角川e文庫
風来忍法帖
[#地から2字上げ] 山田風太郎
[#改ページ]
七人の香具師
七人の足軽は、どうしても眼がそちらへいった。駿《すん》府《ぷ》に到着したという豊《とよ》臣《とみ》秀《ひで》吉《よし》の大軍よりも気にかかった。
「丁《ちよう》か、半《はん》か」
委細かまわず、ふんどし一つの壺《つぼ》振《ふ》りがきく。
「半。……」
と、こちらはわれにかえってさけんだが、声にどうしても迫力がない。
「振るよ!」
と、壺振りは、ぱっと壺を伏せた。――それをあけて、
「丁でやす」
長い顔を、気の毒そうにふる。盆《ぼん》ゴザの向うに坐《すわ》っていた五人の香具《や》師《し》が、じぶんたちが勝ったのに、ふしぎそうにいっせいにくびをひねった。
心中、はるかにふしぎにたえないのは、足軽の方だ。負けるはずがないのに、負ける。二つのさいころに細《さい》工《く》があって、どうしても半と出なければならないのに、丁と出る。そのさいころは、足軽組の方から出したものなのだ、負けるのは、勝負に気が入らないからだ。勝負に気が入らないのは、或るものに心《しん》胆《たん》を奪われているからだ。
「おい、壺振り。……」
と、足軽のひとりが、ついに弱々しく呼んだ。
「おまえの、そのな、その下帯からのぞいておるものな、何とかならぬか。……」
「へい。おや、こいつはとんだものが賽《さい》をにらんでやがる。やい、ひっこめ」
と、壺振りはあわててそれをしまいこんで、「さあ、丁か、半か!」とわめいたが、わめいた拍子に、またもそいつがノロリと顔を出す。
顔を出すのはあたりまえだ。馬のようにながい、一尺はあろうと思われる男の顔だったが、ふんどしからのぞいたものは、その顔よりもたしかに二、三寸はながい。それが赤黒色にふしくれ立って、威風あたりをはらっているのだから、足軽たちが敵の大軍より畏《い》怖《ふ》をおぼえるのはむりもない。
「丁か、半か!」
「丁!」
と、香具師のひとりが快活な声でさけんだ。ころがる白い賽を、さっと花吹雪が追って、しばらくはどれが賽だかわからない。――野天ばくちであった。
野天ばくちではあるが、天下の絶景だ。その杉林からは、鏡のような芦《あし》の湖《こ》が見下ろされ、その後方には富士が蒼《あお》空《ぞら》に浮いている。杉林には桜がまじり、ひっきりなしに老《ろう》鶯《おう》のさえずりがきこえた。箱根の山中であった。
いまちょっと物音が絶えているが、すぐ下の芦の湖|沿《ぞ》いの山道には、連日、ほとんどひっきりなしに兵《ひよう》糧《ろう》や弾薬をはこぶ行列が西へつづいていた。西の山《やま》中《なか》砦《とりで》へ。
天正十八年三月の末。――陰暦で三月末というと、いまの四月下旬か五月上旬にあたり、箱根の山も晩春をすぎて、青葉若葉を吹く風に初夏の匂《にお》いすらあるが、山中砦と小田原城をむすぶ小《こ》荷《に》駄《だ》隊からあがる砂《さ》塵《じん》は、凄《せい》壮《そう》な戦気となって全山を覆《おお》っている。
豊臣と北《ほう》条《じよう》は完全に手切れの状態となって、上《かみ》方《がた》からおし下ってきた秀吉の大軍は、陸続として駿府から三《み》島《しま》あたりを埋めつつあった。これに対して北条は一歩もひかぬ戦意をかためている。早《そう》雲《うん》、氏《うじ》康《やす》以来の名誉にかけて、関《かん》八《はつ》州《しゆう》二百八十五万石を掌《しよう》握《あく》している武力にかけて、そしてまた天下の嶮《けん》箱根山という護《まも》りにかけて。――山中砦はその箱根の最前線の出《で》城《じろ》であって、北条の老臣|松《まつ》田《だ》|尾《お》張《わりの》守《かみ》の一族|松《まつ》田《だ》|康《やす》長《なが》が四千余の兵をひきいてこれに布《ふ》陣《じん》していた。
ところで、七人の足軽は小田原からやってきたものだ。そして、そこの街道で、ブラブラと先をゆく七人の香具師に追いついた。話をしながら歩いているうち、何のきっかけからか、しばらく野天ばくちをやる破目になったのは、この足軽たちがまだ戦機にうとく、また箱根の嶮をたのんで、どこか気のゆるんだところがあったせいだろう。
この七人の香具師は、ここ数年、小田原城下にもときどき姿をあらわしていたから、顔見知りだ。顔見知りどころではない。二度か三度、彼らを足軽小屋に呼びこんで、ばくちをやったこともある。季節により、時と場合により、陣《じん》中《ちゆう》|膏《こう》薬《やく》、香《こう》具《ぐ》、もぐさ、口紅、白《おし》粉《ろい》、針、ひうち石、外《うい》郎《ろう》、おもちゃ、唐《とう》がらし、ガマの油など、売る品々はさまざまだが、七人とも野の匂いのする、ひどくのんきな風《ふう》来《らい》坊《ぼう》ばかりであった。
本名は別にあるのだろう。それは知らないが、彼らがたがいに呼んでいる名が、恐ろしく変っている。
まず、悪《あく》源《げん》太《た》|助《すけ》平《ひら》。――これは蓬《ほう》々《ほう》たる乱髪を藁《わら》でくくって、身なりはかまわず、いちばん野性の匂いが強烈だが、苦《にが》味《み》ばしった男前で、いささか短気な性らしく、きらっとひかる眼に剽《ひよう》悍《かん》無比なものがあり、こいつだけはちょっと気味がわるい。
次に、七《しち》郎《ろう》義《よし》経《つね》。――どうして義経といって、そこまで呼ぶなら九郎といわないのか、わからない。色が白く、ノッペリとして、女みたいな優《やさ》男《おとこ》だ。じぶんでも色男だという自信満々で、気どりやで、そしてこんな商売なのになかなかのオシャレである。
弁《べん》慶《けい》。――名のごとく、頭をつるつるに剃《そ》った容《よう》貌《ぼう》魁《かい》偉《い》の大入道で、ずいぶん力はありそうだが、しかし水晶の数《じゆ》珠《ず》などくびにかけて、ときどき思い出したように仔《し》細《さい》らしく念仏を唱えている。
陣《じん》虚《きよ》兵《へ》衛《え》。――陣が姓で、名が虚兵衛である。これは、顔色がわるく、やせこけて、いつも世の中がつまらんような顔をしているが、元気のないくせにどこか一脈の凄《すご》味《み》がないでもない。
夜《よ》狩《が》りのとろ盛《もり》。――これは、ひょうたんみたいな顔に、いつも涙をうかべているような哀れっぽい、脳天から声を出す男だ。
昼《ひる》寝《ね》睾《こう》丸《がん》斎《さい》。――名は奇抜だが、どじょうひげを生やして、大人物の風格がある。軍学者めいた言辞をときどき弄《ろう》するが、じっとしているときは、たいてい居眠りをしている。足軽小屋に呼びこんだときもそうだったが、いまもこの野天ばくちにはひとり加わらず、むこうの桜の下で座《ざ》禅《ぜん》をくんでいるが、ほんとうは眠っているのだろう。
馬《うま》左《ざ》衛《え》門《もん》。――これが問題の壺振りだ。
顔のながいのは承知していたが、かくも雄大きわまる逸《いち》物《もつ》の所有者だとは知らなかった。この男が壺振りをしたのもはじめてなら、下帯一つになってその逸物を見せびらかしたのもはじめてであった。
見せびらかす?――最初は、まさかそうとは思わなかった足軽たちも、負けるはずのない勝負に負けつづけなので、だんだん疑惑をおぼえてきた。
「半だ!」
ひとりがのぼせあがったような声をはりあげたとき、悪源太がドスのきいた声でいった。
「ところで、旦《だん》那《な》がた、賭《か》けるものがありやすかね?」
「…………」
「もう金はねえとみたが……こんどは陣《じん》笠《がさ》か槍《やり》でもかけますかい?」
もう金がない、というのは的中した。こいつ、こっちのふところの中身までも看《かん》破《ぱ》している。――そのきみわるさと、さっきからの不《ふ》審《しん》に、わけがわからないなりに、足軽のひとりがかっとなって、いきなりおどりあがった。
「うぬら、イカサマやったな?」
「あっしたちが、イカサマを?」
「そうじゃ。おれたちが、こう負けてばかりおるはずがない。おれたちが負けるはずは――」
と、いいかけて、あわわと口をふさぎ、言葉につまって、むちゃくちゃを言い出した。仲間にあごをしゃくって、
「おい、ゆこう。こんな下《げ》司《す》下《げ》郎《ろう》どもと遊んでおるひまはない」
「そうだ、例の御用を忘れておったぞ」
今更らしく、ドヤドヤとあと六人の足軽もあわてて立った。
「おお、日が傾いた。少し早う来たので安心していたずらをはじめたが、夜にかかると松田どのに叱《しか》られる。ゆけ」
そばにならべてあった槍をいっせいにとろうとしたが、その一本がピタリとうごかない。――いつのまにか、小山のようにうごいた弁慶が、坐《すわ》ったままその上に片ひざをのせているのであった。
「こいつ、――何をさらす?」
「やい、待てえ」
と、悪源太がぬうと立ってきた。ゴザのまんなかにころがっている二つの賽をつかんで、こぶしでぎゅっとにぎりしめると、妙な音がした。
「イカサマとは何だ。このさいころはてめえたちのものだぞ。見ろ」
こぶしをひらくと、二つの賽はつぶれていた。中が空《くう》洞《どう》になっていて、丁目の三方に鉛を入れて、その反対の目だけ出るようになったイカサマ賽だ。――それが丁目だけ出たのだから、足軽たちにとっては奇々怪々だ。ただ、いたけだかになって、
「うぬら、香具《や》師《し》の分《ぶん》際《ざい》を以て、武士にいいがかりするか!」
「ちょっと見な」
と、悪源太がへんにやさしい声でいった。大入道の弁慶が、ひざの下の槍をとって悪源太にわたしたのをみて、足軽たちは、すわと六本の長槍をかまえたが、悪源太はへいきでその槍の穂に背をみせて、
「あそこの、睾丸斎が坐ってる桜の木をよ。あたまの上五寸だ」
ぴゅっと光流が松林を走った。手にした槍を投げたのだ。槍は十間以上もとんで、昼寝睾丸斎の頭上五寸の桜の幹にピーンと突っ立った。
「睾丸斎。そいつをもいちどこっちへ投げてくれ」
昼寝睾丸斎は眼をあけていたが、立とうともしなかった。が、七人の足軽は、悪源太の手に槍はないのに、色を失って立ちすくんだきりだ。
「わかったかえ?」
と、悪源太はニヤリとした。それから、また呼んで、相談した。
「おうい、睾丸斎、これから、どうしよう」
「どうしようったって、事の起こりはばくちじゃ。賭けて勝った分を頂《ちよう》戴《だい》すればよかろう」
「そいつが、旦那方の賭《かけ》金《きん》を超えた。おまけに、イカサマ賽だ」
「何、イカサマ賽。ほう、かりにもお武家衆が喃《のう》。本来なら簀《す》巻《ま》きにして芦の湖へ入《じゆ》水《すい》していただくところじゃが……まあ、身ぐるみ剥《は》いで、置いてってもらうだけでよかろう」
ねむそうに、昼寝睾丸斎はいって、また眼をとじた。
五人の香具師がノソリと立った。弁慶が、足軽のひとりの槍の柄をつかむと、麻《お》幹《がら》みたいにピシリと折った。
「ぬぎな」
と、陣虚兵衛が精気のない声でいう。
七人の足軽は完全に毒気をぬかれて、茫《ぼう》然《ぜん》と立っているうちに、義経や、とろ盛や、馬左衛門がこまめにうごいて、みるみるうちにみんな下帯一つに変えてしまった。
「ところで、いま気がついたから勧《かん》告《こく》しておくがの」
と、向うでまた睾丸斎が眠そうにいった。
「旦那方、はだかで山中砦へかけこんでも、首になるだけですぜ。だいいち、わしがつらつら戦機を案ずるにじゃ、山中砦は二、三日のうちに落ちる。足軽|雑《ぞう》兵《ひよう》ではよく知らされてはおるまいが、箱根に攻めかかる上方軍は十万余人だ。さっききいた話によると、おまえさんたちは、砦の大将連の奥方や息女たちを小田原へ護送する役目できたといったっけなあ。そいつは、小田原でも、砦のいのちをまず見かぎったからだよ。ばくちにまけて、裸にならんでも、おまえさんたちも砦を見かぎって、いまのうちに雲を霞《かすみ》と逃げていった方がよろしい」
七人の足軽は、はだかのままフラフラと街道へ下りていった。
杉林の中から見ていると、彼らはヒソヒソと何やら話をしていたが、西の山中砦の方にもゆかず、東の小田原の方へもひきかえさず、北の鞍《くら》掛《かけ》山《やま》の斜面をガサガサと這《は》いのぼりかけている。いまの睾丸斎の忠告通り、どこかへ逐《ちく》電《てん》するつもりとみえる。
「――と、睾丸斎がいうから、もうあいつらに逢《あ》うこともあるまいと思って、飴《あめ》をなめさせることはよしにして身ぐるみ剥いでやったんだが」
と、投槍の姿勢からもとにもどって、悪源太が独語した。義経がノッペリした顔をつるりとなでていう。
「それにしても、おれたちを相手にイカサマをやろうとは、まぬけな野郎どもじゃあねえかよ」
「馬の道具に気をとられているあいだに、てめえたちのイカサマ賽を、こっちの丁目ばかり出るイカサマ賽にスリかえられたとは気がつくめえ。こっちに虚兵衛という絶世のスリの名人がいるとはなあ」
と、夜狩りのとろ盛がふりむいて笑うと、陣虚兵衛は憮《ぶ》然《ぜん》として、
「絶世のスリの名人、などと大《おお》袈《げ》裟《さ》な讃《さん》辞《じ》はいやだな。あんな他愛ない奴らが相手では、何をするのももの憂い。……つくづくと世の中が味気のうなった」
浪人崩れの香具師だが、陣虚兵衛はいささか虚《きよ》無《む》的《てき》思想家で、そのくせスリの名人であった。
「ともあれ、これで足軽の具足が手に入ったぞ!」
と、馬左衛門が有頂天の声をあげると、とろ盛も脳天から声を出した。
「しばらくぶりで、上《じよう》玉《だま》が抱けるぞ!」
その翌朝だ。おなじ街道を、足軽たちに護《まも》られた十数人の女人が東へあるいていた。うす紅の被《かず》衣《き》が湖畔の春風になびいて、うごきさえしなかったら、そこにも時ならぬ桜が咲き出したかと思われる。――
彼女たちは、山中砦の城将松田康長、副将|北《ほう》条《じよう》|氏《うじ》勝《かつ》、間《ま》宮《みや》|康《やす》俊《とし》、朝《あさ》倉《くら》|景《かげ》澄《ずみ》らの妻や娘たちであった。昼寝睾丸斎がいみじくも見通したように、箱根の西方にヒシヒシととりつめた上方軍のおびただしさに、いささか動《どう》揺《よう》した城将たちが、せめて妻子だけでも無事小田原へひきあげさせてくれるように請うて、その願いがききとどけられたのである。
大部分の女《によ》性《しよう》群《ぐん》は、砦からついてきた足軽たちとともに山を廻ったが、七人ばかり遅れた。いや、七人の女性だけではない。七人の足軽もそれにつれて遅れた。きのう小田原から迎えにやってきた足軽たちである。
それにつれて遅れた――というと、きこえはいいが、彼らは実に途方もないことをやって遅れたのである。
七人の女性はおどろきのあまり、声も出なかった。ならんであるきながら、ふいに七人の足軽が、いきなり指を彼女たちの裾《すそ》の合わせめからさし入れてきたのだ。その手際は電光のごとく神速であった。
この戦法は、現代でも香具師のもっとも得意とするところで、彼らの隠語で「エンコヅケル」という。汽車の中、映画館、公園、どこでも、これとガンをつけた女《ナオ》の傍に坐ると、二、三語いいかげんに話しかけながら、いきなり指を女性の秘所につっこんでしまう。十人のうち、九人まではただ顔面を紅《こう》潮《ちよう》させて、からだをくねらせるばかりで、悲鳴もあげないという。まれに大声をあげられて、しくじったとしても、もともとだと思っているのだから助からない。
時は天正十八年、名門北条氏の侍大将の奥方や息女たちが、あっと思ったきり、息も出来なくなってしまったのはあたりまえだ。――とみるや、七人の足軽は、いっせいに彼女たちの前にまわって、グイと背負った。
そのまま右手の山中に走り出す。疾風のような早さだが、その動作のあいだも、背にまわした右手の指はもとのままなのだから、呆《あき》れたものである。
七人の足軽は、もとより七人の香具師であった。七人の女は、はじめから彼らがこれとガンをつけた美女ぞろいであった。疾走し、おどりあがるたびに、指はいよいよ彼女たちの柔《じゆう》媚《び》な急所に吸いついてゆく。
あとについてこない一行を不審に思って、先にいった足軽たちが立ちもどって、街道から忽《こつ》然《ねん》とかき消えている奥方や息女に、あっとばかり仰天したとき、遠い山中の杉林では、桜吹雪に彩られつつ撩《りよう》乱《らん》たる狼《ろう》藉《ぜき》の光景が展開していた。
女性たちに有無をいわせぬ嵐《あらし》のような凌《りよう》辱《じよく》であった。ふしぎなことに、そこについたとき、女たちのあえぎは男たちより切なげで、悲鳴ひとつあげなかった。草の上にのたうつ無数の白い足、衣服をかき裂かれ、まる出しになった乳房。傍《ぼう》若《じやく》|無《ぶ》人《じん》に、それをつかみ、唇《くちびる》を吸い、舌を吸う。――息女はもとより、二、三人の若い奥方も、これほど凄《すさま》じい獣的な男の愛《あい》撫《ぶ》がこの世に存在するとは知らなかったであろう。
男前の悪源太、七郎義経はともかく、可《お》笑《か》しいのは、数《じゆ》珠《ず》を首にかけた弁慶入道や、厭《えん》世《せい》主義者と自称する陣虚兵衛で、仏も思想もどこへやら、獅《し》子《し》奮《ふん》迅《じん》のていであるが、さらに可笑しいのは夜狩りのとろ盛で、まずどこからか甘いトレモロのようなすすり泣きの声があがったと思ったら、それはとろ盛の口から出ているのであった。エクスタシーに達すると、とろ盛はわれを忘れて哭《な》く男なのである。
ただひとり。――
「……ああ、やっぱりいけねえ」
と、悲痛な声で長《ちよう》嘆《たん》したのは馬左衛門だ。彼はおのれの巨大にすぎる肉体を丁《ちよう》々《ちよう》とうちたたき、哀しみにみちた眼で、まえに投げ出され、身もだえしている奥方の裸身を見やった。そして、呼んだ。
「悪源太。そっちが終ったら、こっちに来てくれ。このままじゃ、あんまりこのひとが可哀そうだ」
感心なことに、馬左衛門は決してムリをしようとはしない。道具に正比例して、女好きという点では、猛烈な六人の仲間のだれよりも猛烈でありながら、手に入った女にふびんをかけて、歯ぎしりしながらいつも眼をつぶってしまう。
信じられないことだが、彼だけがまだ童貞で、そしていつかはじぶんと合う女ときっとめぐりあえるというロマンチックな夢を捨てない馬左衛門であった。
「ござんなれ」
悪源太が、颯《さつ》爽《そう》として走ってきた。
嵐が吹きすぎ、すべてが終っても、ただ一組、なお蜿《えん》々《えん》とつづけているやつがある。昼寝睾丸斎のカップルであった。
「おい、睾丸斎」
と、陣虚兵衛が腰がぬけたように両足をなげ出したまま、細い声でいった。
「おめえの気の長えのはわかっているが、放っておくと、半日かかる。厠《かわや》も長えが、こっちもやけに長え男だ。しかし、まもなく、いくさが始まる。この際だから、あんまりこの界《かい》隈《わい》にウロウロしていると少し危《ヤバ》い。そこのところをよっくかんがえて、きょうは少しばかり早目に切りあげてくんねえか?」
「睾丸斎は、こうやってるあいだに、先を占って、いい知《ち》恵《え》が出る軍師なんだから、しかたがねえよ」
と、悪源太が苦笑いしていった。苦笑いしながら、彼は三人めの女を愛撫している。
「ところで、睾丸斎、おれたちゃ、これからどこへゆくね?」
「されば。――」
と、昼寝睾丸斎は、女のまっしろな腹の上でどじょうひげをひねり、重々しくこたえた。
「つらつら戦機を案ずるに、じゃ。上方勢は明朝にも山中砦にとりかかって、半日のうちに砦はおちる。――そのさわぎがすんだら、左様さ、伊《い》豆《ず》の下《しも》田《だ》の方にでも廻ってみようか。あっちにいいことがありそうな気がするて」
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女買わんか
日本で香具《や》師《し》という職業が、いつ、どのように発生したか、よくわからない。蒼《あお》空《ぞら》を天井とし、大道を店とする巷《ちまた》の商人、みずからの足に乗るキャラバン、漂《ひよう》泊《はく》する野のジプシーともいうべき彼らに、信頼すべき文献などがあるわけがない。
事典によると、「贋《ガセ》売《ばい》を主要商品として市に売る生業者。売薬、香具、モグサなどを効能以上の能《のう》弁《べん》を以て売り、かたがた雑芸を余《よ》興《きよう》とし、サクラを使用して贋物を売る大道商人」などとある。
しかし、彼らは、はじめて炎を使い、はじめて民に耕作を教え、はじめて百草を集めて薬を作ったという支《し》那《な》古伝説中の人身牛首の帝王|神《しん》農《のう》氏《し》直系の子孫であると称し、これは少々あやしいが、その起源のふるいことにまちがいはなく、おそらく万葉集や古典歌謡、物語本などに登場する傀儡《くぐつ》師《し》とか香具売りなどに流れを発するのではないかと思われる。少くとも、その名をヤシというのは、野士、すなわち野武士から来たという説はうなずける。「守《もり》貞《さだ》漫《まん》稿《こう》」によれば、「字のごとく野武士ら飢《き》渇《かつ》をしのぐたよりに売薬せしを始めとす」とある。
この物語よりのちの江戸時代には、香具師の世界も組織化され、親分子分の盃《さかずき》をかわし、仲間は「五本の指」といって生死を共にする誓いをたて、仲間の女房に限っては犯さず、裏切らず、盗まないという掟《おきて》ができたようだ。この掟を破れば峻《しゆん》烈《れつ》な私刑が加えられ、またこの掟のためには、いかなる屍《し》山《ざん》血《けつ》河《が》の中へでも敢《かん》然《ぜん》として飛びこんでゆく。――
ただし、この掟以外、仲間以外には、彼らの道徳は獣類の世界とおなじく天《てん》衣《い》無《む》縫《ほう》をきわめる。三寸|不《ふ》爛《らん》の舌をふるって、口上《 タ ン カ》ひとつで人さまにいっぱいくわせるのが商売だから、だまされる奴は馬鹿以外の何者でもなく、和《わ》姦《かん》強《ごう》姦《かん》、ガンをつけた女は手段をえらばずあっというまに犯すが、これを女房《 バ シ タ》にすることはめったにない。彼らにとって、女《ナオ》は商《ネ》品《タ》の一種で、御用済みとなればかならず売りとばし、これを「女《ナオ》散《ち》ラシ」と称する。
後代には、この道徳的自由が、むしろ彼らの不《ふ》文《ぶん》律《りつ》となった感があるが。――さて、話は、天正年代にもどる。まさに野《や》士《し》という名が物語る香具《や》師《し》の草創期。
あらたまった誓いや掟《おきて》はないが、その萌《ほう》芽《が》ともいうべき実体はある。しかも後代よりはるかに野性をもち、奔《ほん》放《ぽう》性《せい》をもち、闊《かつ》達《たつ》剽《ひよう》悍《かん》をきわめ、ムチャクチャぶりは徹底していたとみてよかろう。
「……しっ、しっ」
歩きながら、悪源太がいった。
うしろから、女たちがついてくる。美しい七人の女が、犬のようにかなしげな、犬のように飢えた眼をひからせて、あえぎながらついてくる。黒髪はみだれ、樹々にきものは裂けて半裸の肌に血をながし――いや、あでやかな被《かず》衣《き》や裲《かい》襠《どり》をみずからひきずって、まっぱだかの女も二、三人はいる。
さっき、犯した北条方の武将連の奥方や息女たちであった。彼女たちは、あの衝《しよう》撃《げき》のために乱心したのか。――乱心したともいえるし、そうでないともいえる。彼女たちはじぶんでもよくわからない。ただ、小鼻を花びらのようにひらいて、磁《じ》石《しやく》に吸いつけられる鉄片のように、悪源太という男のあとを追わずにはいられないのであった。
「……しっ、しっ」
ふりむいて、悪源太はまた顔をしかめた。
「悪源太。がまんしろ。……がまんしてくれ」
並んであるいている夜狩りのとろ盛が必死に哀願する。道もない箱根の山中だ。
「むりではござんしょうが、たのむ」
「わかってる。わかってるよ。……」
と、悪源太は合点合点をしたが、ぺっと唾《つば》を吐《は》いた。
――さっき、結局、悪源太は七人とも女を犯した。女ぎらいな方ではない。自ら称して、悪源太|助《すけ》平《ひら》といっているくらいだ。ただ、彼には妙な病気があって、いちどでも関係をもった女は、もう金《こん》輪《りん》際《ざい》いやなのだ。その女の匂《にお》いをかいだだけでも、げえっと吐気がし、一目散に逃げ出したくなる。
それなのに――こいつは彼自身にもわけがわからないのだが――いちど彼と関係をもった女は、どんなに貞《てい》淑《しゆく》な女だろうと、それ以後はことごとく発情期の牝《めす》犬《いぬ》みたいに、彼のうしろをくっついて歩くようになる。まるで眼にみえない粘《ねん》液《えき》の糸が、じぶんと女を結んでいるような気がして、ときどき刀をふりまわして背後の空中をメチャメチャに斬ったりしたこともあるのだが、むろん、ききめはない。
――おれのは、よっぽどいいらしい、とウヌぼれるのじゃないが、そうとでも考えるよりほかはなくって、大いに反省するのだが、どこがいいのか、こっちには見当もつかない。第一あのときはじぶんでも炎に煽《あお》られているようで、あらゆる抑制を忘れてしまうのだから、何ともいたしかたがない。
たしかに変った現象にはちがいないが、よく考えてみると、これあ男性一般の宿命じゃないのかな。女を手に入れるときは夢中になり、あと追っかけられて困っているというのは、――してみると、キリスト様が全人類の罪を背負いこんで十字架に上られたように、悪源太は男性の業《ごう》の象徴かもしれない。――誰だ、そんな受難ならいくらでも味わってみたいといっている奴は?
「ちょ、ちょいまち、兄貴、待ってくれ」
とろ盛がいった。
「ほかの連中がこねえ」
「けっ、また、やってやがるんだろ、よくまあ精がつづくもんだ」
悪源太は、じぶんのことは棚《たな》にあげて、舌うちをして、腰を下ろした。樹《こ》立《だ》ちの間から谷をのぞきこんで、
「とろ盛、ありゃ、誰の陣だ」
「…………」
「旗は永《えい》楽《らく》通《つう》宝《ほう》らしいな。すると、織《お》田《だ》信《のぶ》雄《かつ》か」
「…………」
「織田なら秀《ひで》吉《よし》の主筋にあたるわけだが、いまは秀吉の家来になって追い使われていやがる。侍っていばってるが、情けねえもんだな」
返事がないので、ふりかえると、いままでいっしょにいてソワソワしていたとろ盛の姿がみえない。――と思うまもなく、背後の森の中から、とろ盛の例のむせぶようなトレモロがきこえてきた。
森の中では、青い日光の縞《しま》をあびて、またも盛大な人肉の饗《きよう》宴《えん》がくりひろげられている。かけもどってきた夜狩りのとろ盛を加えて、六人の香具師が、七人の女《によ》人《にん》をつかまえてアンコールを愉しんでいるのだ。
さっきのように、ガツガツとしてはいない。喋《ちよう》々《ちよう》喃《なん》々《なん》、抱きよせて、耳に口をあててささやいて、大いにムードをかきたてようと努力しているようだ。もっとも、こちらは例の面々だし、相手はまるはだかにちかいありさまだし、ムードといってもやっぱり物《もの》凄《すさま》じい。
「おい、おれの面《つら》をよっくみな。どうだ、みればみるほどいい男だろう。北条家六万の坂《ばん》東《どう》武者にこんな美男がひとりでもあるかえ。こんないい男にこんないいことをされるなんて、おまえはまったくついてるよ」
と、紅貝のような女の耳たぶをかじりながら、七郎|義《よし》経《つね》がいう。女は熱病のような眼を前方にさまよわせて、
「もしっ、あのお方はいらっしゃるのでしょうね。お逃げにはならないでしょうね」
「悪源太か。五本――じゃねえ、七本の指みてえな仲間だもの、別れるもんか。安心しねえ。とはいうものの、源太源太とちとシャクだな。おれの方がよっぽどいい男なのに。――こら、おれの顔をよっく見てくれ!」
すぐうしろで、陣《じん》虚《きよ》兵《へ》衛《え》にしなだれかかられた半裸の奥方が、身もだえして、
「あの、お願いでございます。これからどこへゆかれるのか存じませぬが、どこまでもわたしにお供させて下さりませ!」
「心得ておる。しかし、おれたちゃ見ての通りの香具師|稼《か》業《ぎよう》、風に吹かれ、雨にうたれ、いいことばかりはないぜ。それあ、わびしい人生である。……」
「覚悟のまえでございます。あのお方といっしょなら、どんな苦労でもいたします」
「どんなことでも、いう事をきくかえ?」
「はい、死ねとおっしゃるなら、死ぬこともいといはしませぬ」
「それなら……こりゃ、どうじゃっ」
と、陣虚兵衛は奥方をおしころがした。ぶしょうひげを生やして青《あお》瓢《びよう》箪《たん》のような顔をして、先生、やることはやる。
そのうしろでは、馬左衛門が彼の「童貞」にふたりの息女をまたがらせて、シーソーのように上下させていた。童貞にはちがいないが、これじゃ童貞の古強者《ベテラン》とでもいうべきだろう。そのうしろでは、例の夜狩りのとろ盛が哀《あい》哭《こく》しているし、その両側では弁《べん》慶《けい》と昼《ひる》寝《ね》睾《こう》丸《がん》斎《さい》が、逆に女に馬乗りになったまま、「箱根の鶯《うぐいす》の声は、また格別じゃのう」などと、うららかな対話をかわしている。
ひとり、ずっとはなれた崖の上では、悪源太がつくねんとして、春風にびんの毛をそよがせながら、吐気をおさえて、七人の女の顔をひとりひとり思いうかべていた。あれが七両、あれが五両と「女《ナオ》散《ち》ラシ」の胸算用だ。
その用があるから、女から逃げられない。彼のタレントは、仲間にとって重大な財《ざい》源《げん》でもある。
「さあさあ、寄ったり見たり、あきなう品は六十余州、お目にかけねのない代《しろ》物《もの》を……」
ふつうなら、このあとに、陣中|膏《こう》薬《やく》なり、モグサなり、針なり、ガマの油なりの売声がつづくのだが、事実、香具師たちは胸や腰にそれらしい箱をぶらさげているのだが、きょうは、
「女買わんか。女あ」
と、すッとんきょうな声をはりあげるので、箱根の西に布陣した上方勢の軍兵たちは、手入れしていた武器をほうり出して、とび出した。
七人の香具師は、澄まして歩いている。
そのうしろに、うなだれて七人の女がつづく。さすがにきものはまとっているが、ボロボロに裂けて、みるからに哀れな姿だ。
哀れといえば――こうなるまえに、悪源太から、
「な、ひとつ考えてくれろ。おまえさんたちと、思わぬことでひょんな縁になったが、おれたちゃもうこのへんでウロウロしていちゃいられねえ。北条方に見つかれあ、たちまち首がすッとんでしまう。だから、一日もはやくどっかへ飛ばなくちゃならねえことはわかるだろ? ところが、実は飛ぶにも銭がからっけつだ。だから、ひとつおれたちを助けてくれろ。あとできっと呼びにくる。おまえさんたちみてえなやんごとないおんな衆をよ、もってえなくって、どうして捨てられるもんか」
とか、
「わかってるわかってる。おまえさんたちが、みいんなおれを好いてくれることは、よっくわかってるよ。ありがたくって、涙がこぼれらあ。ところでおれも、多情なようだが七人みいんなが好きなんだ。いま、誰かひとりを、といわれても途方にくれるくれえだ。だから、このまま七人、いっしょにつれて歩けあ、おしまいにゃおれがカラカラになって殺されるか、おまえさんたちが同志討ちするようになるぜ。だから、ひとまず、泣き泣き、しばらく別れてみよう。そのあいだにおれは胸に手をおきトックリとかんがえて、いちばん好きなひとを、いちばん先に呼びにくるから、よ」
とか、口から出まかせのうまい言葉をささやかれて、身を売ることを承知した女たちの心だ。
あてにならぬ、理窟にならぬおためごかしとは思うけれど、こうささやかれながら次々と抱きしめられ、はては右と左に抱かれ、口を吸われ、かえす唇でまた口を吸われると、ジーンと骨まで蜜のように甘くなって、くびがグンニャリ合点せずにはいられない。とくに、この精《せい》悍《かん》無比の男に涙など浮かべてかきくどかれてみると、たとえ地獄におちても、この男のいうことをきいてやろうという気になる。
哀れな姿だが、しかしあちこちむき出しになった肌は深窓に息づいてきたことを物語って、いっそう艶《えん》麗《れい》だ。
そんな七人の女の姿に眼もくれず、ほんのさっきまでの涙もケロリと忘れたような顔をして、悪源太は先頭に立ち、
「さあさあ、寄ったり見たり、女買わんか、女あ」
と、声はりあげる。
「いくさはちかい。今《こん》生《じよう》の名残り――いやいや、いくさのはじまるまでのきもち、小便ばかりしたくなるようなきもち、よくわかる。小便など、いくらしてもつまらない。この女を抱いて極楽境にさまよっていたら、ちょうどよい時刻になりますぜ。……」
とび出してきた軍兵たちが、まわりにあつまって、「よう、例の香具師たちか」「ほ、これは上《じよう》玉《だま》じゃな、どこで手に入れた」などきいてあやしまないところをみると、西へ東へ、浮雲のごとく漂《ひよう》泊《はく》してあるくこの七人の香具師とは、どこかで顔見知りになったらしいし、またこんなことは、いままでにも珍しいことではないらしい。
香具師たちはいとも明朗にニコニコして、
「いや、毎度。……」
と、あたまをさげながら、
「それ、御《ご》覧《ろう》じませ、このあでやかな乳房、こいつがつきたての餅《もち》のごとく、ピッタリと吸いつく味のよさというものは……」
「またこの花の唇《くちびる》、こいつに吸いつかれたら、弁慶でもこたえられねえ」
といったのは、弁慶だ。
女たちのなまめかしさに、兵士たちはすぐにけものめいた眼をひからせ、鼻息をあらくした。「いくらだ?」「五両にまけろ」「いや、いくらでも買う。買ったぞ!」騒《そう》然《ぜん》たる叫《きよう》喚《かん》のなかを、悪源太のいい声がつらぬく。
「さあ、せッた! せッた! 五両! 六両! いや七両か!」
箱根西部の山々を、落日が染めている。高いところで、パチパチと銃声がきこえた。あまりの騒ぎに、高い山《やま》中《なか》砦《とりで》の北条方が、きもをつぶして射ち出したのだ。
砂《さ》塵《じん》と叫喚をあげて、七人の香具師は羽《は》柴《しば》秀《ひで》次《つぐ》軍、池《いけ》田《だ》輝《てる》政《まさ》軍、堀《ほり》秀《ひで》政《まさ》軍、丹《に》羽《わ》長《なが》重《しげ》軍、徳《とく》川《がわ》家《いえ》康《やす》軍と、各陣営をめぐってあるく。
哀れな女たちは、一人、また一人と、まるで鮫《さめ》の大群に争われる美しい魚みたいにつれ去られた。明《あ》日《す》朝までまたず、そのたおやかな五体はひき裂かれ、肉の一片、毛のひとすじまでくいちぎられてしまうだろう。
あともふりかえらず、うれしそうな声が夕焼空にひびいた。
「売れたあ!」
「いくらある?」
「凄《すげ》えぞ。……われながら、いい腕だな」
山路の上で、車座になっての銭勘定である。銭は鐚《びた》銭《せん》を出した奴ははねのけたから、天正小判か永楽銭ばかりであった。
赤い日のひかりがうすれてくるのも気がつかない風で、夢中の銭勘定だ。
「五十三両!」
「……しかし、まあ、北条の足《あし》軽《がる》に化ける、などいう、ちかごろにない危い目をしたのだからな。これくらいの稼ぎにならんと、冷えた胆があったまらんわ」
と、陣虚兵衛がぶしょうひげをなでたとき、ふいに悪源太が「あっ」とさけんで立ちあがろうとした。
みな、ふりかえって、はっとした。山の上から、トトトトとまっさか落しにひとつの柿色の影が駆《か》けおりてきた。人間とは信じられないようなはやさだ。それが、柿色の頭巾、柿色の装《しよう》束《ぞく》をつけた男だ、と見えたのは、影が彼らの頭上をおどりこえたときである。これまた信じられないような跳《ちよう》躍《やく》力《りよく》であった。
「待てっ」
すぐうしろから、地ひびきたてて、武者の一団が駆けおりてきた。それが、すぐまえまでやってきて、
「やっ、きゃつ、どこへいった?」
そういって、キョロキョロしているのに、馬左衛門もふりかえって、「あれ?」とすっとんきょうな声をあげた。
「いねえぞ」
「たしかに、おれたちの頭をとびこえたのに――」
と、弁慶も大眼玉をむき出した。道はひとすじ下へつづいているのだが、柿色の影は煙のごとく、忽《こつ》然《ねん》と消えているのだ。
「うぬらは何だ?」
武者の一隊は、彼らをつつんだ。
「へえ、香具師で」
「香具師とみえて、敵の乱《らつ》波《ぱ》ではないか。北条方には名高い風《ふう》摩《ま》組《ぐみ》という乱波がおるが――」
「と、と、とんでもねえ!」
と、とろ盛が脳天から出るような金切声を発した。
「いまのいままで、そこらの御陣であきないをしてきたんですぜ。たいてい、おれたちを見知っていて下さるんだが、どなたかおれたちを知ってる方は、この中にねえんですかい。いずれさまのお侍衆ですね? おれたちを知らねえとは、よっぽどモグリの軍勢だね」
「ひかえろ、無礼者」
と、武者は大《だい》喝《かつ》した。
「ここにおわすは、蜂《はち》須《す》賀《か》阿《あ》波《わの》守《かみ》さまであるぞ」
陣笠に革包みの腹巻、白い帯に陣刀をさし、脛巾《 は ば き》をつけた足軽のなかに、ひときわ立派な鎧をつけた武者がいた。年は三十をやや越えたばかりか。ただ者ではない眼光をしている。
「ああ、あの泥《どろ》棒《ぼう》あがりの――知らねえも道理だ。こちとらはまだ四国に渡ったことがねえ」
と、悪源太がつぶやいたが、これは例の矢《や》作《はぎ》橋《ばし》で日《ひ》吉《よし》丸《まる》を槍《やり》でつつき起したという野武士の蜂須賀|小《こ》六《ろく》正《まさ》勝《かつ》ではない。正勝は四、五年前に亡くなって、これはその子の阿波守|家《いえ》政《まさ》であったが、しかし十八万六千石の太守である。
「なにっ、こやつ――」
四、五本の槍が、恐ろしく短気に悪源太にむけられたとき、
「ああ、蜂須賀どのも、野性の鋭い眼を失われた」
と、長嘆する声がきこえた。どじょうひげをなでながら、阿波守を横眼でみて、
「源太、ちょっと耳を貸せ」
と、昼寝睾丸斎はささやいた。悪源太はうなずいた。
「すみませんが、ちょいと拝《はい》借《しやく》」
ニヤリと笑って、つきつけられた槍の一本のケラ首をつかむと、それを軽くもぎとった。あまりやさしい声なので、毒気をぬかれてつい槍をわたしたようにみえたのは、ほかの連中の眼だけで、とられた本人だけが、有無をいわせぬ凄い力でひったくられたことを知っている。
「こちとらが、北条の乱波なんていうおっかねえ者じゃねえ証《しよう》拠《こ》を見せます。――えやあっ」
さけびとともに、槍は流星のごとく夕空を切った。
それが、すぐ下の両側にならぶ杉の木立の一本の、地上一丈五尺あたりの高さにとんでいったかと思うと、青い葉の中にピーンと突き立った。
そこに何者の影がいるとも見えなかった。少くとも、柿色など一点もない。にもかかわらず、青一色の樹上から、まっかな血潮が雨のように地上にふりそそぎはじめた。
「……あっ」
蜂須賀衆がかっと眼をむいたのは、その杉の大木に青い蜘《く》蛛《も》みたいに貼《は》りついている影が朦《もう》朧《ろう》と浮かびあがってきたのを見たからだ。その背中に突き刺さった槍から、血潮が青い装束にひろがってゆく。
――それにしても、たったいままで、たしかに柿色の装束をきていたと見えたのに。
「……忍びの者よな」
と、阿波守がきっと見あげて、つぶやいていた。
苦悶に痙《けい》攣《れん》するその忍者の手から、一通の白い書状がしずかに垂れ下がってきて、夕風にひるがえったのは次の瞬《しゆん》間《かん》であった。
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弾買わんか
杉の大木に青い昆《こん》虫《ちゆう》みたいに刺しとめられた男の手から垂れ下がってきた一通の書状。
それを見ても、あまりに凄《せい》惨《さん》をきわめ、幻怪をきわめた見世物なので、蜂須賀衆は凝《ぎよう》然《ぜん》と立ちすくんだまま、とっさに動こうとする者もない。
青い昆虫は――いや、それは大地を跳躍して杉の木にとぶ空中で柿色の装《しよう》束《ぞく》をひきぬいて青衣と変えた忍者にちがいなかったが――いまは全身朱色に染まっていた。しかも彼は、木から落ちない。もっとも、まろび落ちようにも、槍でみごとに縫いとめられてはいる。
すでに彼が絶命している証拠には、彼の垂れ下げた書状は、このとき手からはなれて、ヒラヒラと夕風に舞いつつ、遠い谷の方へ飛んでゆこうとした。
「源太」
と、弁慶がいった。
「おう」
夢からさめたように悪源太は顔をあげると、いきなりそばの蜂須賀衆のひとりからまた槍をひったくって、二、三間駆け、さっと空の書状をその穂先に巻きつけた。
はじめて蜂須賀衆の四、五人が走り出して、その槍にとびつき、書状をとると、阿波守にささげた。受け取って、その書状を読んだ阿波守の顔色がしだいに変った。
「一大事じゃ。織田どのの陣屋にゆくことはとりやめとする。いそぎ、本陣に参る」
七人の香具師のことなど念頭からとび去ったかのごとく、そそくさと坂を下りてゆこうとする。本陣とは、いうまでもなく秀吉のことだろう。
「ちょい待ち」
と、呼びかけたのは昼寝睾丸斎である。彼の耳から、陣《じん》虚《きよ》兵《へ》衛《え》が口をはなした。
「要《い》らざることじゃが、ことのなりゆき、何やら気にかかる。老婆心までに殿さまにちょいと申しあげたいが」
「なんじゃ?」
彼らの存在に気がついて、蜂須賀衆のひとりがかみつくような顔をふりむけた。
「事情は知らんが、つらつら案ずるに、じゃな。この坂の上の方にあるのは、織田|内《ない》府《ふ》さまの御陣ばかり、してみると、阿波守さまはそこをお訪ねあそばそうとし、その織田さまの御陣からとび出してきたいまの忍びの者を見つけなされたのではござらんか」
蜂須賀衆は眼をひからせただけで答えなかったが、その顔色で睾丸斎のいうことがあたっていることがわかった。しかし、へんな香具師の爺いが、もったいぶった口調でいい出したことに、あらためて不《ふ》審《しん》の心を抱いたようだ。
「ところで、その手紙じゃが――徳川さまから織田さまにあてられた書状じゃな」
「何っ」
「しかも、その中身は、こんどの小田原陣のあいだに、徳川、織田氏ひそかに手をむすんで、機をつかんで秀吉さまを亡き者にしようという。――」
阿波守がひとつあごをしゃくると、蜂須賀衆はどっとはせもどって、ふたたび七人の香具師をとりかこんだ。
「あっ……睾丸斎め」
と、夜狩りのとろ盛が悲鳴をあげた。
「まったく要らねえことをいいやがったよ」
「香具師、なぜそんなことを知っておる?」
と、阿波守が叱《しつ》咤《た》した。睾丸斎は槍のまえに壁をぬるように手をあげて、
「待った待った。だから老婆心から申しあげるといっておる。ほんの親切心からいうことじゃ。――なぜ、それを知ったと申しまするとな、いまその書状がながながとひらかれて、風にひるがえっておったではござらんか。そいつを、ここにおる虚兵衛という仲間、これがまたこんな柳の葉みたいな眼をしておって、その眼がまたばかにいい男で、いまチラチラとその文面を読んじまったらしいので。――」
阿波守は何かをおさえるような顔色できいた。
「それで、うぬは余に何をいいたいと申すのか」
「そりゃにせ手紙ではござるまいか」
「にせ手紙? なぜ?」
「保証はできんが、いま死んだ男が断末魔に、いかにもこれ見よがしに手紙をひらいてみせた手つきがくさい。そいつは、いま見つからなくっても、どこか上方勢のしかるべきところに投げておくつもりだったか――それとも――ひょっとすると、わざと見つかって殺されて、いかにもほんとに盗み出した手紙らしく見せかけて、上方軍のなかに、徳川どの織田どの御《ご》謀《む》叛《ほん》の風説を流そうという、反《はん》間《かん》苦肉のはかりごとではござるまいか」
蜂須賀阿波守はのどのおくで唸った。
織《お》田《だ》信《のぶ》雄《かつ》、徳川家康。――いまでこそ、秀吉|麾《き》下《か》の部将としてこんどの小田原陣に参加しているが、信雄は秀吉の主君信長の次男であり、家康は信長と同クラスの弓取りで、しかも目下の敵北条とは姻《いん》戚《せき》の縁にあたる。のみならず、この両人がかならずしも唯《い》々《い》諾《だく》々《だく》と秀吉の頤《い》使《し》にしたがうことを肯《がえ》んぜず、小《こ》牧《まき》|長《なが》久《く》手《て》に於て秀吉に苦杯を喫《きつ》せしめたのは、わずか六年前のことだ。信雄、家康がここで秀吉の背を刺すことは充分かんがえられることであり、さればこそ阿波守が愕然と顔色をかえたわけだが、それを、何ぞや、このえたいのしれぬ香具師は、それを北条方の反間苦肉の計ではないかという。――
「拙者が、北条方なら、それくらいのことはやりますな」
と、昼寝睾丸斎はあごをなでていう。
「で、あるからして、いま殿さまがその手紙をもって泡をくって御本陣にかけこまれ、あとで敵の計略であったとわかるとな、殿さまは古今のあわてん坊として秀吉さまの笑いを買い、織田、徳川どのの一生の恨みを買うことになる。ここは、ひとつ、トックリ御《ご》勘《かん》考《こう》あってしかるべし」
阿波守の顔色がまた七面鳥のように変った。まったくそんなことも充分あり得る、とかんがえ、さらに家康という恐るべき人物の未来性を想うと、背に水のながれる思いだ。
「へへえ、こいつはおどろいた。あの忍術野郎は、じぶんで承知で殺されたんだって?」
と、馬左衛門がすっとんきょうな声をあげて、ユラリと馬面を睾丸斎の方へふりうごかした。
「ふふん、そうもかんがえられるというだけさ」
「そんなことをかんげえるとは、睾丸斎、おまえは恐れ入った軍師だな」
「おれが大軍師だってことに、いまごろ気づいたとは情けない」
「しかし、あれが忍術使いだとすると、悪源太くれえな奴に田《でん》楽《がく》刺《ざ》しになるところをみると、忍術も大したことはねえと思ってたが」
と、義経がいった。
「わざと串刺しになったら、忍術使いとはおっかねえ稼業じゃあねえか」
「ワリも悪いな」
と、陣虚兵衛が憮《ぶ》然《ぜん》としていう。
蜂須賀阿波守は、じっと七人の香具師を見まもったままであった。世にそれまでの反間の計があるとすると、こやつらのいっていることもまたどこまで信じてよいか? 見れば見るほど、きけばきくほど胡《う》乱《ろん》な連中だ。――と思って眼をこらしたが、しかしこの七人からは妖気よりも、太陽と風と野の匂いが燦《さん》々《さん》と発散しているのであった。
睾丸斎が、どじょうひげをしごいてニヤリとした。
「殿さま、拙《せつ》の思案はどうでござりますな」
「…………」
「図星と思われたら、殿さまの命びろい。ひとつ御《ご》褒《ほう》美《び》を頂戴してもおかしくはないと存じまするがな」
「褒美よりも……どうじゃ、余の陣にこぬか?」
「へえ、蜂須賀さまの御陣へいって、それから?」
「余に奉公する気はないか? あの男の投げ槍、その男の眼力、そちの分別。――まこと、香具師なら、香具師には惜しい。侍にしたい」
「侍? いや、こっちの芸当はまずそのあたりで終りというところで、うんにゃ、この弁慶という男には馬鹿力があるが、あとの義経の女たらし、馬左衛門の大男根、とろ盛の泣き声とくると、こりゃとてもいくさの役には立ちそうもない。七人コミなら、話にのります」
「一人あたり、左様、十石はとらすぞ」
「けえっ」
と、悪源太が鶏みたいな声をあげた。
「なに、十石|扶《ぶ》持《ち》では不足か。ならば二十石」
「コミで十万石くれなきゃいやだよ」
「何っ」
と、阿波守がさけんで、はたとにらみつけ、ふいに、
「こやつら――余を嘲《ちよう》弄《ろう》いたすか。先刻の書状の件、偽《いつわり》にせよ、まことにせよ、容易ならぬ大事を知った。どうせ生かしてはおけぬ奴ら、この場で討ち果たせ」
と、絶叫した。
蜂須賀衆がうごくより、七人の香具師が坂の下へ飛ぶのがはやかった。いや、悪源太だけが残っている。
悪源太の手には、さっきの槍が残っている。
「おい、あの杉の木を見ねえ。殿様に、あの赤い虫の二の舞いを舞わせてえかね?」
ツ、ツ、と、六人の仲間を追って、あとずさりに坂を下りてゆく姿をみても、その片腕にふりかぶられた槍をみては、蜂須賀衆は身うごきができない。
悪源太は、白い歯をむき出した。
「いや、野武士の蜂須賀も、だらしのねえ大名になり下がりやがったな。睾丸斎じゃねえが、つらつら案ずるに、織田といやあもともとじぶんのむかしの主人じゃあねえのかね。罠《わな》か何かは知らねえが、そいつの傷を、いまの主人の猿《さる》面《めん》に告げ口しにとんでゆこうたあ、眼玉もくさったが、心もくさった! こいつあ香具師も顔まけだ」
姿も声もだんだん遠くなってゆく。いや、早い奴らで、先ににげた六人は、はや見わたすかぎり影もない。
「だから侍はいやだってんだ。六十余州天下往来の風来坊香具師の方が、よっぽど風通しがいいぜ。心をあらためて、香具師になんな。一人あたり女十人の扶持はくれてやろうぜ」
高笑いの声だけのこしたかと思うと、槍をひっかついだ悪源太は、韋《い》駄《だ》天《てん》のごとく坂を駆け下っていってしまった。
昼寝睾丸斎のつらつら戦機を案じたごとく、上方勢の山中砦攻撃は、翌朝――天正十八年三月二十九日|払《ふつ》暁《ぎよう》から開始された。
砦は箱根の西面に位《くらい》してその路を扼《やく》し、東西約三町、南北約二町の広さに、本丸、二ノ丸、三ノ丸等の城《じよう》廓《かく》あり、またその南約四町に出丸を設け、四千余の北条方がこれを死守していた。
豊臣、北条最初の手合わせである。谷の底から蟻のごとく這いのぼる豊臣勢、砦から銃丸を乱射する北条勢。――箱根の山はたちまち黒煙に染まり、阿《あ》鼻《び》叫《きよう》喚《かん》にこだました。
しかし、あとからあとから限りもなく攻めのぼる上方勢が、やがて出丸を攻略し、三ノ丸をとり、二ノ丸におし寄せるにつれて、彼我は混戦状態となり、敵の背後に味方がおり、味方の背後に敵がおり、木、石はもとより、たがいの戦死者を盾に射ちあい、斬りあう死闘となった。豊臣方も、あとで秀吉が落涙したほどの猛将|一《ひと》柳《やなぎ》伊《い》豆《ずの》守《かみ》を喪《うしな》えば、北条方の副将|間《ま》宮《みや》康《やす》俊《とし》も追いつめられて屠《と》腹《ふく》した。
この紛《ふん》戦《せん》のあいだを、妙なものが駆けまわっていた。
火つむじのようないくつかの激闘の渦が流動してゆくそのあとに――ただ屍体と負傷者のみがのこされている死のエアポケットに、実にタイミングよくすべりこんでは、屍体や負傷者をさぐり、何やら拾いとっては、背にかついだ袋になげこんでいる連中がある。
「ほい、ここに小判が七枚」
「三《さん》途《ず》の川の渡し賃には多すぎる」
「これは鉄砲玉。――弁慶、おまえの役だ」
いう迄《まで》もなく、例の七人の香具師たちだ。それぞれ分担がきまっているらしい。
いくさが終ってからでは、戦勝者の掠《りやく》奪《だつ》がはじまるし、監視の眼がひかるから、今のうちにと考えてのことだろうが、まだ流弾のおそれは充分あり、すぐ向うで格闘している砂煙もみえるのに――それどころか、懐《ふところ》や腰から、金や弾をとられる負傷者で、横たわったまま瀕《ひん》死《し》の力をふりしぼって刀や槍を薙《な》ぎつける者もあるのに、
「そらっ来たっ――おっとこどっこい!」
ヒョイ、ヒョイと足をあげてその刀《とう》槍《そう》をかわし、足を下ろしてその血だらけの顔を踏んづけながら、とるものだけは、ぬけめなく袋に投げ入れてゆく。
生き馬の眼をぬくという言葉があるが、まるでこれは死人の、いや生きている人間の眼玉をぬいてゆくようなはなれわざだ。
香具師は盗みをしないことを原則とする。泥棒をしないことを誇りとするが、それは強盗やコソ泥はしないという意味で、知恵やわざを以て財物を釣りあげることは毫《ごう》もさまたげない。まして、落ちているものを拾うに於てをやである。拾うにも、路上に落ちている一文銭を拾うことはいさぎよしとしないが、いくさの最中に、敵味方のあいだをかけまわって、めざすものを拾ってあるくことは、スリルを愛し、冒険を好む彼らの矜《きよう》持《じ》をいよいよ昂《こう》揚《よう》させるゆえんだ。
正午ごろ――北条方は、いよいよ本丸だけに追いつめられた。血をあびて阿《あ》修《しゆ》羅《ら》のようになった城将松田康長は、石《せき》塁《るい》から石塁を馳《ち》駆《く》しながら、
「射て! 敵を一兵でも冥《めい》土《ど》の道づれにしろ!」
と、叱咤していた。
「弾がない!」
「弾が尽き果てました!」
残兵たちが悲壮なさけびをあげたとき、うしろで、待ってましたとばかり、
「弾買わんかあ」「鉄砲玉買わんかあ」と、ノンビリした声がきこえた。
「何、弾がある?……それをよこせ!」
「一発百文。……永《えい》楽《らく》銭《せん》にかぎる」
その声に、ふりむいて、足軽でも雑《ぞう》兵《ひよう》でもない妙な風《ふう》体《てい》の男たちがウロウロしているのに、
「あっ、うぬらは何者だ?」
「へい、陣中膏薬売りの香具師で――毎度お世話になっております。そのお礼に、最後の御奉公に参りました。膏薬でも、鉄砲玉でも、お望みのものを、どうぞ買うて下され。……」
「たわけっ、この際、なお、売るの買うのと――これ、弾があるなら、これへ出せ!」
「いえ、それがそうはゆきませぬ。あっしたちゃ侍ではないに、いくさの中から命がけで仕入れてきた鉄砲玉でやす。商売は商売、どうぞ銭を払って買ってやって下せえまし」
全然テンポが合わない。悠《ゆう》長《ちよう》といえば悠長、冷酷といえば冷酷なとりひきの提案に、かっとした城兵が彼らを追いかければ、それまでの太《たい》平《へい》楽《らく》とは別人のように、稲妻のように敏速に逃げていってしまう。
銃眼のあいだから見下ろせば、敵は歯をむき出し、地ひびきたててそこまで肉迫している。――ついに、
「ええ、弾を買う! 弾を売ってくれ!」
「金《きん》子《す》はここに投げるぞ! 弾を、弾を――」
血を吐くようなさけびをあげると、どこからかその鉄砲玉よりはやくあらわれて、弾とひきかえに金をもってゆく影がある。
砦《とりで》がおち入るときは、すでに敵兵が乱入したときだから、いまのきわどい瞬間に金をまきあげてゆくのだろうが、まるで首《くび》吊《つ》りの足をひっぱるような連中だ。
凄《せい》愴《そう》きわまる銃声と断末魔の声と、黒煙と血のなかに、いつまでものどかな売り声がながれているのであった。
「ベンベラボン、ベンベラボン、しおから声でじゃみッ面《つら》、色は黒いが飴《あめ》は本物――いやさ、弾は本物。さあ、弾買わんか。鉄砲弾はいらんかね。……」
城将松田康長がついにたおれ、山中砦が落ちたのは正午過ぎである。
果たせるかな、その瞬間から、砦は猛烈な掠《りやく》奪《だつ》と凌《りよう》辱《じよく》の修羅場となった。部将連の妻子は一日はやく小田原へひきあげさせたものの、まだ何百人かの侍女や婢《はしため》が砦のあちこちにかくれてすすり泣き、気を喪《うしな》ってたおれていたからだ。
「女だ!」
「女だ!」
ひっさけるような咆《ほう》哮《こう》が、砦の中を這う黒煙をつき、血みどろの大地にもの恐ろしい具足の影が右往左往して、あたるをさいわい女たちをひきずり出してくる。
「いやあっ」
という女の悲鳴が、
「殺して下され、慈悲じゃ、情けじゃ!」
という哀願にかわり、はては、何をされたか、
「ひいっ」
という身の毛もよだつ絶叫で終る。
何をされたか。――たったいま血まみれの戦闘をしてきたばかりの侍や雑兵は、完全に人間ではないものに変っていた。たんに獣欲をみたすばかりではない、女の黒髪を手にまいてひきずってあるく男たち、ふたりでひとりの女を奪いあって、その両足をひき裂かんばかりにしている男たち、はてはたったいまじぶんに生の歓楽をあたえてくれた肉を槍でつらぬいて血笑をもらしている男たち。――
怒号と哄笑に、女のほそいすすり泣きとかんだかい狂笑がまじる。恐怖に狂って高笑いしながらかけまわる娘がいるかと思うと、一糸まとわぬ姿のまま人形みたいな無表情になって、フラフラとさまよっている娘がある。その白い肌はしかし血の網目にいろどられている。
男対男の格闘が終り、男対女の死闘に移ったように、いたるところもつれ合い、ころがりまわっている。――影の一組から、えもいわれぬ妙音がもれていた。
「あっ、こんなところにいやがった」
そんな千姿万態をのぞいてあるいていた五つの影が、焼けこげた柱の下の一組の男の尻《しり》をひとつ蹴っとばした。あきれたことに、例の連中はまだウロウロしている。
「痛え、何しやがる。せっかくいいところまでいってるのに」
「手前が愉《たの》しんでる場合じゃねえ。女とみたら、すぐ悪源太のところへつれてゆくことになってるじゃあねえか。おれだって辛抱してるんだぞ」
と、馬左衛門が胸まであがったじぶんの逸物をかかえこんでいった。
「あっ、そうだった。ここでこの通りまるはだかになって誰もいねえのに腰をうねらしている女を見たら、ついフラフラとなってその約束を忘れた」
と、夜狩りのとろ盛は、頭をかきかき起きなおった。
すぐに香具師たちはその女を抱きかかえて、とある石《せき》塁《るい》の中へはこんでいった。石塁の中から、やはりはだかのひとりの女が、黒髪をみだし、夢遊病者のようによろめき出してきた。
「さあ、いらはい、いらはい。代は見てのおかえり」
と、そこの石に腰を下ろした昼寝睾丸斎が、ひろったらしい軍《ぐん》扇《せん》で胸をあおぎながら、つれてこられた女をにこやかに迎え、出ていった女に声を送る。
「いま、そなたを抱いた男――あれは、明日よりのちは伊豆の街道を歩いておるぞ。恋しかったら、そっちへおいで」
龕《がん》のようになった石塁の中では、悪源太が一手に女を扱っているのだ。
もとより、彼といちど交わった女は、かならずあとで彼を追いしたってくる――という彼自身にもわけのわからない現象を利用しようとしているのだ。目的は、追ってきた女を集《しゆう》荷《か》して、売りとばす、それだけだ。
それにしても、戦争の前は豊臣方に女を売り、戦争の最中は北条方に弾を売り、戦争が終ったら、また女を売るたねを仕入れておく。
もとはといえば徒《と》手《しゆ》空《くう》拳《けん》、実にがめつい商魂に徹した七人の香具師だが、こんなにぬけめのない連中が、さて年中たいていは貧乏して、ピイピイいっているのだから、わけがわからない。
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四人の六部
「ほほう、あれが音にきこえた豊臣の水軍」
「海からも攻めるつもりか。……猿《さる》面《めん》という奴は、いつも大がかりないくさをやるときいてはいたが」
「これじゃ、小田原の命も旦《たん》夕《せき》にありだの」
波がまっしろなしぶきをあげる大きな岩の上で、小手をかざして東の海をながめているのは悪源太と弁慶と昼寝睾丸斎の三人であった。
春の海は満々とふくれあがり、巨大な円球から無数の碧《へき》玉《ぎよく》をかぎりもなくまろびおとしているように見える。相模《 さ が み》灘《なだ》だ。水平線の彼方《 か な た》には、大島が青い影を浮かべてみえるが、その手前を白帆をあげて北へ、北へ、おびただしい軍船がすべってゆく。
伊豆の熱《あた》川《かわ》であった。もっとも、この時代には熱川という地名はない。奈《な》良《ら》木《き》といった。
弁慶と睾丸斎は、ちょっぴりいくさにも興味があって、海の果ての壮観に見とれているのだが、悪源太はちがう。――彼は、女から逃げているのだ。
その女は、もう七、八人、すこしはなれた断《だん》崖《がい》の下で、白い海《うみ》蛇《へび》のようにもつれ合っていた。そこから、悪源太たちの立っている岩までは、女なら腰くらいまでの波がうねっているから、おいそれとは来られない。
しかし、女たちが来られないのは、波のせいより、そこにくっついている四人の香具師――七郎義経、陣虚兵衛、夜狩りのとろ盛、馬左衛門に抱きすくめられ、おさえつけられているからだ。彼らはみんなまっぱだかであった。のみならず、女たちもまっぱだかに剥《む》いていた。
「あのお方のところへ」
「おねがいでございます。――あそこへやって」
身もだえする女たちを浅い海のなかにおさえつけて、
「ああ、やってやるやってやる。いや、いまにあの男の方からやってくる。――しかし、それまで、ちょいと、おれたちと、な」
「おれたちゃ五本の指といってな。指はべつべつだが、もとは同体なんだ。おれを源太と思やいいじゃあねえか。いうことをきかないと、源太に抱かしてやらねえぞ」
「見ろやい、この海の絶景、このなかで男とこんなことをして、極楽にいる気がしねえのかよ」
しぶきをあげて、波の中をころがりまわり、はねまわる。――そこは岩にくるりととりかこまれ、海が浅くなって、天然の岩風呂のようになっていた。その海の底のどこからか熱湯がふきあがり、それが岩をこえる波と溶け合って、実際に風呂のように快適なのだ。
人魚と野獣の戯《たわむ》れ――香具師たちは、みんな自然児さながらに、やりたい放題のことをやっているが、ただひとり、馬左衛門だけは例外だ。岩にこしかけ、はだかの女ひとりをひざにのせて抱きしめているのだが、それだけで、もてあましている。女は身もだえし、乳房は彼の胸毛にはずんでいるのだが、彼もただ身もだえするばかりだ。
「やっぱり、だめだ!」
と、彼は鯨《くじら》の遠《とお》吠《ぼ》えみたいな悲痛なさけびをあげて、女を波の中へ投げこむと、疲労|困《こん》憊《ぱい》したように岩上に立ちあがり、遠い源太たちの方をむいて、何をいうのかと思ったら、
「おうい、腹がへった!……源太、はやく商売やって、飯をくわせてくれろやい!」
と、どなった。やむを得ず、色気から食い気にうつったのだ。
あれから、まだ七日くらいしかたっていない。箱根の山《やま》中《なか》砦《とりで》をめぐるいくさで、相当がめつくかせいだはずの七人の香具師だが、いったいどうしたのか、もうすっからかんになっている。どうしたのか――というと、やっぱり原因は、女と酒とばくちだ。
あっちこっち、風来坊然とひっかかりながら、あれから伊豆を南へやってきたのだが――酒はみんなあびるほど飲む連中で、とくに弁慶や馬左衛門ときたら、いちどに一斗くらい飲んでけろりとしている手《て》合《あい》だし、ばくちはその酒よりも好きで、みんな相当な腕をもっているはずなのだが、この道ばかりは上には上があって、街道でゆきあうほかの香具師仲間、浮浪人、馬《ば》喰《くろう》、行商、旅芸人などに、すってんてんに巻きあげられた。女も、いくら「エンコヅケル」達人がそろっていても、そうむやみに機会があるとはかぎらないし、とくにこの伊豆一帯に戦雲がみなぎりはじめてからというものは、女という女が忽《こつ》然《ねん》と消えてしまって、まれに残っている売女たちは、どれもが恐ろしく高くつく。
それで、もう馬左衛門が、「ひもじい」と悲鳴をあげるほどの状態になったのだが、しかしほかの連中はひもじいことを忘れて、眼前の女を追いまわしている。海風呂の中の戯れという一風変った味わいに夢中になっているせいもあるが、ともかく女がこれほど集ってきたからには、ひもじさの解消されるのもあといっときのことだ、という安心感があるせいであろう。
いったん悪源太が犯した女は、源太のゆくえを教えてさえおけば、あと花粉にひかれる蝶のごとく、南風をしたう燕《つばめ》のごとく追っかけてくる。――という摩《ま》訶《か》不思議な悪源太の能力が、ここにまたまちがいなく発現されて、山中砦の女たちが三々五々と、彼らのまわりにあつまりはじめたのは、きのうきょうあたりへかけてだ。
昼寝睾丸斎の腹上の軍略によって、何やらそっちにいいことがあるらしいと、彼らは伊豆にやってきた。ゆくさきは、下《しも》田《だ》だ。下田には、北条|麾《き》下《か》の清《し》水《みず》康《やす》長《なが》、江《え》戸《ど》朝《あさ》忠《ただ》らのまもる下田城がある。むろん、いくさのどさくさにまぎれて、またひとかせぎするつもりだ。
「もうよかろう、源太やい」
馬左衛門に呼ばれてふりかえったついでに、断崖の上をあおいで、弁慶がいった。
「そろそろ買手衆が通られる」
崖の上の街道に砂塵があがりはじめていた。旗《はた》指《さし》物《もの》をひるがえした騎馬武者が通り、槍をかついだ足軽組が通る。りくぞくとして、下田へ進んでゆく豊臣方の部隊があらわれはじめていた。
山中砦を屠《ほふ》った上方勢は、鷹《たか》ノ巣《す》城《じよう》、宮《みや》城《ぎ》野《の》、湯本、足《あし》柄《がら》、根《ね》府《ぶ》川《かわ》などの砦をうばい、勢いを駆《か》ってただひともみと小田原城に殺到したが、さすがは関東第一の名城、まもるは早《そう》雲《うん》以来の北条武者とあって、頑《がん》として攻囲軍をはねかえした。
この城、容易ならず、と見た烱《けい》眼《がん》の秀吉は、城を大軍でつつんで持久戦の態勢をとる一方、諸軍に命じて、伊豆関東一円に於ける北条方の出《で》城《じろ》をつぶすのにとりかかった。――いま伊豆の東海岸を南下しはじめたのは、日《ひ》金《がね》山《やま》方面から下りてきた堀秀政軍に相違ない。
「いや、ひょっとすると、あの軍勢が下田につくまえに、下田の城はおちるかもしれぬ。あの水軍――おそらく九《く》鬼《き》や長《ちよう》曾《そ》我《か》部《べ》の水軍だろうが――あそこの海を通るまえに、海から下田を攻めておるじゃろう。こりゃ、源太、いそがねばならんわ」
と、急に睾丸斎はあわて出した。
「源太、御苦労じゃが、また頼む、ひとつ女どもを撫《な》でてやってくれや」
そして、両手をあげた。人におんぶする姿勢だ。弁慶が大きな背をむけて、どじょうひげの軍師を背負うと、ザブ、ザブ! と海中に入ってあるき出した。
そのあとを、苦笑いしながら、悪源太も追う。女は大好きだが、いちどでも交わった女は――とくに、あとを追っかけてきた女は、胴ぶるいするほどいやなのだから、彼女たちをもういちど撫でさするのは、彼にとって難《なん》行《ぎよう》苦《く》行《ぎよう》だ。しかし、商売とあってはやむを得ない。
で――波の中をもどって、岩風呂のふちに立った悪源太は、狂気のように這い寄ってきたはだかの女たちを見下ろして、しおらしい、もっともらしい顔つきをして、手をふりながら例のそらぞらしい泣きおとし演説をはじめた。
「わかってるわかってる。おまえさんたちが、みんなおれを好いてくれるってことあ、よっくわかってる。ありがたくって、涙が出らあ。……」
それにしても、あの落城の修《しゆ》羅《ら》場《ば》から――けもののような上方勢の雑《ぞう》兵《ひよう》たちの手から、よくもこの女たちは逃げ出してきたものだ。ここにきて、はだかに剥《む》いた、とはいうものの、ついたときから彼女たちは、髪はみだれ、きものは裂け、半裸にちかかった。血をながしている女もあったから、ここにくるまでに、途中で気力つきて息絶えた女もほかに数多くあったにちがいない。
それをいたましい、とも思わないで、むしろおぞましい動物でもみるような眼で見下ろして、悪源太は商売にとりかかる。
「みんなつれてってやりてえが、無念残念、銭がねえ。そこでひとつ物は相談だが。……」
「さあさあ御《ご》覧《ろう》じませ、トントン唐《とう》辛《がら》子《し》、ピリリと辛いは山《さん》椒《しよ》の子、スワスワ辛いは胡《こ》椒《しよう》の子、ケシの子|胡《ご》麻《ま》の子|陳《ちん》皮《ぴ》の子、トーントーン唐辛子」
伊豆街道を行軍してくる上方軍と、逆にあるきながら、七人の香具師は野《の》放《ほう》図《ず》な声をはりあげる。
「なに、唐辛子も山椒の子もいらない?」
うしろに、半裸の女たちが、憑《つ》かれたような眼つきと足どりであるいている。
「トーントーン唐辛子、なかでよいのが娘の子、さあ女買わんか、買わんか、女あ!」
ものの四、五町とゆかないうちに、品物は売りきれた。雑兵たちは、野獣のような咆《ほう》哮《こう》をあげながら、品物を手とり足とりして、片側の山の灌《かん》木《ぼく》の中へ入ってゆく。
悲痛な女の絶叫が尾をひいた。
「悪源太さま!……こんどはどこへゆかれますっ」
悪源太はしごく無精な顔を南風に吹かせながらつぶやいた。どこでひろったか、槍を一本ついている。
「さあ、どこへゆくかわからねえ」
あとをふりかえりもしない。
「下田へゆくつもりだったが、なんだって? 睾丸斎、もう下田へいっても商売にゃならねえって? それなら、これからどこへゆきゃいいんだ?」
「しまった」
と、睾丸斎はどじょうひげをしごいた。
「ひとりだけは残しておくのじゃった。腹の上で占をたてなければ卦《け》が出ぬわい。……」
そのとき、彼らをうしろからひそやかに呼ぶ声があった。
「もしっ……香具師どの」
七人の香具師はふりかえった。
上方勢の行軍はすこしきれて、街道には人通りがなかった。そして、片側の山もややきれて、細い谷が入りこんでいる草原であった。
そこに三人の男が立っていた。鐶《かん》をつけた六《ろく》部《ぶ》笠《がさ》をかぶり、みんな鼠《ねずみ》木《も》綿《めん》のきもの、おなじ色の手《てつ》甲《こう》脚《きや》絆《はん》をつけ、帯のまえに鉦《かね》をむすび、背に仏《ぶつ》龕《がん》を背負い、手に鈴をもっている。
「やあ、なんだね?」
「あの……つかぬことをうかがいまするが、みなの衆、いま何をなされたのでござります?」
と、三十くらいの六部がいった。骨《ほね》太《ぶと》で、角ばったあごをしているが、眼も声もやさしい。
「ああ、女を売ったんだ」
ケロリとして、悪源太がこたえた。
「女を売った?……いや、そう見えました。ところで、あの女《によ》人《にん》たち、もしかしたら北条家の方々ではございますまいか?」
と、またひとりの六部がきく。その顔をみて、七人の香具師の眼がちょっとひろがった。女のように若く美しい顔をした六部であった。唇はきみわるいほど赤い。
「北条家の方々。……ほ、なぜそれを知っておる?」
と、陣虚兵衛がいった。美しい六部はつつましやかに、
「はい。実は私ども、もと小田原に住んでおりました者で、いまお見受けしたあの女《によ》性《しよう》たちのうち、小田原でいろいろとお世話になった方もございます。されば――」
「これは、すておけぬ、とあの方――私どもの主人でございますが」
と、またひとりの六部がいう。これは四十年輩の、これまた温厚らしい男だ。
「何としてでも、あの女性たちをお助け申したい。金はあるかぎりのものを進ぜるゆえ、どうぞお売りになった方々を買いもどしてきては下さるまいか、こうおっしゃるのでございます」
あの方――といわれて、香具師たちは顔をそちらにむけた。
四人めの六部が、すこしはなれた松木立の下に笠を伏せるようにして、寂《じやく》然《ねん》とたたずんでいた。
「あの女たちを買いもどす。――それがそうは……」
といいかける悪源太の背中をつついて昼寝睾丸斎がいう。
「ああいや、それは御《ご》奇《き》特《どく》なことで恐れ入った。さすがは六十六か国に善根を植えて巡礼なさる方々、さぞ後生がよろしゅうござろう。何、実はな、われわれとても、好きこのんであの女人たちを売りとばしたわけではない。なにぶん、ひもじゅうて、ひもじゅうて、いまにもひっくりかえりそうなわれわれを憐《あわ》れんでな、と申すのも、あの女人たち、ふとした縁《えにし》で拙者どもを、その、愛しておるのでな」
ちょっと顔をあかくしたところは、睾丸斎らしくもない。
「そこで、あの女人たちがみずから進んで売られようと申したゆえ、涙をのんで、その、何したわけじゃ。買いもどすとあれば、それにまさるよろこびはない。ところで、六部どのたち、有《あり》金《がね》みんなさし出しても、とおっしゃるが、いかほどもっておられる?」
「四人、かきあつめて百十七両ほどござりますが、御不足でございましょうか」
「ほ、百十七両――」
七人は顔を見合わせ、眼をきらっと光らせた。それは金額にも驚いたのだが、さらに、それをこの蕭《しよう》条《じよう》たる六部たちが持っているということにおどろいたのだ。
「よしよし、それでは買いもどしてこよう。その金を出しなされ」
と、夜狩りのとろ盛が手を出した。いちばん年輩の六部が、気弱げな笑いをうかべ、笠をふっていう。
「いやいや、この金は、あの女人たちすべてをお救いして、ここへつれてきて下されば、お礼にさしあげましょう」
「だって、買いもどすには金が――」
「売られた金がござりましょうが」
「功《く》徳《どく》をほどこすにしては、勘定高いな」
と、七郎義経がじぶんたちのことは棚にあげていったとき、がまんの緒《お》がきれたように馬左衛門がさけんだ。
「あの女たちを助けろといい、途《と》方《ほう》もねえ金をもっていることといい――おまえたちはただの六部じゃねえな。小田原の侍だな?」
陣虚兵衛が、あごをしゃくった。
「しかも、あそこにいる六部は、女だ」
「なに?」
三人の六部は、はっとして身がまえた。その電光のような動作は、あきらかにふつうの六部ではなかった。
「いや、そう血相かえるには及ばない。ゆすりたかりは神《しん》農《のう》の血を受けた香具師のもっとも恥ずるところ。たしかにあの女たち、買いもどしてきてやろうよ。しかし、礼に金は要らねえ。あそこにいる女六部をもらう」
と、陣虚兵衛はいった。
「というのは、あの女六部、笠で顔をかくしてはおるが、衣《そ》通《とおり》姫《ひめ》もかくやあらんと思われるばかりの絶世の美女とみたぞ」
三人の六部はうなずきあった。
「麻《ま》也《や》姫《ひめ》さまのたっての仰せじゃが、かような話をするのではなかった」
「しょせん、下《した》手《で》に談合して、話の通じる手合ではない」
三人の六部は、一瞬に別人のような形《ぎよう》相《そう》に変っていた。あの穏やかでやさしい顔の仮面がおちたように、さっと青ずんだ凶《きよう》相《そう》に変ったのだ。
三人がニヤリと笑ったようにみえた。刹那的な笑いが消えると、いっせいに口がとがった。その口から、シューッと三すじの銀線がほとばしり出た。
「わっ」
七人の香具師は顔を覆《おお》ってよろめいたり、伏しまろんだり、逃げ出したりしていた。吹きつけてきた銀線は、無数の吹き針であった。空をとぶ霜柱のような細かい針は、一瞬に彼らの眼をつぶしたのだ。
「や、や、こいつら――」
片手で眼をおさえ、からくもとびずさったのは悪源太であった。さっき、女をかついでゆくのに、足軽のひとりがほうり出していった槍を、杖がわりに拾っていたのが天の助けとばかり、全身火の玉みたいになって、
「この野郎、よくも――」
びゅっ――と凄《すさま》じいうなりをたてて得意の投げ槍がとぶと、いちばんまんなかに立っていた、いちばん強そうな三十男の六部の胸をつらぬいた。――槍の穂がみえないほどに。
「あっ」
絶《ぜつ》叫《きよう》したのは悪源太だ。かっと彼は眼をむいて、その相手を凝《ぎよう》視《し》した。相手はたおれない。胸にピーンと突き立った槍を支えたまま仁王立ちになって、笠の下から彼はうすく笑った。
シトシトと杉木立の方から、もうひとりの六部があゆみ出してくるのを見た刹那、悪源太はあおむけにひっくりかえっていた。例の美貌の六部が、彼の満面に――むき出した両眼に、とどめの吹き針を吹きつけたのだ。
「麻也姫さま、いかがいたしましょうか」
「やむを得ぬ。心はいたむが、あの女人たちは捨ててゆくよりほかはあるまい。あれもかなしい戦国のならい。――」
涙ぐんでいるような女の声がきこえた。かなしげにふるえる、この世のものとは思われぬ美しい声であった。
女六部は、胸をつらぬかれた仲間をふりかえりもせぬ。ふりかえる必要はない。その六部は、まるで他人の――いや、そこの山肌の粘土からでもぬきとるように、みずからの胸から槍をひきぬいて、片手でとんと地についていた。突き刺さったのが幻覚でない証拠には、上にしたその穂先にはウッスラと血あぶらがにじんでいる。
何事もなかったかのようにいう。
「いや、あの女どものことではござらん。あれにははじめからお心をかけられなと申しております。――この下《げ》司《す》下《げ》郎《ろう》どものことです」
「これか」
女六部はあるいてきて、あおむけにのたうちまわっている悪源太の顔の上に、むずとわらじの左足をのせた。
「これ、下郎」
いままでの声とは別人のような、凜《りん》然《ぜん》たる、むしろ冷然たる声《こわ》音《ね》であった。
「畜類のような奴らゆえ、人間の心はもつまいが、人のかたちをした者には、たとえ女なりとも人の魂があると知れ」
悪源太がうめいたのは、そのわらじの痛みより、痛烈な声の鞭《むち》による痛みのせいであった。
「このことを、これからさき胆《きも》に銘《めい》じておけよ」
わらじははなれ、跫《あし》音《おと》が軽がると遠ざかった。あっけにとられたような男の三つの声が異《い》口《く》同《どう》音《おん》に、
「姫! 命をたすけてやるのでござりまするか」
「斬るにも値せぬけだものどもじゃ」
声は童女のように笑った。
「それに、六人も斬るひまはなかろう。逃げたひとりが、上方勢を呼んでいる」
――その通り、街道の方で、きちがいのようにわめきたてる声がひびいていた。
「おういっ、みなの衆、はやく来て下されっ」
八《はつ》艘《そう》飛《と》びではないが、逃げ足だけはやけに早い七郎義経の声だ。
「北条方がそこにひそんでおりますぞ。おッそろしく強い北条方の侍が――はやく、つかまえて下されっ」
――なに、北条方が? そんなさけびがきこえたかと思うと、たちまち街道から、何十人という軍兵の跫《あし》音《おと》が、地ひびきたてて殺到してきた。
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真 物
「逃げろ、面倒だ」
と、六部のひとりがいった。三十年輩の、骨《ほね》太《ぶと》で角ばったあごを持った六部である。
あとのふたりの男の六部はうなずいた。
「やはり、要《い》らざることに手を出したな」
「では、刑《けい》四《し》郎《ろう》、御苦労だが、たのんだぞ」
それから、チラと女六部を見た。そのふたりの眼に、かすかな非難の色がある。が、ふたりは左右から一本ずつ手を出した。
「姫、こうなされ」
「両腕を、われらの首に巻きつけなされ」
一本ずつの腕が、女六部の脇《わき》の下に入った。女六部が両手を広げて左右の六部の首を巻くと、そのからだは背《せ》丈《たけ》の差だけ地上から浮きあがった。二人三脚ならぬ三人四脚であった。――そのまま、三人は谷の奥の方に走り出した。
それが二人三脚のごとく真正面に走るのではなく、横歩きなのだ。しかもその足どりは、走っているとはみえないほどおちついているのに、疾《しつ》風《ぷう》のように早い。まさに、風だ。みていると、大きな石ころだろうが、腰までありそうな灌《かん》木《ぼく》だろうが、一切よけることなく一直線に駆けてゆく。軽がると女六部を吊《つ》ったまま跳躍してゆくのだが、それはまさに三人の風神としか見えなかった。
「北条方が?」
「どこにおる?」
往来の方から、豊臣方の軍兵が砂塵をあげて、この草原にかけのぼってきた。
「や、あれだ!」
「待てっ」
彼らは、その一角に乱れ伏している六人の香具師には眼もくれず、すぐに谷の奥の方に眼をやって、どっと駆けよってきた。谷の奥の大《おお》竹《たけ》藪《やぶ》に消えてゆく三人の六部の姿がみえたし、その手前に――もうひとり、――悠《ゆう》々《ゆう》と背をみせて歩いてゆく六部の姿を認めたからであった。
その六部は竹《ちく》林《りん》の入口で、妙なことをやった。二本の竹のあいだを、何かしごくような手つきをして、横に走ったのである。それから彼は、そこに踏みとどまり、仁王立ちになり、ユックリと六部笠をとった。
「うぬ、六部の姿などしおって――」
「下田の城の落武者か!」
わめきながら、もう三、四間の間隔に迫ってきた上方衆を蒼《そう》白《はく》な顔でむかえて、
「やい、それ以上、来るなっ」
と、さけんだ。しずかに背の仏《ぶつ》龕《がん》を下ろす。
「何?」
「ここを通れば、うぬらの命はない。――見ろ!」
と、みずからの左腕を前にふり下ろした。すると――どこにも刃物の影は見えないのに、その腕が、空中でどぼっと音をたてて肘《ひじ》から切断されて草におちたのである。
「……あっ」
さすがの軍《ぐん》兵《ぴよう》たちも、どどっと波みたいに奔《ほん》騰《とう》して立ちどまった。なぜ腕が切れたか――ということよりも、まず逃げる敵が、とかげの尾みたいにじぶんの腕を切りおとした奇怪な行動に眼を見張ったのだ。
切断した左腕から血をほとばしらせながら、六部はニンマリと笑った。その笑顔に、雑兵たちはふいにわれにかえったように、
「こやつ、奇《き》態《たい》な奴。――」
「ひっとらえろ!」
ふたたび、猛然と馳《は》せ寄ろうとした。六部は四角なあごをしゃくった。
「まだわからぬか。この風《かぜ》 閂《かんぬき》が。――」
そして、ツツと二、三歩前へ出た。前へ出たのは足だけである。下半身だけである。その上半身は、眼にみえぬ鋼《はがね》に胴切りになったかのごとく、血しぶきをふきあげてうしろにどさっと落ちていた。
数十人の軍兵たちがそこに立ちすくんでいるとは思えない静《せい》寂《じやく》がその草原に満ちた。ふしぎな六部は、左腕と上半身と下半身と三体に散乱して地上にころがっているのに、もはや一歩も踏み出す者はない。
「……化物だ!」
だれかさけぶと、彼らはいっせいに背をかえし、ころがるように往来に逃げ出していった。
「……うごくな」
と、昼寝睾丸斎がささやいた。草の中で夜狩りのとろ盛がいう。――
「うごきたくとも、こっちの腰の蝶つがいもはずれた」
「……声をたてるな」
と、弁慶が、とろ盛の口をおさえた。陣虚兵衛がいう。――
「きゃつ、生きておるぞ。……」
「な、な、何?」
馬左衛門が思わずさけび声をあげようとするのを、悪源太の足がその口を蹴った。寂《じやく》寞《まく》たる草原にきこえるのは、谷の奥の青い藪《やぶ》のそよぎばかり。――
その下で、さっきの怪事よりもっとおどろくべき事態が――この世のものとは思われぬ光景が進行しつつあった。草を染める鮮血の中にあおむけにころがった上半身の右腕が、徐々に、徐々にうごきはじめたのだ。何かをさがし求めるようにさまよって――ついに左腕に触れると、それをつかんだ。六部の顔は、眼をとじ、歯をくいしばったまま、藍《あい》色《いろ》の、完全な死相だ。落ちていた左腕をつかむと、それを切断された肘にあてがう。――それから、その両肘を草についた。切れた肘は――なんと、つながっているようだ。肘が草を漕《こ》いで――上半身が、じりっ、じりっと地上を移動してゆく。下半身の方へ。
天《あま》城《ぎ》山《さん》の上に、初《はつ》夏《なつ》の雲が浮いている。その小さな一塊が、淡《あわ》雪《ゆき》のように溶けて、ふっと蒼空に消えた。雲の消えるのは、ほんのみじかいあいだのことなのに、なぜか永《えい》劫《ごう》のながさを感じさせる。そんな時間の経過であった。
六部の眼は、いまや義《ぎ》眼《がん》のごとくひらいて、その雲を仰いでいた。そのまぶたが、ピク、ピクとうごいて、またたきをはじめた。頬は青銅色ながら、たしかに生きている人間のつやをおびてきた。
そして彼は、ニューッと立ちあがったのだ。じろっと草原を見わたした。それから地に置かれた仏《ぶつ》龕《がん》を背負い、笠をかぶった。また藪の入口の二本の竹のあいだを走って、何かをたぐり、まるめこむような手つきをすると、そのまま妖《よう》々《よう》と竹林の青味に消えてゆく。
それでも、六人の香具師はうごかなかった。まるで悪夢をみているとしか思えなかったのだ。
「――見たか?」
ようやく、悪源太がささやいた。
「見た」
と、陣虚兵衛がこたえる。
「ありゃなんだ?」
「おれには、竹と竹とのあいだに一すじの髪の毛を張ったようにみえたが」
「髪の毛で、人間が切れるのか」
「そうらしい」
「なぜ、その髪の毛を張ったまま逃げなかったのだ」
「わからん。ただ上方勢をおどすためだけであったのかも知れん」
「上方勢どころか、こっちも胆《きも》をつぶした。……切れたからだが、またつながったぞ」
「妖《あや》かしではない。たしかに血が出た。……それが、生き返った」
「……忍法者だな」
と、睾丸斎が長嘆した。
「おれもはじめて見た。――あれが北条家|名《な》代《だい》の風《ふう》摩《ま》組《ぐみ》の忍者ではないか?」
「忍者。……いや、こないだ箱根でひとり退治したときは、忍者もだらしがねえ。あれならよっぽどこっちがましだと思ったが」
またたきするのも忘れたように悪源太は眼をむいて、生まれてはじめてといっていい恐怖のうめきをもらした。
「ありゃ、真《ほん》物《もの》だ!」
そのとき、草の折れる音がきこえた。六人は、びくっとしてはじめて頭をもたげた。往来の方から、だれかガザガザと草の中を這《は》ってくる。
「おれだ、義経だ」
「義経?……おい、おめえ、今の化物のしたことを見たか?」
「見た。……あそこのくぼみで見ていて、腰のあたりがおかしくなったよ。……しかし、おい、逃げよう。早く逃げなくっちゃ」
「どうした?」
「いまの上方勢が、また新《あら》たの軍勢をつれてひきかえしてくるようだ。あの六部たちがいねえとなると、こんどはこっちも無事ではすまねえぞ」
地ひびきの音をきくと、六人ははね起きた。
「こりゃいけねえ」
七人は藪の方に走りかけて、ふいにぎょっとしたように立ちどまり、あわててひきかえそうとしたが、その方角にまたおしかえしてきた雑兵たちの影をみると、横っとびに、中間の山の方へ駆け出した。
みんな腰つきがあやしいが、それでも猿《ましら》のような早さで逃げてゆく。
「……おい、みんな、いやにだまりこんでるが、何かんがえてるんだ」
と、義経がいった。
七人の香具師は鴉《からす》みたいに岸にならんで、両足を水につけて、ぽかんと湖をながめていた。
――伊《い》東《とうの》庄《しよう》の山中にある湖だ。いまの一《いつ》碧《ぺき》湖《こ》だが、七人ともその名も知らない。
いや、どうしてこんなところへ飛んできたのか、じぶんたちでもわからない。ふつうの街道は豊臣軍でいっぱいだから、山の中を駆けているうち、ふいとこの湖につきあたったのだ。そのときになって、はじめてみんなおたがいの片眼から血がながれているのに気がついたほどであった。さっきの六部から吹きつけられた吹き針のせいだ。すると、急にズキズキと激痛をおぼえてきて、七人は夢中で眼を水で洗った。
それから、だまりこんで、湖に足をひたしたまま、空の雲をながめはじめたのだ。
「さっきの六部たちのことだな」
「あたりめえよ」
と、馬左衛門がいう。
「おっかねえ奴らだったな」
「おっかねえ奴らだったが……だんだん腹が立ってきやがった」
と、悪源太がうめいた。
「このまま、泣き寝入りはできねえ。神農直系の香具師の名にかかわらあ」
「歯がたたねえよ。あいつには」
「いいや、だからこそシッポをまいちゃいられねえんだ。どんな利口ぶった野郎、強がる野郎だって、それなりゃいっそう尻の毛をぬいてやるのが、香具師の生甲斐というものだぜ。ううぬ、いまに見ておれ、あいつら――どこへゆこうと、きっと追っかけて、見つけ出してぎゃふんといわせてやるぞ」
ざぶっと悪源太の足の下で、真っ白なしぶきがあがった。
「ところで、あいつら、何者だね? 北条の風摩組といったって、ありゃ下田へゆくつもりだったのか。小田原へかえるところだったのか」
と、弁慶が睾丸斎をふりかえる。睾丸斎はどじょうひげをしごいて、
「つらつら案ずるに、あれは小田原へかえるところではなかったのかの」
「なぜ?」
「下田の城はおちた、と思う。先刻、上方勢の雑兵も、下田の城の残党か、といっておったようだな」
「しかし、下田城の残党が、上方勢をかきわけて、平気で伊豆街道を北へかえるのはあきれた度胸だぜ。いくら、六部姿に化けてもよ」
「うむ、そこがちと面《めん》妖《よう》じゃが――待て待て、――たしかあの女六部を、姫といっておったの」
「姫と呼ぶ以上――下田の城を護っていた北条方の大名は何というんだ」
「下田城は、たしか清《し》水《みず》康《やす》長《なが》に江《え》戸《ど》朝《あさ》忠《ただ》、とおぼえておるが」
「なんにしても、あの女《め》郎《ろう》。……」
と、悪源太はこぶしをにぎりしめて、血ばしった眼で蒼空をにらんだ。
「ただではおかねえ」
「おめえ、顔をふんづけられたなあ」
と、とろ盛が横眼で見て、ケ、ケ、ケと笑った。
「悪源太|助《すけ》平《ひら》、女に土《ど》足《そく》で面《つら》をふんづけられたのは、臍《へそ》の緒きってはじめてだろうが」
「おまけに、いわれたせりふがいいぜ。ざまはねえ、おぼえているか?」
と、陣虚兵衛も虚無的な薄笑いをもらす。
「――畜類のような奴らゆえ、人間の心はもつまいが、人のかたちをした者には、たとえ女なりとも人の魂があると知れ。このことを、これからさき胆に銘じておけよ。――とやられやがった」
が、復唱しているうちに虚兵衛の顔から笑いが消え、ほかの六人も魂に何かを打ちこまれたような表情になって、ボンヤリと湖を凝《ぎよう》視《し》した。また、はたと沈黙がおちる。やけに騒々しい七人組には、珍しい現象だ。さっきから、みんなへんに黙りこんでいたのは、ひょっとしたら怪奇きわまる風摩の忍者の戦慄よりも、実はあの声の痛烈な余《よ》韻《いん》のせいだったかもしれない。
「……見ていたか、あの女六部の顔を」
と、義経がかすれた声でいった。
「見た!」
と、六人はいった。
あのとき、凄《すさま》じい吹き針の風に吹きつけられながら、一瞬に掌《てのひら》で片眼を覆って、ひっくりかえったまま、指のあいだからのぞいていたのだ。――から、みんな、相当なものではある。
「美《ハク》い女《ナオ》だったな」
と、つぶやいた夜狩りのとろ盛の唇から、よだれがたれそうだ。昼寝睾丸斎がどじょうひげの中で、舌なめずりしていった。
「つらつら案ずるに、睾丸斎、この年になってあれほどの美女をはじめて見た。嬋《せん》妍《けん》、天女のごとく、玲《れい》瓏《ろう》、月《げつ》輪《りん》のごとし」
七郎義経がウッ卜リといった。
「あの女の足なら、おれが踏んづけられたかった」
「馬鹿野郎っ」
と、悪源太がわめいて、いきなり義経の頬をひっぱたくと、義経はもんどりうって湖へおちた。
その水けむりをふりかえりもせず、悪源太は絶叫した。
「おれはあいつをヨツにカマルぞ」
――甚だ不《ふ》穏《おん》な隠語で、強姦するという意味である。
「ようし、きめた! 当分、商《バ》売《イ》はおあずけだ。おれはあの女――姫――マヤ姫とかいいやがったな? あいつをヨツにカマって、牝《めす》犬《いぬ》にかえて、あとは上方勢に女《ナオ》散《ち》らしにしてやるぞ。みんな承知か、それとも、いやか?」
六人の香具師はいっせいにうなずいた。水の中でガバガバ泳いでいる義経までが、
「承知だ!」
昼寝睾丸斎がつらつら案じたごとく、下田城は陸路南下する豊臣軍を待つまでもなく、海上から上陸した長《ちよう》曾《そ》我《か》部《べ》、九《く》鬼《き》などの水軍の一部を以てすでに攻め落されていた。
上方勢は小田原を包囲していた。
東の酒《さか》匂《わ》川《がわ》には徳川家康、北の荻《おぎ》窪《くぼ》山《やま》には羽《は》柴《しば》秀《ひで》次《つぐ》、蒲《がも》生《う》氏《うじ》郷《さと》。西の早川には池《いけ》田《だ》輝《てる》政《まさ》、堀《ほり》秀《ひで》政《まさ》。南の海上には長曾我部、九鬼などの水軍。――あわせて、十四万八千。
そして秀吉は、その壮観をはるかに俯《ふ》瞰《かん》する湯《ゆ》本《もと》早《そう》雲《うん》寺《じ》に本営をかまえた。
はじめ、もとよりただひともみと、いくどか総攻撃をかけたのである。しかし、音にきこえた小田原城とその周辺、実に五里四方にわたって、堀をほり、塀をまわし、石垣を築き、築地をつき、鹿《ろく》砦《さい》を張りめぐらし、井《せい》楼《ろう》、矢倉をすきまもなくつらねた北条勢は、そのたびに猛然とはねかえし、容易に屈する気配をみせなかった。
その様子を、北条五代記にはこう記《しる》している。
「持《もち》口《ぐち》持口に大将家々の旗をなびかし、馬《うま》印《じるし》差《さし》物《もの》いろいろさまざまに風にひるがえす粧《よそお》い、芳《よし》野《の》立《たつ》田《た》の花《はな》紅葉《もみじ》にやたとえん。総構え役所のめぐり、往還の道の幅三十間ほどありて、武者の立つところせまからず、陣屋は塗《ぬり》籠《ご》め、小路を割り、人数繁きこと、稲《とう》麻《ま》竹《ちく》葦《い》のごとし」
――その巨大な要《よう》塞《さい》都市の中を、七人の香具師はあるいていた。――篝《かがり》火《び》がもえていた。夜だ。
あれから五日目だ。――篝火のもえる音と、剣《けん》槍《そう》のひびきの中を、のどかな売り声が縫う。
「さあ、朝鮮の弘《こう》慶《けい》子《し》《薬の名》、癪《しやく》やつかえに奇ン妙だ」
「まったこれなる陣中|膏《こう》薬《やく》、鉄砲傷に刀傷、毛ぎれ一切|淋《りん》病《びよう》一切、いっさいいっさい」
「ながらく御ひいき御恩に感じ、しがない下郎もみなさまがたと、死なばもろとも生くるもいっしょ、いのちをかけて売ります薬」
「べんべらぼんのべんべらぼん」
当時のいくさの包囲網が現代戦にくらべて完《かん》璧《ぺき》とはいえないにしろ、いったいどうしてもぐりこんだものか。――いや、それよりも、この小田原には、いつぞや山中砦で上《じよう》臈《ろう》たちを誘《ゆう》拐《かい》したとき途中まで同行した足軽や女がいるはずだ。あのときは足軽に化けていたとはいうものの、伊豆でめぐりあった北条方の姫君や忍者がいるかもしれないのに、呆れかえった図々しい連中だ。
いや、それどころか、七人の香具師は、その姫君と忍者の姿をさがし求めているのだ。
――売り声は陽気で愛嬌笑いをおびているが、十四の眼はふつうでないひかりをおびている。
捜索の眼と、いざとなればすっとんで逃げる警戒の眼と。――幸か不幸か、まだ彼らはめざす人間にも、彼らを怪しむ人間にも逢わないらしい。
それどころか、もともと以前からこの小田原城にもよく姿を見せていた香具師たちであったから、知らぬが仏の旧《きゆう》知《ち》たちから、
「おお、こうなってもうぬら小田原を捨てぬか」
「愛《う》い奴だ。その菓子買ってやろう」
と、意外なばかりの人気を博している。
「――や?」
ふと、或る矢倉のかげで、香具師のひとりが足をとめた。細い眼がじいっと遠くの或る陣屋の方を見つめている。陣虚兵衛であった。
「見つけたか!」
と、悪源太がいった。
「あれを見ろ。あの陣屋の前の篝火の右」
「炎のひかりがとどかんので、よくみえぬ。お、足軽が集って、馬をしずめておるな」
「馬は四頭。その上に、いま黒い影が四つ乗った」
「黒い影が四つ。――きゃつらか!」
「いま、ひとりチラと顔をこちらにみせた。しころ頭《ず》巾《きん》をかぶっておるが、のぞいた眼だけでも忘れはせぬ。――あの鋳《い》掛《か》けのきく化物だ」
「すると、あとの三人は――その三人の中に、あの女《め》郎《ろう》がおるということか?」
見ていると、その四頭の馬はこちらに駆けてきた。篝火に浮いたその影は、馬も真っ黒なら、馬上の四人も頭巾、陣羽織、袴《はかま》もことごとく漆《しつ》黒《こく》で、それがすぐ向うで馬首をめぐらし、東の方へ疾走し去ったのは、まるで一陣の魔風が吹きすぎたようであった。
「待ちやがれ」
思わずさけんだ声をおさえ、かけ出した七人の前方から、ドヤドヤと足軽のむれがやってきた。顔見知りの足軽たちであった。
「べんべらぼんのべんべらぼん」
はやる息をおさえ、のんきな声をひびかせながら悪源太はちかづいて、せいいっぱいの愛嬌笑いをうかべ、
「モグサ、膏薬はいかがでげす? ところで、いまちらとマヤ姫さまをおみかけしたようですが、夜になって姫君さまはどこへおゆきで?」
「ほ、うぬらは麻《ま》也《や》姫《ひめ》さまを知っておるのか」
と、足軽のひとりがこたえた。
「……麻也姫さまは、武《ぶ》州《しゆう》岩《いわ》槻《つき》のお城へおかえりじゃ」
「……武州岩槻、太《おお》田《た》三《さん》楽《らく》斎《さい》の城」
足軽たちがゆきすぎてから、昼寝睾丸斎がつぶやいた。
「太田三楽斎は、太田|道《どう》灌《かん》の曾《ひ》孫《まご》。その娘というと、道灌三代の孫娘か――なあるほど!」
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風摩組
――なあるほど! と昼寝睾丸斎が感服の嘆声をあげたのもむりはない。
太田道灌といえばもう百年も昔の人だが、文武両道の名将で、はじめて江戸というところに城を築いた人物であることは、だれでも知っている。いささか学者でもある睾丸斎などは、道灌の詠《よ》んだという「露おかぬかたもありけり夕立ちの空より広き武蔵野の原」とか、「わが庵《いお》は松原つづき海近く富士の高《たか》嶺《ね》を軒ばにぞ見る」という名歌まで知っている。しかし、睾丸斎が、なあるほど、としたり顔でうなずいたのは、そんな古典的武将よりも、その曾孫にあたる太田三楽斎のことだ。これももう相当な年輩のはずだが、恐ろしくいくさが上手で、道灌の再来とまでいわれた噂《うわさ》をきいたことがある。――
「道灌三代の孫、三楽斎の娘なら、あれだけ勇ましいのもわかるが――」
と、睾丸斎はくびをひねった。
「それでも、少しわからんこともあるぞ」
「何がよ?」
「三楽斎というのは、煮ても焼いても食えない爺《じい》さんで、道灌ゆずりの武州岩槻の城を護って、若いときから北条に一歩もゆずらず、いくさ神といわれた先代の北条氏康公さえ、三楽斎のためになんどか辛《から》い目にあわされたという話をきいたが――その娘がこう小田原を大手をふって通り過ぎるようでは、三楽斎もいつのまにか北条家に降参していたとみえるが」
「あたりまえだ。関東一円に、いつまでも北条家に盾をつき通せる大名はいねえ」
と、陣虚兵衛がいう。睾丸斎はうなずいて、
「岩槻なんて小さな町へ商売にいったことがないから、そこらがよくわからないのは当然じゃが、さてその娘が、なんのために伊豆あたりをウロウロしておったのかな?」
「とにかく岩槻へゆこう。岩槻へいって見りゃわかる」
と、悪源太がうめいた。
「城持ちの姫君だろうが何だろうが、こうなったらどんなことがあってもひッさらってものにして、おれの尻をかぎまわる牝犬にしてやらなくっちゃ、神《しん》農《のう》帝《てい》に申しひらきがたたねえ」
「……きいたぞ」
ふいに、闇の中で声がした。七人はぎょっとして顔を見合わせた。また、声がきこえた。
「途方もないことを相談している奴らだ」
七人の香具師がぱっと鳥の羽ばたくように飛び立とうとするのを、
「あ、待て。――いまのは、おどしだ」
あわてて、傍《かたわら》の矢倉のかげから、ひとつの影があらわれた。陣笠をかぶり、槍をついた足軽である。
「逃げれば、みなを呼ぶぞ。――待ってくれ、話がある」
篝火の遠あかりにすかしてみると、やせこけた貧相な小男であった。ただ、眼つきだけは飢えた犬みたいにするどい。
「おれは、当家の執《しつ》権《けん》松田尾張守さまの手のものだ。――いまこれを通りすぎた足軽組にまじっていたのだが、おまえたちの様子がおかしいから、矢倉の陰に廻ってきいておったのだ。ああいや、おまえたちが香具師であることはよくわかっておる」
「で、何の御用で?」
と、ほっとしたように夜狩りのとろ盛がいった。足軽は妙な笑いをうかべて、
「おまえたち、麻也姫さまに惚れたのか?」
「――惚れた?」
七人はまた顔を見合わせたが、すぐにいっせいにうなずいて、
「まあ……そうでやんす!」
「よくわかる。あれだけ水ぎわだった美《び》姫《き》は、関《かん》八《はつ》州《しゆう》ひろしといえどもまたとはあるまい。おれも、ひと目見て、気が遠くなるほどであった。まして香具師の分《ぶん》際《ざい》であの姫君に懸《け》想《そう》するとは、まるでオケラが月輪へ飛ぼうとするようなものだ」
「――けっ、オケラ?」
「せめて、あのお顔をおそばちかく見る身分になりたいが――何といっても一城の姫君、しかも、あの美しさで、当代まれにみる勇婦らしいぞ」
「――勇婦、へっ、それは、いやというほど――いや、ようく存じております」
「いま、そこの爺いが、麻也姫さまが伊豆をさまよっておられたのをいぶかしんでいたようだが、あれは麻也姫さまの志願でな、なんでも小《こ》城《じろ》の攻め具合、守り具合を修行のため、伊豆の下田城を見学にゆかれたそうな。どうせ上方勢は岩槻の城にも攻めかかるだろうからな」
「へへえ」
「それほど勇ましい姫君だ。まして風摩組の三人の忍者が護っておる。なかなか近づくのはむずかしいぞ」
「…………」
「ただ一つ、方法がある」
「どんな方法が」
「北条家に奉公することじゃ」
「いや、おれたちゃ、侍《さむらい》奉公は――」
「まあ待て、かたっ苦しい侍奉公は性《しよう》に合わないというのだろう。わかるわかる、いや、侍になったところで――大きな声ではいえないが、この小田原の命脈がいつまで持つかもわからないし、第一、おいそれと岩槻城へ廻れるというものでもない。おれのいうのは、忍者奉公をせぬかということだ」
「忍者?」
「忍者なれば、その奉公ぶり出処進退は自由自在だ。いくさに負ければ雲を霞《かすみ》と逃げられるし、ふだんの褒《ほう》美《び》もタップリとある。非常にワリがいい。願いによっては、あの三人の風摩組と交替して、麻也姫さまの守護役になれる可能性もある。――」
「忍者? しかし、おれたちゃ忍術なんて爪の垢ほども知らねえんです」
「なに、はじめからだれも忍びの術にたけておる者はおらん。そこが修行じゃ。……実はな、このおれはいま北条家の足軽をしておるが、ほんとうのところは忍者志願でな。生まれは信《しな》濃《の》の山中で、童《わつぱ》のころから飛んだり跳ねたりするのは得意であったが、もとより忍法とまではゆかない。それでも音にきこえた風摩組を慕《した》って小田原へ来て、一応足軽奉公はしたものの、つくづく見ていて、忍法者の待遇がやけによいのを見ると、心はやたけにはやり……」
飢えた犬みたいな眼が、いっそうギラギラと熱っぽくひかった。
「まさか、おれは麻也姫さままでは望まんが、大将連の奥方や姫君をのぞけば……忍者の褒美は、金、物はもとより、女ならばよりどり見どりらしい」
「へへえ、よりどり見どり――」
馬左衛門が身をのり出した。
「左様、そういう噂だ。それを見聞きして、おれはひそかに、忍びの訓練をつづけてきた。……」
というと、彼は槍を支えて、ぶんとうしろの矢倉の壁にはねあがった。
槍と壁のあいだに、人間の橋がかかったようにみえたかと思うと、槍は手から離れて地に倒れた。が――彼のからだは落ちない。足を壁に吸いつけたまま水平に浮かびあがって、そのままヒタヒタと歩き出した。
「いいおくれたが、おれの名は南《なん》条《じよう》練《れん》平《ぺい》ってんだ」
足軽練平は四、五尺壁を横歩きして、とんと地上に降り立った。はじめて彼が、いつのまにかわらじをぬいで、はだしになっていることに気がついた。
「どうだ」
眼をまるくして見まもっていた七人の香具師は手をふった。
「えらいわざでござんすね」
「なに、こんなわざは何でもない。足裏の肉をのびちぢみさせて、章《た》魚《こ》のような吸盤をつくればよいのだ」
と、練平は黄色い歯をむいて笑った。
「おまえたちなら、それほど苦労なくこれくらいのことはできるようになるとおれは見る。おまえたちの体さばきには、軽《けい》捷《しよう》、精《せい》悍《かん》、なかなか素質があると見たぞ」
「冗談じゃねえ。とてもとても、そんな真《ま》似《ね》はおれたちにゃできねえですよ」
「そこが修行じゃ」
練平は、声をひそめた。
「おまえら、風摩組を知っておるか?」
「風摩組、名だけは」
「天下にきこえた北条家の忍び組だ。おれはそれに入りたいのだ」
「あんなわざがあるなら、たやすい御用でござんしょうが」
「いや、風摩の忍びの術はあんなものではない」
七人はまた顔を見合わせた。先日、伊豆で見たあの六部の凄《せい》絶《ぜつ》とも幻妖とも形容を絶した秘技を思い出したのだ。
「ひとりでは心ぼそい。おまえらといっしょに志願したい、どうじゃ、仲間にならぬか?」
「仲間に――」
「すこし、考えるところがあって、おれはしばらく足軽という身分をかくしたい。おまえらとおなじ香具師の仲間として志願したいのだ」
「どうしたら、その風摩組に入れるんで?」
「今夜――もう半《はん》刻《とき》もたたぬうちに、風摩組の頭領風摩小太郎どのが、あそこの陣屋に参られる。あそこの陣屋には御家老松田尾張守さまが先刻からお待ちかねじゃ。その風摩どのが辞《じ》去《きよ》される際、待ち受けて願いあげるのだ」
「きいてくれますかね?」
「きいてくれると思う。いま忍びの者は大忙しで、何人あっても足りぬからの。うまく風摩組に入れて、修行をして、いささかの手柄でもたてれば、それ、いま申した通り、金、物、女は望み次第だぞ。……志願して、だめならもともとではないか。よいな、承知してくれるな?」
「旦那、しかし、おれたちの仲間になるったって――」
「いや、きのうごろからおまえたちを見ていて、思案していたことだ。香具師の衣裳もひそかに支度してある。――よいか、待っておってくれよ。おれはすぐ来る」
と、足軽は闇の彼方へ駆け出した。
七人はぽかんと口をあけて、それを見送って、
「へんな野郎じゃあねえかよ」
「おい、それにしても、みんなほんとに忍術使いになる気かね」
「女はよりどり見どりといったっけが――」
「そのまえに、北条家の女を女《ナオ》散《ち》らしにしたことがばれたらどうするんだ」
「しかし風摩組に入って――あの、槍で刺されても抜けばもと通り、からだをバラバラに斬られても、あとでつなげばもと通り――ってなことができるようになったら――」
「夜這いにいって、見つかっても好都合だな」
「あれだけ残して、雲を霞と逃げてしまう。あとで探して、ひろってくればいい」
「馬左衛門なら、探してひろうどころかかついでくる口だな。みんな、かついでるのアいったいいかなる代《しろ》物《もの》だと眼をまるくする」
「冗談はさておいて、おい、ほんとに忍術使いになるつもりか? 箱根で見たような、あんな死にざまをする忍術使いだってあるんだぜ」
このあいだ、ずっと黙っていた昼寝睾丸斎がやおらいった。
「それも手だな」
「何が手だ」
「いまの奴のいった通りよ。風摩組に入れば、あの麻也姫に近づく機会がずんとあるかもしれんぞ」
「箱根と伊豆の女《ナオ》散《ち》らしの件はどうする?」
「箱根じゃこっちは足軽に化けていたからの、げんにいままで誰も気がつかないじゃないか。伊豆では、例の六部たちしか、北条方ではおれたちのしたことを知った奴はいねえ」
「しかし、麻也姫に近づいて――その三人に見つかったときはどうする?」
「……何、あやまってしまえばよろしい。そのときは一応味方ということになっておるのだからな。――とにかく麻也姫に近づかなくちゃ、手を出すことも足を出すこともできねえ。要するに、さらっちまえば、こっちのものじゃ。忍術使いに化けて、忍術使いをだます。これ香具《や》師《し》道《どう》の真《しん》髄《ずい》ではないか?」
「化けるのが、たいへんだぜえ」
「そこが、要領よ。要領のいいのは、みんなお手のものじゃろうが」
「そういわれりゃ、そんな気がしてきた。――おや、雨になりやがった。あの忍術志願の足軽め、ほんとに――来やがったようだぜ!」
「おどろいたな、こちとらと、おんなじ恰好をしてやがる!」
――数刻の後である。
陣屋から出てきた人馬の一隊の通る路《ろ》傍《ぼう》に、雨にうたれて八人の男が土下座していた。
「風摩小太郎さまでござりますか。何とぞ、われら香具師一同を、忍び組に入れて下され。必死の修行をいたしますれば、どうぞ、どうぞ。――」
ぬかるみから顔をあげてさけんだのは、例の足軽であった。
しころ頭巾をつけた馬上の風摩小太郎は、ジロリと八人の男を見下ろした。北条家|乱《らつ》波《ぱ》組の頭領である。馬が小さく見えるほどの巨人で、髪と髯《ひげ》と、顔じゅう毛に覆われたなかに、眼はまるで炬《たい》火《まつ》をともしたように赤くかがやいていた。
「参れ」
と、彼は牛の吼《ほ》えるようにいった。
小田原城の一《いつ》廓《かく》であった。
風摩組にとりかこまれて城に入るとき、天と地をつながんばかりの雨の大水柱に銀粉のごとくふちどられてそそり立つ天守閣を、まるで巨大な鉄甲の武者のように見あげて、「これは、えらいことを承知してしまった」と七人の香具師は後悔したが、もうおそかった。
「――どうなるのかね?」
臆病な夜狩りのとろ盛は、もう泣顔だ。
「ええ、まさか、殺しはすまい」
と、悪源太は肩をそびやかした。
さて、東西南北もわからないその一廓に入ったとき、彼らは眼を見張った。
あの闇《あん》天《てん》にそびえる巨人の鎧《よろい》武《む》者《しや》のようなこの城の中に、こんな花園があると、だれが想像しようか。
風摩小太郎はどこかに消え、やはりしころ頭巾をかぶった武者のひとりが彼らを案内して歩いていたが、廊下を通るとき、わざと唐《から》紙《かみ》をあけて、その座敷をのぞかせたのだ。
三十畳敷あまりのその座敷は、まさに酒池肉林であった。床に畳はしいてあるが、両側は石壁になっていて、そこにつらなる短《たん》檠《けい》が、花のようにもえていた。そして、その下に、数十人のはだかの女がもつれあいながら、うごいているのだ。
「やあ……男がいる」
息をのんで見まもる八人のなかで、やっと義《よし》経《つね》がさけんだ。
チラチラする青黒い肌をさがすと、男は五、六人いた。その男ひとりに七、八人ずつの女が群《む》れているのだ。酒をのませている女がある。肩をもんでいる女がある。大の字になった男の全身に口づけしている女たちがある。女を三人ばかり仰むけに寝させて、その上に腹這いになって煙草をのんでいる男もあった。
「御用をすませて戻ってきた風摩の者どもじゃ」
と、案内の男はいって、唐紙をしめて歩き出した。
いっせいに香具師たちの生唾をのむ音がきこえ、とろ盛が源太の脇腹をつついた。
「源太、やっぱり来てよかったな。ええ?」
「けっ、げんきんな野郎だ」
「……あれをみると、野ッ原でヨツにカマっておるおれたちのざまはなんともわびしいの」
憮《ぶ》然《ぜん》として、陣虚兵衛がいった。
案内者は廊下の端から下へ降りてゆく。石段になっていた。――そして、彼らは地底の巨大な石室につれこまれたのである。
「そこで、待っておれ」
と、案内者がいって、向いの壁の方へ歩いていった。壁は石垣をつんだようななめらかな石から出来ている。その隅に天井から垂れ下った鉄の鎖を、彼はひいた。
鳴ったのは、鉄の鎖の触れあうひびきだけであった。――音もなく、その壁の石がうごいたのだ。何かを軸として、十個ばかりの石が廻転して、そこにそれだけの数の穴を洞《どう》然《ぜん》とあけたのである。
まんなかから出てきたのは、風摩小太郎の魁《かい》偉《い》な姿であったが、他の処から出てきたのは、八人の女であった。いずれも黒髪をながくたれたのみの一糸もまとわぬ姿で、しかもことごとくが艶《えん》然《ぜん》たる嬌《きよう》笑《しよう》をたたえた美しい女であった。
「……しめた」
と、義経がささやいた。
「こうこなくちゃうそだ。風摩組新参への御祝儀らしい」
「うぬら、みな男のしるしを出せ」
と、風摩小太郎が、ニヤリともせずいった。
「男のしるしを出せ?……待ってましたといいてえが、あんな鍾《しよう》馗《き》みたいなのがにらんでちゃだめだ」
と、義経がまたつぶやいたとき、風摩小太郎は大《だい》喝《かつ》した。
「忍び組に入れるかどうか試すのだ!」
彼らはびっくりして、いっせいに命令のままに従った。
「鈴をつけよ」
すると、八人の女がすすみ出た。手に、赤い糸につけた金色の鈴をさげている。
「鈴が一番高く鳴った奴をよいとはいわぬ。鳴らなんだ奴がよいとも申さぬ。忍者は絶《ぜつ》倫《りん》の精気をもつことを要し、また女色に心を奪われぬことを要する。うぬらが果たして乱《らつ》波《ぱ》になれるかどうかの判断はおれがする。みな、両手をあげ、腰をかがめろ」
このとき、女たちは腰をかがめた八人の男の肩に両腕をなげかけ、ひたとその口に吸いついた。
女たちは、吸いついた唇を、蛭《ひる》のように輪にして、微妙にうごめかした。その刹《せつ》那《な》、天井に二すじの金と赤との虹《にじ》がたばしり昇った。
八人の男は、下半身の異常もさることながら、おのれの口中の異変に胆《きも》をつぶしていた。舌がヌルリと女の口の中へ吸いこまれるのを感じたからだ。それは抵抗しようにも抵抗のできない吸引――吸引というより移動であった。
まさに、完全な移動だ。すうと白い蛇のように八人の女は離れた。その時八人の男は、じぶんの口の中にじぶんの舌がなくなっているのに気がついたのである。
「……あっ」
という声さえ出ない。
八人の男は、茫《ぼう》然《ぜん》として仁王立ちになって行列している。弁慶と馬左衛門の股間には鈴がない。さっき天井にふりとばしたのは、この両人であった。
「音をたてなんだのは、一番右の奴と一番左の奴じゃな」
と、風摩小太郎はいった。
一番右の奴は悪源太で、一番左の男は例の足軽南条練平であった。
「では、一番、右の奴から名乗れ」
「おれは香具師の悪源太|助《すけ》平《ひら》」
悪源太は仰《ぎよう》天《てん》した。名乗ったのはじぶんではない。じぶんの前に立っている女だ。そのなまめかしく美しい唇から、しかし彼にまちがいのない声が野ぶとく出てくるのであった。
「おれの投げ槍は、空飛ぶ鳥さえ落とす――」
「次」
「おれは昼寝睾丸斎、女の腹の上でつらつら案ずれば、その軍略は諸《しよ》葛《かつ》孔《こう》明《めい》もはだし。――」
「次」
「おれは七郎義経。仲間でいちばんいい男」
「次」
「おれは陣虚兵衛。スリをやらせれば日本一だが、世の中はつまらん」
声は、それぞれの前に立つ女の唇から出る。
「おれは弁慶、力は十人力。南《な》無《む》阿《あ》弥《み》陀《だ》仏《ぶつ》」
「次」
「おれは夜狩りのとろ盛。女を抱いて、いいところへゆくとおれは泣く」
「次」
「おれは馬左衛門。見た通りだ。おどろいたか」
「次」
「おれは豊臣方|石《いし》田《だ》治《じ》部《ぶの》少輔《しよう》配下の忍者、伊賀者|青《あお》歯《ば》助十郎。――」
いったのは、足軽練平の前の女だ。女がスルスルとさがり、代って先刻案内してきた男が、顔色紙のごとき南条練平の前に立った。
風摩小太郎があごをしゃくった。
「風摩責めにかけて、吐かせるだけ吐かして成敗せよ」
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麻也姫様はお嫁入り
風摩組の男が、伊賀者青歯助十郎をつれ去ろうとするのを、
「おまえもゆけ」
と、風摩小太郎は、助十郎の舌を吸いとった女にいった。
「いって、石田治部輩下の忍び組について白状させろ。――それからの、風摩責めにかけて成敗するより、黒犬に変えて追い返してやろう。その方が面白いわ。犬に変えたら、毛を持って来い」
風摩組の男と女は、おじぎをした。突如として青歯助十郎は躍《おど》りあがって逃げようとしたが、相《あい》対《たい》した男の右手が電光のごとくうごくと、その手から鏘《しよう》然《ぜん》と金属的な唸りがたばしり出て、助十郎のくびに黒いものがからみついた。
「もはや逃れられぬ。来い!」
くびにからみついたのは、細いが、たしかに鉄の鎖であった。
青歯助十郎は、わずかに刀の柄《つか》に手をかけたが、それだけのことで、凄《すさま》じい苦悶の形《ぎよう》相《そう》になって、ヨロヨロと曳かれ出した。風摩組の男は、鎖をにぎったまま、あとをふりかえりもせず、さっさと歩く。くびを絞めつける鎖に、掌《しよう》中《ちゆう》の脈《みやく》搏《はく》が伝わるらしく、相手の自由を完全に奪っていることに、よほど自信があるらしい。
三人は、向うにあいた石壁の穴の一つに入った。石が廻って、三人の姿を忽《こつ》然《ぜん》と消した。
七人の香具師は完《かん》膚《ぷ》なきまでに心《しん》胆《たん》を奪われて、ぽかんと口をあけて整列したままだ。その口の中には、舌がない。
――どうやら、あの足軽は上方勢のうちの忍びの者だったらしい。
――小田原にもぐりこんで、まんまと北条家の足軽にまでは化けたが、もひとつ欲を出して、風摩組に入ろうとして、見破られたのだな。
――あいつを、黒犬に変えるとかいいやがったな。黒犬とは何だ?
