自来也《じらいや》忍法帖
山田風太郎
[#表紙(表紙.jpg、横192×縦192)]
目 次
序の幕
第三十三号
鞠姫様はおかんむり
無足人《むそくにん》
おあずけちんちん
待った
自来也|初《はつ》の登場
朧《おぼろ》問答
東西東西《とざいとうざい》
髪まねき
第一波
妖春風
舌轆轤《したろくろ》
第二波
第三波
伊賀のぬれ仏
危険物
綱 手
蟇 丸
女人蝋燭
反間苦肉
第四波
波切大鼻《なきりおおはな》
玉石|倶《とも》に焚《や》く
阿呆鳥
自来也最後の登場
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序の幕
三日月の小《お》暗きほどの玄猪《いのこ》かな
[#地付き]其角《きかく》
江戸時代に、十月の初めての亥《い》の日に餠《もち》を食べて万病を払う祝いがあった。その餠を、亥子餠《いのこもち》という。
起原は明らかではないが、猪《いのしし》の多産にあやかるためであろうという説があり、つまり、いまでいえば豚の神さまに祈るようなものであろう。平安朝以来の行事だ。
むろん民間でもやった。餠をつき、この日から火鉢《ひばち》や炬燵《こたつ》を出す習慣であった。また町の辻々《つじつじ》で、童女たちが石を縄《なわ》でしばり、餠つきのまねをして遊ぶ風景は江戸の初冬の風物詩であった。
これが柳営《りゆうえい》となると実に大袈裟《おおげさ》な行事となる。
この日は御三家、溜詰《たまりづめ》、譜代大名《ふだいだいみよう》、外様《とざま》大名、諸役人番士にいたるまで午後五時までに登城《とじよう》し、将軍から亥子餠を賜《たま》わった。
むろん陰暦十月のことだから、薄暮から夜にかかり、江戸城のいたるところは無数の篝火《かがりび》を焚《た》く。
登城した諸大名は大紋烏帽子《だいもんえぼし》というものものしい姿でズラリと松の廊下に着座して待ち受け、大目付《おおめつけ》の呼ぶ順に廊下の端の一室にいる老中《ろうじゆう》のまえにまかり出る。さらに老中のさしずで、次々に御白書院に出御《しゆつぎよ》している将軍のまえへ膝行《しつこう》し、手ずから亥子餠を頂戴《ちようだい》する。
亥子餠は、碁石《ごいし》大にまるめ、おしひろめたものを、白、赤、黄、胡麻《ごま》、萌黄《もえぎ》の五色に染めわけた餠で、それを将軍がひとつずつ手にとって下される。どの大名には何色ときまっていて、年々同様のものが下賜されるようになっている。まるで子どもの遊びのようだが、儀式とは大同小異、まずみんなこんなものだ。
「次はだれじゃ」
と将軍|家斉《いえなり》はきいた。だいぶたいくつして、あくびした。うしろに厳然と佩刀《はいとう》をささげた小姓《こしよう》が侍している。
「藤堂和泉守《とうどういずみのかみ》でござります」
と、そばに坐《すわ》って帖面を見ていた坊主あたまの老人がこたえた。
「ただし和泉守は目下帰国中でござりまして、一子|蓮之介《れんのすけ》が名代《みようだい》として参上つかまつっておるとのことでござりまする」
「色は何だな」
餠の色のことだ。
「赤でござりまする」
家斉は、かたわらの台に盛りあげた餠を見て、
「赤はないぞ」
といって、ひざを見て苦笑した。彼は、さっきから赤い餠ばかりを十ばかりつかんで、こねて、なにやらのかたちをした餠細工を作っていたのである。作品は女陰であった。
坊主あたまの老人は、じろっとそれを見たが、ニコリともしない。
「それをちぎって賜わればよろしゅうござりましょう」
家斉が赤い女陰の一部をもとの亥子餠にもどして掌《て》にのせたとき、書院のはしからひとりの若い貴公子が膝行して来た。
「和泉守の倅《せがれ》よな、おお、大きゅうなったの」
てれくさいものだから、珍しく家斉の方から愛想をいって、餠をのせた掌《て》をつき出したとき――藤堂蓮之介の膝行がとまった。
下腹部を片手でおさえ、肩で息をしている。これは、急病にでもかかったのではないか――と、こちらのふたりが不審な眼をむけたとき、藤堂蓮之介が顔をあげた。
年は二十三、四、秀麗な顔だが、いかにも、高熱でも病んでいるように、異様に頬《ほお》があからみ、小鼻がピクピクとうごめき、眼はトロンとにごっている。そして彼は、まるでなにかの助けを求める子どもみたいな哀《あわ》れな表情になった。
「藤堂どの」
と、坊主あたまの老人が叱咤《しつた》した。
「どうなされた、御前でござるぞ」
そのとき、藤堂蓮之介が「……あァあ!」とふいにうめいた。苦悶《くもん》のうめきではなく快美のそれにちかい声であった。同時に、彼は両腕をがばとついて四つン這《ば》いになり、はげしく腰を上下に浮動させはじめた。
「藤堂!」
さけんで、老人が駆《か》け寄った。
藤堂蓮之介はその声もきこえぬふうで、なおうめきつつ、腰をうごかしている。その腰の下からなにやらたたみにひろがって来た。白い乳のような液体であった。
息をのんで見まもっている家斉らのまえで、藤堂蓮之介のうごめきはしだいに弱まり、手の爪《つめ》が鉛色に変わって来、しかも彼は、まるで腰に見えない糸でもつけられたように、からだをうねらせつづけている。
烏帽子がぬげて、たたみにまろびおちた。
それにしても長袴《ながばかま》を透《とお》してながれ出るものの正体はなんであろう。なんというおびただしさであろう。……それがさすがに血の色をまじえて来た。一種異様な――栗《くり》の花のような匂《にお》いが、そこにある人々の鼻孔《びこう》をついた。
ただごとではない。――しかも、あろうことか、亥子の御祝いの将軍の御前で。
坊主あたまの老人が、三十二万三千九百五十石の大名の嫡男《ちやくなん》のまげを遠慮なくひっつかんで、ぐいと顔をあげた。
藤堂蓮之介の顔はすでに死相をおびていたが、しかし口からは何もながれ出してはいなかった。どこか刃物で切ったかと疑っても、殿中、腰のものはずっと以前にとりあげられているのが習いだからそんなはずはない。
老人は、足もとにながれている血まじりの白い液体を指ですくい、ちょっとかいでみて、顔をしかめた。
「どうやら精汁《せいじゆう》のようでござる」
「……な、なに?」
家斉も立ちあがっていた。一部をちぎりとられた赤い女陰が、足もとにころがりおちたのにも気がつかないで、
「藤堂の倅が……精汁を垂《た》れ尽くして死んだとは……石翁《せきおう》、こ、これはどうしたのじゃ」
「わかりませぬ」
将軍第一の寵臣《ちようしん》中野石翁は、くびをふった。
「ただわかっておるのは、これで藤堂三十二万三千九百五十石のあととりがなくなったということだけでござりまする」
天保《てんぽう》七年十月亥の日の夜のことである。
この大異変の知らせを受けて、藤堂|藩《はん》江戸屋敷では驚倒した。ただちに本国へ早|駕籠《かご》を走らせる一方、江戸家老の藤堂|内匠《たくみ》と渡辺|主膳《しゆぜん》は、おののきながら協議した。
協議はしたが、じぶんたちで何を協議しているのかわからないほどの動顛《どうてん》ぶりだ。それはそうだろう。藤堂家にとってなにものにもかえがたい――しかも家来の眼から見ての欲目ではなく、どの藩の世子《せいし》にもまさるりりしい若殿を突如失い、しかも、それが将軍の御前に於《おい》てのことなのだ。
毒を盛られたのではないか、と一応疑っても、全然思いあたるものがないし、第一、きくところによると、若殿はなんと全身の精汁をながしつくして悶死《もんし》されたとのことだが、そんな奇怪な毒がこの世にあろうとは思われない。
明白なのは、このまますてておけば、藤堂藩そのものが危ういということだけだ。本国の津では、御国御前《おくにごぜん》たる綱手《つなで》の方《かた》に去年御男子が出生されているが、むろんまだ将軍の御目通《おめどお》りがすんでいるはずはなく、目通りのすませていない大名の子は世子とはみとめないというのが幕府の御定法《ごじようほう》だから、このままでは御家断絶だ。いや、そのまえに、将軍の御前に於ての大失態ということがある。
数日にわたり、むろん大目付の取調べがあった。もとより大目付がどんな新しい事実をつかんだという形跡はない。――幕府からのさしずは、十日たってもなにもなかった。
どうやらあまりの前代|未聞《みもん》の奇怪事に公儀の方でも狐《きつね》につままれたようで、いかなる処置をとってよいか五里霧中らしいのである。
「そうだ、いまのうちに」
「向島《むこうじま》の御隠居のところへ」
「なんとかよしなにとりなしを」
ふたりの藤堂藩江戸家老は、苦悩の中に突然ある人物を思い出した。そして、莫大《ばくだい》な進物《しんもつ》をかかえて向島に走った。
向島の御隠居とは、中野|播磨守《はりまのかみ》清茂のことである。
もともと二千石、新御番格にすぎない上に、いまは隠居の身の上だ。――が、これがただの隠居ではない。
「葵沢瀉虎《あおいおもだかとら》の皮
御馬が三匹何じゃやら
金をとるのが権家の御役
仲間たらしの石坊主」
と、当時|巷《ちまた》にうたわれた。――
葵沢瀉、虎の皮、御馬が三匹何じゃやらというのは老中水野|出羽守《でわのかみ》が葵の御紋をゆるされ、虎の皮の鞍覆《くらおお》いと御曳馬《ごひきば》を拝領し、当時権勢第一のことをいったのだが、中野播磨守――隠居して石翁の権勢は、それをすらしのぐことを唄《うた》ったのである。
この旗本《はたもと》の一老人がそれほどの眼を以《もつ》て世に見られたのは、ほかでもない、彼が将軍家の寵姫《ちようき》お美代《みよ》の方《かた》の養父であったからだ。
お美代の方は絶世の美女といわれ、家斉十数人の愛妾《あいしよう》のうちでもその寵愛第一といわれた。――もっとも将軍家斉がすでに六十五歳、お美代の方もはや四十歳をこえたが、それでもなおその寵を失わない。
三子を生んだが、ふたりの姫君のうち、溶姫《ようひめ》が加賀《かが》百三万七百石へ、末姫が芸州四十三万六千石へ輿入《こしい》れしたことでも、その権勢のほどはわかるであろう。
この養父中野石翁が、また充分にこれを利用した。
当時彼の箸《はし》のあげ下ろし一つで大名の転封、旗本の異動がきまったといわれ、ために日夜向島の別荘にかつぎこまれる進物はひきもきらず、はては別荘出入りの植木屋にまで贈賄《ぞうわい》してとり入ろうとする大名さえあったといわれる。
藤堂藩の江戸家老ふたりが向島にある中野石翁の別荘をたずねると、庭へ通れということであった。
それを気にかけている場合ではない。それに通されてみて、ふたりは眼を見張った。珍をつくした庭木、数寄《すき》を凝《こ》らした建物のみごとさは、たとえ百万石の大名にもこれほどのものはあるまいと思われるほどであった。
池にのぞんだ阿亭《あずまや》の前の大石の上に、道服をきた坊主あたまの老人が腰を下ろし、植木屋らしい爺《じじ》いと話していた。家来が藤堂藩の家老が来訪したことをつたえても、ふりかえりもしない。
初冬の美しく澄んだ日光の下に、坊主あたまはことし七十一歳になる老人とは思えないほどたくましくあぶらぎって、てらてらとひかっていた。
藤堂内匠たちは知らないが、これは先夜|亥子《いのこ》祝いの儀式のとき、将軍家斉のそばに侍していた老人である。石翁は隠居しても「奥勤めもとの如し」という異例の待遇を受けていたのである。
だいぶたってからふりむいた。
「藤堂家の方と申されたな」
「はっ」
と、ふたりの江戸家老は庭に両手をつかんばかりにしてこたえた。
「蓮之介どのの御死因わかったか」
「それが、かいもく。……」
「ふうむ」
と、いったきり石翁は首をかたむけて、いつまでも池のさざなみに眼をむけている。
藤堂内匠と渡辺主膳は、やおら意を決して、藤堂家が御神君《ごしんくん》以来いかに徳川家に忠節をつくして来た家であるかを訴え、何とぞお家がこのまま無事に立ちゆくよう、ひとえによろしく願いあげると、ひたいに土をすりつけた。
「そう申せば、御先祖の高虎《たかとら》どのはのう」
と、石翁はいった。
「御神君の帷幄《いあく》にあって、大久保、本多など譜代《ふだい》の衆におとらぬ御奉公をなされたときく。それほどのお家柄――御当主の和泉守どのが御失態をなされたわけでなく、御名代の御子息のお身の上に起こったことじゃから――石翁、できれば何とか一肌《ひとはだ》をぬいでさしあげたいが」
「や、おきき入れ下されますか、やれ、ありがたや」
「とは申せ、時もあろうにお祝いの夜に、場所もあろうに上様のおんまえで、精汁をたれながして死ぬとは、そのわけは知らず、前代未聞の奇怪事。容易には、なんのおとがめもなし、というわけには参るまいのう」
「い、い、いかにすればよろしゅうござろうか。いかなることでも相勤めまする」
「御家老」
と、石翁は、ふりかえった。
「藤堂家が立ちゆくようにと申されて、藤堂家にはいまのところ、ほかに御男子があるか」
「はっ、御国元に、綱手の方と申されるおん方に、昨年御出生なされたお子がおひとりござりまする」
「ふうむ、昨年のう。……姫君は?」
「はっ、蓮之介さまのおん妹君で鞠姫《まりひめ》さまと仰せられる方が」
「おいくつに相成る」
「おんとし十九におなりあそばします」
「いま江戸においでか」
「いえ、殿の御帰国に従うて、とくにおゆるしを得てお国元におゆきなされております」
「十九か、よかろう」
石翁は、ふいにニコリとした。
「去年生まれなされたやや[#「やや」に傍点]よりも、その姫君に藤堂家をおつがせ申した方が手っとり早かろう」
「えっ、姫君に?」
「婿殿《むこどの》をもろうてさしあげるのじゃ」
「――ど、どこから?」
「よいお方がある。上様のお子のうち、石五郎と仰せられる方」
唖然《あぜん》としているふたりの江戸家老を、中野石翁は不敵な眼で見つめて、
「上様には第三十三番目のお子になるが……お美代のお方さまには最初に生まれた御男子じゃ。ついでにいえば、この石翁にとっては、恐れながら孫にあたらせられる」
中野石翁は依然としてうす笑いをしていた。
「御存じだろうが上様には五十四人の若君や姫君がおわす。なんせ、将軍家の血をひかれた方々、それを片づけるのに上様もこの石翁も大汗をかいておるわ。とくに姫君はともかく若君さま方のお扱いには往生《おうじよう》しておるのじゃよ。……石五郎さまは、上様御寵愛第一のお美代のお方さまのおん子でおわしながら、ふたりの妹君は加賀と安芸《あき》へお輿入れあそばしたというのに、まだひとり身でつくねんとしてお城におわす。お年も、これは思わぬめぐりあわせじゃが、死なれた蓮之介さまと御同年の二十三。――その鞠姫さまとやらとちょうどよいお年ごろではないか?」
ながながとしゃべられているあいだ、藤堂内匠と渡辺主膳は一語も口がきけなかった。
これは実に思いがけぬ提案であった。ふたりにとっては、それ以上に、飛んで火に入る夏の虫、といった言葉さえ浮かんだ。将軍の製造した五十四人の子女の処理に幕府が汲々《きゆうきゆう》とし、押付婿《おしつけむこ》、押付嫁《おしつけよめ》のあてに眼をつけられそうな諸大名が兢々《きようきよう》としていることは周知の事実だからだ。
「石五郎さま。――これは、そのおん名をとってわしが石翁と名乗ったほどのお方でな」
恬然《てんぜん》としてこの柳営第一の実権者はいう。――
このときふたりの藤堂藩江戸家老の胸に卒然としてある恐るべき想像が幽霊のように浮かんだ。それは、どうしても納得ができない若君の死因についての、ぞっとするような疑惑であった。
「ははあ、あの夜、御公儀が蓮之介どのに一服盛ったとでもお考えか」
石翁は、彼らの胸中を見ぬいたようにいった。
「それはばかげた疑心暗鬼じゃ。わしがやるなら、わざわざ江戸城ではやらぬよ」
そして声をたてて笑った。
「ところで、どうじゃな、わしの案は――それよりほかに藤堂一家を救う道はないが。つまり、これ以外に上様のお怒りをとく法はないということじゃ」
ふたりの家老は、あえぐようにいった。
「しばらくお待ち下されましょう。拙者《せつしや》どもの一存だけでは何とも申しかねまする。早速《さつそく》、国元の殿に早駕《はや》を走らせ、お伺いをたてますれば」
「左様《さよう》であろう。ついでに、非公式だが、これは決定的な公儀の意向だとお伝え願いたい」
石翁の笑いをふくんだ声は、鉄槌《てつつい》のようにふたりの耳を打った。
「なおもうひとつついでにいっておく。石五郎君は唖《おし》であらせられるぞ」
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第三十三号
江戸|葺屋《ふきや》町の市村座。
そこから、時ならぬ冬の花があふれ出した。一見して、だれにもわかる吉原の遊女たちだが、それがどの女も小屋の絵看板をもういちどふりかえって、ほっと溜息《ためいき》をもらす。
絵看板は団十郎の「自来也《じらいや》」であった。
明代《みんだい》に「自来也」と呼ばれる怪盗があった。疾風迅雷《しつぷうじんらい》、出没自在、そのたびに「自来也」と門扉《もんぴ》に書きのこしてゆく。――この支那《しな》小説を読本《よみほん》にしたのが、感和亭鬼武作『自来也説話』で、文化《ぶんか》三年――このとしから三十年ばかり前のことである。それは歌舞伎《かぶき》狂言に脚色されてたびたび上演されて来たが、こんど自来也に扮《ふん》するは、ほかならぬ七代目市川団十郎であった。初代団十郎以来の市川家のお家芸、『不破《ふわ》』『鳴神《なるかみ》』『暫《しばらく》』『助六《すけろく》』『勧進帳《かんじんちよう》』などの荒事《あらごと》はもとより、世話物として例の『四谷怪談』における虚無的な民谷《たみや》伊右衛門を創造した天才七世団十郎である。吉原の遊女が総見《そうけん》にくるというのも彼なればこそであろう。
「藤橋《ふじばし》のダンマリは、ようありんしたなあ」
「南無《なむ》さったかまふんだりきゃ」
「守護聖天《しゆごしようでん》はらいそはらいそ」
ひとりがいま見た狂言のしぐさをまねて九字を切ると、みんなケラケラと笑った。
その遊女たちの紋所をあざやかに浮き出した提灯《ちようちん》が、夕暮れどきの両側の芝居茶屋にズラリとならんでいるが、あとからあとからかぎりもなく通ってゆく遊女たちの絢爛《けんらん》たる波に提灯も緋毛氈《ひもうせん》も色を失うばかりである。
ほかの客たちも、この行列に圧倒されて、みな茶屋の軒下によけ、口をあけて見送った。
「やい、そこのけそこのけ」
「普賢菩薩《ふげんぼさつ》さまたちのお通りだい」
「供先《ともさき》を切ると、はり倒すぞ」
その先頭に立って、二、三人の無頼漢風《ぶらいかんふう》の男が肩で風を切ってあるいている。
べつに女郎たちから頼まれたわけではない。お節介にじぶんで勝手にこんな役を買って出て、まぬけな通行人があればからみ、むろんあとでは廓《くるわ》の方から酒代をせびりとろうというやくざな連中だ。
「あれ、あいつはなんだ」
その連中が、ふいに立ちどまった。
まぬけなカモがいたら、むしってやろうと眼をひからせて歩いていた彼らだが、向こうからやって来た影を見て眼をぱちぱちさせた。
若い侍《さむらい》だ。しかも一見、貴公子風だ。それが、彼らを見つつ――いや、そのうしろにつづく遊女たちを見つつ、しかも見えないもののような足どりで歩いてくる。
「おんや? へんな野郎じゃあねえかよ」
「まるで、こっちがよけるのが当たりめえみてえな顔をしてやがる」
「口をアングリとあけて、あいつ、うす馬鹿じゃあねえのか」
眼前一間にせまって、
「やいやい、さんぴん、そこどきゃがれ」
「吉原《なか》と芝居町じゃあ、二本差しは目ざしとおんなじだぞ」
「どかねえと踏みたおされるぜ」
やっときこえたらしい。若い武士は立ちどまり、わずかに路傍に身をよけた。
――遊女たちの行列は、脂粉《しふん》の砂ぼこりをあげて通ってゆく。
あとはふだん通りの雑沓《ざつとう》となった。むろん、先刻の無頼漢たちは、そのまっさきに立ってどこかへいってしまったろうと思われたのに、
「はてな」
すぐちかくの茶屋の軒下で、同じ連中の声がした。
「どうもふつうじゃあねえな。まだ口をぽかんとあけてやがる」
「女郎を見送って、ニタニタしやがって」
「直《なお》 侍《ざむらい》の兄貴、待てといったが、あいつを知っているのか。あいつ、いってえ何者だえ」
直侍と呼ばれた御家人《ごけにん》風の男は、なおじっと向こうに眼をそそいでいたが、ふいに声をひそめて、あごをしゃくった。
「おい、だれかそっといって、あいつの紋を見て来てくれ」
ひとりが、反対側の茶屋の下に立っているその武士のそばへちかづいて、やがて脱兎《だつと》のごとく駆けもどって来て、
「おいっ、……胆《きも》をつぶしたぜ。あれは葵《あおい》の御紋だ!」
「……だろう」
と、直侍は、うなずいた。
「ひょっとしたら、そうじゃねえかと思ってたんだ。あれは公方《くぼう》さまの倅《せがれ》だよ」
「な、何、公方さまの倅? そ、それがどうしてたったひとりで、こんなところをうろついているんだ」
「どうも、チラと見えた紋が葵に見えた上によ、それがこんなところをうろついているから、そうじゃあねえかと思ったんだ」
「とは?」
「公方さまに何人お子さまがあるのかなあ。たしか、五十何人いたろう。その中に唖《おし》で、しかも少々足りねえのがひとりあって、このごろ怖《こわ》さ知らずで市中をほっつき歩いて、お守《も》りたちが手を焼いている――と河内山《こうちやま》の兄貴がいつかしゃべってたよ」
直侍はいった。
「見ていると、あれは唖らしい」
「なるほど、そういえば」
「あれが……その唖の御曹子《おんぞうし》なら、たしか中野|石翁《せきおう》の孫だぜ。見のがしちゃ、もったいねえ。おい、だれか、もうすこし仲間を呼んでこい」
「ど、どうするつもりだ、兄貴」
みんな眼をひからせ、のどがひきつったような声を出した。
「実はな、きょうこれからここへ、河内山《こうちやま》の兄貴がくることになってるんだ。……河内山もそろそろ年貢《ねんぐ》の納め時らしい」
「どうして?」
「ほら、いつか水戸家を富札《とみふだ》の一件でゆすったことよ。あいつはすこしやりすぎだ。で、町奉行の方で眼をつけやがってよ、さすがに河内山も、もういけねえかもしれねえなと弱音を吐いてやがった。そのことについて、なんとかうまくのがれる法はあるめえかと、ここに相談にくるんだ」
「で?」
「なんとか、あの若殿をとりこんで、そいつを囮《おとり》に町奉行とかけ合うなあどうだ?」
「し、しかし、そんなことをしたら」
「どっちにしたって、遅かれ早かれ笠《かさ》の台は飛びそうなおれたちだ。しかも、あの若殿が、ただ公方さまの息子さまだというばかりじゃあねえ。音にきこえた石翁の孫だってところがこっちの狙《ねら》いだ。あの爺《じじ》いは悪党だけに話はわかる。かけあい如何《いかん》によっては、河内山の首がつながるのみならず、一ト山あてられるかも知れねえぜ」
「で、あれを、どうするんだ」
「どうするか、河内山に相談して――あっ、いけねえ、あいつ、いっちまいやがる。つけろ」
直侍――と仲間ではあだ名で呼ばれる御家人|崩《くず》れの片岡直次郎は、あわてて歩き出した。
「へ、へ、へ、若君さま」
もう芝居がはねて、やや閑散になった市村座のまえに立って、口をぽかんとあけて自来也の絵看板を見あげている若侍のまえに、片岡直次郎はくびをつき出した。
「残念なことに、芝居ははねやしたが……団十郎は御覧になりやしたか」
「…………」
「何でゲシたら、あっしが御案内して、団十郎に逢《あ》わしてさしあげますぜ」
「…………」
「それとも、団十郎よりもっと見甲斐《みがい》のある夜の吉原。吉原は、これからでござんすが」
「…………」
「ひとつそっちへお供いたしやしょうか?」
腹の底で、ああいけねえと直侍は舌うちした。唖だってことはきいているが、きけないのは口ばかりじゃないらしい。噂《うわさ》の通り、頭の方もいけないようだ。
推定があたっているとすれば将軍さまの御曹子、その若侍は依然として口をアングリあけて、まじまじと直侍を見ていた。さすがに育ちは争えず、顔の造作《ぞうさく》だけは貴人らしく色白で面長《おもなが》である。が、どこかぼんやりと霞《かすみ》のかかっているようなところがあって――直侍風に、はっきりいえば、うす馬鹿の人相だ。
その口がとじられたかと思うと、
「よ、よ、よ」
といった。
とにかく音だけは出るらしいが、それ以上、口がきけないのがじぶんでももどかしいらしく、両手をあげたかと思うと、左手をこぶしににぎり、右手の人さし指でそれをつついた。
「吉原でやすか? 吉原はお望みでやすか?」
と、すっとんきょうな声でききかえして直侍は苦笑した。
(なんだ、この手つきは――しかし、知っていることは、知ってやがる。花魁《おいらん》のまえでやってみせたら、花魁がおどろくだろうな)
身分のせいか、いや、うす馬鹿のせいだろう。見知らぬ人間に全然恐怖心というものがないようだ。
それどころか、片岡直次郎のいうことだけはきこえたとみえて、好奇と好色に眼をにぶくひからせて、先に立ってスタスタと歩き出した。
「えっ、ほんとに吉原へゆくんですか。こいつは気が早えな。若殿、若殿さま、駕籠《かご》でゆきやすか。猪牙《ちよき》でゆきやすか?」
あわてて直侍は追っかけながら、夕闇《ゆうやみ》の中に手をふった。音もなく、四、五人の男が寄って来たが、若殿さまはこれまた意に介する風ではない。
じぶんがなぜ将軍家の若君と知ったか、ということについて、もっともらしい理屈をひねり出していた直侍だが、この分ではそんな説明は無理だと思いなおした。それどころか、ひとりを呼んで、
「河内山が来たら、大口屋《おおぐちや》に来てくれといってくんねえ」
と、大っぴらに打ち合わせた。
とにかく獲物《えもの》が途方もない大物なので、こいつをどう料理していいのか彼の智慧《ちえ》だけでは扱いかね、どうしても兄貴分の河内山の思案をかりなくちゃならないが、案ずるより生むが易《やす》し、相手が御覧のごとく幼児同然では、どうにでもなるような気がする。――なにしろ御三家の一つ、水戸家にさえゆすりをかけるほどの河内山|宗俊《そうしゆん》だ。追いつめられている際ではあり、これをとことんまで利用せずにはおかないだろう。
それでも、念のため、あらかじめ打ち合わせておいた通り、十数人の無頼漢たちがそれとなくこの御曹子をとりかこんで、ゾロゾロと角屋|新道《しんみち》から掘割の方へ歩いていった。
親父《おやじ》橋の方へ曲がりかけたときだ。
「おい、直」
と、しゃがんでいた宗匠頭巾《そうしようずきん》の男がノソリと立って来た。
「あっ、河内山」
と、直侍は、さけんだ。
「きいたよ」
河内山宗俊は、ニンマリともせずにいって、くびをふった。
「しかし、いけねえ」
「何がよう」
「向島の御隠居の腹を立たせちゃいけねえよ」
「やっぱり、そうか」
「みんな、ゆきな」
「どこへ?」
「吉原へでも、どこへでも。――ほらよ」
宗俊は、ふところからズシリと重い小判《こばん》を出して、片岡直次郎の掌《て》にのせた。
「このお方は、そんな悪所へつれてっちゃいけねえよ。これでもお城勤めの直参《じきさん》の河内山だ。いかに何でも、おめえのやり口には同意できねえ」
「で、どうする」
「左様さ、ひとまず向島の御隠居のところへでもおつれしようかい。迷《ま》い子《ご》を拾って来ましたとな」
なるほど、役者が一枚上だ。一見、穏当な手段らしく見えて、これで中野石翁にわたりをつけ、恩に着せて、じぶんへの町奉行の追及をやめさせようという魂胆だろうと、直次郎は感服した。
「いや、兄貴がそのつもりなら、こっちはいうことはねえ。じゃ、兄貴、こいつはもらってゆくぜ。うまくやりな」
直侍たちは、もう夜の快楽に心やたけにはやるらしく、みな悦に入って夕闇の中を駆け去った。
「よ、よ、よ」
奇声を発してそれを追おうとする貴公子の手をしっかりとおさえ、河内山宗俊は苦笑した。
「若君。……蟇《がま》めでござります」
そういって、堀とは反対の町屋の軒下に置いてある天水|桶《おけ》のそばにより、水をしゃくいあげた手で、ぶるっと顔をなでた。
すると――でっぷりとふとった宗俊の顔は、そこにはなかった。かわりに、まるで蟇みたいな四十年輩の男の顔が洗い出された。
男はそれから堀の方へ歩いていった。もうふつうの人間には見えないほど薄闇につつまれた柳のかげに、ひとり、だれかたおれていた。そのからだに投げかけられた衣服をとると、この初冬の夕に、彼は裸にされていた。首だけを堀につき出し、その顔が水に映《うつ》っている。
――いや、いまはもうその水鏡も見えないが、ほんのさっきまでなら、それが泣く子もだまる河内山宗俊の失神した顔だとわかって、それに気づいた者は仰天したろう。
男は、宗匠風のきものをぬいで、宗俊の上に投げかけられていた衣服ととりかえながらいった。
「一大事を耳にいたし、お探《さが》ししてみればまたお行方《ゆくえ》も知れず。――蟇丸なればこそかような場所であろうかと飛んで参りましたが、危いことでございました。この御数寄屋坊主の河内山、またいまの御家人片岡直次郎、いずれも蝮《まむし》のごとくうるさいやつらで、進退|窮《きわ》まれば何をするかわからぬ悪党どもでござります」
着終わると、宗十郎頭巾を二つとり出し、一つを相手にわたし、一つをじぶんがかぶる。
「一大事とは、若君。……若君を藤堂藩三十二万三千九百五十石のお花婿といたす話が進行中とのこと、まだおききではござりますまい」
夕闇の中を、二つの宗十郎頭巾が、ぶらぶらと江戸城の方へ歩いてゆく。
「……で、若殿を、いま伊勢《いせ》の津の城におわす藤堂家の姫君|鞠姫《まりひめ》さまの婿《むこ》がねにおあて申した次第を耳にいたしたわけでござりまするが、むろん石翁さまのおはからいでござりましょう」
「…………」
「若君お可愛さのためでありましょうが、かんがえてみれば、石翁さまも、ずいぶん強引なことをなされます」
「…………」
「さんぬる十月の亥の日、柳営《りゆうえい》に起こった藤堂家の世子の怪死についてはおきき及びでござりましょうな。その件についてはいまだになぞが判明せず、この蟇丸も狐につままれたような気がいたしまするが、藤堂家の内部では疑心暗鬼の渦《うず》につつまれ、そこへ石翁さまのお話でござれば、みな吐胸《とむね》をつかれたごとく、さては、ひょっとしたら、若君を藤堂家に押しつけるための無惨な陰謀ではなかったかと、眼をいからし、歯をかみ鳴らす藩士も、多いやに承ります」
「…………」
「石翁さまなら、あるいは左様なこともなされかねぬ御仁《ごじん》、いや、これは失礼、おん血のつながりこそなけれ、石翁さまはまさしく若殿のおん祖父にあたらせられるおん方でござりましたな。またひるがえってかんがえれば、あの石翁さまほどのお方が、左様に万人に明白な、へたな細工はなさりますまい。……」
「…………」
「これは藤堂家内部の人しれぬ抗争の果ての犠牲であったかもしれませぬ」
「…………」
「いずれにせよ、そこへ花婿として乗りこまれるならば、若殿の御苦労は火を見るよりもあきらかなこと、こりゃよくよく御思案のほどが、かんじんでござりまするぞ」
「…………」
「と申して、いったん石翁さまの仰せ出されたこと、もし若君が御承知なされねば、ほかの若君を以《もつ》てあてられることもかんがえられます。何しろ五十四人の御連枝でござりまするからな。あるいは、思うにまかせねば、かんしゃくまぎれに藤堂家とりつぶしという挙にも出られかねませぬ」
「…………」
「左様にかんがえると、無下《むげ》にお断わりなさることもならず……こりゃ、藤堂家にとってのみならず、石五郎さまにとっても大難でござりまするなあ」
「…………」
独り問答であることは、相手が唖だからやむを得ないが、それにしても、きいている宗十郎頭巾は全然無反応だ。
のぞいてみても、ボンヤリとうつろな眼でゆくての闇を見つめている表情が見えただけだろう。
将軍|家斉《いえなり》の第三十三子、徳川石五郎。
三十三子であることはともかくとして、この人物がほんとに婿になってゆくとしたら、あるいは藤堂家三十二万三千九百五十石にとって、御家断絶よりも災難かもしれない。
「ただ承るところによりますれば」
と、蟇丸と称した男はいった。
「鞠姫さまは、おんとし十九、世にもまれなる美女でおわすとか」
はじめて反応があった。
宗十郎頭巾がふりむいたのだ。ドロンとした眼に灯がともった。
「ただし、家臣ももてあますほど気丈な姫君と承っております」
しばらく歩いたのち、蟇丸はいった。
「たとえ、いかように若君が御決心に相成りましょうと、御幼少よりお育て申しあげた御縁、乗りかかった舟、この甲賀蟇丸《こうががままる》がどこまでも若君のおん供を仕りまする」
公儀と藤堂家とのあいだに、どのような交渉が重ねられたのか。おそらくそれは藤堂家のやむを得ざる屈服の結果であったに相違ない。
将軍家第三十三子、唖の押付花婿どのが途方もない美々しい大行列をつらねて、東海道を西へ上っていったのは、翌年の春のことであった。
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鞠姫様はおかんむり
伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ。――といわれた、津。藤堂藩《とうどうはん》三十二万三千九百五十石の城下町。
その津の城で、将軍家第三十三子徳川石五郎と藩主藤堂|和泉守《いずみのかみ》の息女|鞠姫《まりひめ》との祝言《しゆうげん》が行なわれたのは天保八年春のことであった。
華燭《かしよく》――という言葉にふさわしい盛儀に相違はなかったが、そのはなやかな灯のかげには、眼にみえぬ暗い風があった。――いうまでもなく、この花婿どのが唖《おし》であるうえに、どこか頭がおかしいこと、それを押し付けられるにいたったそもそもの原因、まことの世子|蓮之介《れんのすけ》の怪死、などに藩主の思いが膠着《こうちやく》するからである。
「……いかに御上意なればとて」
ひくい、女の溜息《ためいき》がきこえた。
宴はてて、城の奥ふかく一室に座しているのは藤堂和泉守と御国御前綱手《おくにごぜんつなで》の方《かた》である。
「……やむを得ぬ、家のためじゃ」
と、和泉守はいって、しかしこれも溜息をついた。ふたりは、祝言の席で、人目もはばからずただニタニタして花嫁の鞠姫の方をながめていた婿殿の痴呆《ちほう》的な顔を思い出して、暗然たる眼を見合わせずにはいられなかったのだ。
人も知るように先祖の高虎《たかとら》は、浅井《あさい》、織田《おだ》、豊臣《とよとみ》、徳川《とくがわ》と巧妙に主を変えながらみごと戦国の風雪にたえぬき、最後には徳川|譜代《ふだい》の重臣にもおとらぬ待遇を家康から受け、三十数万石の藤堂家を残した人物だが、それから十代ちかくを経た当代の和泉守の風貌《ふうぼう》には、おそらく高虎が持っていたであろう凄味《すごみ》はない。まだ四十代の半ばだが、名家の裔《すえ》らしく気品ある面長で、おっとりして、どこか気弱なところも仄《ほの》見える顔だ。
これに対して御国御前たる綱手の方は、まだ三十にはなるまい。これは実におぼろ月のごとき凄艶《せいえん》無双の美女であった。和泉守が十年前奥方を喪《うしな》ってからその後ついに正妻を迎えなかったのも、ただこの綱手の方あればこそだと巷間《こうかん》に風評をたてられているのも、決して一笑に付すべき噂《うわさ》とは思われないほどであった。
「将軍家よりも石翁《せきおう》の心がこわい」
と、和泉守はつぶやいて、しかしすぐにおのれの心をひきたてるように、
「しかし、きょう来た婿の祖父《じじ》に中野石翁を持つことは、藤堂家を盤石の安きに置くことになる。何せ、蓮之介が、御前においてあのようなざまで死んではの、家をとりつぶされてもやむを得ぬことであった。……」
「蓮之介さまのお失《う》せ遊ばしたは」
と、綱手がいいかけると、
「言うな」
和泉守は叱《しか》って、それからみずからの悲しみをねじ伏せるようにいった。
「忘れよう」
彼とてもあの一件については、驚愕《きようがく》、恐怖、悲嘆、懊悩《おうのう》の渦《うず》につきおとされ、しかもついに不可解の雲から脱することができなかったのであった。
この温厚な大名を、綱手は美しい――しかし腹立たしげな眼で見やった。
「鞠姫さまがおきのどくでございます。いかに将軍家|御曹子《おんぞうし》でござりましょうと、唖とは――」
「鞠か」
和泉守の眼はまた苦痛にみちて、じっと宙にそそがれた。――ちょうどいまごろはあの花婿と鞠姫の初寝の時刻であることに想到《そうとう》したのである。
「それを、花婿が唖とあっては、いかにも鞠があまりにふびん。ところで、きくところによると石五郎君は――いや石五郎は、生まれながらの唖ではないそうな。十五、六のころまでは口もきいたし、ふつうの人間に見えたという。それが、そのころからいま見たような唖のたわけになりおったという。――生まれながらの唖でない以上、とっくり医者にかければ或《ある》いは癒《なお》らぬものではあるまい。とにかく夫が唖では、そなたの申すように、いかにも鞠が可哀そうじゃ。で、甲賀蟇丸《こうががままる》めをここに呼んである」
「甲賀蟇丸?」
「石五郎を少年のころより育てたお護《も》りの男よ、江戸からついて来た」
そのとき、小姓が、国家老の藤堂仁右衛門が甲賀蟇丸をつれてまかり越した旨をつたえた。
「苦しゅうない、蟇丸めをこれへ」
白い髷《まげ》をチンマリとむすんで、いかにもにがにがしげな藤堂仁右衛門とともに、甲賀蟇丸は入って来た。
四十くらいの男で、大まじめに裃《かみしも》をつけているが、その顔を見ると笑わずにはいられない。まぶたがたれさがり、顔はひらべったく、ばかに口が大きい。――名のごとく、全然蟇そっくりの人相の持主であった。
一応のしかつめらしい挨拶《あいさつ》があって、やがて和泉守は、石五郎の唖になった前後の経過についてきいた。
蟇丸はこたえた。
それによると――いまから七、八年前、すなわち石五郎が十五、六歳のころ、いかなる天変地異か、石五郎の住む御殿の台所にナメクジの大群があらわれて、その床から天井にビッシリとうごめいていたという椿事《ちんじ》があって、あまり珍しいことなのでそれを石五郎に見物させたところ、その夜から高熱を発し、十日ばかりうわごとをいいつづけて、それ以来唖となり、あたまもおかしくなったという。――
「ほほう、おびただしいナメクジ。……その方も、それを見たのか」
「いえ、拙者《せつしや》が石五郎さま付きを命ぜられましたはそのあとでござりますれば、それは見ませなんだが、きくところによればまことの話でござりまして、そもそも拙者ごときものが石五郎さま付きと相成りましたは、ひとえにその一件のゆえでござります」
「と、申すと?」
「拙者と申しますよりは、拙者の名」
「蟇丸。――」
と、つぶやいて、和泉守は苦笑した。蟇は蛇《へび》をおそれ、蛇はナメクジをおそれ、ナメクジは蟇をおそれるという三すくみの故事を思い出したのである。
「それで石五郎は、いまもナメクジをこわがられるか」
「いえ、以来そのようなものは一切お目にかけたことはありませぬゆえ、いかがなものか存じませぬが、石五郎さまも、もはやおんとし二十四、まさか左様なことはあるまいと存じます。だいいち、この蟇丸めがついておる上は」
と、大まじめに胸を張った。
「そちは――」
綱手の方が、じっと蟇丸を見つめていった。
「甲賀、と申しやったな」
「いかにも、左様でござりまする」
「というと、江戸城にあるという――甲賀組に籍をおくものかえ」
「いかにも、左様でござりまする」
「では、――忍法――なども存じていやるかえ」
「忍法?」
けげんな顔で綱手の方を見あげ、甲賀蟇丸は、くびをふった。
「御神君御在世のころは存じませぬ。いまの天保《てんぽう》の御代、拙者はもとより甲賀組のだれとても、左様なわざを知っておる者はござりますまい。われらはただ何のへんてつもないお城の門番役でござります」
「左様であろうの」
と、綱手の方はうなずいたが、それではじめて和泉守が気がついた。
「ははあ、綱手は伊賀国《いがのくに》の女ゆえ、そんなことを申したのか。そういえば」
と、いった。
「甲賀蟇丸、やはりそちがこの国へ来たのも縁であるな。余が藩《はん》のうちには、伊賀国もある。伊賀の上野には藤堂の支城もある。それから無足人組《むそくにんぐみ》――と申す伊賀の忍者の末裔《まつえい》も住んでおるが、綱手、その中に、忍法忍術のたぐいを存じておるものもあるまいのう」
「江戸城の伊賀組、甲賀組と同様でござりまする」
と、綱手はこたえた。
「なるほど」
キョトンとしていた甲賀蟇丸は、ようやくここに至っていささか感服した態《てい》であった。
「藤堂さまは、伊賀の御領主でござりましたなあ。拙者がともかく甲賀組。いかにもこれは、奇縁、奇縁――」
そのとき、回り縁をどどっと駆けてくる足音がきこえた。
「殿、殿――鞠姫さまが、即刻これより上野のお城へゆくと申されておりまする」
「な、何?」
和泉守は吐胸をつかれた。
「鞠姫が、初寝の夜に――花婿どのはどうしたか?」
雪洞《ぼんぼり》が、夢のようにけぶっている。――ごうしゃなお納戸縮緬《なんどちりめん》の夜具のうえに、鞠姫はきちんと坐《すわ》って、徳川石五郎とにらみ合っていた。鞠姫は父の和泉守からこんこんといいふくめられ、さとされていた。和泉守は、石五郎がうす馬鹿であることまではいわなかったが、唖であることは告げていた。これはすぐにばれることだから、うち明けずにはいられない。ともかく相手は将軍家の世子である。それに草木もなびく当代の権臣中野石翁の孫である。これを婿として下されたことは藤堂家の安泰を永遠に保証することである。いろいろと思うこともあろうが、まず運命と思って、やがて江戸からくる婿どののお気に入るようにつくしてくれい。――彼女はそういわれた。
鞠姫は、たしかに思うところが多かった。
相手が気に入る、気に入らないは論外であるのがこういう家の結婚に於《お》ける通例だから、じぶんの意志が完全に無視されたことに、ことさら異議をとなえる気はなかったが、しかし、これはあんまりだ。
唖の一件もさることながら、それ以前に――兄の蓮之介の怪死のことだ。
彼女は、兄は江戸の将軍ないしは中野石翁とやらに毒殺されたと信じた。いや、両人の共謀であろう。亥子餠《いのこもち》拝領中に死んだということであるが、それならその餠の中に毒が入っていたのだ。――そこで鼠《ねずみ》のように悶死《もんし》した兄の姿を想像すると、彼女は胸もはりさけそうであった。
なんのために兄は毒殺されたのか。いうまでもなく、藤堂家乗っ取りのためだ。彼らは唖の石五郎の押し付けさきにこまって藤堂に目をつけたのだ。そんなことは火を見るよりもあきらかなことなのに、なぜ父は意気地なく、黙々としてこの無惨のたくらみを受け入れたのであろう? もとよりそれは藤堂家三十二万三千九百五十石を保たんがためだ。
それはわかる。父の苦悩がわかればこそ彼女も歯をくいしばってこの恐ろしい縁談を受け入れた。ほんとうは彼女は死んでしまいたかった。しかし彼女は死ぬこともできなかった。じぶんが面当《つらあ》てがましく死ぬことは、この場合、藤堂家の断絶を意味した。
で、家の人柱に立ったつもりで、いまここにこうして問題の人物と初寝の床に相対したのだが。――
徳川石五郎、いや、きょう以来、藤堂石五郎となった若者は、一言も口をきかず、ニヤニヤとして鞠姫を見つめている。
黙っているのは唖だからしかたがないが、いかに将軍の御曹子とはいえ、なんとまあ女に対して無礼な眼つきをしているのだろう――そして、ほんとうに長い舌を出して、ペロリと下唇をなめた。
鞠姫は歯をくいしばって、そういう石五郎をにらみ返している。負けてなるものかと思った。――これが、わたしの兄上を殺した男たちの息子、孫なのかと思うと、とびかかって刺し殺してやりたい――せめて横っ面でもひっぱたいてやりたいという衝動をおぼえているのだが、さすがにそれもならず、ただ精いっぱいに冷たい眼を見張っているだけが鞠姫の抵抗であった。彼女は気丈な姫君であった。
「よ、よ、よ」
と、石五郎はいった。それから、いかにもふにおちぬ、といった顔でたちあがった。鞠姫がぎょっとしてからだをかたくすると、彼はスタスタと座敷のちがい棚《だな》の方へあるいてゆくのである。
いつのまに、そこにそんなものが置いてあったのだろう。紫のふくさの包みをとると、彼はまた褥《しとね》の上にもどって来た。それから、おもむろにそれをひらいた。
二、三冊の青表紙の半紙本であった。表紙の短冊形の題簽《だいせん》に『絵本《えほん》 笑《わらい》 上《じよう》 戸《ご》』とあった。
「う、う、う、うたっ」
と、石五郎は奇声を発しつつ、その一冊をひらいて、鞠姫のまえにほうり出した。
思わず眼をおとして、鞠姫のあどけないようで、しかし凜然《りんぜん》とした顔が紅潮した。そこには全裸でもつれ合っている男と女の姿が極彩色で描いてあったからだ。
いままで鞠姫はこんなものは見たことはないが、しかしそれが何であるか、本能的に知っている。彼女はそれをつかむと投げかえし、顔をそむけた。
「う、うたっ」
と、石五郎は、またいった。はっきり、そうきこえるように発音したのではないが、彼はそういおうとしたのである。歌麿《うたまろ》といおうとしたのである。
それから投げ返された絵本を開き、ついでにほかの二冊もひらき、じぶんのまえに夜店のように陳列した。そして、まるで鞠姫の存在など忘れたようにそれを鑑賞しはじめた。よだれが、ぽとんと絵のきわどいところにおちた。いったい石五郎はどこからこんなものを手に入れたのか。大名同士の結婚でも枕絵《まくらえ》を婚礼道具のなかに忍ばせることは当時の習いだが――しかし、ひとりで江戸城をふらふらとさまよい出して、芝居町その他あやしげなところをほっつき歩いていた石五郎だから、存外じぶんで手に入れたのかもしれない。
よだれをふいて、彼は顔をあげて、そして鞠姫を見た。それから左をこぶしににぎり、右の人さし指で、それをつっつき出した。
「よ、よ、よっ」
ことここに至って鞠姫も、ようやくこの人物は唖であるのみならず、馬鹿ではないかと感づいた。
はじめ一目見たとき、憎悪の先入観があるにもかかわらず、思いのほかに気品のある顔だ、さすが将軍家の御曹子――と思ったが、だんだんその印象がうすれて来て、そのノッペリとした顔が白いボンヤリとした霧につつまれて来たような感じであったが、その印象の変化も先刻からの所業も、馬鹿だと悟れば納得がゆく。
しばらく鞠姫は、気絶したように相手を凝視《ぎようし》していたが、ふいにそのつぶらな瞳《ひとみ》から、ほろほろと涙をながし出した。
相手をあわれんだのではない。むろん、じぶん自身をあわれんだのだ。唖の上に、白痴の気をおびた男を夫にするとは、いかになんでもじぶんがあわれすぎる。
「ら、ら、らっ」
と、石五郎はまた奇声を発した。鞠姫の涙にめんくらったらしい。
キョトンとあごをつき出し、不安そうにこちらを見つめているその顔を見ると、鞠姫は、じぶんが泣くのもその甲斐《かい》がないような情なさに襲われた。――しかし、相手が馬鹿だとすると、何とかあしらいようもあるのではないか、と彼女は思った。
「石五郎さま」
と鞠姫ははじめてよんだ。
「きこえますか?」
相手は眼をパチパチさせた。
「わたしはあなたの妻ということになりました。……わたしがあなたの妻とされたいきさつは御承知でいらっしゃいますね? きこえますか?」
まるで遠いところへ電話をかけているようだ。
「兄上のふしぎな死にざまをとげられたのがもとです。どうして兄上が、あのような死にざまをとげられたのか、まだわかりませぬ」
石五郎は、こっくりこっくりとうなずいた。
「わたしはそれを知りたいと思います。あなたは、御存じですか」
石五郎は、かぶりをふった。
「それを知るまでは、わたしは処女《おとめ》のままでいようと、神さまに誓いました」
と、鞠姫はいった。こんどは、反応がない。それが彼女の言葉に不服で知らん顔をしているのではなく、その言葉の意味もわからないように見える。
「つまり、兄上を殺したものの正体をつきとめるまでは、わたしはあなたさまに身をまかせない、という誓いをたてたのでございます」
彼女は、兄蓮之介を殺したものの正体は、この石五郎の父と祖父だと信じているから、これは永遠に彼を拒否するということにほかならない。
「それでも……名目だけでも、あなたはわたしを妻となさいますか」
すると、彼はまたこっくりした。しかしどこまで了解したか、なんだか心もとないところがある。
「それなら」
と鞠姫は図にのった。
「名目上の妻となるにしても、まだわたしには条件があります。それは、あなたが江戸からおつれになって来たおびただしい女中や家来、そのうちの数人はきけぬお口の代役としてゆるしますが、あとの人間はみんな江戸に送り返していただきたいのです。承るところによると、あなたの御兄妹は五十何人いらっしゃるとか、それがお婿さまやお嫁さまになってどこかへいらっしゃるたびに、ぞろぞろと天下りの女中や家来もつれていって、いったさきの女中や家来ともめごとを起こしているそうですね。そんなことが藤堂家に起こるのは、鞠はきらいです。だから、みんなかえして下さい」
このことは、利口《りこう》な鞠姫のいう通りだが、しかし、もし石五郎とじぶんの仲が、じぶんのいま申し出たはじめの条件通りのものになるとすると、向こうの女中や家来がたくさんいれば、きっとさわぎ出さずにはいまいとかんがえてのことであった。
「石五郎さま、わかりましたか」
石五郎は大きくうなずいた。
うなずいたかと思うと、ぬうと立ちあがった。立ちあがったかと思うと、彼は寝衣のすそをぱっとはだけ――鞠姫の眼には世にも恐ろしい、長大な股間《こかん》のものをまる出しにした。
なんだ、ちっともわかっていないではないか、と呆《あき》れるよりも、ただ眼前にせまるその怪物に、気丈な彼女が理も非もない恐怖に襲われて、身をねじらせてこれまたとびあがっていた。
「誰《だれ》か。――」
新婚の夜にこういう状態になって、誰か――もないだろうが、しかしそこはお姫さまである。鞠姫は身をひるがえしてその部屋を駆け出すと、
「誰か来てたも」
と、悲鳴のようにさけんだ。
「鞠はすぐにこのまま上野へ参る。用意しや!」
伊賀の上野の城は、彼女が大変気に入っていて、こんどの祝言のためにこの津の城にもどるまで、ずっと彼女が滞在していた城であった。
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無足人《むそくにん》
――夜明けにちかい蒼白いひかりが東の鈴鹿《すずか》山脈の上に薙刀《なぎなた》みたいにひかっているが、伊賀国《いがのくに》はまだ墨のように暗い。伊賀は巨大なすり鉢《ばち》に似た盆地であった。
その盆地の闇《やみ》を縫って長蛇《ちようだ》のごときかすかなひかりがある。服部《はつとり》川だ。これは伊賀と伊勢をへだつ阿波の山中より発し、西流四里、伊賀上野の北、服部郷で柘植《つげ》川と合流するので、そう呼ばれるのである。
その服部郷をながれる服部川の河原で、この時刻、声がきこえた。
「いそぎ、みなの衆をあつめたのは、ほかでもない、このたびの藤堂家の花婿《はなむこ》どのについてきかせることがあったからだ」
水は鈍《にぶ》くひかっているが、草もみえず、従って人影もみえず、ただ錆《さび》をおびた声だけがいった。
「結論からいえば、わが服部の無足人には、あの暁に似たひかりがさした」
闇そのもののような声であった。
「というのは、江戸から来た徳川石五郎が唖《おし》でたわけであってくれたためよ」
「その噂《うわさ》はとうに承っております。しかし、唖であろうと馬鹿であろうと藤堂家の世継ぎは世継ぎ、しかも将軍家の御曹子《おんぞうし》。――」
と、草の中からなげくような声がかえった。
「もはや、どうにもなりますまいが」
「まあきけ」
最初の声は笑いすらおびていた。その声の持主には珍しいことであった。
「伊賀は平家のむかしより、そもそもわれら服部一党のものであった。それが……天正《てんしよう》のむかし、頭領服部半蔵どのが徳川家に随身なされてより、伊賀は服部の手から喪《うしな》われた。半蔵どのが服部|石見守《いわみのかみ》となり八千石の知行を受けられた代償に、服部一族は伊賀を喪ったのだ。戦国の嵐《あらし》をくぐりぬけてこられた半蔵どのとしては、立身出世のためというより、そうするほかに服部一族の命脈をつなぐ法はないと思案なされたのかもしれぬ。しかし、結果として伊賀を喪い、しかも江戸に出た服部家も数代にして滅んだ。使うだけ使って、用ずみとなれば芥《あくた》のごとくすてる徳川家の罠《わな》にかかったのにもひとしい」
しかし、その声には愉《たの》しげなひびきがあった。伊賀と服部の歴史を語りはじめたのもその心の愉しさのなせるわざであったろう。
「かくて伊賀は藤堂家のものとなった。爾来《じらい》二百数十年――われら服部一族の末裔《まつえい》はなおこの服部郷にあれど、士分にもあたらぬ無足人の境涯《きようがい》として忍んで来た」
こたえるのは、草のそよぎのみだ。
「その灯をつたえ、油をそそいで来た忍法も、もはや用に立ちがたい。いまは戦国の世ではないのだ。それを知ればこそ、わしはかえって、その忍法をおぬしたちに伝えるのみで世に秘した。隠忍のうちに、はからずも曙光《しよこう》がさした。一族の綱手が御当主の和泉守どののおん眼にとまり、その御国御前となったのだ。時こそ至れ――とは思ったが、われらはなお耐えた。綱手の方が御男子を生ませられるまで」
「…………」
