保護からひき離されて、彦根藩、福井藩、小浜藩の手にひき渡されたのが、一月二十九日のことで、全員寺から移されたのが、ご承知のようにこの敦賀|浜手《はまて》町の鰊蔵《にしんぐら》でござります。それは、すでに同勢二百人をひきいて敦賀へやって来て、永建寺を本陣とした田沼玄蕃頭の指図によるものでござりました。
実に、われわれは、覚悟していたにもかかわらず、茫然とせざるを得ないほどの、文字どおりこの世の地獄へつき落とされました。
……このたび敦賀を再訪いたしまして、私まだそこ[#「そこ」に傍点]へ参ったことがござりませぬ。今も三棟残っておると聞きましたが、しかし私はそれをふたたび見ることなく、この地を去るでありましょう。
いま思い出しても悪寒《おかん》を禁じ得ない鰊蔵でござります。
天狗党が投げ込まれたのは、その十六棟でありました。鰊蔵とはいうものの、肥料とする鰊粕《にしんかす》をいれるもので、当時すでにそれがはいっているのを、わざわざみな放り出し、代わりにわれわれが追い込まれたのでござります。
土蔵の窓はすべて土で塗りつぶし、莚《むしろ》さえしかぬ床のまんなかに四斗樽を置いて、その上に板をさしわたし、それが排泄《はいせつ》用でござりました。闇黒の中に、腐った魚と肥料の匂いと、それに糞臭が混じり出し、充満しておりました。
一棟あたり三十五坪平均の広さに、五十人前後ずつ詰め込まれたのですが、まだ北国の寒中というのに、首将耕雲斎以下、すべて袴《はかま》、帯、ふんどしまでとりあげられました。おそらく縊死《いし》をふせぐためもありましたろうが、それよりみなに恥辱感を与えるという目的のほうが大きかったようでござります。さらにその上、万一の暴発を警戒するためか、老人連をのぞいて、すべて松の厚板で作った足枷《あしかせ》をはめられました。
そして、朝と夕方に、一人あたり一個ずつの、小さな握り飯を真っ黒に焼いたものが投げ込まれるだけでござりました。
これはもう、武士としての待遇どころか、人間扱いではない。いや、畜類以下と申すべきでありましょう。――あの苦難に満ちた大行軍を、何とか耐えぬいて来た者が、ここでほんの三、四日の間にばたばたと七、八人も「獄死」したという事実が、何よりもその酸鼻さを物語ります。
闇黒の鰊蔵で、ただ藤田小四郎の詩を吟じつづけた声が、まだ耳に残っております。
「独《ひと》り高楼に上って八都を望めば
黒雲散じ尽きて月輪孤なり
茫々たる宇宙、人無数
幾個の男子、これ丈夫《じようふ》」
二月一日、田沼は市中の永覚寺に白洲《しらす》を設け、厳重な警戒のもとに、耕雲斎以下二十五人の幹部を召喚して、裁判を始めました。始めた、とはいうものの、即日宣告でござります。
――筑波山、那珂湊などにて公儀のお討手に敵対、あまつさえ軍装をもって国々を横行いたす段、ご大法を怖れざる仕方、重《じゆう》 々《じゆう》ふとどき至極につき、厳科に処せらるべきところ「格別の御宥免《ごゆうめん》をもって、斬罪申しつくるものなり」というのです。磔《はりつけ》、火あぶりにしないのをまだしもと思え、というのでありましょうか。
大子《だいご》を出発したときは千人余いたと思うのですが、その後、脱走した者あり、戦死した者あり、大河断崖などで行方不明になった者あり、一方では、途中で新たに加わった者あり、強制的に連行した者あり――耕雲斎が加賀藩に出した届け書には、「……途中行軍千人あるいは千五百人、二千人など申し触れ、人数の多少相定まり申さざる儀、まったく行軍の習い、やむを得ざることに御座候えども、ただいま総人数七百七十六人に間違い御座なく候」とありますが、加賀藩の記録には、八百二十三人とある。おそらく天狗党のほうでは、あまり身分の軽い者、途中連行した者などを除外したのでしょうが、捕まえたほうではそれを認めず、ぜんぶ勘定にいれたものと見えます。
さて、その日、斬罪を宣告された者が――耕雲斎ら以外は欠席裁判のままで――三百五十二人。
遠島が百十一人。
水戸藩引渡しとなったのが百三十人。
その余が追放と相成りました。
以上はみなさまご承知のとおりでござりますが――この日、いまでは天狗党中、私だけが知っている怖ろしい事実があったのでござります。
右の刑罰は、よくいわれますように、かつて例を見ない凄まじいものでござります。日本の刑罰史上でも、戦国時代は知らず、徳川期にはいってからは、一挙に三百五十二人死刑に処せられたという事件はほかに聞いたことがありません。あるとすれば例の切支丹《キリシタン》退治でしょうが、しかしあれは、向こうから来た伴天連《バテレン》が、殉《じゆん》 教《きよう》の宣伝のために、いささか誇大に伝えたふしがあると私は見ております。世に「安政の大獄」といわれる事件でも、死罪に処せられたのはわずかに七人でござります。
――その永覚寺の白洲に、実は幹部二十五人のほかに、武田金次郎と私武田源五郎も呼び出されておりました。
これは、ふしぎではない。年が明けて金次郎は十八歳、私は十六歳となっておりましたが、何といっても私は耕雲斎の子、金次郎は嫡孫ですから、当然のことであると私どもも考えておりました。
それはいいのですが、まず第一にショックを受けたのは、この白洲に、かつては水戸家の家老を勤めたこともある父の耕雲斎をはじめ一同が、帯しろ裸に糞臭を漂わせたまま、うしろ手に高手小手《たかてこて》に縛りあげられて、ひき出されたことでござりました。なにしろ一日に三個の小さな握り飯では、全員痩せ衰え、中には這いずるようになっていた者もありました。
そして、死刑はむろん覚悟しておりましたが、これが斬罪というのが第二のショックでありました。われわれは、いうまでもなく武士として当然な切腹を期待していたのでござります。
右の宣告を聞いたとき、天狗党のだれの面上にも衝撃の波が渡りました。しかも、その波が怒号となる直前に、第三の衝撃事が眼前に展開されて、一同を凍りつかせたのでござります。
「耕雲斎」
縁をへだてて、座敷に坐っていた田沼玄蕃頭が呼びかけました。
私はこのときになって、はじめて田沼なる人物をじかに見たのでありますが、年は五十前後でしょうか、幕府目付の読みあげる宣告を、脇息《きようそく》にもたれ、手あぶりを傍《かたわ》らに悠然と聞いている田沼は、色白で、ゆたかにふとって、若年寄というより、大町人のような印象を与えました。それが、宣告が一区切りつくと、
「斬罪は不服であろう。じゃが、その代わり国元から、そちの首の受取人を呼んである。ありがたく思え」
と、いったのです。そして、あごをしゃくりました。
すると、田沼のいる座敷の、両側の障子がスルスルと開かれました。
私たちは、あっと息をのみました。左の座敷に坐っていたのは、おゆんでありました。右の座敷に坐っていたのは、お登世でありました。それすら思いがけなかったことですが、そのお登世を背後から、しっかと抱きかかえるようにしているのは、その父、市川三左衛門ではありませんか?
市川を最後に見たのは、さよう、十一月二十日の和田峠の戦闘のときでござりました。あのとき彼は、全海入道の突進に身をひるがえして逃げましたが、田沼同様、いつの間にやら別の道を西上し、この敦賀に忽然《こつぜん》として出現したのでござります。
むしろ端麗といっていい、面長《おもなが》の、意志力と精気がてらてらとひかる銅面のような顔が、このときばかりは、きゅっと唇の両端を吊りあげて、
「総督の仰せのとおりじゃ。耕雲斎。――うぬの皺首《しわくび》、たしかに塩漬けにして水戸へ持ち帰って、有縁《うえん》のやつらに抱かせてやろう」
と、申しました。そして、兵部に眼を移し、
「大軍師。……勝負あったな」
と、いかにも会心といった笑みを投げかけました。
山国兵部は、平然と首を横にふりました。
「いや、そうとも限らんて」
「なに? うぬら、まだ逃れる法があると思っておるか。みずから天狗などとたわけた名をつけおって、飛ぶ羽根がどこにある?」
「三左衛門、人間の世界のたたかいはふしぎなものでの。一方がこの世から消えたとて、一方が最終的に勝ったとは限らぬ場合があるのじゃよ、ほっほっほっ」
兵部は、ふくろうみたいな声で笑いました。
「話は逆になるが、見よ、お前らの大将結城|寅寿《とらじゆ》が死んだとて、お前ら奸党は結構生き返って来たではないか。――地上にそっくり同じことが繰り返しては起こらんが、どうせたがいに似たような人間のやることじゃから、似たようなことは起こるんじゃ」
「何を、世迷い言《ごと》を。――奸とは、いずれが奸、水戸の平地に石を投げて大乱をひき起こした逆賊どもに、いまや最後の裁きが下されたのじゃ。首となってから見ておれ、市川三左衛門、誓って水戸に残るうぬら一族、虫ケラ一匹たりとも掃滅してくれるわ!」
お登世は何かいおうとして、あるいは父をとめようとして、逆に三左衛門の手に口をふさがれて、身もだえしておりました。
「田沼っ」
藤田小四郎も、もがいていました。天狗党の他の面々も同様ですが、一人に一人、背後で縄尻《なわじり》をとった役人たちが羽がいじめにしていたのです。それでもみな、言葉にならぬうめき声しか出なかったのは、怨敵《おんてき》市川三左衛門とここに相見《あいまみ》えた激情のためでござりました。
その中で、藤田だけが役人を払い落とし、立ちあがり、やっと声を発したのです。
「いやしくも公儀の白洲というに、売女《ばいた》を同座させるとは――それが天下の若年寄のすることか。これだけでも徳川の滅亡は眼前にあり、とは思わぬか!」
「藤田さん」
ふいに、おゆんが申しました。
「お怒りはごもっともです」
さすがに田沼が、あわてて制しようとするのを、
「あなたは黙っていてください!」
と、おゆんは天下の若年寄を叱りつけました。これは、田沼ばかりでなく、波打つ天狗党さえ鎮めました。
「ここに私がいますのは、私が田沼さまにお願いしたからなのです。それは、藤田さんに申しあげたいことがあったからです」
しみいるような声でありました。けれど、蒼白《あおじろ》い顔はあきらかに一種の激情に彩られておりました。みなを黙らせたのは、凄艶《せいえん》を極めたその表情であったかもしれません。
「何より、私がどうして天狗党の虜《とりこ》になったか、聞いてください。……藤田さん、私はあなたをほんとうにおしたい申しあげておりました。あなたも、おゆん、おれはお前に惚《ほ》れたといってくださいましたわね?」
「ば、馬鹿、何をいうか」
「私は、あなたのおっしゃったことをいっているんです。あのころ私は、あなたのためならどんなことでもしよう、あなたがたとえ天下の謀叛人《むほんにん》になるようなことをなさろうと、私はいっしょに死のう、と思いつめていました。それが……二人が結ばれようとして……突然、あなたは私から逃げておしまいになった。筑波で旗挙げをなさる直前です。あなたは私を見ても知らない顔をなさり、浪士の方々と談合ばかりなされておりました。私は、あっけにとられ、幽霊のようにそれを眺めておりました」
藤田は何かいおうとして、言葉も出ないようでした。
