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江戸忍法帖
山田風太郎
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甲賀七忍
一
月もなく星もない寒夜であった。雪洞《ぼんぼり》をささげてゆく小姓には、雪洞がそのままのかたちで、透明な氷になってしまうかと思われた。
「雪になるかもしれぬな」
と、主人が言う。
主人が、じぶんの屋敷の中なのに白い頭巾《ずきん》をつけているのは、むろんこの寒さをふせぐためだろうが、雪洞に眼だけのぞかせたその横顔をあおいで、彼は主人が別の人になったのではないかという錯覚にとらえられていた。将軍家|御側衆《おそばしゆう》、大老格、十万石の太守というのに、まるで大町人のように享楽的で愛嬌のよい眼が、いま、暗く、ぶきみに、冷たくひかっている。
「御意《ぎよい》」
と、小姓はふるえる声でこたえた。
主人はそのまま、だまって林の中へ入ってゆく。いかに屋敷が宏大《こうだい》だといっても、場所は神田橋門内、ひるまは遠く巷《ちまた》のざわめきが潮騒《しおさい》のようにつたわってくるのに、いま、まるで深山のなかへわけ入ってゆくような気がするのは、決して夜のせいばかりではないと感じられた。
「灯を消せ」
と、主人がいった。小姓は雪洞を吹き消した。葉のおちつくした林に物音はない。夜空にそそり立っているであろう梢《こずえ》もみえず、周囲はただ漆《うるし》のような闇にぬりつぶされた。主人はなおだまっている。小姓は、主人がふっと闇に溶け去ったような恐怖におそわれて、寒気にしめつけられる胸から、思わず叫び声をたてようとした。
「甲賀町のものども」
と、しかし主人の呼ぶ声が、やがてした。すると、まったく物音のない林のなかから、ささやくような返事がきこえたのである。
「お召しによって参上」
「七忍衆よな」
「御意」
どこからきこえてくるのかわからない。前の方からのようでもあり、後の方からのようでもある。上からふってくるようでもあり、地底から、わきあがってくるようでもある。遠いようでもあり、近いようでもある。――いや、人の声というより、それは闇そのものの声のようであった。
主人の声が、きっとなった。
「御用を申しつける」
「はっ」
「人ひとり殺せ」
「かしこまってござる」
と、返答は山彦のごとく応じたが、やや不審げに、また嘲《あざ》けるように、
「人ひとり殺すに、われら七人は不要と存じまするが」
「余人ではない。相手は、厳有院《げんゆういん》さま御落胤《ごらくいん》じゃ」
闇は、沈黙した。――声も息もきこえなかったが、驚愕《きようがく》したことは、あきらかであった。それはそうだろう。厳有院とは、前将軍|家綱《いえつな》のことだから。
しかし、闇の忍者たちが沈黙したのは、おそらく二重の衝撃からにちがいなかった。なぜなら、前将軍家綱には、ついに世子《せいし》が生まれなかったからだ。それだからこそ、上州|館林《たてばやし》の一大名にすぎなかった家綱の弟|綱吉《つなよし》がそのあとを嗣《つ》いで、いま五代将軍たり得たのである。
「恐れながら……そりゃまことでござりまするか?」
「まことじゃ」
と、白い頭巾の人はかすかにうなずいた。
「この大事、余人にゆめ知られては相成らぬが――余が見込んだ忍者、甲賀七忍といわれるおまえらじゃから、とくに言う。御先代さまに、たしかに若君はいまさなんだ。じゃが、御他界のおり、御懐妊中の御手つきの御中臈《おちゆうろう》がひとりあったのじゃ。番町の旗本沢木伝右衛門の娘でお丸《まる》の方と申す。……運なるかな、命なるかなその御胤《おたね》は水になりなされ、御遺腹の沙汰はやんだ。と、余らは承知しておった。それが……その御胤が水になったという公儀への届けはいつわりにて、若君は無事御出生、ただいま御存生《ごぞんじよう》あそばしておることがこのごろ相わかったのじゃ」
「御先代さま若君……そりゃ、まことでござりますか?」
闇の声がくりかえしてもういちどきいたのは当然だ。実にこれは容易ならぬ事実である。
「証人がある。若君御誕生のことを当時承知していたお方がある」
「それは?」
「水戸の御老公」
しばらく、だまって、
「なにゆえお丸の方が、いつわりのお届けをなされたか、なにゆえ水戸の御老公が、今日までそれを口外されなんだか――実はその点では、余にも不審のことがないでもない。ただ若君御存生のことは厳たる事実じゃ。まず、これだけのことは知っておけ」
「御先代さま御他界のおり――と申せば、延宝八年五月――」
「当時お丸の方には、御懐胎|五月《いつつき》であったと申す」
「すりゃ、若君は、ことし二十歳《はたち》におなりあそばしますなあ」
「葵悠太郎《あおいゆうたろう》と申しあげるそうな」
頭巾の人の声は、粛然《しゆくぜん》として、ふるえをおびたしゃがれた声に変った。
「もし、そのお方が、公然お名乗りあそばして世に出でられたならば……いうまでもなく、六代将軍家たるはそのお方じゃ。いまの上様《うえさま》に御世子はない。ただおひとりの御子徳松さまはおん年四つにて御夭折《ごようせつ》あそばした。さりながら、上様とていまだおん年五十五、今明年にも御世子が御誕生あそばすやもしれぬ。いや上様はそのことをのみ、日ごろ祈っておわすのだ。しかるにここに御先代さまの御子が名乗り出ておいであそばしたならば、たとえ現将軍家に若君が御誕生なされても、御血脈の順として江戸城のあるじとはならせられまい」
「…………」
「いやいや、いまの上様とて、いかなる御運に相なるやはかりがたいものがある。水戸の御老公という、世にもうるさいお方がおわす。そもそも上様が五代様とおなりあそばす際ですら、いろいろと文句の多かったお方じゃ。ただ、御老公は、その若君が御成長なされていま、江戸におわすことを御存じでない御様子。実はの、過ぐる日、その若君の御家来という三人の男がひそかに余のところへ参って、はじめて余もそのことを知ったのじゃ。彼らは、一応余にその事実を報告するが、もしそれにて埒あかねば、小石川の水戸邸に参上すると釘をさしおった。以来、いろいろと手をまわして調べたところ、彼らの申すことはまことと相きわまった」
「…………」
「ただ、その若君が――おん名を葵悠太郎と名乗らせられておるということ以外――いま江戸のどこにおられるかは、また何をしておられるかは一切不明じゃ。家来もそれを申さなんだのは――おそらく、余が今夜おまえらを呼んでかかる用を申しつけるようなことがありはせぬか――と、それをおもんぱかったものであろう」
かすかに苦笑の語韻《ごいん》がもれたが、すぐ凍りつくようなひびきにもどって、
「されば、おまえらに申しつける御用は二つ」
「はっ」
「葵悠太郎どのをさがしあてて、おん首頂戴 仕《つかまつ》れ」
「殿。……それは御上意でござりましょうや」
「いや、上様は御存じあそばされぬ、と言っておこう。じゃが、このことを首尾よう果たしたら、恩賞はかならず上様よりたまわるぞ」
意味するところはあきらかであった。
「御先代様の御落胤と思うなよ。また上様の甥御《おいご》様と思うなよ。ただ巷《ちまた》の素浪人《すろうにん》葵悠太郎と思って討て」
「はっ。……して、もう一つの御用は?」
「さっき申した三人の家来――二十年若君をおまもり申しあげたはわれら三人――と言いおったが、それがしびれをきらして、小石川の水戸邸に推参いたすおそれがある。ながらく御病床にあった老公が、このごろ御本復あそばしたからじゃ。彼らを水戸邸に近づけては相成らぬ」
「かしこまってござります。して彼らの人相|風体《ふうてい》はいかようでござりますか」
「一人は、白髯《はくぜん》胸までたれた鶴のごとき老人じゃ。織部《おりべ》玄左衛門と申す」
「…………」
「もう一人は、背は六尺ゆたか、耳よりあごにかけて髯《ひげ》に覆《おお》われた大男、里見|隼人《はやと》と言った」
「…………」
「最後の一人は伴兵馬《ばんひようま》と申し、年は二十四、五、ひたいに三日月のごとき刀痕がある」
「…………」
「年ばえ、姿、まちまちじゃが、しかしその眼光、身のくばり、いずれもなかなかの剣客であるとみた。油断は相ならぬぞ」
闇の中で、冷たい波のように、声なき笑いがゆれたようであった。ややあって、ひとりの声が、
「殿。……このことは、殿以外どなたか御存じでござりましょうか」
「たわけ、これほどの大秘事、他にもらしてなろうや」
その一刹那――小姓は闇黒の天から、ふいに一陣の風が巻きおちてくるのを感じ、「あっ」とさけんだ。そしてそれが彼の最後の声であった。上から垂直におちてきた何者かが、刃《やいば》をさかしまに、彼を串刺《くしざ》しにしていたからである。
異様な叫びに、白頭巾の太守がはっとしてふりかえったとき、闇中にかすかに鍔《つば》の鳴る音がひびいた。その襲撃者はたかい梢《こずえ》からおちてきて、一瞬に小姓をたおし一回転して地に立ったのだが、それはふつうの視覚ではとらえられなかった。ただ、さすがに太守は本能的な恐怖におそわれた。
「な、何をいたす!」
「ふびんながら、殿とわれら以外に、この秘事を知るものを成敗してござります」
と、殺戮《さつりく》者は、沈痛な笑みをふくんだ声でいった。
暗殺の命令者自身が茫然として立ちすくんだとき、闇中で七つの声が、呪文《じゆもん》のようにながれた。
「仰せ、かしこまってござる。必ず、甲賀七忍の名にかけて!」
二
お茶の水のながれは蒼黒《あおぐろ》く淀んでいたが、幾千万かの鵝毛《がもう》に似た雪片は、湯島の聖堂の宏壮なシルエットを、幻のように天に霞《かす》ませて、道も樹々も、もうまっしろであった。
「おじさん、ほんとに、どこへゆくのさ?」
「おれか。おれより、おまえたちこそ、きょうはかえって休んだらどうじゃ。このぶんでは、雪はますますはげしくなるぞ」
「へん、これくらいの雪がなんだい。それより商売商売、かせがなくっちゃ、きょうのおまんまもたべられないや、ねえ、姉ちゃん」
それほど早い時刻ではないが、雪のため地上は蒼茫としてほかに人通りもないので、まるで夜明前のようにみえる。――その雪のなかを、三つの人影が小石川の方へあるいてゆく。
そのうち二つは、獅子《しし》舞いだった。威勢のよい声をはりあげているのは頬《ほ》っぺたのまっかな十くらいの少年で、いま姉と呼ばれたのは十七、八の愛くるしい娘だ。声は元気よく、本人は意識していないらしいが、世にもかなしいことをいわれて、あたまにつけた獅子がしらの下で、姉は返事に窮してただ白い歯をみせた。
「そんなことをいうおじさんの方が、おまんまのためにどっかへゆくんだろ? おれ、ちゃんと知ってるんだ」
「何いうの、たあ坊」
と、娘があわててもいっこうへいきで、くるくるした眼をかがやかせて、
「仕官の口をたのみにゆくんだろ? ね、おじさん」
「仕官――とは、また大した言葉を知ってるな、たあ坊、そうじゃ、仕官の口をさがしにゆくのだ。しかし、どうしてわかったな」
「どうだい、あたったろ! そりゃあね、おじさんが急にそんな立派な紋付|袴《はかま》をつけて澄まして出てきたからさ。よくまあ、そんなきものを質にも入れないで、いままでとっといたね、かんしんだよ」
相手の武士は笑いだした。耳からあごへかけて豪傑然たる髯《ひげ》をはやし、背は六尺ゆたかで、胸も肩も岩のようにあつい。
「しかし、おじさん、よしたがいいぜ。人に飼われてペコペコしてさ、それで餌《えさ》もらって男一匹かい。おいらみたいに風の中をとんぼをきって暮してごらんよ、ほんとにおまんまがうまいから」
「いや恐れ入った。残念だが、おれにはおまえのような芸がない。さればによって――」
「ペコペコか。そういえば、おじさんたち、ほんとに芸がないな。虚無僧《こむそう》のくせに、尺八はおッそろしく下手だし――あれじゃ、だれだって喜捨《きしや》する気にゃなれないやね。悠太郎さまなんか、このごろつまらないとみえて、寝っころがっているばかりじゃないか。ありゃ、そうとうな横着《おうちやく》者だな」
「たあ坊! およし、悠太郎さまの悪口をいうときかないよ」
「あっ、姉ちゃん、痛いじゃないか! 姉ちゃんったら、悠太郎さまのことってえと、すぐにムキになるね。隼人《はやと》のおじさん、この姉ちゃんはね、悠太郎さまが好きなんだよ。こないだ、夜中に、猫ののどをくすぐるようなへんな声で、悠太郎さま……とねごとをいってたよ」
娘がまっかになって、もういちど笛でピシリとぶとうとするのを、たあ坊はみごとに宙がえりしてにげた。
「まちな、丹吉――」
と娘が夢中で追っかけるのを、少年は雀の子みたいにとんでにげながら、
「おじさん、あばよ! ぶじ仕官の口がきまったら、今夜一升買っといで!」
声はもう三十メートルもむこうの雪の中だった。隼人のおじさんと呼ばれた武士はからからと笑いながら見送っていたが、やがて合羽の襟をかきあわせ、小石川の方へいそぎはじめた。雪は霏々《ひひ》としてますますふりしきる。――と、彼はふと立ちどまった。ゆくてに何やらぼんやりと立ちあがったものがある。
三
はじめ、それが立ちあがったとみえなかった。雪のなかに、その人間も真っ白であった。雪をかぶったせいでもない。真っ白な頭巾、真っ白な装束《しようぞく》、腰にさした一刀の鞘《さや》まで白塗りでただ頭巾のあいだからのぞいた顔の皮膚だけが異様な青銅色であった。
――異《い》な奴? とながめて二、三歩ちかづき、急にはっと合羽に手をかけたとき、その白い影が、陰々たる声音で呼びかけた。
「里見隼人であろう?」
「何者だ?」
「と、いうところをみると、さては里見隼人だな。ふむ、水戸屋敷へ参るか」
「ええ、無礼であろう、そこをどけい」
奇怪な相手は、隼人の言葉などどこ吹く風と、
「これ、うぬの主《あるじ》、葵悠太郎はどこにおる?」
ぱっと里見隼人のからだから合羽が宙に舞った。同時に、六尺にあまるその巨体が、砲弾のようにとんで、白い影に殺到した。
「何奴だ、名乗れ!」
ひっつかんだはずの白い影は、すでに三メートルも向うに立っていた。
「葵悠太郎のすみかはいずれじゃ、答えればうぬの命だけはたすけてとらす」
ものもいわず、隼人の腰から閃光《せんこう》のしぶきがほとばしり出た。体格にふさわしい長大な豪剣が横なぎにうなりをたててはしって、雪けむりがぱっと立った。
その雪けむりの中に忽然《こつねん》と敵の姿はきえていた。
「よし、悠太郎のすみかはあらためて探す。せめてきょうは、うぬを水戸より冥土におくってくれる」
声は、片側の六尺の土塀の上にあった。なんたる飛燕のような身の軽さ――白い影がキラリと刀身をぬきはらったとき、里見隼人の巨体も、みごとに塀の上におどりあがっていた。
「や?」
さすがに愕然として、あとずさりに――しかも疾風《はやて》の速度ではしろうとする白い影に、隼人の豪刀が追いすがり、からくも受けた相手の刀は二つに折れた。
「何ぴとの命《めい》にておれのまえにあらわれたか申せ!」
と隼人は大刀をふりかぶって叱咤《しつた》した。相手は茫然として立っている。
「推量はつくが、うぬの素姓《すじよう》を、うぬの口からききたい。言え!」
「言えぬ。それが、忍者の掟《おきて》。――」
「なに忍者? 忍者とあらば――ええおれはいそぐ。ならば掟をまもって死ね」
真っ向から唐竹割りに切りつける豪刀を白い忍者は腕をあげて肘《ひじ》でうけた。――と、あやしむべし、隼人の刀は鏘然《しようぜん》たる音をたててはねかえされたのである。
はっとしながらも、刃《やいば》は反転して、ふたたび相手の細首を横に薙《な》いでいた。が、そんなところに何も鎧《よろ》っているはずもないのに、刀身はまるで鋼《はがね》をたたいたように砕け折れたのである。
「肉鎧《にくよろい》」
相手は笑った。
折れた柄《つか》を宙になげて里見隼人はおどりかかっていた。ふたりのからだはからみあったまま、どうと雪の路上におちた。二、三度ころがると、隼人は相手のくびに手をかけて――この豪力無双の男の背に戦慄がはしった。相手の全身は――たしかに甲冑《かつちゆう》や鎖襦袢《くさりじゆばん》のたぐいを身につけていない、あくまでしなやかな肉と皮膚でありながら、鋼鉄のかたさをそなえていたのである。
「うぬ、化物め。――」
隼人は歯ぎしりしながら、相手の頭をつかんだまま立ちあがった。のしかかって、
「柳沢か――うぬを使うは柳沢か!」
と、絶叫した。
頭をしめつけられたまま相手はうす眼をあけてニヤリとした。
「隼人、あの世へ土産にきいてゆけ。――おれはいかにも柳沢手飼いの忍者、甲賀七忍のうち、八剣民部《やつるぎみんぶ》。――」
「またおれは七忍のうち、天羽《あまは》七兵衛!」
ふいに頭上で声がして、隼人が顔をふりあげた一瞬――彼の眼は、天空から落下してくる白い影と一閃の光芒《こうぼう》を見た。
「甲賀忍法、むささび落し!」
隼人の腰には鎖のような八剣民部の腕がまきついていた。にげもかわしもならず、里見隼人の肩から肺へ――腹腔まで、灼《や》き金《がね》のようなものがつらぬきとおっていた。
路ばたの欅《けやき》の梢から真一文字におちてきて、里見隼人を串刺しにしてしまった白い影は、そのままむささびのように一転して地上につっ立っている。ツ、ツー――と八剣民部が離れた。そのふたりの眼前で、しばらく無念の形相で仁王立《におうだ》ちになっていた里見隼人の巨躯《きよく》は、やがてどうと前のめりにたおれ伏した。
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陽炎乱し
一
「姉ちゃん、やっぱり隼人のおじさんはいないよ」
「あたりまえよ。何さ、丹吉。ふいにへんなこと言い出して――たとえ、どんな化物が出てきたって、あの豪傑の里見さまだもの、みんな退治しちまうにきまってるわ」
「でもね、なんだかさっき隼人のおじさん影がうすかったよ。おいら、そう思い出したら、きゅうに胸さわぎがしてきたんだよ」
「ほ、ほ、丹吉の胸さわぎ――さわいでるのは、おなかじゃない? もうおなかがすいてきたんじゃない? 影がうすくみえたのなら、それは雪のせいよ」
しかし、その雪はもうやんでいた。夜はまったく明けはなれている。日のひかりがさしてきて、地上はいよいよまぶしいばかりであった。
その雪に覆われた路を――お茶の水のながれに沿って、ふたりの越後獅子がかけてきた。小さい方の丹吉は、それだけ大きな眼をキョロキョロさせて、
「おじさんは、あっちへいったね」
と、小石川の方を指さすと、姉は、
「まだあんなことをいっている。さ、丹吉、ゆこう。おまえのいいぐさじゃないが、稼がなくっちゃ、ほんとにおまんまがたべられないよ」
――と、そのとき丹吉が奇声を発した。
「あれ?」
「どうしたの?」
丹吉は、鉄砲玉のように片側の土塀の方へとんでいって、何かをひろいあげた。
「おじさんの合羽が、こんなところにおちてらあ」
と、けげんそうにまわりを見まわして、そこと、土塀の上の雪が踏みちらされているのを眼で追って、五メートルばかりはなれた大欅《おおけやき》の下へ視線がいった。木の下の雪が、一部分コンモリともりあがっていた。
ものもいわず、少年ははしって、雪をかきのけた。
「姉ちゃん! 隼人さまだ!」
姉もさけび声をあげてかけよって、そこにたおれていた人間にしがみついた。その六尺ゆたかな巨漢は、上半身|朱《あけ》にまみれて、しかも眼はくわっと白くむき出されたままうごかなかった。
「おじさん、どうしたんだ!」
「隼人さま! 隼人さま」
金切声で呼びたてられて、里見隼人の死相にかすかないのちの灯がゆらめきわたった。あとで気がついて、姉弟は身ぶるいしたのだが、隼人はこのときすでに完全に頸動脈をたたれていたのである。とどめ[#「とどめ」に傍点]を刺されていたのである。しかも、唇が、枯葉のようにわなないた。
「わか、若君。……」
「おじさん、だれが、だれがこんなことしたんだ!」
「――やつるぎみんぶ――あまはしちべえ。……」
「え、なんだって? やつるぎみんぶ、あまは……」
里見隼人は、もうこたえなかった。――越後獅子の姉弟はまっさおになって、凍りついたようにそれを見まもっていたが、すぐに丹吉が、
「姉ちゃん、自身番にゆこう」
「え、はやく」
と、姉はたちあがり、ふと弟の顔をみて、
「ちょっと待って――自身番より先に悠太郎さまへお知らせした方がいいと思うわ」
「そりゃ、そっちへも知らせなきゃいけないけどさ」
「ね、丹吉、あんな裏長屋に四人の虚無僧――しかもみんなただの虚無僧とはみえないわ。とくに悠太郎さまに、あとの三人が仕えてる御様子は、まるで大名と御家来みたい――。なにか、わけがあるのよ。わけがあって世間からかくれていらっしゃるのよ。だから、自身番へはとどけない方がいいかもしれない。……」
「それじゃ、一刻もはやく悠太郎さまのところへ!」
と、ふたりは、隼人の屍体に雪をかぶせると、かけ出した。
――その姉弟の姿を、じっと見ていた四つの眼がある。隼人の屍骸の上の大欅ではなく、ずっとはなれた土塀の上に、白いやもりのごとく吸いついていたふたりの白覆面白装束の男であった。
「七兵衛、あれはただゆきずりの越後獅子ではないようだな」
「うむ、隼人の知り合いとみえる。自身番にはしったのか」
「いや、それにしては、隼人のむくろにまた雪をかぶせたのがいぶかしい。追え」
ふたりは、そういいながら、するすると白装束をぬぎかけた。ぬぐというよりいわゆる「ひきぬき」のように、手が敏捷《びんしよう》にうごくとみるみる黒紋付の姿に変化したのだ。その間一分足らず。――
最後に頭巾に手をかけて、
「や、しまった!」
と、ひとりがうめいた。
小石川の方から、一|蛇《だ》の行列があらわれたのである。先箱、長刀《なぎなた》、槍、駕籠《かご》、馬、長柄傘《ながえがさ》、それをまもる数十人の供侍――いわずとしれた大名行列だ。その諸道具にかがやく葵《あおい》の金紋をみて、
「水戸だな」
と、土塀の上で無念そうにつぶやいた。しずしずと行列が通過したあと――越後獅子の影もかたちも、すでになかった。
二
越後獅子の姉弟は、神田|馬喰町《ばくろちよう》の俗にいうさいづち[#「さいづち」に傍点]長屋にかけこんでいった。丹吉の跫音《あしおと》をきくやいなや、一匹の白犬がとび出してきて、その足にじゃれついた。
「タマ、それどころじゃないんだ。悠太郎さまはいるかい?」
と、丹吉は、犬をけっとばすようにしてはしる。
タマは、丹吉がひろってきた犬だ。まえはいつもつれてあるいていたのだが、このごろはとなりに住む浪人葵悠太郎の方によくなれて、悠太郎とあそぶ方がおもしろいとみえて、どうかすると丹吉についてこないことがある。めんどくさいので、丹吉はきょうも姉とふたりだけで稼《かせ》ぎに出た。
葵悠太郎はいた。案の定《じよう》、路地に出て、近所の子供たちと、あそんでいた。なんとおとなのなりをして、雪|達磨《だるま》をつくっているのである。
「たあ坊、どうした」
ふりかえった姿は、背だけスラリとたかいが、色白でふっくらした頬には、どこかまだ少年の面影《おもかげ》すらある。
「この雪では、逆立《さかだ》ちもむりだろう。いっしょにあそべ」
「たいへんだ、それどころじゃない」
息がはずんで声も出ないところへ、姉がかけよってきて、
「悠太郎さま、隼人さまが殺されました」
「なに」
さすがののんき坊主の頬にも、愕然《がくぜん》としたものがうごいた。
「お縫《ぬい》坊、それはほんとか。どこで?」
そのとき、うしろの長屋の戸があいて、もうひとりの浪人がのぞいて、かみつくようにさけんだ。
「隼人が! だ、だれに殺されたと申すのだ!」
「それが、おいらたちにもわからない。ただ、お茶の水から小石川の方へゆく途中の往来で――」
「これ、子供たちはあっちへゆけ!」
と、その男は恐ろしい顔で手をふった。年は二十四、五だろう、ひたいに三日月のかたちの刀痕があり、鷹のような眼、とがったあご、みるからに精悍《せいかん》きわまる若者であった。これから出かけるところであったとみえて、鼠色の衣服に袈裟《けさ》をつけて、すでに尺八も手につかんでいた。
子供たちがびっくりしてにげちると、彼はあごをしゃくった。姉弟は声をふるわせて、隼人の死をしゃべった。
「それでは、下手人は、もはやその影もみえなんだと申すのだな」
「そう、でも隼人さまは、死にぎわに何かしゃべったぜ」
「ど、どんなことを?」
「だれがこんなことをしたんだってきいたら、やつるぎみんぶ、あまは……姉ちゃんなんだっけ?」
「たしか、あまはしちべえ。……」
急に、その浪人は家に入った。出てきたときは、一刀を腰にしている。つかつかとあるきかけるのを、
「兵馬」
と悠太郎が呼んだ。
「どこへゆく」
「隼人の仇を討ちに参る」
「下手人は、もういまい」
「ならば、柳沢の屋敷へ」
「柳沢? なぜ?」
「隼人を殺したのは、柳沢の手によるものと存ずる」
「証拠がなかろう……」
伴兵馬はふりかえって、悠太郎をにらんだ。
「ひとごとのように仰せなさる」
むしろ蒼白《あおじろ》い顔が、朱に染まって、
「悠太郎さまは、隼人の殺されたを御無念と思われませぬか。なんのために隼人が水戸邸に参ろうとしたのか。どなたのために――」
「隼人自身のためだ」
と、悠太郎はいった。彼はかがんで、尾をふるタマのあたまをなでていた。伴兵馬は唖然《あぜん》として、声もない。悠太郎はけろりとして、
「おのれの立身のために隼人はあがいて死んだのじゃ。だから、わしがよせよせと言わぬではない。――」
「さ、左様な!」
と兵馬は歯ぎしりしてなお声も出ない様子であったが、その非情ともみえる頬にポロポロと涙があふれおちた。
「な、なにを仰せあるか。あまりといえば情けない。拙者らは、悠太郎さまを世にお出し申すよりほかに、まったく他念はござらぬに――」
悠太郎はあきれたように兵馬の泣き顔をあおいでいたが、やがてかなしげな表情になって、
「ゆるせ、ゆるせ、ちと言葉がすぎた。そなたらの心は、悠太郎よく存じておる。ただ……わしがありがた迷惑に思うておることは、そなたら知っておろう。そなたらが柳沢の屋敷へ参ったのも、わしは根まけしてゆるしただけじゃ。また、ひょいと、もしわしが世に出れば、そなたらのながい苦労に酬《むく》いてやれるとも考えた。しかし、それはやはりまちがいであった。もしそなたの申すとおり、隼人を殺したのが柳沢出羽守ならば……出羽が一存で左様に無惨《むざん》な所業をするわけもなく、案じたとおり、わしの出るのを迷惑に思うむきがあるのじゃ。人に迷惑がられてまで、わしは世に出とうはない」
「あいや、あなたさまのことは、あなたさまの御一存では参りませぬ。これは公事、天下にかかわることでござる」
「というのが、そなたらの口ぐせだ。わしはそうとは思わぬが――兵馬、そなたには、この裏町で子供たちと、雪あそびをしてくらすのをたのしむ気はないか」
兵馬は肩をゆさぶって、返事もせずにまたゆきかかった。
「兵馬、わしのいうことがきけぬとあらばやむを得ぬ。だが、せめて爺《じい》のもどるまで待て」
「隼人のむくろをひろって参る」
兵馬は、腹立たしげにこたえた。
「おじさん、駕籠《かご》をさがしてこようか」
と、いままでだまっていた丹吉が、急にじぶんの役に立つときがきたといわんばかりにしゃしゃり出た。
「死人をのせてくれる駕籠なんてないぜ。おいらなら知ってる。おいらがたのめば、どんなことでもきいてくれる駕籠かきのおじさんを知ってるんだ」
伴兵馬は、だまって姉弟をにらみすえた。興奮のあまり、彼らがそこに立って、いままでの対話をきいていることを忘れていたのである。そのからだを、さっと殺気がふちどった。
うしろから、悠太郎が声をかけた。
「兵馬、ばかなことを思うなよ」
「は。……」
「その子たちは、めったなことをもらしはせぬ。眼をみろ。……さてさて、人間、妄執の鬼となると、他のことにはものの見境いがつかなくなるものらしいの」
姉弟には、実は悠太郎と兵馬の問答がよくわからなかった。とくに、最後の悠太郎の言葉にいたってはまったく何のことかわからず、丹吉はただ鉄砲玉みたいに駕籠を呼びにかけ出した。
三
「おじさん」
「…………」
「兵馬のおじさん、なぜそんなにだまっているの?」
「…………」
「かなしいのはわかるけどさ、おいらもかなしいけどさ、何かしゃべってくんなよ。おいら、こわいよ」
伴兵馬は、なお沈黙して、腕ぐみをして、雪のなかをあるいている。死人をいれた駕籠のそばには丹吉がくっついて、心配そうに兵馬を見あげていた。
丹吉に案内されて、雪のなかから掘り出した里見隼人の死にざまこそ、兵馬を沈黙させるものであった。
やつるぎみんぶ、あまはしちべえ、それが何者であるにせよ、里見隼人ほどのものを斃《たお》すとは、よほど世に稀な使い手であろうとは覚悟していたが、隼人の屍骸をみて兵馬は慄然《りつぜん》とした。とどめの一刀はさておいて、隼人は肩から垂直に、まっすぐに刺し殺されたものであることがわかったからだ。そもそも隼人は、いかなる姿勢、敵はいかなる位置で、あのような奇怪な傷痕を印し得たのか。
「おじさん」
「うるさい」
「だれか、うしろからつけてくるものがあるよ」
「なんだと?」
といったが、さすがに彼はつづけざまに、
「ふりむくな」
と、駕籠屋にいった。ねじむけようとした首をあわててもどしたが、駕籠かきの足は思わずはやくなる。
「丹吉、駕籠のかげにかくれて、追ってくる奴を見てくれ。……駕籠屋、いそぐな、いままでどおりに歩け。丹吉、ついてくるのはどんな奴だ」
「深編笠の浪人――」
「ひとりか」
「それから、女と――ふたりだ。けれど、仲間かどうかわかんない」
「女?」
兵馬はわずかに首をそむけたが、眼がしだいに凄じいひかりをはなってきた。死人駕籠《しびとかご》はとっととあるく。
「よし!」
決然とうなずいて、片側を見あげる。古い寺があった。山門も石段も、雪でまっしろだった。
「駕籠屋、このなかに入れ」
「寺へ……だ、旦那、もうかんべんしておくんなさい」
はじめからおっかなびっくりだった駕籠かきは、いまにも駕籠をほうり出しそうだ。
「いや、門をくぐったら、死物狂いにはしって、裏門からぬけろ」
そういわれただけで、もう死物狂いの速度で、駕籠かきは石段をかけのぼった。足が雪にすベり、かたむいた駕籠に中のものがぶつかって、きみわるい音をたてた。つづいて兵馬もかけのぼりながら、
「丹吉、きさまもいっしょににげるんだぞ」
「お、おじさんは?」
「きゃつらの足をとどめてくれる」
と、ニヤリとした。
しかし、この行動は、駕籠屋と丹吉をのがすよりも、隼人の復讐よりも、敵の正体を知りたいのと、それから断じてじぶんたちのゆくえを謎の追跡者に知られてはならぬという目的からであった。すでに隼人は殺された。敵の狙いは、悠太郎さまにある。悠太郎さまのいどころを、八幡、この敵に知らせては相ならぬ!
境内をつっきって、墓地のそばをとおって、駕籠が裏門からはしり出すのをみると伴兵馬はたちどまって、ふりむいた。
はたせるかな、丹吉のいった深編笠と、武家の娘らしい女は追ってきた。武士の方の顔はみえないが、女は雪にかがやくばかりきらびやかなものをきて、それにおとらずきれいな顔をしていた。
「柳沢の犬」と、兵馬は呼んだ。
「ちょうど、墓場じゃ。隼人のかたきをここで討ってくれる。参れ」
「伴兵馬か?」
と、深編笠はしゃがれた声でいった。すでに名を知っている。同時にその笠に手がかかる。兵馬の手から流星のようなひかりが尾をひいてとんだが、小柄は笠でなぎおとされた。笠の下から白頭巾にくるんだ頭があらわれた。そのままはせ寄りつつ、その男はうしろにじぶんの衣服を投げすてた。十歩と走らぬうちに、そこに白頭巾白装束の姿が現出した。いや、現出したというより、雪のなかに没入したといった方がふさわしい。
さすがの伴兵馬が、神変ともいうべき敵の変身ぶりに、かっと眼をむいて、
「忍者か!」
「されば、いかにも柳沢出羽守手飼いの甲賀七忍、鵜殿一風軒《うどのいつぷうけん》――」
「おなじく七忍、葉月《はづき》と申す」
と、名乗って、女がにっとしたのは、おそらくここで必ず伴兵馬を討ちはたすという自信があるからだろう。
一直線にはしってきた鵜殿一風軒は、兵馬の眼前三メートルばかりで、人間業とは思われない速度と角度で、ふいに真横にとんだ。猛然とむかえ討とうとした兵馬のまえに葉月が立つ。唐竹割りに、兵馬の一刀が白虹《はつこう》をひいた。その刀身に、ぱっと血の花がひらいた。
いや、血の花とみえたのは、一枚の薄絹であった。はっとしたとき、葉月の手から、二枚、三枚――みるみる七枚、八枚、十枚、無数のヴェールが五色の妖光を発しつつ、兵馬の前後左右にひるがえってゆく。
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雪の血文字
一
たたたたとあとにさがって、伴兵馬は大石塔に背をつけて、周囲に乱舞する薄絹の波を透《す》かした。
薄絹の波は、彼の脳裡《のうり》にも乱舞している。この世に生まれて以来、恐ろしいということを知らない剽悍無比《ひようかんむひ》の兵馬であったが、これには動顛《どうてん》せざるを得なかった。――天地四方に舞う五色の布は、或いはひるがえり、或いはながれ、或いは林立し或いは躍り狂う。しかも、これを飛ばす女忍者葉月はどこにいる?
「ううむ!」
彼はうめいた。彼にとって、忍者とのたたかいははじめてであった。いまにして、里見隼人ともあろう男がむなしく討たれた理由を知る。兵馬のひたいにあぶら汗がにじんできた。しかも、さらに恐ろしいことは、いま眼前にせまる甲賀の忍者は、隼人をたおした相手とはちがう新手《あらて》の二人であるということであった。――そもそも、敵は何人いるのか?
「卑怯っ」
思わず、さけんだ。昏迷におちいった兵馬の眼には、乱舞する五色の布が、ことごとく敵の葉月に幻覚されてきたのだ。
突如、右に殺気をおぼえて、彼の刃《やいば》が右なぐりに一閃した。二つに斬ったのは、赤い薄絹の一枚であった。次の刹那《せつな》、左に葉月迫るとみて、刃は左へ反転した。裂いたのは、青い布の一枚であった。両断された布はそのままふたりの葉月となり、四人の葉月となり――見よ、前後左右に数十人の葉月が乱舞している。
「卑怯だっ、姿を見せい、甲賀者っ」
絶叫する兵馬に、どこかで笑う声がした。
「おお、見るがよい、甲賀忍法、陽炎乱《かげろうみだ》し。――」
その一瞬、兵馬はちらとみた。五彩の陽炎のごとくゆらめく薄絹のむれのかなたに、なお薄絹を投げている葉月の姿を――彼女はおのれのきものをぬぎすてているのだ。ぬぐというより、彼女のきものの袖が、襟が、帯が、裾が無数のヴェールを重ねたものらしく、手のうごくところ、ことごとくこの眩惑的な布の奔流と化するのであった。
「兵馬、ここじゃ」
伴兵馬は殺到した。血ばしった眼は、このとき、ややはなれたところに起ったおどろくべき一つの現象を見なかった。――雪の一塊が、すうっと地上二メートルばかりのたかさに浮かびあがったのを。
雪ではなかった。それは白ずくめの鵜殿一風軒であった。たんに跳躍したのでも、懸垂《けんすい》したのでもない。実に、一風軒はまるで重力のないもののごとく、水平に宙にうかびあがったのである。なんたる体術――そのために、彼はどれほど超人的なエネルギーを焼尽《しようじん》するのか、鴉天狗《からすてんぐ》に似たその蒼黒い頬の色は、死人のように白ちゃけていた。そのまま彼は、墓石を縫って、風のようにすうっと宙をながれた。もとより手には刃をにぎっている。
雪を蹴たててはせよった兵馬は、あまりに平然と立っている葉月に、一瞬、たたらをふんで立ちどまったかとみるまに、八双にふりかぶった大刀にうなりを呼んで、
「女、布は尽きたかっ」
と、ふりおろしつつわめいた声が早かったか、
「甲賀流、ながれ星!」
と、背後にきこえた声が遅かったか、音もなくながれ寄った鵜殿一風軒の刀身は、伴兵馬の背から左胸部へ、胸の厚みだけのこしてつきぬけた。
さっとわきへ体をひらく葉月のもと立っていた位置へ、ふたりの男は折重なってたたきつけられた。うしろから心臓をつらぬかれて即死した伴兵馬はもとより、それをつらぬいた鵜殿一風軒も、しばらく死せるがごとくうつぶせになっている。殺戮《さつりく》そのものよりも、空中に浮かぶという体術に、全精根を消磨したものに相違ない。
その一風軒をかえりみもせず、葉月はあゆみよって、すでに絶命した兵馬のくびに念入りにとどめを刺した。
そのとき、どこかでさけぶ声がした。
「いまの声はなんじゃ」
「喧嘩か」
「墓地の方できこえたぞ」
寺の坊さんや寺男たちがききつけて、さわぎ出したらしい。ようやく鵜殿一風軒が、よろめきながら立ちあがった。
坊さんや寺男が、墓地のはずれにあらわれたとき、彼らはそこに散乱している五色の布の美しさに、「あっ」とさけんだ。それから、雪のなかにたおれている影に、かっと眼をむいた。つぎに何気なく上をみて、彼らは声も出なくなった。墓石のうえに、ひとりのきらびやかな武家娘と、ややはなれてやはり墓石のうえに、もうひとりの白頭巾白装束の男が、すっくと立っていたからである。
ふたりは、死神のような眼で、こちらを見つめていた。――とみるまに、墓石から墓石を、杭《くい》をわたる鶺鴒《せきれい》のようにとびわたってたちまちいずこかへ消え去ってゆく。
坊さんたちが気死したようにそれを見おくったことは当然だが、彼らはいまの怪異以上に、もっと恐ろしいことが地上におこっているのを、だれも見なかった。――すなわち、すでに完全に絶命している死人の腕が、ふるえつつ、すうっとのびてきたことを。
指は、まっかだった。彼自身の心臓からながれ出した血だ。その指が、わななきつつ、
「うどのいっぷうけん」
と、雪にかいた。なんたる超絶の精神力。
そのとき、坊さんたちのうしろで、ただならぬさけび声がした。
「こりゃなんだ」
丹吉である。兵馬の運命を案じて、駕籠のみ先にやり、ひとりのぞきにもどってきたこの少年は、雪を彩《いろど》る布の波に、口をぽかんとあけて棒立ちになった。
指は、虫のように這った。
「はづき」
そして、その最後のところで、赤いひとさし指は雪にくいこんだまま、二度とうごかなかった。
「あっ、おじさん」
雪けむりをあげて、丹吉がかけよってきた。そのうしろに風が巻いて、三、四枚の薄絹が、生けるもののごとく、ふわふわと立ちあがり、ひるがえった。
二
里見隼人と伴兵馬と――ふたつの屍骸をまえに、四人はだまって坐っていた。悠太郎とお縫と丹吉と、そして所用あってこの数日旅に出ていて、夕方になってかえってきた織部玄左衛門という老人である。
声もなかった。
地に雪のあるせいか、妙に寂寞《せきばく》としたさいづち[#「さいづち」に傍点]長屋である。部屋に火の気はなく、凍りつくような寒さであったが、四人ともそれを意識しなかった。
里見隼人が水戸邸へ出かけたのは、玄左衛門も知らないことであった。玄左衛門はじぶんの故郷である相州の山奥へかえっていて、行動を起すのはじぶんのかえるまで待つようにといい置いてあったのだが、すこしかえるのがおくれたばかりに、しびれをきらした隼人が水戸邸へ出かけたものであろう。或いは玄左衛門のもどるまでに首尾よく何もかも事をはこんで、老人を笑って迎えたいというきもちになったのかもしれない。
しかし、あの元気のふたりが、こうもあっけなく屍骸となって待っていようとは!