「綱手の方は、首尾よう御男子、竜丸君《たつまるぎみ》を生ませられた。ところで、邪魔は御世子の蓮之介《れんのすけ》さまだ。これを失いたてまつれば、当然、竜丸さまが藤堂家のお世継ぎとなる。すなわち、伊賀はふたたび服部の血をひくものの国となる。――」
「…………」
「さればとて、公然、まさか蓮之介さまを手にかけるわけにはゆかぬ。へたに細工をすれば、かえって綱手さま、ひいてはその出身たる服部一族が疑われよう。かくて思案のすえ、わしはくノ一をつかった。つまり、ここにおるお丈《じよう》、お塔《とう》、お津賀《つが》、お戒《かい》、そして死んだお貞《てい》を江戸屋敷の腰元としてつかわし、その忍法にゆだねたのだ」
「…………」
「古来、服部につたわり、わしが工夫を加えた忍法|精水波《せいすいは》。ひとたびこの五人の女と交わった上は、夜ごと夜ごと、そのうちのだれかと交わらなければ、精液は流出してとどまるところをしらず、ついに死に至る。――」
「…………」
「女の経血と似てさらに惨たる男の精血といおうか。或《ある》いは南蛮渡来《なんばんとらい》のあの阿片《あへん》を服《の》んで、それを禁じられたときの悶死《もんし》に似たものといおうか」
「…………」
「さすがはわしのえらんだ五人のくノ一、蓮之介さまを肉のとりことする日を、亥子《いのこ》祝いの七日目にえらんだ。江戸屋敷のだれもがこのことに気づかぬうちに亥子祝いの夜が来た。前夜はお貞の番であったが、お貞は身をかくした。さがすいとまもないうちに、翌日の亥子の夜が来た。やむなく蓮之介さまは登城して、案の定たえかねて、精水波のうちに悶死なされた。ふ、ふ、ふ、だれがこの糸をひくものが江戸から百二十里のこの伊賀にあると悟ろうか」
「…………」
「将軍家から餠《もち》を賜わって死ねば、その餠に毒がしこんであったと誰しも思うであろう。そう思っても、相手が将軍家、だれしも声もたてられまい。しかも、将軍家もそのような疑いを受けることは御承知であろうから、まさかそれを以て藤堂家を断絶なされまい。――と、わしはこう読んだのじゃが」
声が苦笑した。
「将軍家に、あの人をくった中野石翁がくっついておることは忘れておったわ。世人が何を思おうと意に介せぬ不敵な爺いだ。奇貨《きか》おくべしと、ぬけぬけとおのれの孫をおしつけて参った」
「…………」
「すべてが水の泡《あわ》となったと地だんだ踏んだはつい先ごろのことだ。それが――」
「それが?」
と、だれか顔をあげたらしい気配がした。
「花婿は唖で馬鹿でも将軍家の御曹子、花嫁はあの気丈な鞠姫《まりひめ》さま、これはまえよりかえって勝手が悪い――と歯をかんだが」
と、わざとじらすようにいった。
わかりきった一族の歴史、藩主の若君の怪死事件の顛末《てんまつ》を語る長広舌を、それでも何やらさきに期待して今まで黙ってきいていたらしい数人が、ついに辛抱しかねて、せきこんで声をあげた。
「お頭《かしら》、われら服部の無足人にそれでも曙光がさしたとは」
「昨夜はたしか津のお城で御祝言があったはず。……その津の城から、お頭が夜を通してはせもどって参られたは、何事かあってござるか」
「――その通り」
と、錆をおびた声がまたかすかに笑った。
「ばかの花婿と、気のつよい花嫁じゃ。初寝の床で衝突した」
「……ほ」
「わしは天井裏に忍んで見ておったが、いやはや、とんだ笑草紙であった。花婿がよだれをたらしていどんだ醜態というものは文字通り、このわしが笑いをおさえるのに難渋《なんじゆう》した。鞠姫さまは手ひどくはねつけ、その場から逃げ出して、この上野の城へ参られる。――とはいうものの津から上野まで十三里、姫がおいでなされるのは、早くてきょうの夕方であろう」
そういう当人は、その十三里の道を駆けていま夜明け前のこの服部川の河原に立っているのだから、まさに天馬のわざだ。
「思うに、あのぶんでは、おっつけ、花婿どのも追ってくるな」
「お頭、曙光とは?」
「つまり、御両人の衝突だ。そこにふたたびわれらのつけ入る隙《すき》がある。――花婿はおあずけをくって、がつがつしているのだ。そこへ、もういちど女を投げこむ」
「また、精水波でござるか」
「それよりほかはない」
「しかし、蓮之介さまにつづいて、また石五郎さまをあやめたてまつっては。――」
「正直なところ、それにはわしもだいぶ思案した。しかし、それよりほかに法はない。鞠姫さまはの、兄君を殺したものの正体がわかるまでは身をまかせぬ、と仰せられておった。それがわかるかよ。――で、そうは仰せられても、相手が相手じゃ、追いまわされておるうちに、何といっても祝言あげられた仲、いつひょんなことにならぬともかぎらぬ。それでおん胤《たね》でも御懐妊なされてみよ、藤堂家はそちらにゆく。――従って、一刻も早く、少なくとも御両人がひょんなことにならぬうちに、花婿どのを始末しておかねばならぬ。この前の件のごとく、使いようによっては忍法精水波、こちらに疑い残さぬようにみせる策をほどこす余地もある」
戦慄《せんりつ》すべきことを、平然としていう。愉しげですらある。おそらく最初からそのひびきが語調にあったのは、この策に対する自信のゆえであったろう。
「さいわい、お丈、お塔、お津賀、お戒の四人は江戸から帰国して、いま上野のお城に奉公しておる。その方らが江戸屋敷で若殿を忍法のとりことしたとは誰も知らぬ。――そうであろうな?」
「誰にも知られておりませぬ」
数人の女の、つぶやくような声がきこえた。
「お頭」
と、男の声がいった。
「忍法精水波は、五人の女と交わってはじめてあらわれるものではありませぬか?」
「左様、異なるくノ一の愛液を五層に重ねてはじめて成る」
「しかし、お貞がおりませぬ。お貞は帰国するや否《いな》や死にました」
「その代り、茜《あかね》を使う。茜は来ておろうな」
返事がなかった。
「茜――」
呼んだとき、ややはなれたところで声があった。
「お頭、その儀はお断わり申しあげまする」
若い男の声であった。
東の山肌《やまはだ》にながれる冷光はややふとくなったとはいえ、河原はまだ薄闇《うすやみ》であった。
しかし、河を背にしているので、そのほとりに立ったふたつの影を、水のひかりが浮きあがらせた。ひとりは若い郷士風《ごうしふう》の男で、それにかかえこまれるようにみえたのは、たしかに女の影であった。
「阿波隼人《あわはやと》」
と、首領は、うめくようにさけんだ。
「いっしょにおるのは、茜じゃな。それをこちらによこせ」
「やりませぬ。拙者、茜をつれて伊賀を去りまする。おゆるし下されい」
「隼人、服部《はつとり》一党、二百数十年の悲願を忘れたか」
「忘れませぬ。忘れねばこそ、妹お貞を一党にささげました。お頭。……お貞は実のところ、蓮之介さまをまことおしたい申しあげておったのでござります。それを、あのような無惨な罠《わな》におとさねばならぬ始末と相成り……お貞はその役目を果たしたものの、苦しみにたえかねて、帰国するなり自害いたしました」
「服部のくノ一にも似合わぬ気弱なやつだ」
「そこにまた茜を出せと仰せなさる。茜は……拙者のいいなずけです」
「それがなんだ、服部一族の宿願のまえには」
「いかに宿願であろうと、相手は唖のたわけ者です。それにみずからすすんで身を汚《けが》されるとは――」
「隼人」
と、首領はさけんだ。まだ暗澹《あんたん》たる薄明に、まるで、稲妻に照らされたように首領の顔が浮かびあがった。それは彼の内部からの蒼白《あおじろ》い炎《ほのお》が照らし出したようであった。まだ三十四、五の、のっぺりとして能面のような男の顔であった。
それが、両肩に、一羽ずつの鳥影をとまらせている。
「きけ、綱手はこの服部|蛇丸《へびまる》のいいなずけであった。その綱手を、わしは殿にささげたのであるぞ。いうまでもない、服部一族復活の悲願のためだ」
「お頭の悲願は悲願。――拙者はもはや、その悲願にたえかねまする」
阿波隼人という若者の声は悲痛な哀願の調子をおびた。
「お頭。――犠牲は、妹ひとりでおゆるし願えませぬか?」
「たわけ、服部一党に犠牲の限界はない。そもそも、うぬの妹、うぬのいいなずけというものはないのだ。すべて、服部一族のくノ一だ」
「そのお頭のお考えようが、拙者このごろ恐ろしゅうなりました。いや、服部一族復活のためとは申せ、陰険《いんけん》きわまるお家乗っ取りの企みが、つくづくいやになりました」
「隼人――服部の掟《おきて》に叛《そむ》くか」
首領、服部蛇丸は、相手を凝視《ぎようし》していった。細い眼が二つの三日月のように白くひかっていたが、声はむしろ沈痛であった。――しかし、きいていた者すべて、掟に叛いたものが一族に出たとき、いや、この首領が、このような顔をしたときの恐ろしさを思って、身の毛がよだった。
「いかにも、隼人、叛きます。いや、お手向かいいたします」
若者は不敵にちらと白い歯をみせて、女を片腕につかんだまま、ツツと前へ出る。
「成敗《せいばい》せよ」
と、服部蛇丸はさけんだ。二羽の鳥が、ぱっと肩から飛び立った。どうやらそれは、鷹《たか》らしかった。
まるで鞭《むち》うたれたように、草の中から十数人の黒影が立った。
とみるや、阿波隼人はとびずさった。転がると、一間も。――
「やっ?」
そこは服部川の水の上であった。阿波隼人は、いまは完全に女を小わきに抱いたまま、まるで、水馬《みずすまし》のように水の上に立ったのである。
「待て」
狼狽《ろうばい》しつつ、服部一党は水ぎわに殺到した。そこから分銅をつけた無数の鎖がながれとんだ。
「無足人――とはよういったな。足があるのはお頭ばかりだが――さて、一騎討ちとおいでなさるか、お頭さま」
そういいながら、この不敵な叛逆《はんぎやく》者は、スルスルと水の上を、女を抱いたまま向こうへ遠ざかってゆく。
数人、しぶきをあげて腰まで入り、びゅっと数条の銀光をひいて手裏剣を投げたがすでにそれは水中におちる距離であった。
――と、河の中ほどまで去った阿波隼人が突如立ちどまった。何か、あやしむがごとく前後左右を見まわし――ふいに、
「おおっ」
と、さけぶと、女をとりおとし、まるで屏風《びようぶ》をたおすようにあおむけに水の上へのけぞっていった。凄《すさ》まじい水けぶりが巻きあがった。
水けぶりの中に、彼のたおれていったのと反対側の水面から、その影がふたたび水上に立って来た。いちど水へほうりこまれた女をみごとさらってまた小わきに抱きかかえている。
「――あっ」
岸の服部組はさけんだ。
水の上に立って来たのは、阿波隼人ではなかった。それは首領の服部蛇丸であった。
――彼がほんのいま、河に腰までひたして追ったむれの中から、ひとり水中に沈んでいったことを知っている者も、いつ彼がそこまで潜《くぐ》っていったのか知らなかった。
実に服部蛇丸は、水上を歩む阿波隼人の足の裏におのれの足の裏を膠着《こうちやく》させて水中に垂れさがり、突如、その水面の一点を中心に水ぐるまの如く廻転しつつ相手をたおし、逆にじぶんが水上に立って来たのである。
「わしの教えたわざじゃが、いつのまにかほど上達したか、けなげなり、阿波隼人。――」
唇を鎌《かま》のようにきゅっとつりあげて、服部蛇丸は片手に一刀をぬきはらった。
「じゃが、弟子《でし》はついに師には及ばずっ」
水中に斬りおろされた刃の下からぱあっと黒い血が波にひろがるのを、岸の伊賀者たちは暁闇にはっきりと見た。――
ざぶ! ざぶ! ざぶ! と、蛇丸は茜を抱いたまま、水の上を河原にもどって来た。
水珠《みずたま》をちらしつつ岸に上がったが、まだ茜をはなさず、
「茜」
と、たおやかに垂れた娘にのしかかるようにしていう。じいっと眼を見入って、
「おまえは服部の掟に従うな?」
「――はい!」
と、娘は憑《つ》かれたような声でさけんだ。
はじめて蛇丸は手をはなした。娘は河原に崩折《くずお》れるように坐った。
蛇丸は一刀を鞘《さや》におさめて、
「たわけめ」
と、ひくく罵《ののし》ったのは、むろん阿波隼人のことであろう。
「悶着《もんちやく》のもとが馬鹿だと、馬鹿がうつるとみえる。服部一族で、あのような馬鹿者が出たのははじめてだろう」
しずかに歩いて来て、輪になっている十数人の――いまはようやくおぼろに姿をあらわしはじめた郷士風の男や美しい女たちのまんなかに立った。
「ところで、お丈、お塔、お津賀、お戒の役目はきまったとして、ほかの面々をここに呼んだのはの」
と、いった。
「べつに、ちと気にかかることがあるからじゃ」
「お頭、何でござる」
服部の男たちの見あげた眼は、いずれも信頼にみちていた。
「江戸から来た花婿どのは他愛ない馬鹿殿として、それについて来た奴がよ、甲賀蟇丸《こうががままる》といって、蟇のような顔をしておるが」
「甲賀?」
「いかにもその名が語るように、江戸城の甲賀者だ。甲賀者がついて来たとはいぶかしい。さては何やら思いあたることでもあるかと、いちじはわしもぎょっとしたが、綱手にきくと、馬鹿殿がナメクジをこわがる奇態な性分で、その魔除《まよけ》にお護り役となったらしい。――それはそれとして、相手に甲賀者がついておるとあらばちとうるさい。そこで、この女たちを貴公らに守護してもらおうと思ってよ。――」
「甲賀者?」
男たちはいっせいにひくく笑った。
「名だけでござろうが」
――そのとき、水ぎわで「あっ」とさけぶ声がした。
いったん崩折れていた茜が立ちあがって向こうを指さしていた。
みなふりかえって、
「…………」
声にならぬ声をもらした。
河の上を誰か歩いてゆく。いや、もう向こう岸につこうとしている。その姿が、――
「きゃつ!」
さしもの服部蛇丸が満面蒼白になって絶叫した。
影は岸にのぼってふりむいた。ニヤリと歯をむき出した顔は、暁の最初のひかりに照らされて、まごうかたなき阿波隼人であった。
蛇丸が水中で、たしかに唐竹割《からたけわり》にしたはずの一族の叛逆者であった。
と、みるまに、その影はむささびのごとく向こうの丘に駆けのぼり、うすい朝霧の中に消えてしまった。
ところで藤堂藩の「無足人組」について説明する。無足人というのは、半士半農の身分であって、ふだんは領内で農耕をやり、苗字《みようじ》帯刀をゆるされ、わずかな合力米を受ける代わり、いったん軍用あれば城に駆けつける義務を持つ。一種の屯田兵《とんでんへい》制度だが、むろん正式の藩士とは認められないのみならず、足軽《あしがる》扱いもされない。
かつて伊賀一円にその名をとどろかした服部組も、いまはこの無足人階級にまで落ちていたのである。無足人というのは、その語意がはっきりしないが、ともあれこの忍者一族の末裔《まつえい》にかぎっては、まことその名がふさわしい。
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おあずけちんちん
翌日の夕《ゆうべ》、鞠姫《まりひめ》さまが伊賀の上野にやって来た。
上野城はべつの名を白鳳《はくほう》城ともいい、戦国時代、滝川一族がここに営し、また筒井一族がこれをついだが、慶長《けいちよう》十三年藤堂高虎が伊賀を賜わるや、当代切っての築城家といわれた技術をかたむけて、新たにこれを築いたものだ。もっとも、これは藤堂家にとっては支城であって、代々重臣の藤堂|采女《うねめ》なるものを城代として置いていた。
藤堂采女は、やさしい名にも似ず、たいへんな老人であった。むろん、まさか高虎時代からずっと生きていたわけではない。このころは名まで世襲《せしゆう》のことが多いからその名をつけているわけだが、しかしそれにしても木彫りの置き物みたいな老人であることにまちがいはない。
この冬、この老人は中風にかかって、半身不随になって、それで本城のおめでたにも参列しなかったのだが、――それにしても、その津の城できのうの夕方、御婚礼があったというのに、その花嫁御寮がただひとり、十三里はなれたこの城に忽然《こつぜん》とあらわれたのには、中風の采女も、とびあがらんばかりにおどろいた。
ただひとり、といってもむろん数十人の家来や侍女をつれているが、とにかく花婿《はなむこ》さまの影はない。
「こ、こ、これはいかなることで」
いちどとびあがった床に着陸して、それでも夜具を重ねて身をもたせた采女に、鞠姫は、わっと泣きながらむしゃぶりついた。
「采女、鞠をここに置いてたも」
「それは、姫君さまのお城でござりまするから――」
といいかけて、眼をむいて、
「いや、もはや姫君さまではござらぬ。もはや奥方さまのはず――お、お、奥方さま、花婿、いや若殿さまはいかがなされました?」
活字でかけばこういうことになるが、しかしこの老人のいうことを解せる者はほとんどいないレロレロ調である。
それでまた老人はいつもかんしゃくを起こしているのだが、ふしぎなことにこの鞠姫だけはどういうものかよくききわける。
「爺《じい》、何もきかないで」
采女の胸で、鞠姫は泣きじゃくった。どこか、乳の匂《にお》いがした。
藤堂采女は、とろんとした眼つきをした。わけもわからず、涙さえ浮かんだ。――老人はこの姫君を、じぶんのほんとうの孫娘のように愛していたのである。もともと江戸に生まれ、江戸に育った鞠姫で、彼女がこの城に来たのは、去年の春、父の和泉守が津に帰国したのについて来て、しかもその夏ごろからこのあいだまでここに在城していたにすぎないが、どういうわけか、この稚《おさ》なくて活発な姫君と骨董《こつとう》的な老人と、ひどくウマが合ったのである。
「ははん」
と、采女は天井をみていった。
「花婿さまは……恐れながら唖《おし》で馬鹿と承っておったが……左様でござるか。いや采女もそれを承り、いろいろとうち案じ、ときにはもういちどあらためて中風が起こりそうなほど腹立てていたことでござった。ごむりもござらん。ごむりもござらん……」
そして、鞠姫を抱きしめて、うめいた。
「承知つかまつった。かくなれば藤堂采女は御本城より何をいって参られようと、いや、公方様より何と横車を押されてこようと……天下を相手にしても、断じて姫君を御守護つかまつる!」
ところが、そのまた翌々日、こんどはその花婿どのが、やって来た。
「これは藤堂石五郎さまでござる」
そう名乗るのをきいても、門番はじぶんの眼をうたがい、耳をうたがった。
なぜなら、このへんな訪問者は、蟇《がま》みたいな顔をした男を供にしているばかり――たった二人づれで、このお供が、
「これは、徳川石五郎さまでござる。奥方さまの鞠姫さまがこちらさまに御厄介におなり遊ばしておると知ってまかり越しました」
この異様な挨拶《あいさつ》をいうのに、両人とも、べつに怒っているわけでも、皮肉をいっているわけでも、ふざけているわけでもなく、しごくまじめな顔をしている。
「よ、よ、よっ」
と、若い訪問者は奇声を発した。
それで、噂《うわさ》をきいていた門番は、さてはとはじめて愕然《がくぜん》となり、ころがるように注進した。
城中で、どんな狼狽《ろうばい》が起こったかは御想像にまかせるとして、とにかくこう名乗る訪問者を追いかえすわけにはゆかない。――ふたりは通された。
鞠姫と藤堂采女は、石五郎と蟇丸に逢った。
蟇丸はボソボソといった。
「奥方さま。……若殿と御約定《ごやくじよう》あそばしたそうにござりまするな。江戸からつれて来た石五郎さまづきの家来、女中どもをみな江戸に返せば御夫婦のちぎりをおゆるし下さりまするとか」
鞠姫は蒼《あお》い顔でうなずいた。
「仰せのごとく、みな追い返してござりまする」
「――えっ」
「で、石五郎さま、おいでなされました」
石五郎は、ニタニタして、鞠姫を見て、
「ら、ら、らっ」
と、いって、もう起ちかけた。
鞠姫は、あわてた。とっさに言葉も出ず、ただ藤堂采女にとりすがるようにした。老人は、中風のからだをかえりみず、ともかくも来訪者は来訪者なので、裃《かみしも》をつけて押して出て来ていたが、ニガムシをかみつぶしたような顔をして、
「ひばらふ、ひばらふ!」
と、さけんだ。しばらく、といったのである。
「ひばらふ、おまひくだはりまひょう。ひめよりうけたまはるところによりまふれば」――しばらくお待ち下さりましょう。姫より承るところによりますれば、
「よ、よ、よっ」
「そのひにふいては、まだほかにごやくひょうのことがありまふよひ」――その儀については、まだほかに御約定のことがあります由。
「ら、ら、らっ」
「そは、へつひならふ、へいのへんのふけはまのごひいんにふいて」――そは、別儀ならず、例の蓮之介さまの御死因について。
「れ、れ、れっ」
鞠姫はたまりかねて、
「石五郎さま!」
と、さけんだ。
「もう一つの御約束、兄蓮之介を殺した下手人《げしゆにん》を見つけて下さるという件はどうあそばしましたか」
石五郎は、こまったような、哀しそうな顔をした。
いまの采女と石五郎の珍問答にもかかわらず、だれひとり笑う者もない。四人とも大まじめである。鞠姫にいたっては、必死の、悲劇的な顔をしている。
そして甲賀蟇丸もまたニコリともせず、質実に、
「その御約定については拙者、承りましたが」
と、いい出した。承った、といっても唖の石五郎からどういうふうに蟇丸がきいたのか余人は見当もつかないが、少年時代から付人をしている関係から、ふたりのあいだだけに意志の通じる法があるのだろう。
「奥方さまの仰せながら、それは石五郎さまにとってちと御無理な御注文ではござりますまいか」
無理は承知の、いや無理だからこそ出した注文だ。――が、鞠姫はようやくとりもどした冷たい顔で、
「なぜ」
と、いった。
「無理とは、石五郎さまにそれを捜せぬお弱味でもあってか」
痛烈な皮肉と深刻な懐疑をこめて吐いた言葉だが、甲賀蟇丸はまったく何も感じないもののごとく、
「左様でござりまする。とにかく、御存じのごとくお口もままならぬおんいたわしきおん身、しかもこの藤堂家にお婿さまとなっておいで遊ばしたばかりでござるに、あのような藤堂家の大事の謎《なぞ》を、右から左へととける道理は」
「しかし、石五郎さまは承知なされた」
と、鞠姫はさけんだ。
「それをつきとめて下さるまで、鞠姫は、処女のままでいますという約束を、石五郎さまは御承知されたのじゃ、石五郎さまがどのようなお方か、鞠は知らぬ。夫となるお方がどなたさまであっても、いまの鞠はそういう」
「よ、よ、よっ」
石五郎は、蟇丸の耳をひっぱって、立ちあがった。耳をひっぱって立ちあがったから、蟇丸も立ちあがった。
そのまま石五郎は、蟇丸をひっぱって座敷の隅《すみ》の方へゆく。
あっけにとられて鞠姫、藤堂采女がながめていると、座敷の隅にふたりは坐《すわ》りこんで何やらヒソヒソ語らいはじめた。――むろん、唖が語るわけもなく、彼は手をつき出したり、相手のひざをたたいたり、まるで藤八拳《とうはちけん》みたいな手つきをして、ときどき例の奇声がきこえるだけで、大部分しゃべっているのは蟇丸の方だけだ。それも、石五郎の意志をじぶんから口にして、その反応をきいているらしい。
ふたりはもどって来た。
「石五郎さまには御承知とのことでござりまする」
と、蟇丸はいった。
「何、その件を承知なされたとや?」
じぶんで要求したくせに、鞠姫は眼を見張った。
「さりながら、それは今日明日というわけには参らず。――このことは御納得下さりましょうな?」
やむを得ず、鞠姫はうなずいた。
「そこばくの時がかかる。それまで、この城におることをゆるし給われ、そのことで――」
「この上野の城にいて――江戸に起こった異変の謎がとけると申すか」
「左様に申されまする。それは、智慧《ちえ》でとけるそうで」
鞠姫は、石五郎の顔を見た。キョトンとした、あきらかにうす馬鹿の顔を。――まるでこっちが馬鹿にされているようだ。
「ただし、奥方さまのおそばにおらぬと、いい智慧が出ぬそうでござりまする」
「そのへは、ふわぬぞ」
と、藤堂采女がこぶしをにぎりしめていった。その手は食わぬぞ、といったのである。
それから、何やらいったが、この相手にはどこまで通じたか。
とにかくこの老人の言葉を活字で翻訳すればこうである。
「それを口実に鞠姫さまのおそばにへばりついて、ちょっかい出そうとたくらんでも、それはだめだ。この采女が監視しておる。恐れながら、将軍家の御曹子とて、可愛い鞠姫さまのおんためとあれば、采女、切腹を覚悟しても、思いのままにはさせぬ。ここは江戸城ではない。伊賀の城じゃ!」
鞠姫さまの御寝《ぎよしん》あそばす御座敷と、石五郎君の御寝室のあいだに、一つの間を置いて藤堂采女はそこに寝た。
甲賀蟇丸は、それとは反対側の石五郎の隣室に寝る。たかがもと江戸城の甲賀出身の分際で僭上《せんじよう》の沙汰《さた》だが、とにかく彼がそばにいないと石五郎の用が弁じないのだからしまつがわるい。
そしてまた鞠姫も采女も、蟇丸に代わって石五郎のために用を弁じてやろうという意志がないのだから、これはしかたがない。
それにしても、この日以来、藤堂采女の足腰が立つようになったからふしぎである。ややヨタヨタの気味はまぬかれないが。――この冬以来、かかりつけの竜庵《りようあん》という医者も驚嘆した。
「御家老さま、いったいどうなされたのでござります」
「藤堂家の一大事とあらば、奇蹟《きせき》も起こる」
と、采女はいった。
とはいえ、彼は往生した。――隣室の花婿どのをもてあましたのである。馬鹿のくせにまったくゆだんが出来ない。
或《あ》る夜、ぬき足さし足、じぶんの枕《まくら》もとを通りすぎて鞠姫のところへゆこうとした石五郎の足に気がついて「やりませぬ!」としがみついたことがある。また或る夜、じぶんの足もとの方を、四つン這《ば》いになって忍んでゆこうとするのを「御約定でござるぞ!」とさけんでムンズとおさえたことがある。ともかくも将軍家の御曹子だからそれ以上のことはできないが、まったくおちおち眠ってはいられない。
よくかんがえれば、これすら馬鹿が相手なればこそできるふるまいだが、藤堂采女は、なるほどこれでは鞠姫さまがあのような難題を出されたのも当たり前、といよいよ痛切に鞠姫に同情せざるを得なかった。
難題といえば――例の件。
「江戸の謎を智慧でとく」――とは、いいもいったり。智慧でとくどころか、その課題すら石五郎は忘れてしまっているようだ。だいたいはじめから解く気はないどころか課題の意味すら、本人がよく了解していたかどうか疑わしい。
上野の城に桜が咲き、春はいよいよ濃く深くなってゆく。
――十日ばかり、采女が老躯《ろうく》を鉄壁と化してそこに頑張《がんば》っているうち、石五郎はいよいよヘンテコになった。
これ以上ヘンテコになりようがないと思っていたら、まだその可能性があったと見える。つまり、いよいよものの見さかいがつかなくなり、図々しくなり、凶暴にすらなって来たのである。
とにかく、給仕の女中たちに抱きついたり、裾《すそ》をまくったり――はては、じぶんの裾までまくりあげて、
「らっ、らっ、らっ」
と、誇示するのだからかなわない。
藤堂采女はニガムシをかみつぶしたような顔をして、
「蟇丸、何とかならぬか」
と、悲鳴をあげたが、
「拙者も弱っているのです」
と、蟇丸も心から溜息《ためいき》をつくばかりだ。哀願するように、
「いましばらく御寛大な御猶予を。――」
そういわれてみれば、采女もどうすることもできない。いっそ城の牢《ろう》にでも放りこんでしまいたいくらいなのだが、相手が相手だから、まさかそんなことはできない。
それも石五郎ひとりなら、何をしても当人は感じないかもしれないが、傍《そば》に付人の甲賀蟇丸がいるから、万一、江戸に報告でもされたらそれこそ藪蛇《やぶへび》だ。正面切って問題化されれば、こちらの方が難題を吹きかけていることは否定できないからである。
「竜庵」
十数日めの春の真昼、藤堂采女は医者の竜庵にきいた。となりに鞠姫も石五郎もいないのを見はからってのことである。
「おまえは、中風には藪じゃが、医者だからきく、なんぞ、人間の色情をとめる薬はあるまいかのう」
藪だとはいったが、しかし采女はこの医者を信頼していた。まだ三十四、五のノッペリとした顔の男だが、医者にしておくのは惜しいと思われるほどきれる人間であった。素性《すじよう》は「無足人」領内|服部《はつとり》郷の出身である。――
「人間の色情をとめる薬」
竜庵はまじめにこたえた。
「人間の色情をたかぶらせる薬ならござりまするが」
「それではこまる」
「……江戸よりおいで遊ばしたお方のことでござりまするか」
采女は竜庵を見た。
「存じておるか」
「……御家老さま、色情をとめる薬は、ござりませぬが、法はござります」
「何、法があるか、それは?」
「女を与えることでござります」
このひとをくった答に、采女がしばらく黙りこんでいると、竜庵はものしずかにいった。
「御家老さま、江戸からおいでなされたお方に、女人を献上なされてはいかがでござりましょう」
それは一案だ、とはじめて采女は心中にひざをたたいた。
なるほどそうすればあのサカリのついた人物の鼻息をしずめることができるかもしれない。
それにしても、城中の秘密を早くも看破していたもの――と、ジロリと竜庵の顔を見たが、采女はべつにおどろきもしない。それを秘密にすべく、あまりにも天衣無縫というより破れ放題の石五郎君の挙動であるし、元来この医者が実に悟りの早い人間であることは前々から承知していたからだ。そうだ、津の城の大殿に御国御前|綱手《つなで》の方《かた》を服部郷から献上したのはこの男であったと采女は思い出した。
「竜庵、だれぞ、適当な女があるか」
「ござりまする、さいわいに、――」
と、竜庵は重々しくいった。
「拙者の服部郷に先般まで江戸屋敷に御奉公いたし、その後帰国いたしておる――拙者の眼からみましても、あれほど美しい女は江戸にもざらにいないのではないか、と、思われるほどの女が四、五人ござりまする」
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待った
数日後である。藤堂|采女《うねめ》は五人の女をつれて、藤堂石五郎の前にまかり出た。
「若殿……、おつきそいのお女中方を江戸へお帰し遊ばしてさぞ御不自由でござりましょう。采女、いろいろ案じまして、ここに御在城のあいだ、お身廻りのお世話つかまつるべく、このものどもをえらび出してござりまする。何とぞおそば近う、お召し使い下されませ」
五人の女は、たたみにひたいをつけたままであった。石五郎は、もうあごをつき出すようにしてそれをながめている。
「竜庵、素性を申しあげよ」
と、采女はいった。女たちの横にうやうやしく坐《すわ》っていた医者風の男がいった。
「このものども、御領内服部郷の出身でござりまするが、去年まで江戸のお屋敷に奉公いたしおりましたものゆえ、山国育ちにはござりまするが、いちどは江戸の水で洗いましたるもの、若君のお気に召すかと存じまする」
「采女さま、そのものは?」
と、石五郎のそばに坐っていた蟇丸《がままる》がきいた。
「これは医者の竜庵と申す者、服部郷の男で、女どもの保証人となっておる」
「……服部郷」
と、蟇丸は口の中でつぶやいた。
「江戸城伊賀衆の先祖、服部半蔵どののふるさとじゃな」
しかしこれは采女には何をいったかききとれないほどの小声であったし、それほどの感慨もない顔つきであったし、竜庵の表情は無反応であった。それでも甲賀者の蟇丸なればこそ出たつぶやきで、藤堂藩のだれに服部半蔵という名をきいても、はてと首をかしげるばかりであったかもしれぬ。
「お丈《じよう》、面《おもて》をあげよ」
と、竜庵がいった。
すぐとなりの、いちばん右端の女がしずかに顔をあげた。顔は白いというより蒼《あお》いほど透きとおって、きれながの眼をした凄艶《せいえん》な顔をしていた。
「お塔《とう》、御挨拶《ごあいさつ》申せ」
次の女が頭をあげる。ややまる顔の椿《つばき》の花弁のような唇《くちびる》をもつ肉感的な女であった。
「お津賀《つが》でござる」
三番目の女はまるで深窓の姫君のような優雅な顔だちをしていた。
「お戒《かい》」
四番目はあくまで妖艶《ようえん》でありながら、どこか、牝豹《めひよう》のようなはげしさが感じられる女であった。
「以上の者どもは曾《かつ》て江戸のお屋敷に御奉公いたしたものでござりますが、もうひとり是非若殿さまのお身廻りのおんことを仕りたいと切に願い出た娘ひとりを新しゅう召し出してござりまする。茜《あかね》と申しまする」
最後に、いかにも可憐《かれん》な、初々《ういうい》しい感じの娘が半分だけ顔をあげて、すぐにまたひれ伏してしまった。彼女はかすかにふるえているようであった。
石五郎は、敷物からもうひざをのり出している。飢えた人間がうまそうな食い物を見つけた顔つきで、眼をギラギラとひからせ、のどをピクピクとうごかして生唾《なまつば》をのみこんだ。
「若殿のお身廻りのお世話と申されると」
と蟇丸がいった。
「しかし、みな美しい女たちでござるな。美しすぎる」
「お気に召されれば――お気に召された女を」
と、藤堂采女はいった。
「いかようにおつかい下されても、当人どもに否やはござらぬ」
さすがにニガニガしげな口調であった。上野城の城代たるもの、いかに若殿のおんためとはいえ、なんで妾《めかけ》の世話までしたかろうか。とにかくちかづく女中たちをおかしな眼つきでながめ、ときには裾《すそ》までまくりあげてしまうありさまを見るに見かねて――またもとより鞠姫《まりひめ》さまの御貞操保護の大目的のために思い立ったことではあるが、いまヨダレをたらさんばかりの馬鹿殿の顔と、世にもあえかな美しい女たちを見くらべると、これすらその牙《きば》にかけるのはもったいないように思われる。
「とは――万一、石五郎さまのお手がついてもよろしゅうござるか」
万一、ではあるまい、舌うちしつつ、采女は禿《は》げあがったひたいをさげた。
「左様なことに相成れば、女どもには名誉至極」
「……石五郎さま」
と、蟇丸はふりかえった。
「この五人の女、お気に召しましたか」
ふつうなら、新婚早々の主人に対しての愛妾《あいしよう》献上の話を、こう無抵抗に受け入れるわけはあるまいが、蟇丸も鞠姫の例の約束を知っているので、これまたやむを得ず、と観念したらしい。
「せっ、せっ、せっ」
と、石五郎はいって、立ちかけた。その袴《はかま》のすそを蟇丸がとらえると、彼はにゅっと腕を一本つき出した。とびつくような眼で五人の女を見つめ、つき出した手の指を五本みな折った。
「みな、お気に召しましてござるか」
蟇丸は呆《あき》れたような声を出した……そうくるだろうと覚悟はしていた藤堂采女も、いざとなると心中嘆息をしたが、しかし、やれ鞠姫さまへの心配はこれでせずにすむだろうと胸をなで下ろし、しごく事務的な声で、
「……しからば左様にはからいましょう。つきましては、若殿に向後御座所、御寝所をお移りあそばしていただいた方が何かと好都合でござりましょうな」
と、いった。むろん、鞠姫さまからひきはなす算段だ。それから、それでもじぶんの事務的な声に気がついたとみえて、
「御寵愛《ごちようあい》の女人が五人も御身辺にござりましては、鞠姫さまもお気をわるくなされましょう」
とってつけたようにいった。
すると、――
「その通りです。采女」
と、唐紙《からかみ》の向こうで、思いつめたような声がきこえた。藤堂采女は、とびあがらんばかりにおどろいた。
唐紙があいた。あけたのは腰元だが、すぐ向こうに白|綸子《りんず》のかいどりをひいて、鞠姫さまが立っている。――いつのまにそこにいたのか。先刻侍女をつれてお庭へ御散策に出られたものと見すまして安心していたのに。
「姫君さま。……いや、奥方さま、おききでござりましたか」
「ききました」
と、鞠姫はいった。
「しかし、そんなことは、鞠がいやです」
采女は眼をむいた。のどをゴロゴロと鳴らして、
「――なぜ?」
と、いった。唐紙があけられたとき紅潮していた鞠姫の顔は、みるみる蒼白《あおじろ》くしずんでいた。ふるえ声で、
「なぜといって鞠姫はいやです。そんなこと。――」
と、さけんだ。
藤堂采女は、口をパクパクさせるばかりで、とっさに何をいっていいかわからなかった。こんどのことはまだ鞠姫さまに報告していない。かくすつもりはなかった。いいづらいことではあるが、かくし通せることではない。ただ医者の竜庵の推薦《すいせん》した女が石五郎さまのお気に入るかどうかわからなかったので、それを見すましたあとで言上《ごんじよう》するつもりでいた。鞠姫さまも御納得なさるにきまっていると信じこんでいた。鞠姫さまが石五郎さまに御興味がない、というより鳥肌《とりはだ》が立つほどいやな感じをもたれていることはあきらかだし、だいいち御婚礼をすまされたあいだでありながら、いまなお御合歓のことを拒否なされているのだから、これはやむを得ないことではないか、むしろ、それで石五郎さまのたかぶりを鎮《しず》めることができるとするならば、かえってほっと胸なで下ろされるのではなかろうかと思っているのである。
しかるに、いま突然あらわれて、それもいやだとは思いがけぬことだ。あんまりききわけがなさすぎる。――と思ったが、しかし、稚《おさ》なさの残った愛くるしい唇を怒りにふるわせている鞠姫さまを見ると、何と説いていいのかわからない。
「いやです、いやです」
と、鞠姫は地だんだをふんだ。
彼女は、どこかじぶんが理不尽である、ということはちらと感じていた。しかし、じぶんが拒否するからといって、石五郎に妾をもたせるなどということは、理屈はともかく感覚的にいやであった。嫉妬《しつと》ではない。嫉妬なんかであるものか、と彼女は石五郎を軽蔑《けいべつ》的な眼でにらんだ。
すると――あり得べきことか、石五郎も彼女をにらんだ。石五郎が彼女にはじめて見せた怒った眼であった。
「たったったっ」
と、彼はさけんだ。彼はあきらかに鞠姫の横槍《よこやり》に不満らしい。
すると、鞠姫はなお腹を立てた。妾をもてないからといって怒る夫がどこにある。馬鹿のくせに生意気である。そんなわがままはゆるさない。
「とにかく、鞠はいや」
彼女は、泡《あわ》をふいている石五郎から眼をそらして、とんとたたみに白|足袋《たび》の音をたてた。
「爺《じい》! 藤堂采女ともあろうものが、いい年をして何ということをすすめるのです。鞠は爺を信じていましたのに――」
采女は、いいたいことはいっぱいあったが、鞠姫にそういわれると全身|恐懼《きようく》にわななき、朱色に染まった禿げあたまをべたとたたみにすりつけてしまった。
「そのようなけがらわしき女ども、すぐに城から下げてたも!」
「へへっ」
――鞠姫はむくと褥《しとね》から身を起こした。
もう何どきであろう。円窓にかたむいた月影の色からみると、もはや真夜中をすぎていると思われる。彼女は、耳をすました。隣から、藤堂采女のいびきの声がきこえる。
鞠姫が耳をすましたのは、しかし采女のいびきではなかった。――何をきいたか、彼女はがばと立ちあがり、円窓のそばに寄った。小さな障子をそっとあけて、庭を見わたす。――
きりっと鞠姫は唇をかむと、いそいでひきかえし、侍女を呼ばず、きぬずれの音しのばせてきものを着はじめた。それから、寝所の外へ出ていった。むろん、この一劃をめぐって宿直《とのい》の武士や侍女たちがいるはずだが、それを避けてゆく通路を鞠姫は知っていたし、またその物音をきいても、まさかこの真夜中、奥方さまが外へ――城の外へ出てゆくなど想像もし得ないことだから、宿直の人々は怪しまなかった。
しかし、いくらなんでも、全然|誰《だれ》にも気づかれないで城を出るなどということはできない。しかも、鞠姫は、小者や女中の往来する出口など知っていても、そこを通ることをいさぎよしとしないのである。彼女は正式の門々を通過した。
それを見とがめた門番たちは、
「鞠です。……すぐに帰ります」
といった本人の顔を見てあっと仰天し、つづいて、
「采女などに申すと、討ち首にいたすぞ」
と、釘《くぎ》を打たれて、金縛《かなしば》りになってしまった。
鞠姫は、城外の坂を下っていった。桜が夢のように咲いている。どこかで鳥が、くううと寝ぼけたような声を出す。何もかも夢のような春の夜ふけであった。
彼女はいつのまにか、お高祖頭巾《こそずきん》をかぶっていた。江戸にいたころ、物好きで手に入れた町娘の頭巾である。頭巾の中で、彼女自身夢を見ているような気がしていた。――ただし、悪夢を。
さっき彼女は「夫」石五郎の部屋から誰かがそっと外へ――庭へ出てゆく物音をきいたのであった。虫の知らせというか、いや、先日のことがあってから、彼女はきっと石五郎が何かやりそうな予感があって、眠りの中にも敏感に目ざめていたのだ。しかし――まさか彼があんな脱出ぶりを見せるとは思ってはいなかった。
石五郎が女のところにゆく。――先日じぶんは断然はねつけてやったけれど、彼のみれんたらたらの挙動から、その後采女を脅迫してどこかに女をかくして、みんなでじぶんをいつわっているかもしれぬ。――というくらいの疑心は抱いていたのだが、しかし、それはあくまで城内のことであって、まさか彼が城外へぬけ出そうとは想像のほかであった。
ひとりではない。二人だ。あの甲賀蟇丸がそれを助けたのだ。
円窓からちらっと遠く見ただけだが、それは実におどろくべき――夢の中の出来事ではないかと思われるような光景があった。
庭の中を駆けていった二つの影は、高い欅《けやき》の大木の枝に何か綱のようなものを投げて巻きつけた。そして、その一端をもってタタタタと走ってゆくと、まるで鳥みたいに大空へ舞いあがって、塀《へい》の向こうへ消えてしまったのだ。
いうまでもなくあの愚鈍な石五郎にあんな離れわざのできる道理がない。影はそのとき一塊となっていた。一方が一方を、背負うか、小わきに抱いているようであった。あの甲賀蟇丸が石五郎を運んでいったにきまっている。
むろん、塀の外もまだ城だが、しかしその大がかりな脱出ぶりからみて、きっと城外へ出たものと判断して、鞠姫も城の外へ追って出た。
その判断の通り、いま町の中を、ふたりは歩いてゆく。ふたりとも頭巾をかぶっていたし、背中だけみると、両人、本体と影みたいにそっくりで、どっちがどっちだかわからないが、とにかく石五郎と甲賀蟇丸に相違はない。
シャクにさわることに、ふたりはもののみごとに城を出て安心したせいか、かたむいたおぼろ月の下を、浮かれ狸《たぬき》みたいに浮き浮きと、しかも緩々《かんかん》たる足どりだ。したがって追うのに骨は折れないが、それだけにうしろを――十間ばかりはなれて、ついてゆく鞠姫にも気がついたらしく、一、二度、ちらとふりむいた。
しかし、まさか鞠姫が城を出て追ってきたとは想像を絶しているし、彼女はお高祖頭巾をかぶっていたから、てっきり町娘だと思ったのだろう。町娘なら、とがめ立てするのは、かえって彼らにとってヤブヘビだ。いかに城の若殿主従にしろ、そんな大きな顔のできる夜行ではあるまい。はたせるかな、彼らはすぐに鞠姫の影など念頭から捨てた様子で、フラフラと歩いてゆく。魚町を通った。紺屋町を通った。深夜でなくとも静かな山国の城下町であった。
鞠姫は、万一見とがめられてもちっともかまわないと思っている。むしろ、いまにもこちらから追いついて、ふたりをとっちめてやりたい気持ちをおさえるのに努力を要したほどであった。
彼女の足がとまったのは農人町という町の中であった。いわゆる無足人という身分の人々が住んでいる町で、武家屋敷というには、あまりにも貧しげな小さな家ばかりだ。――その中の、わりにちゃんとした一軒に、石五郎と蟇丸の姿は消えた。
鞠姫は駆け寄って、そこに医者の竜庵の看板がかかっているのを見あげた。
竜庵――竜庵――それはいつも藤堂采女のところへ出入りしている医者で、そうだ、このあいだ五人の妾の候補者といっしょにやって来た男ではないか? やっぱり今夜のことは、藤堂采女もしめし合わせてのことだ。
石五郎どのはここに消えた、なんのためにここに消えたか、想像はつく。――中にあの五人の女がいるのだ。
ここに入るまでに石五郎どのをとめるべきであった、と鞠姫は悔いた。石五郎が女のところを訪れたからといって、血相かえてじぶんが乗りこんだといわれては、町の噂《うわさ》もいかがであろう。その人の口のはしたなさ、その波紋の大きさは、彼女にも予想がつく。よいわ、今夜は石五郎どののゆくえと行状をつきとめただけでひきあげよう。
そう思っても、彼女はその門前から離れられなかった。足は釘《くぎ》づけになっていた。
無足人組のくノ一|茜《あかね》は褥《しとね》に横たわって、暗い天井を見つめていた。
彼女が第一番になることを首領から命じられたのだ。藤堂石五郎を忍法「精水波」にかける第一番というわけである。
首領|服部蛇丸《はつとりへびまる》以下一族の悲願はよくわかっている。また服部無足人組の秘密の掟《おきて》の恐ろしさも胆《きも》に刻んでいる。彼女は幼いころからそれに疑いを抱いたことはない。
それにはじめて動揺をおぼえ出したのは一党の阿波隼人《あわはやと》を愛し、且《かつ》じぶんがこのたびの任務をあたえられてからの彼の苦悶《くもん》を見て以来のことであった。
恋人を愚昧《ぐまい》好色な主君に献上する。――その苦悶のあまり、阿波隼人はついに服部一族に叛旗《はんき》をひるがえし、彼女をつれて脱走しようとし、そして蛇丸に殺された。――
いや、殺されたと思ったのに、彼は忽然《こつぜん》とよみがえってひとり逃げていった。あれはじぶんの見た夜明方の夢ではないか、といまでも彼女はそう思う。あの首領の魔刃をのがれ得る者はこの世にまたとないはずだ。ましてあの隼人どのが――水の上をあるく忍法「浮寝鳥」だけは、必死の修行でこのごろ急速に上達したことは知っていたが、袈裟《けさ》がけに斬《き》られてまた何事もなげによみがえる忍法など、いつ彼が体得していたか彼女は知らない。
あんなことはあり得べきことではない。げんにあれ以来、阿波隼人はじぶんのまえにあらわれない。あらわれるはずがない。
あれは幻だ、そう思いすてて、茜は一族の鉄の命令に屈し、いまここに忍法の祭壇に身を横たえた。――
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自来也|初《はつ》の登場
唐紙《からかみ》がソロソロとあいた。
そして、ひとりの貴公子が、ぬうっと入って来た。
いや、顔だけは一見貴公子だが――、そして、白いかいどりを羽織ってはいるが、あとは、からだに一糸もまとわぬまるはだかである。それが、なんの恥ずかしげもなく、五歩、六歩、勇壮活発にあるいて来て、
「けっ、けっ、けっ」
と、奇声を発した。
藤堂石五郎である。もし茜《あかね》が彼のための肉の祭壇にのせられていなくとも、こんど藤堂家に婿《むこ》にやって来た若殿が、唖《おし》で馬鹿だときいている城下の人間なら、だれでも一目みただけで、当該人物だとわかるだろう。一見貴公子風の顔だが、再見すれば、あきらかに馬鹿の顔である。
それが――褥《しとね》に横たわっている茜を見てまた、
「きっ、きっ、きっ」
猿《さる》に似た怪音を発し、両肘《ひじ》をまげて、こぶしを肩にあてて、二、三度上下にうごかした。まるで獣のしぐさだが、茜は失望するどころではない。そんなしぐさをしながら、ほそい眼はギラギラとひかって、アングリあけた唇からは、よだれがタラリとたれている。あきらかに喜悦の表情だ。のみならず、股間《こかん》のものは、こればかりはいかにも正気然と、しかも人間並み以上の風姿を以て直立している。
茜が女忍者らしくもなく恐怖にうたれ、思わず心中に、
「――隼人《はやと》さま!」
と、死んだ恋人の名を、死んだことも忘れてさけんだのは、この相手が常人なら決してしなかったことであったろう。それは常人でないだけに、いっそう吐き気のするようなぶきみさであった。
藤堂石五郎は、その姿と顔でちかづいて来て、いきなり茜の夜具をひきはいだ。無意識にそれをふせごうとして、その甲斐《かい》もなくひきはがされると、もはや茜は観念した。眼をとじ、息をつめ、歯をくいしばって待つ――。
手が、寝衣のえりにかかった。ひき裂くように左右にあける。真っ白な乳房がふたつ、むき出しになった。こんどは裾《すそ》を、ぱっと遠慮会釈もなく、ひきめくる――。
……と、急に相手が、そこでおとなしくなったので、そっと眼をあけると、おそるおそる乳房に出しかけていた手を、指でひとつぴんと乳くびをはじいただけで、さっとひっこめて、ついにからだもピョンととびのいた。
「らっ、らっ、らっ」
そんな声をあげると、なんと相手は、まるで狐《きつね》みたいに茜の褥のまわりをグルグルと跳《は》ねまわり出したのである。
急にその運動がやむと、また寄って来て彼女のからだの一部分を指でつっつく。それからまた奇声を発してとび跳ね出す――まるで獲物を中心にした土人の祭典だ。
ことここに至って唖然《あぜん》としてその狂態を見ていた茜は、やっとじぶんの任務を思い出した。
たとえ相手が白痴であろうが、狂人であろうが、じぶんはこの男を忍法にかけねばならぬのだ。首領服部蛇丸の、いわゆる「五人のくノ一の愛液を男のからだに五層に重ねてはじめて成る」忍法精水波。――これが五層に重ねられ、ある時間を経過すると男は女身への禁断症状におち入り、たえられずして無限に精水を噴出しはじめて、ついには悶死《もんし》する。
かつて服部のくノ一衆は、この忍法でひとしれず藤堂家の世継ぎ蓮之介《れんのすけ》さまを葬り去った。そしていままた、第二の後継者と目されるこの石五郎さまを消そうとする。蓮之介さまのとき、その一事に加わらなかったわたしは、五人のひとりお貞の自殺によって生まれた欠員をふさぐことになり、第一番の死の誘惑者に選ばれた。身の毛もよだつことではあるが、しかし服部無足人の掟《おきて》には服従しなければならぬ。――
「殿。……若殿さま」
茜は、あえぐように呼んだ。石五郎はキョトンと、こちらを見た。
茜は必死の媚笑《びしよう》をにじませていった。
「おいでなされませ。そして……わたしを抱いて下さりませ」
そういったとき。――
「待った。――」
という声を、茜はきいた。
遠い遠い――いや、ささやくような声だからそう感じられたが、またほんの耳のそばできこえたようにも思われるふしぎな声であった。
「伊賀《いが》の女人を、愚昧《ぐまい》好色の馬鹿殿のいけにえにすることはゆるさぬ。――」
その声が、石五郎にはきこえないのか。――彼は眼を愚鈍な欲情ににごらせて、ふたたび彼女の方へ寄って来た。
その両腕がワングリと茜のふたつの乳房をつかんだとき、
「隼人さま!」
思わず彼女は、さけんでしまった。
そのとたん、石五郎はとびあがって「わっ」とさけんで頭に手をやった。とみるまに、まるで見えない手にもとどりをつかまれたように、うしろにタタタタとのけぞっていって、唐紙をたおし、その上にあおむけにころがった。
茜はがばと起きなおって、隣の座敷に眼をやって息をのんだ。
ひっくりかえった石五郎の腹の上にムズと片足をふみかけてそこに朦朧《もうろう》と立っている白い影がある。その白いからだのまんなかにひとつ極彩色の顔があった。
百日かつらをかぶり、眼や口を隈《くま》どって、あきらかに常人の顔ではない。お芝居の役者の顔だ。それが人間の顔とおなじ大きさに描いてあるのだ。
――と茜が気がついたとき、白い影はゆるゆるとふりむいた。いままで向こうむきになっていたのだ。
白い頭巾《ずきん》、白|羽二重《はぶたえ》の着流し――全身|鷺《さぎ》のように真っ白な姿があった。
「伊賀の女」
と、影は呼んだ。さっききいたささやくような低い声だ。
「おまえを助けてやる」
「…………」
「助けてやるのは、いま申したように、伊賀の女人を、愚昧好色の大名のいけにえにするのにがまんならぬからだ」
「…………」
「こやつの父親は、十数人の妾《めかけ》に五十数人の子を生ませたほどの大助平。こやつの体内にも、ろくな血がながれておるとは思えぬ。げんに、見る通り、唖で馬鹿だ。いっそ踏みつぶしてくれたいが。……」
といって、その踏みかけた足がちょっとうごくと、石五郎は「きゅう」というような声を出した。これはもう例の唖語ではない。「きゅう」といったきり、彼は失神したようであった。
「しかし、これでも将軍の子、もしこれを踏み殺せば天下の大事となって、藤堂家はもとより伊賀一国にも難儀がこよう。されば、こやつのいのちだけは助けておく」
「…………」
「もうひとつ、おまえを助けてやるのは、おまえを助けた者が自来也と無足人組に伝えさせんがためだ」
「自来也?」
――もし茜が去年まで江戸にいた女のひとりであったなら、むろんその名は知っていたろうし、この白頭巾の人物の背に描いてある妖異凄絶《よういせいぜつ》な顔が、その名の人間に扮《ふん》した七代目団十郎の似顔だということに、すぐに気がついたろう。
「自《ミズカ》ラ来《キタ》ル也《ナリ》」
と、相手はいった。
ひくい声の底にはじめてかすかに笑いがながれたようだ。
しかし、なんという抑揚《よくよう》のない、感情のない声だろう。それは人間ではないもののような――陰々と大地の底からもれてくる風に似た声であった。
「そのためにおまえは助けておくが――もうひとつおぼえておけ。この馬鹿大名がなお懲《こ》りずに伊賀の女を漁《あさ》るならば、この自来也はいついかなる時、いかなる場所でも現われて、きっと邪魔をする。思いはとげさせぬ。しかしながら、万一、伊賀の女にしておかしな野心をもち、みずからすすんでこの馬鹿者に身をささげようと思い立つ者があるときは」
一息沈黙し、しずかに、
「斬《き》る」
といった。
「そのように、服部《はつとり》無足人組に伝えろ」
茜は、愕然《がくぜん》としていた。
服部無足人組、これはべつに秘密結社ではない。藤堂藩《とうどうはん》にある無足人という階級のうちの一つだ。しかし、この場合、茜にそう告げたのは、あきらかにそれ以上のことを意味していた。
この男は……例の服部蛇丸の企てのことを知っているのだ!
