角川文庫
軍艦忍法帖
[#地から2字上げ]山田風太郎
黒髪幻法篇
「うん、これより、|武蔵《むさし》か。――」
と、その若者は、やっと|椀《わん》をおくと、もういちどつぶやいて、東の方を見わたした。
茶屋の老婆は、その若者が七椀も赤飯を食べるのにあきれたように眼を見はっていたが、ぬっと立ちあがった姿に、「このからだなら――」と、あらためてしげしげと見まわした。
さして|大兵《たいひょう》というわけではない。が、すばらしい筋肉である。はだけた胸や、むき出しになった|膝《ひざ》からふとももなど、|金《こん》|剛《ごう》|力《りき》|士《し》みたいに|瘤《こぶ》|々《こぶ》して、黒いあぶらをぬったようにひかっている。大小を二本さしているから武士にはちがいあるまいが、腰に大きな|瓢箪《ひょうたん》をひとつぶらさげて、身なりは百姓みたいだった。いや、百姓にしても、こんな頭はしていまい。無造作に|蔓《つる》|草《くさ》でたばねたものの、髪は|蓬《ほう》|々《ほう》と早春の風になびいている。ただ、百姓や|木《き》|樵《こり》ではない、と思わせるのは、刀のほかに、その顔であった。色は真っ黒だが、彫りがふかく、冷たい銅像のようにひきしまって、眼が大きく、|鷹《たか》のようなひかりをはなっていた。
「これより江戸まで十三里でござります」
と、老婆はいった。すると、若者はひとりごとをいった。
「そんじゃ、夜までには、江戸につけるな」
老婆は何かいいかけたが、だまった。ききちがいかと思ったのである。南の|高《たか》|尾《お》|山《さん》、北の|陣《じん》|場《ば》|山《やま》をはじめ|重畳《ちょうじょう》たる山々は、もうあかあかと夕づいてきた日に染まっているのに――。
|相《そう》|州武州《しゅうぶしゅう》を分かつ|小仏峠《こぼとけとうげ》の頂上であった。彼は、その山々を見わたして、
「やはり、ここまでくると、春ははやいな」
「いえ、まだ風が寒うて――」
「なに、わしの方は、まだ雪の底だ」
「へ、|旦《だん》|那《な》はどちらで?」
「|飛《ひ》|騨《だ》」
と、こたえて、彼は何気なくふりかえったが、そのときさっきのぼってきた峠路に何やら見出したらしく、その眼が大きくひろがった。
峠をのぼってきたのは、五人の武士であった。いずれも田舎侍らしく、|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》を背におい、ぶッさき羽織にふとい南蛮鉄のこじりをはねあげて、
「やっぱり、きゃつであった」
「待て、|丞馬《じょうま》」
と、息せききってはせのぼると、その若者をとりかこんだ。
「お、これは兄弟子の方々――何でがす?」
と、若者は、きょとんとして見まわす。五人の武士は、いそがしくあたりを眼でさがし、茶屋の中までのぞきこんで、
「|狭《さ》|霧《ぎり》どのは?」
「見えぬ! これ、丞馬――狭霧どのをいかがいたした?」
若者は、くびをかしげた。
「|乗《のり》|鞍《くら》丞馬はひとりでがす」
と、ぶっきらぼうにこたえた。
「いつわりを申すな、うぬはたしかに狭霧どのをつれ出したはず。――」
「いや、飛騨を出たときはひとりであろうが、三日のち出奔なされた狭霧どのを途中で待っていたであろう?」
「うぬひとりの足なら、ここまでにこれだけの日かずのかかるわけはない。――」
と、口ぐちにののしるのに、
「いや、それは道中、あちこちと見物しておったでな。講武所の御前試合は三月十九日、それまでに江戸につけばよいでがんしょうが」
武士たちは、いっせいに歯をむき出した。
「御前試合? それにうぬは出てはならぬのだ」
乗鞍丞馬とよばれた若者は、大きな眼をいっそう大きく見ひらいて、ふところをたたき、
「ここに、御師匠さまの御推挙状ががんすぞ」
「とり消しじゃ」
「とり消し?」
「|夕《せき》|雲《うん》|斎《さい》先生の御恩義もわすれ、出府を機会にかけおち同様|娘御《むすめご》をつれ出すようなふとどき者、もはや御前試合に出ることはまかりならんと御立腹である」
「まだそんなことをいわれる。わしは、狭霧さまのことなんぞ知んねえぞ。……そんなことより、わしが講武所へゆかねえなら、だれが出るだ?」
「われわれのうち、だれでもよい。だれが出ても、天領飛騨の名をはずかしめまい――との先生の|仰《おお》せじゃ」
丞馬はふしぎそうに、五人の顔を見まわした。
「おまえさまがたが?――兄弟子にすまねえが、おまえさまがたは飛騨流幻法を御存じでねえ。飛騨幻法五法の奥儀をさずけられたは、このわしばかり。――」
うっそりとした語調だけに、いっそうふてぶてしい面だましいにみえる。武士たちはきりきりと歯ぎしりした。
「御前試合は、忍法幻法の試合ではない」
「んだが、御師匠さまは、世に知られぬ飛騨の幻法を将軍さまに御覧にいれる天の時がきたとおっしゃって、わしを出されたのでがんすぞ。おまえさまがたは生まれつきが悪うて、その奥儀も授からず江戸へも出されねえのが不服で、うそついてわしをじゃましようとするでねえか?」
「ぶれいな! |郷《ごう》|士《し》の小せがれの分際で――」
「ぬ、ぬかしおったな。それでは、これをみろ」
と、ひとりがふところから一通の書状をつかみ出して、つきつけた。「乗鞍丞馬へ――夕雲さい」とかかれたおもてがきをみて、丞馬はちょっとおしいただいて封をきったが、その|頬《ほお》の黒い筋肉がぴりっとうごいた。
「どうじゃ、とり消しはまことであろう?」
「さ、丞馬、早々に飛騨へかえれっ」
丞馬は、手紙をつかんだまま、じっと東の空をみていたが、うめくように、
「さっき、狭霧さまをわしがどうかしたとかおっしゃってござらしたが、このお手紙のなかにはそんなこと何もかいてねえぞ。ただ――飛騨の幻法をつかうなとかいてある。――」
「かいてなければ、狭霧さまをどうしてもよいと申すのか!」
「うんにゃ。どうしようにもこうしようにも、わしは狭霧さまなんぞ知んねえ。……女を断ってはじめてあらわれる飛騨幻法……わしが狭霧さまをつれ出すわけがあるかよ」
と、つぶやきながら、その手のなかで、こともなげに手紙をひきさいた。
「な、なにをいたす」
「先生の御書状を――」
|狼《ろう》|狽《ばい》する五人のほうへ顔をもどして、丞馬はにやっと白い歯をみせた。
「わしはもはや|武《むさ》|蔵《しの》|国《くに》に片足をかけておる。もう、とまらねえ」
「なに?」
「飛騨幻法は先生からたしかに授かったが、授けた先生は、もうあのお年、御自分ではお使いになれぬでがす。さすれば、飛騨幻法はわしのからだの中にのみある! その幻法がさけぶでがす。丞馬、江戸へゆけ――江戸へいって、日本じゅうの剣士に眼にものみせてやれ――世に出ろ、名をあげろと――」
「丞馬、せ、先生に|叛《そむ》くか?」
「飛騨の幻法に叛くは、先生でがす。左様、おつたえ下せえ。――では、わしは江戸へゆくでがすぞ!」
からだまで、野心にふくれあがったようにみえる背に、
「待てっ」
「これでもゆくかっ」
抜きうちに、二条の銀光がその両肩めがけてほとばしった。――その|刹《せつ》|那《な》、丞馬は両腕をひろげて、まるで背に眼があるようにうしろ手に、その二本の刀身をがっきと受けとめたのである。
「あっ。――」
みな、息がとまった。|刃《やいば》は、まるで|竿《さお》か何かのように、丞馬の両こぶしの中にあった。――そのこぶしが、ぎゅっとにぎりしめられると、刀身はまるで|氷柱《つらら》みたいにくだけ折れた。
「飛騨五幻の第一、断鉄の法。――」
その声のみが、|※[#「※」は「颱」の「台」を「炎」にしたもの。Unicode=#98B7]々《ひょうひょう》たる山風にのこり、その姿はすでに峠を遠くかけ下っていた。
――|代《よ》|々《よ》|木《ぎ》|野《の》の森が夕やけにそまり、|甲州《こうしゅう》街道に人馬のあげる土ぼこりが赤かった。さすがにもう西へ出る旅人の姿はまれで、ながれはみな|内《ない》|藤新宿《とうしんじゅく》へむかっていた。
その人馬のながれのなかを、ひときわはやく、まるで巨大な魚みたいに泳ぎぬいていった影を、
「あっ……丞馬」
と、突然けたたましい声で追ったものがある。若い女の声であった。
乗鞍丞馬はぴたりと静止して、ふりかえって、
「狭霧さま……だけではねえでがすか」
と、さすがに眼をみひらいた。
旅姿の女が五人、かけよってきた。まっさきのひとりは大柄で、いかにも雪国の女らしく色白で、それに真っ黒な眼と|椿《つばき》の花弁のような唇と――若さと生命力が、|滴《しずく》となってあふれそうな娘であったが、あとの四人も、それにおとらずピチピチと美しい。
「まあ、まだこんなところにいたの? わたしはもう、ずっとまえに江戸に入っていたものと思っていました」
息はずませていったのは狭霧だが、丞馬を見あげる黒い|瞳《ひとみ》は|十《とお》、どれも、ぬれたようにかがやいている。丞馬はニコリともせず、重い表情で見わたして、
「狭霧さま……|小《こ》|笹《ざさ》どの、お|柳《りゅう》どの、おゆんどの、お|藤《ふじ》どの。――なるほど、あの方がたが血相かえて追っかけてこられたわけでがす」
「あの方がたって――だれ?」
と、小柄で愛くるしい小笹がきいた。
「小仏峠でな、わしが赤飯をくっていたら、陣屋の土屋どの、中西どの、|小《こ》|見《み》|山《やま》どの、堀どの、|片《かた》|桐《ぎり》どのが追っかけてこられてな、わしはあわててにげてきたが――」
娘たちは顔色をかえてふりかえった。その男たちは、いずれも親のきめた|許婚者《いいなずけ》であったり、しつこく言いよってきたりしていた連中だったからだ。
「そ、それじゃあ――」
「いや、あの方々の足では、どれほどいそいでも江戸に入るのは明日になろうが、しかし、ここで立話は、往来のじゃまになる。こっちへござれ」
と、丞馬は街道から横の雑木林へ入っていった。
林は|夕《ゆう》|靄《もや》のなかに緑にかすみ、やがて往来の声もきこえなくなった。
「そこに|坐《すわ》ったらようがしょう」
と、丞馬があごでさすと、五人の娘はたおれた|朽《くち》|木《き》に、五羽の美しい鳥みたいにならんで腰をおろした。が、みなうっとりと丞馬を見あげている。
「なぜ、五人もそろって、飛騨を出なされた」
ややあって、彼は当惑したようにいった。
「おまえを追って」
と、狭霧がいった。すると、スンナリとしたお柳がうつむいて、
「五人、相談したのではないのです。みんなそれぞれ、勝手にそっと出たら、途中でいっしょになったのです。……まだ、あと、追っかけてくるひとがあるかもしれない。……」
肉感的なお藤があえぐように、
「わたくしたちは、おまえがわすれられない。……」
と、つぶやくと、五人の女はいっときしん[#「しん」に傍点]とだまりこんだが、やがてきよらかなおゆんが、
「はじめ、みんな顔を見合わせ、おたがいの心をよんで、胸もつぶれるようでした。でも……結局、みんなでいっしょにおまえを追ってゆこうということになったのです。狭霧さまのお話をきいて」
「丞馬」
と、狭霧がはっとわれにかえったように、
「父上さまは、おまえを出されたあと、二、三日、腕ぐみをして御思案にふけっていられたが、しまった、丞馬をやるのではなかった、といい出されました」
「そのことも土屋どのから知りましたが、どうして先生がいまになって左様なことを仰せ出されたか、わしにはわからねえでがす」
「おまえは、父上から飛騨幻法の奥儀とやらを授かったでしょう」
「はい、だからわしが江戸へ出されたのではござりませんか」
「それが――その幻法をつかうには、一人の人間で、五人分も十人分ものいのち[#「いのち」に傍点]の力をもった男でなければならぬそうな」
「はい、その幻法のなかには、いのちの切り売り――術をいちど使うたびに、それだけ寿命をちぢめるものががすから」
「女が好きになってはならぬそうな」
「はい、女が好きになるとは、男が女にいのちをやることでがすから」
五人の女は、またしばらくだまった。彼女たちは、それぞれ、この飛騨の若い郷士が女を愛するとき、まさにいのちをそそぐという形容にふさわしいものであったことを、めいめいの肌の感覚で思い出していたのである。
ややあって、狭霧がいった。
「だから、父上は、しまった、と申されたのです」
「どうして?」
「――おまえは、女が好きでしょう?」
丞馬は、不安そうに狭霧をみた。
「先生は……わしとおまえさまのことを御存じでがすか?」
「いいえ、知らなかったでしょう。わたしが家を出るまでは」
と、狭霧はちょっとニンマリとしたが、
「でも、おまえがふつうの男の五人分も十人分もの元気者であることを御存じです。それなればこそ、陣屋の侍衆をさしおいて、郷士のおまえだけに幻法の奥儀を授けられたのです。おまえには、女は断てぬ――父上さまは、左様におかんがえなおしになったのです」
「わしは、印可を授かるときに、先生に|女《にょ》|人《にん》禁制の誓いをたててがす」
「でも、江戸には美しい女たちがいっぱいいます」
「いても、何でもありましねえ」
「女たちが、おまえをすててはおきません」
五人の女のからみつくような視線のなかに、丞馬はうっそりと立っていた。判断に苦しむといった表情である。しかし――この|雀《すずめ》の巣のようなあたまをした|垢《あか》だらけの金剛力士が、じぶんでは知らないで、女にどれほどの魔力――生命力の花粉をまきちらしているか、それは女だけが知っていることであった。
「ばかな! わしは、それどころでねえ」
「いいえ、父上は申された。あれはいまに禁を破ると同時に幻法も破れて、じぶんのいのちを滅ぼすにちがいない。手もとにおいておけばよかった。江戸に出すのではなかったと。――」
「それで、わたしたちはあなたをとめに追ってきたのです」
と、四人の女がいった。
いつしか林に|夕《ゆう》|闇《やみ》が沈み、そのなかで乗鞍丞馬の眼が、異様にひかってきた。青い、冷たい、怒りをおびたひかりであった。
「とめて、どうなさる?」
「飛騨にかえるのです」
「そして――」
「このなかのひとり、おまえの好きな女をお嫁にして、雪の中で暮しましょう」
「……そんなことをしたら、幻法がつかえましねえ」
「つかわなくってもいいわ。それでなくても、命を|鉋《かんな》にかけるような幻法を」
「なんなら、五人いっしょでもかまわないわ」
と、お藤がつぶやくと、お柳がひっそりと、
「いままでと、おなじように暮してゆけばいいのです」
乗鞍丞馬も、切株に坐った。そして、だまって、腰の瓢箪をつかんで、あおむけになって飲んだ。
「わるかった」
と、重っ苦しくいった。
「おまえさまたちを、抱いたのがわるかった。たしかにわしは、いちじ世の中に女ほど|可《か》|愛《わい》いものはねえなあと思っていたでがす。それが……女を断つ誓いをたてたのに、たててから、そのまえのあいびきが、いまになって追っかけてこようとは……」
なげくようにつぶやいたその口から、ぴゅーっとほそい水の糸が宙にあがった。それが、二メートルも上でねじれると、ぱあっとひろがったのである。しぶきは、一滴も女たちの顔にかからなかったが、女たちはぎょっとしてそれを見まもった。水は薄い透明な幕となって、丞馬と彼女たちをへだてていた。
「しかし、わしはいま、はっきりと女を断ったでがすぞ!」
宵闇のなかであったが、水の薄絹をとおして、彼の坐った影は、おぼろおぼろとみえた。
「飛騨幻法第二――|水《すい》|紗《しゃ》幻法! わしはこの幻術をつかってみたいのだ。生かしてみたいのだ! わしは腕をためしたい、世に出たい、名をあげたい」
その姿は水底の|藻《も》のようにゆれ、ほそくなり、消えていったが、声だけは耳もとでつん裂くようにとどろいた。
「わしをとめるな。からみつくやつは踏みつぶす、手をひくやつは|斬《き》りはなす。わしを追うな!」
水の薄絹はしだいにうすくなって、はじめて彼女たちの|面《おもて》をしぶきが吹いた。眼前の切株には人影はなかった! しかも、声だけまわりの木立にこだまするように、はっきりときこえるのである。
「これが飛騨幻法の第三――山彦幻法! あははははは!」
五人の女が、|茫《ぼう》|然《ぜん》として林のなかに立ちつくしているころ――|兇暴《きょうぼう》なばかりの高笑いをあげながら、野心にふくれあがった若い忍者は、江戸の|灯《ひ》めがけて疾駆していた。
文久二年春。この一月、|坂《さか》|下《した》|門《もん》|外《がい》の変をみたばかりの|擾乱《じょうらん》の江戸へ。
赤坂|氷《ひ》|川《かわ》|社《しゃ》にちかい酒井|壱《い》|岐《きの》|守《かみ》の屋敷の武者窓に、南風が桜の花びらを吹きつけている。
この屋敷には、日ごろから一くせも二くせもある武張った訪問客が多かったが、この数日はことさらそれが目立つ。とくに、あきらかに江戸侍とはみえぬ野性満々たる|浅《あさ》|黄《ぎ》|裏《うら》が、三人、五人とやってきては、
「三河松平の望月八郎でござる」
とか、
「井伊|掃《かも》|部《んの》|頭《かみ》家中の|柏原弥平太《かしわばらやへいた》参府いたした」
とか、
「|榊原式部大輔《さかきばらしきぶのたいふ》家来、|井《い》|奈《な》新兵衛と申す」
とか、|大音声《だいおんじょう》をはりあげるのを、玄関の式台に机を出した用人が、いちいち控とあわせては、「御苦労でござる」と|挨《あい》|拶《さつ》しては、書き入れる。
酒井壱岐守は五千石の|大《たい》|身《しん》で、同時に講武所奉行であった。
幕府が、ようやく騒然たる世相におびえて、|鉄《てっ》|砲《ぽう》|洲《ず》|築《つき》|地《じ》に講武所をひらいたのは、六年前安政二年のことだ。剣術師範に|男谷下総守《おだにしもうさのかみ》、松平|主税介《ちからのすけ》、|伊《い》|庭《ば》軍兵衛、|榊原鍵吉《さかきばらけんきち》、|槍術《そうじゅつ》師範に高橋|泥舟《でいしゅう》、砲術師範に江川太郎左衛門などの|錚《そう》|々《そう》をそろえ、泰平になれた旗本御家人たちに活を入れようとしたのである。
講武所はその後|神《かん》|田《だ》|小《お》|川《がわ》|町《まち》にうつったが、時とともに士風に|弛《ち》|緩《かん》があらわれた。そこでこの三月十九日、将軍|家《いえ》|茂《もち》の来臨をあおぐことになった。将軍襲職以来五年目、はじめての上覧であった。そして、この機に剣槍の御前試合をおこなうことになったのだが、とくに出場者は旗本にかぎらず、人材の発見と|直《じき》|参《さん》の奮起を期待して、ひろく譜代ならびに天領のえらび出した剣士を|以《もっ》てこれにあてようとしたのである。
講武所奉行酒井壱岐守の屋敷にくるのは、その出府をつげる剣士たちなのであった。
「殿さま」
と、庭に紺の|法《はっ》|被《ぴ》に柿色の三尺をしめた|中間《ちゅうげん》がひざまずいた。
「|宗《むな》|像《かた》の殿さまは御不在でござります」
武骨な屋敷に似合わない、きりっといなせ[#「いなせ」に傍点]な中間だ。まだ二十三、四で、渡り者だが、ひどく気がよくまわる男なので、主人の壱岐守が親しくつかっている休平という若者である。
「いない? こちらに参ったのではないか」
「勝の殿さまが宗像さまのところへおいでなされ、おふたりでお酒をめしあがったのち、ふらりとつれだってどこかへお出かけになったそうでござります」
主人の壱岐守はにがい顔をしてだまりこんだ。ややあって、
「こちらの用件は知っておろうに、たわけた奴じゃ」
と、うめいて、腹立たしげに、
「|美《み》|也《や》、|主水正《もんどのしょう》はこぬぞ」
と、ふりかえっていった。
うしろに、ひとりの娘が坐っていた。返事はなく、かすかにかんざし[#「かんざし」に傍点]がゆれただけである。
――ひとしきり、玄関の方できこえていた大音声の名乗りもさすがに絶えて、もう庭は薄暮であった。しかし、その娘だけ、|雪《ぼん》|洞《ぼり》に灯が入ったように浮かびあがってみえた。そのくせ、真昼の日のひかりの下に出したら、その姿を夕闇のようなかげがつつんでいるのを、ひとびとは感じるだろう。顔もかたちも、なぜかおぼろおぼろとして、|蜻《かげ》|蛉《ろう》をみるような――このいかめしい父親から、どうしてこんな娘が生まれたのか、ふしぎに思われる十九の美也であった。
「それでは、美也の|婿《むこ》になるのは、その五人のうちじゃ」
と、壱岐守は見まわした。
美也ははっとしてうったえるような|面《おも》|輪《わ》をあげたが、くいいるようにじぶんを見つめている|十《とお》の眼とあうと、声はたてず、またうつむいた。
座敷には、ほかに五人の武士がならんでいた。いずれもまだ若い――五百石から千石までの旗本だが、講武所奉行の壱岐守がもっとも眼をかけている俊秀ばかりであった。|宇《う》|陀《だ》|久《く》|我《が》|之《の》|介《すけ》、|鴉田《からすだ》門五郎、|筧《かけい》伝八郎、玉虫兵庫、|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》|右《う》|近《こん》というのがその名だ。
「ただし、明日の試合にもっともみごとな働きをみせたものにであるぞ」
と、壱岐守はいった。
「主水正はこぬが、そなたら六人、いずれもすぐれた点もあれば、気にいらぬ点もあるが、まずわしのみるところ、旗本の若手きっての男たちじゃ。それがいずれも美也を是非申しうけたいという――父としてかたじけないが、わしもまよう。そなたらのうち、だれにも美也をやりたいほどじゃ。しかし、美也はただひとり。――」
五人は、かすかに笑った。
「このたびの上様のお成りは急な話ではあったが、奉行のわしの名誉はもとより、このことについてもよい機会であった。明日の働きをしかとみとどけ、わしがもっとも|天《あ》っ|晴《ぱれ》とみた男に、美也をつかわすぞ」
五人の頬が、ぴりっと硬直した。
やや|痩《や》せて青白く、天才的な感じの宇陀久我之介がつぶやいた。
「ただ――このようなことが起るとは知らなんだゆえ――このごろ男谷の道場はおろか、小川町にも参らず、|越中島《えっちゅうじま》ばかりにかよっていたのが残念でござります」
「宗像にだまされたような気がいたす」
と、重厚な感じの鴉田門五郎が嘆息すると、みるからに|軽捷《けいしょう》な筧伝八郎も口をあわせて、
「もはや剣法の時代ではない、鉄砲じゃ大砲じゃ黒船じゃと申す宗像の持論に、うかうかと乗りました」
「そのくせ、きゃつは小川町の講武所にも越中島の調練場にもとんとあらわれず、勝どのと酒をのんでは天下の国家のと大言壮語ばかり吹いているそうでござる」
と、玉虫兵庫がいった。宇陀、鴉田はいずれも独特の講武所まげにゆい、筧伝八郎は|総《そう》|髪《はつ》であったが、この玉虫兵庫だけは五分|月《さか》|代《やき》であった。
彼らはいずれも親友――美也を対象にかんがえるまでは――であったが、そのなかの指導者格ともいうべき宗像主水正の得意の論にうごかされて、深川越中島の砲術調練に熱をあげ、このごろ|竹刀《しない》をにぎったことのないのをくやしがっているのである。
みんな主水正を攻撃するなかに、
「いや、主水正とて、ただ勝|安《あ》|房《わ》どのの|法《ほ》|螺《ら》にのせられたにすぎまい。また、われわれの習ったことも、決して無駄ではない。安房どのや主水正の申すことにも道理はある」
と、ひとりしずかに烏帽子右近がいった。これはふつうの髪で、そして学者のように荘重な美男だ。
酒井壱岐守は苦々しげに横をむいた。
「安房や主水正のことはすておけ」
剛直な壱岐守は、|洒《しゃ》|落《らく》の度がすぎるともみえる勝安房守とは肌があわないのである。
「何を申しておる。そなたらいずれも、男谷門下きっての逸材ではなかったか。半年や一年、竹刀をにぎらぬとて、それで腕がなまるような奴であれば、はじめから美也の婿となる資格はないぞ」
「仰せのとおりです」
と、玉虫兵庫が胸をはった。じっと美也を見つめた眼は、兇暴なばかりのひかりをたたえていた。
「明日がたのしみでござるわ。なんの大味な田舎侍の剣法ごとき――」
そのとき、玄関で、たからかな声がきこえた。
「飛騨高山陣屋御師範|檜《ひのき》夕雲斎先生の御推挙により乗鞍|丞馬《じょうま》出府つかまつったでがす!」
庭で、くすっと笑う声がした。いままでそこにうずくまっているのを忘れていたが、中間の休平だ。あわてて口をおさえ、
「|可《お》|笑《か》しなおひとがおいでなすったな」
と、つぶやくと、|空《から》ッ|脛《すね》をあげてかけ去った。
――門の方で、異様な絶叫があがったのはその数分後であった。
門を出て、乗鞍丞馬は立ちどまって、|眉《まゆ》をひそめた。
「これア……片桐どのに小笹どの」
陣屋の侍、片桐|直《なお》|人《と》よりも、小笹の方がまずかけよって、しがみついた。
「丞馬どの、もう届出はなされたか。……いけません!」
丞馬は片腕で、小笹をひきはなした。かるくつかんだのだが、小笹はうっと息がつまった。|曾《かつ》て彼のその腕に抱かれたこともあるのに、まだ知らない激痛であった。
片桐直人は顔をひんまげた。小笹は同僚土屋|蓮之丞《れんのじょう》の妹で、彼の許婚者だったのだ。
「小笹どの、なぜそやつのところに寄る?――丞馬、やはり、ここに来たな。江戸入り以来三日、手をわけてうぬの宿をさがしているうち、やはりばらばらの小笹どのに|逢《あ》ったのだが、この酒井家をたずねてみれば、まだうぬは来ぬという。来ぬものの取消しはできぬといわれたゆえ、みなかわるがわるここに網をはっていたのだ。そこのけ、もういちど取消してきてくれる」
歯をかみならして入ろうとする門に、乗鞍丞馬はうっそりと立った。夕風が、その髪を|蓬《ほう》|々《ほう》と吹いた。
「どけ、どかぬか、どかねば斬るぞ!」
一言も発せず、丞馬の眼が血いろにひかってふたりを見すえていたが、その片手がそろそろとあがって――べりっとおのれのびんの髪をひとつかみむしりとった。血が片頬にすうと垂れて、その|凄《せい》|惨《さん》さにふたりがぎょっと息をのんだとき、彼は髪をつかんだ腕を宙にあげて、|掌《てのひら》をあけた。
髪は風にながれた。
「う。……」
ばらばらと顔にふきつけた髪をふたりははらったが――その髪の毛はもつれつつからみあって、黒いほそい|紐《ひも》となり、それがいのちあるもののようにひとりでうごいて、|頸《くび》にまきついたのである。
それまでのうごきは、高速度撮影のようにゆるやかであったが、それ以後は一瞬であった。片桐直人と小笹の口から身の毛もよだつ絶叫があがり、その鼻孔から血が噴出した。その|髪鎖《かみぐさり》は、|頸《けい》|椎《つい》も折れよと頸にくいいったのである。
「|飛《ひ》|魂《こん》幻法。……」
風のなかに、丞馬は鈍くつぶやいた。地上に|悶《もん》|死《し》したふたりの|屍《しかばね》を見おろした眼に、けむりほどの哀悼のかげもなかった。
「……からみつくやつは踏みつぶす、手をひくやつは斬りはなす……と、わしがいったことを信ずればいいに。……」
声だけはぶつぶつと、ひとりごとのようであったが、足どりだけは力強く、そのまま|飄然《ひょうぜん》と立ち去ろうとしたとき――
「待てっ」
という声が、うしろからかかった。
門に一団の人影があふれ出していた。そのなかから、講武所独特の白地の|小倉袴《こくらばかま》、|朴《ほお》|歯《ば》の下駄、|朱《しゅ》|鞘《ざや》の長刀をおとしざしにした三人――宇陀久我之介と筧伝八郎と玉虫兵庫が、下駄を鳴らしてはしりより、丞馬をとりかこんだ。
「待て、いまこのふたりを殺害したのはその方か」
丞馬はゆっくりとうなずいた。
「左様でがす」
「左様でがす?――お、さすればうぬは、さっき飛騨とやらから出てきたと呼ばわっていた男じゃな。――な、なんにしても、人間をふたり殺して、だまってにげる奴があるか。神妙にいたせ!」
「――講武所の方がたでがすか?」
丞馬は、平然として、よそごとのようにききかえした。それから、三人を見まわして、何をかんがえたのか、にやりと白い歯をみせた。それは彼らが、いままでいちども見せられたことのない|馬《ば》|鹿《か》にしたような不敵な笑いであった。
「こ――こやつ――人を殺して、なぜ笑う?」
「お前さまがたが腰にさしているその朱鞘は、人を殺すためのものではねえですか。やけになげえ刀でがす――けれども」
「長い――けれども――それがなんだ?」
「人が殺せますか?」
ものもいわず、三条の長刀がこの|異形《いぎょう》の男の頭上に舞っていた。
丞馬の双腕が宙におどった。――とみるや、二本の刀身はそのピンとそらした掌にはねられて、まるで鋭利鉄を断つ名刀と|噛《か》みあったように切断されていた。最後の一刀は、|肘《ひじ》からすべって、がっきとこぶしの中ににぎられてしまった。
門の方で、たまぎるような悲鳴があがった。はしり出てきていた美也と用人と中間休平の口からいっせいにあがったさけびであった。|刃《やいば》を砕かれ、つかまえられた三人はもとより、烏帽子右近も鴉田門五郎も声もない。
刀を|麻《お》|幹《がら》みたいにつかんだまま、しかし丞馬は門の方をみていた。
どうしたのか――その姿は、銅像みたいにうごかない。眼はじっと美也にそそがれていた。夕空に舞ってきた桜のひとひらが、|妖《あや》しい|螺《ら》|旋《せん》のひかりをえがいて地に散りおちても、彼はそのままの姿勢であった。彼はなお美也を凝視していた。
ふいにその口から、「あ。……」というような息がもれ、突如火花にふれたように刀から手をはなしたが、このとき、いまになって、どうしたのか、その掌から肘へつーッと血の糸がながれおちた。
「忍者か。……術がやぶれたらしいの」
と、思いがけぬところでつぶやく声がきこえた。
「あっ――主水正さま!」
胸を抱き、息をのんでいた美也がまろびよって、しがみついた。そこにふたりの武士が立っていた。ひとりは先刻話に出た宗像主水正だが、ひとりは講武所砲術師範勝安房守だ。供のものの影ひとりもみえず、ふところ手をしているのも勝らしいが、屋敷もおなじ赤坂のこのちかくなのである。
「なに、忍者?」
「術がやぶれたと?」
さけぶと同時に、猛然と鴉田門五郎と烏帽子右近が抜き打とうとするのを、
「待ちな」
と、勝がはじめて声をかけた。このめりけん[#「めりけん」に傍点]がえりの砲術師範は、へいきでべらんめえを使う。
「これアいってえ、何者だえ? どこでとれ[#「とれ」に傍点]たのかな?」
「飛騨高山郡代より推挙されて参府いたした乗鞍丞馬と申すものの由――明日の講武所の御前試合に出るむね届出に参ったものでございます」
と、用人がこたえた。
「ふうん、それで、ここにころがってる|死《し》|骸《がい》は?」
「わしがそこへ出るのをじゃましようとするから、ちょっくら始末したでがす」
と、丞馬がいった。血のしたたる手をおさえてはいるが、もう|昂《こう》|然《ぜん》たる態度であった。
「なぜじゃましようとしたのだえ?」
「|私《し》|怨《えん》、私情」
と丞馬はぶすりといいすてて、
「ここに陣屋御師範檜夕雲斎老師の御推挙状がござる」
「――面白そうな男だな」
と、勝はにやにやして、宗像主水正をふりむいた。
「何しろ人材登庸の御時勢だ。試合に出してやろうじゃないか」
「結構ですな」
と、主水正は美也を片手で抱いたまま、淡々としてうなずく。まだ二十五、六の若さだが、勝とうまがあうらしく、明るく|颯《さっ》|爽《そう》とした男らしい|風《ふう》|貌《ぼう》の武士であった。
夕焼けの最後の|一《いっ》|閃《せん》に、乗鞍丞馬の眼が赤くもえた。じっと主水正にしがみついた美也をながめ、ふいに|瞼《まぶた》がいたむように眼をとじたが、やがてこんどは主水正の顔をみて、
「その女のひとは……お前さまの何でがす?」
と、おずおずときいた。主水正は笑った。
「おれの女房になるひとさ」
快活な声でいって、五人の旗本が動揺するのに平気でまたからからと笑った。
「主水正」
たまりかねたように、玉虫兵庫がさけんだ。
「勝手なことをぬかす、壱岐どのは、先刻……明日の講武所試合にもっともみごとな働きをみせたものに、美也どのをやると申されたわ」
「そうかい」
と、主水正はうなずいて、丞馬を見た。
「それじゃあ、このひとと、やるかね?」
丞馬はまた赤い眼で見かえしたが、急にがくりと肩をおとすと、何やら思案にくれるように、重い足どりであるき出した。
そのぶきみな姿を見おくって、勝がつぶやいた。
「おっかねえ奴は、やっぱり田舎に多いな。……なあ、休平」
「へ?」
と、休平はめんくらって、眼をパチパチさせて、
「そうでやすかね。江戸にも、殿さまみてえな方がいらっしゃるから――江戸ッ子のあっしなんかも心丈夫に思ってたんだが……しかし、あいつはまあ何という――」
「休平、おまえ、どこの生まれだったっけな?」
「へっ、こうみえても、神田の生まれでござんすよ」
勝は、微笑した。ひとりごとのように、
「そうかい。|三《み》|田《た》|四《し》|国《こく》|町《まち》じゃあなかったのかい。おれは思いちがいをしていたよ」
相手が|折《おり》|助《すけ》中間でも、まるで友達みたいな口をきくのが勝のくせだ。
神田小川町の講武所は、いまの|三崎町《みさきちょう》一帯にあたる。そのひろさ一万三千余坪、これに建てられた道場その他勤番の役宅、長屋などの建物は千九百七十坪であった。
はじめ築地にあったのが、安政七年一月末ここに移転して、二月三日の開場式には|大《たい》|老《ろう》井伊|掃《かも》|部《んの》|頭《かみ》が臨席したが、そのわずか一か月後、彼の首が|桜田門《さくらだもん》|外《がい》におちたのは世の人の知るとおり。この兇変で|老中若年寄《ろうじゅうわかどしより》はもとより将軍すらも身辺の脅威をおぼえるにいたり、この講武所の精鋭を「|奥《おく》|詰《づめ》」と称する職名で江戸城に出仕させ、幕府の親衛隊としたにもかかわらず、この一月にはまたも老中|安《あん》|藤《どう》|対《つし》|馬《まの》|守《かみ》が坂下門外に襲撃されて負傷するにいたった。将軍家茂が、天下多事にもかかわらず、はじめてこの講武所にのぞみ、諸士の剣技を上覧することになったのも、決して寛永のむかしの御前試合のような趣味的なものではない。この機会に、直参ばかりでなく、ひろく天領譜代の剣士まで求めて、出場させようとしたのはその焦慮をまざまざとしめしたものであった。
文久二年三月十九日は烈風のふく日であった。十七歳の少年将軍家茂は、老中以下の供をしたがえ、|野《の》|羽《ば》|織《おり》伊賀袴という軽装で、午前八時ごろ来臨した。講武所奉行酒井壱岐守らがうやうやしく出むかえ、控所にみちびいて、きょうの式次第を呈上し、試合場の準備がととのった合図とともに、|御《ご》|座《ざ》|所《しょ》にみちびいた。
試合は、野天の下で行われた。あくまで実戦をむねとせよとは、講武所で平生から口が|酸《す》っぱくなるほどとなえられてはいたが、さすが上覧の席では、どうしても模範試合じみてくるのが妨げられないのを――突如、この儀式的雰囲気をひッ裂いたものがある。
「なに、真剣でよいと?」
そういうおどろきの声があがると、係の役人が酒井壱岐守のまえにはしってきて、何やら告げた。
酒井壱岐守はちらと将軍の方をみた。――出て参った! そう思ったのである。彼は、きのう自邸の門前で展開されたという飛騨の忍者の奇怪な術を見てはいなかったが、あとで勝安房や美也からきいていた。しかし、この晴れの席がまんいち血潮にけがされるようなことがあっては|如何《いかが》なものか、とちょっと思案したのである。その忍法にくだかれた二本の刀身も見せられたにもかかわらず、彼はなお半信半疑で、ながれる血潮とは、むろんその若者から出るものとしての予想であった。
「いや、おもしろいな、そうこなくてはならん、さっきから生あくびばかりしておったところさ」
と、大声でいったものがある。こんな席でも、まったくこだわらない勝であった。
「剣法は真剣法たるべし。それを竹刀踊りばかりしておるゆえ、大老の首をとられても腰をぬかしておるのさ。やらしてみるのだな」
ひとりごとのようだが、声は大きい。
こちらをみた将軍に、もう事情を知った若年寄の田沼|玄《げん》|蕃《ばの》|頭《かみ》が、白扇を口にあてて何か言上すると、すぐに小姓がはしってきて、上様には真剣の試合を見るのもあえていとわれぬ旨をつたえた。
すべての観覧者のみならず、男谷下総、伊庭軍兵衛らの師範席もどよめいたのは、その真剣の希望者が、相手のみ真剣をもたせて、おのれは素手でよいといい出したと知ったときであった。
知らぬ者には、不敵をこえて狂気としか思われぬその飛騨からきた忍者は、やがて姿をあらわした。
着服は、とくに勝手しだいという触れではあったが、さすがにその異形のすがたには、みな眉をひそめた。髪は|蔓《つる》|草《くさ》でたばねてはあるが、雀の巣のようで、袴もはかず、まっくろな足を二本にゅっと大地に張っている。腰に大きな|瓢箪《ひょうたん》がひとつ、ぶらぶらしていた。
「飛騨国郷士、乗鞍丞馬」
役人よりさきに、胸をはって|颯《さっ》|爽《そう》とみずから名乗った。
相手は、怒りのために顔を|蒼《そう》|白《はく》にしていた。この講武所でも世話心得を仰せつかっているが、あさり[#「あさり」に傍点]|河《が》|岸《し》の桃井道場では師範代をしている|室《むろ》|賀《が》大学という旗本であった。じぶんだけ真剣をもつことを指定されて、なんども不服をとなえたが、上意といわれて、憤怒しておどり出てきたのだ。
「恐れ入った儀ではござるが」
と、彼は奉行の方へ一礼して、
「血を見ます」
腰をひねると、白光がしぶき出た。――それよりなお白く|吊《つ》りあがった眼と三メートルばかりへだてて、乗鞍丞馬は、黒い牛のごとくにのっそりと立っている。腰に、刀はなかった。
「参るぞーっ」
猛鳥のごとく宙をとぶとみれば、唐竹割に斬りおろす一刀、|鏡心明智流《きょうしんめいちりゅう》の吹く炎ともいうべきその紫電を、丞馬は無造作に左腕をあげて受けた。|刃《やいば》はその掌のなかにあった。
次の瞬間、刀身が|雲母《きらら》のように散乱するなかに、丞馬の右のこぶしがのびて、大学の心臓部を打撃していた。大学は立ちすくみ、眼が|驚愕《きょうがく》に見ひらかれたまま――かっと鮮血が口からあふれ出した。彼はくずおれた。
数人の役人がかけよっていったのは、それから数分もたってからであった。たおれたからだを抱きおこし、|愕《がく》|然《ぜん》と顔を見あわせても、試合場は|寂《せき》として声もなかった。
乗鞍丞馬は、将軍の方へむけて、無邪気な――不謹慎ともみえる白い歯をみせた。
「講武所の衆――三人でも、五人でもようがすぞ」
と、地鳴りするような声でいったものである。
少年家茂の顔からも血の気がひいていた。この飛騨からきた若者の妙術にもびっくりしたが、血をみて――じぶんから真剣の勝負をゆるしたにもかかわらず、無惨ともあっけないともいいようのない落命を旗本にあたえた兇暴な山男に、抵抗しがたい不快をおぼえたのである。田沼玄蕃頭をみて、かんばしった声でいった。
「よし五人出してみよ」
その声はきこえなかったが、師範席にいた斎藤弥九郎がうなずいて、ぬっと立ち、世話心得のつめている席へあるいていった。
「宇津、|蒔《まき》|田《た》、小西、原、二階堂、支度せえ」
呼ばれて、ひとりもためらうもののなかったのは、さすがに|飯《いい》|田《だ》|町《まち》の鬼道場でさる者ありときこえた面々だからだ。町道場としてはいまや桃井、千葉をしのぐといわれる道場の精鋭だけに、その|真《しん》|面《めん》|目《もく》を将軍の上覧に入れるのはこのときとばかり、いっせいに、殺気にもえてはしり出た。
「ようがすか?」
と丞馬は、ぐるっと見まわした。彼のすがたは、車輪のようにとりまいた五本の白刃の中心にあった。
彼はびんの髪の毛をむしりとった。そのこぶしのなかの髪が烈風になびくのを、五人はけげんな顔でちらりとみたが、
「生意気な!」
「神道無念流の味を知れっ」
絶叫とともに、五方から猛然と襲いかかった。――と乗鞍丞馬は、そのまま、すうと一方にとびさがったのである。その方角にふたりが刃を舞わせていたのに、斎藤弥九郎門下の逸足ともあろう両剣士のあいだを、うしろざまに、まるで空気のように吹きぬけた。とびながら、その顔と胸を、うなりをたててかすめる二本の乱刃を左腕で|薙《な》いだ。二本の刀は、|蝋《ろう》みたいにきりとばされていた。
やすやすととびぬけられたふたりの剣士は棒立ちになっていた。その両眼を横なりに髪の毛がふさいでいるのを、当人以外には――いや当人すらも、とっさにわからなかった。風は面をたたいた。しかし、その髪のいくすじかは、たしかに風圧ばかりでなく、それ自身生命あるもののように、とじたまぶたをおさえつけているのであった。
ふたりがもがき、ひとりがのめった。残ったふたりの頸と肩に、丞馬の手がひらめいた。頸を打たれたものは、顔が異常な角度にまがって横にとび、肩をうたれたものは、そのまま片手が地に血しぶきとともに落ちた。頸骨を折られた男は、両眼もとび出して、もう草の上にうごかなくなっていた。
地上と空間を――のろのろともがくものと、静止してしまったものと――血と骨と散りみだれた刀身と――むしろ奇怪ともいうべきこの一塊の群舞を、もう四、五メートルもはなれたところで、黙然と見まもっていて、丞馬は、やがて、きらきらひかる眼を将軍の方へむけた。
「…………」
何かいったが、言葉はわからない。誇ったか、次の敵を催促したか、そのいずれかであった。
家茂は、声を失った。凄惨の気が庭上を覆った。
ふっと、勝安房守が立った。さっきの斎藤弥九郎とおなじ方角へ――世話心得の席にゆく。うしろから、笑顔で、
「どうだな」
と、いう。
五人の旗本がふりむいた。宇陀久我之介、鴉田門五郎、筧伝八郎、玉虫兵庫、烏帽子右近である。
「きのう、酒井さんが愉快な約束をしたというじゃあないか。お美也さんをお嫁にもらいたかったら、このときだぜ」
「――あれはいったい、いかなる術でございましょうか」
と、烏帽子右近がいった。宇陀久我之介が、
「忍法?――幻法?――いや、|妖術《ようじゅつ》だ」
と、うめいたものの、さすがに立とうともしないのは、事実きのう丞馬の恐るべきことを、身を以て思いしらされたからだ。
「まさに、妖術だ」
と、勝はうなずいて、
「生まれながらの異常な素質と、容易ならぬ肉の鍛練と――しかし、根本は心術だなあ、しかも、獣の魂だよ、ありゃ」
「鉄砲でもだめでござろうか」
と、筧伝八郎が歯をギリっと鳴らした。
「まさか、そんなことはあるまいが、将軍さまのまえで、素手に鉄砲はまずいな。旗本八万騎――のなかの目ぼしいのがここにあつまって、ポカンと口をあけたままというのは、講武所の教授としておれも少々面目ないよ。宗像、やってみないかえ?」
宗像主水正は首をかしげて、広場に立つ丞馬をながめやっていたが、
「左様、きのう、あれとそう約束しましたがね、あとでお美也さんにしがみつかれて、泣いてとめられた始末で……」
「これ、のろけておる場合ではない。宗像、おまえならあの男を破れると思うがな。いやあの邪気のある心術をやぶる陽気をもっているのは、旗本中ではまずおまえだろう。――おや、将軍さまのところから、男谷のところへ使者がはしったぜ。じいさん、やる気かな? おい、師匠を出して、弟子がふところ手をしているのは|恰《かっ》|好《こう》がわるかろう。宗像、やってみろ、おまえなら、斬れる。――」
「おだててはいけませぬ」
しかし、宗像主水正はゆったりと立ちあがった。
「では、ひとつ」
勝が|莞爾《にっこり》としてその背を見おくっていった。
「あれは、ちょっと研究してみたい。殺すなよ。――」
ふたりは、風の音の中に相対した。
蒼天の下に風はいよいよ吹きつのり、講武所桜が吹雪のようにふたりのまわりにうずまいていた。乗鞍丞馬は太陽を背に黒ぐろと立ち、片手をびん[#「びん」に傍点]にあてたままであった。はげしい南風は、真正面から花びらとともに宗像主水正を吹く。風と日光におもてをさらし、意にも介せぬふうにみえるその姿は、一見あけッぱなしにみえながら、剣聖男谷下総守すら一目おいた|直《じき》|心《しん》|影《かげ》|流《りゅう》青眼の|剣《けん》|尖《さき》はめくるめくばかり、なみの者ならそのひかりに眼をうばわれ、そのかなたの影は雲のごとく堂々と、またはてしもなくひろがってゆくようにみえたはずである。
しかし、その本格的――あまりにも本格的な剣法が、はたしてこの妖異な忍者に通じるかどうか?
そのまえのふたつの試合をみた眼には、実に奇怪にさえみえたのだが、ひたひたと寄る主水正に、丞馬はなんのうごきもみせず、金しばりになったように立っていた。いや、最初、主水正が出てきたのをみた瞬間から、彼の黒い頬にかげのような動揺がはしったのである。
「――やっぱり、出てきたか?」
口のなかでつぶやいた声は、だれにもきこえなかった。
「乗鞍丞馬とやら」
と、主水正がいった。
「おまえの業には感心したが、心術に濁りがあるぞ」
「なにっ」
はじめて、丞馬の眼があかくひかってきた。まさに血に飢えた獣の眼だ。
「濁りがある?」
「その体術、心術を天下のために生かせ」
「おお――」
と、うなるように、
「だからよ、わしは将軍さまのまえで――」
「その野心を濁りというのだ」
丞馬はこのとき、なぜかにっと笑った。
「濁りというのはそんなことか。わしは――さっきから、おまえさまよりうしろに妙なものがチラチラみえて――」
「おれのうしろに?」
「……おまえさま……きのうのあの女のひとは、たしかにおまえさまの女房になるひとかね?」
「なんのことだ?」
「おまえさまを殺すと、泣くかね?」
「たわけっ」
と、主水正は|大《だい》|喝《かつ》した。やっと、このふしぎな忍者が、だれのことをいっているのかわかったのだ。
「おれが死んでも、泣くものはだれもいぬ。参れ!」
「それでも――」
丞馬は、ぱっと二メートルばかりうしろにはねとんで、なお何ものかをのぞきこむような姿勢で、
「ああ、おまえさまのうしろに、あのひとの泣く顔がみえる。――」
はじめて、主水正の背に冷たいものがはしった。丞馬の言葉より、丞馬のほかの何かに気をとられているような姿に寒い風におそわれた。
「その惑わしにはのらぬっ」
その寒風に吹かれたように大地を|蹴《け》る。
「あの女は、わしがもらった!」
絶叫するやいなや、丞馬はびんの毛をむしって、風にはなそうとした。――髪はぬけなかった! びん[#「びん」に傍点]にあてた腕は、肘を張ったまま、次の|刹《せつ》|那《な》、肩のつけねから、どぼっと鈍い音をたてて、主水正の刀身に斬りはなされていた。
「あっ。……」
|地《じ》|唸《うな》りするようなどよめきをあげたのは見物席であった。超人ともみえる飛騨の幻法者がやぶれたのだ。鉄をもくだく腕が大根のように断ちきられたのだ!
乗鞍丞馬はなお立っていた。切断された腕は、びんの毛をひっつかんだまま、ぶらりとさがっている。血は、その腕と肩から、音をたてて地におちている。
「――おかしいな?……」
といったふうにくびをかしげたが、やがてずるずると|膝《ひざ》をついた。
そのまえに立って、しばらくそのうごきを見ていた宗像主水正は、やがてしずかにふりかえって、
「手当を――」
と、いったが、その背に妙なつぶやきをきいて、もういちどぞっと冷気におそわれたのである。
「まけたのは、おまえさまの剣ではねえでがす。……おまえさまのうしろの幻でがすぞ。――」
――勝安房はにやにやしながら、見まわしていた。
「おい、お美也さんの花婿がきまったな。やむを得ないねえ」
五人の旗本は、広場の方へ蒼白い顔をむけたまま、だまりこんでいた。
――おなじ時刻である。ここも桜の花びらのながれる赤坂氷川|明神《みょうじん》の石だたみのうえで、胸に手をくみ、ひざまずいたお美也が、祈りの眼をあげた。その頬に、必死の涙がつたわっていた。
依然として風のはげしく吹くなかを、午後五時ごろ、妙にそそけ立った白い顔の将軍が講武所を去ってから、順々に参観の幕府の重職、大名、講武所の役員、旗本連がひきとる。
それから、白地の小倉袴に|朱《しゅ》|鞘《ざや》、朴歯の下駄をはいた講武所の修行人や、きょうの試合に出たらしい田舎侍たちが三々五々と群れ出てくるのを、門前で血ばしった眼でむかえる八人の男女があった。
そのうち、そのなかのひとりが、|誰《だれ》やらからきいて、
「おいっ――丞馬は殺されたというぞ!」
と、|昂《こう》|奮《ふん》した声でかけもどってきた。
「なに、殺された?」
「うむ、旗本のひとりに、みごとに片腕斬りおとされたそうな――」
四人の男はひかる眼を見あわせて、いっせいに、
「それみたことか!」
と、歯をむき出して、うれしげにさけんだ。同時に四人の女の口から名状しがたい吐息がもれて、そのうちのひとりがばたりと地上にたおれた。
「あっ、|狭《さ》|霧《ぎり》どの!」
と、武士たちがかけよって抱きおこすと、狭霧はその手をふりはらって、
「うそ、うそ、あの丞馬が死ぬわけはありません!」
「しかし、いま見張っていたが、きゃつの姿はなかった。そして、ごらんなされ、もはや門から出てくる人影もないではありませんか!」
それから、泣きじゃくる四人の女を、四人の男は口ぐちになだめたり、|叱《しか》ったりしていたが、やがてそれらの姿もどこかへきえていった。
そして――講武所に黒ぐろと夜のとばりがおちたころ――その門にぽつんと|提灯《ちょうちん》がひとつ浮んで、五つ六つの人影があらわれた。なかの中間風のふたりは、あいだに釣台をかついで、釣台にはひとりの男が横たえられていた。
それが、百メートルほどいってから、そのあとをつけていたふたつの影が、
「もしっ」
と、かけよってきて、
「その男は?」
と、のぞきこんだが、
「あっ、やっぱり丞馬さまっ」
「うぬ、生きていたかっ」
と、声をもつれさせて、釣台にとびかかろうとした。――やはり、まだ疑惑がはれないで、いままであたりをうろついていた飛騨高山の町娘お柳と陣屋の侍小見山大六であった。
「丞馬っ、よくも片桐と小笹どのを殺したな。覚悟せい!」
と、大六が抜きうちに斬りかかる腕を、だれかとらえた。|頭《ず》|巾《きん》をつけているが、これは宗像主水正であった。
「これ、理不尽なことをいたすな」
「あいや、おはなし下さい。この者は、拙者の|朋《ほう》|輩《ばい》をあやめた敵でござる」
「それが、きのうまでなら討たしてもやったろうが、きょうよりはならぬ」
「な、なぜですっ」
主水正はおちついた声で、
「この者は、拙者の家来となったからだ」
「なんと――」
と、大六は首をねじまげたが、すぐ狂犬のように歯をむいて、
「ええ、何がどうしようと、こやつの|首《くび》|土産《みやげ》にせねば、拙者は高山にかえれぬ。えい、はなせっ」
と、身をもがき、腕が自由にならぬとみるや、釣台のうえに首をのばして、かっと|痰《たん》を吐きかけた。
「ざまをみろ!」
――同時に、そのからだはもんどりうって大地にたたきつけられていた。
「たわけめ。――おい、やれ」
と、あともふりかえらず、主水正はたったとあるき出す。
「丞馬さま、待って!」
と、なお釣台にしがみつこうとしてお柳は、夜目にも|蒼《あお》|白《じろ》く浮かぶ丞馬の顔に冷たくひかっている眼に――面をたたかれたように立ちすくんだ。――釣台はそのまま闇の彼方へ遠ざかってゆく。
だれも気がつかなかったが、ふしぎなことがある。それまで丞馬の髪の毛には、なお切断された片腕がぶらさがっていた。その指をもぎはなそうとしたが、どうしてもとれなかったものだ。その腕が、いつのまにか|忽《こつ》|然《ねん》ときえていたのである。
「丞馬さま、丞馬さま!」
すぐにまた狂気のように追おうとしたお柳は、地上から刀をひっつかんではねおきてきた小見山大六にうしろから抱きとめられた。
「待て、お柳」
「いいえ、わたしはあのひとのところへ――」
「えい、この|期《ご》におよんで、まだそんなことを――きゃつは、そのうちきっとわしが討ちはたしてくれるわ」
|嫉《しっ》|妬《と》と憎悪に顔をひんまげながら、
「お柳、片輪者の丞馬を追って何とする、それより、このわしと――」
と、むりに顔をじぶんのほうへねじむけさせようとするのを、お柳の|繊《せん》|手《しゅ》がぴしりと頬を打った。
「きらい、きらいですっ、あなたなど――」
「こいつっ」
彼はとびのき、逆上した眼でお柳をにらんだが、いきなり|袈《け》|裟《さ》がけにお柳を斬った。
「あっ、人殺しっ――」
暗い地上で苦鳴をしぼる女に、もう狂人と化した小見山大六は、もう一度二度刀をあびせかけて、小豆を斬るような音をたてたが、三度めに、急に棒立ちになった。その顔が暗紫色にふくれあがり、刀をとりおとした腕は闇をかきむしった。
「だ、だれだっ――?」
いちど、こうさけんでふりむいたが、背後にはだれもいなかった。しかも、その頸を、一本の腕が絞めつけているのである。それは、死人のように冷たい腕であった。
まさに、死人の腕だ。切断された一本の腕が、いつのまにかそろそろと背中をはいあがり、いま蛇のように小見山大六の頸にまきついているのであった。鼻口から血をふいて、彼はお柳の|屍《し》|骸《がい》のうえにくずおれた。
「飛魂幻法。……」
釣台のうえで、乗鞍丞馬はぼそぼそといった。
「何、なんといったか」
と、宗像主水正はふりかえったが、丞馬はこたえず、にやりと笑っただけだ。
「丞馬」
と、主水正はいった。
「おまえ、さっき、わしの家来になりたいといったが、まだその気持はかわらぬか」
丞馬はそれにもこたえず、また白い歯をみせて、かすかにうなずいた。心の中で、こうつぶやいた。
――わしが家来になりたいのは、おまえさまではねえでがす。ただ、あのひとのそばへゆきてえだけでがす。……
無情幻法篇
――毎日毎日、陣笠に陣羽織をつけ、ゲベール銃をかついで行進する群は、それまで江戸に見られなかった風物であった。しかも、それがヒュウヒャラドンドンと笛入りだ。深川越中島の砲術調練場へかよう旗本たちである。
これを|浜町《はまちょう》河岸の細川家下屋敷の長屋から、「三味線も入れて、二百文だけ舞うてくれ」とからかって、血相かえた旗本に談じこまれて、留守居役が平あやまりにあやまったことがある。
「やんれやれやれ、無法がはやるぜ、こまったことだよ、きいてもくんねえ、ちかごろ世の中、オランダどころかつまらんだらけで、調練させたり、なんのかのとて諸人をこまらせ、中より以上は盲そろって人気をそこない、どうすることだよ」
と、ちょぼくれ[#「ちょぼくれ」に傍点]も待ってましたとばかりあざけったが、さすが泰平の夢さめぬ江戸市民も、その年八月|勃《ぼっ》|発《ぱつ》した|生《なま》|麦《むぎ》事件にはいささかおどろいた。
|薩《さつ》|摩《ま》藩士が東海道生麦で、行列の|供《とも》|先《さき》をきった英人を惨殺し、ために英艦七隻が神奈川に入港して、幕府に抗議を申しこんできたのだ。
西、|京洛《きょうらく》には暗殺の嵐ふきすさび、どんなに鈍感な人間でも、世の潮が、刻々とただならぬ叫喚をたかくしてゆくのを感じないわけにはゆかなかった。しかし、人々はそのなかに、何か新しいものの訪れてくるひびきをきいた。
不安と動揺は、むろん幕閣にいちじるしかった。そして、その迷い、悩みのなかに、やはりいままでの要路者の知らなかった対立が|兆《きざ》しはじめていた。それは、無能老朽の老中若年寄などより、少壮の江戸町奉行|小《お》|栗《ぐり》|豊《ぶん》|後《ごの》|守《かみ》と、新しく軍艦奉行|並《なみ》を仰せつけられた勝安房守に代表された。前者はフランスの力でこの難局をきりぬけようとし、後者はイギリスこそここしばらくは世界を牛耳るものと見こんでいた。
春――夏――秋――冬――きのうも、きょうも、洋式鼓笛隊で景気をつけて、越中島へ陣羽織のむれがゆく。そして、おなじ江戸の町を、古怪な幻法を身にそなえたひとりの若者があるいてゆく。
古怪な幻法を身につけた? しかし、彼は――?
「いっておいでなされませ」
ういういしい若妻は、式台に手をつかえて夫を見送った。
「うむ、きょうは遅うなるが、心配いたすな」
と、夫がやさしくうなずいて、大刀をつかんで式台から下り立とうとするのを、
「あ……お待ち下さいまし」
「なんだ」
「あの……先日、父からの伝言もありましたように……小栗さま御一派の方々が、勝さまをはじめ、お親しいむきにおだやかならぬ談合をかわされていると申します。どうぞ、お気をおつけあそばして――」
「ばかな、内外ともに敵は多いのに、仲間で|喧《けん》|嘩《か》しておるときか」
と、|宗《むな》|像《かた》|主水正《もんどのしょう》は舌うちしたが、すぐにからからと笑った。
「美也、おれを信じろ、きゃつらの手におえる主水正か?」
なんの屈託もない、明るい、精気にみちた夫の顔をあおいで、美也は頬をそめて微笑した。美しい唇のあいだから、|鉄《か》|漿《ね》をつけた糸切歯がこぼれた。
冬の朝であったが、ひかりはこの夫婦のまわりを黄金の|暈《かさ》でつつんでいるようだった。愛し、信じ、尊敬しきったふたりである。――美也が小石川の宗像主水正のところへ嫁いできてから、一年ちかくになる。|霞《かすみ》がかかったような天性の美しさはそのままながら、愛しつくされた人妻の深味と落ちつきが加わって、最初ややこの結婚にためらいをみせた父の|壱《い》|岐《きの》|守《かみ》も、いまは彼女の満ち足りた幸福に、「やはり、よかった」と満足の吐息をもらさずにはいられなかった。むろん、壱岐守が|逡巡《しゅんじゅん》したのは、主水正の人物についての不安ではなく、彼が師事している勝安房への不安からである。
主水正は、まわりを見まわし、ふいにかがみこんで、美也の白いあごに手をかけた。そして、新鮮な露にぬれた花のような唇を一吸いすると、笑顔で立って、
「丞馬っ」
とさけんだ。美也はめくるめくような思いで、片腕をついたきりであった。
玄関の外に、馬をひいた若党の丞馬があらわれた。
「お支度はよろしゅうございます」
と、丞馬はあたまをさげた。声はまえのとおり、重く鈍いが――丞馬は変った!
さすがに|髷《まげ》もゆい、袴もつけて、一本ざし、ただ変らないのはその腰にぶらさげた瓢箪ばかりだ。のみならず、左の|片《かた》|袖《そで》はだらりと垂れて、中には何もない。――しかし変ったのは姿ではなく、その顔であった。いや、顔も例のごとく眼が大きく、彫りがふかく、黒い彫刻のようで、一見したところでは一年前とおなじ顔なことは当然だが――なんとなく印象がちがう。大いにちがう。
そのことを、丞馬にくつわ[#「くつわ」に傍点]をとられて、門の外へ馬をあゆませながら、宗像主水正もあらためて感じた。
「丞馬」
「へい」
――これが、あの御前試合のとき、「講武所の衆――三人でも、五人でもようがすぞ!」と|吼《ほ》えるようにさけんだ不敵な声か?
丞馬の声はまったく弛緩していた。顔だって、ちょっとみたところでは変らないようだが、兇暴ともみえた精気が失せて、どことなく飽満した感じだ。冷酷無惨のひらめきをみたおぼえもあるのに、いまはあたたかみのある幸福感が黒い皮膚の下によどんでいる。こやつは、いったい、どうしてこうなったのか?
主水正は、請いにまかせて丞馬を若党にした。あの幻妙の妖術にも興味があったし、ただがむしゃらな野心に|憑《つ》かれたこの若者の魂をきたえなおして、天下のために役立たせたいという意欲もあった。しかし、腕の傷あとがふさがったころに婚礼のこともあって一応おちついたとき、彼はそこにいまのようにただぬうぼうとしただけの無芸な若者を発見したのである。
ときどき新婚の家庭をひやかしにやってきた勝も、彼をつかまえて、
「おい、もういちどあの妖術をみせてくれないかえ?」
と、いくどかつついたが、
「おれはもうだめでがす」
と、ニタニタして首をふるばかりだ。|韜《とう》|晦《かい》しているともみえぬ真実味が顔にうかび、しかもそれを無念にも思っていないらしいけろりとした表情に、勝は失望した。
「なぜだ」
「…………」
「腕を一本斬られたからかい?」
「…………」
「こいつ、ニヤニヤして妙な奴だ」
勝は断念し、主水正も落胆したが、むろん、それで丞馬を追い出そうとは思わない。片腕斬ったつぐないの意味もあるし、それより若党としてのこの若者の誠実さをうたがうことはできなかった。実に彼は、飛騨の山国から出てきた山男らしく、かげひなたなく主家のためにはたらくのである。
はじめ、少々えたいのしれない感じをぬぐいきれなかった主水正も、もちまえの|闊《かっ》|達《たつ》な気性もあって、いつのまにか丞馬を、先祖代々の忠僕みたいにつかうようになってしまった。ただ二、三度、「ああ、おまえさまのうしろに、あのひとの泣く顔がみえる。――」というぶきみな丞馬の声と、「あの女は、わしがもらった!」という獣のような絶叫がよみがえったことがある。
――あのひと、あの女とは、美也のことか?