「そこへ、あの田中愿蔵さんが現われました。あの人はあなたの親友で大変|闊達《かつたつ》なお方でしたから、訊《き》かれて私は訴えました。そして、尋ねました。私はきらわれたのかしら? すると田中さんは、しごく簡単に、なに、そうじゃない、あいつは自分が藤田東湖の子だ、ということに気がついたのさ、と申しました。小四郎は、攘夷の旗挙げをして、死ぬ気でいる。そのとき女郎屋の娘とくっついていたら、後のちまでの名にかかわる、と考えたんだ。あいつはそういう馬鹿なんだ、と申しました。……」
「ち、ちがうっ」
と、藤田はさけびました。
「おれは、お前を死ぬ道連れにしたくなかったんだ。……」
「でも、あなたはいま、私を売女《ばいた》とおっしゃった」
「それは、そのあとのことだ」
「私は平手打ちを受けたようでございました。なるほど私は遊女屋の養女ですけれど、藤田さんだってそこで旗挙げの軍議をひらくような人ですから、そんなことにこだわってはいないはずだと思い込んでいたからです。ボンヤリしている私を、田中さんは――実はおれもお前に惚れてたんだ。惚れてるから小四郎の悪口をいったわけじゃ決してない。藤田の女だと思うから遠慮していたが、藤田が逃げ腰だというなら、おれのものになれ。ほんとうに女に惚れてる男は、こうするものだ、といって、無理に手籠《てご》めにしてしまったんです。……藤田さんなら信じてくださるでしょうが、私はそれまで処女《おぼこ》でした。……」
おゆんはつづけます。
「おっしゃるように、私は売女《ばいた》かもしれない。こんどは私は、田中さんを信じました。田中さんはいい人だ、ほんとうに男らしい方だ、と思いました。あとで田中さんは、私が田中さんのためならどんなことでもやる女だ、と思い込んだようですが、いっときそう思い込ませたほど私も燃えました。むろん、あなたへの意地もありました」
おゆんは微かに笑いました。名伏しがたい、寂しい笑顔でござりました。
「ところが、その田中さんも――いくさが始まるとジャンギリ組の隊長になって、火がついたように常陸《ひたち》一帯を駈けまわって、ご存知のようなあばれかたです。私は放り出されました。いえ、いつでしたか、いちど血まみれになって、紀州屋の裏口からはいって来て、酒をくれ、といったことがありました。そのとき私を見て、昔飼ったことのある犬でも見たようににこっと笑いましたが、升《ます》の酒をいっきに飲むと、ふりむきもせず風のように出ていって、それっきりです」
「おゆん」
田沼玄蕃頭は、にがい顔で声をかけました。
「馬鹿どもの話は、もうよい」
「私は、腑抜《ふぬ》けのようになって、そのあと、府中においでになった幕軍総督とやらいうおかたの妾にされてしまったのです。私は、売女《ばいた》です。……」
田沼が立って来て、しゃがみ込んで、おゆんの口をふさごうとしました。
おゆんの白い手があがって、その幕軍総督の頬をピシャリと打ちました。――呆れたことに田沼は、気弱げな苦笑いを浮かべただけでした。見ていたわれわれのほうが、口をあけたままでござりました。
ふり返りもせず、おゆんはつづけます。
「考えて見ると、藤田さんや田中さんばかりじゃありません。うちで大酒を飲み女郎と遊ぶよりほかに、芸もなければ生き甲斐《がい》もないように見えたほかの浪土方も、夢中になっていくさをしているじゃありませんか? そのいくさが、何のためのいくさなんだか、私にはわからない。いくら考えても、あの水戸のいくさはわかりません。尊皇だの攘夷だのなんて、どこへいってしまったのです?」
私が見ていても、藤田小四郎は苦しそうに口をパクパク動かしただけでした。
「田中さんから小さな使者が来たとき、それがにせものであることを承知で私が人質になりに出て来たのは、一つには、そんな無意味ないくさをつづけている男たちは、いったいいまどういうつもりでいるのか、そのあげくどうなるのか、ということを知りたい好奇心もありましたが、もう一つは、藤田さんへの仕返しのためでした」
おゆんの顔は、冷たい炎が燃えているようでございました。
「金も出世も、家族も忘れて、ただ尊皇やら攘夷やら念仏みたいに唱えて、火をつけ、人を殺し、きちがいのように駈けまわっている男たち。その熱病に水をかけてやろう。いえ、だれより藤田さん、あなたを憑《つ》きものからひき離してやろう、と。――」
「…………」
「何をお感じになったか、あなたは私に近づいておいでにならなかった。どうやら、私をこわがっておいでになるようにさえ見えました。その代わり、しようがないから、私はほかの隊士たちを誘惑してやりました。あんな旅ですから、別にどうということもしません。ただ、私が手を握ってやればよかったのです。それでも、私にそうされた男たちは、突然、この世に女というものがあることを思い出したのでしょう、それも宿場の女郎衆ではあき足りず、何人か――十何人か、脱走してゆきました。天狗党の脱走者の大半は私のおかげです」
「…………」
「いっとき私は、柱になる人々をみんな腐らせて、天狗党をうち崩してやろう、とさえ考えました。私は天狗党にとり憑《つ》いた悪魔のつもりでございました。けれど、私のその願いのほうが、結局崩れました」
「…………」
「私のやったことはほんの虫喰いくらいで……ごらんなさい、天狗党はりっぱに、ほとんどもとのままに、二百里、風の野や雪の山を歩きつづけて来たじゃあありませんか」
「…………」
「私が逃げたのは――逃げることを承知したのは――田沼さまにあなたがたの命乞いをするためもあったんです。けれど、例外をのぞいて、それはとうてい叶《かな》えられないことだとすぐにわかりました。藤田さんだって、私に命乞いされて生きたくはないでしょう。私は天狗党が負けたとは思いません。負けたのは私です。それから、加賀藩に降参したあなたがたを横どりして、ここであなたがたの首を斬ろうとしている幕軍総督です!」
こんどは、田沼玄蕃頭が口をパクパクさせるばかりでした。――鰊蔵《にしんぐら》の姿そのまま、いや、そこからこの白洲へ曳《ひ》かれて来る間にも、ぶたれ、蹴られ、血さえにじませた半裸に近い身体を縛りあげられたままの天狗党は、声にもならぬ声でどよめきました。
「藤田さん、みなさまがた、どうぞみごとに死んでください!」
――これが、このおゆんというふしぎな女が、那珂湊で田中愿蔵と別れるとき、「あなたはお好きなように死になさい」といった言葉につぐものであったことを思い合わせたのは、あとになってからのことでござります。しかし、声のひびきはまったくちがっておりました。田中のときはつき放すようで、こんどは深い哀切の尾をひいておりました。
それまで茫然としていた幕府の目付は、おゆんが口をとじると、正気に戻ったようにまた宣告を読みはじめました。
その中に、私と金次郎にとって第四の衝撃事がふくまれていたのでござります。さっき斬罪に処すべき者の名を読みあげたとき、私たち二人の名ははいっていなかった。しかし、いっしょに呼び出された以上、当然私たちも同罪であると信じておりました。ただ私たちが、とるに足りない年少者であるため、その名も読みあげられないのだろう、と考えておりました。
目付はいったのです。
「なお武田源五郎、武田金次郎は少年の儀につき、格別の御|宥免《ゆうめん》をもって遠島を申し付くるもの也《なり》」
先程のおゆんの告白に、私はまだボンヤリしておりましたが、突然このとき金次郎がはね上がろうとして、役人にとりおさえられました。金次郎は顔じゅうを口にして絶叫しておりました。
「殺せ! ぼくも殺してくれ! ぼくも斬罪にしてくれ!」
処刑は、三日後の二月四日から始まりました。
場所は、ご承知のごとく、この敦賀の町はずれ、来迎寺《らいこうじ》の境内で、三間四方の大穴を五つ掘って、そのふちに罪人をならべて、五ヵ所同時に刑を執行しはじめたのであります。
それは、敦賀につもった雪もいっぺんに溶かすような大風雨の日でござりました。その中に、首を斬られない私たちも縛られたまま曳き出されて、それを目撃させられたのでござります。
第一回目のその日の処刑は二十四人で、父の耕雲斎、長兄の彦右衛門、次兄の魁介、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎ら、幹部ばかりでありました。
耕雲斎、このとき六十二歳。
首の座にすえられての辞世はこうでございます。
「討つも又《はた》討たるるも又《はた》哀れなり
同じ日本《にほん》の乱れと思えば」
最後までもったいぶった耕雲斎らしい辞世に思われますが、しかし父は、この歌の日本を水戸に置きかえれば、なおつづく水戸の修羅《しゆら》の同士討ちを、知らずして予言していたといえます。
長兄彦右衛門、四十三歳。金次郎の父であります。次兄魁介、三十八歳であります。
これら肉親の者どもの想い出は、いちいちお話ししていてはきりがござりませぬので、いままでわざと申しあげませんでしたが、彦右衛門は実に落ち着いた温厚な人柄で、魁介は豪快な剣人でありました。穏やかな彦右衛門はしかし、行軍中息子の金次郎をまったく一般隊士とひとしく見て、親子らしい会話も交わしませんでしたが、それでも何かのはずみで、金次郎には気づかれないように、何ともいえない眼で、じっと見まもっていたのを、私がまたよそから見たおぼえが何度かござります。
山国兵部の辞世は変わっておりました。
「ゆくさきは
冥土《めいど》の鬼と一勝負」
と、瓢然《ひようぜん》たる声で口ずさみ、この処刑に立ち会っていた市川三左衛門のほうを見て、
「冥土の鬼とは、三左、お前じゃ、あの世で、またやろう。――勝負は、まだじゃっ」
しゃがれ声でさけんだ刹那《せつな》、その毛一本もない入道頭が斬り落とされました。七十二歳でありました。
藤田小四郎は、正気の歌を吟じました。ただし、その父東湖のものでなく、もとの文天祥《ぶんてんしよう》のものでありましたが、
「悠々としてわが心は悲しきも
蒼天いずくんぞ極まりあらん」
と、吟じたとき、ばすっという音がそれを断《た》ちました。しかも、私たちは、首の落ちた穴から――血けむりと水けむりの立つ穴の底から、たしかに、
「古道顔色を照らすっ」
という壮絶なさけびを聞いたような気がしたのであります。
――この天狗騒動には、実は武田耕雲斎も山国兵部も、あるいは心ならず、あるいは偶然のゆきがかり上参加したもので、その原動力はまさにこの若い藤田小四郎でござりました。その結果、このみな殺しの運命を迎えて、彼の心境はいかなるものでありましたろうか。
「わが心は悲しきも、蒼天いずくんぞ極まりあらん」こう吟じた小四郎の心は、私にはよくわかるようでござります。彼としてはこう詩《うた》うよりほかはなかったでありましょう。
これらの光景をまざまざと見せつけられて、気が変にならなかったのが、いまではふしぎでござります。――いえ、金次郎などは、藤田が斬られたとき、縛られたままヘナヘナと崩折れてしまいました。
「立て! 立たせろ!」
役人たちの中から、市川三左衛門が叱咤しました。この場に田沼玄蕃頭の姿はなく、おゆんやお登世の姿も見えませんでしたが、市川だけはやって来て、土砂降りの雨の中に、傘もささずに立ち会っていたのでござります。さけんだのみか、つかつかと歩いて来て、
「小童《こわつぱ》ども……あのおゆんという女とお登世が命乞いするゆえ、助けてやった。……しかし、見よ、狂気の妄想にとらわれて水戸をめちゃくちゃにしおったうぬらの父、うぬらの兄が天罰を受けるざまを――よっく眼に刻《きざ》んで、二度とあのような大愚行は犯さぬと心にも刻め!」
