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秘戯書争奪《ひぎしよそうだつ》
山田風太郎
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ある「秘書」についての物語である。
しかしこれがいままでの荒唐無稽《こうとうむけい》な伝奇《でんき》小説によく出てくる怪《あや》しげな秘巻や密書のたぐいでないことを、読者のお手もとにも或《ある》いはあるであろう信頼できる諸書によって、まずはじめに知っていただきたい。
その書の名を「医心方《いしんぽう》」という。――
「医心方はひとり平安時代の代表医書であるだけでなく、いまは滅んだ隋唐《ずいとう》医学の全貌《ぜんぼう》を知る重要な史料である」(朝日新聞社「日本科学技術史」)
「本邦《ほんぽう》最初の医書。永観《えいかん》二年(九八四)に完成し、以後深く秘庫に蔵されていたが云々《うんぬん》」(平凡社「大百科事典」)
「わが邦《くに》に現存する医書の最古のものとして、これを稀世《きせい》の珍とすべきのみならず、これによりて当時隋唐の真相をも窺《うかが》うことを得べき絶世の鴻宝《こうほう》なり。秘府に蔵せられ、人間得て窺うことなかりき。加うるに保元《ほうげん》平治以後、兵燹《へいせん》相つぎ、この書存亡の間にあること数百年云々」(富士川|游《ゆう》「日本医学史」)
「医心方は禁闕《きんけつ》の秘本であった。それゆえ、殆《ほとん》ど九百年の後の世に出《い》でたのを見て、学者が血を湧《わ》き立たせたのも怪《あや》しむに足りない」(森鴎外「澀江抽斎《しぶえちゆうさい》」)
つまり、これはその絶世の珍書が世に出たについての物語だが、そのきっかけがまた甚《はなは》だ異例である。――
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将軍|萎《な》ゆ
一
「法印《ほういん》」
と、御用部屋で老中阿部伊勢守《ろうじゆうあべいせのかみ》はいった。
「その方を呼んだのはほかでもない。――」
と、いったが、なおしばらく次の言葉をよどませている。天下のだれからも大器《たいき》として仰《あお》がれている阿部伊勢守|正弘《まさひろ》であったが、ことしまだ三十六歳という若さは、よい意味でそのふくよかで優雅《ゆうが》な風姿に現われて、いつどんな場合にも失われない快活さが、なぜかきょうは、曰《いわ》くいいがたい鉛色《なまりいろ》の憂色《ゆうしよく》に覆《おお》われているようだ。――しかし、やがて口を切った。
「上様のことじゃがの」
「は」
と、江戸城|奥医師多紀楽真院法印《おくいしたきらくしんいんほういん》は緊張《きんちよう》した顔をあげた。
「知っての通り、上様には御世子《ごせいし》がおわさぬ」
「――は」
「もとより上様はいまだおんとし三十一であらせられる。このさきおん若君|御誕生《ごたんじよう》のことは充分考えられる――と申したいが」
伊勢守はくびをかしげた。
「大奥《おおおく》の老女にきくと、そのあたりがちとあいまいなのじゃ」
「あいまい、と仰《おお》せられると?」
「わしにはよくわからぬ機微じゃが、恐れながら上様は男女の道に於《おい》て、常人とは少なからず変っておいであそばすようなのじゃ。ひょっとすると、上様にはただいまの御側妾《ごそくしよう》にはもとより、たとえ今後|御台《みだい》さまをお迎えなされようと、永遠にお世継《よつ》ぎ御生誕《ごせいたん》のことはあらせられぬかも知れぬ、と老女は申す。――それきいて、実はわしも愕然《がくぜん》とした。それがまことなら、ただ徳川《とくがわ》家の大事であるばかりではない。ことは日本国の運命につながる。――」
ペルリに率いられた黒船が浦賀《うらが》に現われたのは、前年の六月のことである。
このときにあたっても、少なくとも外見|従容《しようよう》として平日と異ならなかったといわれる阿部|伊勢守《いせのかみ》が珍しく屈託した顔をしているわけを、奥医師《おくいし》として江戸城に仕えていて、知らず知らず政局の内幕に触《ふ》れている多紀|法印《ほういん》ははじめて納得《なつとく》した。
もともと、ふつうではないという噂《うわさ》のたかい当代さまである。黒船|到来《とうらい》に堰《せき》を切ったように天下|騒然《そうぜん》として、まさに国事|多端《たたん》のとき、常人ではないお人を将軍家として奉っているのはいかがあらん、それよりも非常の措置《そち》を以て英邁《えいまい》の評ある水戸《みと》の若殿|慶喜《よしのぶ》公を――とか、いや若君はともあれ、その御親父たる水戸の御隠居《ごいんきよ》が我の強いお方で、かえって天下大乱のもととなる、それより紀州《きしゆう》の慶福《よしとみ》公を――とか、法印にしてみると、背に粟《あわ》の生ずるような物議が、ちまたのいわゆる志士と称するやからの間のみならず、江戸城の中に於《おい》てもささやかれているのを耳にしている。
その今日ただいま。
もし、御当代さまに絶対お世継《よつ》ぎの出る見込みがない、ということがあきらかとなれば、阿部伊勢守の器量によってからくも支《ささ》えている天下が、まさに卵のからを破ったようになるであろう。――伊勢守が、日本の運命につながる、といったのは決して大げさではない。
医師として法印は、むろんしばしば上様を拝診している。世間には「癇性公方《かんしようくぼう》」というけしからぬ名が流れているようだが、まさにその通り、たえずぶるぶると首をふっている神経症があるが、それ以外にはべつにこれといって持病はない。実によく病気はする。頭痛、風邪《かぜ》、腹痛、腰痛《ようつう》、下痢《げり》、眼病から皮膚病《ひふびよう》、虫歯から脚気《かつけ》にいたるまで、よくまあこれほど次から次へと患《わずら》うものだと、侍医の彼が呆《あき》れるくらい病気はする。しかし、いまのところ、致命的《ちめいてき》な疾患《しつかん》は認められない。要するに、肉体、器官のすべてにわたって極度に虚弱《きよじやく》なのだ。
しかし、その多紀|法印《ほういん》も、将軍家の性的能力という点だけは、いまだ曾《かつ》て考えたこともなかった。げんにいまは御台《みだい》さまこそないが、七人の御側妾《ごそくしよう》もあるし。――
「法印」
と、また伊勢守《いせのかみ》は沈痛な声で呼んだ。
「その点を、急ぎお診立《みた》てしたてまつってはくれぬか?」
「――上様にお子さまができるか、できぬか、ということでござりまするか」
法印《ほういん》はくびをひねった。
「不妊《ふにん》が男子にかかわる場合は、原因がいろいろござりまするが。――」
「いや。――上様ははじめから、そもそもおんまぐわいのことからして、尋常ではおわさぬようだ、と老女は申す」
伊勢守は、苦いような悲しいような笑い顔をした。
「それを拝診して、もし御治癒《ごちゆ》の法あれば法印に講じてもらいたいのじゃ」
「上様のおんまぐわいを拝診するのでござりまするか」
「もとより、あからさまにはならぬ。上様とて、いくらなんでも左様なおん秘事に検分役あれば御立腹あそばすであろう。それどころか、常人とても、成るものも成るまい。――で、まことに恐れ入った儀じゃが、大奥《おおおく》に入って、上様の御寝所《ごしんじよ》をうかがいたてまつってもらいたい。――このことについては、老女によう打ち合せてある」
ことし五十九歳、将軍の侍医《じい》として、医事のみならず人事のすべてをなめつくした多紀法印も、しばし声がなかった。
老中《ろうじゆう》阿部|伊勢守《いせのかみ》は、すでに何やら決するところがあるらしい顔色であった。粛然《しゆくぜん》としていう。
「心進まぬか」
「――は?」
「このことについて、自信がないか」
「――はっ?」
「代々、奥医師《おくいし》として柳営《りゆうえい》に仕えて来た多紀家の法印《ほういん》にして、心進まず、また自信がないと申すならば、やむを得ぬ、余《よ》は蘭医《らんい》を招《よ》ぼうかと思うておる。――」
多紀法印のからだに電気のようなものが走った。
「拙者《せつしや》、お診立《みた》てつかまつりまする!」
二
第十三代将軍|家定《いえさだ》は、十五代中最低クラスの将軍であったといわれる。クラスというのは、ほかにも、よだればかり流して口もろくに廻《まわ》らなかったという九代将軍|家重《いえしげ》のような人もあったからだが。――
「安政紀事《あんせいきじ》」という書にいう。
「将軍は年すでに三十余なれども児童のごとく、つねに鵞鳥《がちよう》を追い廻して楽しみとせられ、また豆を煮《に》てこれを近臣に賜《たま》い、西洋|小《しよう》 銃《じゆう》を輸するに及んで、その剣付筒をとりて近臣を追い廻しなどせられ、また疾《しつ》ありて 政《まつりごと》 をきくこと能《あた》わず、ただ廷中《ていちゆう》わずかに儀容《ぎよう》を失わざるのみ」
とはいえ、その将軍のおんまぐわいの状況いかにと偵察《ていさつ》しようとする多紀|法印《ほういん》は胴ぶるいせざるを得ない。彼はのぞき見している自分の姿の滑稽《こつけい》さを自覚する余裕《よゆう》もないほどであった。
穴は、唐紙《からかみ》の把手《とつて》の下である。朱《しゆ》の房《ふさ》のたれている部分に、片眼だけあてられる小さな穴があけてある。むろん、徳川家のために老中と心を合わせた老女の細工である。
そんな位置だから、どうしたって、へっぴり腰《ごし》になる。その姿勢で、法印はのぞいた。――
のぞくなり、
「――こ、こりゃ、どうしたことじゃ?」
というカン高い声が聞えた。――将軍の声である。
「恐《おそ》れながら、上様、今宵《こよい》はただ童《わらべ》のように――わたしたちのなすがままに」
「どうぞ。……おねがいでござります!」
もつれ合う女の声がそれにつづいた。女は二人だ。
早春の夜であったが、どこからさす光か、法印の位置からは見えないが、朦朧《もうろう》とした灯影《ほかげ》は晩春のようにけぶっている。その中に――何がどうしたのか、しばし法印《ほういん》にもよくわからなかった。
豪奢《ごうしや》な夜具に将軍は仰《あお》むけに寝て、その上半身に横からひとり裸形《らぎよう》の女が覆《おお》いかぶさっている。そして下半身にも、もうひとりの裸身《らしん》がうずくまってうごめいて、しきりに何やらしている。どちらもまぶしいほどの皮膚《ひふ》で、まるで何|匹《びき》かの白い蛇《へび》がからみついているようだ。
しかし、
――やっておるな。
と、法印はこの光景をようやく納得した。老女と打合せのときにきいたのだ。
将軍|御寝《ぎよしん》の際は、当番のお中臈《ちゆうろう》といっしょに、お添寝《そいね》のお中臈というものが侍《はべ》るのが大奥《おおおく》の定例だ。そのほかに、お伽坊主《とぎぼうず》という頭を剃《そ》った世話役の女が、遠くに坐《すわ》って寝ずの番をしている。将軍と当番のお中臈がいかなる痴態《ちたい》を見せようと、お添寝のお中臈とお伽坊主は、一夜じゅう見ざる聞かざる言わざるの態度を保っていなければならない。
その当番とお添寝を、大奥三千の女人《によにん》の中から、とくに上様のおいやでなさそうなタイプの美女をえらんで、先夜いちどずつ侍らせた――と老女はいった。将軍にもわずかながら女についての好ききらいはあるようなのである。その夜はべつに何のこともなかったが、ただその女の顔をしげしげと見て、しきりに生唾《なまつば》をのんでいられたという。それだけの現象も、この上様にはお珍しいことだという。――
その二人を、今夜当番とお添寝《そいね》にする。そして、二人がかりで、どんな手段をつかってでも、ともかく一人でも上様の御寵愛《ごちようあい》を受けたら、両人に対して莫大《ばくだい》の御褒美《ごほうび》を与えるであろう――そう命じたというのだ。
こはそもいかに?
という意味のさけびを将軍がもらしたのは、その女人二人が協力して自分にからみついて来るという、あり得べからざる事態に驚愕《きようがく》したからに相違なかった。
覆《おお》いかぶさっているのは、ただ一人の女なのに、将軍は両足をぴんぴんと空中にふり動かすだけで、はね返すこともできないようであった。その足のふりかたも、ひどく緩慢《かんまん》で弱々しかった。
「む、むむう。……」
何かいおうとしたが、このうめき声だけかすかにもれた。その唇《くちびる》に女の唇がふたをしていたからである。
――承知はしていたが、法印《ほういん》はさらに胴ぶるいせずにはいられなかった。それから、この女たちの動き、ささやきを耳目に入れるに従って、女というものがひとたび執念《しゆうねん》に燃えたらかかることまでやってのけるのか、と慨然《がいぜん》たらざるを得なかった。おそらく御褒美《ごほうび》だけではあるまい、きっと御忠節の誠をつくすはこの一夜にあり、と老女から叱咤鼓舞《しつたこぶ》されたのではあろうが。――
ともあれ、慨然とし、胴ぶるいしても、五十九歳の法印《ほういん》すら、のぞき見していて、いつしか数年ぶりに肉体的異変を起し、しかも自分で気がつかないほどしびれはてるほどの光景がくりひろげられたのである。
「あ、……」
「上様、お立ちい。……」
歓《よろこ》びの声があがった。
将軍の下半身にうずくまっていた女が、つと動いたので、法印は上様の全貌《ぜんぼう》をはじめて拝診することができた。
将軍はべつに痩《や》せてはいない。皮膚《ひふ》は蒼白《あおじろ》いが、むしろぶよぶよと肉のついている方である。ただ、その肉体に比して――いや、常人に比して、その御道具はやや細身でかつ小ぶりであることは疑えなかった。それが、たしかに格天井《ごうてんじよう》にむいている。――しかし、どこかはかなげに、かすかにゆれながら。
「は、はやく」
「いまのうちに!」
一人の女がもういちどしゃがみこみ、言語に絶えた姿勢で身を寄せていった。このとき早く、このとき遅《おそ》く。――
将軍は泄《も》らした。
ほんの短く、しまりなく、しかも泡《あわ》つぶほどの少量を。
それきり将軍は、両手両足をばたりと四方に投げ出し、半失神状態としか見えないうす眼を天井《てんじよう》にひらいているばかりであった。
三
「……いかが」
「されば」
多紀|法印《ほういん》はまだうなされたような表情をしていた。
「……まず上様は、ようお二人までも御台《みだい》さまをお迎えなされ、七人までの御側妾《ごそくしよう》をお持ちなされましたなあ」
と、ややあって長嘆した。
将軍家定は、十八歳のときに京の鷹司《たかつかさ》家から奥方《おくがた》を迎え、それが亡くなったので、二十六のときに一条家から迎え、これも翌年には亡くなったのである。で、ここ数年、公式にはまあ独身である。ただ去年新将軍となって以来、公式にもそうしているわけにはゆかなくなったのは当然で、いそぎ内々第三番目の御台《みだい》を物色中だということはきいているが。――
法印《ほういん》は、前の二人の御台さまがこれというお病気もないのに、ひとりは鬱病《うつびよう》にかかり、ひとりは糸のように痩《や》せほそって世を去られたとき、自分でもくびをかしげたが、いまはじめて何やら思い当ったような気がした。
「御台さまも、御側妾も、恐《おそ》れながら上様の御一存には参らぬこと」
といってから、阿部|伊勢守《いせのかみ》も溜息《ためいき》をついた。
「……やはり、御不能でおわしたか」
法印は、上様には相当重症の陰萎早漏《いんいそうろう》の気味があるという診断を下した。
「お見込みはないか」
「……さて」
法印はむずかしい顔をした。
漢方でもこれらの症例に対するさまざまな療法や薬草は伝えられている。しかし――数年前、彼自身もひとごとならずいろいろ試みたことがあるのだが、残念ながら、迅速《じんそく》かつ適確に奏効する法も薬もないという結論に達せざるを得なかった。いや、ほんとうのことをいうと、いかに遅くとも、また多少不確かでも、ともかくも効《き》き目らしいものをあらわす療法すらあるかどうか、自信がないのである。
「全然だめか」
「いや、そうとも申せませぬ。あしかび[#「あしかび」に傍点]ほどのお力はおわすようではござりまするが。……」
「なに、おわすか」
伊勢守《いせのかみ》は眼をかがやかせた。
「火だねすらあれば、それを煽《あお》る法があろう」
しかし、あれほど煽りたてて、あの始末なのだ、と法印はあの光景を思い出して暗然とした。――むしろ、あの上様を煽りたてまつることは、無惨《むざん》の所業というべきではあるまいか。
「煽りまいらせねばならぬ」
伊勢守はいった。みずからにいいきかせる調子であったが、その独白には必死のひびきがあった。それにしても、まさに大事にはちがいないが、この温厚にして沈毅《ちんき》な伊勢守さまが、なぜこのたび突如《とつじよ》としてこの一事にこれほど心を燃やしはじめなされたのか。
「実は、かねてからの内談により、第三番目の御台《みだい》さまを薩摩《さつま》よりお迎えすることになっておる。――」
と、伊勢守《いせのかみ》はいった。
「しかるに――何やらあちらも耳にしておるらしい――このことについて、薩摩より念を押してただして参ったのじゃ。で、こちらも気にかかり、改めてその方に診立《みた》ててもらったわけじゃが、このような報告を受けようとは」
伊勢守の眼には、この人には珍しく狼狽《ろうばい》と焦燥《しようそう》の火があった。
「法印《ほういん》、なんぞお癒《なお》し申しあげる法はないか」
「されば。――」
腕《うで》をくんで、苦渋《くじゆう》の色を浮べた多紀法印を、膝《ひざ》をつかんで見ていた伊勢守は、やがて決然といった。
「やはり、蘭医《らんい》を呼ぼう。オランダ医者なら、なんぞ法を知っておるかも知れぬ」
背中をどやしつけられたように、法印は腕をといていた。
この前も、伊勢守のこの一語が鞭《むち》のように彼を打ったのであった。蘭医、オランダ医者、それこそは漢方を以て数百年、天下第一の医学の泰斗《たいと》として江戸城に勤仕して来た多紀楽真院《たきらくしんいん》法印にとって、まるで地平の黒雲のようにいとわしい、恐ろしい敵であった。
お城へ彼らを入れる!
とんでもない。それこそは自分たちにとってとり返しのつかない敗北のはじまりだ。多紀家の名誉にとっても、漢方医術の伝統にとっても。――
多紀|法印《ほういん》は苦悶《くもん》にみちた眼で阿部|伊勢守《いせのかみ》を見つめていたが、ふいにはっしとひざをたたいてさけび出した。
「ござる! ござる!」
「なに、上様をお癒《い》やし申しあげる法があるか」
「書物でござる。医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》という。――」
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千年前の房術書《ぼうじゆつしよ》
一
「医心方《いしんぽう》?」
阿部|伊勢守《いせのかみ》は首をかたむけた。
「その書物が、上様のおん不能を癒《い》やし参らせると?」
「おそらくは。――いや、いかなる療法《りようほう》医薬よりも」
と、多紀法印《たきほういん》は確信を以てうなずいた。
「とくに、その中の第二十八巻、房内篇《ぼうないへん》という巻が」
「房内篇」
「房内とはつまり閨房《けいぼう》内と申すことでござります。ありとあらゆる房《ぼう》 中《ちゆう》 術《じゆつ》及びそれに関する医学をのべた、いわゆる性典でござりまする」
「ふうむ」
といったが、どこかまだ、そんなものか、といった表情をとどめた伊勢守《いせのかみ》に、ただごとでない熱情をこめて法印《ほういん》はいう。
「これがただの医書ではござりませぬ。いまを去る一千年もの昔、隋《ずい》、唐《とう》のころの医学を集大成したもので、これはそれ以前の古代|支那《しな》、いわゆる三皇五帝時代からの医術を結集したものでござります」
「ほほう」
「史記によりますれば、黄帝は一千二百人の女人を御《ぎよ》したと申す。その黄帝の房中術を書いたものがこの房内篇でござる」
「あちらの書物か」
「いえ、この書物そのものは日本の書物でござります」
「わからぬな」
「つまり、奈良平安のころ、いわゆる遣唐使《けんとうし》の留学生たちが持ち帰ったおびただしいあちらの医学書を、当時の鍼博士丹波康頼《しんはかせたんばのやすより》が三十巻として集大成したもので――それが完成したのが永観《えいかん》二年と申しまするから、ほとんど九百年の昔のことに相成《あいな》ります」
ようやく伊勢守《いせのかみ》も、それがありきたりの書物ではない、ということがわかって来たらしい。ただ、その理解が、まだ法印《ほういん》のいう内容よりも法印の語気の熱からかき出されて来たようなところがある。法印は口のはしに泡《あわ》をにじませていう。
「隋《ずい》、唐《とう》の医学、それはいかなるものか。――驚《おどろ》くべきことに、いまの支那人《しなじん》すらだれも知りませぬ。拙者《せつしや》、来朝せる清人《しんじん》の医者に問いただしたことがござりまするが、そのような時代の医書、あちらには一冊も残存せず、すべて千年の黄塵《こうじん》のかなたに没しておるそうでござる」
「その書物が日本にあると申すのか」
「は、ただ一冊だけ。……正しく申せば、その三十巻だけ」
ついに伊勢守はその書物がまさに絶世の稀書《きしよ》であることを了解した。
「法印。――そ、その書を見せい」
「それが、拙者の手もとにござりませぬ」
「どこにある? どこにあろうと、あれば即刻取り寄せい」
「あるところはわかっておりまする。ただそれが、御公儀《ごこうぎ》のお力を以てしても及ばぬところで」
多紀|法印《ほういん》は顔をひきゆがめた。
「京の朝《ちよう》 廷典《ていてん》 薬《やくの》 頭《かみ》のところにあるのでござる」
「京の典薬頭。……公儀より依頼すれば、その書さし出すであろうが」
「いえ、断じてさし出しますまい。いままでのなりゆきより推《お》せば」
憤怒《ふんぬ》とも沈痛ともつかぬ波に顔を彩《いろど》らせながら、法印はしゃべりはじめた。
「御老中《ごろうじゆう》さまとは申せ、御専門外のことゆえ、このいきさつ御承知ではござりますまいが、実は過去数百年にわたって、わが多紀家から――いえ、御公儀の名を以て、その書を秘蔵いたしおりまする典薬頭|半井《なからい》家に、幾たびかその献上を求めたのでござりまする。しかるに半井家では言を左右にして応ぜず、ついには去《い》んぬる天明《てんめい》八年、京の団栗辻《どんぐりつじ》より起った大火にて焼失したむね返答して参りました。爾来《じらい》、六、七十年を閲《けみ》し、そのままになっておりまするが、いろいろのことより、証拠はなけれど、医心方《いしんぽう》三十巻はなお半井家にあり――というのが、わが多紀家代々に伝えられておる秘事でござる」
「ほほう」
まさに専門外で、老中《ろうじゆう》阿部|伊勢守《いせのかみ》もその書物について、そんな長い葛藤《かつとう》があったとは初めてきいた。
「もとよりわが方よりそれを求めたのはその房内篇《ぼうないへん》ばかりでなく、他の医学全般にわたる全巻でござりました。いま、御老中さまより承り、緊急《きんきゆう》に欲するはその房内篇一巻でござりまするが。――」
「法印《ほういん》。……してみると、その方もその書物の内容は見たことがないのじゃな」
「御意《ぎよい》。――」
「それにしては、そのような書物のあることをよく知っておったの」
「伊勢守さま。……その医心方《いしんぽう》を編んだ丹波康頼《たんばのやすより》こそ、わが多紀家の祖なのでござる。それを半井家に奪《うば》われたのでござりまする」
「や。――」
無念げに、唇《くちびる》をふるわせながら、多紀法印は語り出した。
丹波康頼から円融《えんゆう》天皇に奉られた「医心方」三十巻は、そのまま宮廷《きゆうてい》の秘庫に蔵せられて、何びとの眼に触《ふ》れることもなかった。それが戦国時代に至って、正親町《おおぎまち》天皇から当時の典薬頭《てんやくのかみ》半井|通仙院瑞策《つうせんいんずいさく》に下賜《かし》されたのである。
半井家は和気清麻呂《わけのきよまろ》の裔《すえ》である。その曾孫時雨《そうそんときふる》のときはじめて医道を以て立ち、朝廷《ちようてい》の典薬頭に任ぜられた。さらにその子孫|春蘭軒明親《しゆんらんけんあきちか》の代に、その住居とする京の烏丸《からすま》の宅地に井戸あり、その水がきわめて清らかで美味であったので、半《なか》ばを禁裏の御用とし、時の後柏原《ごかしわばら》天皇から半井《なからい》という姓を拝受した。医心方《いしんぽう》を下賜されたのは、この明親の子瑞策である。「寛政《かんせい》 重《ちよう》 修《しゆう》 諸家譜《しよかふ》」によれば、このころ半井家は「織田右府《おだうふ》京師にいたるごとに旅館とし、豊臣|太閤《たいこう》よりもまた恩遇《おんぐう》を受く」とある。それよりなお代々朝廷の典薬頭をつぎ、いま出雲守広明《いずものかみひろあき》が京にある。
これに対して多紀家は、いま法印《ほういん》がいったように丹波康頼《たんばのやすより》より出で、その子孫のうちには太閤記にもしばしば出て来る施薬院全宗《せやくいんぜんそう》などがあるが、その全宗の孫|宗伯《そうはく》のとき大御所《おおごしよ》に仕え、以後代々――ゆえあって四代前に丹波国多紀郡《たんばのくにたきごおり》の名をとって姓を多紀と変えたが――江戸城の奥医師《おくいし》として、この楽真院《らくしんいん》法印に至っている。
図示すればこうだ。
〔京|朝《ちよう》 廷典《ていてん》 薬《やくの》 頭《かみ》〕
和気清麻呂《わけのきよまろ》――半井通仙院《なからいつうせんいん》――半井|出雲守広明《いずものかみひろあき》。
〔江戸城奥医師〕
丹波康頼《たんばのやすより》――施薬院全宗《せやくいんぜんそう》――多紀楽真院法印《たきらくしんいんほういん》。
日本医道界の二大宗家といっていい。
「しかし、半井家は医心方《いしんぽう》をときのみかどより下賜《かし》されたものであろうが」
と、伊勢守《いせのかみ》はきいた。
「それを、奪《うば》われたとは?」
「半井家は神別《しんべつ》和気家の裔《すえ》でござる。多紀家の祖丹波康頼は漢の霊帝《れいてい》の裔の帰化せる人と申す。すなわちいわゆる蕃別《ばんべつ》でござる。神別の方を蕃別より家格高しとなすが古代の法。にもかかわらず医心方以来、医道第一の名は丹波家のものとなり、半井家の無念はいかばかりか、いかにもしてその禁闕《きんけつ》の秘書を手に入れんと焦《あせ》り、通仙院瑞策のとき、ようやくにしてその目的を達したのでござる」
しかも、時の天皇から下賜されたのだから、遠き昔に献上した丹波家としては、あっと思いつつも手の出しようもなかった。しかし心中の無念さは断ちがたく、宗伯《そうはく》のとき宮廷医家を捨てて幕府に仕えたのは、必ずしも時勢を見てのことでなく、この怒《いか》りのためであったと子孫の法印《ほういん》はきいている。
「ふうむ」
さしもの伊勢守《いせのかみ》もうなった。
天下|唯一《ゆいいつ》の秘巻をめぐって、一は宮廷《きゆうてい》医家の名門、一は幕府最高の奥医師《おくいし》という二家が千年にわたる争い――いや、それどころか、神別|蕃別《ばんべつ》などいう古代の階級制までからんで飛び出して来たのだから驚《おどろ》かざるを得ない。
ともあれ多紀法印が、彼自身いちども見たことのないその秘書の概要《がいよう》についてこれだけの知識を持ち、かつそれを奪《うば》われたものと称しているのは、このような曰く因縁があったのだ。
「なるほど、それでは半井家、容易には出すまい喃《のう》。……」
「いかにも、御公儀《ごこうぎ》しばしばのお達しにも応ぜぬやつ、まことに不埒《ふらち》不敵な半井家でござる。さりながらこのたびの上様のおんこと、もはや辞を低うして請《こ》うておる場合ではござりますまい。かく相成っては、半井家おとりつぶしをも辞せぬ御威光《ごいこう》を以て。――」
「待て。……いや、そうときけば、たんに上様のおんことのみならず、まことに天下の秘宝じゃ」
伊勢守《いせのかみ》はじっと空中に眼をそそいでいたが、ふいにこれまたはたとひざをたたいた。
「法印《ほういん》、盗《ぬす》ませよう」
「えっ、盗む?」
「あまり感心したことではないが、公儀忍《こうぎしの》び組を以て」
二
「公儀に忍び組というものがある。知っておるか?」
と、伊勢守はもういちどくりかえした。
「は、名だけはきいておりまするが。――」
「わしも実は、最近になって再発見したほどの存在じゃが。――ふと或《あ》る人より使うて見ぬかと勧められて、使うて見た。昨夜、その方が大奥《おおおく》で拝診したとき、上様のお相手をした二人の女がそれよ。甲賀組《こうがぐみ》の女――忍びの世界では、あれをくノ一と呼ぶそうな」
「えっ、すりゃ。――」
「なみの大奥の女人にては上様|御不振《ごふしん》との疑いあるゆえに、よそより然るべき女求めねば相成《あいな》らぬが、事が事じゃ。絶対、世にもれてはならぬ――と、打ち案じた結果、甲賀組《こうがぐみ》より七人の女を推挙させたが、いやわしが見ても、いずれも世に珍しきほどの美女、どやつを選ぶべきかと困惑《こんわく》の果てに、とりあえずくじびき[#「くじびき」に傍点]であの二人を使うことになった」
法印《ほういん》は、昨夜のあの凄惨《せいさん》ともいうべき挑発《ちようはつ》ぶりを思い出した。大奥《おおおく》の女にしてはようもあれまで――と舌を巻いたが、そうであったか。あれは甲賀組の女であったのか。
「事成らず、と知って、あの両人、甲賀組の頭《かしら》よりきびしき叱責《しつせき》を受けたそうな。甲賀組は、数百年ぶりに甲賀の名あげるはこのときとばかりにふるい立っておったからの」
と、伊勢守《いせのかみ》は苦笑した。
「そのときわしは、甲賀組相伝のさまざまの秘術についてもきいた。きいただけでは、眉《まゆ》に唾《つば》をつけたくなるほどの内容であった。――まことかどうかは知らぬ。また昨夜の件につき、その二人の女、責むべきか、責むべからざるかもわからぬ。しかし、いまその方の申し出た医心方《いしんぽう》のこと、それを盗《ぬす》ませる御用には最も適当なやつらではないかとわしは思いついた」
「そ、その女たちを――?」
「いかにも、そのような御用には、女人の方がよかろう。男の忍《しの》びを使うては、かえって向うに感づかれるおそれがある。公儀《こうぎ》からの手の者じゃとな。さすれば――その半井家、ひとたび御公儀に焼けたと報告した以上、もはや出すにも出せまいが。――公儀の手が迫《せま》っておると感づけば、まことに焼き捨ててしまう挙に出るやも知れぬ。そういうおそれがあるとは思わぬか?」
「――お、仰《おお》せの通り、まことになきにしもあらず」
「しかも、こちらとしても、昨夜のことと同様、この一件、絶対に世の噂《うわさ》となってはならぬ大秘事でもある。忍びの者を使うて盗《ぬす》ませる、などいうことは本来|伊勢守《いせのかみ》も好きではないが、この際、このことに関するかぎり、やむを得まい」
多紀|法印《ほういん》は、深刻に思案している顔であった。
「甲賀組《こうがぐみ》の口のかたさ、またあの女どもの感奮《かんぷん》ぶり、必ずやこの使命を果してくれるであろう。……それにしても法印、その医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》とやらは、そもいかなるかたち、いかなる装幀《そうてい》のものか、せめてそれくらいはわからぬか?」
「御老中《ごろうじゆう》さま」
と、法印は思いつめた眼をあげていった。
「御意《ぎよい》の趣《おもむき》、相わかってござりまする。その甲賀のおんな衆、いかにも適材適所と存じまする。さりながら、事は医学に関し……例えばその三十巻中、どれが房内篇《ぼうないへん》やら、専門外の者には判別もつきかねるでござりましょう」
「いかにも、左様だ。だからきいておる。――」
「それゆえ、そのおんな衆の指揮者として、やはり専門家も同行した方がよいと存じまするが。――」
実際、法印《ほういん》は必死であった。
彼としては、このたびの将軍のことで医心方《いしんぽう》を思い出したにちがいないが、また医心方を手に入れるためにこのたび文字通り千載一遇《せんざいいちぐう》の機会が到来《とうらい》したと感じているくらいであったのだ。それは多紀家数百年の執念《しゆうねん》であるといっていい。
しかし、いま伊勢守《いせのかみ》の提案通りに事がすすむと、その秘書を手に入れる道程に、多紀家が介在《かいざい》する余地がない。まったく多紀家はつんぼさじきに置かれたままになる。こりゃどうあっても一枚加わって、将来の発言権を確保しておかねば、多紀家の先祖にも子孫にも相すまぬ。――
「では、その方がゆくとでも申すのか」
と、伊勢守はきいた。
「いえ。――拙者《せつしや》はなにぶん、この老体」
と、法印はいい、或《あ》る決意と或る惑《まど》いの交錯《こうさく》する眼をあげていった。
「私の甥《おい》めをその役にあてたいと存じまする」
「その方の甥。――」
「はっ、名は多紀家の古姓をとって丹波陽馬《たんばようま》と申し、当年二十五歳に相成《あいな》りまするが、こやつが頗《すこぶ》る妙《みよう》なやつで――しかし、かような役には打ってつけの男のように思われます」
「妙なやつ、とは?」
「優秀なのか、不良なのか、伯父《おじ》の私にもよくわからぬところのある男でござるが」
「やはり、医者か」
「はっ、その上、心形《しんぎよう》刀流|免許皆伝《めんきよかいでん》というやつで。――」
三
鴎外《おうがい》の「澀江抽斎《しぶえちゆうさい》」によれば、この多紀|法印《ほういん》は、
「幼時犬を闘《たたか》わしむるを好んで学業を事としなかったが、人が父兄に若《し》かずというを以て責めると、今に見ていろ、立派な医者になって見せるから、と云《い》っていた。いくばくもなく節を折って書を読み、精力衆に踰《こ》え、識見人を驚《おどろ》かした。抽斎《ちゆうさい》の最も親しい友の一人で、二家の往来は頻繁《ひんぱん》であった。しかし当時|法印《ほういん》の位は甚《はなは》だ貴いもので、法印が澀江《しぶえ》の家に来ると、茶は台のあり蓋《ふた》のある茶碗《ちやわん》に注《つ》ぎ、菓子は高坏《たかつき》に盛《も》って出した。この器は大名と多紀法印とに茶菓を呈する時に限って用いたそうである」
と、ある。
また「日本医学史」によれば、
「その職にありて江戸の医権を執《と》り、一家の学説を以てついに一代の巨匠《きよしよう》となる。当時天下の医家にして漢医方を奉ずるものは、みな多紀氏を仰いで師宗とするに至れり」
と、ある。
奥医師《おくいし》の権威《けんい》というものは大変なもので、江戸市中往来のときは長棒の駕籠《かご》に乗り、駕籠かきの陸尺《ろくしやく》四人、駕籠侍二人、薬箱持一人、傘持《かさもち》、挟箱持《はさみばこもち》、袋杖持《ふくろづえもち》、草履取《ぞうりと》りなど、すべて十一人の供方で、旗本などは途中でゆき合うと小腰《こごし》をかがめて道をゆずる習いであった。
――これほどの奥医師多紀法印が、いまただの町駕籠にゆられてゆく。人目を忍《しの》ぶように、暮れかかった早春の江戸の町を。
事が雲上の秘密につながるばかりではない。いまこの駕籠《かご》のゆくさきを、彼はだれにも知られたくないのだ。駕籠の中で、法印《ほういん》の眼はなお或《あ》る決意と或る惑《まど》いに明滅《めいめつ》していた。
「先生。――」
と、ただの町医者と見て、駕籠かきがぞんざいな調子で呼ぶ。
「和泉《いずみ》橋通りに来やしたぜ」
「和泉橋通りのどこじゃ」
「藤堂《とうどう》さまのお屋敷《やしき》のそばで」
「こ、ここでよい」
法印はあわてて駕籠から下り立った。
いかにもここは下谷御徒町《したやおかちまち》の和泉橋通りだ。
藤堂屋敷に沿って北へ少し歩くと、行列が延々とならんでいる。はじめ法印は、そこにある伊庭《いば》道場の門人たちかと思ったが、それにしてはこの時刻おかしいし、それに見れば、女もいる、老婆《ろうば》もいる、子供もいる。――
「もしもし」
と、彼はひそやかにその行列の中の一人に問いかけた。
「これは何でござる?」
「伊東玄朴《いとうげんぼく》先生に診《み》ていただくための病人の行列で」
と、蒼《あお》い顔をして腹をおさえているその男がいった。
「先生がひるから往診に出ていらっしゃるそうで、それをお待ちするのにこれだけ並《なら》んだのでさあ」
多紀|法印《ほういん》はのどの奥《おく》でうめき、茫然《ぼうぜん》たる眼を、その数百人とも見える行列に投げた。蘭医《らんい》伊東玄朴の家は、ずっとその向うにある。――
蘭医。――彼にとってぶきみきわまる地平の雲だ。いや、地平の雲どころではない、その恐《おそ》るべき具象物がいま眼前に、患者の文字通りの雲集としてここにある。話にはきいていたが、まさかこれほどとは思わなんだ。――
法印は、この高名のオランダ医者の家近くに来ることさえいさぎよしとしなかった。しかし、彼の呼び出したい人間はそこにいるのだ。
「エ、ホ。エ、ホ」
そのとき背後から威勢《いせい》のいいかけ声が聞えた。法印は本能的に路傍《ろぼう》の柳《やなぎ》の木陰《こかげ》に身を寄せた。
藤堂|屋敷《やしき》の方から一梃《いつちよう》の駕籠《かご》が矢のように駆《か》けて来る。両側に、薬箱らしいもの、草履袋《ぞうりぶくろ》らしいものを抱《かか》えた若い二人の男女を従えて。
走って来たこの若い男が、ちらっと柳のかげの法印《ほういん》を見たようだ。彼は知らぬ顔でそのまま駕籠《かご》について駆《か》けぬけようとする。
「あ、待て」
たまりかねて法印は呼んだ。
「これ、陽馬《ようま》。――」
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陽馬と雪羽《ゆきは》
一
陽馬と呼ばれた若者は、万事休す、といった顔で立ちどまった。
駕籠《かご》の向うにつきそって走っていた若い女もふと足をとどめる。――それに、
「なに、すぐ参る」
とか何とかいって、薬箱を抱《かか》えたまま、若者はつかつかとこちらにやって来た。そのあいだにも、駕籠はタッタと向うへ駆けてゆく。女はあわててそれを追う。
「伯父上《おじうえ》」
と、柳《やなぎ》のかげに来て、それでもちょっと頭を下げた。
多紀|法印《ほういん》の甥《おい》、丹波陽馬《たんばようま》だ。髪《かみ》は月代《さかやき》も剃《そ》らず、うしろでたばねて結んだだけ、きものは剣術道場の稽古着《けいこぎ》のような筒袖《つつそで》で、つんつるてんの袴《はかま》をはいているが、刀ばかりはばかに長いのを一本ぶっこんでいる。
「陽馬。……駕籠《かご》の中に乗っていたのは玄朴《げんぼく》か?」
と、法印はまだあと見送ってきいた。
「左様です」
「それに、おまえとならんで走っていたのは、あれは女か。――いや、女にはちがいないが、あれも玄朴の弟子《でし》か」
「左様です」
あれは女か、といったのは、それがこれまた髷《まげ》も結《ゆ》わず、ただ黒髪を肩のところで切りそろえただけであり、衣服も刀を差していないというばかりで、陽馬と同じ筒袖、袴といういでたちであったからだ。そして、いや女にはちがいない、といったのは、そのギヤマン灯籠《どうろう》のように透明《とうめい》な美貌《びぼう》が、この場合にも法印の眼にくっきりと残ったからであった。
「女をあのような異形《いぎよう》によそおわせて平気で供にするとは――いや、医者にして女を弟子にするとは、いよいよ以てオランダ医者とは胡乱《うろん》なやつ」
「伯父上、御用は何です」
と、丹波《たんば》陽馬はせかせかといった。
「御覧のように患者はつめかけ、先生は一刻もじっとしていられぬ忙《いそが》しさです。従って拙者《せつしや》も忙しい。――」
多紀|法印《ほういん》は甥《おい》の顔をにらみつけた。
陽馬はしかし眼では笑っている。どこか伯父を小馬鹿《こばか》にしているような眼だ。
――頭だけは相当に優秀で、曾《かつ》ては法印がおのれの後継者《こうけいしや》にとまで考えて漢方を学ばせたが、いつしか途中でぐれて、吉原《よしわら》には通う、伊庭《いば》道場には入る、はては、こともあろうにオランダ医者の弟子に入門してしまった甥であった。しかも、いまのようすで見ると、どうやらそのオランダ医者の巨魁《きよかい》伊東|玄朴《げんぼく》の愛弟子《まなでし》となっているらしい。――
鬼子《おにご》だ、と思う。その行状のみならず、顔までがこのいかつい伯父の甥だとは、だれも信じないほどいい男だ。まったくわが甥ながら、これほどの男ぶりは江戸にもざらにあるまい、と法印が認めざるを得ない。しかもただ美男というだけでなく、ピチピチとして活気に満ちた――満ちすぎて、法印の眼から見れば、どこか無頼《ぶらい》をすら感じさせる若者だ。
その鬼子《おにご》の甥《おい》に――その陽馬がいるオランダ医者のところへ、いま法印《ほういん》が救いを求めに来たのはまったく業腹《ごうはら》で、このことを思い立ったときからいまここへ来る途中まで、法印の眼が、決意と惑《まど》いにゆれつづけたゆえんだが、しかしどう考えてもいま多紀家の大事を救ってくれる最適任者はこの丹波《たんば》陽馬以外にないのだ。
「な、なぜ、おまえ、いくら呼んでもわしのところへ来なんだ?」
それでも法印は、伯父らしくなじった。
「伯父上の御説教はもうわかっております」
陽馬はふりかえり、ふたたび駆《か》け出しそうな姿勢になった。
「失礼、拙者《せつしや》は忙《いそが》しい。――」
多紀法印は狼狽《ろうばい》した。
「ま、待てと申すに、陽馬。……たまりかねて、わざわざわしみずからここまで来たわけをきけ。多紀家の興廃《こうはい》このときにありという大事が出来《しゆつたい》したのじゃ!」
「――へっ?」
二
表口二十四間、奥行三十間。玄関《げんかん》には「象先堂《しようせんどう》」という額《がく》がかかげてある。
二|棟《とう》の土蔵のほかはただ一棟だが、これは主人みずからの設計によるもので、その中に診察所、調剤所、門人部屋など数十室あり、隔《へだ》ての壁《かべ》というものが一切ない。ぜんぶ障子で、これは講義のときことごとく取払《とりはら》って一大講堂とするためだ。門弟だけでも、いつも七、八十人が寄宿している。
つめかけた患者は、待合室、玄関《げんかん》はおろか、表門外の往来にまで溢《あふ》れて、はてはこれを相手に掛茶屋《かけぢやや》が出ているという繁昌《はんじよう》ぶりである。
これが先年、幕命を以て、
「近来、蘭学医師《らんがくいし》おいおいに相増し、世上にても信用いたし候者多くこれあるやに相聞え候。右は風土もちがい候ことにつき、お医師中は蘭学相用い候儀御制禁|仰《おお》せ出され候むねその意を得、かたく相守らるべく候」
と禁じられた蘭方医学、その雄たる伊東|玄朴《げんぼく》の御徒町《おかちまち》の家の景観であった。
この幕命というのは、つまり多紀|法印《ほういん》が出させたものだが、いかにこんなお触《ふ》れを出そうと、事実病人を癒《い》やす医者にはかなわない。
それどころか。――
幕府の若年寄《わかどしより》の一人|遠藤但馬守《えんどうたじまのかみ》でさえ、その母の病気にこの玄朴《げんぼく》を招き、そのときにこんな話がある。玄朴は実に気ぜわしい人で、患者の診察をしながら次の患者の容態をきき、書生に筆記させているといったありさまであったが、遠藤家に往診を求められるや、まず茶菓|酒肴《しゆこう》の儀はかたくことわるむね念を押して往《い》った。但馬守の母を診《み》るにも、まず一礼ただちに膝行《しつこう》スルスルと走るがごとくすすみ、膝《ひざ》を立てたまま診察し、ただちにもとの席に戻《もど》った。さて別室で家老にその診断を告げている際、女中たちが酒肴を捧《ささ》げて入ってくるのを見ると、約束ちがいでござる、とさけんで足袋《たび》はだしのまま中庭を走って帰ってしまったという。
若き日、長崎でシーボルトに学び、日本ではじめて種痘術《しゆとうじゆつ》を試みたのがこの伊東玄朴である。そして彼の創立した種痘所がのちに西洋医学所となり、さらにいまの東大医学部に発展してゆくのである。
――いま、往診から駕籠《かご》で駆《か》け戻《もど》って、数人の患者を同時に診察している玄朴のうしろへ、
「先生」
と、丹波《たんば》陽馬が膝をつき、手をつかえた。彼のこんなに行儀正しいのは、伯父の法印《ほういん》も見たことがなかろう。
「甚《はなは》だ唐突《とうとつ》ですが、陽馬、しばらくおいとまを頂戴《ちようだい》いたしとう存じまする」
入って来た陽馬をちらりと見ただけで、熱心に病人の舌を眺《なが》めていた玄朴《げんぼく》は、
「なんじゃと?」
と、さすがに驚《おどろ》いてふり返った。
伊東玄朴、このとし五十五歳。少ない髪《かみ》をうしろに結び、小柄《こがら》で色黒く、高い頬骨《ほおぼね》の下はえぐられたような骨相で、まるで書生みたいに風采《ふうさい》は上らないが、眼光のみは炯々《けいけい》と澄んで人を射るものがある。
「いかん」
と、いった。
「用心棒がいなくなるとこまる」
陽馬は苦笑した。繁昌《はんじよう》する一方で迫害《はくがい》も多い玄朴先生にとって、彼はまさに強力なボディガードであったからだ。
「しかし、なんでな? いったい、何ごとが起ったのじゃ?」
「……医心方《いしんぽう》、という書物のことを御存じでござりましょうや」
意を決した風で陽馬はいった。玄朴はくびをかしげた。
「医心方《いしんぽう》。……名だけはきいておる」
「それについて。――」
陽馬はさすがにいいなずんだ。
「ここではちと他言をはばかることですが」
「よし。……きこう」
蘭方《らんぽう》の学説と技術以外には、地上の何物にも心を動かされるところのない玄朴《げんぼく》が、病人を捨てて立ち上り、先にたってスタスタ歩き出したのは、陽馬のようすにただならぬものを感じとったか、それともいまの「医心方」という一語に、予想外の関心を抱いたせいであろう。
二人はこの家でただ一本のたたみ廊下《ろうか》を歩いて、と或《あ》る一室に入った。
「あ」
あとから入った陽馬は眼を見ひらいた。
「雪羽《ゆきは》。――」
と、呼んで、
「どの」
と、つけ加えた。
そこは玄朴の書斎で、色|褪《あ》せてはいるが朱《しゆ》の毛氈《もうせん》を敷《し》き、書棚《しよだな》にはオランダ医学書、辞書などがぎっしりつまり、棚の上にはこれまたオランダ渡《わた》りの置時計と葡萄酒《ワイン》が置かれ、唐紙《からかみ》には人体|解剖図《かいぼうず》が貼《は》りつけてある。大きな机には開かれたままの横文字の本と日本文の原稿が積み重ねられている。それがフーフェランドの「牛痘種法篇《ぎゆうとうしゆほうへん》」を玄朴《げんぼく》が翻訳《ほんやく》中のものであることを、陽馬は知っている。
別に置かれた小さな机の前にきちんと坐《すわ》って、その原稿をていねいに清書しているのは、女弟子の雪羽《ゆきは》であった。ほんの先刻、陽馬といっしょに玄朴の供をして患家から帰ったばかりだが、雪羽が先生の原稿清書役を申しつけられていることは、いまはじまったことではない。
「雪羽にきかれてもいかんことかな」
と、玄朴がきいた。
「いや。――」
と、陽馬はくびをふった。
「雪羽どのならよろしゅうござる。それどころか、かえって好都合です」
「なんですか、陽馬さま」
と、雪羽が師の座蒲団《ざぶとん》を直しながら、顔をあげた。
髪《かみ》は肩《かた》で切りそろえただけ、筒袖《つつそで》に袴《はかま》という姿だが、実に美しい娘《むすめ》だ。清純|玲瓏《れいろう》、どこか地上のものではないようで、しかも黒い大きな瞳《ひとみ》には、ふつうそこらの女には絶対見られない活気がある。異風の姿がかえって清新で、しかも奇妙《きみよう》な色気を発散していた。
「実は、わしは京へゆくことになったのだ」
と、陽馬はいった。
「よいついでだ。大坂の適々斎塾《てきてきさいじゆく》へいって、洪庵《こうあん》先生にもお目にかかれる」
すると、真っ白な雪羽《ゆきは》の頬《ほお》に、ぽうと美しく血潮がのぼった。
三
適々斎塾とは、大坂で名高い蘭医緒方《らんいおがた》洪庵の塾だ。雪羽はその洪庵の姪《めい》なのであった。当時女人にして医者というのは、シーボルトの娘、混血児の楠本《くすもと》いねなどいう女性もいたが、やはり相当珍しい。しかしこの伊東|玄朴《げんぼく》の「象先堂《しようせんどう》」にかぎって、雪羽の存在を怪しまなかったのは、彼女が玄朴と風月相知の観のある大坂の緒方洪庵の姪で、そこからこちらに留学に来ていることをだれも知っていたからだ。
そして、丹波《たんば》陽馬は雪羽と恋愛しているのであった。いま彼が大坂の洪庵先生にお目にかかれる、といったのは、それを機会に正式に結婚申し込みをしよう、という意味らしいことを、以心伝心《いしんでんしん》、雪羽だけが察した。――
「陽馬、医心方《いしんぽう》とかいったが」
と、座蒲団《ざぶとん》に坐《すわ》りながら、玄朴《げんぼく》が気ぜわしげにきいた。この先生は、弟子の恋愛など、自由というよりとんと関心がないようだ。
「京にゆく? 京にゆくとは、なぜ?」
「それが、泥棒《どろぼう》にゆくので。――」
と、陽馬はにんがりと笑ったが、すぐまじめな顔にもどって、
「実はこれは伯父の多紀法印《たきほういん》から、金輪際《こんりんざい》他言無用と誓《ちか》わせられたことですが、まさか先生におかくしするわけには参りますまい。それから、雪羽《ゆきは》――どのも、これも医学修行の女人ゆえ、知らせておいた方がよかろう。これは、外部には天地にただ二人のみに申しあげる陽馬の秘命です」
珍しくものものしい調子でいったが、玄朴にはともかく、雪羽にもきかせる理由が第三者にはちとあいまいだ。
さて彼は医心方のこと、多紀、半井《なからい》両家、江戸と京にまたがる数百年の争いのこと、そしてまたこのたびその秘書を盗《ぬす》むべく自分にゆだねられた任務のこと、などを語り出した。
「おう。……おう。……おう。……」
話なかばから玄朴《げんぼく》はなんどもこんな嘆声をもらした。
玄朴とてシーボルトに就《つ》く以前は漢方を学んでいたのだから、「医心方《いしんぽう》」のことは耳にしており、それが文字通り絶世の稀書《きしよ》であることもきいていたらしい。が、稀書にも何も、そのただ一巻がいまも京に残っていたことは、彼もはじめて知ったらしい。
「それは、是非見たいな」
玄朴先生にしても異常なほど眼をきらきらひからせていうのも陽馬には意外であったが、この先生が、
「つまり、隋唐《ずいとう》の四十八手じゃな」
といったのには、いよいよ驚いた。もっとも、伯父の法印《ほういん》からのまたぎきによる陽馬の説明には、当然そんな内容がふくまれていたのである。
「ま、そういうことです」
「よし、京へゆくことを許す」
と、快然《かいぜん》として玄朴先生はいった。
「そして、帰って来たら、法印に見せる前に、ちょっとわしに見せてくれや」
「――は」
伯父の法印が、オランダ医者に恐怖《きようふ》を抱《いだ》いていることは陽馬も知っている。このたび必死に医心方《いしんぽう》を欲しがる心底には、その書物自体への渇望《かつぼう》もさることながら、新しい医学に対する古方の武器とするつもりらしいことも陽馬は看破《かんぱ》している。
――それをまず玄朴《げんぼく》先生に見せるといったら、伯父は眼をむくだろうな、と陽馬は考えた。しかし、あの伯父がそんなものを手に入れるより、玄朴先生の御研究の材料に供した方が意味がある。いや、玄朴先生よりも。――
陽馬はうなずいた。
「きっと、お目にかけまする」
「では、頼む。盗《と》って来い!」
と、玄朴は自分の用でも頼んだように大声でいって、スタスタ書斎を出ていった。
あとに陽馬と雪羽《ゆきは》だけが残った。
「玄朴先生にお目にかけるよりも、雪羽、おまえに見てもらいたい。――」
と、陽馬は笑って、ぼうとして坐《すわ》っている雪羽の肩に手をかけた。二人だけになると、呼びすてだ。そして彼は彼女に熱烈な接吻《せつぷん》を与えた。
さくら色の、きれいに濡《ぬ》れた唇《くちびる》は、いつもそれに劣らぬ熱烈な反応を示すのだが、きょうはその反応がない。――いま、ちと話が男女の機微に及びすぎたかな、と陽馬は思った。実は彼は、雪羽《ゆきは》がきいているからこそ、わざと玄朴《げんぼく》の前でそのたぐいの言語を弄《ろう》しすぎたきみがある。「房内篇《ぼうないへん》」の詳細《しようさい》は、彼自身にもまだ雲をつかむようなものなのに。
陽馬は、雪羽とまだ接吻《せつぷん》だけにとどまっている。どちらも家の許しを受けていない修行中の身の上として当然といえば当然だが、しかし吉原で鳴らした陽馬にとっては、自分でもへんだと思う。雪羽が彼に許しているのにまちがいはないが、それにもかかわらず彼女の名状しがたい清らかさ、或《ある》いは無邪気《むじやき》さが、透明《とうめい》なギヤマンの壁《かべ》みたいに、ふしぎに彼を隔《へだ》てているのだ。陽馬はそれにいらだって、実は彼女に対する教育の下心もあって、わざとそんな話をきかせたのであった。
もっとも陽馬にしてみれば、むろん空想的な春書ばなしで、さしたることもないのだが、それでも雪羽がひどく衝撃《しようげき》を受けたようすなのに、彼はいささか狼狽《ろうばい》した。
「それにな、これはたんに上様のおん秘事、ひいてはわが宗家たる多紀家の大事というばかりではない。――宗家の伯父の歓心を得ておけば、結婚問題にもいろいろ好都合だと思うてな」
と、彼はいいきかせた。
「わしの蘭学修行《らんがくしゆぎよう》でさえ歯がみして見ておるあの伯父だ。花嫁がやっぱりオランダ医者の門人だとあっては、こりゃ大もめになるにきまっている。だから、この際、奮発一番。――」
「――その御本が大丈夫《だいじようぶ》手に入るでしょうか?」
と、雪羽《ゆきは》はへんに嗄《か》れた声でいった。眼を宙にそそいで、
「――あなたはあまり気楽に承合《うけあ》っていらしたようですけれど、向うだって、そのような大事な御本、かんたんに盗《と》られるようなことにしていないでしょう。……」
雪羽が気を奪《うば》われていたのはそんなことか、と陽馬はほっとした。
「これはまだ先生にもいわぬ」
と、彼は声をひそめてささやいた。
「この世で、そなただけの耳に入れておくことだが……実はわし一人でゆくのではない。御公儀《ごこうぎ》の忍《しの》び組が同行する」
「御公儀忍び組?」
「左様。なんでもそれが女の忍者《にんじや》らしい。しかも、七人。――わしはその指揮者ということになっておる」
「七人の女忍者。――」
「この日本の文明の暁《あかつき》ともいうべき時代に――忍び組などいうおかしなものがまだ残存していたとは知らなんだ。医心方《いしんぽう》よりも珍品《ちんぴん》だ。まして女の忍者など。……」
陽馬はにやにやと笑った。
「しかし、ともかくも泥棒《どろぼう》くらいは出来るだろう。陽馬、そやつらをからかいつつ、その用件果して、すぐにここに帰って来る。面白い旅だ。雪羽《ゆきは》も土産《みやげ》話を愉《たの》しんで待っておれ」
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彼と七人のくノ一
一
――夜明前であった。
江戸城の中奥《なかおく》と大奥《おおおく》の中間あたりに、御|駕籠台《かごだい》下と呼ばれる場所がある。宏壮《こうそう》な建築群の輪郭《りんかく》が上半分だけ、黒々と浮びあがって、その中に数千人もの人間が眠っているとは信じられないような静寂《せいじやく》さだ。
建物の上半分だけ浮びあがって見えるのは、地に低く、しかし乳のように濃《こ》い霧《きり》が沈んでいたからだ。春の暁闇《ぎようあん》であった。
その庭の上に、丹波陽馬《たんばようま》と多紀法印《たきほういん》は坐《すわ》っていた。法印が陽馬をここへつれ込んだのだが、そこにいるのは彼らばかりではない。すぐうしろに八つの影が寂然《じやくねん》とひかえていた。……その正体を知りつつ、かつなんのために自分たちがここにいるかということを承知しているはずの法印が、カタカタと小さく身ぶるいしていたのは、たんに寒さのためばかりではなく、名状しがたい一種の雰囲気《ふんいき》のせいであったにちがいない。
八つの影は、ことごとく黒い頭巾《ずきん》と黒い衣服に身をつつんでいた。
……なるほど、忍者《にんじや》だな。
はじめ陽馬はそれを見て、感服し、また苦笑したくらいである。使命は京にある。ここは江戸城だ。いまから黒装束《くろしようぞく》でどうしようというのか。
……気分を出しておるわい。
しかし、その八つの影が、最初ここで相会してから一語の口もきかず、微風《びふう》に吹かれる毛ほども動かないのはさすがであった。それは性別はおろか、生物と無生物との弁別もつかないようであった。
――と、御|駕籠台《かごだい》の方から、二つの影が漂《ただよ》うように近づいて来た。
「……伊勢守《いせのかみ》さまじゃ」
下半身を霧《きり》にひたした二つの影のうち、一つは白い綸子《りんず》の頭巾《ずきん》で面《おもて》をかくしていた。もう一つはたしか前髪立《まえがみだ》ちで、これは小姓《こしよう》らしい。
「法印《ほういん》」
と、白い頭巾の人はしずかに呼んだ。
「は」
法印はお辞儀《じぎ》して、
「丹波《たんば》陽馬、召しつれましてござりまする」
阿部伊勢守は陽馬の前に立った。陽馬は平伏《へいふく》した。
「大儀《たいぎ》」
と、伊勢守はいった。
「苦しゅうない、面《おもて》をあげい」
――心中に、これも気分を出しておるわい、とつぶやきつつ顔をあげた陽馬は、頭巾のあいだから見下ろしているきれながの二つの眼と逢《あ》ったとたん、意志に反してはっとふたたび頭を下げかけた。
「仔細《しさい》は法印《ほういん》よりきいたであろう」
「――へへっ」
またしても、意志に反した声が出る。
阿部|伊勢守正弘《いせのかみまさひろ》、この若さで老中《ろうじゆう》首座として万人異議なく仰《あお》ぐその器量《きりよう》のゆえであろうか。また阿部家代々、その半数までが老中を勤めたという家柄《いえがら》の醸《かも》し出す風格のせいであろうか。或《ある》いはまた陽馬自身も無意識的に拘束《こうそく》されている徳川|直参《じきさん》の子としての血のなせるわざであろうか。
「おう、法印の甥《おい》とは見えぬ男前じゃが、よい面《つら》だましいを持った若者よ。さだめし、このたびの御用《ごよう》、みごとに果してくれるであろう。御苦労じゃが、一働きしてくれい」
「へへっ」
「徳川家のおんためじゃ」
実に自分でも奇怪《きかい》なことに思ったのだが、丹波《たんば》陽馬はこのとき眼じりに、何やら湿っぽいものを感覚した。
――これは一多紀家のためではない、まさに徳川家のための任務だ。誓《ちか》って、直参の名にかけて! と思わず心中にさけんで、こりゃたとえ首尾《しゆび》よく房内篇《ぼうないへん》を手に入れても、玄朴《げんぼく》先生に見せるどころではない、と反省した。
「甲賀豆翁《こうがとうおう》よな」
伊勢守《いせのかみ》はまた呼んだ。
「へへっ。仰《おお》せにより、甲賀のくノ一、七人召しつれてござる」
霧《きり》の底で、しゃがれた声がした。どうやら甲賀組の老首領らしい。
「お遊《ゆう》――お扇《せん》――お茅《かや》――お篠《しの》――お琴《こと》――お藍《あい》――お筆《ふで》、と申しまする。女人ながら、甲賀三百年の御恩を果すべきときはこの一儀《いちぎ》にあり、との覚悟《かくご》は肺肝《はいかん》に銘《めい》じさせておりまする」
伊勢守は歩み寄り、甲賀のくノ一たちにいちいちうなずき、
「頼み入るぞよ」
と、深い声でいった。
それだけである。伊勢守はそのまま、背を返して、小姓《こしよう》とともに霧《きり》のかなたへしずかに姿を没し去った。――しかし、老中《ろうじゆう》首席の人物が、この時刻、この本丸のまっただなかで親しく閲兵《えつぺい》したということは、事態のなみなみならぬことを実感させるものであり、かつこれだけのことでも、伊勢守の持つ徳は命ぜられた者を感奮させるに充分なものがあった。
しばらく、地には霧《きり》のながれるばかりであった。
「お。……夜が明けてはならぬ。では」
甲賀豆翁《こうがとうおう》が立った。黒い枯木《かれき》みたいな影だ。
「こちらへござれ」
――さて、それからどこをどう歩いたか、陽馬にはわからない。霧のせいもあったが、霧がなくても江戸城のこんなところにはじめて入った陽馬には、一切見当もつかなかったであろう。おそらく甲賀豆翁なる忍《しの》び組|頭領《とうりよう》は、ふだん城の内外の警備にあたるのが職なので、その地理には通じていたか、それともこのような場合の退出路は、古くからの慣習により、特別に知っていたのかも知れぬ。とにかく、陽馬がはじめ法印《ほういん》によってみちびかれた通路とはちがった。
そして、その多紀法印も、途中の小さな潜《くぐ》り門のところで、
「あなたさまは、あちらへ」
と、その向うへ押し出されてしまったのだ。
それからまだ数百メートルも、櫓《やぐら》の下や、ところによっては森の中すら走るように歩いて、と或《あ》る石垣《いしがき》と石垣の間に入りこむと、
「では、わしはここで。――ここをまっすぐにゆけば北桔橋《きたはねばし》に出る」
と、甲賀豆翁《こうがとうおう》は立ちどまった。
「いまさら、いうべきことはない。甲賀の興廃《こうはい》はかかってうぬらの双肩《そうけん》にある。ゆけ」
いったかと思うと、そのヒョロリとした黒い影は、ふっと消えてしまった。まだ暁闇《ぎようあん》といっていい大気の暗さだが、それにしても、まるでそこの石垣《いしがき》に溶《と》けこんでしまったとしか思われぬ消失ぶりであった。陽馬は眼をまじまじと見ひらいて薄明《うすあ》かりをすかしたが、そこにはたしかに石垣しかなかった。
しかし、これで彼は妙《みよう》な夢がやや醒《さ》めた感じがした。
「妙な縁《えん》じゃが、行《こう》を共にすることになった」
と、改めて彼はふりかえった。
「よろしくお願いするぞ」
暗い石垣と石垣の間を、黒衣のむれはもう先へ先へと歩いてゆく。跫音《あしおと》もたてず、しかも流れるような早さだ。
「ま、待て。――いまから急ぐことはない。ゆくては京だ」
と、彼はあわてて追いかけながら、この甲賀の女どもの懸命《けんめい》さと京での使命を思い合せると、ふいに可笑《おか》しさのこみあげてくるのを禁じ得なかった。
「おい、そなたら、京で盗《ぬす》むべきものが何であるか、知っておるのか」
七つの影は返事もせずに、小走りにさえなった。
陽馬はいささか小癪《こしやく》にさわった。
「これ、わしがそなたらの宰領《さいりよう》であるぞ。ともかくも隊員の顔を見せろ」
声には天性の活気がよみがえっている。石垣《いしがき》と石垣の間を出た。
「そもそもそなたら、そのいでたちで東海道を上るつもりか」
突然《とつぜん》、陽馬は立ちどまった。ゆくての巨大《きよだい》な石塁《せきるい》のあいだに門があり、門の向うにちらと橋の一部が見える。しかし、彼が眼を見張ったのはそれではない。――
やや広い場所に出たのと、霧があがってきたのと、夜明けの光が強くなってきたのとで、いまや彼ははっきりと七人の甲賀《こうが》の女を見た。――それが、黒衣《こくい》と黒頭巾《くろずきん》に身をつつんではいないのだ!
菅笠《すげがさ》をかぶった武家風の娘《むすめ》、鳥追《とりお》い姿の娘、巡礼《じゆんれい》――それから、何かの物売り――七人七色、ことごとく市井《しせい》や街道の風物詩ともいうべき姿に変っていた。では、先刻の黒装束《くろしようぞく》は大命を受けるときの彼女ら特有のコスチュームであったのか。
いったい、いつのまに変身したのだろう。いま、走りながらの衣裳《いしよう》変え――というより、その外をつつんでいた黒衣を脱《ぬ》ぎはらったに違いないが、先刻、粛然《しゆくぜん》として御|駕籠台《かごだい》下にひざまずいていた黒いむれとは、まったく別個の娘《むすめ》たちとしか思われなかった。
そして、その七つの顔もまた七種の花のように別々なことはもとよりだが、夜明けの光になんという妖《あや》しい美貌《びぼう》ぞろいだろう。
茫乎《ぼうこ》として口をあけている陽馬に、七人ははじめてちょっとお辞儀《じぎ》をした。武家風の娘が、優雅《ゆうが》な声でいった。
「あれが北桔橋《きたはねばし》でございます。いまはあの通りお濠《ほり》にかかってはおりますが、わたしたちが通りますと、すぐに鎖《くさり》で吊《つ》りあげられます。異例のことゆえ急いで渡るようにとのお頭《かしら》の言葉でございました。……それはそうと、あなたさまもそのお姿、旅装束《たびしようぞく》にお変えになった方がよろしゅうございましょう、丹波《たんば》陽馬さま」
二
――ま、待ってくれ。
実際、声にも出してそういったのは、まさかこの場からすぐ出立《しゆつたつ》するとは思っていなかったからだが、狼狽《ろうばい》はそういう手順の狂《くる》いからだけではなかった。
とにかく丹波《たんば》陽馬はいろいろなことで自分があわてているのを自覚し、一応心理的にも文字通り出直す必要があることを感じた。
――ちょ、ちょっと待て。五ツまで日本橋で待っていてくれ。
午前八時を約し、城外に出るや、陽馬は御徒町《おかちまち》へ急行した。
旅立ちの支度《したく》は秘密にしなければならぬ必要上、伯父の法印《ほういん》の家でやるつもりであったが、伯父はまだ下城してもいまいし、こうなったら象先堂《しようせんどう》へいって、急ぎ雪羽《ゆきは》にでも頼まなければなるまいし、それから玄朴《げんぼく》先生に、秘書を御|覧《らん》に入れることは御容赦《ごようしや》願わなければならぬ。……
が、御徒町《おかちまち》の和泉橋《いずみばし》通りの伊東玄朴医院に帰った陽馬は、ここでもまた、今朝以上の――それどころか、彼の二十五年の人生に於て、空前最大の衝撃《しようげき》を脳天に打ち下ろされることになったのだ。
例によって、もう行列を作っている病人たちをかきわけて家に飛びこみ、まず門人をつかまえて、
「雪羽《ゆきは》どのは御書斎か」
と、きいた。
「雪羽どのはおられぬようだ」
という返事であった。
「えっ? おられぬ――とは?」
「昨夜、旅支度《たびじたく》して出かけられた」
「雪羽が、ど、どこへ?」
「さあ、それがわしにもよくわからぬ」
そこへ、この問答の声をききつけて、診察中の玄朴《げんぼく》先生が飛び出して来た。手に一通の書状をつかんでいる。
「陽馬、よいところへ帰って来た。雪羽から、もしおまえが帰って来たら手渡《てわた》してくれるようにと、これを預かっておる。わしも読んでよいというから、わしだけ見た。まずこれを読め」
陽馬はくいつくようにその手紙を見た。玄朴から原稿清書役を命じられるほどの筆が乱れに乱れて。――
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陽馬さま、驚《おどろ》かないで下さい。
先刻、あなたさまからこのたびの御用《ごよう》のお話を承り、雪羽は心臓をぎゅっとわしづかみにされたような思いがいたしました。
お望みの医心方《いしんぽう》は、わたしの家にあるのです。わたしはまだ読んだことはありませんが、それは門外不出の秘宝として、何百年もわたしの家に伝えられているのです。
玄朴《げんぼく》先生にも偽《いつわ》りを申しあげて、おわびの申しようもありませんが、わたしは大坂の緒方洪庵《おがたこうあん》先生の姪《めい》ではありません。洪庵先生からただそういう御紹《ごしよう》 介《かい》 状《じよう》をいただいて江戸へ来た娘《むすめ》なのです。わたしがどうしても蘭学《らんがく》を勉強したいというのを父が怒《いか》り、かつ恥《は》じているのを知られて、洪庵先生が、そういうことなら身分をかくして江戸の伊東|玄朴《げんぼく》先生のところへゆけと、そういう風につくろって下すったのです。
おきき下さいまし。――
京の朝《ちよう》 廷典《ていてん》 薬《やくの》 頭《かみ》 半《なから》 井出雲守《いいずものかみ》広明、それが雪羽《ゆきは》の父の名なのでございます!
洪庵先生も、まさかこんなことが起ろうとはゆめにもお考えにならなかったでしょう。わたしもほんの先刻まで、こんな運命が訪れようとは想像もしなかったことでした。わたしは、丹波《たんば》陽馬さま、あなたが多紀|法印《ほういん》さまの御一族だということさえ、いままで知らなかったのです。
陽馬さまのお話をきいたときのわたしの驚《おどろ》き、それからの苦しみは、筆にもかけないほどでした。
けれど――結論から申しますと、医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》は、決して半井《なからい》家の人間以外には渡《わた》すことはなりません。決して、決して、決して! 半井|通仙院瑞策《つうせんいんずいさく》以来の血がわたしにそう命令するのです。
陽馬さま、わたしは急を告げに京へ馳《は》せ帰ります。
それでも、あなたは、あくまで秘書を求めて京へおいでになるでしょうか。――陽馬さま、あなたはきっとおいでになるでしょうね。わたしにはそう信じられるのです。
でも――そういうことになれば、陽馬さま! 陽馬さま! きっと恐《おそ》ろしい血が流れます。
どうなるのか、どういう運命がやって来るのか、わたしにはわかりません。わたしは、わたしの心がよくわかりません。乱れた心でこう書き残すのは、あなたがわたしを信じてこのたびの御秘命のことを打ち明けて下すった以上、わたしもわたしの素性《すじよう》を打ち明けないと公平でないと思うからです。
でも、でも、でも。――
それにしても、丹波《たんば》陽馬さま、ああ、あなたとわたしがこのように敵と味方に分れましょうとは!