しかし、主水正は苦笑した。この粗野な山の若者と、優雅な美也とは、あまりにかけはなれすぎた存在であった。事実、日ごろ丞馬のふるまいに、美也に対して礼を失うようなそぶりは毛ほどもみえなかったし、地が裂けようと美也の貞節に不安をいだく余地はなかった。
ただ――なんのために、こやつは宗像家の若党で満足しているのか?
その点になると、主水正は思案にあまるのである。将軍におのれの妙技をみせるためには、旗本数人を犬のように|屠《と》|殺《さつ》して平然としていたほどのこの男が――と思うと、主水正はあらためていまのように不審の眼を彼の顔にそそがざるを得ない。
いちど呼んだまま主水正がだまっているので、めずらしく丞馬の方から話しかけた。
「旦那様」
「うむ」
「越中島へはお久しぶりでございますな」
「うむ、|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》|右《う》|近《こん》に会いたいのだ」
ふいに、主水正は手綱をひきしめた。往来のむこうから十数人の浪人がぞろぞろとやってくる。朝というのに、酔った高笑いもきこえる。
「きゃつら――|新徴組《しんちょうぐみ》らしいな」
と、主水正は眉をひそめた。
「へ、新徴組?」
「西の方があんまりさわがしいので、このごろお上では、浮浪の剣士どもを狩りあつめて京へ送ろうという計画で、その募集の本拠が|伝《でん》|通《ずう》|院《いん》となっておる。しかし、むだなことだな。第一、もう刀や|槍《やり》は時勢おくれだよ」
また主水正は馬をあゆませながら、
「丞馬、おまえのあの幻法だがな、あれがどこへ消えてしまったのか、おれはふしぎでならんが、しかし、べつに惜しくもない。いかなおまえの幻法でも、鉄砲にはかなうまい、大砲にはかなうまい、軍艦にはかなうまい。――実は、これから越中島にいる右近に会いにゆくのも、あれを見込まれた勝先生のおいいつけで、右近を軍艦にのせにすすめるのが用件だが……丞馬、おまえも、何か習ってみる気はないかえ?」
そのとき、むこうからあるいてきた浪人のうち、「あっ、丞馬っ」とだれかかんだかいさけびをあげると、口早に説明する声がつづき、たちまち、
「おもしろい、たたっきれっ」
「助勢をするぞっ」
というわめき声とともに、|砂《さ》|塵《じん》をあげて浪士たちが殺到してきた。
主水正はかえりみて、
「丞馬、なんだ」
「どうやら、飛騨の知りあいで――堀|甚《じん》|十《じゅう》|郎《ろう》という男らしゅうがすが……」
「よし、馬のそばへつけ、はなれるなよ」
と、うなずくと、主水正は馬をおどらせて、左右に|鞭《むち》をふるった。たちまち|馬《ば》|蹄《てい》の下に顔をおおってふしまろぶ混乱のなかに、
「直参の宗像主水正だ。あえて新徴組に応じた腕前を見てつかわすぞ!」
と、りんりんと|叱《しっ》|咤《た》する声がひびいた。
直参と承知のうえで、わざといどみかかってきたふしのある浪士連のなかで、
「あっ、宗像主水正だ」
「これはいかん――ひけ、ひけっ」
とあわててさけぶ声とともに、二人、三人にげ出した者があると、それにつられて、みな|狼《ろう》|狽《ばい》しつつ背をみせた。その名は、|餓《が》|狼《ろう》みたいな浪士たちでも知っていたとみえる。
「丞馬」
何事もなかったかのように主水正はまた馬をあゆませながら、
「どうだな」
さっきの話の続きだ。丞馬は首をふった。
「べつにその気はねえでがす」
これまた平然と、鈍感な顔つきであった。
|蒼《あお》い冬の海を背に、ひろびろとした深川越中島では、何百人という陣笠が行進していた。ひッ裂けるような号令のたびに、行進が転換し、砂塵がまきあがり、剣をつけたゲベール銃がきらめく。ここでは、主として砲術と大集団の調練が行われたのである。
海にむけて、十数門の大砲がならんでいた。幕府が、あわてて輸入したカノン砲やホーウィッスル砲などであった。
調練の|査《さ》|閲《えつ》を、講武所奉行の酒井壱岐守にまかせて、町奉行の小栗豊後守は、五人の旗本をつれて|屯《とん》|所《しょ》にひきあげてきた。
「ゲベール銃は、もうふるいの」
と、吐き出すようにいう。
|細面《ほそおもて》だが、強烈な意志力にあふれた冷徹|精《せい》|悍《かん》な顔だ。まだ三十七歳の江戸町奉行だが、若くして安政条約の調印に随行して渡米した経験もあり、外国奉行も歴任し、さらにその俊敏と|苛《か》|烈《れつ》な性格は老中たちも|辟《へき》|易《えき》するほどで、ただの少壮町奉行ではない。
「先ごめの雷管式ではもうふるい。これからは、それだ」
と、とがったあごをしゃくった。|宇《う》|陀《だ》|久《く》|我《が》|之《の》|介《すけ》のかかえているシャスポー銃だ。最近フランス軍が正式につかいはじめたその七連発の後装銃は、|駿馬《しゅんめ》の脚のようにながく、キラリとなめらかなひかりをはねかえしていた。
「フランス公使のベルクールがの、それを当方に売ってやろうと折角申し出ておるのに、勝め、手をつくして邪魔しおる。あいつの眼は、イギリスばかりにむいておるのだ。なるほど、イギリスは、いま薩摩を責めたててはおるが、かといって幕府の味方というわけではない。イギリスは、かならず幕府がたおれるものと見込んでおる。たわけが! 三百年つづいた徳川家が、そうやすやすとつぶれるかわ。いいや、やわかつぶしてなるものか。イギリスの思案はあちらの勝手として、にくい奴は勝安房だ。きゃつ、幕府の――しかも軍艦奉行を仰せつけられる身でありながら、内心、幕府の|瓦《が》|解《かい》を見込んでおるのだ」
小栗豊後守は、歯ぎしりした。
――三年前、日本開国の使者として、米艦ポーハタン号に乗ってアメリカへわたった小栗豊後守、それと|舳《へさき》をならべて日本史上はじめて太平洋を横断した|咸《かん》|臨《りん》|丸《まる》の|舵《かじ》をとった勝|麟《りん》|太《た》|郎《ろう》――この両俊鋭が、外国から何をまなんできたか、ともあれ、いまはゆらぎはじめた幕府の内部にあって、ついに相容れない世界観をもった宿命の対立者となったのは一奇だ。
勝海舟は、たしかに幕府の独裁が歴史の潮にうちくずされることは必至のものとみた。彼の思想は、江戸も薩摩も長州も一丸となって外にあたることであった。むろん、外とたたかうのではない。開国のあとの手びきをイギリスに求めようと考えたのである。
それが、おなじ鋭敏さをもちながら、なお三百年の妄執をふりすてることのできない、粘強で、しかも苛烈な小栗にはがまんができなかった。ゆるすべからざる放胆ともみえ、軟弱ともみえた。
「きゃつ――このごろ、しばしば横浜のニールのところへ出入りしておるが」
と、小栗はいった。ニールは、英国公使オールコックが帰国してからその代理公使をしている人物だ。
「何を相談しておることやら――薩摩をかんべんしろとでも哀願しておるのだろう」
「斬りますか」
と、玉虫兵庫が顔をあげた。小栗がひどく目をかけて、このごろ側近化している五人の旗本であったが、これはやや無謀ともいえる兇暴なところもある男だけに、小栗はちょっと狼狽した。
「いや、それはしばらく待て。あれもともかく幕府の重職だ。いますこし、様子をみよう」
勝が講武所の師範から軍艦奉行にあげられたのは、半年ばかりまえのことだ。
「それに、横浜に往来しておるのは、かれ自身ではなく、宗像じゃ。きゃつ、このごろ、まったくの勝の|走《そう》|狗《く》となっておる」
「では、きゃつを!」
と、宇陀久我之介がさけんだ。蒼白い頬にぼうとぶきみな血がうかび、眼があやしくひかった。
「きゃつを斬れば、勝どのの心胆もちぢみましょう」
「宇陀――主水正を斬れば」
と、しずかに烏帽子右近がいった。
「われわれが疑われるぞ」
みんな、ゆがんだ顔を見あわせた。
――宗像主水正との友情が断ちきられてから、すでにひさしい。それはいまいったような勝安房派、小栗豊後派という時局観の相違からきたせいもあるが、――いや、その分裂は、むしろあとから生じた。それは主水正の結婚以来のことであった。あのときから、彼らはぴったりと主水正と話をしなくなったのである。不自然とも思い、みれんなとみずから|嘲《あざけ》っても、彼らはどうしてもいままでどおり主水正と笑顔でむかいあえなかった。眉をそり、歯を染めた美也のまぼろしを想うたびに、彼らの心は暗くもえ、血は黒くにえたぎった。――いま、卒然として宇陀久我之介がさけび出したのも、その苦悶と毒血のほとばしったものにすぎない。
右近が重々しくいった。
「|私《し》|怨《えん》と思われるのは覚悟のうえか」
「ふむ、宗像の内儀のことか」
と、小栗豊後守がうなずいた。さすが|辣《らつ》|腕《わん》の奉行だけあって、何でもよく知っている。じろっと右近をみて、
「じゃが、それこそ私情というものであろう?」
「――と、申されると、拙者どもが宗像に手を出しかねるのを、私情、と仰せでござりますか」
「左様」
と、豊後守はうなずいた。五人は、はっとした。|鴉田《からすだ》門五郎がうめいた。
「それでは、やはり宗像を斬れと仰せでござるか?」
「そなたらに、あれは斬れまい」
と、豊後守は嘲るようにいった。返答になってはいなかったが、その意味も、彼らの判断とすこしちがっていたことが、つぎの言葉でわかった。
「あれの腕は容易ならぬ。いつか、講武所でみたぞ」
そして、怒りに顔をあかくした五人をちらと横眼でみて、
「ただ、わしはそなたらに、新しいおもちゃをくれてやった。どれほどそれを扱いなれたか、ちょっと見たい気もするの。――|筧《かけい》、ひとつ見せてくれぬか」
「えっ」
「さっきから、あそこの大砲のまわりを、槍をもったひとりの下郎がうろついておる。そばに人がいないのをさいわい、筒をのぞいたり、|螺《ね》|子《じ》|回《まわ》しをなでたりしておる。きゃつ、いぶかしいふしがあるぞ。――」
五人は、いっせいにふりむいた。すぐに烏帽子右近が、
「いや、あれは酒井どのの中間の休平と申す男でござります」
「なに、酒井の――?」
小栗豊後守は、ちょっとくびをかしげたが、
「いや、かまわぬ。筧、あれの槍の穂を射ちとばせるか。すこし、むりか?」
ものもいわず、筧伝八郎は屯所からはしり出ていた。総髪姿なのに、腰に革のベルトをまいているのが異様であったが、立ちどまり、両脚をひらくのと、サックから|拳銃《けんじゅう》をひき出すのが、ほとんど同時であった。
この六連発のコルト拳銃は、シャスポー銃とともに、小栗がフランス公使から贈られ、さらに筧や宇陀にあたえたものである。
広場にあがる鼓笛のひびきと地ひびきに、発射音はかき消されたが、ぱっとその銃口からひらめいたものがあった。
その刹那――大砲をなでていた中間が、ひょいとふりかえった。同時に槍もうごいて、弾は一瞬まえ穂先のあった位置を海へとびすぎた。
「や?」
と、玉虫兵庫がさけぶ。しかし、休平はこちらを見ず、キョロキョロまわりを見まわしている。気がついたわけではなく、偶然だったらしい。
「未熟者め――宇陀、やれ」
豊後守が舌うちするよりはやく、宇陀久我之介は折り敷いて、シャスポー銃を肩にあてている。とみるまにその銃口をうなり出た弾丸は、なおゆれる遠い槍の穂先をみごとにたたき折っていた。
「出かした」
と、豊後守は、はじめて微笑した。
「やれるな」
と、うなずく。
「――何を?」
といいたげにふりむく五人に、
「あとのことは、江戸町奉行のわしがひきうけるぞ」
と、いいすてて、つかつかと調練場の方へあるいていった。五人は、眼を異様にひからせて、そのうしろ姿を見おくった。この恐るべき町奉行の意図はあきらかであった。――槍のことではない、宗像主水正のことだ。
じっと顔を見あわせていた五人は、ふいに声をかけられて愕然とした。
「こんなところにいたのか、諸君」
ふりむいて、とっさにみんな声もなかった。――たったいま、それとなく暗殺を命じられた当の宗像主水正が、若党をひとりつれてそこに立っている。
「相変らず、ばかないたずらをするな。|可《か》|哀《わい》そうに、休平め、槍をながめて、口をぽかんとあけておるぞ」
「きさま――みたのか?」
と、おしつぶされたような声で宇陀久我之介がいった。眼ははやくも殺気にもえている。
「うむ、いましがた、諸君がここにいる姿をあそこで見かけたとたん、おぬしが射った。……しかし、みごとなものだな。おれなど、怠けておるから、すっかり腕がなまってしまったよ」
と、主水正は笑顔で、なつかしそうに宇陀のシャスポー銃をのぞきこむ、むろん、いまの話を耳にしたわけはなく、たんに腕だめしの|悪《いた》|戯《ずら》だと思っているのだ。そう気がついて、こわばった表情をちょっと解く五人のなかから、
「しばらくだな、宗像」
と、まず烏帽子右近がいった。
「うむ、おたがい、かけちがっての。いちど是非飲みたい――」
「横浜の方へ、よくゆくそうではないか?」
と、鴉田門五郎がしゃがれた声でいった。問いの意味もしらず、
「ああ、きょうもこれからそっちにまわるのさ。オールコックとちがって、ニールは人物がおちるので、話ののみこみがわるくて往生する」
と、主水正はこだわりもなく平気でいう。
「何の話だ? 勝先生のさしがねだろう」
「そうだよ。そのことについては、いずれ諸君の御同意を得たいと思っているが、きょうここへきたのはその話ではない。ちょっと別にたのみたいことがあるのだ」
「――と、いうと?」
「早速だが、右近、軍艦に乗らぬか?」
「なに、軍艦?」
「左様、これア鉄砲を射ったり、大砲を射ったりするよりだいぶむずかしい。機械をあつかうあたまも要るし、乗組員をあつかう人徳も要る。ところが、存外それだけの人材がなくってな。勝先生などは旗本連に失望されて、いまは人物でありさえすれば|陪《また》|臣《もの》だろうが素浪人だろうがかまわないとさえ仰せられているくらいだ。そこで、是非、おぬしをひっぱってきてくれとおっしゃる」
烏帽子右近が、勝と対立する小栗派の人間となっていることも、まったく念頭にないらしい明るい|爽《さわ》やかな瞳であった。
「右近、どうかきいてやってくれ。日本のためだ」
「ふん、勝の|口《くち》|吻《ぶり》がうつったな」
と、せせら笑ってそっぽをむく玉虫兵庫の肩に、宗像主水正は手をかけて、
「おぬしにもたのみがある」
「なんだ!」
「実は、ここにおる若党の丞馬だが」
うしろに、乗鞍丞馬はのっそりと立っていた。五人の旗本に挨拶するでもなく、片袖を海風にはためかして、大砲の方を――休平の方をながめている。
「あの……飛騨の忍者だな」
「うむ、あの男だ。片輪者にした償いもあって、おれの家にひきとったが、ただ若党中間にしておくのは惜しい、つかってみれば、いやはや欲のない山男で、毎日ぼんやりしておる。このままでは、当人のみならず――また諸君に笑われるかもしれないが――これまた日本のためにもったいないと思ってな。どうだ、これから毎日ここへ通わせるが、鉄砲でも教えてやってくれないか?」
「ばか、片手で鉄砲があつかえるか?――」
「あ――なるほど、それはそうだ。それでは、宇陀だ。拳銃なら、あつかえるだろう? いや、本人も|尻《しり》|込《ご》みしているのだが、そっちで教えてやってくれるなら、本人がいやといっても通わせるつもりだ。なんなら、早速きょうからでもよいぞ」
そのとき、大声をあげて、休平がはしってきた。かついだ槍に穂はないが、その勢いに五人がはっと身がまえたのに、休平はまっすぐに丞馬のまえへとんでいった。
「丞馬、おまえ、いまきたのかえ?」
宗像家の若党と、その妻女の実家酒井家の中間と――という関係より、このいなせな江戸っ子の中間は、|愛嬌《あいきょう》のない山出しの若党と、どこかうま[#「うま」に傍点]があうらしく、友達づきあいをしているのであった。
「うん」
と、丞馬の返事は例によって、ぶっきらぼうだ。
「へえ? おかしいな」
烏帽子右近がききとがめた。
「休平、何がおかしいのだ」
「何ね、いまこの槍の穂を宇陀さまの鉄砲でとばされる前に、たしかに耳もとで、あぶないぞ、休平――という丞馬の声がきこえたんで」
槍の穂をとばしたものが宇陀の鉄砲だと気がついた休平のあたまのはやさを疑うより、五人はけげんな表情で丞馬の顔をみた。
乗鞍丞馬は、だれのことをいってるのだ、とでもいいたげな皮膚の厚い顔で、|黙《もく》|然《ねん》として勇ましい調練風景をながめていた。
海鳴りの音がしていた。
夜の越中島に、ほかに人影はない、空に、月もなく、ただ星が冷たくちりばめられているばかりであったが、水あかりが土手の上をゆきつもどりつする烏帽子右近の美しい顔におぼろな渦をまいていた。
「丞馬……きさま、妙な奴だな」
と、彼はふりかえった。
土手の上に、丞馬はひるまとおなじように、うっそりと立って右近を見まもっている。右近がどういうつもりでいったのかしらないが、夜の調練場にひき出されて、いつまでもだまりこんで、平然と待っている丞馬という若者は、たしかに奇妙であった。
しかし、凍りつくような寒風のなかに、むしろ何やら昂奮した様子であるきまわっている右近も変だ。主水正は丞馬を置いてゆき、右近は「承知した」といったのだが、べつに何も教えたわけではない。ほかの四人も、あれからすぐに、どこかへいなくなってしまった。
「きさま……あのすばらしい忍法も忘れはてたらしいな」
と、右近はいった。
「烏帽子さま。主水正さまへの御返事はどうでがす?」
と、丞馬はじぶんの問いだけを、はじめていった。烏帽子右近が勝の|麾《き》|下《か》に入るかどうか――その返事を、しばらくかんがえさせてくれといって、右近は丞馬をここにひき出したのである。
「目下まだ思案中だ。いましばし待て」
と、右近はこたえて、またあるき出した。
「早くして下せえ、旦那さまは今夜遅くなるし、奥さまがさびしがってござらっしゃるから、わしははやくかえらなければなりましねえ」
拳銃などならう気はとんとなく丞馬がここに残ったのは、ただその用件のためらしい。右近はふくみ笑いした。
「おい、きさま――奥さまに、|惚《ほ》れているな」
「ばかこくでねえ!」
突然、丞馬はびっくりするほど大声をはりあげた。右近はふりむいて、ぎょっとした。ひるま、へんに弛緩してみえたこの山男の顔が、いま赤くもえた眼に、くわっと照らし出された感じであった。右近の|脳《のう》|裡《り》を、一年前酒井家の門前と講武所でみた丞馬の|凄《すさま》じい形相がかすめすぎた。
「こわい奴だ。きさまは――」
と、右近はつぶやいた。
「忍法を忘れたかどうかに論なく、なんとなくきさまはきみのわるい奴だ。――しかしなあ。怒るなよ、丞馬――わしはきさまが酒井家のまえで、はじめて美也どのをみたとき雷にうたれたようになったのをおぼえている。あれはどういうひとだと、主水正にきいたのもわすれはせぬ。それから講武所で、また美也どののことをきいたのも、おれの耳はたしかにききとめた。――丞馬、その女を、ひとの女房としてあけくれながめて、苦しいとは思わないか?」
いちど、あやうく、ぐらりとひざまずこうとして丞馬はふみとどまり、あと微動もしなくなった。
「いや、ひょっとしたら、おまえはただ満足しているだけかもしれぬ。そのきもちは、おれにもよくわかる。片腕斬られた恨みも忘れ、忍法も幻法も眠ってしまったおまえの心が――おれは……おまえに代りたいくらいだよ。宗像家の若党になれるおまえの身分が|羨《うらや》ましいのだ。旗本のなかでも、少しはましな奴だといわれるこの右近がなあ」
烏帽子右近はうずくまって、あえぐようにいった。このいつもおちつきはらった美男の旗本が、これほどはしたない姿をみせ、うめきをもらしたのは丞馬はもとよりほかのだれのまえでもはじめてであったろう。こわいとはいいながら、やはり丞馬を石の牛か何かとみていたせいもあろう、またひどい昂奮にとり憑かれていたせいもあろう。
「あのひとは、美しい! あのひとは、あの星だ! 人間のだれの手にもふれさせることは、つらい、苦しい、がまんがならぬ。――」
――乗鞍丞馬も、まただれにもみせたことのない哀愁にみちた瞳を夜空にあげた。
海をこえて、西の方に――その星のひとつがながれおちたのを見たのはそのときであった。
夜の海は、ここにも鳴っていた。――相州|生《なま》|麦《むぎ》、半年ばかりまえ、島津の供先をきった英人が、|剽悍《ひょうかん》きわまる薩摩藩士の刃をうけて、馬上から血の糸をひきながら狂奔していったのはこのあたりだ。
ただ一騎、その海沿いの街道を横浜の方からとばしてきた宗像主水正の顔は、冬の海風を右頬にうけつつ、清朗であった。勝安房から託された英国代理公使ニールとの交渉がうまくいったらしい。
月はないのに、海の水あかりが、松並木のかげを路上にゆらめかしている。それが、ふいに|忽《こつ》|然《ねん》と立ちあがったようにみえたのに、主水正はいちど手綱をしぼって、つぎに風にうごく松の影の錯覚かと思った。
「主水正か」
と、声がかかった。錯覚ではなかった。影がふたつ、ゆくてをふさいでいた。
「お。――」
「下りろ、鴉田門五郎と玉虫兵庫だ」
主水正は、ひらりと馬からとびおりた。――ひるま、越中島で逢ったばかりだから、さすがにふしんげな顔色だ。
「妙なところへ出てきたではないか。何の用だ」
「実は、内密で話がある」
と、玉虫兵庫が右からあゆみよった。精悍なこの男にはめずらしく沈んだ声だ。
「わしたちを、勝先生の一味に加えてもらいたいのだ」
と、左から鴉田門五郎も、うなだれがちに寄ってくる。
「一味? なんだか、わしたちが陰謀でもたくらんでいるようだな。勝先生は、もとより去るものは追わず来るものは拒まれぬ主義の人だ。それは、こんなところで、内密に申しこまれるほどのことではないが」
「いや――わしたちは、なんといっても小栗派と目されている人間だから」
「たのむ、宗像」
主水正は、左右をみて笑った。
「はははは、陰謀をたくらんでいるのは、そっちのようだな」
ものもいわず、兵庫と門五郎は、猛然と斬りこんでいた。主水正は仁王立ちになったまま、両腕をあげて、ふたりの肘をつかんでいる。
「小栗さんのさしがねか?」
兵庫と門五郎は歯をむき出したが、ふりかざした肘は、鉄の輪でもはめられたように微動だもしなかった。
「それなら、話せばわかることだ。男同士の主義のちがいだ。闇討ちとは、恐れ入った町奉行だな。ましてや、おぬしら――長年の友人ではないか。兵庫らしくない、門五郎らしくないぞ。あした、太陽の下で、大手をふっておれのところへ話しにこい!」
ふたりの貧血したこぶしから刀身がおち、同時に左右につきはなされようとした一瞬、主水正の両肩がばね[#「ばね」に傍点]のように|痙《けい》|攣《れん》した。
|闇《あん》|黒《こく》の夜空に、異様な火花と音響がはためいたのは、その刹那であった。――主水正はとびのいた。右手を左手でおさえようとした。左手はうごかなかった。彼の左右の|上膊部《じょうはくぶ》は、同時に二発の弾丸でつらぬかれていた。
銃声におどろいた馬は、前肢をたかくあげてかけ去った。
「|卑怯《ひきょう》っ」
絶叫した主水正の眼に、両側の並木の樹上から、|蝙《こう》|蝠《もり》のように舞いおりてきたふたつの影がみえた。
「宇陀と筧か!」
玉虫兵庫と鴉田門五郎はおとした刀身をひろいあげて殺到している。兵庫が、獣のような声をあげると、主水正の右腕は肩のつけねから斬りおとされていた。主水正はなお立って、凄じい眼で、四人の|曾《かつ》ての親友を見まわした。
「主水正、こうなることを、この一年夢にみていたわ」
と、筧伝八郎が総髪をふりたてて、コルトの銃口をふっと吹いた。
「なに?」
一歩、ふみ出そうとした主水正の左腕は、鴉田門五郎の|兇刃《きょうじん》でばさりとうちおとされている。
「お美也さんを女房にした酬いだよ」
と、宇陀久我之介はシャスポー銃の銃身をやさしくなでながら、唇を一方へ|鎌《かま》みたいにつりあげた。
宗像主水正は、まだつッ立っていた。その足は大地に根をはやしたような感じであった。一秒が数分にも思われる凍結された静寂が、この両腕のない快男児と、四人の卑怯な襲撃者のあいだにおちた。笑いはひきつり、手は硬直し、四人は思わず恐怖の悲鳴をあげようとした。
「ははははは」
と、ふいに主水正は笑い出した。耳になれた、あの明るい男らしい笑い声であった。
「どうだ、わしのいったとおりだろう?――刀より、鉄砲の勝ちだ」
四人は、身うごきもできなかった。
「あっぱれだ、ほめてやる。――拳銃、小銃、大砲――これからも、よく修行しろ、腕をみがけ!」
そして、主水正はどうと黒い血の沼にくずおれた。
主水正の横死が、宗像家につたえられたのは、その翌日のひるごろであった。
若党の丞馬だけ、その前夜ふけてからもどってきて、彼のみを越中島にのこし、主水正ひとり横浜にいったときかされたが、あらかじめ夜おそくなるという本人の言葉であったし、とくにこのごろお上の御用で東奔西走し、留守にする夜もめずらしくない夫であったから、お美也はそれほど心配してはいなかったのである。何より、お美也は、夫を信じていた。腕も信じていたが、ひとの恨みを買うはずのない快活な人柄を信じていたのだ。
はこんでこられた主水正をみて、お美也は失神した。夫の|屍《し》|骸《がい》は、生麦の海辺の波うちぎわにすてられてあったというが、その両腕はどこをさがしても見あたらなかったという。
勝安房も馬をとばしてきたし、父の酒井壱岐守もかけつけてきた。にえくりかえるような家じゅうの物音を、失神からさめたお美也はなお白痴のような表情できいていた。
「実に、信じられぬことだ」
と、さすがの勝も、腕をくんで主水正の遺骸のそばに坐って、そううめいたきり、言葉もなかった。
「信じられぬと申して、主水正はこの姿じゃ」
と壱岐守ははき出すようにいって、勝の顔をにらんだ。
「わしは、主水正が早晩かような奇禍にあいはせぬかと案じておった。安房どの、主水正はあなたのさしずでうごいていたわけだが、そちらで思いあたるふしはないか?」
せいいっぱいの皮肉を、明敏な勝がさとる余裕もないらしく、
「ない、ない」
と、くびをふって、なお疑惑にたえかねるもののごとく、
「いや、それはないこともないが、主水正ほどの男を、かくもみごとに――お美也さん、かんべんして下さいよ――斬る腕をもった奴となると、まったくあたり[#「あたり」に傍点]がない。まるで|案《か》|山《か》|子《し》と化して斬られたようだ」
そのとき、「すこし、その件について耳にした|噂《うわさ》がござるが」といって、入ってきた四人の武士があった。くやみにやってきて、別室につめていた旗本連のうち、めずらしく一年ぶりに姿をみせた旧友の宇陀久我之介、鴉田門五郎、筧伝八郎、玉虫兵庫であった。
「これは奉行所の方からきこえてきたことですが」
「きのう、宗像が越中島へゆく途中、このちかくで新徴組応募の浪人どもと何やらひと|悶着《もんちゃく》があったそうで」
「それに恨みをいだいた奴らが、|或《ある》いは手を下したのではなかろうかと、奉行所の方で早速探索にかかられたと申すことです」
「もし、それが事実なら、主水正をかかる非業の死に目にあわせた奴のお仕置も、程遠くはござるまい」
と、口ぐちにいうのをきいて、酒井壱岐守は顔色をあらためた。
「なに、左様なことがあったのか。それは知らなんだぞ。――丞馬っ、丞馬はおらぬか」
そのあわただしい声のきえないうちに、すぐ外の庭さきで、
「丞馬はここにおります」
と、ひくい返事があった。壱岐守は障子をあけた。
乗鞍丞馬は、縁さきの凍った大地のうえに、がま[#「がま」に傍点]みたいにひくく、片手をついていた。それがいまそこにきたものではなく、相当ながいあいだ、おなじ姿勢でうずくまっていたらしいことは、様子でわかった。あるいは、主水正の屍体がこの座敷にはこびこまれてから、ずっとそうして|這《は》いつくばっていたのかもしれなかった。|死《し》|人《びと》のように蒼ざめて、頬に涙のあとがあった。
「丞馬、いまの話をきいたか。それはまことか!」
丞馬は、赤く血ばしった眼をあげた。しかし視線のさきは、壱岐守ではなく、お美也の姿に、恐ろしげにむけられていた。
「奥さま……ゆるして下せえまし。……」
|腸《はらわた》にくいいるような声が地を這った。
「おれが、旦那さまについていなかったばっかりに、旦那さまを死なせてしめえました。……」
「――こいつ、つけあがったことを申す奴だ!」
と、玉虫兵庫が顔を朱にそめてさけび出すのに、宇陀久我之介は冷たい声で、
「これ、男谷道場きっての使い手といわれた宗像を斬ってのけた奴だぞ。うぬがそばにいようといまいと、なんのかかわりがある?」
と、あざけった。
酒井壱岐守もにがい顔で、
「丞馬、こちらのきくことに返答いたせばよい。新徴組の浪人とのいさかいは事実かとたずねておるのだ」
「ほんとでがす。……ただ、あの連中に、うちの旦那さまは斬れましねえ」
と、きっぱりといった。あまり|断《だん》|乎《こ》とした表情なので、みんなとっさに次の言葉を失った。
それまで、めずらしくだまっていた勝安房が、ふらりと縁側に立っていた。かがみこんで、
「おまえ、何か心あたりがあるのかえ?」
「あるような、ないような。……」
「それをいってみろ」
「わからねえです。旦那さまをあんなふうに斬るのは、何かからくりがあったにちげえねえでがす。そのからくりが、まだわからねえから……」
「まあさ、おまえの思いついたことだけでもいいから、いってみな。足りねえ|智《ち》|慧《え》はおれが助けてやる。勝がついておるのだ。何もおっかながることはない」
「おれは何もおっかなくねえでがす」
と、丞馬は野ぶとい声でいった。それから、じろっと座敷の方を見あげて、
「そこの四人の衆、おまえさまがたは、昨晩どこにござらした?」
「な、なに?」
と、四人は息をのんで丞馬を見おろしていたが、すぐに筧伝八郎が、
「それをきいて何とする? おれたちが昨夜どこにいようと、うぬごときに返答する要はないわ、こ、このぶれいな下郎めが」
と、たたきつけるようにいうのを、鴉田門五郎が重厚な声でおさえて、
「ふむ、ききたくばおしえてやろう。われら四人、いささか御用あって、昨夜深更まで小栗どののお屋敷に参上しておった。主水正の屍骸が何者と判明したのはけさのことであったが、屍骸の発見されたのは昨夜のうちであったとか。――われわれが小栗どののお屋敷にいたことが、まことかうそか、たしかめたくば奉行所へいってきくがよい」
丞馬はかすかにくびをかしげたが、沈黙した。
勝は、あごに手をあてて、庭の丞馬を見まもっていたが、やがて、
「丞馬、そのからくりがぼんやりとでもいいから、わかったらおれんとこにおいで」
と、いいすてて、立ちあがり、二、三歩ゆきかけてふりむいた。
「お美也さん、死んじゃいけないぜ」
くるむような笑顔でいった。
「宗像はきのどくなことをしたが、これも日本が生まれかわるための人柱だ。まだまだこれからたくさんの人が死ぬよ。そのたびに女房が自害しちゃあたいへんだ」
「わたしは死にませぬ」
お美也は宙をみて、ひくくいった。涙のかれはてた瞳であったが、もちまえのぼうとしたような|輪《りん》|廓《かく》がきえて、冷たい、きびしい、思いつめた意志が、そのからだを美しい結晶のように変えていた。
「主水正を|殺《あや》めたものが、何者であろうと、その|敵《かたき》をうつまで、美也は死にませぬ」
「敵をうつ?」
勝は、くびをかしげた。
「それもおれはあまり好きじゃないが、いまの立場として、このおれが反対するわけにもゆくまいなあ」
ひとりごとみたいにつぶやきながら、ぶらぶらと縁側を玄関のほうへ遠ざかっていった。
「ああいう男だ。ひとごとのように申しおる!」
と、酒井壱岐守は舌うちをした。
それっきりおちた沈黙に、たえかねるように四人の旗本が座を立って、この屋敷を去ってから、数時間を経て、事態は思いがけぬ方角に進展した。
夕刻であった。驚愕の嵐がふきすぎて、ようやく死の家らしく――主人が非業の死をとげたうえは、つぎにくるのは家名断絶と、これは武家の|定法《じょうほう》である――そこしれぬ静寂にしずんだ宗像家の門を、うなだれて烏帽子右近が入ってきた。
父も一応去って、美也はなおひとり白布におおわれた夫の枕頭にすわっていた。来訪者の取次も耳に入らず、背後にしずかに坐った人の気配に眼をあげた。
烏帽子右近は美也をみず、ひそと合掌していた。いつまでも、一言も発せず、悲しみにみちたその姿に、ふいに美也は、はじめてこの男に身をなげかけて|慟《どう》|哭《こく》したい衝動におそわれた。
「美也どの」
と、右近はようやくいって、しばらく眼をとじていたが、
「こう呼んでよいやらわからぬが、実はあなたを御内儀とよぶのは、右近、つらかった。それで、|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》にうちすぎた。きょうここにくるのも足が重かったのは、あなたのかなしみのすがたをみるにたえなかったからです」
「…………」
「主水正の死んだのはいたましい。しかし、正直にいおう、それを知ったとき、私の心をかすめたのは、名状しがたいよろこびであった」
美也は、眼を大きく見ひらいて、右近を見つめていた。きょうきた何十人かのくやみ客のなかで、こんなことをいい出した人間ははじめてであった。
「私はあなたが好きであった。私があなたをお嫁にもらいたかった。……それはあなたも御存じであろう。……」
「右近さま、およしなされて下さいまし」
と、お美也は身ぶるいしてさけんだ。
「この場で、さようなお言葉、美也は承りとうはございませぬ」
「――しかし、いざ参ってみて、あなたの姿をみたとたん、私のいやしいよろこびの念はけしとんだ」
しずかに、しみいるように右近はいう。
「お美也どの、主水正の敵は私がさがす」
「だ、だれでございます。こ、このようなむごいことをしたのは?」
「私は、主水正の死をきいたとき、じぶんの心によろこびがかすめただけに、それとおなじ心をもった奴の姿が胸をかすめた。お美也どの……それは、私以上にあなたに惚れている人間です」
「えっ」
「そのことを、そばにいながら、気がつかれなんだか? 宗像ほどの男を、かようにやすやすと|斃《たお》し得る人間が、世にざらにあると思われたか? また、主水正の腕のないかばねをみて、何よりさきに思い出される人間はなかったか?」
お美也は息もとめて、死固したような表情になっていたが、ふいに身をふるわせて、
「丞馬!」
とさけんだ。すぐ庭さきで、「丞馬はここにおります」とひくい声がきこえた。
愕然として、右近は障子をあけた。そこに、片腕をつき、片袖をだらんとたれた乗鞍丞馬の這いつくばった姿があった。彼がそれ以前から、まるで忠犬のようにそこに坐ったままなことを、お美也は知っている。
右近はゆっくりとたちあがり、やさしい調子できいた。
「丞馬、そなた、昨夜おそく、どこにおった?」
丞馬は、ぎろっと右近を見あげたきり、だまっている。彼が深夜まで右近とともに越中島にいたことは、右近が知っているはずではなかったか。
しかし、右近は、こんこんといいきかせるようにくりかえした。
「そなたは、きのう夕方、主人を横浜に迎えにゆくといって、越中島を去ったなあ。その後、いろいろと話をきくと、どうやら主水正はただひとりで殺されて、それが何者かは、けさにいたってわかった様子、そのころ、そなたは、どこで何をしておったのか?」
丞馬は、なお沈黙をつづけていた。右近は荘重に微笑した。
「いえぬか? ならば、いわせるようにしてやろう。――おねがいいたす」
ふいに彼は顔をあげて、だれかを呼んだ。同時に、庭の両側から数十人の男がはしり出てきた。いつのまにつめていたのか、|十《じっ》|手《て》、つく棒、さすまたまで用意した|捕《とり》|方《かた》のむれであった。
丞馬は馬鹿になったのではないかと思われるほど、一語も発しないで、|蓑《みの》|虫《むし》みたいにしばりあげられたが、無抵抗にひいてゆかれながら、いちどふりむいて、こういった。
「だんだんわかってきた」
そして、ニヤリと白い歯をみせたのである。
「それほど、おれが恐ろしかったかね?」
日はくれはてたはずなのに、|白《しら》|洲《す》はまひるのようにくわっと|映《は》えていた。
まことに異例のことだ。|数《す》|寄《き》|屋《や》|橋《ばし》内の南町奉行所で、夜の審問がある。あかるいのは、白洲をとりまく無数の御用提灯のせいだが、異例なのはそればかりではない。
白洲のまんなかに、|高《たか》|手《て》|小《こ》|手《て》にくくりあげられた囚人を長槍の輪が巻いていた。もはやこれは、審問というより|刑《けい》|戮《りく》の光景だ。
しかし、囚人――乗鞍丞馬は、例の重い無表情で、ただ眼ばかり異様にひからせて、正面の町奉行を見あげていた。
「――しぶとい奴!」
と、小栗豊後守は|叱《しっ》|咤《た》した。
「不敵な奴!」
鉄の腸をもつ人物であったが、その腹の底から、こううめいた。もとは飛騨の山奥の郷士、いまは一介の若党のくせに、この断罪の場にひき出されて、何を|訊《じん》|問《もん》されても一言の返答をしようともしないのだ。
もっとも豊後守は、この被疑者から何をきく必要もなかった。彼が無罪であることは、豊後守自身がだれよりもよく知っている。ただ宗像主水正殺害の下手人を|検《あ》げて、そのいのちとともにこの事件を、ここで断ちきってしまわなければならぬ。すべては天下のため、徳川家のためだ。
むろん利口な勝安房がどう想像しようが勝手で、むしろ彼をして心中|戦《せん》|慄《りつ》させるのが主水正|誅戮《ちゅうりく》の目的といってもいいのだが、そのあと始末にひきずり出したこの虫けらみたいな若者が、一応の弁明をこころみるどころか、さげすむようにだまりこんでじぶんを見つめている大きな眼にあうと、さすが剛腹な豊後守も、はじめは少々うすきみわるく、つぎにはむらむらと憤怒してきた。
「よし、もはや問わぬ。昨夕、越中島を出てからどこで何をしておったのか、返答できぬは主水正殺害の罪をみずから認めたものとみる。動機は、主水正に左腕おとされた恨みからであろう?」
と、豊後守はうなずいた。
「主殺しは、|鋸《のこぎり》|引《び》きのうえ、|磔《はりつけ》の重罪じゃ。たちませい!」
「お奉行さま」
と、はじめて丞馬は口をひらいた。
「おれからお奉行さまにひとことききてえことががす。それをききに、おれはここにきたのだが――」
いままでの豊後守の訊問や断罪の宣言など、まるで無視したような不敵な問い返しであった。
「な、なんだ」
「おれがどこにいたかということよりも、旗本の鴉田さま、宇陀さま、筧さま、玉虫さまが、昨晩おまえさまのお屋敷にいたというのは、ほんとかね?」
豊後守は|狼《ろう》|狽《ばい》した。問われた内容よりも、罪人が奉行に問いかけたことに狼狽した。
「いかにも、まことだ!」
と、こたえてから、こんどはじぶんがこたえたことに満面を朱にそめて、
「無礼な奴、余をなんと心得る?」
「おれの主人を殺した奴らの黒幕と」
「こ、こやつ」
豊後守はおどりあがった。冷厳なこの人物が逆上したように、
「もはや、容赦ならぬ。成敗せよ!」
と、絶叫した。
名状しがたい怒号をあげて、長槍の輪がうごこうとした刹那――丞馬をしばりあげていた縄が、まるで蛇のように下にながれおちた。同時に彼は身をくねらせながらぬうと立ちあがっていた。
小栗豊後守は一年前、小川町講武所での丞馬の魔神のようなはたらきを目撃していたし、また烏帽子右近からもくどいばかりの注意をうけていたので、さればこそこの審問の座を異常なばかりの警戒の|鉄《てっ》|環《かん》でつつんでいたのだが、かんじんの警戒の同心や|捕《ほ》|吏《り》たちが、あっと息をのんでたちすくんでしまった。
「みんなわかった」
乗鞍丞馬は火のような眼で豊後守をにらんだまま、ゆっくりと腰の瓢箪をとって、口にもってゆきながら、
「主水正さまを|殺《あや》めたのを、いちど新徴組とやらになすりつけようとしてみたものの、それがうまくゆかねえらしいとみて、あわててこんどはおれをつかまえにきたのだなあ」
「何をしておる。斬れっ」
と、豊後守はさけんだ。
悪夢からさめたように、どっと槍の穂先がきらめいた。いや、きらめいたのは槍の穂ばかりではない。それをめぐって無数のひかりの|珠《たま》がくだけちり、|槍《やり》|手《て》のすべてが両眼を吹かれてとびのいていた。
彼らには、それが丞馬の口からほとばしり出たものとはみえなかった。水であるとさえ思われなかった。丞馬の姿は、四方にふりそそぐ霧のようなしぶきの中にあった。が、そのおぼろな姿も、霧のうすぎぬにうつる捕手たちの影、反光する灯と槍の穂にかきけされる。しかし、丞馬の声だけはきこえた。
「ふふん、これが天下のお奉行のやることか?」
「突け、突けっ」
豊後守の恐怖のさけびに、七、八人、夢中で霧のとばりのなかへ槍をつっこんでいた。たまぎるような悲鳴があがった。しかも、それにまじって、なお丞馬の声は鳴りわたるのである。
「江戸の侍のやることか?」
水のうすぎぬがうすれてきた。豊後守はそこに同志討ちを演じてたおれ伏した数人の同心の姿を見出した。その屍骸のうえには、はっきりと丞馬の笑い声が山彦のごとく尾をひいているのに、彼の姿は忽然ときえていた。
「――丞馬が下手人とは思われませぬ」
美也は、じぶんの声を思い出す。
そのときは、そう信じていた。丞馬がもし夫に腕をきられたのをうらみに思っていたら、それから一年、この家に若党として暮してきたわけがない。よしや、はじめはそのつもりであったとしても、一年のあいだに、彼はすっかり夫に心服してきたはずだ。彼女は、明るく|闊《かっ》|達《たつ》な主水正と黙々としているがかげひなたのない丞馬との、男らしい親愛感にみちた主従の雰囲気をあたまによみがえらせた。――しかし、丞馬がひかれて去ったあと、のぼせたようにそういいはるじぶんを、かなしげに見まもっていた烏帽子右近の眼を思い出すと、その信頼が動揺してくるのだ。それも、心にあれくるう怒りと悲しみの嵐のゆえであった。夫をこのような無惨な死に目にあわせたのはだれだ?
「宗像ほどの男を、かようにやすやすと|斃《たお》し得る人間が、世にざらにあると思われたか?」
右近のしずかな声が耳をなでる。ましてまた、
「きゃつは、腕のうらみからばかりではない。あなたに惚れているから、主水正を殺したのです」
とも、彼はいった。
これはまったく美也にも意想外のことだ。ほかの場合にいわれたら、彼女は怒るよりも笑い出したに相違ない。丞馬が山国から出てきたとか、身分ちがいとか、そんなことをいっているのではない。お美也は、主水正以外の人間を見てはいなかった。主水正よりほかに、じぶんが愛するものも、じぶんを愛してくれるものも、世のなかにあろうはずがないと思いこんでいた。
「あなたは、可哀そうなひとだ」
と、右近はいった。
「主水正が殺されたからではない。主水正を殺した人間をまだ信じているほど善良だから、それが何よりいじらしい」
そして、彼は、|苦《にが》にがしげなためいきをついて、夜の宗像家を去った。
ほんとうに、丞馬が下手人だろうか。奉行所へしばられていった丞馬が、もしそうだと白状したならば――美也は、膝のうえにしずかに懐剣をぬきはらった。主水正の屍骸がかつぎこまれたときから、いくたびとなく自害の誘惑におそわれてかたくにぎりしめた懐剣であった。しかし、いまの美也は、勝にいったように、敵をうつまでは死なぬと決心している。
「もし、そうなら、丞馬、奉行所にねがっても、わたしがこの手で成敗せずにはおかぬ」
思わず、唇から歯がみとともにこのうめきがもれた。すると、それにこたえるような返事があった。
「丞馬はここにおります」
美也は、水をあびたような思いで、障子をあけた。暗い庭に、丞馬は依然として犬みたいにひれ伏していた。――夕刻の捕物さわぎが夢としか思われない姿であった。
「丞馬……おまえは?」
「たったいま、奉行所からもどってめえりました」
「お、すると、おまえへのうたがいははれたのかえ? わたしもそう思っていました。おまえが、旦那さまを手にかけたりするはずがない――」
「奥さま!」
乗鞍丞馬がめずらしくたかい声をはずませた。
「奥さまは、おれを信じていて下せえましたか」
「そ、それで、丞馬、まことの下手人はわかったかえ?」
「わかりました」
「だれですか、それは――」
美也は縁まではしり出た。丞馬はゆっくりと右手の指を折って、
「筧伝八郎、鴉田門五郎、宇陀久我之介、玉虫兵庫。――」
美也は、|鞭《むち》で頬をうたれたようになった。しばらく絶句していたが、
「小栗さまが、そう申されたか?」
「いいえ」
「いいえ? それでは、なぜ?」
「旦那さまを、その旗本衆に殺させたのがお奉行さまでがすから」
「…………」
「奥さま、おれは奉行所からにげ出してきたのでがす。奥さまにこのことをお知らせしてえと思ってね。やがてここへ追手がくるにちげえねえ。が、丞馬がここへきたとおっしゃってはなりましねえぞ。奥さまがこのことを知りなすったと感づいたら、旦那さまを闇討ちにしたほど見さかいのねえ奴らだ。どんな手をのばしてくるか、しれたものでねえ」
「丞馬……。いま、おまえのいったことはほんとうですか? それは、旦那さまが小栗さまのおにくしみをお受けあそばしていたことは知っています。けれど、天下のお奉行さまが、さしたる|仔《し》|細《さい》もなくてあんな無惨な所業に出られようとは信じられぬ。またいまいった四人のお方が、小栗さま御一派の方々ということも知っています。けれど、あの四人は旦那さまとはむかしからのお友達。――」
「おれも、はじめは信じかねたのでがす。おれが勝さまのおたずねに口ごもったのも、それを思ったればこそでがした。……」
「なんの証拠でそんなことをいうのです。それをきかねば、美也はおまえのいうことが信じられない」
「証拠は――おれが昨晩、夜中まで越中島に烏帽子右近さまといっしょにいたことは、だれより烏帽子さまが御存じのはずなのに、それをしらばくれて、おれを奉行所にひきわたし、お奉行がそれをやすやすと受けいれて、おれを下手人にしたてあげようとしたこと――」
「丞馬!」
むしろ悲鳴にちかい声であった。
「それでは烏帽子さまも一味じゃと申すのか!」
「そうでがす。……ただ、右近さまが直接旦那さまに手を下されなかったことだけはたしかでがすが」
「そんな! そんな! あの烏帽子さまが……」
美也は立ちすくんでいた。全身、|白《はく》|蝋《ろう》と化したようである。その姿をじっと見あげている丞馬の眼に気がついて、美也はぎょっとした。それはほんの先刻、「丞馬が下手人だとは思われぬ」とじぶんがいったとき、「あなたは可哀そうなひとだ。主水正を殺した人間をまだ信じている人のよさがいじらしい」とこたえた右近のいたましげな眼とそっくりであった。美也はおののいた。悪人の恐ろしさに身ぶるいした。しかし、だれがほんとに悪人なのか?
「丞馬、わからない、わたしにはわからない!」
彼女は両腕をもみねじって、あえいだ。
「右近さまが悪いおひとか、おまえが|嘘《うそ》をついているのか。いいや、おまえのことなどどうでもよい。わたしの知りたいのは、ただ旦那さまを|殺《あや》めたものの名です。もしそれがあの四人の衆というのなら、はっきりした証拠をこの耳でききたいのです」
丞馬は歯がみした。
「奥さまは、おれが信じられねえでがすか!」
悲痛な声であった。しかし、彼のいうことは、直接証拠はおろか、第三者からみれば、情況証拠とさえいえないかもしれないことは事実であった。
そのとき門の方で馬の|蹄《ひづめ》の音がきこえて、ふたりがはっと顔をあげたとき、
「いや、いや、こちらから」
と、大きな声とともに、勝安房が、庭の方からいそぎ足で入ってきた。意外なことに、酒井家の中間休平をつれている。
「お美也さん、またきたよ。……おや、丞馬、おまえ、奉行所にしょッぴかれたんじゃあなかったのか? そんな話をきいたが――」
と、ちょっと眼をまるくしたが、すぐに、
「休平がいまおれんとこにかけこんできて、妙なことをいうのさ。はしッこい奴で、ひるまから生麦|界《かい》|隈《わい》をかけずりまわって、ききあるいていたらしい。それでな、昨夜、ちかくの漁師のうちで、現場あたりからきこえてきた鉄砲の音を耳にしたものがあるってよ」
「え、鉄砲」
美也は、愕然としていた。
「けれど、主水正のからだに鉄砲傷は――」
「なかった。そこが下手人の|狙《ねら》いだなあ。しかし主水正の両腕もなかったのだぜ。たんに斬りおとしたものなら、そこらにおちていそうなものなのに、それだけどこかにかくされてしまったのが妙だと思っていたよ。鉄砲傷は、その両腕にあったとしたらどうだ?――おれのいった|案《か》|山《か》|子《し》同然の死にざまという意味が、とけるような気がしないかえ?」
「お嬢さま」
と、休平が汗をふきながらいった。馬といっしょにかけてきたらしい。
「越中島で、毎日鉄砲の修行をしている連中がございますね。手前も、きのう槍の穂をとばされる目にあっておッたまげたのでございますが、それは宇陀さまのシャスポー銃のしわざで――」
「それにな、休平のききこみによると、事件後、生麦から江戸へ、馬ではしっていった四人の男を目撃したものがあるそうだ」
と、勝はつけくわえ、|憮《ぶ》|然《ぜん》たる表情になった。
美也はだまりこんだ。いまや真相はあきらかであった。丞馬のいうとおりだ。下手人は丞馬でなく、四人の旗本であることはほとんどまちがいないといえた。そして、それを背後にあやつっているものが、あの小栗豊後守でなくてだれだろう?――彼女は、夫の死にじぶんが関係していようとは思いもかけなかった。
「――けれど、あの烏帽子さままでが?」
わずかにのこる疑問は、それだ。とはいえ、その四人と同僚である右近が、丞馬をやすやすと奉行所へわたしたことがいぶかしい。
「烏帽子さまは、おれが恐ろしかったのでがす」
丞馬は、むっつりといった。不敵な面だましいであった。
「あの野郎がいちばん悪党かもしんねえ。――しかし、丞馬は|罠《わな》におちなかった。丞馬が罠からにげた以上――」
彼は身を起した。勝は顔をあげて、
「丞馬、どこへゆく」
「あいつらが、おれをこわがったのがあたっていたことを思い知らせに――旦那さまの|敵《かたき》を討ちに」
美也は一歩ふみ出した。
「丞馬、わたしもゆく」
「え」
「わたしも、この眼で旦那さまの敵の顔を見ねばならぬ」
「しかし、奥さまは――」
「宗像家はどうせ断絶するのです。それよりも、旦那さまを殺されて、どこにわたしの住むところがあろう? わたしのゆきたいのは、旦那さまの敵の血しぶきの中」
|玲《れい》|瓏《ろう》と、|玻《は》|璃《り》|細《ざい》|工《く》のような美也に、炎のもえあがるのが透いてみえたような感じであった。ひしと懐剣の|柄《つか》をつかんで、
「旦那さまの敵討ちを、おまえのような下郎ひとりにまかせては、わたしの面目がたたぬ。いいえ、気がすまぬ。わたしもつれておゆき」
ぽかんと美也をふりあおいでいた丞馬の顔に、ぱっと黒いひかりのようなものがはしった。それを歓喜の表情と、美也にはみる余裕はない。
「丞馬、敵はわたしが討つ。どうか、おまえ、たすけておくれ……」
「それは……」
と、丞馬のからだは|金《きん》|時《とき》みたいにふくれたが、すぐはげしくくびをふって、
「奥さま、いけましねえ」
「なぜ?」
「敵は、五人おります」
「旦那さまを|殺《あや》めたのが五人なのだから、それはあたりまえではありませんか」
「それが、みんなおっかねえ奴ばかりです。旦那さまを殺したほどの手並、悪智慧、|人《にん》|非《ぴ》|人《にん》。――」
「だから、敵をうつのです」
「そのうえ、あいつらのうしろには町奉行がついているでがすぞ。いや、こういっているあいだにも、もうかれこれ奉行所から追手がやってくるにちげえねえ」
勝が、じろっと丞馬を見た。
「丞馬、おまえ、奉行所からにげてきたのかえ?」
といったとき、遠くの方を地ひびきたててはしってくる音がきこえた。
「――来たっ」
と休平がとびあがった。
勝安房はその物音には耳のないような顔で、お美也を見つめて、
「お美也さん、どうしてもやるかえ」
「はい!」
と、お美也のすずをはったような眼には、一点の曇りもない。
「そうか。あんたの心としては当然だ。おれは敵討ちなんてものは、もう日本からなくしたいと思ってるが、あんたがやるといえば、この場合、とめることはできないなあ。とくに、おれには、いままでのなりゆきから、よせという資格がない。よし、やんなさい」
「はい!」
「おれからね、小栗に話して、下手人をひきわたさせるという手もあるが、おそらく小栗もわたすまい。のみならず、じたばたさわぐと、逆にお美也さんにも妙な手をのばしてくるおそれもある。どうせ、あいつらとやりあう気なら、今夜、この屋敷から姿をけした方がいいな。明日になれア、いっそう身うごきつかなくなる。あとのことは、おれにまかせておきなさい。父上にも、おれがうまくとりつくろっておく。酒井さんが事実を知ると、かえってろくなことはない。尼寺にいったとか何とかいっておこう」
「勝さま……いろいろと……ありがとうございます。……」
「いや、礼をいわれるのはまだはやい」
と、勝はきのどくそうにお美也を見まもって、
「お美也さん、おれを不人情な奴だと思われるかもしらんが、おれは敵討ちの手伝いはしないよ」
「わかっております」
「それどころか……あいつらをかばうかもしれん」
「殿さま!」
と、休平がおどろいて顔をふりむけた。
「いや、心がけてかばうわけじゃないが、あいつらは、あれでも幕臣だ。しかも、優秀な幕臣だ。おれは、人材はみんな可愛いと思ってるんだよ。あいつらが死なぬかぎり、なんとかものにしたてて、お国の役に立つようにしてやるのが、勝の受けた天の使命だ」
「わからねえな、そんな|屁《へ》|理《り》|屈《くつ》は!」
と、休平がかみつくようにさけび出すのに、勝は笑顔をむけて、
「おまえは知ってるはずさ」
「へ?」
「おっと、おいでなすったようだぜ」
門を無数の|跫《あし》|音《おと》がなだれこんできたかと思うと、もう庭の一角から御用提灯が乱入してきた。
「お美也さん、奉行が相手だ。これからずっと、あんたもお尋ね者になることは承知のうえか?」
「はい!」
「よし、そこまで覚悟したとあれば、もういうことはない。ゆこう?」
「――どこへ?」
と、休平が、あまりに平然とした勝の表情にあっけにとられたようにさけんだ。
「おまえの実家にさ」
「あっしの実家?」
「三田四国町の薩摩屋敷。――」
愕然と口をあけた休平の顔をふりかえりもせず、勝はあごでお美也と丞馬をうながすと、はじめてうしろをふりかえった。
「騒々しいぞ! 主人が死んで通夜という夜に、なんだうぬらは!」
「あっ、きゃつ、あそこにおるぞ!」
と、なお跫音をみだしてかけよってくるのに、
「馬鹿者! 軍艦奉行勝安房を知らぬか!」
と、大喝した。
さすがにこれには仰天したとみえて、捕方たちはいっせいにうごかなくなってしまったが、ややあってひとりの同心が虚勢の胸を張ってすすみ出て、
「これは勝さま。……恐れ入ってござりまするが、この若党はただいま奉行所よりお取調べ中に逐電したものでござる」
「町奉行の捕方が、武家屋敷に入ってよいか」
「あ。……」
同心は狼狽した。それはゆるされてないのである。勝はニヤリとして、
「なんの嫌疑だね?」
「さ、されば、当家の宗像主水正どの殺害の件につき、この乗鞍丞馬と申すものの昨夕より夜半にかけての所在があいまいなゆえ、それをお取調べ中――」
「こいつか、こいつは昨夕から夜半にかけて、おれの屋敷にいたよ。勝が|承《う》け合うと奉行につたえておけ」
けろりとしていった。そして、もういちどあごをしゃくって、
「さあおいで」
ぶらぶらとあるき出した。休平、丞馬、お美也がうしろについてあるいてゆくのを眼前にしながら、同心はどう処理してよいか途方にくれ、捕手たちも口をあんぐりとあけて見おくっている。
「当分、ほとぼりがさめるまでな。おれんとこにいてもいいが……」
と、勝がいう。
「実は、おれはここ四、五日中にも、摂津の|神《こう》|戸《べ》|村《むら》というところに|出立《しゅったつ》しなければならんのだ。こんどあそこに海軍操練所をつくることになったのでな。だから、ひとまず、休平の実家にかくまってもらえ、あそこはいかな小栗でも手が出せぬ」
「旦那、あっしの実家が薩摩屋敷だなんて……」
「なあに、|益《ます》|満《みつ》休之助がたのんだといえば、大丈夫、かくまってくれるさ」
四人は門を出た。うしろを遠く、みれんげに捕方たちが追ってくる。待たせてあった馬にちかづいてゆく勝をじっと見おくっていた休平が、ふいににっと笑った。
「勝さん、恐れ入りやした」
「益満、たのんだぜ」
「へい、大船にのったつもりでいて下せえ」
もとから、きりっとしまったいなせ[#「いなせ」に傍点]な中間の休平であったが、急に様子が変ったので、お美也は混迷におちいった眼で、
「休平。……」
「お嬢さま、どうぞないしょにしていておくんなせえましよ。薩摩の犬が講武所奉行の中間になっていると知れたら、お父上さまが、これでごぜえます」
と、ニヤニヤして、腹をきるまねをした。
「丞馬」
勝は馬を門に横にして、|煙管《きせる》をくわえた。
「薩摩屋敷を出たあとは、お美也さんはおまえにまかす」
「へい!」
この無感動ともみえる若者が、異常なばかりにワナワナとふるえているのを、勝はじろっと見すえて、
「ただ、いっておくことがある。主水正を殺した奴らと、おなじ地獄におちるなよ。下郎の忠節をつくせとはいわぬ。飛騨の忍者の面目にかけて、お美也さんをまもるのだ。この|戒《いまし》めを破ると……」
うすく笑った。
「罰があたって、もう一本の腕も失う破目になるぞ。そこんところを|胆《きも》にすえたら、さあゆけ」
丞馬は片ひざをついてあいさつすると、お美也の手をとってはしり出した。それとならんで、休平も闇の彼方へはしる。
勝安房は、馬で門をふさいだまま、|煙草《たばこ》をふかしふかし、門内でへどもどしている捕方たちを見まわして、澄ましていった。
「こわがらんで、こっちへおいで。これからおれが、少し|宇《う》|内《だい》の大勢について講義をしてやろう」
――それから一ト月ばかりたった或る夜明前である。
三田四国町の薩摩屋敷から出た二|挺《ちょう》の|駕《か》|籠《ご》が、内藤新宿にはしって、そこで、のせてきた人間をおろした。
さきにきて、それを待っていた中間風の男が、
「お嬢さま」
と、一方の駕籠の垂れをあげた。駕籠から出た旅装束のお美也が、
「休平」
といって、小腰をかがめた。
すでに彼女は、休平が薩摩の侍で、実家の酒井家に中間として入りこみ、幕府の武備をさぐっていた男であることを知っている。彼が、父の壱岐守もじぶんも、最も信頼していた人間であったとかんがえると、何やら男の世界というものが恐ろしくなるが、それにしても休平の一見気のいい明朗な気性を思うと、薩摩も長州も鬼ではないという勝安房の考え方があらためて胸におちるし、主水正もそうであったと思う。なんにしても、それはもはやいまのお美也にとっては、どうでもよいことであった。
「いろいろと、ありがとう」
「おっとっと、お嬢さまにあたまなんかさげられちゃあかなわねえ」
と、休平は笑って、もう一方の駕籠からのそりとあらわれた乗鞍丞馬をふりかえって、
「丞馬、おれは殿さまの御出勤までに赤坂へかえらなくちゃあいけねえから、ながくは話していられねえ。まえまえ、四国町の方に知らせておいたとおり、例の五人の旗本は、あれからまもなく|上《かみ》|方《がた》へ上ったらしい。新徴組の連中といっしょにな」
「みんな新徴組に入ったのか」
「そいつはどうだかわからねえ。ただ、それと同行して|中《なか》|仙《せん》|道《どう》を京へ上ったということだけを、やっとこないだ探り出したんだ。あの晩、おれもおめえといっしょににげたものだから、すっかり小栗に眼をつけられてよ、その探索どころか、おれにひかる眼をなんとかごまかすのにせいいっぱいで、ついいままでおまえさんたちを四国町の屋敷にとじこめておいたあいだに、まんまとあいつらににげられちまったが、ゆるしてくんねえ。もっとも、このごろまで、おまえさんたちを探し出そうと江戸じゅうの目明しが血道をあげて、とうてい外にゃ出せなかったがね」
「いや、きゃつらが、たとえ|天《てん》|竺《じく》ににげようと、おれたちは追ってゆく」
「天竺ときたね。忍術使いは古風で、少々案じられるな。だいじょうぶかね?」
「大丈夫だ」
「いやにおちついてやがる。丞馬、おめえ、また顔が変ったな。すこししまりが出て、一年まえとおなじになったよ」
「そうかね。おれはずっとおなじだが」
「ところで、五人が上方へにげ出して、それがなかなかわからなかったというのも、きっと小栗の密々のはからいからだろう。野郎ども、勝さまがきみわるくなったんだよ。これできゃつらが、みんなぐる[#「ぐる」に傍点]だったことをじぶんたちであかしをたてたようなもんだ。江戸にいなくなったことは残念だが、しかしかんがえてみりゃ、小栗の眼のとどかねえ上方のほうが、敵をうつのにかえって好都合かもしれねえ。どうか、しっかりやってくれ」
「小栗も、やがて討つ」
と、丞馬は重おもしくいった。
「しかし、それは、あの五人の旗本がつぎつぎに、おのれのいのちで罪のつぐないをしてゆくのを奉行にみせつけてからだ」
その言葉の|凄《せい》|愴《そう》さに比して、彼の眼がまぶしいまでのうれしげなひかりをたたえているのに、休平がまじまじと丞馬の顔を見まもると、夜明けのひかりがさしかけているのであった。
「それでは、奥さま、参りましょう」
乗鞍丞馬はうやうやしくお美也をうながして、甲州街道をあるき出した。
「休平、おさらばです」
会釈して、お美也がそれによりそう。例の瓢箪を腰にぶらさげ、野性にみちた片腕の丞馬とならぶ|嫋々《じょうじょう》たるそのうしろ姿を見おくって、休平はふっとべつの不安感におそわれた。
京へゆくのに、甲州街道をえらんだのは、中途まで、丞馬がいちどそこを通って江戸へきた路だからだ。
ちょうどあれから一年たつ。乗鞍丞馬は、飛騨の幻法を以て世に名をあげようと、眼をかがやかして江戸へ出た。そのおなじ春の甲州街道を、彼はいまひとりの女人を伴って、西へ旅立ってゆく。
ひとりの女人――それは、彼が生まれてはじめて魂のおくそこから愛することを知った女性であった。しかし、同時に彼のかしずくべき主家の妻女だ。彼女は夫の|復《ふく》|讐一途《しゅういちず》にもえて、彼の助けをたよりに旅に出た。お美也は彼の愛をおそらく意識してはいまい。そんな心の余裕はない。そして丞馬も――この敵討ちも、主人のためというよりお美也のためといってよいほどの愛を、心の奥ふかく沈めておかなければならなかった。
「女を愛したとき、おまえの幻法は破れるぞ」
と戒めた師匠|檜夕雲斎《ひのきせきうんさい》の言葉のゆえではない。
「主水正を殺した奴らと、おなじ地獄におちるなよ。飛騨の忍者の面目にかけて、お美也さんをまもるのだ」
と命じた勝安房の言葉のゆえでもない。彼はそんな声すらもわすれている。ただ、疑うことをしらず、信じきったお美也のきれいな瞳に対して、彼はそのまことをささげる誓いをたてたのだ。
けれど、丞馬よ、その誓いがまもりきれるか? さなきだに兇暴精悍な情血の|奔《ほん》|騰《とう》を、いつまでもおさえきれるか?――また、その弱味をいだいて、近代兵器を駆使する五人の旗本と、古怪な忍法でたたかえるか? 休平のいいぐさではないが、丞馬、ほんとうに大丈夫か?