隼人は玄左衛門の甥であり、兵馬は悠太郎の乳母の子であった。織部玄左衛門という名は、いまでこそよほどの兵法者でなければその名をおぼえているものもあるまいが、そのむかし神子上典膳、小野|善鬼《ぜんき》とならんで、伊藤一刀斎門下の三鬼人といわれた男である。が、そのふたりの兄弟子が師の跡をのぞんで相せめぐのをかなしんでひとり一刀斎のもとから去った。この玄左衛門が、手をとって教えた隼人と兵馬だ。元禄の泰平に、それほど容易にこのふたりを討てるものはないはず――と、ひそかに自負していたのに――丹吉にきくと、両人とも、きわめて短時間のたたかいで斃《たお》されたものらしい。
傷からみると、隼人は真上から、兵馬は背後から襲撃されている。隼人には胴のまわりに鉄環でしめつけたような物凄い索溝《さつこう》のあとがあり、兵馬の屍体のまわりには、数十枚かの眼もあやな薄絹が雪に散乱していたという。――みればみるほど、きけばきくほど奇怪な、ぶきみな敵であった。
「……そして、兵馬の敵をみたというのじゃな」
と、玄左衛門がいった。
「ううん、おいらは見ないよ。そいつらがにげたあとに、おいらがもどっていったのさ。でも、坊さんたちにきくと、そのふたりは墓石のうえをカラスみたいにとんでにげていっちゃったそうだよ。ひとりはからだじゅう白ずくめで、もうひとりは女だったっていうよ。――」
と、丹吉が幾度めかの報告を、熱心にいった。悠太郎は腕ぐみをして、
「それが、兵馬が雪にかきのこした、葉月という女であろう」
玄左衛門は宙に眼をすえた。
「もうひとりが、うどのいっぷうけん……鵜殿一風軒と申す奴か?」
「隼人を殺した奴はまたちがうらしい。八剣民部、天羽七兵衛。……」
「――おそらく忍者。……」
玄左衛門はうめいた。
「忍者をつかうとは、いかにも柳沢らしい……」
「柳沢のうしろに、またそれをつかうお人がありはせぬか」
と、悠太郎が玄左衛門をみた。さっきまで、涙をうかべていた瞳のおくに、気弱げな微笑がゆれて、
「玄左、そなたの望み、あきらめた方がよいようだな」
織部玄左衛門は眉雪《びせつ》の下から、しばらくじっと悠太郎の顔を見つめていたが、このときようやくとなりの小さな姉弟に気がついたらしく、
「そなたら、思いがけぬことでいろいろと世話をかけた。礼をいう。どうぞ、かえって寝てくれい」
と、しずかにいった。丹吉はまだ昂奮した眼の色で、
「おじさん、隼人さまをどうするのさ? お坊さんを呼んでこなけりゃいけないんだろ? お経《きよう》をあげてやらないと、迷って出るよ」
「うむ。……が、まず今夜はこれでよい。明日になったらたのむかもしれね」
「敵討ちにゆくなら、おいら手つだってやるぜ。何でもするぜ。墓石の上のとびッこなら、おいらの方がうまいや」
と、ふるえながら、りきんだ。
「丹吉」
と、お縫はしかったが、これも気がかりらしく、
「悠太郎さま、火の気もありません。火をおこしてもってきましょうか」
「うむ、たのみたいな」
と悠太郎がうなずくと、玄左衛門はきびしい顔で姉弟をにらんで、
「火はよい、はやくかえれ」
と、髯《ひげ》のあごをしゃくった。
姉弟があわてて出てゆくと、玄左衛門はまたじっとふたりの屍骸の方へ眼をやっていたが、
「もはや、このものどものためにもあとへはひけぬ」
と、つぶやいた。
「若君、爺《じい》は、若君が左様に世に出るのをおきらいなさるならば、もういちど足柄山《あしがらやま》へもどろうか、とも存じておりました。さりながら、敵がこう卑怯な冷血な手段に出てきたうえは、もはや逃げることは断じて相なりませぬ。敵――あえて爺はそう呼び申す。その敵に、われらのことを一応とどけ出たは、爺一生の不覚でござる。はじめから水戸の御老公のところへ参ればよかったのでござります。――が、だれか……前将軍家の御落胤に、きゃつらがこれほど陰険無惨な手をのばしてこようとは予想できたでござろうか?」
「爺、御落胤云々はよすがよい。わたしははじめから市井の素浪人暮しが好きであった。足柄山もなつかしいが、ここもまた捨てがたい。……そうまでわしの世に出るのがこわいお方のまえに、むりに罷《まか》り出れば修羅は必定《ひつじよう》、いや、出るまえからこのように、うすきみのわるい奴どもが、ぞろぞろと立ちふさがるうえは、爺、ここらであっさり尻《し》っ尾《ぽ》をまこうではないか」
玄左衛門は暗然と悠太郎を見やって、ふいに白い髯をふりたてた。
「ああ、爺はこのようにあなたさまをお育て申しはしませなんだ! 爺は、一刀流の奥儀《おうぎ》とともに、将軍家御世子たるの御勇気をおそなえあそばすように心をくだいてきたつもりでござる。ただ、貧しいなかに、鷹揚にいたされるようにつとめてきたのが、このような御気性とならせられたもととなったか。剣法は爺も舌をまくほど天稟《てんぴん》のものでおわすに、さりとはお情けない。……」
「いいや、争いを好まぬは、亡き母上の血であろうな」
と、悠太郎はけろりとしていった。
「母上は、むりに将軍の側妾《そばめ》に――いや、父上のおそばにひき出されて、大奥とやらでひどく苦労をなされ、生まれてくる子だけはこのような世界に生きる人間にはしたくないとかんがえて、逃げ出されたと仰せられた。わたしは母上のおきもちがよくわかるように思うし、ありがたいと思う」
「いや、あれは……前将軍家御他界の折、いろいろと暗闘らしきものあり、いたくお世継ぎを望ませられるむきから、おだやかならぬ手が、お丸の方さまにのびてきた形跡あって、そのためにお姿を消されたものでござる」
「そのおなじおだやかならぬ手が、母子《おやこ》二代におよんできたか。きけばきくほど爺、悠太郎はそんな因果めいた話がほとほといやになった。もはや、このことは思いきったぞ」
「爺は、あきらめませぬ。天下の主《あるじ》たるおん方乃至はその腹心たる人が、ひそかに忍者をうごかすなどとは、むこうもまたおのれの所業をうしろ暗いものと承知なされておる証拠。……断じて、断じて、男の意地にかけて!」
沈痛な声、凄絶な眼も、悠太郎にはそれほどの感動もあたえないのか。
「すこし、腹がへったな。おとなりで雑炊《ぞうすい》でもたきはじめたか、ひどくうまそうな匂いがするではないか。ちょっと御馳走になってこよう。なに、通夜にはもどるさ。爺にももらってきてやろう!」
飄然《ひようぜん》として出ていった。
三
銀河をちりばめて、深い蒼《あお》い夜空であった。地は白い。白いせまい庭に、二つの影がひっそりと横たわり、二つの影が黙もくとうごいている。横たわっているのは里見隼人と伴兵馬の骸《むくろ》であり、うごいているのは、鍬《くわ》をふるう老人と、それを手つだう少年と、犬のタマであった。
「丹吉、もうよい、かえってねてくれ」
「だいじょうぶだい。しかし、こんなところに入るのは、さむいだろうな」
黒ぐろと掘った穴をながめて、丹吉の息はふるえていた。
「悠太郎さまはねているよ。あのひと薄情だねえ。じぶんの家来が殺されたっていうのにさ、おいら見そこなったよ」
老人はこたえない。何かかんがえこんでいるらしい顔つきである。
「炬燵《こたつ》で、姉ちゃんのつくった花をいじりながら、ときどきポロポロと涙をおとしてはいたけどね。雑炊をたべて、炬燵に入ったら、ねむくなっちまったらしい。よく、ねられるものだな! おいらでさえ、しゃくにさわってしゃくにさわって、今夜はねむくなんかちっともないのに」
じぶんの背たけの倍はありそうな鍬をふりまわしながら、丹吉はひとりでしゃべっている。実は、こわいのである。屍骸もこわいが、それをこんな庭に埋めようとする老人もこわかった。
「姉ちゃんはね、このごろ葵《あおい》の花ばっかりつくっていたんだよ」
姉ちゃんの花とは、お縫が内職にしている造花のことだ。紙や絹の羽二重、寒冷紗《かんれいしや》や竹や糸で、彼女のつくる精巧な花々はまさに名人芸であった。夜や雨の日は、彼女はこの花作りに精を出して、暮しの足しにしている。ときどきは、悠太郎たちのすみかにもってきて、殺風景な男四人の共同生活のなかに美しい色彩を点じてゆく。――
「けどおいら。もうあんな葵の花なんかふみつぶしてやるから」
大ふんがいであるが、老人はきいている風でなかった。急に鍬を投げ出すと、穴に二つの屍骸をひきずって、むしろあらあらしい動作でなげこんだ。
「隼人、兵馬、しばらくここで待っておれ」
はじめて、かわいた声でいった。
「悠太郎さまを世にお出し申しあげたとき、そなたらもここから出して、あらためて大寺《おおでら》で供養をしてやろう。おまえらを殺した奴らの首をそなえて喃《のう》」
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幻五郎憑き
一
小石川水戸屋敷の門を朝靄《あさもや》がぬらして、鉄金具がにぶいひかりをはなっていた。その門が重おもしく八文字にひらいて、なかから行列がながれ出てきた。
往来をあるいていた人びとは、むろん残雪のなかにひざをついたが、そのなかにふたりの六部《ろくぶ》の姿があった。六部笠を伏せたままなので、顔はわからない。またとなりにいた男も、むろんなんの声もきいたはずはない。それにもかかわらず、ふたりは笠の下で、こんな対話を交していたのである。
「おい、行列は水道橋の方へゆかぬではないか」
「登城ではないらしいな」
「あの供廻りの姿からみると、長旅だ。水戸へかえるのだ」
「人数の少ないことから推しても、中将ではないの」
「隠居の方じゃ。黄門《こうもん》だ」
忍者特有の、第三者の鼓膜《こまく》にはなんのひびきもあたえない音波の会話だ。
「老人、水戸にかえるのか」
「うるさい老人じゃ、出羽守さまも、ほっとなさるであろう」
「出羽守さまどころか。公方《くぼう》さまもな。ふ、ふ」
「なにしろ西山でとれた悪獣と称して、わざわざ犬の皮を二十枚も献上するのだから、恐れ入った老人だ」
「ところで、外記《げき》、黄門が水戸へかえったとなると、葵《あおい》一味はさてどうするかの」
「一味といっても、あと悠太郎と織部玄左衛門のふたりだけじゃが」
「すがりつく相手がおらぬとなると、きゃつら、さぞあわてるであろうな」
「いや、水戸へ追ってゆきはすまいか」
「そうなると、ちと面倒だの、こりゃ、あらためて、みなと談合せねばならぬ」
いつしか、行列はきえ、人びともたちかけていた。ふたりの六部もたちあがって、背の仏龕《ぶつがん》をひとゆりしてあるき出そうとしたとき――
「や?」
と、ひとりが、ひとりの脇腹をつついた。
「あの小僧」
「うむ、角兵衛獅子」
犬をつれて、ひとりの小さな角兵衛獅子がはしってきた。こちらの六部には気がつかないで通りすぎて、水戸邸の門前で、行列のちらしていった雪どけのぬかるみを掃きなでている二、三人の若党に何かきいている。やがて彼は、びっくりしたような声をあげたかと思うと、礼をいって、もときた道をかけもどっていった。
「あれは、ひょっとすると、民部や一風軒のいっていた角兵衛獅子の子供ではないか」
「おそらく、悠太郎らをよく知っておる――?」
ふたりの六部はうなずきあうと、そのあとを追ってはしり出した。ひとりは片眼の男である。
――と、水道橋の手前までくると、その少年が橋のうえで、深編笠の男と話している姿がみえた。
「黄門さまは、水戸へかえったんだって」
澄んだ冬の大気をとおして、息はずませる少年の声がきこえる。相手は愕然《がくぜん》とした様子である。
「たったいましがただって。すぐ追っかけたら、つかまるよ」
深編笠は、ふと、こちらを見たようである。ほかに人通りはなかった。ふたりの六部は、ちょっと立ちどまったが、すぐその方向へ、そしらぬ顔でちかよった。
あるきながら、声なき声ではなす。
「幻五郎《げんごろう》、こんどはきゃつ、用心したな。子供をさきに、まず様子を見にゆかせおった」
「ふ、ふ、ふ、里見隼人と伴兵馬、ふたりを討たれてはの」
「水戸屋敷に張った網を感づいたか」
「ところで、きゃつ――葵悠太郎か、織部玄左衛門か」
「いずれにしても、ここでつかまえたのは天の助けじゃ」
「しかし、ここで討つのは如何なものかな。隼人の場合は、時がよかった。兵馬のときは場所がよかった。ここは、場所も時もわるい」
「では、しばらくあとをつけて、ゆるゆると考えるか」
ふたりの六部は、余人からみれば、黙もくとして、深編笠の男と、獅子舞いの少年のまえをとおりかかった。
「いや、あとをつけることはあるまい」
深編笠が、しずかに声をかけた。
「うぬらの用は、ここですむはず」
二
さすがに、ふたりの六部は、電撃されたように橋上に足をとめている。このうえもなく狼狽《ろうばい》したのは、ふいに声をかけられたことよりも、いまの忍者の話法をみごとにききとられたらしいことであった。
「柳沢から狩り出された化物どもはその方らか」
ぱっとふたりがとびはなれたかと思うと、一人ずつ、両側の欄干《らんかん》の上に躍りあがっていた。悲鳴をあげる少年をうしろにかばって、男は深編笠をぬいだ。髪、眉、髯、いずれも雪のように白い老人であった。ただ、眼だけ壮者にもおとらぬひかりをおびて、しかもかすかな笑いすらたたえている。
「織部玄左衛門!」
と、六部はさけんだ。玄左衛門は笑ってうなずいた。
「よく、存じておる。ついでに知っておけ、そのむかし、小野次郎左衛門と相弟子であった男じゃ」
眼が徐《じよ》じょに、凄《すさま》じいひかりを放射した。
「里見隼人、伴兵馬を討ったはうぬらか」
「まず、同様のものだと思え」
「なに? ははあ、それはおなじ穴のむじなという意味じゃな。それでは逆縁ながらここで敵を討ってやろう。じゃが、ちがう忍者とあれば、名だけはきいておこう」
「甲賀七忍、粂寺外記《くめでらげき》――」
と、右の欄干のうえで、六部がいった。土左衛門みたいに蒼んぶくれた顔の男だ。左の欄干の隻眼の六部も、せせら笑うように、
「おなじく、七忍、寝覚《ねざめ》幻五郎。――」
と、名乗ると、恐怖というものを知らないように、欄干のうえをつーッとはしってきて、ぴたりと戒刀《かいとう》をかまえた。
玄左衛門は刀の柄《つか》に手をかけたまま、じっと見あげたが、かすかにその眼がまたたいた。――ふたりの姿は、そのまま、凍りついたようにうごかなくなった。ただ、眼と眼だけが、空中に透明な火花をちらしているのが、少年にみえたか、どうか。――丹吉はもちろん、犬さえ吼《ほ》え声ひとつたてず、金縛りになったように、橋の上にうずくまっている。
数秒とも数分ともつかぬ時がながれた。橋のむこうに、朝靄にとけて、人影がみえてきた。
「うぬは……一つ眼のくせに、妙な眼術を心得ておるの」
と、玄左衛門は笑った。
「じゃが、わしには効かぬ!」
その刀身が鞘《さや》ばしるよりさきに、気力つきはてたように、寝覚幻五郎は欄干のうえによろめいている。悲鳴のようにさけんだ。
「外記っ」
「おう」
と、もうひとりの忍者がうなずいた。
このあいだ、この粂寺外記という太鼓腹をつき出した忍者は、実に妙なことをやっていた。どこからとり出したか、小さな松の小枝を口にくわえて、その松葉をムシャムシャとくっていたのである。最後の松葉を、まだ口の外に出して、両掌《りようて》で覆うようにした。掌のあいだで、ぽうっと青い炎がもえあがった。
「おう」――とこたえて、欄干からとびおりたのはそのときだ。同時に、その口から、朦《もう》――と、一条の白煙がほとばしり出た。玄左衛門と距離は六、七メートルもあったのに、それはひとすじの棒となってのびてきた。とみるまに、ぱあっとひろがり、渦まいて、たちまちあたりを濃い雲でつつんでゆく。
「丹吉!」
かぎりもなく煙を吐きつづける粂寺外記をめがけて直進しようとして、玄左衛門はふりかえってさけんだ。
「ここを、うごくなよ、よいか!」
五、六歩すすんで、玄左衛門は、「あ!」とかすかなうめきをあげた。その閉じた両眼に、二本の針がプスリとつっ立っている。どこから吹きつけたか――吹針は、ねもとちかくまで刺さっていた。
橋上をつつむ妖異な雲霧《うんむ》のなかで、あざ笑う外記の声がきこえた。
「おいぼれ、もう見えぬか。甲賀忍法|霧閉《きりとざ》しとはこれよ――」
一刀斎の高弟ともあろうものが、意外な不覚であった。けれど、この雲のなかを吹いてきたほそい針を、だれが見ることができたろうか。
が、――織部玄左衛門の足は一歩もとどまらず、そのままはしった。
「見えるっ」
両眼の針には手もふれず、まるで眼のあるように、その刀身がびゅっと霧の一点を裂いた。その裂け目から、どぼっという異様な音と血しぶきがあがった。
人間のうめきはきこえず、そのまま跫音《あしおと》が欄干《らんかん》にはしって、
「幻五郎、にげろ!」
はじめて絶叫すると、橋の下に水音が、つづいてもうひとつの水音がきこえて、それっきりあと何の物音もしなくなった。
橋のむこうで、
「こりゃアなんだ?」
「ここだけ、へんに靄が濃いぜ」
と、さわぐ声がしたとき、しかしその雲霧はしだいにうすれかかっていた。
うすれてきた霧のなかに、すっくと立っている織部玄左衛門の姿を見出して、丹吉はかけよった。
「にげたね? あいつら、にげたね?」
玄左衛門はだまって、眼の針をひきぬいた。しかし瞼《まぶた》はとじたままであり、とじられた瞼のあいだから、二条の血の糸が頬にながれおちた。
「眼――眼を、どうしたの?」
「丹吉、残念じゃが、きゃつらはこのまま逃がすよりほかはない。――」
丹吉は、声も出なかった。玄左衛門の瞼の針もわけがわからなかったし、そのとき橋上に、鼠色の手覆いをつけた腕が一本斬りおとされているのに気がついて、息をのんだままであった。
「わしは、ゆかねばならぬ」
玄左衛門は血のりもふかず、刀を鞘におさめた。
「ど、どこへ?」
「水戸のご老公を追って。――そうか、隼人がわしの留守中に水戸邸へ出かけたのは、ご老公がかえられるときいてのことであったか」
玄左衛門は、厳然と丹吉にいった。
「丹吉、これより、わしの案内をして、ご老公を追ってくれ。行列は、たしか千住《せんじゆ》にむかって進んでおるはず。――」
三
碧《あお》い冬晴れの空の下を、黄門の行列は千住から北へむかった。
身をきるような風が野面《のづら》をわたって、旅人も少ないせいか、水戸街道はまだ雪が白じろと凍っていた。
すべてが透徹《とうてつ》しているだけに、射るようにひかる先箱の金紋に、たまに逢う百姓などは、がばと道の両側に伏してしまう。――ざくっ、ざくっと、先箱につづいて、漆《うるし》ぬりの陣笠をかぶった小姓たちがあるく。
――と、ある茶屋のまえに土下座している一群の旅人のなかに、ひとりの六部の姿があった。むろん、行列はそんなものには眼もくれない。そのまま、粛しゅくと通過しようとして、「うッ」と小姓のひとりがうめいた。
「渋川、どうしたのだ?」
と、となりの小姓にききとがめられて、いまうめいた小姓は、じぶんの足をキョトキョトのぞきこんで、
「いや、いま、足がきりっといたんだのだ」
「雪が凍っておるからの――くじいたか」
「くじいたような痛みではない。はてな」
と、眉をしかめたまま、なお五、六歩あるいたが、
「うむ、痛む。これはおかしいぞ。ちょっとしらべてみる」
と、行列の外にひとり出た。みな、わらじの緒でもきれたのかと見て、そのまま行列はゆきすぎる。
渋川という小姓は、うずくまって、脚絆《きやはん》をとこうとしてふとそこに一本つき刺さっている針を発見して、ぎょっとなった。が――まさか、すぐそばに平伏している六部が、さっき笠の下から雪のうえをすべるように吹きつけた針だとは想像もおよばない。が、それにしてもこの針はどこからあらわれたのか――と、かがんだまま、ひきぬいた針をじっと見つめている下で、六部笠がしずかに顔をふりあげた。
小姓の眼と、針と、六部の眼が一直線になった。はじめ小姓はそのことに気づかず、ふと針のむこうにひかっている眼に――それはたった一つの眼であった――はっとしたとき、彼はその眼の深淵に吸いこまれていた。声もでなかったから、だれもこの路傍の奇怪な催眠術に気がつかなかった。
渋川の眼が、すうっと糸みたいにほそくなった。彼の脳髄《のうずい》は、水母《くらげ》のようにのびちぢみした。――彼のあたまから、時間の観念は消失したが、しかしそれはほんの一瞬のことであった。すぐに彼は、たちあがって、元気よく行列を追い出した。どういうわけか、彼は片眼をつむっている。
見送って、片眼の六部はニヤリとして、
「幻五郎|憑《つ》き――」
と、つぶやいた。寝覚《ねざめ》幻五郎である。――水道橋から神田川にとびこんで、それからどうしたか。――こんなところにすまして坐っているところをみると、おそらく千住までに黄門一行を追いぬいて、さきまわりしたものであろう。
渋川が行列のもとの位置にもどって、あるき出したとき――その行列のうしろの方で、急にさわがしい物音が起った。
「これこれ、なんだ」
「さがれさがれ、ひかえおろう」
「無礼者めが! この行列を何さまと心得る?」
そういう声にまじって、カンだかい少年の声が、
「どなたさまか知ってらい。水戸の黄門さまだろう? その黄門さまにちょいと用事があるんだから、どいとくれ」
おそらく、武士たちがこれを無礼討ちにしなかったのは、そのとんでもない闖入者《ちんにゆうしや》が駕籠訴にしてもあまりに風変りだったので、いささか戸惑《とまど》ったのであろう。十くらいの越後獅子と、白髪白髯、痩身《そうしん》鶴のごとき盲目の老武士のふたりづれである。
しゃがれた声が、必死にさけんでいた。
「あいや、天下の一大事でござる。御老公に、いそぎおとりつぎくだされい、織部玄左衛門推参仕ったと、おとりつぎくだされい。もし御老公が、左様なものは知らぬと仰せあらば、ただちにこの場で無礼討ちに相なろうと仔細はござらぬ。ただ、ただ、織部玄左衛門という名を。――」
その悲壮な声を、駕籠の主がきいた。
「これよ」
と、呼んで、
「行列をとめよ、おぼえあるものが、一大事じゃと申してかけこんで参った様子、これへ、つれて参れ」
と、いった。
あわてふためく供侍たちにかこまれてやってきた織部玄左衛門は、そこの雪の上にべたと坐った。
「玄左、久しぶりよ喃《のう》」
駕籠の戸をあけさせて、しずかな声がかかった。老竜のごとき威風にあふれる黄門|光圀《みつくに》である。
「あれから十何年になるか、余も老いたが、そなたも老いたの」
「二十年でござる。久びさにご尊顔を拝したてまつり、玄左……」
といいかけて、織部玄左衛門は眼をおさえて、息をのんだ。光圀はその顔をふしんげに見て、
「そなた、眼をいかがいたした?」
こびりついたふたすじの血痕のうえを、涙がつたいおちた。玄左衛門は、じぶんの眼のことを忘れていた。ついに御老公と連絡がついたのである。悠太郎さまのおんことは、これで大盤石にのったも同然。
「御老公には……」
決然と、盲目の顔をあげて、
「二十年前のお丸のお方さまのことをおおぼえでござりましょうや」
「忘れいでか。あれは、お丸どののえらい考えちがいであった。余も、いまにして……いいや、あのときも、何ということをいい出されたとあきれたものであった。さりながら、あの雨中の梨花のごとき美女に、生まれる子だけは将軍大名の暮しはさせとうないと泣かれて、つい余にも迷いが起きたのじゃ。将軍、大名、その暮しの煩わしさ、愚かしさ、恐ろしさは、身を以て余も存じておるほどに、……それにご誕生まもなき御子を大奥にとられては、あの当時として、そのお命すら危険であった。幼児に、権勢の妄執《もうしゆう》に憑《つ》かれた鬼どもの手から、みずからまもる才覚はないから喃《のう》。御子を抱いて姿を消されたお丸どのの身の上も案ぜられたが、ただ剣をとっては当代比なき織部玄左がまもっておればと、余は眼をつむってそなたらを見送ったのじゃ」
「御老公……それが……」
「それが――おお、あれから、若君が生きておわさば二十年! 玄左、若君は生きておわすか、玄左っ」
織部玄左衛門はにっと笑って、つ、つ、つ、と膝のまますすみよろうとした。
そのとき、まわりをかこむ小姓群のなかから、ひとりフラフラと出てきたものがある。その姿を渋川とみて、だれもが、はてなとは思いつつ、さすがとっさに制止するものもない眼前で、渋川はいきなり抜刀した。
「あっ、何をいたすっ」
光圀が絶叫して、駕籠から身をのり出そうとしたとき、小姓は矢声もかけず、背後から織部玄左衛門の胸を、柄《つか》までとおれと刺しとおした。
たとえ盲目ならずとも、だれが、この場で、このような理不尽な襲撃をうけると考えよう。さすがの「剣をとっては当代比なき」織部玄左衛門が、芋《いも》のように串刺《くしざし》になって、うつ伏せに雪の大地をつかんでいた。
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空 蝉
一
「き、吉弥《きちや》、乱心いたしたか!」
と、黄門がさけんだ。
すでにこのとき、刀の柄から手をはなした渋川吉弥は、夢中でくみついた近習《きんじゆう》たちに両腕をうしろにねじあげられていたが、なお、どういうわけか片眼をつむり、ニンマリときみわるく笑っていた。ふだん、平凡で、謹直な小姓だけに、さすがの黄門が、背に水の流れるような戦慄をおぼえながら、
「えい、何たるたわけ者、かまわぬ、その場を去らせず成敗いたせ!」
と、命じた。そのとき、
「しばらく」
と、地上からうめいたものがある。背から胸へ、大刀をつきたてられたままの織部玄左衛門であった。息のあるのがふしぎだ。まして、両眼はつぶれ、頬にふたすじの血涙を印した姿は、この世のものとも思えない。
「そ、それがしを刺されたは、ご家臣の方でござるか?」
「されば、何ゆえともしらず片眼をとじて笑うておる。――吉弥、だれにたのまれて、かような狂気のふるまいをいたしたか!」
「なんと、片眼をとじて――さては?」
織部玄左衛門の死相を驚愕の痙攣《けいれん》がわたって、
「さては、きゃつ――寝覚《ねざめ》幻五郎と申す奴に魅入られたな――おのおの方、ご道中、もしや、片眼の男に逢われませなんだか? そ、それがしを刺されたお方の身の上に、変ったことはござりませなんだか?」
「あ!」
と、近習のひとりが、
「そういえば、先刻、渋川は足がいたむと申して行列をはなれ、もどってきてから片眼をつむり、何をきいても、ものも申さずニヤニヤ笑っているばかりであったが――」
「すりゃ、そのとき、あの眼術の虜《とりこ》となりおったな……」
黄門は、いよいよ判断に絶するもののごとく、
「玄左……魅入られたとはなんじゃ。眼術とはなんのことじゃ?」
「このちかくに、奇怪な忍法をつかう忍者がござるはず。……それがしを刺されたまことの下手人《げしゆにん》はそやつでござる。そのご家臣を成敗いたされな。……それよりも」
と、いったが、玄左衛門の鉛色の唇が大きくふるえはじめ、いちどあげた顔をまたがく[#「がく」に傍点]と伏せて、
「それよりも、御老公さま……」
舌がもつれた。背につったったままの刀身がうごかなくなった。
「わ、若君、ご勇気を……」
かすかにうめくと、二度と織部玄左衛門の声はきこえなくなった。黄門は茫然《ぼうぜん》としてその姿をながめ、また狂気したままの渋川吉弥を見やった。そして、
「このちかくに、忍者がおると申したな」
と呟いたとき、
「あっ、この野郎!」
と、むこうで、するどい少年の声がした。
「こんなところにいやがった!」
停滞し、一団となっていた行列のすぐそばで、獅子舞いの少年が、一方を指しておどりあがっていた。そこから十メートルばかりはなれたところに、ひとりの六部が立って、こちらをじっとうかがっている。――その眼は、隻眼《せきがん》であった。
丹吉は、武士たちにへだてられて、玄左衛門の言葉をきいてはいなかった。が、玄左衛門の身に起った異変は見てとって、とびあがり、かけ出そうとして――ふと、ちかくに立っている例の妖しい六部の姿を発見してはっとなり、さっきから眼をまんまるにしてたしかめていたのだ。まちがいない。水道橋の橋上で、玄左衛門と恐ろしい決闘をかわし、神田川にとびこんでにげたふたりの六部のうち、そのひとりがこんなところにいる!
「やい、にげるな!」
無鉄砲にもかけつけて、とびかかろうとする丹吉と、黄門がきっとこちらをみて、
「片眼の曲者《くせもの》じゃ、あれひッとらえい!」
と、さけんだのに六部は狼狽して、びゅっとその戒刀《かいとう》を鞘ばしらせて、丹吉を薙ぎつけた。そのまま少年を血けむりにして、のがれようとする。――ところが、丹吉は、みごとにとんぼをきって、この兇刀に空をうたせた。のみならず、たたきつけた横笛が、ぴしりと六部の鼻を打った。
「あっ」
片手で顔をおおってたたたたと数歩はしる。――その間に、水戸の家来たちはすでに雪げむりをあげて追いすがっている。
「六部、待てっ」
「水戸御老公のご上意であるぞ。刀をすてい!」
寝覚幻五郎は、まったく窮地におちいった。円陣をつくってとりまいた陣笠のむれは、すでにいっせいにぬきつれている。
彼は、いちど刺し殺した織部玄左衛門が、断末魔の声をしぼってじぶんがちかくにいることを指摘するとも、小さな越後獅子がじぶんを見つけ出そうとも、まったく予想していなかった。彼はおのれの忍法に満腔《まんこう》の自信をもっていた。だからこそ不敵にもちかづいて、様子をうかがいにきていたのだ。――自負も当然、これは実に敵にとって恐るべき忍者といわなければならぬ。彼は文字どおり、路傍の他人にとり憑くのである。一種の催眠術であるが、魔の一眼を以て、他人の瞳孔から彼自身が――少くとも、その兇念殺意《きようねんさつい》が、その人間の内部に入りこむのである。あかの他人がいっときにせよ、寝覚幻五郎に変るのだから、どんな変装もメーキャップも見やぶる眼力にかかっても、看破されるおそれは万に一もない。敵にとっては、防ぎようのない忍者といってよかろう。――とはいえ、その当人自身が、こうありありと白刃の包囲の中におかれては、もはやとり憑くすべもなかった。
「曲者、神妙にいたせ!」
ずずっと剣陣の環が小さくなった。……そのとき、どこかで声がした。
「木ッ葉侍ども、手出し無用」
二
いつのまにあらわれたのか、そこから五メートルばかりへだてた枯木の下に、ひとりの深編笠の男が立っていた。着流しで、ふところ手をしている。
「その小僧は、いつかその六部どのの布施《ふせ》をもちにげした奴じゃ。余人がくちばしを入れる件ではない」
武士たちは、あっけにとられて、その怪浪人をふりかえったきりである。深編笠の下から出る言葉が本気かでたらめかは別として、こちらを水戸と知って――老公がすぐむこうで見ていることを承知の上で、こちらを木ッ葉侍と嘲弄《ちようろう》するのは、狂気の沙汰としか思えない。
「うぬはなんじゃ」
「六部のつれか?」
「笠をとれ」
武士たちの半ばはこの方にかけあつまろうとしたが、たちまち野につもる雪に膝までとられて、ころがったものも二、三人あった。彼らはその深編笠が、その柔かい雪の上に、羽根のごとく軽がると立っているのに気がつかなかった。が、彼らの胆をうばったのは、その怪浪人がふくみ笑いをしながら、深編笠をとったときだ。浪人はぞろりと着ながしなのに、ふところから出した両掌に手甲《てつこう》をつけているのも奇妙であったが、その笠の下からあらわれたのは白頭巾のあたまで、しかも、念入りに――頭巾のあいだからのぞいているのは、真っ赤な般若《はんにや》の面だったのである。
「あっ、こやつ――」
供侍たちは、完全にことごとくこちらの方へ吸いよせられてしまった。そうでなかったものは、愕然として御老公の乗物の方へかけもどっていった。さすがこの曲者たちがただものではないと感じたのだろう。
「捨ておけ、捨ておけ、うろたえな」
黄門が叱咤《しつた》したが、ひとり家老格の老臣がしゃにむに、先へかけ出させた。一団の武士がそれをかこんで、鉄桶《てつとう》のごとく護りつつ走り出す。
「よし、やれ!」
残った連中は、猛然として般若頭巾《はんにやずきん》の方へ殺到しようとしてだれかが、
「あっ……」
と、うめくと、みなふたたび息をのんでたちどまってしまった。頭巾のかげから、青黒い紐《ひも》のようなものがくねり、のびあがってきて、頭上にとぐろを巻くのがみえた。それは、一匹の蛇であった! しかし、いまは冬ではないか。まわりは雪の野ではないか。しかもその蛇はかまくびをもたげて血いろの眼で爛《らん》と彼らをにらんでいる。まっしろな銀世界のなか、朱の般若面をつつむ白頭巾、それにからみついた青黒い蛇身。――華麗というには、あまりにも物凄まじいその姿に、供侍たちは、「……ああ」と、うめいたきり、あとは惨たる寂寞《じやくまく》の気が野面《のづら》を覆った。
白頭巾はいつしかふたたびふところ手にもどっている。しかも侍たちが、五分ちかくもその場に作りつけの人形みたいに棒立ちになったままであったのを、だれが腑甲斐ないと責めることができるだろう。……と、その異形の男の袖、襟、裾から、スルスルとまたべつの蛇が這い出した。一匹、二匹、三匹――凝然《ぎようぜん》として見おくる一同の眼前から、蛇のむれは雪の上をすべって、やや離れて雪のつくるくぼみに消えてゆく。
それがまったく姿を没したとき、ようやくひとりがはっとわれにかえった。いまの蛇は現実のものであったか、あれは幻ではなかったか――と、おのれの眼をうたがわずにはいられない、まるで夢幻のなかにただよっていたようないっときであった。
「変化《へんげ》め!」
絶叫して、手にしていた槍をびゅっと投げつけた。……おそらく、おどろきあわてている供侍たちをさげすんで、面《めん》のおくでうす笑いでもしていたのであろうか、かわすまもなく槍は般若頭巾の胸へまっすぐに突っ立って――もののはずみはおそろしいもの、背にしていた枯木へまでもつらぬきとおった音がした。
「…………」
声はない。グラリとゆれたきり、倒れもしなかった。それを枯木に縫いとめられたせいとは思わず、変化がいよいよ怪異をあらわしはじめたような恐怖に襲われて、ひッ裂くような叫びとともに、四、五本の槍がみだれとんで、彼を巨大な一匹の針ねずみに変えてしまった。
……しかも、彼は、依然として、風に吹かれるもののごとくゆれて立っている。苦鳴は一語もあがらず、血は一滴も雪にほとばしらなかった。
武士たちがその般若頭巾のそばに近づいていったのは、さらに数分ののちであった。おそるおそる槍の一本をひきぬくと、はじめて彼はたおれた。同時にまた十数匹の蛇が、その衣服のかげから八方にながれ出した。
さっきみた蛇は幻覚ではなかったのだ。が、その次に発見された怪異こそ、彼らのいかなる想像をも絶するものであった。
白頭巾のなかはからっぽであった。般若面のなかも空洞であった。いやいや、衣服のなかには何もなかった! それならはじめからそのなかに生きた身体は存在しなかったのか。そんなはずはない。彼はたしかに動き、口をきいた。その証拠に、彼の立っていた下に、雪の穴があいていた。穴は横なりに変り、すぐに雪がくずれてゆくえもしれずになっていたが、たしかに何者かが雪の下をにげた形跡はあきらかであった。彼は如何なる肉体の所有者であったのか。なんとも判断を絶していたことは、頭巾、面、衣服のうちがわに、空蝉《うつせみ》か蛇のぬけがらのごとく――しかもたしかに人体の皮膚が半透明に貼りついて、内部に空洞を抱いた人体の原形をのこしていたことである。
彼は、武士たちが蛇に気をとられているあいだに、皮膚をぬぎすてて雪のなかへ没入してしまったのであろうか。――供侍たちはぞっと鳥肌立って、むろんもう一方の六部も、いつのまにか姿を消していることなど、もはや念頭にも浮かばなかった。
報告をきいて、黄門は、ふきげんであった。しかし、曲者が残していった衣服と奇怪な皮膚を見せられては、とみにはなんの言葉もない。
黙《もく》もくとして乗物はゆれて、ふいに、
「おおそうじゃ。ひとり、織部玄左衛門のつれらしい越後獅子の少年がおったではないか。あれは、いかがいたした?」
と、声があった。それで、はじめて一同は、そのような少年がいたことを思い出したのである。ひとりが、おずおずと、
「されば、曲者が消えたのち、あたりに余人の影もなく、少年がいずこへ走ったか相わかりませぬ」
と、いった。
駕籠はいっそうのふきげんと疑惑と沈黙を籠めて、ゆれてゆく。ややあって、
「――織部玄左衛門を殺した手は何か?……余にはおぼろに推量がつくぞ。いずれまた早《そう》そうに出府いたさねば相なるまい」
と、つぶやく声がきこえた。こんどは家来の方に応《いら》えがなく、黄昏《たそが》れかかってきた雪の街道に、その行列は恐怖の群像のようであった。
三
千住から黄昏の江戸へ、ふたりの六部が、影のようにはいっていった。
六部笠の下から、うすきみわるい笑いがもれている。
「黄門も、おぬしの皮をみては、たまげたであろうな」
「たまげても、おれを甲賀流|空蝉《うつせみ》の忍者とまでは思いおよぶまい。ふ、ふ、ふ」
「ともあれ、これで織部玄左衛門は仕止《しと》めた。さすがに、苦労をさせたわ」
「外記は、腕一本失うたからの」
「あとは葵悠太郎を探し出すのみじゃ。いずれ、かならず――」
「幻五郎、悠太郎はこの空蝉刑部《うつせみぎようぶ》にまかせい。おれでよい。あと六人は、甲賀町でひるねでもしておれ」
「ふふふふ、そうもゆかぬ。しかし、悠太郎は、そもそも何処に――?」
ふいに、ふたりの声がきこえなくなった。いや、傍人にはきこえないが、例の忍者特有の無声の会話がつづく。
「おい、刑部、あの小僧がついてくるではないか」
「なに? なるほど。――これはぬかったな。いつから尾《つ》けてきたのだ?」
「ふふふふ、忍者があとをつけられても気がつかぬとは、おたがいにあまり大きな口はたたけぬな」
「ひょっとすると、あの地蔵堂のかげで、おぬしの笈《おい》からこの衣服をとり出しておれが着る姿も見られていたかもしれぬな」
「あまり小さいのでうっかりしておった。夕闇で、こちらの姿がきえかかるので、見失うまいと、すぐうしろにくっついてきたのだろうが。――それにしてもわれわれのあとを尾《つ》けるとは、大胆な奴」
「なあに、小童《こわつぱ》だから、こわいことを知らぬのよ。幻五郎、ひッさらうか。こいつはたしかに悠太郎のすみかを知っておる」
「待て待て、もはや行人もちらほらする町|中《なか》だ。それにこいつ、獅子舞いほどあって、存外身軽にはねまわるぞ」
「はははは、さっき水戸街道では、幻五郎、おぬしの方が一本とられたのでこりたか。それでは、いったい、どうする?」
「ひとまず、撒《ま》こう。そして、逆に小僧のあとをつけてやろう」
「こりゃおかしい。みれば十になるやならずの小童に、仰《ぎよう》ぎょうしいではないか」
「なに、その方が悠太郎を討つためには好都合だろう。むこうに感づかれず、きゃつがいかなる人間かをまず知るのに」
「それはそうだ。ともかく、あの玄左衛門ほどの男に育てられたという若者だ。少しは手が立つかもしれぬな」
「それにしても、知れておろう。たかが二十歳《はたち》の青二才だ」
「じゃが、われわれ両人のみで始末をつけては、あとの連中が腹をたてるであろうな」
「織部玄左衛門を討ち、葵悠太郎を仕止めては、いかにもあとの連中の立つ瀬がないかもしれぬ。ふふふ」
――丹吉は、うす闇のなかに眼をまんまるにして、ふたりの六部のあとをつけていった。
こいつらは、いったいどこへかえるのか? それをつきとめて、悠太郎さまに知らせて、きっとおじさんたちの敵《かたき》をうってもらおうと、幼な心に決心したのだ。――うしろを、犬のタマが、小さな主人とおなじようないっしんな顔つきで歩いている。
ふたりの六部は、土塀について、町角をまわった。つづいて、あとを追って丹吉は眼をぱちくりさせた。たったいま、そこをまわっていったふたりの六部の姿がどこにもない!