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三
驚《おどろ》くな、といわれたってそりゃ無理だ。これが驚かずにいられるかってんだ。
ふだんの陽馬なら、こういったろう。いや、そんなことではいい足りない。――陽馬は白痴《はくち》のごとく茫然《ぼうぜん》とそこに立ちすくんでいた。時のたつのも知らなかった。
「陽馬、ゆくのか、ゆかぬのか」
とか、
「旅の支度《したく》は出来ておるのか」
とか、
「しかし、きっと血が流れると? そんなことはあるまい。雪羽《ゆきは》がそんなことをいうのがおかしい。向うが雪羽、こちらが陽馬なら、そんなことになるはずがない」
とか、
「こうと知ったら、いよいよおまえがゆかずばなるまい。おまえ以外の人間がゆくことになれば、いよいよ以て雪羽もぶじにはすむまいぞ」
とか、玄朴《げんぼく》先生がせっかちに騒《さわ》ぎたて、夫人や弟子に何やら命じて駆《か》け廻《まわ》らせているのを、まるで無縁《むえん》の人のように見たり聞いたりしていたばかりだ。いわんや、それに対してどう応《こた》えたか、まったく自覚がない。
気がつくと、丹波《たんば》陽馬は、深編笠《ふかあみがさ》に野羽織《のばおり》、手甲《てつこう》までつけて、ヒタヒタと歩いていたのである、御徒町《おかちまち》から日本橋へ。――
――おれはゆくといったのか?
ふと、深編笠をあげて、西の空を仰《あお》いで愕然《がくぜん》とする。
――おれは雪羽《ゆきは》と争って、雪羽の護るものを奪《うば》いにゆくのか?
陽馬の顔は蒼《あお》ざめた。わらじの足は釘《くぎ》づけになった。――が、けさ江戸城の奥《おく》ふかく、阿部|伊勢守《いせのかみ》さまの口から発せられた重々しい声がよみがえった。
――徳川家のおんためじゃ。頼み入るぞよ。
それに、玄朴《げんぼく》先生の声が重なった。
――おまえ以外の人間がゆくことになれば、いよいよ以て雪羽もぶじにはすむまいぞ。
その通りだ。あの伊勢守さまのお言葉あるがゆえに、玄朴先生の言葉がいっそう恐《おそ》るべき迫真性《はくしんせい》を帯びる。
陽馬は歩き出した。
「――あ、丹波さまだ」
「編笠《あみがさ》姿ながら、陽馬さまにちがいない。――」
遠くでそんな声がすると、あちこちばらばらにゆきつ戻《もど》りつしていた七つの女の影が一つになって集まった。――お江戸日本橋の橋の上。
黙然《もくねん》として歩み寄る丹波《たんば》陽馬を、
「まあ、りりしい殿御《とのご》ぶり。――」
「このような男前、甲賀組《こうがぐみ》のおとこ衆にはありませぬなあ」
「丹波さま、笠をあげて、ちょっとお顔を見せて」
くノ一たちはとり巻いて、息はずませた。
さすがに声はささやくようだが――しかし、無礼《ぶれい》なばかりになれなれしい眼、眼、眼だ。数刻前、江戸城の中で粛《しゆく》として秘命を受けていたくノ一とは別人のようだ。彼女たちは黒装束《くろしようぞく》とともに、それまで身につけていた儀礼《ぎれい》とストイシズムをもかなぐり捨てたかと思われる。
「このひとは、わたしのもの」
それにしても、すっ頓狂《とんきよう》な宣言とともに、一人が彼の笠に手をかけてのぞきこもうとした。
あわてて陽馬はその手をはらいのけたが、一瞬《いつしゆん》の間に、その巡礼《じゆんれい》の姿をした女が――くらっとするほどきれいな顔をしているのに、あきらかに白痴《はくち》にちかい印象であったのを見て、ぎょっとした。
「お、おまえは?」
「わたしはお藍《あい》」
と、それでも名乗って、女|巡礼《じゆんれい》はニヤッと笑った。
――と、気がつくと、まわりにたかっているのは六人だけで、一人離れて欄干《らんかん》につかまるようにしてこちらを眺《なが》めている旅の巫女《いちこ》風の女がある。
「あれは?」
「あれはお茅《かや》と申します」
と、女|飴売《あめう》りの姿の女がいった。
「でも、男ぎらい、男が世の中でいちばん恐ろしいというおかしなひとです。――」
見まわせば、ほかにも、武家風の娘《むすめ》、鳥追《とりお》い女、風車売《かざぐるまう》り、人形使いの女――七姿七態。
それにしても、半白痴的《はんはくちてき》、或《ある》いは男性|恐怖症《きようふしよう》らしい女も混じっているとは、甲賀《こうが》のくノ一とはへんなやつ、いや何の見どころあってあの甲賀組首領はあのような女を選抜《せんばつ》したのか。
「でも陽馬さま、なぜかさっきお見かけしたときより、妙《みよう》に沈んでいらっしゃいますね」
「いえ、緊張《きんちよう》していらっしゃるのです。御老中さまじきじきの御下知《ごげち》ですもの」
「それはそう。わたしたちも、いろいろな姿で一人の殿御《とのご》を囲んでいれば怪しまれます。さ、いま話した通り、みんな離れて、ばらばらに。――」
と、いうなり、武家風の娘《むすめ》、人形使いの女、風車売りの女、巫女《いちこ》の四人は、ト、ト、ト、ト……と先へ駆け出したが、あと三人は、
「わたしが陽馬さまと御一緒《ごいつしよ》!」
「いえ、わたしが。――」
と、いい争った。
――こういう女たちの指揮者を命じられたのか、おれは?
深編笠《ふかあみがさ》の中で、夢魔《むま》に憑《つ》かれたような顔をして、丹波《たんば》陽馬は、鉛に変ったかと思われる足を、しかし一歩|踏《ふ》み出した。早春の朝光まぶしい日本橋から、三歩、五歩、七歩。
西へ――京へ。
[#改ページ]
妖《よう》の宮
一
「――なに、公方《くぼう》のために?」
と、その賓客《まろうど》はさけんだ。
「それは面白い!」
と、ぎょっとするような大声で手を打って、天井《てんじよう》まで鳴りひびくような哄笑《こうしよう》をあげた。
魁偉《かいい》という文字を絵にかいたような人物である。年のころは三十前後、風体《ふうてい》は公卿《くげ》風だが、髪《かみ》は総髪《そうはつ》にしたままだ。まるで武芸者《ぶげいしや》みたいに隆《りゆう》 々《りゆう》たる筋肉をしているのに、そのくせ眉《まゆ》を剃《そ》って黛《まゆずみ》をつけ、歯は鉄漿《かね》で染めている。
前には足の高い膳《ぜん》が置かれ、膳には魚や蛸《たこ》のみならず、酒も見えた。
青蓮院《しようれんいん》の宮《みや》。
そうときいたからこそ、雪羽《ゆきは》はその前にひれ伏していたのである。――しかし、ここは京、烏丸《からすま》の半井《なからい》家であった。彼女のそばには父の半井|出雲守《いずものかみ》広明もひかえている。
東海道を早駕籠《はやかご》で乗りついで雪羽《ゆきは》が家に駆《か》け込んで来たのはその夕《ゆうべ》であった。彼女は疲労困憊《ひろうこんぱい》していたし、父も来客を饗応《きようおう》中だときいたが、一刻の猶予《ゆうよ》もならなかった。
勝手に江戸へ出て、勘当《かんどう》同様にしていた娘の突然《とつぜん》の帰宅に、ただごとならず、と、それでも出雲守は出て来て、別室に彼女を迎えた。そしてその注進をきいて出雲守は満面|蒼白《そうはく》になった。
「……ううむ、御公儀《ごこうぎ》が、忍《しの》び組を喃《のう》。……」
恐怖《きようふ》にみちた眼を宙にあげ、
「いっそ……、焼くか?」
と、放心状態でつぶやいたが、決断はおろか、判断もつかないらしく、やがて、
「うむ、偶然じゃが、よいお客がある。宮の御指図《おさしず》を願おう」
と、ひざをたたいて、さて雪羽を伴《ともな》って、その客――青蓮院《しようれんいん》の宮の前にまかり出たのであった。
雪羽は、このお方にお逢《あ》いするのははじめてだ。いや、青蓮院の宮などいうお名前をきくのもはじめてのことである。が、これが正真|正銘《しようめい》の宮様であることは、典薬頭《てんやくのかみ》たる父が、世にもうやうやしく、それどころか心からなる畏敬《いけい》の面色を以て御報告申しあげているようすからもあきらかであった。雪羽《ゆきは》の留守のあいだに、父はこの方の知遇《ちぐう》をかたじけのうし、わが家にお招きして御饗応《ごきようおう》申しあげるまでの御縁となったものであろうか。
ときどきうなずいてはいるが、青蓮院《しようれんいん》の宮はそのあいだにもぐいぐいと朱盃《しゆはい》を傾《かたむ》ける、眼はちらっちらっと雪羽にそそがれて、ほほう、というような笑いを浮べる。それが、どこやら不謹慎《ふきんしん》な、好色的《こうしよくてき》とさえいっていいまなざしだ。
そして――突然《とつぜん》、いま、
「……公方《くぼう》のために? それは面白い!」
と、さけんで呵々《かか》大笑したのである。――老中《ろうじゆう》阿部|伊勢守《いせのかみ》が公儀忍《こうぎしの》び組を使ってまでも医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》を欲するのは、どうやら将軍家の御不能を癒《い》やしたてまつるためらしい、と出雲守《いずものかみ》が告げたくだりであった。
「きいておる、きいておる」
と、宮は笑いながらいった。
「公方《くぼう》が御台《みだい》をもらおうとして薩摩《さつま》を打診しておることを。――」
「薩摩に? さ、左様でござりまするか」
「公方には世継《よつ》ぎを作らせとうはないな。……いや、その前に薩摩《さつま》から肘鉄砲《ひじでつぽう》くわされたら痛快であろうな」
宮様にもあるまじき下世話《げせわ》な言葉を御存じだ。また恐《おそ》ろしいことを仰《おお》せだ。
「出雲《いずも》、その房内篇《ぼうないへん》とやら、公儀《こうぎ》には渡《わた》すなよ」
「わ、渡そうにも、いま申しあげたごとく、以前すでに焼失せるむねお届けいたしたものを、いまさらさし出しはなりませぬ」
「しかし、公儀ではそれを信じてはおらぬのであろうが」
「さ、いかなればお信じ下さらぬのか。――」
青蓮院《しようれんいん》の宮はニヤニヤしたが、半井出雲守の方は、深刻な困惑《こんわく》といわんよりは、無惨《むざん》なばかりの恐怖《きようふ》の相だ。
「奥医師多紀法印《おくいしたきほういん》の執念《しゆうねん》に相違ござらぬが。――雪羽《ゆきは》の話より察するに、このたびは容易に忍《しの》び組の眼より逃《のが》れまじくおぼえてござりまする」
「焼くか」
出雲守の眼は苦悶《くもん》にとじられ、それからうめくようにいった。
「焼けば……半井家存続の意義がござらぬ! 半井家はただあの医心方《いしんぽう》を譲り、伝えんがために数百年つづいて来たと申してよい家でござる!」
「焼くな」
と、青蓮院《しようれんいん》の宮はいった。
「まず、きけ、出雲。その秘書は焼くな。また決して公儀《こうぎ》には渡すなよ。――これが、この事件について半井家のとるべき不動の鉄則じゃ」
自若《じじやく》としていったが、教祖的な迫力《はくりよく》があった。
「しかし、それをこの家に置いておくことは、そなたの案ずるように、甚《はなは》だ危険である」
「宮さま。……」
出雲守《いずものかみ》は、ふいに眼をひからせていった。
「いっそ宮さまがお預かり下さいませぬか?」
「麿《まろ》は危ないぞよ」
「――は?」
「それを持ってな、公儀《こうぎ》に売り込みにいったら何とする?」
「――ま、まさか?」
「わはは、いや何をするかわからぬやつじゃと、内々公儀から眼をつけられておるこの麿じゃ。売り込みはせぬが、決して安心できる預り先ではない。――さればとて、余人ならいよいよ以て、いつ気が変って恐《おそ》れながらと公儀に届け出るやも知れぬ。思えば、かようなもの一つでも、安んじて預け得る相手は天下にほとんどない。人の心はあてにならぬものじゃの、喃《のう》出雲《いずも》」
「はっ」
半井出雲守は泣かんばかりの表情になった。
「焼きもならず、置きもならず、預けるもならず――拙者《せつしや》はどうすればよいのでござりましょう?」
「いま、それを考えておる。――」
青蓮院《しようれんいん》の宮は盃《さかずき》を宙にとめたまま半眼になっていたが、
「これ、鴉丸《からすまる》を呼んでくれ」
といった。
「?」
解《げ》せぬ顔で、出雲守が立っていって、別室に待たせてあった宮の供の童子《どうじ》をつれて来た。宮はさしまねき、鴉丸の耳に何やらささやいた。鴉丸はすぐに飛び出してゆく。
「?」
不安そのものの表情で見送る出雲守に、青蓮院の宮はにたっと笑いかけた。
「それはそうと出雲、かんじんの――その医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》とやらを見たいの」
二
青蓮院《しようれんいん》の宮|尊融《そんゆう》法親王。
伏見《ふしみ》の宮|邦家《くにいえ》親王の第四王子。
戦国時代ほどではないが、宮家の扶持《ふじ》など安旗本にも及ばぬころの――しかも天皇家とは血統上必ずしも近くない伏見の宮家の第四子である。八歳のとき、宮の諸太夫|某《ぼう》の子として本能寺《ほんのうじ》に出された。
のちの眼から見ると想像もつかないようなことだが、まったく小僧《こぞう》としての扱《あつか》いであったらしい。伊勢《いせ》出身の当時の志士、世古格太郎《せこかくたろう》の「倡義見聞録《しようぎけんもんろく》」によると、このころ宮は僧徒《そうと》に追い使われ、味噌《みそ》こし提《さ》げて豆腐《とうふ》を買いにゆき、或《ある》いは坊主の恋文《こいぶみ》を持って祇園《ぎおん》の娼家《しようか》に使いに出されるといったありさまであったらしい。
やや長じて、伯父の奈良一乗院|尊常《そんじよう》法親王が亡くなったのでそのあとに入り、十八歳にして興福寺別当《こうふくじべつとう》をも兼ねるに至った。
そして、去年三月――二十八歳にして彼は京に帰り、青蓮院を相続したのである。だから、当時京にいなかった雪羽《ゆきは》が、この方《かた》のことをまったく知らなかったのもむりはない。
世人呼んで青蓮院《しようれんいん》の宮といったが、また「狂《くるい》の宮」とか「風狂《ふうきよう》親王」とか呼ばれた。その行状がいかなるものであったか、右の世古格太郎の見聞録によると、
「みずからを大塔《だいとう》の宮に比したまい、衆徒に武芸を習練すべしと命ぜられ、みずからも御力量を添《そ》えたまわんと大俵《おおだわら》を庭に置かせられ、ときどきこれを持ちたまいしが、ついには五斗俵《ごとだわら》の量ある大俵を上げたまうに至れりとぞ。また甲冑《かつちゆう》野剣などを御用意あり、禁中炎上のとき、即時に長服を召し、野剣を佩《はい》せられ、歩行にて参ぜられたまいけり。
つねに御頭を剃《そ》ることをきらいたまい、長髪《ちようはつ》のこと多し。少々御肥肉の方にて、御物語のときは至って大声なりき。御性質ともにさらに柔《にゆう》 弱《じやく》のところなく、俊逸英邁《しゆんいつえいまい》にましませり」
のちに討幕運動の黒幕として、井伊大老《いいたいろう》の大獄《たいごく》の対象としても眼をそそがれたのも当然なおひとである。
それが、単純な大塔の宮の再来かというと、この方の智謀《ちぼう》と野心はたんげいすべからざるものがある。孝明《こうめい》天皇第一の懐《ふところ》 刀《がたな》としてしきりに攘夷《じようい》を吹きこまれたが、京都所司代の観測によると「真実の御意内は、外夷打払《がいいうちはら》いの儀強《ぎし》いて主上にお勧め、叡慮《えいりよ》の御趣意相立たざる上は御譲位《ごじようい》然るべしと申す立場におとし候《そうろう》おたくみの由」とあり、「青門(青蓮院)の御|奸計《かんけい》」という評を与えられたくらいである。つまり孝明天皇の御譲位を余儀《よぎ》なくしてみずから皇位の背後につき、江戸では水戸を将軍職につけ、東西相応じて日本を手中にしようという陰謀《いんぼう》を臆測《おくそく》されたのである。
政治的にではなく、御習性の上にも妖気《ようき》を孕《はら》んでいるところがある。
例の西郷《さいごう》とともに投身した月照《げつしよう》の弟|信海《しんかい》という僧《そう》から「太元帥《たいげんすい》八印」という真言《しんごん》秘密の調伏法《ちようぶくほう》を伝授されたり、また石清水《いわしみず》八幡宮の如雲《じようん》という僧に雉《きじ》をいけにえに呪殺《じゆさつ》の修法《しゆほう》を依頼したり、しかもこの呪殺の対象がだれであるかということが世に取沙汰《とりざた》され、
「宮、何か石清水に於《おい》て誰《だれ》と申す僧を語らい呪咀《じゆそ》これあるの候由。宮、予の位を取り奪《うば》い候由の儀、風説に承り候えども云々《うんぬん》」
と、孝明天皇みずから青蓮院の宮に下された宸翰《しんかん》がいまに残っているほどである。
これらの事件、また世に「魔王《まおう》」という称さえ生れたのは後年のことだが――その青蓮院の宮がいま、
「医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》は公儀《こうぎ》に渡《わた》すなよ」
と、半井|出雲守《いずものかみ》に命じたのだ。
「御英邁《ごえいまい》なれどもおん移り気なり」とも評された人のことだから、たんに思いつきであったかも知れないが、いま口走った「公方《くぼう》には、世継《よつ》ぎを作らせとうないな」という言葉が、この時点に於《おい》ては真実の本心であったと見られる。いずれにせよ、半酔《はんすい》の言動ながら、これに触《ふ》れる人間を催眠術《さいみんじゆつ》にかけてしまうような強烈な天性の迫力《はくりよく》があった。
そして、さらに、
「麿《まろ》にもその房内篇《ぼうないへん》を見せい」
といったのである。
半井出雲守はためらい、しかし催眠術にかかったように、やがてうやうやしく何やら捧《ささ》げて持って来た。
古ぼけた袱紗《ふくさ》をほどくと、一巻の紺色《こんいろ》の巻物が現われた。
「医心方《いしんぽう》第 廿《にじゆう》 八《はち》巻房内篇でござりまする」
出雲守広明はおごそかにいった。
「…………」
その粛然《しゆくぜん》たる気に打たれて、さしもの宮も盃《さかずき》をおき、いずまいを正し、両手でおしいただくようにそれを受け取った。
しばらくその巻物をそのままでしげしげと見る。
「元来は一行約二十一字、半丁十一行、四十丁を袋綴《ふくろと》じにいたしてあったものの由でござりまするが、傷《いた》みを恐《おそ》れ、のちに軸《じく》をつけ、袋綴じの紙をひらいて裏打ちし、紺《こん》の表紙をつけ、このような巻物に変えたのでござりまする」
「ほほう」
といいながら、宮は紐《ひも》をといて、スルスルと巻物をひらいた。
それから読み出した。
「至理第一、玉房秘訣《ぎよくぼうひけつ》にいう。……それ一陰一陽これを道といい、精を交え、生に化するを用となす。その理の遠きかな。……」
ここまでまず口に出して読んだが、あとは黙《だま》って眼を走らせる。その眼が異様なひかりを帯びて来た。
「なるほど。――」
と、うめき、
「ううむ、まことに至理至言《しりしげん》。――」
と、ひざをたたく。
ときにまた感にたえたように声に出して読む。
「女を御《ぎよ》するには、まさに朽《く》つる綱《つな》をもて荒馬《こうば》を御するがごとく、深き穴に臨み刃《やいば》あり、その中に落つるを恐るるがごとくすべし。……」
「人、年三十以下は多く放恣《ほうし》なり。三十以上はすなわちまた気力とみに衰退《すいたい》するをおぼゆ。衰退すればすでに衆病起るに至る。ゆえに年三十に至らば、すべからく房中《ぼうちゆう》の術を知るべし。……」
「交わりの道は、ただ従容《しようよう》とおちつき、和を以て貴しとなすべし。その丹田《たんでん》をもてあそび、深く撫《な》で、少し揺《ゆ》るがし、以てその気を致《いた》せ。女、陽に感ずるにまたきざし[#「きざし」に傍点]あり、その耳熱く甘酒《うまざけ》をのむがごとく、その乳ふくれ、これを握《にぎ》るに手に満ち、うなじしばしば動き、両脚ふるい、みだれなまめきて男の身に迫《せま》る。……」
「――父上!」
雪羽《ゆきは》は出雲守《いずものかみ》の手をつかんでささやいた。
彼女は先刻からのなりゆきを眺《なが》めていて、心みだれ、ついにたまりかねたのだ。相手を宮様と思い、また名状しがたいその妖気《ようき》におしひしがれて黙《だま》っていたが、これはあまりといえば。――
「そ、その巻物、な、半井家以外のお方に、そうたやすうお目にかけてよいものでございますか!」
「――あ」
半井出雲守はわれにかえった。
一種の催眠術《さいみんじゆつ》にかけられていたことは、出雲守は雪羽以上である。去年三月、京に帰って来た宮にふとしたことから知遇《ちぐう》をこうむって以来のことだから、ほとんど癒《い》やすべからざる重《じゆう》 症《しよう》ぶりだが――わが娘《むすめ》のこの声は、わずかに彼の正気をとりもどさせた。
「宮。――」
「また五臓の液はかならず舌にあり。交わりのときにあたり、舌の液と唾《つば》を多くふくまば、人をして湯薬を服《の》むがごとくならしめ、逆気《のぼせ》はたちまち下り、皮膚《ひふ》は悦沢《えつたく》し。……」
「ち、父上!」
雪羽はさけんだ。
青蓮院《しようれんいん》の宮は、「房内篇《ぼうないへん》」から眼を離して、じろりとこちらを見た。
「ははあ、いかんか」
しかし、きれながの眼は笑っている。
「愛らしき顔に似ず、気丈《きじよう》な娘のように見ゆる」
「父上。……わたしは江戸から急ぎ帰りました。けれど、女の旅でございます。あとを追って御公儀忍《ごこうぎしの》び組とやらがいつ発足したのか存じませぬが」
と、雪羽はいった。
「いま、こうしているあいだにも、もはや家の外に迫《せま》っているかも知れないのでございます。……」
「では、事が一段落したのち――また改めて、ゆるりと見せてもらうことにしよう」
と、宮はいって、ゆっくりと巻物を巻きおさめた。――それから、耳をかたむけている顔になった。
けげんな表情で出雲守《いずものかみ》がきく。
「事が一段落したのち?」
「されば、それまでほかの者に預けておけい」
「ほかの者とは?」
宮は黙《だま》って立っていって、そこの障子をひらいた。
すでに夜に入っていて、春のおぼろ月のけぶった庭面《にわも》を見下ろして、半井出雲守も雪羽もあっとさけんだ。
そこに八つの影が凝然《ぎようぜん》とひれ伏していた。
三
童子の声がいった。
「宮様、伊賀衆《いがしゆう》七人、召し連れましてござりまする」
――さきほど、何やら宮に命ぜられて、どこやら駆《か》け出していった侍童鴉丸《じどうからすまる》の声だ。なるほどその影だけは小さい。
しかし、あと七人、たしかに大人の、しかも黒衣黒装束《こくいくろしようぞく》の影が巨大な蜘蛛《くも》のようにそこに平伏している。――いったい、いつのまにこんな連中が、この家の庭に入りこんでいたのだろう?
かっと眼をむいて、出雲守《いずものかみ》はあえいだ。
「こ、こ、これは?」
「麿《まろ》が手飼《てが》いの伊賀者《いがもの》じゃ」
「宮が伊賀者を。――」
「先刻、公方《くぼう》が薩摩《さつま》に縁談《えんだん》を申し込んでおる、と申したであろうが。例えば、それを探り出したのはこの者どもじゃ」
青蓮院《しようれんいん》の宮は快笑した。――果然、いまさらのことではないが、ただの宮様ではない。
それにしても青蓮院の宮がなぜ伊賀者などを身辺に近づける機会を持ったのか。――むろん、それはだれにもわからないが、彼は京へ戻《もど》る以前十数年も奈良に住んでいたことがある。しかも興福寺《こうふくじ》の別当《べつとう》である。その塔中《たつちゆう》の一つに宝蔵院《ほうぞういん》があり、宮はそのころ宝蔵院流|槍術《そうじゆつ》を学んだといわれる。それほどの宮が、奈良からほんの一足の距離《きより》にある伊賀――音に聞えた忍法者《にんぽうもの》のメッカに眼をそそがないことがあろうか。
宮とこれら伊賀者とのつまびらかなる因縁《いんねん》は知らず。――
「いまの話、そのような役には立つ男どもであるぞ」
「房内篇《ぼうないへん》をこの方々に預けるのでござりまするか」
「不安か」
むろんのことだ。宮はきゅっと唇《くちびる》をまげて笑った。
「そう思うのは当然だ。その秘書を預けるのは、そのものどもではない」
「は?」
「そなたの娘《むすめ》。――そこにおる雪羽《ゆきは》じゃ」
「雪羽。――」
「さっきから、麿《まろ》がさまざま思案した最善の法がこれじゃ。雪羽がそれを持ってこの家を逃《に》げる。京を逃げる。どこへゆくか、それは雪羽にまかす。ともかくも、公儀忍《こうぎしの》び組の魔手《ましゆ》から逃《のが》れるのじゃ。この伊賀者《いがもの》たちはその雪羽を護る」
「あ!」
半井|出雲守《いずものかみ》は雪羽をかえりみ、また庭の黒い影を見下ろした。
青蓮院《しようれんいん》の宮はいった。
「公儀の甲賀者《こうがもの》がいかなるものであるか、麿《まろ》もおぼろげながら知っておる。それに対抗し得るものは、この七人の伊賀者以外にないぞ。それだけはいっておく。よいか、出雲。――」
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彼女と七人の伊賀者《いがもの》
一
――秘書を抱《いだ》いて逃《に》げるとして、いつまで?
という問いに対しては、
「左様さ、まずこの秋あたりまで」
と、答える。
どうやら公儀《こうぎ》の縁談《えんだん》申し込み――将軍家に島津|斉彬《なりあきら》の養女|篤姫《とくひめ》をもらいたいという――に対する薩摩《さつま》の返答期限がこの十月ごろということになっているらしい。それまで「房内篇《ぼうないへん》」を公儀《こうぎ》に入手させなければ、この婚儀《こんぎ》は破談になるかも知れず、万一成立してもその後のなりゆきこそ観物《みもの》であるという。
――逃げるのは、どこへ?
という問いに対しては、
「左様さ。東海道は日が照り過ぎるな」
しばし考えて、
「例えば、北陸道から中仙道をぐるりと廻《まわ》って京へ帰って来てはどうじゃ。それに半年かけるもちとこまると申すかも知れぬが、まずその道中の心づもりでな。――」
と、いう。
いささか漠然《ばくぜん》たる指示だが、どこへ逃《に》げるといっても、逃げるそのことが目的であるし、いつまでといっても敵のあることだから、これ以上確とした指示はだれにも出来なかったかも知れない。
いかなる機縁《きえん》でか、この宮にすっかり魅《み》せられ切った半井出雲守《なからいいずものかみ》ではあるが、さすがに娘《むすめ》をこの旅に、この護衛者と称する連中とともに送り出すということには、まだ不安を拭《ぬぐ》いきれない表情であった。
それよりも、そもそもこの宮が――こちらからおすがり申したこととはいえ――なんでまたかくも俄然《がぜん》張り切って、秘蔵の忍者《にんじや》七人を貸してまで肩入《かたいれ》しようとなさるのか。匕首《あいくち》を求めて大刀を与えられたような顔つきの出雲守のそんな心事を読んだか、
「出雲、焼いたと届けた医心方《いしんぽう》を今さらさし出したとて罪は免《まぬか》れぬぞ。いまとなっては、とことんまで秘し了《おわ》せるほかはない。――いや、消極的に半井家の存亡のみを思うな。積極的に朝廷のおんためを思え。医心方は文字通り禁闕《きんけつ》の秘本であるべきじゃ。すぼけ[#「すぼけ」に傍点]公方《くぼう》の萎《な》え麻羅《まら》のために伝えられたものではない。少なくとも、いまはそのときではない。――」
にんまりと、しかし鼓舞《こぶ》するがごとくいい、
「いまに見よ、出雲《いずも》、いまに日輪は西のこの京の空にまわり、医心方《いしんぽう》を白日にかがやかすときが来るぞ。むろん、同時に半井《なからい》家もその光を浴びることになる。そのためにこそ半井家は連綿数百年、その秘書を伝えて来たのではないか。その日はきっと来る。来させずにはおくものか。――」
と、慨然《がいぜん》と黛《まゆずみ》をあげていった。
まさに青蓮院《しようれんいん》の宮がこの一件にこれほどひと肌《はだ》ぬぐのは、公儀《こうぎ》に対する叛骨《はんこつ》のなせるわざであったろう。
「は、――」
と、思わず出雲守《いずものかみ》はその気迫《きはく》にいちどひれ伏して、それから、
「若《も》し、その御公儀忍び組に追いすがられましたる際は?」
と、きいた。
「斬《き》れ」
身の毛もよだつ答が返って来た。
「奪《うば》わせぬと決した以上、斬るよりほかはない。すでに忍《しの》びの者を使って盗賊《とうぞく》にひとしき所業《しよぎよう》をさせんとしておる相手じゃ。みな殺しにすればとて、文句のつけようはないはず。――」
「き、斬《き》れますか」
「そのためにこそ七人の伊賀者《いがもの》を呼んだのではないか」
――その七人の伊賀者は先刻宮からいきさつをきき、うなずいて、みないずれかへまた風のように退散したのであった。あとには――侍童鴉丸《じどうからすまる》一人が、いまは縁側《えんがわ》にあがってちょこなんと坐《すわ》っているだけだ。
「鴉、あれを持って来たか」
鴉丸がすすみ寄って、何やら小さな包みを渡した。
「これを雪羽《ゆきは》にやっておこう。コルトじゃ」
雪羽は前に置かれたものを見て、眼を見ひらいた。それは一|梃《ちよう》の拳銃《けんじゆう》であった。
「操作については、伊賀者のうち、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》という男にきいて修練するがよい。万一の際はこれを使え」
そのとき、庭で声がかかった。
「まずそれをお使いなさるようでは、われらのついていった甲斐《かい》がないと申すものでござる」
宮はふりむいて、破顔した。
「お、支度《したく》がととのったか」
さっきいちど消えていた七つの影が、いつのまにやらまた音もなく庭に戻《もど》って来ていた。それを見下ろして、出雲守《いずものかみ》はまた口の中で何やらもごもごといった。
それほど時間もたっていないのに、そこに坐《すわ》っているのは先刻の黒装束《くろしようぞく》ではなかった。おぼろ月の中に、武士二人、山伏《やまぶし》、六部《ろくぶ》、雲水《うんすい》、それにこの暗さではちょっと見当がつかないが、たしかに異風の態《てい》に見える男二人。――その中の武士の一人がスルスルと寄って、
「われら、さきほど相談したのでござるが、雪羽さま、髪《かみ》を短く切られておる御様子、その髪かたちにて女の旅姿は人目をひきましょう。されば、一応これにて身をおやつしなされた方がよろしかろう」
と、縁側に何やら載《の》せた。
見ると――天蓋《てんがい》、袈裟《けさ》、尺八《しやくはち》などの虚無僧《こむそう》の装束《しようぞく》一式である。
「や、これは一案。よう気がついた。では、すぐに立てるな、仁《に》右衛門《えもん》。――」
「いや、つらつら拝見するに雪羽さま、いたくお疲《つか》れのようで、東海道乗りづめでおいでなされたとあればむりもござらぬ。ひとまず休まれませい」
錆《さび》のある、おちつきはらった中年の声であった。
「われら夜明けまで待ち、万一怪しき者が当|屋敷《やしき》に近づけば、ただちにお知らせ申す」
二
――チト臭《くさ》い。起きて下され。
その知らせを出雲守《いずものかみ》が伝えてゆり起すまで、雪羽《ゆきは》は白い泥《どろ》みたいに眠った。
起きて、生れてはじめての虚無僧《こむそう》の衣裳《いしよう》を身につけ、一巻の房内篇《ぼうないへん》と一|梃《ちよう》の拳銃《けんじゆう》をふところに。――
「頼んだぞよ、雪羽。――」
万感こめた父の声をあとに、京の町へ走り出し、一路東へ駆《か》けぬけてゆくまで彼女はまだ夢うつつであった。
気がつけば、前後左右をヒタヒタと音もなく七つの影が駆けている。そのころから、さすがに雪羽はわれに返った。同時に、春の夜明け前というのに、ぴいっと寒風のようなものが体内を吹きすぎたのは、自分が途方《とほう》もない使命を抱《いだ》いて、途方もない旅に出かけたという自覚から来たものであった。
「蹴上《けあげ》でござる」
そばにくっついていた韮山笠《にらやまがさ》の武士がいった。遠く暁闇《ぎようあん》に浮びあがる京の寺院や塔影《とうえい》の方をふりかえって、
「チト臭《くさ》いと思うたが、疑心暗鬼《ぎしんあんき》か。――近よって来るやつはござらぬな」
と、うなずいて、まわりを呼んだ。
「おう、京を離れるにあたって、ここらあたりで雪羽《ゆきは》さまに、もういちど自己|紹介《しようかい》をしておこうではないか」
それに対して、
「同感じゃ。それより、こっちの方がもういちど改めて雪羽さまのお顔が見たい。――」
という声があった。
韮山笠は横を見て、街道の右手にある竹林の中へ雪羽を導いた。あとのめんめんもあとを追う。
やがて一同は、雪羽を中心に輪をえがいた。醒《さ》めたつもりだが、なお夢見心地で彼女は天蓋《てんがい》をぬいだ。
「オ、オ。……おう!」
「こりゃまた天上の名花一輪。――」
「な、なんで虚無僧《こむそう》など、そのようなお姿にさせた。――」
そんな嘆声ともうめきともつかない息が、風のように竹林を渡った。嘆賞どころか、いささか無礼《ぶれい》にちかい眼もいくつか見たような気がして、雪羽はきっとなった。
「拙者《せつしや》、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》でござりまする」
と、韮山笠《にらやまがさ》の武士がいった。夜明けの光に、鋼鉄《こうてつ》のきびしさと青銅の重厚さを浮びあがらせた中年の男だ。
「愚僧《ぐそう》と同じく、この一党中、堅物《かたぶつ》の双璧《そうへき》で。――」
と、ならんだ雲水《うんすい》がいった。ひょうきんにいったのではなく、その通り、まじめというより沈鬱《ちんうつ》にちかい語調で、
「愚僧、木《き》ノ目軍記《めぐんき》と申す」
「軍記はおかしいな」
と、三番目の六部《ろくぶ》姿の男がいった。
「やはり、坊主らしい名をつけておくがいい」
「淫学坊《いんがくぼう》はどうじゃ?」
と、四番目の山伏《やまぶし》が銅鑼声《どらごえ》をさしはさんだ。
雲水の蒼白《あおじろ》い細長い顔は、しかし笑いもせずにまじめにかしげられて、それから荘重《そうちよう》にうなずいた。
「淫学坊。よかろう。性科学に心をかたむけておる拙僧《せつそう》にはふさわしい名かも知れぬ」
「わたしは麻打助十郎《あさうちすけじゆうろう》と申しまする」
と、六部《ろくぶ》が改めて名乗った。これはいい男だ。いい男だが、すこし間のびがしている。口のあたりもしまりなく、いまにも涎《よだれ》が垂れそうな口調で、
「よろしくね」
と、雪羽《ゆきは》の肩《かた》に手をかけそうにした。――その手を、ピシャリと山伏《やまぶし》がたたいた。
「わしの前で、妙《みよう》な手つきをするな助十。――わしは釜戸朱膳《かまどしゆぜん》、このたびはあなたさまの御守護を仰《おお》せつけられ。……」
まるで心臓でも悪いように、はっ、はっ、とはげしい息で中断しながら、とぎれとぎれにいう。しかし、やや肥満体であから顔をしているが、決して病人とは見えない。それどころか、背もいちばん巨大で、満身精気にふくれあがっているようだ。毛虫のような眉《まゆ》、ぎらぎらとひかる眼、厚い唇《くちびる》のはしからつき出している一本の黄色い犬歯。――醜悪《しゆうあく》というより凶暴にちかいその面貌《めんぼう》に見すえられて、雪羽は息もつけなくなる思いがした。
「拙者《せつしや》はあ、山寺杏兵衛《やまでらきようべえ》え。――」
五番目の浪人《ろうにん》風の男が横からいった。声が飴《あめ》の糸をひいているようだ。これはまんまるくふとっている。禿《は》げてはいないのに、妙《みよう》に毛のない感じで、声のみならず、ぽてぽてふとった色白の肉がいまにもだらりと溶けてしたたりそうな弛緩《しかん》した印象だ。
ただ、眼だけは熱心にかがやいて――それもとろっとした感じだが、
「あなたさまのためにはあ、いつでも死にますう」
と、いった。
「かっ」
六番目の男が、そんな息の破裂音のような――しかし鋭《するど》い声を出した。
「こやつ、女とみれば牝犬《めすいぬ》にでも、いつでも同じせりふをいう。――おれは、烏頭坂天八《うずざかてんぱち》」
これがさきほど烏丸《からすま》の屋敷《やしき》で正体のよくわからなかった男の一人だ。いま見れば、頭を白木綿《しろもめん》で行者《ぎようじや》包みにつつみ、白《しろ》い短い行衣《ぎようい》を着て、片手に鈴、首には卍《まんじ》と書いた偈箱《げばこ》をかけている。足ははだし[#「はだし」に傍点]だ。――名乗ったきり、彼はむっと口をへの字にした。
「?」
雪羽の不審《ふしん》を察してか、雲水《うんすい》の木《き》ノ目軍記《めぐんき》が教えた。
「おんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]という願人坊主の一種でござる。御行《おんぎよう》と書くべきか隠形《おんぎよう》と書くべきか。――知らず、天神の絵を売って歩くのを渡世《とせい》といたすが」
結んでいた烏頭坂天八《うずざかてんぱち》の口が、かっとまたひらいた。
「いっておく。うぬら、忍者《にんじや》の天命に叛《そむ》いたやつは、おれが天誅《てんちゆう》を下すぞ」
だれにいったのかわからない。何を警告したのかもわからない。――しかし、その小柄《こがら》で痩《や》せた異装《いそう》の願人坊主の苦行僧的な面貌《めんぼう》からは、精悍《せいかん》というより凄惨《せいさん》の気が放射されていた。
「もうひとり」
と、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》が促《うなが》して、見まわして、重々しく苦笑した。
「あれにおるが。――来るのがこわいのか?」
いわれて、気がつけば、そこから数メートルも離れたふとい二本の孟宗竹《もうそうだけ》のあいだから、こちらをのぞいている投頭巾《なげずきん》の白い顔があった。
「こわければ、そこでよい。お辞儀《じぎ》せい」
男はちょっと横に――うしろへすざって、投頭巾の頭を下げたが、ちらとこちらを盗《ぬす》み見たその顔がぽうとあからんだようだ。袖無羽織《そでなしばおり》にたっつけ袴《ばかま》、これも首から箱を下げている。
ふいに雪羽まであかくなった。それは実に美少年であった。水もしたたる――といいたいが、六部《ろくぶ》の麻打《あさうち》助十郎もそんな感じがないでもないから、この形容は避《さ》けたい。消えも入りなんあえかな美しさといおう。
「手ぐるま売りの装束《しようぞく》でござる」
「…………」
「俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》と申しまする」
「…………」
「あの美貌《びぼう》で、病的に女をこわがるので。――」
「…………」
「甚《はなは》だ失礼な御挨拶《ごあいさつ》ですが、あれはあれでよろしい。なまじ女が近づくと、ただではすまぬ魔性《ましよう》の若衆でござれば」
何やら茫《ぼう》とした顔つきをしていた雪羽は、そのとき暁の風が竹林の露《つゆ》を降らせていったのに、はっとわれに返った。
「雪羽です。よろしくお願いいたします」
しかし、彼女は考えていたのだ。これがわたしを護ってくれるという伊賀者《いがもの》たちであろうか? あの青蓮院《しようれんいん》の宮が秘蔵の忍者《にんじや》と誇《ほこ》られる者どもであろうか? と。
首領格と見える狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》が指図していた。
「追跡者の気配はないが、念のため。――思うところあって行装をかく異にしたが、かたまって歩けばちとおかしい。みな、ばらばらにゆくとしよう。ただし、一里離れようと哨戒《しようかい》の網《あみ》の目は洩《も》らすなよ」
三
蹴上《けあげ》から山科《やましな》へ。山科から大津《おおつ》へ。
琵琶《びわ》は春光の湖であった。水も樹《き》も家も人も、すべてまばゆい光の中にゆらめいているように見えた。――雪羽《ゆきは》の眼には。
むろん、愉《たの》しんでいるのではない。雪羽自身の心がゆらめいているのだ。彼女はなお迷っていた。
思い出せば、昨夜からのことは、ただ青蓮院《しようれんいん》の宮にあやつられる人形のようであった。しかし、宮の処置を誤っていると考えているわけではない。それどころか、実際問題としてはこれよりほかに法はないのかも知れない。おそらく半井《なからい》家を存続させる唯一《ゆいいつ》の手段であろう。――にもかかわらず、彼女の心はゆらめいている。
動揺しているといえば、江戸を立った日から雪羽はそうであった。
――医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》は、決して半井家の人間以外には渡すことはなりません。決して、決して、決して!
そう陽馬《ようま》に宣言はして来たのだが。――
おお陽馬さま! あなたは、それでも秘書を求めて京へおいでになるでしょうか? きっとおいでになるでしょうね?
雪羽はいまも心にそうさけびつづけている。そして、うなされたような眼を街道にそそぐ。
大津から草津《くさつ》へ。
もし陽馬たちが京へ来るとすれば、このあたりで両者がゆき逢《あ》っても決してふしぎではないことになるけれど。
いや、そのことを恐れればこそ、一刻をも争って北陸路へ逃《のが》れ去ろうとしているのだが、しかしわたしたちが北陸路へ逃《に》げ込んでそのゆくえを絶ってしまったら、陽馬さまはどうなさるのか。江戸城へわざわざ召されて、御老中から秘命を受けられたはずの陽馬さまは?
「急げ、急げ」
うしろから来たおんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]の男が、ひとりごとのようにつぶやきながら、前へすれちがっていった。――烏頭坂天八《うずざかてんぱち》だ。
京から草津まで六里二十四丁。ここまでは東海道も中仙道《なかせんどう》も同じだ。草津から左へ折れて中仙道に入り、鳥居本《とりいもと》というところからさらに左へ、北国道へ入ってゆく。――その予定だ。
危ないのは京から草津までのあいだで、いま天八が歩みなずむ女の足を督促《とくそく》したのもそのためだが、しかし雪羽は考える。たとえゆき逢《あ》えばとて、陽馬さまがわたしをおわかりになるであろうか? ほかの伊賀者《いがもの》などに気づく由もないが、こんな、女だてらに虚無僧《こむそう》姿をさせられたわたしを、雪羽とお見分けになれるであろうか?
――実に雪羽は、この両者の道が相重なる近江《おうみ》の街道で、逃《のが》れなければならぬ相手とゆき逢うことを、心ひそかに期待しているのであった。
なんたることか!
江戸に残した置手紙に、「わたしは、わたしの心がわからない」と書いたけれど、雪羽は、いまこの期《ご》に及んでも、自分で自分の心がわからない。いま陽馬さまとゆき逢って、わたしはどうしようというのか。
「お疲《つか》れか」
韮山笠《にらやまがさ》がならんだ。狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》だ。
「草津はそこでござりまする。女の足で――しかも昨夜江戸から帰られたばかりでむりもないが、草津から中仙道へ入ればもう大丈夫《だいじようぶ》」
力強い声が、むしろ腹立たしい。
「中仙道に入ってすぐ、小川二つ渡れば閻魔堂《えんまどう》がある。そこで休まれい。その節も、念のため木《き》ノ目軍記《めぐんき》を御守護にあてまするゆえ、御安心なされて」
そして韮山笠《にらやまがさ》は、大股《おおまた》に土ほこりをあげながら、一足先へ草津の宿《しゆく》へ入っていった。
草津は、本陣《ほんじん》、脇《わき》本陣が二|軒《けん》ずつ、旅籠《はたご》に至っては四百数十軒という大きな宿場だ。東海道と中仙道が合流するところで、それだけに人馬の往来も絡繹《らくえき》としている。天蓋《てんがい》の中で雪羽は眼をいっぱいに見ひらいて、行人の中を探した。
やがて、町を二つに分ける草津川のほとりに出る。「みぎ東海道・ひだり中仙道」と彫《ほ》った石の道標の立つ追分《おいわけ》で彼女は佇《たたず》んだ。見やるのは、右の東海道のかなただ。
「来ませぬかな」
と、陰気な声がかかった。
「来られては一大事じゃが。――しかし、あなたさまは、来るという公儀忍《こうぎしの》び組の顔を御存じなのかな?」
網代笠《あじろがさ》をかたむけて、ひょろりと立っている木ノ目軍記であった。
雪羽はふりむいて、はっとしたきり、とっさに言葉を失った。
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最初の接触《せつしよく》
一
実は雪羽《ゆきは》は、秘書を盗《ぬす》みに西上して来る者が女|忍者《にんじや》であることを父にもいっていない。ただ公儀忍《こうぎしの》び組だとだけいい、それは江戸の伊東|玄朴邸《げんぼくてい》へ来た幕府の要路者と玄朴先生との対話をふともれきいたことだと報告した。
なぜか雪羽は、それが女忍者だとまでいうと、その指揮者はだれかということを問い糺《ただ》されそうなおびえを感じたからであった。理窟《りくつ》ではない。その指揮者たる丹波陽馬《たんばようま》こそ恐怖《きようふ》の核心《かくしん》であり、それを隠蔽《いんぺい》したいという心理が、彼をとりまくおんな星たちにまで及んだのだ。
むろん雪羽がその女忍者たちを知っている道理がないから、彼女の探し求めていたのは陽馬だが、それにしてもいま、木《き》ノ目軍記《めぐんき》に「敵を知っているか」ときかれて狼狽《ろうばい》したことに変りはない。
しかし木ノ目軍記がそうきいたのは、別にそれほどの底意はなかったのか、それともそれ以上の追及をする気もなかったのか、
「さ、参りましょうず」
と、うながした。
「ともあれ、中仙道へ」
それに抵抗《ていこう》するいわれはない。雪羽は万感にゆれさわぐ眼をとじて、軍記について左の中仙道へ入ってゆく。――
これで自分と医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》は、公儀忍《こうぎしの》び組から逃《のが》れたことになる。たとえ敵が江戸から自分のあとを追って来たとしても、東海道を西へ、むなしく京へ入ってゆくことであろう。しかし、それでは陽馬さまはどうなるのか?
うららかな春日《しゆんじつ》の下を、まるで霧《きり》の中をさまよう気持で、橋を二つ渡った。忍《しの》ぶ川橋、笠川《かさがわ》橋、そんな橋の名を読む余裕《よゆう》はない。
木ノ目軍記も黙《だま》って歩いている。その網代笠《あじろがさ》の下の思案顔が何やら曰《いわ》くありげだ――と、やっと雪羽が気がついたとき、彼は杖《つえ》をあげて、
「京から七里、しかも急ぎに急がせて、さぞお疲《つか》れでござろう。あそこで一休みして参ろう」
と、路傍《ろぼう》の閻魔堂《えんまどう》をさした。
閻魔堂の縁《えん》に坐《すわ》る。両人とも黙々《もくもく》と。――もとより話すことなど、あるわけがない。青蓮院《しようれんいん》の宮《みや》御秘蔵の伊賀者《いがもの》とはきき、先刻めいめいの自己|紹介《しようかい》を受けたが、雪羽はまだ彼らがどんな人間であるのかよくわからない。それどころか、伊賀者そのものにも何の知識も興味もない。
それにしても――この木ノ目軍記など、蒼白《あおじろ》い痩《や》せた顔はしているが、どこか学者じみたところがあり、まだいい方だが――総じて、どうもあまり、ぞっとしない護衛者たちだ。
そもそも、敵をやりすごしてこの中仙道へ逃《のが》れ出た以上、もはや彼らに護ってもらう必要もないのではないか。ここまでの礼をいい、ひきとってもらっていいのではないか?
そのことを、雪羽が申し出ようと顔をあげたとき、木ノ目軍記も網代笠《あじろがさ》をこちらへ向けて、
「雪羽さま」
と、呼びかけた。
「その……御所持の房内篇じゃがな。それを拙僧《せつそう》に、ちょっと拝見願われますまいかな?」
雪羽はきっとなった。それを見て軍記は、気怯《きおく》れしたようにまばたきし、が、すぐに勇を鼓《こ》したかのごとく舌で褐色《かつしよく》の唇《くちびる》をなめていう。――
「それが稀世《きせい》の大秘書であることは宮より承った。であると知ればいっそうかいま見とうござる。いや、拙僧《せつそう》らは、その秘書を護られるあなたをさらに護るが任務、従ってわれらが何もその秘書の中身を見る必要はないと仰《おお》せられればそれまでじゃが、ただ拙者《せつしや》にかぎり……先刻もちょっと申したが、拙者、年来性科学に傾倒《けいとう》しておるものでござれば。――」
果然、この軍記が思案顔をしていたのはこのことであったのだ。――が、陽馬にさえ見せぬと宣言したこの秘書の内容を、この胡乱《うろん》な伊賀者《いがもの》に見せてなろうか。雪羽はいった。
「おまえのいう通りです。おまえが読む必要はありません」
「あなたは?」
「わたし?」
「あなたは御覧になったことがおありかな?」
雪羽の途惑《とまど》った顔色を見て、軍記はニヤリと笑った。
「あなたも御覧になったことはなかろう。おそらく――お読みになれるはずがない」
「なぜ?」
「では、読んで御覧なされ」
「その手には乗りません。べつにわたしが――わたしも読む必要はありません」
「それはおかしい。あなたはその秘書を伝える半井《なからい》家の息女、また承れば江戸にゆかれて蘭方《らんぽう》を修行されたお方ときく。それが、子供の使いではあるまいし、かくまで苦労して持ち歩くものの中身について、何も存ぜられぬとは、むしろ恥ではござるまいか?」
そそのかすようなその口吻《こうふん》より、すぐその前の「あなたのお読みになれるはずがない」という言葉が雪羽にひっかかった。
もともと学問好きな雪羽だ。蘭語《らんご》を学ぶ以前には、いささか漢方の書も読みふけったこともある。――この房内篇《ぼうないへん》が自分に読めぬと?
軍記には答えず、雪羽はふところから例の紺色《こんいろ》の巻物をとり出し、紐《ひも》をといて、そっとひらいて、思わずまばたきをした。
読めない! あの青蓮院《しようれんいん》の宮はスラスラと読まれたのに。――
狼狽《ろうばい》して、なおひらく。
「……又云凡初交会之時男坐女左女坐男右乃男箕坐抱女於懐中於是勒繊腰撫玉体申※[#「女+燕」、unicode5b3f]婉叙綢繆。……」
まったく歯が立たない。
二
「また云《い》う。およそはじめて交わるの時は、男は女の左に坐《ざ》し、女は男の右に坐す。すなわち男は箕坐《きざ》して女を懐ろに抱《いだ》く。ここに於《おい》て繊腰《せんよう》をおさえ、からみ合い、もつれ合い。――」
すぐ耳のあたりで声がした。いつのまにか、木ノ目軍記がよりそって、のぞきこんでいる。
「箕坐とは、両足投げ出して坐ることでござる」
と註釈して、なお次を読みつづける。
「心同じく、或《ある》いは抱き、或いはおさえ、ふたり相搏《あいう》ち、両口相着く。男は女の下《した》 唇《くちびる》をふくみ、女は男の上唇をふくみ、ともに吸い合い、その唾《つば》をのむ。或いはゆるやかにその舌をかみ、或いはわずかにその唇をかみ、上を撫《な》で下を撫で、千嬌《せんきよう》すでにかさね、百慮《ひやくりよ》ついに解く。……ははあ、つまり、前戯でござるな。なるほど、なるほど。――」
スラスラと流れるように読む。巻物を見れば、「一時相吮茹其津液或緩噛其舌或微※[#「齒+乍」、unicode9f5a]其唇」とあるところあたりらしい。
このえたいの知れぬ伊賀者《いがもの》が――と雪羽は驚《おどろ》き、かつ自分の学問の足りないのを、相手の予言した通り、まさに恥《は》じた。
「すなわち女の左手に男を抱《いだ》かしめ、男は右手を以て女を撫《な》ず。ここに於《おい》て男、陰気に感ずればすなわちふるう。そのさまたるや、峭然《しようぜん》としてそばだち孤峰の銀河に臨むがごとし。女、陽気に感ずれば、すなわち丹穴《たんけつ》うるおう。そのさまたるや、さめざめと流れ泉の深谷に湧《わ》くがごとし。これすなわち陰陽感激して然《しか》らしむるにして、人力の致《いた》すところにあらざるなり。……これはいよいよ寸前のいちゃつきでござるな」
軍記はとうとう巻物を自分の手に移してしまった。この世の万象《ばんしよう》は、理解する者にまず権利がある。――クルクルとひもときつつ、手当り次第に読む。
「女を御するに臨みては、まず女をして手をゆるめ、身を安んじ、屈せしむ。男、その口を吸い、その門戸を打つ。しばらくすればおもむろに入る。これをゆり動かすことなかれ。自然に生熱し、かつ急す。女身、まさにおのずから動く。廿《にじゆう》 一息《いつそく》をすぎ、左右を研磨《けんま》すれば、女かならず死を求め、生を求め、命を乞《こ》う。……」
ふとわれに返ったように顔をあげた。
「おわかりかな」
雪羽は茫乎《ぼうこ》としていた。わかって茫乎としたのではない。全然わからないといえばうそになる。しかし、正直いまの軍記の読みながしてゆく声を理解するより――ただ、彼女は呆《あき》れていた。この伊賀者《いがもの》の学力に対してである。
「青蓮院《しようれんいん》の宮さまに御教授申しあげたほどの拙僧《せつそう》でござる」
痩《や》せた僧形《そうぎよう》の男の頬《ほお》に、ちょっと得意の色があった。
「わしに師はない。独学でござる。伊賀の山中にあって、いかにしてひとりこの軍記がこれほどの学問を体得したか、といえば、そのもとは春書でござる。古今東西の艶本《えんぽん》でござる。あなたにお教えしておくが、およそ人間、語学に関するかぎり、艶本以上の師はござらぬ」
大まじめに、じゅんじゅんとしていう。
「で、この秘書を教科書として、これよりあなたに御教授申しあげてもよいが。……」
ちょっとくびをかしげた。
縁《えん》の下から蓬々《ほうほう》と青い草が顔をのぞかせている閻魔堂《えんまどう》、そこに坐《すわ》っている虚無僧《こむそう》と雲水《うんすい》、雪羽はなお天蓋《てんがい》をかぶったままであったが、軍記の方はいつのまにか網代笠《あじろがさ》をとって、ひざの上の巻物をかくすようにしている。
前の街道を、鈴を鳴らして馬が通る。武士が通る。車が通る。旅人が通る。ときどき、こちらにならんでいる雲水と虚無僧のとり合せに、ちらとふしぎそうな眼を投げる者もあったが、ただこれものどかな春の近江路《おうみじ》の風物詩と見てゆきすぎるだけであった。
「これが千年前の房術書《ぼうじゆつしよ》でござるかな? いま読んでみて、なるほどこの道ばかりは、千年東西を通じて相同じ……と感ずるところもあるが、しかしそれだけに、これらのことはいま改めて学ぶまでもござらぬようじゃな。とくにこの淫学坊《いんがくぼう》といたしては。――かようなものが、江戸の萎《な》え公方《くぼう》にどれだけ役に立つものでござろうか?」
なお巻物を繰りつつ、
「ほ」
と、眼をふいにひからせた。
「異《い》なことが書いてあるぞ。……いま、強いて交わらんと欲するに起たず、顔恥じ心|羞《は》じ、汗、玉のごとし。何を以てこれを強くせん。願わくばその道をきかん。答えて曰《いわ》く、女の溢《あふ》るる精をあつめ、液を口にとれば、精気|還化《かんげ》し、脳に満つ。……や、話にきいた還精の法とはこれか」
やや昂奮《こうふん》した声とはべつに、剃《そ》った青い頭がかしげられた。眼が街道の方に移っている。
「公方《くぼう》の求めるはまさにこれ。……」
その口にこぶしがあてられた。
「ふっ」
息の音がした。
その口から銀の糸のようなものがほとばしり出たのを雪羽は見た。
銀の糸は、ちょうど前の街道を通りかかった風車売りの女に吹きつけられて、一瞬《いつしゆん》に消えた。いま見たものは幻覚《げんかく》ではないか、と雪羽は自分の眼を疑ったほどである。
赤い投頭巾《なげずきん》にたっつけ袴《ばかま》をはき、背に小さな箱を背負い、唐傘《からかさ》をさした若い女であった。その傘、箱に無数の風車がとりつけられているのはもちろん、頭巾にさえ横っちょに数本の風車《かざぐるま》がクルクルと廻《まわ》っている。――女風車売りは、何のこともなく、こちらさえ見ずにゆきすぎていった。
「ははあ」
と、軍記がいった。
「やはり、来たか。……しかし、ちと面妖《めんよう》じゃ」
「何がです」
「女が?――まさか?」
雪羽は愕然《がくぜん》としていた。
「では、いまいった風車売りが、あの公儀忍《こうぎしの》び組の。――」
彼女は、思わず立ちあがってそのゆくえを見送り、また反対の――いま来た草津の宿《しゆく》の方をながめやった。陽馬さまが来たというのか? 陽馬さまはどこに?
――そ、それにしても、いまの女が?
「雪羽さま」
と、木ノ目軍記が眼をあげた。
「公儀忍び組が女であることもご存じでござったか?」
三
「京を出るとき――何者かが半井《なからい》家をうかがっておるような気がする――という意見が一致《いつち》して、あのように早々に出て来たのじゃが、わしらの鼻は風邪《かぜ》をひいてはおらなんだ」
と、軍記はいった。
「先刻からな、この前の街道をゆきすぎた旅の女の中に、どうも妙《みよう》な匂《にお》いのするやつがある。この匂いはちょっと説明が出来ぬ。わしらの鼻のみが感ずる微妙《びみよう》なもので――しかも、そのわしらも近づけばかえってわからなくなるような匂い――それが、たしか、さきに通った巡礼《じゆんれい》の女と、鳥追《とりお》いにふっと感じた。そしてまた、いま来たあの風車売りにも同様。――」
巻物を読みつつ、彼がそんな鼻を働かせていようとは、雪羽にはまったく思いのほかだ。
「で、念のため、いま針を吹いてみたのでござる」
と、軍記は平然という。
「針といってもたんぽぽの毛のようなものでござるがな。それはあの女の頭巾《ずきん》にさした五本の風車をみんな止《と》めた」
それも気がつかなかった。
「同時に止った音でそれはわかるはず。傘《かさ》や箱の風車はみんな廻《まわ》っておるのじゃから、不審《ふしん》に思って、常人ならばふっと足を止めるはず。――しかるにあの女、そ知らぬ顔でスタスタとゆきおった。こちらを意識しておるからでござる。笑止《しようし》や、それでかえって正体をあらわしおった。――」
軍記は片頬《かたほお》に笑みを浮べた。
「それにしても、早くもよう尾《つ》けて参ったな。さすがは公儀忍《こうぎしの》び組じゃ。さるにてもあなたの御守護にわれらをつけられたところ、青蓮院《しようれんいん》の宮はいかにも御炯眼《ごけいがん》。――もとより覚悟《かくご》の前のことではあるが、しかし女とはちと驚《おどろ》きましたな。また逆に、女と知れば、一同かえって手を打って悦《よろこ》ぼう。いや、もはやこのこと、気づいておる者もあろうと思うが――やがて麻打《あさうち》助十郎がここへ参るはず、とりあえず、助十と相談しよう。それまで、雪羽さま、御案じなく、ここでお待ち下され」
かろく縁《えん》をたたいた。雪羽はまだ立ちつくしている。
来た。やはり、来た。――陽馬さまと忍《しの》び組の女たちが。
彼らが京に入る以前にこちらが京をぬけ出し、中仙道に逃《に》げこもうというもくろみは――いちどは完全に離脱《りだつ》したと思ったが、事実はそうではなかったのだ! 恐怖《きようふ》が雪羽の足をしびれさせた。
――にもかかわらず、その恐怖の足もとから這《は》いあがってくるこの安堵感《あんどかん》、むしろよろこびにちかい感情は何としたことだろう。
「何を以て女の快を知るや、曰《いわ》く、五徴《ごちよう》、五欲あり。以てその変を見てそのゆえを知る」
軍記は学者のように房内篇《ぼうないへん》を読んでいる。
「それ五徴は、一にいう、顔赤くば、おもむろにこれに合わす。二にいう、乳かたく鼻に汗すれば、すなわちおもむろにこれに入る。三にいう、のどかわき唾《つば》をのめば、すなわちおもむろにこれを動かす。四にいう、陰なめらかなれば、すなわちおもむろにこれを深くす。五にいう、液つたうれば、おもむろにこれを引く。――ふむ、このおもむろに[#「おもむろに」に傍点]というところをよくよく玩味《がんみ》すべきじゃな」
陽馬さまは来る。
逃《に》げるべきか。逃げては陽馬さまがこまる。
渡すべきか、渡しては半井《なからい》家の進退はきわまる。
「五欲の一にいう、意、これを得んと欲せば、息を止め、気を止む。二にいう、陰、これを得んと欲せば、すなわち鼻口ともに張る。三にいう、精|煩《わずら》わんとすれば、振掉《しんちよう》して男を抱《いだ》く。――はて、これはどういう意味か? ははあ、男が意に満たぬと女は身もだえするという意味か。――四にいう、心満たんとすれば、すなわち汗ながれて衣を濡《ぬ》らす。五にいう、その快、甚《はなは》だしからんとすれば、身は直に、目はつむる。――うむ、これは法悦《ほうえつ》の極をさすのじゃな」
軍記はひざさえたたいた。
「千年前の房中《ぼうちゆう》の観察の精到《せいとう》、ううむ、これは決して侮《あなど》るべからざるものがある!」
巻物がカサカサと音をたてた。
「おう、これからが本題じゃ。九法、三十法、九状、六勢、八益、七損《しちそん》。……どうやら一儀《いちぎ》の体立、運動が微《び》に入り、細をうがって説いてあるらしい。――」
「軍記。――」
と、雪羽はわれに返った。
「わたしは、医心方《いしんぽう》を盗《ぬす》もうとして来た者が、公儀忍《こうぎしの》び組の七人の女であることを知っているのです」
それについて反問しようとする軍記の口を封じたほど、何やら思いつめた雪羽の眼であった。
「それを盗ませることはなりません。といって、盗ませないでは、かえって御公儀のお怒りを求めることになりましょう。だから。――」
雪羽の眼はかがやいていた。彼女はやっと半井《なからい》家を救い、陽馬をも助ける唯一《ゆいいつ》の法を見つけ出したのだ。
「だから――医心方はあくまで護り、その内容だけ、それとなく向うに――向うのだれかに――知らせてやったらどうでしょうか? それで向うの願いは満たされるのではないでしょうか?」
雪羽は知らなかったのだ。その内容を。
心うつつに、軍記の読み声をききつつ、まだ房内篇《ぼうないへん》の真髄《しんずい》を知らなかったのだ。
「それとなく知らす?」
軍記がいった。
「房内術を、読ませずに教えろ――と申されるのでござるか、雪羽さま」
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前 戯
一
「さあて、それはいかがあらん」
と、木《き》ノ目軍記《めぐんき》がくびをひねった。
「房術《ぼうじゆつ》の内容を教えれば、房術書を渡したと同じことになるではござらぬか?」
「…………」
「教えるといって、いったいだれに教えるのでござる?」
「…………」
「そもそも房術を、それとなく教えるとは、いかにすればよいのでござるかな?」
「…………」
なんといわれても、雪羽《ゆきは》には返答のしようがない。実にむりな要求だということは承知しているし、教えたい相手がだれかということは口に出来ないのだから当然だ。ただこれがこのたびの二律背反《にりつはいはん》の使命を果す唯一《ゆいいつ》の法だということだけはわかっている。
「またかりにそれが出来たとして、その術を敵が知り、その結果|公方《くぼう》の萎《な》え麻羅《まら》が常態に復したら――なんのために宮が苦心の工夫をめぐらされたのか、まったく無意味のことと相成る。そのようなことは、宮の御本意ではござるまい」
「わたしは宮様のためにこの旅に出たのではありません」
雪羽はいった。だだッ子じみた調子でくびをふり、
「わたしは、わたしの家のためにこの巻物を護るのです。そして半井《なからい》家を救うためには、そうするよりほかはないという判断に達したのです。この旅に関するかぎり、おまえたちはわたしの命令に従ってくれないとこまります。もし従えないというなら、みなここから京へ帰って下さい!」
「――ほほっ」
と、軍記はちとめんくらった顔をした。
「や、助十が来おった。ではあれと相談いたそう」
草津の方から、六部《ろくぶ》がやって来た。
美男だが、少なからずにやけた麻打《あさうち》助十郎は、閻魔堂《えんまどう》の軍記に呼ばれ、この話をきき、また敵の忍《しの》び組は女であることをきくと、
「ほう、敵はくノ一とや」
と、しまりのない顔をいよいよゆるめ、
「かまわんじゃないか。房術《ぼうじゆつ》をそのものずばり、からだでそのくノ一どもに教えてやればよかろう」
と、ニヤニヤした。
間のびした顔に似合わぬ実に明快な着想で、「なに、敵のくノ一に?」と学者的な軍記があっけにとられたほどであったが、べつに助十がとくに頭がいいわけではなく、党中、女たらしということでは自他ともに認める麻打助十郎の脳髄《のうずい》は、女と房術という二つの命題をいとも簡単に連結させたにすぎない。
「なるほど喃《のう》。しかし、ちょ、ちょっと待ってくれ。これは重大じゃ。さらに一同を招集してこの件について諮《はか》らねばならぬ」
というと木ノ目軍記は、墨染《すみぞ》めのたもとから、妙《みよう》なものをとり出した。薄黄色《うすきいろ》い骨みたいなものだが、巻いた糸を解くと、二個の小片になった。
「伊賀《いが》の骨笛《ほねぶえ》と申す」
と、軍記は雪羽に説明して、その二個の骨の凹部《おうぶ》をたがいにこすり合せた。虫のような奇妙《きみよう》な音波が発した。
「いずれも男女の骨盤《こつばん》のかけらで、一つは男の恥骨《ちこつ》角をかたちづくる部分、一つは女の恥骨弓をかたちづくる部分でござる。われら七人、だれもがこの一組を所持しておる。何者かこれをこすり合せると、一里以内ならば、他の者のたもとでこれが切々と鳴く。その鳴き方で、だれが呼んでおるかがわかる。――」
雪羽はあっけにとられたまま、声もない。
一里あまりにわたって、前後して伊賀者たちは歩いていたのだが、その距離《きより》から来たとは信じられない早さで、前方から釜戸朱膳《かまどしゆぜん》、烏頭坂天八《うずざかてんぱち》、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》、後方から山寺|杏兵衛《きようべえ》、俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》らが駆《か》け集まって来た。
「重大な話がある。みな、こちらへ来てくれ。……雪羽さまは、しばらくここでお待ちを」
といって、軍記は一同を閻魔堂《えんまどう》の裏の杉林の中へ導いた。
まず、公儀忍《こうぎしの》び組が女であることをいい、さらにその両三人がすでに接触《せつしよく》したことを告げると。――
「ううむ、そういえば、おれも異な匂《にお》いのするやつを見たぞ、飴売《あめう》りの女じゃが。――」
と、烏頭坂《うずざか》天八が猿《さる》のような声でさけんだ。
それから、雪羽の望みと麻打《あさうち》助十郎の着想をいうと、その天八と狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》がまず反対した。いかなる手段であれ、秘書の内容を知らせることなど以てのほかだというのだ。これに対して、それならば伊賀者《いがもの》は手をひいてもらいたいという雪羽の要求を軍記は告げた。
「……ちと、おかしいな、その願いは?」
天八は猜疑《さいぎ》にみちた眼をすえたが、そのとき釜戸朱膳《かまどしゆぜん》がいい出した。
「助十の案に賛成する。そのくノ一どもをなぶってやろう」
べつにみな意外な表情はしない。朱膳ならこういうにきまっている。そういっているあいだにもぎらぎらと眼をひからせ、舌なめずりしている釜戸朱膳であった。
しかし、つづいて、こともなげに吐《は》いた言葉には、みなちょっと息をとめた。
「なぶったあとで殺せばよい」
「では、秘書の術を教える、ということは?」
「半井《なからい》の娘には、所望《しよもう》通りにあちらに教えたといえばよい。からだで教えるよりほかに法はなかったといえばよい。教えたあとで、向うが敵対したからやむを得ず殺したとでも何とでも。――こちらの目的は、甲賀《こうが》のくノ一を殺す、ということじゃ。なぶるのは、その前戯といってもよい。――」
殺すという言葉が、唾《つばき》のようにはね出して来る、実に好色と凶暴の肉塊《にくかい》ともいうべき釜戸朱膳《かまどしゆぜん》であった。
「それはあ、ちと。――」
山寺|杏兵衛《きようべえ》が辟易《へきえき》した顔で、
「朱膳の意見はあ、前半はよろしいがあ、後半はあ。――」
「要するに、ばらばらじゃな」
と、軍記がうなずいた。
「わしはな、はじめあの雪羽さまの望みをきいたときはくびをかしげたが、その後考えるところあって、それをいれる気になった。助十の案を面白いと思い、さらには朱膳《しゆぜん》の着想をもまたよしと思う。それどころか、房内篇《ぼうないへん》の内容を敵に教えろという雪羽さまの要求、知らせてはならぬという青蓮院《しようれんいん》の宮の御要求、この二律背反《にりつはいはん》の命題をかなえるには、朱膳の意見以外に法はない。そもそも宮は、公儀忍《こうぎしの》び組に追いすがられたときは斬《き》れと仰《おお》せられたではないか?」
例の学者のようにしずかな調子で、じゅんじゅんという。
「房内篇の内容を、公儀の忍び組、甲賀《こうが》のくノ一のからだを以て実験するということは、われら伊賀者《いがもの》の本懐《ほんかい》ではあるまいか?」
「いったい医心方《いしんぽう》房内篇とはどのような内容なのじゃ?」
と、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》がきく。軍記は微笑《びしよう》した。
「……九法の第一を竜翻《りゆうはん》という。女をして正しく上に向いて伏せしめ、男その上に伏す。八浅二深。死往きて生《せい》返り、勢いさかんにしてかつ強し。女すなわち煩悦《はんえつ》し、その楽しみ娼女《あそびめ》のごとく、おのずから閉ずるに至る。――第二を虎歩《こほ》という。女をして俯伏《うつぶ》し、男そのしりえにひざまずく。進退|相迫《あいせま》り、五八の数を行わば……」
朗々と暗誦《あんしよう》した。
「竜翻とは青竜が空を飛ぶかたち、虎歩はもとより虎の歩むかたちじゃ。表現はものものしいが、本邦《ほんぽう》でいう、本間どり、うしろどり、この淫学坊《いんがくぼう》の命名によれば、対向正常位、また男上背位にあたる。――」
「ははあ、おぬし、わしたちをもふくめて研究材料にしたいのじゃろうが」
「率直にいえば、そうだ。その法、その状、その勢い、すなわち体位、動作、緩急《かんきゆう》にわたり千変万化の内容をわしが講義する。おぬしら、甲賀《こうが》のくノ一を相手にそれがやれるか。それをやってこそ伊賀者《いがもの》の本領というべし。――」
「おだてるな」
狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は苦笑したが、その眼が宙に坐《すわ》って、
「しかし、相手が甲賀のくノ一というところが面白いの。――」
と、いった。きわめて厳《きび》しい重厚な風貌《ふうぼう》を持っているだけに、そのつぶやきはいっそう恐ろしいものがあった。
「かっ、よし、やれ!」
と、烏頭坂《うずざか》天八が一喝《いつかつ》した。
「ただし、甲賀のくノ一をなぶるという目的にはずれ、淫《いん》に溺《おぼ》れ、伊賀者の本心を失ったと見たらおれが天誅《てんちゆう》を下すぞ!」
一同はもとの閻魔堂《えんまどう》にもどった。
雪羽はなお縁《えん》に坐《すわ》っていた。かげろうの中に、凝然《ぎようぜん》として天蓋《てんがい》が動かない。――軍記が告げた。
「雪羽さま、どうやらあなたのお望みを果すべき妙策《みようさく》を打ち出してござる」
その声も聞えぬかのように、また彼らの姿も見えぬかのように、雪羽の虚無僧姿《こむそうすがた》は、春風にまるで凍《こお》りついたようであった。
二
黄色い蝶《ちよう》が舞い、白い花びらが散って来る。
草津から中仙道に入り、忍《しの》ぶ川橋にかかる手前に、一人の飴売《あめう》りが立っていた。
籐笠《とうがさ》をかぶり、左|肩《かた》に三本の長い足のついた桶《おけ》をかけ、その足の間から出した左手に鉦《かね》、右手に撥《ばち》を持って、カーン、カーン、とたたいている。桶の上には紅白の飴が入れられて、地に下ろせば三本の足で立つしかけだ。
籐笠の下の顔は女であった。しかも、いかにも軽やかな円顔で、恐ろしく色っぽい。これでは子供より大人の方がくっついてくるだろう女|飴売《あめう》りだ。
果せるかな、子供が集まるより早く、中仙道をやって来た空駕籠《からかご》の雲助《くもすけ》が、ゆきすぎかけて立ちどまり、駕籠を下ろしてなぶるのにかかった。
女は平気だ。遠くからでも野卑《やひ》な言葉を浴びせていることがあきらかな二人の裸虫《はだかむし》に、笑顔で応対している。それがまたこの雲助相手にはもったいないような媚笑《びしよう》だ。
遠くから、深編笠《ふかあみがさ》の丹波《たんば》陽馬はそれを見ていた。
甲賀《こうが》のくノ一、お琴《こと》。彼女が橋のたもとに立ちどまったのを見て、彼も立ちどまったのである。――東海道を京へ馳《は》せ上る途中、陽馬はくノ一たちの色っぽさに辟易《へきえき》したが、なかんずく持て余したのはこのお琴だ。美しい上にきわめて挑発的《ちようはつてき》で、天性の浮気女ではないかと思われる。とうてい公儀忍《こうぎしの》び組の女とは思えない。
決して朴念仁《ぼくねんじん》ではない丹波陽馬だが、この女づれの旅ばかりは気が重い。浮気どころではない。――彼の胸に鉛《なまり》の像のように沈んでいるのは雪羽の面影《おもかげ》だけであった。
――房内篇《ぼうないへん》をいかにすべき?
