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自選恐怖小説集
跫音《あしおと》
山田風太郎
目 次
三十人の三時間
さようなら
女死刑囚
跫 音
双頭の人
黒檜姉妹
雪 女
笑う道化師
最後の晩餐
呪恋の女
[#改ページ]
三十人の三時間
書くことにきめた。書くことが、最後の三時間の恐怖をねじ伏せる最善の手段だ。いまスチュワーデスが言った。――
「この金星号には、羽田|板付《いたづけ》間航空時間の三分の一の予備ガソリンをつんでおりますから、ご心配下さいませんように、そのまま座席におつき下さいませ。――」
羽田板付間は三時間半。その三分の一というと一時間十分。この飛行機は四時間四十分飛べるということだ。
羽田出発が十五時であった。いま十六時四十分だ。あと三時間。
「最後の三時間」といったが、これが、最後だとは信じられない。
しかし、窓外の大空には灰色の雲がわきたち、うす白い翼は大きく傾いている。だいぶまえから旋回しつづけているのだ。
「もう伊勢湾は越したかね? ちっとも下が見えないから、どこらあたりを飛んでいるのかわからん」
左側に二列ならんだ座席に、美しい婦人といっしょに坐《すわ》っていたしゃれこうべみたいな顔の白髪の紳士が、スチュワーデスにきいたのが騒ぎのはじまりだった。
が、恐怖の実態はいつからはじまっていたのか、そういえばその二十分ほど前から、交《かわ》る交《がわ》る通路を前にいって操縦室に入り、出てきてかけもどる二人のスチュワーデスの顔色と様子がただごとでなかった。
機が異常事態にある、と知ったのはそれからまもなくだ。正式の発表があったわけではない。「無線系統の故障」という声が、どこからか流れた。「アンテナが吹っとんだらしい」という声も聞えた。機内は、ショックに襲われた。スチュワーデスは無数の声の火花をあびた。
「おちついて下さい、おちついて下さい」
悲鳴のようにくりかえすその返事が、いっそう人々の腰をつきあげた。数人が操縦室のドアの前に殺到したが、向うから鍵《かぎ》をかけているとみえて、あかなかった。「いま鋭意修理中でございます」と、それをとめたスチュワーデスの言葉で、人々はその故障が事実であることを知った。
かくしおおせることでもない。十六時五十五分には、伊丹《いたみ》に一度着陸の予定だからだ。
殺気だった叫喚の十数分がすぎた。それからふいに凍りつくような沈黙が来た。そこにいまのスチュワーデスの予備ガソリン云々《うんぬん》の言葉だ。
搭乗客を安心させるための言葉か。しかしそのための言葉は、いままですべて逆効果を来した。こんどは、無反応だ。それで安心したのか。そうではない。
人々はあと三時間という時間を凝視して、じっと爆音をきいている。その思念と聴覚のほか何もなく、すべて同じような痴呆顔貌で坐っている。
こんなことがあり得るのか。この飛行機は墜《お》ちるのか。
あり得ないと思う。
しかしもく星号は墜ちた。雲仙号も墜ちた。もく星号のとき、知り合いの国際線のパイロットにきいたことを思い出す。無線機が予備をふくめてとまる、プロペラが故障する、エンジンがとまる、すべてあり得ないことのはずだが、それが実際に起こっていままでの航空事故が起こった。墜ちた飛行機の事故の原因は要するにつかめないといってよく、どんな空想的な説明をされても、それが非科学的であるという自信はないと。
そういえば、もく星号が三原山に衝突した原因もついにわからない。あのときいちど浜松沖に不時着したという誤報が出た。そのときたしか専門家のひとりが言っていた。
「無線系統の故障で盲目飛行し、旋回中、ガソリンを使いはたして不時着したのではないか」――あり得るのだ。
その運命が、この金星号に起こった! しかし、墜落するとは信じられない。無線機は今になおるだろう。
それを信じるよりほかにない。ほかに何もすることがない。出来ることは何一つない。爆音は狂ったようにたかまり、風にちぎれる。金星号はなお荒天をさまよっている。われわれは不可抗の運命にのせられたまま、歯をくいしばってここにじっとしているよりほかはない。
恐怖の重みにたえかねて、これを書く。魔法瓶の酒を飲みながら、書く。あと三時間――いやいま十七時だから、あと二時間四十分の後に何が起こるか、それは考えまい。では、その間に何が起こるか。新聞記者としてではない。無目的に書く。
十七時といえば、ふつうならすでに伊丹に着陸している時刻だ。が、円い窓の外の空は暮れかかり、黒い乱雲はなお渦まきつづけている。
人々の爆発は突如として起こった。十七時十分であった。
最初のニュースの衝撃的な混乱の次に、人々は恐怖にノックアウトされていたが、女の号泣から、ふたたびいっせいにはね起きた。
泣いたのは女の乗客ばかりではない。男も泣声をあげた。それを呪詛《じゆそ》の怒号が覆った。無限の大空の中をとぶ唯《ただ》一点、三十人の小さな世界に、とっさに筆舌につくしがたい狂乱的|叛乱《はんらん》が起こった。約三十分間。
それは二発の銃声で鎮圧された。
いま十八時。人々は憑《つ》きものがおちたような虚脱状態にある。
三十人といったが、乗客はアルファベットの数だけあった。正副二人の操縦士と二人のスチュワーデスを除けば。
私はこの線にのったのはこれが三度目だが、最初坐ったとき、こんなに空《す》くこともあるのかとまばらな乗客の影をかぞえたから知っている。六十八の座席に二十六人であった。男が十五人、女が十一人。
天候がよくないせいもあったろう。羽田では雨がふっていた。雲の上へ出れば蒼空《あおぞら》だと私はタカをくくっていた。そのとおり、離陸して二十分もしたら窓に日がさし、下の雲に虹《にじ》の輪をえがいてとぶこの機自身の影を見、大島の上空に達したとき、三原山もハッキリ見えた。しかし駿河湾《するがわん》にかかったころから、強力な低気圧にかち合った。見わたすかぎり雨雲がたれこめて、視界はゼロになってしまった。気流もきわめて悪く、機の動揺がはげしくなり、二、三カ所で吐袋に嘔吐《おうと》する声もきこえた。そういう天気予報を見て、搭乗をとりやめた団体か何かあったにちがいない。
最初から、縁起がよくなかった。空港のロビイも暗く冷たく、ガラス窓もコンクリートも濡《ぬ》れてひかっていた。長|椅子《いす》で時間を待っていた私が寒いので魔法瓶につめてきた熱い酒をのんでいると、ふいに傍《かたわら》から声をかけられた。
「お酒が好きなようですね」
ふりかえると、老人だ。顔は蒼白で、やせ衰えて、どことなく気品のあるのがかえって気味がわるかった。洋服は田舎《いなか》じみている。やさしいというより虚《うつ》ろな声で、
「ご用心なさい、潰瘍《かいよう》になりますよ」
私の奇妙な表情を見て、
「いや、ご免下さい、私、医者なものですから」
「お爺《じい》さん、よしなさいよ、せっかく旅に出たというのに――あなた、おゆるし下さいまし、ほんとにとんでもないお節介《せつかい》なことを」
と、となりに坐っていた小柄な、まんまるい老婦人がお辞儀をした。夫婦とみえる。
たしかに飲みすぎて、このごろ胃の調子がよくないだけに、不愉快になった。「いや」といったが、私はもう一杯ぐっとあおって、魔法瓶の栓をつめた。
反対側をみると、黒いサングラスをかけた青年がうなだれている。これは服装もみすぼらしいし、どうみても飛行機にのる柄《がら》ではない。ふっとその貧寒なせまい額をどこかで見たことがあるような気がした。しかし、こんな青年にたしかに知り合いはない。彼には孤独の翳《かげ》があり、不吉な匂《にお》いすらあった。どこで見た? 私はいらだたしく、それがまた不愉快になった。
所在なく前方の長椅子をみる。さっきから新婚らしいとみていた若い一組だ。みるからに、夫も妻も新鮮で初々しかった。そこだけ、暗いひかりの中に、花が咲いたようにみえた。
「ああ美しいですね」
と、となりの老医が、私の視線を追ってまた話しかけた。
「やはり、新婚旅行はよろしいな、私どもは誤まった。私どもは新婚旅行という奴《やつ》をせなんだのです」
「…………」
「新婚旅行どころか、結婚式さえも。――実は、これが新婚、ではない、婆さんといっしょになって四十星霜、こりゃなんの記念かと娘に調べてもらったら、緑玉婚という奴だそうで、なるほど爺さん婆さんらしいと笑われたが、とにかく婆さんとはじめてのアベックの旅でしてな」
私は苦笑しながらうなずいてやった。よほど話し好きの老人とみえる。ひとの酒にさし出口したが、当人の方が少し浮かれている気味もある。
「が、やはりアベックは若いときにかぎります。他人の眼にも快適です。それにくらべ、われわれのように――」
「お爺さん」
と、老妻がまた袖《そで》をひっぱった。しかし彼女も幸福そうであった。
送迎デッキの鉄柱を通して、雨の飛行場にジュラルミンの機体がゆるやかに地上をうごいてきた。それを見て新婚組は立って、窓の方へあるいていった。そのとき私はその若い妻の小さなつぶやきを耳にしたのである。
「あの飛行機? あれが天国へはこんでくれるってわけね」
夫は笑った。明るい、けれどなぜか私をぞっとさせた笑い声であった。
その一組が去ると、その長椅子に三人の男と一人の女が来て坐った。そのうち、二人は肥《ふと》ったのと痩《や》せたの、しかし同じように頭の禿《は》げた六十年輩の紳士で、実業家のようである。友人らしい。他の二人は若く、どうやらそれぞれの秘書らしいとみえたが、女が一方のふとっちょの禿頭にあびせる嬌声《きようせい》には秘書以上のなれなれしさがあり、青年がもう一方の痩せた禿頭にかがめる腰は秘書以下の奴隷のようであった。彼は、きいていて胸のわるくなるようなお世辞を主人につかった。
女秘書をつれた実業家が、突然気がついたように青年を見まもった。彼はじぶんの主人の葉巻にうやうやしくライターの火を献じようとしていた。
「おい、君、壺井《つぼい》君といったっけな、君はまだ奥さんはなかったね」
「はあ、とてもとても」
「どうだ、もらう気はないか」
「はあ、とてもとても」
「これはどうだ」
と、傍の女秘書の方にあごをしゃくった。
「まあ、イヤな社長」
「いやではない、ここのところ、わしはずっと悩みつづけだ。家内に感づかれてしまったからな、低気圧ぶりは、きょうの天気どころではない」
「それはたいへんだ」
と、友人の痩せた実業家も口から葉巻をはなした。
「そうこれにいったら、こいつめ、意地になりおって、子供を生むと言い出した」
「なに、へえ」
と、女秘書のウエストのあたりをちらと見た。女秘書は背をむけた。
「そのうち五カ月を越えてしまいおった。もう処理もむずかしい」
彼は禿頭をかかえた。
「おい、暁子《あきこ》、おまえ父《てて》なし子を生むつもりか。可哀《かわい》そうだが、いまのところ、どうあっても子供の籍《せき》を入れてやるわけにはゆかん。それよりも」
と、友人の傍の秘書にながし目をくれて、
「な、嫁にいってくれ。久保君のところの社員なら、わしも安心できる。むろん、あとの援助はする。きみ、壺井君、できたら何とかもらってやってくれんか。そのうち子供はひきとるように努力するが、何にせよ、君の望むとおりの報酬はきっと出すが」
よほど思案にあまっていたせいもあるだろうが、恐れ入った社長である。青年が怒るかと思った。その主人久保氏がいった。
「これはきみ、この磯辺《いそべ》君はわしの莫逆《ばくぎやく》の友だ。わしからもたのむ。相談にのってやってくれ」
壺井秘書はだまってひくく頭をさげた。
少なくともこの取引に不承知ではないとみえる。女秘書はとみると、これはうすら笑いをうかべて、その青年のトンボ光りをした頭をみていた。これも満足したのか、照れかくしか、軽蔑《けいべつ》したのか、その心理は見当もつかない。
「あ、薬師寺《やくしじ》将軍じゃないか」
「お雪バーのマダムといっしょだ」
ふたりの実業家がたちあがった。傍を肥躯《ひく》の老人と、スッキリした三十年輩の女が通りかかって、ふいに呼びとめられてちょっと狼狽《ろうばい》したが、すぐに破れ太鼓《だいこ》みたいに笑い出した。薬師寺将軍ときいて、私は新聞で見たことのある写真を思い出した。元陸軍少将だが、いまは旧軍人団体をバックにした代議士だ。何度も防衛庁長官に擬せられては流されているが、遠からずそうなるだろうといわれている人物だ。
お雪バーにはいったことがないが、銀座の高級バーだということは知っている。たとえ今は代議士とはいえ、かつての将軍が高級バーのマダムとアベックで飛行機にのるとは、自衛隊が泣くと思われるが、因縁がよくわからない。
ご両人のうしろには、二人の男がしたがっている。将軍代議士のつきそいらしいが、何か言われるたびに直立不動になるところをみると、これも元軍人かもしれない。
薬師寺将軍は、実業家を相手に、豪快に笑ってばかりいた。しかし「……せんけりゃ」という口調をのぞいては、元軍人の語韻は感じられなかった。どこか卑屈ですらあり、それをごまかすばか笑いに聞えた。
「お天気がわるくてしんぱいだ」とマダムが飛行機の方をみたら、「元航空隊の司令官がついているじゃないか」と実業家の一人が背なかをどやし、将軍はまた呵々《かか》大笑した。
この八人が一団となって去ると、さらに華やかな一団がやってきた。三人の女をつれた一人の男だ。色が黒く、小柄な、豆狸《まめだぬき》みたいな顔をしているが、豆のはじけるような笑い声に精力絶倫の活気がある。女のうち二人は同行者のようだが、もうひとりのグラマーガールはいまそこらでつかまえたらしく、男はそのくびれた手くびをにぎって、大阪弁で何かタチのよくない冗談をいって、カン高く笑った。女もばかみたいに笑った。皮膚がバタのような湿り気となめらかさをもち、厚ぼったい真っ赤な唇とよくひかる歯が恐ろしく肉感的だ。他の女ふたりもどうやら素人《しろうと》ではないが、彼女らを鼻白ませるほど、この女は官能のかたまりであった。
やはりこれは羽田のロビイだ、と思ってあたりを見まわしたとき、飛行機が出るアナウンスがながれ出した。
「みなさま、只今《ただいま》禁煙のサインが消えました。どうぞこれよりお煙草はご自由にお召しあがり下さい。――なお当機はつづけて上昇中でございますので、しばらくの間お座席のベルトはそのままお締めおき下さいますよう、かさねてお願い申しあげます」
雨の底にしずんでゆく東京の町、そして鼠いろの海。ふっとこのとき滅入《めい》るような不安感が胸をよぎった。
いままでの飛行機の旅はみな晴れていた。それは雨の日のせいであったか。それとも運命の知らせか。
いや、そのときはとなりに坐《すわ》った一組のせいだと思っていた。ロビイでちょっと明るくなりかけていた私は、機内に坐ってウンザリした。いちばんあとからヨタヨタ入ってきた例の老医夫婦が、まるで千年の旧知に逢《あ》ったように、私を見つけて傍に来たのだ。三列にならんだ席の窓ぎわに私が坐る。その通路側の二列に坐ったのだからのがれようがない。
「おう、こりゃ、はあ、こりゃ」
上昇特有の異様な感覚に、老夫婦は子供みたいな奇声を発した。窓外を見ようと、ふたりで夢中になって、私の前に顔をつき出した。
「窓ぎわと代りましょうか」
辟易《へきえき》したわけではなく、このときは微笑を伴った好意だったが、代ってから、またロビイの話のつづきになった。この夫婦は、これが最初の同伴旅行だという。そして若い日にそれをやらなかったことへの悔恨《かいこん》の言葉がつづいた。
「結婚式や新婚旅行をやらなんだのは、できなんだのではない、私の偏屈《へんくつ》な主義でがした。それ以後は、もう忙しゅうて忙しゅうて……」
その主義をきく気にもなれなかった。老医はひとりでしゃべった。
「しかしなあ、若い日は二度ないのでな、この教えを、わしゃ全然カンちがいしておったのです。若いとき、道楽の仕放題して、年とって落魄《らくはく》するのも哀れじゃが、気の張りづめで一生を終えるのはもっと寂しいことじゃて。まえの人間には愉《たの》しい想い出があろうが、あとの人間には、かえらぬ青春へのつきせぬ歎《なげ》きがあるばかりでな。これはもうとりかえしがつかん」
不似合なロマンチックな言葉が出たと思ったら、左側の前の席で、若い一組が、傍若無人に頬《ほお》をよせて肩に手をまわしているうしろ姿がちょっぴり見えた。老医はウットリとそれをながめているのだ。やはり新婚とみえたが、さっきロビイで見た組とはちがう。
「私ゃ医者としてだいぶ人間の死ぬのにたちあったが、善悪ともにやりたいときにやらなんだ人間ほど、往生際がわるい。人間、したいときにしたいことをするのが一番で、その点、私はえらいまちがいをしてしまった。婆さんにもすまんことをした。婆さん、若いときにこんな旅をしたかったと思うだろ」
「いいえ、いいえ、あなた」
苦笑しながら、きいた。
「おくには、どちらです」
「信州の山の中です。なかなかめったに東京にも出れん。それに田舎じゃと、ほかに医者がないのでな、どうしても手ばなせん病人がいつもあって、オイソレと物見遊山なんかにぬけ出せんのです。私らなど、ともかくこうして出てきたのだからまだ倖《しあわ》せな方で、私の父や兄などそれどころか。――先祖代々、みな医者でしたがな、兄は患家で脳溢血《のういつけつ》でたおれてそれっきりですし、父は筋萎縮性側索硬化症《きんいしゆくせいそくさくこうかしよう》という絶対不治の病気にかかったことを自己診断しながら、往診にいって雪の峠でゆき倒れてしもうた。実は私にも倅《せがれ》が三人ありましたが、みな軍医にして、戦争で死なせてしまいました。考えてみると、じぶんの家のタタミの上で死んだ奴はひとりもない」
大空できく話ではない。老医は陰気な眼で、灰いろの雲を見ていた。ふっとつぶやいた。
「婆さんや、権やお倉はどうしとるかの。ちょっと気にかかるで」
「お爺さん、まあ旅に出たからにゃ、患者のことは忘れることよ」
「ちょっと、失礼」
私はそれをしおに立って、後部のトイレットにいった。
うしろの方では、さっきからケタタましい笑い声でふざけている一群があった。その笑い声でもう知れているが、空港ロビイでみた黒い豆狸と三人の女たちだ。ちょうど彼は傍を通りかかったスチュワーデスの手をにぎろうとして、ひとりの女にぶたれているところだった。飛行機の中で、こんなにゲビた騒ぎをする奴を見たことがない。
しかし、なんといってもこのあたりまでは平和な空の旅であった。
トイレットのドアをあけると、ひとりの男が入っていた。手洗いに向いあっていたのだが、「あ失礼」と私が身をひこうとしたとき、向うも狼狽《ろうばい》して、へんなことをした。あわててコップの水をなげすて、小さな瓶をポケットにねじこんだのだ。そしてソワソワと出ていった。
このすこしまえから機の動揺がひどくなり出していたから、酔って薬でも飲んでいたのだろうと考えた。それにしても、いまの顔色の蒼《あお》さが眼に残った。土左衛門みたいにふくれた若い男だ。どうもきょうの飛行機には、いつもとちがって、妙に陰々滅々《いんいんめつめつ》たる連中がのっている。
席にもどると、おどろいたことに、私の席には老医の細君が移って、細君の席にはいまの若い男が坐っている。彼は背を猫みたいにまるくして、吐袋に吐いていた。老医が鞄《かばん》から薬をとり出しながら、私を見あげた。
「やあごめん、このひと、気分が悪うなったらしい」
「どうぞどうぞ、席はたくさんあいてるのですから」
むしろ助かった思いで、私は二つばかりうしろの席に腰をおろした。となりはふたりとも銀ぶちの眼鏡をかけた中年の夫婦だ。この細君も少し気分がわるくなったとみえて、ひっきりなしに頭上の通風孔のボタンを夫に押させていた。夫はむしろ冷たい容貌《ようぼう》であったが、態度はオロオロしていた。妻をいたわるというより、怖れているようだった。
ようやく私は気象状態のただならぬことを意識した。
「何、毒をのんだ」
前でさけび声がきこえた。老医だ。土左衛門氏の肩をかかえて、
「この世が面白くないと。ばかっ」
機にはむろん救急薬の備えもあるが、なんといっても医者のいたことが倖せだった。自殺志願者は吐かされて、三人分の席にながく横たえられた。老医夫妻は左側の席に移ってそこにいた鳥打帽の男が前にどかされた。
「わざわざ飛行機の中で毒をのむ必要はなかろうに」
と、鳥打帽は舌うちをして、はなれていった。そのいい方があんまりムキなので、この場合、かすかなコッケイを感じた。たしかにもっとも千万で、大空で服毒するとは厭世《えんせい》の青年にしては奇抜なことをするものだ。
騒ぎがしずまると、みんな黙りこんだ。いっせいにいやな予感にとらえられたらしい。――スチュワーデスだけがなお前の操縦室に出たり入ったりしていた。そして、しゃれこうべに似た白髪の老紳士がきいたのだ。
「もう伊勢湾は越したかね? 云々」
恐怖の本舞台の開幕。
本能の火薬袋は、女の号泣から切り裂かれた。
最初に、ヒーッというような声が最後部からきこえたから、それはそこに坐っていたお雪バーのマダムのような気がするが、つづいてあの大ふざけ組の三人の女たち、さらに、さっきまで夫を頤使《いし》していた銀ぶち眼鏡の夫人と、いっせいに合唱しはじめた。
「どうなるの? これ、墜《お》ちるの?」
「どうするのあんた、どうするの?」
「だからあたし飛行機はイヤだといったのに――」
「あんた、何とかして頂戴《ちようだい》よ! あんたってば!」
この質問と要求に、からくも応《こた》えたのは、豆狸の「どうなるか、わてにもわからんわ。どうしようもないやないか」という別人のようにかたい声だけで、胸ぐらにとりすがられた将軍代議士はいまにも脳溢血を起こしそうに真っ赤にふくれあがって、眼をギロギロひからせているばかりだったし、となりの銀ぶち眼鏡の紳士は、細君の声も聞えているのかいないのか、心気喪失の態であった。
「死ぬのはイヤ!」
「こんなことで死ぬのはイヤよ!」
号泣にまじって「あんたなんかと死ぬのはイヤよ!」という声がはしったが、誰ののどから出たのかわからなかった。もう、たとえ知っていても誰の声か判別できないほどうわずった、嗄《しわが》れ声であった。その中に、ひときわ異様にすごい声がまじっていると思うと、例の禿頭のふたりの実業家だ。ふとった方はあたまをかかえ、痩《や》せた方は天井にのけぞるようにして、泣き声とも喘鳴《ぜんめい》ともつかぬ音響を発していた。
「まだなおらないか?」
と、将軍代議士がうめいた。スチュワーデスはいたんだレコードみたいにくりかえしていた。
「おちついて下さい。みなさま、おちついて下さい」
操縦室のドアの前には三人の男が立って、入れ替り立替り、わめきながらその把手《とつて》をゆさぶっていた。$入りの子宮をもつ花嫁をおしつけられた壺井秘書と、同伴の女性に熱烈な愛撫《あいぶ》を加えていたさっきの青年と、老医にどかされた鳥打帽の男だった。
「操縦士は何しとる? 出て状況を説明せんか!」
代議士は両腕をふりあげ、ふりおろした。マダムははね飛ばされた。
「小柴《こしば》、上杉《うえすぎ》、突撃せよ!」
ふたりの男が、ドアに殺到した。青年と壺井がよろめき、何がコンがらかったか、鳥打帽とその二人が猛烈な格闘をはじめた。
「なんだ、そいつは! 妨害者は殺せ!」
代議士は絶叫した。みんな逆上しているのだ。機体は大きく、右へ左へゆれた。またひとり、誰か豹《ひよう》みたいにとびかかった。
「やめろ」
三人はあわててはね起きた。制止者の手もとをみて、みんなあっとさけんだ。ピストルがひかっていた。私は彼が、ロビイで見た黒いサングラスの青年であることを知って眼を見はった。
「騒いで何になる? 死ぬも生きるもパイロットにまかせろ、騒ぐ奴は、おれが殺す」
やせたみすぼらしい姿に、殺気がもえたっていた。
鳥打帽が鼻血をぬぐって、薬師寺代議士を指さした。
「薬師寺、きさまのような戦争犯罪人が乗っているから、この飛行機が呪《のろ》われたのだぞ」
「何をいう」
「大衆諸君、この薬師寺代議士は、元陸軍少将であった。しかも特攻隊の指揮官であった。何百という部下を死地に追いこんでおきながら、自分だけは基地をうごかず、生き残って恥知らずにも国会議員となった。みれば、消費的、非生産的女性を同伴しているではないか。この災難は、特攻隊の亡霊の怒りのわざである」
「きさま、何者だ」
「全評の滝野《たきの》だ」
高名な組合指導者であった。歯ぎしりした。
「きさまのような反動のおかげで、三百三十万の労働者の運命をになうぼくが死ぬとは残念だ」
「死にはせん。わしが乗っているかぎり、天佑神助《てんゆうしんじよ》がある。飛行機は断じて墜落せん」
と、元将軍は断乎《だんこ》としていった。思わず、「ホントですか?」と滝野氏がトンキョウな声をあげたくらい信念に満ちた表情であった。
一瞬、機内に理由のない安堵《あんど》感がもどった。マダムは将軍代議士のひざに這《は》いあがって、シッカリとしがみついた。
「あなた、あなたやっぱり将軍ね。たのもしいわ。……」
「航空会社に弔慰金《ちよういきん》――いや、慰藉料《いしやりよう》を出させなくちゃいかん」
気勢をそがれた組合指導者はつぶやいた。
「二百万円プラス・アルファ」
「墜ちなかったら、出しますまい」
と、壺井秘書がいった。
「アルファだけはもらう。恐怖の報酬十万円」
「十万円なら、わしがやる」
と、白髪のしゃれこうべに似た紳士がいった。瞳孔《どうこう》は散大し、うわごとのような声であった。
「十万円やるから、この恐ろしさから助けてくれ」
「みんなアルファだ」
と、どこかで細ぼそとした声がきこえた。
「飛行機はおちるよ」
さっきの自殺未遂者の口から出たということがわかるまでに数分かかった。
「犬め」と組合指導者がうめいた。ほんとうに、みな、その不吉な廃物を犬みたいに撲殺したいような狂おしい憤怒の発作にとらえられた。そうしなかったのは、そのとき、「やあ!」と思いがけぬ少年のすッ頓狂《とんきよう》な声がきこえてきたからだ。
一番前に坐っていた兄妹のような一組だ。年ごろは高校生だが、少年はジャンパー、少女は真紅のスウェーターを着ていた。すぐうしろの席に、可愛《かわい》い顔をねじむけて、眼をまるくしてのぞいている。
何ごとかと、まわりが立った。のぞいて、みな一言も発しない。人々のあいだに、座席の上にあげられたきれいな足と白|足袋《たび》がみえた。「?」私も立とうとすると、壺井秘書がよろめきつつもどってきた。眼が異様なひかりをおびていた。
「どうしたのです」
「初夜です」
あの軽薄な茶坊主とも思えない深い声だった。
「だれ?」
「新婚組」
私はのびあがった。てっきり、さっきの喋《ちよう》 々《ちよう》 喃々《なんなん》組だと思ったのだ。ところが、そのふたりは、ポカンと口をあけて、やはり同じ方角をながめている。
数分後、その厳粛な祭典をあげたのが、別の一組、ロビイで見た初々しい新婚のふたりであることを知った。座席からおきあがったその花嫁は、たしかに、「あの飛行機? あれが天国へはこんでくれるってわけね」とふしぎなことばをつぶやいたあの弱々しいばかりに可憐《かれん》な顔だった。彼女は、衆人の茫乎《ぼうこ》たる環視をまったくふりかえりもせず、ウットリと夫ばかり見つめ、しずかにまたその傍によりそった。
「おう!」
獣のような叫びがあがった。われにかえって喋々喃々組が、いきなり狂気のごとく抱きあったのだ。最初から傍若無人にいちゃついていた組である。ふたりとも、スポーツ選手のようにみごとなからだであった。それが、おくれてならじと思ったのか、洗濯屋の地震みたいに盛大に衣服を放りはじめた。
ところが、数分後、たくましい夫は棒のように立ちあがって、あたまをかかえてしまったのだ。
その結果に至るまでが、あまりに力演であったため、その絶望的な姿勢はいっそう凄惨《せいさん》であった。それは、ウマクいったより、かえって人々の胸に兇暴《きようぼう》な波をたててきた。
突然、私のとなりの夫人が夫に抱きついた。あの新婚はなぜいそいだのか。あの新婚はなぜ失敗したのか。死の予感と死の恐怖が、嵐のように人々を吹いてきた。豆狸が「きゅう」というような声をあげた。ふたりの女にくびッたまにしがみつかれたのだ。
「そうやな、こらひょっとすると、ひょっとするで」
と、彼はやっと息をついていった。
「思い残しないように、やったろか」
まのびした調子であったのは、この男が存外大人物のせいか、大阪弁のせいでそう感じられたのか。
「生きるも死ぬも、思い出や。遠慮なくみんなお祭あげなはれ。おまえ、どや?」
ふりむいた相手はあのグラマーガールだったが、彼女はポカンとしているだけで、ほかのふたりの女が、
「あたしよ!」
「あたし」
「あたしが女房じゃないの」
「あたしも妻よ!」
と、しがみついたくびをひッぱりッこした。
「あんまり威ばらんとこうかい。どっちも内縁や」
突然、別のところで悲鳴がながれた。例の茶坊主の壺井秘書が、さっき譲渡を約束された女秘書を抱きよせようとしたのだ。悲鳴は女秘書からではなく、ふとっちょの磯辺社長の口から出た。
「何をする、きみ、この女をやるのは、飛行機をおりてから」
「おりてからは、お前にかえす」
「お前? かえす?」
「いままでかくしていたが、暁子さんはずっとまえからぼくの恋人だ」
「そして、おなかの赤ん坊も、あなたの子供よ、確率八割五分」
と、女秘書は壺井にしがみついて、キスした。
半失神のやせた久保社長は、ひろがった眼で壺井を見ていたが、「クビだ」と弱々しくつぶやいた。
「これが助かりさえすれば、クビがなんだ!」
壺井は叫んだ。そして、二、三度、ペチャペチャと社長の禿頭をなぐった。
「まえから、いちどこうしてやりたくって、夢にまで見たんだ。お前にサラリーもらってたおかげで、こんな目にあうかと思うとその頭の皮をムイてやりたい。さあ、クビにしてみろ!」
「ああ、きみじゃダメだ」
と、悲痛な声があがった。さっきの失敗した青年だ。また恋人にとびかかっていたのだが、いきなりつきたおして、
「きみじゃもうナレすぎて、昂奮《こうふん》しない! ぼくのホントの好みは――」
血ばしった眼で、機内を見まわした。誰かと眼があうと、
「きみ!」
上衣の下からワイシャツが垂れ、下は毛だらけの二本の足で、半獣神みたいに駈《か》けてきた。つかまえたのは、あのしゃれこうべに似た紳士の同伴者、純日本風の美人であったが、どういうつもりか、この美人も老紳士をはねのけて青年に抱きついた。
「夢香《ゆめか》、何する」
と、老人は仰天して、
「おまえには百三十万もの金がかかっておるのだぞ」
「お爺さんと心中させられるには安すぎるわ」
老人は蹴出《けだ》されて、あと掠奪者《りやくだつしや》が女を組み伏せた。青年が妙な姿で、女が粋なきものだけに、乱れた裾《すそ》と四本の足は、凄《すさ》まじいまでに濃艶であった。
老人ははね起きてムシャぶりついたが、はじきとばされた。
「誰かひきはなしてくれ。ひっぺがしてくれた者には一万円やる」
しゃがれ声をしぼった。
「十万円でもいい。わしは一億円の財産がある」
あちこちで、キスの音がした。
「六十年、いちども道楽の味を知らんで貯《た》めたのだ。それではじめて手に入れた女を、こんな見知らぬ男にとられてすむか」
「きみには、ぼくのあいつをやる。大事なところだ。しずかにしててくれ」
と、青年はうつ伏せのまま、馬みたいにうしろ足でまた蹴った。
「不公平だ。不公平だ!」
組合指導者が金切声でさけび出した。
「今数えてみると、男は十五人、女は十一人、公平な分配を要求するぞ」
「この女、四、五人分は引受けるで」
と、豆狸が、いままでボンヤリしていたあのグラマーガールの腰をおした。
「これ東京ワイフや。高級パンパンや」
「シツレイしちゃうワ。……」
彼女はくびをふった。
「あたし、もう商売やめて、故郷へかえるところなの、尼さんになるつもりよ」
「そこにスチュワーデスが二人いるではないか」
と、将軍代議士がいった。
「小柴、上杉、突撃せよ!」
ふたりの部下がかけよっていった。スチュワーデスは悲鳴をあげた。
「おちついて下さい。お客さま、おちついて下さい」
そのとき、二度、大きな音がひびいた。みんな、とびあがった。スチュワーデスをねじ伏せようとしていたふたりの男がツンのめった。
前の方で、恐怖のさけびがきこえた。操縦室のドアのまえにさっきの黒眼鏡の若者が立ち、そのピストルからはうすいけむりが立ちのぼっていた。
「いいかげんにしねえか」
と、彼ははき出すようにいって、黒眼鏡をはずした。やせこけた顔に似ない底力のある声でいった。
「やりたい奴は勝手に何でもしろ。しかし、やりたくない奴には、強《し》いるな、こういう際には、秩序というものがかんじんだ。おれは、女は要らねえ。監視者になってやる。さあ、秩序正しくやれ!」
黒眼鏡をとったあとに、いま東京で騒がれている指名手配中の刑事殺しの青年の顔を私は見た。しかし、その態度は、哲学者のように厳粛であった。
「ああ、やっぱりきみもダメだ!」
例の青年がおきあがって、顔をかきむしった。
いま、十九時。
宇宙はまっくらだ。窓に雨がひかっている。飛行機はもがきながら、まだ飛んでいる。ガソリンはあと四十分しかない。
十八時までに起こったことを書いた。それ以後、何が起こったか。
銃声のあとに、静寂が来た。
殺人者が同乗していて、実際に二人を射った恐怖もさることながら、狂乱の炎がもえつきて、灰がのこったようであった。誰が満足したか。最初の二人だけではなかったか。それにもかかわらず、みんな虚脱したように、グッタリと椅子にもたれていた。
うごいているのは老医だけであった。彼は鞄《かばん》から救急|繃帯《ほうたい》をとり出して、射たれた二人を手当していた。死の翼に乗って、ピストルの弾傷を治療して何になるのか。それは老医の本能だけによる行為のようであった。
「何か、いうことはないか」
老医のしずかな声がきこえた。ひとり、死ぬらしい。
「罰です」
「なんの」
「十三年ぶりに飛行機に乗った。――」
虫のような声であった。
「十三年前というと、戦争中か」
「特攻機でした……出撃して、わざと不時着しました」
「わしの子供にも、そうしてもらいたかった」
「帰って、いまの妻と結婚しました。いっしょに出撃して、死んだ戦友の妻です」
「それが罰を受けなければならん罪か」
「おれは、飛行機に乗ってはいけなかったのです」
それっきり、声が絶えた。
しばらくして、となりの銀ぶち眼鏡の紳士が、夫人にささやいた。
「ぼくは、おまえにあやまっておいた方がいいかもしれん」
「なんですか」
「実は……ぼくには、お前の知らない女があった。お前と結婚するまえだから、もう十何年以来の」
「あなたは……それなのに、なぜ?」
「お前が局長の娘だったから。ぼくは局長にお前をもらってくれといわれたとき、熟考のすえ承知したが、その女と別れる気はなかった。女による幸福は、はじめからお前に期待してはいなかったのだ。かんがえてみれば、お前はぼくに愛されたことは一度もなかったろう。可哀そうな女だった」
夫人はうなだれた。銀ぶち眼鏡がふるえた。
「いいえ、あたしこそ、あなたに……」
「なんだと?」
「あなた、実は息子の英次は、あなたの子供ではありません。あのころうちにいた運転手の……」
しかし、官吏夫婦のあいだに波瀾《はらん》は起こらなかった。声は沈んでいた。
このころから、機内には憑《つ》かれたような告白病が吹きはじめた。かすかなおどろきの息や、しめやかなすすり泣きをまじえた声が、二、三十分ざわめいた。が、むろんそのすべてはききとれなかったし、きいたとしても、そんなことを一々書いていることはできない。
しかし、その中に、たしかにこの耳できいて、耳をうたがったことがある。一つは、さっき女を掠奪されかかった老紳士が、泣いている女を抱いて、
「わびることはない。いや、おまえがあんな気になったのも当然かもしれない。わしは老人で、そのうえもう一文も金がないのだから」
と、いったことだった。
「えっ、でも、一億あると――」
「かつては一千万円ばかりあった。いまは借金が二千万円ある。……生きていれば、ナニ、もと通りにする自信はあるが……」
それから、もう一つは、老妻の傍にもどったあの医者の小さなつぶやきだった。
「やはり、わしはタタミの上では死ねなんだのだな。しかし、かえってこれは倖せだったな。お前といっしょに死ねるとはな」
「お爺さん」
「おまえ、わしは胃癌《いがん》なのだ。それでおまえと旅に出てきたのだよ」
老妻はながいあいだ眼をまるくして夫を見つめていた。やがてうなずいていった。
「ほんとうに倖せなことでしたね」
それは短い熱病期であった。ふたたび恐怖の突風が吹きおこった。
「ああ……あたしはいままで五人の男を死なせちまった。裏切り、そむき、だまし……こんな目にあうのも、その酬《むく》いかもしれない。……」
お雪バーのマダムの深い声につづいて、
「だまれ」
ひッ裂けるような将軍代議士の大喝がひびいた。それから彼は妙なことを言い出したのだ。
「左近隊、葉桜隊、梅花隊、万朶《ばんだ》隊。……」
はじめ、何のことかわからなかった。
「見よ、来る、来る、五機! 十機! 三十機!」
暗い、円い窓に顔をおしつけて、絶叫した。
「全軍突撃してくる。逃げろ、ゆるしてくれ!」
かつて彼が送った特攻隊のことだとわかった。私は窓を見た。闇の中を、雨の銀線が水平に走った。と、その向うの空がふいに蒼《あお》くなり、ぼうっと乱雲が浮きあがり、真っ白くひかる何十機という飛行機がこちらに飛んでくるのがみえた。
「あっ、ぶつかる、助けてくれ!」
代議士がさけんだとたん、それらは消えた。幻影だった。私までがそれを見たことに恐怖してふりかえると、将軍代議士は仁王《におう》立ちになり、肩で息をしていた。あぶらを塗ったように顔がひかり、眼だけ死魚みたいに光沢がなかった。
「陸軍少将薬師寺大六戦死、万歳」
ニヤリと笑った。悲鳴をあげてマダムがとびのき、にげ出した。
「かあちゃんや、かあちゃんや」
と、この六十幾つかの元陸軍少将は、両腕をさし出して追おうとした。
「あっ、待ってよ」
と、高級パンパンと呼ばれた女が一方を見てさけんだ。例の殺人者がピストルをあげて、発狂者を狙《ねら》おうとしていた。
「殺すのイヤ、殺さないで――」
「秩序のためだ」
「おとなしくさせるから、さ」
と、彼女はいって、狂人の傍へいって坐った。そして醜い猪首《いくび》にうでをまきつけて、もたれかかった。
「あたしのお父さんは、あんたの部下だったのよ。特攻で死んじゃったってさ。ご縁ねえ。……」
狂人は急におとなしくなり、涙をながし出した。そして彼女のあたたかい、ゆたかな乳房を、あかん坊みたいになではじめた。
殺人者は暗い苦笑を浮かべてつぶやいた。
「もう、時間がない。いいか、静粛をさまたげる奴は、射ち殺す。おれはしずかに死にたいんだ」
「死ぬときはさぞニギヤカだろうな」
数分の沈黙ののち、ポツンと誰かがひとりごとのようにいった。あの自殺未遂者だった。
「もく星号の墜《お》ちたあとの写真もニギヤカだったな。尾翼、車輪、エンジン、ジュラルミンの破片のなかに、三十何人か、屍体《したい》がバラバラに散っていたっけな」
みんな、凍りついたように黙っていた。
「くびと胴、手と足はもぎちぎれ、誰かはエンジンの下敷きになって、あばら骨が竹籠《たけかご》みたいにグシャリとへこみ、誰かはガソリンをかぶって真っ黒な首に、眼の球がとび出していたとあったっけな」
「だまれ」
と、殺人者がいった。
「誰か女のひとは、腰をねじらせて、からだの上半分と下半分が、反対側向いてたといったっけな」
殺人者はかけよって、横たわったままの男のあたまに銃口をおしつけた。
「殺すぞ」
「いいよ、さっき死ぬつもりで毒をのんだくらいだから」
「…………」
「胴がネジリン棒になるより、射たれた方がらくだ」
その通りだった。殺人者は立ちすくんだ。
「わしを射ってくれ!」
こちらから、ふたりの実業家がさけんで、両手をのばした。立とうとしたが、腰がぬけたようになって、しりもちをついた。
「いいえ、あたしを」
「あたしを」
その「ふたりの妻」と官吏夫人が金切声をあげた。三人、よろめきながら、あるいていった。
殺人者は鼻じろんで、じぶんのピストルを見た。
「弾は一発しかねえんだ」
あとずさりして、もとの操縦室のドアにもたれかかった。
「どう使うか、これから考えて見らあ」
「殺さないのか? あ……プロペラの音が弱まってきたじゃないか。やがて、垂直になる。みんな雪崩《なだれ》をうって、あのドアの上にたまる。機が逆トンボをうつ、みんな洗濯機の中のボロみたいになる。あたまとあたまがぶつかって割れ、胴に骨がつき刺さる。イヤだなあ。おや、おれはさっきの毒の残りを持っていたな」
自殺未遂者はふと起きなおって、ポケットをさぐり、小さな瓶をとり出し、灯に透かした。
「それちょうだい!」
「おねがい」
「おねがいだってば!」
三人の女はすがりついた。同時に、あちこちで数人がよろめき立った。ふたりの実業家、壺井秘書、女秘書、マダム、官吏、組合指導者、半獣神の男とその恋人が総立ちになって、いっせいに両腕をふりたてた。
「それをくれ」
「ぼくに下さい!」
「いいえ、あたしに!」
その中で、ひときわカンだかく、「百万円で買うぞ!」とさけんだ者がある。さっき借金しかないと告白したばかりの紳士だった。
「あなた、土下座します」
「何でもするわ」
「神さま!」
半死の男は、たかく毒薬の瓶をかかげたまま、キョトンとしていた。その瓶は宝石のようにかがやき、彼はまさに万能の力をもつ神にみえた。実際に、そのやせた頬に、ぼうっと赤味がさしてきた。
「ぼくは生きてもいいような気分になってきた」
と、彼はいった。
「そうだ、まだ死ぬとはかぎらん」
老医が顔をふりあげた。
「無線機がなおらんとは保証できん、婆さん、ぶじこの飛行機が地球に着いたらな、地球のどこかで、癌の画期的治療法が発見されているかもしれないよ。わしはどうもそんな気がする」
老妻はしずかにくびをふった。
「いいえ、お爺さん、あたしは……このまま地面の上へおりない方がいいような気がしますよ」
十九時二十分。
あと二十分。
未だ飛行中。
「そうだ、この飛行機は墜《お》ちないよ」
澄んだ声がながれた。前の方にいた少年と少女がたちあがった。
「それは信じていたよ」
天使のようにかがやいた顔であった。
「みなさんにおねがいがあります。ぼくら、愛し合ってるんです。ふたり、家出をしてきたんです。とちゅうでつかまるといけないので、お金ぜんぶつかって、この飛行機にのりました。九州へいったら、酒場でもこのギターでながして暮らそうと思ってたんです。でも……いまこのユリ公と相談したんですが、これからこれをひいて、きいていただいて、お金をかせげばいいじゃないかと――」
「お金くれます?」
と、少女がいった。
「やるで。やるで。せいぜい陽気な奴をやっとくなはれ」
と、豆狸がさけんだ。
「ユリ公、何やろう、ロカビリイ?」
「お年寄が多いから、イミないわ」
「それじゃあ黒人霊歌」
そして、闇黒《あんこく》の天をとぶ飛行機の中に、美しい旋律が満ちた。うしろの方で、しずかに誰かうたいはじめた。高級パンパンであった。
「それなんやね?」
と、豆狸はキョトンとしたが、やがて「へえ、黒人さんのお経みたいなもんか」とうなずいて、みなを見まわした。
「日本のお経より、だいぶ陽気やね。こんな陽気なお経ききながら死ねたら、本望や。わてな、えらい道楽もんで、さっきつくづく考えたんやが、あれだけやりたいことやってきたんやから、今死んでも思いのこすこと何もあらへん。そのうえ陰気くさいタタミの上とちごうて、飛行機の上でこんなにりっぱな人々といっしょにニギヤカに死ねるのやと思うたら、何やうれしゅうなってきた。どうだす? みんな知らん仲やが、こうなっては前世からのさだめや、おなじ蓮《はす》のうてなで来世にゆくと思うたら、みんな兄弟の顔にみえまへんか」
みな、しずかにうなずいた。
あらゆる激情は潮のように去り、みんな、深いやさしさに沈んでいた。恐怖さえもうすれて、眠りのようなやすらかさが機内に満ちた。
そのつもりで書き出したのではないが、私はこれをいま酒をのみつくして、そのあとの魔法瓶に入れる。たとえ、飛行機が海の上へおちようと、これだけは波に浮かんで漂い去るだろう。誰かがひろえば、遺族の誰かにわたるだろう。
彼らは知るだろう。私たちがみなやすらかに死んだと。
十九時三十分。あと十分。
突然、操縦士のひとりがドアをあけて立った。
「無線が通じました。地上と連絡つきました! 五分後に伊丹飛行場に着陸いたします」
ひッ裂けるような叫びがおこった。万歳、狂笑、乱舞、誰かまた発狂した者があるようだが、それが誰かよくわからない。
渦の中には私はうごかない人間を一人見た。あの殺人者だ。彼は急にしぼんでゆくように見えた。立ちすくみ、顔をひきゆがめていたが、暗い弱々しいうす笑いがにじむと、その顔に銃口をあてひきがねをひいた。最後の銃声とともに彼は頽《くずお》れた。
その足もとから、ふたりしずかに立ちあがって、あるいてきた。あのロビイで見た美しい一組――そして最初におちつきはらって初夜の祭典をあげたふたりだ。
「ぼくたちは、心中の旅だったのです」
「どうか地上におろさないで下さい。おねがいします。あなたのあのお薬を下さい」
「ぼくたちは、このまま地上におりると、汚らわしい罪人になってしまうような気がするんですよ」
「幸福な天をとんだまま、死なせて下さい」
ふたりにおじぎされて、自殺未遂者は茫然《ぼうぜん》として薬瓶をわたした。
ふたりは席にもどり、男がそれをのみ、女を抱いて唇をかさねた。
老医がうめいて立ちあがろうとしたが、老妻がつよい力でその袖をとらえた。
死者、生者。生者の群はだまって、おたがいの眼を見合った。
「生きても、もう地獄だ」
と、官吏が歯がみしてつぶやいた。
電気冷蔵庫の電気がきれたように、みるみる機内に生々しい温度がこもりはじめた。怒り、恨み、蔑《さげす》み、そして憎しみ、人間の臭い熱気が。
飛行機が、下降しはじめた。
十九時三十五分。あと五分。
パイロットがあらわれていった。
「無線が、またきれました、ゆるして下さい!」
機内に渦がまく。人は動かぬのに、何ものとも形容しがたい渦が。
一分後、魔法瓶の栓をする。
機はさらに下降しつつあり、闇黒の天の爆音と叫喚をひきつつ――下降しつつあり、只今十九時三十七分。
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さようなら
一匹の鼠の屍骸《しがい》が、この中世紀的な悪夢のような物語のはじまりだった。
最初それに気がついたのは、その小路のおくにすむあるファッション・モデルである。その死んだ鼠は、都の衛生局のお役人の家の角に、ひとかたまりのぼろくずのようになげ出されていた。いったい、家で猫いらずで殺した鼠でも、夜なかに往来にすてて知らん顔をしている人間のめずらしくもないお国柄だ。したがって、彼女よりさきにそれをみた人間もきっとあったにちがいないが、おそらく眼のはしにちらっとうつしただけで、とおりすぎていったものだろう。彼女にしても、春泥の路を、曲芸のように、たかいかかとの靴をはこんであるいていなかったら、気がついたか、どうか。――
「いやあねえ」
顔をしかめたとたん、ふと彼女はたちどまった。へんなことに気づいたのだ。その鼠は、昨日の朝も、おとといの朝も、そこにあった。――しかし、モデル・グループの事務所からかえるときには、なかった。
――おなじ鼠じゃない。だれかが、ちがう鼠を、毎朝そこに一匹ずつすてるものがあるのだ。
「あら、いまお出かけ?」
ふいに声をかけられたので、顔をあげると衛生局のお役人の奥さんが、野菜くずをいれたバケツをぶらさげて、門から出てきたところだった。
「ねえ、奥さま、だれかしら、こんなところに鼠をすてるの。――」
「え、鼠? おおいやだ」
「それがね、奥さま、だれか毎朝ここにすてるらしいのよ。公衆道徳をしらないにもほどがあるわ」
「毎朝? まあ、そういえば、きのうの夕方には気がつかなかったわ。衛生局の役人の家の傍に、ずうずうしいやつね」
と、奥さんはおそるおそるちかづいてきて、眉《まゆ》をしかめてその鼠を見下ろしていたが、
「主人にはなしてみましょう」
「あら、旦那《だんな》さま、きょうおやすみ?」
「え、ちょっと熱があるようだって。――ホ、ホ、麻雀《マージヤン》づかれでしょうよ」
ファッション・モデルはなんとなく笑って、ステージでみせるポーズのように大げさに鼠をまたいで、そのまま事務所へ出かけていった。
彼女が、家からの電話でよばれたのは、それから数時間のうちだった。うわずったような母の声である。
「おまえ、たいへんなことになったよ。すぐかえっておくれ。……引っ越しをしなくちゃいけないんだって!」
「な、なによ、いったい」
彼女はあっけにとられた。
「ペストが発生したんだってさ」
「ペスト?」
そうきいても、彼女にはとっさになんのショックもない。ペストときいて、頭にうかぶのは、アルベール・カミュの同名の小説だけである。ベスト・セラーになった小説だから、彼女も二、三回もちあるいたことはあるが、内容はよんだこともない。
「おまえが、けさ見つけ出したんだってね。鼠よ、あの鼠。――あれがペストだったんだってさ。いま、お巡りさんや都の衛生局のお役人などワンサとのりこんできて、町じゅうにえくりかえるようなさわぎなのよ。はやく引っ越さないと、いのちがないんだって。――」
はじめて、ファッション・モデルの頭に、黒死病《こくしびよう》、ということばが思い出された。ペスト、なるほどそれが世にも恐ろしい伝染病だという概念もうかんできたが、それより、黒死病という字面が、ぞっとするような恐怖の感覚で、彼女の白い肌を這《は》ってすぎた。
「そ、それで、どこへ引っ越すの?」
「どこだかわからないわ。さしあたりまた高樹町《たかぎちよう》へでもゆくほかはないけれど。――」
高樹町は、伯父《おじ》の家のあるところだった。
が、ながいあいだそこに同居していて、三年ばかりまえ、非常にいい条件で、やっとその家を月賦で手にいれたばかりだから、母は途方にくれて、声までオロオロしていた。
「いえ、荷物もなにも持ち出し禁止だというのよ。荷物どころか、人間もどっかへひっぱってかれちゃいそうなの。さっき、お役人が、この町一帯やきはらうのがいちばんだと、そりゃまあらんぼうなことをいって。――とにかく、はやくかえっておくれ!」
――こういうさわぎが、その界隈《かいわい》何百何千という家庭ぜんぶにひきおこされたことはいうまでもない。
いや、その町ばかりではない。東京じゅうが、恐怖に息をつまらせ、金しばりになってしまった。
ただ防疫陣だけがつまさき立ちであるき、報道陣だけが声をひそめてうごいた。――その死んだ鼠は、肺ペストだった。いちばん恐ろしい奴だ。そこまではわかった。しかし、その鼠がどこからきたか、感染経路はどうなのか、一切まだわからなかった。そして、大規模な、必死の検査を行っても、ほかに死んだ鼠はまだ一匹も発見されなかった。
肺ペスト、それはいまでも死亡率百パーセントといわれる。かつて、十四世紀、欧州に大流行をきわめたときは、実に二千五百万の人間が死んだといわれ、その恐怖的様相は「デカメロン」で名高いが二十世紀の現代でも、その恐ろしさはさまで軽減されていない。日本でも、明治三十六年、大正四年、東京にこれが発生、流行しかけたときのさわぎは、ふるい人なら知っているところである。
その町一帯の人々はむろん強制的に、また恐怖におびえた人々は、何万となくみずからおしかけて、効果のあまりたしかでない治療血清やペスト・ワクチンの注射をうけた。その町には、夢魔の国の装束みたいな防疫衣に身をつつんだ衛生局の役人がのりこんできて、酸化炭素ガスや二酸化硫黄ガスや青酸ガスをふきつけ、燻蒸《くんじよう》してまわった。
そして、その夜、その町は、まるで台風の眼のように、真空の死の町と化してしまった。
昭和三十年早春のことだった。
その死の町へ、ふたりの男が、ひそやかに入ってきた。
もう真夜中にちかい時刻だった。
ひとりは、禿《はげ》あたま、ズングリムックリのふとっちょで、もうひとりは枯木のようにやせたのっぽだが、どちらも、なにかのはずみでちらっとひからせる眼が、鷹《たか》のようにするどい。しかし年はいずれも六十前後である。
「これが、死花になればいいが」
と、禿あたまがひくく笑う。
「まあ、そんな気でいるわたしたちででもなければ、ここに入ってくる奴はいまい」
と、枯木もニヤリとする。
「しかし、ペスト菌がいないのじゃないか、というのはどこまでたしかな話なのか?」
「どうもおかしい、と、いまになって衛生局のほうではくびをひねっとるのだがね。あの鼠はたしかにペストにかかって死んどる。しかし、死後経過時間は――」
といいかけて、また苦笑した。