――それにしても、おれたちの舌はどうなっちまったんだ?
――この女たちめ、おれたちの声でものをいいやがった。しかも、おれたちの素性を真っ正直に。
そんな発見、疑問、驚《きよう》愕《がく》、恐怖は脳中につむじ風のごとく渦まいているのだが、舌がないのだから言葉にはならず、だいいちからだが動かない。
「わかったか」
風摩組首領、風摩小太郎はいった。
「きゃつめ、未熟者だけあって、さすがにひとりで風摩組に入るのには懸《け》念《ねん》があったらしい。そこでうぬらを盾《たて》にして、それにまぎれて入ってきたのだ」
「…………」
「それにしても石田治部という男、寺小姓あがりの俄《にわ》か大名、たしかまだ三十前後の若《じやく》輩《はい》のはずだが、ともかくも忍びの者を風摩組に入れようとするのは、笑止ではあるが、いささか見どころがないでもない。――さすがは、若年にして猿面の五奉行の一人にとりたてられるだけのことはある」
「…………」
「いまの男、忍者の常道として舌をかみ切っても白状すまいとするだろうが、きのどくなことに、かむ舌がない。本人がしゃべりたくなくとも、舌をとった女がしゃべる」
「…………」
「しかし、うぬら、舌をとられても、素性を吐いたおかげで命が助かったのだぞ。うぬらが正真正銘、生まれながらの香具《や》師《し》であることが知れたからじゃ」
「…………」
「ところで、そこの悪源太と申す奴。うぬだけは鈴を鳴らさなんだな。この女たちに口を吸われ、舌を吸われて股間の鈴を鳴らさなんだ奴は珍しい。いまの忍者はおのれのうしろ暗いところがあるだけに、すでに気が萎《な》えておったか、或いはあれでも忍びの者だけあって、必死におさえたらしいが、これ悪源太とやら、うぬは面《つら》 魂《だましい》だけはなかなかじゃが、どうして鈴を鳴らさなんだ」
「…………」
「いや、これはうぬにきいてもものがいえぬか。では、おまえ、しゃべれ」
と、風摩小太郎は、悪源太のまえの女にあごをしゃくった。
「てやがんでえ。牛じゃああるめえし、そう他人の思《おも》惑《わく》通りに気分を出してたまるものかってんだ」
と、その女が、悪源太の声でしゃべり出した。
「てめえの気持がわかったから、死物狂いにおさえたんだ。まだ女に負けたことのねえおれだ。こんな女に負けてたまるもんか」
そうしゃべりながら、女の顔が怒りに蒼《あお》ざめてきた。
「生意気におれをひっかけようとしやがって、どっちがひっかかるか、あとで泣き顔して追っかけてきたって、おれは知らねえぞ」
風摩小太郎はじっと悪源太の眼をながめている。瞳《どう》孔《こう》の奥までつらぬくような眼光であった。
「それだけか? それだけではあるまい」
「もう一つ。――」
女がいう。このとき、ふしぎに悪源太の頬が、珍しくぽうとあかくなった。
「おいらは、さっき、麻也姫って女のことを思い出していたんだ。鈴を鳴らさせたかったら――」
悪源太は、あわてて手をのばして女の口をふさごうとしたが、女は二、三歩さがって、声をつづけた。
「あのお姫さまのところへつれてゆけ」
風摩小太郎が何かいおうとしたとき、正面の石壁がまたうごいて穴があき、そこから三人の男女が出てきた。三人の――いや、女は衣服をまとっていたが、代りにひとりの男は犬のように裸にされて、四つン這《ば》いに這ってきた。
四つン這いに這っているのは、伊賀者青歯助十郎であった。
その這い方が――いったいどうしたのか、たんに威《い》嚇《かく》や強制で四つン這いになっているようではない。どこかの筋を切られたのか、起《た》とうとしても直立できない風なのだ。いや、そんな不自由なうごきではなく、這うのが自然な、まるで犬のような四足の歩行であった。そして、そのくびには、依然として鎖がつながっていた。
女は手に大きな皿をささげていた。その上に黒いものがうずたかく盛られている。はじめそれがいったい何なのか見当もつかなかったが、まもなく切りきざんだ髪の毛らしい、とわかった。
「ここへ」
と、風摩小太郎はいって、女から皿を受けとり、その髪の毛をつかんで口にふくんだ。風摩組の男は、四つン這いの青歯助十郎を曳いてきて、いきなりその背中にむずと土足をかけて踏み下ろした。助十郎は蛙みたいにピシャリと石の床にのびた。
同時に、風摩小太郎の口から、シューッと黒い霧みたいなものが噴《ふん》出《しゆつ》した。いまの髪の毛だ。ひと吹き吹くと、皿の髪の毛をつかんで頬張り、また吹きつける。
青歯助十郎の背中、腰、尻、足が、みるみる黒く染まってゆく。いや、染まるのではない。皮膚全面に吹きつけられた髪の毛が、そのまま生えたように植わってゆくのだ。
「これ、特別の慈《じ》悲《ひ》を以て、命だけは助けてとらす。いや、その姿でぶじこの城から、寄《よせ》手《て》の陣へかえれたら、命びろいしたと思え、石田治部のところへかえったら、その姿を主人に見せろ」
風摩組の男は鎖をはたいた。助十郎は、こんどはあおむけにひっくりかえった。
「風摩組に潜入して、北条方を探ろうなど、片腹いたい望みを起した主人に、二度と左様な望みを起さぬように、たしかにその姿を見せてやるのだぞ」
また髪の毛が、伊賀の忍者に吹きつけられる。腹から胸、そして顔までも容《よう》赦《しや》もなく。――
「未《み》来《らい》永《えい》劫《ごう》、犬になれ」
恐るべき植毛術は終った。
「城から追いはなせ」
と、風摩小太郎はいった。風摩組の男は、四つン這いの青歯助十郎を鎖で曳いて、この地下の石《いし》室《むろ》から出ていった。――それは人間ではない。全身くまなく毛を生やした犬以外の何者でもない。黒犬だ。まさに黒犬だ。
「――さて」
と、風摩小太郎は、七人の香具師の方へむきなおった。
「うぬらに話がある。――とはいうものの、舌がなくて、吹きかえの女を通して話をするのはやはりもどかしいの。もうよいから、舌をもどしてやれ」
七人の裸の女は、香具師たちのまえに進んだ。いっせいに片腕があがると、白い蛇のように香具師たちのくびにかかる。まるで意志を失ったもののように、男たちの首がうつむくと、女たちは顔をあげて、ふたたびひたと口に口をつけた。
なんという柔かく肉感的な女の唇だろう。七人の香具師は、いままでさんざん女の口は吸ってきたはずだが、こんなになまめかしい唇のうごめきはまだ経験したことがないようであった。男たちの歯は、貝殻のようにひらいた。すると、そのあいだから、貝の肉のような舌が入ってきた。
……リ、リ、リ、リ、と鈴が鳴った。たった一つ。
女たちは離れた。七人の香具師は、はじめてじぶんたちの口の中に、おのれの舌がもどっていることに気がついた。
「鳴ったな」
と、風摩小太郎が悪源太を見た。
あとの連中の鈴は鳴らない。第一回の接吻のとき、鈴を天井までふりとばした弁慶と馬左衛門は鳴らしようもないが、昼寝睾丸斎、夜狩りのとろ盛、陣虚兵衛、七郎義経らは完全に心萎《な》え、胆《きも》がつぶれて、もはや鈴を鳴らす気力を喪《そう》失《しつ》しているのに、こんどばかりは悪源太の鈴だけが鳴ったのだ。
「こんどはどうした」
「みんな鳴らさねえから、鳴らしてやったんだ。ざまを見ろ」
と、悪源太は息をきらしながらいった。――この悪《あく》態《たい》に、ふしぎなことに恐るべき風摩小太郎は怒《ど》色《しよく》をみせず、ニンガリと笑った。
「へそまがりめ」
と、つぶやいて、
「しかし、うぬは見どころがあるぞ。いや、うぬばかりではない。ほかの六人も――先刻はいとも盛大に鈴を鳴り騒がしおったが、あれはあれで、なかなか立派である。実は、うぬらの根性を見たいと思うて、茎《くき》鈴《すず》の験《ため》しを試みたのじゃ」
彼は烱《けい》々《けい》たる眼で七人を見まわした。
「うぬらは、まさにまぎれもない香具師だ。敵の送りこんできた乱《らつ》波《ぱ》ではない。しかし、香具師にしておくにはもったいない度胸をもっておる。――いま、北条家では乱波が欲しい。幾人でも、忍びの者が欲しい。欲しいが、いかなる人間でも、乱波、忍者とするわけにはゆかぬ。その人間に能がそなわっておらねば、なりたくともなり得ないし、またそれが実戦の役に立つまでには容易ならぬ修行をつまねばならぬゆえ、常人以上の根性が要る。――その条件をうぬらはそなえておるようだ」
彼が、うすきみのわるい笑顔で近づいたので、すぐまえにいたさすがの弁慶もあとずさりをして、口のなかでつぶやいた。
「なむあみだぶつ」
「風摩組に入って、ひとつ手柄をたてれば、栄《えい》耀《よう》栄《えい》華《が》は望みのままだぞ。先刻、それは見たであろうが」
鬚《ひげ》の中から大ぶりな歯をみせられて、馬左衛門は蒼い顔をする。
「どうじゃ、風摩組に入らぬか?」
「――め、め、めっそうな」
顔をのぞきこまれて、夜狩りのとろ盛は歯をカチカチと鳴らし、金切声をはりあげた。
「とても、こんな恐ろしい組には、おれたちは」
「組に入れば、仲間じゃ。改めて、この風摩がたのむ」
順々に前を歩いて、立ちどまる。立ちどまられた義経は、のどをけくっと鳴らして、
「そればっかりは、かんべんしておくんなさい」
「さっきまでは、事と次第では風摩組に入ろうという山ッ気もあったが――」
と、陣虚兵衛が幽《ゆう》界《かい》からのような声を出す。
「娑《しや》婆《ば》はつまらんが、しかし忍者の世界よりはましだ。そのことがはじめてわかった」
「――きかねば、うぬらも犬に変えるぞ!」
と、風摩小太郎は恐ろしい声でいった。昼寝睾丸斎が手をふった。
「お言葉じゃが、風摩どの、馬でもむりに水をかうわけにはゆかん。いやな人間を忍びの組に入れても、ものの役にはたつまいが」
風摩小太郎は沈黙した。経験から、それがその通りであることを知っていたのだ。が、なおみれんらしく、
「うぬは?」
と、悪源太にきく。悪源太は仲間の顔を見まわして、
「おれは、何ならほんとうに風摩組に入ってもいいような気になってきたが――」
「お、おまえだけはきいてくれるか」
「しかし、仲間は五本の指だ。ひとりだけ離れることのできねえ掟だから、やっぱりよしますよ。――と断れば、あっしたちをバッサリやりますかね? 毛だらけの犬になることは御免こうむりてえが、若しどうしても生かしちゃおけねえってんなら、ガン首七つ、きれいにならべますが」
「……いや、左様なことはすまい」
思案ののち、風摩小太郎はくびをふった。
「おれは、おまえたちを見込んでおる。――」
「たいへんなものに見込まれたものだ」
と、とろ盛が小声でいった。
「おまえたちはひとまず城を出るがよい。しかしな、あとで――やはり風摩組に入ってもよいという気になったら――遠慮なく駆けつけて参れよ」
そのとき、外からさっきの風摩組の男が石段を下りてきた。黒犬に変身した青歯助十郎を放《ほう》逐《ちく》してきたとみえる。
「これ、このものどもを城から出してやれ」
と、風摩小太郎はいった。この首領の命令は絶対とみえて、配《はい》下《か》の顔には、そこばくの疑いも浮かばず、うなずいて眼でさしまねく。
七人の香具師は悪夢をかきはらうような手つきで、この恐怖の廓《くるわ》から逃げ出していった。――その七つの影が石段にかかったとき、
「……あっ、お待ち下さいまし。わたしもどうぞお供をさせて――」
ふいにひとりの女が、フラフラと走り出した。さっき悪源太と唇をあわせた女である。そのとき悪源太に侮辱されて、顔色をかえていた女なのに。
風摩小太郎はあっけにとられたようにそれを見送ったが、すぐに苛《か》烈《れつ》な表情になって、
「気でも狂いおったか。斬ってしまえ」
と、簡単にいって、正面の石壁の穴の方へ歩き出した。
七人の香具師はふりかえって、風摩組の男に袈《け》裟《さ》がけに斬り下げられた女の血けむりの彼方に、ほかの女たちを従えた風摩組首領の姿が壁に消え、そして石が廻って、そこに何者の姿もとどめないのを見た。
――白《しろ》綸《りん》子《ず》のかいどりをながくひいて、武《ぶ》州《しゆう》岩《いわ》槻《つき》城《じよう》の奥ふかく、廻り縁をひとりの姫君が、楚《そ》々《そ》と蓮《れん》歩《ぽ》をはこんでいった。
関八州周辺の諸城では戦雲があわただしいが、さすがに武蔵野のまっただなかともいうべきこの岩槻城あたりには、まだ無情な陣《じん》鼓《こ》や鉄《てつ》蹄《てい》のひびきはなく、庭の青葉に吹く風も、池の水にうつる雲も、ものういばかりの晩春のしずけさをたたえているようであった。桜はとうに散ったが、どこからか花の匂いがしていた。
しかし、いま渡《わた》殿《どの》をあゆんでゆく白い姫君の姿のまえには、その風も水も花も、ひかりと香気を失ったようにみえる。
岩槻城主、太田源五郎|資《すけ》房《ふさ》の妹、麻《ま》也《や》姫《ひめ》さまである。
この姫君が、ほんの十日ばかり前まで、男のような六部姿で上方勢のひしめく伊豆の街道を悠然とあるいていたり、また闇夜の雨をついて、小田原から岩槻まで、敵の哨《しよう》戒《かい》線《せん》を突破して黒衣の騎馬で駆けもどってきたりしたひとと同一人とは、だれが想像できるであろう。
いま、彼女は、世にもしおらしい。――それも当然だ。麻也姫さまは、これからお嫁入りするところなのであった。
すでに美《び》々《び》しい婚礼の道具や音《いん》物《もつ》を満載した馬や輿《こし》は、城の大手門の内外につらなって、待っている。――
ところで、このときにいたって、麻也姫さまがなお城の奥へ歩んでゆくのは、祖父の三《さん》楽《らく》斎《さい》に別れの挨拶をするためであった。
娘ではない、孫である。
いや、別れの挨拶はすでにいくたびかした。それでも彼女は、もういちどお祖《じ》父《い》さまに、ただひとりで逢いたい。――そのために、わざと侍女たちを制して、彼女はひとりで歩いてゆく。
――麻也姫さまは、ことし六十五になる祖父の三楽斎が大好きであったし、また三楽斎もこの孫娘を、嫡孫の資房よりも愛している風であった。
――麻也姫が祖父の座敷に入っていったとき、三楽斎は反対側の縁に立って、青い庭園をながめていた。孫娘が入ってきた気配はわかるはずなのに、ふりかえりもせず、じっと立っている。
庭には、数十頭の犬が、まるで置物みたいに地に這って、じっと老人を見あげていた。
この祖父が、曾《かつ》て関八州、風になびく穂すすきのように北条家の威《い》に伏した中に、ただひとり長く抵抗して、いくたびか北条家に眼にものみせたという昔の武《ぶ》辺《へん》咄《ばなし》をきいて、麻也姫はそれを無上の誇りに思い、六十を半ばこえてなお衰えぬ武勇と叛《はん》骨《こつ》の風貌を、憧憬と尊敬の瞳でながめてきたものであったが、いまはじめてその背に老いと哀しみの影を見たような気がした。
「お祖《じ》父《い》さま」
呼びかけた彼女の声はうるんでいる。しずかに坐って両手をつかえ、
「麻也は参ります。……ながいあいだ、おいつくしみ下されまして、麻也は……」
と、いいかけて、あとは涙でききとれなくなった。気性だけは、女にお生まれ遊ばしたのが惜しい――とだれしもがいう麻也が、この祖父のまえばかりは、甘えん坊の孫娘となる。
「もうゆくか」
三楽斎はやっとふりかえり、それっきりだまって麻也の姿を見下ろした。雪のような白い髯《ひげ》にうずまった顔である。この狷《けん》介《かい》な老人が孫娘を見るときの眼を、家臣たちはほかに知らない。
「おかしいぞ、麻也」
髯がくしゃくしゃっと波うったかと思うと、わざと声を張り、三楽斎は笑った。
「どうせ、嫁にいってもいくさをせねばならぬ城の妻、いまのうちに城の護り方をよく学んでおこうと、わざわざ伊豆へいくさの見物に出かけたほどの奴が、いまさら泣くとは」
――この奇想天外、勇壮無比の花嫁修業を麻也が思いたったとき、兄の資房以下すべての人間がおどろきあわて、制止にかかったのは勿論のことであったが、その中で、ただひとり「よう考えた。やれやれ、やってやれ」とうなずき、ケシかけたのはこの三楽斎である。もっとも彼女に、北条から廻された三人の忍者を護衛役にしたのも彼であったが。――
「……はい、もう泣きませぬ」
麻也は顔をあげて、にっと笑った。
三楽斎はその笑顔をたべてしまいたいような表情で見まもり、かすれた声で、
「わしも、この城を出ようと思う」
「えっ、お祖《じ》父《い》さまが? どこへ?」
「――もはや、この城に麻也もおらぬしの」
「――けれど、それは」
「あはは、これは冗談じゃ。しかし城を出る心に変りはない。常陸《 ひ た ち》の方《かた》野《の》の館《やかた》への。どうせこの城も遠からずいくさになるが、こう老いぼれては、かえって資房の邪魔じゃ。あそこへでもいって、いくさのなりゆきを見物しておろう」
と、三楽斎はいった。
「おまえのゆく城も、やがて修《しゆ》羅《ら》の巷《ちまた》となろう。麻也、おまえのいくさぶりを、祖父は常陸で、とくと見おるぞ。――そのつもりで、嫁にゆけ」
――麻也姫の輿入れ先は、やはり武州ではあるが、北にあたる忍《おし》の城主、成《なり》田《た》左《さ》馬《まの》助《すけ》氏《うじ》長《なが》のところであった。
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花婿殿は御出陣
麻也姫は、じっと祖父を見あげている。
どうせこの岩《いわ》槻《つき》城《じよう》もいくさになる。じぶんがこれからお嫁にゆく忍《おし》城《じよう》も修羅の巷となろうと、祖父はいう。どちらも北条陣営の城だから、それに上方勢が攻めかかってくることは当然予想されることで、さればこそじぶんが城の攻防について伊豆方面のいくさを見学にいったのだが、わからないのは、いくさの名人といわれた祖父が、この城を捨てて、閑《かん》雲《うん》野《や》鶴《かく》を友とする生活に入りたいという気持だ。
「こう老《お》いぼれては、かえって邪魔だ」
と本人はいうけれど。
しかし、すぐに麻也は、祖父の心《しん》事《じ》を了解したような気がした。
そもそもこの三楽斎は、その半生を北条に抵抗して過してきた人である。さすがの北条|氏《うじ》康《やす》もこの孤城をもてあまし、ついに政略結婚の懐《かい》柔《じゆう》策《さく》に出た。三楽斎の嫡《ちやく》男《なん》氏《うじ》資《すけ》に、じぶんの妹を娶《めあわ》せたのである。三楽斎たるもの、氏康の下ごころを察せぬはずはないが、これでもこれを承《う》け入れたのは、やはり関八州の大勢は如何ともしがたく、ここらが手のうちどころと判断したからであろう。……が、いまや年を経《へ》て、その北条が上方勢に攻められるという事態を迎えて、彼の心境に複雑なものがあろうとは充分察しられることだ。少くとも、よろこび勇んで北条家のためにたたかうという気になれぬとしても、また当然だろう。
麻也はちがう、彼女はすでに北条の血をうけている。父はずっと以前に討死し、母もまたもはや世にないが、その母は氏康の妹であった。
三楽斎はその麻也の母をやさしい眼で見ていたけれど、母について小田原から来た家来などが、すこしでも実家の威権をかさにきようとすると、こっぱみじんにやっつけた。事実この老人は、いくさにかけては北条に一歩もゆずりはしなかったのだ。血はべつとして、麻也はこの祖父の頑固を痛快に思ったし、また祖父が北条という大敵を翻《ほん》弄《ろう》した武《ぶ》辺《へん》咄《ばなし》をよろこんできき、誇りに思った。
なぜ眇《びよう》たる小《こ》城《じろ》の三楽斎が、北条の大軍を悩ますことができたかというと、この点はどういうわけか祖父はあまり語りたがらないが、老臣たちの話によると、忍び組を巧妙に使ったらしい。「犬つかいの三楽」という異名もあったそうで、哨《しよう》戒《かい》や伝令に犬を活用したからであるが、たんに四つ足の犬ばかりでなく、二本足の忍びの者をも犬のごとく自在に駆使したからつけられた綽《あだ》名《な》らしい。
もっとも、麻也がものごころついたころには、犬はともかく忍者は城にはいなかった。こんどの麻也の伊豆めぐりには、かえって北条から派遣された三人の風摩組にその守護を頼んだくらいである。ただ忍者を護衛とするという知恵を出すところが、わずかに祖父の壮年時の体験をうかがわせたにすぎない。
血が呼ぶ北条家への愛と、その北条に叛《はん》骨《こつ》をみせた祖父への愛と――この二つの愛が一つの胸に同居して、それはそれ、これはこれと、麻也はいままでなんの矛盾もかんじなかったが、いま、
「わしはこの城を出て常陸《 ひ た ち》に隠《いん》栖《せい》する。おまえのゆく忍城もやがて修羅の巷になろうが、おまえのいくさぶりを、祖《じ》父《い》はとくと見物しておるぞ」
と、いともよそよそしくいってのけた三楽斎をふりあおいで、その気持もわかるが、はじめて何とも形容しがたい寂しさに襲われた。たんにここで、この祖父と別れるという寂しさではなく、運命そのものの別れのような。
思わず、すがりつくようにさけんだ。
「お祖《じ》父《い》さま、そんなことをおっしゃらないで。――若しこの城をお出《で》になりますなら、麻也といっしょに忍《おし》へいらして下さいまし」
「ばかなことをいう」
三楽斎は苦笑した。
「どこの国に、祖父《 じ じ い》つきの嫁をもらう奴があるか。……とはいえ、出来るものなら、わしもついてゆきたいがの。実は、わしがここを出る気になったのも、おまえのおらぬ城は、よけい住むのがつらい、それもある」
老人の顔に、素直な哀感が浮かんだ。この城で、この老人のこんな表情を見た者はほかにあるまい。――麻也の眼が、また涙に霞《かす》んだ。
「麻也」
その肩に、手をかけて、三楽斎はいう。
「おまえ、あの花婿どのは好きか?」
「…………」
「頼りになる男と思うておるか?」
麻也は顔をあげた。祖父のこの問いを不審に思い、見あげた眼には非難の色さえあった。
「いや、これはわしがわるかった。ちょいとからかってみたのじゃよ。気にするな、気にするな」
と、三楽斎は狼《ろう》狽《ばい》して、手をふった。しかし、その直前、麻也は祖父の眼に、たんなるからかいとは思えない、ひどく虚無的な影をみたのだ。
孫娘に凝《ぎよう》視《し》されて、三楽斎もしだいにまじめな表情に変っていった。そして、やおら、厳粛とすらきこえる声でいったのである。
「麻也、何が起ろうと、祖《じ》父《い》はおまえの味方であるぞ」
「――何が起ろうと――?」
百戦|錬《れん》磨《ま》の老人は、小さな声でつぶやいた。
「いくさというものは、色々なことが起るもので喃《のう》」
この岩槻の北の町はずれの旅《はた》籠《ご》屋《や》に、きのうから泊りこんでいる七人の香具《や》師《し》がある。
むろん後世の商人宿のようなものではなく、半農のむさくるしいもので、二階というより屋根裏にむしろをしいたような場所だが、七人は平気で、朝から車座になって酒をのみながら、ばくちをしている。――いや、ひとりは、はじめて来た町だから、ちょっと様子を見てくると出ていったから、正確にいえば六人だ。
行商人、焚《ぼ》論《ろん》字《じ》、雲《うん》水《すい》、猿《さる》廻《まわ》しなどとともに、香具師のたぐいもいままでに泊めたことがある。この連中も商品を入れた箱はもっているし、賽《さい》ころのころがるにつれて、永楽銭のちゃらつく音もきかせるし、旅籠の亭主もべつに彼らをとくに胡《う》乱《ろん》な連中だとは思っていなかった。
「おうい、酒だ酒だ」
そう呼ばれるたびに、ひとり娘を追いたてるようにして、酒と肴《さかな》を運ばせていたのである。
「やあ、ありがとう」
と、うなずいたのは、七郎|義《よし》経《つね》だ。彼はそのときひと休みして、ほかの連中の勝負を見物していた。外は初夏の蒼空のはずだが、天窓の油障子を通しておちるひかりは赤ちゃけている。
「せっかくだから、ひとつ酌をしてくんな」
賽ころのゆくえを眼で追いながら、義経は茶碗をつき出した。娘は一升徳利を両手でかかえて酌をしようとして、
「あれ」
と、小さな声をあげた。じぶんの手くびが、義経の茶碗をもっていない方の手で、ジンワリとにぎられたからであった。徳利をもっているので、ふりはらうこともできない。
「丁とゆけ、おい、丁とゆけ!」
義経は、賭《と》場《ば》の方へ声をかけながら、茶碗を口にもってゆく。一方の手では、ジリジリと娘をひきよせる。
「何をなさる」
娘の手から、徳利がおちた。徳利はたおれない。あぐらをかいた義経が、器用に両足ではさんで受けとめたからである。――茶碗をおくと、はじめてふりむいて、
「姐《ねえ》や、可愛い顔をしているなあ」
ニッとして、いきなり唇に吸いついてきた。空《あ》いた腕は、もう娘の背にまわって、強引に抱きしめている。
「あ……あれ、あれ」
顔をそむけて悲鳴をあげる口を追いかけてふさぎ、そのまま義経は娘をおしたおし、重なった。この動作のあいだにも、両足だけは徳利をはさんで、酒がこぼれないように、そっとはなれた場所に移動させたのだからまるで軽《かる》業《わざ》だ。
梯《はし》子《ご》段《だん》のすぐ下には、親《おや》父《じ》もおふくろもいるのだが、娘は声も出なかった。この男の美男ぶりには、宿に入ってきたときから眼をひかれてはいたのだが、娘がそれ以上悲鳴をあげなかったのは、むろんそのためではない。田舎娘ではあるが、まだおぼこだったし、その女みたいにやさしい顔をした男が、突如としてこんなけだものじみた行動に出ようとはまったく予想のほかで、おどろきのあまり声どころか息もとまりそうだったのだ。
すぐそばで花たばをひきちぎるような光景が展開されているのに、
「丁だ!」
「半!」
あとの五人の男は、わき目もふらず、壺を伏せ、壺をあけてわめいている。さっきより、いっそう喧《けん》騒《そう》がたかくなったようだ。娘は驚《きよう》愕《がく》からさめ、身をもがいたが、もがけばもがくほど男のからだはピッタリと巧みに吸いついてき、声をあげたが、男たちの叫《きよう》喚《かん》にかき消された。
「半だ、半とゆくぞ!」
義経がさけんで、起きあがったとき、娘はじんとしびれたような眼で天井を見ているだけだった。が、同時に、
「丁だ。丁とゆくぞ! なむあみだぶつ!」
さけんで、べつの男が――弁慶と呼ばれる大入道がフワと雲みたいにかぶさってきたので、狂気のごとくはね起きようとしたが、むだであった。
まるで、暴風だ。弁慶が立つと、間髪を入れず、陣虚兵衛がきた。虚兵衛がゆくと、夜《よ》狩《が》りのとろ盛《もり》が奇声を発してとんでくる。はては、もっともらしいどじょうひげをはやした昼《ひる》寝《ね》睾《こう》丸《がん》斎《さい》までが。
……あかちゃけた油障子の天窓のひかりの下に、娘の四肢は波のようにゆれ、ながれ、まるで白い泥みたいになってしまった。が、うつろな眼にも、
「たまらん。おれもひとつ工夫をして」
と、立ってきた馬左衛門のぶら下げている大怪物を見ると、ついに、
「きゃあ、助けて――」
と、身も世もあらぬ悲鳴をあげた。
そのとき、梯子段を、どどと音たててあがってくる音がした。弁慶が娘をひき起す。とろ盛が娘の裾をかき合わす。義経が娘の帯のあいだに永楽銭を二、三枚つきこむ。――それが電光石火の一瞬であった。
「たいへんだ」
六人は梯子段の方をふりかえって、いっせいに肩をおとした。
「なんだ、おめえか。……ここの親父かと思ったよ」
駆けあがってきたのは、それまで町に出ていた悪源太であった。この男には珍しく、顔色をかえている。
「何がたいへんなんだ」
と、義経にきかれて、何かいいかけたが、ふいに鼻をピクつかせてあたりを見まわし、娘に眼をやって、
「……やりやがったなあ」
と、いった。
娘はつっ伏して、背を波うたせてすすり泣きをしはじめている。悪源太はすぐに昂奮した表情をとりもどして、
「麻也姫がお嫁にゆく」
「えっ……どこへ?」
「忍《おし》だ。忍《おし》城《じよう》の成《なり》田《た》左《さ》馬《まの》助《すけ》って大名のところだってよ」
「へえ……いつ?」
「いまだ。行列が城から出た。まもなく、そこの往来を通る」
「――ところで、源太、それが何がたいへんなのじゃ」
と、睾丸斎にきかれて、悪源太はめんくらった顔になり、「はてな、そうきかれると、何がたいへんなのかおれにもわからねえ」とつぶやいたが、すぐに、
「いや、やっぱりたいへんだ。あいつの嫁入り前に、ヨツにカマってやりたかったからよ。……何、いまからでも遅くはねえぞ。追っかけよう」
「まず、その行列を物《もの》見《み》してくれん」
と、睾丸斎が仔《し》細《さい》らしくいった。
「そこの天窓から屋根に上れ」
「合点だ」
天窓の障子をしめる竹が壁の下にあった。それをとって障子をあけ、竿をたてかけて、悪源太はスルスルと這いのぼる。つづいて六人が猿《ましら》のように屋根に出た。
「……おおっ、きたぞ!」
茅《かや》葺《ぶき》屋根に七人腹這って、棟《むね》から顔の上半分だけのぞかせて、反対側の往来をのぞきこむ。
初夏の日光を黄《き》金《ん》色《いろ》にけぶらせて、行列がやってきた。長槍をつらねた足軽のむれは、田舎大名ながら、さすがにいかめしいが、直《ひた》垂《たれ》に風《かざ》折《おれ》烏《え》帽《ぼ》子《し》をつけて馬にゆられてゆく家来、シャナリシャナリと練りあるく市《いち》女《め》笠《がさ》にむしの垂《た》れ衣《ぎぬ》、また被《かず》衣《き》を羽織った女中たち、それに馬や車につけた引《ひき》出《で》物《もの》や諸道具の色どりのはなやかさは、戦国とはいえ、やはり姫君様のお嫁入りだ。
ただし、麻也姫の姿はみえない。屋根を翡《ひ》翠《すい》色《いろ》の布で張り、おなじ色に塗った簾《すだれ》を垂らした輿《こし》がそれらしい。――その左右に、真っ黒な馬をならべて従っている三人の武士があった。
輿は、旅《はた》籠《ご》の前にさしかかった。そのとき、騎馬の三人がジロリと眼をあげて屋根をながめたようであった。
「……わっ」
たんにくびをひっこめただけではない。まるで火の糸で顔をなでられたような感じで、七人はとびずさり、ひとかたまりになって天窓からころがりおちた。
「痛え!」
さすが軽《けい》捷《しよう》の七人も、もつれあって手足や腰をうって、しばらくは起きあがれない。――ゆがんだ顔を見合わせて、
「あいつらだな」
「やはり――」
「風摩組め、くっついてやがる!」
うめいたとき、壁ぎわで、わっと泣く声がした。旅籠の親父とおふくろが、いつのまにかあがってきて、泣きじゃくる娘をふしんに思っていろいろときいていたところへ、天窓から七人がふってきたので、胆をつぶしたのである。
「何、はっきりいってくれ、何をされたと?」
と、親父がこちらをにらみつけながら、娘の肩をゆすった。顔色が変っているところを見ると、二階の事件をやっと知ったらしい。
「亭主」
と、睾丸斎が腰をさすりながらいった。
「急用ができた。すぐ発《た》つぞ」
そういったときは、あとの連中は疾《しつ》風《ぷう》のようにそれぞれの持物をとって、梯子段をかけ下りようとしている。亭主は両腕をさしのばしてさけんだ。
「あっ、待ってくれ!……まだ木《き》賃《ちん》をもらっていねえ」
「木賃は娘さんにわたしてあらあ」
義経の声がかえってきたときには、二階にもう七人の香具師の姿はない。
旅籠代は娘にわたしてある?――してみると、さっき娘の帯にねじこんだのは、念仏講の慰謝料ではなかったのか。こんな危急の場合にも、いや恐れ入ったちゃっかり屋ではある。
――絹《きぬ》雪《ぼん》洞《ぼり》が夢のように淡く豪《ごう》奢《しや》な閨《ねや》を照らしている。
岩槻から北へ八里。――武州|忍《おし》城《じよう》の奥の一室に、花婿と花嫁はきちんと坐っていた。花嫁はもとよりふかぶかとうなだれて、春雨のけぶる池辺の白《しら》鷺《さぎ》のようであった。
実際この城は、渺《びよう》茫《ぼう》たる水の上にあるといっていい。東西南北、ひろい沼と無数の堀にかこまれて、大軍のかようすべもなく、関東七名城の一つといわれるのもむべなるかなだ。
曾《かつ》て室町時代の末、宗《そう》祇《ぎ》法師がこの城を訪れて、「あし鴨《かも》の汀《みぎわ》ばかりの常《つね》世《よ》かな」と詠《えい》じ、また、「水郷なり。館《やかた》のめぐり四方沼水、幾重ともなく、芦《あし》の霜枯れ、二十余町、四方へかけて、水鳥多く見えわたる」と註した通りだ。
ずっと後年の「甲《かつ》子《し》夜《や》話《わ》」にも「忍城は堀ことに多し、よって居住の士、城主のところに出仕するには、多く堀中を舟行して赴《おもむ》くとぞ」とある。
この城はもう百年もの昔の文明年間から、成田一族の居城であった。永《えい》禄《ろく》年間、上《うえ》杉《すぎ》謙《けん》信《しん》が鶴《つる》ケ岡《おか》社《しや》参《さん》の際、総門に侍《じ》していたここの城主の作法が無礼であるといって、扇でその烏《え》帽《ぼ》子《し》をうちおとした。城主は無念に思い、それ以来北条氏の麾《き》下《か》に属するようになった。
今宵、花嫁を迎えたのは、それより三代目の成田左馬助|氏《うじ》長《なが》であった。
色白で面長で――どこか、七郎義経に似たところもあるが、むろん香具師の義経などより、はるかに気品がある。武将というよりもお公《く》卿《げ》さまにちかい感じすらある貴公子だ。
いま――祝言の儀式を、すべて終え、初夜の閨に花嫁をそなえて、左馬助はまだこの花嫁についての伝説を信じきれない。女には惜しいほどの勇婦であるという噂を。
いちど、岩槻の城へ招かれて、この姫をひと目見たときから信じられなかったのだ。風にゆれる白百合のようなその姿をみて、彼は恋の虜《とりこ》となった。それ以来、主家の北条家に頼み、矢のような催促ののち、その口ききでやっと大願成就の今宵をむかえたのである。
……それでもまだ、これは夢ではないか、と疑いたくなるほどの花嫁のあえかな美しさに、左馬助は息もつまる思いで、
「麻也。……来やれ」
と、かすれた声で呼んだが、ふいに一刻も早くこの手でふれてたしかめねば、春の泡雪のように消えそうな不安に襲われて、すっと立つと、花嫁の前に坐った。
「顔をみせい」
おののく手をあごにかけて、そっとあおのかせると、姫もまたおののいていた。さくら色に染まった頬におちるまつげの翳《かげ》のふるえ、露にぬれた花びらのような唇のわななき。――この姫に土足で顔をふんづけられた悪源太がひと目これを見たら、卒倒するかもしれない。
「今宵より、そなたはわしの妻であるぞ。……」
「は、はい。……」
ほとんど必死ともいうべき声で、けなげにうなずく花嫁の吐息の春風のような匂わしさ。――たえかねて、左馬助がひしと抱きしめようとしたとき、どどっと遠くから表廊下を走ってくる跫《あし》音《おと》がした。
「殿、殿っ」
ただならぬ絶叫だ。
左馬助ははっとして顔をふりあげた。
「なんじゃ?」
「北条家よりの御使者でござりまする!」
「北条家より――こ、こ、この夜にか?」
すると、家臣ではない野ぶとい声がした。
「火急の用ゆえ、すぐさま推《すい》参《さん》いたし、恐れ入ってござる。殿。――拙者の声を御承知でござりましょうか」
「その声――。おお、風《ふう》摩《ま》小《こ》太《た》郎《ろう》じゃな」
「いかにも風摩めにござります。今宵、いそぎ忍《おし》に馳《は》せつけて参りましたは、即刻殿に小田原へお越しいただきたく――」
「何? わしに小田原へ?」
「されば、小田原にて重大なる軍議の要生じ、至急諸城の大名方に御参集ねがいたいとの執《しつ》権《けん》松田尾張守さまよりの使者として参上いたした。当城のみではござらぬ。関八州の北条方の諸大名みなみなさまも御同様にて、それぞれ風摩の者がお迎えに走っておりまする。殿には特にこの小太郎がお供仕りまする」
「……相わかった」
成田左馬助はあえぐようにいった。
「風摩、しかし……これは明朝にてはならぬことか?」
「それが、一刻をも争う火急の命にて、しかも、小田原を囲む上方勢は日毎に鉄環のきびしさを増し、さればこそわれら風摩のものどもが御役目を承わったようなわけで……若し諸大名参集のことが秀吉の耳に入ったときは、霞《かすみ》網《あみ》にかかる鳥と同様の運におち入るほかはござりませぬ」
声は凄《せい》然《ぜん》とひびいた。
「軍国の大事、何とぞ、すぐにこのままお立ち願わしゅう存じまする」
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女《ナオ》 蕩《コマシ》
忍《おし》川《かわ》堤《づつみ》は美しい葉桜であった。初夏の日ざしがその並木をもれる下を、市《いち》女《め》笠《がさ》をかぶったふたりの女がゆく。
「ああ」
ひとりが笠をあげて、樹のあいだから漫々とながれる忍川の水に見とれた。
「このようにしずかで美しい国が……やがていくさの巷《ちまた》になるのであろうか」
「御年寄さま、ほんとうにここにも上方勢が攻めてくるのですか」
と、うしろの女がいう。
「上方勢はまだ小田原の城を攻めあぐんでいるということでございますのに」
「小田原が難《なん》攻《こう》不《ふ》落《らく》なればこそ、上方勢はそれをとりつつんだまま、残りの軍勢で関東のまわりの北条方の諸城をしらみつぶしに攻め落としているということじゃ。もう江戸城も上《かず》総《さ》下《しも》総《うさ》の諸城も、上《こう》野《ずけ》の松井田城も落ちたらしい。――上方勢は、鉄の環をしめるように、だんだんとこの忍《おし》へも迫ってくる」
「それなのに、お城には殿さまがいらっしゃいませぬ」
「――しっ」
と、前の女は制した。うしろの女は周囲を見まわして、
「いいえ、だれもおりませぬ。……御年寄さま、殿さまは小田原へお呼び出しになったきり、そのままかえっていらっしゃいませぬ。きけば、関東の北条方の城のあるじはみな小田原へお集りとか。いくら小田原の本《ほん》城《じよう》が御大切にしろ、あとの城を主《あるじ》なしの空《から》にして、北条衆は何と思われているのでございましょう」
「……さ、そのような御《ご》軍《ぐん》配《ばい》は、わたしたちの知るところではありません」
「いったい忍の城に上方勢が攻めかけてきたら、どうなるのでしょう」
「……奥方さまがおいであそばす」
「奥方さま? お輿《こし》入《い》れなされてから、まだ十日たつやたたずの、あのお若い奥方さまが?」
女はケラケラと笑った。よくしゃべりたがる声のたちだ。
「お年寄さま、それに殿さまが小田原へおたちあそばしたのは御祝言の夜。……奥方さまは、まだお姫さまのままだという噂がありますが、ほんとうでございますか」
「――もしっ」
ふたりの女は、はっとして立ちどまり、ふりかえった。
ほんのいま、堤《つつみ》の上の道にはだれの姿もみえなかったのに忽《こつ》然《ぜん》としてひとりの男が立っていた。笠をかぶり、背にきれいに漆《うるし》塗《ぬ》りの箱を重ねて負《お》っているが、両肩にかけた紅の紐も美しく、どこか意気で、しゃれている。箱からみると、小間物売りらしい。――
しかし、ふたりの女はその小間物売りの姿より、顔の美しさに眼を吸われた。色が白く、唇が赤く、眼が蜜のように甘い。――それが、なよなよと腰をかがめて、
「もし。……その笄《こうがい》を落とされたのは、あなたさまではございませんか」
と、いった。はじめてふたりの女は路上にキラとひかっている一本の笄に気がついた。
「いいえ」
と、「御年寄」と呼ばれていた方がくびをふった。
「わたしたちのものではありません。おまえさまの品物ではありませぬか?」
「まさか……わたしどもの品物に、こんな上等の笄は」
小間物売りはかがみこんで、笄をひろった。チラと見たところでも、なるほど高価らしい銀の笄だ。
小間物売りは、手の中の笄をながめ、それから「御年寄」の方を見て、にっと白い歯をみせた。ふるいつきたいような笑顔であった。いきなり歩み寄ってくると、
「これは、あなたさまのような御《お》上《じよう》臈《ろう》がお挿《さ》しになることこそ、ふさわしゅうござります」
顔をわざとちかづけ、腕を「御年寄」のくびのうしろにまわすと、市女笠の下の髪に横に挿した。
「では、ごめんなすって下さいまし」
また腰をかがめると、タ、タ、タと、ゆきすぎて、みるみる街道のかなたへ消え去った。
ふたりの女は茫然として、歩くのも忘れてそこに立っている。――ややあって、女中がいった。
「いったい何者でござりましょう」
「見たところ、小間物売りのようであったが」
「まるで葉桜の精のように美しい男。……ああ、呼びとめておいたら、ようございましたね」
「呼びとめて、何としやる」
「お城へ呼んで」
「はしたないことをおいいでない。あのようにいやしい巷の物売り風《ふ》情《ぜい》を」
「でも、どこか……殿さまに似ていたではありませぬかえ」
「これ、たとえるにも人による。殿さまはもっと気品がおありあそばす」
「その代り、殿さまよりもっと色気がございます。……それが、まあ、御年寄さまのくびに手をまいて、甘ったるい声で、あなたさまにこそふさわしい、などと申してその笄を」
「あ。……」
女はくびのうしろに手をまわした。
「こんなものを挿して、どうしよう」
「かまいません。そのままさしていらっしゃいまし。まあ、ほんとうにきょうはよいお日《ひ》和《より》でございますね、御年寄さま」
女中は、ほ、ほ、ほうと口に手をあてて笑った。御年寄は眼で叱り、顔をあからめたが、手は髪にあてたままで、挿された笄をぬこうともしない。
「御年寄」とは呼ぶものの、これは奥女中の高級者の職名であって、べつに年齢的な意味はない。彼女も三十をややまわったばかり、姥《うば》ざくらながら、なかなか美しい。これは、忍城の奥に仕《つか》える時雨《 し ぐ れ》という女と、その婢《はしため》で、きょうは城下の寺詣りに出てきたものであった。
そのとき、並木の向うから、戛《かつ》々《かつ》と騎馬の武士がやってきた。黒《くろ》漆《うるし》をぬった陣笠に野羽織をきた侍で、ひとり大《おお》身《み》の槍をかついだ足軽がならんで走っている。
時雨と婢は、路のわきに寄って佇《たたず》んだ。
馬上の武士は、蹄《ひづめ》に土ほこりをあげさせて、ゆきすぎかけたが、ふいに馬首をくるりと廻し、
「待たれい!」
と、さけんだ。
歩き出そうとしていたふたりの女の前に、馬からとび下りた武士は、眼をひからせてちかづいてきた。
「御年寄の時雨どのですな」
時雨はうなずいて、相手をみた。浅黒い顔ながら、キリリとしまった若侍だ。城の武士にはちがいないが、名は知らない。もっとも奥むきにつかえる女が、城《しろ》 侍《ざむらい》の顔をいちいち知っているわけはない。
「失礼ながら、どこへおいでなさるか」
「長《ちよう》久《きゆう》寺《じ》へ詣《まい》って、その帰りでございますが」
時雨は怒りに顔を染めていた。「御年寄」のじぶんにむかって、若輩者のくせにぶれいな問いようと思ったのである。
「それがどうかいたしましたか」
「寺詣りはようござるが。……いまチラと見えたその笄、それはあなたさまのものでござりまするか」
時雨ははっと吐《と》胸《むね》をつかれた――。しかし、いま素《す》性《じよう》のしれぬ巷の物売りに、路上におちていたものを挿されたとは、体面上、絶対にいえなかった。
「わたしのものです」
と、彼女はいって、相手をにらんだ。
「それよりも、無礼ではありませんか。ひとにものをきいて、じぶんの名を名乗らぬとは。――お手前は、どなたですか」
「拙者は廻《まわ》り方《かた》目《め》付《つけ》の助《すけ》平《ひら》源《げん》太《た》左《ざ》衛《え》門《もん》と申すもの」
廻り方目付とは、密《みつ》行《こう》の憲兵ともいうべき職務だ。むろん、時雨などが知っているはずはない。ただし、密行というにしては、足軽に大《おお》身《み》の槍などかつがせて、ひどく堂々としている。
「それで?」
「もういちどおたずねするが、銀の笄は、しかとあなたさまのものでござるか?」
爛《らん》々《らん》たる眼光でにらみすえられて、時雨はおびえた。助平源太左衛門はまわりを見まわし、声をひそめた。
「その銀の笄は、実に容易ならぬものでござるぞ。ひとに見られ、ひとにきかれては一大事。……こちらにおいであれ」
――とんでもないことになってしまった! と、歯をかんだが、もうおそい。
時雨と婢《はしため》は胸も千《ち》々《ぢ》にみだれて、さきに立ってあるく助平源太左衛門のうしろに従った。馬が二本足でついてきた。――とみえたのは錯覚で、ほんものの馬は桜につなぎ、足軽がついてきたのだが、馬よりながい顔をした足軽であった。
街道からはなれた松林の中で、源太左衛門は立ちどまった。そして、時雨の姿を、実に無礼な眼でジロジロ見あげ、見下ろした。
「わたしの笄が、どうしたというのじゃ」
その眼つきにたまりかねたのと、不安とで、あえぐように時雨はいった。
「時雨さま。……城に殿さまがおわさぬことは御存じでござろうな」
廻り方目付は重々しくいい出した。時雨はうなずく。
「しかも、これは敵方には絶対秘密にせねばならぬことも」
「もとより」
「それを豊臣方の細《さい》作《さく》(間《かん》諜《ちよう》)が潜入してつきとめようとしております。しかも、城中の女をまどわせて、その口から探り出そうとしている様子」
「ま! 城中の女の……だれを?」
「それは、大《おお》目《め》付《つけ》のおゆるしなくば申せぬ」
「忍《おし》の城に仕える女に……敵にまどわされて城の秘事をうちあけるような女はひとりもおらぬはず」
「ところが、その女どもは敵のために刺《いれ》青《ずみ》されて、たとえ身は城中にあろうと逃れることのできぬ敵の虜《とりこ》となっておる様子」
「敵のために刺青されて?」
「されば、へその下に、淫《いん》、という文字を」
ふたりの女は顔を見合わせた。
「そ、そこまでわかっておって、なぜその女どもを成敗せぬのです」
「まさか、奥の女中衆をことごとく裸にして調べるわけにも参りますまい。いや、いささか考えあって、大目付の方ではいましばらく待たれておるのでござる。敵はもはや殿のおわさぬことを知ったことと存ずるが、なおその女どもをあやつって、城中の兵、武器、糧《りよう》食《しよく》、水の手、縄張りなどを探り出そうとしておるものと見受ける。――いましばし、その女どもを泳がせて、そのうち敵の細作もろとも一《いち》網《もう》打《だ》尽《じん》にひっくくれとの御下知で」
「だれじゃ、その女どもと申すは。……たとえ大目付が何と申されようとも、年寄としてわたしはそれを知っておかねばなりませぬ」
「おききなされ、時雨どの。……その女どもは城外に出たとき、敵の細作と連絡するのに、銀の笄《こうがい》を目じるしにするということまでわかっております」
「えっ」
「すなわち、銀の笄をさした女のいったあとを細作が追い、どこかで忍び逢う。――」
あらためて時雨は例の笄のことを思い出し、またこの廻り目付が眼をひからせてじぶんをここにひっぱってきた理由を知った。
「……では、あの小間物売りが!」
とめるまもなく、婢のお蝶が笛みたいな声でさけんだ。
「何、小間物売り?」
「ちがいます。いいえ、この笄は、さっきそこの堤で逢った見知らぬ物売りの男が、むりにわたしの髪に挿したもの――」
ついに、時雨は白状した。じぶんの受けている嫌《けん》疑《ぎ》の重大性にはかえられない。声ふるわせて、
「その小間物売りは、或いはお手前の申された敵の細作かもしれぬが、私はそれと何の関係もない! それだけは、信じてたも!」
「証《あかし》を見せなさるか?」
「証を見せるとは?」
「敵の廻し者となった女は、へその下に、淫の字を刺青されておる。――」
時雨は顔をゆがめ、ヨロヨロと草の上に坐ってしまった。……しかし、事ここに及んでは、もはや目付のいうとおりその証をたてるよりほかはない。
――しばらくののち、青嵐の吹きわたる松林の中で、ふたりの女は帯をとき、片手で前をくつろげていった。
「……女《によ》人《にん》の切腹のようでござるな」
じっと見つめている助平源太左衛門がこわい眼に似合わぬ諧《かい》謔《ぎやく》を口にした。
ふたりは片手で袖をつかんで、顔にあてた。日のひかりに、刺青はおろか、しみひとつない卵のように白い腹があらわになった。
「……見てたもったか?」
「いましばらく。……もっと下をトックリと……ほほう」
その腹に顔をすりつけんばかりにしているらしく、鼻息がへそのあたりを這《は》い、乳房の方へあがっていったかと思うと、時雨はそのまま草の上へおしたおされていた。
「な、何をしやる」
顔からはなした手を、あわてて相手の胸につっぱったが、もはや鷲《わし》につかまれた小鳥のようなものだ。
「時雨さま、よいではござらぬか。……いや、刺青はない。刺青のないことはたしかにわかったが、例の笄の件だけでも見過しはならぬ大失態。それを拙者、とくに目をつぶって進ぜよう。されば。……」
とんでもない廻り目付がいるものだ。やがて時雨が沈黙してしまったのは、しかしそのおどしの言葉のせいではなかった。何とも形容を絶する男の手さばき、腰さばきの妙術に、全身がしびれはててしまったからであった。
蕭《しよう》々《しよう》と蒼空に松《しよう》籟《らい》が鳴る。そして、それにまじって、のけぞった時雨の白いのどからも、いつしか嫋《じよう》々《じよう》たる旋律がもれていた。
「……いけねえ、よしやがれ」
突然、時雨の夢幻境を破る声が、すぐ耳もとできこえた。人ちがいかと思ったが、まさに、いかめしい廻り目付の声だ。
「馬左衛門、だめだよ、女中を殺しちまわあ。……あきらめろ」
「……ああ、やっぱりだめか!」
「弁慶に替ってやれ」
「待つや久し。――なむあみだぶつ」
かっとふたりの女は眼を見張っている。いつのまにか、じぶんたちの廻りに五人の男が立ったり坐ったりして、ジロジロと見下ろしているのだ。
みんな、外《うい》郎《ろう》売りか陣中膏《こう》薬《やく》売りみたいな風《ふう》体《てい》をして――どじょうひげを生やした男などは、時雨の両《りよう》肢《あし》のあいだに坐りこみ、ななめに交《こう》差《さ》させた膝の上に頬杖をついて、そのどじょうひげをひねりながら見物している。
が、そのなかで、ふたりの女をもっと驚愕させたのは、さっきの美男の小間物売りが、上唇のはしっこに舌を出して、ニンマリとながめていることであった。
「……あっ、では、おまえたちが細《さい》作《さく》。――」
時雨が絶叫したのは、ひょうたんみたいな顔をした男が、偽目付に替って、奇声をあげておしかぶさってきたときだ。
「じゃあねえが」
と、偽目付の悪源太がそらうそぶいた。
「まあ、似たようなものかもしれねえな。とにかく縁のねえ人間が城へもぐりこもうってんだから」
ナオコマシ、というのは香具師の隠語で、女|蕩《た》らしということだが、彼らが女をものにするのは、素人のように物を買ってやったり、恋文をかいたり、くどいたりするのとちがって、はるかに凄《すご》味《み》がある。
この連中が箱根の山中で奥方連をしとめたのが「エンコヅケル」という奴、岩槻の旅《はた》籠《ご》で宿の娘をいただいたのが「ヨツにカマル」という奴、売卜者に化けて女の過去未来あることないことでたらめを吹きたてて不安におとし、ついに自由にしてしまう「ロクマ」、女だけいる家に行商にいって誘惑する「ヤサバイ」、ばくちにひきずりこみ、のぼせあがった女にはたから金を貸してやって、あとで貞操とひきかえにする「モミ」――彼らの「ビリツリ」というのは、ふつうでいう女郎買いだが、たんに女郎を買いにゆくのではなく、彼らの全智全能をあげて女郎を夢中にさせ、はてはその生血を吸いあげてしまうのが狙いでゆくのだ。
――いま、銀|鍍金《 め つ き》した笄で釣ったのは、いわゆる「オトシコミ」という香具師の兵法で、ふつうならあとでその拾《しゆう》得《とく》行為を脅すだけでものにするのだが、相手が城の奥女中だけに、すこし念を入れた「オトシコミ」をこころみたに過ぎない。
「……それにしても、殿さまが留守とはおどろいたな」
と、いったのは陣虚兵衛だ。
おどろいた、と正直に告白したように、彼らがそのことを知ったのは、ほんのいましがたなのだ。御年寄の時雨に目をつけ、その名まで調べ、不敵にも悪源太と馬左衛門が廻り目付にまで化けて待っていたのは周到な用意だが、しかしあの桜並木でほかの城侍に逢ったらどうしたろう。――それはとにかく、時雨と女中の対話をきいていたのは、あとの連中が鳥みたいにとまっていた桜の樹上であった。
きいた義経が笄を女におしつけて、さきにスタスタいって悪源太に報告したのだが、その聞きたての湯気のたつようなニュースを、たちまち利用して、敵の細作やら、刺青やら、ものものしい陣立てでふたりの女の胆《きも》をおしひしいでしまったのだから、おどろいていいのは彼らのぬけめのなさの方かもしれない。
「殿さまが小田原へとんでいっちまったのは、祝言の夜だという。あれから十日。――まだ帰ってこねえというのは、どういう意味ですね、睾丸斎先生」
と、夜《よ》狩《が》りのとろ盛《もり》がきく。
「つらつら案ずるに、じゃな」
もうグッタリとなっている時雨の腹上で、昼寝睾丸斎はどじょうひげをひねりながらいった。
「小田原へ呼ばれたのは、この城ばかりでなく、関東の北条方の城主みんなとかいったな。――それは、永遠に帰ってこんわ」
「え、なぜ?」
「人《ひと》質《じち》にされたからじゃよ」
「味方を、人質に?」
「されば、城主にそれぞれの城を守らせれば、いつ豊臣方に降参して、じぶんの方に刃をむけてくるかもしれんじゃろう。その城主を小田原へ呼んでおけば、あとの城は、殿さまが小田原にとりこめられておるだけに、かえってむやみに降参ができぬ。たとえ力攻めにあって落城したとしても、そこの城兵はとうてい小田原攻めの力にはならぬわい。……一見、うまくかんがえたようじゃがな、北条家の奸《かん》雄《ゆう》といわれる松《まつ》田《だ》尾《お》張《わりの》守《かみ》の知恵らしいな。味方すら信用せぬところ――胆が小さいよ」
嘆《たん》息《そく》して、つぶやいた。
「やはり、小田原は長くはないの」
「――そんなことより、麻《ま》也《や》姫《ひめ》はまだ生娘のままかもしれねえ、といってやがったな」
ふいに悪源太が、女中のお蝶のからだの上からはねあがった。
「しめた! いよいよ以《もつ》て潜《もぐ》りこみ甲《が》斐《い》があるぞ!」
眼ばかりではなく、顔全体がもえあがるような形《ぎよう》相《そう》で、ふたりの女をにらみつけた。
「やい、いいか、これからおれたちを城に入れる手びきをしろ!」
それから、ふいに作り笑いをうかべ、猫なで声でいった。
「なあ、やってくれるなあ。……うまくやってくれたら、またこの松林の草ッ原によ、人型の針で淫《いん》の字を書こうじゃあねえか」
ふたりの女は、いったいこの連中は何者だろう? と疑う気力も蒸発してしまった様子で、うつろな瞳《どう》孔《こう》で悪源太をあおいでいる。
悪源太はもういちど四つン這いになって、ふたりの女の唇を順々に吸ってやってから、
「やってくれるそうだ」
と、顔をあげた。ひとり合点のようだが、決してそうではない魔力をみんな信じている。睾丸斎がいった。
「では、亭主のいないまに、いよいよ城へ夜這いとゆくか。こんな規模の雄大な夜這いは、まだ古今の史上にあるまいの」
陣虚兵衛が虚無的な声でいった。
「……しかし、例の三人の風摩組、きゃつらがまだ麻也姫を護っておるのではないか?」
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隆車に向う蟷螂の斧
「……丁《ちよう》だ!」
と、壺ざるをあげて夜狩りのとろ盛はさけんだ。
悪源太が舌うちをして、鐚《びた》銭《せん》を三枚、陣虚兵衛のひざに投げたが、虚兵衛はそれをひろいもせず、いともわびしげな顔をあげて、
「よく降るな」
と、いった。七人の香具師は、何となく耳をすます。板屋根に、夜の雨が鳴っている。
忍《おし》の町はずれの古い庚《こう》申《しん》堂《どう》の中であった。燈明皿にあぶらがもえて、堂の隅の猿《さる》田《た》彦《ひこ》の石像や、板《いた》羽《ば》目《め》に張られた青《せい》面《めん》金《こん》剛《ごう》の画像や富士の絵などを照らしているのが、いっそうわびしい。
そして、ぶしょうひげを生やした七人の影は、いっそうわびしかった。いま、ばくちに負けた悪源太が鐚銭を投げたのをみてもわかるように、彼らはすっかりしけているのだ。箱根や伊豆では大いに稼いだつもりだが、その後|相《そう》州《しゆう》武《ぶ》州《しゆう》を漂泊し、とくにこの忍の町へ来てから、古着屋や古道具屋にいって、陣笠野羽織の武士の衣裳や足軽|装《しよう》束《ぞく》や小間物売りのきものなど買ったりしたので、すってんてんになってしまった。こんな田舎の小さな城下町では香具師商売もぱっとはしないし、だいいち、或る目的から、あまり姿を人目にさらしたくないときている。
「いったい、そもそも、どういうわけでこんな苦労をはじめたのかな」
と、陣虚兵衛が哀《あい》然《ぜん》とこぼす。
「なんだか、すこし、ばかばかしいじゃあねえか」
「虚兵衛、仲間を裏切るのか」
悪源太が、ぎらっと眼をひからせた。
「やいっ、あの麻也姫に土足で顔を踏んづけられたのを忘れたか?」
土足で顔を踏んづけられたのは、源太だけじゃあねえか。――そんな友達甲斐のないことは、虚兵衛は口にしないし、しようとも思わない。仲間の一人が恥をかかされたことは、仲間全体が恥をかかされたと同様、というのが香具師の掟《おきて》だからだ。虚兵衛は頭をかいた。
「いや、忘れねえ。裏切るなんてとんでもねえが……ただ、腹もへったし、あんまり雨の音がわびしいからな。だいいち、こう雨がふって、あの女たちがほんとうにくるかの。三日になるぜ」
あの女たちというのは、忍《おし》城《じよう》の御年寄|時雨《 し ぐ れ》と下女のお蝶だ。
あのとき、ふたりの女に、何とかこの七人が城にもぐりこめるように手びきしろ、と迫ったら、やがて時雨がいった。殿さまが御不在であるし、城の警戒はいよいよきびしい。ふつうでは、むろん七人の男の入れるわけはない。ただ、いま思い出したが、ちかく城下の御《ご》用《よう》達《たし》商人から夜具を十組ばかり買入れることになっているから、その長持の中にひそんでいったら入れるかもしれない。が、その宰《さい》領《りよう》をするのは呉服の間勤めの撫《なでし》子《こ》という女だが、これが若いに似合わずひどくしっかりした女だから、そんなことができるかどうかわからない。
「何、その女も仲間にすりゃいい」
と、悪源太は簡単にいった。
「でも、撫子は、いま申したように、若いが気《き》性《しよう》者《もの》で……」
「おれが料理すらあ。おれたちのところへつれてきな」
「……つれてきて、何をしやる」
「ヨツにカマってやるのさ」
言語学的にはわからなかったが、何やら官能的にはわかった。時雨は拒否の眼色になったが、その拒否の表情には、たんに撫子なる女をかばう意志ではなく、嫉妬の情があきらかであった。
悪源太がかがみこみ、その時雨の顔に顔をおしつけるようにしていう。――
「おい、おめえはおいらに、もういちど抱いてもらいたかあねえかえ?」
時雨の眼に霞《かすみ》のようなものがかかり、頬にぽうと血潮がのぼった。傍《かたわら》でまだ肩で息をしていたお蝶が生唾をのみ、吸いつけられるように悪源太の方へ、いざり寄った。
悪源太は呪《じゆ》文《もん》をかけるようにいった。
「おめえはきっと撫子をつれてくるってことよ」
――それから、三日めだ。撫子をつれてくるのは、この庚《こう》申《しん》堂《どう》ということにした。御年寄の職権をふりかざすなり、何とかうまい口実をつかうなり、その才覚は時雨にまかせたが、彼女が撫子をつれてくることだけは、大地を打つよりまちがいはないと悪源太はうぬぼれている。
うぬぼれているのに、時雨はやってこない。
「源太、大丈夫かの? 撫子はこねえぞ」
「よほど頑固な女らしいなあ。しかし、時雨はそろそろ男恋しさにきちがいのようになっているはずだ。どんなことをしてでも、撫子をしょっぴいてくるはずだが。……」
悪源太に犯された女は、まるで麻薬中毒患者みたいに源太を追っかけまわすようになる。なぜそうなるのか、当人の悪源太自身にもわからないなりに、この珍現象を利用して、いままで仲間の財源の一つとしてきたのだが、こんどは正直なところ、源太は少しいやであった。
いや、どういうわけか、このごろ、或る女以外の女を犯すことが、吐《はき》気《け》をもよおすほどいやなのだ。――にもかかわらず、こんどばかりは、源太自身が積極的にその奇妙な能力を使用せざるを得ない。
ともかく、城――しかも、いくさが迫って防備厳重な城へもぐりこもうというのだから、この手しかない。七人で脳味噌をしぼったあげくの軍略だ。
目的はただひとつ、その城の女あるじを犯すため。――その女以外の女を犯すのがいやだという「或る女」とは、すなわち麻也姫だ。そして麻也姫を犯したいのは、仕返し以外の何物でもないと悪源太はかんがえている。
「撫子の代りに、討《うつ》手《て》が来やしねえか」
と、軍師の昼寝睾丸斎もいささか不安がり出した。で、この庚申堂のうしろをながれる忍川には、大力無双の弁慶が大木をひっかついできて仮《かり》橋《はし》をかけわたして万一の場合の遁《とん》走《そう》路《ろ》とし、日中はだれかがまえの杉林の高い梢にのぼって物《もの》見《み》をする。――という陣立てまでして待っているのだが、撫子はもとより時雨もお蝶もやってこない。
「大丈夫だい。いままでその追手がこねえところが脈のある証拠よ。……臥《が》薪《しん》嘗《しよう》胆《たん》、野に伏し草に寝て、やっとここまでこぎつけて、いまさら風をくらって逃げ出してたまるかってんだ」
と、悪源太はいう。気が短かくって、怒ることもよく怒るが、怒ったあとはすぐに忘れてしまう男なのに、こんどの執《しゆう》念《ねん》ぶかさには、実のところほかの六人は、内心ちょっと呆れている。さっき、ふともらした虚兵衛の愚痴はそのあらわれだ。
まさか、夜の雨にうたれてまで杉の木にのぼる奴はいないので、今夜はみんな庚申堂にこもって、やけくそのようにさいころいじりをはじめたのだが。――
「あ。……」
「だれか、呼んだぞ」
七人は、はっと顔をあげて、耳をすました。――雨音の中で、ほそい声がきこえた。
「もうし、お約束どおり。――」
「――来たっ」
いっせいに立ちあがったが、眼のいい虚兵衛が格子から暗い外をのぞき、うなずいてから、その格子をあけた。
うす暗い堂内の燈明に、庚申堂の外に立っている三人の蓑《みの》笠《かさ》をつけた姿が浮かびあがった。笠の下の三人の顔は、たしかに女――そのうち二人は、まぎれもなく、先日の時雨とお蝶だが、もうひとりは、よくいえば凄《せい》艶《えん》、わるくいえば険《けん》があるが、とにかく新《しん》顔《がお》の美女だった。
「あれ……御年寄さま、これは――」
あわててその女が背をかえそうとしたところをみると、時雨とお蝶が何といって彼女をここへつれてきたのかしらないが、とにかくこんな野獣みたいな男が七人も待っているとは思いもよらなかったらしい。
「待った待った!」
悪源太がとび出して、女の両手をつかんだ。
「おまえさん、忍城の撫子さまだろう。いや、だろうじゃあねえ、よく知ってらい。おいら、おめえさんにずんと惚れてるんだ。いつか、往来でゆきあってよ、それ以来、寝ては夢、起きてはうつつ――」
いいかげんなことをいいながら、堂の中へひきずりこむ。
「御年寄さま! これはどうしたわけでござります。あれっ、助けて――」
身をよじる撫子のまわりから、ほかの連中が笠をとり、蓑《みの》をはぎ、帯をとく。――その手さばきの巧みなこと、早いこと、撫子の手が、帯の懐剣にかかろうとしたが、あっというまにこれまたもぎとられた。
庚申さまにあげるあぶら皿の燈明に照らされる堂内に、無惨きわまる光景がくりひろげられた。無惨――とはいうものの、男たちにとっては、待ちに待ちかねた機会|到《とう》来《らい》であり、これが大望のための絶対至上の要件だと信じている行為であり、だいいちこのあとに予想される反応については、従来の経験からして充分自信があるから、決して無惨などとかんがえてはいない。むしろ、大いに功《く》徳《どく》をほどこすつもりでいる。
しかし、色彩の剥《はく》落《らく》した神像や護《ご》符《ふ》を貼りめぐらした板《いた》羽《ば》目《め》、蜘蛛の巣の張った天井。――それを背景にしているだけに、それは客観的に凄《せい》惨《さん》としか形容のできない光景であった。
眼もあやな奥女中の衣裳を踏みはだけてのたうつ二本の雌《め》しべ――真っ白な女の足を、さすがの悪源太ももてあまし、あと六人の連中に助太刀をたのんだくらいだ。……そして、屋根をうつ雨音にまじって泣くともうめくともつかない声が床《ゆか》にもれはじめた。
可《お》笑《か》しい。――女ではない――悪源太なのだ。
女の足の片方をおさえつけた夜狩りのとろ盛もキョトンとしている。
「源太、そんなにいいか?」
のびあがってみると、床《ゆか》に黒髪を乱している撫子の顔は、さっきとは別人のように淫《いん》猥《わい》をきわめた印象に変っている。はじめ、すこし険のある顔のようにみえたが。――と思うと同時に、そうだ、あんな女が火がつくと、かえって凄《すさま》じいものだと、これも従来の体験から思いあたった。気がつくと、じぶんのおさえこんでいた女の足も、最初の猛烈な抵抗と変って、快美の反応ともいうべき感じではなかったか?
悪源太は肩で息をしながら立ちあがった。こんなことは源太にはめずらしい。
(こんなはずじゃあなかったが……)と、彼自身あきれて、女を見下ろした。たんに、大望のための道具に仕立てるつもりだったのに、あやうく木《ミ》乃《イ》伊《ラ》とりが木乃伊になりかねないところだった。
猛然と弁慶が交替する。たちまち彼は、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」ととなえ出した。その声が、恒《こう》例《れい》のごとくでなく、本人がなむあみだぶつになってしまいそうな声だ。ついで夜狩りのとろ盛がとびかかる。これまた雨音をかきけすばかりの奏楽を高鳴らしはじめた。
この光景を、じっと堂内の庚申さま――怪奇な猿《さる》田《た》彦《ひこ》の石像が見下ろしている。この石仏は、むろんはじめは堂内のまんなかに安置してあったものだが、かかる事態にそなえて、あらかじめ弁慶が隅の方へかたづけておいた。
そして、まえまえからの予定では、なお爾《じ》後《ご》の行動にそなえて、撫子をつれてきた時雨とお蝶にも、悪源太が再度の功徳をほどこさなければならないはずであったが、悪源太はひどく消《しよう》耗《もう》した感じで、ボンヤリ床に坐っている。まるで腰がぬけたようだ。
ふしぎなことに、時雨とお蝶も、一言も口もきかず、ひっそりとそこに坐ったままだ。むろん、胆をひしがれているにはちがいないが、それにしても、いままでの例では、かならずきちがいのように悪源太にしがみついてこなければならないはずだが――ふたりの様子には、たんに眼前の光景に胆をつぶしているのではない、彼女たち自身が幽霊と化したかのような印象があった。
はてな? という不審がかすかに悪源太の胸をはしったが、それかといって彼女たちに、どうしたんだ、と問いかける意欲を彼は喪失している。
「もうたまらん、こんどばかりは、おれにもゆるせ」
馬左衛門が武者ぶるいして立ちあがったとき、ふいに睾丸斎がへんな顔をしてまわりを見まわした。
「おかしいぞ。だれか見ている奴がある。――」
「何? だ、だれが?」
「いや、ここにおる連中ではない。ほかのだれかが――」
ものもいわず、陣虚兵衛と弁慶が格子戸にとびついて、外を見た。夜ではあるが、それでも猫みたいに眼のいい虚兵衛が、
「だれもおらんぞ。のぞくとしたら、ここのほかはあるまいが」
「外からではない。この堂内じゃ。妙な感じで、わしにもよう説明はできんが――」
睾丸斎はどじょうひげをねじりたてた。むろん、せまい堂内には、七人の香具師、三人の女以外の何者もいるわけがない。
「じぶんでも面《めん》妖《よう》じゃ、その見ている眼が、どこかでわしたちの知っておる眼のような気がするのじゃが……どうもよくわからん」
「おい、時雨、ほかにだれもつれてきてはおるまいな?」
と、悪源太が時雨をにらみつけた。
時雨とお蝶は、ボンヤリとくびを横にふった。悪源太にもはや抵抗できないふたりのはずであったし、だいいち罠《わな》にかけるつもりなら、はじめからこの撫子をつれてきて犯させるはずがない。
が、雨煙とともに、ぼやっとえたいのしれない妖気が堂内にたちこめてくるのを感じ、それをふりはらうように悪源太がさけんだ。
「えい、だれも見ている奴なんぞあるはずがねえ。それよりも、その女を起して、これからの事の運びようを相談しようじゃあねえか。大事な道具をこわしちゃいけねえ、馬左衛門、いちおう鉾《ほこ》をおさめろ」
――長持の外を、なんどか水の音がした。
濠《ほり》か、何かを、舟にのって渡っているらしい、と、七つの長持の夜具の下で、七人の香具師はかんがえた。忍《おし》城《じよう》が水につつまれていることは知っているから当然のことだとは思うが、やっぱりきみがよろしくない。
この城に入るためにさんざん苦労をしたのだから、恐れているわけではさらさらないが、見えないのにただ天地四方水の音をきいているということは、本能的な不安感をあたえるものだ。
庚申堂の一件の翌日のことであった。彼らを、夜具を運ぶ長持の中へ入れるという才覚をしたのは、むろん撫《なでし》子《こ》である。
彼女は、その前日から城下の御《ご》用《よう》達《たし》商人の家へ、夜具を買入れるために泊りこんでいた。それに、御年寄の時雨と下女のお蝶もついてきた。そして、夜になってから、庚申堂に殿さまを呪《じゆ》詛《そ》するまじないの藁《わら》人《にん》形《ぎよう》が置いてあると偽《いつわ》って、それを口実に撫子をつれ出したという。――
さて、きょうのことだが、七つの長持に夜具を入れさせ、撫子が宰《さい》領《りよう》して足軽たちに途中の松原まで運ばせてきたのだが、そこでふいにお蝶が松原のほとりの河におちてみせて、足軽たちがうろたえてそれを救うのに騒いでいるあいだに七人の香具師は、まんまと長持の中にもぐりこんでしまった。
はね橋のあがる音がする。いたるところ誰《すい》何《か》の声がきこえ、鉄《てつ》鋲《びよう》をうった門の開閉するひびきがする。城に入っても、なおいくどか水を渡る気配であった。それから、長い廊下を歩いていって――やっと、七つの長持は下ろされた。どんな場所だかわからない。
「わたしが声をかけるまで、出てはなりませぬぞえ」
あらかじめ、撫子はそういった。
だから、それを待っているのだが、半《はん》刻《とき》たっても、一《いつ》刻《とき》たっても、撫子の声はかからない。暗い暑い長持の中で、悪源太はイライラとした。――ふと、となりの長持で法《ほ》螺《ら》貝《がい》みたいな奇音が尾をひくのがきこえた。それを屁《へ》と思わないものは、弁慶を知らないものである。それから、「なむあみだぶつ」とつぶやく声がきこえた。
悪源太はヒヤリとした。長持のちかくにだれがいるかわからないのだ。……しかし、なんのとがめもなかったところをみると、だれもいないらしい。だから、ややあってから、
「あ、あーっ」
と、彼も大あくびをしたのだが、そのとたん、
「まっ、大胆な」
つぶやく声がして、錠《じよう》が鳴った。撫子の声だ。
「もう、よいようでありまする」
ふたがあいた。悪源太は長持からのびあがった。――撫子はつぎつぎに、長持をあけてゆく。一つひらくごとに、仲間が暗闇から出てきた狸みたいに眼をパチつかせてあらわれる。
しかし、薄暗い座敷であった。――撫子はうなだれて、また長持のふたをあけようとしていた。
「おい、だ、大丈夫かえ?」
と、臆病な夜狩りのとろ盛がきいた。
「長持の中にいつまでもひそんでおるのは、かえって危のうございましょう」
まじめな――例のやや険のある蒼白い顔で、撫子はふりかえった。いかにも城にふさわしいその美貌と、昨夜の庚申堂の痴態をむすびつけて、ふふん、と悪源太は鼻で笑いかけた。笑いがとまったのは、撫子が八つ目の長持をあけようとしているのに、ふっと気がついたからであった。
七人の仲間はみんなあらわれているのに、彼女はもう一つの長持をあけようとしている。――長持は、八つあった!
「あとは、このお方に案内させまする」
撫子はふたをひらいた。中から、ニューッとひとりの男が立ちあがった。
「あっ」
七人は眼をむき、全身が硬直した。
忘れてなろうか。あの麻也姫を護る三人の風《ふう》摩《ま》組《ぐみ》。――しかも、そこにあらわれたのは、その中でもいちばん忘れられない、伊豆でみずからの躯幹を分断し、あとでつぎあわせて逃げたあの角ばったあごを持つ三十男、たしか刑四郎と呼ばれた忍法者ではなかったか?