――雪羽をいかにすべき?
この二命題はまだ解決していないのに、いまあきらかに先にいっていたお琴《こと》が自分を待ち受けているらしい気配を見て、思わず足をとどめたのは、それどころではない、といった思いからだ。
と、雲助を相手にしながら、遠くからちらっちらっとからかうような眼をこちらに投げていたお琴の笑顔が、ふいにきゅっとしまった。
つかつかとこちらに歩いて来ようとした彼女の前に、雲助《くもすけ》が大手をひろげて立ちふさがった。それを飴《あめ》の桶《おけ》を肩《かた》にかついだまま、まるで春風のように軽くくぐって歩いて来る。
「やい、抱《だ》かせろってんだ」
「いちど抱かせなきゃあ、中仙道は通らせねえ」
わめきながらあとを追って来た二人の雲助が、背後でふいにわっとさけんで両耳をおさえてうずくまった。そのままひっくり返って、往来の馬糞《ばふん》の中でのたうちまわっている。
お琴はふりかえりもしない。何をしたとも見えない。
陽馬のところへやって来て、
「お篠《しの》が話があるそうです」
と、いった。
陽馬はあっけにとられて路上の雲助を見ていたが、お琴《こと》の声にさらにキョロキョロとあたりを見まわした。――風車売《かざぐるまう》りのお篠《しの》はさらに先にいっているはずで、その姿など、どこにも見えない。
「お篠が呼んでいます」
「どこから?」
「ここから」
と、お琴はにっとして、白くくくれたあごを飴《あめ》の桶《おけ》にしゃくった。
そういわれても、陽馬はなお狐《きつね》につままれたような顔であったが、ふとその桶の足のあいだに一すじに毛が張られているのにはじめて気がついた。
「甲賀《こうが》の毛琴《けごと》と申します」
「毛琴――?」
「毛を結び合せ、男のもの女のもの二本からませて張ってあるのです。わたしたちだれもが、からだのどこかにそれを張っています。そして大事な用があって仲間を呼びたいときは、この二本の毛をこすり合せると、一里以内ならべつの毛琴が鳴りはじめ、その鳴り方でだれが呼んだかわかります。――ほら、リ、リ、リ――と」
耳をすませたが、鼓膜《こまく》を撫《な》でるのは春風ばかりだ。
「さ、早く」
促《うなが》されて、陽馬はお琴とともに先へ走り出した。
まだのたうちまわっている二人の雲助のそばを駆《か》けぬけるとき、お琴《こと》はまた妙《みよう》なことをやった。いや、妙なことが起った。
雲助のからだから、ぶうんと飛び立って来た虫が四匹、その籐笠《とうがさ》にとまったのである。とまったまま動かないその虫を見ると、細長いがたしかに甲虫の一種であった。
「かみきり虫です」
と、きかないうちから、走りながらお琴がいった。
「相手の耳にとびこんで、その鼓膜《こまく》をかみ破り、その奥までかみちぎります。あの人足たちは、もうまともに歩くことさえ出来ないでしょう」
三半規管《さんはんきかん》が破壊されるという意味であろう。――陽馬はそこまで考えるまでもなく、はじめてこのおきゃんな甲賀《こうが》の女にぞっとするものをおぼえた。お琴はこの妖虫《ようちゆう》を飼《か》い馴《な》らしているのだ!
橋を渡り、さらにもう一つの橋を渡る。
右側に閻魔堂《えんまどう》があり、そこに一人の虚無僧《こむそう》が休んでいたが、それを眼に入れる余裕《よゆう》もなくなお駆《か》けぬける。――その虚無僧の全身に異様な衝動《しようどう》がわたったことなど気づく道理がない。
守山の宿《しゆく》に入る守山川にかかる橋の下に、風車売りのお篠《しの》は待っていた。お篠ばかりではない。さらに先へいっていたお遊《ゆう》、お藍《あい》、お扇《せん》、それからお琴《こと》の前方を歩いていたお筆《ふで》やお茅《かや》もすでに集まっている。
「どうしたのだ」
と、陽馬はきいた。
お篠はやや蒼白《あおじろ》く変った顔をあげて答えた。
「あの男たちは、忍者《にんじや》です」
「なに、あの人が。――」
お篠は、先刻|閻魔堂《えんまどう》の前を通るとき、吹針のために風車をとめられたことを告げた。
「あの吹針のわざを見るに――しかも、それをこちらに吹いて探りを入れたところを見るに――ただものではありませぬ。忍者――しかも、わたしたち甲賀《こうが》の知らない、八幡、伊賀者《いがもの》です」
陽馬は背を鞭《むち》でたたかれた思いであった。
「そして、おそらくあと六人の男たちも」
彼らはけさ未明、京に入って烏丸《からすま》の半井屋敷《なからいやしき》に忍《しの》び寄った。さて、これからの行動は? と思案しているうち、はからずもその半井家から出て来た八つの影を見て、それを追って来たのであった。
すでに陽馬は、その中の虚無僧《こむそう》姿が雪羽らしいと遠望している。雪羽がそんな姿で、どこかへ急ぐところを見ると、十中八、九、彼女は医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》を持って逃《のが》れるつもりに相違ない、と陽馬は看破《かんぱ》した。
しかし、いっしょについている七人の男たちは何者であろう? と思っていたのである。
それが、忍者《にんじや》とは? しかも、伊賀者《いがもの》とは?
陽馬の頭に、江戸に残されていた雪羽の置手紙が浮んだ。
――医心方房内篇は、決して半井《なからい》家の人間以外には渡すことは相成りません。決して、決して、決して! あなたはきっとおいでになるでしょうね。そういうことになれば、陽馬さま! 陽馬さま! きっと恐ろしい血が流れます!
……雪羽。
と、陽馬は心中にうめいた。
……そうまでして、おれを敵にまわすつもりか?
はじめて敵愾《てきがい》の気が陽馬の胸に湧《わ》いた。しかし――それは全面的に雪羽に向けられたものではなかった。
「あの男たちは、わたしたちのことをかぎつけました」
と、お篠《しの》はいった。
「おそらく、わたしたちは半井《なからい》家の娘《むすめ》からやすやすとその秘書を盗《ぬす》む、などいうことはもう出来ないでしょう。あの七人の伊賀者《いがもの》を殺さぬかぎり」
「……よし!」
と、陽馬は眉《まゆ》をあげた。
「それはおれが始末する」
「お危のうございます。――相手が忍者《にんじや》とあれば」
と、人形つかいのお筆がいった。
「わたしたちが始末します」
すると、お琴《こと》、お遊、お扇《せん》などが、声をそろえていった。
「陽馬さまのおためなら、どんなことがあっても。――」
「たとえ、死んでも。――」
「よろこんで!」
彼女たちは笑ってさえいた。その笑顔の花には死の風が吹いているようであったが、ただ――巡礼《じゆんれい》のお藍《あい》の白痴《はくち》的な唇《くちびる》が恐ろしく肉感的に動いて、それにつけ加えた。
「そのまえに、陽馬さま、わたしをいっぺん可愛《かわい》がって。――よう」
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山に蝉《せみ》泣き猿《さる》笑う
一
鮒鮨《ふなずし》や彦根《ひこね》の城に雲かかる。
その彦根の城を西の空に見て、中仙道《なかせんどう》をさらに北へ。東に磨針《すりはり》峠が迫《せま》って来るが、西の湖も次第に近寄って来る。
鳥居本《とりいもと》の宿《しゆく》を出はずれると、道は中仙道から北国道に入ることになる。美しい夕暮であった。
「ね、ね」
その追分にかかろうとする丹波《たんば》陽馬の耳に、甘ったるいひそやかな声が聞えた。ふりむくと、五メートルほどうしろを、飴売《あめう》りのお琴《こと》が歩いて来る。
「ふり返らないで」
一瞬《いつしゆん》の瞥見《べつけん》だが、彼女はこぶしを妙《みよう》なかたちにして口にあてていたようだ。
「北国道へゆかないで、中仙道をいって」
「な、なぜだ?」
思わず声に出したのは、ほかの女たちの大半が雪羽の一行を追って北国道へいったはずなのに、なぜ自分だけが? といううろたえと、それにお琴《こと》の声がまるで耳もとでささやくように聞えたからだ。
「そっちへいって、わたしを抱《だ》いて。……わたしもゆきます」
――ばかな! これは肩《かた》で示した。
「あなた、女を御存じでしょ? 江戸では廓《くるわ》で鳴らしたんですってね。お頭《かしら》からちょっとききましたよ。それがこの道中、どうしてそんなに難かしいお顔をしていらっしゃるの?」
ささやきは、笑いをおびている。湖からの夕風が羽根で撫《な》でるように耳たぶに吹く。
「わたし、お女郎《じよろう》なんかにまけないと思うけど。……わたしはおいや?」
陽馬はとっとと足を早めようとした。昨夜、守山の宿に泊っているあいだに、たしかに先にやり過した雪羽たちが気にもかかっていたのだ。
「わたしがどんな女か、いちど見せてあげたい。――」
ふしぎなのは、向うから来る旅人が、二人の横をすれちがってゆくのに、全然お琴の声が聞えないらしいことだ。
「うしろから坊さまがやって来ます。それがどうやら、お篠《しの》に吹針を吹いたあの雲水《うんすい》らしいのです。ふり返らないで!」
そのまま歩みつづけるには、大努力を要した。
「それを中仙道に誘《さそ》い出して見ましょう」
「……で?」
思わず、また声を発した。
「ついて来れば……わたしが相手になって、あの雲水を始末します。どうにもほかにしかたがなければ殺すよりほかはないでしょうが、それより前に、寝返らせます。例の秘書を手に入れるために。……文字通りの寝返り。ホ、ホ、見ていて下さい、陽馬さま、わたしがどんな女か。――ね、ね」
声に、甲賀《こうが》のくノ一の決意の恐ろしさと、からかうような、面白がっているような――この女特有のものとしか思われない淫蕩《いんとう》な明るさが交錯《こうさく》した。
「あなたは峠に上る途中、どこか木蔭《こかげ》にでもかくれてそれを見ていて下さい。決して手を出してはいけませんよ。――せめて、わたしが鉦《かね》を叩《たた》くまで」
陽馬は追分で右の中仙道へ廻《まわ》った。やや距離《きより》をおいて、飴売《あめう》り姿のお琴《こと》も同じ道をとる。むろん、ほかにも旅人は往来している。
しかし、雲水《うんすい》もたしかに中仙道に入って来た。
二
この道は磨針峠《すりはりとうげ》に上る。一里六丁、頂上に上れば番場《ばんば》の宿《しゆく》がある。
日はすでに遠く西の比良《ひら》の山脈《やまなみ》に残光を漂《ただよ》わせるばかりとなり、眼下には湖が太古の鏡のように鈍《にぶ》くひかっている。
峠道にもう丹波《たんば》陽馬の姿はなかった。ほかに下りて来る旅人の影もない。
――と、うしろから上って来た雲水《うんすい》がふいに足を早めた。気配でそう察して、お琴《こと》ははっとしたが、雲水は墨染《すみぞ》めの衣をひるがえして、杖《つえ》も横にしたまま、軽がると彼女を追い越していった。
べつになんの凶念も感じられない。まるで飄《ひよう》 々《ひよう》と風に吹きぬかれたようだ。――網代笠《あじろがさ》の影はみるみる遠ざかっていった。
――あの雲水とはちがうのかしら?
お琴の心に途惑《とまど》いがゆれたとき、うしろでまた声がした。
「おい、飴屋《あめや》のねえさん、その桶《おけ》をかついでってやろうか?」
ふり返ると、六部《ろくぶ》だ。
美《い》い男だが、のっぺりと間のびがして、それこそ飴《あめ》でもなめているのではないかと思われる顔であった。
「いえ、結構」
「今夜は番場《ばんば》泊りだろ? つい、そこだ。持ってってやるよ」
と、ならんで、お琴《こと》が肩《かた》にかけていた飴の桶《おけ》に手をのばした。
「番場に旅籠《はたご》を知ってるかね?」
「いえ。……」
「知らなきゃ、いまごろいっても、もう宿はねえよ。あそこにゃ宿が二|軒《けん》しかねえ。なんなら、わたしが口をきいてやってもいいぜ。わたしと相部屋になるが。……」
図々しいことをいいながら、手はもっと図々しいことをやった。飴桶の長い足の一つを押えたお琴の手に、やんわりと自分の手を重ねたのである。
「ねえさん、きもをつぶすほどきれいだねえ」
にんまりとして、顔をのぞきこみながら、いっしょに歩く。
「それほどの器量で、どうしてまた飴なんか売ってまわってるんだい?」
二人の手は離れない。
「危ねえなあ。これからわたしが用心棒になって歩いてやろうか?」
銀鼠色《ぎんねずいろ》の夕闇《ゆうやみ》の中に、二人の表情に妙《みよう》な波紋《はもん》がたゆたい出した。
お琴《こと》はむろんこの六部《ろくぶ》の正体を知っている。さっきまですぐうしろをやって来ていた雲水《うんすい》に心を奪《うば》われて、さらにそのうしろのこの六部までは気がつかなかったが、これが半井《なからい》の娘《むすめ》を護ってその家から走り出た七人の伊賀者《いがもの》のうちの一人だということはもう察している。実にこの男は、逆に図々しくも自分に近づいて来たのだ。探りを入れるためか? 自分を殺すためか?
しかし、お琴はべつにそれを恐れない。対象がちがったが、彼女にはこの男をきっと「寝返らせる」自信があった。
六部の手が離れないのは、彼女が離さないのだ。彼女はこぶしを微妙《びみよう》にうごめかして、中指と薬指のあいだに、六部の人さし指をはさんだ。六部の人さし指はそれっきりそこに吸いついてしまった。
苦痛のためではない。苦痛どころか。――
たんに中指と薬指のあいだだけではない。指ばかりではない。わきの下、ふともも、ふくらはぎのあいだ、両足の裏、或《ある》いはあごと頸《くび》のあいだ、両掌《りようて》を重ねたあいだでも、およそお琴《こと》の肉体の二つの部分が接触《せつしよく》するところ、その筋肉は微妙《びみよう》にうごめいて、そこにはさんだ相手の男の肉体の一部分を吸着させてしまう。一種の吸盤《きゆうばん》だが、痛みはなく、それは強烈な快感のためだ。そこに相手の全血液は集まり――血液どころか、からだじゅうの髄液《ずいえき》まで集まったような感覚におとす。
忍法《にんぽう》「皮つるみ」
そして、はさみこまれた相手の肉体の部分は硬直《こうちよく》してしまうのだ。この場合、六部の右手の人さし指はしばらく曲らなくなる。人さし指がピーンとのびたままの男が、刀を持ったらどうなるか。鍔《つば》のために、柄《つか》のまんなかでも握《にぎ》らなければならぬことになるだろう。
もっともそんなことになる前に、この男を歩きながら「寝返らせる」つもりだ。例の秘書とやらは、この男を使って盗《ぬす》ませるつもりだ。――そして、お琴はたしかにこの男を皮つるみの恍惚境《こうこつきよう》にひき入れた。
――にもかかわらず。
お琴は、はさみこんだ自分の中指と薬指のあいだから、異様な快感が肩《かた》にまでつたわり、からだじゅうにひろがって来るのを感覚した。これはどうしたことだ?
六部《ろくぶ》姿の麻打《あさうち》助十郎が手を重ねたのは、女を誘惑《ゆうわく》するただの手管《てくだ》ではなかった。彼は女たらしを自称するが、それはのっぺりした二枚目づらのせいでも、またたんなる趣味でもない。彼の忍法《にんぽう》の実施そのものだ。
助十郎は指で女の肌《はだ》を撫《な》でる。はじめ羽根で撫でるようにやさしく。――やがて、くじるように微妙《びみよう》に指頭の肉をうごめかす。そのため、数本の指の爪《つめ》は、いつもきれいに切ってある。すると――女の皮膚《ひふ》のその部分の感覚|細胞《さいぼう》は、まるである種の感覚細胞にちかいものに変質して来るのだ。そして、はてはそこから――そこがどんな部分であろうと、たしかに汗ではないものが、ぬるぬるとにじみ出て来るようにさえなるのだ。
忍法「指姦《しかん》」
――してやったり、という予定通りの行動が、やがて、こはそもいかに? という狼狽《ろうばい》に変る。その狼狽もまた相手の正体を知っているのだから単純なものではない。そしてそんな意識をもすべて酔《よ》い痴《し》れさせる快美の感覚が、二人の指から拡散してゆく。
これは指の合歓であり、同時に指の死闘《しとう》であった。
一見、旅は道づれ、さもうま[#「うま」に傍点]があったかのごとく肩《かた》をならべて夕闇《ゆうやみ》の峠道を上ってゆく二人のあいだにこのようなことが行われていようとは、外からはだれにもわからず――ただ近づけば、それは二人の表情だけに現われた。
両人ともけぶったような眼つきになり、口をひらいてあえぐ。そのとき、前方で声が聞えた。
「何を以て女の快を知るや、また十動あり」
十メートルほど向うに、また網代笠《あじろがさ》の姿がふっと浮びあがった。背を見せて、飄《ひよう》 々《ひよう》と歩みつつ、その影は朗唱する。
「一にいう、両手もて抱《いだ》くは、からだの相着き、たがいに当るを欲するなり。二にいう、その両ももをのばすは、擦《こす》らんとするなり。三にいう、腹を張るは、その洩《も》らさんと欲するなり。四にいう、尻《しり》のうごくは、こころよきなり。五にいう、両足をあげてからむは、その深きを欲するなり。六にいう、その両股《りようもも》を交うるは、うち痒《かゆ》くして淫々《いんいん》たるなり。七にいう、横にゆするは、深く左右を……」
「もう、いい」
と、六部がうめいた。
「八にいう、からだをあげて迫《せま》るは、淫楽《いんらく》の甚《はなは》だしきなり。九にいう、からだを縦《たて》にのばすは、からだ快なるなり。十にいう、なめらかなるは、精すでに洩《も》れしなり。助十、もはや用意はいいか?」
麻打《あさうち》助十郎は、指をぬいた。糊壷《のりつぼ》から指をぬいたような音がした。
三
桶《おけ》が肩《かた》からはずれて、紅白の飴《あめ》が地上に散乱した。いつのまにか手の鉦《かね》も撥《ばち》も落ちていた。
お琴《こと》は六部に抱《だ》かれて、横の草むらに倒《たお》れかかっている。しかし、あえて逃《のが》れようとせず、むしろ彼女の方から六部にしがみついた。
助十郎の方は、さしもの甲賀《こうが》のくノ一も、まさに「うち痒《かゆ》くして……」という心理状態に達したと判断した。しかし、お琴の方は、さすがになかば覚醒《かくせい》している。彼女は道に沿う山の樹《き》の間づたいに――ずっと背後に、深編笠《ふかあみがさ》の影が移動しているのを知っていた。その丹波《たんば》陽馬に見せてやろうといういたずらっ気があったのだ。自分の痴態《ちたい》を。
一方では、むろん、先の雲水《うんすい》とこの六部《ろくぶ》と、二人の伊賀者《いがもの》の罠《わな》に落ちたことも承知している。いったい彼らは自分をどうしようというのか。いや、この六部《ろくぶ》が自分を犯そうとしているにはちがいないが、それからどうしようというつもりか?
敵が何を意図していようと、必ず彼らを逆にかかえこんでしまう。そして最後には食べてやる。――彼女には女蜘蛛《めぐも》の自信があった。
「淫学坊《いんがくぼう》」
と、助十郎が呼びかけた。草むらのうす闇《やみ》には、すでに肉の厚い白い花がひらきゆらいでいる。
「どうするのじゃ?」
まことにばかげた質問のようだが、それが決してそうでなかったことは、向うから聞えて来た返答でわかった。
「ありきたりは面白うない。九法の第三、猿搏《えんばく》というやつを見せてもらおう。猿《さる》が木の枝をかつぐ姿。――わしの命名によれば、椅座位《きざい》というやつにあたる」
「そういわれてもわからん」
「仰臥《ぎようが》せしめ、その足をかつぎ。……」
「よし!」
「待て。法のほかに九状六勢というものがある。動作と緩急《かんきゆう》じゃ。九状のうち、その六をやってくれ。すなわち、或《ある》いはゆるやかに立ち、遅《おそ》く押し、凍《こご》えたる蛇《へび》の穴に入るがごときはその六なり。六勢のうち、その五をやってもらおう。すなわち、或いは陽鋒《ようほう》を以て来往し……いや、これはそのまま唱えても、おまえにはわからん」
木ノ目軍記はこちらを向いて立っているが、手には何も持っていない。この性科学の泰斗《たいと》は、房内篇《ぼうないへん》の詰所を、すでに暗記しているらしい。
「つまり、百姓が稲を刈りとるように動くのじゃ。……」
助十郎は開始した。
数分か、数十分か。――その時もわからぬ。ついにお琴《こと》の口から決して技巧ではない声がもれ出した。お琴ばかりではない。助十郎の口からも、同じようなあえぎが吐《は》かれ出した。
猿搏《えんばく》。――おのれに課せられた奇怪《きかい》な姿勢のゆえばかりではない。その運動の緩慢《かんまん》さから、お琴は生れてはじめてのたえがたい感覚に、あわや失神しようとした。
――壁《かべ》に打った球がいつまでも返って来ないようないらだたしさ、期待する時間とずれ[#「ずれ」に傍点]て、やっと返って来た球が、こんどはじっくりと溶けて、髄《ずい》までしみこむほど密着している。
――それでいて、決して弛緩《しかん》した感を与えられないのは、やはりこの奇怪《きかい》ではあるが緊張《きんちよう》した姿勢のゆえであったろう。
助十郎も、感覚が糊《のり》みたいになった。これは猿搏《えんばく》のラーゲや、アクション、リズムのせいのみでなく、おのれに乗せられた両足のためであった。ふとももの裏側とふくらはぎとにはさまれて、そこから熱い蜜《みつ》のような凄《すさ》まじい快美感がながれ、したたり、波打ってゆく。むべなり、彼は大々的な皮つるみの洗礼を両肩《りようかた》から浴びたのだ。
やがて麻打《あさうち》助十郎はぐにゃりとへたりこみ、前につっ伏した。――そしてお琴《こと》も、だらんと助十郎のわきに投げ出されていた。
「ききしにまさる。……」
と、感にたえたような木ノ目軍記の声が聞えた。
「房内篇《ぼうないへん》の威力。……」
ややあって、心配そうに、
「助十、参ったか。からだで房術を甲賀《こうが》のくノ一に教えるといったのはおまえじゃないか。いい出しッぺがそのざまでは、教えるどころの騒《さわ》ぎではないな。……それにこの猿搏の法では、男、深くみちびけば極めて壮《さか》んに、かつ怒す、とあるが」
「何を。――」
麻打《あさうち》助十郎は身を起した。
間のびしたその顔に、珍しく凄惨《せいさん》の気が漂《ただよ》っている。
軍記に嘲弄《ちようろう》される以前に――女を陥落《かんらく》させる手練にかけては、党中第一とうぬぼれていた自分が――といういきどおりは四肢《しし》をふるわせていた。
しかも、甲賀《こうが》のくノ一に。
相手が甲賀のくノ一と思えばこその助十郎の闘志《とうし》だ。
彼はむろんこれをたたかいだと自覚していた。
「もう一番」
と、彼はいった。
「九法なり、三十法なりあげてくれ」
「では」
と、軍記はいった。
「九法の第四、蝉付《せんぷ》、蝉《せみ》が木にへばりついておるかたちじゃ。女をして伏臥《ふくが》せしめ、その身をのばさしむ……」
助十郎は、ヨタヨタしつつ、渾身《こんしん》の力をふるって、うつ伏せにした。
「九状はその三、或《ある》いは出で、或いは没し、波間《なみま》の鴎《かもめ》のむれのごとく。……六勢はその三、石を裂《さ》きて美玉を求むるがごとく。……その心得でやってもらおうか」
お琴《こと》はなすがままにされている。が、また必ずしもなすがままにされているのではない。
それでも、肉体の方はまだ意志があってそういう動作をしているのか、無意識的に反応しているのか、自分でもおぼつかないところがあったが、ただこの伊賀者《いがもの》にいまや憎悪《ぞうお》をおぼえていることは明らかであった。
最初からの敵意とはちがう。自分の敗北を意識しての憎悪だ。
丹波《たんば》陽馬におのれの媚態《びたい》を見せるために、わざとこの相手に従った。自分はたしかに痴態《ちたい》を見せた。しかし、いっときは――そして最後は、自分は観客を忘れ、演出を失った。
自分ともあろう者が、おめおめと伊賀者に犯されたにひとしいありさまになり果てた。
――とうてい彼を、寝返らせるなどいうことは不可能だ!
「はてな」
ふと、木ノ目軍記は、山の樹《き》の間の方に眼を投げた。それから、ささやくようにいった。
「終了。助十、終了とせい」
「なんだ? 六九の数はまだ終らん。……」
「いや、殺せ。――」
「だれを?」
「その甲賀《こうが》のくノ一をだ! 房術《ぼうじゆつ》を教えたあとは殺すというきまりではなかったか?」
ふいに、軍記の声が驚《おどろ》きにかんばしった。
「危ない! 助十!」
もはや、闇《やみ》といっていい山の大気の中に、ぶうんと飛び立った何匹かの昆虫《こんちゆう》を見、かつそれがただの虫ではないと看破《かんぱ》したのも、木ノ目軍記なればこそか。
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網《あみ》うち心形《しんぎよう》 刀《とう》 流《りゆう》
一
「きえーっ」
麻打《あさうち》助十郎はそんな声をあげて、お琴《こと》のからだからはね落ちた。
左耳を左手で押えている。声は鼓膜《こまく》に受けた恐ろしい痛覚から発したものであった。
「……虫らしい。虫だぞ!」
遠くからの軍記のさけびをきいた右耳もまた右手で押えた。その声をきくより早く、その耳たぶ、また左耳にふた[#「ふた」に傍点]した左手の甲にも、ぶん、ぶん、とあたる昆虫《こんちゆう》の羽根を感受していたからだ。どうやら甲虫の一種らしい。
甲賀《こうが》のくノ一お琴《こと》のあやつる妖虫《ようちゆう》耳切り虫。正確にいえば、かみきり虫の一種だ。漢字で書けば天牛と書く。口器発達して木質をかみ、樹々《きぎ》から家具、建物にまで食い入って害を加える。彼女はこれを飼《か》い馴《な》らした。しかも、人間の耳垢腺分泌物《じこうせんぶんぴぶつ》の匂《にお》いに対して異常な嗜好《しこう》を持つ虫として。
耳孔《じこう》に入るくらいの小昆虫だが、しかしこれを武器にされた相手にとっては実に恐るべきものだ。だいいち、そんな襲撃《しゆうげき》を予知する者もない。知っても、耳もとに鳴る羽音はきわめて煩《わずら》わしい。ただ煩わしいのみならず、耳垢《みみあか》の匂《にお》いに酔《よ》っぱらった虫は、狂《くる》ったように鼓膜をかみ破る。その痛覚の絶大なことはいうまでもないが、さらに内耳の迷路までかみ砕《くだ》いて、相手の平衡《へいこう》感覚を破壊《はかい》してしまうのだ。
両耳を押え、麻打《あさうち》助十郎は木の葉虫みたいにごろごろと逃《に》げた。
お琴《こと》は立ちあがった。その手に匕首《あいくち》がひかった。たとえ、匕首とはいえ、両手を奪《うば》われた敵に対しては、丸太ン棒を始末するにひとしい。
走りかかるお琴の前から、助十郎はなお山道を下へころがって逃げた。
その胸もとにふうと黒い煙《けむり》のようなものが湧《わ》いた。闇《やみ》にちかい大気の中だから、常人ならば見えなかったかも知れない。お琴なればこそ見るには見たが、しかしそれが何であったかわからなかった。
それはころがって逃げる地上の助十郎のふところから噴出《ふんしゆつ》して、一本の細い棒のようにのびて来たが、たちまちぱあっと大空にひらいた。いや、お琴めがけて、巨大な夕顔のようにひらいたのである。と見て、下り坂にたたらを踏《ふ》むいとまもあらばこそ、煙の夕顔へ飛びこんだお琴を、それはくるくるっと巻きつつんでしまった。
煙ではなかった。網《あみ》であった。
しかもそれがただの網ではないことをお琴は知った。
「漁《と》った! 人魚一匹、伊賀忍法陰《いがにんぽういん》ノ網《あみ》」
その声は聞えたが、こんどはお琴《こと》の方が立ちすくんだままもがいている。匕首《あいくち》で、自分をつつんだものを切ろうとしたが、切れなかった。切ろうとする腕《うで》、もがくからだすら絞《し》めつけられ、縛《しば》りあげられて、彼女は地上へころがった。
「折りたためば、一枚の袱紗《ふくさ》のごとく懐中《かいちゆう》に入る。ひろげれば一頭の馬でさえ押えてしまう。――その網のもとが、男女の陰毛を経緯《たてよこ》に編んだものだと知ったら、伊賀の秘術に敬意を表さずにはいられまい。――どうだ、甲賀《こうが》のくノ一」
陰々たる声であった。女たらしの麻打《あさうち》助十郎が、こんな声を出すのは珍しい。このせりふのあいだにも、たえがたい苦痛のうめきがまじる。
立ちあがった助十郎は右手をこぶしにして何かつかんでいるようだが、左手はなお左耳にあてている。
「そもそも、何百人の男女から、何十万本の毛を刈ったと思う?」
きかれても、お琴は声もたてられない。声どころか顔をつつむ薄《うす》い網に息すらつけなかった。顔ばかりではない。それは四肢《しし》から胸、胴にまでピッタリとタイツみたいに貼《は》りついて、しかも全身のいたるところ、剃刀《かみそり》をあてられたような痛みが走る。
「どうした、助十」
と、遠くで軍記がきく。助十郎はまた顔をきゅーっと左耳の方へひきつらせた。
「やられたわ。ううむ、虫が片耳に入りおって、あっ、痛《つ》う」
「やはり、そうか、そやつ、虫を使うやつと見える。さすがは公儀《こうぎ》の送った甲賀《こうが》のくノ一、なるほど喃《のう》。……」
「来い、淫学坊《いんがくぼう》。もはや大丈夫《だいじようぶ》だ。耳に入った虫は、ふた[#「ふた」に傍点]をして耳から出さぬ。ほかの虫はみな女といっしょに網《あみ》でつつんでしまったつもりだ。もう潰《つぶ》されて、死んだろう」
「そうか」
と、網代笠《あじろがさ》の影は近づいて来かかったが、ふとまた立ちどまって、くびをひねっているようすだ。助十郎はそれ以上この相棒を気にかける余裕《よゆう》を持たなかった。片耳の激痛のために、声はねじくれていた。
「淫学坊、もう一番!」
「何を?」
「房内篇《ぼうないへん》を」
「陰ノ網でつつんだままか」
「そうよ。亀《かめ》の子のようになった女を犯して最も快を得る法はないか」
「犯せるのか」
「犯せる。そこだけ網《あみ》の目をあける。息の根をとめるまえに、そうしてやらねば気がすまぬ」
助十郎は痙笑《けいしよう》の声をたてた。
伊賀《いが》の陰《いん》ノ網《あみ》。これは網を打つ術というより、たしかに忍法《にんぽう》の名に値するものであったろう。網を成す数万本の糸のうち、数百本だけは長くのびて、漏斗《じようご》状に助十郎の右こぶしに握《にぎ》られている。その掌《てのひら》の屈筋、転筋、虫様筋の微妙《びみよう》な波動によって、網の目が自在に絞《しぼ》まったり、開いたり、或《ある》いは滑走したりするのだ。お琴《こと》が匕首《あいくち》で切ろうとして切れず、かえっていたるところ、剃刀《かみそり》で切られるような痛みに声も出ないのはそのわざのためであった。
「女の足は膝《ひざ》で曲るか?」
「曲げれば、曲る」
「では、曲げて、女の足の裏をおぬしの胸にあてい。――女をして仰臥《ぎようが》し、その両膝を曲げしむ。男すなわちこれを押し、その足、乳に至る。わしの分類によれば、男上位・女屈曲位の一種。房内篇《ぼうないへん》九法の第五、亀騰《きとう》。女が亀《かめ》の子のようになった姿じゃな。女、感悦《かんえつ》すれば身みずから揺挙《ようきよ》するに至るとある。すなわち亀騰というゆえん」
麻打《あさうち》助十郎は、左手で耳を押え、右手に網《あみ》の手綱《たづな》を握《にぎ》ったまま、妙《みよう》によろめきながら近づいた。
そのとき、暗い地上で鉦《かね》が鳴った。
「やっ?」
全身、陰《いん》ノ網《あみ》につつまれた女が、鉦をたたくはずがない。――立ちすくみ、その暗がりをのぞきこんだ助十郎の右の耳に、ややあわてた軍記の声が聞えた。
「やはり、敵じゃ。先刻から気にはかかっておったが――助十、右を見い!」
二
全身、網につつまれたと見えて、お琴《こと》にはただ二か所だけ外に出た部分があった。両足の足くびから下だ。さすが陰ノ網も、そこばかりはつつみ切れなかったと見える。
その両足を曲げられ、相手の胸まであげられて、いわゆる「亀騰《きとう》」のラーゲをとらされれば万事休すだが。――
その一本の足の指のあいだに、彼女は細い撥《ばち》をはさみ、そして鉦《かね》をたたいたのである。それは彼女自身の飴売《あめう》り道具の一つ、先刻とり落した鉦と撥《ばち》であった。
同時に、右の山の樹蔭《こかげ》から、黒い疾風《しつぷう》のごとく深編笠《ふかあみがさ》の影が走り下りて来た。
峠道《とうげみち》に沿って、山の中を上っていた丹波《たんば》陽馬だ。――彼はお琴《こと》に念を押されていた。敵を寝返らせて例の秘書を手に入れる。「あなたはそれを見ていて下さい。決して手を出してはいけませんよ。――せめて、わたしが鉦を鳴らすまで」
べつに馬鹿《ばか》正直に、陽馬はそれを守っていたわけではない。
彼はお琴の相手が、雲水《うんすい》から六部《ろくぶ》に変ったことを知った。しかし、お琴と六部のあいだに起ったことがよくわからなかった。――そのうち、遠くから雲水の呪文《じゆもん》のごとき朗唱をきき、かつお琴と六部が何をはじめたかは了解したが、それでもなおかつ彼の理解を超越したものがあった。
で、樹蔭から遠望していたのだが――そこに展開している光景に薄闇《うすやみ》を通して眼を凝《こ》らしている自分の立場にばかばかしさすらおぼえ出し、突如《とつじよ》として決闘《けつとう》の火ぶたが切って落されるような雰囲気《ふんいき》は何も予覚しなかったのである。ましてや、闇《やみ》が深くなり、お琴の飛ばした耳切り虫、六部《ろくぶ》の打った陰《いん》ノ網《あみ》など、これは彼の視力の圏外にあった。
しかし彼は鉦《かね》の音をきいた。お琴《こと》のいった言葉よりも、その鉦の音ははるかに切実な危急を彼の耳に伝えた。
峠道を駆《か》け下りる深編笠《ふかあみがさ》の影に、
「……はて、くノ一ではないな。――」
と、木ノ目軍記がつぶやいたとき、麻打《あさうち》助十郎はその方へ向き直っている。手に網の手綱《たづな》をつかんだまま。
その距離《きより》、三メートルで、丹波《たんば》陽馬ははたと立ちどまった。六部の手に垂れているのが刀ではないと知りつつ、ただならぬものを感じたからだ。
それを感じ得る相手の能力を、麻打助十郎も知覚した。じいっとこちらを見て、
「なんじゃ、うぬは?」と、いった。
「この女の一味か?」
陽馬はその足もとに一塊《いつかい》となってころがったまま動かぬ影――たしかにお琴《こと》の姿をみとめた。
抜刀《ばつとう》して、青眼に構えた。
「殺《や》るか?」と、助十郎がいう。――これは軍記にきいたのだ。
「いや、新顔じゃ。正体が知りたい。――山に妙《みよう》な影が見えると思うて、先刻おぬしに蝉付《せんぷ》を以て打切れといったが、それっきり出て来ぬので、くびをかしげておった。――敵の一味とわかれば、捕《とら》えて素性《すじよう》を吐《は》かせろ」
「よしっ」
うなずくとともに、ササササと闇《やみ》に微風《びふう》のわたるような音がした。陽馬の眼には、地上に黒い霧《きり》の一塊《いつかい》が湧《わ》いて、相手のこぶしに吸いこまれていったように見えた。
「網《あみ》」
はじめてお琴《こと》の弱々しい声が聞えた。
「網です。切れない網、……」
――実は、彼女をつつんでいた伊賀の陰ノ網は、このとき霧を払《はら》ったように離れて、麻打《あさうち》助十郎のこぶしに戻《もど》っていたのだ。が、お琴はとっさに立つ力もない。
「木ノ目。――」
ふいに打って変って、助十郎がただならぬ声を出した。
「助けてくれ」
それは彼が突如《とつじよ》として自分のからだの異常を自覚した悲鳴であった。お琴《こと》がいためつけられたように、彼自身も重大な機能障害を受けていたのだ。しかし、いちど軽がると、「殺《や》るか」などといいながら、突如《とつじよ》として彼におのれの異常を自覚させたのは、眼前に一刀を構えた深編笠《ふかあみがさ》の下から流れてくるすばらしい力であった。
丹波《たんば》陽馬。――江戸城奥医師|多紀法印《たきほういん》の甥《おい》、蘭医《らんい》伊東|玄朴《げんぼく》の愛弟子《まなでし》。
ただそれだけではない。彼は伊庭心形《いばしんぎよう》刀流の高弟でもあった。
江戸|御徒町《おかちまち》に有名な伊庭|軍兵衛《ぐんべえ》の道場がある。元禄《げんろく》年間に心形刀流という新剣法を創始した伊庭|是水軒《ぜすいけん》以来、剣ひとすじに生きて来た旗本の家柄《いえがら》である。
その道場は荒修行《あらしゆぎよう》を以て聞えた。当時の風潮として、長羽織《ながばおり》に細身の大小を落し差しなどいう姿で道場に現われる旗本の子弟などがあると、軍兵衛はものもいわず、長剣|一閃《いつせん》、その袴《はかま》の裾《すそ》をひざのあたりで切って落したという。またその門人中に外に出て武勇をふるう者が多いという噂《うわさ》が高いので、老中水野|越前守《えちぜんのかみ》が軍兵衛を呼んで注意を与えると、軍兵衛は憤然《ふんぜん》として、「武士の粗暴は惰弱《だじやく》よりはましでござる」と吐《は》き出すようにいって座を立ち、越前守を苦笑させたという。
その伊庭軍兵衛に、「ああ惜しい」と嘆息させた丹波《たんば》陽馬、軍兵衛が嘆じたのは、陽馬が蘭方《らんぽう》医学などに心を移したからで、それというのも伊庭道場と伊東|玄朴邸《げんぼくてい》が同じ御徒町《おかちまち》の、しかもただ一|軒《けん》を置いたばかりの隣《となり》近所にあったのがもとだ。悪いところにオランダ医者がおった、と軍兵衛は苦笑いしたが、陽馬の家筋が元来医者だから、強《し》いて止めることは出来なかった。
そして、べつに陽馬は剣を捨てたわけではない。身は伊東医院に置きながら、平生、ひまさえあれば伊庭道場にやって来て稽古《けいこ》することはやめていない。要するに、彼が蘭学《らんがく》をはじめたのも伊庭道場がなかだちとなったからであり、もとは心形《しんぎよう》刀流なのである。
その丹波陽馬を、素性《すじよう》は知らず、じいっと見て。――
「軍記?」
また悲鳴をあげた麻打《あさうち》助十郎に、陽馬は跳躍《ちようやく》した。三メートルをひととびに、夜空から舞《ま》い下りる鳥のごとく。
その影めがけて、下からぱあっとまた黒い煙《けむり》がひろがった。助十郎のこぶしから噴出《ふんしゆつ》した陰《いん》ノ網《あみ》は、いまの悲鳴が誘《さそ》いの罠《わな》であったかのように、きれいな、巨大な網目《あみめ》の朝顔をひらいた。
その黒い朝顔を一閃《いつせん》の剣光が苦もなく切り裂《さ》き、陽馬の姿は麻打《あさうち》助十郎の前に飛び下りた。ただその一刀で助十郎のからだを真っ向から割ったまま。
いまの網よりもっと濃《こ》い、もっと大きな血の朝顔が、墨絵《すみえ》のごとく空にひらいた。
三
そんなはずはない。
麻打《あさうち》助十郎。――顔こそ間のびはしているが、「魔王《まおう》の宮」秘蔵の伊賀者《いがもの》が、かくも俎《まないた》の上の長瓜《ながうり》のごとくやすやすと二つに斬《き》って落されるはずがない。
おそらくそれは、彼の指や肩《かた》の筋肉に、お琴《こと》の忍法《にんぽう》「皮つるみ」による硬直《こうちよく》が残っていたゆえにちがいない。左の耳の激痛のせいにちがいない。いや何よりも、このときようやく耳切り虫にかみ破られ出した内耳の惨害《さんがい》で、その平衡《へいこう》機能が狂《くる》ったために相違ない。――彼の悲鳴は、それだけの根拠《こんきよ》があったのだ。
丹波《たんば》陽馬は知らぬが仏である。彼はただ、相手を唐竹割《からたけわ》りにはしたものの、その刀身が逆にうしろにひかれるような強靭《きようじん》な手応《てごた》えをおぼえただけである。あとになって、その刀身にからまっているのが、ただ毛を結んだ数本の糸であったことを知って、はじめて奇異《きい》の眼をそそいだけれど。
彼は峠《とうげ》の上の方にもう一つの黒影がこちらをうかがっているのを知っていた。それが雲水《うんすい》であることも知っていた。
「待て」
倒《たお》れた六部《ろくぶ》をふりかえらず、陽馬はその方へ馳《は》せ上ろうとした。
そのとき、その前に、ふらりとお琴《こと》が立ち上った。立ち上ったかと思うと、たちまちばたりとまたうち伏した。
坂の上の影はそのまま峠の方へ逃《に》げてゆく。その網代笠《あじろがさ》が、まるで海底から水面へ浮びあがってゆく水母《くらげ》のような軽さであった。
それをなお追うよりも、はじめてお琴のことが意識にもどり、丹波《たんば》陽馬はあわててひざをついて、お琴を抱《だ》きあげた。
「陽馬さま」
彼女はにっと笑った。それが闇《やみ》の中にもふだんとちっとも変らない色っぽい軽やかな笑顔に見えた。
「さっきのわたしを見ましたか」
彼女は腕《うで》をくねらせて、陽馬の手をつかんだ。
「口を吸って。――いちどだけ」
しかし、陽馬はそうしてやらなかった。この要求にためらったせいではない。女ののどぶえに一本の針が――たたみ針ほどの太さの銀光をキラと放《はな》っているのを見たからだ。お琴《こと》はそのままがくりと首を落した。
次第に冷たくなってゆくそのからだとはべつに、陽馬は自分の手にふしぎな感覚をおぼえていた。なお自分の手の――指をはさむように握《にぎ》っている女の指からつたわって来る妖《あや》しい微妙《びみよう》な肉感を。
磨針峠《すりはりとうげ》を番場の宿の方へ逃げた雲水《うんすい》を、陽馬はそれ以上追おうとはしなかった。彼は峠を駆け下りて、鳥居本の方へとって返した。そこから改めてまた北国道に入る。さきに雪羽一行がいっているからだ。また敵の伊賀者《いがもの》たちも。――
そして、いまいったんは中仙道を逃げた雲水姿の伊賀者も、やがてまたひき返して自分たちを追って来るにちがいないことも承知していた。
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杉《すぎ》に蝶舞《ちようま》い蚕巻《かいこま》く
一
逝《ゆ》く春を近江《おうみ》の人とおしみける。
鳥居本《とりいもと》から三里、長浜《ながはま》あたりから、同じ近江でも、森や山、農家のたたずまいも、急速に北国の風情《ふぜい》をおびて来る。やがて、右に姉川《あねがわ》、また左に賤《しず》ヶ岳《たけ》を望みつつ、春は北へ上ってゆく。
陽馬には、湖東晩春の風物も、その昔の古戦場への回顧も、その心になかった。うらうらとした霞《かすみ》もかげろうも、夢の中の妖《あや》しい霧《きり》のように思われる。霧には血の匂《にお》いがまじっている。丹波陽馬《たんばようま》、人を斬《き》ったのははじめてだ。
長浜から約八里、橡《とち》ノ木峠《きとうげ》を越えれば、道は近江から越前《えちぜん》に入る。
むろん、このあいだ、めざす雪羽《ゆきは》たちは木の本の宿《しゆく》から湖北の方へ廻《まわ》ろうとしたり、柳《やな》ヶ瀬《せ》の宿から敦賀《つるが》の方へぬけようとしたり――いや、事実、数日間はそちらの街道へ入ったりして、こちらをまこうとした形跡《けいせき》もある。そして結局は、越前《えちぜん》への通常の北国道をとった。
いったいこれはどういう旅であろう?
陽馬なら振《ふ》り捨てられたかも知れないが、甲賀《こうが》のくノ一たちは、敵の逃避《とうひ》を許さない。例の「甲賀の毛琴《けごと》」で連絡しつつ、つかず離れず敵に触接《しよくせつ》している。
一見、どころか目的そのものもまさに追跡だが、それが必ずしもそうでなく、いつのまにやら敵の方に――例の伊賀者《いがもの》とやらに追跡されているかたちになっていることもある。追えば春の逃げ水のごとく消え去るが、またそれらの影が隠顕《いんけん》出没しているのを感じる。その心事、まさに不可解、ふしぎな敵だ。
磨針峠《すりはりとうげ》でその一人を、斬《き》るには斬った。斬ったときにはそれほどにも思わなかったが、あとで考えれば考えるほど、世にもうすきみの悪い敵であったように思われる。自分に噴《ふ》きつけて来た奇怪《きかい》な網《あみ》もさることながら、それに至るまで自分の眼や耳がとらえたいきさつが。
とくに、あの六部《ろくぶ》とお琴《こと》とのたわけた所業《しよぎよう》のあいだ、遠くで雲水《うんすい》が朗唱《ろうしよう》していた妙《みよう》な声が、完全にききとれないながら、とぎれとぎれに耳にこびりついているのだ。
「……からだをあげて迫《せま》るは、……淫楽《いんらく》の甚《はなは》だしきなり。からだを縦にのばすは、からだ快なるなり。……」
「……女、感悦《かんえつ》すれば、身おのずから揺挙《ようきよ》するに至る。……」
近江《おうみ》から越前《えちぜん》へ、春ふかい山を越えてゆきながら、鳥の声より、そんな声の方が鼓膜《こまく》に鳴る。
「……陽馬。――陽馬。――」
橡《とち》ノ木峠《きとうげ》から三里、湯の尾という宿場にちかいだんだん畑のあいだの道であった。桑畑《くわばたけ》の中から、そんな呼び声がした。立ちどまって、陽馬はおちつかない表情になった。
桑畑の段になったところに、女|巡礼《じゆんれい》が坐《すわ》っていた。お藍《あい》だ。彼女は艶然《えんぜん》と笑って、おいでおいでをした。
あのお琴《こと》も変な女であったが、このお藍は変どころではない。あきらかに半|白痴《はくち》だ。そして、お琴以上に陽馬を辟易《へきえき》させる。白痴のせいではなく、その挑発《ちようはつ》ぶりがあまりにも露骨《ろこつ》で、天衣無縫《てんいむほう》で。
「陽馬、来て――ちょっと見て」
と、またいう。
いつのまにか彼女は陽馬を呼び捨てにしている。いったい、こいつおれをどう思っているんだろう? といささか業腹《ごうはら》でもあるが、相手が半|白痴《はくち》では怒りようがない。
陽馬は、極力この女から逃《に》げまわっていた。敵を追いながら、味方のこの女から逃げまわらなければならないのだから、この旅はらくでない。――そして、きょうはこの女は、ずっと前の方を歩いているはずであったのに、こんなところに坐《すわ》っているとは、自分を待ち受けていたのではないか、とも思ったが、捨ててゆくわけにもゆかなかった。
「どうした」
と、桑畑《くわばたけ》をかきわけて近づく。
「これ、食べて見ないか」
だんだん畑の一段高くなった草の上に、坐る、というよりあぐらをかいたお藍《あい》は、そういって片手に持った杓《しやく》をさし出した。まるで、巡礼《じゆんれい》に御報謝、というように。
のぞきこんで、陽馬は眼を見張った。杓の中には鮮麗《せんれい》な――たしかに血がなみなみとまひるの日にひかっていたからである。
「甘いよ」
笠《かさ》の下から、その血と同じ色をした唇《くちびる》をしまりなくひらいて笑う。避《さ》けてはいるが、なんとまああでやかな白痴《はくち》だろう、とそれだけは陽馬も認める。
「なんだ、これは?」
「わたしの」
陽馬は改めて杓《しやく》に眼を戻《もど》して、ぎょっとした。
「午《うま》の刻、日に半刻干《はんときほ》せばかたまる」
お藍《あい》は杓をぽんとしゃくった。すると、赤い血は空中にはねあがり、杓のかたちのまま落ちて来て、もとの杓の中にぽんとおさまった。――液体ではない、それは煮こごりのような――今でいえばゼリー状の物質であった。
「食べないか」
「ばか」
お藍は杓を口に持っていった。そして美しい舌を出して、ぺろりとそれを一すくいした。そのまま口をすぼませて、自分の左手にぷっと吹きつけた。――すると、驚《おどろ》くべし、それはまたもと通りの鮮血《せんけつ》となって、ぬらっとその掌《てのひら》を濡《ぬ》らしたのだ。
その手を出して、陽馬の手をつかもうとした。いま、その正体をきかされなかったら、陽馬はもろにとらえられたかも知れない。あわてて手をひっこめたので――いや、その左掌《ひだりて》の小指側のふちだけが接触《せつしよく》した。と、陽馬の手のその部分に、ぴりっと灼《や》けつくような痛みが走った。お藍《あい》の手とくっついて、離れなくなってしまったのだ。
「くノ一|血膠《ちにかわ》」
と、お藍は笑った。
「たわけ」
さすがの丹波《たんば》陽馬も狼狽《ろうばい》その極に達した。ふり離そうとしたが、皮膚《ひふ》と皮膚は熔接《ようせつ》したよう。――それに相手のお藍がどこまでもその手を蛇《へび》のようにぐにゃぐにゃさせ、のみならず、もういちどその血膠《ちにかわ》を舌で一すくいすると、杓《しやく》を捨て、こんどは右の掌《てのひら》へも、またぷっと吹きつけた。
「わたし、もうたまらない」
と、お藍はいった。陽馬の顔に迫《せま》った唇《くちびる》が、この場合にきみ悪く笑っている。血に濡《ぬ》れた唇であった。触《ふ》れたら、それも離れなくなるだろう。
とんでもない敵だ。われを忘れ、陽馬が身をねじりながら腰《こし》の刀に手をかけたとき、その眼がふと桑畑《くわばたけ》を越えて街道にとまった。
はっとしたその動きにつられて、半|白痴《はくち》のお藍の動きもふととまる。この瞬間《しゆんかん》、陽馬は死物狂いに手をふり離した。べりっと皮膚が剥《む》けたような痛みがあったが、それにかまわず彼は、桑畑の中へ二メートルも飛んで土に腹這《はらば》った。
「伏せろ、敵が来る」
さすがのお藍《あい》も、これも桑畑《くわばたけ》へ、おいずる[#「おいずる」に傍点]の影を沈める。
遠くから歩いて来るのは三人であった。雲水《うんすい》と、武士と。――まんなかに虚無僧《こむそう》と。
二
「鯖江《さばえ》まで、あと何里かな」
「六、七里」
「間部《まなべ》だなあ?」
「間部|下総《しもうさ》、五万石。こんなところから、あんな利《き》け者が出るとはな。――や、ひょっとしたら、こんどの一件、間部も知っておるかも知れぬぞ。とにかく老中までつとめた人物だ」
と、あわてたような声を出したのは雲水である。
「少なくとも、あの甲賀《こうが》のくノ一を宰領《さいりよう》している例の男が、間部に連絡して助勢を請うことは考えられる」
「鯖江につくまでに探し出して斬《き》るか」
すると、それまで黙《だま》って歩いていた虚無僧《こむそう》の天蓋《てんがい》が決然とふられて、
「いけません」
と、いった。――雲水《うんすい》がその天蓋《てんがい》をのぞきこむようにしていった。
「それだけはばかに強情に申される。房内篇《ぼうないへん》を渡さずに、その男に教えて帰す――という雪羽さまの御意見」
「それが不服なら、おまえたちこそ手をひいて」
「われわれが手をひけば、房内篇そのものが危のうござるぞ。――いや、ちと納得できかねるところもあるが、房内篇の持主のあなたが主張されることじゃから、それはまあ了承するとつかまつろう。つかまつろう、どころか、われわれはすでにその御方針に従っておる。しかし――いま、ふと心に浮んだことじゃが雪羽さま、あなたはあの宰領《さいりよう》の男を御存じなのでござるか?」
「どうして?」
「いや、何ということもなく」
さすがは木ノ目軍記、ふと何やら脳髄《のうずい》にひっかかるものを感じたようだ。しかし、雪羽はいった。
「わたしがそんな男を知る道理があるものですか」
「淫学坊《いんがくぼう》、そんなことはあ、どうでもよいではないかあ」
と、武士がいった。背は低いが、だぶだぶと肥《ふと》った男。――山寺|杏兵衛《きようべえ》だ。
「この旅、雪羽さまのお心にそむいてはあ、ならあん。はからずもう、かかる旅にい、雪羽さまのような絶世の美女のお供のかなったこと、これにまさるよろこびはなあい」
溶けて流れそうな声調だ。
「しかしい、考えてみるとう、こうなるとう、北国道へ逃げこんだのがあ、もう無意味でもあるなあ。敵が知ってえ、つけて来た上はあ。――」
「といって、いまさらひき返せぬ」
「ま、人通りが少なあい、さびしいい街道だけにい、当方も助かるう。何しろう、あちらはあ公儀《こうぎ》方なのじゃからあ、きゃあきゃあわめきたてられてえ、人の目につくとう、こちらの分《ぶ》が悪うい。それでこれまでもう、いくどかあ機会をのがしたがあ。――」
山寺杏兵衛は木ノ目軍記をちらっと見た。飴《あめ》の糸をひくような調子だが、眼は――これも粘《ねば》っこいが、感じがちがう。ぽてぽて肥って、弛緩《しかん》した肉体だが、それだけに内部に何やら充満して、いまにも溢《あふ》れ出しそうだ。
「どうじゃあ、軍記い。――鯖江《さばえ》までに一人、くノ一を」
「あの宰領《さいりよう》に、また一番臨床講義をいたすとするか。――雪羽さまの御方針に従って」
それを磨針峠《すりはりとうげ》でやったという報告はきいた。ただし、相手のくノ一の妖術《ようじゆつ》のために麻打《あさうち》助十郎がとうてい逃《のが》れるべくもない損傷を受け、これを見殺しにする破目となったため、そのくノ一には返報したが、ともかくもこれだけの犠牲《ぎせい》を払《はら》って、雪羽さまの御方針をつらぬいたのである――とも軍記はいった。
しかし、具体的にどうしたのか、何が起ったのか雪羽にはよくわからないし、ほんとうのところ、ききたくもなかった。彼女はきくのが恐ろしかった。
「雪羽さまにお見せしようかな?」
と、軍記がにやっと笑って、顔をつき出した。
「それはよいことであるう」
と、山寺|杏兵衛《きようべえ》もだぶだぶと笑う。
「しかし、だれを?」
「くノ一の中に妙《みよう》なのが一人おる。巡礼《じゆんれい》姿をしておるが、いかに観察しても白痴《はくち》じゃ。はじめ、よもや? と疑ったが、たしかに一味じゃ」
と、軍記はいった。
「杏兵衛と似合いじゃ。あれをやれ」
たしかに、北陸路へ逃げこんで来たのはもう無意味といっていい。また、房内篇《ぼうないへん》の内容を敵に実物教育で知らせる、ということも得心できない。――しかし、彼らはゆく。そんなことより彼らはいまや、その実物教育そのものに絶大の興味を抱《いだ》いているのであった。教育というより、甲賀《こうが》のくノ一を姦《かん》するということ自体への欲望が、彼ら伊賀者《いがもの》をとらえているのであった。そのためには、それをやり易《やす》い蕭殺《しようさつ》たる北陸路もまた意味がある。
その悪謔《あくぎやく》的真意は知らず、自分が提案したことだけに、雪羽は彼らの問答に口をさしはさむとっかかりを失い、天蓋《てんがい》の中で、漠《ばく》たる恐怖《きようふ》のこもった茫然《ぼうぜん》たる顔で歩いている。三人は桑畑《くわばたけ》の間の街道を通り過ぎていった。
「房内篇、とったら、抱《だ》いてくれるか」
と、お藍《あい》がささやいた。
房内篇という言葉は知っている、とそれを笑う余裕《よゆう》は陽馬にない。桑畑の中で、彼もまた茫然として、三人のゆくえを見送っている。
お藍が、にたっと笑った。
「とってやる」
三
鯖江《さばえ》の二里手前、今宿を過ぎたところ、街道の両側の亭々《ていてい》たる杉並木《すぎなみき》のかげで、甲賀《こうが》のくノ一お藍《あい》と伊賀者《いがもの》山寺|杏兵衛《きようべえ》は抱《だ》き合った。
かたちはその下で休んでいた女|巡礼《じゆんれい》に武士が鯖江への道のりをきいて、それがきっかけになって意気投合したという順序になったが――実は順序も何もありはしない。杏兵衛がその肩《かた》に手をかけるや否や、たちまち女巡礼の方は身をふるわせてしがみついて来たのである。
これぞ、甲賀のくノ一、と木ノ目軍記からきいていなかったら――いや、きいていても、杏兵衛は、これは、まったく路傍《ろぼう》の白痴《はくち》女ではあるまいか、と、その正体に疑惑《ぎわく》を抱《いだ》いたほどであった。
それほど彼女の動きは、白痴そのものであった。お芝居《しばい》ではなく、男に飢《う》え、飢えていなくても男に挑発《ちようはつ》されれば、本能的な反射行為として動き出した動物そのものに見えた。
動物。――何たる美しき動物。
「これはあ、望外の法楽」
山寺|杏兵衛《きようべえ》は相好《そうごう》を崩《くず》した。彼もまた伊賀者《いがもの》としての任務を忘却《ぼうきやく》したかに見えた。――ただ、ちかくの大きな切株に、雲水《うんすい》と虚無僧《こむそう》が腰《こし》かけているので、からくも任務の一部を思い出したようだ。
「これこれ、そうおまえのやりたいようにはしてやれぬ。法があるのじゃ、法が。――どういたせばよいと? 淫学坊《いんがくぼう》」
「では、三十法の第五、蚕纏綿《さんてんめん》。女、あおむけに臥《ふ》し、両手を上に向けて男の頭を抱《いだ》き、両脚を以て男の背に交わらす。……」
「こうか。……こうか? 足をう、それえ!」
声の間のびが、ふととまった。
「や、おまえ、月花中ではないか!」
しかし、そのとき女|巡礼《じゆんれい》の両足は、杏兵衛の背に組み合わされた。杏兵衛がまんまんたる出っ腹なので、腹と腹とは、上下ぴったり密着した。
「おう、たまらん!」
眼をほそめるくびに、下から女巡礼の両|腕《うで》がからみつく。そして彼女は、杏兵衛のぽてぽてした唇《くちびる》に吸いついた。口ばかりでなく、からだじゅうが蚕《かいこ》が繭《まゆ》にまつわりつくようにぶら下った。
「本邦《ほんぽう》でいう本間取り。わが分類によれば、男上位の纏絡位《てんらくい》。……おい杏兵衛《きようべえ》、おぬしの手も女に巻くのじゃ。いや、そうすれば女の方がおしつぶされてしまうか。では、それでかまわん。……」
虚無僧《こむそう》は見ていた。そのひざから、雲水《うんすい》のひざへ巻物がのびてひらかれている。巻物は雲水の方へ、微風《びふう》のようなそよぎを送っていた。
向うの杉《すぎ》の木の下では、濡《ぬ》れ紙をたたいたり、離したりするような音がつづきはじめた。巻物のそよぎがはげしくなり、波を打ち、虚無僧は立ちあがろうとした。
「お待ちなされ、あなたの御方針通りでござる」
「わ、わたしは ……」
「いま、しばらくの御見学、御静聴《ごせいちよう》。あとでわかり申す」
雲水はもっともらしくささやいたが、眼は横目で天蓋《てんがい》の中をのぞき、笑っている。杏兵衛が、大息を一呼し、音は止《や》んだ。
「杏兵衛、大丈夫《だいじようぶ》か」
「だ、大丈夫う。……」
「うむ、ではもう一番、こんどはおぬしのらくなやつを」
軍記は読み出した。
「三十法の第十一、空翻蝶《くうはんちよう》。……男、仰《あお》むけに臥《ふ》して両足をのばし、女、男の上に座して正面す。両脚、床《しよう》に拠《よ》り手を以て力を助け……わからぬか杏兵衛《きようべえ》、対向前座位、つまり腹やぐらじゃ。おぬしむきであろうが」
――頭上の杉《すぎ》の高い枝の茂《しげ》みから、丹波《たんば》陽馬はこれを見ていた。眼下のたわけた立体秘図よりも、向うの切株に坐《すわ》っている虚無僧《こむそう》を。その白鷺《しらさぎ》のようなわななきを。
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うらなみ心形《しんぎよう》 刀《とう》 流《りゆう》
一
雪羽《ゆきは》にとっては、たわけた立体秘図どころではない。地獄図絵《じごくずえ》を見る思いであった。
杉《すぎ》の木洩《こも》れ日の下の、まるまっちい、毛を剃《そ》ったつるつるの豚《ぶた》みたいな山寺|杏兵衛《きようべえ》と、白痴《はくち》としか思われぬ美しい女とのからみ合いは、淫怪美《いんかいび》の極致《きよくち》ともいうべく――いや、彼女にとっては、からだじゅうの骨まで鳴って来るような恐ろしい眺《なが》めであった。
「やめて」
彼女は虫みたいな声でいった。
「軍記、やめさせて」
「これが、あなたさまの御案の実行でござる」
木《き》ノ目軍記《めぐんき》は冷静にいう。
「あ、あれが医心方《いしんぽう》?」
「されば、あれが半井《なからい》家数百年にわたり、必死に護持しきたった秘書の真髄《しんずい》にして、また宮廷《きゆうてい》が秘蔵され、いま公儀《こうぎ》が手段をえらばず奪《うば》わんとするゆえんのもの。――」
「わ、わたしがそれを見せよといいましたか」
「むろん、あなたが御覧になる必要はない。……いや、御覧になっておいた方がよかろう。ただに御自身が護持されておる書の価値を知っておかれた方がよいというだけではない。人間として知っておくべき人間学のためでござる。涸《か》れはてて、硬化《こうか》して、他人の愉楽《ゆらく》を嫉妬《しつと》する朴念仁《ぼくねんじん》、また人民のこの世に生きる目的はかくのごとき快楽《けらく》を心ゆくまで愉《たの》しむことにある、ということを知らざる道学者流は、ともすれば眼をいからせて誹《そし》るものでござるが、しかし。――」
むしろ厳粛《げんしゆく》な調子ではあるが、そういう軍記自身|涸《か》れはてた顔である。
「拙者《せつしや》は信念する。そういう手合いも若き日、あのような行為《こうい》を夢想|妄想《もうそう》し、それが修行の原動力となったことを。――然《しか》り而《しこう》して、それは夢想ではない。現実のかたち、現実のうごきとしてあそこにあるがごとくある。また妄想であってはならぬ。それを具体的に、機能的に、かつ合理的に教示することこそ、四書五経にも匹敵《ひつてき》する人生の大事」
何といわれようが、雪羽は見てはいられなかった。
からだがふるえ、しかも、眼がかすむ。天蓋《てんがい》をそむけても、声は聞える。いや、網膜《もうまく》に残像はもつれ合いつづけている。――
「わかりました。もういい」
「いや、あなたのために御覧に入れているわけではない」
と、軍記はくびをふった。
「あれを敵に見せよとあなたが申されたのではござらなんだか? そう申されずとも、事実としてはそうなる。ああして教えてやらざるを得ない。――」
「敵に見せる? あの女にかえ?」
「いや、甲賀《こうが》くノ一の宰領《さいりよう》をしておる男に」
「それが、どこにおる?」
「杉《すぎ》の木の上に、うふ」
低い声で軍記は笑った。
「知らぬ顔をしておりなされや」
眼前の痴戯《ちぎ》以上に雪羽は衝撃《しようげき》を受けた。
ここに来るまでに、軍記がちらちらそんなことを仄《ほの》めかしたことはある。しかし、いまあの光景を陽馬が見ているとは――そして、それを見ているわたしを見ているとは!
「敵に対して以心伝心《いしんでんしん》の淫学《いんがく》講義。こんな指南《しなん》は軍記もはじめてじゃ。むしろ以体伝体、と申した方がよかろうか」
と、軍記はまたふくみ笑いをした。
しかし、あの敵に教えて、その敵を公儀《こうぎ》のもとへ帰らせるか、というと、軍記はそんなつもりはさらにない。彼の目的は、敵に教えることにない。そういう名目で、味方の伊賀者《いがもの》が甲賀《こうが》くノ一を犯すのを見て淫学研究の一助とし、またそれをこの――彼の淫学眼によれば清潔|芳潤《ほうじゆん》の処女にまちがいのない――雪羽に見せて、その反応を観察し、これまた淫学研究の一助とするのが目的だ。
味方の麻打《あさうち》助十郎を斬《き》ったあの男、やわか無事に逃《のが》してなるものか。――しかし、その目的のための道具として、いましばしは泳がしておく。
かかる心算を軍記が脳中にえがいたのも、要するに伊賀忍法《いがにんぽう》に対する絶大なる自信あればこそだ。
「軍記い。……」
よだれをすする音とともに、山寺|杏兵衛《きようべえ》の声が聞えた。
「こりゃ面白い女だわあ」
「つらつら観察しておって、おれもそう思う」
「……例の件のう、朱膳《しゆぜん》の策《さく》」
「うむ」
「後半の約定。あれはあ、きいたときもわしはどうかと思ったがあ、この女を知ってえ、ますますわしはどうかと思うう」
前半に犯し、後半に殺すというだんどりのことだ。
「ふむ、白痴《はくち》らしいの。わしもその必要はないと思うが、烏頭坂《うずざか》がどういうか喃《のう》。あれの一徹《いつてつ》は、味方ながら、わしもちとこわい。――」
「とにかく、その前半をもう少し長びかせてくれえ。もう一番。――」
と、杏兵衛は舌なめずりした。
「ところでえ、軍記い、わしの浦波《うらなみ》のう、あれを使える法はないかあ。九法やら三十法やらある以上、一つくらいはあろうがあ」
「山寺の浦波。なるほど――しかし、杏兵衛《きようべえ》、衆道《しゆどう》は知らず、男の方が背を見せるという体位は――お、ある、ある、さすがは房内篇《ぼうないへん》じゃ。三十法のうちの最後の第三十、三秋狗《さんしゆうく》というのがある」
「そ、それはあ?」
「男女ともに背むきとなり、両手両脚を以てともに床《しよう》に拠《よ》り、両|尻《じり》ともにつく。……はて、これでうまくゆくか喃《のう》? こりゃ、さすがのわしの淫学的《いんがくてき》想像力も曾《かつ》て思い及ばなかった体位。げに唐人《とうじん》の空想力こそ恐るべし。……とはいえ、そもそも、これは背位とはいえ、双方反対向きでは、おぬしの背中は正常位以上に遊んでおることになるが」
「ではあ、女人の背位でようい」
「それで?」
「それをわしがやるう」
「おぬしが?」
「しかもこの女を狂《くる》わして見せるう」
「はじめから変ではないか、その女は」
軍記はきゅっと苦笑したが、すぐもちまえのまじめくさった顔つきに戻《もど》った。
「いや、なに、これは講義じゃからな。男女交歓の体位ということを頭に入れておけばよい。――それならば、数々ある。三十法の中の第二十一|白虎騰《びやつことう》、第二十二|玄蝉付《げんせんぷ》。――いやこれは前に紹介《しようかい》した虎歩《こほ》、蝉付のそれぞれ低騰《ていとう》型、開脚型じゃな。では、八益の第三、利蔵《りぞう》。――」
「利蔵?」
「いわゆる鴨《かも》の入首」
二
「後側位、男女同位。――女門の寒《かん》を治するに、日々四たび行わば二十日にして癒《い》ゆとある。八益の法の一つに加えられたゆえんじゃ」
「この女門、寒ではなあい。寒どころではなあい。――が、それはどうでもようい。で?」
「女人をして横むきに臥《ふ》し、その両足を曲げしむ。男、横に臥し。……」
「その女人の役をわしがやるわけかあ。……」
やがて山寺|杏兵衛《きようべえ》は横なりに寝ころび、膝《ひざ》をまげてまるくなった。そのうしろに、女|巡礼《じゆんれい》が彼を抱《だ》くようにぴったりついた。
――彼女はにたにたと笑っていた。半|白痴《はくち》なればこそ命ずるがままになった姿勢である。もはや両人ともまるはだかに近い。
しかし、男が女のうしろにつくなら知らず、その逆で、いったいこれからどうするのか?