「鼠が死んだのは、昨夜だ。ふつうなら、まだ鼠の血のなかにおるペスト菌が生きておって、寒天やらじゃが芋やらで育てると、弱っとった奴でも元気出してくるそうだが、みんな完全に死滅しとる。――というより、あの鼠は、いちどていねいに茹《ゆ》でられたような形跡があるという。ペスト菌というやつは、寒さにはおそろしく強いが、熱にはまたおそろしく弱くって、六十度くらいでお陀仏《だぶつ》になっちまうものなんだそうだ」
「しかし、ペストにかかっとるのは、あの鼠一匹にはかぎるまい」
「そうさ、また、あれが茹でられるまえに、鼠についてその血を吸っとった蚤《のみ》が一匹でもとび出していたとすれば、危険性はおんなじことだ、と医者はいうんだが。――」
禿あたまは空をあおいだ。しんとした夜空に、星はまるで無数の蜜蜂《みつばち》のようにまたたいていた。下界が死んでいると、空は生きているようだ。が、禿はべつにそんな感慨ももよおさなかったらしく、ぽつりと、
「しかし、どうもくさいと思う。わしには、ペストよりも」
「その鼠だな」
「みんな、ペスト、ペストと、のぼせあがっとるが――また、いろいろきけば、なるほどおっかねえものだとは思うが」
「水爆実験みたいなもので、わしたちの頭には――」
「強盗のほうが、ピンとくるか、はははは」
これは、私服ではあるが、どちらも三十年の刑事生活をおえて、ちかく勇退させられることになっている、警視庁のぬしといわれる老刑事だった。
「これだけ長いあいだ刑事をやっとると、頭はそれだけにかたまってしまうのだな。ちょうど銀蠅が、高い空より地べたの糞にばかり気をひかれるようなものか。あははは」
「いや、ご同様だ。たしかにこの騒動のうちには、なんやらくさいものがある」
「なんじゃと思う?」
「まあ、一応考えられるところでは――この町からみんなを追ん出して、空巣をねらうことだが」
「と、まあ、わしも考えたんだが。……しかし、この町のまわりはぐるっと警官や役人にとりかこまれとる。いや、全国民の眼が、この町にドキドキひかって吸いつけられとるのに、そんなふてえことができるだろうか?」
「すると、そんな大がかりな空巣より、なんかごく小っちゃなもので、ひどくねうちのあるものを」
「しかし、そんな小っちゃなものなら、いくらあのさわぎのなかでも持主がもち出しとるだろう。なにしろ、ペストにかかってもいいからって、箪笥《たんす》のきものにしがみついてはなれようともしなかった女もうんといたくらいなんじゃから。フ、フ」
「すると、やっぱり、あの鼠は――」
「ま、いたずらにしては事が重大すぎる。正気でペスト菌をあつかうのは、伝染病研究所で実験をやっとる医者くらいなもんだと、衛生局ではいうんじゃが。……」
ふたりは、いつしかふっとたちどまっていた。たちどまると、異様な匂《にお》いが鼻孔をつつんできた。それは、ひるま大々的に燻蒸した薬品の匂いにちがいなかった。しかし、なにやら、「死」を思わせる匂いだった。そして、それより、この町の暗さとしずけさというものは。……
「ペストで死ねば、われわれは殉職《じゆんしよく》か」
と、息をつめて、枯木がつぶやいた。
「いや、そうはならんよ。頭の足りない、お節介野郎となるだけだよ」
「なに、わしたちの心持ではだ、……わしは、どっちかといえば、このまま殉職したい、とさえ思うとるんだ。フ、フ、フ」
「かんがえてみりゃ、ながい刑事商売だったなあ。わしなんか、巡査を拝命したのが、震災の翌年なんだから」
枯木もうなずいた。星のひかりだけの闇《やみ》のなかに、その眼が感傷にぬれているようだった。そんなしょっぱい眼つきをしたのは、この男も三十年ぶりのことだろう。……退職を眼前に、ふたりとも、「最後のご奉公」とみずからいいきかせているが、その反面、ちょいとやけ気味なところがないとはいえなかっただけに、なにかのはずみには、ふとこぼれそうなものがあるのだった。かくすことはない、ふたりはほんとうにながいあいだの友だったのだ。――次の瞬間、彼らはおたがいに顔をそむけて、また足早にあるき出していた。
「いろいろなことをやったなあ。お定事件、帝銀事件、小平事件、下山事件。――」
「おふるいところで、血盟団事件、五・一五事件までやった」
そのとき、禿が、またたちどまった。なんとなくぐるっとまわりを見まわしたが、べつにこれという異常を発見したというわけでもないらしく、ボンヤリした声でいった。
「いつか、あんたとこうしてあるいたことがあったっけね。……」
「いつ?……そりゃ、なんどかあったろうよ」
「うむ。なんどかあった。しかし……いまそっくりの夜があったよ。ふたりとも、胸をドキドキさせて、おたがいの靴音だけをきいて町は暗く、しいんとしておった。……」
禿は夢みるようにいいながら、無目的に懐中電燈をてらして、通りがかりの二、三軒の門標を照らしてみたのち、
「ああ、こいつは、あの鼠を発見した娘のうちだ。あれのおふくろ、泣いとったね。せっかくいい家を月賦で手に入れたと安心していたのにって――」
「べつになくなるわけでもないんだから、いいだろう。……はてな」
と、枯木もくびをかしげてしまった。ふたりは顔を見合わせた。どちらもふと酔いにおちいりかけた意識をよびおこすように二、三度あたまをふってから、どうじに、
「この町へは、いつかふたりできたことがあった!」
と、さけんだ。
「そうだ。きた」
「あれは、空襲の夜。――」
「いまから十年ばかりまえ――目黒の大鳥《おおとり》神社の裏あたり。――」
そして、このとき、ふたりは、この町がそれとは全然方角ちがいの場所にあることに気がついて棒立ちになり、息をながくひいてうめいていた。
「あの町は、十年ばかりまえ、あの空襲でやけてしまったじゃないか!」
ふたりの刑事は、およぐような姿勢であたりをかけまわったのち、そこの町角にあるコンクリートの塵箱《ちりばこ》のうえにならんで坐《すわ》った。
まさか、町ぜんたいが、十年ばかりまえになくなった目黒の或《あ》る町そのままなわけではなかったが、その一|劃《かく》二、三十軒が、たしかにそっくりなのだ。いや、ふたりがそこに住んでいたわけでもないから、一木一草にいたるまで酷似しているとは保証できないけれど、たとえば、あの都衛生局の役人が住んでいる家の玄関と傍にあの竹の植込み、またそこのファッション・モデルの家の生垣、またあの屋根、この塀。――それから、あの晩、さがしまわったからよくおぼえているのだが、琴生花教授の看板をかけた家から、路地のおくの石垣のようすまで、ふと時間が逆流したかと錯覚するほど記憶をかきむしってくるものがあるのだった。
「おい、そういえば、この近所、みんな月賦住宅じゃあなかったか?」
「しかも、建売の――」
そう、ポツンといって、ふたりはだまってしまった。あのファッション・モデルの母親たちが注射をうけながらオロオロ愚痴をこぼしている現場に、偶然ふたりがいあわせたのできいたのだが、なんでも彼女らの家は、五分の一頭金をはらえば、あと三十年月賦で、しかもその利子はおどろくべき低率だという話だった。――そういえば、それも家不足のこの時勢に、なにやらおかしいふしもあるが、最近、建築会社でうしろぐらい奴《やつ》は、しらみつぶしに摘発した直後なので、あと、ふたりの心にひっかかるような会社は、なにもなかったのだ。
しかし、この町の一劃が、十年ばかりまえに消え失《う》せた町そっくりとは。――茫然《ぼうぜん》とながめまわせばながめまわすほど、あの晩の想い出がよみがえってくる。ふたりの腰かけている塵箱、またそれぞれの家の塀のそとにおいてあるおなじような塵箱すらが、あのときの防火用水槽の配置に似てみえるのだ。そういえば、夜空をとびすぎる飛行機の爆音までが。――
「明日にでも、ひとつその建築会社をしらべてみなきゃいかんな」
「うむ。……しかし、どうも、わからんなあ」
実際、しらべてみたところで、この一劃がやけた町に似ていることがなにを意味するのか、ふたりの老刑事の判断を絶していた。
ふたりは塵箱に腰をおろして、闇のなかにしずかに煙草の火を息づかせながら、なおボンヤリとあたりを見まわし、いつしか十何年かまえの回想にしずんでいた。
――その晩、ふたりは、ある男を、あの町に追いつめていたのだ。
その男は、もう二十年もまえに死んだ共産主義者の弟だった。その共産主義者は、検挙されて警察で死んだ。死因は心臓|麻痺《まひ》だといわれた。しかし、屍骸がひきとられたお通夜の晩、東北の田舎から出てきた弟は、兄のからだをはだかにして、その全身に印されたむごたらしい無数の傷を、じっと見つめていたという。
その共産主義者をしらべた特高課員のひとりが、闇夜の路上で短刀で刺し殺されたのは、それから半年ほどたってからだった。また一年ほどたって、もうひとりが殺された。これはその犯人と格闘して、いったん地面におさえつけながら、下から下腹部をつき刺されてとりにがしたので絶命するまえのうわごとから、ようやくその男の名がわかったのだ。
彼は、兄の主義とはなんの関係もないらしかった。それだけにいっそう純粋な、恐るべき復讐《ふくしゆう》の鬼となっていることはたしかだった。田舎から上京してきたときには、たんに粗野な百姓の倅《せがれ》にすぎなかったのが、そのうちだんだんばかにならぬ知恵を身につけてきたようだった。何年、必死に追いまわしても、いくたびかあわやという目にあいながら、みごとににげきってしまうその手口から、ありありとそれが見てとれたのだ。彼は、女をつれていた。苦学して大学を出た兄が恋人とし、どうじに検挙され、のちに釈放された女子大生あがりの女だった。彼の知恵は、その女からさずけられているとみえるふしもあった。
このふたりの刑事は、特高課員ではなかったが、この殺人者はとらえなければならぬと血眼になった。その筋のものに復讐するなど、そんな不敵な、大それた奴は、断じてみのがすわけにはゆかなかった。
西へ、北へ、追って追って、追いまわして、いちど、冬、東北の汽車のなかで、その男と女をつかまえかけたことがあった。このときは、九分九厘まで逮捕は成功したと思った。けれど、猿臂《えんぴ》がその背までのびながら、ふたりはデッキから雪の山へととびおりて、死物狂いの逃走をとげてしまったのだ。
そして、そのまま、時はむなしくながれて、世の中は戦争に入り、あの国民ひとりのこらず戦争にかりたてられた時代に、犯人も身をかくすのは楽ではなかったろうが、警察のほうもそれ以上に苦労をした。そして、やっとあの晩、彼が情婦といっしょにあの町の奥に住んでいることをつきとめたのだった。
それくらいながく、手をやいただけに、そして相手が、とびきりの知能をもった野獣のような恐ろしい男とわかっているだけに、それを逮捕にいったあの町の、灯火管制をしたぶきみな様相を、いまでもまざまざと想いおこすことができるのだ。
――一時間ばかりまえ、空襲警報のでたあとのことで、「敵、数機目標、南方海上を北上中」というラジオの声はふたりともきいていた。その後、どうなったのか、町はふしぎなくらい、しいんとしていた。闇の天から、恐ろしい恐怖と倦怠《けんたい》が、町全体を霧のように覆っていた。
「名古屋か、大阪にいったんじゃろ」
そして、どこにいったにしろ、何百人か何千人かの殺戮《さつりく》が確実に行なわれるにちがいない夜に、数年前たったふたりの人間を殺した男を追っているじぶんたちの立場に、ふたりはなんの疑問ももたなかった。彼らは、いずれも鋳型《いがた》でうち出したような刑事だった。
「あれっ、なんだ。あれは?」
或る路地をまわったとき、ふたりははじめて気がついたようにびっくりした。東南の空に、ぼうっと赤い火が浮かんでいる。そして、魔法のように、天と地に重々しいうなりがあがりはじめた。修羅の幕がきっておとされたのだ。
「やっぱり、こっちへおいでなすったか!」
「いそげ!」
ふたりは、いちどふりかえって、かけ足になった。彼らが、その家の扉を排して入りこんだとき、殺人者とその情婦は、存外おどろかなかった。世間一般の人間とおなじように、男はゲートルをまき、女はモンペをはき、ふたりとも防空|頭巾《ずきん》をかぶって、なぜか、部屋のまんなかにむかいあって、つっ立っていた。
ゆっくりとふりかえって、
「ははあ、やっと見つけたな」
と、頭巾のかげで、男はにやっと白い歯をみせた。
「実は、われわれはもう三日間、なにもくってはいない。心中の相談をしているところだったのだ。……なるほど、確実に食い物のあるところが、まだあったね」
あまり、平静なので、手錠をかけるまで、とらえたことが信じられなかったくらいである。手錠をかけて、その手くびのほそさから、はじめてこのふたりが恐ろしくやつれはてていることがわかった。
家を出たとき、はじめて男は女に首をたれた。
「ながいあいだ、ありがとう」
ふかい声だった。
女は、一語ももらさなかった。異様にかんじて、のぞきこんだ刑事は、このとき女の顔が真紅にそまったので、はっとしてふりかえったとき、路地のおくに、赤白い炎がめらめらと、あがっているのをみた。
夜空は轟音《ごうおん》にみちていた。水中から浮かび出たように、突然、ザアーアッという凄《すさま》じい雨のような音が耳をうってきた。一機、頭上をはためきすぎながら、焼夷弾をまいていったらしい。たちまち四辺がまっかになって、壁に彼らや樹の影がうつりはじめた。
「これは、いかん」
「はやく!」
刑事たちが狼狽《ろうばい》して、手錠をはめた鎖をグイとひいてあるき出そうとしたが、女はうごかなかった。叱《しか》りつけようとした禿は、この立場にありながら、思わず息をのんだ。石のように凝った女の美しく見張った瞳《ひとみ》に身ぶるいするような無限の哀感をみたのである。
女は、はじめてつぶやいた。
「さようなら!」
声のかなしい余韻は、炎のひびきにたちきられた。眼とのどを刺す煙が、夜霧のように世界をつつんで、おたがいの姿をおぼろにへだてた。
女の声がまたきこえた。
「――さようなら!」
ふたりの刑事は、なにか狂乱したように呼びかわしたが、それも数分で、声もからだも、みるみる、炎の風のなかのさけび声、火の潮のなかの木の葉のようにふきちぎられ、もみながされた海鳴りのような音をたてている町のむこうに、あのオーロラを逆に地から天へふきあげたように凄惨《せいさん》とも豪華とも形容しがたい炎の幕が、金の刷毛《はけ》でふちどられつつ、四方をとりまいていた。
――そして、大通りへ出て、そこをにげはしる群衆の阿鼻叫喚《あびきようかん》のなかに、枯木はついにその男をにがしてしまったのである。禿のほうは女をはなさなかったが、警察につれてくると、発狂していることがわかった。
そして、刑事は、その女が、敗戦直後の混乱のなかに、警察からときはなされたことをのちに知った。ふたりのゆくえは、それぞれ、いまにいたるまでわからない。
「……おや?」
――いま、回想にしずんで、黙々と塵箱に腰かけたまま煙草をふかしていたふたりの老刑事はこのとき同時に顔をあげた。
枯木がみたのは、路地のかなたから、しのびやかにあるいてくる靴音だった。禿のみたのは、樹立のむこうに、糸のようにかすかに浮かんだ灯影だった。
この猫の子一匹もいないはずの死の町に、まだだれか住んでいる家があり、まだだれかあるいている人間がいる。
「――おたがいに、あまり倖《しあわ》せではない人生だったなあ」
と、男は、女にいって、じっと、その眼をのぞきこんで、微笑した。
「はたから、みればだ」
巨大な男の影は、厚ぼったい防空頭巾をかぶっているために、いっそう巨大な影となって、ユラユラと床を這《は》っていた。なにもないガランとした部屋のまんなかの小机に、おなじく防空頭巾をかぶったまま、女はじっとうなだれて腰をおとしていた。窓はぜんぶ暗幕でふさがれ、また黒い覆いでつつんだ小さな電球のみが、ボンヤリとふたりの頭上にかかっていた。
「が、実際は、おれたちは倖せだった! われわれは、この十何年か、倦《う》むことなく愛しつづけていた。……こんな緊張した、たえず煽《あお》られている炎のような恋をした男と女があったろうか。いまになれば、おれは、その苛烈《かれつ》な風をふかせつづけた外部の力――また運命に、ありがとうと心からいいたい」
女はうなだれたままだった。男は微笑とかなしみをふくんだ声でいう。
「けれど、おれはともかく、きみははたして幸福だったろうか?……それが、おれのながいあいだの疑いだった。疑いどころか、いつしかそれはおれの苦しみとさえなっていた。きみは、おれを、あるいはにくんでいるのじゃないだろうか? とね」
「…………」
「最初、おれの復讐欲をかりたてたのは、むしろきみだった。兄の傷をひとつひとつ指さして、おれの眼をみたのはきみだった。……やさしい、尊敬すべき兄だった。そうでなくとも、この世ではじめて人間の残忍さというものをまざまざとみて、気も狂わんばかりのおれに復讐の出口を指ししめしてくれたのはきみだった。……まして、あの通夜の夜にはじめてみたきみ、世のなかにこれほど美しい女があるだろうかと思ったきみのからだにまで、あの恐ろしい拷問の傷がのこっているのをみては!」
「…………」
「おれは、復讐の獣となった。……半年たって、ひとり、殺《や》っつけた。……そのころになって、女だ、きみは、……じぶんの傷あとがうすれるにつれて、気がくじけて、かえっておれをとめはじめた。おれは田舎者だ。思いたったら、執念ぶかい。いくどか争って、争いのなかに、きみはおれのものとなってしまった。それからだ、地獄のような、が、いまからふりかえってみれば、この世にまたとない甘美な恋がはじまったのは。――そして、外からは、寒風のような追跡の手がふたりを吹きまわしていた。……」
「…………」
「おれは、愛しながら、きみをにくんでいた。兄の復讐をわすれたきみを、またその兄をまだ愛しているらしいきみを。――そしてまた、きみのやさしさ、きみの気品、きみの教養のたかさをおれは恐れていた。ちょうど野蛮人が白人の女を恐れるように。……一年たって、またひとり殺っつけたのは、むしろきみへの反抗だったのだ。そして、きみはおれに屈服させられて、にくみながら……心の底で、愛して――愛していたろうか? おれの野獣のような力、田舎者らしい野卑と無謀さ、それを恐れながら、きみはおれについてきた。もっとも、……お尋ねものとしてはなれることのできないふたりではあったけど、はたしてそれだけだったろうか?」
男は部屋のなかをあるきまわった。
「からみあう恐怖と情欲、闇のなかで抱きあいながら、おたがいに感じている反抗。……それがとけたのは、あの雪の山のなかのことだったね?」
「…………」
「あの冬、われわれは刑事に追われて、はしる汽車から雪のなかにとびおりた。駅も村も路もみな危険だった。ふたりは、手をひきあい、山へ、必死の逃亡をつづけた。……山は、零下十何度だったろう。夜がきた。おれたちは、山のなかの倒木の下の雪を掘って、一夜をあかした。雪の森林に生きているのは、おれたちふたりだけだった。星も、月も、凍りつくようだった。……そしておれは気を失った。そのおれをよみがえらせてくれたのは、きみの肌だったのだ。いや、外套《がいとう》も上着もおれになげかけ、そのうえから抱きしめていてくれたきみのこころの炎だったのだ。……眼をあけて、おれはみた。東の空にさす薔薇《ばら》いろのひかりと、白蝋《はくろう》のようなきみの顔を! そのとき、ひと声鳴いて森林をとびすぎた小鳥の声も、永遠におれは忘れないだろう。……」
男はちかづいてきて、女の肩に両手をかけた。女はかすかにゆれながら、依然としてだまっていた。
「そして、あの空襲の夜、刑事にひかれてわかれるとき、きみがさけんだ、さようなら! という声も」
男の、つよい革のような頬に、かすかにひかるものがあった。
「おれの、きみの愛情に対する疑惑がとけて、胸を火でみたしたのは、あのときだ、あの声だ。あの声は、小鳥の声とおなじく、いったん死んでいたおれの心に、また生命の火をふきこんだ。……おれは、混乱のなかで刑事からのがれて、きみを救いにふたたびかけもどっていった。しかし、きみの姿はすでに見あたらなかった。……そして、敗戦後、きみをふたたび見出したとき、きみは気が狂って、あわれな姿で町をうろついていたのだ。……」
「…………」
「それから、十年、……おれはきみを正気にもどらすため、あらゆる努力をした。無数の医者をたずね、無数の治療をうけた。神にも、仏にも、あやしげな宗教にさえもかかった。……もう警察の追及もなく、おれの知恵はおおっぴらに、麻薬で莫大な金をもうけさせてくれた。ただ、きみのそんなうつろな、かなしそうな眼だけが、おれの力のおよばないことだった。……」
「…………」
「最後に、おれは途方もないことをかんがえた。おれは、あの町とそっくりの町をここにもういちどつくり出そうとしたのだ。あのとおりの家々をたて、ばかばかしいほど安い月賦で……いや、金はどうでもいい、おれの苦労したのは、むしろあの町に住んでいたいろいろな職業とおなじ商売のひとを、加入者のなかからえらび出すことだった。それはうまくゆき……そして、町は古びてきた。おれはあの研究所からペスト菌を手にいれてきて、鼠に注射し、注意ぶかく茹《ゆ》で殺して毎朝この小路のある角になげ出しておいた。計画どおり、大騒動がはじまって、町は今夜からっぽになってしまった。……」
遠くから、夜気をかすかにやぶって、靴音がきこえてきた。
「今夜だ」
男は、ふたたび凄然たる笑顔になった。彼は女の手をとって、しずかに起《た》たせた。
「今夜、もういちど、あの夜を再現する」
コツ、コツ、コツ――靴音はちかづいてきた。女は、だまったまま、ちょっと小首をかしげたようだった。
「おい、きみ、思い出さないか?……あれは、刑事だ。おれたちを追いまわしているふたりの刑事だよ」
靴音は急速調になって、家のまえにせまり――扉がひらいた。ふたりの、枯木のように背のたかい影と、ズングリムックリのふとっちょの影がそこに立っていた。
男は、急に俳優のような表情をきびしく変えて、女の眼をじっとのぞきこみ、そしてゆっくりとふりかえった。
「ははあ、やっと見つけたな」
といって、頭巾のかげで、にやっと白い歯をみせた。
ふたつの影は、放心したようにそこに棒立ちになったままだった。男の眼にちらっといぶかしみの色が――そして、次の瞬間、驚愕《きようがく》の色がながれた。
小声で、
「ほんものか?」
とつぶやいて、しばらくだまりこんでいたが、やがて、いっそう小声で、
「わたしのたのんでおいた、ふたりの刑事役の男はどうしました?」
「あのふたりは、そこの小路でとらえた」
と、つりこまれて、やはり小声でふとっちょがこたえてから、急にわれにかえったとみえて、ツカツカと部屋に入ってきた。
男はまたもとの平静な顔にかえった。ちょっと微笑さえもしたようだった。が、調子は弱々しく、
「実は、われわれはもう三日間、なにもくってはいない。心中の相談をしているところだった。……なるほど、確実に食い物のあるところが、まだあったね」
だれがこれを演技と思おう? 刑事たちは、意識せずして十何年か前のじぶんたちにもどっていた。――おなじだった。すべてはあの夜とおなじことだった。
手錠をかけられて、家を出たとき、はじめて男は女に首をたれて、ふかい声でいった。
「ながいあいだ、ありがとう」
女は、一語ももらさなかった。異様にかんじて、のぞきこんだ刑事は、このとき女の顔が真紅にそまったので、はっとしてふりかえったとき、路地のおくに、赤白い炎がめらめらとあがっているのをみた。
「あれっ、なんだ、あれは?」
「あれは、時限発火装置です。……この町の数十個所の空家にしかけてあるやつが、その時がきたのですな」
と、男がこたえたとき、いっせいに四辺がもえあがって、壁に彼らや樹の影がうつりはじめた。
「これは、いかん」
「はやく!」
刑事たちが狼狽して、手錠をはめた鎖をグイとひいてあるき出そうとしたが、女はうごかなかった。叱りつけようとした禿は、この立場にありながら、思わず息をのんだ。石のように凝った女の、美しく見張った瞳に、身ぶるいするような無限の哀感をみたのである。
女は、はじめてつぶやいた。
「――さようなら!」
そして、その瞳にひかりがもどり、驚愕の表情で周囲の炎をみまわし、もういちど男をみると内部からつきあげてきたように、
「――さようなら!」
と、さけぶと、おぼろにたちこめる夜霧のような煙のなかに、よろよろとくずおれた。……
万丈の炎のなかだった。
ふたりの刑事は、なにか狂乱したように呼びかわしたが、それも数分で、声もからだも、みるみる、炎の風のなかのさけび声、火の湖のなかの木の葉のようにふきちぎられ、もみながされた。
――そして、大通りへ出たとき、女を背におっていた禿は、突然けたたましい声をあげ、背なかの女のからだを地上におろして、しばらくのぞきこんでいたが、ころがるようにはしってきた。
「どうしました?」
ふしぎそうにきいたのは、その大それた犯罪者のほうだった。
「死んでいる」
男は、はっと全身を棒立ちにした。銅像のようにつっ立って、炎の影のもつれる路上をふりむいたまま、いつまでもうごこうともしない。
「こい!」
枯木が、むかし逃げられた記憶におびえて、はっと筋肉をかたくしていたとき、
「いまの……女の眼をみましたか?」と、ささやくように、男がいった。
「いま、さようなら! とさけんだときの。――」
「みた」
「あれは……たしかに、正気の眼でしたろう?」
「正気だったよ。たしかに」
男は、炎のなかに微笑した。
「それで、満足です」
眼の涙に火がかがやいてみえたが、すぐにひくく頭をたれていった。「では、ゆきましょう」
[#改ページ]
女死刑囚
独房に燃ゆる炎
矢貝三千代《やがいみちよ》は、すっと、空中を漂《ただよ》うような足どりで、第三十三房にはいっていった。背後で、あつい扉が重々しく閉められ、骨にふれるような鍵《かぎ》の音がした。しかし、三千代の耳は麻痺《まひ》していた。鍵をかけた看守は、さすがに、いつものように立ちさりかねたものとみえ、五分もしてから、扉の横の細い穴――というよりも、隙間《すきま》から、
「矢貝……なにか、頼みたいことはないか?」
と、しゃがれた声でいった。が、三千代は、蒼白《あおじろ》い仮面のような顔を、ぼんやりと、暗い窓にむけたままであった。
彼女の頭のなかは、真っ白になって、その上に、黒い二本の針がクッキリとうかんでいた。たった今、刑務所長の部屋でみた壁時計だ。――午後六時。
「明朝午前七時、刑を執行する」
その沈痛な声が、所長のあつぼったい、黒ずんだ唇からもれた。その瞬間から彼女のからだは、変なことになってしまった。手足は、もう、自分のものではなくなった。眼は何ものもみえなくなった。……いや、見えなくなったつもりであったのに、網膜《もうまく》は無慈悲なカメラのようにピシャリと、時計の影像をこおりつかせていたらしい。魂は、すでに、肉体の支配者ではなくなっていた。それにもかかわらず、肉体は生きている。真っ白な頭蓋腔《ずがいこう》のなかで、冷やかに、黒い針は、ジリジリとまわりはじめている。
(あと十三時間!)
その恐ろしい叫びを、彼女自身は意識していない。脳髄は、もう麻痺しているのに、「なにものか」が叫ぶのだ。魂は、すでに、覚悟していたはずだった。この半年、この灰色の小さな部屋で、一瞬一刻の休みもなく、自身にいいきかせてきたことであった。
(こんな世界からは、一分でも早くバイバイしてしまったほうがいい!)
だからこそ、裁判のとき、死刑の求刑を無感動にうけいれてしまったのではないか! その裁判は、世の人々を、聳動《しようどう》させたものであった。無期刑の女囚が、獄中で、さらに犯した殺人罪。法廷の底の、どん底に立つ彼女をのぞきこんでいた、傍聴席の無数の眼。愚劣な、いやしい、冷酷な好奇にギラギラと燃える眼、眼、眼!
(なんでもいい! そうよ。あたしは、殺したわよ。四人! それからもう一人! 悪いことは知ってるわ。だから、死刑になってもしかたがないわ。いえ、それがあたり前だわ! だから――曝《さら》しものになるのは、もうたくさん。早く、どこかへ――暗い、暗い、ひとりぼっちのところへ、つれていって、殺してちょうだい!)
そして、彼女は、暗い、暗い、ひとりぼっちのところへつれられてきた。
昭和二十年、北国の、S刑務所のこの独房。
広さ一坪ばかり。房《ぼう》というよりも、石の匣《はこ》といったほうが適当であろう。両側は、厚いコンクリート。廊下に面して、岩のような樫《かし》の扉。それがひらかれるのは、毎日、午後、ほんの十分ばかり。監視のもとに、狭い、なにもない庭に散歩に出されるときばかりだ。まずしい食事と水、排泄物の出しいれには、その扉の横の壁の下に、外からだけ開くようになっている五寸四方の穴がある。その反対の西側には、高いところに、鉄格子をはめた小さな窓があって、晴れた日には、そこから、赤い、わびしい夕日がさしこんだ。
ポーの描いた戦慄《せんりつ》すべき『早すぎた埋葬』の地獄がここにあった。それは、すでに、一個の墓穴だ。内からひらくことのできないという点では、おなじであった。
「人間というものは、どんな状態にでも慣れることのできる動物だが、死刑囚たる運命には、慣れることができない」
と、或《あ》る死刑囚が叫んだそうだが、これはもとより、独房の苦痛をいったのではない。刻々に切迫する死の恐怖をいったのだ。人間が、この世で遭遇するどんな悲惨なことがらでも、まぬがれようと思えば、まぬがれ得ないことはほとんどない。金で、美で、力で、知恵で、あるいは自尊心や、良心の犠牲で。――
しかし、この独房にはいった人間は、正確に、近づいてくる最大の悲惨事、死の運命ばかりは、けっしてまぬがれるわけにはいかないのだ。いかに泣き叫ぼうと、土下座しようとそれからどんなに心から悔い改めようと! ああ、それは、なんという恐ろしい例外であろう……その苦悶《くもん》は、コンクリートの壁をかきむしった無数の爪《つめ》あとにのこされていた。
「ナムアミダブツ」
「バカヤロ」
「早ク死ニタイ」
「死ニタクナイ」
「オ父サン、オ母サン、オカアサン、オカアサン」
「七ジ二〇分」
おお、時計はまわる。ジリジリと、無慈悲に、冷酷に。……この灰色の墳墓で、生きているのは時間のみだ。神話のなかで、古代人が創りだした、どんな大怪物をも超越する恐怖王「時間」!
矢貝三千代は、しかし、この恐怖王すら、冷たい、しずかな眼でみてきた女であった。ずっと昔、なんの時であったか、あの久世《くぜ》牧師が、驚異のひとみ[#「ひとみ」に傍点]を見ひらいてうめいたことがある。――「おまえほどの精神力をもっている者は、男でもめったにないだろう」――三千代は、その意味を、まったく了解することができなかった。ただ、びっくりしたように小首をかしげて、まじまじと、牧師の顔をみつめているばかりであった。(まあ、あたしは、こんなに弱いのに……)そのときの自分の姿を、ときどき、彼女は他人のようにはっきりと思いだした。他人のように――いや、天上の幻のように。おお、何も知らぬあの娘の像は、なんと美しかったろう。
そして、その娘が、たった五年ばかりの間に、なんと変貌《へんぼう》してしまったことであろう。変って――この恐ろしい変転の果てに、彼女ははじめて、自分の精神力の強さを感じた。それが、久世牧師のいった意味のものと同じであるかないかは知らず、彼女はどんよりした軽蔑《けいべつ》の心で、あわれな壁の落書をみてきた。ときには、その落書のなかに混る、ぞッとするほど卑猥《ひわい》な文句に、キラキラする眼を吸いつけて、狂気のごとくひとりで自分の肉体をたのしませることさえあった。焔《ほのお》の息づかいに、笑うような叫びをこめながら……
「殺して! 殺して! 早く、その日がこい! ああ、絞首台! 早く、あたいを抱いとくれ! お前こそ、あたしのほんとうの夫だわ!」
けれど、毎日の深呼吸をするひまもないほどの散歩。あの二丈のコンクリート塀にかこまれた庭の底から仰ぐとき、円い深い蒼穹《そうきゆう》に、いつしか瞳《ひとみ》に漂うようにうかんだ涙は、なんのせいであろう?
死刑は、つねに、朝だときいている。午前十時以前に独房の扉がひらかれたら、それは死神のはいってくる時だときいている。では、毎朝、午前十時までに、どこかで、ガチャガチャと鳴りきしむ鍵のひびきを耳にしたときに、思わず背筋にはしったあのいやらしい悪寒は、なんのせいであったろう?
死に平気であるはずの三千代の――いや、それを待ちかねているはずの彼女の魂の底に、もうひとつ何かがある。黒い模糊《もこ》とした怪物がうごめいている。そいつが、思いがけなく涸《か》れはてた眼にふわっと涙を浮かばせ、背筋に冷たい風をはしらせるにちがいない。
その怪物が、突然、咆哮《ほうこう》しはじめたのだ。「明朝、七時、刑を執行する」と、宣告された瞬間から。
――わわーんと、血も肉も、脳髄もふき倒し、はじきとばす暴風のごとき轟音《ごうおん》。
その音を、彼女だけがきいている。顔は蝋面《ろうめん》のようで眼だけが血ばしっている。うす汚れたベッドに、腰をおろしたまま、徐々に首がうごいて、高い窓をみた。銀河をくぎる、冷酷な鉄格子――逃げることのできたのは、ただ視線ばかり。
おお、銀河! 舞いあがった視線は凍った。空が暮れてきたのだ。頭の中で、時計の針がすすんでいた。午後七時だ。
(あと十二時間)
黒い怪物は咆哮する。ピョコンと三千代は飛びあがった。
「看守さん! 看守さん! 看守さん! 看守さん!」
それは、彼女の声ではなかった。いや、人間の声ではなかった。あの怪物そのものの絶叫であった。
あつい樫の扉は、彼女のからだをはね飛ばした。痛みは感じなかったが、三千代は仰むけに、したたか転がった。青い獄衣の、短い紐《ひも》が、プツンときれて、乳房がとびだした。
看守が行ってしまったのは、どのくらい前であったろう。大声で呼ぶことは、許されていなかった。また、呼んでもきてはくれなかった。用事があるときには、さっき、看守が声をかけた扉の横の、ほそい隙間から、そなえつけの板きれを外の廊下へおとすと、放射状の廊下の中央に立っている監視人がそれをみて、急いでやってくる仕組みになっていた。
三千代は、板きれをひッつかんだ。ばね[#「ばね」に傍点]のように半身をおこそうとしたとき、また恐ろしい叫びが、鼓膜に鳴りはためいた。
「ムダ! ムダ! ムダなことだ!」
一瞬、彼女は正気にもどった。
彼女は、所長室からどうして帰ってきたか、この独房のなかで、今までなにをしていたか、まったく思いだすことができなかった。ムダ! この考えが、はじめて一閃《いつせん》の稲妻のように彼女を正気にもどしたのだ。ムダ! それは世にもっとも恐怖すべき絶望の声であった。次の瞬間、三千代は失神した。ちょうど気をうしなう直前の発作のように、彼女の手足は、ピーンとつっぱり、痙攣《けいれん》し、独房の隅においてあった水を入れた瓶と、便器につかう桶《おけ》がひっくりかえって、床の上にながれだした。
水と汚物にまみれて、半裸体の女死刑囚は、仰むけに転がったまま、死魚のように吊《つ》りあがった眼を、凝然と高い天井にむけていた。完全に、失神しているにもかかわらず、彼女の頭のなかの真っ白な時計を、不吉な黒い針が、徐々にうごいてゆくのをハッキリと知っていた――午後八時へ――
(あと十一時間!)
毒 麦
ヒステリーという病気はけっして女性特有のものではないが、しかし、女に多いことは事実である。そのもっとも重要な、特徴のひとつは、発作がいかにもお芝居じみていることで、周囲の人に、あたしのこの苦しみ、悶《もだ》え、悩みをみておくれ! といわんばかりに大袈裟《おおげさ》にひッくりかえる。この病気の性格は、深く、広く、健全な一般女性の性情に通ずるもので、女の悲喜哀楽の表現は、本人はあくまで、無意識でありながら、かたわらに見る人があるかないかで、その迫真力において、まさに火焔《かえん》と冷灰の差を生ずる。
しかしこの矢貝三千代はヒステリーではなかった。またそばに見ている人は誰もいなかった。銀河きらめく闇黒《あんこく》の宇宙のなかに、国家なるものがつくった罌粟粒《けしつぶ》のような石の匣《はこ》。そのなかで、死神と格闘する小さな女の姿を、天皇も、法務大臣も、裁判官も、無数の民衆も、誰もみてはいなかった。それは、その運命をあたえられた者のほかは、想像さえもできぬ凄惨《せいさん》な魂の世界であった。そして、その痙攣する肉体は若い女性であるだけに、なんという鬼気せまる光景であったろう。
三千代は、星を夢みていた。――いや、夢みているつもりであったが、しかし、彼女はいつのまにかベッドに腰をおろしていて、汚物のついた足を、ぶらんぶらんとふりながら、高い窓の格子越しに星をみていた。
みひらかれた瞳は、いちどもまたたきしなかった。しかも、彼女は、たしかに夢みていたのだ。星から花を、鳥を、雲を、風を、太陽を。――
そして、六月の麦畠をあるいている若い牧師と、少女の姿を。
人は、死の直前の一|刹那《せつな》、おのれの全生涯の追憶を、閃光のようによみがえらせるともいう。この神秘な現象が、死神を扉のそとに待たせた三千代の魂のなかで、いまや、徐々に行進をおこしはじめたのであろうか。
広い天には、陽光と、雲雀《ひばり》の声が満ちていた。ちぎれ雲は雪のように光って、いつまでも、おなじところにじっと浮かんでいた。だが、地上に微風のあることは、野の果てから果てへ、たえず大きな黄金の波紋がわたってゆくことから明らかだった。そして、そのなかを、無数の小人があるいているようなかすかな葉ずれの音が鳴っていた。
しかし、歩いているのは、若い久世牧師と、十八歳の三千代だけだった。
「あら――ここに、変な麦がありますわ」
三千代は、突然、はずんだ叫び声をあげた。
「変な麦? どれどれ……」
のぞきこんだ牧師の横顔は、彫刻のように彫りがふかく頬《ほお》の色は苦行したあとのように青黒かった。その一本の麦はいちめんの黄金のかがやきのなかに薄墨のしみ[#「しみ」に傍点]のように、黒い穂をしていた。
「……ああ、これは粉黒穂病《こくろぼびよう》だね。俗に、クロンボというやつだ」
「伝染しますの?」
「するね。毒粉をとばして、ほかの麦の花にくっつき、これを犯す。――」
「ぬきとってやりましょうか?」
「そうしなさい。もっとも、この様子では、もう毒胞子が散ってるようだが――」
軽くぬきとって、足で踏みつけ、また浮き浮きと歩きだす少女を、牧師はちらっ[#「ちらっ」に傍点]とながめた。何か思いあたったような表情であった。
「三千代!」
と、彼はいった。
「毒麦について、聖書のなかにあるのを知っているかい?」
「ええ――マタイ伝第十三章でしょう?」
「そうだ」
そして、久世牧師はあるきながら、ひとりごとのようにつぶやきはじめた。
「……天国はよき種を畑にまく人のごとし。人々の眠るまに仇きたりて麦のなかに毒麦をまきて去りぬ。苗はえいでて実りたるとき、毒麦もあらわる。僕《しもべ》どもきたりていう。『主よ畑にまきしはよき種ならずや。然《しか》るに、いかにして毒麦あるか』主人いう、『仇のなしたるなり』僕どもいう、『さらばわれらがゆきてこれをぬきあつむるを欲するか』主人いう、『いなおそらくは毒麦をぬきあつめんとて麦をもともにぬかん。ふたつながら、収穫《かりいれ》まで育つにまかせよ。収穫のとき、われ刈る者に、まず毒麦をぬきあつめて、焚《た》くためにこれをつかね、麦はあつめてわが倉にいれよと言わん。……』」
三千代は、黙っていた。明るい、敬虔《けいけん》な瞳に、遠い雲がうつっていた。
「――よき種をまく者は人の子なり、畑は世界なり。よき種は天国の子どもなり。毒麦は悪しき者の子どもなり。これをまきし仇は悪魔なり、収穫は世の終わりなり。刈る者は御使たちなり。……」
「あたし」
急に、三千代は、くつくつ笑いだした。
「あの毒麦をみたら、ある人を思いだしましたわ」
「誰を?」
「はは、あの石川さん。ははは」
「どうして?」
「だって……あの方のお顔、黄色いポツポツがいっぱいあるのですもの――」
男の子みたいな笑い声であったが、かるがると歩いている少女はまるで透明な胡蝶の翅《つばさ》をもつあの希臘《ギリシヤ》神話のプシケのようだった。石川というのは、教会によくくるある病身な母のない娘の父親だった。
久世牧師は、立ちどまって、じっと三千代の顔をみつめてまじめな声でいった。
「三千代……石川さんがお前を奥さんにくれと、なんべんもいってきているのを知っているか?」
三千代は蒼《あお》ざめた。からからと笑った。大きな瞳に、涙がいっぱいうかんだ。
「いや、いや、いや。あたし、いやです」
彼女はとびついて、久世牧師の胸に顔をうずめた。水晶みたいに、あかるく透きとおったこの娘のからだにどこから燃えたつのか、ときどき、こういう風に、ぱっと真っ赤な炎の色の満ちるのは、不思議であった。
「あたし、いつまでも、あなたのおそばにおいて――ね、いいでしょう? ね、いいでしょう?」
三千代は孤児だった。赤ん坊のころ、やはり牧師だった久世の父親にひろわれて、そして久世牧師と兄妹みたいに育てられてきたのだ。抱きとめた久世牧師の腕は、石のようにかたくなっていた。澄んだ眼は深く、のぞき得ぬその底にチロチロと蒼い焔《ほのお》に似たものがゆらめいた。――その瞳のひかりが、急にうごいて、いきなり、彼は叫び声をあげた。
「三千代……あそこに誰かいるよ。倒れている」
「え、どこに?」
ふたりは駈《か》けだした。
麦の蔭に、うつ伏せに倒れていたのはひとりの乞食《こじき》の老人だった。ひくい猫みたいな唸《うな》りをたてている。抱きあげようとして、久世牧師はためらった。恐ろしい襤褸《ぼろ》だ。垢《あか》に黒びかりした襟にはいちめんに白い虱《しらみ》が這《は》っている。そのうえの首すじに、まっ赤な腫物《はれもの》が、鞠《まり》のようにふくれあがって、黄色い膿《うみ》が、いまにもはじけだしそうに透いてみえた。
一瞬、それより早く、躊躇《ちゆうちよ》なく、三千代は抱きあげた。
「おじさん、どうして?」
「さむい、さむい」
乞食は高熱のためにガタガタとふるえていた。少女はしっかりとその老醜の塊を抱いた。
「いたい、首がいたい、いたいよう……」
三千代は、老人のうなじ[#「うなじ」に傍点]の虱《しらみ》のはいまわる大きな腫物――癰《よう》を見て、ひた[#「ひた」に傍点]とそのやわらかい唇を吸いつけた。
うめき声は、消えていた。麦のささやきも絶えた。雲雀《ひばり》はどこかへ飛んでいってしまった。ふかい静寂にみちた世界に日の光は、老人と、少女だけのまわりに輝いているようにみえた。
三千代は、膿を吐きだすために、顔をあげたとき、ながいあいだ、眼をとじて、ふっとひらいたときのように、ほんとうに、まわりの野が薄暗くみえた。そして、その薄暗いなかに、すッくと立った久世牧師の黒衣が、かすかにわななき、眼が、眼だけが、奇妙な青い焔でいっぱいになっているのを三千代ははっきりと見た。
(あたしは、あのひとを恋していたのだわ)
独房の垢《あか》じみたベッドから、ぶらんぶらんと足をふりながら、子供みたいに、あどけない瞳をあげて、女死刑囚は、うっとりとつぶやく。(あたしは、あのころ、そんなことを夢にも考えていなかったつもりだけれど――胸のなかは、ただイエス様でいっぱいのように思っていたけど――ほんとうは、そうだったんだわ。ふ、ふ、あたし惚《ほ》れていたんだわ!)
彼女の唇は、ヒクヒクとひきつって、とつぜん、かなしみと苦悶《くもん》にみちた笑顔になった。
(だけど、あのひとは、あたしを愛……いえ、恋してはくれなかった。そして、あたしは、悪魔のまいた毒麦の毒粉を、とつぜん花にふきかけられてしまったんだわ!)
――まっ赤な夾竹桃《きようちくとう》の花のむらがってみえる、小さな離れ家であった。古い天然痘《てんねんとう》のため、顔じゅう小豆《あずき》みたいな斑点をちらした巨大な野獣は、罠《わな》のように三千代のからだをおさえていた。――ものうい夏の昼さがり。
彼女は叫んだ。泣いた。けれども、その日、彼女を石川家へつれてきた久世牧師は、病身な娘の部屋で、神の福音をつたえるのに一生懸命だとみえて、誰もきてくれなかった。
「神さま、神さま……」
悲痛な哀泣《あいきゆう》の声は、しだいにほそくなってゆき、かわりに怒張した巨大な肉塊の喘《あえ》ぎがたかまり、むせぶような、夾竹桃の香りがうすれ、吐気をもよおすほど強い中年男の腋臭《わきが》の臭いが、離れ家いっぱいにみち、――そして三千代の腰の下で、小さな銀の十字架がぴしっと折れた。
ある雨のふる秋の午後だった。久世牧師の教会で、一組の結婚式があげられた。あばただらけのまんまるい顔に、満足の表情をあふれさせた新郎石川大助氏と、オレンジ色の花を髪にかざった純白の花嫁は、型のごとく指輪をとりかわした。
黒衣の牧師の、厳粛な、錆《さび》をふくんだ声は、薄明るい会堂につたわっていった。
「神のあわせたもうもの、人これを離すべからず――アーメン」
純白のヴェールよりもなお白く、死人のような三千代は、しかし、このとき久世牧師の両眼に、爛々《らんらん》たる青い焔の燃えあがっているのをみとめたのであった。
(よろこんでいたのだ! あたしを追い払うことができて――)
女死刑囚は、ベッドからすべり落ち、床にひざまずき、両掌を胸のまえに組んで、すすり泣くような声をあげた。
(あたしは、あのひとを恋していました……でも、あのひとは神さまでした! 知っていたのです。あたしさえ知らなかったことを――あたしが、毒麦であったことを! だから、だから、あのひとは――)
ボ、ボーッと、大地の底から瀕死《ひんし》の恐竜の叫ぶような笛の音がひびいてきた。三千代は飛び上った、ベッドの上にのびあがって、高い鉄格子の窓に眼をあてた。
世界は闇黒《あんこく》だった。その地の果てを、くわっと、凄惨《せいさん》な火の粉をふきあげて驀進《ばくしん》してゆく列車――それがこの夜の最終の貨車であることを、彼女は知っている。午前零時。
おお、その日がやってきた!
(されば毒麦のあつめられて火に焚《た》かるごとく、世のおわりもかくあるべし――あと七時間!)
吹雪の白鳥
遠くで、不寝番の看守のひとりが大きな鍵束でもおとしたのか、石と金属の衝突する――凄い、鏘然《しようぜん》たるひびきが聞えた。
女死刑囚は、顔にあてていた両掌を、はじかれたようにはなした。一瞬、キーンと脊椎《せきつい》が硬直したが、深夜の刑務所はそれッきり恐ろしいほどの静寂にもどった。けれども彼女は両手を宙にささえ、背を真っすぐのばしたまま、いつまでも真っ赤な眼をみはっていた。
「おまえは男にもめったにないほどの強い精神力の持主だ」と、いつか久世牧師がいった。が、単なる精神力だけであったら、彼女のからだはその瞬間まで一個の石となって、床にころがっていたであろう。精神の歯車は、すでに狂っていた。しかし、狂いつつも不可抗的にまわりつづける焔のような「何か」があった。ああ、彼女がこの「何か」を持ってさえいなかったら、ほかのすべての女のように、平凡な幸福な娘として、平凡な不幸な妻として、生きることができたであろうに!
いつのまにか、三千代の眼はドンヨリとにぶくかがやいて壁の一点に釘《くぎ》づけになり、唇は、ニンマリと弛緩《しかん》したうす笑いを漂わせていた。ふつうの刑務所には、男女の性別があるが、この独房はそれがない。というのは女死刑囚というものは、きわめて稀有《けう》なものだから――おそらく、その石壁の落書きは、いつのころか、兇悪《きようあく》無残の男囚が、ドス黒い、ねばねばする爪で、執拗《しつよう》にきざみこんでいったものであろう。
「××××××××××」
なんという下等な、あさましい、しかも熾烈《しれつ》な情欲の咆哮《ほうこう》だろう! あかちゃけた裸電球の下に、獣のように、うずくまっている男のまぼろしがうかんだ。脂だらけの、木の瘤《こぶ》をおもわせる筋肉、戦慄《せんりつ》する胸毛、鞴《ふいご》のような熱い喘《あえ》ぎ声――三千代は、はっきりと、それを見、それを聞き、それを感じた。
彼女の皮膚は、幻の痛覚と、快美感に身ぶるいし、眼は苦痛と陶酔に血ばしり、喉《のど》からは、うっとりとした叫びがもれた。
「いたい、いたい、いたい……」
「いたい、いたい、いたい……」
血吸い蛭《ひる》にすいつかれたあとのように、ふくれあがって血のにじんだ唇から、三千代はうめいた。たたきつけられた白いバタの塊みたいに横たわった若い妻の姿を、石川大助は貪婪《どんらん》にひかる兇暴な眼と、哄笑《こうしよう》にただれた唇でしゃべりつづけた。
「痛いか? 痛かねえだろう……痛かねえだろう? フフフ。そら、足をもっと――この野郎、どやされるぞ!」
石川大助は、こういう男だった。獣――いや、獣ならばこれほど破廉恥《はれんち》ではなかったろう。彼は女の肉体の抵抗を享楽したが、デリカシイとか、羞《はじ》らいとかいう精神の抵抗は、いっさい認めない。淡雪のような、新妻の魂を、毛むくじゃらの手は、憎しみと嘲《あざけ》りに燃えたって、ひッつかみ、ひきちぎり、すりつぶした。それが機械的に、血いろの焔をあげるまで。
「腕一本でたたきあげた」というのが、石川の口ぐせの自慢だった。が、たたきあげたのではない。ある無線機製造会社の下請工場として、軍需景気のアブノーマルな波にのり、支給されていた莫大《ばくだい》な材料を、敗戦直後のドサクサにまぎれてまきあげた、いわば火事泥的成金にすぎない。酒と、女と、浪花節のほかには、なんの趣味もなかったが、豪放な高笑いは、彼の満身のうぬぼれと満足の表現だった。ふだんは、陽気で、如才がなくて、新しく買いこんだ大きな邸宅の主人にふさわしい威儀を保っているが、酒をのんで、妻と二人になると、息ぐるしい紳士の仮面をかなぐりすてて、無恥な、下品な、兇悪な職人のあばた面があらわれた。
「おッかあ」
と、いうのが、そんなときの彼の妻への呼称だった。
「エヘヘ。おッかあ、そんな哀れッぽい顔をするなよ――」
巨大な腕で抱きすくめて、芋虫みたいな指が、露骨に彼女の全身をいじくり、這《は》いまわり、つねりあげる。悲鳴をあげ、腋臭の臭いにむせかえり、失神しそうになると、勃然《ぼつぜん》として彼は凄まじい憤怒に狂いたつのだった。
「やい、このめす[#「めす」に傍点]! アーメン面はよしやがれ。てめえは、石川大助のかかあだぞ。もちっと、ピンシャンした音をあげてみろい!」
そして、箒《ほうき》でぶんなぐる。水桶《みずおけ》に、首をつきこむ。髪の毛をつかんで、部屋じゅうひきずりまわす――要求どおりめす犬のように這いまわりながら、壁の十字架|磔像《たくぞう》は眼にかすみ息たえだえに、三千代はうめいた。
「いたい、いたい、いたい……」
痛みは、しかし、肉体よりも精神の痛みだった。
人間の悪の、ほんとうのおそろしさは、法律上の大犯罪よりも、きわめて卑小な行為にあらわれる。銀行で、行員を十人毒殺して、大金を強奪しようとした男と、雨戸をとじた真っ暗やみの中で、抱きあってふるえているその犯人の家族に垣根のそとから、「これがあの大罪人の家なんだよ!」と、さも聞えよがしに、わめきたてる女房たちと、その心事において、はたしてどちらが残忍であるか、容易に決定できないものがあろう。
三千代は、夫よりも、その老母を、その妹を、その娘をおそれた。
眼やにをたらした老母は、病的なけちんぼうで、嫁が漬物に醤油《しようゆ》をかけるにも、文句をつけた。自分の義歯で食べちらかした残肴《ざんこう》を、嫁が食べることを強制した。三千代よりも年上の夫の妹は、出もどりで、豚のようにふとったうす馬鹿で、そして、おそるべき同性愛のマニアだった。彼女は、三千代を相手に、愛撫《あいぶ》、抱擁――それから、もっといとわしいことを強いた。夢中になって、あつい舌をたらし、吐きかける熱い息の臭いは、三千代を、阿片でもかぐような吐気と、麻痺感の靄《もや》でつつんだ。病身な娘は、かみそり[#「かみそり」に傍点]みたいに神経質で、泥棒猫のように、猜疑心《さいぎしん》が強かった。彼女の教会通いは、あさはかな愚かしい少女趣味にすぎなかった。三千代は深夜、自分たちの寝室のそばへ音もなく忍びよって、とびだした眼をキラキラひからせ、兎《うさぎ》みたいに耳をたてているその娘の気配をなんべんも全身で感じた。
そして、この三人の共通した点は、夫とおなじく、執拗で意地わるくて、それから、にんにくが大好物なことだった。
「神様、どうして、この人たちは、あたしをこんなにいじめるのでしょう?」
その原因は、彼らが裏長屋から、ほとんど一足とびに、ちょっとした資産家になりあがったという、ばかげた、けれども、深刻な劣等感に根ざしていたのだ。
真の悪は、卑小な行為にあらわれるが、人間を堕落させるのもまたそうである。この不潔な一家の空気は、三千代に、殉教者といった壮烈な忍従をおこさせる余地がなかった。たった一年で、彼女は、まるで腐った果物のようになってしまった。
しかも、そのころから、三千代の肉体が、くびれのできるほどふとり、皮膚が真っ白に、つやつや光りはじめたのはどうしたわけであったろう?