夕闇とはいえ、まだ人影がみえないほどの暗さではない。江戸もはずれの千住だからほかに人影はなかったが、両側の土塀にはさまれた往来に、いまの六部の姿がみえないはずはないのに、それが消えている。
キョロキョロあたりを見まわして、
「ちくしょう! にげやがったな!」
と、さけぶと丹吉は、脱兎のごとくかけ出した。タマが宙をとんでそれを追う。
その影がまだ往来のむこうにきえぬうち、土塀の上から、鼠色の二羽の蝙蝠《こうもり》のように、ふたりの六部が舞いおりて、笠をかたむけて音もなく疾走しはじめた。
丹吉が神田馬喰町のさいづち長屋にかけもどってきたのは、もうとっぷりと日の暮れた時刻だった。
「悠太郎さま、たいへんだ」
悠太郎はじぶんの家にいないで、丹吉の家の方へあそびにきていて例のごとく炬燵《こたつ》に足を入れ、あおむけに寝て天井をみていたが、織部玄左衛門の死をきいて、むくりと身を起した。
「玄左……おまえも、死んだか?」
悠太郎はうめいた。うめいたが、腕をくんだまま、身うごきもしない。丹吉はいらだたしげに、
「それで、おいらね、そのふたりのあとをつけて、千住まできたんだ。そしたら――」
と、ふたりの消滅という怪事を息せききってしゃべると、はじめて悠太郎の顔がうごいて、じっと丹吉の姿を見つめた。
「しまった」
「何が? 悠太郎さま」
悠太郎はなおしばらく沈思していたが、
「よし、一刻もはやくここを立ちのこう」
と、いった。
「え、たちのく?」
「ひっこすのだ。……丹吉、おまえは逆にそいつらにつけられたよ。敵はここをかぎつけたよ」
丹吉がぽかんと口をあけたのは、そのことよりも、悠太郎のあわてふためいた姿であった。はじめてそわそわと立ちあがったが、何をいうかと思うと、
「わしひとりがにげてもいかぬ。おまえもそこまで敵とやりあったのなら、わしと無縁ではないと思われているだろう。あとでつかまってひどい目にあわされたりなどしたらたいへんだ。すぐ、わしといっしょににげてくれ」
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泣け泣け子獅子
一
「ひきょうだ」
と、丹吉は思わずさけんでいた。
「そんなこと、おいらいやだい」
まっかな顔色になって、悠太郎をにらんでいた。それなのに、いよいよあきれたことに悠太郎は、
「なぜ?」
と、ふしぎそうにききかえしたものだ。
「悠太郎さま」
と、お縫《ぬい》も悠太郎にとりすがって、思いつめた表情で、
「あんまりです。ご家来の隼人《はやと》さま、兵馬さま、そのうえ、とうとう玄左衛門さままで殺されて……それでにげるなんて! よく存じませんけれど、あの方がたは、あなたのためにお働きになって、お死になすったのではありませんか?」
「いや、わしのためには働いてくれるな、とわしはいった」
「だって……死んだのです。あのひとたちは、死んだのですよ!」
お縫が泣き声でいうと、丹吉も涙だらけになって、
「家来がじぶんのために死んだってえのに、主人がにげ出すってことがあるかい。あいつらがこわいのか。こわいなら、こわいといえ、悠太郎、やい、悠の字!」
悠太郎の頬に、あわい苦笑が彫られて、
「こわいよ」
と、うなずいた。
「丹吉、おまえは玄左衛門の眼がつぶされたのを見たろう。あの爺が、吹針とはいえ、みすみす敵に眼をつぶされたとは、よほどのことじゃ。まして爺の死様《しにざま》――きけば、黄門《こうもん》さまのお小姓にふいに刺し殺されたというではないか。どうやらそのお小姓が敵の忍法の虜《とりこ》になったらしいではないか。それにまた朱色の般若面《はんにやめん》をかぶった男が、じぶんに水戸のご家来衆の眼をひきつけておいて、寝覚幻五郎とやらをのがし、次にまた蛇に気をとらせておいて、じぶんもにげてしまった。そやつが空蝉刑部《うつせみぎようぶ》の空蝉の忍法と自慢していたそうじゃな。おのれを空洞と化して姿を消してしまう――きくだに身の毛のよだつ奇怪な術ではないか。そのうえ、隼人、兵馬のただならぬ死様――すでにわしたちの知っている敵の名も七人をかぞえる」
「七人だけだ。水道橋のうえで、幻五郎と粂寺外記という奴が、たしか、甲賀七にん――と名のったよ」
「七人――その七人が、容易ならぬ忍者だ。まして、敵はおそらくその七人だけではない。そのうしろに、彼らをあやつるものがある――」
少年は歯をくいしばって、
「悠太郎さまは、忍術使いにはかなわないのか」
「わしは爺から剣法は教えられたが、忍法は知らぬ。まず、おぼつかないな」
「かなわないなら、味方が三人殺されてもそのまま雲を霞とにげ出すのか」
「敵は、わしが世に出るのを邪魔しようとしている。わしは世に出たくはない。したがって、彼らと争う意味がない」
「意味はあります。敵討ちです」
と、お縫はさけんだ。
「あなたは、くやしいとは思わないのですか?」
「くやしい。くやしいとも! しかし……わたしは、平和が好きだ」
「悠の字のばかやろう!」
と、丹吉は、大の字にひっくりかえって泣きさけんだ。
「てめえ、かってににげやがれ。あの化物たちがおいかけてくるからちょうどいい。おいらがのこって、おじさんたちの敵《かたき》を討ってやる」
「丹吉、起て」
悠太郎はめずらしくきびしい声でいった。
「ふざけている場合ではない。一刻もはやくにげるのだ」
「いやだい、おいら、のこってるんだ」
「ばか、おまえたちの手におえる敵ではない。これ」
「ほうっといてくれ。おいら、死んだって、にげるもんか」
「ききわけのない奴だ。ええ、わしが敵とたたかう邪魔になるのだ」
「えっ!」
丹吉はがばと起きなおった。お縫も眼をいっぱいに見ひらいて、悠太郎の顔をみる。これは効きめがあった、と思ったらしい。悠太郎は大いに力を得て、
「そうだ。わしが敵をうつ足手まといになるのだ。おまえたちが」
「悠太郎さま、それじゃあ……ああ、やっぱり悠太郎さまだわ!」
と、お縫が丹吉をゆさぶると、丹吉もいま泣いた鴉《からす》がもう笑ったように、
「おいら、きっとそうだろうとは思ってたよ。悠太郎さまがこれで腹をたてなきゃ、男じゃないと思ってたんだ。おいらたち……じゃまにはならねえと思うけど、悠太郎さまがそういうなら、いちおう手をひいてもいい」
悠太郎は「男」にしてはあまりにもやさしい笑顔になって、
「よし、それならおまえたち立ちのく用意をしろ」
「用意ったって、ごらんのとおり何もないよ。笛、太鼓――のほかは、姉ちゃんの花作りの道具だけだろ」
「それじゃあ、ちょっと待っていてくれ。わしも用意してくる」
「あれ? 悠太郎さまも、やっぱりにげるのか」
丹吉が口をぽかんとあけたとき、悠太郎はもう背をみせて、外へ出ていった。
姉弟は言葉もうしなって、顔を見合わせた。「――どうする?」「おいら、いやだ」眼と眼で、そう話しあっているところへ、やがて悠太郎がもどってきた。鼠色の虚無僧《こむそう》の装束になって、両手に天蓋《てんがい》と尺八をもっている。
とびこむように家へ入ると、足で戸をピシャリとしめた。
「来た」
「え?」
「路地の向うに、妙な影が三つ四つ、ちらりとみえた。こちらにやってくるぞ」
はっとして立ちあがるふたりに、悠太郎は、天蓋をつけ、尺八を腰にさしながら、「はやくしろ」と、いう。その切迫した語気につきうごかされて、お縫が越後獅子の姿に着がえるのを待ちかねるように、台所におしていって、引窓をあける。四角な夜空に、星がみえた。
「屋根にのぼったら、立つなよ。路地と反対側に身を伏せろ」
ものもいわずにふたりを抱いておしあげると、つぎにどこに手と足がかかったか、音もなくじぶんも屋根の上へぬけ出してきたのには、獅子舞いのふたりが、ちょっとど胆をぬかれた。
下で、戸のあく音がした。――悠太郎のいったことは、的中していた。まさしく、敵だ。しかし、それっきり、なんの人声もしないのがぶきみであった。
屋根には、まだうすく雪がつもっていた。そこに三人身を伏せて、じっと耳をすませていたが、お縫と丹吉にはなにもきこえない。が、悠太郎は、
「三人……四人……五人か、六人いるなあ」
と、つぶやいた。丹吉がかすかにうなって、
「悠太郎さま! やろう」
「ばかな。あれだけの忍者を相手に、何ができるか」
「それじゃあ、にげるのか」
「にげる」
と、悠太郎はうなずくと、
「お縫、丹吉、むこうへとべるか?」
と、路地とは反対側の空を指さした。空といったのは、空地《あきち》をへだてて三、四メートルむこうに背をみせている町家の屋根は、はるかに高かったからだ。さすが身のかるいふたりが、顔を見合わせて声もない。
「すこし、むりだな。よし、こっちへこい」
と、悠太郎は、ふたりを両わきに抱きかかえた。引窓の下で、何かを蹴たおしたような物音がした。その刹那《せつな》――ふたりの姉弟を抱いた葵悠太郎の足は、音もなく雪の垣根を蹴って、星の夜空へ舞いあがっていた。
一分後、引窓から、ぬっと黒い頭がのぞいて、ひかる眼で、あたりを見まわしたが、彼がみたのは、雪のあとながら、やがて春のちかいのを思わせる蜜蜂のような星屑のまたたきだけであった。
二
「タマをわすれた」
深夜の路をはしりながら、ふいに丹吉がそうさけんだが、
「タマ? 犬なんかあとで」
と、お縫にいわれて、丹吉はだまってしまった。二、三十分もはしったろうか。そのあいだ、彼が声をあげたのは、それっきりだった。ときどき悠太郎を妙な眼つきでふりあおぐ。夜目にもキラキラかがやくかと思うと、くびをかしげて、ため息をつく。
お縫も、思いはおなじだった。さっきの悠太郎のはなれわざに、ほとほと胆をつぶしたのだ。大好きな悠太郎さまではあるけれども、いつもものぐさに寝そべってばかりいるこのひとに、あんなすばらしい芸があるとは思いもかけなかった。しかし、それにつけても、その悠太郎さまが、家来を殺した敵がむこうからわざわざおしかけてきたというのに、あわてふためいて、こんなにスタコラにげ出す気ごころがわからない。
「もうよかろう」
と、悠太郎はたちどまって、天蓋をぬいだ。まわりをふしぎそうに見まわして、
「ここは、どこかな?」
「いまわたったのが、両国橋じゃありませんか」
と、お縫はあきれた。悠太郎は、いつも家で寝ころがっているものだから、江戸の地理にはまだあんまり明るくないらしい。
「うす汚ない大きなむしろ小屋がいっぱいならんでるな」
「ここは垢離場《こりば》といって、ひるまは見世物がうんと出るんです」
「どんな見世物が?」
「軽業《かるわざ》や、芝居や、独楽《こま》廻しや、居合抜きや、|※[#「米+參」、unicode7cdd]粉《しんこ》細工や――」
「ほう、それはおもしろそうだな。ぜひいちどひるまきてみよう」
お縫と丹吉は、挨拶する元気もない。恐ろしい敵からにげてきたばかりというのに、けろりとしてこんなことをいって、気楽そうにあたりを見まわしているこの人は、いったい正気なのか、ばかなのか。
「悠太郎さま、これからどうするのです」
「さて、どうしようかなあ」
と、本人もこまったらしいが、ふたりの意気を沮喪《そそう》させることもおびただしいものがある。
「江戸は、さいづち長屋しか知らぬしの」
ふいに手をうって、
「なんなら足柄山へかえろうか」
「敵は、討たないの?」
と、たまりかねて、丹吉はさけんだ。悠太郎は、おもむろに路傍の材木に腰をおろしてしばらく思案していたが、
「それも、足柄山でとくとかんがえて――」
「けっ」
丹吉は河童《かつぱ》みたいな奇声をあげて、
「金太郎じゃあ、あるまいし!」
「そういえば、熊も出る」
と、悠太郎は笑って、望郷のまなざしになった。お縫どころか丹吉にちかい子供っぽい表情が満面にあらわれた。
「しかし、鳥も獣も、みな友だちだ。母上が、ひどく殺生をきらわれたからなあ。玄左や、兵馬が、食いしろをつかまえるのに、とんだ苦労をしたものだ。わしに剣法を教えるのも、母上の眼をぬすんでのことであった。そうだ、母上さえご存生なら、わしを江戸へお出しにはならなかったであろう。江戸もおもしろく、おまえたちを知ったのはいよいようれしいが、こう恐ろしいことが重なると、足柄山へかえった方が無事と申すものだ。北にすぐ富士がそびえ、南には芦《あし》ノ湖が見下ろせる。東はと遠く望めば、ひろびろと果しない青い海だ」
雪もまだらな荒涼《こうりよう》とした深夜の垢離場に、お縫はふいに青い山と青い海をみたような気持になった。恋の魔術だ。
「わしたちがかえってゆくと、熊も猿も鹿も小鳥も、ぞろぞろとみんな出迎えてくれるぞ」
「わたしたちが?」
「お縫、丹吉、わしといっしょに足柄山へゆかないか?」
と、のぞきこまれて、お縫は夢みるようにうなずいて、そばの丹吉をふりかえった。
丹吉はいなかった。お縫はばねみたいにたちあがった。はっとうろたえた眼で見まわしたが、ほんのいままでそこにふくれかえって立っていた小さな影がみえない。
「丹吉! どこへいったの! 丹吉!」
三
丹吉は、ちかくの見世物小路にとびこむと、そのあいだをはしりぬけて、両国橋を西へ鉄砲玉みたいにはせもどっていった。
彼は悠太郎の世迷い言《ごと》に大不服ではあったが、しかし、いくらなんでもひとりであの忍者使いたちとたたかう気はなかった。ただ、さっきから気にかかっていた犬のタマのことが、ふいに、たまらないほど心配になってきたのだ。それは少年のみが感じる胸さわぎといえるものであったかもしれない。けれど、タマのことをいい出しても、悠太郎もお縫も、とうていとりあってくれそうにないと彼はかんがえたのである。
「おかしいな、あいつ――」
と、はしりながら、じぶんで胸さわぎの理由を反問する。
「あいつ、たしかに戸口の内がわにねていたんだ。そこにあの忍術使いたちが入ってきた。――それなのに、タマのほえる声はひと声もきこえなかったじゃあないか」
あたまはそのことでいっぱいであったが、むろんあの忍術使いたちのことはわすれてはいなかった。しかし、あいつらはもういないだろうと判断した。長屋のおいらのうちにも、悠太郎さまのうちにも、だあれもいないのだから、あいつら、あきらめていっちまったにちがいない。
――丹吉は、さいづち長屋にかけもどっていった。にげ出すとき、行燈《あんどん》はともしたままであったのに、灯はきえている。
そうっとのぞいたが、たしかに人の気配はない。となりの悠太郎のうちにもだれもいないようだ。案《あん》の定《じよう》ひきあげやがった! しかしそれにしてもタマがとびついてこないのは?
姉弟ふたりの暮しであったから、幼《おさな》いながらに馴れた手つきで火打石を鳴らして行燈に灯をつけた。と、同時に、丹吉は土間にとびおりた。
「タマ!」
犬のタマは戸口のすぐ内側に、四つ足をなげ出していた。
「タマ! タマ!」
むちゅうで抱きあげてみると、犬の口から血がしたたりおちた。ほかにからだに傷はなく、ただ首がぼろきれみたいにグニャリとしている。しめつけられて、首の骨でも折られたのだろうか。それにしても、そうされるまでタマがひと声もあげなかったのは、まるで蛇に魅入《みい》られた蛙のように身うごきもできなかったのだろうか。――しかし、丹吉はそこまでかんがえる余裕はなかった。
「ひでえことをしやがった! タマ、タマ! おまえ、どうしたんだ、タマ、もうおまえは死んじまったのかよ!」
抱きしめ、ゆさぶり、頬ずりして泣きじゃくる丹吉の声を縫って、そのとき、ひくい、うすきみわるい笑い声がした。
はじめ気がつかず、ふと顔をあげて、少年の眼は、すわってしまった。――いたのである。ただひとりではあったが、黒装束黒頭巾の姿が、行燈のむこうに影のように立っていたのである。なぜか、行燈からたちのぼる、眼にみえないはずの油煙が、めらめらと白く渦をまいて、そのむこうに二つの眼だけが物凄いひかりをはなってひかっていた。
「いたな、化物――」
丹吉は、おどりあがった。
「タマを殺したのは、おまえか」
恐怖を知らないもののように、彼は台所の方へはしりかけた。そこにある庖丁《ほうちよう》をとりにゆこうとしたのだ。黒頭巾はだまって、横にうごいて、そのあいだに立ちふさがった。
「おい、どけ、そっちに庖丁があるんだ。尋常に勝負しようじゃあねえか」
りんりんたる声だが、なんたる無鉄砲さ。かまわずつかつかあゆみよる眼前に、ピカリと刀身をつきつけられて、さすがに丹吉はとびさがった。
「やい、庖丁をもたせろったら! こっちは無手なんだ。無手の人間を相手にするのはひきょうだろう。何かもたしてくれさえすりゃ、おまえなんかへいちゃらだ。あとの連中はどうした? 化物をみんな勢ぞろいさせて、つれてきやがれ。かためておいて、タマの敵《かたき》をうってやる」
「小僧」
と、はじめて錆《さび》をふくんだ声でいった。
「葵悠太郎はどうした?」
「悠の字? あんな野郎は知らねえやい」
「知らぬはずはない。おれたちが踏みこむまえに、うぬも悠太郎もたしかにここにいた。それが消えたのは、引窓からにげたのだ。引窓から屋根に出て、さてどこへいった?」
「ばかやろう、それを白状する丹吉さまと思うか。知りたけりゃ、忍術をつかうがいい。忍術で悠の字のゆくえが知れたら、代《だい》は見てのかえりにおいらがはらってやらあ」
「小僧」
むしろ、沈んだ声であった。ただ、それがぞっとするほど冷たい。――
「いえ、いわねば、殺す。――犬を見ろ、忍者には慈悲はない――」
「いうもんか!」
さけびとともに、刀身は稲妻のようにのびてきた。おどしではない。まさに蒼白い殺気の光芒《こうぼう》をひいてながれてきたのであった。
「くそっ」
丹吉はもんどりうった。二度、三度、とんぼをきって兇刃《きようじん》をかわすと、彼はうしろざまにびゅっと戸口の上にとびあがった。壁と壁とむき出しの屋根裏がつくる隅に蝉《せみ》みたいにとまって、
「どうだ、化物、できたらまねをしてみろ!」
と、少年はさけんだが、次の瞬間、ぎょっと息をひいてしまった。
天井もない長屋であったが、むろんそれほど高い屋根裏であるわけがない。手をさしのばせば、刀身はとどいたろう。及ばなければ、投げても狙いのあやまる距離ではない。むろん、その直前に丹吉は、反対側の隅へとびうつるつもりであった。が――彼がそこに金しばりになってしまったのは――その黒頭巾がみせた奇怪な運動だ。
彼は、横にあるいて、壁に足をかけた。と――そのからだが水平に、足は平地をあるくがごとく壁をあゆみのぼって、逆さに屋根裏にぶらさがったのである。いや、ぶらさがったというよりも、これはまた平地をあるくがごとく、逆さにゆうゆうとあるきはじめたのだ。足ははだしで、指さきは蒼白い爬虫《はちゆう》のあたまみたいにふくれあがっていた。
そのまま、刀身はちかづき、眼が笑った。
「小僧、もういちどきく。悠太郎はどこにいる?」
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首の花
一
おそらく、超人的な体術のほかに、足うらの皮膚、足ゆびの筋肉が強烈な吸盤作用《きゆうばんさよう》をそなえているのであろう。――とはいえ、たかが十くらいの少年を相手に、これほど大袈裟《おおげさ》な術をみせるとは、恐怖心をあたえる目的もあろうが、本人が戯《たわむ》れているとしか考えようがない。戯れ――しかし、これは鼠をまえにした猫の戯れ同様、一点のユーモアもふくまない、残忍きわまる遊びであった。
「葵悠太郎のいどころをいえ。三つ数える。いわねば、三つめに殺す」
刀は、丹吉ののどにピタリとつきつけられた。
「一つ――」
少年はこたえず、ただ無念の涙が、ぼろぼろと頬にこぼれた。
「二つ。――」
丹吉は眼をひからせ、逆さの敵をじっとにらみつけたまま、歯をくいしばっている。
「み――」
と、相手がいいかけたときだ。路地の向うで、呼ぶ声がきこえた。
「たあ坊――丹吉!」
姉の声だった。忍者の刃《やいば》は丹吉ののどに擬《ぎ》せられたまま、うごかなくなった。刺せば、少年は悲鳴をあげて、ころがりおちるだろう。それではまずい、と考えたらしい。刃はそのまま、
「声をたてると、それきりだぞ」
と、ひくくうめいて、まるで死んだ蝙蝠《こうもり》みたいにじっとぶら下がって待っている。
「丹吉、おまえ、かえってきたのじゃあないの?」
かけこんできたのは、はたして、お縫だった。が、家の中にみだれている土足の跡と、それより、戸口のすぐそばの犬の屍骸に気がついて、はっとしてうずくまる。頭上にぶきみにひかっている刀身と眼、ましてや釘づけになっている弟には気がつかず、
「まっ、タマ、タマ!」
と、動顛《どうてん》して犬を抱きあげた。
「お縫、丹吉はかえっていないのかね」
と、つづいて飄然《ひようぜん》と葵悠太郎が入ってきて、犬の屍骸を抱いているお縫をみて、そばに茫然《ぼうぜん》と佇《たたず》んだ。
忍者の眼がにっと笑い、物凄いひかりをおびて丹吉を射すくめた。きっさきが徐《じよ》じょに下がりはじめる。これは、――甲賀七忍のうち、先日は雪中の白衣《びやくえ》、今夜は闇中の黒衣であるが、まぎれもなく天羽七兵衛であった。
少年のあとをつけて、このさいづち長屋をつきとめたふたりの仲間のうち、空蝉刑部《うつせみぎようぶ》が見張っているあいだに寝覚幻五郎の連絡をうけ、血ぶるいして集ってきた八剣民部、葉月、鵜殿一風軒らとともに、ここにふみこんでみたが、ときすでにおそく葵悠太郎の姿はなく、
「のろまめ、何をぐずぐずしておったのじゃ」
「何を――われら両人で討てば、おぬしらが不服を申すであろうと思って、わざわざ告げにいってやったのではないか」
と、とんだ仲間喧嘩ののち、それでも万一のため、天羽七兵衛のみを見張りにのこして、ひとまず、ひきあげていったのである。
――たわけ! だれが討っても手柄は一つ、見つけ次第にすぐ首をとるがよい――とさっき叱りつけた七兵衛であったから、頭巾のあいだの眼は歓喜と殺気にめらっともえあがって、刃は垂直に――いままで狙ってかつて仕損じたことのないむささび落しの姿勢。
「悠太郎さまっ」
絶叫したのは、丹吉だ。
「敵っ」
ほとんど屋根裏から離れようとしていた天羽七兵衛は、悠太郎がぱっととびのくのをみるや否や、鞭《むち》のごとくからだをかがめるとみるまに、刃ははねあがって、無惨、シューと少年の腹からのどへ逆に擦《す》りあげた。
屋根裏からたたみへかけて――ぱあっと血の霧が虚空《こくう》を吹いて、声もたてず、そのなかを小さなからだは、ころがりおちている。
「あっ、たあ坊っ」
狂気のごとくかけよろうとするお縫に、
「あぶない。どけ。――」
と、たたきつけるように悠太郎はさけんで、じっと頭上に眼をあげた。一刀の鞘をはらってはいたが、そのまま、微動だもせず。――
二
危いと、制止の声をきくまでもなく、お縫もその場に金しばりになっていた。はじめて上から逆さに下がっている黒頭巾に気がついたのである。その刀身もダラリとたれて、行燈の灯に灼金《やきがね》のごとくかがやくきっさきから、霧雨のしたたりのごとく緩慢に、ぽとっ――ぽとっと、赤い滴がこぼれおちる。それが弟を斬った血だと思うより、あまりの奇怪さに、彼女は気死したように立ちすくんでいた。
ほとんどこの家に、人はいないかのような沈黙の時がながれた。
天羽七兵衛の、屋根裏に吸いついた指が、やもり[#「やもり」に傍点]みたいに徐《じよ》じょにうごいた。剣尖がかすかに移動すると、それにつれて、じりっと悠太郎がうしろにさがる。
上から逆さにぶら下がる。――その姿勢を不自然と見、不自由と考えるのは常人のことだ。これは、それがもっとも自然でもっとも自由であるように鍛練された不可思議の忍者であった。そのとおり悠太郎は、この敵を実に容易ならぬものとみた。まったく隙がないのみならず、一触即発《いつしよくそくはつ》の黒豹のごとき弾発力を全身に秘めている。
しかも、襲撃は下からくるのだ。敵の視線は足下から投射されているのだ。世のいかなる剣法流派が、このような逆さ斬りの角度とたたかうべく考案されているであろう。敵はそのように練磨されている。かくて不自然となり不自由となるのは、かえって常態で直立している人間の方であった。
ヒタヒタと七兵衛の足はうごいた。悠太郎はあとずさり――あとずさり――ついに壁にぴたりと背がついた。本能的に危機を感じたお縫は声もない。
「甲賀七忍、天羽七兵衛見参」
追いつめて、はじめて名乗った。獲物をひッ裂く直前の鷹の眼だ。
「ふびんや御曹子《おんぞうし》葵悠太郎君、まず股《また》から死に候《そうら》え」
ぴっと鶺鴒《せきれい》の尾のように刀身がはねあがった刹那――悠太郎が、にっと笑った。同時に、踏んでいた足の指がどううごいたか、足もとの破れだたみがすうっと一枚立った。七兵衛の刀はそれとみつつ、すでに弦《つる》をきった矢のように薙ぎあげて――立ったたたみの上半分が、紙のように切れた。
たたみは切れたが、悠太郎は斬れなかった。その影がおどりあがると、立ったたたみを蹴って屋根裏へ飛ぶ。このとき、仕損じた七兵衛は振子のごとく体をかなたへ振りはなしたが、その眼は、驚愕《きようがく》にかっとむき出された。このあばらやに天井はなく、屋根に梁《はり》はむき出しであったが、そのまんなかの梁に片ひざひっかけて、葵悠太郎もぶらんと逆さにぶら下ったのである。
振りもどった天羽七兵衛と悠太郎の刀身が、空中でかっと噛みあった。次の瞬間、ふたつのからだはおなじ陰電気のようにはねて、また離れたが、
「これで、地面とおなじだな、天羽七兵衛!」
鉄壁も裂くような正伝一刀流、ふたたび流れよりつつ、天羽七兵衛の脳天から、唐竹割《からたけわ》りに斬りあげた[#「あげた」に傍点]。
それは実に、ひと息かふた息つくほどのあいだのことであったし、またこの足を空にした逆さ同士の血闘を、だれが現実のものと思えよう。まるで夢幻の二羽の大蝙蝠《おおこうもり》が羽ばたき合ったもののように、息をひいて見あげていたお縫は、血しぶきとともに、どうと下へころがりおちた黒頭巾に、はじめて、はっとわれにかえった。
眼はその男にゆかず、ようやく弟にもどった。
「たあ坊!」
停止していたフィルムがうごき出したようにかけ寄って、抱きあげる。
「たあ坊! しっかりして――」
胸から腹へかけて、血のかたまりとなった丹吉は、顔だけ白蝋《はくろう》の人形のようだった。その血に染まるのも意識せず、お縫は狂ったようにゆさぶって、
「むごいむごい! たあ坊、死なないで――死んじゃあ、いや。姉さんをのこして死んじゃあ、いや! たあ坊!」
少年はうすく眼をあけた。姉をみず、ほそい眼が空《くう》をさまよって、何者かをさがしもとめる。
「丹吉」
そばに音もなく、悠太郎が立った。
「悠の字……」
愛くるしい唇が、にっと笑った。
「つよいなあ……おいら、みてたぜ……見なおしたぜ……」
「ゆるしてくれ、丹吉。わしがおまえを殺した……」
悠太郎はひざをついて、お縫から小さいからだをひざに受けとって、抱きしめた。嗚咽《おえつ》はつまり、双頬に涙はあふれた。
「悠太郎さま、おいら、足手まといじゃなかったなあ。……へっ、これからも、ならねえよ。……だから、だから、にげないで悠太郎さま……あいつらを、やっつけてくんな。あと六人……勝つ、きっと、勝つよ……」
笑顔のまま、獅子をつけたままの小さなあたまが、ガックリとうしろへ垂れた。
「あっ、たあ坊、たあ坊!」
すがりついて、お縫は泣いた。声をかぎりに、はてしもなく泣きくずれるのを泣くにまかせて悠太郎は、寂然《じやくねん》と腕をくんで見つめていた。
お縫は身もだえして、
「悠太郎さま……悠太郎さま……わたしも死にとうございます……」
「お縫坊、たあ坊の敵《かたき》を討つまで、死なないでくれ」
悠太郎は、沈んだ声でいった。
「可哀そうなことをした。はじめて知ったのだが、腹をたてる、とはこのことか? おれの立身につながる家来どもの死には腹もたたなかったこのわしも、いまはじめて心から腹をたてたぞ。お縫坊、たあ坊を殺したのは、この天羽七兵衛という男だけではない。もとをたどればやはり隼人《はやと》、兵馬、爺を殺した甲賀七忍、いいや、いま丹吉の申した残り六忍、いやいや、その背後に、もう一つか二つ、大きな影があるかもしれぬ。せめてその六忍者、ことごとく討ち果たさねば、たあ坊の魂は泣くだろう。たあ坊、待っておれ。賽《さい》の河原に、きっと七つの忍者の首をなげこんでくれる。お縫坊、泣くのは、それからじゃ」
わななく声が、
「はい! 悠太郎さま!」
「それまで、お縫坊、わしのそばについてよく見ておれ」
あの楽天坊主とは別人のように凄然《せいぜん》たる声音とともに、白い虚無僧姿がすっくと立ちあがって、
「葵悠太郎、今夜かぎり、追われる男から、追う男にかわるぞ」
三
その翌朝。――
神田橋門内、柳沢出羽守の門前に、ひとつの首が置いてあった。その首が、口に赤い葵《あおい》の花を一輪くわえているのである。
はじめ、ほんとうの花かともみえたが、いまごろ葵の花の咲くわけはないから、手にとってみると、それは羽二重《はぶたえ》でつくった精巧な造花であった。
何も知らない門番には、花の意味もわからず、だいいちその首に見おぼえがない。
にえこぼれるような騒ぎののち、それをききつけた主人の吉保《よしやす》のまえに、首がはこばれた。座敷には、吉保の愛妾おさめの方も同座していたが、彼女よりも吉保の顔色が変わった。
「――天羽七兵衛!」
縁側におかれた首は脳天からふたつに裂けて、それが赤い花をくわえているのは、凄惨とも酸鼻《さんび》とも、形容の言葉もない。
「こ、この男をご存じなのですか?」
と、おさめの方が、ふるえながらきいた。
「いや」
と、吉保はくびをふって、なおじっと花を見つめていたが、やがて名状しがたいうめきをもらした。
「葵か。――」
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鮎姫様
一
「姉上さま」
唐紙の外で、若わかしい声がきこえた。
声もなく天羽七兵衛の首を見ていた吉保とおさめの方は、はっとわれにかえった。とくにおさめの方は狼狽して、
「あれを」
とふるえる手をあげて、首を指したが、とっさに片づけられるしろものではない。
「姉上さま、ここですか」
声はもういちどいって、唐紙があいた。
首が一つ縁側にのっているだけで、名状しがたい凄惨の気がたちこめていた座敷に、ぱっと灯がともったような感じであった。おさめの方に似て、細面だが、まぶしいばかりに華麗な印象をあたえるのは、そのきらびやかな裲襠《うちかけ》のせいばかりではなく、驕慢《きようまん》なばかりにかがやいている、大きな、真っ黒な瞳のせいだ。
これは、おさめの方の妹、鮎姫であった。
「ひどく屋敷がさわがしゅうございますが、何が起ったのですか」
と、ふしんそうに、吉保と姉の蒼ざめた顔にむけられたその明眸《めいぼう》が、ふと縁側の方へうつって、口が大きくひらいた。何かさけびかけたが、しばらく声もない。
「これ、かようなもの、いずれへかとり捨てい!」
ようやく吉保は家来に命じて、ぷいと立とうとしたが、
「父上さま、これはどうしたことですか」
と、鮎姫によびとめられた。
吉保の愛妾おさめの方の妹が、吉保を父と呼んだのは、鮎姫は去年から吉保の養女となっていたからである。もっとも彼女はもう十四、五年もまえ、おさめの方が吉保の侍妾となったころ、つまり彼女がまだ五つ六つのころからこの邸内で育てられた。
おさめの方が、吉保の侍妾中第一の寵《ちよう》を得たばかりか、正夫人をもしのぐばかりの権勢をふるうようになったのは、いま三十なかばになっていよいよ濃艶なその容貌のほかに――ある大秘密がある。秘密とはいうものの、幕閣の上層部には、公然の秘密だ。
すなわち、ことし十二になる吉保の長子吉里は、その実将軍綱吉とおさめの方とのあいだに生まれたものであった。過去綱吉は、世人がふしぎがるほどしばしば柳沢の屋敷に駕《が》をまげたが、そのこころが、単に吉保に親愛の情をしめすということばかりではなく、おさめの方にあるとみて、吉保はひそかにおのれの寵妾を綱吉の枕頭に侍らせた。吉里は、その結果である。容貌の相似からそう見てとったが、吉保は平然としていた。すくなくとも、平気をよそおった。すでに将軍の寵を得るために、妾を献ずるほどの吉保だ。将軍の子をおのれの子として抱いて、彼は文字どおり将軍と一蓮の花弁の上にいると自信をもってよかった。綱吉の急所をつかんだのみならず、あわよくば――と、一大野心が、彼の胸の深奥《しんおう》をふるわせる。将軍家に、ついに世子が生まれなかったとしたら――という予想と、その果てだ。
彼が、前将軍のご落胤《らくいん》がこの世にあると知って愕然《がくぜん》となり、甲賀七忍に命じてこれを闇に葬《ほうむ》ろうとした秘計は、ここに端を発した。葵悠太郎をこの地上から消し去るのは、決して綱吉のためばかりではなかったのである。
――ところで、葵悠太郎なる存在がこの世にあると知る以前から、彼のひそかなる野望のまえにたちふさがるもうひとつの障害があった。一応おのれの子としてある吉里が、決してすらすらとなんの支障もなく綱吉の世子になれようとは吉保も思わないが、ほかに世継ぎの該当者《がいとうしや》がひとりもなければ、結局他の老中や若年寄を籠絡する自信は彼にある。吉里が綱吉の血をうけているということが公然の秘密であることが、かえって好都合なのである。
しかし、こまったことに、もうひとりの重大な候補者が存在していた。甲府|中納言綱豊《ちゆうなごんつなとよ》だ。綱豊は、綱吉の仲兄《ちゆうけい》、綱重《つなしげ》の子である。
本来なら、前将軍家綱が亡くなったとき、その子がない以上、次弟たる綱重が五代将軍たるべきであったのを、彼が家綱よりさきに逝去《せいきよ》したために、さらにその弟の綱吉があとをついだのだから、もし綱吉が死ねば、たとえ世子があろうと、兄の綱重の子がそのあとをつぐのが至当である――という、意見があった。しかもそういう意見を抱いているときこえているのが、ただの人間ではない、大うるさ型の水戸の御老公なのである。
しかも、その綱豊はなかなかの名君で、ひそかにこの自分を冷眼にみている――ときいて、吉保は憂鬱《ゆううつ》になる。この世をばわが世とぞ思う現在の彼にとって、唯一の暗雲はそのことであった。もし綱吉が死んで、吉里のことが成功せず、綱豊がそのあとをついだら――とかんがえると、背すじに一脈の冷気をおぼえざるを得ない。
恐ろしくきれる吉保は、そこで予防線を張った。いや、張る準備にとりかかった。現将軍をじぶんの愛妾の肉の罠《わな》におとしてまんまと味をしめた彼は、やがておなじ手で綱豊をも罠にかけて置こうと計ったのである。その囮《おとり》が、おさめの方の妹、鮎姫だ。この二、三年、彼女が姉に似て、いや若い日の姉をもはるかにしのぐばかりに艶麗たぐいない名花となって、咲きひらいてきたのをみて、彼はこのアイデアに自信をもった。いつか機会をみて、鮎姫を綱豊卿にちかづける。この娘なら、甲府中納言いかに賢者でおわそうと、罠にかからずにおられようか。――吉保が彼女を養女としたのは、その下心からであった。
鮎姫は、単なる寵妾の妹というだけでなく、彼の大野心の布図に絶対必要な手持ちの駒であったのだ。
のみならず。――鮎姫じしんが、大事な駒というより、おそろしく自律的な駿馬《しゆんめ》でもある。その驕慢《きようまん》とさえいえるものごしは、姉のおさめも一歩をゆずるばかりだ。
もとは、百六十石の小姓から成りあがり、十年ほどまえでも、まだ一万石内外の小大名であった吉保の妾となったおさめの方は、素姓もわからぬ生まれの女だが、これは、その妹とはいいながら、ものごころついて以来大名の家にそだち、娘となってからは威権赫《いけんかく》かくたるお側衆柳沢出羽守の養女となる。気稟は、天性の貴族のごとく、しかもその血に野性をおびているのか、ときに家臣を馬上から鞭でうちすえるほど活発な姫君であった。このごろは少《しよう》しょう手にあまり気味なその鮎姫だ。
「この首は?」
と、きかれて、吉保は絶句した。おさめの方はふるえながら、
「この首が、いま、屋敷の門前にすててあったのじゃ」
といって、これもじっと吉保をみる。彼女はまだ葵悠太郎のことをしらず、また吉保は、さすがに手飼いの甲賀七忍のことも、彼女に話してはいなかった。
「この屋敷には、みかけたことのない顔でございますね」
と、鮎姫はくびをかしげて、
「まあ恐ろしい、顔が半分たてにも斬られて、花をくわえて――これはどういう謎なのでございますか」
「知らぬ」
と、吉保はうめいた。
「いったい、何者の首なのですか?」
「知らぬ」
と、もういちどかぶりをふった吉保はふきげんに、
「天下のご政道をあずかる者は、ときに思わぬ下根の恨みを買って、えたいの知れぬいやがらせをうけることもある。かような不埒《ふらち》なまねをしおった奴は、いずれひっとらえて成敗《せいばい》してくれよう」
「でも、それにしても――」
「えい、女子供の知ったことではない!」
と、高びしゃにおさえつけて、吉保はつかつかと座敷を出ていった。
二
邸内の落葉樹には、依然として葉はなかったが、どこか春の匂いをふくんだ夜靄が、ひくく枯草を這っていた。
「甲賀町のものども」
と、闇のなかで、ひくい、が、森厳《しんげん》な声がした。――と、いままで物音もなかった林のなかから、ささやくような返事がきこえた。
「お召しによって参上」
「七忍衆よな」
「――六忍でござる」
沈痛な声であった。
白い頭巾に面を覆った柳沢出羽守はしばらく黙っていたが、やがておののく声で、
「さらば、七兵衛のことは存じておるな」
「御意《ぎよい》」
「けさ、この屋敷の門前に、首が捨ててあった」
「昨夜――馬喰町のさいづち長屋に、七兵衛のみをのこして参ったのが不覚でござりました」
「人ひとり殺すに、われら七人は不要と存ずる、と誇った口を忘れたのか、それとも忘れなんだのか」
皮肉で痛烈な声に、闇の声はしみいるがごとく、
「お恥ずかしゅうござる。……」
と、うめいて、消えた。
「下手人《げしゆにん》はだれと思うか」
「あの三人は討ち果たしましたれば、もとより――」
「首に葵の花がくわえさせてあった。さりとは、不敵な奴。……しかも、わざわざ余の門前に捨てるとは!」
吉保の声は怒りと恐怖にしゃがれて、
「おまえらは、たしかに水戸のご老公にちかづこうとした三人の男を討ち果たした。その報告をうけるたびに、余は恩賞をつかわした。が、かんじんの葵悠太郎を、まだ討てぬとは!」
「殿、かならず討ってお目にかけまする」
「討つまえに、きゃつは余のことをかぎつけたではないか。七兵衛の首を門前にすてたのがその証拠じゃ。余と知られてきゃつを討ってよいなら、余の手で公然と討つ! なんのためにおまえらに命じたのか。なんのために余はひそかにおまえらに扶持《ふち》をあたえてきたのか。甲賀七忍とは、それほど腑甲斐ない奴らか!」
冷蔑《れいべつ》の叱咤《しつた》に鞭うたれて、闇の中は声もない。ややあって、憤怒《ふんぬ》がのどにからまるような声が陰々と、
「お叱り、恐れ入ってござる。さりながら……いま、いましばらくご猶予をねがいあげまする。いや、それほどの日数《ひかず》は要り申さぬ。かならず、この次は悠太郎の首、ご覧に入れまする。殿のご下知のみかは、かくなっては天羽七兵衛のうらみをはらさんがためにも――」
そうこたえたあとに、ふっと別の声が、
「殿、仰せのごとく、これは絶対余人に知られては相成りませぬな」
「くどい!」
と、吉保がいらだたしげにくびをふったとき、
「だれやら、立ちぎくものがござる!」
そうさけぶと、一つの跫音が枯葉をそよがせてむこうへはしった。
「あっ」
と、闇中にあがった悲鳴を、女の声ときいて、吉保が、はっとふりむいたとき、樹々のむこうで、ただいちど鋼《はがね》と鋼のうちあうひびきがあがって、それから何者か重く地にたおれる音がした。
「父上さま!」
おびえた声がかけてきた。
「鮎姫か」
吉保は眼をかっとみひらいて、
「そなたは、何しにここにきたのだ!」
「けさの首から、お鮎は心配で、ひそかに邸内を見張っていたのです。そうしたら、お父上が頭巾をつけて、ひとりこの林のなかへ入っておゆきあそばすのをみて――」
そのおどろきよりも、吉保はなお気の顛倒することがあり、
「いまそこで刃の音がしたが、そなたか」
「いいえ、こちらからはしってきた人間がふいに斬りかかったのを、べつのだれやらが救ってくれた様子ですが――」
「なに? べつのだれやら? 何が、どうしたのじゃ、たおれたのは何者だ?」
すると、むこうで、しずかにこたえる声があった。
「甲賀七忍のひとり」
「な、なにっ、うぬは――」
「葵悠太郎|推参《すいさん》」
そして地上にぷつりととどめ[#「とどめ」に傍点]を刺す音がきこえたかと思うと、跫音は、落葉をふんで、こちらにあるいてきた。
ざざっと樹々をへし折って闇に散った音は、甲賀七忍――いや、五人となった忍者にちがいない。殺されたのは、だれだろう?