やがてうちよせるであろう凄じい外の波、内の波をしらず、しかし丞馬はむしろうれしげであった。ときどき、お美也はふしんそうに彼を見た。
「丞馬、おまえ、妙にたのしそうね」
「へ。……」
彼は狼狽し、顔をあからめ、うなるようにいった。「奥さま、申しわけござりません。|故《く》|郷《に》がだんだんちかくなるからでがしょう」
江戸から|下《しも》の|諏《す》|訪《わ》まで五十六里、路はここより中仙道と合して、しだいに|信《しな》|濃《の》|路《じ》から|木《き》|曾《そ》|路《じ》へ入ってゆく。
山彦幻法篇
「ちぇっ。……」
と、|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》の武士は舌うちをして、路上の小石を|蹴《け》った。小石は川沿いの|兜《かぶと》みたいなかたちをした岩にはねて水におちたが、彼はふりかえりもせず、
「|甚十郎《じんじゅうろう》め、何をもたもたしておるのだ。ひっさらってゆけばいいのに」
と、腹だたしげにいった。
これは、去年、|乗《のり》|鞍《くら》|丞馬《じょうま》を追って江戸へ出た|飛《ひ》|騨《だ》高山郡代所の五人侍のうち、中西半兵衛という男であった。
|中《なか》|仙《せん》|道《どう》の|鵜《う》|沼《ぬま》の|宿《しゅく》を東へちょっといったところ、片側はいわゆる|坂《さか》|祝段丘《ほぎだんきゅう》をつくり、反対側は|木《き》|曾《そ》|川《がわ》が黒い河原をけずって、いたるところ瓶のような無数の穴を掘っている。水は木曾の山々の|翠《みどり》をうつしてまっさおだ。詩情にみちた中仙道百五十三里のうちでも、このあたりほどの奇観絶景はまたとあるまい。――後年、日本ラインと名づけられたのはこの一帯だから、それも当然だ。
ところで、中西半兵衛は西からきた。そして彼の待っている同僚の堀甚十郎とおゆんも、やがてその方向からくる。さらに、そのあとからぞろぞろと、|新徴組《しんちょうぐみ》のめんめんがやってくるはずだ。――
飛騨から追ってきた陣屋侍と女たちは、江戸で乗鞍丞馬の消息をうしなった。講武所の御前試合で、丞馬が腕をきられたという話をきいたが、その後彼がどうなったか、講武所関係のものも、よく知らないらしいのである。
「丞馬は死んだに相違ない」と、男たちはいった。しかし、女たちは、あきらめきれなかった。講武所門前の|小《こ》|見《み》|山《やま》大六とお|柳《りゅう》の|屍《し》|体《たい》はすぐにとりかたづけられたので、ふたりと丞馬のあいだにあの惨劇が起ったことはしらなかったが、それは女たちのたちきれぬみれんであった。――なんにしても、丞馬が御前試合に失敗したということは、男たちにとって会心のことである。あとは女たちをつれて、飛騨にかえればよい――と彼らは考えたのだが、女たちが承知しないのである。みれんもあったし、丞馬を追ってかけおちしただけに、ふたたび故郷に顔をみせたくないという恥らいもあったし、また丞馬のいない飛騨は、彼女らにとって、無にひとしかった。
女たちにひかれて、男たちもずるずるべったり江戸に残った。その一年のあいだに、三人の男と三人の女のあいだに、それぞれの|葛《かっ》|藤《とう》があった。堀甚十郎はおゆんを泣きおとしにかけ、中西半兵衛はお|藤《ふじ》を暴力で征服し、そして土屋|蓮之丞《れんのじょう》は|狭《さ》|霧《ぎり》のそばにこびりついて、まだ思いをとげることができないらしい。そんなことをしているうちに、男たちも飛騨へかえるのが具合が悪くなって、いっそひろい世界で身をたて、名をあげようというきもちになった。そういう夢が男たちに可能性を|以《もっ》てえがける動乱の時代がはじまっていた。そして、中西半兵衛と堀甚十郎は新徴組に応じたのである。そして、強制的に、それぞれお藤とおゆんも京へ伴い去った。
それには、たんに|惚《ほ》れた以外に、わけがある。堀甚十郎はこの冬、はからずも小石川で|宗《むな》|像《かた》|主水正《もんどのしょう》の若党となっている丞馬を見出した。彼は|驚愕《きょうがく》して、中西半兵衛にあとで知らせた。しかし、その夜のうちに主水正の横死という事件が|勃《ぼっ》|発《ぱつ》し、その直後ふたたび丞馬は彼らの眼から行方をたってしまったのだ。丞馬が生きていると知って、ふたりは|狼《ろう》|狽《ばい》した。むろん、お藤やおゆんを江戸にのこして京に去ることなど、出来なかった。それでふたりは、あくまで女たちにはそのことを秘して、むりに京へつれ去ったのである。土屋蓮之丞と狭霧とは、その後どうなったか、彼らも知らない。――
ところで、京についてから、意外なことが起った。
文久三年二月八日、|京洛《きょうらく》治安の目的で編成された新徴組の浪士二百数十人は江戸をたち、中仙道をおし上って二十三日京についたが、あにはからんや、その首領ともいうべき|清《きよ》|河《かわ》八郎は、この浪士隊を逆に討幕の戦士たらしめようという本心であったから、それがあきらかとなったとき、京都所司代と隊士たちは仰天した。京にとどまることわずか二十日、この危険な一隊は江戸に追いかえされることになり、|狐《きつね》につままれたような顔で、隊士一同が京を出たのは三月十三日のことだ。
ただし、これに断じて承服せず、あくまで京都|鎮《ちん》|撫《ぶ》のためひとはたらきしたいと申し出て、残ったものが十数人ある。|芹《せり》|沢《ざわ》|鴨《かも》、|近藤勇《こんどういさみ》、|土《ひじ》|方《かた》|歳《とし》|三《ぞう》のめんめんで、世にいわゆる新選組がこれである。
中西半兵衛と堀甚十郎は、引揚組のなかにいた。京へゆく道中から、芹沢一派と|悶着《もんちゃく》を起したうえに、着京後の意外事にすっかりいや気がさしてしまったのだ。高山へかえろう――ついにそういい出したのは、中西半兵衛であった。彼が意気|沮《そ》|喪《そう》したのもむりはない。京へゆく旅の途中から、彼はお藤を芹沢鴨にとりあげられてしまったのだ。この|大兵《たいひょう》肥満、しかも|兇暴《きょうぼう》無惨の剣鬼には、さすがの半兵衛も歯がみしながらも、|辟《へき》|易《えき》せざるを得なかった。そして堀甚十郎も、おゆんともども、飛騨へかえるきもちになった。
京を出てもう三十五、六里、鵜沼から太田の宿に入れば、ここから飛騨路がわかれる。で、すでに新徴組に|訣《けつ》|別《べつ》のあいさつをすませて、一足さきにここまでやってきた三人だが、ことここにいたって、おゆんがなお故郷にかえることをしぶりはじめ、堀甚十郎は説得あいつとめているが、まだ同意を得るになやんでいるらしい。わざとさきにきた中西半兵衛が、いらいらと舌うちをしたが、ふたりの姿はまだあらわれない。
「――いや」
と、おゆんはいった。もと高山の神官の娘で、雪国生まれらしく、色白できよらかなかんじの女であったのに、一年の流浪のあいだに、灰色のやつれが濃く浮き出している。
堀甚十郎は狼狽しながら、
「いや? といまさらいわれても、飛騨へゆく路は、すぐそこにちかづいているではないか」
「あなただけかえったら、いいでしょう」
「おまえは?」
「わたしは、もういちど江戸へゆきます」
「江戸へ? 何しに!」
おゆんはこたえなかった。ただゆめみるような|瞳《ひとみ》が、ゆくての東の空へあげられた。答えをきくまでもない。彼女はまだ丞馬をあきらめてはいないのだ。甚十郎は顔をひんまげて、
「おい、江戸へいっても、丞馬は死んで、もうこの世にはいないのだぜ。いくどいったらわかるのだ」
とわめいた。
「よし、こうなったら、もう腕ずくでも飛騨へつれてかえる」
と、おゆんのうでくびをつかむと、おゆんははじめて|手《て》|籠《ごめ》にでもされるようなけわしい表情で、その手をふりはなそうとした。|嫉《しっ》|妬《と》と激怒と、そして|智《ち》|慧《え》の足りない男らしい策略が、甚十郎の胸にわきかえった。
「それでは、どうしても――」
と、息をきらせて、おゆんの胸に手をまわして、ずるずると街道から、右手のひらたい河原にひきずっていった。
「な、何をするんです」
「いまさら、何を――これ、じっとしていろ」
「い、いけません! 浪士の方々がやってきます」
「きても、かまわん、おまえはおれの女房ではないか」
と歯をむき出して、ねじ伏せた。
春の太陽が、|碧《へき》|潭《たん》の水しぶきを無数の宝石のようにちらす黒い河床のうえに、これはまたひどくなまぐさい光景がくりひろげられた。この風光のなかで、あまりにも獣的な男の行為に、おゆんは抵抗のさけびも力もうしなって歯をくいしばってこの|凌辱《りょうじょく》にたえているばかりだった。やがて――
「どうだ、飛騨へかえるか?」
と、甚十郎は満面を赤ぐろくふくれあがらせてうめいた。
「――かえります」
と、おゆんは放心したように、よわよわしくつぶやいた。
甚十郎がニヤリとしてたちあがり、|袴《はかま》をとりあげたとき、頭上で声がかかった。
「堀、こんなところで何をたわけたまねをしておる」
唇に苦虫をかみつぶし、眼を異様にひからせた中西半兵衛の顔がのぞいていた。堀甚十郎はさすがに照れながら、
「いや、なに、こいつがどうしても丞馬めをあきらめんで、江戸へゆくなどいいはるものだから、ちょっと仕置をしてやったのだ。なあ半兵衛、丞馬は死んだのう?」
「丞馬はそこにおる」
気がつくと、半兵衛の顔は|蒼《そう》|白《はく》であった。甚十郎よりはやく、おゆんがはねおきてさけんだ。
「えっ、丞馬さんが――どこに?」
「しっ、大声をたてると、きこえるぞ。あっちの川のほとりに、美しい女とふたりで――ふと遠くでそれを見て、おれはとびあがってかけつけてきたのだ」
「まあ、つめたい。――」
|駱《らく》|駝《だ》みたいな姿の岩から、白い手をのばして水にひたしながら、|美《み》|也《や》はふりかえった。
それまで|恍《こう》|惚《こつ》としたまなざしでそれを見ていた乗鞍丞馬は、美也にふりむかれて、はっと直立不動の姿勢になり、
「木曾や飛騨の雪どけ水でがす」
と、返事をした。
春の信濃路から木曾路へ、旅の日数をかさねるあいだ、この一見鈍重にみえる男の分厚い胸が、|春霞《はるがすみ》のような夢心地につつまれていたとだれが知ろう。そして、丞馬の魂にもついぞ不潔な野心はとり|憑《つ》かなかった。騎士とまでもゆかない。彼は、美也の信じきった眼の|鞭《むち》のままにうごく忠実な馬にすぎなかった。
「飛騨の雪――おまえの故郷――丞馬、かえりたくはないかえ?」
「いいえ、奥さま、|旦《だん》|那《な》さまの|敵《かたき》をうつまでは、決して!」
「ありがとう。でも、たった一年ばかり奉公していたおまえに、こんな苦労をかけて、美也はすまなさにいっぱいです」
「奥さま、とんでもないことを――」
こういう問答だけで、この山からきた男の眼には、もう涙らしいものすら浮んでいる。――あのおのれの大望のためには、まえにたちふさがるものを男女をとわず|殺《さつ》|戮《りく》して|恬《てん》|然《ぜん》たる非情|凄《せい》|愴《そう》な魂をもつ男が。
さすがの丞馬も、このときほとんど|無《む》|防《ぼう》|禦《ぎょ》の姿勢と無警戒の心理状態にあった。きぬをさくような女のさけび声がわたってきたのはこの|刹《せつ》|那《な》だ。
「丞馬さん、危いっ」
ばね[#「ばね」に傍点]にはじかれたように身をひらいた空間を、たたたた、とおよいでゆく背を、足をあげて蹴ると、影はお美也をつきたおしながら、水けむりをあげて木曾川におちた。
丞馬はそれを見おくるいとまもなかった。お美也に襲いかかるもうひとつの影をみたからだ。お美也のたおれたのが|倖《さいわ》いした。|空《くう》を|斬《き》った銀蛇が、かっと岩に火花をちらし、狼狽しつつふりむいた恐怖の顔に、
「うぬか!」
と丞馬はおどりかかって、その腕をつかんだ。それだけで、腕の骨のくだける音がした。
「た、たすけてくれ!」
泣声をあげたのは、堀甚十郎だ。下流におしながされて、ずっとむこうの岩に死物狂いにはいあがろうとしているのは、中西半兵衛であった。
「野郎――よくも――奥さまに――」
その|凄《すさま》じい憤怒の形相に、お美也のほうが悲鳴をあげた。
「いけません、丞馬っ、ゆるしておやり――」
「こいつは、奥さまを殺そうとしたでがす」
「いいえ、そのひとは敵ではありません、丞馬!」
しかし、丞馬はただひとつのこぶしをふるって、堀甚十郎のあたまをなぐりつけた。|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》がぐしゃっとくだけて、|脳《のう》|味《み》|噌《そ》がとびちった。その|屍《し》|骸《がい》を、まるで犬の屍骸みたいに川になげこんでからふりかえった丞馬は、
「あっ、奥さま!」
と、あわててかけよった。お美也が顔をおおってよろめいたからだ。
「丞馬……けだもの……」
丞馬の腕のなかでお美也はあえぎ、手が白い鞭みたいにしなって、彼の|頬《ほお》をうった。鉄をもくだく忍者が、この|繊《せん》|手《しゅ》の|打擲《ちょうちゃく》に無抵抗に泳いでいって、がばと岩の上にひれ伏している。
「人殺しはきらいです」
お美也は、丞馬がいまじぶんをたすけてくれたことや、じぶんの敵討ちの助太刀についてきてくれたことなど忘れている。ただ、いまのむごたらしい|殺《さつ》|戮《りく》がたえがたいらしく、
「顔もみたくない、あっちへおゆき」
丞馬はこれに一言の抗弁もせず、岩にあたまをつけて、
「奥さま、おれが悪うがした。どうぞかんべんして下せえまし。……」
と、小声でいった。
お美也はなお肩で息をしながら丞馬をにらみつけていたが、そのときうしろに立ってじっとこちらをみている人間の気配に気がついた。おゆんが|蒼《あお》|白《じろ》い顔で、このふしぎなふたりの――まるで主人に|叱《しか》られる犬みたいな丞馬の姿を見つめていた。
「丞馬さん。……」
と、彼女は小さい声でつぶやいた。
「あなたは、やっぱり生きていたのね?」
丞馬は顔をあげておゆんをみたが、おどろきも感動もした様子はなかった。
「いいえ、わたしはあなたが生きていることを信じていました。信じていたのに、ああ! どうしてわたしは甚十郎などにだまされたのか――」
彼女は身もだえしたが、たちまちたまりかねたように丞馬の胸の中にとびこんでこようとした。
「丞馬さん! あいたかった!」
丞馬は無造作に女をつきとばした。
「くるな!」
おゆんはあおむけに岩のうえにたおれて、|蛙《かえる》みたいに白い二本の足をむき出しにした。お美也がかけよって、抱きあげた。
「丞馬、何をするのです。このひとは、いま、危い、――と知らせてくれたお方ではありませんか」
おゆんはお美也をはねのけた。半身をおこし、丞馬をにらんだ顔は、蒼白い鬼女の面みたいに眼も口もつりあがって、
「丞馬さん、このひとはだれ?」
「…………」
「そうだろうと思っていた。あなたが女なしで生きているわけはない。……」
丞馬は狼狽して、うめいた。
「|馬《ば》|鹿《か》! そのお方は、おれの御主人だ。……」
「御主人? そうじゃない! あなたはこのひとに惚れている。さっきから、わたしはへんだへんだと思っていた。いいえ、あなたの眼をみれば、わたしにはわかります!」
「だまれ、うぬもたたっ殺すぞ」
と、丞馬は殺気にもえて|吼《ほ》えたが、じっと見ているお美也に気がつくと、顔をあかくして、へどもどして、
「こんなきちがい女にかまってはおられぬ。さ、奥さま、参りましょう」
「どこへゆくの?」
と、おゆんがいった。お美也は丞馬にひかれながら、
「京へ参ります」
とこたえたのは、おゆんが丞馬の知り人と判断したからであろう。おゆんは岩の上に|坐《すわ》って、眼をひからせた。
「丞馬さん、わたしをすてる気か?」
そして、唇をひきつらせて笑った。
「おゆき、おほほ、そっちへゆけばきっと殺されるから」
「なに」
「どうせ、わたしもここで死ぬつもり。あなたが眼の前で殺されるのを見ながら、わたしも死にます」
丞馬はゆっくりとふりかえった。
「おれがどうして殺されるのかね」
「いま、中西さんが川からはいあがって、あっちへにげてゆきました。すぐに仲間をよんでくるにきまっています」
「仲間とはなんだ」
「新徴組です。二百何十人かいるのですよ。いくら丞馬さんだって、あの人数のあの連中にはかなうわけがない。――」
――そのとき、街道のむこうにわめき声があがって、|砂《さ》|塵《じん》をたててはしってくる姿がみえた。
まっさきに中西半兵衛がたって、こちらを指さしながら、
「あれだっ、あれだっ」
と、さけぶ声がきこえた。
「おまけに――」
と、とどめを刺すようにおゆんがせせら笑った。
「ピストルの名人もいるんですよ。いくらあなたが飛騨幻法の奥儀を受けたからって――」
「ピストル?」
「え、手の中に入るような小さな鉄砲――それで飛ぶ鳥さえもうちおとす|筧《かけい》伝八郎というひとが」
丞馬とお美也は、電撃されたようにふりむいていた。
「筧伝八郎!」
同時にさけんだ。
筧伝八郎はやはり新徴組に入ったのか、京へいったはずの新徴組が、なぜ早々にこんなところまでひきかえしてきたのか――ききただしているいとまもなかった。すでに街道に数百羽の|鴉《からす》みたいにならんだ浪士たちが、いっせいに深編笠をはねのけ、抜刀して河原へとびおりてきたからだ。
うしろは雪どけ水をたたえて満まんとうずまきながれる木曾川、まわりは、あるいは|獅《し》|子《し》のごとく、あるいは象のごとく、あるいは|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》のごとく、あるいは|屏風《びょうぶ》のごとく、あるいは|葛籠《つづら》のごとく起伏する奇岩怪石であった。
「筧伝八郎は?」
丞馬とお美也は、岩から岩へとびうつってくる浪士たちに眼もくれず、のびあがった。同時に、銃声がこだまして、丞馬の耳もとをキーンとうなりすぎたものがある。
お美也をひっかかえ、岩かげにころがりおちた丞馬をどうみたか、
「射つな、射つな!」
と、うしろをふりかえってさけんだ浪士がある。
「忍者というぞ、おもしろい!」
「わしに斬らせろ!」
と、はやりにはやっているのは、武者ぶるいして京にのりこんだものの、妙ななりゆきで江戸にかえることになった新徴組の|鬱《うっ》|血《けつ》のせいだ。そのなかには、一年前講武所で見せた丞馬の奇怪な術を|噂《うわさ》にきいていた連中もまじっていたが、大半は、「――たいへんだっ、堀甚十郎が殺されたぞ! 相手は飛騨の忍者ですっ」という中西半兵衛の報告に、わけもわからず、いや、忍者ときいて、それが当世あまりきかない武芸であるだけに、むしろ好奇にもえてかけつけてきたものだ。
「どうやら、射たれたのではないか」
「ころがりおちたな」
「しかし、おそろしい美人といっしょであったぞ」
さすがの新徴組も、ゆくてをはばむ|磊《らい》らいたる奇岩に息をきらせつつ、しかし笑い声さえきこえたのは、まだ忍法なるものを|軽《けい》|蔑《べつ》していたせいであろう。もっとも、たしかにおゆんがいったように、いくら忍者でも、二百数十人に包囲されては手も足も出ないと思うのが当然であった。
岩からおちたとたん、丞馬は岩かげをはしって、すでにべつの位置に移動している。一本の腕にお美也をひっかかえているのに、あとを追うおゆんが、息もきれそうな迅速さであった。
「奥さま、ごらんでごぜえましたか?」
「え、街道の西の方に――」
と、ささやきかわしたのは、筧伝八郎のことだろう。――丞馬は眼をひからせて、周囲にみだれる|跫《あし》|音《おと》に耳をすませていたが、その口から奇妙な音がもれはじめた。音というほどの音ではないが、決して無声でもない、しいていえば|煙草《たばこ》のけむりをたてつづけに、ぽっ、ぽっ、と吹くに似た音であろう。――すると、思いがけぬ方角で、丞馬の笑い声がとどろきはじめたのである。
「あはははは、やい、おれはここだが、うぬらは何だ?」
丞馬の声帯の放つ音波が、どこで消失し、どこで屈折し、どこで反響を起すのか――お美也でさえ|唖《あ》|然《ぜん》としたくらいだから、まして浪士連は、
「あっ、あんなところにいるぞ!」
「こっちか!」
と、|雪崩《なだれ》をうって、その方角へかけつけた。
「しばらく、ここを出てはなりましねえぞ!」
と丞馬はふたりの女をふりかえると、岩と岩のあいだをむささびのように|駈《か》けた。むろん、筧伝八郎めざしてだ。
その姿に最初に気がついて、愕然とした人間のこぶしから、火花が二つきらめいた。銃声がきこえたのは、みなが丞馬の飛ぶ岩と岩に、ぱっと岩片がちるのを見たときだ。
「きゃつ、あそこだ!」
あわてて浪士たちが反転して、殺到してきた。いや、身をひるがえすものよりも、あたり一帯に波うつ二百数十人だ。たちまち岩の下に、|餓《が》|狼《ろう》のごとくおしよせる。
と、みるや、そこに凄じい絶叫と、折れた刀身が巻きあがった。丞馬の跳躍し、旋回するところ、その片腕がうなりを発して人剣ともに粉砕した。|碧《へき》|空《くう》に鉄片が|雲母《きらら》のように舞い、南画めいた岩に朱を散らすように血しぶきが|撒《ま》かれた。
「――いかん!」
そうさけんだのは、街道に立って、これを見ていた壮年の武士であった。面長で、軍師めいた重々しさがあって、ちょっと烏帽子右近に似た感じがある。新徴組の首領清河八郎だ。「――これは!」と仰天したのは浪士のほとんどすべてだが、みんな眼も口も血風に吹きねじれて、声もない。
「ひけっ、ひけ」
と、清河八郎は絶叫した。
むろん彼は、最初から飛騨の忍者|云《うん》|々《ぬん》という中西半兵衛の注進に、押っとり刀でかけ出した浪士たちを、「よせ、よさぬか」と、手をふって制止したのだった。せっかく徴募して、おのれの大望のために大いに成すあらんとするつもりの|駒《こま》――浪士連を、えたいのしれぬ無縁の忍者にかけむかわせるほど彼は馬鹿ではない。ただ、とめてもとまらぬ浪士たちに、「しようのない荒武者ばらだ」と苦笑して見送ったのだが――この意外な結果には驚愕し、狼狽した。
「ひけ、かえれ、相手にすな!」
と、さけぶ清河八郎とならんで立っていた筧伝八郎は、しかしこのとき、遠く|巌上《がんじょう》に立ってニヤリとした乗鞍丞馬に、すうと銃口をあげた。
丞馬は口をうごかしていた。声はきこえない。ただちかよれば、例の、ぽっ、ぽっという奇妙な音がその唇から発しているのがきこえたかもしれない。そして、このとき、血まみれの片手をあげて、びんの毛をむしりとり、しずかに岩の上に置いたのである。
岩のかげで、おゆんは眼をつりあげて、お美也の腕をつかまえて、しつこくきいていた。
「あなたはだれですか」
むこうに巻きあがる死闘のひびきにお美也は身もだえして、
「あっ、いけない――丞馬が殺されます! そこをはなして下さい!」
「はなしません、わたしのきくことにこたえてくれるまでは」
お美也は怒りにもえた美しい瞳をむけて、
「わたしは江戸の旗本宗像主水正の妻です」
「丞馬さんとはどんな縁なのですか」
「丞馬は、わたしの若党です」
「え、若党――なんのためにふたりで、こんなところにいるのです」
「夫の敵をさがして京へゆくのです。さ、この手をはなして――」
「うそをおつき――丞馬さんと、かけおちしたのでしょ?」
お美也はびっくりして、おゆんを見つめた。おゆんは唇をひきつらせて、
「丞馬さんのそばにいて、吸いよせられない女はいないはずです。そしてまた丞馬さんも女がいなくては生きてゆけない男なのです。あたしはちゃんと知ってるんだから」
「…………」
「あのひとが、若党? 若党に化けているだけでしょ? あのお師匠さまにも代官さまにも、神ほとけにさえもあたまを下げたくないひとが、ほ、ほ、若党になるなんて!」
「…………」
「でも、さっきあのひとは、おかしいほどあなたにぺこぺこしてた。……若党というのはほんとうかもしれない。けれど、それはあなたに惚れているから、若党になったのにちがいない。そうだ、あたしにはよくわかる!」
「あなたのお話はきいてはおられません。あっ――丞馬が――あぶない!」
「あんなひと、殺されてもいい!」
のびあがるお美也の腕を急にはなすと、おゆんはきらっと帯から懐剣をぬいた。それに気づく余裕もなくとび出そうとするお美也の背に、狂的な嫉妬の眼と懐剣が蛇のようにはしる一瞬――その耳もとで、ふいに声がきこえた。
「おゆん、おれのいうことをきけ」
ふたりの女は、ぎょっとして立ちすくんだ。しかし丞馬はずっとむこうの岩の上につっ立って、浪士たちを|睥《へい》|睨《げい》しているのである。
「きくか?」
「き、ききます。……」
と、思わずおゆんはさけんでいた。
「まえをみろ、髪がある」
はじめて気がついた。すぐまえの岩角に、ササササ、と吹きつけてくる髪の毛がからみついて、ほどけて、その下のくぼみにおちる。そしてその岩のくぼみに、すでに数十本の髪の毛が、風のせいか――いや、それ自身生命あるもののごとく、もつれ、よじれて、蛇のごとくうねっているのであった。
「風は西から吹く。おれの方からは筧伝八郎の方へとばぬ。おまえ、それをもって伝八郎の西へまわれ。そして、風に髪をとばせてくれ」
耳たぶに鳴る声の怪異と、眼前にみる髪の毛の怪異に唖然たるお美也をあとに、その髪をひっつかむと、おゆんは憑かれたように岩かげからはしり出した。
「やっ、あれは?」
と、それに気がついた浪士たちが、はっと眼で追ったが、
「おゆんどのだ」
「にげ出してきたのだ」
「はやく、にげろっ」
と、手をふってわめいた。彼らは西へ走りつづけるおゆんからすぐ眼をはなした。
ただ、そのうしろ姿を見おくって、丞馬だけがニンマリとうなずいたとき、その腰のあたりから、|燦《さん》|爛《らん》と奇怪な水しぶきが春の日にちりみだれた。そのあとで、だあん、という銃声が風をわたった。筧伝八郎が第四発目のコルト|拳銃《けんじゅう》をぶッぱなしたのはこのときだ。
浪士連はわけもわからなかったが、これは丞馬の腰のれいの|瓢箪《ひょうたん》がみごとにうちくだかれたものであった。
「ちっ……」
筧伝八郎は無念げに舌うちしたが、すぐ、
「ふむ、あれだな」と、にっと唇をつりあげた。江戸の南町奉行所で不可思議な水煙を張ってにげたという、丞馬の瓢箪はあれだ、と見たのである。
「よし、もはやのがさぬぞ」
銃口が五たびあがった。
丞馬はちらと腰をみた。不吉なかげがその顔をかすめた。しかし、彼はそのまま巌上からとびおり、真一文字に筧伝八郎の立つ方角へあるきはじめた。
筧伝八郎がほかの四人とわかれて、清河八郎とともに江戸へひきあげる組に入ったのは、どういうわけか清河がひどくじぶんをひいきにしてくれたせいもあり、またじぶんたちを京へおいやった|小《お》|栗《ぐり》|豊《ぶん》|後《ごの》|守《かみ》の処置が不平なせいもあったが、内心お美也のいる江戸へ、ただやみくもにかえりたいからであった。思いはほかの四人もおなじだが、さればといって五人そろって早々帰府することは小栗の手前具合がわるいので、ほかの四人にはないしょで、清河とうちあわせ、はじめ京に居残るふりをして、そっとひとりで|粟《あわ》|田《た》|口《ぐち》で待ちうけて、この一行に加わったものである。
ただ、お美也が江戸のどこにいるのか、彼にもわからなかった。宗像主水正の通夜の夜から、彼女はどこにきえたのか? 実家の酒井家にいないことはたしかだ。そこにかえったなら、さすがに手が出せないが、もし案外なところにかくれていたなら、かえって望みがある。小栗が、「勝め、そなたらを下手人ときめたらしいぞ」とにがい顔をしていい、またあのぶきみな若党ともどもお美也が姿をくらましてしまったところをみると、ほんとにあの女はじぶんたちを敵とみきわめて、つけ|狙《ねら》い出したのかもしれない。それと承知のうえで、伝八郎の|片《かた》|頬《ほお》には、一種残虐味をおびた快楽的な笑みがしばしばかすめたものである。
――そのお美也がいた! しかも、例の若党といっしょに。――
案の定、やはりじぶんたちを追ってきたのか、そうでないのか、何はともあれ、この木曾川のほとりでお美也を見出したのは、まさに天の|僥倖《ぎょうこう》だ。いいや、じぶんがひとり京をぬけ出してきたのは、恋の虫が知らせたのだ。あのえたいのしれぬ若党さえ討ち果たせば、お美也をひっさらい、|何《ど》|処《こ》へとび、何をしようと心のままだ!
ひくひくと波うつ伝八郎の横顔の笑いをちらっとみて、清河八郎がいった。
「筧どの、きゃつ――あんたをめざしてくるようですな」
「大それた奴が、下郎の分際で――」
「しかし、なぜ?」
「敵討ちなど、しゃらくさいっ」
絶叫とともに、拳銃がはためいた。
――しだいにはやく、いまや疾駆の姿をみせていた乗鞍丞馬が、ふいにがくとひざをついた。
「やった!」
だれか、さけんだ。が、丞馬はすぐにはねおきた。笑った白い歯がみえた。しかしよろめくようにびっこをひき、その左のふともものあたりから、血の糸が河原にひかれてくる。
息をのみ、かっと眼を凝らしてみていた浪士たちのあいだから「わあっ」というどよめきがあがったのは、次の刹那であった。彼らは、鉄人ともみえたこの忍者が弾丸に射たれたのを、たしかにその眼でみたのである。鉄は一本の腕のみであった。それ以外の部分には、銃丸もとおり、刃もたつことをようやく知ったのである。
「斬れるぞっ」
「やれっ」
ふたたび、猛然と浪士たちは殺到し――そして、ふたたびそこに、血と骨片と|脳漿《のうしょう》が渦まき、とびちった。一本の鉄腕をふるって、彼らをはらいのけ、なぎつけ、たたきつぶしながら、丞馬は依然としてすすんでくる。その足は、ガックリ、ガックリとちんばをひきつつ、眼は血いろにもえてちかづいてくる。
「やめろっ、やめぬか!」
と、清河八郎は|叱《しっ》|咤《た》しつつ、伝八郎をふりかえって、「敵討ちか。――」と、つぶやいて、そして、急に、|愛嬌《あいきょう》はいいがひどくよそよそしい笑顔になって、
「そうか。やんなさい。あなた御自身のことだ」
というと、また声を張ってさけんだ。
「ひけ、刀をおさめろ、敵討ちだ。みなしりぞいて、見物しろ!」
敵討ちという語感は、さなきだに|辟《へき》|易《えき》気味の浪士連を動揺させ、|蜘《く》|蛛《も》の子をちらすようにとびはなれさせ、静止させた。
八郎が急に冷淡になったのを、伝八郎は意外と思う余裕もなかった。乗鞍丞馬は、すでに十歩の前方にいた。
飛鳥を射ちおとす伝八郎のコルトだ。いままで五発の弾丸が、あるいは足もとの土をとばし、あるいはからだをかすめただけなのがじぶんでもふしぎであった。おそらく、忍者独特の丞馬の身のこなしに幻惑されたものに相違ないが、しかし、いまや出血のため、さすがの丞馬があきらかに満面蒼白となり、歩一歩が鉄丸でもひきずっているような緩慢な動作であった。
「下郎」
伝八郎は、歯ぎしりするような音をたてて笑った。|総《そう》|髪《はつ》が風にふきみだれた。
「弾はうぬののどぶえのまんなかをとおるぞ」
六連発の最後の一発であった。筧伝八郎の眼はすでに相手ののどぶえを射ぬいたようにひかり、ひきがねの指に、必殺の脈がはしった。
乗鞍丞馬は、ただ一本の腕をだらりとさげ、厚い胸板をひろげたまま、出血のゆえかむしろ|茫《ぼう》|乎《こ》たる表情で、仁王立ちになっている。
「死ね」
と、さけんで、|撃《ひき》|鉄《がね》をひく。――弾は出なかった。いいや、撃鉄はひけなかった!
愕然として筧伝八郎はコルトに眼をやって、その刹那、はじめて気がついたのである。銃身にいつのまにか数条の毛がまつわりついているのを――それは指と撃鉄をひとつにからんで、いままでなんの感覚もなかったのに、うごかそうとしても、微動だもさせなかった。
丞馬が五歩の距離にちかづいてきたのを知りつつ、伝八郎は狂気のように左手でその髪の毛をむしりとろうとしていた。しかし、それは鋼線のごとく切れず、このとき突如として、ひッちぎれるような激痛が緊縛された指頭からつたわってきた。これは髪の毛ではない、正体もしれぬ魔性の忍者道具ではないか、という恐怖が伝八郎を襲った。
狼狽しつつ、左手で大刀の|鞘《さや》をぬきあげようとする。そのとき、拳銃をくくりつけられたままの右腕を、丞馬にがっきとつかまれた。
「伝八郎」
と、彼はいった。
「おれのご主人を殺したのは、うぬらだろう」
「知らぬ、はなせ、この下郎」
「知らぬ?……たったいま、敵討ちなどしゃらくさい、とうぬがほざいた声を、おれの忍者耳はききのがさなんだぞ」
筧伝八郎は、丞馬のその声すらもよくきこえなかった。つかまれた腕のいたみに、彼の顔は暗紫色にかわり、全身をねじまわして苦悶した。
「言え!」
「も、主水正の死んだことか。あれは、お、小栗どのの密命で――」
「うぬが手にかけたか、かけなんだのか、それだけぬかせ」
「わ、わしたちだ」
と、伝八郎は虫みたいな声でいった。
「おれはきく必要はなかった。ただ、うぬのその一言を奥さまにきかせたかっただけのことだ。――奥さま、おききになったでがすか?」
と、丞馬はふりむいた。
――丞馬が伝八郎に射たれていちど転倒したとき、夢中で岩かげからかけ出したお美也は、あえぎながらそばにきていたが、血の気のない顔で、
「筧さま、なぜ主水正を――」
と、いったが、恨みと怒りで声はとぎれた。
「あ、あんまりです。……」
「奥さま、さ、敵をお討ちなされませ。――抜きなされ!」
丞馬に叱咤されて、反射的にお美也が懐剣をぬいたのをみて、伝八郎はにげようとしたが、腕は丞馬の腕からはなれなかった。伝八郎はまわりを見まわし、冷やかに腕ぐみをしてこちらを眺めている清河八郎と、そのうしろに好奇の眼をぱちくりさせているだけの浪人群をみると、あごをかたかたと鳴らして、
「お美也どの、ゆ、ゆるして下されい。みんな、あなたのためでござる。あなたを主水正に奪われたくやしさから――」
みんなまでいわせず、その右腕がぶきみな音をたてた。骨がくだけて、へし折れたのだ。それでも、こぶしのさきから拳銃はおちなかった。
「奥さま、口をきかせると、奥さまが汚れます。ようがすか?」
折れた腕をふりまわすと、筧伝八郎のからだは丞馬のまわりを泳いでいって、その胴に、わななくお美也の懐剣が入っていった。凄じい断末魔のうめきと返り血に、ほとんど|喪《そう》|神《しん》してよろめくお美也の手に手をもちそえて、丞馬はもうひとえぐりすると、足をあげて伝八郎を蹴たおした。
「奥さま」
お美也は眼をとじている。丞馬は顔色をかえた。
「お、おれのやったことがむごうがすか?」
「いいえ。旦那さまの敵です。……丞馬、ありがとう」
お美也は、ようやくいった。そのとおりだ。そのためにお美也は旅に出てきたのだ。――しかし、手ずから人を殺すということに、彼女の繊細な神経は、意志とはべつに容易にふるえをやめないのであった。
ふとももからしたたりおちる血潮のため、土気色をしていた丞馬の顔がかがやいた。彼は、敵討ちに出ながら、めざす敵を殺すのにこれほど|戦《せん》|慄《りつ》するお美也を笑おうとも責めようとも思わない。ひたすらそのなよやかなからだがいたいたしく、その心の明暗に、飼犬のように一喜一憂している。「――ありがとう」といわれて、彼の魂は歓喜にふくれあがった。
「丞馬がついておるかぎり、大丈夫でがす」
|昂《こう》|然《ぜん》と、子供みたいに胸を張った。
そのとき、うしろからちかづいてくる影に、彼はぱっとふりかえると、そのままお美也を盾のようにかくして、
「なんだ!」
と、|吼《ほ》えた。
寄ってきたのは、清河八郎だ。荘重な顔に|老《ろう》|獪《かい》な笑みをたたえて、
「いや、敵ではない。――ただいまは、組の者共が理非もあきらめずばかな|真《ま》|似《ね》をして失礼した。敵討ちときいて、御覧のごとく一同恐縮しているのだから、ここは胸をなでおろしてもらいたい。――ところで、そなたは飛騨の忍者だと?」
「…………」
「実に玄妙といおうか、不可思議といおうか、いま拝見していて、ただただ恐れ入った。とくに、筧の拳銃、たしかに弾はもう一発のこっておったはずなのに、まるで猫に見すえられた|鼠《ねずみ》のようにすくんでしまったが、あれはいったいどうしたのかな」
「…………」
「その秘伝を、後学のため承りたいし――いや、何より、もったいないな、これだけの|技《わざ》をもつ人物を世に出さないのは――。どうじゃ、拙者について江戸へ出られぬか。少しは人に知られたこの清河八郎、決して悪うはせぬが」
「…………」
「是非、われわれの組に加わっていただきたい。承知してくれさえしたら、おぬしの望み、いかようともかなえるべく尽力いたそう」
丞馬はだまっている。一年前なら、彼の両眼はキラキラかがやき出したろう。しかし、いまはむっとふきげんな表情であった。何をいっても、|黙《もく》|然《ねん》としてこちらの顔を見つめているばかりなので、ころんでもただでは起きぬ才物の清河八郎もだんだんうすきみがわるくなってきた様子で、
「いや、いまの騒ぎのあとでは、おぬしから疑心がぬぐえぬのもむりからぬと思うが、なに、この場で決心できぬとあれば、いつなりと――この清河が一旗あげたときいたときは|馳《は》せ参じてくれればよい。われら一同、よろこんで――」
丞馬はちらっと地上の筧伝八郎を見た。伝八郎はいまやピクリともうごかず、完全に息絶えたことはあきらかであった。
あとでかんがえると、丞馬は清河のいうことなどきいていたわけではなく、それを見とどけるまで待っていたらしい。八郎の言葉をみなまで待たず、
「奥さま、|参《めえ》りましょう」
と、お美也をかえりみて、あるき出した。これほど無視されたことははじめてで、容易に怒気を面にあらわさぬ清河も、一瞬むらっと不快な表情に変ったが、さればといってあらためてまた丞馬を敵にまわすタイミングを失った。ましてやほかの浪士連は、完全に気をのまれて、|唖《あ》|然《ぜん》として見おくるばかりだ。そのなかを去る丞馬は、なおなかば喪神したようなお美也の手をひいて、じぶんも、ガックリ、ガックリ、流血の足をひきずってゆくというのに。
あとで、清河はふとわれにかえって、筧伝八郎の屍骸をみた。いつのまにか、手の拳銃がきえていた。
ただひとり、丞馬とお美也のあとを追ったものがある。おゆんであった。
筧伝八郎の風上に立って、丞馬から託された髪を風にはなしたのは彼女である。しかし協力者たる彼女自身が、さっきその髪の怪異をみたにもかかわらず、それが伝八郎にいかなる魔力をおよぼしたか想像もつかなかった。ただことのなりゆきを茫然と見まもっているばかりであった。
そして、丞馬は去ってゆく。あきらかにおのれも重い傷をうけているらしいのに、なお美しいあの女を、うやうやしくかばうように、護るように。――
「丞馬さん」
鵜沼の|宿《しゅく》の入口で、おゆんはやっとよびとめた。
丞馬はふりむいた。いままで彼女がついてきていたのをはじめて気づいたような表情に、おゆんは歯をくいしばった。
「おまえ、まだいたのか」
「丞馬さん、ひどい!」
丞馬はおゆんの身もだえもさけびも、まったく眼にも耳にも入らないもののように、
「そうだ、おまえにききてえことがある」
「…………」
「いまあの清河八郎にきこうかと思ったが、あいつは腹に何やらものをかかえている人間らしいから、やめた。どうやら、いま新徴組のなかに、ほかの四人はいなかったようだが」
「ほかの四人?」
「おまえ、|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》右近、|宇《う》|陀《だ》久我之介、|鴉田《からすだ》門五郎、玉虫兵庫という男を知らねえか?」
「烏帽子……宇陀……知ってるわ。みんな、あの筧さんと仲間の方たち……」
「そいつはどこにいる?」
「あのひとたちは京にのこりました」
「なぜ?」
「新徴組が江戸にかえるのに不服で、京にのこった人々といっしょに」
「いってえ、何をするつもりなんだね」
「わたしにはわからないわ。わたしたちが京を出る日に、宿の表門に、松平肥後守|御預《おあずか》り新選組、と大いばりでかいた|檜《ひのき》の板を打っていたけれど」
「宿はどこだ」
「京の|壬《み》|生《ぶ》|村《むら》、八木という|郷《ごう》|士《し》の家です」
それっきりだ。丞馬はだまりこんだ。
もともとから、口の重い男である。それに彼は、敵がそこにいる、ときけば、彼らが何をしていようが、そこがどんな場所であろうが、意に介するような人間ではない。それよりも丞馬は、お美也がふたりの問答もきいていない風で、暗い顔でうなだれてあゆんでいるのに気をとられた。
お美也は、筧伝八郎の死にまだおののいていたのではない。彼の最後の苦鳴、こぶしにはねかかってきた熱い返り血はまだ脳膜にねばりついているような気がするけれど、それはさすがに敵討ちという厳粛な目的意識でねじ伏せる。それよりもなおむごたらしい夫主水正の死にざまが、波のように彼女の心を覆うのだ。
しかし、その壮烈な使命感の底から、きみわるく彼女の心にからみついてくるのは、筧伝八郎が討たれる直前に発した「お美也どの、ゆるして下されい。みんなあなたのためでござる。あなたを主水正に奪われたくやしさから――」というへんに真実味をおびた声であった。
いまにして、思い出す、主水正の通夜の夜に、ひとりおとずれた烏帽子右近が、
「……主水正が死んだのはいたましい。しかし、正直にいおう、それを知ったとき、私の心をかすめたのは、名状しがたいよろこびであった。……私はあなたが好きであった。私があなたをお嫁にもらいたかった。……」と訴えた言葉を。――あのときは、ただじぶんはかっと怒りにもえたった。いや、いまでも、夫を殺した当人がぬけぬけとあのような恥しらずの言葉を吐いたのかと思うと、なおさらくやしさにからだはふるえ、右近の|鉄《てつ》|面《めん》|皮《び》な|奸《かん》|悪《あく》さには吐気をおぼえるようだ。――しかし、それにもかかわらず、いまの伝八郎の声に重なって、右近の声が――ふたりの男の声が、お美也の鼓膜にぶきみに粘着してきて、彼女を魂のふかいところからおびやかしはじめたのであった。
「……みんなあなたのためでござる。……」
夫を殺したのは、じぶんなのか?
いいえ、いいえ! そんなことがあるものか! お美也は必死にくびをふる。それでも彼女の顔にかかる雲は、刻一刻と暗さをましてゆく。――じぶんでもどうしようもない罪の意識がはじめて彼女をとらえ、彼女をさいなみ出したのだ。
お美也は、丞馬のことをかえりみるいとまがなかった。丞馬はときどきちらっとじぶんのふとももを見た。いちど、腕のない袖をひきちぎってしばったが、その布も、もはや血泡にひたっているようだった。いくどか彼はたちどまろうとした。しかし、すぐに、お美也が物想いにふけってあるいているのに歩をあわせて、おなじようにトボトボとあるきつづけた。
敵の声に耳をうばわれているお美也が、丞馬を忘れているように、丞馬もまた、お美也を不安の眼でくるんで、はるかうしろをついてくるおゆんのことを忘れていた。
鵜沼を西へ数丁、やがて街道は|各務《かがみ》|野《の》をとおる。ただみわたすかぎり茫ぼうと春草のふきなびく|曠《こう》|野《や》だ。
それ以前から、まえをゆくふたりの背に眼をすえてあるいていたおゆんが、このときふところから、黒く鈍くひかるものをとり出した。それは筧伝八郎の|屍《しかばね》がにぎりしめていたコルトであった。
それをとるとき、伝八郎の指とひきがねのあいだに、髪の毛がからみついていて、それがさっきじぶんが風にはなした丞馬のものらしいとは感じたが、むぞうさにもぎとれたし、その髪の魔力を知らないだけに、むぞうさにとれたことにも彼女はなんの不思議さえもおぼえなかった。
おゆんはついに、丞馬の心がすっかりじぶんをはなれたことをみとめた。彼があの美しい女に、全身全霊をあげていることをはっきりと思い知った。
彼女の指は、拳銃のひきがねにかかっていた。彼女はさっき清河八郎が、「たしかに弾はもう一発残っていたはずなのに――」とふしぎがった声をきいている。彼女自身、筧伝八郎の最後の姿勢から、彼が射たなかったことがわけがわからないのだ。――射てば、弾は出るのだ。彼女が射って、それがあたるかどうか――しかしおゆんは、伝八郎の射撃ぶりはいままでにいくどかみたことがあるし、拳銃は狙いをつけて発射すれば、あたるものと単純に思いこんでいた。
おゆんは拳銃をあげた。安全装置はもとよりはずされたままであった。彼女は狙いをさだめた。――むこうにふたりならんであるいてゆくお美也の姿に。
そのときだ。おゆんの耳たぶに、|※[#「※」は「颱」の「台」を「炎」にしたもの。Unicode=#98B7]《ひょう》と風の音が鳴った。
「おゆん」
風のなかに、丞馬の声がきこえた。
「あぶないところだった」
「丞馬さん!」
思わずさけんだ。丞馬の姿が遠くあの女といっしょにあるいてゆくのを眼にしながら、彼女はキョロキョロあたりを見まわした。まわりはただ春のあかるい草原だった。が、丞馬の声は、ぎりっと歯ぎしりの音すらまじえて、すぐ耳もとで、
「とんでもねえ奴だ。おれを狙うのなら、まだいいが――」
「丞馬さん、ゆるして――でも、わたしはあの女を生かしてはおけない!」
「おれもおまえを生かしてはおけない」
「…………」
「お美也さまに害をあたえる奴は、|虻《あぶ》一匹だって、おれはゆるさねえのだ」
「ちくしょう」
「おゆん、可哀そうだが、死ね」
おゆんはもう声が出なかった。いつのまにか、その白いくびに十幾すじかの髪の毛がからみついて、つりあがった眼に、なお|虚《こ》|空《くう》の春光のなかを、キラキラと銀のごとくひかりつつ舞ってくる無数の髪がうつった。風は西から吹いてくる。拳銃をおとし、両手でこれをはらいのけようとしたが、それは肉にくいこみ、さらにかきむしる指にも針金みたいに巻きついている。――
苦鳴もあげ得ず、もだえながらよろめいて、草のなかへたおれ伏した女を、もとよりお美也は知らなかった。ただ彼女は、丞馬の口が、ぽっ、ぽっと、例のかすかに煙を吐くような音をたてているのにやっと気がついた。
「丞馬、どうかしたのかえ?」
「いいえ、どうともいたしましねえ」
平然とした表情である。お美也はしかしその顔をはじめてぎょっと見まもって、
「でも、顔色がひどくわるいわ。――あっ、おまえの足、たいへんな血ではありませんか。そう、さっき伝八郎に射たれた傷ですね。これは、どこかで休んで手当をしなければ!」
と、急にあわて出した。
おなじころ、ずっと西を、はだか馬に狂気のごとくしがみついてにげてゆく男があった。馬は往来の百姓からうばったもので、男は中西半兵衛である。ゆくては、京の壬生。
春の夕立ちがくるらしい。
|渺《びょう》びょうと鉛色にかすむ眼下の湖から吹きあげてくる冷たい風に、瓢箪が鳴っていた。七つ八つ、ひとつにたばねて軒につるしてあるのだが、どれもつやつやと赤くひかって、いい色をしている。
「瓢箪をひとつ欲しいのだが」
そういって、その茶店に入ってきた旅人に、茶店の婆さんは、
「まあ、茶でものんでゆきなされ」
と、すすめてから、軒の瓢箪をとりおろして、そのかたちや枯れ具合をさんざん自慢しはじめたが、そのうちふっとだまりこんだ。旅人はふたりだ。ひとりは武家の妻女風で、ひとりはその若党らしい。その若党が、瓢箪をくれ、といったきり、あまりものをいわないので、ふとその土気色の顔をみて、おやこのひとは病気かしらん、とはじめて気がついたのである。
だまって、瓢箪をひとつひとつ調べている若党を、女も不安そうに見つめていたが、
「おまえ、傷がいたむかえ?」
「いえ、傷はもうだいぶよくなっております」
と、若党は笑って、やっと望みの瓢箪がみつかったらしく、それに水をいれさせて、腰にぶらさげると、婆さんに金をはらってたちあがった。
「婆さん、あれが|琵《び》|琶《わ》|湖《こ》だな」
「左様でございます。よい眺めでござりましょうが」
「あの向うに京があるのだな」
「左様でござります。京までは二十里でござりますが、中仙道ではここがいちばんのおしまいの難所でござりまして、この峠をこえれば、あと山坂はござりませぬ。まあ、ゆっくり休んでゆきさっしゃれ」
|近江《おうみ》の|磨針峠《すりはりとうげ》の山中にある|番《ばん》|場《ば》の|宿《しゅく》だ。|断《だん》|崖《がい》の果て、西の方に琵琶湖が|俯《ふ》|瞰《かん》され、風景はすばらしいが、わびしい寒駅である。旅人はいうまでもなくお美也と乗鞍丞馬であった。
鵜沼からここまで十五、六里、彼は苦痛にたえて旅をつづけてきた。ふとももの銃創は実際にこの二、三日あまりのあいだに急速によくなってきていたのだ。それは常人ばなれした彼の体質のせいらしい。それなのに、傷以外のあちこちの筋肉が妙にいたみ、こわばるような感じがする。丞馬はそれをじぶんでも奇怪に思っていたが、お美也に心配をかけたくない一心で、むしろお美也よりさきに立ってあるいてきたのだが――
「ほんとうに丞馬、もう日もくれます。それに、雨でもきそうな空模様だし、いっそ今夜はこの宿場に泊ってゆこうではないかえ?」
と、お美也がいうのに、丞馬は、
「奥さま、めざす京はすぐそこでがすぞ。一日でもはやく、一足でもちかく敵のところへまいらねば」
と、|叱《しか》りつけるようにいって、ちんばをひきひき、茶店から出ていった。
そのとき、西の峠の頂上から逆おとしのようにかけてきた三|挺《ちょう》の|山《やま》|駕《か》|籠《ご》のうちのひとつから、
「あっ、丞馬さんっ」
と、きぬをさくような声がつっぱしって、そこから|豊《ほう》|艶《えん》なかたまりがころがりおちた。
丞馬はたちどまった。駕籠からおちた女は、そのまままろぶようにはしってきて、丞馬に抱きついた。
「やっぱりそうだった! 中西さんのうそ[#「うそ」に傍点]かもしれないと思っていたけれど、やっぱりほんとだった! うれしい、丞馬さん!」
「お藤か」
丞馬は重い声でいった。お藤は身もだえして、
「おまえはやっぱり生きていたのね。おまえが死ぬわけはないと思っていたけれど、一体なんのためにこんなところにいて、どこにゆくつもりだったの? ああわかった。わたしが京にいるときいて、わたしのところにくるつもりだったのでしょ?」
お藤は、高山の茶屋の娘であった。大柄なからだが、たわわな|白《はく》|牡《ぼ》|丹《たん》のようにからみつくと、涙と汗でむせかえるような体臭が、雨気をふくんだ空中に花粉のごとくばらまかれる。飛騨にいたころ、肉の|蠱《こ》|惑《わく》という点では丞馬をいちばんひっとらえた女であった。
しかし、丞馬はむっとふきげんな顔で、
「うるさい、どけ」
と、はねのけようとした。――よろめいたのは、丞馬の方だ。それほどお藤の力がはげしかったせいもあるが、丞馬はあきらかにじぶんの筋肉の異常をおぼえて、心中愕然とした。
「うるさい? おまえ、何をいうの。まあ、わたしがはしってきたというのに――」
お藤は、まだお美也に気がつかない。壬生へかけつけてきた中西半兵衛が、女がどうとか、堀甚十郎や筧伝八郎がこうとかいっていたけれど、そんなことはみんな忘れた。彼女はただ、乗鞍丞馬が中仙道を京へやってくるということだけをきいて、夢中で京をとび出してきたのだ。
「あいたかったわ、丞馬さん!」
と、いよいよとりみだしてしがみつく女に、丞馬は歯をくいしばりつつ、なおよろめく。
その丞馬めがけて、もうひとつの山駕籠にのせられた銃口が鈍くひかった。すらりとなめらかに長い銃身――最新鋭のシャスポー銃――それを肩にあてて、じっと狙いをつけた蒼白い顔は、宇陀久我之介であった。
――木曾川のほとりの激闘を、浪人群のうしろからへっぴり腰でのぞいていた中西半兵衛が、堀甚十郎をはじめとしておびただしい浪士、はては筧伝八郎までが丞馬のために殺戮されるのをみるにおよんで、まっさきににげ出し、百姓のはだか馬をうばって京へはしったのは、もとより壬生の居残り組に救援をもとめるつもりであったが、京に入るとともに、そのきもちがやや変った。
気がしずまってみれば、当然のことだ。お藤をうばった居残り組の隊長|芹《せり》|沢《ざわ》|鴨《かも》がじぶんに加勢してくれようとは思われないし、清河八郎に|反《はん》|撥《ぱつ》してのこった新選組のめんめんが、新徴組の応援に出かけようとは思われない。
それよりも、このごろすっかり芹沢のもの[#「もの」に傍点]となったお藤を、お藤だけを、うまくつれ出す好機はいまだ、と思いついたのである。果たせるかな、乗鞍丞馬が生きていて、中仙道を西へやってくる、といっただけで、それは半兵衛自身もあっけにとられたほどのききめをあらわした。彼女はとびたつように、半兵衛について壬生を出てきたのだ。
そうなると半兵衛は、してやったりと有頂天になるわけにはゆかない。なんとしても、あの丞馬めをここで討ち果たさなければならぬ。しかし、丞馬の手並をあらためて思い知らされた半兵衛には、むろんその自信はない。――
彼が壬生にかけこんでいったのは、ちょうど夜であった。ひるまなら、ものもいわせずつまみ出されたかもしれないところだが、幸か不幸か、芹沢をはじめ、居残り組の連中の大半は、島原へおし出していったとかで、|屯《とん》|所《しょ》はほとんど無人であった。その中に、ただひとりぽつねんと坐って、銃の手入れをしている宇陀久我之介の姿が眼についた。
それをみたとき、半兵衛は、これだ、とひざをたたいたのである。江戸から新徴組といっしょにやってきた五人の旗本は、のちに筧伝八郎こそ清河とうまがあったらしいが、あとの四人は清河を冷やかに見おくったのみだ。
といって、新選組に同心したのでもないらしい。ただなぜか江戸にかえれぬ事情があるから居残ったものらしく、そのくせなんとなくお高くとまっているが、なかでもこの宇陀久我之介という鉄砲の名人はとくに変っていて、よくいえば天才的な孤高さをもち、わるくいえばエキセントリックで、虚無的な風貌をもっている。そのくせ、ときどき仲間の玉虫兵庫という男や、芹沢鴨にもおとらぬ兇暴さが、ちらっちらっとそのきれながの眼にひらめくから、だれもうすきみわるがってあえてちかづくものもなかったが、この男に丞馬のことを話して、あの忍法に対する彼の好奇心と、銃についての腕前を|煽《せん》|動《どう》してみたら――と、突然思いついて、彼にもちかけてみたところが、これまた半兵衛自身がおどろくような激烈な反応があった。
「なに、乗鞍丞馬?」
かんばしった声で、久我之介は片ひざたててさけび出したのである。
「きゃつに、筧が殺されたと?」
その語調から、はじめて久我之介も丞馬を知っているのではないか、と気がついて、半兵衛はその疑問を口にした。しかし久我之介はその問いにはこたえず、逆に、
「その丞馬と申す奴は、ひとりであったか」
と、きいた。
「いや、女――世にもまれな美女――武家の妻女風の女といっしょだったようでござる」
という返事に、久我之介はだまりこんで、じっと燈心をみつめていたが、ふいにその眼が凄じい笑いをおびてかがやき出すと、
「よし、参ろう」
と、シャスポー銃をとってたちあがったのである。その手並は知っているが、筧伝八郎のあまりにもあえない最期を目撃しているだけに半兵衛はふっと不安になり、
「ほかの方々はよろしいのでござるか」
と、きいたのは、烏帽子右近、玉虫兵庫、鴉田門五郎たちのことだ。宇陀久我之介は声もなく笑って、
「あれらはいまごろ、島原の|太《た》|夫《ゆう》を抱いて|旨寝《うまい》をむさぼっておろうに、たたき起すのはきのどくじゃ。そうでなくとも、おれひとりで、結構」
と、すうといとしげに銃身をなでた。
三挺の駕籠は、それぞれ三つのはやりにはやる思いをのせて、こうして京から|逢《おう》|坂《さか》|山《やま》をぬけ、湖畔をはしって、磨針峠をかけのぼってきたのである。
シャスポー銃は音もなく丞馬に狙いをつけた。
しかし宇陀久我之介は、最初から丞馬をみるより、ちらと茶店のまえの女を眼に入れている。お美也だ。――彼女とあの若党が江戸から姿をけした理由、目的はしばしば仲間で話題になったことであったから、半兵衛から「丞馬が美しい女とともにいる」ときいたとき、さてこそ、と心中色めきたった久我之介だ。お美也をみておどろきはしないつもりであったが、しかしお美也も知らない山駕籠のかげで、その顔が奇妙な憎悪にねじくれている。ちょうど木曾川のほとりで筧伝八郎がみせた表情そっくりに。
けれど、銃口が一分、二分ためらったのは、その波立つ心のせいではない。たとえ心が狂おうと、銃口だけは狂いのない宇陀久我之介だ。それはただ丞馬にむしゃぶりついてさわぎたてているお藤のせいであった。お藤がじゃまになるのだ。この場合、丞馬が彼女をつきはなすことができないらしいのが、かえって都合がわるかった。
「おい」
と、彼はいらだたしげにうめいた。
「あの女を、ひきはなせ」
もう一挺の駕籠の外に立って、お藤の狂態を茫然としてながめていた中西半兵衛は、久我之介にそういわれて、われにかえってかけ出そうとしたが、さすがに丞馬の怪腕を思い出して二の足をふむ。
「あの女と、重ね射ちにしてよいか?」
「あっ、それは――お待ち下さい」
と、半兵衛は狼狽して、
「それでは、ゆきますが、もし丞馬が拙者に襲いかかるようなときは、鉄砲はまちがいなくたのみ申すぞ」
抜刀して、たたたたとかけ出しながら、わめきたてる。
「お藤っ、はなれろ、はなれないか!」
「はなさない、おまえこそ、あっちへおゆき」
「ばかっ、はなれないと、そのまま|串《くし》|刺《ざ》しにするぞ」
「おやり、丞馬さんと串刺しになれば、わたしは本望よ」
そのとき、お美也がはしり出した。手に懐剣をぬいている。ようやく山駕籠のかげの宇陀久我之介とその鉄砲を発見したのだ。
|轟《ごう》|然《ぜん》と弾は発射されている。久我之介めがけて真一文字にはせよろうとしていたお美也は棒立ちになった。こぶしの懐剣はみごとに粉砕されていた。
「お美也どの、危い」
と久我之介は|陰《いん》|鬱《うつ》にいった。
「あなたにこんなことはしたくなかったが、やむを得ぬ。それはあとで、ユックリわびるとしよう、そこをのきなさい」
狂気のごとく、丞馬はお藤をはねのけていた。鉄砲の音にきもをつぶしてお藤が口をぽかんとあけていたせいもあるが、はねのけるにははねのけたものの、丞馬はがくと|膝《ひざ》をついた。――たんに|憔悴《しょうすい》とばかりはいえない何やら異常なものが、彼の肉体を襲いつつあることはあきらかであった。それっきり、彼は起てないのである。もがきながら、さけんだ。
「奥さまおどき下せえ」
「いいえ、いいえ! 死ぬなら、いっしょに!」
お美也は丞馬の方にまろびよって、その上に身をなげかけて、久我之介をにらんだ。
「悪魔!」
久我之介はあごをしゃくった。
「おい、その女もどかせろ」
「おう」
中西半兵衛はお美也にとびかかった。お美也は猛烈に抵抗したが、たちまちずるずるとひきはなされようとする。ぽつり、と峠の上の土を雨粒が打った。とみるまに、銀の糸がななめに空中をはしり出す。ついに夕立ちがきたのである。
乗鞍丞馬は名状しがたいうめきをあげながら、地上をのたうちまわっていた。恐ろしい筋肉痛が全身を|痙《けい》|攣《れん》させている。――丞馬自身わけもわからなかったが、これは筧伝八郎から受けた銃創が原因で、恐るべき破傷風にとり|憑《つ》かれたものであった。
「あっ、丞馬さん、どうしたの?」
と、驚愕してお藤がむしゃぶりつく。
|沛《はい》|然《ぜん》たる雨の中に、二組の男女のもつれあいを、宇陀久我之介は冷然とみていたが、やがてその蒼白いひたいにすうと|癇《かん》|癖《ぺき》のすじがはしった。ぐいとシャスポー銃をとりなおす。お藤もろとも、丞馬を射ち殺す決心をしたのだ。
背後に|鉄《てっ》|蹄《てい》の音をきいたのはそのときであった。うるさげにふりむいて、宇陀久我之介はさすがにはっとなった。
雨のなかに白い息を吹いてかけつけてきたのは五頭の馬だ。泥をはねあげてとまった馬から、五人の男がばらばらととびおりた。新選組頭領格の芹沢鴨と、その腹心の|新見錦《にいみにしき》、野口健司、平山五郎、|平《ひら》|間《ま》重助のめんめんである。
「こんなところまでにげおったか」
と、芹沢はわめいた。久我之介を無視して、火のような眼でお藤と中西半兵衛をにらみつけながらちかづいてくる。お藤と半兵衛は、丞馬とお美也からとびはなれて、恐怖の眼でたちすくんでいた。
「お藤、よくもわしを裏切ってにげおったな。あとでかならず|折《せっ》|檻《かん》してくれるぞ」
お藤は声も出ない。この男の憤怒しやすく憤怒すればきっと人を斬る兇暴性は日ごろいやというほど見せつけられているからだ。
「中西っ」
芹沢は絶叫した。半兵衛は猫ににらみすえられた|鼠《ねずみ》のようだ。
「うぬがお藤をつれ出したことを島原に注進してくれた奴がなかったら、まんまと飼犬に手をかまれるところであったわ。おれの女を盗むとは、いや世にもあつかましい奴」
半兵衛にいわせれば、彼は芹沢の飼犬どころではない。それどころか、女をとられたのは彼の方だが、ただ両足をふるわせるばかりで、声はおろか、身うごきもできなかった。――芹沢は刀の柄に手をかけた。
「あいや、待たれい」
と、宇陀久我之介はたまりかねてさけび出した。
「かけおちではない。実は、われら三人の――か、敵が京へやってくるという中西君の知らせで、そやつを討ちはたすためにいそぎまかり越した次第だ」
そして、新選組の名だたる五人も、事によったら敵にまわそうとあえて恐れぬ殺気をみせて、
「そやつを討つまで、そこに立ってご見物あれ」
と、|三《み》|度《たび》シャスポー銃をとりなおした。
「敵? どこに、何者がおる?」
けげんな芹沢の声に、雨中を見すかして、宇陀久我之介はあっとさけんだ。
断崖のはしに、|朦《もう》と水煙のようなものがただよっている。雨しぶきではない。それは霧の一塊のごとく白くけぶって、みるみるあたりにひろがり、うすれてきた。しかし、そこにいたはずの丞馬とお美也の影はなかった!