「よう来た。おれが案内しよう」
刑四郎はニタリとして、長持から出てきた。
「おぼえておけ。おれの名は戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》、奥方さまの守護役じゃ」
みんな金《かな》縛《しば》りになったようだ。わずかに悪源太だけが眼をうごかせて、撫子を見た。信じられないことだが、撫子はおれを裏切ったのだ! 撫子は仮面のように無表情であった。
「ほほう、歩けぬか。では、歩けるようにしてやろう、向うをむけ」
七人の香具師は、あやつり人形みたいに向うをむいた。相手の出現のしかたがあんまり意外であったので、完全に度胆をぬかれたのだ。
「手をうしろにまわせ」
全身がキリキリと何かに巻きしめられた感覚がしたのは、次の瞬間である。痛みに彼らは上半身をねじまわしたが、からだには縄の影もない。
「歩け」
戸来刑四郎がさきに立って歩き出すと、七人は数《じゆ》珠《ず》つなぎになって、その座敷から廊下へひきずり出された。何の縄の影もみえないのに、肉にくい入る激痛が彼らを曳《ひ》いてゆくのだ。
「坐れ!」
彼らがひきすえられたのは、奥庭の一角であった。
それで、脳《のう》髄《ずい》が煮られて凝《ぎよう》固《こ》したようになっていた七人のうち、突然、とろ盛が顔をあげて、夜がらすのような恐怖の悲鳴をあげた。
向うの石垣のまえに、ふたりの全裸体の女が、これはあきらかに荒縄でくくられて立たされている。 ――それは、時雨《 し ぐ れ》とお蝶であった。
うしろで、野ぶとい笑い声がした。
「下郎ども、わかったか。まず、隆《りゆう》車《しや》に向う蟷《とう》螂《ろう》の斧《おの》といったところじゃな」
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白日夢
――きのうの夜までの雨はきれいにあがって、夏ちかい日ざしがかっと照りつけている。広い庭には白い砂利がしきつめられて、薄暗がりの中からひき出されてきた七人はクラクラするようであった。
その庭のまんなかに、一坪ばかり、黒く四角に切った部分がある。その場所だけ、砂がしいてあるらしい。四つの隅に竹の枝がさしてあって、青い葉が風にそよぎ、桶が一つ、木《き》鍬《ぐわ》が二つ置いてあるが、これが何を意味するのかわからない。
忍《おし》城《じよう》の奥女中時雨とお蝶は、そのずっと向うの石垣の下に一糸まとわぬ姿にされて、二本並べて突き立てられたふとい青竹に縛りつけられているのであった。
「……いやじゃ」
突然、きれいな声がした。青竹にくくられたふたりの女の口から出た声ではない。ずっと右側の方からである。
「そんなもの見とうもない。いやじゃ」
右側につき出した一つの建物があった。庭にむいた障子は白じろと閉じられていたが、それがこのとき左右にスルスルとひらいたのだ。座敷には、きらびやかな影がいちめんにざわめいていた。女ばかりだ。
そこに立った姫君がしきりにいやいやをし、奥女中のひとりがその手をとってなだめながら、姫君を坐らせようとしているのであった。
「いいえ、城を裏切ったにくい女、それが成《せい》敗《ばい》になる姿を、どうあっても御覧いただかねばなりませぬ」
そして、その女はきっとして庭のかなたの時雨とお蝶の方へ顔をむけた。
――それまで、かっと眼をむいたまま、その時雨とお蝶を見つめていた七人の香具師のうち、悪源太が、はじめて、うなるようにいった。
「……女《め》郎《ろう》、裏切ったのはどっちでい」
姫君は――いや、もはやこの忍《おし》の城に輿《こし》入《い》れしてきたのだから、もう奥方と呼ぶべきであろうか、それとも初夜も過さず夫の左《さ》馬《まの》助《すけ》が出陣していって、彼女はまだ処女であるという噂が事実なら、やはり姫君というべきであろうか。――麻《ま》也《や》姫《ひめ》さまであった。
そして、彼女の手をとって坐らせた女は、撫《なでし》子《こ》である。さっき、悪源太たちを城にみちびきいれ、長持から出してくれた撫子である。
その女が、あんなことをいう。――時雨とお蝶の末《まつ》路《ろ》はいま眼に見る通りだ。彼ら七人の運命も、彼らのよく知るところだ。事《じ》態《たい》はあきらかであった。撫子は彼らの罠《わな》におちたとみせて、まんまと彼らを罠におとしたのだ。しかし――悪源太がいま思わず知らず獣のようなうめき声をたてたのは、たんにそのことを知ったからではなく、じぶんが犯した撫子が、へいきでじぶんを裏切ったということであった。信じられぬことだ。いままでの体験によれば、そんな女はただの一人もない。
「裏切ったのは、撫子どのではない」
うしろで、また野ぶとい声がきこえた。
「うぬらの相手をしたのは、このおれだ」
ふりかえって、七人の香具師は、こんどこそはいっせいに、踏みつけられた蛙みたいな悲鳴をあげていた。
――いま「隆《りゆう》車《しや》にむかう蟷《とう》螂《ろう》の斧《おの》」と彼らをあざけったのとおなじ声だ。それを、彼らをここへひいてきた戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》の声だと思っていたが、いつのまにやら、そこにもうひとりの人間が立っているのであった。
「……撫子!」
と、さすがの悪源太ものどをかすれさせた。
撫子だ。撫子は向うの座敷にいるのに、ここにももうひとりの撫子がいる。その凄《せい》艶《えん》な唇をにっと笑ませて、野ぶとい声で彼女はいうのであった。
「香具師、また逢ったの。こんどはおれの名をおぼえておけ。風《ふう》摩《ま》忍《しの》び組の御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》だ」
声は男だ。いや、名からすると、これは女装の男だ。彼女はいう。――
「時雨とお蝶の挙《きよ》動《どう》があやしいので、おれがとらえて白状させた。うぬら、香具師の分《ぶん》際《ざい》を以て、この城に忍び入ろうとは、呆れはてたる不敵な奴らだ。こらしめのため、おれが庚《こう》申《しん》堂《どう》へいってからかってやったが――これ、悪源太、うぬの道具は」
ニヤリとしたのが、美しい女の顔だから、いっそう水を浴びる思いであった。
「男も、惚れ惚れとするの」
「男?……おめえが男?」
悪源太はあえいだ。
「庚申堂へきたのは男のおめえだって?……だって、あのときは……うそつきやがれ!」
「うそでない証拠は、いま見せる」
その時、座敷の方で、撫子の声がした。
「累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》どの。……では」
「承《うけたま》わった」
そして、座敷から、だれか下りてきた。女の姿ばかり目だったが、気をつけてみれば老臣らしい影もみえる。庭に出てきたのは、ひとりの武士であった。
七人の香具師は、それが、これも伊豆で見た三人の男の六部のうち、いちばん年長の、いかにも温厚らしい顔をした男と同一人であることをみとめた。
累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》は、ユックリと青竹に縛られた時雨とお蝶の方へあるいてゆく。
同時に、香具師たちのうしろから、例の戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》もあるき出した。おなじく、二人の女の方へ。
破蓮斎がその手前十歩ばかりの地点にぴたと立ちどまって、しずかにいった。
「いくさ間ぢかき城の奥向きに仕える身分を以て、曲《くせ》者《もの》をひき入れようとしたたわけ者め、みせしめのため、この世の地獄を味わわせてくれる」
「待て」
と、座敷でまた麻也姫がさけんだ。
「曲者をひき入れたと申して――ひき入れたのは――少くともともにひき入れたのは、そこにおる燐《りん》馬《ま》ではないか。時雨とお蝶は責められて、白状して、燐馬におどされて手引きをしたという。それでそのふたりを罪するのは、罪なき者を網《あみ》にかけるも同様。――」
「何を仰《おお》せなさる」
ふりかえって、破蓮斎はおだやかに苦笑した。
「捨ておけば、燐馬のやったこととおなじことを、撫《なでし》子《こ》どのにやらせたに相違ござらぬ。そもそも、えたいのしれぬ男どもを城に入れようと計ったことだけでもゆるすべからざる大罪」
「ならば、わるいのはその七人の男であろう」
「これは、ただいま誅《ちゆう》戮《りく》いたす」
「それに、その男たちとて、何も敵の忍びの者というわけではない。ほんとうに野良犬のような香具師じゃという。一応、叱りおいて、みな解き放ってやるがよい」
「奥方さま! 左様に甘い――いやさ、おやさしいお心では」
おだやかとみえた顔が、ふいに凄《すさま》じい悪相に変った。
「とうてい殿のお留守番はかないませぬぞ!」
麻也姫は沈黙した。
累破蓮斎と戸来刑四郎はうなずき合った。きっとして二人の女の方にむきなおると、その口から、シューッと銀色のひかりがほとばしり出た。
それまで、白日の下に一糸まとわぬ姿とされて気《き》死《し》したようになっていた時雨とお蝶のからだが、突如はねあがり、くねり、のけぞりはじめた。
二人の腹部――へその下に、何やらキラキラとひかるものが浮かんできた。針だ。無数の針がつき刺さってゆくのだ。それは陽光の下に燦《さん》爛《らん》とひかりつつ、次第に一つの文字を描いてゆくのであった。
「淫《いん》」
この三人の風摩組が吹き針をつかうことは、悪源太たちも身を以て知っている。しかし、彼らが吹きつけられたのは毛のような針であったが、いま――この遠い位置から見てもはっきり針だとわかるように、これはたたみ針のように長大なものらしい。
それがなかば腹部に埋まりこんで、つき刺さった無数の穴から鮮血が糸のようにもつれながら、腹から股《こ》間《かん》、ふとももの方へながれおちはじめた。
「やめて――やめぬか!」
麻也姫は身もだえしてさけんだ。
そのさけびに耳のないような顔をして、累破蓮斎と戸来刑四郎は完全に「淫」の字をえがき終ると、
「淫《みだ》ら心のとりことなった応報、よくこたえたか」
ふたりはあざ笑い、二間ばかりの間隔をおいて、青竹の磔《はりつけ》の方へ歩き出した。
破蓮斎と刑四郎は何の武器も持っていない。そのあいだの空間には何物もない。ふたりの男は、ふたりの女をはさんで、その背後の石垣に到達した。
人間とは思われない絶叫と血潮がふきあがったのは、その刹《せつ》那《な》であった。青竹に縛られていたふたりの裸の女が、突如として胴切りになったのだ。乳房の下で、鋭利な刃物で斬ったようにその肉体は二つになり、青竹すらも上下二つに切断されて、地上に散乱した。
めくるめくばかりに明るい白日の下にぶちまかれた血しぶき、内臓――そのなかに、みるみる藍《あい》色《いろ》に変ってゆく四つの肉塊――夢《む》魔《ま》の世界だ。地獄図絵だ。それをふりかえりもせず、累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》と戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》は石垣の方をむいたまま、しばし寂《じやく》然《ねん》とたたずんでいる。
「――見られたか?」
やおら破蓮斎が座敷の方をふりかえったとき、座敷には声もなかった。成敗せよといった撫子さえも両手で顔を覆《おお》い、大半の侍女たちはつっ伏している。ただひとり、このとき麻也姫は、さっきの哀願した姿とは別人のように、日かげにも碧《へき》玉《ぎよく》のようにひかる眼で、じっとふたりをにらみつけていた。
「……見たか?」
こちらでは陣虚兵衛がささやいた。うわずった声で、夜狩りのとろ盛がいう。
「見なけりゃよかった」
「いま、刑四郎が手もとに何かたぐるような手つきをしたぞ。髪の毛だ」
「髪?」
「眼には見えぬが、ふたりのあいだには髪の毛が張られていたのだ。いつか伊豆で見せられたやつ――風《かぜ》 閂《かんぬき》とかいう術」
「あ、あれで、おれたちもやられるっていうのか?」
思わずとろ盛がかん高い泣き声をあげると、御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》がふりむいて、見下ろして、ニタリと笑った。
「その通りだ」
うなずいて、
「しかし、そのまえに、おれが男であることを見せる。――こんどはおれの番」
かいどりをハラリとぬぎ、スルスルと帯をとり――彼は裸になっていった。最後のものをとるまえに、
「奥方さま――それから撫《なでし》子《こ》どの、あられもない姿をお見せいたし、ひらにおゆるし下されまするよう」
女としか思えない恥じらった声でいいなまめかしく腰をかがめたが、すっくとそこに立った裸身をみて、七人の香具師は眼をパチクリとさせた。
真っ白な肌、盛りあがった乳房、ほそくくびれた腰、そして日の下にもかぐろく翳《かげ》った谷間――どこからみても、女だ。
「……やっぱり、女じゃあねえかよ」
悪源太がボンヤリとつぶやいたとき、はだかの燐馬はシトシトと、前方の四角な砂場の方に歩いていった。
傍に置かれた桶から柄《ひ》杓《しやく》で水をくんで砂にまく。まるで撫でるような――いや、おごそかな儀式のような動作であった。
「や……砂に何か浮かびあがってきたぞ」
「浮かびあがってきたんじゃあねえ。何か、えぐられたかたちがある」
「砂のまんなかに――大の字に」
「人型の痕《あと》が砂にひとつ」
香具師たちはささやいた。のんきな連中で、恐怖はもとより絶大なものがあるが、それにもおとらぬ好奇心にとらえられざるを得ない。いったい御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》は、何をしようとするのだろう。
やがて水をまきおえた燐馬は、しずかに、滑《すべ》り出すように砂の上に這った。例の人型の痕《あと》にピッタリはまりこむように。
いつのまにかそこにもどっていた破蓮斎と刑四郎が、それぞれ木鍬をとった。これまた儀式のような手つきで、地に伏した燐馬に砂をかける。――燐馬の姿はまったく見えなくなった。
広い庭を、雲の影がひとつわたった。ふつうなら意識に上らない雲の影だが、それが砂場にかかったとき、そのままじっとうごかなくなり、すうと黒ずんだようにみえたので気がついたのである。
ふっと空をあおぐと、紗《しや》のような薄雲はしずかにながれている。地上に眼をやると、砂の上に墨《ぼく》汁《じゆう》のようにかたまっていた昏《くら》がりがみるみるうすれ、雲の影は何事もなかったかのごとく庭を這いすぎていった。
そのとき、砂の中から、ニューッとひとりの男が立ちあがった。男が――男だ。それはまさに、かもしかのようにひきしまったからだを持ち、きれながの眼と、朱を塗ったような唇を持っているが、まごうかたなき青年であった。
「――あれだ。……」
「伊豆で逢った六《ろく》部《ぶ》。……」
七人の香具師は眼をとじてうめいた。
「さて、いよいよ次はうぬたちが見世物となる番」
青年|御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》はもどってきた。いつのまにか用意してきていたとみえて、さっきぬぎすてた女の衣裳のそばの包みをひらくと、すばやく男の衣服をつける。
そして、大刀を片手にひっさげて向きなおるまで、七人の香具師は金縛りになったようであった。もっとも、逃げようにも、前後を累破蓮斎と戸来刑四郎がふさいでいるし、だいいち彼らは眼に見えぬ縄にうしろ手にひっくくられている。
眼にみえぬ縄――それがいまは、人も竹も豆腐のごとく胴斬りにするほどの、戸来刑四郎の風《かぜ》 閂《かんぬき》の髪の毛だと想像できるだけに、いっそう恐ろしい。
いまにして、庚申堂にやってきた時雨とお蝶が、うなされたようにおびえていたわけがわかる。いっしょにつれてきたのは撫子ではなく、御巫燐馬だったのだから。
また、いまにしてあのとき昼寝睾丸斎が、「だれか、見ている奴がある。その見ている眼が、どこかでわたしたちの知っておる眼のような感じじゃが。……」と面《めん》妖《よう》なことをつぶやいたわけもわかる。見ていたのは、そのとき犯されている撫子の眼、すなわち御巫燐馬の眼であったのだ。
その眼が、妖《あや》しくひかって七人を見おろし、
「さて、どうしたら奥方さまによろこばれる見世物となるか」
とつぶやく。それに劣らぬほど恐ろしいほかの二人の眼も殺気に笑《え》んで、
「吹き針で、尻に大たわけとかいてやろうか」
「それとも風《かぜ》 閂《かんぬき》で、股ぐらから脳天にかけて裂いてやろうか」
といったとき、また「――待ちゃ」という声が、すぐうしろでした。ふりむいて、三人の風摩組はさすがにややうろたえて、ひざをついた。
姫君が庭をあるいてきた。履《はき》物《もの》をはくいとまもなかったとみえて、砂利にもすそをひき、足《た》袋《び》はだしのままだ。
「その者どもを成敗するのは待ちゃ」
――またか、といいたげに三人の顔見合わせた眼に、ちらと陰《いん》鬱《うつ》なものがながれた。
「その者どもにききたいことがある」
「奥方さま、これが敵方の乱《らつ》波《ぱ》ならば、奥方さまの御手をからずとも、拙者どもではかせたい泥がござります」
と、累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》がすでにおだやかな表情にもどっていった。
「さりながら、先夜お頭《かしら》が申したように、こやつらはまったく塒《ねぐら》もなく腐《ふ》肉《にく》を求めて渡りあるく痩《や》せ鴉《がらす》のような無法者ども」
「おお、その風《ふう》摩《ま》小《こ》太《た》郎《ろう》が、できるならこやつらを殺すな、風摩組に入れて仕込んでやれば面白い奴らになるかもしれぬ、一応こらしめて前非を悔いたら小田原に送りかえせ、といったではないか」
一生懸命にそういう麻也姫の顔を、七人はぽかんとながめている。恨み重なる麻也姫だが、とびかかるのも忘れて茫然としていた。もっとも、風《かぜ》 閂《かんぬき》に縛られていて、その意志をふるい起しても、どうすることもできないが。――
はて、あの風摩小太郎がここに来たのか? そして、そんなことをいいのこしていったのか?
――事実風摩小太郎は、先夜城主成田左馬助を召集に来たとき、ふと思い出したように魁《かい》偉《い》な笑顔で、「おおそうじゃ、ひょっとするとこの城の界《かい》隈《わい》に、すッとんきょうな奴らが七匹ばかりうろつくかもしれぬ」といったのであった。
「頓《とん》狂《きよう》者《もの》とは?」
と、三人の風《ふう》摩《ま》者《もの》がけげんな顔できくと、小太郎は七人の香具師の話をし、いまの麻也姫がいったようなことをつけ加えたのだ。
麻也姫が風摩小太郎に逢《あ》ったのは、そのときがはじめてではない。伊豆陣見学のゆきかえりに小田原で逢ったし、それ以前にも岩《いわ》槻《つき》の城で、しばしば使者に来た小太郎を見ている。
「――なぜ、その香具師たちがこの城の界隈をうろつくのじゃ?」
と、きいてみた。風摩小太郎は麻也姫の顔を見て、ニンガリと苦笑した。
「きゃつら、姫君さまに恋《れん》慕《ぼ》しておるようでござるわ」
そして、呵《か》々《か》大笑した。
「いや、言語にたえたる馬鹿者どもで。――しかし、馬鹿者どもには相違ないが、それなりにちと見どころもある面白い奴ら、と拙者は見込んでおるが」
そんな風摩小太郎の言葉を、むろん麻也姫がふかく心にとどめて記憶していたわけではない。彼の言葉は冗談だと思っている。こわい顔をしていて、ときどき突拍子もない諧《かい》謔《ぎやく》を吐くくせもある風摩組の首領なのである。
その七人の香具師とやらは、伊豆でこらしめたあの者どもにちがいない、と思いあたった。そして、ひょっとするとあの無法者たちは、じぶんを逆恨みしているのであろうか、とかんがえた。それにしても執念ぶかい奴ら、と眉をひそめた。
こんど、その七人がほんとうに忍《おし》にあらわれて、この城に忍び入ろうとしている、という報告を御巫燐馬からきいたとき、彼女はいよいよ彼らの執念ぶかさに呆れ、立腹した。三人の風摩組がかけた罠《わな》を黙ってみていたのはそのためだ。
が、いま――その七人の香具師を眼前に見、さらに恐ろしい刑《けい》戮《りく》を受けようとするのを見て、思わず走り出してきたのは、風摩小太郎の言葉を重んじたからではなく、ただ憐《れん》愍《びん》の情からである。またそれよりも、いま二人の女中の受けた成敗の無惨な光景を、ふたたび目撃するのに耐えられなかったのだ。
麻也姫は、七人の香具師の方にむきなおった。
「なぜ、この城に入ろうとしやった?」
七人はだまっている。まさか、おまえさんをヨツにカマってやりたかったからな、とはいえない。
「わたしに恨みでもあるのか?」
「言え!」
と、累破蓮斎がいった。茫《ぼう》洋《よう》とした顔なのに、鼓《こ》膜《まく》もひッ裂くように勁《けい》烈《れつ》な声であった。
「ある」
と、悪源太はうめいて、ぎろっと麻也姫を見あげた。こうなれば、やけくそだ。
「伊豆のことを忘れたのか?」
「伊豆のこと?」
かえって、三人の風摩組の方が奇妙な顔をした。伊豆でこの七人に鉄《てつ》槌《つい》を加えてやったが、下《げ》司《す》下《げ》郎《ろう》の分際を以て、あのことでこうも執念ぶかく、厚かましく、無鉄砲に、武士に――城にまで刃向ってこようとは想像のほかだ。
「あれは、おまえたちが悪いのです」
と、麻也姫はしずかにいった。
「いくさでさいなまれた女たちを売ろうなどと――男のすることではない。それがまだわからぬのか。あれを天のこらしめと思わなかったのかえ?」
悪源太は絶叫した。
「男と知って――やい、男の面《つら》に土足をかけるって法があるか!」
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香具師立志伝
麻也姫は、じっと悪源太を見つめた。しずかな顔色であったが、たしかにはっとしたらしく、眼に動揺が走ったようだ。
「そうか」
と、つぶやいた。
「それで腹をたてて、わたしを恨んだのか」
「やい」
悪源太は風閂に縛《しば》られたまま、いたけだかになった。相手にちょっとでもひるんだふしがあると、たちまちつけこんで威《ハツ》嚇《タリ》に出るのが香具師の手であり、くせでもある。
「一寸の虫にも五分の魂があるってことを知ってるか?」
「何を、こやつ、えらそうに――おのれらの悪《あく》行《ぎよう》は棚にあげて」
と、御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》がいった。
「奥方さま、もうようござりましょう」
もうよかろう、というのは、七人の香具師をもうあの世へ送ってもよかろう、という意味だ。なお何やら吼《ほ》えようとする悪源太を、義《よし》経《つね》がとめようとして腕がままにならず、うしろからひざッ小僧で腰をついた。
「あれは、わたしが悪かった」
しかし、麻也姫は燐馬の言葉には耳がないもののように、悪源太を見ていった。
「しかし、だからといって、いったいそなたら、この城に入ってどうするつもりであったえ?」
とっさに言葉につまって、眼を白黒させている悪源太に、麻也姫はほとんどいたずらッ子に似た天《てん》真《しん》爛《らん》漫《まん》な笑顔を見せた。
「わたしの顔を土足で踏むつもりでありましたか」
「そ、そ、その通りだ!」
「……いまさらのことではないが、無礼な奴。こやつらごときに忍法の手《て》間《ま》ひまかけることはない。刑四郎、斬ってしまえ」
と、累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》があごをしゃくった。戸来刑四郎の手が刀の柄《つか》にかかった。
「待てと申すに」
麻也姫はふたりを眼で叱って、
「なるほど、風《ふう》摩《ま》が、このものどもを見どころがある、と申したのはこれか」
と、うなずいた。けげんな顔をしたのは、七人よりも三人の風摩組だ。
「何がでござる」
「かんがえても見や。女に顔を踏まれて泣寝入りせぬ根《こん》性《じよう》、この城に入って来た知恵、いまのそなたらの恐ろしいわざを見て、なお屈せずわたしにいうことだけはいってのける度胸、あっぱれなものではないか?」
「これは買いかぶられたものかな。すべて悪党の悪知恵、悪度胸にすぎませぬ。生かして置けば、世に害ばかりなす奴ら。――」
「いや、小太郎のいう通り、いかにも香具師にしておくには惜しいと思う」
麻也姫はやさしくいった。
「そなたらにあやまります。顔を足で踏んだのは、わたしが悪かった。と申して、わびのしるしにわたしの顔をそなたの足で踏ませるわけには参らぬが――いつぞやのことは、ゆるしてたもれ。このたびのことは、ゆるしてあげます。で、和解のしるしに、そなたら小田原へいって、風摩組に入って、北条家のために一働きしてはくれぬかえ?」
「風摩組に?」
七人の香具師と三人の風摩組がさけんだのが同時であった。
「いやかえ?」
「いやなことだ!」
と、悪源太がわめくと、夜狩りのとろ盛がふるえ声で、
「奥方さまのお頼みなら、火の中、水の中へでも飛びこみてえが」
「とろ盛、とんでもねえことをいうな」
「いや、たとえ、そう望んだって、という話さ。そんな望みを起したって、とうてい忍術使いなんかになれやしねえ」
「わかっておるか?」
と、累破蓮斎が苦笑いしていったが、麻也姫を見た眼にはあきらかに不快なものがあった。
「奥方さま、奥方さまは恐れながら風摩組の忍法をいささか見くびっておいであそばす。風摩組も、忍法もそれほどなまやさしいものではありませぬ。いかなれば、かような間《ま》のぬけた香具《や》師《し》風《ふ》情《ぜい》に」
「しかし、小太郎はあのように申したではないか」
「首《しゆ》領《りよう》は何か、かんちがいしたのでござろう」
麻也姫はもういちど七人を見て、可《お》笑《か》しそうな笑顔になった。
「そうかもしれぬ。このものども、いかにものんきな、気楽な、間のぬけた顔をしておる。無惨な忍法者には性《しよう》が合わぬかもしれぬ。それに、当人たちがいやというなら、いたしかたがない。……放してやりゃ」
「は?」
「このまま、城から自由に飛ばしてやりゃ」
「姫」
三人の風摩組は、思わず姫と呼んだ。
「これは思いがけないことを仰せられる。不敵にも城に忍び入った曲者ども、拙者らの立場としても断じてゆるせませぬ」
「わたしがゆるします」
凜《りん》然《ぜん》として、麻也姫はいった。
「殿のおわさぬあいだは、わたしが城主じゃ。そのわたしがいうのです。わたしはこれ以上、むごたらしい血がながれるのを見とうはない。敵はほかにある。ほんとうの敵はまもなく攻めてくる。そのまえにこの城を、敵と呼ぶにもあたらぬ虫けらのような男どもの血でけがしとうない。……この七人は、放してやりゃ」
初夏の青葉、青麦に塗られた関八州を、ズタズタにひき裂く血風、砂塵の修《しゆ》羅《ら》相《そう》をどう見ているか。――高い蒼《あお》空《ぞら》で、のどかに鳶《とんび》が鳴いていた。
七人の香具師は、入《いる》間《ま》川《がわ》のほとりの或る丘の上に坐っていた。どこか虚《うつ》ろな眼をしているのは、虚兵衛だけではない。みんな、腹がへっているのだ。
「おい、ここまで夢中で飛んできたが、いったいこれからどこへゆくつもりだ?」
ただひとり、イライラとした眼をして、悪源太がいった。
「忍《おし》の城に尻《し》っ尾《ぽ》を巻いたのかよ。おれは、尻っ尾を巻かねえぞ」
「源太、まだ腹がおさまらねえのかよ?」
と、とろ盛が、呆れたようにいった。
「麻也姫のおかげで命があったようなものだが」
「何をいってやがる。ひとをおだてやがって――香具師にして置くには惜しいって? けっ、ばかにしてやがる。おだてた口の下から、あれだ、何とかいいやがった、ひとを、間のぬけた顔をしておるの、敵と呼ぶにもあたらねえ虫けらのような男ども、だの。――」
しゃべっているうちに、だんだんとまた腹がたってきたらしく、源太はいきなりならんでいた夜狩りのとろ盛の横っ面をひっぱたいた。
「痛え! 何をするんだ」
「こいつ、奥方さまのお頼みなら、火の中、水の中へでも飛びこみてえ、といいやがった。いうにことかいて、何をぬかしやがる」
「飛びこみてえ、と望んだって、忍術使いにゃなれねえ、といったんだ」
「まったく、おっかねえ奴らだったなあ」
と、義経が心《しん》底《そこ》からふるえあがるような声でいった。
「伊豆で見たやつだが、眼にも見えねえ髪の毛が、人を斬り、人を縛る」
「その上、あの戸来刑四郎という男、じぶんを斬ったときは、あとでからだをつないで生きかえる、と来てやがる。化物だ」
「それより化物は、あの御巫燐馬という奴じゃて」
と、弁慶もくびをひねる。
「砂の上の人型に寝たら、女から男へ変りおったぞ。あれはいったいどうしたのじゃ」
「砂の人型は、御巫燐馬が前もって残しておいたじぶんの人型じゃよ。それに合わせて、姿をもとにもどした。……つらつら案ずるに、燐馬が撫《なでし》子《こ》の姿に変《へん》形《ぎよう》したのは、やはり砂に撫子の人型を作って、それに合わせて変ったのじゃな」
と、昼寝睾丸斎がいった。
「それはわかるが……いや、よくわからねえが、それはまず見た通りとして……わからねえのは、姿ばかりじゃねえ、庚《こう》申《しん》堂《どう》で逢ったのは――ほんとうに女だったぜ」
とろ盛がじぶんの股《こ》間《かん》をふしぎそうにのぞきこんだ。
「ありゃ、ほんものの撫子という女じゃなかったのか?」
「ちがう、ほんものの撫子なら、おれを金《こん》輪《りん》際《ざい》裏切りやしねえ」
といったが、悪源太もあたまをかかえこんだ。
「ありゃ、御巫燐馬の化けた女にちげえねえが……女……女だか、男だか、おれにもさっぱり見当がつかなくなってしまったよ」
「とにかく、そんな化物が護《まも》ってる麻也姫だ。もう二度と近づけやしねえ」
と、義経が溜息をついたとき、睾丸斎がどじょうひげをひねってつぶやいた。
「麻也姫を護る。――護っているにちがいないが、ありゃあんまり忠義な番人じゃないようだな」
「どうして?」
「いま、つらつら思い出したのじゃが、あの時雨《しぐれ》とお蝶を、どうしてあんな風に殺したのかの」
「おれたちを城へ手引きして入れようとしたからよ」
「それなら、そのことがわかったとき、即座に成敗すればよかろうが」
「だから、おれたちに見せつけるためよ」
「きゃつらが、あたまからなめておるおれたちにか?……それにしては、あの見世物は少し大《おお》袈《げ》裟《さ》すぎるとは思わないかの」
「睾丸斎、何だってんだ」
「ありゃ、おれたちに見せるためじゃあなく、麻也姫をはじめ、城の連中に見せるための見世物じゃなかったのかしらん」
「どうして、城の連中に」
「きゃつらの恐ろしさを、腹の底から見せつけるためじゃよ。あの三人の風摩組は、もとから忍《おし》の城の者でもなく、岩槻城の者でもない。北条から出張して来た奴らだ。だから、いざ城が上方勢に攻められたとき城方に怯《おく》れが生じて、たちまち降参、などいうことのないように、おれたちが監視しておるぞ、妙な了《りよう》簡《けん》を出すと、ただではすまぬぞ、という、あれは、示威だ。威《い》嚇《かく》だ。――と、わしは思う」
「へっ、すると、敵は本能寺、というわけか」
「その通りだ。そう思ってつらつら案じて見れば、あの三人、麻也姫を決しておのれらの主《あるじ》として重んじてはおらぬ、どこか、ばかにしておったようだ。麻也姫もそれを見ぬいて、どうやらきゃつらをあまり好いてはいなかった風にみえる」
「なあるほど、そういえば」
「もし、わしらが食いこむとすれば、その間《かん》隙《げき》じゃな」
睾丸斎は悪源太をふりかえった。
「源太、あくまで麻也姫をヨツにカマる志を捨てねえか?」
「捨てるもんか! 近ぢかと見たら、いよいよやたけにヨツにカマってやりたくなったい」
「おまえがそういうなら、わしたちもつき合う。その望みをとげるたった一つの手だてがあるぞ」
「どんな手だてだ」
「いつかいった通り――忍術使いになることだ」
「えっ、そいつあ」
「麻也姫自身がすすめた通り、風摩組に入るのじゃよ。風摩小太郎も、気がむいたら小田原へ来いといった。そこで忍術使いになって、何とかして、こちとらも忍《おし》城《じよう》へ出張させてもらう」
「しかし、例の三人の風摩組の野郎が」
「首領の小太郎の朱印でももらえば、きゃつらとてどうすることもできまいが。――そうして、いったんナレナレしく麻也姫に近づいたら、あとはもうこっちのもの」
「そこまでゆきゃいいが、それまでが」
ぎょっとしたように一同は睾丸斎を見つめた。
「風摩組に入ってからが、ことだぜ」
「そこは香具師本来の威《ハツ》嚇《タリ》と機《トン》智《トン》と詐《イン》術《チキ》でゆく」
睾丸斎はどじょうひげをしごいて、きゅっと笑った。
「要領よく、要領よく、な、忍術使いを化かすのじゃ」
「そして、こっちも忍術使いに化けるのか!」
悪源太は眼をひからせ、手をうって青い丘の上におどりあがった。
「その化かし合いに、忍術使いが勝つか、香具師が勝つか。――面白い! ゆこう!」
たちまち七人は、疾風のように丘をかけ下り、南へ、武蔵野の大地を飛んでいた。
暦《こよみ》は五月に入り、日を重ねていたが、上方勢は依然として小田原城を包囲したままであった。ときどき思い出したように、一部隊が攻撃をしかけたり、城方で出撃したりして小《こ》競《ぜり》合《あい》はあったが、戦局全般としては、いつ果てるともしれぬ持久戦の様相を濃くしていた。
関東に於ける北条陣営の諸城は、朝《あした》に一城、夕《ゆうべ》に一城落ちていったが、小田原城そのものは、厳として相模《さがみ》湾《わん》の南風に旗をひるがえし、容易に崩れる気配はなかった。むしろ、長陣に倦《う》んできたのは上方勢の方だ。
力攻を避けて、水攻め兵《ひよう》糧《ろう》攻めは秀吉の得意とするところだが、さすが天下にきこえた小田原城はそこに破《は》綻《たん》はなく、かえって攻囲軍の方に動揺の生じるおそれがあった。長陣も度をすぎると、しょせん成上り者にすぎない秀吉は、鼎《かなえ》の軽《けい》重《ちよう》を問われ、上方勢の内部や、さらに後方の上方そのものに、どんな異変が起るか、逆《ぎやく》睹《と》しがたいものがあったからだ。
味方の倦《けん》怠《たい》や沈《ちん》滞《たい》を避けるために、秀吉がみずから愛《あい》妾《しよう》淀《よど》君《ぎみ》を呼び、諸将に同様の気ばらしをすすめ、大々的に茶会や踊りの会を開いたのはこのときである。
北条方は、上方勢のその厭《えん》戦《せん》気分や内部崩壊を待っていた。それに望みを託していくさのほぞを決め、籠《ろう》城《じよう》にたえているといってよかった。
城と攻囲軍と――両者のあいだには、刀槍のたたかいより、乱《らつ》波《ぱ》のたたかいがくりひろげられたのは、当然だ。諜《ちよう》報《ほう》はもとより、暗殺、放火、流言と――闇の中に、忍びの者は跳《ちよう》梁《りよう》し、死闘した。いつか七人の香具師が見た――上方陣に忍び入って、徳川織田裏切りの偽手紙を見せようとした北条方の忍者、また小田原城に潜入して、風摩組に入ろうと計った豊臣方の忍者――などは、その一端に過ぎない。
七人の香具師は、風摩組に入った。
「よう帰ってきたな」
と、風摩小太郎は七人を見て、おどろいた顔をした。いまや包囲軍を突破して外部と往来できるのは風摩組だけだろうと思っていたのに、七人がのんきな顔で、フラリと小田原に入ってきたから、少なからず呆れたのだ。
しかし、それだけに彼はよろこんだ。
「やる気になったか」
「へ、まあね」
「発《ほつ》心《しん》のきっかけは何だ」
「へ、いろいろとね」
七人の答はあいまい模《も》糊《こ》としていたが、風摩組の首領はそれ以上詮索しなかった。ただ、最後になって別人のようなこわい顔で――もっとも、もともと人間離れのしたこわい顔だが―― 厳然といった。
「乱波の修行はきびしいぞ。覚悟しておれよ」
風摩小太郎がふかく動機をたださなかったのは、べつにそれほどこちらを信用しているからではなく、乱波の消《しよう》耗《もう》を至急|充《じゆう》填《てん》する焦《しよう》眉《び》の必要にかられていたことと――そして、ひとたび風摩組に入った以上、容易にその鎖から離れることのできない訓練と組織に対する自信からであったことを、七人の香具師はまもなく知った。
水を張った大きなたらいに、首ねッこをつかまえられて、つっこまされる。肺活量の強化訓練である。走る、走る。――へどを吐くまで走らされる。しかも、それがふつうに歩くのではなく、蟹《かに》のような横歩きなのだ。つぎには火消し人足のごとく、長い梯子をかけのぼらされ、かけ下りさせられる。くびに綱をつけられ、上と下からひっぱられるのだから、足でも踏みはずせば、いちどに首吊り人だ。
これは彼らではなく、もっと上級の生徒たちの課程であるが、大地につらねた唐《から》紙《かみ》の上を歩かされている連中があった。唐紙の上には水が打ってあった。それを破らず、音もたてず渡ってゆくのだが、紙の下には刃を上にした刀が仕込んであるということであった。また、土塀の上を猫のように疾走させられている連中があったが、塀の両側の地面には、いちめんに槍の穂が地獄の刀《とう》葉《よう》林《りん》のごとく植えてあった。
ほかにも、朝から晩まで狂気のごとく砂地に指をつっこまされている連中があった。指は血まみれになり、骨が露出しても彼らはゆるされなかった。また数時間、逆吊りになっている連中があった。数日間、全身の関節をはずされて、放り出されている連中もあった。
「これは、えらいことになった」
「へたすると、殺されちまわあ」
彼らは息せききって横歩きをしながら、蒼い顔を見合わせた。
「へたすると――ではない。げんに、一日に何人もくたばってゆくぜ」
「それでも、だれもが知らん顔だ」
彼らは、あぶら汗と涙をこぼして高い梯子を上下しながらいった。
「こら、睾丸斎、おまえ要領要領といったが、こいつを楽にやってのけられる要領を教えてくれ」
「ない――ない! そんな要領があったら、わしにこそ教えてくれ。あっ、落ちるう」
それこそ、しなびた睾丸のごとく梯子にぶら下がって睾丸斎は悲鳴をあげる。
「見ておるぞ。ぶら下がって息を安めようとしてもゆるさぬぞ」
下から風摩組の指導員がわめく。
「ズルをきめこみたい奴は、あの世へいって休め」
上から、別の指導員がくびの綱をひっぱりあげる。
要領どころではなかった。忍者と香具師の化かし合いどころではなかった。彼らはじぶんたちが地獄を這いまわる亡者のような気がした。
彼らは息絶え絶えにいくどかささやいた。
「おい、ずらかろう。もう辛抱できねえ」
「逃げられねえ。きのうも組抜けを願い出て、たちどころに黒犬に変えられた奴があった」
「だまって逐《ちく》電《てん》するんだよ」
「いや、昨晩もだまって逃げようとしたら、見えねえ風《かぜ》 閂《かんぬき》にかけられて、胴が二つになった奴があったってよ」
そのなかで、ただひとりあまり泣《なき》言《ごと》をもらさずがんばっているのは悪源太だ。
「ええ、こうなりゃやけくそだ。いま逃げたら、これまでの苦労が骨折損だ。どうなるか、やれるところまでやってやろうや」
それでも、さすがの悪源太も、あけてもくれても梯子の上り下りばかりなのには、たまりかねて不平の意をもらしたことがある。
「お頭《かしら》。……そろそろ、もう少しはでなところを教えてくれませんかね」
「はでなところとは何だ」
「たとえばさ、からだが三つ四つに分かれてもあとでつなぎ合わせるとか、男が女に変るとか。――」
風摩小太郎は冷然といった。
「そんなことは、うぬらには出来ぬ」
「いや、おれは女に変りたかあねえが、とろ盛なんか、ありゃ女よりいい音《ね》をたてますぜ。それに馬左衛門なんぞ、からだの一《ひと》ッ所《とこ》、切りとってほかの誰かのと取っかえてやったら、感涙をながしてふるい立ちますぜ」
「うぬらの性《しよう》分《ぶん》、また忍法を習い出した年から、左様なことは金輪際できぬのだ。また、こちらもうぬらにそれほどのことは期待せぬ」
「そっちが期待しなくったって、こっちが――」
「胆をすえて聞け、忍びの者には、上忍中忍下忍と、もって生まれた分《ぶん》際《ざい》がある。うぬらはいかにあがいても下忍なのだ。――しかし、下忍には下忍としての誇りもあればよろこびもある。それがわかるまで――」
風摩組首領は、びゅっと鉄鞭をふるって叱《しつ》咤《た》した。
「これ、無用のうわごとをいってはならん。一刻も息を休めず、梯子を上れ!」
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忍者学校
七人の香具師をはじめ、忍術学校の生徒たちが修行しているのは、小田原城の或る角《すみ》櫓《やぐら》を中心とした一劃で、これが風摩組の本拠となっているらしい。
角櫓といっても鉄と石を積みあげたような三重の建築物で、小さな忍《おし》の城などにくらべると、ほとんどその天守閣にちかい規模のものであった。
日中は例のいのちがけの猛訓練だが、夜はその角櫓に眠る。いや、夜は夜でまたひき出されて、おたがいに立木に縛りつけて、おたがいにそれを目標に手《しゆ》裏《り》剣《けん》を打つ――むろん、中《あた》らないように、だが、これまたむろん、ときどき身の毛もよだつ断《だん》末《まつ》魔《ま》の悲鳴が闇《あん》夜《や》にきこえることもある――そんな苛《か》烈《れつ》無惨の修行をさせている連中もあるが、一応の仮《か》眠《みん》所《じよ》は、その角櫓の地下室があてられていた。
「おい、これはいつか来た――例の鈴を股にぶら下げられたところじゃあねえか」
「茎《くき》鈴《すず》の験《ため》し、とかいいやがったな」
「まったくひとをばかにした験し、だったよ。なあ?」
最初の一夜から、そのことに気がついて、七人は周囲を見まわしたことである。あの石にかこまれた地底の一夜は、とうてい忘れられるものではない。
その石の床《ゆか》には、莚《むしろ》をしいただけで、一枚の夜具もなく、十数人の男たちがゴロゴロと眠っていた。みな眼はおちくぼみ、口を洞《ほら》穴《あな》みたいにあけて、死びとのようだが、みんなひるまの忍術修行に疲労|困《こん》憊《ぱい》しつくした生徒たちであった。
「しかし、あの晩は、こんな野郎どもの姿は見えなかったぞ」
「そういえば、あのときは、天井の隅っこから鉄の鎖がぶらさがってたが――そんなものは見えねえようだが」
そんなことをヒソヒソと話し合っていると、突然、
「うぬら、うるさいぞ」
と、叱った者があった。おどろいてふりむくと、いままで直立した人間など影も見えなかった向うの石壁の下に、忽《こつ》然《ぜん》とひとりの武者があらわれて、こちらをにらんでいた。
「とろ盛、うぬはきょう梯子の上でしきりにあくびをしておったではないか」
「へい!」
「ほかの連中にしめしがつかぬ。また修行中に大あくびなどをしてみせると、骨の蝶つがいをはずしてくれるぞ。――黙って、寝ろ」
「へい!」
「そのうち、七日七夜、一睡もさせぬ修行の時期がくる。いまのうちに、寝だめをしておけ」
首をすくめ、顔見合わせる七人の眼前で、武者の背後の石壁の一部分が音もなく回転して穴をあけ、武者はその向うにかき消えた。――まず、寄宿舎の舎《しや》監《かん》といったところだ。
「ああそうか。向うにも同じような部屋があるんだ」
「おれたちが前に入れられたのは、そっちかも知れねえ」
「しかし、ここに寝ころがってる奴らを見わたしたところ、唐《から》紙《かみ》わたりや逆吊りになっていた連中の顔が見えねえぞ。こんな石の部屋はいくつもあるにちげえねえ」
香具師たちは性《しよう》懲《こ》りもなく、またヒソヒソと話した。猿ぐつわでもはめられなければだまっている面々ではないし、それにこの連中には、何をいわれても、何をされても蛙の面《つら》に水といったところがたしかにある。
「しかし、石の壁の向うでおれたちの声がきこえたのはふしぎだの」
――或る夜、七人はまた話した。
「おい、してみると、どっちにしろ、極楽はこの上にあるわけだな」
「極楽?」
「ほら、はじめてここに来た晩、はだかの女をたたみみてえに敷きやがって酒を飲んでた奴らがあったじゃあねえか」
「あっ、あの極楽!」
と、義経が思わずすっ頓狂な声をあげた。
「そうだ、そいつを見せつけられたあと、この地の底にもぐりこんだんだ」
「しかし、こんど、ここへくる途中、そんな部屋は見えなかったぜ」
「道がちがうんだ」
「それにしても、女ッ気の匂いもしねえ。――どこにいるのかな」
「いることはいるにちげえねえ。ただ、なんか忍びの手柄をたてなきゃ、その極楽へやってもらえねえんだ」
「手柄をたてなきゃ――たって、そりゃいつの日になるか見当もつかねえあんばいだぜ」
「この分じゃ、それまでにいのちがなくなっちまわあ」
「――それにしても、いままでよくあの極楽を思い出さなかったもんだな。女の匂いもかがなくなってから、もう七日にもなるぜ」
七人はおたがいに顔を見合わせた。みんなゲッソリとやつれて、まわりにゴロゴロしている忍術亡者たちに、だんだん似てきたようだ。
「あっ、たまらん、悪いことを思い出させやがったよ。何だかおれは腹がはじけそうな気持になってきた。そうか、七日も女ッ気なしに暮らしてきたか」
と、馬左衛門が長《ちよう》嘆《たん》したが、何、七日どころか本人は生まれながらの童貞である。しかし、みんな笑わなかった。笑いごとではないと思った。
「いや、まったくだ。このままでいると、忍術修行のせいじゃなく、そっちの方で命の緒《お》が切れる」
と、息もほそく陣虚兵衛がいうと、吐き出すように悪源太もいう。
「忍術修行はもうたくさんだ」
「だって、おめえが一番はりきってたじゃあねえか」
「何も忍術修行が目当てじゃあねえ。麻也姫のところへゆく方便のつもりだったんだが、方便にしちゃ骨が折れすぎらあ」
「と、いまさら悲鳴をあげたって、逃げりゃ風閂にひっかかるしさ」
「やい、睾丸斎、そもそも風摩組に入ろうといい出したのはおめえだぞ。入りゃ要領でゆく――なんて、ばかに手軽そうにいいやがってよ」
「なんとか忍術野郎をうまく化かす法をかんがえろ」
「それより、一刻もはやく女を抱かせてくれえ」
或いは血相をかえ、或いはすがりつかんばかりに哀願されて、昼寝睾丸斎はどじょうひげをしごいた。
「つらつら考えるに。――」
入口に置かれた篝《かがり》火《び》がパチパチと火の粉をあげている。
それ以外は、いびきと歯ぎしりの音もきこえないほど、誰もがまるで人間の泥のように眠りこけている石の部屋に、フンワリと春《はる》霞《がすみ》がかかった。どこか血の匂いのする殺《さつ》伐《ばつ》な夜気に、甘《うま》酒《ざけ》のような香りが満ちてきた。
――いや、夢だ。そこに眠っておる男たちは、いっせいに夢をみていた。
サラサラと巻きつくながい黒髪。赤らんでふさがれた瞼《まぶた》、或いは睫《まつ》毛《げ》のかげからうるみひかる瞳。日の光も透《とお》すような耳たぶ。ぬれてひらかれた唇。歯のあいだにほのめく舌。はげしくふるえる鼻《び》翼《よく》。息づき、吸いつく絹の鞠《まり》のような乳房。シットリとからみつく熱い腕。ほそくくびれた胴のまるみ。しなやかにくねる足。――
夢みる幻の具体像は千変万化だが、それが全身うるおうほどのなまめかしい迫真性を持っているという点ではおなじ春夢であった。
彼らは女のかぐわしい喘《あえ》ぎまでかいだように、口を金魚みたいにパクパクとさせた。
「……だれだっ」
石壁が回転して、ただならぬ表情で武者が出てきた。
「女をひきずりこんでいる奴はだれだ?」
びっくりして、いっせいにがばと起きなおった生徒一同より、監督の武者の方がキョトンとしている。――石の部屋に、女の姿など片《へん》鱗《りん》もないのだ。
「……夢か?」
武者はふいに狐につままれたような声でつぶやき、すまぬともいわないで壁に消えた。生徒たちは不平もいわないで、また泥のような眠りにおちた。
そしてまたもや彼らは、身も魂もしびれるような春夢の世界にひきずりこまれたのだ。たまりかねて、牡《お》牛《うし》のようなうなり声をたてた者さえあった。
「――女がおる!」
ふたたび石の壁から武者が飛び出した。
「やはり、女がおるぞ! たしかに女の声がきこえた!」
「どんな……女の声が?」
くびをもたげ、寝ぼけた顔で睾丸斎がきいた。武者はまたふしぎそうに部屋を見廻して、
「たしかに、女の泣いておるような声が。――」
「とろ盛、おめえじゃあねえか?」
と、悪源太がいった。とろ盛はぽかんとして、宙を見つめたきりだ。
「おめえ、何かねごとをいったんじゃあねえか?」
「ねごと?」
と、武者が拍子ぬけしたようにいった。
「へい! こいつのねごとは、まるで女の泣くような声なんで。……それがほんとうにいいことしてる女の声そっくりで、こちとらもよく悩まされるんですが、ねごとだからとめるわけにはゆかねえし、それに、日中くたびれればくたびれるほど真に迫った声を出しやがるんで。……」
「ねごとか。……ねごとにばかな声を出すな。こちらも悩まされる」
武者はニンガリともせず、叱りつけて、石の壁へひきかえしていった。
しばらくすると――いかにも夜狩りのとろ盛ののどの奥から、宛《えん》転《てん》たる嬌《きよう》音《おん》がもれはじめた。たしかに眠っている風なのだが、とうていいびきやねごととは受けとれない妙音だ。赤坂城の泣き男みたいな顔をしていて、よくあんな声を出す――と、ふしぎがるよりも、その声のなまめかしさに心《しん》魂《こん》をとろかされずにはいられない。この伴奏をききながら眠れば、男たるもの、どうしてもおかしな夢を見ずにはいられないし、起きている者もとがめるのも忘れはてて、恍《こう》惚《こつ》とききほれずにはいられない。
翌る日、同室の生徒たちの眼はみんな充血していた。二日めには、彼らはいささか不《ふ》穏《おん》の状を呈《てい》してきた。実際、絶対服従のはずの修行中に、風摩組の先生に反抗して逆吊りの罰を受けた生徒もあったのである。この忍術学校創立以来の不《ふ》祥《しよう》事《じ》であった。三日めには、なんと先生仲間の挙《きよ》動《どう》も何やら凶暴の気味をおびてきた。
「……どうしたのだ?」
何も知らぬ首領の風《ふう》摩《ま》小《こ》太《た》郎《ろう》が、けげんな表情で見まわしたが、誰も答えない。先生も生徒も、なぜじぶんたちがイライラしているか、じぶんでもわからないのだ。
「そうか。相わかった」
風摩小太郎は思案ののち、のみこみ顔ではたとひざをたたいた。
「修行中の褒《ほう》美《び》というのは異例であるが、いくさのないときとちがい、籠城中でみなの気もはやっておろうから――それに敵の秀吉も陣中の無《ぶ》聊《りよう》をなぐさめるために、いろいろとあの方でも工夫をこらしておるともきいておるし――今回にかぎって、とくに大盤ぶるまいをしてやろう」
といったが、もういちどくびをかしげて、
「……しかし、わからんの」
と、つぶやいた。
忍術学校の生徒たちが、はじめて角《すみ》櫓《やぐら》の中の悦楽の秘室の門をひらかれて、望外の「給食」にありついたのは、その夜からのことであった。
ただひとり、哀れをとどめたのは馬左衛門で、
「うぬはだめだ」
と、小太郎からはねつけられた。
忍術学校に、視学官たちがやって来た。
視学官というのは、小田原城に召集された関東諸城の城主たちで、案内者は北条家家老の松田尾張守だ。
音にきこえた北条風摩組の訓練状況を、尾張守が諸大名に見せて示威の用にたてようとしたものか、諸大名の方で特に見学を要求したものかはわからないが、とにかく生徒中優秀なるものの演技を参観することになったのである。
「相《そう》州《しゆう》足《あし》柄《がら》城、依《よ》田《だ》日向《ひゆうがの》守《かみ》どの。――」
「武《ぶ》州《しゆう》鉢《はち》形《がた》城、北《ほう》条《じよう》出《いず》雲《もの》守《かみ》どの。――」
「下《しも》野《つけ》烏《からす》山《やま》城、那《な》須《すの》内《たく》匠《みの》頭《かみ》どの。――」
角櫓ちかくの広場に参集した選手たちに、大名を紹介したのは松田尾張守の息子の松田|弾《だん》三《ざぶ》郎《ろう》であった。父とよく似て、ノッペリとした長い顔で、しかもなめし皮のように黒びかりする皮膚をもった男だ。父の威を借りて高慢で、しかも女ぐせがわるいというので、城中の評判はあまりよろしくない。
噂の通り、まるでじぶんの家来でも呼びあげるように傲《ごう》然《ぜん》とした声で、彼のみ平服だが、美々しい鎧《よろい》をつけた大名たちは、いちいち鄭《てい》重《ちよう》に会《え》釈《しやく》する。
「常陸《 ひ た ち》下《しも》妻《ずま》城、多《た》賀《が》谷《や》能《の》登《との》守《かみ》どの。――」
「武《ぶ》州《しゆう》岩《いわ》槻《つき》城、太《おお》田《た》源《げん》五《ご》郎《ろう》資《すけ》房《ふさ》どの。――」
――おや? という風に、七人の香具師は平伏したままそっと顔を見合わせた。まったく有難迷惑な話だが、どこを見込まれたのか、彼らもまた選抜されて広場に整列して坐らせられていたのだ。
「……麻也姫の兄貴じゃあねえか?」
「やっぱり来てやがったんだな」
松田弾三郎はつづけた。
「武州|忍《おし》城、成《なり》田《た》左《さ》馬《まの》助《すけ》どの。――」
七人の香具師は、こんどはみんなムクリとあたまをもちあげてしまった。
「あれか?」
「あれが麻也姫の亭主か」
「どんな顔をした野郎だ?」
「おんや? 存外いい男だぞ」
「おれよりか?」
と、義経が思わずかん高い声でいうと、端に立っていた風摩小太郎が恐ろしい眼でこちらをにらんだ。
公開競技がはじまった。香具師たちの種目は梯子の上り下りだ。五丈ちかい梯子がならべて立てられて、それを猿《ましら》のごとくかけ上り、かけ下りる。――何だかばかばかしいが、下界ではいっせいに嘆声があがった。
「おお、まるで人間わざとは思われぬ。――」
「城攻めのとき、一番乗りはあの者どもにゆずるほかはござるまい」
そんな声がきこえて、そういわれてみれば、七人の香具師も最初風摩組に入ったときにくらべ、いつのまにか長足の進歩をとげていることにわれながらおどろかざるを得ない。
たたみを七、八枚ならべて、前にならんだ選手たちがいっせいに掌をつき出すと、その指がぷすっとたたみをつらぬき通す競技があった。大地に坐ったまま、みるみる腰から腹へと土が泥に変ったように埋没してゆくわざがあった。四肢の関節を回転させて土を掻いてゆくのだが、ついに頭部が没しても、それっきり姿をあらわさないのである。
「ううむ。……」
「ききしにまさる。……」
大名たちは瞠《どう》目《もく》したままうめいた。七人の香具師も唖《あ》然《ぜん》としていた。彼らもその日はじめて見る忍法があったのだ。
彼らが異臭をかぎつけたのはそのころであった。ヒョイと向うをみて、彼らは胆をつぶした。
「おどろいたな、大名の前で」
「糞をたれてる奴があるぞ」
すでにその光景に気がついて、さすがに眉をひそめ、扇を鼻にあてている大名もあった。
やや遠い白洲の上に、三人の男がしゃがみこんで、股間に黄金の堆《たい》積《せき》をつみあげていたのだ。見ていると、いよいよ呆れはてたことに、彼らはみずからの糞をこねてしごき、一本の棒に作りはじめた。
「あいや、まことに尾《び》籠《ろう》なることにて、恐れ入ってござる」
と、風摩小太郎がすすみ出た。
「あれもまた忍法の一つにて、糞《ふん》剣《けん》と申すもの。たとえば敵に捕えられ、寸鉄をもうばわれて牢獄に入れられたるような場合、みずからの糞をこねて剣といたす」
「……あれが剣の用をなすか」
と、感心したようにつぶやいたのは、成田左馬助であった。すると、ジロリと松田弾三郎がふりむいた。
「お疑いか」
「いや」
「うむ、これは面白い。成田どのは御美男に似ずなかなか武勇のお方ときく。いや、あれは奥方の噂であったかな?」
彼らは、七人の香具師の坐っているすぐ前に立っていた。風向きのせいで、彼らはそこまで移動してきていたのである。
ほんの片言をとらえて、弾三郎はいやにしつこい。すぐちかくの七人の香具師は、なめし皮みたいに黒びかりする松田弾三郎の眼が、実にいやな悪意にみちているのを見た。
彼は手をうった。
「お、これは面白いことを思いついた。成田どの、ひとつきゃつら糞剣の一人と立ち合われてはいかが」
「まさか。――」
「まさか、ではない。のう、風摩、あれが剣の用をするといわれても、口だけでは誰も信じまい。この成田どのと立ち合わせて、みごと成田どのに一本参れば糞剣の妙を一同が認めよう。もし敗れれば――」
「刀の錆《さび》となされても、当方に異存はありませぬ」
と、風摩小太郎がおちつきはらっていった。
成田左馬助は困《こん》惑《わく》しきった表情で、ちらと弾三郎を見たが、のしかかるようなその眼光にはねかえされて、白い頬にぽうと血がのぼった。
「では、きゃつらの一人、呼んでくる」
歩き出そうとした松田弾三郎が、突然前のめりにバッタリたおれて四つン這いになった。――うしろにいままで彼のはいていた草《ぞう》履《り》が二つのこっている。
「こやつ。――」
その草履にヒョイとのびかかった悪源太の両手を、とんできた小太郎の足がむずと踏んだ。
「こやつ、いつのまにやら、弾三郎さまの草履にいたずらをしおったな」
かがんで、悪源太の手をはらいのけ、ひろいあげて日にすかしたのは二本の針であった。
「吹針だな。どこでひろった」
「へい、角櫓の入口で」
悪源太は平然としている。小太郎に踏んづけられたときは、しまった、という表情であったが、もはや度胸をきめた面がまえだ。
「かようなものを、弾三郎さまの草履に刺しおって――なぜそんなことをした」
「だって、あんまりじゃござんせんかい」
と、彼は口をとがらせた。
「いくら何でも、大名を相手に糞の棒と試合をしろたあ」
「糞剣の妙を知っていただくためで、他意はない」
「お頭《かしら》は忍術の親玉だから他意はあるめえが、その黒びかりした旦那は、たしかに悪《わる》気《ぎ》からの思いつきですぜ。なんだか、ひどく意地のわるい眼つきをしていやがったよ」
四つン這いになった弾三郎に、成田左馬助はかけ寄って、助けあげようとしていた。その手をふりはらい弾三郎が、
「何っ」
とさけんだ。
「ふ――風摩、そやつも同じ組の者か? おお、さっき梯子に上った奴だな」
「新参者でござるが。――」
風摩小太郎はやや困惑した顔だ。弾三郎は立ちあがってきて、わめいた。
「斬れ。――いや、おれが斬る。この無礼者めが」
「へっ、斬る? 面白え、お頭、おれにあの糞《くそ》刀《がたな》を貸して下せえ。おれが一つ、糞《ふん》剣《けん》の妙って奴を見せてやろうじゃあねえか」
悪源太はあごをしゃくって言って、それから成田左馬助を見た。
「成田の殿さま。――お初にお目にかかりやす。お初にお目にかかったところで、こんな御挨拶は可笑しいが、もしあっしが斬られたら、奥方さまによろしくね」
片眼をつぶってみせた。
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瓢箪を盗め
「成田の殿さま?」
家老の息子松田弾三郎はけげんな顔をした。
「成田どの、このものどもを御存じか」
「いや、一向に」
と、左馬助はくびをふって、これも狐につままれたような表情になった。悪源太は弾三郎に大軽蔑の眼をもどして、
「けっ、とんまな野郎だな。いまお初にお目にかかりやすといってるじゃあねえか」
「しかし、うぬは奥方さまによろしく、とかいった」
「奥方のほうを知ってるんだ。へっ、殿さまと祝言なさるより、ずーっと昔からのおなじみだい。おどろいたか」
「どんなおなじみだ」
「そいつあ、ちょっといえないね」
それも道理、顔を踏んづけられたのが縁のはじまりだとはいえるものではない。しかし悪源太はそらうそぶいて、あごをなでて、いかにも人を羨《うらや》ましがらせるような顔をした。
「でたらめもいいかげんにしろ。うぬらごときが、あの麻也どのとなじみのはずはない!」
わめく弾三郎をヒョイと見た悪源太が、
「おんや?」
「なんだ」
「おめえさん、麻也姫さまに惚れてるな?」
みるみる赤黒く染まった松田弾三郎の顔を、穴のあくほど悪源太は凝《ぎよう》視《し》して、
「図《ず》星《ぼし》だ。なんとなくいったら、中《あた》っちゃったよ」
そして、ふりむいた。
「睾丸斎、わかったよ。このひとが成田の殿さまに辛くあたってたわけが」
「何じゃい?」
「このひと、えらく城中の評判が悪いだろ? おやじの威《い》を借る狐だとか、女といったら眼がない狒《ひ》々《ひ》だとか――で、麻也姫さまに惚れてたんだなあ。あれを見て、あれに惚れねえ男は世の中にゃいねえ。そこで、この成田の殿さまがにくらしくって、にくらしくってたまんなかったんだな。そりゃわかる。すこぶるわかるが、だからってさ、その御亭主をつかまえて、糞《くそ》刀《がたな》と果し合いさせなくったっていいだろうと思うんだが、どんなものだろう」
「げ、げ、下《げ》司《す》っ」
「――のかんぐりみごとに中《あた》ったろう。へっ、そんなカンはおりゃ実にいいんだ」
「き、き、斬る!」
松田弾三郎は狂気のように刀の柄《つか》に手をかけた。刀の柄に手をかけたが、坐っている悪源太の眼のひかりがただものでないので、ふっと恐怖に襲われたらしく、
「小太郎、こやつ、斬り捨ててよいな?」
「……やむを得ますまい」
風摩小太郎はにが虫をかみつぶしたような顔でいった。そして、チラと向うに眼をうつした。
向うには、家老の松田尾張守と諸大名が茫然としてこちらをながめている。尾張守も小太郎に劣らず苦《く》汁《じゆう》をのんだような表情だ。
「お、みなさま、お待ちかねだ」
風摩小太郎はわざとらしくいって、弾三郎と香具師たちを捨てて、スタスタとその方へあるき出した。蒼い顔をしてこの珍事を見まもっていた成田左馬助も、救われたようにそそくさとそのあとを追う。
「あれ? 薄情な奴じゃあねえか。おめえさんのために、おれは喧嘩を買って出たんだぜ。――おっとっと! やっぱりやる気か?」
見捨てられて、ふるえていた弾三郎が、ついに抜刀すると同時に、ぱっと悪源太が立ちあがった。
これまた茫然と事の経過をみていた香具師たちが、われにかえって、うろたえて、
「よせ、悪源太」
「よさねえか、とんでもねえ奴だ」
と、腰のあたりにすがってとめるのをふりはらって、
「なに、こいつが相手なら大丈夫だい。槍はねえか。――いや、例の糞刀を借りて、ひとつぶッたたいてやろう。なんだか、お頭《かしら》も勝手にしろっていってる案《あん》配《ばい》だぜ」
向うで、風摩小太郎が、突然|勁《けい》烈《れつ》な号令を発した。
「かかれっ」
同時に、いままで演技を中止していた十人ばかりの風《ふう》摩《ま》組《ぐみ》が、猛然としてうごき出した。
どこを――雲のかけ橋のような高い青竹の上を。
広場の四、五ヵ[#小書き平仮名か、1-4-85]所に、数丈の高さの結び梯子が立てられていた。それを支えているのは、下に立つ一人ずつの風摩組だ。そして、梯子の上から梯子の上へ、長い青竹を架《か》けわたして、つないであった。
その結び梯子を猿《ましら》のごとく駆けのぼり、空にかかる青竹を鴉《からす》のごとく駆けわたってゆくのだが、下界一帯の地面には、例の槍の穂先が剣《つるぎ》の山のように植えてある。
それを恐れ気もなく、タ、タ、タ、とわたって――最後の一人が青竹の上に踏み出したとき、先頭のひとりはもうそのまんなかあたりにさしかかっていた。
そのとき、どこかで絹を裂くような声がした。
「悪源太どの」
小太郎がおどりあがった。
「しまった!」
同時に、宙天の青竹の上の十羽の鴉が、もんどりうって転落して、地上の剣林に凄《すさま》じい血しぶきをあげていた。
彼らがふいに精神の均《きん》衡《こう》を乱したのもむべなるかな。――広場の一角から、まろぶように七、八人の女が走ってきたのだ。それが、並みいる大名たちや、長槍を立てつらねた哨《しよう》兵《へい》や、さらには地上に碧《へき》血《けつ》をまいた風摩組には眼もくれず、
「悪源太どの! ここに出ていましたか!」
「恋しい源太さま、あれから、逢いとうて、逢いとうて――」
狂ったように駆けてくる。
「いけねえ、へんなときにあらわれやがった!」
松田弾三郎とにらみあっていた悪源太が、急にあたふたとして、うしろにすっとんで、仲間の背に逃げこんだ。
「お、例の女《おんな》菩《ぼ》薩《さつ》たちじゃ」
「ありがたいといいたいが――とんでもないときに御《ご》降《こう》臨《りん》だぞ」
ほかの六人の香具師たちもうろたえながら、それでも女たちの前に立ちふさがって、必死にそれをはばもうとする。――今日は姿を見せなかったが、まぎれもなく風摩組の女忍者――しかも、欲情にもえる牝《め》豹《ひよう》のような女たちであった。
惨死した配《はい》下《か》をかえり見もせず、血相変えて、風摩小太郎がとんできた。
「これは、どうしたことだっ」
「わ、わるいのはお頭で――」
仲間のうしろから、悪源太がさけんだ。いたずらをした子供そっくりの顔で、
「こないだ、おれにこの女たちを抱かせたのが悪かったんだ!」
「な、なにっ――あれが、なぜ悪い?」
「おれが抱いた女は――どういうわけか――みいんなめす犬みてえになって、おれを追いまわしてくるんで――」
たしか、夜でないはずなのに、周囲は闇《あん》黒《こく》であった。もう五月もなかばすぎているのに、水の底のような冷たさであった。
おなじ角《すみ》櫓《やぐら》の地下室だが、篝《かがり》火《び》はもえていない。
いつものように、ほかの風摩組の忍術学生たちは眠っていない。――たしか、一夜あけた時刻だと思うが、一椀の飯も一《いつ》杓《しやく》の水もあたえられず、気《き》息《そく》えんえんとして、七人の香具師たちが話している。
「こんどこそは、もういかんな。なむあみだぶつ」
「風摩組は久《く》米《め》の仙人みたいに天から落ちておっ死《ち》ぬし――」
「忍術の馬揃えはメチャメチャになるし――」
「まったく、とんでもねえときにあの女たちが出てきやがったよ」
「あのとき、やっと見物をゆるされて、広場へ出てきたらしいんだ」
「睾丸斎」
「おいよ」
「風呂の中の屁《へ》みてえな声だな」
「声も陰にこもるわさ。もういけない」
「おめえの軍略がまちがっていたんだ」
「まちがっちゃあいなかった。――とろ盛の淫声を以て風摩組内部に不《ふ》穏《おん》の気を醸《じよう》成《せい》する。そこでお頭がその気をほごすために女たちを抱かしてくれる。そこで源太に御苦労をねがって、なるべく多くの女に火をつけておく。すると女たちが、きちがいみたいに源太を追い廻す。もう忍術も修行もあるまい。お頭はもてあまして、さっとおれたちの鎖を解いて追ん出す。――と、こう踏んでいたんだ。この香具師忍法はまんまと図にあたったが、天運利あらず、女たちが追っかけ出した時がわるかった」
「お頭の面目玉をまるつぶれに踏みつぶしたわけさ。もうゆるせぬ、と怒ったな。なむあみだぶつ」
「こわい顔をしているが、どういうわけかおれたちをひどく見込んでくれたお頭だが」
「いまとなりゃ、おれたちと風摩組は、やっぱり悪女の深なさけってやつだったよ」
「あの弾三郎の喧嘩のときまでは、どうやらおれたちの方をひいきにしている案配だったがな」
「そりゃ、お頭は忍術の親玉だから、あの糞刀の妙をみんなに知らせたい一心で、あの一件に悪源太のいったような弾三郎のからくりがあろうたあ、それまでかんづかなかったからさ」
「そういえば、源太、よく弾三郎の本心がわかったの」
「へっ、面《つら》を見たら、ピーンと来たんだ。ありゃ、まちがっちゃいねえぜ」
睾丸斎が、また陰にこもった声を出した。
「源太、それにしても、おめえ、どうして成田の殿さまをかばう気になったんだ」
「――いまかんがえると、おれにもわからねえ」
「それに、おめえ、妙なことをいったぞ」
「妙なことをいうのは、仲間でおればかりじゃねえが――はて、何といったっけ?」
「麻也姫さまを見て、あれに惚れねえ男は世の中にゃいねえ、とたしかにこういいおったぞ」
「…………」
「おまえ、あの奥方に惚れてるのか?」
悪源太はうなるようにいった。
「おれは、あの女をヨツにカマってやりてえだけだ!」
「それなら、その亭主をなぜ助けた?」
「…………」
「いのちをかけて」
「けっ、かんがえてもみろい、これほど苦労してヨツにカマリたがっている女だ。糞刀とやりあって黄色くなった亭主の女房たあ思いたくねえや」
「なるほど、それも一理」
睾丸斎の声は心《しん》底《そこ》から納得したというほどのひびきではなかったが、しかしこのとき睾丸斎は何やらほかの思いにとらえられたようだ。
「あの成田左馬助な。色男じゃあるが、あの麻也姫にふさわしい亭主かな」
「どうしてそんなことをいう」
「あれほど弾三郎に踏みつけにされても、ただオロオロとするばかり」
「そういえば、そうだったな」
「こんどは源太を斬る、と弾公がおめえにかかってきても、それを止める様子もなかったぜ」
「そいつあ、おれもあれあれ、と思ったよ」
「おめえがいのちがけで助けようとしたのは、ありゃとんだむだ骨折りだったかもしれんぞ」
闇の中にも、悪源太の眼がぎらっと大きくひろがって、睾丸斎を見つめたとき、向うの石壁に忽《こつ》然《ぜん》とまるい灯の影が描き出された。
石の壁が廻転して、そこからあらわれた者がある。
松《たい》明《まつ》をかかげた風摩組二人と、それに照らし出された首《しゆ》領《りよう》風摩小太郎と――その沈痛|凄《せい》愴《そう》な眼光をみて、覚悟はしていたが、「――来たっ」と七人の全身の毛がよだった。
が、次の瞬間、彼らの眼ははげしくまたたきをした。そのうしろにゾロゾロとついて出てきた白いむれがあるのだ。七、八人の裸の女たちであった。例の風摩の女忍者たちだ。
「うぬら――生かしてはおかぬ」
風摩小太郎は近づき、仁王立ちになっていった。声が、わああん、と石壁に反響した。
「源太、ここへ来い」
悪源太はまるで風《ふう》洞《どう》にでも吸いこまれるように、フラフラと首領のまえに出た。度胸のいいはずの源太の顔が、松明のあかりに真っ蒼だ。この首領には、たんなる死以上の恐怖的な迫力がある。
「ここに寝ろ」
「……こうでござんすかい?」
歯をくいしばり、悪源太は首領のまえにひっくりかえった。わざと大の字にあおむけになったのだ。
風摩小太郎の腕がうごいた。稲妻のような速さであったが、それは上下に四度振られた。同時に、悪源太は大の字になったのが自分の意志からではなく、恐ろしい力で石の床《ゆか》に磔《はりつけ》になったことを知った。
いったい小太郎は何をしたのか。眼にも見えないが、やはり風《かぜ》 閂《かんぬき》の一法であろうか。悪源太は四《し》肢《し》を石に縫いつけられてしまった。
「さて」
と、小太郎は一同を見わたした。
「おれがうぬらをどれほど買っておったか、うぬらも承知だろう。が、残念じゃが、このたびの大|失《しつ》態《たい》の因《もと》を作った罪はゆるせぬ。また弾三郎どのへの無礼、断じて成敗せよとの御家老の仰せである」
香具師たちは声もない。
「とはいえ――おれはうぬらがますます気にいった。弾三郎どのにあえて刃むかった度胸といい――さらに悪源太が女を吸い寄せる妙技をもっておることといい――忍者として、実に捨てがたい素質をもっておる。それゆえ、おれは御家老に七重のひざを八重に折って、事と次第ではいまいちどだけ命を救ってやることにした」
香具師たちの顔色がかがやいた。馬左衛門がボソリと小声でいった。
「そいつをいちばんはじめにいってくれりゃいいのに。もってえぶりやがって」
「事と次第では――つまり、条件がある」
「何でゲス?」
とろ盛が、とろ盛らしくない、かすれた声を出した。
「うぬら、猿《さる》面《めん》の馬じるしを知っておるか?」
「猿面の――おお、関白秀吉の」
睾丸斎がいった。
「馬じるしはたしか黄《き》金《ん》の千《せん》成《なり》瓢《びよう》箪《たん》」
「その通りだ。猿面のゆくところ、かならずその金《きん》瓢《ぴよう》の馬じるしが従う」
風摩小太郎はうなずいた。
「その千成瓢箪の一つを盗んでこい」
「へっ、お安い御用だ」
と、義経がヘラヘラとした奇声を発した。小太郎はじろっとその方を見て、
「風摩の者がの、その瓢箪を二度とりにいって、二人とも殺されたわ」
香具師たちは沈黙した。それが容易ならぬ難題であることがはじめて感得されたのだ。
「そ、それじゃあ、おれたちにも死ねと仰せなさるか」
と、弁慶がいった。小太郎は巌《いわお》のごとく、
「そういうわけだ。それ以外に松田どの御父子のお心を解く法はない」
「……なむあみだぶつ」
「それを一つ盗んできたときにかぎり、うぬらの命を助けてやる」
「しかし、どういうわけでそんな瓢箪を欲しがりなさる?」
と、睾丸斎がけげんそうにいった。
「おなじことなら、関白の首を狙った方がよろしかろうが」
「いや、猿面の首はとってはならぬ。瓢箪だけ、一つ欲しい。そのわけはうぬらは知る要はない」
風摩小太郎は鉄《てつ》槌《つい》を打つような声で、
「きくか。きかぬか。きかねば殺す」
「き、き、ききます。ききますともさ」
六人はあわてて両手をふった。これじゃあ、そう返答せざるを得ない。
「では、ゆけ」
「源太は?」
「こやつは残しておく」
「えっ」
「人質だ。うぬら、このごろ風摩組を逃げたがっておる気配が見えたぞ。そうはさせぬ」
「しかし、源太が欠けるとおれたちは――」
「それなら、いってもむだか。一《いち》蓮《れん》托《たく》生《しよう》、ここでいまいっしょに死ぬるか」
「む、むだじゃねえ。い、いきますよ。いきますがね。――いったい、いつまでに瓢箪を盗んでくりゃいいんで?」
「むずかしい仕事ゆえ、日限はきらぬ。ただ、そのあいだ悪源太にこの女どもをかからせるといっておく」
「かからせる?」
「源太をこの女どもの自由、気まま、ほしいままにさせるのだ」
石の床に磔になった悪源太は上眼づかいに女たちを見て、ぎょっとなった。松《たい》明《まつ》のゆれる炎に照らされて、女たちの眼はみな異様にうるみひかり、乳房が大きく起伏している。首領風摩小太郎の手《た》綱《づな》に、歯をカチカチと鳴らしながら、からくも耐えている牝《め》豹《ひよう》のむれのようであった。
「悪源太。いかに女|人駕《が》御《ぎよ》の能ありとはいえ、これはただの女どもではない。おれの鍛《きた》えた風摩組の女だ」
はじめて小太郎は髯の中でニヤリとした。
「源太のいのちがあるか。あとの奴らが関白の瓢箪をとってくるか。ふん、これは面白い競争じゃな」
「……源太、どれくらいもつ?」
「一日ももたねえ」
もう女たちの燃えるような息づかいにウンザリしたように、悪源太はほそい声でいった。悪源太らしくないが、しかしこのあいだこの女たちを抱かせてもらったとき――それが抱かせてもらったというようなものではなく、ほんとうのところをいうと、こっちが人《ひと》身《み》御《ご》供《くう》にそなえられたような気がするほど、この女たちの精気と性技が猛烈剽《ひよう》悍《かん》なものであったことは、七人すべてが身を以て思い知らされている。それにだいたい悪源太は、いちど犯した女に二度と相まみえるのは、へどをはくほどいやな男なのだ。
「おい、そ、そんな心細いことをいわねえで、せめて明日の朝までもちこたえてくれよ!」
何やら思案しているらしく、ちょっと沈黙していた風摩小太郎がいった。
「万一、みごとに瓢箪をとってきたなら。――うぬら、望み通り、忍《おし》の城へやってやるわ」
「望み通り。――」
悪源太はあえぐようにいった。
「おれは、うぬらの望みを知っておるのだ。褒美はそれだ。そのつもりで働け」
そして彼は大きな背をむけて、石壁の方へあるき出した。あとに女たちが残る。
松明をかかげた二人の風摩者があごをしゃくった。
六人の香具師は追われるように立ちあがって、入口の方へ歩き出したが、うしろ髪をひかれるような思いだ。――それまで入口に鉄扉がしまっていたのだが、このとき誰か見ていたように、それは外側に大きくひらかれた。
「源太、頑張ってくれよ!」
「きっと、明日の朝まで――できれば今夜までに、瓢箪をとってくるぞ!」
ひらいた扉のところで、口々にさけびつつふりかえったとき、風摩小太郎の姿はすでに石壁の彼方に消え、そして松明の遠あかりに、床上に磔にされた悪源太めがけて、もう女のむれの白い手足が、数十匹の蛇みたいにまつわりついてゆくのが見えた。
扉がしまった。
角櫓の外に出ると、眼もくらむばかりの初夏の日光だ。
その大気を通して、きょうも無数の銃声と、怒《ど》濤《とう》のような地うなりがきこえた。小田原城を包囲する十余万の豊臣軍のときの声であった。
「小手をかざしてながむれば」
と、弁慶がいった。
「敵の大将の馬じるしはいずこぞや」
と、馬左衛門がいった。
むろん、カラ元気で、みんな憂鬱そのもののような顔色であった。
風摩忍術大学の卒業試験。「関白秀吉の馬じるし千成瓢箪を盗む法」
よく考えてみれば、まさにいのちがけの難問題だ。
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三 成
「さあさあ、御《ご》覧《ろう》じませ、トーントーン唐《とう》辛《がら》子《し》、ピリリと辛いは山《さん》椒《しよ》の子。……」
「寄ったり、見たり、あきなう品は六十余州、お目にかけねのない品物。……」
「これは弘《こう》法《ぼう》大《だい》師《し》直《じき》伝《でん》の薬法書による膏《こう》薬《やく》、ベンベラボンのベンベラボン。……」
どこから来たか、まるで天からふってきたように、六人の香具師が箱根の山中にあらわれた。
どこから来たか。――いうまでもなく、小田原城からだが、箱根全山を埋める豊臣方の軍兵は、そうときいても、まさかと眉《まゆ》に唾《つば》をつけるだろう。鉄環のごとき攻囲軍の前線を突破するなど、ちょっと常識では信じられないが、この連中にとっては、忍術修行以前にも、こんなことは存外朝飯前のはなれわざだったかもしれない。
しかし彼らも、実は内心眼をパチクリさせている。いや、実際にときどき眉に唾をつけながら歩いている。――この箱根山の変《へん》貌《ぼう》ぶりはどうだ。まるで――風摩の忍術どころではない、この地上すべての相を一変させる大幻術を見る思いであった。
ほんのこのあいだ、彼らが見た箱根とはまったくちがう。小田原城を包囲する上方勢は十余万ときこえて、その旗《はた》差《さし》物《もの》の壮観は城からも遠望されたから、この山が軍兵にみちみちていることにはいまさら胆をつぶさないが、おどろくのは――それが一大歓楽境と化していることだ。
まるでここに永久に滞陣するかのように、いたるところに石垣白壁の陣屋を築き、森林を縦横にきって大道がつき、野菜畑や花畑まで作ってある。そのあいだをたえず十騎二十騎、物《ものの》具《ぐ》を鳴らしつつ武者が往来していることはいうまでもないが、それにおとらぬほどおびただしい商人や、あきれたことに化粧の濃い遊女風の女たちまでがウロウロしている。
いや、ただ人間がうろついているだけではない。忍《おし》や岩《いわ》槻《つき》など馬糞の匂いのする町などにくらべて、はるかに見《み》栄《ば》えのする店や傾《けい》城《せい》屋が軒をならべた場所さえある。
「風摩のお頭が――秀吉が長陣のたいくつをなぐさめるために、いろいろとあの方でも工夫をこらしておるときいておる――といったが、ききしにまさるありさまだな」
「物売りにも、女にも、京なまりがあるぞ。みな、京から呼んだのか」
「京の女――おれはまだ京の女を抱いたことがねえ。こりゃ、よだれが出てたまらんわい」
「それに、こうあちこちに大市場が立っておっては、おれたちの品物なんぞ、ひとつも売れそうにねえ。どうだ、いっそ買い手に廻って、女を買おうか」
「悪源太がきたら、足ずりしてうれしがるぜ」
「あっ、そうだった、源太をどうするんだ」
「そうだ、おれたちゃ、物売りに来たんじゃあねえ、女を買いに来たんじゃあねえ、秀吉の瓢《ひよう》箪《たん》をとりに来たんだった!」
六人の香具師は正気にもどった。
「ところで、秀吉の本陣はどこにある?」
「たしか、湯本の早雲寺から笠《かさ》懸《かけ》山《やま》に移ったときいたぞ」
「ここはどこだ?」
「底《そこ》倉《くら》あたりだな」
「瓢箪を盗めと――瓢箪を盗まなければ、源太が女にとり殺されると――笑いごとじゃないが、ばかげた用件だな」
「わしはどうして、風摩のお頭がそんなに秀吉の馬じるしを欲しがるのか、まだよくわからん」
と、昼寝睾丸斎は歩きながら、くびをかしげた。
「それを盗るために、風摩組がふたりも死んだといったな。……はてな」
「何か、わかったか」
「いや、瓢箪のことじゃない。あれは何だ?」
谷底の暗いばかりの青葉がくれに、白い幕をはりめぐらした陣屋らしい建物が見えた。
気がつくと、どこにも鳴りひしめいている鐘や物売りの騒音がはたと消えて、あらためて箱根に棲《す》む小鳥のおびただしさが、その鳴声から思い知らされるような静寂な一《いつ》劃《かく》であった。
「あれが、どうしたんだ」
「いやに、しんとしたところじゃあねえか」
「そりゃ、なんたって箱根の山だもの」
「しかし、ほかは――いくさ場とも見えねえほどはなやいでおるのに、ここにはまるで冥《めい》土《ど》みてえな風が吹いておるぞ」
すると、ふいに林の中から出てきた一団の雑兵たちがこちらを眺め、
「うぬら、こちらへ来てはならん!」
と、長槍を横にしてちかづいてきた。彼らはたちまち逃げ腰になって、
「あっ、これは存じませんで」
と、米つきばったみたいにあやまった。
しかし足軽たちは、べつに彼らをあやしんだのでもなかったらしい。香具師や物売りはあちこちに往来しているし、まさかこれが小田原城の風摩組から派遣されてきた連中とは、想像を絶している。
「うぬら、香具師だな。どうだ、こんな遊山みたいな長陣では、物もよく売れるだろう」
この閑寂境で見張り役か何かをしているのがたいくつにたえなかったらしく、向うから話しかけてきた。
「いえ、それが京大坂はおろか、唐《から》高《こ》麗《ま》の珍しい品物まであふれかえってるってありさまじゃあ、こちとら風《ふ》情《ぜい》はサッパリで」
と、睾丸斎がこたえたが、また白い幔《まん》幕《まく》の方へ眼をやって、
「いま、来てはならん、と仰《おお》せられましたが、こっちには何がありますんで」
と、おそるおそるきいた。足軽たちは傲《ごう》然《ぜん》といった。
「あそこには、さる大名が蟄《ちつ》居《きよ》しておる」
「へえ。――」
「奥《おう》羽《う》の伊《だ》達《て》を知っておるか」
「へえ、名だけは。――しかし、なかなか強い大名だそうで」
「それだよ。山ッ気がありすぎて、いままで豊臣と北条を両《りよう》天《てん》秤《びん》にかけて奥羽で洞《ほら》ケ峠《とうげ》をきめこんでいたのだが、やっといまごろになって北条に見切りをつけて、豊臣に降参を申し込み、ノコノコ挨拶に出てきたが、すこし遅かった。その横着ぶりが関白殿下のお怒りを買い――きょう明日にも切腹というところだ」
とくとくとしていって、そっくりかえった。
「関白秀吉公の御威光、六十余州におよぶは眼前のことだ。その御陣で、物を売るは果報と思い――これ、そこの饅《まん》頭《じゆう》を半分にまけろ」
笠懸山にある秀吉の本営については伝説がある。
笠懸山は風《かざ》祭《まつり》のすぐ南にそびえ立つ天険で、ここに立てば小田原城を東北に、ほとんど真下に俯《ふ》瞰《かん》することができる。
秀吉は箱根を占領すると同時に、この山上に兵を派して石垣や塀や櫓の骨組みをつくり、それに白紙を張りつめ、突如として前面の杉林を切りはらわせた。小田原城からこれを見て、「一夜のうちにかくばかりの陣所をこしらえ、石垣を築き、白壁を付くること、凡人のさまとは見えず、秀吉は天魔の化身にや」と、仰天したといい、またこれよりこの笠懸山を石垣山とも呼ぶようになったという。
そのころ、香具師たちは小田原にいなかったから、実否は知らないが、いまその本営ちかくまでやってきて、一夜城を仰ぎみた北条兵よりもおどろいた。
これはたんに遠征軍の本陣といった規模のものではない。最初は一夜城であったかもしれないが、その後昼夜|兼《けん》行《こう》で大工事をいそいだとみえ、十数丈の石垣をめぐらし、その上にそそり立つ天守閣や、それに付随する城《じよう》廓《かく》は、話にきく大坂城や聚《じゆ》楽《らく》第《だい》にも劣らないのではないかと思われるほど壮大なものだ。
すでに述べたように、箱根山中は商人の往来自由といったありさまだから、ひとたび上方陣の中に入りこめば疑う者もなかったが、さすがにこの本営にちかづくにつれて鉄甲の兵はその密度をまし、あたりに商人|体《てい》のものの姿は消えてしまった。
「おい、あの中に忍びこめっていうのか」
「なるほど、風摩組が見つかって殺されたというのもむりじゃない」
「ましてや、おれたちが――御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》のいいぐさじゃないが、隆車に向う蟷《とう》螂《ろう》の斧《おの》とはこのことだぜ」
「せめて、悪源太でもいればだが」
「おい、その源太が――きょうあすにも、秀吉の馬じるしの瓢箪をとらないと、源太が女にいのちを吸いとられる」
風祭にむいた城門ちかくで、六人の香具師は茫然と立ちすくみ、また血ばしった眼をウロウロとさまよわせはじめた。
そこまでちかづいたのが精一杯だ。ときどき、思い出したように、
「さて、ちかごろの評判は……」
「胸腹一切、淋病一切、いっさいいっさい。……」
うつろな売り声をひびかせてみせてはいるが、まさかその声であの門を入ってゆけようとは思われない。巨大な鉄門は八文字にひらかれてはいるが、その下には、鉄門から鋳《い》型《がた》で打ち出されたような装甲の武者たちが立って、出入する者を一々あらためている。
「あんなにたくさん、出入りしてる奴らがあるんだが。……」
「どうも、大名衆が参集してるような気配だぞ」
と、睾丸斎がくびをかたむけた。
「しかし、供《とも》 侍《ざむらい》たちがみな陽気に笑っておる。何か本営にめでたいことか、面白いことがあるようだ」
「それなら、何とかしてヒョコヒョコと入ったら、入れるかもしれんぞ」
弁慶が歩き出し、それについてほかの連中も門にちかづくと、ちょうどそこから出てきた一団の騎馬群から、
「待て!」
と、見とがめて、声をかけた者がある。甲《かつ》冑《ちゆう》からみて、その一群の将ともみえたが、こちらを烱《けい》と見下ろした眼は、銀のようによくひかった。
「あのものどもを捕えろ」
と、彼はいった。
六人の香具師たちが逃げ散ろうとするまえに、騎馬はそれをとり巻いた。
「うぬら、何者だ」
と、ちかづいてきて馬上から叱《しつ》咤《た》したその将は、まだ三十前の若さだが、いかにも鋭い、白《はく》皙《せき》の顔をしていた。
「へっ、その陣中香具師で」
「香具師風情が、なぜこのあたりをウロウロしておる」
「へえ、何とか、その、饅頭か、膏《こう》薬《やく》でも買ってもらいてえと思いまして――殿さま、もし淋病なら、滅《めつ》法《ぽう》きく弘法大師の薬が。――」
「だまれっ。この本営ちかく、なんじらがちかづくべきところでないことは、あたりを見れば一目でわかることだ。しかるに、不敵にもここまで入りこむとは――うぬら、香具師の風《ふう》体《てい》をしておるが、ただ者ではないな。よし! みなひっくくってわしの陣へひいてこい」
六人が色を失い、泣き顔になったとき、
「おお、石《いし》田《だ》治《じ》部《ぶ》ではないか」
と、声をかけた者があった。風祭方面から上ってきて、門の方へゆきかかったこれも大名風の一団の行列だ。
「やあ、これは阿《あ》波《わの》守《かみ》どの、ようこそおいで」
石《いし》田《だ》治《じ》部《ぶの》少輔《しよう》三《みつ》成《なり》は別人のように愛嬌のいい笑顔になって、
「上様にはお待ちかねでござる。きょうのおん催《もよお》しに、何ぞよい御《ご》趣《しゆ》向《こう》がありましたか」
「いや、御承知のような武辺者で、上様のこのたびのおんいたずらには、ほとほと弱りはてておる。――ところで、どうかされたか」
「この者ども、香具師の姿をしておりますが、何となく胡《う》乱《ろん》な匂いのする奴らと存じ、これから連行して糾《きゆう》明《めい》しようとしておるところで」
三成はじろとまた鋭い眼を六人になげて、
「御存じのごとく、北条には風摩組と申す乱《らつ》波《ぱ》組があり、しかもその手より出た者らしき奴らが、いままでも数回上様の御身辺に迫った気配もありますので」
「いや、これはちがう。この者どもなら、拙者存じておる」
いたずら小僧みたいに首をすくめてうなだれていた六人は、ヒョイと顔をあげて、
「これア、いつかの――」
と、頓狂な声でさけんで、またあわてて首をちぢめてしまった。
馬上から彼らをはたとにらみすえているのは、蜂《はち》須《す》賀《か》阿波守であった。が、その阿波守にこの春|悪《あく》態《たい》をついて一目散に逃げ出したことを思い出したのだ。あまりいい縁ではない。
「ほほう、阿波守どのが御存じの香具師とは。――三河出身の香具師でござるか。なるほど」
三成は、ふいにのみこみ顔になって笑った。
この言葉のおくに、蜂須賀の先代が三河の野武士出身であることを結びつけた揶《や》揄《ゆ》があるのだが、阿波守の方はそれに気がつかない。
「いや、妙な縁で知っておる」
「妙な縁とは?」
と、問いかけて、こんどは三成が顔をあげて突然けぶった、いような眼つきをした。
「これは徳《とく》川《がわ》どの、御苦労に存ずる」
また山の下から、一隊の行列がやってきた。小肥りのからだを輿《こし》にのせた五十年輩の武将をとりかこんでいる。それを徳川|家《いえ》康《やす》と知って、蜂須賀阿波守は狼狽した。
彼はこのとき、彼がこの香具師たちと知り合ったときの事件が、家康にからんだものであったことを思い出したのだ。北条の忍者がおとしたものが、家康が秀吉を闇《やみ》討《う》ちにしようという織《お》田《だ》信《のぶ》雄《かつ》にあてた手紙だったので、あわてて秀吉にとどけようとしたところを、それは北条の反《はん》間《かん》苦《く》肉《にく》の計略だと、この香具師たちにたしなめられた。――
その後の家康と秀吉の仲から、あれはまったく香具師たちのいう通りであったと思い、もしあのときじぶんがあわてて騒いでいたら、家康に対してとりかえしのつかない非礼となるはもとより、秀吉に対しても大いに面目を失うところであったと、それ以後冷汗をながしていたくらいであったから、いま本人のまえで、あの件を口にするなどということは絶対にできない。
たしかに妙な香具師たちではあるが、しかし北条の忍者を刺し殺したことといい、またあの手紙の策略をじぶんに教えてくれたことといい、少くとも北条方の忍者ではあり得ないと判断して、
「いや、ともかくこやつらは正真正銘の香具師に相違ない」
と、あわてていいきった。
「左様でござるか。阿波守どのが保証なさるなら、まちがいはござるまい」
三成はうなずいて、セカセカと部下をうながして立ち去ろうとする。
「治部」
と、家康が温顔で声をかけた。
「きょうの上様のおん催し――家康、へその緒きってこれほどこまったことはない、とまで悩ませた趣向の発案者たるおぬしが、それを捨ててこれからどこへゆくぞ」
「されば、武州忍城攻めを仰せつけられ、急ぎ出向こうとしております」
と、三成はいった。
六人の香具師は愕《がく》然《ぜん》としていた。
それを三人の武将が気のつくわけがない。――家康はいった。
「ほほう、兵は何万」
「二万ばかり」
「あの城は、小城ではあるが、ちと骨が折れそうじゃぞ。――が、それだけの寄《よせ》手《て》をもち、大将が才人治部少輔であれば、まず心配はあるまい」
顔は笑っているが、どこか皮肉な語尾がある。
「治部どのにとっては、大将となってはじめて攻める城ではなかったかの」
「そういうことになります」
「よくなされ。家康、たのしんで吉報を待っておる」
石田三成は顔をあからめ、やや憤然として馬に鞭《むち》をくれ、山道を馳《は》せ下っていった。
寺小姓からその抜群の才気を以て、秀吉晩年随一の寵《ちよう》臣《しん》となり、いまは五奉行の一人となって、武勇一辺の諸豪傑に采《さい》配《はい》をふるっている三成も、この家康だけはちと煙たい。またおたがいの命運の星の相合わぬことを、すでにするどく感じあっている両雄であった。
しかし、家康は石田を見送りもしない。輿から下りたものの、ただ門の前にたたずんで、
「阿波、当惑したの」
という。阿波守もむずかしい顔をして、
「まったく弱りました。徳川どのも具足をつけられたままですな。拙者も同様です。いかに長陣のたいくつしのぎの遊びとはいえ、われらに物売りの姿をして参れとは。――」
「わしも思案にくれて、ともかくもこの姿でここまで来たが、くる道々きいてみると、みなさまざまの仮装をして参集したらしい。……われわれのみ、こう武張った姿のままゆけば、さぞ上様の御機嫌が悪《あ》しかろうぞ」
「上様というより、淀のお方の興をそえるためでござろう。石田治部の思いつきそうなこと。――」
やはり武人派に属する阿波守も、三成には苦々しい感情をもっているらしい。――この本営にある秀吉から、仮装の物売り大会をやるから、諸大名にそのつもりで趣向をこらして参るように、という回状がきたのは数日前のことだが、同時にそれは寵臣石田の発案だ、という噂もあったのだ。
そのとき、家康がにこと笑った。
「阿波、そこにおる男どもは何じゃな」
「陣中膏薬などをひさぐ香具師ですが」
「そう見えるな。――そうじゃ、こやつらの衣裳を借りようではないか」
「えっ、こやつらの衣裳を?」
阿波守はふりむいて、顔をしかめた。六人の香具師は、このときコソコソと逃げようとしていた。
「さりとは、あまりにむさい。――」
「これ、香具師ども待て。――われわれがむさい姿であればあるほど、上様はおよろこびであろうよ」
皮肉にはきこえぬ寛厚の笑顔で家康はいって、六人の方にむきなおった。
「これ、その方ども、きものを貸せ。それから、ついでじゃ。その方たちの売り声も指南してくれい。あとで褒美は、望むものをとらせるぞ」
「えっ、おれたちの望むもの――では、金のひょ」
と、いいかけた義経の口を、睾丸斎があわてておさえた。
「お安い御用でござります。どうぞ、どうぞ」
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英雄往来
――まさか、わざわざこの仮装園遊会のために作ったわけではなかろうと思うが、いたずらのスケールも古今に絶する秀吉のことだから、きょうの日のために、大急ぎで植えさせたのかもしれない。何しろ、城でさえ一夜で築きあげる人物である。
その城の中に。――
何百坪あるだろうか、ただいちめんの青い瓜《うり》畑《ばたけ》であった。あちこちに、粗末な瓜《うり》屋《や》風、旅《はた》籠《ご》風、茶屋風の建物が作ってある。そこに、各大名の侍臣たちは、それぞれつめかけて、尊敬すべき主人の珍芸を拝観した。
まず第一番目に瓜畑に登場したのは、柿《かき》色《いろ》の帷《かた》子《びら》に藁《わら》の腰《こし》蓑《みの》をつけ、黒い頭《ず》巾《きん》に菅《すげ》笠《がさ》をかぶり、肩に天《てん》秤《びん》棒《ぼう》をになった男である。天秤棒の両側には瓜を盛った笊《ざる》がぶら下がっている。
それが、猿のようにカン高い、実によく透《とお》る声で流して通った。
「味よしの瓜《うり》。――召され候え。召され候え」
はじめは、本物の瓜商人かと思った。まず本物が素《しろ》人《うと》の大名たちに、見本を示したとしか見えなかった。ややあって、
「あれは、殿下ではないか」
と、気がついた者があって、みな呆《あき》れかえり、どっとどよめいた。
「なるほど、関白さまだ。ちがいない」
「いや、きょうが大道商人物真似づくしのお遊びとは承《うけたま》わってきたが、殿下おんみずから、まっさきに飛び出されようとは、な、な、なんたる――」
「しかし、どうみても本物としか思われぬな」
「そのむかし、藤吉郎と仰せられたころ、針売りの商人をなされたこともあるとは承わったが、それにしても」
とにかく、やんや、やんやの大《だい》喝《かつ》采《さい》である。総大将の関白秀吉みずから陣頭にたって浮かれ出したのだから、大名たちは義理でも死物狂いの珍芸を競《きそ》わざるを得ない。
加《か》賀《が》大《だい》納《な》言《ごん》利《とし》家《いえ》は、高《こう》野《や》聖《ひじり》の笈《おい》を肩にかけ、
「宿頼もう。――宿頼もう。――」と声をながくひいて通った。沈《ちん》毅《き》なひとだけに、この催しにはさぞ閉口したであろうが、それだけに声も侘《わ》びて、一同のもののあわれをそそった。
蒲《がも》生《う》氏《うじ》郷《さと》は、荷《にな》い茶売りになって、あちこちの店に寄って茶をたてたが、われ鐘のような声で茶代を請求して、みなを脅《きよう》喝《かつ》した。
小《こ》早《ばや》川《かわ》中《ちゆう》納《な》言《ごん》秀《ひで》秋《あき》は、漬《つけ》物《もの》瓜《うり》を荷《にな》って、「瓜召せ、瓜召せ」と、ぶっきらぼうにどなって歩いたが、いかにも不調法で、先刻の秀吉や利家の、さもありげな物真似ぶりと思いあわせ、「若いおひとは、何をやらせても芸がない。年はよるべきものだ」というもの、「いや、あのふつつかなところがよろしい。年はよるまじきものだ」というもの、見物人のあいだで、評論がやかましかった。
織《お》田《だ》信《のぶ》雄《かつ》は遍《へん》参《ざん》僧《そう》になって、文庫を背負って通ったが、これは露骨にばかばかしげな迷惑顔をして、いかにも横着に見えた。
その他、比《び》丘《く》尼《に》に扮《ふん》した者、禰《ね》宜《ぎ》に化けた者、――鉢《はち》叩《たた》きに仮装した者。――それがことごとく、千軍万馬、何十万石かの大名だから、蒼空の下の瓜畑いったいは、どよもすような拍手と笑い声だ。
そのうち、秀吉にも劣らぬ大喝采を受けたのは、ひとりの香具師であった。頭巾、衣裳、背負った箱も、どこから手に入れたか、本物そっくり風露に褪《あ》せて、
「トーントーン唐《とう》辛《がら》子《し》、ピリリと辛《から》いは山《さん》椒《しよ》の子、スワスワ辛いは胡《こ》椒《しよう》の子、ケシの子胡《ご》麻《ま》の子陳《ちん》皮《ぴ》の子、トーントーン唐辛子、なかでよいのが娘の子。……」
と、やった。
どこかまのびした売り声だが、人々が大喝采をしたのは、これが、こんなことにはもっとも不似合な、質《しつ》朴《ぼく》無《む》比《ひ》のはずの徳《とく》川《がわ》大《だい》納《な》言《ごん》家《いえ》康《やす》と知ったからだ。
「これは、お見それしたな」
「徳川どのに、これほど御器用な芸があろうとは」
「見ろ見ろ、関白殿下を。――淀《よど》のお方につかまって、涙をこぼしてお笑いあそばしておる」
「それにしても、家康どのは、いったいどこからあの衣裳と芸を仕入れられたか」
その中で、ただ一組、口をとがらせ、悪評した一団がある。
「なっちゃいねえや」
「さっき、あれほど念入りに指南したのに」
「発声がわるい。腰のひねりもわるい。あれじゃ、ちっとも辛《から》そうにねえ」
「――しっ」
或る旅《はた》籠《ご》屋《や》風にしつらえた建物の店先だ。具《ぐ》足《そく》をつけてはいるが、まぎれもなく例の六人の香具師たち。
「――しっ」と口に手をあてて制止したのは、ほかに徳川家の家来たちもいるからで、具足はこの城に入るため、彼らから借りたものだが、あっちこっち、部分品を借りてわけたので、腹巻をつけてはいるが脛巾《は ば き》がなくて毛ずねを出していたり、その逆だったり、よく見れば何とも可《お》笑《か》しい風《ふう》体《てい》である。
――しっ、とは制止されたが、とうていいつまでも黙っている連中ではない。しばらくすると、小声ながら、またヒソヒソとしゃべり出す。
「あれが関白秀吉か」
「いつのまにか、さっきの帷《かた》子《びら》や腰《こし》蓑《みの》をとって、緋《ひ》おどしの鎧《よろい》なんか着て」
「さっきの、睾《こう》丸《がん》斎《さい》みてえなどじょう髭《ひげ》とは、髭もちがうぞ」
「ありゃ作り髭だ」
「まったくひとをくった大将だな」
ちょうど瓜畑のまむかいの数《す》寄《き》屋《や》に緋《ひ》毛《もう》氈《せん》をしいて、そこに侍女や侍臣を居ながれさせて、関白秀吉は大笑していた。金の唐《とう》 冠《かんむり》をかぶり、鎧に猩《しよう》々《じよう》緋《ひ》の陣羽織を着、紅《こう》金《きん》襴《らん》のくくり袴《ばかま》をつけて、実に仰々しいばかりのいでたちだが、からだが痩《や》せていて小さいので、何となく子供の狂言めいて可笑しい。
「いくら作り髭をつけたって、やっぱり猿面だ」
「それが――あっ、傍《そば》の女《ナオ》を抱きよせて、頬ずりしてやがる」
「盃で酒をのんで――口うつしに飲ましてるぞ」
「猿じゃあねえ、狒々だ。――それにしても、おっそろしく美《ハク》い女《ナオ》じゃあねえか」
「あれが、上方から呼んだ淀の方って女《ナオ》か」
「それにしても、大名連にあんな真似をさせてよ、まったく傍若無人な野郎じゃあねえかよ」
「――いや、ききしにまさる人物じゃて。天《てん》空《くう》海《かい》闊《かつ》――まさに、天下取りじゃな」
と、ひとり長嘆したのは昼寝睾丸斎だ。そして、いった。
「とうてい、あの瓢箪はとれそうにないぞ」
みんな、さっきからそれを見ていた。秀吉と淀君の見物しているすぐ下の庭先に、黒々とひとかたまりになっている鉄甲の一隊がある。そのまんなかから、蒼空に立っている馬じるしであった。
長大な竿に、金のきりさきがフサフサと風にゆれ、その上に数十の金の瓢箪が房をなし、さらにその上に、これまた金の大瓢箪が日光にきらめいている。大将の馬側に立て、その所在と威を示すおん馬じるし。――しかもこれは、いまや六十余州を慴《しよう》伏《ふく》させんとしている音にきこえた千《せん》成《なり》瓢箪だ。
それを護っているのは馬《うま》印《じるし》持《もち》の小姓群であろうが、この底ぬけの大茶番に白い歯一つみせず、小ゆるぎもせず、粛《しゆく》とわだかまっているその一団からは、鉄のごとき殺気さえ立ちのぼっている。
「うーん、あれじゃ、手が出せねえ」
「あんなにして、夜も昼も護ってるんだろう。こいつはこまったな」
「こまったって――おい、きょう明日にも、何とかしねえと悪源太が」
彼らは、そこにじっと坐っているのもたえられない気がした。
そのとき、さっきの香具師がやってきた。家康だ。ニンガリともせず、頭巾をとって汗をふく。
ふいに、うっと泣く声が起った。
ひとり屈強の男が、その足にすがりつくようにして声をおさえて男泣きしている。
「おいたわしや、殿。――よう、つとめられましたな」
「よさぬか、半《はん》蔵《ぞう》」
と、家康は温顔になって叱った。
「それより、これをぬがせえ。――臭いわ」
と、香具師の衣裳に手をかける。下腹がつき出して、どこかユーモラスなからだつきであった。
そこに、白い生絹《 す ず し》に紅だすきをかけ、黒い緞《どん》子《す》の前《まえ》掛《かけ》をつけた男がちかづいてきた。
「御苦労でござる。――徳川どの、どうかなされたか」
旅籠の亭主然としているが、蜂須賀阿波守であった。城に入ってまもなく、彼はこの役を命じられたので、瓜畑の中の店々の亭主は、すべてこれまた大名連中であった。
「いや、こやつは瓜を見ると泣く男で」
「はて」
「十年ばかりまえ、例の本能寺の変の際、わしは上方から伊賀を越えて命からがら逃げもどったが、やはりいまの季節でござった。伊賀の加《か》太《ぶと》越えで、山中に飢えて、この男と畑の瓜を涙をこぼしながら食べたことがある。それ以来、この男は瓜を見ると泣くのでござるよ」
と家康はいって、紹介した。
「見知りおかれい。伊賀の服《はつ》部《とり》半《はん》蔵《ぞう》と申す男で」
「おお、徳川家忍び組の――」
「されば。――お、思い出した。忍び組といえば、阿波、この半蔵がこのごろ探ったところではな」
家康が蜂須賀阿波守の耳に口をよせ、笑いながらささやいたのを、すぐうしろにいた六人の香具師はふときいた。
「いつかの、わしが織田どのにあげたという――謀《む》叛《ほん》の偽手紙な」
阿波守は、眼をむいた。家康があの件を知っているとは夢にも思わなかったのである。
「あの忍びの者は、北条家のものではない。石田|治《じ》部《ぶ》の手のものらしい」
「――やっ?」
「わしと殿下の仲を裂かんがための、治部らしい悪《わる》戯《さ》よ。敵は敵中になく、わが腹中にある、とはこちらも平生より考えておることじゃが、治部も左様に思うておるかもしれぬ。わしはその手にはかからんが、いや、ゆだんのならぬ男、阿《あ》州《しゆう》もせいぜい用心なされい」
阿波守以上に眼をむいて、顔見合わせたのは六人の香具師だ。
家康のいまささやいたことは、嘘か、まことか。いずれにせよ戦国|権《けん》謀《ぼう》の凄じさに昏《こん》迷《めい》をおぼえ、彼らは何が何だかわからなくなってしまった。
奥羽から這い出してきた独眼の一匹狼、伊《だ》達《て》政《まさ》宗《むね》が秀吉に呼び出されたのは、その翌日であった。
はやくから秀吉に上《じよう》洛《らく》を督促されていた政宗は、それを黙殺してしきりに近隣に兵を出して荒かせぎしていたが、上方軍が関東に殺到するに及んで、ついに居たたまらなくなって、ようやく秀吉に臣従を請《こ》うたのである。その横着さに激怒した秀吉は、「もはや証文の出し遅れ」と、すでに彼に切腹させることを決意して、箱根の底《そこ》倉《くら》に蟄《ちつ》居《きよ》を命じたが、彼がそこで喪服をきて、しかも千《せんの》利《り》休《きゆう》を呼んで茶を立てているということをきいて、「――はて、何かある奴」と、目通りゆるす気持になったのである。
そのとき秀吉は、笠《かさ》懸《かけ》山《やま》の本陣で、城の石垣の普請を見ていたが、政宗来るときいて、曲《きよく》r[#「碌のつくり」、第3水準1-84-27]《ろく》をとりよせて、これに腰うちかけて彼を通した。
なにゆえに上洛遅延したか、という秀吉の詰《きつ》問《もん》に、政宗はそのわけを水のながれるがごとく弁《べん》疏《そ》した。それはぬけぬけとした強《きよう》弁《べん》であったが、秀吉は、水引でもとどりをむすび、白衣をきて、まったく死装束のこの独眼の田舎大名の不敵な面だましいにひかれた。とくに。――
「政宗、これへ、これへ」
と、呼びかけたとき、政宗が、「あっ」とこたえて腰から鞘《さや》ごと脇《わき》差《ざし》をぬき、うしろにいた秀吉の祐《ゆう》筆《ひつ》和《わ》久《く》宗《そう》是《ぜ》にぽんと投げて、スルスルと膝《しつ》行《こう》した。その脇差の投げっぷりにひどく感心したのである。ときに政宗は二十四歳の青年であった。
「面白い奴。――政宗、では、わしの城の攻めようを見せてやろう」
と、秀吉はふいに曲r[#「碌のつくり」、第3水準1-84-27]から立ちあがって、歩き出した。政宗はそれに従った。
秀吉の気まぐれには馴れているつもりの小姓団も、これには狼狽してあとを追う。彼らは千成瓢箪の馬じるしを奉じていた。
さらにそのあと、遠くはなれて六、七人、これも死装束の政宗の家来たちが追った。彼らは決死であったが、それでも若い主君の運命の不安にたえられなかったのだ。
秀吉は杖をついて、山上に上ってゆく。
「貴殿らは、ここで待たれい」
山道の途中で、秀吉の小姓群は政宗の家来たちを制止した。やむなく彼らはそこの藪《やぶ》かげに粛《しゆく》と坐った。
しかし、その秀吉の小姓群も、さらに上にのぼったところで、秀吉に、
「うぬらは、ここで待ちおれ」
と、命じられた。
「は? し、しかし――」
「政宗がついておるから、案ずるな」
その政宗がついてるから不安なのだ、と小姓たちはあわて、その中の、秀吉の朱塗りの陣刀をささげたひとりが、
「殿下、お佩刀《 は か せ》をいかが仕《つかまつ》りましょうや」
と、眼をひからせてなじるようにいった。秀吉はケロリとして、
「その男に持たせえ」
と、政宗にあごをしゃくり、あともふりかえらずヒョコヒョコと先へあるき出した。
さて、秀吉と政宗は、ふたりだけで山上にのぼった。そこで秀吉は、眼下の小田原城とそれを包囲した雲《うん》霞《か》のごとき麾《き》下《か》の大軍を杖で示して、意気揚々と説明した。
「それに北条はの、何と血迷うたか、坂東八国の諸大名をみな呼びあつめて、この小田原へとり籠《こ》めた。したがってこの城一つを干《ほ》し殺しにしてやれば、関八州はガラ空き、労せずしてわしの手に入るわ」
「…………」
「干し殺すのに、もうすこし手間がかかると思うておったが、敵に内応者が生まれたゆえ、まずあと一ト月二タ月で片づくであろうよ」
「…………」
「その内応者が――きいておどろくな、北条の家老|松《まつ》田《だ》尾《お》張《わりの》守《かみ》じゃ」
それから、ふいにニコと笑って、
「政宗、おまえは愛《う》い奴だ。秀吉、気に入ったぞ。それにしても、よい時分に参った。いますこし遅れて来たらば、ここが危なかったぞや」
と、杖をあげて、秀吉の陣刀をささげている政宗のくびをピタピタとたたいた。
このときまで、なお不敵な叛《はん》骨《こつ》を独眼にひからせていた政宗も、その刹《せつ》那《な》、首に熱湯をかけられたような思いがしたという。
藪かげに待っていた政宗の家臣たちは、ふいにそばに立った一団の武士をおびえた眼で見あげた。ものものしい具足をつけた五人の男だ。
「あいや、おどろかれるな。われらは徳川家のものでござる」
と、どじょうひげの男が声をひそめていった。
「なに、徳川家の――」
「されば、われら主人も、いたく政宗どののおん身を案じて、それとなく様子をうかがって参れとの仰せで。――」
「か、かたじけない」
伊達の家来たちは声をうるませた。
彼らは、いま現われた武士たちが徳川家の家来ときいても唐《とう》突《とつ》とは思わない理由があった。
こんど政宗が小田原にくるについて、そのまえに秀吉の帷《い》幄《あく》にいろいろと哀訴の手を打っておいたが、その対象として、重要な人間のひとりに家康があり、家康からも「悪《あ》しゅうははからわぬ」という返答を受けとっていたからだ。
「ところで、いまそこでわれら談《だん》合《ごう》したことでござるが」
と、徳川の家来はいった。
「その白衣をお貸したまわるまいか」
「――何になされる?」
「われらより、関白さまの御小姓衆に、政宗どのの御処置を是非御寛大にと嘆願してみようと存ずる」
「貴殿たちが?」
「伊達家の御家来が、この期《ご》に及んで左様な嘆願をなされるは、押しつけがましゅうて角が立つ。殿下はややへそまがりのところもおわすおん方ゆえ、逆効果を来たすおそれもござる。が、徳川のものが白衣をきておすがりしたとあっては、御小姓衆も無視はできず、殿下もお心をうごかされよう。やや、非常の手段ではあるが、かかる危急の土壇場で、ノンベンダラリと常のときのように運命を待っておっては、ひょっとしたら、手遅れになるやもしれぬでのう。……」
伊達の家来たちは、尻に火がついたような焦《しよう》燥《そう》と恐怖に襲われて、ベタベタと地面に手をついた。
「お、お、お願い申す。何とぞ、われらの殿のおんいのちだけは。――」
山の中腹に、金《きん》瓢《ぴよう》の馬じるしを奉じて、毅《き》然《ぜん》として待っていた小姓群は、下からうなだれてやってきた死装束の五人の男を見て、眼をいからせた。
「おいでなされてはならぬと申したではないか」
「あいや、今《こん》生《じよう》世《せ》々《ぜ》のお願いでござる」
男たちは、そこにひれ伏した。
「そのおん馬じるしを、われらに持たせて下されい」
「なに、この馬じるしを?」
「政宗めも、もはや殿下のおん佩刀《 は か せ》をお持ちいたしております。伊達がまったく豊臣の家来たることを殿下がおゆるしあらせられた証拠。――われらも殿下のおん馬じるしを捧げとうござる。下にてそれを持って土下座いたしておりまする。それを殿下が御覧あそばせば、おそらく愛《う》い奴と、伊達家にひとしおお情けをかけて下さりましょう。……かように話し合い、押してここまで参ってござりまする。なにとぞ、なにとぞ。――」
すでに秀吉が政宗をゆるしているのは、小姓たちも見ていたことだ。
伊達の家臣がこれほど膝を屈してすがりついてくるのは、哀訴の手ではあると知っても、悪いきもちではなかったし、ふびんでもあったし、拒否するのは、武士の情け、忠節の道義にそむくような気もした。
それに秀吉が政宗に陣刀を渡しているのに、秀吉の臣下たるじぶんたちが、政宗の臣下に馬じるしをわたさないのは、何か辻つまが合わなくて申しわけがないような気がした。
上の小姓団と、伊達家の家来たちが待っている下の藪の中間に、しばらく金瓢の馬じるしが立っていた。
夏の山の樹《き》々《ぎ》はふかくて、どちら側からもそれを持っている人影は見えない。その金瓢も、青あおとした高い梢の茂みにかくれている。一息か二息つくと、それはふたたび下へうごき出した。
「われらの願い、おきき下されたぞ。その証拠として、このおん馬じるしをしばらく伊達の御家来衆に持たせ置く。つつしんで待っておるようにとの仰せでござる」
徳川の家来たちはおごそかにそういって、馬じるしをわたし、白衣と具足をとりかえると、風のように山の下へ駆け去っていった。
千成瓢箪をうやうやしく奉じて、感泣している伊達の家来たちは、その馬じるしの瓢箪の一つが切りとられていることを知らない。
まして、青い密林の樹上を、金瓢の一つをかかえた黒い影が、猿《ましら》のごとく翔《か》けわたっていったことを知る道理がない。
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女忍七星
「へい、お待ちかね。これが御注文の千《せん》成《なり》瓢《びよう》箪《たん》」
金ピカの一つの瓢箪をさし出されて、風摩小太郎は眼をパチパチとさせた。
黙って、その瓢箪をとりあげて、見あげ、見下ろす。信じられないように、撫《な》でまわす。金《きん》箔《ぱく》をおいた瓢箪が、そうどこにもころがっているはずはないし、そもそも、それを盗ってこいと命じたくらいだから、それ以外にも、何か確たる特徴があって、正《しよう》真《しん》正《しよう》銘《めい》、秀吉の馬じるしに相違なし、と認めざるを得ないものがあったのだろう。
やがて風摩は、瓢箪をおいて、六人の香具師を見た。それにしても、このすっとんきょうな面々が、配下の精鋭ふたりの忍者を犠牲にしても、なお盗むことのできなかったものを、わずか二日でまんまと手にいれてこようとは!