三
不覚といえば、大不覚だ。しかし、飛ぶ鳥おとす大老格の屋敷のまっただなかに、しかも深夜、家人さえも知らぬ林の奥の暗殺密議に、その暗殺さるべき当人が、ぬけぬけと乗りこんでこようとは、さすがの吉保もどぎもをぬかれた。
「こういうこともあろうかと、夕刻から出羽どのを見張っておった」
と、葵悠太郎は笑みをふくんだ声でいいながら、ちかづいてくる。
「こわい使者はたびたび受けたが、出羽どのにははじめて、お目にかかる。――拙者の首が欲しいとな。最初からそう申されたなら、話によってはさしあげぬでもなかったが、ただ闇斬りに拙者の家来ども三人を討たれては、もはや気がかわった」
忍者は散ったが、出羽守は足が金しばりになっていた。
「あまつさえ、罪なき少年まで無惨な犠牲《いけにえ》とした甲賀の忍者の所業は鬼畜か。それともそれを使う出羽どのが狂人か。いまきけば、そこの娘御は出羽どのを父上と呼んだようだが、見るがよい、その娘御すら、すんでのことで、きちがいの刃物の錆《さび》になるところだったではないか。――これ、うごくな!」
と、ふいに叱咤したは、うごかぬ吉保にいったのではなく、闇に何やらうごめく気配にむかってであった。吉保は、眼前三尺にピタリと刀身がつきつけられているのを、闇中にかすかにみた。つきつけた影は、虚無僧姿とおぼろにみえるのみで、もとよりその顔もわからない。
さすがの忍者のむれも、はたと硬直したきり、息もとめている様子だ。
「わしは将軍などにみれんはない。討たれた家来のうらみも、私情として眼をつぶる。しかし、殺された罪なき子供の敵《かたき》だけは討たずにおかぬ。小さな魂のために、あと五人、化物どもの首はきっと斬る!」
激情にたえかねたように、刀身がすっとあがったとき――ふいに、
「曲者《くせもの》!」
絶叫とともに、青い火花がちった。いままで茫然として立ちすくんでいた鮎姫が、突然、懐剣をぬくやいなや、悠太郎の刀身をはねのけたのだ。
さっと悠太郎の刀は旋回しようとして――宙にとまった。天蓋のなかから、相手はこの仇討に無縁の娘――と見とめて、ためらったのである。その宙にとまった刀に、すうと白いものがからみついた。なんの抵抗もなかったから、気がつかなかった。抵抗のないのも道理、それはひとすじの白煙であった。が、同時に、天蓋にビラビラビラと――数本の針が吹きつけてきたのに、はっとしてふりかえる。
十メートルもむこうに、めらっと火がもえあがった。たったいまとどめを刺したはずの忍者のひとりが、半身を起していた。火はその口からもえていた。火あかりにその顔はすでに死相にくまどられて、なお爛と悠太郎をにらみ、ぐうっと太鼓腹がくぼんだとみるまに、またもや一条のふといけむりが、すうーっと棒のようにのびてきてみるみる周囲にひろがり、悠太郎のからだをつつんでしまった。
「出羽っ」
さけんだが、まわりは真っ白な濃霧と化していた。時ならぬその妖霧のむこうへ、にげてゆく跫音がきこえた。
追おうとした悠太郎のからだは、やわらかい絹のかたまりとぶつかった。それがいま自分に斬りかかった娘と知った刹那に、彼は片手でその胴をひっかかえた。なおふり注ぐ針の雨に天蓋をまわして受けつつ、
「たわけ、針が娘につき刺さってよいか!」
たまぎるような娘の悲鳴がぷつりときれると、その位置で、なんの物音もしなくなった。
――霧はしだいに霽《は》れた。樹の間から細い月がさした。葵悠太郎の姿はなかった。同時に鮎姫の姿もきえていた。
「鮎姫が、さらわれた!」
頭巾のあいだからにらみすえた柳沢吉保の眼は、まさに狂人であった。彼をまもった煙は、同時に敵ものがしたのである。
その煙を吐いた粂寺外記は、最後のひといきまで吐きおえて、うつ伏せになって松葉のうえに顔を伏せていた。その背に一輪のせられている葵の花は、あの際悠太郎がおいていったと考えるよりほかはないが、なんたる不敵な若者か。
けれど、敵も敵だが、外記は昨日、織部玄左衛門に片腕を斬りおとされた男ではないか。その重傷の身をすでに今夜の召集に参加させたのみか、とどめを刺されてなお最後の「霧閉《きりとざ》し」の忍法をふるって死ぬとは、実にあっぱれなものだが、吉保はその屍骸もふりかえらず、
「鮎姫」
と、またうわごとのようにくりかえした。
「存じてはおりましたが、姫君に万一のことがありましたならばと存じ――」
うめくようなしゃがれ声は、鵜殿一風軒だ。八剣民部も歯をかみ鳴らして、
「殿……われら五忍の首すべてを失うとも、鮎姫さまはごぶじにおとりかえしつかまつる!」
吉保は、じいっと五人の忍者を見まわしていたが、ふいにうめくようにいった。
「鮎姫を、いのちもぶじに、きれいなからだのままとりもどしてくれたならば、うぬらのうち、だれにても、恩賞は望みにまかせるぞ。たとえ十万石の大名であろうと、大奥一の美女であろうと――」
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美しき囮
一
「旦那、ここでようござんすか?」
「いや、かたじけない」
――牛込の、山門に、蓮華寺《れんげじ》とかいた額《がく》もかたむいている無住の古寺である。一梃《いつちよう》の辻|駕籠《かご》を庫裡《くり》まではこびこむと、ふたりの駕籠かきは、汗をふいた。
「悠太郎さま!」
奥から、はしり出てきたのはお縫だ。
庫裡の天井は裂けて、月光がまだらにふりそそいでいるなかに、駕籠と駕籠かきをみて、眼をまんまるに見ひらいた。
「あ、平六さん!」
さいづち[#「さいづち」に傍点]長屋の駕籠かき、平六と銀十であった。まえに、丹吉からたのまれて、里見隼人の屍骸をはこんでくれた二人である。
「やあ、お縫坊」
と、平六は笑ったが、すぐに悠太郎の方をむいて、
「旦那……品物を出しやしょうか?」
「いや、よい。もうひきとってくれ」
と、悠太郎は手をふって、
「礼もできぬ。……事情もあかせぬが」
「いいや、旦那、あっしたちにゃわかっていまさあ。いえね、わからなくったって、旦那があのたあ坊を殺しやがった化物たちの征伐にのり出したってのみこめりゃ、あとはなんにもきかなくたっていい。礼はこっちから出してえくれえでさあ」
と、平六がいうと、そばから銀十も、
「なんなら、公方《くぼう》さまをさらってきたって、手つだいますぜ」
と、あごをつき出した。
いつか、里見隼人をのせ、鵜殿一風軒と葉月に追われてにげたときのこわがりようとはたいへんなちがいだが、それも長屋のマスコット丹吉を殺された怒りからに相違ない。――もっとも、このふたりがいま悠太郎の命のままに、ここに駕籠をかつぎこんできたのは、最初から依頼されての仕事ではない。深夜――神田橋門内を、大きな花束のような人間を小わきにひっかかえてはしっていた悠太郎が、まったく偶然、彼らとめぐり逢ったものであった。
「旦那、用があったら、いつでも呼んでおくんなさい。さいづち長屋の軍勢こぞっておし出しますぜ」
「待て待て、それなら、もういちどたのみたいことがある」
「――へ、何でも合点だ」
「しばらく、山門のところで待っていてくれ」
平六と銀十が、出ていってから、悠太郎は、駕籠のなかの人間をひきずり出した。お縫は思わずさけんだ。
「悠太郎さま、これは――」
「柳沢の娘だそうな」
「えっ」
お縫は、二歩三歩あゆみよって、きっとにらみつけた。――これが、悠太郎さまを狙い、三人のご家来を手にかけたのみか、丹吉を殺した悪鬼のような男どもを使った柳沢出羽守の娘か! 彼女は、稲妻のように匕首《あいくち》をとり出した。
「殺すがよい」
と、その娘はいった。
すでに失神からさめて、鮎姫は、眼をひからせて顔をあげた。塵《ちり》と埃《ほこり》と、蜘蛛《くも》の巣のなかに、蒼白いひかりにぬれて浮かびあがった姿は、髪もきものもみだれはてているが、それだけに、この世のものならぬ美しさだ。
「待て、お縫坊」
と、悠太郎は声をかけて、鮎姫の方をふりかえり、
「殺せというが、そなた、なぜ、殺されなければならぬか、存じておるのか」
「知らぬ。この恥ずかしめを受けただけで、柳沢の娘ともあろうものが、もはや生きてはおられぬ」
悠太郎は笑った。
「これが恥か?」
それから、いった。
「お縫坊、この娘を裸にしてくれ」
お縫は、あっけにとられた。突然であったし、あまりにも悠太郎らしくない要求であった。悠太郎さまは、いったいどうなさろうというのか?
「裸にしただけでは、風邪をひく、そなたときものをとりかえるのだ」
「え、きものをとりかえる?」
「実はな、さっき柳沢の屋敷にのりこんで、吉保をはじめ、敵の甲賀七忍――いいや、六人の忍者に逢った」
「まあ、あいつらに? それから――」
「さしあたって、甲賀者と柳沢の関係をつきとめるのが目的だったが、その場で、一人、煙を吐く男だけは斃《たお》したが――たあ[#「たあ」に傍点]坊の話から判断すると、あれが粂寺外記という忍者だろう――あとは、この娘をさらっただけで、にげてきたのだ。正直にいって、あと五人の忍者をいちどに相手にして、わしが無事にすもうとは思えぬから、この柳沢の娘を人質にしたということは、運がよかったといってよい。これから、この娘を囮《おとり》にして、敵を一人ずつ、さそい寄せるのだ」
「一人ずつ――」
「そううまくは参らんかも知れぬ。とにかく、隼人、兵馬、玄左衛門をまたたくあいだに討ってのけたほどの連中だ。粂寺外記とやらをわしが斃《たお》せたのも、奇襲と、それからきゃつが玄左衛門のために片腕にされていたせいもあったろう。手強《てごわ》い奴らだということは、よく承知しておかなければならぬ。きゃつらを討つには、少《しよう》しょう細工が要る。――そのためにお縫坊に、このお姫さまに化けてもらいたいのだよ」
「それでは、このひとを殺してはいけないのですか」
「お縫坊」
と、悠太郎は、やさしい声でいった。
「たあ坊を殺した奴らはにくい。それをつかった柳沢はにくい。しかし、この娘には、実のところ何の罪もない」
「でも、でも、たあ坊だって――」
「罪もなく殺されたたあ坊を思え。おなじ所業をかえしては、わしたちも敵とおなじ悪魔となる。――この娘は、殺すまい」
「悠太郎さま、あたしは柳沢に、あたしとおなじ苦しみを投げつけてやりたいのです!」
悠太郎は暗然と沈黙したが、急につよい声で、
「それではこの娘の生命《いのち》を、当分わしにあずけておけ。あの五人の化物を退治する道具として、わしに入用《いりよう》なのだ」
お縫の匕首《あいくち》が、力なくさがるのを見るやいなや、
「殺しゃ!」
猛然と、鮎姫がたちあがった。そうはいったが、お縫の匕首をうばいとろうとする動作であった。
「これは、気のつよいお姫さまだ」
苦笑とともに、悠太郎のこぶしが鮎姫の脾腹《ひばら》にはしったかと思うと、彼女は声もなく身をくの字なりにして崩折れた。
「どうせ、こうでもしなくては、おとなしく衣裳を替えてはくれまい」
悠太郎は、しばらく悶絶した鮎姫を見おろしていたが、
「では、お縫坊、たのんだぞ。化けおわったら、おしえてくれ。わしはそれまで外で待っていよう」
二
口にながれこむ冷たいものに、鮎姫は意識づいた。
眼をあけて、何ものかをみるよりさきに、彼女はじぶんの背が、かたいものにしばりつけられていることに気がついた。身をもみねじったが、うごかない。
いつのまにか、そばには行燈《あんどん》がともっていた。そのむこうに坐っている影をみて、鮎姫は、思わずまばたきをした。――きらびやかな裲襠《うちかけ》、ゆれるかんざし――そこに、じぶんが坐っている!
その「姫君」は、手にしていた茶碗をまえにおいて、こちらをのぞきこんでいた。おそらく、それがいま、じぶんにのませてくれた水であったろうと気づいたのは、よほどあとのことだ。鮎姫は、じぶんの衣裳をそっくり着こんでいるのが、あの娘であることを知った。
あわてて身のまわりを見まわすと、じぶんは獅子舞いの――彼女はそれが越後獅子の娘の装束《しようぞく》であることすら知らない――みるからに賤《いや》しいきものをきせられて、うしろの柱にしばりつけられている。そのことより、これほど完全に着がえさせられるまで、じぶんがどんな姿にされたかとかんがえた刹那、相手が娘なのに、彼女は恥のために、かっと、頬を紅潮させた。
「ぶ――無礼な!」
と、思わずさけんだ。
「悠太郎さまのおいいつけだ」
と、偽姫君はいった。眼はなお憎悪《ぞうお》にひかって、彼女を見すえている。――その美しさに、鮎姫はちょっとあきれた。衣裳さえかえると、あの賤しい娘が、じぶんをしのぐばかりの気品にすらみちてみえるのに、ひどいショックをおぼえた。
「いったい、何をしようというのじゃ?」
「いま、悠太郎さまをつれてくる。悠太郎さまにきくがいいわ」
「ええ、あの素浪人に何もきくことはない。ただこのまま、おまえの手で殺せ」
「わたしは殺してやりたい。けれど、それはならぬと悠太郎さまはおっしゃった」
やっと鮎姫は、あの浪人者がいないことに気がついた。そこは、あの庫裡《くり》ではなかった。失神しているあいだにはこばれたものとみえて、内陣だ。行燈の灯に、なかば崩れた須弥壇《しゆみだん》の仏像や蓮華や仏具が、錆《さび》に覆われつつ、ぶきみなひかりをはなっている。
人間よりも、その剥げた仏像のほうに恐怖をおぼえた。かんがえてみると、怒りはあったが、あの浪人とこの娘に、ほとんど恐怖をおぼえなかったのがふしぎだ。ふしぎといえば、彼らはいったい何者なのか。――おそらく、けさ、屋敷の門前に凄じい生首をおいたのは彼にちがいないが、あれはそもそもどうしたわけか。それより、屋敷の中で、深夜、父が逢っていた六人の黒衣の男たちは!
「わたしが、おまえたちに、何をした?」
ようやく鮎姫は、混乱から醒《さ》めて、かずかずの疑惑をときたいというきもちになった。
「おまえの父親が、あたしの弟を殺したのだよ」
「えっ――おまえの弟を」
「罪もない、十になる可愛い弟を」
お縫の眼に、また殺気の炎がにえたぎる。
「わたしの父が、なぜ?」
「おまえの父親は、悪魔のような七人の忍者をつかって、悠太郎さまを殺そうとした。そのため、悠太郎さまの三人の家来は殺され、あたしの弟までが、悠太郎さまをまもろうとして、殺された」
鮎姫は、まじまじとお縫の顔を見つめていた。しかし、ほんとうは見てはいなかった。彼女は、今夜、屋敷の林の中できいた吉保とふしぎな男たちの問答を思い出していた。あの問答の意味が、しだいにわかってくるようであった。
「父が……、なぜ、あの浪人を殺そうとするのじゃ!」
と、鮎姫は急に弱くなった声できいた。
「将軍家お側衆たる柳沢出羽守ともあろうものが、どうしてそれほどあの素浪人を狙うのじゃ?」
「おまえは、何もしらないのか」
と、お縫はすこしめんくらった表情で見かえしたが、急に昂然とあたまをあげて、
「葵悠太郎さまは、まえの公方さまのお子さまだ」
「えっ」
はじめて鮎姫は、のけぞるばかりに驚愕した。
「たかがお側用人の娘くらいで、そんなえらそうな顔をしちゃあおかしいよ。お手がふれただけでもありがたいと思うがいいわ」
「そんな……うそ、大うそ……」
「うそだと思うなら、勝手に思うがいい」
それから、お縫はうなだれて、ひとりごとのように、小さな声でつぶやいた。
「ほんとうをいうと、あたしはそれがうそであればと思うのだけれど……」
鮎姫は、全身を硬直させてその姿を見まもっていたが、これも胸のおくそこからの声のようにつぶやいた。
「もしうそだったら……父があの男をそれほど殺そうとするわけがない。……」
虚無僧姿が、しずかに内陣に入ってきた。
「おい、まだかね?」
三
「お――なかなかよく似合うではないか」
悠太郎はしげしげと姫君姿のお縫を見まもって、それから柱にしばりつけられた鮎姫のまえに立った。
「そなたも、よく似合う」
皮肉にきこえなかったのは、彼の人柄のせいもあり、また、本気でそう思っていったせいもある。
悠太郎は、じっとじぶんを見あげている鮎姫の眼が、まえとすこしちがっていることに気がついた。――鮎姫は、つぶやいた。
「そういえば、どこやら上《うえ》さまに似ているような」
「なに?」
鮎姫はさけんだ。
「あなたは、まことに前将軍のお子さまでございますか?」
悠太郎の片頬に、苦っぽい笑みが彫られた。
「わしは父の顔を知らぬ。したがって、父がだれかも知らぬ」
「もし、それがまことなら……あなたさまこそ、将軍家をおつぎになるお方、父はなんという大それた所業に出たものか。――いいえ、わたしにはわかる。それはすべて父の野心から出たことです」
「これ、娘にそうきめつけられては、父が泣くぞ」
「わたしは、ほんとうは柳沢の娘ではありません。養女です。――甲府|中納言《ちゆうなごん》さまの側妾《そばめ》にさし出すために、出羽守の養女とされた娘です」
「――ほ? そなたが――」
悠太郎の顔を見つめる眼が、しだいにかがやき、かみしめていた唇が鮮烈にぬれて半びらきになった。
「父はどうかんがえるにしろ、わたしは馬を騎《の》りかえる」
「なんのことだ」
「わたしは甲府中納言より、あなたをえらびます」
この突拍子もない宣言に、お縫はさけび声をたてたし、悠太郎も唖然《あぜん》とした。が、見下ろした眼は、彼女のだいたんな瞳にかかる虹に、あやうく眩惑《げんわく》されそうになる。からからと笑って、
「そなたも、養父といずれおとらぬ野心家だなあ。ただし、さすがに、出羽の方が利口じゃ。わしはまず見込みがないぞ」
「いいえ、あなたを前将軍のお子さまと知ってそういうのではありません。わたしはあなたが好きになったのです」
「おまえは、あたしたちの敵だわ」
と、お縫が妙に嗄《か》れた声でいった。鮎姫はふりかえった。その片頬にさげすむような笑いがよどんだ。ふたりの娘は、悠太郎を中にじっとにらみあった。
「おまえは敵かもしれないが、悠太郎さまはわたしの敵ではない」
そして、彼女は急に身もだえした。
「この縄をといてください。わたしはもうにげはしませぬ」
「はははは、それを信じろといってもむりだ。しばらく、このままでいてもらおう。ちょっと、わしたちは留守にする。すぐにかえるから、それまでおとなしく待って、いてもらおう」
そういうと、悠太郎は布をとり出して、鮎姫にさるぐつわをはめるのにかかった。
鮎姫はあたまをふって抵抗し、眼がうらめしげにひかったが、すぐにあきらめたようにしずかになり、むしろうっとりとして、近ぢかと寄った悠太郎の顔を見まもった。
「これでよし」
悠太郎はたちあがって、口笛を吹いた。――すると、さっき出ていったときに打ち合わせたものであろう、内陣の入口に、平六と銀十の顔があらわれた。
「ご苦労だが、この姫君をのせていってもらいたい」
「へ――か、帰すんですか?」
と、ふたりは気づかず、口をあけてそこに立つ姫君をみて、それから、
「ひえっ、こりゃ」
と、奇声を発した。
「お、お縫坊じゃあねえか?」
「旦那、いってえ、どこへゆくんで?」
悠太郎は、天蓋《てんがい》をかぶって、あゆみ出した。
「駿河台《するがだい》の甲賀町へ――」
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甲賀忍者町
一
――天正十年、徳川家康は、織田信長に招かれて、上方見物に上った。とき、突如として本能寺の変起り、家康は狼狽《ろうばい》して本国三河にかえろうとしたが、京はすでに明智軍におさえられている。やむなく、間道づたいに山城から甲賀、伊賀をとおって、伊勢へにげのびた。この途中、しばしば土賊野盗に襲われて、「家康生涯の大難の第一」といわれるほどの危機に遭逢《そうほう》したが、このとき家康をたすけて無事に通過させたのは、甲賀、伊賀の郷士たちであった。
家康はふかくこれを徳として、のちに江戸入府とともに彼らをよびよせ、彼らの支配者|服部半蔵《はつとりはんぞう》に八千石をあたえたのをはじめ、伊賀者には四谷《よつや》に、甲賀者には駿河台に、それぞれ屋敷をあたえた。これが四谷の伊賀町、駿河台の甲賀町の起りだ。
表向きは、江戸城大手三門の守衛兵だがその実、のちのちまで幕府の隠密《おんみつ》の資格者をこのなかから求め、えらんだであろうことは想像にかたくない。
――夜明前、その甲賀町の空に赤い星がかかった。色もぶきみなくらい赤かったがよく気をつけてみると、それが数分おきに明滅していることに、怪異の感を抱かないものはなかったであろう。もっとも、この時刻、空をあおいでいる者はあるまいが。
その星は、三十分あまり明滅していて、そしてまったく消えてしまった。――その消えた星の下に立って、ただひとり仰いでいた娘が、しずかにある屋敷のなかへ入っていった。手に弓と矢をもっている。
「お祖父《じじ》さま、黄泉《よみじ》の火矢《ひや》を、仰せの数だけあげました」
「ご苦労」
こたえた声は、かすかであった。ひとり病床に横たわっていた白髪の老人のうなずいた顔は、髑髏《どくろ》に似ていた。――すでに死臭が、そのまわりにたちこめているようだ。
「お祖父《じじ》さま、あのものどもを呼ぶよりは医者を呼んでまいりましょうか」
「たわけ、甲賀町の服部玄斎《はつとりげんさい》が死ぬとき、医者の手にかかるか」
と、老人はいった。そして、涙の顔をおさえた娘を、死床の人とはみえぬきびしい眼で見つめた。
「泣くな、めでたい夜じゃ」
「…………」
「夜明けまでに、わしは死ぬがの。それまでにおまえの婿をきめる」
「…………」
「志乃《しの》、おまえはあの六人――いや、七兵衛と外記は死んだ――あの四人のうち、だれが一番好きか喃《のう》。八剣民部か、空蝉刑部《うつせみぎようぶ》か寝覚幻五郎か、鵜殿一風軒か?」
「…………」
「いや、おまえにはえらばせぬ。七兵衛と外記を討った男――柳沢どのから、殺せと命じられた男を殺した奴が、おまえの婿となる。すなわち、この甲賀町の棟梁となるのじゃ」
老人は、そういったまま、口をへの字にむすび、眼をつむった。
服部玄斎――その苗字《みようじ》が語るように、これは忍者の名門服部家の一族だ。しかも、本家の初代半蔵の子孫たちがさまざまの原因から家名断絶の憂目にあったので、いまはこの分家にあたる玄斎が、この甲賀町のみならず、忍法の総元締としては伊賀町にもあたまをあげるものもない老人であったが、さすがの忍者も、時いたれば、死床につくことはまぬがれなかったのである。
障子の外が、やや蒼ばんだ。
そのころ――。
「――空蝉刑部でござる」
「寝覚幻五郎です」
「八剣民部――」
影のように音もなく、次ぎつぎとすべりこんできて、座敷の隅にうずくまったものがある。
二
老人は孫娘にたすけられて身を起した。
「みなかえったか」
「されば――ご老人、あの黄泉《よみじ》の火矢は――」
「まもなく、わしは死ぬ」
覚悟はしていたが、さすがにみな息をのんだ気配だ。しかし、声をたてるものもなかった。
「うぬらが血まなこになって敵をさがし求めておるのを知りつつ、急ぎ呼びかえしたのは、夜明けまでにわしが死ぬからじゃ。ぜひ、うぬらに来てもらわねばならぬことがあって喃《のう》」
「――それは?」
「志乃の婿をきめたい」
四人の男は、枕もとにうなだれている老人の孫娘をみた。
蒼白い皮膚のいろは、祖父の末期に侍《はべ》るせいばかりでもなければ、夜明け前のひかりのゆえでもない。この娘のもちまえである。しかし、その白蝋に似た顔や、しなしなとかぼそいからだに、妙に男をいらだたせる肉感的な翳《かげ》があった。
「柳沢出羽守さまより、かのお申しつけがあった際、うぬら七人をえらんだのは、わしが病気のせいのみではなかった。うぬら七人は、甲賀七忍として、幼少のころよりわしがとくに仕込んだ。それほどのうぬらだ。婿は、もとよりそのなかの一人と、はやくからわしはきめてはおった。――じゃが――」
「…………」
「見そこなったぞ。このたびのうぬらの醜態《しゆうたい》は」
「はっ」
「出羽守さまにも申しわけがないわ。年来ひそかに特別の庇護を出羽守さまより受けてきたご恩の手前ばかりではない。甲賀町の面目にかけてじゃ。いいや、服部玄斎仕込みの忍者として、なんたる恥さらしか」
枕頭に孫娘がおいた弓と矢をつかんで、叱咤《しつた》した。ひくいが、肺腑《はいふ》をえぐるような痛烈な声だ。髑髏のような顎が、かたかたと鳴った。
「かけひき、手柄、七人同体と教えたが、もはや、それはとり消す」
「はっ」
「敵を討つに、この甲賀町の余人の手もかさぬ。かならず、うぬらのみで討ってとれ」
「もとより――」
「討った奴に、志乃をやる」
ひとりが、顔をあげた。
「――わたしは?」
乾いた女の声だ。葉月《はづき》であった。玄斎はじろっと見て、
「志乃の婿になるとは、この甲賀町の棟梁《とうりよう》になるということじゃ。おまえが仕とげたら、おまえが棟梁になれ。そして、好きな男を婿にするがよい」
「いっそ、はじめから葉月どのにそうなされたがようございます」
突然、おさえにおさえた声がほとばしるように、志乃がいい出した。
「なに?」
「お祖父《じじ》さま、お祖父さまが死なれようとするのに、こんなことを申すのは辛いとがまんをしておりましたが、死なれたあとで申しては、いっそうとりかえしがつきませぬ。わたしは、ここにいる四人の衆のだれの嫁になるのもきらいでございます」
「志乃」
「わたしは、甲賀町の頭などになるのはいやなのです。いいえ、この陰気な、化物ばかり住んでいるような甲賀町がいやなのです。――わたしはいくど逃げ出そうとかんがえたかしれません。逃げ出さなかったのは、お祖父さまがご病気だったせいと、それから、勇気がなかったからでした」
「た、たわけ――服部玄斎の孫ともあろうものが――」
「お祖父さま! もし、もしお祖父さまがお亡くなりになったら、あとは志乃にどこへでもゆけとおっしゃってくださいまし」
「だまれ」
と、玄斎は絶叫して、恐ろしい眼で、この途方もないことをいい出した孫娘をにらみつけていたが、
「そうはならぬ」
と、ゆっくりと首を横にふった。
「甲賀の血が、それをゆるさぬ」
運命そのもののように、厳粛《げんしゆく》な声であった。
「もしおまえが、なおそのようたたわけたことを申すなら、幻五郎、志乃に憑《つ》いてやるがよい」
志乃は全身をかたくし、あわてて顔をそむけた。玄斎は声をしずめて、
「それがいやなら、二度と申すな。おまえが幻五郎にのりうつられては、婿になり手もあるまいから、それはゆるしてやる。じゃが、なお左様なことをいいつのるなら――やむを得ぬ、幻五郎、憑いてもよいぞ」
「はっ」
「ところで」
と、服部玄斎は、しずかにもういちどみなを見まわして、
「敵のいどころは知れたか」
「まだ、つきとめ得ませぬ」
「腑甲斐ない奴らよ喃《のう》」
しかし、玄斎はきゅっと笑った。もう、唇も爪も鉛色にかわっているのに、ごろごろとのどのおくで笑ったのである。ふるえる手が、つかんだ弓を徐《じよ》じょに天井にむけていった。
「敵はそこに来ておるではないか」
矢は放たれた! 矢は天井をつらぬき、屋根をつらぬいた。――と、その屋根の上で、ふいに大きな跫音《あしおと》が起ってそれから、
「おおっ、燃える矢!」
という、おどろきの声がながれた。
「不敵な奴じゃ! わ、わしの眼のみえるまに、き、きゃつの首を――む、婿になる奴は、どやつじゃ?」
と、玄斎はさけんだが、そのまま弓をばたりと投げ出し、どうと床のうえにうち伏した。
「あっ、お祖父さま……! お祖父さま!」
狂ったようにお志乃がすがりついたが、この恐るべき甲賀町の老首領は、すでに、最後の生命をつかいはたしていた。
三
お志乃ひとりをのこし、五人の忍者は、木の葉のごとく庭にはしり出ていた。
夜はあけかかっていた。蒼白い黎明《れいめい》のひかりがひろがり、その屋根の上に立っている黒い影をくっきりと浮かびあがらせていた。――例の虚無僧姿だ。実に、なんという不敵な奴か、ほんの先刻、柳沢邸で粂寺外記を斃《たお》した敵は、その足で、堂どうとこの甲賀町へ逆襲をこころみてきたのである。
吉保《よしやす》が、「甲賀町のものども――」と、呼んだ声をきいていたのであろう。いやいや、吉保に命じられた彼らが、必殺の自負のあまり、いままでとくとくと「甲賀七忍――」と名乗ったことで、敵はこの町をつきとめたに相違ない。――しかし、そのことを切歯するより、庭にはしり出た彼らが「あっ」とさけんだのは、その虚無僧が左腕にきらびやかな姫君を抱いていることであった。姫君はなかば喪神《そうしん》しているらしく、ぐったりと身体を折り、首をたれていた。
この姿で、しかし虚無僧は天蓋に手をかけて、平気で空をあおいでいるのである。明るい、快活な声で、
「ああ、きれいだなあ。火の星だ。燃える星だ!」
屋根をつらぬいた矢は、途中で発火して矢羽根を炎とかえながら、どういうからくりか、たかい空にそのまま浮遊して、落ちなかった。闇の天なら、たしかにそれは火の星とみえたであろう。
「いや、見つかったか」
ようやくふりむいて、下界を見おろして笑った。天蓋をかぶったままながら庭の五人をいちいちおぼえるようにうなずいて見まわして、
「やあ、そこの般若面《はんにやめん》をかぶった奴、その方が空蝉刑部か。その面をとって顔をみせろ」
びゅっと、うなりをたててその姿へとんでいった幾つかの黒いものがある。マキビシという、いずれの面、角度があたってもつき刺さる鉄製の武器であった。虚無僧は、ゆらゆらと水底のような動作で、しかもたくみにこれをかわしてから、
「あぶない。鮎姫につき刺さったら、どうするか」
と、さけんだ。
五人がはっとして金縛りになったとき、虚無僧は姫を抱いたまま、空にみごとな放物線をえがいて、土塀のうえにおり立った。――むろんこれは、姫とみせた角兵衛獅子のお縫が、悠太郎とタイミングをあわせて跳躍したのだが、さすがにそれを看破できぬ五人は、忍者ながら、敵のこのはなれわざには、瞳をぬかれたような思いで、しばらく土塀の下にかけよるものもない。
「これ、ただいま、うぬらの頭が申していたな。わしを討った者を棟梁にすると。五人で討っては、あとで相続争いとなるだろう。だれか、一番乗りをする奴はないか」
と、土塀の上からふと家の方をみて、
「娘御、そなただけはまともらしいな」
と、声をかけた。縁側に茫然《ぼうぜん》としてお志乃が立っていた。
「みんなきいた。こやつらの嫁にはなりたくないと? まことにもっともだと思う。そこで、一番きらいな奴を指さしてくれ。指《さ》された奴が先ずくるのだ。娘御の望みどおり、きらわれた奴から順じゅんに花婿の座から消してやろう。こぬか、こぬなら、わしはきょうはひきあげるぞ」
「待てっ」
と、五人がいっせいに殺到したとき、葵悠太郎は姫君姿のお縫を抱いたまま、塀の向うへとびおりている。
――実は悠太郎も、心中「しまった」とさけんでいたのだ。お縫を鮎姫に化けさせてこの甲賀町へやってきたとき、彼はお縫を囮《おとり》にして、何とかして一人ずつうまくおびき出そうと思案していた。おそらく今夜はじぶんの姿をもとめて狂奔していようから、五人がことごとく甲賀町にいようとは――もどってこようとは、かんがえていなかった。それが、かえってきた。まして、様子をうかがっていた屋根の上で、突如としてあんな風に見つけ出されたときは、正直なところ狼狽して、とっさに次の行動も思いつかないくらいであった。人をくったのんきな口のききかたは、どれほど怒りにもえようと、どんな危機におち入ろうと、とうていうばえぬ彼の天性であるが、しかしこの場合は、なんとかしてここをのがれようとする心算からでもあった。
疾風のごとくはしって、三人とならんではあるけぬ路地にとびこんだ。
「お縫坊、さきににげろ!」
と、つきとばして、偽姫君が風鳥のごとく向うの曲り角に姿を消すのをみてとると、
「よし、それでは花婿退治第一番!」
抜刀してふみとどまった。
そのまえへ――まるで悠太郎がそこにいないかのごとく、風をまいてとびこんできた一番目の忍者がある。悠太郎の刃が、颯然《さつぜん》としてこれを真っ向からわりつけた。
――と、その忍者は、刃でうけず、腕そのもので受けた。かん! という青銅でもたたいたような音と衝撃を感じた刹那、悠太郎の刀身は氷柱《つらら》のごとく折れくだけていた。
「あっ」
二、三歩とびずさったが、小刀をぬくいとまはない。またぬいたとて、この肉鎧になんの用をなしたであろう。――八剣民部の歯が、にゅっとむき出されて、ぐぐっとせまってきた。
「くたばれっ」
ふりおろされる刀身の下をかいくぐってその利腕をつかむ。同時に――はじめて悠太郎は、相手の腕が、鋼鉄のような皮膚に覆われていることを知った。その肉鎧のもう一方の腕が、海蛇《かいだ》のごとくのびて、悠太郎の胴にまきついた。
「むっ」
思わず、うめいて立ちすくむ。悠太郎は里見隼人の胴をくびっていた鉄環《てつかん》のあとのような傷の意味を知った。知ったが、ときすでにおそく――仁王立ちになったままの悠太郎の眼に、二番目の忍者のからだが、刃をかまえたまま、すうと水平にうかびあがるのがみえた。
鵜殿一風軒である。その鴉天狗に似た姿は黒い流れ星のごとく、いいや、その爛たる血いろの眼は、忍者町を滑走する黄泉《よみじ》の火矢のごとく。――
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敵中の薔薇
一
鉄環《てつかん》のような腕でしめつけ、葵悠太郎を文字どおり「金縛《かなしば》り」にした八剣民部が、ニヤリとした。それをめがけて、妖風のごとく空中を滑走しつつ鵜殿一風軒も、歯をむき出して凄じい笑顔になったとき。――
「あっ、たすけて――」
突然、帛《きぬ》をさくような悲鳴がながれた。
むろん、悠太郎ではない。路地のむこうから、その声がきこえると同時に、よろめきつつ駈けてくる姫君の姿がみえた。はっと、鵜殿一風軒の眼がそちらにうごいた刹那――彼のからだは泥を擦って、どうと地上におちていた。
彼の忍法「ながれ星」の業《わざ》は、たんに跳躍によって宙を飛ぶのではない。数十秒ではあるが、無重力状態になって、空に浮かぶのである。それだけに、その一瞬に、的を狙う飛箭《ひせん》の鏃《やじり》のごとき精神の集中力を要することはいうまでもない。それが――いまのさけびで、はっと動揺した瞬間――その精神統一が破れて、彼はどうと落下したのである。
「あっ。――」
八剣民部は、いまのさけびよりも、その転落した一風軒の姿に狼狽した。同時に、腕の環がゆるんで、葵悠太郎はするりとぬけ出している。
タタタタと悠太郎は七、八歩走って、どうと姫君姿のお縫とぶつかった。お縫は、じぶんから悠太郎に、しがみついて、耳もとで、
「わたしは鮎姫――わたしを盾《たて》にして!」
と、ささやくと、また、
「たすけて!」
と、金切声をはりあげた。
たおれた鵜殿一風軒をおどりこえて殺到しようとしていた空蝉刑部、寝覚《ねざめ》幻五郎、葉月の三人は、はたと足をとどめた。葵悠太郎はすでに小刀をぬいて、お縫ののどくびに擬している。
「これ、柳沢の娘を殺されてよいか?」
と、彼はいったが、このとき、悠太郎もお縫も、背に水のながれる思いであった。すでに、周囲は明るい。お縫がはたして鮎姫に化けとおせるかどうかは、きわめて疑問であった。――ところが、敵は、いっせいに動揺した。
実は、彼らはお縫の顔をはっきり知らなかったのである。というより、深夜、柳沢邸の奥庭に忽然《こつねん》とあらわれて、そのまま悠太郎にさらわれていった鮎姫の顔を、いかに夜目のきく連中とはいえ、あの際、はっきり見おぼえる余裕はなかったのだ。さいづち長屋で悠太郎に討たれた天羽七兵衛はさておき、八剣民部はいちど水戸邸のちかくでお縫をみているはずだが、あのときの角兵衛獅子姿の娘が、いまぬけぬけと姫君姿に変っているのを、あまりにも意表に出たことだから、まったく看破することができなかった。第一、彼らは、あの角兵衛獅子のことなどもはや念頭になかった。
ちらっとみて、お縫はふるい立った。
「これ、甲賀衆。はやくわたしをたすけてくれぬか。――」
と、身もだえしてさけんだものだ。
どどっと寄る忍者たちのまえから、悠太郎はお縫をひッかかえたまま、またスルスルとさがって、
「柳沢に、わしのかわりに娘の首をさし出すか!」
と、白い歯をみせた。同時に、
「わたしをのこして――」
と、お縫がささやく。
「悠太郎、卑怯だぞ!」
と、空蝉刑部が般若面のかげからうめいた。
「わしも、そう思う。実はな、おれの敵は、柳沢とうぬらだけだ。この娘は、さらってはみたものの、殺すには不憫と存じてかえしにきてやったのだが――いや、いまうぬらの業には、正直なところ胆をつぶした。あぶない、あぶない。いずれ、心がけをあらためて出なおすこととしたい。――それにつけても、これアせっかくの人質を、容易にはかえせぬなあ」
けろりとした顔でいう。――すでに、鵜殿一風軒もおきなおり、敵は五人となって、せまい路地にひしめいていた。
「罪なき童子《わらべ》すら殺戮《さつりく》するうぬらだ。この娘を煮ようが食おうが、おたがいさまだと申したいな」
「悠太郎」
と、一風軒がうめいた。
「うぬをのがせば、姫をかえすか?」
「なに?」
「姫をかえせば、うぬはひとまず見のがしてやる。姫をかえせ」
悠太郎はしばらくかんがえていたが、
「しかと、左様か?」と、うなずいた。
「それでは、うぬら、ここをうごくなよ。姫はそちらをむいて立て。――これ、一人でもうごけば姫の背に小柄《こづか》がとぶぞ」
そういって、彼は、あとずさりに悠ゆうと遠ざかっていって、凝然《ぎようぜん》と立つ五人の忍者の眼から、むこうの角で、ふっときえてしまった。同時に、地上に崩折れたお縫を葉月がかかえ、あとの四人がそのうえをおどりこえて駈けていったが、葵悠太郎の姿はすでになかった。
二
夜明けの江戸を、駿河台から牛込にはしる葵悠太郎は、しかし彼らしくもなく、惨とした顔色であった。
逆襲は失敗した。完全なる敗北だ。
織部玄左衛門、里見隼人、伴兵馬が易々《いい》として討たれたことから推《お》して、恐るべき敵であることは承知していたが、天衣無縫ともいうべき性格から、彼は少し敵を見くびりかけていたようだ。存外すらすらと、天羽七兵衛と粂寺外記を斃《たお》し得たせいもある。しかし、敵が実に容易ならぬ群れであることを、いまはじめて身を以て知ったのである。
あの全身鋼鉄となる忍者を、いかにして斬ることができるのか? あの音もなく空中を滑走してくる忍者を、どうすればふせぐことができるのか? また、あの般若面《はんにやめん》の空蝉刑部は、いつのまにやらその面と衣裳の内部を空洞化しているという。寝覚幻五郎という忍者は、瞳の魔力で第三者をおのれ同然の兇行者に変えるという。――そしてあの女忍者も、まだその術がいかなるものかしらないが、女の身であの一群に加わっているとすれば、おそらく端倪《たんげい》すべからざる業をそなえているに相違ない。
――しかし、おれは討ち果たす!