しかし、それを知っているとは――蛇丸をめぐる伊賀忍者の鉄の掟を知っている茜は、それだけに、それ以外の人間であのことを知っている者があろうとは断じて信じられなかった。
といって、例の掟に服従している服部組の中で、このような大それた真似《まね》をするものがあろうとは、これまたいよいよ以て信じられない。
「これだけきいたら、おまえにもしばらくあの世へいってもらおう」
「あの世へ」
といいながら、茜は片膝《かたひざ》をたてた。
この男の覆面《ふくめん》をはいでその正体を明らかにしてやる。――という伊賀の女忍者魂が目ざめたのだ。
「よせよせ」
と、相手はいって、彼は片手でひょいと石五郎の足をつかみ、まるで羽根で出来た物体でもひきずるようにこちらの座敷に入って来た。
「いま申したような用を果たしてもらうために殺しはせぬ。あの世へとは、しばらく気絶してもらおうということだ。まこと気絶せねば、とうてい首領服部蛇丸の疑いは解けまいが。またおまえの務めを邪魔した者がこの自来也であると証明してみせねば、おまえ自身のいのちも危かろうが。――裏切り者としてのう」
そういいながら、彼は気絶した石五郎のからだを、ドサリと彼女のそばへ投げ出した。
闇《やみ》には眼のなれた茜が、頭巾のあいだからのぞいた相手の眼を見ようとしたが、そこらあたりがぼうとけぶっているようで、よくわからない。――が、裏切り者、という言葉をきいたとたん、ふいに茜は、ただならぬさけびをあげていた。
「隼人さま!」
「…………」
「あなたは隼人さまではありませぬか?」
「ちがうな」
「声をかえておいでですが、あなたは隼人さまだ。隼人さま、隼人さま!」
「阿波隼人は死んだ。服部無足人組の掟に叛《そむ》いて殺された。……蛇丸はこわい男よ」
「もしっ、わたしは茜です。みごと他人に化けおわせた隼人さまが忍者なら、わたしもこれでも忍者です。こんなことをするのは、阿波隼人さまのほかにはありませぬ」
「未熟な忍者だな。それとも恋のなせる迷いか」
「もしっ、隼人さま、この茜だけは他言いたしませぬ。どうぞわたしだけには、はっきりと名乗って――もしっ」
「では」
と、自来也はうなずいた。
同時に失神した石五郎の足が、ふいににゅっと立って来て、彼女の脾腹《ひばら》を蹴《け》った。全神経が白頭巾のみに集中していただけにこの思いがけぬ襲撃には、さすがの女忍者も、うっと息をつめ、そのまま眼が昏《くら》くなった。
昏くなってゆく茜の眼に、ただ例の「自来也」の顔だけが幻怪な残像となり、妖々と消えていった。
いちど、この門前を立ち去ろう、と決心しながら、足は釘《くぎ》づけになっていた鞠姫《まりひめ》はしかし、そのうち次第に血がざわめいて来て、ついにたえられなくなった。
ここまでつきとめて、おめおめとひき返すことは、女としてのじぶんの恥辱であると思ったのである。どうあっても石五郎の醜態をつかまえて、とっちめあげずにはおくものか。――藤堂藩の恥でもある。
鞠姫は血相をかえて、その門をたたこうとした。そのとき。――
「お待ちなされい」
うしろで、声がかかった。
ここでもまた、待った、がかかったのである。
鞠姫はふりむいて、おぼろ月の下に七つ八つの黒い影が浮かんでいるのを見た。ただ、月のひかりに黒く見えたばかりではない。事実、そこにいつのまにか忽然《こつぜん》とあらわれた影は、いずれも黒|頭巾《ずきん》、黒|装束《しようぞく》という姿だったのである。
鞠姫は眼をまろくした。ふだん、あまりかんがえたことのない――伊賀は元来、忍者の国だ――という認識が、はじめて胸に湧《わ》いた。
「何者じゃ」
「……鞠姫さまでござりまするな」
「その方たちは何者じゃ。名乗れ」
鞠姫は、きっとしてさけんだ。黒い影のむれは答えない。……じわんと背に這《は》いのぼる恐怖をおぼえつつ、鞠姫は声を張った。
「名乗らねば人を呼ぶぞ」
「人をお呼びになれば、藤堂家のおん恥になりましょう」
鞠姫は絶句した。それは先刻、彼女自身そう臆測《おくそく》して迷ったことだ。
しかしそれにしても、こやつら、異形《いぎよう》の姿をして、何者であろう?
「では、その方らは、わたしが何のためにこの家に入ろうとしたか存じておるな。いえ、わたしのまえに誰《だれ》がこの家に入ったか存じておるな」
「御意《ぎよい》」
「その方らは、いったい何者じゃ?」
「……夜中ひそかにお城をお出なされた石五郎さま、若殿の万一のことを御警戒して、おそれながらお護り申しあげておる者でござりまする」
「と、申すと、江戸からついて来た者どもか?」
「…………」
「では、江戸からつれて来た家来は、蟇丸《がままる》とやらをのぞいてみな帰したといったのはあれは嘘《うそ》か」
かっとして鞠姫は、さけんだ。
「ええ、唖《おし》のくせに嘘をつくとは奇怪千万。わたしが人を呼べば藤堂家の恥になるといま申したな。きくがよい。藤堂家の恥となるようなふるまいをしたのは、そもそも誰じゃ。鞠はゆるさぬ。藤堂家の恥を思えばこそ、ゆるさぬ。江戸の大道楽者の血をひいた男の親ゆずりの不行跡を、この伊賀国にも及ぼそうと思うても、妻たるわたしがゆるしはせぬ」
「――妻?」
黒頭巾の中から、ひくい失笑がながれた。鞠姫は、その男の両肩に二羽の鳥影がとまっているのを見とめた。
この点は、鞠姫の弱味だ。しばし彼女はまた沈黙し、じぶんのその沈黙に腹を立てて、クルリとふりむくと、いきなりこぶしをあげて門をたたこうとした。その白い手くびに音もなくひとすじの綱がからみついた。
はっとしてもういちどふりむいて、鞠姫はその綱が黒頭巾のむれから放たれていることを知った。
「無礼な!」
さっともう一方の手が懐剣にかかったのを見るよりはやく、
「いや、ききしにまさる気のつよい姫君じゃ。もはや是非なし。少々手荒らじゃが、しばらくお止めたてまつれ」
そんな声がきこえると、黒衣のむれは夜がらすのように飛んで来て、鞠姫の手をおさえ、ひとりが横抱きにすると、ひとりが足をもちあげ、だれかが口をおさえた。そのくせ、裾《すそ》もみださず、まるで貴重なこわれものでも運ぶようにかつぎあげ、一団のつむじ風となって軽がると地を飛んでゆく手ぎわは人間ばなれがしていた。
――はて。
そんな目にあいながら、鞠姫はくびをかしげていた。これは、ただ者ではない、と感づいたのである。
いま江戸から石五郎について来た家来どもか、ときいたのに対し、この連中は返答せず、しかもそれを自認するようなそぶりを見せた。
しかし爛熟《らんじゆく》した天保《てんぽう》の江戸から来た者どもは、じぶんもちらと一瞥《いちべつ》したが、みんなヘナヘナ侍ばかりで、こんな水際立った手ぎわを演じそうもないように思われる。――
深夜の上野の町を黒い風のように走り、坂を下った。町はずれのさびしい松林が見えた。
そこに一つ、石の道標があった。見ないでも、その石の両面に、
「左いせみち」
「右ならみち」
と、刻んであるのを、しばしばここに来たことのある鞠姫は知っている。
一団は、そこから松林に入って、ヤンワリと鞠姫を置いて、環《わ》になって、黙々と坐《すわ》った。
鞠姫も黙っている。――心中、怒り、疑惑、ないし少々の怖《おそ》れは雲のように渦まいているが、彼女は口をきくのも腹立たしくて黙っていた。まず相手の出方を見ようと思ったのだ。
おぼろ月に雲がかかったらしい。暗い松林の中が、さらに暗くなった。風が出たらしく、枝が蕭々《しようしよう》たる音をたてはじめた。
……鞠姫は、まひるなら美しいこの松林に、遠い寛永《かんえい》時代に吹きまくった血風が、ふいになまぐさく甦《よみがえ》ってくるような気がした。
ここはそのむかし、荒木又右衛門が仇討《あだう》ちをしたという鍵屋《かぎや》の辻《つじ》であった。
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朧《おぼろ》問答
――いったい、こやつらは何者であろう?
これは、江戸から来た石五郎の家来か。しかし、どうかんがえても、江戸から来た連中には、このような大胆な行動に出る者はありそうにない。それでは、家来の藤堂|采女《うねめ》の命を受けた上野城の家来か。藤堂家の者なら、いよいよ以《もつ》てじぶんに対してこんな手荒らな真似《まね》をする奴があるとは思えないし、それに――いまふっと思い出せば、さっき、
「いや、ききしにまさる気のつよい姫君じゃ」
と、黒頭巾のひとりがいったようだ。藤堂家の侍なら、いまさらのように「ききしにまさる」などという言葉をつかうはずがない。といって、今夜じぶんにこんなふるまいをしかける者が、この両者以外にあろうはずがない。
鞠姫《まりひめ》は春の夜の鍵屋の辻の松林の中に坐《すわ》ったまま、かんがえつづけた。
わからないが、もはや口をきくのもいやだ、と鞠姫は黙って、眼をひからせて、坐っていた。じぶんをこれからどうするつもりか、という不安をたいして抱かなかったのは、こわいとかあぶないとかいうことを知らぬ育ちと気性から来たものだが、これまた、黙々としてまわりにひかえている黒装束を見ているうちに、いや待て、このままではこやつらの手にはまることになる、とかんがえなおした。じぶんがこうしているあいだに、「夫」石五郎はいやしき女とたわむれ合っているのだ。石五郎のあの醜態を思い出すと、彼女は顔があかくなった。彼女は、きっとなって立ちあがろうとした。――
「姫君。……いや、奥方さま」
と、そのとき、正面の黒頭巾のひとりがいった。
立とうとする鞠姫の気配を知ってとめたのではない。鞠姫の心のうごきは知らず、外見あまり端然と坐っているので、相手の方からたえかねたものらしい。
「奥方さま、まことに以て御無礼をつかまつり、恐れ入ってござりまする。さりながら――」
「名乗れ、その方らは江戸方か、それとも藤堂の者か、名乗らねば、きかぬ」
「御立腹は重々ごもっともでござりまするが、これも藤堂家のおんため――実はおん兄君、蓮之介《れんのすけ》さまの御死因について」
「なに、兄の?」
さすがに鞠姫は、はっとして相手を見まもった。
「いかにも、若君の御死因について探索を命ぜられ、その手段としての今宵の行動でござりまする」
「とは?」
「御存じのごとく、蓮之介さまは江戸城の奥ふかく御急死あそばされました。いかにかんがえても不審な御落命でござります。とは申せ、それを探《さぐ》るにも探りようなき事態、これは奥方さまもようおわかりでござりましょう。蓮之介さまお失せなされ、代わりに藤堂家のおんあとつぎとして、徳川石五郎さまがおいでなされました。誰《だれ》がかんがえても、このことと蓮之介さまの御落命とは縁なきこととは思われませぬが、さればとて確たる証拠はござりませぬ。ただ、それをたしかめるためには、石五郎さまにうかがうよりほかはない。――」
「あれは、たわけじゃ」
思わず、吐き出すように鞠姫はいった。
「あの方からきけるものなら、わたしがきく。さりながら、あのお方が何を御存じであろうとも思われぬ」
「それは奥方さまが、恐れながら女人として石五郎さまに対せられぬからでござりまする」
「わたしが、女人として――」
「女が、女として男に対すれば、男は思いもよらぬ言葉をも、もらすもの」
「しかし、あのお方が何をもらされようと、まともにはきけぬお方であるとわたしはいっておる」
「それはその通りでござりまするが、それよりほかに蓮之介さまの御死因を探る法はいまのところござりませぬ。いかに御脳弱き方にあらせようと、柳営《りゆうえい》の中からおいでなされたお方、そのとりとめなきおんうわごとの中からも、重大な暗示をつかむことができるかもしれませぬ」
「女が、女としてあのお方に対すれば、あのお方はそれをもらされると申すか」
「奥方さま、遊ばされて下さりましょうか」
鞠姫は沈黙した。一息おいて、相手はいった。
「奥方さまが、石五郎さまといまだおんちぎりをお交しあそばされぬこと、われら存じあげておりまする。当然のおんことでござる。もし――蓮之介さまが御公儀のおん手にかからせられたとするならば――おん兄君の敵につながるおん方とちぎらせ給うことと相なりまするゆえ」
そも、こやつらは何者であろう? あらためてその疑惑が鞠姫の胸をゆるがせた。じぶんと石五郎とのあいだの秘密を知っているのは、藤堂采女と甲賀蟇丸《こうががままる》のほかにはないはずだ。先刻は、こやつらは江戸方に属するもののようなそぶりを見せていたが、いまきいていると、どうやら藤堂家の隠密《おんみつ》組のようにも思われる。
「……そなたら、采女のいいつけでうごいておる者か?」
と彼女は声を忍ばせてきいた。
それに対して、黒装束のむれは黙してこたえなかった。お察しにまかせる、といった風な気配である。
鞠姫は、ようやく腑《ふ》におちた気がした。藤堂采女が――ほかならぬあの爺《じい》が、たんに石五郎どのの好色の片棒をかつぐはずがない。わたしの誇りを無視し、わたしの面目をふみつぶすはずがない。――そうか、この男どもは、采女の意を受けて働いている者どもであったか。さすがは上野の城をあずかる藤堂采女。――しかし、それにしても。
「これ、女が女として男に対するとはえ?」
この無邪気な問いと、真剣な顔に、相手はとっさに返答する言葉を失ったとみえてちょっと黙っていたが、ややあって苦笑をおびた声で、
「されば。……」
と、いいかけたとき、どこからか、
「待った」
という声がかかった。――
黒装束のむれは、ぎょっとしておたがいの顔を見合わせた。
「よせよせ、大名の奥方――いや、姫君さまに――まだ何も知らぬ者に妙な講義をすると、かえって春心を催して、あの馬鹿殿と妙なことになるぞ」
「――やっ、あの声は」
と、こちらは愕然《がくぜん》としてさけんだ。
「彦四郎《ひこしろう》の声ではないか!」
それは、この松林に入るとき、見張りのために林の入口に置いてきたひとりの仲間の男の声であった。黒装束のむれは、その方に殺到した。鳥影が二羽、飛び立った。
そこに、まぎれもなく同じ黒装束の影が立っていた。殺到してくる仲間を迎え、ゆらゆらと身をゆさぶりながらなお声をつづけた。
「奥方に、竜庵屋敷に踏みこまれてはぶちこわしと、あわてふためいてさらってはきたものの、さてそれからの処置にはこまったの。もてあまして、ようやく御家老の隠密という智慧《ちえ》を出したとは」
「彦四郎!」
「いや、かんがえたりな藪医者《やぶいしや》竜庵――その実、服部蛇丸《はつとりへびまる》」
ぴゅっと、こっちから一すじの銀光が朧月《おぼろづき》を切ってとび、彦四郎の心臓につき刺さった。ぐらりと大きくゆれながら、彦四郎はまたいった。
「と、わしだけが承知しておる。藤堂家の者は誰も知らぬ」
ゆっくりと彼は、糸をひかれたように横だおしにたおれた。黒装束たちは、狂気のごとく駆け寄った。ひとりが飛びついて、彦四郎の覆面をはぎとった。彦四郎であった。手裏剣を刺しこまれ、苦悶《くもん》にゆがんだ顔が蒼白《あおじろ》く浮かんで――しかも、瀕死《ひんし》の男の唇は、笑うような声を発した。
「蛇丸――わしはおまえの邪魔をする。何よりも、伊賀の女をおまえの野心のいけにえにすることは気にくわぬから邪魔をする」
「こやつ、憑《つ》かれたな?」
凍りついたように彦四郎を見下ろしていた服部蛇丸はさけんだ。
「うぬは誰だ?」
「自来也」
「なんだと?」
「と、おぼえておけ。蛇丸、大それた野心はあきらめろ。手をひくがいい――といいたいが、あきらめはすまい、手もひくまい。それにわしはちょっとおまえと、忍法くらべをしてみたい気もある」
「忍法くらべ?」
「すでに、見たろう、おれの口を」
無足人、彦四郎の口から、血がごぼごぼとあふれ出した。
「これぞ阿波流――忍法|死人谺《しびとこだま》」
そういうと彦四郎は、がっくりとあごをあげてうごかなくなった。口がぽかんとあいた。――こときれたのだ。
「お、お、お頭」
ひとりが形容のできない顔をあげた。
「これは、そもいかなることでござる?」
「おそらく、何奴かが、どこかでしゃべっておる。それが、こやつの声帯をふるわせたのだ。奇怪な術をつかう奴」
服部蛇丸はうめいたが、眼は彦四郎の屍骸《しがい》からはなれて宙を見て、
「たしか、阿波流――と申したな」
それから、ものもいわず、そびらをかえしてもとの松林へ駆けもどった。
「おらぬ!」
彼はさけんだ。さっきまでそこに白鷺《しらさぎ》のごとく坐っていた鞠姫さまの姿は忽然《こつぜん》と消えていた。
「探せ! いまの話、きかれたかもしれぬ。かく相成っては、生かして帰しては一大事、もはや毒くわば皿《さら》まで――」
みなまできかず、無足人組は猟犬のように散った。朧月が雲から出たとみえて、地上に松の影が錯落《さくらく》と這《は》い出した。そうなると、かえって眼が混乱する――というより服部蛇丸は何やら気がせくらしく、
「いや、屋敷の石五郎、茜《あかね》こそ気にかかる。ともあれ、ひきあげろ」
手をふって、まっさきに疾風のごとく走り出した。
「……行ったようでござるな」
声だけきこえた。
鞠姫には、何も見えぬ。
ほんのいま、えたいのしれぬ黒頭巾のむれと問答していたとき、ふいに「よせよせ」と、どこからか笑う声がきこえ、それからきくにたえぬ無礼な言葉がつづいたあと、黒装束たちは動顛《どうてん》して駆け去った。
――と、みたとたん、さっと頭上から綱のようなものがおちて来て、からだにからみ、ついでハラリと布が全身を覆《おお》って、そのままキリキリと巻きあげられてしまったのだ。
「声をたてられてはならぬ。少なくとも、あなたさまの敵ではござらぬ。――まず、間に合うてよかった」
そういう声が、たしか二、三間はなれたところからきこえた。
「おっと、声をたてると、落ちますぞ。そこは松の木の上」
何もみえないが、鞠姫はじぶんが松のほそい枝に横坐りに坐っていることを感覚していた。じぶんの力でそのようなところに坐っているのではない。いちど吊《つ》りあげられて、そっとまた下ろされて、そんな姿勢になったのだ。
声をたてるなといわれたからではなく、さすがの鞠姫もあっと胆《きも》をつぶして声も出ず、綱に吊られたまま、ユラユラと松の枝に腰をかけていた。
……ややあって、最初のおどろきは一応|鎮《しず》まったが、応接のいとまもないほど相ついで起こる意外事に、彼女は少々ヤケクソになり、かつ面白くさえなっている。
じぶんのいまの恰好《かつこう》も、かんがえれば可笑《おか》しかったし、そういう目に会わせた男も――その正体を見ることさえできないが、声のひびきに何ともいえないユーモラスな感じがあった。
で、彼女はそのままの姿勢でいた。――黒装束たちが帰って来た様子で、
「おらぬ、探せ、いまの話きかれたかもしれぬ。かく相成っては、生かして帰らせては一大事。もはや、毒くわば皿まで――」
という甚《はなは》だおだやかならぬ声を発していたが、じぶんがすぐ頭上にいるのにもかかわらずどうしても見つからなかったとみえて、彼らはあわてて立ち去った様子だ。
「おわかりでござろう?」
と、じぶんを吊りあげた人間の声が笑いをおびてきこえた。
「きゃつらが、藤堂采女どのの手のものなどではないことが」
「あれは何者じゃ」
「医者の竜庵でござる」
「えっ」
「声は変えておるが――というより、まったく別人の声になるくらい朝飯前の男でござるが――おそらく先刻、竜庵の門前に立たれたあなたを、どこからか見ておって、あなたに家に踏みこまれては万事休すと、あわててここまでつれて来たものと見えます」
「あれが竜庵? ――すると采女は」
「御家老は何も御存じでない。ただ、何かと気のきく町医者だと思っておるばかり――きゃつらを隠密として使うほど、あの御老人は利口《りこう》じゃない。そんな智慧や才覚の入る余地のないほど満身馬鹿忠義でコリかたまっております。このたびのお妾《めかけ》献上の一件も、ひたすら石五郎君の毒牙《どくが》――と申そうか、痴牙《ちが》と申そうか――それからあなたさまを救おうとするコケの一心以外の何物でもござらん」
のっけから驚くべき事実をきかされ、鞠姫は相手の正体をきくことも忘れていた。その相手も、どうやら同じように高い枝にまたがっている気配だが、こんな問答を交わしているふたりのおかしな状態も彼女の念頭から去っている。
「采女が知らぬという以上、竜庵にはべつの所存があるのか。竜庵はいかなる下心で妾を世話したのじゃ」
「それが、よくわかりませぬ。――というより、まだあなたさまに申しあげる段階ではない、といった方がよろしかろうか」
「そちは何者じゃ」
やっと鞠姫は、われにかえった。
「そして、どのようなつもりでわたしを助けてくれたのじゃ」
「べつに、あなたに惚《ほ》れて助けに来たわけではござらん」
とんでもない返答が、――しかも恐ろしく爽《さわ》やかな笑いをおびてかえって来た。
「拙者《せつしや》は、ただ伊賀の美女たちが、あの江戸から来た阿呆《あほう》――色事以外とんと能のない御曹子《おんぞうし》のいけにえになるのが気にくわんから乗り出したまでのこと、ははは、あなたさまも、生まれはともかく、伊賀の女と申しあげてよいお方でござるでの」
「この、わたしにかぶせた布をとってたも」
「ところで、奥方さまにお願いがござります」
「たわけ、ひとをかような目に会わせておいて願いとは――無礼者、この布をとれ」
相手は委細かまわず、
「竜庵は去りました。しかし、きゃつ、これで手をひきますまい。かならず、若殿を女攻めにするでござろう。きゃつ、忍者です」
「竜庵が忍者」
「拙者はそれをふせいで見ようと存ずる。――そこでお願い申すのは、奥方さま、竜庵が左様な奴であることを、藤堂采女どのはもとより、お城のどなたにもお口をおふさぎになっていて戴きたいのだ」
「なぜ? きゃつのような痴《し》れ者を」
「なぜかというに、まず第一にそのことが明らかとなれば、あの忠義一途の御家老が仰天なされ、お腹を切られましょう。第二に、その波紋の及ぶところ、藤堂家にとって収拾のつかぬ騒動となる」
「すておけば、かえって藤堂家の難儀ではないか」
「いや、それをあばいて起こる悲劇は、ちょっといま、一口に申しにくいほどのものです。はっきり申せば、藤堂家お取潰《とりつぶ》しの運命をすら招きかねないことです。これはつよく警告しておきますぞ」
「そちは何者じゃ、これ、この布をとれ」
「第三に、拙者、きゃつとひそかにかつじっくりと忍法争いがしてみたい。――あまり大っぴらになると、それがやりづらくなります」
それがひどくのんきにきこえた。――のは、もとより神ならぬ鞠姫がやがて巻き起こされた忍法争いの凄《すさ》まじさを知るはずがなかったためでもあり、またこの見えない相手ののんきそうな語調に惑わされたせいもある。
「とれ、この布をとれ。とらぬと、そちの申すことをきかぬ」
彼女は身をもがいた。いったいどうされたのか。縄は両腕こめてキリキリと胴をしばり、いかにもがいても全身にかぶせられた布はとれぬ。
「地面におちて気絶してもよろしいか」
相手は面白そうに笑った。
「それより、まずおききなされ。わたしのいうことをきかれて、はじめておん兄君、蓮之介さまの御死因があきらかとなる。――」
そのとき、鞠姫のからだから、さっと布がとりのぞかれた。彼女はじぶんが地上一丈ちかい高い枝の上にいることを知った。
思わずグラリとした彼女のからだは、ちょっと浮きあがり、それからスルスルと降りはじめた。だれか、じぶんに絡んでいる綱をさばいている者がある。――地上に吊り下ろされると、綱はそれ自身いのちあるもののごとく解けて、空へもどってゆく。
「という見込みです」
声は空からきこえたが、そのあたりに誰の姿も見えない。
おどろくべし、おぼろ夜ながらいまの綱さえ、まさしくふっと虚空に消滅してしまったのである。
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東西東西《とざいとうざい》
鞠姫《まりひめ》は、眼をいっぱいに見ひらいて空を見上げていた。いかに眼をこらしても、声のきこえるあたりの松の枝は、どの枝もおぼろおぼろと、しかし、たしかに空を透かしている。
あまりの奇怪さに、彼女はその見えない影がいまいった言葉の脈絡をたどる判断力を喪失したほどであった。
「なんとえ?」
と、やっと鞠姫はいった。
「おまえのいうことをきくと、兄上の御死因があきらかとなる見込みじゃと?」
「御意」
見えない影の言葉は、実に重大なことだ。しかし、そのことは先刻の黒装束の一団――いまの声のいうところによれば医者の竜庵――も同じようなことをいった。医者の竜庵が真に藤堂家を思うものではないことは、すぐそのあとの彼らの言動からはっきりしたが、さればとて、それを曝露《ばくろ》したこの影の言葉も、どこまで信じてよいことか?
「わたしのいうことをきけ」とは、その竜庵が藤堂家に仇《あだ》なす人物であることを沈黙していろということだが。――
「黙っていれば、竜庵は何をする?」
「いま申した通り、石五郎さまを女攻めにいたすでござろう」
「それをわたしに眼をつぶっていよというのか」
「御意」
それどころか、鞠姫は卒然として、たったいまも竜庵の屋敷で石五郎が「女攻め」に逢《あ》っていることを思い出した。その竜庵は「石五郎と茜《あかね》こそ気にかかる」とさけんで駆け去っていったが、べつの意味で鞠姫にも気にかかる。
彼女は返事もせずに走り出そうとした。
「お待ちなされと申しておる」
声が、こんどは彼女の前方からきこえた。
「あなたさまがお騒ぎになると、藤堂家がつぶれるといった意味がおわかりになりませぬか」
「な、なぜじゃ」
「あまりお呑《の》みこみがわるいゆえ、いいづらいことじゃが、申す。お父上、和泉守《いずみのかみ》さまのお部屋さま綱手《つなで》のおん方は、元来竜庵の手を経てお城に上られた方でござりまするぞ」
「あ!」
鞠姫は電撃されたようになった。声がふるえた。
「では、では、綱手どのは……竜庵の一味か」
「か、どうかはまだよくわからぬ。が、少なくとも綱手どのは、あなたさまの腹ちがいの弟君、竜丸《たつまる》さまの御生母です。おん父上の御寵愛《ごちようあい》もふかい。……たとえあなたさまがお父上に何を申されようと、和泉守さまがやすやすとおとりあげになるか、どうか疑わしゅうござる。またおとりあげなされても、罪なき竜丸さまはいかが相成る。そしてかような藤堂家内部のゴタゴタが世にあきらかとなれば、大名つぶしに眼をひからせておる公儀が黙っておるものとも思われぬ」
鞠姫は蒼白《そうはく》になっていた。
兄|蓮之介《れんのすけ》の死がただごとではないとは思っていた。しかしそのことについて彼女はいままで江戸方面に嫌疑《けんぎ》をかけていたのである。しかるにいま、この謎《なぞ》の影は、その原因を藤堂家の内部に暗示している。――彼女は眼の塵《ちり》がおちたように思った。
しかしそれは、巨大な公儀よりももっと恐ろしい、いとわしい、吐き気のするような、体内の血塊に思われた。もしそれが事実ならじぶんは黙ってはいられない。――が軽々しく口に出すことはいよいよならぬ。たしかにこの見えない影のいうとおりだ。
「わたしの申した意味、おわかりか」
と、声はいった。
「おわかりになったら、わたしにおまかせあれ」
「そなたはだれじゃ」
鞠姫は前方を見てさけんだ。さっき問いかけたときに数倍する切実な欲求――恐怖すらおびた悲鳴にちかい声であった。
「自来也」
「えっ」
「と、おぼえておいて下されい」
笑いをふくんだ声がきこえたあたりに、ぼうと白いものが浮かびあがった。鞠姫は眼を見張った。ほんの二間ばかり前方だ。そこに白いものが――いや、ひとつの顔があらわれたのである。
「去年まで江戸にお住まいなされていた鞠姫さまなら、この顔あるいは御存じでござりましょう。江戸役者の市川団十郎の自来也でござる」
それが背中に描かれた顔だということに鞠姫は気がついた。同時に彼女は、そこに向こうむきに立っている白い頭巾、白羽二重の着流し――全身|鷺《さぎ》のように真っ白な男を見た。彼はふところ手をしているようであった。
「なぜ、いままで見えなかったのか、ふしぎでござろう。これは忍法月の羽衣――月光の色に似た布をかぶっていたものです。いや、あなたに見えなかったのはふしぎではないが、伊賀の忍者たるあの竜庵一味に、これをかぶっていた拙者はもとより、あなたまでが見えなかったことこそふしぎ。おちついて空を透かせば、きゃつらには、見えたでござろうに」
「そなたも……伊賀の忍者か」
「まあ、そんなもので」
「藤堂家に忠心を抱く忍者じゃな。ならば、なぜ、自来也などいう異名を名乗らず、わたしに正体をあきらかにせぬ」
「いや、藤堂家にとって忠義者であるかどうかはまだわかりませぬ。先刻申しあげたごとく、伊賀の女をあの馬鹿殿の――これは失礼、あなたさまの御亭主どのでござりましたな――いけにえにするのが不服で、しゃしゃり出て来ただけで」
「自来也とやら」
鞠姫は新しい疑問を投げた。
「もし、兄蓮之介が竜庵一味の魔手によるものなら――さっき竜庵がいった、兄上の御死因をさぐるために女を石五郎どのにちかづけるというのは嘘《うそ》じゃ。それでは、なんのために石五郎どのに女をちかづけようとする」
「石五郎さまに、蓮之介さまの二の舞いを踏ませようとするためでござりましょう」
「では、では、石五郎どのも……兄同様に殺されると申すか」
「御心配か」
「いや。――」
と鞠姫は、あのたわけた夫の顔を瞳にえがき、思わず正直にくびをたてにふったが、すぐにまた正直にくびをよこにふって、
「ちと、ふびん。――」
と、いった。
「それよりも、自来也、わたしに黙って見ていよと申して――かりにも夫たる者が、怪しき女に誘われるのを黙って見ていることは、わたしにはがまんならぬ」
「御心配あそばすな。石五郎さまがいかに誘われなされたとて――あわやというときには、自ラ来ル也」
「え」
「ふ、ふ、ふ、拙者必ず現われて、その邪魔をいたします」
こういっているあいだも、無礼な奴で、依然として自来也と称する男は向こうむきのままだ。ふいに鞠姫は駆け出した。前にまわってその顔をみるか、頭巾をとってやろうとかんがえたのである。
しかし彼女が自来也の立っていた位置に達したとき、自来也の白い影は、すうと三間さきにあった。
「それゆえ、あなたさまには御心配なく――というより、あぶないから、お手をお出しなされまするな。むろん、竜庵一味との忍法争いとなりましょう。ほんとうのところは、それが拙者のそもそもの狙《ねら》いで」
なんのこともなげに、自来也は言葉をつづける。
「ようござるか、あなたさまは、このままお城におもどり下され。くれぐれも拙者の申すことをおきき入れなさるように」
鞠姫はなお駆けた。
背にえがかれた自来也の顔は、四間かなたにながれ去った。
「あなたさまは、高見の見物をなされておればよいのでござる、竜庵一味対自来也の忍法争いを――」
鍵屋《かぎや》の辻《つじ》の松林は、すでに出はずれた。
「待ちゃ、待って――自来也!」
恐ろしい一夜のはずなのに、朧月《おぼろづき》の下を追いつ追われつしているうちに、鞠姫はしだいに何もかも朧おぼろとして、これまでのことはみんな夢であり、いまもまた夢みているような気がして来た。
気がつくと、すでにあの白い影はどこにも見えず、ただその朧月のあたりで声がきこえた。
「東西《とざい》、とうざぁい」
農人町に馳《は》せもどった黒|装束《しようぞく》のむれは、医者の竜庵の屋敷ちかくになると、八方に散った。ひとりだけが残って、まるでむしりとるように黒装束と頭巾《ずきん》をぬいだ。竜庵の顔があらわれた。
竜庵の形相は人間のようではなかった。
竜庵は、服部蛇丸である。表向きの職業は町医者としてこの農人町に住み、その技術で家老の藤堂采女の信を買った。そして一族の綱手を津の城に御国御前《おくにごぜん》として送りこむのに成功した。
藤堂家の血に、服部の血をそそぎこむ。染めかえる。そして伊賀国を伊賀の血で統《す》べる――この大野心をとげるべく、伊賀にあって、江戸の藤堂蓮之介をひそかに葬り去った。かくて藤堂家に残るは、服部の血を享《う》けた竜丸君のみ――と思っていたのに、はからずも、江戸から図々しく徳川石五郎を送りこんで来たのだ。これに蓮之介のあとを追わせるのは極めて危険な非常手段だが、腕こまぬいて見のがしていては、いままでの努力がすべて水泡《すいほう》に帰する。とんびに油揚をさらわれると同然のこととなる。とくに彼の胤《たね》が鞠姫にやどりでもすれば万事休すだ。何はともあれいそぎ石五郎を始末せねばならぬ。たとえその死が怪しまれようと、蓮之介の場合と同様、絶対に服部に疑いのかからぬように細工をする自信はあるし、藤堂家内部でも、この唖《おし》で馬鹿の押付婿が頓死《とんし》でもしたら、かえって内心|双手《もろて》をあげてよろこぶ者が多かろう。――
かくて竜庵は、家老藤堂采女を介して、石五郎に美女献上の儀をすすめた。その真意を知らず、采女は石五郎をきらう鞠姫を護るためにそれを受け入れた。しかるに鞠姫は、いかにも大名の姫君らしい誇りから石五郎の妾を拒否した。で、やむを得ず、石五郎をじぶんの家に呼んで、服部のくノ一|茜《あかね》と密会させる手はずをきめたのだ。魚ごころあらば水ごころ、といおうか、発情した牡馬のごとき石五郎は大乗り気で、城から城下町への夜這《よば》いともいうべきこの途方もない、たわけた遊びに応じた。
服部無足人のくノ一の愛液は、洗えどもおちぬ、順次、五人のくノ一によって五層に重ねれば、男は自動的に精液を噴きはじめ、その流出やむことなくしてついに死に至る。その五人めの女と、どこか伊賀を離れた場所で交わらせれば、ここに遠距離の完全殺人が成功するわけだ。
忍法精水波の第一の選手茜。――その罠《わな》にいまや石五郎がおちんとして、はからずも思いがけぬ邪魔が入った。いや、邪魔すると宣言した人間が出現した。
一人めは、なんと鞠姫さまだ。誇りか、ヤキモチか、とにかく当人は夫をきらい、拒否していながら、一方では夫をゆるさないで城から追っかけてきたという心理は、ちょっと見当がつかないが、その姿を偶然門前に見たときには、竜庵も驚愕狼狽《きようがくろうばい》した。とにかくふつうのあしらいでは撃退できる相手ではないから、あの場合、あのような装束でひっさらっていったことはやむを得ない処置だ。
それを、家老藤堂采女の密々の指令によるものだ。――と、取繕《とりつくろ》おうとしたところが――またしても大意外事が起こって、それに水をさした。いや、鞠姫さまをあざむくことに邪魔を入れたばかりか、そもそもの服部無足人の野望を邪魔してやると宣言した!
自来也。――
きゃつ、何者だ?
服部無足人組の秘密を知り、彦四郎ほどの男を斃《たお》してそれにとり憑《つ》き、彼の口を通じて嘲笑《あざわら》い、しかもじぶんたちについて姿を見せぬという忍法をつかってみせたきゃつは、いったい何者だ?
阿波隼人《あわはやと》?――その名が服部蛇丸の頭に明滅している。
彼からみれば若輩の阿波隼人が、いつのまにかそんな忍法を体得していたとは絶対に信じられないが――しかし、服部川でたしかにこの手で討ち果たしたつもりであったのにみごとに生き返って逃げた奴だ。信じられないことだが、現実にこの眼で見たのだ。
ここ一、二年、じぶんがこの上野の町医者竜庵として城代藤堂采女にとり入ったり、またしばしば津の本城へいって綱手と連絡したりして、その方の仕事に精を出して、服部郷は留守にしがちであったから、その間に、きゃつひとりで修行し、工夫し、いまこちらの眼をぬくほどの忍者に成長していたのであろうか。
きゃつはいった。「わしはおまえの邪魔をする。なによりも伊賀の女をおまえの野心のいけにえにすることは気にくわぬから邪魔をする」
藤堂石五郎を忍法精水波にかけるべき茜はどうしたか。ひょっとしたら、あの自来也というふざけた名をつけた奴が、すでに邪魔を入れているのではないか。
竜庵の表情は、その内心とは反比例して、能面のようになり、いわゆる何くわぬ顔をして――彼はじぶんの家の門を入っていった。配下たちは一応散らしたが、万一の場合をおもんぱかって、やはりこの家をとりまいて近づきつつある。
玄関に入って、彼は立ちすくんだ。
そこに代脈《だいみやく》の男と、二人の下女が眼をむいて気絶していた。ものもいわず走り出そうとして、さすがの服部蛇丸も足がよろめいたか、代脈の男の脾腹《ひばら》を蹴《け》った。うなり声をきいて、蛇丸はふりかえった。
「先生。……」
「客人はどうした?」
と、蛇丸はいった。代脈の男は、蛇丸の素性を知らぬ。彼をまことの医者と思って仕えている。それが、まだ恐怖の意識もかたまらないうつろな眼でいった。
「存じませぬ。……庭から突然、白い頭巾、白いきものをきた男が風のように入ってきて、出合いがしらに当身をくらわされ、それっきり何も存じませぬ。……」
蛇丸は中に駆けこんだ。――例の忍法精水波の祭壇たるべき部屋へ。
そこに蛇丸が見たものは、褥《しとね》の上にあおむけにたおれている茜だけであった。石五郎と蟇丸《がままる》の影はどこにも見えぬ、ということを意識するまえに、蛇丸は茜の姿に眼を吸われた。
茜は長襦袢《ながじゆばん》を大きくひろげられて、胸から腹まであらわにされていた。その真っ白な絖《ぬめ》のような皮膚に、墨痕《ぼつこん》あざやかに、
「自来也参上」
と書き残された文字が眼を射ったのだ。
服部蛇丸はちかづいて、茜が殺されているのではなく、失神していることを知った。抱きあげて、その股間《こかん》に指をさし入れた。茜は腰をうねらせ、うす眼をひらいた。残酷な「活」であった。
「精水波は、成らなんだな」
と、無情な声でいった。
「自来也という男が来たか」
「御存じですか」
いちどにじぶんをとりもどしたように茜はさけんだ。それから、長襦袢をかき合わせ、
「お恥ずかしゅうござります」
と、ひれ伏してしまったのは、いまのあさましいじぶんの姿への羞恥《しゆうち》ではなく、今夜の任務に失敗したことを謝罪したのだ。
先刻起こったことを、女忍者らしくもなくわななきながら話す茜の声を、服部蛇丸は暗灰色に沈んだ顔色できいていたが、途中でそれをさえぎって、
「それで、石五郎と蟇丸はどうしたか」
「石五郎さまがその自来也とやらに踏みつけられて気絶なされたことは存じておりますが、そのあとわたしも、その石五郎さまに蹴られて……」
「気絶した石五郎にか」
「はい。……たしかに気絶なされた石五郎さまが、突然足をあげてわたしを蹴られたのでございます」
蛇丸は鍵屋の辻の松林で、見張りの彦四郎が自来也にとり憑《つ》かれたとしか思えない言動を示したことを思い出していた。――きゃつ、他人に憑く忍法をつかう。或《ある》いは気絶した人間すら、きゃつの意志通りにうごかすのではないか?
「自来也、とは何者だ?」
「存じませぬ」
「阿波隼人ではあるまいな?」
突然そういわれて、茜はこんどは唇をふるわせただけで答えなかった。それより、その一瞬、女の眼にひらめいた或る動揺に服部蛇丸の方が愕然《がくぜん》としていた。
「茜! きゃつが隼人であったというのか!」
「いいえ、ちがいまする」
茜はくびをふり、恐怖の眼で首領をながめ、もういちどさけぶようにいった。
「隼人どののはずはありませぬ。あのひとが服部の敵に廻るなどと、そんなことが……」
「しかし、きゃつ、服部川で、はっきり手むかいするといった。事実、おれに挑戦《ちようせん》した。……」
そううめきながら、茜の瞳《ひとみ》から何かを吸いとるような凄《すさ》まじい眼で見すえていた服部蛇丸は、ふいにぬっくと身を起こした。
「こうしてはおられぬ。いそぎ、この屋敷はひき払わねばならぬ。……おまえら五人のくノ一とおれだけは、服部郷から身をかくさねばならぬ」
「服部郷から?」
「服部無足人組の秘密を知っておる奴が敵に廻ったのだ。われらのたくらみが藤堂家に告げられるおそれがある」
「では、例の精水波の一件は、もうあきらめるよりほかはないのでございますか」
「いや、綱手が和泉守をしっかとつかんでいるゆえ、まだ打つ手はあろうが、ともかくもわしたちは、ひとまず闇《やみ》の彼方へ消える必要がある」
服部蛇丸は、じぶんたちをそういう破目《はめ》に追いこんだ自来也と名乗る男への怒りと恨みと憎しみのために歯ぎしりをした。
「自来也が阿波隼人か、何者か、遠からずきっとつきとめてくれる。きゃつを討ち果たせばわかることだ。きゃつ、僭上にも、忍法争いとほざきおった。たとえ闇にひそもうと、こうなればあくまでもあの石五郎めを精水波にかけ、きゃつの鼻をあかさねば、服部無足人の面目がたたぬ!」
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髪まねき
鞠姫《まりひめ》は、城にかえった。――
「鞠姫、かえりました」
彼女は、ちゃんとそうことわって、いくつかの門を入っていった。
彼女が城を出ていったことを知り、かつ口止めされていた門番たちは、その数刻のあいだに心配のあまり眼をくぼませていたが、帰城して来た鞠姫を見て、みなヘナヘナと崩折れそうになった。
「他言無用です」
鞠姫は口早に、いいすてて城の奥へ入ってゆく。
実は、門番たちにききたくて、胸もざわめいていることがある。石五郎が帰っているかどうか、ということだ。しかし、それはきくことができなかった。またきいているいとまもなかった。石五郎のことは案ずるな、竜庵《りようあん》一味の陰謀には手を出すな、一刻も早くこのまま城に帰られよ。という自来也なる男の言葉に従って帰城した鞠姫であったが、さて。
彼女はじぶんの寝所にかえった。それからいそいで石五郎の寝所にいってみた。
すると、石五郎はちゃんとそこに眠っていた、ただ、枕《まくら》もとに甲賀蟇丸《こうががままる》が坐《すわ》っている。口をぽかんとあけて眠っている石五郎を、腕をこまぬいてながめている。
「どうしやった?」
はずむ息をおさえて鞠姫はきいた。
「すこしお熱があるようでござります」
と、蟇丸がいった。
「えっ、お熱が?」
「いえ、たいしたことはござりませぬが」
「蟇丸」
たまりかねて鞠姫はきいた。
「先刻、わたしがのぞいたとき、石五郎どのは、おられなんだようじゃが」
「おや、御存じでござりましたか。実は石五郎さまには、からだがほてると仰せられ、拙者《せつしや》お供つかまつって――」
「どこへゆきゃった?」
「お庭をしばし散策しておりました。いや上野のお城の夜桜とおぼろ月はまたかくべつで」
ぬけぬけという。
「それでかえってお風邪《かぜ》を召したのかもしれませぬ。要らざることをして、奥方さまにはお大事な殿にお風邪をひかせるとは、臣が罪万死に値するもの――と、先刻より嘆きつつ、かくお伽《とぎ》を仕っておりまする」
いうことが大げさだ。あくまでシラを切る気とみえる。鞠姫はわれを忘れて声ふるわせた。
「お風邪ならば、すぐに――竜庵を呼べばよかろうに」
「竜庵?」
さすがに、ぎょっとしたように蟇丸は鞠姫を見あげた。鈍重なること、それも蟇そっくりの顔が、かすかではあるが狼狽《ろうばい》の色を浮かべたようである。
「ああ、あの医者でござりまするか」
と、やおら思い出した風にいったときには、もうもと通りのおちつきはらった表情にもどっている。それどころか、皮肉とも哀願ともつかぬにぶい笑いを浮かべていった。
「あの医者は、風邪の熱よりも、ほかの熱をさます薬を処方する方が上手《じようず》なようで。……」
「たわけ」
「あいや、奥方さま、これは冗談ではござりませぬ。殿のお熱はお風邪にあらず、ほかのお熱かもしれませぬ。……奥方さまに御看《おみ》とりをいただきますれば、たちまちぬぐうがごとく去るお熱かも。――」
「わたしが看取りすれば、わたしの方に熱が出る」
と、鞠姫はさけんで、ピシャリと唐紙《からかみ》をしめた。
あくまでとぼける蟇丸に胸がワクワクしたが、しかしそれ以上、今夜竜庵の家で何が起こったのか、石五郎たちがいかにして城に帰ったのか、鞠姫は追及することができなかった。今夜のことを――とくに自来也なる人物のこと、彼のいったことをうちあけるわけにはゆかないのである。
(たわけ、ならば勝手に女攻めとやらに逢うて死ね)
と、心でさけんで、ふいに彼女は頬《ほお》をあからめた。わたしとしたことが、はしたない。
それにしても、わたしはあの自来也のいうことを信じているのであろうか。また彼に誓わせられたことを守ろうとしているのであろうか。
朧月《おぼろづき》の下の白頭巾、白衣の影が幻となって眼をよぎると、彼女の頬のあからみは別の意味をおびたものとなった。……あれはいったい何者であろう?