「どうして盗った」
わざと息をおさえてきいたが、ひろがった瞳はどうしようもない。
「へっ、御《ご》直《じき》伝《でん》の忍術で、その、ドロンとね」
と、とろ盛がいった。
「どのような忍法」
「いや、忍術まで使うことはありませなんだ。ちょいと贋《ガセ》名《な》を使って細工しただけなんで、香具師の世界じゃ朝飯前のことで。――お望みなら、敵の大将秀吉の首だってとってきたところなんじゃが」
と、睾丸斎は、つらつらと瓢箪をながめ、
「それにしても、お頭《かしら》、なぜこんなものを欲しがりなさるんで? いくら金箔をおいてあったって、もっと金《かね》目《め》のものはこの城にだってたんとござりましょうが」
「うぬらの知ったことか!」
と、風摩小太郎は一《いつ》喝《かつ》したが、六人が首をちぢめてしゅんとなったのを見ると、ぶきみな笑顔を作って、
「しかし、よう盗って来た。つくづく、うぬら、奇《き》態《たい》な奴らじゃ」
「では、お約束の通り。――」
「何の約束をしておったかな?」
「その、忍《おし》の城へやって下さるという――」
「おお、そうであった。……しかし、秀吉の本陣に忍びこんで、その馬じるしさえとってくる奴、忍の城などへ入るのは、それこそ朝飯前であろうが」
「それが……ちょっとまずいんで」
六人は、まごついた。弁慶がいった。
「南《な》無《む》、忍びこむにあらず、われら堂々と、忍者として忍《おし》城《じよう》へ仕官いたしたい望みがござって、是非ともお頭《かしら》の御《ご》推《すい》挙《きよ》状《じよう》をたまわりたい」
「うふ、大きく出たの。いや、うぬらが忍城へゆきたい望みをもっておることは察しておったが、正直なところ、その発《ほつ》心《しん》のきっかけがよくわからぬ……うぬら、ガラにもなく、麻也姫さまに恋《れん》着《ちやく》しておるのか?」
「――ば、ば、ばかな!」
と、弁慶はさけんだが、それこそガラにもなくみるみる赤面した。すばやく陣虚兵衛がひきとって、虚《うつろ》な声でいった。
「仰せの通り、おれたちゃ、麻也姫さまに一生の大恩あって、どうぞしてその御恩返しのためお役に立ちたいと思っております。是非、この微《び》衷《ちゆう》をお汲《く》みとり下されたく。――」
「うまいことをいうぞ。本心は何を考えておることやら」
このとき風摩小太郎は、なぜか、ふと虚兵衛にも劣らぬ虚《きよ》無《む》的《てき》な表情になって、
「ま、何でもよいわ。うぬらを手放すのが、ちと惜しくなったが――」
「ひえっ?」
「約束は約束ゆえ、忍の城にやってやろう」
「ありがたや!」
夜狩りのとろ盛は脳天から奇声を発し、うれしまぎれに、
「お頭も忍の城へ鞍《くら》がえした方がようござんすぜ。この城は裏切り者があって、まもなく落ちやすからね」
と、いって、いったとたん心中に、じぶんのよけいなお愛想を悔《く》いた。こんなおっかない首領に、ほんとについてこられてはかなわない。
風摩小太郎の眼が、ギロリとひかった。
「何、この城に裏切り者がある? 左《さ》様《よう》なことをだれからきいた?」
「あわわ」
「これ、申せ、申さねば、忍へはやらぬ」
ただでさえ、超《ちよう》絶《ぜつ》的《てき》な魔《ま》光《こう》をはなつ小太郎の眼だ。それが本心から愕《がく》然《ぜん》としたらしく、のしかかるようににらみつけられて、とろ盛はおったまげた。
「へっ、関白秀吉公から」
「…………?」
「秀吉さんがね、伊《だ》達《て》政《まさ》宗《むね》さんと」
「…………?」
「石《いし》垣《がき》山《やま》で話しているのを、義《よし》経《つね》が木の上できいてたそうで。――それによると、この城の、ご、ご、御家老の、松田尾張守さまが、上方勢に内《ない》応《おう》。――」
風摩小太郎は、沈黙したまま、夜狩りのとろ盛を穴のあくほどにらみつけている。これはおどろくのがあたりまえだ、とは思うものの、小太郎の眼にしだいに危険なものが漂いはじめたのを見て、かすれた声を出して昼寝睾丸斎がしゃしゃり出た。
「お頭、そのことは誰にもいっており申さん。このまま、わしたちが城から出れば、あとは野となれ山となれ――とは、いや、その、ゆめ思ってはおらんが、そんなことより、わしたちの気がかりなのは、悪源太で」
「…………」
「源太はまだ生きておりますかの?」
なお、六人を凝視していた風摩小太郎の眼がふいに動揺すると、黙ったまま立ちあがって、天井から垂れ下がっていた鈴の鎖をひいた。
そこは、香具師たちが最初につれこまれた角《すみ》櫓《やぐら》の地底の石室であった。その石の壁が、やがてひらいて、一団の人間のむれがあらわれた。
四人の武者が、戸板を支えて出てきた。そのまわりに、全裸の女たちがたかっている。いや、その戸板にうつ伏せに乗り、両側からぶら下がっている女もあるようだ。
小太郎が歩みよって、その女たちをはらい落した。
「源太!」
「瓢箪をとってきたぞ!」
六人の香具師は、ころがるように駆け寄った。
女たちのはらいのけられた戸板の上には、悪源太が大の字に横たわっている。眼をとじて、手足はピクリともうごかず、まるで死《し》人《びと》のようだ。
「なむあみだぶつ」
と、つぶやいて、荘《そう》重《ちよう》に数《じゆ》珠《ず》をおしもむ弁慶の横ッ面を、馬左衛門がひっぱたいた。
「薄情な引《いん》導《どう》をわたすな。見ろ、源太のヨシコは生きておるぞ! 天井むいて、死んでるヨシコがあるか!」
ヨシコとは、男性の男性たるゆえんの物だ。これに対して女性の女性たるゆえんのものをヤチという。香具師の隠語だ。
「……生きてるのは、ヨシコだけだ。……」
ほそぼそとした声がきこえた。唇が動いたともみえなかったが、悪源太の声だ。
「……そいつだけ、死なせてくれねえ。……」
眼はおちくぼみ、手足は糸みたいにほそくなっているが、源太はたしかに生きていた。風摩小太郎はいった。
「悪源太、もはや風《かぜ》 閂《かんぬき》をかけてはおらぬ。うぬの命は助かったのだ。起《た》て。――おい、起たしてやれ」
と、あごをしゃくると、香具師の仲間より、はだかの女たちがまたわっとたかった。すると、死んだようにみえた悪源太ががばと起きなおり、
「助けてくれ!」
まるで、泥の中をもがくような手つきをした。その手に、蛇のように女たちがからみつく。――女たちは、七人いた。これも正気とは思われぬ風摩組の女忍者だ。
風摩小太郎は苦々しげにその女たちを見やって、
「木《ミ》乃《イ》伊《ラ》とりが木乃伊になりおった。……こやつら、もはや使いものにならぬわ」
と、つぶやいた。それから、大《だい》喝《かつ》した。
「お雁《かり》!」
さすがにひとりの女が、鞭《むち》みたいにとびはなれて直立する。
「お燕《えん》!」
「はい!」
「お鶴《つる》……お鳶《とび》!」
「はい!」
「お鷺《さぎ》……お雉《き》子《じ》……ひよどり!」
「は……はい!」
「向うをむけ」
ならんで立った七人の女の背に、風摩小太郎は一本の指をあてて、順々に何やら書き出した。
まさに、彼は筆なくして、指《し》頭《とう》で女の肌に書き出したのである。そのふとい指のうごくところ、真っ白な皮膚が、赤いみみずのようにふくれあがってゆく。――赤いみみず、まさにその通りだ。どう見ても、字とは見えぬ。絵とも見えぬ。
「うぬら、忍《おし》の城へゆけ」
「げっ……この女たちも?」
悪源太が眼をむいて、何か吐きそうな声を出した。風摩小太郎はニコリともせずにいった。
「忍の城には、おれの秘蔵の弟子が三人いっておる。累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》、戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》、御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》という男だ。その男共《ども》に見せればわかる。この七人の女が、うぬらの推挙状だ」
「わからん。いくらかんがえても、わからん」
ポクポクと、砂ぼこりをたてて歩きながら昼寝睾丸斎はつぶやく。
「あの瓢箪の一件をまだかんがえてるのけえ? お頭が、秀吉の馬じるしを盗りにゆかせたわけを」
と、義経がふりむいた。
「それもあるが、お頭が――小田原城に裏切り者がある――と、とろ盛からきいたときの顔がよ」
「びっくり仰天したじゃあねえか」
「びっくり仰天したのは、おれたちがそれをしゃべったことじゃよ。いまつらつらかんがえてみると、お頭は、ちゃあんとそのことを知ってたようだぜ」
「へっ? そ、そんなことがあるもんか。十余万の大軍をひき受けて、北条の運命かけて籠《ろう》城《じよう》している小田原城の――北条家筆頭の家老、城の柱ともいうべき松田尾張守が、秀吉に内応している――こっちだって、胆がひっくりけえったぜ。それをきいて、驚かなきゃ、どうかしている」
「しかし、面白いな。世の中はつまらんことだらけだと思うておったが、ちと面白いこともあるな」
と、陣虚兵衛がふだんとはちがう調子でいい出した。
「北条方がそうなら、上方勢は上方勢で、いつかの家《いえ》康《やす》謀《む》叛《ほん》の手紙は、秀吉の懐《ふところ》 刀《がたな》といわれる石田|治《じ》部《ぶ》のはかりごとだというのには、おどろいたな」
「どうしてまた、石田治部がそんなことをしたのかな」
「つらつら思うにだ――治部は、関白のほんとの敵は、いま攻めている北条ごときじゃなくって、味方の家康だとみているのじゃな。だから、いまのうちに家康を掃除しておこうとかんがえて、あのような細工をした。――」
「つらつら思うに、なんて睾丸斎、いまになってえらそうなことをいうが、おめえ、あのときはシタリ顔で、北条方の反《はん》間《かん》苦《く》肉《にく》の計だといったんだぜ」
「いや、赤《せき》面《めん》の至り。そのまた上《うわ》手《て》をゆく奴があろうとは夢にも思わなんだ。いや、武家の世界は、香具師のインチキどころじゃない。つくづくと恐れ入ったわい。――風摩のお頭だって、何をかんがえておるかわからん」
と、睾丸斎はまたいった。
「わからんのは、松田尾張の一件だけじゃない。わしたちを忍《おし》の城へやってやる――と、いった。わしたちが何をしようとしておるか、大将、ほぼ察していたようであったぞ。それにもかかわらず、わしたちを忍の城にやる――その気心がよくわからん」
「おい。……忍の城へいったら、まさかいきなりバッサリじゃあるめえな?」
と、義経がぎょっとしたようにいった。
「あの女たちの肌文字は、何てかいてあったんだ?」
「読めん。あれは字じゃない。忍者仲間の符《ふ》牒《ちよう》じゃろうが。……」
睾丸斎はくびをふった。
「いや、バッサリやるなら、あの風《ふう》摩《ま》櫓《やぐら》でやるじゃろう。そんなことに遠慮するお頭じゃない。忍の城へいってよろしい、といったときのお頭の顔には、そんな殺気はなく、何やら虚《うつろ》な、投げやりなものがあったような気がしてならんが」
「しかし、あの人肌の推挙状をふりすてて、ぶじ忍《おし》の城に入れるかの」
と、馬左衛門がいった。
「女たちをまけ。いっしょにゆくなら、死んでしまう、と、源太がだだをこねるので、苦心|惨《さん》澹《たん》、まいてしまったが……ちと、惜しいような気もする。忍者とは見えぬ美女ぞろいではなかったか。ああ! 源太はじぶんが食い飽きたものだから。……」
「あの女《ナオ》たちの話はよしてくれ!」
と、悪源太がふいに金切声をあげて、げえっぷ! と、おくびを吐いた。弁慶の背中の上で、
「あんな女たちがいなくったって、もう大丈夫だ。風摩組のことはよくわかったし、おれが承《う》け合う。忍の城についたら、おれが舌に油をかけて口上《 タ ン カ》をきって、きっと忍術を売りこんでやるからよ。あの女たちはもうかんべんしてくれ。いや、女たちの話をするのもかんべんしてくれ!」
しかし、糸のようにほそい声だ。剽《ひよう》悍《かん》無比の悪源太ともあろう者が、やつれはてて、まだ半病人のように弁慶の大きな背に負ぶわれているのであった。
「源太! 女たちにどんなことをされたんだ? あの美女七人に、二日一晩まつわりつかれて、ああ、おれが代りたかった!」
と、馬左衛門は腰のあたりをなで摩《さす》る。
「おれを見ろ、おれはまだいちどもそんないい目にあったことがねえんだぞ。せめて、道中、その話でもつぶさにきかせてくれろやい」
「よさねえか、馬《うま》!」
悪源太の声があまり悲痛をきわめているので、六人の香具師はさすがにだまりこんで、スタスタと歩く。
東へ、武《ぶ》州《しゆう》忍《おし》城《じよう》へ。――見わたすかぎり、渺《びよう》茫《ぼう》たる緑一色の草原と雑木林であった。
彼らは、こんな問答のあいだ、蟹《かに》のように横に歩いていた。もとから足の早い連中であったのが、この奇《き》態《たい》な歩行法で、風よりもまだ早い。風摩忍術大学で研《けん》鑽《さん》した速歩の術であった。ただし、炎天の下で、だれの顔にも湯をあびたように汗がひかっている。
「おい、どこらあたりまで来たろうな」
「向うに見えてきたのが、多《た》摩《ま》川《がわ》よ」
「――やっ、ありがたい、舟がある」
「――一《いつ》艘《そう》だけある。天の助け――無人の舟だぞ」
彼らは、広い河原を、あごをつき出して走った。人《ひと》気《け》もない舟が一艘、水ぎわからいまにも流れそうに漂っていたからだ。
突然、悪源太が鼻をピクつかせ、弁慶の背中で悲鳴をあげた。無人と見えた舟の中から、すっと身を起した者があったからだ。
一人ではない。――七人だ。
七人の香具師は、口をポカンとあけて棒立ちになった。
小田原を包囲する上方軍を突破する時、悪源太の懇望もだしがたく、死物狂いにまいてきた七人の女が、いつのまにか先まわりしてそこにいる。
しかも、風摩組の忍者とは見えない朱《あか》い唇から、艶《えん》然《ぜん》と白い歯をこぼれさせて、
「いらっしゃい。――乗せてあげます」
と、甘ったるい声が風に伝わって来た。
「ただし、もうひとり乗ったら、せいいっぱい、河を渡すのは、一人ずつですよ」
――逃げたって、追いつかない。河を渡らなければ忍《おし》へはゆけないし、岸ぞいに、どこに逃げても舟で追っかけてくるだろう。
「さあ、どうぞ、はやくお乗りなさいな」
「乗るのは、もうたくさんだ」
と、悪源太は歯をむいたが、ひとの背中におんぶしているのだから、威勢のわるいことおびただしい。
「乗らないなら、先に忍城へゆきますよ」
「勝手にゆきやがれ」
「そして、あとからくる七人の香具師を門前払いにするようにいいます」
「なんだと?」
「それでこまるなら、さあ、お乗りなさい。だだをこねているおひとは、あと廻し。さあさあ、お順におひとりずつ」
悪源太をのぞいて、ほかの六人は観念した。
とにかく、乗ろう、こうなっては、乗るよりほかはない、とほぞをかためた。――といいたいが、実のところ、悪源太の願いはしぶしぶきいたので、本心はうれしくって、ワクワクしているのだ。
昼寝睾丸斎から、つぎつぎにひとりずつ乗り出した。
小田原城の風摩櫓にいたころは、美女ぞろいではあるが、どこか凄《すご》みをおびた女たちにみえたのが、いま六月の太陽の下に、ただひたすらに色っぽい。かわるがわるに竿をさす手さばきだけが、さすがにただの女ではないと思わせるが、六人の眼には、その腰のうねりが、恐ろしく刺戟的だ。
――ともかく、馬左衛門をのぞいた六人には、一人ずつ味わったおぼえのある女体である。いい男、という自信においては人後におちない義経などは、せいいっぱい片眼などつぶってニヤついてみたが、乗せるまでのなまめかしさとうって変って、いや、姿態のかもす自然の蠱《こ》惑《わく》は別として、乗せたあとの彼女たちはひどくよそよそしい。
――傾《けい》城《せい》屋《や》とおんなじだな、と、心中みんな長《ちよう》嘆《たん》した。
馬左衛門は、ひとり乗せられてゆくとき、たまりかねてかすれ声を出した。
「おい。……おれは源太の身代りにはならねえか?」
お雁《かり》という女忍者は、ちらりと彼の股間を見やって、つんと空をあおいだ。
「あのお方は人間です」
「――忍術で、なんとかならねえか?」
「わたしたちの忍法は、人間用です」
――最後に、悪源太ひとりが河原に残された。渡りたくもないが、残りたくもない。しかし、何をするにも、弁慶から捨てられると、足がヒョロついて、腰が立たないのだ。
おそらく、捨てられた舟の竿ででもあろうか。河原に長い竹竿が二、三本ころがっていた。六人渡るあいだに、悪源太はその一本をひろって、先を削り出した。
「もうひとり乗ったら、せいいっぱい」という。――それなら、一人を渡したとき、女たちの半分でもいっしょに向う岸に下りれば、はかもゆくだろうに、どういうつもりか、七人の女忍者は、そのたびにみんなそのままで、こちらの岸にひき返してくる。
「さあ、あなたひとりになりましたよ」
河原に坐りこんで、追いつめられた犬みたいに眼をひからせている悪源太を見て、七人の女忍者は、やさしく笑いかけた。――いまにも下りて、抱きかかえに来そうな様子をみて、悪源太は泳ぐように立ちあがった。
「乗る、乗る、乗ってやるが、おれにさわってみろ、河へとびこんでやるから」
どうも、いつもの悪源太らしくない。
舟にのるとき、彼はよろめき、あっというまに白い蛇のもつれるような女たちの腕の中にあった。
「恋しい源太さま。――」
「まさか、ここで抱いてとは申しませぬ。けれど、せめて口を吸って――」
「いいえ。口を吸わせて――」
「わたしが先!」
「わたしが先!」
あおむけに、弓なりに反った源太の口を、火の匂いのする息が吹きめぐった。
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恋さみだれ
最初は手《て》籠《ご》めにしようが、そのあとどんなにひどい目にあわせようが、いちどものにしたら、絶対に女がくっついてくるという特技。――これは甚だうれしい現象のようで、その実それほど結構なものでもないことは、悪源太だけが知っているが、しかし彼がこれまでこの特技を大いに利用しておまんまのたねにしていたことは事実だ。
それが――こんどほど、彼がじぶんのこの特殊能力を呪《のろ》わしく思ったことはない。
風《ふう》摩《ま》櫓《やぐら》での二日間――女地獄の責苦に、彼はからだじゅうが蝉のぬけがらみたいになってしまったかと思った。もうカラッポ、カラカラなのに、たった一つの栓《せん》だけがあけられて、無限に体液が吸《きゆう》引《いん》され、しぼりあげられる。やっぱり忍術としか思えないが、これにくらべては忍《おし》城《じよう》の三人の風摩組などはものの数ではないといいたいほどの恐ろしさであった。
そしていま。――またもその七人の女忍者と同じ舟に乗せられて、
「助けてくれ!」
――と、じぶんではさけんだつもりだが、ほかの人間には何とさけんだのかわからないような悲鳴であった。
舟に乗せられることはわかっていたのだから、じぶんでも覚悟していたつもりなのだが、案《あん》の定《じよう》、飢えた女《おんな》 狼《おおかみ》みたいに襲いかかられて、こっちもこれまた水をみた狂犬病みたいな声を発せざるを得なかったのだ。
あまり突《とつ》拍《ぴよう》子《し》もないさけびに、さすがの女狼たちも思わず鼻白んで手をひいた隙に、源太は死物狂いに舳《へ》先《さき》の方へまろび逃げて、
「女《め》郎《ろう》ども、それ以上近づいて見ろ、……めざしにしてくれるぞ。しっ、しっ」
と肩で息をして、竹槍をかまえた。
この男に槍をもたせたら、戦場往来の荒武者も容易にかなう者はあるまい。――ということは知らなくても、ふつうなら、槍をもったときの源太の眼光、腰の構えを見たなら、心得のある者ならぎょっとするはずだが――このとき、女たちはケラケラと笑った。
笑うはずだ。まるで座《ざ》頭《とう》がほえかかる犬に杖をむけたようなヘッピリ腰だ。笑われて、いよいよいきり立った悪源太は、「こ、この女《め》狐《ぎつね》どもめ」と、ほんとに竹槍を投げそうな腰つきをしたが、女忍者のひとりが平気で竿をついて、岸から舟をはなすと、ドスンと尻もちをついてしまった。
「まあ、ここではゆるしてあげましょう」
「向う岸では、あれあのように両腕をもみねじってにらんでいるし」
「悪源太どの、どのようにあがこうと、わたしたちから逃げられませぬぞ」
女たちは笑っただけで、あきらめたらしい。そのまま舟をやりはじめた。
舟は、雨季をすぎたばかりで、まだ満々とふくれひろがる多摩川を渡ってゆく。
対岸につくと、悪源太は、舳《へ》先《さき》からまっさきにころがりおちた。まだ浅瀬の水の中へ――ざぶっとしぶきがあがるのも夢中で、竹槍の尻で、ぐうっと舟をつきもどす。
「あっ」
「何をしやる」
さすがに女たちがうろたえて総立ちになったとき、悪源太は水の中でぶンまわるようにして、死物狂いに竹槍を投げた。
すでに舳先を流れにむけかえた舟の上で、お鳶《とび》という女忍者のもっていた竿に、その竹槍はみごとに命中して、それを河へはねとばした。
「石を投げろ、石を投げてくれ!」
悪源太はふりかえって、さけんだ。
あっけにとられていた六人の仲間が、めんくらいつつ、河原の石をとってはめちゃくちゃに石を投げつける。それでなくても、竿を失った舟は、この石の一斉射撃に、女たちがあわてて身を伏せたので、そのまま河に従って矢のようにながれ去る。
「それ、逃げろっ」
と、悪源太は水から岸へかけのぼったが、そのままバッタリつんのめってしまった。
「つらつら案ずるに――」
と、昼寝睾丸斎がいった。
「やっぱりあれはまずかったの」
「そうだろ、そうだろ」
と、馬左衛門が相《あい》槌《づち》をうった。
「あれほどの美女が、あんなにまでくっついてくるのに、それをまいちまうなんて冥《みよう》加《が》につきる。――と思っていたら、まくどころか、河に放りこんじまうなんて、もったいないにもほどがある。いや、もったいないどころか、ひょっとしたら溺れ死んでしまったかもしれねえぜ」
「逃げながら、おれはふりむいてみたが、だれひとりとして泳いでる様子もなかった。梅《つ》雨《ゆ》のあとの多摩川の濁水だ。いくら忍者ったって、女だから――」
と、弁《べん》慶《けい》も暗然として数《じゆ》珠《ず》をもむ。
「なむあみだぶつ」
「となると、いよいよ惜しい。あんなラリコは珍しい。ペテンカクスのゲソアッタとは、あいつらのことだ。――あれも、忍術か知らん?」
と、夜狩りのとろ盛がいった。ラリコとは色好みの女のことで、ペテンカクスのゲソアッタとは、章《た》魚《こ》のことだ。こいつは香具師の隠語の中でも、いちばん長い奴だろう。
「風《ふう》摩《ま》櫓《やぐら》でおれの相手をしてくれたのはお雉《き》子《じ》という女だったが、あのあと二、三日、まだ吸いつかれてるようで、そのあいだおれは泣き声がとまらなかったくれえで……」
「よしやがれ!」
と、悪源太がさけんだ。
「まだあいつらに未練たらたらでいやがる。話をきいただけで、おれはからだじゅうが裏返しになりそうだ。よさねえか!」
悪源太は、さすがにもう弁慶に負《お》ぶわれてはいない。彼は歩いている。歩いているというより、風に吹かれる木の葉ッぱみたいな足どりで、フラフラといちばんうしろからくっついてくる。
武《む》蔵《さしの》国《くに》から上《こう》野《ずけの》国《くに》にいたる中《なか》仙《せん》道《どう》――中仙道というのは、江戸時代に入ってからの名称だから、このころは東山道といったのだろうが、むろんまだ後世のような駅《えき》逓《てい》制度はない。人工の松並木も杉並木もない。古来から八道の一つにはちがいないのだから、ほかの街道にくらべては道らしいが、しかしただ草の波のうねりひろがる武蔵野の中を、ところどころ草や森に覆《おお》われながら、野末までつづいている白い道であった。
「源太よ、おめえ、女の話ってえと、きゃんきゃん泣くがの」
と、陣虚兵衛がいった。
「それで、おめえ、また麻也姫をヨツにカマる気があるのか」
「…………」
悪源太はキョトンとした表情をしていたが、やがて正気にもどったように、
「あれはべつだ」
と、いった。そして、仲間を見まわして、彼らしくもなく赤い顔をして、
「こうなりゃ、意地だい。あいつをヨツにカマってやらなきゃ、おれがあんな艱《かん》難《なん》辛《しん》苦《く》をした意味合いがねえ。たとえ、血ヘドを吐いても、忍《おし》城《じよう》に乗りこんで――」
「お、源太の顔に、はじめて生色が出てきたぞ。そうだ、そのためにも忍へおしかける必要があるが」
と、弁慶がまわりを見まわした。
「ここはどこらあたりだ?」
「だいぶまえ、浦和を過ぎたから、そろそろ大宮だろう。忍までざっと十里ちかく」
「まだ、そんなにあるのか?」
炎天の下で、いちど赤らんだ源太の顔が、またゲンナリと蒼くなる。もっとも道は、皮膚も染まりそうな林の中へ入っていた。並木といったようなものではない。森みたいな雑《ぞう》木《き》林《ばやし》だ。
「さ、その忍へついてからのことじゃがな。やっぱり風摩組の女を始末しちまったのはまずかったと思う」
と睾丸斎がいった。源太はかんしゃくを起した。
「あの肌《はだ》文《も》字《じ》の手紙のことか。あんなものはなくったっていい。おれが忍術を売りこんでやるといってるじゃあねえか」
「風摩の肌文字のこともあるが――わしの案ずるのは、城に入ってからのことじゃよ」
「城に入っちまえば、こっちのもんだ。ヤサバイとゆけばいい」
ヤサバイとは、女だけいる家に行商にいって誘惑することだ。
「忍の城には、麻也姫ひとりいるんじゃあねえぞ。例の累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》、戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》、御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》というおっかねえ番犬がいる」
「…………」
「そう簡単に麻也姫をヨツにカマろうったって、問屋が下ろすまい」
「…………」
「そこで、あの風摩組の女忍者たちを始末しちまったのが惜しいってんだ」
「あいつらを使うってえのか? 女を使う忍術を、くノ一とかいうことを風《ふう》摩《ま》櫓《やぐら》できいたっけが――しかし、あの女忍者も三人の化物野郎もおなじ風摩組、おなじ穴のむじなだろ?」
「いや、たとえ生きてたって、あの女忍者たちはおれたちの手に負えねえ。ただ、いっしょに城に入れば――」
「どうなる」
「小田原城で、風摩組をメチャクチャにしたのとおなじ手でゆけるかもしれん」
「どんな手」
「つまり、忍の城じゅうに淫《いん》風《ぷう》を吹かせるんだ」
「淫風――いいねえ!」
と、とろ盛が例の脳天から出るような奇声を発した。睾丸斎はニコリともせず、謹厳な顔つきで、軍師らしくどじょうひげをひねり、
「つまり、源太があの女たちとふざけちらして、城じゅうに淫風を吹かせ、三人の風摩組はおろか、麻也姫もトロトロ、フラフラにしてしまう」
「おれがあの女たちとふざけちらす? ゲ、ゲ、ゲエップ! そ、そいつだけはかんべんしてくれ!」
「いや、そんな手があったということよ。幸か不幸か、もうその手は使えねえ。あの女たちが死んじまった以上は――」
と、いったとき、歩いている七人の鼻っ先に、ビラビラビラ……と、銀線のようなものが降って来た。
とっさに、驟《しゆう》雨《う》かと思ったのである。しかし、たったいま林に入るまで、あんなにギラギラかがやいていた空だったのに、――と思ったときは、弁慶ととろ盛と虚兵衛が、その雨すじのようなものに鼻づらをぶっつけたあとだ。
「痛《い》て、て、て、て。……」
と、三人はさけんだ。ヒョイと上をふりあおいだ悪源太が絶叫をあげた。
「出たあ!」
頭上にさし出した老樹の枝に、四人の女が坐っていた。いや、すっくと仁王立ちになっている女もある。その奇怪な銀色のすじが、彼女たちの両足のあいだから垂れ落ちている――と見るよりはやく、それが多摩川で溺れさせたはずの女忍者たちだと見て、
「わっ」
また尻もちをついた悪源太を残し、あとの義経と馬左衛門と睾丸斎は、無我夢中で身をひるがえして、もと来た方へ逃げようとして、また、
「痛て、て、て、て。……」
と、悲鳴をあげた。そこにも、銀色の糸が竪《たて》琴《ごと》の弦《げん》のように道をふさいでいたのだ。
そちらからさし出した枝の上にも、三人の女が坐っていた。両側の空に、鳥みたいにとまった七人の女忍者は、路上を見下ろして、ケラケラと笑った。
「忍法、恋さみだれ。……わたしたちからにげられるものですか」
「おほほほほほ!」
そう笑うあいだにも、女たちの股《こ》間《かん》から、ハラハラと雨がふる。
いや、雨というより、蜘《く》蛛《も》の糸のようなものだ。ふれた瞬間はたしかに液体であったが、たちまち粘《ねん》体《たい》のすだれとなった。あわてて、それをかきのけ、ひきちぎろうとする。その手にも、すだれはねばりついた。まさにそれは、すだれのように軽い。が、ひとたび粘着すると、もはやひきちぎることはできない。のみならず、それは皮膚に焦げついたような痛みをあたえた。皮膚そのものを剥ぎとらなければ、とれないような粘着力なのだ。
そして、その粘体から発する、なんという香ぐわしい匂いであろう。まるで花《か》粉《ふん》の霧にむせぶような。
女たちは、胡蝶のように樹上からとび下りてきた。
「恋さみだれ」は、枝と道とをつないだままである。
「ゆるして下さい」
「苦しめるつもりはありません。ただ、わたしたちから逃げようとして、あんな目にあわせなさるから、それは出来ないということを思い知らせてあげたかったのです」
「忍《おし》の城へいっしょにゆけ、と申されたお頭《かしら》の仰せにそむくわけにはゆきません」
と、女たちはこもごもいった。
「その恋さみだれは、あと百もかぞえるうちに乾ききって、ホロホロと崩れます」
「でも、そのまえに、悪源太どの、どうぞわたしたちを」
尻もちをついていた悪源太はとびあがった。
「あっ、待ってくれ、忍の城へいっしょにゆけ――と、風摩のお頭が命令したと、いまいったじゃあねえか」
「申しました。だから、いっしょにゆきましょう」
「でも……そのまえに」
七人の女の眼がまた女《め》豹《ひよう》のようなひかりをおびてきた。
「もういちど、わたしたちを抱いて」
「樹の上で待っているあいだも、わたしたちはからだじゅうが燃えて、燃えつきそうでした」
「あなたは恐ろしい忍者です。わたしたちを、こんな女にかえてしまいました」
「いっそ、あなたも恋さみだれにかけて、森の中へさらってゆこうと思っていましたが」
「そんな、手荒なことを、女にさせないで。――」
「森の中で」
「風《ふう》摩《ま》櫓《やぐら》のときのように、やさしく」
そういっているあいだにも、七人の女の手は十四匹の白い蛇のように悪源太のくびや肩にからみつく。――悪源太は、それをはらいのける気力もない。
「だ、だからよ、そんなことしてたら、忍の城へいっしょにゆけねえ」
「どうして?」
「おれが殺されちまわあ」
女たちは顔を見合わせて、ニンマリと笑った。神秘で濃《のう》艶《えん》きわまる笑いであった。
「大事なあなたを、どうして殺すものですか。さ、はやく」
「あなたは金《こん》輪《りん》際《ざい》殺しはしませんけれど、いうことをきいて下さらないと、あとの六人はどうなるかわかりませんよ」
「みんな、気がたっているんですから」
夜狩りのとろ盛が悲鳴をあげた。
「百なんか数えちゃいられねえ。おれは面《つら》の皮が破れそうだ。源太、何でもいうことをきいて、このへんな糸をとるようにしてくれろ」
「淫風、淫風」
と、睾丸斎もしゃがれ声をふりしぼった。
「源太、やっぱり例の軍略でゆこう。おまえ、ひとつ奮発して、人《ひと》身《み》御《ご》供《くう》になってくれ」
なってくれ、と頼まれる以前に、悪源太の意志の如何をとわず、彼は女たちにかつぎあげられている。悪源太の気力も体力もまだ完全に恢《かい》復《ふく》していないことも事実だが、しかし七人の女忍者たちはみなほっそりとした姿《し》態《たい》なのに、みな恐ろしい剛《ごう》力《りき》であった。
「恋しい源太どの」
「うれしや、この肌ざわり、この毛ざわり」
「えっさ、えっさ」
まるでお神《み》輿《こし》のように片側の林へかつぎこまれた。彼のもの哀しい悲鳴が、しだいに奥へ遠ざかってゆく。
あとの六人の香具師は、奇怪な蜘蛛の網にかかった蓑《みの》虫《むし》みたいにもがきながら、
「こりゃ、麻也姫をヨツにカマるどころじゃねえ」
「悪源太の方がヨツにカマられる――とは思わなんだ」
「狒《ひ》々《ひ》が美女の人身御供にささげられることもあると、はじめて知ったわ」
「それより、こっちはどうなるんだ」
「百数えると、自然に崩れるとかいったが――いま幾つだ?」
「だれも勘定なんかしてやしねえ」
二、三間おいて、三人と三人、背中あわせになってさわいでいる耳に、北の方から鉄《てつ》蹄《てい》の音がきこえてきた。一騎ではない。――やがて、林の中の道に入ってきたのは、七騎の武者であった。
このとき、やっと百数える時間が経過したのか、六人は手足がふいに自由になるのをおぼえると同時に、じぶんたちを吊るようにしていた「恋さみだれ」の糸が、さあっと灰みたいに粉ごなになるのを見た。しかし、それまでの六人の奇妙な姿勢を、武者たちも遠くから見とがめたらしい。馬蹄をゆるめて近づいてきたが、ふいに、
「待てっ」
と、さけびながら疾《しつ》駆《く》してきた。
「うぬら――案《か》山《か》子《し》みたいな恰好をしおって――何をしておった?」
と、きいたときは、もう六人を包囲している。そうきかれても、一言で説明することはむずかしい。
「へい、べつに何ってことも――」
と、睾丸斎がドギマギと返事をしたとき、面《めん》頬《ぽお》をつけた鉄甲の武者が、「やっ?」とさけんだ。
「うぬら、先日、小田原陣の一夜城付近をウロウロしておった奴らじゃな」
「あのとき、蜂《はち》須《す》賀《か》どのがほんものの香具師だといわれたゆえ、殿もうかと見のがされたが」
「そのあと、こんどは徳川どのの家来に化け、つぎには伊《だ》達《て》の家臣に化け、関白殿下のおん馬じるしを盗みとったのは、あの香具師らしい――という噂のあった奴ら」
六人は、この言葉で、この武者たちが石《いし》田《だ》治《じ》部《ぶの》少輔《しよう》の手の者であることを知って愕《がく》然《ぜん》としていた。そういえば、あのとき石田治部は、これから武州忍城の攻撃に向かう、といっていたようだ。香具師たちはあの日の翌日小田原をとび出したのだから、いまごろまだこんなところをうろついているはずはないのだが、途中悪源太が息たえだえに休みや泊りを要求してやまないので、ついに石田軍がこのあたりを徘《はい》徊《かい》するのにぶつからなければならなかったのだ。
「いずれにせよ、北条の乱《らつ》波《ぱ》に相違ない」
「わしらが岩槻城に物《もの》見《み》に参ったのを、また物見に来おったか」
「生かしては帰せぬ奴らだ、斬れっ」
七騎が馬上でいっせいに陣刀をぬきはらったのを見て、夜狩りのとろ盛が悲鳴の尾をながくひいた。
「悪源太――女の忍術使い――早く来て、助けてくれろう。――」
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呉越同舟
実は、小田原からこの浦和ちかくにくるまでにも、ほんのこのあいだこの一帯をとび歩いていたときとは、地上の様《よう》相《そう》が一変していることは、七人の香具《や》師《し》もその眼で見て、うたた感《かん》慨《がい》にたえなかったのである。
相模《さがみ》から武《む》蔵《さし》野《の》にわたって、潮《うしお》のように豊臣軍は侵入し、氾《はん》濫《らん》していた。小田原城は包囲したままで、その別動隊は関東の北条方の支城を次々に攻め落しつつあった。その軍兵はいたるところ、砂塵をまいて疾《しつ》駆《く》していたし、野の果てには、黒煙をあげているいくつかの小さな城も見えた。
しかし、さすがに関東も中心にちかい――利根川と古利根川にかこまれたこの埼玉あたりには、まだ上方勢の姿は見えないと思っていたら、やはりもう物見の兵が入っていたのだ。
いま、――七騎の武者は、みずから岩槻城に物見に来たといった。斥《せつ》候《こう》にしては、いやに大《おお》風《ふう》で、傍《ぼう》若《じやく》無《ぶ》人《じん》だが、それも岩槻など鎧《がい》袖《しゆう》一《いつ》触《しよく》だと戦わざるにのんでかかっている驕《きよう》兵《へい》のゆえであろう。
そんなことはどうでもいいが、その武者が、
「うぬら、北条方の乱波だな。生かしてはおけぬ。斬れっ」
と、いきなり陣刀の鞘をはらったのを見て、六人の香具師はびっくり仰天した。
そうじゃない、と正直にいままでのいきさつを述べたところで、筋道がわれながら入りくんでいて、とうてい信じてもらえそうにないし――第一、弁解しているひまがない。
「助けてくれっ、風《ふう》摩《ま》の女忍者たちっ」
絶叫したのが、いよいよわるく、
「何? 風摩の女忍者?」
「こやつら、ますます以て奇怪な奴らだ。斬り捨てろ!」
頭上から七本の乱《らん》刃《じん》がふり下ろされる。わっとさけんで伏しまろぶと、鉄《てつ》蹄《てい》がかすめ飛ぶ。
ころがりまわってこれを避けたのは、習いたて、ホヤホヤの忍術ではない。それ以前の軽《けい》捷《しよう》無《む》比《ひ》の香具師としての習性のおかげだが、さればとてあと数分もこの災難からのがれられそうにない。――
「やっ?」
突然、刃《やいば》と鉄蹄の嵐がやんだ。
「あの女どもは何じゃ?」
砂塵の下で、六人の香具師はくびをかしげた。
林の奥から走り出て来た七人の女が、この路上の光景を見て、おどろいたように樹々によりすがって、眼を見張っているのだ。――それ以上に、物見の兵たちが眼をむいてしまったのはむりもない。彼女たちはいずれも乳房やふとももすらあらわになった半裸の姿であった。それがみな若くて美しい女ときているのだから、その凄《せい》艶《えん》さは譬《たと》えるに言葉がない。
たちまち彼女たちは、息たえだえにさけび出した。
「お助け下さいまし!」
「悪い男たちを追いはらって下さいまし!」
「――はてな、こやつら、風摩の女忍者、とかいったが――」
と、武者のひとりがくびをかしげた。
「その方らは?」
「わたしたちは八王子の城から逃げて参ったものでございます。身寄りをたずねて、ここまで落ちてきましたところ、ふいに十何人かの男に襲いかかられ、林の奥にひきこまれて、あわやのところ、蹄《ひづめ》の音をきいて、からくも逃れてきたのでございます」
「この男たちも、左様か」
女たちは恨みにもえる美しい眼で、六人の香具師をにらんで、
「はい! その男たちは見張りに残りましたが、あとの男たちが――」
「まだ林の奥におるのか?」
「はい! わたしたちの仲間もまだ七、八人、この奥に――はやく、はやくいって助けて下さいまし!」
武者はいっせいに馬からとびおりた。馬を立木にむすびつけるのももどかしげに、
「うぬら、起《た》て! 逃げようとすると、ぶッた斬るぞ!」
「女ども、そこへ案内しろ!」
と、みなを追いたてて、林の中へ入ってきた。
六人の香具師はあっけにとられている。八王子城というのは、やはり数日前に落ちた北条方の城だが、むろん七人の女のいったことはでたらめだ。――女のひとり、お燕《えん》がこちらをむいて、片眼をつぶってにっと笑ったところを見ると、「助けてくれ」といった言葉とはうらはらに、香具師たちを助けにあらわれたにちがいないが、いったいどうしようというのだろう。
そんな合図を知らない石田の物見兵は、
「どっちだ?」
「こっちか?」
と、林の中を猛進する。さっき、とろ盛が口ばしった風摩の女忍者|云《うん》々《ぬん》という声は、まったく脳《のう》裡《り》から消し飛んでいるらしい。だいたい女忍者という言葉そのものが奇怪なうえに、この哀れになまめかしい女たちの姿をみては、まさかこれがそうとは、結びつけようもないらしい。
「こ、ここらあたりでございましたが――」
「まあ、みんなどこへいったものでしょう」
女たちは、ふいに立ちどまって、ウロウロとあたりを見まわした。
林の奥の――頭上に、青い天井のように樹の枝がさしかわしているが、下は草むらになった一《いつ》劃《かく》だ。そこに、女の帯や紐がちらばっていた。
「ここで、みんな、恥ずかしい目にあわされて――」
そういって、身もだえする半裸の女たちに、半透明な緑の日光がふりかかり、正体を知っている六人の香具師も、思わずゴクリと生唾をのんだほどであった。
「お鶴《つる》さまあ!」
「お鷺《さぎ》。――」
のどをあげて呼びたてようとする女たちの口を、ふいに武者たちは毛だらけの腕をのばして押さえた。
その名が、女たち自身の名であるとは知らず、眼がぶきみな笑いをおびたひかりを放って、
「ええ、呼ぶな、呼ぶ必要はない」
「えっ?」
「おまえたちで結構じゃ。もういちど、恥ずかしい目にあわせてやろう」
「あれ。――」
「これ、うぬら、おれたちをどこの武者と思っておる? 岩槻城の者とでも思うておったか? おれたちは、うぬらの敵方、上方勢のものだわ。あははは、いくさのまえに、こりゃとんだ果《か》報《ほう》が手に入った」
「軍兵衛! おまえ、腰《こし》縄《なわ》をもっておったな。おおそれよ、その縄で、そこにおる北条の乱波どもを立木に縛っておけ。あとで痛め問いにかけて糺《ただ》さねばならぬことがある」
と、ひとりがいったのは、この美しい戦利品を愛《あい》玩《がん》する前に、酸《さん》鼻《び》な血潮をながす気になれなかったのであろうし、逃げられてもこまると思ったからだろう。――しかし、考えて見ると、物見の兵たちは、最初からこの女たちに対して獣欲にかられ、林の奥へ入ってきたようであったが、それもあの淫《いん》靡《び》な姿を見ては、むりからぬ発作といえるかもしれない。
「あっ、畜生!」
「もはや――がまんがならぬ」
樹々に縛りつけられようとして、香具師たちは急にもがき出した。やっとじぶんをとりもどしかけたせいもあったが、縛られた眼の前で女たちが犯されるのを見せつけられてはかなわないと思ったからだ。とくに弁《べん》慶《けい》など、糞力はあるだけに、真っ赤な顔になると、縛っている縄が、ぷつっ、とどこかで音をたてた。
「べんけい、待って!」
と、おし倒されながらお鳶《とび》がさけんだ。相手の武者はめんくらって、
「何、何じゃと!」
「あの、待って――待って下さいまし!」
「いや、待てぬ。待てぬが、おとなしゅうしておれば、痛いようにはせぬ。そうれ、草《くさ》摺《ず》りもこうとって――」
七人の女は、武者たちのからだの下で身もだえするようにみえて、その実、白い四《し》肢《し》をみずから相手にからみつけてゆくようであった。
妖《よう》麗《れい》な縞《しま》目《め》となってふりそそぐ青い日光の下で、ものものしい具《ぐ》足《そく》もぬぎあえず、黒い甲《かぶと》虫《むし》にむさぼりくわれる美しい昆《こん》虫《ちゆう》みたいに、女たちは犯された。
「…………」
馬左衛門は、ひくいいななきをあげた。みんな眼をつぶった。――いや、弁慶だけは、縄をひきちぎって、がばと立った。
が、その瞬間、弁慶は立ちすくみ、香具師たちは顔をふりあげた。
「忍法、子《こ》宮《つぼ》針《ばり》。――」
透きとおるような声がきこえると同時に、女たちはいっせいに男たちをはねかえして、ぱっと起きなおったのである。
七人の物見兵はあおむけにひっくりかえったまま、プルプルと四肢をふるわせていた。
凄じい苦悶に眼はつりあがり、口から泡をふいている。――彼らの股間から宙天をさした肉の筒からは、それぞれ一本の針がキラリとひかってつき出しているのであった。
そのとき、ドタリと樹上から草の上にころがりおちてきた者がある。悪源太であった。
「悪源太どの、お待たせしてすみません」
「あわやというところで、邪魔が入って――」
「でも、御覧の通り始末しましたから、どうぞ安心して――」
どうやら、あわや、というところで、とろ盛の悲鳴をきき、悪源太を樹の上に追いあげておいて、七人の忍者は街道へひき返してきたらしい。
そこに、眼をまんまるくしている六人の香具師にはもう一《いつ》顧《こ》もくれず、
「さあ、はじめましょう」
たったいま、武者たちに犯されたままの姿で、その武者たちが奇怪な死にざまをとげている草の上に、つぎつぎになまめかしく横たわって、呪法をかけるような手つきで悪源太をさしまねいた。
「じょ、じょうだんじゃねえ」
悪源太は尻もちをついたまま、
「そんなことをいったって、おめえたち――おれも、その、竹《ちく》輪《わ》みてえに――刺し殺されちゃかなわねえ」
「いいえ、もう針は仕込んでありませぬ」
「その六人の衆を助けるために――その武者たちを始末するために――子《こ》宮《つぼ》針《ばり》をつかっただけなのです」
「大事な源太さまを、どうして竹輪などにしていいものですか」
「さあ、はやく!」
いっせいにまた起きあがって来そうな気配に、腰がぬけたような悪源太は仰天して、四つん這いになって、仲間の方へ逃げてきた。
「いくらおれでも、たったいまヨツにカマりかけて殺された男がいるというのに、おなじ女の相手をつとめるのは気がすすまねえ。おい、睾丸斎、助けてくれえ!」
助けを求められた六人の香具師は、弁慶をのぞいてみんな立木に縛られたままだ。――しかし、睾丸斎はどじょうひげをふりたてた。
「ま、待った待った。ちょっと待ってくれ。いや、とめはしねえ。わしたちにとめる力はねえ。源太によくよくいってきかせるから、暫時|御《ご》猶《ゆう》予《よ》をねがう。――弁慶、ともかく、この縄を切りほどいてくれや」
縄を切りほどかれると、眼をひからせて待っている女たちの前で、七人は肩をくみ、腰をかがめて円陣を作り、頭をつきあわせて何やら相談をはじめた。
スクラムはとかれた。
と、思うと、七人はズラリとならんで、草の上に膝小僧をそろえてかしこまってしまった。
「あいや、音にきこえた風摩の女忍者|方《がた》とお見受けして、懇願いたしたいことがござる」
いまさら、お見受けして、もないが、あらたまってこうもっともらしく挨拶をされて、さすが七人の女忍者もいささかめんくらった顔だ。
「われらが仲間、悪源太にこれほど御執心下さるとは、ありがたすぎて涙がこぼれるばかりでござる。それまで見込まれては、男たるもの、いかでか感《かん》奮《ぷん》せざらん、源太、意気に感じ、お手前さま方に熱誠をささげ――」
「――よせやい、睾丸斎」
と、悪源太が小声でいった。たまりかねて、口をとがらせて何かいいかけるのを、睾丸斎は眼でおさえ、
「あいや、源太がたとえいやと申しても、われら六人、よろこんでお手前さま方にさしあげる所存でござるが――そのまえに、少しばかり条件がある」
「条件とは?」
「お手前さま方は、おれたちが忍《おし》の城へ入りたがっておるわけを御存じだろう。いや、それはいつか風摩櫓で、おれたちの舌を吸いとった時、源太の舌で源太の本《ほん》音《ね》を吐かれたから、よく御承知のはずだな」
「……源太どのは、麻也姫さまがお好きなのでありましょう。くやしい。――」
「ところが、大ちがい」
「何がちがいます」
「源太は、麻也姫さまをヨツにカマる――いや、はっきりいえば、まさに手《て》籠《ご》めにしたがっておるが、それは惚れたからじゃなく、仕返しのためでござってな。というのは、この春、われらふとしたことで麻也姫さまにつかまってさんざんな目にあわされ、源太のごときは土足で顔を踏んづけられるという大恥をかかされた。それ以来、香具師の面目と意地にかけ、どんなことがあってもあの麻也姫さまに眼にもの見せてくれんと志を立て――われら、ガラにもなく忍法修行の難行苦行は、ひとえにそのためでござった。……われらの辛《しん》苦《く》お察しあれ」
睾丸斎の声涙ともに下る名調子に、夜狩りのとろ盛などは思わずつりこまれて、よよと男泣きの声をもらしたが、これは常人には通じないめちゃくちゃな論理だ。――しかし、七人の女忍者は急に興味をもよおしたらしく、眼をひからせてじっとこちらを見まもった。
「さて、そのためにおれたちが忍城に乗り込もうとしていることは、まず御承知ねがう」
と、睾丸斎はいった。
「ところが――それがあんまりのんびりしてはおられぬ。関東の北条方の城が、朝《あした》に一城、夕《ゆうべ》に一城、おちてゆきつつあることは知っておったが、ここらあたりはまだまだと思うておったところ、いま――そこに死んでおる武者どものぬかしたところによると、こやつら、岩《いわ》槻《つき》城《じよう》に物見に来た石《いし》田《だ》治《じ》部《ぶ》の兵らしい。岩槻はここから三里、忍城は十里、遠からんうちにこの一帯が修羅のちまたとなるは必《ひつ》定《じよう》。――」
「…………」
「北条方の忍者衆にこんなことを申してはいかがかと思うが、つらつら案ずるに、忍城ごとき小《こ》城《じろ》は、上方勢の大軍に攻めかかられれば二日ともつまい、そのとき、麻也姫さまはどうなるか。豊臣方の荒武者の餌食となりなさるは、これまた必定」
「…………」
「おなじことなら、その前に、こっちがヨツにカマりたい。いや、忍の城など、どうなろうとこっちの知ったことじゃないが、城が炎とならんうちに思いをとげて、早いところ逃げ出さなければ、こっちの命があぶない。――」
「…………」
「というと、お怒りか。何といっても、忍は北条方の城じゃからの。腹をたてて、おれたちを、あの恋さみだれの蜘《く》蛛《も》網《あみ》にかけて生血でも吸いなさるか。それとも七本の竹輪になさるか。――いや、この条件をきかれなければ、はじめからここで悪源太をぶち殺し、われら一同、いっせいにそこらの樹の枝に首をつってぶら下がろうと、いま相談したところで」
「――条件とは?」
と、お雁《かり》がかすれた声でまたいった。
「されば、いま申したこちらの目的さえとげれば、悪源太はたしかにお手前方にさしあげる。それまで待って下さるか。のみならず、その目的をとげるまで、おれたちに加勢して下さるか」
「それは」
「まこと、悪源太に御執心なら、きっと味方になって下さるはずじゃ。それに、わるいことはいわぬ。お手前方、風摩のお頭《かしら》からどのような御《ご》下《げ》知《ち》を受けてきていなさるか知らんが、忍《おし》の城は遠からず落ち、北条家そのものの運命もながくないぞ。おれたちとおなじ舟に乗った方が利口というものじゃ」
睾丸斎は、よほど覚悟し、よほど確信があるらしく、最初の低姿勢とはうって変って強気だ。
「不承知ならば、源太はここでぶち殺す。――源太、そこになおれ。弁慶、そこの丸太ン棒をふりかぶれ」
「あっ、お待ち下さいまし!」
こんどは、七人の女忍者があわててとめた。さすがに蒼ざめた顔を見合わせて、しばし息をのんでいる。――睾丸斎の条件に立腹しているのか、困惑しているのかと思ったら、やがてお鶴《つる》があえぐようにいった。
「……でも、源太どのが麻也姫さまと契《ちぎ》りなされたら……麻也姫さまがわたしたちとおなじことになる。わたしたちとおなじように、源太どのを犬のように追いまわさずにはいられないようになる」
ひよどりが、青い森のせいか、眼にぶきみな緑の灯をともしてにじり出した。
「源太どの、麻也姫さまを犯したいは、まこと恨みをはらすためじゃな。……そして、その思いさえとげたら……麻也姫さまをわたしたちがどうしても、きっと苦情はござりませぬな?」
ひよどりばかりではない、十四の美しい眼に兇《まが》々《まが》しい殺気がうかびあがっているのを見て、悪源太は吐気のようなものをおぼえ、
「そ、それじゃあ、おめえたち、忍《おし》城《じよう》を――北条家を裏切るか?」
と、うめくようにいった。
すると、お雉《き》子《じ》がうなだれて、思いがけないつぶやきをもらしたのである。
「北条家を裏切る。……そうではありませぬ。……わたしたちは、もはや北条家の忍者ではない。わたしたちはお頭《かしら》から、もはやうぬらは役にたたぬ。風摩組の掟《おきて》から解いてやる。どこへでもいって、好きなことをさらせ……と申しわたされたのでございます」
「何だと?」
陣虚兵衛が息をのんで女たちをながめ、やがていった。
「風摩組をお払い箱になったと? そ、それじゃあ、おめえ達はどうして忍城へ?」
「わたしたちはただ源太どのを追っかけて来ただけなのです。源太どのについて来ずにはいられないのです。お頭は、それを見ぬかれたのです。……わたしたちをこうしたのは、みんな源太どの。……こうなっては、もはや鬼となっても、源太どのをわたしたちのものにせずにはおきませぬ。そのためには……よろしゅうございます。あなた方のおっしゃることは、何でもききましょう」
「おい、麻也姫は、三人の恐ろしい風摩者に護られているぞ。きゃつらともたたかう気があるか?」
「事と次第では」
「勝てるか?」
「勝てますまい」
「な、何、そうあっさりといわれちゃこまる」
「いいえ、それよりも、お頭がわたしたちの肌にかかれた肌文字には――その三人にいそぎ小田原城にかえるように書いてあるのです」
七人の香具師は顔を見合せた。……まるで肩の力がぬけたようであった。
「そ、そいつをはやくいってくれりゃいいのに」
悪源太は睾丸斎の耳に口をあてていった。
「睾丸斎、さっき、おめえは、毒を以て毒を制する兵法をつかう、といったが、それなら……この女たちはもう要らねえじゃあねえか」
「しかし、この女たちをつれてゆかねば、あの三人の風摩組がひきあげねえ」
七人の女忍者は身支度をととのえ、颯《さつ》然《ぜん》と立ちあがった。
「それでは、いそいで忍《おし》へ参りましょう」
七匹の女《め》豹《ひよう》のようなその姿を見、また忍城に待つあの三人の風摩組のぶきみな姿を頭にえがき、悪源太は、どっちが毒だかわからないような気がした。
「さあ、はやく!」
女たちはさけんだ。
この声をきくと、悪源太は胴ぶるいをおぼえざるを得ない。やむを得ず、森をヒョロヒョロ歩き出したが、その足が鉛のように重いのは、風摩櫓以来の疲《ひ》労《ろう》困《こん》憊《ぱい》のせいばかりではなかった。
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忍術買わんか
真上から俯《ふ》瞰《かん》すると、豆《とう》腐《ふ》をいくつかに切って、巨大な水鉢に浮かべたようにみえる忍《おし》の城であった。
北に利根川、南に荒川――その二大河に挟まれた一帯は、いまや水田に満々と水をたたえ、しかも無数に池、沼、沢をちらばしている。のみならず、そのゆたかな水を利用して、城の周囲は幾重にも濠《ほり》をめぐらし、城の内部にもまた泉や池や流れが網の目のようだ。
その忍の城に、いま昆虫がいっぱいよりかたまっているように見える。濠《ほり》から濠へ、小舟にのせられ、わめく男、さけぶ女、泣く幼児たち。それらが陸《りく》続《ぞく》として城に運びこまれつつあるのであった。
「はい! はい! これがうちにある米ぜんぶでござります。どうぞ、お役にたてて下さりまし!」
「なんだ、たった三俵か。これじゃあ、役にたつどころか、こっちが食いつぶされてしまう」
具《ぐ》足《そく》をつけた城侍は、むずかしい表情をしたものの、
「まあよい。奥方さまの御《ご》下《げ》知《じ》じゃ。よいから、はやく乗れっ、次っ」
次には、背中に一人のあかん坊を背負い、両腕に四人の子供をぶらさげた女房が、
「お武家さま、いくさがはじまるというのは、ほんとうでござりますか」
「何を、いまごろとぼけたことを申しておる」
「いくさになったら、わたしも兵《ひよう》糧《ろう》作りに根かぎり精を出しまするで!」
「これはみんなおまえの子か。これだけ餓《が》鬼《き》がおっては、他人の兵糧作りどころか、他人がうぬの餓鬼の世話をせずばなるまい」
武者はウンザリした顔つきになったが、
「よい、ゆけっ」
と、槍で舟をさす。
五月の末とはいうものの、いまの暦でいえば六月下旬、もう真夏にちかい。続々と城に乗りこんでくる男女は、見るもいぶせき――というより、ほとんど裸にちかい姿であった。男は大半無智な百姓づらで、女も乳房だけは動物的に大きな百姓の女房、娘、それに老婆や子供の多いこと。――それがてんでに山のようなガラクタを必死にかついでやってきて、食糧をのぞいては大半濠端に捨てさせられ、泣く声、さけぶ声、わめく声――それらが蒼空と水に交響し、まるで空も水も燃えあがりそうな騒ぎであった。
「おどろいたな、これは――こいつらを、いったいどうしようってんだ」
「だから、城下のあちこちに立ってた高《こう》札《さつ》を見たろ、いよいよ西《さい》国《ごく》の大軍のおしよせてくるのが迫った。忍《おし》城《じよう》の大難は眼前にあり、成田家百年の恩義を思うやからは、侍《さむらい》 凡《ぼん》下《げ》をえらばず、老若男女をとわず、城の危急に馳せ参ぜよ――と書いてあった。だから、領民どもが籠《ろう》城《じよう》にやってきたんだ」
「それはわかってるがよ。それはつまり、この城は小人数だから、少しでも手伝いの人足を集めようってんだろう。ところが、見や、集ってきた連中を。――十人のうち、七人までが女か年寄りか、子供だぜ」
「これじゃあまったく、いくさの足しになるどころか、足手まといがふえるようなもんだ」
「といって、たとえ百姓どもがみんな集ってきたところで、五十歩百歩」
「たしか忍城攻めの石田勢は二万といったなあ」
「三日もったら、まず上出来というところだな」
濠をわたるいくつかの小舟の一つに乗りこんで、ヒソヒソ話しているのは七人の香具師であった。
どこから拾ったか、破れた菅《すげ》笠《がさ》をかぶっているが、これは炎天の烈《れつ》日《じつ》をさけるためで、べつに城にまぎれこむ変装のつもりではない。あの三人の風摩組がいる以上、とうていまぎれこむなどということはできないものと覚悟している。忍へちかづいたら、以上の通りの騒ぎの最中で、偶然それに便《びん》乗《じよう》する結果になったが、すでに敵軍の先《せん》鋒《ぽう》が八里の距離に出没しているというのに、この泥縄式の籠城準備といい、また外部からもぐりこもうとすればこの容易さといい、ひとごとながら城のゆくすえは、思いなかばにすぎるものがある。
むべなり、この城にいま城主|成《なり》田《た》左《さ》馬《まの》助《すけ》なく、護るはうら若い奥方――いや、処女妻の麻《ま》也《や》姫《ひめ》なのだ。蹄《ひづめ》の前の累《るい》卵《らん》といおうか。斧《おの》の下の豆腐といおうか。
「おい」
と、悪《あく》源《げん》太《た》がいった。やや元気を回復したらしい顔色であった。
「これじゃ、いくさのはじまる前に麻也姫をさらっちまった方が、こっちの都合ばかりじゃなく、麻也姫のためにも人助けかもしれねえ。が、どうだ、睾《こう》丸《がん》斎《さい》、石田はいつごろこの城にかかると思う」
むろん、城侍が竿をとり、監視しているから、笠を寄せてのささやきだ。
「やはり、順序として岩《いわ》槻《つき》の方が先だろう。岩槻の城は、太《おお》田《た》道《どう》灌《かん》が縄張りして、三《さん》楽《らく》斎《さい》が手入れをした城だ。いくらなんでも、半月はもつじゃろう」
「半月しかもたねえか」
「あれも城主の太田|源《げん》五《ご》郎《ろう》が小田原に呼ばれている。大将が留守なんだから、ひょっとしたら十日くらいのいのちかもしれねえ」
「十日、そいつはやけにいそがしいな」
天守閣の上で、麻也姫は下界の光景を見下ろしていた。城侍がひっきりなしにかけのぼってきては報告する。
城に集ってきた領民の七、八割は女か、しからずんば老幼かで、しかも携《たずさ》えた糧食はとぼしく、ものの役にもたたぬ家財道具のたぐいをかつぎこんでくること、城下の富《ふ》裕《ゆう》な町人や壮年者は、それぞれ金銀や米俵をつんで、大半逃亡しつつあること。――
「あの濠端で燃やしているのは、それらの道具類か」
と、麻也姫はきいた。
「左様でござりまする。ぼろや半欠けの鍋《なべ》など大事そうにかかえてきて、これを捨てさせるとまるできちがいのように嘆き悲しみおります」
「ふびんや」
と、麻也姫はうなずいた。
「彼らにとっては、それらのものにもそれぞれつきせぬ想いがあるのであろう。なるべくならば、そのまま持たせて入れてやりゃ。これからいっしょにいくさをしてもらわねばならぬものどもじゃ」
「とはいえ、ただいまも申しあげたように、集ってきたは女子供ばかりでござりまするが」
「女子供でも、使いようによっては役にたたぬとはいわれまい。旗をたて、貝を吹き、鼓《つづみ》を打てば、敵に大軍と思わせることもできよう」
まわりに侍《じ》した老臣や侍女たちの顔に憂色は深かったが、麻也姫ひとりは、天守閣の奥から照りかえす蒼空のひかりに、浮きあがるほど明るく、あどけなくさえ見えた。
入口ちかい階段の上に三つの岩のように坐っている三人の風摩組――累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》、戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》、御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》の顔には、憂色どころか、呆れかえって、憤怒嘲笑のひきつれさえ浮動していた。
彼らは、城主なき忍城を督《とく》戦《せん》すべく、小田原から派遣された目付役だ。彼らの常識によれば、若し守兵が不足というならば、領民中の壮者ばかりを狩り集める。女子供はすべて捨てる。領内の金銀糧食は根こそぎ城に入れさせる。これは剣を以てしてもそうせねばならぬ陣法なのだ。それがいくさというものだ。
しかるに、なんぞや。――高札の中に、いのち惜しきものは領外に去るも苦しからず、などとわざわざ要《い》らざる個《か》条《じよう》を書き入れさせる。女子供ばかり集めて、感傷的な涙をそそぐ。女子供でも使いようによっては、敵に大軍と思わせる? のんきにもほどがある。いくさごッこをしているのではない。いくさは、ままごとではない。じぶんから望んで、この春、伊豆の前線をめぐって、戦争の恐ろしさ、凄《すさま》じさはとくと見とどけてきたはずなのに、あの見《けん》聞《ぶん》はさっぱり身についておらんと見える。――
むろん、以上のことはズケズケと麻也姫にいったのだが、麻也姫はそらうそぶいて答えたのだ。
「この城のあるじはわたし、いくさの采《さい》配《はい》はわたしがします。黙っていや」
勝手にしろ、と三人はついに腹の底で舌うちした。一日でもながくこの城をもちこたえ、一人でも多く西軍を出血させるのが、小田原から受けてきた密命だが、このじゃじゃ馬《うま》姫《ひめ》はとうてい手におえない。容易に他人に見せるべからざる忍法の秘技をわざと見せつけて、相当おどしたつもりだが、麻也姫はとんと感じた様子もない。こんな女ははじめてだ。とにかく、こんなのうてんきの奥方と一《いち》蓮《れん》托《たく》生《しよう》、運命をともにするのはたくさんだ。城危うしと見たなら――彼らの見解によれば、三日ともちそうにないが――一刻も早く逐《ちく》電《てん》して、小田原へ帰参しよう、というのが、三人のうなずきあった思案であった。
そのとき、また城侍がひとり駆けのぼって来た。
「――き、来ましたっ」
「なに、て、敵か!」
と、累破蓮斎はがばと片膝をたてた。
「いえ、いつぞや城から追い出した七人の香具師めが」
「七人の香具師――きゃつらか!」
と、戸来刑四郎がさけんだ。
「な、なんたる図々しい奴らだ。では、きょうの領民城入りの混雑にまぎれて、忍び入ろうとしたのじゃな。見張りのものどもの眼はふし穴か」
御巫燐馬も怒号した。
「つまみ出すか、たたッ斬ってしまえ」
「それが――濠を渡ってくるまでは気がつきませなんだが、きゃつら、べつに人目を忍ぶ様子もなく、城門の前でそっくりかえって、忍術買わんか――と、申し入れております」
「きゃつらが、忍術を買わぬかというと?」
「されば、当城の奥方さまの切なる御依頼に従い、あれ以来小田原の風摩組に入って忍術を修行して参った。そのむね、奥方さまに御《ご》披《ひ》露《ろう》をねがう、と大《だい》音《おん》声《じよう》でどなります」
「――ば、ばかな!」
三人はぬっくと立ちあがった。
「途方もない奴ら、よし、おれたちがいって始末してくれる」
「待ちゃ」
と、麻也姫が声をかけた。
「ほう、わたしの頼みにより、風摩組に入って修行して来たと申したか? そういえば、わたしはたしかにそんなことを口にしたような気もする。それなら、無《む》下《げ》に追いかえしたり、こらしめたりすれば、こちらの落《おち》度《ど》となろう」
「あいや、奥方さま、きゃつらの申すことをまっとうにとりあげられるはばかばかしゅうござる。口から出まかせ、でたらめを申してひとを煙《けむ》にまくのは香具師の習い。――」
「しかし、この城にそなたらのおることは彼らも存じておるはず、まったくの偽りも申すまい。もし、まことに風摩組に入って修行してきたなら、そなたら立ち合って、いちど検《けん》分《ぶん》してやるがよい」
三人は黙って顔を見合わせた。ばかばかしい――というより、陰《いん》鬱《うつ》な怒りの顔色であった。
「……たとえ、小田原の風摩組に入ったのはまこととしても、忍法が左様に手軽に修行できるものではござらぬ」
と、累破蓮斎がうめくようにいうと、御巫燐馬が美しい歯を軋《きし》らせていった。
「では、おんまえで、きゃつらの面《めん》皮《ぴ》をはいでごらんに入れ申そうか」
「いえ、それほどりきむことはありませぬ」
といって、麻也姫は微笑した。童女めいたところもある美貌が、このときにかぎって恐るべき三人の忍者のおとなげなさをあやすような笑顔になって、
「そのものどもが、忍法の真《ま》似《ね》事《ごと》でもしたら、わたしはゆるしてやろうと思う。――手荒なことをしてはなりませぬぞ」
「……奥方さま、まさか、きゃつらをこの城にとどめるおつもりはござりますまいな」
「彼らが望むならば、それもよかろう。……もっとも、彼らのまことの望みは、わたしにもよくわからぬが」
「そ、それでござる。えたいのしれぬ奴らの、えたいのしれぬふるまい。いや、えたいの知れぬ奴どころか、人をだまし、ペテンにかけるが稼《か》業《ぎよう》の大道香具師、どうせろくな望みを抱いているわけがござらぬ。物好きな心でお近づけなされて、あとでほぞをかまれても及びませぬぞ」
「ふらちな所《しよ》業《ぎよう》に出るならば、成敗はそのときでよい。いまは、猫の手も借りたいこの城が間《ま》ものう大軍に押しつつまれるは、彼らとて知らぬはずはあるまい。それなのにヌケヌケと入ってくるとは――」
「馬鹿でござる。それだけで」
「はじめわたしも、胡《う》乱《ろん》な、うるさい奴らと思うていたが、また面白い、変った男ども、とも思えるようになった。彼らもまた使いようによっては、百姓よりはましな使い道があるかもしれぬ」
麻也姫は、注《ちゆう》進《しん》に来た武士たちにいった。
「そのものどもを、ここへつれて来や」
「こんにちは」
「その後は御無沙汰」
「おなつかしい」
「その節は、いろいろと」
「みなさん、お達《たつ》者《しや》で?」
天守閣にあらわれるや否や、七人の香具師はペラペラとしゃべりたてた。――その節はいろいろと、とはいったが、このまえのことはケロリと念頭から忘れはてたような、それこそのうてんきな顔を七つならべて、ニヤニヤした。
実をいうと、七人、気味がわるくて、騒々しくしゃべりたてずにはいられなかったのだ。乗り込むのが目的で乗りこんできたには相違ないが、黒ずんで、林立するふとい柱、灰色のしっくい塗《ぬり》籠《ごめ》の壁、陰気にいながれた老臣や侍女たち、なかんずく、黙ってじっとにらみつけている三人の風摩組。――おさえようとしても、背中のあたりにすっと水がながれるような思いがする。
「その方らも、達者でありましたか」
ただひとり、笑顔で迎えたのは麻也姫だ。七人は、まぶしそうな眼つきをした。
「ところで、おまえたち、わたしの言葉に従って、小田原の風摩組に入って、忍法を修行して来たと?」
「へ、へい! それはもう、あの節、いのちを助けられた御恩返しに、残ったいのちはないものと、死物狂い、屍《し》山《ざん》血《けつ》河《か》、血の汗ながし、火の涙こぼし――」
油紙に火のついたように、とろ盛がしゃべり出した。
「ほう、それでまたこの忍《おし》に来たは、この城に奉公する望みでもあってのことか」
「そ、そうでやんす」
と、七郎義経もひざをのり出し、
「艱《かん》難《なん》辛《しん》苦《く》の甲《か》斐《い》あって、いまやおれたちの忍術は天下無双、敵は幾万あろうとも、真《ま》っ向《こう》梨《なし》割り唐《から》竹《たけ》割り、胴《どう》斬《ぎ》り袈《け》裟《さ》斬り車斬り、奴《やつこ》豆《どう》腐《ふ》に千六本、ちょいとそこらの忍術使いなど、鼻《はな》毛《げ》のさきで、ベンベラボンのベンベラボンで……」
「言わせておけば――」
と、戸来刑四郎がいった。さすがに苦笑いしているが、眼だけはするどくひかって、
「香具師の能《のう》書《がき》はもうたくさんじゃ。まこと風摩の忍法を修行したと申すなら、何でもよい、ひとつその技《わざ》を奥方さまに披《ひ》露《ろう》してみろ」
「待ってました。お安い御用で」
と、悪源太がうなずいて、立ちあがった。あっけにとられるほどの気軽さで、天守閣のそばにスタスタと歩み寄る。
「では、クメの逆《ぎやく》仙《せん》術《じゆつ》を御覧に入れます」
「クメの……逆仙? そりゃなんだ」
「へい! その昔、久米の仙人とやらいうだらしのねえ仙人が空を飛《ひ》行《ぎよう》してるとき、下界で女が湯巻をまくってみせたら、まっさかさまにころがりおちたそうですね。その逆をゆく忍術で――」
「その逆をゆくと……どうなると申すのじゃ」
「この高い空で、おれが忍術をかけると、下界で女が裸になってひっくりかえりますんで」
「そんなたわけた忍法があるか」
「あるかないかは、買ったあとで御《ご》覧《ろう》じろ、さて、どれにしようかな、濠《ほり》をわたる舟のうち――女の乗っている舟はと」
三人の風摩組はもとより、麻也姫も、老臣や侍女たちも、濠を見下ろすいくつかの窓に寄った。
はるか下の水の上に、まだ無数の舟が米俵や領民たちを城へ運びつつある風景が見下ろされた。
「あ……あれにしよう。あの米俵をのせた舟、七、八人、笠をかぶって乗ってるが、きものの様子じゃ女らしい。ようく見ていておくんなせえよ。――」
悪源太は窓で厳粛な顔をして九字を切った。そして荘重な声で呪《じゆ》文《もん》をとなえた。
「ヤチモロジンバリペテポウアッタモン……助《ヤチ》平《モロ》好色漢《ジンバリ》馬《ペテ》鹿《ポウ》頓馬《アツタモン》……ヤチモロ・ジンバリ・ペテポウ・アッタモン!」
――すると、その舟で、何ともふしぎなことが起った。笠をかぶってはいるが、その下で身もだえすると、乗っていた七、八人がキリキリと廻り出し、みずからのきものをかなぐりすてはじめたのだ。あくまで明るい夏の太陽の下に、それはあきらかに白い女身であった。次の瞬間、その白い裸身は、まるで花弁のようにひるがえりつつ、四方八方、水にとび散った。
「――あっ」
と、麻也姫はつぶらな眼を、いっそうまるくした。
「どうしたのじゃ、女たちが水に飛びこんだ。……いや、じぶんで飛びこんだとはみえぬ。みんな舟から二、三間もとび散って……そのまま浮かんでこぬ。源太、あの女たち、死なせてはおまえもゆるさぬぞ」
「こやつ!」
御巫燐馬が、ふいに悪源太の胸ぐらをつかんだ。
「このイカサマ師めが。その手はくわぬぞ。うぬにあのような忍法の使える道理がない。――奥方さま、あざむかれなされますな。あの女たちはこやつらの一味にて、はじめからしめし合わせて、あのような真似をしたに相違ござらぬ」
「でも、燐馬。……女たちが浮かんでこぬではないか」
――数分たった。常人ならば、水に沈んだまま生きていられる時間ではない。……三人の風摩組の顔に、ようやく疑惑と狼《ろう》狽《ばい》の波がゆれたとき、
「あ……浮かんだ!」
と、麻也姫がさけんだ。
「七人……ならんで……うつ伏せになって」
みな、息をのんで見下ろしたままであった。蒼い濠の水に、七つの白い裸《ら》形《ぎよう》がきれいにならんでいる。
死んでいるなら、あんなにきれいにならぶはずはないが、生きているなら、うつ伏せになって、いつまでも漂《ただよ》っているのが奇怪千万だ。
「――お頭からのお手紙じゃ」
累破蓮斎がぎょっとしたようにうめいた。
「おお、肌文字の――」
と、戸来刑四郎もつぶやいたが、麻也姫をはじめほかの人間には、七人の女が水に浮かんでいるとしか見えず、彼らのいっている言葉の意味もわからない。
「われらに」
「ただちに」
「小田原へ帰れと仰せある」
「――それから?」
「…………」
三人の風摩組はふいに顔をあげ、麻也姫をちらと見たが、それからあとはしばらく沈黙した。が、すぐにわれにかえったように、
「あれは、お雁《かり》……お燕《えん》……お鶴《つる》……お鳶《とび》……お鷺《さぎ》……お雉《き》子《じ》……ひよどりではないか」
「はて、風摩組の女が……こやつらの偽忍法の片棒をかつぐとは?」
と、刑四郎と燐馬が、不《ふ》審《しん》にたえぬ顔をした。
「ということは、つまりおれたちも正真正銘の風摩組ってことで」
と、天守閣を吹き通る高い風の中で、悪源太はあごをなでていった。
「どうやら、お役目|交《こう》替《たい》のようでござんすね」
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交《チエ》 替《ンジ》
「なんと。――」
麻也姫は、三人の風摩組を見やって、
「風摩小太郎が、そなたたちに小田原にかえれ、と申してきたと?」
そういって、ニコリとした。
喜怒哀楽を顔に出す、或いは顔に出すことを押さえる、それが時と場合によることはふつうの人間と変らないが、田舎大名の姫君とはいえ、やはり何といってもそこは姫君、どことなく調子のちがったところがある。
ふつうの娘なら当然こわがるべきことに、ちっともこわがらない。いくさに対してもそうであったし、戸《へ》来《らい》や御《み》巫《かなぎ》の超人的忍法に対してもそうであった。かと思うと、戦火に逃げまどう百姓たちが後《ご》生《しよう》大事にかかえているガラクタにへんな同情をもったりする。そして、いま。――
三人の風摩組がこの城を去る、ときいて、ほんとにうれしそうな笑くぼをつくった。
この城及び姫の目《め》付《つけ》役《やく》としての任務をおびて派《は》遣《けん》されている三人だから、決して水《すい》魚《ぎよ》のごときあいだがらとは思わないが、それにしても或る期間は苦楽をともにしたのだから、お愛想にも名《な》残《ご》り惜しげな表情をしてみせてもよさそうに思う。それなのに、いかにも正直に、遠慮なく、ニコリとされて――三人は顔を見合わせた。
「奥方さま」
と、御巫燐馬が皮肉なうすら笑いをうかべて、
「われらが小田原にかえるのがうれしゅうござりまするか」
麻也姫さまは、これまた正直に狼狽した表情になって、
「いや、名残り惜しいが」
と、いったが、とってつけたようだ。
「しかし、風摩小太郎がそのように、そなたらに申してきたとすれば、やむを得まい。でも、そなたらがいなくても、城は麻也がしっかと護るゆえ案ずるな、と小太郎に――いいえ、小田原におわす左《さ》馬《まの》助《すけ》さまにお伝え申しあげておくれ」
じぶんたちが小田原へかえるまでも、この城がもつだろうか、という思いが、
「城をしかと護る――?」
と、同時につぶやいた三人の語尾に、われしらず嘲けりにちかいひびきを引かせた。
首領小太郎のよこした肌文字には、忍の落城は必至なり、もはや捨て殺しにするよりせんかたなし、なんじらは即刻引き揚げて小田原に帰陣せよ、とあったのだ。忍城がいつまでも保てるものでないことは、最初から覚悟していたことではあったが、それでも一日でもながくもちこたえさせるのが、じぶんたちの任務であったはずなのに、わざわざ首領がそういってきたところをみると、よほど落城が急に迫ったという確実な見通しがついたからにちがいない。その上、じぶんたちがこの城から去っては、いよいよこちらからつっかい棒をはずすようなものだ。
まさか、首領の肌文字の内容をあからさまに麻也姫に告げるわけにはゆかないが、あまりにケロリとこの城を護って見せるといわれると、三人は笑止千万といった感じにならざるを得ない。
「奥方さまは、われらが小田原へかえるをよろこんでおいでなさるようでござるが」
と、戸来刑四郎がまたいいかけると、
「左様」
麻也姫は、こんどは狼狽の表情もみせず、いよいよヌケヌケとうなずいた。
「そなたらがわたしを案じてくれる気持は重《じゆう》々《じゆう》わかるが、しかし、いくさというものは、その号令が一《いつ》途《と》に出なければ、兵は惑《まど》うばかりであろう。なまじはたから口出しするもののない方が、わたしにとってはやり易いように思う。わたしも太《おお》田《た》三《さん》楽《らく》斎《さい》の孫、成田左馬助の妻、いくさのしかたには少々のおぼえもあれば、覚悟もある。そなたら安心して、小田原へ帰りゃ」
――ぬかしたり、としかいいようがない。
「お頭《かしら》のお指《さし》図《ず》ゆえ、申されるまでもなくわれら小田原へかえるよりほかはござるまいが」
と、戸来刑四郎は嘲《あざ》笑《わら》うようにいった。
「しかし、この城にあって、奥方さまの御軍配、ちと拝見いたしたくも存ずる」
「いや、どうぞ御心配なく」
そばからしゃしゃり出て、脳天から出るような声を出したのは夜狩りのとろ盛だ。
「あとは、わたしどもがたしかにひき受けましたから、大船に乗ったような気持でどうかお帰りを」
この三人組に残られちゃあたいへんだ、とあわてていい出したことだが、
「何を申す」
三人は苦笑した。この連中に護られていたら、城の落ちるのが早くなるだろう。
「これ、うぬら、ここ十日か二十日のうち、この城が敵の大軍にとりかこまれることは、とくと覚悟しておろうな」
と、累破蓮斎は片腹痛さにたえかねて、念をおした。
七人の香具師の顔に、動揺の色があらわれた。――実は彼らは、そうなるまえに本願をとげてこの城にあばよをきめこむつもりだから、敵の大軍など知ったことではないのだが、そんな下《した》心《ごころ》があるから、かえってケロリとしていては怪しまれるだろうと考えて、わざと不安げな表情をしてみせたのだ。
そうれ見ろ、と思うと同時に、三人の風摩組は心中に、いや、これ以上おどしてはならん、と考えた。
じぶんたちの代りに、このすッ頓狂な即製忍者を首領がよこした気がしれないが、ともかくそれは事実なのだ。これこそ小田原の方で、忍城を見すてた証拠だと思う。ただじぶんたちを引き揚げさせてはその真意が露骨すぎるので、代りに捨て石としてこのやくざな連中をよこしたに相違ない。――といって、小田原がこの忍城の陥落を望んでいる理由はあり得ず、どうせ陥落するとしても一日でもながくもつことを望んでいるには違いなかろうから、いまあまりに麻也姫やこの連中をおどしすぎるのは利口ではない、と判断した。
「いや、こわがるな」
逆に、すこし活を入れておかねばならん、と累破蓮斎は決心した。それに、どういう頭の構造になっているのかまだじぶんたちの力をはっきり意識していないらしい麻也姫に、ここでもひとつ風摩の精鋭の凄じさを見せつけておきたい、去った自分たちを、去らすには惜しい味方であった、と思わせたい、という衝動もあった。
「おれたちが去っても、おれたちはこの城におるぞ。おれはいつまでも、見張っておる」
うす笑いして立ちあがると、うしろの壁に三|間《げん》ひととび、ぱっとはねずさった。
天守閣の白壁の前にすっくと立った累破蓮斎は、両《りよう》掌《て》で壁をなでた。――まるで左官が壁をぬるように、掌《てのひら》を鏝《こて》として、しかも稲妻のような速さで上から下へ壁をなでまわしたのである。
「……あ!」
七人の香具師は、思わずみんなひざを浮かせた。
その壁に、もうひとりの累破蓮斎がクッキリと浮かび出したからである。壁に向った破蓮斎に相対し、その破蓮斎はこちらをむいていた。
「……鏡だ」
と、馬左衛門がさけんだ。
累破蓮斎は壁を鏡にかえた。硝子《 ガ ラ ス》に銀をぬると鏡になるように、彼は掌で壁をなでて、その部分を鏡としたのである。
破蓮斎は横に走った。その掌が、どうしたのか、べットリと銀光にぬれているように見えたが、はっきりとはたしかめられない。彼はその掌を壁に横にひき、またベタベタとたたいてまわったからだ。彼は掌から何かを分《ぶん》泌《ぴつ》するらしい。いかなる物質を分泌するかしらないが、ともかくその個所はキラとひかり出してすべて鏡となった。
「忍びの水月。――」
破蓮斎はさけんだ。
身をひるがえして、林《りん》立《りつ》する柱をなでる、鎧《よろい》櫃《びつ》をたたく、長持になすりつける。手のふれるところ、ことごとく鏡と化する。――天守閣の中は、みるみる大小無数の鏡の破片《 か け ら》をちりばめたようになった。
「…………」
もはや、麻也姫も息をのんで見まもっているばかりだ。
おどろくのはまだ早かった。その大小無数の鏡は乱舞する累破蓮斎の影をことごとく映《うつ》しているのだ。本人の位置からして、映るべからざる距離、角度の鏡にも、彼の姿を映している。
累破蓮斎は、つむじ風のごとく駆けめぐる。まさに乱舞している。同時に、いまや数十人となった大きな破蓮斎、小さな破蓮斎も乱舞し、駆けめぐる。
「や……や!」
と、七人の香具師は眼《め》を見張って、キョロキョロした。
その無数の破蓮斎が、いっせいに鏡の中から忽《こつ》然《ねん》ととび出して来た――ように見えたのだ。それはあたかも、偏光眼鏡《ポラロイド・グラス》をかけて立体映画を見たときと同様の感覚であったろう。――錯覚はすぐに消えたが、しかしその刹《せつ》那《な》、こんどは本物の破蓮斎もふっとどこかに消滅してしまった。まるで彼の本体がその鏡の一つに没入して、まぎれこんでしまったかのようであった。
「破蓮斎、おい、破蓮斎」
と、御巫燐馬が呼んだ。
「もうよかろう。――お燕《えん》たちがやってきたようじゃ」
と、戸来刑四郎もいう。
みんな、ふりむいた。天守閣の階段の上り口から、城侍に導《みちび》かれた七人の女があらわれた。城侍が、首をかしげながらいった。
「奥方さま、この女《によ》性《しよう》たち、やはり小田原の風摩組の衆と申したてておりまするが」
「お頭のお文《ふみ》は見た」
と、累破蓮斎の声がきこえた。
はっとわれにかえってふりかえると、一本の柱のまえに、破蓮斎が立っている。――ひとりだけだ。それまでの無数の破蓮斎はぬぐったように消えて、ただ、壁や柱や鎧櫃に、まるで巨大ななめくじが這ったあとのように、白っぽく乾いた粘体が残っているばかりであった。
「御下知は承わったが――さて、よくのみこめぬところもある」
と、破蓮斎は歩き出して、七人の女の前に立ち、
「そなたら、先刻、このペテン師どもの片棒をかついで、おれたちにいたずらをしかけおったが、ありゃどういう所存だ」
「このお方たちに頼まれてしたことでございます」
と、お雁《かり》がいった。御巫燐馬がののしった。
「たわけめ、女とはいえ、風摩組でもお頭秘蔵のそなたらが」
「わたしどもは、そのお頭からおいとまを戴きました」
「なんだと?」
「この肌文字は、やがて消えまする。それとともに、わたしどもは風摩組からまったく離れ、好きなように生きてゆけ、とお頭から申しわたされたのでございます」
三人は顔を見合わせた。
あの首領がそんなことをいったとは信じられないが、かといってこの七人の女がじぶんたちにうそをいうとも思われないから、いよいよわからない。――さっき、濠《ほり》に七花八裂して肌文字を見せた七人の女が、このお燕たちであると知ったとき、さては首領がじぶんたちと交替を命じたのは、この香具師どもではなくて七人の女であったか、とチラと頭をかすめたことであったが、そうでないとすると、いったいお頭は何をかんがえているのか?