木ノ目軍記でさえくびをかしげて見まもったのに、まさに美しき女|白痴《はくち》は、身をよじらせ、泣くとも笑うともつかぬ――はては獣《けもの》のような声をあげてもだえはじめたのだ。
さしもの軍記も眼をまるくしたが、すぐに了解した。
山寺|杏兵衛《きようべえ》の忍法浦波《にんぽううらなみ》。
彼はぽてぽてとした背中の筋肉を、自在に波打たせることが可能なのであった。実に彼は、豆をまいた上に寝ころんで、その豆をすべて背中でつまみあげることさえ出来た。
――その或《ある》いは強烈、或いは微妙《びみよう》な筋肉の律動、波紋《はもん》、弾撥《だんはつ》、吸引が、女の乳房《ちぶさ》や腹に形容を絶する刺戟《しげき》を与えるのであろう。
「おくれ」
と、女|巡礼《じゆんれい》はいった。
「いま、おくれ、房内篇《ぼうないへん》」
彼女は感覚的に息絶えるほどの快美感に襲《おそ》われたのではあるまいか。いまわのきわに助けを呼ぶように、その欲するものをけぶる脳髄《のうずい》にかすめさせたのではあるまいか。
山寺|杏兵衛《きようべえ》はくびれの入った頭をねじむけた。
「ほ、ついに白状したな。――といいたいがあ」
女|巡礼《じゆんれい》はのけぞってはいたが、逃《のが》れようとする表情ではなかった。それどころか、胸はいよいよ強烈に杏兵衛の背中に吸いつけられている。――杏兵衛は背中の筋肉で、女の二つの乳くびをくわえていた。
「それだけはおぼえておるなあ?」
乳くびのひねりを、ちょっと強くした。痛かったのであろう。――女巡礼は、声をたてて杏兵衛の背から離れた。
「――や、しまったあ」
ちと、いたずらが過ぎた――という風に、彼の声は軽かったが、それについで空中を走ったのは木ノ目軍記の驚愕《きようがく》した声であった。
「杏兵衛!」
それは、山寺杏兵衛から飛び離れた女巡礼が、いちど地上でころがると、そこに落ちていた自分の杖《つえ》と柄杓《ひしやく》をつかんで、くるっと立ったのを見たからであった。
杖からは白い光がほとばしった。仕込杖《しこみづえ》であった。
「動くと、斬《き》る」
と、彼女はいった。
そのとき山寺|杏兵衛《きようべえ》も二、三度ごろごろところがって、やはりそこに横たえてあったおのれの刀をつかんでいる。ただし、左手で。――しかも彼は、向うむきのままであった。巡礼《じゆんれい》は走りかかり、その背に仕込杖《しこみづえ》の刀身をつきつけた。
「おまえの手は、股《また》から離れぬ。甲賀忍法《こうがにんぽう》くノ一|血膠《ちにかわ》」
杏兵衛の右手は、自分の股間《こかん》からややうしろへ出たきり、そこに膠着《こうちやく》したきりであった。
先刻、女をとらえていたのは、さすがに彼の背中だけではない。この手のわざでもあったのだ。そのおのれの手がいまや膠《にかわ》のごとくつき、手をそこから離そうとすれば、灼《や》けつくような痛みを発することを彼は知った。
右手をおのれのからだにとらえられ、向うむきにころがったまま、山寺杏兵衛は芋虫《いもむし》みたいに動けなくなってしまった。
「くれえ」
と、刀をつきつけたまま、お藍《あい》は軍記と雪羽の方をふりかえった。
「房内篇《ぼうないへん》はそれか」
唇《くちびる》が、血に濡《ぬ》れている。いつのまにか彼女は血膠《ちにかわ》を口にふくんでいたと見える。――しかも、決して正気の顔ではない。依然《いぜん》として半|白痴《はくち》の表情だ。白痴が思いつめた表情だ。それが美しいだけに、いっそう恐ろしい凄惨美《せいさんび》であった。
雪羽はもとより、がばと立ちあがったきり、木ノ目軍記も身動き出来ない。――お藍《あい》はいった。
「それ、ここへ持って来い」
軍記は、雪羽のひざから地に垂れていた巻物を拾いあげ、巻きおさめた。それをつかんで歩き出す。彼はこれを半白痴の甲賀《こうが》くノ一に唯々《いい》としてわたすつもりか。――
「お藍《あい》。――」
そのとき、夕焼けの虚空《こくう》で声が聞えた。
「用心せい、そやつ、針を吹くぞ。――」
同時に、ザ、ザ、ザーッと葉擦《はず》れの音が降って来た。
雲水《うんすい》姿の木ノ目軍記は網代笠《あじろがさ》もあげず、かえってお藍の方がちょっと顔をあげた。その刹那《せつな》に、軍記の口から銀光が噴《ふ》いて、お藍の白いのどをつらぬいたものか、そのうなじに赤くひかった。
三
――わたしが房内篇《ぼうないへん》をとってやるから、あそこで待って。
雲水《うんすい》、武士、虚無僧《こむそう》の三人旅を見てそういい、畑の中を走り下りて先|廻《まわ》りし、ここの杉並木《すぎなみき》につくと、お藍《あい》は陽馬を、その大木の一つに追いあげた。
しかし、陽馬が追いあげられたのも、その高い枝に縛《しば》りつけられていたのも、その白痴《はくち》の女の言葉でもなければ、彼女と伊賀者《いがもの》との凄《すさ》まじい痴戯《ちぎ》への忘我《ぼうが》でもなく、さらに雲水と武士への警戒でもなく、ただその中の虚無僧《こむそう》一人――雪羽への懸念《けねん》、危惧《きぐ》、気づかいからであった。
感情の渦《うず》は混沌《こんとん》としていたが、やがて眼下にたわけた光景が展開するに及んで彼の心を占《し》めたのは、そもいったい雪羽はいかなる心境であれを見ているのだろうか? という疑惑《ぎわく》であった。
それに関連して思い出すことがある。また、あっと腑《ふ》におちたこともある。ほんの先刻、この越前《えちぜん》へ越えて来た山路できいたあの雲水の、
「――房内篇《ぼうないへん》を渡《わた》さずに、その男に教えて帰すという雪羽さまの御意見」
「――あの宰領《さいりよう》に、また一番臨床講義をいたすとするか。雪羽さまの御方針に従って」
云々《うんぬん》という言葉の断片だ。
雪羽は――おお、おれに対してそんな気でいるのか?
このことの是非、またそれに対する自分の心の認否はまだたしかめるにいとまがない。ただ陽馬の胸を波だてるのは、それにしても雪羽はあんな光景を見て平気なのか、あの雪羽が――という惑乱《わくらん》であった。
とかくするうちに、お藍《あい》はいかにも約束通り、房内篇《ぼうないへん》を奪《うば》う機会をつかんだ。武士姿の伊賀者《いがもの》を血膠《ちにかわ》で縛《しば》り、それを人質に雲水姿の伊賀者を呼び寄せようとしている。白痴《はくち》とは知っているが、白痴とは思えない、まさに甲賀《こうが》くノ一の面目|躍如《やくじよ》たるあっぱれな手ぎわではあった。
が、呼び寄せられ、唯々《いい》として近づいてゆくその雲水を見たときに、陽馬の頭には、いつぞやの磨針峠《すりはりとうげ》でのお琴《こと》の断末魔《だんまつま》、のどに刺《さ》さっていた一本の針がきらめいたのである。
われを忘れて彼は、杉《すぎ》の枝から枝へ、手をかけて滑《すべ》り下りるというより、ほとんど木の葉のごとく舞《ま》い落ちていた。
それがかえって悪かった。――
――双方ともにそこに陽馬のいることは承知していても、軍記が顔をあげなかったのに、お藍《あい》がちらと仰《あお》のいたのは、そこが白痴《はくち》か、それともこのとき陽馬が飛び下りて来るとは予想しなかったためか。
そののどに、吹き針が吹きつけられた。ただの吹き針ではない。いかなる秘術か、たたみ針ほどの木ノ目軍記の吹き針であった。
杉《すぎ》の大木から落ちた丹波《たんば》陽馬は、からくも立つにはとんと立ったが、さすがに一足よろめいた。そこへ軍記の襲撃《しゆうげき》がなかったのは、軍記の眼がなお女|巡礼《じゆんれい》にそそがれつづけていたためだ。陽馬は抜刀《ばつとう》した。
お藍《あい》はのどに針を立てたまま、なお倒《たお》れなかった。そのまま、じいっと立って――徐々《じよじよ》に左手の杓《しやく》を口に持っていった。先刻、彼女がそれを拾いあげたときから、はて何のために? と一抹《いちまつ》の疑懼《ぎく》を抱《いだ》いた柄杓《えじやく》なのである。さしもの軍記も、いいようのないぶきみさに打たれて、これまた立ちどまった。
陽馬はお藍を対角に見る四角形の一点にいる。左に山寺|杏兵衛《きようべえ》、右に木ノ目軍記。
山寺杏兵衛は、これまたはね起きて、左手に何とか抜刀《ばつとう》していたが、右手は股間《こかん》に膠着《こうちやく》したままだ。――と見て、その方へ陽馬のからだが翻《ひるがえ》ろうとする。
その刹那《せつな》、木ノ目軍記の口がとがった。吹き針の尖端《せんたん》がキラと出た。
同時にその顔面にぱっと鮮血《せんけつ》が飛び散った。お藍《あい》の口からほとばしり出た血の噴水《ふんすい》であった。
よろめく軍記から、血の噴水が一瞬《いつしゆん》切れ、お藍の顔が山寺|杏兵衛《きようべえ》の方へ動いた。また血が飛んだが、このとき杏兵衛はくるっと向うむきに背を返している。眼を狙《ねら》ったらしい血が、その毛の少ない髷《まげ》に飛びちったとき、お藍はどうと前へ打ち伏した。のどをつらぬかれたまま血膠《ちにかわ》を噴《ふ》くというわざに、彼女の生命力は燃えつきたのである。
顔をおさえ、よろめいた軍記めがけ、ツ、ツーと陽馬は走り寄った。
このとき、驚《おどろ》くべきことが起った。まるで糸にひかれるように、山寺杏兵衛のまるまっちいからだが陽馬を追ったのだ。背面したまま。――
これぞ伊賀者《いがもの》山寺杏兵衛得意の浦波《うらなみ》の秘剣。
何も背中の筋肉で豆をつまんだり女の乳くびをくわえたりするのが彼の能ではない。彼の本来のわざは、背中斬《せなかぎ》りという剣技だ。
彼は敵に平気で背を見せる。その背中に眼がある。いや、眼があるかのごとく、自在自由に前に飛び、うしろに飛び、刀をふるうのだ。彼の背の肉の至妙《しみよう》な運動は、背面して敵と対するという奇怪《きかい》な修行が生んだ余技に過ぎない。
かかるわざにどんな利があるか。たんに相手を戸惑《とまど》わせるのみならず、彼は背中の眼によって相手を見るのに、相手は彼の眼を見ることが出来ない。眼の動きによって未発に剣機を察する勝負に、これは致命的《ちめいてき》な差をもたらす。
鞠《まり》のごとく音もなく滑走《かつそう》した山寺|杏兵衛《きようべえ》の刀は、なお軍記に向う体勢にあった丹波《たんば》陽馬の完全な背へ――右腕へ、うしろなぐりに流れていった。
陽馬の背中に、杏兵衛のごとく眼があったら、彼はまさにその右腕を斬《き》り落されていたにちがいない。
いや、陽馬が通常の勝負のように真正面から対していたら、彼は敗れたに相違ない。――背中向きに斬る、背面して敵に向うのを常態とする剣技には、何ぴとといえども狼狽《ろうばい》、惑乱《わくらん》せざるを得ないからだ。
ただ彼も敵に背をむけていたがゆえに。――
山寺杏兵衛の変てこな姿を見なかったがゆえに。――
そこに狼狽《ろうばい》も惑乱《わくらん》もなく、ただ背後に迫《せま》った剣風を感覚したとたん、無我のうちに、これまたうしろなぐりに一刀を薙《な》いでいた。
ばすっ!
異様な音と手応《てごた》えに、むしろ陽馬の方がはじめて愕然《がくぜん》としたくらいである。ふりむいた陽馬は、そこに武士のまんまるい首が飛び、しかもその血しぶく胴から下がこちらに背を向けているのをちらと見たが、その右|腕《うで》がなお股間《こかん》にはさまれたのまでは見なかった。
山寺|杏兵衛《きようべえ》の奇怪《きかい》な胴は、首のころがったそばにどうと倒《たお》れた。
――そもそも彼はいかなる心因《しんいん》でこんなわざの修行を思いついたのか。なみの武士なら敵に背を見せることを恥《はじ》とする。のみならず、敵の背中を斬《き》るということすら躊躇《ちゆうちよ》をおぼえる。忍者《にんじや》は恥としない。手段を問わず敵を斃《たお》すことを唯一《ゆいいつ》の目的とする。その両者の気構えのくいちがいを極度に利用して敵の虚《きよ》をつこうという心算から発した技術であったろう。
それにしても、背をむけた丹波《たんば》陽馬に、杏兵衛の自負するこの浦波《うらなみ》の剣法が、なぜかくもやすやすと破れたか。――
それはやはり、彼の右|腕《うで》が封じられて、左腕に刀を握《にぎ》っていたことにあった。たんに右が利かないのみならず、その右腕と会陰部の接着の痛苦から来る動きの不自然さにあった。そこから、襲《おそ》いかかった杏兵衛《きようべえ》の剣に数瞬《すうしゆん》の緩慢《かんまん》さが生じたのだ。
丹波《たんば》陽馬の本能的な、同時に盲目的《もうもくてき》なうしろ斬《ぎ》りが、一瞬《いつしゆん》の差で成功したゆえんだが、陽馬はこれまた知らぬが仏である。
彼はこの敵を一瞥《いちべつ》しただけであった。前方には例の吹き針を吹く雲水がいるのだ。すでに陽馬は、雲水《うんすい》の口から突出しかけた針の尖端《せんたん》を見ている。それが噴出《ふんしゆつ》してすでに空中を飛来する幻覚《げんかく》まで見て、彼はほとんど眼をつむった。しかるに、何の異常もなかった。
陽馬の一瞥《いちべつ》の間に、木ノ目軍記は針を吹かず、背を見せて、水母《くらげ》のごとく向うへ逃げていた。
陽馬がうしろなぐりに山寺杏兵衛を斬るのを見つつ、木ノ目軍記はなぜ逃げたか。――それは吹き針を吹くことが出来なかったからであった。
満面、したたかお藍《あい》の血膠《ちにかわ》を浴びせられた彼は、鼻口に膠を埋《う》められたかのごとく、針を吹くはおろか、息さえつけぬ苦しみに驚愕《きようがく》して、とるものもとりあえず逃走したのである。
それとは知らず。――その手に巻物が握《にぎ》られているのを見て、陽馬は追いすがった。
「待て」
ふいに彼は、たたらを踏《ふ》んで立ちどまった。
その前にふらりと虚無僧《こむそう》が立ちふさがったからである。手に拳銃《けんじゆう》を握《にぎ》っている。――しかし、陽馬の足をとどめたのは、その洋式の武器のせいではなかった。その相手は、拳銃をだらりと下げていた。たたかう意志の見えぬその虚無僧そのものであった。
「…………」
「…………」
いつしか残光が薄《うす》れて、杉木立の下が薄墨色《うすずみいろ》に変って来たのも、二人は気がつかないかのごとくそこに凝然《ぎようぜん》と向いあっている。
「陽馬」
足もとで、虫のような声が聞えた。
死んだと思っていたお藍《あい》が白い顔をあげていた。玉虫色にひかるものが動いた。それが血の乾《かわ》いた唇《くちびる》だとは知らず。――
「口を吸って」
その声に慄然《りつぜん》として陽馬が地上を凝視《ぎようし》し、ふと気がつくと、虚無僧《こむそう》は背を見せて向うへ歩み去ってゆくところであった。
トボ、トボ、と。――そこに陽馬がいるのも忘れたようにうなだれて、物思わしげに遠ざかってゆくその夕闇《ゆうやみ》の白鷺《しらさぎ》みたいな影を、陽馬もまた茫乎《ぼうこ》として見送っているだけであった。
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可笑《おか》しい地獄《じごく》
一
倶利伽羅峠《くりからとうげ》を越え、越前《えちぜん》から越中《えつちゆう》へ。――もの寂《さび》しい北陸路にも、いつしか日の光は五月の白さを持つようになっている。
二つの集団はゆるゆると動いた。しかし、それを集団として見た者は、この集団以外にはだれもなかったろう。そしてまた、どちらがどちらを追っているのか、それを弁別した者もなかったろう。
本来なら、雪羽《ゆきは》を護る伊賀《いが》の男たちが逃げ、丹波陽馬《たんばようま》をかこむ甲賀《こうが》の女たちが追っているはずの旅なのだが。
陽馬と鳥追い姿のお扇《せん》や風車売《かざぐるまう》りのお篠《しの》の姿が、奇勝東尋坊《きしようとうじんぼう》の断崖《だんがい》に立って日本海の荒波《あらなみ》を見ている同じ日に、追われているはずの山伏《やまぶし》の釜戸朱膳《かまどしゆぜん》とおんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]の烏頭坂天八《うずざかてんぱち》が、それよりうしろの福井の城下の茶屋で酒を酌《く》んでいる姿が見られたり。――
またたんに北陸路をゆくにはわき道にあたる能登《のと》のわびしい漁村を、雲水《うんすい》の木ノ目軍記と人形つかいのお筆《ふで》が前後して通っていったり。――
むろん、物見遊山《ものみゆさん》をしているのではない。一方はたしかに一方から逃《のが》れるための移動だが、逃れるためには追うやつをあの世へ送った方がその目的のために完全だという考えもある。事実、伊賀《いが》のめんめんはその方針でいる。のみならず、追う甲賀《こうが》の女たちをその前にもてあそんでやるという執念《しゆうねん》にとらえられている。さらに、はからずも――実に大意外にも、その途中で落命した味方のための復讐《ふくしゆう》ということもある。だから、追われる方がむしろ追っているといってもいい。
いずれにせよ、おたがいに集団同士、例の毛と骨の信号器で連絡しつつ動いているつもりなのだが、それも相手あってのことだから、必ずしも機《はた》のごとく乱れずというわけにはゆかない。
追う者と追われる者とが整然としないのには、それぞれの中心的存在たる雪羽《ゆきは》と陽馬が、仲間から見ても不可解な迷いの表情を見せていることにもあった。双方とも、自分でもあいまいな、苦しみにみちた心理状態にあるのだからこれはいかんともしがたい。
それにまた、甲賀組《こうがぐみ》の場合。
その行動をいよいよ迷わせるものに、くノ一の一人、お茅《かや》という女がある。
この旅で、丹波《たんば》陽馬を悩《なや》ませているのは、かんじんの雪羽の持つ秘書という問題ばかりでなく、味方のくノ一たちであったが、その中でこのお茅は、別の意味で彼を悩ませた。
お琴《こと》、お藍《あい》にも辟易《へきえき》したが、残りの女たちにも困惑《こんわく》させられる。とくにお扇《せん》など肉体的欲望の化身みたいな女だと痛感させられることがしばしばであったが、一見、優雅《ゆうが》なお遊《ゆう》にしても、きりっとしたお筆《ふで》やお篠《しの》にしても。――
実は陽馬はあれ以来、敵の雲水《うんすい》が読みあげた医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》の一節一節をメモしておくことに決心した。実に重い、変てこな気持だが、それが自分の目的で、かつ雪羽の望みでもあるらしいから、ともかくも記憶《きおく》をたどりたどりその仕事をはじめたのだ。むろん、事がそれですむとは思っていない。
で、夜々、海鳴りの聞える旅籠《はたご》の灯の下や、ひる、深い山路の樹蔭《こかげ》で帖面《ちようめん》を出して、矢立《やたて》の筆で、
「九法の第三、仰臥《ぎようが》せしめ、男、その足をかつぎ、膝《ひざ》また胸を過ぎ、尻《しり》と背とともに挙げ、――」
とか、
「九法の第四、女をして伏臥《ふくが》せしめ、その身をのばさしむ。男、その背に伏し、わずかにその尻をあげ……」
とか、
「三十法の第五、女、あおむけに臥《ふ》し、両手を上に向けて男の頸《くび》を抱《いだ》き、両|脚《あし》を以て男の背に交わらす。……男、両手を以て女の頸を抱き、――」
などと、書きつけた。この耳の記憶《きおく》には、むろん眼の記憶が強烈な補助をしている。
それを、くノ一たちに知られたのだ。
頭をひねりひねり書いているくびすじに、ほうっと熱い息がかかるのを感じてふりむくと、お扇《せん》のあでやかに上気した顔があったり、やや離れたところでお遊が妙《みよう》にうすびかる眼をすえていたりする。それよりも露骨《ろこつ》なのはお筆やお篠《しの》で、これはこのたびの任務を強く意識しての義務感や研究心かららしいが、陽馬の記憶ちがいを論理的に訂正したり、また失われた記憶をかきたてようとしてやまない。
それも陽馬の悩《なや》みのたねだが、まったく別種の苦労のたねはお茅《かや》であった。
からみついて来るようなほかのくノ一たちとこと変り、この女だけは彼に近づいて来ない。遠慮《えんりよ》ではない。この女がばかに男をこわがる奇妙《きみよう》な性癖《せいへき》の所有者だということはすでにわかっている。いったい甲賀豆翁《こうがとうおう》は、どうしてまたこんな女をこのたびの任務に加えたのか。おそらく何らかの能力を期待してのことであろうし、また命令を拒絶《きよぜつ》することが出来ないのが甲賀くノ一の掟《おきて》ではあろうが。――
めざす秘書|房内篇《ぼうないへん》に伊賀《いが》の男たちがからんで来るとは、江戸を立つときの想定外のことであったから、これはお茅にとっても思わざる困惑事《こんわくじ》であったろうが、ともかく宰領《さいりよう》たる陽馬を見ると、からだをふるわせて逃げるのだから話にならない。相談することがあって、例の毛琴《けごと》で呼んでも、彼女だけ来ないこともある。そのくせ。――
「おまえ、江戸へ帰るか?」
と、きくと、遠くでいやいやをする。必死の顔だ。
それがただ任務を放擲《ほうてき》して帰るというおそれだけでなく、眼だけにはたしか哀切《あいせつ》ともいうべきひかりがあるので、陽馬も変な気がして、それ以上このことをいうのはやめてしまった。
――実は、このくノ一は、男性|恐怖症《きようふしよう》なのではなく、正しくいえば性恐怖症なのであった。処女のだれにもあるこの恐怖心が、そのままばかに拡大され、深刻化して残存しているものであった。従って、彼女の恐怖は、相手の男がそういう意識を以て自分に向うか、自分が欲望を以て相手に対したときのみに発現する。後者の場合は、恋《こい》と恐怖が貼《は》り合せとなる。
そこまでは陽馬の想像も及ばない。
見ていると、道ゆく男にはそれほどの恐怖は示さないのに、どうやら自分だけにそれを現わすのが甚《はなは》だ心外である。ほんとうのところは、女性に対して自信もある彼にとっては大いに心おだやかでない。
で。――そうなると、ほかのくノ一は持てあましているくせに、このお茅《かや》にはこちらからからかってやりたいといういたずら心が湧《わ》いて、一日、彼女を待ち伏せて、
「おい、話がある」
と、地蔵堂《じぞうどう》のかげからぬっと現われて見た。悩《なや》みに満ちた旅であるにもかかわらず、彼がそんなまねをしてみたのも、天性の闊達《かつたつ》さがつい洩《も》れたものだ。
お茅ははたと立ちどまった。
「わしの房内帖《ぼうないちよう》のことは、ほかの女から聞いたろう。例の房内篇《ぼうないへん》の一部を写したものだがな。あの中に、どうしても納得《なつとく》できぬものがあるので、それを験《ため》すためにちょっとおまえのからだを借りたい」
お茅《かや》は旅の巫女《いちこ》姿であった。
竹の皮で作った笠《かさ》をかぶり藍鼠色《あいねずみいろ》の帷子《かたびら》に黒い帯を前結びにしている。横長の小箱を浅黄《あさぎ》の布でつつんで背負って、わらじばきだが、白足袋《しろたび》をはいていた。これが巫女《いちこ》の定めの姿で、小箱の中には梓弓《あずさゆみ》と矢が入っている。この弓に矢をつがえて弦弾《つるび》きし、死霊《しりよう》を呼び出すことになっているので、別名をまた梓巫女《あずさみこ》ともいう。
まったくの冗談《じようだん》であったが、お茅がまるでほんものの死霊でも呼び出したような顔色をして、笠《かさ》も帯もふるわせているので、陽馬はわざと笑顔を作って、その肩《かた》に手をかけようとした。
お茅は飛びずさった。陽馬が追う。すると。――
彼女はたもとから二つの鞠《まり》を出した。たしか黄と赤の糸でかがってはあるが、握《にぎ》りこぶしほどの小さな鞠であった。それを地面へころがしたのである。
「…………?」
陽馬があっけにとられて立ちどまったとき、お茅はその二つの鞠の上に両足を乗せた。
と見るや。――なんたること、彼女はその鞠に乗って、あたかも彼女自身が鞠に化したかのごとく滑走《かつそう》して逃げ出したのだ。西へ――もと来た方へ。
たしかにその鞠《まり》ははずんで、ころがっているのに、一方でまたその足の裏に吸いついたように離れない。――
しばし、口あんぐりとして見送っていた陽馬は、ふいに、
「……しまった」
と、さけんだ。
その方向から、少なくとも三人の伊賀者《いがもの》が接近中であることは、その少し前、お篠《しの》からの報告できいていたからだ。
初夏の蒼空《あおぞら》に立山の大連峰のそびえる神通川《じんつうがわ》のほとり。鎖《くさり》でつらねた名高い舟橋を渡ろうとする手前の珍事であった。
二
神通川から西へ三里余、庄川《しようがわ》のさらに西側の渡《わた》し場で。
渡し舟を待つ旅人のむれからずっと離れた河原に、雲水《うんすい》と山伏《やまぶし》とそして手車売《てぐるまう》りがならんで坐《すわ》っていた。
手車売りをはさんで、両側から雲水と山伏が話しかける。
「俎《まないた》、まだ決心がつかぬか?」
「あそこに瞽女《ごぜ》が待ちくたびれておるではないか。――もはや舟を二艘《にそう》も待ったと怒っておるぞ」
木ノ目軍記と釜戸朱膳《かまどしゆぜん》だ。
「あの瞽女が気に入らぬか」
「修行のために好き嫌《きら》いのぜいたくは許さぬぞ」
叱《しか》りつけられているのは、伊賀組《いがぐみ》のうちの俎|墨之介《すみのすけ》であった。
投頭巾《なげずきん》をかぶり、袖無羽織《そでなしばおり》にたっつけ袴《ばかま》、前に箱を置いている。箱の中には手車が半分ほど入っている。手車とはのちのヨーヨーだが、このころは木製ではなく土細工であった。文政年間に出た「嬉遊笑覧《きゆうしようらん》」に、「土にて小さく井戸くるまのごとく作り、糸を結びつけ、その糸を巻きつけて、糸の端《はし》を持ってつるし下げれば廻《まわ》るなり。それを上に少ししゃくれば糸おのずから車にから巻きて、いつまでも舞《ま》う」とある。
それよりも、この俎墨之介という手車売りは何たる美少年だろう。からだつきは細くなよやかで、肌《はだ》の色は透《す》きとおるようだ。顔はまさに嬋妍《せんけん》という古語を以て形容する以外にない美貌《びぼう》である。――それが、いよいよ蒼白《あおじろ》い顔をしてうなだれている。
「わかっておる。しかし。――」
と、ほっと吐息《といき》をもらす。
「わかってはいるが、わしは恐ろしい。――」
この美少年は、なんと女性|恐怖症《きようふしよう》なのであった。
「思えば思うほど、おぬしたちはふしぎじゃ。ようもわが身の一部を女人の体内へ投げ入れて恐ろしゅうないものじゃ」
「ば、ばかめ、おれたちにかぎったことではない。人間の男はだれでも――いや、動物の雄《おす》さえ、みんな平気でやっておることではないか。おまえの方がよっぽどふしぎだ」
「動物ならわかる。そもそも理性のある人間が――こんな柔《やわ》らかいものがひょいとくいちぎられはせぬか、かたければかたいで、何かのはずみで折れはせぬか――いや、そのような理屈より、とにもかくにも、その姿、その行為《こうい》そのものが、わしには夢魔《むま》の世界のことのように恐ろしい。――」
――一見、どころかいくら考えても異常な心理にちがいないが、また一考すると、実際、本能的欲望、或《ある》いは先例というものを知らなかったら、この美少年の恐怖《きようふ》はまさに当然だと思われないでもない。が――むろん、軍記と朱膳《しゆぜん》は同感などしない。
「あ、あの、このたわけ」
朱膳のごときは、唾《つば》さえ吐《は》いた。
俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》の女性恐怖症はいまはじまったことではない。それはそれでもかまわない、と最初は思っていた。ただ、秘書を護るという務めだけならば。――曾《かつ》て一党の狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》が、「あれはあれでよろしい。なまじ女が近づくと、ただではすまぬ魔性《ましよう》の若衆でござれば」と雪羽に紹介《しようかい》した通りだ。
それが、それではすまなくなった。甲賀《こうが》のくノ一を犯すという副次的、いや主要目的が生じてからは。
で。――いま。
木ノ目軍記と釜戸朱膳《かまどしゆぜん》が、一生|懸命《けんめい》にこの女性恐怖症の美少年に反省を促《うなが》し、叱咤激励《しつたげきれい》しているのであった。のみならず、先刻金をやって話をつけた旅の瞽女《ごぜ》といま交わって、いわれなき彼の神経症を寛解《かんげ》させることを強要しているのであった。
「ほかの女に対してならばよい。しかし甲賀のくノ一を眼前にして、それを恐怖して交われぬとあっては、伊賀《いが》の風上にも置けぬ」
「やれ、俎、伊賀の名にかけてなんじの義務を果せ!」
低いが、拒否《きよひ》をゆるさぬ声に、俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》は浮腰《うきごし》になり、おびえたようにふり返った。
そこからさらに離れた河原の草むらに、以前漁具か何か置いてあったらしい半壊《はんかい》の小屋があって、その前に二人の女がならんで、ひざをかかえて日なたぼっこをしていた。
女?――手拭《てぬぐ》いを頭にかけ、三味線を小屋に立てかけて、たしかに瞽女《ごぜ》にはちがいないが、一人は老婆《ろうば》で、もう一人は三十前後に見えるが、まるで白象のようにふとっている。瞽女とはいうまでもなく盲目の流浪《るろう》女だが、老婆の方は片眼はあいているし、若い方は何を食っているのか、常人の倍はたしかにある。
老婆の方が、こちらを見てにたっと笑い、ふとっちょの女に何かささやいた。
「これも修行だ。俎、修行に否やは伊賀《いが》の掟《おきて》にかけて許さぬ」
木ノ目軍記にたたみかけられて、俎墨之介は蒼《あお》ざめた顔色のまま立ちあがり、ふらふらと小屋の方へ歩き出した。
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扇《おうぎ》 鋏《ばさみ》にながれ鞠《まり》
一
俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》としても、理屈では二人の朋輩《ほうばい》のいう通りだと思っていたのである。おのれの奇怪《きかい》な性癖《せいへき》を、自分でも歯がゆく、歯ぎしりしていたのである。
軍記と朱膳《しゆぜん》が、墨之介についていった。
「……来たわ」
老婆《ろうば》が黄色い乱杭歯《らんぐいば》をむいて、でぶの瞽女《ごぜ》にささやいた。
「それはそれは美しい男じゃぞえ」
いきなり朱膳につき飛ばされて、俎墨之介は瞽女の大|肉塊《にくかい》の中へまろび込んだ。瞽女はむんずと抱《だ》きしめ、撫《な》でまわした。それだけで、男の肌《はだ》のなめらかさ、骨のかぼそさ、息の匂《にお》わしさがわかったのであろう。でぶ瞽女は、心からなる恐悦《きようえつ》の哄笑《こうしよう》をあげた。
その腕《うで》の中で、もう半失神状態になっている墨之介を見て、
「こりゃいかん」
と、朱膳《しゆぜん》が舌打ちした。
「やはり駄目《だめ》ではないか。――」
「待て待て」
と、軍記は河原の方を見た。河原に舟を待つ旅人のむれのうちに虚無僧《こむそう》の姿を眼で探すと、軍記はその方へゆこうとした。
「あの娘《むすめ》、呼んで来よう。こういうかたちも見せてやりたい」
学者みたいに冷静な顔に、皮肉な笑いが浮んでいる。いま、俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》をくどき落すためにちょっと雪羽から離れたのだが――そして、墨之介と瞽女《ごぜ》の組合せは番外なのだが、いまこの巨大な醜女《しこめ》に抱《だ》きかかえられた美少年を見ると、ふっと、これも是非雪羽に見せてやりたい、という醜怪《しゆうかい》ないたずら心が湧《わ》き出したらしい。
朱膳がきく。
「房内篇《ぼうないへん》にあるか」
「ある」
「ほほう。瞽女と手車売《てぐるまう》りの組合せが?」
「そんなものはないが、大女相手の場合がある」
軍記は眼をつぶって、暗誦《あんしよう》した。
「三十法の第十六、鳳将雛《ほうしようすう》。婦人肥大なれば一少年を用い、ともに交わるは大いにすぐるるなり。……」
「何のことだ?」
「二本、同時に使用するのじゃが……その一本がおぬしなら、俎《まないた》の方は影が薄《うす》うなる。いや、これはいかんか。何にしても、観物《みもの》ではある。とにかく、呼んで来よう」
木ノ目軍記が河原の方に立ち去ると、大きな瞽女《ごぜ》は墨之介《すみのすけ》を抱《だ》いたまま、ぬうと立ちあがった。
「では、可愛《かわい》がってあげるぞえ」
「ま、待て待て」
と、釜戸朱膳《かまどしゆぜん》はあわてた。
「いま、見せてやりたい人間が来る。――」
「ばか。女がそんな姿を見せられるかえ。恥《は》ずかしや」
と、瞽女はからだをふるわせた。尤《もつと》も至極なことで、怒《おこ》ったようである。象が身ぶるいしたような威容《いよう》に打たれて、さしもの朱膳も口をモガモガさせるばかりであった。
「た、た、助けて。――」
俎墨之介は死物|狂《ぐる》いに足をばたつかせた。その口に、よだれだらけの夜着の袖《そで》みたいな瞽女の唇《くちびる》がかぶさると、墨之介《すみのすけ》は「きいっ」というような声をあげた。たおやかな美少年のからだをだぶだぶした乳房《ちぶさ》のあいだにメリ込ませると、
「お杉婆《すぎばばあ》、番、頼むぞえ」
といって、瞽女《ごぜ》はうしろの小屋へ入っていった。
伊賀《いが》一党中、最も凶暴な釜戸朱膳《かまどしゆぜん》だが、さすがに一人で、見張りの婆をおしのけて見物に入る勇気がない。が、やがて小屋の中から、女のげらげら笑いと、「きいっ」「きいっ」という墨之介の悲鳴が聞え出すと、墨之介が女のためにおしつぶされるか、恐怖《きようふ》のためにほんとうに息絶えるかと不安になった。で、おちつかぬ表情で、河原の方をふりかえる。――
――と、そこの虚無僧《こむそう》に近づきかけていた木ノ目軍記が、ふいにぴたりと立ちどまった。網代笠《あじろがさ》に手をかけて、河の向うを眺《なが》めやっているようすだ。
はて、何を見ているのか? と朱膳がくびをかたむけたとき、くるっと墨染《すみぞ》めの袖《そで》をひるがえして、こちらに駆《か》け戻《もど》って来た。
そのとき、小屋の中では、一きわ痛絶に、きいっ――という動物的苦鳴があがって、それっきり、しーんと静まり返ってしまった。
「俎《まないた》!」
朱膳《しゆぜん》がぎょっとしてさけんだとき、軍記が息せき切ってやって来た。
「おい、見たか」
「何を?」
「河向うの土堤《どて》の上に、甲賀《こうが》のくノ一が一人現われた。巫女《いちこ》姿のやつじゃ」
「お。――」
「あれはもう富山に入っておるころと思うておったが、何のためか、ふらふらと迷い鳥のようにあそこに立ち戻って来おった。よい機会じゃ。あれを捕《とら》えて、俎《まないた》にかからせよう。舟もこちらに戻って来る。あの舟に乗って、すぐ向うへ渡りたい。俎はどうした?」
そのとき、小屋の中から出て来た者がある。これもふらふらと、毛をむしられた雛鳥《ひなどり》のような俎|墨之介《すみのすけ》であった。
「…………?」
声をかけるより、軍記と朱膳は小屋の中をのぞきこんだ。
壊《こわ》れた羽目板《はめいた》のすきまからさす初夏の光の縞《しま》に、白い小山のごときものがうずたかく鎮座《ちんざ》していた。白い小山? いや、それは分娩《ぶんべん》中の牝象《めすぞう》といっていい。尤《もつと》も牝象が分娩するときそんな姿勢をとるものかどうかつまびらかでないが、とにかく二人は、仰《あお》のけになって両|膝立《ひざた》てた女を真正面から見たわけである。両膝はぶるぶるとふるえていた。
そして。――
巨大な二枚の肉厚の貝は、両側から、箸《はし》ほど細くさきのとがった鉄の串《くし》でぎゅっとはさまれ、絞《し》めつけられているのであった。その苦悶《くもん》のために、瞽女《ごぜ》は声を立て得ず、両足をふるわせているらしい。――
二人は顔見合せ、俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》を見送り、そしてさけんだ。
「また、やりおった!」
二本の鉄の串ではない。扇《おうぎ》の骨だ。
俎墨之介の持つ扇、それは細い鉄の骨から出来ていて、まんなかから裂《さ》いて二つに分けると、それは鉄の鋏《はさみ》となる。刃にあたる部分はないが、その挟《はさ》む力はやっとこ[#「やっとこ」に傍点]よりも強い。彼だけが所持する独特の武器、扇《おうぎ》 鋏《ばさみ》。
――いま、はじめてやったことではない。かくのごときあえかなる美少年だから、いままでいくどか女に言い寄られ、ときには女からあわや手籠《てご》めにされかかったとき、彼は恐怖《きようふ》のあまり、これを以て女を封じて死物|狂《ぐる》いに逃げ出して来たという前科がある。「女が近づくとただではすまぬ魔性《ましよう》の若衆」といわれるゆえん。
二
「どけどけ!」
庄川《しようがわ》を渡《わた》って来た舟がつくや否や、こちらから乗り込もうとする旅人はおろか、まだ舟の客が下り切らぬうちに、釜戸朱膳《かまどしゆぜん》はみなをおしのけて、前へ出た。
「な、何をなさる」
「そんな勝手な」
旅人たちはどよめきたったが、山伏の凶悪きわまる面貌《めんぼう》に息をのんでいっせいに身をひいた。しかし、船頭はさすがに見かねたらしい。
「おい、むちゃなお客に舟は出さねえぜ」
と、舟着場に立ちふさがった。朱膳はものもいわず、その横の棒杭《ぼうぐい》につないであった綱《つな》に右|掌《て》をあげた。垂直にして下ろした。すると、足の親指ほどもふとい綱がまるで刃物で切ったようにすっと切れた。船頭はぎょっと眼を見張ったきり立ちすくんでしまった。
「おう、梵論字《ぼろんじ》どの、お乗りなされ」
と、朱膳は雪羽にむかって手をふった。
あまりの傍若無人《ぼうじやくぶじん》さに、天蓋《てんがい》の中で雪羽は顔あからめたが、ためらったとてどうなる相手ではない。――ともかくも、舟に乗ると、
「早く来い、俎《まないた》!」
と、もうみずから櫂《かい》をとって、朱膳《しゆぜん》はさけんだ。
河原の方からおずおずとやって来た手車売りの俎|墨之介《すみのすけ》は、雪羽以上にためらっている風であったが、「何をしておるか、遊びの旅ではないぞ」とまた叱咤《しつた》されて、
「では、御坊、その舟のまんなかに坐《すわ》ってくれ」
と、軍記にいって、雪羽とは反対側の艫《とも》の方へ坐った。
俎墨之介はこの道中、極力雪羽から離れ、ほとんど同席したことがない――ということを思い出し、苦笑するゆとりは雪羽にない。彼女はなぜ朱膳と軍記が舟を奪《うば》ってまで先を急ぐのかまだわからず、しかし、もしかしたら? と、水を切る舟の前方に眼を凝《こ》らしていた。
舟が東の岸についたとき、土堤《どて》の上にはべつに怪しい人影はなかった。が――朱膳は櫂《かい》を放り出し、タタタタとまっさきにその土堤に駆《か》けのぼって、
「いたっ」
と、吼《ほ》えた。軍記があとを追いながらきく。
「巫女《いちこ》だけか?」
「そうらしい。――」
甲賀《こうが》のくノ一の中に巫女姿の女がいる、ということは雪羽もきいている。はじめて朱膳《しゆぜん》たちが急いだ理由を知って、雪羽も土堤《どて》へ駆《か》けていった。
土堤の向うは道のほかは石ころだらけの原っぱになっていた。あちこちに崩《くず》れかかった石塔《せきとう》が散在しているところを見ると、昔、墓場《はかば》だった場所かも知れない。たださすがに五月らしく、いたるところ野の花が、赤く白く風にゆらいでいる。その道の上にたしかに梓巫女《あずさみこ》が一人立って、びっくりしたようにこちらに顔をあげていた。
お茅《かや》である。
彼女はなんのためにここまで逃げて来たのか、自分でもよくわからない。丹波《たんば》陽馬に挑《いど》まれて、はっと思ったとたん逃げ出していたのだが、それにしても三里余、いっきにここまで走ってしまったのは、やはり彼女の足の下の「ながれ鞠《まり》」のせいだ。この旅に出てから使ったこともないが、夢中で逃げただけに、それはローラー・スケートさながらの速度であった。そして、この庄川のほとりに来て、渡し舟が出てゆくのを見て、彼女はやっとわれに返った。それから、自分がなぜここへやって来たのかを考え出したのである。
考えてみれば、逃げる必要はない。逃げるどころか、彼女は陽馬が好きなのであった。好きであればこそ逃げたのだが……とにかく、逃げてはこのたびの任務が果せないのだ。
渡し舟が向う岸へ近づいてゆくのを見送ってから、彼女はひき返した。が、来るときとはちがって、トボ、トボ、と思案に沈みつつ。――
背後の土堤《どて》に大声をきいてふりむいたお茅《かや》は、土堤から駆《か》け下り、原っぱをななめに駆けぬけて前方へ廻《まわ》った山伏《やまぶし》を見た。それから、土堤の上に一人の雲水《うんすい》と、つづいて虚無僧《こむそう》の姿が浮びあがったのを見た。
お茅はたもとからまた二つの手鞠《てまり》を出した。ヒョイと足をのせたが、べつに走り出そうとはしない。じいっと土堤の上の虚無僧を見あげている。それが半井《なからい》の娘《むすめ》で房内篇《ぼうないへん》を所持していることはすでに彼女は知っていた。
たったいま、自分の任務――房内篇を奪《うば》うという――を思い出したところだ。男性|恐怖症《きようふしよう》のお茅が、あえて逃げず、どうやらここに覚悟《かくご》をきめたかに見える。――
「何じゃ、妙《みよう》なことをしたな」
土堤《どて》を下りながら、木ノ目軍記がいった。
「朱膳《しゆぜん》、用心しろよ」
ちょっと立ちどまった釜戸《かまど》朱膳も、巫女《いちこ》がどこからか取り出した懐剣《かいけん》の鞘《さや》を払《はら》うのを見て、かっと歯をむき出した。
「何を――しゃらくさい!」
そして、大手を拡《ひろ》げた。刀も抜《ぬ》かないが、その手がただの手でないことは、先刻|綱《つな》を切った凄《すさ》まじい手練からでも知れる。反対側から歩み寄りつつ、雲水《うんすい》は口にキラとひかるものをふくんだ。
「おとなしゅうすれば、命だけは助けてやるぞ」
つかみかかった朱膳の腕《うで》の下から、お茅はつーいと逃げた。
「――あ?」
二人、同時にさけんだのは、むろんそれがふつうの逃げ方ではなかったからだ。
それから数分、この草原にくりひろげられた鬼ごっここそ観物《みもの》であった。二人の男のあいだを、巫女は滑走《かつそう》した。旋回《せんかい》した。そして、宙をさえ飛んだ。
古来日本には蹴鞠《けまり》というものがある。これは鹿皮《しかがわ》で作られた中空の鞠だ。また曲鞠《きよくまり》というものがある。これは大道の手品芸、というより足芸で、綿をしんにした絹糸の鞠だ。――いま見る巫女《いちこ》を乗せた鞠は、外見どうやら後者らしく、またそのわざも、曲鞠というより玉乗りともいうべきものであったが、しかし、右へ左へ、前へ後へながれる鞠は、回転しつつ、しかも足の裏に吸いついたようで――さらに驚《おどろ》くべきことは、まるで手でついているように自在にはずみ、乗せている人間を宙へ躍《おど》らせながら、ついに彼女から離れてよそへころがるということがないのであった。
二度、三度、軍記の口から銀線が吹いたが、まるで虚空《こくう》の蝶《ちよう》か水中の魚のごとく巫女は逃《のが》れ去る。そして、朱膳《しゆぜん》の方がついに横なりの墓石《はかいし》につまずいてつんのめった。
それをめがけて懐剣《かいけん》片手に滑《すべ》り寄る巫女の足へ――いや、足下の鞠の一つへ、軍記の吹き針が飛んだ。あれを始末するよりほかにこの女を捕《とら》える法はない、という軍記の念力こめた吹き針であった。
それはみごと鞠につき刺さった。案の定、何かを感覚したらしく、巫女の動きが静止した。
一瞬《いつしゆん》ののち、その針を押しつぶして鞠は回転した。その直前に。――
「えたりや」
軍記が大手を拡《ひろ》げて馳《は》せ寄ったのは、あくまでこの女を手捕《てど》りにしようと思ったからだ。
その顔めがけて、巫女《いちこ》の足の下から、ピューッと一条の液体が噴出《ふんしゆつ》した。ゴルフのボールには樹脂《じゆし》性の液体が入っていて、まれに裂《さ》けて噴出したその液体のために失明することがあるというが、甲賀《こうが》くノ一の「ながれ鞠《まり》」には何が入っていたか。――まさに軍記の両眼めがけて噴《ふ》いた細い液体は、
「わっ」
と、彼に顔を覆《おお》わせた。その刹那《せつな》、彼は両眼に痛烈《つうれつ》な疼痛《とうつう》を感覚したのである。
それが偶然《ぐうぜん》でなく、くノ一がちゃんと承知していて足で鞠をあやつったことは、その次の動作でもあきらかであった。
「こいつ!」
顛倒《てんとう》から獣《けもの》のごとく跳《は》ね起きた釜戸朱膳《かまどしゆぜん》に、彼女はこんどはその鞠の一つをはっしと蹴《け》あげたのである。
ござんなれ、といわぬばかりに、朱膳の手刀がそれを切る。鞠はたしかに二つに切れた。同時にそこからぱあっと散乱した液体が、いかんなく彼の満面にしぶいて、これまたこの男を、眼を覆ったままひっくり返してしまった。
「俎《まないた》!」
「何をしておる!」
二人は絶叫《ぜつきよう》した。
ただ一個の鞠《まり》から下りて、懐剣《かいけん》を握《にぎ》って地上の二人へ近づきかけたお茅《かや》は、土堤《どて》の上の虚無僧《こむそう》と手車売《てぐるまう》りを見あげると、――ここはまずよし、あの方を片づけて、と決意したらしく、鞠《まり》を手にして、土堤の方へ歩いて来た。
三
土堤の方から茫乎《ぼうこ》としてこの不可思議なる決闘《けつとう》を見下ろしていた俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》は、近づいて来た巫女《いちこ》を見ると。――
「いかぬ、逃げなされ」
と、やや離れて立っている雪羽にさけんで、返事も待たずスタコラと河原の方へ駆《か》け下りたが、雪羽が動かないのを見て、さすがに土堤の中途で踏《ふ》みとどまった。
いくら何でも本来の守護の任務を思い出したらしい。頭を振《ふ》り、歯をくいしばり、それからまた土堤の上へ駆け上って来た。
ちょうど、お茅はそれを真下から仰《あお》ぐ位置にいた。
蒼空《そうくう》に浮く投頭巾《なげずきん》に袖無羽織《そでなしばおり》の美少年。それはいまにもその蒼《あお》みに溶けこんでしまいそうに思われた。
それを仰《あお》いで――どうしたのか、お茅《かや》は、逆にトトトトと草原《くさはら》の方へ逃げたのである。この場合に、たんに動いたばかりではない血潮が、ぽうと頬《ほお》にさしていた。
つりこまれて、俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》はふらふらとそちらへ駆《か》け下りた。
いちどあからんだお茅の頬は、このとき蒼白《そうはく》になり、鞠《まり》を抱《いだ》いたまま、きっとして立ちどまった。すると、墨之介がおびえたようにまたふらふらとあとずさる。
雲は流れる。――その影が地に這《は》う。
その雲の影のごとく、なんの声もなく草原の上を、一人が追えば一人が逃げ、逆に一人が追えば一人が逃げるという光景は、第三者の眼から見たら、いったい何をしているのだろうと思われたに相違ない。
「……こ、こわいか、わしが。――」
と、俎墨之介があえぐようにいった。
「そなた、わしをこわがっておるな。――」
相手の眼で、墨之介はそのことを知った。同類の感覚でそれをやっとかぎつけたのである。彼は万感無量といった顔をした。
「おう、男をこわがる女がここにおる。それがありふれたこわがり方でないことは、わしだけにはようわかる。――わしも女がこわいのじゃ。そのきもち、ようわかる。……」
十メートル以上も離れて――二人の男女が、同病相|憐《あわ》れむ眼をおそるおそる交わしたとき、草の上に坐《すわ》って、まだ両眼を押えつつ、見えない世界の変な気配にくびかたむけていた朱膳《しゆぜん》と軍記が、突然《とつぜん》さけび出した。
「何をいっておるのじゃ、墨之介《すみのすけ》!」
「何をしておるのじゃ、俎《まないた》!」
俎墨之介は水をあびせられたような顔をしてささやいた。
「こわいが、伊賀《いが》と甲賀《こうが》。……哀《かな》しき宿世、ここで、やることはやらねばなるまいなあ。……」
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破れ扇《おうぎ》 心《しん》 形《ぎよう》 刀《とう》 流《りゆう》
一
やることはやらねばなるまいなあ。――と俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》がいったのはどういう意味か。
少なくともお茅《かや》は、この敵を斃《たお》さねば房内篇《ぼうないへん》は奪《うば》えぬ、いやそれよりもこの場を逃《のが》れることさえむずかしい、と覚悟《かくご》をすえたらしい。そういって近づいて来る墨之介《すみのすけ》を、こんどは逃げず、必死の顔で迎《むか》えた。
ふっと、墨之介が立ちどまった。
「殺すのは、こわさのために殺す、ということになる。……」と、つぶやいて、
「淫学坊《いんがくぼう》」
と、呼んだ。いかにも俄《にわか》めくららしく、眼をおさえたまま、キョトキョト首ふり動かしていた木ノ目軍記が、
「おお何だ、おまえ何をしておる?」
「恐《おそ》ろしさのあまり女を殺す、というのは伊賀者《いがもの》の名折れだなあ?」
「…………?」
「甲賀のくノ一を犯《おか》すのが、この旅の目的の一つだといったなあ?」
問いかけるというより、自分にいいきかせている声だ。歯をくいしばり、伊賀者本来の面目をふるい起そうとしている表情だ。
軍記と朱膳《しゆぜん》は歯をむき出してさけび出した。
「その通りじゃ。甲賀《こうが》のくノ一を眼前にして、それを恐怖《きようふ》して交われぬとあれば伊賀《いが》の風上にも置けぬといった通りじゃ。さればこそ、おまえを大悟《たいご》させるためにわれらはあの通り苦心|惨澹《さんたん》。――」
「犯《おか》せ! 犯せ! 犯せ! しかし、俎《まないた》、おまえにそれが出来るか?」
墨之介《すみのすけ》はうなずいた。
「それをやって見ようと思う」
彼はふたたび歩き出した。
沈んだ声であったのに、それまで必死に踏《ふ》みとどまっていたお茅《かや》が――その意志も波にさらわれたように、またトトトトと逃げた。
男性恐怖症の女とはいえ――この美少年に心動かされぬ女があろうか。彼女の視覚は、先刻から相手の美しさだけは認識している。が、その蠱惑《こわく》の恐怖に耐《た》えて立ち向おうとしていたお茅も、いまこの相手が自分に殺意ではなく欲情を以て近づいて来るのを見たとき、どうにもならぬ恐ろしさに押し流されたのだ。
彼女は相手の欲望を、いまの問答によってではなく、その顔色によって察したが――しかし俎墨之介の頬《ほお》は水色に変って、とうていふつう春心きざした男の顔ではない。
勇をふるい、五、六歩追いすがって、
「……だ、だめだ!」
と、彼はうめいた。草原に釘《くぎ》づけになった両足がぶるぶるとふるえている。
「ま、待ってくりゃれ、甲賀《こうが》の女人」
と、彼はあえいだ。
「ものは相談じゃが――そなたがわしをこわがっていることはわかっている。しかし――こわがっていては、みずからの務めの果せぬことを承知しているであろうが」
お茅《かや》も、蒼《あお》い顔で、こっくりした。まったく同感だ。言葉よりも、その心情が山彦《やまびこ》のようにひびき合う。
「で、馴《な》れるために……離れて……この位置でわしと交わらぬか?」
俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》は妙《みよう》なことをいい出した。二人の距離《きより》は五メートル以上もある。――
けげんな顔の女から、墨之介は眼をそらして、
「淫学坊《いんがくぼう》」
と、また呼んだ。
「離れて……立ったまま交わる法はないか?」
「いったい、何をしておるのじゃ、おまえは。――ば、ばか! そんなたわけた法、いかに房内篇《ぼうないへん》でもあるものか」
「頼む、淫学坊《いんがくぼう》。……た、助けてくれ!」
「立ったまま、というやつならあるが。――」
「それでよい。ともかくも、それを試みる。――」
眼があいて、二人の位置を見ていたら、いくら木ノ目軍記でもばかばかしくて、そんな請《こ》いに応ずることはなかったろう。しかしまだ両眼つぶれた軍記には、二人の間の距離《きより》が見えず、ともかくもおのれの知識を暗誦《あんしよう》しはじめた。
「三十法のうちその第十四、臨壇竹《りんだんちく》。……男女ともに相向いて立ち、口づけして相抱《あいいだ》き。……」
俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》は両|腕《うで》をあげて環《わ》にし、口をとがらせて風を吸った。
じいっとそれを見ていたお茅《かや》は、このときまだ鞠《まり》を片手につかんでいたが、それが草の上にころりと落ちた。そして、これも両手をあげて環にした。
彼女もまた、かくてはならじ――と、男性|恐怖症《きようふしよう》 克《こく》 服《ふく》の決意をふるい起したわけではない。いや、その意志もあるにはあったが、それより墨之介の悲願に魅入《みい》られたのだ。
と、お茅の唇《くちびる》は、まるでじかに墨之介に吸われているようなかたちになった。事実、唇に、濡《ぬ》れた粘膜《ねんまく》の圧感とうごめきすら感覚し、そこに形容しがたい恐怖《きようふ》と快美が灼熱《しやくねつ》した。胸があえぎ、思わずからだがくねった。
すると墨之介《すみのすけ》も、逆に自分が催眠術《さいみんじゆつ》にかかったように腰《こし》をくねらせ、三歩、四歩、ふらふらと歩き出した。
「これか。……なるほど、これか。この感じ、悪くない。……」
みずからに、説得するようにいう。が、その動作は夢遊病者《むゆうびようしや》に似ていた。しかも、きりっと歯を鳴らして。――
「淫学坊《いんがくぼう》、もう一つ、強いところを。――」
「や、犯したか」
「まだだ」
「まだ? まだ立っておるのか? せめて、坐《すわ》れ。――」
甲賀《こうが》のくノ一に抵抗《ていこう》の気配がない、ということを察し、くびをひねりながら軍記は、ともかくもまた一歩をすすめる。
「九法のうちの第九、鶴交頸《かくこうけい》。……男正しくあぐらかき、……」
墨之介はずるずると坐った。
「女は膝《ひざ》をついて坐《すわ》るのじゃ」
お茅《かや》も坐った。これはそれまでの、あまりの――生れてはじめての快感と、その快感に対する恐怖《きようふ》のために立っていることも出来なくなったためであったが、ちょうど呪文《じゆもん》のような声の命ずるのと同じ姿になった。
「女、その上に坐り、手もて男の頸《くび》を抱《いだ》く。男、女を抱き、その揺挙《ようきよ》を助く。……」
墨之介の手はそのように動いた。まだ三メートル以上も離れているのに、膝をついて立ったお茅の腰が浮動した。
彼女はたまりかねたような声をあげた。
同時にその手がふるえながら大きく廻《まわ》ると、そばにころがっているながれ鞠《まり》をたたいた。鞠はビューッと坐っている俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》の顔に飛んでいった。
二
墨之介に誘《さそ》われたとみせかけて、彼を罠《わな》にかけたわけでは決してない。
お茅がながれ鞠を飛ばしたのは、のぼりつめた恐怖のための夢中の行動であった。だいいち、足で踏《ふ》まれて地を走るほどの鞠だ。はらいのけられればそれまでである。
鞠《まり》は墨之介《すみのすけ》の顔前五十センチの空中に静止した。彼は腰《こし》にさしていた数本の扇《おうぎ》のうちの一本を、眼にもとまらず抜《ぬ》き出すや、ななめ空中につき出して、その鞠を受け止めていたのである。
完全にひらくいとまはなかった。わずかに指を二本ひらいたほどの角度にひらいた。が、鞠がその二本の尖端《せんたん》に触《ふ》れるや、それはグサリとつき刺《さ》されて止ってしまったのだ。ただの扇ではない。骨が鉄針で出来ている扇であった。
意識してやったわざではない。むしろ彼もまた渾沌《こんとん》の境地にあったがゆえに、反射的におのれの手練が発現したものだ。その証拠《しようこ》に。――
「……だめだ! やはりだめだ!」
かっと眼を見ひらき、扇でつき刺した鞠を横に振《ふ》り捨てようとした動作も無造作《むぞうさ》で、そのため抜けた一本の骨のあけた小孔《こあな》から、鞠が噴《ふ》き出した液体の糸を、さっと顔に受けたことでもわかる。――
顔をそむけたが、彼は片掌《かたて》を左眼にあてた。液をその一眼に受けたのである。
左掌で顔をおさえ、坐《すわ》ったままの俎《まないた》墨之介めがけて、お茅《かや》は走り寄った。本来の任務に目ざめたせいではない。ひたすら恐怖《きようふ》のあまりの襲撃《しゆうげき》であった。
彼女はどこからかとり出した懐剣《かいけん》を、真っ向から美少年に振《ふ》り下ろした。
これまた空中で発止《はつし》ととめられている。――
異様な音がした。キイッと鼓膜《こまく》をこするようなひびきであった。懐剣は扇《おうぎ》の二本の骨にはさまれていた。
ただ松葉形の骨の要《かなめ》で受けとめたのではない。それは鋏《はさみ》のように閉じられたのである。いまのひびきは、二本の鉄針が懐剣の刃を両側から強烈に摩擦《まさつ》した音であった。
手がしびれ、懐剣はお茅から離れた。
身をひるがえして逃げる。逃げながら、その前にまた黄と赤だんだらの新しい鞠《まり》が二つころがった。彼女の両足はそれに乗った。
その鞠めがけて、墨之介の扇《おうぎ》 鋏《ばさみ》が飛んだ。なんと――それは一本で二つの鞠をつらぬいたのである。
鞠に乗って逃げる場合、二つの鞠がすれちがう瞬間《しゆんかん》がある。その瞬間を、松葉形にひらいた鉄針がとらえたのであった。
「あっ」
たまらず、お茅はどうと前へつんのめった。
はね起きようとしたお茅《かや》の白足袋《しろたび》をはいた足くびに、また二つに裂《さ》けた扇鋏が飛んだ。これは水平にくるくるっと旋回《せんかい》していって――外側から足くびをはさんだ。二本の鉄針は、にゅっと彼女の足くびの内側につき出していた。
それと知るよりも、激烈《げきれつ》な痛みにお茅は片ひざついたまま地に爪《つめ》を立てた。たんに先がひらいてはさんでいる鉄の骨ではない。要《かなめ》の部分に何やらばね仕掛でもあるらしく、それは骨も砕《くだ》けるほどしめつけ、肉にくいいっているのであった。
彼女は独楽《こま》みたいに回転して、墨之介《すみのすけ》の方をふりむいた。墨之介もまた片ひざたてたまま、顔をゆがめている。
「だめだ、淫学坊《いんがくぼう》。やはりわしはだめだ! 女は抱《だ》けぬ。……女はこわい、好《す》きなのに、怖《おそ》ろしい。……」
顔をゆがめているのは、片眼の痛みではなく、胸の嵐《あらし》のせいであるらしい。
「で、わしは女がにくい。にくまざるを得ん。……」
二つの扇が相ついで投げられた。腰《こし》から抜《ぬ》きとるとき、指が稲妻《いなずま》のように動いて紙を裂《さ》き、二本の鉄骨だけの武器に変るらしい。
こんどはそれは垂直に回転していって、巫女《いちこ》の胸を両側からはさんだ。それをむしりとるより前に、お茅《かや》は苦悶《くもん》のさけびをあげた。それはきものを通して、正確に二つの乳くびをはさみ、そして――なお一回転しながら、ぐいとそれをねじ切ってしまったのだ。彼女はのけぞった。
まるで猫《ねこ》が鼠《ねずみ》をもてあそぶに似ているが。――
俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》は立ちあがって、近づいて来た。両足ががくがくとふるえている。
二メートルばかりのところで立ちどまって、
「くノ一、裾《すそ》をとれ。……両足を立てろ」
「……やっ?」
いままで、狐《きつね》につままれたような表情で耳をすませていた軍記がさけんだ。
「やはり、やってみる気になったか、墨之介。――」
「いや、これ以上は近寄れぬ。それより、わしを恐ろしがらせた根源を。――」
と、墨之介は歯をかちかち鳴らしながらいった。
「封印してくれるのだ。……」
しかし、また腰《こし》の扇《おうぎ》に手をかけたまま、俎墨之介は動かなくなり、野末の道をながめやった。その方向から、深編笠《ふかあみがさ》の武士がトットと駆《か》けて来る。――
三
丹波《たんば》陽馬だ。
せっかく三里余も向うの神通川のほとりまでゆきながら、くだらないいたずらをしてお茅《かや》をびっくりさせて、逃げ出させた。
いちじはあっけにとられたものの。――「いや、捨ててもおけぬ」と、半分苦笑、半分はほんとうに不安になってここまで追って来たものであった。
その影を見て、俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》はふりむいた。
「おい、来たぞ」
「だれが?」
「あの宰領《さいりよう》の男らしい。――」
「あっ」
「逃げられるか?」
といったのは、木ノ目軍記と釜戸朱膳《かまどしゆぜん》の眼がまだ見えないらしいことを気にしたのだが、すぐに彼はうす笑いした。
「逃げる必要はない。わしの眼は、一つは見える。……しかし、あの男、討ち果してもよいのかな?」
と、さらに頭《こうべ》をめぐらした。
土堤《どて》の上に虚無僧《こむそう》は凝然《ぎようぜん》と立って、こちらを見下ろしている。――
「ともあれ、生《い》け捕《ど》りにでもして、きゃつが何者か泥《どろ》を吐《は》かしてくれよう」
「俎《まないた》、一人で大丈夫《だいじようぶ》か?」
「女はこわいが、男でこわい男はない。――」
と、俎|墨之介《すみのすけ》は腰《こし》の扇《おうぎ》に手をやった。
扇《おうぎ》 鋏《ばさみ》。実に軽々とした武器だ。持つ本人が刀もささず、なよなよとした美少年だから、それが武器だとはほとんどだれも気がつかない。が、これが敵の刀身をもはさみとめてしまうのは、扇の仕掛と彼の手練による。たんに松葉形の防具であるばかりではない。それは真一文字に、垂直に、水平に千変万化の飛来線をえがいて飛び、敵を刺《さ》し、敵をはさむ恐《おそ》るべき攻撃《こうげき》武器となる。――
丹波《たんば》陽馬は途中でいちど立ちどまり、深編笠《ふかあみがさ》をかしげた。草の中に倒《たお》れているお茅《かや》には気がつかず、しかしそこに立ったり坐《すわ》ったりしている三人の男たちにはっとしたらしい。
すぐにまた、疾風《しつぷう》のように駆《か》け寄って来て、草を血に染めて倒れているお茅を見、また前にむしろ優雅《ゆうが》に佇《たたず》んでいる手車売《てぐるまう》りを見た。
陽馬は抜刀《ばつとう》した。徐々に頭上にかざした。これに対して、俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》は腰《こし》に右手をあてがったままゆらりと立っている。その腰に、刀はない。しかし陽馬は手車売りのあえかな姿に、伊庭《いば》道場の荒武者《あらむしや》たちにはおぼえなかった恐《おそ》ろしい自信を感得した。
北国の五月の空に白雲が流れる。――いや、その雲の地におとす翳《かげ》もふっととまったような数瞬《すうしゆん》があった。
ふいに墨之介の右眼に、煙《けむり》のようにかすかな動揺《どうよう》が起った。瞳《ひとみ》の動きではない。――この相手に、ありきたりの剣士ではない、こわさ知らず、天衣無縫《てんいむほう》ともいうべき陽性の剣気を感じて、突如《とつじよ》きざした予感であった。耐《た》え切れず、電光のごとく彼は扇《おうぎ》を抜《ぬ》き出していた。
「――ええいっ」
雲にもひびく声をあげて、何のけれんもない陽馬の一刀が、真っ向からなぐり落されている。
キイーッ。一瞬《いつしゆん》、耳をつんざく音がした。鉄と人間のさけびであった。宙にかざした扇《おうぎ》 鋏《ばさみ》は松葉のごとく切り離され、持っていた人間の美しい顔から右|腕《うで》すべてにかけて、ほぼ一直線にひっ裂《さ》かれていた。
血けむり立てて、俎墨之介は倒《たお》れた。
しかし、かくももろく切られるほどの扇《おうぎ》 鋏《ばさみ》なら、彼があれほど自信を持つわけがない。たんに扇の要《かなめ》で受けるのではない。敵の刀身が鋏の上部に入って来た瞬間《しゆんかん》から要まで下る数千分の一秒の間に、鋏は強烈に両側からはさみつけるのだ。だからこそいかなる豪刀《ごうとう》でも受けとめることが可能になるのだが、それをみごと締《し》めつけるには、むろん超人的なカンを必要とする。墨之介《すみのすけ》はそれを持っていた。
しかるに。――
彼は目測を誤ったのである。数千分の一秒の狂《くる》いもないはずの彼のカンが、このとき大破綻《だいはたん》を来したのである。
それは彼の一眼がつぶれていたという事実から来た。それを彼が知っていたかどうか。――二つに裂《さ》けた俎《まないた》墨之介の顔の美しい右眼は、驚《おどろ》いたように大空の白雲を眺《なが》めていた。
とはいえ、お茅《かや》の懐剣《かいけん》を受けとめた彼の扇鋏がこのときに破れたのは、もとより陽馬のすばらしい一撃《いちげき》以外の何物でもない。
丹波《たんば》陽馬はちらっとお茅の方に眼をやり、それから墓石《はかいし》にしがみつくようにして立っている雲水《うんすい》と山伏《やまぶし》の方へ、血刃をひっさげて歩み寄った。
そのとき、土堤《どて》の上からその方へ、虚無僧《こむそう》の影が走り下りて来るのを見て、彼は立ちどまった。
雪羽であった。彼女は軍記と朱膳《しゆぜん》の前に立ちふさがった。
それまで彼女は土堤の上から、野花と墓石《はかいし》と雲の翳《かげ》のちらばる青い五月の草原にえがき出された光景を、まるで白日夢でも見るように眺《なが》めていたのである。――地上を滑走《かつそう》する梓巫女《あずさみこ》、それに敗北した軍記と朱膳、そしてまたそのあとにゆるやかに展開した墨之介《すみのすけ》と巫女《いちこ》の奇怪《きかい》な舞踏《ぶとう》を、その意味さえわからず、魔《ま》に憑《つ》かれた群影のように見下ろしていたのである。それが凄惨《せいさん》な決闘《けつとう》に変化したと知ったのは終りちかい数分のことであった。
いま。――丹波《たんば》陽馬の前に立って、天蓋《てんがい》の中から雪羽はいった。
「盲を斬《き》ってはなりません」
陽馬は凝然《ぎようぜん》と立ちどまったままであった。
いわれた言葉に縛《しば》られたのではない。いった人間に縛られたのだ。いや、その声そのものに、全身、しゅく、とかたくなってしまったのだ。江戸で別れて以来はじめてきく雪羽の声であった。
――こやつども、雪羽の味方か?
深編笠《ふかあみがさ》の中で眼をひからせて立ちすくんでいる陽馬の前で、雪羽は背を返した。天蓋《てんがい》の中で彼女は眼を伏せていた。
――この男たちが、わたしの味方か?