「やっ?」
久我之介は|崖《がけ》の方へはしって、のぞきこんだ。眼下の湖水へつづく|灌《かん》|木《ぼく》、樹海は、おりから急にはげしくなった雨にゆれ、ざわめき、けぶっていた。そのとき思いがけず、久我之介の耳で、ひきつれるような男の声がおどろおどろとひびいたのである。
「――宇陀久我之介、かならず敵は討つぞ」
「うぬ!」
立ちすくんだとき、背後で凄じい絶叫がきこえた。芹沢鴨が中西半兵衛を|西《すい》|瓜《か》のように斬ったのである。
|京洛《きょうらく》幻法篇
文久三年三月、京洛の一角に|呱《こ》|々《こ》の声をあげた新選組は、みるみる怪物に成長した。――人間の血を吸って。
清河八郎とわかれてここにとどまったころは十数人であったが、たちまち四、五十人となり、百数十人となる。しかし、京市民の胆をひやしたのは、その隊士の増加ぶりより、彼らのむちゃくちゃなあばれぶりであった。
むろん、時勢もそうさせた。五月、|長州《ちょうしゅう》は馬関の黒船を砲撃してかえってその痛撃をくらい、七月、薩英戦争が起って鹿児島は|灰《かい》|燼《じん》に帰した。長州、薩摩の動揺はいうまでもないが、|攘夷《じょうい》か開国か、尊皇か佐幕か、その渦の中心たる京はにえくりかえるような騒ぎだった。八月には|天誅組《てんちゅうぐみ》が|大和《やまと》に挙兵し、京では禁門の政変が起って、長州の勢力は完全に|潰《つい》えた。
この動乱のなかに、新選組の、白字で「誠」と染めぬいた|真《しん》|紅《く》の隊旗がほこらしげにひるがえっていた。市中の混乱に手をやいた京都守護職や町奉行が、その治安を新選組に命じたからだ。しかし人々には、その真っ赤な旗が、血に染まったようにみえた。市民にとって、浅黄地の袖にだんだら染めを染めぬいた制服羽織は、信頼よりも恐怖の的であった。
島原の|角《すみ》|屋《や》で、酒宴のはてに取扱いが気にくわぬといって、家中めちゃくちゃにしたあげく、営業停止を申しつけた事件がある。大坂で|角力《すもう》と喧嘩をはじめて、二十人以上もの力士を斬った事件がある。|葭《よし》|屋《や》|町《まち》一条通りの豪商大和屋に金銭の|強請《ゆすり》にいって、ことわりをうけると、その夜のうちに大砲までもち出して焼討ちにかけ、火消がくると銃撃するといった言語道断な事件がある。
火炎を背に、大屋根につっ立ってゲラゲラ笑っている大兵肥満の壮漢の顔は、人々に悪鬼としか思われなかったが、それが隊長の芹沢鴨だときいて、みんな口もきけなくなった。――これらの大暴行の張本人は、すべて芹沢だったのである。
しかし、ふるえあがったのは市民だけではない。守護職の方も、とんでもない狂人に治安を命じた、と顔をしかめたし、まもなくその内意を受けて、隊士のうちでもこの物騒な首領をたおそうとする計画が密々のうちにすすみはじめた。その首謀者は、近藤勇であったが、さすがの近藤も、相手が血まみれの|火《か》|薬《やく》|樽《だる》みたいな剣鬼だけに、容易には手が出せなかった。
陰鬱に曇った秋の午後であった。|壬《み》|生《ぶ》|寺《でら》の境内に三門ばかり大砲をならべて、それにとりついた隊士たちを|叱《しっ》|咤《た》しているのは、玉虫兵庫であった。
剣をとっては自信満々たる隊士連も、機械にはまったく弱い。汗びっしょりになって青銅の怪物にしがみついている麻羽織の背に、びゅっと鞭がうなり、
「ばかっ、愚物っ」
と、遠慮のない|罵《ば》|声《せい》がとぶ。
江戸の越中島の調練場で、砲術師範をしていたときいている玉虫兵庫だから、隊士もぐうの|音《ね》も出ないが、それよりも彼らを犬みたいに|易《い》|々《い》として従わせているのは、この男のおもてもむけられぬ|精《せい》|悍《かん》さであった。事実、大和屋焼討ちのさい、相手は一商家というのに、わざわざこれらの大砲をひきずり出して、「これも調練じゃ、やってみい」と砲撃させたのは、この兵庫なのである。
といって、芹沢の暴挙に手をうっておどり出した気配でもなく、屋根の上から満悦の言葉をなげた芹沢をじろっと見あげただけで、知らぬ顔をした兵庫を隊士たちはみている。もっとも、これは兵庫にはかぎらない。あと三人の仲間の旗本もおなじで、彼らはみな新選組を見下げ、何やらほかのことに心をうばわれている風に見えた。
「兵庫」
と、その三人の仲間がいそぎ足で山門をくぐって入ってきた。そのうちのひとりが何やらささやくと、兵庫の頬がぴりっとうごいて、
「そうか、よし」
と、うなずいて、ふりむき、
「調練止め、砲をしまえ」
と命じた。
隊士たちが大砲をひいて去るのを見おくって、
「今夜か、どこで?」
と、さすがに声を殺していう。
「今夜、屯所にかえる途中を」
と、いったのは宇陀久我之介だ。鴉田門五郎がくびをかしげて、
「いや、わしもいま守護職のところからかえったばかりで、くわしいことはまだ知らぬのだが、島原からかえるのが芹沢ひとりならよいが、仲間がおろう。平山とか平間とか――」
「それは近藤一派にまかそう。近藤らがこわがるのは芹沢だけで、おれの仕事は芹沢の胸板に穴をあけることだけよ」
と、久我之介はうす笑いした。
芹沢暗殺の話なのである。――彼らは芹沢近藤両派の暗闘には興味がなく、それどころか大和屋を焼いたとき、火消を鉄砲で射って面白がっていたくらいの久我之介であったが、芹沢を消せ、という密命が守護職、町奉行の方から出ていると知って、彼らはそのクーデターの陰謀に加わったのである。
「まさか大砲を射つわけにもゆかぬな」
と、玉虫兵庫は苦笑して、
「この件は宇陀にまかす。うまくやってくれ。守護職の望みをかなえてやれば、こっちの依頼もきいてくれるかもしれぬ。いまの世上のさわぎでは、女ひとり公儀の手でさがしてくれとは申しにくいが」
「ところで右近、やはりきょうも見つからなかったであろうな」
と、宇陀久我之介がいった。
「うむ」
と、烏帽子右近がうなずく。あいかわらずの美男ぶりだが、その秀麗な頬に重い疲れのかげがあった。ひくくつぶやいた。
「宇陀がこの春、あのふたりを近江の|磨針峠《すりはりとうげ》でみたと申してから、もはや半年になる。わしたちを敵と狙っているのなら、そのあいだにちらとでも姿をみせそうなものなのに、いったいどうしたのか?」
それはまったくふしぎであった。はじめ宇陀久我之介からそのことをきいたとき、あとの三人は驚愕した。そして、一ト月ほどは風の音にも耳をそばだてた。しかしそれ以来、お美也と丞馬の消息がぷつりときれたままなのに、かえって焦燥しはじめ、はては待ちこがれ出したのだ。――むろん、丞馬をではない。お美也をだ。
じぶんたちを|敵《かたき》と狙う恋する女!――それは彼らすべてにとって、身ぶるいするような魅惑であった。
そして、とうとう彼らは毎日交替で京の町々を、お美也をもとめてさがしあるいてきたのである。九分九厘まで京にいるにちがいないと思われるのだが、しかしそれは見つからず、ついに兵庫のごとく公儀の手によっても探し出してもらいたいと思うまでになっていた。
「あれたちは、敵討ちをあきらめたのではないか?」
と、久我之介がいい出した。そして、三人の凝視に顔をゆがめて、
「あの下郎は、お美也どのに惚れていると右近は申したな」
「だから、どうしたというのだ」
「主人の妻女と下郎とはいえ、女と男、旅のあいだに妙なことになり、手に手をとって――」
「たわけっ」
兵庫のこぶしがうなって、久我之介の頬に音をたてた。ふしぎなことに久我之介はよろめいただけで、いまじぶんの口ばしった言葉におびえたようにかんがえこんでいる。打った兵庫も、あとのふたりの顔にも、苦しいほどの恐怖と嫉妬と焦燥の色がはいのぼった。
「宇陀、やはり芹沢を片づけるかわりに、公儀の探索をたのめ」
と、兵庫が地だんだふんだ。鴉田門五郎がふいに顔をあげていった。
「それもやむを得ぬが――しばらく待て。城で勝の姿をみた」
「なに、勝安房の?」
「あとで、ひとにきいたら、きのう神戸村からやってきたということだ。何の用件かは知らぬ。ただ城のお廊下で、おれとふいにゆきあって、みな健在か? どうじゃ心をいれかえて神戸に軍艦の勉強にこぬか、と澄ましていいおった」
三人が鼻白んだとき、山門の方からけたたましい声がきこえた。
「宇陀さん、ちょいと」
ふりかえると、芹沢の色おんなのお藤だ。たったいま芹沢暗殺の話をしていただけに、四人ははっとしたが、門から入ってきたのはお藤だけでなく、ひとりの|大《お》|原《はら》|女《め》といっしょで、そのまわりを三、四人の隊士がとりかこんでいる。
「この女がねえ、いまこのあたりをうろうろしているのを見つけて、組の方々につかまえてもらったんだけど、これア宇陀さんの知ってる女じゃない?」
四人はしばらく棒のように立ったままであった。
白い|頭《ず》|巾《きん》に秋の花をいただき、|赤《あか》|前《まえ》|垂《だれ》の|可《か》|憐《れん》な大原女は、お美也にまぎれもなかった。
磨針峠で死力をふるって|水《すい》|紗《しゃ》幻法をつかい、からくも危地をにげのびた丞馬とお美也は、ようやくちかくの村までたどりついたが、そこで丞馬はたおれた。
一ト月あまりその村にくらし、なんとか丞馬があるけるようになると、ふたりは京に入って、北白河の|旅《はた》|籠《ご》に宿をとった。
山かげの、|竹《たけ》|藪《やぶ》につつまれた旅籠の半年ほど、丞馬にとって苦しいものはなかった。
破傷風という病気は、いまでさえ恐ろしいもののひとつだ。全身の筋肉に凄じい|強直《きょうちょく》と|疼《とう》|痛《つう》の波がわたり、病者は弓のごとくそりかえる。|咀嚼筋《そしゃくきん》の強直のため、歯は音たてるばかりにくいしばられて水一滴ものめず、|肋《ろっ》|間《かん》|筋《きん》の強直のため、吸った息は吐くことができない。しかも意識はすこしも侵されないので、強壮な男といえども叫号せずにはいられない。ともかく命があったのが、たとえ異常な生命力をもつ彼の体質のせいにしても|奇《き》|蹟《せき》といってよかったのだ。しかし、丞馬を苦しめたのは、病気そのものではなかった。この|大《だい》|苦《く》|患《げん》のなかには、一脈の不可思議な甘味があった。
けんめいにみとってくれるお美也の姿だ。彼女はおろおろととりすがり、涙をいっぱいたたえて彼を見つめているかと思うと、雨の夜でも医者のところへはしっていったり、丞馬の望むものを買いにいったりした。
「奥さま……すみましねえ」
丞馬は片手をあげておがんだ。
「もったいのうがす」
お美也さまにものを食べさせてもらい、からだをぬぐってもらう。それは夢にすらみたことがなかった。彼女の手がふれるたびに、病気はなおっても、彼は|痙《けい》|攣《れん》を起しそうであった。
丞馬のからだに幼児のように甘い血がながれ、すこしやつれたお美也の顔には、母性的な神々しさがただよっていた。
恐ろしかったのは、その病気が快方にむかってからだ。京に暑い夏がきていた。|四《し》|明《めい》|岳《だけ》にかかる夏雲とともに、丞馬の血が|醗《はっ》|酵《こう》したように泡立ちはじめたのは、その|癒《い》えつつある肉体のせいであったろうか。お美也の|看病《みとり》に|狎《な》れたせいであったろうか。それとも、夏の暑さに花ひらくことをふせぎ得ない肌の香のゆえであったろうか?
日毎、夜毎、熱はないのに、丞馬は高熱患者のような苦悶にあえいだ。しかも、彼は、その燃える血を、お美也への恋のゆえだとは思わなかった。それは断じてみとめることのできないタブーであった。
彼は、お美也をみるたびに心臓も苦しくなる思いを、じぶんが彼女の敵討ちをはばんでいるいまのざまのせいだとかんがえた。敵は京にいる。敵はいま京に猛勇ぶりをとどろかせている新選組の中にいる。それを眼前にみつつ、助太刀にきたはずのじぶんがお美也の足をとどめている!
歯ぎしりしても、彼の腕はまだこわばりをのこし、あるくと足はよろめいた。これであの四人とたたかえるか? おそらく彼らをまもるであろう百数十人の新選組とたたかえるか?……丞馬はおのれのいのちはおしまない。しかし、お美也のためにおしむのだ。じぶんが死ねば、明白に、お美也は返り討ちの運命しかない。したがって、丞馬は彼女をひとりではなちやることもできなかった。
突然、破局的な事件が起ったのはその苦しい夏がすぎた秋のある朝のことだが、しかしすべての原因はこの半年のあいだに醸されたことであった。
ふいに枕もとに入ってきて坐った大原女をみて、丞馬は息をのんだ。お美也は花の下で笑っていた。
「ど――どうなさったのでがす?」
「壬生へいってみようと思って」
「壬生へ!」
さけんだきり、丞馬は口もきけなかった。お美也はくびをふった。
「敵のことをおまえがあまり気にして苦しむから、いちどわたしが様子をみてきます。はっきりあの四人が、そこにいるとわかったら、おまえも安心するでしょう」
「い、いけましねえ、奥さま!」
「なぜ? わたしひとりではあぶないというの? いいえ、丞馬がしっかりとなおらないうちは、わたしも歯をくいしばって待っています。ただ、さぐりにゆくだけなの。そのために、きのう知り合いの大原女からこのきものを借りたのよ。それらしい男がいたら、わたし顔をかくして道をさけるから大丈夫」
「いいえ、奥さま! 万一のことがあったらたいへんでがす。そ、そんなら、丞馬もごいっしょに――」
「おまえのからだがまだほんとうでないことは、おまえがいちばんよく知っているではありませんか。あれほど気をもみながら、おまえがそうしているのはよくよくのことだわ。だから、わたしがいってみようというのです。もう一息よ、丞馬、そんなことはいわないで、心配しないで待っていて――」
起とうとするお美也の手を丞馬はつかんだ。ひきよせる気はなく、ゆかせまいとつかんだつもりが、必死の思いのゆえか、それともまだ手のうごきがままならなかったのか、お美也のからだはよろよろと丞馬の胸へくずおれた。丞馬の血管に火のようなものがはしり、全身がしびれた。それはお美也の身のうごきを緊縛してしまった。彼の心臓にお美也の乳房がふれ、彼はお美也のふくいくたる呼吸をかいだ。お美也はのけぞって、丞馬の眼をみた。一瞬目まいに似た|恍《こう》|惚《こつ》が彼女を襲った。当然だ、情欲にもえるとき、あらゆる女をそれだけでエクスタシーにおとし入れた丞馬の眼だ。頭上の花がちりおちた。……その失神せんばかりの恍惚が、しかし突如お美也に夫を想い出させた。彼女ははっとわれにかえった。
「いけない!」
絶叫したのは、むしろじぶんじしんへの悲鳴であったが、それが丞馬の鼓膜をうった刹那、彼もまた愕然とおのれをとりもどしたのである。丞馬は腕をはなした。同時に、反射的にお美也の手は|鞭《むち》のように丞馬の頬をうっていた。
「おまえは!」
さけんで、彼女はとび立った。怒りにもえるその眼の下に、丞馬はがばと床の上につっ伏していた。お美也は肩で息をしながらその姿を見おろしていたが、やがて悲痛にしずんだ声で、
「わたしは、おまえだけは信じていたのに……」
丞馬はおののくばかりであった。お美也の声はふるえた。
「丞馬、もはやふっつり敵討ちの手伝いは無用です。わたしひとりで討ってみせよう」
そして、彼女ははしり出ていった。
数分間、丞馬はなおおなじ姿勢のままであったが、ふいに|愕《がく》とあたまをあげ、もがき起とうとした。お美也はどこへいったか、その恐怖に彼は身の毛をよだてたのである。しかし――「もはやふっつり敵討ちの手伝いは無用です」その声が、嵐のようにふたたび彼のからだを吹きたおした。
「ああ、おれは……」
丞馬は髪をかきむしって、虫みたいにもだえた。彼はお美也に助太刀をする資格を失った。|挫《ざ》|折《せつ》したのは彼の肉体ではなく、魂であった。苦闘と絶望が、丞馬の病みあがりの顔を惨として這いまわり、ねじくれさせた。
お美也はこうして壬生へやってきて、そしてはからずもお藤に見つかった。
彼女は新選組の隊士に両腕をとられて、壬生寺へつれこまれた。――まさに、夫の敵の四人はそこにいた。
「……待っていた」
四人、同時に、異様に感慨のこもった声で、やっとそういった。眼が凄じいひかりをおびてきていたことはいうまでもない。
――お美也にとっては、お藤に見つけられたことが思いがけないことであった。ふいにそばに寄ってこられて、しげしげと顔をのぞきこまれてもまだ気がつかなかったくらいだ。お美也は、磨針峠で|逢《あ》ったお藤に、ほとんど記憶がなかった。
しかし彼女は、たとえ当の|敵《かたき》の四人がまえをあるいてきても、ひょっとしたら気がつかなかったかもしれない。それほどお美也の胸は、北白河の宿にのこしてきた丞馬に占められていたのである。――丞馬がじぶんを抱きしめたときの|琥《こ》|珀《はく》の眼に。
「にくいやつ!」
と、唇をかみしめる。
「ぶれいなやつ!」
と、身をふるわせる。やはり、下郎であった。もはや二度とあの男に逢うまいと思う。しかし、いくどかくびをふって忘れすてようとつとめるのに、胸にもえる怒りとくやしさの炎のかげから、じっとじぶんを見つめている丞馬の瞳のまぼろしが容易にきえないのであった。
――しかし、いま。
不覚にも壬生の浪士にとらえられて、めざす四人の敵のまえにひきずり出されたお美也の胸からは、さすがに丞馬のまぼろしはきえた。
「手をはなして下さい」
と、彼女は左右の浪士にいった。
「……知りあいでござるか?」
と、浪士がやや不安な声で四人の旗本にきいたのは、彼らの異様に感動した様子をみたからだ。これに対して、
「夫の敵です」
と、お美也がきっぱりこたえたのに、いちどゆるめかけた手くびを、あわててまたつかんだ。
四人はまだだまりこんでいたが、最初に顔をあげて他を見まわしたのは宇陀久我之介であった。
「――いまの言葉に、そうでない、とシラをきれぬ気配だなあ」
お美也は身もだえした。
「もし、おねがいでございます。この手をはなして下さい。敵をうたねばなりませぬ」
「はなしてはならぬぞ」
と、玉虫兵庫がいったが、爆発したように笑い出した。
「いや、はなしても、かまわぬがな。こっちでまさか返り討ちというわけにもゆかぬし、ちと面倒だ。ちょっと相談するまで、つかまえておいてくれ」
「――で、どうする?」
と、鴉田門五郎が重い声でいった。見あわした四人の眼に、|妖《あや》しい火花がちった。
――恋する女が、手中に入った! 獲物をまえに、四人はおたがいの眼に、視線をそらせれば、とびかかってきそうな獣の魂をみたのである。
「まさか、女房にするわけにもゆくまいなあ」
と、その緊張を、きみのわるい――そしてこの男にはめずらしく生暖かいうす笑いでくるんでいい出したのは、宇陀久我之介だ。
「ただ、|誰《だれ》が色おんなにするかじゃ」
いったん、この恐るべき言葉を吐くと、まるで蒼い炎にあおられたような顔色で、
「|籤《くじ》をひこう」
――烏帽子右近だけはうなだれていたが、あと三人の眼はぎらとお美也にそそがれた。おたがいへの敵意は、情欲にきりかえられて、さらにまがまがしい獣の眼であった。
その夫を殺害し、敵と狙われているのを承知で、ふしぎなことにこのときまで、彼らの胸には、まだお美也を神聖視する感情がきえてはいなかった。しかし、宇陀の一言は、その矛盾した幻想をうちやぶった。いわれてみれば、そのとおりだ。彼女とはもはや永遠に地獄の仲であった。そうと覚悟をすえれば――みるがいい、怒りのあまり口もきけず、ただあえいでいるお美也の顔、大きく起伏する胸、そして思いがけず草の露もしたたるような大原女のすがた――それをひき裂き、なぶり、汚しつくす倒錯的快楽の欲望に、彼らの眼は黒煙のようにけぶった。
玉虫兵庫がつかつかとあるき出した。そして、お美也のあごに手をかけて、ぐいとあおのかせた。
「お美也どの、こういう御縁になるとはなあ」
狂気のごとく笑った。
「泣いてもよい、笑ってもよい。籤どおりに、これからの夜々、かわりばんこに抱かせてもらおう。だれがいちばん気に入るか――いや、そなたは主水正が死んで、この一年後家であったな。男の肌が恋しかろう。男の味にもいろいろある。女の|可《か》|愛《わい》がりかたにもさまざまある。存外、主水正などくだらぬ男であったと思い知るかもしれぬぞ。あはははは」
この言語に絶するはずかしめに、お美也の唇はわななき、|屍《し》|蝋《ろう》のような頬に涙がながれおちた。
「可愛や、まず兵庫がその涙を吸って進ぜよう」
と、傍若無人に頬をよせる玉虫兵庫に、
「待て」
と、烏帽子右近が声をかけた。彼ははじめて面をあげた。
「それよりさきに、お美也どのにきいておかねばならぬことがある」
「なんだ?」
「あの若党――乗鞍丞馬はいかがいたしたか、いまどこにおるか、ということだ」
「何かと思えば、そんなことか」
と、兵庫は肩をゆすって、
「そう申せば、あたりにみえぬな。しかし、おらねばおらぬでよいではないか、あのような下郎。――」
「姿をあらわせば、ただ一発だ」
と久我之介も昂然としていった。右近はくびをふって、
「いや、おぬしらはまだきゃつの恐ろしさを知らぬのだ。――宇陀、おぬしが中西からきいた話でも、あの筧伝八郎ほどの拳銃の名手が、きゃつのために|金《かな》|縛《しば》りになって、ふしぎな死にざまをとげたというではないか。きゃつのことをたしかめておかねば、われわれは枕をたかくして寝てはおられぬ」
乗鞍丞馬という男について、最初からもっとも警戒している烏帽子右近であった。それは、そもそも宗像主水正暗殺の際にも、右近ひとりが|囮《おとり》となって、丞馬を越中島にひきはなしておいた苦心のたくらみからも知れる。
右近はお美也のそばに寄った。
「お美也どの、丞馬はどこにおる?」
お美也は右近をにらみつけたままであった。すでに見はなした丞馬であったが、むろん口が裂けても北白河の宿をいう気はなかった。
「申されぬか」
「あのような下郎のことなど、どうでもよい。相手はわたしです。男らしく、勝負なされませ!」
「お美也どのを相手に、男らしく勝負はできぬ。|嬰《あか》|児《ご》の手をねじるようなもの――」
「殺されても、悔いはありませぬ。ただ、一太刀でも――」
また必死にもだえるお美也に、鴉田門五郎もちかづいて、底力のある声で、
「あなたは殺さぬ。丞馬のいどころを申されぬと、いま宇陀や玉虫のいい出したとおり、あなたのからだをおもちゃにするが、それでよろしいか?」
右近の声がからみついた。
「丞馬のいどころを申されたら、その手をはなして進ぜよう」
殺されることは恐ろしくなかった。しかしお美也は、四人の眼に、殺されるよりもっと身の毛のよだつ恐怖をかんじた。けれど――丞馬のいどころは――それは言えなかった!
「…………」
くびをふった。頭上の|女郎花《おみなえし》がみだれちった。
「よし」
と、宇陀久我之介が隊士にあごをしゃくって、
「屯所にはこんでゆけ。……そこで、いやでもいうようにしてやろう」
そのとき、茫然とこのなりゆきを見まもっていたお藤が、ふいにふりむいて、
「あ……あのひとが」
と、みじかいが、ただならぬ声をあげた。
いっせいに門の方をみて、この場合に、さすがに狼狽の波がわたった。十数人の隊士をつれて、そこを入ってきたのは、新選組の局長芹沢鴨だったのである。
背がたかく、でっぷりふとって、色は白い方だが赤い顔をしているのは酒が入っているからだろう。朝から酒の気のきれたことのない男で、ほかのだんだら染めの羽織をつけた隊士とちがい、羽二重の紋付にふところ手をした芹沢鴨は、酒の香のほかにいつも凄愴な妖風の尾をひいている。
「お藤……やはり、こんなところにおったか」
と、じろっと見ていった。笑顔はみせず、いまにも落ちてきそうな空のせいか、その表情に殺気のようなものが、かげっている。
「いま、いまそこで、へんな女を見つけたものだから、このひとたちに|詮《せん》|議《ぎ》してもらっていたんですよ」
と、あわててお藤はいった。
芹沢はお美也をみて、ぴくっと顔の筋肉がうごいた。何かを思い出したというより、そのあまりな美しさにびっくりした表情だ。
「お……これは大原女にしては|尤《ゆう》|物《ぶつ》ではないか」
「それが、局長、いま承れば、こやつ、この四人のかたがたを夫の敵とつけ狙っておる女だと申すことで――」
と、お美也の腕をとらえていた隊士がいった。芹沢はなお口をあけて、お美也にみとれていたが、ふいにわれにかえったように四人をみた。
「なに、夫の敵?――おもしろいな、どういう事情だ。話をきこう」
「あいや」
と、玉虫兵庫が狼狽してさけび出そうとするのに、ニタリとして、
「まあ、おれにまかせろ。返り討ちなどにするのはもったいないではないか」
「局長」
わるいものに飛びこんでこられた――と、さすがの烏帽子右近も顔色が変っていた。
「敵ではない。これは拙者ども亡友の妻女にて、まえまえよりいちど逢って、誤解をといておきたいと切に念じていたおひとだ。せっかくではあるが、お手出し御無用にねがいたい」
芹沢のそばに立っていた腹心の平間重助が、このとき芹沢に耳うちをした。ひょっとすると、磨針峠の記憶をつたえたのかもしれないし、またひょっとすると、だれからか江戸の事件でもきいていたことを、しゃべったのかもしれない。――芹沢はうなずきながら、四人の赤くなったり蒼くなったりする顔色をじっとみていたが、
「おぬしら――この女に惚れているな」
ズバリといった。
「いや、これほど絶世の美女なら、むりもない。――それでは、いよいよこの女はおぬしらに渡せぬ。わしが預かっておこう」
「局長!」
宇陀久我之介が殺気にもえて一歩ふみ出したのに、
「ほ、こわい顔をするな。これだから、鉄砲も当分あずかっておかねばならぬ」
「なに?」
愕然となる久我之介の眼に、芹沢のうしろに従っていたやはり腹心の平山五郎が、羽織のかげから、ニヤリとして鉄砲を出したのがうつった。――屯所にのこしておいた愛用のシャスポー銃だ。
「実はな、ちと妙な噂をきいたのでな、念のためだ」
と芹沢がいったのに、さすがの四人が口もきけず立ちすくんでいる。
「心配するな。この鉄砲をあれほどみごとにつかいこなせるのはあんただけだよ。ほかのやつには、宝のもちぐされだ。まちがいなくあとで、かえす。――それどころか、おれはあんたたち四人を敵にまわしたくはないのじゃ」
と、芹沢鴨は、この男にはめずらしくおとなしくいい出したが、それがかえってきみがわるかった。
「近藤からどんなことを吹きこまれたかはしらぬが、おれは、あんたたちはおれの味方でもないが、近藤の味方でもないことを知っておる。その立場を、今後ともにまもってもらいたいと、|釘《くぎ》をさしておく」
「その立場をまもれば、その女をかえしてくれるか」
と玉虫兵庫はせきこんだ。
「まあ待て――実は、これから島原の角屋で、近藤たちと話合いがある。その話次第で、血の雨がふるかもしれぬ。……ところでな、正直にうちあけて、今日ただいま、隊中の雲ゆきがちとこっちにわるい。なあに、二、三日あれば、形勢をひっくりかえす目算はあるのだ。そこでだ、おぬしらにたのみたいことがある。いや、味方になってくれとはいわぬ。ただここ二、三日近藤一味の盲動を制してもらいたいのだ」
「わしたちは隊の動静になんの興味もなければ、それを左右する権限もない」
と、鴉田門五郎がいった。
「それでは、わしが局長として、おぬしらに|叛《はん》|乱《らん》分子制禦の権限をあたえる。|壬《み》|生《ぶ》|浪《ろう》のなかでは、客分格の御直参だ。おぬしらがその気になれば、近藤がおさえられぬことはあるまい。――やってくれるか、やってくれぬか――」
「…………」
「ま、この二、三日、この女と鉄砲はあずかっておこう。おい、ゆけ」
と、あごをしゃくった。
わるいことに、偶然だが、お美也をとらえていたのが、芹沢一派の隊士なのであった。四人が、あっと思ったとき、お美也は両腕をつかまれたままよろめいてゆき、どっとそのまわりをほかの浪士がつつみこんでいる。それがみな殺気と|嘲笑《ちょうしょう》のゆらめく眼を、こっちになげて、ぞろぞろとひきあげるのにかかった。
「待て」
と、玉虫兵庫がふりかえった。
「お、わしのねがいをきいてくれるか」
と、芹沢はふりかえる。四人がだまりこんだのに、ニヤリとして、
「わしはこれから島原へゆくが、何分よろしくたのむぞ。ことわっておくが、この女はあずかっておくが、厳重な見張りをつけて、万一助け出しにくるような奴があったら、一刺しに刺し殺すから心配はせられぬがよい」
それが、四人に対する警告であることはあきらかであった。
お美也を|虜《とりこ》にして、芹沢らがひきあげていってからも、四人の旗本は声をうしなって、顔を見あわせているきりだった。その困惑の表情を、不安げにみているお藤に気がついた宇陀久我之介が、
「おい、あっちへゆけ」
と、かみつくようにいった。
「おまえも芹沢の飼犬ではないか」
「あたしは、もうとっくのむかしおはらいばこになりましたよ。あのひとのところへは、|菱《ひし》|屋《や》のお梅さんというものがきましたからね。――だから、さっき芹沢があたしをみたとき、やはり、こんなところにおったのか、といったじゃあありませんか。やはり、といったのは、あなたたちを近藤さん方とみて、あたしがこっちにくっついたものとかんがえて皮肉をいったのだわ」
と、お藤は唇をゆがめた。
いつ、どうして知ったのか――芹沢が今夜じぶんが暗殺される予定であったことまでたしかめているかどうかは疑問としても、彼がそのおそれを充分感づいていることはたしかであった。そして、彼はわざわざ、それを知っておるぞ、と高びしゃに警告にやってきたのである。ただでさえ、四人はそのうごきを封じられた。そのうえ――
「至急、近藤に告げて、中止を申しこまねばなるまい」
と、宇陀久我之介も、なすところをしらずといったありさまだ。
「近藤に告げて――いや、近藤がそれをしれば、もはや一刻の猶予もならぬといよいよ事をいそぐにきまっておる」
と、鴉田門五郎がいった。たとえ暗殺請負人になったとしても、どこか傍観視していた新選組両派の暗闘が、はからずも彼らの恋する女を恐ろしい歯車にまきこんでしまったのだ。その歯車をそのままうごかせばお美也のいのちはあやうく、とめればお美也の貞操はあやうい。――玉虫兵庫は腕をねじりあわせて、
「お美也はどうなるのだ。あいつの手にあずけておくことは、餓狼のまえに美肉をおいておくようなものだぞ」
「あの女のひとは、今夜のうちにも芹沢の|牙《きば》にかかりますよ」
と、お藤が眼をひからせていい出した。
「あれほど美しいひとを、芹沢が一晩だって指をくわえているもんですか。あのほうにかけちゃ、まるでけだものなんだから。――いまあなた方へのたのみごとの保証にあずかっておく、なんていっていたけれど、あれア女をとりあげるためのてれかくしですよ。さっきあの女をみたときの芹沢の眼で、あたしにはわかったわ」
お藤からすれば、そういう見方もあろう。いや、芹沢鴨という人間の平生を知っている四人には、まさかとそれを笑えないものがあった。お藤は赤い唇をなめた。
「それにあの男のやりかたは、それア口ではいえないような恥しらずなんだから。――十日もたたないうちに、あのひとは腐ったくだものみたいな女にされてしまいますよ。それは、太鼓判をおしてもいいわ」
宇陀久我之介がのど[#「のど」に傍点]のつまったような声でいった。
「芹沢には、お梅というものがあるではないか」
お梅という女は、もと四条堀川の|太《ふと》|物《もの》問屋菱屋の|妾《めかけ》で、京にもめずらしいほどの美女であったために、芹沢が強引にさらってきて妾にした女だ。
「お梅さんなんかいたってへいきですよ」
と、お藤は肩をすくめた。
「あの男は、女のみているまえで、べつの女をおもちゃにするのがたのしみなんです。あたしたちだって、そんな目にあわされたわ。女をはだかにして、しばりつけてさ、その眼のまえで、もう一方の女をくたくたになるまでなぶりぬくんです。女の地獄だと、それを見まい、きくまいと思うのだけれど、どうにもならない。だんだんきもちもからだもへんになってゆくのを、あいつは待っているんですよ。――あたし、そんなあさましい|真《ま》|似《ね》をさせられるのがいやでいやで、とうとう、あいつと喧嘩別れしちまったんだけど――」
とはいうものの、この女がまだこの壬生をうろうろしているのは、充分芹沢にみれんがあるからだろう。こんな話をきかされる四人の旗本の心中を知るや知らずや、何を思い出しているのか、お藤の唇はぬれ、その眼は酔ったようにけぶっている。
「今夜のうちに助け出さねばならぬ!」
と、烏帽子右近がうめいた。久我之介と兵庫が、
「斬りこむか」
「大砲をぶちこんでやろうか」
と、いまにもかけ出しそうにするのを、
「いや、そんなことをすればお美也のいのちはない」
と、烏帽子がかぶりをふった。――彼は、三人の仲間ではなく、空の雲をあおいでいた。すでに日のくれかかった空に、灰色の雲がうずまきながれ、枯葉が|群雀《むらすずめ》のようにとんでゆく。何かじっとかんがえつめていた右近は、やがていった。
「ただひとつ、あの女を救う手段がある」
「そ、それは――右近、われわれはどうすればよいのだ」
「われわれではない。あいつを使うのだ」
「あいつ?」
「乗鞍丞馬」
みんな、あっけにとられたように右近の顔をみた。たちまち久我之介が吐き出すように、
「ばかな!」
「いいや、芹沢一味の|檻《おり》から無傷でお美也を救い出せるのは、きゃつの幻法だけだ」
「――しかし、きゃつはどこにいる?」
と、鴉田門五郎がいった。右近はなお雨雲をみつめたまま、
「お美也はそれをいわなかった。が、丞馬はかならずこの京のどこかにおる。それをわれわれがおびき出すのだ」
「――どうやって?」
「幾十枚、幾百枚かの紙片に――美也壬生の|罠《わな》に落つ――とかいて、われわれ四騎、京の町のいたるところに|貼《は》り出し、まきちらすのだ。きゃつがそれをみれば、かならずくる。――」
「きゃつ、それを罠と思いはせぬか?」
「まさに、罠だ。お美也を、たとえ芹沢から救い出したとしても、丞馬にうばいかえされては何にもならぬ。きゃつがあらわれて、お美也を救い出しさえしたら、一工夫してきゃつを|斃《たお》す。――しかし、罠と承知していても、おそらく丞馬は壬生にかけつけてくるだろう。――」
夕雲はついにはげしい雨を、京の町にけぶらせはじめた。
新選組の屯所は、最初のころ郷士八木|源之丞《げんのじょう》方においたが、隊士の増加にしたがって、道ひとつへだてた前川|荘《そう》|司《じ》方にうつった。しかし、局長の芹沢鴨とその腹心の連中だけは、依然として八木家に寝泊りしていた。
その八木家の門前に、刀や槍をひからせて警戒していた隊士連中が、ときどき奥の方をふりかえりながら、
「あれは、どうしている?」
「裸じゃ」
「はだか?」
「あまりあばれるので、もてあましての。そのままではにげ出せないようにとのお梅の智慧じゃ」
「なるほど――しかしお梅にしてみれば、じぶんがお藤を追ん出してあとがまに坐っただけに、あの女をみれば不安にならぬかな。いっそあの女をとりかえしにくる奴があった方が、いいと思っているかもしれんぞ」
「美人だからの! お梅もすごい美人じゃが、あの女は美女ぶりがちがう。大きな声ではいえんが、いつもとちがって局長の|餌《え》|食《じき》にさせるのは無惨なような」
「事情はよくわからんが、何にしてもあの江戸の旗本連が、あれではとりかえしにきたくなるのもむりはない。しかし、万一のことがあれば刺し殺せとは――」
「なに、きゃつら、このごろ近藤一派にひきずられかかっておる徴候があるから、それに首輪をつけてやるのじゃろう。――きゃつら、直参をかさに、おたかくとまりすぎておるからいいきみだ」
「局長でなくとも、あの女はわたせんな」
「だから座敷のまえにも、刀をぴかつかせて、見張りががんばっておる」
「しかし、あの女をはだかにしたと?――きくだにぞくぞくするではないか。はやく見張りの交替にならぬかな」
「あっ、こいつ|涎《よだれ》をたらしておるぞ」
どっと笑ったが、見かわした眼は、みんな異様にぎらぎらとひかっている。――その笑いが、ふとやんだ。
壬生寺の方から、鉄蹄のひびきがはしってきたからだ。馬は四騎であった。
「や――きゃつらだ!」
「ど、どこへゆくのか?」
「ただならぬ様子、用心しろ!」
騒然として見おくる隊士たちのまえを、馬上の旗本四人は、雨の京へ、水しぶきをあげてかけ去った。
島原の角屋での会合で、いよいよ近藤一派が正面きって芹沢のいままでの非行の数かずを|糾弾《きゅうだん》するのではないか、という情報であったから、満身闘志にふくれあがって出た芹沢鴨であったが、案に相違してそんなこともなく、ただ、過去は水にながして|爾《じ》|今《こん》ますます同志愛をたかめ、団結して天下のために|尽《じん》|瘁《すい》しようではないか、という近藤のまじめな|挨《あい》|拶《さつ》のあとは、むしろふだんより隔意のない大酒宴となって、芹沢はべろべろに酔った。
それでもさすがに幾分かの疑心をとかない腹心の平山五郎や平間重助が、いつもより早目にひきあげをうながすついでに、「局長、壬生屋敷には例の女が」と耳うちしたのがひどく効いて、芹沢が壬生の八木家にかえってきたのが十時ごろだ。
いよいよはげしい雨の中を、島原から壬生へかえる五挺の駕籠は、万一を警戒して、一派の隊士に鉄の輪みたいにとり巻かれていた。三挺はむろん芹沢、平山、平間だが、あとの二挺は、「今夜、局長ばかりいい夢をみられてはこちらがたまらぬ」と思いついた平山と平間が、それぞれ島原の|小《こ》|栄《えい》と糸里という遊女を乗せかえったのである。
郷士の家とはいえ、勝手口でさえ、馬四頭が並んで人が乗って通れるくらい|宏《こう》|大《だい》な屋敷であった。
「――おるか?」
どたどたと玄関からあがっていった芹沢が、見張っていた三人の隊士にまずきいた。
「はっ」
「よし、ひきとってよし」
平間重助が、立ち去ろうとする隊士に、あわてて、
「いや、夜明けまで、外のめんめんといっしょに、厳重に警戒するのだぞ」
糸里にしなだれかかった酔態を、ふくれっ面でみて、隊士が去ったとき、すでに芹沢は座敷に入っている。
お美也はうしろ手にくくりあげられて坐っていた。
真っ赤なしごき以外に一糸もまとわぬ無惨な姿だ。
「や、なんだ?」
と、さすがの芹沢も、つづいて入った平間、平山、ふたりの遊女も息をのむ。
「にがしちゃ、あたしがひどい目にあいますからね」
と、そのまえで、立て膝をしていたお梅が煙管をおいて、ゆがんだ笑顔をふりむけた。――それもあろうが、はじめじぶんがこの屋敷にさらってこられたとき、おなじような目にあわされて、犯されたせいでもある。当時は首でも吊って死にそうなほどであったのが、いまではすっかり芹沢の|嗜虐《しぎゃく》趣味が伝染して、もともと京でもゆきあう人がみなふりかえるほど美しい女だったにはちがいないが、このごろは芹沢でさえぞっと肌寒さをおぼえるような|凄《せい》|艶《えん》さであった。
「どうせ、あなたはこうしなきゃ気にいらないのでしょ? それとも、もうにがしっこないのだから――」
「いや、そのままでよい」
と、芹沢は笑った。そして、どっかと坐って、
「しかし、美女だな。……これにくらべると、小栄や糸里などはもとより、お梅までが|月《げつ》|輪《りん》の下の|鐚《びた》|銭《せん》のようだな」
「|癪《しゃく》なようだが、まったくでござる」
「いや、癪など通りこしておる。局長、せめてしばらく、この眼の保養をさせて下さい。ひきとったあと、眼をつむって、この女を抱いたつもりで小栄を抱く――」
と、平山と平間がお世辞でもなく口ぐちにいうのに、
「あほらし」
と、つんとしたが、ふたりの遊女でさえ、ねたみ心をわすれて、見とれている。芹沢はげらげらと笑って、
「おい、お梅、台所へいって酒と何か|肴《さかな》をさがしてこい。いや、われながら一吹きで散らすに惜しい。しばらく雨夜の花見とゆこう」
歯をくいしばってうなだれていたお美也が顔をあげた。
「武士の情けです。はなして下さい」
「ぶ――武士の情け?」
男たちはあっけにとられ、そしてどっと笑った。お美也の紅潮した頬に、涙があふれちった。
「直参の妻ともあろうものが、このような|辱《はずか》しめをうけて、なお舌をかみきらずにいるのも、ただ夫の敵を討ちたいため――」
芹沢がごっくり|唾《つば》をのみこんで、
「敵討ちか。相手はあの四人だったな。あいつら、おまえさんに惚れて、おまえさんの旦那を|殺《や》ったのだな。おれにはわかるよ。おれだって、おまえさんに旦那があれば殺らずにはおれんだろうなあ」
お美也はだまった。この男たちのさむらい魂に、最後の|一《いち》|縷《る》の望みをかけたことを悔いた。
「おや、どうした、話さないのか」
お梅が酒と肴をのせた|膳《ぜん》をもってきた。
「たのむといえば、助太刀もしてやるぜ」
「…………」
「いや、たのまれんでも、おまえさんと一心同体となれば、おれにとっても|不《ふ》|倶《ぐ》|戴《たい》|天《てん》の|色敵《いろがたき》となる。どうじゃ、一心同体と、な、な、なれば――」
徳利を口にもっていって、ぐいとあおると、あごのしずくをぬぐいもせずによろよろとたちあがっていって、お美也のそばに身をかがめ、その頬をつついた。
「いや、これがひとさまの女房であったと――嘘としか思えぬ可愛い顔をしておるではないか」
「寄らないで下さい。ぶれいをなさると、舌をかんで死にますよ」
「はじめは、女はみんなそんなことをいう。いや、みずみずしい乳房じゃのう。それにこの肌の白さ、なめらかさ、柔らかさ――」
もう|囈《たわ》|語《ごと》をいっているようだ。眼は酒と欲望に狂獣のように濁って、
「女は海の魚ほど知っておるが、芹沢鴨、不運にしてまだ直参の女房殿の味は知らん。――おいっ平間! 平山! もう消えてしまえ!」
と、ふりむいて、怒号した。
乳房をわしづかみにされて、お美也はあたまがふらっとした。眼のまえの|行《あん》|燈《どん》がすうっとくらくなり、屋根をうつ雨がきこえなくなった。
ふりしぶく雨の中――壬生屋敷にすぐちかい寺の土塀のかげに、幾十羽の|蝙《こう》|蝠《もり》みたいに張りついている影があった。
「出てはならぬぞ。……いましばらく待て」
ひくいが、力強いひびきは、近藤勇の声だ。
「しかし、芹沢がわれわれの企図をかんづいたとすれば、是非とも今夜のうちに片をつけねばなりますまい」
と、いらいらしているようなのは、|剽悍《ひょうかん》無比|土《ひじ》|方《かた》|歳《とし》|三《ぞう》であった。――今夜、島原からの帰途、芹沢を|狙《そ》|撃《げき》することが不可能となったときいたのは、芹沢が角屋を去ったあとだ。
どこをかけまわっていたのか、馬も人も雨と汗にぬれつくしてきた四人の旗本の報告であった。そのことを断りにくるいとまもなかったという。――最初から、芹沢暗殺を宇陀久我之介などに|委嘱《いしょく》することを不服に思っていた土方などは、むしろその失敗をよろこんで、今夜の斬り込みには武者ぶるいをしている。
「むろん、片をつける」
と、近藤は|断《だん》|乎《こ》としてうなずいて、
「ただ、この方々が待ってくれといわれるのだ。もしわれわれが斬り込めば、この方々にとって大事な人のいのちがあぶないという。――」
「ばかな! きけば知り合いの女とやら。女のために機を逸しては、相手は何と申しても局長の芹沢、あしたになると、隊の形勢がどう変るかわかりませんぞ」
「その女のためばかりではない。みろ、八木屋敷の門前には、すでに刀の|鞘《さや》をはらった連中がうろついているではないか。いまは芹沢の輩下とはいえ、何と申しても元来は同志、無用の争闘であたら新選組の勢力をそぎたくはない。それより、この烏帽子さんが、いまに不可思議な忍者があらわれて、芹沢をたおしてくれるという。――」
「ぷっ、忍者? |草《くさ》|双《ぞう》|紙《し》の|自《じ》|雷《らい》|也《や》じゃああるまいし――」
「いや、それがほかならぬお歴々の申されることだ。もうしばらく待ってみろ」
と、近藤はおちついた声だ。ひょっとすると、皮肉な気もあるのかもしれない。
焦燥は、隊士よりも四人の旗本の全身をやきただらしていた。
「右近、大丈夫か?」
「あれだけ、美也罠に落つの|紙片《ちらし》を京じゅうにまいたのだ。きゃつがあれをみれば――」
「いいや、お美也が大丈夫かと申すのだ」
「……いま、さわぎを起せば、あのひとは殺される――」
「芹沢があの屋敷にかえってから、だいぶときがたつぞ。いのちよりも――」
さけんで、身もだえする宇陀や玉虫にもおとらず、烏帽子右近の顔も苦悶にひきつっていた。
雨はふる。闇黒の天に風がうなる。お美也の死の影像と、芹沢に犯されている幻影が、その闇のしぶきのなかにひらめき、明滅した。
――鴉田門五郎がうめいた。
「たまらぬ。やるか?」
――お美也は、息もたえるような女の声に、軽い|目眩《めまい》から呼びもどされた。そして、見るべからざる光景を見た。
いつのまにか、座敷には|緋《ひ》の夜具がしかれ、その上にまっぱだかの女の上に、まっぱだかの男が馬乗りになっていた。芹沢とお梅だ。お梅は芹沢の兇暴猛烈な情欲の嵐に吹きどよもされて、恥しらずな|嬌声《きょうせい》をあげているのであった。
気がつくまでもなく、右隣りの座敷からも、左隣りの座敷からも、|唐《から》|紙《かみ》|越《ご》しに、すすり泣きというより、歯ぎしりすらまじえた女のさけび声がおおっぴらに波うってくる。
お美也は耳を覆おうとした。しかし両腕はうしろにしばりあげられたままであった。
「おい、待て」
と、芹沢が身をおこした。
「あの女――気を失っているのではないか。それでは、つまらぬぞ」
「ほ、ほ、女はみんなあんなふうになるものですよ。からだじゅうがしびれたようになって、ひとつところへ気がよって、もしうごくと――恥ずかしい――」
と、お梅は白い肩で息をつく。黒髪はみだれて緋の夜具に這い、唇も乳房もぬれひかって、おもてもむけられぬばかりの|淫《いん》|猥《わい》な姿態だ。
「は、は、は、そうか。それでは、ひとつ、見てやろう」
と、芹沢は立ちあがった。一糸まとわぬ海坊主のような姿が行燈をまわってくると、影ははやお美也の白い姿を覆った。お美也はのどのおくで、思わず必死のさけび声をあげていた。
(――丞馬! わたしをたすけにきておくれ!)
「女」
芹沢鴨は、お美也のそばに立って、その白いあごに手をかけた。真紅のしごきでしばりあげられたまま、お美也はがっくりのけぞった。
――丞馬! いちど捨ててきた下郎の名を呼んで、しかし彼がじぶんのこの危難を知ろうはずがない――と思った刹那、お美也はほんとうに失神してしまったのだ。
「そうれ見ろ、やはり気を失っておる」
と、芹沢は舌うちして、お梅をふりかえった眼を、すぐちかくの膳にうつすと、|猿《えん》|臂《ぴ》をのばして徳利をつかんだ。
「正気にもどして、さて――」
口いっぱいに酒をふくむと、顔をお美也の顔にちかづける。――そのとき――屋根の上で、ぐわん、と何かが折れるような異様な音がした。
「…………?」
思わず顔をふりあげる鴨に、夜具に|腹《はら》|這《ば》いになったままのお梅が、
「風でしょ?」
といった。雨戸にざざっと雨の吹きつける音がした。しかし、次の瞬間、こんどは天井裏に鉄丸でもたたきつけたようなひびきがしたのに、芹沢の口からぱっと酒がお美也の顔にそそがれて、旋風のようにとびずさると、床の間の|鹿《ろっ》|角《かく》の|刀《とう》|架《か》に手をかけている。
酒をあびせかけられて、身ぶるいして見ひらいたお美也の眼が、大きくひろがった。天井板が紙みたいに裂かれて、その穴からひとつの顔がさかさまにのぞいた。
「――丞馬!」
たまぎるようなお美也の声をうしろに、|猛《もう》|虎《こ》のごとくたたみを蹴っておどりあがった芹沢の|一《いっ》|閃《せん》が、うなりをたてて|薙《な》ぎあげられている。――一瞬、奇怪にも芹沢の巨体は、宙にぶらんと静止した。
この場合に、芹沢はじぶんが酔中夢をみているのかと思った。たしかに彼は酔ってはいたが、おのれの斬りつけた刀身をがっきとひっつかんでいる素手のこぶしをみた刹那、酔いも錯覚もさめはてて、どうと下へころがりおちていた。
天井裏の男は、音もなく座敷にとびおりた。依然として芹沢の刀身を逆につかんだままだ。彼はちらっと、はだかでしばりつけられているお美也を見た。眼が、くわっと赤くなったようであった。
「だれか、きて――」
これまた全裸のお梅ののど[#「のど」に傍点]から、人間とも思われぬ声がほとばしり出たのはこのときだ。あやつり人形みたいに立ちあがって、となり座敷へにげようとするうしろ姿へ、びゅっと刀身を――きっさきをにぎって、|柄《つか》が|先《さき》になったままなぐりつけると、お梅はのけぞった。首は皮一枚をのこして背に垂れさがり、|奔《ほん》|騰《とう》した血しぶきが雨みたいにばしゃばしゃとふる下へ、即死した女の裸身がころがっていた。
「きっ――きさま!」
壁にはりついて、芹沢はうめいた。眼をかっとむき、あごをがくがくさせて、人のいのちを虫けらほどにも思わぬこの男が、生まれてはじめてみせた恐怖の極致の相であった。
「近藤の手のものか!」
男はくるりと刀をかえして、柄をにぎった。新選組の中にみたことのない顔であった。
「知らねえ」
と、くびをふって、そのまま寄る。憤怒におののくきっさきが、芹沢のはだかの胸にふれた。
「よくも、奥さまを、こんな目にあわせたな」
はじめて、これが近藤とは無縁の男だと知って、
「あっ、待て! おれは何もせぬ。この女にきいてみろ――こ、殺すか、く、|曲《くせ》|者《もの》だ、出合え、平――」
みなまでいわせず、その胸に柄までとおれと刀身がつらぬきとおっていた。
両側の唐紙が蹴たおされて、ふたりの男がとびこんできた。平山五郎と平間重助だ。一瞬に座敷の地獄図をみて、発狂したように平山五郎が斬りつけてくる刀が、|氷柱《つらら》のようにくだけ散ると、丞馬の|隻《せき》|腕《わん》は相手の|頸《くび》にはしって、名状しがたい骨の音とともに、彼は壁に縫いつけられた芹沢の屍骸の方へよろめいていった。
平間重助はころがるようにとびさがった。そして、となり座敷のうすくらがりにまっぱだかのまま立っていた遊女ともつれ合いながら、|屏風《びょうぶ》も障子もふみたおしてにげていった。
「――局長が|殺《や》られたっ!」
平間の絶叫につづいて、玄関の方で、わあっという声があがった。
「奥さま」
と丞馬はお美也のそばへかけよって、しごきをとくのにかかった。
「丞馬、どうしておまえはここへ?」
「そんなことをいっているひまはありましねえ。この屋敷は、玄関はもちろん、往来の向うまで侍たちにとりかこまれておるでがす。――奥さま、すみましねえが、このしごきをこうやって――」
彼は、なかばといた真紅のしごきを、そのまま肩と胸へまわして、お美也をぐいと背に負った。
そのとき、往来で何十人ともしれぬ叫喚があがって、こちらへかけつけてくる気配だ。
丞馬は、芹沢を縫いとめていた刀をひきぬいた。くずれおちる屍骸をふりむきもせず、それを座敷のまんなかのたたみにつきたてる。その|鍔《つば》に足がかかると、お美也を背負ったまま、刀の上にすっくと立って、片腕が天井の穴のどこかにかかるとみるまに、|忽《こつ》|然《ねん》と座敷からきえていた。新選組の隊士がなだれこんできたのは、その直後だ。
「あっ、これは!」
と、さけんだきり、あまりの|酸《さん》|鼻《び》さに、みな全身|麻《ま》|痺《ひ》したように立ちすくむ。これは、芹沢方の隊士も、近藤方の隊士も同様であった。
「――局長が殺られた!」という平間重助のさけびに、外を警戒していた芹沢方の隊士が、ふいをうたれて衝動をうけたのはいうまでもないが、そこに往来の方から、「すわ!」とばかり何十人かが殺到してきたので、いよいよ狼狽した。むろんそれが近藤方だとはすぐにみとめたが、局長が殺られたときいて、はやくも戦意を失っている。しかし、かけつけてきた近藤たちも、この凄惨きわまる光景と、曲者の影もない奇怪さには、しばし悪夢をみる思いであった。
「わしたちの|仕《し》|業《わざ》ではないぞ!」
歯をむき出して、土方歳三が、芹沢方を見まわしてうめいた。近藤勇は、|拳《こぶし》まで入るといわれた大きな口をへの字にむすんで、座敷の中央につきたてられた刀身から、天井の穴に眼をうつして、
「例の忍者か?」
「左様」
と、うめいたのは、烏帽子右近だ。
「やはり、来たようだな」
その髪の毛もそそけ立って、
「きゃつのほかに、これだけのことをやってのけられる人間はおらぬ。この近藤君でさえ一目も二目もおいていた芹沢を、まるで虫のように|屠《ほふ》りさる。……わしが恐ろしい奴だと申しておったのがうそではないことが、よくわかったろう」
と、鴉田門五郎と玉虫兵庫をふりむいた。
「あれを、のがしてはならぬ!」
ふいに、床の間のまえで、狂ったようにさけび出したのは、宇陀久我之介だ。彼はそこに立てかけてあった愛銃シャスポーをひっつかんでいた。
「きゃつは、お美也をつれ去ったのだ。このぶんでは、まだ屋敷から遠くへにげてはおらぬぞ。おいっ、手をわけて、みんな探してくれ!」
そして、まっさきに猛然とかけ出した。烏帽子右近は、近藤の顔をみた。そばによってひくく耳うちした。
「芹沢はあのとおりだ。要するに、君の依頼にはこたえたわけだ。こんどは、われわれの依頼をきいてもらいたい。是非、あの忍者を討ち果たしてくれ。いかに恐るべき奴とてこれだけの|猛《も》|者《さ》がそろって、やわか芹沢の二の舞をふむはずはない。たのむぞ」
近藤はじっと、無惨な|屍《しかばね》と化した芹沢をみていたが、やがてうなずいて、|凄《すご》い眼でふりかえった。
「よし、その忍者を片づけろ」
丞馬とお美也は、まだ壬生屋敷の屋根の上にいた。
むろん、丞馬ひとりなら逃げられたろう。しかし、彼の背にはお美也がいた。だいいち、彼はこの屋敷かその界隈に敵の四人がいると知って、それをすてて逃げる気はなかった。いやいや、それよりもこの場合に、彼は背なかで雨にうたれているお美也さまがはだかであることに気がついて、そのいたましさに身うごきができなくなってしまったのである。そもそも、お美也さまをこのあさましい姿のままで、いかに夜にせよ京の町を背負ってはしれるものであろうか。
「奥さま、しばらく待って下せえまし」
彼は、お美也を背なかからおろした。壬生屋敷のいちばんはしの土蔵の屋根の上であった。お美也は|甍《いらか》の上になよなよとくずおれた。
「すべりますから、うごかねえで下せえましよ。……さぞ、冷たかったことでがしょう。いま、丞馬めが」
ひそかにいうのは、敵をはばかってのことではなかった。丞馬は、闇にもみえる眼で、気づかわしそうにお美也をみていた。息をつめ、胸をとどろかし、まるで主人の叱責をおそれる犬のような眼であった。彼はじぶんのきものをくるくるとぬいで、お美也の肩にかけた。
「奥さま……もってえねえでがすが、しばらくこれを着ておくんなせえまし。いえ、わたしが、しっかりとお手をつかまえております」
むろん、丞馬ははだかになったが、それをきのどくだと思う余裕はいまのお美也にない。彼女は、黙々としてそれを身にまとった。まとうとともに、かえって恥ずかしさが、彼女のからだを瓦に釘づけにしてしまった。
――よくたすけにきてくれた。どうしてわたしが危い目にあったのを知ったのか。丞馬のからだはまだ完全によくなってはいないはずなのに、大丈夫か? そして、これから、ぶじにここをにげられるのか?