悠太郎は心に錐《きり》をうちこむ。
――たあ坊の敵《かたき》はきっと討つぞ!
彼の心をさいなんでいるのは、一敗地にまみれた無念さよりも、いかにすれば魔人のごとき彼らを斃し得るかという思案よりも、敵中にお縫をのこしてきたという一事であった。
むろん、お縫を信じている。敵はお縫を鮎姫と錯覚《さつかく》していることはうたがいを入れない。そのゆだんに乗じ、またあの身軽さを利用して、彼女はきっとにげ出してくるだろうと思う。しかし、それまでにその正体が曝露《ばくろ》しはしないか。あの巷《ちまた》の獅子舞い娘が、いつまでも将軍家側用人の姫君に化けとおせるか?
二、三度、彼は歩みをかえした。しかし――いま甲賀町へひきかえしたところで、彼女を救い出す天来の妙案はなかった。わるくすると、じぶんのみならぬ、お縫の身をも破滅におとし入れるばかりであろう。
――悠太郎は、腕ぐみをして、牛込の蓮華寺《れんげじ》の石段をのぼり、山門をくぐった。
さすがにややよろめく足どりで本堂に入っていって、見まわして、はっとした。そこの円柱にしばりつけておいたはずの、本物の鮎姫の姿がない!
ようやく一くふうついたばかりのところであったから、悠太郎は狼狽した。彼は、お縫を救い出すためには、本物の鮎姫をつかうよりほかはないという思案に達していたのである。
「――にげたか?」
愕然としてうめいたとき、うしろで泉のように若わかしい笑い声がきこえた。
「にげはしませぬ」
ふりむくと、そこに角兵衛獅子の娘が笑っていた。一瞬、お縫がもどってきたのかと錯覚したが、これは鮎姫にまぎれもない。
「縄はじぶんでときましたけれど、わたしはにげませぬ」
と、彼女はいたずらッぽくいった。悠太郎はしばらくまじまじとその姿を見ていたが、
「なぜ、にげぬ?」
「ですから、さっきいったではありませんか。わたしは甲府中納言の側妾《そばめ》になるよりあなたの奥方になることにきめたのです」
「ばかな! わしは、そなたの父の敵だぞ」
「柳沢出羽守は、わたしの父ではありません。わたしの姉が、その側妾だというだけのことです。――噂にきくと、甲府中納言さまは、学者のように四角四面なおもしろくもないお方だとのこと、とうていお鮎には合いません。そんなお方に名目だけ柳沢の娘とされ、養父の野心のいけにえとなって人形みたいに捧げられるのが、急にいやになりました。あなたをひと目みてから」
破れた屋根から黄金《きん》の縞《しま》のようにふりそそぐ朝のひかりに、例の大胆な眼が、黒い虹みたいにかがやく。
「少し、出羽守をこらしめておやりあそばせ。あのひとは、このごろ増上慢《ぞうじようまん》で、ばかな夢を見すぎています」
「たわけ、わしは、もしかしたら、斬るかもしれぬ」
鮎姫はちょっとかんがえこんだが、すぐにきっぱりと、
「何をなさろうと、女は、お嫁にゆけば、夫の心のままですわ」
「だれが、そなたを嫁にするといったか。それどころではない。――」
と、さすがの悠太郎もたじたじだ。
「縄をといたら、それでよい。そなたをゆるしてやる。柳沢へかえれ。――」
「そんな情《つれ》ないことはおっしゃらないで」
「何を申す。いやだといっても、かえってもらわねばならぬ。それも直ちに柳沢家にはかえさぬ。いちど、甲賀町へいってもらわねばならぬのだ」
「――なぜ?」
「実は、先刻の獅子舞いの娘――お縫が、甲賀町のあの化物どもの虜《とりこ》となった」
鮎姫ははじめて眼をうごかして、悠太郎のまわりを見まわした。
「なるほど、あの娘がいない。――」
「あの娘と、そなたをとりかえる。――つまり、そなたをあちらにかえす代りに、あのお縫をこちらにもどさせるのだ」
「あの娘は、あなたの何なのですか」
「まえに住んでいた長屋のとなりの娘だ」
「まさかあなたは、あの獅子舞いの娘をお嫁にするつもりはございますまいね。前将軍家の御曹子《おんぞうし》ともあろうお方が――」
「ええ、何をたわごとを申しておる。さ、もういちど、甲賀町へゆくぞ」
「いやです」
「何!」
「あの娘など、どうでもいいではありませんの。わたしこそ、あなたのおそばにふさわしい。その方が、自然ですわ」
あっけにとられ、棒立ちになっている悠太郎のまえに鮎姫はあるいてきて、その白いかいなを両肩になげかけた。
「柳沢にかえすだの、甲賀町へゆけだの、えらそうなことをおっしゃって――じぶんで縄をといたお鮎です。にげる気なら、じぶんでにげていったでしょう!」
大きな真っ黒な瞳が悠太郎の眼を吸いこみ、匂やかな息が彼のあごをくすぐった。
「虜の交換なんていやです。わたしは虜ではありません。もしむりにかえようとなさるなら、あの娘の屍骸とわたしの屍骸をおとりかえあそばせ」
悠太郎は、じぶんの方が虜になったような気がした。必死にその両腕をひきはがしつつ、
「そなたは、たったいま、わしの心のままだと申したではないか。わしのいいつけがきけぬのか!」
「あら! まあ、うれしい。それじゃあ、わたしをあなたのお嫁にしてくださいますの?」
三
――あのとき、「たすけて!」と悲鳴をあげて路地をはしってきたのは、どういうわけかときかれて、お縫――いや、甲賀の忍者にとっての鮎姫は、いったん悠太郎の手をふりきってにげたものの、むこうから刃をもった獅子舞いの娘に追いかえされたのだと説明した。どこにさらわれていたのかという問いにも、失神して柳沢邸からはこばれ、次には闇のなかで眼かくしして駕籠にのせられて、甲賀町付近でひきずりおろされたので、まったくわからない、と泣きじゃくる。
甲賀町の、玄斎屋敷の奥座敷だ。五人の忍者は輪になって、まんなかに坐っている姫君を見まもっていた。
「ところで――」
と、八剣民部が咳《せき》ばらいして、ひくい声で、
「姫。――はなはだききにくいことを承わりとうござるが――あの虚無僧めは、姫君に、なんぞ、ぶれいな所業におよびはいたしませなんだか?」
「ぶれいな所業? わ、わたしをむりにさらい、かようなむさくるしき屋敷につれこんだのが、ぶれいでのうてなに――?」
「ああいや、そのことではございませぬ。もっとぶれいな」
「とはえ?」
「姫君をお抱き申しあげるとか、それからお肌を……」
さすがにちょっと口ごもったが、そこまでいっただけで、ふいに姫の顔がぱっとあかく染まった。みんな、それをみて、はっとした。
「では、では、では――」
「素浪人め! わたしに、ぶれいなことをいたした! はずかしや、わたしはもはや甲府中納言のもとへは参れぬ。いいえ、もはや父上さまのもとへはもどれぬ!」
と、彼女は叫んで、がばとまえにひれ伏した。
五人の忍者は息をのんで、暗然たる顔を見合わせた。
吉保の恐れていたことは、不幸にも的中した。悲劇はこの姫君の身の上に起ったばかりではない。彼らは吉保の厳しい付託《ふたく》に、ついにこたえることができなかったのである。――ふしぎなことに、いままでただういういしく高貴にみえた姫君の腰のあたりが、四人の眼に一変してひどくなまめかしいものに映った。
「おいたわしや。……さりながら、そうは参りませぬ」
と、一風軒がやおらうめいた。
「これより、ただちに出羽守さまのおんもとへ、お供つかまつります」
ふいに、姫君は顔をふりあげた。愛くるしいその大きな瞳が、異様な激情の炎にもえたつようにひかって、宙に見すえられて、
「いいや、わたしはかえらぬ」
と、かぶりをふった。
「あいや。……」
「かえらぬ。かえらぬぞ」
と、彼女はだだッ子のように身をおしもんで、
「あの虚無僧めの首をみるまでは!」
と、さけんだ。みんなその凄絶なまでの語気にうたれて、はっと姫君を見まもった。――お縫は必死であった。必死なわけである。このまま柳沢の屋敷へかえされては万事休すだ。
「あの、ぶ、ぶ、ぶれいな素浪人の首を土産《みやげ》にせずば、わたしは柳沢の門はくぐらぬ。父上さまにその首みせて、わたしは自害しよう。――もし、どうあってもいまかえすというならば、わたしはここで舌かみきっても死のうぞ!」
期せずして、蓮華寺と玄斎屋敷で、ふたりの娘はおなじ言葉を吐いて、相手を鼻白ませた。――目的はちがう。お縫はこの敵中にまんまと入ったのを、かえって千載一遇《せんざいいちぐう》の好機として、みずからの手でこの忍者たちを斃《たお》そうと決意したのであった。
――けれど、いかに敵が味方と信じているとはいえ、奇幻の妖術を駆使する、これら五人の忍者が、お縫の繊手《せんしゆ》に、そうやすやすと討たれるものであろうか?
ともあれ、これを恐るべき棘《とげ》をもつ薔薇《ばら》とはまだ知らぬ五人の忍者のとまどいは、ほんものの鮎姫をもてあます葵悠太郎よりも甚だしかった。
眼と、眼と、眼が見かわされ、例の忍者特有の音波なき会話が交わされる。
――こまった姫君じゃ。ここで死なれては、処置がない。
――噂にじゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬姫とはきいておったが、やりかねぬぞ。
――とはいえ、このまま柳沢のまえへ出られぬのは、この姫ばかりではない。われわれとても同様じゃ。
――されば、あの場合、やむを得ぬとは申せ、みすみす葵悠太郎をのがし……。
――それもこの姫君をとりもどさんがためと、柳沢に一応のいいわけは立とうが、その姫君がすでに悠太郎めに犯されていたとあっては、出羽も、礼はいうまい。礼どころか、わるくすると……。
――逆上して、もはやことを隠密にはこぶ辛抱の緒がきれて、大っぴらに悠太郎狩りに出るやもしれぬ。そうなった暁には、役たたずの我われは、もはや首もあぶない。
――この姫君が望まいでも、なんとしても、いますこし心のしずまるまで、この屋敷にいてもらうのだな。そして、それこそ悠太郎の首を土産に罷《まか》り出よう。
――しかし、この姫は、もはや生娘ではなくなったか?
――もしこの姫を、いのちもぶじに、きれいなからだのままとりもどしてくれたならば、恩賞は望みにまかす。たとえ十万石の大名であろうと、大奥一の美女であろうと――と出羽は申したが、その望みもきえはてたか?
――それにしても、大奥一の美女をもらうより、この姫をもらった方がありがたいとは思わぬか?
――これ、奥に、志乃《しの》どのがおるぞ。悠太郎を討ったものに志乃をやると、玄斎老が申したが……。
――両手に花か。どっちをえらぶ? これはこまった。……
すっと、急にふきげんな顔で、葉月が立った。とめどもなく、不敵な会話をかわしていた四人の男は、ふいにはっとわれにかえってそのうしろ姿を見おくったが、ニヤリとうす笑いをうかべ、いっせいにお縫のまえに平伏した。
「お言葉、ごもっともに存じまする。ご心中お察しつかまつる。……さらば、葵悠太郎の首、かならずとってご覧に入れますれば、それまでなにとぞここにおとどまりねがいたく。……」
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鎧をぬぐ忍者
一
お縫は、玄斎《げんさい》屋敷で、一日をすごした。
まひるなのに、玄斎屋敷は、夜のごとくしずかであった。いや、甲賀町そのものが、無人の町のようにひっそりとしている。ただ、屋敷のどこかで、鉋《かんな》や鑿《のみ》の音が、終日ひびいていたが、人間の声というものはまったくきこえなかった。
お縫は、五人の忍者がどこかへ去ったあと、ひとりの女をつけられた。おん身の回りのお始末を遠慮なく申しつけられたい、といわれてつけられた大女の下女である。その女に、お縫はきいた。
「さっきここにいた五人の男女は、どこにいる?」
下女はだまっている。大きなからだに似ぬ小さな陰気な眼で、お縫の顔を見まもっているばかりだ。
「あの鉋や鑿の音が左様か。何をしておる?」
下女は、依然として沈黙して、遅鈍《ちどん》な表情をむけている。
「これ、なぜ返事をせぬ?」
下女はじぶんの口を指さして、奇妙なうなり声をもらした。お縫は眼をぱちぱちさせて、しばらくその顔をながめていて、
「唖《おし》か?」
とつぶやいた。これでは、何をきいてもしようがない。
もとよりお縫は、弟の敵、甲賀の忍者を討とうとかんがえて、あえてこの屋敷にのりこんだ。ここが甲賀町で、その首領の服部玄斎の屋敷であることも、葵悠太郎とともに忍びこむときにつきとめていた。そして、玄斎が瀕死《ひんし》の床についていたことも、ひとりの娘がいることも、屋根のうえで知った。――どこからか、香の匂いがながれてくるところをみると、玄斎はついに死んだのであろうか。それにしては、ふしぎなことがある。首領が死んだというのに、この屋敷にはそれらしいざわめきがちっともない。五人の忍者はもとより、あの娘も、全然姿をみせないのである。
ちょっと手洗いに立っても、唖の下女はうっそりとついてきた。叱りつけても、耳のないような顔をしている。監視されているのだ、と気がつくと、ひょっとしたらじぶんの正体がわかったのではないか――と、お縫はどきっとした。じりじりしながら、その日はむなしく暮れた。――
日が暮れてから、彼女は遠くで女のさけび声をきいた。
「あれは何じゃ?」
と、お縫は耳をそばだてたが、下女は、あいかわらず黙然としている。
お縫は二度ときかなかったが、次第に、五人の忍者を討つこともわすれるほどの好奇心にかられてきた。いったい、この屋敷で、何が起っているのか?
――その夜明け方、彼女はしずかに身を起した。座敷の入口に、例の下女は小山のごとく坐っているが、さすがに首をたれてまどろんでいる様子である。お縫は音もなく、外へしのび出た。玄斎屋敷につかわれるほどの女なら、やはりこの甲賀町の生れで、忍法の手ほどきくらいは受けているのだろうが、この姫君が、まさか軽業《かるわざ》できたえた獅子舞いの娘とは知らないから、不覚に油断をしたらしい。
下駄をつっかけて、庭に出る。夜明けなのに、土にあたたかみが感じられたところをみると、雪がきえて、大地に早春の脈がうちはじめたのであろう。――お縫は、きのうのひるま、鑿や鉋の音のきこえた方角へ、そっとあるいていった。
ほとんど床下のない、しかもひどく軒のたかい屋敷である。――ちょうど、きのうの夜明け前、じぶんと悠太郎がひそんでいた屋根の下にあたる座敷であった。庭に面して、その座敷に、思いがけなく格子がみえた。その木肌の白さと、木の匂いから、お縫は、それがきのうの工事の音の結果であることを知った。
そのまえに立って、そっとのぞきこむと、なかの薄闇で、白い顔をあげたものがある。そして、向うから、しのびやかに声をかけてきた。
「柳沢さまの、姫君でいらっしゃいますね?」
「そなたは……だれじゃ」
「この屋敷のあとつぎの娘です」
――ではあの娘か? お縫はめんくらった。
「鮎姫さま……と、申されるとか。鮎姫さま、夜があけましたら、お屋敷におかえりあそばせ。ここは、ふつうのお方の住んでよいところではありませぬ」
「そなた、この屋敷の娘が、どうしてこんな牢のなかに?」
それでは、昨夜きいた女のさけび声は、この娘がここに入れられるときにあげた悲鳴だったのであろうか。
――夕顔のような影はいった。
「わたしがこの屋敷をにげ出そうとしたからです」
「なぜ?」
「わたしは、この忍者町がきらいだからです。きのう死んだ祖父が、わたしの婿になるようにいいのこした四人の男の、だれの花嫁になるのもいやだからです。……でも、それがどんなにいやかは、この町にお育ちにならないあなたには、おわかりにならないでしょう……」
「けれど、それがどんなにいやでも、そなたをこの牢のなかに入れることはあるまいに」
「じぶんの花嫁になるかもしれぬ女――頭《かしら》の娘でも、頭が死んだとあれば、このように冷酷無惨《れいこくむざん》なまねをして、ふしぎにも思わない男たちなのです。目的のためには手段をえらばないのが、この町のものどもの習い――」
「…………」
「それにしても、わたしを急にこんなところに押しこんだのには、三つの理由があるのです。一つは、わたしがにげ出すのをふせぐため、二つは、その四人の男が葵悠太郎を討つまで、わたしに手を出すまいとおたがいに勝手な約束をかわしたため――葵悠太郎を討ったものがわたしの婿になると、祖父がいいのこしたからです――三つめは、その祖父の死んだことを、公儀《こうぎ》はおろか、この甲賀町の人びとにも知らせまいとするためです」
「なぜ?」
「わたしの婿になる――つまり、この服部家のあとをつぐという届けといっしょに、祖父の死をとどける必要があるからです。……あなたは、あの葵悠太郎とやらいう虚無僧にさらわれて、つらい目におあいなされましたでしょう。それでわたしがこんなことを申してはお腹立ちかもしれませんが、わたしはあの虚無僧が討たれないことを祈っているのです。それどころか――」
彼女は自棄的《じきてき》な冷たい笑いをもらした。
「あの虚無僧は、わたしの望みどおり、四人の男を順じゅんに花婿の座から消してやろう、と申しました。あのさわやかな声が耳にのこっています。ああ、ほんとうにあの四人の男が、この世から消え去ればいい! そうでなければ、わたしはとうてい忍者町のきずなからにげられそうにない!」
お縫は、じっとお志乃の顔をみつめた。声をひそめるために格子のすぐ内側に寄ってきた娘の面輪《おもわ》は、おぼろにさびしく、みるからに哀れをそそる。――それから、座敷の中を見まわした。この格子を組んだ庭むきの側をのぞき、二方は壁、一方の襖《ふすま》のあったらしい部分には、厚い板戸が打ちつけてある。座敷のなかには、夜具をのぞいて、何もなかった。ただ一点、その夜具に蒼白い小さな光が浮いているのを、天井からふる残月の光と気づくまでに、やや時間がかかった。
「その五人は、どこにいる?」
と、お縫はきいた。
「四人は、たしか今夜も、葵悠太郎を探して、四方に散っているはずです。ひとりは、わたしの見張りもかねて、この屋敷にのこっているはずですが――」
「それは?」
「今夜は、八剣民部という男がのこっているはずです。でも、こんなことを姫君に申しても、何にもならないわ。鮎姫さま、すぐに、おかえりなさいませ」
「いや、わたしはかえらぬ」
と、お縫はいった。
「けれど、そなたは、にがしてあげよう」
「えっ――そ、そんな!」
と、お志乃は息をのんで、
「そんなことをなすったら、あの五人が――」
「あの五人がなんじゃ。わたしは柳沢の娘じゃ」
「鮎姫さま、なぜ、あなたは――」
「わたしは、そなたが可哀そうになった。ただ、それだけ――」
というと、お縫はいきなりふところから懐剣をぬいて、錠のあたりをけずりはじめた。そのとき、お志乃が、名状しがたいさけびをあげた。
「あっ、鮎姫さま、いけませぬ!」
お縫は気がつかない。
「そなた、ここを出たら、牛込|軽子坂《かるこざか》の蓮華寺《れんげじ》という寺にいってな、そこにおる葵悠太郎に――鮎姫はぶじじゃ、しばらくだまって見ているようにと、つたえてたも」
格子にうつるじぶんの影とかさなって、もうひとつの影がうつったのを見たのはそのときだ。ふりむいて、棒立ちになった。
そこに、八剣民部がうっそりと立っていた。
「姫……妙なことをあそばすな」
お縫は、いきなり相手の胸に懐剣をつき刺した。――と、するどい金属的な音が反響して、懐剣は地にはねおちた。
民部はニヤリとして、いきなり、縁側のそばの手洗鉢《ちようずばち》をなぐりつけた。はだかの腕で打ったのに、その石の鉢がまっぷたつに割れた。
「おれのからだに、刃物のたつわけはござらぬ。まず、このとおり」
お縫は、眼をひらいたまま、息もできなかった。
二
「柳沢家のじゃじゃ馬姫とは評判にきいておったが、かようなむちゃをあそばそうとは思わなんだ。……なんのために、この娘をここから出そうとなさる?」
と、民部はいった。言葉は一応|鄭重《ていちよう》だが、眼はぶしつけに――爛《らん》らんとひかって、お縫を見すえている。恐怖と怒りのために、お縫はぶるぶると、ふるえた。
「こちらこそききたい。そなたらは、なにゆえに、頭《かしら》の娘をかようなところへおしこめた?」
「拙者ども……出羽守さまのお申しつけはかしこまって承わりますが、出羽守さまとても、甲賀町の掟《おきて》には、お口出しをお断りいたしております」
「ぶれいな!」
と、お縫はさけんだ。じぶんの正体を見破られないのが、せめてもの倖いであった。こうなれば、かさにかかって、高びしゃにおさえつけるよりほかに、にげみちはない。
「そなたの申し分、きっと父上さまにつたえましょう。きょうにも、わたしは神田橋の屋敷にたちかえって――」
民部は、急に狼狽《ろうばい》した。その告げ口はともかく、いま姫にかえられては、少々こまるのである。
「姫、甲賀町の私事はさておき、うかがいたいことがござる。ただいま、姫は妙なことを仰せられた。――牛込軽子坂の蓮華寺の葵悠太郎とか――」
お縫は、蝋のような顔色に変っていた。
「葵悠太郎がそこにおると申されるかっ」
水牛の吼《ほ》えるような声である。お縫の全身を、おしひしぐような眼光でみすえていたが、
「女というものは――ふむ」
と、世にもきみわるい笑顔になった。
「姫……ひょっとしたら、姫は悠太郎におん肌をゆるされて、お父上をうらぎるようなお心におなりあそばしたのではないか?」
「ぶ、ぶれいもの!」
と、お縫はいったきり、あとはあえぐばかりである。
そのとき、庭の向うから、「あ、あ、あ」と妙なさけび声がきこえて、あの下女がはしってきた。やっと眼がさめて、鮎姫の姿がみえないことに気がついたらしいのである。
「不覚者め」
と、八剣民部はしかりつけた。それから、お縫と牢格子の中のお志乃とを見くらべていたが、ちょっと思案ののち、
「これ、姫君を向うへおつれ申せ。二度と気ままなおんふるまいは、かたくおとめ申しあげるのだぞ」
と、あごをしゃくった。
下女はふるえながら、鮎姫の手をつかんだ。女民部ではないか、と思われるような手の力に、お縫は身をのけぞらせた。
なかば抱きすくめて、そのからだを庭のむこうへひきずってゆく下女の姿を見おくってから、民部は格子の錠をはずして、中に入った。
お縫は死物狂いにあばれたが、大きな下女は、「あ、あ、あ」とうめきながら、かるがるとはこんでゆく。――このままでは、決してぶじにすみそうもない。じぶんも、あの志乃もそうだが、何より、「葵悠太郎は牛込軽子坂の蓮華寺――」という言葉をきかれたことこそ一大事、彼女の心臓はいまにもひきつけそうに早鐘をうった。
「――あっ、民部っ」
うしろで、お志乃の悲鳴がきこえた。
下女が立ちどまり、どういう心理か、ニタリと笑った。その手が、顔といっしょにちょっとゆるんだとたん、お縫はするりとぬけ出した。「あ、あ」と、驚愕して下女は抱きとめようとしたが――お縫は下へすべりおちたのではなく、下女の肩に両手をかけて、すいと上へ浮きあがったのである。
と、みるまに――彼女は下女の両肩の上に立った。その下駄をはいた足が、かっと下女の鼻ばしらを蹴ると姫君姿の華麗《かれい》な姿は、蒼い夜明けの空に五彩の虹をひいて屋根へとんでいた。
あたまを蹴ったのは跳躍のためだが、はずみというものはおそろしいもので、脳震盪《のうしんとう》でも起したとみえて、下女は地ひびきたてて崩折れて、そのまま地べたにうごかなくなった。
三
「民部!」
と、お志乃はさけんだ。
座敷牢に入ってきた八剣民部に、むずと手をつかまれたのである。つかまれた手は、そのまましびれてしまった。ただ、黒い眼だけが怒りにもえて、青銅の牛みたいな男の顔をにらみつけた。
「何をする?」
「この場で、わしの女房になっていただこう」
と、民部はいった。お志乃の眼もおそれず、もう一方の手で、ぐいと彼女の襟をひきむしると、きものはまるで紙のように胴のあたりまでむしりとられてしまった。怒りと恥に胴をうねらせつつ、
「たわけ、お祖父《じじ》さまのなきがらは、まだこの家にあるというのに――」
「左様、玄斎老人は亡くなられた。もはや、この世にない」
民部はあざ笑って、むき出しになったお志乃の乳房をピンと指ではじいた。まるで、鉄のばねではじかれたような痛みに、彼女はのけぞりかえったが、民部の手は万力《まんりき》みたいに白いうででくびをしめつけたままだ。
ついに、おそれていたことがやってきた。――と、お志乃は恐怖に歯ぎしりして、
「民部! お祖父《じじ》さまのご遺言をわすれたか。ほかの三人との約束を忘れたか。葵悠太郎を討ったものでなくては、わたしを女房にはできぬぞ」
「悠太郎は、牛込軽子坂の蓮華寺におる。――これより参って、討ち果たします」
「ならば、まず、討っておいで――」
「それがな」
と、彼はうす笑いをうかべた。
「これからわしが出かけると、そのあとに寝覚幻五郎がかえってくることになっておるのです。そなたの見張りにな。実は、昨晩から、そのことを案じていたのだが、あれがお志乃さまに何をすることやら、少なからず心もとない。――ふっと、あれがそなたに憑《つ》きでもしたら――あとでわしが悠太郎を討ってもどっても、すべてはあとのまつりとなる。あの男は、それくらいのことはやりかねぬ男です。それより、どうせわしの女房にするなら、いまのうちにわしがさきに憑いておこう」
「おまえが、わたしに憑く!」
「ふふふふ。いまの姫君の様子こそいぶかしい。思うに、あれは悠太郎めに憑かれなされたのじゃ。女はな、いちど男に肌をゆるしたら、その男の虜《とりこ》となる。つまりその男に憑かれてしまう。――と、いま、はたと思いあたったのじゃ。お志乃どの、花婿がいくさの門出、処女《おとめ》をわしにささげてくれい。わしの女房とことが決着したあとは、こんな格子、たちまちわしが、麻幹《おがら》のようにへし折ってくれる」
「いや、いや、いやじゃ、そこはなして!」
と、お志乃は片手で必死に民部をおしのけたが、相手は鉄であった。
彼は、まるで蝋細工《ろうざいく》の人形でもあつかうように、お志乃の手足を一本ずつ、夜具の上におさえつけた。刻こくと明るくなってゆく暁のひかりに、まっしろな女体が大の字に縫いつけられた。
すでになかば気を失いつつ、お志乃は、「いたい、いたい」と、うめいた。そのうえにのしかかりながら、「やあ、これはすまぬ。花嫁を抱くのに、肉鎧《にくよろい》をつけたままとは、われながら無風流のきわみ――」
と、民部は笑った。かぶさったそのからだの皮膚が、みるみる青銅の光沢をうしなって、ふつうの人間の色にかわっていった。そして、別人のごとく柔軟に、お志乃の両わきから手をいれてすくいあげるようにして、重なっていった刹那――真上から垂直に落下してきた一閃の光芒《こうぼう》が、その左の背をぷすっとつらぬいた。
「がおっ」
そんな異様なさけびとともに民部ははねあがって、仁王立ちになった。背から心臓へ、ひとふりの懐剣が、みごとにつき刺さっていたのである。
かすかに手がうごいて、背へまわろうとした。が、たとえ手をのばしたところで、一瞬、鉄と化した背の皮膚と筋肉は、みずから刃《やいば》をしめつけて、容易にはなしはしなかったであろう。
彼の眼はかっとむき出されて、天井と屋根をつらぬくひとすじの穴からのぞいている黒い眼をにらんだ。その穴は、きのうの夜明け方、服部玄斎が射あげた黄泉《よみじ》の火矢のあとであった。その眼を、あの鮎姫のものと知ったかどうか――次の瞬間、格子をまさに麻幹《おがら》のようにへし折りつつ、彼はどうとうちたおれていた。
女と交わるという、いかなる男も柔軟なからだにならずにはいられない一瞬、みずから肉鎧をぬいだ刹那に、さすがの鉄人八剣民部も、尺に足らぬ懐剣で屠り去られたのである。
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変 身
一
お志乃ははね起きて、茫然と八剣民部の屍骸を見おろした。
うつ伏せになった民部の背に、柄まで短刀がつき刺さっている。――それがどこから飛んできたか、何者が投げたのか、という疑いよりも、彼女にとって、民部の背に刃物がつき立っているということが、信じられない事実であった。しかし、民部の青銅色の指は、虚空《こくう》をつかんで、もはやピクリともうごかない。
にげるのもわすれ、まるはだかにちかい姿なのも忘れて、眼を見ひらいたまま立ちすくんでいるお志乃のまえに、そのときさっと五彩の虹がながれた。屋根から庭へとびおりてきたもの――それがさっきの鮎姫だと知って、お志乃はさらに夢でもみているような表情になった。
鮎姫はそのお志乃には眼もくれず、つかつかと縁側に上ってきて、格子をへし折ったまま倒れている八剣民部を、じっと見つめた。
「おぼえたか、悪鬼の眷属《けんぞく》」
と、さけんで、たもとからとり出したのは、一輪の赤い葵の花であった。彼女はそれを民部の背なかに投げつけた。
お志乃は、はっとした。葵悠太郎に斃された天羽七兵衛と粂寺外記の屍骸に、葵の花がのせられてあった、ということをきいていたからだ。しかし鮎姫は――お縫は、お志乃がどう思おうと、意に介せぬ風にみえた。彼女は、歓喜にわれを忘れていた。この花は、雪の夜、かじかむ手で丹吉といっしょにつくった花だ。丹吉の幼い魂を弔《とむら》うため、彼女はそれを敵の屍体に投げつけずにはいられなかった。
「姫さま。……」
やっと、お志乃はそう呼んだ。お縫はわれにかえった。ふりむいて、
「逃げな」
といって、ニッコリした。
「え?」
「おまえさん、さっきこの町からにげ出したいといったろ? はやく、逃けなよ」
お志乃は、この鮎姫の言葉づかいには、あっけにとられた。――これが柳沢出羽守さまの姫君の言葉であってよかろうか?
「ちがうよ」
と、お縫は、お志乃の顔色を読んで、くびをよこにふった。
「この花と、いま屋根からとんだ姿をみられては、これ以上化けることもできないわね。わたしは、葵悠太郎さまの仲間、お縫っていう娘なのさ。商売は、越後獅子」
「…………」
「わたしの弟は、天羽七兵衛に殺された。そのときから、わたしは悠太郎さまといっしょに、甲賀七忍をみんな殺すと弟の魂に誓ったのよ。ほんとうは、この甲賀町の奴らみんなを殺してもあき足りないほどだけれど、敵は柳沢出羽守と甲賀七忍だけにかぎっておけ、あと、罪もない人びとに殺生はするな、と悠太郎さまがおっしゃったから、わたしはおまえを殺しはしない。……それどころか、おまえさんが可哀そうで、思いがけなく好きになってしまったわ。……」
「…………」
「だから、おにげ。そして悠太郎さまのところへいって、わたしが八剣民部をやっつけた、といっておくれ」
しだいに、お志乃の顔に、苦悶の色がうかんできた。
彼女は、ほんとうにこの怪奇で陰惨《いんさん》な町を捨てたかった。祖父の命じた花婿たるべき男たちの、だれの妻になるにしても、想像するだけでも胸が真っ黒になるほどいとわしかった。その悶えのあまり、彼女は自棄《じき》的にそのことを鮎姫に告白した。しかし、それはこの座敷牢からぶじに出られそうもないことを自覚し、また相手をじぶんには無縁の天上の花と思えばこそのことで、一種の、独白といってしかるべきものであった。――けれど、これは鮎姫ではない! この甲賀町の精鋭、祖父玄斎秘蔵の七忍の敵、葵悠太郎の一味の娘だ!
「にげないの!」
お縫は、けげんそうだ。彼女は単純である。――夜はまったく明けはなれていた。
「いまにげないと、いつまでもにげられないよ」
まさに、そのとおりだ。しかし、なお、お志乃は躊躇《ちゆうちよ》した。――さすがにお縫は、はっと眼をひからせて、
「あっ、さては、おまえはやっぱりこの忍者町の娘だな。にげないで、わたしのことを、ほかの連中に告げるつもりなの?」
「いいえ、そんなことは!」
と、お志乃はくびをふった。この娘がだれであろうと、彼女もまたこの相手にいだいた好意はもはや消えなかった。越後獅子の娘――けれど、なんという碧空《あおぞら》のように澄んで生き生きした瞳だろう――彼女はふとこの娘と姉妹みたいになって獅子舞いの旅をしているじぶんを夢みた。そこにこそ、じぶんの生きる道はあるのではないか?