「……あれだけの肌文字ではよくわからぬ」
「お頭にきかねば」
「こりゃ、いよいよ以て一刻もはやく小田原に帰参せねば」
あらためて浮き足立つ三人組をふりかえりもせず、七人の女は七人の香具師の方を見た。
「悪源太どの、このお城へ御奉公はかないましたか」
「うん、あ。……」
と、悪源太は、麻也姫さまの方を上眼づかいにうかがって、
「ど、どうやら、ね」
と、口の中でニョゴニョゴといった。
「それでは」
「わたしたちも」
「あなた方と御一緒に」
「これから、このお城に御奉公させて戴きまする」
「みなさま、よろしく」
と、七人の女はよくひかる眼で麻也姫とその侍臣や侍女たちをながめて、あらためてひれ伏したが、その口上といい、眼つきといい、いままでの三人組とおっつかっつの押しつけがましいところがある。
それよりも、その七人の女がじぶんを見たときの眼に、何ともいえない毒々しい兇念といったひかりを認めて、麻也姫が何かいおうとしたとき、どどっとまた階段を駆けのぼってくる跫《あし》音《おと》がきこえた。
「一大事でござる。上方勢がついに岩槻城に押し寄せたそうにござりまする。その総勢は二万とか、三万とか。――」
「ひえっ、上方勢が。――」
と、奇声を発したのは七人の香具師の方だ。
浦和ちかくで石田の物見の兵に逢ったのがおとといのことだ。だから、岩槻城が攻撃を受けるのはまもなくのことだとは見ていたが、それにしてもこれほど早いとは思わなかった。が、奇声を発したのは岩槻城の運命を思いやったからではなく、つづいて襲来すべきこの城の修《しゆ》羅《ら》に想到したからであった。
「なに、岩槻の城に」
麻也姫もさすがに愕然としていた。
「……ついに、来おったか」
歯をくいしばって宙を見つめた顔からは血の気がひいて、白蝋のようだ。
そうれ見ろ、と三人の風摩組は心中にまたせせら笑った。いくさのしかたにおぼえもあれば覚悟もある、などと高慢なことをいった口の下から、八里の距離に敵軍が迫ったときくと、たちまち顔色を失ってちぢみあがりおる。
「では、われらはそろそろおいとましようか」
冷然と戸来刑四郎がいったとき、麻也姫は家来たちの方をふりむいてさけんだ。
「いって見よう」
「どこへ?」
「岩槻へ」
老臣たちは仰天した。
「奥方さま、それは」
お血迷いなされたか、とはいわなかったが、そういったにひとしい眼であり、語気であった。
「奥方さま、岩槻のお城は奥方さまのお里、お心はようわかりまするが、しかし手《て》勢《ぜい》をひきいてこれを救いに参るには、当城はあまりに手薄。――」
「この城は護ってこそ坂《ばん》東《どう》の名城なり、かまえて野戦はすなとは、殿がお立ちのとき、よくよく仰せられたことではござりませぬか」
「恐れて申すのではござらぬ。どうせ、岩槻のあとには攻めかかられるこの忍《おし》城《じよう》、それまで、何とぞ御辛抱を――」
ひきとめる手を、麻也姫はふりはらった。
「手勢をひきいて救いにゆくというのではない。大事な大事な忍の侍を犬死させてなるものか。わたしひとりでゆこうといっているのじゃ」
「えっ、奥方さま、おひとりで。――」
「あの城は、この城とおなじくあるじがおらぬ。お祖《じ》父《い》さまは常陸《 ひ た ち》へ去られ、兄上は小田原にお召しになっておる。……城は落ちよう。それゆえ、せめてわたしひとり、その滅んでゆく姿を見とどけてやろうというまでじゃ」
声に名状しがたい哀切のひびきがあり、人々がはっと胸をうたれたとき、麻也姫は身をひるがえして、トトと階段を駆けおりていった。
ながい裲《かい》襠《どり》の裾《すそ》をひきながら、なんという小鳥のような身の軽さだろう。一瞬の自失ののち、まず七人の香具師がいっせいに起《た》ち、つづいて七人の女忍者が起って追いかけたときは、階段のどこにもその姿が見えないほどであった。
「……おい、思いもかけねえ、城に入ったとたんに時節が到来したじゃあねえか」
「ひとりで岩槻へゆくといったな」
「追っかけていって、ひっさらう」
「それから、どうする」
「ヨツにカマる」
誰の声かわからない。のどぼとけが吊りあがったような声だ。
「それから?」
みんな、しんとした。それから、どうしていいかわからない。城へかえすわけにゆかないのは無論のことだが、まさか……まさか……殺《あや》めるわけにもゆくまい。天守閣の下のあたりを、ウロウロしていた七人は、ふいにたけりたった全身の血が、すうと冷えるような思いがした。
「なあに、源太のあとをくっついてゆくさ」
と、つぶやいたのは陣虚兵衛だ。例によって精気のない、ふわっとした声であったが、そのつぶやきが、七人におなじ夢を見させた。
白雲の下を、あの姫君といっしょに幾山河を漂泊しているじぶんたちの夢を。――七人は五本の指だから、源太にくっついてゆくということは、七人全部にくっついてゆくということだ。
いままで漂泊すなわち人生で、漂泊にあまりロマンチシズムなど感じたことのない彼らの胸を、はじめて彩《いろ》どった甘美な夢であった。
同時に七人は、じぶんたちの夢の色合いをおたがいに見ぬかれることを恥じた。
「犬のようにな」
と、歯をむき出したのは悪源太だ。
「ところで、あの女《ナオ》、天守閣から駆けおりたまま、どこへいった?」
と、まわりを見まわしたのは弁慶だ。
「あまり、手間がかかると、ワンサと家来どもがくっついてゆくぞ。家来たちが百人もくっついてゆけば、いくらなんでもこっちはお手あげじゃ」
と、いったのは睾丸斎だ。
「――や、来たっ」
と、七人はさけんだ。
天守閣のすぐ裏手の方から、麻也姫が現われた。騎馬姿だ。鎧こそつけてはいないが、さっきの裲《かい》襠《どり》をかなぐりすてて、鷹狩りにゆく男のような衣裳をつけている。まだ家来たちが、天守閣の最上層から駆け下りてくるに至らない早さであった。
「……悪源太どの」
悪源太は、ぞっとした。天守閣の入口から、七人の女が走り出してきた。
「待っていたときが、はや来たではありませんか」
「奥方を追ってゆかれるおつもりでしょう」
「おゆきなさい」
「お手伝いします」
「けれど、御約束通り」
「望みをとげられたら」
「あの姫君はわたしたちにおまかせ下さいますね?」
夏の太陽の下に、七つの美しい唇から赤い炎がたちのぼるように見えたのは、決して天守閣を駆け下りてきたせいばかりではない。ちらと向うの騎馬姿をふりかえった眼にも、女豹のような兇《まが》々《まが》しい炎がもえている。
ただ一騎、麻也姫は鞭《むち》をあげて馬を走らせてきた。
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風楼に満つ
七人の香具師は顔を見合わせた。
風摩の女忍者にハッパをかけられるまでもない。城に入ったのっけから、願ってもない好機到来と、はやりにはやっていたところだが、いま女忍者にむきつけにケシかけられて――いっせいに、苦汁をのんだような顔をした。
なぜ不愉快になったのか、じぶんでもわからないが、とにかく猛烈な反撥をおぼえて、
――よすか?
――よした!
一瞬に、眼と眼で談《だん》合《ごう》が成立したのは、以心伝心だ。
「そんなつもりはねえ」
と、悪源太がいった。七人の女は、当然、なじる眼つきになった。なぜ?
「いま、やるのは軍略上まずいよ。どうせ、あとから城《しろ》 侍《ざむらい》たちが追っかけてくる」
と、昼《ひる》寝《ね》睾《こう》丸《がん》斎《さい》も、もっともらしくくびをふる。
「これから籠城か落城か、そのドサクサにまぎれてやった方がうまくゆく。籠城が何日間か、落城が何日後か、どっちにしてもそれほどながくはねえ」
その言葉も終らないうちに、弁《べん》慶《けい》以下の五人が駆け出し、ついで悪源太も睾丸斎も女忍者をしり目に、馬を走らせてきた麻《ま》也《や》姫《ひめ》の方へ駆け出した。
「奥方さま。……お待ち下さいまし!」
と、弁慶が強《ごう》力《りき》で馬の轡《くつわ》をつかんだ。
「何をしやる」
「いま、一騎駆けにて城外においでなさるは、ムチャクチャというものでござります。まるで、火事の中へとびこむ小鳥も同然で。――」
「忍《おし》の家来でないものが、何を申す。そこはなしゃ」
「いや、奥方さまは、おれたちが忍術を修行して来たら家来にしてやると仰せられました。その約束を御《ご》変《へん》改《がい》とはお情けない」
そんな約束はしたおぼえはないが、弁慶はのみこみ顔で、
「おれたちはもはや奥方さまの家来でござる。奉公したてに、いま御主人に死なれては、せっかくありついた口から食いはぐれます。南無阿弥陀仏」
ねじり鉢巻をした大入道のみならず、七人の香具師の手がニョロニョロと出て、轡や鐙《あぶみ》や、はては狩《かり》装《しよう》束《ぞく》の足にまでとりついてくるのに、麻也姫はあせり、顔を紅潮させた。
「下郎、どけ!」
ぴしいっ、と鞭《むち》がうなって、ななめに悪源太の顔にとんだ。
「わっ」
悪源太は片手で顔をおさえたが、しがみついた麻也姫の足から、もう一方の手を離さなかった。
「死んでも離さねえ!」
鞭で打ってから、麻也姫ははっとしたように悪源太を見下ろした。顔をおさえた源太の指のあいだから、うすく血の色がにじんでくるのが見えた。
「……源太、ゆるしゃ」
と、麻也姫はいった。
ぞくっと、妙なおののきが源太の背をかけのぼった。――麻也姫よりさきに、ほかの六人の香具師も、源太に鞭がふり下ろされた刹那、ぎょっとしていた。彼の怒りっぽいのは知れているし、そもそも姫に土足で顔を踏まれたことがすべてのはじまりなのだから、いままた鞭で打たれて、源太が何をするかわからない、という怖れにとらえられたのは当然だ。
ところが源太は、腹をたてなかった。痛くもなかった。ふしぎなことに、麻也姫の馬にしがみついて、馬の尻ッぺたみたいになぐられたことに、一種異様の快感をおぼえたのだ。ふしぎなことに?――そうではない。香具師という商売は目的のためには――すなわち、ひとをペテンにひっかけるためには、馬《ペテ》鹿《ポウ》になり頓馬《アツタモン》になり、ぶんなぐられるくらいは日《にち》常《じよう》茶《さ》飯《はん》事《じ》だ。
それだ、それだ、と自分のおかしな心理を自分で解きながら、その自分のお芝居にいよいよ馬力をかけるつもりで、
「奥方さま、源太の眼の黒いうちは、この馬やりませぬ」
と、シオカラ声をふりしぼった。
それをにらみ下ろしている麻也姫の瞳から、無念の涙があふれはじめた。
「みながわたしをとめる心は無理もないが……岩《いわ》槻《つき》の城はわたしが生まれ、わたしが育った城、その石垣の石ひとつ、濠の水草ひともとにも、わたしにはなつかしい想い出がある。その城が炎となって消えてゆくのを、わたしは見たいのじゃ。ひとり、弔《とむら》ってやりたいのじゃ。……」
鞭を指にはさんだままの両《りよう》掌《て》を顔にあて、馬上で泣きじゃくる麻也姫の姿は、一国の城主の奥方というより、だだッ子みたいに見えた。
「いや、そのお気持はわかりますが、奥方さま、あなたさまはもう岩槻のお城のお方ではござりません。この忍《おし》の城の大事なお方でござります」
鞍にしがみついた夜《よ》狩《が》りのとろ盛《もり》ものどをしぼる。鬼神をも哭《な》かす声とはこの声だと、じぶんでも感心しながら、
「奥方さま。……小田原にある殿さまのことをお考え下され」
「殿。――」
麻也姫は雷《らい》に打たれたように硬《こう》直《ちよく》した。
「いかにも、小田原の殿さまは、この城に奥方さまが留守番していなさるかぎりは大丈夫と、心を安くして上方の大軍とたたかっておられるのでござりまするぞ」
とろ盛の頭を、小田原にいる成《なり》田《た》左《さ》馬《まの》助《すけ》の卑《ひ》屈《くつ》な姿がちらとかすめたが、舌のはずみはとまらない。それに亭主という一言は、たしかにこの相手に効いたようだ。
「それを、お里《さと》とはいえ、よその城が落ちるとてとり乱され、ひとりこの城をとび出して犬死されたとおききなされば、殿さまはどれほどおなげきなさるか、そこをよっくお考えあそばせ……」
途中で、指を口にもっていって、眼に唾《つば》をつけようと思ったが、われながら、哀音切々として、うまい具合に天然の涙が出てきたので、そんな必要がなかった。
麻也姫はじぶんの馬にとりついた七人の香具師を見まわして、唇をわななかせた。まさに忠臣|苦《く》諫《かん》の群像図である。
「ああ!」
うなずいた涙の眼に、慚《ざん》愧《き》と感動の色があった。
「わたしが悪かった。ほんとうに、殿よりお城をゆだねられながら、女の浅《あさ》薄《はか》さ、思わずとり乱して、恥ずかしや。……死んでも、あの世で殿に合せる顔もないところを、ようとめてくれた」
彼女は素《す》直《なお》に鞭をすてた。――それから、ぬれた頬に片えくぼを彫った。
「そなたら、麻也は見そこなっておったぞ、人は見かけによらぬもの、そなたらがこれほど思慮あるものどもとはゆめにも思わなんだ。麻也は、あやまります。そして、これからも、麻也に至らぬことがあったときは、このように叱ってくりゃ。たのみます。……」
「奥方さま、一騎駆けはおよしなされたか?」
うしろで、声がかかった。累《かさね》、戸《へ》来《らい》、御《み》巫《かなぎ》の三人が、馬にのってちかづいてきた。
「どうあってもおゆきあそばすとあれば、やむを得ぬ。ほうってもおけぬゆえ、最後の御奉公にわれら三人、お供するつもりでござったが」
「やめた」
麻也姫はふりかえって、悲愁のうちにも仄《ほの》明《あか》るさをみせた笑顔で、
「そなたらも、命拾いしてうれしかろ」
三人の風摩組のせりふをきいて、七人の香具師は、麻也姫といっしょに城外にとび出さなくてよかった、こんなのについてこられたらたいへんだ――と、あらためて胸をなで下ろしたが、麻也姫に笑われて、風摩組にちょっとうろたえた表情が走ったのをみると、どこまで本気で三人がいったのか、知れたものではない。
が、すぐに、この奥方とは所《しよ》詮《せん》ウマが合わぬ、ということを三人は、もはや露骨にみせて恬《てん》然《ぜん》たる表情にもどり、
「仰せのごとく、みすみす犬死とわかっておる死にざまはいたしとうござらぬ。おやめなされたとは、おたがいに重《ちよう》 畳《じよう》至極」
「では、そろそろおいとまつかまつろうか」
と、三人はうなずき合って、七人の女忍者のまえまで馬を歩ませてくると、
「おい、そなたらも、小田原へ帰ろう」
と、声をかけた。
いままであっけにとられたように麻也姫と香具師とのあいだのなりゆきを眺めていた女忍者たちは、はっとわれにかえると、顔をあからめて、首をふった。
「いいえ、わたしたちは一応、風摩の手をはなれました」
「先刻も申したように、これから、この香具師の衆とともに、このお城に御奉公いたします」
三人は、けげんな顔をした。
「それはきいたが……そなたら、いったいどうしたのじゃ?」
「乱心したとしか思えぬ」
「いまも見たように、敵が隣の城に攻めかかったとて、のぼせあがって、血迷うて、ひとりフラフラととび出そうとなさるようなお方を主とする城。……ながくはないぞ」
馬上から首をつき出し、小声だが、麻也姫や香具師たちにはよくきこえた。
「おい、悪いことはいわぬから、早くゆこう」
「ゆけ、ゆけ、みんないっちまえ」
と、悪源太が、歯をむき出してさけんだ。彼にしてみれば、三匹の虎にゆかれても、七匹の狼に残られてはかなわないから、これは必死の本《ほん》音《ね》だ。
三人の風摩組と七人の女忍者は、じろっと凄い眼でこちらを見たが――うごき出したのは、三匹の虎の方だけである。七匹の女《おんな》 狼《おおかみ》の方は寂《じやく》としてそこにうずくまったままだ。
「いや、女とは、どれもこれも、わけのわからぬもの。――」
「ふふん、あの頓《とん》狂《きよう》な奴らと、女に護られたこの城が、敵の大軍に攻められて何日もつか。――」
「一日か、二日か、三日か、小田原へ帰ったら賭《かけ》をしようではないか。あははははは」
累破蓮斎と戸来刑四郎と、御巫燐馬は、ぶきみな高笑いをかわしながら、馬を大手門の方へ走らせ去った。
天守閣から、ほかの家来が駆け下りてきて、そこに間のぬけた顔を見せはじめたのは、やっとそのときであった。
五月十九日、岩槻城外に殺到した上方勢は、二十日未明から総攻撃にとりかかりその日のうちに外《そと》廓《ぐるわ》を占領した。内廓に追いこめられた城兵は、ついに衆寡敵せずと見て、笠を竿につけて城頭にかかげ、降伏の意をあらわした。二十二日のことである。
道《どう》灌《かん》が縄張りして、三楽斎が手入れをした城だ。半月はもつだろうと思うが、大将が留守だから、ひょっとしたら十日くらいのいのちかもしれない――と、昼寝睾丸斎は見込みをつけたが、なんとわずか三日の支えでしかなかった。
ついでに、忍城周辺の、この前後までに陥落した北条方の支城のたたかいぶりをいうと。
上州の松《まつ》井《い》田《だ》城《じよう》が、三月半ばから四月半ばまで、約一ト月。
武州|鉢《はち》形《がた》城《じよう》が、五月半ばから六月半ばまで約一ト月。
これなどはよくたたかった方で、豊臣軍が武蔵の中心部に侵入してくると、その攻撃ぶりはいよいよ急を加える。
八王子城、川越城、松山城、館《たて》林《ばやし》城などは、わずか一日か、二日、甚だしきは敵の大軍に包囲されただけで、一戦もまじえず降伏したものもある。その大半は城主が小田原の本城に召集されていて、留守部隊が護っていたのだが、してみると、城主をていのいい人質にして、家来の敢闘を望んだ北条方の作戦はまんまとはずれたといってよかろう。奇策だけに、いったんはずれると、全てが崩れるのも早い。
――さて、そのまっただなかにある忍の城の運命やいかに。
忍の城は、武蔵野の大平原中にある平《ひら》城《じろ》であって、城以外に小高いものといえば、東方に、海抜わずか三十五メートルの丸墓山という山があるだけである。
東に大手門、西に搦《からめ》手《て》があり、本丸、二ノ丸、三ノ丸、その内外の廓《くるわ》に十二の城門がある。城下町は外廓の内にあり、外廓の門は、長野口、北谷口、皿尾口、持田口、下《しも》忍《おし》口《ぐち》、大宮口、佐間口と七つあり、外廓の周《しゆう》回《かい》は二里半あった。
忍というのは、城と侍屋敷のあった地名であって、城下町は行《ぎよう》田《だ》といった。現在は市全体を行《ぎよう》田《だ》市《し》といっている。
これが関東七名城の一つといわれたのは、城そのものより、城をめぐる一帯が、利根川、荒川、濠、池、沼、それに見わたすかぎりの水田で、大軍の進退が自由にならぬからであった。
とはいえ、この忍の城がこれほどの大軍に囲まれたことは、城の歴史の上ではじめてであったろう。――岩槻の城の落ちた翌日には、もう寄《よせ》手《て》の先駆が遠く城外にその鉄騎の姿をあらわしはじめた。とみるうちに、豊臣軍は陸続とその数を加えて、二、三日のうちに四囲の地平線は黒みわたるばかりになった。
雲母《 き ら ら》のごとくひかる積乱雲の下に、法《ほ》螺《ら》貝《がい》が呼びかわし、旗《はた》差《さし》物《もの》がはためきわたる。その貝の声にも旗の音にも、常勝軍の驕《おご》ったひびきがある。主将は秀吉の懐《ふところ》 刀《がたな》といわれる石田治部少輔三成で、その麾《き》下《か》二万に、降伏した諸兵を加えて、二万六千の大軍となっていた。
これに対して、小さな忍《おし》の城の空に――負けじとばかり、あらんかぎりの旗をこぞってひるがえしているが、そのにぎやかなのが、かえって可笑しく、可《か》憐《れん》ですらあった。
「――ふむ、岩槻の末路は見たばかりであろうに、命知らずのものども」
と、三成は冷笑したが、やや意外でもあったらしく、
「しかし、思いのほかに多勢をとりこめたの」
と、首をひねった。
さすがの三成も、その旗の下の城兵の老幼男女の区別までは知らなかった。「忍《おし》城《じよう》戦《せん》記《き》」によると、守兵あわせて三千七百四十人とはいうものの、このうち十五歳以下の子供が約三分の一の千百十三人。残り二千六百二十七人のうち、大半は百姓、町人、寺法師、女で、侍といえば、おどろくなかれたった七十九人、足軽が四百二十人であったといわれる。
戦闘用のこの侍と足軽あわせて五百人、寄手の二万六千はもとより千軍万馬の武者ばかりだから、実に一対五十二という古今未曾有のいくさである。
そして、城に城主なく、この指揮をとるものは、実に窈《よう》窕《ちよう》、山《やま》百《ゆ》合《り》のごとき人妻、否、美少女といってしかるべき麻也姫であった。
「……あなたがた、何をしているのです」
「何をかんがえているのですか」
うしろで、七人の女忍者がいった。
それでも七人の香具師は、白い日盛りの中にボンヤリ立って、すぐ下の庭にひろがる光景にみとれている。
いまだけではない。きょうだけではない。――三人の風摩組が去ったあの日から、この城内にくりひろげられた光景であった。美しく作られた庭に大がかりな池を掘り、濠を通し、抜穴をうがつ。――その荒仕事をやっているのは、女と子供ばかりなのだ。城にたて籠った人間の大半が女ばかりのうえ、侍や足軽や男たちはすべて外廓の防備についているので、これは麻也姫の命じたことであった。いや、もとは麻也姫のいい出したことだが、いまは女子供すべてが、われもわれもと働きはじめたことであった。
もういちど、同じことを、鋭い声できかれて、
「呆れているのよ」
と、悪源太がいった。
「いまさら?」
「だって、よくかんがえて見や」
と、睾丸斎も呆れた声を出した。
「こんなところに、どうして池や濠を作るのか。――水にかこまれたこの城だから思いついたことだろうが、それにしても麻也姫さまのお心をかんがえると、そら恐ろしい」
「何が?」
「奥方はここでいくさをやるつもりだ。つまり敵が外廓からこの城の奥ふかくまで雪《な》崩《だ》れこんでくるようなときが来ても、最後の最後まで、死物狂いのいくさをやってのけるつもりらしいぞ」
「……その最後の最後まで、あなた方はここでポカンと立って見物しているおつもりですか」
と、お燕《えん》が皮肉にいえば、お雁《かり》がイライラしたように、
「だから、あの日に、麻也姫さまを城外につれ出してしまえば、それで何もかも片づいたのに」
「そしてわたしたちといっしょに、いまごろは浮き浮きと愉《たの》しい旅をしているはずなのに」
ひよどりが、もえるような眼つきをすると、お鳶《とび》はもう悪源太の方へ白い腕を蛇みたいにさしのばして、
「悪源太さま、いつまで待てとおっしゃるのですか。わたしたちは、もう――」
と、あえぐような声を出した。
「姫をヨツにカマってからという約束だ!」
悪源太はあわててとびのいて、悲鳴にちかいさけびをあげた。お雉《き》子《じ》は眼をひからせて、
「そのお気持なら、いつでもわたしたちがお手伝いするといっているではありませんか」
「だって、姫はいつもあの女たちといっしょに働いている。夜も、あのむさくるしい百姓の女たちや、ギャンギャン泣きわめく餓《が》鬼《き》たちと、いっしょに小屋で寝る。――」
「あんな女たちなど。――」
「とはいうが、あの女たち、いまは奥方を、神さまみてえにあがめてるぜ。最初のうちは蒼くなって、城の外に耳をすましてはキョトキョトしていた女たちが、そのうち、奥方が、小田原をお護りなされておる殿さまに笑われてはならぬ、みごと女たちだけで、この城を護りぬいてみせよう、といったら、みんなのぼせあがった眼つきをして、両腕を天につきあげて、オタケビさえあげるようになったじゃあねえか。めったに奥方に妙なまねをしてみろ、寄ってたかって食い殺されちまわあ」
必死に弁解していると、石垣のかげから、土を盛ったモッコをかついだふたりの女が、ぬっとあらわれた。
「おめえさまがた、さっきからこんなところにつっ立って、何をしていなさる」
どちらも男をひしぐ大女だ。百姓の女房だろう、サンバラ髪を赤《しやく》銅《どう》色《いろ》の肩にちらして、汗にひかる牛みたいな乳房がなかったら、とっさに女とは見わけがつかないだろう。
「あ、おれたちゃ、見るとおり、この旗差物を立ててる役目だ」
「この場所に旗差物を立てているのも仕事のうちだと――麻也姫さまのお申しつけだ」
七人は、あわてていった。いかにも七人は、長い長い竿を立てて、その尖端には、成田家の定《じよう》紋《もん》、丸《まる》に蔦《つた》をえがいた七流の旗が夏風にひるがえっていた。
「いや、男の衆じゃあねえ、その女衆だ」
「女子がみな汗水ながして、あの通り働いているのに、何をしていくさる」
百姓女は、七人の女忍者の方にむきなおった。むろん、彼女たちが忍者とは知る道理がない。
「みんな、腹をたててこっちを見てるのがわからねえか」
「鍬《くわ》や天《てん》秤《びん》棒《ぼう》でブチ殺されたくなかったら、いっしょに精出すがよかんべ、はやくこっちへ来う。――」
鬼瓦みたいな顔でどなりつけられて、七人の女忍者はどぎもをぬかれた様子で、とっさにいいかえす言葉もない。べつにその百姓女の形《ぎよう》相《そう》が恐ろしかったわけではあるまいが、道理はたしかに向うにある。それを真っ向から吹きつけられて、七人の女忍者はキリキリ舞いをしてとんでいってしまった。
「ざまあ――」
ニヤニヤしてあとを見送った七人の香具師は、これまた頭ごなしにどやしつけられた。
「おめえさまがたも、いくさを前に眼じりを下げて、デレデレふざけてると、みせしめにブチ殺してくれべえぞ」
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笄 陣
「――ほほっ」
モッコをかついだふたりの百姓女のうしろ姿を見送って、とろ盛が章《た》魚《こ》みたいな口をした。
「デレデレしてると、天秤棒でブチ殺すっていいやがった。まったくだ、あれじゃ弁《べん》慶《けい》だってブチ殺されるかもしれねえ」
「な、南《な》無《む》阿《あ》弥《み》陀《だ》仏《ぶつ》」
「風摩の女忍者もカタナシだ。キリキリ舞いして、すッとんでいっちまいやがった。あの大女と太《た》刀《ち》討《う》ちできるものはというと、馬《うま》左《ざ》衛《え》門《もん》」
と、陣《じん》虚《きよ》兵《へ》衛《え》が力のないうす笑いをうかべて、
「おめえのヨシコだけかもしれん。あれに見《けん》参《ざん》させたら、あいつらも、ほほっと腰をぬかすに相違ねえ」
ゲラゲラと笑う仲間たちの中に、馬左衛門だけ真剣な表情で、
「あの百姓女なら……おれに合うじゃろうか?」
と、いった。
みなが黙りこんでいると、馬左衛門は絶望的な顔になり、且《かつ》大不平の色をみせて、
「睾《こう》丸《がん》斎《さい》、だいぶ話がちがうぞ」
「あん?」
「おめえは、この城に入ったら、城じゅうに淫風を吹かせ、麻《ま》也《や》姫《ひめ》さまもトロトロフラフラにしてしまう、といった。おりゃ、それをタノシミにして来たんだが」
「それじゃ、こないだ麻也姫の一騎駆けをとめなきゃよかった、とてめえはいうのか?」
と、悪源太がかみつくようにいった。
「いや、あのときは、おれも一生懸命とめた方だが」
馬左衛門は悪源太の険《けん》悪《あく》な顔にヘドモドして、
「あれとは別に、その後城内の雲ゆきが、あんまり淫風とはほど遠いから、つい――」
と、頭をかいた。
「まったく、おめえのいうとおりだ」
と、昼寝睾丸斎も素直にあたまをかいて、
「あの女たちを見てると……淫風どころじゃねえな」
と、眼下にくりひろげられた何十人かの女たちの働いている光景を見わたした。
炎天の下に、鍬をふるっている者、モッコを運んでいる者、大八車を曳いている者。……暑いので、肌ぬぎになっている女も多い。
その白い肌に汗がキラキラとひかっている。そして、いたるところ濠《ほり》が掘られ、池がかたちづくられてゆく。――
――このとき作られた濠を、のちに笄《こうがい》 堀《ぼり》といったが、べつに笄で掘ったからではなく、女人の掘った濠だからそう呼んだのである。
「……あの女《ナオ》めら、ほんとに二万六千の上《かみ》方《がた》勢《ぜい》とやる気だな」
あらためて、悪源太がまたうなった。
何十人という半裸の女を見て、淫風を感ずるどころか、彼らの心にどよめきたってくるのは、名状しがたい一種の感動だ。いや、感動を通り過ぎて、肌は粟《あわ》だち、身の毛もよだつ。
「知らぬがほとけ。……いくさを知らねえってことあ、恐ろしい。――」
「岩槻の城が三日、岩槻よりもまだ小さいこの城は、まず二日か」
「いや、二日もったら大したものよ。いったん敵が攻めかかったら、あの女たちは――」
彼らのあたまを、いつか見た箱根の山《やま》中《なか》砦《とりで》落城の際の、炎と凌《りよう》辱《じよく》と殺《さつ》戮《りく》の惨澹たる光景がかすめすぎる。
実は、のんきな顔をしているが、彼らは混乱していた。いったいじぶんたちがどうしていいのか、何をするつもりなのか、じぶんたちでもよくわからないのだ。
やがて、敵の猛攻撃ははじまるだろう。むろん、こっちはいくさをする気などはないから、そのまえに三十六計逃げ出さなきゃならんのだが、それまでに本願をとげなきゃならん。すなわち麻也姫を犯すか、さらわなければならん。――それが、できるか、できないかという問題よりも、こう落着いてはいられないんだ、という焦燥よりも、彼らをいまとらえているのは、戦慄を伴った感動であった。この女ども、ほんとにいくさをするつもりか?
好奇心もあった。それから、事態の恐るべきことははっきりわかっているのに、なぜか、この女たちを見捨てて逃げたくない、逃げられない、という自縛の感情もあった。
「まず、狙いは落城のドサクサまぎれ、じゃな」
と、睾丸斎が自他ともに弁解するようにつぶやいた。
しかし、そのときを待つにしても、果して落城のドサクサまぎれに思いをとげられるか、思いをとげたとしても、じぶんたちが逃げられるか。――経験はあるが、むろん全幅的な自信はない。
「ま、なるようになれだ。何とかなるじゃろ」
「馬左、そのときまで辛抱しろやい」
「明日《あした》は明日の風が吹く。――」
と、七本の旗を背負わされた七人の香具師が口々にそらうそぶいたとき、もっと高いどこかの櫓《やぐら》の上でさけぶ声がきこえた。
「奥方っ……奥方さま……旗が来てござる。ただ一騎、使者、使者っ……とわめきつつ大手門外へ駆け参ってござる!」
天正十八年五月二十七日、やや日がかたむきはじめた時刻であった。
大手門外ちかくの二《に》重《じゆう》櫓《やぐら》の白壁に、一本の矢がつき立った。
まだ羽根をふるわせているその矢に結びつけられている白い紙片を受け取って、黙読した麻也姫の面に薄い微笑がのぼって、
「鉄砲」
と、ふりかえった。
彼女は、本丸から馬を飛ばして来て、その櫓に駆けのぼって来たところで、顔は紅《べに》を刷《は》いて匂いたつようであった。そのあとにくっついて本丸からすっとんで来た者は、七人の香具師だけだ。
二重櫓の狭《はざ》間《ま》からのぞくと、大手門外の広場に、面《めん》頬《ぽお》をつけた武者が一騎、大きく輪乗りをしながら、こちらをふりあおいでいる。――たとえ、うしろに二万六千の味方をひかえているとはいえ、ここまで一騎で乗りこんでくるとは、なかなか豪の者に相違ない。
「……矢《や》文《ぶみ》でげすな」
と、睾丸斎がきいた。
「奥方さま、何と書いてありましたんで?」
「降参しろといって来おった。降参するならいまのうち、槍に笠を結んで、この狭間から振れと。――」
麻也の鉄砲の火縄はすぐにくすぼりはじめていた。彼女は鉄砲を肩にあてた。
「ど、どうなさる?」
「だから、返事をする」
轟然と銃は発射され、門外の武者がもんどりうって落馬する光景がみえた。大地に虫のようにまろくなってしまった武者をのこし、馬は遠く狂奔していった。
一対五十二というムチャクチャな攻城戦の、文字通り火ぶたが切って落されたのである。
二万六千の攻撃軍は、天地をどよもす雄たけびをあげて、ただひともみと襲いかかった。
――これまでの北条方の各支城を攻め落した経験から、それはただ一撃と思われた。その日の暮れるまでにも片がつく、と寄手の誰しもが信じて疑わなかったのだ。
ところが、どっこい!
思いもかけぬことが起った。結果は惨《さん》澹《たん》たるものだったのである。
忍《おし》城《じよう》の周囲二里半、そこにつらねられた七つの門、むろん、門だけあるのではない、いわゆるこれは外《そと》廓《ぐるわ》で、小規模ながら、むろん石《せき》塁《るい》もあり、櫓《やぐら》もある。ござんなれ、とばかり、そこから射ち出した鉄砲と矢は、寄手を完全に火と血の網《あみ》目《め》にくるんでしまった。
それは、それらの門の配置が巧妙をきわめていたせいもあるが、もうひとつ理由がある。
忍の周囲は、ただいちめんに河と沼と、そして水《すい》田《でん》であった。そのあいだを走る道は、いずれも細く、少くとも大軍の往来をゆるさなかった。上方勢は、ただやみくもに海嘯《 つ な み》のように殺到するわけにはゆかなかった。矢弾はその道の要所要所に、ピタリと照準をすえてあったのだ。ほとんど死角がないように。
道に屍体がつみ重なると、馬は通わなくなり、焦った武者群は両側の水田に散開しようとした。すると、馬はもとより、乗手まで沈むほどの深《ふか》田《だ》であった。
それを標的みたいに狙い撃ちしながら、忍城の侍たちは、いまにして麻也姫が最後の土壇場まで悠々閑々として百姓たちに耕作させていた意味を知った。
兵乱ちかづく、と知って、よその城では早くから籠城準備にかかり、城下の壮年者を狩り集め、ために領内の百姓たちで、逃《とう》竄《ざん》する者が多く、田畑は荒れていたが、この忍城ではまぎわまで百姓を狩り集めることもなく、いとも悠長に城の女などが寺詣りする風景もみられたので、領民たちも何となく、平生の通り、耕作に精を出していたのである。……ちょうど田植えの季節であった。耕す者がなく田が荒れかわいているのと、田植えのために満々と水を張ってあるのとでは、事態がまったく異る。水田は、いまや忍城をめぐる広大な濠と化していた。
「一大事でござる!」
外《そと》廓《ぐるわ》、七つの門々を叱咤すべく、緋《ひ》縅《おどし》に身を鎧い、黒髪を吹きなびかせて白馬を飛ばせていた麻也姫のまえに、南の方から二、三人の足軽がまろび飛んで来た。
戦線を馳《ち》駆《く》する麻也姫が天馬のように早いので、はるかうしろを追っかけているのは、七本の旗をなびかせた七人の香具師と、七人の女忍者だけだ。彼らはそれでも鉢巻をして、腹巻に脛《すね》当《あて》という雑兵姿であった。
「佐間門が破られましたっ」
「何、佐間門が?」
「ほとんど門外で射ち殺しましたなれど、ひとり恐ろしく強い武者あって、これに従う十人ばかりが一団となり、佐間口を踏みにじって、黒《くろ》旋風《つむじ》のごとく進んで参りまする!」
「南無三、蟻《あり》の一穴」
追いついてきた香具師たちが、これだけの問答を耳にしたとき、麻也姫は味方を呼ぶためにひきかえすどころか、そのまま馬をおどらせて、佐間口の方へはせむかった。
「――それゆけっ」
「わっしょ」
何が何だかよくわからないが、とにかく先刻からのいくさの展開が、思いもかけぬ局面をみせ、いたるところ面白いほど敵の屍《しかばね》の山をつんでゆくので、ひとごとながら意気大いにあがっていた七人の香具師は、韋《い》駄《だ》天《てん》のごとくそのあとを追っかけた。
外廓の内側もまた池、沼、水田だ。その中のひとすじ道を駆けてゆくと、佐間口から一町ばかり入ったところで、凄《すさま》じい死闘がくりひろげられていた。
その一団がその個所だけで砂塵と水煙をあげて、むこうにつながる軍勢のないところを見ると、佐間口は突破されたものの、あとはみごとに遮断して、この敵を内部にとりこめ、佐間口の守兵の一部が、やらじと必死に追撃してきたものとみえる。その十数人の守兵を相手にあばれているくろがねの塊《かたまり》のような敵の武者は、ただ一騎だけであることがすでにわかった。
事実、あとでわかったところによると、その武者の従兵たちは最初十人ばかりいたが、そのときまでにことごとく討死していたのである。しかし、ただ一騎となったその武者の何たる強さか。
馬上から陣刀の乱撃するところ、鮮血とともに生首が飛ぶ。生腕が飛ぶ。
「――あっ、奥方さまっ」
「おいであそばすな、おひきなされ!」
「おひきなされっ」
その絶叫をきくと、武者は鞍《くら》から昇天せんばかりの姿になって、
「やあ、それなるは成田どのの御《み》台《だい》か。おう、武者姿をしておわすとはけなげなり、おれは石田|治《じ》部《ぶ》少輔にさる者ありときこえた島《しま》左《さ》近《こん》勝《かつ》猛《たけ》、見参っ」
吼《ほ》えると、豪刀一旋、そこに血と脳《のう》漿《しよう》の霧を作って、その中から颶《ぐ》風《ふう》のようにこちらに突撃して来た。
――島左近といえば。
「三成に過ぎたるものが二あり
島の左近に佐和山の城」
という落首が、当時あった。――それほどの石田家|名《な》代《だい》の豪傑だ。
そのころ石田三成は秀吉の懐刀といわれ、権勢こそ赫《かつ》々《かく》たるものがあったが、知《ち》行《ぎよう》はまだそれほどでなく四万石にすぎなかったが、彼はそのうちの一万五千石をさいてこの島左近を召抱えたといわれる。三成が一個の人物であることを示すとともに、島左近もまた世の常ならぬ勇将であったことを証する挿話であろう。
その知《ち》遇《ぐう》にこたえて、左近はのちに三成がいかに大身となっても一万五千石以上の禄を受けず、後年関ケ原に於ては崩れかかる西軍の中にあって奮戦死闘、音にきこえた黒田隊、加藤隊をつき崩し、一時はさしもの家康に爪をかませるばかりの働きをみせたが、たたかいついに敗れるにおよんでや、乱軍の中を一騎駆けぬけついにその行方を知らずという。――
そんな豪傑とは夢にも知らなかったが――いま、麻也姫めがけて躍りかかってきた鉄甲騎馬の荒武者は、七人の香具師の眼にも、まるで摩《ま》利《り》支《し》天《てん》でも見るようなもの凄じさであった。
「島左近か。相手にとって不足なし」
それに対して、何たる無謀、なんらの遅疑もみせず、麻也姫も陣刀をぬきはらって、颯《さつ》然《ぜん》とこれに駆けむかおうとする。
「わあっ」
いったん逃げ腰になった七人の香具師が、ひっ裂けるようなわめきをあげてとびあがったが、時すでに遅く、二頭の馬は泡をかんで激突しようとした。彼らはそこに、真《しん》紅《く》の血の虹が奔《ほん》騰《とう》するのを見たように思った。
一瞬、二頭の馬は竿立ちになった。真紅の虹は、燃える落日の光であった。竿立ちになった二頭の馬の前肢に、黒い鎖がからみついている。それは左右の水田にひとすじずつのびていた。
「?」
七人すらわが眼を疑ったくらいだから、両騎士にとっては、まったく思いがけぬことであったろう。
ふたりは、もんどりうって、路上にほうり出された。
最初にはね起きたのは、島左近の方であった。なんのために落馬したのか、見るにいとまなく、陣刀ひっさげて猛然と立ちあがる。――そのくろがねの姿に、また左右から、ぴゅっと飛んだものがある。
一方から二本、もう一方から三本。――五条のながい鉄の鎖であった。それは左右の水田に立った七つの影から放たれた。
七つの影から、五条の鎖、あとの二条を前肢にからませたまま、二頭の馬は前後に狂ったように駆け去った。
「……やっ?」
香具師たちは眼を見ひらいた。いつの間に水田に入っていたのか、それが七人の女忍者だと気がついたのは、数分のあとだ。そのときは、全身泥の化《ばけ》物《もの》みたいな姿に、ただ息をのみ、眼をまろくして、それを凝視した。
……島左近のくび、両腕、胴、右足に、五本の鎖は放射状に巻きついて、ひろがっていた。その鎖の蜘《く》蛛《も》の網《あみ》にかかったためか、それともさすがに動《どう》顛《てん》したのか、左近は路上に仁王立ちになったままだ。
「……それ、香具師の衆!」
「はやく、奥方を!」
水田の声に、七人ははっとわれにかえると、たおれている麻也姫に殺到した。いや、悪源太のごときは、旗をひっちぎった旗竿を頭上にふりかぶって突進した。
「野郎!」
竿は流星のごとく、左近の顔めがけてとんだ。
島左近は、鎖のついたままの左手をあげて、それをふせいだ。かん、と籠《こ》手《て》にあたる音がして、竿は地におちたが、彼の満面は、骨でも折れたようなゆがみをみせた。
「……ううむ!」
うめいて、全身をひとゆすりすると、五本の鎖はいちどに女忍者の手からはなれた。
しかし、島左近はそのまま身をひるがえして、もときた佐間口の方へ疾駆しはじめた。五本の鎖をひきずったまま。……
恐ろしい怪力ではあるが、さすがの彼も、ついにかなわじと退却のほぞをかためたのであろう。――そうなると、七人の香具師は急に勢いづいて、
「やあ、汚ないぞ」
「逃げるな、待ちやがれ、甲《かぶと》虫《むし》」
追っかけようとすると、呼びとめられた。
「お待ちなされ」
「相手は、音にきこえた島左近」
「命のあったのがみつけものです」
左右の水田から、七人の女忍者が上ってきた。泥まみれの両掌から、ポトポトとしたたる赤いものに、「おや?」と眼をむけると、
「いま、鎖をもぎとられたときに」
「あまりの剛力に、不覚にも掌《てのひら》を破りました」
と、お鶴《つる》とお雉《き》子《じ》が、苦笑の白い歯を見せた。それから、地上に眼をやって、
「……それにしても、島左近に立ちむかうとは、こわさしらずにもほどがある」
あきれかえったように、舌うちをした。
夕焼けの路上に、麻也姫は失神していた。たしかに失神しているが、赤い光に、まるでいまの豪敵の首をみごと刎《は》ねたような笑いを刻《きざ》んだ顔であった。
あらためて、あわてて抱きあげようとする七人の香具師に、
「時が来ました」
と、お燕がいった。義経が、けげんな顔で、
「何のときが」
「この奥方のおいのちが救いたくて、わたしたちがあのような真似をしたとは思わないでしょう」
「へっ? じゃあ、なんで?」
「奥方さまが討死なされば、あなたたちの本願がとげられませぬ。あなたたちの望みがかなわなければ、わたしたちの願いもかないませぬ。奥方さまをめでたく犯しなされたら、源太どのがわたしたちを抱いて下さるという約束です。その約束をはたしていただくために、わたしたちは、あのようなことをしたのです」
「さあ、はやく奥方さまの鎧をとって、思いをとげなされ!」
七人の女の眼が、落日を受けて、泥の中で赤くひかった。七人の香具師は、その眼に射すくめられ、それから失神している麻也姫をながめて、
「ま、待ってくれ、いくらなんでも、こんなところじゃあ」
「き、気分が出ねえよ」
女忍者は厳《げん》然《ぜん》として叱りつけた。
「いくさの中です。ぜいたくをいってはなりませぬ」
「どうしても、ここではいやだと申されるなら、それではあそこの樹立ちの中へ参りましょう」
「弁慶どの、奥方を背負いなされ」
「あそこの樹立ちもいやだと申されるなら、わたしたちがかついで、この城の外へ出ます」
「あなたたちは、そのあとを追って来て下さい」
そういって、七人の女が麻也姫のまわりにかがみこんだとき、その輪の中で、夢みるような声がきこえた。
「まあ、きれい。……ここは、浄《じよう》土《ど》?」
ぽっかりと眼をあけて、炎をながしたような夕焼けの大空をながめている麻也姫であった。――陣虚兵衛が、ふわっとした声でいった。
「浄土どころか、ここは修《しゆ》羅《ら》の忍城」
「あっ……、わたしは、どうしたのだろう」
麻也姫は、はね起きた。
「し、島左近は?」
「どうやら、逃げましてござる。――佐間口の方へ」
そのとき、本丸の方から十数騎、狂気のように城兵が駆けてきた。先刻の佐間口からの伝令の注進をきいて、驚愕してはせつけてきたものに相違ない。
「逃げた? 討ちもらして残念な……」
麻也姫はいい気なつぶやきをもらしたが、すぐに、
「おお、しかし敵はまたはげしく攻めかかってくるにちがいない」
落胆と怒りにめらめらと燃える七人の女忍者の眼など全然気がつかず、麻也姫は遠い城外のときの声に耳をすましていたが、やがてこくりとうなずいて、奇妙なことをいった。
「香具師」
「へい」
「これより本丸に駆けもどって、あらんかぎりの女子供に、あらんかぎりの木の葉を集めよと申しわたしゃ」
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忍の浮城
上《かみ》方《がた》勢《ぜい》がふたたび猛攻撃をかけたのは、その翌日のことであった。
そしてこの日は、佐間口とは反対側の皿《さら》尾《お》口《ぐち》が破られた。きのう島左近に破られてから、城側は反射的に佐間口の防備に力をこめていたらしく、反対側の皿尾口は、きのうとはうって変ってやすやすと、寄手の乱入をゆるしてしまったのである。
「一番、一番っ」
「忍《おし》の外《そと》廓《ぐるわ》、皿尾口一番乗りは紺《こん》屋《や》瀬《せ》兵《べ》衛《え》ぞっ」
顔じゅうを口にしてわめきながら雪崩れこんだ一隊は、それでも城外が例の濠《ほり》と沼と水田だから、いちどには攻め入れず、まず数十人であったろうか。しかし彼らは、そこを守っていた城兵が、さらに人数が少ないことを知った。
「いまだ、いまだっ」
「ここは手《て》薄《うす》だ。いまのうちだっ」
「敵にひと息つかすな、押せ押せっ」
たちまち、そこから数百数千の驕兵が奔入する。
外廓の中にも水田や沼がある、ということは、きのういちど佐間口を突破してひきあげた島左近の報告できいていたが、この皿尾口にそれはないことはすぐにわかった。
いちめん、ただ青草の平原だ。そのなかを、敗れた城兵は、蜘《く》蛛《も》の子を散らすように逃げこんでゆく。
さはさせじ、とそれを追う黒い炎のような上方勢は、しかし百歩にして収拾のつかない混乱におちいった。大地も崩れる思い、とはこのことであろう、彼らの足下は、まさに陥没した。
その一帯は、ただいちめんの青野原にみえた。事実城兵は、その上を縦横無尽に逃げてゆく。それなのに、寄手は青草の中にふしまろび、沈み、もがき出したのである。草の下は沼であり、池であり、そして深い泥田であった。その沼と池と泥田の上に、みわたすかぎり、青い草と木の葉が、すきまもなく撒《ま》いてあったのだ。
その前夜――一夜のうちに、麻也姫が城の女《おんな》童《わらべ》を総動員してやらせた仕事がこれであった。一見子供だましのようなこの兵法に、寄手は見事にひっかかった。いや、子供だましとはいうが、信じられない程大がかりな仕事である。
とみるや、いったん逃げた城兵は、いたるところに立ちどまって、いっせいに狙い撃ちしはじめた。彼らは軽がると地上に立っている。寄手には見分けもつかないが、城兵には勝手の知れた畦《あぜ》の上であった。
それを激怒して追おうとしては落ち、狼狽して逃げようとしては落ち、かくて追いも逃げもならぬ泥の中、水の上を火線が交《こう》錯《さく》し、血と泥と木の葉をこねくりかえした。人間を殺《さつ》戮《りく》するようではない。まるで鮒《ふな》かどじょうを退治しているようなものだ。――いや、げんに、
「このうなぎ武者め」
「ばかたれ、もぐっても、尻が見えるわ」
と、畦に立って、槍でないヤスで突きまくっている少年の姿、女だてらに掛矢をふるっている百姓女の姿も少なからず見えるが、泥の中をもがきまわるのみの武者たちは、まったく無抵抗に尻を突かれ、脳天をたたきつぶされた。
皿尾門から入ったばかりの寄手が、仰天して、雪崩《なだれ》をうって潰走したあと、その門にはふたたび成田の定紋、丸に蔦《つた》の旗がへんぽんとひるがえった。
閉じこめられた外廓の中で、なお一大虐殺はつづいている。全滅した上方勢は二千を下らなかったろう。
「なに、みなごろしになったと?」
忍城の東、丸《まる》墓《はか》山《やま》の本陣にあった石田|治《じ》部《ぶの》少輔《しよう》は、どじょうの化物みたいになってはせかえってきた伝騎の凶報に愕然として床《しよう》几《ぎ》を立ちあがった。ほんの先刻、味方が皿尾口を破って攻めこんだという報告をきいて、してやったり、と膝をたたいたその笑いがまだ消えないうちのことだから、とっさには信じられないほどであった。
「たわけ。いちど乗っ取りながら、あれしきの小城からみすみす追い出されることやある。えい! ひくな、ひいた奴は首を刎ねろと伝えろ。千、二千、いかほど討死しようと、そのままひともみに押しつぶせ」
と、怒号した。
「殿」
と、傍に坐っていた島左近が声をかけた。彼は、前日くだかれた左腕の手くびを、白布でくびに吊っていた。
「拙者のみるところでは、忍城に立てこもるは多くて四千を出ませぬ。しかるに皿尾口のみから入った味方が、それほど多勢討たれたとは、敵に容易ならぬ謀計があると見えまする」
首をかたむけて、ニヤリと笑った。
「守るはたしか、成田左馬助の女房、拙者のみたところでも二《は》十《た》歳《ち》になるやならず、うら若い美女でござったが……なかなか、やりますな」
「左近、敵に感服しておるときではない。女の守る城を攻めて敗れたとあっては、石田の名折れじゃ。いかなる犠牲を払おうと、即刻攻め落さねば、三成の面目がたたぬ」
「あいや、お待ち下され」
左近は、うごく右手をあげた。
「もとより孤立無援の忍城、いずれ落ちるに相違ござらぬ」
「いずれではこまる」
「殿、焦《せ》かれまするな。こうなっては、落ちつきが肝心でござりまする」
「左近、そちらしくないことを申すな。きのう、辛《から》い目にあって怯《おく》れたか」
島左近の眼が、ぎらっとひかったが、しかしすぐにもちまえの重厚な顔色にもどって、
「殿らしくないのは、殿の方でござる。おかんがえ下され、この城、たとえ落ちずとも、いくさの大局になんの変りもありませぬ。いかなる犠牲を払っても落さねばならぬ城ではござらぬ」
「左近、何を申す」
「むろん、豊《とよ》臣《とみ》の威武にかけても落さねばなりませぬ。しかし、あまりに犠牲が多くては、攻め落したとて何にもなりませぬ。そこのかねあいがむずかしい。女の守るこの小城、それを取るのに五千、一万と兵を殺しては、あれ見よ、石田のいくさ下《べ》手《た》、と徳川どのをはじめ、いくさ自慢の諸将連の笑いを受けるは必定」
三成は、はっとしていた。
まさに左近のいう通りだ。三成の頭をこのときかすめたのは、石垣山の本陣を出るときに「――それだけの寄手をもち、大将が才人治部少輔であれば、まず心配はあるまい。よくなされ、家康、たのしんで吉報を待っておる」と声をかけた狸のように皮肉な笑顔であった。
「いや、余人の誹《そし》りはともあれ、殿下から、おほめはおろか、お叱りを受けられましょうぞ」
三成は、黙りこんで、宙をにらんでいる。
いかにも、これは大事ないくさだ。たんに北条家を征服するかどうかという問題ではない。将来長く、おれの鼎《かなえ》の軽重を問われるいくさだ。――三成は生来の冷静と聡明をとりもどした。彼の鋭い頭は、いそがしく回転した。
「左近、参れ」
と、彼はつかつかと本陣から歩み出した。
「殿、どこへ?」
「丸墓山の上へ」
「何となさる」
「忍を水攻めにする思案を練《ね》ろう」
兵の犠牲を極力おさえて、城をとる。――その法|如何《いかん》。
このとき三成の脳裡に浮かんだのは、大師匠秀吉の得意の戦法であったろう。
八年前の天正十年、秀吉の中国陣に於ける高松城の水攻めを、三成は秀吉の近侍石田佐吉として、まざまざとその眼で見ている。このとき秀吉は、城の西北から東南にかけて、基脚十二|間《けん》、頂上六間の巨大な堤を二十六町にわたって築きあげて川を堰《せ》きとめ、高松城を百八十八町歩の一大湖中に没せしめたのだ。ために高松城は、みすみす毛利の援軍を眼前に見ながら一ト月を経ずして降伏したのである。
いま三成が、はたとひざをたたいたのは、むろんこのみごとな先例を思い出したからばかりではない。忍城をめぐる豊かな水は、攻撃にとりかかるや否や、いやというほど思い知らされていたことであり、且《かつ》忍城が平野に孤立する平《ひら》城《じろ》であったからだ。
「――水に守られた城を、水で逆攻めとする。敵もおどろくだろう。高松の場合とちがって援軍はない。それどころか、この平野一帯を海とかえたら、それだけで敵は気死してしまうに相違ない。――それに、おれが水攻めをしたときかれたら、殿下も、治部め、やりおったわ、と破顔なさるであろうぞ」
小高い丸墓山に上って、三成は渺《びよう》茫《ぼう》たる武蔵野の中に、ぽつねんと立って、旗をなびかせている小さな城と、北方をながれる大利根、南方をながれる荒川の地形を見わたして、杖で地に絵図をえがきはじめた。
この丸墓山を基点とし、南へ、埼玉村、樋上村、堤根村、袋村に至り、そこで西北に折れて、鎌塚村、門井村、棚田村、太井村、戸出村、平戸村をすぎて熊谷付近で荒川に至る。一方、丸墓山から北へ、長野村、小見村、白川戸村を通って、利根川に至る。
「左近、この道のりはいかほどあろうな」
「まず、三里半はござろうか」
「よし、この通りに堤を築け」
左近は三成をあおいで、ちょっとあきれた眼をした。これは高松城の場合の五倍ちかい大がかりなものだ。
「その武蔵野の海の中へ、忍城を沈めてくれよう」
「おびただしい人足が要りまするが。おそらく数万」
「費《ついえ》をいとわず、武蔵、上《こう》野《ずけ》、下《しも》野《つけ》、下《しも》総《うさ》一帯の百姓どもを狩り集めろ」
左近は微笑した。じぶんのえらんだ眼に狂いはなく、この主人がなかなかの大器であることに満足したのだ。
まるで万里の長城でも築くような勢いで、築堤工事がはじまった。
このとき狩り集めた人足の日当を「忍城戦記」には、「昼は一人米一升、永楽銭六十匁、夜はおなじく米一升、永楽銭百文」とある。戦国時代の通貨は一定せず、物価はつかみにくいが、同時代の「天正日記」に「伊豆の上米、百文に七升」とあるから、大体の見当はつく。とにかく百姓人足はおろか、足軽まで人扱いを受けなかったこの時代には、これはおどろくべき高賃金であったらしい。――果せるかな、それにつられて集った人足は数万とつたえられた。
一方。むろんこの工事を邪魔すべく出撃するであろう忍の城兵に対して万端の警戒が張られたが、意外とも滑稽ともつかない珍事が起ったというのは、このときその人足の中に、たしかに忍城から出て来たと思われるものが少なからず発見されたことで、彼らは工事の邪魔をするどころか、大いに働いて、銭と米とを受けとると、喜々として城へかえってゆくようであった。
「どうも実に、呆れはてたる奴らでござります。一々召捕って、誅《ちゆう》戮《りく》いたしましょうか」
と、奉行が三成にきいた。
これには三成もしばし判断に苦しむ顔つきであったが、やがて笑っていった。
「いや、捨ておけ捨ておけ。米と銭が欲しゅうて水攻めの手伝いをして、うぬが溺れ死ぬのをわきまえぬとは、まことに以ていいようのない馬鹿者ども、われらが何をしようとしておるか、判断がつかぬとみえる。しかし、その馬鹿者でも、一塊の土を運べば、それだけ堤が高うなる。捕えて斬るのはたやすいが、斬れば恐れてもはや城から出てくる奴はあるまい。よいよい、せいぜい手荒く使って、おのれの棺桶――土の棺桶を作らせろ」
笑ったが、しかしよくかんがえてみると、こういう愚かな土百姓を相手に、一戦敗れ、二戦敗れ、ついにこれほど大がかりな水攻めの作戦を余儀なくされたことを思うと、少なからずいまいましい。
夜を日につぎ、日に夜をついで、炎天の下に蟻のごとく人々は働き、巨大な堤が忍城のまわりに張りめぐらされていった。
五月下旬にとりかかったこの堤が、計画通り完成したのは六月十四日のことである。基脚六間、高さ二間に及ぶ、周囲三里半の大長堤であった。
寄手の全軍は堤の外に出た。
北方、利根川河畔の白川戸に立った三成と、西方荒川河畔の石原村に立った島左近が時をしめし合わせて、
「いざ、切れ」
と、采配をふるって、堤を切っておとしたのは十六日まひるである。
わき立つ積乱雲が地上に移ったかとみえた。雷神が下界に舞いおりたかときこえた。
ごおっ――大地を震《しん》撼《かん》する奔《ほん》騰《とう》のひびきをあげて、利根、荒川の二大河の水は、南へ、東へ、滔《とう》々《とう》とうずまきながれ、家も道も畑も波の下へ沈めてゆく。もとより、あれほど寄手をなやました水田も、沼も、池も、濠も。
そして、土色の濁流の上に――武蔵野に忽《こつ》然《ぜん》と出現した大湖水の中に、ただひとつ、小さな忍城だけが残った。
水は渺《びよう》々《びよう》とひろがり、満々とふくれあがってゆく。城頭になお無数の旗はひるがえっていたが、それを乗せた船のように、城そのものが流れ去るかとも思われた。
城をとりまく堤の上で、二万数千の寄手は哄《こう》笑《しよう》し、乱舞した。
旧暦で六月半ばというと、いまの暦で七月の終りにちかい。
夏というのに、忍城には冷たい風が吹く。風は水気をふくんでいる。日も照らないのに、書院の天井にユラユラと蒼白いひかりが廻り、浮動している。庭先まで満ちた水の反射であった。
麻也姫は、髪を梳《くしけず》っていた。鏡にむかい、ゆたかな黒髪を前にまわして、たのしげに櫛をあてている。平和な美しい姿であった。
うしろに四、五人の家来が不安そうに坐って、それをながめていた。正木丹波、酒《さか》巻《まき》靭《ゆき》負《え》などの重代の老臣たちであった。
「さて、喃《のう》」
と、麻也姫はつぶやいた。
「いつまでつづく籠城かわからぬ。小田原を攻めあぐねた上方勢が、ついに旗をまいて陣をひく日までといいたいが、それがいつの日か、わたしにわかる道理がない」
先刻、老臣たちが相談に来た。――城はまったく水の中にとりのこされた。外部との連絡は完全に遮断された。ところで、城中にとりこめた兵《ひよう》粮《ろう》には限りがある。決して多くはない兵粮をこれから食いのばしてゆかねばならないのだが、その一日の分量をどれほどにしたらよろしかろうか、とききに来たのである。
「しかし、腹がすいてはいくさにならぬという言葉もある。みなの者には、欲しいだけ食べさせるがよい」
「それで、兵粮が尽きましたる日は?」
「小舟で敵の陣を襲って、それを奪えばよかろう」
麻也姫は、平然という。
この若い奥方がおどろくべく勇敢なことは、腹の底からみな認め、それに鼓舞されて一同ふるい立ったようなものだが、しかしあまりに気楽にすぎて、少なからず不安をさそう点もある。小舟を以て敵を襲う、快事は快事だが、そんなことで三千七百有余人の兵粮が奪えるものか。
「小舟で敵を襲うなど、左様なことができかねる女子供めらも、喰《くら》うことは喰います」
と、正木丹波は憮《ぶ》然《ぜん》としていった。退去した三人の風摩組のいいぐさではないが、麻也姫が、ものの役にもたたぬ女子供たちを無際限に受け入れたことに、彼らも不満なのである。
「しかし、いくらか口はへったであろう?」
しばらく、奥方が何をいったのかわからなかったが、ややあって、脱走した百姓や足軽のことをいっているのだと知れた。敵の築堤工事の給与がばかにいいという噂をきいて出かけていった足軽や百姓のうち、ついに帰城しないものが、相当多数に上っていたのである。
――彼らの出稼ぎのことをきいても、麻也姫は案ずる表情も見せなかった。「ほほ、いまのうち、敵からもらえるものは、遠慮なくもらっておくがよい」と笑っただけである。米と銭をもらって帰ってきた者にきくと、帰ってこない連中は、見つかって殺されたのではなく、そのまま敵に寝返ったらしい。
だから、いわないことではない――と、恨めしげに見あげる眼にもケロリとして、
「寝返るような男は、どうせいくさの役には立たぬ。口がへっただけ、城のいのちが長うなるというものです」
と、麻也姫は、いいことのようにいう。決して負け惜しみにはきこえない。しんからそう思っているようだ。
「この半月あまり――敵が堤を築くあいだ、足軽百姓どもが都合どれほど逃げたか、きのう七人の香具師に、夜のうちに調べておくように命じておきました。やがて報告に来るはずです」
「きゃつら――えたいの知れぬ奴ら」
酒巻靭負が舌うちをした。
「奥方さま、きゃつらを、それほど信用なされてどうあそばす。やがて報告にくる――ぷっ、そもそもけさ、きゃつらが城におるか、おらぬか、それすらもあてになることではござりませぬ」
「いや、そなたらはよくそういうが、わたしの思うところでは、あれで存外頼りになる男どもです。それに、なかなか忠義者でもある。――彼らはともあれ」
髪を梳《くしけず》るのをちょっとやめて、鏡の中でにっと笑った。
「総じて、男より女の方が信用できるようではありませぬか。寝返った男は何人あるか知らないが、まだ城を逃げ出した女はひとりもない」
逃げ出すことができないのだから、ひとりもないのはあたりまえだ。
「その方らも、城が水攻めにあってから、どこやらキョトキョトとおちつかぬ風にみえるぞ」
いたずらっぽい笑顔をふりむけて、
「安心しや。利根の河《かわ》面《も》がこの城より高うないかぎり、城は沈みはせぬわ」
そういって、こちらをむいたまま、ふたたび麻也姫が黒髪に櫛をあてようとしたとき、背後の鏡が突如として砕けとんだ。
鏡だけではない、その柱、障子、天井にまで、うなりをたててはね飛んだものがある。轟然たる銃声は、そのあとできこえた。
「――あっ」
老臣たちがいっせいにとびあがったとき、庭で絶叫がきこえた。
「敵っ」
遠い塀の上に、四、五人の敵兵が、鉄砲を肩にあてこちらを狙っているのが見えた。が、次の瞬間、彼らの顔に黒いものがブチこまれ、血しぶきたててこちら側の水中にころがりおちた。
――すべてはあとになってわかったことであるが、この敵の奇襲部隊は、筏《いかだ》を組んで、いかにしてか城内へ潜入し、そこに出現したのである。それを一瞬にたおしたのは、ちょうどそのとき庭に入って来た二艘の小舟の――一艘に乗りこんできた七人の女忍者が、とっさに投げつけたマキビシであった。
「……城を水でつつめば、こまるのは味方より敵、それではこれから攻めることもならぬではないか、と思うていたが、さすがです。敵ながらほめてやりたい」
何の異状もなかったように、麻也姫がいう。
「まだ、いるかもしれねえ。おめえら、見てこい」
と、庭では、もう一艘に乗った七人の香具師のうち、悪源太が七人の女忍者の舟にあごをしゃくった。
「はやく、ゆきやがれ、しっ、しっ」
不平そうな表情ながら、矢のごとく漕ぎ去る女忍者を見送りもせず、悪源太がささやいた。
「おい、見たかえ?」
「何を?」
「奥方をさ」
「奥方がさ、どうした」
「鉄砲を打たれても、髪をすくことをちっともやめなかったぜ。いいとこ、あるじゃあねえか! なあ、おい」
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河 童
「ほんとだ」
六人の香具師は、悪源太の言葉に思わずいっせいにうなずいて、それから見合って、ちょっと間のわるい顔をした。――イカれてるな、ということに気がついたのだ。
「おい、そんなことに感服してるときじゃあねえ」
と陣虚兵衛が注意をした。
「報告せんか」
「お、そうそう」
昼寝睾丸斎は小舟のなかでちょっと腰をかがめて、
「奥方さま、お申しつけの件、とり調べて参りました」
と、いった。
――昨夜、麻也姫から、水に浮かぶ本丸をはじめ、二ノ丸、三ノ丸、また遠い外《そと》廓《ぐるわ》などに散在して立《たて》籠《こも》る城兵の現在数を、けさまでに調べてくるようにと命じられ、小舟を乗り廻してきた彼らであった。
「それによりますると、侍衆は相わかりませぬが、足軽衆で城を抜けられた方が三十一人」
麻也姫はこっくりする。
侍が五人、城から脱走したことは、すでに老臣からきいていたのである。それに、五月二十八日以来の戦闘で討死した侍が七人、重傷者が十九人あるから、合計三十一人。で、最初に籠《ろう》城《じよう》した武士七十九人のうち、残る者は四十八人である。
また、足軽の戦死者が三十六人、重傷者が七十八人あるから、これにいまの報告できいた脱走三十一人を加えると、合計百四十五人、で、最初にいた足軽四百二十人のうち、残る者は二百七十五人だ。
「百姓、町人衆は三百八十六人、城を出ていったきり、帰ってこないそうでござります」
麻也姫は髪を梳《す》きおえた。侍女に、その根《ね》を結《ゆ》わせている。何かかんがえこんでいる風であったが、不安の表情ではない。
「――女は?」
と、きいた。
「女は」
と、睾丸斎はこたえた。
「ひとりも逃げ出したものはありませぬ」
「左様か」
といって、麻也姫は、老臣たちの方を見て、ニコと微《ほほ》笑《え》んだ。
なぜ笑ったのか、七人の香具師にはわからなかったが、彼らは老臣のごとく、「逃げ出すことができないから、女が逃げ出さないのだ」などとは考えなかった。敵が堤を築くあいだ、彼らもちょいちょい偵察にいったが、そこにはたくさんの近《きん》郷《ごう》の百姓女たちも働いていた。従って、城中の女といえども、それにまぎれこむ方便がないとはいえないのだ。それにもかかわらず、女たちはひとりも逃げ出さない。
実は、昨夜からけさにかけて、城中のあちこちを舟で廻ってみて、彼らは感服していた。女たちにである。
男は四百二十二人逃げ出した。残った連中も、どこやら動揺している気配がある。数万人を動員して、三里半に及ぶ大長堤で城をとりかこんだ敵の物量作戦には息をのみ、さらに、きのう堰《せき》を切っておとして忍《おし》城《じよう》を浮《うき》城《しろ》とかえられて、少なからず参っている様子がある。敵が水攻めに出てきたということは、持久戦に切りかえたということで、城の運命はそれだけのびたようなものだが、足下に大地がない。すべてが水に浮いているということは、理屈ではない本能的な不安感、孤独感、絶望感を、人の心に呼び起すものらしい。
にもかかわらず、女たちの何たる落ちつきぶりか。
大《おお》釜《がま》に飯を炊《た》き、菜を作る。炊事仕事はいうまでもない。数百人の負傷者の看護に懸命であることはもとよりである。城中の時を告げる鐘をつくのは、或る少女の役目であったが、それは最初の乱戦のときも、怒《ど》濤《とう》が城をめぐりはじめたときも正確に鳴りつづけていたし、たくさんの母親たちは、子供が庭まで満ちた水によろこんで、水あそびをするのをやさしくながめ、なかにはのどかに幼児といっしょに鞠《まり》をついて遊んでやっている者もあった。
「――おめえさんたち、この城がどうなると思う?」
と、きくと、
「麻也姫さまのお心のままです」
と、いう。
「城が落ちるとは思わねえかい?」
と、ささやくと、
「そのときは、麻也姫さまと御一緒に死にまする」
と、こたえる。
以前、とくに城下の女たちのすべてが、それほど麻也姫をよく知っていたとは思われないから、それはこんどの籠城前後からのことにちがいないが、わずか一ト月ちかくのあいだに、よくこれだけ女たちの心をとらえたものと思う。それに感心すると同時に、女って奴は、へんに悪《わる》度《ど》胸《きよう》のあるものだなあ、とあらためて見直さざるを得ないのであった。
彼らが右の調査をしているあいだ、七人の女忍者はたえず彼らのあとをくっついて廻ったが、彼女たちと大《だい》乱《らん》痴《ち》気《き》を演じてみせて、城内を淫風で吹きまくる、などという最初の思いつきを実行するどころではない。もっとも、相手が女忍者であるかぎり、悪源太は願い下げにしたいが。――
しかし、いかに従《しよう》容《よう》としていようと、女たちに戦闘力はない。城の侍が四十八人、足軽が二百七十五人だとすると、あわせて三百二十三人。たとえ最初と二日目のいくさで、攻囲軍を二、三千人たおしたところで、敵はまだ二万二、三千人は残っている勘定だ。その比率は一対七十という差にひらいている。大軍と小勢のいくさの当然のなりゆきだ。
「ところで、潜入した敵はあれだけか」
と、麻也姫は、庭の水面に血の波紋をえがいてただよう四つ五つの屍骸を見やった。彼らが狙撃し、風《ふう》摩《ま》組《ぐみ》の女忍者にたおされてからこのときまで、わずか数分のことである。
「そうだ」
七人の香具師がわれにかえり、弁慶が舟の櫓《ろ》に手をかけたとき、門の方から七人の女忍者の舟が漕ぎもどって来た。うしろに鉤《かぎ》のついた縄で、一つの筏《いかだ》をつないでいる。筏の上に人影はない。
「これに乗って、塀の外まで忍びこんで来たもののようでござります」
と、お燕《えん》が無表情にいった。
「筏か。――」
じっとそれを見つめている麻也姫の眼に、はじめて薄《うす》雲《ぐも》のようなものがかかった。
忍城が湖中の城となったということは、かえって寄手を巨大な濠《ほり》でへだてることになったと思っていた。それまでも水のゆたかな忍城にこそ、少なからぬ小舟があったが、元来武蔵野のまっただ中に、二万五千の敵を運ぶ舟も、それを作る舟《ふな》大《だい》工《く》も、おいそれとあるわけはないと思っていた。しかし、筏なら、容易に作られる。敵の大軍が無数の筏にのって攻めよせるとすれば、いまや忍城は八方破れだ。これまでの濠は濠の機能を失い、門でないところが門となった。いま一|艘《そう》の筏にのった敵がやすやすとここまで入ってきたのはその例証である。
「これは、先手を打たねばならぬ」
何をかんがえたか、麻也姫は、軒ごしに空をあおいでにっと笑った。
きのうまで、連日油照りの空は、地上の大異変に応じたか、けさからぶきみな雲を走らせて、この人造湖に黄《おう》濁《だく》色《しよく》の波をたてるほどの風さえ吹きはじめているのであった。
「もしっ、もういちどうかがいまする」
「なんだ」
「まさかあなた方は、麻也姫さまのために、本気になって働いていなさるのではないでしょうね」
「おれたちが、なんであの奥方のために本気で働くものか。あの麻也姫には恨みこそあれ、恩はねえ。そこんところは、なんどもいってきかせてるのに、まだわからねえか」
「でも、これまでのことを、いろいろと見ていますと――」
「ありゃあ、はずみだ。はずみで、そんな風になっちゃったんだよ。それに、見や、女だらけのこの城が、二万だか三万だかの大軍をみんごと支えてる。面白くって、ちょいと一ト肌ぬいでみたくなるじゃあねえか」
水の上である。闇黒の風の中である。二艘の小舟がならんで、忍城からはなれて、波のなかをゆれてゆく。
「怖《こえ》えのか?」
悪源太のいらだった声だ。
「怖えなら、けえれ」
「いえ」
「けえってくれ。てめえら、勝手にくっついて来たんだ。いっしょにゆくというから、一ト口乗せてやったんだ。乗り出した舟だが、おれたちに遠慮はいらねえ。けえりやがれ」
「かえりませぬ。あなた方だけでやれば、今夜の仕事は、生きて帰れはしません」
「何をっ、この女《ナオ》めら、えらそうに――」
「源太、もうよせ」
と、睾丸斎が叱った。
たしかに、女たちのいう通りだ。ほんとのところは、彼らはこの女忍者たちを大いにあてにしている。
寄手が筏を作っている形跡があるなら、その場所を襲って焼き払え。いや、筏だけ焼き払うより、もっと痛烈な一撃を加える方法がある。それは風雨荒れ狂う今夜を置いてはほかにないが、だれか死ぬ覚悟でこれをやってくれる者はないか?――という麻也姫の或る思案に、七人の香具師が応じ、それにあまり気のすすまぬ顔つきながら、七人の女忍者があとにつづいた。
二艘の舟に、なんのためか、それぞれ長持や葛籠《 つ づ ら》をのせている。香具師の方は足軽姿で、風摩の女たちは――城の侍女風であった。
市《いち》女《め》笠《がさ》をそれぞれかざしてはいるものの、たたきつける雨、とびちる飛沫《 し ぶ き》は、彼女たちの裲《かい》襠《どり》を薄紙のようにからだに貼りつけている。月のあるはずはないが、水《すい》光《こう》のみならず、空にうなる風にもぶきみな蒼《あお》いひかりがあって、それがよく見えるのだ。哀れといえば哀れな姿であった。
「てめえたちがくっついて来なきゃ、おれたちが死ぬって? けっ、死んだっててめえらの世話になるもんか。けえれ、けえれ」
悪源太はにくにくしげにいって、嵐にそらうそぶく。もう一艘の舟の上で、女たちは両腕をもみねじった。
「ああ、わたしたちが悪かった。源太さまっ、そんなことをおっしゃらないで」
「どうぞ、つれていって下され」
「あなたのためなら、わたしたちは何でもします」
馬左衛門が、うしろから悪源太の腰をたたいた。ドスンと重い手応えであった。
「可哀そうに、あんなにまでいってくれるものを――源太、あんまり情《つれ》ねえぞ」
「痛《い》てっ」
源太はふりむいて、馬左衛門が両手に櫓をにぎっているのを見て、
「いま、おれの腰をたたいたのは、おめえの何だ?」
と、いったが、さすがに思いなおしたらしく、女たちの方をむいて、
「てめえら、女のくせに、どうしたら男がいちばんうれしがるか知らねえな」
と、猫なで声でいった。
「地面に男を磔《はりつけ》にして、馬乗りになり、のしかかり――そんな荒っぽい真似は、色事とはいえねえんだ。あれだけは、こうシッポリと、ナヨナヨと、デレデレとゆかなくっちゃ、気分が出ねえ」
凄じい嵐の中で、悪源太は色《しき》道《どう》の講義をはじめた。なに、本人はいままで、女を何人、磔同様にして、馬乗りになったりのしかかったりして犯したか、知れやしない。
「だから、よ、麻也姫も――ちょいと忠義面してみせて、すっかりこっちに心をゆるさせなくちゃいけねえ。そして、源太、近う寄りゃ……とか何とか、甘い声を出して招きよせたとき、ぐっとつかまえて、念入りにヨツにカマって、それから放り出してやるんだ。そうしてこそ、はじめてこっちの恨みがはれるというもの、それが香具師のシッペ返しよ。そう事を運ぼうと苦心|惨《さん》澹《たん》してるのに、てめえたちはおれの苦労がわからねえか」
「わかりました。お待ちします」
と、お雁《かり》のキッパリとさけぶ声がきこえた。十四の眼が、夜光虫のようなひかりをはなった。
「けれど、その望みをとげたら、きっとわたしたちを抱いてくれますね?」
「おう、腰のくだけるほど抱いてやるわい」
こたえたのは、風にふきちぎれてはっきりとしないが、どうやら馬左衛門の声だったようだ。
悪源太は、知らん顔をしている。実は内心ぞっとしているのだが、虚勢を張って、舳《へさき》に仁王立ちになって、
「おいっ、そろそろ、堤に近づいたようだぜ」
と、さけんだ。
波うちさわぐ水光の彼方に、黒ぐろと長《ちよう》蛇《だ》のような堤が見えてきた。高さ二《に》間《けん》に築きあげた堤も、きのうから土砂ぶりの雨に、湖は満々とふくれあがって、この距離では黒い細い紐のようにみえる。
「あまり近づくな」
と、昼寝睾丸斎が注意をした。
「筏を組んでいる場所まで、見張りに気づかれちゃいけねえ。これくらい岸から離れたところを廻って、その場所を探すんだ」
二艘の小舟は、長い土堤の内側に沿って、湖を漕ぎ廻った。一定の間《かん》隔《かく》をおいて、土堤の上には番小屋らしいものが見えるが、この烈しい吹き降りでは、松《たい》明《まつ》をもやすはおろか、立っていることもむずかしいとみえて、哨《しよう》兵《へい》の姿は見えない。
「あっ……あった!」
夜狩りのとろ盛が、奇声を発して指さした。
「麻也姫さまのお見通しのとおりだ。やっぱり、やってやがった!」
城の南方にあたる場所であった。
おそらく敵は、土堤を築いているうちから、筏用のたくさんの材木を集め、また組んでいたものと見える。そこの土堤の内側の水面に、夜目には大地かと思われるほどおびただしい筏が敷きつめられて、漂い浮かんでいた。敵が筏による襲撃を、いかに急いでいるかがわかるが、この嵐ではさすがに作業はできかねるとみえて、その付近に人影はない。しかし、すぐ上の土堤に、小屋が十幾つもならんでいるところをみると、そこに筏作りの人足たちが眠っているのであろう。
「ここはどこだ?」
と、睾丸斎が見まわした。
「堤《つつみ》根《ね》村と袋村のまんなかあたりじゃねえか」
と、陣虚兵衛がこたえる。睾丸斎は濡れつくしたひげをしごいた。
「してやったり! 北には丸墓山の敵の本陣がある。ここを切って、水を南の荒川に落とせば、三成さん、押っ取り刀でかけつけて来ても、水をへだてて、おいでおいでじゃ」
筏作りの人足小屋のいちばん端の、いちばん造作のいい小屋の戸を、ホトホトとたたく者があった。
これは監督の足軽ばかりが泊っている小屋で、四、五人の足軽が鶏をしめて、あぶった肉をさかなに車座になって酒をのんでいたが、嵐にまぎれるこの音を、だいぶたってから、ひとりがやっとききとがめて、
「誰だ?」
と、いいながら、立っていって戸をあけた。
笠をかぶった男が、そこに立っていた。しばらくそこで立ち話をしている。
「雨が吹きこむ。そこをしめろ」
と、車座のひとりがふりかえって、どなったとき、話をしていた足軽が昂奮した声でいった。
「忍城からぬけて来た奴だ。舟で逃げて来たというが」
「ふん、奉行へ届け出ねばなるまいが」
こちらは大きな舌打ちをした。脱走の城兵は、もう珍しくもない。
「この嵐の中を――ひとに面倒をかける奴だ。もう土堤作りの役にも立たん。おぬし、曳《ひ》いてゆけ」
「それが、この男ひとりではないという。下の筏のところにあと六人待っておる。のみならず、舟二艘に、城の女中七人と、金を盗んで逃げて来たというぞ」
「なんだと?」
みんな、立ちあがって、戸口のところへいった。その勢いに、城から逃げてきたという男は、半分逃げ腰になって雨の中へさがったが、ふるえ声で、
「う、嘘ではござらん。どうせ城は長くはないものと、ふだん懸《け》想《そう》していたえりぬきに美しい女中をさらい、葛籠《つづら》長《なが》持《もち》に金銀をつめて、風雨にまぎれて城を逃げてきてござるが、どこを廻っても見張り小屋があって、女と宝物を運び出すことができないことが相わかりましたので」
「あたりまえだ。たとえこの堤を越えても、その外側には二万数千の上方勢が幾重にも陣をしいておる。蟻一匹も逃がすものか」
「へっ、恐れ入りました。そこで仲間と話し合った末、ひとつこちらのお頭《かしら》衆《しゆう》におすがりしてみようと、こういうわけで拙者が参った次第で」
「何をすがる?」
「金も女も両方とも持って逃げようとしたって、そうはゆかない。で、ござるから、金はこちらのお頭衆にさしあげる。その代り、女をつれてゆくことを御援助願いたいと。――」
足軽たちは、しばらく絶句して、まじまじと相手の顔を見た。小屋からさすあぶら火に浮かんだその顔は、笠の下に髪がバサとひろがり、やせこけて、蒼くって、まるで河童《 か つ ぱ》のようだ。――それにもかかわらず、いま申しこんでいる事柄の内容はなかなかふとい。
足軽の二、三人が、大股に、その男のうしろに廻った。退路をふさいだのだ。
「こやつ、落人《おちゆうど》のくせに、ずうずうしい奴だ。いくさ相手の前に出て」
「金をやる代りに、女と駆落ちするのを援助しろ、だと?」
「女と駆落ちする面《つら》か」
「女と金どころか、ここからうぬの首がつながってもどれたら冥《みよう》加《が》と思え」
ぎらっと数本のふとい刀がその男をとりかこんだ。男は見まわして、頬をヒクヒクさせた。
「やはり、左様に仰せられるか。……是非もない、首を刎《は》ねられえ。かかる談《だん》合《ごう》に来た以上は、幾分かはその覚悟をして参った」
男は元気のない、が、観念したような声でいった。
「しかし、あれだけの宝……手当り次第かき集めて参ったゆえ、何千両、何万両あるかまだこちらにもわからんが、とにかくふつうの人間が一生あくせくしても手に入りそうにないほどの天正小判、永楽銭、刀、香料、衣服など、それをわざわざ捨てなさるお手前方も、かんがえてみるとお気の毒の至り」
「ば、ばかめ、誰が見捨てるといった?」
「あっ、では、この取引、きいて下さるか」
「取引ではない。没収だ。うぬに恵んでもらわんでも、こちらで召しあげるわ」
「ははあ、左様か」
河童に似た男は、溜息をついた。
「もちろん、そうおいでなさるだろうと覚悟しておりました。しかし、そうは問屋がおろさない」
「何っ」
「拙者がしかるべき合図をしないと、仲間は事成らずとあきらめて、女と宝をつんだまま、城へひきかえすことになっております」
「ならん! これ」
二、三人、あわてて腕をのばして、河童の襟《えり》がみをつかんだ。
「うぬの仲間はどこにおるのじゃ。案《あ》内《ない》せえ。おとなしく案内せぬと、このままぶッた斬るぞ」
「仲間は、まだ二艘の舟に乗ったまま、水の上に浮かんでおります。……ああ、拙者はやはり馬鹿であった。世の中に、みすみすあれだけの宝を見捨てる人があろうとはなあ。いや、しかし、こいつは、どっちが大馬鹿者か、とみにはわからんて。……」
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水神風神
城から美しい女たちと莫大な財宝を盗んで逃げ出して来たものの、どちらもかかえて包囲軍の哨《しよう》戒《かい》線《せん》を突破することはできそうにもないから、金はやる代り、女をつれて逃げ出すことを見逃せという。
ずいぶんずうずうしい脱走兵だが、それでもさすがに必死の知恵はめぐらしていたとみえて、双方ともゆるさぬというなら、じぶんが合図をしないと、水の上の仲間が、女も金も舟にのせて城へ逃げかえる手はずになっているという。
足軽たちは顔を見合わせた。眼と眼でうなずきあった。
「よし、うぬのいうことはきいてやる」
「ほんとうに、おれたちが逃げることはお見のがし下さるんで?」
「ああ、石田の紋のついた陣笠や蓑《みの》も貸してやる。手《て》形《がた》も貸してやらんでもない。ともかく、仲間の待っているところに案内しろ」
依然として、はげしい風雨の中だ。堤の上にならんだ人足小屋は、そのままバラバラに吹きとんでしまいそうな音をたてていた。
足軽たちは、河童《 か つ ぱ》に似た脱走兵に案内されて、堤の内側に下りていった。わきたつ水面が、凄じい音響をひろげている。たんなる波の音ではなく、そこにギッシリと浮かべられ、つなぎ合わされた無数の筏《いかだ》が、相触れ、きしみ、折れ、ゆれさわいでいるひびきであった。
「おお、なるほど」
足軽たちは、水の上にゆれている二艘の舟をたしかに見た。
一艘は、筏置場のはずれから五、六間ほどはなれて、他の一艘はさらに遠く浮かんでいる。――闇夜だが、嵐特有の蒼白な微光が大気にあって、いかにも近い舟には人影とともに長持や、葛籠《 つ づ ら》が、遠い舟には市《いち》女《め》笠《がさ》をかぶった影が見える。
筏の端に立って、河童は呼んだ。
「おおいっ……ヤチモロ・ジンバリ・ペテポウ・アッタモン!」
すると、近い舟の葛籠のかげから呼び返す声がきこえた。
「ううむ……ジンバリ・ペテポウ・アッタモン・ヤチモロ!」
「なんだ、それは?」
と、足軽たちはあっけにとられて、眼をむいた。
「へえ、打合わせてあった合図でござる。旦那方と話がついた、と申しましたところ、仲間の方では、なお疑念があるゆえ、もちっとたしかめろ、といって参りました」
「なんだか、同じ呪《じゆ》文《もん》のような声にきこえたが」
「すこし順序をかえただけで、色々と話ができるしかけになっております。……なんだと? ペテポウ・アッタモン・ヤチモロ・ジンバリ!」
近くの舟がすこし漕ぎ寄ってきたが、しかし二間ぐらいはなれて、また止った。そして、またこちらにさけんでくる。
「アッタモン・ヤチモロ・ジンバリ・ペテポウ!」
「しようがねえな。この際そんなにひとを疑っちゃ。――これ以上くわしい話は、合図だけじゃ通じねえ。旦那、ちょいと拙者がじかに話して参ります」
河童は舌打ちして、
「しばらく、お待ちを」
というと、筏の端からその舟へ、波の上を河童のごとくはねとんだ。
足軽たちは眼をむいた。その距離は二間もある。思いのほかに身軽な奴で、じぶんたちには、どうしたって飛べそうにない。
やむを得ず、馬鹿みたいにそこに立って眺めていると、ふいにうしろから「……もしっ」と呼んだ声があった。
足軽たちはとびあがった。それが女の声だったからだ。
「はてな? いまの声は?」
「わたしはここにいます」
やっと気がついた。筏と筏とのあいだに、市《いち》女《め》笠《がさ》をかぶった頭らしいものが浮いている。してみると、からだは水にひたっているのだろう。
「うぬはだれだ?」
「城から逃げて来た女です」
「なんだと?」
「あの、大きな声をたてないで下さい。あの男たちに気づかれてはなりません。この水の音で、声はきこえないでしょうが、向うからこちらが見えないように、ここに集まって下さいまし」
足軽たちは、狐《きつね》につままれたような表情で、そこに集まった。
「城からさらわれてきた女は、わたしのほかにまだ六人、向うの舟にのっています。いまの男が、あなたたちに相談にいっているあいだに、わたしは舟酔いで苦しくてしようがないからといって、ひとりこの筏におろしてもらったのです。あなたたちに見つからないように、という約束で、こうして水の中に入っていたのですけれど」
どうしていままでこれに気がつかなかったのだろう、とじぶんたちの眼の迂《う》闊《かつ》さを怪しむほど、水の上の女の顔は美しかった。闇の中におぼろおぼろと浮かびあがっているようなのだ。今夜、あるべくもない月《げつ》輪《りん》が、波に落ちて漂っているかとも思われる。――
「ほんとは、舟酔いというのはうそなのです。あなたたちにおねがいがあるのです」
こちらは、うつらうつらとその顔に見とれている。
「わたしばかりではありません。ほかの六人みんなの願いです。……もしっ、わたしたちをつれて逃げて下さいまし」
「な、なんだと?」
「あの男は、舟の宝をさしあげる代り、わたしたちをつれて逃げることを見のがしてくれとおねがいにいったのでしょう。いや、いやなのです、みんな、あの下郎たちは」
女の筏につかまった指が、白い虫みたいにうごめくのを見て、ひとりが、
「まず、水からあがったらどうじゃ」
と、かすれた声でいった。
「いいえ、あの男たちに見つかってはなりません。しゃがんで下さいまし」
唯《い》々《い》諾《だく》々《だく》としゃがんで顔を寄せあつめると、あえぎの芳香が、彼らの鼻腔をくるんだ。ひとりが、酔っぱらったようにいった。
「よし、救ってやる。きゃつら、どうせ番所にひいて、ことごとくそッ首刎《は》ねてやろうと思っていたのだ」
「いえ、あの男たちは殺さなくてもいいのです。ただ、逃げられさえすれば。――」
「だ、だからよ、おれたちがおるかぎり。――」
「わたしたちを番所かどこかへつれてゆくとおっしゃるのですか。それでは、あの宝も召しあげられるにきまっています」
「そ、それはやむを得ん」
「ね、わたしたちは、たださらわれて来たのではありません。ほんとうは、むごたらしいいくさがほとほといやになり、どこか遠い平和な国で暮したくなったのです。でも、そこにゆくにも、そこで暮すにもお金が要りまする。あの金銀ももって逃げなくては、なんにもなりません。あの舟にのっているのは、一生つかいきれないほどの宝です」
「…………」
「番所におとどけになったら、その金銀はもとより、わたしたちもどんな目にあうかしれないではありませんか?」
足軽たちは、顔を見合わせた、その通りだ。奉行にとどけ出れば、これほどの美しい女がぶじに釈《と》き放《はな》されようとは思われない。女も金も、足軽風《ふ》情《ぜい》のじぶんたちには、二度と永遠に、手のとどかないものになることは知れている。――
「それじゃあ、おまえたちは、どうあっても金をもって逃げようってのか?」
――さっきの河童の提案をきいたときのように、こいつ、見かけによらぬふとい奴だ、とは一人も思わなかった。彼らはみんな、水中の美女の蠱《こ》惑《わく》にフラフラになっている。――
「で、どうしようってんだ?」
「きいて下さいますか? さっき、みんなで一生懸命かんがえたことです」
と、女はささやいた。
「この堤を切ったらどうだろうかと」
「堤を切るう?」
足軽たちは仰天した。
ふしぎなことに、こいつ敵の廻し者ではないか、という疑惑は起らなかった。その疑惑以前に、金を持って逃げたい、という女の目的と、そのために堤を切れ、という女の手段との論理が、あんまり突飛で、飛躍しすぎていて、連絡のしようもなく、ただ女の正気を疑ったのだ。
「つ、堤を切ると――」
「河が出来ます」
女は、一言でこの二つの命題を連結した。足軽たちには、まだわからない。
「あの、御心配下さいますな。堤が切れても大事ありませぬ。切った堤の幅《はば》だけ水があふれ出ましょうが、すぐ南側には荒川があります。そこをつなぐ河が出来るだけです。けれど、その河が、わたしたちとあの金銀を積んだ舟を運んでくれましょう。あのおびただしい財宝をいれた重い葛籠《 つ づ ら》や長持をそっくり持って逃げるには、それしか方法がありません。……」
足軽たちははじめてうなった。ここらあたりの地理地形を知っている者でないと出ない知恵だが、実にずばぬけた着想だ。
「堤を切る――それはたいへんなことでしょうが、この雨のため、水は御覧のように堤の上まであと四、五尺をのこすまでにみなぎりあふれています。ここを切らねば丸墓山の御本陣あたりの堤が切れるおそれが出来た、とでもおっしゃって、人足の衆に小《こ》半《はん》刻《とき》も働いてもらえば、舟の通るくらいの水の路は切りひらけましょう。それが切りひらける寸前に、あの葛籠を積んだ小舟にとびのって、下郎などは斬るなり、突くなり――あっ」
と、ふいに女は波にからだをさらわれかけた。
足軽たちはあわてて腕をさしのばして、女を抱きとめた。ひとりの女を、十本をこえる腕が支えたのに、その腕のすべてがこの世のものならぬ柔《じゆう》媚《び》の快感に焦げついた。あおのいた女の顔の、雨と風にうたれる花にも似た、何たる妖《あや》しい美しさか。男たるもの、たとえそれが悪魔の化《け》身《しん》であると承知していても、それにじぶんから吸いよせられずにはいられないほどであった。
「あの下郎たちは虫《むし》酸《ず》のはしるほどいやです。でも、あなたたちなら――」
十数本の腕の中で、女の眼と唇が嬌《きよう》羞《しゆう》に夜光虫のようにぬれひかった。
「いったん、荒川にさえ出れば、あとは一路南へ――ゆくてには、夢のような倖《しあわ》せが待っているにちがいありません。……」
足軽たちは、堤の彼方《 か な た》の南の空を見た。ただ嵐の荒れ狂うその空に、ほんとに極楽の五色の雲がたなびいているような気がした。
しがない足軽をして、血まみれのいくさ稼業をしているのは何のためか。結局金と女のためではないか。その金と女がここにある。じぶんたちの夢にもえがき得なかったほどの莫大な宝と美しい女がここにある。……
「あっ、いけませぬ、下郎たちの舟がこっちに来ます」
女はふいに足軽たちの腕をふりはらい、市女笠を筏のふちに伏せた。
足軽たちは立ちあがった。葛籠を乗せた舟がこっちに漕ぎ寄せてきた。河童が筏の上にはねあがって、歯をむき出してせいいっぱいの愛嬌笑いを見せてさけんだ。
「お待たせしてござる。えらい疑ぐりぶかい連中で、いまになっておじけづきやがって、説得するのに骨を折りましたが、やっと旦那方におまかせすることを承知してくれました、それでは、どういう具合に――」
「おお、それがいま、天来の妙案を思いついた。どうせ乗りかかった舟じゃ。毒くわば皿まで、おれたちもいっしょに荒川にゆくぞ」
「ひえっ、荒川にゆくとは?」
何やら相談していた足軽たちは、むきなおって、いま女から授《さず》けられた着想をとくとくと発表して、
「ところで、うぬらがおれたちを疑うように、おれたちもうねらに気をゆるさぬ。堤が切りひらかれたあと、置いてきぼりをされては、ばかを見るどころか、こっちの首がとんでしまう。あの女たちの舟を寄せろ、その中に、おれたちのうち、一人が乗りこんで見張っておることにするぞ。うぬらに胡《う》乱《ろん》なふしが見えたら、女たちはみな斬ってしまうから左様心得ろ」
と、いった。
あっけにとられた顔できいていた脱走兵のうち、どじょうひげを生やした男が、ふいにうなずいた。
「いや、忍術はちとかじったが、水《すい》遁《とん》の術をやるのははじめてじゃな」
「何、忍術?」
「いや、こっちのことで、よかろう。その手でゆきましょう」
二艘の舟に積まれていた葛籠《つづら》長《なが》持《もち》の中の財宝と美女を現実に見ると、足軽たちの野望は不動のものとなった。一人、女の舟に監視に残ると、あとの面々は欲望の風に煽《あお》られるように勇躍して、堤に駆けのぼっていった。
人足小屋の戸を乱《らん》打《だ》して廻って、人足たちを呼び起す。寝ぼけている奴はなぐりとばす。そして彼らは、即刻二間ばかり堤を破壊することを命じた。その理由としては、さっき女から授けられた知恵を借用したことはむろんだ。
嵐の深夜、堤の破壊作業がはじまった。おととい完成して、水を張ったばかりの堤をまたこわすとはおかしい話だが、人足たちでこれを怪しむ者もない。命令をきかなければ斬る、突くは、現場監督たる足軽にとって日常茶飯事であることはよく知っていたからだ。無我夢中で、雨と汗にぬれつくして土をかいて――堤が約二間切れるのに、小《こ》半《はん》刻《とき》とはかからなかった。
「切れるぞ!」
その声がきこえたのは、実際に堤が切れるより、さらに数分前であった。足軽たちは野獣のごとく堤を駆け下り、狂気のごとく筏《いかだ》の上を走って、そこに待っていた脱走兵の舟にとびこんだ。
「おいっ、舟をはなせ、水が出て、河となるまで漕ぎ廻るのだ」
岩をころがし、樹々をなぎたおして大地を走る最初の奔《ほん》流《りゆう》に巻きこまれては一大事だ。
「はやく、やれっ」
「合点だ!」
と、河童はうなずくと、竿をとって、いきなり先頭の足軽の脳天をぶんなぐった。仰天してとびのこうとするほかの足軽を、入道頭の脱走兵が松の幹みたいな腕でなぎたおす。血のまじったしぶきがあがって、たちまち足軽すべてが水の中へたたき落とされた。
「だ、だましたな!」
さけんだのは、もう一艘の舟にのっていた足軽だ。おどろきのために、脳髄が黒炎につつまれたようになって、
「ううぬ、うぬら、ただではおかぬ」
と、七人の女の乗った舟の中で、腰の刀を抜こうとした。
その腕を両側からとらえられた。一人はさっき水からあらわれた女であったが、もう一人、さらになよやかな女と、いずれおとらぬ万《まん》力《りき》のような力で、その腕をつかんだのだ。事実、足軽の両腕に、骨のくだける音がした。
「御苦労でありましたな」
そして、彼は、ボロキレみたいにこれまた水中に弧をえがいて放りこまれた。
「それっ」
もう一方の舟で、河童に似た陣《じん》虚《きよ》兵《へ》衛《え》がかけ声をかけて竿をとりなおすと、二艘は矢のごとく城へ漕ぎもどってゆく。
しかし、水ははやくも反対の方向へうごき出していた。切れた堤から水があふれはじめたのだ。それにつれて大地のような筏もうごき、ひしめき出した。
ごうっ――湖を震《しん》撼《かん》するひびきが背後であがった。それは二日前、この堤の中へ水がみちびき入れられたときの数倍はあるかと思われた。
堤を二間切ったから、水路もまた二間というわけにはゆかない。突破口を得た水は、それ自身の凄じい圧力で、いっきにそれをおしひらいた。それに数百におよぶ筏の力が加わった。
その筏の大群を竜神の髯のごとくふりたてて、湖も涸《か》れつくさんばかりに水はたぎりおち、地上のあらゆるものを粉砕して流れてゆく。あらゆるもの――数百に及ぶ堤の外の上方勢も。
水は単純に南へながれて、荒川に奔入するにとどまらなかった。それは北へも迂《う》回《かい》し、決潰場所の北方にある丸墓山の麓にさえおしよせた。
「兵法一家言」なる書にいう。
「天正十八年、豊臣太閤が小田原征伐のときに、石田|治《じ》部《ぶの》少輔《しよう》三成、その命をうけて、武州忍城を水攻めにし、すでに城危く見えけるころ、城兵夜出でてひそかにその堤を決しければ、大《たい》水《すい》横《おう》流《りゆう》して寄手の諸陣にあふれみなぎり、寄手は大敗軍、ことさら石田三成はすでに溺死せんとせしを家来の介《かい》抱《ほう》によりまぬかるるを得たり。水攻めもかくのごときは、ただに労して功のなきのみならず、実に千《せん》歳《ざい》の笑《しよう》料《りよう》なり」
日本戦史上、水攻めの諸例のうち、いちばんの傑作を秀吉の備中陣とするならば、三成の忍城に於けるそれは最大の愚作であったろう。
四日目の六月二十三日のことであった。まだ惨澹たる泥沼に覆われた本陣で、三成は秀吉の使者をむかえた。
不吉な使者でないはずがない。三成は身の毛をよだてて、秀吉の書状を受けとったが、心中、その恐怖とはべつに不審にたえないことがあった。
一つはその使者が、武者にあらずして秀吉のお伽《とぎ》衆《しゆう》曾《そ》呂《ろ》利《り》伴《ばん》内《ない》であることであり、また一つは、その到着の信じられないほどの早さである。
四日前、三成は敗軍の報を秀吉に出した。苦い思いであったが、やむを得ぬ義務であった。その急使が必死の馬を走らせても、小田原へついたのはきのうごろであろう。それなのに、それに対する使者曾呂利は、饅《まん》頭《じゆう》を踏みつぶしたような顔を、きょうこの武州の忍にあらわした。
もっとも、その饅頭は到着したとき湯気をたてていた。そして、快活な大声をあげながら、本陣に入ってきた。
「やあ、六本足の馬に乗って来たのは生まれてはじめてじゃ。四本足の馬より早いが、しかしきみのわるいものよの。二本足で歩くよりくたびれたが、こりゃ一本足で立つところもないありさまじゃな」
六本足の馬? 曾呂利は馬に乗ってきた様子はない。ただ三人の家来をつれてきたばかりである。
その三人の家来は、いま曾呂利伴内のうしろにひかえて、ひそと坐っている。曾呂利の眼は笑っている。この場合、無礼な奴だとは思うが、どんなときでも笑っているようにみえるのがこの男の眼だから、それは辛抱するとして、その三人の家来の眼までが、皮肉に笑っているようにみえて、三成は顔色が赤くなり青くなるのをおぼえた。
三成はうやうやしく秀吉の書状をおしいただいたが、わざと従《しよう》容《よう》たる体《てい》を装《よそお》って、それをひらくまえにしずかにきいた。
「御上使御苦労に存ずる。ところで曾呂利、そこな三人はそなたの召し使う者か」