ききたいことは、胸にどっとあふれてくるのに、お美也の口を封じているのは、ただ息もたえそうな恥ずかしさの思いからであった。さっきの芹沢とお梅との痴態は、まだ毒の花みたいに彼女の|瞼《まぶた》にのこっていた。雨の中に、丞馬もだまりこんでいたが、やがておずおずといい出したのは――現在ただいまのことではない。
「奥さま、申しわけのねえことをいたしました」
「…………」
「丞馬に魔がさしたのでがす。まだお怒りでごぜえましょう。むりもねえことです。奥さまに鞭で百度ぶたれても、おわびが足りるとは思わねえでがす……」
「…………」
「もう二度と、あんなことはいたしましねえから、どうぞゆるして下せえまし!」
丞馬は、がばと片手をついて、ひれ伏した。瓦にひたいをこすりつけた。
「ただ……敵をうつのを手伝わして下せえまし。手伝い……いや、そうではありましねえ。あん畜生ら四匹は、おれにとっても旦那さまの敵でがす。奥さま、奥さま、お願えでごぜえます!」
まるで、それがいま何より|焦眉《しょうび》の急とでもいうような必死の哀願であった。お美也には丞馬のまごころはよくわかった。けれど……それでは、また丞馬と北白河の宿へかえるのか? お美也の胸を、けさふいに自分を抱きしめた丞馬の獣のような眼がかすめた。お美也の恐れと惑いを見すかしたように、丞馬はまたいった。
「奥さま、もしおれのお願えをきいて下せえましたら……丞馬は、お別れ申します」
「え?」
「いいえ、奥さまだけ、北白河のあの宿に泊って下せえまし。そして、敵を討ちなさるときだけ、丞馬がお供をいたします。どうぞ、奥さま、それだけは丞馬にゆるしてやって下せえまし。……」
屋敷にまた騒然たるさけび声があがったのはそのときだ。雨はいつしか小降りになっていた。そのかわり、西の空に、雷鳴はないが蒼白い稲妻がひらめき出した。
「女づれだ、遠くへにげたわけがない」
「女は、まっぱだかというぞ!」
稲妻の一閃に、お美也は、庭から門へ、狼群のように散ってゆく隊士のむれを見た。そのなかで、たしかに鴉田門五郎の声がきこえた。
「屋根にも気をつけろ。きゃつら屋根伝いににげたのだ。まだ屋根のどこかにひそんでいるかもしれぬぞ」
お美也は唇をかみしめて、丞馬をみた。丞馬は下を見まわして、
「丞馬がついております」
と、野ぶとい声でいった。
「まだ、こちらに気がつきましねえ。いまのうちなら、にげられるでがす。奥さま……そのお姿じゃあ、ひるまならあるけますまいが、夜でがす。ちょっと、お待ち下せえまし」
と、彼はいって、さっきまでお美也をしばっていたしごき[#「しごき」に傍点]を土蔵の屋根から庭へなげおとした。
「おれがここでつかんでおりますので、奥さま、これをつたって、まずさきに庭へおりておくんなせえまし」
お美也はしごきをつかんだ。そして、宙に浮いた。雨にぬれた羽二重がすべるのを必死ににぎりしめて、するするとすべりおりようとする。――そのとき、庭の向うに、四、五人の隊士が、どやどやと入ってくる跫音がして、はっとした。
「おうい、新選組。――」
丞馬の声が思いがけぬ遠方できこえた。すぐにそれが丞馬のあの山彦のごとく|遥《はる》かから声をうちかえす幻法だとは知ったが、お美也も唖然とするような遠くの空から、
「うぬらのさがしているのはだれだ。おれはここにおるぞ」
「――やっ、あっちだ!」
と、隊士たちはあわててかけ去ってゆく。ふたたびお美也が、土蔵のまんなかあたりまですべりおちたとき――ぴかっと稲妻がひらめいた。
「あっ、あれは――」
同時に、お美也のからだが、がくとゆれた。屋根の上をキーンと何かがうなりすぎ、しごきをつかんでいた丞馬が身をふせたのだ。そのあとで銃声が夜空をわたって、
「――土蔵だっ」
宇陀久我之介の絶叫であった。――彼は土蔵といちばん遠い|母《おも》|屋《や》の屋根の上に立っていた。丞馬とお美也はおそらくまだ屋根のどこかにひそんでいるものと判断して、ひとり屋根の上にのぼってきていたのは、大胆といえば大胆だが、それも兇銃シャスポーをひっかかえたればこそだ。
「おういっ、みんな土蔵にゆけっ――いいや、おれが射ちおとす!」
稲妻がひかった。間髪をいれず、|蓑《みの》|虫《むし》みたいに宙にゆれるお美也の頬をかすめて、土蔵の壁にぴしっと黒い穴があいた。からくもそれたというものの、一瞬のいなびかりに、凄じいまでの手練だ。
「…………!」
意味もわからず、丞馬のうなりが屋根の上でながれた。さすがの彼が、身の毛もよだつのをおぼえた。おのれのいのちをおそれたのではなく、丞馬のきものをまとったお美也を、久我之介が丞馬と見まちがえていることを知ったからであった。
「なに、土蔵?」
「土蔵のどこに?」
「屋根だっ」
抜刀した新選組が、庭になだれこんできた。丞馬はうめいた。
「……奥さま……上へ」
しかし、|濡《ぬ》れすべる羽二重にすがったお美也に、もはや上へよじのぼる力はなかった。丞馬は身をもんで、屋根の上に仁王立ちになってさけんだ。
「ちがう! お美也さまを射つな! おれを射て、おれはここにいる!」
しかし、じぶんが射たれたら、お美也さまがしごき[#「しごき」に傍点]もろとも庭にころがりおちると一瞬気がついたのは、そうさけんだあとだ。
また蒼い稲妻がひらめき、夜空の彼方に銃口の火花がぱっと散った。
稲妻はきえたが、その刹那、丞馬の大きくのけぞった姿をみて、新選組は、
「やった!」
と、さけんだ。誰よりはやく土蔵の下に殺到したのは、玉虫兵庫と鴉田門五郎だ。彼らは、何者かが土蔵の下に転落した影をみたのである。
「斬るなっ」
背後で烏帽子右近の絶叫がながれたかと思うと、まろぶようにはしってきて、|刃《やいば》をふりかざした兵庫と門五郎を左右につきとばし、転落した影にとびかかった。
「お美也だ!」
右近が危うく看破したとおり、お美也は彼の腕のなかでもがいていた。数人がうしろから|松《たい》|明《まつ》をもってかけてきた。
「――丞馬は?」
「上をみろっ」
と、門五郎と兵庫がさけび、みんないっせいに土蔵の屋根をみあげて、思わずとびずさっている。屋根から半身をさかさにして、ひとりの男が下を見すえていた。そのからだと屋根のあいだから、赤い|滴《しずく》がきらっとひかりつつ落ちたのが松明の火にみえた。
「奥さま、いま、|参《めえ》ります」
と彼はいった。
お美也が射たれたのではない。宇陀のシャスポー銃は、みごとに丞馬のどこかをつらぬいた――と知りつつ、その|狂豹《きょうひょう》のような眼の凄じさに、右近は髪も逆立つような思いにうたれて、
「来てみろ――これだ」
と、お美也ののど[#「のど」に傍点]に白刃をつきつけた。間一髪、丞馬のからだが屋根に硬直した。
この一瞬のためらいのまに、お美也は両側から門五郎と兵庫にひきたてられ、あおむけにたおれてゆくように、新選組の波のなかへ消えてゆこうとしている。
丞馬の足が、瓦を蹴りかけた。そのとき、お美也の声がながれてきた。
「お逃げ、丞馬!」
「いいえ、奥さま!」
「わたしは死んでもいいの。おまえはにげて、あとできっと旦那さまとわたしの敵を討って!」
丞馬は腹部に射ちこまれた弾のあとを、片手でおさえていた。その激痛よりも、起とうとして下半身が鉛のように重くなっているのに、彼はお美也の奪還が不可能であることを知った。
「奥さま!」
血を吐くようなさけびであった。
「死になされ!」
丞馬は、腰の刀をひきぬいて、庭の向うへ移動してゆく一団めがけて放った。その刀で、お美也に死ねというつもりであったが、刀はとどかず、庭のまんなかへおちた。
「刀を捨てたぞ!」
屋根をわたってきながら、さけんだのは宇陀久我之介だ。
「きゃつ、たしかに腹に弾をくらった。こわがるな、やれっ」
それは、土蔵の左右に|梯《はし》|子《ご》がかけられ、|猿《ましら》のごとくかけのぼってゆく新選組に対しての叫びであった。また稲妻がはしり、屋根にとびあがった隊士たちは、すでに死せるがごとく屋根に伏している丞馬の姿を見た。
「くたばりおったぞ!」
むしろ、力ぬけがして、無造作にかけよった数人が、突如、白刃を宙にとばし、そのからだは木の葉みたいに庭にころがりおちている。驚愕して、庭の松明がかけよって、それがいずれも|肋《あばら》までひき裂かれた屍骸であることを発見して、「――あっ」と恐怖のどよめきをあげつつ、屋根の上を見あげた。
くわっと映えた夜空に、まるで霧の一塊ともみえるものが立ちのぼり、横にながれた。その霧の中で、歯ぎしりとともにうめきがきこえた。
「奥さま! 敵はきっと討つでがす!」
つづけさまに銃声が起って、その霧を火線で縫った。が、悲鳴もあがらず、たおれ伏す物音もないのに、屋根の上で追いすがろうとしていた隊士も、息をのんでたちすくむ。
霧は漂い、屋根から空にながれた。あとに丞馬の姿はなかった。
愕然となり、狼狽して、
「や!……た、松明をなげろ!」
二、三本の松明が投げあげられ、屋根のあちこちに燃える炎に、血のふとい糸がぶきみにひかりつつ、いまの奇怪な霧とは反対の方向へひいているのにはじめて気がついた。
「梯子が!」
たったいま、あがってきたばかりの梯子のひとつが、屋根からはなれて、土塀の上にかぶさっている|欅《けやき》の枝にかかっていた。――霧の幻法に眼をまどわされているあいだに、曲者が梯子に乗って、宙をにげたことはあきらかであった。
「にげたっ」
「あの欅――いや、塀の外だっ」
|動《どう》|顛《てん》した|空《そら》の声に、地上の連中はまごついて、もみあいながらかけ出す。――その裏門のあたりで、けたたましい女の声がきこえた。
「あっ、はやくきて下さいっ」
裏門のまえで、地団駄ふんでいるのは、お藤であった。彼女はわなわなふるえながら、東の堀川通りの方角を指さしていた。
「あいつ、あっちへにげてゆきましたよ! まるで黒い風みたいに――はやく追っかけて、はやく、はやく!」
「――逃げた?」
近藤勇は信じられないような声を出して、遠い屋根の上をふりあおいだ。
「ばかな!」
三人の旗本はたたきつけるようにさけんでかけ出そうとして、じぶんたちのとらえたお美也に気がついた。はっとその足を釘づけにしたのは、屋根の方をふりあおいでいるお美也の横顔に、祈るような微笑が彫られていたことだ。それがまるで、いまにもその方角から、あの不思議な忍者が|蝙《こう》|蝠《もり》みたいに夜空を羽ばたいてくるのを待っているような恐怖を三人に抱かせた。
「――きゃつ、ほんとうに逃げたのか?」
と、玉虫兵庫が思わず口ばしったのに、
「逃げました」
と、お美也はつぶやいた。
「けれど、あれはまたきます。きっと、おまえさまたちのまえに」
「なに?」
「旦那さまと、わたしの|敵《かたき》をうつために」
次の瞬間、お美也の口から――血がながれおちるはずであった。彼女は丞馬の復讐を信じ、ふたたび先刻のような辱しめをうけないために舌をかみきろうとしたのだ。そのとき、うしろで、大きな声がした。
「やあ、これアなんだ?」
猛然とはしり出そうとしていた近藤も、ぎょっとしてふりかえった。
表門の方角から、ひとりの武士が入ってきた。供を三人ばかりつれた大身らしい武士だが、すぐちかくで地におちてもえている松明のあかりに、その|俊爽《しゅんそう》な容貌は見おぼえがない。しかし、三人の旗本は、まるで夢魔の人にでも逢ったように立ちすくんでいた。
「ちょいと急用で、いま壬生にやってきたのだが、何やらえらい騒ぎのようだな」
と、いいながら、ちらっと地面にひきすえられているお美也をみた。お美也も眼をはりさけるほどひらいたまま、その人の顔をあおいでいる。
「新選組の局長の芹沢君というのは、こちらかね?」
と、その武士は近藤をみて、すぐに烏帽子右近のほうをふりむいてきいた。半年ぶりに逢う顔で、しかも決して再会をよろこぶといった間柄ではないはずだが、まったくこだわり[#「こだわり」に傍点]のない調子でこうきかれて、さすがの右近もへどもどしながら、
「いや、これア近藤君です」
「ああ、名は所司代からきいておる。いろいろ公儀のために苦労してくれるらしいな。直参が役立たずどもばかりだから、こういう始末になる。礼をいうぞ」
|武州《ぶしゅう》多摩郡の百姓の|倅《せがれ》出身の近藤は妙な顔をして、
「このお方は?」
「おれは、軍艦奉行の勝だよ。ずっと摂津の神戸村にいるのだが、ちょいと京の方に用があってね」
と勝安房は、友達みたいにいった。近藤はあわててひざをついた。
だまって、勝の顔をにらみつけていた玉虫兵庫が、不敵な敵意を露骨にみせた口調で、
「勝先生、せっかくの御光来ですが、いま少々とりこみ事がござる。拙者はこれで失礼します」
いいすてて、背をみせようとするのに、
「待ちな。用というのはおまえたちにだよ」
「え?」
「しかし、待て。ここにもなつかしいひとがいる。……あたら美女が妙なものをきて、ぬかるみの上に坐っておるのを放っておくとは、なんたる不粋なまねをする」
と、勝はあごで、地上にわなないているお美也の――丞馬のきものをつけている、というより、一方の肩までむき出しになった無惨な姿をさして、ちかよった。
「お美也さん。ひさしぶりだな。起ちなさい。――や! ひどくからだがあついが、こりゃいかん!」
あわてて、抱きあげる勝の腕のなかで、お美也はそれまでの心身の消磨と、いまの感動の衝撃のために、ぐったりとなった。この雨あがりの秋の深夜、ぬれたきものをまとっているのに、たしかに彼女のからだは異常にあつかった。
「おい、あっちへはこんでいって、寝かせろ」
と、勝は供侍に命じた。
「からだをふいて、きものをきかえさせるのだ。いや、おまえたちはいかんぞ。いくら新選組の屯所でも、飯炊き婆あくらいいるだろう、それにたのめ、いいかえ?」
供侍たちが、お美也をかかえて母屋の方へきえてゆくのを見おくって、勝はじぶんでも感心したようにつぶやいた。
「しかし、おれはうまいところにやってきたものだな」
たいていの場合、重厚な表情をかえない鴉田門五郎もいらいらして、
「先生、われわれに御用とはなんですか」
「やあ、鴉田か。おまえさんには、ひるま二条城で逢って、ちょいと話したっけね。用はそれだよ。どうだね、みんな神戸にやってくる気はないか?」
「神戸へ?」
「おれは、明朝はやく、あちらにかえる。いいめぐりあわせだから、あの女もいっしょにつれていってやろう。どうだ、それをきくと、おまえさんたちもくっついてゆきたかろう」
と、ニヤリとした。三人は色を失い、勝の心事をはかりかねて、とみには返答のことばも出なかった。
「ふふ、心配することはないよ。何もあっちへおびきよせて敵討ちをさせようというわけじゃない。――おれは、敵討ちなんてものはきらいでね。それアあの女が、どうでも討つというのならとめることもできまいが、手伝いはしないよ。まあ、どうなるか、それはあの女とおまえさんたちのあいだのなりゆき次第、おれの知ったことじゃない、というとひどく不人情なようだが、おそらくおまえさんたちに殺された宗像主水正も、おれの考えに不服はいわんだろうと思う。あれはまったくいい奴だった」
淡々としていうのに、三人の旗本は愚かしいいいのがれのきっかけを失った。
「むしろ、あの女には、おまえさんたちのいのちを、あと五年、おれに貸してくれとたのんでみようと思う」
「五年?」
「ここ五年のうちに、日本の運命は変るぜ、興るか、滅ぶか――この大事なときに、おまえさんたちは、やっぱり殺すにゃ惜しい男だよ。神戸でいろいろやってみて、いや、人材のいないのに往生した。しようがないから、目ぼしい奴なら手当り次第、浪人者だろうが町人あがりだろうが、ひっぱってきて、仕込んでおるのだがな。きょう城で鴉田に逢って、おまえさんたちがここにいることを知って、夜になって急にそのことを思い出したら、矢も盾もたまらなくなってかけつけてきた次第さ。どうじゃ、神戸へゆかぬか?」
勝は厳粛な表情になっていた。
「あの女も、ひどい姿になっておったが、おまえたちも、何となく地獄の亡者の顔つきになっているぜ。いちど軍艦にのって、海の風で面をあらってみな」
笑って、ふとあたりを見まわして、
「ところで、もうひとり宇陀もここにいるときいたが、どこにいった? あれも呼んでこい」
土砂降りの雨があがると、なお濁流のごとくはしる乱雲のきれめから、秋の月が、ときどき京の町に冷たいひかりをなげては消えた。
その下を――京とはいっても、ここらあたりはただ畑と森ばかりの、壬生から|西《にし》|大《おお》|路《じ》へゆく路を、ふたつの形が、よろめくようにあるいてゆく。
「丞馬さん」お藤であった。
「だいじょうぶ?」
丞馬はこたえない。はじめから、一言も口をきかないのだ。
その死灰のような顔いろをみるまでもなく、さっき壬生屋敷からややはなれた|藪《やぶ》の中で、彼の腹部の恐ろしい銃創をみたお藤は、彼がこうしていることすらふしぎなくらいで、どこかころがりこむ百姓家か寺でもないかと、そればかりさがしているのであった。
壬生屋敷の土塀の外にころがりおちてきた丞馬をみて、あわてて、彼を路傍の|木《こ》|蔭《かげ》にかくし、新選組の隊士たちをあらぬ方角へはしらせたお藤は、そのすきにひとまず彼をちかくの藪の中へつれていって、屋敷にとってかえし、浪士のきものと傷を巻く布をとってきた。丞馬の重傷をなかば|喪《そう》|神《しん》しつつ手当をし、そしていま這うようにあるいている男の横顔を不安げにのぞきこみながら、しかしお藤の心はうれしさにわくわくしていた。
――丞馬さんがくる、それは壬生寺で、あの江戸の旗本たちの密謀から知ったことだ。それがほとんど死地に入ってくるにひとしいのを予感しながら、彼女はそれを待ちうけて、屋敷のまわりをうろうろしていた。丞馬が出現して、あとはどうなるのか、それはお藤の判断を絶していたが、事態の進展は意外といおうか、当然といおうか、まんまと彼女の掌中に、恋する丞馬をおとしたのだ。しかも、あらゆる気力、体力をうしなって、彼女からのがれようもない半死の丞馬を。
「丞馬さん、苦しい?」
「…………」
「もうちょっとがまんして――わたしがついているのだから、決して殺しはしない」
「…………」
丞馬は依然としてだまっている。眼もとじていた。
彼はお藤の声もきいてはいなかった。ただ鼓膜に鳴るのは、「お逃げ、丞馬――わたしは死んでもいいの。おまえはにげて、あとできっと旦那さまとわたしの敵を討って!」というお美也の悲痛なさけびのみだ。
その奥さまに、おれは「死になされ」とこたえて、刀を投げた。それはお美也に、辱しめをうけるよりは死をえらべといったつもりであったが、それにしても――じぶんはこうしておめおめとにげてきながら、あの奥さまに、「死ね」とは!
彼の足はときどきとまった。それは傷のせいよりも、ふたたびあの屋敷へとってかえして、お美也さまとともに死のうかという衝動のゆえであった。
彼はまた立ちどまった。
「丞馬さん」
「だれか、うしろからついてくる」
と、彼は眼をとじたまま、はじめていった。お藤はふりむいた。
ずっとうしろを、いかにもただひとり、黒い影がそろそろとあるいてくる。蒼い月が雲から出て、その影のかかえている長い棒みたいなものをきらりとひからせた。
「あのひとだわ!」
「だれだ?」
「鉄砲をもっている――たしかに宇陀久我之介――」
丞馬の眼がひらいた。
十一
宇陀久我之介は|執《しつ》|拗《よう》であった。乗鞍丞馬が重傷をうけているという確信もあった。
お藤の言葉どおり、いちど他の隊士とともに堀川通りまで追跡してみたが、懸命の捜索にもかかわらず丞馬の姿がみえないのに、
「――もしや?」
と或ることに気がついて、ひとりかけもどってきたのだ。
いかに忍者といえ、きゃつがそう遠くまでにげているわけはないという考えと、もうひとつは、お藤の知らせに対する疑惑である。彼女がお美也をとらえてきたことから、なんとなくこちらの一味みたいに錯覚していたが、お藤が丞馬の敵とはかぎらない。芹沢の色おんなだったというせいもあり、いままで冷眼視していて、よく素性も知らないが、思い出すと、近江の磨針峠で丞馬にしがみついていた狂態からも、あいつが丞馬と|曰《いわ》く因縁のあることはたしかなのだ。
壬生屋敷にはせかえって、お藤のゆくえをさがすと、はたせるかな、彼女がいちど屋敷にかえって、不用の衣服をもち去ったことが、小者の口から判明した。
「さてこそ!」
ものもいわず、久我之介がとび出して、西大路めがけてはしったのは、丞馬が先刻の|妖《よう》|霧《む》の幻法をあやつった際、追跡者の耳目とは反対の方角へ姿をくらますことを知ったからであった。
そして、彼はついに、遠くの路上をもつれるようにして逃げのびてゆくふたつの影を見出した。
ひとりは女――もうひとり、よろめいてゆくのは?
「きゃつだ!」
思わず、声に出し、眼が月光に青びかる笑いにゆれて、シャスポー銃をあげようとしたとき――その影のひとつが、ふいに何かただならぬさけびをあげ、こちらにばたばたとかけてきた。
「――たすけて!」
女の声だ。お藤の声だ。
久我之介の銃口が動揺したのは、その声のせいではなく、単に射程にじゃまが入ったといういらだちのゆえであったが、向うの丞馬の影がべつに逃げようともせず、そのままじっとうごかないのを見すえると、
「なんだ」
と、きみのわるいほどしずかにきいた。
「あっ、宇陀さん、あいつですよ、あそこにいるのは、あいつですよ!」
「わかっておる」
「あたしをつかまえて、むりにこんな方へひきずってきて――」
「うるさい、じゃまだ」
久我之介ははじめて叱咤した。ふたたび銃口をあげて、必殺の狙いにうつる姿勢のそばを、まろぶようにお藤がうしろにまわる。――一瞬、そのうしろから、
「宇陀久我之介」
と、呼んだ声が丞馬のものなのに、さすがの久我之介も愕然としてふりかえった。
うしろに十歩ばかりはなれて、立っているのはお藤ひとりだ。まごうかたなきお藤だ。お藤はなぜか片手を宙にあげていた。――その唇は恐怖にくいしばられているのに、丞馬の声がその方角から、いや耳もとに鳴りわたるばかりにはっきりときこえたのだ。
「筧伝八郎が、|黒縄《こくじょう》の地獄で待っておるぞ」
声もまた山彦のごとく逆からきこえることを思い出し、お藤をすてて猛鳥のごとく反転した久我之介は、お藤の手から月光に、無数の針のごとくきらめきつつ舞ってくるものを見なかった。
銃声が夜気をつらぬいた。弾はむなしく月へとんだ。手もとが狂うも道理、彼の頸には細い蛇のように黒髪がまきついている。いや、そのシャスポー銃から、指、手くびにかけて、無数の髪が、それぞれ生けるはりがねのごとく、うねうねとからまり、まきついていた。
蒼い月が、|墨汁《ぼくじゅう》みたいに鼻口から出血した美しい苦悶の顔を照らし、声もなくそりかえった宇陀久我之介を、お藤はたちすくんだまま、夢魔でも見るように見おろしていたが、地にたおれた久我之介がそのままうごかないのを見てとると、はじめて、
「丞馬さん!」
と、笛みたいにさけびながら、かけていった。――宇陀久我之介のうしろにまわり、東から吹く風にこれをはなせ――と、丞馬がむしりとった髪をわたしたのを、おびえつつ、丞馬への愛というより、麻酔にかけられたような思いで、そのいいつけに従ったお藤であった。
「死んだわ! ほんとに宇陀久我之介が死んだわ!」
しかし、乗鞍丞馬はふりかえりもせず、うなだれたまま寂然と立っている。色のない唇がそよいで、「お美也さま」と断腸のつぶやきをもらしたのを、お藤はきくことができなかった。次の瞬間、彼は気力たえはてたように、片膝をつき、がくりとまえにたおれ伏した。
|水《すい》|紗《しゃ》幻法篇
――まんまるく視界はさえぎられているのに、その光景はかぎりなく雄大で、壮美であった。
眼下一帯、いたるところ巨石や材木がちらばり、人馬がうごいている。ずっと左の黒い大地には、何十騎という騎馬兵が、長蛇のごとくのびたり、巨大な円陣をえがいたり、散開したり、突撃したり、遠く肉眼でみれば、それが人馬とは信じられないくらいみごとなうごきであった。しかし、よくみると、服装もばらばら、黒衣あり、|白《しろ》|襦《じゅ》|袢《ばん》あり、なかには上半身裸体のものもある。ただ、その背にななめにかけた西洋銃のみ整然と美しかった。すぐ前方の|生《いく》|田《た》|川《がわ》に沿う路には、真っ黒な石炭をつんだ大八車や馬がつづいている。|鷹《たか》|取《とり》|山《やま》から掘り出した石炭である。そして、そのむこうのまっ青な夏の海には、四、五隻の黒船が、あるいは帆をおろした三本マストをきらめかし、あるいは黒い煙をあげていた。――すべてが、いままでの日本に存在しなかった風景であった。
「どうだね。よくみえるだろう?」
お美也は双眼鏡から眼をはなして、そばに微笑している勝を見あげた。|蒼《あお》|白《じろ》い|頬《ほお》に血がのぼって、
「ほんとうに、たいへんなことでございます」
と、心からいった。
「みんな、おれのあたま[#「あたま」に傍点]から出たことだよ。おれみたいなばかな奴でも、使いようによっては、これくらいなことはできるという見本だ。……日本の海軍ここに興る」
と、勝は|昂《こう》|然《ぜん》と胸をそらしてから、ふと眼を夏雲にあげて、
「しかし、|主水正《もんどのしょう》にみせたかったな」
と、しみじみとつぶやいた。が、お美也がうなだれたのに、くだらないことをいったという表情で、すぐにあかるく、
「や、うごき出したのは観光か。ちょいとその眼鏡をかしてごらん」
海に三|檣《しょう》のコルベット艦が、|凄《すさま》じい波を起しかけていた。神戸海軍操練所の練習艦「観光」である。
「おい、|以《い》|蔵《ぞう》、乗っているのは、|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》かね?」
と、勝はふりむいてきいた。部屋の入口に|坐《すわ》っていた若い|精《せい》|悍《かん》無比の男がこたえた。
「いえ、あれは坂本のはずでございます」
勝の自負するがごとく、神戸の海で、日本海軍の|産《うぶ》|湯《ゆ》をつかわせたのは彼であった。
もとは七百石の天領で、ただ|烟火蕭条《えんかしょうじょう》として|酒《しゅ》|家《か》船戸散在するのみのこの地を相して、彼は生田川|尻《じり》の小野浜に海軍操練所をつくり、|三宮《さんのみや》に局や寄宿舎を設けて、幕臣のみならず諸藩から有為の青年を四、五百人も収容し、漁民の船の船着場をあらためて巨大なドック建設にとりかかり、|和田岬《わだみさき》や|湊川《みなとがわ》の|出《で》|洲《ず》に砲台を築造し、じぶんが長崎で伝習し、また太平洋横断で修得した近代海軍術の夢をえがき出そうとしていた。
彼自身は、その経営のため、江戸、大坂、京と奔走していることが多かったから、それらの「生徒」を直接宰領するものが必要であったが、その塾頭としてえらんだのが幕臣ではなく、土佐の快男児坂本|竜馬《りょうま》であった。
「坂本氏|曾《かつ》て剣客千葉周太郎と伴い、余を|氷《ひ》|川《かわ》の|僑居《きょうきょ》に|訪《おとな》えり。ときに半夜、余ためにわが邦海軍の興起せざるべからざるゆえんを談じ、|噤m#「噤vは「女」+「尾」Unicode=#5A13 DFパブリW5D外字=#F49A]《び》|々《び》やまず。氏大いに会するところあるがごとく、余に語って|曰《いわ》く、今宵のことひそかに期するところあり、もし公の説いかんによりては、あえて公を刺さんと決したり。いまや公の説をきき大いに余の|固《こ》|陋《ろう》を恥ず。請うこれよりして公の門下生とならんと」
と、勝海舟の手記にあるような両者の接触は、ここに、
「このごろは天下無二の大軍学者勝|麟《りん》|太《た》|郎《ろう》という大先生の門人となり、ことのほか|可《か》|愛《わい》がられ候て、まず客分のような者になり申し候」
と、竜馬の手紙にあるような水魚の関係となる。
お美也は、|颯《さっ》|爽《そう》たる竜馬をみるたびに、彼ほど野性はないが、ふと主水正をおもい出すことが多かった。――それにしても、この海軍操練所に、|怨《おん》|敵《てき》|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》右近、玉虫兵庫、|鴉田《からすだ》門五郎の三人が来ているとは!
お美也は、そのことを、去年の暮まで知らなかった。あの秋の一夜、京の|壬《み》|生《ぶ》屋敷で彼女をうちたたいた冷雨と恐怖は、それまでの心労に加わって、もとから繊細な彼女の肉体をひきちぎったのだ。神戸へ送られる途中で、お美也は|喀《かっ》|血《けつ》した。そして、それからふた月、三月、勝が宿舎としているこの|生《いく》|田《たの》|森《もり》の庄屋|生《いく》|島《しま》|四《し》|郎《ろ》|太夫《だゆう》の離れの一室で、彼女は半睡|半《はん》|醒《せい》の病床にあった。
一夜ひそかに忍んできて、竜馬に一喝されたものがあった。その問答の声で、はじめて彼ら三人がこの操練所にいることを知ったのである。――きけば、三人は彼女のあとを追うようにして、あの数日後に神戸にやってきたという。
お美也はもだえた。しかし、病みおとろえたからだは、かるく竜馬におさえられた。
「お待ちなさい。事情はきいておりますが、軽はずみな挙はなさらんようにとの勝先生の仰せです。せめて先生が大坂への御出張からおかえりになるまでお待ちなさい」
大坂からかえってきた勝は、
「知ったかね? それは、こまったな」
と笑って、それからまじめな表情で、「あの三人のいのちを、あと五年、この勝に貸してくれ」といい出したのである。
――「お美也さん、おれを不人情な奴だと思われるかもしらんが、おれは|敵討《かたきう》ちの手伝いはしないよ。それどころか、あいつらをかばうかもしれん」という言葉は、そもそも敵討ちの旅の門出からきいてはいたが、まさか勝がほんとにそれをしようとは思わなかった。また――その勝と相容れぬ|小《お》|栗《ぐり》一派のあの三人が、おめおめとその輩下に加わってこようとは想像もできないことであった。お美也は、その意味で三人の敵がこわくなった。いや勝|安《あ》|房《わ》もこわくなった。そういえば、この恐怖はあの|益《ます》|満《みつ》休之助にも感じたし、それどころか夫の主水正にも感じたことがある。彼女は、男という男が、みんな何をかんがえているのか、怪物みたいに思われてきた。
――それにくらべると、あの|丞馬《じょうま》は、その幻術の|妖《あや》しさにもかかわらず、よくわかるように思う。
丞馬! 丞馬はどうなったのか? |宇《う》|陀《だ》久我之介は殺されたそうな、と、勝がおしえてくれた。丞馬のしわざだ。それはお美也も確信した。しかし、丞馬もたしか重傷をうけたはずだが、彼はどうしたのか。それは勝も知らなかった。
丞馬のことを思うたびに、お美也の心はいたんだ。北白河の宿で突如じぶんに襲いかかってきたときの、もえるような彼の眼までが、それを|峻拒《しゅんきょ》したじぶんのふるまいが悔いられるほどにしだいにふびんになり、あのひたむきな純粋さが、少年みたいにいたいたしく思い出されるのであった。
あの奇妙で忠節きわまる忍者はどこへいったのか?――しかし、その哀しみにみちた想いも、|波《は》|濤《とう》にかきけされるような眼前の光景だ。ここにつれてこられたときにもびっくりしたが、あれから秋、冬、春とすぎ、年の名も|元《げん》|治《じ》元年とあらたまって、また夏をむかえようとするいま、さらに面目一新した操練所の壮観をながめると――ふと、勝が「五年、あの男たちのいのちを貸してくれ」といった意味がどっと胸にせまってくるような気がし、彼女は病みつかれたからだよりも、男たちの仕事の波濤のうねりに沈んでゆく木の葉みたいな孤独さに息もつまってきた。
「お美也さん」
お美也はわれにかえった。
「世がしずかになったら、おれがアメリカへでもつれていってやろうかね。おれとは、いやかい? はははは、ま、ともかく病気をなおさなくっちゃ、話にならんが」
「坂本さまも、そうおっしゃっていました」
「や、あいつも――これは、ゆだんがならんな。しかし、美女に生まれつくのもつくづく災難だ。男という男を、みんな|狼《おおかみ》にしてしまう」
と勝は笑って、もういちど双眼鏡をお美也にわたした。
「ごらん、あの騎兵隊の隊長を――狼そっくりだが、あれもまた美しい男の顔とは思わんかね」
お美也は双眼鏡を眼にあてた。
|砂《さ》|塵《じん》をあげてかけちがう銃騎隊のなかを、まるい視界はうごいて、|叱《しっ》|咤《た》怒号している鴉田門五郎の顔がぐうっと大きくなると、彼女は眼をつむった。美しいとは思わなかった。お美也は歯をくいしばり、肩で大きな息をした。
その殺気のよみがえった姿に、勝はためいきをつき、しばし|憮《ぶ》|然《ぜん》と沈黙した。
「先生」
と、縁側に|坐《すわ》っていた若い男がいった。
「突然ですが、あれを私に|斬《き》らせて下さい」
「鴉田――をか?」
と、勝はややあきれ声でいった。
「以蔵、おまえの妙なくせはいいかげんによすがいい。あの男は、海ではつかえんが、|越中島《えっちゅうじま》で騎兵隊|頭並《かしらなみ》をしていただけあって、あのとおり、みごとなものだ。ばかなことをいっちゃいけない」
「いや、あれはこのごろ、どうもおかしい。しばしば京へいって――壬生へ出入りする姿をみたものがあります。あれは、きっと先生に|叛《そむ》きます」
「何をいうか。もと幕臣が、守護職預りの新選組に出入りするのになんのふしぎがあるか。そんなことをいえば、幕臣のくせに、おまえらのような人斬り稼業の浮浪人をかかえこんで、大まじめに仕込んでおるおれなどは、まず一番の|叛逆者《はんぎゃくしゃ》だよ」
と、勝は一笑した。若い男はだまりこんだが、むっと不平な顔であった。
竜馬をみると主水正を思い出すように、お美也はこの男をみると、なぜか丞馬を思い出す。――勝が、竜馬不在の場合に、お美也のために番人につけた土佐出身の岡田以蔵という男だ。
この一、二年|上《かみ》|方《がた》で、|越《えち》|後《ご》浪人本間精一郎、九条家家臣|宇《う》|郷《ごう》|玄《げん》|蕃《ば》、|目《め》|明《あか》し文吉、儒者池内大学をはじめ、当時のいわゆる|天誅《てんちゅう》事件で、彼の手を下さなかった犠牲者は|稀《まれ》だといわれ、薩摩の人斬り新兵衛、肥後の人斬り玄斎とならんで、幕末三大暗殺者のひとりである。なるほどこの番犬がついているのでは、三人の旗本も容易に手が出せまい。
しかし、三人は、はたしてお美也を思いきり、勝に心酔するのみの心で、操練所の潮にぬれ、海風にふかれ、砂ほこりにまみれているのであろうか。
――騎馬隊が散った。調練が終ったらしい。一騎、たしか鴉田門五郎らしい影が、まえを横につっきって、和田岬の方へかけ去っていった。
和田岬の松に馬をつなぐと、鴉田門五郎はひとり砲台のかげへあるいていった。そこに坐っていた烏帽子右近と玉虫兵庫が、眼でむかえた。
軍事、政治、経済、ゆくとして可ならざるなき勝安房は、その軍事においても、海軍のみならず、騎兵、砲兵、すべてに|活《かっ》|溌《ぱつ》な興味と実験欲をいだいていた。ここに砲台をつくったのは幕命だが、しかし彼はこれで|攘夷《じょうい》をはかろうなど愚劣なことはかんがえていない。ただ砲術訓練のためのみだ。そして、この和田岬砲台の隊長は玉虫兵庫であった。
「おい、ちかく壬生は長賊を一網打尽にするぞ」
と、門五郎はいった。
「|長州《ちょうしゅう》ばかりではない。肥後、土佐、その他の浪人どもが、三条小橋の池田屋に集って京焼払いの密謀をこらしているのを探知したということだ」
「いよいよ、長州と一戦をまじえるか」
と、玉虫兵庫は歯をむき出した。鴉田門五郎はうなずいて、
「で、おれはいよいよここを出る。すでに三十人余の同志をつかんだ。この騎兵隊で長州勢に一泡吹かしてくれる」
「勝め、内戦をいやがっておるだけに、おのれの仕込んだ騎兵隊がとび出したと知ったら眼をむくだろうな」
「勝のものの考え方が|野《の》|放《ほう》|図《ず》すぎるのだ。そのくせ、世の中のことすべてじぶんのあたま次第にうごくものと、人をばかにしておる」
と、烏帽子右近がおちつきはらっていった。
「ここに巣くう浪人どものなかに、その長州人と一々内応しておるものがうんとおる。それを幕府の御用金で養うなど、まさに|獅《し》|子《し》身中の虫とは勝のことだ。いちいち江戸の小栗どのに報告しておるが、その証拠が|或《あ》る程度あつまったとき、|老中《ろうじゅう》に具申してかならず勝をここから追い出してみせるとの仰せだ」
――果然、彼らこそ、この操練所に巣くう獅子身中の虫であった。彼らが勝のすすめに応じてここに入ってきたのは、勝に心服したのではなく、内部からこの操練所を破壊するためであったのだ。それと――
「勝を放逐したら、お美也をどうするか?」
三人は、顔を見あわせた。粘りつくような眼は、壬生寺以来、いやいや江戸以来、|毫《ごう》もその炎をおとろえさせてはいなかった。
元治元年六月五日、あすは|祇園祭《ぎおんまつり》という|宵《よ》|宮《みや》、かねてから眼をつけていた三条小橋の旅人宿池田屋に新選組が斬りこんだ。
この夜、池田屋にひそかに集って討幕の密議をこらしていた長州、土佐、肥後、その他の志士三十数名は、このことをまったく知らず、謀議果てて車座の酒宴に移っていて、
「御用改めであるぞ。――」
という階下の声をきいたものもなく、ただなんとなく異変をかんじた土佐の|北《きた》|添《ぞえ》|佶《よし》|麿《まろ》が、「なんだ、なんだ」といいながら、階段の上り口に立つと同時――どどどっと矢のごとくかけのぼってきた|近藤勇《こんどういさみ》の愛刀|虎《こ》|徹《てつ》に、真一文字に斬りおとされたのを血祭りとして、だんだら染めの巻きおこす|剣《つるぎ》の|颶《ぐ》|風《ふう》のもとに七人が即死し、四人が重傷を負った。|殺《さつ》|戮《りく》された者のなかには、肥後勤皇派の重鎮宮部|鼎《てい》|蔵《ぞう》、長州の吉田松陰門下で、高杉、久坂、入江とならんで四俊才の一人といわれた吉田|稔《とし》|麿《まろ》などがあり、ために維新は一年おくれたといわれる。
ところで、この激闘から命からがら逃げ出した他の志士も、池田屋の周辺からほとんど逃れることはできなかった。いたるところの通り、|辻《つじ》|々《つじ》に待ちうけては|狙《そ》|撃《げき》し、追いすがっては|鉄《てつ》|鞭《べん》をふるう騎馬隊のせいであった。
「殺すな、生捕りにせよ。――」
その神速巧妙な騎馬隊を指揮する声は、叫喚のなかにひときわ大きく、おちつきはらって、必死に脱出をはかる志士たちに、|蜘《く》|蛛《も》の巣にかかった虫の絶望を感じさせた。
「捕えて、かならず泥を吐かせるのだ。ひとりも逃すな」
この騎馬隊の|蹄《ひづめ》にかけられ、|鞭《むち》でうち伏せられて|悶《もん》|絶《ぜつ》し、逮捕された志士たちは合計二十三名に上った。一網打尽とは、まさにこのことである。
明けやすい夏の夜が明けて、三条小橋から壬生への沿道は、群衆にうずまった。
そのなかを、意気揚々と新選組がひきあげる。竹胴のはぜわれた者がある。鎖の着込の切れた者がある。折れまがった刀身を抜身のままぶらさげた者がある。釣台にのせられた手負いもある。筋金の入った鉢巻から、だんだら染めの麻羽織まで血にひたったようなのはどの隊士も一様で、眼は勝利にかがやいているが、地獄から|這《は》い出してきた獄卒の一軍という印象はまぬがれなかった。むしろ町の人々に、あらためて、公儀の力というものを感じさせたのは、そのうしろからゆるやかに蹄をはこばせている三十騎あまりの真紅の騎馬隊であった。彼らはその一夜の恐ろしいたたかいに加わったとは思われぬくらい整々とし、そろいの赤い陣羽織に、ななめに西洋銃を背負っていた。
「あれ、何や?」
「ゆんべ、鉄砲の音きいたやろ。あれが池田屋からにげ出した浪人をひとりのこらずつかまえた衆や」
「あれも新選組でおますか」
壬生屋敷に出入りしている酒屋のおやじが、とくとくと説明している。
「あれは、このごろ神戸村からきた紅騎隊というのや」
「神戸村? それどこにある村やね」
「おまえ、知らんのか。摂津にある海軍操練所や」
「へえ、海軍で、馬も使いますのんか」
「なんやしらんが、あそこの大将が新式のおひとでな、船でも大砲でも陣法でも、これからはみんな西洋風やないとあかんゆうて、その訓練してるそうや」
「へえ、西洋じゃ、みんな赤い陣羽織きますのんか」
「いや、あれはあの隊長の鴉田ちゅうひとがな、井伊さまの血につながるそうで、むかし大坂の陣で鳴らした御先祖の|赤備《あかぞなえ》になぞらったものやそうや」
――そのひしめく群衆のなかで、
「鴉田門五郎」
と、うめいたものがある。あまり異様なばかりにしゃがれた声であったので、周囲が、いっせいにふりむいたくらいであったが、声はひくく、すぐまえを通ってゆく馬上の鴉田門五郎は気がつかなかった。
「……いけない、丞馬さん」
そばで、女がその男の妙にぶらんとした|片《かた》|袖《そで》を、必死にひいていた。
それが|乗《のり》|鞍《くら》丞馬とお|藤《ふじ》とはむろん知らないから、人びとはふたりの姿に眼を見はった。――丞馬は|月《さか》|代《やき》をのばし、ありふれた浪人者みたいな姿であったが、|頬《ほお》はそげて、まるで幽鬼のような顔色だ。それにくらべて、しどけなくゆかたをきた女の、なんという官能的な美しさだろう。襟、袖口からのぞく肉は真っ白につやつやとくびれて、胸の隆起があらわなばかりに大きい。――恐怖にひきつるようにひらいた唇までなまめかしく、
「丞馬さん……見つけられると、殺されるよ。――」
「門五郎め、とうとうかえってきたのだなあ。……」
と、丞馬は肩で息をしていった。眼がみるみる血ばしってくると、
「きゃつ。――」
と、うめいて、つかまえられた袖をふりはなすと、去りゆく紅騎隊を追って、群衆のなかをはしり出した。
「あっ、いけない、待って、丞馬さん」とあわてて追うお藤は、あっちにつきあたり、こっちにぶつかるのに、よろめくようにはしる丞馬が、ひしめく見物人のあいだを、まるで水中の魚みたいにかけぬけてゆくのが、見おくる者の口をぽかんとあけさせた。
が、お藤は|烏丸《からすま》四条の辻で、|茫《ぼう》|然《ぜん》とたたずむ丞馬の姿を見出したのである。やはり人混みのなかであったが、ちょっとした恐怖の渦に巻かれ、丞馬は半顔を血に染めて立っていた。
「丞馬さん!」
「お藤。……」
西へきえてゆく新選組と騎馬隊を、血いろの眼で見おくって、
「おれの幻法は死んだ!」
丞馬は悲痛にうめいた。お藤は、丞馬の手ににぎられた髪の毛から、こめかみを染める血がそれをむしりとったことからきていることを知った。が、わななく指からぬけおちる髪は、はらはらとむなしく地上に散ってゆく。
すでに|灼《や》けつくように暑い白日の下であった。
池田屋騒動は、たんに新選組の|驍名《ぎょうめい》をとどろかし、尊攘派の志士三十数人を|屠《ほふ》り去ったというにはとどまらなかった。
この悲報に|激《げっ》|昂《こう》した長州藩は、数千の兵を送ってりくぞくと京|伏《ふし》|見《み》に侵入し、ついに幕軍と激突するにいたった。世にいわゆる|蛤御門《はまぐりごもん》の変はこれである。
七月の太陽がぎらぎらと照りつける京の町の戦争であった。|嵯《さ》|峨《が》から出撃した長州兵八百は|中《なか》|立《だち》|売《うり》|門《もん》を破って蛤門に殺到し、これをまもる|会《あい》|津《づ》|兵《へい》|桑《くわ》|名《な》|兵《へい》を苦戦に陥らせたが、このとき横から|忽《こつ》|然《ねん》とあらわれて襲いかかった真紅の騎馬隊の猛撃をうけ、剛勇をうたわれた部将|来《くる》|島《しま》又兵衛以下おびただしい戦死者を出して敗走した。また山崎方面から進撃した長州兵五百は、松原通りを東へ|柳馬場《やなぎのばば》通りを左折して|堺町御門《さかいちょうごもん》にせまり、|鷹司邸《たかつかさてい》に|拠《よ》って越前兵彦根兵と激戦をくりひろげていたが、蛤門の方から疾風のごとくまわってきた紅騎隊の|鉄《てっ》|蹄《てい》にみるみる|蹂躙《じゅうりん》され、|潰《かい》|乱《らん》した。
「それ、敵はくずれかかったぞ。一番隊右へ! 三番隊左へ! みなごろしにせよ!」
鉄鞭をふるって、鴉田門五郎は|吼《ほ》えていた。烈日と|硝煙《しょうえん》にやかれて、鬼神のような形相であった。
「待て!」
と、そばに馬をならべていた騎兵がさけんだ。
「ほ、あれは――」
と、いましも、血まみれのからだをもつれさせつつ、鷹司邸の門内へ退こうとしている一団の長州兵を指さす。
「あれがなんだ」
「あれは長州吉田門下の逸材、寺島忠三郎、入江|九《く》|一《いち》――」
さきごろまで神戸海軍操練所にいたが、そのまえは隠密として長州に入っていた男であった。
「おおっ、久坂義助もいますっ」
「射て!」
鴉田門五郎は峻烈に命じた。
紅騎隊のつるべ射ちに、鷹司邸門前のぼろきれみたいな|瀕《ひん》|死《し》の一団は、凄じい白煙につつまれた。
炎と煙は京を覆った。原因が原因だから、消防どころではなく、京の町は火ののびるにまかせた。黒煙は天に巨大な暗幕を張って、真夏の太陽は朱盆のような|物《もの》|凄《すご》い色をして、大空にかかっていた。
この炎のうなりと|阿鼻叫《あびきょう》|喚《かん》をよそに、ここにこのような男と女の一組があろうとは、だれが想像さえしたろう。
「ああっ……丞馬さん……」
お藤は丞馬のからだの下でのたうった。声だけきけば、ここでも一つの殺戮が行われているかと思われるが、ひきむかれた白い肉は歓喜と陶酔に|痙《けい》|攣《れん》していた。――たったいましがた外からかえってきて、「はやく、はやく、にげなくっちゃ」と地団駄をふむお藤を、冷然とながめていた丞馬の眼が、ふいにぎらぎらとかがやきはじめると、いきなり抱き伏せたのだ。
それはいつものことであった。この|聖護院《しょうごいん》裏の隠れ家では、夜も昼もなくくりかえされてきた|痴《ち》|戯《ぎ》|図《ず》であった。
――壬生屋敷の死闘の果ての傷ついたからだが、この家でみるみる|癒《い》えてゆくにつれて、逆に丞馬は苦しんだ。何よりはやく、壬生へいってお美也の安否をさぐってくるように、お藤に命じたのはむろんである。
「あたし――おまえさんの一味だともう感づかれてやしないかしら?」
と、しりごみするお藤を、
「ゆかねえか!」
と、丞馬は身をもんで絶叫した。
壬生からかえってきたお藤は、しかし丞馬に絶望的な知らせをもたらした。あの夜お美也は壬生屋敷で自害し、三人の旗本はそのまま姿をくらましてしまったというのだ。どうやら|薩《さつ》|摩《ま》か長州に、密偵として旅立っていったらしいという話であった。
まだ腹部の傷は口をあけたままというのに、がばと床の上におきなおり、それ以来三日三晩、何も食わず一言も口をきかず|不動明《ふどうみょう》|王《おう》のような丞馬にお藤は恐怖した。
「丞馬さん。……」
彼女はおびえながら、しかし必死にいった。
「そういうわけだから、ここでお待ち。あいつらはきっと京へかえってくるそうだから。……」
いうまでもなく、女の|嘘《うそ》であった。お藤はもう丞馬とあの江戸の旗本たちとの関係を知っていた。そして、丞馬がお美也という未亡人の主人を恋していることも知っていた。それゆえの嘘だ。三人の旗本が神戸の海軍操練所にいったことはさぐったが、同時にお美也もそこにいるときいた以上、どんなことがあっても、丞馬を神戸村へゆかせてはならぬ!
丞馬はそれにひっかかった。というより、彼の胸には、あの夜お美也に「死ね」と投げた|刃《やいば》が幻となってはねかえって、つき刺さったようであった。
お美也さまは、おれが殺した!
|飛《ひ》|騨《だ》の高山で茶屋の娘であったお藤は、三味線を教えて丞馬を養った。その情にほだされたのか、それともむかしの肉の快楽がよみがえったのか――お藤はまもなく丞馬を官能の|虜《とりこ》にしてしまったが、しかし彼女を抱く丞馬の眼には、ただ絶望と苦悶のみがあった。敵のもどるまで、その絶望と苦悶をまぎらわせるための愛欲なのに。
なんでもよかった。お藤は日毎、夜毎、丞馬の狂暴な肉の鞭の下に、この世のものならぬ法悦のむせびをあげていた。ふしくれ立った丞馬の片腕に抱かれるとき、彼女はその腕がじぶんの内臓までかきまわすような感覚にのたうち、なぜかながれる丞馬の涙を吸ってやるとき、じぶんの体内に|灼熱《しゃくねつ》した液体があふれかえるような快美感にあえぐのであった。
お藤はまえから知っていたのだ。あの中西半兵衛などはおろか、獣のような|芹《せり》|沢《ざわ》でさえ弱々しく思われるほどの強烈無惨な力を、丞馬が女のからだに持っていることを。――それが、とうとうあたしのところへかえってきた!
彼女は、お美也はもとより、あの旗本たちが丞馬のまえにふたたびあらわれることを何よりおそれたが、はからずも池田屋事変のあと、ついにそのひとり鴉田門五郎にめぐり|逢《あ》ったのである。
しかし、思いがけず丞馬は、「おれの幻法は死んだ!」と悲痛にうめいたまま立ちすくんだきりであった。
たしかに丞馬の幻法は死んだ。刃もくだく「断鉄幻法」の筋肉の力、一陣のしぶきの|幕《とばり》を張る「水紗幻法」の肺の力、なかんずく、離断された四肢、頭髪にすら生命力をあたえる「飛魂幻法」の魔力――その根源となる超人的な力を、彼はお藤の肉へそそぎこみ、消耗しつくしていたのであった。
あれから一度ならず、彼は京の町を疾駆する鴉田門五郎の姿をみた。いや、七条堀川の紅騎隊の本営にもいくたびかちかづいたこともある。しかし、池田屋以来志士の|復讐《ふくしゅう》にそなえた|鉄《てっ》|桶《とう》の警戒陣は、衰えはてた丞馬をよせつけなかった。
歯ぎしりして|蹌《そう》|踉《ろう》とかえる丞馬に、お藤の白い手足が粘りつき、熱い息が、
「丞馬さん……敵討ちなど、もうよして」
「たわけっ」
怒号しても、なぐりつけても、お藤は蛇みたいにからみついて、はなれなかった。焦燥がまっ黒な血をもやし、自棄が白い肉欲の地獄に吹きおとした。
そして、いまも。――
炎と殺戮の巷と化した京の片隅で、乗鞍丞馬は、白い汗にぬらぬらする女体と痴戯にふけっている。それもまた一つの殺戮に似た光景であったが、しかし丞馬の方が、なまめかしくふとった女郎蜘蛛の巣にかかった一匹の昆虫みたいな死相であった。
「――だれだっ?」
ふいに丞馬は、がばとはねおきた。
朝顔の枯れすぼんだ垣根の外から、ひとり浪人風の男がこちらをのぞきこんでいた。腕ぐみをして、だいぶまえからふたりのたわむれを見ていた様子だが、照れた様子もなく、笑いもしない。――若いが、なんとなく、陰惨な、丞馬の知らない顔であった。
「……そうか」
と、ひとりごとのようにいって、けろりとした表情で背をみせる。
「待てっ」
と、丞馬は呼びとめた。
男はゆっくりとふりかえって、じろっと丞馬をみた。かるく|朱《しゅ》|鞘《ざや》の柄に手がかかっただけだが、実に危険な――ぞっとするほど剣気にふちどられた姿勢だ。何もわからぬお藤は、恥と怒りに身をすくめて、にらみつけて、
「丞馬さん、あいつに罰をくわせてやっておくれよ」
と、口ばしったが、そのとき丞馬はよろよろとうしろに足をもつれさせて、肩で大きな息をした。かたちなき勝負に彼は敗れたのである。
「ふふん」
と、鼻を鳴らして、浪人は悠々と立ち去った。
「ふふん」
と、彼は往来をあるきながら、もういちど鼻を鳴らした。
「いくさの様子を見てこいと勝先生の仰せでやってきた京で、とんでもないいくさを見たわ。それも、妙なところで――丞馬さん……とおだやかならん女の声がきこえたので、おや、きいたような名だとのぞきにいったら、はたせるかな、あいつ片腕――お美也さまの案じていた下郎の丞馬とはあいつのことだな」
ぶつぶつとつぶやいている。
「ふしぎだ。あのお美也さまほどの佳人が、丞馬という名を口にするとき、身も世もあらぬまなざしとなるのをふしぎに思っていたが、本人をみれば、いよいよふしぎだ。いや、ふしぎではない、しょせん下郎は下郎。ともあれ乗鞍丞馬が生きていて、女ととち狂っていたと知らせたら、お美也さま、どういう顔をするか?」
彼は眼をあげて、ゆくての空にもえさかる|業《ごう》|火《か》と黒煙をあおいだ。
「残念だ。長藩は完敗だな。それにつけても、あれほど内戦をおそれていた勝先生が、じぶんが育てた騎兵が長州を粉砕したときいたら、長嘆するか――よろこぶか。いや、存外よろこぶかもしれんな。なんといっても先生は幕臣だからな。しかし、おれはゆるさんぞ、あの鴉田門五郎め、馬のうしろ足で勝先生に砂をかけた罪――いいや、勤皇派をふみにじった酬いに、そのうちきっと、このおれが――」
すでに殺気に酔ったような声だ。土佐の人斬り以蔵であった。
蛤御門の変にやぶれた長州に、さらに|鉄《てっ》|槌《つい》をくわえるべく、夏から秋にかけて、征長の幕軍は、ぞくぞくと西へ出陣していった。東、|筑《つく》|波《ば》|山《さん》に|蜂《ほう》|起《き》した|天《てん》|狗《ぐ》|党《とう》も鎮圧されて四散し、それは幕府にとって最後の感をしめす残光のいっときであったが、むろんそのことを正確に見ぬいていたものはきわめて少数で、ほとんどすべての幕臣や諸大名には、天日がふたたび東にもどったとしか思えない時勢であった。
同時にそれは新選組にとって、泣く子もだまる栄光の時代であったことはいうまでもない。それと、影の形にそうように活躍する紅騎隊と――当時、京でこの両者には、鬼神といえども敵しがたかったであろう。
その新選組や紅騎隊が、ちかく京からきえるかもしれぬ。――そんな聞き込みをお藤が丞馬の耳にいれたのは、虫の音もほそい晩秋の或る夜であった。
「な、なんといった?」
丞馬は、まるで夢に大地をゆりあげられたような声をあげた。肌に|沁《し》む夜気に、ただれるような愛欲の最中である。お藤はうす眼をあけた。心中に、つまらないことをいった、と舌うちをした。しかし、ちかぢかとかぶさった丞馬のただならぬ眼光をみると、
「え、紅騎隊が、長州へゆくかもしれない――っていったのさ」
と、心ならずもまたくりかえした。
「どうして、それがわかったのだ」
「……きょう|木《き》|屋《や》|町《まち》通りをあるいていたらね、ばったり又八爺さんにあったのよ。又八ってのは、まえに壬生の|屯《とん》|所《しょ》にいて、いまは七条堀川の紅騎隊で下男をしている爺さんなの。その口から、紅騎隊がちかく出陣するときいたんだけど、出陣っていえば、長州でしょ?」
だまっている丞馬に、お藤は下からぴったりと白い豊満な腰を吸いつかせて、
「もう、あなたは殺される心配はない。丞馬さんと、いつまでもこうしていられる――と思ったら、あたし、うれしくて、うれしくて……いままでも、ひょっと丞馬さんが町で紅騎隊と出合ったら――とかんがえると、あたし生きた心地もなかったのよ」
しかし、その不安は、実はもうだいぶ以前からきえていた。丞馬が紅騎隊のこ[#「こ」に傍点]の字も口にしないことはひさしかった。紅騎隊の威力、丞馬の破術もさることながら、お藤はひそかにじぶんの|蠱《こ》|惑《わく》を誇っていた。それに自信をいだかずにはおれない丞馬のめちゃめちゃな|耽《たん》|溺《でき》ぶりであり、そして|憔悴《しょうすい》ぶりであった。だからこそ、うっかり紅騎隊のうわさを口からもらしたのだ。
「ね、紅騎隊のことなど、どうでもいいじゃあないの。鴉田が何さ、丞馬さん、あたしはあたしの知らないひとの敵討ちに精出すなんて、いやいや、いやよ。……」
|狂蝶《きょうちょう》のようなたわむれのあと、からみあったまま、さきに白い泥みたいになってしまうのはお藤の方だった。
夜半、いつしかなげ出したはだかの四肢を夜風がなでるのに、お藤は眼をさました。
丞馬はいなかった。
細い月が中天にかかった真夜中の七条通りを、丞馬はひとりであるいていた。
鴉田門五郎が京を去る! むろん、お藤の言葉に彼は冷水をあびせられたような思いがしたのだ。門五郎を京からのがしてはならぬ。いま、きゃつを討たねばならぬ! その焦燥に|煽《あお》られて、彼は聖護院裏の隠れ家をとび出したのだ。
――いままで、おれは何をしていたのか! 丞馬はみずから問うて、歯ぎしりした。
しかし、これは丞馬の思いちがいであった。
彼はこの一年、一日一夜たりとも鴉田門五郎をふくむ三人の敵のことを忘れたことはない。事実は、討てなかったのだ。彼の幻法は死に、敵はあまりにも強大であった。苦悶は自棄の肉欲地獄におとし、さらに泥中をのたうつような奇妙な愉楽を彼にあたえた。
そして、彼の幻法はいまなお死に、敵はいよいよ強大である。それにもかかわらず、彼は紅騎隊にひとり斬りこんでゆこうとしている。死は当然の運命であった。――けれど、そもそも最初から死をおそれぬ野性をもつ丞馬が、いままで何をしていたのか。ふしぎなのはそれであった。
彼を空白無頼の日々に|沈《ちん》|淪《りん》させているのは、彼の体内をむしばむ恐ろしい無力感であった。
――お美也さまはこの世にない、という絶望からくる虚脱感だ。
そしていま、丞馬はその復讐のために敵の本陣へいそぎながら、なおうつろな虚無風を、からだのなかに吹かせている。
「――やっ?」
七条烏丸の辻で、丞馬はふいに立ちどまった。
ゆくてに騒然たる鉄蹄のひびきをきいたからだ。一騎ではない。たしかに十騎以上――と、きいたとき、夜気をつんざく銃声があがった。
その方角から、まろぶように|駈《か》けてくるひとりの男に気がついたとき、丞馬はすでに片側の|築《つい》|地《じ》の上に、やもり[#「やもり」に傍点]のごとく這っている。
騎馬隊に追われてにげてきた男が、|羅生門《らしょうもん》の綱みたいにふいに宙につかみあげられたあとを、十数騎、黒旋風のごとく東へかけ去った。路半分におちた築地の影に見えなかったせいもあろうが、追撃者にとって、いまの怪事は思いもおよばなかったに相違ない。
丞馬につかみあげられた男は、築地のうえでものもいえず、ただあらい息を吐いていた。その肩に手をかけて、追手を見おくっていた丞馬は、ふと気がついて、
「お、射たれたな」
と、血のついた掌を月にかざした。男はうめいた。
「む、むねんだ、あと一息のところを――」
「おめえさま、長州かね」
「いや」
と、いいかけて、
「おぬしは?」
「おれは、飛騨だ」
「飛騨?」
飛騨の攘夷派など、あまりきいたことがない。
「おれは追手が紅騎隊らしいと知って、おめえさまを助けただけだよ」
丞馬は、うす笑いして、
「もうすこしのところで、おれが七条堀川の紅騎隊屯所におしかけるところだった。いや、これからでもゆくつもりだが、いまの追手のなかに鴉田門五郎って野郎がいたか、それとも屯所にのこっているか、おめえさま、知らねえかね?」
男は、顔をあげて、丞馬をみて、
「やあ……乗鞍丞馬!」
相手のおどろきよりも、丞馬の方が|愕《がく》|然《ぜん》とのぞきこんで、
「おれを知っているおめえは……はてな、どこかで見た顔だな」
そうはいったが、とっさに丞馬には思い出せなかった。――傷ついた肩を、もういちどあらあらしくつかんで、
「わ、わりゃあ|誰《だれ》だ。どうしておれを知っている?」
「痛っ、お、お美也さまからきいた。――」
丞馬はこのとき、この男が三、四か月まえ聖護院裏でじぶんとお藤の痴態を|嘲笑《ちょうしょう》して去った怪浪人だと気がついたが、その素性よりも、いまの言葉にのけぞりかえった。
「お美也さま? お美也さま! お、おめえは、いつ、どこでお美也さまと――」
「神戸村の海軍操練所で」
丞馬は声もなく、硬直したようであった。一瞬の驚愕ではない。その全身にピーンと|鋼《はがね》のような生命力のすじがとおったのを、彼はみずから意識しない。
「お美也さまが生きてござるというのか!」
肩に鉄砲傷のある浪士をひとりつれて、ぶらりとかえってきた丞馬をみて、お藤は眼をまるくした。
「お、おまえさん、どこへ?」
丞馬はこたえず、
「傷を洗おう。|焼酎《しょうちゅう》を出せ。それから布と――|蒲《ふ》|団《とん》もしいておけ」
「このひとは、どなた?」
といいながら、お藤はしげしげとその男の顔を見まもっている。やはり、彼女にもかすかなおぼえがあったのだ。
「土佐の岡田以蔵という方だ」
かえって、そういわれて、お藤はわからなくなった。しかし、強い男だ。傷を洗った残りの焼酎をのみながら、あぐらをかいて丞馬と話しこんでいる。その話で、お藤は、この浪人が大胆にも七条堀川の屯所に潜入して、紅騎隊に発見され、傷つき、追われているのを丞馬が救ったらしいということを知った。――しかし、彼女の眼をひからせたのは、その話より、きいている丞馬の顔であった。
丞馬の頬には、血の色がよみがえっていた。眼に、名状しがたい生気がある。……一年前、お藤が丞馬を救って以来、このような彼の顔をみたことがない。彼女は、丞馬が別の男になったような感じがした。いったい今夜、彼に何事が起ったのだろう?