屍体《したい》は、ときに肉体の腐敗ガスのために、まんまん[#「まんまん」に傍点]とはじけだしそうにふくれあがり、巨人のようになることがある。
三千代は、死人ではなかったが、巨人になった。彼女のなかの「何か」が猛然として、真っ赤な炎をあげたのである。いつの日からか、突如として、彼女は「女王」に変った。いまや、相手を馬にして、深夜の部屋をのりまわすのは彼女であった。
「おッかあ、おッかあ、おッかあ……」
あばた[#「あばた」に傍点]だらけの満面に、歓喜と恐怖のあぶら汗をながして這いずりまわる四十男を、娘のような若い妻は、真っ赤に笑《え》みわれた唇で、傲然《ごうぜん》と見おろした。盛りあがった桃色の半円球の乳房、愛欲の焔に燃えたつ双眸《そうぼう》。異様なうめきをもらして、飛びかかる男の腕のなかで、彼女は、哄笑《こうしよう》に爆発するような叫びをあげた。
「いたい、いたい、いたい……」
「いたい、いたい、いたい……」
女死刑囚は、熱病のうわごとのようなうめきをもらしながら、いっしんに、手と身体をうごかしている。ベッドからたらした両脚は、ピクリ、ピクリと痙攣《けいれん》し、足の指はそりかえっている。
ほんとうに、身体じゅうが燃えるようだった。眼はどろんとひかって、なお壁上の落書きにすいつき、頬にはぼうと紅《くれな》いがみなぎっている。一坪ばかりの、冷たい石と鉄格子に鎧《よろ》われたせまい独房には、汚臭とまじりあって、息づまるような女の香りが充ち満ちた。もし、扉の横のほそい隙間《すきま》から看守がのぞきこんだなら、赤ちゃけた裸電球の下で、恍惚《こうこつ》と酔いしれたような女死刑囚の顔に、彼は、あさましさや、淫蕩《いんとう》の印象を感ずるどころか、かならずや夢幻の鬼気と荘厳さにうたれたであろう。
けれども、女死刑囚は、肉体の底から燃えあがるなまぐさい炎の舌のあいだから、たえず隠見する死の時計の白い文字盤を、じっと見つめている。いや、それは、頭蓋腔《ずがいこう》の内側にしがみついている。
午前三時。
(あと四時間!)
突然、彼女は、自分の足もとに、真っ赤な花の咲いているのをみた。彼女は、指を灯にかざした。それは血であった。
――吹雪だ。
薄暮の天地をうずめて粉雪はひたばしり、石川家の窓という窓にふきつけた。
けれどもその部屋の窓ガラスだけは雪を溶かし、蝋《ろう》のようにながしつづけていた。大助は、汗をふきながら、獣じみた笑い声をあげた。
「三千代……おめえは、変ったなあ!」
「誰が変らせたの」
三千代も笑いながら、答えた。内臓と内臓が、ドロドロになって吐く息までが夫に似て、まるで腐ったようなのが、身の毛もよだつ快感であった。
「猫をかぶっていやがってよ。猫――なんとかいったっけな、ほら、――ウフ、聖処女よ。それそれ聖処女……一皮|剥《む》けあ、とんだケダモノだ。さすがは久世牧師のおしこみだけあらあ」
また、まきつこうとする腕をふりはらい、三千代は一歩あとずさった。
「いま、なんていって?」
「久世牧師の、おしこみかい? おい、変な顔をするない。そうだってよ。久世さん、このごろ、薄汚ねえパン助に夢中だってよ。――娘がいってたよ。あはは。アーメン――てなことをいって、もっともらしい面《つら》をしている奴《やつ》にかぎって、えてしてそんなものさ」
大助は、眼をむきだして、ふと、壁の十字架磔像を見、いきなり腕をのばして、それをつかむと、たのしげに、嵌《は》めこみ煖炉《だんろ》の角にうちつけた。茨《いばら》の冠をつけた小さな基督《キリスト》の首は、とんだ。
血の気をうしなった三千代の唇から、かすかな、ひとりごとのようなつぶやきがもれた。
「ちがうわ――」
「なにがよ? ちがやしねえ。久世牧師だって、おめえとおなじだ」
「ちがうわ。あたしと――その女のひとは、その女のひとは、きっと……」
三千代は凝然と宙に眼をすえていた。それからいった。
「毒麦じゃないのでしょう……」
「……おい、三千代。どこへゆく?」
大助は、恐怖の叫びをあげた。しかし、三千代は、ふりかえりもしないで、ツカツカと部屋を出ていってしまった。
三十分ばかりのち、吹雪の町の薬局で、青酸カリを買って去った女があった。「うち[#「うち」に傍点]の犬がねえ。このごろへんに気があらくなって、さっきお義姉《ねえ》さんの手に噛《か》みついたのよ。怖いから、もう殺しちまえって主人がいうもんですから……」この客の言葉を薬局の主人は疑わなかった。
三千代はどうして死ぬ気になったのか自分でもわからなかった。
渦まく吹雪は、感じなかった。吹雪は胸に吹きあれていた。眼は無限の闇をみつめ、人間的絶望の悲叫が頭のなかをうなりすぎた。
(毒麦、毒麦、毒麦、毒麦)
突然、彼女は、何かにどしん[#「どしん」に傍点]とぶつかって、薄い紙きれのように膝《ひざ》をついた。
「あっ――失礼。大丈夫ですか?」
おどろいてそばによってきた人影の声に、彼女は電流にふれたように、ピョコンと半身をおこした。息もできなかった。
「どうしました?」
「久世さん!」
三千代は絶叫し、すッく[#「すッく」に傍点]と立ちあがって、じっ[#「じっ」に傍点]と相手の顔をみた。吹雪のなかに、その眼は夜光虫みたいに光った。
「おや――なんだ。三千代か、どうしたんだ?」
「あたしと、一しょうに寝てえ――」
と、彼女はいった。なんともいえない、ひくい、気味わるい声だったが、彼女は、乳房をすりつけるようにしがみつき、熱っぽい果花酒のような息を吐きかけた。
「あたしと、一しょうに寝てえ――」
狂人じみた、必死の叫びだった。淫婦三千代の、一滴の血、一片の肉をあげての媚態《びたい》であり、おそろしい誘惑だった。が、
久世牧師は一歩さがった。すると、その背後によりそっていたもうひとつの人影があらわれた。パーマのかげがかすかにゆれると、その女は、甘い、可愛《かわい》い声でいった。
「先生、こわい――早くゆきましょうよ」
久世牧師は、うなずいて、もういちど、三千代を見すえた。突然、からからと彼は笑った。舞いあがり、吹きちる粉雪のなかに、その清冷な眼に、また、あの青い焔《ほのお》に似た光が燃えたった。彼はしみいるような声でいった。
「三千代、イエス様の教えを、わすれたか?」
「ああ――」
三千代は、火にふかれたように、面を覆うた。
やがて、彼女が、血ばしった眼をあたりに投げたとき久世牧師たちの姿はもうみえなかった。けれども、三千代の網膜には、あの見しらぬ女の黒い影が、不吉な焼あとのようにクッキリとのこっていた。
彼女は、あるきだした。彼女は、はじめて、自分が前から久世牧師を恋していたことを知った。人間的絶望は、恋の絶望へと転換した。
すると三千代は、突如として、ある人々に対する爛《ただ》れるような呪《のろ》いと怒りに全身がしびれてきた。
(おお、あの、いまの軽蔑《けいべつ》の眼! あたしを、そんな汚ない、あさましい畜生にしたのは、誰なんだ?)
――一時間ののち、石川家の食堂に、血泡をふいた四つの死骸《しがい》がころがっていた。寝る前の団欒《だんらん》、テーブルの上にのこった茶碗《ちやわん》は、ただ一個。あとの四つは、ことごとく床にくだけ散っていた。
青酸カリの小瓶を抱いたまま、三千代は、痴呆のような瞳で、ふりしきり、また霏々《ひひ》としてふりしきる窓の吹雪を見つめていた。
夜は魂ほどに暗くない
――蛇よ、蝮《まむし》の裔《すえ》よ。なんじは白く塗りたる墓に似たり。外は美しくみゆれども、内は死人の骨と、さまざまの穢《よご》れとに満つ。
大いなるひき臼《うす》を頸《くび》にかけられ、海のふかみ[#「ふかみ」に傍点]に沈められんかな、なお益なる、極悪の化身、無期刑の女囚矢貝三千代。
五百人の蜉蝣《かげろう》にも似た女人の群れを、二丈の石塀と鉄窓でとりかこむ女子刑務所の檻房、廊下、作業場に、彼女のゆくところ、いいしれぬ冷炎のような妖気《ようき》がただよう。女囚たちは、法の権威を鎧《よろ》った婦人刑務課長よりも彼女をおそれた。
そのむかし、江戸|伝馬《てんま》町女牢でも男囚のいる大牢とおなじく牢名主《ろうなぬし》というものがあって、平の女囚の生殺与奪の権をにぎり、鬼神のように恐れられていたそうだが二十世紀半ばの現代でも闇暗淵《やみわだ》に水天の別あるがごとく、そこには、やはり女王と下婢《かひ》がある。――そもそも、人間を野獣のように鉄の檻《おり》にいれるということが、二十世紀らしからぬ文明ではないか?
あるいはそれは、遠心|沈澱器《ちんでんき》にかけられた排泄物のかたちづくる層のようなものであったかもしれない。そして、むかしの女牢の層は、もちこんだ金《ツル》と、娑婆《しやば》でやってきた悪事で位どりが決定したが、いまはただ女囚同士の人間的または非人間的な気魄《きはく》がそれを左右する。
五百人の受刑者のうち、懲役十五年以上の者は、わずか五、六人にすぎなかった。のこりの大部分は、せいぜい窃盗か、詐欺の罪であって、その動機は、生活苦かあるいは男との共犯によるものだ。彼女たちは、ここにいる以前から、すでに社会の石臼におしひしがれているか、または、強烈な男の盾をうしなって、さむざむとふるえている影のようなものだった。このような、女囚たちの眼からみればひとりで四人の人間を殺害してきたという無期の矢貝三千代はまさに、メデュウサのような神話的魔女として映ったのもむりではない。しかし、なお恐ろしいのは、その罪名よりも三千代の「人間」だった。
彼女にじっとみつめられる者は、まったく凍りついて石になるような思いがした。しかし、彼女はほとんどほかの女囚をみなかった。三千代の眼は、この世のものならぬものを凝視していた。――真昼でも闇を。
空漠とした果てしれぬ夜霧のかなたを、掻《か》きさぐるようなその眼――それは、人間の眼ではなかった。この女だけがもつ「何か」の閃光《せんこう》のようであった。女囚たちは、三千代をみるとき、なんとなく、絶望の壮観といった印象にうたれるのだった。
――このT女子刑務所の檻房は、終戦後、だいぶ解放的になって、窓の鉄棒は、むろんはずされなかったけれど、廊下むきは大部分障子になっていた。もっとも、その廊下の両端は、頑丈な鉄の格子にふさがれていたけれど、とにかく廊下からちょっと見たところでは、むしろ、女工の寄宿舎といった感じをあたえるのだった。が、ごく一部の檻房はむかしのまま、廊下の側も、ふとい木格子がはめられていて、二十畳敷きの内部には、三十人あまりの女獣が、垢《あか》じみた肉体と肉体、魂と魂とをかさね、擦《こす》りつけ、かきむしりあって、そのどちらからも粘液的な異様な匂《にお》いをむんむん[#「むんむん」に傍点]と立ちこめさせているのだ。
矢貝三千代はそんな雑居房のひとりだった。彼女は口争いもせず、身の上ばなしも聞こうともしない。黙っている。それでいて、もっとも兇悪《きようあく》だった。ときどき、羽毛をとばして蹴《け》りあう闘鶏みたいな女囚同士のとッくみあいが展開されるとき、とめもせず、はしゃぎもせずに、そばで傲然《ごうぜん》と見おろしている三千代の姿は、地獄の女王を思わせた。夜の悪癖の伝播《でんぱ》者もまた彼女だった。どのように淫蕩《いんとう》な女でも、まだ娑婆の男からあたえられたことのない腰髄が、ドロドロになるほどの魔法をかけられて、永遠にアブノーマルな女になって出ていった。
ある秋の午後、その雑居房に、新しくひとりの若い女囚がはいってきた。
音羽ハルミという女で、懲役五年、与太者の情夫を殺した闇の女ということであったが、とても、そんなふうには見えなかった。というのは、狐みたいに痩《や》せた、そばかすのある、影のうすい女で、新入りには、異常な好奇心をもつほかの女囚たちが、二日ばかりで、無関心になったほどだからだ。
しかし、よく注意してみると、ハルミは、なかなかぬけめがなく、小ずるいところがあった。みんなから馬鹿にされ、あるいは、相手にされなくとも、絶えずそこらをウロウロしてきき耳をたて、いやな笑いをうかべ、声をかけられると、わざとみんなが笑うような、下品な、とんまなことを言い、そして、なにか施し物をもらった。刑務所のなかにも、乞食はあるものだ。
「ハルミちゃん!」
ある日、三千代が、きっ[#「きっ」に傍点]としていった。
「雀のご飯たべたのは、あんたね?」
「雀のご飯って、なんのこと?」
ハルミは口をとがらして、そらッとぼけた。知らないはずはない。それは三千代が、自分の食事の一部分をそっと檻房にもってかえって、毎日、窓の鉄格子の外へのせておくものだった。彼女は、ほかの女囚たちのことより、雀に心をうごかされているようだった。
一口にもあたらないそんなものを盗み食いするものは意地きたない音羽ハルミのほかには誰にもできない芸当だった。が、それを「食べない」とはいわないで、毎日みていることを「知らない」と頭からとぼけるところが、彼女の愚かしいずるさをあらわしていた。
「虫ケラ」
三千代はつぶやいて、いきなりツカツカそばへよると、ぴしッとハルミの頬《ほお》を打った。三千代が手をあげたのはこのときはじめてだった。ハルミは、しくしく泣きだした。哀れッぽく、耳にからみつくような声でいつまでも、いつまでも。――
ところが翌日、ハルミはまたけろりとした顔で雀のご飯を盗み食いした。隅のほうで、ニチャニチャと口をうごかしながら、じっと見ている三千代の視線に、あわててのみこんだが、すぐに、いつものように奇妙に浮き浮きした様子で、ほかの女囚たちの、ものわびしいおしゃべりに首をつっこんでいった。
三千代の瞳に、はじめて、憐《あわ》れみと、驚異と、そして、神秘的な光がうかんだ。
彼女は、ハルミを、窓のところへよんだ。鉄格子のすぐ外には、ビショビショと、腐ったような初冬の雨がふっていた。恐ろしそうにやってきたハルミに、三千代は、別人のように、おずおずした調子でたずねた。
「ハルミちゃん……あんた、ちっとも、苦しくはなさそうね……」
「あら、なぜさ?」
「だって、ほかの人たち、やっぱりどっか寂しそうでしょう?」
「そうかしら? そうね、あたい、解放されたんだからね」
「解放?――ここへ?」
「ええ、そうよ、肺病の男からね。――あれは、ほんとうに疫病神《やくびようがみ》だったよ。血ばかり吐いて――新宿で、ちょいと売れた顔だったんだけど、ああなっちゃァ、男は、もオシマイだわね。執念ぶかくて――」
「肺病の男――って、あんたの殺《や》ッつけたっていうひとのこと?」
「そうよ。五年たって、ここを出ても、もうあいつがいないと思うと、心ウキウキだわ」
「――あんた――けど、怖くない?」
「なにが? ユーレイ? そう、ときどき夢にみてうなされるの。良心があるのね。だけど――」
「いえ。幽霊よりも、人殺し――」
「三千代さん、こわい?」
「いえ。あたし、怖くない!」
「あたいも、こわくない。だって、あの人殺し、神様のためだからね」
「神様のため、っていうと?」
「ウフ。神様って、いっても人間さ。神様を商売にしているひと。あたい、先生と呼んでたけど、キリスト教の牧師さんね」
「牧師さん……」
「まあ、話せば長くなっちまうけど、あたい、ある晩、町んなかで倒れていたの。胃|痙攣《けいれん》でね。そしたら、先生がみつけて、助けてくれたのよ。それから、仲がよくなっちゃってね。先生、ひどくあたいを気の毒がって、なんべんも、あたいのアパートへきてくれたわ。なにか、ありがたそうに、キリストさまのお話をしてくれてね。――うち[#「うち」に傍点]のひとも、はじめは、向うは商売だ。できるだけふンだくってやれ、なんてゴホンゴホンやりながら、算盤《そろばん》をはじいていたけど、そのうち――なにしろ、そんな病気でしょう? 神経がヘンになっているものだから、ウフ、嫉《や》いてきたのよ。だって、牧師さんていったってお爺《じい》さんじゃないの。まだ若い、ちょっと苦味ばしったいい男なの。ほんとうをいうと、嫉くのもむりもないことあるわ。あたい、いっぺん、その牧師さんにキスしてやったことがあるの。――だって、あんまり世話になってさ、あたいだって、良心のトガメを感じてね、でも牧師さん、まんざらでもない顔だったわ。あんなまじめな顔してても、本心はあたいに惚《ほ》れてたのかも知れなくってよ。あたいは、それほどじゃないんだけど。だって――あの事件がおきたあとで、牧師さん、びっくりして、S市へ逃げていっちゃったけど、そのときあたいを警察にたずねてきて、釈放になったら、きっと、S市へやってこいって言ってくれたもの。だから、あたい、ここを出たら、ひとまずそこへ行ってみるつもりなの。――ああ、そうそう。それでうちのひとがヤキモチ嫉いてさ。あげくのはてが今夜、今夜あいつがきたら、殺してやるって騒ぎになったのさ。それから、あたいと匕首《ドス》のとりあいになってね。けっきょくあたいが殺《や》っちゃったのさ。あたいが、もしパン助なんかじゃなかったら、もっと罪がかるくなったらしいんだけど――ああ、ああ、つまンないったらありゃしない!」
「ハルミちゃん。――その牧師さん、なんて名のひと?」
「久世牧師さん――あら、三千代さん、どうしたのよ? 唇が真っ白だわ――」
その翌日、音羽ハルミは、矢貝三千代に殺害された。
造花の作業場から、めいめいの雑居房への帰り路。両側にひろがる雨の庭と鉄柵《てつさく》でへだてられた石の廊下で、突如として物凄い悲鳴があがった。前後左右をそぞろ歩いていた女囚たちと婦人看守が、色をうしなってかけつけたとき、あおむけに倒れたハルミのうえに馬のりになった三千代は、どうして作業場から持ちだしたのか、鋭い鋏《はさみ》を、相手の喉《のど》ぶえに突きたてていた。わっわっわっと、ハルミがわめくたびに、血が、三千代の顔といわず、桃色の棒縞《ぼうじま》の囚衣といわず、いちめんにはねかえった。
ワナワナとふるえる犠牲者のからだを、ぎゅっと、抱きしめるようにして、真っ赤に染まったこの兇行者は絶叫していた。
「蛆虫《うじむし》、蛆虫、蛆虫、蛆虫、蛆虫」
「蛆虫、蛆虫、蛆虫、蛆虫、蛆虫」
腿《もも》の内がわからふくらはぎへひいた血の糸は、すでにドス黒くこびりついていた。そのため、いっそうヌメヌメと、白くあぶらづいてみえる膝のあたりを、機械的になでさする動作をくりかえしながら、夢遊病者のように女死刑囚はつぶやく、蛆虫。蛆虫。白い肉を、赤い血管を、紫の肺臓を這いまわる幾百万の蛆虫。脳のひだひだ[#「ひだひだ」に傍点]をうごめく蛆虫。
頭のなかに、微光がさしてきた。幻の時計は、ぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするほど、あざやかに黒い針をまわしている。――
午前五時。十分……二十分……三十分……死ぬ! 死ななければならぬのだ! 死そのものよりも、このなければならぬ[#「なければならぬ」に傍点]ということが、鉄の罠《わな》みたいに魂をしめっけ、息もとまりそうだった。死とはなんだろう。無数の蛆虫――それ以外のどんな想念もうかばなかった。彼女はまえから自分の罪が死刑に値いするものであることを、みずから肯定していた。しかし、それは――いまはそんな秤《はかり》はくだけ、ぼやけ、ただ、
(わかりました! そうです、あたしが悪いのです! どんな罪でもうけます! けれど、死ぬことだけは! どんな地獄でも、もう一日、たった一日を!)と、いう叫びが、熱鉄の塊みたいに、喉につまっていた。が、それが飛びだすとたんに、
「わあっ!」というわめき声に、爆発しそうだった。
鉄窓に、冷たい光が、きのうと同じようにながれていた。
――遠くから、重い扉が開いたり、閉じたりする音。鉄の閂《かんぬき》や、海老錠のきしる音、誰かの腰にさがっている鍵束のがちゃつく音が、しだいしだいに近づいてきた。そして、死の使いの跫音《あしおと》が、扉のそとにとまった。
最後の審判
赤い吹出物のでた、まるい看守の顔を、ひとめみた瞬間、なぜか、三千代はにやっと笑った。人間のみが持つ打算的習性の恐ろしさよ! この女死刑囚の、まぼろしのうす笑いは、彼女が、看守からあるものを期待する最後の愛嬌《あいきよう》笑いであったのだ。
――いまの彼女に、それ以外の商品がなにひとつあるか?
なにを三千代は期待したのか? 死刑の恩赦か、それとも延期か。いやいや、彼女は、死の使者の顔が扉からぽッかりとあらわれた刹那《せつな》、卒然として、衝撃的な飢餓感情につきあげられたのだ。
――あたしの生命は、いったいなんだったのでしょう。――
その疑問への解答だった。
昨夜から今までいったい自分は何をしていたか。その記憶は空白であった。さあっと背すじを這《は》いのぼった冷たいものは、凄《すさ》まじい死の恐怖よりも、まずそのことだった。何をしていたのか、このあたしは、何をしていたのか。おお、生まれてからいままで、あたしは何をしていたのか。――
死刑囚に、にやっ[#「にやっ」に傍点]と笑いかけられて、看守もにやっ[#「にやっ」に傍点]と笑った。本能が、あわてて死刑囚の商品をかえすことを命令したのだ。そして、彼は、ひくい、気味のわるいほどやさしい調子でいった。
「お迎えにきました。すぐにいって下さい」
「はい!」
と女死刑囚は平板な声でいった。舌はそれきり上顎《うわあご》にくっついてしまった。
彼らは、薄暗い廊下へ出ていった。跫音は、まったく聞えなかった。だが、一歩ずつ、一歩ずつ近づいてゆくのだ。死の場所へ――今だ、たずねなくてはならない。何か、しゃべらなくてはならない。何か、何か――三千代はしかし、自分の問わなくてはならぬことが何であったかも忘れてしまった。もう、頭も、手も胴もなかった。ただ二本の足だけが歩いていた。
長い廊下の、或《あ》るはずれに、アーチ型の、厚い木製の扉があった。生と死の境壁――それは開いて、きしみつつ閉じられた。
今や、矢貝三千代は死刑場にいた。
そこは、灰色の高い石塀にかこまれた砂地で、隅にふたつの小さな小屋があった。艶《つや》のない、わびしい、荒涼とした瓦《かわら》と木の色であった。
そして、その背後には、蒼い朝のひかりのみなぎりわたった春の大空があった。女死刑囚は、失明したように眼をとじた。ふかい宇宙の果てから、美しい雲雀の声がかすかにひびいていた。
小屋の前に、群がっていた五、六人の、男たちのなかから、一人、こちらへセカセカと歩いてきた。
「矢貝――心しずかにしてな。心をしずかにしてな――」
昨夜、法務大臣の名において、死刑執行をつたえた刑務所長の声だった。三千代は、眼をひらいた。はじめて、五人殺しの女囚にふさわしい怒りと呪《のろ》いの炎がその眼にひらめいた。
所長は、顔をそむけて、口早やにいった。
「最後の祈りをしていただく牧師さんが、急病とかいうので、かわりの方がおいでになるはずです。まだおみえにならんが――あそこにいられるのが検事さん、お医者さん、それからあれが――」
所長は口ごもった。頸のうしろに肉の瘤《こぶ》のある、ふとった猫背の老人が、じっとこちらをみつめていた。それが、何者であるか知るよりはやく、その不吉な黒い像に、三千代は、悪寒のようなものを感じた。
「それでは――おい、看守。代理の方が教会からおいでになるまで、矢貝を礼拝堂に待たせておきなさい」
三千代は看守につれられて、左の方の小屋に入った。
暗い内部の正面には、小さな祭壇がしつらえてあり、聖母子像と、十字架が、燻《いぶ》し銀色にかがやいていた。これは受刑者の希望いかんによって、あるいは仏壇となり、仏像ともなるものだ。その前に、水瓶とおはぎ[#「おはぎ」に傍点]を五つばかり盛った皿があった。
三千代は、吐気がし、船酔いのような眩暈《めまい》を感じて、そばの小さい椅子《いす》に腰をおろした。
彼女は、首をたれて、眼をつぶった。闇暗のなかに、なにか網膜をひき裂くように、チカチカとひかる火花をみ、耳は蜂の羽にたたかれているように鳴っていた。
――その耳鳴りにまじって、誰か、さっきからいっしんにぶつぶつささやいている声がある。教誨師《きようかいし》だ。とうとうやってきた! いつのまに入ってきたのだろう? 三千代は、その牧師がなにをしゃべっているのか、まったく聞いてはいなかった。
「あなたは、用意していますか?」
その声に、彼女はぼんやり答えた。
「しています」
しかし、なにも、用意なんかしてはいなかった。なんの用意? 旅の、――いや死の! 冷たい汗が全身にながれ、女死刑囚は、混沌《こんとん》たる麻痺《まひ》的な眠りからさめかかった。
「あなたは、神を信じますか?」
「信じます」
なかば眠った魂から、すがりつくようなつぶやきがもれた。けれども、なにも信じてはいなかった。そういえば、この恐ろしい出来ごとをまぬがれ得るような気がしたからだった。……いや、あたしは、ずっと前に、なにか信じていたっけ――おお、そうだ、イエス様を!
突然、彼女は、眼をぱっちりひらいた。彼女は身ぶるいした。憤怒の叫びがほとばしり出た。
「いえ! 信じません」
相手は黙りこんだ。二分、三分、凝然と立ちすくんだまま息をとめてこちらを透かしてみている気配に、女死刑囚は面をあげ、電流にふれたように立ちあがった。
「あなたは――」
「お前だったのか! 三千代、お前だったのか――」
驚愕《きようがく》のうめきをあげ、よろりとなった久世牧師の瞳に、この刹那《せつな》、ぽっと燐光《りんこう》にも似た青い焔がうかんだようにみえたが、そのひかりは弱々しかった。
彼女は、石のように立ちすくんだまま、いつまでも、身じろぎさえしなかった。ふかい沈黙ののち、女死刑囚はすすり泣くような声をもらした。ずっとむかしの、清い、可憐《かれん》な三千代の声だった。
「久世さん――さようなら――」
「死刑囚はお前だったのか。三千代! お前は死ぬのか!」
苦悶《くもん》の亀裂《きれつ》のはいったようなあえぎをじっ[#「じっ」に傍点]とみて、女死刑囚は微笑した。その唇から、濁ったドス黒い声がにじみ出した。
「久世さん。あたし、娘のころ、あなたに惚《ほ》れていたらしいわ。でも、ダメ。あたし、毒麦だったんだから、
――毒麦、毒麦がイエス様のお心通り、火に焚《た》かれるときがきたんだわ」
「毒麦はわたしだ」
久世牧師は両腕をねじりあわせた。
「毒麦は、このわたしだよ。三千代。聞くがいい。わたしもお前を愛していた。しかし、それ以上に嫉妬《しつと》していたのだ。誰に? 神に!」
女死刑囚は、かすかな叫び声をあげた。眼がはりさけるほど見ひらかれた。久世牧師は、歯ぎしりし、身もだえし、傷ついた獣のようにしゃべりつづける。
「おぼえているか? 三千代――いつか、六月の麦畑で、お前が乞食の老人を抱いて、その膿《うみ》を吸ってやったことを。――そばに立ってみていたわたしはなにを考えていたか、それは、あの『野の百合を思え、労せず、紡《つむ》がざるなり。されどわれなんじらに告ぐ、栄華をきわめたるソロモンだに、そのよそおい、この花のひとつにもしかざりき』という主《しゆ》のみ言葉だった――その出来事ばかりではない。お前はすきとおるほど清い少女だった。生まれながら、天に祝福された娘のようだった。それにくらべて、このわたしは――神学の秘奥をきわめても、心の底に澱《おり》のようにこびりついた毒粉を、どうしても去ることができなかったのだ! わたしは、それを意識していた。苦しんだ。血の涙をながした。それでも、わたしは、悪魔《サタン》のまいた毒麦であるという自覚から逃れられなかった。実際に、わたしはそうだった。嫉妬に狂って、その後、わたしは、お前に何をしたか――わたしは、お前を、わたしの線までひきずり落してやろうと決心したのだ」
久世牧師は、両掌で顔を覆うた。
「わたしは、豚に真珠を――お前を石川という男にあたえて、ズタズタにひきちぎらせた。ああ、天使のような魂が、獣の泥足で真っ黒に汚され、地獄へ堕《お》ちてゆくのをみて、わたしの心が、どんなに凄まじい歓喜に震撼《しんかん》したか。このような恐ろしい、奇妙な、邪悪な歓喜を経験したものが、いままでこの世にあったか――三千代、わたしは毒麦だ。わたしこそ、神にそむいた毒麦だった!」
牧師は、床に膝をつき、女死刑囚の両脚をかき抱くような手つきをした。
入口に看守があらわれて、この姿に眼をみはった。が、すぐに法の僕《しもべ》の眼にもどる。
「――時間です」
それに気づかず、久世牧師は、腸《はらわた》もちぎれるような声でうめく。
「三千代。しかし、わたしはやっぱりお前を愛していたのだ! お前を遠ざけてから、わたしは、色々な人間に慈善をほどこしてきた。わたしよりもなお下等と思われる人たちに福音をのべ、いやしい満足を買おうとつとめてきたのだ。が、心は休まらぬ! 魂にあいた暗い穴、そこには、いつもお前のまぼろしがあった。哀しい、美しい、お前の顔が――ああそのお前は、今――ゆるしてくれ!」
法の僕は、地団駄《じだんだ》をふむ。
「――時間です」
女死刑囚は、うなずいた。が、眼は、なおじっと、前方の宙にそそがれていた。
その下には、頽《くずお》れた久世牧師のからだがある。しかしその上に、すッくと立っている薄い黄金色の幻影があった。やがて、彼女は、うたうような声でいった。
「やっと、わかったわ。あたしが、今まで恋してきて血まみれになって、汚すまいと思いつづけてきた方が――」
女死刑囚はその黄金色の幻影に、甘い、熱っぽい微笑をなげ、しずかに礼拝して歩みだした。
絞首台。それは、右のほうの小屋である。
瓦をのせた屋根の真下から垂れさがっている二すじの縄を仰いで、女死刑囚の眼はほほえんだ。けれども、その全身の皮膚はそそけ立った。
立会席にすわっている検事と、刑務所長に目礼すると、彼女は草履をぬいで、はだしになり、一歩一歩、しずかに台の上にのぼっていった。
台の下は、地面ふかく掘られ、汚物を水で洗いながせるように、コンクリートでかためてある。その底に、もうひとつの小さな穴があるのは、受刑者の脱糞をうけるためのものであった。
台上にのぼって、女死刑囚の眼は、思わずつぶられた。
天井から吊《つ》りさげられた直径一寸の太縄をつかんでいるのは、あの頸《くび》に瘤のある、猫背の老絞刑吏だった。
縄の輪になった部分は――おお、いままで、何百人の人間にまきついたことであろう? すりきれて、血のしみが黒くくッついていた。
医務官は、すでに石段をおりて、台の下の地階で待ちうけている。
絞刑吏は女死刑囚の頸に縄の輪をかけた。
「イエスさま……」
胸に十字をきるより早く、刑務所長が片腕をあげた。絞刑吏の手がうごいて、テコがひかれると、女死刑囚の立っている床が、パタンと下にひらいて、黒い縄が蛇のようにおどり、一瞬、ピーンと垂直にのびた。
魔王も面をそむけるだろう。見よ! 穴の底におどり狂っている犠牲者の肉体、あたかも透明な怒濤《どとう》につきあげられ、つき落されているよう。顔は紫色にふくれあがり、眼球はとびだした。痙攣のためころがりだしたまるい一方の乳房の乳くびは、苦悶に勃起《ぼつき》し、白い柔かい頸にめりこんだ縄のふちから、真っ赤な血がにじみだした。
それでも、まだ身体はゆれている。波うっている! 五分……十分……パァク、パァクとひらく唇から痙攣的にすいこむ息は、しだいに弱まり、鼻孔から、膿のような洟汁《はなじる》がながれだし、足の指は、足裏のほうへ弓のごとく反って、パリパリと、蹠骨《せつこつ》が肉をやぶるような、かすかなひびきが聞えた。
十三分……巨大な重力と、小さな肉体との、凄惨《せいさん》きわまる格闘はおわった。穴のなかの医務官が叫んだ。
「絶命しました」
けれども、その瞬間、女死刑囚の魂は、真っ白な翼をひろげて、かるがると、蒼《あお》い、高い天へ翔《か》けのぼっていった。同時に、立会席のうしろで、はげしい音をたてて大地へ倒れた者がある。久世牧師であった。
七時十五分。
[#改ページ]
跫 音
「なんだ、それじゃ、おめえ、建築屋の外交員じゃあねえか」
と、秦《はた》は美しい顔で笑い出した。
「大きな図体をしやがって、いってえ何者だろうと思ってたよ、ぷっ、笑わせるなあ。なんのこたあねえ、てめえの商売の注文をとりたくって、あの奥さんからたのまれたのか」
「いや、そういうわけでは……」
と、渋川十作《しぶかわとさく》は赤面した。四十すぎても、なんでもないことに赤面するのが、この男のひどくじぶんでも恥ずかしがっているくせだったが、この場合はほんとうに耳まであかくなった。しかし、その赤面の理由は、相手のいったようなことではない。なるほど、その役目をあの奥さんからたのまれたにはちがいなかった。それをひきうけて、わざわざ町から菓子まで買ってこの男を訪ねてきたのは、いかにも吉岡《よしおか》家から月賦建築の契約をとりたいからには相違なかった。しかし、そればかりではなかった。彼は、あの奥さんの依頼を、それがなんであろうと、はたしてあげたかったのだ。あのきよらかな眼をくもらせていた痛々しい苦しみをぬぐいとってあげたかったのだ。……そして、これは彼じしんもまだ気がついていないことだったが、あの奥さんは、彼の少年時代ほのかに恋をしていた町長のお嬢さんに似ていた。
「だめだね」と、秦は、いままでの哄笑《こうしよう》がどこかへいったかと奇怪なくらいに、さっと冷酷な表情になって、唇をひんまげた。
「あの手紙は、わたせない」
「まあ、そういわないで……お金ですむことなら、なんとかして、と向うさまもおっしゃってるんですから。……」
「金? お金ですむことなら、いくらでも、とはいわんだろう? はははは、むこうのいうのは、せいぜい三万か五万なんだ。もっとも旦那《だんな》が大学の先生なら、女房のへそくり出せるなあ、それくらいなもんだろうよ。……金はもうあきらめてるんだよ、こっちは」
と、秦はいって、煙草をくわえながら、うす笑いした。
商売柄、押問答にはなれていたが、この相手のうす笑いには、十作の唇を凍りつかせるようなものがあった。……アパートの窓に、春の雨の音がたかくなった。
「いってえ、おめえさん……その手紙というやつあ、どんな手紙か、知ってるのか」
しばらくして、ニヤニヤしながら、秦がいった。
「いえ、ただ……わたしの手紙をもらってきてくれとたのまれただけで……」
「ラヴ・レターだ」
「へえ?」
「あの奥さんが、むかしおれにくれた恋文だよ。それが、なみたいていの恋文じゃない。いまでも、その手紙を抱いてねていると、からだじゅうムズ痒《がゆ》くなってくるような手紙だ。……これだがね」
と、机のひき出しから、手紙の束をとり出して、そのなかの一通をひきぬいて、ポンと指ではじいた。どれどれ、と眼をまるくして手をさし出す十作から、
「おっとっとっと!」
と、秦は手紙をうしろへひいて、
「これをわたしてなるものか」
「あんた……それを、どうしようっていうんです?」
と、渋川十作は息をのんだ。秦はのっぺりした顔で、また美しく笑った。
「どうしようって……吉岡の奥さんが、それだけこいつを欲しがることをかんがえてみりゃわかるじゃないか。おれの人生の歓《よろこ》びの……源泉ってえやつにするのさ。ここにあるのは、吉岡の奥さんの手紙ばかりじゃない。ほかに二十……三十何人かわすれたが、みんな、いまいいところの奥さんの手紙さ。そして、みんな、おれと寝たことがかいてある」
美しいが、兇相《きようそう》であった。
「人生の歓び……フフ、あんまり人生の歓びに縁のなさそうな面《つら》だな。え、おじさん、つまり、色と金だがね。この手紙さえあれば、金はいくらでも入る。この手紙を、亭主にみられちゃ、身の破滅だからな。なに、嫁にいってから姦通《かんつう》したというわけでもない。ふるいむかしのことさ。だがね、たいてい口をぬぐってお嫁にいって、十何年かお澄ましで暮らしてるだろうよ。そこへ、この手紙がもち出されると、だな。それで万事終りだ。亭主がどう思うか……理窟《りくつ》はともかく、もう夫婦のあいだに、永遠の地獄が入りこむなあ。そう考えると、どの女も二十万や三十万くらい無理しなきゃいかん義理があるというわけだ。なかにゃ吉岡夫人みてえに、金をつくれず、ただ手紙をかえせかえせと虫のいいことをいうのもある。そういうのには、そうさな、しようがねえから、色のほうで、人生の歓びをあたえてもらうことにしているんだ。あははは」
唄をうたっているようだ。
「おめえとおれとは、年|恰好《かつこう》も似ているようだからいまさら訓戒もおかしいが、人間、若いときに、せいぜい善根や資本をつんで、老後の倖《しあわ》せや蓄えをしておくべきもんだな。ほんとうにたすかるよ。……おめえ、じぶんのいいつかってきた用事の内容もしらないほどのとんまらしいが、おれがいったい何者だと思ってるんだ?」
十作は、声もなく顔をふった。恐怖よりも吐気をかんじてきた。
「それもしらないのか。こいつあ、あきれた。おい、おらア詐欺師だ。去年の暮、刑務所から出てきたばかりの男だぜ。……手形詐欺でくらいこんで出てくりゃ、むかしむかし、十五年も二十年もむかしの結婚詐欺のもとでが利子をつんで待っていたというわけだ。実際のところは、べつにこんな手紙をつかうつもりでとっておいたんじゃあねえが……出てきたばかりで、世間のようすもよくわからないし、古くさい手だが、と苦笑いしいしい、この債券をひき出してつかってみたら、有効、有効、まるで打手の小槌《こづち》だな。こいつあやめられねえ、というわけだ」
笑ったはずみに、電燈に、鬢《びん》にまじった白髪がひとすじキラッとひかった。悪徳と頽廃《たいはい》に、かくせぬ皮膚のおとろえをみせながら、この色魔のきゅっとさけた唇は、血をなめたように赤かった。
ポカンと口をあけたままの渋川十作に、秦はくだらぬおしゃべりをしすぎたと、ちらっと悔いたらしい。急にあごで扉をさして、
「帰ンな、おじさん」
と、冷たくいって、そっぽをむいた。
「そういうわけで、手紙はわたせないんだ」
「……あんたは……わるい人だな」
と、あえぐように十作はいった。
十作はあきれていたのである。苦しい、お話にならぬほど苦しい人生を経験してきた十作ではあったが、こんな悪党にはまだ会ったことがなかった。というより、こんな派手な悪党とゆきあうべき、彼のいままであるいてきた路は、あまりにもみじめな、地味すぎるものだったといったほうがよかろう。
「それじゃあ、世間に害をするためだけに生きているようなもんじゃ。そんなに、人さまを苦しめて……世間さまに申しわけないと思わないですか?」
おそろしくまじめな眼に凝視されて、秦の顔に、最初十作の大きなからだがこの部屋に入ってきたときにみせた狼狽《ろうばい》とたじろぎがまたあらわれたが、ふと、
「世間さま?」
と、つぶやいて、或《あ》る想念にとらえられたらしい。にやっと笑った。
「世間さまか。……可笑《おか》しいことがある。悪いことをした野郎が……銀行ギャングだろうが、公金横領で女とさんざん温泉をにげあるいた奴《やつ》だろうが、強姦殺人犯だろうが……つかまらんうちは、どんな悪党だろうとこっちでたのしみなくらいだが、いざつかまってみると、みんなばかのひとつおぼえみてえに、世間さまに申しわけがない……ときやがる。あれあ、どういうはずみでいうのかな? ひとりくれえ、ザマあみやがれ、どうだ、おどろいたろう、とか、もういちどやってみてえ、とか、胸のスッとするようなせりふを吐く奴が出てきそうなもんだと思ってるんだが……、フ、フフ、だから、おじさん、おれは世間さまに申しわけがねえ、なんてこけ[#「こけ」に傍点]みてえなことはいわねえよ。金輪際、思わねえさ」
ちらっと腕時計をみて、
「あ、また……馬に念仏をきかせちまった。おじさん、帰ってくンなよ。もう、ここへやってくる人間があるんだ。じゃまッけだよ。……おっと、風呂敷《ふろしき》。なんなら、菓子もかえしたっていいぜ」
と、菓子折をつつんできた風呂敷が、机の上においてあったのを、ポンとほうった。
「はははは、この手紙のとりもちにくっついた女のひとりがな!」
十作は、風呂敷を手でもみくちゃにしていた。
「十年か二十年まえに、おれに処女をささげた娘……それが、いま人の女房になって、ションボリと、また身もだえして、おれに抱かれにやってくる……。こんな面白さ、たのしみは、ちょっと世のなかにゃないねえ。……」
突然、渋川十作は、地ひびきをたててたちあがっていた。かっと、全身が真っ赤な炎につつまれたようだった。――あとで考えても、じぶんでもわけのわからない衝動だった。彼は、生まれてから、まだほんとうに怒ったことのない人間だったのだ。いや、怒ろうと思って、地団駄《じだんだ》ふんでも、どうしても怒れない人間だったのだ。それが、まるで、くさい、ねばねばする毒液の霧をふきつけられた昆虫のように――いや猛獣のように、反射的な怒りと憎しみと嫌悪にはねあがって、その風呂敷を、秦のくびにまきつけていたのだ。
「申しわけがないといえ!」
しぼり出すようにうめいた。
「せ、世間さまに、申しわけがないといえ!」
驚愕《きようがく》にむき出された秦の眼球に、恐怖のあぶらがながされてまわった。かっとひらいた口のなかで、舌がヒラヒラとうごいて、なにかいおうとした。
……せけん、さまに……
「この悪党めが! この悪党めが!」
十作は絶叫しつづけた。風呂敷をつかんだ指が、汗と脂肪にヌラヌラすべりそうなのに歯をくいしばって、十作は、万力のように秦にのしかかっていた。
……もうし、わけが……
舌がうごかなくなり、眼球がまっしろになると同時に、秦のからだから急に力がぬけ、重くなった。はっとして手をはなすと、彼はドタリと床にくずれた。
手をはなすと?――いや、渋川十作は、まだ数分間そのままの姿勢でいた。まるで空気をにぎりしめているように、両こぶしで空をつかんで立っていた。ただ肩だけが、大きく浮動していた。息が、ふいごのようにあついのに、下半身から、すうっと悪寒がはいあがった。彼は、床にころがったままの相手を見下ろし、幻影でもふりはらうように、はじめて両手で空をかいた。秦はうごかなかった。
……殺した! 人を、殺してしまった!
遠いところで、美しいチャイムの音が鳴っていた。それは、夜ふけのデパートの時計塔のひびきだった。十作は、いまじぶんが夢をみているのだと思った。すると、頭のおくにけぶるように吉岡夫人のかなしげな眼が浮かんだ。
……警察へ。
十作は、ガクガクとあるき出した。膝《ひざ》が、機械人形みたいに音をたてた。それでも、この中年男は、机の上から秦のおいた手紙の束をとって、ポケットにいれた。それは、たしかにこの夫人たちをさらしものにしたくないという心からだったが、それでは、じぶんのもってきた菓子折を小わきにかかえたのは、どういう心からであったろう?
……警察へ。
しかも、十作はまだ心のなかでこう叫んでいる。まるで、夢遊病者のようだった。
突然、秦の唇がきゅうとつりあがったようにみえた。彼は息をひいてたちすくんだ。錯覚だった。いや、錯覚ではなかった。死人のまっしろにむき出した眼球に、ポチッと真っ赤な血の斑点《はんてん》がにじみ出していた。それは、すうっとほそい糸をひいてながれおちそうにみえた。十作は、わあっとさけび出したいような恐怖に背をつきとばされて、部屋をよろめき出した。
アパートの廊下には、人影はなかった。玄関を出ると、雨が額と手をうった。
無意識的に菓子折をかかえこもうとして、彼は電撃されたようにたちどまった。死人のくびにまきつけたままの、じぶんの風呂敷を思い出したのである……。しかし、もうそれをとりにかえる気力はなかった。雨のなかを彼ははしり出した。うしろで誰か呼んだような気がした。が、彼はただころがるようにはしった。背にふりそそぐ春の夜の雨を、火のように熱くかんじながら……。
「D町に兇悪《きようあく》殺人。
二十五日夜八時ごろF区D町X番地Gアパート七号室で、無職秦康正氏(四二)が絞殺されているのを、同アパート管理人五十嵐喜蔵さん(五七)が発見、F署にとどけ出た。警視庁では、捜査一課、鑑識課員が急行、検視のうえ、同署に捜査本部を設け、殺人事件として捜査を開始した。
調べによれば、秦氏は七時ごろ同アパート前の食堂で夕食をとり、すこし酔って帰った姿を目撃されており、それ以後同氏を訪ねた何者かの兇行とみられているが、犯人の姿をみたものは誰もいない。秦氏はK大学中退のインテリであるが、以前より詐欺の常習犯であり、旧臘《きゆうろう》刑務所を出所したばかりで、その後の生活もあいまいで、犯人はその面の関係者とみられ、当局ではすでに数名のブローカーを容疑者として追っている。……」
――ふとわれにかえって、渋川十作は、新聞から顔をあげた。
「もうご飯はいいの?」
と、細君のかね子が、ふしぎそうにこちらをのぞきこんでいた。中学一年の男の子と、小学校四年の女の子は、まだ餓鬼のように茶碗《ちやわん》をかかえこんでいるし、生れてまだ一年半の女の子は、いつものようにちゃぶ台の上をひっかきまわしていた。
となりの三畳では、もう腰もたたない老母がまだねむっている。
「ご飯のとき、新聞みるの、あんなにいやがってるくせに、何サ……そんなに面白いこと、のってるの?」
と、眼をまるくして、
「あら、また人殺し?……いやあねえ。……でも、新聞、ときどき人殺しがのらないと、おもしろくないわね」
「お茶をくれ」
と、十作はかすれた声でいった。
「どうしたの? ご飯一杯だけじゃあないの?」
「胃の調子がおかしいんだ」
「まあ、そういえば、顔いろがわるいわ。……あんた、きのう遅かったけど、どっかでのんできたんじゃない?」
「ばか、そんな金があるか」
「そりゃそうだけど……めったなこと、お菓子なんか買ってきてサ、なんだかあやしいわよ。男なんて、外で何してるかわかりゃしないんだから」
十作は、息をつめて、細君の顔をみた。ふるえる声で、
「おれが、外で、なにをした?」
「あら、ま、あのしんけんな顔!」
「お母さん、お菓子」
と、箸《はし》をなげ出して、男の子がいった。いまの話で、昨晩父がもってかえった菓子のことを思い出したのである。すると、女の子もおなじように、
「あ! そうだ! お菓子ちょうだいよ、お母さん!」
「まあ、いまご飯たべながら、なによ。……学校から、かえってから! ね! ほんとにお菓子なんか買ってくるのはたま[#「たま」に傍点]だから、子供までこのさわぎだわ」
「ひとつだけ、ひとつだけでいいんだよ」
「ばか、よせ!」
と、十作はたたきつけるようにわめいた。
……捨てるつもりだった。実際に、彼はあの手紙の束は途中の公衆便所にすててきた。
が、菓子だけはもってかえった。父性愛というより、ただもったいないからだった。そして、あんな場合にも、そんなけちな感情のすてきれないじぶんが、ぞっとするほどうとましかった。子供たちは、ほとんど落ちたことのない父のかみなりに、キョトンとしている。――が、すぐに父が、ガクッと肩をおとして、うつむいてお茶をのみ出したのに安心して、また母にせがみはじめ、はては、男の子はかってに戸棚の上から菓子折をとりおろしてきた。
小さな菓子折にむれている三人の子供たちの姿を、十作は高熱患者のみる幻影のようにながめていた。子供たちのつかみ出し、ほおばる菓子に、むっとするような吐気をおぼえながら、制止の声は出なかった。……だんだん彼の眼は涙ぐんできた。なんとじぶんの家庭は幸福であったことか! 昨日までなら、ただうるさいと叱《しか》っていたこの喧騒《けんそう》が、なんと天使の乱舞のようにみえることか!
苦しい、この十年だった。……ビルマからなかば腐ったかぼちゃ[#「かぼちゃ」に傍点]のようなからだで復員してきてから、彼は七回職業をかえた。最初、或《あ》るマーケットの事務員になったが、同僚が経理をごまかしたのを、じぶんが責任をおって、くびになった。そのときの負債で、彼はあとあとまでひどく苦しんだ。それから、いもあめの製造をやり、せんべい屋になり、つくだ煮屋になり、ワイシャツの露天商になり、ことごとく同業者やはては小僧にまでだまされて、失敗し、一時は、或る球場にちかい空地の掘立小屋の部落にまで住んで、ニコヨンになった。おどろいたことに、税金だけはここまで追いかけてきたし、或るときは、高級車がつながって、どこかの国の賠償使節団が見物にやってきた。そのあわれな生活をみせて、すこしでも賠償をまけさせるかけひきをしようという国の役人の猿知恵らしかった。……そのくせ、国はこの部落に、すくいの手ひとつさしのばそうともしなかった。……
そして、やっといまの建築会社の外交員の職を得たのである。彼はじぶんに商売の才能のないことはとっくに思い知らされていたし、からだが大きいから、むしろニコヨンにこそ安住の感を得ていたが、湿地帯のせいか細君のからだがわるくなって、イライラするし、おいおい子供も大きくなってきたので、かくてはならじと勇気をふりしぼって、ともかくも洋服をきるいまの仕事をみつけ出したのだった。
場末のN町のボスといわれる男のやっている会社で、よくかんがえてみると内容のあやしい建築会社ではあったが、どういうものか彼の鈍重な風貌《ふうぼう》を信用してくれる契約者が次つぎにあって、歩合ばかりだが、いまではともかく、それなりに安定した生活だった。
――可愛い女の子がうたっていた。
「灯《あかり》をつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
きょうはたのしい 雛《ひな》まつり。……」
壁ひとつへだてたとなりのラジオだった。十作の家には、まだラジオがなかった。菓子をいっぱい口にほおばった男の子が、ふいにまるい顔をあげていった。
「うちにもラジオがほしいな。……お父さん、千五百円……千円でもいいよ。秋葉原の電気屋の町へゆくとね、材料うんとやすく売ってくれんだよ。ぼく、携帯ラジオくみたてるよ。……よっちゃんのも、正男くんのも、ぼくがくみたててやったんだよ」
四年生の女の子がうたいはじめた。
「おだいりさまと おひなさま
ふたりならんで すまし顔
およめにいらした ねえさまに
よく似た官女の 白い顔。……」
あかんぼうがヨチヨチとあるいてきて、十作の口に、まめつぶのようにちぎった菓子のきれをおしいれようとし、気がかわって、彼の大きなひざに、チョコンと坐《すわ》りこんだ。無意識的にゆすぶりながら、十作はうつむいていた。
「あなた……どうしたの? 泣いてるじゃあないの?」
「泣いている?……う、うん」
彼は、狼狽して、苦しそうに笑った。
「どういうものかな。あんな年ごろの子供の歌をきくと、なんだか涙がでてくるんだよ。……年のせいかしらん」
彼は、心のなかで、絶叫していた。
……つかまるものか! おれは、つかまらないぞ。あんな悪党、この世の害虫とひきかえに……おれがつかまれば……この子供たちが……つかまって、たまるものか!
蕭《しよう》 条《じよう》たる春の雨のなかを、一日じゅう渋川十作はあるきまわっていた。安物の靴のなかは、もうビショビショだった。契約をとりにまわっていたわけではない。彼は、どこをあるいたか、ハッキリおぼえがないくらいだった。雛の節句がちかく、どこをあるいても、あの平和で可憐《かれん》な唄声がきこえる。
「金の屏風《びようぶ》に うつる灯を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか
赤いお顔の 右大臣。……」
――十作は、少年時代を思い出した。いたずらをして、父に叱られるのが恐ろしくって、日のくれるまで田舎の町の裏通りをあるきまわった想い出を。……全身が熱っぽく、酔ったようだった。いくらわれにかえっても、あのことは、夢だ、恐ろしい夢だというかんがえに、すぐおちこんでゆくのだ。この大きなからだをしているくせに、臆病でのろまで、悪事はおろか、公園に紙屑《かみくず》ひとつすててゆけないじぶんが、人を殺した?……そしてまた、そこで、はっとわれにかえって、血管のなかが凝固するような感覚にとらえられたのだった。なんたるばかな! じぶんの欲で、強盗でもはたらいて人殺しをしたというのならともかく、よその奥さんの、ばかばかしい恋文をとりかえすために、はじめて会った人間を殺すなんて。……
彼は、あの吉岡の奥さんのところへ足をむけようとはしなかった。そんなことは、チラリとも思いつかなかった。いったいあの奥さんは、じぶんが秦のところへいったことすらまだ知らないかもしれなかった。家をたてたいといっているということをきいて、契約をとりにいって、押問答をしているうち、ヒョイと、あの男のところからわたしの手紙をとってきてくれたら契約してもいいといい出したので、あい、ようがす、と簡単にひきうけてしまったにすぎないのだから……。それには、十作が以前に、その秦という男のいるGアパートちかくの黒田という家に、月賦建築のことでなんどか足をはこんだことがあるので、その町になじみのあるせいもあった。……いまから思うと、なるほどふかい知り合いのだれにもたのめない用だった。また夫人は、彼の大きなからだにしみついた善良さと質朴さと……あるいは愚直さをかんじとったのかもしれなかった。それにしても、昨晩、すぐ秦のところへいったとは知らないはずである。吉岡夫人をたずねることは、じぶんの犯行を告白にゆくよりほかに用はなかった。そして、殺人をうちあけて、夫人にたすけをもとめたり、いわんやおどしたりするような度胸は、十作には、さらにない。それどころか、この期《ご》におよんでも、彼はあの奥さんにわずらいをかける気には決してなれなかった。
「ちょっと、おうかがいしますが」
と、突然、学生に声をかけられた。
「Q町へはどういったらいいのでしょうか」
「はあ。……」
彼は夢からさめたようにたちどまった。いったいに彼は、人によく路をきかれる男である。路をききやすい人相というものがあるらしいのだ。
「はあ、それは……ここをまっすぐにゆくと、右側に銀行がありますから、そこをまがって、一丁ほどゆきますと、小学校があります。そこを……」
と、いいかけて、突然彼は息が苦しくなった。おれはなにをしているのだ。こんな場合に、のんきそうに人に路をおしえてる。……
「そこで、だれかにきいて。……」
と、彼はポツンといって、フラフラとまたあるき出した。――吉岡夫人を知らなければ、だれもじぶんがあの男をたずねたことは知らないはずだ。あんな男とじぶんとは、なんのむすびつきもない。……だいじょうぶだ。げんに朝刊にも、容疑者として数人のブローカーを追っているとあったではないか? ……しかし、アパートからにげるとき、うしろで誰か呼んだような気がしたが……あれは、おれを呼んだのだろうか? あれは誰だろう? あれはなんの声だったろう?