それと対照的に、いま口をアングリあけて眠っている夫の顔が眼に浮かんだ。情ないおひと、と思うと同時に、鞠姫はふいにじぶんが非常に罪ぶかい女であるような意識にとらわれた。
(自来也)と、彼女はつぶやいた。
(そなたのいいつけじゃが、やはり石五郎どのを竜庵一味の忍法のいけにえとするわけにはゆかぬ。いいえ、そなたは石五郎どのの好色から伊賀の女を護るといった。けれどその伊賀の女は忍者というではないか、どちらがいけにえかしらず、どちらにせよ、やはりわたしは手をつかねて見すごしてはおれぬ。とくに石五郎どのが愚かなお方であるだけに)
はじめて鞠姫は、夫に対して貞節の心を起こした。しかしこれは貞節というべきだろうか。
……妙な貞節だ。正確にいえば、むしろあわれみ、逆にいえば彼女の誇り、負けずぎらいから発した心情であろう。
夜が明けた。
鞠姫は腰元をやって、ひそかに町医者竜庵の家をさぐらせた。――すると、竜庵は昨夜急にあわただしく旅立って、留守居の下女の話によると、そのゆくえも帰る日も知らぬという。――
竜庵は昨夜の失敗によって身をかくしたのだ。――彼は闇《やみ》に没してしまった。
ああ、味方が欲しい。
鞠姫はそう思った。
あれから五日ばかりたった。そのあいだ何事も起こらない。石五郎はどこにも出かけない。例のごとく、うつろな眼をしてフラフラあるき、奇声を発して女中たちの裾《すそ》をまくる。この方はいっそうはげしくなったようだが、それ以外にべつに変わったことはない。
城内の桜をつつむものうい春昼《しゆんちゆう》のひかりを見ていると、あの朧夜のことは夢ではなかったかとさえ思われるほどであった。
しかし、そんなはずはない、あれはまちがいなく現実のことであった。竜庵が姿をくらましたのが夢でない証拠だ。――あの伊賀《いが》忍者たちは石五郎どのを「女攻め」にすると自来也はいった。彼らは何らかのかたちで、ふたたび石五郎を誘い、或《ある》いは襲ってくるだろう。
むろん、石五郎や蟇丸がそんなことを知っているはずがない。知っているなら、あの夜ノコノコと竜庵の家に出かけるはずがない。――その竜庵が逐電《ちくてん》したことは、もはや彼らも知っているだろうが、そのことをどう解釈しているのか鞠姫には見当もつかない。石五郎にきいたところでぽかんとしているだろうし、蟇丸はそらとぼけるにきまっている。何より彼女は、彼らに竜庵一味のことを知らせるわけにはゆかないのだ。
彼らどころか、家老の藤堂|采女《うねめ》にも、本城の津にいる父和泉守にも訴えることができない。
もし自来也のいうごとく竜庵と綱手の方が同腹であるならば、しかとした証拠もなく、この大事をあからさまにしてはとりかえしのつかないことになるからだ。
ああ、味方が欲しい。――そう心でもだえながら、鞠姫はじぶんの城にいて、しかも孤立無援であった。
孤立無援。――いや、自来也がいる。自来也は、竜庵一味の女攻めを防いでやるといった。そして兄蓮之介の死因をつきとめてやるといった。
鞠姫は、あの奇妙な白装束の男を、いつしか信じているじぶんに気がついた。
とはいえ、彼がじぶんのそばにいるわけではない。だいいち、あのような奇妙な男が、この城内に入れるわけがない。……ほんとうに彼は「自から来る」だろうか。
信じつつ、疑いつつ、鞠姫は石五郎主従のうごきから眼をはなさなかった。
気がつくと、石五郎の挙動がおかしいのは、いまさらのことではないとして、どうも蟇丸の様子がおかしい。じぶんをみると、コソコソとかくれたり、声をかけるとどきんとした風をみせる。
……何か、たくらんでいるな、と鞠姫はかんがえた。そして、わたしが見張っているのをかんづいて、うごきがとれないでこまっているな。
鞠姫はわざと身を遠く離した。しかし、眼は離さなかった。彼女は江戸から持って来た南蛮渡来の遠眼鏡を思い出したのである。
本丸の中心部。
高い石垣《いしがき》の上に、鞠姫は立っていた。誰《だれ》も鞠姫がそんなところにいるとは知らなかったし、彼女の立っている場所の左右もまた石垣になっていて、ちかくに寄っても誰にも見えない。
鞠姫は遠眼鏡を眼にあてて、それを下にむけていた。彼女はちかくの庭をぶらぶらあるいている石五郎を見ていたのである。
何のへんてつもない。――いや、大人のやることとしては、大いにへんてつのある方だろう。石五郎は、なんとひとりで石けりをして遊んでいるのだ。陽炎《かげろう》の中で、彼は大きな子供みたいにとびはねていた。子供の石けりは軽捷《けいしよう》だが、彼の動作はいかにもぶきっちょで、かつ滑稽《こつけい》であった。
こんなことを、石五郎はもう一刻ちかくもやっている。先刻まで蟇丸もそばにいて煙管《きせる》をくわえてそれを見物していたのが、さすがに退屈したか、どこかへいってしまった。鞠姫も飽いた。遠眼鏡を眼からはなしかけた。
そのとき石五郎が石けりをやめて、こちらに歩いて来た。――いかにもその挙動は唐突だが、これはいつものことである。
石五郎はしだいに近づき、そして鞠姫のいる下を通りかかった。
そこもまた前後左右、ただ通り口だけをのぞいてすべて石でたたまれた一劃であった。
そのとき、ふと石五郎が立ちどまった。ちょうど、鞠姫の直下だ。白い石だたみの上に、石五郎の影はなかった。日が中天にあるからだ。
彼はすぐ眼前の石だたみをじっとのぞきこんでいる。しかし、そこには一見何も見えなかった。
鞠姫は遠眼鏡をまぶたにくいこませた。直下といっても数丈の高さからだが、この遠眼鏡で見れば、それは掌上のもののごとく見えるはずだ。――ところが、いくら眼を見張っても、何も見えない。
が、――そのうち彼女はやっと見つけた。見つけて、息をのんだ。そこには数十本のながい髪の毛がうごいていた。
髪の毛だけだ。それがうごいている。風もない、石の筐《はこ》の底みたいな場所でゆらめいている。
いや、風があっても、あんな風なうごきは見せないだろう。
それは、まるで生きものみたいにくねって、白い石だたみの上に淡いかたちをえがいていた。――文字だ。鞠姫は必死にそれを読んだ。
「こんやよつ、ゆみやぐらのしたで」
今夜四つ、弓櫓《ゆみやぐら》の下で。
――そう解くのに、数分かかった。しかし何たる奇怪な通信だろう。しばし茫《ぼう》としていた鞠姫は、ふいに愕然《がくぜん》として、石五郎の前後左右を見まわした。髪の毛以外に怪しいものの影はない。
どこから飛んで来た髪か。石五郎のまわりのみならず、累々《るいるい》たるあちらの石垣や層々たるこちらの土塀《どべい》を見わたしても、どこにも誰の姿もなかった。
あわててまた遠眼鏡を眼にあてると――そのとたん、石だたみの上の髪文字は、こんどは風に吹かれたようにハラハラと解けて、どこかへ散ってしまった。
石五郎はキョトンとしている。いくら馬鹿でも、この奇怪事は奇怪と思ったらしく、キョロキョロとあたりを見まわした。
そのとき、奥の入口から、蟇丸が出て来た。それにむかって、石五郎はいまの異変を説明しはじめた案配だ。――案配だというのは、口がきけないから、こぶしをにぎったり手をひらいたりする仕方話の様子からそう想像されたのである。
蟇丸は笑った。声はきこえなかったが、大きな口でニタリと笑った。
それから、指をあげて、石五郎のひたいを軽く二、三度たたいた。御冗談を仰せられるのはおよしなされ、といっているように鞠姫には判断された。
現実に見なかったら、石五郎から――もし彼が口がきけたとして――話をきいても、とうてい鞠姫にも信じられなかったろう。
四つ(十時)過ぎても、鞠姫は石五郎の部屋にいた。珍しいことだ。いや、婚礼以来はじめてのことだ。
いるにはいるが、べつに話をするわけではない。また話のできるはずがない。彼女は端然として机にむかって古今《こきん》和歌集をひもといていた。
石五郎ははじめ眼をかがやかせてそれをながめていた。やがて舌で唇をなめて、そっと立ちあがり、彼女の方にちかづこうとした。彼女は机の上にある懐剣に手をやった。石五郎はぎょっとしたように立ちどまり、くびをひねり、それからそっと坐ってしまった。
ややしばらくして、彼はまた立ちあがろうとする。すこしあらあらしい動作だ。鞠姫は懐剣をぬき、じぶんののどにさしあててみせる。彼はがくんと腰をおとしてしまう。こんな沈黙劇が数度くりかえされた。
石五郎はついに梟《ふくろう》みたいに鳴いた。狼《おおかみ》みたいにうなった。鯨《くじら》が潮を吹くような音声を発した。いかに奇声を以ておどし、或いは哀願しても、鞠姫は冷然として応じない。
床の間の自鳴鐘が四つを告げた。――
石五郎はそのときはべつに気がつかなかったらしいが、ややあって、何か思い出したようだ。あきらかに窓の方を見て、ソワソワ、ムズムズしはじめた。
窓は鞠姫のななめうしろ、三尺ばかりの距離にあった。
「なりませぬ」
と、彼女はひくくたしなめた。
実は、鞠姫は迷っていた。あの髪の毛による通信は、竜庵一味の誘い出しだと思う。今夜四つ、弓櫓の下で。――そこに家来を張りこませるか、じぶんが見張っているか、ちらとそう思案したが、その思案をおさえたのは、あの自来也の言葉であった。「あなたさまがお騒ぎになると、藤堂家が潰《つぶ》れるといった意味がおわかりになりませぬか」
だから、一見冷然と歌集など見ていながら、彼女はこれからどうしようか、迷いに迷っていたのだ。
石五郎は敵の魔の誘いにのって、フラフラとさまよい出そうとしている。待っているのは、忍者の「女攻め」だ。――
夫婦の盃《さかずき》をかわしながら、いまだに夫に身をゆるさない。ちかづけば、自害しかねまじき挙動を以《もつ》て威嚇《いかく》する。そればかりか夫がほかの女のところへゆこうとするのを禁止する。――なんともわがまま至極な奥方だが、しかし鞠姫からすれば、石五郎がそこへゆくことは兄蓮之介の二の舞いをふむことになるというのだから、彼の方こそ知らぬが仏、といいたくなる。しかも、その事情を彼に告げることができないのだ。
いや、それどころか自来也は、ほうっておけ、私にまかせろ、そうすることによって蓮之介さまの御死因をつきとめることができるといった。――
迷い、迷いつつ、時刻は四つとなって、さまよい出そうとする石五郎を、思わず彼女は「いってはなりませぬ」と制止してしまった。……では、いったい何事が起こるのか。何事も起こらないか。
四つから、十数分たった。……
「くっ、くっ、くっ」
ふいに石五郎が奇声を発した。
鞠姫はふりかえって、そこの円窓の明り障子が、いつのまにか細くあけられているのを見た。まったく音もたてずに――窓の下は一丈ばかりの石垣のはずなのに、何者だろう? その細いすきまから、すうっと一本の腕が入って来た。白い、なまめかしい女の腕だ。それが、「おいでおいで」をして、ヒラヒラとさしまねいた。――
おそらくその女には、ななめ前の位置に坐っていた鞠姫が見えなかったのであろう。ここにいるのは石五郎ひとりだと思って、約束の時刻がきても約束の場所にこない彼を呼びに来たのであろう。
「ええい!」
鞠姫はうしろ手に懐剣をひっつかむと、身を泳がせてその腕に斬《き》りつけた。
この行動も恐怖のあまりであったが、恐怖は思いがけぬほどの力を彼女にあたえて、その白い腕は手くびから、ばさ! と斬りおとされた。それは血しぶきあげてたたみにおちたのである。
窓の下で悲鳴はあがらなかった。手くびを失った腕は消えたが、窓の外は墨汁のごとくとろんと夜気をよどませているばかりであった。
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第一波
鞠姫《まりひめ》は馳《は》せ寄り、円窓の障子をおしあけた。そして、外をのぞいて、あっと立ちすくんだ。そこには、何者の姿もなかった。
そんなはずはない。窓の下は、一丈ばかりの石垣《いしがき》だ。いまその窓から一本の女の腕がさしまねいた。じぶんはその手くびから斬った。斬られた人間は、二言となくまろびおちて、石垣の下にのたうちまわっているはずだ。――
にもかかわらず、石垣の下の地上にも、石垣にも、それから見わたすかぎり銀鼠《ぎんねず》色におぼろおぼろとした庭にも、誰の影も見あたらない。――いや、眼を凝《こ》らせば、何やらある。
窓の下をのぞきこんで、鞠姫は息をのんだ。そこには一本の蒼白《あおじろ》い腕がうごめいた。腕だけが――しかも、たしかに肩から切りとられ、さらに手くびのない腕だけが。
鞠姫は、石五郎の存在など忘れて部屋をとび出し、廊下を走り、庭を廻って、その石垣の下へ下りてみた。……そしてまた眼を見張って立ちすくんだ。
そこに一個の人影が忽然《こつぜん》と立っていた。
「鞠姫さま」
白い頭巾《ずきん》、白|羽二重《はぶたえ》の着流し――ふところ手をしている。
「自来也」
と、鞠姫はつぶやいた。
「やはり、来たようでござるな」
いまの怪異のことにちがいないが、鞠姫は一瞬、自来也自身のことかと思った。この異形の姿で、地から湧《わ》き出すように城の中に出現した彼こそ奇怪だ。
「自来也……腕を出せ、腕を見せや」
と、鞠姫はさけんだ。……自来也はひくく笑った。
「――ほ、まさか、拙者をお疑いではありますまいな。拙者、腕はあります。それ、この通り」
彼はふところから手を出した。手は三本あった。つまり、ふところから出した彼自身の腕のさきに、もう一本の腕をつかんでいたのだ。さっき鞠姫が見た、手首からさきのない白い腕であった。
「まことに奇怪千万。この腕、かく相成っても、生あたたかく、そして脈を打っております。ごらんなされ」
にゅっとその腕をつき出したので、鞠姫はとびすさったが、眼はいっぱいに見ひらいて、
「えっ、斬られた腕が――」
「拙者は今宵からずっと石五郎さまの御寝所を見張っておりましたが、何者のちかづく影もまったく見かけませなんだ。敵としては、拙者には気がつかずとも、あの甲賀蟇丸《こうががままる》がおそばにおることは知っておるはず――その蟇丸もおそらく、たぶらかされたものでござろう――まさか、腕一本、地を這《は》って忍び寄ってこようとは」
「そ、その腕一本が――腕だけで這って来たと申すのか」
「おそらく。――」
と、いいかけて、自来也はちらと顔を横にむけた。その方をみて、思わずまたさけび声をあげようとする鞠姫の頭上から、ハラリと一枚の布のようなものがかけられた。
「しっ」
と、制する声につづいて、
「これは、忍法月の羽衣。――」
と、自来也はいった。
「敵には見えぬが、敵もさるもの、うかつにうごいては察しられるでござろう。しばらく、じっとしておりなされよ」
フワッと彼女は、あかん坊みたいに自来也の両腕に抱きあげられた。布に覆《おお》われて、彼女には何も見えない。――自来也は歩き出した。
えたいのしれぬ男の腕に抱かれている、という意識すら、鞠姫は忘れていた。彼女はたったいま見た奇妙なものにあたまを奪われていたのだ。
たしかに、石五郎であった。彼女を追って、石五郎も庭に下りて来たのだ。それが寝衣はまとっているが、帯もない、あられもない姿で、庭の向こうを、どこかへフラフラと歩いていった。――
「自来也。……石五郎どのは」
布の中で、彼女はささやいた。
「はて」
あるきながら、自来也はつぶやく。
「若君の股間《こかん》に、妙なものがぶら下がっておるようでござる」
「…………」
「若君御自身のおんもちものが、あれほど大きなはずはない、また、あんな奇怪なかたちをしておるはずがない」
「…………」
「やっ、あれは手でござる。手が、手くびからさきの掌《てのひら》だけが、若君の男根をつかんでおるようでござる。しっ」
身をもがこうとした鞠姫を制して、自来也はぬけぬけという。もっとも、事実そういう光景を見てしゃべっているのだろうが。
「白い指さきが、微妙に、なまめかしく若殿をもてあそんでおります」
「…………」
「若殿はとろんとした眼つきで、犬のように舌を出され、へっぴり腰をくねらせながら御遊行のていでござります」
この実況放送は、とんだ実物教育をかねる。たまらず鞠姫はあえいだ。
「下ろしや、自来也、わたしを下ろしてたも」
「お待ちなされ、どうやら若君は弓櫓《ゆみやぐら》の方へゆかれるようでござる」
全身をかけめぐる血は、いちどにひいてしまった。鞠姫の脳裡《のうり》に、ひるま見た髪の妖《あや》かし――今夜四つ、弓櫓の下で――という文字が浮かんだ。
やはり、竜庵一味の誘いは来たのだ。あの文字で及ばずと見るや、手で――手だけで招きに来たのだ。そして、まんまと石五郎はおびき寄せられつつある。
「ゆかせてはならぬ、石五郎どのを」
と、鞠姫はいった。
「やはり、御心配でござるか?」
鞠姫は沈黙した。
「しばらく、様子を見ましょう。若殿がおゆきにならねば、敵も姿を現わしますまい」
「…………」
「また敵は何人おるかわからぬ。石五郎どのが心を吸いつけられておるすきを狙《ねら》わねば、こちらとしては手が出せぬかもしれませぬ」
「…………」
「ともかく、拙者が見ております。しばらく御辛抱をねがいまする」
弓櫓の下に井戸があった。
妖《あや》しきこぶしにひかれた藤堂石五郎がそのちかくまでやってきたとき音もなくつるべがうごいて、井戸の上にすうっとひとつの影があらわれた。はじめ黒|頭巾《ずきん》黒|装束《しようぞく》の姿であったが、それがくるくると廻ると黒衣が解けて、もうひとつ地上におぼろ月が浮かび出た。――女だ。それが裸身となったのである。
裸身の女は、井戸のふちに腰を下ろし、石五郎を見た。その左腕がない。片腕の裸天女はにっと片頬《かたほお》に笑みを浮かべて、
「おいでなされましたな、石五郎さま。……お丈《じよう》でござります」
といった。
「たっ、たっ、たっ」
石五郎はなお眼をつりあげ、腰をくねらせながらその方へちかづいてゆく。
「今夜四つとお知らせ申しあげましたのに、なぜおいで下さりませなんだ。もしやひるまのことをお侍衆に申されて、出るに出られぬ破目におなりになっているのではないかと、お丈は腕を使いお呼び出しに参りました」
といって、はじめて、ぎょっとしたように石五郎の方をすかし見て、
「腕がない」
と、小さくさけび、さらに、
「おお、手首からさきだけが――」
と、いって立ちあがった。
ちかづいてくる藤堂石五郎のまえには寝衣の裾《すそ》がヒラヒラとまといついていたし、それに彼の様子が彼女の予期していた通りなので、いままで気がつかなかったとみえる。彼女としては、石五郎がまるまる「一匹」の腕をぶら下げてきたことと思っていたらしい。
「誰《だれ》が斬ったのですか。まさか、石五郎さま、あなたさまではありますまい。――甲賀蟇丸ですか」
「てっ、てっ、てっ」
「甲賀蟇丸、あるじに似てあまり利口《りこう》そうには見えないが、甲賀組出身というゆえ、ちと気にかかるとお頭は申された。――いや、甲賀蟇丸がわたしの腕を斬ったなら、きゃつがここに現われぬはずがない。この男ひとり、ここにやってくるわけがない。――」
これは、つぶやきだ。さしもの女忍者も事がやや意表に出たので、内心の動顛《どうてん》が声となって出たものであった。
彼女はあたりを見まわした。地上、石垣《いしがき》、櫓《やぐら》、どこにも常人の感覚では人ありとは思われない、寂寞《じやくまく》とした深夜の本丸の一隅《いちぐう》である。しかし、ふいに彼女はきらっと眼をひからせた。
「それにしても、さすがは服部《はつとり》相伝の忍法|蘭奢待《らんじやたい》。……斬った腕をまた斬られてよう働いてくれたもの」
と、うなずいて、会心の微笑を浮かべた。
実は、こういうわけだ。先日、竜庵宅における石五郎に対する精水波は失敗した。鞠姫の出現という意外事に気をとられていたので、第一の選手|茜《あかね》がどのようにしくじったかは、さすがの竜庵――服部蛇丸にもよくわからぬ。わからぬが、石五郎に対して精水波をかけるという計画を捨てはせぬ。いったい、いかにして石五郎とその家来の蟇丸が城へひきあげたのか不明だが、ともあれその後の一日、無表情ながらひどくのんきな顔をして城下の町を歩いている蟇丸のふところに、さりげなくすれちがった服部無足人のくノ一、お丈が紙を入れた。
「石五郎さま、女欲しやと、おぼしめすか。女欲しやとおぼしめすなら、紺屋町の辻行燈《つじあんどん》の前でくびを三つふり候《そうら》え」
と、書いてあったのである。
蟇丸は紺屋町の辻行燈の前でくびを三つふった。
あの夜以前に、石五郎主従が竜庵に大して疑惑を抱いていなかったことはたしかだ。あの夜、どんなことが起こったのか、いまいったようにしかとはわからぬが、この蟇丸の挙動で依然として石五郎が女に飢え、禁断症状を起こしていることだけはあきらかになった。
あの手紙で、ふたたびこちらから新しい連絡をすれば、その指示にしたがって石五郎主従が行動を起こすだろう、という予測は一応たったが、ふたりがどんなつもりでいるのか、藤堂采女にこのことを報告しているのか、なお心もとないふしもあるし、あの夜鞠姫にあとをつけられたこともあり、石五郎もまた城外におびき出すのは当分見込がないと判断して、闇中の服部蛇丸は第二の選手に命令を下した。
おまえが城に入って、石五郎を精水波にかけてこい。――
無足人組にとっても城内の様子は雲をつかむような事態にあるだけに、これは決死の使命であった。
もとより無足人組の掟《おきて》は鉄だ。お丈は忍び入った。
そして、石五郎に髪招きの文字で合図した。来るか来ないか、かえってじぶんが捕えられることになるか、まるで薄氷を踏むような手順だが命令は断じて果たさねばならぬ。
合図した時刻に石五郎が来ないと知って、お丈はみずからの左腕を斬って放した。腕は白蛇《はくじや》のごとくうねりつつ、それ自身生命あるもののように遠い石五郎の寝所めがけて這っていった。
数百年前、支那《しな》から伊賀の服部家に伝えられた幻術の中に「屠人戮馬《とじんりくば》の術」なるものがあった。すなわちみずから手刃しておのれの四肢を解体し、またつなぎ合わせて原形にもどすという幻怪の術である。服部家では代々これに工夫を加えて、解体された四肢を、或る時間内ならばそれぞれ主人の命令に従う犬のようにうごかすわざにまで到達させた。これを相伝の書では切断された蛇になお生命力があるのになぞらえて、はじめ「乱蛇体《らんじやたい》」と記していたが、いつのころか語韻を合わせて忍法「蘭奢待」と名づけるようになった。
お丈から放たれた腕は、藤堂石五郎をさしまねく。
石五郎が窓に寄れば、それはひたと相手のふとももに巻きつき、指は股間に吸いついて微妙に彼を愛撫《あいぶ》し、そして悩乱恍惚《のうらんこうこつ》の境にひたしつつ、彼をじぶんの待つこの弓櫓の下へいざない寄せてくる。
その通り、腕は働いた。ただ、何者かのためにさらに手首から切り離された。
にもかかわらず、斬られた手首は最初の命令通り石五郎をここにひいて来た。――お丈は、蛇丸に伝授されたみずからの忍法に、思わず会心の笑みをもらしたのである。
先夜はどうしたのか。今夜はどうしたのか。
ききたいことは雲のようにあった。――しかしきいているひまはなかった。だいいち、相手の石五郎は唖《おし》だ。
それからまた、いかに驚天の忍法「蘭奢待」とはいえ、切り離された肢体が生命力を持続するには、時間の制限があった。ほぼ半刻でそれは死に、その時間をすぎればたとえもとのからだに接合しようとしても不可能となる。――
しかるにいま、もどって来たのは手くびだけなのだ。肩にもどすべき腕がないのだ。捨ておけば、お丈は永遠に左腕を失うことになる。
その不安をお丈は捨てた。腕どころか、いのちそのものを捨てることを彼女は覚悟した。何はともあれ、石五郎を忍法精水波にかける、そのことが今夜の彼女の絶対的な使命であった。
「石五郎さま、お丈です。……お忘れではございますまい。このあいだ、あなたさまに御寵愛《ごちようあい》いただきたいと願い出た五人の女のうちのひとりですよ」
彼女はそういいながら、いまじぶんのぬぎすてた黒衣の上に崩折れて、おぼろ月の下に、全身白蛇の精に変じたようになまめかしくくねりながら、
「さ、可愛がって下さりませ。……おお、わたしの手首が邪魔をして――いま、とってあげますよ。そして、この手首どころではない、もっとこころよい肉の中へ」
下から石五郎の足にすがりついて、うごめきつづけているじぶんの手首に手をかけた。余人ならば容易に離れぬその手首は、すべるように離れた。
「――あっ、いけません、もうがまんできない」
突然そんな声がきこえて、四、五間はなれたところに忽然《こつぜん》とひとり女人の影があらわれた。
「自来也、あれをとめや。おまえがとめなければ、わたしがとめます」
そして彼女はこちらへ走り寄ろうと身をもがいている風であったが、まるで見えない影に抱きとめられているようにうごけない。――月の羽衣を夢中でかなぐり捨てた鞠姫であった。
お丈の腕がじぶんの手首を投げすて、ぬぎすてられた黒衣のどこかをまさぐった。彼女は先刻、何者の影も見えない地上のどこかからはげしい心臓の音をきいたのだ。見張られている、と知った瞬間から、お丈は、事はいそぐ、即刻石五郎を精水波にかける決意をかためたのである。
彼女の右腕から銀光がながれた。手裏剣はわざと鞠姫を抱きとめているらしい見えない影にむかって投げつけられた。ぴしっと肉につっ立つ音がした。
「危い」
忽然と空中に白い腕が浮かび出た。手裏剣はその腕につき刺さったのだ。それはお丈の左腕であった。
「これからあとは、やはり見られぬ方がよろしかろう。しばらく気絶していただこう」
そういう声とともに、鞠姫がからだをくの字なりにして悶絶《もんぜつ》する姿が見えたのも一瞬、彼女はもとより、腕も手裏剣もふっとおぼろ月の中から消えてしまった。同時に心臓の音もうすれて消えた。
ただ一撃手裏剣を投げただけで、お丈はもはやその方をふりかえりもせず、石五郎を両足でからんで黒衣の上にあおむけに倒れている。そして、ながれるような動作で、こんどは手くびではない――じぶんの全身を以て彼をとらえた。
石五郎自身が身を入れた、というより、彼女が石五郎を沈めた、といった方が適当なはげしいうごきであった。お丈はひたと石五郎の腰に腰を吸いつかせ、波うたせながら、
「忍法精水波。――」
と、凱歌《がいか》のさけびをあげた。
お丈は成功したのだ。お丈は二番目の選手だが、一番目の茜は失敗したから、これが精水波の第一波ということになる。その第一波はこんどはみごとに成功したのだ。彼女の肉は、しかと藤堂石五郎をとらえ、ほとばしる愛液は石五郎をまぶしつくしてしまった。
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妖春風
「いや、いや、いや――うぬの忍法精水波は成らぬ」
その声が耳を打ったとき、お丈のからだはうごかなくなった。いわゆる気死状態におち入ったのだ。
いまの声がほんの耳のそばできこえたのも奇怪なら、その言葉自体も信ずべからざるものであった。わたしの忍法精水波が成らぬ? げんにわたしは石五郎を抱き、石五郎はこうして愛液にまみれているではないか?
ひとたび服部《はつとり》無足人のくノ一の愛液にぬれた上は、それは洗えどもおちぬ。眼には見えずとも永遠に膠着《こうちやく》し、この男をして女に渇《かつ》せずんばやまぬ。そしてそれがほかのくノ一の愛液によって五層に塗られたとき――この男は自動的に精液をほとばしらせ、涸《か》れはてて悶死《もんし》するのだ。
いまの声は錯覚だ。いや幻聴だ。すぐにそう思って、お丈はふたたびはげしく腰をうねらせはじめたが、
「無駄《むだ》だ」
もういちどそういう声をきくと、こんどこそは迷いのない驚愕《きようがく》の顔になった。石五郎の背中に巻きついた右腕が離れるとそばに置いてあった忍者刀をつかんだ。
間髪を入れず、そのお丈の頸《くび》を手裏剣がつらぬいた。もとよりお丈は、石五郎の下に、地上にあおむけに横たわっている。手裏剣は地を滑走するように飛び来って、彼女の頸を横に縫《ぬ》ったのであった。
苦鳴はもらさなかったが、全身は大きく痙攣《けいれん》して、上の石五郎をはねあげた。石五郎はぶざまにころがりおちて、「こっ、こっ、こっ」と鶏《にわとり》みたいな声をたてた。
「危い!」
疾風《はやて》のように馳せつけて来たのは自来也である。とみるや、一刀をひらめかして地上にふりおろした。濡《ぬれ》手ぬぐいをはたくような音がして、ただ一本残っていたお丈の右腕は忍者刀をつかんだまま、これまた斬《き》り離された。
「やむを得ん。……すんでのことで、殺されるところであったぞ」
と、自来也はいった。はじめの言葉はお丈にいったのであり、次の言葉は石五郎にいったものらしい。
「ろっ、ろっ、ろっ」
この惨劇がじぶんの傍で行なわれているというのにそれも気づかないのか、いや、まだあらぬ恍惚《こうこつ》境に酩酊《めいてい》しているのかもしれない。石五郎は大地を相手に腰を上下させている。
「いいかげんにしないか。――この馬鹿」
さすがの自来也もあきれたような声を発し、苦笑して歩みより、その肩に手をかけたが、突如また、
「やっ?」
という驚愕の声をたてて、地に伏した。その上を、銀のひかりが走りすぎた。自来也は石五郎を背から抱き、一体となったまま、木の葉虫みたいに大地をころがって逃げた。それをかすめてなお銀光――マキビシがうなりすぎる。
おぼろ月に雲がかかり、地上は墨みたいに暗くなっていた。その中に忍者自来也は悪夢のような光景を見たのだ。マキビシを投げているのは、お丈の白い二本の足であった。足がぬぎすてられた衣服の上を蛇《へび》のように這《は》いまわり、その指が掌《て》みたいにマキビシをつかんで投げつけているのだ。黒いマキビシは、闇《やみ》に銀の光を発した。それによって自来也を牽制《けんせい》しつつ、頸を串刺《くしざ》しにされたくノ一お丈は、これまた斬り離された右腕で、いかなるつもりかおのれの黒髪をばさと切った。それは風に吹かれて宙に散った。
「おおっ」
バラバラと吹きつけて来たいくすじかの黒髪を、自来也は地上から刀身をたかくあげて巻きつけたが、残りの髪は千々にみだれて春の夜空に舞いあがってゆく。
その夜空から、またおぼろ月が顔を出した。
空を飛んでゆく黒髪のゆくえをふりあおいでいた自来也は、眼をもどして向こうのお丈がようやくうごかなくなったと見て立ちあがろうとした。その両側から、風を切って二本の手裏剣が飛来した。のけぞって一本を避けつつ、一本を刀でたたきおとした。そして、彼はみたのだ。切断された二本の白い足が、巨大な尺取虫みたいに両側へ這ってゆきながら、かまくびをもたげてまた新しい手裏剣を投げつけようとしているのを。
自来也はまた地上に伏した。
手裏剣は交叉《こうさ》してとびすぎた。
「ううむ、蛇のような奴」
さしもの自来也も舌をまいた。みずからの両腕を切断したのはお丈だ。いや、その切断された右腕だ。
その名も忍法「蘭奢待」――乱蛇体、解体した四肢をあやつって敵を襲う無足人の秘法を知ると知らずとを論ぜず、この幻怪|凄惨《せいさん》きわまる女忍者の執念に身ぶるいせぬものがあろうか。
ようやく手裏剣の雨は止み、四方に散乱しておぼろに白くひかっている女忍者の躯幹《くかん》、両腕、両足を見すまして自来也は、また立ちあがった。ぬきはらっていた刀身を鞘《さや》におさめようとして、それに無数の黒髪がまといついているのに気づいてこれをとる。
髪は地に散りおちた。ふとそれを見下ろして、自来也はまたひくい叫びをもらした。おちた髪は執念の精のようにもつれつつうごいて、地に何やら描き出した。
「おじょうのせいすいはなる」――「お丈の精水波成る」
凝然《ぎようぜん》とそれに眼をすえていた自来也は、空を見あげてつぶやいた。
「竜庵に知らせたな」
ややあって、またいった。
「お丈は、精水波が成ったと信じて死んだ。その報告を竜庵は受けた。では精水波の第二波はまたくるだろう」
鞠姫は目ざめた。
彼女は夢みていた。模糊《もこ》とした靄《もや》のおりた沼を一匹の白い蛇《へび》が這《は》ってくる夢であった。逃げようと思う。じぶんはその沼に半身を沈めている。生あたたかく、ぬるりとして、しかも粘《ねば》っこい沼だ。逃げようとしても、泥《どろ》は膠《にかわ》みたいにその足をとらえた。……ふいにそのからだが宙に軽くあげられた。靄《もや》に封じられていた息までが軽くなったような気がした。じぶんを抱きあげたのは白い影だ。抱かれているのに彼女は、白い頭巾《ずきん》、白い着流しの相手の全身まで見たように思った。……
そして彼女は目ざめ、じぶんが深い夜具にうずもれていることを知った。いつものように、じぶんの寝所であり、じぶんの夜具だ。――突如、がばとして彼女は起きなおった。眠る以前の記憶を想い出したのである。
わたしはこんなところに寝なかった。わたしは石五郎どのの部屋にいた。すると――窓から一本の白い腕が入って来て、わたしはその腕を斬《き》った。――それから、庭で――自来也があらわれて!
一瞬それこそは夢ではなかったかと思う。が、腕を斬った感覚、自来也に抱かれた感覚がなまなましく甦《よみがえ》ると、鞠姫は夜具をはねのけた。障子にうつる日影は、うらうらとした春の朝であった。
あれから、どうしたか? 無礼な奴が、わたしに当身をあておって――その自来也がわたしをここへつれて来たのだ。……それにしても、石五郎どのはどうなされたろう? 鞠姫の眼に、おぼろ月の下に白蛇《はくじや》のようにくねりつつ、石五郎にいどんでいた妖《あや》しい裸身が浮かんだ。記憶も思考もきれぎれで紛乱《ふんらん》している。――石五郎の部屋へゆこうと立ちあがり、寝衣に手をかけて、彼女はぎょっとした。
まず、じぶんが寝衣に着かえていることに愕然《がくぜん》としたのだ。じぶんがそうしたおぼえはない。誰《だれ》かに着かえさせられたのだ。無礼な奴が!
鞠姫は、失神したじぶんが着がえをさせられているときの姿を思って、怒りと恥に顔を染めた。見れば、これだけは始末しかねたものとみえて、昨夜じぶんの着ていた着物は向こうの屏風《びようぶ》に乱雑に乱れかけてある。――
唇《くちびる》をかみしめ、あらあらしく寝衣をぬぎすてようとして、はじめて気がついた。帯の下から裾《すそ》にかけて、寝衣の褄下《つました》が白い糸で稲妻形に荒っぽく縫い合わされていることを。
――何のために?
ひきちぎって、寝衣をぬぐと、こんどはその背にあたる部分に、
「自来也参上」
と、墨で書かれてあるのを見て、鞠姫はあっと口をあけ、象牙《ぞうげ》のような裸を春光にひからせたまま、しばし茫然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた。着せかえをやったのみならず、何たる細工までしていった男か――。
それにしても、寝衣の褄下を縫い合わせていったのはどんなつもりか。彼女は――じぶんが夫の石五郎に対してすら、いまなお処女を維持していることを思い出した。自来也はいかにしてかそのことを知っていて、それをからかっているように思われる。いや――また、その処女を聖なるままに保ったことを誓うようにも。
さて、石五郎には何の変わったこともない。
あれからどうしたのか、きこうにも唖《おし》だし、また口がきけたところでどこまで信用できるか、あてにならないことは、このまえの竜庵宅に於《お》ける始末と同様だ。おそらくじぶん同様、自来也に救われたにちがいないと思うけれど――あの妖しい女にあられもない姿でからみつかれていた石五郎はどうしたのか? 鞠姫の耳に、自来也の最後の声がよみがえる。
「これからあとは、やはり見られぬ方がよろしかろう」
その通り、彼女は、それ以後気絶させられたのだから、あれが竜庵一味のいわゆる「女攻め」だとは思うものの、あとのことは想像もつかない。
自来也の声は笑いをおびていたけれど、鞠姫には笑いごとではない。あれからあとは見なかったにしても、それ以前の――いや、それも「月の羽衣」とやらいうふしぎな布をかぶせられてこの眼では見なかったけれど、自来也が教えてくれた「若殿はとろんとした眼をくねらせながら御遊行のていでござります」云々《うんぬん》の一連の言葉を思い出すと、情なくて、けがらわしくて、吐き気がする。
あの男と、名目だけにしろ、わたしは夫婦なのだ! 軽蔑《けいべつ》やにくしみすらすぎて、むしろ苦痛をうかべた鞠姫の眼を、意識しているのかいないのか、例によって例のごとく石五郎は、フラフラとあるき、ニタニタと笑い、そして通りすがる女中たちの裾をまくりあげるといういたずらをやる。――
ところが、或《あ》る日――あの夜から二、三日ののち、鞠姫は思いがけない光景を見た。
蟇丸《がままる》までが女中を追い廻しはじめたのである。
甲賀蟇丸という人間は、鞠姫にもよくわからない、えたいの知れない人物であった。ただはっきりしているのは、主君の石五郎に対する忠義ぶりだけである。
この四十男が石五郎を見る眼は兄のような、ときには母のような、とさえいいたいほどであったが、あとはいつも蟇がひるねをしているようにウッソリとして、石五郎に対するときのほかはあまり口をきかない。ときには石五郎の唖が伝染したのではないかと思われるくらいで、いったい何をかんがえているのか鞠姫にとっては、ほんものの蟇の心理を想像するのと同様であった。
ただ彼が石五郎の強制された禁欲にいたく同情をもっている――もっているどころではない――石五郎の城外への夜這《よば》いの手引きをさえしようとしたくらいであることは先夜目撃した通りだが、彼自身はまったく女になんの興味もないらしく見えた。
ふだん、石五郎が女人をみるとサカリのついた馬みたいに鼻を鳴らしてあがくのをあわれみをもった眼と、困惑を伴った苦笑の顔で見まもり、ときには抱きとめていた男なのである。
その蟇丸が、女を追いまわすようになった。文字通り、女を追っているのと、鞠姫はゆき逢ったのである。
「……あっおゆるしを――」
バタバタと走って来たひとりの女と、鞠姫は城の廊下の曲り角で危くぶつかろうとした。
「お助け下さいまし! あの蟇丸どのとやらが、すれちがいざま、ふいにわたしを抱きすくめようとなされて、この通りでござります!」
みると、その女中の片袖《かたそで》は肩からもがれて、白い腕がむき出しになっている。
「なに、蟇丸が?」
最初、鞠姫のあたまをかすめたのは、蟇丸が石五郎の意を体して、女中をさらおうとでもしたのか、ということであった。
「ゆきゃ!」
女中をやりすごし、鞠姫はきっとして角を廻った。
と、バタバタと向こうから駆けて来たのは蟇丸ひとりで、それが鞠姫の姿を見るとさすがにベタと廊下に坐《すわ》ってしまった。
鞠姫は一言も口をきかずにその前を通りすぎたが、五、六歩いって、ふとうしろに妙なあえぎをきいて、ふりむいた。
甲賀蟇丸は、なんと柱に抱きついていた。まるで、とびかかろうという衝動を、死物狂いに縛っているような姿であった。そして、じぶんを見送っている眼の狂暴といってもいい情欲のひかりを、鞠姫は本能的に感じた。
思わず、恐怖にうたれて早足になり、鞠姫は廊下を遠ざかった。――と、遠い庭の方から、子供みたいに縄飛びをしながらやってくる石五郎の姿が見えた。彼は、柱に抱きついている蟇丸をみとめたらしく、その方へ縄を廻しながら走ってゆく。
もう一つ角をまがり、鞠姫は立ちどまり、背中じゅうを耳にした。
「いや……何としたことか、拙者としたことが」
と、蟇丸のうめく声がきこえた。
「石五郎さま。……前々よりあなたさまはおきのどくに存じておりましたが、あの方を押えることがいかに苦しいか、甲賀蟇丸、はじめて思い知ってござる!」
「……けっ、けっ、けっ」
と、石五郎の奇声がきこえた。
これはいつものように意味|不明瞭《ふめいりよう》の発声ではない。あきらかにうれしそうに笑っている声であった。
「不審な者が、城中に忍び入ろうとしているふしがある」
鞠姫は、すぐそのあとで城代の藤堂を呼んでいった。
これから起こる事には手を出されるな、黙って御覧あれ――という意味のことを自来也はいったが、鞠姫はそういわずにはいられなかった。
あの夜、城に入って来た竜庵一味の女のこともある。あれは一種の刺客《しかく》だと判断しないわけにはゆかない。それから、甲賀蟇丸が急に妖《あや》しい風にうたれたように妙な挙動を示しはじめたこともいぶかしい。……そもそもそれ以前に、石五郎主従が夜中、ひそかに城を出ていったということも鞠姫には、がまんのならぬことである。
「ふひんなもの?」――不審な者。
藤堂|采女《うねめ》はいった。
この老人は、何も知らないらしい。あの夜の竜庵宅に於《お》ける事件も、その後城内|弓櫓《ゆみやぐら》の下で起こったことも。――これは鞠姫にもふしぎなのだが、あの翌朝弓櫓の下へいってみたが、それこそあれは夢の中の出来事であったかと、またじぶんの眼をうたがったくらい、そこには何の痕跡《こんせき》も残ってはいなかったのだ。
ただ老人は、竜庵の失踪《しつそう》は知っているはずだが、それも何のことだか、判断しかねているらしい。
「東からの隠密じゃ」
「ほっ」
と、藤堂采女は歯のぬけた黒い口をあけた。
「そ、それはいひだいひ!」――それは一大事!
と、彼はさけんだ。
「ひかひ、おふはたはまには、なんへごほんひか?」――しかし、奥方さまには、なんで御存じか?
「わたしのカンじゃ!」
と、鞠姫はいった。鞠姫もいたしかゆしだ。あの夜以来のことをもらしてはならぬ。それは、藤堂家を滅ぼすことにもなりかねぬ、とは自来也にくりかえし警告されていたことだからだ。
東からの隠密。――公儀隠密。これは鞠姫のでたらめだが、しかし采女からかんがえると、充分あり得ることであった。石五郎がおつきの家来たちを蟇丸をのぞいてみな追い返してしまったことも江戸では不審に思われていようし、それでなくてさえ石五郎が常人でないだけに親元としては不安をおぼえていようから、婚礼後、石五郎がいかにしているか、いかなる待遇を藤堂家から受けているかということは、公儀の方で当然さぐりにやってくる可能性はある。それが――いまだ鞠姫と和合をゆるされず、伊賀くんだりまでやってきて、野良犬みたいにウロウロしていることがわかったら、ただではすむまい。
といって鞠姫を愛する老人は、鞠姫の意に反して彼女を石五郎の獣欲にまかすなどということはたえられない。いや、断じて出来ない。公方から何と横車を押してこようと、天下を相手にしても鞠姫を御守護つかまつる、と曾《かつ》て高言した言葉には嘘《うそ》はない。
采女ほどの忠心一途、頑固《がんこ》一徹の老城代が、石五郎に妾《めかけ》を周旋するなどというばかげた思いつきにのったのも、そもそもはこの進退両難の事態を何とかうまく切りぬけようとする苦慮の結果なのだ。
「ほもはふも、それはみふててはほへぬ。いかにも、ひろはへんひゅうにはためるでほはろう」――ともかくも、それは見すててはおけぬ。いかにも、城は厳重にかためるでござろう。
狼狽《ろうばい》を背にみせて、ヨタヨタと藤堂采女は去った。
船の帆のような白雲のゆきかう天守閣、花の散りいそぐ本丸、廓《くるわ》――春|逝《ゆ》かんとする美しい伊賀上野の城に見えない殺気が張りめぐらされた。にもかかわらず妖風《ようふう》は音もなく城にながれこんで来たのである。――
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舌轆轤《したろくろ》
どうしても、隔靴掻痒《かつかそうよう》の感がある。
鞠姫《まりひめ》は竜庵《りようあん》一味の女忍者の襲撃の妖《あや》しさはまざまざと思い知らされたが、あまりにもそれが幻怪をきわめているので悪夢を見ているようにどこかあいまいなところがあるし、さらにそれを口にすることを自来也に禁じられている。だから城代家老の藤堂|采女《うねめ》には、江戸からの隠密が城に忍び入ろうとしているふしがある、とだけいい、采女はそれだけきいた。――
それでも采女はのけぞりかえらんばかりにおどろき、城の内外に警戒線を張らせたが、その目的はというと、むろん外部から不審な人間の潜入するのをふせぐこと、それから石五郎主従が外へ出ることをふせぐことだ。
采女としてはそれ以外に打つ手はないし、鞠姫さまも、手に汗にぎるような不安をひそかに抱きながら、心中、まずこれでよしと安堵《あんど》の吐息をついた。
城から、石五郎主従以外の人間が、まして鞠姫のそばちかく仕える女のひとりが外へ出てゆくことはとめることはできなかったし、だいいち怪しむことすらしなかった。――
津の城からついて来た侍女ではない。それはあまりに小人数であったので、鞠姫がこの城に来てから、新しく加えられた楓《かえで》という娘だ。
新しく――といっても、以前鞠姫がこの上野に滞在していたときにも身の廻りの世話をしていた侍女で、素性《すじよう》もちゃんとしており、城下の大きな組紐《くみひも》問屋の娘である。組紐はこの上野の町の名産の一つであった。
むろん、正規の手つづきをとっての宿下りで、楓はちかいうち、おいとまをいただいて、おなじ町内の傘《かさ》問屋の息子と祝言をあげることになっていた。
その婚約者の宋三郎《そうざぶろう》という若者もやって来た。話したいことは山ほどあるのだが、何しろ久しぶりに宿下りをしてきた楓なので、何人かの弟や妹がまつわりついて離れない。いらいらとしてうらめしげな眼で遠くからそれを見まもっていた宋三郎は、つと寄って来て、
「庭で待ってるぜ」
と、ささやいて、早々に立ち去った。――小半刻ほどたって、楓は用にかこつけて弟や妹をおしのけて、そっと庭に出た。
大問屋なので庭はひろく、樹々の新芽の匂《にお》いがむせかえるようであった。曇り空のなまあたたかい晩春の夜である。
「宋三郎さん」
と、彼女はひそかに呼んだ。
「もし、宋三郎さん、どこ?」
すると、とある木蔭に人の気配があった。彼女は小走りに駆け寄った。
楓はいきなりひしと抱きしめられた。力強い腕であった。抱きしめて、何もいわず相手は楓の口を吸った。
宋三郎がそんなことをするとは思いがけず、またそんなことをされるのもはじめてであったが、もともと許婚者だし、楓は悲鳴もあげず、ただ反射的にからだをもがいただけで、相手の唇《くちびる》に唇をまかせた。
なんという情熱的な男だろう、宋三郎さんがこんなに燃えるひとだとは知らなかった。……おどろくとともに、楓も燃えた。名状しがたい吸着の触覚に彼女は溺《おぼ》れ、くらくらと忘我の境におちてしまった。――
いつのまにか、楓は舌を吸われていた。舌を舌でやさしくもてあそび、唾液《だえき》でまぶし、歯でしごき、いたいほど吸う。――楓がうめいて、舌をぬこうとしたのは、その痛さより、あまりの快感にからだじゅうがたえかねてきたからであった。
ところが、相手はそれをゆるさなかった。唇は吸盤みたいに彼女の唇に吸いつき、舌は恐ろしい吸引力で、相手ののどにふれるのではないかと思われるほど吸いこまれてしまった。その舌を相手は口の中でこねくりかえした。
「……む、む。……」
楓の息はうめきにもならなかった。彼女は全身が相手の口に吸いこまれたような感覚がした。恐怖をおぼえつつ、快さにしびれ、身ぶるいし、腰をくねらせた。
じぶんの舌がまるくなった。棒のようになった。それは粘土細工みたいに奇妙なかたちにこねあげられた。――それを意識しつつ、彼女はしだいに酔って、半失神状態におちいった。……
その感覚がしだいに消え――気がついたとき、彼女はじぶんの唇が自由になったことを知った。
「……は、は、は」
と、相手は笑った。それがあきらかに女の声であることを知って、楓は勢い、からだに水をあびせかけられたような気がした。
「お、おまえは――」
そういおうとしたのだ。が、彼女は声が出なかった。恐怖のせいばかりではない。口の中に何かがいっぱいにつまっているのを、はじめて意識したのである。
「宋三郎は、そこにころがっておる」
と、闇《やみ》の中の女はいった。
「心配しやるな。気絶しておるだけじゃ。……二、三日、神かくしにしたのち、家にまちがいなくかえして進ぜる。おまえが城にかえったあとでな。……逃げるな」
まろぶように逃げようとする楓はその手くびをつかまれた。いまはじめて気づいたことだが、つかんだ手はあきらかに女らしく柔らかく、しかも蔓《つる》みたいなしなやかさを持っていた。
「逃げたら、とりかえしがつかぬぞ。おまえの口の中のものは、いつまでもそのままじゃぞ」
楓は抱きかかえられたまま、女とは反対の方向にねじむけられた。
「人間のからだには、謎々《なぞなぞ》のようにふしぎなものがある。ときによっては大きゅうなるものじゃ。それをおまえは、とりかえられた。作りかえられた。……忍法|舌轆轤《したろくろ》、……」
つぶやくような、笑うような声であった。手をはなして、
「これ、舌を出して見よ」
手ははなされたが、あやつり人形みたいに楓は舌を出した。そして「……あーっ」と、じぶんではそうさけんだつもりの、意味|不明瞭《ふめいりよう》な恐怖の声をもらしていた。
彼女はそこに蒼白《あおじろ》いじぶんの顔を見たのだ。鏡であった。その一瞬に、うしろの女は楓のまえに小さな手鏡をさし出し、もう一方の手で、何をどうしたのか、めらっと青い火をもやしたのであった。
楓の出したのは、舌ではなかった。……奇怪なかたちをした肉の筒であった!
「見たか?」
恐ろしいものは消えた。鏡がひかれ、火が消えたのだ。
「ただ、口がきけぬばかりではない。それではものを食べるにも不自由であろう。……いやそれだけではない。そのような舌を持っておっては、おまえは上野の城下でこれ以上はない笑いものとなろう――」
手ははなされたままなのに、楓は闇の中に凍りついたように立ちすくんでいた。
「もとの舌にもどりたいと思えば、おまえはわたしのいうことをきかねばならぬ」
「…………」
「おまえはこれから家人には、口中に腫《は》れ物ができたといって明朝城にかえれ。城には腫れ物の治療の上手《じようず》な医者がいると申せばよい」
「…………」
「さて、城にかえったら、鞠姫さまの御身辺にもっともちかい侍女――しかしいちばん美しい女と口中をちぎれ。――ふ、ふ、いまわたしとおまえがしたようにじゃ」
「…………」
「さすれば、石五郎どのが、その女人ときっと妖《あや》しきふるまいをお見せなさる。おまえはそれを見とどけるのじゃ。見とどけたら――こんどは、口の中の腫れ物をなおしたいと申し立てて、また宿下りをして参れ」
「…………」
「三日待つ。三日目の夜、わたしはここで待っておる。そして舌をもとにもどしてやる」
「…………」
「いっておく。このことを口外すれば――ほ、ほ、おまえは口がきけまいが、もし筆談などによって他にもらせば、未来|永劫《えいごう》、おまえの舌はそのかたちのままじゃぞ」
「…………」
「ゆくがよい」
あやつり人形のようにふらふらと消えてゆくのを見送り、四、五歩もどって、その女は足もとに失神している傘屋の宋三郎のからだを唐傘《からかさ》みたいにかるがると肩に負った。
月があったら、月ものぞいて眼を見張ったであろう。それはなよなよと風にもたえぬ肢体《したい》をもつ伊賀のくノ一、妖艶《ようえん》無比のお戒《かい》であったから。
楓は、闇の中の女の命じたままにうごいた。
悪夢としか思われなかったが、口中のものは悪夢ではなかった。それがいっそう悪夢的であった。
城にかえって――彼女はすぐに病んだといって休んだ。宿下りから帰城したくせになんたる緩怠《かんたい》な、と老女が来て叱《しか》ったが、本人がものも食べず、口もきけず、やつれはてているのを見れば、それ以上どうすることもできなかった。
「楓さま。どうなされたのでござります」
盆に土鍋《どなべ》や茶碗《ちやわん》をもって朋輩《ほうばい》の紅葉《もみじ》が入って来た。
「まあ、おやつれなされて……お城にかえられてから、いちども食事なされぬとは何ということでござります。紅葉が重湯《おもゆ》と卵を煮てきました。さ、召し上れ。……」
そういって、褥《しとね》のそばに坐《すわ》った紅葉を見ている楓の眼がしだいに異様なひかりをはなってきた。
鞠姫さまの御身辺で、いちばん美しい女――と指定されたときから、彼女はじぶんともっとも親しい紅葉を思い浮かべていた。その親しさは、ときどき抱き合って、いっしょに眠ったほどである。――いま、あたりに人の気配はない。
……楓はこわばった。弱々しい微笑を浮かべて、枕《まくら》もとに手をさしのばした。
「あ」
紅葉ははじめて気がついた。そこに硯箱《すずりばこ》と紙が置いてあったのだ。
なんという病気か、楓は口もきけない様子だ。それでこんな用意をしていたとみえる――と、紅葉はちょっと可笑《おか》しく、またいよいよ気の毒がりながら、じぶんで硯箱のふたをとり、筆に墨をふくませて、楓の手にもたせた。
楓が紙にふるえる手でかいた文字を見て紅葉は眼を見張った。
「もみじさま。おねがい。わたしをだいて」
紅葉はその名のようにあかい顔をした。
が――楓が必死の瞳《ひとみ》をじぶんにむけて、そして悪寒《おかん》でもするようにわなないているのを見ると、やがてうなずいた。
紅葉はきものをぬぎ、長襦袢《ながじゆばん》だけになって、楓のそばに身を横たえた。
「こうですか? 楓さま。……いったい、どうなされたのです」
楓はまた字をかいた。
「眼をとじて、口をあけて」
紅葉はまたあかくなり、眼をとじて、口をあけた。――その口に、楓の唇がおしつけられた。
さすがに、ぎょっとして身をひこうとした。が、からみついた楓の四肢は鎖《くさり》のように死物狂いの力をひめていた。
「あ。……」
いよいよ大きくひらいた口の中に何やら入ってきた。
それは、舌ではなかった。触感だけでわかる異様なかたちをした肉の筒であった。
……その刹那《せつな》、紅葉は魔にとりつかれた。驚愕《きようがく》が麻痺《まひ》し、脳髄はどろどろに変質してしまった。彼女は忘我の恍惚《こうこつ》境におちた。
……愛撫《あいぶ》はくりかえされた。ものうい晩春の夜をきざむ時は天外に去った。ただそこには白い熱泥が燃え、にえたぎるような異様な音が断続してきこえるばかりであった。
紅葉はじぶんの口中の肉筒がふくれあがり、波うち、蠕動《ぜんどう》し、そして何かが湧《わ》き出してくるのをおぼえた瞬間、われしらずさけびをあげていた。いや、あげたつもりであったが、もとより声にはならなかった。ほとばしったのは彼女の口からではない。楓の舌から何やらほとばしったのだ。
楓の四肢から力が失せた。
彼女はぐったりとなって、紅葉から腕と足を解き、ひろがった瞳で天井を見ていたが、ややあって、筆をとり、
「もみじさま、あっちへいって」
と、書いた。
別人のように冷たい顔であった。
「ううむ。……」
庭で落花を掃いていた甲賀蟇丸《こうががままる》は、遠い座敷を見てうめいた。
「あの女、どうしたか。たしかに紅葉じゃが……」
紅葉だ。紅葉がひとり坐っているのが障子のあいだから見えた。紅葉は、先日、彼が廊下で抱きついた女である。紅葉は放心したように庭の方をみているが、しかし蟇丸の姿も眼に入らないかのようであった。もっとも深い林の中ではある。
春の夕焼けが庭を紅から紫へ刻々と染めてきた。――あの侍女ふたりが二匹の白蛇《はくじや》のごとくもつれ合った夜の翌日であった。
「それが……おかしなもののかたちにみえる。……」
黒髪にふちどられた紅葉の顔がぼやっとにじむと――それはひとつの巨大な女陰にみえたのだ。
「……あっ」
ふいに彼はうしろからどんと背中をつきとばされた。遠い座敷の方を見て歯をくいしばって、はあはあとあえいでいた蟇丸は甲賀者らしくもなくぶざまにつんのめってざぶっとそばの池にあたまから落ちこんだ。
そこにすっくと立っているのは、白い頭巾、白羽二重の着流しの――自来也だ。
「あの女が、どうしたか」
と、くびをかしげて、じっと遠い座敷の方を見つめていたが、やがておちつきはらって、池のそばにしゃがみ、水の上に顔をつき出した。白頭巾をぐいとひいて、顔をむき出したまま。――
いったい蟇丸はどうしたのか。池におちたまま、浮かんでこない。まさか溺《おぼ》れたわけではあるまい。おちたときにあげた大げさなしぶきのあとは、さざ波ひとつ立てないことがふしぎだ。彼は水に浮かんで、自来也から何かされるのを警戒しているのであろうか。
その夜だ。紅葉は、藤堂石五郎に襲われた。
それは鞠姫の寝所にごくちかいところで、石五郎の挙動にたえず監視の眼をそそいでいた鞠姫がこのことに気がつかなかったのは、或《あ》る重大な理由があるが、それ以外にも紅葉がまったく悲鳴をあげなかったということがあった。
恐懼《きようく》して悲鳴を殺したのではない。たとえ若殿であろうと、その若殿が常人でない色情狂だからよく気をつけて、そのいけにえにはならぬようにと、鞠姫さまからこまかくきびしく注意を受けている紅葉たち侍女であった。
その紅葉が、だまって石五郎を迎えた。――むしろ情欲にあえぐ「顔」で、彼を迎え入れたのだ。
「けっ、けっ、けっ」
石五郎は眼をギラギラさせて、例の奇声を発した。
その想像を絶する秘戯図を見ている者はなかったが、きいている者があった。病人でいるはずの楓が、床の下にうずくまって、頭上の物音と、ぶきみな石五郎の笑い声を耳に吸わせていた。
「けっ、けっ、けっ」
蜘蛛《くも》の巣の中に彼女の眼は妖しくひかり彼女はじぶんの舌を出した。じぶんの手で舌をつかんで歯をくいしばって耐えた。
頭上の物音はやんだ。だれか――ヨタヨタと紅葉の部屋を出てゆく。
暗い床下から出ようとした楓は、ふいにまた頭上でかすかなうめき声をきいた。ひくくおし殺した――が、身の毛もよだつうめきであった。それから、重くたおれ伏す音がした。
凍りつくようにそこにうずくまっていた楓は、やがて上の床のすきまから、何やらぽとっと頬《ほお》にしたたってきて、それをぬぐった手にぬるっとした粘っこさを感覚すると、もはやたえかねて暗闇《くらやみ》を這《は》い出した。
彼女は全身にからみついた蜘蛛の巣をはらうのも忘れて、紅葉の部屋の方に廻った。途中で金網灯籠《かなあみどうろう》の光をあびて、彼女はじぶんの手にねばりついているものが血であることを再確認した。
ふるえる手が唐紙をあけてのぞきこむと、紅葉は死んでいた。懐剣をのどにつきたてて、たたみに伏していたのだ。
……じぶんの耳を信じるかぎり、紅葉は自害した。どうして自害したのか、楓にもよくわからない。紅葉は、鞠姫さまを裏切って石五郎さまとちぎりをかわしたことをわびたのであろうか。それとも色情狂の馬鹿殿に犯されたことを恥じたのであろうか。
いずれにせよ、事ここにいたるには、昨夜じぶんとのあいだに行なわれたあの「妖戯」がもとだ、と楓は恐怖に眼を義眼のように見ひらいてかんがえた。
――いっそ、じぶんが死ねばよかった!