と、たたきつけるようにさけびました。
「立て! 立って、その眼をひき裂いてでも見物させてやれ!」
――準備のためでござりましょうか、約十日おいて十五日、こんどは実に百三十四人が斬られました。翌十六日には、百二人斬られました。これはもう人間世界の刑罰ではない。獣類の殺戮でござります。いえ、魚の料理でござります。
九坪ずつの穴五つは、文字どおり血の池と化しました。
斬り手の大半は彦根侍でありました。加賀藩から天狗党を引き渡されたのは、ほかに福井藩、小浜藩もあったのですが、この二藩は斬り手を出すのを断わり、彦根藩だけが進んで志願しました。藩中からたくさんの試《ため》し斬り用の刀が集まったそうで、それをとっかえ、ひっかえやった。鰊蔵《にしんぐら》の惨も、実質上彦根侍がとりしきった結果で、すべて桜田事件の復讐《ふくしゆう》でござります。権力者の暗殺、ということも全幅的に賛成はできませぬが、それでもこれには単なる個人的憎悪よりも主義にもとづいたものが多い、それが、その報復となると、だいぶ心理的な次元が下がって参るようであります。
そして、十九日に七十六人。二十三日におしまいの十六人。
合計三百五十二人。一穴に平均七十人ずつの屍体《したい》。
――当時京都にいた薩藩の大久保利通がこの報を聞いて、「これをもって幕府滅亡の表」と評したという。この大久保卿はのちに佐賀《さが》の乱《らん》の江藤新平を、個人的憎悪から強引に斬首刑に処したといわれる人ですからつじつま[#「つじつま」に傍点]が合いませぬが、一方ではそれほど非情鉄腸の人さえ、なお嗟嘆《さたん》させた大殺戮と申せましょうか。
私たちは、そのすべてを見ることを強制されました。この光景については、千万言を費《つい》やしても及ばず、かつまたこれ以上述べることは、どうかご勘弁を願いたい。ただ、はじめに私が、敦賀とは「ただ血の炎にけぶった土地」だと申しあげたのも無理からぬとご諒察いただきとうござります。
市川三左衛門も、会心の笑みを浮かべてその全処刑に立ち会っておりました。
そして市川は、娘のお登世を連れ、壺《つぼ》に塩漬けにした、耕雲斎、兵部、稲之衛門、小四郎ら四つの首を土産に、凱歌をあげて水戸へ帰ってゆきました。
私たちは、遠島になった百十一人の中にはいっておりましたが、その遠島のゆくさきは九州の五島《ごとう》ということになっておりましたけれども、さしあたって船便がないということで、依然鰊蔵にひき戻されて幽閉されたのであります。
百十一人は、二棟の鰊蔵に投げ込まれました。同様なぎゅうぎゅう詰めですが、処刑以前とはまったく雰囲気《ふんいき》がちがっておりました。
処刑前は、あまりの虐待に悲憤する声、また逆に朗々と詩を吟ずる声、それを黙らせようとして怒号する役人の声など、蔵の内外、騒然としておりましたが、いまは寂《じやく》として、そこに人がいないかのようでござりました。
あの殺戮におしひしがれた、ということもあったでしょうが、それよりもっと深い、死者をいたむ思いが、生き残った者を覆って、すでにそれは半死者のむれのようでござりました。
敦賀にも春は来て、去ったのでありましょう。私たちはそれを知らなかった。そして、われわれが外光を見たのは、それから三ヵ月たった五月の末のことでした。依然として島送りの船がないので、私たちは小浜藩預かりということになって永巌寺という寺で待機していることになったのであります。
この三ヵ月のあいだに、さらにその鰊蔵の中で、三十数名が死亡しておりました。
永巌寺へ移って間もないある日、京都|本圀《ほんこく》寺詰めの水戸の藩士がやって来て、私たちに凶報をもたらしました。
本圀寺詰めと申しますのは、文久《ぶんきゆう》三年将軍家茂公が上洛された際、水戸藩士約三百人もそのお供としてついてゆき、下京の五条通り南堀川の本圀寺を屯所《とんしよ》としたのですが、以後もそのまま朝廷ご守護の名目で、実は京における水戸の発言権を維持するために居残ることになった。思想的には天狗派の一派の連中で、その中の一人がやって来て、ひそかに伝えてくれたのは、その後の水戸の状況についてでありました。
水戸については心配しておりました。いえ、闇黒の鰊蔵で、じっと思いつづけていたのは、死んだ人々のことと同時に、生きている水戸の家族のことばかりだったといってよかったのです。
しかるに、そのとき聞かされた水戸の話は、われわれの最悪の不安をすら超えた、まったく人間外の惨劇でござりました。
市川三左衛門が四つの首を携《たずさ》えて帰ったことは申しましたが、水戸につくや市川は、以前から赤沼牢《あかぬまろう》に投獄してあった耕雲斎の妻ほか家族すべてをひきずり出し、これを処刑いたしました。三月二十四日のことであったそうでござります。
耕雲斎の妻とき。――私の母でござります!
母は、塩潰けになった父の首を膝に抱かされたまま、首を斬られました。年四十歳。
母は耕雲斎の二度目の妻でござりました。私以下、十になる桃丸、三つになる金吾という弟があったのですが、この幼児たちも同様に斬首になりました。いえ、この金吾など、こわがって泣き出したので、首切役も刀をふり下ろしかねたのを、立ち会いの町与力篠島左太郎なる者が、「何をグズグズしておるか。ええ、おれが料理してやる」と、ひったくって押えつけ、自分の刀で刺し殺したということでござります。
そして、耕雲斎には、さきに申しあげたように妾が――さよう、あのときまだ十八の――若い妾があったのですが、これも気の毒なことに永牢《ながろう》と相成りました。
また、長兄彦右衛門や次兄魁介にも、十五、十三、十歳の子が――この中には、金次郎の弟にあたる子供たちがおります――これまた打ち首に相成りました。彼らの母は永牢であります。
その他、山国兵部、田丸稲之衛門などの母や妻や子など、すべて改めて永牢に処せられました。その中には八十二歳の老母や五歳の孫娘などもありましたが、すべて同罪でござります。
永牢というと無期投獄ということですが、これが敦賀の鰊蔵にまさるとも劣らぬ扱いで、自由に起居《たちい》することも叶わぬ闇黒の檻《おり》同然のものでありまして、一、二年のうちにほとんど獄死し、数年後やっとそこから解き放たれた者も、あるいは盲目となり、あるいは足が萎《な》えて不具になっていたというむごたらしさでござりました。
以下、天狗党に参加した人々の家族、関係者、すべて家も禄《ろく》も財産も没収されて、事実上息の根もとまるばかりの懲罰と迫害の嵐《あらし》に打ち伏せられました。市川らはこれを「天狗狩り」と称しました。
ええ、余談と相成りまするが、諸君は樋口一葉という女性小説家をご存知でござりましょうか。東京では、ここ数年文名を高うしているお人で、さきにちょっと申しあげた島崎春樹君によりますと、まだ廿歳《はたち》代でありますけれども、近来の文学界で男女を通じて第一の天才だということでござりまするが、この樋口さんの歌のお師匠が元水戸藩士の妻で中島歌子という人だと耳にさしはさみまして、甚《はなは》だ興味をもってその後調べましたところ、いかにも林忠左衛門という方の妻で、しかもこの林氏は天狗党に属する人で、この人もこの天狗狩りでつかまって牢死され、歌子氏も実に明治元年までの三年間、水戸の獄中にあった人だと判明いたしました。
なお、水戸藩引渡しということになって、三左衛門が連れ帰った百三十人もむろん投獄されまして、のちに調査したところでは、一年ほどの間に四十人ばかり獄死しております。ついでに申しあげますと、敦賀で追放となった百姓たちも、何とか水戸に帰って来た者は半分足らずで、あとはどうなったものか知れませぬ。
――思えば、行軍中の脱走は、党にとっての裏切りであるのみならず、当人にとっても危険である、と、みな信じたのですが、結果的には卑怯《ひきよう》な脱走者のほうが命拾いしたということに相成りました。
妻に抱かせた耕雲斎の首をはじめ、四つの天狗党の領《りよう》 袖《しゆう》の首は、数日にわたって、罪状をしるした紙幟《かみのぼり》とともに、水戸の町々をひきまわされたのち、那珂湊で梟首《きようしゆ》となり、そのあと野原に捨てられて腐るにまかせられました。
これが、慶応元年春、水戸にくりひろげられた「血の粛清」でござりました。
一方で奸党は、飲めや歌えやの大乱痴気騒ぎで、実際、名目上の大将鈴木石見守をはじめ「諸生派」に籍をおく者すべてが、高きは数千石、低きも数百石、お手盛りで、加増し、鈴木などはただちに大邸宅の新築にとりかかるという始末でありました。まことに「わが世の春」とは、この年の水戸の諸生党のことであったでありましょう。
――以上、のちに知ったこともござりますけれども、越前で聞いた怖ろしい水戸の風聞でござります。
聞いて、私も全身の毛穴から血が噴くのではないかと思われるほどの激情にかられましたが、金次郎のごときは実際に卒倒いたしました。そして、水をかけて、意識をとり戻してからも、火のような高熱を発し、それが、三、四日つづきました。
そして、その間、うわごとをもらしたのです。
「みんな……殺したのはぼくだ!」
赤らんだ頬に、涙を流しながら絶叫するのです。
「桃丸……金吾……熊、ゆるしてくれ!」
私が病気にならなかったのは、彼を看病するのにオロオロしていたおかげだったといっていい数日でござりました。そして、一夜、私がその枕頭《ちんとう》でコクリコクリして、ふと気がつくと、金次郎が横たわったまま、じっと私を見ておりました。
「源五郎、ぼくたちが首を斬られなかったのはなぜだか知っているか」
と、彼は別人のように低い、かすれた声で訊《き》きました。
――実際、市川三左衛門は、水戸では三歳の幼児まで殺したのですから、十八になる金次郎や十六になる私が敦賀で助命になったのは、つじつま[#「つじつま」に傍点]が合いませぬ。その奇蹟《きせき》の背後には、おゆんやお登世の容易ならぬ歎願――おそらく、かけねなく一命をかけての――が、あったことと思われますが、そのときは、それを全然ありがたいとは感じなかった、私はなお心中で、金次郎同様、
「殺せ! ぼくたちも殺せ!」とさけびつづけておりました。
それはそれとして、そのとき私は答えました。
「あの、おゆんさん……お登世さんが、命乞いしてくれたからだろう」
「なぜ、あの二人の女が命乞いしてくれたか知っているか」
「それは、ぼくたちが、行軍中、あの二人の世話をしたから。……」
「それだけじゃない」
と、金次郎は、溜息《ためいき》をついて申しました。熱が去ったか、蝋《ろう》のように蒼白い顔に、眼がうつろなふし穴みたいに見えました。
「ぼくが、あの二人を逃がしてやったからなんだ。……」
しばらく黙っていて、金次郎はわななく声でいいました。
「ぼくは、あのお登世が好きだった。……それから、それから、おゆんとは、……いちど悪いことをした!」
私は息をのみました。
私は木曾の一夜のことをおぼえておりました。行軍中、二人の人質は常にいっしょにいたのですが、あの夜だけお登世の発熱のため、別々に置かれた。そのとき、おゆんの部屋から出て来た、あの異様な金次郎を忘れてはいませんでした。何かあった、と私は直感した。それが、あった、と、いま金次郎は告白した。