「新聞」
彼は、ドキリとしてむこうをみた。
向いの小さな本屋のはしで、もう夕刊を売っていた。彼はみたくなかった。しかし、彼は、ノロノロと吸いつけられるように、そっちへあるいてゆかずにはおれなかった。
夕刊を買って、しばらく早足であるく。物蔭へいってガサガサ音をたててひらくと、ぎょっとするような文字が眼にとびこんできた。
「重大な手がかり、首をしめた風呂敷」
と、いう大きな見出しである。
「朝刊既報、F区D町Gアパート殺人事件について、F警察署の捜査本部では、けさ早朝から活発な捜査をつづけているが、被害者秦氏のくびをしめた風呂敷は、犯人のものと断定、これを警視庁鑑識課にまわして慎重に調査している。……」
活字の大きいわりあいに、記事はそれだけで、あとは、秦のところへ出入りしていたブローカーたちを、某、某、某と、名はあげないで、その人間の素行や風評や輪郭をつらねていた。……しかし、渋川十作は、全身しびれたようにつっ立っている。
風呂敷。――いちど、とりにかえろうとした風呂敷だった。そのいちばん恐れていた証拠のことを、いままでポッカリ頭のなかに穴のあいたように忘れていたのが奇怪だった。……それは、もっとも嫌悪すべきものを忘却の霧へおいこむ人間の深層心理の神秘なはたらきからくるものであったが、そんなことは知らない十作は、ただ愕然《がくぜん》としてたちすくんでいるだけである。そうだ、あの風呂敷。……しかし、あれが、おれのものだとわかるだろうか?……色は青と思い出したが、模様はどうしても浮かばなかった。いつどこで買ったか、じぶんでも知らないありふれた代物である。五、六年まえからあったようだが、なんども洗って、模様どころか、色さえもハッキリ青とはいえないほど褪《あ》せた風呂敷だった。それに最近、あれに液体とか匂《にお》いのつくようなものをつつんだ経験はない。……うしろの洋裁店から、またあの歌声がながれてきた。
「着物をきかえて 帯しめて
きょうはわたしも 晴れ姿
春の弥生《やよい》の この佳《よ》き日。……」
くそ! と十作は、唇をかみしめて、あるき出した。あの風呂敷で、なにがわかるか?
アリバイ、その言葉を、彼も知っていた。そうだ、それでも、あの晩、どこにいたか、どこか確実によそにいたという証拠を、いまのうちにつくっておかなくてはならぬ。万一、万一のばあいのために。……
しばらくたって、渋川十作は、親友の金沢《かなざわ》をたずねていった。これは小学校時代の同窓で、若いころにはおたがいにあまりよくないあそびもやった仲である。……それどころか、ずっと以前、十作がマーケットの事務員をやっていたとき、経理をごまかして、彼をたいへんな目にあわせた男というのが、この金沢だった。その金沢も、このごろは、じぶんでやっている塗料屋がうまくいって、すっかりおちついた。
「おい、いやにしずんでいるじゃあないか?」
と、しばらく話しあったあと、金沢は木の実のように小さい眼でのぞきこんだ。十七貫あるという細君も、大味な笑顔をかしげて、
「そうね、ビール、ちっとものまないわね。……」
「実は、ちょっとたのみたいことがあってきたんだが」
すっと金沢夫婦の顔がくもった。おたがいに眼を見合わせ、
「なんだい」
「実は……まずいことがあるんだ。或る女がいて……女房に知られたくない女がいるんだが……」
突然、金沢夫婦は、けたたましい声で笑い出した。予期していたたのみのはずれた、世にもうれしそうな笑い声だった。
「なんだ、そんなことか! きみに? へへえ……こいつはおどろいた」
「だから、男にはゆだんがならない。いったいだあれ?」
「いや、それはそのうちに……とにかく、いまのところ、こまっちまった……昨晩なんだが、昨晩の七時ごろから八時ごろにかけて……わしが、ここにいたということにしてくれんだろうか。……あとで、だれがきいても、だね。……」
「はははは、だれって……おかねさんだろ? いいよ、いいよ、ひきうけたよ」
と、金沢がなお相好をくずすのに、細君が大きな眼をむけて、
「いけませんよ、渋川さん」
と、切口上でいった。
「え、ど、どうして?」
「おかねさんにわるいじゃあありませんか?……あたしなんか、ふだんゆききしてるのに、それがもしあとでわかったら、あたしまでグルになっておかねさんをだましてたようで、うらまれるわよ」
「い、いや、それは、決してばれることはないと思うが……」
「いいえ、ばれます。悪事はきっとばれずにはいませんよ」
細君はあきらかにじぶんの亭主のほうに釘《くぎ》をさしていた。しかし、十作はのどをつまらせてしまった。細君は、ひとりで昂奮《こうふん》して、
「ああ……だから、男にはゆだんがならない。あんたなんか、うちでいうことも、どこまであてになるんだか……渋川さん、こんなまじめくさった顔してて、けっこう悪知恵を出すんだもの。……」
「おやおや、えらいほうにとばッちりがきたもんだ」
と、金沢は、ビールであかくなったくびをすくめたが、この大柄で勝気な細君に完全に一目おいている彼は、それっきり十作にたすけ舟を出さなくなってしまった。細君は、急にきみわるいほどの笑顔をつくりながら、
「ねえ、渋川さん、わるいけど、それはどこかよそさまにたのんでくれません? もうおたがいにいい年なんだし……家庭だけはちゃんとして……せめて、渋川さんとこは、やましいところのない、きれいなおつきあいをさせて下さいよ、ね、さあ、おビール、おひとつ、いかが?」
「Gアパート殺人事件に重要目撃者出現か」
二日めの朝刊は、渋川十作ののどのおくから、思わず奇妙なうめきをもらさせた。
「Gアパート殺人事件につき、当夜八時ごろ犯人らしい者をみたと証言するものが出頭し、捜査本部を緊張させている。
捜査の都合上まだ名はあきらかにされないが、事件当夜、同アパートちかくの文房具店Kさんの妻Tさんが、同アパートからはしり出てきたビニールのレインコートをきた大男を目撃、うしろからよんだが、にげるように足早にかけ去った事実があり、これは同女の知っている某月賦建築会社外交員に似ていたというので、当局はこれに相当の信憑性《しんぴようせい》をみとめ、本部ではがぜん色めいている」
郵便受けの函《はこ》の傍に立っている十作の手から、新聞がおちた。――呼んだのはあれだったのか! あのときおれを呼んだのは、気のせいではなく、あの女だったのか!……この記事にある文房具屋Kさんとは黒田さんにちがいない。もっとも黒田さんというのは、文房具屋ではなくて、パン屋だった。
両足が氷柱《つらら》のようになって、ポキリとおれそうだった。
……警察へ。
そう、鉛いろの唇をわななかしたとき、彼はふっと顔をあげた。それから、もういちど新聞をみた。妙なことに気がついたのである。
この新聞はいつ印刷されたのか。朝刊は十三版だった。十三版の〆切がいつか、そんなことは彼は知らないが、ともかく真夜中に刷られたにちがいない。そして、ここにかいてあるようなことは、いうまでもなく、すくなくとも昨夕のうちにわかったことにちがいない。それなのに、どうしておれをつかまえにこないのだろう?
まだ朝はやく、世間はしんかんとしていた。遠くで、国電のはしる音がきこえるだけだった。彼はまだ夢をみているような錯覚におちいった。このしずけさが夢か、この新聞が夢か。それとも……あの殺人が夢なのか?
理性が、すぐに、そのいずれもが夢ではないと教えた。しかし、なにかが狂っていた。どこかに、たしかにあり得ないことがあった。……ひょっとしたら、おれのあたまが狂っているのではなかろうか?
「お父さん、おばあさんが呼んでますよ」
と、細君がツンケンと呼んだ。
「……お?」
「また、お墓のはなしでしょう」
このごろ、床についたままの老母は、まるで鸚鵡《おうむ》のように、田舎のお墓のことばかりいった。呆《ぼ》けているせいもあるが、心配らしいのだ。ときには、朝はやくからさえずりたててもてあますこともあった。死んだおじいさんの墓石もまだたてていない。わたしの眼のくろいうちにつくっておくれ。……そして、わたしの墓石も。……
それは、田舎の町はずれの、小山のてっぺんにある墓地だった。いつも風がふいていた。そこからみると、寂しい、鉛色の海がうすら日にひろがっていた。少年のころから、十作には、すでにそこが死後の世界のように恐ろしいものに思われた。……しかし、いま、十作は、なぜかその寂しい風景が、前世のようになつかしかった。心がだるく、つかれはてて、一日もはやくその日だまりのふところにあたたかく抱かれたいような気がするのだった。
「おじいさん」
十作は、ぎょっとした。うすぐらい三畳の垢《あか》じみた夜具のなかで、しなびてあかんぼうのように小さくなった母は、眼をひろげて彼の顔をみていた。
「おじいさん……」
彼女はまた呼んだ。
うっとりした声だった。……あきらかに、じぶんの子を、じぶんの夫とまちがえているのだった。
「もうすぐ、ゆきますからね。まってて、下さいよ。……あの山の上へ……十作が、ふたつ、りっぱに墓石をならべてたててくれるそうですからね……」
十作は、声もなく、二度、大きくうなずいた。よし、よし、というように。――
彼は老母の呆けたあたまに、なぜじぶんが父にみえたか、その恐ろしい意味を知らなかった。彼は、この二夜のあいだに憔悴《しようすい》した。顔かたちより、その内部のものが、糸のようにやつれはてていた。おぼろな母の脳は、そこに老衰した彼の父の顔をみたのではなかろうか。……あるいは、死の影を。……
しかし、十作は、その刹那《せつな》から、心のなかのほそい糸が、白金《プラチナ》の線のように白熱するのを感じた。そうだ、おれはこの母をやすらかに死なせて、あの山の上へふたつ墓石をたてるまでは。――それから、いつかじぶんが平和に死んだ人間として、そこへかえってゆくまでは!
あの新聞記事は、なにかのまちがいかもしれない。そうでなければ、いまこうしてじぶんが無事であるわけはない。……万一まちがいでなくとも、なにか警察がおれをつかまえにこない理由があるのだ。そのあいだに、おれはもういちど勇気をふるいおこして、のがれる準備をしておかなければならない!
――その夜、十作は、また一日じゅう無意味な歩行に時間をつぶして、或るアパートをたずねていった。町はまだ雨がふり続いていた。むろん、夕刊を買った。夕刊には、こんなことがのっていた。
「疑問重なるアパート殺人」
と、題して、
「発生以来三日目をむかえたGアパート殺人事件のF署捜査本部では、昨日出頭した犯人目撃者Tさんの証言を重視しているが、なお容疑者と被害者のむすびつきに疑いをのこしており、また被害者の生活面が暗黒なため、他にも重要容疑者の出入関係が複雑をきわめ、現在までに内探したものは五十数名にのぼっている。……」
火の気のないそのアパートの三畳のまんなかに坐ったまま、十作はその記事を何十回とよんだ。これは捜査がいよいよ進んでいるのか、停滞しているのか、ふり出しへもどったのか。――彼には、だんだんあたまがぼうっとしてくるような記事だった。
そのアパートは、ほんとうは義理にもアパートといえないような、階下は倉庫のバラック建てだった。そして、その部屋の住人は、或る飲み屋の女だった。
こうなっても、うそ[#「うそ」に傍点]のつききれない男で、彼が昨夜苦しまぎれに金沢にもち出した「女房に知られたくない女」というのが、実際にあったのだ。しかし、これを情婦などというはで[#「はで」に傍点]な名で呼んでいいか、どうか?
それは、彼と同年輩で、同郷で、種子《たねこ》という未亡人だった。四、五年まえ、或る駅のくらいかげに夜の女としてションボリ立っているのを偶然見つけて、彼が或る知りあいの飲み屋へ紹介し、このアパートに世話してやったのである。そのときと、あと何回か、彼は種子にいくらかの金をあたえたが、貧しい収入と細君の眼に板ばさみになって、おそろしく難渋した。ただし、はじめは決してその金で種子をどうしようという下ごころがあったわけでもない。まったくの親切からで、かえってにげ腰なのを、未亡人の種子のほうからもちかけたのである。
しあわせにも、彼女は、夜の女に立ってから四、五日めに十作に発見されたのであったが、その後ながいあいだ飲み屋の女をやっている暮らしで、彼女が身持ちをかたくしているとは、いかなる十作にも思われないふし[#「ふし」に傍点]がある。けれど、やさしい女だとは思い、実際彼はちょっとほれていたが、それを責める権利があるとはもう考えなかった。彼は妻をおそれ、金もつづかず、それからむしろ自分を責め、なるべく種子から遠ざかろうとしていた。
しかし、彼はきた。売った恩をかえせとは思わなかった。彼女のやさしさに訴えにきた。夜ふけて、かえってきた種子は、いつものとおりすこし酔っていた。
「まあ、きてたの?」
と、いいながら、それでもニコニコして、彼の傍にベタリとすわった。
「さむいところに。……火をおこしといてくれればいいのに。……それとも?」
と、いきなり手をつかんでくるのを、十作は弱々しくなすがままになっていた。こんなおそくきたところをみると、泊まってゆくものと思ったのだろう、彼女はすぐに布団をしきはじめた。なにかうれしいことがあるらしく彼女はひどくはしゃいで、鼻唄などうたっていた。十作は部屋の隅っこに乞食入道みたいに立たされて、ひかりのうすれた眼で、ボンヤリそれをみていた。
「……うれしそうだね。……」
「ええ、あんたがきてくれたんだもの。……きょう、月給日?」
彼は、苦笑する勇気もなかった。が、その眼に、意を決したひかりがともった。
「おい、種子。……」
「なあに? あんた、ともかく、服ぬいで。――」
「実は……おれは、人を殺した。……」
女はくびをねじむけて、彼をながめ、笑いかけた。十作は、背をまるくし、あごをつき出し、犬のように哀れっぽい、熱っぽい上眼づかいで、しゃっくりみたいにしゃべり出した。
「新聞、みたろう。……Gアパートの、人殺し……あれはわしが、やったのだ。……ちょっとした、はずみで……悪い、やつだったが……警察が、追っかけてくる。わしを、ねらっとる。……つ、つかまれば、死刑だ。……あんた、わしをたすけてくれ。……あの晩、わしが、ここに泊まったことにしてくれ。……たのむ、わしを、たすけてくれ。……」
女は、息をつめて、彼の姿を見つめていた。冗談ではないことがわかったらしい。彼の頬《ほお》に涙がつたわりおちるのを、たちすくんで凝視していたが、急に布団のうえに膝《ひざ》をついて、泣きはじめた。彼はすがりよった。
「なあ、たのむ。それだけでいいんだ。……ここにいたことを、いってくれさえすればいいんだ。……」
泣きながら、女は身もだえした。十作のからだに、生まれてはじめてといっていい異様な、兇暴な血と炎がたぎりのぼった。それは、風のなかの蝋燭《ろうそく》のような、破滅のまえの犯罪者の情欲であったか。――
つかみかかろうとしたとき、女のからだが、石のようにかたくなった。はねのけられた。
「種子。……」
彼はハアハア息をきりながら、眼を大きくした。彼女は、涙のかわいた眼で彼を見つめたが、みるみるその瞳のおくから恐怖のひかりがひろがってきた。壁ぎわへすりより、背をこすりつけて、
「だめだわ、あんた……だめだわ、……」
「な、なぜ? たったそれだけのことだよ。かんたんなことだよ。……世間にゃばれるが、それどころじゃあないんだよ。……」
「いいえ、それがばれると、あたし、もう結婚できないもの。……」
怒りよりも、十作は拍子ぬけがした。そこへ、女の涙の洪水がながれおちてきた。顔をおおい、ガクガクと子供のように肩をふるわせながら、
「かんにんしてちょうだい。こんなあたしでも、もらってやろうというひとができたんです。……あたし、もうこの年だし、田舎にあずけてある子供のことをかんがえると……いつまでも、こんなことしちゃあいられない。……この話がだめになると、もうあたしには二度とそんなことが来そうにないの。……かんにんしてちょうだいよ。……」
ちらっと指のあいだからのぞいた眼に憎悪と、狡猾《こうかつ》の表情がきらめいたようだった。
「だから……あなた、だれかほかのひとにたのんで……あたしのところへは……今夜だけ泊まってってもいいわ。今夜だけなら……それでかんにんして……おねがいだから……あたしを可哀《かわい》そうに思ったら、あたしのことをいわないでちょうだい……たとえ、あんたがつかまっても。……」
十作は、遠い遠いところで歌声をきいていた。アパートのどこかのラジオだった。
「灯《あかり》をつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓。……」
「月賦建築外交員への容疑深まる。
Gアパート殺人事件捜査本部では、被害者の秦氏の出入関係者を虱《しらみ》つぶしに調べているが、現在まで内偵したところではいずれも白と断定、いよいよ某月賦建築会社外交員への容疑が深まっている。当局では、兇行に用いられた風呂敷を重要な物的証拠として鋭意取調べているが、これについて重大な手がかりを発見した模様である。……」
――渋川十作は、とどろく跫音《あしおと》をきいていた。それは何十人とも何百人ともしれぬ雪崩《なだれ》のような跫音だった。
やっぱりだ。やっぱりだ! 跫音は、じぶんめざして、行進してきつつあるのだ!
しかし、風呂敷にあった重大な手がかりとはなんだろう? いくらかんがえても、わからなかった。そして、それ以上にわからないのは、こんな報道をされながら、なお誰もつかまえにくるものがないことだった。……近所の人も、妻さえも、この記事をみているはずなのに、じぶんとむすびつけて考えている様子のまったくないことだった。――いや、昨夜、ふと、かね子がいった。
「Gアパートの人殺し、月賦建築の外交員ですってね」
彼は、むせかえった。
「そうらしいね」
「もし、あんただったら?……」
「……どうする?」
「一家心中ね」
そして、彼女はゲラゲラと笑った。完全にひとごとだと思っているのだ。この世のものならぬ世界のショーかスポーツでもみるように、この殺人事件の記事をよんでいるのだ。……むりもない。世の平凡なサラリーマンの妻のだれが、じぶんの夫を、人殺しなどと思うだろう? この――このおれですら信じられないほどなのに。――
外部の出来事も、こころのなかも、なにもかも、吐気のするほど不可解な瘴気《しようき》につつまれたようだった。足は、もう何十里も古沼をズブズブとあるいてきたようにだるかった。……ふしぎなことに、もう自首という考えは浮かばなかった。そんな感覚は麻痺《まひ》してしまって、ただ本能的に、渋川十作は、瀕死《ひんし》の昆虫のように苦闘にかりたてられている。いや、父として、夫として、子として、最後のあがきをこころみようとしている。……
もう、すがりつけるのは、社長だけだった。いや、社長の影の半分だった。町のボス、大角《おおすみ》組の親分の仁侠《にんきよう》にたよるほかなかった。
ぬけめのない社長は、建築業と、親分業と背中合わせにわけて、つかっている人間もふだんはほとんど混同させなかったが、じぶんの都合次第では、むろん将棋の駒のように、建築場に腕まくりした刺青《いれずみ》男をおし出したりまた逆に区会議員もしている彼が、選挙違反で追われている部下を闇《やみ》のなかへにげこませたりすることを、しばしば十作はみて知っていた。それまで十作が、じぶんのつとめている会社にかんじている最大の不安は、実はその暗黒面にまじり入れられることだった。……しかし、いまや彼はすすんでそのなかにとびこむことを決意した。もし、社長がじぶんをたすけてくれるならばだ。――恐れていたその世界が、突然、彼のあたまに「弱きをたすける」「義侠」「親分|乾分《こぶん》」「たのまれたらいやとはいえぬ」「仁義」さまざまな言葉でかざられて、金色のかがやきをおびて想像されてきた。
十作が、蒼白《あおじろ》く硬《こわ》ばった顔で会社にいってみると、まだはやいのに、給仕がとんできた。
「社長がよんでます」
「え?……もう出ておられるの?」
「いえ、渋川さんのこられるのを待っていられたんです」
その理由をうたがうより、彼は、よりかかっていたからだをすっと抱きかかえられたような安心をおぼえた。社長にたのむんだ。秦、あいつは悪党だった。社長もそれをみとめてくれるだろう。そこで社長に、あれのアリバイを証明するてだてを考えてもらうんだ。……
社長は新聞をよんでいた。顔はみえなかった。
「社長」
息のつまったような声をかけられてから、大角社長は新聞をさげた。銀ぶちの眼鏡をかけた、四角な、にてもやいてもくえぬ顔があらわれて、五秒ほどのあいだ、十作の姿を上から下へ、下から上へ、めずらしそうにジロジロみまわした。
「刑事がきた」
と、ドスのきいた声で、ポツンといった。十作は蒼白《そうはく》になった。
「おまえのことを、きいてったぜ」
「社長。……」
「おい、この新聞にのってる某建築外交員とは、おまえのことかい?」
「……け、刑事が……そういいましたか?」
「そんなことはいわない。ただ、おまえの人間をきいてっただけだ。……だが、おれは気がついたよ。それまで、この人殺しの記事はみていたが、まさかおれンとこの奴とは、ゆめにも思わなかったからなあ。……おまえらしいな。えらいことをやったね。フフフフ」
「社長、実は……」
「きかんでよろし。おれと関係ないことだ。刑事の馬鹿野郎めおれをなんとかかんぐってやがる。大角建築の名誉と信用を毀損《きそん》するもはなはだしい奴じゃ。……おまえがだ」
「社長、実は、それについて……」
「いや、きかんでよろし。で、刑事にゃ、なにも知らん、一週間まえに社をやめた人間だといっておいた。すぐ、その日付で辞表をおいてゆくように」
「社長!」
「いや、きかんでいい。おまえの人殺しの詳細は、あとで新聞で知ることにしよう。とにかく、大角建築は、渋川某という男とは一切関係ないのだ」
――春雨というより、梅雨のようにふりつづく雨だった。ぬれて、水死人みたいに白ちゃけて、渋川十作はボンヤリと家にかえってきた。クビになった、とか、社長に断わられた、ということより、ひとつの言葉だけが、鐘のように耳朶《じだ》に鳴りひびいていた。刑事がきた! 刑事がきた! 刑事がきた!
一歩一歩、地にめりこむような足どりであゆむ十作のあたまは、まだ朝というのに夜霧につつまれて、ただ小さな灯がともっていた。いまは、胸もふるえるほどなつかしい家庭の灯だった。
もういけない。母や妻や子にすべてを告白しよう。そして、この大馬鹿野郎のからだをなげ出して、ひれ伏そう。……
ふっと十作は顔をあげた、電光のようにあたまをかすめたものがあった。そうだ! アリバイを家庭に証明させる手段がのこっているではないか? この惨苦は、犯罪を家族にかくそうともがけばこそだ。すでにそれを白状する以上、それに身をなげかけて覆い消してくれるものに、家族ほど適当なものがあろうか? 警察が、肉親のアリバイ証言など、眉に唾《つば》をつけてきくものであることを彼は知らなかった。しかし、実際問題として、証明者が肉親以外にあり得ない場合もすくなくないのだから、これを強情におしとおせば、やぶる方法はまったくないはずだった。
――だれかが、ふと、前にたった。十作は、妻のかね子の蒼白い顔をそこにみた。ほつれ髪を頬にねばつかせて、彼女は傘もさしてはいなかった。
「……お、おまえ……」
「あなた。……」
かね子の眼はへんにすわっていた。それでいて、彼をみているのでもなかった。
「あなた、おととい――さきおとといの夜、どこへいってたんです?」
白状しようと思っていたのに、十作の舌は、やけた牛肉みたいになってしまった。
「いま、へんな男がきて、たずねてゆきましたよ。……」
「か、かね子。……」
「そのまえに、金沢さんとこのおすみさんがきたわ。……」
「かね子! その男って――」
「おすみさんがいうの。あなたには、あたしにかくしてる女があるんですってね。そして、そこにいったことを、あたしをだまそうって、金沢さんとこへ口をあわせにいったんですってね。……そういや、あたしにも思いあたることがあるわ。……」
おかねの眼は、嫉妬《しつと》にギラギラしていた。
彼の声はかすれた。
「おまえ……おい、おまえ、その男に、なにをいったんだ?」
「おすみさんのかえったあとだったから……かくし女が三人も四人もあるから、毎晩どこへゆくか、あたしなんかしらないって……追いかえしてやったわ。……」
渋川十作は、木づくりの人形みたいにつっ立ったきりだった。最後の灯がきえた。砂上の燈台がいっきにくずれ去ったことを彼は知った。
「あなた、かくし女ってだれなんです」
「かね子。……」
彼はしぼり出すようにいった。
「さきおとといの夜……わしは、Gアパートで人を殺しちまったんだ。……」
「……えっ?」
「新聞に出てた外交員ってわしのことなんだ。たずねてきた男って……ありゃ、刑事なんだよ!」
ふたりは、小糠雨《こぬかあめ》のなかに、物凄い眼をしてにらみあっていた。やがて、怒りにみちた十作の眼から、すうっと弱々しくひかりがうすれた。
「あなた。……いままで、それをどうしてあたしにかくしてたんです?」
かわりに、細君の眼が呪《のろ》いと怒りにひかってきた。
「ど、どうして、そんなことを……人を殺したんです?」
それこそ、十作自身にとって、いちばん不可解なことだった。彼はそれを、正義の怒り、と主張してもいい権利があった。それは本能的で、発作的で、原始的なものであったが、それゆえにいっそう純粋なものだった。……けれども彼には、ただ魔がさした、としかいいようがない、狂った悪魔がついた、としかかんがえられない。……そして、いずれにせよ、人を殺した大罪人という点ではのがれるすべもなかった。
「みんな、その女のためでしょ?」
十作は、細君の声もきいてはいなかった。細君はとがった肩をなみうたせて、痴呆みたいににぶい表情の夫をにらんでいたが、
「あなた……離婚して下さい。すぐ、離婚して下さい」
と、いった。彼はわれにかえって、まじまじと細君をみた。
「――え?」
「もう、あなたというひとが、よくわかったわ。女をつくって、あたしじゃなくって、ひとさまのところへ相談にいって――親切づらしてて、あのおすみさんの小気味よさそうな顔ったら! そのあげくのはては、人殺し、まあなんて大それた、――」
「ばか!」
「どっちがばかなの。恥しらず、わかれましょう。……あなた、子供たちを人殺しの子にしてもいいの? いいえ、そんなことにはしておけない。……ああ、可哀そうに、可哀そうにあの子たちは……こ、この悪魔!」
「容疑者S氏きょう逮捕か。
Gアパート殺人事件を追及中のF署捜査本部では、ついに問題のO建築会社元外交員S氏(四三)に対する容疑をかためた模様である。
事件発生当夜、S氏が在宅しなかったことは同人の妻の証言であきらかであり、且《かつ》この数日同人がアリバイをつくるため、知人の某女、某氏(特に名を秘す)などをたのみあるいていることは届出で判明しており、同人の逮捕は時間の問題とみられている。……」
――奇怪な世のなかだった。この恐ろしい記事を、当人のS氏――渋川十作が、自宅の隅で読んでいるのである。その新聞といっしょに――おそらくだれも気づかなかったが、昨日の午後投げこまれたのであろう――区民税の申告用紙が郵便受けに入っていたのだった。
彼の眼は血ばしっていた。それは恐怖や昂奮のためというより、昨夜一睡もしなかったからだった。妻に泣かれ、責められ、たたかれ――麻痺してドロンとしたあたまの深部にたえがたい、だるいような痒《かゆ》みがあった。ピンポン球くらいの腫物《はれもの》がそこに埋まっているような気がした。それはつつくと、脳全体にいちどに血膿をまきちらしそうだった。……もういいかげんによしてくれ! 畜生、つかまえるなら、はやくつかまえにきやがれ! という絶叫とともに。――
なぜだろう? なぜ、おれをこうなぶりものにするのだろう? 地べたをはいまわるような、みじめな人生をおくってきながら、彼のいままでの人生観をつらぬく愚直な信頼は、「人間にはそんな悪人はいない」ということだった。実際彼は、あの秦という人間にあうまでは、眼をみはるような悪党をみたおぼえがなかった。――しかし彼は、いまや社会の嘲弄《ちようろう》をかんじた。個々の人間よりも、人間の機構全般にお化けのような恐ろしい悪意をかんじた。
そして彼は、満身|創痍《そうい》となって、ヨロヨロと家をよろめき出た。
「区役所にいって、離婚とどけを出してこい」
と、かね子がいった。その無知を笑い、その冷酷に怒る気力は、彼にない。が、その無知で冷酷な命令にしたがうつもりもなかった。
一晩じゅうつづいた細君の泣き声にまじる狂的な絶叫を、耳のとおい老母がきいたらしい。キョトンとしていった。
「ヒ、ト、ゴ、ロ、シ?……十作が、ヒ、ト、ゴ、ロ、シ?……この阿呆、十作はそんなわるい人間じゃないわ。おてんとうさまはお見とおしだ。……ね? 十作?」
「お、おばあさん、そうだ。わしは、そんなわるいことはしないよ。……」
そっちをむいて、苦しそうにうなずいてみせた十作は、その母に対して、いま最後の狂気の踊りを演じてみせようとしている。
――いままで思いつかなかったのが、ふしぎなくらいだった。――あの奥さんにたのむことである。そのひとのために殺人を犯したともいえるあの吉岡夫人に、アリバイの証言をしてもらうことである。つかまえにこないのは、つかまえにこられない理由があるのだ。ともかく、アリバイさえあれば、それさえかためておけば、あとのがれる路がないとはだれが断定する?
追われる男は、電車にのった。電車の乗客には、何人も新聞をよんでいるものがあった。みんなあの記事をよんでいた。そして、だれも十作のほうをふりかえらなかった。彼は、あたまの深部の腫物からながれ出した膿《うみ》が、毛穴からふき出して、からだじゅうの皮膚をかさぶたで覆って、現実世界とへだてているような感じがした。
――が、突然彼は、ピクッと尻《しり》をはねあがらせた。そのかさぶたを刺しつらぬくような視線をかんじたのだ。彼はあたりをみまわした。だれもこちらをみてはいなかった。しかし彼は、たしかに何者かの眼をかんじた。……だれかが見ている。だれかがじぶんを追っている。……
追われる男は、電車からおりると、依然としてその「眼」に背を灼《や》かれながら、アルコールに酔っぱらった昆虫みたいに吉岡邸へ這《は》っていった。
彼はながいあいだ玄関でまたされた。
すぐ傍の応接室に、だれか客があるらしく、愉快そうな笑い声がきこえた。さびのある、知的で快いその声は、いちど会ったことのある吉岡教授にちがいなかった。
「実に、にくむべきものですな。それを監督する大臣が、公用で外国にいって、じぶんの競馬馬をコッソリ買ってくるんだから。……外貨節約とかなんとかいって、学者の留学も制限しているくせに、輸入禁止の高価なサラブレッドを買う。牝を買って、議会じゃヌケヌケと種馬にするなどという。それを新聞もなんとなく面白半分にみて、苦笑嘲笑の程度にとどめているのは、どういうわけですかね。こんな行為にくらべりゃ、カービン銃強盗やピストル・ギャングなど、児戯に類する可憐な悪党というべきです。……」
しかし、ご本人も面白半分の声だった。奥のほうでラジオがうたっていた。
「すこし白酒 めされたか
あかいお顔の 右大臣。……」
そっと応接間とは反対のドアーがひらいてまもなく夫人が出てきた。その死のように白い顔色をみて、はじめて十作はじぶんの悪をかんじた。こちらのみにくさにあたまをかかえたくなるような、美しい、かなしげな、天使のような夫人の顔だった。
「……あなた……秦を……」
と、ひくい声でいった。
夫人が新聞をみて、察していたことはあきらかだった。この数日間の、十作にもおとらぬ苦悶《くもん》が想像された。
「……あの、手紙は?」
十作はタタキに額のつく程お辞儀をした。
「……ご、ご心配なく……奥さま、あれはぜんぶ、すてました。……」
「え、すてた? まちがいなく?」
「公衆便所に。……下水道をとおって、いまごろは遠い海へ……」
十作は顔をあげて夫人をみつめ、わななく唇から、必死に声をおし出した。
「奥さま……それについておねがいがございます……あの晩わたしがここにきていたと、ひとに証明していただけませんで……ございましょうか。……」
吉岡夫人は、白い塑像のようにたちすくんでいた。十作をみている顔が、ほんとうに陶器のようにかたくなった。
コクリ、と唾をのみこんで、
「――脅迫?」と、唇をひきつらせていった。
「きょ、きょうはく?……と、とんでもない、わたしは、ただ……」
「かえって下さい」
十作はぼう立ちになった。夫人は、美しい怒りの顔を十作の顔へスレスレによせて、ささやくようにいった。
「ばかなことを――主人を、よびます、いいえ、警察へ、電話しますよ。……」
夫人の白い顔が、視野いっぱいに妖怪みたいにぼやっとひろがったようだった。十作は恐怖につきとばされた。それは、人を殺したときや、追われているときより、何倍もの恐ろしさだった。十作は、くるっと背をむけた。そして、ころがるようにかけ出した。大きなからだをまるめ、息をきらしきらし、一目散ににげていった。
ふいごのような、じぶんの息の音にまじって、うしろからひとつの跫音《あしおと》がきこえてきたのはまもなくだった。それは二つにふえ、三つにふえた。それでも彼はふりかえることができなかった。やがて、背後の跫音は十になり、百になり、そして大地もとどろくひびきをたてて彼を追っかけてきた。……
渋川十作は、それが実際の追跡者の跫音であったか、幻覚であったか、ついにのちまでもわからなかった。なぜなら、彼が気がついたとき――いや、思い出すことができるのは、そのあと、じぶんの家から手錠をかけられて出たとき、まわりをとりまいていた大群衆の光景ばかりだからである。
それは、熱帯の太陽みたいに、あつくるしい、ムンムンするような残酷な無数の眼だった。雨はあがっていたのに、フラッシュがひらめいた。十作は糊《のり》のようになったあたまで口をパクパクさせてつぶやいた。
「どうして……どうして……いままで、わしを、ほうっておいたんだ?」
「うん、そりゃ、動機もわからず、物的証拠もなかったからだろう。……警察もあせっとったのだろうが……」
と、まわりから、いくつとなくつき出された手帳やマイクのなかから、だれかがいった。記者らしかった。
「ただ、有力な目撃者があったし、……風呂敷の隅から、むかしかいて、洗濯できえた名が、薬か紫外線で、シとかブとかでてきたし……それもハッキリしないからためらっているうち、あちこちからアリバイをたのまれたという密告者がでてきたので、やっと決断したんだろう。……どうです?」
問いは、傍の刑事にむけられたらしかったが、ふたりの刑事は鋼鉄のような頬の筋肉を微動もさせなかった。たださすがにその眼に、うす笑いがうかんでいた。
「新聞め……わしを苦しめおって……」
「ハハハハ、べつに犯人を苦しめるためにかいたわけじゃない。なにしろ警察のほうはかくそうとする、それを刑事さんの片言隻句《へんげんせきく》からカンでさぐり出すんだから……苦しんだのはこっちだ。また相当こっちでつきとめてもネタのヒントをくれた刑事さんに義理をたてて、とびまわらないこともあるんだ。それより――」
十作は家のなかをふりむいて、突然、根のはえたようにうごかなくなっていた。
「殺人の動機は?……情婦かなにかあったようだが。……」
三人の子供を抱きしめて、妻は蒼白いひからびた顔で、大きな眼をボンヤリひらいて、隅ッこにじっとうずくまっていた。そのまえを、老母があるいている。幾年も腰のたたなかった母が、部屋のなかを、ヒョロヒョロとあるきまわっている。口のなかで、念仏のようになにかとなえつづけていた。
「おてんとうさまはお見とおしだ。……おてんとうさまはお見とおしだ。……おてんとうさまはお見とおしだ。……」
驚愕や恐怖より、このとき十作は、なぜかひどい可笑《おか》しさをかんじた。母の姿にではなく、またこの場合、そんなことはあり得ないのに――いや、母も妻も子も、じぶんをもふくめて、この世のなかのものすべてに、狂ったような滑稽《こつけい》をかんじた。笑いは、この平凡で、臆病な中年男の足からガクガクとふるえのぼり、腹から胸をにえたぎらせ、のどから噴水のような奇声となってとび出した。
「ウフフ、エヘヘ、イッヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ……」
ぎょっとして、見まもっていた記者達は、すぐにこの殺人犯の不敵な哄笑《こうしよう》に挑みかかった。
「き、きみ! あんな大それたことをやって、い、いまの心境は――?」
渋川十作の笑いの発作はやんだ。彼はキョトンとして、雲間からのぞいたまぶしい春の太陽をみた、その下の何百という嫌悪と興味にあからんだ弥次馬の顔をみた。
彼の大きなからだはいちどに小さくなり、手錠の手を顔にあてようとあせりながら、消えいるような声でいった。
「世間さまに……申しわけがありません。……」
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双頭の人
微 笑
「鳩時計が鳴って、美しい朝のひかりが、とき色のレースのカーテンをとおして、ベッドのあなたの瞼《まぶた》に落ちます」
蒼《あお》い月光の瀰漫《びまん》したもやの底に、甘い声が溶けるように、
「眼を閉じたまま、香ばしいコーヒーの匂いに微笑《ほほえ》んで、あなたの手は枕もとの煙草へのびます。そのときには、もう白いかっぽう着をつけたあたしが、マッチをしゅっとすって……いいえ、それよりさきに、まず愉《たの》しい朝の接吻《せつぷん》!」
愛くるしいばらの囁《ささや》きとも聞えたけれど、その花の中から夢の精のようにゆらりと娘がたちあがって、なおうっとりした声で、
「いちにちいちにちの、新しい生活! あなたとあたしの生活が、毎日、こうしてはじまるの……あなたが病院にお出かけになると、あたしは鳥籠《とりかご》の下でお裁縫、それから、お肉とお野菜とお花を買いに町へ出ます……」
本郷《ほんごう》の杏花《きようか》病院の、夜ふけの中庭であった。若い結核患者が毎夜屋上で鳴らすマンドリンの音も消え、窓々の灯もまばらになった。深く蒼い靄《もや》のなかには、ただ静寂とばらの匂いだけが満ちていた。
Oriental Medical Plants=\―漢方薬用植物≠ニ書かれた小さな立札を娘はまたいだ。裾《すそ》からこぼれた 腓《ふくらはぎ》 に、病み上りとは思われない若い脂が、人魚のようにひかった。
「あなたがお帰りになると、一緒に映画……音楽会……ダンス・ホール……素晴しい生活! ああ、あたし、もうこんなところ我慢できないわ! あたし、いつ退院していいんでしょう――明日? あさって?」
娘は、小首をかしげて振返った。花の中のベンチにもたれて、水のように冷やかな顔をそらして、ぼんやり空を仰いでいた一木鞆太郎《ひとつぎともたろう》は、ふっとこちらを見て、
「え? 何と言った? 文枝《ふみえ》さん……」
「あら、いやだ、聞いていないの?」
文枝はべたりとベンチに坐《すわ》ると、鞆太郎の手を握って、ゆさぶりながら、
「いったい、何を考えていらっしたの?」
「個体保存能と種属保存能に関係する器官の神経学的相関……」
「何のことなの?」
「個体保存能とはね、簡単に言えば食欲本能さ。種属保存能とは、まあ性欲と言っていい。このふたつを分析観察してみると、神経学的に多数の共通点を持っている。たとえば両方とも、嗅、視、触、聴、痛、温度等の諸感覚に結合しているとか、その感覚が皮膚と粘膜の移行部に限局して感受せられるとか、活発な腺分泌を伴うとか、極点に達すれば、飽満、弛緩《しかん》、倦怠《けんたい》を以て終止するとか……」
「ああ難しいこと! あたし、わかんないわ……」
「僕は、ずっと前から、この両感覚感受装置の相似性、両者間の相関の問題について研究しているんだが……」
「博士になれるの?」
「博士?」鞆太郎は娘のあどけない顔を見て、苦笑いして、「なれるかもしれないね……」
「じゃ、おなんなさい。――あたし、学問の方はわかんない。あたしのナイジョの功は、もっぱらお台所の方からよ……明るい、愉しい家庭! ねえ、あたし、いつ退院できるの?」
「それは、鳥扇《とりおうぎ》先生がいいと言われたら、いいよ」
「鳥扇先生! あの女医さん、あたし嫌いよ! 恐いわ……」
「なぜ? 立派なひとだよ。恐いのは、あの頭脳だ。あの人は、三年前二十六歳で博士号をとった。磐石の信頼をおいて可なりだ」
「だって、あの顔……化物みたい――いいえ、完全な化物だわ、なかでも、あの眼! 笑っているようだけど、死神みたいに冷たい……顔を見られるたんび、あたし、ぞうっとするわ……病気が長びいたのも、きっとそのせいよ。あなたが診て下さるのだったら――」
「診てあげたいのはやまやまなんだが、僕は精神科の方だから、畠違いだ。子供みたいなだだ[#「だだ」に傍点]こねないで、もうちょっと辛抱したまえ」
首にまきつこうとしていた、柔かい、むしむしする腕を静かに解いて、一木鞆太郎はたちあがった。冷たい眼は、もやの底から星空へ聳《そび》える本館の三階の空を見上げていた。不満げな娘の瞳《ひとみ》が、その視線をたどって、
「あのお部屋、何? みんな暗いのに、あの窓だけ灯がともってるわね……」
「第二内科さ、鳥扇女史、まだご研究の様子らしい。まったく驚くべき勉強ぶりだよ……文枝さん、もうお部屋へ帰りなさい。鳥扇さんにでも見られたら、お眼玉だよ」
「いやん」と言いかけて、鞆太郎の静かな、が、厳格な表情に、娘はべそをかいたような顔つきのまま、下唇をつき出して、
「お別れのキッスして」
が、鞆太郎は、その肩を軽く叩《たた》いて、病棟の方へ押しやりながら、
「静かに、寝なさい」
断乎《だんこ》として、命令した。
娘が、残り惜しそうに花の中を去ってから、鞆太郎はまたベンチに坐って、煙草を吹かしながら、しばらく沈思していた。執拗《しつよう》に目的観念を追いつづける思考が、秀麗な横顔を針のように冷酷にして、やがて糸がきれたように緊張が崩れると、彼は煙草を投げ捨て、本館の方へぶらぶらと歩き出した。
本館のコンクリートの壁は、月光に蒼白く聳えて、稲妻形の鉄階段が白紙の上の幾何図形のように浮かんでいた。ふとその上を見上げて、鞆太郎は、「あっ」と小さな叫びをもらした。
彼の全身はストリキニーネにあてられたように硬直した。と、突然、眼に酔うたような不思議な光がみなぎった。次の瞬間、彼は鉄階段を一気に駈《か》け上っていった。
「どうなさいました? 一木先生」
階段の上の白衣の人が、しゃがれた静かな声で迎えた。
「鳥扇さん!」
鞆太郎は茫然《ぼうぜん》として立ちすくんだ。身体が、がくがく震えていた。
「鳥扇さん――今、ここにいられたのは、貴女《あなた》おひとりですか?」
「ひとりですわ――一体、何を、そう震えていらっしゃるの?」
「震える?……なるほど、震えていますね――しかし、妙ですねえ……」
「何が?」
「今ですね、私が下からひょいとこの階段を見上げたら、月光を浴びて女の顔が見えたのです。それが、ぼんやりと……しかも美しい、恐ろしいほど美しい……お笑いになってはいけません、生まれてはじめて見る――こう身体が震えるほどの凄《すさま》じい美人が、たしかにここに――」
「それは、あなたの幻覚でしょう」
鉢植えの棕梠《しゆろ》の葉蔭で、女医鳥扇|玲子《れいこ》は微笑して軽く言った。微笑であったが、恐ろしい微笑であった。薄い褐色の眉の下に二条の輝く裂目、鼻は唯ふたつの穴を持った平べったい突起であり、口は耳まで裂けているようであった。動かなければ獣の仮面とも見えたであろう、それは顔というより、醜悪怪奇な腫物《はれもの》というに近かった。
彼女は、冷たい笑いを含んだ声で言った。
「けれど、見る幻にもことをかいて――あたしは、こんなに醜いのに」
霧の中の顔
「――すると、貴女は、フォレルの被蓋束《ひがいそく》は味覚に関係しない、とおっしゃるのですか?」
「いえ、あたしは、エコノモの症例に対するエコノモ解釈が誤っていると考えたいのです。死前四カ月目に検査された味覚|障碍《しようがい》は、おそらく左側橋内の結核|腫《しゆ》の初期に該当するもので、それに対応する病理的変化は、もうマルキー染色を現わさなくなったものと考えるのが至当でしょう……」
第二内科の臨床検査室の夕であった。青いガスの焔《ほのお》の上で鳴っている滅菌器と、重々しい唸《うな》りをたてて廻っている遠心|沈澱《ちんでん》器の間で、じっと顕微鏡を覗《のぞ》きこんだまま、鳥扇玲子は言った。
「もしも、Nageotteの味覚核等からの中枢性連絡が、対側のフォレルの被蓋束に接続することが確定されたら、フォレルの被蓋束は味覚伝導中枢経路である可能性の最も高い経路となるでしょうが、しかしこの点については、今まだ確実な証明が樹立されていないようですね……」
「いや、ありがとうございました」
と、煙草をくわえたまま一木鞆太郎は、試薬棚越しに女医の姿を眺めていて、うなずいた。ガスと遠心沈澱器の鈍いうなりのほかに物音が絶えた。放心したような彼の瞳に、次第に、驚異の金色のかがやきが満ちていった。
と、女医の横顔に、芙蓉《ふよう》の花のような面影がふっと重なって、幻だ、と明瞭《めいりよう》に意識しながら、鞆太郎ははっとしていた。それは明らかに、先夜月光の庭で見た幻影の顔にちがいなかった。眼鼻だちももうろうと、一瞬のまぼろしでありながら、奇怪なことに、それ以来彼の脳髄の奥に、それはじいんと沁《し》みついてはなれないのであった。
「鳥扇さん」
と彼は呼びかけた。
「これは一体、どういう現象でしょうか?――この間、貴女が幻覚だとお笑いになった。凄いほど美しい女の顔ですねえ、ぼんやり煙みたいなくせに、へんに頭にこびりついて――は、は、今も貴女を眺めていたら、ひょいとまた現われたように見えたんだが……」
「ひどいわよ、一木先生」顕微鏡を覗いたまま、落着いた声だった。「いくら、あたしが醜いからって――そんな、意地の悪い皮肉……」
「醜い?」
鞆太郎は驚いたように眼をまるくして、急にせきこんで、
「いや、私は貴女を醜いなどと、――貴女は、美しいですよ」
鳥扇玲子は、顔をあげてじっと鞆太郎の顔を見つめた。褐色の眉の下の細い眼に、氷のような冷笑が浮かんで来た。が、鞆太郎は真面目に熱心に言った。
「貴女は、美しい――ひとは何というか知りません。それは人間の顔にただ形態学的な美醜しか見ることの出来ない、文字通り皮相[#「皮相」に傍点]な浅薄な愚物どものいう言葉です。知恵のひかり、知性の美、それを感受する能力のある人間の眼から見れば、貴女はたしかに美しい……」
これは鞆太郎の――少なくとも、この女医が頭脳的に一種の巨人であることを知って以来の――真実の言葉だった。聡明《そうめい》な女医にはそれは通じたと見えて、遠心沈澱器の廻転をとめながら、
「うまいことを、おっしゃる」
と呟《つぶや》いたが、冷笑の眼色は消えていた。
「ですけど、あなたのその幻覚、たしかに病的ですわね――そんなに美しい女のひと、お心当りございませんの?」
「ないんです。全然――」
「第一病棟五号室の患者さんは? そう、桃沢文枝《ももざわふみえ》さん、あの方、退院次第結婚なさるんでしょう?――可愛いお方、あの方じゃございません?」
「とんでもない。私の見た幻は、あんな下界的な娘ではありません。天上の――神聖な、妖麗な霧の中の顔、私が階段をかけ上ったのは、ほとんど吸引されたのです。あの肋膜《ろくまく》炎の娘は――実をいうと、婚約したのを今|悔《くや》んでいるくらいなので……」
「冗談も、ことによりけりよ、一木先生」
たしなめるように、女医は笑って、つぶやいた。
「美しいひとは、ほんとに幸せですわねえ。内側から来た幸福――文枝さんのほがらかさ、外側から来た幸福――あなたのような婚約者、それはあの方の美貌《びぼう》と結びついた先天的な運命ですわ。真の意味の天寵《てんちよう》ですわ」
「ほがらかさ?――無知から来た無恥。貴女は例外ですが、一般に女というものは、どうしてあんなに身体だけあって、精神のないようなのが多いのでしょうか……」
「一木先生」