――いいや、ここでじぶんも紅葉さまと折り重なって死のう。
蒼白い思考は波のように楓の胸を通りすぎたが、しかし彼女は死ねなかった。いま眼前にひろがってゆくおびただしい鮮血をまざまざと見て、本能的な恐怖にとらえられたせいもある。しかし、死ねなかった理由、また死ねない最大の理由は、じぶんの口中に発生したあの異変にあった。
これだけは、なおしてもらわなければ、わたしは死ぬに死ねない。これがひとにわかったら、死恥にしてもたえきれない。――
あの闇の中のえたいの知れぬ恐ろしい女に。――
ともあれ、あの女に命じられた通り、この夜起こったことを報告にかえらねば。――
血と蜘蛛の巣にまみれ、フラフラとじぶんの部屋にかえってゆく楓の姿は、すでに夢魔の精の一族のようであった。
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第二波
……じぶんの部屋の唐紙《からかみ》をあけて、楓《かえで》は立ちすくんだ。
そこに、寂然《じやくねん》とひとつの顔がじぶんを見迎えていたのである。顔というより、眼だ。むき出した眼にくまどりをした、この世のものとは思われぬ妖異凄絶《よういせいぜつ》の顔であった。この世のものではない――霧につつまれたような頭で、あれは描いた顔だ、と楓はやっと判断した。
彼女は知らないが、それは芝居の自来也の顔であった。それが――誰《だれ》かの背中に描かれているのだ、と楓が気がついたとき、その男はゆっくりとからだをまわしてこちらをむいた。
白|頭巾《ずきん》に白い着流し。――ただし、燭台がうしろの方にあるので、頭巾のあいだからじっとこちらを見ている眼のあたりは朦朧《もうろう》としている。
「楓。……」
と、その男はいった。地にしみ入るような声だ。
「紅葉《もみじ》の口を、女陰と変えたのはおまえじゃな?」
楓は口もきけなかった。名を呼ばれたがむろん彼女はいま眼前に見るような男はいままでに見たことがない。そもそも、こんな異形の人間がこの城内に出現するなどということがあり得べからざることだ。
しかもこの男は、じぶんの所業を知っている。――いや、ほんとうのことをいうと楓は朋輩《ほうばい》紅葉と口中をちぎったが、そのために紅葉の口がどうなったのか、彼女は知らない。いま、この男は、妙な、恐ろしいことをいった。紅葉の口が女陰と変わったと?
「だれにたのまれた」
楓は黙っている。いってはならぬことだが、だいいちしゃべろうとしても、しゃべれないのだ。
「いや、おまえにそんなことをさせた奴は、きかずとも見当はつく。そやつは、おまえとどこで逢《あ》って、どんな風にたのんだのだ」
楓はふいに懐剣をとり出した。それを逆手《さかて》にもって、じぶんののどにつきあげようとした。
その懐剣に、ピシリと何やらがあたり、四方にねじくれた釘《くぎ》のようなものがたたみにおちた。はっと楓が狼狽《ろうばい》した瞬間、灯が消え、間髪を入れずフワと大きな鳥のようなものが飛んできて彼女の腕をとらえた。
「待て、口をあけろ」
と、自来也はいった。
とっさに灯を消して、楓とちかぢかと顔を寄せ、頭巾のあいだの眼をのぞかれることをふせいだのはさすがだが、しかしその声に覆《おお》いがたい驚きのひびきがある。
「懐剣にマキビシがあたった刹那《せつな》、ちらとひらいたおまえの口に異様なものが見えた。……舌が……おまえの舌はどうかなっているのか? これ、舌を見せろ」
この闇《やみ》の中で、舌を見せろという以上、この男は闇でも眼が見えるのであろうか。――楓は歯をくいしばった。刃でこじあけられてもひらくまいとする必死の顔であった。
「ううむ。……」
と相手はうめいた。
「ひょっとしたら、しゃべろうと思っても、おまえはしゃべれないのかもしれぬな」
それっきり彼は何やら思案しているらしく黙りこんでいたが、やがて、
「よし、来い」
と、彼女をひきずるようにして、その部屋を出た。
この相手にこれ以上はないといった恐怖を抱きつつ、この際、心理的にも肉体的にも悲鳴をあげて人を呼ぶことのできない楓であったが、しかしじぶんのひきずられてゆくさきが、さっき逃げてきた紅葉の部屋だと知って、思わずのどのおくで名状しがたいうめきをもらしていた。
梢《こずえ》に三日月のかかった夜の中に、ふたりは立っていた。自来也と楓と。――正確にいえば三人だ。ただし、その一人は死んだ紅葉である。全裸とされた紅葉は、ふたりの足もとに横たわっていた。
庭の林の中であった。これはひるま、甲賀蟇丸《こうががままる》が自来也のために池につきおとされた林の中で、その池のほとりに自来也と楓は立っている。どこからひろってきたか、自来也は一枚の板をもって、それを池の角にさしわたした。
「罪もないのに、ふびんなことをしたものよのう」
自来也はつぶやいた。
そんなことをいったが、紅葉の屍骸《しがい》をはだかにしたのは彼である。そんなことをいいながら、彼はそのはだかの紅葉を、板と岸にかけてうつ伏せにのせた。むろん、屍体《したい》だからからだに緊張力はない。ふとももは岸にあり、腹部は板にのり、髷《まげ》のくずれた頭はだらりと水の上に垂れている。
闇の中に、その白い奇怪なかたちは燐光《りんこう》を発するようにみえた。それは池からも発した。水に映っている紅葉の腰や腕の影から。――
「楓。ちょっと待っておれよ」
自来也はやさしい声でいった。
楓は彼女自身が死びとと化したようにそこに立ちすくんでいる。何をされようと、何を命じられようと、彼女は抵抗すべき意志を失っている。ただ、口の中だけは見せてはならぬというさけびだけが胸にあった。
――と、自来也は水に入った。
桜ちる晩春とはいえ、深夜である。そこに自来也は、白い頭巾と衣服をつけたまま入ったのだ。とみるまに、その姿が水にしずかに消えた。――白い影がゆらめいたかと思うと、それは消えた。ちらと、水に映った紅葉の腰のあたりに頭巾が見えたような気がしたが、それもすぐ沈んでしまった。
数分たった。さざ波がたち、さっき自来也が消えた水面から、彼はまたニューッと立ってきた。三日月に、氷の珠《たま》みたいなしずくをちらしながら、何事もなかったように、彼は岸へあがって来た。
茫然《ぼうぜん》としている楓のまえに彼は立った。
そして、みずから頭巾をひらいて、彼女に顔をさし出した。
「――あーっ」
声を出せぬはずの楓が、人間とは思われぬ声をたてた。……がそれっきり、彼女は眼も魂もそれに吸いつけられてしまった。
……次第に眼が異様なひかりをはなち、肩があえぎはじめ、彼女は――魔界へ沈んだ。まさに魔界だ。彼女が見たのは、この世のものではない。――白い頭巾からあらわれたものは、一個の女陰そのものであった。
楓の唇をおしひらいて、舌が出た。それを押さえるべく、彼女は忘我の世界にあったが、しかしたとえ押さえようとしても、口中にふくれあがり、のび出した舌はその意志を裏切ったであろう。
「ううむ。……」
女陰が、うめいた。これまたこの世のものでない怪音を発したのだ。
スルスルとそれは遠ざかった。舌を出したまま、楓は追った。――が、彼女の眼にはそのときまた背中にえがかれた芝居絵が映った。
自来也は、池辺にうずくまり、顔を洗った。そして、頭巾をかぶりなおした。
「さて」
立ちあがり、こちらをむいた顔は――三日月を背に依然として朦朧《もうろう》としていたが、しかしあきらかにいまの奇怪な顔ではない。たしかに人間である。錆《さび》をおびたひくい声は前と同じであった。
「もういちどきく。楓、おまえはどこで、いかにしてそんな目にあったのか」
楓の舌は口の中に吸いこまれていたが、しかし彼女は最後の気力を失って地上に崩折れた。相手は笑った。
「いや、おまえは口がきけなんだな。しかし、筆談ならできるだろう。うちあけてくれ」
この水に映る影を水中で受けて、映ったものに顔を変えるという驚くべき術をつかう男は、しずかにいった。
「わしがいかなる男か、おまえにもわかったろう。おまえをそんな目にあわせた奴への恐怖はよくわかるが、おれが助けてやる。おれが勝つ、おれを信じろ」
ふたたび風のない、曇り空の、なまあたたかい晩春の夜である。
ただし、城内の庭ではない、城下の組紐《くみひも》問屋――楓の実家の庭であった。
楓はいままで寝ていた部屋から、そうっと起きあがって庭へ出た。――城へかえったものの、口中の腫《は》れものがなおらないからといって、また宿下りをしてきた楓であった。
「……楓」
新芽の匂《にお》う樹々の中で呼ぶ声がした。
「申しつけた通りにしやったな」
女の声である。お戒《かい》であった。――楓はうなずいた。
「おお、おまえは口がきけなんだのであったな。まず、舌をなおしてから話をきこう……来やれ」
そういって、お戒の方からちかづいて来て、立ったまま楓を抱いた。
「三日前のように、わたしの口の中へ舌を入れるのじゃ」
ふたりの女は接吻《せつぷん》した。
これは、恐るべき接吻であった。……全身に粟《あわ》を生じつつ、しかし楓は快美に溺《おぼ》れていった。彼女の舌は――舌ではないかたちをしたものは、お戒の口の中でしゃぶられ、しごかれ、こねまわされた。まるで轆轤《ろくろ》で土が器《うつわ》と変わってゆくように、相手の舌を変形させる伊賀くノ一の忍法「舌轆轤」――しかし、こんどは先夜とは反対だ。楓の舌のかたちは崩されてゆく。棒状のものがひらたいかたちに変わってゆく。
お戒は口をはなした。
「なおったぞ」
と、かすかにあえぎながらいった。
「では、いえ」
楓は地に坐《すわ》り、もつれる糸のようにほそい、おののく声でしゃべった。命令された通り、紅葉という朋輩と口中をちぎったこと。その翌夜、紅葉が石五郎さまに襲われたこと。それをじぶんは床下できいてたしかめたこと。――
「なに、床下で」
と、お戒はいった。
「では、おまえは見なんだのか、耳できいただけなのか」
「でも。……」
と、楓はいって、口ごもった。
口ごもったのは羞恥《しゆうち》のためだが、「でも」という言葉には、まさかその光景をのぞいているわけにはゆかないといういいわけと、そして紅葉が石五郎に犯されたことにまちがいはないという意味があった。
「……おそらく紅葉は口をつかったはずじゃが」
とお戒はつぶやいた。
「しかし、おまえが見なんだとあれば、それをたしかめたい。紅葉とやらを、城の外へつれ出す工夫はないかえ?」
「紅葉さまは、死にました」
「死んだ」
「すぐ、そのあとで」
お戒は、しばし思案していたが、やがてうす笑いした。
「死ぬはずじゃ。口中がそのように変えられてはな。……よし、もうよい。ゆきゃれ。なお、いっておくが、楓、このたびのこと誰にもしゃべるでないぞ。しゃべれば、またおなじ目にあわされようぞ」
楓はよろめくように立ちあがり、あるき出した。
じいっとそれを見送っていたお戒のきれながの眼に、めらっと妖艶《ようえん》な笑いが青い炎みたいに燃えると、その手があがった。そこから銀色のひかりが噴出した。
どこに持っていたのか、鎖鎌《くさりがま》であった。しかも彼女は、その鎌の方を投げたのである。それは楓のほそいくびをめがけて、音もなくながれ飛んだ。
戛《かつ》!
という音が空中で鳴った。
お戒は、鎌が空に静止しているのを見た。六尺あまりの青竹がそれを止めたのだ。どこから飛来したか、一本の青竹は鎌の柄を打ち、そして鎌もろとも、鎖を巻きつけてしまったのであった。と見るまに、それらはすべて地に落ちた。
「この姿では、はじめてお目にかかる」
という声がきこえた。
お戒は、青竹にからみついた鎖をひくのも忘れて、気死したようであった。
ながれるように白い影が樹々の中からあらわれて、青竹を踏んで立った。
――と見えたのは一瞬である。
電光のごとくお戒が片手を帯にあててそこに刺してあった手裏剣をつかんだとき、その白い姿はふっと消えてしまった。
同時に、その向こうにいたはずの楓も忽然《こつぜん》と見えなくなっていた。
「伊賀流にはあるまい。忍法月の羽衣。――」
笑いをおびた声が、いま見えた地点から十間も離れた場所でひびいたが、依然として姿は見えぬ。
「考えたりな、伊賀のくノ一、ほかの女を介して城中へ精水波を送るとは」
お戒の手裏剣がそこをめがけて走ったが、それは天に飛ぶ流星のようにむなしく消えた。
「しかし、それができる伊賀忍法もまたたいしたものだ。感服した」
また声がもとの位置にもどったと見えてお戒は鎖をひきずり寄せようとしたが、鎖はうごかなかった。おどろくべし、その突端の鎌は――ほんのいま白い影がそこに立ったときにやったものにちがいないが――グサとばかり地中に打ちこまれていたのである。
「楓の舌を男根と化し」
声はまだべつのところでいう。
「その舌によって紅葉の口を女陰と化し、いや、おどろいたものだ。紅葉の顔自身が――ひかりのかげんでは女陰そのものと見えた。――」
「…………」
「さなきだに第一の精水波をぬられていた石五郎だ。ひかりがどうあろうと、紅葉の顔は女陰に見えたろう」
「…………」
「精水波は、紅葉の口中に移っていた。ちょっときくが、あれは左様に人から人へ移っても消えぬものか? ならば、実に恐るべき忍法。ちょっと浮気もできぬことになる」
「…………」
「いや、きいても伊賀のくノ一ならば答えまい。またきかぬでも、わかっておる。たしかに第二の精水波は、あの馬鹿殿に移ったぞ」
暗い、しかしどこかおぼろおぼろとした春の闇に眼を見張ったまま、歯をくいしばって二本目の手裏剣をつかんでいたお戒はこのときその手裏剣をあげた。
――それを投げずに、彼女はじぶんの髪にあてた。
鎖から手をはなし、片手にひとにぎりの髪をつかむと、お戒はそれを空に離した。
風もないのに、それは生命あるように闇天《あんてん》にハラハラと舞いあがった。
「待った」
声とともに、地に横たわっていた青竹が鎌と鎖をくっつけたまま、ひとりでに立った。数条の髪がそれに巻きついた。
そのすきにお戒は、二本目の手裏剣を――見えない影には投げず、おのれののどぶえに刺した。
「あっ、やったか」
重くたおれる音に、足音が駆け寄って来た。その途中から、忽然と白頭巾、白装束の姿が浮かび出した。
「得《う》べくんば、ききたいこともあったが」
地に伏したお戒の背を見下ろして、自来也は憮然《ぶぜん》としていった。
お戒はのどを刺した懐剣をかえして、みずからの頸動脈《けいどうみやく》を断っている。
いままでのなりゆきから、しょせんこの相手に敵すべからずと観念して、みずからの口と味方の秘密を永遠に封じてしまったらしい。いかにも無足人のくノ一らしい凄絶《せいぜつ》な自己処理であった。
「しかし、罪なき女人をかくも苦しめ――はては紅葉をすら死に至らしめた無惨な奴、しょせん生かしてはおけぬ女であった」
と、自来也はつぶやきながら、手にした青竹をとんと地についた。髪がハラハラと地に舞いおちた。
常人ならば、まひるでも見えない数条の髪が、地上に何やらウネウネとからまり合ってえがき出した文字を、闇の底に彼は読んだ。
「おかいのせいすいはなる」――「お戒の精水波成る」
お戒の――いや、無足人のくノ一たちの毛髪は、肉体は死んでもなお執念は毛根に残って、最後の凱歌《がいか》を送ると見える。
――谷を飛び去った髪の毛のゆくえは、もとより竜庵だ。
曇った空から、ようやく月がおぼろな顔を出したとき、楓は失神から醒《さ》めた。
楓は先刻、空中で戛《かつ》という音をたてて鎌がひらめくのを見た刹那、それまでもちこたえていた最後の気力が破れて気を失ったのだ。だから、むろんそれ以後に起こったこと、じぶんが「月の羽衣」に覆われていたことも知らない。
起きあがって、うなされたような眼で庭を見まわしたが、そこにはあの恐ろしい女はもとより、鎌も竹も見えなかった。それまでのことは悪夢だったのではないかとさえ思われた。……ただ、地に残っている黒いものを血だと見た瞬間、彼女はふたたびこけつまろびつ逃げ出した。
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第三波
月も星もない夜でも、どこかおぼろな晩春の夜であったのに、ここは天地の闇《やみ》を集めたような世界であった。
しかし、そこにうずくまっている服部《はつとり》無足人たちの眼には、二羽の鷹《たか》を両肩にとまらせた首領の服部|蛇丸《へびまる》が、じっと一個のまるい臼《うす》のような石を凝視《ぎようし》しているのが見える。のみならずその白い石の表面にもつれ合っている無数の髪の毛がえがき出している二行の文字すら見える。
「おじょうのせいすいはなる」
「おかいのせいすいはなる」
うなずいて蛇丸は、その髪をふっと吹き、あと石の上に腰を下ろした。
彼は旅姿であった。これから旅に出かけるのではない。彼はいま伊勢《いせ》の津から帰ったところだ。
「お戒の髪は、いつ来たか」
「昨夜でござる」
無足人のひとりがいった。
「それっきり、お戒は帰ってこぬな」
「帰って参りませぬ。ふしぎです」
「死んだ……お丈も死んだ」
と、蛇丸はいった。冷たい声であったがさすがに痛恨の余韻《よいん》がある。配下はなおみれんげに、
「お丈もお戒も死んだ。……くノ一ながらそうやすやすと討たれる両人ではないはずでござるが」
「おそらく自来也なる奴だ」
と、蛇丸はうめいた。
「ところで、わしの留守中、自来也の正体やゆくえをつきとめろ、といっておいたが、わかったか」
「わかりませぬ。一切……」
配下たちは、恥じて、声をのんだ。
服部蛇丸は、ちらっと、前に坐《すわ》っている黒いむれのうち、たしかに女と見えるひとかたまりの方を見たが、すぐに、
「自来也なる奴の処置についてはあとでいう」
と、またむきなおった。
「われわれの目的はあくまで藤堂石五郎じゃ。きゃつを首尾よう五人のくノ一の精水波にかけることじゃ。自来也はそれを邪魔しようとする。お丈、お戒を討ったきゃつは恐るべき奴だが、しかしお丈、お戒はみごとに任務を果たしたことはたしかだ。その意味では、決して自来也には負けなんだのじゃ。さて、石五郎にはすでに二層の精水波がぬられた。あと三人。――」
「こんどはわたしが参りまする」
と、女のひとりがいった。お津賀《つが》というくノ一だ。
「待て、お丈はみずから城に入って殺され、お戒は他人の女中を城に送りこんでこれまた殺された。――もはや、この手はむずかしい。城では用心しておるであろう」
「いかにも、城では、まるで悪疫《あくえき》でも侵入してくるかのように警戒しております。きけば、江戸からの隠密をふせぐためだと申しておりまするが」
「江戸からの隠密? ふうむ」
蛇丸は、ちょっとくびをかしげたが、
「ともあれ、第三波を送るについては、べつの工夫をこらさねばならぬ。――こんどは石五郎自身をおびき出す」
「お頭」
と、ひとりがいった。
「それは最初にやったことではありませぬか。そして茜《あかね》がしくじったではありませぬか。われわれの探《さぐ》ったところでは、石五郎は依然、女とみれば狼《おおかみ》のような眼つきをしておりまするが、鞠姫《まりひめ》さまがきびしく見張って、庭へ出るにも眼をはなしなされぬということでござる」
「その鞠姫を外へ出すのだ」
「えっ」
「鞠姫を津の城へやる」
「津へ」
「津へやるのが目的ではない。この城から外へ出すのが目的だ。この伊賀上野から津へ――十三里、その道中」
「鞠姫さまを出されて何となさる」
「鞠姫が出れば、石五郎もあとを追うにきまっておろうが」
「あ」
と、無足人はさけんだが、すぐに、
「しかし、お頭、鞠姫さまをどういう風に津へ」
「津の殿に呼びかえしていただくのだ。それを綱手《つなで》と打ち合わせてきた」
津の殿とは、いうまでもなく領主の藤堂|和泉守《いずみのかみ》のことである。綱手はその愛妾《あいしよう》で――しかもそれを蛇丸は呼び捨てにした。彼女は彼のもとの恋人だったからだ。しかもいまなお彼と彼女はふかい連絡があるらしい。――
いや、事実、服部蛇丸は、綱手と連絡するために、津の城へいって帰ってきたところなのであった。それは、例の目的を遂行するについて、自来也なる意外な人物が登場したこと、及び鞠姫の件について――とくに、後者についてだ。
鞠姫が石五郎を追って、城を出たあの一夜。――鞠姫がどこまでじぶんたちのことを知ったか、よくわからない。一応石五郎からひき離し、じぶんたちを藤堂|藩《はん》の隠密のごとく見せかけようとしたが、これは自来也のために化けの皮をひっぺがされた。あのあとで、鞠姫は、その自来也なる人間から何かをきかされたおそれがある。少なくとも、町医者竜庵が服部蛇丸と同一人であることを知ったはずだ。
鞠姫が何かを知ったなら、それを父の和泉守に告げずにはおかないだろう。何を告げたか――それを知るために蛇丸は津へ急行し、綱手からきこうとした。
――ところが、案に相違し、鞠姫は和泉守に何の報告もしていないという。綱手にかくす和泉守ではない、と和泉守の心魂をつかんだ御国御前《おくにごぜん》は、絶対の自信を以《もつ》てそういうのであった。
鞠姫が沈黙しているとすれば、それはそれとしてうすきみがわるい。いまきけば、城の警戒を「江戸からの隠密」をふせぐためと称しているのも、かえってぶきみである。
で、蛇丸は、もし鞠姫からその後報告があった際の処置、また石五郎を精水波第三波にかけるため、鞠姫を津へ呼びもどすよう、綱手と精密に打ち合わせて伊賀へはせ帰って来たのであった。帰ってみると、お丈、お戒の髪による通信が待っていたというわけである。
「さて、その道中、石五郎を精水波にかける手はずじゃが」
と、蛇丸はいった。
「まさか、きゃつひとりが旅をするわけではない。鞠姫といっしょであろう。――また別に出立するとしても、あの甲賀蟇丸《こうががままる》という奴がついておる」
ふっと、くびをかしげて、
「あの蟇丸、どうにも気にかかるえたいのしれぬ奴」
と、みずからの胸に問うようにつぶやいた。
「石五郎につき従う者をみな殺しにするのならべつ、このたびの目的のためには石五郎ひとりをおびき出し、三番目の精水波にかけ、またもとにもどして津の城へかえさねばならぬ。津の城へかえればそこには綱手がおるゆえ、次の精水波にはまた工夫がつくであろう。――右の次第ゆえ、道中ひそかに石五郎のみをおびき寄せるには」
といって、お津賀を見た。
「おまえにやってもらうか」
「はい」
「そこで、おまえには死んでもらわねばならぬ」
「――はい!」
じっと、蛇丸を見つめてお津賀はこたえた。すでにふたりのくノ一は行って帰らぬ。死は覚悟のまえのことであり、またそれを恐れる風を見せてもならぬ無足人の掟《おきて》であった。
「自来也ですか」
「左様。――お丈、お戒まで討った奴、きゃつかならずまた現われるとわしは見ておる」
「……なんの、わたしが」
「いや、おまえは石五郎を精水波にかけるのにいのちを捧《ささ》げろ……。ここで死んでもらうのだ」
「えっ」
さすがにお津賀は息をひいた。
「おまえは、忍法乳しぼりをここでやれ」
服部蛇丸は冷然といった。
「わしは茜《あかね》にやってもらおうと思っておった」
蛇丸はじろと視線をうごかした。
「最初の精水波にしくじった奴。――が、茜にはもう少し生きていてもらう必要がある。自来也を討ち果たすまで――少なくとも、きゃつの正体がわかるまで」
眼は射るようにうなだれた女の影にそそがれて、
「もういちどきく、茜。――自来也は、阿波隼人《あわはやと》ではないか?」
「いいえ、ちがいまする」
まえとおなじように、茜はさけんだ。……その語韻をなおじっと味わっているような首領の眼を、ほかの無足人たちは闇《やみ》にも物凄《ものすご》く感じて、
「まさか?」
といった。
「あの阿波隼人が――いかにもきゃつ、不逞《ふてい》にもわれらを裏切りました。しかし、きゃつが、お丈、お戒を討つほどの忍法を体得したとは、どうにも心得かねまする」
「その隼人が……あの服部川でわしの成敗から甦って逃げ去ったのをどう思う?」
一同は沈黙した。
無足人たちのみならず、当の蛇丸自身、あの一件については、それを目撃したじぶんの眼をいまだ疑っているのだ。しかし、それは事実であった。しかも彼は、服部蛇丸の企図にあくまで邪魔を入れるという宣言をはなって去ったのだ。――
自来也なる男は、お丈、お戒を殺した。蛇丸からすると、お丈、お戒を殺した者はほかにかんがえられない。それなのにきゃつはなぜ最初の茜だけを殺さなかったのだ?
いまにして思い出す。あのとき「自来也は隼人ではないか」とじぶんがきいたのに、茜は否定した。にもかかわらずその語韻に何やら迷いのようなものが感じられた。――そしていま服部蛇丸は、ふたたび否定した茜の声のひびきに、やはり同じような動揺をききとったのである。
――茜は、ほんとうに迷い、動揺していた。あれが隼人さまであるはずはない、顔も覆面していたし、声もちがう。抑揚のない、感情のない、大地の底から陰々ともれてくるような声であった。それなのに――どこか、日の翳《かげ》りみたいに、あれは隼人であったという感じをぬぐいきれないのだ。なんとも名状しがたいいらだたしさであった。
「よし」
と、蛇丸はいった。
「自来也に逢《あ》え。……茜、そのために、乳しぼりはお津賀にさせる。おまえはその乳をあびて石五郎にちかづくのだ。自来也はきっと現われてくる」
そして彼はもういちど優婉《ゆうえん》なお津賀に眼をもどした。
「お津賀、来い」
立ちあがると、お津賀も立とうとして、よろめいた。
服部蛇丸は冷ややかに背を見せたかと思うと、忽然《こつぜん》と消えた。――やや背をまるめて傍の窖《あなぐら》に入っていったのである。お津賀もそれを追った。
そこは伊賀盆地北方の一丘陵の麓《ふもと》であった。この地方は花崗岩《かこうがん》が変質して粘土化した長石の多いところで、これが良質の陶土となる。いわゆる伊賀焼は、隣国甲賀の信楽焼《しがらきやき》とともに天平《てんぴよう》年間から伝わった最も古い窯《かま》の一つだ。これはそのために土を採《と》った穴の名残りか、或《ある》いは登り窯であったものが崩《くず》れたあとであろうか、いままで蛇丸が腰を下ろしていたものは、石臼《いしうす》ではなくて轆轤《ろくろ》の台らしかった。
そんな大きな轆轤台を、無足人たちはもうひとつひきずって来て二尺あまりをへだてて置いた。そのあいだに一枚のむしろをしいた。
「茜」
ひとりが呼んだ。
「そろそろ支度にとりかかれ」
「はい」
茜は答えなければならなかった。彼女は立ちあがり、きものをぬぎはじめた。
常人には漆《うるし》としか見えない闇の中に、やがて、一糸まとわぬ姿が立った。――いや、常人でも、その裸身は白蝋《はくろう》のようにひかって見えたかもしれぬ。そのまま茜は、二個の轆轤台のあいだに――むしろの上にあおむけに横たわった。
窖《あなぐら》の中からヒタヒタと跫音《あしおと》が出て来た。
ぬっと現われてきた服部蛇丸は、やはり蝋のようにひかるひとつの女身《によしん》を両腕に抱いていた。お津賀である。
お津賀は四肢をダラリと垂れ、頭と黒髪ものけぞらせ、地に曳《ひ》いて――しかし彼女は失神しているのではない。その口からは、むせぶようなあえぎが断続してもれている。盛りあがったふたつの乳房は大きく起伏し、よくみればダラリと垂れた四肢にも電光のような痙攣《けいれん》が走る。――服部蛇丸は何をしたのか。
「見ろ、お津賀は極楽におるわ」
蛇丸はうす笑いして彼女を二つの轆轤台の上に横たえた。轆轤台のあいだに白い虹《にじ》がかかった。
「よいか、茜」
と、蛇丸はいった。茜はお津賀の下に、十文字になるように横たわっている。
「お津賀は――昇りつめるところまで昇りつめて、もはや耐えきれぬ。そうれ、ゆくぞ、忍法乳しぼり」
蛇丸はお津賀のふたつの乳房を両手でつかんで、ぎゅっとにぎりしめた。
すると、乳房ではなく股間《こかん》から、ぴゅっとひとすじの液体が噴きあがった。ふりそそいできたその液体は、彼女の白い腹や腰やふとももにはね、つたわり、下へしたたりはじめた。――下に横たわる茜の白い腹や腰やふとももへ。
名状しがたい匂《にお》いが闇にひろがり「うっ」とうめく声がした。
「近い、のけ」
と、ふりむいて蛇丸は叱咤《しつた》した。無足人のひとりがあわててとびずさった。
ほかの無足人たちは、まるでこわいものでもとりかこむように、二間もの半径をおいて環をつくっている。
一分……二分……五分……ただの液体が、これほど多量に人間にたくわえられているわけがない。血でもないかぎりは。
――そうなのだ。これはお津賀の血液なのであった。ただし、白日の下でみても血の色はしていない。「乳しぼり」といったが、乳の色もしていない。透明な、やや粘りけのある液体であった。忍法「乳しぼり」――彼女の血液は、すべて愛液と変えられたのだ!
血液すべてを噴出し、お津賀はしだいに涸《か》れてゆく。まひるならば、その皮膚が青ざめ、はては透明になってゆくのが見えたであろう。からだがうすくなり、小さくさえなってきたようだ。それでも彼女は轆轤台から落ちない。――彼女はすでに死んでいるのだ。
愛液と変えられたお津賀の血は、すべて茜にふりそそがれた。
茜はじっと横たわったまま、これまた死んだようであった。三十分……四十分……五十分、すでにお津賀の「乳」はしぼりつくされ、その愛液の雨は止んだのに茜はうごかない。
「よし」
じつに一時間以上もたって、蛇丸がうなずいた。
「茜、起て。――きものをまとえ」
茜がゆるゆるうごき出した。立ちあがった。もとの通りきものを着た。
何もかも、茜はもとの通りにみえた。ただ――日の下でみれば、全身の皮膚がかすかにあからんで、微妙に、敏感にふるえ、けいれんしているのが見えたであろう。――と、ふいに或る方向へ、吸いつけられるようにうごきかけた。
「おれだ」
蛇丸はさけんだ。茜は歯をくいしばって踏みこたえた。
「上野へゆこう」
蛇丸があごをしゃくった。
ひからびつくしたくノ一お津賀の屍骸《しがい》をすて、茜をとりかこんで、無足人たちは黒い環をつくって、山道を下りはじめた。ただし、どんな地形でも、茜から二間の距離をおいて、それ以上近づこうとはしない。
二間以内に近づけば、男たるもの、まるで食虫花に対する虫みたいに吸い寄せられてしまう。いや、彼女の方で、狂乱したように男にしがみつく。一瞬、脳髄は麹《こうじ》みたいに溶けて、そうせずにはいられないのだ。
茜は、お津賀の愛液を全身に浴び、これを皮膚に吸いつくして、一個の人間|雌《め》しべ、いや美しい女のかたちをした「クリトリス」そのものと変えられたのであった。――彼女と交われば、精水波第三波第四波は同時に重ねられることになる。
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伊賀のぬれ仏
「ちかいうちに、余は江戸へ参覲《さんきん》に出立せねばならぬ。それについて、鞠《まり》も江戸にゆかぬか、それとも国におるか、いずれにせよ、ぜひ逢うて話したい。いそぎ津へもどれ」
という、父|和泉守《いずみのかみ》からの使者であった。
その使者を受けて、鞠姫は思案した。
父は何も知らなくてこういってきたのであろうか。竜庵一味のことを口外するなと自来也がいったから、じぶんはいままで黙ってきた。父に何も報告していないから、父は何も知らないはずだ。しかし、これほど藤堂家にとっての重大事を、いつまでもじぶんの胸ひとつにたたんでおいてよいであろうか。
――いや、或《ある》いは父は何かを知って、こういう使者をよこしたのかもしれない。だれからきいたといえば綱手《つなで》からである。綱手は、竜庵の手を経て父の御国御前《おくにごぜん》となった女であった。もし、恐ろしいことだが、綱手が竜庵の一味であるとするならば、竜庵と連絡して、何かを父に吹きこんだのかもしれない。
自来也は、あんなことをいったけれど、やはりじぶんは、このまま座視してはいられない。鞠姫は、ついにそう決心した。
それに、あれ以来、城には続々と妙なことが起こる。――実は鞠姫は、闇中《あんちゆう》でくりひろげられている自来也対無足人組の言語に絶する死闘のすべてを知らなかったのだが――あの遠眼鏡で見た髪文字の怪、その夜起こった片腕の妖、またつづいて朧月《おぼろづき》の下にくりひろげられた裸女と夫石五郎の痴戯《ちぎ》、さらに紅葉という女中が部屋におびただしい血痕《けつこん》を残したまま消滅してしまったし、そくそくたる妖気《ようき》が城をめぐり、ひたひたと忍び寄ってくるのをおぼえないわけにはゆかない。
自来也は何をしている?
ばかに自信まんまんとして、敵の陰謀をあばき、ふせいでみせると約束した自来也はどこにいる?
あの片腕の女があらわれたとき、自来也もまたあらわれたから、彼が決して約束を忘れて消えてしまったわけではないらしいことは感じられるけれど、くわしいことを知らない鞠姫には、いかにもたよりなく、雲をつかむ人間のようにも思われる。
帰ろう、津へ。
と、鞠姫は心を決めた。
ところで、さて、夫の石五郎はどうするか。前にだまって津の城へほうり出して、じぶんひとりでこの伊賀にやって来て、こんどはまた、だまって上野の城に置きっぱなしにして津へかえるのは、いかにもひどいと、われながら思う。人の目もある。またほんとうをいうと、あの唖《おし》でうすばかの夫に何やら妙な哀れみをおぼえ出してもいる。しかし。――
だんだんひどくなるあの狂態、とくに先夜、妖《あや》しい裸女に吸いよせられていった滑稽《こつけい》にしてぶざまな姿、さらに、からくもそれを制していた家来の蟇丸《がままる》までが、このごろ何やらおかしくなってきて――とてもこれではつき合えない、と鞠姫は思わざるを得なかった。
いいや、またほうり出してゆこう。
「父上のお呼びじゃ、鞠は津へかえる」
そう城代家老の藤堂|采女《うねめ》にいうと、鞠姫は、じぶんが津からつれて来た十数人の家来と女中たちを促して、出立の準備を命じた。
「こへはまあ、はんはるほうひゅうな」――これはまあ、何たる早急な。――
と、ただ眼をまるくし、
「いや、ひいもおほもふかまふりまふる」――いや、爺《じい》もお供つかまつりまする――。とあわてふためく采女をあとに、鞠姫は使者の来た翌朝早く、伊賀上野の城を立った。
むろん、石五郎主従にはことわりもしない。
が――数里いって気がつくと――ややおくれて、この妙な主従がうしろからやってくる。あえぎあえぎ必死の顔で追ってくる。
そうと知って、鞠姫は駕籠《かご》をとめさせ、そこから出て、ふりかえった。笑って、迎えたのではない。にらみつけてやったのである。おっぽり出して城を出たときは、ちとわるいという気もしないではなかったが、さればとて、こうアタフタとすぐに追っかけてこられては、いやになるというより腹が立つ。
にらみつけられ、蟇丸が石五郎の袖《そで》をひっぱった。もう初夏の日ざしの下に、ふたりは口をポカンとあけて、白い街道《かいどう》に立ちつくしている。
――何んぞ知らん。鞠姫の旅こそは闇中の人間のはかったことで、しかもその旅のよけいな道づれとみえる石五郎の方こそ、その人間の狙《ねら》ったものであったとは。
伊賀上野から津へ。――十三里。
いわゆる伊賀街道のちょうどまんなかあたりに、伊賀の国と伊勢の国をへだてる長野|峠《とうげ》がある。
女づれのゆっくりした行列なので、鞠姫一行はその日、その手前の阿波《あわ》の宿にとまった。初夏とはいえ、実に蕭条《しようじよう》たる山中の小駅だ。阿波といえば、もとより鞠姫は知らないが、服部《はつとり》無足人の中にあって、いまは生きているか判然《はつきり》とせぬ謎《なぞ》の人物、例の阿波|隼人《はやと》は、その姓からみて、おそらくこの土地と関係があるのであろう。
日はくれた。
阿波の宿からまたすこし手前の野に、巨大な仏像が裸で坐《すわ》っていた。
――そのむかし、鎌倉時代、奈良東大寺の俊《しゆん》 乗《じよう》 坊《ぼう》 重《じゆう》 源《げん》なる僧がここに十一|宇《う》の大伽藍《だいがらん》を建てた。いわゆる伊賀の新大仏とはこれである。
その後、時移り年変わって、この寺院は荒廃し、一夜大雨のとき崩壊し、安置してあった一丈六尺の大仏は露天となった。いちじはこの大仏すら土中に埋没していた時代もあったが、のちにまた掘り出して石の台座の上にのせた。
が、さらに星霜を経て、石の台座も蓬々《ほうほう》たる草に覆《おお》われ、その上に鎮座する大仏も青苔《あおごけ》に覆われた。
丈六にかげろう高し石の上
さまざまの事おもい出す桜哉
この露天の大仏を詠《よ》んだ芭蕉《ばしよう》の句だが、これはおなじ伊賀の国に生まれた芭蕉の感慨であって、よそから来て通りかかる旅人には、もったいないというより、ものすさまじいという感のみを起こさせる。――
夜ともなればその怪奇巨大な影は、なおさらである。
ただ、野宿するには風をふせぐありがたい大仏さまの蔭であった。もっともその風も生ぬるい初夏の夜である。ひろい台座の上に破れむしろをしいて、ふたりの男が眠っていた。
夜というのに、大空に二羽の鷹《たか》がゆっくりと旋回しているのを、彼らはもとより知らぬ。
またなまぬるい風が吹いた。
「……うっ」
突然、その台座の上でうめき声があがった。
ふたりとも魔に襲われたように起きあがり、まわりを見まわし、鼻をピクピクさせはじめた。――藤堂石五郎と甲賀蟇丸であった。
「はてな」
と、蟇丸はつぶやいた。
ふいに石五郎がフラフラと立ちあがった。台座からおりて、野の方へ歩き出した。
「……なりませぬ、殿、これは――」
と、あわてて蟇丸は呼んでそれを追いかけようとしたが、ふいにまたぎょっとしてあおむけにころがり、台座の一角にしがみついた。まるで暴風に吹かれて枝にしがみついている木の葉みたいにからだじゅうがふるえ、それにたえるために蟇丸は大きな口をくいしばっていたが、それでも台座をつかんだ指さきは、いまにも爪《つめ》が剥《は》げそうに痙攣《けいれん》していた。
さすがは甲賀の忍者である。
じぶんを目覚めさせたもの、そして目覚めたあと、匂《にお》うともなく鼻孔にからまり、ひきずりよせるものを、何とは知らずただならぬ魔性のものと感づいた。それで、愕然《がくぜん》として石の台座にむしゃぶりついたのだが、それが出来たのも、とにかくも甲賀者なればこそ。
石五郎にいたっては、ほとんど無抵抗に、いや、むしろ何やらうれしげに、夜の草の上を歩いてゆく。
そのゆくてに、ぼうと白いものがあらわれた。――女の裸形だ。それがじっと石膏《せつこう》像のように立っていたが、やがてこれまた歩き出した。茜であった。
伊賀のくノ一お津賀の愛液を全身に浴びつくし、一時間以上もそのままにして、それを吸いつくしたかと思われる肌《はだ》――その肌から発する香り、というより一種のエーテルは、ちかづく男を蛾《が》みたいに吸い寄せる。
げんに、上野北方の丘陵の麓《ふもと》、れいの窯跡《かまあと》からここへくるまでも、彼女はきものを着ていたにもかかわらず、数人犠牲者を生み出してしまった。伊賀街道に沿ってはいるが、ほとんど常人の通らぬ山間の路を通ってきたのだが、そのあいだで働いていた百姓|或《ある》いは猟師のたぐいで、運わるくこの圏内にとらえられたものがある。
それらの男はふいにたえがたい欲情のエーテルにつつまれて、彼女の方へ吸い寄せられ――あと数間、というところで、ふいにいずこからともなく飛来した手裏剣のために頸部《けいぶ》や心臓を刺しつらぬかれて即死した。――
いわんや、いま茜は一糸まとわぬ全裸となっている。もとより、めざす獲物を発見したくノ一の戦闘態勢がこれであった。その肌から放つ「乳」の香はなまぬるい南風にのって、夜空にそそりたつ黒い大仏の方へ吹いた。
この風の中に、茜は、全身の皮膚がももいろに汗ばんで、乳くびまでが微妙に、敏感にふるえている。彼女自身がじぶんでもどうすることもできない欲情の風に吹かれているのだ。これに抵抗できる男はない。――ただ彼女にこの忍法を施した首領|服部蛇丸《はつとりへびまる》をのぞいては。
茜は歩いてゆく。
石五郎が歩いてきた。
山中の巨大な野仏の下の奇怪な「密会」であった。――ふたりのあいだは二間の間隔にちぢまった。
「――待った!」
どこかで、低い声がした。同時に、何か獣が草の上を走るような音がして――事実、大仏のななめ後方のあたりから、白い影があらわれたかと思うと、それが風のように走って来て、両者のあいだに割って入ったのである。
「危い!」
声と同時に、石五郎は脾腹《ひばら》をおさえた。とみるまにその白い影に横抱きにされた。もとより当身をくわされたのである。
「おまえか」
白い影は石五郎を横抱きにしたまま、茜の前に立った。
「久しぶりじゃな」
自来也であった。頭巾《ずきん》のあいだの眼が哀れむように茜を見すえた。それから、ふいにしずかに頭巾をうごかしてまわりをじっと見まわしたようであったが、
「阿波隼人、思うところあって鬼とはなったが、やはりおまえは殺せぬなあ」
と、ひとりごとのようにつぶやいたのである。
その姿めがけて、三条の流星が横なぐりにつっ走った。それが、ちょうど自来也の立っていた地点、地上五尺ばかりの空中で、凄《すさ》まじい鋼《はがね》のひびきをたてて青い火花をちらして地におちたのである。
三本の手裏剣であった。なんたる正確、三方から飛び来った、手裏剣は、自来也の心臓の鼓動していた位置で三本が同時に衝突したのである。
自来也はそこから一間もうしろへ、石五郎を抱いたままとびずさっていた。
「おったか、足の無い奴ら」
と、笑った。
その声めがけて、なお無数の手裏剣が糸をひいた。自来也はそれを避けて、なお、ツツツ――と大仏の方へ逃げたが、
「茜、おまえは捨ておけば蛇丸のために呪縛《じゆばく》され、とりかえしのつかぬ人殺しさえせねばならぬだろう。いっそ、つれていってやろう。来い。――」
と、あとをふりむいてさけんだ。
誘われなくても、茜はそのあとを追っている。無足人のくノ一として彼を討つために追ったのではなく、彼女自身、女の性の化身として、その男の匂いの方へ吸収されていたのだ。
――と、ゆくての自来也は、走りつつ忽然《こつぜん》と見えなくなった。月はないが、燻《いぶ》し銀のようなひかりのただよう闇《やみ》にふっと消えてしまったのである。
「やっ?」
「どこへいった?」
はじめて周囲の草むらから、十幾つかの黒衣がむらがり立って、あきらかに狼狽《ろうばい》した影を右往左往させた。――そのなかの四、五人が、ふいに苦鳴をもらしてのけぞりかえり、崩折れた。どこか、見えないところから逆に飛来した手裏剣がその頸《くび》や心臓につき刺さったのである。
「伏せろ、さわぐな」
草の中で、ひくいきびしい声がした。服部蛇丸の声であった。
「茜を追え。茜がきゃつに吸い寄せられてゆく」
声と同時に、いっせいに黒影は消えた。
その通りだ。茜はおのれのまわりの大気にくりひろげられた手裏剣の交錯も知らぬげに、白い獣のように走ってゆく。
――何をかんがえたか、自来也は茜の命を助けた。彼女が何やら妖気を発散していることは知ったものの、以前に彼が見たお丈お戒のような凶悪な殺意にまみれているのではないことを見ぬいたのであろうか。それとも、以前にいちど見た茜の印象から、彼女が服部蛇丸の完全な傀儡《かいらい》、哀れな犠牲者にすぎないという判断を得たのであろうか、それとも――いま、妙なことをつぶやいたようだ。「阿波隼人、思うところあって鬼とはなったが、やはりおまえは殺せぬなあ」と。
――何はともあれ、自来也は茜の命を助けた。そして、それが彼を危地におとし入れた。彼が見えなくなったのは、いうまでもなく例の「月の羽衣」――おそらく薄闇や朧夜《おぼろよ》に効果を発揮する一種の迷彩用の布――で、石五郎もろとも身を覆ったからであろう。常人ならば、いや、たとえ闇に視力のきく伊賀者であっても完全に眼をくらまされるこの忍法が、茜だけには効かなかった。なぜなら茜は、眼ではなく、本能によって追ったから。
「うむ!」
遠い草の中で、服部蛇丸のうめきがきこえると、そこからひとすじの流星が一直線の糸をひいて、走ってゆく茜の前方へ飛んだ。
三間ばかり前方の空間で、戛《かつ》と音をたてて閃光《せんこう》がちった。
「おっと、危い」
そんな声がきこえると、まるで蒼《あお》い光線にあてられたように、石五郎を横抱きにし、もう一方の手に折れた刀身をひっさげた自来也の姿が浮き出した。蛇丸必殺の手裏剣をからくもその一刀ではねのけたものの、ふいを打たれてあたりどころがわるく、刀身の半ばを打ち折られたとみえる。――
そのまま彼は、前に逃げず、かえってうしろへ飛んだ。追ってきた茜の裸身ともつれ合った。
「やっ?」――
またむらがり立った伊賀無足人たちが、思わずまばたきしたとき、こんどは茜の姿がふっと視界から消えてしまった。
と、みるや、自来也はまたながれるように走り出した。こんどは彼だけだ。
ほとんど信じられないような早さで駆けて大仏のそばにつくと、おどろくべし、その白い姿は大仏の台座からその仏体へ、むささびのように駆けのぼっていったのである。
それも、向こう側にかくれて、チラチラと鷺《さぎ》みたいに白いものがうごいて見えただけであったが、伊賀者たちは見のがさなかった。
「大仏の上へ逃げたぞ」
「もはや、のがさぬ」
いちど、大仏の前で一団となった彼らは、駆けて来た蛇丸から「血縄」という一語をきくと、そのままいっせいに散った。大仏のまわりに――である。
大仏の周囲に散った伊賀者たちの腕から、たちまち七、八条の縄が投げあげられた。それが大仏の腕や胸や背に達すると、その尖端《せんたん》はぴたっとそこに膠着《こうちやく》した。いかに苔《こけ》に覆われていようと、鉤《かぎ》もたたぬはずの金銅の仏体にそれは吸いついたのである。
その縄の尖端にまるめられ、そこに彼らはいっせいにじぶんの腕を傷つけて、ほとばしり出た血を吸いこませたのであった。血塊にふくらんだ縄の尖端は、「血糊《ちのり》」という言葉を如実に生かして、金銅の肌に貼《は》りついた。――ふつう彼らはこれを石垣《いしがき》や壁をよじのぼるのに用いる。――服部無足人秘伝の「血縄」とはこれである。
四方八方からよじのぼりはじめた無足人たちの姿をいまは気がついたであろうに自来也は、闇夜にそそり立つ大仏頭の上に白鷺のごとくとまったまま、じっと見下ろしている。……
「少なくとも、刀はない」
と、下で蛇丸がさけんだ。
「また――きゃつ、身を隠す衣を持っておったようだが、もはやそれもないはずだぞ」
そういって、蛇丸はいそがしくあたりを見まわした。
茜が見えなくなったのは、おそらくその奇怪な衣で覆われたからであろう。石五郎も然《しか》りだ。ふたりはこの草むらのどこかにおるはず――と判断したのだが、夜目にザワザワと草がなびいているだけで、それらしいものは見えなかった。
それから――もうひとり、あの甲賀蟇丸という奴もいたはずだが、きゃつはいったいどこへいったのだ?
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危険物
夜の大仏頭の上に白鷺《しらさぎ》のごとく立っている自来也、彼の技倆《ぎりよう》を以《もつ》てすれば、八方からよじのぼってくる伊賀者たちの「血縄」を切りはらうこともできるであろうに――いや、よじのぼってくる伊賀者たちは、はやくもべつの血縄をとばしてべつの個所に貼《は》りつくであろうから、そう簡単に追いおとすことができるかどうかは疑問だが――いずれにせよ、大仏の上下をめぐってふたたびこの世のものならぬ争闘がまき起こることはたしかであったろう。
にもかかわらず、自来也は何をかんがえているのか、依然として大仏頭の上に、寂然《じやくねん》と佇《たたず》んでいる。――
その姿が夜目にも何やら一念を凝《ぎよう》 集《しゆう》させている人間の姿に見えて、はじめて、
「……きゃつ、何を――」
と、服部蛇丸《はつとりへびまる》がぎょっとしたとき、思いがけず、下の草原に何やらただならぬ物音が起こった。
「蛇丸、やめろ。――」
「もはや、石五郎さまと茜は阿波の宿の方へ逃げたぞ」
「藤堂家の侍が駆けつけてきたら、事面倒《ことめんどう》であろうが。――」
陰々たる声がむらがりながら近づいて来た。
草原を、四つ五つの黒影が白刃をひっさげたまま、漂うように歩いてくる。突如として新しい敵の助勢が現われたのか? と、はっと眼をこらした伊賀無足人たちは、闇《やみ》にもきくその眼で、近づいてくる者がだれであるかを見てとると、驚愕《きようがく》のあまり、その数人が血縄から手をはなして大仏の下へころがり落ちた。
ころがりおちたものの、本能的に猫《ねこ》のごとく回転してつっ立ち、狂気のごとくその黒影のむれに躍りかかった。
「こやつ、どうしたのだ?」
「うぬら、無足人を裏切るか!」
白刃がひらめき、無足人たちは黒影のむれを斬《き》った。――たしかに肉を絶つ音がし、血しぶきすら立つのが見えるのに、黒影はたおれない。まるで空中から糸であやつられているかのように、依然として、
「おまえら、仲間|甲斐《がい》におれのところへくるか……」
「死んでも死にきれぬ、この中有《ちゆうう》の闇をさまようか?」
陰々たるつぶやきをもらしながら、なお大仏の方へ近づいてくる。――それは彼らの仲間、しかし、たしかに先刻、自来也の手裏剣のために斃《たお》された服部無足人たちであった!