しかもなおかつ、私はその何かが何か、はっきりわからず、そのくせ改めてショックを受けたのであります。ただ金次郎が、甘くて、かぐわしくて、しかも薄気味悪い、ねばねばした蜜《みつ》みたいなものにまみれて、その姿がたちまち変わったような――別世界の動物に変わったような気がしたのであります。
彼は、がばと起き直りました。
「ぼくはあいつらを逃がした。……そのため、天狗党は田沼や市川への切り札を失ってしまった。――」
めだって大きくなったのどぼとけを痙攣《けいれん》させて、金次郎はあえぎました。
「天狗党や……水戸の家族をみな殺しの目に会わせたのはぼくだ。この武田金次郎だ。……源五郎、ぼくを罰してくれ、ぼくを殺してくれ。刀で殺すにも当たらない。ぼくを蹴殺すか、絞め殺してくれ!」
両掌で頭をかかえて髪をかきむしった金次郎は、ふいに私から眼をそらし、空中を見て、またうわごとのようにつぶやいたのです。
「しかし……ぼくは生きる。生きて、ここを脱走して、復讐してやる。田沼にも、市川にも、そしてあの二人の女にも――死ぬのは、そのあとだ!」
――けれど、私たちはそう簡単に脱走はできませんでした。
九州五島への遠島はどうなってしまったのか、私たちはそのままずっと永巌寺に謹慎していたのですが、むろん寺の周囲には竹矢来をめぐらし、小浜藩の警戒は厳重でありましたし、だいいち、私たちが脱走すれば、ほかの人々に迷惑のかかることは明らかだったからでござります。
ただ、寺の中での行状は、徐々に、やがてみるみる自由になり、私たちは武芸の修行さえ許されるようになりました。私も金次郎も、ものに憑《つ》かれたように剣術に身をいれました。
そして、二年後の慶応三年の五月には、敦賀から四里の佐柿《さがき》というところに移されましたが、このときはもう小浜藩の準藩士待遇ということになっておりました。
時勢は急速に変わりつつあったのでござります。
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討つも又《はた》討たるるも又《はた》
慶応四年、つまり明治元年。――一月、われわれに、実に驚天動地の運命が訪れました。
京の岩倉|具視《ともみ》卿から、小浜藩預かりの天狗党残党に、「かねて勤皇の志これある趣き天聴に達し候につき」近く召し出さる。官軍として出動すべき用意をせよ、という内命があったのでござります。
われわれも、その数日前、鳥羽伏見《とばふしみ》のいくさで幕軍が敗れて、ついに回天の日が到来したことは知っていたのであります。
こは夢か、現実《うつつ》にあり得ることか。――われわれは狂喜乱舞いたしました。
と、申したいのですが、私に関するかぎり、何たることぞ、その年早々から風邪をこじらせ、しかもちょうど暮れに剣法修行中、金次郎の竹刀に胸を突かれたのがたたったらしく、いまでいう肋膜炎《ろくまくえん》にかかって病臥《びようが》していたのでござります。
二月、ついに上洛の命が下りました。
無念の涙をこぼす私をあとに、金次郎は勇躍、同じくこれまで三年間拘禁され、生き残っていた七十人ほどの天狗党残党とともに京へ出立してゆきました。そして、さきに申した本圀寺へはいりました。
したがって、これからあと一年ばかりの出来事は、実地に見聞したことでなく、すべてのちになって知ったことでござりまするが。――
すでに官軍は、例の「宮さん、宮さん」の歌声高らかに東征の途についております。
このときに金次郎は、岩倉卿へ願書を出した。
官軍としてお召し出しは光栄の極みですが、なにぶんにも徳川慶喜公を賊の大将として追討の軍に加わるのは、臣子の義として忍びない。それより私は水戸へいって、烈公のお志にそむいた奸徒どもの掃滅を任といたしとう存ずる、というのであります。
ああ、何たることでござりましょうか。天狗党を賊として捨て殺しになされた慶喜公は、いまや自分が賊軍の巨魁《きよかい》という立場におちいられていたのでござります。しかもなおかつ武田金次郎は、祖父の耕雲斎と同じせりふを吐いた。
これに対して岩倉卿は、やがて、「願いの儀さし許す」という返事を下された。
武田金次郎は、血ぶるいして、東海道を下ってゆきました。右のいきさつなどあって、それは四月にはいってからのことでござりました。
これに従うのは本圀寺組の水戸藩士たち――これは天狗派に属するため、水戸で奸党が天下をとると、金穀《きんこく》の輸送もとめられ、切歯扼腕《せつしやくわん》していたのであります。――それに、越前で生き残った天狗党、さらに追放されていた連中も、この噂を聞いて馳せ集まって来た。その総大将は、耕雲斎の嫡孫たる武田金次郎でありました。
実に彼は、この年二十一歳になっております。
「――藤田小四郎の再来だ!」
と、部下のだれかが、馬上の金次郎をふり仰いでさけんだという。
――しかし、そのあとの彼の行為を考えると、それはむしろ田中愿蔵の再来だと形容したほうが適当だったかもしれません。
彼は、例の錦切《きんぎ》れをつけた陣羽織という官軍隊長の制服に、真っ白なしゃぐま[#「しゃぐま」に傍点]をかぶって、実に颯爽《さつそう》たる姿に変身しておりました。
金次郎は江戸にはいると、まず元若年寄田沼玄蕃頭のゆくえを捜索した。すでに幕府は解体し、彰義隊《しようぎたい》も敗れたあとで、老中も若年寄もどこへいったかわからない、といった状態でござりました。幕臣の移された駿府《すんぷ》にもいなければ、元所領の遠江《とうとうみ》の相良《さがら》にもいない。手をつくしたが、田沼のゆくえはとうとう知れない。
五月二十一日、金次郎は天狗党をひきいてついに水戸へ乗り込んだ。
しかし、市川三左衛門はいなかった。これも逃亡していたのです。――もっとも、そのことはすでにわかっておりました。
幕府の倒潰《とうかい》は、諸生派にとって、われわれ以上の驚天動地の出来事だったでござりましょう。むろん、水戸でも混乱が起こりました。それを圧したのは、またも市川でござりました。
「徳川の天下が覆《くつがえ》るなどということはあり得ない。もし、いまそんな事態に見えたとしても、それはいっときのことだ」
と、叱咤し、また、
「たとえ、いまの事態がつづくとしても、それに抵抗し、あくまで徳川家を支えるという態度を頑守《がんしゆ》するのがご三家の一つたる水戸家の義務だ。もし討伐に来る者があれば、敢然、戦う。見よ、かつて主君のご名代たる松平大炊頭さまさえ、はねつけ、ねじ伏せたわれわれではないか」
と、諸生党一同を激励した。
しかし、こんどは様子がちがう。――天下の形勢は、だれの眼にも明らかでありました。
根だやしにしたと思っていた藩中の天狗派がまた頭を持ちあげる。中立派がこれと声を合わせはじめる。そして、あさましいことに、だれからも諸生党と見られていた連中の中から、これに寝返る者が出て来た。
もういかん。――ついに市川らが匙《さじ》を投げたのが、三月十日前後のことであったと申します。それは、例の山岡鉄舟が駿府へいって、東征軍大参謀西郷隆盛に、会見しているころのことでござりました。
市川は、諸生党の領袖鈴木石見守や、朝比奈弥太郎、佐藤|図書《ずしよ》、大森弥左衛門ら重臣とともに、手勢五百人をひきいて、水戸から奥州へ脱出してゆきました。
なんとまあ、こんどは諸生党の「長征」がはじまったのでござります。
さて、武田金次郎は水戸に乗り込んだが、市川らのゆくえはわからない。奥州方面へ逃げたということは判明しておりましたが、その奥州も大動揺のまっただ中です。
そこで彼は、市川らの捜索はひとまずおいて、奸党の一掃にとりかかった。――まっさきに、投獄されていた天狗党の家族を救出したことはいうまでもありません。しかしこれは、さきほど申しあげたように、大半死亡し、残りも半死半生の態でござりました。
奸党一掃。――それはまさに流血の大交響楽でござりました。
幹部らは逃亡したが、それに準ずる者――大寄合頭《おおよりあいがしら》の芦川市兵衛、矢倉奉行の秋山長太郎、勘定奉行の岡田左次衛門をはじめ、数十人――その家族を加えれば百数十人かもしれません、これが、片っぱしから斬って捨てられました。
ただ、かんじんの市川家にかぎって、その家族のゆくえがわからない。三左衛門には妻もあり、例のお登世をはじめとして嫁も孫もあったのですが、それを脱走時、伴っていなかったことはたしかなのですが、水戸一円、どこを捜しても、天に翔《か》けたか地に潜ったか、まったく消息不明でありました。それはともかく、金次郎のひきいる天狗党の連中は、狐色の麻布で作った――布目《ぬのめ》のあらい麻を細布《さいみ》と申しますが、――そろいの陣羽織を着て、白刃をひっさげて水戸の町を横行し、ブラックリストにのった諸生派の家々に乱入し、血しぶきをあげてまわるのです。
そこで、当時、
「さいみの羽織だ。さいみの羽織が来た!」
というさけびが走ると、関係のない者でも戦慄《せんりつ》して身動きもできなくなったという。
武田耕雲斎の一族を斬った例の篠島左太郎をはじめとする役人たちには、金次郎みずから、その手を断《た》ち、足を断つという凄まじい誅戮《ちゆうりく》を加えました。
彼の純白のしゃぐま[#「しゃぐま」に傍点]の毛はその返り血に染まり、それが変色して、魔界のもののようなぶきみな色となり、それを振りながら笑う顔は、美しいだけに、まさに白鬼の血笑といった感があったと申します。
あまりのむごたらしさに、中立派の者がたまりかねて抗議した。
「天狗党弾圧の当事者たる市川一党はすでに逃亡した。それをおいて、末端の者、家族の者まで殺戮するとはあまりに非道ではないか。武田金次郎どのに、それだけのことをやる権利があるのか。――」
「遠からず、市川らは必ずとらえて天誅を下してやる」
と、それに対して金次郎は答えた。
「その市川らも、藩公のご下知もないのに、私意をもって天狗党の家族にまで私刑を加えたではないか。そのとき、貴公らは何をしていたのか? 貴公らは、敦賀で天狗党が獣のごとく魚のごとくみな殺しになった光景を知っているか?」
そして、そのとき何か報告に来た天狗党の配下に、
「斬れ! 斬れ! 斬れ!」
と、絶叫したという。
三、四年前の、女のようにやさしい顔だちをしていた武田金次郎だけを知っていた人々には、それが魔人と化して帰還して来たように感じたそうですが、魔人にも変わるでしょう、まさに十八歳でその敦賀の大|屠殺《とさつ》を見て、魂に刻んで――いえ、魂を破壊されて――二十一になった青年でなくてはやれないことを彼はやってのけた。それに私は参加していなかったのですが、さて、もし自分がその場にいたらどうしたろうか。――決してやらなかったとは断言できません。後に起こったことを想起しても、少なくとも金次郎にくっついて、黙って見ていたに相違ない。
いまになって、やや客観的に考えると、諸生派の中にもなかなかの人物が少なくなかった。金次郎は、こんどはこれを根だやしにしようとしたのでござります。
――ちょうどこの間、四月から七月まで、最後の将車慶喜公は江戸を去り、水戸に引退し、弘道館《こうどうかん》で謹慎されていたのですが、この骨肉相|食《は》む地獄のような水戸の様相を、いかなる思いで見ておられたのでありましょうか。実際問題として慶喜公にもどうしようもない事態でありましたが、ご本人もそう独語されて、案外無感覚でいられたかもしれない。
しかし、それはともかく、凶魁《きようかい》市川三左衛門はどこにいる?