「そんじゃ、江戸へ立つのは二十五日でがすか?」
と、丞馬がいう。そして、指をおって、
「あと、三日。――」
台所からもどってきて、息をのんでこれをきいたお藤は、
「江戸へ?……ちょいと、丞馬さん、江戸へだれがゆくというの? まさか、おまえさんが――」
「三日――おれはそれまでに、|音《おと》|羽《わ》の滝にでもうたれて、身を浄めねば、お美也さまにお目にかかれねえ」
と、丞馬はつぶやいたかと思うと、もういてもたってもいられぬふうですっくと立つ。その袖を、必死にお藤はつかんだ。
「お美也さま……お、おまえさん、あの女が、ど、どこにいるというのさ?」
「お藤」
はじめて気がついたように丞馬はふりかえった。
「おめえ、おれに嘘をついたなあ」
お藤は顔色をあおくしたり、あかくしたりしていたが、ふいに狂気のごとくしがみついて、
「おまえさんを、あの女のところへ、ゆかせたくなかったんだよ!」
と、さけんだ。
丞馬が、虫でもはらうようにからだをふりはらうと、お藤はあおむけにころがった。が、たちまちはねおきて、戸口の方へまわり、大手をひろげて、
「ゆかせやしない。ゆかせやしない」
「どけ」
と、丞馬は、そこに立ちふさがる者がいないかのようにあゆみよる。お藤は|嫉《しっ》|妬《と》に歯をカチカチ鳴らして、
「どうしてもゆくというなら、あたしはこれから紅騎隊の屯所へはしっておまえが神戸村にゆくと鴉田門五郎にいってきてやる」
「おい」
と、うしろから、酔った――しかし、へんに沈んだ岡田以蔵の声がした。
「おぬし、この女がいない方がいいのではないか」
丞馬はふりかえって、しばらくかんがえて、
「うん」
と、こたえた。それから宙に眼をあげて、
「|檜《ひのき》先生が、女を断たねば、飛騨幻法は死ぬと仰せられたのはほんとだなあ」
と、つぶやいた。
ふっと、そのとき|行《あん》|燈《どん》がきえた。夜明前の濃い|闇《やみ》に、もののけがすうとうごいたような気配がした。お藤は、ふいにじぶんのくびに、うしろから冷たい腕がまきついたのを知って、
「あっ、あっ、――丞、丞馬さん!」
と、恐怖のさけびをあげたが、耳もとにきこえてきたのは、丞馬の声ではなく、
「おい、ゆくがいい。命をたすけてもらった礼に、おれがこの女を始末してやる。岡田以蔵は義理だけはかたい男だ。……もっとも七条堀川へなどはしられては、いまちょっとおれも都合がわるいのだ。……女を殺すのは、はじめてで、なんだかきみがわるいが……」
――いったい、何をしているのだろう? この幕末でもっとも高名な「殺し屋」が、その妙なせりふのとおり少々もてあましたのか、それとも神戸の操練所でかたく禁じられていて、ひさしぶりに味わう殺戮の|醍《だい》|醐《ご》|味《み》をたのしんでいるのか、闇のなかで、ひくい、身の毛もよだつ女の悲鳴が、いつまでもいつまでも断続していた。
――この男が、のちに武士らしくもなく縛り首になどなったのも、こんな罪の酬いかもしれない。
丞馬は、お藤の断末魔の声などきいてはいなかった。彼はもう京の町をたったといそぎ足であるいていた。南へではなく、北へ、白河村の方へゆくところをみると、ほんとうに身の汚れを洗うために、音羽の滝へでもゆくつもりかもしれぬ。
|暁闇《ぎょうあん》のなかに、その眼ほど生気にもえ、非情で、恐ろしいものはなかった。
勝安房守が軍艦奉行を免ぜられ、海軍操練所から江戸へ召還を命ぜられたのは、十月の末であった。ここが浪人の一城の観をなし、激徒の|梁山泊《りょうざんぱく》となっているという幕府の|猜《さい》|疑《ぎ》によるものである。すでにこの秋ごろから、幕吏の探索の手がのびて、ひそかに逃散する浪士も少なくなかったから、この命令でいまさら勝はおどろきはしなかったが、さすがに面上一抹の|寂寥《せきりょう》は覆えなかった。のちに勝はこのことを語っていう。
「幕府の役人からは、勝は海軍をおこし、諸藩のあばれ者をあつめて、そして彼らもまたよろこんで勝に服しているというのは、何か|仔《し》|細《さい》があるのであろうなどと、ひどくにくまれて、とうとう江戸の|氷《ひ》|川《かわ》へ閉門を命ぜられてしまったよ。しかし、おれも最初から、とうていながつづきはすまい、かならず何か故障が起るであろうとは思っていたけれど、将来のために先鞭をつけておく考えでやりかけたのだ」
旅装の勝にとりすがって、坂本竜馬はぽろぽろ涙をこぼした。操練所の波うちぎわである。
「先生、すみませぬ。わたしどものために」
「竜馬、おまえが泣くのは|可《お》|笑《か》しいな。泣くな。いままでのことでも、決してむだじゃなかった。みろ、おまえをはじめ、みごとに軍艦を操縦できる人間が、うんとここで生まれたじゃないか。幕府のためとはいわん、日本のために、そいつらがこれから大いにはたらいてくれるだろう。はじめから、おれはその見込みだったよ」
と、勝は、もういちど神戸の沖に眼をやって、
「あいつら、もう江戸へゆくな」
と、微笑した。二隻の軍艦が、いまや港を出てゆこうとしていた。竜馬は怒りの眼でそれを見おくって、
「忘恩の犬めが、主人の手をかんでにげます」
「あいつらの主人は、もともと小栗|上野介《こうずけのすけ》だよ。気にすることはない」
小栗上野介は、|豊《ぶん》|後《ごの》|守《かみ》がさきごろ改名したもので、まだここに着任はしないが、彼が勝を追って新しく軍艦奉行になったということでも、竜馬は、このたびのことの背後にうごいた意志に切歯せずにはいられないのであった。
「先生、海軍操練所はもはやこれきりでしょうか」
「少なくとも、神戸のここはな」
と、勝はちょっとさびしそうにいった。が、すぐに明るい眼になって、
「しかし、海軍はつぶれぬ。すでに種はまかれた。あいつらは江戸へ――おまえは長崎へ、日本のあっちこっちに、新しい芽が出るのを、おれはたのしんで見ていよう。もっとも、江戸へかえって、腹をきらずにすんだらの話だが」
と、笑って、ふりむいて、
「ところで、おまえや塾生たちの身のふりかたは何とかきまったとして、ちょっと思案にくれるのはお美也さんだ。おれが閉門の身でなきゃいいのだが」
「勝さま、わたしのことはどうぞ御心配にならないで下さいまし」
と、傍に立っていたお美也がいった。美しい眼は、じっと江戸へ去る二隻の軍艦のゆくえを追っている。
日本のために、しばらく|敵《かたき》のいのちをかせ――その願いを承諾したのか、どうか、ともかくもいままでよくおさえてくれた、と勝は思う。しかし、江戸にかえって、おれの手からはなれたら――と考えると、彼は暗然とせざるを得ない。いや、それよりも、眼にこそ異様なかがやきはあるが、胸を病んで、かげろうのように透きとおったお美也をみると、江戸までの旅すらいたいたしく案じられるのであった。
「お美也さん……やはり、江戸へゆくか?」
「参ります」
と、お美也は決然としていう。竜馬が不安そうに、
「先生、その江戸への道中ですが、御用心下され。なんと申しても先生はもはや御役御免、先生をはばかるむきが何をたくらむか――すでに京へいった岡田から、新選組か紅騎隊にふしんなうごきがあると知らせてきております」
「さあ、それだよ、おれもいのちは惜しいからな。そこで、うまいことを考えたわい。いまフランス公使のロッシュが大坂にきていて、江戸にかえるという。それにくっついてゆくつもりだ。これじゃあ、幕閣のフランス派も、ちょいと手は出せんだろう。どうだね?」
と、勝が大笑したとき、竜馬がはっとしてふりかえった。
すでに塾生も大半散って、どこやら|廃《はい》|墟《きょ》のかげすらただよう操練所の彼方から、鉄蹄のひびきがとどろいてきた。と、みるまに、忽然として真紅の騎馬隊があらわれて、疾駆してきた。
先頭のひとりがこちらをみとめて、手をふると、騎馬隊はみごとに扇のかたちに散開した。背の銃を片手にとり、そして彼らがいずれも赤い|頭《ず》|巾《きん》で|面《おもて》を覆って眼ばかりのぞかせているのが、奇怪でもあれば、逆に|戦《せん》|慄《りつ》すべき意図をはっきりあらわしてもいた。
お美也をうしろにかばって、勝がいった。
「ははあ、大坂まで、もた[#「もた」に傍点]んかね?」
――この夏、あと足で砂をかけるように鴉田門五郎が三十余名の銃騎隊をひきいて脱走したことも、烏帽子右近と玉虫兵庫がそれとは無縁な顔でなお操練所にのこって、塾生たちの素性、動静、思想を綿密にさぐってどこかに報告していることも、竜馬や以蔵が切歯するにもかかわらず、知っていて知らぬ顔をしていた勝安房であった。いずれにせよ、この操練所の運命は長くないとみて、それまでに一人でも多く、一歩でも深く、西洋兵術を教えるにしくはないというかんがえからである。しかし、その鴉田門五郎が|刃《やいば》をさかしまに――刃よりもっと恐ろしい銃隊を以て、じぶんに襲いかかってこようとは、いかに|聡《そう》|明《めい》な勝も思いおよばなかった。
操練所にのこっていた塾生たちも、街道をやってくるこの真紅の騎兵隊はみていたが、まったく危険性は感じていなかった。なぜなら、このころまだ山陽道を西へ進む部隊は|稀《まれ》ではなかったし、そのなかには古めかしい|甲冑《かっちゅう》の騎馬武者すら少なくなかったからだ。
しかし――紅騎隊は、突如として横なだれに、操練所に侵入してきたのである。
「――包め、包めっ」
覆面はしているが、声はまさしく鴉田門五郎だ。
出陣の幕命はまちがいなく長州行であった。が、この神戸村を通りかかって、ふいに馬首を横にむけたのは、決してとっさの思いつきではない。勝こそ幕府にとって|禍《わざわ》いをなす男――その信念は固着していたし、それに数日前、七条堀川の屯所にしのびこんで寝首をねらった岡田以蔵は、たしかに勝からの|刺《し》|客《かく》と誤解もした。
五人の仲間のうち、もっとも重厚だが、ひとたび決断すれば、もっとも|峻烈《しゅんれつ》に事を行う男であった。
勝安房襲撃は彼の独断だが、しかしこれからの長州での働き|如何《いかん》では、そのお|咎《とが》めは充分帳消しにしてみせる自負が彼にある。小栗上野介もついている。むしろ、幕臣一統の|喝《かっ》|采《さい》をこそ期待すべく、ただ勝を討ちもらすことのみが、すべてをぶちこわしにする恐れがあった。再度の襲撃は、きかないのだ。
それだけに、いま海沿いに立ちすくむ三人をみて、わが事成れり、と心臓も鐘のような音をたてて、
「狙え――っ」
と、ひっさけるように絶叫したが、そのあと「撃て」という声を危うくのんだ。
その三人のなかにお美也の姿があることに気がついたからだ。鴉田門五郎は、頭巾のなかで顔をひんまげた。すでに紅騎隊は、三人を半円形に包囲している。馬腹を足ではさんで、銃の|床尾板《しょうびはん》はいっせいに肩にあった。――むこうは、とぎれとぎれの石垣と、そのあいだからのぞく|蒼《あお》い海だ。
「鴉田っ」
竜馬が、ふたりのまえに仁王立ちになってさけんだ。
「|面《おもて》をかくさねば、恥ずかしいことをしにきたか!」
門五郎は馬上で頭巾をかなぐりすてた。ふだん笑わぬ男が、ふてぶてしい笑いをつくっている。竜馬にはこたえず、
「先生」
と、|錆《さび》のある声でよんだ。
「ご想像のごとき用件で、推参しました。お覚悟あれやっ」
「ふむ」
と、勝は笑った。
「りっぱなものだ。おれが教えたとおりだ。操練所魂に恥じぬな」
「仰せのとおりです。されば、女を巻きぞえにいたしたくない。それはこちらへおわたし下されい」
「――いやですっ」
と身をもむと、懐剣をぬいて、お美也はもえるような眼で鴉田門五郎をにらんで、
「|卑怯者《ひきょうもの》っ――おまえをいままで見のがしていたのは、勝さまの仰せにしたがっていたものを――」
「敵討ちか? おお、討たれて進ぜよう。こっちへおいでなされ」
と、鴉田門五郎はあざわらった。たたと走り出そうとしていたお美也は立ちすくんで、ゆくもならず、とどまるもならぬくやしさに身もだえした。
勝安房が、ふいにきびしい声でいった。
「竜馬、このひとを、鴉田のところへつれてゆくがいい」
「まっ、何ということを――勝さま、わたしに生き恥をかかせるおつもりですか!」
「お美也さん。……人間、生きておれば何か生きているだけのいいことはきっとあるものさ。いま、この場で、あなたは死ぬ必要はない」
無情ともきこえる調子で、
「竜馬、つれてゆけ」
「はっ」
と、竜馬がお美也の腕をつかみ、二歩、三歩あゆみ出したとき――騎馬隊の中で、何やらさけんだものがある。強烈な|痙笑《けいしょう》の眼をお美也にそそいでいた門五郎は、はっと顔をあげて、その|刹《せつ》|那《な》、三人の背後の石垣のむこうから、どっと|一《いっ》|颯《さつ》の|怒《ど》|濤《とう》が巻きあがったのを見た。
それはあたかも、海の上をはしってきたひとすじの風が、|一《いっ》|碧《ぺき》の|蒼《そう》|空《くう》たかく|白《はく》|沫《まつ》をちらしたようであった。
門五郎にはそう見えた。が、そのしぶきが霧のごとく三人をつつんだとみるまに、石垣に沿って、その石垣が一メートルも高くなったように真っ白な潮けむりがさあっと左右にひろがっていった怪異に、
「あっ」
と、馬上に眼をむき出し、急にのどをしぼって、
「撃てっ」
と、怒号した。豆を|煎《い》るような銃声がその潮けむりに射ちこまれたが、悲鳴はなく、かえって、その騎兵のひとりが、
「隊長っ……うしろにも!」
と、ただならぬ声をあげたのに、みな、かっと口をひらいた。背後にも、疾風の速度で水の幕が張られていった。鴉田門五郎のみが、これを天変地異とはみなかった。
――きゃつが来た! きゃつが現われた!
彼の|脳《のう》|裡《り》を、|曾《かつ》て壬生屋敷の屋根でみた霧の怪異がかすめた。それは天変地異よりもっと恐ろしいものであった。門五郎は|蒼《そう》|白《はく》になって、あぶみに立ちあがり、
「敵は、忍者だぞっ、撃て、撃てっ」
と、絶叫した。
凄じい銃声は起ったが、秩序を失った。馬はいななき、狂奔した。それも道理――いかに忍法とはいえ、これが一人の人間の業であろうか。紅騎隊は、いまやまったく水の|穹窿《ドーム》の中にあった。音もなくふりかかるしぶきの強烈な潮の|匂《にお》いに人馬ともにむせびつつ、その外にのがれ出ようとして、たちまち馬は|竿《さお》|立《だ》ちになった。反対側からも突撃してくる赤い騎馬をみたからだ。それが、|朧《おぼ》ろな鏡面と化した水の幕の|妖《あや》かしとはだれが知ろう。驚愕のために、人馬は交錯し、衝突し、|顛《てん》|倒《とう》し、こねくりかえした。その不可思議な|修《しゅ》|羅《ら》|図《ず》を照らすひかりは七彩だ。それはしぶきを透る陽光の醸す|虹《にじ》の|万華鏡《まんげきょう》であった。
「忍法だ。惑わされるなっ――馬の眼をかくせ、陣羽織で包んで、|鞭《むち》をあてろっ」
と、鴉田門五郎はさけんだ。
死物狂いに馬首をたてなおして、紅騎隊は退却にかかった。すでに方向もわからなくなって、濤声を背に、狂気のごとく疾走して、彼は水の城からとび出した。――外は海であった!
波音はうしろに鳴っているのに、海は眼前にあった。驚愕と恐怖の顔をのせたまま、馬は前肢をたかくあげて、石垣のきれめから、十数騎海中へおちこんだ。
その叫喚に、鴉田門五郎が金剛力で手綱をしぼったとき、
「おい」
と、すぐ耳もとで、声がきこえた。
何者かが、すぐじぶんのうしろに乗っていると気がついて、ふりむこうとした|頸《くび》に鋼鉄のような腕がまきついた。
「三人目。――」
――その声を、石垣の上に茫然と立っていた勝安房と竜馬とお美也もきいた。竜馬は口をぽかんとあけている。
眼前には、巨大なガラスの鉢が伏せられているようであった。ただそのガラスは渦まき、ながれ、血の虹をひいている。そのなかに右往左往している紅騎隊は、さながら共食いをしている赤い|甲虫《かぶとむし》のむれに似ていた。
「せ、先生! あれは――」
「奴さん、とうとう来おったな」
と、勝は微笑してふりかえる。お美也は胸をひしと抱きしめ、眼をすえたままうごかない。勝も心中舌をまいて、
「凄いものだな、飛騨幻法。……おれも、これほどのものとは思わなかったよ」
しぶきの乳色が、すうとうすれてきたとき、一騎狂気のごとくこちらにとび出してきた。馬上には、ふたりの人間の姿があった。
「三人目でがすっ」
歓喜にみちた絶叫がふたたび耳をうった。
うしろから片腕にしめあげられて、のけぞった鴉田門五郎の鼻口から血泡が|溢《あふ》れている。
まっしぐらに疾走してきたその馬から、ぱっとひとりがとびおりると、馬は門五郎をのせたまま、石垣をおどりこえて、海へ真っ白なしぶきをあげておち、もがきぬく馬首のまわりに、凄じい血の環がうねりひろがった。
馬からとびおりた男は、その行方も見おくらず、|颯《さっ》|爽《そう》と三人のまえにあるいてきた。
ようやく水の|呪《じゅ》|縛《ばく》から解かれた紅騎隊の残兵が、恐怖のためにちりぢりににげ去ってゆくのを、ちらっと見てから、
「丞馬」
と、勝は呼んだ。丞馬は、じっとお美也を見つめている。万感胸にせまり、勝の声も耳に入らぬ様子だ。
「岡田から、きいたかえ?」
丞馬はようやく顔をむけて、
「殿様、……烏帽子右近と玉虫兵庫は?」
「あの二人は、あそこだ」
と、勝はふりかえって、海の果てを指さした。|渺々《びょうびょう》とかすむ瀬戸内海を、南へきえてゆく二隻のコルベット艦の影があった。
「江戸へ」
「江戸へ?……それでは、殿様は?」
「軍艦奉行を追ん出されたおれだ。うふ、情けないことに、東海道を二本の足であるいてゆくよりほかはないのさ。まあ、この美女と五十三次道づれなのが、せめてものことだがな」
丞馬は地面にひざをついた。
「それでは、おれも江戸へ――」
お美也は大きく胸をあえがせていたが、このとき冷たい声でいった。
「丞馬、おまえは江戸へついてきてくれる必要はありません」
「……な、なんと仰せでがす! お、奥さま、な、なぜ?――」
「おまえは」
お美也の唇はふるえた。
「京で女のひとと好きなくらしをしていた方がいいのではありませんか」
丞馬は茫然とお美也を見つめていたが、みるみる顔が紅に染まり、まるでたたきつけられたように大地につっ伏した。
勝安房は、おどろいたようにお美也の顔を見た。それから、ひれ伏したままの丞馬をじっとながめていたが、
「丞馬」
と、いった。
「そのとおりだ。……いま、助けてくれてありがたいがな。おまえはもう江戸へきてくれなくともいいよ。……お美也さんは敵討ちを当分よしたのだから」
愕然と顔をあげたのは丞馬ばかりではない。お美也も、何かさけび出しそうにした。それを勝は、つよい眼でおさえて、
「何度もいうことだがな。お国はいま新しく生まれ変ろうともがいている。そのために、何百人、何千人という尊いいのちが血に変ってゆく。ここ二年の騒動をみてもわかるだろう、そのたびに、いちいち敵討ちをもち出していたら、日本じゅう死にたえるぜ。|主水正《もんどのしょう》にしても、その例外ではない。……」
「勝さま」
ちがいます! 主水正だけはちがいます。いいえ、あなたの眼にはどううつろうと、わたしは妻として、たったひとりの夫の敵の死をみずにはおきませぬ! お美也はそうさけぼうとしたが、勝ののぶとい声にさえぎられた。
「少なくとも、お美也さんは、あと五年待つと約束してくれた。いや、あれからもう一年以上たっておるから、あと四年足らずさ。それまでに、お国の騒ぎも片がつこう。そうしたら、お望みなら、おれが敵を討たせてもやろうさ」
お美也は、そんな約束をしたおぼえはなかった。
――けれど、彼女がこの神戸操練所の一年で、じぶんと、じぶんのやろうとしていることに、次第に消えいるような虚しさ、心ぼそさをおぼえてきているのも、事実であった。ただ丞馬は、――丞馬だけが、わたしといっしょに惨めな修羅の路をあるいていってくれるだろう。――丞馬よ! はやくわたしのところへきておくれ!
その丞馬は来た。
そしていま、犬のように、おどろきと疑いのまじった眼で、お美也をあおいでいる。
お美也は、顔をそむけた。蒼白い、きびしい表情であった。
そうさせたのは、この夏、岡田以蔵からきいた丞馬の消息であった。彼女は丞馬をゆるすことはできなかった。――そのお美也の心を、勝だけが読んだ。それを嫉妬だときいたら、お美也は勝を刺し殺したかもしれない。
――これはいかん!
勝が|狼《ろう》|狽《ばい》したのはそのことだ。|仇《あだ》|討《う》ち無用という持論にまちがいはないが、お美也に丞馬を近づけることに、彼は暗い予感をかんじた。血みどろの敵討ち|沙《ざ》|汰《た》はもとより、もっと悲劇的な破局がお美也の運命にふりかかってくるような恐れをおぼえたのだ。
「仇討ち無用……従って、丞馬、おまえも無用だ」
勝は平然として、
「さ、お美也さん、そろそろゆこう」
上方にきていたフランス公使ロッシュ一行が、大坂をひきはらって東へかえる旅に、勝安房とお美也、それに四、五人の従者がすましてくっついた。
勝の|更《こう》|迭《てつ》をみてもわかるように、幕府内部では急速に小栗上野ら親仏派が主導権をにぎりつつあった。徳川の権力を確立するためにはフランスの武力をかりるもまた辞せず、という彼らの方針にこたえて、ロッシュもじぶんの眼で長州出兵の情況を視察し、いよいよ大々的に武力援助することを決定した。
このときすでに、神戸の海軍操練所をつぶし、フランスと小栗の手で、|横《よこ》|須《す》|賀《か》にツーロン港を模して、新しく一大|兵器廠《へいきしょう》を建設する計画が、企てられていたのだから、この一行の旅は下へもおかず、数十騎の護衛隊にまもられて、まるで大名行列そこのけであった。これに、勝安房はぴったりくっついた。
勝斬るべし! という声は、ロッシュの護衛隊のなかにすらあったが、まさか外国公使のまえで野蛮なまねはできないから、これは猟師のふところにいるにひとしい安全な旅であった。
「お美也さん、いろいろ思案したのだが、……」
と、勝はいう。
「おまえさん、やはり、酒井の実家にかえった方がいいだろうな」
お美也はこたえず、ただうしろを気にしていた。そのたびにこがらしが黒髪をふいて、蒼白い頬にそよがせる。東海道は冬であった。
「丞馬は、おれが使ってもいい。いや、おれが縛っておく必要がある」
勝はひとりごとのように、
「お美也さん、|可《か》|哀《わい》そうだが、あいつは近づけない方がいいね。おまえさんのためだよ。あいつは、何か人間以外のきみのわるい匂いがする。……」
そして、勝もふりかえった。
遠いうしろを、トボトボと乗鞍丞馬はくっついてくる。こちらがとまればとまる。こちらがあるけばあるき出す。月代はのび|垢《あか》じみた|黒《くろ》|羽《は》|二《ぶた》|重《え》の着ながしに|瓢箪《ひょうたん》をさげて、あれが神戸で数十騎の紅騎隊をとび散らせた幻法者とは信じられない――しかしどこか妖気にみちた細い孤影であった。
|火《か》|焔《えん》幻法篇
冬の江戸へ――氷川の実家に、お美也はひっそりとかえった。
門前まで、丞馬が送ってきてくれた。勝の屋敷も、おなじ氷川なのである。お美也も黙々とし、丞馬もだまっていた。勝からつよく命じられたことがあるらしく、
「奥さま……それでは、おれは勝さまのお屋敷に参ります。……どうぞおからだを大事にして、お待ちなせえまし」
と、いって、すぐにひきあげてゆこうとした。
東海道、ほとんど言葉もかけてやらなかったくせに、お美也はふいに丞馬とわかれることに、皮膚をはがれるような痛みと寂しさをおぼえた。
「待つ? 何を?」
と、思わずいった。
「|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》|右《う》|近《こん》と、玉虫兵庫の消息でがす」
と、丞馬はひくい、強い声でこたえた。――勝から、お美也は当分敵討ちをやめた、ときいたことも、全然念頭にない顔であった。そんなことはあり得ない、とお美也を信じきった眼であった。
お美也は吐息をついた。勝の言葉にはつよい|反《はん》|撥《ぱつ》をおぼえながら、丞馬の鉄みたいな頑固な意志をぶつけられると、はげましよりも、重圧をかんじた。わたしはつかれているのかもしれない、と彼女はかんがえた。たしかに、神戸から江戸まで百五十里になんなんとする旅と、それ以前の二年ちかい上方での漂泊と――それより、彼女のからだは、すっかり|蝕《むし》ばまれていたのである。神戸村ですこしよくなりかけたかにみえた胸の痛みは、弱々しい|咳《せき》とともに、ふたたび彼女のからだをおののかせていた。
酒井家のたたずまいは、もとのままであった。父の|壱《い》|岐《きの》|守《かみ》はまだ講武所奉行であったが、めっきり髪に霜をおいて、いっそうきびしい顔に変っていた。しかし、父はお美也をみて、無断で|失《しっ》|踪《そう》したことを何の|叱《しっ》|責《せき》もしなかった。娘のやつれようをみては|叱《しか》る気持にもならなかったろうが、それよりお美也が、どこに何をしにいっていたのか、うすうす察していたようである。
そのことは、それからまもなく、ふと、
「烏帽子と玉虫は、軍艦で|箱《はこ》|館《だて》へいっておるぞ」
と、さりげなくいったことからわかった。
「箱館とは?」
「|蝦《え》|夷《ぞ》の港じゃ。そこに|五稜郭《ごりょうかく》という|砦《とりで》があるが、小栗どのの命令で、その検分に参ったのじゃ」
五稜郭は、幕府がロシアのセバストポールに模して、足かけ七年の歳月をついやし、その年ようやく最後の仕上げにかかっている洋式|要《よう》|塞《さい》であった。
「それは……ずっと、ながいのでございますか?」
「いや、そうでもあるまいが……」
壱岐守は、苦痛の表情でこたえた。
お美也は、父の心を読んだ。もともとこの父は、幕府をまもる、という点では小栗上野介にちかい信念の持主なのである。その一味が、娘の夫の|敵《かたき》だということで、どれほど悩んでいることであろう。――壱岐守は、そのことについては、もう何も口にしなかった。ただ、毎日、講武所に出仕して精励することで、余念は一切ふみにじるかにみえた。
お美也は孤独であった。彼女は、またじぶんの思いつめている悲願のむなしさにとらえられはじめていた。
外は、|震《しん》|撼《かん》している。いちど、勢いを回復するかにみえた幕府はまたゆらぎ出し、幕臣たちはそれを支えるのに死物狂いになっていることが、講武所奉行の屋敷の奥ふかく垂れこめている彼女にも、まざまざとわかった。父もそのひとりだ。烏帽子右近や玉虫兵庫もそうだ。あの男たちは、もうわたしのことなど念頭にないのかもしれない。それなのに、わたしは。……
だれが、ひとりぼっちのこのお美也の心ぼそさを責めることができるだろう?――彼女の心を責めるのは、ただ夫主水正と忠僕丞馬の幻だけであった。そして夫はもとよりこの世になく、丞馬も勝に縛られているのか、まったく酒井家に姿をみせなかった。
春の若葉が息ぐるしいまでに青ばんできたころ、熱が出てうつらうつらとしていたお美也は、いちど夫がじぶんを抱きしめてくれていて、いつのまにかそのなまなましい腕の感覚が丞馬のものなのに、悲鳴をあげて眼ざめたことがある。全身の汗をふくのもわすれて、彼女は甘美な罪の意識に身ぶるいした。
|用《よう》|人《にん》が、こんなことをいったことがある。
「お嬢さま、例の乗鞍丞馬でございますな。あれは毎日氷川社へ通っておるようでございます」
「なんのために?」
「あなたさまの御病気が一日もはやく御快癒になるようにとのことで――主水正さまが若党になされたのをうすきみわるく存じておりましたが、存外感心なものでございます」
お美也は、顔をあからめた。それをじぶんで意識して、丞馬にいちどこの屋敷へくるようにつたえておくれ、といいかけた言葉は素直に出なかった。
この屋敷のさびしさの原因は、ほかに、以前いた明るい|中間《ちゅうげん》の休平の姿がみえないことにもあると、お美也は気がついていた。それとなく用人にきいてみると、お美也が江戸を去ってまもなく、理由もなくふっと姿をくらましてしまったという。用人はもとより、父も彼の正体をまだ知らないらしい。
――おそらくあの男は、|三《み》|田《た》にいるか薩摩にかえったか、それともあの神出鬼没ぶりから|推《お》して、また妙なところにもぐりこんでいるのではあるまいか。なんにしても、あの|益《ます》|満《みつ》休之助も、いまこの世をはげしくゆさぶっている男たちのひとりにちがいない、とお美也は思った。
さびしい、しずかな暮しがやぶられたのは、慶応と名の改められたその年の秋のことであった。
父への客が、小栗上野介からの使者だときいて、胸とどろかせていたお美也は、
「――それは、お断り申す」
と、さけんだ父の声のはげしさに、はっと顔をふりあげた。
「なぜでござる?」
「それは、小栗どのが、ご自分の胸にきいてごらんになるがよろしい、とお伝えに相なりたい」
客のおちついた声が、
「壱岐どの、まことに左様に申してよろしいか? ただいまの幕閣における小栗どののお力から推して、せっかくのお申入れをはねつけなさるのは、おためにならぬと存ずるが――」
「不肖酒井壱岐、娘を敵に売って、おのれの職を買いとどめるほどおいぼれてはおらぬ。おかえり願おう」
客がかえったあと、お美也は座敷へかけこんでいった。壱岐守はまだ満面を朱にそめて、
「|人《にん》|非《び》|人《にん》め」
と、唇をふるわせた。
「父上さま、何事でございますか」
「烏帽子右近か、玉虫兵庫に、おまえを嫁にやれというのじゃ」
「えっ」
「たわけた奴が、そのいずれか、名もいわぬ。ただ、このほど、蝦夷からかえってきた旗本だが、と申したが、すべてを水にながすために、とかいいおったところから推量して、相手は右近か兵庫かに相違ない」
お美也は、蒼白になってふるえ出した。
「もともと、勝安房を追いおとすための主水正殺害であったのじゃ。その勝がああなったことで、きゃつらの所期の目的はまず達したことになる。時も、ほとぼりのさめたころであろう、と、あつかましく手柄の|褒《ほう》|美《び》をねだり出したのをおさえきれなんだか、小栗ともある人物が、何を血まようて――」
お美也は、父にしがみついた。父はすべてを知っていたのだ。お美也はすすり泣いた。老人は無器用にその背をなでた。お美也は父の慈愛を全身にかんじて、なお泣きじゃくった。
酒井壱岐守が講武所奉行を免ぜられたのは、それから一か月ばかりのちのことである。理由は軍制改革のためというのであった。
敵は、決してお美也を忘れてはいなかったのだ。彼女が江戸にかえったこともちゃんと眼をつけていて、ゆっくりと、はてしもない権力の鉄環で、じりっとしめつけてきたのである。
「――たしか、このお蔵でござる」
年が改まって早々の、凍るような夜の風のふく|千《せん》|駄《だ》ケ《が》|谷《や》の、講武所所属の武器蔵のひとつのまえに、|提灯《ちょうちん》がとまった。土戸はすこし、ひらいている。役人につれてこられた男が、
「兵庫」
と、声をかけた。
「おう」
と、蔵のなかでおどろいた声があって、
「右近、かえってきたか、入れ。――ただし、火の気は入れるな」
「わかっておる。おい、おまえはもうひきとってくれてよい。少々内密の話もあるのだ」
と、烏帽子右近は、案内の役人にいった。
蔵に入ると、火の気は入れるなといったくせに、隅の台上に、青白い炎がガラスの四角な箱のなかでもえて、そのあかりに、銃架にならんだ何百挺ともしれぬ銃がぶきみにひかってみえた。一方の壁の下には、十数個の|西《せい》|洋《よう》|樽《だる》がならんでいる。
「右近、いつかえってきたのだ」
「けさだ。みな|無《む》|智《ち》|蒙《もう》|昧《まい》のやからだから、指図するにも手間がかかって往生した」
「おれの砲台設計もおなじだったよ」
「おい、それはなんだ」
「ああ、このあかりか。カンテラといってな、中で石油がもえておる。……ここにある樽が石油の樽だ。こんど、小栗どのがフランスから買いこまれたものの一つでな。あかりのみならず、機械の|減《げん》|摩《ま》|油《ゆ》にもつかえるぞ」
烏帽子右近はちらと好奇にもえた眼をはしらせたが、すぐにきびしい表情になって、
「兵庫、けさ蝦夷からかえったばかりのわしが、おぬしがここにいるときいて馬をとばしてきたのはな。……酒井にばかな|真《ま》|似《ね》をしたそうではないか」
「うむ、あの件をきいたか。いや小栗どのの失敗だ。ひいきのひきたおしといおうか。おれたちの望みを是非かなえてやろうという老婆心からで、決して悪意からではないが、上野どのにも似合わしからぬ不細工な強談をしかけられたものだ。壱岐守を少々見くびった罰があたって、老人のへそをすっかりまげさせた。壱岐め、奉行を免職になって、おどろいたようだが、それ以来いっそう肩ひじ張って、眼をぎらぎらさせて娘を守護しておる。これで、当分、あの女に手が出せぬことになった」
玉虫兵庫が、この男にはめずらしく狼狽のていで、どもりどもりしゃべるのを、右近は冷然とみて、
「兵庫。……上野介どのに左様な強談をしかけさせたのは、おぬしであろう?」
「うむ、いや。……」
「蝦夷へいってまもなく、お美也が江戸にかえってきていることは小栗どのから知らせがあった。よく見張っておるから、安心してはたらいておれとの御伝言であった。わしとおぬしは、どちらがさきにかえっても、無断で手を出すまいと約束したな。それを、わしより三月ばかりはやく蝦夷からかえったのをよいことに、わしを裏切ってぬけがけしようとしたな」
「右近」
兵庫の眼が、洋燈にふいに挑戦的にひかった。
「おれと|喧《けん》|嘩《か》する気か」
「喧嘩する気はないが、お美也はおぬしにはわたさぬ」
「そうか」
と、兵庫は平然とうなずいた。下方から逆光をうけて、醜怪なくまどり[#「くまどり」に傍点]をみせた顔が、にやっとねじくれると、
「一人になった方が、サッパリするかもしれぬ」
と、つぶやいた。
曾て、いかにお美也を争っても、たとえ|籤《くじ》をひいても仲間割れすまいと努力した同志だが、残ったのが二人となると、かえって敵意がむき出しになるのはふせげないのか、蝦夷からの帰りが一足おくれたばかりに、あやうく獲物をさらわれかけた憤怒が、さすが冷静な烏帽子右近にも自制をわすれさせたのか、
「ふむ、軍艦と大砲で争うわけにもゆくまい」
と、冷たく笑った。
「兵庫、出ろ」
と、さきに立って、土蔵を出た。
――と、その右近が、土蔵を一歩出ると同時に、
「あっ、|何《なに》|奴《やつ》だっ」
と、絶叫した。
すぐむこうの闇の中に、ふいに|跫《あし》|音《おと》がおこった。右近の手があがると、|小《こ》|柄《づか》が流れ星のごとくとんで、あやしい影は悲鳴とともにもんどりうっている。もがきながら立ちあがろうとするのを、黒い風みたいに飛んだ玉虫兵庫がねじ伏せた。
「これ、うぬはなんだ」
「お、おゆるし下され、つい出来心で、フラフラと……」
「たわけめ、出来心で、夜中御公儀の武器蔵にフラフラちかづいてくる奴があるか。さては、うぬ、長州か薩摩の犬だな。……」
「あいや、ち、ちがいます。拙者は飛騨の出で、もとは|新徴組《しんちょうぐみ》に籍をおいたもの。……」
いちど土蔵に入っていった烏帽子右近が、カンテラをさげてちかづいてきた。兵庫が、|曲《くせ》|者《もの》の|髷《まげ》をつかんでひきあげると、泥に半面よごれた蒼白い浪人の顔がうかび出した。
「なに、新徴組の――」
京からひきあげた新徴組は、その後一年ばかり、|本《ほん》|所《じょ》の|小《お》|笠《がさ》|原《わら》|邸《てい》にあずけられたり、田沼|玄《げん》|蕃《ばの》|頭《かみ》邸を屯所として気勢をあげたりしていたが、そのあいだに首領の|清《きよ》|河《かわ》八郎は暗殺され、統制も秩序もない浮浪人団体となって幕府のもてあましものとなり、とうとう去年解散になったはずだ。
「いちどは御公儀の|禄《ろく》を|頂戴《ちょうだい》したはずの奴が、なにゆえかようなところへしのびこんだ」
「はっ、それが、その貧のかなしさに――」
浪人は、小柄をうたれた腰のいたみに、涙をこぼしながらしゃべった。彼は、江戸にかえってからの新徴組に参加したものだが、それが解散になるとたちまち職にもあぶれ、そのうえ女房がぜいたくな女のため、せっぱつまって越中島や|小《お》|川《がわ》|町《まち》などの幕府の武器庫にしのびこんで、刀剣や短銃などを盗み出しては、売っていたという。――これだけのことを、彼は顔じゅう血だらけになるまで兵庫になぐられて、|米《こめ》|搗《つき》ばったみたいにお辞儀をしながら白状した。
「その、まえに新徴組におった連中で、よろこんで買う奴がおりますので、つい深味にはまり――」
「新徴組崩れが、なぜそれほど武器を買うのだ」
浪人はだまってふるえている。兵庫の眼がぴかりとひかった。
「わかったぞ! このごろ江戸のあちこちに傍若無人な押込強盗のむれが出没しておるときいておるが、さてはそやつらだな」
「わたしは、それには関係がありませぬ。いえ、何も存じませぬ!」
「|素町人《すちょうにん》の家に押し込むならまだしも、御公儀のお蔵にしのびこんで、御大切の武器を盗むとはなおわるい」
右近がカンテラをおいて、スラリと一刀をぬきはなった。
「兵庫、手をはなせ、斬る」
と、つかつかとちかよって、
「どこの馬の骨か、名だけはきいて、あとで供養をしてやろう。申せ」
「せ、拙者は、つ、土屋|蓮之丞《れんのじょう》と申し――あっ、お助け――」
そこまできいて、一刀をふりかぶった右近を、
「待て」
と、兵庫が制した。その眼がふいにぎらぎらとかがやき出していた。
「右近、この虫ケラを斬るのはしばらく待て、妙案を思いついた」
「妙案?」
「実は、おれもいちど考えたことがあるが、さすがに押し込みだけはできなんだ。その代り、こいつらにやらせるのだ」
「兵庫、どこへ押し込む――いや、押し込ませようというのだ」
「酒井へ」
「なに」
「御役御免となって、あそこはいまひっそりかんとしておる。奉公人も十人とはいまい。――そこへ押し込んで、お美也を盗んでこさせる。――」
「…………」
「|或《ある》いは、盗んできたお美也を、おれたちが救うという芝居も面白いな。右近、いまは少々のぼせかけたが、かんじんの獲物もないに、おたがいに刀をふりまわすのはばかげておるぞ。何はともあれ、お美也をふたりのまえにひきずり出してからの相談にしようではないか?」
氷川|明神《みょうじん》にちかい|麻《あざ》|布《ぶ》|御《お》|箪《たん》|笥《す》|町《まち》の|自《じ》|身《しん》|番《ばん》の|煤《すす》けた腰高障子をあけて、ひとりの目明しが白い息をはきながら入ってきた。なかで大火鉢をとりかこんでいた男たちが、あわてて立ちあがった。
「御苦労さまでございます」
「町内に何事もねえか」
「へえ、おかげさまで――どうも、このごろ、世間に物騒なことが多いようでございますね。ここらはさいわいと、武家地が多くってまだ妙なことはございません。親分、さ、どうぞ」
岡っ引は火に手を出そうともせず、何やらもじもじしていたが、
「ところでな、そういわれて、ちと言いにくいが」
と、声をひそめて、
「今夜、このちかくで、その、妙なことが起るかもしれねえが、今夜だけはここの戸をしめて知らねえ顔をしていてくれ」
「へえ、な、何が起るんです?」
「おれにもよくわからねえんだが、そういうお達しだ」
「お達しというと、御奉行所の方からでも――」
「いや、そうじゃあねえ。そうじゃあねえが、ま、それにちかい筋だ。だから、何が起っても、さわいじゃいけねえぜ。そのことだけは承知していてくれ。それからな、おれがこんなことをいったと、町の者のだれにもいっちゃあいけねえ。いいか」
岡っ引は、あいまいなことをいって、ただ眼だけぎょろりとにらみをきかせて、寒い二月の風の中へ出ていった。あけたままの障子をひとりがしめてかえりながら、
「何だあれは? 何が何だかわかりゃしねえ」
「おかしなことをいったぜ。このちかくで――って、いってえ、ちかくのどこで何が起るんだ?」
きんたま火鉢をしていた若いいなせな職人風の男が、
「へっ、まるでお上で火つけか泥棒でもなさるような言い分じゃあねえか」
「まさか――休平さん、おめえはとんでもねえことをいう」
みんな、顔色をかえた。若い男は平気で白い歯をみせて、
「このごろ江戸で、ひどく横柄な侍風の|盗《ぬす》っ|人《と》が組をくんであらわれるってえことだが、ひょっとすると御公儀おやといの泥棒じゃあねえのかな」
「ばかな! 石が流れて木の葉が沈んだって、そんなばかなことが」
「公方さまも、二度目の長州征伐じゃあすっかり手をやいて、だいぶお|銭《あし》が足りねえらしいと評判だぜ」
「休平さん、きかねえことにしておく。出てってくれ」
「いや、これア冗談だ。しかし、こんな冗談口がきけるようになったのも、武家奉公をやめたからよ。どうもちけえうち、石が流れて木の葉が沈むような御時勢になりそうな気がするが、へっ、天下がどうなろうと、二本差しはともかく、こちとらア腕一本あれアおまんまにことはかかねえ。やっぱり、おいらア職人にもどってよかったと思うよ。――どうも、お邪魔しましたね、みなさん、おやかましゅう」
べらべらとしゃべると、その男は立ちあがって、くるりと頬かぶりし、風みたいにすっとんでいってしまった。去年、ここの番人になったばかりの男があとを見送って、
「ありゃいってえ何者だい?」
「あの男は、三年ほど前まで、ちかくの酒井さまのお屋敷に奉公していた男よ。渡り中間にも似合わねえ気のいい奴で、よくここへきておしゃべりしていたっけが、ふいに姿がみえなくなって、いまふらりとあらわれたんだが、そうだ、いまは深川でおやじのあとをついで|錺職人《かざりしょくにん》をやってるが、ちょいと用事があってこっちに来たとかいってたようだな。むかしからひやりとするようなことをいう奴だったが、職人にもどっても、相変らずだ」
冗談ではない。その夜、前講武所奉行酒井壱岐守の屋敷に盗賊の一団が押し込んだのである。幸か不幸か、壱岐守は十日ばかりまえから風邪をひいて、枕もあがらぬ床の上にあった。
その父のところへ薬湯をはこぼうとしていたお美也は、ふいに玄関の方でただならぬ用人のさけびと同時に、どどっと|雪《な》|崩《だ》れこんできた|跫《あし》|音《おと》をきいて、はっとして立ちどまった。廊下の向うに、十数人の黒頭巾があらわれた。みな白刃をひっさげている。いちど父の|寝《しん》|所《じょ》の方へ走ろうとして、お美也は敢然とその方へたちむかった。
「おまえさまたちは、どなたですか」
黒装束のむれは、お美也をとりまいた。ひとりが、ひかる眼で、
「壱岐はどこだ」
「壱岐にききたいことがあるのだ」
単なる盗賊にしては、前講武所奉行の屋敷に押し入るとは不敵な――と思っていたお美也は、この問いにきっとなって、
「父に何をお問いなさろうというのです」
「父? おまえは壱岐の娘か? ほ、あの武骨おやじにこんな|蛾《が》|眉《び》|細《さい》|腰《よう》の美人の娘があろうとは知らなんだ」
頭巾のあいだから、物凄い眼が笑って、
「幕府の武器蔵の実情についてききたいことがある」
お美也は蒼白になった。果然、この一団はただの盗賊ではない。
「父はいま大病で|臥《ふ》せっております」
「口は、きけるだろう」
「どちらさまか存じませぬが、口が裂けても左様なことをひとさまにいう父だとお思いになりますか?」
「そうでもあるまい。幕閣から無能老朽の|烙《らく》|印《いん》をおされて奉行を|罷《ひ》|免《めん》された壱岐守ではないか。本人には大いに不満があるだろう。そこを見込んで推参したのだ」
お美也はもはや口もきかず、帯のあいだの懐剣に手をかけてむかいあっている。たとえ死のうとここを通すまいとするその思いつめた表情と姿を、黒頭巾はじっとにらんでいたが、
「おい、こやつをつれ出せ」
数条の刀身は、車輪のようにお美也をとりかこんでいた。
「これ、しずかにしろ、壱岐守に口をきかせようとすれば、耳をきり、鼻をそいでも思いどおりにせずにはおかぬ。しかし――得べくんば、手荒なことはしたくない。そのかわりお前を人質にして、壱岐に白状させてやる。しばらく、おまえのからだをかりる」
お美也の胸を、病んだ父の姿がかすめた。どんなことがあっても、今夜この男たちを父のところへふみこませてはならぬ。――わたしを人質にする? よし、わたしをどこかへつれてゆくというのなら、この身を盾にしても、それをふせぎたい。のがれるすべは、またそのときのこと――この判断が、彼女を、曲者たちの縛るのにまかせた。
「よし、ひきあげろ」
黒頭巾のむれは、お美也をひきたてて、玄関へ出ていった。玄関には用人と中間が、さるぐつわをはめてころがされ、のこりの奉公人も、数人の曲者に刃をつきつけられてふるえていた。
「心配しないでおくれ。父上にはこのことをいってはなりませぬ。あとできかれたら、所用あって美也は出かけたけれど、すぐにかえりますとお言い」
と、お美也はいった。
闇の夜に、身をきるような夜風にふるえている白梅を無惨にふみおって、黒装束のむれは土塀の方へあるいてゆく。塀には縄ばしごがかかっていた。そのためにふいに玄関から押し込まれるまで気がつかなかったのだ。
ひとりが、もがくお美也を背におうと、その縄ばしごをつたって塀をのりこえた。途中でふりむいて、頬をすりよせて、|淫《みだ》らなことをいった。外の裏通りに一挺の|駕《か》|籠《ご》が用意してあった。
「これは!」
はじめてそのとき、お美也に或る疑惑がわいたが、時すでにおそく。――
「おい、ゆけ」
お美也をなげこんだ駕籠をつつんで、曲者の一団ははしり出した。
やがて、まっくらな南部坂をどやどやとかけおりようとして、そのまんなかあたりで、ふいにはげしく駕籠がゆれうごいた。
「や、なんだ?」
「出るのは、西光寺あたりという話じゃなかったのか?」
そんな、あわてた声がどよめいたとき、あたりが急にぽうとあかるくなった。曲者たちのなかで「あっ」という驚愕のさけびがはしった。
駕籠の中のお美也にはみえなかったが、これは彼らの前後に――いつのまにか坂の上下に、彼らそっくりの黒装束のむれが忽然とあらわれて、どこからか照らすがんどう[#「がんどう」に傍点]のあかりに、ずらりとならべた鉄砲の銃身のひかるのをみたからであった。
「な、な、なんだ、これア――」
「御同業だよ」
と、銃身のあいだから、ひとりの黒頭巾が笑いながら出てきた。
「御同業?」
「そっちがすこし|老舗《しにせ》かもしれんな。こっちはこのごろ店開きしたばかりで、おまえさん方の商売ぶりを大いに見習っていたところだ。その店開きのご祝儀に、おい、その獲物をそこへおいてゆけ――と、こうやるのだろう?――つべこべぬかすと、命はないぞとね」
「あっ、待て」
いっせいに銃身があがるのを見て、こちらは狼狽その極に達した。左は松平|美《み》|濃《のの》|守《かみ》、右は|真《さな》|田《だ》|信《しな》|濃《のの》|守《かみ》の土塀だ。ほかににげこむところはない。
「命がおしかったら、それ、道をあけてやる。駕籠だけおいて、坂の上へひきかえせ。三つ数えるあいだに姿をくらまさぬと、みなごろしにするぞ。いいか、ひとつ――」
坂の上の黒頭巾の鉄砲隊が、左右に道をひらいた。この大仕掛な御同業には、きもをつぶしたらしい。ころがるように、みなそのあいだをにげのぼった。
笑って見おくった黒頭巾が、駕籠にちかづいて、その垂れをまくりあげた。
「案の定だ。ひどいことをする奴らだ。……もし、お美也さま」
さるぐつわをはずし、縄をきる黒頭巾の眼をひたと見つめていたお美也は、
「おまえは!」
と、茫然としてさけんだ。黒頭巾は快活な声をたてて笑った。
「おひさしぶりでございます」
――しばらくして、御箪笥町の自身番のまえを、麻布|谷《たに》|町《まち》の方からかけてきて、疾風のように南へはしってゆく黒装束の一団を、番人たちは障子のあいだから見おくって、声をおさえて、ぴっしゃりとしめた。
「あれかね?」
「あれらしい」
その一団も気がつかずにかけすぎた南部坂の下の暗がりから、ひとつの影がすうとたちあがった。しばらく麻布谷町の方を見おくり、また南部坂を見あげていたが、すぐに坂を上の方へのぼりはじめた。
そのとき、その影のほかには猫一匹もいなくなった坂を、息せききってはしりおりてきたもうひとつの影がある。その勢いにとびのいて、やりすごしてから、
「――あなた!」
と、呼んだが、寒風のなかにその声もきこえぬ風でかけ去ったのをみると、あわててそのあとを追いはじめた。
坂からかけおりた影は、歯をかみ鳴らし、泡をふいて麻布谷町から|御《お》|先《さき》|手《て》|組《ぐみ》の組屋敷の方へまがっていった。その屋敷とむかいあって、西光寺という小さな寺がある。
そこへかけこんでいった影は、
「もしっ、玉虫さま! 烏帽子さま!」
と呼んで、
「なんだ?」
と、いぶかしげにこたえて、闇の中からちかづいてきた跫音に、
「あっ、やっぱりここにござったか――」
と、悲鳴のような声をしぼり出して、ぺたんと|尻《しり》をついてしまった。ふたつの影がそのまえに立った。
「土屋、どうしたのだ。いやに手間がかかると案じておったが――」
「おまえひとりで、他の連中はどうした。仕損じたか!」
「それが……」
と、土屋はぜいぜいとのどを鳴らして、
「お目あての女、たしかにさらったものの、南部坂で、ふいにあらわれたえたいのしれぬ曲者の一団に横どりされました」
「なに、えたいのしれぬ曲者の一団?」
ふたりは、愕然としてさけんだきり、しばらく声もなかった。
――土屋の手びきで新徴組崩れの浪人をあつめて酒井家に押し入らせ、お美也を盗み出してきたら、この西光寺でふたりが浪人たちを追いはらってお美也を救う――というのが、今夜の筋書であった。この芝居じみた筋書は玉虫兵庫の着想だ。とにかくお美也を手中に入れることが先決問題だとする兵庫の強引さに、それ以後のお美也のこころを気にかける右近は、内心ためらうものがあったが、すてておけばお美也を兵庫のみの手におとしかねないので、それを案じてついてきた。
「そ、そやつは何者だ」
「わかりませぬ」
「酒井の手のものではないか」
「前後の様子から、そうとは存ぜられぬ。われわれと同様の黒装束で、しかも十数挺の鉄砲をたずさえて――」
「鉄砲? それでは、おまえがいままで盗み出した鉄砲を買った奴――ほかにも新徴組崩れの浪人者がいるのではないか」
声ふるわせる右近にかぶせて、兵庫も|大《だい》|喝《かつ》した。
「うぬら、あれだけ数をそろえながら、だらしないにもほどがあるぞ。それでうぬひとり、おめおめとにげてきたかっ」
「そ、それが――拙者、ふと――」
「なんだ」
「その一団を、あなたさま方ではないか、女を盗んでくればもはや用済みと、拙者どもを一掃なさる気で網を張っていたのではないかと、ちらと疑心暗鬼にとらえられ――」
「たわけっ」
と、兵庫は怒号した。あり得る疑惑どころか、実は内心その手段も思案していたくらいだが、この場合、相手の失態ににえくりかえるようだ。しばらく眼をひからせてにらみつけていたが、
「よし、それへなおれ」
「へっ?」
「先日、千駄ケ谷の武器蔵で成敗しようとした罪、今夜のはたらきで手柄にかえてやろうと思っていたが、それもこの大失態で帳消しになった。望みどおり、うぬの疑心をいま|実正《じっしょう》にかえてくれる。覚悟はよいか!」
と、大刀が|鍔《つば》|鳴《な》りを発した瞬間――狂気のごとくそのまえへまろびこんできた影があった。
「お待ち下さいまし!」
それが女の声なのに、さすがぎょっと刃をひいて、
「きさまはなんじゃ」
「こ、この男の女房でございます」
「なに、女房?」
「はい。――このごろたく[#「たく」に傍点]のそぶりがどうも不審で、とくにきょう出かけた様子がおかしいと存じましたので、ずっとあとをつけてきましたところ、このようなありさまでございます。よくまだ事情は存じませんが、女房のわたしに免じて、どうぞ命ばかりはたすけてやって下さいまし!」
烏帽子右近の手に火打石が鳴った。付木がぽうと青い炎をあげて、地上の土屋にかぶさるようにしてあえいでいる女の顔を照らし出した。
玉虫兵庫はしばらくだまっていたが、
「烏帽子、どうする?」
「やはり、生かしてはかえせぬな」
「あの、もしっ」
と女は必死に兵庫の足にとりすがって、
「なんなら、わたしを人質にとって下さいまし。夫がおわびのあかしをたてますときまで――」
「なんだと、おまえを人質に?」
玉虫兵庫はおどろいてききかえしたが、ふたたび闇にきえた女の美しい残像を追ったようである。ふいに、
「よし、その申し出きこう。これ、泥棒浪人、うぬは女房のいのちが惜しかったら、何としても酒井の娘のゆくえをさがして参れ。それまで、この女房はこちらにあずかっておく」
「えっ」
仰天して身を起すよりはやく、女のからだは兵庫にひきずりあげられている。
「その用がはたせぬか、もし今夜のことを口外するに|於《おい》ては、女房の命はないものと思え。なに、奉行所へとどけたければとどけるがいい。ただし、おのれの首がとぶだけの話だ」
その声は、もう十歩もむこうの闇の中であった。
――土屋は一足二足そのあとを追いかけたが、血ばしった眼を闇になげて、
「ちくしょう」
と、つぶやいた。
「|狭《さ》|霧《ぎり》め、おれの手からにげようとしておったが、うまい逃げ口をみつけやがったな。……」
――飛騨から乗鞍丞馬を追って江戸へやってきた土屋蓮之丞と狭霧の四年後の行状がこれであった。
乗鞍丞馬が、酒井家の災難について、話をきいたのは、翌日の夕方のことであった。
閉門を命じられたものの、門を閉じ、窓をふさぎ、|恐懼謹《きょうくきん》|慎《しん》しているような勝安房ではない。とくに勝の場合は、あきらかな罪状があっての閉門ではなく、その天衣無縫ぶりにおそれをなしての封じこめで、その縦横の機略には反対党といえども一目も二目もおかざるを得なかったから、勝が平気でぶらぶらあるきまわっても、なんのとがめもなかった。
むしろ、よほどのことでもないかぎり、門から出ないのは、若党の丞馬の方であった。彼は何やら自分に縄をかけて、歯をくいしばってそれに耐えている風にみえた。わざわざ勝が用事をつくって酒井家にやろうとしても、|朋《ほう》|輩《ばい》にまかせて、じぶんはそれを避けるのである。それはむしろ勝ののぞむところだが、しかし丞馬の顔からきえぬ重っ苦しいほどの|精《せい》|悍《かん》さ、またときどきひそかに指おりかぞえて何やら勘定している姿をみると、勝は、お美也に約束させた何年か待てという言葉を思い出し、丞馬の心を察して冷気をおぼえた。丞馬は、馬鹿正直にそれを信じ、ただその束縛のとける日を待っているに相違ない。
その勝が、その日かえってくると、めずらしく顔色をかえて、酒井家に強盗が入って、お美也をつれ去ったと知らせたのである。
「盗っ人が!」
と、丞馬は愕然としてさけんだ。
「それア盗っ人じゃあねえ。……あいつらでがす。ふたりとも|蝦《え》|夷《ぞ》からかえってきたと、先日きいたばかりではねえですか!」
「おれもふいとそう思った。しかし、酒井家の奉公人の話じゃあ、主人の酒井さんの代りに、お美也さんをつれてったというそうだが……まさか、烏帽子や玉虫が泥棒のまねまでして、そんなことをする奴とは思えないが」
と、さすがの勝も少なからず当惑の表情であった。その勝をみる丞馬の顔は、不安と怒りにふくれあがっているようであった。
「どうも、よくわからん。これ、そううらめしそうな眼でおれをみるな。いや、おれも手をまわして烏帽子や玉虫の方をさぐってみよう。しかし、全く別の奴らの仕事とも思えるふしもあるから、丞馬、おまえも江戸じゅうをさがしてみろ」
その日から、丞馬は狂気のごとく、江戸をかけずりまわりはじめた。
冬が去って、春がきた。しかし、お美也のゆくえは|杳《よう》としてしれなかった。
その春も終ろうとするころ、勝は一年半の閉門がとけて、再出仕を命じられた。幕府にとって、この|蛟竜《こうりゅう》をいつまでも地中に埋めておけるような時勢ではなかったのである。同時に彼は即刻重要任務を受けて、ふたたび上方へ出張を仰せつけられた。
そのことも眼中にないかのごとく、お美也の捜索に狂奔している丞馬を、勝は不安そうにみた。いちど、いってみた。
「丞馬、おれといっしょに大坂にゆく気はないかえ?」
「ばかこくでねえ」
返事は|断《だん》|乎《こ》としていた。この人、たのむに足らず、と怒りにもえた眼であった。勝はあきらめた。
「そうか。しかしな、丞馬、烏帽子のところにも玉虫のところにも、お美也さんがいないのはたしからしいぞ。だから、おれの手綱がなくなったからといって、はやまって、むちゃなことをするのじゃないよ」
――しかし、丞馬が、|番町軽《ばんちょうきょう》ガ|原《はら》の玉虫兵庫の屋敷にのりこんでいったのは、心をのこしつつ勝が上方へ旅立ってから、三日目のことであった。
「乗鞍丞馬というものがきたから、主人につたえてくれ」
という意味のことを用人がきいて、その若党姿に似ぬ横柄さに眼をむいたが、思いつめた表情に気をのまれて、そのことを主人につたえた。
「なんですって? 乗鞍丞馬!」
主人よりも、驚愕のさけびをあげたのは、酒の相手をしていた美しい女だ。彼女は、徳利を手からとりおとした。
玉虫兵庫もさっと顔色をかえている。――乗鞍丞馬、それはこのごろでもいくどか烏帽子右近との話に出てくるうすきみわるい名であった。
京で|宇《う》|陀《だ》|久《く》|我《が》|之《の》|介《すけ》を殺したのは、たしかにきゃつに相違ない。
しかし、それ以後の丞馬の消息はぷっつりきれて、いまにいたっている。神戸の海軍操練所で、鴉田門五郎が勝襲撃に失敗したこともあとで知ったが、人をやって生き残りの紅騎隊にきいても、ふいに|海瀟《つなみ》のような波に襲われて、|蹉《さ》|跌《てつ》したとか何とかえたいの知れない話で、それと丞馬とをむすびつけるにいたらなかったのだ。実際、あの凄じい水紗幻法は、おのれの眼でみたものでなくては、到底信じきれないものであった。|爾《じ》|来《らい》一年半、お美也はひっそりと酒井家にくらしていて、その身辺に丞馬の姿がないことはたしかで、「――きゃつ、死んだか、それとも故郷にでもかえったか?」と想像して、ようやくうすれかかってきた名でもあった。
しかし、このとき玉虫兵庫は、じぶんのおどろきより、女の声にきっと顔をふりむけた。
「狭霧……おまえ、丞馬を知っておるのか」
「知っているどころか――あれは――」
といいかけて、狭霧は口ごもった。
――あれ以来、兵庫の想いものとなって、この屋敷にいついてしまった狭霧である。ふれなば、おちん、という彼女の風情に兵庫が乗ったのだが、すこしぜいたくをさせてみると、浪人の女房らしいやつれがみるみる洗いおとされて、その雪のような肌や真っ黒な|瞳《ひとみ》や|椿《つばき》の花弁みたいな唇が生き生きとよみがえり、これは、とあらためて兵庫の眼を見はらせて、
「なるほど、この女房を養うのに、あの土屋が泥棒までしたのもむりはない」
と感服させたくらい魅惑にみちた女となった。
口ごもったのは、返事をしかねたというより、心もうわの空になったらしく、
「そ、そのひとはどこへ?」
と立ちあがってかけ出そうとするのを、
「待て」
と、兵庫は抱きとめた。
「狭霧……そやつはおれを|敵《かたき》と狙っている男だぞ」
「えっ」
「喜内、|短《たん》|銃《づつ》をもってこい。それから、奉公人をよびあつめて、万一そやつが慮外をいたす気配があれば、即刻討ち果たすように申しつけろ」
といって、短銃をうけとると、懐中に入れ、じぶんから先に立ってつかつかと玄関の方へ出ていった。
「……うぬか」
と、式台に仁王立ちになって、兵庫はうめいた。乗鞍丞馬は外に立って、よくひかる眼で兵庫を見あげたきり、しばらく何もいわなかった。
五人の仲間のうちもっとも勇猛で、|兇暴《きょうぼう》の気味すらある玉虫兵庫であった。烏帽子右近があれほど丞馬を警戒するのを、むしろせせら笑っていた男なのが、このときだまりこんで見あげたままの丞馬の黒い影に、じりじりとしめつけられるようなぶきみさに襲われた。
「な、何しに来た」
「お美也さまをかえして下せえ」
と、丞馬はいった。あえぐような声である。
「お美也?」
「あっちこっち探したが、わからねえ。おまえさま方が蝦夷からかえってきてから起ったことだ。あのお方をさらったものは、いくらかんがえても、おまえさま方よりほかにねえ。あのお方をかえしてくれたら、おれはなぶり殺しにあっても文句はいわねえでがす。……」
丞馬がなんの不穏な行動にも出なかったのは、何よりお美也の安否を気づかえばこそであった。しかし、あきらかに兇念にみちて兵庫をにらんだその眼が、兵庫のうしろにあらわれた女の姿をみて、ふと大きくなった。
しかし彼は、そのままがばと大地に土下座して言った。
「おねげえでがす。お美也さまをかえして下せえ。……」
玉虫兵庫の眼に、妙な|翳《かげ》がただよった。
お美也のゆくえ、それは彼も必死にさがしていることだ。彼女をさらったふしぎな黒装束のむれの正体は、ついに彼にもわからなかった。それと、この男とは関係がないのか?――という疑惑が、すぐに、こやつ、まったく知らぬらしい、という判断に達すると同時に、彼は突然彼らしくもない策略が心中にわいてきたのをおぼえたのである。
「お美也は、たしかにわれらの手でとらえた」
と、彼はいった。反射的に、ばねのようにはねあがろうとする丞馬に、二、三歩つつとさがりながら、
「待て……しかし、生きてはおるから安心せい」
「どこにござる? あ、あわせて下せえ」
「ここにはおらぬ。……|小《こ》|伝馬町《でんまちょう》だ」
「小伝馬町? すると、|牢《ろう》でがすね? あ、あのお美也さまを、な、なんの罪で?」
「直参、|筧《かけい》伝八郎、宇陀久我之介、鴉田門五郎を殺害した罪だ」
「ばかこくでねえ、そりゃ、旦那さまを殺された敵討ちではねえか!」
と、丞馬は絶叫した。
「宗像主水正を殺したものがだれか、それはいまだ不明じゃ」
兵庫は冷たくうす笑いして、
「といっても、うぬは不承知であろう。あれはたしかにわれらが討ち果たした。ただし、私情私怨ではない。あれは――上意討ちにひとしい御公儀のお裁き――うぬらが何と訴えて出ようと、それはとおらぬぞ」
「お上のお裁きなら、な、なぜ、夜中、覆面などして泥棒のようにあのお方をさらったのでがす?」
「あれは父親が前講武所奉行だからだ。さらに、宗像主水正を上意討ちにした理由を、まだ公けにできぬ時勢だからだ。世が|静《せい》|謐《ひつ》にもどったら、或いは御慈悲を以て牢から御赦免になるかもしれぬが――しかし、ここ二、三年は、まず世に出られぬものと思え」
「玉虫さま!」
丞馬はしぼるようにさけび出していた。
「あの三人を殺したのは、お美也さまではありましねえ。このおれでがす!」
「何じゃと?」
「つかまえるのならおれをつかまえて下せえ。|磔獄門《はりつけごくもん》になろうと、不服はいわねえ。ただ、お美也さまは御病気でがす。あのお方だけはどうぞ牢から出してあげて下せえまし!」
地面にあたまをこすりつけて、身もだえする丞馬を見おろして、兵庫の眼に皮肉な笑いがただよった。そのまま、短銃をひそめたふところにそろりと手が入る。――
そのとき、狭霧が式台からまろびおちるようにかけおりて、ひれ伏した丞馬の背に身をなげかけた。
「丞馬!……狭霧よ! まさかわたしを忘れたんじゃないでしょうね、丞馬!」
玉虫兵庫は舌うちして、
「狭霧、なんの醜態だ」
と、叱咤した。狭霧は肩で息をして、
「このひとは、父の秘蔵弟子です。そしてわたしの好きなひと……このひとに逢いたいばかりに、わたしは江戸をうろついていたんです!」
「たわけ、おれのまえで、よくぬけぬけと――」
と、兵庫は真っ赤な顔になっていた。勝気で、|媚《び》|態《たい》もどこかつくったような感じのぬけないこの女が、これほどひたむきな狂態をみせたのははじめてであった。
「よせ、よさぬと、成敗するぞ!」
「殺しなさい、丞馬といっしょに殺されるなら、本望です」
「どいて下せえ」
言ったのは丞馬であった。無造作に狭霧ははねのけられた。丞馬は立ちあがり、手をうしろにまわした。
「玉虫さま、おれを小伝馬町につき出して下せえ」
「いや、いやです。丞馬、もうわたしが見つけた以上、そんなところへゆかせはしない。旦那さま、おねがい――さ、丞馬、はやくにげるのです」
丞馬は苦笑した。銅像のようにうごかず、ひくくつぶやいた。
「おれは小伝馬町にゆきてえのでがす。あのひとのいる牢へ」
急速調に、幕府の城は、時の潮に洗い崩されつつあった。二度目の征長の役で、幕軍は高杉|晋《しん》|作《さく》のひきいる奇兵隊に連敗をつづけ、将軍|家《いえ》|茂《もち》は苦悩のうちに大坂城に|薨《こう》じた。
江戸の米価は天井しらずにあがり、餓民は|蜂《ほう》|起《き》し、群盗は|跳梁《ちょうりょう》をほしいままにした。その泥棒団がみずから称して「御用盗」と名乗っているという風聞も奇怪なら、この騒然たる世の中に、窮民どもが伊勢のお札が天からふるという流言に、「えじゃないか」と踊り狂うのもただごとではなかった。
何もしらず、乗鞍丞馬は小伝馬町の牢獄のなかに坐っていた。ここに入れられてからまもなく、烏帽子右近と玉虫兵庫が同道してやってきて、お美也が釈放されたことを告げ、その方は何分の沙汰があるまで神妙に入牢いたしておれ、といって去った。
単純な丞馬は、それをきいて微笑した。このふたりの旗本をついに討ちもらしたのは無念至極だが、お美也を救うためにはしかたがないと、あきらめるより彼は、ひそやかな満足に|微《ほほ》|笑《え》まずにはいられなかった。
ふたりの旗本が牢の|外《そと》|鞘《ざや》を去ってゆきながら、
「なぜ、すぐに斬らぬのだ」
と、右近がいらだたしげにいい、
「まあ待て、斬るのなら、いつでも斬れる。いかにきゃつでも、ここからはにげられまい」
と、なだめるように兵庫がこたえたのに、ちらっと狭霧の顔がまぶたをかすめ、兵庫のためらいのうしろに彼女の哀願のあることを察したが、感謝のこころはわかず、彼女の面影は弱々しくきえてしまった。
ただ闇のなかに、お美也の幻だけが夕顔のように咲きつづけていた。
――たとえ、丞馬が兵庫の|陥《かん》|穽《せい》に気がついたとしても、まさに、いかに丞馬といえどもこの|無宿牢《むしゅくろう》からのがれることは不可能であったろう。
無宿牢の兇悪無頼の囚人たちも、彼の姿をみて息をのんだ。彼は片腕をうしろにねじまわされ、その腕とくびを三重四重の鉄鎖でむすびつけられていた。すこしでも手を自由にしようとすれば、すぐにくびがしまるのだ。
この無惨で怪奇な囚人が、そのくせ|傲《ごう》|然《ぜん》と沈黙しているのが、妙な威圧をあたえるらしく、いちどたいくつまぎれに彼をおもちゃにしてやろうと思いついた無法者があったが、丞馬がこれまた、たいくつそうに妙なことをやっているのをみて、きもをつぶした。
牢格子の外は、外鞘といって、幅一メートルばかりの通路になっていて、そのむこうはまた格子となっている。その外鞘からさらに二メートルもはなれて、ボンヤリと釣り|行《あん》|燈《どん》の灯がともっている。宙にあぶら皿が浮んで、小さな火が|幽《かす》かにもえているのだ。
その火が、すうと横になびくと、生き物みたいに渦をまいた。と、ぼやっと霧のようににじんだかと思うと、こんどは風にでも吹かれたように、こちら側へほそい蛇となってのびてきた。
「おや……?」
と、その火の|妖《あや》かしに気がついて、それが丞馬の息のいたずらだと知ったのは、よほどあとのことである。――黙々として、彼は遠い皿のあぶらを吹いて、もえる霧、もえる風にかえて、ひとりあそんでいるのであった。無法者は眼をむき出し、それっきり丞馬に手を出すことをやめた。
丞馬はたいくつした。ときどき絶叫したくなるほどお美也さまに逢いたくなった。せめて、|斬《ざん》|罪《ざい》にあうまえに、ひとめでも彼女の顔をみたいと思った。――しかし、ふしぎなことに、彼はなかなか首斬り場にひき出されなかった。たいくつもするだろう。彼がここに入れられてから、いつしか一年半ほどもたつ。
丞馬は、この牢の外のだれにも忘れられたようであった。実際、烏帽子右近も玉虫兵庫も、丞馬のことを忘れていた。それどころではなかったのだ。彼らは、たおれゆく幕府の|大《たい》|廈《か》をささえようとして死物狂いであった。しかし、つかれはてた将軍|慶《よし》|喜《のぶ》は、その秋、ついに大政奉還の表を朝廷にささげたのである。
そして、徳川最後の年、慶応三年は、まさに暮れようとしていた。――
――夜明前だ。
まるで海がすぐ裏にあるような|濤《なみ》の声であった。屋敷のなかのたかい樹々も、闇の天空に|凄《すさま》じいざわめきをあげている。風のあいだに、どこか遠くで半鐘が鳴っていた。
ただでさえ、放火とか押込みとか、まるで公儀というものがなくなったように恐ろしいことが|頻《ひん》ぴんとおこるこのごろの世間に、ましてこの嵐では、おそらく江戸じゅうが一夜じゅう息をつめていたであろうこの時刻、どっと|天《てん》|狗《ぐ》みたいな高笑いがおこった。
そのすこしまえ、何十騎となく|戞《かつ》|々《かつ》たる鉄蹄のひびきがちかづいてきて、それが裏門から雪崩れこんできたかと思うといっせいにあがったこの|哄笑《こうしょう》であった。
「やった、やった!」
「こんな面白か晩はなかぞ」
「もっと手応えがあっかと思ったが、公儀の武器蔵をまもる役人がみんなあげな腰ぬけでは、腕のふるい場所もなか」
門の内側の広い庭に、たちまち無数の|松《たい》|明《まつ》がもえあがって、この|師走《しわす》の寒風のなかに湯気をたてている数十の人馬を照らし出した。人はすべて黒頭巾で顔をつつんで、眼ばかり物凄いひかりをはなって笑っていた。そのなかで、
「あっ、松明に気をつけろ!」
とややあわててさけんだ黒頭巾がある。
「馬にゆわえた樽の中身は石油――あぶらだ。火をちかづけると、もえあがるぞ!」
松明が、あわててはなれた。いかにも馬の大半は、|鞍《くら》の両側に黒びかりする樽をむすびつけていた。そうでない馬も、まるで|薪《まき》|雑《ざっ》|棒《ぽう》のように西洋銃をたばねたものを|荷《にな》わせられている。
「御苦労でごわした」
「湯に入って、寝なさるがよか」
「奥に酒も用意してごわす」
口ぐちにこうさけんで出迎える侍たちをかきわけて、意気揚々ととおっていった首領らしい黒頭巾が、さすがにおびえた顔色でかたまっている屋敷の女たちの中に、だれかを見つけ出して、
「ほ、お嬢さままで出ておいでたか。これは少々|面《おも》|映《は》ゆいな」
と快活に笑って、面映ゆくもないらしく、頭巾をとって会釈した。大たぶさにゆった|颯《さっ》|爽《そう》たる若い顔である。
お美也は笑わなかった。暗い眼でその顔を見まもって、暗い声でいった。
「益満さま、今夜は何をなされておいでになったのでございます」
「さればさ、千駄ケ谷にある幕府の武器蔵に押し込んで、少々頂戴物をしてまいりました」
江戸市民を恐怖のどん底におとしている「御用盗」の|首《しゅ》|魁《かい》益満休之助は、|洒《しゃ》|然《ぜん》と白い歯をみせて、ゆきすぎた。お美也はうなだれた。
三田四国町の薩摩屋敷である。
去年の冬、南部坂でお美也を救い出したのは、いうまでもなく酒井家の元中間休平こと益満休之助であった。――あれから、もう二年ちかい時がながれている。
そのあいだ、彼女をこの屋敷にひきとめておいたのは「――いましばし、いましばらく」という休之助の強いすすめのほかに、また血を吐いた彼女の病気のゆえもあった。実際、そのあいだに彼女は半年以上も床についていた期間があったのである。しかし、そのほかに、この薩摩屋敷の人々のなみなみならぬ親切もあったのだ。ここでふしぎな力をもつ休之助がとくにみなに依頼したばかりでなく、お美也は四年ばかりまえ、いちど丞馬とともにこの屋敷にかくまわれていたという縁があった。人々は、まるで旅に出ていた娘がかえってきたように歓迎した。
――ここにきてまもなく、お美也は、じぶんの所在をどう父につたえたらよいかに苦しんだ。徳川家に尽忠のこころを失わぬ一徹の父が、娘のじぶんが薩州邸にかくまわれていると知ったら、どんなに動揺し、困惑するだろうかと案じられたのである。
「なあに」
と、休之助は笑った。
「あっしが、|伯《お》|父《じ》|貴《き》のうちにでもおあずけしたと申しあげておきますさ。お嬢さま、かんがえてもおくんなさい、それよか、むかし御奉公していた休平が、実は薩摩の隠密益満だとお知りになったら、あの殿さまのことだ、のぼせあがって、腹でもおきりなさいますぜ。まあ、あっしにまかしておいておくんなせえまし」
じぶんを益満休之助だとお美也が知っていることを承知で、そんな口調でニヤニヤ笑う男であった。
それからまもなく、お美也は、父の壱岐守が病|癒《い》えて、蝦夷の箱館の要職に転ぜられたということをきいた。それまで休職状態にあったとはいえ、ほとんど流刑にちかい左遷である。お美也はその背後にあるものの冷酷な意志を感じとった。しかし、一方では父が江戸にいなくなったことに、やっとほっとした思いもあった。もはやじぶんのことで父をなやます心配はなくなったのである。おそらく父は肩をそびやかし、|凜《りん》|然《ぜん》として北国の果てに赴任したであろう。――とはいえ、彼女は、これでほんとうにかえるべき家はなくなったわけである。
一方で、お美也は休之助に、乗鞍丞馬にもじぶんの居どころをつたえるようにたのんでおいた。
「乗鞍丞馬?」
と、休之助はさけんで、しばらく空をみていたが、にっと笑ってうなずいた。
「あい、ようがす。そうだ、あいつにもしばらくぶりで逢いてえものだ!」
しかし、この安請合にもかかわらず、彼は、まだ勝のところにいた丞馬になんの連絡もしなかった。それは丞馬が、じぶんを薩摩の益満と知っているだけに、なんのはずみでそのことが酒井家につたわらないでもなく、ひいては御用盗の一件が白日のもとにさらされることを恐れたからであった。
薩摩御用盗。
ここ一、二年前から小手だめしにやりはじめたこの空前絶後の奇怪な盗賊団は、しかしこのごろは例えようもない物凄いものに変っていた。大々的に浮浪人から兇状持ちまで狩りあつめて、放火|劫掠《ごうりゃく》いたらざるなく、はては市中取締りの庄内侯の|愛妾《あいしょう》をかどわかして丸坊主にする、江戸城にまで火をつけるといった傍若無人ぶりで、もはやそれが薩摩屋敷から出ていることをかくすどころか、むしろ誇示するばかりになっていた。しかも、急速に衰弱した幕府は一指も加えることができないのである。
それが、狙いであった。はじめは市中をさわがして人心を不安におとし、幕府の権威を地にまみれさせることが目的であったが、このごろは大っぴらな挑発であり、挑戦であった。お美也は、ここでもみた。まったくじぶんの感情や判断のつかない天地であばれまわっている男たちの|猛《たけ》|々《だけ》しい姿を。
それにしても、江戸に生まれ、江戸に育ったお美也に、これはつらいことであった。この薩摩の荒武者たちは、みるみる江戸を荒廃させてゆくのだ。
さすがに益満には、いくども言った。
「こんなことをして、何になるのでございます」
「新しい江戸を生むためです」
「町の人々をあんなに苦しめて――」
「陣痛の苦しみという奴ですな」
益満はけろりとしていう。これが曾ての休平かと、いまさらながら眼を見はる思いだ。きらきらともえるこの男の眼は、口さきだけの|慰《い》|撫《ぶ》とはかけはなれて、お美也の置かれている立場や感情をまったく見てはいないかのようであった。
日毎、夜毎にやかれ、うち崩されてゆく江戸に、お美也はじぶんの肌でも傷つけられてゆくような痛みをおぼえた。ここにきてからはじめて知った江戸への愛である。じぶんは江戸の女だと。――
にげなければいけない、この屋敷を去らなければならない。――それは、このごろお美也の心をうちたたく江戸の女の呼び声であった。けれど、この屋敷を出て、どこへゆく?