「ゆるせ!」
「助けてくれ!」
さしもの伊賀者たちも全身水をあびた思いになり、突風に吹かれたように、この奇怪な仲間から逃げ出した。思いはおなじ、まだ大仏にとまっていた無足人たちだ。これまた血縄をすてて、はじかれたように大仏から跳躍すると、遠く草原にとび下り、まろぶように逃げてゆく。
ただ息をのんで立ちすくんでいた服部蛇丸は、このとき、
「……忍法|死人谺《しびとこだま》!」
という声をきいた。
まさにそれは、谺のごとく遠くからわたってきたのである。
ちょうどそのとき服部蛇丸は大仏の石の台座の端に立っていたが、ふりかえると、もう十数間の向こうの夜空へ、白い影が羽ばたいてゆくのが見えた。ふりあおぐと、大仏頭の上に自来也の姿はない。
自来也は大仏頭の上から、やや後方に四、五本ならんで立っていた杉《すぎ》の木の一つの高い枝へ縄を投げ、それをつかんで振子《ふりこ》のごとく飛び立ったのであった。――そのことを、忍者なればこそ服部蛇丸はみとめたが、もはやそれを追う気力も失っていた。
だいいち、いまの自来也のさけびとともに、まるで糸がきれたように、いま奇怪に甦《よみがえ》った黒い影が、ふたたび地にたおれてゆくのを見ては。――
その方へ駆け寄ろうとして、服部蛇丸はふと足もとに小さな、妙なものを見つけ出した。それは一個の男根であった。
「……一応、完敗とみえる」
と、蛇丸はいった。
闇夜にはちがいないが、うすい銀粉をまいたような空に、遠く例のぬれ大仏の影がみえる。ふたたび静寂にもどった草原の端であった。
胆《きも》をつぶして逃げ去ったのを、あとを追ってきた蛇丸に呼び返され、ようやくふたたびここにつれもどされた無足人たちであったが――むろん、大仏のちかくに、ほかに人影はない。人影はないが、おそらく、例の仲間の屍骸《しがい》はそこに横たわっているのであろう。それがふたたび死んだ、ということを蛇丸からききはしたが、いちど死んだ連中がふたたび甦《よみがえ》ってきたのをまざまざと見たのだから、さしもの無足人たちもそこへ近づくのに気がひるむ。
といって、首領がいま妙に平静にいうのが、相手が相手だけに、かえってうす気味わるかった。
「お頭。……あれは……まことに死んでいたものでござろうか」
と、ひとりがおずおずといった。二度死んだ仲間のことだ。
「まことに、はじめから死んでおった。きゃつ、自来也の投げた手裏剣、ことごとく頸《くび》か心臓を刺しとめておった」
「それが、ものをいい、立ちあがりました」
「忍法|死人谺《しびとこだま》。――とかぬかしたぞ。思い出せ、それは鍵屋《かぎや》の辻《つじ》で彦四郎の屍骸《しがい》を以《もつ》て見せられたものではないか?」
「――あ!」
「また思い出す。茜の話によれば、茜が上野のわしの屋敷で石五郎を精水波にかけようとして、しくじったとき、気絶しておった石五郎が、ふいに足をあげて茜の脾腹《ひばら》を蹴《け》り、茜をも気絶させたという。――気絶しておる人間や、ときによっては死びとの骨と肉、声帯すらもうごかし、ふるわせる忍法とみえる」
「それは、実に恐るべき――」
「たわけめ、それを恐れてわれら無足人がすくみ、目的を放棄してなろうや」
それまで、妙に平静であった蛇丸は、突如として別人のように――いや、彼の本性をむき出しにしたように歯ぎしりの音をたてた。
「いわんや、きゃつの方から忍法の果たし状をつきつけておる。このまま手を引いてはならぬ。いや、わしは、もはやこうなっては、本来の目的をすてても自来也を討ち果たし、きゃつの正体をつきとめねば気がすまぬのだ」
本人は自覚しているかどうかわからないが、蛇丸には少々自暴自棄の気味すらある。
「恐れることはない。生き返ったとみえて、まことは死んでおるのだ。風に鳴る風鈴、いのちなき土人形と同じよ」
そういって服部蛇丸は、しかしまた声をおとして、
「きゃつの忍法もさることながら、どうもふしぎなことがほかにある」
「何でござる」
「自来也は、これまでにお戒、お丈を殺した。――にもかかわらず、いま茜を、殺せば殺せるのに、なぜ殺さなんだか? そもそも最初、茜がしくじったとき、あれをただ気絶させただけですましたというのがいぶかしい」
蛇丸はじっと思案するように一息だまりこんだが、またつぶやいた。
「それに、きゃつ妙なことを申したぞ。阿波隼人《あわはやと》、思うところあって鬼とはなったが、やはりおまえは殺せぬなあ――と」
「では、やっぱりあれは隼人でござろうか」
「…………」
「拙者《せつしや》ども、いまだに半信半疑ですが」
「…………」
「しかし、隼人は、恋人茜を精水波の仕手にきめられて以来、妙に鬱々《うつうつ》とかんがえこみ、われわれと離れて、ふっと姿をかくすことがありましたから、どこかで忍法を工夫し、鍛練していたものでござろうか」
服部蛇丸はそれに答えずなお沈黙していたが、やがて、
「もうひとつ」
といった。
「甲賀蟇丸《こうががままる》という奴はどこへ消えた」
「――は?」
「いや、石五郎と茜の消えたのはわかっておる。あとで自来也がつれ去ったものであろう。しかし、そもそも最初、大仏の下に石五郎と蟇丸が寝ていたはずじゃが、石五郎は茜にひかれてさまよって来た。今夜の茜が近づけば、男たるものことごとく吸い寄せてくれるはず。――にもかかわらず、あの甲賀蟇丸はどこへ消えたのか?」
「…………」
こんどは無足人たちが沈黙するはずであった。彼らはいままで、その男のことなどまったく念頭になかった。
「もうひとつある。――いまの疑いにもからむことじゃが」
と、蛇丸はつづけた。
「自来也が何奴であるにせよ、きゃつ、今夜の茜にああやすやすと、何のこともなげに寄ったのがいぶかしい。お津賀の乳をあび、全身の肌《はだ》に吸った茜は、このわしをのぞき、あらゆる男を狂乱させずにはおかぬ。この忍法については、服部蛇丸、絶対の自信を持つ!――にもかかわらず、きゃつ、まるでただの女に対するようにそばに寄った」
このとき、蛇丸はふいにニヤリと笑った。
「奇怪千万、と思っておったが、はたせるかな」
「……とは?」
「見ろ」
と、蛇丸はふところから何やらとり出した。
「何でござる」
「男のものだ」
「えっ」
「きゃつ、これをみずからとかげのごとく切りすてて、茜の傍へちかづいた。これを切りすてたゆえ、茜の傍へ正気で寄れたのだ」
「……ああ!」
「おそらく石五郎の一大事、かようなまねまでせねば石五郎を救うことはできぬと判断したものであろう。この荒業もさることながら、かようにこちらの忍法をのがれる手段を間髪を入れず思いつくとは、まさしく忍者、これはあの自来也のもの以外のものではない」
「では――」
「きゃつ、男のものを失いおった! 一応完敗と見えるが、必ずしもそうでなかったのだ。それはそうであろう。われら服部無足人を相手にしておって、いつまでも子供あつかいにして通せるものではない。きゃつも、それ相応の犠牲を払ったのだ」
蛇丸の能面に似た顔が、こういう表情も作り得るかと思われるくらい醜怪なよろこびにゆがんだ。
「のみならず」
眼がひかった。
「きゃつ、これでおのれの正体を曝露《ばくろ》するもとを作りおった。……われらは、これを失った男を探《さが》せばよい」
「――しかし、お頭、それは」
「自来也の正体が何者か知らぬ。思いあたる奴が、いまにしてようやく頭に浮かんで来たが、まだ納得できぬところがあるゆえ、しばらく伏せておこう。しかし、きゃつ、何思ったか、茜のいのちだけは助けてつれ去ったようだ。まず茜のゆくえを探せ、そして、茜のまわりにおって、なおケロリとしている男があったら、それが自来也だ」
「おお、なるほど!」
「しかし、お津賀の乳しぼりのききめは、みなも知っているように七日しかもたぬ。そのあいだに茜を見つけ出さねばならぬ」
「七日、――しかし茜はどこに?」
伊賀者たちは昏《くら》い野を見わたした。
「わしは、津へつれ去られたとみる」
「津へ?」
「しかも、おそらく津の城へ」
妙に自信のある声であった。
「南無八幡、敵が茜を殺さなんだことこそわれらが祖服部半蔵どのの魔霊の助けであった。茜が生きておるかぎり、忍法精水波第三波第四波は石五郎にあびせかけられよう。津へはすでにお塔《とう》が先にいって待っておる」
服部蛇丸は東へ歩き出した。
「勝負は七日のうちじゃ」
「自来也申しあげ候」
阿波の宿《しゆく》の本陣――の鞠姫の枕《まくら》 屏風《びようぶ》にこんな文字が書いてあった。
「石五郎様を悩ましたてまつる女忍者一匹生けどり申し候。ただし、これは竜庵の哀れなる傀儡《かいらい》にてござ候えば、しばらく存命いたさせたく、甲賀蟇丸に一身をあずけおき候。蟇丸なる男、近来とみに好色悩乱のていに相見え候えば、恰好のとり合わせと存じたるゆえに候。両人、駕籠《かご》にて外に待ちあり候。ただし、その女、外に放さんかたちまち魔力をふるい候えば決して蟇丸より離されまじく候。津の城にゆかれなば、病中の侍女として城に入れ、蟇丸とともに牢《ろう》に入れ候て、自来也参上いたすまでおん待ち候え。このことくれぐれも違背《いはい》なされまじく願いあげ候――」
朝目覚めて、はじめて気がついたことだ。
この文章の奇怪さもさることながら、これだけ長々と枕もとで書かれているあいだ、何も気づかないでじぶんは眠っていたのかと思うと、鞠姫は、背がむずがゆいような、うすら冷たいような、異様な感覚に襲われざるを得なかった。
まだ家来や侍女たちも起き出していない早朝であった。鞠姫は走り出た。
往来に二挺《にちよう》の駕籠がおいてあった。一挺は空駕籠のようだが、目を見張ったのは――もうひとつに、石五郎がむしゃぶりついていることだ。
ちらと鞠姫をふりかえった顔は、眼はギラギラさせ、あごをよだれにぬらし――例によって、例のごとし、といいたいが、ふだんよりいっそうせっぱつまった形相だ。
鞠姫はぎょっとしてひき返そうとしたが、ふしぎなことに、石五郎は彼女をちらと見ただけで、
「こっ、こっ、こっ」
それまでの行動は継続して、ガサガサと駕籠をかきむしり、
「らっ、らっ、らっ」
こんどは、ひっくり返さんばかりに駕籠をゆさぶった。
「助けて下され、どなたか、出合い候え」
中で、たしかに蟇丸の声がきこえる。あきらかに悲鳴である。
「だれか、来て、――」
と、鞠姫もさけんだ。
夜が明けてきたのに、この主従の醜態を、街道《かいどう》の人々に見られてはたまらない。
押っとり刀で侍たちが飛び出して来た。
「いかがなされました。奥方さま!」
「やっ、あの駕籠は?」
すると、その騒動を起こしている駕籠の中から、また蟇丸の声で、
「危い、若殿をひきはなして下され、近づくと、若殿が危のうござる!」
と、あえぐのがきこえた。
四、五人の武士が仰天しつつ走り寄って、狂乱状態にある石五郎を抱きとめ、むりやりにひっぺがしたが、こんどは奇怪にも、そのうち二、三人が、その駕籠にむしゃぶりついて、腰をくねらせ出した。
「いや、男は近づいてはならんのでござる。ならんらしいのでござる。いや、これはいかん、それっ」
声とともに駕籠の垂れから、ぷすっと白刃がつき出された。
これには武士たちもあわてて、無我夢中でとびのいた。
中で、ただならぬ声はつづく。
「男の衆は近づかれてはならん! 危い、おどきなされ」
じっとこの騒ぎを見ていた鞠姫は、意を決して、ツカツカとその駕籠に寄り、垂れをはねあげて――それにしてもあまりといえばあまりな光景に、一瞬はたと垂れを下ろした。
それは駕籠の中で一糸まとわぬ若い女を抱きしめて坐《すわ》っている甲賀蟇丸の姿であった。女は、おとなしく抱かれているのではない。その姿で、かえって蟇丸にしがみつき、身をゆすり、のけぞるようにした顔は名状すべからざる情欲に、もえたぎっていた。それを蟇丸は、抱くというより押えつけている。羽がいじめにしている。
「どうやら、この女人、二間以内に男が近づくと、みなきちがいにしてしまうらしいので――二間以内に男の衆はちかづかれてはならん。……」
ガタガタとゆれている駕籠の中で、また甲賀蟇丸はさけんだ。
「押えているのは拙者なればこそ、江戸城甲賀組に籍をおいたるこの甲賀蟇丸なればこそ。――」
「蟇丸」
と、鞠姫は呼んだ。
その女がどこから現われて、どういうなりゆきで、こんなことになったのか、ききたいことは山ほどもあった、しかし、いまきくわけにはゆかなかった。ほかの家来たちの耳があったからだ。こうみずから制したのは、もとより自来也から得た予備知識|乃至《ないし》勧告があったからであった。
「殿はどうすればよい?」
とだけきいた。
「殿の……おお、奥方さま、石五郎さまを殿と呼んで下されたか、ありがたや。――いや、それどころではない、殿は恐れながらしばしお縛り申しあげて、そちらの駕籠のなかへとじこめ申しあげて下さい」
蟇丸は、はあはあと息をきりながらいった。
「拙者は、このまま、こうしてこの女を押えてゆきますれば。――」
わたしは自来也のいうことをきこうとしている、と鞠姫はかんがえた。
いちど遠い影のように消えたと思っていた自来也が、また帰って来た。いや、ほんとうは、約束通り、ずっとわたしを見張っていたのだ。鞠姫の胸は、その思いでいっぱいであった。
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綱 手
……とにかく、石五郎を縛った。
鞠姫《まりひめ》の夫とはいいながら、押付婿《おしつけむこ》であることはみなよく知っているから、鞠姫付の侍たちは、実に遠慮会釈もなく、石五郎をとりあつかった。中には、腕を必要以上にねじあげたり、あたまをたたいたりした奴もある。
もっとも、本人が、なお蟇丸《がままる》の駕籠《かご》にとびかかろうとして、泡《あわ》をふいてあばれまわるのだから、それもむりはない。――そのうえ、馬鹿でもある。
よってたかって石五郎をグルグル巻きに縛りあげて、もう一挺《いつちよう》の駕籠にほうりこむのを鞠姫はしかし背をむけていて、見なかった。見るにたえなかったのである。
一方の蟇丸は――これは裸の女を羽がいじめにして、死物狂いのようにみえるが、実は恐悦しているようなところもある。
「あれにも縄をかけや」
と、鞠姫は、家来にいった。
「は?」
「駕籠ごめに、外から縄でしばってやるがよい」
そうしなければ、両人が醜態をさらしたまま外にころがりおちるおそれがあるが、そればかりではなく、あのけがらわしいものを永遠に封じこめてやりたい思いでそういうと、二、三人の武士たちが、宿に走って縄をとって来た。
縄をもって、その駕籠にちかづくと、
「……ううっ」
ふいに彼らは肩で息をつきはじめ、妙な腰つきになって、駕籠に吸い寄せられようとする。
「――危い!」
中で、蟇丸の声がきこえた。
「さっきから、男の衆がちかづくと危いと申しておるのがきこえなさらんか!」
侍たちは、あわてふためいて飛び散った。
――とにかく、たいへんな騒ぎである。縛る作業を女中たちにゆだねたのはいいとして、蟇丸の駕籠をかつがせるのも男ではならず、近在の百姓のうち剛力な女を探《さが》してくるという騒動である。厄介でもあるし、恐ろしくもある。
そのまま鞠姫一行は、阿波の宿を出た。その行列から――少なくとも二間は離せという蟇丸の言葉だが――念のため、十間くらい離して、グルグル巻きになった甲賀蟇丸の駕籠が一つあとを追う。――そういう風にさせられたのだ。
この妙な行列が、東の長野|峠《とうげ》の方へ上ってゆくのを見すまして、阿波の宿のとある百姓の家のかげから、十数人の深編笠《ふかあみがさ》の侍たちがあらわれた。
「お頭」
と、二、三人が代わるがわるささやいた。
「茜《あかね》は、蟇丸といっしょにゆきました」
「…………」
「昨夜の新大仏から、いかにして茜が石五郎、蟇丸とともにここへ来たものでござろうか」
「…………」
「茜は、お申しつけを果たすべく、彼らを捕捉したものとみえますが、しかし――」
「…………」
「精水波のことを知るや知らずや、甲賀蟇丸めは茜を抱きこんで離そうとはいたしませぬ。あれを離して、石五郎めにかからせねばなりませぬが。――」
いままで黙っていた服部蛇丸《はつとりへびまる》は、配下の問いには耳もかしていなかったかのようなつぶやきを、ふいにもらした。
「お丈、お戒は、たしかに精水波成る、と申してよこしたなあ?」
「――は?」
配下たちはめんくらった。
昨夜いちど妙に平静にみえた服部蛇丸の眼には、ただならぬ不安と動揺が浮かんでいた。
「お丈、お戒が、よもや嘘《うそ》を報告するわけはない」
と彼はじぶんにいいきかせるようにつぶやいた。そして、初夏の峠の方へ消えてゆく鞠姫の行列を、それにつづく茜の駕籠を、異様にひかる眼で見送って、
「……よし、自来也が何者であろうと、やりかけたことはやり通さねばならぬ。……その上、津には綱手《つなで》がおるのだ」
と、うなずいた。
空を舞っていた二羽の鷹《たか》のうち、一羽が舞いおりて来て、その編笠にとまった。
「何にしても、結着は津の城でつける」
鞠姫は津の城に帰って来た。
城の侍たちは、行列の中の妙な二挺の駕籠にむろん気がついた。一挺は誰《だれ》が乗っているのか知らないが、中でうなる声がして、ガタガタあばれている者があるし、もう一挺は駕籠の外から荒縄で縛りあげられている。かついでいるのは、百姓女だ。
「これは病人が入れてある」
と、鞠姫は、じぶんは駕籠から下り立っていった。
「ただし、男だけにうつるこわい病気をもった病人ゆえ、男は二間以内に近づいてはならぬ」
眼をまるくしている城侍たちに、鞠姫はまた命じた。
「この二挺の駕籠は、このままわたしの部屋に通してたも」
何しろ、主君の姫君の仰せられることだから否やはない。
鞠姫は、その二挺の駕籠を、それぞれ別室に通させた。……が、さて、これからこれをどうあつかってよいか、彼女は窮した。
蟇丸と茜の駕籠の中では、いったいどういう状態にあるのか、はっはっという男と女のあえぎ声が断続していて、耳を覆《おお》いたいようである。このけがらわしきものを、永遠に封じこめておきたい、とは阿波の宿をたったときからかんがえていたが、まさかそういうわけにもゆかない。
そうだ、自来也の指示にあった――「津の城にゆかれなば、病中の侍女として城に入れ、蟇丸とともに牢《ろう》に入れ候て、自来也参上いたすまでおん待ち候え。このことくれぐれも違背《いはい》なされまじく願いあげ候」――
「牢を作ってたも」
と、彼女は家来に命じた。
「座敷牢を作るのじゃ。そして、この中の両人を入れてやりゃ。世話は女にかぎるぞえ」
一方はこう処置して、もう一方の駕籠に帰る。この中の人物も、いつまでもこのままにしておくわけにはゆかない。とにかく「夫婦」そろって藤堂家の本城に帰ってきたのだから、ふたりで父の和泉守《いずみのかみ》のまえへ挨拶《あいさつ》にゆかなければならない。
鞠姫はしばし思案していたのち、駕籠をあけた。
中からグルグル巻きにしばられた石五郎があらわれた。まだ昂奮《こうふん》しているのであろうか、と鞠姫はおっかなびっくりであったが、彼は存外平静であった。平静というより、キョトンとしていた。もっとも、例の魔女を封じた駕籠は遠い別室においてあるから、その作用が除去されたとみえる。
とはいえ、それ以前だって鞠姫をみると彼女が、無礼、といいたくなるような不謹慎な笑いを浮かべる石五郎だが、このときばかりは縛りあげられての道中に参っていたのか、
「せっ、せっ、せっ」
と、例によって意味不明な声をもらし、しかし、いじめられていた弟が姉を見つけたようなほっとした笑顔になった。
「石五郎さま、ただいまお縄を切ってさしあげまする」
そういいながら鞠姫は、なぜともしらず眼がじわんと熱くなったような思いがした。……顔をそむけて、懐剣で縄を切りながら、
「かような目にあわせましたのも、みなあなたさまを敵からお護りするためでござりまするぞ」
と、いった。
それから、向かい合ってきちんと坐《すわ》り、じゅんじゅんと教えるようにいった。
「石五郎さま、いかにあなたさまでも、先日よりあなたさまをめぐって、さまざまな奇怪なことが起こっていることを御存じでないわけではござりますまい。……わけあって、いまくわしい事情は申しあげられませぬが、あなたさまは恐ろしい敵に狙《ねら》われておいでになるのでござります。それを鞠はなんとかお護りいたそうとさまざま苦心しているのでござりまする。いえ、あなたさまはじっとして、知らない顔をしていて下さればよいのでござりまする。……」
といったが、この人物がなかなかじっとしておらず、ともすれば敵の誘いにのってフラフラと吸い寄せられるのでもてあます。――とかんがえ、さらにいつか見た醜態を思い出すと、鞠姫の心からさっきの妙ないとしさは消え、ばかばかしくなり、さらにこのおひとに何を説明してもむだだという気持ちにもなって、
「ただ、これよりその敵のひとりの前に出なければなりませぬ。その敵から見て、わたしたちのあいだに隙《すき》があるように見えましては、敵は心の中で手をうってよろこびましょう。あなたさまは、ただ毅然《きぜん》として、悠々《ゆうゆう》として――」
と、いいかけたが、これまたそんなことをこの男に要求したってむりだ、と気がついて、
「せめて、この鞠と仲のよいような真似《まね》をしていて下さりませ。……」
と、いうと、そこだけは石五郎もわかったとみえて、ふいに両腕をさしのばして、
「れっ、れっ、れっ」
と、いまにも立ちあがりそうになったから、鞠姫はあわててこわい眼でにらんで、
「真似だけでござりまする!」
と裂帛《れつぱく》の声で叱《しか》りつけた。
彼女は石五郎をつれて父のまえに出た。
藤堂和泉守は愛妾《あいしよう》の綱手といっしょにいた。のみならず、生まれて満二歳をこえたばかりの一子|竜丸《たつまる》もそばにいた。可愛いさかりで、それをあやす和泉守の顔は、とろけんばかりであった。
「父上さま、お呼びによって帰って参りました」
と、鞠姫は挨拶した。
石五郎は頭もさげず、和泉守も綱手も見ず、ただ竜丸だけに眼をそそいで、相好を崩《くず》した。
「おお、よう帰って参った」
と、和泉守はふりむいたが、一瞬その顔に、すうっと困惑の表情がながれたのを鞠姫は見てとった。
「さても、鞠」
と、和泉守はいった。
「わしはあと二十日ばかりで江戸へゆくが、そちもいっしょに江戸へゆくか、それともこのまま国におるか?」
そのことで、和泉守は鞠姫を呼んだのである。しかし、この問題については、和泉守自身、当惑している。
江戸から唖《おし》でうす馬鹿の婿を押しつけられた鞠姫を、はじめ和泉守は心からふびんと思っていた。鞠が石五郎をきらい、拒否し、逃げまわるのもむりはない、と思っていた。しかし、江戸の意向は絶対である。そこから婿が天降《あまくだ》って来たということは、もはやとり消すことのできない事実である。こうなっては、いかにふびんでも、鞠姫に眼をつぶって唖婿を受け入れてもらうよりほかはない。ただただ江戸からつけこまれぬよう、藤堂家に波風のたたぬように祈るよりほかはない。……
そう思うと、鞠姫が石五郎をなお拒否するのはまことにこまったことになるが、そのうちただそう困惑しているだけではすまぬ情報が耳に入った。上野の城代藤堂|采女《うねめ》からの知らせだが、なんと江戸からの隠密《おんみつ》が上野を狙っているらしいというのだ。むろん、石五郎と鞠姫の関係を探索するために入ったにきまっている。両人の仲が公儀に――とくに幕府の蔭の実力者にして、石五郎の祖父たる怪物中野|石翁《せきおう》の耳に入ったら、ただごとではすまない。事と次第では、じぶんを即刻隠居させて、石五郎を藤堂家の当主たらしめるという横ぐるまの処置が下されるかもしれない。その可能性は大いにある。
これだけでも大いに悩むべきことなのに時日が経過するうちに、さらにもうひとつへんな疑惑が和泉守の耳に吹きこまれた。隠密は勝手に入ったのではなく、鞠姫が呼び寄せたのではないか、というのである。なんのためかというと、右のような処置を幕府から下させるためである。つまり、鞠姫石五郎の藤堂家乗っ取りの陰謀である。……それを和泉守に吹きこんだのは、愛妾《あいしよう》の綱手であった。鞠姫もじぶんの娘だから一見かまわないようだが、和泉守の心事としては、とうていそれもまたよし、と澄ましてはいられない。和泉守には、庶子ではあるが、男子の竜丸というものがある。彼としては、嫡男|蓮之介《れんのすけ》亡きあと、むろん将来竜丸に藤堂家をつがせたいのだ。
しかし、和泉守の知っている鞠姫は、決してそんな陰謀をめぐらすような娘ではない。
それは綱手の疑心暗鬼ではないか、と一応は思ったが、藤堂采女にきき合わせてみると、采女はもとより鞠姫にそんな嫌疑《けんぎ》はかけてはいないが、それにもかかわらず鞠姫の行動にはいろいろと不審なことがある。そもそも城代の采女すら何も気がつかないのに、最初「江戸からの隠密」などと口走ったのも彼女らしい。……いったい鞠姫は何をかんがえているのか?
人は疑い出すとキリがない。かくて和泉守の心に、鞠姫に対する疑惑が生じた。彼の心を曇らせたのは、竜丸を中心とする愛憎の念であった。鞠姫は、すでに江戸と結託しているのではないか?
そうとするなら、鞠姫を江戸へ同行するのは危険である。よし、彼女にそんな悪心はなく、依然として石五郎に背をむけているとしても、それを公儀のおひざもとで継続されるのは危険である。
ならば、この夫婦を国元にとどめておくべきか。いや、彼らが陰謀を蔵しているならば、じぶんから眼を離すのはこれまた危険である。
和泉守はジレンマに陥った。
「鞠」
と、和泉守はまたいった。
「いかがいたす?」
鞠姫はだまっている。
実は彼女も進退両難のジレンマに陥っている。彼女としても、いま石五郎を受け入れるつもりはない。従って、石五郎の本拠ともいうべき江戸へはゆきたくない。しかし、この国元にとどまっていれば、竜庵《りようあん》一味の奇怪な襲撃のために石五郎のいのちは危いのである。
いつまでもこんなことをつづけているのか? それは自来也が竜庵一味をたおし、兄蓮之介の死んだ謎《なぞ》をつきとめてくれるときまでだ。
そのことについて、鞠姫は父の和泉守に相談しようと思っていた。自来也は沈黙を要求したけれど、彼女ひとりの胸に抱いているべく、この秘密はあまりにも大きすぎた。恐ろしすぎた。
が――いま父のそばには綱手がいる。彼女が石五郎に、これから「敵」のまえに出るといったのは、綱手のことであった。いま父のまえで、そのことはいえない。
「鞠!」
和泉守は、ひたいに青筋をうかべてさけんだ。
「何を黙っておるか?」
妙な猜疑《さいぎ》を抱いているだけに、彼は鞠姫の様子に謎めいた――ふてぶてしいものさえ感じたのである。じっと綱手の方を見ている鞠姫の眼には気のせいか、危険なものを看取したように思ったのである。
鞠姫は父に眼をもどした。そして父の眼に不信と疑惑を見てとった。最初、父をひと目見たときから、彼女は父に当惑の色のあるのを感じていたのである。
いまはいえない、と彼女は決心した。
「ろ、ろ、ろっ」
石五郎が、奇声を発した。見ると、両手を狐憑《きつねつき》みたいに胸にあげて、口をとんがらせ、吹き出さずにはいられないような珍妙な顔をつくっていた。彼は竜丸をあやそうとしているのであった。
「ろ、ろ、ろっ」
と竜丸はいった。むろん二歳の幼児は、こうあやしてくれる人物がたちまち気に入るにきまっている。竜丸はヨチヨチと、石五郎の方へ歩いてこようとした。
「あ。……なりませぬ、竜丸さま!」
と、あわてて綱手がそれを抱きとめた。いままで彼女はただにこやかな笑顔の裏で鋭敏な触覚をはたらかせて、和泉守と鞠姫との亀裂をかぎとり、別種の笑みをにじませていたのだが、これには狼狽《ろうばい》した。
――この一瞬の狼狽には、ふかい仔細《しさい》はない。あのような馬鹿のところへ子供をやっては、何をされるかわからないという本能的な不安からだ。
綱手は、やはり女の本能で、鞠姫がまだ処女であることを感覚していた。ということは、鞠姫がまだ石五郎に背をむけているということだ。しかし。――
「石五郎さま」
と、このとき石五郎の袖《そで》をひいた鞠姫の動作には、忽然《こつぜん》として妻らしいやさしさがあった。むろん、鞠姫のお芝居だが、
「さ、むこうへ参りましょう」
と、彼女はいっそうやさしい声でいった。
「鞠、江戸へゆくか、国元におるか、どうじゃ?」
と、和泉守はまたさけんだ。鞠姫は手をつかえ、しずかにいった。
「そのことについては、いましばし思案の上、お答え申しあげまする」
「なに?」
鞠姫をにらみつけた和泉守をちらと見て綱手の顔に一瞬の笑みがゆらめいて消えたのを、鞠姫は見のがさない。
きっとして綱手を見まもった鞠姫の凜然《りんぜん》たる姿、これに対して何も気がつかない風をして、しかも名状しがたい笑みを漂《ただよ》わせている綱手の妖艶《ようえん》きわまる姿、いずれ劣らぬ美しさながら、ふたりの女のあいだには曾《かつ》て見られなかった殺気が、いまはじめて張りみちている。
そして――この暗闘のそもそもの根源、悩みの張本人たる藤堂石五郎は、しきりにひょっとこのまねをして、遠い竜丸をあやしているのであった。
「ろっ、ろっ、ろっ。……」
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蟇 丸
父|和泉守《いずみのかみ》の白い眼と愛妾|綱手《つなで》の深沈たる笑顔をあとに、鞠姫《まりひめ》は石五郎をつれてじぶんの部屋に帰って来た。
彼女は孤独に、ひしひしと身をつつまれた。妙なことになってしまったと思う。父もいまは味方ではないと思う。――自来也は指示あるときまで秘密は黙せといった。それを胸ひとつにおさめておくことに耐えられないで、じぶんは父に打ちあけようとしたけれど、やはりそれはできないことであった。父の胸には、じぶんに対して奇怪な不信と疑惑がたちこめているらしい。
父は、綱手に何やら吹きこまれたのだ。かんがえてみれば、そうなることはあたりまえだ。――これまで鞠姫は綱手に対して服部蛇丸《はつとりへびまる》の陰謀にはたして彼女自身関係があるのかどうか、まさかと思うところもあったけれど、いまの綱手の様子、また父のまなざしから、明確にそれを看取しないわけにはゆかなかった。
いまはいけない。いま父に何をいっても藪蛇《やぶへび》になるだけだ。――ああ、じぶんは津の城でもひとりぼっちになってしまった!
いや、ひとりではない、ここに「夫」石五郎がいる。……ふと彼女は珍しくセンチメンタルな感情にうたれ、
「石五郎さま」
と、前に坐《すわ》っている石五郎に呼びかけた。涙をうかべた眼で、
「いまの父との話をどうおききなされたか存じませぬが、鞠はひとりぼっちなのです。鞠は、たたかっているのです。あなたさまのために――」
と、思わずかきくどきかけたが、眼をパチクリさせている相手に、
「ああ、こんなことをあなたに申しあげてもしかたがない。……せめて石五郎さま、これからしばらくのあいだ、せめて鞠のいうことをきいておとなしくなさって、上野の城にいたときのようにさわぎたてないで下さい。ね、石五郎さま。……」
これからしばらくのあいだ?――いつまでか。
もとよりいつまでも父に黙っているわけにはゆかない。父にすべてを打ちあけるのは、蛇丸や綱手の陰謀が証拠をそろえて曝露《ばくろ》できるときだ。……それには自来也を待たねばならぬ。
「自来也。……」
彼女はつぶやいた、あの妖《あや》しい、しかも颯爽《さつそう》たる白い姿が眼に浮かんだ。そうだ、じぶんはひとりではない。
しかし、それにしても父の和泉守までが敵の陰謀の網にかかって、本人はそれを知らない。またこちらから教えることもできないということは恐ろしいことであった。もとより敵は父のいのちを狙《ねら》っているわけではない。綱手の血を受けた竜丸《たつまる》に家を相続させようとしているだけなのだ。それを父も望んでいるのだから、とくにじぶんのような立場の人間は容易に口を出せないのだ。しかし、それでも敵のもくろみ、いままでの所業には罪の匂《にお》いがする。血の匂いがすることにまちがいはない。
待つ――待っているのが、歯ぎしりするほど恐ろしい。
「自来也、早くわたしを助けておくれ。……」
鞠姫は思わずあえぐようにいって、両掌《りようて》を胸にくみ合わせた。まるで石五郎を拝んでいるようにみえる。
相手が馬鹿の石五郎なればこそできたことだが、これは石五郎にもおかしさかうれしさを感じさせたとみえて、ふいにニタリと笑った。それで鞠姫は気がついて、相手をきっとにらみつけ、
「あなたを拝んだのではありません!」
といって、すっと立ちあがった。
あまり遠くないところで、さっきから鉋《かんな》の音や、釘《くぎ》を打つひびきがきこえる。父の前に出るまえに、彼女が家来に命じておいた通り、座敷牢《ざしきろう》を作っているらしい。
座敷牢を作って、蟇丸と女を入れておけ――というのは自来也の指示だが、そんな指示がなくても、あのふたりは座敷牢にでも入れておかなければ始末におえそうにない。
何しろ、二間以内に男が近づくと、男を半狂乱にしてしまう女と、このごろ女とみればよだれをたらし、半狂乱になる男なのだから。
――もうさみだれといっていいほどのなまあたたかい陰雨のふる夜だ。
珍しく綱手は、ひとりで寝ていた。
いや、褥《しとね》に身を横たえてはいたが、眼を大きく見ひらいて天井をながめていた。――のみならず、口をしずかにうごかしている。
隣室に眠っている老女の耳にはきこえないほどのささやきであったが、彼女はだれかにしゃべっているのであった。
「……わたしたちの望んでいた通りになった。和泉守と鞠姫の仲には、疑いの霧が立っておる。いまのうちじゃ、石五郎を片づけるのは。……と申して、もとより殺してはならぬ。精水波にかけて狂い死にさせるのじゃが、これからどうするつもりじゃ」
「……石五郎には、第二波までかけた」
これに対して、綱手の耳もとには、やはりささやく男の声がきこえる。しかし、部屋にはだれの影もない。ただ雪洞《ぼんぼり》の灯がボンヤリと投げあげられた天井に、何やら蛇《へび》のような影がゆらめく灯とともにモヤモヤとうごめいてみえるだけであった。
「……それは、このあいだきいた。あれからまだ精水波をかけぬのかえ?」
「……茜《あかね》を石五郎にかけ合わせれば、第三波と第四波が成る」
声はささやいた。語りかけているというより、考え考え、じぶん自身にいいきかせているような調子であった。
「あと、第五波のお塔《とう》はおまえの侍女としてすでに待っておる。……さて、その茜じゃが、茜は石五郎の家来、甲賀蟇丸とともに座敷牢に入っておる」
しばらく沈黙したあと、綱手はきいた。
「……鞠姫は、茜がわれらの一味じゃと知っていて牢に入れたのかえ?」
「……或《あ》る程度知っておる、と思われる」
と、重々しく声はささやいた。
「……なぜ、茜を座敷牢に入れたのか?」
「……何者かの命令だ。このまえ、おまえに話した自来也なる奴の指示に従ったのではないか」
「自来也。……何者であろう?」
「……七分まで、思いあたる奴がある。甲賀蟇丸じゃ」
「え、あの、蟇丸?」
これはささやきではなく、ふつうのさけび声であった。「しっ」と男の声――蛇丸の声が制した。
「……最初から、きゃつ、何やら気にかかる奴であった。いろいろ考えて、われらをあれほど悩ます忍者が、伊賀伊勢におるはずがない――きゃつ、その名の通り、甲賀者だ。江戸城に古くから巣くう甲賀者のうちになら、或いはあれくらいの忍法者が存在するかもしれぬと思う。……」
「なんのために、甲賀蟇丸が?」
「……一種の公儀隠密だ」
「では――では――石五郎どのも承知か」
「……まさか、あの馬鹿が何も知るまい。もし自来也が蟇丸だとすれば、もしやしたら石五郎もただの鼠《ねずみ》ではないのではないか――と疑ってみたこともあったが、しかしきけば、石五郎はもう七、八年、十五、六のころから唖《おし》になり、馬鹿になったという。まさか、そのころから藤堂家に婿《むこ》入りのことを予想したわけはないから、これは疑いすぎだろう。――石五郎は論外として、問題は蟇丸だ」
「蟇丸が自来也なら蛇丸どの、それは容易ならぬことではないかえ?」
「まことに容易ならぬことだ。われらの計画は画餠《がべい》に帰し――それだけにはとどまるまい」
綱手は褥の上にいつのまにか起きあがっていた。寝てはいられなかったのだ。あえぐように、
「……信じられぬ、わたしには信じられぬ」
「わしもそれに思いあたったときに、実は心ノ臓まで冷たくなった。きゃつは、ただ石五郎つきの何のへんてつもない男――むしろ、石五郎の女色へのたかぶりに同情して、すすんでこちらの誘いにのる水先案内くらいに思っておったのだからな。しかし――伊賀から伊勢に越える際、例の大仏のそばで襲わせた茜を、やすやすととらえ、あのようにとりこんでしまった手際は、自来也すなわち甲賀蟇丸とかんがえねば理解がつかぬのだ」
綱手は沈黙している。
「もとより、蟇丸がとらえたのではない。蟇丸がとらえられているのだ、と考えることもできる。茜のはなつ魔力に気がついて、甲賀者たるきゃつが、身を挺《てい》して茜をとらえている、同時にとらえられているにすぎないのか。――わしは城に入るまで見ておったが、蟇丸の狂態が、ほんものか、それとも芝居か、よくわからぬのだ。芝居とすれば、さすが甲賀者だ、しかも決してただの鼠ではない」
綱手はだまっている。口もきけない風なのだ。
「さらに……恐ろしい想像をすることもできる。甲賀蟇丸がそれほどの奴だとすれば、いままで、お丈、お戒が石五郎にかけたという精水波は、まことに成ったであろうか? ということだ」
――阿波の宿はずれで、鞠姫一行や蟇丸の駕籠《かご》を見送っていたとき、ふいに蛇丸をとらえた不安の動機はこれであった。――しかし天井のえたいのしれぬ影が、すぐに首でもふるようにゆれて、
「……いや、しかし、そこまでは疑うまい、あのお丈《じよう》、お戒《かい》が、それを成さずして成ったと、黒髪を以《もつ》て知らせてくるわけがない」
「……蟇丸が自来也であるとすれば、きゃつは服部無足人の望みや所業を知っているはず。それなのに――それが公儀隠密というなら、――」
綱手の声はおののいた。
「なぜ直接にわたしたちに手を出さぬのじゃ? わたしには、信じられぬ」
「……実は、わしにもまだ不審なところがあるのだ。自来也と甲賀蟇丸は別の男。そうであって欲しい。このまえいった阿波隼人《あわはやと》、あれが再生して魔人自来也と変形しておる、そう思われるふしもある。これまた信じられぬが、しかし忍者も苦錬の中、ふっと眼をひらくと鶏の羽根がふいに羽ばたいて天をとぶような境界に到達することがある。それはわしも経験したことがある。いや、そのような経験を重ねたればこそ、ここに服部蛇丸が誕生したといってもよい。されば、自来也は阿波隼人、その可能性もないとはいえぬし、そうあって欲しい。いずれにせよ、恐るべき奴だが、その方がまだましだ。――」
つぶやく蛇丸の声も苦悶《くもん》のふるえをおびている。
「しかし、自来也と名乗る奴が、そうよそおっておるふしもある。――いずれにせよ」
蛇丸の語調が急に変わった。断乎《だんこ》たるひびきをおびたのである。
「あの蟇丸が自来也と同一人であるか否か一刻も早くたしかめるにしかず」
「――そ、それには?」
「自来也はみずからの男根を失っておる」
「――えっ?」
「或る証拠からそう断言できるのだ。――もし、蟇丸が男根を失っておるとすれば、まさしく自来也と同一人」
「おお、それならば」
「しかし、蟇丸が自来也と同一人なら、そんなことは百も承知だ。男根を失いつつもなお茜を相手に狂態をさらして見せるほどの奴、容易にそれは見せまい」
「どうしよう、蛇丸どの」
「お塔《とう》をつかうのだ」
「お塔、いかにも」
「それをたしかめて、もし蟇丸が男根を失っておるならば、それこそ自来也。即刻これを討ち果たさねばならぬ。きゃつさえ、消してしまえば、もはや証拠はない」
蛇丸の声は依然としてささやき声ながら、鉄輪がきしっているようであった。
「そして、茜を石五郎にかからせ、さらにお塔をかからせよ。精水波をかければ、これまた証拠はない」
「……鞠姫は?」
「鞠姫がいかに歯ぎしりしようと、証拠なきものはどうしようもなかろう。きゃつらがいままで手をつかねているのも、蓮之介《れんのすけ》殺害の確たる証拠がつかめず、お丈、お戒をとらえようとしても、おそらくお丈、お戒が自害してその証拠を消してしまったせいではないかと思われる。――のみならず味方に和泉守がおる」
「殿ならば」
と、綱手はうす笑いした。それが妖艶《ようえん》のおもむきさえとりもどしたのは、いつしか自信にあふれた蛇丸の語韻に力づけられてきたからだ。
「それに、竜丸がいます」
「竜丸君を、藤堂家の唯一《ゆいいつ》のあとつぎとする。それこそはわれら服部一党の悲願であるのみならず、和泉守さまのお望みでもある。われらの方が正しい。公儀の力を以《もつ》て、馬鹿息子を婿としておしつけてきた方がまちがっておるのだ。われらの方が正義なのだ」
服部蛇丸の声は凄絶《せいぜつ》のひびきすらあった。
「それにもはやここまできては、公儀にどこまで探《さぐ》られていようと、最後までやりとげねばならぬ。いまさら手をひいても、それで事がすむというものではない。――やれ」
しばらくして、声はまた思案のためにやや沈んだようであった。
「しかし、いまのところ甲賀蟇丸は将軍家|御曹子《おんぞうし》の付人、公然、おまえの侍女としておるお塔の手によって殺されたと思われてはならぬぞ」
いちど鞠姫は、座敷牢《ざしきろう》ができたときいて見にきたが、一目中をのぞいたかと思うと、すぐに顔をそむけて立ち去った。
なかでは蟇丸が、ひざの上に裸の茜を抱いて坐っていたからである。のみならず、――頬《ほお》ずりをし、身をゆさぶり、はあはああえぎ、狂態のかぎりをつくしているのだ。
この蟇丸が、まぶたがたれ下がり、こぶしまで入るような大きな口をして、ひらべったい、滑稽《こつけい》な顔をした四十男であるのにくらべて、茜という女が、見たところ清純で可憐《かれん》な容貌《ようぼう》と姿態をもっているのが、いっそういたましかった。――
いや、それは一瞬の印象だけで、実はいたましいどころではない。頬ずりをし、身をゆさぶり、はあはああえぎ、蟇丸以上に狂態のかぎりをつくしているのは茜の方なのだ。
茜はすでに羞恥はおろか、正気をすら失っている。彼女はただ肉欲の化身《けしん》であり、五尺の白い肉体はクリトリスそのものであった。そして、その欲望の嵐《あらし》は七日間――お津賀の「乳」の香の消えるまで吹きすさび、彼女を責めさいなむのであった。
「ねえ。……ねえ。……」
唇《くちびる》も眼もぬれひかり、きくにたえない――というより、舌ももつれて何をいっているのかわからない言葉を蟇丸に吐きかけながら、身もだえしている娘の姿は、淫《みだ》らというより、凄惨《せいさん》であった。
「おう。……おう。……」
これに対して、蟇丸も意味|不明瞭《ふめいりよう》なうめきをもらしながら、ひざの上で彼女をもみしだく。顔は歓喜とよだれで、ダラダラにぬれている。
この光景を女だけが見る。――男は禁制なのだ。
城に入り、牢に入ってまでもこの始末とは思わず、ただその女に近づけば、男たるものみんなへんになってしまうのだから、鞠姫がこう命じたのだが、女だってへんになる。
座敷牢を作っても番人が要るし、少なくとも三度三度の食事は運んでやらなければならぬ。はじめ好奇心にもえて、その役割を争った女中たちも、いちど見たら、みんな眼もかすみ、腰のあたりがしびれはて、正確に歩けないような感じになって「もしっ、どなたか代わって下さりませ。――」と悲鳴をあげてゆずり合うようになってしまった。
鞠姫は最初|一瞥《いちべつ》しただけで、あとは寄りつきもしなかったが、女中たちの気配でそれとなく感じとり、きわめて当惑した。
「どうしよう?……あの者ども」
と、思案していると、何やら異様な第六感がし、ふりかえると、唐紙《からかみ》を細目にあけて、石五郎が例のごとくただならぬ眼でこちらをうかがっている。めっとにらみつけると、向こうはおどろいて唐紙をピシャリとしめはしたものの、外で「ろっ、ろっ、ろっ」と妙な声をもらしたのは、あれでも照れかくしのつもりか。
「ああ、なんという主従が江戸から来たものだろう?」
いまさらのごとく長嘆息せずにはいられない。
これほどのこととも思わず、自来也の指示通り座敷牢を作ってあの二人を入れたものの、これでは津の城の風俗壊乱の根源だ。それをじぶんが作ったのだ。父とはあんな状態になったのだから、耳に入ったらまがわるいし、説明もできないし、無足人一党の件どころか、もうこのことだけで鞠姫はヘトヘトになってしまった。
「自来也!」
と、空に呼ぶ。
「おまえは何をしているのです? 自来也参上いたすまで、おん待ち候え。――などというけれど、わたしはもう待ちきれません! おまえは茜をこんなに苦しめて、どこかで面白がっているのではありませんか?」
――なんだか、そんな気がした。そんなところも感じられる自来也という男であった。
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女人蝋燭
「蟇丸《がままる》どの」
座敷牢《ざしきろう》の外に立って、手燭《てしよく》をかかげて、
「よんどころないところの御用は?」
灯のとどかぬ真っ暗な牢の中で、それまできこえていたあえぎ声が止むと、
「結構でござる」
と、蟇丸の声がして、
「せ、拙者《せつしや》はよろしゅうござるが、この女人だけは願い申す」
外に立っていた女中が錠《じよう》をはずして、戸をあける、なかでは「ううむ、糊《のり》のようにはがれぬわ」とか「この儀ばかりはやむを得ぬ。夜中ここでやられてはたまらぬ。いって来い」
とか、蟇丸の声がきこえて、むりやりにひきはがされ、つきとばされたように茜《あかね》が出て来た。
ものもいわずに、女中は先に立って歩き出す。
「よんどころないところ」とは、お手水《ちようず》のことだ。城中のもったいぶった用語である。しかし、文字通り、こればかりはよんどころないことであった。急作りの座敷牢に厠《かわや》の設けがあるわけではないから、三度の食事以外は、適当に外へつれ出すという用件は、はたしてやらなければならぬ。女をとらえておくと称して、その実、悦に入っているらしい蟇丸も、このときだけは彼女を離すのもやむを得ない。
最初のうち、このヘンなふたりの囚人を好奇心にみちて見物していた女中たちも、ふたりの狂態には呆《あき》れはて、辟易《へきえき》し、食事を運んでやるのもみんな尻込《しりご》みするようになったが、ましてこの用件の方はいっそうばかばかしいが、狂女をつれ出すのは、それにもましてばかばかしい。ばかばかしいが、とくにこの狂女には男が接触してはならないのだから、女中のだれかが勤めてやるよりほかに法はない。
おそらく籤《くじ》でもひいて、この不運な夜の当番にあたった女中であろう。――ものもいわない、という態度にありありとふきげんをあらわして茜をつれ去ったが、やがてその手燭がひきかえして来た。
「あ」
その灯が――牢から遠く離れたところでふと消えた。
しばらくそこでためらっている風であったが、ええ面倒な、と思ったのであろう、そのままシトシトとやって来た。
手さぐりで牢の戸をあけて、
「それ」
茜が入ると、戸がしまり、これまた手さぐりで錠を下ろす音がした。女中の跫音《あしおと》は去ってゆく。
牢の中は闇黒《あんこく》だ。闇黒の中に、またあえぎ声があがりはじめた。
それまでも、女中たちには、きいているだけで頭がクラクラするような声であったのだが、今夜はそれに輪をかけた――ただごとでないあえぎ声がもつれ合い、からみ合った。
「……ふふ、ふふ」
蟇丸の笑い声がまじり、それがたかまってゆく。――それがはたととぎれると、
「ええ、まだるこしや」
女の声とともに、そこにぱっと青い小さな火花が散った。
「熱っ」
蟇丸の悲鳴がきこえて、彼女をつきとばした。その袂《たもと》からめらっと炎がもえあがった。
「五人目か!」
と、蟇丸は片手の袂《たもと》についた炎を片手でもみ消しながらうめいた。――その声は、相手にすべてを告白したも同様であった。
「……やはり、そうであったか」
と、闇《やみ》の中で女の声がきこえた。
「自来也とは、おまえであったか。――甲賀蟇丸」
蟇丸はしばらく黙っていたが、ややあって笑いをおびた声で、
「……お塔《とう》か」
と、いった。いかにもこれは、無足人のくノ一、五人目のお塔であった。
彼女は茜と入れ変わったのだ。茜を手水につれ出したのはほんとうの女中であったが、途中でふいに彼女はお塔の当身をくらって悶絶《もんぜつ》させられた。代わって手燭をとったのは綱手《つなで》である。ふたりは茜にきいた。
――蟇丸に男のものありや。
それこそは、首領|服部蛇丸《はつとりへびまる》から下された命令であった。
茜がただ肉欲の化身《けしん》となり、正気を失っていることは承知しているが、それだけに相手の蟇丸についてのその事実は知っているであろうし、またそれを問うじぶんたちは味方でもあるのだから、そのことはわかるだろうと思ったのだ。
――しかし、茜は答えられなかった。彼女は散大した瞳《ひとみ》を妖《あや》しくひからせ、ただ肩で息をし、腰をくねらせているばかりであった。
で、お塔が茜と入れ変わったのだ。むろんいずれも裸である。
入れ変わり、闇の牢の中で、彼女は茜のように蟇丸にしがみついた。そして彼女は茜が答えられなかったのは、ただ正気を失ったせいばかりでなく、ほんとうにその事実をつきとめることができなかったのだということを知った。なぜなら――、これほどの狂態を見せながら、蟇丸がたくみに腰をひねって、それをさぐらせなかったからだ。
肉欲のかたまりとなった茜は、どれほど悶《もだ》えたであろう。しかし、正気を失っているだけに彼女はそらされたのだ。一見、いっしょに狂っているようで、蟇丸の腰さばきは、お塔がまともに襲いかかっても、ついにつきとめることができなかったほど巧妙を極めた。
茜と入れ変わってからの座敷牢内のあえぎは、それを探《さぐ》ろうとする、探らせまいとする暗黙の争いであったのだ。
しかし、蟇丸がそれを探らせまいとすることは、それ自身、半ばの告白であった。この場合、いかにもいぶかしいことである。では、やはりこの男のものはないのか?――首領蛇丸の言葉によれば、それならば甲賀蟇丸こそ自来也である。
自来也ならば、あれほどの忍者、闇に眼がきくであろうし、じぶんが茜と入れ変わったことを気づかぬはずはない。それなのに、べつに不審の声をたてるでもなく、平気でじぶんを相手にいちゃついている。いや、嘲弄《ちようろう》している――と、お塔は見てとった。彼女は憤怒し、そして焦《あせ》った。
で、お塔は火をつけたのだ。
火をつけて、よく見ようとしたのではない。彼女は闇にもよく見える。
お塔は、蟇丸の一方の袂《たもと》に火をつけた。さすがの蟇丸も思わず、もう一方の手で袂を押えた。その刹那《せつな》のすきにお塔の手は蟇丸の股間《こかん》をかすめていた。
そして彼女は、甲賀蟇丸の股間にあるべきものがないことを知ったのだ。
「やっと五人目をつかまえたな」
と、蟇丸はいって大手をひろげたが、しかし足はうごかず、じいっとお塔を見つめている。
もし彼が自来也であったとすると、いかに伊賀の忍者とはいえ、たかがくノ一一匹、それほど警戒する必要もなかろうに、意外にも慎重であった。
意外にも――ではない。実に彼は、いまお塔が恐るべきことをしてのけたのを見たのだ。いまの炎だ。お塔はおのれの二本の人さし指の爪《つめ》を擦り合わせて火花を発し彼の袂に火をつけた。
だからこそ彼ほどの忍者が袂に火をつけられたのだし、また容易に彼女に近づくことができないのだ。
――しかし、お塔の背後は壁になっていた。横の牢格子までにはまだ一間の距離であった。
「……そうか、おまえが自来也であったか」
と、壁からジリジリと牢格子の方へ移動しながらお塔はうめいた。
もしやすると――ということは綱手を通じて蛇丸からきいてはいたが、実におどろくべきことだ。藤堂石五郎を精水波にかけて暗殺しようとする――それをふせぐ自来也が石五郎の愛臣であったとは。
あまりに当然すぎて、かえって腑《ふ》におちないのだ。また、それにしても腑におちないところがあるのだ。
が、首領の断定によれば、蟇丸に男根がなければ、彼こそ自来也である。いや、事実、いま。――
「お塔か、やっと五人目をつかまえたな」
と、もらした蟇丸の言葉こそ、自来也のものでなくて何であろう。
――蟇丸が自来也ならば、即刻討ち果たせ。しかし、綱手の侍女となっておるおまえの手によって殺されたと思われてはならぬ。
それが蛇丸の厳粛な、そして至難な命令であった。
しかも、得べくんば、じぶんはのがれたい。あちらに悶絶《もんぜつ》させてある茜を伴って一応のがれたい。なぜなら、石五郎に第二波までかけたあと、精水波の忍法を継続し得るのは、茜とじぶんをおいてはないからだ。
いつのまにか、お塔は牢格子を背にして立っていた。
狭い牢内に忍者対忍者の異様な殺気が張りつめた。
「お塔、首をもらう」
ふいに蟇丸がうごき出した。
「御世子|蓮之介《れんのすけ》さまを殺害した一味のやつ、成敗せねばならぬ。というより、わしはおまえの首が欲しいのだ」
そして、彼は大きな口でニヤリと笑った。
「きけ、うぬの仲間のお丈の首、お戒の首は、わけあって、壷に入れて上野の城に置いてある。上野の北の山――窯場《かまば》に残してあったお津賀《つが》の首も手に入れた。もうひとつおまえの首をもらえば、もはやわしの用はすむ」
「寄るな」
と、お塔はさけんだ。
蟇丸は、さっき女中が――いや、お塔が茜と入れ変わったのなら、あれは女中ではない、お塔の仲間だ。彼はそれが綱手であったことまで見ぬいている。――綱手が下ろしたとみえた錠が、実は下りていないことを知っていた。
で、この女がじぶんに何をするか――と思って、しばらくあしらっていたが、彼女がじぶんを自来也だといい、そしてのがれようとするのを見て、ついに行動を起こした。のがれようとする――というより、彼女の挙動に、ただならぬ妖気《ようき》を看取したのだ。
いや、彼女のからだがべットリと、まるで白い脂《あぶら》にぬれたような光沢をはなっているのを見てとったのだ。
チカッとまた青い火花が散ると――何たること、牢格子がぽうっと燃えあがった。彼女は錠に手をかけず、左右の人さし指の爪を擦り合わせたのであった。
爪を擦ることによって火花を発する、そのお塔の忍法はほんのいま見たが、しかしふとい牢格子が、まるで油でもかけたように一瞬に燃えあがるとは。――
蟇丸は奥へとびずさった。
格子は燃えあがった。火は彼女のうごいて来た壁に走った。
「……忍法くノ一|蝋燭《ろうそく》」
炎の中で、お塔は笑った。まるで不動明王のように火炎につつまれながら、しかも裸のお塔は艶然《えんぜん》と笑っている。――
お塔はその全身の毛穴から脂《あぶら》をにじみ出させたのであった。それを彼女は背をすりつけて、壁から格子へ塗って歩いた。それは壁や格子を充分燃えあがらせるに足りる性質と量を持っていた。
蟇丸が立ちすくんだのは一刹那である。
「こやつ!」
すでに彼の手には手裏剣がひかっていたが、これを捨てると、奥の隅《すみ》に置いてあった手桶《ておけ》をつかんだ。
親切からか横着からか、女中が飲料用としてそこに置いてあった水桶に、まだたっぷりと水が残っていたのが不幸中の幸いであった。
おのれのことはさておいて、火を発すればこの城が火事になる。
これにはさしもの蟇丸も仰天したのであろう。彼は桶をとりあげて、ざあっと水を壁から格子へかけてぶちまいた。
火が燃えあがってから一瞬だったこともある。炎は消えた。――が、この行動のあいだに、蟇丸のからだには、無数の針がつき刺さっていた。毛のように細かいが、しかし、猛毒をぬってある吹針であった。それを煙のごとくお塔は、じぶんの口から吹きつけたのだ。しかも、彼女の全身からはなおめらめらと青い炎が立っている。
「――してやったり!」
と、お塔は思ったのであろう。そのまま黒く焼けた格子越しに手を出して、下りていない錠に手をかけてこれをはずし、戸をあけた。
「待てっ」
一瞬の差で、甲賀蟇丸は追いついた。さすがは甲賀蟇丸だ、牛すら数針でたおす毒針を全身に吹きつけられても意に介しないのか、猛然とお塔をとらえて、ひきもどした。
青い炎が牢内を二、三度ころがって、蟇丸はお塔を床にねじ伏せた。お塔のはなった炎は、いま蟇丸のきものに移り、彼もまた燃えあがっている。
燃えあがりつつ、彼は先刻の手裏剣でお塔の首を横に刺し通した。
「……まさにしてやられた!」
と、蟇丸は燃えながらさけんだ。手裏剣はそのままにして、お塔のからだからとびはなれて外へ出ようとしたが、どうとたおれた。毒がようやく効いてきたのである。
「自来也一人、ついに伊賀のくノ一と相討ちとなる」
声は苦悶《くもん》というより苦笑のひびきをおびていた。
それからわずかに顔をあげて、ふりむいて、はっとした。
お塔のからだからは、うそのように青い炎は消えている。白蝋《はくろう》のように美しい屍体《したい》であった。――屍体のはずだ。手裏剣は頸動脈《けいどうみやく》を切って横に刺しつらぬかれているのだから。
そのはずなのに、蟇丸はその屍体の右腕が、おのれの頸をつらぬいた手裏剣をつかんで、いまひきぬこうとしているのを見たのであった。
手は手裏剣をぬいた。
「あれか。――お丈の――」
と、蟇丸はうめいた。そして這《は》いもどろうとしたが、すでにからだは意のままにならなかった。ただ彼は、かっと眼をむいてながめていた。
屍体の右手につかまれた手裏剣が、じぶんの黒髪をすうとなでると、ひとたばの髪の毛が、まるで一陣の風にでも吹きあげられたように牢格子《ろうごうし》のあいだから舞い立っていったのを。
そのいくすじかは、格子にぶつかって床におちた。そして生けるがごとくウネウネと這いまわって、そこに一行の文字をえがき出した。
「がままるがじらいや」――蟇丸が自来也。
――無足人のくノ一お塔は、死してなお報告しようとしたのである。飛び去った黒髪は告げるであろう、首領服部蛇丸に。
「……あれか。――お丈の――」と、いま蟇丸はつぶやいた。おそらくそれは、かつて伊賀の上野の城内で、自来也と死闘ののちにたおれたくノ一お丈が、死してなお見せた忍法「蘭奢待《らんじやたい》」をさすのであろう。
「――ふふふ」
この場合に、甲賀蟇丸は笑った。
そして彼は、がくりと焼けただれた顔を床に伏せた。お塔の右手も、手裏剣をにぎったまま、もううごかなくなっていた。
これほどのことを、誰《だれ》も気がつかなかった。
朝になって、まず厠《かわや》のそばに気絶している女中が発見され、あわてて座敷牢を見にかけつけた女中たちは、はじめてあっとさけんだのである。
まっ黒に焼けこげた牢内に、茜が眠っていた。
そして彼女が抱きしめているのは、焼けただれた甲賀蟇丸の屍骸《しがい》であった。
気絶していた女中にきいても、茜を手水につれてゆく途中、ふいに悶絶《もんぜつ》させられたことをのべるばかりで、何が起こったのかわけがわからない。狂女を起こしてきいてみても、さらにとりとめがない。
格子には錠が下りていた。錠の下りた牢内に展開されていたこの凄惨《せいさん》な光景に、女中たちは、ただただおどろき呆《あき》れ、そのうえ、もうひとつあったはずの屍骸が消えていることを教えられたところで、それ以上おどろく余裕はなかったろう。
「――わたしはただお塔にまかせて立ち去った。――」
と綱手は褥《しとね》の中でいった。
「あそこは鞠姫の寝室近く。――もしわたしが歩いているのを見つかっては一大事ゆえ。――」
ひくいささやき声だ。天井に蛇《へび》のような影がモヤモヤとうごめいているのをながめながら、彼女はつぶやいている。
「わたしは何が起こったのか、よくわからぬ」
「お塔は髪文字で知らせて来た。蟇丸が自来也であったと」
誰もいないのに、綱手の耳もとで声がささやく。
「お塔は蟇丸をみごと討ち果たして死んだのじゃ」
「では、自来也は死んだということか」
「そういうことになる」
答えは歯ぎれのわるいものであった。それにじぶんでも気がついたらしく、
「そうにちがいない!」
と、強くいいなおした。
「ただ、不審のはれぬことがある」
「なに。――」
「お塔の屍骸が消えていたというではないか。お塔とは知られぬように蟇丸を殺せ、とは命じたが、お塔の屍骸をかくした者がわしでもそなたでもないとすると――」
「お塔は逃げたのではないかえ?」
「いや、髪の毛は死んでいた。生きていて飛ばした髪文字と見分けのつかぬわしではない」
「では、誰じゃ?」
やや沈黙していたのち、声は迷いつつ答えた。
「――鞠姫か?」
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反間苦肉
「鞠姫《まりひめ》?」
と、綱手《つなで》はいった。
「鞠姫が。……そこまで?……また何のためにお塔《とう》の屍骸《しがい》をかくしたのじゃ?」
実は綱手は、これまで鞠姫をそれほど「敵」だとは思っていなかった。すくなくとも、「大敵」だとは見ていなかった。気丈だが、それだけに凜然《りんぜん》とし、気ままだが、それだけに単純で、むしろ御《ぎよ》し易《やす》い姫君だとかんがえていた。
この姫君が、唖《おし》で馬鹿の花婿《はなむこ》どのをおしつけられたのだから、これは悲劇である。彼女が憤然と拒否権を発動し、石五郎から逃げまわるのはあたりまえである。この点に関しては、綱手は鞠姫にいささか同情していたくらいであった。
しかし、石五郎を押しつけたのは、じぶんたちではない。むしろじぶんたちも、鞠姫と石五郎の結婚の被害者である。そのことによって、こちらの計画に根本から齟齬《そご》をきたしてしまったからだ。
石五郎をこの世から消すことは、鞠姫にとってはかえって好都合なのではないか? とさえ、いちじはかんがえたこともあるくらいなのだが、しかし、そういわれてみれば、伊賀の上野から帰って以来の鞠姫は、どこか調子がちがっている。先日、和泉守《いずみのかみ》の面前で逢《あ》ったときも、あきらかにじぶんを「敵」と意識した眼つきであった。
「なんのためにお塔の屍骸を消したのか、わしにもわからぬ」
声は――蛇丸《へびまる》の声はいった。
「しかし、とにかくも鞠姫と自来也は一体じゃ」
そのことは、先夜も蛇丸は指摘した。そういえば、いかにも鞠姫が、この津の城へ帰るなりわざわざ座敷牢《ざしきろう》を作って、蟇丸《がままる》ともども茜《あかね》をその中に入れてしまったのもおかしいといえる。――いや、いまや蟇丸が自来也であったとすれば、すべては霧のはれるようによくわかる。
「鞠姫は――竜丸《たつまる》もろともおまえを追い出し、この津の城のあとをつごうという野心を起こしたのではないか」
「石五郎とともにか?」
「名目上は夫であろうと、あのような馬鹿、なんとでもあしらえる。また名目上にしろ、石五郎がこの世にあるかぎりその地位はうごかせぬとするならば、鞠姫が居直って、そんな野心を起こすことも充分あり得よう」
「……ど、どうしてくれようか」
と、綱手は歯ぎしりした。
「ともあれ、自来也なる奴は死んだ」
と、蛇丸は嘆息をついた。もとより安堵《あんど》の溜息《ためいき》である。
「もはや、われらは、その点にかぎっては事はすすめ易うなった。お塔の死はむだではなかったのだ。……ま、事はいそがねばならぬ。そのためには、石五郎をこの城からさそい出さねばならぬ」
「あれは馬鹿ゆえ、それなら簡単じゃ」
「それがそうではない。馬鹿ゆえ、かえって罠《わな》にかけにくいということがあるのじゃ。ともかくも将軍の御曹子《おんぞうし》ゆえ、ひとりでフラフラ城を出れば、城侍が追っかけに出ずにはおれまい。また、鞠姫が見張っておるにきまっている。上野の城より、この城の方がかえってむずかしい」
「では、どうするのじゃ」
「いっそ、鞠姫の方を城から出すのじゃ」
「――鞠姫を?」
綱手はさけび、思案に沈んだ。
「鞠姫は、先日和泉守さまに江戸にゆくか、ときかれたとき、それは追って思案の上と、もったいぶってひきさがったが、なるほどいまの話をきけばあの姫がてこでもこの城をうごかぬ決心をしたのがよくわかる。容易にはおびき出せまい」
「和泉守に放逐させるのじゃ」
「……どうして? 蛇丸どの、どうして?」
「綱手、竜丸に毒をのませろ」
「えっ……何ということを申す」
「苦しむだけで、死なぬ程度に。……毒はわしがわたす」
「…………」
「そして、苦しむ竜丸を、鞠姫の居間のちかくに置いておけ」
「…………」
「一方、わしは竜丸に似せた藁人形《わらにんぎよう》を作り、これに釘《くぎ》を打って、鞠姫の居間の床下にほうりこんでおく」
「――おお」
「人を祈り殺す呪《のろ》いの藁人形だ。……和泉守は怒るであろう。もとより鞠姫は知らぬ存ぜぬといいはるであろうが、和泉守としては、鞠姫をこの城から放逐せずにはおられまい」
「――どこへ?」
「まさか、ふたたび伊賀《いが》の上野へやるまい。藤堂藩《とうどうはん》には、志摩《しま》の波切《なきり》に小さな館《やかた》があったの。あそこへ押しこめるように、おまえからそれとなく和泉守にほのめかせ」
「波切の館」
「あそこなら細工がし易い。さて鞠姫がそこへゆけば、ほうっておいても石五郎はそれにくっついてゆく、同時にゆかずとも、じぶん勝手に、また追いかけてゆくにきまっておる。……」
「……なるほど。そして?」
「そこで精水波のしあげをする」
「茜はどうする。座敷牢に入れられておるが」
「自来也も鞠姫もいなくなったあとの牢じゃ。茜を外に出すことは、さほど難事ではない。ただ、茜を外に出せば男を吸い寄せるのがこの際かえって邪魔になるから、あの乳しぼりの忍法がさるのを待たねばならんが、あれはかれこれもうきれよう」
「……第五波のお塔は、石五郎にかからず死んだぞ」
「やむを得ぬ。あとを作る、服部《はつとり》郷にはくノ一の弟子はまだ数人ある。わしはいそぎ伊賀に帰って、その女どもの仕あげをしてやろう」
「では、蛇丸どの、おまえは伊賀に帰るのか」
「なに、すぐにひきかえして……こんどは波切の館にゆく。それまで無足人たちに見張らせていよう」
――この問答のあいだに思案成ったとじぶんでも安心したためか、蛇丸の声には笑いのひびきすらおびた。
「どうじゃ、綱手。この反間苦肉のはかりごとは?」
数日後の或《あ》る朝、竜丸がいないと綱手がさわぎ出した。
大さわぎののち、鞠姫みずからが、蒼白《そうはく》になって竜丸を抱いて駆けて来た。どうしたのか、竜丸が彼女の寝室ちかい縁側で苦しんでいたというのだ。
二歳の竜丸は口から血をながし、泣声もたてず、小さな手足をちぢめてヒクヒクとしていた。あとに残っていたのは、まるで牛一頭を殺したほどの血潮であった。……むろん毒は死なぬ性質のものを死なぬ程度に蛇丸がわたしたもので、且《かつ》その血潮も彼が配下の無足人のひとりに供給させたものだが、それを承知の綱手さえ、思わず、
「あっ竜丸どの!」
と、狂気のようなさけびをあげずにはいられないほどであった。
まさに文字通りの苦肉反間。
ましてや、父の藤堂和泉守がショックを受けたことはいうまでもない、鞠姫の弁解にもきく耳もたず、顔色変じて、現場附近を捜索させた。むろん、これは綱手の指示による。
そして、鞠姫の寝室の床下から釘を打ちつけた幼児の藁人形が見つけ出された。
「鞠姫っ」
このころには、竜丸はもうこんこんと眠っていたが、こんどは和泉守の方がひきつけを起こしたようになって全身をふるわせながら絶叫した。
「これはどうしたことじゃ!」
「父上。……鞠は何も知りませぬ。存ぜぬことでございます!」
――すべて、計画通りに事は運んだ。
和泉守は、先夜鞠姫が作らせた座敷牢で、奇怪な死びとが出たことをきいていた。座敷牢を作ったことさえいぶかしいのに、死人が出て、――その死人が、石五郎に江戸からついてきたあの蟇丸らしいときいて、愕然《がくぜん》としていたのである。いったい、何がどうしたのか、問いただそうとしているうちにこの大異変だ。
鞠め、何をたくらんだか?