「いや、そうではござらぬ。大いそぎのお役目ゆえ、ちょいと北条方から借りてきたもので」
「何、北条方?」
「されば、これが音にきこえた風摩組でござるよ。実は、この者どもにかつがれてやって来たのでござりますが、いや、風摩の名にそむかず、その早いこと。――」
三成は六本足の馬の意味を了解した。
「忍者か!」
「しかも、つい先ごろまでこの忍城に奉公しておりましたそうな。みずから案内運搬を買って出てくれたのでござるが――それより、治部さま、まず殿下の御書状を拝されませえ」
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妖軍使
沈《ちん》痛《つう》な顔色で、三成は手紙をおしひらいた。祐《ゆう》筆《ひつ》にかかせたものではない。秀吉自筆の書状だ。
「きっと申しつかわせ候。
このたび前《ぜん》代《だい》未《み》聞《もん》の落《おち》度《ど》をとり、天下の面目を失い候こと、唐《とう》土《ど》、高《こ》麗《ま》、南《なん》蛮《ばん》までもその隠れあるまじく候。秀吉中国陣のみぎり、高松の城を水攻めにし、太《た》刀《ち》も刀《かたな》もいらず水をくれ候て城主の腹を切らせ、時日をうつさず、淀《よど》、山崎、天《てん》王《のう》山《ざん》まで馳《は》せのぼり、悪《あく》逆《ぎやく》光秀の首を刎《は》ね候ことを、そこもとおぼえ候や」
形容が大げさで、何かといえばじぶん一代の武《ぶ》功《こう》を吹きたてるのが秀吉の手紙の特徴だが、この場合、いつものように、そうら、おいでなすった、などと笑う余裕はむろん三成にない。
「この上は三日のうちに、一人たりとも残らず攻め殺し、会《かい》稽《けい》の恥をそそがざるに於《おい》ては、秀吉みずから早々に馬をすすめ、そこもとの頭《こうべ》を軍陣の血《ち》祭《まつり》に供え、忍《おし》をとり巻くべく候なり」
まさに秀吉の雷《らい》声《せい》をきく思いがある。覚悟はしていても、全身の毛がよだつのを禁じ得ない。
ふっと三成の眼がひらいた。そのつぎに、突《とつ》忽《こつ》として異《い》様《よう》な文句が出現した。
「とはいえど、成田の女房殺すなよ」
三成はパチパチとまばたきをした。
「かまえて引き出で、秀吉に見《げ》参《ざん》せしむべく候」
絶対に城からひきだし、秀吉の前にひいてこい、とある。手紙は、それで終りだ。
「わかりましたかな」
曾《そ》呂《ろ》利《り》伴《ばん》内《ない》は上眼づかいに見あげて、ニヤリと笑った。
「拙《せつ》の上使となって参りましたわけが」
「わからぬ」
さすがの才人三成も、ほんとうにわからない。
「最初の大目玉だけなら、鎧《よろい》の化物みたいな――左様、たとえば、あなたとお仲のわるい加藤、福島などの豪傑連でも寄越せばいいはずで」
三成は、にがい顔をして、なおニタニタしている伴内を見ている。
「そこを、わざわざおかどちがいのこの伴内が、いかめしき上使となってまかり越したは、この折《せつ》檻《かん》状《じよう》ならぬ折檻状のおしまいのところが殿下の御眼目なので」
「成田の女房を虜《とりこ》にせよとの仰せか」
「左様」
「女だてらに、いくどかわれわれに苦杯を喫《きつ》せしめたにっくき奴、小田原にひいて、みせしめに磔《はりつけ》にでもなさる御所存か」
「これだから、秀才の朴《ぼく》念《ねん》仁《じん》にはこまるな」
曾呂利は舌うちした。
「いや、はじめはな、水攻めにしたはずの味方が、水で大敗軍をしたという急使に、殿下は三尺もおどりあがり、おどりあがりなされて御立腹めされた。すぐさま走って、治《じ》部《ぶ》に腹切らせい、と大《だい》音《おん》声《じよう》で仰せられたくらいでござりましたぞ。――が、ふいに狐《きつね》憑《つ》きがおちたようにキョトンとして、眼を宙にすえておられたが、ぽつりと、忍城の留守をまもるは、太《おお》田《た》三《さん》楽《らく》斎《さい》の孫娘であったよの、なるほどいくさ上手は祖《じ》父《い》の伝授か、さもあらん、とうなずかれたが、そのときはもう笑っておいでなされた。眼じりをさげて、よだれをながさんばかり、と申した方がよろしかろうか」
曾呂利の顔も、眼じりがさがって、よだれがながれんばかりだ。
「それから仰せなさるには、ふむ、きいたことがあるぞ、成田の初《うい》女《によう》房《ぼう》、関八州にもまれなる美女ときく。是非|生《いけ》捕《ど》りにしてつれてこい――とな」
「…………」
「おわかりか。例のお癖《くせ》が出たのでござるよ。そして――力攻めにして、成田の女房を殺しでもしておったら、とりかえしのつかぬところであった。治部め、ようした、といとう御機嫌にならせられてござるよ」
「…………」
「上意っ」
突然、別人のようにきびしい、しかしすっ頓狂な奇声をあびせられて、苦虫をかみつぶしたような表情をしていた三成は、度胆をぬかれて、はっと両腕をついた。
「なんじ、このたびの大失態は沙汰のかぎり、もともと即座に首|刎《は》ぬべきを、もし忍《おし》城《じよう》のおんなあるじ生《いけ》捕《ど》りにしたらんには、右の落《おち》度《ど》をゆるすのみか、望みのままに褒《ほう》美《び》をさしとらすものなり」
「はっ」
「万一、成田の女房どのを首にしたら、こんどは貴殿の首がない」
「はっ」
と、いって、三成は平伏していた頭をあげたが、曾呂利は饅頭を踏みつぶしたような顔で、いいきもちそうにそっくりかえっている。どこまでが秀吉の上意で、どこまでが当人のせりふか、けじめがつかない。
「もし首尾よういったらな。――治部さま、さきの水攻めのしくじりは、おんなあるじを生捕りにせんがための苦労であったと、曾呂利が味方の大将連に吹《ふい》聴《ちよう》して進ぜる」
「はっ、かたじけのう存ずる」
小《こ》癪《しやく》にはさわるが、頭を下げざるを得ない。もともと能吏にすぎず軍将の器《うつわ》ではない、というのが、秀吉に寵用される彼に対する加藤福島輩のヤキモチまじりの批評で、その通り、こんどまんまとその批評を地でいっただけに、曾呂利の人をくった、しかし適切な忠言に従わなければ、たしかにじぶんの未来にかかわる。
「三成、誓って成田の女房を生捕りにして御覧にいれる」
「成算がおありか」
「いや――いま、とっさには――しかし」
「これは、城を攻めおとすより、或いはむずかしいかもしれぬ。というのは、成田の女房め、顔に似あわぬたけだけしい女で、本丸のおのれの住居のまわりまで、防戦の支度をしておるらしい。つまり最後まで、死ぬ覚悟でいくさをするつもりでおるらしい。従って、へたに手を出せば、死んでしまう。――忍者を使われえ」
「おう、忍者」
三成は、まさに一《いち》道《どう》の活路をさし示されたようにさけんだが、ふいに唇をかみしめた。――彼もまた忍びの者をかかえていた。しかも相当優秀だと自負していた忍者だが、それらを小田原の陣中で喪失してしまっていることに気がついたのである。
曾呂利はまたいった。
「この風摩組をお使いなされえ」
風摩組。――いうまでもなく、これは北条家|名《な》代《だい》の乱《らつ》波《ぱ》だ。そのことは、先刻曾呂利もいった。ふしぎなことに三成は、それをきいたときやや眼を大きく見ひらきはしたが、べつに驚倒すべき事実とも思わなかったようだ。
「――風摩組」
と、つぶやいた。
「この者どもを使って、大事ないか?」
「どのような異心あって、わざわざ曾呂利どののお供をつかまつりましょうや」
と、あごの角ばった風摩者がいった。伴内がつけ加える。
「実はな、治部さま、こちらの急使が小田原へ参ったとき、たまたま御本陣に、北条方の松田弾三郎が来ておりましてな。その供をして来たこやつらが、殿下の、それ、いまいった大音声を承わって、拙のあとについて参り、是非ともその役は拙者どもにおまかせをと願う。きいてみると、ほんの先日までこの忍城におった者どもで、何やら成田の女房――麻也、とか申したの――それと気が合わぬ風で、何とか一《ひと》泡《あわ》吹かせてくれようと思うておったところじゃという。――」
「その通りでござる」
と、凄味のある若い美貌の風摩者がいった。
「お頭の御命令にて、忍城をひきあげるときはまだ半信半疑でござったが、小田原にかえって、いよいよ北条方の降参が目前にありと知った以上、われらはもとより、敵対の意志はござりませぬ」
「もし、この際お役にたてば、ただにわれらの手柄たるのみならず、御主君|氏《うじ》政《まさ》氏《うじ》直《なお》さまの、秀吉公へのおんおぼえもよろしかろうと存じて発心したことでござりまする。もしなおわれらをお疑いなれば、二人は御陣中に残り、一人ずつ、城内へ忍び入って麻也姫をさらい出して来てもよろしゅうござりまする」
と、もうひとり、こんな忍者とも思えない温厚な顔をした中年の男が熱心にいった。
三成はじっと三人の北条方の乱波者を見て、思案している。先刻、じぶんを見て皮肉な嘲笑を浮かべているように見えたのは、あれは錯覚ではなかったかと思われるほど、三人は卑《ひ》屈《くつ》な眼つきに変っていた。
「麻也と申す女、いかにも姿は天《てん》女《によ》のように美しゅうござるが、何と申すべきか、世にこわいというもののあることを知らぬじゃじゃ馬のごとき女、とうてい、ひとすじ縄で手捕りなどかないませぬ。が、拙者どもなら――」
三成はうなずいた。彼は小田原にいたころから、北条方に降伏の意志がうごきはじめたのを知っている。いや、知っているどころか、彼自身その謀《ぼう》略《りやく》の中心に立って、敵の内応者、北条家家老松田尾張守と内々交渉をしていたくらいだ。だから、いま突如として敵の風摩組が味方をするといっても、べつにそれほど意外ともしなかったのだ。
「名は何という」
と、三成はきいた。使ってみる決心をしたのである。同時に、首尾よくこの男たちの目的を果たしたら、そのまま闇へ葬ってしまう決心をしたことは、いまのところ、さすがにこの三人の風摩組も感づかない。
「戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》でござります」
「御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》」
「累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》と申すものでござる」
三人は、名乗って、蜘《く》蛛《も》のようにひれ伏した。
城攻めに用意していた数千の筏《いかだ》は、あの大決潰とともに流れ去ってしまったが、それでもいくらかは残っていたと見える。――
その筏の一つに、槍を立て、槍の先に笠をさげて、めっきり水のへった湖水の上を城へ渡って来た者がある。この槍の先につけた笠は、戦国の不《ふ》文《ぶん》律《りつ》として、降伏|乃《ない》至《し》重大な使者を意味する。
――何の使者か? と、いぶかしげに迎えた城方は、その筏に乗ってやって来た三人の顔をみて、あっとばかりにおどろいた。なんと、それがほんのこのあいだ城から走った風摩組なのだから、めんくらうのは当然だ。
「やい、待ちやがれ」
水にひたった大手門の下で、舟に乗って出迎えた七人の香具《や》師《し》も、眼をパチクリさせていたが、ようやくわれにかえった悪源太がさけんだ。
「おかしな奴らが舞い戻って来やがったな。おっ、その笠には石田の定《じよう》紋《もん》がついてるが、てめえら、いってえ敵か味方か」
「敵でもあれば、味方でもある」
と、しゃがれた声で累破蓮斎がこたえた。三人とも能面のような無表情だ。
「なんだと?」
「うるさい。うぬらごとき木ッ端にはわからぬ。麻也姫さまの御一身、また当城の運命にもかかわることだ。だまって、とりつげ」
と、戸来刑四郎が、鋼鉄のような四角なあごをしゃくった。
何とも判断を絶した顔ぶれ、口《こう》上《じよう》の使者で、麻也姫もふしぎな顔をして、彼らに会った。
「石田治部少輔使者としてまかり越した」
と、破蓮斎は、はじめてはっきりと名乗った。曾てはともかくも麻也姫を主人として仕えていた人間が、いまは頭を下げようともせぬ傲然とした態度である。
「治部少輔が申すには、豊臣の大軍を迎え、関東諸城ことごとく一日か二日で降参した中にあって、当城、五月末以来、実に一ト月ちかくもちこたえ、あまつさえ、女人の守る城でありながら、よく寄手に辛き水を酬《むく》いられ候こと、実に感服の至り、これにて太田三楽斎のおん孫としての面目は立ったであろう、三成としても、あたら勇婦を討つに忍びぬ、ここらあたりが手を打つしおどきであろうと存じ、使者を以て申し入る。――」
「手を打つ、とは?」
「つまり、その、何でござる。治部少輔が申すには、若し麻也姫さまお城を出でられるときは、御一命をお助けつかまつるはもとより、城に立て籠る者どもも、いまならば慈悲をかけてつかわすであろう。――」
麻也姫は、じいっと累破蓮斎の顔を凝《ぎよう》視《し》していたが、ふっとかすかに笑った。
「治部も妙な男じゃが、おまえたちもおかしげな男よの」
累破蓮斎は能面に似た無表情のまま、恬《てん》然《ぜん》としてこたえる。
「いや、拙者らは、治部少輔どのの仰せを承わって、命じられた口上をのべたまででござる」
「おまえらの使者そのものが信用ならぬ。治部に、顔を洗ってみずから参れと申せ。水は、見るとおり、たんとある」
「やはり、左様に仰せなさるか? あなたさまなら、御返事はまずこうであろうと、口を酸《す》っぱくして申したのでござるが、ともかくも右の口上を申し入れよとの治部少輔どのの御意で、やむなく推参したまで」
戸来刑四郎が、吐き出すようにいった。
書院の縁側にかしこまって、まだあっけにとられたような顔つきで、この問答をきいていた香具師たちのうち、悪源太がたまりかねたようにさけんだ。
「てめえら、いってえ何だ? さっき、敵でもあれば味方でもあるといいやがったが、まるっきり敵じゃあねえか。いつ敵に寝返りやがった?」
「いままでは、敵の口上」
じろっと縁側の方をふりむいて、刺すような眼でにらんだ御巫燐馬は、しかしすぐに麻也姫の方にむきなおって、冷然といった。
「これからは、味方の北条の手の者として申しあげる。……奥方さま、小田原はちかく豊臣方に降伏いたしまするぞ」
「何?」
「北条の名にかけて、いったん小田原に立て籠ったものの、雲《うん》霞《か》のごとき豊臣の大軍に、当方のあてにしていたくたびれの色も見えず――所詮は勝目なし、との見込みにて、先ごろより内々、御家老松田尾張守さまと上方勢のあいだに開城の条件について打診して参った。これはもとより北条家の運命にかかわる大事、それゆえにまた、たやすうはこれに従わぬ侍どももござれば、右から左へというわけにはゆきませなんだが、ようやくこのごろめどがつき、左様、ひそかに拙者どもの聞き知ったところでは、少くとも来月十日以前、すなわちあと半月以内に開城の約《やく》定《じよう》が成りましたげな」
――ああ、いかん、と縁側でつぶやいた者がある。
昼寝睾丸斎であった。
いま風摩組がいっている事実は、実は彼らにとってはじめて知ったことではない。彼ら自身、小田原にいたころ、はからずもつかんだ事実だ。
それをいままで、彼らは麻也姫に告げたことはない。最初は、そんなことはこちとらの知ったことか、というだけの理由にすぎなかったが、そのうち、女の守るこの城が、寄手の大軍に思いがけぬ変幻自在の反撃を加えるのを見て、わけもなくむしょうに愉快になり、うれしくなり、そんなことも忘れてわっしょわっしょと駆けまわっていた。ときどきふと思い出すこともあったが、しかしいつのまにか、その事実を麻也姫に告げるのが、いたましくって、恐ろしくって、なぜか口にできない気持になっていたのである。
いま。――とんでもない人間から、突如それをぶちまけられて、睾丸斎のみならず七人の香具師みんなが、はっと吐《と》胸《むね》をつかれ麻也姫の方を見た。
麻也姫の顔色は変らない、たいしたものだ。
「その方ら、この城を出て、すぐに治部の犬となったのかや」
とべつのことをきいた。
顔色が変ったのは、三人の風摩組の方であった。怒りに顔が蒼《あお》ざめたのだ。
「奥方さま、拙者どもの申すことを信じられませぬのか」
「治部は、いくさよりも、犬をつかった調略の方を得意とするとみえる」
「まだ左様なことを仰せある。奥方さま、なんのためにわれらの首領風摩小太郎が、先ごろわれらをこの城から呼び戻したか。高言には似たれど、われらほどの者を、いくさまぢかきこの城から、なにゆえわざわざ引揚げさせたか、御思案なされたことがおありか。まさか、あの召喚をも、寄手の調略とはおかんがえなさるまい。――あれはつまり、小田原がこの城を見捨てたからでござりまするぞ」
「いうとおり、左様なことは、かんがえたことはない。そなたらが、なんでこの城を去ったか知らぬが、小田原がこの城を見捨てるはずがない」
と、麻也姫はきっぱりこたえた。
「もとより北条家が豊臣にかならず勝つとはわたしも思うてはおらぬ。けれど、もし敵にいま降参するなら、どうしてそのむねを、この忍《おし》にお知らせがなかろうぞ」
「ば、ばかな! そのような話を、なんで事前に味方の城々に談合あろうか」
「北条の名にかけて、一日でもながくこの城を支えよ、北条家守護のために、一兵でも多く寄手を殺せ――というのが、わたしがこの城をあずかるときにきいた御命令でした」
「その命令を下した北条そのものがゆらいで来たのでござる」
「わたしにその命令を下したのは、北条ではない。わたしの夫、成田左馬助どのです」
七人の香具師が息をのんだくらい、麻也姫の顔はけがれなく、きよらかにかがやいていた。
「わたしは夫を信じます。左様な大事を、左馬助どのから、何のお知らせもないということがあり得ようか」
七人の香具師は顔を見合わせた。――いま、自《じ》若《じやく》としている麻也姫を見て、たいしたものだと感服したが、べつに風摩組のあたえた打撃を、意志の力でおさえたものではない。彼女はほんとうに北条家を信じ、夫を信じてつゆ疑わない心から出た態度であったことを知ったのである。
「よしや、百歩ゆずって、いま北条家の内部に和議の話があるとしても、わたしが何もきかぬ上は――夫からなんの知らせもない上は――最初の御命令のまま、この忍の城を死守するのが、わたしの役目」
はじめて、にっと笑った。
「そのように、治部に告げてたも。そなたら、これにてかえりゃ」
「ああ! 女子と小人は養いがたし」
と戸来刑四郎が、さもじぶんは大人物でもあるかのような長嘆をもらした。
「せっかく、いちどは御味方であったよしみで、御命がたすかるのみか、関白殿下の御寵愛を受けて、栄《えい》耀《よう》栄《えい》華《が》のかぎりをつくす花道を敷いてさしあげようと参ったものを」
「何といやる」
とっさには、その言葉の意味もわからなかったらしい。立ちかけていた麻也姫は、きっとして三人の風摩組を見すえた。三人は、それを、にくにくしげな眼ではねかえした。
「やはり、合わぬ、陰と陽。――では、奥方さま、どうあっても、当分は敵でござるな」
「敵となったは、そなたらの勝手じゃ」
「治部少輔どのの御《おん》下《げ》知《ち》で、やむなく一応は使者の口上をお伝え申したが、実のところは、左様な御返事を待っておったのじゃ。その方が、われらの手柄になる」
三人は、妖気にみちたうすら笑いを浮かべた。
「三日……七日……十日」
と、累破蓮斎は指おりかぞえた。
「奥方さま、それくらいの日のうちに、われら三人の力を以て、ただいまわれらの申したことを、いやでもきいていただく所存でござる」
と、戸来刑四郎がぶきみにおちつきはらっていった。
「はて、何といったかや?」
小首をかしげる麻也姫に、御巫燐馬がこたえた。
「奥方さまのその美しいおからだを、関白殿下にささげる。――それを以て、われらが豊臣家に随身する手土産といたしたい、と申したのでござる」
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おかしな奴ら
――野郎! と、悪源太ががばと身を起すよりはやく、麻也姫が、すっと立ちあがった。
しずかに三人の風摩組の前にあゆみ寄る。凝《こ》った石のように美しい顔であったし、無表情であったし、とっさに判断のつかぬ眼色で見あげた戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》の頬を、
「助《ヤチ》平《モロ》!」
白い繊《せん》手《しゆ》があがって、ピシリと打った。
「馬《ペテ》鹿《ポウ》!」
つづいて、ならんだ御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》の頬が鳴る。
「頓馬《アツタモン》!」
おしまいが、公平に、累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》だ。
あっという間もない平手打ちの連打であったが、むろん彼らほどの忍者が、避けも防ぎもならぬわけがない。それなのに、三人そろって案《か》山《か》子《し》みたいにぶたれっぱなしであったのは、たしかに気をのまれたのだ。だいいち彼らは、麻也姫のさけんだ言葉と、そのひたむきな表情の異様な組合わせに、あっけにとられた。
が、たちまち三人、暗灰色の凶相に変り、同時に素《す》破《わ》とみた七人の香具師、そこにいた家来たちもいっせいに立ちあがった。
しかし、彼らは次にみせた麻也姫の変化に、みな口をアングリとあけた。
彼女は両《りよう》掌《て》で顔をおさえ、ああん、ああん、と泣き出したのである。二万数千の敵に一《ひと》泡《あわ》も二《ふた》泡《あわ》もふかせた勇婦とは思えない、まるで童女のような、あけっぱなしのくやし泣きであった。そして彼女は、そのままあともふりかえらず、泣きむせびながら、バタバタと奥へ駆けこんでいった。
三人の風摩組は、ほんとうに口をあけて、そのうしろ姿を見おくっていた。常人の感情というようなものはないのではないか、とみえた三人の顔に、珍しや、たしかに、間のわるさ、といった表情が浮かんでいる。――
が、すぐに三人は、肩をゆすって顔を見合わせた。
「……他愛もない」
「ともかくも、使者の役目は終った。では」
「ひとまず、きょうのところはこれで引き揚げるとするか」
いわば敵中に乗りこみながら、傍《ぼう》若《じやく》無《ぶ》人《じん》な連中である。ほとんど周囲を無視して、彼らはスタスタとあるき出した。
「ま、待ちやがれ」
悪源太はおどりあがった。顔が真っ赤になっている。
「何しに来たかと思ったら、と、とんでもねえ野郎どもだ。奥方さまを、猿面の人《ひと》身《み》御《ご》供《くう》にするって?――いいも、いったり! そこまでほざいて、ヌケヌケと人間の皮をかぶって帰る気か。そ、そんなことはさせねえ。やい、てめえら、黙ってこいつらを見送るつもりか。この腰ぬけのひょうろくだまめ!」
終りの方は、ふりかえって、忍城の家来たちをどなりつけたのだ。あまりのことに、なおポカンとしていた家来たちも、この一喝にどっと波うって抜刀した。
三人の風摩組は、ひとかたまりになったまま、冷然とそれをながめやった。
「うぬら。おれたちの見せた忍法を忘れたか?」
と、戸来刑四郎が、錆《さび》をふくんだ声でいった。家来たちの刀が凍りついたようにうごかなくなったのみならず、七人の香具師もぎょっとした。
まさに香具師たちもそれを見た。みずからの肉体を解体し、あとでもういちど組み立てて復原する戸来刑四郎、砂場に女の痕《あと》を印し、それにからだを重ね合わせて、その女そっくりに変身する御巫燐馬、触るるものすべて鏡と変じ、その万《まん》華《げ》鏡《きよう》のうちに没し去る累破蓮斎。いずれも超人的といおうか、驚天動地といおうか、いま思い出しても、あれは夢魔の世界の出来事ではなかったかと、信じられないほどの彼らの忍法だ。
思うに、彼らとても、まさかこの日あるを期して、それを忍城で見せつけたわけではあるまい。あのときは、彼らを以てしても押えのきかぬ麻也姫を驚かすためと、もうひとつは、豊臣方の大軍にかこまれた際、城方にやすやすと降伏などさせぬためにデモンストレーションをしてみせたのが、いま逆に、完全な敵として、その記憶を利用しようとしているのだ。
事、志と反す。――しかし、いま彼らの胸に、そんな皮肉ないたみが走ったようにはみえぬ。言葉だけで、城侍たちが呪《じゆ》縛《ばく》されたようになったのを、こちらの恫《どう》喝《かつ》がたしかに効《き》いたとみて、わかったか、といわぬばかりの嘲笑をにじみ出させた。
「きょうは使者だ。使者の用件だけで帰ってやる。――」
「と、申しておるではないか。が、そちらが望むなら――」
「今日ただいまこの場より、相手になるのをいといはせぬぞ」
侍たちが気死したようにうごかないのを、じろっともういちど冷笑の眼でながめわたして、悠然と背を見せた。
廊下に出た。釣《つり》殿《どの》のように、一方の庭はただ満々たる水だ。
「や、野郎、逃げるか」
悪源太ひとり、猛然として駆け出した。
「やれ待て、源太」
あわてて昼寝睾丸斎がおどりあがり、つづいて残りの香具師も追っかける。
廊下の柱のところで、三人は立ちどまった。戸来刑四郎がチラとふりむいて、右から左へ、すっとたぐるような手つきをしたが、それだけで、庭にむかって声をかけた。
「おお、よいところで逢った」
廊下のすぐ下の水の上に、小舟にのっていた七人の女忍者が、だまってこちらを見あげていた。累破蓮斎がいった。
「おぬしら、いっしょに城を出よう」
「――危い!」
いきなりお鶴がさけぶと、青竹の水《み》棹《さお》を持ったまま、舟から廊下にとびあがった。その光景にも眼がくらんだように、がむしゃらに突進してくる悪源太の眼前六尺で、この女忍者は竿をクルリと廻すと、じぶんと三人の風摩組のあいだの空間にふり下ろした。
何もないその空間で、青竹がななめにさっと切れて、尖《せん》端《たん》が廊下に音をたててころがったのを見て、さしもの悪源太が、胆をつぶしてとびずさった。
「風《かぜ》 閂《かんぬき》!」
うしろで、かっと眼をむいて恐怖のさけびをあげたのは、昼寝睾丸斎である。
「……奇怪なことをする」
お鶴をにらんで、つぶやいたのは累破蓮斎だ。
「お鶴、本心か?」
空中に眼に入らぬほどの髪を張り、触れるもの、見るとおり青竹すらも切断する忍法|風《かぜ》 閂《かんぬき》。――その死の罠《わな》から、文字通り間一髪、あやうく悪源太を救ったお鶴は、切れた青竹をにぎって、じっとうなだれたままうごかない。
「うぬら、風摩組の敵か、味方か?」
七人の女たちは、石のように沈黙したままだ。
「どうも解《げ》せぬ。このまえ、そなたらがはじめてこの城にあらわれたときのふるまいも不審であった。あのときは、そなたらの肌文字によるお頭《かしら》のお呼び返しの趣意もよくわからなんだので、正直なところ狐につままれたような思いで、ともかくもわれらのみこの城をひきはらって、小田原へ帰った。小田原に帰ったものの、あっという間にまたこの忍へひきかえす破目になったので、おぬしらのこと、詳しくお頭にきくひまもなかったのじゃが、きょう来てみれば、またもこのへっぽこ香具師どもに味《み》方《かた》面《づら》する」
「…………」
「いまとなっては、いよいよ解せぬ。そなたらも、小田原がいよいよちかく降参することは存じておろう。それに先立って、われらはすでに豊臣方についた。と申すのも、そうと運命がきまったからには、いささかなりとも関白の御機嫌をとりむすんでおいた方が、北条家のためでもあるからだ。その関白は、当城の女あるじ、麻也を手《て》活《い》けの花と愛《め》でたいと仰せある。さればによって、われらは今日使者として来た。それにあくまで敵対しようとするこの無知無頼の香具師どもを、なぜかばい立てする?」
「な、なにい、へっぽこだの、無知無頼だの、だまってきいてりゃあ……」
歯がみしてとびかかろうとする悪源太を、うしろから死物狂いに弁慶が抱きかかえている。前に風閂があるのに、とびかかってはたいへんだ。
その騒動を完全に無視して、累破蓮斎は急にうす気味のわるい笑顔をつくった。
「おぬしら、お頭の御不興を受けて、いとまをいただいたといっておったな」
「…………」
「ならば、おれたちが詫びを入れてやる」
「…………」
「おなじ風摩組ではないか。女とはいえ、おぬしらほどの者を手ばなしたお頭の気がしれぬ。何がもとか知らぬが、あらためてお頭におれたちが詫びてやるゆえ、さ、いっしょに城を出よう」
「出ちゃいかん」
突然、昼寝睾丸斎が悲鳴のようにさけんだ。
「出たら、おれたちの敵となるぞ。わかっておるか?」
「なんだ。もともと敵じゃあねえか。睾丸斎、何をいい出すんだ。かまわねえから、出しちゃえ、出しちゃえ」
と、にくにくしげに悪源太がいった。
「いいや、出てってくれ。やい、そこの三匹の化物の雄《おす》、つれてゆきたけりゃ、この七匹の雌《めす》の化物を勝手にひっぱってゆきやがれ。束《たば》にして、おいらが相手になってやる」
「源太、だまれ」
と、睾丸斎は叱った。その押えた叱り声より、にらんだ眼が、睾丸斎らしくもなく必死であった。
「風摩の女衆。こやつの口の悪いのは先刻御承知じゃ。しかも、こいつ、惚れた女にはいよいよ心にもない悪口をはきちらすというくせがある。――源太の本心を見ちがえなさるな」
「…………」
「源太はおまえさまがたに惚れておる。いつかは抱いて、心ゆくまで可愛がってやりたいとよく申しておる。それを、いまおまえさまがたにゆかれては、何もかも水の泡になる。――」
「…………」
「源太に抱いてもらいとうはないか」
――何かわめこうとした戸来刑四郎の袖を、このとき御巫燐馬がふいにひいた。
「待て、思いあたることがある」
「何だ?」
「あの源太と申す奴、女に対してふしぎな力を持っておる。――」
何か思い出すような――美貌だが、険のある燐馬が、このときからだの内部の痒《かゆ》みをかきむしられるような、ぼっとした眼つきをしていた。
「きゃつが?」
戸来刑四郎が奇妙な表情で、その燐馬の顔と悪源太を見くらべたが、
「ばかな! 風摩の女忍者ともあるものが――」
と、肩をゆすって、
「ゆくぞ、さあ、ゆこう」
と、あごをしゃくった。
庭の小舟はうごかない。七人の女忍者は、凝《ぎよう》然《ぜん》として身じろぎもしない。累破蓮斎がいらだった声を出した。
「これ、そこの無頼の香具師にいかなる男としての魔力があるか知らぬが、風摩の女が左様なものにたぶらかされるとは信じられぬ。それとも――もし、あくまでもその男にくっついて離れぬとあらば、未来永劫、魔天の世界までもおれたちの敵となるが、それも承知か?」
七人の女の顔から血の気がひいた。
睾丸斎がまたさけんだ。
「源太の味を忘れたかや、女衆」
七人の女の頬が、こんどはぼっと血の色をのぼした。
「ええ、面倒だ。治《じ》部《ぶの》少輔《しよう》どのがお待ちかねじゃ。おれたちはもうゆく。しかし」
と、累破蓮斎がいった。
「あらためて、おれたちは来る。今夜にもまた来るかも知れぬ。麻也を関白へささげるために、豊臣方忍者として来る。その目的をとげるためには、幾夜でも来る。二万数千の寄手は防げても、おれたちは防げぬ。おれたちを敵としたら、いかに恐ろしいかは、ほかの誰より、そなたらが知っておるはず。こんど来るときまでに、よくかんがえておけ。――」
そして、袖うちはらい、あともふりかえらず、長い回廊を表へあゆみ去っていった。
「待て、待て、待て」
うしろで、必死に悪源太をおさえているのは、睾丸斎の声である。
「悪源太、話がある。待て」
水の上の女忍者は、この間ついに一語をも発せず、小舟は、さざ波すらも凍りついたかのごとくうごかなかった。
話がある、といって、廊下沿いの一室に仲間をひきいれて、車座になって、さて睾丸斎がいい出したことは、いかにも睾丸斎らしく唐突なものであった。
「瓢《ひよう》箪《たん》の由来がわかった」
「瓢箪の由来?」
「風摩小太郎が、千成瓢箪を盗ませたわけがよ」
「へへえ、あれがいったいどうしたってんだ」
「北条がの、降参の気を起したのは、いつごろじゃったろうか。内々の話はもとより知らんが、わしたちが最初に小田原城に入ったころには、まだそんな気配は見えなんだな。風摩が石田の忍者を黒犬にかえて追い返したくらいじゃから。それが、つらつらかんがえると、二度目に小田原へいったときには、もうあやしくなっていたと思う。――」
「おい、睾丸斎、瓢箪の話はどうなったんだ」
「つらつらかんがえるに、あれは豊臣方への示威じゃ。瓢箪が盗まれたことは、豊臣方でもすぐわかることだ。関白の馬じるしでも盗む。事と次第では、関白の首でも盗めるのだぞ――というおどしをかけて、降参の条件を少しでもよくしようってえ魂胆だ」
「なら、いっそ秀吉の首をとりゃいいじゃあねえか」
「それが、そうはゆかない。この土壇場となっては、たとえ秀吉の首をとったって、城の落ちる運命はまぬがれるとも思えない。秀吉の代りに立つ大将よりも、大気の秀吉を相手にした方がまだ脈がある、とこう見たのじゃな」
「ははあん、なるほど、あの瓢箪盗みはそういう意味か」
「風摩小太郎の知恵じゃろう。それは北条方の条件をよくする意味もかねて、音にきこえた風摩組の凄味を、ちょっぴり見せておきたいという山ッ気もあったろうて。いま、つらつらかんがえるに、じゃな、あの風摩は、北条方の降参が、どうやら気にくわんようだ」
「あたりまえだ」
「主家の方針が降参ときまった以上、忍びの乱波としてはそれに従うよりほかはないが、風摩組の腕におぼえがあるだけに、いま思いかえしても、鬱《うつ》々《うつ》悶《もん》々《もん》、少々ヤケ気味になっておったふしもある」
「はて、そんな気味が見えたかね」
「降参話の張本人、松田尾張の伜《せがれ》の弾三郎が、それ源太にとっちめられてキューキューいってやがったとき、見て知らん顔をしていたのがその一つ、瓢箪盗みもその一つ、或いはせっかく忍者として育てかけたおれたちを、女の忍者まで加えて、この忍へよこしたのもその一つじゃああるめえか」
「どうしてそれが風摩のヤケになる」
「あの大将、松田尾張の命令で、この城におる累《かさね》、戸《へ》来《らい》、御《み》巫《かなぎ》の三人を呼びもどさなけりゃならねえ破目となった代りに、せめておれたちをよこして、少しはものの役に立つように、と。――」
「へっ、大将、そこまでおれたちを見込んだか! いいとこあるぜ!」
夜狩りのとろ盛が、ひたいをたたいてよろこんだ。
「そういや、あのお頭、おっかねえ大将にゃちげえねえが、どこか面白いところがあったよ。――睾丸斎、それじゃ、あのお頭はこっちの味方か」
「そうとはかぎらねえ。ともかく北条家の乱波だからな。うれしがるな。見込んだというより、少々なげやりだよ。勝手にしろってところだよ。ヤケ気味といったのは、そういうわけさ。こうかんがえなくちゃ、おれたちを忍へよこしたわけがわからねえ」
「――ところで」
と、七郎義経が、ノッペリした顔をひねりまわした。
「こっちの味方だの、おれたちが忍の城の役に立つの――とか何とか、もうきまったようなことをいうが、おれたちゃ、いってえだれの味方だい? おめえら、ほんとに忍の城の役に立つつもりかね?」
「馬鹿野郎!」
義経はひっくりかえった。悪源太が猛烈な平手打ちをくわせたのだ。
「てめえ、さっき奥方の泣いた顔を見たか。あんな奥方の顔を見たのは、おりゃはじめてだ。敵に恥をかかされて、ワンワン泣いてる女を見捨てて、それでもてめえ、神《しん》農《のう》直系の香具師といえるか!」
悪源太の満面は紅《くれない》に染まり、その眼には涙さえ浮かんでいた。
恐ろしく立派なタンカをきったが、何、いままでさんざん女に恥をかかせて、泣いている女をあとにスタコラ三十六計をきめこんできたのが彼らの人生なのである。そんなことはケロリと忘れはてて、あたまから湯気をたてて絶叫する悪源太の顔を見るのははじめてだが――おかしいことに、あとの六人も、それを笑うどころか、おなじようにガラにもない涙をうかべて、
「そうだ、その通りだ!」
と、いっせいにさけんだ。滑稽なことに、義経までがそうさけんだ。
あんまり意見がみごとに一致したので、しばらく車座の上にキョトンとした空気がおちたが、すぐに悪源太が、
「ヨツにカマるのはそのあとだ」
と、うめくようにいった。陣虚兵衛がきく。
「なんのあと?」
「いまの三匹の化物を退治したあとだ!」
「その通り!」
弁慶が吼《ほ》えて、
「あの可愛いらしい奥方を、なんで狒《ひ》々《ひ》の干物のような秀吉の人身御供にしてなろうか。きいたか、みんな、さっきの奥方のタンカを――あの三人を、ヤチモロ、ペテポウ、アッタモンと、下賤なる香具師の言葉を以てお叱りなされたぞ。ああ、この光栄、何ものにしかん。――」
途中からふるえ声になると、あとはたまりかねて、おいおいと泣き出した。あまり物凄い、牡《お》牛《うし》のごとき号泣なので、みなポカンとそれを見下ろしていたが、やおら一座をひきしめるように睾丸斎がいった。
「しかし、相手はあの人間ばなれした奴らだぞ」
「承知の上だい」
「死物狂いの悪戦苦闘だぞ」
「覚悟をしてらい」
返事は、異《い》口《く》同《どう》音《おん》、颯《さつ》爽《そう》としている――といいたいが、しかし、だれの声だか、たしかにふるえ声もある。或いはみんなのふるえ声であったかもしれない。
七人の頭を、あの三人の風摩組の忍法が幻影のごとくかすめ、身の毛がよだった。――しかし、いかに承知の上だといい、覚悟をしているとはいったものの、この日以後の幻怪無比、凄惨のかぎりをつくした死闘の相と、その果てを、七人の誰がいま思い描《えが》いたであろうか。
涙の浮かんだ眼で、昼寝睾丸斎は仲間を見まわし、ゲラゲラ笑いながらいった。
「しかし、奇態なことになったぞ。いや、おたがいに、どうも奇態な奴ばかりだなあ」
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死闘の開幕
「ほんのこないだまで、麻也姫さまを三人の風摩組が守って、こっちが攻める役割だったはずなんじゃが、まったく以て妙ちきりんなことになりおった。なんの狂いで、こうひっくりかえっちまったか。――」
と、睾丸斎はくびをひねる。
しかし悪源太は、このとき、そいつははじめから決《きま》りきっていたことであったような気がした。はじめから?――麻也姫に足で顔を踏んづけられたときからか、ときかれるとわからなくなるが――いや、それどころか、じぶんが生まれ、麻也姫が生まれたときから、そいつは決っていたんだ、といいたかったが、しかしそんなことを白状するのは、恥ずかしいから黙っていた。
「しかし、よかろう、面白い」
と、睾丸斎はどじょうひげをしごく。
「面白いというのはな、どうじゃい、さむらいの世界のだましッこは、――上方軍の方では、徳川が関白を裏切ろうとしている、という密書を持った忍びの者が殺されて、そいつは北条方の反《はん》間《かん》の計じゃと、こっちは大いに見破ったつもりでおったら、それは関白の懐《ふところ》 刀《がたな》石田治部のたくらみじゃという。いうのが徳川だから、それもどこまであてになることやら知れたものではない。敵がそうかと思うと味方では、北条家|重《じゆう》代《だい》の家老松田尾張守がひそかに降参の気脈を通じ、その降参がまだ日の目を見ぬうちに、これまた北条家名代の風摩組が薄闇の中を這いまわり、いや薄闇どころか、もはや大っぴらに、味方の大名の奥方を、敵の大将秀吉に売ると公言しおる。これじゃ、人をだますことを以て本願とするおれたち香具師も、まったくの顔まけだ」
「どこが面白い。ちっとも面白くねえ」
と、陣虚兵衛がにがい顔でいった。
「いや、面白いというのはよ、そのさむらいどもの世界に――人もあろうにおれたちが、人間としてまっすぐの道を通そうとすることよ」
「まっすぐか」
「まっすぐすぎらあ」
睾丸斎は苦笑した。
「かんげえてもみろ、当面攻めてくるのは三人の風摩組だけだが、その三人があの通りの化物じゃ。そのうえ、きゃつらの背後には石田治部がおる。いや、もはや天下取りときまった関白秀吉がおる。しかも、この忍の城は、いまや味方の北条家からも見はなされた。――」
「…………」
「この眇《びよう》たる城は、いまや六十余州に孤立無援」
「…………」
「麻也姫さまも、この空の下にただひとり」
「だから――だから、おいらたちが一ト肌ぬごうといってるんじゃあねえか」
「面白いというのはそこよ。いずれにせよ、助かる道のねえ女ひとりを助けるために、いわば天下を相手に一ト合戦をやろうとする――ようなもんじゃ。そのへそまがりのところが、われながら大いに気にいった。面白い」
「おい、睾丸斎、ほんとうに麻也姫さまは助かる道はねえのか」
夜狩りのとろ盛が、泣くような声を出した。
「風摩組にさらわれなければ、百万の大軍がのしかかってくる。……助かる道があるか?」
「助ける。おれたちが助ける」
と、悪源太がいった。
「先のことは知らねえ。そんなことあ、神さまだってわからねえ、とにかく、あの裏切者の畜生どもに眼にものみせてやる。おれのかんげえているのはそれだけだ」
「その通りだ。おれたちに出来るのは、それだけじゃ」
と睾丸斎がいった。
「とはいうものの、それだけがむずかしい。なんどもいうが、あいつらは人間離れのした化物だ」
「睾丸斎、いまさら仲間をおどして、こわがらせようというのあ、おめえらしくねえぞ」
「いや、覚悟をうながしただけじゃ。はじめから、わしはやる気でおる。そもそも、ここへみんな集まってもらったのは、その風摩組とやりあう兵法を練らんがためよ」
「兵法?」
「おお、真正面からやりあって、きゃつらに歯の立つ道理がない」
悪源太は歯がみをしたが、何もいわなかった。睾丸斎はいう。
「向うがほんものの忍法を使うなら、こちらは香具師忍法を使うよりほかに手はねえ」
「香具師忍法とは?」
「それが、こっちにもよくわからん」
心ぼそいことをいう。
「相手は、あらかじめ、おいそれと手立てもかなわぬ化物じゃが、それでも、こっちのつけめがただ二つある」
「それは?」
「向うは麻也姫さまを殺そうとやってくるわけではない。生《いき》身《み》のままさらわねば何にもならんのじゃ。ところが、麻也姫さまは、万一のことがあれば、舌をかんでもお死になさるだろう。それが、きゃつらにとっては弱味となる。――先刻、なんの手も出さず、ひとまずおとなしゅう引揚げていったのもそのためじゃ。もとより、ああ公言した以上、何やら自信はあるのじゃろうが、とにかく向うにとっても厄介な、手数のかかる細工が要ることにまちがいない。少くとも、三人そろって、風《かぜ》 閂《かんぬき》で撫で斬りにして乗りこんでくる、というような真似はできぬはずじゃ。そこに、こっちのつけこむ余地がないでもないように思う。それが、一つ」
「…………」
「もう一つは、それ、あの女忍者よ」
「あれをどうする」
「あれを楯《たて》にする」
「あいつら――ほんとうに味方か、敵か」
「味方にするのじゃ。源太の力で」
源太は唐辛子をなめたような顔をした。
「あいつら、まだ迷うておる。――三人の風摩組へのこわさと、源太恋しさと。それを迷いのねえように、こっちの味方にひきつけるのじゃよ」
「おれは、三人の風摩組と、あの七人の女とどっちが怖えかわからねえくれえだ」
「その怖え七人の女を、味方につけねえ法ってあるか」
「怖えというのあ、そんなわけじゃあねえ。味方にする法が、よっぽど怖え」
「おい、真《ま》っ向《こう》から三人の風摩組とやりあって、ひけをとらねえ自信があるか? あるといったら、そりゃ嘘だ」
「…………」
「おめえのためじゃあねえぞ。麻也姫さまのためだぞ」
悪源太の背がしゃんとなった。軍師昼寝睾丸斎はニヤリとした。
「源太、耳をかせ」
何とささやいたのか、声は聞こえなかったが、見当はつく。
それにしても、たったいま、人間としてまっすぐの道を通す、だの、孤立無援の女と城を助けるために、天下を相手に一ト合戦をやる、だの、鬼神をも哭《な》かせるせりふを吐いた本人が、べつの女を楯にしろという軍略をひねり出したのは、万《ばん》やむを得ないことだろうが、大いに矛盾している。それをべつに当人もほかの連中もふしぎに思わないらしいが、そこが香具師の香具師たるゆえんかもしれない。
――数分ののち、七人の香具師は、座敷を出て、もとの縁側にもどった。七人の女忍者は、さっきのまま、依然として、縁側のそばの小舟に寂《じやく》然《ねん》としてうなだれている。
「風摩の女衆」
と、睾丸斎は呼びかけた。
「先刻からのなりゆきで、ほぼ見当もついたろうが、例の風摩組、敵に寝返って、当城の奥方を関白秀吉へ人《ひと》身《み》御《ご》供《くう》にしようと望みおる。何とも気にくわんから、おれたちゃきゃつらを相手に一ト合戦やる腹をきめた。むろん、麻也姫さまへの恨みは忘れぬ。しかし、それは暫時おあずけ、あとまわしとする。おれたちの男の意気地、よう汲んでもらいたい」
まじめくさった、むしろおごそかな声であった。
「ところで、おまえさま方、おれたちを助けてくれるか、どうかじゃ、助けてくれるなら、条件を出す。あの三人をみごと斃《たお》し、麻也姫さまをヨツにカマったら――ヨツにカマるとは、その、強淫するということじゃが――こんどこそは、おまえさま方をつれて、源太は心おきなく旅に出ると申しておる」
これは、すごい早口だ。七人の女は顔をあげた。
「……それは、まことでございますか」
「……いままでも、何のかのと申されて」
「……どこやら、あてにならぬあなた方です」
当然ながら、疑惑にみちたまなざしであった。睾丸斎はいよいよせきこんだ。
「あてにならぬ男が、かような決死のいくさを思い立つか。敵の恐ろしさは、おまえさま方こそよく知っておるはず――わしがうけ合う、源太にきっと、おまえさま方を抱かせる!」
そうわめきながら、彼はいやというほど悪源太の胴をこづいた。源太が歯のあいだから、舌といっしょに声をおし出した。
「おれもうけ合う」
一息入れて、
「しかし、おめえら、あの三人が怖くって、逃げ出してえか? 逃げてえなら、いまのうち――」
弁慶が、うしろからその口をふさいだ。七人の女忍者はそれを見つめたまま、沈んだ声でいった。
「怖ろしゅうございます」
「助けろと申されても」
「あの三人の衆に打ち勝つには、わたしたちの忍法はあまりに弱うございます――」
「でも。――」
源太を見あげている十四の眼は、恍惚とけぶって、しかもそのけぶった奥から女《め》豹《ひよう》のひかりをはなつ眼であった。
「逃げるつもりなら、わたしたちはこの舟で、いままでここにとどまってはおりませぬ」
麻也姫さまの居城を本丸と定めず、夜毎に転々と移す。
これは昼寝睾丸斎のまず思いついたことだが、それを進言することは彼はやめにした。進言しなくても、麻也姫は以前から、或いは二ノ丸に、或いは三ノ丸に、或いは遠い櫓にと、防備をたしかめ、兵をはげますために、天衣無縫にねぐらを定めていたからだ。
それでは、七人が麻也姫さまの枕《ちん》頭《とう》の騎士として侍《はべ》る。「侍りたい」――と、馬左衛門が、がらにもなくからだをくねらせてさけんだが、むろんこんなことがきき入れられるはずはない。枕頭どころか、そのちかくにすら、彼らがめったに寄りつくことはゆるされなかった。麻也姫ではない。麻也姫さまのお耳に達するまえに、睾丸斎がおずおずと、ちょいとほのめかしただけで、老臣の正木丹波や酒《さか》巻《まき》靭《ゆき》負《え》などからジロリとした一にらみで黙《もく》殺《さつ》されてしまったのである。彼ら自体、敵の風摩組におとらず胡《う》乱《ろん》な奴、と思われているのだからしかたがない。
麻也姫のまわりには、たえず十数人の侍女が薙《なぎ》刀《なた》をかかえて従っていた。七人の香具師はそれをときどき遠望しながら、ちかづき得る際限の位置まで迫って、ウロウロしているよりほかはなかった。
「しかし、心配なことだな」
「歯がゆくもあるな」
「それより、こちらが情けねえじゃあねえか」
一種の水門のようになった石垣の上で、十四本の毛《け》脛《ずね》をならべてぶら下げて、七人の香具師がぼやいていると、すぐ下の水路を、一艘の小舟がはやい速力で外へ通りぬけようとした。
「やっ、どこへゆく」
「下《しも》忍《おし》口《ぐち》の方へ」
乗っているのは、七人の女忍者だ。助太刀を依頼した彼らも、麻也姫のうごきに気をとられて、ふと彼女たちのことを忘れていたが、依頼された女忍者の方も、彼らを完全に無視して、あの約束以来、何やらいそがしげに城内を小舟で往来していた。
「下忍口へ、何をしに?」
「敵の忍びをふせぐ網を張りにゆきます――」
「何――敵は下忍口から忍びこむというのか」
「わかりませぬ。いつ、どこから入ってくるか、果してそれをふせぎきれるかどうかはわかりませぬが、ともかくも目ぼしいところをこうして駆けまわって、網を張っているのです」
「網?」
「正しくいえば、風《かぜ》琴《ごと》と水《みず》琴《ごと》を」
小舟は水門をすべりぬけて、もう遠い黄《たそ》昏《がれ》の水の上へ消え入ろうとしていた。
「――何ていったっけ? 風琴と水琴――とかいったな」
「そりゃなんだ?」
ポカンとあとを見送って、七人の香具師はくびをひねったままだ。ややあって、睾丸斎が苦笑した。
「そりゃ、何か知らんが、風摩流の忍法に相違ない。どうじゃ、わしの見込み通り、役に立つじゃろうが。――こちとらよりも、役に立つ。それにしても、こちとらはこうして手持無沙汰に、石垣に毛脛をぶら下げているよりほかに芸がないとは、いや情けない話ではないか」
風琴、水琴。
それは空中に、或いは水中に張りめぐらした女忍者自身の髪の毛であった。それは長くむすびあわせて、一条か二条にすぎないが、草や水や闇にまぎれて、それに気づかぬ何者かが、若《も》しこれに触れたときはたちまち微妙な音を発する。
これを琴と称するのは、もとよりなぞらえただけであって、琴のような音を出すわけではない。それどころか、いかに静寂な中にあっても、常人にはなんの音もきこえない。
その音を、彼女たちは聴く。彼女たちは大地に一方の耳をピタリとつけ、大空にもう一方の耳をむけて、その微かな音波の旋律をききわけるのだ。その距離は約百歩に及んだ。
聴取可能範囲はそれくらいだから、むろん、忍城の周囲にことごとく風琴乃至水琴を張りめぐらしたところで無駄だ。また小城とはいえ、周囲二里半にわたってこれを張るとなれば、彼女たちの髪の毛をすべて切ったとしても追いつかないだろう。
しかし、そこは忍者同士だ。蛇《じや》の道は蛇《へび》で、忍者が潜入するのに、どこをえらぶかは、まず大体の見当はつくと見える。――その見込みに従って、七人の女忍者は二里半の距離にちらばった。
女忍者のひとりお雁は、その水琴の音をきいて、ムクリと闇の中にあたまをあげた。二ノ丸と本丸をへだてる土堤の草の上だ。砂をまいたような銀河の下であった。――六月二十四日、実に三人の風摩組が、不敵な挑戦の宣言をのこして去ったその当夜のことである。
その地点に達するまでにも、あちこちと風琴水琴は張ってあったはずだが、それには触れず、どこをどうして入ったか、膝まで達する水の中を、黒い影は妖《よう》々《よう》として歩いて来た。まるで水上を歩んでいるような速度なのに、水の音はまったくきこえない。
水琴が、風琴の音に変った。影は土堤に上っていた。
星空の下、しかもだんだんちかづいてくるのに、かえってその姿が半透明にぼやけてくるような錯覚を起す。――こちらがふつうの人間ならば。
しかし、草の上に坐ったまま、お雁は呼んだ。
「戸《へ》来《らい》どの」
影は立ちどまり、こちらを見た。
「お雁か」
山彦のごとくこたえたはさすがである。お雁はしずかにいった。
「あなたをここで待っていたのです」
「おぬし――敵か、味方か」
「敵でもあれば、味方でもあります」
お雁は、きょう戸来刑四郎が麻也姫に嘲笑とともにこたえた言葉とおなじことをいった。しかし刑四郎は、おのれがきくときは、嘲笑とはとらなかったらしい。
「奇怪なことをいう。まったく以て、おぬしらのふるまいは奇怪だ。いったい、どうしたのじゃ?」
「それについて、あなたにきいていただいて、お救い願おうと――」
お雁の言葉を、刑四郎は疑わなかった。風摩組の女忍者が、風摩組を裏切ろうとは――じぶんたちが裏切者のくせに――信じられなかったのだ。
戸来刑四郎は、お雁とならんで、星影の下の草に坐った。
お雁は切々と、風摩の忍法に鍛えられたじぶんが、あの無頼の香具師悪源太の魔力にとらえられてのがれられない想い出と苦悶を訴えた。その訴える言葉の内容もさることながら、その調子に刑四郎はうごかされた。感動したのではない。肉欲にだ。お雁の話は次第にあらわな性愛の具象的な叙述にわたってきたし、それにその態度は、かすかな身もだえ、あえぎ、さらに或る時期の牝獣に似た芳香をすらはなって、彼を挑発するに十分であった。
「ば、ばかばかしい。――」
ふいに肩をゆすって、彼は女の胴に腕をまきつけ、ひきずり寄せた。
「お雁、こちらを向け。……風摩組に男がいないわけではあるまいし――いや、あのような風来香具師に、おぬしほどの女をとられたとあっては、風摩組の恥だ」
肉欲もあったが、ここでこの曾《かつ》ての同僚たる女忍者を、その肉体とともに心をも奪いかえし、今夜の麻也姫誘拐という一仕事の役にもたてようと思ったのである。
刑四郎は、お雁をおしたおし、のしかかった。草の上で、忍者同士の愛撫は獣めいてあらあらしく、且《かつ》奇怪であった。刑四郎の鋼鉄のような腰は、女の腰に鞭さながらの音をたてた。悲鳴に似た声をはなちながら、お雁の舌は刑四郎の口の中でのたうち――彼ののどの奥まで這いまわった。
突然、その女の舌が、刑四郎の口からぬきとられた。同時に彼の歯が、音たてて噛み合った。――ふたりのからだがクルリと上下入れかわり、お雁はとびはなれた。
しかし、戸来刑四郎はあおむけにひっくりかえったまま、起《た》ちあがらない。四肢を弓なりにして大地にそりかえったままだ。星影こそ空にはあるが、模《も》糊《こ》たる地上――そして、いよいよ模糊たる男の股間に、キラリと一本の針が銀光をはなっている。
「風摩忍法、子《こ》宮《つぼ》針《ばり》。――」
さすがに肩で息をつき、しかし乱れ髪をふりはらって、お雁は笑った。
「刑四郎どの、きのどくじゃが、源太どのとの約束で、おまえに死んでもらわねばならぬ。おまえほどのおひとが、わたしたちに子宮針の秘術があったのをお忘れか。針の先には毒が塗ってある。その毒は、一息つくまに、おまえのからだじゅうにひろがってゆく。――」
苦悶していた戸来刑四郎の右腕が、びゅっとうごいた。何が一《いつ》閃《せん》したのかわからなかったが、その刹那、針で刺し通されていた小「刑四郎」は、その根《ね》本《もと》から切断されて草の上におちていた。
彼が薙《な》いだのは、これまた一すじの髪の毛であった。その髪の毛の一薙ぎで、彼はみずからの男根を切りおとしたのだ。そのまま彼は、蓑《みの》虫《むし》のようにころがって、向うへ逃げた。
「――忍法、風《かぜ》 閂《かんぬき》!」
そうと知って、驚愕してお雁は身をひるがえして逃げかけた。が、突如また反転して、彼の方へ向きなおった。その手には懐剣がひきぬかれて、ひかっている。
「刑四郎どの。覚悟」
声はつづきかけて、そのままぷつりと切れた。
お雁ののどぶえに、剃《かみ》刀《そり》で斬られたような痛みが走った。白いのどに、夜目には見えぬほどのひとすじの髪、それが刑四郎の風閂であることに気づいた刹那、彼女は棒立ちになっていた。
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斬ろうと思えば、青竹すらも断ち、縛ろうと欲すれば大の男さえも大地に磔《はりつけ》にする忍法|風《かぜ》 閂《かんぬき》。
ただひとすじだが、その恐るべき髪にからまれたと知った刹那、女忍者お雁は反射的に手をくびにあげようとした。反射的に、というのは、その風閂が、彼女の力を以てしても容易には切りほどけぬことはよく知っていたからだ。
「手をうごかしてみろ。……その首が落ちる」
うしろで、戸来刑四郎がいった。
星《ほし》月《づき》夜《よ》の下にころがって、ながく結び合わされた髪の毛を片手ににぎったまま、彼は尺取虫みたいに這って、草の中から何やらひろいあげた。
みずから斬りおとした彼自身の男根だ。ほそい針がその尿道の尖端から銀光をはなって突出している。いまお雁はそれを「子《こ》宮《つぼ》針《ばり》」といった。針はあらかじめ子宮内になかば挿入され、子宮口から膣《ちつ》腔《こう》につき出していたのだ。
風摩組の忍者すべてが、おたがいの忍法を知っているわけでない。すべてを知っているのは首領の風摩小太郎のみだ。忍法者どうしは、むしろおたがいにそれをかくそうとしている。――とはいえ、おなじ一党の内部だから、当然知っていることもある。この場合、戸来刑四郎は、お雁にこの忍法のあることは承知していた。しかし、いま、まさかそれをじぶんに試みようとは、不覚ではあるが予想もしていなかった。
いま、おのれの男根を手にとり、チラと股間を見る。いうまでもなく、みずから切断した肉体をあとで接合復原するという忍法「落花もどし」が、彼の脳中をかすめたからに相違ない。――が、見よ、銀針につらぬかれた肉《にく》筒《とう》は、夜目にも暗紫色と変りつつある。……
「ううぬ」
うめいたのは、すでにそれをつなぐことは不可能と知った痛恨の声でもあったが、また、切断直前に体内に流入した一部の毒による苦悶の声でもあった。
「お雁」
と、しかし戸来刑四郎はいった、ぞっとするほど沈んだ声《こわ》音《ね》だ。
「麻也姫はどこにおる」
お雁は答えない。抵抗して、沈黙しているのではない。声が出ないのだ。いや、息もできないのだ。のどに巻きついた風閂は、文字通り、生命のかんぬきのごとく彼女を絞めあげていた。
お雁は、じぶんの失敗を知った。みずからの男根とともに毒針を斬りすてた戸来刑四郎は死なぬ。しかし、とみには彼は起てないだろう。――そう承知しているのに、彼女はどうすることもできない。ただ髪ひとすじの首《くび》枷《かせ》、しかしそれは、およそ人間として味わい得る最大の拷《ごう》問《もん》であった。
「ああ、そうか、声が出ぬか」
刑四郎は笑った。憎悪にもえたぎった笑いだ。
しかし、同時にくびの髪がゆるみ、お雁の息がかよった。
「言え、麻也姫は今夜どこにおる。本丸か、二ノ丸か。――やい! 手をあげるな、手をあげようとすると、肩の肉のうごきが髪につたわる」
また風閂の緊縛がしまった。二間はなれ、毒になかばしびれながら、その絶妙の手さばきは、鵜《う》匠《じよう》のごとくお雁に苦悶の脈波をおくる。
「よし、きかぬでもよい。きいてもそこへ、おれは即座にはゆけぬ。うぬがゆけ。いって奥方をただひとりここへつれてこい。どんな口《こう》上《じよう》で奥方をここへつれてくるか、その才覚はうぬにまかす。――何にしても、刑四郎は手ぶらではかえらぬのだ。麻也姫をさらう第一番の籤《くじ》にあたったのはこのおれだ。よいか。おれは麻也姫をつれてかえるぞ――ゆけ」
かたちなき鉄の鞭にあてられたようにお雁はあるき出した。
「風閂は一町までのびる」
背後で、自信にみちた刑四郎の声がきこえた。
お雁はもはや理性を失った人間のようにあるいてゆく。そのうしろに、眼にみえぬながい髪の毛をかぎりもなくスルスルとひいて。
たとえ、彼女がどこまで遠ざかろうと、この髪のつづくかぎり、彼女はのがれられぬ。切ることはおろか、手をあげることもできぬ。いや、その苦痛のために、抵抗や謀《む》叛《ほん》気《ぎ》や、正常の理性すら縛りあげてしまうことを、髪の末端をにぎった戸来刑四郎は知っている。
一町離れようと、彼のこぶしは、生けるがごとく風閂をあやつる。女の発する声帯のひびきはその音波を彼の指頭につたえ、逆にその指の一弾発によって、女の首を切断することも可能なのだ。
忍城の内外になお水はひろがっていたが、水攻めの失敗以来、その深さはいちじるしく減じて、城内のところどころには土があらわれ、つながっていた。その土の上を、お雁は夢遊病者のようにあるいてゆく。――本丸の方へ。
本丸の入口にちかい石垣の下に、悪源太と睾丸斎と陣虚兵衛と、そして女忍者のお鶴が立っていた。三人の香具師は、それぞれ槍を片手についていた。
たったいま、外《そと》廓《ぐるわ》の持田口付近を見張っていたお鶴が駆けつけてきたところだ。そこに張ってあった風琴、水琴が破られているのに気がついたが、こちらに異状はないか、という。――むろん破られたときはおろか、敵がそれに触れただけでも、本来ならその音を聴くはずだが、何しろ守備範囲がひろいので、そのとき彼女はその地点から、百歩の聴取可能範囲外にいたらしい。――しかし、こんなことを悪源太たちに説明してもしようがないから、お鶴はただ敵の忍者侵入の形跡があるとだけいった。
「なに、もう来やがったか!」
悪源太は眼をピカとひからせて、武者ぶるいして槍をとりなおした。
「ござんなれ、よし、ここで一匹のこらず退治してくれる。網の破れたのは、どっちの方角だ?」
「では、まだここには来ないのですね」
と、お鶴はいったが、すぐにあわただしくくびをふって、
「いえ、たとえ来ても、あなた方には見えたかどうか、おぼつかない。――」
「たとえ来ても、奥方さまは本丸にはおられんよ」
と、睾丸斎が鸚《おう》鵡《む》がえしにいった。
「奥方さまは、一刻ほど前、例によって御巡視のため二ノ丸の方へ廻られた。――」
「あっ、そうだった!」
と、悪源太はわれにかえった。
麻也姫さまのゆくえは大いに気にかかるが、七人ゾロゾロくっついて歩くと、老臣や侍女たちに妙な眼で見られるので、あとの四人――弁慶と義経ととろ盛と馬左衛門がそのあとを追い、彼ら三人はここでお帰りを待つことにしていたのであった。
「はて、本丸と二ノ丸のあいだには、たしかお雁がいるはずですが」
と、お鶴はくびをかしげた。
「お雁からも、何ともいって参りませぬかえ」
――そのとき、陣虚兵衛が「や?」とかすかな声をあげて、二ノ丸の方角の闇をすかし、
「来た」
と、さけんだ。
「敵か!」
「いや。――どうやら、お雁らしいが」
ショボたれた眼をしているくせに、視力だけは忍者におくれはとらぬ陣虚兵衛だ。
「いやにしずしずと、能のような足どりでやってくるぞ」
星影の下を、黒い姿がひとつちかづいて来た。
「足どりばかりじゃねえ。顔までが能面のようじゃ。はてな、何やら口をうごかしておるが、声はきこえぬ」
「わたしは、戸来刑四郎の風閂に縛られています」
と、すぐそばで女の声がして、ツツとお鶴が前に出た。お雁ではなく、お鶴の声だ。お鶴は夜目にも愕然たる顔色で、お雁を見ていた。いや、お雁の声なくうごく唇を見つめていた。
「――わたしがこれから声に出していうことはみんな嘘、唇だけでしゃべる言葉がほんとうです」
むろん、これもお鶴の声だ。読唇術。――お鶴は、お雁の唇のうごきで、お雁の声なき言葉をつたえているのであった。
そして、はじめてお雁はじぶんの声でいった。
「もしっ、夜中恐れ入ってござりまするが、奥方さまにお伝え願えませぬか」
異様にかすれた声だ。両腕はダラリと垂れて――その顔は能面というより、蝋《ろう》面《めん》にちかい。いや、美しい死面ともいうべき相貌の中から、眼ばかり黒ぐろとひかって、じっと悪源太を見つめている。
「密々ながら大事の御用でござりまする。戸来刑四郎がひそかに参っております」
と、お雁はじぶんの声でつづける。
「――場所は、二ノ丸にゆく諏訪門ちかい土堤の上。――」
と、お鶴がいった。
三人の香具師はおどりあがった。それをおさえたのは、お雁の必死の眼だ。
「戸来刑四郎が申すには、きょうひるまの雑《ぞう》言《ごん》は、まったく以て味方の破蓮斎と燐馬をあざむかんがための狂言にて、まことは忍城への御忠節を忘却したものにあらず。――」
と、これはお雁。
「――あぶない、悪源太どの、ゆかれては危い。あの土堤は、本丸二ノ丸を前後に見わたすところ。――刑四郎はそこで見張っております。わたしに、麻也姫さまをつれてこいと」
と、これはお鶴。
「これより奥方さまのおん身のふりかたについて、小田原におわす殿より奥方さまへ、密書をおあずかりして参っておりまするが、なにぶん常人ならぬ累《かさね》と御《み》巫《かなぎ》の眼が背後にござれば、本丸まで入ることがかないませぬ。仔《し》細《さい》あって、奥方さまおひとりにおわたしつかまつりたいゆえ、このお雁とともにお出向き下さるまいか、と――かように申しておりまする」
ユックリと、お雁がいう。つづいて、お鶴が早口でいう。
「――奥方さまが二ノ丸においでなさるは承知で、わたしは本丸に参りました。源太どのにお知らせするためです。けれど、かんがえてみれば、相手は戸来刑四郎。源太どのではあぶない。お鶴がここに来ていたのはせめてものこと、お鶴、ほかのおんな組をいそいで呼びあつめて下さい。六人でかかれば、万に一つ、勝てるかもしれない。わたしがこうしてここで奥方さまのお出ましを待っている風にみせかけているあいだに、早くみんなに知らせて。――」
三人の香具師は息をのんでこの問答をきいていた。
問答? いや、お鶴の声は、お雁のほんとうの言葉で、お雁自身の声は、嘘の言葉だとかいったが、要するに一人でしゃべっているのだ。きいていると、気がへんになりそうであった。
しかし、お鶴の口をかりる声はともかくとして、お雁がしゃべる嘘の言葉は、いったい誰にきかせようとしているのだ?
いうまでもなく、城に潜入しているという戸来刑四郎を対象としているにちがいないが、してみれば、刑四郎がこのちかくできいているというのか。それなら、ここに立っているじぶんたちの声もきいているわけだから、なんのためにお雁がヌケヌケと嘘をついているのか筋が通らない。
――まさか、お雁のくびに巻きついたひとすじの髪、それが一町ちかくもうしろへのびて、その声帯の波動をつたえるとは想像のほかだから、
「おいっ、あの化物野郎はほんとうにどこにいるんだ?」
と、悪源太がわめいたとき、お鶴はぱっと走り出した。お雁のうしろへ、と見るまに、まるで夜がらすの羽ばたくように彼方の闇へ消えてゆく。
「何、そっちにいるのか!」
槍をふりたて、そのあとをすっ飛ぶ悪源太のまえに、
「いってはなりませぬ、源太どの!」
お雁はさけんで立ちふさがり、一瞬、名状しがたい恐怖の表情になった。発すべからざる声を発したことに気がついたのだ。
「うるせえ、どけ」
つきとばして、走りかけて、悪源太は、「あーっ」というたまぎるような声にふりむいた。
声は睾丸斎と陣虚兵衛だ。眼が、かっとむき出されて、お雁をながめている。両手をダラリと下げたまま立っていたお雁のくびに、夜目にも黒い輪が浮かびあがり、それが墨汁のようにながれおちたとみるまに、その首がゆれて、胸からはなれた。
なんの閃めきもみえず、なんの音もきこえない。ただ、棒立ちになっていた女の首が忽《こつ》然《ぜん》として切断されて地におち、あと――首のない胴から星空に、黒い噴水が奔《ほん》騰《とう》し、はじめて、雨のような音をたてて地上に、胴が崩《くず》折《お》れた。
「風閂!」
悪源太が絶叫した。
「……そういえば、そういったな」
うわごとみたいに、睾丸斎がいった。やっとさっき、この女忍者がお鶴の口をかりて最初に告げた言葉を思い出したのだ。
「わかったぞ。――いや、まだよくわからんところもあるが、お雁はさっき、刑四郎は諏訪門ちかくの土堤におる、といった。――風閂、例の髪の毛の先をにぎって、戸来刑四郎はそこにおるに相違ない。――」
「野郎! やりやがったな」
悪源太はおどりあがった。これほど凄じい光景を眼前にしながら、彼は恐怖よりも怒りにとらえられていた。
「やれ待て、源太!」
睾丸斎は呼びかけた。彼はまろびより、地におちていたお雁の首をひろいあげていた。
「お雁はおまえのために死んでくれたのじゃ。念仏をとなえてやれ」
悪源太は駆けもどり、睾丸斎から首をひったくり、胸に抱きしめ――そして、猛烈にその首の唇を吸ってやった。
「あ、ありがとうよ。こ、これがおれの供養だ」
血の匂いのする冷たい唇――ふしぎなことに、そのとき悪源太は、それに恐ろしさも気味わるさも感じなかった。ただ純粋に申しわけなさと、いとしさをおぼえた。が――顔をはなしたとき、星影にその死《しに》首《くび》の唇がかすかににっと笑ったように見えたのに、正直なところ、瞬間的ながら背すじを冷たいものが走ったが、これはあたりまえであろう。彼は大いそぎで、その首を地に置いた。
「ほんとの供養は、刑四郎の首だ。待っておれ!」
そして悪源太は、もういちど槍をかいこみ、さっきお鶴の消えた方角へ、疾風のごとく走った。あとに、昼寝睾丸斎と陣虚兵衛がつづく。――
――本丸と二ノ丸をへだてる長い土堤の上を、女の影が一つ、シトシトあるいて来た。
女の影――というのは、それが被《かず》衣《き》をかぶっていたからだ。水の上を吹く風に、被衣はゆるやかにひるがえっている。女の足どりは、優雅で、寛《かん》闊《かつ》ですらあった。
「刑四郎」
立ちどまって、呼んだ。本丸、二ノ丸、どちらからの物音もここまでとどかず、しんとした夜気の中に、だれはばかることのない透きとおるように美しい、愛くるしい声は、麻也姫の声にまぎれもない。
「殿の御《お》文《ふみ》を持って来てくれたと? 一刻も早う見たい。お雁からきいて、おまえの望む通り、麻也、ひとりここへ出向いたぞ」
あるき出し、何者かを探し求めるようにまた立ちどまる。
「戸来刑四郎、どこにおる?」
土堤の上には、返事がなかった。草はそよいでいるが、そこに人ありとはみえぬしずけさであった。
「ふふん」
高いところで、つぶやく声がした。
「よう似せたものよ。……しかし、あれは誰だ?」
土堤から本丸側におりたすぐ下に、三本の大きな杉が水の中に立っている。むろん、はじめから水中に生えていたわけではなく、水攻めの名残りでそうなったのだが、その水の上から三十尺も高い幹に、蝉《せみ》みたいにとまっているのは戸来刑四郎であった。
「お鳶《とび》か? お鶴か?……お鶴らしい」
――刑四郎は、お雁を使って麻也姫をさそい出すというじぶんの企図が失敗したことをすでに知っていた。風閂を伝わって来た「――いってはなりませぬ、源太どの!」というお雁の一語のためである。
その刹那、彼の風閂は一町も先で、水もたまらず女の首を斬り落としていた。
それは風摩の「裏切者」に対する制裁として当然の処置ではあるが、しかし彼はいささかあわてた。お雁が呼び出したのは、麻也姫ではなく、あの香具師の連中らしい。まだじぶんがどこにいるかは知らないはずだと思うが、あの連中が騒ぎ出すことによって、たちまち忍城が水中の火山のごとく鳴動しはじめることは、当然予想されたからである。
もっとも刑四郎は、はじめからお雁を使ってうまくゆくとは、全面的に信じてはいなかった。危いな、と思いつつ、しかもあの方法をとらざるを得なかったのは、お雁の子《こ》宮《つぼ》針《ばり》で流入した毒に、からだがかすかにしびれていたからだ。一瞬、男根を切りはなしたおかげで悶死だけは免れたが、なお平常の機能が麻《ま》痺《ひ》している自覚があったから、やむを得ず次善の策をとったのだ。
失敗したとさとって、彼は退却にとりかかった。この場合に彼が、たぐり出した風閂の髪を稲妻のはやさで手中に巻きおさめることを忘れず、さらに狼狽のあまりむちゃくちゃな逃走を試みず、いったん土堤を這いおりて、そばの杉の木にのぼったのはさすがである。まず城中の形勢を見て、その騒ぎのほとぼりのさめるのを待つという心算だ。――しかも、この期《ご》に及んで、彼はなお麻也姫|掠《りやく》奪《だつ》の執念をすててはいない。
刑四郎は杉の木に這いのぼった。彼にしては珍しい緩慢な動作であったが、一抱えしてもまだ足りぬほどの大木に、その四肢の尖端が爬《は》虫《ちゆう》のごとく吸いついてのぼっていったのは、もとより常人のおよぶわざではない。
数分たった。意外にも、本丸の方に、予期していた混乱の物音はあがらない。
しかし、そのとき土堤の向うに、女の影がひとつ、ふっとあらわれた。被衣をかぶった女は、麻也姫を名乗って、彼を呼びながら歩いてくる。――そこで、「ふふん」と彼は鼻を鳴らしたのである。
どこでひろって来た被衣か。――お鶴はそれをかぶって、まんまと麻也姫に化けたつもりでやってきた。
お雁のいうように、遠くちらばっている五人の仲間を呼ぶことは到底間にあわぬとかんがえてのことであったが、しかし彼女は、じぶんが行動を起したあとで、刑四郎がお雁の裏切りを看破したことはまだ知らない。
「刑四郎、どこじゃ」
麻也姫そっくりの声で、彼女は杉の木の方へちかづいて来た。
「たわけめ、それで風摩の戸来刑四郎の眼や耳をあざむけると思っておるか。……しかし、これできゃつ――きゃつもまた、風摩組の裏切者であることがたしかとなった。いまに見ておれ」
いちど、チラとじぶんの股間にやった刑四郎の眼に、陰惨きわまる痛恨と――報復の炎がもえあがった。
いったん反対側に廻ってへばりついていた刑四郎は、じりっ、じりっと、土堤の側へ、高いふとい幹を移動しはじめた。そのこぶしの中には、いうまでもなく恐るべき風閂がにぎりしめられている。
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星の修羅図
「源太」
ふいに陣虚兵衛がさけんだ。
夜風をついてそこまで疾《しつ》駆《く》して水につきあたり、先に駆け出したお鶴はどこへ? と、キョロキョロした悪源太に、うしろから息をきらせて、
「ありゃなんだ?」
「なに?」
「あの杉の木だ」
虚兵衛の腕にしたがって、悪源太は眼をあげた。
水は本丸から二ノ丸にかけて、一帯の低地にヒタヒタと満ちている。その二ノ丸をへだてる土《ど》堤《て》の手前に、三本の杉の大木がそそり立っていた。空に星があり、地に水光があるが、源太にはそれ以外に何も見えない。
「いちばん左の奴だ。地上三十尺ばかりのところ」
「おお。……いる、いる」
と、やっと源太はうなずいた。
それにしても陣虚兵衛、柳の葉みたいな眼をしているくせに、実に大した視力だ。十間ちかい距離をへだてて、黒ぐろとそびえ立つ杉の木のそんなところに模《も》糊《こ》としてうごく影を見つけ出すとは。
「しかし、あれが?」
「いまごろ、城方の者であんなとこに上ってる奴があるか。や? 土堤の上を、女がひとり歩いてゆくぞ。……いかん、木の上の奴、うごき出した。手をのばして、何かを投げつけようとしておる!」
悪源太の腕が宙《ちゆう》にあがった。水にうつる星が逆《さか》流《なが》れに天にもどるように、槍は空中を走っていた。
あたかもそれは、杉の木の上で戸来刑四郎が幹を廻ろうとし、ようやく土堤をすぐ眼下まで歩いてきたお鶴めがけて、その右腕を張ろうとした刹那であった。このとき刑四郎は、遠くうしろから唸りをあげて何物かが飛んでくる気配をきいて、はっとしてふりかえった。
「――うむ!」
さすがに仰天して、身をねじる。が、――毒になかばしびれた戸来刑四郎の動作は、まだ緩《かん》慢《まん》であることをまぬがれず――その右の二の腕をつらぬいて、悪源太の槍はぴしいっと杉の木に突き立った。
「しめた! 縫いとめた!」
虚兵衛がおどりあがった。
いま星の夜空を背に、ななめ横に突き立った槍と、苦悶してうねる黒い影が、木の間がくれながら、昼寝睾丸斎にも見える。――が、三人はその杉の木の下へ、一直線にかけつけることはできなかった。そのあいだに満々と水がひろがっていたからだ。
そこへ達する土堤の方へ廻ろうと、五、六歩走って、
「――あっ」
と、虚兵衛がまたさけんだ。
縫いとめたはずの黒い影が、杉の大木と平行に、スーッと空中を落ちてきた。落ちてきて、水上五尺で、ピタリと止まったのを見たのである。と見るまに、それが振子のように、ブランブランとゆれ出した。こちらから見て前後に、次第に大きく、
「……あ、ありゃあ、どうしたんだ?」
源太も睾丸斎も、かっと眼をむいたままだ。
たしかに槍で縫いとめた戸来刑四郎が、どうしてやすやすと杉の木から離れたか。いや、それよりも、なぜきゃつは鳥のように空中を飛んでいるのだ?
鳥とちがうところは、ぶらんこのごとく前後に大きくゆれていることだが、星空に縄らしい影はみえず、まさかそれが髪ひとすじでぶら下がっていようとは、風《かぜ》 閂《かんぬき》を知っている香具師もとっさに想像もできなかった。
髪ひとすじ――正確にいえば、ふたすじだ。右腕を槍で縫いとめられたと知るや、戸来刑四郎は左腕でその槍をひきぬこうとし、それが不可能と見ると、右のこぶしからひき出した髪の毛で、おのれの右腕を肩のつけねから切り離した。そのとき彼は、土堤をこえて二ノ丸にひろがる水面に或るものを見出したのである。と見るや、彼は髪の毛を二《ふた》重《え》にして突き立った槍の柄にかけ、それにすがってすべり下りると、われとわが身を振《ふり》子《こ》として、大きく空中に振りはじめたのだ。
苦痛と、麻痺と――大空を飛び去り、飛びかえる戸来刑四郎の形相は、すでに人間のものではない。その彼の肉体を鼓舞しているのは、忍者としての超人的錬磨のほかに、分離した肉体を復原するという驚くべき忍法「落花もどし」を体得しながら、今宵、不覚にもその二つの部分を失った怒りと、そしてもう一つの執念であった。
すなわち、断じて麻也姫を奪わずにはおかぬという執念だ。
「――虚兵衛」
悪源太はわれにかえった。
「貸せ」
槍をひったくったのは、空を飛ぶ戸来刑四郎に、もういちど狙いをつけたのだ。そのとき、遠く声がした。
「いけない。――源太どの」
土堤の上のお鶴の声であった。
「二ノ丸の方から奥方さまのお舟がくる。槍を投げてはあぶない!」
そして彼女は、反対の方をむいて、狂気のようにさけんだ。
「奥方さまっ――空から、戸来刑四郎が!」
戸来刑四郎が三十尺の杉の木の上から見出した或るものとは、その舟であった。
きぬを裂くようなお鶴の声が夜風をわたった刹那、彼のからだは土堤をかすめて二ノ丸側の大空に舞いあがり、まるで獲物を見つけた鷹のように水の上へ落ちていった。
――暗い水の上を、舟が進んで来た。
水に提《ちよう》灯《ちん》の明りが三つ四つうつっている。その明りが、舟の上の白いはなやかないくつかの顔を浮かびあがらせ、これも水に映している。これは二ノ丸を巡視にいって、本丸にひきあげようとする麻也姫の舟であった。
麻也姫を中心に、前に老臣や家来、うしろに侍女たち、合わせて十余人が乗っていたが、彼らはむろんゆくてにくりひろげられている死闘を知る道理がない。星があるばかりの夜空など、ふりあおいでる者もひとりもなかった。
四、五間おいて、もう一艘、これは灯もつけず小さな舟がくっついている。これには、弁慶と義経、とろ盛と馬左衛門の四人の香具師が乗っていた。
舟はゆくての土堤を割る諏訪門の方へむかっていた。
そのとき、突如として女のさけびをきいたのである。
「いけない。――源太どの! 槍を投げてはあぶない!」
その声をお鶴とはまだ知らず、意味もわからず――はっとしたとき、つづいて、
「奥方さまっ――空から戸来刑四郎が!」
声と同時に、銀河の空に抛《ほう》物《ぶつ》線《せん》をえがいて、黒い影が魔鳥のごとく飛びおりて来た。
三十尺の高さから水上五尺をあました髪の長さは二十五尺だが、勢いをつけて大空に舞いあがった人間は、その倍以上も飛んで――麻也姫の舟のすぐ前方、やや横にそれてまっさかさまに水中につっこんだ。
と、見えたのは一瞬である。黒い影は空中で一回転すると、水の上にすっくと立った。いや、そこに漂っていたふとい一本の流木の上に、猫のごとく両足をそろえて立ったのである。はずみで、流木は白い波をひきながら、ツ、ツーと、麻也姫の舟と平行にすれちがって、香具師の舟の前まで走った。
とはいえ、その距離はまだ二、三間あったし、いったいそれが何者か、麻也姫の舟の方では、だれひとり見きわめもつかないうちに、
「――わっ、天から降って来やがった! きゃつだ!」
脳天から出るような声をはりあげたのは夜狩りのとろ盛だ。
総立ちになった四人のうち、弁慶と馬左衛門の手があがった。槍をその流木めがけて投げつけようとしたのだ。その一瞬、空中にシューッとかすかな、が、鋭い音をきいて、四人、ふたつにぱっとわかれて飛びのいたのは本能だが、香具師ならではのその敏《びん》捷《しよう》さがなかったら、舟のまんなかにいた誰かは、頭から唐竹割りになっていたろう。――人間は避けたが、その刹那、彼らの小舟は、まるで狸の泥舟みたいにすかっと前後二つに切り離されて、香具師たちは二人ずつ、しぶきをあげて水の中におちていた。
まっぷたつに、舟ごめにたたき割られながら、水中におちた連中は、何がどうしたのかわからない。が、若し――振子となった戸来刑四郎が、空中でみずからを飛ばせた髪をひきぬき、流木に舞い下りると同時に、それを以て左腕一本で薙《な》ぎ下ろした風閂だと知ったなら、その神技にいっそう舌の根をふるわせたろう。
神技は神技ながら、まさに面《おもて》もむけられぬ忍者戸来刑四郎の剽《ひよう》悍《かん》ぶりだ。
「見たか?」
流木の疾走はとまった。刑四郎はしゃがれた声で笑った。
「よし、止まれ」
命じられなくても、麻也姫の舟はとまっている。みな、はじめてこの人か魔かわからぬ相手が何者か知ったが、とっさに水《み》棹《さお》をうごかすはおろか、身うごき一つする者もなかった。
「そこで、男はぜんぶ水に飛びこむのだ」
刑四郎は四角なあごをしゃくった。――夢魔でも見るように立ちすくんでいた老臣の酒《さか》巻《まき》靭《ゆき》負《え》が、ようやくわれにかえって、
「ば、ばかな! ならんっ」
と、身をふるわせると同時に、舳《へ》先《さき》にいた武士のうち三、四人がいっせいに抜刀した。
流木の上で、戸来刑四郎の左腕が廻ると、抜刀した武士三人が、同時に腰の上から輪切りになって、臓《ぞう》腑《ふ》桶《おけ》をくつがえしたように水中にまろびおちた。
「だから、いわぬことではない」
その刑四郎の声のまだかからぬうちに、舟に残っていた武士たちは、酒巻靭負をもふくめて、われとみずから水の中へ飛びこんでいる。理性も意気地も胴斬りになったような恐怖の反射行為であった。
「女ども、何人おる? 奥方をのぞいて四人か。ちょうどよい、そこにいま水におちた連中の槍が残っておるだろう。それをひろって棹《さお》としろ。そして、四人で舟を漕いで、こちらに寄せろ」
といったとき、彼の乗っていた流木がグラグラとゆれた。
「おうっ」
という咆《ほう》哮《こう》は、彼自身の声でもあり、また水中からあがった声でもあった。
戸来刑四郎は声だけのこし、流木を蹴って、二、三間ひととびに水の上をまた跳躍して、麻也姫の舟に飛びうつっていた。空中で、うしろなぐりに風閂がひと薙ぎされて、径一尺あまりの大木が、ぱっと二つに切れた。二つに切れた大木をそれぞれかかえて、水中で一回転したのは弁慶と馬左衛門である。
「これ、へたに騒ぐと、麻也姫のいのちはないぞ。殺《あや》めに来たのではないが、あまりに騒げば、やむを得ぬ」
と、舟に立って、戸来刑四郎はうす笑いしていった。
「大声たてて、城侍たちを呼ぶこともならん」
水の中で、四人の香具師は歯ぎしりした。
――まさに、刑四郎のいった通りだ。彼の目的が麻也姫をさらうことにあるのはいうまでもないが、進退きわまれば何をするかわからない。――麻也姫のいのちをちぢめる行動に出ない、という保証はないのである。
「奥方さま。……お約束通りお迎えに参上いたしてござる」
刑四郎はむきなおった。いまの跳躍力からみると、どうやら体内の毒はうすれかかったらしい。――それにしても、男根と右腕と、二つを失いながら、提灯に浮かびあがったその顔色は、赤い灯のせいかもしれないが、もはや平生の刑四郎とちっとも変らない。
提灯はうごかない。それを持った女たちが気死したようなのだ。
「やい! 槍を拾え」
提灯が、いっせいに水におちた。一瞬、めらっと鬼火みたいに燃えあがったやつもあって、舟のまわりにひろがる水が真赤にみえた。血のさざなみが立った。
さすがの麻也姫も、茫然としてこれまで立ちすくんでいたが、急にきっと身をたてなおすと、何かさけび出そうとした。
「あいや、むだでござる。……むだのみならず、事と次第ではこの女どもも、胴斬りにして御《ぎよ》見《けん》に入れまするぞ」
刑四郎は、こんどはこちらに脅《きよう》喝《かつ》の刃《やいば》をかえした。――やりかねぬことは、いまの所業をみてわかる。唇をふるわせ、麻也姫は沈黙した。
女たちが槍を拾いあげたのをみると、刑四郎は命じた。
「漕げ。……太鼓門の方へ」
そして、舳先に背をむけて、悠然と坐った。女たちを監視するためだ。
舟は舳先をまわし、三ノ丸の方へすべり出した。左右の水中にガバガバともがいている男たちをジロと見て、刑四郎は笑った。
「うぬら、命びろいをしたをありがたいと思え。ここで風閂でたたいて廻れば、一息つくまにここは血の池となるが……おれは先をいそぐ」
会心の笑いというやつだ。男根と右腕を失ったが、戸来刑四郎はまんまと麻也姫をいけどった。――太鼓門の方へ遠ざかってゆく舟のうしろで、血を吐くような弁慶の絶叫がきこえた。
「げ、源太、どこにおる? 南無阿弥陀仏っ」
悪源太と虚兵衛と睾丸斎が、土《ど》堤《て》の上へ駆けつけて来たのはそのときであった。
草の中に立ち、二ノ丸の方の水を見下ろして、お鶴は凝《ぎよう》然《ぜん》と立っている。――星影の下に、その横顔に、妖しい笑いのようなものを見ても、それより源太は空を飛び去った戸来刑四郎のゆくえに逆上し、
「あいつ、どうしやがった?」
と、わめいた。
模《も》糊《こ》たる水面に何やら異変が起こっているらしく、げんに誰やらひっ裂けるような声で何かさけんだが、いまの惨劇を知らない彼らには、何がどうしたのかわからない。
「刑四郎は……舟にのって太鼓門の方へゆきました」
お鶴はわれにかえった。片頬から笑いの翳《かげ》が消えた。
「舟にのって?」
「奥方さまをさらって」
「な、なんだと?」
それだけで、あともきかず猛然と駆け出そうとする悪源太を、お鶴は呼びとめた。
「お待ちなされまし」
「待っていられるか。ま、麻也姫さまが――」
狂乱したような源太の手くびは、お鶴にしかととらえられた。力は決して弱い方ではない悪源太が、地《じ》団《だん》駄《だ》ふんでも草を蹴ちらすだけだ。
「それほどまでに」
フンワリと立ったまま、しかしお鶴は嘆きの吐息をもらした。
「源太どの、あなたがゆかれたとて奥方さまは救えますまい」
「何いやがる。離さねえか」
「げんにいま、弁慶どのも義経どのも、壇の浦の平家さながら水の中へはねちらされて泳いでいる始末。――あなたさまとて」
「死んだっていい。こいつ、離さねえか」
「わたしがゆきます」
お鶴の顔には、凄《せい》絶《ぜつ》な決意の色が浮かび出た。
「けれど、それは麻也姫さまのためではありません。あなたのためです」
「恩着せがましいことをいう女《め》郎《ろう》だ。糞でもくらえ」
「わたしは死ぬかもしれませぬ」
「ここでくたばって、おれの手をはなせ」
といったとたん、ふたりの頭はうしろからつかまれて、強くおしつけられた。睾丸斎と虚兵衛のしわざだ。と気がついたとき、ふたりは強引に接吻させられていた。
いや、ふたりの力などでありはしない。しがみついてはなさぬお鶴の腕であり、吸いついてはなれぬお鶴の唇であった。まるい乳房が源太の胸にえぐりこまれ、彼女は身もだえした。
「死にます」
やっと唇をはなすと、お鶴はあえいだ。
「死んだあとで、源太どの――お鶴はあなたのために死んだと、ただそれだけおぼえておいて下さいまし。では」
さけぶと、女忍者は黒い流星のように土堤を走り出した。
「な、何しやがるんだ」
血相かえてねめまわす源太に、睾丸斎はどじょうひげをふるわせて、
「あれほどおめえを想って、火の中水の中へでもよろこんで飛びこむ女をねたに使わねえって法があるか。香具師の大道にそむくこの大|馬《ペ》鹿《テ》野《ポ》郎《ウ》め」
悪源太は下あごをつき出して、
「けっ」
と、へんな声をたてたが、すぐに身をひるがえして、槍をかいこんだまま、これまた韋《い》駄《だ》天《てん》のごとく駆け出した。
二ノ丸から三ノ丸へ、地形は少しさがる。ふだんでも、城内を流れる河は、その境界で小さな滝をつくっている。
その境界にある太鼓門は、むろん水の路ではないが、いまは門の屋根と両側の石垣のあいだは巨大な暗《あん》渠《きよ》の観《かん》を呈して、その闇の中で滔《とう》々《とう》たる水音があがっていた。
二ノ丸を埋める水は、このちかくにくると流れは扇の要《かなめ》のように吸い寄せられて、刻一刻とはやくなる。――
「棹《さお》をおけ」
と、戸来刑四郎はいった。
「舟が逆《さか》落《おと》しになる。はげしいが、低い滝ゆえ覆《くつが》えりはせぬ。舟底にしかとかじりついておれ。滝のところで水に飛びこもうとしたりなどしても、風閂は逃さぬぞ」
むろん、侍女たちにいう体《てい》にして、麻也姫にいっているのだ。
チラと刑四郎は、太鼓門とその両側につらなる石垣の堤を見あげた。人影はない。さっきの脅しがきいて、誰も城侍を呼ばなかったか、それとも、呼んでも間にあわなかったか。――以前なら、門番もいたろうが、水路と化したいまでは、それらしい影も見えぬ。
舟は矢のように門の下へ吸いこまれた。
その刹那、舟はまるで見えない手につかまえられたようにひきもどされた。ひきもどされて、水流にのってまた走り、ふたたび三たび、ぐいとひきもどされる。まるで紗《しや》の虫《むし》籠《かご》に入った虫のように。
ながれかかっては、はねかえされ、クルクルと廻り、しかもついにその場所から離れることのできぬ舟の中で、麻也姫と四人の侍女はこの怪異に声も出ず、うなされたような眼で見あげて息をのんだ。
銀色のしぶきのけぶる暗い虚《こ》空《くう》に、銀色のすだれがかかっていた。あれもしぶきか。いや、それは門の天井から石垣にかけて、蜘《く》蛛《も》の巣のように張りめぐらされているではないか。舟はその網にかかってとらえられ、ゆきつもどりつしているのであった。
が、彼女たちが息をのんだのは、そればかりではない。
その大きな蜘蛛の巣で、二匹の蜘蛛がたたかっている。人間ほどの大きさの、あの黒いのはふくろ蜘蛛か。あの闇にも蛍光をはなってみえるほど鮮麗な色は女郎蜘蛛か。――
背に異様な触感をおぼえた刹那、戸来刑四郎はおどりあがり、反転した。反転したが、背に粘着したものは完全な反転をゆるさず、ねじれた姿勢のまま、彼をその妖《あや》しの蜘蛛網にとらえてしまった。
「刑四郎どの」
ふりあおぐと、銀の網の中央に、女がひとりとまったまま、凄艶な笑顔で見下ろしている。その片手に刃がひかった。
「やはり敵《かたき》の運命《 さ だ め》となったような――」
スルスルと這い寄ってくる女を、血ばしった眼でにらみ、戸来刑四郎はうめいた。
「先廻りしておったか。裏切者」
その声も消えぬうち、刃がふり下ろされた。
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衣 川
忍法恋さみだれ。――
医学的にいえば、バルトリン腺《せん》から噴出する粘液であろうか、ふつう愛液と呼ばれているこの物質が、その名にそぐわず、風摩の女忍者の場合は、実に信じられないような現象と力をあらわした。
それが竪《たて》琴《ごと》のようにわかれ、乱れ髪のようにもつれて張られると、それにふれた人間は、まるで蜘蛛の網にかかった蝶みたいに粘着してしまう。――曾て、七人の香具師もこれにとらえられて、ひきちぎろうとしてもちぎれず、皮膚も肉も焦げついたようになって、さんざんな目にあわされたことがある。
戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》はこれにかかった。超人ともいうべき刑四郎だが、おのれの忍法をのぞいては、彼もまたふつうの人間にすぎない。いま、刑四郎の鬢《びん》の毛も、肩も足もその恋さみだれに焦げついて、彼は不自然きわまる姿勢で空中にゆれていた。
してやったり!
血笑とともに、お鶴は刑四郎めがけて斬りつけた。
しかし、この場合、刑四郎が不自然きわまる姿勢でいたことが、間一髪、彼の命を救うよすがとなった。反転しようとして反転できなかったため――からだの片側のみが網にとらえられていたため、彼のただ一本残った左腕は、わずかながら自由であったからだ。
そのこぶしから、風《かぜ》 閂《かんぬき》がたばしりながれた。
網がたわみ、お鶴は避けた。しかし、彼女のからだは、ななめに二条の風閂におさえられた。もしその背がかたい壁であったら、むろん彼女はその部分で切断されていたろう。が、軽々しく、うごけば切れる。――しかし、刑四郎の風閂もまた蜘蛛網に粘着した。
風閂を避け、おのれの張った愛液の網をつたってお鶴は迫る。半身を網に奪われつつ、刑四郎のこぶしには、別の風閂のはしが垂れ下がっている。ふたりの忍者のうごきはむしろ緩慢であった。しかし、その満面には、殺気のあぶら汗がひかっている。
或る距離と角度にちかづくと、ふたりはうごかなくなった。刃《やいば》と風閂――その一瞬の交《こう》錯《さく》で勝敗が決まることを、おたがいによく知っていたからだ。
そのとき、太鼓門の屋根の上から、二ノ丸側の水へザンブと飛びこんだ者がある。三ノ丸側におちる滝の水音は高く、死闘のふたりには、その音もきこえず姿も見えなかったが、
「おうっ、奥方さまっ」
絶叫する声に、チラとふりむいた。
悪源太だ。悪源太が片手に槍をたかくあげ、水を泡だてて泳いでくる。彼は血ばしった眼で、門の下の舟を見、当然、それをひきとどめている奇怪な網を見、さらにその網にとまっている二人の人間を見て、ぎょっとした表情になった。
もっとも源太は、恋さみだれの忍法を知っている。それで戸来刑四郎をとらえるから、そのあいだに麻也姫さまを救えとお鶴にいわれている。だから門の屋根から水中に飛びこんだのだが、しかし肉眼でみるこの死闘の構図は、星月夜の暗さにおぼろおぼろとしか見えなかったにもかかわらず、思わず泳ぐ手足も麻《ま》痺《ひ》させずにはおかない幻怪さをはなっていた。
しかし、ものに動ぜぬ戸来刑四郎も狼《ろう》狽《ばい》していた。半身を縛られているこの場合、お鶴以外の敵を迎える致命的な危機を感得したのである。それ以上に焦ったのはお鶴だ。彼女の忍法恋さみだれは、百幾つかを数えるうちに粘着力を失い、ホロホロと風化してしまうのだ。
一瞬にふたりはふりかえり、顔を見合わせた。女《め》豹《ひよう》のようにお鶴がとびかかるのと、半身の皮膚をひきむしって刑四郎がこれを迎えるのが同時であった。ふたりは空中で絡《から》み合った。
「源太さまっ」
お鶴は絶叫した。
「槍を投げて!」
源太は、水の中から槍を投げた。
われにかえり、麻也姫の頭上にうごめいている夢魔のような光景をかき消したいという衝動につきうごかされて、死物狂いに槍を投げたのだ。
槍は夢魔をつらぬいた。それは、絡み合ったお鶴と戸来刑四郎をふたりながら串刺しにした。
投げたあとの反動で、水に顔をつっこんだ源太にはそれもわからぬ。顔をあげたとき、空中にふたりの姿はなかった。怪奇な銀色の網もなかった。それは忽《こつ》然《ねん》と消えて、串刺しになったままのふたりの忍者を水中に転落させたのだ。
「あっ、麻也姫さまっ」
悪源太はまたさけんだ。見えない両忍者のゆくえをあやしむいとまはなく、彼は門の下をながれ去る舟の影ばかりを眼に灼《や》きつけたのだ。
その眼に、小舟の艫《とも》がはねあがるのが見えた。門を出たところに滝があるのだ。
「危ねえ! しがみつきなされっ」
狂気のように水をかくまでもなく、源太も門の下へ吸いこまれ、滝におちこんでいた。
前にもいったように、太鼓門を境に、三ノ丸は二ノ丸よりもすこし低くなっていた。滝といっても高さは三尺あまりだが、背後の二ノ丸にひろがる水量が厖《ぼう》大《だい》だから、凄じいばかりのしぶきをあげていた。
麻也姫の乗っていた舟は、しかし宙におどっただけで、ひっくりかえりはしなかった。舟はそのまま数十間はしって、そしてそこで大きく廻りはじめた。――もともと、このあたりには、広い深い池があった。太鼓門や、またよその石垣のあいだからたぎりおちる水がここで合して、しばらくゆるやかな渦を巻くらしい。
「わあ、やっとつかまえた!」
悪源太は、ここで麻也姫の舟に追いついた。
「おういっ」
ちかくで声がした。右側の土堤の上を、六つの影が、ころがるように駆けて来た。仲間の香具師たちだ。
太鼓門の下の死闘は、息を十か二十つくほどのあいだのことであったが、舟が網にかかるまで――片腕の刑四郎が、馴れぬ四人の侍女に漕《こ》がせて来たので、当然その速度は緩慢だったとみえて、土堤づたいに追って来た香具師たちは、睾丸斎、虚兵衛はむろん、水から這いあがった弁慶、義経、馬左衛門、とろ盛まで加えている。
「源太、奥方さまは御無事か?」
「御覧の通りだい」
源太は舟につかまったまま、夜目にも白い歯をむき出した。
「いま、そこにひっぱってゆくぞ」
「源太、戸来刑四郎はどうしました?」
はじめて、麻也姫が問いかけた。
「それから、お鶴は?」
「へっ? あ――あのふたりは」
水から出た首だけをうしろにねじむけて、キョロキョロ見まわした悪源太が、ふいに「うへ」と奇妙な声を発すると、いきなりグーンと麻也姫の舟をつきはなした。
なかば立ちかかっていたふたりの侍女が、もすそをひらいてころがった。
「な、何をしやる」
と、はね起きたとき、舟は渦をはずれたとみえて、また流れに従ってすべり出した。
「どうした、源太!」
土堤の上でも、何か異常を感じたらしい。義経が、そう呼ぶ声がきこえた。
「おう、義経、あそこに木戸門がある。そこでお舟をつかまえろ!」
と、悪源太はさけんだが、そのまま水の上へ、ただならぬ眼をもどした。ふいに彼は、すぐ前に漂っているものをつかんだ。
それは、人間の片腕であった。いま斬られたように生なましい――女の腕だ! しかし、これはいったいだれの腕だ?