市川が越後にいる、という情報がやっと伝えられたのは、二ヵ月後の七月も末になってからのことでござりました。
武田軍は、水戸兵を新たに加え、まなじりを決して出撃した。
諸生党の中の「なかなかの人物」――その代表者は、まさに市川三左衛門でござりました。
三月十日、五百の手兵をひきいて水戸を脱出した市川部隊は、北上して会津《あいづ》にはいり、会津藩の指図で越後へ出、四月八日には新潟にはいっておりました。そして、五月からはじまった北越《ほくえつ》戦争で、長岡《ながおか》藩の河井継之助との協同作戦に参加しました。
以後、灰爪《はいづめ》村で五十人、与板《よいた》村で十二人、市坪村で十四人、椎名村で三人、宮川村で四人、という戦死者を出し、また諸生党の幹部佐藤|図書《ずしよ》も戦病死しております。
賊軍の中に、水戸兵がいる。しかも、怖ろしく戦闘精神旺盛な部隊だ。
その知らせが水戸にもたらされ、武田軍はめざす真の仇敵の所在を知って、勇躍して出動しました。そして、下野《しもつけ》、上野《こうずけ》、信濃を経て、越後へ進みました。
ところが、北越から会津にわたるいくさで、戦線が錯綜《さくそう》して、どうしても市川部隊のいどころがわからない。官軍本営でも、市川勢との出合いのためにいろいろと便宜をはかってくれたが、どうしても捕捉《ほそく》することができない。二ヵ月の間、武田軍は、ひたすら市川勢を求めて戦塵《せんじん》の中を駈けずりまわったが、ついに出会することができなかった。
岩倉卿がお召し出しの密書には、「勤皇の志、天聴に達し」云々とありましたが、敦賀で幽閉中の言動を見ても、金次郎にもう攘夷やら討幕やらの思想があったとは思えない。そんなものはあの大屠殺以来けし飛んで、その脳中にはただ血みどろの復讐観念が充満しているだけでありました。
市川軍は、故意に避けていたのではないのです。これはまったく偶然のすれちがいでござりました。
むしろ、是非は別として、思想的には市川三左衛門のほうが、頑強無比の筋でつらぬいていたというしかありません。それは「佐幕」でありました。徳川の御代を回復せずにはおかない、という執念でありました。
この狂信の力は、彼に、実に驚くべき離れわざをやってのけさせました。
九月二十二日、会津はついに落城しました。そのころ、従軍していた彼の息子の主計《かずえ》も戦死しました。それでも市川はなお屈服しない。降伏をきめた会津藩士をつかまえて、口をきわめて罵ったという。そして、もはや及ばずと知ると――もうそのころ彼も、官軍中に水戸隊が参加しているという噂を聞いたのでしょう――それならば、水戸は手薄のはずだ、と彼は考えたのです。
そうだ、水戸をふたたび乗っ取って、それを徳川護持の城とするのだ。
そして市川勢は、たんと会津から野州《やしゆう》に下って、一路水戸へ、狂熱の帰還を開始したのです。これにはまったくみな虚をつかれました。市川勢は疾風のごとく進撃して、十月一日には水戸に到着いたしました。
市川勢、水戸へ向かう! という情報を武田金次郎は聞いて、躍りあがって追跡にかかったが、もう間に合わなかった。――
――思えば、天狗党の長征は二ヵ月ですが、市川勢は国を出てから半年以上です。天狗党ほどの難行軍はやらなかったかもしれないが、本国とは断絶したまま、圧倒的な官軍を相手に他国で転戦する。敵のみならず、味方の長岡藩、会津藩も、とうていこれを優遇する余裕はないから、ときにはかえって厄介者扱いをされ、邪魔にされたこともあったでしょう。それにもめげず、なお戦意を失わず、天狗党は最後には疲労|困憊《こんぱい》して降参してしまいましたが、これは真一文字に本国へ馳せ帰って来た。この根性を何というべきか。わが敵ながらあっぱれというしかありませぬ。
さて、市川勢は、その日から水戸城の攻撃に移った。
実は、市川勢水戸に向かうという知らせは、会津方面から伝令によって、一日早く水戸に伝えられていたのです。なんといっても鉄砲その他武器を携帯した部隊なので、伝令のほうが早く着いたのでしょうが、わずか一日ちがいとは、いかに市川勢の進撃が猛烈であったか想像されるというものです。
このわずか一日ちがいが、市川勢の命とりとなりました。急報により、水戸城の留守部隊は、近郷の侍を駆り集めて待っていたのです。
しかし市川勢は、それでも城内に突入し、また弘道館を占領しました。いっときは全城乗っ取られるかと思われるほどの血戦でありました。が、翌二日は、もうどちらも戦えないほど疲労し切っていた。しかも市川勢に補給がないのにくらべて、城方にはなお召集された郷士たちが続々と駈け集まって来る。――
さしもの市川勢も、ついに挫折《ざせつ》せざるを得なかった。
二日夜から、三日朝にかけて、市川部隊は城から南へ撤退を開始しました。
そして、十月三日、血のような落日のころ、上総《かずさ》の八日市場《ようかいちば》まで落ちのびたとき、城から大挙して追撃して来た水戸兵に包囲されてしまったのであります。
ここで、市川の次男安三郎や、三左衛門とならぶ朝日奈弥太郎や、その子も戦死し、市川勢はほぼ全滅した。
しかるに――市川三左衛門の勇猛さはまさに鬼神のごとくでありました。彼は長槍をふるって奮戦し、ただ彼一人といっていいほどの血路をひらいて逃れ去ったのでござります。
武田金次郎の一隊が、狂気のごとく会津から駈け戻って来たのは、それから数日の後のことでござりました。
その年が暮れても、市川三左衛門はむろん、田沼の居どころもつかむことができなかった。
もうそのころから、水戸一円では、武田金次郎の評判はあまりよくなかったと申します。何といっても、あの復讐行為が人々に嫌悪《けんお》と恐怖を与えたのですね。――金次郎にしてみれば、それなら市川の行為も憎め、と、いいたかったでしょう。
ところが、人間の心理とはふしぎなものです。金次郎が一族の受難を黙って耐えていたら、同情の涙は雨のようにふりそそいだでありましょう。それが、復讐をいかんなくやってのけると、人々の同情は乾いてしまった。
いや、復讐は完成していない、と、彼は考えたにちがいない。市川三左衛門はとり逃がしたままだ。――そのことも、人々には「まぬけ」という評語をささやかせ、それが金次郎の耳にも聞こえて、いよいよ彼を焦燥させた。
金次郎は、なお市川の捜索に狂奔しました。彼からはとうてい復讐の憑《つ》きものは落ちませんでした。
天道是か非か。――
その市川三左衛門を思いがけなく見つけ出したのは、この私でござりました。
越前にひとり残されて空しく病臥しておりました私が、やっと軽快して帰国の途についたのは、翌二年二月はじめのことでござりました。
私は、一日も早く水戸を見たいような、見てもしようがないような、あるいは見るのがこわいような変な気持ちで、東海道をひとり下ってゆきました。あとのほうの感情は、むろん帰っても母も弟たちもいない、とか、金次郎が凄まじいことをやったらしい、という事実などから喚起されたものでござりました。
神奈川にさしかかったとき、ヒョイと横浜という港の見物に立ち寄る気になったのは、そんなためらいの一つの現われだったにちがいない。――なぜなら、その横浜の開港こそ、藤田らを攘夷運動に踏み切らせた重大な原因だったのでござりますから。
四年前のあの攘夷のスローガンをかかげて破滅へつき進んだ旅は、正直なところ、私にはもう十年も昔のことに思われました。私は二十歳になっておりました。
で、碧《あお》い海にひしめく異国の船、海岸通りにならぶ洋館や倉庫など、藤田らがあれほど拒否しようとした風景を眼前にして、むしろ若い血が高鳴るような思いで波止場に立っていたのであります。
そして、やがて踵《きびす》を返して歩き出すと、向こうからやって来た人間がある。いや、一人ではない、まあ雑踏といっていい人通りの中で、しかもその人間は洋服を着、山高帽をかぶり、靴《くつ》をはくという姿でありましたが、ふとその顔を見て、私は棒立ちになった。
「田中さん!」
思わずさけんだ私に、向こうも立ちどまったが、しばらく私がだれかわからなかったらしい。
「ぼくです。……天狗党の武田源五郎。……」
「おーっ」
と、眼をむいたのは、あの田中平八でありました。――大行軍の途中、さよう、上州吉井の宿から姿をくらました人物です。
呼びかけて、私は、しまった、と思った。天狗党の脱走者、ということがあまり感心したことでない上に、ただの脱走者ではない、人質のおゆんをかどわかそうとして、しくじって逃げた男だ、ということに気がついたからであります。
「源五郎君か。いや、大きくなったねえ」
しかし平八は、あけっぱなしの笑顔になりました。
「あのころは、まるで餓鬼坊主だったが……いや、あの節はいろいろと」
それから彼は、私について「あれからのこと」を尋ね出しました。呼びかけておいて、こんどは私のほうが口が重くなりましたが、平八のしゃあしゃあとした顔と、いかにも横浜の商人らしい気っぷのいい口調にほだされて、私が越前で病気していたこと、これからはじめて水戸へ帰ることなど、しゃべるのに時間はかかりませんでした。
「そいつは大変だったなあ。しかし、お前さん、これまで水戸に帰らなくてよかったよ。これでもおれは天狗党だから、水戸のその後には関心があってね。いろいろと噂を耳にとめて聞いたが、あの金次郎君、えらいあばれかたをしたというじゃあねえか。あの美少年がそんな血なまぐさいことをやるなんて――と、おれは胆をつぶしたんだが」
そして、平八は顔をあげて、
「おいらの宿はすぐそこだ。ま、ちょっと寄ってゆきな」
と、いって、無理に近くの洋館にひっぱっていった。
いまでいう応接室というのですか、そこで私は西洋式の椅子《いす》に坐って、紅茶というものをはじめて飲まされました。その部屋の隅《すみ》に階段があって、上り下りするのはたいてい異人でした。
それはフランスの生糸貿易商の店で、彼は日本人の手代みたいなことをやっているらしい、ということがわかりました。
田中平八が天下の糸平として売り出すのは、これから十年ばかり後のことになります。前に申しあげたように、天狗党から逃亡して、田丸稲之衛門が、「そこらの上州路の辻《つじ》で、晒《さら》し首になるにきまっておるわ」と罵《ののし》った平八は、無事生き残って有名な大富豪になるのです。
しかし、ここでは平八のことを話すのが目的ではありません。
話の途中で、外からはいって来た二人の男がありました。一人は背の高い、朱い口ひげをはやした異人で、もう一人は羽織|袴《はかま》の、ザンギリ頭の、五十過ぎの日本人でした。そして二人は、何か話しながら、その日本人も、何やら異国の言葉をしゃべりながら、階段を上がってゆこうとしたのです。
一目見て、私は顔色を変え、持っていた匙《さじ》を茶碗《ちやわん》にとり落としました。
その男は、階段の途中で、ふと私を見下ろしましたが、ただそれだけで、異人と上に消えてゆきました。
田中平八が、けげんな表情で訊《き》いた。
「どうしたんだえ?」
「市川三左衛門。……」
と、私は、のどぼとけがひきつったような声で答えた。
「なんだと?」
平八も愕然《がくぜん》としていました。
「ありゃ、元旗本の山村ってえ人だと聞いたが。……」
――天狗党には参加したものの、この田中平八は、元来がそれ以前からいちど横浜で商売したこともあるという、信州出身の変な浪人で、水戸奸党の首領市川三左衛門の顔を知らなかったのであります。