突然、鳥扇女医は立ち上った。細い眼が三日月のようにひかって、低い鋭い声がほとばしった。
「肉体――顔だけを見て、精神を見ないのは女よりも男の方ではございませんか! 氏《うじ》なくして玉の輿《こし》にのることの出来るのは、女の美貌だけではございませんか!」
鞆太郎はびっくりしたように見上げて、やがてはげしく首を振った。
「私は、違います」
「いいえ、違いません。あなたの幻覚――それが文枝さんであろうとなかろうと、あれはあなたの心の奥底で呼びかける美しい女[#「美しい女」に傍点]が――すべての男が、求め、崇《あが》め、憧《あこが》れる美女[#「美女」に傍点]が、|有 形 考 慮《ゲダンケンジヒトバルヴユルチン》となって現われたものに違いないのです」
「私は、美女などに憧れておりません」鞆太郎は首を振りつづけた。「あの幻覚は、ほんとに奇妙なのです」
「ねえ、一木さん」
白衣の袖がひっかかって、試験管が床に落ちてけたたましく割れたのも意に介せぬように、鳥扇女医は部屋のなかを歩き出した。
「クレオパトラの昔から、歴史――人類の運命を動かした女の知恵があったでしょうか。動かしたのは美貌です。いえ、美貌が動かしたのは二、三の男ですわ、歴史を動かしたのは、やっぱり男の力です。醜い女、力のない男、これはまったく無意味な誕生なのではございますまいか。男の力――これは腕力から頭脳の力へ変りました。それは今度の戦争の結果からも、むごたらしいほど証明されましたわね。けれど、女の生命がただ美貌のみにかかっているということは、依然として変りません。女が人間である第一の条件は、男の知恵と同程度に、まずその美しさなのですわ!」
「その美しさは、やっぱり頭脳の美しさ、に変って来たのではないでしょうか」鞆太郎は煙草を灰皿に押し入れて、「腕力から頭脳へ――進歩して男は、ようやく女性の容貌の美よりも知恵の美を、発見して選ぶ時代に入ったのではないでしょうか」
彼もたちあがって、歩き出しながら、
「桃沢文枝と婚約したのを悔んでいると言ったのは、冗談ではありません。――あの娘の最大の夢は、愉《たの》しい家庭です。鳩時計……コーヒー……鳥籠《とりかご》と花……もちろん、そういうお伽噺《とぎばなし》みたいな家庭も悪くはありません。また、そんなお伽噺を夢みる娘を、私は可憐《かれん》とこそ思え、決して世間の娘達以下のものとして責めたりなんぞは致しません……けれど、私は、ただそれだけの娘を妻とするのは、寂しいのです。男にとって、家庭は第二義的なもの――とは言えないまでも、この世に生を受けた以上、芸術、科学、事業、何にしても人類の進歩の小さな踏石の一つとなりたいのです。私のようなものにとっては、これは文字通り、悲願、とでも言うべきでしょうか――けれど私は、この悲願を理解してくれ、共に道を歩んでくれ、助けてくれ、導いてくれる女性を生涯の伴侶《はんりよ》として迎えたい。あの娘にはそれだけの意志と頭脳は到底期待出来ません――」
鞆太郎は立ちどまって、鳥扇女医を見つめた。窓を落日が染めて、赤あかと燃えるような醜怪な半面像に、彼の顔は幾分|蒼醒《あおざ》めて、けれど、しっかりした声で言った。
「鳥扇さん、私は貴女を尊敬します。――もし、出来ましたら、貴女に――」
鳥扇玲子は石のように黙って、鞆太郎を凝視していた。しばらくして、その細い眼に微《かす》かにひかるものが浮かんだ。
「あなたに、申し上げたいことがございます」
感動した声であった。
彼女は、うしろ手に検査室の扉を開いた。
ふたりが出たところは、中庭へ降りるあの鉄階段の上であった。彼女はそこに置かれた棕梠《しゆろ》の鉢をそろそろと動かしながら、
「お信じにならないでしょうが、あたしのような女でも、今までに結婚を申し込まれた方が、五人ございました。そのうち二人はこの杏花病院の医員の方です。けれど一人は縊死《いし》をとげられ一人はこの階段の上から庭へ飛んで亡くなられました。非業の最期をとげられたのは、あとの三人の方も同様でございます。これは、あなたがこの病院においでになる前の話です。この階段から飛び込み自殺をなすった方が、その直前に、ここに書き置きのようなものを残されました。さあ、ご覧なさい」
彼女の、気味悪い芋虫《いもむし》みたいな指が、鉢の動いたあとの壁の一個所をさした。微かに、釘様のもので引っ掻いたように、
――トリオオギ女医ニ近ヨル男ニ呪《のろい》アレ。
ぼんやりと顔をあげた一木鞆太郎を、涙はすでに消え、醜面に冷然たる笑いを浮かべて見下している鳥扇玲子であった。
一卵性双生児
「桃沢文枝が退院してから、もう三カ月近くになります」
杏花病院を出て、すぐにくだる本郷|妻恋坂《つまこいざか》の中ほどで、急に一木鞆太郎が言い出した。
「悪いことですが、色々に言を左右にしてひきのばして来ましたが、例の縁談の件、いよいよイエス、ノーをはっきりさせなくてはならぬ始末になりました――鳥扇さん」
人通りも絶えて月ばかりが蒼く、坂の両側の人家の戸はひっそりと閉ざされていた。彼は低く、叫ぶように言った。
「私の奥さんになっていただけますまいか?」
恐ろしい女医は歩みをとどめて、夜の大空に無限の白羊のごとくながれる雲を仰いでいた。しばらくして、しゃがれた声で、
「近ヨル男ニ呪アレ――あの言葉、ご記憶でございますか?」
「なぜ、貴女にプロポーズした男達が自殺したのか――私は調べてみましたが、どうもはっきりしたところがわかりません。個々の死を知っている人はあっても、それを貴女に連ねたりして考えている人はありません」
「そうでしょう……あの鉄階段の上の文字さえ誰も知らないのですから。たとえ知っていても、それはあたしの顔を嘲《あざけ》った、意地悪い人の落がきに過ぎないと思ったことでしょう――けれど、あの言葉は、深い深い意味の籠《こも》った遺書に違いないのです」
「深い意味――どんな?」
「それは、あたしの顔です」
「顔――やっぱり、そんなことに過ぎなかったのですか? それなら私は大丈夫です。しばしば申し上げたように、私は貴女の顔の皮膚の内側に、知恵の美を認めることが出来ます。私の冷静な理性が、このひとこそと、貴女の頭脳の光に圧倒的な尊敬を捧げているのです」
「あとで、後悔なさいませんか?」
「後悔?――とんでもない」
「いわゆる美しい女[#「美しい女」に傍点]に、心をお動かしになるようなことはございませんか?」
月光に、女医の眼が池の三日月のようにきらっと光った。むしろ憤激したもののごとく、鞆太郎は答えた。
「誓います――絶対に!」
「あなただけは、信頼してよいお方のように思われて来ました」女医は微笑んだ。その微笑みが、やがてかなしげにくもっていった。
「でも、今までの五人の方も、みなあなたと同じようなことをおっしゃって、そしてやっぱりあたしのテストにお耐えになることが出来なかったのです」
「テスト?――あなたの、テスト?」
「ほ、ほ、試みてご覧になりますか?」
「何をやるのです?」
「それは、あなたが、たった今お誓いになったことを、きっとお守りになって下さればいいのです」
一木鞆太郎は、しばらく首をかしげていて、やがて笑った。
「守れますよ、私は――何をなさるのか知らないが」
鳥扇女医は、ちょっと周囲を見まわして、すぐに魚鱗のように光る坂の舗道を横に、宮本公園の方へ上っていった。
夜ふけである。惨《さん》たる戦いの劫火《ごうか》に焼きぬかれた街のなかに、ぽつんと残った小さな公園、石垣は崩れ、燈籠《とうろう》は倒れ、飢える市民から見捨てられて、ただ晩夏の樹立と蔦《つた》かずらと青草が無数の大蛇のごとく這《は》い廻り、甘臭い腐草の匂いのたちこめたなかに、梟《ふくろう》が一羽鳴いていた。
傾いたベンチの草と砂をはらって、女医は坐った。樹々に囲まれた蒼海のような大空に、黄金色の暈《かさ》をかぶった月があった。
突然、鳥扇玲子はくるりと首を廻し、片腕をあげて髪を払いのけた。
「一木先生、よくご覧なさいませ?」
月光に後頭部が照らし出された。
後頭部?――いや、そこには髪はなく、ああ、何という奇怪な妖異な悪夢であろうか、一つの新しい顔が、ぼんやり浮かび上って――電流に打たれたように鞆太郎は立ちすくんだ。
「あたしは|二 重 体《タツペルビルドウンク》の女です」
と、鳥扇女医が言った。死のごとき沈黙の後に、ふたたびひとりごとのような彼女の声が聞えた。
「一卵性の双生児――これが胎生時代に癒着《ゆちやく》して、あの有名な胸骨結合のシャム兄弟、お尻のくっついたチェッコのブラジェク姉妹、ハンガリアのヘレナ・ユーデイット姉妹が生まれ出たことはご存知でしょう。これらは、各々の個体の発育が平等で、対称的な例でした。そうではなく、一方の個体の或る部分が退化もしくは欠損して、ちょうど一人の人間に寄生しているように――胸からもう一人の上半身が分れ出ていたイタリアのゼノヴァのコロレド氏。シュワルペの報告した、お尻に大きな尾のように、もう一本の足がにょっきり生えていたアンナ・マリー・ブルツェゾミイル嬢――それと同じく非対称性の二重体で、もっと高度に融合したのがこのあたしです。羅馬《ローマ》神話の天の門衛、あのヤーヌスのように両面に顔のある女! けれど後ろの顔は、ただ顔≠セけです。低級な本能のほかは、ほとんど知恵も意志もございません。けれど、美しい……この美女はいつも隠された髪の下でこのように美しく、愚《おろ》かに媚笑《びしよう》しているだけなのです……」
うっと鞆太郎はうめいた。
彼は見たのだ、あの幻を。いつか月明の庭で見た美女の顔を――
それは白いもやにつつまれて、縹渺《ひようびよう》とけむっているようで、しかも黒い火の燃える瞳、きゃしゃな鼻、ばら色の唇――神聖な地獄の花と、媚情を湛《たた》えた天国の光が、この白い「肉」の上で溶け合っていた。彼はふるえた。微笑したあかい唇から、柔かい、むせるような吐息が流れ出て、彼の鼻孔を濡《ぬ》らした。
鞆太郎は心のなかで何ものかが、恐ろしい音をたてて崩壊してゆくのを感じた。白熱したものがじいんと頭蓋骨に鳴って、理性、意志、知恵、あらゆるものが、暗黒の宇宙の無限の奈落へ引潮のように雪崩《なだ》れ落ちていった。
眩《くら》んだ眼に、星が流れた――二つ、四つ、七つ――そして彼は呟くような誘惑の声を耳にした。美しい唇は動いたとも見えないのに、その甘美極まりない運命の声は、決して鳥扇女史のしゃがれた声ではなかった。
その命令とは何であったか? 狂乱と陶酔の極致に陥った鞆太郎の耳に、冷たい歎きのしゃがれ声が降った。
「ブルータス、汝《なんじ》もか――」
黒髪が落ちて、美女は消え、恐ろしい獣のような鳥扇玲子の顔が夜空にすっくと立ち上った。
「一木さん、あなたも五人の自殺した男と同じでした。痴呆の美女に屈服したのです。追いなさい、虚《うつ》ろな美しい幻を追って、全世界の醜い賢い女を捨てなさい、その呪《のろ》いを受けて、不具になったあなたもまたあたしを呪いながら、この髪の蔭の美女への恋に灼け爛《ただ》れ、狂い、からっぽになって、自分の生命を自ら絶つという運命へ飛びこんでゆくでしょう。それでもあなたは、その美女への独占欲のために、決してあたしの秘密をあばくことは出来ないのです。それだけの意志も力も、もうあなたから腐れ落ちてしまったのです。――精神の美! 知恵の美! ほ、ほ、すべて盲目の男性に呪いあれ!」
鳥扇玲子は背を返した。
呻《うめ》いて、一木鞆太郎は両腕をさしのばした。呼ぼうとしたのは女医ではなかった。彼はその名を知らなかった。それはただ「顔」であった。よろめいて、重心を失なって、彼は転がった。蒼白い月光に、鞆太郎は自分の陰茎が、象の足のように巨大に、灰色に、ふくれ上っているのを認めた。陰茎象皮病――いや、それはあの「顔」が、美しい唇が、柔かい舌が、甘い息を吹きかけ、濡らして過ぎたあとであった。ざらざらと、不気味に、無感覚に。それは一個の死んだ巨大な滑稽《こつけい》な腫物のようだった。
「あ、は、は、は」
樹々の闇の向うに、永劫《えいごう》の呪いをこめた醜女《しこめ》の笑いが鳴り渡って、次第に遠くなり、消えていった。
[#改ページ]
黒檜姉妹
笛をふく怪美人
ぴっ、ぴっ、ぴいひゃらら――
ほがらかに澄んだ横笛の音がながれて来たのは凄《すさまじ》い悲鳴が聞えてから三分ばかりたってからだ。その間|霧島千尋《きりしまちひろ》は、坂の下に棒立ちになったまま、凝然と見上げていた。坂の左側は荒けずりの木柵のついた断崖だ。
右は高い土塀だが、土塀の内側に並んで亭々とそそり立つ杉の巨木のために、昇りかかった三月の満月がさえぎられて、幅一間ばかりの坂路は、そこだけ闇黒《あんこく》の霧がたちこめているようだった。
(何だったろう? 今の声は)
凄い、獣のような――たしかに、男の叫びだった。だが、それからつづいて流れてくる、この美しい笛の音はそれは、坂の真ん中のあたりから聞えて来る。何者か、暗い土塀の蔭で吹いているらしい。
二歩、三歩、そろそろ坂を上りかかって、急にまた千尋はぎょっと足をとめてしまった。
ほがらかな、浮々した横笛の旋律に混って、かなしげな女のすすり泣きが聞えて来たからだ。左手の断崖の下で潮は満ちて、二、三日前千尋が目撃した渦巻の壮観を現出しはじめたものらしく、轟々《ごうごう》たる濤声《とうせい》が湧《わ》きあがって来るので、はじめちょっと聞きとれにくく、彼は自分の錯聴かと思った。額に手をあてた。たしかに熱もあるようだ。突然坂の頂上で犬の吠声《ほえごえ》がし、ぽつんと懐中電燈の灯らしいものが現われた。
「おういっ、鼎《かなえ》かあ!」と、千尋は叫んだ。
「霧島――来たぞう」
鼎|葦之助《あしのすけ》の声だ。千尋は急に笛の音と泣声がやんだことに気づいた。と同時に、からころとうろたえた下駄《げた》の響が土塀の蔭で起こった。
「誰だっ、そこにいるのは?」
千尋はいっさんに駈《か》け上りはじめた。犬の吠声と懐中電燈の光が、流星のように走り下りて来た。
「鼎――つかまえてくれ」
千尋があえぎながら叫ぶのと同時に、ぎ、ぎいいと戸の軋《きし》むような物音が土塀の一画で起こってすさまじい犬の吠声と一緒に、「あっ」という鼎葦之助の悲鳴が聞えた。宙に放り出された懐中電燈の輪を掠《かす》めて、飛魚みたいなものがきらっと海の方へ飛んだ。
千尋が駈けつけたとき、リュックを背負った鼎は、あえぎながら地に落ちた筒型の懐中電燈を拾いあげているところだった。運よくそれはレンズもこわれていなかった。照らし出された土塀の一部は、やはり小さな扉になっていて、完全に閉じられたその厚い板戸に、犬が低くうなりながら飛びついているのが見えた。
「ううむ……」
と、唸《うな》って立ちすくんだ鼎葦之助のけずったような横顔に、やがて恍惚《こうこつ》としたえたいの知れぬ微笑が浮かんで来たのを、土塀に投げたひかりの輪の反射でぼんやりと見て、
「どうした? 鼎――」
「どうしたって――君!」鼎は夢からさめたように微笑を消すとぶるっと身ぶるいして、
「おれは何が何だか、さっぱりわからんよ。いったい、これは何事だい?」
「僕にもわからんのだ」千尋もふるえる声だった。
「もう君が山を越えて来る時刻だろうと思って、迎えにやって来たのだ。その坂の下まで来ると、すごい悲鳴がこのあたりで聞えた。しばらくすると誰か笛を吹きはじめたんだ」
「それはおれも聞いた――その笛を吹く女は――」
「女?」
鼎葦之助は、懐中電燈を千尋にわたすと、かがみこんで犬を抱きあげた。精悍《せいかん》な顔をしたシェパードだ。前足に白い繃帯《ほうたい》が巻いてある。が、その牙と牙との間にひっかかって垂れているのは、紫色の錦紗《きんしや》の一片だった。
「その女が戸をあけて逃げこみながら、おれに短刀を投げつける一瞬に、こいつが飛びついて袖《そで》を喰《く》いちぎったものらしい――」
「見たのか、その女を」
「一|刹那《せつな》だが、見たよ」
かすれるような声音で、鼎の顔がまた角帽の蔭でふいにうっとりと眠ったようになった。それを不思議と感じる前に、千尋は息せきこんで、
「それは、ひとり?」
「ひとりだ」千尋の手の懐中電燈は、あわただしく前後左右に振り動かされた。しばらくして、
「鼎――僕がこの玄武《げんぶ》村に来たのは四日前だが、来る途中山のなかで雨にあって、風邪をひいたものらしい。昨日ごろから熱があるらしく、ぞくぞくするんだ。で、うつつかも知れないが――いや、幻覚を起こすほど悪いとは思われないが――僕は今ね、笛の音にまじって若い女の泣声みたいなものを聞いたんだ。いったい一人の女が笛を吹きながら泣けるものだろうか?」
鼎葦之助は酔うたような表情で、きらびやかな袖の一片を鼻孔にあてていた。千尋はまた額に手をやって、
「いや、やっぱり一人かな――一人に違いない! 逃げ出す下駄のあしおとはたしかに一人のものだった。第一、坂路にだれも残ってはいないし――」
「香がたいてある」と、ふいに鼎が言った。
「え、何?」
「この袖ぎれをかいでみろよ――何という香か知らんが、いいにおいがするよ」
――この夜から千尋は本格的なクループ性肺炎の症状を呈しはじめて、二日二晩、四十度ちかい高熱と嗜眠《しみん》状態におちいった。人は、頭をひどく打たれたとか、ガス中毒とかで失神した後に、失神以前の数時間の記憶をも失うことがある。千尋は、こういう逆行性健忘症にかかったわけではないが、意識がこんだくからさめた後に、この夜の奇怪な出来事は現実にあったことではなく、まったく熱にうかされた悪夢の第一章ではなかったか、という錯覚からどうしても離れられないことがあった。
すごい悲鳴、横笛を吹く女、すすり泣く声――しかも逃げた下駄の音はただ一人で、あとにはだれも残っていない。
その逃げた女に短剣を投げられて、一髪の危機をまぬがれた友、鼎葦之助はなぜか、ともすればこうこつたる忘我に沈みかける――
「アヴァンチュール、アヴァンチュール……ああ、おれを救うものは、冒険、という子供らしいこの言葉! ただその言葉だけであることに、今おれは気がついた! それがはじまったのだ。霧島、この土塀の家は何という家だ!」
うっとりした声で、しかも青い炎のちろちろ燃えあがる鼎の瞳《ひとみ》だった。
「黒檜《くろひ》家――とか言ったな。この玄武村第一の旧家だそうだ。それ以上は僕も来たばかりだから、何も知らん――」
どっと断崖の下から怒濤《どとう》のひびきと潮風が吹きあがり、その瞬間千尋ははげしい悪寒|戦慄《せんりつ》に襲われてうずくまった。
「黒檜家――霧島、この家には素晴しい娘がいるぞ。永遠女性を長い間胸に描き、夢みていた――いや、想像を絶する最高の女性の顔を、おれは今、かいま見たのだよ――」
うわごとみたいにつぶやいた鼎葦之助は、足もとで一声、千尋の嘔吐《おうと》するうめきに、はっとわれにかえって、
「霧島――どうした?」
謎《なぞ》の屋敷
嘔吐とともに、千尋はクループ性肺炎の多くの例に見られるように、重態におちいった。鼎がろうばいして村人を呼んで来て、ようやく千尋が宿としていた村長の家へ運びこんだとき、彼はほとんど死んだようにこんこんと眠りつづけているばかりだった。
霧島千尋と鼎葦之助は、どうしてこの村へやって来たのか。
二人とも、医学生だ。故郷は五里と離れていないのに、二人は東京の大学で一緒になるまで知らなかった。それは千尋の町と、鼎葦之助の村との間が急峻《きゆうしゆん》な山脈でへだてられて、直接の交通はほとんどなかったからだ。その急峻な山脈は海へ突き出そうとして、にわかに二股《ふたまた》にわかれている。その股にはさまれているのがこの玄武村だった。
戸数は五十戸足らずの漁村――平家の残党の子孫だという伝説がある。それはこの村が、背後と両側に迫る山脈のために、ほとんど外界と途絶した島ならぬ離れ島的部落であることから、いつしか生じた作り話であったかも知れない。こんな村がすぐ傍にあっても、いや、すぐ傍にあるために、かえってべつだん好奇心など起こすきっかけのなかったのが、去年の夏、この村の村長の妻が子宮|癌《がん》でしばらく霧島病院に入院していた際、玄武村に色々奇妙な不具者や狂人が出るという話を千尋が聞いて、それは血族結婚のせいであろうと推定し、東京の学校に戻ってから鼎と相談して、この春休みを利用して、その近親結婚と疾病《しつぺい》の遺伝関係を調べにやって来ることに決めたのだった。
故郷の位置の関係から、二人は別々の山を越えてくることになる。日は打ち合わせておいたのだけれど、鼎が四日遅れることになったのは、実は彼の連れて来た愛犬太郎の前足の繃帯のせいだった。どこかの犬に噛《か》みつかれたものらしく、傷が八分通り癒《なお》るまで出発を延期していたのだという――ただし、これも三日目熱が下がってから聞いたことだ。クループ性肺炎の熱型は定型的であって、経過が至極順調にいった場合、持続した高熱は、七日目|乃至《ないし》八日目にさかんな発汗とともに急激に解熱するもので、これを分利というのだが、千尋の場合、わずか三日目にこの分利を来したのはたまたま鼎の持参していた例のペニシリンの偉効であった。が、たとえ、ペニシリンを持っているといえ、急性肺炎といえば一人前の医者にとっても容易ならぬ病気であるのに、この事態に際して一介の医学生に過ぎぬ鼎葦之助の態度は、実に泰然自若たるものであった。
泰然自若?――いや、そうではなかった。何か他のことに熱中している者は、たとえ重傷を受けてもそれに気づかぬことさえある。
鼎は自分が肺炎にかかっても泰然自若としていたろう、後で思い合わせると、鼎葦之助はまさに友の病気以外の或《あ》る事柄に魅入られて、ほとんど夢遊状態にあったのだった。
「黒檜姉妹……黒檜姉妹――」
吹き過ぎた熱風に頭がまだしびれているような十日ばかりの間に、千尋は寝床から白い障子の日射しをぼんやり眺めていて、何べんも、あの凄じい悲鳴と横笛の音と、こういう鼎のつぶやきを聞いたような気がした。悲鳴と横笛は明らかに幻覚だ。だが、鼎のつぶやきは?
それは幻覚でなかったことは、或る日ついにわかった。
「霧島……見ろ」
久しぶりにあけはなった障子の間から、桃の花盛りの庭に、鼎葦之助は仁王立ちになって薄笑いを浮かべていた。
「飛びかかれ! 太郎!」
鼎がさけぶと、庭の隅から走り出した白いシェパードが、跳躍一番、主人の彼の右腕に猛然と噛みついた。あっと千尋が驚いた瞬間は、鼎はびんしょうに犬の頭をたたいて振りきっていた。
「成功!」
と彼は顔をゆがめて笑いながら、縁側の方へやって来て、腕をまくり上げた。上膊筋《じようはくきん》に喰《く》いこんだ歯型に血の玉がにじんで来ている。
「鼎……」
「犬を育てるのは、人間の子供を育てると同じでね。こいつをおれの意のままに働かせるまでには随分苦労したが、今度、おれ自身に噛みつかせるようにするには、ほとほと参った。ほとんど十日間……ひっしの訓練が、やっと実を結んだことが今の実験で証明されたわけだ」
彼は傷にヨードチンキを塗りながら、にやりと笑った。
「太郎は、無論おれに敵意を持って襲撃して来たわけじゃない。ああいう攻撃に出たのは、霧島、おれの服の袖にくっつけて置いたこいつのせいだよ」
鼎がひらひらと眼の前で振ったものを見て、千尋は息をのんだ。それは紫の錦紗の布きれだった。
「この布……この布に襲いかかるようにおれは仕込んだのだ」
「――何のために?」
「黒檜姉妹と逢《あ》うためにだ!」
垣根の向うに海が見える。陽炎《かげろう》を背にゆらめくその碧《あお》に、鼎の姿は暗く、眼だけが猫睛石《ねこめいし》みたいにぴかりとひかった。
「黒檜姉妹……それがあの夜の女か?」
「少なくとも、その一人だ。鼎、おれはなあ、この十日間あまり、君の看病の余暇に――玄武村の遺伝状態ではなく、あの黒檜家のことについて色々聞きこんだのだ」
千尋がひさしく忘れていた、熱狂的な友の声だった。すごいほどあおざめたほそおもて、深くくぼんだ眼は、終戦以来次第に虚無的にしずんで、まるで、初期の精神分裂病患者みたいに異様に冷たいむとんちゃくといらいらした苦悶《くもん》とが交互にあらわれて、信ずべきもの望むべきものを徹底的に失なった、多くの若い世代の精神的戦争犠牲者の一人、鼎葦之助は突如として虚空から不思議な生気――いや、狂的な焔をてんじられたかのようだった。
「この村の住民が平家の子孫かどうかは疑問として、あの黒檜家は代々この村の宗教的存在だったらしい。当主は一人、年は八十三歳だという。二、三年前からさすがに老衰で寝ているようだ。孫娘が二人、お金とお銀。それから一カ月ばかり前、七年ぶりで外蒙のウランバートルから復員したその従兄《いとこ》の勇吉という者がいる。傭人《やといにん》は下男が一人、これはノートルダムのカジモドそっくりの怪物的こぶ男だ。家族はたったそれだけ――この五人があの館《やかた》みたいな山の家に住んでいるのだ」
「――それで?」
「驚いたのは、村人たちがそれ以上の知識をほとんどもっていないことだ。鎮守の社《やしろ》とご同様、あがめてはいるが、本体を知らない……この十年近く当主の老人にあった者はまれだし、孫娘の姉妹に至っては、その存在を知るだけで、どちらの姿も見た者はいない。勇吉も復員して屋敷に入ったきり、ついぞ出て来ないし、ただ下男の酉蔵《とりぞう》という男だけ……これが時々用足しに村に降りて来る。外界との連絡者はこの下男一人、黒檜家の触手だが、恐ろしい触手だ。二、三度村でおれは見たが、牛みたいな沈黙と怪力の持主らしい。とにかく、それ以外にあの家に入った者は誰もいない……ああ、こんな伝説的な一家が今の日本の、しかもこんなところに残っていようとは! おれならずとも、あの土塀のなかへ、ちょいと忍びこんで見たくなるじゃあないか。だが、下男が入れさせぬ。実際に当ってみて、おれは失敗した。また泥棒猫みたいに忍びこんでも仕方がない。おれはあの黒檜の娘にもう一度|逢《あ》って話をしたいのだ……で、その方法として、この太郎を使うのだよ」
眼が恐ろしい笑いにきらきらかがやいて、
「先夜せしめたこの袖ぎれ……ふしぎなにおいは伽羅《きやら》らしい。無論|沈香《じんこう》など焚《た》きしめている娘は、ほかの村娘などにはない。この犬を追いこんで、娘を襲撃させるのだ。そして犬の首ったまに、こういう紙片をつけて置くのだよ」
鼎はポケットから、一枚の折りたたんだ紙をとり出した。
「ご用心」と千尋はぼんやりした声で読んだ。
「本犬は目下狂犬の疑いあるを以《もつ》て、万一|咬《か》まれたる人は至急村長宅鼎まで届けられたし、予防注射薬あり……」
「どうだ、このおどしは効くぜエ、見てろ、明日、あわてておれを呼びに飛んでくるから――」
鼎は声をあげて笑った。
「そんな、むちゃな! いったい君は――」
「どうしてそれほど黒檜の娘に逢いたいというのか? はは、復讐《ふくしゆう》だよ、おい、あの娘はおれに短刀を投げつけたんだぜ――と言いたいが、実はそうではない」
突然鼎葦之助はべたと縁側に両手をつくと、ぬっと顔をさし向けた。急にうっとりと酔ったような、異様な表情にかわっていた。
「おれは見た! あの娘を……お金という方か、お銀という方か、とにかく懐中電燈の光で一瞬に見たのだ。あの顔……おれはどう表現したらいいかわからない。女神……聖女……いや、いや、それは実際にこの眼で見なければわからない! 目的のためには手段を選ばず――おれのしようとしていることを君は狂気じみていると思うだろうなあ……そうだ、おれは頭が変になってしまったかも知れない……あの娘の顔は、男の頭蓋骨《ずがいこつ》をとおして、月の光のように脳をてらして、蒼《あお》い光に染め変えてしまう顔だ。どんなことをしても、おれはもう一度、あの娘に逢いたいのだよ!」
お銀とお金
黒檜家の建っている小山は、そのまま断崖となって小さな玄武湾にのぞんでいる。あの坂路の柵《さく》をつかんでみおろせば、湾の藍《あい》は外の海よりもいちじるしく濃い。壺みたいに深いのだ。そのため――特に新月満月の大潮時には、垂直軸を中心とする渦と、水平軸を中心とする渦とがまじった複雑な大渦巻が現出する。
鼎葦之助の運命は、ちょうどその渦にのった一片の木の葉に似たものがあった。何やらつかれたように彼は異常な計画をたて、計画は渦のように正確に廻《まわ》り、そして彼自身、恐ろしい死の穴へ吸いこまれていったのだ。
翌日の夕、果然、庭の垣根をあけて入って来た魁偉《かいい》な下男が、あわてて鼎をひっぱってゆき、そしてその夜は帰って来なかった。
二、三日たつと、彼の愛犬太郎だけが、ぼんやりもどって来た。耳も尻尾《しつぽ》も力なくたれ、眼はどんよりとにごって、何ということもなく、悲しそうなおそろしそうな様子をしている。首輪に紙きれがついている。取って開いてみて、霧島千尋は首を振った。何とも奇怪な鼎の便りだった。
「計画は成功した。予防薬と称して、ヴィタミンを注射してやっている、あの夜の娘に――この詐術は、しかしおれの理性の最後の反射的行為だ。猟人のつもりで黒檜家に乗りこんだおれは、今や奇怪な恋の罠《わな》にかかってあわれな獣になってしまった。罠の二つの歯は、おれの魂に噛みついている。一つは永劫的な深い法悦、一つは腐肉をすするようないとわしい憎悪――おれが帰らなくとも、君はけっして黒檜姉妹を見に来てはいけない。疑うなかれ、黒檜姉妹をおそれよ、彼女は、文字通り心をひきさくのだ。ひきさかれて、おれの心が原型をとどめなくなる前に、最後の友情をもって君につげる、ご用心!」
白い暈《かさ》のようなひかりに満ちた春昼だ。どろどろと、浜の方でものうい波の音が聞える。うなされたような眼を、じっと千尋は宙にそそいだきりだった。
後に回想してみて、彼はこの前後の自分の心理を、どうしても納得出来ないもののように思うのだった。熱はもうとれている筈《はず》だった。たしかに、ぎらぎらする極彩色の恐怖にしめつけられながら、しかも虚脱したように、彼はさらに二、三日ぼうっとして横たわったきりだった。うべなるかな、霧島千尋も、あの運命の渦巻に投げ込まれて、はるかな軌道を徐々に廻りつつあったのだ。
薄暮のような頭を、三日目、白い影がすっとよぎった。犬だ。新月のひかりに蒼茫《そうぼう》たる夕の庭を、黒檜家から戻って以来変に元気のなかったあの太郎が、急にくるおしげに駈《か》け廻っているのだった。しゃがれたうなり声、口からたれさがる唾液《だえき》の糸!
「あっ――」ゆるんだ脳が、電気に触れた蜘蛛《くも》みたいにかたくちぢんで、千尋は棒立ちになった。
「太郎」犬はかっと垣根の竹に噛《か》みついた。恐怖の閃光《せんこう》が千尋の全身を廻った。――狂犬病だ! 太郎は、ほんとの狂犬病だったのだ!
それはあの前足をかまれたときに伝染していたものにちがいない。この二、三日の憂鬱《ゆううつ》そうな様子は、数週の潜伏期からようやくに前駆期に入った兆候だったのだ――それを鼎葦之助は知っているか? 千尋の頭を一週間前わざと自らの腕を噛みつかせた鼎の姿がかすめた。おお、あいつは知らぬ! 狂犬病は、犬の発病する一週間ぐらい前からすでにその唾液中に現われているのだ!
「鼎!」
千尋がうめいた瞬間、太郎は垣根の隙《すき》から、ぱっと外へ飛び出した。そのまま一散に村のなかへ――危険も忘れて、千尋もはだしで駈け出した。
「あぶないッ、逃げろ、その犬は狂犬病だぞ! みんな逃げろ!」
ただならぬ叫びに、海からもどってくる漁師や女達がうろたえて飛散るなかを、狂躁《きようそう》発作におちいったシェパードはよろめきつつ、しかも流星のごとく駈けぬけてゆく。
家と家の間から、いぶし銀のようにひかる夜の海が見え、それを背景に、突然ひょっこりと犢《こうし》みたいな黒影があらわれた。
咆哮《ほうこう》一声! 顔をおおう一瞬に千尋は、太郎が宙をとんで襲いかかり、よろめいた黒い影から何やら銀鱗のようなものが八方にはね散るのを見た。がっというすさまじい声、眼をひらいて、千尋は茫然《ぼうぜん》と立ちすくんだ。犬は砂上に、黒い液体のように横たわり、巨大なこぶを背に盛りあげた男の影は、かがみこんで、のそのそと這《は》い廻っているのだった。
「……君、だったのか?」
千尋は駈け寄って、あえいだ。一撃のもとに狂犬を殴り殺した黒檜家の下男酉蔵は、左腕の籠《かご》からはね落された魚を、黙々と拾いあげている。
「お……君」と千尋ははっとわれにかえって、
「あの鼎君は、どうしてる?」
酉蔵は、死んだ犬の飛び出した眼球と口から流れる黒い血だまりから、魚を拾おうとしていて、らんとした瞳《ひとみ》を千尋に向けた。はじめて、三日前鼎を呼びに来たとき、村長の家に一緒にいた若者だと気づいたらしい――暗い殺気のようなものが、ぞっと背筋を走るのを覚えながら、千尋は早口に、
「君……大変だ。その犬は狂犬病だったのだよ!」
急にあわてて足踏みしながら、
「いや――鼎の言ったのはいたずらだ。あれは君ンとこの娘を見たいあまりに、あんなことをやったんだ。狂犬病は方便のつもり、だから注射したのは、予防薬でも何でもないが――そいつが、実はやっぱり狂犬病だった! それを鼎はまだ知らない! あれはこの犬に噛まれている――君ンとこの娘さんも噛まれたろう、まったく大変だ! 今度こそ、ほんとに狂犬病の手当をしなければ――」
二度目だ。疑いの眼に見すえられて然《しか》るべき場合だが、病みあがりの千尋の血相には、酉蔵を愕然《がくぜん》と立ちすくませるに足るものがあった。
「お嬢さまが――」
ごろごろとのどが牛みたいに鳴って、巨大な手が千尋の胸ぐらをつかんだ。
「そうだ! 鼎に逢《あ》わしておくれ、一たん狂い出したら、もう手遅れだ。金輪際《こんりんざい》手のほどこしようがないのだ!」
とつぜん、せむし男は千尋をはなすと、ぱっと砂塵をあげて魔のように駈け出した。千尋はどんとしりもちをついたが、バネみたいに跳ねあがって、あえぎあえぎあとをおっていった。玄武湾の潮は、一方から一方へ、次第にはやく、巨大な輪を作ろうとしていた。満潮の時刻が近づいているのだ。山路を登るにつれて、波のとどろきがうなりつつ沈み、千尋は黒檜家の大きな門の前に立った。
上土門《あげつちもん》というのであろうか、屋根にあげた土に草がぼうぼうと吹きなびき、海底のごとき夜空に、白い花が吹雪のように散りみだれていた。
「鼎――」厚い扉はすでに酉蔵に閉じられて、打ちたたくたびにそれは朽ちた梵鐘《ぼんしよう》みたいな音をたてた。
「開けてくれ――おういっ」
返事はなく、千尋の呼声は風に吹きちぎれる。土塀を間断なく波紋のように渡ってゆく影に、見上げれば妖麗な新月をおおって、無数の黒雲がながれているのだった。
「鼎!」
いらだって、土塀に沿い、目的もなしに走り出そうとして、千尋はぎょっと息をのんでいた。
梟《ふくろう》が鳴いたのか――いや――ぴっ、ぴっ、ぴいひゃらら――と、美しい笛の音が聞えて来たのだ。おお、いつかの夜の、奇怪にほがらかな横笛の韻律《いんりつ》!
虫が知らせたというものに違いない、あの夜よりも数千倍の恐怖に打たれ、その瞬間、千尋は水鳥みたいに身ぶるいしていた。
彼はつンのめるように駈け出した。土塀を廻ればあの坂路へ――笛の音はとぎれた。が、よいんはたしかに坂の上にただよっている。いや、続いて何か意味のとれぬ若い女の誰かに語りかけるような声がふって来た。
前日の雨に暗い坂路はぬかって、千尋はころんだ。
「お銀!」祈るような鼎の声が聞え、それによよと泣く女の嗚咽《おえつ》が尾をひいた。
「鼎! 鼎!」
絶叫してよろめきのぼる千尋の頭上に、坂の上から白い花のような顔がちらとのぞき、うろたえた下駄《げた》の音がからころとひびいて、嗚咽がさっと遠ざかった。どういうわけか、千尋は吐気がした。ひっしに駈けのぼり、月の光に濡《ぬ》れてぼんやりと立つ鼎葦之助のあおい顔を見出した。彼は断崖沿いの柵にもたれるようにして眼をつぶっている。
下駄の音は、黒檜家の裏塀めがけて逃げのびてゆく。一つの黒雲の影が地を流れて、足音の主は妖魔《ようま》のようにもうろうとしていた。
「お金!」かなしげに鼎が叫んで動こうとした。そのとたん、地を走る黒雲の影から白い虹が夜空に描かれて、彼の胸に短剣がつき刺さった。
「ああっ――」
千尋が叫んだ瞬間、鼎葦之助はのけぞり返り、たちまち柵を越えて断崖から消え落ちていった。ぎいっという音がした。ほんのまたたきする間のこと、振向いた千尋は、裏塀の戸が素早く閉められるのを見た。雲の影は去り、蒼白い坂の上の空地には、猫の子一匹もいないのだった。
千尋は突進した。塀に飛びついた。戸は開かない。屋敷の向うへ、次第に不思議な嗚咽が遠ざかってゆく。
「人殺し――」二度、三度絶叫して、背中を戸にぶつけた千尋は、月光にほの明るい眼前の広場に眼をやって、急に打たれたように夜空をあおいでいた。
お銀――お金――たしかに鼎はそう呼んだ。では、逃げたのは姉妹ふたりであったのか、いつかの同時に聞えた横笛と泣声が脳を交錯した。先夜も、今も、ふたりは一緒に現われていたのか、足音は一人のものだったし、それに――長い年月の間に吹きさげられた砂がうすくぬれて、銀のように光る眼の前の空地から、この戸へ一直線に駈け込んでいる足跡も、明らかに一人のものにみまごうべくもない。では一人か? だが、彼女が短刀を投げたのはたしかにその辺であったが、足跡は毛筋ほどもみだれず、ふりかえって物を投げつけた人間のものとは、どうしても信じられないのだった。
「人殺し! 人殺し!」
すでに恐怖も忘れて、発狂したように千尋はわめいた。
「今に見ていろ――おお今に見ていろ、お前は狂いはじめるぞ。狂犬病の毒素はお前の神経と血管を伝わって、今に頭に撒《ま》き散らされるのだ。見ていろよ、人殺し――」
すると、下駄の音が再び戻って来た。ごろごろとうなるように何者かに早口にしゃべっている――酉蔵だ!
「では――お嬢さま」酉蔵のそういう声がして、わめいている千尋の前にしずかに戸が開いた。
あえぎながらのぞきこんで、月光にすかし見た千尋は、異様な叫びをあげ、全身をつららのように硬直させていた。
畸 型
こうして霧島千尋がその眼で見ることになった黒檜姉妹は、実にこの世のものとは思われない奇怪な姿の所有者だった。
満開の桜の大樹の下、あおい光の霧にぬれて立つ娘の瞳《ひとみ》は、夜空の星のごとく厳粛《げんしゆく》に千尋を見すえていた。見据えられて、千尋の神気はぼうっと吸いこまれた。――永遠女性! 最高の女性の顔――女神――天女――そんなおおげさな鼎のうめきが夜光虫みたいに頭のなかに明滅し、千尋は深い息をつくと、よろよろと戸口にもたれかかった。恍惚《こうこつ》たる微笑が、いつしか彼の眼にかがやいていた。
千尋の微笑を見て、娘の面輪《おもわ》にも、優しい微笑がほのかにひろがっていった。
「……お金、お廻《まわ》り」
彼女はだれかに話しかけた。すると伽羅《きやら》の香がただよって、彼女の身体はしずかに廻り、もう一人の別な娘の顔が千尋をぼんやりと眺めていた――別な娘? いや、顔かたちはそっくりだ、だが、何という痴鈍な情欲と、暗い憎悪とに充ち満ちた顔――そうだ、これはさっき坂の上からひょいとのぞいた娘にちがいない。突然千尋は吐気を感じた。
蜘蛛《くも》をはらいのけるようによろめきながら、彼は慄然《りつぜん》と瞳孔をひらいていた。おお、この姉妹は一人だった! 見よ、足は普通にただ二本、その指先はたしかにお金と呼ばれたこの娘のものとしてこちらを向いている。だが、腰から上は背をくっつけて、あでやかな二人の女体にまぎれもないのだった。
「お前さん……」
と、傍に唐獅子《からじし》みたいにうずくまった酉蔵がうなるように言った。
「あの犬のことで、何やらお前さんが言わしゃったことはほんとかね?……それなら、早く手当をしてくんろ」
千尋は眼をあげて、ふたたびさっきの、生ける宝玉のように冷たく輝いた娘の顔を見た。彼はほほえんで、わなわなふるえながら言った。
「そうだ……一刻も争うんだ。助ける手段は、狂犬病の予防注射を行うよりほかはない……だが、その薬は今僕は持っていないんだ。誰か、山向うの僕のうちへ行って、大至急もらって来なくては……」
「わしが、ゆきます」と、酉蔵が言った。
この怪異な下男は、背に大きなこぶを盛り上げているくせに、脚は魔のようにはやかった。彼はその夜中過ぎには、もう霧島病院から予防接種材料をとって戻って来た。
太郎に咬《か》まれたのは、深麗な姉娘、お銀の右腕だった。千尋はその夜から彼女の肩胛《けんこう》間部のぬめのような皮膚の下に、一日一回ずつ、十八日間パストゥール予防接種をほどこしはじめた。が、これは同時に恐ろしい妹娘、お金にも手当をすることであった。
笛を吹きながら、すすり泣くことが出来たわけも、あしおとや下駄の跡が一人のものであったわけも、黒檜家の門の扉が外部者に鞏固《きようこ》に閉じられていたわけも、今やすべて明らかになった。
古来、日本では双生児を、畜生|胎《ばら》、いぬ胎《ばら》などと称して忌みきらう習がある。まして――この姉妹は、一卵双生児の畸型だ。双生児が胎生時代に臀部《でんぶ》が癒着《ゆちやく》してしまったのだ。この畸型で世界的に有名なのはフィリッピンのヤンコ兄弟、チェッコのブラジェク姉妹、ハンガリアのヘレナ・ユーデイット姉妹である。これらの例では、臀がくっついているだけで、下肢は二人合わせて四本あった。しかるに黒檜姉妹は――お銀の足は退化して消失し、歩いているのはただお金の二本の足だけなのだった。
この怪物を眼前に、千尋の心に波打つ恐怖は、ただ「間にあうか?」という接種苗の効力に対する恐怖だけだった。狂犬に噛まれた人間は、もとよりすべてが感染するとは限らない。また感染しても、数カ月からまれには一、二年の潜伏期をあたえられる人もある。だが万一、潜伏期がきわめて短い場合は――予防接種の効力が現われるのは、十八日間の注射が完了して、さらに十八日目以後のことだから、それ以前に発病してしまえば万事休すだ。よだれをたれながして狂い廻り、脳も全身の筋肉も遂には麻痺《まひ》して鬼籍にのぼるのを、現代の医学では、いかなる名医といえども手をつかねて見送るほかはないのだった。
「大丈夫だ……お銀さん……」或る晴れた朝だ。接種が発効すべき日がやっと到来して、遂に何らの病状をあらわさなかった姉妹を見上げて、霧島千尋は笑った。憔悴《しようすい》した頬《ほお》に、恍惚たる紅がさしている――おお、千尋もまた、鼎のごとく哀れな恋の虜《とりこ》となりはてたのだった!
お銀は燦爛《さんらん》たる光と微風のなかに立っていた。
荒れはてた広い庭だ。剥《は》げ落ちた土蔵の壁に蔦《つた》かずらが這《は》い、ぼうぼうたる雑草に春老いんとして、木蓮の紫の花、石楠《しやくなげ》の薄紅の花が宝石のようにひかり、お銀もまた玲瓏《れいろう》と透きとおって、そのまま虚空に溶け消えてしまいそうだった。くるりと廻れば、お金の真紅の唇が腐臭をはなって千尋にあえぎかける。
恋? それが恋と言えたであろうか?
そもそも作者がこの物語を書き出した最初の意図は、この四十日近い間の、千尋と黒檜姉妹の怪奇|凄惨《せいさん》な愛憎の心理交渉を精密に紹介しようがためだった。言葉は人の心と心をつなぐ幻の虹だ。だが、人間世界と人外境との間に虹はかからぬ。それは人と魔物との恋だった。読者の理解と共感を得ることは不可能だ。せめて作者は、これを小説的というよりも、科学的に説明しよう。
少なくとも黒檜家に関する限り、先祖が平家であるかどうかは別として、たしかに名家の末裔《まつえい》であると思われた。それは土蔵のなかの、弦のきれた弓や、腕のもげた木彫の仏像などからもうかがわれたけれど、しかしすべては荒廃し、腐朽しようとする一種の鬼気がただよっていた。だが、それゆえに古き器と塵と虫と五彩|剥落《はくらく》の背景は生ける姉妹に、何という異様な美しさをかがやかせていたことだろう。
当主の老人は、すでに長く死病の床についたきりだった。この家の女王は姉妹だった。ただし家来は酉蔵ただ一人、不思議なことに、勇吉という従兄の姿は見当らなかった。
「外蒙から復員したという人があるそうだが……」
たった一度、千尋はたずねてみたことがある。お銀は弱々しい微笑を浮かべて黙っていた。すると背中でお金がげくげく泣き出した。
だが千尋は、その従兄がどこにいったのか、もう知っていたのだ。いつかの夜の、獣のような叫び、あれは彼が断崖から突き落される断末魔の叫びだったのだ。渦巻く海にうに[#「うに」に傍点]みたいになって、もはや屍体《したい》すらもこの世界から消し去ったであろう――鼎葦之助と同様に! 誰が殺したのか、なぜ殺したのか。
聞かなくても、明白だ。お金だ。憎しみの血にまみれたお金の心だ。一眼でそう直感させる恐ろしいお金だった。
肉体はつながっていたけれど、大脳ははなれていた。やはり臀結合体のヘレナ・ユーデイット姉妹も、ヘレナは情熱的なほがらかな美少女だったが、ユーデイットは陰性のヒステリー性の娘だったそうである。お銀の美は天上の美であり、お金の美は獣の美であった。顔だちが酷似しているのにこの相異は、明らかにふたりの皮膚の内部から生じているにちがいなかった。
神は一個の人間を創《つく》りたもうたびに、愛とか愉快とかいう良性の感情と、憎しみとか絶望とかいう悪性の感情を、それぞれ一定の試験管ではかって、その胸に注ぎこまれたのではなかろうかと思われることがある。蔭弁慶《かげべんけい》は外ではいくじなしだ。歓楽尽きれば、それに比例した深さの哀傷が生ずる。この悪性と良性の感情は、人が異性に相対する場合にも交錯して放射されるのではあるまいか。或る意味で、性別は生物分類上の門や類の差よりも懸絶する。すべての男は一点の憎悪を覚えつつ女を抱き、あらゆる女は男にすがりつつ意識の深部に恐怖を波打たせているのではないか。
さて、神は黒檜姉妹という二人三脚の美しき怪物をこの世に送り出すにあたって、困惑のあまり、感情の液体を奇妙な風にそそぎこまれた。すなわち男に対する原始的な女性の悪念を、それだけ、そっくり、ただお金ひとりに賦与《ふよ》されたのだ。――こんな異様な着想が、千尋の胸に湧《わ》きあがって、ひろがったのだった。そうとでも考えなければ、はじめて逢って、しかも生命を救ってやった自分を、あのような恐怖と憎悪の眼で眺める筈《はず》がない!
また、そうとでも考えなければ、この娘に対する自分の得体の知れぬ嫌悪が説明できなかった。痴鈍な眼つき、いやしげな唇!――しかもその色も形もお銀とそっくり、そこに生ずるのは、みだらな、動物的な美しさだ。暗い、いまわしいまなざしを投げながら、彼女の肉体は白い情欲の汚臭をはなっていた。千尋は吐気がした。このすさまじい反撥《はんぱつ》感は、充分、その果てに危険な爆発を予感させるものだった。――文句なしに勇吉や鼎の恐ろしい破局を回想させるものだった。復讐《ふくしゆう》というような理性的なもののためにではなく、本能的なその嫌悪感のために、千尋はお金を絞め殺したい衝動を感じるのだった――もし、彼女の生命がお銀の生命とつながってさえいなかったならば!
だが、千尋はお銀の足もとにはひれ伏した。最初相見た一瞬に、鼎葦之助がその全身を吸引されたのもこの顔だ。女性の持つあらゆる悪念、獣性、俗悪、無恥をことごとくお金にたくして、残っているのはまさしく透明な天使だった。かつて千尋は奈良で見た天平時代の彫刻が、柔かい唇と円い乳房の絶妙な曲線を持ちながら、まったく肉感を超えた霊性の美をたたえているのに打たれたことがあるが、お銀の瞳もまた千尋の魂を誘いこんで、忘我の法悦にひたらせるものだった。それは冷たい早春の微風のようなほほえみに輝いていた。
すわれるように千尋が近寄れば、彼女は逃げた、苦悶《くもん》と憧憬《どうけい》の眼で見送って立ちつくすと、
「お金、お帰り」
と、やさしく彼女は命ずるのだった。逃げたのはお銀ではなく、お金の持つ足だった。正確には、お銀の方が姉だとは言いきれないわけだが、その命令にすごすごとお金が従うのは、やはり叡智《えいち》の落差から来るにちがいなかった。だが、姉妹が戻って来ると、今度は千尋が飛び退る。いとわしいお金の体臭!
罠の二つの歯が、魂に噛みついている――という鼎の不思議な言葉が、今こそ体得される千尋はお銀の神聖美に渇仰《かつごう》しているのだ。だが、肉体は生理学的にはふたり相兼ねているが、少なくとも解剖学的位置の点から見れば、生殖器はお金のものとして開いているのだった。が、どうしてあの娘を悪寒なくして抱くことが出来ようか?