「にげます」
と、お志乃はうなずいて、
「あなたは?」
「あたしは、のこる」
「えっ?」
「あたしはまだここにいて、あと残り四人を殺す。たとえ、あたしが殺されようと」
と、お縫はそう、うそぶいた。――実に壮絶なる決意だが、しかしお縫は、まんまと恐ろしい敵の一人をしとめて、少々甲賀町の忍者を見下していたのである。
「いいえ、それはあぶない」
「あぶないのをこわがっていて、こんなことができると思うの?」
と、お縫は昂然《こうぜん》と、八剣民部の屍骸に愛くるしいあごをしゃくった。お志乃はくびをふって、
「それは――なぜ、民部のからだに刃物が刺さったのか。わたしにもわからない――わたしがわからないほど、これはふしぎなことなのです。こんなことが、あとの連中にも通用する、と思ったら、たいへんなまちがいだわ。あなた、いまのうちにわたしといっしょににげましょう」
「いやだ」
と、お縫はかぶりをふる。お志乃はその袖をつかんで、
「ね、ね、わたしひとりではにげられない。――」
と、ひいたとき、庭の方で、
「あ、あ、あ」という、奇妙な声とともに、重い跫音《あしおと》がひびいてきた。
はっとしてふりかえったが、もうおそい。さっきお縫にあたまを蹴られて気絶していた唖の下女が、やっとよみがえったとみえて、阿修羅《あしゆら》のごとくかけつけてきたのである。
彼女はかけつけて、破れた格子と、たおれている八剣民部を見て、また怪鳥《かいちよう》みたいなさけび声をあげ、むずと、お縫の腕をつかんだ。
「無礼者!」
と、お縫はふたたび鮎姫にもどった。下女はかっと眼をむいて、民部の屍骸を指さして、また、「あ、あ、あ、」とさけんだ。
「これか? これはわたしにけしからぬ振舞いをしたゆえ、無礼討ちにしたのじゃ。おまえも同様。――」
と、お縫はつかまれた手くびのいたみに顔をゆがめて、
「これ、この手をはなせ。柳沢出羽守の娘ともあろうものに、そちのごとき下賤《げせん》のものが手をふれるさえけがらわしいに、先刻より重ね重ね無礼な奴。――」
と、無礼を乱発したが、この小山のごとき唖女には、全然通じない。
それどころか、「先刻より重ね重ねの無礼」といわれて、あたまを蹴られたことを思い出したとみえて、こんどは、断じてすりぬけられないように大力無双の腕に抱きすくめて、また荒あらしくひきたてようとしたとき――その下女が、さっきの八剣民部同様、
「がおっ」
と、いうような咆哮《ほうこう》をあげた。その背に懐剣をつきたてて、お志乃は眼をつむっていた。地ひびきたててたおれた唖女から、お縫は茫然たる眼をお志乃にうつした。お志乃は、なお眼をとじて、その頬に涙があふれおちた。
「ああ……わたしは、とうとう……」
と、つぶやくと、その手から懐剣がおちた。――とうとう味方の、屋敷の召使いを殺してしまった。彼女は、名実ともに、甲賀町の裏切者になりはてたのだ。
「お縫さん、にげなさい」
「おまえさん……何をいうの?」
「わたしは死にたい。……」
というと、彼女はへたへたと崩折《くずお》れた。
その肩に手をかけようとして、お縫は、ふとまた庭のむこうに物音をきいて、顔をそちらにむけた。
そこに六部姿の男が立っていた。
二
寝覚幻五郎である。
民部が、朝になったら幻五郎と交替するといっていたが、そのとおり、お志乃がためらっていたばかりに、ついにふたりとも脱出は不可能となったのだ。
「お志乃さん、もうにげられないわ」
と、お縫はつぶやいた。お志乃は顔をあげて、唇の色まで失ったが、ひくい声で、
「お縫さんあの男の眼に気をつけて――あれが妙な眼になったら、眼を合わせては、あの男にとり憑《つ》かれます」
と、ささやいた。そして懐剣を背に立ちあがって、
「こうなったら、わたしだけ悠太郎さまのところへゆきます。そして、あなたのことを話します。――」
「でも、いまあなたが、この下女を殺したところを見られたわ」
「にげられる方法があるの。わたしはあの男にとり憑かれたまねをして、そしてこの屋敷を出てゆきます。歯をくいしばって、あの憑きものとたたかって――」
すでにこのとき、寝覚幻五郎はながれるように庭をつっきっていた。縁側に音もなくおどりあがると、冷たい一つの眼で惨澹たる座敷牢の中の光景を見まわした。
「お志乃どの、これはどうしたことです」
と、いった。
「わたしが殺した」
と、お志乃は、はっきりといった。
「それは、いま見た。――しかし、民部も?」
「左様」
「なぜ?」
「民部はわたしを犯したうえ、鮎姫さまにも無礼なふるまいに出ようとしたゆえ」
隻眼《せきがん》が、ちょっと動揺した。たしかにそれくらいのことはやりかねぬ民部だったからだ。
「民部が、あなたを犯した。……」
瞳のおくに、めらっと濁《にご》った炎がもえた。
「幻五郎どの、それでもわたしを責めやるかえ?」
「いや。……」
「それをこの女めが、鮎姫さまの仕業とかんちがいして、手籠《てご》めにしようとするゆえ、姫に代って、わたしが成敗《せいばい》したのじゃ」
幻五郎はだまって、きものがひきちぎられて、むごたらしいまでの姿となったお志乃を見すえ、それから民部の屍骸に眼を落して、
「あの花は、なんでござる?」
お志乃は絶句した。寝覚幻五郎はぐるりとまわりを見まわして、
「葵悠太郎がきたのでは、ありませぬか?」
「…………」
「そうでなくては、民部ほどの男が、殺されるわけがない。きゃつとしても、いかにして民部を殺し得たかわからぬが、すくなくともお志乃どのに民部が殺せるわけがない。――それにしても、なぜあなたがそれをかくし、また下女を殺したのか、なんともいぶかしさの限りだ」
「…………」
「あなたは以前から、甲賀町の根性にうつろなふしがあった。玄斎老の孫娘でありながら、その血に叛《そむ》こうとさえなされたこともあった。首領のお孫を信頼できぬとは残念だ。――まさかわれわれをおきらいなさるあまりに、敵に内通はなさるまいな?」
「…………」
「鮎姫さまどうでござる。いったい、なにごとがおこったのか、申しきかせられたい。――」
と、幻五郎がお縫の顔をのぞきこんだとき――お志乃はいきなり、懐剣を背から閃めかして、突きかかった。
寝覚幻五郎は、顔をお縫にむけたまま、背中に眼があるように、そのうでくびをつかんだ。それから、ゆっくりと首をねじむけた。
「いよいよもって、奇怪至極」
と、つぶやいて、
「お志乃どの、お祖父さまのお遺言をお忘れになりはいたすまい。――甲賀の血に叛くようなふるまいあれば、幻五郎、志乃に憑いてやるがよい、と。――」
「あっ、幻五郎」
と、お志乃は顔をそむけようとしたが、幻五郎は立ったまま、お志乃の両わきから手を入れて、乳房もつぶれるばかりにのしかかって、
「そのときがきたようでござる」
と、お志乃の顔のにげる方へ、隻眼の顔を追わせた。
「甲賀の魂をのりうつらせて、不審の条々をあきらかにしたい。――お志乃どの、ゆるされいよ」
三
ひとめでもちらっと見た刹那――幻五郎が憑く気になってにらんだとき、よほど精神力強大な人間でないと、その瞳孔のなかへ、だれも吸いこまれてしまう。一瞬、脳髄が熱い泥みたいに煮えくりかえり、数秒――数十秒のあいだに、被術者の個性は蒸発して、ふたたび脳髄がかたまったときは、全然、術者の幻五郎そのものに変化してしまっているのだ。
まして、お志乃が幻五郎に憑かれることは予定の行為であった。あえて彼の術中におちたとみせかけて、その術の虜とならず、彼をあざむくよりほかに、この恐るべき忍者からのがれるみちのないことは、だれよりもお志乃自身がよく知っていたのだ。
お志乃は弓なりにそりかえり、幻五郎はそれをひっ抱えたまま、のしかかり、二人の顔はすれすれにくっつきあうばかりに――そのまま数秒がたち――十数秒がたった。
お縫は眼をまるくして、この奇怪なふたりの姿態を見つめたままであった。「幻五郎憑き」――弟の丹吉が水戸街道で目撃したという、そのふしぎな忍法は、甲賀七忍のあやつる術のなかで、彼女にとって最も信じがたい、そして、最も好奇心をそそるものの第一といってよかった。好奇心というとすこし語弊があるが、獅子舞いの娘らしくひどく無鉄砲なところのある彼女は、悠太郎がおそれ、お志乃が警告するほどにその眼術をおそれてはいなかったのである。というより、丹吉を殺されて以来、彼女は恐怖という感情を忘れていたのである。それに、お志乃は、幻五郎に憑かれたとみせてこの屋敷をのがれ、悠太郎さまのところへ連絡にゆくという。――好奇心と期待とで、彼女はまじまじとこのなりゆきを見まもったが、いま、眼と眼をあわせたふたりの姿をみたとき、思わず全身がしばりつけられたようになってしまった。ふたりの眼のあいだに交流する幻の火花はもとよりみえなかったが、術をかけようとする男と、それに抵抗しようとする女の凄愴《せいそう》な雰囲気は、お縫をはじめて恐怖の感情でおさえつけずにはおかなかったのである。
数十秒がたった。寝覚幻五郎が、すうと身をはなした。隻眼から放射されていた異様な光芒《こうぼう》がきえ、うす笑いが漂《ただよ》っている。
お志乃は糸にひかれるように上半身を起して、仁王立ちになっていた。白蝋のように白く、しなしなとかぼそい美しい娘が、きものはズタズタに裂けて、胸も腹もふともももまる出しになって、しかもその全身にぞっとするような精悍《せいかん》の気がみなぎっているのが奇怪であった。そして、片眼を糸のようにつむっている。――
「甲賀の魂が入った」
と、幻五郎がいった。
「甲賀の魂が入った」
と、お志乃がこたえた。その声までが、気のせいか寝覚幻五郎に似て、しゃがれていた。――そして、首をゆっくりとまわして、じっとお縫を見つめた。その眼をみたとたん――さすがのお縫が、水をあびせられたようなきもちになった。これが、あの哀れで、かなしげな娘の眼とおなじであろうか。それは面《おもて》もむけられないほど兇《まが》まがしい殺気にかがやく恐ろしい眼であった。
はっとしてお縫が立ちあがったとき、お志乃は、しゃがれ声で呼びかけたのである。
「これ、獅子舞いの娘」
「なにっ」
と、愕然としたのは、寝覚幻五郎であった。お志乃はそろそろとお縫のそばへちかづきながら、
「怨敵《おんてき》葵悠太郎の眷属《けんぞく》――よう不敵にも、鮎姫さまに化けてこの甲賀町へしのび入ったの。二度と、生きて出るつもりはあるまい喃《のう》……」
ああ、お志乃は寝覚幻五郎の妖術をふせぐことはついにできなかった。精魂こめた抵抗も空しく、いまや彼女が恐るべき兇念の所有者となったことは明らかであった。
幻五郎は、お縫の顔を見すえて、ニヤリと笑った。
「そうか、それで読めた!」
と、うなるようにさけんだのである。スラリと戒刀をひきぬいて、
「娘、いま、きいたとおりだ。覚悟はよいな?」
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女 怪
一
お縫は、顔をあげて、幻五郎のさしつけた刀身のきっさきを見つめた。黒い眼をいッぱいに見ひらき、口をぽかんとあけて――無惨《むざん》なばかりの恐怖の表情だ。
彼女としては、じぶんの素姓があばかれたことより、その刀より、お志乃の「変身」に愕然《がくぜん》とした。あれほどかたい約束をしたのに、お志乃はじぶんの正体を幻五郎に告げてしまった。むろん、これが、幻五郎に憑かれたとみせる擬態《ぎたい》であろう道理がない。あの日蔭の花のような娘は、忽然《こつねん》として敵にまわったのだ。
お志乃が敵にまわった――そのことは、お縫にとって、彼女自身のいのちよりも、蓮華寺の悠太郎にとって、ほかのどの忍者よりも危険な予感がした。
――逃げねばならぬ!
心にこのさけびが、早鐘のように鳴っていた。じぶんのいのちのためではない。彼女は「七忍」のうちのだれでも、ひとりでも多く斃《たお》すことができたならば、じぶんがどんな目にあおうとかまわないと覚悟はしていた。しかし、事態は急変したのである。
――この娘も敵にまわったことを、悠太郎さまに告げにゆかねばならぬ!
眼を見ひらき、唇をあけたまま、お縫はじりじりと身をすさらせた。幻五郎はその距離だけ間をつめつつ、
――きのうの朝、大奥一の美女をもらうより、この姫をもらった方がありがたいなどと申した奴はどやつだったっけ? これが獅子舞いの娘と知ったら、さぞ眼をむくだろう。
――と、かんがえて、ニンマリとした。もはや獲物を前肢でつかんだ猛獣の心理だ。
――しかし、越後獅子にしては、できすぎている。上玉だ。殺すには惜しいが……しかし、これから蓮華寺に葵悠太郎を討ち果たしにゆくいま、そうだ、うかうかと遊んではおられぬ!
さっとその表情が兇相《きようそう》にかわると、
「娘っ、にげられると思うなよ!」
猛然と刃をふりかざした。いつのまにか、お縫はあとずさりに縁側までさがっていたのである。
「あとがないぞ!」
わめきつつ、袈裟《けさ》がけに斬りつけた。お縫はのけぞった。縁側についた足から、全身があおむけに四十五度の角度で庭へたおれた。――とみるまに、その角度でうしろざまに、裳裾《もすそ》をひいて三メートルも宙にとんだ。
「こやつ!」
幻五郎の歯が、かっとむき出された。獅子舞いの娘とはきいたが、眼前の姫君姿にふと幻惑《げんわく》されて、彼女にこのアクロバットの妙技があろうとは思いもかけなかったのだ。とはいえ、俊敏きわまる忍者の刀術、ひらめくように燕がえしに反転した戒刀《かいとう》は、銀蛇のごとく宙にとぶお縫を追う。
その剣尖に、ぱっと赤いものが散った。一瞬、血と錯覚して、刀の速度がゆるんだ。――赤いものは地におちた。それは六、七輪の葵の花であった。斬りさかれた袂《たもと》のまま、お縫は庭にとんと両足をつけている。
「待てっ」
と、幻五郎は狼狽《ろうばい》してこれを追ったが、はしる姫君姿の何という速《はや》さ――みるみる、裏門のそばまでにげのびた。
閂《かんぬき》をするりとひきぬいて、
「あばよ」
ふりむいて、不敵な笑顔をみせて、門の戸をひらく。そのお縫が、突如、たたたた、と、あとにさがって棒立ちになった。
ひらいた門をくぐって、三人の影が入ってきた。山伏姿の鵜殿一風軒、お高祖|頭巾《ずきん》をつけたのが、葉月にまぎれもないところをみると、もうひとりの深編笠は、空蝉刑部とみてさしつかえはあるまい。
「幻五郎、これアどうしたことだ?」
と、一風軒がきいた。
ついに気力つきはてて崩折れたお縫の頭上に刀身をふりかぶって、幻五郎は息をきりながら、
「ううむ、手をやかせおった! おい、こいつは鮎姫さまではない。葵悠太郎の一味で越後獅子の娘だそうだ」
三人とも、唖然《あぜん》として、声もない。
「それどころか、こやつ、お志乃どのまでひきずりこんで、いっしょになって民部と下女まで殺してのけたぞ」
「なにっ、あの民部が、この娘に?」
「いったい、どうして、肉鎧がやぶれたのだっ?」
と、せきこむ三人に、
「くわしいことはわしも知らぬ。まずこやつを斬ってから、お志乃どのにきけ」
と、幻五郎の刀がひらめきおちようとした。
「待て」
と、深編笠のかげから声が出た。
「幻五郎、ちょっと待て」
「刑部、なぜとめる?」
「――すりゃ、鮎姫さまはまだ悠太郎の手にあるわけだな」
「そういうことになる。――」
「で、悠太郎がどこにおるのか、こやつは白状したか」
「いや、白状はせぬが、お志乃どのの口からきいた。悠太郎めは牛込|軽子坂《かるこざか》の蓮華寺とやらにいるそうな。――」
深編笠を中に、葉月と一風軒がぎらっと眼を見かわしたところをみると、おそらく一夜の血まなこの捜索にもかかわらず、悠太郎探しは成功しなかったのであろう。
「そうか。――」
と、葉月が溜息をついた。美しい顔がみるみる殺気にもえあがってきて、
「では、すぐにその寺へゆこう」
「いやいや、しばらく待て。葉月、はやるな、焦《あせ》りは忍者にとっては大禁物だぞ」
と、刑部がまた制した。
「悠太郎を討ち果たすのはたとえ容易なこととしても、その手にある鮎姫さまを救い出さねば我われの功も九仭《きゆうじん》に一簣《いつき》を欠く」
「だから、その鮎姫さまをとりもどすためにも蓮華寺へゆこうというのだ」
と、幻五郎がいった。深編笠の中から、おちつきはらった声が、
「鮎姫さまのおいのちを請け合えるか?」
「刑部、いったいどうせよというのだ?」
刑部はそれにはこたえず、
「それより、幻五郎、いまおぬし妙なことを申したな。お志乃どのが敵にひきずりこまれたとか、それにもかかわらず悠太郎が牛込軽子坂にいるとお志乃どのの口からきいたとか。――いったい、お志乃どのはどうしたのだ?」
「お志乃どのは、いちど甲賀町を裏切ろうとしたが、わしが、それをふせいだのだ。もはや当分のあいだ、われわれを裏切ることはあるまい」
「――と、いうと!」
「わしがとり憑《つ》いてやった」
三人とも、はっとしたように幻五郎のぶきみにひかる一眼を見た。
二
呼ばれて、お志乃がやってきた。
ズタズタにさけたきもののあいだから、真っ白にむき出しになった裸身にふりそそぐ朝のひかりは、もう早春のまぶしさであった。ただ、その眼が――一方だけひらいた眼が、寝覚幻五郎そっくりに、深沈たる妖気をおびている。
こもごも、あらためて四人に訊問されて、お志乃はいままでのことをすべて告白した。あまりありのままにいうので、ひきすえられたままのお縫はあっけにとられたくらいであった。悪態をつくのも忘れさせたのは、その声がまるで単調な呪文《じゆもん》のような妖気をおびていたからであった。のみならず。――
「わたしは甲賀町の女です。服部玄斎の孫娘です。……そのわたしが、どうしてこの町をにげ出したがったか、どうしてそなたたちをきらったのか、どうして忍者町の掟《おきて》に叛《そむ》こうとしたのか、ふしぎです。もう、裏切りはせぬ。そなたらの手伝いをしよう。いっしょに葵悠太郎を討ちにゆこう。この獅子舞いの娘は、すぐに首を斬りや」
冷然として、こういってのけたのである。なおさしつけたままの幻五郎の刃の下でいきなりお縫はひっくりかえった。
「そのとおりだ。こうなったら、俎《まないた》のうえの鯉だよ。そのうえ、あの世じゃあ弟のたあ坊が、ひとりで太鼓をたたいて、あたしの笛がないものだから、さびしがって鼻を鳴らしているだろう。さきにいって、これから次つぎにおまえたちが地獄へ送られてくるのを、ふたり笛と太鼓で囃《はや》しながら迎えてやろう。さあ、すっぱり斬りなよ」
と、姫君姿が大の字になって、笑ったものだ。
「うぬ」
と、いきり立つ幻五郎の腕を刑部はおさえて、
「待て、こやつを斬るなら、あとでも斬れる。――」
「あとで!」
「さればさ、悠太郎を斬ったあとでも――」
「それまでなぜ待つ要がある!」
「念のためだ。悠太郎の手並みを見くびってはならぬ。ともかく七兵衛と外記を、小癪《こしやく》にも斬ってのけたほどの男だ。ゆだんは禁物だ。――そのうえ、われわれは、鮎姫さまをぶじに奪いかえさねばならぬのだ。ただ、悠太郎だけ討ち果たせばよいというものではない。――そのために、万一のことをおもんぱかって、敵が鮎姫さまを虜《とりこ》としているように、われわれもしばらくこやつを虜として持っている必要がある」
「と、申すと!」
「たとえばさ、この娘とひきかえに鮎姫さまを受けとってから、きゃつを斬る。――」
「女をこの甲賀町に投げこんで、おのれは姿をくらますほどの悠太郎だ。そうやすやすと獅子舞い風情《ふぜい》と姫君と交換するものか」
「そうかもしれぬ。しかし、そうでないかもしれぬ。ここを忍者町と知って、ぬけぬけ化けこむほどの女であり、化けこませるほどの悠太郎だ。その化けの皮がはがれたと知って、そのまま見殺しにする関係とも思われぬ。――もとより、民部を殺したにくい奴だ。いずれは悠太郎と首をならべて斬らねばならぬ女ではあるが、せっかく役に立つものを、無用に斬りすてるのは愚かのきわみとはかんがえぬか」
「ではどうする!」
「おれの考えでは、こやつはしばらく葉月にでもここで見張っていてもらう。そして、わしとおぬしと一風軒、男ばかり三人で蓮華寺へゆこう。むろん、たやすく鮎姫さまをとりかえし、悠太郎を討てれば、討つ。――」
「いやじゃ、わたしもゆく!」
と、葉月は血相をかえてさけび出した。刑部はおちつきはらって、
「わかっておる。それについて、相談がある」
と、深編笠をまわした。
「玄斎老は、悠太郎を討つかけひき、手柄は七人同体じゃと申したことをとり消す。討った奴に志乃をやる、と申されたがな」
「うむ」
「悠太郎を討つかけひきは、やっぱり同体でなくてはなるまい。悠太郎が恐ろしいというより、ほかの人間に先をこされてうれしい奴はなかろう」
「もとよりだ」
と、こたえて、幻五郎はややキナくさい表情をした。さっきお志乃の口から敵のいどころをきくや否や、ひとり蓮華寺へかけつけて、悠太郎を討ってのけよう、とかんがえたばかりだったからだ。
「かけひきが同体じゃとすれば、手柄も同様」
「いかにも」
「ところが、手柄はお志乃どのをもらうということ一つしかない」
「そうなるの」
「こいつは少々こまる。――そこで、わしはその手柄は遠慮しよう。一風軒、おぬしが討てば、お志乃どのをもらえ」
「あっ、わしにくれるか!」
と、山伏姿の鵜殿一風軒は、蒼黒い顔をぱっとかがやかせてお志乃を見つめた。鴉天狗《からすてんぐ》のような醜貌《しゆうぼう》であった。
「そのかわり、この甲賀町の棟梁たる資格は捨てい。お志乃どのだけで満足せい」
「う。……」
と、ちょっと一風軒はうめいたが、すぐにお志乃に眼をもどして、大きくうなずいた。
「承知した」
もう情欲に濁《にご》ったその眼に舐《な》めまわされて、半裸のお志乃は茫《ぼう》として立ったまま、これまたこっくりとうなずく。
「そうなったら、幻五郎、憑《つ》きものは解いてくれよ」
と、刑部に笑い声でふりかえられて、幻五郎はせきこんだ。
「わしが討てばどうなるのじゃ」
「おぬしが討てば、葉月を女房にしてこの甲賀町の頭《かしら》になれ」
「あ。……」
と、さけんで、寝覚幻五郎はちらっと隻眼《せきがん》を葉月にうつした。
「葉月、承知か」
「――承知じゃ、もしおまえが承知ならば」
と葉月はうなずいた。忍者町の魂に生きる女にとっては、この生きのこった甲賀の精鋭三忍者の女房となることはよろこびでこそあれ、辞退すべき何ものもないが、それでも醜悪な一風軒や、抱いていても蛇身のぬけがらと化する空蝉刑部よりも、隻眼ながら寝覚幻五郎の方がましだったのである。
「そして、おぬしが討ったら!」
と、幻五郎がきいた。
「わしが討ったら」
と、空蝉刑部はなお笑みをふくんだ声で、
「柳沢どのからの褒美《ほうび》には、あの鮎姫さまをちょうだいすることにしよう」
「なに」
三人はあきれて、すぐに一風軒が、
「出羽が、あの姫をくれるか!」
「くれなければ、ひッさらってにげるまでよ。――永遠にそのまま姿を消すが、おぬしら知らぬ顔をしていてくれい」
と、また不敵な笑い声をたてた。――よほど、この怪奇な忍者は、あの鮎姫に執心したとみえる。さればこそ、さっきからいやに鮎姫救出に腐心したわけだ。
白い早春の光のなかに、屍骸《しがい》をつつきに出かける鴉《からす》のむれにも似た恐ろしき忍者|評定《ひようじよう》は終った。
「立て!」
と、葉月はさけんだ。お縫は立たない。葉月の手がうごくと、そのからだからするすると青い布がすべり出して、生きものみたいにお縫の足にまといついた。
「立たねば、このままひきずってゆくぞ」
お縫はおどろいて立ちあがった。その片足にからみついた布はしをにぎって、葉月はさっさとあるき出す。
――悠太郎さま、たいへんです!
心に絶叫したが、お縫はもはや飛び立てぬ鳥であった。蒼白になって顔をねじむけるお縫の眼から、
「それでは、蓮華寺へ――」
三人の忍者と、女怪と化したお志乃は、次つぎと裏門をくぐって外へ姿を消してゆく。
三
悠太郎は、すっかり鮎姫をもてあました。
柳沢へかえれといっても、いやだという。甲賀町へいってくれとたのんでも、首をつよく横にふる。強いてひッたてようとすれば、死ぬと泣く。――ひょっとしたら、お縫はみごとに鮎姫に化けおわせているかも知れないのだから、そんな鮎姫をつれてゆけば、何をさけび出すか知れたものではなく、とりかえしのつかないことになる。悠太郎がたまりかねて、彼女をすてて寺を出ようとすると、猫のごとく敏捷《びんしよう》にあとについてくる。
お縫の敏捷さには野性があった。足柄山の鹿に似たところがあった。それにくらべると、鮎姫は都会の猫だ。美しく、めまぐるしく、才気煥発《さいきかんぱつ》で、どこかのんびりした悠太郎など、たちまちいいまかされてしまう。いいまかされるどころか。――
悠太郎の内心の悶えをよそに、森閑《しんかん》とふけていった蓮華寺の夜――まるい柱にもたれかかったまま、腕ぐみをして見つめているまえで、スヤスヤと鮎姫はねむった。それと見すまして、そっと立とうとしたら、たちまち鮎姫のあたまがもちあがって、黒い眼がこっちを見た。
「悠太郎さま、にげてはいや」
「にげぬ、にげぬ」
と、彼は狼狽してまた坐りなおした。これではまったく、どちらが虜《とりこ》かわからない。
そのうち、ウトウトとまどろんだ悠太郎は、ひたいにふと熱いものを感じて顔をあげたとたん、ふいにじぶんの胸のなかに身をなげこんできた女体に驚愕《きようがく》した。
「悠太郎さま! 好き、好き、好き」
鮎姫であった、悠太郎はその両腕をつかんで、金剛力におしはなしながら、
「な、何をいたす」
しかし、三十センチとはなれないところに、黒い炎のようにかがやく眼と、匂やかな熱い息を吐く美しい唇があった。
「悠太郎さま、わたしを今夜あなたのお嫁にして――」
このとき悠太郎のあたまを、しかしなぜかすっとお縫の顔がながれた。なぜお縫のことが思い浮かんだのか、わからない。ただ、その顔につきうごかされたように彼は――彼らしくもない激しい叱咤《しつた》をたたきつけた。
「よしてくれ、わしは、女を断っているのだ!」
「だって、あの獅子舞いの娘といっしょに暮していらしたではありませんか」
「い、いや、あれはちがう」
彼は狼狽して、
「第一、わしはあれの弟――十になる少年を殺した甲賀七忍をみな討ち果たすまで、女はおろか、酒も断つ誓いをたてたのだ!」
「――そう」
と、鮎姫はつまらなそうに口をとがらせたが、すぐにかなしげな表情になって、身をひいた。しかし、たちまち眼は黒くもえて、
「それじゃあ、そいつらをみんな殺したら、わたしをお嫁にしてくださいますね?」
悠太郎は、まったく処置がない、といった顔でため息をついた。
外陣の火燈窓《かとうまど》に、朝のひかりがさしたとき、悠太郎はやっと決心した。やむを得ない。この姫君に当身《あてみ》をくわせて駕籠で甲賀町へはこび、それを物陰に待たせておいて、玄斎屋敷をさぐってみよう。お縫をぶじに救い出せそうもないとみたら、そのときは鮎姫と交換にお縫をとりもどそう、とかんがえついたのだ。
朝になって――ひとりぶらぶらと寺の山門の方へ出てゆく悠太郎を、例によって鮎姫は追っかけてきた。
「悠太郎さま、どこへ!」
「さての、向両国の見世物見物に」
「えっ……それじゃあ、わたしもつれてって!」
「おまえさんは、ちょっとのあいだ、やはりあの世へいっていてもらおう」
「……あっ」
「ゆるせ」
ふりかえりざま、そのこぶしが、鮎姫の脾腹に入った。
悠太郎は、やや暗然とした顔で、失神した獅子舞い姿の鮎姫を抱いて、山門から石段をおりていった。辻駕籠がきてくれればよいが――と見わたす往来に、まるであつらえたように一梃の辻駕籠がはしってきた。しかも、その駕籠が石段の下にとまって、なかからひとりの娘があらわれたのである。
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死闘の蓮華寺
一
「やあ」
と、思わず悠太郎はさけんでいた。
はじめ、とっさにそれがお縫かと思ったのだ。満身創痍《まんしんそうい》のからだを、お縫がはこんでかえったのかと見たのである。――しかし、その女がよろめきつつ、二、三歩ちかづいてくるあいだに、それがお縫とは似もつかぬ女だということはすぐにわかった。しかし、たしかにどこかで見たことがあるような。――
「…………?」
けげんな顔で見まもる悠太郎の眼前に、そのきものの無惨《むざん》に裂けた女はかけのぼってきて、
「悠太郎さま、どうぞはやく門内へ――」
と、ささやくと、じぶんからさきに蓮華寺の中へ入っていった。悠太郎はくびをひねり、鮎姫を抱きかかえたまま、馬鹿みたいな顔でひきかえした。
山門のかげに入ると、女は息もきれたように地べたに崩折《くずお》れて、
「だれも……だれも、あとを追うて参りませぬか?」
と、いった。
「駕籠屋はいってしまい、ほかに人影はみえぬが……そなたはだれじゃ?」
「甲賀町の、服部玄斎の孫、お志乃と申す娘でございます」
「やあ、そなたか!」
と、悠太郎はさけんだ。どこかで見た気がしたのも道理――これは、きのうの朝、まさに甲賀町の玄斎屋敷で、縁側に茫然《ぼうぜん》と立っていたあの娘だ。
「いや、その節は」
と、この場合に、悠太郎は妙にのどかな挨拶をしたが、
「しかし、その玄斎の孫どのが、なぜこんなところへきたのかな」
と、ふしぎそうにきいた。――甲賀町すべてをあげて、じぶんの敵となるということは、充分あり得るわけだが、悠太郎はそんなことはかんがえなかった。例の七忍は特別として、むやみに他人に敵意をもちにくいという彼の性質もあるが、そう名乗られてみれば、きのうの夜明け前、玄斎屋敷のうえできいた、老人とこの娘の対話の記憶がよみがえり、この娘が七忍の一味ではあり得ないと信じられるふしがあったのと、それに何よりふしぎにたえないのは、いまやってきた彼女の様子と態度だ。
「にげてきたのです」
「お、やはり――」
「いいえ、鮎姫さまに、のがしていただいたのでございます」
「鮎姫。――」
と、ちらと胸の獅子舞い姿に眼がおちるのをお志乃はみて、その片頬に、さっと幻のように皮肉な笑みがはしって、すぐに消えた。
「鮎姫さまはどうしたか」
と、さすがに悠太郎はそらとぼける。が、眼は不安でいっぱいだ。お志乃は、はじめて気がついたように、襟や袖をかきあわせて、
「悠太郎さま、わたしのこの姿をみてください。――鮎姫さまは――いいえ、お縫さんは、正体がばれて――」
「なに!」
「忍者たちにとらわれました。わたしだけ、やっとのことでにげ出してきたのです。そのことを告げるためにも――」
「――やっぱり、そうか!」
と、彼はうめいた。
「そうであろう。わしがとめるまもなく、あれはみずから敵中に入ってしまったのだが、いつまでも鮎姫に化けおおせるものではないとは思っておった。それで、お縫は殺されたのか!」
「――いいえ、まだ生きてはいます」
「では、ゆこう」
と、本物の鮎姫を抱いたまま、ふたたび門の方へあるき出したから、お志乃は狼狽《ろうばい》して、思わずさけんだ。
「ま、待ってください」
「お縫を救いにゆかねばならぬ」
「――でも、いま甲賀町へゆくことは、死の罠《わな》におちることです。忍者たちは、あなたのおいでになるのを、牙《きば》をむいて待っています……」
二
駿河台甲賀町からこの牛込軽子坂へひたばしってくる途中での相談である。
空蝉刑部のいい出したことだが、むろん彼は玄斎屋敷を出るときからかんがえて、そのためとくにお志乃をつれてきた。――つまり、葵悠太郎を討ち果たすことはさしたる難事とは思われないが、そのまえに鮎姫をぶじ救出することがむずかしい。彼女が悠太郎の手中にあるかぎり、たとえ忍者三人がかりで襲撃しても、彼らの方にハンディキャップをまぬがれがたい。――
まず、何とかして、鮎姫をとりかえせ!
これが彼らにあたえられた第一の使命であった。その使命をはたすために、お志乃の役が決定されたのである。三人の忍者は、すでにこの蓮華寺のまわりにかたずをのんで待機している。そして、まずお志乃だけが何くわぬ顔をしてのりこんだのだ。
彼女は、彼女が幻五郎にとり憑《つ》かれる直前までの予定をそのままつづければよかった。すなわち、お縫にたすけられて、甲賀町をのがれ出て、悠太郎のところへかけこむという行動だ。そのとおりに、彼女は行動した。しかし、その魂はまったく染めかえられて、悠太郎にとって実に危険な悪念にみちたものであった。
まず悠太郎を狼狽させてこの蓮華寺から追い出し、あとで鮎姫をとりかえす――というつもりが、いまその鮎姫をつれたまま出かけられそうになったので、お志乃の方がまごついた。
「いったい、鮎姫さまは、どうなさったのです?」
と、失神したままの娘に眼をやるのに、
「いやなに、ちょっと」
と、さすがに悠太郎は返答につまる。
ちょうど空蝉刑部が、やむを得なければお縫と交換に鮎姫をとりかえそう、とまで考えたのと同様に、悠太郎の方も、お縫をぶじにうばいかえすために、鮎姫を敵にわたそうと考えたのだが、そこまで説明する必要もないし、その気もない。
「それは、甲賀町へいって、やすやすとお縫をとりかえせるものとは思わぬが――そうか、敵はおれを待っているのか。してみると、おれがゆくまでは、お縫の命《いのち》は一応ぶじだと考えてよいな」
と、思案して、
「よし、とにかく、夜まで待とう」
と、うなずくと、本堂の方へあるき出した。夜まで――そこまでおちつかれても、少々こまる。いらだって、われしらず殺気にもえて、帯の懐剣にふるえる手をかけたお志乃を、悠太郎はヒョイとふりむいた。
「それまでとっくり思案するとして、それよりお縫のこと、またそなたのことをくわしくきいておいた方がよかろう。こちらにおいで。あの町へ入って、たったひとり、まともな眼をしておるとみたそなたじゃ」
疑いを知らぬ明るい眼に見つめられて、その一瞬、脳髄《のうずい》のおくににぶい衝撃をおぼえたのは、幻五郎の魔眼にとり憑かれたお志乃の方であった。彼女はふらふらと悠太郎につづいて、本堂に入っていった。
本堂に鮎姫を横たえると、悠太郎はすぐに活を入れて、彼女を蘇生《そせい》させた。
「すまなんだの」
と、悠太郎はあたまをさげて、
「すこし、予定が変った。それまで気絶していてもらうのも何だから、ひとまず息をしていただこう」
鮎姫はキョトンと悠太郎の顔をみていたが、急にがばとはねおきて、いきなり悠太郎の頬をこぶしでうちはじめた。
「にくい男! にくい男! わたしを何度気絶させるのじゃ!」
「いや、すまぬ、すまぬ」
ぶたれながら、悠太郎は腕をこまぬいて、ニコニコしている。
「わたしをどれだけひどい目にあわせたら気がすむのじゃ。これでもか! これでもか!」
と、なおうちつづけて、急に鮎姫の手がとまった。錯乱状態からさめるとともに、いまじぶんの打擲《ちようちやく》しているのが、実は前将軍の御曹子《おんぞうし》であることを思い出したのである。同時に彼女は、そばに見知らぬ女がひとり坐っていることにも気がついた。
「これはだれですか?」
「うむ。そのことについて、わしもこれから話をきこうとしているところじゃ。そのまえにお志乃どの、そなた、眼をどうした? はじめから片眼であったかな?」
「いいえ、にげるときの争いで、ぶたれたか、うちつけたものとみえまして、痛んでなりませぬ。……」
と、お志乃は糸のようにとじた片眼をおさえてこたえた。
悠太郎は、きのどくそうにうなずいただけであった。――だれが、このいたいたしい夕顔のような感じの娘が、その閉じられた一眼とともに、正常な精神状態をもとじこめられてしまった女性だ、と想像できよう。――うなずいただけで、さきをうながす悠太郎に、あらためてお志乃は、玄斎屋敷でのできごとをしゃべった。むろん、幻五郎に憑かれる以前の話をである。
――ふっと、葵悠太郎は顔をあげた。しずかに庭のほうをむいて、
「だれかきたようだな」
鮎姫もふりかえって、思わず悲鳴をあげた。庭に三つの影が立っていた。六部姿と山伏と、深編笠に黒紋付の着ながしと――その組合わせも妙だが、太陽を背に黒ぐろとあゆんでくるその影には、まるで魔界からあらわれたような不吉な殺気がかげろうを立てていた。
「お志乃どの、どうやらそなたをしたって、花婿どのらが押しかけて参られたようだ。しばらくここで待っていてくれい」
悠太郎はぬうと立ちあがると、指をぽきぽきおりはじめた。
三
早春の日は、いつしか中天にあった。廃寺のこととて、ひろい境内はいちめん枯草におおわれていたが、雪がとけて、わずか二日三日の日のひかりに、はやくもところどころ青い芽が萌え出して、風にそよいでいるのがみえた。
「悪縁ながら、おたがい、しきりにこう往来してみると、すこし情《じよう》が出てきたな」
と、本堂にのぼる階段の上に立って、見まわして悠太郎がつぶやいた。
「ところで、そっちに食客を願っておいた娘は、丁寧《ていねい》にもてなしてくれておるか?」
六部がまず、まっさきに近づいてきてこたえた。
「おお、今夜の膳に、うぬの首、土産《みやげ》にもってかえってやろう」
「というとお縫はそれまで腹をすかせて待っておるわけだな?」
と、悠太郎は笑った。
「ありがたい! そのうえ、馳走のたねの仕入れに料理人三人、わざわざ、こちらへ出むいてくれるとは!」
その声の底ぬけの明るさに、三人の忍者はややあきれた。この若者はすこし妙なのではないか――と、当人たちの化物じみているのは棚にあげて――おれたちが恐ろしくはないのか、と憤然とした。きのうの朝、甲賀町ですんでのことに命を失いかけたことを忘れたのか?
悠太郎の笑いは、心からの歓喜の泉があふれ散ったものであった。お縫がまだぶじなのを、これでたしかめ得たのである。そのうえ、彼女を離れて、三人もがじぶんのまえに姿をあらわした! その三人の恐ろしさを知らぬではないが、おのれの生命の不安よりも、まずお縫が生きているという確信のうれしさが、彼を自信と活気にみちた太陽のような青年像にかえた。
「悠太郎、まず、なんじの首を俎《まないた》に置け!」
――六部姿の寝覚幻五郎は叫びつつ、なおあゆみよる。その刃よりも凄じい死光を放射しているのは、その一眼であった。ふたりの眼は、はたと逢った。
一秒――二秒――悠太郎はとっさに抜刀する意志を喪失して、思わず知らず、泳ぐように階段をかけおりている。そのうしろに空蝉刑部がまわって階段で反転したのも気がつかない自失の一瞬であった。悠太郎のまっこうに幻五郎の戒刀《かいとう》があった。
しかも、刀はみずに、なお悠太郎は幻五郎の眼に吸いつけられている。彼はその眼を、どこかで見たような気がした。ねじれるようなあたまの奥で、それはお志乃の眼であったと気がついて、はっとした。
「悠太郎さまっ」
帛《きぬ》をさくような女の声がきこえた。それが彼を妖眼の呪縛《じゆばく》から解いた。彼は織部玄左衛門の死が、この眼につながることをはじめて感得した。その刹那――怒りが、彼の眼光を受身から攻勢に転じた。その眼は太陽の光芒《こうぼう》をはなって、幻五郎の一痕《いつこん》の三日月のごとき隻眼《せきがん》を射た。――戒刀をふりおろそうとして、幻五郎の眼がふいにひかりをうしない、彼はよろよろと泳いでいる。幻五郎憑きの妖術が破れたのだ!
しかし、この一瞬、背後の空蝉刑部の腰間から、しぶきのごとく鞘ばしった一刀が、春光をきって襲いかかっていた。
お志乃は、愕然とした。味方が来た。――じぶんの悠太郎おびき出しがもたついているのに業をにやしたにちがいないが、ともかく三人の忍者が姿をあらわして、悠太郎がそれにかけむかったとみるや、
「鮎姫さま、ここは危のうございます。にげましょう」
と、いそいでとった手を、ピシリとはらわれたのだ。
「いやよ、わたしはにげない」
「なんとおっしゃいます!」
「わたしはここにいるの、悠太郎さまと」
そして、狂気のように庭の方へかけ出そうとしたから、お志乃はおどろいてその腕をつかんだのである。
「姫さま! あ、あなたはどうなすったのです。あなたはあの虚無僧《こむそう》にさらわれて」
「いいえ、わたしが勝手にくっついてるの。わたしはあの人の妻です。あのひとのところへゆかなくては――悠太郎さまあっ」
さっき、悠太郎が耳にした声は、この声であった。お志乃は驚愕した。これほどひどい手ちがいがあろうか! 思わず、あっけにとられてたちすくむ手をふりはらって、獅子舞い娘の鮎姫は突進し、階段の上から――いまや、うなりをたててなぎつける空蝉刑部の刃のうえに身をおどらせた。
悠太郎はこれをかえりみるいとまも、よろめく幻五郎を、追い討ついとまもなかった。彼の眼のはしに、このとき横の枯草のなかから、すうと宙にうかびあがった山伏の姿が映じたからだ。とみるまに、音もなく滑走してくる恐るべき忍法ながれ星!