しかし、彼女はいった。
「おいで」
歩み出す雪羽のうしろから、木ノ目軍記と釜戸朱膳《かまどしゆぜん》は両|腕《うで》をつき出し、へっぴり腰《ごし》で、何ともいいようのない表情で追いはじめた。
茫然《ぼうぜん》としてそれを見送って、ふいに気づいて陽馬は馳《は》せ帰り、お茅《かや》を抱《だ》きあげた。
「陽馬さま」
お茅は眼をあけた。急所をねじ切られ、流血のためにその眼には、もう薄《うす》い膜《まく》がかかっていた。
「三十法のうちその第十四、臨壇竹《りんだんちく》。……男女ともに相向いて立ち、口づけして相抱《あいいだ》き。……」
「――なに?」
「九法のうちの第九、鶴交頸《かくこうけい》。……男正しくあぐらかき、女、その上に坐《すわ》り、手もて男の頸《くび》を抱《いだ》く。男、女を抱き、その揺挙を助く。……」
そしてがくりと首をうしろにたらした。
男性|恐怖症《きようふしよう》のこの女が、陽馬の腕《うで》の中で、いまにんまりと死微笑《しにびしよう》を刻んで。
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海に馬|駆《か》け鴎《かもめ》飛ぶ
一
一家《ひとつや》に遊女もねたり萩《はぎ》と月。
元禄《げんろく》二年七月十二日、芭蕉《ばしよう》が奥《おく》の細道をたどって越後《えちご》に入り、越中《えつちゆう》に入ろうとして、一夜二人の遊女と同宿したのが市振《いちぶり》の宿《しゆく》であった。
ちょうど季節はそれにちかく、ただ旅の方角が逆だ。越中から越後に入ったばかり、その市振の宿にやどって、明くれば音に聞えた親《おや》不知《しらず》子不知の険にかかる。
日本アルプスの尾根が日本海の荒波《あらなみ》の中へ忽然《こつねん》と落ちこんで、その鉄のような断崖《だんがい》に糸に似た細道がうがたれている。しかし、これが夏といえるだろうか、茫々《ぼうぼう》と灰色にけぶる海の果ては冥府《めいふ》のごとく、そこから|※[#「革+堂」、unicode97ba]鞳《とうとう》と押し寄せる波濤《はとう》は、その数十メートルの絶壁《ぜつぺき》に大瀑布《だいばくふ》のようなしぶきを奔騰《ほんとう》させる。
旅人はその波のあいだを縫《ぬ》って細道を走り、崖《がけ》にあけられた洞窟《どうくつ》にひそんでは、また波の隙《すき》を盗《ぬす》んで走る。親も子をかばうにいとまなく、子も親をかえりみるゆとりを持たない難所なので、親《おや》不知《しらず》子不知という。波の大小、道の広狭《こうきよう》によっては、いったん進んだ道をまた逃げ戻《もど》らなければならないほどで、また犬もどり駒返《こまがえ》しともいう。
「おう!」
いましも、その波から出て波に入るような道を駆《か》けて、二帖《にじよう》あまりの岩の台地に出た山伏《やまぶし》が、驚《おどろ》いたような声をあげた。
そこに立って、次の波を見ていた一人の鳥追《とりお》い女がはっとしたようにふりむいた。
「あ、待ちやれ、危ない!」
すぐに駆け出そうとした女を、山伏はさけんで止めた。
「こんどの波は大きいぞ!」
いかにも、黒い山脈のごとくうねって来た波は、すぐ前方に十数メートルかの大水柱をくだいて、凄《すさ》まじいしぶきの花をちらした。
「きょうはまた特別に波が荒い――と、市振《いちぶり》の漁師がいっておったが」
と、山伏《やまぶし》は、はっはっとあえぎながらいった。
「鳥追《とりお》い、そんなに急ぎの旅か」
鳥追い女は、返事もせず、また次の波の隙《すき》をうかがっていた。
本来なら、男が来たというのでほっとする難所だが――それにしても、この山伏の顔は凶悪すぎる。肉体も巨大だが、毛虫のような眉《まゆ》、厚い唇《くちびる》のはしからにゅっとつき出している一本の犬歯。――これでは、助けを求めるどころではない。
そしてまた、一方この鳥追い女の、何というあでやかさだろう。たんに美貌《びぼう》というだけでなく、全身が濡《ぬ》れているようだ。事実、潮けぶりに濡れてもいるが、眼も濡れ、唇も濡れ、ややふとり肉《じし》の肌《はだ》も内部から溢《あふ》れる白い脂《あぶら》につやつやと濡れひかっている。どんなに女に興味のない男でも、一目見ただけでどきっと衝動《しようどう》を受けずにはいられないような女だ。
「ま、まあ待て、女」
山伏はしつこく止めた。
「そう急ぐと、おんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]の男がおるぞ。たしか、ほんの少し、先へいったはず。――これは女にまったく情のない、つまり全然人間味のない恐るべき男でな。これとぶつかると、女は助からぬ。それにくらべると、わしの方はまだ人がよい」
にたっと笑ったので、犬歯が歯ぐきまで飛び出した。いっそう凶暴きわまる顔貌《がんぼう》になったが、同時にそのくせ、本人がいまいったように、なるほどいささか人のいい表情にもなった。
「甲賀《こうが》のくノ一、名は何という」
鳥追い女は、もう前へ逃げることをやめて、こちらに向き直った。
「いまさら知らぬ顔をしたとてはじまらぬだろう。わしは伊賀者《いがもの》じゃ」
ぎらぎらと、眼が銀色にひかった。
いつぞや、お茅《かや》のながれ鞠《まり》でつぶされた眼はあいたと見える。――釜戸朱膳《かまどしゆぜん》だ。
女好き――というより、動物的欲望の強烈さに於《おい》て、伊賀組中、この釜戸朱膳の右に出る者はあるまい。肥満した肉体は精汁《せいじゆう》にはち切れんばかりで――自分でもそうはっきりと感覚される。それが手足の先までみなぎりわたり、さらに脳髄《のうずい》までじんとしびれるような気がしてくると、彼は自分でも自分がわからなくなるような危険性をおぼえている。
実は二、三日前も。
越《えつ》 中《ちゆう》 泊《とまり》の宿場で、一夜、木ノ目軍記の夜がたりをきいた。房内篇《ぼうないへん》の講釈だ。
「三十法の第十二、背飛鳧《はいひふ》。男、仰《あお》むけに臥《ふ》して両足をのばし、女、背面して男の上に坐《ざ》す、というかたちで、鴨《かも》がさかさに飛ぶ姿に似ておる。女上背位、或《ある》いは逆乗位といってよろしい。つまり、仰むけになった男はおのれの腹に腰《こし》かけた相手の背中を見ることになり、男の腹に腰かけた相手は、男の二本の足を見下ろすことになる。視覚が異観でもあり、また男の角度と女の軸《じく》が相反して、むずかしいが、それだけに刺戟《しげき》は強烈じゃな」
とか。――
「三十法の第十七、海鴎翔《かいおうしよう》。男、床辺《とこべ》に臨み、女の脚《あし》をもちて上げしむ。つまり寝台の傍《かたわら》に立った男が、両肩《りようかた》に女の脚をかつぐかたちじゃ。女の破瓜《はか》に適しておる。――」
とか。――
「三十法の第十八、野馬躍《やばやく》。女をして仰むけに臥せしめ、男、女の両脚をとりて右の肩にのせ……海鴎翔に似ておるが、これは同一平面にあって、男がひざまずいたかたち。またこれも似たかたちで、三十法の第二十五、丹穴鳳遊《たんけつほうゆう》というやつがある。仰むけになった女が、両手でみずからその足を抱《いだ》いてあげたかたちで、身体の接触《せつしよく》が少ないのが難じゃが、逆に刺戟《しげき》が大きい」
とか、きいたあとで。――心頭しびれ、わけがわからなくなり、その夜ふけ、ついふらふらとさまよい出た。雪羽のいる部屋へ。
そんな内容の秘書を抱《いだ》いているとは信じられないような雪羽が、彼の沸騰《ふつとう》する脳中で一糸まとわぬ姿に剥《む》かれて、それが白炎に吹かれてひるがえる長い巻物とからみ合いながら、軍記の暗誦《あんしよう》と同じさまざまの姿態をとった。
「朱膳《しゆぜん》、どこへゆく」
狭《せま》い旅籠《はたご》の廊下《ろうか》に、にゅっと一つの影が立った。
「どうも、おまえは危ないと思うておった。われらの使命に叛《そむ》くか。叛けば、おれが天誅《てんちゆう》を下すぞ」
「な、な、何を。――」
と、泡《あわ》を吹いたが、文字通り毒気をぬかれて朱膳は退却《たいきやく》した。小柄《こがら》で、痩《や》せてはいるが、苦行僧的な面貌《めんぼう》をして、味方ながらその凄惨《せいさん》の気に辟易《へきえき》せざるを得ない烏頭坂《うずざか》天八であった。
翌朝、朱膳は天八から、行軍のいちばん後尾についてくることを命じられ、前方の雪羽とのあいだに天八自身が入ることを宣告された。
で、いま、親《おや》不知《しらず》にかかって――どこからその行軍の間に迷い込んだか、波打つ岩盤《がんばん》にヒョイと甲賀《こうが》のくノ一の一人とぶつかったのである。
二
一つ岩に遊女と寝たり――いや、遊女ならぬ鳥追い姿だが、いかにもこれは甲賀組《こうがぐみ》のお扇《せん》であった。
これが、こう見えて――だれが見ても媚情《びじよう》にみちた女に見えるが、見える以上に肉欲の化身ともいうべき女であった。陽馬でさえ、この女が近づいてくると、理性を超えてふらっとするものを感じたが、それには特別のわけがある。彼女の吐《は》く息は、甘ずっぱい果汁《かじゆう》の香《かお》りの中に、ふしぎなことに一脈、彼女の秘所と同じ匂《にお》いを持っていたからだ。そして、これは陽馬は知らないが、お扇の乳くびは、彼女の秘密の個所と同じ色、同じ柔《やわ》らかさ、同じ敏感《びんかん》さを持っていた。この女が陽馬の寝所に這《は》い寄った。
「下郎《げろう》、すさりおれ」
女に対して、下郎、などいったのは陽馬の惑乱《わくらん》のあまりだ。実は悲鳴だが、それにしても彼は彼らしくもない、甚《はなは》だ感心しない言葉を投げつけた。
「たかが甲賀《こうが》の女の分際《ぶんざい》で、直参《じきさん》に無礼《ぶれい》であろうぞ」
いくら何でも、お扇《せん》は頬《ほお》をぶたれたような顔をした。――それが、昨夜の話だ。
で、きょうは、甲賀組のまっさきを、毛琴《けごと》も鳴らさずトットと歩いて――そしていま、はからずもここで伊賀《いが》の山伏《やまぶし》とはたと遭逢《そうほう》してしまったのだ。
「こ、甲賀のくノ一。……話がある」
釜戸朱膳《かまどしゆぜん》は、まだはっはっと荒《あら》い息を吐《は》いていた。潮を縫《ぬ》って、岩道を駆《か》けて来たせいではない。この男は、いつも心臓でも悪いようにこんな息づかいをしている。その実、欲情に喘《あえ》いでいるので、その息には精臭《せいしゆう》がした。
女を見なくてもその始末なのに、いわんやいま、この肉感の極致《きよくち》ともいうべき甲賀のくノ一を眼前にして、
「秘巻、欲しかろう」
と、胴ぶるいし、息を切りながらいった。
「望むなら、わしが取って来てやるぞ。いや、でたらめをいうのではない。もともと、あの巻物、われらにとっては何でもない。――」
実際、いま鳥追い笠《がさ》の下からじいっと自分を凝視《ぎようし》している女の顔を見ていると、彼はほんとにそうしてやってもいいとさえ思った。
「ただし、わしの望みを叶《かな》えてくれるならばだ」
歯をカチカチと鳴らして、巨大な類人猿《るいじんえん》みたいな姿で近づいた。
「望みとは、むろん抱《だ》かしてくれることじゃ。こういうといよいよ偽《いつわ》りと思うであろうが、偽りでない証拠《しようこ》に。――」
彼がこんなにめんめんと、いいわけがましい口吻《こうふん》を弄《ろう》するのは珍しい。珍しいというより、女に欲望を持つときだけに発する特徴《とくちよう》で、彼にとってはせいいっぱいのくどき[#「くどき」に傍点]なのだ。
「秘書の内容、いま、憶《おぼ》えておるやつを教えてやってもよいぞ。例えば――九法の第七、兎吮毫《といんごう》。男正しく臥《ふ》し、その足をのばす。女その上に、膝《ひざ》を外に置く。うしろむきとなりて、頭は足に向う。席によりて頭を俯《うつぶ》す。……兎《うさぎ》が細い毛を吸っているように」
朱膳《しゆぜん》を見ている女の眼が、妖《あや》しくひかり出した。
「また九法の第八、魚接鱗《ぎよせつりん》。……これは魚が二匹、鱗《うろこ》をすり合う心地で行えとある。……」
朱膳の毛だらけの腕《うで》が、女の手をつかんだ。女の手から三味線《さみせん》がおちて、岩に鋭《するど》い三絃《さんげん》の音をたてた。――女は依然《いぜん》として黙《だま》っている。しかし、彼女は逃げようとはしない。
近づいて来た山伏《やまぶし》の凶猛《きようもう》な顔貌《がんぼう》に、お扇《せん》の濡《ぬ》れた椿《つばき》の花のような唇《くちびる》が、ヒクヒクと痙攣《けいれん》した。恐怖《きようふ》ではない。嫌悪《けんお》でもない。彼女はなんと欲情しているのであった。
むろん、最初、山伏の呪文《じゆもん》めいた朗唱をきいてこれはと思い、お扇はその言葉を耳に刻んだ。次に、それを伝えるべき丹波《たんば》陽馬のつれない仕打を思い、あてつけにこの男のなすがままになってやろうかと考えた。
しかし、ふいごみたいな山伏の精臭《せいしゆう》をおびた息を真っ向から受けたとき、お扇は本来の肉欲の化身に戻《もど》っている。――男が醜悪《しゆうあく》なだけに、いっそう妖《あや》しい快美の陶酔《とうすい》が彼女を身ぶるいさせた。
ど、どーっ、とまた波があがって、しぶきの雲の峰をえがいた。吹きつける潮煙《しおけむり》の中に、お扇は山伏に抱《だ》きしめられている。背骨も折れんばかりの力の中に。――彼女の舌は、山伏の黄色い犬歯をすべり、その巨大な口に動いた。
「あふ! あふ!」
それだけで釜戸朱膳《かまどしゆぜん》は体中に充満するものが、九穴から奔出《ほんしゆつ》しそうな昂奮《こうふん》にかりたてられて、
「房内篇《ぼうないへん》、取ってやるぞ!」
と、潮鳴りの中にわめいたとき、その潮が崩《くず》れて、その向うから鈴の音とかん高い声が聞えた。
「朱膳《しゆぜん》! 裏切ったな?」
波の去った細道の向うに、向うの岩盤《がんばん》に、烏頭坂《うずざか》天八が立っていた。
三
先刻まで、たしかにそこにそんな姿はなかった。
虫が知らせてひき返して来たのか。――まるで不義密通の場を発見された間男《まおとこ》みたいに、さしもの朱膳が狼狽《ろうばい》してお扇《せん》をつき離した。
「動くな、待て」
烏頭坂天八は片手に鈴を握《にぎ》ったまま、むささびみたいに飛んで来た。
これに対し、朱膳ほどの男が、どうしてそれほど恐怖《きようふ》したのか、数瞬《すうしゆん》ののちにひと息ついて、自分でも首をひねったくらいだが、やはりいまのなりゆきに心おくれたか、次にまた打ちあげて来た波しぶきも眼に入らないかのごとく、ぶざまにうしろの細道を逃げのびた。
天八はちらっとお扇《せん》を見た。が、すぐ。――
「伊賀《いが》の面《つら》よごし、天誅《てんちゆう》を下すぞ!」
わめきつつ、朱膳《しゆぜん》のあとを追ったのは、波のひいた瞬間《しゆんかん》を逃《のが》したくなかったせいか、それともこの場合、敵のくノ一よりも味方の朱膳に怒り心頭に発したのか。――
次の岩盤《がんばん》に躍《おど》りこんで、天八ははたと立ちどまった。
そこにはすでに朱膳の姿はなく、竹杖《ちくじよう》ついた武家風の娘《むすめ》が茫乎《ぼうこ》として立っていた。彼女はしぶきを突っ切って逃げて来て、また颶風《ぐふう》のようにうしろへ逃げていった山伏《やまぶし》に、めんくらって立ちすくんでいる風であった。
「二人目か」
と、烏頭坂《うずざか》天八は、足をがっきと岩に食いこませた。それがやはり甲賀《こうが》の女であることを知ったのである。
この断崖《だんがい》の道に、甲賀のくノ一、二人とまでゆき逢《あ》ったと知って、さすがの天八もおのれをとり戻《もど》したようだ。そして天八がおのれをとり戻したということは。――
「殺すまえに犯せということじゃがな」
と、彼はつぶやいた。
「しかし、おれはまだ女と交わったことがない。――」
痩《や》せて小柄《こがら》で、猿《さる》の干物《ひもの》みたいな顔をしている。頭を白木綿で行者《ぎようじや》包みにつつみ、白い短い行衣を着て、腰《こし》のうしろに横に細長くゴザを巻いたものをつけ、片手に鈴を持ち、首には卍《まんじ》と書いた偈箱《げばこ》を下げている。わらじもはかず、足ははだし[#「はだし」に傍点]だ。――おんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]と呼ばれる願人坊主の風態が、ほかのどんな姿よりもぶきみであった。
精悍《せいかん》な眼が、武家娘を見すえて、しかし二、三度またたいた。さしもの彼も、相手のあまりな優雅《ゆうが》な美しさに、ちょっと動揺《どうよう》したらしい。
しかし、くいしばった歯のあいだから、陰々たる声が押し出された。
「ましてや甲賀《こうが》のくノ一なら――おれは、ただ殺す」
女の手にした竹杖《ちくじよう》は、どう見ても仕込《しこ》み杖《づえ》ではない。指ほど細いただの杖だ。――とまで見て、なんの警戒もなく、烏頭坂《うずざか》天八は二、三歩近寄った。
一メートル。
突如《とつじよ》、武家|娘《むすめ》の手が動いた。決して刀を抜《ぬ》く手つきではなかった。が、その竹杖の上部二十センチあまりのところから、それは細い黒光りする紐《ひも》のごときものを抜《ぬ》き出したのである。
烏頭坂《うずざか》天八は逆にもんどり打って飛びずさった。
寸前、その鼻づらを逆にかすめて、宙にあがったその紐《ひも》は、実に一メートル半以上にものびていた。あきらかに、それは細い鋼《はがね》の鞭《むち》であった。その長さは尖端《せんたん》でも巻き込んであったものであろうか。
たおやかな姿にも似ず、上にあがった鋼の鞭は電光のごとくまたふり下ろされた。その下から烏頭坂天八はふたたび逆《さか》とんぼを切って逃げた。
空にピカときらめいたものがある。逆とんぼを切りながら、驚《おどろ》くべし、どこから取り出したか、天八は魔法《まほう》のように一刀を抜《ぬ》き出したのだ。が、如何《いかん》せん、それはまさに空中であった!
狭《せま》い岩盤《がんばん》の上から彼は足を――いや、手を踏《ふ》みはずしたのである。そのまま彼ははずみで二、三度もんどり打ち、次には頭を下にして十数メートル下へ――潮の泡《あわ》だつ岩礁《がんしよう》の上へ舞《ま》い落ちていった。なんぴとも、卵のごとく砕《くだ》けずにはいない速度で。
曲線をえがいた鋼の鞭の尖端は、杖《つえ》を握《にぎ》った娘《むすめ》のこぶしにヤンワリとのせられていた。とみるや、それはスルスルとそこに吸いこまれて、またもと通りの何気ない細い竹杖《ちくじよう》となった。
「甲賀《こうが》流|仕込《しこ》み鞭《むち》」
と、彼女はやさしくつぶやいた。
実に優雅《ゆうが》な立ち姿で、武家|娘《むすめ》といっても大身の息女のように見える。しかしこれは甲賀のくノ一お遊《ゆう》であった。
と、崖《がけ》の下をのぞきこもうとして、彼女はふり返った。
しぶきが消えたあとの細道を、また巨大な影が駆《か》けて来た。たったいま走り過ぎていった山伏《やまぶし》が馳《は》せ戻《もど》って来たのだ。
「や、やったなあ?」
と、釜戸朱膳《かまどしゆぜん》は爛々《らんらん》たる眼を血色に染め、ふいごのような息をつきながら仁王立《におうだ》ちになった。
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断臂心形《だんぴしんぎよう》 刀《とう》 流《りゆう》
一
「見たぞ。――」
と、朱膳はいった。
「妙《みよう》なものを使ったな。――甲賀《こうが》のくノ一」
甲賀組のお遊《ゆう》は竹杖《ちくじよう》をつき、両掌《りようて》を重ねて立っている。潮風に吹き飛ばされないのがふしぎな浜の夕顔のような姿で。
しかし、釜戸朱膳《かまどしゆぜん》の眼は、その杖《つえ》や掌《て》にそそがれてはいない。女の顔にじいっと吸いつけられて、充血して、笑っている。嘲《ちよう》 笑《しよう》というより、からだの内部からの笑いがその眼に赤く燃えあがっているようであった。
……これは、たいしたものだ!
というのが、彼の心からなる嘆声であった。
いまはじめてこの女を見たわけではない。すでにいままでの道中、この女が甲賀組の一人らしいことは、いくどか遠望して知っている。が、こうちかぢかと――二|坪《つぼ》とない岩盤《がんばん》の上に相対して眺《なが》めたのは最初であった。
ほんとうをいうと、満身|精汁《せいじゆう》にふくれあがったこの釜戸朱膳にとって、世にたいした女でない女はない。およそ女でありさえすれば、いかなる女でもたいした女なのである。それが、ほんのいま、肉欲の化身さながらの鳥追いの女――甲賀のくノ一によって挑発《ちようはつ》され、あわやという寸前までいって、はからずも魔風《まふう》のような味方の男にじゃまを入れられたのだ。
その味方の烏頭坂《うずざか》天八は消え失せた。そしていま眼前に相対したのは、先刻の官能的な鳥追い女とは別人の、みやびやかな武家の娘《むすめ》風だが、やはり甲賀《こうが》のくノ一に相違なかった。決して女ならだれでもいいという女ではない。むしろ、美貌《びぼう》という点では鳥追いよりもたいした女である。優美さの中に、甲賀の女にまぎれもないなまめかしさがある。端麗《たんれい》なだけに、朱膳《しゆぜん》にとってはそれがいっそう肉感をかりたてる。――
「使ってみろ、いまの鞭《むち》を」
と、朱膳はにゅっと犬歯をむいて笑った。
「遠慮《えんりよ》なく使え。おれはな。――おれは女を相手に無粋《ぶすい》な刀は使わぬ。手ぶらでいい。この手でうぬをつかまえて、この手で心ゆくまでもてあそんでくれる」
この男が「もてあそぶ」という意味の恐ろしさを予感したかどうか。――その通り、戒刀《かいとう》の柄《つか》に手もかけず、ただし肩《かた》を張り、いまにもつかみかかりそうな姿勢で、ジリジリと寄って来る山伏《やまぶし》は、それだけで人間離れのした物凄《ものすご》さがあった。
ただし、決して無造作《むぞうさ》な近づきかたではない。――爪《つま》さきの刻みからしても、彼が何やら測っていることはたしかだ。
お遊はまんなかに杖《つえ》をついた姿はそのままながら、きっと唇《くちびる》をかみしめてこの第二の敵を見まもった。
二メートル。なお相手は刀に手をかける様子はない。――
それはお遊の武器の極限であった。何ぴとも一メートルそこそこの杖から二メートルの武器が出現するとは予測しない。
音もなく、きゃしゃな彼女の手が動いた。その刹那《せつな》、その手からビューッと鋼《はがね》の鞭《むち》が噴《ふ》き出し、宙をななめに旋回《せんかい》して、空から朱膳《しゆぜん》の右|肩《かた》めがけて薙《な》ぎ落された。まともにくらえば、それは刀のごとく相手の肉を裂《さ》く。
ぱっと朱膳の右|腕《うで》があがった。手はこぶしに握《にぎ》られていた。
ピイイン、という鋭《するど》い音がした。鞭ははねのけられていた。
たとえ刀でも――もし敵が刀身を以てこれをはねのけるならば、鋼の鞭は切断されることなく、撓《しな》って敵の頭を打つ。その鞭が。――
釜戸《かまど》朱膳のこぶしからは、一本、人さし指がつき出されていた。驚《おどろ》くべし、彼はその指の尖端《せんたん》で鋼の鞭《むち》の尖端《せんたん》をはじいていたのである。鞭の尖端なればこそ可能な弾撥《だんぱつ》であり、またおのれのこぶしと指なればこそ可能な測定であった。朱膳《しゆぜん》が何やら測っていたのは、この鞭ののびかげんであったのだ。
はねのけられた鞭は、逆の方向へ宙を撓《しな》っていった。――あきらかに、はっと動揺《どうよう》しつつ、それを取り直すいとまもあらばこそ。
釜戸《かまど》朱膳の巨大なからだは、恐《おそ》ろしい速度で、ずかと二、三歩踏みこんでいた。飛びずさって、間隔《かんかく》をとる前に、彼はその長い腕《うで》をまっすぐに女の顔につきつけた。
「動くな。動くと、その美しい顔のまんなかに穴があくぞ」
お遊が呪縛《じゆばく》されたとたんに、朱膳の左腕が彼女の左腕をつかんだ。
そのままみずからどうと腰《こし》を下ろす。お遊も引かれて、思わず膝《ひざ》を折っていたが、右腕をうしろにふりあげてなお鞭は握《にぎ》っていたが、いかんせん、この距離《きより》ではその鞭のふるいようがない。――
「こわいものを持っておるな、それを捨てろ」
と、朱膳はいった。
「ち、ちいっ」
お遊は死物|狂《ぐる》いに左|腕《うで》をふり離そうとした。
「無益な抗《あらが》いはやめろ、この通りだ」
手くびを握《にぎ》られて、宙をつかむかたちのお遊の真っ白な手に、朱膳《しゆぜん》の右手の人さし指が動いた。――と、その手の甲《こう》から掌《てのひら》へ、まるで鉄筒《てつとう》のごとくその指がつらぬき通ったのである。
「あ、あーっ」
さすがにたまぎる悲鳴をあげて、お遊はのけぞり、その右腕の鞭《むち》も離れていた。
「どうじゃ、伊賀《いが》の男の指一本は、甲賀《こうが》の鉄の鞭にもまさろうが」
笑いながら、女の苦悶《くもん》する顔を追って、巨《おお》きな唇《くちびる》で吸いついた。
「もっともこれは、かくいう釜戸《かまど》朱膳の特技でな、伊賀の手刀槍《しゆとうそう》という。――」
わななく女の唇を噛《か》みながらいう。
「いや、わが朋輩《ほうばい》天八を、ようもあれだけの目に合わせたな。もっとも、きゃつ、三十尺や四十尺落ちたとてくたばるような男ではない。あれは猿《さる》じゃ。猿が宙返りしても及ばぬ男じゃ。で、やがて、きゃつ、またここへ這《は》い上って来るにちがいない。――」
相手の唇に噛《か》みつきながらしゃべるのだから、言っていることはだれにもわからない。また、離れて言ったとしても、この場合、お遊の耳にまともに聞えるはずもない。
「で、先刻のごとく――甲賀《こうが》のくノ一に眼じりを下げてのんべんだらりといちゃついておれば、きゃつまた裏切者とか何とか怒《いか》り狂《くる》うに相違ない。あいつはこわい。――そもそも、犯してから殺せ、というのがわれらに与えられた命題じゃが、きゃつはただせっかちに殺せ殺せという。そこでおれは、この際、両要求を満たすために、うぬを犯しつつ殺す」
二
女好き、という点で、伊賀組《いがぐみ》中、この朱膳《しゆぜん》の右に出る者はない、といったが、この男が女を愛するときに、のんべんだらりといちゃつく、などということがあったろうか。当人はそのつもりかも知れないが、相手の女には、まさに野獣《やじゆう》にもてあそばれる思いがしたにちがいない。
もっとも当人も、そんな場合、常人以上に残酷《ざんこく》なふしのあることは承知している。しかし彼にいわせれば、それは女を熱愛すればこそだ。愛撫《あいぶ》のあまり相手を噛《か》むという現象は常人にもある。これを愛咬《あいこう》という。女体に対する熱愛きわまるところ、彼は相手を血みどろになるまでしゃぶりつくさずにはいられない悪癖《あくへき》の持主なのであった。もっともいままで、その結果落命させてしまったことはないが。――
それがいまや、この甲賀《こうが》のくノ一を殺す決意をしているのだ。いま宣言したことは、決してたんなる弁明ではない。――
命題はまさにその通りであり、かつ彼はその命題の通りに実行した。ただし、このときにかぎって第三の命題が加わった。
「医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》」
と、彼はいったのである。
「さあて、淫学坊《いんがくぼう》からきいたことで、ほかに何があったか喃《のう》」
そして、彼の巨大な首がうなずくと同時に、その右掌《みぎて》が垂直にストンと下ると、穴のあいたお遊の掌の小指を鉈《なた》みたいに切り離したのである。
「あう!」
また身をもみねじるお遊を仰《あお》むけにおし倒《たお》すと、その両足つかんでぐいとあげた。典雅《てんが》な女にも似合わしからぬあられもない姿となった。釜戸朱膳《かまどしゆぜん》は獣《けもの》のような笑い声をたてた。
「左様、三十法の第六、竜宛転《りゆうえんてん》。……女、仰《あお》むけに伏し、両脚をまげ、男、女の股《また》の内にひざまずく。……」
お遊の両足くびを左手一本で鷲《わし》づかみにして、
「左手を以て女の両脚を押し、前に向いて乳を過さしむ。……」
そして、朱膳《しゆぜん》はお遊を犯した。
ど、ど――っとはるか下で、怒濤《どとう》のひびきがあがると、潮けむりがこの高い断崖《だんがい》の上まで立ち迷う。銀鼠色《ぎんねずいろ》の霧《きり》が朦《もう》とたちこめ、海馬のごとく濡《ぬ》れつくしつつ、朱膳の下半身は狂舞《きようぶ》し、上半身は狂《きよう》 笑《しよう》した。
「また思い出したぞ。頭のわるいおれがこれほど憶《おぼ》えておるとは、げに房内篇《ぼうないへん》なればこそか。三十法の第七、魚比目《ぎよひもく》……」
いうと、またその右掌《みぎて》がストンと落ちて、お遊の左手の薬指を切り離した。
「男女ともに臥《ふ》し、女、一脚を以て男の上に置く。顔は相向い、口を吸い、舌を吸う。……」
いまや、お遊の口からは、獣《けもの》に似たさけびがもれていた。凜《りん》として見えた武家|娘《むすめ》の衣裳《いしよう》は、もはや帯にまといつく程度といった姿となり、それだけにいっそう凄艶《せいえん》をきわめている。
肉体の苦痛と魂《たましい》の苦悶《くもん》とから発するさけびには相違ないが、それを朱膳《しゆぜん》は、潮鳴りを縫《ぬ》う甘美な旋律《せんりつ》のごとくにきいた。彼は獲物《えもの》を牙《きば》にかけ、爪《つめ》にかけてひき裂《さ》く肉食|獣《じゆう》の快をおぼえた。彼を血ぶるいさせたのは、潮鳴りよりも、この優雅《ゆうが》なるくノ一の発する女獣のような声であった。
「まだあるぞ。……」
三たび、彼の掌《てのひら》が落ちた。おのれの指を折らずして、相手の指を切って彼は数える。
「三十法の第八、燕同心《えんどうしん》。……」
そこまでいって、釜戸《かまど》朱膳はぬうと身を起した。ぎらっと崖《がけ》に沿う道を見る。
――いつしか、位置が逆転していて、先刻彼が駆《か》けて来た西の方角をである。
「来たな。――まだ捨てるに惜《お》しいが」
どどっと、その方角にまた潮けぶりが飛びちった。
「あとは席を改めて先刻の鳥追いで試すとしよう。生かしておいて、また妙《みよう》な鞭《むち》をふるわれてはかなわぬ。おまえは極楽を味わった。こんどは、一足さきに地獄《じごく》へゆけ。――おまえの宰領《さいりよう》よりも一足さきにだ」
いうなり、一本の人さし指が――何たる無惨《むざん》、蝋色《ろういろ》をしてなおのけぞったままのお遊ののどに、それこそ柔《やわ》らかい蝋《ろう》でも刺《さ》すようにぷすうとつらぬき通った。
ぱっとその指をふるとともに、彼は仁王《におう》のごとくに立ちあがっている。
雪のような飛沫《ひまつ》が散ったあと、そこに深編笠《ふかあみがさ》の武士が現われた。――駆《か》けて来た丹波《たんば》陽馬は、肩《かた》で息をした。
三
すでに甲賀《こうが》のくノ一、三人を討たれ、分散して歩くのはもはや危険だ、と陽馬も判断せざるを得ない。が、かたまって歩くと。――
――それでは秘書が奪《うば》えませぬ。分散して歩いている敵|伊賀者《いがもの》一行を始末するには、こちらも分散してゆかねばなりませぬ。ただかたまって歩くだけでは、何のための旅かわかりませぬ。
と、女たちがいう。尤《もつと》もしごくではある。で。――
――万一、危ないことがあれば、必ず毛琴《けごと》を鳴らせよ。
といって、陽馬はうしろから、その日はお筆《ふで》といっしょに歩いていたのだが、親《おや》不知《しらず》の険にかかって、ふいに前方に胸さわぎをおぼえ、
「お筆、わしはちょっと急いでみるぞ。――」
といって、一人先に駆《か》け出して来たのであった。波と波のあいだを縫《ぬ》い、親さえかえりみるいとまのない難所だから、二人同時に越えることなど出来はしない。
そして、怒濤《どとう》のあいだに、彼は女の悲鳴をきいたのだ。さてこそ、とは思ったが、その獣《けもの》のような声が、まさかお遊ののどから発せられたとは信じられなかった。――
丹波《たんば》陽馬が肩で息をしたのは、疾走《しつそう》のためではない。一目、そこに無惨《むざん》とも惨麗《さんれい》とも形容のしようのないお遊の姿を見た衝動《しようどう》のためだ。
「お遊!」
彼は絶叫《ぜつきよう》した。
「どういうわけか。――」
と、釜戸朱膳《かまどしゆぜん》は牛のうなるようにいった。
「半井《なからい》の姫《ひめ》どのはうぬを殺してはならぬというが、うぬはおれを殺さずにはおくまい。――従って、おれもうぬを殺さぬわけにはゆくまい。――」
彼は激怒《げきど》していた。それはいままでに三人の朋輩《ほうばい》を討たれたという恨《うら》みを思い出したせいよりも、このとっさにはおのれの淫虐《いんぎやく》の快楽を中断されたという怒りのためであった。
「来い!」
と、彼は吼《ほ》えた。
丹波《たんば》陽馬は抜刀《ばつとう》した。
これに対して釜戸朱膳《かまどしゆぜん》は、右手のみを手刀にして頭上に垂直にのばし、左手は水平に張って内側に曲げる姿勢をとった。
「刀を抜《ぬ》け」と、陽馬はさけんだ。この場合にも、彼には無刀の敵に躍《おど》りかかることをひるむ心があった。
「うふ」と、朱膳は鼻で笑った。鼻で笑っても、不断にふいごのごとき息をついているので、それは人間でないもののどよめきのように聞える。事実、その構えをとった彼の姿は、にゅーっと二倍ほどにふくれあがったような物凄《ものすさ》まじい圧倒感《あつとうかん》を放射した。
「うぬのごとき青二才を相手には、これでつとまる。来い!」
これが、文字通り手[#「手」に傍点]だ。
たとえ敵が精根こめて斬《き》り込《こ》んで来ようと朱膳は敗れるつもりはないが――凶暴無比の朱膳でも、素性《すじよう》は端倪《たんげい》すべからざる伊賀《いが》の忍者《にんじや》、この無刀の構えに敵が動揺《どうよう》し、少なくとも斬り込む一刀に迷いの生じることをちゃんと計算に入れている。
そしてまた、ふりかざした右|腕《うで》こそ彼の罠《わな》であった。
その右腕に注意を奪《うば》われつつ打ち込んで来る敵の一刀を、閃《ひらめ》く左腕がはねのける。左手の爪《つま》さきで、その刀尖《とうせん》をかんとはねあげるのだ。恐るべきわざだが、彼にはそれが可能なのである。そして――よろめく敵めがけて、こんどは右腕の手刀がふり下ろされる。――
果せるかな、陽馬はちょっと動揺《どうよう》したように見えた。
このとき、釜戸朱膳《かまどしゆぜん》のふりかざした右腕がかすかながらぐらりと揺《ゆ》れた。彼自身それが何のためであるか、とっさにはわからなかったが、次の一瞬《いつしゆん》、彼は、背後から飛んで来た一条の紐《ひも》が揃《そろ》えたおのれの四本の指にきりっと巻きついたのを見たのである。いや、それは紐というより太めの糸といった方が至当な細さであったから、正しくは触覚《しよつかく》したのである。同時に左手が閃《ひらめ》いてその紐に走った。
曾《かつ》て、舟のもやい綱《づな》さえ刃物のごとく切った彼の手刀である。いや、人間の指すら切り離す彼の掌《て》である。それはかげろうのごとくはかなく切れた。
しかし、陽馬がつけ込むならば、この刹那《せつな》であったろう。――潮けぶりのため、彼はいまの山伏《やまぶし》のこの動作を見てはいなかった。それより彼は、岩の上の無惨《むざん》なお遊の姿をもういちど眼に入れていた。
大悪鬼。
決意がついた。決意がつくと同時に、もはや無刀の相手に何のためらいもなく。――
「えやーっ」
快声一番、猛然《もうぜん》と彼は斬《き》り込んでいた。
「おオおっ」
得たりや、とばかり釜戸朱膳《かまどしゆぜん》の水平に戻《もど》した左|腕《うで》がさっと前上方にあがって、戛《かつ》! さながら鋼《はがね》と鋼が相搏《あいう》ったようなひびきと手応《てごた》えとともに、陽馬の刀身ははねあげられている。
はずみ――いや、これこそ朱膳の怪技《かいぎ》「手刀槍《しゆとうそう》」の妙《みよう》であろう、たんに刀をはねのけられたのみならず、陽馬のからだは一回転して、この恐《おそ》るべき敵に背を見せた。
「くたばれ!」
そのあけっぱなしの背に、朱膳の右の手刀が流星のごとくのびた。
背に凄《すさ》まじい打撃《だげき》を受けて、丹波《たんば》陽馬は木の葉のごとくつんのめっていった。とどまりようもないその姿勢と速度は、そこの狭《せま》い岩盤《がんばん》の端《はし》を飛び出してなお余りがあった。
――南無三宝!
眼をとじた陽馬のからだが、ふしぎに止った。何かが腰《こし》に巻きついて、ぐいと引き戻《もど》されたのである。それを意識するよりさきに、眼をつむったまま、刀をうしろなぐりにふるった。
ばさ!
背後に巨大な肉塊《にくかい》を二つ斬《き》った手応《てごた》えがあった。
――みごとに敵を双手刀のわざにかけた釜戸朱膳《かまどしゆぜん》は、しかし愕然《がくぜん》としていた。彼の右手は、たんに相手に打撃《だげき》を与えるだけではすまなかったはずなのだ。それは肺まで貫通するはずだったのだ。その寸前、彼はそろえた四本の指に異様なしびれをおぼえた。手刀が鈍《なま》ったのはその麻痺《まひ》のためであった。
なんのゆえか知らず。――
狼狽《ろうばい》しつつ、なお追い打とうとした彼の双腕は、思いがけぬ丹波《たんば》陽馬のうしろ斬りに、まるで二本の大根のごとく、肘《ひじ》からばさと切断されていた。
「うわっ」
からくも踏《ふ》みとどまって、肘からない二本の腕を血しぶきとともに振《ふ》りまわし、眼と口をくわっとひらいた釜戸朱膳《かまどしゆぜん》の右|肩《かた》から、完全に反転した陽馬の第三|撃《げき》がいかんなく斬《き》り下げた。
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忍《しの》びの君子《くんし》・忍びの苦行者
一
陽馬は屍骸《しがい》となった山伏《やまぶし》を見下ろして、ふうと息をついた。
しかし、そのとっさには、屍骸の特別な異常を認めなかった。それより、いま自分の腰《こし》を巻いてぐいと引き戻《もど》した感覚を思い出したのである。
おのれの腰を見下ろして、はっとした。黒い紐《ひも》がたしかに巻きついて、そして向うにのびている。――数十本の髪《かみ》を綯《な》って作った、太目の糸といっていいほどの細い紐だということを知ったとき、ピタピタという跫音《あしおと》をきいて彼は顔をあげた。
「お扇《せん》」
鳥追《とりお》い姿の影が前方から飛んで来た。
立ちどまると、左手をしゃくるようにした。陽馬の胴を巻いていたものがスルスルと解けて、その掌《しよう》 中《ちゆう》にたぐりこまれた。
「甲賀《こうが》の髪縄《かみなわ》。……象までつなぎとめられるかどうかは怪しいけれど」
お扇《せん》はにっと笑った。陽馬はいま、断崖《だんがい》からあわてて飛び出そうとした自分をふせぎとめてくれたものが何であったかを知った。あの凄《すさ》まじい力は、象でもつなぎとめるかも知れない。
が、その次に――お扇がしゃがみこんで、倒《たお》れている山伏の屍骸《しがい》の右手四本の指に、同じ髪縄がからみついているのを、しずかに解き出したのを見て、
「――では?」
と、いったが、それっきり黙《だま》ってしまった。
彼はこの伊賀者《いがもの》が素手《すで》で自分の刀をはねのけたことを知っている。で、この手に何やら恐ろしい術のあることを認めたが、しかしとどめとなる手刀槍《しゆとうそう》が未発に終ったために、その恐るべき力の全貌《ぜんぼう》をついに知らずにすんだといっていい。だから、その髪縄が四本の指を緊縛《きんばく》し、麻痺《まひ》させたためにそれが未発に終ったということもよくわからなかった。わからなかったが、それでも何やら心にひっかかるものがある。
――と、茫乎《ぼうこ》たる陽馬の足に、だれかがからみついた。
「房内篇《ぼうないへん》三十法の第六、竜宛転《りゆうえんてん》。……」
お遊であった。からみついた左手の甲には穴があき、指は二本しかない。
「女、仰《あお》むけに臥《ふ》し、両|脚《あし》をまげ、男、女の足もとにひざまずく。……左手を以て女の両脚を押し、前を向いて乳を過さしむ。……」
「おお……」
半裸《はんら》にちかいからだは血の網目《あみめ》に彩《いろど》られ、それが潮に濡《ぬ》れて赤い人魚のようだ。
「さ、三十法、第七、魚比目《ぎよひもく》。……男女ともに臥《ふ》し、女、一脚を以て男の上に置く。……」
のどにあけられた穴から、血がごぼごぼとまた流れ出した。かすれた笛《ふえ》のような声であった。のみならず、お遊の眼と、陽馬の足をつかんだ手は、陽馬にそこに横たわれと訴えていた。――知識を確実にするために、実際にやってみろということらしかった。
「顔は相向い、口を吸い、舌を吸う。……」
その口からも、血が泡《あわ》といっしょに溢《あふ》れ出した。
「男、両脚をのべ、手を以て。……」
――このお遊が、七人のくノ一の中でも際だって優婉《ゆうえん》な女であるだけに、いっそうの酸鼻《さんび》さをおぼえて、凝然《ぎようぜん》と立ちすくんでいる陽馬の足もとに、ふいに声のかすれたお遊は、がくりと首を岩上に落してしまった。
ふびんとは思う。が。――それよりも、
――こりゃ、たいへんなことだ。
というのが、丹波《たんば》陽馬の偽《いつわ》らざる実感であった。いまさらのことではない。くノ一四人目の凄惨《せいさん》な最期を眼前にしての感想である。江戸を出るとき、「この日本の文明の暁《あかつき》ともいうべき時代に、女の忍者《にんじや》などいう珍品が残存しているとは知らなんだ」という意味の諧謔《かいぎやく》を吐《は》いたことがあったが、とんでもないことだ。
「――お、おい」
陽馬は思わず嘆声をあげた。
「おまえ――おまえだけではない。あとの二人も、みなこの旅から離れて江戸へ帰れ」
「だれが房内篇《ぼうないへん》を奪《うば》うのですか」
「おれ一人で狙《ねら》う」
お扇《せん》は笑った。それが決して嘲《ちよう》 笑《しよう》といった笑いではない。なんとこの場合、媚笑《びしよう》ともいうべき笑顔に見えたので、それっきり陽馬はいまの思いつきを口に出せなくなってしまった。
「わたしも知っていますわ」
「何を?」
「その山伏《やまぶし》からききました。三十法の第十二、背《はい》……何といったかしら、難かしい言葉で忘れてしまったけれど、どうすればいいかは憶《おぼ》えています。男が仰《あお》むけに寝て、女が反対むきに坐《すわ》るんです。……」
そういいながら、お扇《せん》は近づいた。眼も頬《ほお》も唇《くちびる》も燃えている。
いまの自分の提言は、ほとんどきいていなかったらしい、と陽馬は気がついた。それどころか、お遊の死も眼中になければ、いまお扇自身が加わった死闘《しとう》もまったく心から飛び去っているようだ。
「陽馬さま、そこに寝てえ」
と、お扇はいった。
「わたしのいまいった通りにしてえ」
「ば、ばかを言え」
「なぜ、ばかなこと。耳できいたことをたしかめるためですよ。ほんとうのかたちを実地でたしかめて、御公儀《ごこうぎ》に報告しなくっちゃ。――いつかお篠《しの》もそういっていたわ。――いま、お遊もそうしろといっていたじゃありませんか。ねえ、女が背をむけて、それでかたちが出来るかしら?」
いま、思いついたことではない。どうやら、それ以前からお扇《せん》のからだを燃やしつづけている炎がいわせている言葉らしい、と陽馬はぎょっとした。潮けぶり立ち迷う巌頭《がんとう》に、彼女は酔《よ》っぱらったような足どりで近づいた。
肉欲の化身《けしん》としか見えぬその顔は、陽馬を狼狽《ろうばい》させ、恐怖《きようふ》させた。
「こ、これ、それ以上、近づくと、斬《き》るぞ」
むろん、おどしだが、このときお扇の左右の手が何かをかいくるようにかろく動いた。――と、陽馬の大小が鞘《さや》からスウと抜《ぬ》けた。
まことに陽馬らしからぬ不覚で、大小の柄《つか》に例の髪縄《かみなわ》がからみついて引かれたものだとは、それが半ば抜《ぬ》けるまでわからなかった。わかったときは刀身を捕《とら》えようもなかった。あっというまに、大小は抜き身のままで岩上に落ちた。
「な、何をする!」
鏘然《そうぜん》たるひびきの中に、陽馬は満面を朱に染めた。ほんとうに怒ったのだ。
それでもお扇は、酔《よ》い痴《し》れたような顔で、平気でニンマリとして、スルスルと大小を足もとに引きずり寄せて、
「陽馬さま、ねえ。……」
といったが、その眼がふと陽馬の足もとから横の断崖《だんがい》に移って、「あっ」とさけんだ。
そこに――いったいこれは何であるか――いや、たしかに人間の足が一本、にゅっと現われた。断崖の向うからである。しかも、逆さにである。猿《さる》の干物《ひもの》みたいに痩《や》せた足で、その足の裏に――まるで疣《いぼ》とも盤《ばん》ともつかない、大きな、ぶきみな肉の環《わ》が二つ三つ見えた。
「――やっ?」
陽馬が声をあげるより早く、その一本足は何やら感じたらしい表情で一瞬《いつしゆん》空中にピタと静止していたが、その声に、しまった、というようにヒョイとひっこめられた。
本来の陽馬なら、見たとたんにこの奇怪《きかい》なものに抜打《ぬきう》ちをくれたであろうが――いかんせん、このとき腰間《ようかん》に刀がなかった。彼は断崖に駆《か》け寄った。
――と、見る、その眼の下に、十数メートルもの下の岩礁《がんしよう》に波|狂《くる》う絶壁《ぜつぺき》を、ツ、ツ、ツ――と這《は》い下りる異形《いぎよう》のもののかたちが見えた。いったいそれは人間であるか、よく見ればまさに人間には相違なかったが、白い行衣《ぎようい》が逆《さか》さに垂れて、木の瘤《こぶ》みたいな尻《しり》も股間《こかん》もまる出し、という姿を真上から俯瞰《ふかん》したので、とっさには陽馬はおのれの視覚を疑った。そもそもこの大岩壁《だいがんぺき》を、あれほど早く、しかも逆《さか》さに這《は》う、這うというより走る人間がこの世にあり得るものであろうか。
「伊賀者《いがもの》ですっ」
と、やはり駆《か》け寄って、見下ろしたお扇《せん》がさけんで、足もとの石塊《せつかい》を蹴落《けおと》した。
が、そのときその巨大な人間|蜘蛛《ぐも》は、狼狽《ろうばい》しつつも敏捷《びんしよう》に岩の凹《くぼ》みに滑《すべ》りこんで、上からの視界から影を消してしまい、ただその下の岩礁《がんしよう》に泡立《あわだ》つ海面が見えるばかりとなった。
「たしかにおんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]姿のあの伊賀者、さっきわたしは向うからちらっと見たわ、あの男がこの崖《がけ》からまっさかさまに落ちてゆくのを。――」
この崖からまっさかさまに落ちた人間が助かるか、そんな常識的な疑いは、いまの怪術を見た眼にはあの海の泡のごとくけし飛ばざるを得ない。
「ゆきましょう、陽馬さま」
と、さしものお扇《せん》もあわて出して、岩の上の大小をとりあげに馳《は》せ戻《もど》った。
「追っても、あんな化物、この足場の悪いところでは、追うどころか、逆にしてやられるのが落ちです。――」
陽馬は黙《だま》って、しかしいま見たぶきみな足の裏の造形を、吐気《はきけ》とともに思い出していた。
二
「……女を相するの法は、まさにその陰と腋《わき》の下の毛を詳察《しようさつ》すべし。順にして濡沢《じゆたく》せるは可、かかるに反って逆生えし、あらくしてなめらかならざるもの、かくのごときはみな男を傷《そこ》なう。……」
と、木ノ目軍記は朗唱した。
「肌《はだ》あらきは御せず、痩《や》せしは御せず、股脛《またずね》に毛生やすは御せず、骨のかたきは御せず、ちぢれ髪《がみ》は御せず、腋の臭《くさ》きは御せず、陰と身体の冷たきは御せず。……」
「うるさい」
と、足もとに坐《すわ》っていた烏頭坂《うずざか》天八が顔をしかめた。軍記はへらへらと笑った。
「これは男が御してはならん悪女の相じゃが、女から見ると、おぬし、そっくりこれにあたるな。すなわち典型的悪男。……」
うるさいといったくせに、しかも癇癪《かんしやく》もちの天八がこんなひどい批評を受けても怒らない。その通り、逆毛《さかげ》の生えた鮫肌《さめはだ》の痩せた脛《すね》をかかえて、彼は何やら考えこんでいるようだ。砂浜のちょっと盛りあがった砂丘の上であった。
なぎさの方で銃声《じゆうせい》が聞えた。
砂丘の上に立って、衣の裾《すそ》をひるがえしながら、木ノ目軍記はまた唱える。
「こんどは、好女の相じゃ。細き骨、柔《やわ》らかき肌《はだ》、肉柔らかく肌薄《はだうす》くして雪白、指のふし細くくぼみ、色白にして高からず低からず、腿肥《ももこ》えて小股《こまた》切れあがり、身なめらかに綿のごとく、陰柔らかく、膏《こう》のごとし。……」
「……おう、あの甲賀《こうが》のくノ一!」
ふいに天八がうめいたとたん、また銃声が渡って来た。
軍記は驚《おどろ》いたように、足もとにうずくまったおんぎょう姿の朋輩《ほうばい》を見下ろした。
とり澄ました顔をしているくせに、なかなか口の悪い木ノ目軍記だが、この烏頭坂《うずざか》天八だけはとびきり人間離れしている感じがあって、ほんとうのところはちょっとこわい。しかしこの男が「悪男」であることは本人も自認しているのみならず、かえって誇《ほこ》りにしている気味もあるので、この点だけは平気で悪口をいったのだが、いま天八が怒《おこ》らなかったのは、彼がまったくべつの思いにふけっていたからだということにはじめて気がついた。
「何といったな、天八?」
天八は黙《だま》って、しかし黒い顔が珍しく赤く染まったのを軍記は見た。
「甲賀《こうが》のくノ一、と聞えたが――あのくノ一どものうちのどれにあたる?」
「やかましい。おれは何もいわぬ!」
天八ははじめて怒って、口から泡《あわ》を吹いた。
見下ろして、軍記はにやっと笑った。彼がいま房内篇《ぼうないへん》の一章を朗唱したのは、記憶《きおく》を確実にするためもあるが、実は――この烏頭坂《うずざか》天八を教育するためもあった。
甲賀のくノ一を房内篇のラーゲに従って、犯して、殺す。このアイデアは、いまやその目的も必要性も忘却《ぼうきやく》させるほど軍記の固着観念となっている。忘れるというより、そのこと自体が、淫学《いんがく》に研鑽《けんさん》するこの男にとっては目的そのものであり、必要そのものであるにはちがいない。
その彼にとって、少なからず気にかかるのはこの天八だ。殺す、ということに於《おい》ては懸念《けねん》はないが、犯す、という点で果して実行可能であるか。
烏頭坂天八は忍法《にんぽう》修行のために女を忌避《きひ》していた。女人と隔絶《かくぜつ》した世界に生きようとしていた。
犯しつつ殺す、という木ノ目軍記の発想に、何だか釈然としない顔つきをしていたが、ともかくも一応は了承した。ただし、憎悪《ぞうお》のみを以て犯す、という条件つきにである。しかもそれはおのれに課する条件ばかりでなく、他の仲間すべてに要求する条件であった。もし常套《じようとう》の淫心好色《いんしんこうしよく》を以て犯したならば、それは忍者《にんじや》の天命に叛《そむ》いたものとして誅戮《ちゆうりく》を加えるという。
その後の経過を見ていると、ともすれば「犯しつつ殺す」という二命題が分離して、彼の心中ではその後者のみが充満しがちであるらしい。そうかと思うと、彼自身の提出した「憎悪のみを以て犯す」という二命題の前者に叛いたものとして、仲間のだれかれにも殺気の白眼をむけようとする気配がある。
で――軍記は、苦心|惨澹《さんたん》、この乾燥した男に、淫心の妙《みよう》、好色の醍醐味《だいごみ》を吹きこんでやろうとして、悪くいえばそそのかし、よくいえば教育を施《ほどこ》そうとしているのであった。
「甲賀《こうが》のくノ一のだれ――とはいわず、どの女もまさに好女《こうじよ》じゃが」
と、軍記はわざとひとりごとのようにいった。
「しかしこの房内篇《ぼうないへん》の第 廿《にじゆう》 二《に》、好女の章を読みあげると――わしの頭にまず浮びあがって来るのは、だれよりもあの女人じゃな」
あごをしゃくる海の方角から、またはろばろと銃声《じゆうせい》が流れて来た。
ここは越後《えちご》の姫川《ひめかわ》の河口にちかい砂浜だ。
渡れば糸魚川《いといがわ》の宿場だが、このあたり、夏ちかいまひるで、砂は布のごとく白いのに、海は茫々《ぼうぼう》として薄暗《うすぐら》く、遠く杉皮《すぎかわ》の屋根に石ころを置いた二、三|軒《けん》のわびしい漁家もふくめて、ひどく非現実的な、幻想風《げんそうふう》な風景であった。
その海|際《ぎわ》で、これまた恐《おそ》ろしく現実的な音を発して――ピストルを撃《う》っている者がある。
海に向かって撃っているのは雪羽《ゆきは》であった。青蓮院《しようれんいん》の宮からもらったコルトである。その操作を教授しているのが狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》であった。
それを先刻からこちらの砂丘に位置して、軍記と天八はまわりを警戒していたのである。
「あの両人、ずっと以前からの師と弟子《でし》のようじゃな」
と、軍記はつぶやいた。
「あれだけなれなれしゅうして――あの娘《むすめ》の手にふれ、からだにふれて、仁右衛門め、よう心が乱れぬものじゃ。乱れぬように見える。――だからこそ、雪羽も仁右衛門だけにはこのごろ安心して近づいておるのじゃろうが、しかし」
くびをひねった。
「あれも、君子を通されてはこまるぞ」
――自分と同じ、堅物《かたぶつ》の双璧《そうへき》、と軍記が雪羽に紹介《しようかい》した狩川《かりかわ》仁右衛門のことだ。自分、すなわち軍記が堅物であるかどうかは怪しいが、この仁右衛門の方は、怪物だらけの伊賀者《いがもの》の中では全然まっとうな、それだけにいちばん変っているといえるかも知れない人物であった。
「一方、雪羽、あれも相当見せられたはずなのに、今のところ一応|凜然《りんぜん》としておるの」
まげたくびを立てなおして、また朗唱風にいった。
「で、好女《こうじよ》は一見、骨細く、肉|柔《やわ》らかく肌薄《はだうす》く――楚々《そそ》として見えて、交われば、ゆり動き、みずから止むる能わず、汗、四通にながれ、男に従いて動く。男は法を行わずといえども、かくのごとき女人を得れば損うところはない、とある」
「淫学坊《いんがくぼう》」
ふいに天八が絞《し》め殺される鶏《とり》みたいな声を出した。
「男のものを切って、しかも女を犯す法はないか?」
「なんじゃと?」
と、軍記はまた驚《おどろ》いて、天八を見下ろした。
「離れて、立ったまま交わる法はないか、ときいた俎《まないた》以上の難題じゃ。そもそも、交わるとは、そのものを。……」
「おれは、妄想《もうそう》の根源を断ちたい。……」
と、天八はあえいだ。キリキリと歯が鳴った。
「そして煩悩《ぼんのう》の雲ふりはらい、凜烈《りんれつ》の心境を以て女を犯したい。……」
この男が、こんな哲学的な用語を弄《ろう》するとは思わなかった。苦悩《くのう》のために頭がぼうとして、無意識的に発せられた言葉であろう。――しかし、むりなことをいう。
――はて、こやつに何が起ったのか?
軍記が案ずるまでもなく、烏頭坂《うずざか》天八は肉欲に開眼したのであった。
いつから? だれによって?
あの親《おや》不知《しらず》の険で、甲賀《こうが》のくノ一お扇《せん》の圧倒的《あつとうてき》な挑発《ちようはつ》によって。――彼自身が挑発されたわけではない。釜戸朱膳《かまどしゆぜん》にからみつき、あの獣人《じゆうじん》と口を吸い合っているお扇を見ただけだが、ただ見ただけで、女の原始的な肉欲の炎は、はじめてこの苛烈《かれつ》な北国の沙漠《さばく》の生物みたいな男の魂《たましい》を煽《あお》り、とろかしたのであった。――そしていまや、天空から飛来して肉体の一部につき刺《さ》さった鉄筒《てつとう》のごとく、彼を苦しめているのであった。
「斬《き》れ、斬れ、斬れ。……」
と、彼は熱病やみのうわごとみたいにいった。
はじめてこの天八の内部の異変に気づき、それが何に由来したかは知らず、してやったり、といちどニンマリしようとして、それよりえたいの知れない恐ろしい予感に打たれ、木ノ目軍記は笑いを消して、淡《あわ》くひかる砂けぶりの中に立っていた。
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短い足を切った章魚《たこ》
一
忍《しの》びの苦行者|烏頭坂天八《うずざかてんぱち》の「変身」ぶりを、次にまざまざと目撃《もくげき》することになったのは狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》で、その翌夜、糸魚川《いといがわ》の宿《しゆく》に於《おい》てであった。
松平|日向守《ひゆうがのかみ》一万三千石の城下町で、北国道と松本街道が交わる宿場だ。海鳴りの聞えるわびしい旅籠《はたご》で、雪羽《ゆきは》の眠る部屋にひそかに忍《しの》び寄って来た天八を、仁《に》右衛門《えもん》が発見したのである。
忍び寄る忍者《にんじや》の気配を感づいたのも忍者なればこそ――といいたいが、はじめ仁右衛門は犬か何かの動物でも忍び寄って来たかと思った。それが、犬でもなければ敵の甲賀者《こうがもの》でもなく、味方の、しかも烏頭坂《うずざか》天八だと知って、おちついた仁右衛門も唖然《あぜん》としてしばし声もなかった。
「烏頭坂。……どうしたのじゃ?」
忍者どころか、頬《ほお》かぶりして、まるで泥棒《どろぼう》のような姿の天八は動かなくなり、一息、二息おいて、
「切ってくれ、仁右衛門」
と、うめいた。犬みたいに哀《あわ》れっぽい、そして狼《おおかみ》みたいにきちがいじみた眼をしていた。
「斬《き》れ?」
「おれの麻羅《まら》を」
仁右衛門はめんくらった。その足に天八はすがりついた。
「ほんの先夜だ。泊《とまり》の宿で、やはり雪羽さまの寝所《しんじよ》に忍び寄ろうとした朱膳《しゆぜん》を、おれは追い返したことがある。われらの使命に叛《そむ》くか、叛けばおれが天誅《てんちゆう》を下すと叱《しか》りつけたことがある。そのおれが、同じ煩悩《ぼんのう》の犬になり果てようとは!」
「雪羽さまにか?」
ようやく狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は苦い顔をした。
烏頭坂《うずざか》天八にしてみれば、必ずしも一足飛びに雪羽に対して煩悩《ぼんのう》の犬になったわけではない。敵の甲賀《こうが》くノ一に触発《しよくはつ》されて、性欲の抑圧《よくあつ》がとろけたからだが、そんな経過を説明する頭脳もなければ、その気もない。それに雪羽という娘《むすめ》をたぐいまれな美女だとは、いくら彼でも最初からよく認識していたのである。ことあれば仲間に対し、雪羽に淫心《いんしん》を抱《いだ》くなと釘《くぎ》を刺《さ》したのも、おそらくはその憧憬《どうけい》の反動的警告であったと見られるふしがある。
女ならだれでもいいと思われるほどの錯乱《さくらん》におちた烏頭坂天八の煩悩の炎が、果然雪羽に吹きつけられたのは当然だが、いま狩川仁右衛門に見つかると、それゆえに弁明の辞を失ったのもまた当然だ。
「切ってくれ、おれの麻羅《まら》を」
彼はまたくり返した。しかもそれはたんに弁明の辞を失ったあまりのやけくその言葉ではない、ひどく痛切なひびきがあった。
狩川仁右衛門はちらっと雪羽の部屋の方を見て、
「……よし、ともあれ、来い」
と、旅籠《はたご》の外へ出た。
路地からすぐ近い海辺へ下りてゆく。ものみなすべて白く晒《さら》されたような月明の夜であった。――あと数歩で、磯《いそ》に砕《くだ》ける銀色のしぶきが吹きかかる砂浜に来ると、
「しかし、天八、いささか突飛《とつぴ》すぎるではないか、いくらおまえでも」
と、仁《に》右衛門《えもん》はもちまえのおちつきをとり戻《もど》した声でいって、ふりむいた。
「突飛ではない。……きのう、軍記にも頼んだことだ」
と、天八はいった。依然《いぜん》思いつめた顔つきだ。
「木ノ目は何といった」
「甲賀《こうが》のくノ一を犯す、という条件が叶《かな》えられなくなるからだめじゃといった」
天八はふっと、ふしぎそうに仁右衛門を見上げた。
「仁右衛門、おぬしもやるつもりか?」
「はじめ、相手が甲賀のくノ一ときいて、ふと面白いとは思うたが、実のところは心進まぬ。しかし、約束したことゆえ、やらねば軍記が承知すまいなあ、朱膳《しゆぜん》、墨之介《すみのすけ》、杏兵衛《きようべえ》、助十郎らも約束通りにやって死んだことでもあるし――それに――」
狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》はくびをかしげて黙《だま》りこんだ。
どうやらこのことを雪羽が、望まないまでも承認しているように思われる、といおうとしたのだ。それ以外にこのたびの旅をぶじに――自分たち伊賀者《いがもの》と甲賀《こうが》のくノ一にとってはぶじな旅どころではないが――終らせる法はない、とあきらめているように思われる。その雪羽の意図に納得できかねるふしもあるが、しかしいまのところは、ひたすら雪羽の欲するままに、という心境になっている狩川仁右衛門であったが、しかしこういうことをこの烏頭坂《うずざか》天八に説明してもはじまらない、と彼は考えて唇《くちびる》をつぐんだのだ。
「しかし。――」
と、彼はあらためて口を切った。
「軍記のいう通りじゃ。切れば、いかにもそのことが出来まいが」
「軍記との約束はこの旅いっときのことだ。修行は一生のことだ。その修行に、いまおれを悩《なや》ましておる妄想《もうそう》は障《さわ》りとなる」
天八は歯をキリキリと鳴らしながらいった。
「例の約定《やくじよう》は、何とか工夫して、べつのかたちで果す。それより、いまのような邪念《じやねん》を以てしては、たとえその約定果したとて、おれの信念に反する。だいいち、甲賀《こうが》のくノ一を相手にする以前に、からだじゅうが燃えつきそうじゃ。見ろ」
天八はふいに前をまくりあげた。
まさに、天空から飛来して肉体の一部につき刺《さ》さった灼熱《しやくねつ》の鉄筒《てつとう》のごときものが仁《に》右衛門《えもん》の眼にうつった。錯覚《さつかく》にちがいないが、蒼《あお》い月明に、その尖端《せんたん》がうす赤くひかってさえ見えたのである。
仁右衛門の頭に、この怪物と雪羽の幻影《げんえい》が重なった。――この烏頭坂《うずざか》天八の「変身」ぶりをひき起した「変心」が何に由来したかはまだよくわからず、自若たる狩川《かりかわ》仁右衛門には珍しい――慄烈《りつれつ》また憤然《ふんぜん》たる声を彼は投げつけていた。
「よし、切ってやろう」
ぱっと一刀を鞘走《さやばし》らせた。
二
なみの人間にはちょっと扱いかねる長大な豪刀《ごうとう》だ。
それを眼前にして烏頭坂天八は、きものをまくりあげて帯にはさみ、横むきに仁王立《におうだ》ちになった。――で、鉄筒の影は、銀の砂地を背景に、いよいよくっきりと浮びあがった。
「参るぞーっ」
「心得たりっ」
実に可笑《おか》しな刃傷沙汰《にんじようざた》が突如《とつじよ》起ったもので、しかも味方同士だが、両人のあいだに笑いの影はない。笑うどころではない。眼をつむり観念し切った態《てい》の烏頭坂《うずざか》天八もそれなりに凄愴《せいそう》であったが、大刀をふりかぶった狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》にも、寸毫《すんごう》の遠慮《えんりよ》もない剣気がみなぎった。
月光に銀蛇《ぎんじや》が一閃《いつせん》した。
実はこの狩川仁右衛門という男は、素性《すじよう》は伊賀者《いがもの》にはちがいないが、ほかのめんめんとちがって、奇具奇芸は弄《ろう》さない。ときに二刀を操《あやつ》るが、とにかくただ刀術一点張りである。その刀術が実に容易ならざるもので、めったには抜《ぬ》かないが、いったん抜いたらこの仁右衛門がいちばん恐ろしい、とほかのめんめんも認めているのみならず、当代、天下のいかなる剣客とやり合っても、ほとんど仁右衛門に歯の立つ人間はないのではないか、と思っているほどだ。
その狩川仁右衛門の恐るべき一刀が、烏頭坂天八の鼻先から胸腹を焦《こ》げ臭《くさ》い匂《にお》いを発するばかりにかすめ落ちて。――
「しまった!」
声とともに、その刀身はいま切ろうとしたものからもそれていた。
しまった、とさけんだのは仁《に》右衛門《えもん》ではない。天八だ。――狩川《かりかわ》仁右衛門の刀が、その尖端《せんたん》をかすめてながれ落ちたのは、天八自身が飛びのいたからであった。
仁右衛門ほどの剣人の一撃《いちげき》を、しかもそれまで眼をとじて待ち受けていて、とっさにかわすなどいうことは常人に出来ることではないが、次の瞬間《しゆんかん》、この猿《さる》のような男は、さらに奇怪《きかい》な動きを見せていた。
飛びのくとともに、彼はそのまま仰《あお》むけに一回転して、なんと逆立《さかだ》ちしたのである。しかも左|腕《うで》一本で。――
同時に、そのうなじからこれまた銀蛇《ぎんじや》がほとばしり出た。彼は背中に一刀をひそめていたのである。そのうなじにのぞいた鍔《つば》のない柄《つか》を、一回転しつつ右手でひっつかむや否や、左腕一本で逆立ちしたまま、下からななめ上に、凄《すさ》まじい勢いで薙《な》ぎあげていたのである。
実に驚《おどろ》くべきことだが、烏頭坂《うずざか》天八が逆立ちしたのは、正確にいえば左腕一本ではなかった。その左腕の人さし指一本であった。砂にさしたその指一本をしんにして、そのからだは独楽《こま》のごとく――従ってその刀身はプロペラのごとく旋回《せんかい》しつつ、ななめ下から斬《き》りあげられて来た。
何ぴとも、この奇怪《きかい》なフォームの異様な角度から飛来する一剣を防禦《ぼうぎよ》し得る者はないはずだが、それを狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は受けた。
左手で小刀を抜《ぬ》いて、それとななめに刃《やいば》をかみ合せたのである。
しかも、いったん空を切った右手の大刀はまた閃《ひらめ》いて、こんどは――眼前四尺の高さにある烏頭坂《うずざか》天八の男根を、もののみごとに切り飛ばしていたのである。
「ゆるせ!」
と天八はさけんで、こんどは回転せず、仰《あお》むけにひっくり返った。砂けぶりたてて、水平に廻《まわ》ったのは、そのあとのことである。
「もののはずみじゃ」
と、天八はまたいって、やっと砂の上に坐《すわ》り直した。
狩川仁右衛門は左|腕《うで》の肘《ひじ》をあげて、口のあたりをこすった。いま切断したものから噴《ふ》きつけて来た火のように熱い霧《きり》――月光に真っ黒く見える血しぶきをぬぐったのである。
「悪気《わるぎ》あってしたことではない。あっと思ったとたんやってしまったのだ」
と、天八は肩《かた》で息をしながらいった。
第一|撃《げき》をのがれた彼の方が、しまった、といい、とどのつまり切られた彼の方が、ゆるせ、という。いまの奇怪《きつかい》な反撃《はんげき》は無意識の反射|行為《こうい》だというのだ。
悪くとれば、こちらを罠《わな》にかけようとした動作と見え、たんにそう見えるのみならず常人ならばふせぎようもないわざを、
「こわいやつだ」
といって、ふう、と息をついたが、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》の声はもうおちついていた。
天八の告白を真実と認めたのである。忍者《にんじや》ならば――とくに烏頭坂《うずざか》天八ほどおのれのわざに苦行した男ならば、いまのような反射的一挙手一投足は充分あり得ることだ。むしろ、忍者としてかくのごとくであらねばならぬのだ。
指一本による逆立《さかだ》ち、その指で回転しつつ、薙《な》ぎあげる逆《さか》さ斬《ぎ》り。
――狩川仁右衛門は見ていないが、数日前の親《おや》不知《しらず》の決闘《けつとう》で、この天八が十数メートルの断崖《だんがい》から落ちて健在であったのも、この超人的体術の基礎《きそ》訓練あればこそで、あのときくノ一相手に一見彼が敗れたのも、相手の武器があまりに意外であったので、逆《さか》さ斬《ぎ》りの刀術を発揮するいとまがなかったのと、発揮したときはすでに空中にあったというのが真相だ。
指一本による逆立ち、元来は足跡《あしあと》を残さずして目的物へ忍《しの》び寄る必要から生れたわざだ。荒唐無稽《こうとうむけい》のようだが、げんにゴルフの世界的名手ゲーリー・プレーヤーは腕力《わんりよく》と指力を強めるために、平生指だけ立ててやる腕立《うでた》て伏せを練習しているという。――
そしてまた。
彼の体技は、指一本による逆立ちだけではない。いま狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》の迅雷《じんらい》のごとき豪刀《ごうとう》を相手にしてふるう余裕《よゆう》はなかったが、天八は逆立ちした両足の裏で、敵の刀身を挟《はさ》んでしまう。挟んだまま、敵の手からその刀をもぎとってしまう。或《ある》いは挟んで敵を動けなくして、逆さ斬りに胴を切断してしまう。
烏頭坂《うずざか》天八の足の裏の皮膚《ひふ》と筋肉は、いくつかの盤状或《ばんじようある》いは溝状《みぞじよう》の環《わ》をなして、吸盤化《きゆうばんか》しているのだ。逆さに敵を襲《おそ》うという攻撃面《こうげきめん》の利点の反面、当然弱点となる上部の防禦《ぼうぎよ》をこれによって補うという苦錬から作りだした天八だけの筋肉|変性《へんせい》であった。たんに吸盤化しているばかりではない。どうやらその一念から、視覚的感覚能力も生じたらしく、親《おや》不知《しらず》の断崖《だんがい》を彼が章魚《たこ》のごとく這《は》い上って来て、まず潜望鏡《せんぼうきよう》のように片足だけ出して様子をうかがったのは、実にこの足の異能のためである。
まったく章魚のような男だが、しかし顔はどちらかといえばするめに似ている。
「痛いか」
「いや」
あぐらをかいて、やっとおのれの股間《こかん》をのぞきこんでいる天八に、刀身をぬぐった懐紙《かいし》の残りを狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は投げた。
「これで血を押えろ」
「いや」
天八は短くまたいって、砂の中から何やら拾いあげ、じいっと月光にすかしていたが、
「失《う》せろ、厄介棒《やつかいぼう》!」
ひっ裂《さ》けるようにさけんで、それを海へ投げた。
それっきり、烏頭坂《うずざか》天八は眼をつぶった。懐紙であとを押えようともせぬ。血は黒く、こんこんと砂を染めてゆく。――こやつ、つくづくと人間離れしたやつだ、と、自分のことは棚《たな》にあげて、さしもの狩川仁右衛門も舌をまいたが、また淫欲《いんよく》を断つためにむかし印度《インド》の苦行僧が行なったという「羅切《らせつ》」を文字通り地でいったこの朋輩《ほうばい》の鬼気《きき》に打たれて、これまた声をのんで見下ろしている。
「いかん!」
と、天八は砂をたたいた。
「眼をとじれば、まだ雪羽さまが浮ぶ。――あの女が浮ぶ。――裸《はだか》の女が浮ぶ!」
くわっとひらいた烏頭坂《うずざか》天八の眼は血光《けつこう》をはなっていた。
「仁《に》右衛門《えもん》。……あの敵の宰領《さいりよう》の男、さぞかし夜々、あのくノ一どもを相手に淫楽《いんらく》をほしいままにしておるであろうなあ」
「……さて。しかし、それがどうした、いまさら。――」
「それを思うと、このごろ眠られなんだが――いまこれを失って、いよいよきゃつへの憎《にく》しみが耐《た》え切れんようになった。もはや、一日もきゃつを生かして、あのくノ一どもと愉《たの》しませておくことはがまんがならぬ」
「待て、あの男、どうやら雪羽さまは生かして江戸へ帰すおつもりらしいぞ」
「おまえも、そのつもりか」
「わしは思案しておる」
「軍記にそんな気はないぞ」
「いったい、きゃつは何者か。あれは甲賀者《こうがもの》ではない。――しかし、剣法に於《おい》ては大したやつだ。くノ一どもがどれほど助勢したか知らぬが、ともかくも朱膳《しゆぜん》ら四人を斬《き》った。いまだにわしは信じられぬほどじゃ。討ち果すかどうかは宿題として、そのうち必ず刃《やいば》だけは交えねばならぬとわしは思うておる。――」
この男にしては珍しく、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は夢みるような眼を月明にあげた。
「天八、あの男はわしにゆずれ。おまえ、斬ってはならぬぞ」
「そうはゆかん。それではおれがこの旅に来た甲斐《かい》がない」
「おまえがやれば、一刀にして相手を両断してしまう。そのまえに、わしはあの男の正体を知りたい。――何やら、きゃつの素性《すじよう》、気にかかってならぬ。――」
「おぬしの二刀流を以てしても、必殺の気構えにならずにはいられまいが」
「左様、子供扱いには出来ぬやつだな。ひょっとすると、そうなるかも知れぬ。――」
「……ともかくも、捕《とら》えて見ようか、あの若僧《わかぞう》を」
「捕える?」
「そして素性《すじよう》の泥《どろ》を吐《は》かし、それからおぬしが斬《き》るか、おれが斬るか、談合はそのあとのことにしよう。ともあれ、きゃつを捕えれば、残りのくノ一どももまるまるこちらの手に入るような気がする」
「おまえが、くノ一を手に入れて何とする?」
「うふ、うふ、うふ」
烏頭坂《うずざか》天八は口の中で笑った。
この男が、こんな言葉をもらし、しかもこんな奇妙《きみよう》に淫《みだ》らな笑い声をたてるのははじめてである。しかもいま、男の機能を失った男が。――
いかなることを思いついたのか知らず、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は吐気《はきけ》のようなものを感じた。この恐るべき男が、羅切《らせつ》して、いよいよ恐るべき男に変ったことにまちがいはない。
「で」
仁右衛門はごっくり唾《つば》をのみこんだ。
「どうして捕《とら》える? あの若僧《わかぞう》を」
三
親《おや》不知《しらず》ほどの険ではないとはいえ、このあたり越後《えちご》街道は、一方は山、一方は海、そのあいだに辛《かろ》うじて一筋の道をつづけている。
ところどころの漁家の部落の屋根は石ころをならべ、その屋根そのものが断崖《だんがい》に刻みつけられた石段のように重ねられてへばりつき、その中に人が住んでいるとは思えないほどうら寂《さび》しい。海も山も夏の北陸の美しい風物につつまれながら、いわゆるこの西頸城《にしくびき》地方には、ふしぎに死の世界を思わせる静寂《せいじやく》さが漂《ただよ》っていた。
海に迫《せま》る山を切って流れる河は、河というより谷だ。事実その名も、西谷、根知谷《ねちたに》、西海谷、早川谷、能生《のう》谷、名立《なだち》谷、桑取《くわとり》谷――と、いわゆる西頸《にしくび》七谷の中のどれであったか、蔓《つる》に板をならべただけの吊橋《つりばし》がかかっていた。
「仁《に》右衛門《えもん》、どこへゆくのですか」
その吊橋のたもとから、道を海側に横へそれて、崖《がけ》についた細道を下りてゆこうとした狩川《かりかわ》仁右衛門ははっとして立ちどまった。
ずっと先へ、木ノ目軍記といっしょにいったはずの雪羽がそこに立っていた。気がつかなかったが、松の木蔭《こかげ》かどこかに休んでいたらしい。仁右衛門は彼らしくもなくあわてた。
「は、ちょっとこのあたりで水を汲《く》みに」
と、腰《こし》にぶら下げた瓢箪《ひようたん》をゆすって見せた。瓢箪にはしかし、たっぷり水の入った音がした。
「わたしものどがかわいた」
「や、いまお飲みになるくらいなら、まだござるが」
「それはぬるいであろう。それに冷たい水で手足を洗いたい。いっしょにゆこう」
と、雪羽はついて来た。
やむなく仁《に》右衛門《えもん》は、彼女の足もとを気づかいながら、崖道《がけみち》を下りていった。つき出した岩のかげまで下りると、十メートルばかり離れて、しかもずっと上に吊橋《つりばし》の一部が見える。谿流《けいりゆう》はいかにもしびれるほど冷たかった。
「仁右衛門、水に入るの?」
手足を洗って、ぬぐっていた雪羽は顔をあげ、眼をまるくした。狩川《かりかわ》仁右衛門は下帯一つになって水の中へ入ってゆこうとしていた。
「は」
仁右衛門は水に脛《すね》まで沈めて、じっと吊橋の方を見ていたが、やがて思い決したように雪羽を見た。
「やがて、ここに人間が流れて参ります。……それを捕《とら》えようと存じましてな」
「人間が、ですって? どこから、だれが?」
「あの橋の上から、甲賀組《こうがぐみ》の宰領《さいりよう》の男が」
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堕天《だてん》の夏
一
雪羽《ゆきは》の顔色が、さっと変った。彼女は、はきかけていたわらじはそのままに、これまたザザッと水の中に入って来た。
「橋の上から、流れてくる?」
その位置からは、吊橋《つりばし》が高く、よく見えた。
そして雪羽は、夏雲を背に――その吊橋の裏に、猿《さる》のように吸いついて、一刀を横なりにしているおんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]姿の影を見た。
「天八が……何をしようとしているのですか」
「されば、やがてあの橋に甲賀組の宰領の男が来かかるはず。それを、天八が下から斬《き》る。吊橋は落ちましょう。切れた吊橋にぶら下がった天八はどうなるか、猿のような男ゆえ、これは大丈夫《だいじようぶ》でござろうが、宰領の男はまっさかさま。……」
雪羽は色を失った唇《くちびる》でつぶやいた。
「卑怯《ひきよう》。――」
狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》はちらっと雪羽を見たが、もちまえの重厚な口調でつづける。
「拙者《せつしや》もな、かかるたぐいの、いわば闇討《やみう》ちは好《この》みませぬが、忍者《にんじや》の世界の争いに卑怯《ひきよう》という言葉はないというのがきまり[#「きまり」に傍点]でござる。実は拙者、この個人の道徳と、集団としての教義――背反《はいはん》する二律をいかにして止揚《しよう》いたさんかと、年来|腐心《ふしん》いたしております」
雪羽は仁右衛門の哲学などきいている余裕《よゆう》はない。
「狩川《かりかわ》、おまえはそれを黙《だま》って見ているのですか。……おまえがそんな人であろうとは思わなんだ」
しかし雪羽は、ここ数日、狩川仁右衛門にいぶかしさを抱《いだ》きはじめていたのであった。彼がよくひそひそと烏頭坂《うずざか》天八と密語している。同じ伊賀組《いがぐみ》の男だからそれを変に思うのが変かも知れないが、雪羽から見るといちばん人間的な仁右衛門が、いちばん人間離れしている天八と、急にこのごろ何やら語らいはじめた気配に、本能的な胸さわぎをおぼえたのだ。
いま、ふいに谷へ下りかかった彼を追って来たのも虫の知らせだが、それはあたった。あたったどころか、なんと、そんな恐《おそ》ろしい企みを抱《いだ》いてのことだとは。――
「あの宰領《さいりよう》を殺してはならぬとわたしがいったことを、おまえは忘れたのですか」
「いや、死にはしますまい」
「あんな高い橋から落ちて。――」
「ともあれ、釜戸《かまど》らを斬《き》った男でござる。体さばき尋常のやつであるはずがない。いわんや、下は水。――怪我《けが》するか、気を失うくらいでござろうが」
仁《に》右衛門《えもん》は自若《じじやく》としていった。
「実は天八、あの宰領を斬るといってきかぬのを、拙者《せつしや》がとめてこのようなはからいにいたしたのでござる」
「……で、どうしようというのじゃ」
「流れて来たきゃつを、拙者ひっとらえます」
「つかまえて?」
「きゃつの正体を知りたいのでござる。あの男、甲賀者《こうがもの》ではない。甲賀者にあらずして、あれほど甲賀のくノ一を使い、しかも麻打《あさうち》ら四人も打果すほど腕《うで》の立つ男、はたして徳川家のいかなる職分のやつか。……それ以外にも、何やら気にかかるふしがある」
――どんな? といいかけて、声をのんで、雪羽はのどをこくりと動かせた。
……ともあれ、自分を護って、この伊賀者《いがもの》たちは四人もいのちを失ったのだ。そこへ、自分とその宰領《さいりよう》――丹波《たんば》陽馬が恋人《こいびと》同士であると知ったら、彼らはどうするだろう?