精神的にも感覚的にもまったく異った印象を与えるこの黒檜姉妹と暮した十八日間、色々の小説的事件をすべて省略して、霧島千尋の心理に起こった経過を述べれば、まず右のとおりだ。こうして彼の心は、文字通り「引裂かれた」のだった。
さて、姉妹の生命がパストゥールによって保証された三十何日目かの眩耀《げんよう》たる朝。
引裂かれきった千尋の心は、遂におそろしい渦潮に巻きこまれた。
「あたし、あなたのためなら、どんなことでもやってあげたい心でいっぱいです」
と、微笑してお銀が言った。
「あたしは、お前を殺したい」
と、がたがたふるえながら、お金がうめいた。
千尋はお銀を見上げた。無限の深海のような瞳――すさまじい不可抗力が彼を吸いこんだ。彼は突然獣のようにうなると、狂乱しておどりかかった。
「いや! いや! いや! ちくしょう!」
くるりと身体が廻《まわ》ると、お金の肥った腕が彼を殴《なぐ》った。殴りながら――恐怖と憎悪とにはぎしりしながら、彼女の腕は千尋にからみついていた。
「お銀……お銀……お銀……」
祈るように呼びつづけながら、千尋はお金を抱きしめていた。日の光にきらめきつつ、嘔吐《おうと》が二人の唇の間に溢《あふ》れて散った。
夜明け前だ。
海は西にあるが、遠い東の黎明《れいめい》の仄明《ほのあか》りは、沖の空に冷えびえと映っている。が、海はなお暗黒の轟《とどろ》きをあげている。潮がひきはじめているらしい。地上にはいまだあおあおと下弦の月の光がながれていた。
千尋は酉蔵に腕をとられて土塀から坂路に出た。
「どこにつれてゆくのだ!」
「お嬢さまが待ってござらっしゃるで」と酉蔵が答えた。
うっそりと、ほとんど表情のない顔だが、鈍い瞳につねにけぶっている憎しみのほかに、今、何やら嬉《うれ》しげにきらめく光があった。その憎悪は、牛か犀《さい》を思わせるこの不具者に、ただ一つ残った人間的な感情をあらわすものだった。彼は姉妹に徹底的に服従する。だが、姉妹に近よる一切の男には、この憎しみにけぶる眼を投げるのだった。エスメラルダを恋するカジモド、いちどこんな言葉が胸をよぎって千尋は笑ったことがある。彼はこの恐ろしい下男がこっけいになり、あわれんだ。
だが、今、その酉蔵の眼の底にただよう鈍い笑いは? 千尋はぎりっと奥歯を噛みしめて、
「待っているのは、お金だろう?」
勇吉や鼎の恐ろしい運命が、今自分にも訪れようとしているのだ! その考えがぐさと胸に打ちこまれ、彼は拳《こぶし》を握りしめた。だが、おれは――
ぴっ、ぴっ、ぴいひゃらら――ほがらかな横笛の音が、坂の上からながれて来た。防戦の覚悟も自信も持っていたにもかかわらず、その瞬間千尋はぞっと背筋を冷たいものが流れるのを感じ、われ知らず全身の毛穴をそそけ出させていた。
ひき潮どきの大渦巻のとうとうごうごうたるひびきを縫って清れつな横顔を見せて笛を吹いているのはお銀だった。海に向って、柵をつかんでいるのはお金だ。千尋は、わざと柵からはなれてお銀の前におずおずと近寄ると、
「いったい、何です! 今頃――」
お銀は笛をはなすと、千尋を見上げた。あおいひかりが透きとおって、顔はほとんど神々しかった。
「いい月ね」ほがらかにいった。
「月見ですか?」
「いえ、そうじゃないんですけど……あたし、何よりお月さまが好きなんです」
「そうでしょう……よく似ているから」
ちょっと気抜けして、千尋はほほえんだ。
これは、美しさの種類を言ったのだ。だが、今、空にただよう弦月は、清澄というよりものすごかった。
その光にいろどられるためか、お銀もまた、何となく……異様な変化を感じさせた。いや――これは、昨日の朝のあの出来事の直後から、この娘にあらわれた変化だった。そうだ、例の深海のような吸引性の瞳が、あの弦月のような冷厳な感じに変ったようだった。
いや、変ったのは彼女ばかりではない。お金も――あの暗いいまわしい眼が、闘争と愛欲の草いきれのなかで、こつぜんと油をながしたように濡《ぬ》れて、うるんだ。嵐のあとの静けさ――いや、それはしかし千尋にとって、嵐のまえの静けさと感じられてかえって不気味だった。そして今――ねじむけた顔から、じっと千尋の身体にくいこんで来る。微妙な変化だが、たしかに昨日の朝以前とはちがう……お銀にほほえみかけながら、千尋は満身でお金の身体のうごきに警戒していた。
「月……月……永劫の月」
と、お銀がつぶやいて、天上をあおいだとき、お金の肩がぴくっと動いた。はっと息をのんだ千尋の下腹部に、何やらぴたりとあてられた。
「あっ――君は――」
と千尋は絶叫して、作りつけの彫物みたいに立ちすくんでいた。下腹部にあてられているのは、横笛ならぬ輝く短刀だった。それを握っているのは、おお、清らかなお銀の繊手《せんしゆ》ではないか。
「来ていただいたのは、この用だったのです」
お銀がさけんだ。粛然たる声音だ。
「けれど、霧島さん――あなたは、もうこんなことを、ちゃんと予期されていた筈《はず》ではございませんか?」
「君だとは……君だとは、思わなかった! お銀さん、お銀さん! 僕は君を――」
「愛していらっしゃる――のに、昨日、どうしてお金を――」
お銀の面に凄絶《せいぜつ》な片えくぼが彫られた。
「君の美しさに、逆上したんだ。だが、君達の身体は――」
「ほ、ほ、仕方がないとおっしゃるのね、いえ、霧島さん、あたしは嫉妬《しつと》をしているわけではございませんよ。なぜって、あなたにあんなことをさせたのは、このあたしなんですから……お金は、ただあなたを憎み、こわがっていたのです。あの瞬間までは……」
短刀を握ったまま、厳粛な調子でお銀はしゃべり出した。
「まあ、あたし達は何という風変りな姉妹なのでしょう。いえ、身体のことを言っているんじゃあありません。魂が……魂をつくっているものが、まったく別なのです――男が女を好きになり、女が男を好きになる、一緒に暮してみれば、苦しみは増すばかりとわかっているのに、結びつくときは夢中になる、かんがえてみれば、このきたならしい結合は、浅い意味でも、深い意味でも、当事者同士の生命の消耗でも、いえ、生命の放棄です! それを超えて、そうさせる恐ろしい力は、いったい何でしょう? それは肉の快感です。憎みながら、恐れながら、苦しめられながら、一たん結ばれた女が男から離れられないのは、女の肉にうずくこの獣めいた下等な性質のせいです。そういう愛を、それだけを、このお金は享《う》けているのです!」
お金の肩がふるえている、彼女はげくげくとすすり泣いているのだった。月のひかりが薄れて来た。
「もうひとつ、男と女を一つの坩堝《るつぼ》に投げ入れる力は、子供を残すという――これは神さまの御意志です。一人一人の人間の生命は、この上なく愚かで、はかないものだけれど、唯《ただ》その生命を永遠に伝えてゆくように、神さまは、人間に盲目の、いえ、その意味で神聖な恋をおさせになるのです……あたしが与えられたのは、そういう性質の愛なのでした! あなたがあたしを好きになったとしたなら、それはこの大きな神さまのご意志に、ひきずり寄せられていたのです! また、あなたがお金をきらいになったとしたなら、それはこの神意をとりのぞいた女の身体は、男にとってただ生命のごみすてばに過ぎないからです!」
千尋は戦慄《せんりつ》した。短刀よりも恐ろしいお銀の言葉だった。
「二人のこんな魂のくいちがいは、この間までわたし達にもはっきりわかりませんでした。一ト月前――勇吉さんが戻って来て、娘になったあたし達の前に立ちました。あたしは不思議に勇吉さんが好きになり、お金はむしょうに怖がりました。鼎さんがおいでになったときもおんなじでした。この魂の違いを、こんなにはっきり言葉として言えるのは、鼎さんのおかげです。何かのおり、いちど鼎さんが笑いながら、今言ったような恋のふたつの意味をあたしに話して下すったとき、はじめて自分でも、ああそうかと納得できたのです――その恋のなりゆきは、あなたの場合とまったく同じでした。昨日のようなことが起きて……そして、その瞬間から、こんどはあたしが男を憎み、永遠に姿を消して欲しくなり、一方お金は肉に残る快楽が忘れられず、死んだ男を恋しがり、死のうとするあなたへの未練に、こんなにめそめそ悲しがっているのです――ほ、ほ、ほ!」
「なぜ、なぜ――なぜ君は僕に死んで欲しくなったんだ? なぜ、そんなにかわる必要があるんだ? このまま、僕と――」
千尋は身の毛をよだてて、声をしぼった。
「蜘蛛《くも》のなかには、あれする最中、雄の身体をもりもり食べてしまう雌があるそうではございませんか? 雄の任務はそれでおわったという、それは、深い神さまのご意志を語っているのではありませんか?」
冷酷をきわめ荘厳をきわめるほほえみが、お銀の顔に光の波紋のごとくひろがった。
「とにかく、あたしはあなたを殺したい! ああ、この魂の奈落《ならく》から湧きあがって来る殺戮《さつりく》の意志、これはあの生殖の交叉点さえ過ぎたら、ふたたび永遠の敵となる女と男の、運命的な憎悪でなくて何でしょう? ほ、ほ、肉も神も何もかもこんがらがったあなたは、あきれたような顔をして見ていらっしゃる。さあ、よくご覧なさい、あたしの顔に燃えるこの歓喜、これは天意の笑いなんですよ――」
歓喜の笑い――それは朗らかに、ものすごかった。笑いながらお銀は短刀をとり直した。
「さあ、霧島さん、柵の方へまわんなさい」
くくっという声がした。恐怖にぶるぶるとうずくまりながら、酉蔵が喉《のど》の奥で笑ったのだ――が、その声は彼ばかりではない、お金の苦悩に満ちたうなりでもあった。
彼女は嗚咽《おえつ》していた! 千尋のあらゆる理性と意力は硝子《ガラス》のごとく粉砕され、ぼうぜんたる顔で、ふらふらとよろめいた。死の潮煙の吹きあがって来る断崖の柵の方へ――
「――あっ」短刀がきらめいて、驚愕《きようがく》の叫びがあがった。叫んだのはお銀だ。
短刀がきらめいたのは、二歩、三歩、たたと姉妹が千尋の身体からはなれたのだった。
「何を何をするの! お金」
「あたし、このひとを殺させないわ……」
お金が身体をねじりながら、しゃがれた声で言った。わななく足の指が地にくいこんで、お銀をひきずってゆく。
「まあ――お前あたしにさからうのかい? そんなことが、お前に出来て? そんなことが、そんなことが――」
「もうイヤ! もうイヤ! あたし、このひとを殺させないわ!」
「それなら、あたし達が、この男の住む地上から、姿を消すよりほかなくなってよ! お前が、お前が――」
生への未練に、肉塊の象徴の女体はわなないた。足がとまった。足は断崖から逃げようとしながら、手はひっしに柵をつかんだ。「死にます、あたしは死にます」
ああ、「肉体」と「精神」との何という恐ろしい死闘――狼狽《ろうばい》して、酉蔵はおろおろとはい廻った。突然彼は何とも言えない叫びをあげて飛び上った。
「お嬢さまあっ――」
涙と情欲に燃えるお金の眼が、かなしげに千尋の眼とあうと、彼女の身体に、蛇のようなけいれんが波打って、
「もう負けない――あたしの勝だわ!」
そして一瞬に黒檜姉妹の二つの身体は二本の足を宙に、狂瀾の大渦巻へ、くっついた木の葉のように舞い落ちていった。
「お嬢さまあっ――」
痴呆のごとくつッ立つ千尋の耳に、柵に駈けよって海をのぞきこんだ酉蔵の悲痛な声が遠く聞えた。
下男はくずおれて顔に両掌をあてた。絶望と悲哀の怪奇像。そのシルエットの背景に、渺茫《びようぼう》とながれ去る潮流の果てに、すでに燦《さん》たる黎明《れいめい》のひかりがあおじろくながれかけているのだった。
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雪 女
絵師夫妻
――あなた「雪女」って怪談、知っていますか? 聴いたことがない? へへえ、あなた、生れはたしか鶴岡と聞いたが、そんな伝説はありませんかね。私の故郷――山陰の但馬《たじまの》国には、昔からこういう名の怪談が語り伝えられています。
つまり、これは、幽霊の名前なんですね。月の明るい雪の深夜、うっかり野や山路を歩いていると、白い女の幽霊が雪のなかにじっと立っているのに逢《あ》うという。……いったい、私の生れた但馬は、東北にもおとらぬ雪の深い土地ですから、おそらく、長いたいくつないろりばたの話の種のひとつとして、ずっと昔から語り伝えられたものでしょうが、私も――あの外は吹雪、いろり火はとろとろというやつですね。幼い日の冬の夜、ぽつりぽつり彫物みたいな老人に語り出されると、聞きたいくせに恐ろしくて恐ろしくてたまらなかったものです。……その因縁話というのは、要するに、あらぬ濡衣《ぬれぎぬ》を着せられて、むごたらしく殺された女から来ているのですが……いや、私が今あなたにお話ししようと思うのは、この古い怪談ではなく、実は或《あ》る絵の話なので、伝説の方はまた後日のおたのしみとして、今夜はその絵にまつわるひとつの近代的怪談の方を話しましょう。……
――私の家は、いつか申しましたようにやっぱりあなたと同じく片田舎の医者なのですが、しかし曾祖父《そうそふ》は鳥取藩の御抱《おかかえ》絵師でした。私が親父《おやじ》の厳命にそむいてえかきになったのは、その加減もあるかも知れません。あなたの方でそんなのを、隔世遺伝とか何とかいうのじゃありませんか?――曾祖父は号を水鬼といって、鯉をかかせたら天下一品であった――と、まあ、父は申します。作品ですか? それが現在私の家には鯉の絵など一枚もないのです。私の生れた頃には、まだ三、四幅あったそうですが、それもよくあるようにいつとなく散佚《さんいつ》して――そのくせ父は、絵の良し悪しなどまったくわからないにかかわらず、一種の普請マニアですから、その見地からすこぶる無念そうに痛惜するのですが――とにかく、今は一枚も残っては居りません。
それで描いたのは鯉ばかりかと申しますとそうではなく、私の知る限りでは唯《ただ》一幅例外がありました。――それが「雪女」という絵なのです。
曾祖父水鬼が、どういう経過からそんな絵をかいたものか、私は知りません、おそらくやっぱり「雪女」の伝説から芸術的ヒントを得ていたのではないか――そしてその作品は北斎の幽霊のようにグロテスクなものではなくて、これは小説ですがむしろ鏡花《きようか》の幽霊のように凄艶《せいえん》なものではないか――と私は想像するのです。想像するのですというのは、実は私もその絵を見たことはないので。憶《おぼ》えているのですが、この絵はいつも二重の虫の喰《く》った古ぼけた函《はこ》に厳緘《げんかん》して蔵の中にしまってありました。そして外函は開くのですが、内函には厳重な封緘がほどこされ、上面に「此《この》絵決して観る可からず、虫喰い候とも虫干に不及《およばず》、一寸たりとも見候者は直ちにまなこ腐れ候事」と書いてあるのです。これはいったい誰が書いたものか、曾祖父自身か、或《あるい》は全く他の人か――とにかく、はっきりと言い伝えられて、この文句に恐ろしい権威を持たせているのは、この絵をかいて間もなく、曾祖父が異様な狂い死を遂げたという事実なのですね。……
この絵は、親父も勿論《もちろん》見たことはなかったらしい。この文句に恐れをなしたとすれば、医者にも似合わぬ非科学的な臆病《おくびよう》というべきで――尤《もつと》も、親父は元来私などよりずっと頑固で迷信ぶかいところがあるのですが――とにかく、やっぱり幼いときから家人に言い含められたのが効いていたのでしょう。……私も、祖母に抱かれたりなどして蔵に入るときしばしば、これを開いちゃ眼がつぶれるものだぞよと言い聞かせられたものですが、かび臭い薄暗いひかりの中に、如何《いか》にも恐ろしそうに黒いしなびた唇をわななかせる祖母の顔の記憶が胸の底に刻みつけられていて、成長して美術学校に入ってからも、それほど好きな絵と棚の上に埃《ほこり》だらけになってころがっているその「雪女」の函とを全く結びつけて見もしなかったのは、不思議といえば不思議な話ですが、これはその間に打ちこまれた恐怖のくさびが余りに深刻だった為らしい。
今ちょっと申しましたように、親父の道楽といえば先《ま》ず普請で――ちょうど私が美術学校に入る少し前に、土蔵の裏手の空地に二階建の離れを造りかかっていましたが、私が学校に入ったら、その新しい襖《ふすま》に何かかいて貰《もら》おうと、伜《せがれ》の志望に不平不満ながら、そんな夢みたいな希望を持っていたらしく、私が襖の絵などと全然無関係な油絵の方に入ったと知ると怒気ふんぷん、私は気の毒でもあり可笑《おか》しくもあったわけですが、さて夏休みになって東京から帰省すると、その離れはむろん完成し、その上――そこの二階に見知らぬ若い夫婦が来て泊っていました。
聞けば、それが日本画の絵師だとのこと、私は少し驚いたり親父の厭味《いやみ》ではないかと邪推したりしたのですが、詳しく話を聞くと、別にわざわざ呼んだわけではなく、実は私の家は近くの金雲寺という禅宗寺の檀家の筆頭――檀頭という奴《やつ》なのですが、ここの和尚が絵が好きで、旅廻りの乞食絵師などをよく宿泊させていた。この坊主が何か禅宗の方の位を貰《もら》うのに金がかかる、それで檀家一同金を出し合ってその位を貰ってやったわけですがさてしゅびよく一段位が上がると、坊主は何処《どこ》か遠い滋賀県の方の寺へ、こっちに少し体裁が悪いから、急に夜逃げをするように行ってしまい、ちょうど泊っていた絵師夫婦が――城貝白羊といいました――取残されて泡を喰い、途方にくれているのを檀頭のうち[#「うち」に傍点]が引取って、当分世話をしてやることになったのだそうです。
もっとも親父の考えとしては、いつかそのうちにこの白羊先生に、追い追い離れの唐紙に何かかいて貰うつもりだったらしいが、私の帰ったときには別にそんなけはいもなく、白羊の方は庭を掃いたり植木の手入をしたり、妻女のお千恵さんの方は縫物をしたり……そんなことをやっていました。
ふたりともまだ若く、ほっそりとあおみがかったようなかげのある美しい夫婦で――特に妻君の方ですね、私はああいう感じの女を、このひと以外に見た憶えがないのですが、その透きとおるほど白い瓜実《うりざね》顔にまっ赤に濡《ぬ》れている小さな唇、何か痛々しいくせに、少年にすら胸をかきむしるような感じを与える――壮年の男には病的なひどい力を起させるようなところがあるのですね。……で、このお千恵さんの方には、私もちょいちょいニキビ面の奥からヘンな眼つきを送ったこともないではなかった。白羊は何となくあまり好感を持つことが出来なかった。女のようにおどおどして、あおじろいねばねばしたような感じがある。……で、私は、何をヘナチョコの乞食絵師めと、ロクに言葉もかけませんでしたが――そうです。唯《ただ》ひとつ今でも憶えているのにこんなことがありました。
その夏の或《あ》る夕、私が外から帰ってくると庭のなかに箒《ほうき》を持ったまま、白羊がぼんやり立っている。ちょうど風のひどく吹いた翌日のことで、庭の中の草や花は惨澹《さんたん》と散り伏していたのですが、後姿から判断しても、彼の眺めているのはそんな花などではないらしい。私が柴折戸《しおりど》をあけてもまだ気づかず、一心不乱に何かを見つめている……ちょっとふしぎに思って、そっと近づきながら、彼の視線のゆく先をたどると――なあんだ、私は思わず失笑しました。蜘蛛《くも》の網にかかった蝶なのです。美しい大きな蝶が、粘りつく銀色の糸に羽を巻きとられて、ばたばた悶《もだ》えているのです。……私の笑い声を聞いて、白羊は意外なほどびくんとした様子で振向き、顔をあかくして笑いました。
――いや、さっきから眺めているのですが、蜘蛛は実に獰悪《どうあく》極まる動物ですなあ。
そして私が指をさしのばして蝶を救ってやろうとすると、彼はあわてて、まあ、まあ、と手を振ってそれをとめるのです。それで私も一緒になって、黒い肥った蜘蛛が蝶に飛びかかり、肢でくるくる廻しながら、尻《しり》から粘液の糸をほとばしらせて、次第次第にしめつけてゆく、小さいながらも残忍なこの殺戮《さつりく》を結末まで観察したのですが、今でも忘れられないのは、それを見つめている白羊の表情です。この昆虫の闘いがどうしてそれほどの感動を与えるのか、白羊の顔色は幾らかあおくなっていましたが、まるで子供のように眼は恍惚とした微笑をたたえ、そしてぎらぎらと熱っぽくかがやいていました。
が、とにかくふたりとも、大抵いつも気の毒なくらい、しんねりむっつり黙っているという風なので、別に深い交渉を持つ機会もなく、そのまま休暇が終ると私はすぐに東京へ飛び出したのですが、私が今、話そうとする「雪女」の事件は、実はそれから次の冬休みに帰省するまでの間に起ったのです。それでこりゃァこの眼で直接見たことじゃありませんけれども、話の都合上、ざっとそれをのべましょう。
九月の終りに、祖母の七回忌の法事があった。金雲寺の新しい坊主はまだ迎えられていなかったから、よその寺から呼んで来たらしい。こういうことは田舎ではおおげさですからそのときも親戚や村の人々が二十人以上も集って、唐紙を取り払った大広間で、脂っ気のない御馳走《ごちそう》を食べるのですが、これだけの人数の膳《ぜん》とか座布団とかはふだん蔵のなかにしまいこんであるから、皆|盛《さかん》に蔵と母家の間を往復する。一年のうちで、家人以外の者が蔵に入ったり出来るのは、こんな場合だけです……で、その日の夕方、私の小さいとき乳母《うば》をしていて、今では娘のお絹をうちの女中に上げているおきん婆さんというのが、皿か何か取りに入った。そして出ようとするとですね――そのときまで誰もいないと思っていた薄暗い隅のあたりで、コトリと物音がした。ぎょっとして振返ると、其処《そこ》に意外にも白羊の細い後影が、かがみこむようにして何かしている姿がぼんやり見えた。……(はてな?)と首をかしげたとたんに、婆さんの眼は、白羊の手が例の恐ろしい函《はこ》の封を破って、「雪女」をひろげかかっているのを認めたのですね。婆さんは鴉《からす》のような悲鳴をあげた。長年出入りしていただけに、その因縁をよく承知していたからで――お前様、何するだ! と叫んだ婆さんは飛びかかり、皿でその掌を打って「雪女」を奪い返した。――そら見ちゃ眼がつぶれるってえ、恐ろしい絵だってことを知らねえだか! ばかもん。
白羊は何か意味のとれぬうめきを発してまた手をさしのばしたが、急に顔に潮のように血を昇して立ちすくみ、半分か三分の一ほど開かれていたその絵を、婆さんがしっかと眼をつぶったまま巻きこむのを、ふるえながら見つめていたと申します。
おきん婆さんからこのことを聞いた父はあおくなり、法事のあとで火の出るほど白羊をどなりつけた。しかし、知らない白羊が絵の入っているらしい函を、たとえ魔法めいた禁断の句がつけられているとはいえ、職業的好奇心から開くということも、まったく狂ったような行為ともいえないので、別に彼等を追ん出すというところまでゆかず、さんざん怒鳴り散らしたあげく父は、あの絵を見たということによって、案じられるのはこちらよりもあんただ。まさか眼は潰《つぶ》れやせんだろうが、あれだけの因縁のある絵のことだから、それを破った以上、何か起らんとはいえん。せいぜい気をつけられたが宜《よろ》しかろうと、むしろ相手を気づかうもののごとき眼つきで眺めやったそうです。で、「雪女」は再び厳重な封が施され、今度はやはり蔵の中の古い鎧櫃《よろいびつ》のなかに、甲冑《かつちゆう》と一緒にしまいこまれました。
さてその結果ですが、無論白羊の眼は潰れなどしなかった。滑稽《こつけい》なのはおきん婆さんでとにかく絵に触れただけに大いに気に病んで一時眼が白く霞んで来たようだとか何とか騒ぎたてましたが、これは大分前から老眼で針の目など通らない方だから、それは神経というものだったでしょう。ただ、白羊の方で、ちょっと異常なことがないでもなかったというのは、妻君のお千恵さんですね。このひとの片腕にむごたらしい紫色のみみずばれが蛇のように這《は》っているのを、その後間もない或る日に偶然女中のお絹が見つけて、どうしたのだと尋ねると、あわててそれを隠しながら、かなしげに、夫といさかいをしてぶたれたのだという。如何《いか》にも犬も喰わぬ喧嘩《けんか》とはいえ、夫婦の仲であんなひどいことをするとは、白羊さんも少し気が変になって来たのではあるまいかと、お絹がそっと母に耳打ちしたという事件くらいなものです。
しかし、それで絵師の顔貌や態度が眼に見えて険悪になったというわけではない。むしろ一層もの静かにおとなしくなって――こっぴどく父に叱《しか》られて気が咎《とが》めたのか、あの日の後間もなく、自分から離れの襖《ふすま》の絵をかこうと申し出て、それからは庭を掃くよりひっそりと離れの二階に閉じこもっていることが多くなった。……これも変ったといえば白羊の変った点ですが、これはむしろよく変ったというべきで、そのほかには何の異変も生じない。やっぱり自分達の恐怖は古風な迷信に過ぎなかったのだと、父をはじめ一家やれやれと胸を撫《な》で下ろしたというのですが……安堵《あんど》するにはまだ早かった。
怪異が起って来たのです。法事から一月余りたって、十月も末に近づいた頃から、私の家におかしなことが起り始めたのです。
まず第一に、或る雨のふる真夜中、廁《かわや》に起きたお絹が、何処《どこ》からともなく、実に気味悪い、女のすすり泣きのような声を聞いたというのですね。女のすすり泣きというより、わわわう、わわわう、という悲しげな、苦しげな、犬の低い唸《うな》りのような声で、ぎょっとしてお絹が立ちどまり、闇《やみ》の中に耳をすませると、もうそれっきり何も聞えなくなった……今のはいったい生き物の声であったのか、それとも風の吹く音であったのか、遠い虚空から響いてきたようでもあったし、すぐ傍の地の底から陰々と洩《も》れて来たようでもあった。……雨はしとしとと降っている。お絹はまるで背筋に水を浴びせられたようにぞーっとして、そのまま廁にもゆかず、引返して冷たい寝床にもぐりこんだというのですが、母はこれを聞いて、それは雨に迷った捨て猫の鳴声ででもあったろうと一笑に附した。それでそんなことは二度となかったという。
ところが、次に――今度は私のうちに「幽霊」が出るという奇怪な噂《うわさ》が村に立ちました。内々その出所を詮索してみたら、村の中に馬鹿竹という少し足りないが笛のうまい男がいる。この男が晩秋の月の美しい夜、火ノ見|櫓《やぐら》の上へ上って笛を吹いていると、そこから半町ちかく離れた私の家へ、なんと幽霊が――馬鹿のいうことだけに、常識では考えられない幻怪極まる話なのですが、虚空高くゆらゆら歩いて入りこんでゆくのを見たというのですね。なおよく聞きただすと、その入っていったのは離れの二階らしく、蒼《あお》い月光にもうろうと浮かび上った幽霊は、髪をふり乱した真っ白な女の姿であったというのですが、これを聞いて家人達が、先《ま》ずむねをつかれたのは「雪女」のことであった……(さてこそ)と思ったら、さすがの親父も全身をうすら冷たい風に吹かれたような気がして――で、或る午後、何となく離れの二階に上ってみたそうです。
離れの二階は二間つづきになっていて、一つは絵師夫妻の居室、もう一つは今白羊が襖の絵をかいている仕事部屋に当てられています。一方には少し広い廊下がついて、そのつき当りに露台とも物干台ともつかぬものが取りつけてある。その右側に一本ひょろひょろ伸びた桐の木を隔てて土蔵があるのですが、前の方を見下すと、そこはちょっとした野菜畠となっていて、その向うに塀、村の鐘楼は今申した通り半町ばかりの草屋根や甍《いらか》を越えた彼方に立っています。どうも如何に足のない幽霊といえども、この二階へ飛び上るのは少し奇抜過ぎる……と、ちょうど空のあおい晩秋の真昼のことですし、親父は思わず馬鹿竹のたわけた空想を幾分でもまじめに考えた自分の頭を笑った。で、それはそれで済んだのですが、そのついでにちょっと、白羊の襖の絵の進捗《しんちよく》ぶりが見たくなって、親父は傍の障子をあけてのぞきこんだ。
すると白羊は、この真っ昼間からあおむけになって、いぎたなく寝ていたそうですが、まるで悪夢でも見ているように、その蒼白い額には汗の玉が浮かんでいる。襖の絵はと見ると、その隣室に絵具皿や筆と一緒に大きく紙が展《なら》べてあるのがその位置からも見えるのですが、これはずっと前に見たっきり、鶴、雀、雉子《きじ》、孔雀、おしどり、百羽かくという小鳥の原図はそのままほとんど進んでいない。その代り枕もとには幾十枚かの絵が散らかっているので、さては趣向に苦心する鳥の下絵かとよく見れば、なんとこれが女の写生です。しかも親父が息をのんだというのは、それがこともあろうに、縛られている女、吊《つ》るし上げられている女、鞭《むち》打たれている女、のけぞり返っている女、はりつけの女、火あぶりの女、獄門にかけられている女、まさに血の池にむせぶ白蛇のごとき凄惨《せいさん》を極める美女百態の下絵です。
いささか毒気を抜かれて、親父はしばらくの間この絵と白羊の苦しげな寝顔を交互に眺めやっていたが、やがて気を取り直して、おいおい城貝さんと揺り起した。びっくりして眼をさまし、あわてて坐《すわ》り直したものの、まだ夢の世界から抜けきっていないような顔つきの白羊に、親父は、真っ向から、襖の絵をかいてやるやるといいながら、まっぴるまからぐうぐう眠りこけて、寝るのはいいがいったいこんな妙な絵をかいているのはどういう趣味かね、と叱りつけた。白羊は青くなったり赤くなったりして、早々にその女の絵をしまいこみ、ぶっちょうづらの父の顔を正視もし得ず、襖の方は少くとも一月以内に仕上げるからと、小さな声で約束したと申します。――これが、十一月中旬頃の話です。
その月の末に初雪がふった。その初雪のふった日の夜から、こつ然とあのお千恵さんが家からいなくなりました。いや、いなくなったというと語弊がある。その翌朝に白羊が親父の前に来て、昨日、丹後の方に残してある妻の妹が病気に罹《かか》ったからすぐ来て貰《もら》いたいと通知があったので、二、三日中にと思っていたところが、夜になって妻が一刻も寝ていられぬほどに案じ出し、うるさくて仕方がないので断りもなくて失礼だが、夜分のことではあるし、そのまま発たせてしまったと、しきりにくどくど詫びたそうですから……で、とにかく、これは一応|理窟《りくつ》が通っているので、非常識な夫婦だと、両親は少し気色を害したものの別に怪事件だとは考えなかった。
ところが……それから間もなく、今度は女中のお絹の態度が奇妙に変って来ました。元来非常に陽気なおしゃべりだったのが急に口がきけなくなったように黙り屋となり、絶えず何かにおどおどして、頬《ほお》まで暗く蒼ざめて落ちて来たように見える。雪はどんどんふりつづいています。風邪でもひいたのではないかと親父が診たが別にそうでもないらしい。藪《やぶ》医者先生首をかしげているうちに、師走も二十日ちかい頃、とうとうほんものの肺炎にかかってしまった。もちろんうちに責任があるし、第一医者の家ですから、こちらにいた方が都合がよいので、ずっとそのまま女中部屋に寝ていたのですが、ある晩どうも危険になって、親父がおきん婆さんを呼んで来いといった。それでその日の昼|迄《まで》も来ていた婆さんを呼びに、白羊先生が雪のなかを飛んでゆきました。
その間にも経過がどんどん悪くなって、母がお絹の細い手を握りしめ絹や、絹! しっかり、なさいよ、今おっ母を呼んでくるからね! と叫んでいると、彼女はしきりにうなずいていたが、急に視線が暗い天井にとまると、じっと動かなくなり、そのかわり全身がぶるぶる震え出して、母の手をぎゃくにしっかりとつかみ、奥さま、あたし、こわい――といった。こわいことはない。なおしてやる、きっとなおしてやるよ、お絹! と父が大声で叫んで力づけると、彼女はいやいやするように首を振りなお暗い空中を見つめたまま、
――ああ、お千恵さん……
と、息をふるわせていう。余り思いがけない言葉なので、父と母が顔を見合わせると、そのときのお絹の顔つきといったら、唇はわなわなとけいれんし、額に冷たい汗粒がにじみ出して、そのままあえぐ息をふるえるように吸いこむと、こう掠《かす》れた声でいった。
あたし、見た……桐の木……穴を掘る……ああ恐ろしい。
ふたりがどうてんして、何、何、と覆うように耳を近づけたとたん、お絹は、部屋の入口をちらっと見て、意味のわからない猫みたいな叫びを洩《も》らしたが、父が振り向くと、そのときちょうど白羊に連れられたおきん婆さんが入って来た。婆さんが泣くような声をあげて駈《か》け寄ったとき、そのショックのためか可哀《かわい》そうに、お絹の息はもう絶えていましたが、その義眼のように見ひらかれた瞳《ひとみ》には、実に何ともいえぬ激情の色が、ありありと残っていたと申します。……
――私が、冬休みで帰省していったのは、ちょうど死んだこのお絹の葬式のあった一週間ばかり後のこと、そして私は母の口から、留守中に起ったこれら色々のあやしのことどもを、はじめて耳にしたわけです。
家のなかには、ばくぜんとした恐怖の空気があった。……が、その事件の渦中にある人々の常として、家人の誰ひとりとして、これらあやしのことどもを明確に抽出し、「雪女」とかんれんせしめて現実的な解釈を下している者がありません。しかし私は考えた。第三者の――少くとも今迄の事件における局外者の有する冷静と興味とをもって、これらの事件を並べ、連ね、そうして考え――そこから出て来た結論は何でしたろう? あなた、あなたも何かお考えつきのようですね。が、まあ、お待ち下さい。それはもうひとつ、私自身の登場する次の事件を聞いてからおっしゃって下さい。
とにかく、私は或る日、一つの恐るべき結論に達して、思わずぎょっとなったのですね。その想像が正しいか、間違っているか、それを証明する方法は実に簡単なのです。しかし臆病《おくびよう》な私はちゅうちょした。ちゅうちょせざるを得ないほど、その悪夢はせんりつすべきものであった。……この恐怖の金しばりが解けて、私が自己本然の行動に出ることが許されたのは、その翌日の夜のことでした。それは、こういうわけです。――
白羊の襖の絵は、その頃やっと出来上りました。私もそれを見ました。技術は案外確かなもので、ところどころ一流の人にもひけ目のないほど冴《さ》えた光がある。が、惜しいかな――全体は死んでいる。鳥の眼など、くさった魚のそれと大差ありません。しかし親父は絵のことなんかわからないから、大いによろこんで、こうなると父はせっかちですから、さっそくその夕私にその絵を持たせ、半里ばかり離れた町の表具師にやったのですが、作者の白羊にも何か註文があろうからというので、これも一緒にゆきました。
さて、その帰りです。――もう、日はとっぷり暮れはてて、雪はふり止んでいましたが月が昇って、夜空に満ちたその光は、重々と巻きかえる波濤《はとう》のような野末の山々から立ち昇る夜霧のために、おぼろにけむり、むしろ地上の銀世界の方が鮮やかに輝いて浮き上って、雪をかぶった樹、河、路の美しさは、むしろ、地獄的な凄麗《せいれい》さとでも形容するほかに言葉もありません。……野はしんとして水の音さえ聞えず、唯ふたりの凍った耳に響いて来るのは、サク、サク、サク……というお互いの藁靴《わらぐつ》の踏む雪の音ばかりです。
私はちらりと白羊の方を流し目に見ました。その秀麗な横顔に、雪の樹々の花のようなあおいかげが落ちて、ゆるやかに動いています。そのほかに、顔の上を動いているものとては、毛一筋もありません。実に仮面のような静けさです。私は考えつづけていました。今夜ふたりで一緒に家を出たときから、あの恐ろしい想像の当否を確かめる最も賢明なある策略を考えていました。
――実に美しい夜ですねえ……
私は突然立ちどまってつぶやきました。
――満目ただあおい月と雪との光の世界……
そして何気ないように白羊を振向いたが、胸がどきどき鳴っているのが自分でもわかりました。しかし私は心の中で歯をくいしばり相手の顔をひたと見つめてこういった。――城貝さん、あなたごぞんじですか? あの雪女の伝説を。
白羊の顔色の変るのが月の光にも分った。彼はぽかんと口をあけて私を見返した。その眼に、うろこのように恐怖のひかりの点ぜられるのが見えました。……雪女、と彼はしゃがれた声でつぶやいた。
――雪女、あれは、こういう夜に現われて来るのです。男の残忍性の犠牲となって虐殺されたあの美しい女の幽霊は、こういう月夜、雪の野原に現われて、男に恨みをいうのです……
私は一語、一語刻むようにいったが、その声は広い明るい夜気にしみ入って、自分の声とも思われません。ちょうど、幼い頃、炉端で聴いた老人の夜語りがよみがえって来るような――すると、その怪談の与えた当時の純粋な恐怖までがありありと再現されて、私は思わず叫び声を上げそうだった。白羊はというと、おこりのようにふるえているのがはっきりわかる。それっきり、ふたりは沈黙したまま、二町ばかり歩みました。
――あれは、何ですか?
或《あ》る土橋の上までさしかかったときでした、白羊が囁《ささや》くようにこういって、急に立ち停りました。
――あそこを歩いて来るのは、あれは何ですか?
――白羊の指さした方向をたどると、それはあおい雪原の霧の奥から、きらきらと魚鱗《ぎよりん》のようにきらめきながら流れてくる水の上――ただ月光のみ満ちわたった虚空にあたります。私には、何も見えません。私は白羊の顔を不安げに顧みた。そのとたん、彼は、わ、わ、わ、という怪鳥《けちよう》のような悲鳴をあげ、それから、
――あれ、あれ、雪女。
と叫びました。そのときの白羊の髪の毛はまさに逆立っていました。顔色は死人のように眼だけ熱病のごとくぎらぎら異様にひかっている。恐怖に満ちて私がふたたび空中を振り仰ぐとですね――あなた、私も見ました。蒼《あお》い海のような月光のただよう中を、静かに歩んでくる白い姿を。両肩に乱れさがる黒髪、唇から垂れているのはそのひと筋か、または血の糸か、うらみにかがやく瞳はじっと二人を見据えて、もうろうと歩み寄って来ます。
――ああ、お千恵さん……
と、私がうめいた瞬間、その影はすうっと消えた。あとは唯《ただ》、もとどおり蒼い海のような月光のただよう虚空です。しかし私はふるえている。この恐ろしい凄惨妖艶《せいさんようえん》な幻想の余韻のなかに金縛りになっている。……ふと傍を振り返った。白羊がいない! 愕然《がくぜん》として見廻すと今来た町の方角へ、遠く野道をこけつまろびつ逃げ去ってゆく黒影がそれらしい。しかし私は追う気力も失せて唯|茫然《ぼうぜん》とそれを見送っているばかりでした。
「雪 女」
私の推理とは、どんなものであったか。いや。その夜私が城貝白羊に自白させようと企んだ或る犯罪とは何であったか。それはいうまでもなく妻君殺しです。
あのふたりの蒼白いような美しさ、陰鬱《いんうつ》な性格、白羊の蜘蛛《くも》の蝶を殺すのを見ていた顔つき、妻君の腕に出来ていたひどいみみずばれ、それから白羊の枕もとにあった幾十枚の奇怪な女の絵などから、その殺人の動機はおそらく白羊のサジスムス――或は妻君のマゾセスムス、また両者の合作であろうと私は思いました。女中が真夜中に聞いたという不思議なうなり声は、その淫楽《いんらく》にあえぎもだえるお千恵さんのひめいだったのでしょう。……あの馬鹿竹の見たという幽霊、それさえも私は、畸型的な脳のかもし出す幻想の霧が多分にかかっているとはいえ、まんざら荒唐|無稽《むけい》のことでもなくおそらくその月の明るい夜、白羊がお千恵さんを柱に吊《つ》り下げていたのが窓から見えたのか、或はお千恵さんが髪の乱れたまま、露台へよろめき出てゆくのを見たのか――そんな姿に馬鹿竹が仰天したのであろう――こう解釈したのです。
次に、女中のお絹が死際に見せたあの恐怖は何を意味するのか。初雪の晩、お千恵さんが殺された。或は思いがけずに死んだ。その死骸《しがい》を白羊が埋めるために穴を掘っているのを、お絹が見たのです。お絹が次第次第に痩《や》せていったのは、その恐怖のためか、或は白羊に脅迫された恐怖のためか、どちらかであろう。――私の結論とは、かくのごときものでありました。
で、その夜、私は白羊に暗示をかけた。若しその暗示が急所を突いているならば、必ずや著しい反応を示すだろう……果して効果は激烈であった! 暗示をかけた私が、逆に催眠術にかかってお千恵さんの幻を認めるほどその恐怖はすさまじいものであった。え、そういうのを心理学的に、同時幻覚というのですって? 饑餓《きが》の場合とか、強行軍の場合とか?――なるほど、そういえば今度の戦争でも、沈没した軍艦の水兵達が、同時に同じ陸地の幻を見たという話を、私も聞いたことがある。
さて、それまで私はためらっていたが、白羊が逃げ去った上は、もう恐れることはありません。いや、第一、もう一刻もゆうよ出来る事柄ではない。私はその夜帰るとすぐに、家人と一緒にお千恵さんの屍骸《しがい》を掘り出そうと試みた。――場所はわかっています。お絹が死ぬ前、桐の木……といった。私の家の桐の木といえば、離れと土蔵の間にある奴が一本きりですから……で、皆蒼くなって、恐る恐るその下を掘り返してみると――こは如何《いか》に、あなた、屍骸はもとよりのこと、骨一片、血の一滴も出て来なかったではありませんか?
あなた、何という顔をなさるのです? とはいうものの、いや、そのときは私もあきれ返って二の句がつげなかったのですが、しばらくの後、やや落着いて調べると――そこは確かにいちど穴を掘った形跡がある。しかも、その掘った穴から土蔵の床下に入り、床を切りあけて、蔵の中へ忍びこんだらしいという意外な事実が発見されたのですね。
どうです、わかりましたか。これは単なる「雪女」の盗難事件でした、その絵は鎧櫃《よろいびつ》のなかからいつの間にやら紛失していましたよ。……
城貝白羊は殺人鬼ではなく、唯一個の「絵師」に過ぎなかったというわけになりますが、もちろん、その道の専門家ではありますまい。――この意外な発見から、改めて私が推定した事件の真相は、先ず次のようなものです。
――城貝白羊は、不思議な絵の世界の探求者だった。地獄の陰火の中にのた打つ美女の形相、血の海を這《は》い廻る雪白の肉体……それが彼にとっての全宇宙であり、神であった。……たとえ彼のやった仕事が単なる土蔵破りに過ぎないことがわかった後でも、彼が性的異常者であったということは依然として認めなくてはならぬと私は思いますが、その性欲倒錯は彼の異常な画才から生れたものか、それともその逆であるか、いずれにせよ彼は単純な肉体的変質者でなく、それを絵と結びつけ、その絵に全生命を捧げている、憐《あわ》れむべき、また崇高なる画人のひとりだった。――その彼が「雪女」を見たのです。見たのは半ばとはいえ、その絵にみなぎる鬼気は彼の魂を一瞬にひッつかみ、さながら闇夜の荒海に漂う者が、この世のものならぬ極光を見出したような気がしたことでしょう。……彼はその絵を欲しいと思った。どんなことがあっても手に入れて、ゆっくり見たいと考えた。で、彼は夜な夜な土蔵の外からひそかに穴を掘りはじめたのです。――襖《ふすま》の絵をかいてやるなどいい出したのは、勿論《もちろん》小心な彼が父の怒りを柔げようとする試みもありましょうが、この穴掘り事業をしとげる迄《まで》に追い出されない時間を稼ぐためでしたろう。尤《もつと》も白羊は百羽の鳥などかくのに何の芸術的|昂奮《こうふん》も感じなかったに違いない。彼はむしろあの地獄変相の屏風《びようぶ》でもかきたかったことでしょう。……
そして彼はしゅびよく「雪女」を盗み出した。ところが初雪のふった日の夜、その掘った穴を埋めて置くために鍬《くわ》を振るっている姿を、運悪く、女中のお絹に見つけられてしまった。白羊はろうばいした。これを家人につげられたら万事休す。で、この絵に対する狂気じみた執念が、何はともあれ妻女のお千恵さんに、それを持たせて遠くへ逃がして置くという強引な手段に出させた。少し子供じみているようですが、それほどこの絵を奪い返されることに、白羊は恐怖と困惑を感じたのでしょう。
ところが……お絹は、穴を埋めるのに大童《おおわらわ》になっていた白羊の姿、その夜のうちに消えたお千恵さん――この二つの事実を結びつけて、彼に私がやったように、ひょいと恐ろしい想像をしてしまった。己が何をしていたかしゃべってはいけないぞと、殺気に満ちた白羊のいかくを受けたのかも知れないし、またいろんなことでお千恵さんが日頃死の拷問を受けていることを知っていたかも知れない……とにかく、彼女は、白羊がお千恵さんを殺して屍体を埋めたのだという想像の恐怖に責めさいなまれつつ死んだのは、事実と考えてよいと思う。吾々の錯覚は滑稽で済んだが、この娘の錯覚は滑稽をとおり過ぎて悲惨でした。
――それから白羊は大急ぎで襖の絵を完成した。家人は未だ何にも感づかない。……しゅびやよしと、彼は安心したことでしょう。――ところがそのとき、幸か不幸か、私という者がひょうぜんと帰省してきた。その襖の絵を表具屋へ持っていった帰り、私が突然「雪女」のことをいい出した。私は白羊の殺人を暗示したつもりであったが、白羊は窃盗の事実を暗示されたのかと考えた。……ここでひとつ、私のわからないことがある。それは、月光の満ちた虚空を指さして、あれ、あれ、雪女、と叫んだときの、あの白羊のすさまじい眼つきでね。あれは私の注意をそらしておいて逃走するという詐欺的な魂胆からやったしぐさ[#「しぐさ」に傍点]だったでしょうか? それも考えられる。しかし、あれだけの――私に逆催眠をかけるほどの、真に迫った「芝居」が出来るでしょうか。私はあれはほんとであったと想像したいのです。白羊はまさしく、私の見たような「雪女」を空中に見たのだと想像したいのです。つまり私の暗示が効き過ぎて――彼の異常な怪奇な芸術的幻想が発現した。それが私よりもひと足早く破れて、がくぜんと「雪女」窃盗のことを思い出し、そうして転がるように逃げ出したのだ――と、私は今この事件をこのように解釈しているのです。
ええ、警察へも届け出ませんでした。従って、「雪女」も永遠に紛失したっきりです。――いや、別にそれほど惜しいしろものでもありません。どんな名作であったにしろ、珍重して床の間に飾れるわけでなし、家人すらもかい間見ることが許されないなんて恐るべき怪物が、何になるものですか? むしろ疫病神が逃げ去ったような安心感さえあって、わざわざ警察へ届け出なかったのも、そのせいなのです。何、それが見たかったって? いや見ない方がよござんすよ。タタリが果してあるかないか――それを見た人間の末路は、まだ私達にはわからないのですからね。白羊先生、今どこで、どうしていることやら……私はなぜか狂死した曾祖父《そうそふ》水鬼の運命が思われてなりません。――そして、この事件では一場の笑話に過ぎなかったが、あの美しく暗いお千恵さんは、果して今も無事で生きているか……私は、あの蜘蛛《くも》の糸にかかって悶《もだ》えていた蝶の姿が、いつまでも忘れられないのです。
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笑う道化師
金天狗の狂笑
――松茸《まつたけ》の土瓶蒸し、焼|椎茸《しいたけ》、しめじのすまし、なめこ汁、一切の茸《きのこ》料理が食えないという――これは、町の芝居小屋保袋劇場の下足番蓮蔵|爺《じい》さんが、一瞬にこの奇妙な茸恐怖症に取りつかれた或《あ》る事件の、恐ろしき思い出ばなしである。――
「あははは、あはははは、あははははは!」
突然、テントの裏手の方で、ものすごい笑い声があがりました。
或る秋の夕ぐれのことです。――その年――といっても、もう三十何年も昔になりますが、私たちのタマル曲馬団は、北国の或る町の祭礼をあてこんで、三日前から神社の境内につづく広い草ッ原に、例の天幕小屋を張っていたのでした。
色あせた紅いまん幕には「奇絶快絶! 世界的! 大猛獣曲馬団」という大文字が金糸銀糸で縫いこめられ、毒々しい絵看板には、豹《ひよう》や獅子《しし》や象までがほえまくっていますけれど、何、実際に飼ってある動物といえば、馬が二頭に自転車曲乗りの猿が一匹。それでもへんぴな田舎町のこととて、サーカスなどよほど珍しいものと見えて、一日目も二日目も文字通り錐《きり》一本立てる余地もない大入満員。ところが三日目は運悪く朝からすさまじいどしゃぶりで、特に客といえば、近郷から集って来るお百姓が多いのですから、境内一帯火が消えたよう――まったく、猫の子一匹通らぬひどい有様になってしまいました。
木戸は朝から閉じたまま、ひるすぎになってから雨があがって、あかい日のひかりさえ射し出したのですが、何しろテントをとおして吹きこんだ大雨に、内部はまるで沼みたよう。さすが欲深の団長も我を折ってしまい、座員一同ちりぢりばらばらに、町や裏山に遊びに出かけてしまいました。
裏山というのは、小山のすぐうしろの竹林から、腐ったような落葉をふんで少し上ると、もう松の多い秋の山で、ここに面白いほど松茸《まつたけ》が生えているといって、綱渡りや玉乗りや手踊りや樽廻《たるまわ》しの娘どもはおおよろこび、耳を澄ませると山の上から、きゃっきゃっとはしゃぐ声が、ひっきりなしに流れて来るのでした。
私は木戸のところで、たいこたたきの孫さんと話をしていました。――が、実は、あれはてたテントのなかに、ひっそりとただよっているあかいうすら日を通して、奥の方へじっと耳をそばだてていたのです。
私は、女を待っていたのでした。――お笑いになってはいけません。いや、こう三つ四つの石段を登るにも、ともすればつまずいてころびかねないよぼよぼのすがたをごらんになっては、お笑いになるのもごもっともですが、こんな風にめっきり傷んでしまったのは、お恥しいことながら悪性の病気のせいで、これで年は六十にちょっと間があるのです。――で、当時私は二十歳を少し廻《まわ》ったくらい。しかも――全く自分で思い出してもウソみたいな気がするのですが、タマル曲馬団きっての花形で、例のブランコからブランコへ飛び移る曲芸、銀|天狗《てんぐ》の蓮蔵と呼ばれた人間なのでした。
待っているのは、やはりブランコ飛びの天女のお花。もっとも空を飛ぶから天女とはいいじょう、胸も胴もまるまるとふとって、その上、わきが――というやつですが、千番に一番の芸当にあせばんで来ると、高い空でぷーんと妙な匂《にお》いを放つ――ところが、惚《ほ》れたというものは恐ろしいもので、この白いいるかみたいなお花の身体から出る匂いかと思うと、これがまた筋の悪い酒みたいに私の頭をひっかき廻して、道ならぬ恋だと恐ろしく苦しみながら、とどのつまりお花の身の毛のよだつ悪だくみの片棒をかつぐようになったのも、実はこの甘い気味悪い匂いの魔力だったと申してよいのです。
道ならぬ恋――と申しますのは、このお花にはれっき[#「れっき」に傍点]とした亭主があったのでして、これが兄弟子の金天狗の蟇次郎《がまじろう》、ブランコの出番でないときは道化師もやる器用な男で、もっともこれは器用というより顔から気性から、生れながら道化師みたいなおもしろおかしい人間でした。
仏みたいな好人物ですから――まったく、深い罪ながら、女房と私のあいびきを夢にも感づいていない――もっとも、曲馬団の中の誰一人知らないほど、うまくやっていたわけですが、その日みたいに、座員一同がちりぢりばらばらに遊びに出るような時は、これこそあの「絶好のチャンス」というやつで、二人でしっぽりどこかへしけ込もうという約束だったのですが、この蟇次郎、そう強くはないのだが、恐ろしく酒が好きです。で、お花がひる過ぎから小屋の裏の方で、七輪に破れうちわ、松茸入りの牛鍋かなんかで酌をしてやっていて、酔いつぶしたら忍び出て、あいずの鼠鳴きをやらかす――という手筈《てはず》になっていたのでした。
ところで――
「あははは、あはははは、あははははは!」
突然、聞えて来た、ものすごい笑い声です。
これは間違いもなく蟇次郎の声――ところが、この笑い声が、三分たっても五分たってもけらけらと続いている。ちょっとのきれめもなく――いや、耳を澄ませると、吐き出す笑いの間に、死にかけた喘息《ぜんそく》病みたいな《ひーっ》という苦しげなあえぎが洩《も》れて来るではありませんか。
じっと妙な顔を見合わしていた私と太鼓|叩《たた》きの孫さんは、突然|何故《なぜ》かぞっと冷たいものが背筋に走るのを感じ、いい合わせたように一緒に飛び上って駈《か》け出しました。
舞台の裏手、綱や網や張りぼての朱《あか》い玉が、薄明りのなかにごたごたとわだかまっている間を通り抜けると、強い酒と肉の臭いが鼻を打って、その一隅に果して金天狗の蟇次郎が笑っていました。
笑う――が、何という恐ろしい笑いでしょう。金天狗は、まるで玉ころがしの玉みたいに、ころがりまわって、いっひ、いっひ、顎《あご》を突ン出し、両手で腹を抱えて笑っているのです。
本名は鎌次郎ですが、そっくり似ているので蟇次郎という、その大きな口が耳まで裂けて、犬みたいに紫色の舌と黄色いよだれをはき垂らし、飛び出した眼玉から涙をぽろぽろとこぼしながら、
「うふふ、いひひひひ、あははははは!」
しかれた莚《むしろ》を引きむしって、笑っているのでした。
天女は――と見ると、空樽《からだる》に背をくっつけ、真っさおな顔に眼をみひらいて、息をのんで亭主を見つめているのです。
私たちのあしおとを聞くと、ぎくりと振り向き、片眼をつむって、
「まあ! あんた達、いたの!」
そして、おろおろぎゃくじょうした声で、
「あたい、びっくりしたの何のって――このひと、いったい、どうしたんでしょう!」
「おい、蟇さん! ど、どうしたんだよウ、おい、蟇さん」
孫さんが抱き上げようとすると、蟇次郎は、げえっと酒くさいへどを吐きました。
「いっひひひ、いっひひひひ!」
そのうち、どこにいたのかあちらこちらから、七人、九人と座員が駈《か》け集って来る。何が何だかわからないのですが、兎《と》に角《かく》のた打ちまわっているので、一同かつぎ上げてもよりの医者のところへ運び込むことになりました。
――と、それについて、私も出ようとすると、
「蓮ちゃん」
ものかげから、天女のお花が呼ぶのです。近寄ると、ぷーんとあの変てこに甘い腋臭《わきが》の匂《にお》いがして、腸詰みたいにくびれの入った白い指が、ねっとり私の腕にねばりつき、ささやき声で、
「蟇が死んだら、お化けはあたいとお前ンところに出るよ――」
「な、な、お前、何をしたんだ!」
あおくなって私は問いかけました。が、実はさっきお花が片眼をつむって見せたときから、或《あ》る恐ろしいことを感づいて、頭はぼうっとなっていたのです。
「ほ、ほ、笑い茸《だけ》を食わしてやったのさ。蟇はきっと笑い死するよ――それがわかったって、あたい知らなかったで押し通してやるから、だいじょうぶだよ」
ぶるぶるふるえてはいましたが、お花の椿みたいな紅く厚ぼったい唇が、にやっとひきゆがんで、棒立ちになった私の耳に押しつけられました。
「いいかい、みんな、お前の為なんだよ――」
天女の悪だくみ
年は十九だが、猫をかぶって、恐ろしい悪党女だ――ということは、それまでだって知らないことはなかったのですが、まさか亭主殺しをたくらむほどむこう見ずだとは思わなかった。私はこう見えても、根はそれほどの悪じゃなかったので、がちがち歯の鳴るほど恐ろしくなって、物もいわずにその場を逃げ出し、あたふたとみんなを追っかけていったのでした。
金|天狗《てんぐ》は笑いつづけました。その日の真夜中まで一分の休みもなく笑い狂いました。血のまじった腹くだり、鞭《むち》みたいに反り返るひきつけ、そして夜明頃から身体じゅうが黄色くなって、火のような熱が出て、笑いが次第にしずまると、今度はこんこんと眠り出しました。
「もう、大丈夫だ」
そう医師にいわれると、私はへなへなくずおれるばかりにほっとなりながら、青い鬼瓦《おにがわら》みたいにかたくひらべったくなってしまった蟇次郎の寝顔を見つめ、すると変なもので、急に耳たぶの、やわらかにぬれた天女の唇のあとが熱く燃えて来て、むせかえるような息とわきがの匂いを、どす黒い霧みたいに頭ン中へにごらせながら(――野郎、死ねばよかった)そんな恐ろしい考えが、すっと走り過ぎました。
蟇次郎は死にませんでした。
それから半月近くも、ふぬけのようにぽかんとしていましたが、他の座員と同様、まさかお花がわざと笑い茸を食わせたのだとは、夢にも気づかない様子で、この事件はそれっきりの「悲喜劇」――という奴《やつ》ですか、そんな風なかっこうですんでしまったのでした。
もっとも、この騒動の尾は全く変てこな形で残ったので。それは金天狗に妙な癖が取りついたことです。
それは、何と「笑えない」ということなので、ちょうど蟇次郎が起き上ってから十日ほどたった或る日、田舎の宿屋で松茸飯が出たのですが、すると突然にまた金天狗が笑い出し、やはりその前と同じようなへどといっしょのすさまじい笑いでしたが、これは十分ほどでおさまることはおさまりました。が、それ以来――蟇次郎はいっさい笑わなくなってしまったのです。
笑わない――いや、笑えない。一たん、少しでも笑い出すと、とめどもなく狂い出しそうで、そのきっかけはもう松茸などの茸《きのこ》類に限りません。この世のあらゆるおかしいことが、ほっさをひき起す原因になるので、ちょうど狂犬病の病人が水をこわがるように、蟇次郎は諸々一切の「おかしいこと」をこわがるのでした。――これは、一ぺんうるしにかぶれた人が、次には漆《うるし》の木の下を通っただけでかぶれるという、あの変てこな出来事と同じ理窟《りくつ》に当るものなのでしょうか。
だが、「笑えない」――これほどむごたらしい拷問が、またとあるでしょうか。怒る、泣く、こんなことよりももっと我慢の出来ないことらしい――私は蟇次郎の苦しみをまざまざと見て、つくづく思ったのですが、この世は腹の立つこと、悲しいことにうずまっているようで、笑うなんてことは御愛想笑いか仕様ことなしの笑いくらいなもんだと考えていたのですけれど、案外ほんとうに可笑《おか》しいことがどっさりあるものなのですね。
いや、その腹の立つこと、悲しいことが、実は大へん可笑しいことらしいのです。喧嘩《けんか》、歯痛。空《すき》ッ腹《ぱら》、はては葬式まで――いや、落語や漫才みたいなものでも、それが直接に可笑しいのではなく、大の男が人を笑わすのに死物狂いになっている顔つきを見ると、へんに物かなしくなって、次にそれが突然可笑しくなって来るのだそうでした。「くくっ」と唸《うな》って、ちょっと笑いかけて、それから歯をくいしばってまっさおになり、あたふたと逃げ出す金天狗を――はじめはいたずらにからかいかけた奴《やつ》もありましたけれど、何しろ相手が根はやさしくよく出来た人間なので、皆真剣に気の毒がり、蟇次郎の前では一切可笑しいことをいったり、したりすることを、避けてやるようになりました。
したがって、もう道化どころではありません。作り笑いにしろ、そういう顔つきをして見せるだけでほっさが起きそうなのですから……ところで生れながらの道化師面の蟇次郎が、あおンぶくれのひょうたんみたいにゆううつな顔でしょげているのは、何という途方もない可笑しい風景だったのでしょう……それが使えないくやしさに、欲深《よくふか》団長、一時は恐ろしくふきげんになりましたけれど、一方、金天狗はブランコ飛びに一層熱中するようになり、それというのもこの命がけの曲芸の時だけが、笑う余裕など髪の毛ほどもない極楽なのですから、蟇次郎の芸当はまさに神業というやつに近くなって、団長のふきげんも、知らず識《し》らずに消されていったのでした。
ところで、恐ろしくごきげんの悪くなったのは、天女のお花でした。ほんとの同情半分、気のとがめから来る恐ろしさ半分で、私が蟇次郎に色々おべッかを使うのを、「ふふん」といった冷たい眼で見ていて、さあそのあとのあいびきのときは大変です。
「あの土左衛門の蟇《がま》みたいな顔を見ただけで、身の毛がよだって、ぬらぬらした手でさわられるたびに、あたい気絶しそうだワ――何とか早く、あいつを殺しておくれよ」
と、泣きわめくのですから、いやはや、大変な夫婦で。
ところが、金天狗の「笑えない」という妙ちくりんな病気も、時のおかげで次第に軽くなっていって、半年ばかりたつとやっと普通になり、また道化師として舞台に立つようになりました。
すると、妙なことに、私は貸した金をふみたおされたような気持になり、或《あ》る晩のこと、腕の中の天女に、「どうだい、もう一度|毒茸《どくきのこ》をつかって見ねえか」と笑いながらいったものです。神かけて申しますが、本音はしかし冗談のつもりでした。
すると、お花はうわめづかいに私を見て、にやりと笑い、ふところから小さな瓶をとり出したのです。
「そりゃア考えていたさ」というのです。「あたい、もう我慢出来ないんだもん――けど、今は茸なんかはないし、第一、へたな殺し方をすると、前に一ぺんやりそこねているんだから、今度はほんとにあたいがしばられかねないよ。こないだから考えているんだけど、一番いい方法はね、何千人もの人の見てるまん前で、金天狗がひとり勝手に死んだように見せることさ」
晩春の夜でした。遠くで、ものかなしいクラリネットの音が聞えていました。私は息をひいて、まじまじと天女の笑顔を見つめ、かすれた声で、
「お前……ほんとに殺《や》るつもりか?」
「あした、ブランコのとき――この眠り薬を使うのだよ!」
お花のいう蟇次郎殺し――そのはてんこうな手段というのは、こうでした。
最後の「人間飛行」――つまりブランコ飛びの出演者は、私達男二人に天女のお花、それからお林、お雪という二人の娘、合計五人でやるのですが、そのなかの「天女の首飾り」という曲芸で、一番左側のブランコに向い合ってお林とお雪。真ん中のブランコに足をひっかけ逆さまに銀天狗の蓮蔵すなわち私、それがやはりさかさまのお花の胴を抱いて大きく揺れている。一番右側のブランコにはこれもさかさまの金天狗が揺れていて、エイ、ハッ、かけ声もろとも、お花が空を飛んでいって金天狗の両腕にぶら下がる。一振り――お花が飛び返って私の腕に。次に金天狗が飛んで来てお花の足に、ちょうど三つのくさりの輪のように。
一方、左側のブランコでは、この時お林とお雪が二つの鎖の輪みたいにぶら下がっていて、こうして二組のブランコと人間鎖が大きく二振り、三振り、あっという間に一番下の金天狗とお雪が足をからみ合わせ、こつぜんと高い天井に麗わしい「天女の首飾り」が垂れ下がる――という題目があるのですが、最初、私が逆さまにお花の胴を抱いているときに、片腕を動かして、小瓶からお花の腰に下がっている紅色のハンケチに眠り薬を振りかける――蒸発する薬だそうですから息をつめて――一瞬、お花はハンケチを抜きとって、息をつめたまま金天狗の両腕へ――そして一振りその瞬間、蟇次郎は二人の握り合った両掌の間の紅ハンケチから蒸発する麻薬を、えんりょえしゃくもなく吸いこむでしょう。息をつめたままお花が飛び返って来る――と、続いて金天狗が飛んで来ようとして、この時眠り薬の効き目があらわれて、飛ぶには飛んでも力足らず、空しい死の宙返り一つ、石のように下界へ――いや地獄へ!