一方、市川のほうはたしかに私を見た。四年前、敦賀の刑場で、耕雲斎の子として、向かい合ってにらみつけたこともある。にもかかわらず、それと思い出さなかったらしいのは、何しろ十五歳の少年が二十歳の青年になれば、さなぎ[#「さなぎ」に傍点]が蝶《ちよう》になるほど顔も変われば、体格も変わる。それで気がつかなかったのだろうと思う。
それに、場所が横浜の異人館です。
それはこちらにとっても意外事でした。私は水戸からの手紙で、金次郎が市川だけをとり逃がし、いまだにつかまえることができないということを知っておりました。その市川三左衛門を、この横浜の異人館で見かけようとは。――
私はがばと椅子から立ちあがろうとしました。腰には刀があったのです。
「ま、待った!」
と、押し殺したような声で平八がとめました。
「めったなことをやると、お前さん、手がうしろにまわるぜ。だいいち、市川はともかく、いまいっしょにいた異人はピストルを持っている」
「しかし」
「何にしてもここで血を流されちゃ困る。ここじゃ、刃傷沙汰《にんじようざた》は金輪際いけねえ」
――かつて、天狗党の旅で、潜入していた市川家の下男を斬殺したこともある田中平八は、大まじめな顔でいうのです。
「天狗党にいたってえことは、実はおれのないしょの自慢じゃあったんだが……あのあと、水戸で金次郎君がやったってえ話を詳しく聞いて、ほとほといやになった。源五郎君、昔のことは忘れろ。まだ若えのに、血の匂《にお》いをつけてこれから長い一生を送ることはねえよ」
それでも、ふるえながら天井を見あげている私に釣《つ》られて、これも仰のきながら、
「へへえ、あの山村さんが市川三左衛門たあ……たまげたねえ」
と、長歎いたしました。
それはそれとして、私はいぶかしみました。
「あの男が、どうしてここへ?」
「いや、それはおれもよく知らねえんだが……いまいっしょに上がっていった異人は、ありゃたしかフランス公使館の人で、ジャン・プレジャンとかいう人だ。うちの支配人と知り合いで、ちょいちょいこの店にやって来る。山村――市川か、それも、二、三度やって来た。そうそう、プレジャンのフランス語の弟子だとかいうことで……なに、いま話してたのは赤ん坊程度のカタコトだよ。それ、瓦解前、フランスはばかに幕府に肩入れしてたろ? 元旗本の山村ってえから、そのころフランス相手の役人でもやってて、そのほうの縁かと思ってたんだ。……」
と、平八はいい、ふいに、
「あ、そうだ。あの男は、近いうちフランスへゆくってえ話だったぜ。きょう来たのは、その用かもしれねえ。……こりゃ、大変だ」
と、あわて出しました。そして、
「ちょっと待っててくれ。そのへんをたしかめて来る。おい、二階に駈け上がっちゃだめだぜ、とにかく悪くはしねえから。――」
と、釘《くぎ》をさしておいて、別の扉《とびら》からどこかへいってしまいました。
すぐに戻って来て、
「やっぱり、そうだ。三月一日に横浜を出るフランスの船でゆくってよ。……あわてちゃいけねえ、きょうは何日だ? 二月十九日か、それじゃあ、まだ十日以上もある」
と、申しました。
「しかし、フランスへ逃げるたあ、考えたもんだなあ。おっちょこちょいのおれだって、思いも及ばなかったよ。……それにしても、その直前にお前さんに見つかるたあ、あいつの運のきわまった証拠かもしれねえな」
平八はさすがに神秘的な顔になってつぶやきました。
「あいつは、お前さんにまかせる。おれは知らねえぜ。……ただし、ここで血を流すのはやっぱりやめてくれ。いま市川の住所を聞いて来たが、東京|三田魚籃坂《みたぎよらんざか》、宝徳寺裏、島上源兵衛ってえ家で、当人は、いま山村弘義と名乗ってるそうだ」
江戸が前年の七月に東京という名になっていることは、私も承知しておりました。
結局私は、そこで市川に手を出すことはやめて、水戸へひた走りました。一人で手を出してしくじることを怖れたのと、それよりまず武田金次郎に知らせる義務があると思い直したからでござります。
水戸で金次郎に一年ぶりに再会したわけですが、むろん手をとり合ってよろこんでいるひまもありません。金次郎は躍りあがりました。ただちに、われわれ以外に二十人の捕縛隊を編制しました。そして東京に急行し、三田に到着したのが、二月二十六日の夕刻であります。
彼らはまた例のダンブクロと称する官軍の服を着用し、金次郎ごときは、変色し、ぶきみな色になった、しゃぐま[#「しゃぐま」に傍点]さえつけておりました。
正式の官軍は、そのころ北海道|五稜郭《ごりようかく》に集結しつつあり、東京はほとんど無警察状態でしたが、それでも万一のため金次郎は、例の岩倉卿の斬奸《ざんかん》許可状を携行しておりました。
日が暮れるとともに、私たちはその家に踏み込んだ。
ちょうど、市川一家は灯の下で夕食中でありました。戸、襖《ふすま》を踏み破る凄まじい音響に、みな愕然として立ち上がろうとしたとき、捕縛隊は殺到し、白刃を彼らの背後からつきつけていた。
「奸魁《かんかい》市川三左っ、天狗党だ!」
金次郎はしゃぐま[#「しゃぐま」に傍点]をふりたてて絶叫した。
「天狗党は生きておったぞ! 敦賀で虐殺された山国兵部が、勝負はまだだとさけんだのをおぼえておるか。その最後の勝敗を示すときがいま来たのだ!」
歯をむき出して笑いながら、彼が白刃をつきつけているのは――お登世でありました。
実は、この襲撃計画の途中から気がつき、私が恐怖にとらえられ、その恐怖を金次郎にもいわなかった事態――それは、市川とともにお登世がいるのではないか、ということでありましたが、まさにその夢魔のごとき一瞬が眼前に到来したのでござります。
あれから四年後のお登世。それに感慨にふける余裕などない。それより私は、金次郎がその背に刀をつきつけ、氷の花のような笑顔を見せているのに戦慄した。
そこにいるのは、三左衛門と、彼の妻きし子と娘のお登世、会津で戦死した息子の主計《かずえ》の嫁おれん、そしてその二人の幼児などでありました。それから、もう二人、見知らぬ中年の男女がおりました。
見れば、膳《ぜん》の上には鯛《たい》などあり、徳利も数本見えました。あとで判明したことですが、市川はこれらの家族をあげてフランスに渡るつもりだった。それで、この翌日にはもう横浜にいって船を待つことになっていて、これまで自分たちをかくまってくれたこの家の夫妻と――いま見知らぬ男女といったのがそうでありましたが――別れの晩餐《ばんさん》をとっていたところだったのでござります。
そういう一夜であっただけに、この襲撃は市川にとってまったく予想外だったらしく、こうなっては彼もどうすることもできない。幼い娘たちにも白刃をつきつけられているのを見て、さしもの彼も、このときは茫然として縛られるよりほかになかった。
ところで、そのとき、また予想外の収穫が転がり込みました。
その見知らぬ男女を金次郎が訊問して、それが島上源兵衛夫妻だと判明したとき、その島上が――おそらく、この災難を逃れるつもりからであったのでしょう――自分は水戸人でもなければ、市川家の縁者でもない。田沼玄蕃頭さまから頼まれて預かっただけだ、と口走ったのです。さらに問うと、彼は田沼家の元剣術師範だったという。
「田沼はどこにいる?」
たたみ込む金次郎の殺気に、島上源兵衛は、田沼の隠れ家《が》が、すぐ近くの伊皿子《いさらご》町にあることを白状しました。
そこへ、一人の隊士が、襲撃前に手配してあった幾つかの駕籠《かご》が来たことを告げた。
金次郎は、縛りあげ、猿ぐつわまでかませた市川三左衛門とその家族らをその駕籠に投げいれ、隊士の半分をそれにつけて水戸へ運ぶことを命じ、さて私とあと半分の隊士を連れて、馬上を道案内に、伊皿子町へ急行した。
その間、いえ、金次郎に再会してから三日ほどになりますが――自分が急報し、同行しておりながら私は、金次郎が以前とはまったく別人となり、実に怖ろしい人間になっていることを、肌《はだ》でまざまざと感じて、実は心中|寒気《そうけ》立っておりました。
そして私は、現実にも寒気立っていました。市川三左衛門はまだわが藩の元指導者ですが、こんどは、かつて天下の若年寄であった人間を「捕縛」しにゆこうというのだから大変なことだ、という意識はござりました。
しかし、歩きながら金次郎はつぶやきました。
「田沼を官軍がほうっておいたとはふしぎだな。……」
――そういえばそのとおりでした。が、のちに回顧すれば、あの維新という大革命をやりながら、新政府は旧幕府の大官をだれも死刑にしていない。出先のやつが独断で処刑した小栗上野介などいう例外もないではありませんが、最後の将軍慶喜公も、会津で抵抗した松平容保公も、函館《はこだて》で戦った榎本武揚も、いずれも助命され、榎本さんごときは新政府の大官となったくらいです。
ここに明治の革命のふしぎさがある。いや、それが日本人の革命だとすると、その中で、敵対者をみな殺しにせずにはおかなかった水戸の内戦のほうがふしぎだということになるかもしれない。やっぱり水戸のほうが異常な現象であったといえるかもしれません。
この明治二年はまだ旧暦でありまして、あの年の二月二十六日というと、いまの暦ではたしか四月上旬にあたります。強く面《おもて》を打つ南風には花びらさえまじって、その中をわれわれは、魔の眷属《けんぞく》のように小走りに進んだ。実に物騒な時代で、春というのに、夜の東京の道にはほかに人影もありませんでした。
案内された伊皿子町の家は、まあ下級の旗本でも住んでいたような小さなもので、それでも朽ちかけた門があった。
こんどは市川の場合とちがって、土足では踏み込まず、案内者の島上に門の戸をたたかせたのは、やはり元幕府の大官に対する遠慮があったのでしょう。
戸をあけて、まず姿を見せたのは、女でした。――
月はないのに、それが朧《おぼ》ろに浮かびあがるような顔をむけて、
「……天狗さまのお迎え?」
と、平静な声でいったのです。
何を見て、そういったのか。――女の眼は、しゃぐま[#「しゃぐま」に傍点]をかぶった金次郎にそそがれ、そして私にそそがれました。そして、ほのかに笑いました。
「お久しぶりですね」
私も金次郎も、棒立ちになっておりました。おゆんでありました。
市川のときはお登世の存在を予感したが、こんどの場合はまったく思いがけなかった。
むろん、私におゆんを探す機会などなかったのですが――事実として、あれ以来のおゆんのゆくえはわからなかったのです。
そのころおゆんについて、つきつめた考えをめぐらしたことはないけれど、漠然たる感想をいま整理してみると――内戦時代のときでさえ幕府の若年寄が田舎町の遊女屋の娘を妾にするなんて、変なことだと思っていた。だから、あれはあの戦乱中の田沼のいっときの気まぐれだと思っていた。その田沼が江戸に帰っても、なおおゆんを妾にしているとは思われない。逆におゆんからしても、その後若年寄を罷免《ひめん》され、いわんや瓦解後、どこへいったかわからないような田沼とまだいっしょにいるとは思われなかったのです。
そのおゆんがここにいた。あのときと変わらず――いや、それどころか、さらに玲瓏《れいろう》とし月光のように美しく。
しかも――あの市川は私を見ても気がつかなかったというのに――彼女は、四年後の私たちを、たちどころに私たちだと見てとったようです。
「田沼の身柄をもらい受けに来た」
やっと金次郎が口を切りました。故意に不愛想《ぶあいそう》にいおうとしたようですが、しゃっくりのような声でありました。