いや、それはまだ知らずとも、いま彼らは恐ろしい計略に陽馬さまをかけようとしている。こういっているあいだにも、陽馬さまはあの橋へ来かかるに相違ない。――
雪羽はふところからとり出した。コルトの拳銃《けんじゆう》を。
「何をなさる」
と、さすがに狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》はぎょっとした表情になった。
「わたしが撃《う》ちます。その宰領を」
「――ほ、あなたが?」
「先日、おまえから習った腕《うで》だめしに」
雪羽の蒼白《そうはく》な顔色に、仁右衛門は眉《まゆ》をひそめ、
「撃ち殺されてはなりませぬぞ。……もっとも、命中すればめっけもの[#「めっけもの」に傍点]じゃが」
「……こうだったかしら?」
彼女は教えられた通りにコルトを操作して、腕をあげて、それを吊橋《つりばし》にむけた。
とたんに――「あっ」と仁右衛門がさけんだのと、轟然《ごうぜん》と銃口《じゆうこう》が火を噴《ふ》いたのが同時であった。吊橋《つりばし》の下から、刀を離し、くるくると猿《さる》のような影が舞《ま》い落ちた。いっとき頭が下になったが、ザブウン! と水けぶりをあげたとき、影は二本の足で立っていた。が。――
むしろ、地上であったら彼は直立していたかも知れない。――が、矢のような渓流《けいりゆう》に、からくも立った足をとられて、彼はふたたび横倒《よこだお》しになり、ごろごろと水の中をこちらへ流れてきた。
「ばかな!」
さすがに仁《に》右衛門《えもん》は満面を朱に染めて、雪羽の手からまだ煙《けむり》の出ている拳銃《けんじゆう》を奪《うば》いとった。
「天八を撃《う》ちなされたな」
「いえ。――」
と、雪羽は弁解しようとしたが、彼女を凝視《ぎようし》した狩川《かりかわ》仁右衛門の眼はまるで壁《かべ》でも射通すようなひかりを持っていた。それ以上、言葉を失い、ただ唇《くちびる》をわななかせている雪羽の前から仁右衛門は身をひるがえして中流めがけて駆《か》けてゆき、水の中から烏頭坂《うずざか》天八をひきずりあげた。
「撃ったのはおまえか」
濡《ぬ》れねずみになった烏頭坂天八の形相は悪鬼《あつき》のようであった。その右手の――手首からさきは真っ赤な肉塊《にくかい》であった。血がそこからなお赤い雨のように流れ落ちた。
「わしじゃ」
と狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は片手に握《にぎ》ったコルトを無念げにたたきながらいった。
「なぜ?」
「ゆるせ、万一おまえがしくじった場合にきゃつを撃《う》ち落そうと、念のため橋に狙《ねら》いをつけておるうち、つい手もとが狂《くる》ったのじゃ」
「ば、ばかっ、見ろ、逆袈裟《さかげさ》が使えなくなったではないか!」
と、天八は肉塊と化した右|腕《うで》を打ちふった。左手で逆立ちして、地上から右腕で逆ながれに斬《き》りあげる、烏頭坂《うずざか》天八の怪剣《かいけん》はいかにもこれで不能となったのである。
いまの弾《たま》はちょうどその右こぶしに命中したらしい。偶然《ぐうぜん》にはちがいないが、ちょうど刀を握《にぎ》っていたために、肉が裂《さ》けて、いっそうひどいことになったらしい。
「が、刀はどこへいった?」
天八は流れへ眼をさまよわせた。転落とともに刀も飛んでしまったのだ。ふだん、背に仕込んでいる鍔《つば》のない刀――その特別製の忍者刀《にんじやとう》のゆくえが、この不慮《ふりよ》の重傷による怒りよりも彼の心をとらえたところ、いかにも烏頭坂《うずざか》天八らしい。
そのままザブザブとまた渓流《けいりゆう》へ踏《ふ》み出してゆこうとするのを、
「待て」
と、仁《に》右衛門《えもん》はあわててつかんで、手前の大きな岩かげにひきずりこんだ。
「きゃつが、来る。――」
――吊橋《つりばし》の上を、入道雲を背に、深編笠《ふかあみがさ》の影が何も知らず、涼しげにスタスタ通り過ぎていった。
さすがに雪羽も、それがまさに丹波《たんば》陽馬と知っても、そのゆくえを見送るいとまもない。彼女はただ狩川《かりかわ》仁右衛門を見つめていた。
いまの拳銃《けんじゆう》を撃《う》ったのは自分だ、といってくれた仁右衛門を。
二
「北陸道の雲に望み、遥々《ようよう》の思い胸をいたましむ。この間九日、暑湿《しよしつ》の労に神《しん》をなやまし、病おこりて事をしるさず」
と、芭蕉《ばしよう》が述べ、それでも、
「日すでに海に沈んで月ほのくらく、銀河半天にかかりて星きらきらと冴《さ》えたるに、沖のかたより波の音しばしばはこびて魂《たましい》けずるがごとく、腸《はらわた》ちぎれて、そぞろにかなしび来たれば、草の枕《まくら》もさだまらず、墨《すみ》の袂《たもと》なにゆえとはなくて、しぼるばかりになん侍《はべ》る。
荒海《あらうみ》や佐渡《さど》に横とう天河《あまのがわ》」
と詠《よ》んだこのあたり。
不死身の人間かと見えた烏頭坂《うずざか》天八が、直江津《なおえつ》を過ぎるころから全身に憔悴《しようすい》の色があらわになった。苦痛は訴えないが、からだから異様な臭気をはなち出した。
なんの匂《にお》いかと、木ノ目軍記が調べてみると、傷が腐敗《ふはい》しはじめているのであった。それが、あとで受けた右こぶしの傷ではなく、さきに切られた男根の切り口からである。中国で宦官《かんがん》にするための手術を、一名「腐刑《ふけい》」ともいうが、その通りの症状があらわれたのだ。もっとも爾後《じご》の手当に当人も無関心なところがあり、加えてちょうど夏の盛りにかかったということがたたったらしい。
柏崎《かしわざき》についたとき、
「ちょっとここで湯治《とうじ》してゆこう」
と、木ノ目軍記がいいだした。
「おれのためなら、そんな必要はないぞ」
と、天八は強情を張ったが、
「いや、こちらは先を急ぐ旅ではない。秋までに京へ帰って来い――そのころまでには、公方《くぼう》の方が結着つくじゃろう、という宮の仰《おお》せであった。北国道から中仙道を廻《まわ》って帰るのに秋までとは、いささか日をもてあましていたところじゃ。それに、この柏崎《かしわざき》には出湯《いでゆ》がある。ここで療治《りようじ》するがいい」
と、軍記はいって、しかし、しぶい顔をした。
療治といっても、切られたものがまた生えるわけではない。敵に切られたならともかく、みずから進んで味方に切られるとは、何たることをするやつだろう。しょせん、この男は、最後のしめくくりに、あの宰領《さいりよう》を斬《き》らせる役にするほかはない――と思っていたが、こんどは右|腕《うで》もだめになってしまったのだから、何ともいいようがない。
軍記は、甲賀《こうが》くノ一を相手に、房内篇《ぼうないへん》九法、三十法のラーゲに九状六勢を加味し、さらに八益七損の特殊法に至るまでことごとく実験しようという執念《しゆうねん》を抱《いだ》いている。ただし、或《あ》る事情から、自分ではなくて仲間によって。――
で、こうなると狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》に獅子奮迅《ししふんじん》の働きを期待するよりほかはないが、これがまたどこか煮え切らない。決して拒否《きよひ》はしないが、動かざること山のごとき観あり、ほかの軽捷或《けいしようある》いは剽悍《ひようかん》のめんめんとちがって、この人物ばかりは軍記もあごで指図しにくいところがある。
で、柏崎《かしわざき》の湯にひたって、ひまあれば軍記は房内篇《ぼうないへん》を講義し、解説し、彼にその気を蓄電《ちくでん》させようと努めた。
このあたりには、油田《あぶらでん》とか臭水ヶ谷とかいう地名があるように石油の鉱脈があり、むろん当時石油を採ったわけではないが、それにともなって湯が湧《わ》き、湯治《とうじ》の宿もあった。
その宿で。――
「……女をして仰《あお》むけに臥《ふ》して足をあげしめ、しゃがみて脚《あし》をひらき、女の股《また》の中に坐《ざ》し、両手を以て女を抱《いだ》く。これ三十法の第九|翡翠交《ひすいこう》。……」
とか、
「女をして横向きに臥《ふ》して両脚をあげ、男の股の上におかしむ。男、女のうしろより女の下脚の上に乗り、片膝《かたひざ》を立てて女の上股に置く。これ第十|鴛鴦合《えんおうごう》。……」
とか、
「女をして脚《あし》を交えて上に向かしめ、両手を以て女を抱《いだ》く。女、両手を以て男の頸《くび》を抱く。これ第十三|偃蓋松《えんがいしよう》。……」
とか。――
これに対して、眼をぎらぎらさせてきいているのは烏頭坂《うずざか》天八だけで、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は柱にもたれかかって、半眼で、まるで居眠りしているようだ。
居眠りしているかと思うと、ふいにぱっと立って、どこかへ出てゆくことがある。やがて、帰って来て、
「逃げた。燕《つばめ》のように早いやつらじゃ」
など、重い口調でいう。
甲賀《こうが》のくノ一のことだとは、きかずともわかっている。彼女たちは、当然、この柏崎《かしわざき》にとどまって、こちらの動静をうかがっているのだ。
烏頭坂《うずざか》天八が軍記の淫学《いんがく》講義に眼をひからせるなど、彼が男性を喪失《そうしつ》してからの現象で、軍記にもうすきみがわるいが、さればとて聴《き》かせて甲斐《かい》なしという見解に変りはない。
いちど、憮然《ぶぜん》として天八がきいたことがある。
「淫学坊《いんがくぼう》、無にして行う法はないか」
「うむ。――」
と、軍記は嘆息した。
「陰萎《いんい》の療法《りようほう》はある。房内篇《ぼうないへん》第 廿《にじゆう》 六用薬石《ろくようやくせき》の章じゃ。また短小の療法もある。房内篇第廿七|玉《ぎよく》 茎《けい》 小《しよう》の章じゃ。しかし、いかになんでも、無では喃《のう》。天八、おまえは実につまらんことをしてのけた」
ときいても、天八は存外|落胆《らくたん》した顔色ではない。――
それにしても、やはり異常な体質の所有者らしく、傷口はみるみる癒着《ゆちやく》して来たが、そうなる前に、聴講《ちようこう》のあいまあいまには宿の裏口、海辺に出て、何やらやっている。カーン、カーンと石と鉄の音をひびかせている。
見ると。――
どこから拾って来たか、一本の刀を鍔《つば》もとちかくで折って、折った方を鎚《つち》で打って、これも柳《やなぎ》の葉のように尖《とが》らせようとしているのであった。左手一本の作業だから、見ていても痛々しい――といいたいが、それよりぶきみ千万な姿ではある。
「そんなものを作って何とする?」
と、きくと、
「例の男を、これで仕止める」
と、ぶっきらぼうに答えた。
それをどう使うかは知らず、たまたまそれを見ていて雪羽は戦慄《せんりつ》した。――彼女がついに自分とあの宰領《さいりよう》の男、丹波《たんば》陽馬との間柄《あいだがら》、二人が江戸で恋仲《こいなか》であったことを狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》に告白したのは、こんな柏崎《かしわざき》の湯の宿のことであった。
三
医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》を奪《うば》われては、半井《なからい》家千年の存在意義が失われるが、さればとて公儀《こうぎ》より送られた隠密《おんみつ》の頭《かしら》まで討ち果しては逆効果であろう。なんとかその男にだけ、それとなく秘書の内容を知らせて帰らせるわけにはゆくまいか。――いや、是非ともそうしてもらいたい。
という雪羽の着想は、本人からすれば絶体絶命の願いだが、伊賀組《いがぐみ》連中から見れば少なからず腑《ふ》におちかねる提案であったに相違ない。それは雪羽も認めざるを得ない。
その提案を伊賀組のめんめんが承知したのは、その実承知したように見せただけのことだ。もともと彼らは甲賀組《こうがぐみ》の一人をも生きて江戸へ帰そうとは思っていない。
ここまで伊賀組が乾《かわ》いた心情であろうとは雪羽も知らなかったが――しかし、最初から不安ではあった。恐れていた。そして西頸《にしくび》七谷の一つで狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》すらついに陽馬に手を出す企みに加担したのを見、さらにこの柏崎《かしわざき》の宿で烏頭坂《うずざか》天八の悪鬼《あつき》ともいうべき執念《しゆうねん》のつぶやぎをきくに及んで、ついに彼女はたまりかねたのである。
狩川仁右衛門は、しかし自分をかばってくれた。むろん、えたいの知れないところはあるけれど、彼だけはどこかたしかに人間の感じがある。仁右衛門ならば味方になって、自分たちのためによいようにはからってくれるに相違ない。――
雪羽は悶《もだ》えのあまり、そんな望みをかけて、ついにひそかに仁右衛門だけに打ち明けた。
「左様でござったか」
と、仁右衛門はふとい吐息《といき》をもらした。
「あの男は、あなたさまのお知り合いでござったか。……それにて、はじめから気にかかっておったこと、万事、納得がゆき申した」
いつぞや。――木ノ目軍記がふと、「敵を知っているのではないか」という疑惑《ぎわく》をもらしたことがあったが、狩川仁右衛門もやはり途中から首をかしげることがあったらしい。――
「おまえにだけいったのです。このことはほかのだれにもいわないで。――」
「はあ。……」
「仁《に》右衛門《えもん》、わたしの苦しみがわかってくれますね?」
「ふむ。……」
「わたしの必死の願い、ききとどけてくれるでしょうね、仁右衛門!」
「…………」
重い狩川《かりかわ》仁右衛門の口がいっそう重くなった。当然だ、と思うより、雪羽は愕然《がくぜん》とした。
わたしは鉄の壁《かべ》に卵をぶつけるような、とんでもないことをしたのではなかろうか? もらしてはならぬ秘密を、飛び散らしてしまったのではなかろうか?
「それは容易ならぬことでござる。そのことは、拙者《せつしや》だけの胸に秘めておきましょう。しばらく拙者に思案させて下されい」
うっそりと立ってゆく仁右衛門の銅像みたいなうしろ姿を、胸はおしつぶされ、心臓も冷たくなって、雪羽は見送った。
……夏の短い北国の宿場町の風に、ふと一脈の冷気がまじった或《あ》る朝。
「では、そろそろとまた参ろうず」
と、軍記がうながして、雪羽と仁《に》右衛門《えもん》とともに旅籠《はたご》を立ち出でた。これから南へ、小千谷《おぢや》、堀《ほり》ノ内《うち》を通り、はるばる三国山脈を上州へ越えてゆこうというのだ。
「天八は?」
と、仁右衛門が宿の外で立ちどまった。この宿にいるあいだに、彼は少し痩《や》せたようだ。
「裏で、例の妙《みよう》な柳《やなぎ》の葉っぱを仕上げるといって出てゆきおったが。けさ旅立つことは承知のはずじゃ。すぐに追うて来るじゃろう」
しかし狩川《かりかわ》仁右衛門は、旅籠の裏に廻《まわ》った。
烏頭坂《うずざか》天八はしゃがみこんで、長さ七十センチばかりの、まさに柳の葉のような刃物を地につき立てて、そのまんなかをくるくると細い縄《なわ》で巻いているところであった。
「そこを掴《つか》んで使うつもりか」
と、仁右衛門はきいた。
「ふむ」
といったきり、天八は例の無愛想な表情のままである。仁右衛門もそれ以上きかず、ただいった。
「あの宰領《さいりよう》を討ち果すのはわしにゆずれ」
「そうはゆかぬ」
むっとして天八は顔をふりあげたが、傍《かたわら》にうっそりと立って空を見ている狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》の、何やら決意した表情の凄《すさ》まじさ――一見いつもの自若《じじやく》たる顔貌《かおかたち》と変らないが、その全身が初秋の朝風に、霜《しも》のような殺気にふちどられているのを、天八だけが感覚して思わず息をのんだ。
何が仁右衛門の胸に起ったのか。――彼は天八にともなく、つぶやいた。
「……いろいろ考えたが、きゃつは、わしが殺す」
大地に重い槌《つち》を落したような口調であった。雪羽の願いは完全に断たれた。
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十字止め心形《しんぎよう》 刀《とう》 流《りゆう》
一
「きゃつは、わしが殺す」
狩川仁右衛門が木ノ目軍記にそう宣言したのは、柏崎《かしわざき》から東へ――海から離れて、小千谷《おぢや》へ向う街道の途中であった。
「きゃつ?」
「あちらの宰領《さいりよう》じゃ。丹波《たんば》陽馬といい、旗本の次男坊で、心形《しんぎよう》刀流|伊庭軍兵衛《いばぐんべえ》の愛弟子《まなでし》じゃという。――」
「や?」
木ノ目軍記は眼をまるくした。
「どこからそれを探り出した?」
仁《に》右衛門《えもん》はそれには答えず、ひとりごとのようにいった。
「杏兵衛《きようべえ》らが仕止められたのもゆえなきにあらず。……伊庭の高弟ときいては、一日も早う手合せしたい。――」
どこから仁右衛門がそんな情報を耳に入れたかわからない。のっそりしているようで、いつのまにか甲賀《こうが》のくノ一の会話でもきいたのであろうか。それはともかく、そうときいては、いかにも二刀流に独特の奥義《おうぎ》を極めた仁右衛門が武者ぶるいするのもむりはない。
「ただ。――」
と、軍記はくびをかしげた。
「雪羽《ゆきは》さまとの妙《みよう》な約束があるが。――」
「雪羽さまにはおれが了承を求める」
仁右衛門は断乎《だんこ》としていった。
「きゃつ、捨ておけば、こちらがみな殺しになりかねぬといえば、それでも、とは申されるまい」
「いかにも。――きゃつをいままで生かしておいたのが、われらながら奇妙《きみよう》じゃ」
と、軍記はいった。むろん、仁《に》右衛門《えもん》の発意に異論のあろうはずがない。処理のあとさきが変更になっただけのことだ。どうやら雪羽は仁右衛門を最も頼みにしているらしいから、彼自身がそう説得してくれるなら、それに越したことはない。
「しかし、くノ一とは房内篇《ぼうないへん》を行なってくれるな」
「うむ」
と、これにも重々しくうなずいた。
「行う」
「で、きゃつを始末するのはどこで?」
仁右衛門は返事せず、ひとりさきに足を早めた。すこし先を歩いていた雪羽が、立ちどまって、不安そうに天蓋《てんがい》をかたむけてこちらをふり返っていたからだ。
烏頭坂天八《うずざかてんぱち》だけはずっと先をいっているはずだが、この三人は前後して歩いている。丹波《たんば》陽馬と三人の甲賀《こうが》のくノ一はうしろから追って来ているはずだ。
柏崎《かしわざき》から東の山間に入ってゆく街道、途中の追分《おいわけ》で北すれば長岡《ながおか》だが、そのまま東へ歩いて小千谷《おぢや》に向う。ちょうど七里、一日の行程である。沿道にもう曼珠沙華《まんじゆしやげ》の赤い花が点々と美しかった。
小千谷で北流して来た信濃川《しなのがわ》と出合う。
狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》が丹波《たんば》陽馬と対決したのは、それから数日後、その信濃川に沿って南行する途中の河原であった。
冬、河原の雪の上で布を晒《さら》す小千谷ちぢみは名高いが、その上流のいわゆる三国街道沿いに、土地の人間が「六道《ろくどう》河原《かわら》」と呼んでいる場所がある。
磊々《らいらい》たる石ばかりの河原とはいえ、特別にこのあたり――河に面して段丘が多い――の風物と異なるとも思えず、この名はその昔ここに死びとでも埋葬《まいそう》し、河原の石を重ねて塔婆《とうば》に擬《ぎ》しでもしたことがあって、それから名づけられたものであろうが、しかし「六道河原」ときけば、初秋の日の下に、石はそれこそ晒されたように白く、空《むな》しいばかりに明るいのに、なぜかこの世ではないような凄惨《せいさん》の気が満ちているように見えるからふしぎだ。
そこに来かかったとき、狩川仁右衛門は、
「雪羽さま、ちょっとお話がござる」
といって、雪羽を河原へいざなったのである。
雪羽は不安げに仁右衛門を見たが、しかし黙《だま》ってついて来た。
不安はこの誘《さそ》いではじめて起ったのではない。それ以前から、特に柏崎《かしわざき》でうかと例のことを告白してからいっそう仁《に》右衛門《えもん》に対して怯《おび》えを感じている。仁右衛門はあのことを軍記や天八には洩《も》らしていないようすだが、彼自身の悶々《もんもん》たる思案ぶりは雪羽の恐怖心《きようふしん》をかきたて、「ああ、あのことを打ち明けるのではなかった!」と、その柔《やわ》らかな胸を悔恨《かいこん》でかきむしりつづけていたのであった。
「まず、お坐《すわ》りなされ」
仁右衛門は二つならんだまるい石に、雪羽を腰《こし》かけさせた。
天八はいなかったが、軍記はいた。その雲水《うんすい》姿が、妖々《ようよう》とついて来て、しかしこれは遠い河ぶちの石の上に坐った。われ関せず、といった風に向うむきだが、それがかえってぶきみ千万である。
「なんですか、話とは?」
仁右衛門も石に腰うちかけて、しずかにいう。
「丹波《たんば》陽馬……どのの一件でござるがな」
覚悟《かくご》はしていたが、はっとして雪羽は向うの軍記の方を見た。
「いや、軍記にはきかせておらぬ。事情打ち明けずして、ただあそこに坐ってもらっただけでござる。……で、その一件、天八の凶手《きようしゆ》から丹波《たんば》どのをかばってくれとの御依頼《ごいらい》、その後よくよく思案してみましたが、……やはり、御意向に添《そ》うわけには参らぬ」
半眼のままでいった。
「あなたさまから頼まれた以上、それゆえに、いっそう仲間を裏切るわけには参りませぬ。それは伊賀組《いがぐみ》のみならず、人間の道に叛《そむ》くことに相成る」
雪羽はうなだれた。
「しかし、天八には委《まか》せぬ。拙者《せつしや》が丹波どのの相手をつかまつる」
「え。――」
「やがて、丹波どのがここへ来かかるはず。いままでに拙者がつかんだところでは、あの鳥追い姿のくノ一と同行して」
「お、おまえが。――」
「堂々と立ち合って、若《も》し拙者が敗れたなら、丹波どのは天八を相手にしようと大丈夫《だいじようぶ》。若し拙者が勝ったなら、丹波どのはしょせんこのたびの大役を果すだけの力量がなかったと、あきらめていただきたい」
整然たる理路であり、磐石《ばんじやく》のごとき自信である。――蒼《あお》ざめて見返していた雪羽は、ふいにきいた。
「おまえ、何のために軍記をあれに控《ひか》えさせた」
「御心配御無用。勝負がつくまで、あれに手出しはいたさせませぬ。のみならず――敵のくノ一、いままでのあれこれより推量して、これも決して馬鹿《ばか》にはできぬわざを心得ておるものと見まするが、そのくノ一が丹波どのに助勢するのは、これは勝手。――」
それから、ふだんあまり笑わないこの人物が、なぜかにたっと薄《うす》く笑った。
「しかし、それでもなおかつ拙者《せつしや》の方が有利でござろう」
自負する調子でもなくいう。――
「で、もう一つ、拙者の方に不利な条件をつける。それは。――」
「…………」
「それは、雪羽さまに御覧になっていただこう。そのあげく、なおかつ拙者が勝ったなら」
「…………」
「あなたを拙者にいただく」
仁《に》右衛門《えもん》のいった言葉の意味が、とっさに雪羽に判断出来なかった。が、いつのまにか眼をあけて、しかもその眼がじいっと燐光《りんこう》をはなって自分に注がれているのを知ると、彼女の背に、恐怖《きようふ》の波が走った。
……いったい、この男の分厚い胸に何が起ったのか?
問う言葉も失って、ただ唇《くちびる》をわななかせている雪羽の前で、ふいに狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》の銅のような頬《ほお》がぼうと赤く染まった。そして彼はうろたえたように立ちあがった。
「来たようでござる」
雪羽はふりむいて、河原に沿う街道をこちらにやって来る深編笠《ふかあみがさ》の武士と鳥追《とりお》い女の姿を見た。
鳥追いは武士に何やらしゃべりつつ、まつわりつかんばかりにして歩いて来る。
二
柏崎《かしわざき》の夏は、丹波《たんば》陽馬にとっても悩《なや》みの夏であった。
正確にいえば、柏崎の手前、鯨波《くじらなみ》という部落の漁家に宿って、雪羽一行の動静をうかがっていたのだが、手が出せそうで、手が出せない。三人の伊賀組《いがぐみ》のうち、絶えず一人が旅籠《はたご》の外を哨戒《しようかい》しているし、いつも一人が雪羽の傍《かたわら》にくっついているし――なかんずく、陽馬から見ていちばん恐るべき敵と見えたのは、武家姿の、たしか狩川仁右衛門という男であった。忍者《にんじや》ということだが、たんなる刀術専門の眼から見ても、「――出来る!」と、圧倒《あつとう》されるような感じがあるのだ。
彼らをあえて怖《おそ》れるわけではないが、雪羽の存在がまことにこまる。――ここに至って陽馬にはなお、雪羽が何を考えているのか、これから先どうしようと思っているのか、よくわからない。
結果からいえば無為《むい》に過ぎたわけだが、陽馬にしてみれば、その間、無為どころではない。――三人の甲賀《こうが》女が日夜身辺にまつわりつく機会が濃化《のうか》したからだ。
とくに、お扇《せん》を持てあます。もともと、いちばん官能的な女であったが、越後《えちご》に入ったころから、何に触発《しよくはつ》されたか火がついたようになって、それまでからくも彼女を縛《しば》っていた自制の縄《なわ》が燃え切れたようだ。陽馬は彼女から身を護るのにへとへとになって、ときには殺気の衝動《しようどう》をすらおぼえたほどである。それを行動に現わさなかったのは、彼女の「甲賀の髪縄《かみなわ》」の玄妙《げんみよう》を知って、それに感じ入っていたからだ。
彼を護ってくれたのは、お筆とお篠《しの》の監視の眼だけであったが、この両人がまたふつうの女ではない。お筆は甲賀の忍者《にんじや》 魂《だましい》の化身《けしん》で、お篠はわざ[#「わざ」に傍点]というものに対する研究心の権化《ごんげ》だ。
双方ともにべつべつの意味で、彼を悩《なや》ますことおびただしいものがあったが、何といってもその最たるものはお扇《せん》だ。この女が部屋に入って来ると、空気まで熟《う》れ切った果物の液汁《えきじゆう》みたいな匂《にお》いと湿度に充満して来るような気がする。じっと同じところにとどまっていると、いつのまにかべったりと粘《ねば》りつかれてしまいそうな恐怖《きようふ》をすら抱《いだ》かせた。
……秋風|一陣《いちじん》、ついに敵は動き出した!
陽馬は変な酔《よ》いからふいに覚醒《かくせい》したようにわれに返り、躍然《やくぜん》として追跡にかかった。
各人、ばらばらに追うという約束であったのに、小千谷《おぢや》を過ぎたころから、またもお扇が彼にまつわりつき出した。
彼女は、房内篇《ぼうないへん》などいつでも取ってやるという。いつぞや山伏《やまぶし》の伊賀者《いがもの》を裏切らせかけたが、こんどはあのおんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]姿の伊賀者をそそのかして、必ずまた裏切らせて見せるという。なぜか彼女はそれにひどく自信を持っているようだ。ただし。――
それには条件がある。陽馬が自分を抱《だ》いてくれることだ。……いままで陽馬が書きとどめた彼の房内帖《ぼうないちよう》の条々を、すべて自分に実行してくれることだ。
「ただ書いて、何になされまするえ? ホ、ホ、ホウ」
と、お扇《せん》は路傍《ろぼう》でちぎった曼珠沙華《まんじゆしやげ》の赤い花をかみながら笑う。曼珠沙華の花は毒だというが、一向気にするようすもない。
「書くだけで、何もしない。――笑い本を書くじいさまじゃあるまいし。ホ、ホ、ホウ」
それから、もっと露骨《ろこつ》な挑発《ちようはつ》の言葉を吐《は》く。
さらに、とんでもない脅迫《きようはく》をすらする。
「わたしはねえ、陽馬さま、そのうちあなたを髪縄《かみなわ》で縛《しば》って動けなくして、思いのままにしてあげようとさえ考えています。まじめな話ですよ。――そう、三国峠にかかるまでにはきっと!」
丹波《たんば》陽馬が白い河原に三人の人影を見たのはちょうどそのときであった。
……雪羽がいる! それから狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》、木ノ目軍記という男が。――
彼は、はたと足をとどめた。
向うは、こちらより先に気がついていたらしい。狩川仁右衛門は立ちあがって、こちらを見ていた。
そして彼は、――片手をあげてさし招いたのだ。それから、仁右衛門は――どういうつもりか、袴《はかま》をとり、着物をぬぎ、なんと下帯一つだけになった。
ゆっくりとまた大小をとりあげて、その下帯にさす。そしてまた、おいでおいでをした。錆《さび》のある低い声なのに、また相当の距離《きより》があるのに、ふしぎに耳もとまでよく聞える声がした。
「ござれ。立ち合おう」
三
いったん、つかつかと歩き出しかけて、陽馬が立ちどまったのは、狩川仁右衛門が裸《はだか》になるという突拍子《とつぴようし》もない行為《こうい》のためであったが、
「わたしがゆきます」
と、お扇《せん》がいうのに、陽馬はおのれをとり戻《もど》した。
「ばかな!」
肩《かた》をふり、決然とふたたび足を踏《ふ》み出した。
「ついて来るでないぞ」
陽馬は河原へ下りていった。相手が以前から最も警戒すべき「剣客」と見ていただけに、さすがに髪《かみ》の毛の根までしまる思いだが、磊々《らいらい》たる石の上を踏んでゆく足は、燕《つばめ》のように軽快だ。
「よう、わせられた」
と、仁右衛門は白い歯を見せた。
「おぬしと、いちど剣を交えたいと愉《たの》しみにしておったが、やっとそのときが来たようでござる」
言葉づかいはていねいですらある。
「このことについては、雪羽さまの御了承を得たが。――立ち合うについて、ちょっと条件を申しあげる。そちらではない、こちらのことでござるが、当方、あれに仲間が一人|控《ひか》えてはおるが、手出しは一切させぬ。二人だけで、堂々と立ち合いたい」
「いうにや及ぶ――が、それが条件か」
「つまり、こちらの条件で、そちらはあそこのくノ一の助勢を頼まれようと御自由じゃ」
「何を、たわけたことを」
「いや、それがそうでない。――もう一つ、拙者《せつしや》の方に不利な条件をつける。でないと、この勝負、不公平になるでな」
といって、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は下帯に手をかけて横におしのけると、なんとおのれのものを――「小仁右衛門」をぎょろりと出した。
自分の方にハンディキャップをつけて、はじめて勝負になる――という意味にきいて、さっと気色ばんだ陽馬も、これには眼をまるくした。
「――な、なんだ、それは?」
「そのわけは、勝負がはじまってから、事実を以て語らせる所存」
狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は悠揚《ゆうよう》としていった。先刻雪羽にいったのと同じ、何やらぶった[#「ぶった」に傍点]せりふだ。それにしても「小仁右衛門」といったが、実に驚くべき体積と力感である。
いよいよ以て奇怪《きかい》な仁右衛門のふるまいだが、それはそれとして、こんなことまで雪羽は「了承」したのか? そもそも雪羽が了承したとは、彼女が何もかも告白しているということか?
ちらと雪羽を見たが、雪羽の天蓋《てんがい》姿は石の上に、それ自身石と化したかのごとく動かない。かえって、遠くからこちらを見ている雲水《うんすい》の表情の方に、どうやら不審《ふしん》とも驚《おどろ》きとも見える戸惑《とまど》いが現われたようだ。
「いざっ」
仁右衛門は、凄絶《せいぜつ》きわまる声とともに、下帯にたばさんだ刀の柄《つか》に手をかけた。――交叉《こうさ》させた両|腕《うで》がぱっと動くと、彼はいちどに両刀を抜《ぬ》きはらった。
――二刀流か!
さすがにはっとして見まもる陽馬の眼前で、蒼空《そうくう》にあげられた仁右衛門の大小の刀身が、きらっ、きらっ、と銀鱗《ぎんりん》のごとくひらめいた。
――と、同時に、そこを飛んでいた二匹の赤|蜻蛉《とんぼ》が、それぞれスーィときれいに二つに切れて落ちたのである。
「……丹波《たんば》さまっ」
うしろで、声がかかった。ついてくるでないぞといわれたものの、河原まで下りていたお扇《せん》が、はたはたと駆《か》けて来たのだ。
「来るなっ」
陽馬は絶叫《ぜつきよう》して、深編笠《ふかあみがさ》をはねのけた。
「いかにも望む相手だ! 手を出すなっ」
白い日光に、これまた一刀がほとばしり出た。
このとき狩川仁右衛門は、頭上に大小を十字に組み合せた奇怪《きかい》な構えで立っている。奇怪というより、下帯一本の裸体《らたい》、しかも男根はまる出しという、本来なら滑稽《こつけい》といっていい姿のはずだが、ふしぎにその感はなかった。可笑《おか》しいどころか、恐怖《きようふ》そのものの具象で、人間というより、肉体も二刀も青銅作りのもののように見えた。それっきり、お扇が動かなくなってしまったのも、その迫力《はくりよく》に圧倒《あつとう》されたからであろう。
人ばかりではない。陽馬の耳には、向うの信濃川《しなのがわ》の川音も凍結したように感じられた。空飛ぶ赤|蜻蛉《とんぼ》のむれも、突然《とつぜん》空中に静止したように見えた。
交叉《こうさ》した仁右衛門の二刀だけが、そのままのかたちで、徐々に、徐々に下りて来た。そのかたちがどう動くか。――もとより知らず、未発にしてその恐るべき剣気を陽馬なればこそ読んだ。
ふいに、仁右衛門のからだがぐうっとせり上って来たように見えた。
そんなはずはない。ただ交叉《こうさ》した二刀が、胸の前まで下降して来ただけだ。――が、相手のからだが空へせり上ったと見えたとたん、
「えやあ――っ」
本能的な危機をおぼえ、猛然《もうぜん》として陽馬は斬《き》り込んでいた。
伊庭の荒道場《あらどうじよう》で麒麟児《きりんじ》とうたわれた丹波《たんば》陽馬の鉄石をも打ち砕《くだ》く一刀、それは狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》の十文字の剣にがっきと受けとめられた。
その向うで、仁右衛門がまたにたっと笑った。
「ここが六道《ろくどう》河原《かわら》と呼ばれておることを御存じか?」
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河に猿啼《さるな》き馬|揺《ゆ》らぐ
一
実にふしぎな感覚であった。
鋼《はがね》と鋼の相搏《あいう》つひびきではない。まるで柔《やわ》らかい鉛《なまり》にでも截《き》りこんだような手応《てごた》えであった。――おそらくそれは、陽馬の一刀と同じ速度で仁《に》右衛門《えもん》の十文字剣が一瞬《いつしゆん》沈下し、そして受け止めたせいではなかろうか。
次の刹那《せつな》、それを押し割るがごとく陽馬の刀身は相手に向ってのびている。が、相手の十文字剣はそれ以上一ミリも下がらず、陽馬の一刀が進んだだけ、彼の両|肘《ひじ》はあがっている。
「無鉄砲《むてつぽう》な御仁《ごじん》だ。――腋《わき》ががらあきでござるぞ」
仁右衛門がいった。
ぱっと陽馬は三歩ばかり飛びずさった。同時に同じ距離《きより》だけ、仁右衛門も前へ飛んだ。依然《いぜん》、三本の剣はジワンと離れない。
「いま、斬《き》ろうと思えば胴斬りに出来た。わかりますな?」
仁《に》右衛門《えもん》はにたっと笑う。
その嘲弄《ちようろう》の意味を、いかにも陽馬は知った。二刀の十文字で受けたと見えて、その主力は仁右衛門の右剣にある。左剣は自由だ。それが自在にこちらの胴を薙《な》いでくるおそれは充分ある。――事実、それが出来たと仁右衛門はいったのだ。
進むもならぬ、退《ひ》くもならぬ。敵のわざのゆえのみならず、刀そのものが粘《ねば》りついたような手応《てごた》えで、陽馬のひたいにふつふつとあぶら汗がにじみ出し、たらたらと流れはじめた。
白い風の中に、三条の刃《やいば》は交叉《こうさ》したきり、ピクリとも動かない。
「ふむ、これで伊庭軍兵衛《いばぐんべえ》の高弟とや?」
何といわれても、陽馬は声も出ない。これは師の軍兵衛よりもはるかに大敵だ! 相手の方が受け止めたかたちなのに、彼の方が磐石《ばんじやく》に押しひしがれたようであった。
「ま、待って下され、雪羽さま。撃《う》てばこの御仁《ごじん》、一生浮ばれまい」
と、ふいに眼を横に走らせて、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》がいった。
陽馬には見る余裕《よゆう》もなかったが、それまで気死したように石の上に腰《こし》を下ろしていた雪羽が、ふらふらと立ちあがり、コルトの拳銃《けんじゆう》をとり出したのであった。――彼女はだれを撃《う》とうとしたのか。
「またお約束の――この御仁《ごじん》にも御同様に約束したが――例の拙者《せつしや》に不利な条件をまだ課してはおらぬ。向うの助勢じゃが――おう、くノ一、かかってよいぞ」
これまた陽馬にはかえりみるいとまはなかったが、このときお扇《せん》は数メートルの距離《きより》まで近づいて、例の髪縄《かみなわ》をとり出していたのであった。それには眼もくれず。――
「来るなっ」
と、陽馬は声をしぼった。
「手出し無用!」
「いや、手を出してもよいがな、くノ一。――それよりも、もしその気があれば、ほかのものを出してくれい」
そして狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は、実に驚《おどろ》くべく、呆《あき》れ果てたることをいったのだ。
「どうじゃ、甲賀《こうが》のくノ一、わしと交わらぬか? この場でじゃ。わしはこのかたちのままでじゃ」
「た、たわけ。――」
うめいたのは陽馬だ。
「たわけと思うなら、わしを斬《き》って見なされや。――どうじゃ、くノ一、真剣勝負の中で、一つやってみる気はないか?」
立ちすくんでいたお扇《せん》の頬《ほお》が、このときぼうと赤く燃えた。
彼女の眼は、仁《に》右衛門《えもん》の下帯からはみ出したものにそそがれていた。いや、いまはじめてそそがれたわけではない。最初から、それに眼を吸われている。それが――いま、なんたる男か、この決闘《けつとう》のさなかに於《おい》て、徐々に、堂々と屹立《きつりつ》しはじめたのだ。
「どうじゃ?」
お扇はこくっと唾《つば》をのみ、唇《くちびる》をなめた。
炎がお扇の脳髄《のうずい》をくらくらと煮えくり返している。その脳で、彼女は考えていた。見かけによらず、へんに堅い陽馬さま、とうとう自分にとり合ってくれなかったにくい丹波《たんば》さま、その眼の前でこの男に身をまかせて、思い知らせてやろうかしら? それにまたこの男は、まあ、あんな構えのまま、わたしと交わろうという。よし、髪縄《かみなわ》を使うまでもない。このわたしのあの力でこの男をとろとろにして、あの二刀を萎《な》えさせてやろうかしら?
いずれにしても途方もない理由で、お扇《せん》以外には通用しそうもない。ほんとうのところは、彼女の好色《こうしよく》の本質と、越後《えちご》に入って以来燃えつづけている肉の炎のいたずらであったろう。
「ほんとうかえ?」
と、彼女は嗄《か》れた声でいった。
「ほんとうに、そんなことをやりながら、斬《き》り合いが出来るかえ?」
「や、承知してくれたか、さすがは甲賀《こうが》くノ一。――」
仁《に》右衛門《えもん》は大きくうなずいて、
「おうい、淫学坊《いんがくぼう》。――」
と、呼んだ。
呼ばれるよりさきに、先刻からの奇想天外《きそうてんがい》ななりゆきに、木ノ目軍記は石から腰《こし》をあげて、衣《ころも》の裾《すそ》をひるがえしながらふらふらと近づいて来た。狩川《かりかわ》と雪羽との問答は小声でよく聞えなかったが、丹波《たんば》陽馬が現われてからのことは理解した。耳に聞えずとも、そのようすを見ていただけで、だいたいの察しはつく。
察しはついたが、さすがの軍記も仰天《ぎようてん》していた。ただ仁右衛門の思いつきが奇想天外だというだけでなく、思いついたのが仁《に》右衛門《えもん》だということが彼を仰天《ぎようてん》させたのだ。あの忍者《にんじや》中の君子《くんし》、狩川《かりかわ》仁右衛門が?
「この御仁《ごじん》とな、こう刃を交えたまま。――」
と、仁右衛門は自若《じじやく》としていった。
「交わりたい。房内篇《ぼうないへん》にそんなかたちがあるか?」
「――ない、そ、そんなばかな。――」
といったが、木ノ目軍記は地だんだ踏《ふ》んだ。
離れて交わりたいといった俎《まないた》 墨之介《すみのすけ》、性器を失ってそれを試みたいという烏頭坂《うずざか》天八、どうも無理な注文をするやつばかりで舌打ちしたが、この――敵と刃を交えたまま、女と交わりたいという狩川仁右衛門の着想は、たしかに彼の淫学《いんがく》への向学心をそそるものがある。――
「なんでもいい、ともかくも言ってみろ」
「左様か。たっての望みゆえ、では。――」
二
「例えば、三十法の第 廿《にじゆう》 七《しち》に、吟猿抱樹《ぎんえんほうじゆ》というやつがある。猿《さる》が啼《な》きさけびながら樹《き》に抱《だ》きついておるかたち。すなわち――男、箕坐《きざ》し、女、男の上に乗り……いや、あぐらをかいてはいかんか。仁《に》右衛門《えもん》、そういうわけにはゆかんじゃろうな」
「うむ。ともかくもつづけて見ろ」
「女、両手を以て男を抱《いだ》く。男、一手を以て女の腰《こし》を支《ささ》う。……」
「ううむ。……」
二刀を以て相手の刀を受け止めている人間に、あぐらをかき、片手で抱《だ》けという。さすがの狩川《かりかわ》仁右衛門も、この難題には閉口したようだ。
「くノ一、何とか工夫はないか?」
「おまえが立ったまま、わたしが両手で抱《だ》きついて、おまえに片手で支えられたように、わたしが両足巻きつければよかろう」
と、お扇《せん》はいって、三味線《さみせん》をおき、鳥追《とりお》い笠《がさ》をとり、帯をとき、きものをぬぎはじめた。
「ば、ばかっ、お扇、何をいたすっ」
陽馬の顔は朱色に染まった。
が――お扇は文字通り一糸まとわぬ姿となり、石だらけの河原にすっくと立った。やや肥《ふと》り肉《じし》の肉体は、白光を照り返した。そして彼女はたゆたゆと歩み寄った。
陽馬は歯ぎしりした。
「お扇《せん》! わしに恥《はじ》かかすか!」
「髪縄《かみなわ》でお手助けするより、あなたの恥にはなりますまい。――」
彼女は狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》の傍《かたわら》に立った。ちらと流し眼に見て、「……ほ」というように仁右衛門の眼が大きくなった。あまりのあけっぱなしの撩乱美《りようらんび》に、さしもの彼の心琴《しんきん》も動揺《どうよう》するものがあったらしい。
両|肘《ひじ》を張り、二剣を交叉《こうさ》させている仁右衛門の腕《うで》の中、そこへちょいと頭を下げてくぐると、お扇はぴったり、胸と胸、腹と腹をつけて立った。――と見るや、両腕あげて男の頸《くび》にからめ、両足をあげて巻きついた。
一息、二息。――
いままで息もはずませなかった仁右衛門の胸が大きくあえいだ。あえいだ胸は、女の乳房《ちぶさ》とのあいだに真空をつくり、そして密着した。
「おう、まさに吟猿抱樹《ぎんえんほうじゆ》!」
墨染《すみぞ》めの衣《ころも》の腰《こし》に手をあて、ややそり返って木ノ目軍記は嘆賞した。
「横にした医心方《いしんぽう》を縦にしたようじゃ。いや、房内篇《ぼうないへん》とはちがうが、吟猿抱樹という名には、この方こそふさわしい。……さるにても、美しい猿《さる》!」
しゃれたつもりではなかったろう。いったい甲賀《こうが》のくノ一は、どういう心理で仁《に》右衛門《えもん》の誘《さそ》いにのったのか、その直前までいささか猜疑《さいぎ》の念を抱《いだ》いていた彼も、そんな疑心を吹き飛ばして、ひたすらこの構図に魂《たましい》を奪《うば》われた風である。
しかし、公平に見れば、くノ一よりもこの狩川《かりかわ》仁右衛門の方が驚《おどろ》くべき男ではある。
まさに、樹《き》だ。その樹は前後にゆらりゆらりと振動《しんどう》している。にもかかわらず。――
女ひとりをからだの前面にぶら下げて、前へのばした十字剣は毛ほども動かないのであった。
それにしても、丹波《たんば》陽馬は何をしている?
いまお扇《せん》をばかと罵《ののし》ったが、彼の方がばかげているとも何ともいいようがない。――いままで、伊賀者《いがもの》とくノ一の交合を傍観《ぼうかん》しなければならぬことはいくどかあって、そのたびに自分の立場をばかげていると痛感したものであった。それがいま、これは傍観どころではない。
にもかかわらず、おのれをばかげていると感ずる余裕《よゆう》もない。打ち込んだ一刀は挙《あ》がりもならず下がりもならず、これまた仁右衛門の剣に膠着《こうちやく》したっきりで、それどころか息一つ自由に吐《は》くことも吸うこともできないのだ。刀を挙げれば胴を斬《き》られるとか、そんな恐怖《きようふ》は超えて、とにかく全身|金縛《かなしば》りになったようなのだ。ただ陽馬の心を圧しているのは、世にも恐るべき剣客が存在する、という思いだけであった。
「ううふっ」
ふたたび仁《に》右衛門《えもん》が大息をもらした。
あえぎながらいう。――
「軍記、もう一番。――」
「では、これも無理かも知れぬが、三十法の第 廿《にじゆう》、馬揺蹄《ばようてい》。……」
軍記は眼をとじていった。
「女をして仰《あお》むけに臥《ふ》せしめ、男、一脚をとりて肩《かた》上に置き、一脚はおのずから挙げ。……」
お扇が腰《こし》を大きくひくと、仁右衛門の胴に巻いていた右足をはずし、スルスルと仁右衛門の左肩にのせた。依然《いぜん》、両|腕《うで》は仁右衛門の頸《くび》にからんだままである。
このため、彼女の首と、両腕と、右足首はほとんど同一の高さに並《なら》ぶことになった。
本来ならこれは平面上のかたちだが、立位のためにこうなった。いや、平面上といえども、なみの女には不可能だ。房内篇《ぼうないへん》三十法のうちの馬揺蹄、まず屈曲位というべきであろうが、これは屈曲の程度を超えている。このアクロバットは、彼女が甲賀《こうが》のくノ一なればこそであったろう。
金剛力士《こんごうりきし》のような狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》の肉体の前面に、白い奇怪《きかい》な爬虫《はちゆう》にも似たお扇《せん》は、そのままの姿勢で、ぺたっと貼《は》りついていた。
お扇は燃えていた。肉欲もあったが、さすがにそればかりではない。甲賀のくノ一としての義務感はある。いや、それよりも彼女自身の誇《ほこ》りというものがある。
それはおのれの肉の力でこの敵をぐにゃぐにゃにし、とろとろにするということであった。
――これでもか! これでもか!
彼女のあらゆる筋肉はしめつけ、しごきぬく。彼女は全機能をあげた。――にもかかわらず。――
三たび、嘆声をあげたものの、この敵はなお大木のごとく立っている。――かえって、お扇の方がわれを忘れた。腰《こし》を離し、手は虚空《こくう》をつかみ、あやうくずり落ちそうになった。
ただ木ノ目軍記だけが、仁右衛門のややあからんだ顔と酔《よ》ったような眼を見た。
――君子、けっこう愉《たの》しんでおるわ。
三
そもそも、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》はどうしてまたこんな奇抜《きばつ》な決闘《けつとう》を思いついたのか。
根本の動機は、彼が雪羽に惚《ほ》れたことだ。重々しいこの忍者《にんじや》がはじめて知った恋《こい》であった。彼が烏頭坂《うずざか》天八の危険なる男根を切ったのは、実はこの心情から発した行為《こうい》にほかならない。
その仁右衛門に雪羽は恋人丹波《こいびとたんば》陽馬の話を打ち明けたのだ。彼の厚い胸廓《きようかく》の中で修羅《しゆら》の波がひしめき、そして彼は恐るべき嫉妬《しつと》の鬼に堕《お》ちた。彼は決定した。
――丹波陽馬を斬《き》る。
ただ斬ればよいものを、それなのに仁右衛門がその手段にかかる奇抜な曲芸を織り込んだ心理はなかなか複雑だが、その最大なものは、雪羽に対する贖罪《しよくざい》の念と、おのれの堕天《だてん》に対する刑罰《けいばつ》の心であったろう。
すなわち、雪羽の信頼にそむき雪羽の恋人を斬るために、これほどのハンディキャップを自分に課するのだから、雪羽も天もゆるしてくれと。
また一方では、雪羽の眼前で自分の破戒ぶりを見せつけて、以後の雪羽に対する行動への踏切台《ふみきりだい》とする下心もあった。さらにまた木ノ目軍記との例の約定を果す律義な意図もあったのはむろんである。
……さて、六道《ろくどう》河原《かわら》の宙天にがっきと組み合ったままの三条の刃。
その下でこんな曲芸をやっている狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》、これに対してまるで無芸にひとしい丹波《たんば》陽馬、一見あまりにも破天荒《はてんこう》、また一方はあまりにも手ぬるいことをしているようだが、蒼空《そうくう》に嵌《は》めこまれたように微動《びどう》だもしないこの三本の刀身を見ては、そこに必死のたたかいが交わされていることをだれしも認めざるを得ない。
事実、雪羽も木ノ目軍記も、内部にひしめく思いは知らず、見ていて、しかも身動きも出来ない呪縛《じゆばく》の力が、この奇怪《きかい》な群像から発していた。
しかし、この群像も事実は燃焼し、事実は刻々内部がうつろになりつつあった。お扇《せん》、陽馬はいわずもがな、狩川仁右衛門さえも。
――君子、けっこう愉《たの》しんでおるわ。
と、この場合、木ノ目軍記がちらと見た通り、彼は甲賀《こうが》くノ一のあまりにもはげしく、あまりにも絶妙《ぜつみよう》な肉の蠱術《こじゆつ》に、快美きわまり、ほとんど忘我の境におちていたのだ。
「やあ!」
はじめて、木ノ目軍記が驚《おどろ》きの声をあげた。
「天八!」
烏頭坂《うずざか》天八が、仁《に》右衛門《えもん》とお扇《せん》のからみ合った立像のすぐうしろに立っていた。
ずっと先にいっているはずの天八が、どうしてここへ引返して来たのか、いつそこへやって来たのか、この異常な決闘《けつとう》に魂《たましい》を奪《うば》われて、考えるにいとまなく、気づく余裕《よゆう》もなかった。
だれより大きな衝動《しようどう》を見せたのは、狩川《かりかわ》仁右衛門であった。
交叉《こうさ》した二刀が解けた。女をぶら下げたまま、くるっと彼はふりむいた。ふり飛ばされたようにお扇のからだが横へ飛んだ。さっきぬぎ捨てた衣服の上に。
ふしぎであったのは丹波《たんば》陽馬だ。
強敵が刃を解き、背中さえ見せたのに、まるでつっかい棒でもはずされたように前につんのめろうとし、さすがに踏《ふ》みとどまって刀身をあげようとしたが、逆にタタタタとのけぞっていって、河原の石に足をとられ、どうと横たおしになった。雪羽のすぐ前に。
呪縛《じゆばく》から解かれたように雪羽はまたコルトを仁《に》右衛門《えもん》と天八の方角へ向けようとしていたが、この陽馬を見るや、われを忘れてすがりついた。
「…………!」
抱《だ》きあげて雪羽は、陽馬が気力を燃焼しつくして、ほとんど死相にちかいことを知った。
それをかえりみもせず、狩川《かりかわ》仁右衛門と烏頭坂《うずざか》天八はじっと相対して立っている。
「……ど、どうしたのじゃ、天八。――」
軍記が恐怖《きようふ》のさけびをあげた。
味方同士の仁右衛門と天八は、仇敵《きゆうてき》のごとき眼でにらみ合っていた。
「見たぞ、仁右衛門、――」
陰々と、天八がいった。
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二河白道《にがびやくどう》
一
「おおさ、かねて約定《やくじよう》の通り、この宰領《さいりよう》をいま斬《き》ろうとしておる」
と、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》はいった。
「天八、じゃまするな」
だれがきいても、烏頭坂《うずざか》天八が丹波《たんば》陽馬を救いに駆《か》けつけて来たものとは思わない。彼もまた陽馬を斬《き》るという功を争ってそこに出現したものと思う。――お扇《せん》もそう判断した。
そういった仁右衛門は、むろんお扇や陽馬に裸《はだか》の背を向けている。
自分のきものの上に落ちたお扇が、スウと身を起した。全裸《ぜんら》の姿ではあったが、右こぶしが握《にぎ》られている。彼女は、天八からは見えない角度から、仁右衛門の背後にヒタヒタと寄って来た。
新たな敵が行動を起す前に、ともかくも背を見せたこの強敵の始末を――と考えたらしい。何の武器を持っているとも見えなかったが、忍《しの》び寄るお扇の裸身《らしん》には、たったいまこの相手とからみ合っていた女とは思えない白い女豹《めひよう》のような殺気があった。
その距離《きより》三メートル。
と、狩川仁右衛門がその方へうしろざまに飛んだ。石の上を背面して飛んだとは見えぬ、流れるような移動であった。同時に、その右|腕《うで》がうしろなぐりに長剣を一閃《いつせん》した。
濡手拭《ぬれてぬぐい》をはたくような音とともに、女の右|腕《うで》と生首が宙に飛んでいる。血しぶきの中から、ビューッと一すじの糸が蒼空《そうくう》へ走った。切断されたお扇《せん》の右腕からほとばしり出た甲賀《こうが》の髪縄《かみなわ》であった。
白い石を染めた碧血《へきけつ》の中に、三つになって散乱した女のからだ――たったいま、おのれと交わったばかりの甲賀くノ一の屍体《したい》をかえり見もせず、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》は依然《いぜん》、烏頭坂《うずざか》天八とにらみ合っている。
左手に構えられた小剣は微動《びどう》だもしなかった。
「……危ない。……」
お扇が斬《き》られた刹那《せつな》、突如《とつじよ》目覚めたかのごとくがばと立ちあがろうとした陽馬を、必死に雪羽《ゆきは》が抑《おさ》えた。
衂《ちぬ》られた仁右衛門の右剣は、もとの位置に戻《もど》っていたが、しかしふたたび背後に近づく者があれば、背に眼があるように飛来する凄《すさ》まじい剣気を秘めていた。が、身を起した陽馬をそのまま縛《しば》ってしまったのはそれではない。
仁右衛門と、いま現われたやはり伊賀者《いがもの》とのあいだに交流している異様な殺気を感覚したからであった。
――はて?
――これはどうしたことか?