よく仔細《しさい》は知れぬながらに、鞠姫が狙《ねら》っていることは察しられる。竜丸の毒殺未遂が何よりの――ほかの事実を圧倒的に覆《おお》う事実である。竜丸を排除し、じぶんが藤堂家のあとをつごうとたくらむことは、充分あり得ることであった。
ただ、この鞠姫が――と思う。
しかし、和泉守は、もういちど疑ってみるという余裕はなかった。すでに鞠姫とのあいだに不信と疑惑の霧はみちている。何よりもこの毒殺されかかった愛児のむざんな姿が、和泉守の脳髄をメチャメチャにしてしまった。
「――斬《き》れ」
と、地団駄《じだんだ》ふんであやうくさけぼうとしたくらいである。
――それをからくもじぶんでおさえたのは、この場合、奇妙なことに石五郎の存在であった。鞠姫はたんにじぶんの娘であるばかりではない。公儀から婿《むこ》として下って来た石五郎の妻なのである。鞠姫を成敗すれば、その関係から事がおだやかにすもうとは思われない。
それだけに内向する怒りに身をふるわせている和泉守に、
「志摩の館に押し込めになされてはいかが」
と、綱手が吹きこむのはたやすいことであった。
もともとその処置にこまっていた鞠姫である。――よし、仕置も成敗もそれからのこと、と和泉守は決心すると、すぐに家臣に命じて鞠姫をそこへ護送することを命じ、且《かつ》それ以後の扱い方についてさしずした。
――鞠姫をのせた駕籠《かご》をつつみ、十数人の武士が、むずかしい顔をして、津の城を出たのはその翌朝のことだ。
罠《わな》におちた、と彼女は思った。しかし、それをいいとくすべはなかった。またあの父の理も非もないいかりのまえには、いまの場合、いかなる弁明も無効だと思わないわけにはゆかなかった。
――絶体絶命の窮地におちたじぶんを救うのは、ただあの自来也という男しかいない。しかし、自来也はこない。「自来也参上いたすまでおん待ち候え」などえらそうにいったくせに、ついに彼はあらわれない。
そのあいだに、蟇丸は殺されてしまったのではないか。どうして彼が殺されたのか知りようはないが、自来也があの狂女といっしょに牢《ろう》に入れろといったから牢に入れた。その結果として、彼はむざんな死にざまをとげてしまったではないか。
――鞠姫は、また自来也に絶望をおぼえた。
うそつき! といいたいところだ。しかし彼女はそうさけぶ気力も失っていた。彼女はじぶん自身にも絶望を感じていた。
イヤイヤ! もうこんなことはイヤ! とさけびたい。もうどうでもいいから、じぶんも死んでしまいたい。
そういちどはうちのめされながら、ふっと石五郎のことを思った。あのおひとはこれからいったいどうなるのか?
じぶんも蟇丸もいなくなったあと、彼は綱手の思うがままではないか。自来也の推定によれば、敵は石五郎にも兄|蓮之介《れんのすけ》の二の舞いを踏ませようとしているそうな。――そうさせてはならぬ。そうさせては、あまりにも石五郎が哀れであるし、またこんどのたたかいに完全に敗北することになる。
この絶望の中に、それでもこんな考えがちらと頭をかすめたのは鞠姫なればこそか。
志摩の波切の館へゆくという――その騒ぎの中で、キョトンとしている石五郎に、
「石五郎さま、わたしのゆくところへついていらっしゃい」
と、わずかそれだけを、鞠姫は口早にいった。
もっとも、石五郎をじぶんといっしょにつれていったところでどうなるものではない。じぶん自身が一種の囚人みたいなものだ。それどころか、和泉守の眼から遠くはなれるだけに、かえって危険な事態におちいるかもしれない。――とかんがえたのは、城を出てからのことだ。しかしそれはあとの祭であった。
じぶんのゆくところへ、母のあとを追う子供みたいに、あとをくっついてくる石五郎。――しかし、まさかこんどの場合、やすやすと綱手が石五郎を外に出すまい。と思ったが、案に相違して、といおうか、案の定、といおうか、石五郎がちゃんとくっついて来たから、あっと思った。
津から南へ約十里――古市《ふるいち》の宿(いまの伊勢《いせ》市の一部)を出てから間もなくのことだから、城を出て翌日の朝のことになる。
「ら、ら、らっ」
という、例のうれしそうな奇声をきいて、駕籠をとめさせてうしろをみたら、御曹子、大はしゃぎで街道《かいどう》の上で踊っていたのである。もっとも、その周囲を武士でかためられて、死に物狂いにとめられているらしい。――なぜか鞠姫はひどく感動して涙がこぼれそうになった。
鞠姫は、綱手がやすやすと城から出すまい――と思ったが、何ぞしらん、それこそ綱手一味の待ち望んでいたことであったのだ。鞠姫の方が囮《おとり》にすぎなかったのだ。
むろん、石五郎が城をとび出したことはすぐに誰にでも知れた。そのことを知って和泉守は渋面をつくった。かっとして、鞠姫を志摩へ追いやったものの、この石五郎のことは忘れていた。いや、このまま城に放っておけばいいくらいにかんがえていたのだが、さて例のごとく鞠姫のあとを追ってゆかれては、この人物の処置に窮すること鞠姫以上である。
「ええ、お好きなようにさせておおきなされませ」
と、綱手は肩をすくめてつぶやいた。――が、これこそ彼女の狙いであったことを和泉守が知ろうはずがない。
かんがえてみれば――かんがえてみるまでもなく、このたびの騒動のそもそもの根源はこの男である。彼が鞠姫と一心同体であるか否かを問わず、この人物こそ藤堂家の悶着《もんちやく》のもとである。和泉守が彼に愉快な感情を抱いているはずがない。そばにいて欲しい存在ではない。
「捨ておくか」
と、彼はいい、ひとまず厄介払いをした気になった。それでも、さすがに念のため、護衛の武士数人をつけた。
その翌夜、座敷牢の中から茜の姿が消え失せた。外からかけてあった錠《じよう》がはずれていたことをふしぎに思った者もないではなかったが、女中たちはこの狂女にたいして関心がなく、それどころかその処置をもてあましていたところであったから、べつに意に介しなかった。
この夜が、茜がかけられた忍法「乳しぼり」のききめが消失する第一夜であったことは、蛇丸と綱手だけが知っている。
伊勢《いせ》から鳥羽《とば》へ。――
もう夏といっていい、美しい伊勢平野を、しかしどこか陰鬱《いんうつ》の気をひそめて鞠姫の行列がゆく。
二日目の夜を、一行は磯部《いそべ》の宿に泊まった。
むろん、参覲《さんきん》交代の街道などではないから、旅籠《はたご》のある道理がない。鞠姫一行はその庄屋の家に泊まったが、その村の入口ちかくにもう一軒、比較的大きな百姓の家があった。
その夜、月がのぼりかかったころ、その百姓家に、北からヒタヒタと七つ八つの黒影がちかづいた。すると、路傍の樹蔭からもうひとつの黒影がわき出してこれを迎えた。
「来たか」
と、こちらできいて、のぞきこみ、
「茜は?……おお、つれて来たな」
服部の無足人たちである。その中に、茜が立っていた。彼女は無足人たちに津の城から助け出されて来たのである。
「忍法乳しぼりは?」
「醒《さ》めた」
と、ひとりがこたえた。
月光の中に茜の顔は蒼白《あおじろ》く、ほんとうに醒めたような皮膚をしていた。彼女はお津賀の「乳」に酔っていたあいだのことをまったく記憶していない。
「ところで、石五郎は?」
「おる。……あの百姓家の奥座敷だ」
と、待ち受けていたひとりの無足人がふりむいて、指さした。彼だけ、まず鞠姫一行、またそれを追う石五郎をさらに追尾していたとみえる。
「お頭はここにおらぬが」
と、やがて無足人たちはつぶやいた。
「茜がいる」
「お頭は新しい精水波のくノ一をつれてくるといったが、少なくともあと十日くらいはひまがかかるだろう。何にしても、いま石五郎にこの茜を交わらせれば、きゃつ、第三波第四波にまみれることになる。お頭は、わしのゆくまで待てと仰せられたが、今夜など絶好の機会だ。やらせて見ようではないか?」
「護衛の侍が四、五人おるが、本気で守護しておるともみえぬ」
「手むかえば、わしたちが眠らせる」
「やって見よう」
そしてまた茜は例の用を命じられた。
茜は醒めた。酔っているあいだのことは記憶にないが、醒めたあとはまるで悪寒《おかん》に襲われたようにからだが不快であった。ただ醒めた頭では、例の用を果たすことが、以前にもましていやであった。――しかし、醒めても彼女は自由にはならなかった。彼女は無足人の掟《おきて》にあやつられる美しい人形にすぎなかった。
彼女は百姓家の裏庭から、教えられた奥座敷へすすんでいった。――こちらは月の蔭になる側で、闇夜《やみよ》よりかえって暗い闇に沈んでいる。
その雨戸もしめてない縁側に誰《だれ》か腰かけていた。闇の中に、見おぼえのある顔が、じっと彼女を見すえていたのだ。茜は息をのみ、はたと立ちすくんだ。
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第四波
闇《やみ》の中に白いものが靄《もや》のようにかたまっている。さらにその中に、茜《あかね》を見すえている極彩色の顔があった。
これは忍者たる茜なればこそ見えたのかもしれない。眼や口を隈《くま》どり、百日かつらをかぶった妖異凄絶《よういせいぜつ》の顔。――それを忘れてなろうか。
「……おおっ」
と、口の中でうめいたきり、しばらく茜は息も出ず、その顔が消えて、ただ白い影となり、縁側に坐《すわ》っている白|頭巾《ずきん》、白い着流しの姿となるまで、ただかっと眼を見張っていた。
いうまでもなく、いま見た顔は、人間の顔とおなじ大きさに背にえがいたものだ。――かつて彼女はこれを見たことがある。上野の竜庵の屋敷においてだ。そこで藤堂石五郎に犯されようとした茜は、この人物のために助けられたのであった。その実、石五郎を精水波にかけようとした茜は、この人物のために邪魔されたのであった。
実はその後、彼女はもう一度この人物に阿波《あわ》の宿のぬれ仏の下で逢《あ》っているのだが、それはいまおぼえがない。あのときは彼女自身、忍法「乳しぼり」のために夢中遊行状態にあり、あたかも醒《さ》めた人間が、泥酔《でいすい》中のことを思い出すにひとしいのだ。
「自来也」
と、茜は、のどのおくでいった。
それは、あの自来也が、また現われたという驚きのためばかりではなかった。自来也は死んだ、そう無足人たちからきいていたからであった。
自来也は甲賀蟇丸《こうががままる》という男であった。彼は、みずから茜を抱きこんで津の城の座敷牢《ざしきろう》に入り、茜の忍法乳しぼりを封じた。ためにこんどは、お塔《とう》がその牢の内に入ってそして相討ちを以《もつ》て彼を斃《たお》した。――それまで、その蟇丸とあれほど凄惨《せいさん》なばかりの狂態を演じたのに、彼女自身は記憶がないのだが、しかし、そう味方の無足人たちからきかされたのだ。
自来也は死んだ。あれはやはりじぶんの恋人|阿波隼人《あわはやと》などではなかったのだ。
――この二つのことを知ったとき、茜の胸には一種いいがたい安堵《あんど》と哀感が交錯したけれど、そんな感情は無足人たちに与えられた新しい任務に断ち切られた。自来也いまやなし、安んじて石五郎を襲え。――
にもかかわらず――。
「自来也じゃ。茜、久しぶりだの」
と、自来也は笑いをおびた声でこたえた。
「そうか、おまえ、また来たか。ふむ、おまえの処置を忘れておったわ。そういえば鞠姫《まりひめ》さまのおわさぬ城から、無足人らがおまえをつれ出すのはあたりまえ。……いやおまえが来たと知って、わしはこうして出迎えたのじゃが」
頭巾のあいだから眼が笑っている。笑っているようにみえるのだが、朦朧《もうろう》とした感じだ。
「ふびんなやつ。醒めれば醒めたで、いのちのあらんかぎり、おまえは蛇丸《へびまる》の傀儡《かいらい》となって働かされよう。……」
茜の意識は、この相手にとびかかろうか、それとも、とって返して無足人たちに告げようか、という二つの判断にもだえた。しかし、からだはうごかなかった。朦朧と笑った眼に呪縛《じゆばく》されたようなのだ。
「茜、おまえら一味のなすこと、なさんとしておることは実に罪ぶかいものであることは、いかに伊賀《いが》のくノ一とはいえ、わかっておろうの」
「わたしの知っているのは服部《はつとり》無足人の掟《おきて》だけじゃ」
と、茜は、しぼり出すようにうめいた。
「いや、ほかのくノ一ならば知らず、おまえならわかるはずじゃ。ほかのくノ一どもは、以前に藤堂|蓮之介《れんのすけ》さま殺害という大罪を犯しておる。またつづいて石五郎どのを殺害するということに心からのよろこびをおぼえておる。もはやこれをゆるすことは相成らぬ。……しかし、おまえはちがう。おまえはまだ人を殺すという罪を犯してはおらぬ。またこのたびのことについても、心のどこかに哀しみがある、恐れがある、いやいやながら、首領の命令と無足人の掟に従っておるところがある。……そうであろうが、のう茜」
自来也の声から笑いは消えていた。切々たる語韻であった。しみ入るようなその声に、茜は、われしらずひきこまれ、心が泣きじゃくるように波立ってくるのを意識すると、必死に声をしぼった。
「わたしは無足人の娘。ほかのくノ一とおなじことじゃ」
「いや、わしは最初、竜庵の屋敷でおまえを見たときから、これは性善良な娘じゃ、と思った。おまえの眼を見てわかった。さればこそ、おまえだけは殺さずに逃がしてやったのじゃ……」
「――ちがう」
歯をくいしばってきいていた茜が、突然はげしくくびをふった。
「ちがう? 何がちがう」
「おまえは……」
茜は、二、三歩あゆみ寄ってさけんだ。
「あのときの自来也とはちがう」
自来也は片掌《かたて》をあげた。それだけで茜はまたうごけなくなってしまったが、しかし自来也自身も、ややあわてた動作であった。
「……では、あのぬれ仏の下でおまえを抱いた自来也は?」
「…………」
「ははあ、あのときは思い出せぬか」
自来也は、こう問いかえすあいだにおちつきをとりもどしたようだ。
「さすがは、伊賀のくノ一じゃ。ゆだんがならぬ。……それとも、わしの忍法いまだ至らぬか?」
と、つぶやいた声には苦笑のひびきがあった。が、すぐに厳然として、
「きけ、茜」
といった。
「おまえは、自来也は甲賀蟇丸であったと無足人からきいたであろう。その通りじゃ。上野の竜庵屋敷でおまえを助けたのは甲賀蟇丸、あれは、いちどきいたおまえの恋人阿波隼人の声を真似《まね》た。というより、おまえに阿波隼人ではないかと思わせようとした。それは自来也の正体をおぼろげにするためもあったが、阿波隼人なればこそ、おまえを殺さなんだと服部蛇丸に思わせるためだ。そうせぬと、おまえが疑われ、蛇丸に成敗される。なぜなら、ほかのくノ一は、藤堂蓮之介さま殺害の罪により、ことごとく討ち果たすつもりであったゆえ、おまえひとり生かしておくのは目に立つからじゃ」
「――――」
「なぜおまえを助けたか。それはいま申した通り、おまえが罪なき娘であるからだ。茜だけは殺すまい、ゆるしてやれ。――そういうさしずがあったゆえに、甲賀蟇丸ほどの忍者が、みすみすおのれの男根をみずから切りすてた。……」
「…………」
「おまえはおぼえがなかろうが、ぬれ仏の下で、おまえを殺さずにおまえの魔力を封じるには、それよりほかに法はなかった。それは醒めたおまえもうなずくであろう。……ひいては、おまえを抱きこんで、ついに蟇丸は、おのれのいのちをすら失う破目《はめ》となった」
「…………」
「君命重く、一命軽し。これは無足人の掟《おきて》と同様、江戸城|甲賀者《こうがもの》の掟じゃ」
「江戸城甲賀者――」
茜は、かすかに悲鳴のような声をもらした。
「君命。……君命とは?」
自来也はしばらく黙っていたが、それは答えられぬというより、彼自身の沈痛な物想いにふけっているようであった。
ややあって吐息をもらした。
「さほどでもなき命令を、あれほどの大忍者が。……」
闇《やみ》にも悲愁の翳《かげ》にふちどられたその姿を眼もはりさけんばかりに見つめていた茜は突然、両掌《りようて》で顔を覆《おお》ってしゃがみこんだ。
彼女は知ったのだ。
自来也の正体を。またもう一人の自来也の死んだ理由を。――いまきいた自来也の言葉、またここにくるまでにきいた服部無足人たちの言葉、それを二つの鏡を合わせて一つの実体をえがき出すがごとく、真相を知ったのだ。少なくとも、「敵」がじぶんのいのちを助けるため、この上もない大犠牲をはらったことはあきらかであった。
まだわからぬことはある。わからないことは、たんとある。
が――そのおぼろな真相だけでも彼女をうちのめすには充分であった。
「なぜ?」
と、茜はいった。なぜ、あなたは正体をあきらかにしないのか、ときいたのだが、
「罪なき女を殺しては、これは正義のたたかいであるという方針にもとるからじゃ」
と、相手はいった。笑いをとりもどした声であった。
「あなたさまは、なぜそのような頭巾《ずきん》で顔をかくしているのです?」
「これか。……正義のいくさと申しても、この世のことは、そう単純にゆかぬのでのう、それゆえ、いろいろとまわりくどい苦心を重ねておる」
そして、闇の中の眼で、茜を見すえた。
「茜、無足人を裏切れ」
「おまえの助けをかりたい。わしはそう思っておまえを待ち受けておったのじゃ」
と、自来也はしずかにいった。
「味方になってくれるか」
「はい」
と、茜は――彼女もまたしずかに答えた。
服部蛇丸を裏切る――無足人の掟に叛《そむ》くというのに、彼女の心はふしぎに平静であった。いちど顔を覆った両掌をひざにおき、茜はじいっと相手を見あげている。
「どのように?」
「おまえが石五郎を精水波にかければ第何波になるか」
と、自来也は微笑の声できいた。
「お丈、お戒の精水波が成ったとしてだ」
「……第三波。――」
と、茜は闇中《あんちゆう》にも顔をあからめていった。
「第四波は? おまえはお津賀《つが》の分もかねているのであろうが。……蟇丸が、そう申したぞ」
「それはわかりませぬ。わたしはお津賀の忍法乳しぼりからすでに醒めました」
「では、もと通り第三波、第四波は成ったといえ」
「――は?」
「このまま立ち帰り、石五郎を精水波にかけたと無足人たちにいつわって報告するのじゃ。そして、すべてが落着するまで、あざむき通せ」
茜は黙っていた。
「いやか、茜」
「いやではありませぬ」
「おお、きいてくれるか」
「けれど――わたしは蛇丸どのをあざむけませぬ」
「――なんと申す」
そういったとき、茜はふいに立った。びゅっと闇に風を切る音がした。それが、一瞬肉に何やらつき刺さる音がすると、彼女は棒立ちになっていた。それも一息、彼女はどうとまえにのめり伏した。
自来也は茜の背につき刺さっている七、八本の手裏剣を見た。
「茜!」
と、さけんだのは、もしいま茜が立たなければ、茜をのぞきこんでいたじぶんにそれらの手裏剣がすべて集中したであろうと悟ったからだ。
「しまった」
「ちがう。きゃつ、わざとじぶんでふせいだのだ」
「では、やはり、裏切ったのか」
周囲の闇で、そううめく声がした。――無足人たちだ。
「しかし……自来也め、まだ生きておったとは?」
「お頭の見込みちがいじゃ」
「とにかく、斬《き》れ。……斬れっ」
「斬って、その面体《めんてい》を見たい。見てやれっ」
自来也はすっくと立った。――無足人たちのいることは先刻承知のことであったのに、茜を説得することに思わず心を奪われて、彼らがそこまで忍び寄っていることに気づかなかったのは不覚のいたり――と頭巾のなかでかみしめた悔いが、苦《にが》い笑いとなって片えくぼによどむと、
「無足人、生かして帰せぬのはうぬらの方だ。参れ」
抜刀すると疾風《はやて》のように馳《は》せ寄った。
闇の中で凄《すさ》まじいひびきが起こった。人間の声ではない。人間の声は、最初の会話だけで、あとはただ鉄と鉄の相打つ音だけであった。それも刀身と刀身という鋭い単純な音ではない。もっと重い、がっという鉄のひびきと、ギリギリッときしむ鎖のひびきだ。稲妻のように青い火花がちった。
ほんの数分でその音響は止んだ。
無足人らの襲撃が無謀という結果になったのは、首領蛇丸不在という事実から当然のことであったろう。
自来也ひとりがうごいて、茜のそばに馳《は》せもどった。
さすがに白衣のあちこちを斬り裂かれ、斑々《はんぱん》たる血のあとがにじんでいる。しかしその身のこなしの軽捷《けいしよう》さからおして、それは返り血だろう。
「茜」
と、彼は呼んだ。
「すまなんだ」
抱きあげて、ゆさぶった。
「蛇丸をあざむけぬといったな。服部のくノ一ならばさもあるべきところだ。おれともあろう者が、忍者の掟を破れとむりなことを頼んだのはしまったことをした。ゆるせ」
「いいえ、この方がいいのです」
と、自来也の腕の中で、茜はうすく膜のかかってきた眼をあけた。
「あざむけぬといったのは、生きたわたしでは、とうていお頭の眼をあざむけぬということなのです。わたしはどうせ死ぬつもりでした。死んでお頭をあざむきましょう。……自来也さまの仰せに従いましょう」
「なに、死んで蛇丸をあざむく?」
「忍法髪文字。……」
茜は微笑した。ふるえる手で懐剣をぬいた。
「お頭は、死んだ髪なら信じましょう。……」
そういいながら、彼女はじぶんの髪の毛をサクリと切った。
「茜、しかし……せっかく蟇丸を殺してまでも助けたおまえがここで死ぬとは。――」
「わたしのために死んでくれた甲賀流の忍者には、わたしがお返しするのが伊賀流の礼儀です」
はっとした自来也の胸の中で、茜は死微笑をきざんだまま、がくりとこときれた。
遠く近く物音がきこえ出した。雨戸をくる音や、人の声がきこえる。
さっき死闘の――無機物的なひびきをきいて、やっと人々がさわぎ出したのである。死闘そのものが数分のことであったから、べつにそれほど緩慢なわけでもない。
それをききながら、自来也はなおじっと死んだ茜を抱いている。
抱いて、茜の地に垂れたこぶしがひらいて、その掌から髪が夜空に舞い立ってゆくのを見ている。それは風というより、それ自身の力で飛び立ってゆくように見えた。
ふいに自来也は片手をのばして、その数本をつかみ、もういちど地においた。
髪はウネウネとうごいて一行の文字となった。
「あかねのせいすいはなる」――「茜の精水波成る」
さわぎをきいて、すぐさきの庄屋の家に泊まっていた鞠姫一行の侍たちが押っとり刀で駆けつけて来た。
提灯《ちようちん》に照らし出して、彼らはあっと立ちすくんだ。
百姓家の裏庭一帯には、黒衣の男たちが十人ちかく算をみだしてたおれている。それさえ恐ろしいのに、あたり一帯に散乱しているのは、たんに刀ばかりではない、手裏剣や鎖や鉛のくさびのようなものや――それから、鎖とも錐《きり》ともいえぬ、見たこともない物凄《ものすご》い武器であった。
その中に、女の屍体《したい》がひとつあるのを発見し、さらに、それが津の城の座敷牢《ざしきろう》に残して来た狂女であることを知って、誰かころがるように鞠姫のところへ走った。
鞠姫がやって来たときには石五郎を護っていた数人の武士はそれぞれの寝所でこんこんとまだ眠りつづけ、いかに起こしても目ざめないということがわかっていた。
「石五郎どのは?」
と、鞠姫は顔色をかえてきいた。
「はっ、御無事でござる。いちどあそこの障子をあけましたけれど――人の目もあり――」
と、武士がくびすじをかき、もじもじして答えた。
ものもいわず鞠姫は、石五郎の寝所としてあったというその庭むきの座敷の縁に上がり、顔をふってそこの障子をあけよと命じた。
「らっ、らっ、らっ」
と、まず奇声がとんで来た。
石五郎は座敷のまんなかに――どこから誰がはこんだのか、一俵の米俵《こめだわら》に腰をかけていた。まんまえに一本の血まみれの刀をたたみにつき立てている。それを指さしてまた、
「ろっ、ろっ、ろっ」
と奇声を発して、ふんぞり返ってみせた。
「……じぶんがこの曲者どもを成敗した、と仰せられておるようでござりますが……」
と、武士が鞠姫の顔をみた。
「ばかなことを――石五郎さまには、どうやらふんどしで腰をしばられ、米俵にゆわえつけられておられるようでござりまする」
「しめよ」
と、鞠姫はさけんだ。
米俵に腰うちかけた石五郎の股間《こかん》はまる出しでそこから長大なものがぶらさがって、彼が奇声を発するたびにユラユラと左右にゆれるのを彼女は見たのである。
あわてて障子は閉じられた。
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波切大鼻《なきりおおはな》
――自来也だ。
と、鞠姫《まりひめ》は思った。
――侍たちはどう思っているか知らないが、ここに死んでいるのは忍者たちだ。いうまでもなく服部《はつとり》の無足人たちである。それを十人ちかく斃《たお》していった者が、自来也でなくてだれだろう。
凄惨《せいさん》きわまる死闘のあとの現場を見まわして、この際に鞠姫はわれしらず片頬《かたほお》に淡いえくぼをよどませた。
――やはり、自来也は見ている。わたしらを、あの頭巾《ずきん》のあいだのおぼろな眼で、じっと見まもっている。
鍵屋《かぎや》の辻《つじ》の松籟《しようらい》のなかできいた、ひくい、しかし爽《さわ》やかな声が耳によみがえった。
「御心配あそばすな。石五郎さまがいかに誘われなされたとて――あわやというときには、自ラ来ル也。ふ、ふ、ふ、拙者《せつしや》必ず現われて、その邪魔をいたします」
笑顔で鞠姫は侍にいった。
「村役人はおらぬか」
「は。――」
「この屍骸《しがい》を片づけよ。これは石五郎さまを害したてまつろうとした曲者《くせもの》ゆえ、鞠姫が成敗したと、津の城に報告させておきゃ」
侍たちは、恐ろしげな眼つきで、鞠姫をふりあおいだ。これが鞠姫さまのなされたことだと?
そんなはずはない。そんなことは信じられないが、しかしなぜ鞠姫はいま笑ったのだろう? と思うと、笑顔が愛くるしいだけに、いっそうそれが妖《あや》しいものに感じられ、ひょっとしたら――というわけもない動揺すらおぼえてくるのであった。
「それから、石五郎さま付きの侍たちは?」
「はっ、どういたしましたことか、みなこんこんと眠りつづけておりましたが、ようやく揺さぶりたてて二、三人目覚めさせました。まだフラフラしておりますが、あそこに。――」
「呼んでたも」
二、三人の武士が酔っぱらったようにやって来た。きいてみたが、どうしてこういう状態になったのかわからない、という意味のことを、ろれつのまわらない口でいった。眠っているあいだに、何か忍法にかけられたのであろう。――と、鞠姫は、それ以上にきかず、ただ、
「石五郎さまが俵に縛られておいでなさる。解いてあげてたもれ」
といった。
「へっ、例の俵に?」
と、武士がすっ頓狂《とんきよう》な声をあげたのを鞠姫はききとがめた。
「例の[#「例の」に傍点]俵とは何ですか」
「はっ、……俵を津の城から持参いたしましたので。――駕籠《かご》もつれて来たのでござりまするが、石五郎さまはお乗りにならんで、俵をのせて運んでおります」
そんなことは気がつかなかった。いまきいてもなんのことかわからない。
「あの俵に……何か大事なものが入っているのか」
「いえ、やっぱり米らしゅうござる。それを持ってゆけと、石五郎さまがおっしゃってきかれないので……いえ、おっしゃりはいたしませぬが、あの俵を指さしては口へ運ぶしぐさをなされますから、波切《なきり》のお館《やかた》へ参られてからは、ごじぶんの米でごじぶんを養われる御所存と相見えまする」
鞠姫は、苦笑した。馬鹿のかんがえることは見当がつかない。しかし、なんだか、いじらしい気もした。
「おしずかに、御寝《ぎよしん》なされますように」
と、彼女は侍にとも石五郎にともなくつぶやいて、しずかに庭に下り立った。
遠州灘《えんしゆうなだ》と熊野灘《くまのなだ》が東と南からさかまき寄せるところ――波切は志摩《しま》半島の東南隅にある。
このあたりは怒濤《どとう》にけずられた海蝕《かいしよく》台地であって、その突端は断崖《だんがい》絶壁をなし、波と風が作った白い城砦《じようさい》のような景観を呈している。大王崎、当時|波切大鼻《なきりおおはな》と呼ばれたその断崖の端には、現在燈台が立っているが、ここにいわゆる「波切の館」――藤堂藩の別邸があった。
もとは藩祖の藤堂高虎《とうどうたかとら》がたてたものだそうだ。高虎は津に城をかまえたが、領内巡見の際、はからずもこの壮美の絶景にめぐり合い、ここに別邸を作らせたという。むろん、その風光にうたれたからであろうが、また彼は朝鮮役では日本水軍の総帥《そうすい》として出征したくらいであるし、さらにこの地が古来海賊で名高い九鬼《くき》氏の砦《とりで》のあったところだという因縁も想起したせいであろう。
むろん、それから二百年以上もたっているのだから、その当時の建物がそのまま残っているはずはない。藩祖の遺志を重んじて、代々修理を重ねて来て、或《ある》いは原形もとどめていないのかもしれないが、しかし以後の殿様は、高虎とちがってそれほどここに興味を持たなかったとみえて、やはり荒れはてた感はまぬがれず、どこか化け物屋敷じみた印象がある。とくに風と波の荒い断崖なので、石と巨木を多くつかっているので、なおさらの感がある。
この波切の館に、鞠姫と石五郎は住んだ。
もとより蜜月《みつげつ》の巣であるわけではない。
鞠姫につづいて、ノコノコとここに入って来た石五郎に彼女はこういった。
「石五郎さま、事情をくわしく申しあげたとて御理解ねがえないと存じますが、とにかく鞠は罪人なのでございます。父の命による囚人なのでございます。ここで石五郎さまと愉《たの》しげに暮らしましてはいよいよ父の心にそむきましょう。で……鞠は罪人らしゅうつつしんで日をおくる所存でございますから、石五郎さまもそのおつもりでいて下さいまし」
わざと、護衛の侍のいるまえでそう宣言した。予防線である。
「わかりますね? わかって下さいますね?」
「らっ、らっ、らっ」
といって、石五郎はうれしげに持参金――ならぬ持参の米俵をたたいた。白い米粒がポロポロこぼれた。これでは、話にならない。
――しかし、このおひとは、じぶんが来いといったのだ、と鞠姫は思う。いわれた通りに、ノコノコとついて来た石五郎をいとおしいように思う。
いつしか鞠姫は、この口のきけない、精神薄弱な夫を、おぞましいよりも、可憐《かれん》なものに感じ出していた。
――いっそ、わたしはこのひとといっしょに、一生涯《いつしようがい》、この志摩の果て、波切の館で暮らそうかしらと思う。姉と弟のように。――
石五郎は二十四歳のはず、鞠姫は二十だが、彼女は彼をいつのまにか弟みたいに思いはじめていた。しかし、いくらかんがえても、やっぱり夫とする気にはなれない。
石五郎を見ると、対照的にあの自来也という男の姿が脳裡《のうり》に浮かんでこざるを得ないのだ。
あれは何者であろう。依然としてわからない。いくら思い出しても、その姿さえおぼろになってくる。……けれど耳朶《じだ》にのこるあのひくい、錆《さび》のある、颯爽《さつそう》として諧謔《かいぎやく》的な声は彼女の胸をしびれさせる。
いずれにしても――彼がじぶんと結ばれる身分の男でないことはたしかだ。けれど、もしじぶんが身分をすてたなら、彼と手をとり合って、どこか遠い国へいって暮らすことは可能でないか?
ふっと――彼女は魔睡から醒《さ》めたように顔をあげて愕然《がくぜん》とした。まあ、わたしはなんという途方もない、ばかなことを考えているのだろう。
わたしはどんなことがあっても、石五郎さま以外の夫をもてないという運命に縛られているのだ。しかも――げんにいま、この石五郎さまをじぶんが護らなければならないのだ。わたしがこのひとをここに呼んだ。このひとを殺しては、このひとのみならず、自来也にも顔のむけられぬことになる。――
志摩国の海につきるところ、波切の断崖にそそり立つこの古館。
きっと、服部竜庵一味はまた襲ってくるにちがいない。わたしはそれをふせがなければならない。――それはいつまでか?
……自来也、いつまで?
鞠姫は、そうさけびたかった。
おそらく、ちかく父の藤堂|和泉守《いずみのかみ》は参覲《さんきん》交代のために江戸へ出立《しゆつたつ》する、それまでに何か結着がつくにちがいない。わたしがどう思おうと、何かのかたちであの竜庵か、自来也が結着をつける。鞠姫は、そんな予感がした。
「石五郎さま。……じっとおとなしゅうなされているのですよ」
祈るように、鞠姫はそういった。
「とっ、とっ、とっ」
と、石五郎は答えた。
ところが、さて。――
伊賀城や津城で、あれだけたくさんの家来が追いまわしても手をやいた藤堂石五郎だ。つれてきた侍くらいの人数では、とうていとりおさえられない。だいいち、その侍たちが津の城からいかなることをいいふくめられて来たものか、鞠姫にはともかく、石五郎についてはひどく冷淡なのである。鞠姫に対しても、どこか監視的な眼をそそいでいるが、石五郎に対しては、全然放ったらかしだ。
で、石五郎は、それをいいことに天衣無縫。
断崖の端の石にのって、小手をかざして太平洋を見わたしていることがあるかと思えば、古館《ふるやかた》の柱に抱きついて、ゆさぶっていることがある。ところによっては、朽《く》ちて、グラグラする奴もあるから、危険この上もない。そうかと思うと、まる一日、全然姿を見せないこともある。鞠姫が蒼《あお》くなって探《さが》していると、それまでどこにもぐりこんでいたのか蜘蛛《くも》の巣だらけになって、けろりとして台所の飯櫃《めしびつ》に顔をつっこんでいたりする。――
で、その日も。――
「石五郎さま! 石五郎さま!」
鞠姫は岬《みさき》の石の中を彼を呼び歩いていた。
土が少なく石だらけの岬であった。風をふせぐため、いたるところ白い石垣《いしがき》が積まれている。そもそもこの館へくるまでが、石垣のあいだのただ一本の坂道なのだ。館の周囲も、ただ石垣ばかりの中の小道が、ウネウネと上下して這《は》いまわっているのであった。
石五郎が、幼児同然、こんな迷路を面白がるのもむりはない。――と一面同感し、一面腹立たしい思いで、鞠姫は彼を探していた。いないとなると、やはり心配で、ほってはおけない。
「らっ、らっ、らっ」
ふいに例の声がきこえた。ゆくての一本道には人影はない。
にもかかわらず、石五郎は忽然《こつぜん》と彼女のまえにあらわれた、腕にいっぱい白い花をかかえている。
「まあ、どこから?」
と、鞠姫がきいたのを、石五郎はじぶんがどこからあらわれたか、という意味にきいたとみえて、片手をのばして一方の石垣をおした。すると、その大きな石がくるりとひとつ廻った。
「あらっ?」
そんな石が、この石垣の一部にあろうとは知らなかったので、鞠姫は眼をまるくした。天然《てんねん》にできたのか、人工的なものか、むろん整然たる石垣でなく、風雨にさらされてどこも崩《くず》れそうにみえるのだからよくわからないが、とにかくそこから石五郎があらわれたということは、さらにその奥が穴か何かになっているのであろう。
それに石五郎はもう興味を失っているらしく、
「ら、ら、らっ」
といいながら、この純白の花たばを鞠姫の胸におしつけた。――それはこの志摩のはずれ一帯に夏に咲く浜木綿《はまゆう》の花であった。
「まあ、これをわたしに? わたしのために?」
鞠姫は花に顔をうずめて――ふいに彼女らしくもなく、涙を浮かべた。石垣の中の石だたみの道はひっそりとしていた。遠く海鳴りの音がきこえるが、それがかえって、いっそう静寂をふかくした。彼女は、この志摩の果ての廃墟のような古い館の、流人《るにん》にひとしいじぶんのいまの境遇を思って、ふいに涙をながしたのだ。
――でも、
はじめて、そう感じた。
――ともかくも、あのひともいる。
そう思って、顔をあげると、石五郎はまえにいなかった。だいぶはなれて、彼は石垣にむかって小便をしている。しかも、彼は蟹《かに》みたいに横あるきをしている。石垣にかかる小便の高度を徐々にあげることに熱中しているらしい。
最高度にたかめると、彼は大満足大得意のしぐさで、そっくりかえった。石垣の上の深い蒼空《あおぞら》で、ピーヒョロロ、と鳶《とんび》が鳴いていた。
空にも海鳴りがあるかと思われた。暗い夜空を鳴りどよませているのは、熊野灘から吹きつけるはげしい南風であった。
それを避けて自然のくぼみをつくった石垣の中で、服部蛇丸《はつとりへびまる》はひとりのくノ一に命じていた。
「今夜。――侍どもは、風をふせぐのに、あちこちの戸をおさえて、走りまわっているはずじゃ。おまえ、ゆけ、いって石五郎を精水波にかけろ」
「はい」
と、この風の中にもなまめかしい声がこたえた。
「それから?」
「それからとは?」
「石五郎を精水波にかけたあとは?」
「そうよのう」
と服部蛇丸はちょっとかんがえこんだ。
鞠姫だけをゆるして、津の城に呼びもどさせるか。さすれば石五郎はこの波切の館で悶《もだ》えて死ぬであろう。それを侍どもに見せてもよいが……或《ある》いは石五郎の方を津へ呼びかえさせた方がいいかもしれぬ。そのときは、石五郎は和泉守の面前で悶死《もんし》することになる。――あの藤堂|蓮之介《れんのすけ》そっくりの死にざまで――
彼のまえに、三つの黒い影がうずくまっている。――いずれも、彼が急遽《きゆうきよ》伊賀の服部郷からつれてきた新しいくノ一だ。
「いずれでもよいが、ただ迷うのは、石五郎を館に残すか、津へ帰すかということよりも、鞠姫の処置を案ずるからじゃ。鞠姫め――何をかんがえておるか――どこからあの力を得おったか? みくびっておったら、小女郎《こめろう》め、だんだんえたいのしれぬ化け物になって来おった。――」
じぶんのことは、棚《たな》にあげている。
「あれが――磯部で、ひとりのこらず無足人を討ち果たそうとは!」
いまなお驚愕《きようがく》のひびきは、彼の語韻から去らぬ。彼はその磯部の宿で、そこの住民からあの夜の惨劇を――お殿様の姫君鞠姫さまが、夜中推参した奇怪な曲者《くせもの》ことごとくを成敗されたという話をきいたのである。
いかにききただしても、事件は曖昧模糊《あいまいもこ》として、それ以上の知識は得られない。ただ一党の無足人らが全滅したことだけはたしかだ。
――ばかめ! わしが命じもせぬに、いらざることをしおって!