悠太郎は地に身を伏せた。というより、大地に身をたたきつけてころがった。
「――あっ」
名状しがたいさけびをあげて、空蝉刑部の眼がむき出された。さすがは忍者、この刹那にも、頭上からさかおとしにおちてきたものが鮎姫であると見てとったのだ。彼がすべてを賭けて惚れこんだ姫君であった。驚愕の一瞬に、その手が痙攣《けいれん》し、刃《やいば》は大きく宙をはなれて――地にうち伏した悠太郎のそばへころがった。
そのあとを追って――いちど鮎姫のからだを躍りこえたが――あと、はずみをくらって、悠太郎の横をたたらをふんでゆく刑部の姿を、稲妻のごとくその一刀をひろいあげた悠太郎が下から斜めになぎあげた。
実に必殺の崩れた姿勢にありながら、恐るべき一瞬の変り身、わずかに刑部が腰をひねると、悠太郎の刀身はただその深編笠のみを、ばさ! と、裂いて、下から真紅の般若面《はんにやめん》をつけた白頭巾があらわれた。
「…………」
地に片ひざをついたまま、葵悠太郎は思わず息をのむ。般若の面もななめに割られたのか、刑部は白い手甲をつけた右手をあげて、その顔を覆って立ちすくんでいる。枯草のなか、むなしいばかりの白日の下に、眼ざめるような華麗さに、われしらず悠太郎は眼をうばわれたが、一息、二息、ぬっくと立ちあがったとき、草のなかを、鵜殿一風軒をかついでにげてゆく寝覚幻五郎の姿がみえた。悠太郎は、二、三歩それを追って、ふと背後に異様な物音をきいてふりむいた。刑部の、いままで手の這っていた般若面に、おなじ位置に青い一匹の蛇がまきついていた。彼はふところ手をして、依然として棒立ちになっている。
「まず、おのれは死ね」
一閃《いつせん》する刃の下に、空蝉刑部は頭上から斬りさげられた。蛇とともに、般若の面は四つに割れて地に舞った。そのうえに、彼はたおれた。しかし、――
「……しまった」
悠太郎が茫然としたのも道理、面《めん》の内側には何もなかった。地にたおれた白頭巾黒紋付のなかは空洞であった! ただ遠くざわざわと枯草がそよぎ、それは小さなつむじ風のようにうごいて、消えてしまった。
「きけ」
と、悠太郎は、必死にさけんだ。
「お縫をかえせ。お縫をかえせば鮎姫とお志乃をかえす。――お縫を夜までにここにつれて来い。お縫の死は、すなわち鮎姫とお志乃の死だぞ。――」
――春日《しゆんじつ》はむなしく黄ばんだ枯草の原に照っている。声はなかった。これはそもそも、かかる美しい太陽の下に起り得るたたかいであったか?
ほとんど一瞬のあいだに五人が刃をひらめかし、突撃し、ころがり、交錯《こうさく》した。しかも、死闘のあとに一滴の血潮のあともない。悠太郎はしばらく白日夢《はくじつむ》でもみているようなぼうとした顔つきで立ちつくした。
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おんな獅子
一
一滴の血潮もながれぬ死闘に、茫然《ぼうぜん》としたのは、葵悠太郎ばかりではない。それ以上に、襲撃した三人の忍者のほうが、ことの意外に顔をひんまげた。
「……きゃつ、存外、やる」
と、寝覚幻五郎がうめいた。
蓮華寺からほど遠からぬ武家屋敷の裏――人どおりのない土塀のかげだ。三人は蓮華寺のほうをふりかえりながら、歯がみをした。
「あのとき――鮎姫が身を投げこんで来さえせなんだら、おれが斬ったものを――」
と、うめいたのは、幻五郎とおなじ六部姿に変っているが、声はまさしく空蝉刑部である。深編笠に黒紋付の着流しをぬぎすててきて、どこかでこの装束に着かえたとみえるが、六部笠をふかくかぶって、そのかげからちらちらみえるのは、依然として白い頭巾であった。
「鮎姫は……やはり悠太郎のものになったか?」
「それより、お志乃どのだ」
と、一風軒は歯をカチカチと鳴らして、
「悠太郎を討てなんだばかりではない。事態はいっそうわるくなった。鮎姫のみならず、お志乃どのまで、むこうの手におちたのだ。おそらく、お志乃どのがおれらと同心であることを、もはや見やぶられたに相違ない。だから、わしは、あのような小細工は反対であったのだ。それを、鮎姫欲しさに、刑部めがそそのかして――」
醜悪《しゆうあく》な顔が、うらみのために、いよいよ醜悪にねじれて、
「すでに鮎姫を犯したほどの悠太郎だ。お志乃どのを犯したらどうする?」
「幻五郎に憑《つ》かれたお志乃どのじゃ。悠太郎に犯されでもしたら、舌をかみきって死ぬだろう」
「たっ、たわけ! 死なれたら、わしの褒美《ほうび》がなくなるではないか!」
「おい、よさぬか」
と、幻五郎が叱った。
「仲間われしておるときではない」
「いったい、どうしようというのだ」
幻五郎は、もういちど蓮華寺のほうをふりむいて、
「あの獅子舞いの娘をかえすよりほかはあるまい」
と、独語のようにつぶやいた。
「さっき、刑部にとめられて、あの娘を斬らなんでよかったよ。刑部のいったとおりだ。あれを、悠太郎にかえして、そのかわりに鮎姫とお志乃どのを受けとろう」
「きゃつ、一人と二人、交換するか?」
「きゃつも申したではないか。お縫をかえせば、鮎姫とお志乃をかえす。お縫を夜までにここにつれてこい。お縫の死はすなわち鮎姫とお志乃の死だぞ――と。きゃつ、あの獅子舞い娘に、よほどみれんがあるのだ。それほどみれんがあると知っては、みすみすかえすのは惜しいが、きゃつがお縫を欲しがる以上に、われわれは鮎姫とお志乃どのが欲しい。一人と二人、交換して損はない。たたかいはそれからじゃ」
幻五郎にそういわれてみれば、空蝉刑部も鵜殿一風軒も否やをいう余地はなかった。鮎姫を欲するのはだれよりも刑部であり、お志乃を欲するのはだれよりも一風軒であったからである。
「なんという腑甲斐ない!」
しばりあげたお縫を見張っていた葉月は、痛烈に三人をののしった。
「三人もおしかけて、たったひとりの悠太郎が討てぬとは!」
「いや、まったく面目ない。しかし、ことのなりゆきが、そうなったのだ。……」
「そのうえ、女ふたりをとりかえすのに、この女を手ばなすなどと――それで、甲賀町の棟梁《とうりよう》になるとか、わたしを女房にするなど、片腹いたや、人にきかれて恥ずかしいとは思われませぬかえ?」
一語もない三人の忍者を、葉月は冷炎のような眼で見まわしていたが、やがて、だまってたちあがった。
「お、葉月、どこへゆく」
「わたしひとりで討ってみせよう」
「ま、待て」
と、空蝉刑部がその袖をつかんで、
「葉月、腹をたてるのもむりはないが、われわれとても、敵の手に、鮎姫とお志乃どのさえなくば、こうおめおめとひきさがってはこないのだ」
「あのふたりなど、どうなってもよいではありませんか。葵悠太郎を討つことこそ、何よりの大事。――」
「葉月、それも柳沢出羽守さまからのお申しつけであるぞ。出羽守さまのご息女を殺して、悠太郎を討ったとて何になる?」
「それとも、おぬし、鮎姫とお志乃どのを殺さず、悠太郎を討ってみせるか?」
と、幻五郎もたたみかける。葉月はくやしそうに、唇をかんで沈黙した。急に一風軒が、がばと両腕をついた。
「葉月、たのむ。お志乃どのを殺さんでくれい」
この醜いが高慢な忍者が、恥をわすれた姿であった。
葉月はそれをじっと見おろしていたが、やがてその白い陶器みたいな頬にえくぼが彫られた。
「なんという方がた――それではしかたがない」
「お、きいてくれるか」
「でも、この娘をかえすのはいやです」
「しかし。――」
「しかし、お志乃さまはぶじとりかえしましょう。鮎姫さまも。――」
「なに?」
「そして、葵悠太郎は討ちはたします」
「そ、そんなことができるのか!」
「悠太郎は、夜までにこの娘をつれてこいといいましたね。それでは、夕刻になってから、蓮華寺へ出かけましょう」
「そして、どうするのだ」
「わたしが、この娘に化けるのです」
「おぬしが!」
「この姫君姿に化けて、夕闇にまぎれてゆけば、しばしは悠太郎もだまされるにちがいない。むろん、わたしと、あのふたりをとりかえるときのかけひきに、ひと工夫は要りましょうが――いったん、あのふたりが、むこうの手からはなれさえすれば、あとはこっちのもの――」
と、葉月は凄艶《せいえん》に笑いながら、手が袖にかかると、ひら――と、一枚の薄絹が風に舞って、そばの燭台《しよくだい》にかかった。――とそこに、もうひとりの葉月が忽然《こつねん》と立ったのに、猿ぐつわをはめられたままのお縫は眼を見はった。ほんものの葉月は、依然として眼前にすわっている。ふたたび燭台に眼をやると、それはやはり一枚の薄絹であったが、錯覚《さつかく》にしてはあまりにも真にせまった葉月の幻術であった。
「――アア、悠太郎さま!」
猿ぐつわの下でうめくお縫を、葉月は冷たい眼でみて、
「それでは、そろそろ、この娘の衣裳をはいでくださらぬか?」
二
「悠太郎さま、なぜこの女を殺さないのですか?」
と、鮎姫がにくらしそうにお志乃を見ていった。
「うむ」
と、こたえたが、悠太郎は腕ぐみをして、うごこうともしない。
お志乃は、柱にしばりつけられていた。さすがの彼も、ようやくこの娘が味方ではなかったことを知ったが、しばりつけたということは、殺す意志のないことをしめしたものであった。
「悠太郎さま、あなたはこの女を、甲賀町をきらってにげ出してきた女だ、とおっしゃいましたけれど、わたしをつれて、甲賀町へにげてゆこうとしたのですよ――」
「そこが、いささかふしぎだ。そんなはずはないと思っていたが――やっとわかった」
と、悠太郎は、片眼をとじたお志乃を、じっと見つめる。深沈として兇念《きようねん》とうらみに燐光をはなっている眼を、どうしていままで気がつかなかったのか。――
「お志乃どの。……あの六部――おそらく、あれが寝覚幻五郎という奴であろう――そなた、あの幻五郎の眼に憑かれたな」
「……殺せ」
と、お志乃はしゃがれた声でいった。
「――あの眼にかかっては、たいていのものがその術のとりこになろう。わしでさえ、あぶないところであった。これで玄左衛門が、ふいに黄門さまのお小姓に刺し殺された謎がとけた。――可哀そうに――」
「悠太郎さま、可哀そうに、とは?」
「これは、甲賀七忍のひとり、寝覚幻五郎の忍法にとり憑かれている女なのだ。それが解けさえすれば、われわれにとって敵ではない。――」
「どうすれば、その忍法がとけるのですか?」
「わからない。おそらく、幻五郎を討てば術は解けると思うが、それもどうなるかわからぬ」
「何にしても、こんな女をそばにおいておくのは危険ではありませんか」
「危険だが、殺すわけにも参るまい」
と、悠太郎はくびをふって、
「わしは、むやみに見さかいもなく人を殺すのはいやだ、あの七忍以外は。――それにきゃつらと約束したこともある」
「どんな約束?」
「お縫をつれてくるなら、この娘とそなたをむこうにかえすと。――」
鮎姫はだまって唇をかんだ。眼が美しい怒りにもえて、悠太郎をにらんだ。金輪際《こんりんざい》、きく耳をもたぬといった表情である。
「そなたは柳沢の養女、この娘は甲賀町の棟梁の孫、敵にとってはかけがえのない大事なひとだ。げんに、お縫をそなたと思えばこそ、敵はあれを身代りに、わしを見のがしたことさえある。この交換条件は、きかずにはおられまい」
「勝手な約束!」
鮎姫はさけんだ。
「お鮎の知ったことではありません」
「まことに相すまぬが――」
「まして、あの獅子舞いの娘のかわりになど、お鮎は死んでもいやです! 悠太郎さまは、そんなにあの娘が好きなのですか? そんなにわたしがおきらいなのですか?」
「鮎姫どの、この交換が不首尾におわるなら、お縫は殺されるよりほかはないのだ。……」
「殺されてしまえばいい! 悠太郎さまがそんなおきもちなら、あの娘はわたしにとって、甲賀七忍よりもっとにくい敵だわ!」
「甲賀七忍は、そなたの敵ではない」
「いいえ、悠太郎さまの敵は、お鮎にとっても敵なのです」
悠太郎は、鮎姫の手をとった。
「きいてくれ、姫。そなたはたとえ甲賀町へいっても殺されるおそれはない。それどころか、大事にして、柳沢へつれかえされるだろう」
「それが、わたし、いやなのです。悠太郎さま、おねがい、お鮎をきらわないで、おそばにいさせて――」
「待て待て、とにかくそなたのいのちに別状はない。それにくらべて、お縫がこのまま甲賀町にいては、いのちのほどはおぼつかない。わしはあの娘を殺してはならないのだ。いや、好きとか、きらいとか、そんなきらくな理由ではない。あれの弟は――たった十のかわいい少年は、わしのために殺されたのだ。そのうえ、姉までわしのために殺しては、葵悠太郎、もはや面をあげて天日の下をあるくことはできない。……」
「…………」
「そなたがいやだというならば、やむを得ぬ。甲賀町の往来を俎《まないた》として、わしははだかになって身を投げ出しても、お縫だけは救い出さねばならぬ」
「そうしたがよかろう」
と、お志乃が陰《いん》いんといった。
「そして、おまえを殺したあとで、ゆっくりお縫を殺してやる」
「だまりや!」
と鮎姫はふりむいてさけんだ。そして、ひくい声でいった。
「悠太郎さま、お鮎はゆきます。もしお鮎がそうしなければ、あなたが死ぬとおっしゃるなら。――」
「いってくれるか!」
「でも、わたしは柳沢へはかえりません」
「柳沢へかえりたくないなら、ことをかまえて甲賀町にとどまっているがよい。お縫さえとりもどせば、あとは自由、かならずわしが甲賀町へのりこんで、そなたをとりもどす。――」
「そうしたら、悠太郎さま、わたしをお嫁にしてくださいますね」
悠太郎は、はたとだまりこんだ。しかし、思いつめた真っ黒な眼から、眼をはなせなかった。眼をそらし、言を左右にするには彼はあまりに誠実すぎた。
「――する」
と、彼はうなずいた。鮎姫は、泣き声のようなさけびをあげて、悠太郎にしがみついて、
「うれしい! お鮎はまいります。よろこんで、甲賀町へ――」
ひざのうえに身を伏せた鮎姫の肩に手をおいた悠太郎は、しかし困惑の眼を宙にあげた。すでに中天をだいぶまわった日が、赤あかと染める窓に、お縫の可憐な幻が、うかんできえた。――
「甲賀町へいったら、お鮎はおとなしゅう悠太郎さまを待ってはおりませぬ。きっとひと工夫して、あの忍者たちのひとりでも殺してみせます」
「それは、よすがよい」
声は悠太郎とお志乃と、同時であった。悠太郎はふりかえった。お志乃の隻眼《せきがん》は、ぶきみな冷笑にほのびかっていた。
「わたしが、甲賀町へかえったら、姫も悠太郎の一味じゃと、みなにおしえてやろう。……それがこまるなら、わたしを殺したらよかろう。甲賀の魂をもつこのお志乃、敵に殺されても不服はいわぬ」
さすがの悠太郎の眼も、思わず殺気にもえた。
「しかし、わたしを殺したら、お縫もぶじにはもどるまいぞ。――」
三
――スンナリしているようでも、軽業できたえたからだである。肉がよくついて、大理石できざんだ処女の彫刻のようなお縫の裸身であった。ただ彫刻とちがって、うしろ手にまわされた両腕、そろえてひきのばされた両足くび、乳房、胴に、無惨なばかりに縄がくいこんでいる。――
姫君姿の衣裳はひきはがしたが、あとに覆いの布もかけずに出ていった、葉月、刑部、一風軒であった。あとに、幻五郎だけが見張りにのこった。彼の眼術がついに悠太郎に通用しなかったことをきいて、葉月が彼を監視役にのこしたのである。
「お前さまは、今宵《こよい》わたしの夫になる大事なお方、傷をさせてはなりませぬ。わたしの手柄はお前の手柄。おとなしく、やがてわたしのもってくる花嫁道具――葵悠太郎の首を待っていなさるがよい」
ほんとに大事に思ってくれたのか、それともばかにしたのか――あの妖艶な女を女房にして、甲賀町の棟梁《とうりよう》になるのもよいが、ちとあとあと厄介な女房でもあるな。――と、煙管《きせる》をくゆらせながら、幻五郎はお縫のそばに坐って、かんがえている。
「――もう蓮華寺へついたころか?」
と、障子にせまる夕闇につぶやくと、
「悠太郎さま……」
と、お縫がうめいた。
寝覚幻五郎は、ふっと視線をお縫にもどした。――と、やがてその唇がヒクヒクうごき、舌でそれをなめ、隻眼が妙なひかりをおびてきた。
葉月が出てゆくとき、「幻五郎どの、女房がひとはたらきしてくるというのに、この娘におかしなふるまいをしかけられてはなりませぬぞえ」と、念をおしていった言葉を彼はわすれない。しかしあの女を女房にしたら、二度とこんな機会はやってこないような感じがした。それに悠太郎が討たれたならば、どうせつづいて首をはねる娘だ。惜しい。――と、けさこの娘を追いまわしたときに頭をかすめたかんがえが、また、あらためてその裸身に、彼の一眼をもやした。
また――「ここまで生かしておいた娘だ。やはり、念のため、もうしばらくこのままで待たせておけ」――けさの失敗にこりた用心ぶかい空蝉刑部がそういうので、じぶんが見張り役にのこることにもなったのだが、万一――そうだ、万一、また葉月がしくじって、この娘をかえすにしても、ただではかえさぬ。鮎姫が犯されたうえは、この娘も犯してかえして、ちょうどあいこ[#「あいこ」に傍点]ではないか?
もっとも、ほんとうのところは、こんな理屈や勘定ではない。ただ、うごめく美女の裸形《らぎよう》にめらめらともえあがってきた獣心だ。――彼は煙管《きせる》をなげすて、ぬうとたちあがった。
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一眼つぶれ一眼ひらく
一
寝覚幻五郎は、お縫のそばにちかづいて、腰の小刀をぬいて、ぷつぷつと縄をきった。
「――おい、はだかのお姫さま」
と、ニヤニヤしながら、頬にはきかけられる嘲笑に、お縫は顔をそむけ、のがれようとしたが、その手くびはむずとつかまれていた。
「何をするのさ?」
「何をするって、男が裸の女の手をつかまえたら、何をするかわかっているだろう」
「ばかなことをすると、わたし、舌をかみきって死ぬから」
「ふふん、舌をかみきった娘を犯すのも、また変った味だな。なんなら、おれがかみきってやろうか」
と、おしつけられてくる顔を、お縫のもう一方の手がしなって、白い鞭みたいにうった。幻五郎はさっと兇相にかわったが、すぐにまたうすきみわるい笑顔になって、
「おまえ、悠太郎が好きか」
「…………」
「女の身で、この甲賀町へのりこんでくるとは、ふつうの覚悟でできることではない。悠太郎に惚れた一心だな」
「もったいないことをおいいでない。前の将軍さまのお子さまを、わたしなどがなんと思おうとどうなるものか。――弟が、おまえたちの一味に殺されたからだよ。わたしを殺すならはやくお殺し。弟を殺した天羽七兵衛は悠太郎さまがかたきを討ってくだすったわ、わたしを殺したおまえも、やがて悠太郎さまにかたきをとられるだろう」
「おい、さっき、三人が蓮華寺へむかったことを忘れたのか」
「悠太郎さまが、まけるものか! けさだっておまえたちがまけてきたじゃないか。ザマみやがれ」
「まけはせぬ。むこうの手に鮎姫さまがつかまっておりさえせなんだら、まちがいなく、きゃつを討ちはたしたところだ。――げんに、うぬと悠太郎がこの甲賀町へのりこんできたときのかけひきを、うぬもみていたろう。うぬが鮎姫さまに化けて、あいだにとびこんできたればこそ、悠太郎はあやういいのちをたすかったのだ。……こんどは、そのしかえしだ。おまえに化けた葉月を囮《おとり》に、鮎姫さまをとりかえす。鮎姫さまさえとりもどせば、あとは赤子の手をねじるようなもの。――」
しゃべりながら、まっしろな乳房にふれてくる幻五郎の指を、お縫は知覚しないほど胸は不安にわきかえっていたが、身をもみねじったのも、幻五郎の指よりも、その悠太郎の安危への焦燥《しようそう》であった。なんとかして、悠太郎さまに、敵のたくらみを知らせなければ!
「おっとっと、はねるな、はねるな」
と、幻五郎はお縫の腕をだきこんで、
「娘、悠太郎はあきらめろ。――万が一、われわれの手をのがれても、柳沢出羽守さま、もっとはっきりいえば、将軍家から亡きものにせよ、と命じられておる葵悠太郎だ。しょせん、のがれ得る道はない。それより、お縫、ここでわしのいうことをきけば、おまえが悠太郎の一味であったとは訴えまい。わしがうまくとりなしてやる」
声のねちねちしているのと反対に、恐ろしい力で、お縫の顔をおのれのひざのうえにねじふせていた。一方の手で腕をとらえ、一方の手でお縫のふくよかな胸を痣《あざ》のつくほどおさえつけて、あえぐお縫の顔のうえに笑った口をおおいかぶせてゆきながら、
「だいいち、悠太郎めは、けしからぬ奴、鮎姫さまをおのれのものにしておるとよ」
この言葉が、半失神の状態におちかかっていたお縫に、気付薬のような効果をあらわした。上半身をおさえつけられたまま、その両足が白い弧《こ》をえがいて宙をまわると、かぶさってくる幻五郎のあたまを、かっと蹴りつけたのである。
さすがの寝覚幻五郎が、とっさにおのれのひたいをうったものが何であるかわからなかった。はっとして手をはなしたとたん、お縫のあたまがたたみにおちたとみるまに、くるくると白い花輪のようにまわってにげていた。――その、眼をうたがうばかりに柔軟なからだとみごとな体術に、やっと幻五郎は、この娘が獅子舞いであったことを思い出した。
「お。……」
幻五郎は、一眼をまばたきした。
むこうにすっくと立ったお縫は、いつのまにか幻五郎のそばに置いてあった小刀を、抜身のままにつかんでいたからだ。からだは全裸、髪はとけて肩から背へながれ、それが片手に一刀をひッさげている凄艶《せいえん》さは名状しがたいものがあった。
「やるな!」
幻五郎は、歯をむき出して笑った。
「おもしろい。いや、忍者ともあろうものが犯そうとする女が、それくらいの曲芸をしてみせんでは物足らぬ。悠太郎の首をみるまではまだ間《ま》があろう。すこし、あそぶか」
と、腰の戒刀に手をかけたが、お縫の蒼白な決死の顔色をみてとると、すぐにその手をはなした。
「いや、女を抱くのに、刃物さわぎはおとなげない。よそう」
と、いったのは、いざといえば、お縫が手の刀でじぶんじしんののどを突きそうな気配をかんじたからだ。
「お縫、わしは刀は抜かぬよ。これでおまえをつかまえてやろう。おい、うまくいったら、おまえの方がわしを殺せるかもしれないぞ。――」
というと、何を思いついたのか、そばの唐紙にぷすっと指をたてて穴をあけると、ヒョイとそれをはずして、それを盾にしてゆらゆらとお縫の方へあるき出した。
二
お縫は横にはしった。ちかづいてくるのは、一枚の竜をえがいた唐紙だけだ。それにかくれて、幻五郎の姿はまったくみえぬ。――いちど立ちどまって、きっとその唐紙を見すえたお縫は、ふとその画竜の瞳が、うすびかってみえたのに眼を吸いつけられて、次の瞬間、ふらっと酔ったような思いがした。
はっとした。あのお志乃の「あの男の眼に気をつけて――あれが妙な眼になったら、眼を合わせては、あの男にとり憑かれます」といった、言葉を思い出した。それから、そのお志乃自身がその舌の根もかわかぬうちに、その眼術の虜《とりこ》となった恐ろしい姿があたまをひらめきすぎた。――竜の眼から――突いた指の穴からのぞいているのは、幻五郎の笑った眼であったのだ!
お縫は、眼をとじた――眼をとじてはうごくこともできなかった。
「あははは、わかったかえ?」
幻五郎の笑い声が、すぐまえの唐紙の向うでひびいた。お縫は座敷の隅に追いつめられていた。
「いや、おまえに憑くのはよすとしよう。わしの化身になった女を抱いてもおもしろうない。――」
と、幻五郎の顔が、唐紙の横からにゅっと出たとたん――お縫は、眼をとじたまま、その唐紙へ、柄《つか》もとおれと刀身をつき立てた。幻五郎のからだは、完全にそのかげにあった。
「あっ」
さけんだのは、お縫だ。刀身はつきとおらず、きっさきだけ刺されて、そのままとまった。あの幻五郎がやすやすと指をつきとおした唐紙、彼がかるがるともちはこんだ唐紙は、紙をはっただけの樫《かし》の戸であったのだ。
たか笑いとともに、板戸が隅におしつけられた。
「女獅子、捕った!」
と、さけんだ幻五郎のあたまが、がんとその戸にうしろからたたきつけられた。お縫のからだは、すでにその隅になかった。つきたてた刀身のみねに足がかかると、フワリと唐紙のうえにのり、うしろざまに幻五郎のあたまを蹴って、座敷へとび出していたのだ。
脱兎《だつと》のごとく縁側の方へはしり出すゆくてに、ぱしぱしぱしっと、散弾のようなものがばらまかれた。お縫はたたらをふんだ。それはぶきみにひかる小さな菱形《ひしがた》の鉄金具であった。いずれの方角にもねじれた釘がつき出したマキビシだ。
たちすくむお縫は、うしろからおどりかかってきた幻五郎に、ふたたびむんずととらえられた。
「やい、もうかんべんならぬ!」
幻五郎の鼻口は、血泡にぬれていた。いま板戸にぶつかったとたん、鼻血を出したのである。さっきまでは、ぶたれても蹴られてもいよいよ淫靡《いんび》な血をかきたてられるような余裕があったのが、その遊びがすぎて、忍者ともあろうものがこの醜態《しゆうたい》をさらしては逆上せずにはいられない。
「未来永劫《みらいえいごう》、うぬにとり憑いてくれるぞ!」
と、わめくと、その血まみれの口にがっとマキビシをくわえ、わきの下からお縫を抱きしめて、その顔にじぶんの顔をうちつけた。
お縫は死物狂いに、顔を左右にふった。しかし、マキビシを避けるためには、眼をひらかずにはいられなかった。眼をひらけば――眼前に、血いろにもえたっている恐るべき一眼があった!
お縫は悲痛なうめきをたてた。眼をつむる。ひらく。その苦悶の顔を、魔眼とマキビシが襲う。――
左右にふるお縫のあたまが、しだいに力つきようとしたとき――幻五郎は、ふっと隻眼《せきがん》のはしに妙なものを見た。ふりむいて、愕然《がくぜん》として口からマキビシがおちた。
「葉月!」
すぐちかくに、葉月が立って、物凄い眼で幻五郎をにらんでいた。――すっと彼女は、幻五郎の方へ寄ってきた。
幻五郎は、お縫からとびはなれて、
「葉月、ゆるせ、出来心じゃ!」
と、さけんだが、そのとたん、葉月のからだはガサリとたたみに崩折れて、ひとひらの薄絹となった。あとにのこっているのは、はだかの燭台だけである。――
幻五郎は、肩で息をして、蒼白い顔で苦笑した。彼をおどろかしたのは、葉月が出がけにその燭台にかけていった薄絹だったのだ。――しかし、それを承知していたはずの彼に葉月とみえ、また、風もないのにうごいてきたのは?
「葉月、もう女房気どりでおれを見張っておるか?」
と、彼は足もとの薄絹をふみにじったが、思いがけなく味方の忍法にまどわされた忍者は、しばし放心状態におちいっている。――一瞬、異様な気配にはっとして彼は顔をあげた。その眼にピカと何やらひかった。
「うわっ」
と、彼は隻眼をおさえてのけぞった。――お縫が、いまの燭台をもって、その蝋燭《ろうそく》立ての釘で彼の一眼をつき刺したのである。
――ちょうど、寝覚幻五郎が、葉月の幻影におどろかされたのとおなじ時刻だ。
黄昏《たそがれ》の往来を風のようにあるいていた三人の忍者のうち、葉月がたちどまって、ふと胸に印をむすんだ。
「どうした?」
と、鵜殿一風軒と空蝉刑部があやしんで見まもると、
「亭主どのの浮気封じ」
と、葉月はうす笑いした。それから、まわりを見まわして、
「もう軽子坂にちかい。そろそろわたしは駕籠にのっていったほうがよいのではありませぬかえ?」
と、いった。
三
葵悠太郎は、実に進退《しんたい》きわまった。一難きりぬけてまた一難、鮎姫の甲賀町ゆきは一応説得したが、問題はお志乃である。
むろん、敵と約束したことだし、またそうでなくとも、この女を殺す意志はない。しかしこの女を甲賀町へかえせば、鮎姫がじぶんの味方となったことを告げるという。彼の判断では、そうと知っても柳沢の姫君に忍者が手を出すことはあるまいと思う。ただ、そうときいた鮎姫が、また不承知をとなえ出したのだ。
「悠太郎さま、この女をつれていっては、みんなぶちこわしです。それならわたしはまいりません」
「いや、知られても、きゃつらがそなたをどうもできぬ。せいぜい、柳沢の屋敷に、ていちょうにおくりかえすだけだろう」
「それがこまるのです。そのようなことを知られて柳沢にかえれば、お鮎は二度と屋敷から出ることもできなくなるでしょう」
「…………」
「それをあえて甲賀町へゆけとおっしゃるのは、お鮎をお嫁にしてくださるという悠太郎さまのお言葉は、お鮎を子供あつかいになさると同様」
「…………」
「だいいち、わたしは悠太郎さまのために、ひとりでもあの忍者たちを殺したいからこそ甲賀町へゆくのです。それがかなわぬとあれば、そもそも甲賀町へゆく意味がわかりませぬ。あの獅子舞い娘とひきかえにゆくなど、お鮎は、いや」
きっぱりといい、眼がひかった。
「あの忍者の娘を殺してください!」
と、いった。
悠太郎は、黙然《もくねん》として腕をくんでいた。
――さすがの彼が殺気にかられずにはいられないほど毒どくしい兇念にもえた忍者の娘であった。しかし、彼女を殺せば、お縫のいのちはない。――夜までにお縫をつれてこい、とじぶんはいった。それとひきかえにお志乃はかえすと、敵に約束した。期限をきったことが、いまとなっては恐ろしい。
「この娘を殺してくださりさえすれば、わたしは甲賀町へゆきます」
「姫、これは寝覚幻五郎に憑かれた女なのだ。……」
「おなじことです」
だまって、きみのわるい笑顔でふたりの問答をきいていたお志乃が、ふいにいった。
「そう、おなじことだ。……甲賀町へいったら、わたしがおまえを殺してやろう」
悠太郎は思わず顔色をかえた。他の忍者ならしらず、この女怪ならば、それくらいのことはやるかもしれぬ。――かえすことは不可、残すことも不可。生かしもならず、殺すもならぬ。
怒りにこれも蒼ざめて、鮎姫がきっと悠太郎に眼をかえしたとき、彼はすっくとたちあがった。
「どこへ?」
「甲賀町へ」
「あなたが!」
「わし、ひとりで」
そして、四、五歩あゆんで天蓋をひろうと手をのばしながら、
「女のたすけをかろうとしたわしの考えがまちがいであった!」
と、おのれ自身に鞭うつようにさけんだ。鮎姫はふいにお志乃をふりかえった。
「おまえのために、悠太郎さまがあれほどお苦しみなさる!」
と、はき出すようにいうと、いきなり懐剣をスラリとぬいて、お志乃の縄をきりほどいた。そして、そばにころがっていた刀身――空蝉刑部の落していった刀を――足でお志乃の裾《すそ》へ蹴った。
「起て! 甲賀町へいったら、わたしを殺すと申したな。わたしもおまえを殺したい! ならば、甲賀町へゆくまでもあるまい。ここでわたしと果し合いしよう」
「――姫!」
と、悠太郎があっけにとられた顔をむけるのに、
「悠太郎さま、どっちかひとりこの世からいなくなれば、あなたの悩みのたねがきえるのです。だまって、この女同士の果し合いをみていらっしゃい。相手は忍者の女、わたしも柳沢の娘、ひととおりの武芸の手ほどきはうけました。しばられた人間を刺したり、ふいにだまして当身をくわせたりするのはきらいです。尋常に勝負しますから、どうぞ手を出さないでください!」
この場にも、悠太郎に痛烈なしッぺがえしをすることを忘れない。あっと悠太郎が口をあけたとき、お志乃は足もとの刀をつかんで、猛然とたちあがった。二メートルばかりはなれて、懐剣さか手に、鮎姫がきっと立つ。
すでに外は黄昏《たそが》れ、内陣はうす暗かった。獅子舞い姿の鮎姫はお縫に似て大柄だが、お志乃の影は柳のごとく細く、小さい。が、うす闇のなかに、妖しい燐光《りんこう》をはなつお志乃の隻眼。――「よせ!」と、われにかえった悠太郎がそのあいだにかけ入ろうとしたとき、ぱっと鮎姫が床《ゆか》をけって、宙に青い火花がちり、彼女の懐剣ははねとばされた。お志乃の刀は、その繊手《せんしゆ》に似あわぬ力を秘めていたのである。つづいて――
さすがの悠太郎が「あっ」と息をのんだくらい凄じい速度で、その刀身が、よろめく鮎姫のからだを追った。
その刹那《せつな》――ふいにお志乃が立ちすくんだ。片手に刃をふりかざし、片手で眼をおおって、凝然《ぎようぜん》とつっ立ったまま、うごかない。――彼女はいったいどうしたのか。そのからだに何やら眼にみえぬ怪異が起ったようであった。それと気づかぬ鮎姫が、おちた懐剣をぬいて、とびかかろうとするのを、「待て」と、悠太郎が手で制した。彼は、お志乃の姿にあらわれた異様な変化を感じとったのである。
お志乃の手から、刀がおちた。その手が、顔からはなれた。見よ、とじられていた一眼はひらき、その妖しい燐光はきえている。――あたかもそれは、甲賀町玄斎屋敷で、お縫が寝覚幻五郎の一眼をつぶしたのと、同じ時刻であった。
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虚によって影をうつ
一
やっと、鮎姫も気づいた。
「…………?」
声をのんで見まもるふたりのまえに、お志乃はがくりとすわった。ひらいた両眼は宙にすえられたままだが、うつろであった。
鮎姫が悠太郎をふりむいた。
「どうしたのですか?」
「姫、すまぬが、あんどんに灯をいれてもらいたい」
鮎姫が灯をもってきたとき、お志乃は左うでをついて、うなだれていた。顔はみえないが、肩がワナワナとふるえている。からだの線がひどくやさしく、弱よわしいものに一変しているのに、鮎姫はびっくりした。
「どうしたというのです?」
と、もういちどきいた。
「どうしたのか、わからない。おそらく――例の憑《つ》きものがおちたのだ」
と、悠太郎は、なお凝然とお志乃を見つめたまま、いった。
そのとおりだ。お志乃は幻五郎の呪縛《じゆばく》から解かれた。――あの魔瞳《まどう》に憑かれてからいままでのことが、まったく記憶にないのではない。それはまざまざとのこっている。しかし、それはひどい酔中の記憶と同じであった。兇暴な酔いから醒《さ》めると同時に、彼女の全身は粟立《あわだ》った。――じぶんは、お縫との約束をやぶって、幻五郎に憑かれてしまった! そして、こともあろうに――
「ああ……なんということを……わたしは……」
魂の戦慄そのもののようなうめきをもらして、彼女はがばとひれ伏した。
「お、やはり、そうか。そなたは幻五郎の術から解かれたのだな。そうであろうと思っておった。そなたをひと眼みたときから、そなたがあの妖怪たちの一味とは信ぜられなんだ」
と、悠太郎はさけんで、ふいにまた顔をあげたお志乃が、
「申しわけ……」
と、いいかけるのに、
「いや、わびはよい。そなたは、助かったのだ。われわれから助かったのみならず、甲賀町からものがれ出してきたのだ。しかし、お縫は、――お縫は、どうしたかっ」
「わ、わたしがお縫さんの素姓をあかして――」
「それもわかっておる。ただ、いま突如としてそなたから憑きものがおちたのは、あの幻五郎とやらに、なにごとか起ったのではないか!」
「おそらく、幻五郎が、死んだか、それとも――」
「それとも?」
「あの一つの眼がつぶされたか――」
「――幻五郎が死んだか――眼がつぶされたか――」
と、悠太郎はうめいて、
「やったのは、お縫だな。お縫がやったのでなくて、幻五郎めが死んだり、眼のつぶれるわけはない」
「お縫さんは、八剣民部をもしとめました……」
悠太郎は、やりおった、と呆れるよりも恐怖に蒼白になっていた。あの娘が、あの怪物たちをどうやってしとめたかわからないが、甲賀町で、必死のたたかいをくりひろげているのだ。そして、さっき、みごとに幻五郎を殺したか、魔瞳をつぶしたのだ。しかし甲賀町にいるのは、寝覚幻五郎だけではない。八剣民部はたおしたといまきいたが、ほかに空蝉刑部、鵜殿一風軒、葉月、そのほか、町全体が敵そのものといっていいのだ。
ものもいわず、彼ははしり出そうとした。そのとき、お志乃が顔をあげた。
「だれか、寺に入ってきました」
「なに?」
たちどまって、耳をすます悠太郎の鼓膜に、門のあたりから、おどろおどろとした声がながれてきた。
「葵悠太郎――約定《やくじよう》に従って、われら、うぬの一味の小娘をつれてまかり越した。鮎姫さま、お志乃どのをかえせ――」
「や?」
狂喜のさけびをあげる悠太郎に、
「ただし、悠太郎はそこをうごくな。まず鮎姫さまとお志乃どのを庭へ出せ。――」
と、声はいった。お志乃が、ささやいた。
「あれは、空蝉刑部の声です。悠太郎さま、あのものどもに、どんなたくらみがあるかもしれませぬ。めったに、いうことをきかれますな」
「いや、それでも、お縫をつれてきたと申した」
と、心もそらにかけ出す悠太郎を、鮎姫は異様にひかる眼で見おくったが、それでもあとを追って、そっと本堂の入口の方へあるいていった。
二
悠太郎と鮎姫は、本堂の扉のかげに立って、じっと山門の方を見すかした。
外は、もうとっぷり暮れていたが、崩れた山門にほそい夕月がかかって、その下に三つの人影がみえた。
「ひとつは深編笠……あれが、空蝉刑部だな」
と、悠太郎がつぶやいた。あの怪物はまたそのぬけがらに本来の衣裳をまとって、やってきたものとみえる。鮎姫もうなずいて、
「あと、ふたりが女らしゅうございます」
「ひとりは姫君姿――右がお縫か」
「左の女の影は?」
「そうだ、甲賀七忍のなかに葉月という女がいるはず。おそらく、それではないか?」
深編笠が、またしゃがれた声でいった。
「悠太郎は出てはならぬ。虜《とりこ》の交換がすむまでは――これより、お縫をそちらにゆかせる。かわりに鮎姫さまとお志乃どのをこちらによこせ。境内のまんなかですれちがうように」
そして、嘲笑《あざわら》うように、
「こちらの虜のみ取られて、そちらの人質はかえさぬなど、小細工はゆるさぬぞ。うぬがとび出して、血迷ったふるまいに出たならばたとえ十歩、二十歩はなれようと、お縫の命はないものと知れ。わかったか――こちらの虜をおくるぞ!」
声とともに、つきとばされたように、姫君姿がよろめき出してきた。
「姫! いってくれ!」
悠太郎の祈るような、しかしむごい声を鮎姫はどうきいたか――あれほどお縫との交換に抵抗した鮎姫が、どうしたことか別人のように弱よわしく、これまた悠太郎の声にはね出されたように、ヨロヨロと階段をおり、境内をあるき出した。
いちど、たちどまってふりむいた。その眼にたたえられた涙が、月光にひかった。悠太郎が、はっと気がついて、胸をしめつけられたような思いに立ちすくんだとき、鮎姫は、そのまま、ト、ト、ト、と小ばしりに山門の方へかけ出した。たちまち、むこうからきた姫君とすれちがう。――
「待て!」
と、その時、空蝉刑部が叫んだ。
「お縫、待て、それ以上あるくと、ここからマキビシがとぶぞ。――悠太郎、もうひとりはどうした? お志乃どのはどうしたか!」
悠太郎が、お志乃を呼ぼうとふりかえったとき――内陣で、ふいにお志乃が天蓋《てんがい》をつかんで立ちあがるのがみえた。灯影に、電光石火のごとくそれをかぶる。
一分、二分。――
突如、ばさと、そばの火燈窓《かとうまど》が裂けて、外から一陣の黒つむじが吹きこんできた。その旋風のなかにひかる刀身が、天蓋をかぶったお志乃の胸を背までつらぬいて、
「討った! 葵悠太郎!」
絶叫とともに、ふたり、もつれあって内陣の床にころがった。
愕然《がくぜん》として悠太郎ははせかえっている。十メートルを三足でとんで、そこにたおれた黒影に、
「卑怯っ」
叱咤《しつた》して、刃《やいば》をふりおろす以前に、鵜殿一風軒は怪鳥のような悲叫をあげていた。
月影くらい虚空を、音もなく滑走してきた忍法ながれ星、さすがにいちはやくそれを感知したお志乃が、虚無僧の天蓋をかぶって立った障子越しの影に、なんのためらいをおぼえたろう。――その天蓋は、頭からはなれてころがった。一風軒は見た。――その下からあらわれて床をつかんだお志乃の顔を。惚れた未来の女房の顔を。
「しまった!」
それは、おのれの胴を両断してすぎる憤怒《ふんぬ》の一刀を知覚するまえに発した、一風軒の断末魔のうめきであった。
一風軒を斬った悠太郎は、お志乃をかえりみるいとまもあらず、疾風《しつぷう》のごとく庭へはしり出していた。門のむこうへ、鮎姫をはがいじめにした深編笠が、すうっときえてゆくのがみえた。
「待てっ」と、それを追おうとして、その眼のはしに境内の中央に茫然と立つ姫君姿がうつると、あやうくたちどまって、
「お縫」
と、さけんだ。
姫君姿は返事もせず、じっと本堂のおくをうかがっている様子であったが、これまた、「しまった」と、つぶやいた。その声に、悠太郎は水をあびたような思いにうたれた。
「うぬは――」
狂気のごとくはせよって、
「はかったなっ」
と、その袖をひっつかもうとしたとたん、姫君はひらりと数メートル横にとんだ。ふつうなら、みごとに空《くう》をうたせるところだが、間髪を入れず悠太郎の影もとんで、
「偽者《にせもの》、武士の約束をわすれたかっ」
と、鉄壁を裂く銀光が、その姿を薙いだ。姫君の姿が二つになって、虚空で舞った。その手応えから、わずかに布を斬ったばかりと知って、はっとなり、ついでこの妖異にさすがの悠太郎がとまどって、宙をにらむのに、思いがけない地上から、
「偽者でたばかったのはだれじゃ」
と、嘲笑う声がきこえた。
悠太郎の眼に、むこうの枯草にすっくと立った姫君が――いまはお縫ならぬまごうかたなき女忍者が、凄艶《せいえん》きわまる笑顔をひきつらせているのがみえた瞬間、その手からみるみる幾十片かの薄絹が撒き出された。――と、みよ、蒼々たる月光のなかに乱舞する幾十人の葉月、それが右に、左に、あるいは空高だかと哄笑する。
「ほほほほ、よしやだましたとて、武士の約定は忍者に無用」
声をたよりに殺到して斬り裂けば、斬り裂いただけ葉月の姿がふえるのみだ。――悠太郎は、さっき山門に二人の女とみえたうち、一人が、薄絹の葉月であることを知り、また伴兵馬が殺された墓地の雪に、幾十枚かの眼もあやな薄絹が散乱していた謎を知った。
「見たか、甲賀流|陽炎《かげろう》乱し――」
葵悠太郎は、このとき両眼をとじて、刀を八双に立てたままであった。すなわち、眼があればかえって惑わされる。むしろ視覚を断って無想剣でふせぐよりほかはないと知ったのだ。
「鮎姫さまをのがすということさえなくば、うぬをここで討ち果たしてくれるものを!」
嘲笑はしたものの、葉月はおそらくこの意外な悠太郎の構えに、つけ入る隙を失ったのであろう。声がふっと絶えたのに、悠太郎が徐じょに眼をひらくと、地上に林立する四方の薄絹がなびきつつしずかにたおれ伏し、月明の虚空から、音もなく無数の布が落下しつつあった。
悠太郎のひたいに、うすい汗がひかっていた。みごとにふせいだのではない。彼は敗北したのだ。もはや追うまでもない。空蝉刑部はもとより、葉月はすでに遠くにげたのであろう。にげたというより、まんまと鮎姫をさらっていったのだ。しかも、お縫の運命はどうなったか?