「そ、そんな、途方もねえ危ねえこと――」
「だいじょうぶだよ」
眼を青くきらきら光らせ、
「どう? これなら蟇次郎が、ひとり勝手に落ちていったように見えるだろう? なに、かがしたとたんに、あたいはもう用のないハンケチは放っちまうから平ちゃらだよ。ひらひら落ちたハンケチの薬は、すぐに蒸発しちまうもの、誰が拾ったって、何でもないよ」
「だって、お前がまだ金天狗とつながっている間に、あいつが眠って手を離されでもしたら、どうするんだい?」
「一振りする位の間は大丈夫なんだよ。そんなに強かあないんだから――あたい、ちょっとかいで見たんだけど、ほんの軽ウくふらりとするだけよ。ただ――距離をはかって飛んで来る金天狗は、これでりっぱに飛びそこねるに違いないワ」
そして、濡《ぬ》れた赤い唇と白い脂ぎった身体から、燃えるような甘酸っぱいにおいがあふれて来て、
「ねえ……」
私は、負けちまいました! 私はあおくなって、けれど、結局、このきわどい恐ろしい冒険中の大冒険の片棒をかつぐことになったのです。
茸のゆうれい
玉乗り、たるまわしから、娘手踊り、はしご曲乗り、軽業芝居、人間やぐらに猿公の自転車、針金渡りの牛若弁慶など、舞台は追い追い進んで、私たちが長い竿《さお》を伝わってブランコに上っていったのは、もう赤い夕日が黄色いしみのついた天幕をとおして、数千の群衆の頭の上を渦巻く砂埃《すなぼこり》を黄金色にかがやかしている頃おいでした。
ブランコは、すぐに数丈の高い空中に吊《つ》り上げられました。
ブランコの綱に両掌《りようて》をかけて、見下せば、埃の霧に煙った薄明るい下界に、動く、動く、人間の海――いくら毎日のことだって、やっぱり平地にいるような気持にはなれません。尻《しり》の穴がきゅっとしまって、身体じゅうにつめたいうろこがこわばって逆立つよう――一振り、二振り、冷たい風が足に截《き》られて、すぐにかっと熱い血になって脳天へ上るようです。
向うのブランコには、肉|襦袢《じゆばん》に紫色のパンツ、紫色の頭巾《ずきん》に、向い合ったまま、お雪とお林が揺れています。振返れば、反対のブランコには、さすがにあおざめた天女のお花、星のように青い珠《たま》のきらめく真紅なパンツに薄紅のハンケチをひるがえして、唇をゆがめて、にっとものすごい笑いを投げます。金天狗の蟇次郎は、珍妙無類の道化面に、仏様みたいに落着き払った微笑をたたえて、今しも下から竹竿《たけざお》づたいに上って来るところ。――
太鼓が鳴って――
「東――西っ、愈々《いよいよ》本日の大呼物、冒険中の大冒険、空中人間飛行、行いまする五人は、御覧の如く舞台から命の綱をとり払いまして、落ちればまさに木ッ葉みじん、これぞ万死に一生をかけた戦慄《せんりつ》の大離れ業であります。しゅびよくまいりましたる時は、何とぞ盛大なるお拍手ごかっさいを願い上げ奉りまあァーす」
下から上って来るこの声を怒濤《どとう》のごとく巻き消して、口笛、叫び、ためいき、あえぎ、わあーんと鳴り返るような騒音のなかに、高々と吹き鳴らされる楽隊の轟《とどろ》き。――
はじまりました! 金天狗がブランコの上で逆立ちして見せれば、お林とお雪が片膝《かたひざ》ずつをひっかけたまま、くるりくるりと水車のように廻《まわ》って見せる。私が後ろにひっくり返って、あーっと見物が悲鳴をあげた時には、もう足頸《あしくび》がちょいとひっかかって、逆さに蝙蝠《こうもり》みたいにぶら下った耳に、どっと狂ったような拍手が上って参ります。
そして――恐ろしいあの瞬間が、とうとうやって来たのでした。
「さて――最後に、いよいよお待ち兼ね、絢爛凄絶《けんらんせいぜつ》の天女の首飾り! 雨も降らぬにこつぜんと、虚空にかかる虹《にじ》の浮橋! ただしまかり違えば血の雨が降る、これぞタマルサーカスが世界にほこる必死決死の大冒険――はあいっ」
私はブランコに足をかけて、さかさまに天女のお花を抱いてぶら下がっていました。一瞬――下界のうねりは、夜の海みたいにしずかになった。じょじょに楽隊の音が高まってゆきます。
ぶらり――ぶらり――「いいかい……蓮ちゃん……」微笑を含んだ恐ろしい天女のささやき、そして、ぬらぬらと白い脂のながれる熱い胴からかおって来る、しびれるような甘美な匂《にお》い……。
私は片腕で万力のようにしっかと抱いたまま、片手で小瓶を出しました。頭の真下の遥《はる》かな舞台がぐるりと廻《まわ》って、横の黄色い天幕が見えた――ブランコは大きく一揺れ! 麻薬を天女の腰の紅ハンケチに振りかける――一しゅん、「エイッ」
「ハッ」と答える金天狗の叫びに手を離そうとして、がっとあわてて私は両手でお花を抱きとめた。危い! まだつながったまま振り戻った私が、思わず眼玉を飛び出させたのも道理。
「ハッ」という声に続いて――
「あっははは!」
金天狗が笑い出した!
さとられたか! ざっと全身を流れ落ちる水のような汗、とたんに私は、自分の振りかけたばかりの眠り薬を、抱いた天女の胴のハンケチから、はっと吸いこんでしまったのです。
また振りもどる――が、離せるどころか! 「いっひひひ、いっひひひひ!」蟇次郎は笑っているのです。ブランコに足をひっかけて、逆さのまま、手は受止めようとする形にさしのばしながら、口を耳までひッ裂いてものすごい声で笑っているのです。
「うっふふふ! うっふふふふふ!」
ぬるりと汗に手がすべりかけて「――イヤ!」何ともいえないお花の叫びでした。白い身体は恐怖の為に生毛がさかだって、石みたいにかたく重くなってしまいました。神気がぼうと煙って来ました。足が、手が――はなれかける!
「あっははは、あっははは、あっははは!」
金天狗は笑いつづけています。(ひーっ)と吸い込む息のひびき。ねじれひン曲った苦悶《くもん》の形相、殺害の計劃《けいかく》をさとったのではなかった。ああ、実にとんでもない時に、あの笑いの大発作が爆発したのでした!
「いっひひひ! いっひっひっひっひっ!」
「離しちゃいけない、蓮ちゃん、離しちゃ……離しちゃ!」
天女の声は人間のものとも思われません。が――死物狂いの私の眼が、次第に眠って来るのをどうすることが出来ましょう! ブランコは揺れる、揺れる、さかさの金天狗は、背をまるくして、へどを吐き落しながら狂笑している!
「えっへへへへ、えっへへへへ、えっへへへへへ!」
次の瞬間、かすむ眼に私は、蟇次郎の発作を起したきっかけとなったものを、ぼんやりと見たのです。
それは、向いの天幕の上に、巨大な茸《きのこ》の影が――ああ、恐ろしい茸の幽霊! あとで調べて分ったのですが、反対側の天幕にひっかかった奴凧《やつこだこ》の足の方のちぎれたやつが、燃え立つような落日の光に小さなくっきりした影を作って、その影が反対側の天幕の壁に、巨大な茸の形そっくりに投げ映されていたのです。
が――恐怖の為に、そのしゅんかん、私の腕ははっと引きつって、そして――すさまじい痙攣《けいれん》と、魔酒のようなわきがの匂いと、「ぎゃあ――っ」この世のものならぬものすごい悲鳴を残して、天女の姿はまっさかさまに地獄へ落ちて行ったのでした。
「わっははは! わっはははは! わっははははは!」
すさまじい哄笑《こうしよう》と、狂ったような楽隊の音――
脊髄《せきずい》に氷の針を貫かれたような感じで、はっと吾に返ると、私の足は折れ釘《くぎ》みたいにかたくなって、なおブランコにひっかかっていました。そして眼下の舞台に小さく咲き散ったまっかな柘榴《ざくろ》の花と、それをめがけて押し寄せてゆく叫喚の黒潮を、朧《おぼ》ろなひかりに見たのでした。血も肉も骨も、からッぽになったように、ふらりふらり揺れている私の眼の前で、
「いっひひひ、いっひひひひ、いっひひひひ!」
さかさまの金天狗はなお何も知らぬげに、ゆかいそうな苦しげな、恐ろしい笑いを笑いつづけているのでした。
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最後の晩餐
梟《ふくろう》館の「|脂肪の塊《ブール・ド・スユイフ》」
警視庁特高課の小代《こしろ》刑事は、夜のしらじら明けとともに「梟の家」の縁の下にもぐりこんでいた。
「梟の家」とは、この家の主で、犬のかわりに一羽の梟を飼っているので、近所の人がそう呼んでいるからで、夜の暗いうちは、あやしいものがちかづくと、竹筒を吹くような声で、この梟が鳴く。日本人ばなれのした趣味だが、主人はまさに独逸《ドイツ》人で、フランクフルター・ツァイトゥング紙の東京特派員だときいている。もっとも家は洋風ではあるが、木造の小さな二階建であった。小代刑事が張りこんでいるのは、しかしその西洋人ではなく、昨夜から泊まりこんでいる日本人の女である。
さいわい、梟は眠りに入ったとみえて、その難はのがれたものの、さて首尾よく床下にもぐりこんでから、小代刑事はひどい目にあった。まず、恐ろしい蚊の襲撃で、それをたたくことができないところから、彼はその後三日ばかりのあいだ、同僚から、なにかたち[#「たち」に傍点]の恐《わる》い病気にかかったのじゃないかとからかわれたほど惨澹《さんたん》たる形相にかわってしまった。が、こういう苦行は、過去のはりこみでまったく経験のないことでもない。しかしそれよりもっと辛かったのは、床の上からきこえてくる声の拷問であった。
「オオ! アグネス!」
「ああ、眼がくらむわ。……頭がしびれて……気がちがいそうだわ! ねえ、ねえ! 後生だから!」
なんの声かは、女のすさまじい喘《あえ》ぎからでもわかる。喘ぎばかりではない。間断ないベッドの軋《きし》みにまじって、キリリ、キリリという、えぐられるような歯ぎしりの音もきこえる。ちょっとしずかになったかと思うと、たちまち、はぎれのいい、精力的な男の笑い声がきこえ、女の悲鳴のようなうめきがながく尾をひいたかと思うと、
「ぐっと! ぐっと!……まだよ! まだよ!」
と、いうさけびに変る。
なんという男と女だろう。それを小代刑事はたっぷり三時間はきかされたわけだが、それ以前にも何時間つづいていたかしれたものではない。そして刑事があるいはと期待していたような種類の会話は、ついに一語としてきくことができなかった。刑事は恐ろしく腹をたて、へとへとになり、眼もげっそりおちくぼんでしまった。
睡魔にしずんだように、虚脱して、ぼんやりしていた刑事は、突然、はっと夢からさめたように顔をあげた。いつのまにか、上の騒ぎがおさまっていると思ったら、さやさやと女が衣服をつけているらしい音がきこえ、やっと彼女がこの家を出かけてゆく気配である。
接吻《せつぷん》の音をあとに、小代刑事は蜘蛛《くも》のように手足をつかって床下を這《は》い出した。音もなく、門の外にはしり出すと、十メートルばかりはなれた電柱のかげに立った。
時計をみると七時半である。蒼《あお》い空に日はもうめくるめくばかり照りつけていた。きょうもまた暑くなるらしい。
「畜生! たわけた野郎どもだ!」
刑事は舌打をうって唾《つば》をはこうとしたが、唾もでない。ひっこんだ眼で電柱をみると、貼紙《はりがみ》がやぶれてはためいている。
「買物行列は銃後の敵だ。商業報国会中央本部」とある。
九分ばかりして、「梟の家」の門の外へ、外人と女が出てきた。その独逸人の新聞記者は、四十四、五歳で、やや額ははげあがっていたが、見あげるように背がたかく、満身に動物的な精気がみなぎっている。そして女は、「アグネス」と呼ばれていたけれど、むろん日本の女で、これはまた男の半分くらい小さく、しかし、まるまるとふとっている。
ふたりはちょっとあたりを見まわしたが、あくまであかるい麻布《あざぶ》の永坂町の往来に人影もみえないのをたしかめると、また抱きあって長い接吻をした。濃い藍紫地に緑、赤、白、黄と色とりどりな花模様の明石の単衣《ひとえ》からあふれた女の腕が魚のように真っ白にひかった。
しばらくして、男はひっこみ、女は何くわぬ顔をして飯倉片町《いいぐらかたまち》の方へあるき出した。手に白いバスケットをさげている。
何くわぬ顔といっても、女はすこし弛緩《しかん》したような笑顔をつづけていた。それは、うしろからそっと尾《つ》けはじめた小代刑事にはみえなかったけれど、彼女のからだじゅうから、涸《か》れることをしらぬ液体がまだぼたぼたとたれそうな錯覚を感じる、年はたしか二十九のはずだ。その年に似ず、ぼてぼてして、小柄なからだはどこもかもまるく、ふっくりして指はふしぶしだけくくれて、小さな腸詰を数珠《じゆず》つなぎにしたようだった。全身痴呆じみたエロチシズムのかたまりのようで、殺伐《さつばつ》な小代刑事にも、どうも課長があの女にかけている大それた疑いは途方もない見当ちがいのように思われる。
女は飯倉片町で、市電にのった。小代刑事はずっとはなれて席に坐《すわ》ると、誰か乗客がよみすてていった朝刊をひろって顔をかくすように大きくひろげた。朝刊には『河馬《かば》クンも野戦料理』という見出しで、上野動物園の河馬が、いままでの常食のふすま[#「ふすま」に傍点]やおから[#「おから」に傍点]や人参をとりあげられて、草ばかり食わされることになったという記事がのっていた。
それで気がついてみると、腹がぺこぺこである。が、刑事のくぼんだ眼は、たちまち執拗《しつよう》な疑惑にひかりはじめた。この電車が、女のかえるべき店のある新橋とは反対に、六本木《ろつぽんぎ》から霞町《かすみちよう》の方向にはしっていることを知ったからである。
「はてな、どこへゆくのかな?」
女は、麻布|広尾町《ひろおちよう》におりた。
彼女がたずねたのは、やはり木造の洋館であった。女が門の中へ入ってゆくのをみすまして、門標札をみると、横文字の標札とならんで『マックス・クラウゼン』と日本字でかいた名刺が貼ってある。肩書には、『陸海軍御用・青写真転写機感光紙販売・M・クラウゼン株式会社・東京市芝区新橋|烏森《からすもり》ビル』とある。名前からして、やはり独逸人にちがいない。
二十分ほどたつと、女がでてきた。送って出てきたのは、案の定、四十歳ばかりの外人である。さっきの永坂町の独逸人ほど粗野でない上品な紳士だが、小代刑事が物陰からうかがっていると、この上品な紳士が、いきなり女に抱きついてはげしい接吻をした。すると、いよいよおどろいたことに、女は急にぐったりとなってはげしい接吻をかえしている。
「――マックス!」
突然門の奥で、妙なアクセントの呼び声がした。紳士はおどろいて女をはなした。どうやら呼んだのは、彼の妻らしい。
「オオ、アンナ!」
と、彼はふりかえって答えてから、未練がましい眼を女にもどして、
「デハ、アグネス、アシタノ晩ネ」
といって、あわてて奥へかけこんでいった。
女は牡丹《ぼたん》の蕾《つぼみ》のような笑顔で、またしゃなりしゃなりとあるき出す。白いバスケットが、ちょっと重くなったような気配である。
また電車にのった。まったく、みればみるほど、男という男がふるいつきたくなるような色っぽさだった。真っ白な肌はつやつやとして、おっぱいは着物をつきぬけそうである。
ちょうどその日は日曜日なので、電車は空《す》いていた。尾行にはかえって都合がわるい。あまりな刺戟《しげき》と緊張の連続に小代刑事はへとへとになって、電車がもとの方向へもどる新橋行なのを知って、かえってほっとした。これであの女は銀座の店へもどるにちがいない。自分の任務はひとまず終了だ。
と、思っていると、女は新橋、銀座を通りぬけて、尾張町《おわりちよう》におりた。ここから歩いて、たずねていったのはA新聞社である。受付で何か問答していたが、すぐに出てきた。そして省線電車のガードの方を見あげたまま、ちょっと思案にくれていた。
すれちがいに小代刑事は受付にとびこんだ。
「おい、いまきたのは銀座の酒場《バー》、ラインゴルドの、花房百代《はなぶさももよ》という女給だろう?」
「ええっと、そうでしたわね」
と、受付の女の子はにやにや笑っている。
「誰をたずねたんだ?」
「政治部の飯室《いいむろ》さんでしたわ。でも、きょうはまだ出ていらっしゃいません」
「ちょうど月末だが、勘定とりかね?」
「いいえ、あすの晩、ラインゴルドでグルマンの会がありますから、お忘れにならないようにってご伝言で――」
「グルマンの会? なんだそれは!」
「あの、どちらさまでいらっしゃいましょう?」
小代刑事はあわてて新聞社をとび出した。女の姿がみえなくなったからである。
かけ出してみると、女は日比谷の方へあるいてゆくところだった。ガードの下の壁にはいたるところ『米国の野望粉砕』『今ぞ一億国民団結せよ』などかきちらしたビラがはりつけてあった。女は新宿行の電車にのった。小代刑事は息たえだえに追いついた。
警視庁の横を通過するとき、女は膝《ひざ》のバスケットをひらいた。刑事がはっとして見つめると、なかからとり出したのはふっくらとしたサンドウィッチである。それは、そのころ水パンと呼ばれるほど質の低下した東京のパンとは雲泥の差のある、まばらな乗客がいっせいにふりむいたくらい美味《おいし》そうなパンであった。女は環視の瞳《ひとみ》にも恬然《てんぜん》として、痴呆的なほど美しい口にそのサンドウィッチをはこびはじめた。
あかい、なまめかしい唇と、きれいな玩具のような歯の中へそのサンドウィッチの一片がきえてゆくのを、小代刑事はいまにも失神しそうな空腹の眼で、うらめしそうに見送っていた。
餌《えさ》をあつめる七面鳥
女が、四谷三丁目で電車をのりかえて、左門町《さもんちよう》停留所におりたとき、小代刑事の眼はぴかりとひかった。さてこそと思ったのである。案の定、彼女の訪れていったさきは二十二番地のブランコ・ド・ヴーケリッチという外人の家であった。フランスのアヴァス通信社の東京特派員である。
そもそも、その女に課長が眼をつけた発端が、彼女がこのヴーケリッチという外人と関係があるらしいということであったのだ。ヴーケリッチはフランスの一通信社の記者ではあったが、生まれはセルビアで、いまの国籍はユーゴスラヴィアである。ノモンハン事変にもアヴァス特派員として関東軍に従軍しているが、どうも確証はないものの、行動に不審な点がある。その男と関係のある女が、たとえ外人専門の酒場の女給とはいえ、フランスにとっては戦争中の独逸《ドイツ》人と往来していることは、どうにもいぶかしいことであった。
しかし、その女は、ヴーケリッチの家から二、三分で出てきた。が、手にさげたバスケットは、急に重量を加えた感じである。
(いったい、あの女は何をあつめてまわっているのだろう?……まさか、サンドウィッチばかり入っているのではあるまい)
小代刑事は、そのバスケットの中がみたくてたまらなかった。しかし、まだいけない。もっとあの女を自由に遊ばせる必要がある。
次に女がいったのは麹町《こうじまち》五番町にすむ政治家|三船《みふね》氏の家であった。大政翼賛会の代議士である。刑事は門の前を通りすぎながら、遠い玄関で、三船代議士がしたしく女に何やら白い紙づつみを手わたしつつ、ぎゅっと彼女の手をにぎったのを目撃した。ふしぎなことに刑事はその紙づつみを何だろうと考えるよりも、サンドウィッチをつまんでいた女の、くぼみくぼみにうすいあぶらがねっとりとたまっているような白い手を思い出した。
もえあがるような日盛りの路を、女はふとった七面鳥のようにしゃなりしゃなりとあるく。なにかのはずみで、うしろ一間ばかりにちかづいた刑事の鼻に、熱風にまじって熟《う》れきった果物のように甘酸っぱい香がながれてきた。きっと女の汗の匂いにちがいない。
六番めの訪問先は、小石川《こいしかわ》の黒坂《くろさか》陸軍大佐の家だった。ここへは、入っていったきり、女がなかなかでてこないので、小代刑事は、そっと門の中から横の庭の方へしのびこんでみた。おかしいことに、この参謀本部の逸材の自宅が、いちばん警戒手薄であった。
植込みのかげにかがんで、家の方をのぞきこんで、小代刑事はおどろいた。黒坂大佐殿は縁側の籐椅子《とういす》にもたれて、ウイスキーか何かのんでいるが、その膝《ひざ》に抱かれているのは、あの女である。大佐殿だけが在宅して、家人がみな留守らしいのは、日曜日でどこか行楽に出かけたせいかもしれないが、この暑い盛りに、さて濃厚な色模様である。
「こら、百代、きさまは、その実に、つきたての餅《もち》のようじゃのう。いや、女の尻もあんまり大きく碾臼《ひきうす》みたいに平たいやつは、抱き具合がいかん。きさまは、ぼてぼてふとっとるくせに、胴がくびれとるから、実に、その、何ともいえんわい」
「いや……くすぐったい」
とからだをくねらせた上に、大佐がのしかかって、口うつしにウイスキーをのませている。女はたちまち大佐の首にしがみついた。大佐の顔が脳溢血《のういつけつ》でもおこしそうに真っ赤にいきむと、女は眼をつむったまま、ときどき眉《まゆ》のあいだに皺《しわ》をよせて、もどかしげに腰をうごかし、唇をあけてはあはあと息をはずませている。
二時間ほどたって、黒坂大佐の家を出た女を尾《つ》けながら、小代刑事はぶっ倒れそうであった。あまりにも淫《みだ》らすぎる女のふるまいに、あきれるよりも恐ろしくなったし、課長の命令に腹もたってきた。
(こいつはまったく色情狂だ。そして色情狂以外のなんでもない女かもしれんぞ。そうでもなくちゃ、とてもあれほどの感じは……)
次は、お茶の水文化アパートにすむ男である。女のノックにひょいとドアから顔を出したのは、三十七、八の蒼白《あおじろ》い顔をした品のいい日本人の男で、女が入ってから標札をみると、『宮城与徳《みやぎよとく》』とある。ドアがしまってからは、女がなかで何をしているかわからない。階段のところで監視しながら、そこを通りかかった掃除婦らしい婆さんにたずねると、宮城は戦争画家ということであった。
二十分ばかりで女がでてきた。バスケットはだんだん重くなってきたようである。もうおひるをだいぶまわっていた。
八番めは上野の池《いけ》の端《はた》だった。彼女が入っていった邸の名を知って、小代刑事は課長の疑いがばかばかしくなってきた。それは、近衛首相の秘書として新聞にもよくでる政界の麒麟児風間《きりんじかざま》男爵の邸宅だったからである。
しかし命令を自己の意志で途中から放棄するわけにはゆかない。刑事は炎天の下に、砂塵をまぶした干物のように立っていた。女はなかなかでてこない。まさか男爵が、さっきの大佐のような行為をしているとは思えないので、きっとつめかけた来客の順を待っているのであろうが、その客の往来がはげしいので、いっそう眼を門からはなすことができない。
女が出てきた。二時すぎである。通行人はことごとく酷熱のためにひからびたような顔をしている。そのなかにその女だけ、依然として瑞々しく、黒い鈴をはったような眼は、いよいよつやっぽくうるんでいた。九番めは……いや、こんなことを、いつまでかいていてもきりがない。要するに、小代刑事が、たまりかねて女の袖《そで》をつかまえたのは、彼女が浅草|日本堤《にほんづつみ》の高田《たかだ》という医院を出てからまもない、吉原の大門《おおもん》前だった。もう七時過ぎであった。
「おいこら。……」
呼びかけられて、女はけげんな顔でふりかえる。
「僕は警察のものだが、ちょっとききたいことがある」
「あら? おまわりさん? ああ私服ね」
女は艶然《えんぜん》と笑った。
「あんたの名と住所は?」
「あたし? あたしは、あの銀座のラインゴルドってバーにつとめてるんですの。名は花房百代」
「これからどこへ?」
「お店へかえります」
「いままで、どこに?」
「あの、ほんのそこに、高田医院ってあるでしょ、そこよ」
答は尋常であるが、笑顔は恐ろしく魅惑的《みわくてき》だった。ふっくりした中央のくぼみにうすく唾《つば》のひかる、やや厚目の唇をみていると、刑事はだんだん妙な気持になってきた。男という男が、蜜《みつ》のように吸いついていったのもむりはない妖《あや》しい魔力のようなものがある。
「ちょっと、そのバスケットのなかを拝見」
「あら、それこまるわ」
「なに」
小代刑事はかみつくような声を出した。さては、と思ったし、空腹と疲労のために癇癪《かんしやく》をおこしてもいたが、そればかりではなく、閻魔《えんま》顔でもつくらなければ対抗できないような原始的な魅惑がこの相手にあった。
シャトー・マルゴーの乾杯
女はからだをくねらせた。
「だって、これ、お客さまのあずかりものですもの――」
「何もとりあげようとはいわん。見せろというんだ」
「それでも、こわいわ。このごろ、うるさいんでしょ? でも、泥棒したんじゃないけれど、お名前がでるとこまるの」
なんだか、話がへんてこなようでもあったが、そうきけばいっそうバスケットの中を見ずにはいられない。
ふたりがいい争っていると、そのとき、すこしまえにふたりのちかくで停った高級車から、どやどやと一団の人々があふれ出して、こっちへやって来た。
「オオ、アグネス!」
酔った声だった。ふりかえって小代刑事は、はっとした。けさみたばかりの、麻布永坂町のあの独逸人である。それにしたがっているのは、やはり酔ってはいるが身なりのきちんとした日本の紳士ばかりであった。
「あら。……こんなところへ何しにきたの?」
と、女は眼をまるくして、吉原大門と相手を見くらべた。
「オマエコソ、何シテル?」
「何してるじゃないわよ。明日の会の準備よ。ずうっとまわってきたら、この時間になっちゃったの。そしたらこのひと……刑事さんなんだって……このバスケットの中を見せろっておっしゃるの」
「ハッハッハッハッハッ」
天地もくずれるような声で独逸人は笑った。
「見セテアゲレバ、イイジャナイカ。オマワリサン、ゴクロウサンデスネ。アサ早クカラ、蚊ニササレテ、キノドクデスネ」
小代刑事は手を顔にやってから、突然気がついて、愕然《がくぜん》として相手を見つめたが、独逸人は他意のない表情で、子供のような大声で哄笑《こうしよう》しつづけている。
呆然《ぼうぜん》として、ただにらみつけている刑事の傍へ、一団のなかからひとりの日本人がよってきた。
「刑事か。名刺か身分証明書があったら見せろ。われわれは独逸大使館のものだ」
横柄《おうへい》な調子であった。みんな相当酔っぱらっている。
「この独逸人の方も、決してあやしい方じゃない。リヒアルト・ゾルゲ博士といって、フランクフルター・ツァイトゥング新聞の東京特派員だが、同時に独逸大使館の新聞補佐官だ」
そのことは小代刑事も知っている。それどころか、ゾルゲ博士がオットー大使の親友で、去年締結された日独伊三国同盟のかげの立案者だったということさえも。――しかし、けさのあの狂態を思い、いまこうしてまざまざと恐ろしい酒の匂いと、田舎じみた、野蛮な体臭を発散している姿をみると、とうていそんなことは信じられないくらいだった。
「いや、そうだとすると、この女がいっそう危険なので――実はきょう、この女はいろいろと日本の高官の自宅をまわったらしいのですが、そのなかにヴーケリッチという仏蘭西《フランス》の通信員もまじっており、いったい何をあつめたのかと……」
「ハッハッハッハッハッ!」
と、ゾルゲ博士は笑い出した。大使館員たちもどっと笑った。小代刑事はきょとんとしている。
「スパイ? スパイ?」
身をおりまげて笑いくずれるゾルゲの声のなかにそんな言葉がきこえた。
「ワタシ、オットー大使ノトモダチ。イヤ、先生デス。スパイノ手ナド、ナカナカノリマセン。ソレニ、コノ女ノカオ見ナサイ。コノ顔、コノ美シク愚カナ顔、スパイデキル顔デハアリマセン」
苦しそうに笑いながら、ゾルゲは女を指さした。そういわれても、女はにこにこ笑っている。たしかにどこか一本ぬけている美しい笑顔だった。
「ワタシ、コノ女ヨク知ッテマス。銀座ノバアノ女給サン、ソシテ、日本一スケベエデス、ハッハッハッハッハッ」
「グルマンの会って何ですか?」
と、小代刑事は悲鳴のようにきりこんだ。すると、大使館員たちは、また腹をかかえて、どっと笑い出した。『ああ、そうか。アグネスはその用で歩いたのか』ひとりがやっと事情をのみこんだ様子ですすみ出して、
「君、グルマンとは、仏蘭西語で、食通ということなんだよ。食道楽かね。つまり、ほら日本はこのごろひどく美味《うま》いものがなくなってきたろう? それでそういう会をつくって、それぞれ秘蔵の食物とか酒をもちよって、いっしょに食べあうチャンスを持とうという会さ。むろん、世間に大きな顔で発表できる会じゃないが、ま、盗んできたり、法律にそむいてあつめたものではないから、大目に見てもらいたいね。僕たちもたびたび仲間にいれてもらったことがある」
「ニッポン、ヒジョージ、ケレド、ウマイモノクッテ、コーゼンノ気ヤシナワナケレバ、国民ノ意気シズミマス。ドイツデモ、ミナ肉、チーズ、タラフクタベテ戦争シテマスヨ。ヒットラー総統ノ方針デス……アグネス、ソノカゴアケナサイ。ヴーケリッチサンノクレタモノドレ?」
と、ゾルゲ博士がいった。女給はそくざにバスケットのなかから一本の美しい瓶《びん》をひきずりだした。
「オオ、シャトー・マルゴー」
と、ゾルゲはその瓶のラベルをみながら叫んだ。そして無造作にぽんと栓をぬいて、ぐっとひといきのんで、
「コレ、フランス、有名ナ葡萄酒《ぶどうしゆ》。ウマイ! ウマイ!」
小代刑事は、ひらかれたままのバスケットの中に、ぎっしりつまっているのは、たしかに洋酒の瓶や、チーズや、その他食糧ばかりらしいと見てとった。芳香があふれて、彼の腹がぐっと鳴った。
「あす、その会があるのよ、だから、どんなものもってきてくださるか、それ一応きいてまわらなくっちゃ、お店の方でも料理の準備の都合があるでしょう? だから、それをうかがってまわるついでに、きょういただいてゆけそうなもの、いただいてきたんだわ」
と、女給はあどけなく笑いながらいった。
「オマワリサン、ゴクローサマ。アナタ、コノゴロウマイモノ食ベテマスカ? 明日、グルマンノ会ニキマセンカ?」
と、ゾルゲ博士は人なつこく小代刑事の腕をとると、
「ソシテ、コンヤモ、ワタシタチトオ酒ノミナサイ!」
そういったかと思うと、いきなり赤葡萄酒の瓶を刑事の口におしこんで、ぐっと瓶の尻《しり》をさかさにした。あっと刑事はむせかえったが、罠《わな》におちた兎《うさぎ》のようである。恐ろしい怪力であった。
「ニッポン、ドイツ、兄弟ノ国! 手ニ手ヲトッテ、世界新秩序ツクリマショウ、バンザイ! バンザイ!」
哄笑《こうしよう》するゾルゲの声がきこえたとき、大門の向うにひびく女たちの嬌声《きようせい》がはたとやんだ。
「……臨時ニュースを申しあげます。臨時ニュースを申しあげます」そういうラジオの声がきこえた。
あたり一帯、急にしーんとしたようであった。ラジオは重々しい声でつづけている。
「大本営発表。七月二十九日午後八時。――帝国と仏国との間に今般成立せし仏領|印度支那《いんどしな》に関する共同防衛の取極《とりきめ》に基き、七月二十九日我陸海軍部隊を仏印に増派せられたり」
ゾルゲ博士が両手をうちならしてとびあがった。
「ニッポン、前進ヲ開始シタ!」
悲しき料理人
「グルマンの会」のはじまる午後七時、一時間まえに、小代刑事は、銀座の酒場ラインゴルドにいってみた。
昨夜ゾルゲ博士にからかわれたように一介《いつかい》の刑事にすぎない彼は、なるほど最近これはというご馳走《ちそう》にありついたことはないが、それかといって決して美食につられてやってきたわけではない。むしろ、国民あげて試練の嵐にとびこもうとしている現在、特別の珍味を賞味する会が存在するとは何たるふとどき千万なと、外人はともかく、それに加わる上層階級や特別階級の日本人たちに腹をたてていた。しかし、その会に出席してみよとは、彼から報告をうけた課長の命令であった。
「ラインゴルド」は、第一次|欧洲《おうしゆう》大戦で、青島《チンタオ》で捕虜になった独逸《ドイツ》人ケッペルの経営する酒場で、客も外人を主として、たまたまくる日本人客も知名人や外人との関係筋が多く、まるで横浜の高級バーのように国際色ゆたかな酒場であった。
店に入ってみると、もうテーブルをよせあつめて、まわりに二、三十人くらいは坐《すわ》れそうな大きな食卓をつくり、真っ白なクロースをかけたまんなかに花氷をたて、そのほか三つばかりおいた花瓶に、ひとりの女給がしきりに花をさしているところであった。
「こんばんは」
と、小代刑事が挨拶《あいさつ》すると、ふりむいた女給は、昨夜の花房百代である。ちょっと刑事の顔をみたが、思い出せなかったらしい。
「あのすみません、今夜は、一般のお客さまはおことわり申しあげているんですけど」
「グルマンの会とやらに僕もまねかれてきたのさ」
百代はやっと思い出したらしい。ぱっと花がひらいたように、
「ああ、きのうのおまわりさん?」
と、無邪気な、はずんだ声をあげた。べつに怖れている風でもなければ、悪い感情をもっている様子でもない。しごく天真爛漫《てんしんらんまん》なものである。
「おや、君だけ?」
「ええ、お客さまはまだおひとりだけ」
「ほかに女給さんはいないのかね?」
「いいえ、ほかにもドロテアさんとウズラさんとヘルマさんてひとが――もちろん日本人よ――いるんですけど、もうくるでしょう。住みこみは、あたしと主人だけなの。留守番もかねてね」
「留守番?」
「ええ、ケッペルさんのおうちはべつにありますもの」
「なんだ主人とはここの経営者じゃないのか」
百代はげらげらと笑った。
「じゃ、あたしの亭主。――コックよ。むかし帝国ホテルのコックやってたころあたしと結婚したんですもの」
小代刑事はあきれた。亭主持ちで昨日の行状とは恐れ入った。百代は痴愚の天使のごとく笑っている。
「いま料理場で大車輪よ、ちょいとお手並をみてやってちょうだいよ。宮城先生もいらっしゃいますわ」
宮城先生とは、たしかあのお茶の水の文化アパートの宮城与徳という人物だろう、と小代刑事は思った。彼はカウンターの横から調理場にぶらりと入っていった。
厨房《ちゆうぼう》は、そうひろくないけれど、独逸人が経営する外人相手のレストラン・バーらしく、四面の壁も床も白いタイル張りに電燈が反射し、たくさんのガスコンロ、天火、戸棚がならび、料理台もきわめて大きなもので、立派な電気冷蔵庫もそなえつけてあった。
部屋いっぱいに胃袋が息づきそうなほど美味《おいし》い匂いを充満させている大きなスープの鍋の傍にふたりの男がたって何かはなしこんでいる。真白いエプロンに白い帽子をつけた鞠《まり》のようにまるいからだつきのコックだが、刑事の跫音《あしおと》にふりむいたもうひとりは、たしかにきのう文化アパートでみた蒼白《あおじろ》い顔の画家だった。
「君はだれ?」
「いや、私は警視庁のものなんですがね。ゾルゲ博士のご紹介で今夜の会にお仲間にいれていただいたわけで」
「ああ、そう。ドクトル・ゾルゲの紹介でね」
ちょっと顔色が変った宮城画伯は、急に愛想のよい笑顔になって、
「まさか、ご馳走食うだけでしばるとはおっしゃらんだろう。陸軍の参謀や、内閣の高官でさえこられる会だからね。このまえは、オットー大使もおいでになった」
そうはいったものの、あまり居心地がよくないとみえて、すぐぶらりと店の方へ出ていってしまった。
「いや、たすかりました。どうもあのひとはうるさくってねえ」
と、コックが舌を出して笑った。四十ぐらいのお盆のようにまるい男だった。小さな眼にも、たれさがった眉にも、好人物と気の弱さがまざまざとあらわれている顔をしていた。
「なにがうるさいんだね?」
「へへ、今夜のお客さまはみんな食物の味にかけちゃうるさい方ばかりなんですがねえ。……なかでもいまの画家さんは、なんでも昭和のはじめから七、八年ばかりロスアンゼルスの日本街で、料理屋をひらいていた方だそうで、つくる方にもなかなかうるそうござんす。……が、アメリカ仕込じゃ話になりませんや。ま、あたしのつくるものが気にいらなけりゃ、グルマンの会にこなけりゃいいんだ。……これでもねえ、あたしゃ女でしくじって帝国ホテルを馘《くび》にゃなったが、あたしの料理にゃ、……仏蘭西《フランス》の大使さまでさえ感服なすったんだからねえ。……」
そうまのびした調子でいいながら傍の料理台で若鶏の内臓をぬいてゆく庖丁《ほうちよう》のさばきはまるで神技のようだった。たしかに名人にちがいない。
「そうだろうね。それで、親方のしくじった女というのは、いまのおかみさんかい?」
と小代刑事は笑いながらいった。コックは顔に似合わず、少年のように頬《ほお》をあからめた。
「まったく、あの百代さんは、ふるいつきたいような美人だねえ」
「へっへっへっへっ」
「親方は心配になりゃしないかね」
だらしのないコックの顔が、急に夢からさめたように、すうっとかたくなって、蒼ざめた。小さな眼におびえたようなひかりが凝固した。
「こんばんは! おくれちゃって!」
と、ふたりの女給がばたばたとかけこんできた。百代ではない、やっと出勤してきた、ヘルマとかドロテアとか呼ばれる女たちであろう。コックはふりかえりもせず、刑事の顔をぼんやりと見つめたまま、
「旦那《だんな》は……ご存知ですかい?」
と、かすれた声でいった。小代刑事は、昨日一日のことをほのめかして、このコックから何をつり出すべきかと思案にくれて、だまったまま煙草に火をつけた。
料理場のなかは、一大活動を開始した。バタと肉のやける蒸気、かぐわしい香辛料の匂い、皿や金属食器の鳴るひびき。――そして店の方にも、ぼつぼつとグルマンの会の人々があつまりはじめたらしい。れいの、とけるようなアグネスの笑い声がながれてくる。
「あいつはねえ、旦那……あたしの料理とおんなじで、こてえられねえほど美味《うめ》えや。……みんなが涎《よだれ》をたらすのもむりはねえ。……」
女たちが店へ出ていったちょっとのあいだに、コックはふりむいてにやにや笑った。へらへらとした馬鹿のような笑い顔だった。
「あたしが怒ったってはじまらねえ。……あいつの心がけが悪いんじゃなくって、あいつの肉が……ぷりぷりした美味え肉が、男という男へ吸いついてゆくんでさあね。……かんがえてみりゃ、あたしひとりで味わうにはもってえねえかもしれねえ。あたしの料理とそっくりおんなじでさ。万人賞味すべき珍味というやつだねえ。……まったく、あいつの肉は脂がのって、とろとろして、ちょっと、あれほど美味え肉は世のなかにゃないからねえ。……」
うっとりした声であった。小代刑事はうすきみわるくなった。女房の話をしているのか、料理の話をしているのかわからない。
しかし、刑事は、コックがそのとき、しずかに涙を頬にながしているのをみた。哀れな亭主は、ぼんやりした声でつぶやいた。
「ただ、それだけに……食いごろの雛鶏《ひなどり》とおんなじで……そのうち、男どもにくいころされなきゃいいがと思ってますがねえ。……」
小代刑事は、この好人物の亭主が、この世のものならずあの女房に惚《ほ》れていることを知った。どうみても、あまり利口な顔ではないが、それがいっそう恥も外聞もないほど、あの女への愛欲にはまりこんでいるらしい。が、滑稽《こつけい》な顔に涙をながしているのをみると、刑事はどうしても昨日のことを口にする勇気がなくなった。
小代刑事が店にひらかれているグルマンの会に出ていったのは、一同がオードヴルでカクテルをのんで、本式のコースに入ってからであった。本格的コースといっても、この会は、へんに気どることをさけて、うまい酒をたらふくのみ、みんなからもちよりのこの世の珍味を鼓腹《こふく》して食べることを主眼とする無礼講《ぶれいこう》のものらしく、れいの黒坂大佐殿のごときは、もうゆでだこのような顔色であった。
「うまい! ここの料理人は何ちゅう奴《やつ》か、こんな店においておくのがもったいないぐらいじゃ」
「いや、このチーズでスイスのフォンデュを思い出しましたよ」
と、話しているのは高田という医学博士である。
「フォンデュとはどんなものですかな?」
「スイスの名物料理でね。土鍋のなかでグルュイエール・チーズとかそのほかいろいろの種類にとりあわせたチーズを白|葡萄酒《ぶどうしゆ》でときましてな、水飴《みずあめ》のようにトロトロにしたやつをガス火にかけるのです。そして一寸角くらいにきったパンをフォークでつきさし、黄金色《こがねいろ》のあぶくがぶつぶつと煮立っているチーズにくるんで食べるので……舌をやくように熱くって、その風雅でうまい味ときたら! 同時に桜桃《さくらんぼ》からとったキルシュという透明な火酒をのむのですな。いや、だいぶ以前にスイスからとりよせた箱詰のフォンデュと壜詰《びんづめ》のキルシュを少々とってあるんですが、このつぎには是非もってきましょう」
「ほほう! それはいちどご相伴《しようばん》にあずかりたいものですなあ」
と、大佐はよだれをたらしながら皿のロースト・チキンにかぶりついて口をもぐもぐさせた。
「しかし、モーレもまたたまらんですぞ!」
「ほう、モーレとはまたどこの料理ですか?」
「わたしがメキシコの駐在武官をやっていたころ食ったものです。こいつはねえ、唐辛子やら南京豆やら胡桃《くるみ》やらアルモンドやらをすりつぶしたやつに、七面鳥の肉をぶつぎりにしたものをたっぷり半日くらい煮ますとですな、七面鳥の肉がつやつやと飴色にひかってきて、その匂いといったら、一町四方の犬どもが大さわぎしてかけまわるくらいです。こいつをメキシコのプルケという酒をのみつつ食うんですが、いや、あれは忘れられんですなあ。……」
いたるところ、そんな話ばかりだった。まさに食道楽のつどいにちがいなかった。
そのなかに、刑事はあのヴーケリッチという眼鏡をかけた外人をひそかに注目している。彼はにこにこして、しきりにとなりの三船代議士と話していた。話題はしかし英国のウイスキーのことらしかった。
「否《ナイン》。否《ナイン》――否《ナイン》」
突然猛虎のごとき叫びがあがった。れいのゾルゲ博士である。今夜もまた恐ろしく酔っぱらっている。
「ソヴィエートハ、断ジテドイツニ敗レナイ!」
血ばしった爛々《らんらん》たる眼、額にきざまれたみみずのような皺《しわ》をみて、小代刑事はぞっとした。昨夜の吉原でのゾルゲの精力を思い出したのである。
刑事はたしかに昨日の朝、ゾルゲがアグネスとはてしない肉欲をほしいままにしたことを知っていた。が、その同じ夜に、彼は吉原で五人まであいかた[#「あいかた」に傍点]の女をかえたのである。小代刑事が別室で日本人館員と酒をのんでいると、三十分おきくらいにゾルゲがあいの襖《ふすま》をあけて『この女はだめになったからお代りを』と笑いながら出てきたのである。腕に抱かれた女郎はことごとくぐったりとして、息もたえだえであった。……
相手になっていたA新聞の政治部記者は、ゾルゲ博士のけんまくに胆をつぶした。
――と、ゾルゲも急にきょとんとした表情になって、
「ザンネンナガラ」
と、つけ加えた。そして、
「ショウカイセキ、ソヴィエート、ソノウシロニアメリカイマス。コレヲタタカナケレバ、ドイツモ、ニッポンモ、カゲムシャトセンソウスルヨウナモノデス。ニッポン、ダンジテ、アメリカヲウツベキデス!」
そうどなると、ゾルゲ博士は突然傍のアグネスを抱きあげて、傍若無人に接吻《せつぷん》の音をひびかせた。舌をひどく吸いこまれたために、百代の白いむっちりしたのどの肉が苦しげに波うつのが、幻のように小代刑事の眼にうつった。
ゾルゲの哄笑《こうしよう》はつづいている。
「イヤ、ソンナムズカシイハナシ、コンヤハヤメマショウ。サア、ウントタベテ下サイ。ワタシコノヒトノ唇タベマス。ハッハッハッハッ」
肉と肝臓と脳髄と舌
夏から秋へ――昭和十六年は運命の歩みをいそがせていった。
海軍航空隊は連日連夜|重慶《チヨンチン》の爆撃をつづけ、独軍はレニングラードで死闘をつづけていた。が、重慶もレニングラードも、まるで不死鳥のようだった。重っ苦しいいらだたしさが日本にもながれていた。その焦燥のながれは、べつの巨大な滝津瀬《たきつせ》にむかって、かんばしったしぶきをあげた。
「米国との国交事実上断絶状態」「対日包囲陣強化――帝国に確信あり」「在外同胞最後の時≠フ決意かたし」
そんな文字が毎日の新聞にかきたてられ、東都の広場という広場では黒紋付の壮士が「米国撃つべし」と狂気的な、陰惨な咆哮《ほうこう》をあげていた。
暗黙|裡《り》にスパイの検挙にうごいていた警視庁特高課では、十月のはじめ、銀座のバー・ラインゴルドの女給花房百代の拘引を決し、その日のひるごろから、ラインゴルドから四方の街へ出る通路には、私服の刑事がそれとなく見張っていた。
さて、この日は夕方から、この店に入ってゆく客の数がいやに多かった。出てゆくものは誰もない。――例の「グルマンの会」の夜だったのである。
そのことは特高課でもわかっていたのである。吐き出すように課長はいった。
「日本の指導階級にある名士のくせに、この時節に美味《おいし》いものをたらふくくってたのしもうなんて、けしからん奴らだ。その席で百代をひっぱって一座の連中の胆をひやしてやれ」
『グルマンの会』は定刻の午後七時にひらかれた。
さて、その日は、会のはじめのころにいつもとはちがった、ちょっとした事件があった。宮城画伯が立って、憂《うれ》わしげな表情でこんなことを報告したのである。
「ちょっと、ご挨拶《あいさつ》申しあげます。実は私ども美味礼讃の使徒にとりまして、世にもかなしむべきことが起こりました――いやいや、どうぞそのままお召しあがりになって下さい――と申しますのは、ほかでもない。過去において、私どもの芸術的な舌を、かくもいかんなく愉《たの》しませてくれましたこのラインゴルド料理人|山名安吉《やまなやすきち》君が、一身上の都合により、ちかく田舎に引退されるということでございます」
オードヴルに出ている、青味がかった黒色の粒々がぷりぷりとかがやいているキャビアをたべていた高田博士が、
「ほう! そりゃ――惜しい!」
と、絶叫した。みんなどっと失望とおどろきのどよめきをあげて、宮城画伯の傍に、ベソをかいたような顔で立っているコックをながめた。
「実は先刻ここへ参ってはじめて山名君からそのことをききまして驚愕《きようがく》したようなわけでございまして、その理由をといいますと、最近食糧事情の悪化にしたがい、材料も調味料も劣悪をきわめて、とうていコックとして良心的な仕事ができないからと、こう申すのでございます。その心理は、これでも芸術家のはしくれである私などにも充分納得できることであり、それだけに、この世にも珍重すべき名人肌の料理人を失うのは、残念このうえなく……長嘆これを久しうするほかはございません」
「……そして、百代も田舎へゆくっちゅうのかね?」
と、黒坂大佐がもつれた舌でつぶやいて、きょろきょろと臆病《おくびよう》そうに一座を見まわしたが、ドロテアもヘルマもウズラもいたけれど、アグネスのぽってりした姿は、そのときまだ見えないようであった。
宮城画伯は、長髪をかきあげつつ、憮然《ぶぜん》としてつづける。
「ところで、山名コックが、みなさまへのおわかれのご挨拶と申しますか、いままでのごひいきの御礼、ご奉仕と申しますか、きょうは特別念入りのご馳走《ちそう》を出してくれるそうでございます。これは数日前から、北海道、飛騨《ひだ》、四国、九州、ほとんど全国にわたる、山名君の旧友――各地のホテルのコックさんとか、あるいは同好の食通の方々から、送ってこられた山海の鳥獣を材料にいたしまして、山名君が一世一代の秘術をかたむけて調理したものだそうでありまして、さいわいみなさまの豊饒《ほうじよう》なる美味学のおめがねにかないますれば友人としての私のよろこび、これにまさるものはございません。……なにとぞ、ご愉快にご賞味ねがいあげる次第でございます」
まんまるい、お盆のような滑稽《こつけい》な顔に、へらへらした愛嬌《あいきよう》笑いをいっぱいにたたえた山名コックは、うやうやしく頭をさげた。
「へ、へ、へ、どうぞみなさま、たっぷり召しあがって下さいませ」
やがて調理場から、つぎつぎと大きな陶器のディッシュに盛られた料理がはこび出されはじめた。たちまち部屋いっぱいに胃液がわきたつように美味《おいし》そうな匂いが充満した。
それから二カ月ばかりしてあの惨澹《さんたん》たる大戦争に突入した、日本にとっては、それは『帝国』時代における最後の豪華なる大|饗宴《きようえん》であったかもしれない。
「おおうまい! これはすばらしい!」
とA新聞の政治部記者の飯室氏が大きな肉片をひとくちくわえて嘆声をあげた。
「これは胸肉かな? それとも腿肉《ももにく》かな? こんなにうまいビフテキを食べたことないねえ!」
「コレ、腎臓《キドニー》ノ串刺《くしざし》焼ラシイデスガ、牛デモ豚デモナイヨウデスネ。羊デショウカ? 実ニオイシイデスネ」
と、ベーコンと葱《ねぎ》にはさんで串にさしたものをくいながら、マックス・クラウゼンがいった。
「あれはトリップらしいね。三船さん、ちょっとそいつをこっちへまわしていただきましょうか。いや、仏蘭西では、よく食べたものだが」
と、浮き腰になって腕をのばしているのは近衛《このえ》首相の秘書の風間男爵である。
「ほほう、トリップとはなんですか?」
「仏蘭西料理のひとつでねえ、胃や腸をこまかくきざんで、ほら、茸《きのこ》といっしょに葡萄酒《ぶどうしゆ》でぐつぐつ煮たものですよ」
「胃や腸もたべられますか?」
「たべられるどころじゃない。アフリカの野獣などは、敵をたおすとまず腹をやぶって、争って胃腸にくらいつくくらいでね。本能的にいちばんうまい栄養料理を知ってるわけでしょう。これは豚かな? 牛かな? うまい! まあたべてごらんなさい。明日朝は顔じゅうべっとり脂がにじみ出ているほどの料理ですよ」
すすりあげる唇の音、もみくだく歯の音、唾液《だえき》でまぶしこねまわす舌の音、ぐっとのみこむ喉《のど》の音。――きいただけでもうれしくなるような美食家たちの旺盛《おうせい》な食欲の騒音であった。
三船代議士は、ちかくの料理をひきよせて、
「や、これはみごとだ。うむ、うまいねえ! ちょっとトロの刺身に似ておりますな」
「三船さん、三船さん、そいつはそのこってりしたソースをかけなくっちゃ。そいつはおそらく牛の舌でしょう。やっぱり葡萄酒で煮つめたものですがね」
「コノ肝臓《レバ》ノトマト煮、コンナニオイシイヤツ、国デモタベタコトナイデスネ。ココノコックサンホントニ天才デス」
と、ヴーケリッチがスプーンを口にはこびながら、すっとんきょうな叫びをあげた。テーブルのうしろに侍立《じりつ》してながめている山名コックは好人物らしい顔いっぱいに、うれしそうな得意の笑いをへらへらとうかべている。
「大佐、大佐、これが、仏蘭西料理のセルボというやつですよ!」
と、高田博士がけたたましく叫んで、黒坂大佐の腕をつついた。
「セルボ。……なんか豆腐のようじゃねえ!」
「牛の大脳なんです。豆腐のようにあっさりしていますが、どこか刺身に似てこってりしたところもあるでしょう。こりゃいい席についた。とにかく、大きな牛一匹でも、大脳はこれだけなんですからね。ほらそこの酢をかけて、襞《ひだ》ぞいにナイフでうすくきってたべるんです。――」
「おっ、こりゃたまらん! 柔らかくって、ねっとりして……こりゃいったいどこの肉かな?」
と黒坂大佐殿は、別の一皿から一口ぱくりとくわえて、もりもりと顎《あご》をうごかしはじめてから、ふと口のはしにひとすじの黒い毛がたれているのに気がついて、
「ぷっ、こりゃけしからん!」
と毛をひきぬいたが、あまりの美味しさに肉はそのまま、がぶりとのみこんでしまった。
湯気のむこうから、そのとき内閣嘱託の大崎氏が笑いながら声をかけた。
「大佐殿。あなたはいいものを食べられましたねえ!」
「ほう、いまくったものですか。何ですな?」
「いま、コック君にきいたのだが、それは、飛騨から送ってきた牝《めす》猿の……大陰唇だそうです。猟師が争ってたべるのでなかなか手に入らんものだということで。はっはっはっはっ」
黒坂大佐はおどろいていいのか、怒っていいのかわからないような顔つきになったが急に大きく舌なめずりして、豪傑らしく呵々大笑《かかたいしよう》した。
「はっはっはっ、わっはっはっはっはっ」
と、牛の舌らしいフライでスコッチ・ウイスキーをぐっとあおりながら、爆発するように笑い出したのはゾルゲ博士である。酔眼をかがやかせて、山名コックの方をふりむいて、
「コックサン、コックサン。アナタノ美シイ妻《フラウ》、ドコニユキマシタ?」
といった。
帝国最後の大|饗宴《きようえん》
扉がひらかれたのはその瞬間である。四、五人の屈強な男たちであったが、私服にまじって、佩剣《はいけん》をがちゃつかせた制服の警官もまじっているのをみて、『グルマンの会』の人々は愕然《がくぜん》としてたちあがった。
「なんだ、お前たちは?」
と黒坂大佐が眼をむいてどなりつけた。
「失礼します。警視庁のものですが。――」
と、小代刑事はじゅんじゅんに列席の人々の顔をみまわしながら、しずかにいった。風間男爵がつかつかとすすみ出て、
「警視庁? 警視庁がなんの用だ? ぼくは風間男爵だ。無礼だろう」
「いや、みなさまのお名前はぜんぶ存じあげております」
と小代刑事はにやりと笑って、
「ちょっと調べたい人間がありまして参上しました。いえ、みなさま方ではありません。この店の女給花房百代という女であります」
みな、ほっとしたと同時に、さっきまでちらちらふしぎに思っていたことが、やっとそのとき一同の胸によみがえったらしい。あの『|脂肪の塊《ブール・ド・スユイフ》』に似たアグネスは、その夜まだいちども姿をみせなかったのである。
「おい、百代はどこにいる?」
と、小代刑事は山名コックをねめすえながら顎《あご》をしゃくった。
山名安吉は、春の霞のかかったような表情で、ぼんやり立っているだけである。すこしたりないらしいということはわかっているが、場合が場合だけに、小代刑事はいらいらとせきこんだ。
「百代は、けさ十時ごろ、ここへ帰ってきたろう? それはちゃんとこっちでわかっているんだ。それっきり、どこへも出てゆかなかったことも見きわめている。どこにいる?