この疑惑《ぎわく》に打たれたのは陽馬ばかりではない。木ノ目軍記も――ちらと陽馬と雪羽の方を見たが、それに対する感想を発展させるにいとまなく、ぎょっとむいた眼を天八に戻《もど》した。
「見たぞ。――」
天八はまたいった。
仁《に》右衛門《えもん》が答える。
「何を?」
「おまえが愉《たの》しんでおった姿を」
「くノ一とのことか? あれは軍記との約定のためじゃ」
「ちがう、おれはおまえの背中を見た。尻《しり》を見た。――」
「それがどうした」
「軍記との約定のための務めではない。おまえの背中と尻は、快楽《けらく》を愉しみぬいていた」
「それがどうした?」
「たとえ甲賀《こうが》くノ一と交わっても、われらはそれを愉しんではならぬ。快楽を感じてはならぬ。魂《たましい》を奪《うば》われてはならぬ。これが伊賀者《いがもの》の掟《おきて》だと、おれのいったことを忘れたか」
「それはおまえ個人の掟だろう」
「おれはなあ、仁右衛門」
天八の歯がカチカチと鳴った。猿《さる》の干物《ひもの》みたいな顔が、人間とは思われない怒《いか》りと恨《うら》みの黒炎にいぶされて、身の毛もよだつ凄惨《せいさん》の気を発している。
「おまえに羅切《らせつ》を頼んだのは、おまえを信ずればこそだ。その信頼を、おまえは裏切った!」
これを手前勝手な怒り、非常識な恨みというのは、烏頭坂《うずざか》天八という人間を知らない者だ。それに仁《に》右衛門《えもん》自身、おのれの堕天《だてん》をだれよりも自覚していた。――彼が最初から天八|到来《とうらい》に衝動《しようどう》を受け、それまで刃を交えていた丹波《たんば》陽馬をすら放擲《ほうてき》して反転したのは、この天八への認識とおのれの自覚あればこそであった。
「で、どうする?」
スルスルと天八は遠|廻《まわ》りに移動した。仁右衛門のまわりを廻《まわ》って、甲賀《こうが》くノ一の屍骸《しがい》の方へ。
「…………?」
眼に不審《ふしん》の色を浮べつつ、むろんそれに従って仁右衛門のからだも廻る。
烏頭坂天八はお扇の屍骸を見下ろした。頸《くび》と右|肘《ひじ》からなお血を吐《は》きながら、お扇の乳房《ちぶさ》はまだ波打っているようであった。転がった首は唇《くちびる》をあけているが、それが驚愕《きようがく》や苦痛のためというより妙《みよう》に淫蕩《いんとう》に見えた。
このくノ一こそ、天八の道念をとろかす火を点じた女である。その屍《しかばね》を見て、彼の胸に歓喜の風が流れたか、それとも哀痛《あいつう》の雲が渡ったか。――常人の心情を以てしては測りがたい烏頭坂《うずざか》天八だが、すぐにふり仰《あお》いだ眼は血色《ちいろ》にひかって見えた。
「天誅《てんちゆう》を下す」
と、彼はいった。
狩川仁右衛門はもう驚《おどろ》いた表情も見せない。天八がこういい出したら、もはやいかんともしがたい、という覚悟《かくご》がふとい眉宇《びう》にあらわれたようだ。
「わかった。やってみろ」
と、彼はうなずいた。
「しかし。――」
いいかけて、彼はやめて、相手を見まもった。
天八よ、おまえは左|腕《うで》の指一本で地に逆立ちして、それをしん[#「しん」に傍点]にして独楽《こま》のごとく回転しつつ、右腕の剣を逆《さか》ながれに斬《き》りあげる。この怪剣《かいけん》に対してすら、通常の剣客なら知らず、自分がやわかおくれをとろうとは思わない。まして、指を突き立てるべく、ここは土の色も見えぬ磊々《らいらい》たる石ころばかりの河原ではないか、また剣を握《にぎ》るべき右腕は、手くびから先が肉塊《にくかい》となっているではないか――といおうとしたのである。
が、そのときに仁《に》右衛門《えもん》は、天八がしゃがんで妙《みよう》なことをするのを見た。左手でどこからか七十センチばかりの両《りよう》 端《たん》 柳《やなぎ》の葉のような刀をとり出して、石の間に垂直に押しこむと、その尖端《せんたん》を右腕の肉塊にあて、プスーと二十センチちかくも刺《さ》し込んだのだ。
……いかに手くびから先が肉塊《にくかい》となっているとはいえ、その腕にはなお神経も通っているだろうに、烏頭坂《うずざか》天八は痛苦の表情も現わさない。とにかく彼は右腕の先に五十センチあまりの刀身をこれで装填《そうてん》したわけである。そのままの姿勢で、彼は首のないお扇の胴のそばに、じっと片ひざついていた。
突如《とつじよ》として、天八のからだがとんぼを切った。
彼は地に左|腕《うで》の指を立てて逆立ちをしていた。地ではない。お扇《せん》の女自身にだ。それに人さし指を埋《う》めて、からだが旋回《せんかい》した。
「……おおっ」
さすがに驚愕《きようがく》しつつ、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》の右剣は真っ向から、逆になった天八の股間《こかん》めがけて斬《き》り下ろされた。
ぴしいっ。
肉と肉の相搏《あいう》つひびきとともに、仁右衛門の右剣は天八の両足の裏にはさまれていた。肉と肉ではない、足裏の吸盤《きゆうばん》と吸盤ではさみ込んだのだ。
すでにこれが平生の狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》にはあるまじき不覚《ふかく》である。しかし、第三者の眼にはそうは見えなかった。
ほとんど同時にその左剣は、回転のとまった烏頭坂《うずざか》の胴へ走っている。
が、このとき天八の一刀は――右腕に装填《そうてん》された柳葉刀《りゆうようとう》は逆の方向から逆《さか》ながれに仁右衛門の胴へ薙《な》ぎあげられていた。
「クエーッ」
化鳥《けちよう》のごとき怪声をあげたのは仁右衛門にあらず天八にあらず、これを見ていた木ノ目軍記であった。
一瞬《いつしゆん》、いずれが勝ったか、しかし軍記にもよくわからなかった。一つの屍体《したい》と二人の忍者《にんじや》の肉体と三本の剣は、空中に妖《あや》しき立体幾何図形を象嵌《ぞうがん》したように動かなかった。
ただ一つ、動くものがある。――血だ。それは狩川仁右衛門の胸から脇腹《わきばら》にかけて流れ落ちはじめた血潮であった。
仁右衛門の脇腹から胸へかけて――三本の剣のうち人間の肉体へ斬《き》り込まれたのはその天八の一刀ばかりであることに軍記が気がついたとき、仁右衛門が重々しく笑った。
「見事なり、天八」
いうと、彼のからだはどうと横たおしになり、その刀身を両足ではさんだ天八は、それにひかれてこれまた石の上に横たおしになった。
「仁《に》右衛門《えもん》! 仁右衛門!」
われに返り、しかもわれを忘れて木ノ目軍記が駆《か》け寄った。狩川《かりかわ》仁右衛門は荘重《そうちよう》な笑顔のまま完全にこときれていた。
烏頭坂《うずざか》天八、もとより大変なやつだが、しかし軍記の見るところでも、組中第一の実力者の狩川仁右衛門は、仲間の天八の怪剣《かいけん》に、まさに見事に敗れ去ったのである。軍記も知らないが、おそらくそれは、この君子《くんし》的人物の破戒《はかい》の自覚によるひるみが、一瞬《いつしゆん》刀速をためらわせたゆえであったろう。
烏頭坂天八は血のしぶいた河原に仰《あお》むけになったまま、左手をあげて、その人さし指をじいっと眺《なが》めいっていた。
二
――この同士討ちの間、若し陽馬がもつれこんだなら、なりゆきはどうなったか。
木ノ目軍記が座視してはいまいし、その結果は何とも判断がつかない。
しかし、陽馬はその場を離れていた。逃げたつもりはない。
「逃げて下さい、陽馬さま」
狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》と烏頭坂《うずざか》天八がにらみ合っているとき、雪羽は必死にそうささやいたのは事実である。陽馬は動かなかった。しかし――その雪羽が、ふいにはたはたとひとりで先に河原を走りはじめたのを見るに及んで、これは捨ておけぬとそのあとを追ったのである。
河原の端《はし》から街道に上ったとき、陽馬は「クエーッ」という怪声《かいせい》をきいてふり返り、そして妖闘《ようとう》の幾何図形を見た。それから、斃《たお》されたのはあの恐《おそ》るべき狩川仁右衛門で、やはり倒《たお》れたおんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]の男が、生きている証拠《しようこ》に、横たわったまま片手をあげるのを見た。
思わずあと戻《もど》りしかけて、ふと立ちどまり、
「いや、ゆこう、雪羽」
と、いった。
ともかくも、彼らから雪羽をひき離さねば――と思ったのである。彼はこのとき医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》のことをまったく忘れていた。
雪羽も立ちもどって、ふりむいていた。木ノ目軍記がこちらに顔をむけているのが見えた。
と、雪羽は、万感無量といった眼で陽馬を凝視《ぎようし》し、それからまたはたはたとひとりで河原の方へ駆《か》け戻《もど》りはじめたのである。
陽馬はあわててこれを追おうとした。すると雪羽はくるりとふりむいた。手には拳銃《けんじゆう》が握《にぎ》られて、陽馬の胸にピタリと擬《ぎ》せられていた。
「いって下さい、陽馬さま」
と、雪羽は蒼白《そうはく》な顔でいった。
「あなたとわたしは敵味方です」
陽馬は立ちすくんだ。銃口《じゆうこう》に射すくめられたわけではない。――雪羽の心事は不可解であるが、何よりもいまの一句が、発射されない弾丸《たま》として彼を撃《う》ちとめたのだ。
茫然《ぼうぜん》として見送る陽馬の前から、雪羽は背を見せて、トボトボと六道《ろくどう》河原《かわら》を戻ってゆく。
木ノ目軍記が迎えた。
「疑団《ぎだん》が氷解した」
と、彼はいった。
「知り合いでござったか?」
雪羽は答えない。――この場合に、軍記はうすら笑いした。
「恋人《こいびと》ででもござったか? これは奇縁《きえん》。――しかし、あの男はいってしまった。あなたは帰って来られた。これ天道でござろうなあ。二河白道《にがびやくどう》という仏語がござるが、いやこの場合は白道にへだてられて、あちらは火の河こちらは水の河。――」
三
信濃川《しなのがわ》から離れ、三国街道は次第に上越《じようえつ》の山へ入ってゆく。
むろん羊腸《ようちよう》たる上り坂となるが、それを上ってゆく丹波《たんば》陽馬の足が、ともすれば止りがちになるのは、決して山道のせいではない。その証拠《しようこ》に、彼はときどき腕組みさえする。――
夕ぐれであったので、道に人影はなかった。それなのに、ふと一方の杉木立《すぎこだち》のあいだから、人間の吐息《といき》――いや、もつれ合うあえぎ声をきいて、彼は足をとどめた。
そこからちょっと入りこんだ草地に、女二人が妙《みよう》なかたちでからみ合っているのが見えた。陽馬がこちらに立ちどまったのを見て、彼女たちは起きなおり、身づくろいし、それから手にそれぞれの商売道具を持って出て来た。――大まじめな表情であった。
人形つかいの衣裳《いしよう》のお筆《ふで》。風車売りのお篠《しの》。
ずっと先にいっているはずの甲賀《こうが》のくノ一たちが、はて、こんなところで何を? と、陽馬はくびをひねりもしない。すぐに察して、ウンザリした。
彼女たちは、陽馬のメモした「房内帖《ぼうないちよう》」の実験を、女同士で試みていたに相違ない。――いまさらのことではなく、いままでの道中、夜々のことだ。
それがこの両人が特に好色《こうしよく》なのかというと、決してそうではない。少なくとも、浮気っぽいお琴《こと》や、半|白痴《はくち》だったお藍《あい》や、いわんや肉欲の化身のようなお扇《せん》よりは、日常ははるかにまともな女だ。お筆などは女というより美少年の匂《にお》いすら漂《ただよ》う清純さがあるし、お篠はきりっとして、貞潔な若妻のような感じがある。
ただ、お筆は江戸城|忍《しの》び組の一員として甲賀の魂《たましい》の権化《ごんげ》であり、お篠は技術的なことに於《おい》て、男も嘆息するほど研究熱心なくノ一であった。一は火。一は水。
要するに、一見|痴戯《ちぎ》とみえるこの両人の行状は、熾烈《しれつ》なる義務感のあらわれなのであるが、実行者の外見がそれぞれ清純貞潔なだけに、いっそう妖《あや》しい――見ていて陽馬もぞっと肌寒《はださむ》さを感じたり、思わず面《おもて》をそむけたりしたこともあった。
「柏崎《かしわざき》であの木ノ目軍記が狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》に講義していたのをわたしたちが立ち聞きした――三十法の第十九|驥騁足《きていそく》というのと、第 廿《にじゆう》 三山羊対樹《さんさんようたいじゆ》というのを試してみていたのです」
「それから、六日町《むいかまち》の宿《しゆく》で、わたしが立ち聞いた第廿六|玄溟鵬※[#「者/羽」、unicode7fe5]《げんめいほうしよ》、第廿八|猫鼠同穴《びようそどうけつ》というのも」
お筆とお篠《しの》はこもごもいった。
「こんなところでのんきなやつだな。……敵にだいぶ遅《おく》れたではないか」
「丹波《たんば》さまこそ何をしていらっしゃるのです」
と、お筆が逆に責めたが、お篠はくびをかしげて、いまの実験につながる疑問を提出した。
「それより、陽馬さま、これはたしかお遊が盗《ぬす》み聞きして、あなたの房内帖《ぼうないちよう》にもある方法なのですけれど、三十法の第十五の鸞雙舞《らんそうぶ》――女のうち、一人が仰《あお》むけに、一人は俯《うつぶ》す。仰むく者は脚《あし》をあげ、俯す者は上に乗り、両陰相向う。男、あぐらかきて上下を攻撃《こうげき》す。……というのがよくわからないんです。女が二人、ということはわかるのですけれど、それを一人の男がどうしていっぺんに。……」
女子大生のごとく真剣に問う。
するとお筆も、ふと何より気がかりなことを思い出したらしくいい出した。
「それに陽馬さま。……いままで蒐《あつ》めた房内篇《ぼうないへん》の九法とやら三十法とやら、それはだいたいわかりましたけれど、それが……あの上様に、ほんとうにお役に立つでしょうか? そういうことが自由自在に出来ますなら、はじめから房内篇など、こうまで苦労して盗《ぬす》むことはないはずでございましょう?」
――伯父の多紀法印《たきほういん》からきいた。
実に陰萎《いんい》の将軍家のお相手をし、しくじった二人の甲賀《こうが》くノ一はこのお篠《しの》とお筆だということであった。それを盗み見した伯父はその情景を精写したわけではなかったが、それでもおぼろにきいたその挑発《ちようはつ》ぶりと現実に見たこの両人を思い合せて、はじめ陽馬はくびをひねったが、いまは、さもあらん、と考える。そしてまた、この二人が房内篇を奪《うば》うのに最も必死であることも、さもあらん、と考える。――
また伯父からきいた。伯父もまだ見ない房内篇について、それほど詳《くわ》しい知識があるわけはないが、それでも篇中《へんちゆう》には、たんなる体位、動作、緩急《かんきゆう》のみならず、将軍のような懦夫《だふ》をしてなお躍々《やくやく》と起《た》たしめる秘法の数々があるという。
そして、そのかんじんの秘法についてはいまだつまびらかにしない。――
「そうだな」
と、陽馬はいった。が、その声は力弱く、そして彼はかえりみて他をいった。
「いかにも房内篇《ぼうないへん》を盗《ぬす》むということ、正直にいって、おれは少々よろめいて来たよ」
「……こわくなったのですか!」
そんなことではない。――雪羽のことを思えばこそだ。陽馬は返事もしなかったが、顔色は実に憂鬱《ゆううつ》そうであった。
二人のくノ一は凄然《せいぜん》といった。
「わたしたちはやります。御上意は絶対です」
「死んだ五人の仲間の血にかけて!」
陽馬は、一方に燃える火、一方に泡立《あわだ》つ水の中に白じろとつづく一本の道、その道のかなたに血の色をした雲の幻影《げんえい》を見る思いがした。……ひっきょう、ゆかねばなるまい、その道を。
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夕《ゆうべ》に死すとも可なり
一
「……さて、いかが世はなりゆくものやらん」
と、軍記は腕《うで》こまぬいた。いろりばたである。
いろりには、薪《たきぎ》が燃えていた。――三国峠北麓《みくにとうげほくろく》、浅貝《あさかい》の宿《しゆく》の旅籠《はたご》の離れである。九月半ば、というといまの暦《こよみ》でいえば十月半ばだが、北麓といってもすでに海抜《かいばつ》はるかに高く、夜がふけると火を燃やさなければ肌《はだ》寒いほどであった。
峠から北へ四キロ下ったところ。また八キロ下れば二居《ふたい》の宿。さらに十二キロ下れば三股《みつまた》の宿、これを合わせて三国三宿《みくにさんしゆく》という。
「越後《えちご》と江戸の往来はみなこの峠による。行旅|号《ごう》して天下の難路となす。三股より下ること二里にして湯沢《ゆざわ》に至る。路はじめて坦《たん》なり。険悪の山道なりけれど、人馬相望み、大雪《たいせつ》にあたれば三宿に往々数百人の停溜《ていりゆう》を見ることありき」
と、古書にある。
そういう場合の浅貝の宿の離れだが、わざとここを借りてすでに十余日。止《とど》まって動かないのは木《き》ノ目《め》軍記で、なんのためだか烏頭坂天八《うずざかてんぱち》にはよくわからない。軍記は「帰洛《きらく》はそう急ぐには及ばない」という。それはそうだが、何もこんな山中の寒駅に腰《こし》をおちつけているには及ぶまい――と蕭殺《しようさつ》の環境を好む天八もそう思う。しかも、いま、ひとりごとみたいに、「さて、いかが世はなりゆくものやらん」などと、飄然《ひようぜん》と述懐《じゆつかい》するのをきいて、天八は苦い顔をした。
「天八、わしはこれから高崎《たかさき》へ出て、そこから中仙道《なかせんどう》を通って京へ帰ろうと思うておったがの」
と、それを見たか、軍記が顔をあげていい出した。
「実は、ついでにちょっと江戸へ足をのばして様子をうかがって来ようかとも思う」
「江戸へ? 何の様子を?」
さすがの天八も、眼をまろくした。
「薩摩《さつま》から公方《くぼう》へお嫁入《よめい》りの一件、いかが相成ったかを。――その一件、おじゃんになるのを待つためのこの逃避行《とうひこう》じゃからの」
「いかにも。――」
「ところで、例の甲賀組《こうがぐみ》、あの宰領《さいりよう》の男とくノ一二人がまだ残っておる」
「まさか、あの宰領《さいりよう》を生かして帰すつもりはあるまいな。われらが江戸へゆくとするならばなおさらのこと」
はじめから両人はささやき声であったが、ここで天八はいっそう声をひそめて、隣室《りんしつ》の方へあごをしゃくった。
「まだ、約束を守るつもりか、淫学坊《いんがくぼう》?」
「……ともあれ、あの宰領を始末する前に、くノ一と房内篇《ぼうないへん》を試みねばならぬが。――」
と、軍記は、返事になっているような、なっていないような返事をした。
彼は、六道《ろくどう》河原《かわら》で知った雪羽《ゆきは》と丹波《たんば》陽馬との関係を、実は天八にまだ告げていない。天八もそばにいたにちがいないが、「大強敵」狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》との決闘《けつとう》に全精魂、全感覚を消磨《しようま》しつくして、雪羽の挙動などかえりみるいとまはなかったのだ。
――しかし、雪羽は軍記のもとへ戻《もど》って来た。軍記に看破《かんぱ》されたにもかかわらず、それ以来も彼女は、憂《うれ》わしげに黙々《もくもく》と行を共にして来た。そしてこの夜も、一部屋おいて、奥の一間に彼女は眠っている。
――医心方《いしんぽう》の拘束力恐《こうそくりよくおそ》るべし。
複雑な感慨《かんがい》をこめて、軍記は思う。これは半井《なからい》家の雪羽についての感想だが、また、
――房内篇《ぼうないへん》の神秘測るべからず。
とも、痛感する。これは自分に関してのことだ。
眼を半眼にして、いろりばたに坐禅《ざぜん》を組んでいるような軍記の姿を見て、烏頭坂《うずざか》天八は改めてこの浅貝の宿にとどまって以来の夜々の軍記を思い出した。ここへ来てから、軍記は眠ったことがないようだ。少なくとも、横になったのを見たことがない。彼はひたすらこのいろりばたで、こういう姿で坐《すわ》ったきりだ。
後頭部が異様につき出しているが、蒼白《あおじろ》い痩《や》せた顔をした木ノ目軍記は、ここ数十日のあいだに急速に羸痩《るいそう》を加えたようだ。――頭脳構造が単純|杜撰《ずさん》に出来上っている烏頭坂天八にも、軍記がここで足をとめてしまったのは、決して彼がいまのべたような理由や思案によるものではない、ほかの何かが心中に去来しつつあるゆえだ、ということは推察できる。
しかし、天八はそれを軍記にきこうとはしない。きいて素直《すなお》に答えるような人物ではない。そらっとぼけ、ひょうげたことをいって、はぐらかしてしまうにきまっている。
それに、思いは同じ――いや、同じかどうかは知らないが、天八も天八で、思うところが多かった。烏頭坂《うずざか》天八、生れて以来この旅ほど苦悩《くのう》したことはない。
「しかるに。――」
と、軍記は暗然といった。
「そのことを実行すべく、おぬしは断種」
かすれた声で、
「わしは不能」
天八は驚《おどろ》かない。木ノ目軍記が不能の男だということは、伊賀組《いがぐみ》中公然の事実だからだ。
陰萎《いんい》とか早漏《そうろう》とか、そんなものではない。臍《へそ》ノ緒《お》切って以来、いまだ曾《かつ》て起立したことがないという。――それを自分も恬然《てんぜん》としていい、悟《さと》り切った顔をしているから、もうだれも笑う者もない。にもかかわらず淫学《いんがく》の研鑽《けんさん》に孜々《しし》として倦《う》むようすも見えないのは奇々怪々《ききかいかい》だが、その真摯《しんし》熱誠ぶりには一同顔まけして、ついには感服するようになってからすでに年久しい。
「こうなると、おぬしが狩川《かりかわ》を斬《き》ったのは、その意味でも残念至極であった喃《のう》。……」
天八は首うなだれて考えこんでいる。こういう彼のしょげぶりもまた珍しい。
チロチロと燃える榾火《ほたび》、油にすすけた行燈《あんどん》、天井《てんじよう》からぶら下げられて、てらてらと光っている無数の飄箪《ひようたん》。……さっきまで月があったと思っていたのに、いま、蕭《しよう》 条《じよう》と三国《みくに》山脈を夜の雨がわたっているらしい。
その中に沈々《ちんちん》 寂《じやく》 々《じやく》としてしめやかに語る旅の雲水《うんすい》とおんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]の男。まるで信心の話でもしているようだが、むろん、そんなことではない。
烏頭坂《うずざか》天八がふとあげた眼が、血のように赤く見えたのは、決して榾火《ほたび》のせいではなかった。
「おれはやれるよ、淫学坊《いんがくぼう》」
「あん?」
木ノ目軍記は顔をあげた。
「おぬしが? おぬしは以前、男のものを切って、女を犯す法はないか、とわしにきいたではないか?」
「それを見つけ出したのだ。……しかも、淫心《いんしん》なく」
男根のない男が、春情なくして女を犯せるという。――
この大|奇怪事《きかいじ》の意味を考え、さすがの軍記も見当もつかず、やおらきこうとしたとき――むっと熱い鉄丸でも呑《の》んだような顔をしていた烏頭坂天八が、ふいにがばと軍記のひざにすがりついて来た。
「淫学坊。……足で雪羽さまを犯したら、雪羽さまは怒りなさるじゃろうか?」
二
ぎょっとして、それを見下ろしていた木ノ目軍記は、
「いかん! それはいかん!」
と、さけび出していた。
「雪羽さまを足で犯すなど、それはいかん!」
天八のいった意味がわかったわけではない。手淫或《しゆいんある》いは口淫《こういん》、などいう言葉はきいたことがあるが、足淫《そくいん》とは――いかな性学の泰斗《たいと》たる軍記もいまだ曾《かつ》て耳にしたことがない。
ただその刹那《せつな》、天八の章魚《たこ》みたいに疣々《いぼいぼ》のついたぶきみな足の裏が頭をかすめ、悪寒《おかん》とともに彼はそう手を振《ふ》っていたのであった。
足で犯す。――その手法、いや足法をきくよりまえに、軍記はこの相手の心事をいぶかしんだ。
「天八、ほんのこのあいだまでくノ一を犯すということさえ釈然としなかったおまえが?」
「…………」
「そのために、羅切《らせつ》までしたおまえが?」
「…………」
「また、春心を以てくノ一を犯したという理由で、狩川仁《かりかわに》右衛門《えもん》ほどの男に天誅《てんちゆう》を下したと称するおまえが?」
なんといわれても、天八は口をわななかせているばかりだ。
まったく軍記のいう通りだ。彼は自分で自分の心がわからない。いや、たしかにそのつもりで羅切《らせつ》したのに、春心は消えるどころかますます烈しく、仁右衛門に決闘《けつとう》を挑《いど》んだのも、仁右衛門を人格的に見そこなったという怒りより、あとでよくよく考えてみたら、おれのものを切っておいて、当人は結構|愉《たの》しんでおるとは何ごとだという、激烈なる嫉妬《しつと》と深刻なる怨恨《えんこん》によるもののようであった。
結論をいえば、天八の春情は雪羽に固着した。彼女を「足」で犯したい――という妄想《もうそう》にとり憑《つ》かれた。彼を苦しめているのはそれであった。
ただ、さしもの天八をもひるませたのは、雪羽の清純|透明《とうめい》な美しさに対する罪の意識であった。それで、悩《なや》みのあげく軍記に意見を求めたのだ。
「雪羽さまはいかん」
当りまえだが、予想以上のきびしい調子で軍記は叱《しか》った。
「雪羽さま護衛のために宮からつけられたわれらじゃ。その一員が雪羽さまを犯して帰洛《きらく》して、宮になんと御報告する?」
がっくりと頭を垂れた天八に、軍記はくびさしのばして、
「それは論外として、おい天八、足を以て女を犯すとはどうするのじゃ?」
と、本来の疑問をただすのに戻《もど》ったが、ふとそのとき一方の耳がかすかに動いた。
「左様な法が房内篇《ぼうないへん》にあったかな? 待て待て、思い出して見よう」
と、眼をとじて、
「房内篇十七章に、心身不調和のときにこれを治する法がある。七損《しちそん》と称する。第一に絶気。心欲せざるときは、女をして正しく臥《ふ》せしめ、その両|脚《あし》をかつぎて、みずから揺《ゆ》らしむ。日に九たび行わば十日にして癒《い》ゆとある。第二に溢精《いつせい》。精半ばにして洩《も》るときは、正しく臥せしめ、その両|膝《ひざ》をまげて挟《はさ》ましめ、みずから揺らしむ。日に九たび行わば、十日にして癒ゆとある。……いや、これはおぬしの場合とはちとちがうな」
ちがうにも何にも、全然無縁の講義だ。
それにしてもこういう症状の男が、日に九たび十日つづけるということは一見非論理で、実はこれを可能とする鍵《かぎ》はべつに房内篇《ぼうないへん》にあるのだが、天八はべつに疑問をさしはさんだようでもない。
軍記は声をますますものものしくひそめた。
「第三に奪脈《だつみやく》。陰|堅《かた》からざるときは――ふうむ、これこそ公方《くぼう》の知りたい核心《かくしん》の一つであろう喃《のう》――これは、女人をして正しく臥《ふ》せしめ、脚《あし》を以て鉤《か》けしむ。男すなわち……それ、こういうかたち」
軍記の口の端《はし》から、褐色《かつしよく》の舌がチロッととかげみたいに出て消えた。そこから銀光が噴出《ふんしゆつ》した。
まっすぐではない。まっすぐに飛べば天八に吹きつけられる。それは口に沿って、横なりに飛んでいった。
「……あ!」
一方が土間となっているその離れ家《や》の入口の腰高障子《こしだかしようじ》の外で、小さな苦鳴が起った。同時にこちらの天八も躍《おど》りあがった。
「甲賀《こうが》のくノ一!」
と、軍記がさけんだ。
「一人はたしか盲目《もうもく》になったはず。もう一人おるな。逃げられぬ一人を残して逃げる気か」
「いや、何人おろうと逃がしはせぬ」
天八は土間に飛び、腰高障子に走り寄った。
「天八、殺すな。それよりおぬしの足淫《そくいん》を見せい。房内篇《ぼうないへん》を行うくノ一虫がまんまと火に飛んで入ったではないか!」
天八は障子から二メートルも離れて声をかけた。
「やわか無事逃げられようとは思っていまい? 入って来い。入って来れば、殺すことは待ってやる。――」
数十秒おいて、障子があいて、二人の女が入って来た。甲賀《こうが》のくノ一だ。
ひとりは、道中たしかに風車売《かざぐるまう》りの姿をしていた女だ。赤い投頭巾《なげずきん》にたっつけ袴《ばかま》、道中は背に小さな箱を背負い、唐傘《からかさ》をさし、その箱や傘にたくさんの小さな風車を廻《まわ》していたが、いまはむろん風車はおろか、箱も傘も持ってはいない。彼女はもう一人の女の持った竹杖《ちくじよう》に手をより添《そ》えて、しっかと護りぬいてやっていた。
もうひとりは、肩衣《かたぎぬ》に袴《はかま》、それに紫《むらさき》の大|振袖《ふりそで》という姿で、これまたふだん持っている娘《むすめ》 道《どう》 成寺《じようじ》の人形を持っていない。ただ片手で押えた両眼からは、赤い絹糸のような血が二すじ、白蝋《はくろう》の頬《ほお》に垂れていた。お筆である。
彼女たちはこの離れ家の外に忍《しの》び寄って、軍記の淫学《いんがく》講義をきいていたのであった。今夜にはじまったことではない。これまでもいくたびか盗聴《とうちよう》に成功して、その成果をあげている。
それを、いまついに軍記に気づかれた。房内篇《ぼうないへん》七損の章第三の「奪脈《だつみやく》」のくだりで、「男はかかるかたち」といわれて、ふと障子の小さな破れから片眼をのぞかせたお筆は、突如《とつじよ》として軍記の吹針に吹かれたのであった。
片眼だけで、もう一方の眼の位置も察し、障子越しに二本の針を吹く。驚《おどろ》くべきことはそれだけではない。その吹針が軍記の口から横なりに噴出《ふんしゆつ》されたことだ。おそらく舌と歯と唾《つば》のわざであろうが、そのためにさすが甲賀《こうが》くノ一のお筆も一瞬《いつしゆん》の間にめくらとされた。
おそらく軍記は、それ以前からかぎつけて、彼女の眼を誘《さそ》い寄せたものに相違ない。――
「くノ一、早速、ものは相談じゃがの」
きゅっと唇をつりあげて、笑っていう。
「房内篇三十法の第十五|鸞雙舞《らんそうぶ》――これは女二人を同時に犯す法じゃが、それをこのおんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]相手に実験してみる気はないか? 実はわしも、はたして実行可能かどうか、首をかしげておる。甲賀組《こうがぐみ》としても、それを知りたくはないか? それがおまえたちの任務ではないか?」
お篠《しの》とお筆は、雨にべったり濡《ぬ》れつくし、お筆は眼から血を流していた。
しかし彼女たちには恐怖《きようふ》の表情はなかった。血を流したお筆が昂然《こうぜん》といった。
「やろう」
三
三十法のラーゲの一つ、鸞雙舞《らんそうぶ》。
はじめてきく名称ではない。それは曾《かつ》てどこかでお遊が盗聴《とうちよう》して来たが、どうしても不可解だとくびをかしげ、つい先日も、それについての疑義をお篠が陽馬にただしたこともある。――
それをいま、お筆があえて実験の座に上るという。
怨敵伊賀者《おんてきいがもの》を相手に。しかもその中の猿《さる》のような烏頭坂《うずざか》天八と。
いった者は任務観念に徹《てつ》した甲賀魂の化身《けしん》、お筆であった。そのうえ、より添《そ》ったお篠も、わが意を得たり、という風に眼をひからせてかすかにうなずいたようだ。これは研究欲の鬼女《きじよ》といっていい。
しかし、いま房内篇《ぼうないへん》の奥義《おうぎ》を究めて、彼女たちはいったいどうしようというのか。お筆は盲目《もうもく》とされ、これを捨ててお篠《しの》も逃げる気のない以上、両人とうてい逃げられぬと観念したのであろうか。朝《あした》に道をきけば、夕に死すとも可なりという覚悟《かくご》であろうか。それとも――彼女たちは、獲物《えもの》だけはつかんで、ついには逃げ切る自信を持っているのであろうか。
「よい覚悟じゃ」
軍記はにたりとしていった。
「よし、両人、裸《はだか》になって、ここに寝え」
お篠とお筆は座敷に上って来て、スルスルと衣服をぬぎはじめた。やがて、そこに雪白の裸身《らしん》が二つ、すっくと立った。
化身、鬼女、といったが、それにしても何たる絶妙《ぜつみよう》の肉体であろう。いずれも胴がきゅっとしまって、足はスラリと長いのに、乳房《ちぶさ》だけはなめらかな鞠《まり》のようにみごとに隆起《りゆうき》している。女|忍者《にんじや》とは思われぬ清爽《せいそう》な肢態《したい》ながら、お篠には若妻めいた匂《にお》わしさがあり、お筆はふしぎに美少年を思わせる涼しさがある。真っ白な肌《はだ》に榾火《ほたび》の炎が、赤くまた紫《むらさき》にチロチロと映り、這《は》い、すべって、ほんの皮膚《ひふ》の一部を見ているだけで、妖《あや》しい幻燈《げんとう》を眺《なが》めているような美しさだ。
「ふうむ」
と、しばし軍記は感嘆の眼を向けた。曾《かつ》て起立したことのないという男がこんな眼つきをするのも奇怪千万《きつかいせんばん》だが。――
「褒美《ほうび》によいことをきかせてやろう。房内篇《ぼうないへん》第十六八益の章じゃ。……一般に男は房事《ぼうじ》によって疲労《ひろう》するものじゃが、これはかえって強壮になる秘法じゃ」
と、いった。
「生きて帰ったら土産《みやげ》に持ってゆけ」
眼をとじて、
「その一、固精《こせい》。女をして横むきに臥《ふ》し、脚《あし》を張らしめ、男、その中に横むきに臥して二九の数を行う。男の精を固めるのみならず、女の漏血《ろうけつ》を治する。……その二、安気《あんき》。女をして正しく臥し、枕《まくら》を高くし、両脚を伸ばさしむ。男、その間にひざまずき、三九の数を行う。気を和せしめるのみならず、女門の寒を治する。……その三、利蔵《りぞう》。女をして横むきに臥し、その両脚を曲げしむ。男、横に臥し、四九の数を行う。気を和せしめるのみならず、これまた女門の寒を治する。……その四、強骨《きようこつ》。女人をして横むきに臥し、左|膝《ひざ》を曲げその右脚を伸ばさしむ。男、伏して五九の数を行う。男の関節を整わしめるのみならず、女の月華《げつか》の異常停止を治する。……これ、そこに寝え!」
眼をあけて、あごをしゃくり、
「天八、用意っ」
ふりかえって、またつづける。
「その五、調脈。女をして横むきに臥《ふ》し、その右|膝《ひざ》をまげ、左|脚《あし》を伸ばさしむ。地に拠《よ》りて六九の数を行う。男の血行をめぐりよからしめるのみならず、女門の異常|緊縮《きんしゆく》を治する。その六、蓄血《ちくけつ》。正しく臥し、女をして、その上にひざまずかしめ、七九の数を行わしむ。男をして力強からしめるのみならず、女の月華不順を治する。……」
烏頭坂《うずざか》天八は裸体《らたい》になった。
夜の三国山脈に夜気は沈々として、どうやら雨はやんだらしい。その中に、ただ木ノ目軍記のおごそかな講義の声のみつづく。
いろり火を受けつつ横たわった裸形《らぎよう》のくノ一二人、眼をつぶされたお筆のみならず、お篠《しの》もその声を耳底にとどめるためか眼をとじているが。――
恥《は》ずる風もなく仁王立《におうだ》ちになった烏頭坂天八の股間《こかん》には、ぶきみな切断面があるだけであった。
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足《そく》 淫《いん》
一
「その七、益液《えきえき》。女をして正しく伏し、後を挙げしめ、上より八九の数を行う。男をして骨|填《かた》からしむ。……その八、道体。女をして正しく臥《ふ》し、その脚《あし》を曲げ、尻《しり》の下に迫《せま》らしむ。男、九九の数を行う。男の骨を実入らしむるのみならず、女陰の臭《くさ》きを治する……」
「どれじゃあ?」
と、天八は足踏《あしぶ》みした。その足踏みの音が、ぴたっ、ぴたっ、と吸盤《きゆうばん》の吸いつき、離れるようなひびきをたてた。
「おう、つい調子に乗りすぎた。――」
と、木ノ目軍記はわれにかえり、
「そうであった。鸞雙舞《らんそうぶ》の実験であった」
そして、前に置いてあった茶碗《ちやわん》の茶を一口のんで咳《せき》一つ、声帯を改めてやりはじめた。
「女のうち一人は仰《あお》むけに、一人は俯《うつぶ》す。仰《あお》むく者は脚《あし》をあげ、俯《ふ》す者は上に乗り、両陰相向う。……」
いっているうちに、二人の甲賀《こうが》くノ一はその通りにした。お筆が下に、お篠《しの》が上になって。
やろう、と当人たちが承諾《しようだく》したにはちがいないが、それにしてもあまりにもその動作がスムーズであったので、軍記も一瞬《いつしゆん》キョトンとしたほどであった。まさかこの二人が、この命題のもとにすでに一度ならずこのラーゲを試みたことは知りようがない。
このとき裸《はだか》の天八《てんぱち》は、たたみに例の柳葉剣《りゆうようけん》をプスリとつき立て、その尖端《せんたん》をおのれのてんぼう[#「てんぼう」に傍点]となった右|腕《うで》のさきに装填《そうてん》している。
「男、あぐらかきて。……」
と、軍記はつづけて、腰《こし》をあげて天八のところへゆき、その手をとってくノ一のそばにつれてゆき、実技指導をした。
「そこで上下を攻撃《こうげき》するのじゃが……天八、足を使うと申したな?」
その通り、烏頭坂《うずざか》天八は、向い合って折り重なった二人のくノ一のあいだに、おのれの右足一本をぐいとこじ入れたのであった。
「あ。……」
お篠《しの》がはじめて声をあげた。
盲となったお筆はもとより、彼女も眼をとじて、天八の裸身《らしん》を見ようとはしなかったが、そのとき異様なものが肉体に密着したのを感覚して、思わず腰《こし》をあげようとした。
「じっとしておれ。これすなわち鸞雙舞《らんそうぶ》。……」
軍記がごくりと唾《つば》をのんでいった。
お篠《しの》ははじめて天八の右|腕《うで》の怪剣《かいけん》を目撃《もくげき》した。が、彼女がはねのくことが出来なかったのは、このもの恐《おそ》ろしい武器のせいではない。……それはおのれの肉体とお筆の肉体とのあいだにこじ入れられたものの異様な吸着力であった。
天八は右足の親指をぴんと立てていた。それで上を攻め、足の裏の吸盤《きゆうばん》で下を捕《とら》えた。たんに足の裏のみならず、足の指の筋肉にも吸着力があるらしい。そしてまた足くびの関節も常人と並《なみ》はずれて回転するらしい。
「うふ、うふ」
笑いともうめきともつかぬ声をもらして、彼は足くびをぐるりぐるりと廻《まわ》した。密着した三個の肉体が、こね返されたようになった。
軍記は半身たたみにくっつかんばかりに折り曲げ――まるで野球で滑《すべ》り込みをやる選手の足を見ている塁審《るいしん》みたいに――飛び出すような眼でこれをのぞきこんでいた。
これすなわち鸞雙舞《らんそうぶ》、などとおごそかな顔でいったが、これが鸞雙舞? と彼自身あっけにとられた。こんなものが鸞雙舞であるはずがない。
しかし、ほんものの鸞雙舞といえども、かかる怪麗[#「怪麗」に傍点]の壮観を呈するであろうか。
そもそもお篠《しの》お筆が、いかなる心事で木ノ目軍記のそそのかしに応じ、烏頭坂《うずざか》天八の挑戦《ちようせん》にこたえたかは知らず――少なくとも、この場で、またこの男を相手に、まさか快楽《けらく》を味わうつもりはなかったろう。
しかるに――。
この二人は悩乱《のうらん》状態におちいったのである。上のお篠の指はお筆の背にくいこみ、下のお筆は弓なりになってさらにのけぞった。二人の胸は密着しては離れ、離れては密着し、擦《す》り合わされ、おし潰《つぶ》され、濡《ぬ》れた音をたてた。
「これは何? これは何?」
盲目《もうもく》のお筆は髪《かみ》ふりみだし、そうきいたが、たちまち、さけび出した。恐怖《きようふ》や痛苦の声ではない。激烈な刺戟《しげき》による快美の極《きわ》みの声であったが、この清爽《せいそう》の美少女の口から出るとは思われぬ声であった。そして、二人のくノ一のあいだからは、そのさけび声をも圧するばかりの怪音《かいおん》が連続して発していた。
これは何? いいたいのは軍記もまた然《しか》りであったが、しかしすぐに彼は了解《りようかい》した。了解したというより、天八の足をまざまざと脳裡《のうり》にえがいた。
疣《いぼ》とも盤《ばん》ともつかない、大きな、ぶきみな肉の環《わ》が二つ三つ、ひる[#「ひる」に傍点]みたいに造形されている足の裏を。
――さもあらん。
あり得べきことだ。いや、事実としてその足に悩乱《のうらん》するくノ一、二人の姿が眼前にある。
わからなかったのは、その天八が裸《はだか》になったことで、足一本を使うならべつに裸になる必要もないように思われるが、天八にはやはりそれが悦楽《えつらく》を高める雰囲気醸成《ふんいきじようせい》の一法ではあったのであろう。悦楽といえば、さらにわからないことがある。――
――淫心《いんしん》なく、女を犯す。
天八はそういった。にもかかわらず、痩《や》せた猿《さる》みたいな彼の顔は、あきらかに悦楽の極致《きよくち》の相をあらわしているのであった。
いつしか半身を立て直し、その代りぺたんと腰《こし》をついて、いろり火の火照《ほて》りに狂《くる》うこの荒唐無稽《こうとうむけい》としか形容のしようのない変形「鸞雙舞《らんそうぶ》」の図に見とれていた木ノ目軍記は、ふとそのとき背後の襖《ふすま》がしのびやかに閉じられる気配を感じた。いつそれがひらかれたのかは知らなかったが、だれかがこれをのぞいていたことはたしかである。
――この騒《さわ》ぎだ。眼をさまさずにはいられまい。
軍記はにやっとした。それで彼はおのれをとり戻《もど》した。そのとき。――
「ぐゎふっ」
と、天八が異様な声をあふれさせた。その表情を見て、軍記はうめきの意味を知った。それにしても、足で達することもあり得るのか?
突如《とつじよ》として天八は足をぬき、飛びずさり、恐ろしい、しゃがれ声でうめいていた。
「殺すぞ!」
二
あえぎといっしょであったので、その言葉がよく聞えなかったのか。二人のくノ一は、足のひきぬかれたのも気がつかないように、お互《たが》いを擦《す》り合せ、波打たせている。――
「おれは……こやつら、殺すぞ、軍記!」
天八はもういちど、鼓膜《こまく》をかきむしるような金切声《かなきりごえ》でさけんだ。
こんどは聞えたらしい。女たちの動きはやんだ。……と、数十秒おいて、また動き出した。ゆっくりと立ちあがる。お篠《しの》はお筆の手をとって、もとの土間の入り口に戻《もど》り、さっきぬぎすてたきものをまたつけ出した。――
この間、一語も口をきかず、天八、軍記の方を見ようともしない。いま見せたあられもない狂態《きようたい》は、あれは幻覚《げんかく》ではなかったかと思われるほどであった。
彼女たちが天八の言葉を理解したのか、どうか、疑うより前に、軍記みずから天八の心理を怪《あや》しんだ。精神状態不可解のやつではあるが、なんでまたあのとき突然《とつぜん》気が変ったのか。あの恍惚《こうこつ》の絶頂に於《おい》て、どうしてまあ殺意の雲ゆきに急変したのか。
しかし、その不審《ふしん》もまたいま糺《ただ》してはいられない。
軍記は、身支度《みじたく》ととのえたくノ一、二人が、首うなだれて、トボトボと腰高障子《こしだかしようじ》の外へ出てゆくのを見た。ここで盲目《もうもく》となった一人の方は、はじめからの盲のように竹杖《ちくじよう》までついて。
当の天八さえも、変な顔をして見送っていたが、ここではじめて、
「よしっ、天誅《てんちゆう》を下す!」
うなずいて、躍《おど》りあがり、駆《か》け出した。軍記も追った。
甲賀《こうが》のくノ一、二人はもとより逃げる様子もない。二人は左右に分れたが、五メートルばかりの間隔《かんかく》でピタリと立ちどまってふりむいた。天八はそれと三角形をなす地点に立った。
離れ座敷《ざしき》とはいうものの、山中の旅籠《はたご》である。ほとんど森の中といっていい。ざわめく樹間《じゆかん》から洩《も》れる夜空には、さっき雨の音が聞えたというのに、いまは淡墨《うすずみ》でぼかしたような月明りさえある。いわゆる雨月《うげつ》というやつ。
「うぬか? むろん、うぬが先だろうな」
天八は左のお篠《しの》の方にあごをしゃくった。
「盲が先に斬《き》られるのを見たくはあるまい? 盲の方は、うぬの斬られるのを見はすまい。おれの慈悲《じひ》だ」
この男の口から慈悲という言葉が出て来るのは可笑《おか》しい。そういえば、いま犯した? 女に天誅《てんちゆう》を下すという用語も可笑しいが。――
しかし、彼は本気なのであった。突如《とつじよ》として、ほんとうの激怒《げきど》が湧《わ》きあがって来たのであった。淫心《いんしん》なくして犯す、その誓いを破らせたこのくノ一たちに。このおれをあれほど準《じゆん》 縄《じよう》のない、途方《とほう》もない大|快楽《けらく》に溺《おぼ》らせた女どもに。――天誅《てんちゆう》を下すといったのは大まじめだ。このやけに美しい肉のかたまりめ、やわか天誅を下さでおくべきか。
「若し生きて帰れたら、先刻きいた房内篇《ぼうないへん》こそ、甲賀《こうが》くノ一光栄の土産《みやげ》となろう。――来いっ」
いうと、彼はとんぼを切った。指一本で逆立ちをした。――
「用意はよいか?」
右から声がかかった。同時にパチンという妙《みよう》な音がした。
「や?」
さすがの天八もやや狼狽《ろうばい》している。声をかけたのは盲目《もうもく》のお筆であった。その手の竹杖《ちくじよう》からスラリと抜《ぬ》きはなたれた細い刀身が、月光に雨の一閃《いつせん》のごとくひかるのが見えた。
竹杖は仕込《しこ》み杖《づえ》であったのだ。従ってこれは直刀だ。そして竹杖のときは見えなかった鍔《つば》さえ嵌《は》まっていた。いまのパチンという音は、どこからかとり出した鍔を嵌めたひびきであったらしい。
しかし、盲が?
と、おのれの吹針の術には絶対の自信を持つ木ノ目軍記がはっとしてのぞきこんだとき、反対側から、リ、リ、リ――というような音波がながれて来た。まさに音波だ。軍記なればこそ聴覚《ちようかく》に感じた音だ。彼はお篠《しの》が立ったまま、左右のこぶしを握《にぎ》ってしきりに水平に動かしているのを見た。
口と足指のあいだに張られた一すじの髪《かみ》の毛、それと交叉《こうさ》してこすり合せる一すじの髪の毛。――甲賀《こうが》の毛琴《けごと》。
それは知らなかったが、軍記は本能的に直感した。
「危ない、天八、敵は知らせておるぞ。音で、おまえの位置を」
その音波は、天八もまた聞いたのであろう、くるっとその方向へ回転したが、すぐにお筆の方へ、ト、ト、ト、と指一本の逆立《さかだ》ちで飛んでいった。回転も独楽《こま》のように迅速《じんそく》なら、跳躍《ちようやく》も指頭にばね[#「ばね」に傍点]でもあるかのようであった。
お筆もまた眼あるかのごとく二歩、三歩飛びずさった。が、身を翻《ひるがえ》して逃げはせず、肩衣《かたぎぬ》大|振袖《ふりそで》の姿から銀蛇一閃《ぎんじやいつせん》。
「ええーっ」
逆立ちになった伊賀者《いがもの》の股間《こかん》に振《ふ》り下ろされていた。
ぴしいっ。
肉と金属の相|搏《う》つひびきがした。烏頭坂《うずざか》天八会心の双脚白刃取《そうきやくしらはと》りの妙技《みようぎ》。同時に右|腕《うで》に装填《そうてん》された例の柳葉刀《りゆうようとう》はお筆の胴めがけて薙《な》ぎあげられている。
その柳葉刀はむなしく空を切った。
逆に――空振《からぶ》りしてねじれた天八の腰《こし》から胸へかけて、ななめにお筆の刀身は斬《き》り下げられていた。彼女の刀は天八の足に挟《はさ》まれていなかった!
「クエーッ」
驚愕《きようがく》の絶叫《ぜつきよう》をあげたのは、天八ではない、木ノ目軍記だ。
三
あり得べきことでない。しかし、現実にそれは起った。レーダーみたいな知覚さえ持つのではないかと思われる烏頭坂《うずざか》天八の足の裏は、飛来する何かをたしかに挟《はさ》みとめたのだ。しかもそれは刀ではなかった。
鍔《つば》だ。
斬り込む一刀とともにまず鍔が抜《ぬ》けて飛ぶ。直刀の刀尖《とうせん》から離れた刹那《せつな》、鍔の穴にしかけられた或《あ》るからくりによって、それは敵に向って垂直となる。鍔の外縁は剃刀《かみそり》の刃のようであった。すなわちお筆の第一撃は刀にあらず旋回《せんかい》する鍔《つば》なのであった。それは敵の面上|或《ある》いは胸腹にかけて一線に切り裂《さ》く。それから彼女の第二撃が襲《おそ》うのだ。
そのためには鍔の飛ぶ間合《まあい》をとらねばならぬ。その間合をとって、しかも敵に刀身の第一撃を加えるかに見せるのがお筆の変幻《へんげん》のわざなのであった。逆《さか》ながれの天八の柳葉刀《りゆうようとう》が空を切ったのはそのためだ。が、お筆にしてみれば、むろん烏頭坂《うずざか》天八の怪剣法《かいけんぽう》を知ってのことではない。飛び鍔の刀術こそは彼女の特技なのだ。
それにしても、盲目《もうもく》とされた甲賀《こうが》のくノ一、いかに毛琴《けごと》の信号によったとしても、獣《けもの》の剽悍《ひようかん》さを持つ烏頭坂天八を相手に、よくぞ本来の刀技を発揮した。
いや、それはむしろ彼女が盲目であったせいではあるまいか。盲目のために天八の怪奇《かいき》な構えに惑乱《わくらん》されることがなかったからではなかろうか。そして天八は逆に相手を盲目と知って、目測を疎漏《そろう》にする謬《あやま》ちを犯したのではなかろうか。それともまた――その直前の、臍《へそ》の緒《お》切って以来の「放出」のために運動神経に微妙《びみよう》な狂《くる》いを来していたのではあるまいか?
いずれにせよ、天空からななめに、みじんになれと斬《き》り下げ[#「下げ」に傍点]られたお筆の一刀は、烏頭坂《うずざか》天八の左|腰《こし》から右|肩《かた》へ向っていかんなく斬《き》りあげ[#「あげ」に傍点]た。
「クエーッ」
というさけびを軍記があげたのと、虚空《こくう》にひらいた両足のあいだからまずチリンと鍔《つば》を地に落し、血しぶきの中に烏頭坂天八がころがったのと、
「お篠《しの》、早く」
と、お筆がいったのと、軍記の口からシューッという奇妙《きみよう》な音とともに、ふたたび銀光が噴出《ふんしゆつ》したのが――四つまたたきするほどのあいだであった。
吹針はお筆めがけて吹きつけられた。さっきその眼を吹いたのは、たんぽぽの毛ほどのものであったが、これは曾《かつ》て近江《おうみ》の磨針《すりはり》峠でお琴《こと》を仕止め、越前《えちぜん》今宿の杉並木《すぎなみき》でお藍《あい》を斃《たお》したのと同じ、たたみ針ほどの針であった。それは仕込み杖《づえ》を構えたお筆の右手くびを完全につらぬいた。
本来なら、刀をとり落すところだ。
が、彼女はそのままの構えで凝然《ぎようぜん》と立っている。――
軍記は木立の中を微《かす》かな木の葉の音をたてて逃げてゆくもう一人のくノ一の気配を感じていた。その女は、朋輩《ほうばい》のくノ一を見捨てて逃げたのである。おそらく、暗黙《あんもく》のうちにしめし合せてのことに相違ない。残った盲目《もうもく》の女が「早く」というよりさきに身を翻《ひるがえ》していたのである。
軍記はじっと、その間に立ちふさがった盲のくノ一を見ていた。それから位置を移動してまた針を吹いた。こんどはその左手くびをつらぬいた。女ははじめて仕込み杖《づえ》を落した。
が、お筆はやはりそこに立っている。盲となった彼女は、はじめから逃げられないものと観念しているようだ。
軍記は歩き出した。もはや逃げ去ったもう一人のくノ一を追おうともせず、また血だまりに落ちた醜怪《しゆうかい》な蜘蛛《くも》のような天八の屍骸《しがい》に眼もくれず、お筆の前に近づいた。
「殺せ」
眼をとじたまま、お筆がいった。
軍記は、その両手くびを貫通した二本の長針の端《はし》を握《にぎ》って、ぐいと大きくえぐりながら抜《ぬ》きとった。
はじめて凄《すさ》まじい疼痛《とうつう》を感覚したようにのけぞろうとするお筆の手くびをひっつかむ。
「これで、うぬの両手くびはぶらぶらじゃ」
運動神経を破壊《はかい》したという意味だ。
「これからうぬを、わしがもてあそんでくれる」
――不能のこの男が? とは知らず、はじめてお筆の顔に恐怖《きようふ》の色が浮んだ。本能的にもの恐ろしい予感をおぼえたらしい。
「来い」
彼はお筆の手くびをつかんだまま離れに戻《もど》っていった。
入口に人影がさしているのを見て、彼は立ちどまった。
雪羽である。それを見ても、軍記はべつに驚《おどろ》いた様子もない。彼はさきほどから雪羽が起きていて、天八と二人のくノ一の痴戯《ちぎ》までのぞいていたのを知っている。
それから、どこまで見ていたか。――
「軍記。……」
と、ただそれだけ雪羽はいった。
木ノ目軍記はいった。
「人質でござる。あの宰領《さいりよう》をおびき寄せるための囮《おとり》。――思いみれば、半井《なからい》家の秘書のため、七人の伊賀者《いがもの》のうち、なんと六人までここに落命つかまつった。――雪羽さま、まさかお止めなさるまいな?」
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断鬼交《だんきこう》
一
天下の秋は、この三国峠《みくにとうげ》からひろがってゆくように思われる。
赤谷川《あかやがわ》に沿って、猿《さる》ヶ京《きよう》へ下る道。杉《すぎ》は黄葉によっていよいよ美しく、紅葉は杉によってますます美しい。しかし一方には赤谷川の渓谷《けいこく》が伴《ともな》い、蛇行《だこう》する道はいまにも崩《くず》れそうで、黄葉紅葉に見とれていると、それが谷底へ散るにつれてこちらもふらふらと舞《ま》い落ちそうな眼くらみに襲《おそ》われる。
その道を飄《ひよう》 々《ひよう》たる声が下りてゆく。
「房内篇《ぼうないへん》第十七、七損《しちそん》の章。――これは身体の具合がよくないときにそれを治する房術《ぼうじゆつ》じゃ。おお、これについては先日、浅貝《あさかい》の宿で、半分は聞かせた喃《のう》、……」
軍記である。
「では、あの次を聞かせてやろう。よう憶《おぼ》えておけ。……その四、気泄《きせつ》。疲《つか》れはてたるときは、男、正しく伸び伏し、女その上になりて足に向わしめ、みずから動かしむ。日に九たび行わば十日にして癒《い》ゆとある。……その五、機関《きかん》。肝臓《かんぞう》その他内臓の慢性疾患《まんせいしつかん》をわずらい、陰|萎《な》えたるときは、男、正しく伏し、女、その上にまたがりてしゃがみ、前に向い、みずから揺《ゆ》らしむる。日に九たび行わば十日にして癒ゆとある。……」
彼は一メートルばかり離れたお筆にしゃべっているのであった。二人の間は、鎖《くさり》でつながれている。二人の手くびには手錠《てじよう》みたいなものがはまっている。
「その六、百閇《ひやくへい》。女|淫《みだ》らにしてみずから節せず、男の精尽《せいつ》きたるときは、正しく伏し、女、その上になりて、みずから揺らしむ。日に九たび行わば十日にして癒ゆとある。その七、血竭《けつけつ》。これはさらに度が過ぎて、茎痛み嚢《のう》しめり、精変じて血となりたるときは、女をして正しく臥《ふ》し、その腰《こし》を高くあげ、両|脚《あし》を伸び張らしむ。その間にひざまずき、女をしてみずから揺らしむ。日に九たびこれを行わば十日にして癒ゆとある。……」
お筆は鎖にひかれて歩いていた。
逃げようにも眼はつぶされ、手鎖をはずそうにも、その両手くびから先はどっちも運動神経を破壊《はかい》されている。そして、歩いている足さえ、まるで酔《よ》ってでもいるようによろめいていた。
危ういかな、その足の下は眼もくらみそうな断崖《だんがい》だというのに。――数メートルうしろから歩いている雪羽《ゆきは》は、その二人への好悪はべつとして、間断なく全身に冷気の走るのをおぼえた。眼は見えず、手は動かずとも、女がからだじゅうでぶつかっていったら、ひょろりと痩《や》せた軍記もろとも、谷の底へあの紅葉のごとく落ちてゆくのではなかろうか。
そういう警戒心はまったく抱《いだ》かないように、それどころか軍記自身平気で足をひょろつかせている。見ると――網代笠《あじろがさ》の下で、彼は眼さえつぶっているではないか。
敵の甲賀《こうが》のくノ一、味方の伊賀者《いがもの》、その心理も行動も、いまさらのことではないが雪羽の常識を超えている。かけねなく、ぞっとするような連中ではある。――彼らはいったい何を考えているのか。
わからないといえば、もう三、四日も前になるが、三国峠浅貝の宿のあの惨劇《さんげき》の夜以来の二人の行状もわからない。二人というより、むろん能動者は木ノ目軍記だが。
あれ以来、軍記はしゃべりつづけていた。三十章にわたる房内篇《ぼうないへん》のいたる個所《ところ》を。
男女が精気をたくわえるための処方を説く第二養陽の章、第三養陰の章。床入《とこい》りの奥義《おうぎ》を論ずる第五臨御の章。男女春情の昂《たか》まりの経過を述べる第十第十一の四至《しし》の章、九気《きゆうき》の章。性器の損傷の予防治療を講ずる第二十治傷の章。或《ある》いは受胎の秘術を弁ずる第二十一|求子《きゆうし》の章。……など、など、など。
それを、順に従って整然としゃべるのではない。まるでめちゃくちゃだ。
「房内篇《ぼうないへん》の中身を教えてやれとの、さるむきの御意向でな。それを実行しておることは、以前からうぬらも察しておろうが」
と、軍記は、あっけにとられている雪羽を横目で見ていう。
「うぬもなお聞きたかろう。よう耳を澄ましておれや」
しかし彼は、この女を陽馬のもとへ帰すつもりでいるのか。また女もふたたび帰るつもりでいるのか。
そうとは思えない。なんとなればこの講義のしようがあまり残忍《ざんにん》だからだ。軍記はこれを講じて、夜も昼もそのくノ一を一睡《いつすい》もさせないのであった。
雪羽の見たのは、それに耐《た》えて、手鎖《てぐさり》につながれたまま、いろりばたに寂然《せきぜん》と坐《すわ》って聞いているお筆の姿だ。それほどまでにして房内篇を耳に入れたいのか、と、見ていて雪羽は、この甲賀娘《こうがむすめ》にいじらしさとともにその執念《しゆうねん》に恐ろしさをおぼえた。二、三日のうちにお筆は、蝋《ろう》をけずったように痩《や》せて、この世のものならぬ凄艶《せいえん》さに変った。軍記は――道中からますます痩せていたが――その数日のあいだに、まるでしゃりこうべのようになった。
雪羽の知っているのはそれだけだ。だからこの二人のこういう行動は謎《なぞ》としか思えない。
事実は――軍記がお筆を眠らせなかったのであった。眠ろうとして崩《くず》れかかるからだを手鎖《てぐさり》でひき起す。耳たぶに口をつけて、房内篇《ぼうないへん》をささやきつづける、はては、閉じたまぶたを針でつつき、胸をかきひらいて乳房《ちぶさ》に燃え残りの木の枝を押しつける。――
およそ世に睡魔《すいま》とたたかうほど苦しい拷問《ごうもん》はない。軍記の欲するのは、ただこの甲賀くノ一を眠らせないことであった。そして、それもまた真の目的ではなく、或《あ》る実験のための手段に過ぎなかった。
それにしても、眠らせられないお筆も大変だが、眠らせない軍記もそれに劣らずらくでない。相手を眠らせないために、そして或る目的のために、彼もまた眠ってはならなかったからだ。それに彼は、この甲賀のくノ一を捕《とら》えるずっと以前から、ほとんど眠ったことがない。――
朦朧《もうろう》とけぶった木ノ目軍記の頭に揺曳《ようえい》していたことは何であったか。
「断鬼交《だんきこう》」
二
軍記はおのれの不能を恥《は》じなかった。
むろん、若いころは大いに狼狽《ろうばい》し、かつ苦悶《くもん》したが、やがてその悩《なや》みを克服《こくふく》した。その治療法は、「おれを起たせるような女はこの世にいない」と考えることであった。それを苦しまぎれの自己|偽瞞《ぎまん》とは思わず、確信するほど彼は――こう見えて自尊心の強い男であった。
不能だからといって、欲望がないわけではない。淫学《いんがく》の奥義《おうぎ》を究《きわ》めるほど性への異常な興味はあるのである。また、しばしば春夢は見るのである。ただ、その興味を具体的な行動に移すほどの女が現実の世界にいないだけだ。
恥ずかしいことなら、ほかにある。自分の容貌《ようぼう》がそうであり、肉体がそうである。むしろそれが真の原因であり、不能はその結果としての現象に過ぎなかったかも知れない。彼のコンプレックスは、万が一自分の腕《うで》の中で女が甘い吐息《といき》をついてもそれに不信の念を払拭《ふつしよく》し得ないことを予測させ、かつ彼の誇《ほこ》り高い知性は、女と交わっている自分の姿の滑稽《こつけい》さを想像させた。
ただ、いまいったように春夢は見る。それも常人に比して異常な頻度《ひんど》で見る。そして夢の中では、断じて不能でないのみならず、自分に全然滑稽感がなく、その快楽《けらく》が信じられた。かくて。――
いつのころからか、彼は欲すれば自在に春夢を見るわざを体得するに至った。艶夢《えんむ》の中の女人は、たしかに彼が「おれにふさわしい女は世にいない」と自負する通り、現実の世界のだれというわけではなく、目覚めていて彼の夢想する理想的美女であった。それは万華鏡《まんげきよう》を廻《まわ》すように、夜々によってちがったが、ふしぎに――実に彼らしくもなく――清麗《せいれい》なること玻璃《はり》のごとき美女であることは共通していた。その女人が、彼の淫学的《いんがくてき》知識のかぎりをつくして、快楽の中に彼と溶け合ってくれるのだ。
そこにこんどの旅だ。
軍記ははじめて彼の夢想する女人がこの世に存在することを知った。清純|玲瓏《れいろう》、玻璃|燈籠《どうろう》のごとき美女が。――
雪羽である。
旅の夜々、この蒼白《あおじろ》い、細長い、荘重《そうちよう》な顔をした雲水《うんすい》姿の忍者《にんじや》は、夢の中で雪羽を犯した。しかし、醒《さ》めれば現実の雪羽はむろん冷然としていた。はじめて彼は、持論に反して現実の女人と何らの交流のないことに不満、不満どころか苦悶《くもん》をおぼえた。
では、現実の雪羽と交流出来るか。――
医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》には、通常の不能を治する種々の法は書いてある。ただし、彼のような先天的ともいっていい完全無欠の不能を癒《なお》す法は書いてない。この点ではまさに彼は、話にきいた江戸の公方《くぼう》さまより見込みがない。そしてまた、よしやためしにその第二十治傷の章や第二十六|用薬石《ようやくせき》の章を試みて、たとえ成功したとしても――彼はそれを欲しなかった。たとえ現実に雪羽を犯そうと、雪羽が夢の中のように自分に溶け合ってくれることは断じてあり得ない。
彼はこの矛盾《むじゆん》に苦しんだ。
このときにあたって、彼は発見したのだ。房内篇第二十五|断鬼交《だんきこう》の章を。
「鬼交」とは何か。女人の夢交のことである。女人の春夢のことである。――
「玉房秘訣《ぎよくぼうひけつ》にいう。何を以て鬼交《きこう》の病あるか。曰《いわ》く、陰陽交わらず、情欲たかぶるにより、すなわち鬼魅入《きみい》りて、かたちをかりてこれと交わる。これと交わるの道は、それ人より勝《まさ》るあり。
その事実を験《ため》さんと欲せば、春秋のときに深山|大沢《だいたく》の間に入り、なすところなく、ただ陰陽交わうるを思う。三日三夜ののち、すなわち身体寒熱し、眼くらみて男を見る。
これを治せざれば、女を殺すに数年を過ぎざるなり。独り死するに至るも、これを知る者なし」
「断鬼交《だんきこう》」とは、この夢交を断つの法である。それにも二、三の治療法がある。
「これを治するの法は、ただ女をして男と交わらしめて、しかも男は精を出すことなかれ。昼夜|憩《いこ》うことなかれ。苦しむ者も七日を過ぎずして必ず癒《い》ゆ」
つまり、阿修羅《あしゆら》のごとく実行するにかぎるというのだ。軍記からみても、いくら医心方《いしんぽう》でもこれはあんまり智慧《ちえ》がない。
「石流黄《せきりゆうおう》数両を焼き、以て婦人の陰を燻《いぶ》すべし。ならびに鹿角《ろくかく》の粉を方寸匕服《ほうすんひの》まばすなわち癒ゆ」
つまり、亜硫酸《ありゆうさん》ガスで燻蒸《くんじよう》し、鹿《しか》の角の粉末を小匙《こさじ》で服用せよというのだ。これも果して効験あるかどうか疑わしい。
そんなことはどうでもよろしい。木ノ目軍記の頭にそのときひらめいたのは、正確にいえばこの「断鬼交《だんきこう》」そのものではなかった。つまり女人の春夢を断つことではなかった。
あたりまえのことだが、女もまた春夢をみることがあるということであった。そしてまた、断鬼交とは反対に、女に春夢を見させる法|如何《いかん》ということであった。
結論からいえば、その雪羽に自分との交わりを夢みさせる法はないか。――そのときは彼女もまた全身|全霊《ぜんれい》をあげて、快楽《けらく》の中にこのわしと溶け合うのではないか?
夢というものは、他方に現実あればこそだ。双方、同時に同じ夢を見ているならば、もはや二人の間にそれ以外の現実はない。夢の世界が現実そのものとなる。いわんや、その夢の世界を一日二十四時にちかく拡大したならば如何《いかん》。
彼が個人的見解として、
――房内篇《ぼうないへん》の神秘測るべからず。
と嘆じいったのは、この「断鬼交」の章に霊感を得て、「通鬼交」ともいうべき術の創造の暗示を受けたからであった。この場合「鬼」はまさに彼自身となる。
これならば、彼女にもふせぐすべがなく、夢交して何らおのれにコンプレックスを感ずるところなく、また京へ帰還《きかん》して以後、青蓮院《しようれんいん》の宮も半井出雲守《なからいいずものかみ》もとがめようがない。
自在に相手との艶夢《えんむ》を夢み、同時に相手に自分との艶夢を夢みさせる忍法《にんぽう》「通鬼交《つうきこう》」。
木ノ目軍記が甲賀《こうが》のくノ一お筆を材料に死力をしぼって実験しているのはこれなのであった。
三
からくれないの錦《にしき》に彩《いろど》られた千丈《せんじよう》の断崖《だんがい》に沿うて、手鎖《てぐさり》でつながったまま千鳥足でゆく伊賀《いが》の忍者《にんじや》と甲賀のくノ一。その足もとからは、サササという音とともに土が崩《くず》れ、小石がころがり落ちてゆく。
酔《よ》っているのではない。――彼らは眠っているのだ!
強度の不眠のはてに、いまや彼らは眠りつつ歩いている。いわゆる夢中|遊行《ゆうこう》にほぼひとしい。
ただ夢遊状態にある人間としては、からだの動かし方が異様すぎる。二人の腰《こし》は前後に浮動している。軍記が腰をつき出せば、お筆も腰をつき出す。軍記が腰をひけば、お筆も腰をひく。そして軍記が腰を廻《まわ》せば、お筆もまた腰を廻す。――
それどころか、お筆の胸の起伏、あえぎようもたんなる険路の歩行のためとは思われない。蝋《ろう》をけずったような頬《ほお》はぼうっと紅を刷《は》いたようになり、ときどき舌さえ吐《は》いた。それが、自分で舌を吐くというより、何か外部のものに吸われているようなそよぎを見せた。
実に彼女は、歩みつつ眠り、眠りつつ春夢を夢みているのであった。夢の中で木ノ目軍記に犯されているのであった。
むろん、軍記はこの女を犯している夢を見ている。それを夢みる彼の脳髄《のうずい》から一種特別の脳波《のうは》が放射され、女の脳波を刺戟《しげき》し、同時に同様の春夢を夢みさせているのだ。
――どうじゃ、どうじゃ? おれほどの男はまたとあるまいが?
房内篇《ぼうないへん》の九法三十法どころではない。夢の世界でしかあり得ない奇怪《きかい》なラーゲのお筆をさいなみつつ、軍記は笑う。お筆は髪《かみ》ふりみだし、のけぞりかえり、身もだえした。天与《てんよ》の清爽《せいそう》な美貌《びぼう》が、形容もできない淫猥《いんわい》な炎に燃えあがっていた。
――もっと? うぬは房内篇《ぼうないへん》の中のどれを憶《おぼ》えておる? どれをいちばん好ましいと思う?
――どれでもいい、どれも。――
――いや欲の深いやつだ。何でも一ついってみろ。
――では、あの鸞雙舞《らんそうぶ》とやらを。
――なに、あれか? あれはいかん。あれは二人の女を要する。しかし、うぬは――あとで天八を斬《き》ったくせに、ははあ、意識の底ではあの天八による足淫《そくいん》がそれほど気に入っていたのじゃな?
夢の中で、軍記は意外に思い、すぐにまた、さもあらん、とうなずいた。この思考が彼をやや覚醒《かくせい》に戻《もど》した。覚醒時のあらかじめの計画が夢の中へ流入した。
――つれてくるか、先夜逃げたあのくノ一を?
――いや! わたし一人を可愛《かわい》がって!
――一人では鸞雙舞は出来ぬ。
――出来なくてもいい。ただもっとわたしを可愛がって――もっと、もっと!
――いや、つれて来い。わしのわざは天八どころではない。わしの力は無限だ。見ろ。
軍記は、不能どころか、現実世界には存在し得ない物量と力量を以て、くノ一のからだをうちたたいた。女は泣き声にちかい声をあげてそれにまつわりついた。見ろ、といったが、いかにも夢の中ではお筆の星眼はひらき、手もまた蛇《へび》のように動いた。
――つれて来い。先夜聞かせた八益《はちえき》七損の房《ぼう》 中《ちゆう》 術《じゆつ》。あれには別に心得ねばならぬ秘法の鍵《かぎ》がある。それ知らねば、あれはほとんど無益不可能となる。その鍵はいわゆる還精《かんせい》の術じゃ。それ聞きたくばもういちど来いといって、つれて来い。
――参りまする!
――ゆけ!
このとき、つづら折りの山道では、盲目《もうもく》のお筆は軍記の手鎖《てぐさり》から放たれて、ト、ト、トと先に走り出している。あ、あ、あ、と雪羽は思わずさけんだ。
「大丈夫《だいじようぶ》でござる」
と、軍記はふり返った。しゃりこうべみたいな眼窩《がんか》の奥で、眼はひらいていた。彼はその数瞬《すうしゆん》前から覚醒《かくせい》していたのである。
では、軍記はやはりあの女を逃がしたのか?
ほっとする半面、なおその心を疑って、雪羽は軍記をながめ、何とも名状しがたいぶきみさに金縛《かなしば》りになったような気がした。彼は眼をあけている。しかも、どこか眠っているような感じでもある。夢界と現実界に浮遊する人間の顔の妖《あや》しさであった。
が、木ノ目軍記ははっきりと覚醒《かくせい》した意識のつもりで、心中笑いにどよめいていた。
ついに成った、忍法《にんぽう》「通鬼交《つうきこう》」。
夢の中で完全にあの女を蹂躪《じゆうりん》したのみならず、いまやこちらは醒《さ》めていて、なおあの女を夢遊状態にして操《あやつ》ることが出来るようになったのだ!
そして、あの甲賀《こうが》くノ一は、たんなる実験に過ぎなかった。
あのくノ一にしてこの通りうまくゆくならば、ほかの女にそれが適用出来ないはずはない。――
狙《ねら》いは雪羽だ。
いまやこのわしは、この天上の女人を肉欲の昆虫《こんちゆう》にひき落し、地獄《じごく》の底を這《は》い廻《まわ》らせ、飛び廻らせることが出来る。犯すといえば嬉々《きき》として応じ、わしに恋着《れんちやく》せよと望めば恋着し――そしてまた、あの丹波《たんば》陽馬を殺せと夢の中で命じたならば、現実にその通りに動くであろう。
舞《ま》い散る紅葉の中に、断崖《だんがい》のふちにひょろりと立つ雲水《うんすい》を見て雪羽が感じた戦慄《せんりつ》は、決していわれのないものではなかった。なぜか彼女は、ふらっとふしぎな睡魔《すいま》に襲《おそ》われるのをおぼえた。
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異次元同志
一
「陽馬《ようま》さま」
「うむ」
「わたしにはまだわからないことがあります」
「うむ」
おちつきはらった返事をしたが、丹波《たんば》陽馬はやや動揺《どうよう》した眼つきをした。
三国峠|南麓《なんろく》の上野《こうずけ》国、猿《さる》ヶ京《きよう》の宿《しゆく》。――いまは赤谷湖《あかやこ》のほとりにある温泉地だが、これは後年に出来た人造湖で、このころはたんなる山中の小駅だが、湯はこのころから、この旅籠《はたご》にも湧《わ》いていた。
その一室で、いま、お篠《しの》から、彼女が死をかけてきいてきた房内篇七損《ぼうないへんしちそん》の章、八益《はちえき》の章などを、自分の房内帖《ぼうないちよう》に書きとどめていた陽馬は、
「例の鸞雙舞《らんそうぶ》のことか」
と、うんざりした顔をむけた。お篠はくびをふった。
「いいえ、鸞雙舞《らんそうぶ》についての疑問は解けました。それはいま御報告申しあげたではありませんか」
きいたが、陽馬にはまだよくわからない。
わからないが、房内篇《ぼうないへん》の記述についての疑点を、甲賀《こうが》くノ一――とくにこのお篠《しの》とともにいちいち検討しようとは思わない。決して木強漢《ぼつきようかん》ではない陽馬だが、こういう問題についてあまりにもむきになって、真正面から疑問をぶつけてくるお篠には、正直にいって少なからず辟易《へきえき》させられるものがある。いま、わからないことがある、とまたお篠にいわれて、彼が動揺《どうよう》した眼つきをしたのはそのためだ。
「と、いうと?」
「これもまえにお筆がいったことなのですけれど、こういう房術《ぼうじゆつ》が、果して上様にどんなお役に立つのでしょうか?」
いかにもいつかお筆がいったように、九法三十法を思うがままに駆使《くし》できるような旺盛《おうせい》な人物なら、そもそもはじめから房術など無用といっていいわけである。
「それについては、ちょっときいたことがある」
と、陽馬はうなずいた。
「房内篇《ぼうないへん》には、それらの秘術を可能とする鍵《かぎ》となる別の秘術もあるらしい。……」
「――やはり」
と、さけんでお篠《しの》は立ちあがろうとした。
「どこへゆく」
「その秘術を知りに、もういちど敵のところへ」
「なに?」
陽馬はちょっと眼をまるくしたが、
「おお、おれもゆこう」
と、刀をとって腰《こし》をあげかけた。お篠はにっと笑った。
「いえ、あなたはやはり待っていて下されませ」
「なぜ?」
「みな死んでしまっては、このたびの御用果せませぬゆえ」
「みな死ぬとはかぎらぬ。おまえにきけば、敵の伊賀者《いがもの》はあとたった一人、あの雲水《うんすい》姿のやつばかりというではないか。一見したところ、あの男、いままでに討ち果した敵の中では、いちばん手軽なやつと思われるが。――」
「いえ、わたしから見ると、あれがあちらの主領株、いちばんぶきみな男に思われまする」
「……ならばこそ、いっそうおれがゆかねばならぬ」
お篠《しの》の笑いを淡《あわ》いながら嘲《ちよう》 笑《しよう》と感じて、陽馬はいっそういきり立った。
これはしかし、彼の動揺《どうよう》から発した思い過しであったかも知れない。――実際彼は、甲賀《こうが》のくノ一たちの、動揺を知らぬ、壮絶無比、真一文字の死闘《しとう》ぶりには舌をまいている。
この三国|峠《とうげ》をめぐる攻防に於《おい》ても。――
あの夜、峠の北麓三股《ほくろくみつまた》の宿に泊っていた陽馬は、お篠とお筆がいつ出かけたのか知らなかった。不安がりつつ、彼女たちを待って、数日後、ついに待ちかねて、先に峠を越えた。敵の一行が浅貝《あさかい》の宿に泊っているとはきいていて、そこを通るとき、念のためいくつかの旅籠《はたご》を探ってみたが、その気配もない。さては峠をもう越えたかと、あわてて自分もこの猿《さる》ヶ京《きよう》まで越えて来て、そして思いがけずあとを追って来たお篠一人にめぐり合ったのであった。
お筆は? ときくと、蒼白《あおじろ》い顔で、しかし平然として、浅貝の宿で敵とやり合い、お筆は甲賀者《こうがもの》としてみごとに死んだという。
「けれど、あの恐ろしいおんぎょう[#「おんぎょう」に傍点]の男は討ち果しました」
ああ、と瞳《ひとみ》をひらかずにはいられない。思えば、自分が江戸からつれて来た七人のくノ一のうち、六人まで死なせてしまったことになる。――
詳《くわ》しくきけば、敵の一行は、浅貝の旅籠《はたご》は旅籠でも、その奥の森の中の離れにひそんでいたらしい。そして敵は、いまでもそこに滞留しているらしい。
そうときいて、陽馬がまなじりを決してそこへとって返さなかったのにはわけがある。いや、とって返そうとはしたのだが、見えない力がその足をぐいと釘《くぎ》づけにしてしまったのだ。
敵の一行。――敵と呼ぶべきか。
雪羽の存在。
彼女に密着した敵があと一人ときけば、いっそう彼女の処置に思いみだれずにはいられない。その敵一人を斃《たお》したあと、彼女をいかがすべき?