丞馬のところへ。
はっきりとお美也が、丞馬を愛しているのを知ったのはこのごろであった。夫の面影におびえ、それを恐ろしい罪と感じた時もながれ去った。身分? 主従? いままでじぶんをかたくなに縛っていたその縄もこの屋敷にきて、この世のすべてをひっくりかえそうとしている男たちの暴風のような行為をみているうち、しらずしらず彼女のからだから解けおちようとしていた。何もかも、みんな崩れる日がきっとくる。――お美也も、もう予感せずにはいられなかった。
丞馬といっしょに、夫の敵をうつ。
そのころは、しかも弱々しかった。夫が殺されて、もう五年ちかくなる。その歳月のゆえのみならず、そのあいだ彼女がなげこまれた時勢の激流は、そんな目的をともすれば虚しい|飛《ひ》|沫《まつ》として蒼い天にかき消してしまいそうであった。やがて二十五になろうとするこの未亡人は、武骨な薩摩屋敷の男たちがいたいたしがるまでにやせて、透きとおる|蜻《せい》|蛉《れい》のようであったが、その心までかなしくよろめいてきているのを、だれも見るものはなかった。――彼女が、ただその細い肩を力づよく抱きしめてくれる腕を幻にえがいたとしても、だれが彼女を責めることができるだろう。
しかし、丞馬からは何の連絡もなかった。それどころか、あれからまもなく、彼はいつしか勝家からも姿を消してしまったという。
故郷の飛騨にかえってしまったのだ、としだいにお美也はかんがえた。彼女は、最後に丞馬と別れるとき、丞馬が冷たく、ひどくよそよそしかったことを思い出した。あの男も、とうとうわたしを見すてた。……わたしはひとりだ。
――そのお美也のために、まったく彼女の知らない罪を重い鎖とともに身にしばって、乗鞍丞馬がひとり牢獄のなかに愚直に坐っていたことを、どうしてお美也が知ろう。
いま、お美也は憂愁にみちた眼を茫然となげている。まわりは依然として、騒然たる人馬の渦だ。幕府の武器蔵から強奪してきた銃や石油樽をはこぶもの、馬をひいてゆくもの、からからと笑う声、何が原因かもう喧嘩する声――薩摩七十五万石を|後盾《うしろだて》とする不敵な泥棒たちの|凱《がい》|歌《か》が、いつしか嵐がやんで蒼白く明るんできた空に、いつまでもたちのぼっている。
――まだ頭巾もとらず、仲間と話していたそのひとりが、ふとお美也の姿を遠くみて、その眼がかっとむき出された。
「――や?」
「どうしたのだ」
「あ、あれは、酒井壱岐の娘ではないか?」
相手の黒頭巾がふりむいて、眼をほそめて笑った。
「ああ、あれはだいぶまえ、益満さんがさらってきたものさ。まだ知らなかったのか? そうだ、おまえはこのごろ|傭《やと》われた奴だったな。ご覧のとおりの絶品だが、手を出すことはおろか冗談でもいうと、益満さんにたたっ斬られるぞ。益満さんの色らしいのだ。いいかわかったか、蓮の字?」
土屋蓮之丞がこがらしに吹かれて、ころがるように番町の玉虫兵庫の屋敷にかけこんでいったのは、その日の昼過ぎであった。
「み、見つけました!」
と、彼は門番をつきとばし、玄関までたどりつくと、そこにべたんと坐ってしまった。
「酒井壱岐の娘の居場所がわかったと、左様お伝え下さい!」
その取次をうけるまでもなく、遠くその声をきいて、|跫《あし》|音《おと》たかくはしり出てきたのは主人の玉虫兵庫ばかりではない。たまたま来ていた烏帽子右近も、兵庫の妾の狭霧も緊張した顔をみせた。
「きさまか」
といって、兵庫は見おろして、ややあきれた顔であった。彼は土屋蓮之丞のことなどすっかりわすれていたのである。
「酒井の娘を見つけたと?」
「はっ、それが、薩摩屋敷に――」
「なに、三田の――」
と、問いかえす兵庫につづいて、右近が、
「そ、それで牢にでも入れられておるのか」
「いや、まったくかの屋敷のひととなって安住のていでござった」
兵庫も右近も茫然とした。かりにも元講武所奉行の娘の美也が、薩摩屋敷に安らかに住んでいようとは、想像もおよばなかったのである。
「そ、それはどういうわけじゃ」
「どういう縁かわかりませぬ。け、けさのことでござる。薩摩屋敷で、偶然酒井の娘の顔を見出し、仲間にきいたところ、どうやら|頭《かしら》の益満休之助の色おんなと相なっておるらしく――」
「なんだと、益満の色おんな?」
それっきりふたりは絶句して顔を見あわせた。顔こそ知らぬ薩摩御用盗の首領が益満休之助なるものであることは、すでに小栗上野介からきいて知ってはいたが、それがどうしてお美也を色おんなにしたのか、その結びつきはさすがのふたりにもわからない。
ふいに烏帽子右近がきびしい声でいった。
「おい、土屋、きさま、いま仲間といったな、益満を頭といったな、きさまどういう手づるで薩摩屋敷に入ったのだ?」
「はっ?」
「きさま、いわゆる御用盗の一味に入っていたのではないか!」
土屋蓮之丞は|狼《ろう》|狽《ばい》しながら、
「さ、さればでござる。それも御申しつけの酒井の娘の探索に|脳漿《のうしょう》をしぼり、ようやくこのごろ、もしやしたら、例の南部坂の賊はきゃつらではなかったろうか、と思いつき、苦心のすえ彼らの内部に潜入したわけです。これはすべて御公儀のおんため――」
といったが、実は土屋蓮之丞は、そうとはっきり見込みをつけて御用盗に入ったわけではない。最初はたしかにそのために狂奔したが、ついに探しくたびれて自暴自棄になって、むしろ恋女房を理不尽にとりあげた玉虫兵庫らへのうらみから、むかし仲間だった新徴組崩れの浪人でいま薩摩の飼犬となっている男にさそわれて、このごろ一味に加わったものであった。
「昨夜千駄ケ谷の御鉄砲蔵を襲ったのもきゃつら――その他もしおたずねのむきがあれば、何でもお答えいたします。ただ、お約束どおり――」
「千駄ケ谷の件がきゃつらであることは、ちゃんとわかっておるわ」
と、ふいに玉虫兵庫がぬけぬけといった。「薩摩の芋らめの所業は、逐一もらさず当方にわかっておる。酒井の娘のこともきゃつらの仕業ではないかと、いまも右近と話していたところだ」
「あいや」
と、土屋蓮之丞はあっけにとられた。血相をかえて、
「左様でござるか。それならば、それは申しあげぬ。しかし御約束でござれば、そこの拙者の女房、お返しねがいたい」
「狭霧、かえるか?」
と、兵庫はふりかえって笑った。狭霧は無表情で蓮之丞を見おろしている。
「かえらぬそうだ」
「そ、そんな、ばかな――天下の御直参が、食言をなさるのか!」
「ばかめ!」
と、兵庫は|吼《ほ》えた。
「ひとたび御直参の|寵愛《ちょうあい》をうけた女を、薩摩の手先になって盗賊をはたらき、|磔獄門《はりつけごくもん》にも処すべき野良犬侍にわたせるか。おうい、だれぞ、参れ、こやつをひっくくって、奉行所へひったてて参れ」
すぐちかくにかけあつまっていた中間たちがおどりかかった。あまりのひどい報酬に、土屋蓮之丞はきちがいみたいに抵抗した。蹴たおされ、なぐりつけられ、血と砂にまみれた曾ての夫を狭霧はきれいな顔で冷やかにながめていたが、ふいに何を思ったのか、つかつかとおりていって、蓮之丞の耳に何やらささやいた。蓮之丞はきょとんとなり、急におとなしくなった。
彼がひきたてられていってから、兵庫がきいた。
「狭霧、何を申してやったのだ」
「ほ、ほ、ほ、あとで旦那さまをくるめて、きっと救い出してあげるから、といってやっただけでございます」
と、狭霧は笑った。
兵庫はそれにかかわりあっている余裕もないらしく、きっと右近をふりむいて、
「右近、おれはやるぞ」
と、つよい声でいって、唇を真一文字にひきむすんだ。右近ははっとした様子で、
「お美也がそこにいるとわかってもか!」
「いいや、お美也のことはもうあきらめた! おぬしも、もはや思いきれ」
「おぬしには、こういうひとがおるからよかろうが――」
「そんなことではない。そのわけはしらず、お美也が益満のものとなっているとわかって、これ以上、なお追いまわしてどうするのだ。おそらくあれが薩摩方に身をなげこんで平然としておるのも、わしたちへの恨みからであろう。薩摩がかならずわしたちを討ってくれると頼りにしておるのであろう。ええい、可愛さあまって、憎さは百倍、いわんやその薩摩は、天をおそれぬ乱暴|狼《ろう》|藉《ぜき》、あろうことか昨夜は御公儀のお蔵を襲ってその武器まで強奪したではないか。もはや直参の名にかけて、断じて|坐《ざ》|視《し》はできぬ。やる。おれは断乎としてやる。玉石ともにおれは|焚《や》くぞ!」
と、天をむいて絶叫した。
いま、土屋蓮之丞に御用盗のことについて右近と話していたといったのは、必ずしもそうではない。ここ一、二年の彼らの挑発を、挑発と知りつつ激怒した小栗上野介が、薩摩との公然たる戦争をおそれて逡巡する幕閣をおさえ、ついに薩摩屋敷に痛撃を加える方針をうち出し、ここ十日あまり右近、兵庫らにその具体的な計画を命じていたのは事実なのであった。
「兵庫。……」
右近は弱々しくもういちどよんだが、兵庫はこたえず、玄関をつかつかとおりていって、
「小栗どののところに参る。馬っ」
と、別当を呼んで、馬にとびのると、はじめて|凄《せい》|愴《そう》な決意のみなぎった顔をふりむけた。
「右近、みておれ、おれの大砲についに物をいわせるときがきた。薩摩屋敷の逆賊ども、一匹のこらず|木《こ》ッ|端《ぱ》|微《み》|塵《じん》にしてくれるぞ。あの女も――あの顔も、手足も宙天に」
そして、鉄鞭をくれて猛然と駆け去った。
「お江戸見たけりゃ、今見ておきゃれ、いまにお江戸が、原となる」
皿小鉢も割れよとばかりの酔歌のあとは、どっと高笑いの声であった。笑いのなかに傍若無人にどなりあう薩摩言葉はお美也にもよくききわけられるようになったが、わかればわかるほど耳を覆わずにはいられない。すべて徳川と江戸への凄じい|嘲侮《ちょうぶ》の声ばかりであった。
――年のあけぬうちに、この屋敷を出てゆこう。
それはこの数日中に、急速に美也の胸をしめつけてきた決心であった。そのために彼女は、ひそかに身の|廻《まわ》りを整理していた。――けれど、薩摩屋敷を出ても、彼女にはゆくあてもなかった。ただ、ここにはもはやとどまることはできない、というせっぱつまった感情からである。こがらしは、彼女の胸にも吹いていた。
――そのこがらしのなかで、声がきこえた。
「……お美也どの」
はっとして耳をすましたが、それっきり声はない。ただ遠い座敷でまた酒宴の歌がたかまった。
「菊が咲く咲く、|葵《あおい》は枯れる、
西で|轡《くつわ》の音がする」
耳のまよいであったろうか、とお美也がまた眼をひざにおとしたとき、
「お美也どの、そこにおられるのは、お美也どのではないか?」
――お美也の背を、氷のようなものがながれた。それはこの屋敷できくはずのない声であった。硬直したようにその方へ顔をむけたままのお美也の眼に、すうと廊下をへだてる唐紙のあくのが映った。
その男は、袖口をあげて顔の下半分を覆ったまま、じっとこちらをのぞきこんだ。
「やっぱりお美也どのだ。……烏帽子右近です」
男は、しずかに入ってきた。お美也は、全身金しばりになっている。これは、現実の右近であろうか。わたくしは悪夢にうなされているのではあるまいか。
「おひさしや。……神戸村以来、何年になりますか」
声はまさしく烏帽子右近であった。やや老けて、哀愁の|翳《かげ》をおびているが、この場にあっても荘重の気をうしなわぬ美しい右近の顔にまぎれもない。
激情のために、お美也はわなわなとふるえ出した。その眼に蒼い炎がぽうともえあがり、手が帯のあいだの懐剣にかかった。
「斬られるか?」
と、右近はいった。
「お斬りなさい、それを覚悟の上で、この屋敷にのりこんできたわたしだ」
右近の顔も蒼白になっていた。むりはない、ここは幕府の一大敵国、まるで幕臣の血に渇している|餓《が》|狼《ろう》のような薩摩侍のまっただなかだ。そこへ右近は、いったいなんのために、いかなる手段でしのび入ってきたものか? 敵ながら身の毛もよだち、それだけにお美也の心は、右近の行為の意味を知りたいという欲望にとらえられた。
「なぜ?……どうして?」
お美也はかすれた声でいった。
「おきき下さるか? いや、死ぬは承知の上とはいえ、そのまえに是非あなたにきいていただきたいことが二つ三つあった。それを申したいばかりにわたしはやってきたのだ」
「何もききたくはありませぬ」
と、お美也ははげしくいった。
「いや、きいてもらわねばならぬ。……お美也どの、あなたは、なぜこの屋敷におられるのか。いかなる因縁で、あなたがここにこられたのか、それはいまきくまい。きいておるひまがない。ただ、わたしのききたいのは、出ようと思えば出られぬはずのないこの|檻《おり》に、なぜあなたが|晏《あん》|如《じょ》として日をくらしておられるのかということだ」
「それは……」
お美也は|吐《と》|胸《むね》をつかれた。それこそ、彼女のもっとも苦しんでいた点であった。
「この屋敷のものどもが何をしておるか、その眼で見、その耳できかれぬことはあるまい。いいや、げんにいまあのような|唄《うた》をうたっておる。いまにお江戸が原となる。――きゃつらの言語に絶する乱暴狼藉、これを見、これをききながら、血もさわがず、心もみだれぬとあれば、それは江戸人ではない。いわんや、きゃつらは徳川を根こそぎに滅ぼそうとしておるのだ。お美也どの、あなたがここにおられることを父上は御存じか? まさか、御存じではあるまい。娘のあなたが薩摩屋敷に暮しておられると知って、平気で徳川の禄をはんでおられる父上ではないはず」
一言一句、|肺《はい》|腑《ふ》に針をさされるようであった。お美也はふるえつづけていた。それにしても、じぶんは何をしているのだ。この五年、ただそれを討つためのみに生きてきたといってよい|怨《おん》|敵《てき》を眼のまえにしながら、じぶんはなぜ懐剣をぬかぬのだ。いや、なぜ声をあげて人を呼ばないのだ?
「いや、わたしがきたのは、その不審をただしに参ったのではない」
お美也の様子を上眼づかいにみながら、右近はつづけた。
「それより、わたしの考えがまちがっていなかったといいにきたのだ。いいや、勝安房、それから宗像主水正の考えがまちがっていたといいにきたのです」
たまりかねてさけび出そうとするお美也を、右近は深沈とひかる眼でおさえた。
「眼中に薩長なく、ただ日本、日本と大言壮語しておるあいだに、薩長は容赦なく足をすすめ手をひろげ、ついに……ごらんのごとくとりかえしのつかぬ始末と相なった。われわれにとって、徳川家がほろんで、何の日本か? ことここにおよぶまでに、勝一派の妥協主義がいかに幕府内部を毒したか、いまとなっては主水正のみならず、勝も斬ってすてなんだことを、わたしはただ切歯するのみだ。お美也どの、徳川家は滅ぶでしょう。しかしわたしたちは、どこまでも父祖三百年の恩義に殉ずる覚悟でおる」
さすがに、右近の声は、ひくいながらに悲痛であった。
「われわれが主水正を討ち果たしたのは、あやまりではなかった。それをわたしは……|敢《あえ》てあなたのまえで言う」
「それならば」
と、お美也は身もだえした。
「それほどまでにしっかりとしたお覚悟ならば、なぜ主水正を|卑怯《ひきょう》な闇討ちなどにあそばしましたか」
「あれは」
右近の表情に動揺がはしったが、すぐに不敵な眼でお美也をおしかえして、
「あれは、わたしのしたことではない」
「御卑怯でございましょう」
「いや、少なくとも、わたしの手を下したことではない。あの夜、あの時刻、わたしが越中島にいたことは、乗鞍丞馬からおききであろう。……実は、あとで玉虫らのやりくちをきいて、なんたる無惨なことをすると、わたしも暗然としたことだ」
「そればかりではありませぬ。そのあとで、あなたはそしらぬ顔で、さも丞馬を下手人らしく罪をぬりつけようとあそばした。また京の|壬《み》|生《ぶ》寺や、それから江戸へかえってからも、いちどわたしをさらおうとなすったのも、おそらくあなた方のおさしずに相違ありませぬ。その男らしくない、けがらわしいたくらみの数かず。……」
お美也の眼にくやし涙がひかった。右近はさすがにしばらく返事もしなかったが、ふいに、つつとひざですりよって、
「お美也どの、ゆるされい、それもみんなあなたを恋すればこそだ!」
「な、何を|仰《おお》せられます」
「もはや、わたしもゆめ|衒《てら》うまい。主水正を亡きものにしようとしたのは、ただ大義のみからではない。あなたをとられたのが、無念だったからだ。わたしの心は真っ暗な嫉妬のけぶりにむせんでいたからだ。主水正通夜の夜、わたしはいった、あなたが好きであった、あなたをお嫁にもらいたかったと――あの言葉を、あらためて、わたしはいまあなたに言う」
右近はがばと両腕をついた。切々として、
「お美也どの、この右近をふびんと思って下されい。あなたのために、兄よりも尊敬していた親友の主水正を討つ一味に加わり、そのことのなりゆきから上方まで流浪をつづけ、いまなお想いの断ちきれぬこの右近だ。あれから五年、ひとりとして他の女に眼もくれず、日毎夜毎あなたの幻のみを抱きつづけてきた。――地獄です。あなたも辛かったろうが、わたしにも苦しいこの年月であった。しかも右近は、やがて徳川家のために死ぬでしょう。あなたに討たれずとも、わたしの命はながくない。ただ、それまで、いちど幻でないあなたを――」
恐怖に、気死したようなお美也の手を、右近はにぎった。汗ばんで、吸いつくような感触であった。
「夫を殺したにくい敵とお思いならば、ささ、斬るなり、人を呼ぶなり、ままになされい。敵――敵――お美也どの、どうぞ拙者を敵以下の、恋に盲目となったあわれな虫けらと思うて下されぬか。そして、いちどその白い手でなでてやって下されぬか?」
ふるえながら、お美也は右近の手をふりはなせなかった。眼をとじて、かすかにくびをふっていた。――右近の眼に、微笑がほのびかってきえた。
「お美也どの、にげよう」
「…………」
「この屋敷におってはならぬ」
「…………」
「さっき申したような理由からばかりではない。この屋敷は、明二十五日早朝より、砲火につつまれるのだ」
お美也は、大きく眼をひらいた。
「|万《ばん》|死《し》を冒して、拙者がきたのは、それをあなたに告げるため――小栗どのは、ついに勘忍袋の緒をきられ、薩摩屋敷砲撃の断を下された。こうしているそのあいだにも、玉虫兵庫の指揮のもとに幕府の大砲はこの屋敷をとりかこみ、|蟻《あり》一匹ものがさぬ布陣をひそかにいそいでいるはず――もはや、とめようとしても将軍家とておよばぬ情勢です。すておけば、あなたも砲火にとびちる土の一塊となる。あなただけは殺してはならぬ。そう思って、わたしは御用盗のひとりからとりあげた当屋敷通行の切手を利用してしのびこんだ次第です、……お美也どの、逃げましょう」
そのとき、廊下のむこうで声がきこえた。
「お嬢さま」
はっとした。益満の声だ。すこし、酔った声がちかづいてくる。
「まだ起きていらっしゃるか」
どうしたことであろう――恋の告白をした右近の熱情によろめいたのか、または決死の覚悟であえてこの屋敷にのりこんできた右近の勇気にうたれたのか、|混《こん》|沌《とん》として、
「右近さま……あそこへ」
と、座敷の隅の|屏風《びょうぶ》をさしてから、お美也はじぶんで愕然としている。右近はとびたち、屏風の蔭にすべりこんだ。
「お嬢さま」
と、益満が唐紙をあけた。
「昨日から、とんとお顔を見ませぬ。もしやしたらまたおからだがわるいのではないかと、いま酒中ふと思い出したら、気にかかってならぬものだから、のぞきに参りました。――お、ひどくお顔色がわるいが、やはり気分がよろしゅうござらんか?」
行燈のかげに、お美也は|白《はく》|蝋《ろう》のような顔をあげた。彼女は益満を見あげて、唇をわななかせた。もし烏帽子右近の予告が事実ならば、この益満も死ぬ。これほどじぶんに好意をささげてくれた益満も、あしたの朝は砲火の餌食となる。――そのことを、一言、いま口からもらしたならば?
それは戦慄すべき一瞬であった。
しかし、なぜともしらず、お美也のわななく唇はこうこたえていたのである。
「いいえ、気分はわるうございませぬ」
彼女の全身を吹いてすぎた白い鬼気の|靄《もや》を益満はもとより気づかず、
「それは結構、左様ならばおやすみ下さい」
と、笑顔でうなずいて、すぐにひきかえしていった。
屏風のかげから、右近があらわれた。
「あれは……酒井家におった休平ではないか?」
さすがに眼は驚愕にみひらかれたままであった。
「あなたが、ここにこられた意味がはじめてわかった。いまの男が、益満ではないか」
お美也はふりかえりもせず、じっと坐っている。
「ううむ、おどろくべきことだ。……しかし、それはともかく、いまの様子から、あなたと益満のあいだが潔白であることも相わかった」
そのつぶやきもきこえぬ風で、魂がぬけたようなお美也の姿を、右近はだまって見まもっていたが、その唇にかすかににっと笑んで、音もなくすべり寄って、
「あなたは、わたしを救って下された」
と、ささやいた。眼がもえていた。
「あなたを救ったのではありませぬ」
ようやく、肩で息をしてお美也はつぶやいた。
「わたしの救ったのは、徳川家の侍です」
「おなじことだ。……では、お美也どの、にげよう」
「にげませぬ」
「なに?」
庭むきの障子へむかって、もうあるき出していた烏帽子右近は、|唖《あ》|然《ぜん》としてふりかえった。お美也はおなじ|塑《そ》|像《ぞう》のような姿勢のままで、ひくくいった。
「わたしは、あしたのことはこの屋敷のひとたちに何も申しませぬ。けれど、この屋敷のひとは、わたしに親切にしてくれました。……せめて、あのひとびとといっしょに死ぬことが、美也のつぐないでございます。烏帽子さま、どうぞはやくお立ちのき下さいまし。そうでないと、こんどはほんとうに人をよびますよ」
美也を救うためにこの屋敷に潜入した右近の決死の覚悟にいつわりはなかったが、しかしその心のおくに、この聡明な男相応の正確な或る計算が組まれていたのはたしかであった。計算は、すべて思いの通りにいった。けれど、最後の土壇場にいたって、このお美也の生きることへの拒絶だけは、彼の思いがけぬ計算ちがいであった。
茫然とし、困惑のあぶら汗をしたたらせてたちすくむ烏帽子右近の頭上を、こがらしの声が|嗤《わら》うように鳴りわたった。
師走二十五日、まだ暗い未明に薩摩屋敷の門をはげしくうちたたくものがあった。
寝ぼけまなこで門をひらいた門番は、そこに、「御用」の提灯とともに、白木綿の鉢巻をしめた市中取締りの役人のほかに、ものものしい|甲冑《かっちゅう》までつけた武士たちが群れているのに仰天した。
「さきごろより、しきりに市中の豪家に押し入り、|盗掠《とうりゃく》をほしいままにする曲者どもがこの屋敷に潜伏している証拠明白と相なったゆえ、神妙に悪徒をひきわたせ」
そう口上をのべる役人の声は、常になくたかく張っていた。
留守居役の|篠《しの》|崎《ざき》彦十郎が出てきて、これと「徳川が大政を返上したうえは、徳川も|島《しま》|津《づ》も同等である。左様な要求は越権至極」などと押問答をしているあいだに、俊敏な益満ははやくも大音声をはりあげて、たたみをはこび出して防壁とするやら、いたるところに|水《みず》|桶《おけ》を配置するやら、大っぴらに戦闘準備にとりかかっていた。
そして、きこえよがしに唄う。
「一剣寒く天に立ち、
将星|堕《お》つるか、西の丸。――」
幕府の役人たちは、憤然として去った。背後で浪人どもが、どっと笑った。――しかし、役人たちの挙動に、いつもとはちがった、ただならぬ決意のみなぎっているのを、どれだけの人間が見とおしたか。――
この夜、薩摩屋敷にいたのは百人前後、そのうち薩摩人は二十数人で、あと女子供をのぞいては大半「御用盗」用の浮浪人ばかりであった。彼らはいままでの経験からまったく幕府を見くびって、万一木ッ端役人どもがおしかけてくれば斬りちらす、しかしとうていそんな度胸はなく、いつものごとくあれでしっぽをまいて退散するのがおちだろうと、たかをくくっていた。
その哄笑が、夜明けの雲にきえたのとほとんど同時――まるで、その山彦のように、百雷もおちるかと思われる|轟《ごう》|音《おん》がたたきかえされてきたのである。
「あっ、大砲だっ」
だれかが絶叫したとき、屋敷の一角に真っ赤な火柱がたちのぼり、そこからばらばらになった人間の無数の首や腕がとんできた。
浪人どもは仰天した。いまや気息えんえんとして命脈たえるかと思っていた幕府が、この日、突如として大砲まで持ち出して、薩摩屋敷砲撃などという大それた冒険をやり出そうとは、まさに青天のへきれきであったのだ。
また砲声がとどろいた。さっきの音は北からきこえたが、こんどは西の方角からであった。
「しめたっ、大願成就っ」
益満休之助の声が、土砂のけぶりの向こうできこえた。
「よろこべ、きゃつら、ついに手を出しおった! あれは三百年の古大木のみずからたおれるひびきだぞっ」
しかし、益満の耳は犬みたいにつっ立って、四辺の砲声から、屋敷が完全に包囲されていることを確認し、さすがに顔色が変っていた。薩摩屋敷砲撃は、ついに挑発にのった幕府の愚行に相違はないが、同時にその狂的な砲火のなかに、この屋敷の住人すべてが全滅する運命にあることもたしかであった。
一騎、暁の風をきって、|黒漆《くろうるし》の陣笠をながれ星のごとくきらめかし、野羽織をふきなびかせて、札の辻から北東へ、四国町の通りを疾駆してゆく武士があった。途中にも、いたるところ布陣している砲座を|叱《しっ》|咤《た》してはかけぬけて、彼は|赤《あか》|羽《ば》|根《ね》|橋《ばし》にかけつけた。
ここにも、三門の砲車をならべて、砲手がかじりついている。これは、幕府が最近に輸入した秘蔵のナポレオン・カノン砲の一部であった。
ぱっと火花がはためき、轟音とともにあたりを覆った砲煙がうすれると、
「よし、命中!」
と、彼はうなずいた。
硝煙をかきわけるようにして、一群の騎馬隊が|増上寺《ぞうじょうじ》の方からちかづいてきた。その先頭の人は、|黒《くろ》|羅《ら》|紗《しゃ》のしころ[#「しころ」に傍点]で面を覆っていたが、
「兵庫……やりおるの」
と、声をかけた。微笑はしているが、|烱《けい》|々《けい》たる眼光だ。
「はっ、もはや袋のねずみ、一匹たりとものがしはしませぬ」
と、玉虫兵庫は笑った。全身闘志にふくれあがって、遠い火花に赤い悪鬼のようだ。
「ただ、さきごろより品川沖に薩摩の|定府船《じょうふせん》、|翔鳳丸《しょうほうまる》と南風丸が|碇《てい》|泊《はく》いたしおりますれば、これをめざして、きゃつら|窮鼠《きゅうそ》のいきおいで海へ|遁《とん》|走《そう》をこころみるおそれがござる。万一きゃつらが斬って出たさいは、銃火の網の目につつみこむよう、三田から|高《たか》|輪《なわ》、品川にかけてただいま手配して参りました」
「御苦労、品川の海には、わが方の回天、|渦《うず》|潮《しお》もおるが」
と、馬上の人は眼を南の空へなげた。これは、陸軍奉行小栗上野介であった。
「渦潮丸には、烏帽子右近が手ぐすねひいて乗りこんでおる。ははは、あれが、やわか薩摩の芋船をのがすことではない」
十一
おなじ時刻、この三田の砲声を、日本橋小伝馬町の牢屋敷の囚人たちもきいた。
牢の朝は、午前四時にあける。五時に見回りがやってきて点呼をとるので、その時刻にたたき起されるのだ。それがすんでも、まだ暗いから、また膝ッ小僧をかかえてウトウトしている者、肩と肩をすりあわせて、「寒い」「寒い」とこぼしている者、力のない|咳《せき》をもらしている者――まるで八寒地獄の亡者のうごめいているような無宿牢へ、遠雷のようなその音が、どろどろとつたわってきたのである。
「あっ、あれなんだ?」
「雷か?」
「ばかをぬかせ、師走のいまの時刻に……それに、風に雨っ気がねえ」
囚人たちは動物的に気象に敏感だ。同時に、こんなところにいても、いや、こんなところにいるからこそ恐ろしく|娑《しゃ》|婆《ば》の雲ゆきにも鋭敏で、
「いくさが起ったんだ!」
とだれかがさけぶと、牢内は騒然となった。騒ぎをききつけて、牢役人がとんできた。
「これ、鎮まれ、何をさわいでおる。しずかにしろ!」
「もし、旦那……あれア何の音でごぜえます?」
役人はなおためらっていたが、囚人の動揺がいよいよはげしいので、
「やあ、うぬらの知ったことではない。いや、うぬらのなかにも、薩摩の犬となって、江戸市中をさわがした極重悪人がたしかにおるはず……よく耳をかっぽじって、あの音をきけ。あれは今朝御公儀がついに三田の薩摩屋敷に、天罰の砲火を下されつつある音だ。鎮まれ、鎮まれっ、お上の御威光をかろんずるに於ては、うぬらごとき虫けらはもとより、いかなる大藩も断乎たる|膺懲《ようちょう》をうけるよいみせしめであるぞ!」
と、声を張っていい、すぐに立ち去った。――急に、失望の|溜《ため》|息《いき》とともにしんとしてしまった牢内で、だれかひとり、
「三田の薩摩屋敷?」
と、異様な感情をこめて、ひくくつぶやいた者がある。これはきのうのひる、ここへたたきこまれた土屋蓮之丞であった。
声に、異様な感情がこもったのは、彼がその薩摩屋敷に出入りした人間で、まさにいま牢役人がののしった薩摩の犬であったばかりではない。――もうひとつ、ちがう妙な記憶がよみがえったからであった。
彼は眼をあげて、じっと牢の隅をみた。そこには、きのうみたとおなじく、|鉄《てっ》|鎖《さ》にしばりつけられた乗鞍丞馬が、|朧《おぼ》ろおぼろと坐っていた。丞馬の|眉《み》|間《けん》と唇からは血がながれて、それがうす闇にどす黒くこびりついてみえた。昨晩蓮之丞がとびついて、なぐりつけたあとであった。
丞馬が牢にいることは、蓮之丞がここに入ってはじめて知ったことではない。それはきのうのひる、玉虫兵庫の屋敷で、そのことを狭霧の口からきいたのである。そのおどろきのために、彼は牢屋敷に連行されることに抵抗するのをわすれたほどで、いざほんとうに放りこまれて眼前に丞馬をみても、なおおどろきはとまらなかった。彼はいきなりおどりかかって、丞馬をなぐりつけた。
それも、むりはない。蓮之丞は妹の|小《こ》|笹《ざさ》を、丞馬のために殺されているのだ。そればかりではない、強引に狭霧を女房とはしたものの、狭霧の心が丞馬にあることを――彼女が彼の女房となったのも、ただ丞馬の出現を待ちくらすためであることを――狭霧自身の口から、いくどか公然ときかされた想い出はにがい。――それどころか、じぶんの運命を狂わしてしまったそもそもの発端が、丞馬の飛騨出奔にあるといっていい。
「丞馬っ、こんなところにいたか?」
獣みたいなさけびをあげて、なぐりつけ、かきむしる蓮之丞の腕の下から、丞馬の血がとびちった。
「殺してやる、こ――殺してやるぞ!」
丞馬は無抵抗であった。その全身から|頸《くび》にかけて鉄鎖がまきつけてあることはすぐに気がついたが、そのせいではなく、丞馬みずからの意志で、蓮之丞の打つにまかせているようであった。といって、蓮之丞の怒りや恨みに同意した気配は全然ない。じろっと興味のない眼で彼をにらんだきり、微動だもしないのだ。
「新入り、何しやがるんだ」
かえって、牢名主が見かねて、とめた。
「こ、こやつ、拙者の妹の|敵《かたき》でござる!」
「なに、妹の敵?」
と、牢名主はちょっと眼をむいたが、
「何にしても、身うごきもできねえものをいためつけるのはよくねえ。そいつア、どっちにしろ死罪になる奴らしいが、娑婆ならしらず、ここで人を殺したら、たとえ親の敵であろうと、おめえの首がとぶのア覚悟のうえかね?」
と、いった。その言葉の内容よりも、そのドスのきいた声の重さに、蓮之丞は|狐憑《きつねつ》きがおちたように肩で息をするばかりであった。
牢名主は、青木弥太郎という徳川最後の有名な大盗であったが、彼はこの丞馬というふしぎな囚人に――鉄鎖にしばりあげられながらも|毫《ごう》もわるびれず、同囚を不敵な眼で見まわしている度胸に、少なからぬ好奇心と感嘆をいだいて、いままでも、特別待遇をして保護していたのである。
丞馬がふしぎな術をつかうことも弥太郎はすでに知っていたが、しかし、その日、この黙々たる囚人が、突如として、実に牢屋敷はじまって以来の破天荒な牢抜けをやってのけようとは、思いもよらなかった。
――いま。
「公儀が薩摩屋敷を砲撃している」
と、役人からきいて、
「薩摩屋敷?」
と、土屋蓮之丞がつぶやいたのは、きのう狭霧が、「丞馬が牢にいる」と告げたのにつけくわえて、「お美也が、薩摩屋敷にいると丞馬にお言い。そうすると、丞馬がおまえさまをたすけてくれるかもしれません」
と妙な言葉をささやいたことを思い出したからであった。
蓮之丞はお美也の素性は知っているが、それと丞馬とどんなむすびつきがあるか知らない。まして狭霧がじぶんにそうささやいた意味はまったくわからない。――蓮之丞は、何とかしてこの牢を出て、狭霧のいる娑婆へかえりたいとはかんがえていたが、狭霧にいわれたとおり、丞馬に助けてもらおうとも、丞馬が助けてくれようとも、むろん思ってはいなかった。ただ、ふいにその言葉を口から出してみたのは、|呪《じゅ》|文《もん》のようなその一句に対する好奇心からばかりであった。
「丞馬」
と、彼は呼んだ。丞馬は依然として眼をつむり、口を一文字にむすんだままだ。
「お美也という女を知っておるか?」
丞馬の眼が、かっとひらいた。うす闇のなかに、それはもえる|燐《りん》のようにみえた。まだはっきりと丞馬につたえる意志はなかったのに、その燐光に射すくめられて、蓮之丞は口ばしっていた。
「あれは、薩摩屋敷におる」
丞馬はだまりこんでいる。しんとした牢内に、遠雷のような大砲のひびきはいよいよたかまっていた。
「――土屋さん」
はじめて、丞馬の口からしゃがれた声がもれた。
「ここへきて、おれの髪をむしってくれ」
蓮之丞は、その言葉の戦慄すべき意味を知らなかった。彼もまた飛騨の|檜夕雲斎《ひのきせきうんさい》の剣法の弟子ではあるが、夕雲斎が丞馬のみを先天的な忍者の素質あるものとして、ひそかにつたえた飛騨幻法を正確には知らなかったのだ。
彼はためらった。しかし、丞馬が鉄鎖につながれていることへの安心と、いまの言葉の妖しさが、彼をふらふらとそのそばへあゆみよらせた。
「髪をむしれ?」
「びん[#「びん」に傍点]の毛を」
「――こうか?」
蓮之丞は丞馬のびんの毛をひとにぎりむしりとって、ついでにかっとそのひたいに|痰《たん》を吐きかけた。丞馬のこめかみから血がしたたりおちた。
時と場合では同囚の|睾《こう》|丸《がん》でもたたきつぶすことを辞さぬ無宿牢の囚人たちも、この奇妙な「儀式」には、口をぽかんとあけ、じっと丞馬を見まもっている。一分二分――丞馬はうごかぬ。
ふいに、蓮之丞が「うっ」とうめいた。両手をあげて、くびをかきむしる。――いつのまにか、彼の手をぬけ出した黒髪のいくすじかが、蛇のように這いのぼってそのくびにまきついているのがだれにもみえず、ただのけぞりかえったその顔の、眼がとび出し、鼻口から血をふき出しているのに仰天した。
「な、なんだ、これア」
いっせいに総立ちになってかけよろうとするよりはやく、丞馬がすっくと立ちあがった。からだからくびへかけて、幾重にもまきついていた鎖が、まるで腐れ縄みたいに彼の足もとに|断《き》りおとされていた。
「……あっ」
何が、どうしたのかわからない。眼をむき出し、息をのんだままの囚人たちのまえで、丞馬は、すでに|悶《もん》|死《し》をとげた土屋蓮之丞のからだをひきずり起し、きれた鎖をまきつけ、羽目板にもたれかけさせた。
それから、戸前口のところへあるいていって、格子のあいだから、外側の錠に手をさしのばした。なぐりつけたのか、ねじったのか、身に寸鉄もおびていないはずなのに、まるで鉄と鉄が相触れるようなひびきを発して、そのまま戸前口はすうとひらいたのである。
丞馬は戸前口を出て、うしろなぐりにまた錠をたたいた。とみるまに、あともふりかえらず、風のように|外《そと》|鞘《ざや》を走って消えてしまった。このあいだ、一声も発せず、一同にとってまるで幻影をみているとしか思われぬ丞馬の行動であった。
「あ、あの野郎……一言の挨拶もしねえで、牢をぬけちまいやがった!」
ようやくもらした牢名主の弥太郎の声とともに、二、三人がいきなり戸前口にとびついたが、それはびくともうごかなかった。頑丈な錠は|飴《あめ》みたいにねじきられて、くだけた角がはっしと格子にたたきこまれていたのである。
「おッそろしく抜けめのねえ、手前勝手な野郎だな。すこし見そこなったわ」
と、弥太郎はあきれたような声を出した。
「この死びとをてめえにみせて、牢役人をごまかす気か、そうは問屋がおろさねえ。知らぬ顔をしていてやる義理もねえし、だいいち、こっちがあとでひどい目をくわあ。おい、だれか大声をあげて、牢役人を呼べ」
――土屋蓮之丞が、声を出したのはこのときだ。
「いいや、もうしばらくさわがねえでくれ。おれが女をたすけに、薩摩屋敷へゆくまでは――」
蓮之丞は口から血をたらして、羽目板にもたれかかったままであった。ぎょっとしてのぞきこむまえに、いまの声が乗鞍丞馬のだと気がついて、さすがの弥太郎が恐怖のさけびをあげ、牢内は凍りついたようになってしまった。
夜明けの牢屋敷の屋根を|猿《ましら》のごとく走って、役人長屋から高さ七メートルちかい塀へ羽ばたいていった影を、だれもみたものはなかった。塀の忍び返しもものかは、外の掘割もひととびに飛んで、乗鞍丞馬は外へ出た。|蒼《あお》みがかってきた東南の空に、黒煙がたちのぼって、吹きなびいていた。
十二
薩摩屋敷は炎上していた。
もえる屋敷、塀、樹々が風をよんで、凄じいうなりを発している。|黎《れい》|明《めい》の空に、|金《きん》|蛾《が》のように火の粉がうずまきながれ、その下に生きている人がいるとも思われなかったが、また容赦なく砲弾がうちこまれ、|炸《さく》|裂《れつ》するたびに、わっと叫喚がわき起った。この砲撃が幕府にいかなる運命をもたらすかはしらず、薩摩屋敷を撃滅するということだけでは、完全な成功であった。何といっても百人内外の人間だけのまもる孤立した屋敷を、数千にのぼる幕府方が包囲しているのだから当然といえるが、まさかと思っていた連中は、この場にいたって狂乱状態におちいった。
屋敷をめぐる東の|御《ご》|守《しゅ》|殿《でん》|前《まえ》という通り、南の七曲りという通りに、いたるところ散乱している浮浪人の|屍《し》|体《たい》がそれだ。塀からのがれ出ようとして、たちまち銃火の網目にかけられたのである。――とはいえ、とどまれば業火にやかれるばかりなのだから、それもむりはない。
火光が荒れ狂い、屍骸がちらばっているのみの表門のまえへ、そのとき、まるで地上を滑走する砲弾のように駆けていったひとつの影がある。
「あっ、何奴?」
と、寄手の銃隊の隊長が家のかげから身をのり出したが、屋敷からにげ出してきたものならしらず、炎上する屋敷の方へかけ去った影だったから、もしや味方かと思って次の瞬間、部下を制した。
それが武装もしていない奇妙な人間だと気がついたのは、その男が飛鳥のように塀にとびあがったときである。内側から数本の|長《なが》|槍《やり》がつき出された。その男が片手をふるうと、槍の穂が|氷柱《つらら》みたいにくだけとんだ。
「あれは何者だ?……命しらずの奴が!」
と、隊長がさけんだのは、やはり味方と思ってのあきれ声で――その男が、塀の上であげた絶叫は、炎のひびきのために、むしろ悲鳴ときこえた。
「お美也さま!」
門の内側には、三十数人の男女が、ひとかたまりになっていた。そのなかから、この勇敢な侵入者めがけて、なお突進しようとする武士たちを、
「あっ、待て!」
と、愕然と制した声がある。益満休之助である。そのうしろに、お美也がいた。
「乗鞍丞馬!」
丞馬はこちらをみた。眼が火光に赤くひかった。風鳥のように塀の内側にとびおりて、はしってきたかと思うと、お美也のまえにがばとひれ伏した。
「奥さま、おひさしぶりでございます」
「丞馬……どこからきたのです?」
「牢屋敷から」
「え、牢屋敷?」
「丞馬、そんな挨拶をしておるときではない」
と、さすがの益満が顔をひんまげた。
「おまえが妙な男だってことアむかしから知ってるが、それにしても、えらいところへとびこんできたものだな。この屋敷はごらんのとおり、断末魔だぜ!」
「わかっておる」
と、丞馬は見あげて、
「それで、これからどうするつもりでがす?」
「どうするったって、こうするったって、ここにおれア、みんな|煎《いり》|豆《まめ》さ。そこでこの生残り三十何人が、いよいよこの表門をひらいて、必死の覚悟で敵に斬りこもうってわけさ。……品川まで突破できれア、薩摩の船がいるはずで、だからここで死ぬといいはってきかないお嬢さまのお手をこうつかまえてはいるんだが、敵は大砲鉄砲を|稲《とう》|麻《ま》|竹《ちく》|葦《い》とならべた|雲《うん》|霞《か》のごとき大軍勢、さすがの益満も、あはは、とうとう年貢の納めどきがきたらしいわ。ただこのお嬢さまを、地獄の道づれにすることになったのがお気の毒千万でなあ!」
丞馬は、血ばしった眼で、周囲を見まわした。
門の内側の庭は、|惨《さん》|澹《たん》たるものであった。無数の|黒《くろ》|焦《こげ》屍体、しかもその四肢がばらばらに武器とともに散乱し、いたるところ砲弾の大穴があけられ、砕けた木材が横たわり、そうしているあいだにも、背後の建物の柱や|梁《はり》がどどっと凄じいひびきをたてて焼けおちる。その地獄のような光景のなかに、ひときわ怪奇味をそえているのが、あちこち散らばっている黒い樽で、それが狂ったように炎を噴出して、生きているもののごとくころがりまわっているのであった。
「あれア、なんでがす?」
と丞馬はきいた。
「石油樽だ。千駄ケ谷の公儀の武器蔵から失敬してきたのだが、残念無念、ものの役にたてぬうちに、こっちの身をやく危険物となった。ひとつッところに集めておくと危ねえと思って、あわてて散らしたんだが、どっちにしたって、おなじことだったよ」
と、益満は苦笑した。
「石油?」
「土からわき出した油だ」
丞馬はじっとその燃える樽をにらんでいたが、いきなり走り出して、燃えていないその一つをごろごろと転がしながらもどってきた。
「丞馬、何をする?」
十三
「おおおいっ」
高台の上で、玉虫兵庫は北風に声をちぎれさせていた。そこにナポレオン・カノン砲を一台おしあげて、まわりには白鉢巻の幕兵たちが、硝煙にすすけた顔に眼ばかりひからせて仁王立ちになったり、汗にまみれて砲弾をはこんだりしていた。
南へさがる地形で、炎と黒煙はそのまま海へながれてゆくので、その位置からは、町の|甍《いらか》と樹々をこえて、薩摩屋敷の門がみえた。そのまわりには、火炎のほかにうごくものとてない。最初のうちこそ猛烈に銃撃と抜刀で反撃をこころみていたが、いまは抵抗はおろか、脱走もあきらめたらしく、薩摩屋敷は、炎のひびき以外はまったく沈黙していた。
「腰がぬけたか、声も出ぬか、薩摩の盗賊侍ども、それともみんな死に絶えたかっ、あははははは!」
ひっさけるように笑ったが、ほんの直前まで真っ赤だったその顔は、いま蒼い汗にぬれひかって|痙《けい》|攣《れん》している。周囲の幕兵たちには、なぜかそれが笑っているより、苦悶に絶叫している表情にみえた。
――しかり、兵庫の心には、おのれのつくり出したあの炎と黒煙より、もっと恐ろしい炎と黒煙がのたうちまわっているのであった。薩賊みな殺しの歓喜の炎と、そのみな殺しの中にお美也がいるという悲哀の黒煙と。
――きこえるはずのない距離で、狂ったようにわめきつづけているのは、その心のひび[#「ひび」に傍点]から出血する声だ。
すでに彼は、敵が脱出の望みをたったとみて、品川まで何層にも張ってあった網をひきしぼって、屋敷の包囲を厚くしている。
「みんな死ね! みんな燃えろ! 何もかも焼けただれてしまえ」
狂笑しながら、薩摩屋敷の断末魔を見ようとして、彼は双眼鏡を眼にあてた。
と、彼の唇がぴくっとうごき、からだが硬直したようになった。薩摩屋敷の門の屋根に、ひとりの男がすっくと立っているのがみえたのだ。兵庫の全身がうごかなくなったのもむべなるかな――それは実に思いがけぬ人間であった。あり得べきことではないが、しかしまちがいなくあいつだ。たしか、小伝馬町の牢屋敷にとじこめておいたはずの片腕の忍者。
もはやまったく司法の秩序も混乱状態に陥っていたこのころに、斬ろうと斬らせようと、必ずしも不可能ではないその囚人を、兵庫がいままで捨てておいたのは、斬ろうと思えばいつでも斬れるという安心感と、妾の狭霧がどうやらその男に気があって、必死に助命を嘆願し、そのためには兵庫のどんなひどい夜の要求でもがまんするのが面白かったのと、そしてそのうちにそんな変な男のことなど、まったく忘却していたからであった。――しかし、ともかくも牢屋敷の奥ふかく鉄鎖でつないでおいたはずのあの男が、どうしていま薩摩屋敷の門にいる?