いや、百代を縛るというわけではない。すこし調べたいことがあるだけだ。おい、はやくここへ女房をよんでこい」
「あいつは……けさ、戻ってきましたよ」
と、コックは空気のような声でいった。そのお盆みたいにまんまるい顔に天性の愛嬌《あいきよう》笑いがへらへらと浮かびあがってきた。
「それは知っとる。いまどこにいるんだ?」
「あいつはねえ、旦那《だんな》。……あたしだけのものじゃねえんで……みなさまのものなんで……その方が、あいつの性分にも、神さまのおこころにも合ってるんで……」
「何をのんきなことをいってるんだ、百代はどこにいる?」
「みなさまのおからだのなかで」
なんのことをいっているのか、小代刑事にはわからなかったが、山名コックのへらへら笑いのなかに、なんともいえないぶきみな鬼気のようなものを感じて、刑事はぞうっと背筋に一脈の冷気がはしるのをおぼえた。
まるまっちいコックは、満面涙だらけになりながら、世にもうれしそうな笑い声をたてた。
「旦那……女房はねえ、昨日の晩から出ていって、けさ戻ってきてから、急に血を吐いて死にましたよ。……どこかうろつきまわって、どなたかに毒を盛られたんじゃねえかと思うんですがねえ。……そんなことになるんじゃないかとまえから案じていたとおりだ。へ、へ。……どこで一服盛られたのか、いまさらしらべてみたって死んだものはもうかえらねえ。……せめて仏のこころをくんでやって、可愛《かわい》がって下すったごひいきの旦那がたのおからだの肉にでもとけこむように……」
「なに?」
「女房を料理して、いまみなさまに食べていただきましたよ。……へ、へ、へ。つまり女房はねえ、いま旦那さま方の胃袋のなかにいるわけで。……へっへっへっへっへっ」
『グルマンの会』のひとびとはいっせいにぴょこんととびあがった。一様にのどに手をやり、一様に舌をたれて、げえっと恐ろしい嘔吐《おうと》の声をあげた。
そのなかに、ただひとり、すくっと立ったきり、きゅっと三日月がたに口をつりあげてげらげら笑いつづけている山名コックをにらみつけたまま、リヒアルト・ゾルゲ博士の顔がしだいに鉛色にかわっていった。
人も知るように、ゾルゲ・スパイ団は、赤軍第四部の下に属する、世界スパイ史上、空前の大スパイ団であった。
ノモンハンの戦闘で、関東軍の計画をソヴィエートに通報したのはブランコ・ド・ヴーケリッチである。独逸《ドイツ》のソヴィエート攻撃をいちはやく事前に報告し、また北進か南進か迷いに迷う日本首脳部の首を、たくみに南方へむけさせて、ついに太平洋戦争の大ばくちに突入させるにいたったのは、独逸大使館内にふかくくいこんでいたゾルゲ博士である。開戦前日本軍の大動員状況をしらべあげたのは米国共産党員宮城与徳であり、それらの情報をいちいち秘密電信によってソヴィエートに送信していたのは無電技師マックス・クラウゼンであった。
ゾルゲ・スパイ団こそ、日本と独逸を破壊させた有力な因子の一つであったといってもいいすぎではない。この一味が女給アグネスをほんとうに何かにつかっていたのかどうか、いま以《もつ》て不明である。が、彼女が毒殺されたのがほんとうなら、やはり女から危険の水が洩《も》れるとみて、そのうちの誰かが一服盛ったものにちがいない。しかし、それも事実かどうかわからない。酒場ラインゴルドのコック山名安吉は発狂していることがわかったので、そのことの真相はついに明らかにされなかった。
さはあれ、国外逃亡の寸前、ついにゾルゲ・スパイ団の一味が警視庁特高課に検挙されたのはその不吉なる、恐ろしき美食家の集《つど》いの夜から十日ばかりのち、近衛《このえ》内閣が、運命の東条内閣へうつる号外の鈴の音の、東京の巷《ちまた》に騒然と鳴りわたっている前後のことであった。
[#改ページ]
呪恋の女
天城三蔵《あまぎさんぞう》という老人のこと
蛇の血のように黒ずんだ冬の落日の下に、三人の老人は、静かに首を垂れたままであった。右端の石塊に腰を下ろした一人は、膝《ひざ》にひろげた斬奸隊歌《ざんかんたいか》と朱書した紙片の上を骸骨《がいこつ》みたいな指先で辿《たど》りながら喉《のど》の奥から風笛に似た声を低く洩《も》らし続けていた。左端に蹲《うずくま》った一人は、水死人のように青膨れた腕を、時々のろのろと動かしては、懶《ものう》げに焚火《たきび》の赤い焔《ほのお》を掻《か》きたてていた。
「――で、今度は天城三蔵さん、貴方《あなた》のあの『麟之介《りんのすけ》と鞆絵《ともえ》の物語』ですね、あれを一つ、お話し下さいませんでしょうか?」
焚火を隔てたこちら側の丸太に腰かけた博士は咳《せき》一つすると鄭重《ていちよう》に中央の老人に目礼した。凝然とうな垂れていたその老人は、夢から醒《さ》めたように顔をあげて遠い夕日を眺めた。塑像《そぞう》のごとき無表情であったが、その澄んだ冷たい瞳《ひとみ》に、翳《かげ》のような哀《かな》しみと苦痛の色が浮かんだ。
「いや、その話を改めて思い出させるというのは、貴方にとって少なからず御不快なことであるということは、よく承知して居ります。しかしここにいる二人の青年のために、是非どうぞ」
M博士は、傍に佇《たたず》んでいる私と友人を顧みて再び促した。
この天城三蔵という老人は一体幾歳くらいなのであろう?――先刻から、私はしげしげとこの異様な人物を特に観察していたがどうしてもはっきりしたところが分らなかった。真っ白な髪、額に畳まれた深い皺《しわ》は、一寸《ちよつと》見ると七十歳近くにも思われる。それにも拘《かか》わらず、眼だけ見ていると、ふと二十代の友人の眼と錯覚を起しそうなほど清澄な若々しさがある。そして、今のように顔をあげた時、その唇から喉頸《のどくび》にかけて描かれる線は、何という奇妙ななまめかしさを持っていることであろう。――しかし、羊羹《ようかん》色に褪《あ》せたとはいえ、白紐《しろひも》をきちんと結んだ紋付羽織の肩の肉の薄さ、杖《つえ》をもてあそんでいる鉛色をした指先など、全体の様子から結局私は、「おそらく五十から六十までの間であろう」と、甚だ漠然とした結論を下すより外はなかった。
「――はい、お聞かせ致しましょう」
と、天城老人は、ぽつりといった。低い、しゃがれた声であったが、若い私達を見た眸《ひとみ》に微《かす》かな笑いが通り過ぎた。それは私達が思わず視線を外したほど冷やかな嘲《あざ》けりを含んだ微笑であった。
「やはり三谷《みたに》麟之介のことから、話した方がよろしいと存じますが……」
老人はM博士の顔を仰いでそのうなずくのを見ると、やがて遠い虚空を吹いてゆく木枯しのような声音で語り初めた。
三谷麟之介という青年のこと
――あれは大正の御代《みよ》も末のことでございましたから、もう二十五年ばかりも昔になりますか。東京田町の或《あ》る電話製造会社に三谷麟之介という若者が働いて居りました。
雪のように色の白い面長の非常な美青年で、何十人と、働いているその事務室に、誰でも一歩入って見渡すと、動いて行った視線が彼のところで思わずとまる。まるで闇夜《やみよ》に一点の光を見るように、その美貌《びぼう》が際立っているのでございますね、何とかいう華族の落胤《らくいん》だとか何とかいう噂《うわさ》さえ一頻《ひとしき》りあったのは、おそらく彼が入社したはなから騒ぎ立てた女事務員どもの口からでも出たことなのでしょうか、そういう風評の出るくらい、三谷の全身を高貴と純潔の匂《にお》いが包んでいる。――しかし、彼に就《つい》ての評判は、二カ月もたたぬ中に何処《どこ》へともなく潜《しず》み消えてしまいました。というのはそのくらいの容貌を持ちながら、彼の日常の動作といったら、まるで時計の振子の影のよう、――朝八時五分前きちんと会社の入口に現われる。午後四時半、机にかがんでいた彼の顔があげられて壁の時計を見ると、立ち上って、身支度をして、さっさと帰って行く。これが、雨の日も風の日も一分も違いませぬ。会社の仕事がかさんで来て、時に皆夜おそくまで働かなくてはならぬ場合でも、彼は絶対に残りません。祝宴を張るとか、その他のつき合いで、夜何処かで一席設けるような時でも、彼は決して同僚と行を共にしたことがございませぬ。勤務時間中はどうかと申しますと、仕事上の打合せは別として、それ以外は冗談口は疎《おろ》か殆《ほとん》ど一言も口を利いたことはありません。単調で、正確で沈鬱《ちんうつ》で、――類稀《たぐいま》れな美青年として、これは一つの神秘ともいえましょうが、こういう神秘は人の話にのぼる種も仕掛もありようがないので、自然と人々の唇から遠ざかって行った。……
すると、その頃になって、また一寸《ちよつと》変った噂《うわさ》が、女事務員達の口に昇りました。それはこの三谷麟之介と、社長秘書の安西満代という少女の顔がまるで兄妹のようによく似ているということなのでございますね。それが血縁関係は何もないということが明らかなので一層興味が持たれたので麟之介は面長の方で、満代はどちらかと申せばふっくらした円顔、それにも拘《かか》わらず、なるほどそういわれて見れば、長い睫毛《まつげ》が頬《ほお》に落す翳《かげ》、清らかな鼻筋、美しい唇の形――それらが醸し出す顔全体の感じが実によく似ているのでございます。
この評判に対して、三谷の方は相変らず冷然黙然寂然たるものでしたが、満代の方が興味を持った。興味は持ったがこの娘は、よい家庭に育ったので、理由なく馴々《なれなれ》しく近づくようなはしたない振舞いはようしない。ただ、遠くからそれとなく注意して見ているばかり。――で、注意して見ていて、間もなく満代は三谷が甚だしい女嫌いであることに気がついた。尤《もつと》も男の方には親しい友人など一人もない様子であるが、それにしても、女を見る時のあの三谷の眼の色は――偶然ちらりとあたりの女に行った視線は直ぐと外れてゆく、その瞬間にその眼を掠《かす》める何ともいえない嫌悪と軽侮と憎悪の焔《ほのお》、誰も気がつかぬその微《かす》かなゆらめきを満代は見て取って淡いかなしみに襲われた。恋の初めです。
その美貌《びぼう》と、女性を見る時の陰惨な眼色、この二つから三谷の過去に暗い女の影を想像することは満代には出来ない。彼女の感覚は、何故《なぜ》となく、彼の清潔を直感したからで、それどころか、時に会社の窓から夕の光を眺めている三谷麟之介の横顔など見る時|珠《たま》のような処女の満代でさえ女は汚れたものという意味たるべき古い言葉が全身の皮膚を流れるように感じたくらい。――三谷の氷のような純潔と高貴には一指すら触れることが出来そうにありませぬ。……
然《しか》るにここに、二人が急に相近づく端緒が生じたというのは、世にも奇怪な一事件からでございます。或《あ》る晩春の土曜日の午後、満代は社長の宅に招かれた、というのはそこの令嬢が満代と女学校の同窓だったので。――その夕、彼女が自動車で自宅に帰る途中、丁度目黒の権之助坂《ごんのすけざか》を登ってゆくと、偶然三谷の姿を認めたのでございますね。坂の両側の桜並木は半ば若葉になりかかって、夕風に花びらは夢のように散り迷っている、それに目をくれずせっせと駈《か》け登ってゆく三谷麟之介の、まあ何という顔色でしょう、死人のごとく蒼《あお》ざめた顔に、脂汗を滲《にじ》ませて、ツンのめるような姿勢で息を切り切り走っているのです。満代は運転手に命じて自動車を停めさせると、扉を開いて三谷を呼んだ。
三谷は振り向いて、虚《うつ》ろな眼で彼女を見た。流石《さすが》にそれが自分の社長の秘書であることに気がついたらしい。
「今、何時です?」
彼が満代に投げた最初の挨拶《あいさつ》は、しかし、実にこういう突飛《とつぴ》な言葉でした。
「七時十分前ですけど――」と満代はいささか呆《あき》れながら「一体、何処《どこ》へお行きになるんでございますの?」
「帰るのです」と三谷はひきちぎるように、「帰らなくてはなりません、どうあっても七時までに」
そしてまたもや瀕死《ひんし》の鳥の羽搏《はばた》くように駈《か》け出そうとします。何とは知らず、事態のただならぬのを感じて、満代はあわてて彼の手を把《と》りました。
「じゃ、この車でお帰りなさいませよ、お家はどちら?――」
「芝《しば》の白金台《しろかねだい》町一ノ十三番地――」
自動車に押し込まれながら、三谷は呻《うめ》くがごとく答えました。
満代と並んで坐《すわ》ってからも、麟之介は礼は疎《おろ》か話らしい話ひとつ交しませぬ。乱れた髪の下で、顔面の筋肉をひくひくと痙攣《けいれん》させながら、時々苦痛に満ちた低い唸《うな》り声を洩《も》らすばかり。――「何処《どこ》かお悪いんでございますか?」そう満代が不安げに尋ねても、それには答えず、飛び出すような眼で少女の腕時計を覗《のぞ》きこみ、ぎりぎりと自分の両腕をもみしぼって居ります。
「あっ、ここ――此処《ここ》です」
突然、青年がそう叫んだので、急停車させると、彼はあたかも傷ついた野獣が檻《おり》を蹴破《けやぶ》るように扉から転がり出て、前の家へ入り込んで行った。それを追って満代が駈けてゆくと、それは小さいながら一寸《ちよつと》した樹々に包まれた石の門さえある洋風の建物でしたが、満代の鼻先でばたんと玄関の扉がしまった。そして、がちがちと鍵《かぎ》をかける音、――勿論《もちろん》今飛びこんで行った三谷の仕事であることは、扉の向うの烈しい息づかいで分ります。満代はむっとするより、余りに異様な男の様子に声をふるわせて、
「三谷さん、三谷さん、大丈夫でございますか? 三谷さん」
と呼んだ。返事はなく、唯遠くから聞えて来たのは、丁度七時を知らせる陰々たる時計の音でございます。狐《きつね》にだまされたような気持で満代は踵《きびす》をかえそうとした、……とその時、扉の向うで微《かす》かに礼をいう声がしました。
「――誠にどうも、お世話をかけました。麟之介に代りお礼を申します」
満代がぎょっとしたというのは、これが三谷の若々しい声でなく思いがけぬ老人のものだったからで、――それにしても、何という静かな沈痛な声音でしょう。満代はふっとまた立ち戻りかけたが、扉の向うでは、何者かそのまま奥へ去ってゆく様子なので、諦《あきら》めて門の外へ出て行った。
中一日を置いて月曜日の朝、会社で満代は三谷麟之介に逢《あ》いました。「一昨日は甚だどうも――」そういって鄭重《ていちよう》に頭をさげる三谷の冷静典雅な様子を、瞳《ひとみ》を円く見開いたまま、満代はまじまじと見つめて、危く二、三の疑問の声を発するところであったが、それが容易ならぬ相手の秘密であるらしいので、強いて自ら制して何もいわなかった。しかし、そういう少女の淑《しと》やかな性質が初めてこの氷のような青年の魂を動かしたと見える。……貴方《あなた》がた、貴方がたは、ハヴロック・エリスの著書を読まれたことはおありかな? いや、私はずっと若い頃読んで殆《ほとん》ど忘れてしまったが、あの中に、男女は相似たものが愛し合うと書いてある、兎《と》に角《かく》、この日を以て三谷麟之介と安西満代の烈しい恋愛が初まったわけです。
烈しい恋愛――併《しか》しそれは決してあのプラトニック・ラヴの範疇《はんちゆう》を超えなんだ。唯、天上の星を誤り、地界の花を夢みるだけその他に麟之介が灼《や》くが如き情熱を以《もつ》て口にするのは、何と人間改造の理想でありました。彼は一点の濁りをもとどめぬユートピア・パラダイス、西方浄土はこの地上に実現出来るものと真に信じている模様で、そればかりではない、満代は共に街を歩んでいる時、乞食《こじき》にでも逢《あ》うと彼が必ず幾ばくかの金を与え、そのあとには屡々憐《しばしばあわ》れみの涙さえ浮かんでいるのを見て、魂を揺り動かされるのでございました。
「何という高貴なひとであろう。このひとの心はその姿以上だ」そういう信仰が深まる一方満代は三谷の過去についての信頼が時に揺ぐのを禁じ得ないようになって来ました。というのは、三谷は最初満代が感じた通り確かに女嫌いで、しかも、それが殆ど病的なばかりの嫌悪感を抱いているらしく、たまたま話題が女性論めいた事柄に及ぶと、平生の三谷とは思われないほどの辛辣《しんらつ》な批評、というより執拗《しつよう》惨忍を極めた罵倒《ばとう》を加えるのでしたが、それが逆に満代には彼の暗い女性史を朧《おぼろ》げながら想像させるのです。
「――私、思うんですが、女は人類と動物との中間に位するものですね。女が男に勝っているのは、ただ悪事と――性欲だけ――」
「軽躁《けいそう》、浮薄、虚偽、詭計《きけい》、狡猾《こうかつ》、悪口、虚栄、猜忌《さいき》、偏執《へんしつ》、惨忍、兇悪《きようあく》――そして淫蕩《いんとう》これらのものから巧みにつむいだ精緻《せいち》な糸をもって、造化の神の織りなせる絢爛《けんらん》たるもの、それがすなわち女です――」
「最も完全な悪魔は女だといえるでしょう。――人類の半ばは確かに地獄から来た者に占められているに相違ありません」
「ストリンドベルヒはうまい形容詞を使いました。小汚ない愚物、臭いめ豚、類人的動物、半猿類、厭《いと》うべき者め」
余りの毒々しさに呆《あき》れて、しまいには満代は笑い出しかけるのですが、その前で頭髪に指をつっこんだまま、宙を見つめている男の瞳《ひとみ》が、殆ど恐怖に近い光を放っているのに気がついて、唇が凍るように動かなくなってしまうのでした。
勿論《もちろん》、その憎むべく恐るべき「女」からただ一人、満代だけは、例外でございます。「あなたのようなひとが、女の中にあろうとは思われなかった」麟之介は双眼に憧憬《どうけい》の灯を点じて囁《ささや》くのでした。「あなたは私のベアトリイチェだ――」
微笑《ほほえ》みながら、しかし満代は胸の中に夜霧のごとき不安と嫉妬《しつと》が漂い満ちて来るのを感じるのでした。
「このひとは確かに女を知ってる。過去ばかりではない、今もきっと誰か女のひとに追っかけられてる。それを嫌っておいでだ。けれど、その女はこのひとの胸をこれぐらい悩ますほど食いこんでいる――」
その女を見たい……その欲望が全身を灼《や》くにつけ、どうしても心に絡みついて来るのは、夜決してつき合わぬ三谷の不思議な行為でございます、胸に甦《よみが》えるのはあの晩春の権之助坂での「帰らなくてはなりません、どうあっても七時までに――」という奇怪な叫び。――「七時までに、七時までに」満代は繰返して唇を噛《か》みしめるのでした。「毎晩七時にその女は三谷さんを待っているに違いない!」
「しかし、ただ一人の女があれほどこのもの静かなひとに恐ろしい権威を持っているものであろうか?――それにあの扉の向うの老人は?」
あれは私の父です、と三谷はいつかいった。けれどあの場合、扉をあけずに奥へ去るような非常識な父親があろうか?――こういう不審と疑惑に対して、男が常にそわそわと話を外らすのにたまりかね、この純情な少女は恋心|一途《いちず》に、或《あ》る夏の夕一つの芝居を打った。
その日、四時半に会社が退けると、満代は先|廻《まわ》りして目黒駅の前で三谷を捕まえ、近所の喫茶店に誘って、出来るだけ時をつぶした。しかし、六時を少し廻って来ると、案の定、例のごとく男はうろうろとあたりを見廻し始め、座にいたえぬ様子、そしてついに立ち上って今日はこれでお別れしようと申します。お送りしますわといって満代はその腕にぶら下がるようにして白金台町の方へ歩いて行った。そして三谷の家までもう二町ばかりの路上で、突然彼女は脳貧血を起して失神したように見せかけました。丁度家並がきれて、一寸《ちよつと》した草原のある前の通りです。麟之介は狼狽《ろうばい》してその草原の上へ満代の身体を横たえ、一心不乱に介抱した。
満代は眼を閉じたまま、腕時計の響に耳を澄ませています。七時二十分前――果然男の喉《のど》の奥から、しゃっくりのような音が洩《も》れ初めました。迫って来る七時と、気を失った恋人と、――締め木にかけられたような三谷の苦悶《くもん》の息づかい、たまりかねて眼を開いた少女は、男が蒼白《そうはく》な妖鬼《ようき》のごとき形相に変じているのを見て戦慄《せんりつ》した。
「気がつきましたか? よかった!」
そう叫んで、もう立ち上りかける青年の頸《くび》に満代は腕を絡みつかせ「待って下さい!」と呼んだ。
「待って下さい。三谷さん、どうして貴方は七時にお家へ帰らなくちゃいけないの? 一体誰が待っているのです」
「鞆絵――淫蕩《いんとう》な恐ろしい女――」思わずそう口走ってから三谷は愕然《がくぜん》として「いや、いや!」と頸《くび》を振った。そして、ひしとしがみついている満代の燃える星のような瞳《ひとみ》に逢《あ》うと、
「救って下さい! 私を」
と声を絞《しぼ》っていった。あたかも血の池に咽《むせ》ぶ亡者のごとき声音。「救って下さい、私は夜が恐ろしい。夜が、夜が、恐ろしい!」
「鞆絵――鞆絵って誰? あのお爺《じい》さんは?」
「お爺さん?」
この声を洩《も》らした刹那《せつな》、脂汗の滴る三谷の顔に突然奇怪に冷静なものが掠《かす》め過ぎます。
「私の監視人」
祈るがごとく呟《つぶや》くその瞳《ひとみ》の奥を、まるで嘲笑《ちようしよう》するように冷やかな表情が流れたと見えたのも一瞬、再び恐ろしい苦悩に全身をねじらせて、
「満代さん、やっぱりお帰り下さい、今日はこのまま、どうか――」
「帰りません、貴方も帰しません!」激情のため、満代は狂ったような声をあげて、三谷の唇に、自分の唇を押しつけた。「今夜私が貴方を救ってあげます!」
この接吻《せつぷん》を、三谷は殆《ほとん》ど失神したように受けたが、忽《たちま》ち引きちぎるように眼をそらせ少女を振り捨てこけつ転《まろ》びつ家の方へ駈《か》けだしました。逃さじと満代もそれを追っかける。玄関へ飛びこむと同時に、この前と同じように、鼻先で烈しい音をたてて扉が閉まりました。
「三谷さん! 開けて頂戴《ちようだい》、三谷さんったら!」
扉を打ちたたく満代の姿はあたかも今様の横笛、しかしそれに答えて来たのは、また七つを打つ冥府《めいふ》の鐘のような時計の響ばかり。
「ひどい、ひどい、三谷さん」少女は扉に縋《すが》ったまま泣きじゃくりました。「貴方《あなた》、私を愛していてはくれませんの?」
「お気の毒じゃが、あれは貴方にお会いさせるわけには行かぬ」
扉の向うで、またもやしゃがれた低い声が聞えて来ました。満代は飛び退いて、耳を澄ませた。――老人らしい声の何という沈痛さ、その消え行く余韻にしかしぎくんとして満代は叫びました。
「誰? 貴方は誰? 三谷さんではありませんの?」
「違う」
そして扉が徐々に開いて朦朧《もうろう》たる人影が現われました。満代はその人物が、全身に雨|外套《がいとう》をまとっているのを認めた。門燈の蒼《あお》い光がその銀のような頭髪を、深い皺《しわ》、彫ったような頬《ほお》を照らして、落ちくぼんだ眼窩《がんか》の奥から、冷たい眼が嘲《あざ》けるような微笑を含んで、少女を見据えて居ります。
「お嬢さん、あなた、あの男を愛するのはお止めなさい。あれは人間ではない。一匹の妖怪《ようかい》ですぞ。……」
沁《し》み入るような荘重|凄惨《せいさん》な声音、扉が再び静かに閉じられたあとに満代は別人のように棒立ちになっていました。
老人の残した怪奇な言葉に金縛りになったのではない。彼女の瞳《ひとみ》に悪の華のように印せられた、老人の黒い唇に微《かす》かについた紅の痕《あと》――おお、それは先刻自分が三谷の唇に押しつけた恋の花びらではないか?
満代はよろめくように夜の街へさまよい出て行きました。街には夏の夜|靄《もや》がたちこめていました。疑問、神秘、謎《なぞ》、不可解――何ともいえない妖《あや》しい混沌《こんとん》たる靄は少女の頭のうちへも流れこみます。二時間以上も夢遊病者のごとく彷徨《ほうこう》して、また満代は三谷の家の前に戻って来ました。恐ろしい恋の力です。
彼女は玄関の扉に手をかけましたが、鍵《かぎ》がかかっているのを見てとると、暫《しばら》く考えこんでいて、それから、そっと横滑りに跫音《あしおと》を忍ばせ裏庭の方へ廻《まわ》りました。
庭に面した洋風の部屋の窓には、淡紅色のカーテンが下がっていますが、中には誰かいる様子、あかるい電燈の光は垂幕を透して、庭に薄紅の暈《かさ》を投げて居ります。一歩、一歩、近づいて、満代は窓|硝子《ガラス》に顔を押しつけ、カーテンの端から部屋の中を覗《のぞ》きこみました。
満代はそこで果して何者を認めたのでしょう?――青年三谷麟之介か? あの不思議な老人か?――いやいや、彼女がそこに見出したのは、ソファから絨毯《じゆうたん》の上を転々とのたうち廻って、麟之介の名を呼びつづける半裸の美女の姿なのでございました。
赤貝鞆絵《あかがいともえ》という女のこと
その女のことは、私もよう知って居ります。名は赤貝鞆絵という。それは淫蕩《いんとう》な女でした。そして恐るべき女でした。
或《あ》る夜、鞆絵がその部屋に寝そべっていると、たまたま一人の強盗が押し入って来たことがある。ところがこの女がまたたく間にこの泥棒を悩殺し、酒の中に眠り薬を混ぜて眠りこませ、朝になってから麟之介がこの間抜け強盗を縛りあげて警察へ突き出したという――いや笑い話みたいですが実際にあったこと、これも鞆絵の沈着と聡明《そうめい》の仕業というより、彼女の人間離れのした淫蕩と奸智《かんち》とが期せずして織りなした逸話の一例。
この赤貝鞆絵が三谷麟之介を恋した。
しかるにでございます。――或るよんどころない事情から、彼女はどうしてもこの家に夜九時以後でなければ現われることは出来なんだ。そして、未明四時半になると、是が非でも此処《ここ》を去らなくてはならなかった。……ところが恋する麟之介は、その間、必ず何処《どこ》かへ姿をくらますのでございます。
網膜に灼《や》きついている絵のような男の姿、鼓膜を吹きわたる薫風《くんぷう》に似た男の声、鼻孔をくすぐる栗の花のごとき男の香気、その感覚の生なましさにも拘《かか》わらず、それはあくまで幻覚にとどまって鞆絵のしなやかな白い腕はついぞ麟之介の肉体を抱きしめたことがない――何というそれは全官能の空しい苦悩でございましょう。幻の情痴地獄、空虚なる愛慾《あいよく》地獄、そういう地獄はダンテの世界にはございませんでしたかな、貴方がた?
一再ならず彼女は、遠ざかって闇《やみ》に消えてゆく男の後姿を見たように思ったことがある。絶叫して双手を伸ばす鞆絵が、麟之介との間に朦朧《もうろう》と認めるのは、一人の老人の顔でございました。冷やかな氷の湖のような瞳《ひとみ》には、常に厳かな嘲笑《ちようしよう》が浮かんで「鞆絵やめい、無駄じゃ――」そういう言葉が聞えて来たことさえある。また「――|※[#「((山/ノ/師のへん)+辛)/子」、unicode5b7c]海茫々《げつかいぼうぼう》たり首悪色欲に如《し》くは無く、塵寰《じんかん》 擾《じよう》 々《じよう》たり犯し易きは惟邪淫《これじやいん》あり……。絶嗣の墳墓は好色の狂徒に非ざるなく妓女《ぎじよ》の祖宗は尽く是《こ》れ貧花の浪子なり、富むべき者は王楼に籍を削られ、貴かるべき者も金榜《きんぼう》に名を除かる、笞杖徒流大辟《ちじようとるたいへき》、生きては五等の刑に遭い、地獄餓鬼畜生、没しては三途《さんず》の苦を受く、芙蓉《ふよう》の白面は帯肉の|※[#「骨+古」、unicode9ab7]髏《ころう》に過ぎず、美麗|紅《こう》 妝《しよう》 乃《すなわ》ち是れ殺人の利刀なり」こんな呪文《じゆもん》のような声が、とぎれとぎれに虫の羽音のごとく耳に響いて来ることもある。……
「畜生! 畜生!」
そんな時、しどけなく頽《くずお》れた鞆絵は、白い拳《こぶし》で床を叩《たた》きながら宙に向ってその老人を罵《ののし》り続けるのでございました。
「お前は何の恨があってあたし達の仲に割りこんで来るんだ? 世界には、麟之介とあたしと二人だけで沢山だ、邪魔するな、あっちへ行け、消えてしまえ!」
そして彼女は息もふさがるような官能の圧迫に嗄《しわが》れた声をあげるのでした。
「麟之介、麟之介、行かないで、麟之介!」
しかし、次第に鞆絵は麟之介を憎悪し始めていました。彼女は、自分がどうしても九時以後でなければここへ現われることが出来ないのを知って身をかくすあの男の卑怯《ひきよう》と臆病《おくびよう》を呪《のろ》った。そのくせ、昼間は清純|無垢《むく》な聖者面をして街を歩いている彼の偽善を嘲《あざけ》った。そうして、彼が自分の淫蕩奸悪《いんとうかんあく》を憎悪していることを知って憎悪した。
「殺してやる! いつか逢《あ》ったら殺してやる!」
彼女は、緋房《ひぶさ》のついた匕首《あいくち》を逆手に持ち、けらけら笑いながら、毎夜男のいない部屋の中を歩き廻《まわ》り、はね廻るのでした。トルコの女海賊のような朱の頭巾《ずきん》、下半身にだけ纏《まと》った紅の薄衣――強盗ならずとも悩殺されましょう。この時代離れのした異様な衣裳《いしよう》をつけた殺意の化神、淫欲《いんよく》の女神の姿は、まさに息もとまるばかりに妖麗濃艶《ようれいのうえん》を極めたものでございました。……
さて、その夜、満代は窓の外からこの女の狂える白蛇のごとき舞踏を見たわけでございます。満代は一瞬にしてこれが麟之介の恐れていた鞆絵という女であることを知った。しかし一体これはどういう素性の女なのであろう? そして麟之介は、またその厳かな老人は何処《どこ》へ行ったのか?――
「生かしては置かぬ、麟之介」きらめく刃の光のかげに、牡丹《ぼたん》のような口から吐き出される呪いの言葉、その麟之介が今にも何処かから帰って来はしないかと、満代は髪の根まで震わせている。その恐怖を超えて、恋人を救おうとする健気《けなげ》な決心は、遂にこの夜一晩中少女をして窓の外からこの妖女を監視させた。
鞆絵は眠りこけました。空しい情慾に喘《あえ》ぎつかれて、ベッドに横たわる半裸の姿――夢うつつの間にもなおその唇を洩《も》れる男の名、時々空にうねる薔薇《ばら》色の腕、真珠のような光に濡《ぬ》れて起伏する豊麗な乳房、深沈と更けわたる夜の冷気、白い脂のごとく凝る部屋の空気の下に眠れるその美女の姿は、さしもの満代の疑惑も嫉妬《しつと》も恐怖をも押しのけて魔酒のごとき恍惚《こうこつ》にひきずりこみます。
鶏《とり》が鳴きました。満代は振向いて、糸のような残月が薄れ、棚びく東の紫雲の断裂が紅玉のように染まっているのを見ました、満代は腕時計を見て、もう四時二十分になっているのを知った。しかしこの鶏の声は鞆絵をも眼醒《めざ》めさせました。彼女は顔をあげて窓を見た。――そして、避ける間もなく満代はこのメデュウサのごとき視線を受けたのでございます。
「あ、あ、あ」――その驚愕《きようがく》とも歓喜ともつかぬ怪鳥《けちよう》のような叫びを、満代はいつまでも忘れることは出来なんだ。
「い、いたな、麟之介!」
麟之介と満代との容貌《ようぼう》が酷似していることは、既に申し述べた通り、夜明けの光にその見境いがつかなんだか、躍り上って赤貝鞆絵は匕首《あいくち》をかざしたまま真一文字に走りかかります。
恐ろしい音をたてて砕け落ちる硝子《ガラス》、その乱れ散る破片の中に、刃と血に濡《ぬ》れた真っ白な腕を見たまま満代は気を失った。……
――どれくらいの時が経ったでしょう、憶《おぼ》えのある懐しい体臭を混えて瞼《まぶた》を吹く冷たい暁の風に彼女は意識づきました。次第にはっきりして来る、視界には淡紅色のカーテン、ソファ、絨毯《じゆうたん》――彼女は自分が部屋の中の柔かなベッドに寝かされているのに気がついた。ぎょっとしてはね起きようとする眼の前に、近ぢかと不安げな顔を寄せて来たのは――何ということでしょう、恐ろしい鞆絵ではなくてあの恋人の三谷麟之介でございました。
「あっ、三谷さん!」彼女はひしと縋《すが》りつきました、「恐かった!」
「一体どうしたのです?」三谷はおろおろして「帰って来て見ると思いがけない貴方《あなた》が窓の外に倒れている。どんなに驚いたか」
「私、昨晩からあそこにいたのです。貴方の御様子から、必ず何か恐ろしいことがあると思って、――そして、私鞆絵という女を見ました」
「見ましたか、あれを」三谷の眼を何ともいえない苦渋の光が走ります。
「その女が私を――」といいかけて満代は冷たく吹いて来る風の方向に眼をやった。硝子《ガラス》は壊れています。やっぱりあの隅の窓硝子は砕かれて口を開いて、――気がつくと、リンネルの上衣《うわぎ》の肩が三寸あまりも切り裂かれている。
「殺そうとしたのです」といって彼女は三谷の顔を見た。
「貴方と見まちがえて!」
「あれは私を憎んでいます。呪《のろ》っています。恐ろしい淫婦《いんぷ》です」吐き出すようにいう男の顔にも青い炎のような憎悪がゆらめいて「厭《いや》な女です。獣のような女です。けれど、私と間違えて貴方に切りつけるとは――何という狂人――莫迦《ばか》め!」
三谷は憤怒《ふんぬ》にきりきりと歯を噛《か》みながら地団駄《じだんだ》を踏むのでした。
「三谷さん! 一体、貴方|何処《どこ》へ行ってらしたの?」といいながら彼女は腕時計を見た。まだ四時四十五分「そしていつここへお帰りになったの? あの女にはお逢《あ》いになりませんでしたの?」
「十分ばかり前――あれはもういませんでした。あれを見ると私は悪寒を催すようだから、昨夜も或《あ》る所へ逃げていた」
「分りません。――あの女は貴方を殺そうとしています。そして、貴方はそれくらい厭《いや》がって、怖れていらっしゃる。それなのにどうして貴方があんなに夜七時までに帰らなくてはならぬとお悶《もだ》えになるのか、私には分りません。そうして見ました。いつか貴方が父だとおっしゃったそのお爺《じい》さんは、貴方のことを、妖怪《ようかい》だなんていいました。その時そのお爺さんの唇に――」
満代はいいかけてはたと口をつぐみます。何とは知れず、ぞっと背筋を流れる冷たい霧、その恐怖は何といってよいか言葉も成り立たぬくらい漠然としていて深いものでございます。
「一体あのお爺さんでもあの女でも、どういう素性の人なのか、――どういうわけで貴方の家へ来るのか、何処《どこ》から来て何処へ行ってしまうのか、――私には何が何やら分らないことばかりです」
「それを訊《き》かないで下さい」蒼白《そうはく》になって麟之介は苛々《いらいら》と声を痙攣《けいれん》させるのでした。「お願いですから、今|暫《しばら》くの間、私の秘密を許して下さい、そのうちに――」
三谷の顔に浮かぶ何ともいえない哀愁の翳《かげ》に、満代は唇をふるわせて黙ったが、突然はらはらと涙をこぼしました。
「貴方の秘密――私、恨《うら》めしいと思います。けれど、私それはかまいません。ただ貴方が御可哀《おかわい》そうで心配で、心配でならないのです。貴方は昨日私に救ってくれとおっしゃいました。若しそれがほんとうで、――私を愛していて下さったら」
満代の真剣さのために白蝋《はくろう》のごとくこわばった頬《ほお》に流石《さすが》に淡い血の色が流れます。
「私と結婚して下さい!――そして、この恐ろしい家を棄《す》てて、何処か一緒に、二人で暮しましょう、ね、三谷さん」
「――結婚」何という麟之介の声でしょう。この言葉を発すると同時に、恐れとも哀《かな》しみとも惑いともつかぬものが彼の面上を波紋のごとくたゆたいます。
「あなたは、やっぱり」暫《しばら》くして彼はいい出した。「女だったのか普通の女に過ぎなかったのか。恋愛の終局は結婚だと、どうしてそう定石通りに考えずにはいられないのです。それは汚らわしい低劣な思想だ。女――あの鞆絵に象徴される女、あなたがそういう女の一人であるとは私は考えたくない。性慾《せいよく》ではなく、純潔な魂の恋愛だけで結ばれた二人、それでこそ、この地上にエデンの花園を創造しようとする、あの希願が達せられるのではありませんか?」
「そういう意味でいったのではありませんわ、私――」
そういいかけた少女の唇は、火のような男の唇に塞《ふさ》がれました。
「満代さん、お願いです、どうぞ今までのままでつき合って下さい、私から尊敬と憧憬《どうけい》の感情を失わせぬようにして下さい。私は苦しんでいるのです。恐ろしい罪業の枷《かせ》に責めたてられているのです。私は私のマリアが欲しい。その足もとにひれ伏すだけで心の安らぐ女神が欲しい。自分を見守ってくれる永遠女性が欲しい。あなたこそその人だ。その願いを、その願いを――」
力強い抱擁の何という香ばしさ、不安も疑惑も雪のごとくに溶かす息づまるような愛撫《あいぶ》に、うっとりとなって満代が嬰児《えいじ》のようにうなずきながら振り仰ぐ男の瞳《ひとみ》――その湖のように美しい瞳には清い涼しい光がともって――、もし、あの壊れた窓|硝子《ガラス》さえなかったら、昨夜の妖女《ようじよ》の乱舞など全く一場の悪夢としか思われなかったでございましょう。
「ええ、分りましたわ、三谷さん」そういって満代が男の両腕を掴《つか》んだ瞬間、思いがけず麟之介の口から微《かす》かながら苦痛の叫びが洩《も》れました。
「あら! どうなすって?」
「今――帰る途中――或《あ》る家の塀から出ていた釘《くぎ》にこの右腕をひっかけて――」
眉《まゆ》をしかめながらいう麟之介を、大きく眼を見開いて見つめる満代の胸を、その時、何故《なぜ》とは知れず掠《かす》めてゆく奇怪な幻覚、硝子を砕いて伸びて来た血まみれのあの鞆絵の白い腕――昨夜怪老人の唇に認めた紅と同じ深い霞《かすみ》のような漠然たる恐怖が彼女の頭を通り過ぎた。
麟之介が女性を罵《ののし》った言葉の中に、詭計《きけい》とか狡猾《こうかつ》とかいうことがございました。無論、満代だけはそういう批評の例外でございます。ところが、その満代が――それから一月もたたぬ中に、この快からぬ感じのする言葉にあてはまるような行為を実際に行いましたとしても、誰がそれを咎《とが》めることが出来ましょう。
恋愛は更に進行致します。その恋する男が三谷麟之介のごとく無数の深い謎《なぞ》と秘密を持っていたとしたら、如何《いか》なる娘がそれを黙認し、うわべばかりの愛撫《あいぶ》に甘んじ、満足していることが出来ましょう?
その秘密と謎を今度こそははっきり見よう。満代は遂《つい》にそう決心致しました。あの恐ろしい破局を招いたのは実に手段を撰《えら》ばぬこの娘のひたむきな恋心なのでございました。
その詭計は或《あ》る晩夏の夕、例の目黒駅前の喫茶店で満代の掌から麟之介の珈琲《コーヒー》の中へ、そっとこぼれ落ちた白い粉薬に端を発するのでございます。それは催眠剤でございました。
ぐったりと男が眠りに陥ると満代はあわてたように見せかけながら、実は予定通りに表へ出てタクシーを呼びとめ、白金台町の三谷の自宅まで運ばせました。男の内ポケットから鍵《かぎ》を探し出し、扉の穴に押しこんだ時――流石《さすが》に満代の手はわななきました。あとで如何《いか》なる男の憤激にも耐えよう! また、或《あるい》はその家で自分に襲いかかって来るかも知れぬ如何なる危害にも臆《おく》せまい、その悲壮な決心にも拘《かか》わらず、静かに軋《きし》りながら開く扉の音は娘の魂を水を浴びたようにふるわせます。
彼女は屍骸《しがい》のような男の身体《からだ》を背負ったまま、よろよろと家の中に入ってゆきました。怪老人の姿は現われず、また何処《どこ》にもその気配はありませぬ。彼女は例の紅いカーテンの部屋のベッドに麟之介を横たえると、その傍に腰を下して大きな息をつきました。
一時間ばかりたって、頭の上から、ぼうん、ぼうんと不気味な音が落ちて参りました。振り仰ぐと古風な柱時計が、例の七時を知らせ初めたのでございます。――しかし、しんとして家の中は何のこともありません、ただその時、麟之介が微《かす》かな異様な唸《うな》り声を洩《も》らしたばかり。覗《のぞ》きこんで満代は一寸《ちよつと》ぎょっとなりました。男の顔は蒼《あお》ざめ、変に頬《ほお》が落ちて、皮膚がこわばって来たように見える。もしや催眠剤が利き過ぎたのではあるまいか、そんなものを初めて使った彼女は脅えました。脈をとって見ると少し速くなっている。しかし呼吸は何の異常もなく麟之介は深い眠りに混沌《こんとん》と沈んでいる様子。
(あのお爺さんは、今夜は来ないのか?)
満代はベッドから腰をあげると、部屋の中を歩き廻《まわ》り出しました。こつ、こつ、こつ、――命を刻むように時は経過致します。彼女は書棚の前に立ちどまりましたが、殆《ほとん》ど洋書ばかりで読めません。また歩き廻って、今度は何気なく隅の洋服|箪笥《だんす》を開いて見た。その瞬間、彼女は思わず口の中であっと叫びました。
中にあったのは、男物と思いの外、なまめかしい長襦袢《ながじゆばん》、お召、なごや帯――そして記憶のある、朱の頭巾《ずきん》さえ乱れてかかっているではございませんか?
(あの女は、衣裳《いしよう》までここに置いているのか?)――そして満代は恐怖と挑戦にかがやく眼を宙に上げました。(鞆絵は何時頃来るであろう?)
ぽつり――と硝子《ガラス》を雨滴が打った。窓に寄って見ると遠い空に雷鳴があるらしく、音は聞えないが、時々|凄惨《せいさん》な稲妻が走って、蒼白い光のきらめく度に陰暗と棚びく雨雲が浮き上る。庭の樹々をざざっと生暖い風がわたって行きます。また麟之介が唸《うな》った。その髪の毛の色が灰色に変っているのを見て満代は窓の傍に硬直したように立ちすくみました。
眼はふさいだまま、麟之介の手がねじれて胸を掻《か》きむしります。足の指も曲っている。あたかも彼の中に、蛇のごとく巨大なる寄生虫でも住んでいて、眠りこける主人の怠慢に焦り苛立《いらだ》って四肢の内部をのた打ち廻《まわ》っているよう、――
「どうしたの? 三谷さん!」帛《きぬ》を裂くように叫んで満代が駈《か》け寄ろうとした。――その刹那《せつな》、麟之介はぽっかりと眼を開きました。ぼんやりと娘を見たが、自分が何処《どこ》にいるか、満代がどうして此処《ここ》にいるかも分らない模様、まるで宙をぶン廻された猫が地上に下り立った時のような顔つきでございます。突然、
「今、何時です?」と恐ろしい声で叫んだ。
「九時――三分前でございます」
そう答えてから、満代は名状しがたい悲鳴をあげ手を口にあてて飛び退いたまま、その場に釘付《くぎづ》けになりました。
麟之介はがばと起き直った。癲癇《てんかん》のようにわななく全身、髪の毛に滲《にじ》む汗の玉、そして――見よ! 悪夢のごとく稲妻がベッドの上の異様な人物を彩りました。乱れかかる半白の髪、額に刻まれた深い皺《しわ》、打ち開かれた青春そのもののような薔薇《ばら》色の唇、そして掻《か》き裂かれた上衣《うわぎ》の蔭《かげ》から盛り上っている雪白の乳房!
怪老人は現われました。鞆絵も来ました。しかし何という意外な場所に!――ああ、眼前に震えているのは、一体人間でございましょうか?
(妖怪《ようかい》!)
身の毛をよだたせ、よろめいて、満代は頽《くずお》れました。
三重人格者のこと
「――つまり、三谷麟之介は夜七時になると怪老人に変る、怪老人が九時になると赤貝鞆絵に移る、赤貝鞆絵が朝四時半になると再び三谷麟之介に戻って来る――」
と、M博士は微笑を浮かべながらこの時言葉をはさんだ。
「ところが、その夜催眠剤のために麟之介は深い眠りの中に七時を通り過ぎ、九時数分前にめざめた。今や鞆絵の出現せんとする『老人の時間』中に麟之介として意識づいた。この混迷の一瞬にこの三人が凝集してしまったと貴方はいうのですね? その三人の凝集物が――」
「私です」
と、天城老人は静かにいった。蒼醒《あおざ》めて佇《たたず》んでいる医学生の私と友人を見たその瞳《ひとみ》に冷やかな笑いが翳《かげ》のように浮かんだ。
「私がその妖怪のなれの果です」
「それでもう、貴方《あなた》が完全にその中の誰か一人――麟之介とか赤貝鞆絵とかに変りきってしまうことはないのですか?」
と友人が尋ねた。
「その時あんまりびっくりしたので」と老人は頸《くび》を振って、
「その凝集物のままで腰が固着してしまったのでしょう。それ以来、もうそんなことはございません」
「一体、そういうふうに甲人格が乙人格に移る場合ですね」と今度は私が質問した。「そんな時貴方はどういう気持だったのですか?」
「その変化する時間が迫って来ると、丁度|阿片《アヘン》中毒者が禁断した時のように何ともいえない不安と、堪え切れない、胸苦しさが現われて参ります。……更に視覚が錯乱して来て、人も物もすべての物が無限に遠いところに小さく遠ざかり、しかも、まるで紙で切り抜いたように平面的に見え、自分の身体《からだ》も何ですか、全く重みがなくなってしまって、足で地面を打って見ても、まるで……夢のような抵抗を感ずるだけでその中に自分の手も足も、自分のものではないような気がして来て、次の瞬間人事不省に陥るのでございます。そして覚醒《かくせい》すると全然違った人間に変っている。すると、その新しい人物の衣裳《いしよう》をどうしても纏《まと》わずにはいられないのでございました」
「しかし、今の貴方は兎《と》に角《かく》、三人の集まった一人の人間として、固定していらっしゃるように思われますが……」と私はM博士の顔を仰ぎながらいった。「それなら何もこういう場所に、身を置かれる必要はないではありませんか」
「私は好んでここにいるのです」と天城老人は昂然《こうぜん》として答えた。「ここは神代です。世間は相も変らず騒々しく泥のかけ合いっこに寧日《ねいじつ》がないらしい。――理想と地獄と、神と邪悪と、無垢《むく》と淫慾《いんよく》との世界が果てるともなくこんがらかっているらしい。空の空なる哉《かな》、すべて空なりです。基督《キリスト》も悪魔も、釈迦《しやか》も閻魔《えんま》も、人間という奴《やつ》を相手では百の説法|屁《へ》一つじゃ! 七賢は竹林に逃れた。ここは竹林以上ですぞ、ここの人達は神武天皇以前の神々も同じですぞ……」
しかしそういってから、老人は今迄|喋《しや》べって来た恐ろしい昔の思い出語りが急に不快に感じられて来たらしい。それから後は、私達が何を尋ねても、石のごとく沈黙して赤い炎を見つめているだけであった。
「――それで、安西満代という娘はどうなったのですか?」
最後に友人がそう問いかけた時、ただ一度夕雲にあげた瞳《ひとみ》に無限の哀感が浮かんだように見えた。
「あれから間もなく、胸を病んで死んだということです。じゃ――」
と老人は冷やかにぽつりと呟《つぶや》いた。
「夕日は野末に沈んだ」博士に促されて私達はそこを去った。
「ジキルは薬を飲んでハイドになったが」
と博士は静かに歩みながら語った。
「あれは三重の人格分難症だ。……
――君達は三歳の頃の自分と現在の自分とが同一の自分であると、どうして確信することが出来るか? それは生れてから死ぬまで休息せず、睡眠せず疲労せず連綿不断に続くところの意識の奥地の生理活動の感のせいだ。それが断裂するのは、何もああいう精神病の場合のみに限らない。催眠術をかけられた時、神憑《かみがかり》になった時にも同じ現象が認められる。――もっとも、あの老人は純粋の人格分離症だけではなく、人格分裂症も融合しているらしい。つまり、三谷麟之介の場合にも、赤貝鞆絵の場合にも、その意識の奥に冷やかに監視している第二人格たる老人の眼を感じているのだ。意識は完全に交代するのではなく、自分とは思われないが他人とも思われぬ他の人格の存在を知っている。しかし、希臘《ギリシヤ》神話の美少年ナルシッススは水に映る己に恋して投身したが、あれも、純潔な第一人格の麟之介と、邪悪な第三人格の鞆絵とが互いに憎んだり愛したりして、それを第二人格の老人が冷やかに笑っているなど、あたかも人間苦を象徴していて面白いね」
「自己意識が変化するのは分ります」
と友人は頸《くび》を傾げながらいった。
「しかし肉体的変化までがあんなに明瞭《めいりよう》に伴い、あれほど巧妙なものでしょうか?」
「人格が変った、と自分が思いこむ以上、身体《からだ》の外観構造まで変化したように本人が考えるのも無理はなかろうじゃあないか。それはあの老人の錯覚による誇張もあることは確かだ。あの老人は自分では今一つの人格に固着してしまっているというがまだ完全ではない。未《いま》だにあの腰の中には麟之介や鞆絵が余喘《よぜん》を保っていて、彼に時々妙な幻覚や錯覚を起させるのだ。それに、例えば完全に老人になったと思いこむと、或《あ》る場合には確かに或る程度の肉体的変化が伴うことは事実だね。実際あの天城三蔵がここに来た時には、全く若いとも老いているとも、男とも女ともつかぬ奇怪な人物に違いなかったよ」
「けれど、乳房まで女のように盛り上っているというのは――」
「あれは君、男ではないのだよ――」
と博士はいたましげな微笑を浮かべた。
「それかといって女でもない。独逸《ドイツ》語でいえばダスの定冠詞をもって呼ばるべき人物だ。――つまりね、天城氏は半陰陽なのだ。――しかも珍しい両側異性の真性半陰陽なのだ。――あの話の中で、恐ろしい罪業の枷《かせ》に苦しんでいるとか何とか自分でもいったが……思えば実に気の毒な人物」
振り向いて見ると、青膨れた癲癇《てんかん》の男が棒きれで石油|鑵《かん》を叩《たた》き出し、骸骨《がいこつ》のような早発性|痴呆《ちほう》の狂人が歌をうたい初めたところであった。
風 蕭々《しようしよう》、易水《えきすい》さむき永田町……
その二人の間に、残光を背に受難の像のごときシルエットを浮かばせている天城三蔵老人の姿は悄然《しようぜん》として動かなかった。
石門を出ながら振仰ぐと、「松沢病院梅ケ丘分院」の標札がまだ新しい斎藤茂吉の青山脳病院が戦争の劫火《ごうか》に焼かれ、病棟二棟と、他に無惨に崩れ落ちた幾つかの石楼のみを残してあとは一面の灰燼《かいじん》に帰し、松沢病院の分院と変名してから間もない冬の話である。
去ってゆく私達の背後で薄蒼《うすあお》い深い夕空の涯《はて》へ、狂人の歌声はうら哀《がな》しいトレモロとなって、煙と共にいつまでも立ち昇っていた。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川ホラー文庫『自選恐怖小説集 跫音』平成7年4月10日初版発行