血ばしった源太の眼の前に、こんどはまっしろな足が一本浮かびあがった。やはり、大腿部のつけねから断ちきられた女の足だ。はりさけるような眼で見まわすと、大きな渦にしたがって、あそことあそこに、浮かびつ沈みつして見えるのは、あれは胴ではないか。あれも足ではないか。
「やっ……お、お鶴!」
源太は腕をほうり出した。ポッカリと、眼前に浮いて来たその首を、なんで見まちがうことがあろう。
これはいったいどうしたのだ? と疑うよりはやく、源太はその首を抱きかかえて、狂気のように土堤に泳ぎ、這いあがった。
「おう、こいつは」
五人の香具師は仰天した。
「源太、どうしたんだ?」
「何が、どうしたんだかわからねえ。首だけじゃねえ。そこにバラバラになって浮かんで来やがったんだ」
「け、刑四郎に、やられたな!」
源太は脳天を丸太でなぐられたような顔をして仲間を見まわしたが、
「刑四郎? ち、ちがう。あいつは、おれが槍で――」
頭をふり、必死に思い出すように、
「門の下でお鶴が刑四郎ととっくみ合ってぶら下がってたんだ。そして、おれに槍を投げろといった。おれは槍を投げた。……顔をあげると、ふたりとも姿はなかった!」
雨の中で犬が身ぶるいしたように、源太の全身からしずくがはねとんだ。
「く、く、串刺しにしたかもしれねえ。いいや、串刺しになったにちげえねえ。それが……いま、お鶴だけ、こんなになって浮いて来やがったんだ!」
悪源太は、もういちど首を星影にすかした。その首がニンマリと――さっきのお雁同様のふしぎな死微笑をたたえているのを見て、彼はあわててそれを地面においた。
「串刺しになったお鶴をこんなにしたのは、戸来刑四郎だとは思わねえか?」
と睾丸斎がふるえる声でいった。
「そ、そんなはずはねえ、いくら刑四郎だって――」
と、源太は首をふりかけて、ぎょっとなり、土堤の下の渦を見下ろしたが、そのときずっと向うで、ひっ裂けるような義経の声がきこえた。
「け、け、刑四郎だ! 戸来刑四郎だ!」
「武《む》蔵《さし》風《ふ》土《ど》記《き》稿《こう》」忍《おし》領《りよう》の項に、
「三ノ丸は二ノ丸太鼓門の北に続けり。城代の者の住居なり。その西の方に出《で》丸《まる》へ通ずる木戸門あり」
とある。その木戸門だ。
ひるでも黒いが、夜だけにいよいよ黒く、これまた水中の鳥居のように立っている木戸門を、異様なものがふさいでいた。
舟よりはやく、土堤づたいにそのちかくまで駆けつけた義経だけがそれを見た。流れてくる舟をそこでくいとめるように、途中で荒縄をひろった義経は、木戸のあいだに立つ影に気がつき、のぞきこんで、棒立ちになったのだ。
横に一本の細い棒、それにぶら下がっているような黒い影。――戸来刑四郎がどうなったか、まだ悪源太からきかぬ義経であったが、何をきかなくても、これを見て息をのまぬ人間はなかろう。それはまさに戸来刑四郎であったが、しかし彼は串《くし》刺《ざ》しになっていた。細い棒とみえたのは長《なが》柄《え》の槍で、その槍に胸から背にかけて、みごとにつらぬかれているのだ。おまけに彼は――その両腕がなかった!
しかも、彼は生きている。
――みずから切断した四《し》肢《し》を復原するほどの戸来刑四郎だ。いかに忍法とはいえ、とかげ或いはヒドラにちかい原始的生命力の所有者であることは当然だが、しかしこんどばかりは風閂による傷ではない。
ちかくに寄ってみれば、その顔色、息づかい、筋肉の痙《けい》攣《れん》、もはや瀕《ひん》死《し》の人間としか思えないことがわかるであろう。――しかも、彼は生きている。歯ぎしりしつつ、唇はきゅっと吊りあがって笑っている。
それにしても、男根を失い、右腕を失い――太鼓門から三ノ丸の渦までの水の底でお鶴と死闘し、彼女をバラバラに斬りはなす一方、おのれはさらに左腕をも失ったにちがいないが――そのため、みずからをつらぬく槍を抜きとることも不可能となり、それを串としたまま、なお死なぬ戸来刑四郎は、まさに化《ばけ》物《もの》としかいいようがない。
その姿で刑四郎は、舟よりもさきに木戸門に達し、その槍を水圧でピタと木戸に横わたしにして、自分を文字の象形通り人間閂として、彼は麻也姫の舟を待った。
しかし、そもそも彼は麻也姫誘拐を三成に約したとき、これほど惨《さん》澹《たん》たる犠牲を払うものと予期していたであろうか。それは、ない。いかに立身の褒《ほう》美《び》を受けようと、これじゃ絶対に引き合わない。――とはいえ、犠牲がとりかえしのつかないものだけに、こうなっては逆に断じて目的をとげねば気がすまぬ、という黒炎のような執念が、いまや瀕死の刑四郎を燃やしている。或いは、その目的の理非はべつとして、これはこれで驚嘆すべき忍者魂というべきであろうか。
麻也姫の舟はちかづいた。
土堤を走って来た義経が大声をはりあげたのはこのときだ。その声に、
「あれ、あれ」
木戸門の下の影にはじめて気がついた四人の侍女が、総立ちになって恐怖のさけびをあげた。が――むろん、水《み》棹《さお》などとっくにとり落としている舟に、じぶんをとどめる法も避ける法もない。
「とまれ、とまれっ」
義経はきちがいみたいに二、三度土堤で飛びあがったが、舟がとまらぬと知ると、これまたザンブとばかり水の中へとびこんだ。女のからだの上では上手に泳ぐ自《うぬ》惚《ぼれ》はあるが、水の中の泳ぎはあんまりうまくない義経が、大ゲサなしぶきをあげて必死の犬掻きをはじめたとき――舟は木戸門にかかった。
おのれを刺しつらぬいた槍で、自分をささえた戸来刑四郎のからだが、槍を中心にくるっとはねあがり、足がトンと舳《へさき》にかかると同時に、
「えい!」
そこにいたふたりの侍女が、懐剣をぬいて狂気のように突きかけた。
戸来刑四郎の槍が九十度廻転した。いままで横にしていたからだを縦にしたのだ。
突きかかった侍女は、ひとりはみぞおちを蹴られて悶《もん》絶《ぜつ》し、ひとりはその足もとに踏みすえられていた。
槍の閂《かんぬき》を解かれて、舟はそのまま出丸の方へすべり出る。
「下郎、推《すい》参《さん》」
廻って来た槍をつかんで、艫《とも》にいた麻也姫も懐剣をぬいていた。――槍をねじろうとしていたが、刑四郎はうごかない。いや、上半身は風のようにたわむように前後左右にゆれるが、足は舟底に膠《こう》着《ちやく》したようにうごかないのだ。
「女」
と、彼はしゃがれた声でいった。
「おれの口から垂れ下がっている髪をうぬのくびに巻け」
足で踏んでいる侍女にいったのだ。侍女は、じぶんの顔のまえにゆれている細いふたすじの髪の毛を見た。
「やい、巻け!」
彼女の背骨が、めりっと音をたてた。その痛苦よりも、彼女はいま見た戸来刑四郎の――槍で串刺しになりながらまだ生きている――死《しに》神《がみ》のような姿に、覚《さ》めながらうなされていた。いま、夢中で突きかかったのが、精一杯の最後の気力である。
「なりませぬ!」
麻也姫の声も遠く、彼女は夢遊病者のように、その髪の毛のひとすじをおのれのくびに巻いていた。彼女はその髪の毛の恐ろしさを知らない。
「もうひとすじある。そこに眼をまわしている女のくびにも巻け」
「いけない!」
麻也姫だけが、風閂の恐ろしさを知っている。伊豆でこの刑四郎の幻妖の忍法を見せられたことがあるのだ。
「そこのきゃ」
じぶんの足もとにすくんでいるもうふたりの侍女にそうさけび、槍をつかんで麻也姫は進み出た。
「危ねえ、奥方さま」
思いがけぬ水の中で声がした。舷《ふなばた》にしがみついている男を義経だと見るよりはやく、彼は死物狂いに舟に這いのぼって来た。舟がグラリとゆれて、麻也姫はよろめいた。
「ば、化物野郎、おれが来たぞ」
義経はさけんだ。麻也姫をかばうように、ヨロヨロと前に出る。――
絶世の美《び》姫《き》をうしろ手にかばい、怪物に立ちむかう。男ぶりは、文字通り水もしたたるばかりだし、絵草子としたら、こいつは見せ場だ。――実際、チラと義経のあたまの一隅をそんな感《かん》懐《かい》もかすめたが、歯がカチカチと鳴るのを如何せん。七人の香具師のうちで、いちばんの臆病者は彼なのだ。少くとも、いちばんの軟派だ。彼は、女たらし以外に能はない。――しかし、眼前の怪物、戸来刑四郎の姿を見て、奥歯を鳴らさぬ者がこの世にあろうか。
が、あまり颯《さつ》爽《そう》たらざるへッぴり腰で、歯がみしつつ、義経は吊りあがった眼で、二、三歩前に出た。
そのとたん、刑四郎の足もとで、どぼっというような音がして、女の首がころがるのが見えた。気絶していた侍女の首が胴からはなれたのである。
「近づくと、この通りだ」
と、刑四郎は、これまた歯ぎしりの音をたてていった。彼は歯で風閂を操ったのだ。
「こっちの女の首も落ちるぞ。それを覚悟か?」
「いけない! やめて!」
麻也姫が、義経にしがみついた。
「奥方さま、しかし、このまま放っておけば、舟は城の外へ――」
「でも、でも……」
麻也姫は身もだえした。
事実舟は、もう出丸の端《はし》をすべっていた。またもと川であった流れに乗ったらしく、舟足は早くなっていた。義経は、ぎょっとした。ふいにうずくまって、きちがいみたいに水を掻き出した。周囲の光景から、このまますすむと、水は急流にちかいものになり、濠におちこむことを知ったのだ。
「おおいっ」
どこかで、必死に呼ぶ声がする。義経は眼をあげた。土堤は尽き、一方に遠く土塀だけとなったその波うつ瓦の上を、一列縦隊となった六人の仲間が駆けているのが見えた。
先頭の大入道は、弁慶らしい。手に縄らしいものを持っている。先刻、いちど義経がひろって捨てた奴らしい。二、三人、槍をかついでいる影も見える。どこかで縄か槍を投げようとして、立ちどまろうとしては、もつれあってまた駆け出す。
義経の眼がひかった。
「弁慶やあい」
と、彼は金切声でさけんだ。
「その槍に縄をつけろっ」
「何っ」
「おれがいいといったら、その槍をおれめがけて投げてくれっ」
「――義経、何としやる?」
唇をかみしめていた麻也姫が、卒《そつ》然《ぜん》としてきいた。義経はひとりごとのようにいった。
「奥方さま、それよりほかに助かる法はござんせん。……」
数分ののち、舳《へさき》を下へかたむけ、舟は矢のような速度に移っていた。棹のない舟は、いまは急流に乗ったままだ。――一方の土塀が、五、六間の距離になった。
「いいよ。――いまだっ」
義経は上の方向に大手をひろげてさけんだ。急《きゆう》湍《たん》の夜空を、うなりをたてて飛び来った槍は、その胸をつらぬいた。――いったいそれを受けとめるつもりであったのか、それとも、そんな器用なまねはできないから、はじめから身体で受けるつもりであったのか。――義経は崩折れた。舟がぐぐっとひきもどされた。義経は、水におちない。彼は舷にしがみついている。そのからだから、ピーンと一条の縄が、遠い塀に張られている。
しかし、敵味方七人の男女を乗せ、急流にのって下る舟の引力は凄《すさま》じいものであった。縄の端をひっつかんだ弁慶は、そのまま、タタタタとなお十数歩を走って、金剛力でふみとどまった。
危いかな。――そこは土塀の尽きる突端であった。
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売られ妻
麻也姫は、義経もまた突如として恐ろしい忍者に変身したのかと思った。
そうとしか思えない。――見るがいい、その胸から背にかけて、槍はつらぬき通っている。それを胸もとで、片手にひっつかんで、彼はうずくまって、もう一方の手で舷《ふなばた》にしがみついている。死んではいない。明らかに彼は、槍がおのれのからだからぬけるのをおさえ、舷からおのれのからだがはなれるのをふせいでいるのであった。
槍に結びつけられた一条の縄は、水の彼方の塀の上にのびていた。
舟はとまった。――いかにも、濠《ほり》へむかってたばしり落ちる水の急坂を、いっきにすべり下りようとしていた舟をとめるには、この場合、この手段しかなかったかもしれない。それにしても、これは何たる凄じい制動装置か。
ともあれ、舟はとまった。のみならず、急流にさからって、徐々に徐々に、上にひきもどされてゆく。
「……ううぬ」
舳につっ立った戸来刑四郎の口から、何か無機質のうめきがもれた。彼の白くひかる眼は、かっとひらいて、舷にしがみついた香具師をにらんでいる。そのからだからのびた縄をにらんでいる。それを見つつ、彼はどうすることも出来ない。その両腕は肩からなく、その胸は、彼もまた槍につらぬかれて、その一端を麻也姫にしかとにぎられているからであった。
そして、義経の断末魔をながめながら、麻也姫もまた一歩もうごけない。彼女のつかんでいる槍は縦に、義経をつらぬいている槍は横に、彼女のうごきを封じているし、それよりも、眼前の事態のこの世のものとは思われぬ凄惨の光景に、さしもの麻也姫が正視にたえかね、しだいに心気もしびれるような感じに襲われて来たからであった。
ふたつの人体の鋲《びよう》を以て、縦横十文字に槍を組んだ舟は、ゆれながら、艫《とも》の方にしぶきをあげながら、じりっ、じりっと上へ――横へ、土塀の方へひきあげられてゆく。
土色の埴《はに》輪《わ》みたいに立っていた戸来刑四郎の顔が、このときびくっとあがった。水音のため、麻也姫にはきこえなかったが、彼の耳はこのときあまり遠からざるところで友の呼ぶ声をきいたのだ。
「――戸来――そこに刑四郎がおるのではないか?」
累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》と御《み》巫《かなぎ》燐《りん》馬《ま》の声であった。
戸来刑四郎はチラと土塀の方を見た。もう三、四間となった土塀の上に、縄をつかんだまま踏んばっている大入道の影と、さらにそのうしろに槍をふりかぶっている影が見えた。
「おおっ」
のどをあげて、彼は絶叫した。
「その坊主あたまを斃《たお》せ!」
同時に彼は、槍につらぬかれたままのおのれのからだを横だおしにして水に落ちた。
それはさすがの彼の超人的な肉体の力も、ここに至ってつき果てたせいもあったが、最後の気力をふりしぼった執念の行動でもあった。このまま、この舟にのっていれば縄でひきもどされ、さらに第三の槍が飛来すると知って、みずから水に飛びこむと同時に、右手で槍をつかんだ麻也姫を、槍でその方向へ押したおして、水中の同伴者としようとしたのだ。しかもこの場合、歯にくわえた風《かぜ》 閂《かんぬき》で、足下の侍女の首を切り落として置《おき》土産《みやげ》としたのは、無惨とも酸《さん》鼻《び》ともたとえようがない。
「――あっ」
泳ぎながら、麻也姫は槍から手をはなし、からくも身を沈めた。危く地獄への道連れをのがれ得たのは、深窓に育った姫君には似合わぬ彼女の敏《びん》捷《しよう》さがあったればこそだ。
その瞬間、ひきよせられていた舟は一間ばかりどっとまたながされ、麻也姫は崩折れたが、あやうく舷にしがみついた。しかし、舟はまたそこでとまった。
舟がながされたのは、縄をつかんでいる弁慶の全身に、その一瞬、無数の火の釘みたいなものが打ちこまれたせいであった。
この急流は、もともと水路であったわけではない。元来はなだらかな石段であった。それに沿って、片側の土塀もまた下がり、そして途中で切れていた。
その突端までつっ走って、金剛力で縄をひきしぼった弁慶は、火の釘を打ちこまれた刹那、あやうく縄をはなそうとし、ふたたびしかととらえた。彼の耳は、いま、
「戸来――そこに刑四郎がおるのではないか?」
という声と、
「おおっ、その坊主あたまを斃《たお》せ!」
という刑四郎の応答につづいて、
「きゃつ、弁慶だ!」
その絶叫を下方にきくと同時、間髪をいれず、全身に釘をたたきこまれたのである。避ける時間的余裕もなかったが、空間的な余裕もなかった。グラリとゆれた彼の巨体を、うしろから悪源太が抱きとめた。
「弁慶、どうした?」
「きゃつらだ。……累と御巫が濠におる。……な、縄を」
弁慶は身もだえしたが、悪源太には弁慶のこぶしから垂れ下がった縄をとることができない。かえって、ふりとばされて、
「馬っ、おれをつかまえろ!」
と、さけんだ。
馬左衛門が源太を抱きかかえると、うしろから陣虚兵衛が、つづいて睾丸斎がまたそれを抱く。その睾丸斎の腰に、さらに夜狩りのとろ盛がかじりついて、
「弁慶、しっかりしろ、縄をはなすな!」
と、例の脳天から出るような金切声をはりあげた。二人とならんでは立てぬ塀の上で、六人の香具師が数《じゆ》珠《ず》つなぎになって、必死の形相で踏んばった。
「南《な》、無《む》、阿《あ》、弥《み》、陀《だ》」
弁慶は、一声ずつ切ってうめいた。その一声のたびに、彼の胸と腹に、空を切ってとび来たった火の釘がくいこんだ。
「仏《ぶつ》っ」
そうさけんだとき、彼は縄の切れはしを、やっとうしろの悪源太にわたした。
「よしっ――それ、ひけ!」
「やれ、ひけ、どうだっ」
香具師たちはそりかえって、急湍の上の舟をひいた。――土塀の下にひきずり寄せると、悪源太は舟に飛び下りた。
「奥方さまっ、もう大丈夫でごぜえます。やあい、みんな、そのままこの舟をひいて、塀をもどれ。それとも、奥方さま、源太がおぶって参《めえ》りやしょうか?」
麻也姫はうごかない。なおゆれうごく舟の上に、作りつけの人形みたいに凝然と立って、舷につっ伏した影を見下ろしている。
「義経っ」
やっと気がついて、悪源太がそこに駆け寄った。
抱き起こそうとしたが、義経は舷からはなれない。槍で胸を刺しつらぬかれたまま、彼の指はなお舷に膠《こう》着《ちやく》しているのだ。ただ、ガックリとあおのいた顔は、あきらかに氷の彫像みたいに変って、しかも例の――女《おんな》蕩《た》らし自慢の笑いを、ニンマリと刻んでいるのであった。
一方、塀の上の五人の香具師もうごかない。
先頭の弁慶は、全身朱《あけ》に染まって、仁王立ちになっていた。その眼はかっとむき出され、こぶしは金剛力で縄をひいたままだ。しかも、彼は絶命していた。彼がうごかないのはそのためであり、あとの連中がうごかないのは、それを発見して驚愕したためであった。
まさに、弁慶の立往生。――この香具師の弁慶は、本名は仲間もよく知らないくらいで、これはあだ名だが、本物に劣らぬ壮絶無比の討死ぶりだ。そういえば、あだ名の義経も、美男ぶりはともかく、本物とは似ても似つかぬニヤケた女蕩らしであったのが、どんな心の突風がその胸を吹いたのか、これまた本物にまさるあっぱれな死にざまであった。――たぎりおちる夜の瀬音、ここは武蔵野の衣《ころも》川《がわ》か。
「よう、死んでくれた」
星空の下で、昼寝睾丸斎がふるえ声でつぶやいた。
「お雁、お鶴も死んでくれたなあ。……義理でも、こちとらも二人くらい死なねばならんわ。……」
急坂をたぎりおちた水は、そこで滔《とう》々《とう》たるしぶきを一帯にあげる。三ノ丸をめぐる濠であった。
そのしぶきをあびつつ、濠に浮かべた舟に乗って、無数のマキビシを投げあげたのは御巫燐馬だ。マキビシとは、四方八方に釘を突出させた忍者独特の武器である。
彼とて、しぶきの彼方――城内の水路に展開された死闘のさまを、如《によ》実《じつ》に知っていたわけではない。が、第一番として城中に入った戸来刑四郎に至急告げねばならぬ急用が出《しゆつ》来《たい》してそこまで追いかけ、忍び寄り、様子をうかがっていたところに、高い塀の上にあらわれた香具師の影の異様な行動を発見し、その影のひきしぼった縄の端に刑四郎がいると本能的に知った。はたせるかな、「あの坊主あたまを斃《たお》せ」という刑四郎の声に、さてこそとマキビシを飛ばせたのだが、その流星のごとき鉄釘の乱撃を浴びつつ、がっきとうごかぬ入道あたまに、
「はてな」
と、彼が眼をひからせたとき、
「刑四郎め、やられおった!」
と、うしろに坐っていた累破蓮斎がさけんだ。
銀粉のようなしぶきの中に、槍が水ぐるまのごとく大きく回転するのがみえ、燐馬がはっと息をのんだとき、その槍に串刺しになり、両腕のない戸来刑四郎の――いまはまさしく息絶えた屍《かばね》が、水の中を廻りつつこちらにながれて来た。
――しばらくふたりは、それを拾いあげることもせず、じっと見まもっていたが、やがて顔を見あわせた。
「ようも戸来刑四郎ほどのものを、かくまでに」
見かわした眼にふたりは、風摩の同志を討たれた怒りとともに、しかし悪魔的な喜悦のひかりのゆれるのを、たがいに読んだ。――少くとも、手柄を戸来刑四郎ひとりに奪われるおそれはこれで消滅したのだ。
「たわけが」
「風摩の恥さらし」
と、ふたりは同時に友への嘲《ちよう》罵《ば》をもらした。それから歯ぎしりしてつぶやいた。
「事ここに至っては、左馬助の手紙」
「いよいよ以て麻也姫に見せとうないな」
――しかし、ともあれ、あの挑戦状を麻也姫に投げた第一夜にして、十人以上もの城の男女、その中には風摩の女忍者二人と香具師二人をまじえ、戸来刑四郎一人を以て一挙に屠《ほふ》り去ったのである。
「――おおいっ」
下界から陰《いん》々《いん》と呼ぶ声に、塀の上の香具師たちはわれにかえった。
「あれア御巫燐馬の声だ。……弁慶を殺したのはきゃつだな」
彼らは騒然とした。嗚《お》咽《えつ》しかけていた夜狩りのとろ盛までが血相かえて、昼寝睾丸斎をかきのけて前に出ようとする。――しかし、この位置では、水にとびこんで濠へしぶきとともにまろびおちるより、下の声のところにゆく方法がない。
「野郎。――」
塀につながれた舟の中から悪源太が、水音もひっ裂けるような声でさけびかえした。
「化《ばけ》物《もの》野《や》郎《ろう》、まだ来やがるか。来て見ろ――ただし、土《ど》左《ざ》衛《え》門《もん》となった刑四郎をとくと見とどけてから、しっかり覚悟してやって来い。――」
実のところ、悪源太には、戸来刑四郎がほんとにあれっきり土左衛門となったか、どうか、確信がない。あの不死身としか形容のしようのない忍法、また最後の死闘ぶりを思い出すと、これは当然のことだ。
しかし、うす暗いしぶきの底で、返答があった。
「おお――戸来刑四郎のむくろはたしかに受け取った。――」
「――やっ、死んだか! しめた!」
「刑四郎を討ったは、うぬら香具師どもか。まことならば、その礼は、いずれする」
「いずれなんて、もってえぶるな。たったいま、這いのぼって来やがれ。ついでに串刺しにしてくれる」
「礼はかならずするが、今度はやめる。ほかに、用がある」
そして、声は累破蓮斎のものに変った。
「奥方に、当城のあるじ成田左馬助どのよりの書状を持って来たのだ」
「あれ? なんだか、きいたような文句だぞ」
と、昼寝睾丸斎がすっ頓《とん》狂《きよう》な声をあげた。
「そいつあ、さっき、お雁のいったせりふじゃあねえか。――いや、あいつも嘘とことわって、そのせりふをいった。やあ、その餌にはとびつかねえ。嘘をつくなら、もっと忍者らしく、上手な嘘をつけやあい」
「嘘と思うなら、それでよい。嘘と思ってくれた方がこちらにはよいのだ」
破蓮斎は、それこそ妙なせりふをいった。声に、にがいひびきがある。
しかし、彼のいったことはほんとであった。戸来刑四郎が、麻也姫掠奪の出撃をしたすぐあとに、丸墓山の本陣に小田原から急使が駆けつけたのだ。秀吉の使いではない。北条方の風摩者であった。
それが、北条方の一部将として、げんに小田原城内にいる麻也の夫成田左馬助の、妻への書状と、三成への口《こう》上《じよう》をつたえた。その口上で、書状の内容も知れた。それは破蓮斎らにとって、たとえてみれば、小鳥を狙っていた猫がとびかかろうとする寸前、ふいに小鳥の飼い主が呼んだために小鳥が飛び去り、ポカンと口をあけて見送るにひとしいものであった。
しかし、その急使を受けた三成の命令である。破蓮斎と燐馬は、左馬助の書状をもってやって来た。のみならず彼らを服従させたのはたんに新しい主人石田三成の命令ばかりではなく、使者が風摩組の者だということであった。成田左馬助と相談して、その使者を送ったのは首領の風摩小太郎だったのである。
風摩小太郎は、一夜城に使いした松田弾三郎から、破蓮斎たち三人が曾呂利伴内にくっついて、勝手に忍へ飛んだことをきいて、にがにがしい顔をしたという。そして使者たる配下に、「この書状によって結果が出るまでは、かまえて手出しすることはならぬ、と破蓮斎らに伝えろ」と厳命したという。
北条家が滅び、乱《ら》離《り》こっぱいとなることは眼前にみえているいまでも、やはりこの首領の意向は恐ろしい。――それで彼らは、送られて来た書状をもってやって来た。
「何はともあれ、左馬助どのの書状は、この濠の向う――欅《けやき》の大木の幹にマキビシで縫いとめておくぞ。それを読んで、まことと思うならまこと、嘘と思うなら嘘と、勝手に判断しろ」
それから御巫燐馬のふきげんな声が、麻也姫にとって驚くべきことを伝えた。
「御判断は御自由として、奥方に申し入れる。左馬助どのには、御書状の趣《おもむ》きを奥方がおきき入れなさるか、おきき入れでないか、なお心もとなく思われ、三、四日のうちには御自身、こちらにお出向きになるそうじゃ」
「――えっ」
麻也姫は息をひいた。
燐馬の声がつづいた。
「こちらと申しても、この城でなく、治《じ》部《ぶ》さまの御本陣の方じゃが。――そこで、治部少輔さまの仰せには、その日、左馬助どのをお舟にのせ、この城外ちかくまで漕ぎ寄せるが、そのとき、天守閣の上に、書面の趣き、合点ならば白い旗を、不承知ならば赤い旗をかかげて迎えられよ、とのことでござる」
「以上、使者の口上はそれまで。では」
それっきり、ふたりの声はきこえず、水の音だけになった。
塀の上で、馬左衛門の肩をおさえ、ろくろ首みたいに首をのばして濠の方をのぞきこんだ陣虚兵衛の視力によると、小舟のふたりは、水中の戸来刑四郎の屍体を収容したのち、矢のごとく濠をつたい、夜の底をひきあげていったらしい。
「……左馬助さまがおいでになる」
こちらの舟の中で、麻也姫はつぶやいた。混乱して、かえって石のように凝った顔色が、夜目にも白く見えた。
すぐに、その奥方をうながして、香具師たちはひきあげるのにかかった。塀づたいに彼らは舟を縄でひいて三ノ丸の方へかえってゆき、いちばんうしろに、なお硬直したままの弁慶の屍体を、馬左衛門が背負ってつづく。
三ノ丸にひきあげるや否や、悪源太ととろ盛が駆け出し、外に廻って、先刻累や御巫のいた場所――彼らのいった欅の大木のところへいった。これもまた水中にそそり立ったその木から、幹に縫いとめてあった一通の書状をとって、ふたりが馳せもどって来たのはそれから十数分ののちであった。
三ノ丸の一室で、麻也姫はそれを受けとり、わななく指でそれをひらいた。
「灯を。――」
と、つぶやいて、くいいるように手紙を読む。すこしはなれた廊下で、五人の香具師はひとかたまりになって、心配そうにそれを眺めていた。――やがて、麻也姫は、茫《ぼう》とした顔を宙にあげた。
「……奥方さま、まこと殿さまのお手紙でござりまするか?」
と、悪源太がたまりかねたようにいった。麻也姫はもういちど文中に眼をもどして、
「まちがいはない。たしかに殿のおん手じゃ」
「……で、どう書いてあるのでござります」
と、睾丸斎がきいた。麻也姫はうなされているようなまなざしで、
「きょうのひる、あの三人の風摩組が申したとおなじことが書いてある。小田原城の運命はきわまった。所《しよ》詮《せん》、天下の勢いには抗しがたいとある。――それについて、せめて氏政さま氏《うじ》直《なお》さまおん父子のお命をお助け参らせんがため、じぶんも種々奔走しておるが――そのために――」
彼女はそこで黙りこんだ。唇がふるえた。
「関白どのが、この麻也を御執心なそうな。それで――わたしに、関白の心にそえと書いてある」
その黒い大きな瞳から、真珠色の涙がふいにあふれ出した。
「あの殿が、かようなことを妻のわたしにいい寄《よ》越《こ》されるとは――いかに殿のおん手跡とはいえ、こんなものが信ぜられようか。うそじゃ、偽手紙じゃ、敵のはかりごとじゃ!」
ビリビリとその手紙を裂いた。それだけの行動に、彼女には珍しい錯《さく》乱《らん》の激情がもえあがるように、五人の香具師の眼に見えた。
何かをおさえたように睾丸斎がいった。
「奥方さま、しかし……殿さまは、御自身、三、四日のうちに城外にお姿をお見せなさるとか」
彼の脳《のう》裡《り》には、いつか小田原城内で見た気弱げな、哀れな成田左馬助の姿が浮かんでいたのである。あり得ることだ。あの様子では、敵の大将に妻を売ることだって、あり得ることだ。
「それによって、事の実否はあきらかになりましょうが――もしこれがまことに、殿さまのおん手跡なら」
しゃっくりのようにいった。もし、ほんとうに成田左馬助がそんな目的で城外に姿をあらわしたら、麻也は狂乱してしまうかもしれない。いまのうちに覚悟させておかなくてはならない。
「奥方さまは、いかがあそばしまする?」
麻也姫は沈黙していた。彼女のあたまは惑乱し、硬直していた。
ふいに彼女はこのとき、思いがけぬ或るためらいがちな声を思い出していた。
「――麻也、おまえは、あの花婿どのを、頼りになる男と思うておるか?」
それは愛する祖父、太田三楽斎の声であった。――あのとき、その奇妙な問いに、じぶんは不審と非難をこめた眼で見あげたけれど、お祖《じ》父《い》さまはいったいどんなことをかんがえて、そんな言葉をもらされたものか?
お祖父さまは、そのときまた仰せられた。
「――いくさというものは、色々なことが起るもので喃《のう》。……」
いくさよりも、小さなじぶんをめぐるこの世の巨大な恐ろしさ、人の心のはかり知れぬ恐ろしさに、麻也ははじめて打ちのめされた。
忍城をめぐる水と空に、真夏の太陽はいよいよ強烈なひかりをふかめていた。
三日のあいだに、麻也姫は夕顔のようにやつれた。
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真夏の太陽はいよいよ強烈なひかりを、水と空にふかめているのに、忍城には、うす暗い、冷たく沈んだ風がながれていた。いままで激烈な戦闘や大がかりな水攻めを受けたときにも見られなかった雰囲気であった。
一つには、香具《や》師《し》たちの陽気な笑い声がきこえなくなったせいもある。
彼らはこの三日のあいだに葬式をした。葬られたのは二人の香具師――義経、弁慶と、二人の女忍者――お雁《かり》とお鶴であった。葬ったのは、五人の香具師と五人の女忍者と、そして行列したのは城内の子供たちだけだ。
香具師たちは、子供らに人気があった。彼らが城に来てから四十日になるやならずだが、そのあいだに子供たちと水あそびしたり、独《こ》楽《ま》を廻したり、メチャメチャにふざけちらしたり、――いや、何より彼らの天空|海《かい》闊《かつ》の野性が、子供たちから絶大な人気を獲得するもととなったらしい。
「弁慶おじさんが死んだ!」
「義経の兄さんが死んだ!」
子供たちは花と香《こう》炉《ろ》をもって、泣きながら歩いた。
しかし、大人たちは、だれもこの葬礼についてはこなかった。香具師たちが、戸《へ》来《らい》刑《けい》四《し》郎《ろう》とたたかったことをきいても、その死闘の様相をくわしく目撃した者はほとんどいなかったし、それどころかなお彼らをヘンな奴らだという疑いをぬぐいきれなかったし、さらにこの連中を人間以下のものとみる蔑《さげす》みの心を捨てきれなかったのだ。
死んだ香具師と女忍者の墓は、三ノ丸の隅にある小高い丘の上であった。むろん、まわりは、芦のしげる沼で、その中に小さな円錐形を作って浮かんでいる土地だ。昔からここは、城内の馬の屍《し》骸《がい》を埋めた場所であった。
子供たちを舟で帰したあと――翌《あく》る日も、その翌る日も、五人の香具師は、二つの土《ど》饅《まん》頭《じゆう》のまわりにつくねんと坐っていた。
彼らは終日ボソボソと話していた。彼らの話していることは、しかし哀れな葬式のことでもなければ、死んだふたりの友のことでもなかった。麻也姫さまのことであった。
三日か四日のちに、城主成田左馬助がやってくる。妻の麻也に、関白秀吉の妾になれと勧めにくる。
麻也姫はどうかんがえているかわからないが、彼らから見れば、いままでのさまざまの事実からして、あの左馬助の書状はほんものだと思う。
「なんだか、頼りねえ殿さまだったが、しかし、いくらなんでも奥方さまを猿面の人《ひと》身《み》御《ご》供《くう》にしようたあ……な、な、なんたる――」
「いってえ、なんのために、弁慶や義経が死んだんだ?」
「そんなことは承知ならねえ、金《こん》輪《りん》際《ざい》承知ならねえ!」
と、悪源太がキリキリと歯を鳴らしてさけんだ。
「おい、源太」
と、睾丸斎がむずかしい顔をしていった。
「だが、奥方さまがおことわりなさると……奥方さまはお死になさるよりほかはねえぜ」
ほかの四人の香具師は、みんな息をつめて沈黙した。――ややあって、悪源太が苦しげにいった。
「死んだって……猿面のおもちゃになるよりゃあましだ」
「しかし、そうなりゃ……ともかく奥方さまのお命だけは請《う》け合える」
「いってえ、おれたちが何てえたって」
と、陣虚兵衛がうつろな声でつぶやいた。
「奥方さまはどうかんがえていらっしゃるんだ?」
彼らは顔を見合わせ、おたがいの眼から眼をそらし、息苦しいほどの沈黙におちてしまう。――それから、その沈黙にたえかねて、また誰かが、「――しかし、いくらなんでも奥方さまを猿面の人身御供にしようたあ……な、な、なんたる――」とうめき出し、そして話はまた堂々めぐりだ。
すこし離れたもう二つの土饅頭のそばに、五人の女忍者が坐っていた。彼女たちはひとことも口をきかず、水にうつる夏雲をながめている。ふしぎなことに、彼女たちの顔を、妖《あや》しい笑いが雲の翳《かげ》のようにすぎる。
五人の女忍者は、何をかんがえているのか?
五人の男が悩んでいる問題――麻也姫が夫の勧告にしたがって関白秀吉の餌《え》食《じき》となろうと、またはそれを拒否して炎のなかに城と運命をともにしようと、いずれにせよ、どうころんでもしょせん悪源太はじぶんのもの、と見込みをつけているのか。さらにその日のために、味方にして恋《こい》敵《がたき》でもある朋輩がふたりこの地上から姿を消したことが、彼女たちに妖しい微笑を浮かばせているのかもしれない。
――城に憂愁の気がただよっているのは、しかし、騒々しい香具師たちがひっそりとしているせいというより、女城主たる麻也姫の憂愁の反映であった。
三日のあいだに、麻也姫はやつれた。むしろ童女めいた愛くるしかったその顔が、蒼ざめて、透きとおるようになって、眼は闇をのぞきこんでいるようであった。
彼女の心を苦悩させていたのは、じぶんの死とか、関白秀吉の妾になる恥辱とか、そんなことよりまず夫に裏切られたという絶望であった。あのお方が――あのようなことを仰せられて城を出られた左馬助さまが、あんな書状を寄越されるはずがない。――しかし、あの手紙は、まさに殿の御手跡だ。ほんとうに、殿が、その用件で忍《おし》に帰ってこられたらどうしよう? そして、彼女の恐怖は、そのときに於けるじぶんの態度の如何よりも、そのみじめな恥ずべき夫の姿を見ることであった。
麻也姫はやつれ、そして五人の香具師も、生まれてはじめての心の苦しみのためにやつれた。そして四日目が来た。
成田左馬助は忍に帰って来た。同行した者は十人内外の小人数であったが、ことごとく豊臣方の武士であった。
成田左馬助といえば、小田原城を守る北条方の一部将だ。それが豊臣方の武士といっしょにおのれの持《もち》城《じろ》に帰ってくる。こんな奇怪な話は、二、三月前には想像もできないことであったし、現在でも、小田原城の少数の幹部をのぞいてはだれも知らないことであったかもしれない。
要するにこれは、先ごろからの北条家降伏の内交渉が、ここまで進展しているという事実のあらわれであった。
その交渉のため、秀吉の本営に使いした北条家家老松田尾張守の息子の弾三郎が、城に帰ってきて報告した。秀吉が、麻也姫の美貌と勇戦ぶりをきいて妙な食指をうごかし、その欲望をかなえるべくお伽《とぎ》衆《しゆう》の曾《そ》呂《ろ》利《り》伴《ばん》内《ない》を忍へ派遣し、これに風摩組の三人が独断でついていったことをである。
たまたま尾張守のそばにいた風摩小太郎がこれをきいて、
「ああ、いかん」
と、いった。
「きゃつら、ぬけがけの功名にはやって麻也姫を殺すぞ」
きゃつら、とはむろん累《かさね》、御《み》巫《かなぎ》、戸《へ》来《らい》らのことだ。彼らが彼ららしい荒っぽい誘拐ぶりを試みれば、麻也姫は抵抗して自害するかもしれぬ、と彼はいうのであった。
そしていそぎ夫の成田左馬助が呼び出された。それから左馬助がどのように威嚇されたか、或いはどのように説得されたか、それに対して彼の心に、夫としてどんな反応の波が起ったか。――ともかくも、彼はこのつらい使命を了承して忍へやって来た。
北条方の一部将が上方勢の包囲をやすやすと抜けられるわけはないから、秀吉のゆるしを受けたことはむろんである。
左馬助としては、みずから城に入って妻に因果をふくめるつもりであったが、さすがに三成はそれをゆるさなかった。そのまま城に立籠って、妻とともに絶望的な抗戦をこころみるという事態も充分あり得るからだ。
彼は一艘の舟にのせられた。漕ぐ者は御巫燐馬であり、うしろから監視する者は累破蓮斎であった。そして数間はなれて、三艘の舟があとをつけ、いずれも鉄砲を舟底にかくした石田の兵が満載されていた。
「――やっ、来たっ」
と、とろ盛《もり》がかん高い声でさけんで悪源太に頬をなぐられ、はずみで甍《いらか》の上からころがりおちかけた。――五層の天主閣から三層目の屋根の上だ。
あわてて甍につかまったとろ盛をふりかえりもせず、悪源太たちは下界を見下ろした。
城をめぐる水――それはあちこちと土をあらわしたところがあるかと思えば、滔《とう》々《とう》とながれているところもある。遠くは渺《びよう》茫《ぼう》とひろがっているだけだが、城にちかづくに従って、石垣や土堤や建物のために迷路のような水路を作っている。真夏の太陽の下に、それは空からみるとギラギラと眼もいたくなるほどひかって見えた。
その水の果てから、四艘の舟がちかづいて来た。一艘を先頭に、あと三艘はそのうしろに散って、しかし一定の間隔をおいて漕いでくる。――途中、それをとめる城方の兵がないのは、前以て女城主から何らかの指令が出してあったのだろう。
頭上につき出した屋根のために香具師たちには見えないが、たしか最上層の窓から、重臣や侍女とともに、麻也姫もそれを見ているはずであった。
「……たしかに、左《さ》馬《ま》公《こう》だ」
と、陣虚兵衛が憮《ぶ》然《ぜん》としてつぶやいてから、
「いや、こちらの殿さまだ」
と、あわてていいなおした。
けくっ、と悪源太ののどが鳴った。から唾をのんだのだ。それは、麻也姫がなんと応答するか、運命の一瞬がついに来たという恐怖のためであった。夫の勧告に従うか、それを拒否するか。彼はまだ麻也姫の心を知らない。
「おおいっ」
水の上の舟はとまった。
「旗はどうした? 約束の旗が見えぬぞ!」
累破蓮斎がふりあおいで、さけんでいた。
「先日の書状見られたか。あの書状の趣《おもむ》き、合点ならば白い旗を、不承知ならば赤い旗をかかげて迎えられよ、と申したに、いまだなんの合図もないはいかがなされたか!」
御巫燐馬もさけぶ。
「あの書状が偽りでない証拠に、御覧のごとく当城のあるじ成田左馬助どのがおいでなされた。成田どのが、われらと同じ舟で、ここにこうしておいでなさるが何よりのあかしだ。忍城の家来ども、みな打《うち》物《もの》なげすて、お出迎えせぬか。それとも、あくまで主人の意向にそむく気か」
「――みな、火縄の御用意!」
と、破蓮斎がふりむいて、三艘の舟に手をふった。
「返事次第では、われらともどもこの舟を射ち沈め、鉄砲を射ちはなしつつ、いそぎひきあげられい」
三艘の舟からうすい煙がたちのぼりはじめた。火縄に点火したのだ。
最上層では何をしているのか。寂として返事はない。その光景が見えぬ三層目の屋根の上で、五人の香具師は息がつまり、いっせいに吐《はき》気《け》のようなものをおぼえた。
「白旗をかかげられれば、奥方のお命はもとより、左馬助どのも御安泰じゃ。赤旗ならば、すべて死以外の何ものでもない――」
「ま、待て」
破蓮斎を制して、左馬助の声がながれてきた。
「しばらく待て、わしがいいきかす。――麻也、あの書状を見たか。あれは偽りでもなければ、わしがおどされて書いたものでもない。あれはまことだ。小田原は刀折れ矢尽きて、開城は旦《たん》夕《せき》にある。その和議の条件について、われらはさきごろより、さまざま苦心しておるのだ」
ほんとうに苦しげな声であった。
「このようなことをきいて、そなたはおどろいたであろう。とっさに返答のできぬは当然じゃ。わしが小田原へゆくとき、あれほどこの城の死守を命じたのだから。――まして、関白殿下のお心に従え、とは何たること、と、そなたが腹をたてても無理とは思わぬ。夫たるわしも腸《はらわた》を断つ思いだ。――しかし麻也、これはわしが臆病で屈服したのではないぞ、主家のためじゃ、北条家のためじゃ」
豆粒のように小さく見える左馬助の顔だが、それがひきゆがむのがはっきり見えた。
「小田原の城はまもなく落ちるが、御主君氏政さま氏直さまのおん命が助かるか、助からぬかは――いまや、そなたの心ひとつにある。関白殿下は、しかと左様にわしに約束なされた」
「――けっ、てめえの命も、だろう」
と、うめくように馬左衛門がいった。
泳ぐように左馬助は両腕を空にさしのべてさけんだ。
「麻也、わかったか。わかったら白旗を出してくれい。白旗を出さねば、すべてが終る。そなたの命も終る――。どんなことがあろうと、わしはそなたを殺しとうはない――」
ふいに悪源太が歯をカチカチと鳴らし、あぶら汗をたらしながら、屋根の上でキリキリ舞いをしはじめた。四人の仲間がぎょっとして見まもるうちに、源太の股間から白い布が解かれ、甍の上にのびはじめた。
「もうたまらねえ、ほんとうだ。麻也姫さまを殺すわけにはゆかねえ」
うわごとみたいに彼はいった。
「やい、白いものを出せ、みんな、はやく白旗を見せてやってくれ!」
「――やっぱり、源太、そうきめたか。万事休す」
と、睾丸斎が沈痛な顔色でうなずいた。
たちまち三層目の屋根の上に、五条の細長い白い布がながれ、風にはためき出した。
下界の水の上で、四艘の舟にのっていた人間が、いっせいに空をふりあおいでどよめくのが見えた。――そして、御巫燐馬のするどい絶叫がきこえたのである。
「――そうか、やっぱり不承知か!」
ガクリと左馬助が首をたれ、反対に累破蓮斎と御巫燐馬がニヤリと笑ったようであった。
五人の香具師はあっけにとられた。昼寝睾丸斎がキョロキョロとまわりを見まわし、上を見あげた。
「ど、ど、どんな旗を出したんだ?」
と、きいたが、だれもこたえない。頭上は屋根にさえぎられて、最上層の様子は見えない。
「やい、とろ盛、おれの首ったまに乗れえ」
と、悪源太がいった。そして、いやも応もなくとろ盛をひっつかまえてじぶんの肩にのせ、馬左衛門の手をひいて、ト、ト、トと急勾配の屋根の端へあるいていったから、睾丸斎と虚兵衛がきもをつぶした。
「源太、何をする」
「上を見るんだ、馬、肩を貸せ、睾丸斎と虚兵衛は、しっかりと馬をつかまえてろ」
ふるえ声であったが、それはこの冒険を恐怖しての戦慄ではない。最上階の光景を見たいというあせりと昂奮のための胴ぶるいであった。――それは、あと四人の香具師も同様だ。
馬左衛門の肩車に悪源太が乗り、悪源太の首ったまにとろ盛が乗って、甍の端にニューッと立った。馬左衛門の腰に、睾丸斎と虚兵衛がしがみついて、踏んばっている。
実は、こういう訓練は、小田原城の風摩櫓で、いやというほどやらされた。が、むろん、その自信があるから演じた芸当ではない。何しろここは、五層の天守閣の上から三番目の屋根の上だ。これは、そんな自信も恐怖もそっちのけの、無我夢中の空中サーカスであった。
「あ、あ、あ」
二層目の屋根の端からヒョイと首を出した夜狩りのとろ盛が、たまぎるような奇声を発してのけぞったから、
「何てことをしやがる」
たわみかけた人《ひと》梯《ばし》子《ご》を、死物狂いでひきもどして、睾丸斎と虚兵衛は全身熱湯をあびたようになった。
「なんだ、とろ盛っ」
「あ、あ、赤《あけ》え旗だ!」
ぐらぐらっと馬左衛門のからだがゆれて、屋根の上につんのめって四つン這いになった。縦に、しかも頭を上にむけて這ったからよかったようなものの――ゴロゴロと屋根に、こぼれた悪源太ととろ盛は、ころがりおちかけて、必死に指で甍をつかんだが、その恐怖の一瞬もうわの空で、
「赤旗か!」
「赤旗だ!」
と、さけんだ。
まさしく歓喜の声だ。――それまでの苦悶が蒼空にふっとんだような快《かい》哉《さい》であった。
「そうか、さすがは麻也姫さまだ。見なくったって、赤旗にきまってらい」
「これで弁慶も義経も浮かばれるっ」
この狂喜乱舞で、さっきそこにひるがえっていた五すじの白い布が風に舞って、ヒラヒラと水の上へ落ちていった。
舟の上で破蓮斎に羽がいじめにされていた成田左馬助が、首をねじむけ、これを見てさけんだ。
「あ、あの白旗はなんだ?」
「そいつはおれたちのふんどしだ」
と、悪源太がそっくりかえってわめくと、馬左衛門がきものを胸までまくりあげ、屋根の上に仁王立ちになって吼《ほ》えた。
「遠からん者は音にもきけ。――腹にぶつかるこの音がきこえねえか。――音がきこえなくったって、この武者ぶりは見えるだろう。眼をむいて、よく寸法を見て、猿面に告げろ、おそらくこの半分もねえ寸足らずの分際で、女を欲しいたあ、あのここな身のほど知らずの大たわけ、猿面みずからこれに見参して、腰をぬかさなんだら、はじめて口をききやがれと言えっ、わかったか、ヘナチョコども」
そして両腕をひろげているのに、腹のあたりで、たしかに丁《ちよう》々《ちよう》たる肉と肉の相《あい》搏《う》つひびきがきこえた。――屋根にさえぎられて、最上階から見えなかったからいいようなものの。
最上階の窓から、高い空の風にはためいているのは、まさに紅の旗のひとながれであった。
拒否の旗だ。抗戦の旗だ。――そして死の旗だ。
しかし麻也姫は顔を覆っていた。白い指のあいだから、涙があふれ、つたいおちた。麻也姫は泣いていた。
「殿……仰せにはそむきまする。いかにわが夫の仰せでございましょうとも、主家のためでありましょうとも……麻也は妻として、女として、人間として、仰せにはそむきまする」
嗚《お》咽《えつ》しながら、彼女はつぶやいた。
下界の四艘の舟は水鳥のごとくあわてて白波をあげて反転し、ひきかえし、逃走してゆく。――
拒否すれば、左馬助の命もない、というようなことをいったが、あれはこの場の恫《どう》喝《かつ》であったらしい。
しかし、この「外交」が決裂したのに累破蓮斎と御巫燐馬はうす笑いをうかべていた。会心の笑いという奴だ。――彼らにしてみれば、これこそ望む事態であったのだ。麻也姫をさらい、関白に献上し得る者は、いまやじぶんたち以外にはないことがこれできまった。
そのことを、五人の香具師ははっきりと承知していたろうか。麻也姫の拒否に、とっさに暗雲がふりはらわれたように狂喜乱舞したけれど、そのあとにくるものを恐怖して、あのように懊《おう》悩《のう》したのではなかったか。
まっさきに屋根の上で、昼寝睾丸斎がうごかなくなり、どじょうひげをしごいて眼をすえた。
「しかし、すぐにまた来るぞ」
「――何がよ?」
「血のつむじ風がよ、あの累と御巫がよ――」
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無惨花
「――風《ふう》摩《ま》の衆が――入られておるようでございます」
五人の女忍者がそう告げたのは、それから二日目のことであった。
こう敵味方となっても、ともすれば彼女たちは風摩組に対して敬語をつかう。それは曾《かつ》て鉄の規律のもとにあった習性からでもあるが、また同じ忍者学校の先輩として、実力的におさえがたい畏《い》怖《ふ》の念からも来ているようだ。そう報告した十の瞳には、あきらかに戦慄の波があった。
覚悟はしたが、五人の香具《や》師《し》の背を、真夏の寒風が吹いた。
「ど、どうしてわかった」
「風《かぜ》琴《ごと》が二ヵ[#小書き平仮名か、1-4-85]所、水《みず》琴《ごと》が二ヵ[#小書き平仮名か、1-4-85]所破られております」
「ほかの奴じゃあねえか」
「ほかの人間なら、わたしたちの耳に破られた音がきこえたはずです。あきらかに風琴、水琴と知って、音たてずに切った者は――わたしたちを嘲笑うために切った者は――あの二人のほかにかんがえられませぬ」
「入ったのは、どっちだ。累《かさね》か御《み》巫《かなぎ》か」
「わかりませぬ。二人そろって、かも知れませぬ」
「きゃつら……どこにいる。何をしているんだ?」
「どこにいるかわかりませぬ。どこかにひそんで、麻也姫さまをさらおうと機をうかがっているのでございましょう」
悪源太は立ちあがった。陣虚兵衛が見あげた。
「だめだよ、源太、天守閣の上にござる麻也姫さまにちかづけば、風摩組よりさきに、血まなこの家来たちにこっちが袋だたきになるよ」
「源太さま」
お鳶《とび》がいった。
「ほんとうに、破蓮斎どの燐馬どのふたりを殺せば、わたしたちといっしょに城を出てくれますね」
睾丸斎が悪源太の尻をはげしくつねった。
「出る。出るとも!」
と、悪源太は大きくうなずいた。
ケレンも手《て》管《くだ》もない、もし麻也姫さまさえ救えるならば、じぶんはどんなことでもする、じぶんはどうなってもかまわないという気になっていた。
しかし、結局、麻也姫さまを救えるのか? 二万数千、いや関八州にみちみちた天下の大兵に囲まれて、いまや夫からも見捨てられた麻也姫は、この城から逃げ出せるのか。それより、彼女自身、逃げ出す意志があるのか?――そこまでかんがえると、悪源太は気がへんになりそうだ。とにかく、そこまで先のことをおもんぱかってはいられない。ただ眼前に襲いかかってくる黒い魔風をふせぐのに精いっぱいの心境であった。
それにしても、城に入ったのは累破蓮斎か、御巫燐馬か。きゃつらはどこにいる?
「――お鳶――」
本丸の廊下をあるいていたお鳶は、ささやくように呼ばれて、立ちどまった。
廊下に沿って、真《しん》鍮《ちゆう》の網をかぶった蝋燭が、ところどころボンヤリともっているばかりで、そのとき長い廊下には人影もなかった。籠城以来、こんなにしずかな夜は珍しいが、これは、きょうひるまから、潜入したとみられる曲《くせ》者《もの》の捜索に狂奔したあとで、かえって大波のひいたようなぶきみな静寂のいっときであった。
「お鳶、おれだ」
蟻の穴まで探しぬき、ついに見つからなかったはずの男の声がまたきこえた。
壁沿いに、具《ぐ》足《そく》櫃《びつ》がつんである。最下段に八個、中段に五個、上段に三個。――そのどれかから、声はきこえてくる。冷たい笑いをすらおびて。
お鳶の手が、帯のあいだに入った。と見るや、その手から流星のようなひかりが、鎧櫃の一つにとんだ。
ぱしっ、ぱしっ、とそれにつき刺さったのは、柳の葉のように細い刃物だ。重ねれば、数十枚でもひとつかみの薄さだが、両尖端、針のようにとがっているのみならず、左右のふちもまた剃《かみ》刀《そり》のようにとぎすまされている。
どこが触れても、相手に鮮血をほとばしらせずにはおかぬ武器、柳《りゆう》葉《よう》刀《とう》を、彼女は竹片でも投げるようにたたきつけた。
それを突き立てられながら、最下段の――右から二つ目の具足櫃が、前にせり出して来た。宙に浮いた、その向うから、にっと笑った御巫燐馬の眼があらわれた。黒装束の彼が盾としているのは、鎧櫃の一側面であった。
最下段の櫃は七個だったのだ。それの一面を切りはなし、櫃を前後むけかえ、となりの右端の櫃をずらした空間に、御巫燐馬はひそんでいたのである。
切りはなされた鎧櫃の一面は、偽装の用を果たしたのみならず、いまや燐馬の盾となった。腰をかがめ、お鳶の柳葉刀から身をかばいつつ、その盾のはしから、きらっと忍《にん》者《じや》刀《とう》をほとばしらせた御巫燐馬は、
「お鳶、おれがおまえを呼びとめたわけがわかるか」
と、おちつきはらっていった。
「待て、おまえはおれを殺したいのだろう」
二《に》間《けん》もひととび、飛びずさり、身をひるがえして逃げようとしていたお鳶は、くるっとまたふりむいた。
「お鳶、おまえが風摩組を裏切った心が、おれにはまだよくわからぬ。しかし、いずれにせよ、おまえはおれの敵となった。もはや、おまえに翻《ほん》意《い》せよとはいわぬ。裏切者として成敗してくれる。そのために、おれはわざわざ姿をあらわして、おまえを呼んだのだ」
盾をかざし、御巫燐馬はヒタヒタと寄る。が、お鳶はもはや逃げようとはしない。帯のあいだに手をかけたまま、女豹のように眼をひからせて立っている。
「成敗のつもりだが、しかし、面白いな。うぬの忍法がどれほどの域に達したか、おれは見たい。見てやる、お鳶、見せてくれ。……」
すでに血に酔ったようなささやきをもらしつつちかづく燐馬との距離が一間となった刹那、お鳶の手が下から上へ薙《な》ぎあげられて、柳葉刀が飛んだ。――燐馬に向ってではない。廊下の天井へだ。
数十枚の柳葉刀は、天井に――二、三間にわたって、大きな針でも植えたようにつき刺さった。
こいつ、何をするのだ? と、あっけにとられたようにふりあおぎ、お鳶に眼をもどした燐馬の鼻っ先をかすめて、天井につき刺さった柳葉刀の一本が、銀光をはなって音もなく落ちてきた。
「あっ」
とびのいた燐馬の肩へ、その位置の一本がまたかすめ落ちて廊下につき刺さる。鶺《せき》鴒《れい》みたいに身をかわす燐馬めがけて、柳葉刀はつぎつぎと閃めき落ち、彼はキリキリ舞いをした。
櫃の盾は、反射的に頭上にかざされていた。燐馬の全身がむき出しになった。それをめがけて、お鳶の柳葉刀が、こんどは横なぐりに飛ぶ。――が、それはすべて燐馬の足の下を飛びすぎた。彼は宙《ちゆう》におどりあがっていたのである。
宙を飛ぶ。たんに宙を飛んだのではない。御巫燐馬は盾を投げ捨てながら猫のように空中で一回転すると、おどろくべし、足を上に、天井に舞いあがって、そのままピタリと吸いついたのだ。――天井を床さながらに。
「やるな、お鳶」
逆さになったまま、御巫燐馬は笑った。笑いながら、柳葉刀のつき刺さった天井を、それをよけつつ、彼は大地のごとくあるいた。――それをふりあおいで、かっと眼を見ひらいたまま、お鳶はうごけない。彼女の帯のあいだに、もはや柳葉刀はなかった。
「燐馬がほめたと、剣林地獄へいって戸来刑四郎に告げろ」
次の瞬間、燐馬は忍者刀をくわえた。手が天井に刺さった柳葉刀の一本をひっつかむと、立ちすくんだお鳶ののどぶえめがけて、白い一線をひいた。
「危ない、危ない。うっかり、二つに斬るところだった」
のどをおさえ、廊下に声もなく崩折れたお鳶の上で、逆さに立ったまま御巫燐馬はつぶやいて、また一回転しつつ廊下にとび下りた。
「おれが呼びとめたのは、成敗もあるが、うぬのからだが鋳《い》形《がた》に欲しかったからだ。――いや、麻也姫を討つだけならたやすいが、さらおうとすれば手数がかかるわ」
燐馬はすでに死体となったお鳶をひっかついで、風のように廊下を走り、灯のない闇へ消え去った。あとに、血の一滴も残さずに。
いや、ただ一ヵ[#小書き平仮名か、1-4-85]所、廊下に赤い文字が書き残されてあったのを彼は知らぬ。
「りんま」
それはお鳶が、柳葉刀に縫われたおのれののどから指でぬぐいとって、絶命直前に書き残した血文字であった。
しばらくたって、燐馬が消えたのとは反対の方角からお鷺《さぎ》がいそぎ足でやって来て、はたと立ちどまった。
廊下につき立った柳葉刀を見、天井に刺さった柳葉刀をふりあおぐ。
それから眼をうつして、足もとに残された、かすれた血文字をながめた。
「…………」
きっとあたりを見まわしたお鷺の顔色は、血の気を失っていた。
「もしや」
走り出したゆくてに、そのとき浮かび出した影を見て、お鷺はまた立ちどまった。あらわれたのは、お鳶であった。向うでも、じっとこちらを透《す》かしていたが、すぐに息はずませて駆け寄って来て、
「お鷺、燐馬をとり逃がした」
と、あえぎながらさけんだ。見ようによってはなまめかしい。襟も裾もみだれた姿であった。
「え、忍び入ったのは、やはり御巫燐馬か」
「そこに具足櫃のふちが一きれ落ちているのを見やったか。それだけで具足櫃とみせ、燐馬はそのうしろにひそんでいたのじゃ。わたしはここを通りかかって、七つのはずの下の櫃が八つあるのを不審に思い、とり調べようとしたら御巫燐馬があらわれた。柳葉刀を投げたが、くやしや、逃がしてしまった。――いそぎ、城の衆へ知らせて、狩りたてねばたいへんなことになる。いえ、それよりも、はやく奥方さまにお告げ申さねば」
「で、いたのは燐馬ひとりかえ?」
「わたしの見たのは、燐馬ひとりだったけれど」
「はて、――いま、わたしはここにもうひとつの怪しい影を見たけれど」
「えっ」
お鳶は眼を見張って、
「では累破蓮斎が――」
と、声をのんだが、すぐにせきこんで、
「その影は、どこへいった」
「そちらの書院の方へ。来やれ、お鳶」
と、さけんで、お鷺は壁とは反対側の唐紙をあけて入っていった。お鳶の顔にややとまどいの表情があらわれたが、すぐにうなずいて、そのあとを追う。
二、三歩入ったところで、お鳶は釘づけになった。
「お鳶。――うごきゃるな」
あけた唐紙のあいだから、ぼうと廊下のあかりが入ってはいるが、灯も人気もない大書院は闇にひとしかった。――が、忍者にとっては、この程度の闇は白昼にひとしい。
三間ばかりおいて、お鳶は、そこに右の腕をふりかざして立っているお鷺の姿を見た。その五本の指のあいだには、五寸もある針が四本はさまれていた。はっとして眼をこらすと、胸にかまえたもう一方のこぶしにも、四本の針がひかっている。
「な、何をするのじゃ、お鷺。――」
「うごいてはならぬ。腕一本うごかしても、この扇《おうぎ》針《ばり》が飛ぶぞ。――御巫燐馬」
と、お鷺はいった。
「まっ、わたしが御巫燐馬とは――」
「そののどの傷はどうしやった? 手をあげてはならぬというに。――手でかくそうとしてももうおそい。おまえののどには、小さな傷あとがある。ほんの先刻まで、お鳶にはなかった傷じゃ。おまえはお鳶ではない。お鳶に化けた御巫燐馬じゃ」
こちらは沈黙した。
「燐馬、お鳶を、お鳶の柳葉刀で殺《あや》めたな。そして、御巫燐馬の忍法|砂《すな》鋳《い》形《がた》でお鳶に化け、廊下に残った柳葉刀などを始末しにかえって来たものに相違ない。そして奥方のところへゆこうなどと――お鳶の屍《むくろ》がおまえののどに柳葉刀のあとをそっくり残さなんだら、わたしでさえもあやうくだまされるところであったわ。ホ、ホ、忍法砂鋳形の精妙さが、かえっておまえにたたろうとは。――」
お鳶の――いや、御巫燐馬の眼が、しだいに燐光をはなって来た。
「燐馬どの、ききたい、鋳形にとったあとのお鳶の屍をどこに埋めた? 言え、言わぬか。――言わぬでもよい、あとで探す」
御巫燐馬の左腕がユックリと宙にあがった。その手くびを、針がつらぬき通った。お鷺のふりかざしたこぶしから――腕をふったとも見えないのに、そのうちのただ一本だけが飛来したのだ。
「一本だけ飛ばしたが、同時に八本飛ばせることもできる。それは、六尺四方に飛ぶ。針は無数じゃ。燐馬どの、あきらめるがよい。――」
その声がはたと切れて、七本の針が、まさに六尺四方に闇をきって飛んだ。御巫燐馬に昇天の術があっても、その針の嵐をのがれ得るとは見えなかった。
が――針は、燐馬のからだに達しなかった。わざと右腕をあげてお鷺の技《わざ》の対象とし、同時に彼の足もとから、たたみが一枚、糸にひかれたようにすうと立ちあがったのである。針はことごとく畳に刺さり、その裏まで抜けた。
「けなげなり、くノ一っ」
声はすでにお鳶のものではない。その声は、横につづいて立った次のたたみのかげからきこえてくる。くノ一とは、女のことだ。
「おおっ」
お鷺の声は驚愕のさけびでもあった。狼狽しつつも、針は横に紗《しや》を張ったようにながれている。三枚目のたたみが立った。四枚目のたたみが立った。五枚目のたたみが立った。そも、いかなる秘術か、御巫燐馬のひた走るところ、そのつまさきの一弾発で、たたみはつむじ風に吹きくるまれたように立ちあがった。
最初に立った一枚がたおれたのは、十枚目のたたみが立ったときだ。すでに、御巫燐馬はどこにいるかわからない。たたみがたおれ、山《やま》形《がた》に組み合い、重なり伏してゆくさまは、まさに怪奇な波としか見えなかった。ほとんど茫《ぼう》乎《こ》として立ちすくむお鷺の眼前にもたたみは立ち、背後のたたみも直立する。いや彼女の踏んでいるたたみすらが、地《な》震《い》のようにななめに傾斜しはじめる。
「忍法|千《せん》畳《じよう》返《がえ》し!」
その声が、山形に組み合わさった二枚のたたみの向うからきこえ、お鷺は飛《ひ》鳥《ちよう》のごとくその上を飛んだ。一瞬、その山がひらき、下から突出したこぶしと針が――彼女自身の針が、彼女の股間を真下からつらぬいた。
「風摩|成《せい》敗《ばい》!」
転《ころ》がりおちるお鷺を受けとめ、御巫燐馬は、苦悶にゆがむ女の鼻口に掌《てのひら》をピタとあてた。声もたてず、彼女は絶息した。
裾をかきひらき、針をぬきとり、のぞきこんで、
「こんどは、傷は見えまい。――しかし、惜しいな」
燐馬はニヤリとした。それがお鳶そのままの姿だけに、この世のものとは思えない物凄さだ。
そのとき、廊下の方から、雪崩をうって走ってくる跫《あし》音《おと》がきこえた。いまの家鳴震動をききつけたと見える。御巫燐馬は血まみれの針を口にくわえ、お鷺を小わきにひっかかえたまま、廊下とは反対側の障子の方へ走った。
駆けつけて来たのは、五人の香具師と、三人の女忍者であった。
「なんだ?」
飛びこんで、人間の業《わざ》とも思えない書院の惨状に息をのんで棒立ちになる。すぐにお燕が、狂気のようにさけび出した。
「お鳶! お鷺!」
いったい、ここでどれほど凄じい死闘が行われたのか。二人三人の格闘とは見えないが、書院は廃《はい》墟《きよ》のごとく寂《じやく》としてしずまりかえっている。
二ノ丸外《そと》の濠《ほり》の水に、ふたりの女が浮いているのが発見されたのは、その翌朝である。お鳶とお鷺であった。お鳶はすでに絶命していたが、お鷺は気を失っているだけなことがすぐにわかった。
昨夜、御巫燐馬を見つけて、ふたり力をあわせてたたかい、この濠まで追いつめたが、逆に燐馬に扇《おうぎ》針《ばり》を手くびに打たれてじぶんは濠に落ち、それからあとのことは知らない、とお鷺はいった。そして、無惨に討たれたお鳶の亡《なき》骸《がら》にしがみついて、彼女は涙をながし、歯をくいしばって復讐を口ばしるのであった。
「御巫燐馬は、まだ城中にいるような気がいたします」
お燕《えん》がそういったのは、それから数刻ののちであった。なぜか、朋輩のお雉《き》子《じ》、ひよどり、お鷺からはなれ、石垣の下にひっそりと坐って思案していた彼女が、そのまえを通りかかった悪源太を呼びとめたのである。
「どこに潜《ひそ》んでいるか、わたしにもわかりません。けれど、なぜか、燐馬の眼がじっとひかっているような気がするのです」
そして、彼女はおびえたような視線を周囲にまわしてから、
「ひょっとしたら」
と、つぶやいた。
「女の中に」
「なに、女の中に?」
「御巫燐馬の忍法砂鋳形――それはあなたも見たことがあるとおっしゃいましたね」
「あ!」
源太はぎょっとした。燐馬が妖しい砂の祭壇で、城のお年寄|撫《なでし》子《こ》からもとの御巫燐馬にもどったあの白日夢のような光景を思い出したのだ。それから、そのまえに城下の庚《こう》申《しん》堂《どう》で、燐馬が化けた撫子から、それとはしらず燐馬の眼をかんじたあの異様な感覚が脳裡によみがえった。――いま、お燕がもらした感覚は充分あり得ることだ。
「おいっ――では、燐馬が、城の女のだれかに化けているというのだな。そ、そいつはたいへんだ。よしっ、城の女から、燐馬の眼を探し出してやる」
「いいえ、そのようにあらたまって探しても、決して見破れるような御巫の忍法ではございませぬ」
と、お燕はいった。
「城中の女衆は、千人以上おります。そのうち、若い女だけでも、その半分――」
「やい、いってえ御巫燐馬は……若い女にしか化けられねえのか」
「そのようでございます。燐馬が――淫《いん》心《しん》を起すに足る――美しい女でなければ、その忍法をかなえる念力が起らぬ、といつかきいたことがあります」
「え、あの凄え忍法の念力は、淫心か。なあるほど!」
悪源太は、ひどく得《とく》心《しん》のいった顔つきをしたが、よくかんがえると依然としてわからない。いくら猛烈な淫心を起しても、女に変身するとは、やっぱり人間ばなれがしている。
「しかし、そいつは一大事だぞ。奥方さまを護ってるのは、ふだん女ばかりだ。こうしているあいだにも、燐馬がそのお女中衆のだれかに化けて、奥方にくっついて歩いてるかもしれねえ。これアこうしちゃいられねえ」
「お待ち下さいまし。ただひとつ、それを見破る法があります」
「な、なんだ。それは。――はやく教えねえか」
「あなたはだめです。わたしなら――そのわたしも、通し矢の眼にしなければ」
「なに、通し矢の眼?」
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青葉の笛
「風摩忍法通し矢の眼」
と、お燕はくりかえした。
「その眼を持つと、この世のあらゆるものがぎやまんのように透き通って見えるのです。壁も、きものも、人間の肌さえも」
彼女は悪源太を見あげた。美しい、大きな眼だ。それが、ありありと恐怖の色を浮かべている。
「人間の皮を通して見る。――それで、女の皮をかぶった御巫燐馬を、見つけ出すというのだな」
「いいえ、そういうわけではありません。女の顔の下に、御巫燐馬の顔があるというわけではありません。あの通り、砂の鋳形で燐馬そのものが女に変っているのですから」
「じゃあ、そんな眼になっても、見分けはつかないだろうが」
「燐馬の外《そと》見《み》は御存じのように、まるっきり女に変ります。が、その内側まで、どこまで女に変るか、それはわたしにもよくわからないのですが……けれど、いくら燐馬でも、お腹《なか》の中まで女になるということはありますまい。女には、お腹の中に、男にないものを一つ持っています」
「なんだ?」
「子《こ》宮《つぼ》」
「…………」
「それが――通し矢の眼で見ると、見分けられるのではないかと思うのです。子宮を持たない女――それが御巫燐馬の変《へん》形《ぎよう》した女だと」
「なあるほど! おい、お燕、いや、お燕さん、はやくその通し矢の眼になって、あの化《ばけ》物《もの》を探してくれ」
「わたしはこわい」
「燐馬がか?」
「いいえ、通し矢の眼を持ったあとが――この世の何もかもがぎやまんのように見える世界が――源太さま、わたしは、その秘法をお頭から教えられましたけれど、まだ実際につかったことはないのです。通し矢の眼になれば、ふつうの意味では盲同然になります。それをわたしは怖れはしない。すべてが透き通って見える世界が恐ろしいのです。そして、通し矢の眼になった上は、もうもとの眼にはもどらない。――」
「……ううむ」
「源太さまのお顔も、そのふちや内側がおぼろに見えるだけで、源太さまのお顔としては、二度と見ることができないでしょう」
源太は返答する言葉もない。困惑したというより、忍法通し矢なるものの説明をきいて、お燕におとらず戦慄したのだ。
お燕はすがりついた。
「盲になっても、源太さま、わたしを捨てないで」
「捨てるものか。おめえが御巫燐馬を見つけ出したら……あと、きっと、おめえを抱いてやる」
「ほんとうに?」
「ほんとうだ!」
悪源太はお燕を抱きしめた。お燕は身ぶるいした。――もう盲になったように、恍惚として眼をとじていたが、すぐわれにかえって、
「でも、たとえ御巫燐馬を見つけ出しても――見つけ出したら、そのときはわたしはこの世にいないかもしれない。……」
「何をいうんだ。おれがついてらあ。さあ、通し矢の眼になって、城を廻んな。おれがついていてやる」
「いいえ、それはあぶない。わたしでさえもあぶないのに!」
「わたしでさえも? こいつ、あんまりおれをなめるんじゃあねえぜ、おいら、死んだっていいんだ」
「御巫燐馬ほどの忍者です。わたしに見破られたら、見破られた瞬間にわたしを殺すでしょう。あの男の忍法は決して砂《すな》鋳《い》形《がた》だけではないはずですが、そのすべてをわたしが知っているわけではないのです。燐馬がこのように手間ひまかけているのは、麻也姫さまを殺さないで、五体御無事のままさらおうと望めばこそのことです。見破られたら、間髪を入れず、わたしを殺し、あなたを殺す。そしてまたべつの女に化ければ、もうゆくえは知れなくなります」
「まったく厄介な野郎だな。そ、それじゃあ手のつけようがねえじゃあねえか」
「そうなのです。常人では手の出しようもない恐ろしい男。……ただ、ひとつ、ひょっとすると、燐馬の力を弱めることができる方法をいま思いつきましたけれど」
「えっ、そ、そりゃなんだ」
「燐馬の砂鋳形をこわすのです。御巫燐馬はどんな女に化けようと、むろん御巫燐馬です。そのもとは、燐馬の砂鋳形にあるのではないか。あの最初の砂鋳形を崩しさえすれば、燐馬はかえるべき故《ふる》郷《さと》を失って、途方にくれるのではないか。――わたしがそういうのは、あの砂鋳形を、燐馬がこの上もなく大事に、ただならず厳重に守らせるのを見たからなのです」
「お。――」
悪源太も思い出した。はじめて御巫の砂鋳形なる忍法を見たときの光景を。
いかにもあのとき、庭のまんなかに一坪ばかりの砂場をつくり、その四隅にものものしく青竹などがさしてあった。それはまるで一種の加《か》持《じ》祈《き》祷《とう》の祭壇のようにすら見えたが、そこに印《しる》されたおのれ自身の鋳形によって、御巫燐馬はもとの姿にもどったのだ。
「でも、それを崩すとどうなるか、それはわたしにもわかりません」
「や、やって見ようじゃあねえか。そいつをひッ散らしてやろうじゃあねえか」
「そんなにたやすいことではありません。燐馬の鋳形は、おそらく石田の本陣の奥ふかく残されて、それをきびしく護《まも》らせているにちがいありません。きっと累《かさね》破《は》蓮《れん》斎《さい》もそこにいるでしょう」
「ううむ」
「死ぬを覚悟なら」
悪源太は立ちあがった。
「やる。やって見る」
「やはり、夜にならないといけないでしょう。その砂鋳形を崩し、わたしが城中の女の中から燐馬を見つけ出す。けれど、鋳形が崩してあるなら、それはもうふつうの燐馬の力を失っているかもしれません」
お燕は空をあおいだ。
「おお、空が澄んでお日さまのまぶしいこと。――いまのうちに」
と、うなずいて、悪源太を見たお燕の顔がぽうとあかくなった。
「源太さま、ちょっと向うをむいていて」
悪源太は妙な表情でぐるりとからだを廻したが、またそうっと首をねじむけて見た。
お燕はふしぎなことをはじめた。
眼をとじて、頬をあからめて、まるで何かに酔ったような顔で、坐ったまま、両ひざをひらき、裾のあいだに右の腕をさし入れた。二度三度、全身がかすかに痙《けい》攣《れん》したようだ。
彼女はその手をさしだした。指さきから透明な粘液が、糸をひいてしたたり落ちた。そして、それを筒《つつ》にした左の掌にまぶしつけ、撫でつけはじめたのである。掌の筒の前後に、膜を張るように。
それからお燕は、その筒を宙にあげ、太陽をのぞくような手つきをした。奇怪なしぐさだが、見ていた悪源太が一語も発することができないほど厳粛な姿であった。
「……あっ」
しかし、源太はついに思わずかすかなさけび声をあげた。
掌の筒を通して、日光がお燕の右の眼にさしている。しかも、彼女は眼を見ひらいたままだ。その瞳孔にチカッと小さな白い炎が点じられたように見えた刹那、そこからぽうとうすい煙が立ったようであった。
お燕は、悪源太の悲鳴もきこえなかったようだ。右眼はとじて、こんどは掌の筒を左の眼にかざした。そこに炎がともり、また黒煙があがった。
「忍法通し矢の眼。――」
苦痛にたえかねるように両眼をとじた彼女の眼に、やがて名状しがたい笑いがひきつった。
「おお、透き通って見える。何もかも。――」
――夜の水の上を、悪源太と睾丸斎が舟でもどってきた。彼らの耳には、
「風は蕭《しよう》々《しよう》として易《えき》水《すい》寒し。壮士ひとたび去ってまた帰らず、かね」
と、つぶやいて、元気のない笑いをもらした陣《じん》虚《きよ》兵《へ》衛《え》の声がまだ残っていた。
浪人崩れの虚兵衛は感心にそんな詩を知っていたが、夜狩りのとろ盛の方は、そのいちばん終りの方の文句だけがわかったらしく、
「また帰らず、じゃあこまる。御巫燐馬の砂鋳形をこわしたか、こわさないか、帰って報告しなきゃこまる。いや、きっと、こわして帰ってくるとも、さ」
と、夜風にふるえながら、例の脳天から出るような声でいった。
敵の本陣へ「なぐり込み」をかけるのは二人、ということに相談がきまった。その相談がきまるまで、その二人を籤《くじ》できめるという思案におちつくまで、相当話がもめたが、ともかく籤にあたった二人は、陣虚兵衛と夜狩りのとろ盛であった。
元気のない笑いをもらすのは、虚兵衛本来の声であり、とろ盛に度胸がないのも、べつにいまさらはじまったことではない。――彼らは決してこの「決死隊」に選ばれたことに迷惑してはいない。一方は陰々滅々と、一方は胴ぶるいしながら、しかもすこぶる張り切って、ひそかにおくりとどけられた丸墓山ちかい対岸の土《ど》堤《て》におどりあがった。
数刻ののちの首尾の吉《きつ》左《そ》右《う》を知るべく、馬《うま》左《ざ》衛《え》門《もん》だけを乗せた小舟をその土堤のかげに残し、それをも待たず悪源太と睾丸斎が城にひき返して来たのは――虫が知らせたのだ。
御巫燐馬の砂鋳形を崩したことをたしかめてから、お燕をつれて源太がひそかに城をめぐる。手段をつくして、麻也姫ちかくに仕える侍女たちの居《い》所《どころ》をもうかがう。――という約束で、それまでお燕は足軽小屋の一つに待っているという約束をしていたのだが、何となく悪源太は胸さわぎを禁じ得なかったのだ。
その足軽小屋に、松《たい》明《まつ》をもって駆けもどって来て、悪源太と睾丸斎は立ちすくんだ。
板戸を背に、お燕が大の字に立っていた。一糸まとわぬ裸《ら》形《ぎよう》だ。
いや、立っているのではない。その両足は地上から五寸も高い位置にある。そして、ふたつの乳房の下に二本の矢、それに両手くび、両足くび、のどぶえに一本ずつの矢が、ふかぶかと刺さっていたのだ。彼女はその七本の矢に縫いとめられているのであった。
「や、や――やられたな!」
もとよりお燕は絶命している。いかなるなりゆきで討たれたのか、想像もつかないが、殺した者が誰かはかんがえるまでもないことだ。犠牲者のからだをつらぬく七本の矢――嘲《あざ》笑《わら》うがごとき現実の「通し矢」。
「しかし、それにしても、燐馬はどの女に化けておるのか?」
「とうとう、それがわからねえか?」
歯をくいしばって松《たい》明《まつ》を寄せた悪源太が、ふいにぎょっと足もとを見下ろした。
二つの足をひらいた屍体の真下の石だたみに、赤いしずくが散っている。たんなる血ではない。横なりに、小さな、みみずのような血の文字だ。
「小、し、よ」
と、しゃがみこんでいた昼寝睾丸斎がやっと判読した。
「磔《はりつけ》になったまま、腰をねじり、胴をうねらして、落ちる血しずくで書いたものにちげえねえが」
惨とした眼で見あげれば、お燕の死顔はニンマリとどこか笑いをすらうかべているようだ。
「小しよ、とはなんのことだ? 燐馬の化けた女の名か?」
と、悪源太が歯をかみ鳴らしながらいった。
「そんなへんな女の名はなかろう。小しよ――小しょう――」
「睾丸斎、読みちげえじゃあねえのか」
「小しょう――小姓じゃあるめえか」
「小姓? 麻也姫さまの小姓? しかし、燐馬の化けてるのア、女だぜ」
「だからよ、女小姓」
「――それだっ」
悪源太はおどりあがった。睾丸斎がいった。
「ま、待ちな、奥方さまの女小姓は、こうっと二十人ちかい人数だぜ」
――いかにも、戦国の世の優等生らしく、兵法書に従って、五《ご》行《ぎよう》座《ざ》に備えた丸墓山の本陣であった。
一に足《あし》軽《がる》、二に長《なが》柄《え》、三に大将、四に旗、五に惣《そう》馬《ば》、これを五重に立てるを五行座備えという。――水はひいたが、なお過ぐる日の水攻めの失敗のあとが、折れくだけた樹々や、泥のはねとんだ幕屋に残って、篝《かがり》火《び》に蕭《しよう》殺《さつ》の気を漂わせている。
しかし、はやくも大将用に数《す》寄《き》屋《や》造りの建物すら建てて、悠々たる持久戦の相をみせているのは、さすがに秀吉麾《き》下《か》の秀才の石田治部らしい。
夜がたりのうちに、夜はふけた。この夜、三成に召されたのは、島左近に、曾《そ》呂《ろ》利《り》伴《ばん》内《ない》に、累破蓮斎であった。
島左近は、先日の麻也姫との一騎討ちの際に傷ついた左腕を、首に吊っている。もう痛みはないらしいが、彼はどこか憂鬱げで、沈黙がちだ。それはいくさに老練なはずのじぶんがついていながら、強襲に失敗し、水攻めに失敗し、いまだに眇《びよう》たるこの小《こ》城《じろ》をもてあましている不《ふ》甲《が》斐《い》なさを恥じる心のゆえでもあった。
その代り、曾呂利伴内は、二人前以上ににぎやかだ。彼は破蓮斎をつかまえて、いろいろと風摩の忍法について質問したり、けたたましく笑ったり、眼をむいたりしている。使者の役目はすんだはずなのに、いっこう小田原にひきあげそうな顔ではない。
三成は、意外に平静な顔色だ。左近の沈《ちん》鬱《うつ》をひきたてようとする気配もあるが、しかし彼は、小田原から来た成《なり》田《た》左《さ》馬《まの》助《すけ》の、妻への誘降が水泡に帰して、かえって愁眉をひらいているのであった。夫の手で麻也姫を秀吉に献上されては、じぶんの失敗を帳消しにするよすがを失ってしまうからだ。――成田左馬助は、鄭《てい》重《ちよう》に、冷淡に、あの日のうちに小田原へ送りかえした。
それにつけても、こうなっては頼るものは、この風摩の忍者だけだ。
「御巫燐馬は大丈夫か。……まだ帰ってはこぬか」
「何しろ、麻也姫を宝《ほう》物《もつ》のごとく大切につれ出さねばならんので、いささか手間はかかりますが、ともかくも朋輩ながら御巫燐馬、信ぜられてよい人間でござる」
「しかし、戸来は討たれたぞや」
「いや、あれは当方もいまだに解《げ》しかねまする。おそらく、おのれを信ずるあまりに、ついうっかりと油断して、みずから自信の罠に落ちたものでござろう。それにしても、まことに以て風摩組の面よごしで」
昂然として破蓮斎は答える。――三成の祈りにちかい期待を敏感にかんじとって、最初帰順の意を表してひれ伏したときと異り、だいぶそりかえっているようだ。
「それにしても、一刻も早う、麻也姫を見たいものよ喃《のう》」
「容顔花のごとくにして、かくも治部少輔どのを悩ます美《び》姫《き》。それが見とうて、わしは小田原へ帰れんのじゃよ」
三成と曾呂利は、声をそろえていった。破蓮斎はおちつきはらって微笑した。
「あいや、夜明けまでには、おそらく御覧に入れられるものと存じまする」
――そのとき、ほかの三人には何もきこえなかったが、破蓮斎の耳だけが、犬みたいにびくっとうごいた。
本来なら、破蓮斎が護《まも》っていた砂の祭壇なのである。
それを、五人の足軽にまかせて破蓮斎が去ったのは、三成に呼ばれたゆえもあるが、まさかこの夜|忍《おし》城《じよう》から、御巫燐馬と入れちがいに、この砂の祭壇を荒らしにくる奴があろうとは予想もしなかった。――まさに、油断以外の何ものでもない。
むろん、破蓮斎は足軽たちにきびしくいい残した。
「よいか、この砂場に、人間の入るはおろか、鳥一羽もとまらせてはならぬぞ」
足軽たちは、御巫がこの砂に、おのれの姿の鋳《い》形《がた》を残した光景を見たわけではなかったが、この本陣の奥ふかい庭の一劃に、青竹を四隅に立てた砂場のものものしさといい、そこに印された人《ひと》型《がた》のあまりにも精妙なぶきみさといい――ただごとでないものをおぼえ、決してじぶんたちの役目をおろそかに思ってはいなかった。
しかし、彼らとて、五行座の備えを破って、ここまで忍び入る曲《くせ》者《もの》があろうとはかんがえなかった。
――それでも、もし彼らの視覚|乃《ない》至《し》聴覚にふれたものが、いかにも敵らしい不審なものであれば、むろん即刻に警報を発したに相違ない。
ところが、足軽たちがふときいたのは、思いがけないものであった。
しのびやかな女の溜息なのである。たしかに、なまめかしい女の吐息なのである。
「……おや?」
手に手に松《たい》明《まつ》、槍を持って、砂の祭壇の周囲をめぐっていた足軽たちは、ふと耳をすまし、顔を見合わせた。
はじめ、声をたてようとした者もあったのだ。
が、そのとき、吐息はあえぎに変った。男の耳をとらえて、じんとしびれさせるあえぎ声であった。
「なんだ、あれは?」
「こんなところに、女をひきずりこんでる奴があるぞ」
「いったい、畜生、どこで――」
ささやきあったが、彼らは一種特有の弛《し》緩《かん》した笑顔になっている。二、三人、眼をひからせて、声の方へあるき出した。
それが、ふっと消えたかと思うと、反対の方で、またそのあえぐ声が断続しはじめた。甘美な、切なげな、嫋《じよう》々《じよう》たる息が、突然すすり泣きに似た声に変り、ひきつるようなうめき声に変る。
「こっちの方だぞ」
「どいつだ、女を泣かしている奴は――」
また、二、三人、その方角へさまよい出した。
いつしか足軽たちは、じぶんの任務を忘れている。
それもむりからぬ、すべての男を忘我の境におとしこまずにはおかぬ、真に迫った女の法悦の声であった。いや、男を狂わせる魔笛であった。
「曲者だっ」
どこかで、ひっ裂けるようなさけびがきこえた。
足軽たちは愕《がく》然《ぜん》としてわれにかえった。そして庭の真ん中に――砂場に向って、背をまるくして歩いてゆく一つの影を見た。
いまさけんだのは、しかしその影ではない。その影からは、例の嫋々たる魔笛がながれ出している。
びゅっと空を灼《や》き切る音がして、その影めがけて赤い流星が走った。
影は立ちどまった。が、魔笛は消えない。彼はまた歩き出した。いや、砂場めがけて走り出した。走りながら、声は歓喜に燃えきれんばかりの女の声に高潮した。
「とめろっ、そやつを!」
累破蓮斎の声であった。髪を逆立てて遠くから駆け寄って来ながら、彼の手からは狂気のごとくマキビシがくり出された。
松明に映え、きらめくマキビシを全身に打ちこまれつつ、影は砂場に突入した。足軽たちが混乱して殺到するよりはやく、影は砂場の砂をはねちらして乱舞した。
「夜《よ》狩《が》りの太《たい》夫《ふ》とろ盛《もり》、砂の御《み》巫《かなぎ》を討ち取ったりっ」
絶叫すると、小さな影はまるくなって砂の上につっ伏した。
つっ伏して、あきらかに断末魔の痙攣をみせている影の下から、また、あまりにも甘美な女のむせび泣きが、二声、三声もれると、彼はガクリとうごかなくなった。
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燐馬さがし
――砂の祭壇にたおれた影、またそれに殺到する足軽たちの影に眼もくれず、累破蓮斎は、大地に伏してピタと耳を大地につけた。
足軽たちの跫《あし》音《おと》、またわめき声――それにいまの絶叫で、陣屋のあちこちからあがりはじめた混乱の声の中から、彼は何を探しあてたか、
「おおっ、逃がしてはならぬ。曲者はまだおるぞ、みな、来い!」
と、魔鳥の羽ばたくようにおどりあがり、駆け出した。
「……とろ盛」
そこから小半町もはなれた高い樹の上で、ポツリとつぶやいて、黙《もく》然《ねん》と耳をすましていた影が、ふいに、
「いけねえ、追っかけて来やがった」
と、あわて出して、樹の枝から枝へ、猿みたいにつたい下りると、死物狂いに逃げ出した。――いうまでもなく、陣虚兵衛だ。
ものものしい五行座の本陣へ忍びこむ。――これは香具師の無鉄砲と、また曲りなりにも風摩学校で忍びの初歩教程を勉強したという学歴をかねそなえていなければできない芸当だったかもしれない。
みごとに御巫燐馬の砂鋳形のある現場を嗅ぎあてたが、手に手に槍と松《たい》明《まつ》を持った足軽のむれが番をしているのを見て、さすがに虚兵衛はひるんだ。すると、とろ盛が、「ちょいと見てな、おれがあいつらをトロトロにしちまうから」といって、例の嬌音をきかせ、まんまと砂場にちかづいていったのだ。――その直前、とろ盛は破蓮斎に発見され、哀れや、マキビシの霰《あられ》を浴びて殺された。殺されながらも、
「夜狩りの太夫とろ盛、砂の御巫を討ちとったりっ」
と、最後の絶叫を残したのは、むろん虚兵衛にきかせようとしたものにきまっている。
陣虚兵衛は逃げた。闇の大地を走り、陣屋の屋根から屋根へとび移り――水のある方角へ逃げた。香具師独特の軽捷さに加えて、この男、眼だけは人間ばなれしているほどいい。ふだんはこの世のすべてがつまらんような顔をして、むしろものうげな身のこなしだが、このときばかりはいのちにかかわる、いや、夜狩りのとろ盛がそのいのちをかけてやってのけた奇襲の戦果をつたえる義務があるのだから、ありきたりの忍者など、あっけにとられて見送るほどの速さで逃げ出した。
「出会え! 右脇一陰! 右脇一陽!」
破蓮斎は疾駆しながら絶叫した。陣形の部署の名だ。
「曲者でござるぞ! 一ノ先《せん》陽《よう》、一ノ先《せん》陰《いん》、鉄砲隊、出会い候え!」
虚兵衛の前方の陣屋から、押っ取り刀で雑《ぞう》兵《ひよう》が飛び出す。なかには下帯一つの奴もある。それを見て、横に走り、斜めに走り、虚兵衛はついに土堤の上に駆けのぼった。
「待てっ」
びゅっとくびすじを灼《や》き金のようなものがかすめ過ぎる。マキビシだ。
虚兵衛が土堤をころがりおちたときは、すでに破蓮斎は土堤の上におどりあがっている。つづいて何十人ともしれぬ雑兵が、雲のごとくに湧きあがる。
「おおいっ、ここだ、ここだよっ」
水の上で、馬左衛門の声がした。
チラと見て、虚兵衛はじぶんのころがりおちた場所と十間も位置がちがうことに気がついたが、もうそこへゆくひまがない。彼は筏《いかだ》の上にいた。
先夜、押し流された筏の残りが、本陣近いそこに集められ、結び合わされて、まるで浮橋みたいに湖へ突出していた。逃げるところがないから、虚兵衛は盲滅法にその突端に走った。
「うひゃっ」
馬左衛門の悲鳴がきこえたが、それをかえり見るいとまもない。まるで殺されたような大声であったが、事実は彼の小舟のまわりに、雑兵たちが投げつけた槍が水しぶきをあげただけだ。夜空に月なく、ただ微《かす》かな水明りだけであったのが倖《さいわ》いした。悲鳴をあげ、狼狽しながら彼は舟をまわし、岸からはなれ、全速力をあげて、筏のはしのほうへ漕いだ。
水に飛びこんでも間に合わない。――筏を走りながら、陣虚兵衛は計算した。河童《かつぱ》みたいな顔をしているが、正直のところ彼は泳ぎにそれほど自信はないし、あの女忍者たちの例からみても、累破蓮斎ほどの忍者が水練に未熟であろうとは、とうてい思えない、――ふいに彼はしゃがんで、何かやりはじめた。
「待てっ」
夜風に髪を逆立てた累破蓮斎を先頭に、十数人の足軽がほんの一、二間ばかりに迫ったとき、彼はまたもや水鳥みたいに飛び立って、逃げ出した。
破蓮斎は、羅《ら》生《しよう》門《もん》の鬼みたいに一方の腕をつき出していた。虚兵衛がしゃがんでいるのを見つつマキビシを投げつけなかったのは、投げるべきマキビシがもうなかったからであり、それに大胆にも燐馬の砂鋳形をこわすというにくい企《たくら》みを思いついたのは何者か、燐馬がいま城中でいかなる運命にあるのか、この曲者をとらえて白状させずにはおかぬという望みを起したからであった。
「わあっ」
虚兵衛の背後で、凄じい混乱が起った。突如として、雑兵たちが水中にころがりおちたからだ。
虚兵衛はいま、筏を結ぶ縄を切ったのだ。ほとんど闇といっていい中で、こんなことがやれたのは彼の眼なればこそだ。それはほんの三、四ヵ[#小書き平仮名か、1-4-85]所にすぎなかったが、十数人の重みと乱れた足をのせた筏は、その個所でバラバラになって、大がかりな水けぶりとともに追手を水に放り出した。
馬左衛門の舟は、すぐそばに近づいていた。
「ざまアー――」
ニヤリとしてふりむいた虚兵衛は、ぎょっとした。水けぶりを背に、真っ黒な影がとびかかって来たのだ。
「逃がさぬぞ、木ツ端香具師」
くびすじを人間のものとは思われぬ腕がムンズととらえた。
その腕を、馬左衛門の水《み》棹《さお》がなぐりつけた。さすがの破蓮斎が手をはなし、よろめいたのは、やはり足場が定まらなかったからだ。
「馬っ、はやく!」
虚兵衛が舟にころがりこむよりはやく、馬左衛門は水棹を空中に廻転させ、猛然と水をかいている。――
舟はたちまち三、四間はなれた。
「わあ、もうちょっとでとっつかまるところだった」
虚兵衛は氷をあてられたような感触の残るくびすじをなでて、うしろをふりむき、
「や、あきらめたか。水にとびこんでまで追ってはこねえな」
解体した筏から空をとんで、いちばん端の筏まで乗り移って来た累破蓮斎の影は、そのままそこに立って、茫《ぼう》乎《こ》としてこちらを見ている気配であったが、すぐにもとの土堤の方へ駆けもどっていった。――周囲でガバガバ泳いでいる足軽たちには眼もくれず、すでに一本ずつの流木と化した筏材の上を飛んだ。
「やい、それより、とろ盛はどうした?」
と、馬左衛門が舟を漕ぎながら、息せききってきく。
「死んだよ。御巫燐馬の砂鋳形はみごとにこわしたが――可哀そうに」
虚兵衛はもちまえの陰々滅々たる溜息のような声にもどった。
「例の声で、番人どもをたぶらかしてよ。――しかし、女を抱いて極楽往生するならまだしも、タダであんな声を出して死んじまうたあ、はかねえなあ。城に入ってから、あいつアいちども女を抱いて泣いたことアねえぜ。哀れな最期だなあ。いってえ、よくかんがえてみると、何のために……」
はじかれたように虚兵衛のからだがうごぎ、バタリと舟につっ伏したのはそのときであった。銃声はそのあとで水の上を渡って来た。
「虚兵衛!」
仰天した馬左衛門の眼に、のめった虚兵衛のうなじに、ベタリと掌のかたちが残っている。水銀のようなひかりをはなち、それがみるみる黒血に消えてゆくのが映った。
「な、なんだ?」
かっと眼をむいた馬左衛門の脳裡を、いつか城で累破蓮斎が掌で撫でた壁が、たちまち銀光をはなって鏡と化した光景がよぎりすぎた。
「ま、的《まと》としやがったな?」
うなった声の上を、また弾丸がかすめ飛び、銃声がきこえた。
狂気のごとく舟をこぎ、湖のまんなかまで逃げてから、馬左衛門は牡《お》牛《うし》のように号泣して虚兵衛を抱きあげた。
「しっかりしろ、虚兵衛! ここで死ぬたア、あんまりはかねえぜ。おめえこそ、いってえ何のために……」
馬左衛門の腕の中で、もう冷たくなりかかっていた虚兵衛の唇がうごいた。
「風は蕭《しよう》々《しよう》として易《えき》水《すい》寒し、よ。……壮士ひとたび去ってまた帰らず、よ。……へっ、壮士になっちまいやがった。……してみると、あんまりはかなくもねえ。存《ぞん》外《げえ》、実《み》のある、面白え世の中だったぜ。……麻也姫……奥方さまに、よろしくつたえてくんな。おれは……」
朧《おぼ》ろな水光の中に、唇がニヤリとした。
「おれより、馬……はやくおめえに合う女を見つけろよ。……」
そして、彼は石のようにうごかなくなった。
「――まず、これを御覧下せえまし」
悪源太と睾丸斎は、老臣の正木丹波をつかまえると、否も応もいわせず、足軽小屋へひっぱって来た。
「ううむ。……」
七本の矢で磔にされた全裸のお燕の屍骸をみて、正木丹波は瞠《どう》目《もく》したきり声もない。
「無惨な――な、何者の仕《し》業《わざ》じゃ」
「例の忍者、御巫燐馬って野郎のしたことで」
「――き、きゃつはどこにおる?」
「奥方さまの女小姓衆のうちに――この女が、死ぬまぎわに、そういいやした」
小しよ、という血の痕から女小姓と推理した経過をのべるのは面倒だから、悪源太はそういった。
「何、女小姓のうちに?」
「御家老さまも、あの燐馬が砂の痕で男から女へ、女から男へ変る化物だってことは御存じでげしょう。あいつはいま女小姓に化けて、奥方さまにちかづき、奥方さまをさらう機会をうかがってるにちげえねえんです」
「そ、それは一大事だ!」
「ね、そうでしょう、一刻もはやくとっつかまえなくちゃ大変なことになる。ところが、女小姓衆は二十人ちかい。毛の生え具合までソックリ同じに化けてる燐馬を、その中から見分けるのは、ほかの人間じゃできっこねえが、おれたちだけ、死んだこの女から伝授されやした」
「それは何だ」
「いうにいわれねえ。見つけ出したら、代は見てのお帰りということにしておくんなせえ。それにうめえことは、燐馬は女小姓に化けてるのをおれたちに知られたってことを、まだ知っちゃあいねえはずです。御家老さま、何とか名目をつけて、いそいで女小姓衆みんなを、どっか逃げられねえところに集めておくんなせえまし」
この香具師たちを、どこか胡《う》乱《ろん》な眼で見ていた正木丹波も、動《どう》顛《てん》してうなずいた。ただこの凄惨なお燕の屍骸をいま見たせいばかりではない。昨夜――大書院のたたみを廃墟のごとく返すという怪異ののちに、お鳶という女の屍骸が濠《ほり》に浮いていることが発見されたのはけさのことだし、あの恐るべき忍者の影が麻也姫の身辺に迫っていることは、彼といえどもヒシヒシと感ぜずにはいられなかったからである。
十九人の女小姓が、本丸下の石でたたんだ窖《あなぐら》に集められたのは、それから半刻ののちであった。
大名の夫人に仕える女小姓は、十二、三歳から二十歳くらいまでの娘だが、大半は十四、五歳であった。――「ひそかに奥方の御寝所を作るために」という理由で、彼女たちは夜中その地下室に集められたが、そこにいる野《の》臭《ぐさ》いふたりの香具師を見て、いっせいに眉をひそめた。
「あれは?」
と、丹波にきくと、
「力仕事は、あのものどもがする」
と、正木丹波はこたえた。が、このふたりの香具師がどうして燐馬を見分けるのか、丹波もまだ知らないので、どこか不安な表情である。それに御巫の変身ぶりは知らぬではないが、いまいくら眼を皿のようにしても、どうしてもこの中に燐馬が化けているとは見えず、えたいのしれぬ香具師の口車につい乗ったのではないかと、かすかに悔いているほどであった。
丹波の返答をきいて、なぜか睾丸斎がニヤリとした。悪源太なる香具師も、女たちから見れば実に無礼な眼つきをして、ジロリと見まわし、
「おう、なんだ、半分以上は小便くせえ娘ッ子じゃあねえかよ」
それでも声だけはひそめて、睾丸斎の耳にささやいた。
「チュウチュウ、タコ、カイ……おい、年ごろの女は七人しかいねえぜ。いくら燐馬だって、十四、五まえの小娘にゃ化けられねえだろうが」
「あいつのことだ。どうだかわからねえぜ」
「わからねえったって、燐馬はたったひとりだ。たったひとりの燐馬を探し出すために、そんな子供をヨツにカマるわけにゃゆかねえ。せめてあの七人にきめたぜ」
「七人で、源太、気落ちしたろう」
「ばかをいえ。七人でも気が重いや。おれアな、睾丸斎、なぜだか、この城へ来てから女をヨツにカマるのがいやになったんだよ。今夜のことア、燐馬探しのための余儀ねえ苦役だ。あとで、まさか、麻也姫さまに訴えやしめえな」
「讒《ざん》訴《そ》するか、おめえを恋いしたうか――それアおめえの技次第だ」
「そりゃ、その技にかけては自信があるが……ところが、睾丸斎、かんじんの燐馬だがな、果してヨツにカマって見つかるか、その自信がなくなって来たよ。お燕は、腹の中まで女に変ることはあるまいといったが――このまえ、城下の庚申堂でおれがヨツにカマった撫子は、たしかに燐馬の化けた奴だったが、あれアまちがいなく女だったぜ!」
「そのあたりまで砂がくびれこんで、変るんだ。が――よくよく心気を澄まし、ジックリと味わえば、ほんものと化けた奴たアどっかちがうだろう。――それを見きわめるために、あの女たちをここへ集めたんじゃあねえか」
「そのはずだったんだが、急に自信がなくなって来たんだよ。それに……知らねえ前ならともかく、燐馬の化けた女とヨツにカマるたア、いくらなんでも気色がわるいぜ」
「燐馬だと、わかったら逃げ出せ。この窖《あなぐら》の外は、奥とおんなじ石の扉だ。逃げ出して、そいつだけ閉じこめたら、きゃつが尻尾を出すまで松葉いぶしでもかけてやろう」
突然、するどい声がかかった。
「あの男たちは、何を話しているのです? 無礼ではありませんか?」
お千《ち》賀《か》という豊艶な娘であった。鉢巻をして、薙刀をついている。正木丹波は狼狽した。
「これ、何をしておる。はやくやれ、いそいで仕事にかかれ」
ふたりの香具師もヘドモドしていたが、こんな場合でも、この家老のまじめくさった言葉をきくと、吹き出さずにはいられない。
「こうっと――奥方さまの御寝所をつくるってえ仕事だったな。わけがあって、お小姓衆には遠慮してもらおう。あなたさま、あなたさま、あなたさまと――その七人の方だけに残っていただいて、あとのお小姓衆はおひきとりをお願《ねげ》えしてえんでござんすが」
と、睾丸斎がいった。
「え、わたしたちだけを残す?」
「しかも、この奥にもうひとつ窖があるが、ここにひとりずつ入って手伝ってもらわなきゃならねえ。――城作りだって、組々バラバラに仕事をさせるのが、築城術の奥義でござんしょうが」
へんなところに築城の奥義をもち出した。
「ひとりずつ」
キラとお千賀の眼がひかった。怒りか恥じらいか、その白い頬にぱっと血がのぼって、
「おまえたちもかえ?」
「おれひとりでござんすがね」
と、悪源太がくびすじをかいた。いくら燐馬が女に化けるとはいうものの、まさかこのいかにも誇りにみちた美しい女小姓がそうだろうとは想像もできないが、それだけにこの娘をヨツにカマるのは骨が折れるだろうと、ほかに目的あっての荒仕事だから、いたましくもあり、ウンザリもした。
「おまえと、わたしたちひとりずつが入る。それで奥方さまの御寝所をつくるとは、いぶかしい。左様なことは――」
「この石段を上ったところに、御家老さまに待っていてもらいまさあ。もしおれが何か妙なことでもしたら、訴えておくんなさい。そんなことをすれば首が飛ぶことあ承知の上で、まさか、そんなことは、しやしねえ」
「そんなこととは、何じゃ?」
「さあさあ、事はいそぐ。用のない人は、早く出た出た!」
と、睾丸斎が手をふりたてて、十二人の小娘と正木丹波を地下室から追い出した。正木丹波はいよいよ不安そうな表情になっていたが、それでも、事のなりゆき、是非もない、と観念したらしく、少女たちといっしょに石段を上っていった。事のなりゆき、是非もない、といえば、悪源太たちにとってもその通りだ。
本来なら、御巫燐馬の砂鋳形破壊作業のために奇襲に出ていった三人の仲間の報告をきいてから、何らかの手をうちたかったのだ。それが、はからずもお燕の死によって、燐馬が麻也姫の女小姓群の中に混っているのではないかと疑惑を抱くにいたり、そして急ぎ彼女たちを呼び集めた以上、もう間がもてない。
「それでは、仕事にかかります」
悪源太は厳粛な顔をして、扉をあけて、奥に入っていった。中は闇黒だ。
「一番、あなたさま」
と、睾丸斎があごをしゃくり、ひとりの女小姓を押しやるようにその中へ入れ、扉をしめた。それっきり、何の物音もきこえない。――十分ばかりして、その女小姓が現われた。頬が酔ったようにあからみ、眼がうるんでいる。
「もうし、白絹さま、どんな御用でありましたえ?」
と、すがりつくようにお千賀がきいた。白絹はボンヤリとお千賀の顔をみていたが、やがてゆらゆらとくびをふった。
「それは、ありがたい御用でございました。……」
そして、空を踏むような足どりで、石段を上って外に出ていった。
「二番。――」
睾丸斎の声とともに、二人めの女小姓桐葉が、ふしぎそうに石の部屋に押し入れられる。十分ばかりして彼女は出て来たがこれまた夢みるような顔つきだ。
桐葉が石段を上ってゆくと、外で松《たい》明《まつ》を持って待っていた正木丹波がきいた。
「これ、桐葉、あの香具師どもに、なんぞ無礼なふるまいなどされなんだであろうな?」
「いいえ、無礼どころか――ほんとうにたのしいことを」
彼女はそういって、フラフラと闇の中へ消えていった。さっきの白絹と同じことだ。――美しい唇によだれの糸がひいたのが松明に見えて、丹波は狐につままれたような表情で見送った。
三人目。四人目。……
「……五番」
と、睾丸斎がいった。
五番目はお千賀であった。
扉の前に立って、彼女はまだ一歩も入らないのに、睾丸斎に見えないように、にっと妖しい笑いを浮かべた。
彼女は――彼こそは、忍者御巫燐馬の変身であった。
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ただよう墓標
扉をしめ、御巫燐馬は闇の中に立った。
――彼は、最初お鳶に化け、お鳶ののどに残した傷痕からお鷺に看破されるやこれを殺してお鷺に化けた。けさ、濠に浮かんでいたのは、お鷺になりすました燐馬であった。ところが、これまたお燕に見破られると、こんどは女小姓のお千賀に変身したのだ。
女忍者たちを殺し、女忍者に化けたのは、風摩組の裏切者に対する制裁の意味もあったが、ここに於てさすがの彼も、これ以上女忍者に化けることにいささか危険をおぼえたのである。お鷺の姿で、偶然、女小姓のお千賀とつれ立って足軽小屋の前を通りかかったとき、そこからきこえた驚きの叫びで、じぶんが見破られたことを知り、盲目にひとしいお燕を殺し、さらにお千賀を殺してこれに変身したのだ。
それはすべて、彼女たちの屍体から作った砂《すな》鋳《い》形《がた》によった。それらの砂鋳形は、変身後つぎつぎに消し去ったが、燐馬の原形を城外丸墓山の本陣に厳《げん》として残してある以上、彼の神通力が失《う》せることはない。
女小姓お千賀に変身して、彼は麻也姫にちかづいた。彼にしてみれば、夜明けまでにも麻也姫を城外にさらう確信があった。
しかるに、突如として老臣正木丹波の召集を受け、本丸地下に奥方の秘密の寝所を作るという奇妙な用向きを命じられた。敵の忍者の襲撃をふせぐという名目であった。――で、ほかの女小姓たちといっしょにやって来て、悪源太、睾丸斎の立ち合っていることを知り、そして彼らの意図を燐馬は見ぬいたのである。
御巫燐馬は心中に腹をたてたが、奥方誘拐の寸前面倒なことになったという舌打ちであって、また一方笑わざるを得ない。
この向うみずな香具師どもの肚《はら》は読めている。それにしても、こいつら、のうてんきに見えて、どうして嗅ぎつけおったか、おれが女小姓の中にまぎれこんだことを探りあてたらしいのだ。しかし、おれがお千賀だとはまだ見ぬいてはいない。見ぬいているなら、こんな手数をかけるわけがない。
さて、悪源太なる奴が、どういう手段でおれを見つけ出そうとするか?――ひとりひとり、闇の一室にひきずりこんで、女小姓に何をするか? そこから出て来た女小姓たちの表情からすぐに察して、これまた燐馬は苦笑した。
馬鹿め! そんなことをして、おれが見分けられるわけがない。たんなる女装を以て敵をあざむくありきたりの忍法者とは役者がちがう。御巫燐馬は完全に女に変るのだ。
それはそれとして、さて次には悪源太という道《どう》化《け》者《もの》をどうするか。
どこの馬の骨ともしれぬ風来坊の分際を以てわれわれにさからうかまきりめら、どうせ踏みつぶさねばならぬ上は、これを好機に無礼討ちにするのも一法。――と、いちどはかんがえたが、待てしばし、と燐馬は思いなおした。老臣の正木丹波が外で待っている。源太を殺せば、やはり疑いの眼をむけるだろう。
それは麻也姫誘拐の予定にさしつかえる。それに。――
完全に女と化した御巫燐馬の下腹部を、えぐるような快感の記憶がよみがえった。曾て撫《なでし》子《こ》に変身したとき、悪源太に犯された想い出だ。いままで、女に化けていくどか男と戯れたこともある燐馬だが、あのときほど忘我の酔いにおとされたことはない。味方のはずの七人の女忍者が敵に廻ったのは、おそらく源太のあの力のゆえに相違ない。
――よしよし、こやつを誅《ちゆう》戮《りく》するのはしばらく後《あと》廻《まわ》しだ。この際はここでひとつ、こやつと愉しんでやろう。
闇の中に立って、そう決心すると、燐馬は心でニヤリとした。姿は鉢巻をしめ、薙《なぎ》刀《なた》をついた凜然たる女小姓お千賀だ。
本丸の下に、どの城にでもある石の蔵だ。米俵がまだ天井まで積みあげてあるのに一部空間を作って、そこに豪奢な夜具がしいてあった。漆黒の闇だが、燐馬にはありありと見える。そして、その夜具の中に源太がおらず、彼が跫音をしのばせて、ヘッピリ腰でこちらにちかづいてくるのも。
「奥方さまのお褥《しとね》作りとはえ?」
わざと、燐馬は闇をうかがうような眼つきをし、恐怖をおさえて威を張っているような声でいった。
いままで入って来た四番までの女小姓の態度が、はじめはみんなそうであった。声からして、どうやらこんどは、あのいちばん手強そうな女小姓だと悟り、源太はやや緊張して忍び寄った。
「お褥作りは、おれとこうやって」
いきなり薙刀をもぎとり、片腕でむんずと抱きすくめる。
「あれ」
やはり女だ。抱きしめると、シナシナとほそく柔らかなからだであった。そいつをひっかかえて、悪源太は夜具へ走った。
「な、何をしやる、御家老さまに――」
「何とでもいえ」
源太はお千賀の衣服を剥いだ。泥棒ではないが、泥棒より早くたくみな剥ぎっぷりだ。
お千賀は盛大に足をはねあげたが、それはむなしく空を蹴った。そのあいだに源太の鞭みたいに強靭な腰はしっかりとくいこみ、吸いついていた。
「――おんや? こいつは?」
悪源太のあたまに、ちらと意外感が走ったのは、これが燐馬という疑惑ではない。それどころか、この凜《り》々《り》たる女小姓が、実に、何とも、幾百の女にも稀な上《じよう》品《ぼん》であることを知った驚きであった。
幾百の女にも稀は稀だが、ない例ではない。むしろ外見きりっとした女が、ひとたび乱れると底なしに狂うことがあるのは体験で承知しているから、驚きは一瞬で、たちまち悪源太はこの魅惑の白泥にのめずりこみ、まみれつくし、むせんでしまった。いままでの義務的な苦役感はけしとび、彼は全力をあげて奮戦した。いつしかお千賀も、女小姓の誇りやたしなみを忘れはて、かなぐりすてて燃えている。
――外側から扉をたたく音で、源太はわれにかえった。こんどにかぎり、いやに時間がかかるので、何か異常事が起ったのではないかと、睾丸斎が気をもんでいるらしい。
源太は身を起した。なお四肢をまきつけ、下からしっかとしがみついているお千賀をひっぺがすのに彼は苦労をした。
何をいう元気もない。もっとも、いまさらこの女に、何を弁解する必要もない。その点にかけては自信があるから、源太は横着だ。
外では、また小うるさく扉をたたいている。つくづくと源太は、あと二人の女を調査するのがいやになった。――しかし、その中に燐馬がいるのだ!