「水戸へ連れてゆく。……」
「どうぞ……と申しあげとうございますけれど、それができないのです」
と、おゆんは答えました。
「なに? おらぬとはいわせぬぞ!」
「はい、たしかにおります」
おゆんもまた、さっきちらっと笑顔を見せたものの、金次郎同様、以前のことを一語ももらしません。
「けれど、水戸へは参れないのです。……ちょっとご覧くださいまし」
背を返す彼女に、われわれは狐につままれたような顔を見合わせ、あとについて家の中にはいってゆきました。
そして、小さいその家の中の、とある襖をあけて、薄い蒲団《ふとん》に横たわっている一人の男を見せられたのでござります。
わびしい行燈《あんどん》は向こうにあり、ちょうどこちらに向けられている顔は暗かった。しかも、以前に見た恰幅《かつぷく》のいい大町人のような容貌《ようぼう》とは打って変わって、ボヤボヤと白髪を光らせ、頬のこけた顔が見えました。しかしそれが田沼|玄蕃頭意尊《げんばのかみおきたか》にまぎれもないことを、われわれは認めたのであります。田沼はたしか市川とほぼ同年配のはずでしたが、それは六十を過ぎた老人に見えました。しかも、顔が変にゆがんで、ゆるんでいる。――
「去年の秋から、中風で寝ているのです」
と、おゆんは申しました。
「いまでは、満足にものもしゃべれません。動かすこともできません。――」
馬鹿みたいにそこに棒立ちになった私たちの中から、金次郎がまっさきにわれに返りました。
「連れてゆく。天狗党訊問のことがあるのだ。おい、運び出せ!」
「ちょっと待ってください」
おゆんは部屋の入口に立ちふさがりました。
「天狗党訊問のことがあるんですって? それは天狗党から見ればそんな必要もあるでしょうが、田沼にいわせれば、そんな用件に応じる必要のない言い分があるのです。本人が口をきけないから、田沼に代わって私が、勝手な推量で申しますけれどね。あなたがたは、あのときはどうしても天下を騒がす謀叛《むほん》軍でした。田沼は幕府の若年寄として、それを征伐する義務《つとめ》を果たしただけじゃあありませんか」
金次郎はまばたきしました。が、すぐに、
「征伐? あれほどの大軍で半年たっても征伐できず、松平大炊頭さまをだまし討ち同然にしてやっとカタをつけ、しかもそのあと天狗党を追っかけながら、真正面からは手も出せず、最後には加賀藩に降伏したものを横どりして、あの人間とは思われぬ大虐殺をやった。――」
と、歯ぎしりしていいました。
「卑怯といおうか、恥知らずといおうか、冷血といおうか。――」
「あのだらしない幕府の兵隊を使って、だれが大将になったってはなばなしいいくさができるでしょうか。それに田沼は、それでも幕府の兵隊を、あとで起こりそうなもっと大きないくさのために、できるだけとっておこうと考えたのです。それでも田沼は、何とか天狗党を水戸から追い出しました。しかもそのあとを追い、追いつづけ、敦賀まで追いつめたじゃあありませんか」
おゆんは申します。
「最後のみな殺しはひどいけれど、幕府が滅びそうなとき、死物狂いのみせしめというつもりだったのでしょう。あのころ、能なしで、ただウロウロしてばかりいる幕府のおえらがたの中で、田沼ほどよく働き、よく責任《せめ》を果たしたお人が、ほかにあったでしょうか。――」
金次郎は、この女が――という表情で、口をモガモガさせるばかりでした。まったく、この女から、こんな弁明を聞こうとは、私にも意外でした。それより、だいいち、おゆんと金次郎がこんな問答を交わす日が来ようとは。――
「天狗党と同じく、男としての義務《つとめ》を果たした人間のなれの果てが、あの姿でございます」
田沼の顔の筋肉が、かすかに動いたようであります。そして、明らかに、その眼じりから耳のほうへ涙がつたわるのが見えました。
「お前は本気で、あの田沼と天狗党を同列に置くのか!」
金次郎はあえぎました。
「私にとっては、田沼さまは天狗党以上ですわ。天狗党のある人は私を捨てたけれど、田沼さまは私を捨てられなかった。田沼さまがこんなところにお暮らしになることになったのは、私を連れてお国の相良《さがら》にも駿府にもゆけなかったからなのです。……ご病気になられたのは、そのあとのことですわ」
そして、おゆんは、声をたてずに笑った。
「……でも、金次郎さん、ほんとに男の人って妙だわねえ。……」
それまで、まったく知らない者には、無縁の関係と見える問答を交わしていたのが、おゆんはここではじめて相手の名を呼びました。その笑顔は、これまでに見たどんな場合より妖艶《ようえん》なものに見えました。
それをどうとったか、金次郎は魔を払い落とすように抜刀し、天狗党にさけんだ。
「田沼を連れてゆけ、何をしておるか?」
「その前に、私をお斬り下さい」
一歩も動かず、おゆんは手をひろげました。
「私を殺してから、田沼さまを連れておゆきなさい!」
二人は、にらみ合ったまま立っておりました。一分くらいだったろうと思いますが、私には数分の長さに感じられた。
突然、金次郎がよろめきました。そして、がっくりと首を垂れ、玄関のほうへ歩き出したのです。……
私には、わけがわからない。……それでも、とにかく金次郎が負けたことはわかった。同時に私も、何やら説明できぬ怖ろしさに打たれました。あわててそのあとを追うと、うしろから、これまた白痴みたいな顔で、天狗党たちがウロウロとついて来ました。――
――こういうわけで、われわれはついに田沼玄蕃頭には手をつけなかったのでござります。それっきり、田沼ともおゆんとも逢ったことがありません。
おかしな話ですが――おかしいといえば、この世にはもっと面妖な話がある。この田沼家には、のちに、松平大炊頭家と同様、子爵という爵位が明治政府から下されたのです。まあ、旧大名に十|把《ぱ》ひとからげに爵位をくれた中にはいったのですが、これなどもまったくつじつま[#「つじつま」に傍点]の合わない話で――政府の要職に水戸人が一人でもはいっていたら、こんなことはなかったでありましょう。もっとも、この玄蕃頭意尊が生きているうちにもらったのかどうかはわからない。死歿《しぼつ》の年も不明なのですが、ただ、数年前、元水戸藩士のある人が、意地悪く田沼の子孫を探しあてて訪ねたことがある。その人が私にくれた手紙によりますと――どうやら意尊は、あのあと間もなく亡くなったらしい。息女が一人残されていて、それが羽田《はねだ》という東京の町はずれの棟割《むねわり》長屋に住んでおりまして、障子破れ、壁崩れ、実に悲惨な生活をしておられたそうで、「げに怖ろしきは因果応報」と、その手紙にありました。
ところで、おゆんという女の気持ちがわかりません。思い起こしてみると、はじめから不可解な女でしたが、とくに最後まで田沼に殉じたのが不可解です。侠気《きようき》か、へそまがりか、ずるずるべったりの腐れ縁か。――
――あのときおゆんは、田沼に代わって何かと理屈を述べたてましたが、いまにして考えると、何だか変な理屈で、彼女が本気でああ信じていたとは思われない。
あるいは――たいていの女性は、いいかげんに男性を見て、それで結構のほほんと一生を過ごすものですが、あの女は、男というものを、男という名に値する男の運命というものを、トコトンまで見てやろう、という興味にとり憑《つ》かれた女かもしれない――とも思うのですが、それは私の男性的な観方《みかた》かもしれません。そういえば、田中愿蔵も「なにしろ一風変わった女だ」と認めておりましたし、奔放無比の藤田小四郎も、何だか彼女をひどく怖《こわ》がっていたようでもありました。彼らも、ただの女ではないことを感得《かんとく》していたのです。私、おゆんという女をよく知らず、その彼のおゆんも知らないのですが、彼女にかぎって、田沼の息女のように悲惨な運命に落ちたとは思われませぬ。また、そう考えるのが、いまや唯一の救いとなります。
それからまた、そのおゆんにやりこめられて、金次郎がすごすご退却したのも不可解ですが――どういうわけか、そのとき「なぜだ?」と、私は金次郎に訊かなかった。しかし、思えば武田金次郎の顔には、このときから一種の虚脱感というか、敗北感というか、そんな翳《かげ》がひろがり出したように思う。
われわれは、黙々として水戸へ走りました。そして、途中で、先をゆく市川一家の駕籠と、それをとりまく天狗党に追いついた。
一ト月ばかりの収獄と拷問の後、市川三左衛門は処刑されました。
それは実に凄まじい処刑でございました。彼一人、水戸市内の泉《いずみ》町の札場に三日間、七軒《しちけん》町の札場に三日間、生き晒《さら》しになった上、そんな日に死ぬ人間などありそうもない美しい晩春の午後、縛られたまま荷車にのせられて、耕雲斎のときと同様、罪状を書いた紙幟《かみのぼり》をつけられ、水戸南方三里ばかりの長岡原というところへ運ばれました。
市川を憎む者もむろんおびただしくおり、沿道、彼は悪罵《あくば》のみならず石や馬糞《ばふん》の雨に打たれました。長岡原には、もうその日の朝から見物人が雲集し、飴《あめ》や菓子を売る屋台まで出ているという始末でありました。ここで彼は、生きながら逆さ磔《はりつけ》にかけられたのでござります。
われわれは、むろんこれに立ち会ったのみならず、金次郎は、それまで投獄してあった市川の家族も連れて来て、見物させた。
市川三左衛門はいかなる心境でこの運命を迎えたのでありましょうか。その後の調べでは、彼は東京に潜伏している間に、旧知の――おそらく、江戸屋敷詰めのころ知り合ったものでしょう――フランス人から、フランス語のみならず、化学、幾何まで習おうとしていたという。この年五十四歳でありましたから、まことになみの人物ではありませぬ。ただ頑固一徹の保守派ではなかったのでござります。思うに彼は、もうホトホト日本がいやになって、異国で完全な新生の生活を志したのでありましょう。
それを、あわやというところで、人もあろうに私という小天狗のために一切がご破算になった。ひょっとしたら彼は――敦賀で私たちの助命を認めたのは、歎願者の力もさることながら、彼自身、助命したとて大丈夫だ、幕命によって越前に幽閉された罪人が、二度とこの世に出て来られるわけはない、と判断したからだろうと思いますが――その昔、頼朝、義経を生かしたために平家の滅亡を招いた清盛の無念さを反芻《はんすう》していたかもしれない。
ちと大袈裟な例を持ち出して恐縮でござりまするが、しかし、この世には、実際こういうことがあり得るのだな、と、改めて私たちも感慨にふけったのであります。
やがて市川三左衛門は、逆さになった磔《はりつけ》 柱《ばしら》にかけられた。――しかし、はじめからずっと逆さのままでは頭に充血してすぐに死んでしまうので、顔面が黒紫色になると、枢《くるる》が廻転して正常の位置に戻り、一息おいてまた頭が逆さになるように作ってありました。
彼は怖ろしく苦しみました。その苦しみは当然の酬いだ、と考えていた私が、もういい、もうひと思いに殺してやってくれ! と、なんどもさけび出そうとしたほどの大|苦患《くげん》でござりました。
金次郎の顔も蒼白になり、歯をカチカチ鳴らしておりました。のちに聞くと、以前に諸生党の関係者を斬殺したときには、決してそんなことはなかったという。
磔柱の廻転が何回か繰り返されたとき、金次郎は突然歩き出した。ぜんまい仕掛けのような足どりで、縛られ、並ばされている市川の家族の前にいって、