「乗鞍丞馬!」
と、兵庫は絶叫した。
きこえたはずはないのに、そのとき双眼鏡の中で、丞馬がきっとこちらをみた。みえたはずはないのに、その眼の凄じい血光がはたとこちらを見すえたように感じ、思わず兵庫は双眼鏡を眼からはなした。
乗鞍丞馬の口から、ぴゅーとひとすじ水煙のようなものがほとばしり出たのはこの|刹《せつ》|那《な》だ。それは実に十数メートルものびて、その|尖《せん》|端《たん》で一団のうすい雲となった。兵庫がふたたび双眼鏡を眼にあてたとき、丞馬の姿はみえず、それを覆うこの雲をみて、
「――や?」
と、ふたたび眼をはなす。
その彼方にわきあがる炎と煙に眼をうばわれて、ほとんどだれも気がついたものはない。ただ玉虫兵庫だけが、その霧が風にさからってこちらに飛んでくる奇怪さに眼をうたがった。彼の脳膜を何かの記憶がかすめた。あれはなんだ。あれはなんだ?
突如として、兵庫はおどりあがり、|弾《たま》|込《ご》めを命じた。ちょうど神戸の海軍操練所で|鴉田《からすだ》門五郎を戦慄させたと同様――あの京都壬生屋敷で|遭《そう》|逢《ほう》した妖霧の記憶が、このとき彼を冷たい手でとらえたのである。
「あれを撃て!……あの雲を撃て!」
と、彼は指さし、足ぶみした。
それを、だれも玉虫兵庫が発狂したものとはきかなかった。それはまさに空とぶ雲そのままに、眼には緩徐とみえながら、その実凄じい速度をもっていた。砲兵らもようやくこのとき、高台のすぐ前方からながれてくるこの怪奇な霧にはじめて気がついたのである。――撃つ、あれを撃つ――しかし、大砲で、霧を撃つ? それに、それはもはやあまりにも接近していた。彼らはためらい、ざわめき、混乱した。
「撃つのだ、あれをとび散らせ、あの霧を撃て!」
彼らの鼻孔を異様な鋭い臭気が覆った。見まわせば、前後左右に大粒の|霧《む》|滴《てき》のようなものが、|朦《もう》|々《もう》とたちこめ、渦まき、ながれとんでいる。
砲口が|吼《ほ》えた。ぱっと火光がひらめいた。――その刹那、砲座をとりまく一帯が|熔《よう》|鉱《こう》|炉《ろ》と化した。一瞬に草も木も、人も大砲も真っ赤な炎にまきつつまれたかと思うと、轟然と天空に大火柱が|奔《ほん》|騰《とう》していた。そばにつんであった砲弾の山が、そのふしぎな火焔のなかに爆発したのである。
あとには――真っ黒な高台に、何もなかった。
焼けおちる薩摩屋敷を見まもって手をたたいていた幕兵たちは、突如として背後にあがったこの大爆発と火柱にきもをつぶした。いっせいにふりむき、口をあけ、白痴のように立ちすくんだきりであった。
薩摩屋敷の門がひらき、三十数人の一団がはしり出てきたのはこのときである。もはや抵抗を完全にやめたものとみて、すぐそばまで出ていた幕兵の数人が、ふいにさけび声をあげて地にたおれたのに気がついて、ちかくの兵士たちが愕然としたとき、脱出した人々は猛然と西へかけぬいている。
「いまだ、ゆけっ――品川へ!」
お美也をかばいつつ、うしろなぐりになぎはらう益満の刃に、またひとりの幕兵が、からだをくの字にしてのめり伏した。そのまま彼ははしり出した。
「あっ、にげたっ」
「こっちだぞっ、鉄砲! 鉄砲隊はどこだっ」
狼狽する兵士のなかを、まるで無関係のもののような顔をして、薩摩屋敷から出てきたもうひとりの男が、すたすたと通りかかった。「やっ?」とふりむいて、みんな、ぎょっとした。――侍ではない、浪人でもない。最初狂人かと思った。なぜなら、その男は口に、もえる|松《たい》|明《まつ》のようなものを横ぐわえにしている。一本しかない腕に、黒くぬれた樽をひっかかえている。そして、平然たる顔をして、ひとりで西へあるいてゆくのだ。
「――きゃつ!」
と、だれかはじめてさけんだ。これは丞馬が薩摩屋敷にとびこむとき、最初に発見した銃隊の隊長であった。まさかその男が、あの大爆発の張本人だとは想像も絶していたが、ようやくこれが味方でなく、あやしい曲者であることに気がついたのである。
「あれをのがすなっ」
周囲にばらばらと銃兵がはせあつまってきた。
もう百歩も遠ざかっていた乗鞍丞馬がふりかえった。ゆっくりと樽を地におろし、松明を手にとった。そのまま樽に口をつけて、中のものを飲んでいる気配だ。
「…………?」
とっさには、あっけにとられてこれを見ていた隊長は、たちまちわれにかえって、
「狙えーっ」
と、さけんだ。十人あまりの銃手の肩にいっせいに鉄砲があがった。――その一瞬に、丞馬の身が起きて、口から何やら噴出した。
「撃てっ」
それは、火焔のなかの声であった。そこにいたものすべてが、一塊の炎につつまれた。丞馬の口からそこまで、ひとすじにのびているのは火の|紐《ひも》であった!
口からほとばしり出ているのは石油の霧だ。しかし、口のまえにもえる松明をさしつけられて、それは真っ赤な炎となり、矢のごとくながれて、そこにいたものすべてを焼きつくした。
ちかくからかけあつまってきた数十人の兵たちは、悲鳴をあげてとびさがり、逃げちった。丞馬はまた松明をくわえた。黒い樽をかかえあげた。そして、水をすべるようにはしり出した。前方に、すでに益満らの姿はなく、ところどころ、槍をかかえたままの幕兵の屍体がころがっている。
幕府方にとってわるいことは、いちど三田から品川にかけて張った警備陣を|撤収《てっしゅう》してしまっていたことであった。それでもあちこちからかけ出してきた幕兵が十人、二十人とあつまると、一団となって追撃した。丞馬はたちどまる。ふりかえる。火焔が追手をなぎはらう。そしてまた走り出す。
まるで水の上をすべるような疾走であったが、しかし丞馬の顔は土気色であった。その腹から胸、のどへかけて、筋肉は苦悶にのたうっている。むりはない。彼は石油をのんで吹いているのだ! ほとばしる火焔は、飛騨幻法の一つではなかった。それは檜夕雲斎から奥儀をうけた水紗幻法を、彼が死中に活路をうむために、窮余、とっさにいま変形させたものであった。彼が生きるためにではなく、お美也さまをのがすために。――
「丞馬。――」
薩摩侍はむろん、乗鞍丞馬の影もない高輪|北《きた》|町《まち》の海岸通りを、ひとりの女が、髪も|裾《すそ》もみだして狂乱したようにはしっていった。
「待っておくれ、丞馬。――」
息たえだえに走るその背後から、|砂《さ》|塵《じん》をまいてかけてきた一団の騎馬隊がある。
「のがすなっ」
と、その先頭にたって鞭をふるっているのは、|黒《くろ》|羅《ら》|紗《しゃ》のしころ[#「しころ」に傍点]で顔を覆った人物であった。
「薩摩の奴らより、その火をあやつるとかいう曲者を――危い!」
と、突如手綱をひきしぼった。前肢たかく宙におどった|駻《かん》|馬《ば》の下から横へ、女がおよいで、からだをねじってあおむけにたおれた。
そのまま、馬は五、六メートル走りすぎて、
「や、いまの女は?」
と、しころ[#「しころ」に傍点]頭巾の人物は、あわてて馬を反転させ、失神している女のそばへもどってきた。馬上から見おろして、
「やはり、あの女だ。玉虫兵庫の妾――かような場所をうろついているところをみると、兵庫が死んで乱心したものとみえる。ふびんな奴じゃ。だれぞある。この女を余の屋敷にはこんでおけ」
そして、陸軍奉行小栗上野介はそのまま西へ馬をとばしていった。
十四
――巻きあげられた帆に、凄じい音をたてて風が鳴っていた。ののしりわめく声、はしりまわる|跫《あし》|音《おと》、そして背後にながれ去る潮流のひびき――|甲《かん》|板《ぱん》に頬をつけて、横たわって、お美也はそれらの音をきいていなかった。
その唇から、血がたれている。三田から益満に手をひかれたり、負ぶわれたりして、品川まではしってきたあげく、そこから漁船ではこばれて、否やをいわせずこの薩艦南風丸にのせられてしまったのだ。そのはげしいうごきが、|病《や》んだ胸にたえられなかったらしく、船にのると同時にまた|喀《かっ》|血《けつ》したのであった。
益満は、お美也をまっさきに小舟にのせておくり出し、じぶんはあとにのこって漁船のかりあつめにかけずりまわっていた。この南風丸に彼の|颯《さっ》|爽《そう》たる声がきこえないところをみると、彼は最後にもう一隻の薩摩|定府船《じょうふせん》翔鳳丸にのったのかもしれない。
血を吐いて、蝋色に透いたお美也の頬に、氷のような潮しぶきがふりかかる。十二月末の品川の海の風は、身をきるようであった。しかし、苦痛よりもお美也は、からだの中までがからっぽになって、透明な魂が、船のあとにひとりのこって、波の上をただよっているような気がしていた。
この船はこのまま薩摩にゆくのか?――薩摩へはゆきたくなかった。江戸にのこりたかった。江戸には丞馬がいる。――江戸には丞馬がいる。しかし、その思いも弱々しかった。彼女はからだとともに、魂までからっぽになったようであった。江戸を滅ぼそうとし、そのむくいで江戸を追われる薩摩の人々とともに、わたしは海をのがれてゆく。わたしは江戸の裏切者だ。といって、この薩摩の人々をこのようなむごい目にあわせたのもわたしのせいだ。なぜなら、焼討ちのことを知っていて、わたしはだまっていたのだから……。彼女はこのまま、死んでしまいたかった。
「――来たっ、来たっ」
「幕艦が追ってきたぞっ」
「二隻だ、こちらとおなじだ。恐れることはない!」
風にとぶ絶叫に、お美也は半身をおこした。
灰色に泡だち、うねる波濤の彼方に――東方に、二隻のコルベット艦が三|檣《しょう》に帆をふくらませ、幻影のようにあらわれた。それは次第に速度をはやめてこちらにちかづいてくる。――|羽《はね》|田《だ》|沖《おき》であった。
突然、こちらの前方をすすんでいた翔鳳丸に鈍い砲声がとどろいた。同時にこの南風丸からも、船体をふるわせて大砲が撃ち出された。
ちかちかっと海の彼方にも赤い閃光がきらめいた。南風丸の舷側に凄じい水柱がたちのぼり、船が身ぶるいして、ひき裂けるようなきしみをたてた。二隻の幕艦はいよいよ接近してくる。二隻の薩艦は猛然と反撃しつつ、まっしろなしぶきのなかに船首をふりたてて死物狂いに|遁《とん》|走《そう》をこころみようとしている。
「あっ、きゃつ――」
「渦潮丸だ、幕府がこの夏フランスから買い入れた渦潮丸だっ」
悲鳴のようなさけびがながれた。その異様にひかる鋼鉄の新鋭艦は、いまこちらの翔鳳丸と南風丸のあいだにするすると割って入ろうとしている。
「撃てっ」
「いまだ、撃てっ」
狂気のごとく撃ち出したこちらの大砲は、いずれも渦潮丸の前後左右におちて、むなしい|白《はく》|沫《まつ》をあげた。それが高性能のゆえばかりでなく、みごとな操艦によるものであることを、南風丸の舵輪をにぎる船長のみが気がついて、顔色をかえた。
――とみるや、渦潮丸はたちまちこちらと平行して、逆に走りながら、いっせいに砲門をひらいた。
南風丸の上に黄色いひかりがはためいたかと思うと、一本のマストがふっとび、次にまたもう一本のマストがくだけ、息つくひまもなく、メインマストが根元からへし折られて、凄じいひびきをあげて海中におちていった。
海原の大気をひき裂くような大音響とともに、南風丸がよろめき、みるみる速度がおちてきた。マストを三本撃ちたおしたのは、渦潮丸の砲手の狙いがあやまったのではない。まるで拳銃の名手が的とあそんでいるように、こちらを|愚《ぐ》|弄《ろう》しているのだ。それがはっきりわかっただけに、機関部を粉砕されたわけでもないのに、さすがの薩摩|隼《はや》|人《と》たちが完全に胆をおしひしがれてしまったのであった。
それとみるや、いちど逆にゆきすぎた渦潮丸は、反転して悠々とちかづいてきた。――たがいに砲火をかわしつつ、遁走しようとする薩艦翔鳳丸と、これを追う幕艦回天丸の船影は、すでに水平線に消えようとしている。
――南風丸は、とりのこされた。
甲板につみあげられた|砂《さ》|嚢《のう》にすがりつくようにして坐っていたお美也は、海を覆う硝煙がうすれてくるにつれて、渦潮丸の上で、双眼鏡を眼にあてている人物の姿をみとめて、息をのむと同時に、全身から血の気がひいて、舷側の鎖をにぎったまま気をうしなった。
渦潮丸の甲板で、血ばしった眼を双眼鏡にあてていた烏帽子右近も、はっとしている。もしや――もしや――もしやすると、あの船にお美也がのっているのではあるまいか――とは、万にひとつの|僥倖《ぎょうこう》をねがう右近の祈りであったが、それが的中したと知ったとき、彼もまた両膝をおりかけたほどの感動におそわれていた。これをおさえて、甲板に仁王立ちになり、ふりむいて乗組員に的確な命令をつづけたのは、さすがである。彼の号令のたびに、部下は機械のごとく行動した。
渦潮丸は、おたがいの表情まで読みとれるくらいに接近した。
南風丸の|半《はん》|舷《げん》に気死したようにあつまっていた薩摩侍のうち、このときようやくわれにかえって、数人、鉄砲を肩にあてたものがある。間髪をいれず、渦潮丸の甲板に銃火の花がつらなって、抵抗をこころみようとした薩摩侍はなぎたおされている。
「降服せよ」
と、右近はさけんだ。その声がはっきりきこえる距離にまで、二隻の船はちかづいていた。
「もはや、のがれる道はない。降服せよ」
「降服すッか! 撃て、撃ち沈めるがよか!」
と、薩摩侍たちは、抜刀してさけびかえした。右近の歯が白くひかった。
「そちらの望みのままだが、もうひとつの道をあけてやってもよいぞ」
「もうひとつの道?」
「遁走をゆるす」
「なんじゃと?」
「こちらの条件をきいてくれれば、見のがしてやってもよいというのだ」
波をこえての奇妙な談判に、ようやく南風丸は騒然としはじめた。
「条件とはなんだ」
「その船に、ひとりの女がのっておる。それをこちらにひきわたしてもらいたい」
「女?」
はじめて、みんな、失神しているお美也に気がついた。もとから南風丸にのっていた男たちは、むろんお美也が何者か知らない。いや薩摩屋敷にいた連中でさえ、彼女の素性を知らないものもあった。「それはどげな女じゃ?」「薩摩の女じゃなか」「益満がつれてきた江戸の女じゃ」とそんな問答がいそがしく交わされた。――遠眼にも、右近の顔は緊張のため白くなっていた。
「はやく返答せよ! 降服か、撃沈か――その女をひきわたすか! 三つのうち、うぬらの選ぶは心のままだ!」
「この女をわたせば、ほんとうにこのまま|俺《おい》|等《どん》をゆかせッか」
ついに、こちらはさけび出した。益満があとで怒るかもしれないが、この場合、背に腹はかえられないと判断したのだ。撃沈されたら、何もかも潮の泡だ。この船をのがしてくれる代償となる江戸の女がのっていたということは、何という幸運か、心中むしろ|愁眉《しゅうび》をひらいた者の多かったのは当然であった。
烏帽子右近はいった。
「江戸の武士に二言はない!」
「よし、それならば、この女をひきわたす」
右近が手をふった。白い波をざわめかし渦潮丸は寄ってきた。薩摩侍にとっては、神技としか思われない操艦術であった。
やがて、音もたてずに二隻は接触した。フランス銃をかまえたままの幕兵にかこまれて、烏帽子右近は南風丸にのりうつってきた。この大胆な敵将の行動に、思わず殺気につきうごかされかけた数人の薩摩侍があったが、彼らをそのまま釘づけにしたのは、先刻の約束でも、護衛兵や渦潮丸の舷側のフランス銃の口でもなく、右近の不敵な――放心しているとさえみえる態度であった。
彼は一直線にお美也のところにいって、これを両腕に抱きあげた。失神したお美也のからだは、黒髪をたらして、花の房のように垂れたままである。
右近は一言も口をきかず、女を抱いて渦潮丸にかえっていった。――すぐに二隻の船ははなれはじめた。
渦潮丸の船影が遠ざかってゆくと、薩摩侍たちはふたたび悪夢からさめたようにさけび出した。
「妙な男じゃ」
「しかし、どうやらこちらは助かったらしいの」
「翔鳳丸はどうしたか。追え!」
南風丸がよみがえったように海に白い渦を巻きはじめたとき――海の彼方にぴかりと閃光がきらめいたかと思うと、南風丸の胴に、名状すべからざる轟音があがっていた。
「――だまされたっ」
絶叫は、甲板に血泥となってたたきつけられた無数の薩摩侍のなかからあがったものであった。その|腸《はらわた》もちぎれるような声も、愕然としてたちすくんだ連中も、つぎの瞬間、まるで豆をこぼすように、一方の舷側に|雪《な》|崩《だ》れていった。ただ一発で、南風丸は轟沈の姿勢にうつっている。
遠く、渦潮丸の甲板で、お美也を両腕に抱いたまま、右近は砲撃の命令を下して冷たくにやりとしたが、驚愕の叫喚を海原にのこして、一瞬に沈んでゆく南風丸には、ちらっと一べつをおくったのみで、すぐにお美也の白い顔に眼をおとした。右近のからだは小きざみにわなないていた。
――ついにおれは、この女を手に入れた!
人眼さえなかったら、彼は絶叫して甲板の上を、乱舞してまわりたいくらいであった。じぶんを敵とつけ狙った女、しかも、いのちのかぎり惚れぬいたこの人妻を、彼は、ついにしっかと手中にとらえたのである。ここは|渺茫《びょうぼう》の海の中、それに浮かぶ鋼鉄の船の、烏帽子右近は艦長であった。人眼さえなかったら?――いいや、人眼をおそれることは何もない。右近は、|喪《そう》|神《しん》したままのお美也の顔に顔をかさねた。しずかにその唇に唇をさしあてた。
――悪縁といわばいえ、おれはこの女を悪縁の鎖でつないで、もはや二度とはなさぬ!
翔鳳丸はとりにがしたが、南風丸はみごとに撃沈したという報告を小栗上野介が品川できいたころ、羽田の海ぎわの草むらのなかに、乗鞍丞馬はうつ伏せにたおれていた。口から吐いたおびただしい石油と血が、凄惨ともぶきみとも例えようのない色で、枯草をそめている。枯草は寒風に鳴りそよいでいるが、丞馬のからだはぴくりともうごかなかった。
|死《し》|恋《れん》幻法篇
薩摩屋敷砲撃は、しかし益満休之助がいったように、まさに徳川の|朽《くち》|木《き》がみずからたおれるひびきであった。小栗一派は、それと承知していながら、まんまと薩摩の挑発にのったのである。将軍慶喜にみずから大政を返上させたままでは、徳川の根をなお地中にのこすことになると苦慮していた薩長方にとって、これは根こそぎの一撃を加える天来の機会が到来したものといえた。
明くれば、明治元年。――
その一月早々、|鳥《と》|羽《ば》伏見において、幕軍と薩長軍はついに衝突した。幕軍は大敗し将軍慶喜は大坂から海路江戸へにげもどった。これを追って、やがて東海道に|錦《きん》|旗《き》とともに、トコトンヤレナの歌声が、怒濤のごとく進軍を開始した。さなきだに急速調の徳川の|頽潮《たいちょう》が、一挙に滝つぼにおちたような時勢の変転であった。
小栗上野介が御役御免を申しつけられたのは、一月中旬であった。このときにいたっても、剛腹な彼は、幕臣|榎《えの》|本《もと》|和《いず》|泉《みの》|守《かみ》、大鳥|圭《けい》|介《すけ》らとはかって、官軍を箱根に迎撃し、また艦隊をひきいて大坂への逆襲をはかろうとしたが、時すでに利あらず、陸軍奉行を|罷《ひ》|免《めん》され、江戸退去のやむなきにいたった。風なおさむい二月の末、彼は痛憤と|呪《じゅ》|咀《そ》にみちた顔で、知行所の|上州権田村《じょうしゅうごんだむら》へ、馬にゆられて落ちていった。
小栗上野介にしてこの悲運におちいったのだから、余の幕臣旗本の混乱は名状しがたいものがあった。彼らは東奔し、西走し、それも最後の抗戦を志すものあり、|臆病風《おくびょうかぜ》にふかれて逐電するものあり、だれがどこにいるやら、昨日まで行を共にした者も、きょうはおたがいの所在さえ知らないありさまであった。
このなかにあって、ただひとり、時代の脚光をあびて立ったのは勝安房守だ。それは悲劇的な脚光であったが、江戸の業火のうちに徳川家の息の根をとめようと意気ごむ官軍のまえに手をひろげて、その二つながら無事にまもりぬこうと死力をしぼる勝の姿は、男の生涯をこの春の花のちるまでに燃焼させて悔いない壮美なひかりに彩られていた。
事態収拾のために、日夜馬上で往来する勝は、いくどか暗殺の危険に見舞われた。彼の首を狙うものは、幕臣の中にもあったし、官軍の中にもあった。その勝のいのちを守護する人間の正体を、知る人が知ったら、だれしもあっとおどろくだろう。ひとりは|曾《かつ》ての御用盗の首領、ひとりは牢屋敷の脱獄囚、いつも勝の乗馬の両側にぴったりついて走っているふたりの若者は、|益《ます》|満《みつ》休之助と|乗《のり》|鞍《くら》|丞馬《じょうま》にまぎれもなかった。
翔鳳丸でからくものがれた益満は、回天の大砲をくらった船が伊豆の下田ににげこんだときに、ふたたび上陸して、大胆にもふらりとまた江戸に舞いもどり、勝安房のもとに身を託したのである。それから十日ばかり立って、|蒼《あお》|白《じろ》くやつれた丞馬がやはり勝の家にかえってきた。
「あれから、どうしたのか」
と、益満と勝はきいた。益満にとってのあれからは、薩摩屋敷焼討ち以後のことであるが、勝にとっての「あれから」は、実にこの二年ちかいあいだのことだ。丞馬は、暗い表情で、ほとんどその質問にこたえなかった。
「丞馬、すまぬ」
と益満は、両手を地についた。
「おれは、とうとうお嬢さまを殺したらしい」
南風丸が幕艦渦潮丸に撃沈されたことはすでにわかっていたのである。丞馬は何もいわなかった。ただ、両眼を鬼火のようにひからせただけである。
「そのまえに、おれはおまえに罪を犯している。お嬢さまが薩摩屋敷にいることを、おまえに知らせるようにたのまれながら、おれは知らん顔をしていた。それは、お嬢さまをおまえの手で|修《しゅ》|羅《ら》の世界へひき出されることをおそれたからだ。それも、あの日まで薩摩屋敷にとじこめておいたことも、ただただお嬢さまのからだを案ずればこそだった。そのため、ついにお嬢さまを殺し、おまえにえらい苦労をかけた結果になった。どうか、ゆるしてくれい」
「罪といえば、おれも丞馬に罪を犯したようだな」
たまたま、傍でこれをきいていた勝も苦笑して言った。
「おれは、お美也さんにも丞馬にも、敵討ちは五年待て、三年待てといった。どうやらその時はきたようだが、待たせた|甲《か》|斐《い》はなかったようだ。あれほどの男たち、何とかお国の役にたててやりたいと考えていたのだが、事志とちがったな。丞馬、もういいよ、|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》を討ちたいなら、もう討ってもいいぜ」
これに対しても、丞馬は陰火のように蒼くひかる眼で、じろっと勝の顔を見ただけであった。もうおそい、もうおそい! その瞳のおくで、悲痛な魂が、そう絶叫しているようであった。
しかし、勝にいわれるまでもなく、丞馬が生きているのは、ただ烏帽子右近を討つためだけであることは、益満にもわかっていた。丞馬が勝についてあちこちと往来するとき、その眼が幕臣のなかに|狂豹《きょうひょう》のごとく何者かをさがしているのが、ありありと見てとれたからだ。それなのに――もし烏帽子右近が生きているなら、どうしてもそこにいるとしか思われない場所へはすべていったのに、右近の姿は|忽《こつ》|然《ねん》と消え失せて、どこにも見あたらないのであった。
三月中旬、勝と西郷のあいだに、江戸城明渡しの会談が行われ、無血のうちに官軍は潮のごとく江戸に進入|氾《はん》|濫《らん》しはじめた。すでにこのころ益満はしゃぐま[#「しゃぐま」に傍点]をかぶった官軍の隊長として、一隊をひきいて、大っぴらに烏帽子右近の行方を捜索していた。右近の方が、おたずね者と変ったのである。
烏帽子右近の行方がわかったのは、四月に入ってまもなくである。それは勝の屋敷にきたひとりの百姓が、丞馬にわたした一通の書状から判明したのである。
烏帽子右近は、お美也という女といっしょに、|小《お》|栗《ぐり》|上野介《こうずけのすけ》の|知行所《ちぎょうしょ》上州権田村にいる。――そう書いてよこしたものは、|狭《さ》|霧《ぎり》であった。
知らせてくれた人間よりも、右近がそこにいるということよりも、丞馬をのけぞらしたのは、お美也さまが生きているということであった。
益満はおろか、勝安房にさえ一言の伝言をのこす余裕もなく、乗鞍丞馬は走り出していた。
四月六日の暁であった。
上越の山脈に血のような朝やけ雲がもえている下に――権田村のちかくをながれる|烏川《からすがわ》の見沼河原に、四人の男があさましいうしろ手にくくられたまま、ひきずり出された。ただひとり、白衣の男は小栗上野介で、あとの三人はその家来である。これをとりまく黒い群は、ことごとく官兵のだんぶくろ[#「だんぶくろ」に傍点]姿であった。
「逆賊上野っ」
と、官軍の隊長がののしった。
「愚かや、時勢の移りかわりをしらず、ながらく幕閣にあって勤皇派を弾圧し、幕府が倒壊したいまにいたるも、かような山中にあってなお|錦《きん》|旗《き》に逆謀の画策をほしいままにした|謀《む》|叛《ほん》|人《にん》、いまさら泣いてもおよばぬぞ、神妙に天罰の刃をうけよ」
上野介の頬には無念の涙がつたわっていたが、眼は鋼鉄のように冷たくひかって、らん[#「らん」に傍点]と隊長をにらみあげた。
「わしの涙は、わしのためではない。徳川家のための涙だ。無為無能のうろたえ者、臆病千万なふたまた侍どものために滅んだ徳川家の運命をあわれんで泣くのだ。みておれ、わしの恨みの|魂《こん》|魄《ぱく》は、敵味方をとわず未来|永《えい》|劫《ごう》、徳川家を滅ぼした奴らに|祟《たた》ってくれるぞ!」
「斬れ!」
たばしりおちる一閃に、すでに首のない小栗上野介の両肩のあいだから、朝やけに紫いろにひかる血の虹が立った。
小栗上野介、時に四十二歳。|福《ふく》|地《ち》源一郎は彼を評していう。「小栗は曾て不可能の詞を吐きたることなく、病の癒ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず、国ほろび、身たおるるまでは公事に|鞅掌《おうしょう》するこそ真の武士なれといいて、屈せず、たゆまず、身を|艱《かん》|難《なん》のあいだにおき、幕府の維持を以て、すすみておのれが負担となせり。すくなくとも幕末数年間の命脈をつなぎ得たるは、小栗があずかりて力あるところなり」また、|川《かわ》|路《じ》|聖《せい》|謨《ぼ》は彼を評していう。「小栗の事、いろいろ評判する由なり。なげかわしきことなり。君のため、|怨《うら》みをその身に集むとは、小栗それ是にちかきか。天下の士というべし」
「――ああ――しまった」
その血けむりが河原にうすれかかったとき、見物の群衆のうしろで、こう大きくさけんだものがある。
朝やけの妖光が、その無念そうな顔を照らし出した。江戸から一気にかけつづけ、いまそこで、小栗断罪の立札をみてきたばかりの乗鞍丞馬であった。
しまった、と丞馬がさけんだのは、いうまでもなく、彼自身の手で上野介の首をはねなかったことの、無念の言葉であった。上野介こそ、|宗《むな》|像《かた》|主水正《もんどのしょう》暗殺の黒幕であることは、彼も知っていたからだ。その上野介が、この上州権田村に落ちていったことはうわさにききながら、お美也ののった船を沈めたという怨敵烏帽子右近の捜索に江戸じゅうを狂奔して、むなしく上野介を余人の手にまかしたのは、とりかえしのつかない痛恨事に相違なかった。
しかし――この権田村に、右近とお美也もきているという。――
斬首の刑がおわって、まず官軍がひきあげ、群衆が鳥肌のたった顔でぞろぞろと散ってゆく見沼河原を、丞馬は血ばしった眼で見まわした。
「丞馬」
ふいに呼ばれて、ふりかえる。うしろに蒼い顔の狭霧が立っていた。丞馬はかみつくように、いきなり、「烏帽子右近とお美也さまはどこでがす?」
といった。狭霧はだまって丞馬の顔を見つめている。きかれた言葉も耳に入らず、ただ|恍《こう》|惚《こつ》として、いまにも吸いついてきそうなまなざしであった。丞馬は足ぶみした。
「いま斬られた男どものなかに、右近の姿は見えなんだ。右近はどこにいったのでがす?」
「丞馬、やっぱり、おまえはやってきたわね。……」
「狭霧さま、ふたりは?」
まるで、だだッ子みたいな丞馬のあせりだ。狭霧はようやくわれにかえった。
「知らないわ」
「知らない?……しかし、おめえさまのお手紙には――」
「おとといまでは、たしかにこの権田村にいたの。でも、おとといの晩に逃げていって、いまどこにいるか、わたしは知りません。……丞馬、それより、わたしはすこしお話があるの。お寺へゆきましょう」
「おめえさまの話なんぞ、ききたくはねえでがす。いや、きいておるひまがねえでがす」
「わたしの話をきかなけりゃ、ふたりと逢えませんよ。だいいち、あのふたりがどうしてここに来ていたか、わたしがどうしてそのことをおまえに知らせたのか、おまえは何もわたしからきかないではありませんか」
狭霧は不平そうな表情であった。――じぶんと逢って、うれしそうな顔もしなければ、手紙をもらった礼もいおうとはしない丞馬に、胸に怒りの黒けぶりがようやくたちのぼってきたのだ。江戸番町の玉虫兵庫の屋敷に丞馬がのりこんできて、牢屋敷にひかれていったあと、丞馬と兵庫たち、またお美也という女との関係を、兵庫からきいて、彼が烏帽子右近やお美也をさがし求めている理由はよくわかったけれど、それにしても、じぶんにまったく関心がないらしいのは、狭霧にとってがまんのできないことであった。
「心配しなくっても、わたしといっしょに寺にいれば、右近たちはきっとまたもどってくるわ」
丞馬は、ついに狭霧の話をきく気になった。
「寺とは?」
「この村にある、東善寺というお寺。いままで上野介さまが住んでいらしたお寺よ」
何より丞馬がききたがっていたことを、さきにいえばこうである。
烏帽子右近とお美也は、この三月はじめ、小栗上野介のあとを追うようにしてこの権田村へやってきた。右近ばかりでない。それと前後して、江戸から連日旗本らしい武士たちがやってきては、上野介と密議し、そのままここにとどまる者もあり、また去る者もあった。人間ばかりではなく、長持をつんだ大八車も何台かはこばれて、その長持のなかには鉄砲や弾薬がいっぱい入っていたのを狭霧はみたこともある。小栗がなお官軍に抵抗のこころを失っていないことはあきらかであった。ところで、この権田村は彼の知行所ではあるが、住民ははやくも時勢の移りかわりを敏感に肌に感じていて、決して江戸からきた主人を歓迎しはしなかった。それどころか、三月の半ばには|叛《はん》|徒《と》と化した農民が襲撃してくるという|噂《うわさ》があって、事実、一夜、おしかけてきたおびただしい暴民を、上野介は百余名の家来を指揮し、みずからも銃をとって追いはらったこともある。官軍はすでに|板《いた》|鼻《はな》の宿までせまっていた。そして、ついに一昨夜、小栗と右近のあいだに何やら激論がおこって、右近はそのままお美也の手をとって、どこかへ姿をけしてしまったという。官軍がついに権田村へ入ってきて、上野介を逮捕したのは、きのうのことであった。――ただ、右近とお美也は、決して遠くへにげたはずはない。途中は官軍が充満しているし、お美也は病気でやつれはてていたし、そのうえ――。
「わたしがねえ、お美也さまに、江戸の丞馬のところへ手紙をやったからと、そっといったら、お美也さまはわたしの顔をじっとみて、四、五日のうちに、きっとまたここにもどってまいりますから、といったもの――」
と、狭霧はいうのであった。
きいているだけで、丞馬の息は苦しくなっていた。お美也が右近といっしょにここに来て、いっしょに暮し、いっしょにどこかに逃げた。そのあいだ、ふたりの間はどうであったか。――のどもとまでつきあげてくる問いはそれであった。しかし、丞馬はきかなかった。きくのが恐ろしかったし、きくだけでもお美也さまをけがす気がした。あの方は、右近を討つ機会を狙っていなさるのだ、それにきまってはいるが、なぜいままで討てなかったものか?――けれど丞馬は、お美也さまのことを、この女の口からそれ以上きく気にはいよいよなれなかった。
なぜなら、右のようなことをやっと狭霧が話したのは、東善寺へきて三日もたってからのことだったからだ。それまで狭霧は、話をそらし、丞馬をじらせ、彼のもだえているのをたのしむ風にもみえたし、何もかもしゃべって、丞馬がすぐに立ち去るのを何よりおそれている風にもみえた。
東善寺という山寺は、荒れはてていた。小栗が捕えられたあと、官軍や百姓に|掠奪《りゃくだつ》されたままである。すぐ裏の観音山も、小栗が砲台をつくりかかっていたのが破壊されて、山も寺も、鬼気せまる荒廃の景観のなかにあった。官軍はすでにひきあげ、それに目ぼしいものはすべて奪いつくしたうえに、ここに住んでいた旧領主があのような無惨な最期をとげたとあっては、百姓たちもしばらくちかづく気にもなれないらしく、東善寺に生きているものとては、狭霧と丞馬だけであった。
狭霧はかきくどいた。
じぶんがあれから、どうして暮していたか。土屋蓮之丞に無理無体に女房とされ、玉虫兵庫に|手《て》|籠《ごめ》同様に妾にされたのも、おまえといつかは逢えると信じて、その日を待つための女のかなしい身すぎ世すぎだった、とか――おまえが牢に入ってからその命をとらないように、どんなに兵庫にたのんだか、また土屋蓮之丞が牢に入るとき、お美也が薩摩屋敷にいることをおまえにつたえるようにいいふくめたのもじぶんだ。それをおしえてやれば、おまえのことだから、きっと牢を出てくるにちがいないと信じていた。あとできくと蓮之丞を殺してしまったということで、そこまでは想像もおよばなかったけれど、それはうらみと思うどころか、あんな男がこの世からいなくなって、わたしもせいせいした、とか――江戸からここへきた旗本のひとりが、五、六年前講武所の御前試合で不可思議な忍法をみせた男がいま勝安房の若党のひとりとなっている、とふとしゃべったのをきいて、てっきりおまえのことにちがいない、と気も狂うほどうれしかった、とか――そんな話のあいだにみせる狭霧の痴態は、彼女のからだを知っている丞馬にも、はじめてみる凄じいばかりの|淫《いん》|蕩《とう》さにうねっていた。
――|榛《はる》|名《な》、|妙義《みょうぎ》、|碓氷《うすい》|岳《だけ》などにとりかこまれて、山寺の春は深かった。草も土も空の雲さえ、みどりに酔って|吐《と》|息《いき》をついているようであった。そして狭霧もあつい息を吐く。
「丞馬、飛騨を思い出さないかえ?」
話のあいまに、リフレインのようにこの言葉をくりかえす。
「ね、飛騨へかえろう」
丞馬は柱にもたれかかったままだ。眼は白い雲を追っている。それが決して飛騨などを想っているのではないことは、狭霧にもわかった。彼は待っているのだ。狭霧の言葉を信じて、右近とお美也があらわれるのを待っているのだ。
丞馬が、不自然なばかりにお美也のことをきかないと同様に、狭霧もお美也のことはなるべく口にしたくない風であった。……しかし、とうとうたまりかねて、そのことをいい出したのは彼女の方であった。風のはげしい四日めの夕ぐれである。
「丞馬、あの女は、いったいおまえの何なの?」
「…………」
「主人の奥さまだということは知っているけれど、そればかりじゃないね。おまえはあのひとが好きなのね。いいえ、そんなこともわかっている。おまえが思いつめたら恐ろしいほどいちずな男だってことも、わたしが知らなくてどうしよう」
「…………」
「けれど、あのひとは病気だよ。透きとおるほど薄い皮膚をして、ここへきてからもなんども血を吐いたようだ。あんな女に想いをかけて、どうしようというつもりなの。おまえに可愛がられたら、あのひとはいっぺんに死んじまうかもしれない。それより、丞馬、ね、ね、ね。……」
うしろから、くびになげかけられる白い腕を、丞馬は手ひどくふりはらった。
「あのお方のことを、口にしねえで下せえ」
狭霧はあおむけにたおれた。しどけない姿で丞馬の|黙《もく》|然《ねん》たるうしろ姿をにらんでいたが、みるみるその眼に炎がもえてひかってきた。
「丞馬、あの女のことを、ほんとにきかなくてもいいの?」
唇が笑おうとして、|痙《けい》|攣《れん》した。
「いえばおまえが可哀そうだから、いままでだまっていた。あの女は、正真、烏帽子右近の女房になってるよ! うそだというなら、ここの寺男を探してくるから、きいてみるがいいわ」
丞馬はふりむいた。
「うそだ」
ひくい声だが、恐ろしいひびきがあった。狭霧はのどをひきつらせながら、きちがいのような眼つきになった。
「あの女にとって、烏帽子右近は夫の|敵《かたき》だってね。なら、とんだ貞女だ。夫の敵といっしょにこの上州くんだりまでやってきて、この山の中で一ト月ちかくあついところをみんなに見せつけて、また手に手をとって江戸へ|道《みち》|行《ゆき》してゆくなんて――そんな女に|惚《ほ》れるなんて、丞馬のばか、ばか、ばか!」
「うそだ」
と、またさけんだが、丞馬は愕然と立ちあがっていた。狭霧は|嗄《か》れた声で笑った。
「そうだよ、ふたりは江戸へいったよ。――ちょうど、わたしの手紙をあずかった百姓が江戸へいったのとおなじころさ。ひょっとしたら、江戸でおまえを見つけ出すかもしれないとかんがえて、逆におまえをここにひき出したのさ」
ものもいわず、身をひるがえそうとした丞馬の足に狭霧はしがみついている。
「丞馬、江戸へいっても、もうおそいわ。あのふたりは江戸にいやしない」
「うそだ」
「きょうは十日だろ? 烏帽子右近はあの女といっしょに|蝦《え》|夷《ぞ》へいったわ。軍艦で四月十日に品川を出ると小栗さまに話していたわ。それまでわたしはおまえをここにひきとめていたのさ。それも、みんな――」
どうと狭霧は蹴たおされている。狂気のごとくはね起きて、
「丞馬、あの女はもういない。あきらめて――わたしといっしょに、飛騨へかえって――」
丞馬の姿は、雨のしぶきはじめた山門を、阿修羅のごとくはしりぬけていた。
「うそだ!」
四度目の絶叫が尾をひいてかえってきたが、狭霧の返答はなかった。一方の腕で柱にすがり、一方の手で白いのどをかきむしっている。そのくびには黒髪がまきついて、くびれこんでいた。とけた|髷《まげ》がうしろにばさと垂れさがり、のけぞったあごに、真紅の糸がつたいおちた。
十日ごろから江戸の空模様が険悪になって、その朝から嵐にちかいほどの風雨となった品川の海に、十二日の未明、ひそかな異変が起っていた。
ただ怒濤のひびきのみたかい真っ暗な海へ、|伊《い》|皿《さら》|子《ご》の砂浜から、怪異なものが流れ出したのである。まだ日の出に遠い闇夜の時刻のことで、むろん人目にみえるわけはないが、もし官軍がそれを知ったら、のけぞりかえって仰天するだろう。それは|筏《いかだ》にのせられた最新鋭の大砲であった。五つの筏には無数の|樽《たる》がむすびつけられて強力な浮力をつくり、それに五門の大砲がのせられて、沖へはこばれてゆくのである。沖には、八隻の軍艦が浮かんでいるはずであった。江戸は開城したものの、なお海にあって|帰《き》|趨《すう》をあきらかにしない幕府の艦隊である。
筏と大砲の影が、波のかなたにすぐにみえなくなると、それを浜辺で祈るように見おくっていた数十の|合《かっ》|羽《ぱ》に|饅頭笠《まんじゅうがさ》の影が、
「成功だ」
「うまくいった」
と、名状しがたい溜息をいっせいにもらした。
「それでは、いよいよ、おれたちも乗りこむとしようか」
「舟はあつめてあるな」
と、闇のなかで、手に汗にぎる冒険の最大のやまをのりこえた|安《あん》|堵《ど》のざわめきがながれた。そのとき、
「よいか、最後の一|艘《そう》をしばらく待たせておいてくれよ」
と、ひとつの影がいいすてて、笠をななめに雨をうたせて、浜に背をむけ、点々とならぶ小さな漁師の家の方へはせもどっていった。
その一軒の裏木戸をあけて入って、
「おい」
と、呼ぶ。
「用意はできておるな、いよいよ、出るぞ」
呼ばれたものは、闇の中にうごく気配もなかった。影は不安げに、
「お美也」
「はい。……ただいま」
と、ようやく、やさしい返事がして、しばらくして家の中から木戸の方へ出てきた影があった。合羽はつけているが、笠は手にとったままで、よろめくような足どりであった。
「舟が待っておる。はやくいたせ」
と、烏帽子右近は笠をつけようとする女をせきたてたが、おのれの笠をとって、女の頭上にさしかけた。ふたりはもつれるようにして、砂浜へおりてゆく。
「海は荒れている。船旅はつらかろうが、がまんせい。はじめの予定どおり十日に脱出しておればこの嵐にも会わなんだろうが、どうあってもナポレオン・カノンを|五稜郭《ごりょうかく》へもってゆきとうてな。しかし、この嵐のおかげで錦切れの眼をのがれることができたともいえる。蝦夷へ何よりの|土産《みやげ》ができたよ」
砂をあるきながら、右近が早口でいう。女は夢遊病者のようにあるく。
「旅は遠いが、いったさきには新天地がある。そなたの病気もきっとなおるだろう。父上もどれほどよろこばれるか――ただわしは、|壱《い》|岐《きの》|守《かみ》どのに逢って何と申そうか、それが苦のたねじゃ。そなたと|夫婦《めおと》になって、軍艦からおりてゆくのをみて、壱岐守どのがどのような顔をなさることか、はっはっ」
不敵に、右近は笑った。お美也はかすかに右近を見あげる。その眼にうらみがある。にくしみもある。足は砂に迷い、なおうしろにとってかえしそうな反抗のふるえをみせる。――けれど、その眼のおくから無意識にからみついてゆくのは、肉体でむすびつけられた女の|哀《あい》|艶《えん》な情感の糸であった。
――お美也はついに烏帽子右近の腕の中に落ちた!
何たることか。このあさましいじぶんの上に、天もはためき、男にひかれてゆく足の下に、大地も裂けないということがふしぎですらある。夫を殺した男とむすばれて、遠い北の|涯《はて》ににげてゆくわたしは、いったい何という女か。――おゆるし下さい! わたしは……ただ死ににゆくのです。そのまえに、ただひとめ、父に逢いたいだけなのです! 彼女は胸の中の主水正のまぼろしのまえにひれ伏して、すすり泣く。
「それ、しっかりとつかまれよ」
烏帽子右近はお美也を抱いて、みなの待っている舟にのりこんだ。女の重味が、いとしかった。たたかい敗れて江戸をおちてゆく彼は、敗北者の心をもっていない。追いつめて、追いつめて、ついに女をとらえた恋の勝利者の歓喜にひたっている。
小舟はゆれ、浜をはなれ、しぶきをあげて沖へ|漕《こ》ぎ出された。
お美也は、|仄《ほの》|白《じろ》く、幻影のごとく砂浜が遠くなってゆくのを見ていた。黒い海が、そのあいだにひろがった。もはやわたしは江戸にかえることはない。いや、日本にかえることはない。――丞馬、丞馬、丞馬はどこにいる? その声が、胸のおくでかすかにつぶやいた。いまとなっては、夫のまぼろしとならんで、だれより恐ろしい丞馬のいる大地から、わたしは、永遠にのがれてゆく。江戸よさらば、丞馬よさらば。――これはお美也にとって、死出の旅そのものであった。
暗い海原に、雨はふりしきっていた。
そもそも、品川沖に碇泊していた幕府艦隊は、きのう四月十一日、江戸城とともに官軍にひきわたすべき約束のものであった。勝安房と東海道|先《せん》|鋒《ぽう》総督との交渉によるものである。そして江戸城のみは、約束どおり、その日、官軍に城門をひらいた。しかし、艦隊の方はそうはゆかなかった。
海軍副総裁|榎《えの》|本《もと》|武《たけ》|揚《あき》にひきいられる「開陽」「富士山」「|蟠竜《ばんりゅう》」「|朝陽《ちょうよう》」「回天」「|千《ち》|代《よ》|田《だ》|形《がた》」「観光」「渦潮」の八隻は、当時の海軍としては、日本第一の精鋭であった。そのことは、敵も味方もよく知っていた。十一日の朝の榎本の方から、この両三日、風浪はげしくして引渡しに不便であるから、天候が回復するまで延期をねがうという申込みがあったのを不満に思っても、なにしろ官軍は陸におり、榎本らはそのはげしい風浪のかなたに浮かんでいるのだから、どうするすべもなかった。
幕府艦隊としては、数日まえから脱走を計画していた。絶望的な江戸をすてて、すべての希望を新天地たる北海道へつなごうというのが積極的な理由であるが、この精鋭艦隊をむざむざ|不《ふ》|倶《ぐ》|戴《たい》|天《てん》の薩長に献じてなるものか、という悲憤の感情が、消極的ながら、のっぴきならぬこの決断をあえてさせた理由であった。官軍も勝も、榎本ら海軍将兵にこの心情のあることはうすうす察してはいたが、もしこの暴断を決行すれば、あと将軍がいかなる運命におちいるか榎本らも知らぬではあるまいと油断していたのである。しかし、幕府艦隊は十二日未明、ついに品川沖から脱走を開始した。主将榎本は「開陽」にあった。
――お美也が烏帽子右近にかかえられるようにして、|鉄《てつ》|梯《ばし》|子《ご》をのぼって渦潮丸にのりこんだとき、「渦潮」の甲板は、さきにはこばれたナポレオン・カノン砲を固定する作業にまだ|大童《おおわらわ》であった。
最新鋭のこの大砲を、むりをして五稜郭へ移送することを計画したのは右近であり、|且《かつ》、渦潮丸もまた最新鋭の鋼鉄艦なので、五門すべてがこれに載せられることになったのである。それを三重の鎖で緊縛し、砲尾の|螺《ら》|旋《せん》|軸《じく》を固定するのだが、嵐のため艦の動揺がひどいので、乗組員たちは、合羽はもとより肌ぬぎになって、大声をあげ、風雨のうちにけんめいにはたらいていた。
烏帽子右近は、甲板にのぼるや否や、お美也に船将室にいっているように命じて、すぐにそこにはせよって指揮した。いよいよはげしくなってくる嵐のなかに、五つの鉄の怪物とたたかう男たちの姿は、しぶきの銀粉にふちどられて、壮絶に美しかった。――夜が明けかかってきた。
「砲車の路溝を完全に遮断したな。――それで、よし」
と、手をはたきながらもどってきて、ふと眼をあげて、お美也に気がついた。
「なんだ、まだそこにおるのか」
むしろ怒った声で、
「さきに船将室にいっておれと申したはずだ。病気のからだで、この風雨にうたれてどうするのだ」
お美也は笠をつけ、合羽をきたままの姿で甲板の一隅にじっと立っていた。
彼女がこの「渦潮」にのったのははじめてではない。船将室にゆくのもはじめてではない。そこはお美也にとって、いまわしい甘美な罪の記憶の場所であった。去年の暮羽田の海戦で失神した彼女が、よみがえったのはその船将室である。そして同様にじぶんが右近に犯されつつあることに気がついたのもその部屋の寝台の上である。……お美也が、さきにここにゆけといわれても、足が甲板に釘づけになっていたのはその記憶のせいであった。
「……いいえ」
と、彼女はかすかに笠をふってつぶやいた。
「ここで、江戸に別れをつげたいのです」
「――江戸に」
右近もそばに寄って、黙然としてたたずんだ。
なお降りしぶく雨のなかに――夜明けの凄愴なばかりのひかりのなかに、江戸の灯は白く点々とうすれかかっていた。船と大地をへだてる海は灰いろに泡だち、|奔《ほん》|騰《とう》し、みるからに荒涼|惨《さん》|澹《たん》たる風景であった。そして、右近にとっては、江戸はすでに滅んだ町であった。
右近はもういちどお美也をうながそうとして、|塑《そ》|像《ぞう》のごとく立ってじっと江戸をながめている彼女の姿に、声をのんで、ためらった。
なぜ、わたしはこの船にまた乗ってしまったのだろう、とお美也はかんがえている。いいえ、なぜわたしはあのときに死ななかったのであろう?
――あのとき、寝台の上に凝然と坐りつづけているお美也のまえに、床に右近はひざまずいた。謝まった。涙さえおとした。そして、すべては彼女を恋するあまりの行為だとくりかえした。――それはいくどもきいた右近の呪文だ。そして、お美也はいつのまにか、それを魅されたようにきいていたのだ。すでに彼女はその前夜、じぶんを救うために、薩摩屋敷に単身のりこんできた決死の右近の行動におしひしがれている。彼がどんなに|奸《かん》|佞《ねい》な男であろうと、彼がじぶんを想う心の真実は彼女とてもみとめないわけにはゆかなかった。けれど、世の中には決してみとめてはならぬ悪魔の真実というものがある。お美也もそれは知っている。知っていながら、その罪ふかい真実の|陥《かん》|穽《せい》におちたのは、彼女があまりに疲れはてていたからであった。四年にわたる漂泊はお美也のからだを|蝕《むし》ばみ、そのあいだの時勢のあら波は、敵討ちというものの意味を空虚なものとするほどお美也の魂を蝕ばんでいた。おそらく、乗鞍丞馬がもういちど力強い腕をさしのばしたら、彼女はその腕のなかにくずれてしまっていたかもしれない。いいや、お美也の女の魂は、すでに切なく丞馬を呼んでいたのだ。けれど――丞馬はあまりにも愚直すぎた。彼は清浄な女主人のまえに、おのれの獣性を恥じすぎた。そしてお美也は、あろうことか、夫の敵、烏帽子右近の手中に|堕《お》ちた!
あえて堕ちたというのは、失神中に犯されたことのみをいうのではない。彼女が真に罪ぶかい女になったのは、それ以後のことだ。――じぶんは、死にもしないで、あれから右近の思うままに、右近のゆくところにひきずりまわされた。そして――。
お美也はわなないた。
右近は、お美也を完全に掌中のものにしたという自信を抱いたようであった。彼の愛撫は、彼女の病んだからだへの配慮は露ほどもなく、残忍なばかりに執拗であった。彼は繊細な女の琴線を、きれるほどにかき鳴らしてその絶えいるばかりの旋律をたのしみぬいているかにみえた。――恐ろしいのは、その右近の吐く粘っこい糸にからまれ、じぶんがこうして北の涯まで行をともにしようとしていることだ。いいえ、いいえ! じぶんはただひと目、父上にあいたいだけだ! そのさけびが、しかし虚ろなひびきをもっていることを、お美也も知っている。お美也は、じぶんの罪ぶかい心とからだに|苦《く》|悶《もん》していた。しぶきよ、じぶんを粉ごなにうちくだけ。風よ、わたしを暗い虚空へさらってゆけ――。
「江戸か?」
と、右近はもういちど嘲笑的にくりかえした。
「わたしたちの江戸は滅んだ。同時に、いままでの右近とお美也も死んだのだ。そして、生まれかわって新しい天地へゆくのだ」
右近はお美也の手をとらえた。甲板にはもう人影はなかった。
「七つ半には全艦出航する。そろそろ、その時刻だ。ゆこう、船将室へ」
「いいえ、わたしはここにいます」
と、お美也は、いやいやをした。
「何をいう、いつまでも雨風にうたれていると、また血を吐くぞ」
「血を吐きつくして、わたしは死にたい。――」
すねているのではなく、それはおのれの罪を|鞭《むち》うつ|悶《もだ》えであったが、右近には無意味にだだ[#「だだ」に傍点]をこねている姿とみえた。このごろ気がついたことだが、妙に|稚《おさな》いところもあるお美也なのである。
「何を、いまさら――」
と、笑いながらお美也をひきずるようにして、船将室の方へあゆみかけた。
そのうしろに、何者かが立ちあがる気配がした。背に眼はなく、なんの音もしなかったのに、たしかに何者かが立ちあがったのを感覚して、その刹那、右近の背すじを氷のような戦慄がつらぬいた。
覆いをかけたナポレオン・カノン砲のかげに、|饅頭笠《まんじゅうがさ》をかぶった影が、黙然と立っていた。
お美也もふりむいて、全身氷結したようになっていた。
雨は蒼味をおび、|白《はく》|沫《まつ》をちらして甲板を吹いている。その音と大空をうなる風と、海にさけぶ波と、そして、重々しく鉄と鉄とが相ふれる砲車のひびきと――天地は叫喚に満ちているはずなのに、ふたりの耳はしばし|寂《せき》|寞《ばく》の中にあった。
影は漂うようにすすみ出た。ゆっくりと笠のひもに手をかける――とみえて、その手は突如電光のごとくびんにあがっていた。轟然たる音がたばしって、影の腰につけていた|瓢箪《ひょうたん》が水とともにとびちっている。
烏帽子右近がふところからとり出した拳銃のひびきであったが、しかし二発目は出なかった。彼はおのれの指とひきがね[#「ひきがね」に傍点]に忽然とからみついている数条の黒髪をみた。髪は鋼線のごとく指を|緊《きん》|縛《ばく》してきた。
影は、笠をとった。雨に蒼くぬれひかる乗鞍丞馬の顔があらわれた。唇はきゅっと笑っていたが、眼はもえていた。――彼はいつこの渦潮丸にのりこんでいたのか、おそらく、さっき伊皿子の浜から漕ぎ出した数挺の小舟のなかに、何くわぬ顔を饅頭笠にかくして混っていたものに相違ない。
「五人目だ」
と、彼の唇から、重い、凄愴なうめきがきしり出た。彼はあゆみよりながら、お美也をみて、白い歯をみせた。
「最後のひとりでがすぞ。お美也さま」
丞馬はちかづいてくる。
「そやつの手はうごけねえ。お討ちなせえまし」
右近の口から、彼らしくもない悲鳴があがった。苦痛のさけびでもあったし、部下を呼ぶ絶叫でもあった。ひきがねにかけた右手の人差指の尖端が、紫色にふくれあがってきた。
「だれも、呼ばないで下さい」
はじめて、お美也はあえいだ。ひくく、かすれた声で、
「わたしが斬られればいいのです」
彼女は、丞馬と右近のあいだによろめき出した。
「丞馬。……わたしを斬って下さい」
丞馬は仁王立ちになって、お美也を見すえた。雨は女の姿をけぶらせ、風は女の声をちぎれさせる。その姿を見まちがえ、その声をききあやまったように、彼はあごをつき出した。
「わたしだけを斬って――」
「おれが?……奥さまを?」
「わたしは……」
お美也は、甲板を洗う雨しぶきのなかにがばと身をなげた。
「もう敵を討てない女になりました。……右近さまに刃をむけられない女になりました。……」
「右近さま?」
「丞馬、ゆるして――わたしひとりを殺して――わたしひとりを旦那さまのところへやって――」
お美也の背を、滝のように雨がたたいている。丞馬の全身はうごかなかった。眼も口も、髪の毛ひとすじも、死びとのようにうごかなかった。いまや、丞馬の方が完全な「無」の中にあった。――そのとき、右近の手から拳銃が甲板におちた。しかも彼の指はなお|鉤《かぎ》をつくってまがったまま、おなじ姿勢で静止している。人差指はまっ黒になって|壊《え》|死《し》していた。
丞馬は眼をあげて、右近を見た。それは虚ろな、惨たる眼であったが、それをどうとったか、お美也は丞馬の足にすがりついた。
「丞馬このひとを斬らないで――おねがい、このひとを殺さないで!」
「奥さま」
丞馬は小さな、かすれた声でいって、お美也の方に身をかがめた。
「――この男が、好きでがすか?」
烏帽子右近が、じぶんの指をからめていた髪の毛がいつしかとけて、風にきえているのに気がついたのはこのときだ。――まるで神経系統の重症患者みたいに緩慢な速度で、その腕が腰の一刀にうごいていった。
「いいや、斬る!」
絶叫したのは丞馬だ。すっくと身を起した頭上へ、その刹那、右近の刀身がひらめいた。
丞馬はとびさがった。そのひたいに、ぱっと血がとびちった。同時に面上に墨汁のごとくひろがったのは、極度の|狼《ろう》|狽《ばい》であった。一閃、ひたいを斬られたことよりも、おのれの幻法が|破《は》|綻《たん》を来していることを知っての驚愕であった。――猛然と、右近は追いすがった。
「待って! 丞馬を斬らないで!」
その足にすがりつこうとしたお美也の胸を、右近はどんと蹴かえした。
舷側に背をおしつけた乗鞍丞馬の|脳《のう》|裡《り》を、そのとき五年前の講武所の御前試合に吹雪のごとく舞っていた花びらがかすめた。跳躍してくる宗像主水正の刃のまえに、すでに敗北を予感したおのれの腕の異様な感覚を。――同時に師の檜夕雲斎の声が耳に鳴った。おまえは恋する女のために死ぬ。おまえは女を恋したときに死ぬ。
獣のような右近の絶叫とともに、刃がふりおろされた。丞馬は反射的に片腕をあげて、それを受けようとした。が、そのただ一本の右腕は血しぶきとともに、肩のつけねから斬りはなされた。お美也の心が右近にあると知った刹那、断鉄の幻法はやぶれたのである。
両腕のない丞馬は、満面の血しおのなかから、じっとお美也を見つめていた。胸を蹴られ、甲板に両ひざついたお美也の唇から、かっと血がながれおちた。丞馬の眼は哀しみにみちていた。その背後にまっしろなしぶきがあがった。――とみるまに、彼はうしろに弓なりになり、声もあげず渦まく海中におちていった。
同時に、お美也のからだがまえにばたりとのめり伏した。烏帽子右近は刃をなげすて、かけよって、彼女の息がとまっているのに|総《そう》|身《しん》の血をひいていた。
明治元年四月十二日午前五時。
八隻の幕府艦隊は、「開陽」を先頭に、嵐の江戸湾からの脱走を開始した。
最後尾の渦潮丸にあって、夢遊病者のごとく発進を命じて、お美也の屍骸の横たわる船将室にいそいでいた烏帽子右近は、そのとき甲板の方角にただならぬさけびと音響をきいて、夢からさめたようにはっと頭をあげた。
「大砲が鎖からはなれた!」
たまぎるような絶叫であった。右近は甲板にかけつけた。
そして、そこに恐るべきものを見た。それは鎖をはなれた猛獣であった。一門の鋼鉄のナポレオン・カノン砲が甲板を走っていって、舷側をぶちくだき、船のローリングとともに後退してもどってきた。と思うと、ピッチングに乗じて、くるりと反転しまた|肋《ろく》|材《ざい》を粉砕した。
恐怖の叫喚とともに、乗組員たちがそれを追いまわし、にげまわっていた。大砲はにげ、また追った。疾風のように滑走して、一撃のもとに三人の男をたおし、はじきとばした一人を追って、これをまっ二つに切り割った。
「ば、ばかな――どうして鎖からはなれたのだっ」
と、右近は絶叫した。ひとりの乗組員が土気色になって、指さした。
「あ、あれを御覧下さい! 大砲のひきずっている鎖を!」
右近はきれた鎖をむずとつかんでいる一本の人間の腕をみた。それはただ腕だけであった。
「偶然、わたしはここにおりました。ふと妙な音がきこえたのでふりむくと――あ、あ、あの腕が――生きているもののようにうごいて――わたしが立ちすくんでいる眼のまえで、とうとう鎖をひきちぎってしまったのですっ」
それが、さっきじぶんの斬りおとした乗鞍丞馬の片腕であることを知って、烏帽子右近の髪の毛は逆立った。
大砲は片腕のついた鎖をひきずって、回転するたびにそれを凄じい速度でぶんまわした。それはまるで魔の腕が怪獣をあやつっているかにみえた。
鋼鉄の狂獣は、ちょっと思案しているようにみえたが、たちまち矢のごとく突進して、べつの一門の大砲を衝撃した。まるで友を呼ぶように、その大砲も鎖からはなれた。――と、みるまに、二門の大砲は、鎖で乗組員たちを|薙《な》ぎはらい、|檣《ほばしら》をへし折り、いくつかの短艇をたたきおとし、さらに三門めの大砲をきりはなした。
何者もこれをとめることはできない。|颶《ぐ》|風《ふう》が海をうごかし、荒海が船をゆする。その巨大で複雑な運動から、この象の重さをもつ無心の戦車は、二十日ねずみのようにとびちがった。――それは四門になった。
重い車輪が通過するたびに、甲板にころがった十数人の犠牲者を|蠅《はえ》みたいにおしつぶし、無数の肉塊にきりさいた。恐怖に歯をむき出した首はたちまち一塊の|味《み》|噌《そ》みたいになり、甲板は血のぬかるみと化した。――荒れ狂う大砲は五門となった。
百万の官軍すら鼻で笑っていた渦潮丸の乗組員も、この内部からの不死身の無生物の叛乱をどうしよう。
風はさけび、海は奔騰する。渦潮丸の二本めのマストが海中にたおれた。甲板のみならず、渦潮丸の船台そのものが、いまや|瓦《が》|礫《れき》の廃墟であった。
「渦潮丸は沈む……渦潮丸は沈む……」
恐怖のうわごとをもらして、烏帽子右近はよろめいた。船が大きくかたむき、ころがったからだを潮しぶきがつつんでいた。
荒天をどよもしたのは、風の声であったか、渦潮丸ののこした死の悲歌であったか。――
他の七隻にとってはわけもわからず、魔法のごとく海中へ没し去った渦潮丸を、ただ|茫《ぼう》|乎《こ》としてながめたのみであった。
|狂瀾《きょうらん》のなかに救助もかなわず、やがてむなしくそれらの船影が去ったあと――灰色に泡だつのみのその位置に|朦《もう》|朧《ろう》と潮けむりにつつまれて、いつまでも去りがてに漂っているひとつのもの[#「もの」に傍点]が見られた。
恋ゆえの破幻をつくろう最後の幻法――おのれの全身の断末魔に、離断した肉体の一部に生命をのこす飛騨幻法の第五「死恋幻法」をかけて、恋する女もろとも鋼鉄の軍艦一隻をうち沈めた明治の忍者の|屍《しかばね》がそれであった。
|軍《ぐん》|艦《かん》|忍法帖《にんぽうちょう》
|山《やま》|田《だ》|風《ふう》|太《た》|郎《ろう》
平成13年3月9日 発行
発行者
角川歴彦
発行所
株式会社
角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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Futaro YAMADA 2001
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角川文庫『軍艦忍法帖』昭和61年2月25日初版発行