全身の気力をふりしぼってあぐらを組みなおし、源太は枕《ちん》頭《とう》の短《たん》檠《けい》に灯《ひ》をともした。それでも、念のため、股間をのぞいて、どこかに砂粒がくっついていやしないかと点検する。――砂は、ない。
これまた黙って身づくろいしているお千賀は、うしろ姿の腰のあたり、なお恍惚の靄《もや》がまつわりついているように見えるが、その実、悪源太の事後の点検ぶりを見ていて、にっと笑った。
やがてお千賀は扉の外に出た。
昼寝睾丸斎は動揺した眼で迎えた。それは、薙刀を持ってはいるが、それにすがるように嫋《じよう》々《じよう》としたお千賀の、入っていったときとは別人のような妖艶さに瞠目したのであり、また、この女小姓が御巫燐馬とは思いもよらぬとはいえ、してみると、あの二人――と残った数の少なさから、お燕の血文字に対するじぶんの推理が、あらためて心ぼそくなって来たからであった。
「源太、お褥《しとね》の用意はまだかえ?」
「……まだだ」
扉の向うで、これまた元気のない返事がきこえた。
「では、第六番。――」
その声をうしろにききながし、お千賀は石段を上っていって、外へ出た。
家老の正木丹波が、松《たい》明《まつ》をもって待っていた。
「おう、こんどはお千賀か。おまえがまさか……何であろうとは思われんが、あの香具師どもに、何ぞ無礼なふるまいなどされなんだであろうな」
「いいえ、無礼どころか、かぐわしいお褥作り……それはありがたい御用をつとめさせていただきました」
わざと、淫《いん》猥《わい》ともみえる笑顔をむけると、木彫りの羅《ら》漢《かん》さまみたいな家老は、ヘドモドして眼をそらす。
笑顔のまま、お千賀は歩き出す。歩きながらかんがえる。そうだ、正木丹波はいまここにいる。小うるさい香具師二人もここにいる。――麻也姫をさらうのは、いまのあいだがいいかもしれぬ。
見あげれば、おびただしい真夏の星屑であったが、月はなかった。そうだ、きょうはもはや七月一日、小田原の開城は、五日か六日の予定ときいている。それまでに麻也姫をさらい、当然の結果として、この忍城を土《ど》崩《ほう》瓦《が》解《かい》させ、おれの名を豊臣方の功名帳に銘記させなければならぬ。
天守閣の別の入口へ、御巫燐馬はいそいだ。
石垣に沿って、わずかに細い土が道を作っているが、水はなおヒタヒタと足もとまで波をたてている。
「――はてな?」
ふいに、ピタと燐馬は足をとめた。血の匂いをかいだのだ。
一瞬、その水が夜目にもざっと銀のしぶきをあげて、そこから何か飛んで来た。うなりをたてて薙ぎつけて来たのは一条の鎖であった。
これは御巫燐馬にとっても、まったくの不意討ちであった。いま、まんまと燐馬さがしの詮議をのがれて来たと思っていただけになおさらのことだ。間一髪これを避けたのは、御巫燐馬なればこそというより、寸前、血の匂いをかいで、本能的に全身が戦闘態勢に入っていたからであった。
燐馬は避けた。細い道の前後に避けたのではない。彼は跳躍し、六尺も高い石垣にピタと守宮《 や も り》のように吸いついたのだ。――吸いついて、彼はうしろにくびをねじむけた。くびは正確に百八十度回転した。
空を切った鎖は、蔓《つる》みたいに巻きながら水面に消えていった。水中からの襲撃だ。星影暗い水中の敵は、常人ならばまひるでも見分けかねるであろうに、御巫燐馬の眼は何を見たか、この場に及んでなお捨てなかった薙刀を、はっしとそこへ投げつけた。
燐馬は、水中三尺にあった女の背を、魚みたいに薙刀が切り裂いていって、そこから血の黒雲がひろがるのを見た。
同時に、宙《ちゆう》にあがったままの燐馬の右腕めがけて、びゅうとまたうなりをあげて、もう一条の鎖が飛来した。これは頭上からで、さすがの燐馬もそれが手頸にキリキリと巻きつくのを、こんどはふせぐことができなかった。――最初の鎖からこのときまで、ほとんど二、三秒のあいだのことだ。
「おおっ、御巫燐馬!」
たまぎるような絶叫がきこえたのは、そのあとであった。
それは驚愕のさけびであった。ひよどりの声だ。彼女は石垣の上にいた。
それは驚きの声と燐馬もきいた。してみれば、彼女はじぶんを御巫燐馬として襲ったものではないのだ。女小姓お千賀と見て襲ったのだ。いまじぶんの忍者以外の何者でもない反応をみて、はじめて正体を悟ったものに相違ない。――しまった! と、燐馬は心中に舌打ちしたが、もうおそかった。
「方々、燐馬です! 御巫燐馬があらわれました!」
さすがの女忍者ひよどりも、ただの小娘みたいな悲鳴をあげたきり、あとは口もきけなくなった。
御巫燐馬は石垣の途中にへばりついたまま、文字通り金縛りになっている。何といっても、足場が不利だ。石に吸着している左手をうごかして、鎖を解きたいが、左手をはなせば、いっきに吊りあげられるだろう。――ひよどりは、たおやかなからだに似ぬ怪力の所有者であった。
その豪力のひよどりが、しかし石垣の上にいて、御巫燐馬を鎖でとらえたまま、それ以上どうすることもできない。吊りあげるどころか、じりっ、じりっと、かえってひきずり落とされそうなのだ。鎖をはなし、燐馬を自由にしたら、それがじぶんの死であることを彼女は承知していた。遠くで人声がした。
「何っ、御巫燐馬だと?」
悪源太の声だ。――まさに、槍を小脇にひっかかえた悪源太を先頭に、昼寝睾丸斎と正木丹波が、宙を飛んで走って来た。松明の火の粉が尾をひいた。
「燐馬がどこにいる?」
この刹那、鎖が蛇のようにうねると、それはひよどりの手からむしりとられた。
悪源太はもう三間ばかりの距離にいた。しかもなお石垣の上にいる燐馬の姿に気がつかぬ様子だ。ひよどりの手をはなれた鎖は、垂直から凄じい速度でその方へ廻っていった。おのれの腕にからんだ鎖を、燐馬は逆に武器としたのだ。
「――あっ」
青い火花をちらして石垣を磨《す》ってくる音響を、はじめて悪源太はふりあおいで立ちすくんだが、一瞬、とびのくことも出来ぬ細い道で、たちまち三人は卵のようにたたきつぶされようとした。――
その鎖が途中でみだれ、「ううむ!」と、名状しがたい狼狽と苦痛のうめきが石垣から湧いたのはこのときだ。神通力を失ったように御巫燐馬の手足は石からはなれようとし、それをふせごうとする努力に、彼の全身は波うった。
「その石垣にいるのが御巫燐馬ですっ」
ひよどりの絶叫に、悪源太の片腕があがった。それがはっきり女の影と見分ける眼のなかったのが、かえって僥《ぎよう》倖《こう》であった。その手から流星のように飛んでくる槍を見つつ、御巫燐馬はどうすることもできなかった。まるで芋虫みたいに無抵抗に、その槍をやわらかい脾《ひ》腹《ばら》に受けて、彼は石垣の下に落ちていった。
――のちに思いあわせれば、それは丸墓山の本陣で、夜狩りのとろ盛が御巫燐馬の砂鋳形を破壊したのと同時刻であったが、悪源太はむろんその寸前、燐馬のからだにあらわれた奇怪な変化を知らない。
まろびおちた影の上に、鏘《しよう》然《ぜん》たるひびきをたてて鎖がくずれおちる。――それでも影はもはやピクともうごかない。
駆け寄って、じぶんの槍で串刺しになって絶命している人間をのぞきこんで、悪源太は驚倒した。
「こ、こ、これア……あの女小姓じゃあねえか!」
そのまえに、フワと黒い風みたいにひよどりが飛び下りて来た。
「その松明をお貸しなされまし」
と、正木丹波の松明をひったくって、水の上にたかくかかげた。――水面に眼をやって三人は息をのんだ。
そこに屍体が、一つ、二つ、三つ――五つも浮かんでいる。よく見えないが、いずれも女の屍骸らしい。
「あの中に、お雉《き》子《じ》もいます。たったいま、この女小姓に化けた燐馬に討たれたのです」
「――あとの屍骸は?」
「いま、本丸下の窖《あなぐら》から出て来た方たち」
「えっ、それも、燐馬のしわざか!」
ひよどりは、悪源太の耳もとに口をよせた。
「あの女たちは、あなたと何をしました? みんな、知っていますよ。あなたは、わたしたちのもの、わたしたちにことわらないで、あなたに抱かれた女は、どんな理由があるにせよ生かしてはおけないのです。あなたはわたしたちのもの――いいえ、お雉子は死にました。お雁も、お鶴も、お鳶も、お鷺も、お燕も、みんな死にました。もうあなたは、わたしひとりのもの!」
熱い息であったのに、悪源太はぞっとふるえあがった。
「これが燐馬?」
老臣正木丹波は、むいた眼を悪源太にもどして、
「源太。――おまえはどういう具合に女小姓を調べたのじゃ?」
松明の火に、悪源太は仰天して股《こ》間《かん》をおさえた。彼はふんどしもつけていない、下半身まる出しの姿だったのである。
明け方から、雨になった。
正木丹波から、例の香具師どもが、敵の忍者御巫燐馬を討ちとったという報告をきいて、麻也姫は夢からさめたように面《おもて》をあげた。
数日前の夜、やはりあの香具師たちが、身の毛もよだつ死闘ののち、戸来刑四郎を討ち果したのを、彼女は目撃している。すべてが悪夢のようであった。
あの光景ばかりが、悪夢に似ているのではない。彼女は、敵の忍者を恐怖してすらいない。あの日以来――夫の左馬助が降伏の勧告に来て以来、麻也姫は悪夢を見ているようなのだ。
戦いのはじまらぬ平和なころ、相隣る二つの城の、一方は若い城主、一方は城主の妹として、ふたりはまみえ、そして恋をした。ほんとうにじぶんは、あのお方を尊敬し、信じたのであった。それが――夫となったあのお方の口から、関白の心に従えという言葉をきいたのだ。
「――麻也、おまえは、あの花婿どのを頼りになる男と思うておるか?」
また祖父三楽斎のかなしげなつぶやきが耳に鳴る。――お祖《じ》父《い》さまは、戦いのなりゆきも、このことも、すべてをあのときからお見通しだったのではないか?
「なお、御巫の砂鋳形とやらを壊しに敵の本陣へ忍びにいった香具師のとろ盛と虚兵衛なる者も、敵のために討たれて帰らなんだそうでござります」
正木丹波の報告の声はつづいていた。麻也姫はきいた。
「――香具師どもはどうしておる?」
「仲間の屍骸を葬りにいったとかきいておりますが」
「どこへ?」
「馬《うま》墓《ばか》へ」
麻也姫は立ちあがった。ただ憂いに沈んでいたその顔に、痛みをまじえた感動の色がながれた。
しばらくののち、水の上を、花を抱いた麻也姫を乗せた小舟が一艘わたっていった。漕ぐものは、正木丹波だけであった。まわりはただ薄墨色に茫《ぼう》々《ぼう》とけぶる雨ばかりであった。
「おおっ――奥方さまだ!」
水に浮かんだ馬墓――城の斃《へい》馬《ば》を葬る土地で、悪源太と睾丸斎と馬左衛門はびっくりして迎えた。
麻也姫は舟からあがって、小さな円錐形の土地を見まわした。すでに埋葬は終ったとみえ、そこにはいくつかの土《ど》饅《まん》頭《じゆう》がつみあげてある。左に四つ――右に六つ。四人の香具師と、六人の女忍者の墓。
「敵の本陣に残ったり、水に流されたりして、土の下に屍《し》骸《げえ》のねえ仏もござりますが」
と、ひくい声で睾丸斎がいった。
花を抱いたまま、麻也姫は立ちすくんだ。十の土饅頭に、雨は蕭《しよう》々《しよう》とふりそそいでいるのを見つつ、しばらく彼女は身うごきもできなかった。
やっとかすれたつぶやきをもらした。
「わたしのために死んでくれた。……どうしてこのひとたちは、わたしのために死んでくれたのかしら?」
三人の香具師は、地に這いつくばったまま、こたえなかった。雨の音の中に、馬左衛門の嗚《お》咽《えつ》する声だけがきこえた。
麻也姫は、漂うようにあゆみ出し、土饅頭に花をのせはじめた。
馬左衛門が泣いたのは、死んだ仲間をいたむより、麻也姫の言葉に感動したのである。――悪源太が、顔をゆがめて睾丸斎にささやいた。
「おいらも死んじまいたくなったよ。おれは、あいつらが羨ましい。……」
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忍びの水月
十の土饅頭に花をのせ終ると、麻也姫は地に這いつくばっている三人の香具師のところへもどって来た。
「……ありがとう」
雨の中にふるえる、しみいるような声でいった。三人の香具師は顔をあげたが、雨でなく、たしかに涙にぬれた麻也姫を見て、何のことばも口から出ない。
「なんの因縁か――わたしのために死んでくれたこの人々へ、麻也は何といっていいかわかりません。ただ、麻也の生きているかぎり、忘れはしない。けれど――わたしはいつまで生きているか――それは、指で数えられるほどの日数でありましょう。このうえ、おまえたちまで道づれにしては、ありがたいというより、恐ろしい。おまえたちのことも麻也は忘れぬ。どうぞ、この忍《おし》城《じよう》から逃げておくれ」
「に、逃げる?」
悪源太が、すっとんきょうな声をあげた。全然、思いもよらぬといった顔つきだ。――麻也姫は、うなずいた。
「おまえたちなら――男なら、逃げられる。いまのうちに逃げるがよい」
そういったのは、籠城以来、猛烈な戦闘は最初の二日ほどにすぎず、その戦死者はとるに足らぬほどであったのに、かえってそれ以後の持久戦となってから脱走兵が相ついで、しかもそれが武者や足軽ばかりであったからだ。
それも、むりはない。孤城よく敵の大軍を支えているとはいうものの、ただそれだけで、いくさに勝つ見込みはまったくない。北条から援軍がくるどころか、小田原の城そのものの命が旦夕に迫っていることは、げんにこの城の主《あるじ》たる成田左馬助そのひとが告げに来たくらいだから、侍たちが戦意を失い、絶望的になるのは当然のことだ。――この数日、急速調となった脱走兵を、しかも敵は、それが狙いであるらしく、大手をひろげて迎え入れるという噂は城中にひろがっていた。
男なら、逃げられる――と麻也姫はいった。皮肉ではない。事実だ。
女ならどうか。――女で逃げた者は、ひとりもない。
「奥方さまは?」
と、睾丸斎が、かすれた声でいった。麻也姫の頬に、淡い、冷たい笑いがはしった。
「わたしは降参はせぬ。麻也は死んでも、猿面の人身御供にはならぬ」
「それでも……奥方さまがなおこの城にござると、まだここの土饅頭がふえます」
「なんとえ?」
と、いったまま、麻也姫は睾丸斎を見つめて、沈黙した。
睾丸斎はパチパチとまばたきしたが、あとは死物狂いに眼をむいて、麻也姫を見返している。彼は、麻也姫のもっとも心いたむ点をついた。ここの土饅頭がふえる、とはじぶんたちが死ぬという意味だが、彼はそれをおそれてこの言葉を口にしたのではない。――それは麻也姫を救いたい、殺したくないという祈りにちかい望みから出たものであった。
「奥方さま……奥方さまは逃げられるお気持はありませぬか?」
「ない」
と、麻也姫はきっぱりといった。誇りにみちた双《そう》眸《ぼう》であった。
「わたしはこの城とともに死ぬ」
「それではおれたちもここで死にまする」
「なぜ? おまえたちにその必要はない」
「五本の指の仲間の墓がありまするでな」
平然としていう睾丸斎に、麻也姫の顔にはじめて動揺の色があらわれた。かすかに唇をふるわせたあと、小声でいった。
「逃げようにも、逃げられまい。――敵は十《と》重《え》二《は》十《た》重《え》じゃ」
悪源太が血相をかえてふりむいた。
「何をぬかす、睾丸斎。……もし、奥方さまを逃がそうとして、敵につかまったらどうする。奥方さまに生き恥かかす気か!」
こんどは睾丸斎が沈黙した。奥方さまをぶじに逃がし得るという軍略はまったくない。まさに麻也姫のいう通りであり、悪源太のわめく通りであった。
「……おんや?」
そのとき、馬左衛門がふりむいた。
雨の湖を、一艘の小舟が早い棹《さお》さばきで渡って来たのだ。蓑も笠もつけていないその姿は、あきらかに女忍者のひよどりの姿であった。
「なんだ、うぬは!」
と、悪源太はかみつくようにさけんだ。
ひよどりは舟から駆けのぼって来て、一本の竹筒を麻也姫にさし出した。
「ただいま、わたしの水琴に一匹の犬がかかりました。その犬がこれをくわえていたのでございます」
「犬が?」
麻也姫はけげんな表情でそれを受けとって、中から一通の書状をひき出して、はっと瞳をまるくした。その書状には、まず、
「まやへ。三らく」
と、あったのだ。――三楽斎、お祖父さまだ!
お祖父さまが、犬をつかってわたしに手紙を下された! 麻也姫の脳裡を、遠い昔にきいた祖父の異名「犬つかいの三楽」という言葉がかすめすぎた。しかし、お祖父さまは遠い常陸《 ひ た ち》にいらっしゃるはずだ。いったい、どこから犬を使者に寄越されたのだ?
ふるえる手で、書状をひらいた。
「麻也よ、あっぱれなり。
そもじは、そもじの名のみならで、祖《じ》父《い》の名もあげたぞやい。それまでやれば、天下にそもじを笑うもの、一人もなかろ。
されど、小田原は落ちる。祖父ははじめから、そんなことになりはせぬかと思うていた。思うていたから、ひとり常陸へいった。それなのに、なぜそのことを麻也にいわなかったかと、そもじは恨みはすまい。あのとき三楽が何を申したとて、きくそもじではない。祖父は麻也を信じ、笑って麻也のいくさぶりを見まもっていた。
小田原の城は、五日か六日におちる。いっそ、その日まで持ちこたえよ。本城落ちて、なお女の守る出城が健在であったとは、この国の軍記に曾《かつ》てない。
その日に祖父は迎えにゆくぞ」
――三人の香具師は不安そうに首をつき出した。
「奥方さま。……どなたから、なんのお文で?」
麻也姫は花のひらいたような明るい笑顔でいった。
「きょうは七月の二日じゃな。麻也はの、すくなくともあと四、五日は、逃げたくともこの城を逃げられぬ」
――しかし、太田三楽斎は、敵となった風摩組の存在も企画も知らなかったのではあるまいか。
曾て少壮のとき、その変幻のかけひきで武勇関八州に鳴った三楽斎とはいえ、この重囲の忍《おし》城《じよう》にある孫娘を、まるで嚢《のう》中《ちゆう》の珠でもとり出すようにやすやすと救い出せるかどうか、それは別として、それ以前に。――
あと四、五日。――それは同時に、恐るべき風摩の忍者累破蓮斎にとって、絶対に目的をとげねばならぬ期間ではなかったか。
そのことを、睾丸斎もすぐにいった。
「四、五日――そのあいだにも、累は参りまするぞ。――今夜にも」
「ど、どうすればよいのじゃ」
と、正木丹波は不安な眼つきをした。強情我慢のこの老家老も、先夜来の戸来刑四郎、御巫燐馬の襲撃ぶりの恐怖は、心根に徹しているらしい。
「されば、手に触るるものことごとく鏡となり、その鏡のことごとくに破蓮斎があらわれ――どれがほんものやら、見分けもつかぬ累の忍法。――あれをふせぐ手段は、というと」
「何かあるか!」
「見当もつきませぬな」
もっともらしい顔をして、ひどく絶望的なことをいう。が、表情はそのままで、
「しかし、こうなったら、ただ案《か》山《か》子《し》のように破蓮斎を待っておっては負けますわい。こっちで、きゃつを誘いこんで料理するよりほかに手はござらんな」
「どう、誘いこむ?」
「つらつら案ずるに――いや、たったいま案山子といって思いついたばかりじゃが、どうでしょう、きゃつに案山子を狙わせては」
「案山子とは?」
「つまり、御女中のどなたか、もっとも姿かたちの似た女《によ》性《しよう》を奥方にしたて、御家老さまや女小姓衆がうやうやしくお守り申しあげる。――」
「偽《にせ》奥方を」
「偽奥方とみなさま方は天守閣のいちばん上にいていただき、破蓮斎が現われたら、階段をとって、松葉いぶしをかけてやるのでござります。事と次第では、もっと荒っぽく、油をまいて、火をつけてもよろしい」
「それでは、われわれも焼け死んでしまうではないか」
「そういうことになりましょうな。どうせ落ちる城でござる。天守閣のてっぺんくらい焼けても何でもない。いわんや、十人二十人の御家来衆をや」
「ぷっ。……ううむ」
「いや、御家老さま、そう胴ぶるい――武者ぶるいなされんでもよろしい。破蓮斎は、それにはかかりますまい」
「な、な、なぜじゃ?」
「その一方で、このひよどりを奥方に仕立て、このわしが御家老に化けます。いや、人品がちがいまするから、あなたさまには化けられませぬ。副家老の酒巻靭負さまにな、それでも、わしがこう裃《かみしも》をつけますると、その威容、酒巻さまどころではないと思いまするが、この際、まあ、それはよろしい」
「おまえらが――どこに?」
「例の天守閣下の窖《あなぐら》に。これはこっそりと」
「その方に、累がかかるか」
「おそらくな、忍術使いというものは、裏を裏をとかんがえるようにしつけられておるヒネた奴ゆえ、きっとこっちにかかります」
「そっちにかかって、みごと、おまえら累を仕止められるか」
「細工は流《りゆう》々《りゆう》仕上げを御《ご》覧《ろう》じろ――といいたいが、実はまだよう軍略をかんがえてはおらんが――とにかく、弓矢上手のお武《ぶ》家《け》衆を、ほんの五、六人拝借して、これを埋《まい》伏《ふく》の計とゆきましょうかな」
「わたしが討ちとめまする」
昂然として、ひよどりがいった。そして悪源太をふりむいた。
「源太さま、もし破蓮斎どのを討ち果たせば、例の約束は大丈夫でございましょうね」
「歯をくいしばって、大丈夫としておこう」
「まあ、妙な大丈夫。で――昼寝どの、源太どのはどこにゆくのでございます。いまお名前が出ませなんだが」
「馬左衛門と二人で、二人だけで奥方を守る」
「二人だけで?」
「ほかの御家来衆にくっついてこられてはこまる。破蓮斎に嗅ぎつけられて、三段構えのわしの神算鬼謀はすべてパーとなる」
正木丹波がきいた。
「で、ほんとうの奥方を、どこへお移しするぞ」
「こうっと、先日から御城内をブラブラしておりましたところ、ふと見つけ出したのでござりまするが、三ノ丸に妙なものがございますな。ありゃ、つらつら案ずるに、水牢のあとと見受けましたが、あそこにでも奥方のお褥《しとね》を」
「あ! あんなところに!」
丹波は眼をむいた。
「それに、おまえらのお褥作りはゆだんがならんわ!」
「好色漢《ジンバリ》!」
と、珍しく睾丸斎が一喝した。丹波はキョトンとしている。
「相手は累破蓮斎だ。まかりまちがえば、こっちがお陀仏になるんだぜ! 思い立つことあって、商売ぬきでこの奥方さまに肩を入れた以上、おれたちの達《たて》引《ひき》にまじりッ気はねえ」
「――ほんとうかね?」
横からつき出した馬左衛門の長い顔は、音たててひっぱたかれた。
「だまれ」
どなりつけ、また丹波に顔をむけて、
「ふざけやがるとこの家老の羅《ら》漢《かん》面《づら》め、おめえを水牢にたたッこむぞ」
「わたしはそんなところにゆくのはいやです」
と、麻也姫は顔を紅《くれない》に染めていい出した。
「いえ、水牢の跡にゆくのがいやなのではない。みなにそのような苦労をかけて、本人のわたしがそんなところにかくれているのが、がまんがならない」
「ペ、ペ、ペ」
「馬《ペテ》鹿《ポウ》かえ?」
睾丸斎はどじょうひげをかきむしって、
「うんにゃ、奥方さま、それじゃあ、おれたちをみな犬死させる気でごぜえますか?」
「その、死なせるのが、たえられぬのじゃ」
「し、し、死にやしねえ。死にはしませんよ。こうみえて、おれたちまだいろいろの望みがあるんだ。馬左衛門に合う穴を見つけてやんなきゃならねえし……も、もういちど、武蔵野を、トーン、トーン、唐《とう》辛《がら》子《し》、ピリリと辛《から》いは山《さん》椒《しよ》の子……と唄ってあるきたいんだ。まあ、なんの因果で、こんなところでマゴマゴしてる羽目になったものか。――」
はじめの威勢が、いつのまにか愚痴になって、睾丸斎はわれにかえってニヤリとした。
「しかし、この城は――敵のみならず、味方にも、ホトホト手を焼かせる城でござんすねえ! つらつら案ずるに――」
累破蓮斎は、その翌々夜来た。
昼寝睾丸斎苦心の軍略に反して、彼はいとも素直に、天守閣の四階にあらわれた。
素直――というより、彼に絶大の自信とその裏づけがあればこそであろう。城をめぐる水、水にひたっているとはいえ、多くの門々、この天守閣の周囲、また一階二階三階にも、無数の血ばしった城兵の眼があったのに、彼は突如として四階に、忽《こつ》然《ねん》として出現したのである。
真夏の夜のこととて、窓はあけてあった。しかし、天守閣の四階の窓だ。その窓をぬっとまたいで入ってきた男の影に、ひとりの侍女が気がついて、きゃっと悲鳴をあげた。
そこには三十人を越える武者や女小姓がいたが、その悲鳴にふりむいた武者のひとりが、仰天しつつも、とっさに槍を投げつけたのである。
槍は突き立った。たしかに累破蓮斎の胸に。
しかも彼は、悠々と窓から入って来た。槍はあとに残っている。窓の空間に――星空につき刺さっている。
それが窓でない壁で、反対側の窓がうつっているのだと気がついたときは、その反対側の壁の下に、十数人の破蓮斎が立っていて、それが鏡とはみえず、みな迫真の立体像を以て、その広間に歩み入って来たのである。
凄じい混乱が起った。人々はしばらく、五階の「奥方さま」をすら忘れたほどであった。五階にいた正木丹波がこの騒ぎに愕然として、押っ取り刀で階段の上からのぞいたとき、その階段を上ってくる累破蓮斎に、
「あっ――推参なりっ」
しゃがれ声をふりしぼって、狂気のごとく抜刀して階段を駆け下りていったのである。
しかし、階段でぶつかった肉体はなかった。空《くう》をきって、丹波はころがりおち、眼をまわした。累破蓮斎の姿は、忽然と階段の上にあらわれて、じっと五階をのぞきこんだ。
「ちがった。やはり、あっちか」
平然とつぶやくと、そこから四階の天井に飛んだ。そこに無数の破蓮斎が、蛇のようにもつれ、這い、ひろがり出した。
下から飛んだ数本の槍が、その天井に空しくつき刺さったとき、無数の破蓮斎はみるみる消えて、その天井はもとより、まわりの柱、壁に、なめくじの這ったあとのような白っぽい粘液が乾いて残っているだけであった。
累破蓮斎の忍法「忍びの水《すい》月《げつ》」。
彼を討たんとする者は、すべて水にうつった月を斬るようなものだ。悠々と夜空をわたってゆく月を、だれがとどめ得る者があるだろうか。
累破蓮斎は、天守閣下の窖《あなぐら》に入った。
むろん、その外には、五人の武士が闇にひそんで、弓に矢をつがえていた。それが、向うに銀光をはなち、ありありと浮かびあがった身の毛もよだつぶきみな忍者の姿に、いっせいに弦《つる》を切り、六本の矢がことごとく命中したのを見て、
「やったっ!」
と、駆け寄って、それが杉の大木にすぎないことを発見したとき、破蓮斎はスルリと窖の中へ入っていったのである。
前にもいったように、窖は扉に分たれ、二つあった。奥の方にひよどりがおり、入口にちかい方に睾丸斎がいた。
睾丸斎のいる石室の方は、烏《う》羽《ば》玉《たま》の闇であった。彼は、その隅にじっと立っていた。累破蓮斎は入って来て、ジロリと闇の中の睾丸斎を見つめ、うす笑いを浮かべた。そして、彼をふるえあがらせるつぶやきをもらしたのだ。
「――ここにおる麻也姫は、ほんものか?」
睾丸斎ののどはつまった。破蓮斎はいった。
「それとも、三ノ丸の水牢の方か?……いま、見てやる」
扉をあけて、破蓮斎が中に入ると、睾丸斎は足もとの油壺をとりあげて、ざっとその扉にぶちまけた。油はこちらの石室の床にひろがった。いざとなれば、彼はこれに火を点じて、文字通りの焦熱地獄に変えるつもりであった。
いざとなれば――しかし、睾丸斎は、ひよどりを信じている。
ひよどりを、麻也姫の替玉に委《い》嘱《しよく》したときは、替玉以外の目的はなかった。彼女に麻也姫の衣裳を着せ、髪かたちを真似させたら、顔だちがちがうのにもかかわらず、暗い短《たん》檠《けい》の灯では、さすがだ! とはっと息をのむほど麻也姫そっくりになったが、睾丸斎が驚いたのはそれではない。
実は、たったいままで彼は、ひよどりの乳房をもませられていたのだ。うすい胸であり、ひらたい乳房であった。
それが雪のような白さと、絖《ぬめ》のようななめらかさを持っていなかったら、少年の胸かと思われるほどであった。それが――しだいに美しい紅色をおびて来て、ふくらみ、ふくれあがり――そして、はちきれるほどの乳房となった。のみならず、それは白い乳を、したたらせはじめた。
「あっ、はやく、はやくここをお出なされませ」
それまで、身をふるわせ、恍惚と眼をとじていたひよどりが、急にあわててそうさけんだとき、睾丸斎の鼻孔を、つーんと甘臭い花の腐ったような香りが刺し、そして彼はクラクラと眼まいがした。
「この乳が霧となって、空中に散るときは――わたし以外の者は、みんな死にまする」
睾丸斎は、命からがら逃げ出して、死物狂いに扉をしめた。
いまでも、彼の鼻《び》粘《ねん》膜《まく》にはその匂いがからみついて、それを意識すると、すうと気が遠くなりそうに思う。
欲情し、昂奮すると、乳房がふくらみ死の乳をたらす女忍者。
――いったい彼女は悪源太を追いまわし、首尾よく目的をとげる日がくるとするなら、いったいどうするつもりだったろう。いや、曾て彼女は、小田原の風摩櫓で悪源太と交わったこともあるはずだが、あのときは乳をながすまでにいたらなかったものであろうか。
いや、いま睾丸斎にはそんな先のことや、すんだことに思いをめぐらす余裕はない。とにかく、あの乳の忍法のあるかぎり、さしもの累破蓮斎といえども、無事にはすむまい。
破蓮斎はそこに入った。
数分たった――石にたたまれた地底はすでに死の世界のごとく静寂であった。
扉が、かんと内側から鳴った。破蓮斎をしとめたら、簪《かんざし》を投げるという合図だ。睾丸斎は扉をひらいた。むっと顔を襲う甘臭い匂いに、あわてて袖で鼻腔を覆いながら、のぞきこむ。
短檠の灯に、まんまるい乳房をむき出しにしたまま、すっくと立つ半裸のひよどりの笑顔と、その足もとに伏している累破蓮斎の姿が見えた。
「してやったり!」
しかし、そのとき、石の床から、
「ちがった。やはり、あっちか」
と、笑うような声がきこえたかと思うと、破蓮斎がニューッと立ちあがって来たのである。
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さすがのひよどりが、愕然として棒立ちになった。
累破蓮斎はニヤリとして、一方の腕をのばして彼女をひきよせ、もう一方の手で乳房をつかんだ。掌をはなす。すると、その乳房がキラリとひかった。
「せっかくの芸をする乳房じゃ。美しゅう飾ってやろう」
もう一方の乳房をつかんで撫でると、これまた銀光を発し、次の瞬間、燦《さん》としてきらめき出す。
ふたつの乳房が、鏡となった! ああ世にこれほど美しい、これほど妖しい球体の鏡があるだろうか。――いまや破蓮斎は、両腕でひよどりの両腕をつかみ、じぶんの顔をひよどりの胸におしつけるようにして、ユラユラと女体をゆさぶっている。まんまるい二つの乳房の鏡がゆれるたびに、それにうつるじぶんの顔の怪奇な変化を愉しんでいるようすだ。
睾丸斎は見とれた。この場合、見とれたといってはおかしいが、この人間の想像力を超える光景を見て、魂を吸いつけられぬ者があるだろうか。
しかし、睾丸斎はすぐにわれに返った。破蓮斎はよろめいている。ひよどりをゆさぶっているのは、面白がって遊んでいるのではない。彼自身、ひよどりの魔乳の霧にしびれているのだ!
「――ちがった。やはり、あちらか」
さっき、そうつぶやいた累の声を、睾丸斎は思い出した。きゃつは、三ノ丸にいる麻也姫さまの所在を知っている。きゃつをあちらにゆかせてはならぬ!
このとき、破蓮斎はひよどりをぐいと横抱きにした。さすがの彼女も、なかば喪神の体にみえる。――
「ひよどり!」
睾丸斎はしゃがれ声をふりしぼった。
「ゆるせ。……後《ご》生《しよう》はきっと弔ってやるぞ!」
ひらいた扉のそばで、カチッと火打石を鳴らすと、ぱっと火焔がもえあがった。睾丸斎はとびずさった。扉も床《ゆか》も、さっきぶちまけた油でぬれひかっている。一団の炎は、石の窖《あなぐら》天井まで巻きのぼった。
向うの窖は、むろんゆきどまりだ。その石の壁の下に、ひよどりを横抱きにした累破蓮斎はすっくと立って、こちらを見た。睾丸斎とのあいだに炎が煮えたぎり、渦巻いた。
「……つらつら案ずるに、いかな化物でもこうなったら死――」
死ぬよりほかはあるまいな、といいかけて、睾丸斎の眼がかっと見ひらかれた。
このとき彼は、破蓮斎の背後に、おどろくべきものを見たのだ。そこの石の壁に、存在し得ない入口が、ポッカリと口をあけているのを。
「香具《や》師《し》、うぬはどこにおる?」
破蓮斎は、きゅっと笑った。
ふりかえるよりさきに、背にふれたかたいものの感触に、睾丸斎は驚倒していた。そこにあるべき入口はなく、彼の背をふさいだのは石の壁であった。
いつのまに入れ替ったのか。睾丸斎がとびのいたのは、奥の窖であったのか。奥の窖に入っていったはずの破蓮斎は、ひよどりを抱いたまま、いつ外側の窖へ出ていったのか。――
おそらく睾丸斎の方向知覚を狂わせたのは、彼が一瞬、ぼっと見とれていたあいだに行われた幻妖のわざであったろう。彼の見ていたのは、またもや鏡の中の虚像であったのか。
「あっ、火事っ」
「大変だっ」
破蓮斎の背後の石段を、武士たちがころがるように駆け下りてくる跫《あし》音《おと》がきこえた。さっきの弓隊だ。
破蓮斎は、入口の横に立ち、ひよどりをかかえたまま、一刀をぬいて、入口に横にした。まるで刃を上にむけた庖《ほう》丁《ちよう》に落ちて来た魚みたいに、武士たちは胴斬りになって崩《くず》折《お》れた。
「どれ、三ノ丸へゆくとするか」
刀を鞘におさめ、半裸の女を横抱きに悠々と石段を上ってゆく累破蓮斎の姿は、炎にへだてられた。
睾丸斎は石に背をすりつけたまま、呆れたように口をポカンとあけてそれを見送った。呆れている場合ではない。その前には、床一面の炎がある。いや、彼のどじょうひげは、すでにチリチリと音をたてている。
「やられたわい。……昼寝の軍略も、あの化物にはついに歯が立たずか……」
彼は苦笑した。
足もとに飛散した油に火がうつって、ぽうと燃えあがった。その炎を見すえ、彼はぶつぶつとつぶやいた。
「つらつら案ずるに、軍略をあやまった軍師は、やはり討死せずばなるめえ。とうとう道連れにしちまった七人の女忍者衆への義理もある。源太、馬。……おめえたちも死ぬか。仲間は五本の指だからなあ。いっしょに馬墓へもぐりこんで、長い、長い……ながあい昼寝をしよう」
はかまの裾に火がうつった。彼は家老然として裃《かみしも》をつけていた。
「源太、おめえは本望だろうが、ふびんなのは馬だ。とうとうあいつに合う女を見つけてやることが出来なんだ! 熱っ、熱いぞ! トーン、トーン、唐辛子、ピリリと熱いは山《さん》椒《しよ》の子――熱いっ、ほんとうをいうと、源太、馬っ、死なねえで、おれの軍略通り累をやっつけて、麻也姫さまだけは助けてやってくれ!」
全身が炎の棒となった。いや、窖すべてが、坩《る》堝《つぼ》となった。
「――あっ、あれは?」
三ノ丸の或る小さな櫓《やぐら》の三階で、悪源太と馬左衛門ははっとして顔をあげて、それから狭《はざ》間《ま》に飛びついた。
やや高い台地に、天守閣が夜空にそびえている。その四階の窓から、ただならぬ叫喚が風にのってながれて来た。
「どうしたんだ」
「――破蓮斎だ!」
「やっぱり、そうか。すると――きゃつ、天守の下の偽奥方には気がつかなかったんだな。だから、睾丸斎の軍略はあてにならねえ」
狭間に顔をおしつけて、ふたりはささやき合った。
しかし、その数分後に、こんどは天守閣の下の方で、異様なわめき声がきこえた。
「おい、こんどは下だぞ」
「ひよどりの方へ向ったのか」
「ちと心配になってきたな。睾丸斎め、うまくあの化物を仕止めるかな」
「おれたちも、向うにおればよかった!」
「何をぬかす。こっちは麻也姫さまがござるのだぞ」
「おっ、そうだ。睾丸斎がいった。ちとあやしいと思ったら、天《あま》の臼《うす》戸《ど》をしめろとな」
「念のため、やっておくか」
やはり、睾丸斎とひよどりの死闘はむだではなかったのだ。それは悪源太と馬左衛門に、万一の防戦態勢をとらせる余裕をあたえた。――ふたりは、槍をかかえこんで、三階から二階に駆けおりた。
この櫓は、一風変った櫓であった。ほんとうは三階だが、地上からは二階に見える。いや、一階半に見える。正確にいえば、地上からではなく、水上からだ。
元来、ひくい土地の三ノ丸であった。こんどの水攻めのないうちから、大半は池や沼や濠が縦横に散在し、交錯していて、もとから大半の建物は水にひたっている廓《くるわ》であったが、この櫓も、一階は石の壁と天井にかこまれたまま、完全に水中に沈んで、二階の半ばまで外から水が迫り、水面すれすれに、上方の窓が一方にだけ、二つ三つ黒い穴をあけている。
城の人々は、これを豆《まめ》櫓《やぐら》と呼んでいた。小さいせいではなく、その三階が豆類の貯蔵庫となっていたからであった。悪源太と馬左衛門がいままでいたのは、そこである。
ふたりは、二階に駆け下りた。
ここも床に石を敷いた一室だが、いまはがらあんとして、ただ隅の床《ゆか》にあいた三尺四方の穴から、ぽっと幽《かす》かな灯影が放射している。それが水底の一階に下りる階段の口であった。
その灯影で、二階の床のまんなかに、妙なものがうずくまっているのが見える。それは径四尺以上もある石の碾《ひき》臼《うす》であった。
おそらく豆を碾《ひ》いて、いろいろな兵《ひよう》糧《ろう》を作るためだろうが、さすが城にあるほどあって、ばかに大きい。ふつうの碾臼は、たいてい直径一尺か二尺、厚さ五寸くらいの円い石を、心棒で上下に二つ重ね、その接面に目を刻んだものだ。この上の石に直径一寸足らずの孔があいていて、これから豆なり米なりをそそぎこみ、上の石を廻してすりつぶす仕掛になっている。しかし、これは石の大きさも三、四倍なら、孔の大きさも二寸以上はタップリあった。ふつうの人間には、とうてい一人でひける代《しろ》物《もの》ではない。
「馬でも使ってひいたのかな」
いつか、ここに来たとき、悪源太がきいたら、睾丸斎がくびをかしげて、
「馬が入ってくるようになっていねえ。つらつら案ずるに、こりゃ囚人をたばにして廻したものだろうな」
といって、一階に下りる穴をのぞきこみ、
「こりゃ水《みず》牢《ろう》だ。石臼をひかせて、用がなくなったらこの下へ放りこんで、ここから水をおとして土左衛門にしたものだな」
と、解説した。それからつけ加えて、
「しかし、そりゃもう何十年も昔の話だな。見や、石臼に苔《こけ》が生えてらあ」
と、いった。
ふたりがそこに駆け下りると、その灯影の下から声がかかった。
「源太。破蓮斎が来たのかえ?」
麻也姫の声であった、源太はさけんだ。
「奥方さま、御心配は要らねえです。念のため、睾丸斎からやれといわれていた通りの支度をしておくだけでさあ」
ふたりは、石臼の、上の石を下ろすのにかかった。ふつうなら二人がかりでもうごきはしないが、前もって鉄棒を数本コジ入れて、梃《て》子《こ》としてあった。それをつかって、上の石をころがりおとすと、二人は床の隅にころがしていった。
「源太、入れ」
と、馬左衛門がいった。悪源太はややためらった。入れ、とは、一階に下りろ、という意味だ。一階には、麻也姫がいる。――そこに、ひとりだけ下りてゆくことに、この場合に源太はテレた。
「そういうことになっておる。入れや」
と、馬左衛門がもういちどいった。
石臼はまた横にたおされて、階段の上り口をなかばふさいでいる。――その隙間から、悪源太は石臼に胸をすりつけて一階に身を沈めた。
階段に立つと、槍をとって石臼の孔にさしこんだ。上までつき出したその槍をつかみ、もう一方の腕で、馬左衛門は金剛力を出して、石臼を押した。下では、もとより悪源太が槍を肩にあて、力をあわせて臼をうごかす。
三尺四方の階段の上り口は、径四尺以上の石臼でピタリとふさがれた。――たとえ、ここに累破蓮斎が侵入したとて。
まず第一に、彼は階段の上り口に気がつくまい。第二に、よし気がついたとしても、石臼はひとりでうごかせまい。うごかそうとすれば、下で源太が孔に槍をさしこんでこれをふせぐ。第三に、そのまえにもし破蓮斎がこの石臼に気がつけば、必ず孔から下をのぞこうとするだろう。間髪を入れず、その孔から悪源太が槍をつきあげて、その頭部をつらぬく。――その合図をするのが、馬左衛門の役割だ。
すべて、昼寝睾丸斎の軍略であった。彼にすれば、これを「天《あま》の臼《うす》戸《ど》」という。
準備を終ると、ひとりになった馬左衛門は、三階に駆けのぼり、つみあげてある豆俵のあいだにひそんだ。
――暗々たる壁が、ぼうっと銀色にひかりはじめた。馬左衛門は、眼をすえた。
「――来たっ」
と、思った。
さすがに、髪も逆立つ思いだ。果せるかな、累破蓮斎は、この豆櫓にやって来た。それでは、ひよどりや睾丸斎はどうしたのか。いま、それをかんがえている余裕はない。馬左衛門は槍をかまえたが、しかし、からくもそれを投げることを制した。いつか見た破蓮斎の鏡の幻術を思い出したのだ。
銀色の光が澄んで来た。そこにあらわれた影像を見て、馬左衛門は息をのんだ。それは、人魚にまたがった破蓮斎であった。人魚ではない。全身銀色――いや、鏡さながらにきらめいてはいるが、たしかに女だ。一糸まとわぬ女だ。それをさまざまにもてあつかいながら、累破蓮斎は犯している。犯しながら、馬左衛門の方を見て笑っている。あれは鏡だ。ううぬ、ほんもののきゃつはどこにいる?
そう思い、歯をくいしばり、一息か二息待ったのがかえって悪かった。はっとまばたきしたとき、右の壁にも、左の壁にも、おなじ凄《せい》艶《えん》怪奇の姿態がみるみる浮かび出したのだ。
「や、野郎!」
うめくと、馬左衛門はついに槍を投げた。槍はたしかに破蓮斎の胸につき刺さったが、しかし、それは、かん、という壁の音をたてた。
「しまった!」
恐怖も忘れて、馬左衛門は俵のあいだからおどり出した。このとき、四面、いや、天井から床まで、まざまざと浮かび出した影像から、忽《こつ》然《ぜん》と累破蓮斎の姿は消えていた。ただ、ひよどりだけが、ひとりもつれ、うごめいている。
ひよどりだ。まごうかたなく、ひよどりだ。眼をうつろにひらき、股間から血をたらしているひよどりだ。それがいまや何十人ともしれず、全身きらめきつつ、からみあっている。うごいていないのに、それは蛇のように身をくねらせて見えた。現実にはあり得ないはずの姿なのに、それはあくまでも迫真的ななまなましさ、なまめかしさを以て、馬左衛門の足をうずめ、からみつき、まといついてくるように見えた。
ひよどりの乳房にひよどりがうつり、ひよどりの腹にひよどりがうつり、それが光の万《まん》華《げ》鏡《きよう》さながらに馬左衛門をつつむ。馬左衛門の網膜に乱舞する。
この幻怪な視覚に耐えきれる人間があろうか。数分も眼をあけていたら、馬左衛門は発狂してしまったに相違ない。彼は眼をとじた。
それからふいに眼をひらき、愕然として、二階の階段の下り口に馳せ寄った。
おそらく馬左衛門に断末魔の声をたてさせることを恐れたのだろう。それとも、彼の発狂を予測して、満《まん》腔《こう》の自信を抱いていたためか。三階でうなされている彼を捨ておいて、累破蓮斎は二階に下りていた。ひよどりの屍体は三階に捨ててある。
彼はジロリと石臼を見た。石臼は、二つある。彼はすぐに、隅の石臼にあゆみ寄った。そして、身をかがめて、そこにあいた孔に顔をおしあてた。
突如、破蓮斎はのけぞりかえった。
左眼におしあてた掌から、闇に鮮血がとび散った。さすがの彼も、これは思わざる不覚であった。馬左衛門の合図こそなかったが、階段に中腰になって耳をすましていた悪源太が、石臼の孔をふさいだ眼を見るや、眼とも見きわめず、電光のごとく槍をつきあげたのであった。
「ううむ!」
とびのいて、累破蓮斎は歯ぎしりした。
彼の左眼から、槍の穂は一寸も刺しこまれていた。が、一寸にしてばねのようにとびのいたのも彼なればこそだ。また、一寸も槍で眼を刺されて、なおつっ立ったままでいるのも彼なればこそだ。
「やりおったな。――よし!」
ふいに彼は、高い窓の一つをきっと片眼でにらんだ。そして、その下に駆け寄って、いきなり忍者刀で斬りつけた。
どこを? 窓の下を。――V字型に。
二閃、三閃、その刀がひらめくたびに、窓の下の壁は、まるで豆腐でも切るように切りひろげられ、土砂が崩れおちた。――そして、砂けむりが立つまえに、そこから水が、どーっとほとばしりおちた。
「水牢! 水牢!」
狂笑しているような破蓮斎の声は、わああんと反響した。
「やい、この下に麻也姫がおるな? 麻也姫のほかに誰がおる。誰がおろうと、もはやゆるさぬ。みな水牢に沈めてくれるぞ!」
声は水音にかき消えた。窓は、もう破蓮斎の切り破った大きさではなく、外にひろがる水の圧力におしひらかれて、滝のような奔《ほん》騰《とう》となり、はやくも石臼を覆いはじめていた。
その石臼のそばに立っていた破蓮斎は、このとき何思ったか、例の孔から忍者刀をつき下ろした。
「うっ」
うめき声が、地底に消えた。
石臼の孔からふとい紐《ひも》となっておち出した水に仰天した悪源太は、あわてて孔にあてた掌を刺しつらぬかれ、もんどりうって階段からころがりおちた。
「よ、よくもおれの眼を――」
破蓮斎はまたうめいた。水はその腰を洗っている。さしもの彼も、憤《ふん》怒《ぬ》のあまり、麻也姫をさらうという目的を忘却し、捨て去ったのであろうか。彼女を水死させるのも辞さぬほどの憎悪にかりたてられたのであろうか。
水は六尺の高さになった。破蓮斎はしぶきをたてながら、三階への階段のところへ泳ぎ寄り、階段にとりついた。
馬左衛門がそこに駆け寄ったのはこのときであった。
一瞬に、彼は事態を了解した。
「こやつ! まだ正気でいたか!」
水滴をちらし、光流が円をえがいた。下から破蓮斎がそれを薙ぎあげたのである。そのきっさきをかすめて、馬左衛門は水の中へおちていた。
彼は、盛大なしぶきをあげて泳いでゆく。石臼の方へ。――歯がみして、破蓮斎はそれを追った。
石臼の上に達すると、馬左衛門は水にもぐった。そして、水底の石臼にむしゃぶりついた。じぶんのからだで、孔をふさごうとしているのだ。
「ば、ばかな奴。――そうはさせぬ!」
破蓮斎は笑った。そして、刃をさかしまに、馬左衛門の背につき立てた。血が水中の竜《たつ》巻《まき》のように噴きのぼった。
それでも、彼のからだは石臼からはなれない。
破蓮斎の顔に、はじめて狼狽の色があらわれた。彼もまた水中に滑りこんだ。忍者刀がひらめき、そこから一本ずつ、四本の手と足が浮かびあがって来た。
それでも、馬左衛門は石臼からはなれない。
破蓮斎は、狂気のごとくそのからだを石臼から剥《は》がそうとした。馬左衛門は、まるで楔《くさび》で石臼に打ちこまれたようであった。
楔! 楔! 彼はまさにおのれの大男根を以て、径二寸の孔《あな》の栓《せん》をした。
生まれて以来はじめて、馬左衛門の偉大な童貞をピッタリ抱きしめてくれたのは、哀れ、冷たい石臼であったのだ。
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源太おん供
――どうして、水がとまったのかわからない。
源太と麻也姫は、黙って階段の上を見あげていた。――麻也姫は、一畳のたたみの上にいた。床から五尺も高いたたみの上に。
水は床に満ちていた。階段が上り口をふさいだ石臼の孔から水がおちはじめてから、何分たったであろうか。何十分たったであろうか。悪源太にはまったく見当がつかなかった。二寸の孔だが、たばしりおちる水は無限かと思われるほどの凄《すさま》じさで、みるみる床をひたし、すでにこのとき三、四尺の深さになっていた。
そのなかで、悪源太は死物狂いに働いた。燭台の灯は水にたたき消された闇の中である。彼は右の掌をつらぬいた傷の痛苦も、おびただしい出血も忘れていた。
ほんのかりの奥方さまの御座所だが、もとより水牢の跡のままでお暮しねがうわけにはゆかないから、たたみを敷き、葛籠《つづら》長《なが》持《もち》のたぐいも二、三運びこんであった。それを寄せあつめ、その上にたたみを積みあげたのだが、水がどこまでのぼってくるか、という恐怖のために、悪源太はからだじゅうが凍りつくようであった。階段もあるが、そいつはさっき、じぶんが痛い目にあっているから寄りつけない。だいいち、水が天井までついたらどうするのだ?
この戦慄があたまをかすめたとき、しかしふしぎな甘美な法悦が、同時に全身をわななかすのを源太は感じた。――おれは、麻也姫さまといっしょにここで死ぬのか?
むろん、こんなばかげた法悦に、彼は身をまかせはしない。狂気のごとく動きまわって、葛籠やたたみを積みあげる作業をつづけているうちに、
「源太、水がとまった」
その上で、麻也姫がさけぶ声がきこえ、そしていかにも滝のような水音が消えているのに気がついたのだ。
悪源太は、首から下を水に沈め、手だけをたたみにかけて階段を見あげた。どうして水がとまったのかわからない。
「――破蓮斎が討たれたのではないかえ?」
「――そうでござんしょうか?」
ふたりは、上と下でささやき合った。
悪源太は、槍でたしかに破蓮斎の眼をついた。しかし、石臼の孔から水がおちはじめ、あまつさえそれをふせごうとした彼の掌をつらぬいたのはそのあとだから、破蓮斎が生きていることはたしかだ。それどころか、「やい、この下に麻也姫がおるな? 麻也姫のほかに、誰がおる。誰がおろうと、もはやゆるさぬ。みな水牢に沈めてくれるぞ!」という狂笑が、水音にまじってふって来たのをきいたのだ。――
にもかかわらず、水はとまった。では、馬左衛門がみごとに破蓮斎を仕止めたのか?
ふたりは待った。しかし、階段の上は死のごとくしずまりかえっているだけであった。
闇《あん》黒《こく》の時がすぎた。
ほんとうに毛ほどのひかりもない地の下、水の底のはずであった。それなのに、いつしか悪源太は、茫《ぼう》々《ぼう》たる微光の中に麻也姫の姿をながめている。水そのものがひかりを発しているのか。それとも、麻也姫が夜光虫のように仄《ほの》びかっているのか。或いは、すべてが彼の幻覚であったろうか?
「源太、ここに来や」
「へい」
「下からあの石臼をうごかせぬ以上、水がどうしてとまったか、上で何が起ったか、かんがえてみてもわかる道理がない。こうなれば、気をらくにして、時を待つよりほかはない。あがりゃ」
「へい」
それでも悪源太は、水につかったままであった。――まだ、水のとまった天井が気にかかる。あれが永遠にふさがったままということはかんがえられないが、しかし、それがひらいたときに来るのは、生か、死か。
「きょうは七月四日。――いや、もう五日になったであろうか」
と、麻也姫はいい出した。
「小田原の城は、五日か六日におちる、とお祖《じ》父《い》さまはいって参られた。どうしてお祖父さまがそんなことを御存じなのか、いまお祖父さまはどこにいらっしゃるのか、見当もつかないけれど、あのお祖父さまがわたしに嘘をおっしゃるわけがない。小田原の本城がおちたら、きっと迎えにゆくと仰せられた。お祖父さまは、きっとおいでになる」
明るい声でいった。
「お祖父さまは、まさかわたしに、猿面の妾になれとは仰せられまい。そんなことは決してない。――お祖父さまといっしょに、武蔵野の果てへ飛んでゆく。野は太陽に燃えているだろう。――源太、おまえもゆくか?」
「あ、あ」
そんな妙な声をあげたきり、源太はあとの言葉が出なかった。
それは曾て、いくたびか夢みた幻想であった。いま、麻也姫の口からそれをきいて、源太は闇の中で、野末にもえる太陽や、はるばると吹きなびいてゆく草の波までまざまざと見た。それから、白い馬にゆられてゆく麻也姫と、そのうしろにつづくじぶんと――六人の仲間、唄声。ひるがえる香具師の旗。
源太は夢からさめた。おお、睾丸斎と馬左衛門はどうなったろう? すくなくとも、あとの四人の仲間はもういない。
「けれど」
麻也姫の声はふと沈んだ。
「やはりわたしは逃げられない。わたしといっしょにたたかってくれたこの城の侍たち、とくに女や子供を見すてて、わたしひとりは逃げられない。――あれたちみなのいのちの保証がないかぎりは」
しばらくだまっていて、ぽつりといった。
「源太、わたしといっしょに、ここで死ぬか?」
「あ、あ、あ」
と、源太はまた意味|不《ふ》明《めい》瞭《りよう》の声をもらした。
すると、またこの水の底にただよっている麻也姫とじぶんの屍骸が、まざまざと眼に浮かんだ。恐怖は伴わず、この闇黒が白《びやつ》光《こう》に満たされたような歓喜が全身をひたした。――水よおちろ、いま、この水牢をいっぱいにしてくれろ! そんな祈りの絶叫が、ふとほとばしりかけたくらいである。
しかし、天井は寂《じやく》としてしずまりかえっている。依然として過ぎるのは闇黒の時間ばかりだ。
それにしても、なんという静寂であろう。ここはすでに死の国ではないかと思われるほどの沈黙がまわりからつつんでくる。源太は、黙っているのが恐ろしくなったが、なんといっていいのかわからない。
「源太、あがりゃ」
「へ、へい!」
あたまの奥で、遠く――そうだ、おれはこの女をヨツにカマってやるのが望みで、この修羅の城へ乗りこんで来たのだった。そいつが、すべてのはじまりだ――と、思った。その麻也姫はここにいる。外からまったくへだてられた闇の世界に、たったひとりでいる。
その麻也姫が、傍へ来い、というのに、源太のからだはうごかない。うごけないのだ。源太、どうした? おめえ、どうかしているぜ! どこかでじぶんの声が笑うのをききながら、彼は手で麻也姫の坐っているたたみにつかまったきりであった。
「あがれぬのか?」
麻也姫が、手さぐりで、彼の手をつかんだ。
「痛てっ」
はじめて彼は、たかい声をたてた。
破蓮斎につらぬかれた右掌の傷だ。水の中の死物狂いの働きで、そこから血はながれつづけであった。或いは彼の幻想や、全身がうごけなくなって来たのは、そのおびただしい流血のせいであったかもしれない。
「おう、ひどい傷!」
麻也姫はおどろいてさけんだ。そして、身をのばして、彼をひきあげるのにかかった。
悪源太はたたみに這いあがった。しかし、気力はそれまでで、彼は瀕《ひん》死《し》の動物みたいにそこに横たわったままであった。それは流血による衰えのためであったか、夢幻の香気に全身しびれてしまったのかわからない。
「こうしてあげます。じっとしていや」
麻也姫は、じぶんのきもののどこかを裂いて、源太の掌をしばった。それでも血があとからあとから布をひたしてくるのを知ると、彼女はじぶんのふたつのふともものあいだに、ピッタリとその掌をはさんだ。
源太は失神した。いや、嬰児《あかご》のように眠った。
蒼白い水がおちた。だれかが階段の上の大石臼をとりのけたのだ。水が蒼白いしぶきの珠《たま》となって散ったのは、夜明けのゆえであった。
正木丹波をはじめとする城の侍たちは、この三ノ丸の豆《まめ》櫓《やぐら》にかけつけたものの、三階を満たす水を始末するのに苦労して、必死の作業も朝までかかったのである。
昼寝睾丸斎、ひよどり、馬左衛門の無惨な屍骸は見つかったが、恐るべき忍者累破蓮斎の姿はどこにもなかった。
その日、水の上の馬《うま》墓《ばか》では、悪源太が鍬《くわ》をふるっていた。麻也姫と正木丹波が、涙をうかべてそれを見まもっていた。
あくる日、一日じゅう、そこに坐っていたのは悪源太だけであった。その姿をとりかこむ土《ど》饅《まん》頭《じゆう》は、十三あった。
太田三楽斎が忍《おし》城《じよう》に出現したのは、その翌日、七月七日の夜明前であった。
城をめぐる湖の上を、音もなく一つの筏《いかだ》がわたって来た。三楽斎は、その上に悠《ゆう》然《ぜん》と坐って、白いひげを朝風にそよがせていた。それよりも、監視していた城兵は、その筏をひくものが数十頭の犬の頭であることを知って、あっと仰《ぎよう》天《てん》したのである。
「麻也、祖《じ》父《い》が来たぞや」
笑顔でいう三楽斎の胸に、麻也姫はとびつき、顔をうずめて泣いた。いままで、孤城、雲《うん》霞《か》の大軍を支え、実に四十余日も、これに一指もふれさせなかった武者ぶりとは別人のような、童女さながらの姿であった。
「ようやった、ようやった」
三楽斎の声もうるんだ。
「もう、ここらあたりでよかろう。小田原の城は、きのう落ちた。落ちたはずじゃ。これで麻也の面目は立った。したがって、その祖父たるこの三楽の顔も立ったわ」
太田三楽斎のいうとおり、小田原が開城したのは、七月六日のことであった。
むろん、はじめからこうなると承知の上で、秀吉の大軍に抗《こう》したのではない。持久戦にもちこんでいるうちに、成り上りの秀吉は、その内部から崩《ほう》壊《かい》するという見込みもあって、敢《あえ》て籠城したのだが、箱根の天険や、背後の関東の諸城が疾風のごとく落ちていったのが予想のほかであったし、また長陣に上方勢が、一向動じないのが意外であった。
降伏の意志をもつものは、一部に最初からあった。家老の松田尾張守|憲《のり》秀《ひで》一派である。隠密に進められていたこのうごきが、しだいにあらわになり、ついに主君の北条氏政氏直父子をもうごかして、こんどの屈伏となったのだが、太平洋戦争に於ける日本の降伏と同じことで、もとよりスラスラとはこんだ筋ではない。なお抗戦を主張してやまぬ一派あり、また降参するとしてもその条件にさまざまの悶着があって、最後は惨《さん》澹《たん》たる混乱状態となり、「返《かえり》忠《ちゆう》」の張本人、松田尾張守も、その子の弾三郎も、この混乱中に殺されるという羽目にまで立ちいたった。
なお、ついでにいえば、北条氏政も秀吉から切腹を命じられ、子の氏直だけは家康の婿であるという理由で、命ゆるされて高野山に放たれた。――麻也姫の夫、降伏の協力者、成田左馬助もあたまを剃って、人間のぬけがらのように悄《しよう》然《ぜん》としてこれに従った。
麻也姫は、ふしぎそうにきいた。
「お祖父さまは、いままでどこにいらしたのです?」
「小田原によ、先日の犬の使いは、小田原から出したものよ」
それから、三楽斎はきっとなって、
「わしは一足はやく、犬に乗って駆けつけて来たがの。豊臣方の伝騎も、やがて石田治部のもとへ着こう。麻也、いまのうちにこの城を落ちて、常陸《 ひ た ち》へゆけ」
「わたしひとりは逃げられませぬ」
「あとの城のものどもを案じてか。いや、それは心配はいらぬ。城兵、女子供にかまいなし、ということは、わしが関白に話をつけて、その保証をとりつけておいた」
「えっ」
麻也姫は瞳《ひとみ》を大きくひらいた。三楽斎は、きゅっと苦笑を浮かべている。
祖父の三楽が秀吉に会ったとは、実におどろくべきことだ。しかし、麻也姫は知らないが、太田三楽斎という人物は、秀吉からひそかに一目も二目もおかれていたのである。その武略、その叛《はん》骨《こつ》、秀吉は三楽を「武《む》蔵《さし》の竹中半兵衛」として見ていた。三楽の壮年時の北条への戦歴、またいまにいたってもかならずしも北条に唯《い》々《い》として臣従しているのでないことはよく知られていたし、さらに上方勢が彼の城岩槻城をとりかこむまえに、飄然として城を捨てて去ったということも、秀吉の心証をよくしたというより、何やらうす気味わるく思われていたのである。――怪《かい》傑《けつ》、怪傑を知るとでもいうべきであろうか。
「ただの、おまえだけは是非欲しいというてきかぬ。待て、左様な顔をいたすな。わしがおまえを、猿面に献上するかよ」
三楽は笑顔でいった。
「麻也が欲しくば腕でとりなされ、わしはわしの腕で、可愛い孫を逃がしてみせるというた。秀吉も笑ったぞや。――で、犬と馬との駆けッこじゃ。そういうわけで、向うの馬が到着すれば、石田治部は、おまえだけは逃がさぬ。夜が明けるまでに、早うゆけ」
三楽はあごをしゃくった。
「あれたちを使え」
そこには、数頭の犬が、老主人の言葉を解するがごとく――或いは、久しぶりに逢った若い姫君をなつかしむかのごとく、うずくまって、かすかに尾をうごかしている。――老臣の正木丹波は眼をまるくして、あらためてこの老人が「犬つかいの三楽」という奇怪な異名をとった武将であったことを思い出した。
いま三楽斎は犬に乗って来たといったが、その言葉も、この犢《こうし》のごとき巨大さと、狼のように剽《ひよう》悍《かん》な面《つら》だましいを見ると、なるほどさもあらんとうなずかせる。さらに向うの水面には、夜明前の微光に、筏をとりまいて何十頭ともしれぬ犬の頭が浮かんで、眼をひからせているのであった。
「常陸まで、さびしければ、家来ども何人かつれていってもよいが、しかし、かえって足手まといになるかもしれぬぞ」
「では、あのものを一人だけつれて参ります」
と、麻也はふりかえって、ひざまずいている悪源太を見た。悪源太は、眼をかがやかせて、こっくりした。
「お祖父さまは?」
「おれは、ちょっと残る」
三楽はいった。
「それ、おまえが案じておる残りの城のものどもの身の上よ。関白から保証を受けたが、攻《せめ》手《て》が石田治部じゃ。才子であるだけに、かえって焦って何をするやら心もとない。おまえだけを逃がして、あとの家来にもしものことがあれば、おまえのみならず、わしの面も立たぬ。おれが治部をあしらってやろう。安心して、麻也、ゆくがよい」
「はい!」
はじめて、嬉々として、麻也姫は両手をつかえた。
――これはのちのことになるが、忍城がぶじに開城したのは、七月十六日のことである。小田原の本城におくれること、実に十日。「大日本戦史」にいう。――
「関東の諸名城、朝に一城、夕に一《いつ》砦《さい》が陥るという状況の中にあって、この忍の一城のみ、勇戦よく持ちこたえたことは、まことに驚異すべき事実といわざるを得ない。――かくのごとき籠城の歴史をもった忍城の遺蹟は、いま、小田原戦史のいずれの城砦の遺蹟よりも、はるかに見るかげもない姿になっている。たとえその地勢によるものとはいいながら、まことに遺《い》憾《かん》にたえない。――」
しかもそれが、女人が指揮し、女人が守った城であるというに於てをや。
「……源太、ふしぎな縁でありますね」
「へい!」
「霞《かすみ》ケ浦にちかい片野というところに、お祖父さまの小さな城がもう一つある。城というより、館《やかた》というか。丘の下にきれいな恋瀬川という川がながれているのです」
「へい!」
「そこにいって、お祖父さまとひっそりとしずかに暮そうね」
「奥方さま、奥方さまは、もう……御祝言はなさらぬので?」
「だれと」
「だれかと」
「おまえがいればよい」
「へっ?」
「お祖父さまと、おまえと、三人だけで暮すのじゃ。たいくつなら――三人で、香具師をして、旅をしてあるいてもよいぞ。あのお祖父さまは、そんなこともおきらいではないお方じゃ」
どんなつもりでいっているのか、麻也姫は天女のようにあどけない調子でいう。
白い、フンワリとした顔の微笑が、おぼろに浮かびあがって来た。水光ではない。黎《れい》明《めい》のひかりが、ぼっとさしはじめているのであった。――その東の方へ、筏《いかだ》は波もたてずに進む。
その筏につけられた数十条の綱に、犬の頭がくっついて、これはかすかな波をひいていた。――その暁のひかりさす東の方、長《なが》野《の》口《ぐち》の方へゆけ、とは祖父三楽斎の指図であった。おそらく、城に入るまえ、攻囲軍の最も手薄なことを周到に見きわめて来たのであろう。そして、その岸から、一路さらに東へ駆ければ常陸へ達する。
筏は、岸と城のなかばまで来た。まわりは満々たる水であった。
しかし、槍を左手に立てた悪源太は、はるかな桃《とう》源《げん》境《きよう》のある方向よりも、いま去って来た落城寸前の忍城の方をながめやった。何やらうしろ髪をひかれるような、惑《まど》いの表情であった。
「あ」
突然、麻也姫のさけびがきこえると同時に、悪源太は全身がよろめくのをおぼえた。足もとの筏の木が、ふいにグラリとゆらいだのだ。
「奥方さま!」
さけんで、飛び立った悪源太の眼に、筏の端の二、三本が、バラバラと縄が切れて水にはなれた。とみるまに、それぞれが六尺の長さに両断された。
狂ったように犬が吼《ほ》え出した。犬が吼えるのもむりはない。――五、六本に分れて浮かんだその材木が、みるみる銀光をはなって来たのだ。
「生きておったか! か、か、か――」
と、悪源太は絶叫した。全身の毛がさか立つかと思われた。
「累破蓮斎!」
その声も消えぬうちに、こんどは反対側の筏の端の四、五本が水に切りはなされて、これまた銀色のひかりをおびて来た。
「いかにもおれだ」
水の中で、銅《ど》鑼《ら》みたいな声が笑った。そこにまさしく漂っている累破蓮斎の姿があらわれた。
「よう城を出てくれた、麻也姫、へッぽこ香具師、待っておったぞ」
「野郎!」
悪源太は、掌のいたみも忘れて、その破蓮斎を槍でつき刺した。かっという手応えは、しかしかたい木の感触であった。
「あっ……ち、ちっ」
狂気のごとくその槍を抜こうとしても、水に浮かぶ材木はユラリとついて来て、くいこんだ槍の穂先をはなさない。
「おれはここにおる」
ふりかえると、残りの筏の反対の端から、ニューッと這いあがってくる累破蓮斎が見えた。右眼から血をしたたらせ、まさに血笑する魔神ともいうべき凄《せい》惨《さん》無《む》比《ひ》の姿であった。
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魂買わんか
麻也姫は護り刀として、陣刀をそばに置いていた。それは曾て、島左近と太刀合わせをしようとしたあの陣刀であった。
ニューッと筏に這いあがってくる累破蓮斎を見ると、彼女はそれをつかんだ。べつの破蓮斎と見える木から、悪源太が槍をひきぬき、ふりむいたのはそのときである。
「ちがうっ、奥方さまっ」
絶叫するよりはやく、麻也姫の刀は破蓮斎に斬りこんで、はっしと鋼《はがね》と木の音をたてた。これまた累の虚体であったのだ。それは刀をくいこませたまま、鏡のごとくひかるふとい奇怪な一本の棒として、しぶきをはねあげながら筏の上にころがった。
悪源太は槍をひっかかえて、麻也姫のそばに飛び、血ばしった眼でまわりを見まわした。実の累破蓮斎はどこにいる?
「もはや、逃がさぬ。麻也姫、いやさ、麻也姫さま、そう呼ばせていただこう、関白どののお持《もち》物《もの》となるお方じゃからの。あはははははは」
声は、八方からどよめき、水に反響した。見よ、水の中には数十人の破蓮斎がいる。彼らはことごとく一眼から血をたらし、波を散らして狂笑している。
「おとなしゅう、丸墓山の本陣へゆかれるか。それともここで水の藻《も》くずとなりたもうかっ」
同時に、また筏の端の一、二本の縄が切れて、はなれた。
麻也姫をかばい、悪源太は立ちすくんでいた。捨ておけば、筏はバラバラに解体して、まさに水の藻くずとなるよりほかはない。が、きゃつはどこにいる。どれがほんものの破蓮斎なのだ?
ふいに悪源太の眼がひかった。ほんものらしい破蓮斎を見つけたのだ。それは彼の視力によるものではなく、犬によるものであった。筏をひく数十頭の犬が、いっせいに一つの方向を見て吼えている。――二間ばかりはなれ、右前方に浮かんでいる二人の破蓮斎に向ってだ。どうやら、そのうしろの方がほんものの破蓮斎らしい。
彼は槍を投げようとした。突然、痛みと恐怖がその指をかがまらせた。痛みは掌にあいた傷の穴のためであり、恐怖はもしそれがまちがっていたらという迷いのためであった。まちがっていたら、二間はなれた槍は、もう手もとにはもどらない。よし、まちがっていなくとも、傷の痛みに手もとが狂ったら?
――そうだ!
彼は決心した。迷いからこの決心までは、一瞬のことであった。
「破蓮斎、見つけたぞ!」
彼はふいに大声をはりあげ、槍をつかんだまま、ザンブと水にとびこんだ。
めざす二人の破蓮斎の、わざと前の奴の方へ彼は泳いでゆく。数十人の破蓮斎が、いっせいにニヤリと笑った。
前の材木に泳ぎ寄る悪源太のうしろから、スルスルとほんものの破蓮斎は寄った。ぬきはらった一刀を虚空にふりかぶった。――数十人の破蓮斎が刀をふりかぶったのを見て、
「源太!」
麻也姫が絶叫した。
それよりはやく、悪源太は槍のケラ首を逆《さか》手《て》にひっつかみ、おのれの腹に刺し通した! おのれの腹のみならず、すぐ背後に泳ぎ寄ったほんものの破蓮斎の胸から背へかけて刺し通した!
「ううふっ」
破蓮斎は、水中を横なりに水ぐるまのごとく回転した。数十人の破蓮斎が、同時に血けむりをあげて廻った。
さすがの累破蓮斎が、完全にしてやられた。向うむきの悪源太の姿勢、腕の角度、槍の位置に、もし何らかの危険な徴候があるならば、それを看破せぬ累破蓮斎ではないが、この場合、彼はまったく感づかなかったのだ。――それこそは、悪源太の狙いであった。ただでさえ恐るべき超人的な忍者を相手に、まして傷ついた手に槍を持ち、しょせん水中の格闘に勝てるという見込みはないと判断して、これはまさに皮を斬らせて骨を斬る剽《ひよう》悍《かん》無《む》比《ひ》の香具師兵法であった。
その手しかない。いま、麻也姫さまを救うにはその手しかない。
まさにその通りだが、これはムチャクチャだ。皮を斬らせて骨を斬るどころか、みずから骨を斬って、その骨で相手をブチくだくにひとしい。この戦法を思いつくや否や、こんどはなんの逡《しゆん》巡《じゆん》もなく実行にとりかかった悪源太は、くびすじに息のかかるまで背後に敵をさそい寄せ、おのれもろともみごとに串刺しにしたが、そのあとの行動はそれ以上にムチャクチャであった。
背中の方で串刺しにしたこの化物を、果して仕止めたか否かという確証を得るために、おのれの腹をつらぬいた槍を、そのままスルスルとたぐっていって、あろうことか石突きまでねじこんだのだ。
「やった! 源太、やった!」
あまりの凄じい光景に、蒼白になりながら、筏の上の麻也姫は手をたたいた。
彼女には、向うむきの悪源太が何をしたか、よく見えなかった。泡立つ水、狂いとぶしぶきの中に、悪源太は背に手をまわし、槍をつかんで、じぶんのからだを押し出した。槍は完全に彼の腹部を通過して、はなれた。
飛沫はおさまった。数十人の破蓮斎は、数十本の銀灰色の――ただし、光を失った、ただの材木となった。ただひとり、ほんものの累破蓮斎だけが、槍でつらぬかれて、水の上にただよっている。
「源太、ようも、おまえは……」
麻也姫は肩で息をしながら、感嘆の眼で悪源太を見て、両腕をさしのばした。
「破蓮斎を討ったもの。破蓮斎は死んだ! さあ、あがりゃ」
悪源太も蒼白になり、肩で息をしていた。彼はすぐ前の材木に片手でつかまり、片手で槍の先の破蓮斎の屍骸を見ていた。まさに、屍骸だ。……魔人累破蓮斎はたしかに死んでいる!
「ざま見やがれ。香具師の腕前がわかったか」
彼は槍をつきはなした。
水にひろがるおびただしい血――それは悪源太の腹から湧き出す血でもあったが、累破蓮斎の血とまじりあって、麻也姫には見分けもつかない。
「源太、おいで」
「奥方さま。……へんなことをいいますがね」
と、悪源太はいった。
「おれは、ちょっとお城にけえって参ります」
「なんとえ?」
麻也姫は、眼をまんまるくした。悪源太は、テレたように笑った。
「大事な忘れ物をしたのを、いま思い出したんでさあ」
「何を忘れたというのじゃ」
「死んだおふくろからもらったお守りで。……その守り袋を、おととい水にぬらしたものだから、馬墓の仲間の卒《そ》塔《と》婆《ば》にひっかけて乾かしておいたら、ついそのまま忘れて来ちまったんで……」
この物凄い死闘のあとで、いまそんなことを思い出したという悪源太に、麻也姫はあきれた。
「どうしても、それをとってこねばならぬのかえ?」
「へえ、おふくろのかたみでござんして……」
「そうか。それではかえろう。ともかく、筏にあがりゃ」
「いいえ、奥方さままでひっぱってまたお城に帰っちゃあ、三楽さまから大眼玉をくいまさあ。おれひとりで結構です。奥方さまは、おさきへいって、待っていておくんなせえまし」
「おまえひとりで……泳いでゆくのか?」
「へえ、この木につかまってゆきゃ、大丈夫です」
「お、それなら、この犬を四、五匹貸してやろう。わたしが命じれば、この犬どもはようわかる。犬にその木をひかせて、早ういってくるがよい」
「あ、あ、ありがとうござんす。では――奥方さまは一刻も早く」
「常陸への道はよく知っていますね。わたしは星川のほとりで待っています」
麻也姫は、犬のひく綱の四、五本を切りとると、その尖端をたばねて、源太の方へ投げた。源太はそれを受けとめて、がくと水に顔を伏せた。
「どうしやった、源太――顔色が藍《あい》色《いろ》に見える」
「へっ、ちょっと冷えましたんで――いや、水にじゃあなく、この化物退治に胆っ玉が」
源太はニンマリと笑った。事実は、顔面筋肉の痙《けい》攣《れん》であった。
悪源太は城の中を流れていった。
彼は材木につかまり、その材木を五頭の犬がひいて泳いでゆく。流れる源太のからだのうしろへ、赤い帯がゆらめきつつのびて、水にうすれて、消える。――血だ。
城へつくまで、彼はなんどかふりかえった。麻也姫をのせた筏は、しだいに東の岸へ遠ざかり、これまたうすれて、消えた。しかしそれは彼の眼が霞んできたせいかもしれなかった。
城へかえるといったのは、ただ麻也姫と別れんがためだ。麻也姫と別れようとしたのは、じぶんの傷をかくしたいと思ったからだ。じぶんの傷をかくそうとしたのは、そこで麻也姫をおどろかし、要らざる時をついやして、ついに脱出の機を失うことを恐れたためであった。
しかし、悪源太は城へかえってゆく。
彼の力ではない。犬がひいてくれるのだ。麻也姫に教えられた通り、馬の手綱と同じで、右の綱をひけば右の犬が右へまわり、左の綱をひけば左の犬が左へまわる。そして、ほかの犬は、それに応じて一体のごとく行動するのであった。
しかし、ともかくも彼は手綱をひいて、城へかえってゆく。生きているのが、奇蹟にちかい。彼が生きているのは、野の獣と変らぬ香具師の生命力だけといってよかろう。生きようという意志はない。その意志は、累破蓮斎と相討ちを思い立ったときに捨てている。
それでも、かすかに一つの意志はあった。それは馬墓へ――六人の仲間のところへゆきたいという意志であった。
だれもいない馬墓に悪源太はついた。彼は水から這いあがり、水と血をたらしながら四、五歩あるき、それからふりむいて、かすれた声でいった。
「ありがとうよ。……もういい、麻也姫さまのところへかえれ」
そして、片ひざをつき、前へのめり伏した。
しばらくそうしていて、源太はまた虫みたいに這い出した。十三の土饅頭の方へ。
「おい、やっぱりおれはここへ帰って来たぜ」
彼は仲間にささやきかけた。いや、ブツブツとひとりごとみたいにいう。――
「みんな、死んじまいやがった。何で死んだのかな? おれは何で死ぬのかな?……まったく、ばかな目を見ちゃったよ……と、おめえたちはいうかい?……そうはいわねえだろうね。いいや、そんなことは、だれもいわねえ。虫みたいな一生だったが、たったひとつ、おれたちはすばらしいことをやった!……そうは思わねえか?」
白い風がながれて来た。それは秋の風のようであった。あたりの草は露をひからせ、地は冷たく、まるで水の上のようであった。
漣《さざなみ》に似た雲がながれていた。草の葉ずれの音が鳴りわたってゆく。虫の声がふるようだ。草の根を、てんとう虫が這っている。――暁だ。天地は涼しく美しい生の讃歌に充ち満ちているのだ。
悪源太のからだじゅうの血はながれつきて、からんとした頭の中には、透明な炎がもえていた。炎は麻也姫さまのあどけない笑顔をかたちづくった。
彼は、仲間の六つの土饅頭から、女忍者の七つの土饅頭に眼をうつした。
「ばかな目を見たのは、おめえたちだったぜ。わるいこと、しちゃったよ。……しかし、もういい。あの世へいったら、おめえたちだけだ。いま、おれもゆくから……いったら、こんどこそは、おれがほんとに可愛がってやるからよ。……へっ、おめえたちも、おればかりじゃなく、六人の仲間をみんな可愛がってやってくれ。……馬の野郎もなあ」
悪源太は、ニヤリとした。それから十三の土饅頭のまんなかで、ガクリと頬を地につけた。最後のかすかな息が、地を這った。
「風来坊……香具師万歳!」
白い日のひかりが、その笑った顔を白く晒《さら》した。
「――源太は、どうしたのかしら?」
草の中に、立ちどまり、また立ちどまり、麻也姫はユックリと歩いていった。まわりを数十頭の巨大な犬の群がとりまいて、移動している。
東の長野口の方から脱出せよ、とは祖父三楽斎の命令であった。そこの哨《しよう》戒《かい》がいちばん手薄であることを見ぬいてのことにちがいないが、これは実に人をくった指図だ。というのは、ここらは敵の本陣丸墓山のすぐそばだからだ。いくらなんでも、ここから逃げ出す奴はあるまいとかんがえるのが当然だし、事実いままで、この方面から脱走をこころみた城兵はひとりもなかった。
だから、麻也姫はだれに見とがめられることもなく岸にのぼり、やすやすと攻囲軍のすきをぬけて、ここまでは三楽斎の狙いがあたったわけだが、それにしても悪源太を待つ一心で、敵のことなど眼中にないような麻也姫の大胆な行動は、ついに危機を招来した。
「源太はまだか?」
またふりかえった麻也姫は、このとき、すぐ南の小高い丸墓山から、突如としてただならぬ叫喚と馬のいななきが湧きあがったのをきいた。太陽はまだ昇らなかったが、夜はまったく明けはなれていた。
実は、その直前に、小田原から丸墓山の本陣へ、泡をかんで伝騎が到着したのだ。
「七月六日、小田原は開城せしめた。
ついにきょうの日まで、忍《おし》の小城一つ攻め落せなんだ大たわけめ。その忍の城も、ぶじに明け渡すよう、秀吉が太田三楽斎に話をつけたわ。その約《やく》定《じよう》により、城兵はつつがなく解き放せ。
ただし、麻也姫だけはきっと手に入れよ。が、三楽めは、麻也はかならず逃がすと高言して去った。音にきこえた三楽斎ゆえ、やりかねぬ。
よいか、麻也姫だけは逃がすなよ。うぬのみならず、豊臣の名にかけて」
という秀吉の命令であった。
石田三成は愕然とし、おどりあがって厳戒を命じた。鉄騎は四方に飛び出し、忍城をめぐる周囲三里半に布陣した二万数千の攻囲軍は色めきたった。
そして、丘の上の或る一隊が、ふと東の野へざわめいてゆく草の波に気がついて、それが無数の犬であること――そのまんなかにはなやかな一点の紅色のあることを見てとったのだ。
「あれは?」
と、部将の一人が眼をこらし、
「あれかもしれぬ。麻也姫かもしれぬぞ。追え!」
鞭をあげて指さすと同時に、三、四十騎、草をちらして丘を馳せ下り、殺到して来た。
麻也姫は気がついた。ちょっとその顔がゆがんだが、すぐに五頭の犬を呼びあつめ、一列横隊にならべ、その上にうつ伏せに寝た。
「おゆき!」
さけぶと、五頭の犬は麻也姫をのせたまま、二十本の足を機《はた》のようにそろえて疾駆しはじめた。三楽伝授の「犬伏せ」の遁《とん》法《ぽう》であった。
犬が勝つか、馬が勝つか。――武蔵野の曠《こう》野《や》に、奇怪な、凄じい追撃戦がくりひろげられた。
「麻也姫だ!」
「逃がすな!」
武者たちの眼には、いまやまさしく犬に乗った女人の姿がまざまざと見えて来た。馬も人も、むき出した歯に泡をかんだ。
それが、ついに十間ばかりの距離に迫ったとき、驚天動地のことが起った。殺到して来た騎馬隊が、或る一線で、ことごとく血けむりをあげて潰《かい》乱《らん》したのである。
馬の前肢は、見えない鋼にふれたように切断されてつんのめり、武者は石ころみたいに放り出され、その上にうしろから来た人馬がさらに折り重なった。
草の中から、蝗《いなご》みたいに飛び出してきた男たちが、その武者たちにとびかかり、まるで猟師が野獣でも虐殺するように手ぎわよく、そのくびに短刀をつき立てた。
犬に伏した麻也姫はそれを見ていない。見たとしても、この怪事をあやしみ、立ちどまるいとまもない。そのまま、東へ、必死にのがれてゆく。
「片づいたか」
と、草の中から、ぬっとひとりの巨漢が立ちあがった。
「へい!」
と、十数人の男が、短刀の血をペロリとなめて蔓《つる》巻《ま》きの鞘《さや》におさめ、彼を見あげた。思いきや――風摩組の首領、風摩小太郎である。
「まあ、間に合ってよかった。主命とはいいながら、ちと寝覚めのわるいことをしたと気にかかっておったのじゃが、まずこれでよし」
そうつぶやきながら、彼の拳の中にスルスルと長い髪の毛を巻きおさめている。風《かぜ》 閂《かんぬき》だ。
その魁《かい》偉《い》な頬髯を、朝の風が吹いた。彼は憮《ぶ》然《ぜん》として、心なしかその姿に寂《せき》寥《りよう》の翳《かげ》があった。
「主家は滅び、主命は消えた。あくまで城を守りぬいたあっぱれな女人に、これで風摩の顔が立つ。……北条は滅んだが、風摩組は滅びぬ。さて、これからどこへゆこうか?」
「お頭のおこころのままに!」
と、草の中の風摩組は、野ぶとい声でいっせいにこたえた。
野の果てに、太陽が昇りはじめた。
二頭の巨大な犬に横ずわりに乗った麻也姫がゆく。二頭の犬はピッタリとからだをかさねて、絶妙の鞍を作っていた。
「源太はまだか?」
彼女はまだ西の――忍《おし》城《じよう》の方をふりかえっている。
「敵は気がついた。もう源太は抜けて来られぬかもしれぬ」
美しいその眼が、童女のようにしだいに涙ぐんで来た。
草が地に鳴る。風が空で鳴る。その音の中に、彼女はふと明るい唄声のような声をきいた。
「トーン、トーン、唐《とう》辛《がら》子《し》、ピリリと辛いは山《さん》椒《しよ》の子、スワスワ辛いは胡《こ》椒《しよう》の子、ケシの子|胡《ご》麻《ま》の子|陳《ちん》皮《ぴ》の子、トーントーン唐辛子、なかでよいのが娘の子。……」
突然、麻也姫はすぐ前の方を、草の波をおどるように駆けてゆく影を見た。悪源太だ。悪源太だけではない。七人の香具師がはやしながら、唄いながら、のんきそうに飛んでゆく。――
すぐに彼女は、それが幻覚であり、幻聴であると気がついた。ふっとそれらの幻影は消えた。
「源太はくる。――」
いまの幻の可《お》笑《か》しさに、彼女は笑ってうなずいた。
「お祖父さまが、きっとつれていらっしゃる」
笑顔の涙に、太陽が宿ってきらめいた。赤い赤い大きな太陽であった。
その赤い大きな太陽へ溶け入るように、犬に乗った麻也姫は、草の波また波の武蔵野を、はろばろとどこまでも駆けてゆくのであった。
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本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
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風《ふう》来《らい》忍《にん》法《ぽう》帖《ちよう》
山《やま》田《だ》風《ふう》太《た》郎《ろう》
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平成15年7月11日 発行
発行者  田口惠司
発行所  株式会社  角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Futaro YAMADA 2003
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『風来忍法帖』昭和51年12月20日初版発行