「あの男のために、おれの祖父《じい》も父も殺されたのだ! おれの祖母《ばば》は、祖父《じい》の首を抱かされて殺されたのだ! 三つや十の幼いものどもも殺されたのだ!」
と、絶叫しました。双頬は涙に洗われておりました。
彼の真正面に立っているのは、お登世でした。お登世は金次郎と同年ですから、このとき二十二になっていたはずです。諸生党全盛の期も過ごしたはずですが、どういうわけかまだお嫁にいっていなかったという。
私たちが変わったように、彼女も変わっておりました。以前、何やら日蔭の花のように見えたのが、内部から光をともして来たようで――しかし、いま自然だけはまぶしいばかりの初夏の光の中に、それが縛られ、髪も衣服も乱れたままの惨澹《さんたん》たる姿なのです。凄惨美の極致、といえば、いえましょうが、私はいまでもあの姿を形容する言葉を知りませぬ。
私には、彼女の顔は眼ばかりに見えた。その眼は三左衛門のほうを見ず、金次郎だけに注がれておりました。
「見ろ、お前の父親のほうを見ろ、あれは武田金次郎の復讐ではない、天の裁きだ! 見て、よっく魂に刻め!……突けっ」
と、金次郎はまたさけんだ。最後のさけびは、ふり返って、磔柱の前で槍を持って待っていた天狗党に対するものでござりました。ちょうど逆さになった市川三左衛門の身体に、二本の槍がのびた。
苦鳴につづいて、三左衛門の咆哮《ほうこう》が聞こえた。
「金次郎っ……勝負は、まだじゃっ」
その直前に、武田金次郎は草の上に崩折れました。
それが市川三左衛門の最後の声以前であったことは、全身硬直して金次郎とお登世を見まもっていた私が――私だけがよく知っております。
お登世は、黒い炎のような、しかし乾いた眼で、倒れた金次郎をじっと見下ろしておりました。
……それからの武田金次郎のなりゆきは、まことに語るのに忍びない思いがいたします。
彼は、武田一族が受けた運命とちがって、市川家の家族を釈放いたしました。私も、市川三左衛門の処刑を見て、もうこれでたくさんだ、と思い、この釈放に異議を唱えませんでした。
お登世をふくめて、市川家の人々は、それ以来どこへいったか、わからないままになりました。
六月、版籍奉還のことがあり、水戸でも先代慶篤公のあとつぎ昭武氏が改めて水戸藩知事に任ぜられると、武田金次郎も、二十二歳にして権大参事《ごんのだいさんじ》という重職につけられました。それはただ武田耕雲斎の嫡孫ということのみのゆえでありましたろう。――あの奸党粛清の功によってではなかった。その点については、彼に対する世間の嫌悪と恐怖はいよいよ内攻こそすれ、うすらぐことはなかったようであります。
しかし彼は、それをあまり気にしないようでした。無関心というより、無気力状態、虚脱状態でござりました。
言葉の上の形容でなく、地獄を見た人間、いや、ほんとうに地獄に落ちて、舞い戻って来た人間は、ああなるものでござりましょうか。
そばにいる私も呆れ、かつぶきみになったことがあるのですが、元天狗党の隊士とかその親とか遺族とかが彼のところへやって来ても、ほとんどその人間を知らないかのようにあしらったことが、何度かありました。それが彼の放心によるものだと私にはわかりましたが、こういうことが水戸の人々からいっそう非難される原因にもなった。
実は脇役《わきやく》の私自身も、水戸があまり居心地よくなかった。――それで私は、その年の暮れには、決心して東京へ法律の勉強に出ることになったのであります。そのとき武田金次郎とは、実にあっけない別れかたをしただけでござりました。
明治四年、廃藩置県のことがあり、昭武氏は職を免ぜられて東京へ移られ、五年には新しい県令として大蔵官僚の渡辺清という人が赴任されて来ました。
このとき、それまで人間のぬけがらみたいにウスボンヤリしていた武田金次郎が、突然、火がついたように騒ぎはじめた。
――水戸城は水戸家のものだ! 由緒ある水戸城を、どこの馬の骨とも知れぬ役人のものにしてなるものか!
彼はまったく時勢の変転ということに盲目になっていたのでござります。彼の頭は、明治元年か二年あたりに膠着《こうちやく》していたのであります。
そして、新県令赴任後五日目に、水戸城に放火事件が起こった。
水戸の県令に他国人がなったからといって城に火をつけるとはあんまりですが、下手人が何者にせよ、その憤懣《ふんまん》には、次のような心理の裏打ちがあったのじゃないかと思います。
すなわち水戸人は、桜田の変以来、維新の革命の大いなる原動力であった。しかるに新政府ができてみると、そこには水戸人の片影もない。実は、それだけの人材が残っていなかったのです。天狗対アンチ天狗の修羅の死闘で、これはと思う人物は敵味方ともにほとんど死に絶えていたのです。それにしても薩長は、それをいいことにして、水戸にはそ知らぬ顔をして、自分たちだけで政府を独占した。水戸の県令でさえ、水戸人になんの相談もなく勝手に任命した。しかも、それに正面切って注文をつけるだけの人材もまた絶滅していた。――
水戸城に火をつけたのは、この水戸人のやり場のない悲しみと怨恨であったかもしれません。――もっとも、一説には、天狗党が諸生党に加えた復讐の虐殺記録を焼き払う目的であったともいわれます。
それはともかく、右のような言動のあった武田金次郎は、たちまちその嫌疑《けんぎ》を受けて逮捕されてしまいました。
しかし、その後捜査の結果、やがて彼は無関係ということになって釈放にはなったのですが、それっきり彼は水戸から姿を消して、そのゆくえがわからなくなったのでございます。
……それから二十余年の歳月が流れました。
福井地裁判事武田猛、すなわち私は一つの事件を担当することに相なりました。一昨年……いや、月日は明らかにいたしますまい。その事件の起こった町の名も申しますまい。
女郎屋が一軒だけある寂しいその町で、事件が起こりました。その店に上がった薬の行商人が、夜中に、錆《さ》びた剃刀で頸動脈を切断して死んでいたという事件でござりますが、あいかたの女郎が殺害したのではないかという疑いで起訴されたのであります。
その死人は、行商人というより半ば浮浪者に見えるほどうらぶれた風態をしていたそうで、年齢が五十近いと推定される以外、そのときに至っても住所氏名不詳の男でありましたが、女郎のほうの本名は判明いたしまして、私は驚愕《きようがく》いたしました。
――剃刀は男の手に握られたままでありました。それにもかかわらず、なぜ他殺とも見られたか。それには、その剃刀の握り方、同衾《どうきん》していた女郎の返り血の問題、その他二、三、警察を疑わせる事実があり、また逆に死人に覚悟の自殺と見られるふしもあったのでござりますが、裁判の結果、私は被疑者に、証拠不充分のゆえをもって、「無罪」を宣告したのであります。
それにもいろいろ理由がございましたが、何よりその男が、町の人々、女郎屋の人々の証言により、はじめてその町に来、はじめてその店に上がった旅の男だということが判明し、かつその男女は当然まったく見ず知らずの関係にあり、被疑者が精神異常でないかぎり、殺害する動機がない、ということがおもな理由でござりました。
しかるに、その女は、裁判所を出るとき、死んだ男の墓はどこにあるか、と尋ねたそうで、訊《き》かれた巡査が、その墓詣りにゆくのかと思って、その町の山の、遠くに海の見える無縁墓地に葬られたことを教えますと、数日後、その女郎がそこでやはり剃刀でのど[#「のど」に傍点]を突いて死んでいるのが発見されたのであります。
……事件というのは、こういうものでござります。いえ、これ以上、詳しいことは訊いてくださるな、と、みなさまにお願いしたいのでござります。
ただ……その死んだ男と女が、それ以来ほとんど絶えず――といっていいほど、私の頭に粘りついて離れず、やがて私が神経をいためたのも、その男女の顔のおかげであるとだけ申しておきます。
そして……これ以上しゃべることを私自身は拒否しながら、一方でもう数語つけ加えずにはいられませぬ。……その二つの顔が私に命ずるのでござります。
男の死に顔は、現場写真でしか見たことはありませんが、疲れ果て、うらぶれ果て、しかもどこか笑っているような顔でありました。女は、これは当人を直接見たのですが、当時年齢は四十六歳でありました。四十六歳の女郎とは驚かれるでござりましょうが、その年齢でなお結構客があったということで、その天性の美貌をご推察ください。が、その一方では、よくこれで女郎をしている、と、ふしぎなくらい寂しい顔だちをしておりました。しかし、その死に顔の現場写真は、これまたどこか微笑んでいるように見えたのでござります。
その男は、どこからさすらって来たのか。その女は、どこから流れて来て女郎になったのか。――いや、二十余年、二人はどんな世界を、どんな人生の山河を、どういうふうに歩きつづけ、流れつづけて来たのか。――
しかし、その二人の死に顔の向こうに、天狗党の幻影が重なるのでござります。……雲のひくく垂れた、黄と褐色《かつしよく》の曠野《こうや》の果てをゆく幟《のぼり》と人馬。弾丸のうなりの中に、ますらおの詩《うた》に耳をかたむけ、あるいはうたいつつ戦死していった十二歳の少年隊士や豪僧隊士。吹雪の夜に、宿《やど》る家もなく、ただ篝火《かがりび》をたよりに立ちつくす浪人兵たち。天狗党の男どもよりなお純情壮烈であった従軍女郎たち。雪と氷の大山岳を、大砲を曳いてよじのぼる蟻のような百姓兵のむれ。――
あの懸軍万里の大行軍は何のためであったか。あの超人的なエネルギーの燃焼の報酬は何であったのか。
それが最後の大虐殺であったことを知る人々は、彼らをあわれんで申してくれます。武装した浪人軍の二百余里にわたる横行|闊歩《かつぽ》は、幕府の倒壊《とうかい》を告げる一大宣伝隊となったと。――しかし、彼らはべつに倒幕を考えていたわけではなかったのです。彼らの行動は、ただ攘夷というイデオロギーにとり憑《つ》かれたものであったのです。
しかし、その結果、自分たちに何をもたらしたか。日本に何をもたらしたか。水戸に何をもたらしたか。
ご承知のごとく、彼らは屠殺《とさつ》され、日本は攘夷などどこの話かという顔で明治の幕をあけた。そして、その後もつづいた、水戸の内部の惨劇は、攘夷もイデオロギーもない、血で血を洗う復讐ごっこの反覆で、あとにはだれもいなくなった。
人事すべて空《くう》とは地上の相のならいではありましょうが、それにしても、これほど徹底して見当ちがいのエネルギーの浪費、これほど虚《むな》しい人間群の血と涙の浪費の例が、未来は知らず、少なくともこれまでの歴史上ほかにあったろうか。……というのが、私のいつわらぬ懐疑なのでござります。それがあまりに耐えがたくて、みなさまの再批判を仰ぎたいと最初に申したのはこのことなのでござります。
この英雄的で、無惨で、愚かしくて、そして要するにつじつま[#「つじつま」に傍点]の合わないドラマの終局には、ただあのうらぶれた老行商人と老女郎の死に顔が二つ残っただけではないか。――ただ、その二つの死に顔を想起しつつ、私は申したい。
あれは明治最後の仇討ちではない。最後の復讐ごっこではない。時と場所こそちがえ、あれはまさしく哀切な心中にまちがいなかったと。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『魔群の通過』昭和56年6月10日初版発行