敵が房内篇《ぼうないへん》の内容を伝えてくれたのには、明らかに雪羽の意志が働いている。かなしい、必死の彼女の願いだ。しかしまた、その敵とあえて行をともにする彼女の心事には、半井《なからい》家に伝えられる秘書を断じて渡してなるものかという覚悟《かくご》も一貫している。――
その雪羽の腕《うで》から、房内篇を奪《うば》えるか。
さればとて、自分が老中阿部伊勢守《ろうじゆうあべいせのかみ》さまから命ぜられたのは、医心方《いしんぽう》房内篇を奪《うば》えという指令である。それを、たんなる聞き書きで済ませ得るか否かは、ほんとうのところ自分としても甚《はなは》だ心もとない。それに――おのれの面目|或《ある》いは多紀《たき》家の命運はさておいても、このために命を捨てた六人のくノ一のためにも!
思い、ここに至れば、生来明朗|闊達《かつたつ》なる陽馬も金縛《かなしば》りにならざるを得ない。
――とはいえ、いま。
ただ一人残ったくノ一お篠《しの》が、まるで置き忘れたものを取りにゆくように、ふたたびまた死地に赴《おもむ》こうとしているのを見れば、彼たるもの、やはりのうのうとここに腕組《うでぐ》みしてはいられない。
「わたしが、心配ですか?」
ふりむいて、お篠はまたにいっと笑った。
「御心配は御無用です。わたしは甲賀《こうが》のくノ一です」
「それは承知しておる。しかし。――」
お篠は立ったまま、陽馬の肩《かた》をおさえた。
その動作がやや異様であったので、陽馬が坐《すわ》ったままで見あげると――どうしたことか、見下ろしたお篠の眼に、涙《なみだ》がみるみる盛《も》りあがって来た。
二
はて?
死地に赴《おもむ》くじぶんの運命が哀《かな》しいのか? しかしいまこの女は、心配無用といった。それにしてもみずから誇《ほこ》っていう甲賀《こうが》のくノ一らしくもない。――
と、まじまじと見ひらいた陽馬の眼に、お篠《しの》の眼から二粒の真珠がころがり落ちた。涙《なみだ》であった。反射的に眼をとじたが、とじた眼裂《がんれつ》を、それはじわんと濡《ぬ》らした。
陽馬は眼をあけた。肩《かた》から手を離し、スルスルとお篠は遠ざかった。三メートルばかり向うへ。
「?」
見ていると、彼女はどこからかひとすじの銀色の鎖《くさり》をとり出した。尖端《せんたん》に薄《うす》い鍔《つば》みたいなものがついている。――陽馬は確認し得なかったが、それはお筆の武器たる飛び鍔と同じものであった。――それを彼女はくるくると布でつつんだ。
「これを投げます」
と、お篠はいった。
陽馬はお篠が鎖とその物体を左手に握《にぎ》っているのに気がついた。はて、この女は左利《ひだりき》きであったか?
「受けとめられますか?」
「おお」
さすがに陽馬は片ひざ立てる。
「甲賀忍法紅涙鏡《こうがにんぽうこうるいきよう》!」
さけびとともに、その銀の鎖《くさり》は振《ふ》り出された。
鎖はゆっくりと、弓のごとくたわみつつ、布でくるんだものを飛来させた。彼女の左|腕《うで》から――つまり陽馬の右半身めがけて。
本能的に陽馬は右腕をあげてこれを防ごうとした。
きらっと鎖の閃光《せんこう》が眼を流れたのは、しかし左からである。右から薙《な》ぎつけられた鎖が、いつ左へ変ったのか、まさに眼にもとまらない。陽馬は、彼らしくもなく、あわててたたみの上に身を伏せた。
「オ、ホ、ホ、ホ」
笑うお篠《しの》の左手に、妖《あや》しの鎖はふたたび吸い込まれている。身を起し、丹波《たんば》陽馬はかっと眼を見ひらいたまま、息も出来ぬ思いであった。いま、お篠はあきらかにセーブして鎖を振り出した。おそらく本来は、稲妻のごとく薙《な》ぎつけて来るものであろう。況《いわ》んや、その尖端《せんたん》にとりつけられたものが、布でくるまれていなかったら?
「陽馬さま」
「ううむ」
「いかが? 甲賀《こうが》の紅涙鏡《こうるいきよう》。――」
「紅涙鏡」
「あなたの見ていらっしゃるお篠《しの》は、鏡の中のお篠です」
「なんだと?」
「わたしが左手から振り出したように見えたのは、ほんとうは右腕から振り出したのです」
「…………」
「わたしの姿ばかりではありません。あなたの見ている世界はみんな鏡の中の世界です。――眼をぬぐえば、もとに戻《もど》りますけれど」
「…………」
陽馬はうなり声をたてるのさえ忘れた。それから、あわてて眼をぬぐった。
お篠の左手に垂れていた銀の鎖《くさり》が忽然《こつねん》と右手に移った。
彼女がそれをしまい、近づいて来て、彼の傍《かたわら》に坐《すわ》っても、陽馬はまだ疑わしげに相手の右左に眼を走らせている。
真の物体の左右を逆に見る。これはまさに恐《おそ》るべきめくらまし[#「めくらまし」に傍点]だ。
たとえこの女に妖《あや》しの鎖《くさり》と鍔《つば》を持たせず、刀を取らせたとしても、これと勝負するときは、いかなる剣客でも敗れをとらずにはいられまい。――
「し、しかし。――」
やっと陽馬はいった。
「涙《なみだ》じゃな。おまえの涙のわざじゃな。しかし、その涙をいつもうまく相手の眼に入れることが出来るか」
「それなのです」
お篠《しの》はいった。
「でも、こうすれば?」
彼女はいきなり陽馬のくびに片|腕《うで》を巻いた。陽馬はぎょっとして、それをふりはなそうとした。
「待って下さい。これは練習なのです。――あの伊賀《いが》の雲水《うんすい》との」
陽馬の手はとまってしまった。
実に研究意欲の強い女である。これまでも彼女が房内篇《ぼうないへん》の内容を、いちいちお筆と女どうしでテストして、それをあらわに陽馬に見せて彼を辟易《へきえき》させたのは前に述べた通りである。本人が貞潔《ていけつ》な若妻のようにきりっとした美貌《びぼう》だけに、陽馬も面《おもて》をそむけるような妖《あや》しさを感じたものだが、しかし淫蕩《いんとう》な女とはついぞ思わなかった。それ以上に、彼女の熾烈《しれつ》な研究意欲に打たれざるを得なかったのだ。
が、ちかぢかと寄ったお篠《しの》の眼に、またも盛《も》りあがって来た涙《なみだ》――恐るべき「紅涙《こうるい》」を見ると、あわててまた顔をそらそうとした。
「あの雲水《うんすい》を討ちさえすれば、あとは房内篇《ぼうないへん》を持っている半井《なからい》の娘《むすめ》一人。――でも、あの男は、考えれば考えるほど一筋縄《ひとすじなわ》ではゆかない男。そうやすやすと、わたしの涙を眼に入れてくれようとは思えません。――そのときは、お篠はこの世に」
眼はもとより、鼻も口も――お篠とは思えない熱いかぐわしい息が陽馬の顔にからまりついた。ちがう、たしかにふだんのお篠とはちがう。
「陽馬さま」
声さえも別人のように嗄《か》れて、お篠は全身をすりつけた。
「今生の名残りに、わたしをいちどほんとうに抱《だ》いて。――房内篇の一つを、どれでもいちどわたしに験《ため》してみて――いいえ、験しにではなく、ほんとうに!」
涙が飛び散って、陽馬の眼に入った。彼はあわてて、二人の顔のあいだに指をねじ入れて眼をぬぐいながら、
「ば、ばかめ、よさぬか」
「じっとして、陽馬さま、これは敵を討つための練習なのです。――」
そのとき、二人のからだは離れた。
飛びずさったのは、お篠《しの》の方であった。彼女は、うしろにくびをねじむけていた。陽馬には何も聞えなかったが、甲賀《こうが》の忍者《にんじや》たるお篠は何やら物音をききとめたらしい。
彼女は立っていって、秋の日ざしを受けた障子をあけた。
庭に肩衣《かたぎぬ》大|振袖《ふりそで》をつけた女が、葉鶏頭《はげいとう》を足にからませてふらりと立っていた。
「……お筆!」
お篠はたまぎるような声をあげていた。
「生きていたの?」
三
――実のところお篠は陽馬に、「お筆は甲賀者としてみごとに死んだ」と報告したが、そのことについて一点の疑念を抱《いだ》いていた。
お篠はお筆の死そのものを目撃《もくげき》してはいない。それ以前に彼女は逃げたからだ。が、あの場合、お筆が生存しているはずはない。それは承知で逃げたものの、それでも虫の知らせか心にひっかかるものがあった。で、あれ以後も、一、二度|浅貝《あさかい》の宿に立ち戻《もど》り、遠くから例の離れをうかがった。離れは人なきがごとく寂《せき》としずまり返っている。しかし、決して無人《ぶにん》ではない。無人どころか、何者かが名状しがたい妖気《ようき》を発している。むろんその発源地があの雲水《うんすい》以外にあろうはずがない。五感以上のものでそれを感じて、お篠《しの》ほどのものがぞっとした。敵は自分を待ち受けている。――
念のため、甲賀《こうが》の毛琴《けごと》を発信して見た。応答はない。――ゆえなきみれんだ。甲賀のくノ一が、虜《とりこ》となって生きているはずがない!
そううなずいて、あきらめてお篠は、それまでに得た房内篇《ぼうないへん》の知識を、ともかくも陽馬に報告すべく、彼のあとを追ったのである。
――こうまで念を入れたにもかかわらず、それでもなおかつお筆の死に一脈の疑いが払拭《ふつしよく》し切れなかったのは、さすがは甲賀のくノ一どうしの――中でも姉妹のごとく気の合った人間としてふしぎな感覚といえる。
陽馬への報告を終えたあと、突如《とつじよ》として彼女が、「すぐまた敵のところへ」ととって返そうとしたのは、例の房内篇《ぼうないへん》中の鍵《かぎ》とやらの件もさることながら、実は右の払拭《ふつしよく》し切れぬ疑心が、卒然としてまたよみがえったからにほかならない。
執拗《しつよう》な疑いはいわれのないものではなかった。果然、お筆は生きていた! 生きて、ここへやって来た。――
「おまえ、生きて。――」
はだしで庭へ飛び下りて、まろぶように駆《か》けていったお篠《しの》は、ふいにぴたりと立ちどまった。
生きて?
生きているにはちがいない。肩衣《かたぎぬ》大|振袖《ふりそで》とはいうものの、肩は裂《さ》け、袖《そで》はちぎれ、ところどころ白い肉がむき出しになっている。髪《かみ》は解けて背につたい、そして何という顔色だろう。透《す》き通るような蒼味《あおみ》をおび、そして蝋《ろう》をけずったように痩《や》せている。ただ帯のあいだに、女だてらに刀のように竹杖《ちくじよう》をさしていた。
が、敵のところからぶじに逃げて来た以上、これくらいのことはあるだろう。ただお篠の足をとめたのは、その姿以上の名状しがたい妖気《ようき》であった。それが、なんと、お篠があの離れに偵察《ていさつ》にいったときに感覚したものと同様の。
「眼がつぶれて。――」
と、お篠《しの》はいった。
いってから、はっとした。いかにもお筆の両眼はとじられている。――彼女の死には一抹《いちまつ》の疑念があったが、その眼が伊賀《いが》の雲水《うんすい》の針によってつぶされたことはお篠も確認している。はっとしたのは、眼をつぶされたお筆が、杖《つえ》もつかずにどうしてここまでやって来たか、ということに気がついたからであった。
「おいで、お篠」
と、お筆はいった。
「わたしといっしょに」
「どこへ?」
「わたしのゆくところへ」
「何をしに」
「もういちど、鸞雙舞《らんそうぶ》を味わいに」
赤い葉鶏頭《はげいとう》の中に立って、妙《みよう》な風に両|腕《うで》をだらりと垂れて、からだをゆらゆらさせながらお筆はいう。
縁側《えんがわ》まで出て、茫然《ぼうぜん》と見ていた陽馬は、ながれるような冷気を背すじにおぼえた。あくまで澄明《ちようめい》な秋の山の日光を満身にあびて立つお筆が、眼をとじたまま、このときにんまりと笑うのを見たからであった。そしてその笑いが、あの清爽《せいそう》美少年のごときお筆とは別人のような淫猥《いんわい》きわまるものであることを感覚したからであった。
お篠《しの》はさけんだ。
「あの男のところへかえ?」
「あの男?――あのお方――あれほどたくましい、無限の力を持ったお方がまたとあろうか。そうじゃ、あのお方のところへゆけば、男が無限の力を持つ秘法、還精《かんせい》の術を御伝授願えるぞえ。――」
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夢のかよい路《じ》
一
その伊賀《いが》の雲水《うんすい》はどこにいる?
きこうとして、お篠《しの》は声をのみ、お筆の両手に眼をとめ、その傍《かたわら》に寄った。だらりと垂れた手つきに気がついたのである。
その手をとって、
「あ」
と、ぎょっとしたような声をあげた。
「これはいったいどうしたのじゃえ?」
「――ふ、ふ、ふ」
と、あきらかに運動機能を失った手を垂れているにもかかわらず、お筆は笑った。妙《みよう》に淫《みだ》らなふくみ笑いであった。
「男には手が要るが、女には要らぬ。――」
何のことだか、とっさにはお篠《しの》にもわからない。が、はじめてお篠の頬《ほお》に血がのぼった。怒りのためだ。あの枯《か》れ坊主、お筆をこうまでしたか? と思ったのである。
眼をつぶされたお筆が杖《つえ》もつかず、それを腰《こし》にさしているわけも了解した。彼女はそれがつけないのだ。どういう目に合わされたのか、どういうつもりでここへ来たのか、もはやききただす余裕《よゆう》もなく、
「ゆこう、お筆」
きっとして、お篠はいった。
茫然《ぼうぜん》として縁側《えんがわ》からこれを見下していた陽馬が、ふいにわれにかえって下り立とうとするのを、お篠はふり返って、顔をふって見せた。
そして、ただ例の鎖鍔《くさりつば》を取り出して、その結合を点検した。陽馬には来るな、ただわたし一人で敵のところへ――という決意を示したらしい。
鎖《くさり》と鍔《つば》の鳴るひびきがした。見えないお筆だが、その音をきいたようだ。
「あのお方を殺すつもりかえ?」
「あのお方。――」
その言葉をきくのもふしぎそうに、いやいとわしげに、お篠《しの》は殺気にひかる眼でにらんで、
「むろん」
そのとたん、お筆の手が動いた!
「あーっ」
さけんだのは陽馬だ。
実に抜《ぬ》く手に水もたまらず、腰《こし》の仕込《しこ》み杖《づえ》がひらめくと見えた刹那《せつな》、前に立ったお篠《しの》は袈裟《けさ》がけに斬《き》り下ろされていた。
これは悲鳴すらあげず、血しぶきをあげて地上に崩折《くずお》れた朋輩《ほうばい》の姿に顔をむけもせず、お筆はぼうとして宙に閉じた眼をあげている。斬った刀身はだらりと垂れて、いまにも手から離れそうであった。
突如《とつじよ》としてこの女がこういう行動に出るとは、だれが予測したろうか。お篠が自負する甲賀忍法《こうがにんぽう》「紅涙鏡《こうるいきよう》」をも用うるにいとまなく――よしや用いようとしても、盲目《もうもく》のお筆にそれが通じたかどうかは疑問だが――その通り、盲目で、しかも両手がきかないお筆が、かくも鮮《あざ》やかな手際《てぎわ》を見せようとは、たとえ、そうと承知していての油断はなかったとしても、この同士討は、完全にお篠の意表にあったに相違ない。
ともあれ、わずか二人残った甲賀《こうが》のくノ一の一人は、その朋輩《ほうばい》のためにあえなくもここにその命を魔天《まてん》に飛ばしたのである。ちょうど、敵の伊賀者《いがもの》二人が、越後《えちご》の六道《ろくどう》河原《かわら》で同士討を演じたごとく。
まったく意味もわからず、陽馬は仰天《ぎようてん》して、はだしで庭へ飛び下りた。
驚愕《きようがく》のあまり、とっさには口もきけない。――ほんの先刻、彼ほどの男に舌を巻かせた異次元のわざを持つお篠《しの》を、かくも無造作《むぞうさ》に斬殺《ざんさつ》するとは――これもまた異次元の女ではないか?
みずからも意識せず、陽馬は抜刀《ばつとう》していたが、さすがにそれを引いたのは、相手が盲だということに気づいたからだ。
「お筆!」
と、彼はさけんだ。しかし、この女はほんとうに盲であろうか?
「おまえは眠っているのではないか!」
突如《とつじよ》、そんな疑いが頭にひらめいて口走ったのだが、むろんたちまちみずから否定した。眠っている人間が、あのようなわざを見せるはずがない。
こやつ、何かに憑《つ》かれている!
はじめて、そう看破《かんぱ》した。――それならば、こやつ、斬《き》るべきか、斬らざるべきか?
いや、それよりも、名状しがたい怪異《かいい》の思いに打たれ、陽馬は絶叫《ぜつきよう》した。
「お筆、おれだ。丹波《たんば》陽馬だ。本心あるなら、甲賀《こうが》のくノ一に返れ!」
お筆の全身が、ぴくっと異様な痙攣《けいれん》を見せた。
二
たしかに彼女は何か反応をあらわした。――と、見えたのに。
次の瞬間《しゆんかん》、お筆はむなしいばかりに明るい秋の空に顔をあげていた。眠っているはずはないのに、なぜかふしぎに陽馬にはたしかに彼女が眠っているように思われた。
「お筆、おれがわからぬか」
彼は声をしぼった。
「陽馬だ。眼はつぶれておっても、耳は聞えるだろう。聞えるはずだ。先刻、おまえはお篠《しの》と問答した。聞えるなら、返事しろ」
また、ぴくっとお筆のからだがふるえた。
「おまえが斬《き》ったのはお篠《しの》であるぞ。なぜ、なんのためにお篠を斬った?」
このとき、女の腰《こし》がうねり出した。ゆるやかに前後に揺《ゆ》り、それから廻《まわ》しはじめた。
ぎょっとするより、陽馬は吐気《はきけ》のようなものを感じた。白蝋《はくろう》のようであったのに、次第に紅潮《こうちよう》して来たその顔をのぞきこんで、それは何だ? ときく余裕《よゆう》を彼は失っている。
そんな運動をつづけながら、お筆はそろそろと彼の方へ近づいて来た。陽馬はその距離《きより》だけあとずさった。
「お筆、おまえは何かに憑《つ》かれておるな?」
お筆の腰の動きは、いっそうはげしくなった。そして、なかばひらかれた口の中から、あえぎとともに、男の心をかきむしるような声がもれ出した。
「ば、ばか」
寄って、その頬《ほお》でも一撃《いちげき》しようとした陽馬は、そのとき女が舌を出したので、またあわてて飛びのいた。
「お筆! 甲賀《こうが》 魂《だましい》の権化《ごんげ》ともいうべきおまえではなかったか。その魂を思い出せ!」
お筆の舌は消え、その顔に凄《すさ》まじい苦悶《くもん》の表情が波打った。その手から、ついに刀が落ちた。
「陽馬さま」
はじめて彼に対して、彼女の口から声が出た。
あきらかに正気に返った声だ、と直感して陽馬が眼をかがやかせたとたん、ふたたび、みたび、お筆の顔は混沌《こんとん》たるものにひき戻《もど》され、また美しい舌を吐《は》き出した。
それが、みずから出したのではなく、空中の見えない何者かに吸い出されたような感じがした。それは濡《ぬ》れた淫《みだ》らな一個の軟体《なんたい》動物のようにうねった。
「た、たわけ」
恐怖《きようふ》をかなぐりすて、陽馬は憤怒《ふんぬ》し、仁王立《におうだ》ちになった。お筆は水中にもがきあえぐ女のような表情と姿態で寄って来た。
「あっ」
陽馬が跳躍《ちようやく》して、その肩《かた》に手をかけたとき、赤い美しい肉塊《にくかい》は地上に吐き落され、つづいてお筆の口から、がぼっと鮮血《せんけつ》が溢《あふ》れ出していた。
ちょうどほぼ同じ時刻。
三国峠方面から猿《さる》ヶ京《きよう》へ近づきながら、雪羽は恐怖《きようふ》そのもののような眼で木ノ目軍記を眺《なが》めていた。
軍記は歩いている。秋風に墨染《すみぞ》めの衣《ころも》をひるがえし、その中に実体がないかのごとく妖々《ようよう》として歩いている。雪羽が見ていたのはその横顔だ。刻々に変るその表情だ。
数刻前、お筆が先に駆《か》け去ったあと、いちどたしかに覚醒《かくせい》して、見ひらかれた軍記の眼はまた閉じられていた。
意識があって、ただ眼をつむっている顔ではない。が、むろん眠っているはずはない。――それだけでも何ともいえないぶきみさなのに、その表情を刻々に渡る笑い、嘲《あざけ》り、怒り、そして苦悶《くもん》の波の凄《すさ》まじさは、この世の人間のものとは思えない。――
木ノ目軍記は、お筆とたたかっていたのであった。夢の中で。
いや、正確にいえば、彼自身創造した忍法《にんぽう》「通鬼交《つうきこう》」と格闘《かくとう》していたのであった。
軍記はあわてていた。――まるで、いったん籠《かご》の中に入れた魚がはね出したように。
眠りつつ、みずから欲する夢を夢み、同時に女を眠らせ、脳波《のうは》に乗ってその夢の中へ自在に忍《しの》び入る忍法「通鬼交」。
彼はいちど成功したと思った。げんにあの甲賀《こうが》のくノ一は、夢の中でこの軍記の――現実の軍記とは別人のごとき壮気《そうき》と精力に溢《あふ》れた軍記に犯され、蹂躪《じゆうりん》され、その頤使《いし》のままに陶酔《とうすい》し、悩乱《のうらん》し、そして狂《くる》い悶《もだ》えた。
のみならず。――
その術は一|跳躍《ちようやく》し、おのれは醒《さ》めたままで女を操《あやつ》ることも可能ではないか、という自信を抱《いだ》くに至った。なんとなれば「通鬼交《つうきこう》」の術の最後にちかく、彼は覚醒《かくせい》にちかい状態で、しかも女を走らせたからだ。
かくて、お筆は敵の潜伏《せんぷく》する場所にあらわれ、もう一人のくノ一をおびき出そうとした。ここまではたしかにうまくいった。
軍記とお筆は同じ夢を見ている。夢の中で、お筆はお篠《しの》の声をきく。同時に軍記もお篠の声をきく。それによって、お筆は、軍記の命じる通りにお篠と問答する。――この時点まではスムーズにいった。
べつにこのとき、軍記はお篠に殺意をおぼえてはいなかった。たださそい出し、やはり「通鬼交」の実験動物に供するつもりであった。いや、このおびき出しが成るか、成らぬかが、お筆に試みた術の主眼点といってよかった。
しかるに、お篠《しの》の殺気を、お筆を介《かい》して感覚したとたん、彼は本能的にこの女近づけるべからず、と直感し、お筆に彼女を斬《き》れと命じた。憤怒《ふんぬ》の念力のつらぬくところ、驚《おどろ》くべし、動かぬはずのお筆の手は動いて、水もたまらず斬り伏せた。
その刹那《せつな》、軍記もうっかり現実のお筆の手は動かぬことを忘れていて命じたもので、これには彼も驚いたのだが、それは夢中遊行のさい、人が一本橋を渡ったり、屋根から屋根へ走ったり、現実には不可能なことも平気でやってのけることがあるのと同じ現象であろうか。
そのとき軍記は丹波《たんば》陽馬の声を聴《ちよう》 覚《かく》 中《ちゆう》 枢《すう》にきいた。――
彼にとって思わざる異変が生じたのはそれからである。彼がきいたということは、現実の耳でお筆がきいたということなのだが、そのとたんにお筆の脳波《のうは》に乱れが起りはじめたのだ。
お篠と陽馬がいっしょにいるだろうことは、軍記は承知していたが、異次元の世界にあり、かつ視覚を失っているお筆の意識には、現実にその声をきいてはじめて陽馬の存在が印せられたらしい。
それまで、軍記の操るまま夢みていたお筆が――覚醒《かくせい》し出した、と彼は感じ、狼狽《ろうばい》した。で、それをふたたび肉の鎖《くさり》でひき戻《もど》すために、彼は「鬼交《きこう》」しはじめた。
蜜《みつ》のように濃密《のうみつ》な妖夢《ようむ》の霧《きり》につつんで、女を犯す。これでもか! これでもか! と女の舌をしゃぶりぬき、女の腰《こし》に打撃《だげき》を加える。――
雪羽に悪寒《おかん》のような思いをさせたのは、このときの軍記だ。
彼はふたたび眼をつぶり、眠っているとしか見えぬ顔で、しかも歩きながら、やがて口をすぼめ、舌なめずりし、腰《こし》を動かし出した。さらにその顔に怒りと苦悶《くもん》の波が渡りはじめ、ひたいからはあぶら汗がながれ出した。
彼はお筆をとらえた。が、お筆はその手から――夢からのがれかけた。
「本心あるなら、甲賀《こうが》のくノ一に返れ!」
お筆は身ぶるいする。軍記はあわてて、そのからだにむしゃぶりつく。
「甲賀の魂《たましい》を思い出せ!」
お筆が苦悶するのを軍記は感じた。彼女が苦悶しているということは、彼女がなかば覚醒《かくせい》の世界へ浮上し出しているということであった。
そして。――
「お筆、死ね!」
その叱咤《しつた》をきいたとき、ついにお筆はみずからの舌をかみ切った!
「通鬼交《つうきこう》」によって軍記の命にただこれ従うごとく、彼女は無意識に丹波《たんば》陽馬の命に従ったのか。それならば、まさにこれは陽馬もおぼえのない医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》の「断鬼交《だんきこう》」が発現したというべきだが、そうではない。――
その刹那《せつな》、お筆ははっきりと覚醒《かくせい》したのであった。甲賀《こうが》の魂《たましい》をとり戻《もど》したのであった。彼女は恥《は》じた。死のうとしたのはそのためであった。そして両|腕《うで》の機能を失った彼女にとって、死ぬ法はそれ以外になかった。
軍記にとって、とどめともいうべき驚愕的《きようがくてき》事態は同時に起った。
そのとき彼は、狂気《きようき》のごとくお筆の舌を吸いこみ、愛撫《あいぶ》していた。その舌を、彼女がかみ切ったとたん。――
「ううふっ」
怪叫《かいきよう》一声、彼の舌は路上に吐《は》き落されていた。
立ちすくんだ雪羽は、とび出すほどかっと両眼を見ひらいた軍記を見た。その眼は――どうしてこんなことが起ったか? という驚愕《きようがく》そのものであった。次の瞬間《しゆんかん》、その口から、がぼっと鮮血《せんけつ》が溢《あふ》れ出していた。
三
どうしてそんなことが起ったのか、雪羽はもとより軍記自身にもわからない。
彼を驚喜《きようき》させた忍法《にんぽう》「通鬼交《つうきこう》」は、彼自身にとんでもない酬《むく》いをもたらしたのである。
――この失敗は何に原因するのであろう?
思えば、自分が完全に夢の世界にのみとどまらず、なまじ覚醒《かくせい》して女を操ろうとしたのが、この術をあいまいなものにし、不純なものにしたのかも知れぬ。が、それにしても、現実に女が舌をかみ切ったとたん、自分までが舌をかみ切った点だけは、あんまり鮮明《せんめい》すぎ、あんまり透明《とうめい》すぎる「通鬼」ぶりだ。――
いずれにせよ、わが鬼交《きこう》いまだ完全ならず、わが術いまだ達せず。――
がぼっ、がぼっ、と断続的になお路上に血を吐《は》きながら、軍記は反省しつづける。それを見つつ、雪羽は声をかけて問う気力も失っている。彼は眼をとじて、また眠りはじめたのではないか、と思われるほどであった。しかもこの男の全身から曳《ひ》く妖気《ようき》は、さらに凄惨《せいさん》の度を深めたようだ。舌をかみ切った苦痛も、彼は無感覚なのではないかと思われる。――
反省して、彼がこの術にひるんだかというとそうではない。――
――もういちどやる。
と、彼は眼をつぶったまま、うなずいた。
――完成させずにおくべきや。この破天の忍法《にんぽう》「通鬼交《つうきこう》」を! これはもはや忍法というべき範囲《はんい》を超えて、わが念願する畢生《ひつせい》の「淫法」の極致《きよくち》ともいうべきわざだ。その確信に変りはない。
彼は立ちどまり、またかっと眼を見ひらいて、やはり立ちどまった雪羽を眺《なが》めいった。
「わひは、ほなはにひいる。――」
彼の口が動いて、そんな異様な声が洩《も》れた。
――わしは、そなたに魅入《みい》る――といったのだが、むろん雪羽にはそうとはききとれない。また相手がききとることを期待しない軍記の独白であった。
「ひいって、ほなはのへで、あのほとほをほろはへる。――」
――魅入って、そなたの手で、あの男を殺させる。――
「ほなはのほいひと、はんはようはをな。――」
――そなたの恋人《こいびと》、丹波《たんば》陽馬をな。――
そして、むしょうに明るいのに冥府《めいふ》のように白い風の吹く路上で、木ノ目軍記は、そればかりは舌をかみ切る以前と同じ、梟《ふくろう》みたいな声で、ふおっ、ふおっ、ふおっと笑った。
猿《さる》ヶ京《きよう》から高崎《たかさき》へ――ちょうど上州金井の宿《しゆく》と渋川《しぶかわ》とのまんなかあたりの街道であった。
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幻《げん》 闘《とう》
一
「もうし、高崎《たかさき》へはもう何里かな?」
と、いったつもりだが、相手にはそう聞えない。
――ほうひ、はははひへはほうはんひはな?
人間の言葉ではない。それよりも、相手の旅の若い町人夫婦は、ふと前に立った雲水《うんすい》をまじまじと見まもって、しばらく返事することも忘れていた。
口をとじていれば、それほど異常な顔でもない。網代笠《あじろがさ》をかぶって、悟《さと》りすました僧《そう》である。が、凝視《ぎようし》された者だけが感じ得る名状しがたい妖気《ようき》がその眼にあった。
「おい、ゆこう」
夫婦になって間もないと見える、まだ少年じみた若い夫は、坊主が女房《にようぼう》の方ばかりのぞきこんでいるのに気がついて、うすきみわるそうに女房の袖《そで》をひいた。
「何だかわからねえ。とにかく御免下《ごめんくだ》さいまし」
そばをすりぬけて、二人は高崎の方へ歩き出す。
雲水《うんすい》はべつにあとを追おうとはしない。立ちどまって、見送って、声もなくにたっと笑った。
知らない人間が見ていたら、口の不自由な奴《やつ》というより、狂人《きようじん》かと思ったであろう。雪羽《ゆきは》でさえ、そう思った。上州に入って以来、急速に変てこになった木ノ目軍記だが、おととい路上でひとり勝手に[#「ひとり勝手に」に傍点]、自分の舌をかみ切ってからは、もはや人間を見ているようではない。
それよりも雪羽の心を絞《し》め木にかけていることがあった。
軍記がひとにきくまでもなく、高崎はあと一里ばかりだ。道はそこで二つに分れる。南へ、そのまま江戸へゆく道と、中仙道《なかせんどう》を西へゆく道と。
中仙道をそのまま旅すれば京へ帰る。――秋になったら京へ帰って来い、この十月ごろまでに公方《くぼう》と島津《しまづ》家の縁組《えんぐみ》の結着はついているはずだ。それまで医心方《いしんぽう》を護り了《おお》せたら、まずこちらの目的は達したと見てよい――というのが、青蓮院《しようれんいん》の宮の判断であった。
それが果してその通りであるかどうかは知らず、高崎から中仙道へ廻《まわ》ることは、自分が予想した以上の実に凄惨《せいさん》なる凱旋《がいせん》であるが、少なくとも凱旋の道であるに相違なかった。
それでいいのか? 陽馬さまの任務をとげさせず、自分が京へ帰っていいのか。京へ帰って――それから自分はどうするのか?
雪羽は、それより江戸へゆきたかった。なぜ江戸へゆきたいか、考えつめて、自分ではっとする。自分が医心方を携《たずさ》え、陽馬といっしょに江戸へ向っている姿を想像しているのに気がついたからだ。
そんなことが現実に出来ようか? それは父を殺し、半井《なからい》家を滅《ほろ》ぼすことだ! いわんや、この春、京を出て以来の、陽馬一行とのこの世のものならぬ幻怪《げんかい》の死闘《しとう》の旅を想起すれば、それは夢のまた夢にひとしいことだ。
いまさらのことではないが、いま江戸と京との分れ道高崎を眼前に、思い来れば脳髄《のうずい》もねじれ、気が狂《くる》いそうな気がする。いや、いっそ彼女は自分の気が狂ったらどれほど楽だろうと考えた。
それよりも、そもそも陽馬さまは安泰《あんたい》なのか? 三国峠《みくにとうげ》から猿《さる》ヶ京《きよう》へ下る山道で、敵の甲賀《こうが》の女が憑《つ》かれたように突如駆《とつじよか》け去ったけれど、あれは陽馬さまにとって何のかかわりもないことなのか? そんなはずはない。――
「軍記。――」
と、彼女は声をあげた。
「甲賀組は、わたしたちより先にいっているのか、あとにいるのか?」
探りを入れようとしたのだが、軍記は答えない。
軍記は眼をつむって、ふらふらと歩いている。それが――眼をつむっているにもかかわらず、その顔から前方へ一道の白炎のごときものが吹きつけられているのを感じて、雪羽はその方へ眼をやって、ぎょっとした。
もう十数メートルもの先を、もののけに追われるような足どりで歩いていた町人夫婦のうち、女房《にようぼう》の腰《こし》が異様にうねり出している。
以前の雪羽であったら、それが何を意味するか、あっけにとられたろう。いや、いまでも意味はわからないが、彼女はおととい、あの甲賀《こうが》の女が見せた淫《みだ》らな一人|芝居《しばい》を思い出した。
一人芝居ではない。――軍記もまた腰《こし》をくねらせている。眼をとじているのに、唇《くちびる》が声もなく動いている。いやらしい褐色《かつしよく》の舌を出す。――
秋とはいえ、黄金の稲の波もない上州の山あいの寒冷な野であった。両側はただ桑《くわ》と豆の畑で、しかもそれがうら寂《さび》しく枯《か》れた葉がそよいでいる。いまにも雨になりそうなうすら冷たい鉛色《なまりいろ》の日だ。中仙道に入れば知らず、越後《えちご》と通うこの三国街道に、ほかに農夫や旅人の姿もない。ただ銀灰色につづく一本の道の上に、遠く離れて同じ緩慢《かんまん》な動きを見せる二人の人間は、地上というより水中の糸でつながれた二匹の妖魚《ようぎよ》を思わせた。
と。――
女が髪《かみ》から何やら抜《ぬ》いた。
女房《にようぼう》の怪奇《かいき》な運動には、亭主《ていしゆ》も気づいていて、その少し前から立ちどまっていた。二、三度何やら声をかけたようだが、それより胆《きも》をつぶしたと見えて、眼も口もあけっぱなしにして棒立ちになっている。――
そののどぶえに、女の手が動いた。ぎらっと銀の光を曳《ひ》いて。――
まじまじと見ていながら、逃げもかわしもならぬ突然《とつぜん》の襲撃《しゆうげき》であり、別人のように凄《すさ》まじい速度であった。亭主《ていしゆ》はのどぶえから血しぶきあげてのけぞった。ひきぬいてふりあげた女の手にひかっているものが簪《かんざし》であるのを雪羽は見た。
「あ、あれはどうしたのじゃ?」
雪羽はさけんだ。
「軍記、あれはどうしたのじゃ。……おまえ、何かしたのではないかえ?」
「へいほう」
と、軍記はいった。それが、成功、といったのだとは常人にはわからない。
彼は眼をあけていた。眼はけぶっている。煙《けむり》の中に小さな赤い火みたいに燃えているのが瞳孔《どうこう》であった。
彼はおのれの忍法《にんぽう》「通鬼交《つうきこう》」をいままた試みた。この前は、術をかけた女を自分の眼の及ばぬところへやったために、彼自身いまだに納得できぬ失敗をした。で、いま再実験してみて――実にスムーズに相手の女を眠らせ、夢の中へもぐりこみ、犯しぬき、そして命ずるままに、女の亭主をみごとに殺害させたのだ。――
やはり、「通鬼交《つうきこう》」の威力《いりよく》疑うべからず、彼はそれを再確認した。
「ゆひははま、おはなひがほはる」
――雪羽さま、お話がござる。
「わひのふひをひらへい」
――わしの口を見られい。
軍記は雪羽の前に廻《まわ》っていた。ト、ト、トと軽やかにあとずさりながらいう。雪羽は、吸いこまれるように歩く。
彼女は軍記の口を見ていた。それまでこの男のいっていることはさっぱりわからなかったのに、いまその言葉が、言葉として聞えたのだ。読唇術《とくしんじゆつ》。――そんな術を彼女が知っているわけはない。それは逆に、雪羽が軍記の術にかかったということであったろう。彼女は軍記の口と同時に、その眼を見ていた。
眉宇《びう》のくぼみにからまる煙霧《えんむ》、その中に小さく赤くかがやく瞳孔《どうこう》。――雪羽はそれに眼を吸われていた。それは要するに、期せずして催眠術《さいみんじゆつ》の一種と同性質のものとなったといってよかったかも知れない。
「ござれ、ござれ」
やさしい声で軍記はいった。
「雪羽さま、あなたにこれからいよいよ房内篇《ぼうないへん》の真髄《しんずい》、還精《かんせい》の章を教授いたす。――」
煙霧《えんむ》は雪羽の視界いっぱいに拡《ひろ》がり、街道一帯を乳色につつんだ。その路上で、妖霧《ようむ》から醒《さ》めて、しかもかえって茫然《ぼうぜん》として、血まみれの簪《かんざし》をにぎったまま夫の屍骸《しがい》を見下ろしている女房《にようぼう》の傍《そば》を、軍記と雪羽は異次元の人間のごとく通り過ぎた。
二
一面に、
「江戸へ二十六里十五丁」
また一面に、
「京へ百九里七丁」
とかいた石柱が高崎の西郊に秋風に吹かれて立っている。
そこからやや離れて、東南へ流れる鉛色《なまりいろ》のからす川の広い河原へ下りてゆくと、木ノ目軍記は一つの石に腰《こし》うちかけ、一メートルばかり離れた前の石をあごでさして、
「まふ、おふわりははれ」
――まず、お坐《すわ》りなされ。
と、いった。
その通り、雪羽はその石に腰《こし》を下ろした。天蓋《てんがい》をぬいで、眼は軍記の眼にじかに向けたまま。
このとき雪羽は、依然《いぜん》として軍記の催眠術《さいみんじゆつ》にかかったままかというと、やや醒《さ》めている。少なくとも、自分ではわれに返って、必死に彼をにらみかえしているつもりでいる。
すでに彼女は、あの甲賀《こうが》の女といい、また先刻の旅の女房《にようぼう》といい、この軍記が奇怪《きかい》な術をかけることを承知している。承知していて、彼女はみずから眼をむけた。それは、この男の妖術《ようじゆつ》ごときに負けてなるか、江戸の象先堂《しようせんどう》で蘭学《らんがく》の新知識を学んだわたしが――という気丈《きじよう》な彼女らしい負けじ魂《だましい》と、そして、よし、江戸へゆこう、という決心がいまついたからであった。
なぜいままでこの覚悟《かくご》がつかなかったろうとふしぎだ。江戸へいって、医心方《いしんぽう》を師の伊東|玄朴《げんぼく》先生に御覧に入れる。そして、その御判断を先生にゆだねる。――
雪羽は、軍記もまたいちど、どこまで本気かどうかは知らず、ふと江戸へゆこうか、という意をもらしたことがあったのを知らなかった。それで、この際、一応彼のいうがままに動いて、機をつかんで江戸へゆくように導いてやろうと考えた。そしてもし彼が拒否《きよひ》するならば。――
彼が自分を術にかけたと油断しているすきを見て、せめてその足でも傷つけて、彼をこの江戸と京との分れ道に封じたままにして。――
雪羽は片手を袂《たもと》に入れて、ふところの中の拳銃《けんじゆう》にふれた。
「コルトに弾《たま》は入ったままでござるかな?」
と、軍記がいった。はっとしたとたん、彼はきゅっと唇《くちびる》をつりあげて笑って、
「やがて、あれへ、丹波《たんば》陽馬がやって来る。――」
と、遠い道標の方へまたあごをしゃくった。
雪羽の頬《ほお》に血がのぼった。それは自分の決意を悟《さと》られたかも知れない、という狼狽《ろうばい》よりも、いまの軍記の言葉で、陽馬が健在で、やがてあの江戸と京との分れ道に来るということを知ったためであった。
雪羽の頬の紅潮《こうちよう》を見つつ、軍記は何くわぬ顔で飄然《ひようぜん》という。
「来たら、教えてやりなさるがよかろう、還精《かんせい》の章の訓読を。――さて、講義を始めまするぞ」
むろん、「はへ、ほうひをはひめまふるぞ」といった調子だ。それなのに、雪羽にはよくききわけられるのだ。その異常さには彼女自身気がつかない。――
「すでに訓読した八益七損《はちえきしちそん》の姿態運動、あれを自由自在、まともに行えるようならもともと房内篇《ぼうないへん》は無用でござる。あれを行うには奥義《おうぎ》がござる。すなわち、接して洩《も》らさず。――」
灰色の風の中に、軍記の声がながれはじめた。
「洩らさぬどころか、精を逆に溜《た》めて活力の源泉とする法。……これこそ、公方《くぼう》の悲願とするところでござろうが」
にたっと笑った。
笑ったが、それを知っていれば軍記、本人がそれを実行すればよかろうに。――ともあれ、彼はつづける。
「還精補脳《かんせいほのう》の道は、交わりて精大いに動じ、出でんとすれば、急に左手中央の両指を以て、嚢《のう》のうしろを押《おさ》う。長く気を吐《は》き、歯をかむこと数十たび、息をとざすことなかれ。すなわち、その精を与うるも、精また出ずるを得ず。ただ玉茎よりふたたびめぐりて脳中に入る。――」
からす川のほとりに秋風ゆらぎ、顔に霧《きり》のようなものがかかり出した。雨か、河の吹き送って来るしずくか。――いや、それにしても妙《みよう》に生あたたかいようだ。
「――という意味は、女人に精気のみ与えて精液は与えず、ただ生殖|腺《せん》の内分泌《ないぶんぴ》のみを盛んにして脳の内分泌を刺戟《しげき》するということでござろうな。ふうむ、これが千年前の人間の発見した法とは、いくどもくり返すようじゃが、この道ばかりは千年変らずとはいえ、実に驚《おどろ》き入った卓見《たつけん》。――」
恍惚《こうこつ》としていう。
「またいう、もし女を御して益をとらんと欲し、精大いに動ずるときは、早く頭《こうべ》をあげて眼を張り、左右上下を見、腹をちぢめて気をとざせ。精おのずから止る。――よく一日にふたたび施《ほどこ》し、一歳に四たび精を与うれば、みな年、一、二百歳を得、顔色ありて病なし。ふ、ふ、ふ」
と、笑った。
「つまり、何でござるな。一日に二回交わっても、射精は一年に四回くらいにとどめれば――ということでござるから、これは凄《すご》い。計算すると、百八十数回に一回、ということになる。さすれば人間、百歳から二百歳くらいまで長生きして、しかも顔色つやつやしておるという。――」
声が途中から急速にひくくなった。のみならず、ひどくまのびした。春の日の飴《あめ》のように。――が、煙霧《えんむ》の中の赤い眼は、灼熱《しやくねつ》したようにひかって、じいっと雪羽を見すえている。
「さらにまたいう。女の溢《あふ》るる精をあつめ、口にとれば精気|還化《かんげ》し、脳に満つ。……」
石に坐《すわ》って、雪羽は軍記を見ていた。いつのまにか、その眉《まゆ》のあたりがけぶって、そしてまた雪羽の眼も赤いぶきみなかがやきをおびていた。
三
「――意、これを得んと欲せば、息を止め、気を止む。陰、これを得んと欲せば、すなわち鼻口ともに張る。……」
雪羽を観察しつつ、軍記はつぶやく。
「心満たんとすれば、すなわち汗ながれて衣《ころも》を濡《ぬ》らす。その快、甚《はなは》だしからんとすれば、身は直に、目はつむる。――」
房内篇《ぼうないへん》にある女人欲情の相だ。
雪羽はいまや眼をとじ、肩《かた》で息をしていた。
――わがこと成れり。
いちどまた、にやっとすると、軍記は石の上で首を垂れた。
首を垂れて、眠る必要はない。彼の忍法《にんぽう》「通鬼交《つうきこう》」は、明確な意識を保持しつつ実現する。そうと知りつつも、彼は半睡《はんすい》の状態に陥《おちい》らずにはいられなかった。この女人と法悦《ほうえつ》のかぎりをつくす醍醐味《だいごみ》を味わいつくすために。
これこそは、まさに彼の「夢」であった。
房内篇《ぼうないへん》の還精《かんせい》の術、それが彼のごとく先天的な不能者にとって実効ありや否や甚《はなは》だ疑問だ。が、彼にとってそんなものが何だろう。彼は夢の中で無限の精を奔騰《ほんとう》させて女を愛撫《あいぶ》する。――しかも、いまや玻璃燈籠《はりどうろう》のごとき美女雪羽と。
その黒髪《くろかみ》を胸《むね》に巻き、そのきよらかな唇《くちびる》をしゃぶり、その珠《たま》のような乳房《ちぶさ》をわしづかみにし、そのたおやかな胴をねじろうと、彼女は抵抗《ていこう》しない。抵抗するどころか、むせびつつ彼に応《こた》える。――それのみか、いかに淫虐無惨《いんぎやくむざん》の醜行《しゆうこう》にも、嬉々《きき》として従ってのたうちまわる。
その夢や、まさに成れり。――いや、それを現実に行うために、彼はおのれのつむぎ出した夢幻《むげん》の世界に入ろうとする。
眼をとじたまま、軍記は舌なめずりした。坐《すわ》ったまま腰《こし》を動かし出した。――
それにしても雪羽は――彼女みずから軍記の術にかかったようによそおって、時と場合、事と次第では彼を一撃《いちげき》して逃げるつもりではなかったのか。いまや軍記は眼をつむり、首うなだれている。彼女は何をしている?
雪羽もまた首うなだれて、眼をつむっている。彼女は眠っている!
いや、眠っているかに見えた雪羽の腰《こし》もまた動き出した。彼女としてはこの世に誕生《たんじよう》して以来いまだ曾《かつ》て見せたことのない動きを描《えが》きはじめた。のみならず、やがて顔をあげ、乳房《ちぶさ》を空に盛《も》って、のけぞった。
その眼はとじられてはいるが、頬《ほお》には紅《くれない》がみなぎり、そしてなかばひらいた美しい歯ならびのあいだから、あえぐように舌さえ見せはじめた。――
ああ、雪羽は木ノ目軍記の忍法《にんぽう》「通鬼交《つうきこう》」を見くびり過ぎた!
現実のその肢体《したい》を、一メートル離れて軍記は抱《だ》きしめ、その顔に顔を密着させている。いうまでもなく夢の中の世界のことだが、このとき現実に彼の肉体にも、想像もしなかった異変が起った。あの父母|未生《みしよう》以前の不能が溶け去ったのみか、あわや「還精《かんせい》の術」の救急を要するばかりになった。――
「あふ!」
狼狽《ろうばい》して、奇声《きせい》を発して、眼をひらく。そのひたいを、一滴《いつてき》の雨つぶが打った。
ちらと眼前にのけぞりかえった嬌媚《きようび》のきわみの雪羽を見、笑《え》みかけて、その眼がふと遠い土堤《どて》の上に向けられた。
「ひたな」
――来たな。
と、つぶやいて、彼はすうと立ちあがった。
蒼白《あおじろ》く狂《くる》い立った雨雲の下に、深編笠《ふかあみがさ》の影がひとり立って、じっとこちらを見下ろしているようであった。と見るや、それは疾風《しつぷう》のごとく河原に馳《は》せ下って来た。
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秘書|献上始末《けんじようしまつ》
一
みるみる黒い斑点《はんてん》に濡《ぬ》れて来た河原の石を蹴《け》って駆《か》け寄って来た武士は、三メートルばかり離れて編笠《あみがさ》をはねのけた。
丹馬《たんば》陽馬だ。
たちまち銀線の数をふやす雨の中に、笠《かさ》はとったものの、抜刀《ばつとう》もせず、しかし彼は凝然《ぎようぜん》として蒼白《あおじろ》い顔を、石の上の雪羽に向けたままであった。
このときの彼の心情たるや、ちょっと筆舌につくし難い。
その感情の中でいちばん激烈《げきれつ》なのは驚《おどろ》きであったが、それは、雪羽《ゆきは》は何をしているのか、という驚きではない。一瞬《いつしゆん》に彼は、雪羽がなぜこういう状態にあるかを知った。いや、ほんとうをいえばそれはますます怪異《かいい》をきわめているが、ともかくも彼はおととい、猿《さる》ヶ京《きよう》の宿であのお筆がこれとそっくりの症状で入って来たのを見ているのだ。そのとき、これは何者かに憑《つ》かれている――と、看破《かんぱ》したのだ。
憑いているのは何者か。木ノ目軍記だ!
その認識は当然ひらめき、怒りの眼は、傍《かたわら》に――そこに腰《こし》に手をあて、ニンマリと笑っている雲水《うんすい》に向けられるべきであった。
然《しか》るに。――
軍記はなお数分、茫然《ぼうぜん》と立って、驚きの眼をひたすら雪羽に注いでいたのである。驚きはそれほど圧倒的《あつとうてき》だったといっていい。
見るがいい、雪羽を。――石の上で、身をよじらせている雪羽を。
打ちたたく雨に顔をあおむけて、黒髪《くろかみ》ねばりつかせ、眼をとじて、しかもその雨も意識せぬ風に、半びらきにした唇《くちびる》から苦しげに舌さえ見せている雪羽であった。苦しげに? そうではない。身をよじらせているのも、あきらかにそうとは見えない。
これに似た女の表情を、陽馬は見たおぼえがある。猿《さる》ヶ京《きよう》のお筆の顔だ。――あのとき陽馬はその淫猥《いんわい》さに吐気《はきけ》をおぼえたものであった。
が、いまはじめてこんな雪羽を見て――陽馬は吐気どころか、まるで熱い蒸気みたいなものがからだを朦《もう》とつつんで来るのを感覚した。からだのみならず脳髄《のうずい》までも。
事実、雪羽からは銀の煙《けむり》が立ちのぼっている。それはふりしぶく雨しぶきであったが、そのしぶきの煙の中に、すうと彼女は立ちあがった。そのまま、なお腰《こし》を動かしつづける。――
「……ど、どうしたのじゃ?」
いったのは、陽馬ではない。木ノ目軍記だ。
むろん、その発声が出たわけではない。が、舌が完全でも、彼にそうはっきり発音できたかどうか疑わしい。――いまの陽馬の驚《おどろ》き以上に彼は瞠目《どうもく》していた。
なんとなれば、このとき丹波《たんば》陽馬は、雪羽に声をかけるどころか、軍記に刀をむけるどころか――こはそもいかに、彼もまた腰《こし》を動かし出したのだ。
眼をとじ、頬《ほお》を紅潮《こうちよう》させ、雪羽と同じ忘我恍惚《ぼうがこうこつ》の表情で。
――な、な、なんたる――?
軍記はまさにめんくらった。通鬼交《つうきこう》の術を、雪羽にかけたおぼえこそあれ、この若者にかけたつもりは全然ないからだ。が、あきらかに彼はその術にかけられた人間の症状を呈している。――しかも、この若者のけぶる脳髄《のうずい》に入っているのは、雪羽でなくてだれだろう。
玄妙《げんみよう》なるかな、わが忍法《にんぽう》通鬼交!
もし、ほかの場合なら、軍記はみずからそう自讃《じさん》の絶叫《ぜつきよう》をあげたにちがいない。
彼のこぶしが口に動いた。数本のたたみ針をくわえたのである。
本来、ただこの丹波陽馬を討ち果すのが目的なら、この数分、陽馬がまったく無防備で立っているあいだに軍記は行動に移るべきであった。それは一挙手一投足ですむことであった。しかし、彼の望みはそうではなかった。彼はもっと辛辣《しんらつ》な無惨《むざん》な着想を抱《いだ》いていた。いまその着想を忘却《ぼうきやく》したのは、この一瞬《いつしゆん》の狂憤《きようふん》のためであった。
ぷっ!
その口がとんがって、噴《ふ》いて――針はことごとく彼の足もとに落ちた。
軍記ははじめておのれの舌が完全でないことに気がついた。吹針の術は、息と唾《つば》と、そして何よりも舌の武術である。そのおのれ唯一《ゆいいつ》の武術が封《ふう》ぜられていることを知って――苦笑する余裕《よゆう》はない。彼は激怒《げきど》して、鴉《からす》のような声をあげた。
「ゆいは、うへ!」
――雪羽、撃《う》て!
それこそは、軍記のそもそもの辛辣無惨な望みなのであった。つまり、雪羽の手を以て、彼女の恋人《こいびと》を討ち果させるという。――
思わずさけんで、しかし軍記ははっとした。それは、音波として発すべき命令ではなかったからだ。夢交の中で雪羽に命ずればよいことであった。
若い二人のからだに、しかし反応が起った。両人は、それまでの動きを止めた。
丹波《たんば》陽馬はこちらに向きなおった。眼は覚醒《かくせい》したひかりをおびていた。その手が腰《こし》の刀をつかんだ。
「化け物!」
と、彼はさけんだ。はじめてその手に怒りの刀身がひらめいた。
「ようも、雪羽を。――」
軍記は雪羽の方へとびずさった。いま、ちらと――雪羽の手に、緩慢《かんまん》ながら拳銃《けんじゆう》がとり出されたのを見て、やはりおれの通鬼交《つうきこう》の効力あったか、という確認とともに、さらに渾身《こんしん》の念力こめて、こんどは脳波《のうは》だけで命令を下す。
――雪羽、おまえの敵を撃《う》て!
ひっ裂《さ》けるような轟音《ごうおん》が耳たぶをかすめた。
軍記はつき飛ばされたように、枯木《かれき》みたいなからだを二つに折って逆にまろんでいった。丹波《たんば》陽馬の方へ。
それも意識せず、彼は尻《しり》もちついて、ふりむいて、かっと眼をむいた。いま耳をかすめた銃声《じゆうせい》は錯覚《さつかく》ではない。雪羽の銃口《じゆうこう》は、彼の方へ向けられていた。――しかも、彼女は眼をとじて。
「ひわう! ひわう! へひはわひへはない!」
驚愕《きようがく》と恐怖《きようふ》の雨に打ちたたかれて、彼はまさに化け物の形相《ぎようそう》でのどをしぼった。この刹那《せつな》ほど彼はおのれの舌の不自由なことを痛恨《つうこん》したことはない。
――ちがう! ちがう! 敵はわしではない!
「ゆへはらはえよ! へひはあっひや!」
――夢から醒《さ》めよ、敵はあっちじゃ!
「見たかっ、正伝|心形《しんぎよう》刀流!」
尻《しり》もちついたままの伊賀《いが》の怪僧《かいそう》は、天空を斬《き》る真っ向からの快刀に、据物斬《すえものぎ》りのごとく真っぷたつに裂《さ》けた。
叩《たた》き斬った一刀を高々とあげて、丹波《たんば》陽馬はうしろへはね飛んでいる。これはいままで対決した伊賀者《いがもの》たちの断末魔《だんまつま》のわざと、いわんやいま自分を妖夢《ようむ》につつみかけたこの男の、呪文《じゆもん》のごとき声を想起しての反射的行動であったが、次の瞬間《しゆんかん》、彼はぎょっと眼を見ひらいていた。
木ノ目軍記はたしかに唐竹割《からたけわ》りになって河原に横たわった。その切断面から雨の空へ噴《ふ》きのぼった鮮血《せんけつ》が――おお鮮血でない、雨でもない、乳のしぶきが混じっているように白いものに見えたのは?
むうっと怪臭《かいしゆう》がひろがった。血の匂《にお》いとはちがっていた。
みずから「淫学坊《いんがくぼう》」と称し、生涯《しようがい》をただこれ性技の研鑽《けんさん》に捧《ささ》げ、しかも現実にはついにいちどとして女と交わったことのないこの人物の血液は、なんと男の精の匂《にお》いがした。――とまでは、陽馬は知って、感銘《かんめい》することは出来ない。
ただ、その異臭《いしゆう》に眼を見張ったのだが、それも一息、その眼を雪羽に移し、さらにはっとしてその方へ駆《か》け寄った。
「雪羽!」
こんどは、声にしてさけんだ。
「どうしたのだ、雪羽! 醒《さ》めて、こやつを撃《う》ったのではなかったのか!」
雪羽は眼をあけていた。しかし、これまた雨のゆえならず、それはどこかけぶっているようであった。彼女はぽろりと拳銃《けんじゆう》を河原に落した。それも陽馬の声に醒めたのではなく、眠っているためにとり落したような感じであった。
「これ、この化け物は斬《き》り捨てたのだぞ! 憑《つ》き物は死んだはずだぞ!」
陽馬は刀を投げ捨て、雪羽に飛びかかり、両|腕《うで》でその肩《かた》を抱《だ》きしめた。
「雪羽、雪羽! 醒めてくれ!」
――しかし、半歳を経て、ようやく抱きしめた雪羽のからだは、江戸で抱擁《ほうよう》したときの記憶《きおく》とは、まったくちがう反応を示した。抱《だ》かれて恥《は》じらい、しかも凜《りん》たる香気《こうき》を失わなかったこの蘭学《らんがく》の女書生は、いまあくまでも柔《やわ》らかく、あくまでも熱く――淫《いん》の蛇精《じやせい》そのもののごとく、彼の腕《うで》の中で腰《こし》をうねらせつづけているのであった。
その熱く柔らかく、いまにもとろけんばかりの熱い身もだえの中に、ふと固いものが触《ふ》れた。陽馬は彼女のふところから、一巻の紺色《こんいろ》の巻物を抜《ぬ》き出した。
医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》!
これをつかんで無量の万感にふけることは陽馬に許されなかった。巻物を彼が眺《なが》めているのも知らぬげに、うっとりと雪羽はつぶやいた。
「……もっと! もっと! もっとはげしく愛して、陽馬さま!」
この歓喜にむせぶ声を、陽馬は以前にきいたことがあるような気がした。江戸に於《おい》てではない。――たったいまだ!
たったいま、この雨の中で。
あるべくもない奇怪《きかい》にしてかぐわしい春夢の中で。
丹波《たんば》陽馬はさけんだ。
「雪羽、おまえはまだあの夢を夢みているのか!」
――なんぞ知らん、というのは木ノ目軍記のことだが、軍記が念力の極をつくしてかけた忍法通鬼交《にんぽうつうきこう》、それにかけられたようにあざむこうとして、雪羽の悲願成らず、彼女はたしかに凄《すさ》まじい艶夢《えんむ》を夢みた。ただし――その夢に渦巻《うずま》く春霞《しゆんか》の中へ妖々《ようよう》と入っていったのが、木ノ目軍記ならずして丹波《たんば》陽馬であろうとは!
軍記にしてみれば、そんなはずはないのだが――いや、彼自身、おのれの独創と自負するこの忍法に、どこか一抹《いちまつ》の未完成感を払拭《ふつしよく》し得なかったのだが、もしこの事実を知ったなら、彼は痛恨《つうこん》のために七転|八倒《ばつとう》したに相違ない。
すなわち、女にたしかに春夢を見させることは出来る。が、その女人に、たんなる色情のみならず、もし全身|全霊《ぜんれい》をあげて愛する対象があったならば、その男性の幻《まぼろし》は、もぐりこもうとする軍記をはねのけて、女の夢幻《むげん》世界へ入ってゆくことを。
すでに猿《さる》ヶ京《きよう》に於《お》けるお筆がそうであった。お筆の断末魔《だんまつま》の苦悶《くもん》は、彼女の脳髄《のうずい》に於ける軍記と陽馬との格闘《かくとう》から起った。――軍記の失敗の真の原因は、彼の遠隔《えんかく》操作のゆえではなく、実にその混乱から発したものであったのだ。
そのことに軍記は気づくべきであったが――いや、すべて気づかずして唐竹割《からたけわ》りになって、むしろ彼は倖《しあわ》せであったかも知れない。
しかもいま、丹波《たんば》陽馬は、唐竹割りにした妖雲水《よううんすい》の屍骸《しがい》を見下ろして、いまはじめてこの伊賀者《いがもの》に対して戦慄《せんりつ》をおぼえている。
房内篇《ぼうないへん》は手に入った!
が。――恋《こい》する女人は、まだこの屍骸《しがい》の投げかける術に憑《つ》かれている!
しかも、艶夢《えんむ》に憑かれたこの雪羽の何たるなまめかしさ、妖《あや》しさ、美しさだろう。曾《かつ》て知らない雪羽。曾て知らない蟲惑《こわく》の精。……
二
「伊勢守《いせのかみ》さまのもとへ参ろうぞや。三人で」
医心方《いしんぽう》房内篇をつかみ、いとも軽やかにこういって、飄然《ひようぜん》と立ち上った師の伊東|玄朴《げんぼく》を仰《あお》いで、丹波《たんば》陽馬は狼狽《ろうばい》した。
「三人で? いや、この雪羽はいま申したごとく」
と、腕《うで》にからみついている雪羽をかえり見た。――江戸の象先堂《しようせんどう》、玄朴先生の書斎の中である。
「そ、それに先生が、御老中さまのお屋敷《やしき》へなど。――」
幕閣が蘭医《らんい》に対して好意をもっていないということは、陽馬の以前からとくと知っていることだ。――しかし、平然として玄朴《げんぼく》はくびを振《ふ》った。
「いや、伊勢守《いせのかみ》さま、この夏のころより御気分|悪《あ》しく、わしが頼まれて、二、三度往診に伺《うかが》っておるのじゃ。どうも多紀法印《たきほういん》では心もとのう思《おぼ》し召されておるようでな」
陽馬を見下ろして、にたにたと笑った。
「そのわしが、弟子《でし》たるおまえら両人をつれていって何が悪いかよ?」
立ち出でる江戸|御徒町《おかちまち》の和泉橋《いずみばし》通りにも、もう秋の白い風が吹いていた。
――漢方宗家多紀法印があれほど畏《おそ》れた蘭医伊東玄朴は、やがて多紀家とならぶ最高医家、江戸城奥医師として、将軍|家定《いえさだ》公のお脈を診《み》ることにもなるのだが、これはのちの話。
竜《たつ》ノ口にある老中首座|阿部《あべ》伊勢守の屋敷《やしき》にまかり出た伊東玄朴は、出仕は休んではいるものの、このところとみに快方にむかい、脇息《きようそく》にもたれている伊勢守を診察したのち、ちょっと用件を思い出したといった風に、風呂敷《ふろしき》からとり出した何やらを奉った。
「例の件、拙者《せつしや》門弟、丹波《たんば》陽馬、みごと御役目果してござる。まず御覧を」
「例の件?」
伊勢守《いせのかみ》はけげんな顔で巻物をひらき、顔色をかがやかし、
「やあ、医心方房内篇《いしんぽうぼうないへん》! こ、これで島津より御台《みだい》を。――」
と、いいかけて、その眼を「門弟・丹波陽馬」にむけ、愕然《がくぜん》とした表情になった。
陽馬と雪羽は、白い稽古着《けいこぎ》につんつるてんの袴《はかま》をはいて控《ひか》えていた。その異風な姿は蘭医《らんい》の弟子らしいと見ても、先刻から自分の眼の前をもはばからずその若者にからみついて、ただならぬ鼻声をもらしつづけている女弟子の方へ、伊勢守はしばしば不審《ふしん》の眼を投げていたのである。
「丹波陽馬。――」
思い出したらしい。そして、さすがに温容をかき消した。
「おまえか! さりながら陽馬、あの御用、天下の秘事であることは、それ申しつけた場所、時よりも察したであろうが。しかるに。――」
「あいや、それについて伊東|玄朴《げんぼく》、伊勢守さまにちと申しあげたきことがござりまする」
玄朴《げんぼく》はおちつきはらって口さしはさみ、
「これは、房内篇《ぼうないへん》の灰を復原したものでござりまするが」
けろりとしていい、あっけにとられている伊勢守《いせのかみ》に説明しはじめた。
京の半井《なからい》家にあった医心方《いしんぽう》は、半井家の申立てのごとく、さんぬる大火のためことごとく焼失した。それは事実ではあるが、半井家ではそれを惜《お》しんで、灰のまま秘蔵していた。それをきいて、書物の灰ならばそれを復原する法があると自分が陽馬に教えたが、何しろやんごとなき雲上に伝えられた千年の秘書。――それを復原して世に出すことすら皇祖皇宗が忌《い》みきらわれたか。
「恐《おそ》ろしや、七人の女人、そのために命をささげ、一人の女人、そのために乱心《らんしん》いたしてござりまする」
「七人の女人。おお、あの甲賀《こうが》の女どもか!」
「されば、灰となった書物の文字を読みとるまでに復原するには、女人七人の血液を混合した薬を以てすればよい、とオランダの忍法書《にんぽうしよ》にその処方箋《しよほうせん》がござりまするが、秘書の呪《のろ》いか、この玄朴の読解力のあやまちか、それを実施した陽馬めの手ちがいか、あろうことか七人の女をことごとく死なせるという失敗をいたしました。罪はこの玄朴《げんぼく》にござります」
うそかほんとかわからないことを、淡々《たんたん》また切々たる語調でいう。――じいっと玄朴を見つめていた伊勢守《いせのかみ》は、しかし声をおだやかにしてきいた。
「また、一人の女人が乱心《らんしん》したとは?」
「秘書の神力や恐るべし。白日の下に出《い》ずるいけにえとして、半井《なからい》の娘《むすめ》、房内篇《ぼうないへん》の怨霊《おんりよう》のりうつり、かくのごとく狂女《きようじよ》となってござりまする。すなわち、あわれ、この女人」
と、玄朴がかえりみる女弟子に眼を移し、
「や、これが半井家の娘か!」
と、伊勢守《いせのかみ》はさけんだ。
それから、黙然《もくねん》として、しばし思案にふけっていたが、やがてこの優雅《ゆうが》な老中は莞爾《かんじ》として笑っていった。
「復原した医心方《いしんぽう》とは申せ、効用は同じ。上様の御機嫌《ごきげん》さぞうるわしかろう。――おお、丹波《たんば》陽馬、ようこの御用果してくれた! その方の望み、褒美《ほうび》は何なりとつかわすぞ。……」
――数日後、象先堂《しようせんどう》から、丹波《たんば》陽馬と雪羽は旅立った。西へ、京へ。――
――半井《なからい》家へ、阿部伊勢守《あべいせのかみ》から「特別の答礼」を伝え、あわせて、灰から復原した医心方《いしんぽう》三十巻のうち房内篇《ぼうないへん》以外の二十九巻をも、幕府で筆写すればまた半井《なからい》家に返還《へんかん》するということを条件に、受取りにゆくためであった。
「先生。……雪羽のこの憑《つ》きもの、蘭方《らんぽう》にその治療法はありませんか」
と、陽馬は困惑《こんわく》したようにいった。
もう虚無僧《こむそう》姿ではない、菅笠《すげがさ》に赤い緒《お》をあごにしめた雪羽は、なお陽馬の腕《うで》に腕をかけ、頬《ほお》すりよせて鼻声もらし、からだをくねらせつづけていたのである。
「いま、すこし経過を見よう」
「は?」
「いや、薬は調合しておくが、材料の関係上、それにはちょっと時間がかかる。……左様、ちょうどおまえらが京にいって、またここへ帰って来るころまでに」
「は?」
「必ず二人で帰って来るのだぞ。――しかし、陽馬」
と、玄朴《げんぼく》はあごを撫《な》でて、
「雪羽はそのままの方がうれしくはないか、おまえがよ」
「なぜ?」
「理想の妻は、ひるは聖女、夜は淫婦《いんぷ》――と、オランダの諺《ことわざ》にあるが」
「ばかなことを!」
赤面し、一礼し、トットと歩き出す丹波《たんば》陽馬に、雪羽がからみついてゆく。
藤堂屋敷《とうどうやしき》の角を曲ろうとするとき、陽馬がふりむいて、雪羽の肩《かた》にやさしく手を廻《まわ》すのが見えた。
「処方箋《しよほうせん》。狂《きよう》」
つぶやいて、伊東|玄朴《げんぼく》は、ふふっと笑った。
「いつから狂を装《よそお》ったか。なるほど、すべての難を救い窮《きゆう》を脱《だつ》するにはあの法しかないな。――必死にして愛すべき雪羽の忍法《にんぽう》、陽馬は永遠に知るまいなあ」
三
――阿部伊勢守正弘《あべいせのかみまさひろ》は公用人渡辺|三太平《さんたへい》を以てこれを幕府に呈した。十月十三日のことである。
越えて十月十五日に、医心方《いしんぽう》は若年寄遠藤|但馬守胤統《たじまのかみたねのり》を以て躋寿館《せいじゆかん》に交付せられた。
幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印《たきらくしんいんほういん》、多紀|安良法眼《やすよしほうげん》である。校正十三人の中には抽斎《ちゆうさい》が加わっていた。
躋寿館では医心方《いしんぽう》影写程式と云《い》うものが出来た。写生は毎朝|辰刻《たつのこく》に登館して、一人一日一|頁《ページ》を影摸《えいも》する。三頁を摸し畢《おわ》れば、任意に退出することを許す。三頁を摸すること能《あた》わざるものは、二頁を摸し畢《おわ》って退出しても好い。六頁を摸したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月|朔《さく》に起って二十日に終る。日に二頁を摸するものは晦《みそか》に至る。此間《このあいだ》は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。
――安政四年八月二十二日に抽斎は常の如《ごと》く晩餐《ばんさん》の饌《ぜん》に向った。しかし五百《いお》が酒を侑《すす》めたとき、抽斎は下物《げぶつ》の魚膾《さしみ》に箸《はし》を下さなかった。「なぜ上らないのです」と問うと、「少し腹具合が悪いからよそう」といった。翌二十三日に初めて嘔吐《おうと》があった。それから二十七日に至るまで諸証は次第に険悪になるばかりであった。
抽斎は時々譫語《じじせんご》した。これを聞くに、夢寐《むび》の間にも医心方を校合しているものの如《ごと》くであった。
二十八日の夜|丑《うし》の刻に、抽斎《ちゆうさい》は遂《つい》に絶命した。
[#地付き]―森鴎外「澀江《しぶえ》抽斎」
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『医心方《いしんぽう》』に関する学術的研究として飯田吉郎、石原明、高田正二郎氏共訳の『医心方巻第 廿《にじゆう》 八房内《はちぼうない》』(至文堂版)があり、本小説は、これに負うところが多いことを付記し、完結に際し感謝の意を表します。
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[#地付き]著 者
この作品は、昭和四十三年十二月、株式会社新潮社より刊行された『秘書』を改題したものです。――編集部
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『秘戯書争奪』昭和61年12月10日初版発行