と、一応は腹をたてたものの、
――しかし、そのために茜《あかね》の精水波は成った。
と思うと、配下たちの行動をののしってばかりはいられない。
自来也? その三文字が、服部蛇丸の脳裡《のうり》をすうっとぶきみに這《は》ってすぎたが、すぐに彼はうち消した。どうかんがえても、自来也は甲賀蟇丸《こうががままる》だ。そして、その蟇丸は死んで、津の城にたしかに埋葬された。そのことは、綱手《つなで》からの報告でわかったことである。
では、やはり彼らを討った者は鞠姫だ。あの姫君は、自来也からか――蟇丸からか、特殊の武術あるいは忍法でも教えられたものであろうか? とさえ思った。
いずれにせよ、いままでは鞠姫をそれほど気にはしていなかったが――少なくとも暗殺の目標にはしていなかったが、こうなれば、このたびのことが片づいたあと――二、三年のちにでも――あの鞠姫自身もこの世から消し、しかも消すに際し、伊賀無足人の復讐《ふくしゆう》の凄《すさ》まじさを、いやというほど見せつけてやらねば腹が癒《い》えぬ。
「鞠姫だけには用心せいよ」
と、蛇丸はいった。
「よし、ゆけ。――第五波が成ったらここに帰ってこい。わしは朝までここに待っておる」
影は、黒い女豹《めひよう》のように駆け走った。
風のうなる夜空がやがて凪《な》ぎ、さらに白むまで、服部蛇丸と二人のくノ一はそこに待っていた。が、第五波のくノ一は、朝までついに帰ってこなかった。
「はて?」
その朝、水を汲《く》みに岬から下りて来たひとりの若侍に、漁師がきいた。
「昨晩はえらい風でござりましたが、お館に変わったことはござりませなんだか」
「何もない」
と侍は桶《おけ》を担《にな》って、ゆきすぎた。漁師は蛇丸であった。
その夜、二人めのくノ一が館に送られた。これまた未帰還であった。
「うーむ」
蛇丸はうめいて、断崖に立つ波切の館をふりあおいだ、彼の眼にすら、その古い建物はこの世のものならぬ妖気《ようき》をおびたものに映じて来た。
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玉石|倶《とも》に焚《や》く
――なぜ、二人のくノ一が帰ってこないのか?
むろん、こんど新しく伊賀《いが》からつれて来たその女たちは予備兵ともいうべきものであっただけに、いままでに死んでいった五人のくノ一よりも、技倆《ぎりよう》ははるかに劣る。
しかし――こんどはいままでとちがう。あの自来也はいないのだ。
館《やかた》にいるのは、鞠姫《まりひめ》と石五郎と、数十人の藤堂家の侍だけだ。津の城や、伊賀の城ならともかく、あのくノ一たちが、ふたりまでも、むなしく討たれるはずはない。
たとえ石五郎を精水波にかけることが成らなんだとしても、少なくともひとりくらいは帰って来て報告するはずだ。
――そう思うのだが、事実として二人のくノ一は帰ってこない。
ただ石五郎を討つ、あるいは鞠姫を害する、それだけならば仕事は容易なことである。おれひとりでも充分だ、と蛇丸は、かんがえる。が、それができるくらいなら、そもそも最初から、あれほどの苦労はしない。――
藤堂藩《とうどうはん》三十二万三千九百五十石を乗っ取るためには、藤堂藩そのものを安泰にしておかねばもとも子もない。そのためには将軍家|御曹子《おんぞうし》たる石五郎が、あからさまに殺害されたように見られてはならないのであった。彼みずからが狂死か怪死か、ともかくも自滅したように見せかけなくてはならないのであった。そのための精水波の波状攻撃なのだ。
しかし、服部蛇丸《はつとりへびまる》は、しだいにこのおのれの陰謀に動揺をおぼえ出していた。
はじめ、口のきけぬ、精神薄弱の石五郎が目標だけにさして難事ならずと見くびって乗り出したことが、あにはからんや、いまやじぶんの最も信頼する無足人たちがほとんど全滅に近い結果をもたらそうとは!
もとよりそれはすべて自来也なる怪人物のせいである。その自来也が江戸城甲賀者たる甲賀蟇丸《こうががままる》であったと十中八、九まで推定される事実を知ったときの蛇丸のおどろきはいうまでもない。おのれの陰謀が根底からゆらぎ出したのを意識したのはこのときだ。
甲賀蟇丸が自来也ならば、彼はどこまで江戸に報告しているか? それを思うと、蛇丸は背すじが冷たくなるのをおぼえる。
しかし――いまにいたるも江戸からは何の反応もない。それは綱手《つなで》からきいてよくわかっている。何らかのことをきいて公儀から――とくにこんなことには大うるさ型の、火のないところからでも煙をたてるのを意に介しない石五郎の祖父、中野|石翁《せきおう》が黙っているはずがない。
甲賀蟇丸は、まだ江戸になんの報告もしなかったのだ。――
報告するにも、石五郎を襲ったくノ一たちはみな死んだ。なんで彼女らが口を割ったり証拠を残すことがあろうか。それにきゃつ、人を小馬鹿にしたところがあって、いずれそのうち、とみくびっている段階でお塔《とう》のために抹殺《まつさつ》されてしまったのだ。
蛇丸はこう断じた。こう断定したかった。
それで、最初からの計画を強引につらぬき通そうとした。思いがけぬ反撃を受けただけに、彼は歯がみし、これは彼の固着観念になっていたといっていい。
「おまえ、ゆけ」
三人目のくノ一にそう命じて、
「いや、待て」
と、蛇丸は制した。
迷った表情で、それからこういった。
「今夜一夜、わしが探《さぐ》ってみる」
そして蛇丸は、みずから波切《なきり》の館《やかた》へ忍びこんでいった。
前にもいったようにこの波切大鼻は石だらけで、館へゆく道はその中の一本道しかない。その一本道にはもとよりのこと、それ以外の石垣《いしがき》や岩のあちこちに、交替で武士が、夜じゅう立っている。
それは鞠姫から命じられたからであった。武士としては気がすすんだ仕事ではなかろうが、鞠姫から、石五郎さまを狙《ねら》う曲者《くせもの》があるから厳重に警戒するように、といわれて、しかも波切へくる途中のあの磯部《いそべ》の怪事を思い出すと、やはりその命令に従わないわけにはゆかない。
もっとも、石五郎は例によって例のごとく、とても監視しきれるものではないが、ともかくも彼らは義務として一応警戒にあたっている。
しかし――もとより服部蛇丸は、やすやすと館の地域に潜入した。
なかば腐朽《ふきゆう》した古館のまわりをめぐりつつ、石五郎はどこにいるのか、鞠姫は? と、蛇丸は忍者眼、忍者耳をすましつ、進んでゆく。
そして彼は、ふいに鞠姫の声をきいた。
「え、また石五郎さまが見えぬ?」
そこは、断崖《だんがい》ちかい一劃《いつかく》であった。古館のさきに数間の空地《あきち》をおいてもう一棟《いつとう》、茶室風の建物がある。そこが突端で、おそらく場所が狭いのでそういう配置になったのであろう。そのあいだの暗い空地で、鞠姫がひとりの武士と立話をしているのだ。
「眼がさめたら、石五郎さまのお姿が見えぬと? なんのための見張りじゃ。このたわけめ」
「はっ」
たしか鞠姫は囚人のはずだが、むしろ颯爽《さつそう》ともいうべき声で武士を叱《しか》りつけているところを見ると、育ちと気性はどうにもならないとみえる。
「……それにしても、こまったおひと」
鞠姫はつぶやいた。
「お見つけ申したら、すぐに知らせてたも。鞠は寝ずに待っています」
そして、彼女はシトシトと離れの方へひき返してゆくようであった。武士はあわててどこかへ駆け去った。まもなく、館の方で、侍たちがあちこちと呼び歩くふきげんそうな声がきこえ出した。
ほとんど本能的に、殺気にもえた蛇丸のからだが、すうっと茶室の方へながれかけた。
しかし、彼は踏みとどまった。いまのところ、鞠姫に危害を加えるのは目的ではない、と思い返したのだ。
ふうむ、鞠姫だけはあの離れに寝ているのだな、そして、どうやら石五郎は館の方に寝させられているらしい。してみると、いまのところ、まだ鞠姫は石五郎と同衾《どうきん》することには抵抗しているようだが、いまの声は?
……それにしても、こまったおひと、というつぶやきの余韻といい、石五郎さま、と呼ぶときの声といい――いつかきいたときのような冷たい嫌悪《けんお》のひびきがない。それどころか、どことなく甘いやさしい吐息が尾をひいているようだ。
最も心配していたことだ。
たとえ、まことの恋ではなく、鞠姫の野心にもとづくものであったとしても、万一、何かのはずみでふたりが交合して、鞠姫が身籠《みごも》りでもしたら一大事。――これは、事をいそがねばならぬ!
それにしても、石五郎はどこにいる?
服部蛇丸は、ひき返した、古館に向かって、石垣と石垣の上をむささびのごとく飛びつつ、眼を闇《やみ》にくばった。
武士たちの呼ぶ声は、やがてすでにうしろに遠ざかった。
彼は崖《がけ》の横から下りていった。その下にもうひとりのくノ一が待たせてあるからであった。常人ならばとうてい下りることのできないその崖を、彼はやもり[#「やもり」に傍点]のように手足を吸着させて、スルスルと下りた。
海と崖とのあいだの狭い磯《いそ》を、五、六歩あるく。――
「お頭さま」
ふいにそう呼ぶ女の声をきいて蛇丸は立ちどまった。
「お久しゅうございます」
さすがの蛇丸が、全身水をあびた思いでとっさに声もなかった。それは死んだはずの精水波第一波お丈《じよう》の声であった。
一方は断崖、一方は海。
そのあいだの細い磯には何者の影も見えぬ。そもそも服部蛇丸ほどの忍者だ。闇黒《あんこく》の中でも見えぬものはないが、そこは常人でもおぼろには見えるであろう水明りの中であった。
ただ、その水明りはうごいている。珍しく風のない夜だが、志摩《しま》の海であった。潮騒《しおさい》はユラユラと崖に蒼《あお》い水光を投げて、ゆれている。――が、その崖にも、海にも人影はない!
「……お丈か」
と、蛇丸はうめいた。
「おまえ、どこにおる?」
「あの世に。――」
「なにっ」
この場合、思わず蛇丸は空を見あげた。――が、声はすぐちかくできこえる、少なくとも二間以内からきこえてくる声だ。がその範囲内には絶対に人の影は見えぬ。
「お頭さま、あたしも冥土《めいど》におりまする」
また声がした。それはやはり死んだはずのお戒《かい》の声であった。
「冥土にいても、精水波のことが気がかりで……」
「亡霊となってこの館をさまよい、石五郎さまを追っておりました」
これはお津賀《つが》の声だ。
「それによりますると……鞠姫さまは」
と、こんどはお塔《とう》の声がいった。
「ここ七日以内に、石五郎さまに身をまかせられるお心になっておりまする」
服部蛇丸は眼をひからせ、ただ肩で息をしていた。いかに彼自身が精魂こめて鍛えたくノ一たちとはいえ、彼はこんな忍法を信じない。
……ひょっとしたら、こやつら死んでいなかったのではないか? というとんでもない考えが脳裡《のうり》をかすめた。お丈は伊賀の上野城で、お戒は上野城下の組紐《くみひも》問屋の裏庭で、お津賀は伊賀山中の窯場《かまば》で、お塔は津城の牢《ろう》の中で死んだ。死んだが、その屍体《したい》を、すべて彼が収容したわけではないのだ。……いま思えば、彼女たちの屍体が忽然《こつぜん》と消えていたことこそ不審である。
――いや、ちがう、女どもはたしかに死んだ。お津賀の死んだときにはおれが傍にいた、というよりおれが殺したも同然だし、ほかの女にしても――茜《あかね》をもふくめて――みな死んだにまちがいのないことは、おれが受けとった髪で、あきらかなのだ。
「……うっ」
蛇丸は突如、恐怖のうめきを発した。
姿は見えないのに、声だけきこえた或《あ》る記憶がよみがえったのだ。それは伊賀のぬれ仏の下での死闘の際、自来也が忽然とその姿を消しながら、声だけきかせた記憶であった。
が……まさか?
「お頭さま」
女たちがいった。まぎれもなく女たちの声だ。しかも、四人、声をそろえて――
「七日以内にかたをおつけなされませぬと鞠姫さまは石五郎さまとほんとうに結ばれます。このことだけは――」
四人の声は陰々と遠くなり消えてゆく。
「このことだけはお疑いなく御承知でいらせられませ」
あとはただ波の音ばかりであった。
服部蛇丸はそこに気死したように立ちすくんだままであった。
服部蛇丸は魔に憑《つ》かれてしまった。
魔となって人にとり憑く彼が、はじめておのれを失ったのだ。その波にまじる配下のくノ一の死界からの声を信じない、或いは信じずにはいられない、というような理性をとびこえて、彼の脳髄はあらゆる計算を忘れてしまった。
そうでなくても、もともとジリジリと焦燥《しようそう》していたのを、からくもおさえていた蛇丸である。
「よし! もはや石五郎めを精水波にかけるのはやめた」
と、彼はひとり残ったくノ一に逢《あ》うと、歯をカチカチと鳴らしながらいった。
「石五郎と鞠姫、ともに殺す」
「えっ」
「両人死ねば、あと藤堂家は竜丸《たつまる》のものになるよりほかはない。なまじこちらが忍法者の血を享《う》けておるゆえ、かえって手間暇かける気になったのが、われながら笑止じゃ」
「しかし、お頭さま、両人ともに殺《あや》められては、公儀からのおとがめが」
「石五郎が鞠姫を殺し、そしておのれも自滅したと見せかければ、公儀といえども何とも口の出しようがあるまいが」
「石五郎さまが、姫を――」
「もとより、馬鹿ゆえ、かえってそんなことをさせることはできぬ、火をつけるのじゃ、この波切の館に――いや、石五郎が火をつけたと思わせるのじゃ」
「そう思わせるには?」
その翌夜だ。
波切大鼻の突端ではないが、やはり崖ぎわに立って、気のない見張りをやっていた藤堂家の侍のひとりは、ふいに頸《くび》に冷たいものをおぼえた刹那《せつな》、息がつまった。
「く、く、くっ」
うめく声すらそこで断たれ、彼はヨロヨロと歩き出した。頸にからみついた黒い紐《ひも》にひかれ、彼はどこまでもよろめいてゆく。
そして彼は或る岩のくぼみに立っていた黒|頭巾《ずきん》の男――服部蛇丸のところまでひきずり寄せられた。黒頭巾の男、ということがわかったのは、そばにやはり黒頭巾の――どうやら女らしい影がうずくまっていて、それがさしのべた片腕の掌《てのひら》のさきから――爪《つめ》がぽっと青い炎をあげていたからである。
「多くはいわぬ。ここに筆と紙が用意してあるゆえ、こちらの申すことを書いてもらいたい」
と、蛇丸はいった。
突如としてじぶんを襲ったこの災難に、侍はなかば喪神状態であった。彼は筆をとって書かされた。
それは、ここのところ石五郎さまのもの狂いいよいよ甚《はなは》だしく、とくに火をもてあそぶを興がりなされ、火のついた薪《たきぎ》などをもって館《やかた》の中を駆けめぐり、これをとめるのに一同必死なれども、とうていおとどめしがたく、しかもあくまで鞠姫さまのお傍を離れることを承知あそばされぬゆえ、一同ほとほと難渋している。いま少しの人数をお寄こし下されて、石五郎さまをおひきとり下さるまいか。――という意味の文章であった。そして彼は、じぶんの署名までさせられた。
書き終わると、それまで彼の首にねばりついていた黒い紐がギューッとしぼられて、彼は鼻口から血を吐いて即死した。
屍体《したい》を海に投げこむと、蛇丸は手をたたいた。闇《やみ》の空から、二羽の鷹《たか》が舞い下りて来た。書状をクルクルと細く巻き、その外を木の葉でつつんで、彼は一羽の鷹の足につかまえさせて、空にはなした。
「綱手《つなで》のところへ。――」
鷹は北へ飛び去った。
二夜。三夜。――
服部蛇丸は海に背をむけ、北西の山の空ばかりにらんでいた。風は彼の背から吹いて来た。この季節、志摩《しま》では東南の風が吹くのを例とした。
五日めの夜。
風は北西から吹いた。その方角からとしては、珍しく烈しい風であった。
「魔天照覧」
と、蛇丸はつぶやいて、ニヤリと笑った。
そして、岩のくぼみから出ていったかと思うと、まもなくまたひとりの侍をとらえて来た。侍はすでに失神していた。
それから蛇丸は、もう一羽の鷹をはなしたのである。
波切の館の方へ飛び去った鷹の足の下から、途中で花火のしだれ柳のような青いすじが幾条か垂れて、夜空にながれた。
「――やっ、あれは?」
空を見あげて、眼を見張った者が幾人あったか、それ以上、声をあげて呼ぶいとまもなく、鷹は古館の軒にとまった。そこからぽうっと炎が燃えあがった。とみるまに、鷹は飛んで、こんどは屋根にとまる。するとまたそこから火の手があがる。そのたびに、足にひく青いひかりのすじは一条ずつ消えつつ、鷹の飛び、鷹のとまるところ、そこから炎が立った。
ほとんど数分のことだ。なかば朽《く》ちていた波切の館は、たちまち紅蓮《ぐれん》の炎につつまれた。
風は北西から断崖《だんがい》へむけて吹きまくっていた。火の城と化した館から海へむかって、巨大な火の帯がながれ、赤い銀河となってのびた。
「……逃げるならば」
と、石垣《いしがき》の中の一本道の曲がり角に待ちぶせて、蛇丸は悪鬼のように歯をむき出した。
「ここを通るよりほかはあるまいが」
二、三人、ころがるように駆けて来た。白刃がひらめき、一瞬のあいだに、そこに屍《かばね》となって折り重なった。
「石五郎でも、鞠姫でもないな」
火光にすかし、のぞきこんで蛇丸は舌打ちした。
また、四、五人、これは裾《すそ》や袂《たもと》にもえついた火を、狂気のごとくたたきながら逃げて来たが、そこに折り重なった屍体《したい》に、
「――あっ」
と立ちすくんだところを、その胸にいっせいに手裏剣がつき刺さった。
いまや火の城は、その凄惨《せいさん》壮美のかたちをみずから崩《くず》し、一塊の大溶鉱炉となって断崖の一木一草、岩や石まで焼きつくさんばかりに燃えたぎっている。どどっという名状すべからざるひびきが下の海でどよもしたのは、風に吹きはたかれた館の一部が、燃えつつおちて怒濤《どとう》と相搏《あいう》った音響であろう。
風が北西から吹いているのでなかったらいかなる忍者といえども、この附近にはとどまっていられなかったろう。
「おういっ、石五郎と鞠姫はおらぬぞ!」
と、蛇丸は風に吼《ほ》えた。
「だれもほかに逃げた影はありませぬ!」
これは一本道よりずっと高い、断崖一帯を充分見わたすことのできる岩の上に立ったくノ一のさけび声であった。
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阿呆鳥
「燃えた!」
それはむしろ惨たるひびきをおびた服部蛇丸《はつとりへびまる》のうめきであった。
それも当然だろう。彼はもっと隠密《おんみつ》のうちに、もっと巧妙に、すべてのことを運ぶつもりであったのだ。しかるに、いま、玉石倶《ぎよくせきとも》に焚《や》く、この荒療治をしてのけるほかなかったとは。――
鞠姫《まりひめ》はともかく、石五郎も焼死させたということで、公儀からきっと藤堂家《とうどうけ》へ何らかの処置が下されずにはいまい。これは蛇丸にとっても甚《はなは》だ不本意なことだ。それというのも、そもそもは敵の、自来也なる男、また彼を斃《たお》したあとでなおつづく――相手側の、おそらく鞠姫の、しゃらくさい、うすきみのわるい抵抗のためだ。
しかし、――と、蛇丸はまた思いなおした。
公儀や中野|石翁《せきおう》が、いかに疑わしげな眼をそそごうとも、鞠姫、石五郎が、人里離れたこの志摩《しま》の果てで、じぶんから火を出して、勝手に焼け死んでしまった以上、どうしようもあるまい。まさか、それで藤堂家三十二万三千九百五十石をとりあげる、ということはできまい。
だいいち、藤堂|和泉守《いずみのかみ》が、まったくおぼえのないことである。そのために、すでに手は打ってある。先日、鷹《たか》を以て綱手《つなで》に連絡しておいた藤堂侍の――石五郎が火をもてあそんで困惑している――という書状がそれだ。綱手が、あれで然《しか》るべく、和泉守に伏線を張っておいてくれるだろう。
そしてまた。――
彼は次の手を打とうとしている。
彼は、岩のくぼみに気絶している藤堂侍――波切《なきり》の館《やかた》に住んでいた者のうち、まちがいなく唯一《ゆいいつ》の生存者――を、ぐいとひき起こした。
「火を持ってこい」
と、くノ一に命じた。
くノ一が走って、燃えしきる木の一片を拾って来た。
それを――蛇丸は、失神している侍の片頬《かたほお》や袖《そで》に、ぐいとおしつけたのである。
「あうっ」
侍はたまぎるような悲鳴をあげ、目ざめた。そのみぞおちに、また蛇丸のこぶしが走った。侍はまた悶絶《もんぜつ》した。片頬は焼けただれ、袖は燃えひろがり、吐き気のするような異臭がただよう。侍のからだは、無意識的にもがいた。
「よし」
眼を覆《おお》いたいこの無惨な行為を、平然としてのけた服部蛇丸は、
「――よいか?」
と、くノ一をふりかえった。
「合点でござります」
と、くノ一は、にっと笑って、くるりと背をむけた。その背に、蛇丸は、焼けただれ、しかもなお失神している侍をフワとのせた。
「では、しかと頼んだぞ。ゆけ」
すると、みるからに細くしなやかなくノ一は、その侍を軽がると背負ったまま、岩から岩へ、一陣の黒い風みたいに駆け去っていった。
ふりかえれば、波切大鼻はすでに館の影はなく、あの凄《すさ》まじい火の柱、炎の潮は消えて、無限の大空と海原を背にただ赤あかと断崖《だんがい》のかたちだけが浮かびあがっている。
火の柱、火の潮は消えたというものの、いちめん、なおユラユラと余燼《よじん》がゆらめき、メラメラと這《は》いまわって、いかなる忍者とて、しばらくは、そこに近づき得べくもない。
ともあれ、石五郎はこれで燃え失せた。それこそ、そもそもの目的であったのだ。ほかにいうことはない。
服部蛇丸は、歯をむき出して、こんどは狂笑の尾をひいてさけんだ。
「――燃えた! 完全に燃えた!」
風は、南風に変わった。暁だ。
雪煙のように吹きなびく白いものの中を、服部蛇丸は歩きまわっていた。しかし、これはもう煙ではない。白い灰である。
「三つ……四つ」
灰燼《かいじん》の跡を、彼は探《さが》して、数えている。屍体《したい》の数だ。
「……よう、焼けたものよの」
さすがの蛇丸が、呆《あき》れたほどである。それはまっ黒に焼けて――というより、炭化して、誰《だれ》が誰やら、男女の性別すらわかちがたい。
とはいうものの、
「――これか?」
或《あ》る屍体のところで、彼は立ちどまって首をかしげた。これまた判然《はつきり》としないが、心なしか、その焼死体の真っ黒な胸がふくらんでいるように見えたのだ。
「これが、鞠姫か?」
あの波切の館に住んでいた者は、石五郎をふくめて男が十九人、女性は鞠姫ひとりであった。そのことは、ここ数日の探索で蛇丸にははっきりしている。
「ふうむ、諸行無常。……」
蛇丸の脳裡《のうり》に、あの愛くるしく、凜然《りんぜん》とした鞠姫の幻が浮かんだ。さすがに彼の顔に、言葉通り、諸行無常、といった翳《かげ》りがながれた。
すぐに彼は、また歩き出した。
「六つ……七つ。はてな」
また首をかたむけた。
「四つ、足りぬぞ」
館には、合計二十人の人間がいたわけだが、そのうち二人の侍は――ひとりは蛇丸が殺害し、ひとりは配下のくノ一の背に乗せて運ばせた。それから、昨夜、火事をのがれてきたやつを、蛇丸が始末したのが七人。だから、焼死体は十一体あるはずなのだ。
「……ここから、飛びこんだか?」
彼は断崖の端に達して、のぞきこんだ。
十数丈に及ぶ波切の大断崖は、突端から下へむかって、風と波にえぐられたようになっていて、はるか眼下に、怒濤《どとう》が白い吹雪のように吹き散っているのが見える。――たとえここから飛びこんだとしても、命のあるやつは、まずあるまい。たとえ忍者であろうとも。
崖の端のどこかに結びつけた綱をつたって難をのがれる。――ちらとそんな考えが頭をかすめたが、綱にすがって逃げ下りても、下が海であることはおなじだし、その綱も焼き切れたろうし、だいいち、綱を結ぶような岩も樹も存在しない。
断崖の上や下を、のどかに舞っているのは、十数羽の信天翁《あほうどり》だけであった。
蛇丸は、足を返した。ここらあたりに茶室風の建物があったはずだが。――むろんそんなものは、跡形もない。
「――や?」
彼はまた足をとめた。風が吹いて、厚くつもった灰をとばし、そのあとに――三つの屍体をあらわしたのだ。さてこそ! と、あたりを探《さが》すと、もう一つ。
「では、これか?」
蛇丸は、その茶室に鞠姫が住んでいたらしいことを思い出した。で、つらつらとこれらの屍体を熟視してみたが、これは完全に炭化して、男女の区別も判然としない。
このあたりに四つの焼死体が散乱しているのは、火に追われてここまで逃げて来て、あっというまに火に追いつかれたものであろう。昨夜の烈風だ。むりもない。
「よし!」
と、蛇丸はうなずいて、顔をゆがめて笑った。
「これで、十一体。……全部死んだことになる!」
ふいに彼は岩のかげに、蜘蛛《くも》のように伏した。下の村から、漁師たちがやってくる姿を見たのだ。――そちらからくる道にあった、昨夜じぶんが太刀と手裏剣で討ち果たした七つの屍骸《しがい》は、むろんこのまえに石をつけて、海中に投げこんである。
「えれえことだ! これぁ……」
「住んでござらしたのは、殿さまのお姫さまと。……」
「江戸からこられたあの馬鹿婿《ばかむこ》どの。……よく岩の上をはね歩いてござらしたが、どうもこりゃ、ぶじにすむめえと心配してたが……」
「とにかく、誰かはやく、津のお城へいって来う」
漁師たちが、海風に鳥肌《とりはだ》たててさわいでいるころ――服部蛇丸は、かすかな灰の煙をたてながら、岩から岩へ、いずこともなく姿を消してしまっていた。
漁師たちの間のぬけた知らせがつくはるかまえに、急報は津の城へ達していた。
夜のあいだに、侍を背負ったくノ一は、疾風《はやて》のように北へ走った。
夜があけると、人目があるので、さすがに駕籠《かご》にのせた。
「こ、これぁ……」
と、駕籠かきが、大やけどを負った侍の惨状にひるむのを、
「それゆえ、一刻も早く津に運ぶのです。津に、よいやけどの医者があるのです」
と、くノ一は大枚の酒手《さかて》をにぎらせた。むろん夜があけるとともに彼女は黒|装束《しようぞく》をぬいで、武家の娘風の姿になっている。
酒手につられてこの病人をのせて走ったものの、駕籠かきが次第にうすきみわるくなったのは、駕籠の中の病人よりも、じぶんたちとならんで走るその女の足の早さであった。裾《すそ》もみださず足をはこびながら、空をながれているような感じで、しかも息ひとつ切らさないのだ。
もっとも、このやけどをした侍も、きみがわるい。
侍は酔っているようであった。あまりひどい火傷で、なかば意識を失って、恍惚《こうこつ》状態に陥ったというわけではない。
この傷を負いながら、しかも痛みにうずきながら――彼はそれ以上に甘美な雲につつまれて、空を飛んでいるようなきもちになっているのであった。
夜、くノ一は彼を背にして走りつつ、一里ごとに下ろし、彼に馬乗りになって交合した。交合しつつ、彼女は唄うように或《あ》る言葉をささやきつづけた。
それをくりかえされているうちに、侍の体液はしだいに吸いとられ、代わりに何やらべつの透明な液体が体内に満ちてきて、そして、それがさざ波のようにゆれて、彼の声帯をふるわせるのだ。
いまや彼は、背に負われつつ、駕籠にゆられつつ、ニタニタと笑って、何やらぶつぶつ、つぶやきつづけているのであった。
……夜明け方、侍を背負ったくノ一は津の城についた。
大手門から遠く離れた場所で、彼女は侍を下ろした。
両肩に手をかけて、じいっと見入る。眼がほらあなみたいにおちこんで、乾《かわ》ききって、そこから何やら流れこんでくる感じで侍はがくがくとうなずいた。
一言の口もきかず、くノ一は侍の肩をくるりともとにもどし、軽く押しやった。侍は歩き出した。
ヒョロリ、ヒョロリと、まるで見えない糸に操《あやつ》られる人形みたいな足どりで彼は大手門に近づいて。――
「一大事、一大事。……」
といった。
「波切《なきり》の館《やかた》が燃えました。……石五郎さまおん物狂いにて放火なされ、波切の館が燃えました。……若殿、姫君、侍ども、みな焼死、……拙者《せつしや》からくも御注進に馳《は》せかえりました。……」
まるで唄うようにこうつづける。それはここへくる途中、交合しつつくノ一からささやかれた言葉と同じものであった。
門番は仰天して、城侍に告げた。
和泉守と綱手は、すぐに会った。
焼けただれ、やつれはて、まるで焚火《たきび》から飛んできた枯葉みたいなその侍は、また酔っぱらいのようにもつれた舌でくりかえした。
「波切の館が燃えました。……石五郎さまおん物狂いにて放火なされ、波切の館が燃えました。……若殿、姫君、侍ども、みな焼死、……」
和泉守は、脳天を槌《つち》で打たれたような顔をした。
石五郎が火をもてあそんで、危険千万である。――という報告は、もう数日前に綱手から報告を受けている。そう知らせて来た波切の漁師は、すぐにそのまま志摩《しま》へもどっていったということだが、彼があずかって来たという波切の館の侍の書状は、和泉守も見ている。それで、きょう明日にも、石五郎をさらに厳重に監視するか、つれ戻すかの侍を、人数をそろえて送り出そうとしていたところだ。
「とうとうやりおったか!」
と、和泉守は、こぶしでじぶんのあたまをたたいて絶叫した。
「あの馬鹿め! どこまで藤堂家にたたるか?」
勝手なもので、はじめてこのとき、じぶんが志摩に追いやった鞠姫の運命の哀れさが、和泉守の胸をかんだ。……きゃつ、とうとう可哀そうな鞠を殺しおった!
「ゆこう。余は志摩にゆくぞ」
和泉守はうめいて、立ちあがった。
ゆかねばならぬ。波切の館のあとへ急行して、その様子を見とどけねばならぬ。――それが、鞠姫のためではなく、石五郎のためだということが、この際、歯ぎしりするほど腹立たしいことであった。
とにかく、婿に頂戴した将軍家の御曹子《おんぞうし》に、たとえ当人の物狂いないし過失とはいえ、不慮の死をとげさせてしまったのである。藤堂家としては、なんらかの責任をとらざるを得まい。……それを思うと、和泉守は二重三重に胸がつまる思いがした。
腹は立つが、しかしこの場合――数日中にも江戸へ参覲《さんきん》の旅へ出るというのに、和泉守自身、志摩へゆかねばならなかった。
「わたしもお供いたしまする」
綱手は、暗然たる顔をあげていった。むろん暗然としてみせたのである。
……気がつくと、波切から来た侍は、がくりと前に伏して、こときれていた。
藤堂和泉守と綱手が、一大行列を作って波切の館の焼け跡に到着したのは数日ののちであった。
灰さえ吹きはらわれて、嘘《うそ》みたいに無一物になった波切大鼻の上を、信天翁《あほうどり》だけが群れ飛んでいた。
信天翁がすぐ眼前をかすめすぎる。
まるで大空にいるようだ、と鞠姫は思った。――彼女は生きていた。
事実、そこから顔だけをつき出して、こわごわとのぞくと、二、三十丈下に泡《あわ》をかんでいる白い怒濤《どとう》が見える。
誰が知ろう。――鞠姫も、これまで、こんなところにこんなものがあろうとは、まったく知らなかった。あの断崖の突端から、六、七間下に、一間四方くらいの穴があったのである。むろん正確な立方形であるわけはなく、波と風の凄《すさ》まじい鑿《のみ》のあとだが、そんな洞窟《どうくつ》ともいうべき穴が、ここ一つのみならず、三つ四つはあるらしい。崖《がけ》は下ほどえぐられたようになっているから、上からは見えず、また下の海からふりあおいでも、あまりに巨大な大巌壁だから、それは意識にものぼらないほどの小さな穴と見えるかもしれない。
そこに彼女を運んでくれたのは、自来也であった。
あの夜、烈風の中に突如として起こった火事に、さすがに狼狽《ろうばい》して逃げまどう彼女のまえに忽然《こつぜん》としてあらわれたのは、忘れることのできない颯爽《さつそう》たる白い影であった。
「無足人め、ついにみずからの陰謀を焼きはらう所存とみえまする」
彼は笑いをおびた声でいい、鞠姫を横抱きにして、炎の中を断崖《だんがい》に走った。
そして彼は、そこで魔術師みたいに、彼女を抱いたまま、大巌壁の下へ這《は》い下りていったのである。見ると、彼は一条の綱にすがっていた。その綱をつたい、またべつの綱を投げると、それは尖端《せんたん》に恐ろしい糊《のり》でもついているように岩に吸着した。かくて、彼の行動は、白い蜘蛛《くも》のように自在であった。
「忍法、血縄。――」
と、彼は笑った。
「これは、服部一党の無足人どもが伝授してくれたものでござる」
その洞窟にかつぎこまれた鞠姫は、頭上を海へむかってながれてゆく火の潮に眼を見張りながら、
「石五郎どのは?」
と、さけんだ。
自来也は、もう洞窟の外へ――まるで夜の大空へ舞い立ってゆく白い鳥みたいに半身をのり出していたが、
「御心配か?」
と、からかうような声を返した。
「いえ、あのひとを殺して、わたしひとりが助かっては、いままでの苦労が水の泡になるからです。それから、鞠の顔が立たぬからです」
「石五郎さまは」
と、自来也はいった。
「すでに別の穴にお救い申しあげております。……姫、拙者《せつしや》がいいと申すまで、ここから出なさるなよ」
あっとばかり、鞠姫は二の句がつげなくなった。事実、その神変のわざが嘘《うそ》ではないことを示すおどろくべき身軽さで、彼はそのまま大空に消えてしまった。
数分後。――彼女の眼の前を、上から火の滝がなだれおちた。焼けおちた波切の館であった。それがはるか下の海で大轟音《だいごうおん》をあげたあと、空と海に、名状しがたい静寂がひろがって。――
「自来也!」
思わず鞠姫が呼んだとき、どこかで――あまり遠くない、同じ巌壁で、けらっけらっ、という、ききおぼえのある例の笑い声がした。石五郎さまだ!
それから、夜が明け、日が暮れ、また夜が明けた。
夜のあいだにいつ運ばれたか、洞窟の入口には、食物と壷《つぼ》に入れた水が置いてあった。
鞠姫はそこで暮らした。そこで暮らすよりほかはなかった。自来也は、じぶんがいいというまで出るなといったけれど、そういわれなくとも、出ようと思っても、ここは出られない。――
ただ見えるのは、ひろいひろい大空と渺茫《びようぼう》たる大海原ばかり。
いや、無数に飛びかわす信天翁《あほうどり》と、そして洞窟から顔を出すと、四、五間ばかり離れた穴から、同じように、信天翁みたいに顔をつき出している石五郎を見るばかり――。
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自来也最後の登場
いかにも石五郎は生きていた。
むろん、自来也に救われて、その巌壁の穴に入れられたのに相違ないが、あの猛火の中で、じぶんのみならず、石五郎まで救い出すとは、実に唖然《あぜん》とするほかはない。
波切《なきり》の館《やかた》はどうなったか。それが焼けおちたことはわかっているが、侍たちはどうしたか。館に放火したのは、「無足人め、ついにみずからの陰謀を焼きはらう所存とみえまする」といった自来也の言葉通り、服部蛇丸《はつとりへびまる》にちがいないが、彼はどうしたか。じぶんたちがここに生きていることは気がつかないのか。――それに、自来也は、なんのために、いつまでじぶんたちをここにこうしておく気なのか? とつおいつ、思案にくれる鞠姫《まりひめ》にくらべて、石五郎の方は例によって天衣無縫。
「らっ、らっ、らっ」
と唄《うた》い、さわぎたて、はては。――
「みっ、みっ、みっ」
蝉《せみ》みたいな声をあげて、巌壁の穴から出てきて、こちらに這《は》ってこようとする。
「あ、あぶない!」
と、鞠姫の方が胆《きも》をつぶして悲鳴をあげた。必死に眼を見張って、にらみつけて、
「いけません! ゆるしません! 石五郎さま!」
そうさけんでから、はっとして口をおさえる。どこで無足人たちがききつけるかもしれないからだ。
こんなことをしていては、洞穴《ほらあな》生活という生理的な不自然さよりも、神経的に参ってしまう。――と、鞠姫はへとへとになった。あの火事の夜から四日目のひるすぎであったろうか。
「姫」
突然呼ばれて、鞠姫は顔をあげた。洞穴の外から、さかさに白い頭巾《ずきん》がのぞいていた。そこから一本の綱が穴の口を縦に切って、垂れている。――
「もうかくれんぼはよろしゅうござる。出られませ」
「どこへ?」
「上へ。……ただし、拙者《せつしや》はこれから石五郎さまの方へ参りますれば、姫君にはひとりでこの綱をよじ上って下されい。手をはなしたら一大事、できますか?」
鞠姫は唇《くちびる》をかんでその綱をにらんでいたが、
「できます」
と、きっぱりいった。
やがて綱をつかんで洞穴に入りこんできた自来也と入れちがいに、鞠姫はその綱をたよりよじ上りはじめた。
見下ろせば二、三十丈下にくだけちる波濤《はとう》、いやとうてい見下ろすなどというまねはできない。鞠姫は必死に上へよじのぼっていった。そのからだを吹きあげる風、しぶき。――生来活発な鞠姫なればこそできたわけだ。
あと二、三間で断崖《だんがい》の上、というところまで到達して、綱がピーンとかたくなり、さらに左右にひどくゆれ出したので、はじめて鞠姫は下を見て――思わず手をはなすところであった。
下から、石五郎がよじのぼってくるのだ。いつのまに彼の穴からこの綱に移されて来たのだろう?
「自来也は?」
思わず、さけんだ。綱の真下から――頭上をふりあおぎ、石五郎は実にうれしげな笑い声を発した。
「らっ、らっ、らっ」
鞠姫は真っ赤になり、キリキリと歯を鳴らした。裾《すそ》をおさえようとすれば、手がはなれる。――
藤堂|和泉守《いずみのかみ》一行は、その夕方、波切大鼻についた。
そして、想像はしていたが、想像以上の惨澹《さんたん》たる光景に茫然《ぼうぜん》と立ちつくした。惨澹たる光景――といっても、まず一物もとどめないといった方がいいありさまなのである。ところどころ岩のくぼみに黒く焼けた木の残骸《ざんがい》、灰、燃えかすが残っているほかはむなしいほど蒼《あお》い空に、ただ信天翁《あほうどり》がとびかわしているだけだ。
「殿。……」
綱手《つなで》がちかづいて来た。彼女は岬《みさき》の入口で漁師をつかまえて何かきいていたので、少しおくれてそこにやって来たのである。
「焼屍体《しようしたい》は十一あったそうでござりまする」
「十一」
「あと九人、いえ、ひとりは津の城へ参ってから死にましたゆえ、残り八人は、火に追われて海へとびこんだものではございますまいか」
「……鞠は? その焼屍体のうちに鞠はおったか」
「それが、ことごとく男女の見分けもつかぬほど黒焦《くろこ》げになっておりましたが、ひとつ、女人らしいものもあったそうでござりまする」
「ううむ。……」
「あまりにむごたらしき上に、この季節。――やむを得ず、みな埋葬申しあげた、と申しておりまするが……殿……掘り出して御覧なされまするか」
悲痛な表情で、残酷なことをいう。和泉守はうめいて、くびをふった。
「いや、よい。……それにしても、ふびんな。……」
「思えば、そもそもふびんな運命に生まれ合わせなされた鞠姫さまでございました。最初から最後まで、あの石五郎さまは、鞠姫さまにとって――いいえ、藤堂家にとって、厄病神のようなお方でありました。……」
「もういうな」
和泉守は歯をくいしばっていった。
「あのたわけた男を夫として生涯《しようがい》暮らしてゆくよりも、いま殺された方が鞠にとってはしあわせであったかもしれぬ。……そして、大きな声ではいえぬが、あの石五郎が失せたのは、藤堂家にとっても」
そういったとき。――
「けらっ、けらっ、けらっ」
という奇妙な笑い声がした。
ふりむいて和泉守、綱手はもとより、家来たちは全身電撃されたようになった。
断崖の端に立っていたのである。石五郎が。――そして鞠姫が。
海風に吹かれて、鞠姫も立ちすくんでいた。彼女はいましがたそこへ這《は》いのぼって来たところだったのだ。つづいて、石五郎も這いあがる。――鞠姫が、崖《がけ》の上に来ている父や綱手を見て息をのんだのは当然だが、それより彼女は、その崖の上に四つならべられた壷《つぼ》を見て、そのいぶかしさにしばし眼を吸われていた。
「……迷って出たか、鞠。……」
和泉守がうめいたとき、
「父上!」
と、鞠姫は絶叫して駆けより、和泉守にしがみついた。
それをながめている綱手《つなで》の顔色こそこの世のものではなかった。驚愕《きようがく》、恐怖、怒り、――むしろ苦悶《くもん》にみちた眼をすえて――それが、徐々に岬の方へうごいた。
びゅっ。――
蒼空《あおぞら》に稲妻がきらめいたような感じがしたとたん、戛然《かつぜん》たる音が断崖の端でして何やら砕け散った。人々はそこの壷の一つが砕けたのを見た。
また閃光《せんこう》がながれ、空を切る音がして、石五郎の手から壷がこわれた。石五郎はあわてて三つめの壷をとりあげている。これも砕け散ったとき、人々ははじめてそれがどこからか飛来する手裏剣のせいであることを知った。
「あっ……石五郎さまをかばって……」
鞠姫のさけびに、侍たちがどっと屏風《びようぶ》を作ったとき、四本目の手裏剣で、四つめの壷がこわされている。
「何奴《なにやつ》?」
侍たちは手裏剣の飛来した方面を見やったが、そこには誰《だれ》の人影もない。
ほとんど一瞬、二瞬のことだ。結果からみると、石五郎が泳ぎながらその壷をとりあげて手裏剣をふせいだようだが、ぶざまなその姿は、決して人々にそれが意識的な動作とは見えなかった。
しかし侍たちは、とっさにその手裏剣の曲者《くせもの》を求めて、その方へ駆け出すのも忘れている。――
なぜなら、その砕けちった壷からころがりおちたのは、四つの生首であったからだ。それはまるで起き上がり小法師みたいに崖上に立ちならんだが、いずれも女の首であった。美しい――しかし、なかば腐れかかった青味に彩られて。
吐き気のするような沈黙ののち、どっとうごこうとした侍たちは、次の刹那《せつな》、また金縛りになってしまった。
その生首の唇《くちびる》が……うごめいたのだ。しゃべったのだ。
「藤堂|蓮之介《れんのすけ》さまを殺したのは、……わたし、無足人お丈《じよう》。……」
「忍法精水波をつかったのは……わたし、無足人お戒《かい》。……」
「第三波……わたし無足人お津賀《つが》。……」
「第四波……わたし、無足人お塔《とう》」
四つの生首が声をそろえて、――
「わたしたちにそれを命じたのは。――」
そういいかけたとき、綱手が岩の上に崩折れた。失神したのだ。
しかし、生首がしゃべったのはそこまでであった。というのは、
「た、た、たっ」
と、さけんで、このとき石五郎が蹴《け》っとばしたからだ。四つの首は黒髪の尾をひいて、断崖の上から海へ舞いおちていった。
「らっ、らっ、らっ」
そのまま石五郎は例の奇声を発して、踊るように駆け出したが、だれひとりとして追う者もない。ことごとく、ここは冥府《めいふ》か、夢魔の国かとみずからの眼をうたがい、みずからの耳を疑って立ちすくんでいる。
「あれは……去年江戸屋敷へつかわした伊賀《いが》の女どもではないか」
和泉守が色を失った唇で、ぶつぶつとつぶやいて、足もとに横たわった綱手を見下ろした。
「そして、この綱手も伊賀の女。……」
このとき、鞠姫はわれにかえった。そしてもう遠くへ――例の石垣《いしがき》の中の一本道へ駆けこんでゆく石五郎を見て、彼女だけがそれを追い出した。
「……もしや?」
彼女は胸でさけんでいた。
「……もしかしたら?」
ピイイイイン。
文字でかけばこうかくよりしかたがないが、身の毛もよだつひびきがした。
石垣の中の道へ入るところで、鞠姫は棒立ちになった。その音で立ちすくんだというより、その道から吹きつけてきた名状しがたい風に、一瞬はね返されてしまったのだ。
音はそれだけであった。
いまの音はなんだったろう? たしか金属的なひびきではあったけれど、刃のうち合う音ではない。鎖と鉄丸の相搏《あいう》ったひびきでもない。――
それよりも、そのあとに来た凄《すさ》まじいばかりの静寂に全身凍りついたようになっていた鞠姫は、たちまち、ころがるようにその方向へ駆けていった。
「……あっ」
ふたたび彼女は立ちすくんだ。一本道の中ほどだ。
そこに何やらたおれていた。朱をぶちまけた中に散乱する黒いもの――赤いものは血で、黒いのは黒衣だ。大別すると、それが四つある。
鞠姫は眼がクラクラとして、石垣にもたれかかった。そこに散乱しているのは人間だ。――斬《き》られた男と女だ。それは脳天から股《また》まで、垂直に斬り裂かれた服部竜庵《はつとりりようあん》と、そして黒|装束《しようぞく》につつんだからだを胴斬りに切断された女であった。
いかにして彼らがこんな最期をとげたのかわからないが、とにかくここで一瞬の凄惨《せいさん》無比の死闘が行なわれたことにまちがいない。先刻の異様なひびきはそれであったのだ。
ほかに人影はない。石五郎の姿はない。
「石五郎さまっ」
鞠姫は息たえだえにさけんだ。
「石五郎さま、どこでございます。お顔を見せて下さいまし、……石五郎さま!」
ひきつけるような声がしだいに泣きじゃくりに変わってゆく。
と――背の石がうごいた。鞠姫は泳ぐようにそこを飛びはなれた。
かっと見張った鞠姫の眼のまえで、石垣の中の石のひとつが廻ってゆく。気がつけば、それは――それだけ、直径五尺以上もある石であった。その石が廻転して、ひとつの白い影を吐き出した。
「その声には勝てぬ」
と、白い影は苦笑いした。
「……ここの石が、このようなことになっていようとは、拙者も館のあちこちを飛び廻ってやっと知ったことでござるが――あの断崖の下の穴と同様に」
その白い着流しの胸は、凄まじい鮮血をあびていた。いや返り血ではなく、左手で右の胸をおさえているところを見ると、彼はそこに傷ついているのではあるまいか。
「御覧のごとく、服部|蛇丸《へびまる》は成敗いたしました。もうひとりたおれているのは、蛇丸が伊賀から呼んで来て津の城へ使いさせたくノ一でござるが」
「…………」
「さらにもう二人のくノ一、館へ忍びこんだのを失神させてこの石垣の奥へ入れてあったのを、あの火事の際、解きはなってやったところ、むざんや焼け死んでござる。みずから焼き殺したにひとしい蛇丸めは、それを鞠姫さまとかんちがいし、じぶんでじぶんをだますという愚行におちいりました」
「…………」
その言葉の意味は鞠姫にはよくわからない。彼女は、ただあえいだ。
「……自来也?」
「姫、お約束は果たしましたぞ。石五郎さまのおいのちをふせぎぬき、おん兄君蓮之介さまの御死因をあばくという約束を。……のみならず、証拠を以《もつ》て、そのことを和泉守さまにも御覧に入れた」
「……自来也、なぜ、あなたは、顔をかくして。――」
「が、これ以上は和泉守さまに申しあげることはできませぬ。和泉守さまはどこまでも御一子|竜丸《たつまる》さまをまたなきものに愛せられ、綱手はその母君でおわすゆえ。……あとは和泉守さまがよろしく御判断なされ、みずから御進退なさるよりほかはない」
「……自来也、しかし、あなたは……」
「御不審ですか。いや、思い出せば御不審にたえぬことはさまざまござりましょう。何から申そうか。……鞠姫さま、自来也は二人おりました。ひとりはあの甲賀蟇丸《こうががままる》でござる」
「えっ……蟇丸が!」
「どこまで姫が御存じか、あるいは御記憶か、いまのところ拙者《せつしや》にもこんがらがっておりますが、拙者自身思い出すままにこの蛇丸の屍体に告げるつもりで申せば……伊賀《いが》服部川で無足人一党の密談をきれぎれにききとり、阿波隼人《あわはやと》なる者に化けた自来也は甲賀蟇丸、竜庵屋敷で、伊賀のくノ一|茜《あかね》のまえに石五郎さまに化けて気絶してみせたのは蟇丸、上野の城でくノ一お丈と交わった石五郎さまは甲賀蟇丸、腰元|紅葉《もみじ》と口戯したのも石五郎さまに代わった蟇丸、伊賀のぬれ仏の下で無足人どもと決闘した自来也は、あれも蟇丸でござった。……」
「…………」
「時に自来也となり、時に石五郎さまそっくりに変わり得たのは、相手の顔を水に映し、おのれは水中にあってこれと顔を合わせれば、たちまち同一人に変貌《へんぼう》する甲賀忍法の達人、甲賀蟇丸なればこそ」
「…………」
「あとの自来也は――たとえば、鍵屋《かぎや》の辻《つじ》であなたと話した自来也、上野城でお丈と決闘してこれをたおした自来也などはまさにこの拙者で」
「…………」
「ざっと申せば、石五郎さまに化けて、敵の女の精水波を二度までみずから受け、みずから死んでいったのは蟇丸でござる」
「…………」
「甲賀蟇丸がなにゆえさようなことをいたしたか、と申せば――御存じのように現将軍家には五十四人のお子さまがおわし、これを諸大名におしつけるのに手段をえらばず、ことわればその大名をとりつぶすという非道。これを見て、おのれの将来もそのような災いのもととなるか、とウンザリされたが第三十三子、石五郎さまでござる。さによって、石五郎さまは十六歳にしてみずから唖《おし》となられ、白痴とおなりなされた。かくすれば、将来どこへも婿《むこ》へゆくことはあるまい――とかんがえたのがあさはかにて、孫の心、祖父知らぬ中野|石翁《せきおう》のお節介にて、なおかつ藤堂家に婿にやられることに相成った。……いやだと申せば、あの際藤堂家の命運あやうく、さればとてそのまま乗りこめば藤堂家を横領するにひとしい進退両難。――その苦衷を甲賀蟇丸が汲《く》んで、甲賀流の奥儀をふるって助けたまでで」
「…………」
「あのしゃべる生首――あれは石五郎さまの米俵の中に入って、この館にはこばれたもの――いちど磯《いそ》の潮騒《しおさい》の下で、蛇丸を呼んで、からかって、きゃつを最後の自滅に追いこむほどの魔力を発揮したものでござるが、――あなたもおどろかれたでありましょうが、あれこそ喪神せる者死せる者すらうごかし、声を発せしめる甲賀忍法|死人谺《しびとこだま》の極まれるもの。――最後の念力こめた蟇丸と拙者自来也との合作でござる」
「…………」
「もとより拙者に忍法を相伝した師は甲賀蟇丸。――」
「…………」
「や、人がくる。拙者はこれにてまた消えます。石五郎さまは――ついにまったく風狂と化し、ひとり江戸へ走っていったと和泉守さまに告げて下されい。鞠姫さま、あなたさまほどの女人が、あのような男を夫となされることはない。これからは心のどかに暮らされませ。まず一応はこれにて藤堂家は安泰でござろう。これは、ちょっと変わった御家騒動でござったな。――ながながとおやかましゅう。おさらば」
自来也は身をひるがえした。
茫乎《ぼうこ》としていた鞠姫は、われにかえり、身をふるわせ、とびあがった。
「――あっ、待って! 自来也さま!」
志摩《しま》の白い夏のひかりの中を、石五郎がゆく。北へ。――
フラリ、フラリ――と風に吹かれる案山子《かかし》みたいな姿で、しかもおどろくべき足の早さだ。ただ、彼は左手で右の胸をおさえている。
「待って! 石五郎さま!」
まろぶように、鞠姫が追いついた。
「わたしもゆきます。藤堂家を捨てて。――」
息せききって、
「あなたのいらっしゃるところなら、どこへでも!」
石五郎はトロンとした眼で鞠姫を見て、ニタリと笑っただけであった。鞠姫は焦《じ》れて、むしゃぶりついて、その胸をかきむしりかけて――はっと手をひっこめた。
「この傷……まあ、どうしましょう。はやく手当てしなければ……なんとかいって下さい。自来也さま!」
「自ラ来ル也」
と、石五郎は、はじめて口をきいて、その口をそしてまぶしい蒼空《あおぞら》にアングリとむけて、べつの――例の奇声を発した。
「らっ、らっ、らっ……」
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『自来也忍法帖』昭和56年4月30日初版発行