まず、それをたしかめねばならぬ!
彼は黙もくとして本堂にひきかえした。蒼ざめた顔は、しかしむしろおちついている。彼はお縫の死を覚悟した。腸《はらわた》もちぎれるような無念さと悲痛の思いのなかに、彼の心は一種の清朗さにみたされた。
もはや、とるべき手段はただひとつ、甲賀町へ決死の斬込みをかけるまでである。勝てるという自信はなかった。それは死出の歩一歩以外の何ものでもなかった。しかし、それがむしろよろこびでさえあるのは何としたものであろう? 悠太郎は、はじめてお縫――九分九厘までこの世にないお縫へ、死なばもろともといういとしさを自覚したのである。
彼は内陣に入った。鵜殿一風軒は、血の海のなかに、ひッ裂かれた蝙蝠《こうもり》のごとく死んでいた。そして、そのそばにお志乃の屍骸も。――
「――お志乃どの、かたじけない」
彼は、冷たいお志乃の手をとった。彼女のために怨敵七忍のひとりの兇刃からまぬがれ、それをたおすことができたのである。彼はその礼をいうためだけに、いちど本堂へもどってきたのであった。
「いいえ……」
と、死んだと思ったお志乃が、かすかな声でいった。
「これで、お、お縫さんへのおわびが……」
「お志乃どの、息があったのか!」
「いいえ、わたしは死にます。ああ、もうお縫さんは、まにあわないかもしれない。……それに、どうせ死ななければならぬ甲賀の裏切者でした。せめて、悠太郎さま、どうぞはやく、ここをにげて――」
「せっかくだが、わしはにげぬ。にげられぬ」
「あいつらは、またやってきます。……」
「いいや、わしの方からおしかけてゆく」
お志乃はうすく眼をひらいて、悠太郎の顔をみた。ふっとその眼にひかりがもどって、
「悠太郎さま、残りの忍者を討つ方法は……」
「なに、きゃつらを討つ方法は――?」
悠太郎が顔をちかづけ、お志乃は何かささやいた。のどに何かからまって、嗚咽だけがきこえた。急にがくりとあたまをうしろへのけぞらせて、
「ああ、お祖父さまが、地獄で、裏切者のわたしを呼んでいます。……」
悠太郎は、ひしとお志乃を抱きしめて、さけんだ。
「いいや、そなたは地獄へはゆかぬ。そなたは、魔性の忍者町から完全にのがれたのだ。その勇気で、浄土まで羽ばたいて、とんでゆけ。……地獄へは、あの七忍をことごとく追いおとしてくれる!」
三
燭台《しよくだい》をつかんだまま、お縫はたちすくんでいた。
隻眼《せきがん》をおさえてのけぞり、二、三回火ねずみのごとくくるくると回転した寝覚幻五郎は、どうと片ひざをついたが、このあいだに片手に腰の戒刀《かいとう》をぬいていた。――その姿勢で、なお片手で眼をおさえたまま、じいっとうごかない。
一秒が一刻かとも思われる鬼気にみちた時がすぎて――
「獅子舞い……やったなあ」
陰いんと、幻五郎はつぶやいた。
座敷に闇が這いはじめて、おさえた掌のあいだから網目となってたたみにおちる血は、すでに墨色《すみいろ》だ。――見えぬはずだ、この男は盲目だ! と確信しながら、お縫はこの恐るべき忍者の気迫と身のこなしに圧倒されて、全身金しばりになったようであった。なおふみこんで彼を討つすきは、毛ほどもなかった。
「お志乃……片眼をひらいたかもしれぬ。あの女、悠太郎討ちのじゃまをせねばよいが。……」
幻五郎が宙に顔をむけたまま、ひとりごとをいった。
その言葉が、お縫に蓮華寺《れんげじ》を思い出させた。そうだ、蓮華寺の安否を見にゆかなくては!
足音もなく、そっと横にうごくと、幻五郎の顔が、眼のあるもののようにうごく。
「のがしはせぬぞ!」
わめいて、折っていた片ひざがばねのように立つのに、お縫は思わず足音をたてて走った。――同時に、その方向へ斬りつけてくる幻五郎の戒刀。盲目なるがゆえに、かえって闇も無力とみえる。――それどころか、お縫の方が、足指のひとつでマキビシをふんで、姿勢がくずれた。
姿勢がくずれたのが、思いがけぬ倖《しあわ》せとなった。本来あるべきお縫のからだの位置へ、びゅっと戒刀が闇を裂いたからだ。のめりつつふりかえりざま、お縫は燭台を投げつけて庭へとんだ。
かっと凄じい音をたてて、燭台は二つに斬りおとされている。幻五郎はついに血まみれの眼をむき出しにして、お縫のあとを追いかけたが、
「あっ」
と、さけんで庭へころがりおちた。眼をつぶされたとて、甲賀七忍だ。お縫のゆくえこそその気配で追ったが、さすがにおのれのまいた鉄のマキビシだけはよけそこねた。
庭からはねあがったとき、幻五郎のからだの数ヵ所からも血がたれていたのは、そこにおちていたマキビシにつき刺されたものであろう。そのまま、阿修羅《あしゆら》のように追いすがってくるよりはやく、お縫は裏門から夜の甲賀町へにげ出していた。
まるはだかではあったが、どうすることもできなかった。それにしても彼女は、このまま軽子坂まではしるつもりか。
いや、牛込軽子坂はおろか、神田へおりる甲賀坂で、すでにうしろに彼女は嵐のような憤怒にもえる幻五郎の息をきいた。
のめるようにかけおりてゆく坂の下に、ふいにいくつかの提灯があらわれた。のぼってくる駕籠《かご》を、十数人の供侍がつつんでいる。それと見つつ、もはや横へとびこむ路地もなく、
「おたすけくださりませ!」
と、お縫はそのなかへかけこんでいった。
夜とはいえ、ふいに白い獣のようにとびこんできたはだかの娘には、武士たちも仰天したに相違ない。
騒然とみだれたって、
「狼藉者《ろうぜきもの》!」
と、数人がとりおさえる。
そのうしろから、たたたた、と走りおりてきた幻五郎が、気がついて身をひるがえそうとしたが、ふだんの彼ではない、眼とからだの傷の不自由さがようやくあらわれて、
「待てっ」
と、かけつけていった武士たちに、これまたとりおさえられたが、
「おっ、血――血まみれではないか!」
とひとりがおどろきの声をもらした。
幻五郎は声をしぼって、
「きゃつ、乱心の下女でござる。おとりおさえくだされたか?」
「いいえ、ちがいます。わたしは甲賀町の女ではありません。あの男が、わたしをつかまえて、手籠にしようとするのでございます」
と、お縫がさけんだとき、錆をふくんだ声がした。
「幻五郎ではないか?」
駕籠の中からである。
「あっ、柳沢の殿!」
狼狽《ろうばい》した幻五郎よりも、そのさけびで、もっと絶望的な一撃を、お縫は鼓膜《こまく》にうけていた。
窮鳥《きゆうちよう》は猟師のふところに入らず、かえって罠《わな》に身をなげこんでいったのである。――駕籠の主は、柳沢出羽守吉保であった。
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三日のち葵の花散るべし
一
「幻五郎、いかがいたしたのじゃ?」
と、駕籠から半身のり出して、吉保はいった。寝覚幻五郎はべたと両腕を地について、
「そやつ、のがしてくだされな、葵悠太郎の一味でござる!」
「なに?」
と、吉保はきっとして、お縫を見る。はだかのお縫は、武士たちに腕をとられて、もがいていた。吉保はもとよりお縫の存在など知らず、そのうえこの美しい娘がまっぱだかで幻五郎に追われているという眼前の事実を、とっさにどう判断していいかわからなかったようだ。
「して、悠太郎は?」
「はっ、きゃつが牛込軽子坂の蓮華寺と申す古寺にひそみおることを探知いたし――」
「鮎姫もか?」
と、吉保の声はうわずる。
「されば――」
「それがわかりつつ、うぬら、何をしておる?」
「あいや、それゆえ、空蝉刑部、鵜殿一風軒、葉月の三名、先刻牛込へかけつけ、いまごろ、きゃつを討ち果たしたころと存じまする」
「それはたしかか」
「おそらく。――」
「鮎姫のいのちはぶじか?」
「おそらく――」
「おそらく? おそらくでは、心もとない、よし!」
と、吉保は狼狽して、供侍たちをふりかえり、
「うぬらの半ば、ただちに牛込軽子坂の蓮華寺とやらへまいれ。かならず曲者を討ち、鮎姫を救ってくるのだぞ!」
と命じた。たちまち、武士たちのうち十人ちかくが押っとり刀で、夜目にも白く埃《ほこり》をまいてかけ出した。
「幻五郎、この女が、悠太郎めの一味じゃと?」
「されば、きゃつの……」
「色おんなか」
と、吉保はひどく庶民的な言葉を吐いて、提灯の灯あかりに歯をくいしばり、顔をそむけるお縫を、もういちど――不謹慎な眼でみた。百六十石の小姓から累進して老中となり、そのうえおのれの寵妾を将軍に献ずる人物だけのことはある。
「その女が、どうして――」
と、幻五郎に眼をうつして、
「や、幻五郎、うぬは眼をつぶされたな?」
「そ、そやつのために、思わぬ不覚を――そ、その女めを斬ってくだされ!」と、幻五郎は血まみれの顔をふってわめいた。吉保は苦虫をかみつぶしたような表情でそれをみていたが、やがて冷たい声で、
「左様か。悠太郎の一味とあれば、余《よ》みずからとり調べたいこともある。それはそうと幻五郎、そちはいま悠太郎を討ちにまいったは、刑部、葉月、一風軒と申したが、民部は、いかがいたしたのじゃ?」
「民部めも、……その女めに殺されてござる!」
「なに? 民部も――さきに天羽七兵衛を討たれ、余のまえで外記を斬られ、また民部が殺され、そちは盲にされる。なんたる醜態《しゆうたい》――今宵、余が出てきたのも、左様なことでもあろうかと案じたればこそだ。もはや、うぬらにはまかせられぬ。何が、甲賀七忍――幻五郎、玄斎を呼べ」
「殿――玄斎老は――」
と、幻五郎は唇をねじまげた。服部玄斎の死んだことは、まだ秘中のことだからだ。それは、葵悠太郎を討ち、お志乃の婿をきめてからとどけ出ようという彼らの内輪の約束であった。しかし、いま吉保に玄斎を呼べ、といわれては、もうかくすことは不可能であった。しかし、
「なんと――玄斎も悠太郎に殺されたと申すのか!」
「御意。――」
と、幻五郎は地に這いつくばった。玄斎の死んだのは、病死であるが、やけくそであった。
「たわけっ」
と、吉保はたまりかねて、叱咤《しつた》した。そして、暗くひかる眼で甲賀坂の上をあおいでいたが、
「余はかえる!」
と、駕籠にふたたび身を入れて、唇をぐいとひんまげた。その気配を幻五郎は知って、
「しばらく――殿、いま、しばらくお待ちくだされ。かならず、刑部らより、いまに吉報がまいりましょう」
「万が一、悠太郎を討ちそこねてみよ、うぬらもきっと成敗《せいばい》いたすぞ!」
と、吉保はたたきつけるようにさけんだ。
「首尾の知らせは、余が邸で待つ。それまで、この娘はこちらにとどめおくぞ」
二
葉月をのせてきた辻駕籠に鮎姫をなげこんで、空蝉刑部は走り出したが、なかからひっきりなしに、「悠太郎さま! 悠太郎さま!」と、さけぶ声と、はてはとび出そうとする鮎姫を、すっかりもてあました。
「しずかにあそばされい! 拙者ら、姫をお救いにまいったのでござるぞ!」
と、制止しても、
「いやじゃ、救ってもらいとうはない! これ、駕籠をかえせ!」
と、金切声はとまるどころか、
「おまえら、悠太郎さまをだましたな。わたしとお縫をとりかえるなら、なぜわたしをかように手籠《てごめ》にしてにげる? 寺で何やら恐ろしい声がきこえたではないか。――悠太郎さまを、どうしたのじゃ?」
深編笠のなかで空蝉刑部は「くっ、くっ」と、うめいた。彼とても、あとにのこしてきた一風軒と葉月のことが気にかかる。駕籠屋に命じて、甲賀町へさきにはしらせ、じぶんはすぐにとってかえすつもりであったのが、この姫のあばれようではぶじはこんでゆくだけが精いッぱいだ。それのみか、鮎姫が悠太郎の名を呼びつづけるところをみると、さてはわるい予感があたったな!
「刑部どの」
葉月が、うしろからかけてきた。さすがに肩で息をしている。
「お、悠太郎はどうした?」
「いまひと息とは思うたが、やはりわたしひとりでは」
と、葉月はちぎれるほど唇をかむ。
「一風軒は?」
「刑部どの、それが、無念――一風軒は、悠太郎とまちがえてお志乃さまを刺し――」
「悠太郎に斬られたか!」
「そうらしい。――刑部どの、もういちどひきかえしてくだされ」
そのとき、駕籠のなかから、また「悠太郎さま! 悠太郎さま!」
と、さけびたてる声がした。
「このとおりだ」
と、刑部は舌うちした。葉月はしばらくそのさけびの意味をさぐるように駕籠をにらんでいたが、やがてそのからだから、ひらひらとひとすじの布がうねり出すと、まるで生きているもののように、走る駕籠に巻きついてしまった。
「葉月、ひとまず出なおせ。姫の始末がさきだ」
「おぬしはそれでよかろうが」
と、葉月は腹立たしげにいって、急に例の音波のない声に変った。
「――刑部どの、姫がしきりに悠太郎の名をよぶのは?」
「――案の定、きゃつのために、女にされたらしい」
「――それでは、出羽守さまのもとへかえしても、首尾はようあるまいが」
「――それだ。おれはこのまま、姫をさらってどこかへにげたいくらいじゃ」
「悠太郎に汚されてもか?」
「――ちと、業腹だが、やむを得ん。かえって、どうせ汚されたからだじゃ、わしと暮しても、姫もあきらめがつくだろう」
「――刑部どの、七兵衛、外記、民部、一風軒を殺され、まさかおぬしはこのまま姫だけさらってにげるつもりではあるまいな?」
「――たわけたことを! それのみか、姫を汚されておれがきゃつから手をひくと思うか。そのためにも、かならずきゃつに復讐せずにはおかぬ」
――しかし、たとえ空蝉刑部が姫をさらって逐電しようとかんがえたにせよ、それは不可能であったろう。なぜなら、そのとき、むこうから地ひびきたてて、武士の一団がかけてきたからだ。
「やっ――あれは、柳沢さまの」
と、刑部がさけんで立ちどまった。提灯《ちようちん》にえがかれた四つ菱《びし》は、柳沢の定紋だったからである。その声にゆきすぎかけた武士たちも、
「お! もしかしたら、そなたらは、蓮華寺へまいった甲賀町のものではないか?」
「されば――」
「拙者ら、出羽守さまのお申しつけにより、そちらにおしかけるところじゃ。葵悠太郎と姫はどうした?」
「姫はここにおいであそばすが、すりゃ、寝覚幻五郎からでもきかれたか。幻五郎がどうかしてござるか?」
「どうやら、娘に眼をつぶされたらしいぞ」
「えっ」
と、葉月は面《おもて》をたたかれたように立ちすくんだ。それにはかまわず、相手はかみつくように、
「して、悠太郎は?」
「まだ蓮華寺に――」
「なにっ、まだ討ち果たさぬのか!」
と、さけぶと、彼らはみじかく何やらささやきあい、二、三人のみをのこして、またどっとかけ出す。
「鮎姫! 鮎姫さま!」
と、のこった武士は駕籠にとりすがり、まきついていた布を切りはらった。なかから、絶望のために、喪神《そうしん》したような鮎姫の姿があらわれるのを、刑部と葉月は、これまた呆然《ぼうぜん》とみて、顔を見あわせた。
蓮華寺に武士たちが乱れ入ったとき、そこにみたのは、美しい娘の死微笑をたたえたなきがらと、からだを両断された黒装束男の凄じいむくろだけであった。黒衣の鵜殿一風軒の胸には、赤い葵の花が一輪投げすてられていた。
三
「――ともあれ、ゆかずばなるまい」
と、腕ぐみをといて、空蝉刑部は、般若面《はんにやめん》のかげから重い声でいった。しかし、葉月はとみにはうごこうともせず、横たわったままの寝覚幻五郎を、不安げに見つめつづけていた。
玄斎屋敷のなかである。幻五郎は顔いちめん白い布で巻いて、わずかにのぞいた鼻口から、痛苦のうめきをもらしていた。
「幻五郎はよかろう。葉月とふたりでゆけば、用は足るわ」
「出羽め、悠太郎を討ちもらしたら、成敗すると申したぞ」
と、幻五郎があえぎながらいった。
「ふふ、おれと葉月ともあろうものが、やわか小姓あがりの大名に斬られるかよ」
と、般若面のかげから、嘲笑《ちようしよう》がもれる。
惨澹として甲賀町へひきあげてきて、夜があけてからである。柳沢家から使者がきて、この屋敷の塀に、こんなことをかいたのである。
「三日ののち、小塚原《こづかつぱら》に葵の花散るべし」
そして、その足で屋敷に入ってきて、彼らにただちに神田橋門内の柳沢邸にまかり出るように命じて去ったのだ。
――三日ののち、小塚原に葵の花散るべし。
「お縫のことじゃな」
「あの娘を斬るということだろう」
「それをなぜこの屋敷の塀にかいたのか」
「人間、かんがえることは、だれもおなじよ。罠じゃ、悠太郎にそれを知らすためじゃ。きゃつは、きっとこの屋敷にお縫をさぐりにくる。そして、あの文字をみて、小塚原にさそい出されるものと、出羽はかんがえた。――」
「してみると、出羽守は、もはやおのれの手で悠太郎を始末するつもりだな。われわれは無用とみえる」
「そこでばっさりお手討ちか」
と、三人の忍者の陰気な会話はまたそこにもどる。
「まさか、そうでもあるまい。われわれとても、好んで悠太郎を討ちもらしたのではない。すでに、七忍のうち、四人の犠牲者を出し、一人は盲とされ、お志乃どのの死んだのも、ひいてはきゃつのためだ。のみならず、われわれはあの鮎姫をうばいかえしたではないか。――にもかかわらず、出羽がわれわれを成敗するとあれば、こちらにも覚悟がある。――むしろ、鮎姫をひっさらうきっかけができて、わしはうれしいわ」
不敵な刑部の声だ。鮎姫はあのまま柳沢邸へはこび去られたのである。
葉月が、宙をみて、呪いにみちた声でつぶやいた。
「たとえ、出羽守さまにとって、わたしたちが無用としても、わたしたちにとって、悠太郎は無用な人間ではない。きっと、わたしたちの手で、きゃつを討ち果たす」
「ふふふふ、そのとおりだ。ちょっとは、死ねぬなあ。――さ、葉月、ともかく、柳沢へゆこうか」
と、刑部が立ちあがったときだ。あわただしくかけてきた小者が、いった。
「もしっ――この屋敷のまえにきて、さっきからあの塀の文字をながめたり、門のなかをのぞきこんだりしているいぶかしい虚無僧がござります」
「えっ、虚無僧が?」
「来たか!」
深編笠と大刀をひっつかむ刑部につづいて、葉月もはっと立ちあがった。
「――三日ののち、小塚原に葵の花散るべし。……」
玄斎屋敷の門前にあつまって、ざわめいている十数人の武士や物売りたちからややはなれて、口のなかでこうつぶやきながら門のなかをのぞいていた虚無僧の足へ、門の扉のかげからスルスルとのびてきたひとすじの布が、蛇みたいにまきついた。
ふいのことで、悲鳴をあげるまもなく、たたたた、とひかれていって、門のなかでどうとたおれたその虚無僧のあたまから天蓋がとんだ。
「あっ」
と、さけび声をたてたのは、扉の内側から出てきた葉月だ。
「ちがう!」
天蓋の下からあらわれたのは、葵悠太郎とは似ても似つかぬ中年の武士の顔だった。
「何をいたすっ」
さけびつつ、腰から一刀がひらめいて、その布をきりはらう。その声に、
「やっ、どうした?」
と、壁の文字のまえから、またひとりの虚無僧がかけてきた。
葉月はもとより、そのうしろから出てきた空蝉刑部も、ふたたびぎょっとして刀の柄《つか》に手をかけたが、かけよった虚無僧がぐいと天蓋をあげてにらみつけた顔をみると、若いが――これまたちがう。
唖然《あぜん》とした刑部と葉月のまえに、ふたりはつめよって、
「これ、何としてかような狼藉《ろうぜき》をいたした?」
その眼つきのするどさに、刑部は、相手がわるい、と見てとって、
「あいや、おゆるしくだされ、この女は狂人でござれば……」
「うぬは何じゃ、あやまるに笠をかぶったままという法があるか」
「笠をとれ」
葉月が冷たい声でいった。
「刑部どの、しかしこの両人、たしかに不審なふしがある。もしかすると、敵のまわし者かもしれぬ。……」
「なにっ、われわれが敵のまわし者? 敵とはなんじゃ、まわし者とはなんじゃ?」
刑部は、葉月のうしろからささやいた。
「葉月、よせよせ、人ちがいじゃ。柳沢へゆく時もせまっておる。……」
葉月は舌うちして、うなずくと、その白い手がひらめくように肩と胸をかすめて、朝のひかりに布が二、三片舞った。
「あ。……」
この思いがけぬ行為にふたりの虚無僧は眼を見はったが、すぐにまえの葉月につかみかからんばかりに、
「たわけ、なんのまじないじゃ?」
「いよいよ以って無礼な奴! われわれに不審とは盗人たけだけしい。あの壁の奇怪な文言《もんごん》を読んで不審の気を起さぬ者こそふしぎ。――」
「これ、あの文字の意味はなんじゃ?」
急にふたりはだまりこんだ。空に舞いあがった布は、しずかに地におちようとしている。そのなかに――たしかに女とみえた眼前の人影が、すっと透明になると、みるみる一枚の薄絹に変って、音もなく地上にくずれおちたのである。
本物の女といまの深編笠は、もうどこにも姿はみえなかった。
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老竜出府
一
「鮎姫」
と、おさめの方《かた》は、いらだった声で呼んだ。
「なぜだまっていやる?」
鮎姫は、うなだれたままであった。――家来たちとともにかえってきたときから、彼女があさましい獅子舞いの姿をしているのと、その様子がうちのめされたようなのに、吐胸《とむね》をつかれたが、ともかくも一夜をねむらせた。
そして、朝になると、すぐに吉保《よしやす》の居室によんで、いろいろときくのだが、鮎姫はうつむいたまま、だまっている。もとの姫君姿にもどったが、彼女はまえの明るい活溌な鮎姫とは、別人のようであった。
「鮎姫、どうして父上のおたずねにお答えができないのじゃ?」
吉保は、にが虫をかみつぶしたような表情で、鮎姫を見つめていた。――むろん、彼の心をにえくりかえらせているのは、鮎姫が返事をしないということではない。さっきから遠まわしにきいているとおり、おそらく悠太郎のために身を汚されたに相違ないという想像だ。それも、鮎姫の運命をあわれむというより、彼女と甲府|中納言《ちゆうなごん》、を結びつけようとする布石に、思いがけぬつまずきが生じた、といういきどおろしさからであった。
「おさめ、もう問うな。こたえぬのが、何よりのこたえじゃ」
と、吉保はうめいて、唇をかんだ。
「かく相なったうえは、このためにも悠太郎めを誅戮《ちゆうりく》せねばならぬ。お鮎、くやしかろうが、いましばらくのがまんじゃ。そなたのかたきはきっと討ってつかわすぞ」
鮎姫は、はじめて顔をあげた。
「父上さま、わたしのかたきを討つなどは、ご無用のことでございます。わたしはあのお方に、どのような目にもあわされてはおりませぬ」
「――あのお方?」
ふたりは妙な声をあげて、ひかる眼を見あわせたが、すぐにおさめの方が、
「あのお方とは、葵悠太郎のことか?」
「はい、葵悠太郎さまのことです。かたきを討たねばならないのは、あのお方のほうではありませんか。あの方は、何もなさらないのに、父上さまのほうから手をのばしてあの方のご家来衆を殺されたとか。……」
「姫! そなたは、悠太郎の素姓を存じておるのか!」
「ご先代のご落胤《らくいん》と承わりました」
「たわけ! それは、きゃつらの世をおそれぬ大陰謀、夢物語じゃ。厳有院《げんゆういん》さまにご世子がおわさなんだことは、天下の知るとおり――さればこそ、御弟君の当代さまが将軍家とおなりあそばしたのではないか」
「もし葵悠太郎さまがにせものならば、父上さまはなにゆえ、あのお方のおいのちをお狙いあそばします」
「世の静謐《せいひつ》をはかるは大老職の務めじゃ」
「それならば、なぜいかがわしい忍者などをおつかいになるのです」
吉保はつまった。――このじゃじゃ馬姫には、ふだんからよくやりこめられた。それをむしろよろこんで、笑っていたものだが、こんどだけは、顔色もかわっていた。しばらく声も出ないのに、鮎姫も鮎姫らしくなく、必死の姿で両手をついて、
「お鮎は情けのうございます。父上さまには、天魔が魅入《みい》ったとしか思われません。……わたしは、この屋敷にかえるのが悲しゅうございました。わたしがもの思いにくれていたのは、どうしたら父上さまに、ご翻意《ほんい》いただけようかと、それのみ思案にくれていたのです」
「だまれ、だまれ、だまれ」
と、吉保は満面を朱にそめてさけんだ。
「天下の大事は、女子供の知るところではない!」
「それならば、この屋敷におつれあそばしたという、あの獅子舞いの娘をはなしておやりなさいませ」
「なに?」
「あれは、悠太郎さまにとって、ご自分のいのちよりも大事な娘なのです。たとえ父上さまがお手をひかれても悠太郎さまがおゆるしになるかどうかはわかりませんが、それでも、せめてあの娘をおかえしなされたなら、あのお方のお心もすこしはやわらぐかもしれません。……」
鮎姫の声はしずみ、しかも悲痛なふるえをおびていた。どのような思いで、この言葉を口にしたことか。――おそらく、いままで彼女の胸をいっぱいにしていたのは、吉保の反省をうながす思案もさることながら、この言葉を吐く決断の苦しみであったろう。
「あれは……」
と、おさめの方は息をひいて、
「悠太郎の女房かえ?」
「まだ、そうではない様子ですが……とにかく、あの娘のために、お鮎は悠太郎さまにきらわれました」
蒼白い鮎姫の片頬に、にがい笑いが痙攣《けいれん》して、
「姉上さま、お鮎は悠太郎さまが好きになりましたけれど、あちらからおことわりを受けました。ですから――さっきから、お鮎のからだのことについていろいろご心配のようでございますけれど、それは……大丈夫でございます」
「そりゃ、まことか!」
と、吉保はさけんで、鮎姫の眼をのぞきこんだ。――蓮華寺《れんげじ》へむかわせた家来たちが、途中で鮎姫を受けとったとき、彼女が狂的に悠太郎の名を呼びつづけた報告はうけていたし、信じられない、といった表情であった。しかし、鮎姫の眼はかすかな涙にひかってはいたがきれいだったし、それにこの娘はまえから嘘はつかない気性であった。急に、
「これよ」
と、ふりかえって、隣室から侍臣を呼んだ。そして、
「苦しゅうない。寄れ。耳をかせ」といって、扉のかげで家来に何やらささやいた。家来はうなずいて、すぐに去った。
――柳沢の家来が甲賀町へ走って、玄斎屋敷の塀にあの文字をかき、生きのこった忍者の出頭を命じたのはその結果である。
それから、吉保は鮎姫に笑顔をむけて、
「葵悠太郎めが、前将軍家のご落胤などとは大笑いじゃ。乞食《こじき》同然の獅子舞い娘と乳くりあうにふさわしい素浪人――そなたをみては、眼もくらんだのであろうよ、はははは」
「父上さま、いま家来に何をおいいつけになったのですか」
「あの娘をかえしてつかわすから、悠太郎に受けとりにまいれ、と告げにやらせたのじゃ」
「えっ……いつ――どこで?」
「三日のち、小塚原で」
とっさには、吉保の意中を判じかねて、鮎姫はまじまじと見つめたままだ。その眼から、まぶしげに吉保は視線をそらして、
「あの獅子舞い娘のことは、もうよい。――それより、お鮎、わしが何ゆえ、昨夜甲賀町へ出かけたか知っておるか」
「存じませぬ」
「そなたのことが案じられて、居るにも立つにも、たまりかねたからじゃ。むろん、このままでも、そなたのことを思うとわしもおさめも、夜の目もあわぬくらいであった。しかし、ただそれだけではない」
「と申されますと?」
「いまより、七日ののち、上さまが当家にお成りあそばす」
「上さまが――」
と、さすがに鮎姫の眼がひろがった。
しかし、将軍綱吉が柳沢邸にくるのは、はじめての話ではなかった。それは姉のおさめの方に逢うためであり、またおさめとのあいだに生まれた、ことし十二になるかくし子|吉里《よしさと》の顔をみるためであった。そのことを、鮎姫も知っていたが、悠太郎の存在を知ってからは、この権勢《けんせい》と色欲とからみあったやりとりが、吐き気をもよおすような嫌悪感《けんおかん》をさそう。――しかし、それがじぶんとなんの関係があるのか?
「そのとき、上さまとおんともに――」
と、吉保はまた鮎姫に眼をもどして、
「甲府中納言さまもおいで遊ばすのじゃ」
あっ、と思った。綱吉の仲兄|綱重《つなしげ》の子――甲府中納言綱豊は、万一、吉里が六代将軍たり得ない場合、その職を襲うものとみられている人であり、それゆえに吉保が、鮎姫の肉体をもって、綱豊と柳沢家を結びつけようとしていることは、彼女もまえから知っていた。のみならず、その運命を誇りにさえ思っていた彼女であったけれど。
「その夜は、上さま、中納言さま、おんふたかたとも当家にお泊りあそばすはず」
吉保はくいいるようにいった。
「お鮎、中納言さまのお伽《とぎ》をたのんだぞよ」
――いやです! そう絶叫しかけて、鮎姫は声をのんだ。
「柳沢家の未来をにぎるのはそなたじゃ。わしがそなたをあの素浪人にさらわれて、心腸九廻の思いに苦しみ、はては甲賀町まで出かけたわけがこれで分ったであろう」
「ち、父上さま!」
と、鮎姫はさけんだ。
「なに?」
「わたしが父上さまのお申しつけをききましたなら、悠太郎さまのおいのちを狙うことをやめてくださいますか?」
吉保の顔をすうと不快な影がとおりすぎた。また疑惑がよみがえったのと、もしこの姫が悠太郎に犯されなかったなら、どうしてこれほど彼の身の上を案ずるのか、という判断に困惑したからであった。しかし吉保は、何かさけび出そうとするおさめの方を、大町人のように老獪《ろうかい》で洒脱《しやだつ》な笑顔でおさえて、
「おお、なんでもきいてやろう。よいわ、あれには、もうかまわぬ」
と、いった。
家来がまたいそぎ足で入ってきて、扉のかげで吉保に何か報告したのは、それからまもなくであった。
「甲賀町の忍者両人、推参いたしてござりまする」
と、告げたのである。
二
おなじ柳沢邸の林の中だが、いままでとちがう。あくまで明るい早春の真昼であった。みあげれば、樹々に小さなみどりの灯がともったように新芽がふいて、ふりそそぐ日光も心なしか緑いろであった。しかし、その下にうずくまったふたりの忍者が、肩をすぼめ、からだもいたいようにちぢめているのは、その日光のせいばかりではなかった。
「わしも、おまえのように面をつけたいわ」
と、葉月がつぶやいた。枯葉をなでるほど深編笠をふせた空蝉刑部は、
「出羽め、何をぬかすやら――」
と、いいかけたが、ふと、その編笠をまわして、
「はてな」
「どうしたえ?」
「林のまわりを」
そのとき林の外から足音もあらあらしく、吉保が入ってきた。これもいままでの例とちがって、四、五人の侍臣をしたがえている。すぐまえに仁王立ちになり、きっとにらみおろして、
「刑部と葉月よな」
「お召しによって参上。――」
「寝覚はいかがいたした?」
「幻五郎めは、眼の傷にて――」
「ふむ、七忍が、二忍となったわけじゃな」
嘲けるような声であった。刑部がうめくようにいった。
「恐れ入ってござりまする。……殿、しばらく、いましばらくお待ちくだされい」
「その言葉は、まえにきいたわ」
「ご立腹もさこそとは存じまするが、何さま、鮎姫さまをお救い申しあげるのに気をうばわれ。……」
「いいわけはきかぬ」
ビシリと鞭のように冷酷な声であった。ふたりの忍者はふるえながら沈黙した。
「ところでな、刑部」
と、吉保は語気をかえて、
「鮎姫のことじゃが……あれの身に……悠太郎めが、あれの身をけがしたと思うか」
「へ。……」
「ありていに、存じよりを申せ」
「殿、まことに申しにくきことながら」
「犯されたと申すか?」
「は。……」
吉保はしばらくだまって、ふたりを見おろしていたが、その眼がギラリとひかって、
「両人、それへなおれ」
と、さけんだ。ふたりは、はっと顔をあげる。
「余の申しつけたことは、鮎姫をきれいなからだのままとりかえすことであったぞ。それがかなわなんだとあれば、覚悟はあろう。――」
「あいや、殿、ご成敗《せいばい》は、われわれが悠太郎めを討ち果たしてから受けとうござる。このままにては、甲賀忍法の名にかけて」
「ええ、甲賀忍法が片腹いたい。――もはや、なんじらをたのまぬ。うぬらにたよっていては、まにあわぬことがあるのだ。このたびのこと、得べくんば余は、闇から闇へことをはこびたかった。それゆえ、ことさらなんじらに申しつけたのじゃが、うぬらはその期待にそうてはくれなんだ。もはや、余自身であの素浪人に手を下す。――昨夜、余みずから甲賀町に出むいたこと、また、きょう白日の下にうぬらを呼んで、その姿を家来どもに見せたことからでも、そのことはわかっておろう」
「殿、しかし、悠太郎めはどこに?」
「こちらでとらえる。――あの獅子舞いの娘、八剣民部を殺した、と申したな。民部め、あきれはてた不心得者ながら、それでも直参《じきさん》、直参をあやめたとあれば、女とは申せ、磔《はりつけ》 獄門《ごくもん》といたしてもまだ足りぬ。じゃによって、三日ののちに、小塚原で磔にかけてくれよう。悠太郎め、かならずその場におびき出されるであろう。のみならずきゃつが指をくわえてそれを見殺しにするとは思われぬ仲とやら。そのとき、天下のお裁きに狼藉《ろうぜき》いたす素浪人として、百人千人の捕手をもってつつみ殺してくれる」
これは、刑部たちも想像したことだから、声もなくうなずく。――しかし、これで吉保が、鮎姫の必死のねがいなど一顧《いつこ》だにしていないことはあきらかであった。
「相わかったか、この役たたずめ! 恥を知ったら、神妙に首をのべよ」
「あいや、殿――そ、そのまえに、拙者どもが悠太郎を――」
「無用」
と、一刀をぬいて、
「にげるか、みれん者!」
さっと立ったふたりの姿を、あわてて刀身が追った。
「みれんはござる。きゃつに殺された四忍の恨みのため、まだ拙者らはきゃつの首にみれんがござる!」
「待てっ――鮎姫の身が汚された、と思うておる奴らは、生かしてはおけぬのだ。ものども、こやつらをのがすな!」
侍臣たちがいっせいに抜刀すると同時に、林のまわりから何十人となく家来の群れが樹々をへし折ってなだれこんできた。
空蝉刑部は狼狽した様子もなく、草のなかにつっ立って、それを見まわした。
「葉月――いっそ、サッパリしたではないか」
と、うす笑いの声がながれた。
葉月は女豹《めひよう》のように蒼くひかる眼を周囲になげて、殺到する剣光のなかにぐるっとからだをまわすとともに、その手からたちまち五色の奔流のごとく布をなげはじめた。薄絹はながれ、とび、ひるがえりつつ、みるみる樹々と枯葉のなかに無数の葉月をえがき出してゆく。
「やっ、こ、これは!」
武士たちがめんくらって、それぞれの葉月に斬りつけるたびに、いよいよ葉月の姿は数をまして、彼らを幻惑させた。
「こやつ、殿にお手むかいいたすか!」
ひとり、われにかえって、葉月はすてて空蝉刑部に真向から斬りこんだ。ばさ! と深編笠から胸にかけて、彼は無造作に割りつけられたが、たおれたその笠と衣服のなかに、すでに刑部の現身《うつしみ》はなかった。
「ううむ。き、きゃつら……」
柳沢吉保はたちすくんで、まわりにきちがい踊りをおどっている幾十人かの家来たちを、うなされたように見まもっていた。彼の依頼した甲賀町の忍者の、そうやすやすとあなどるべからざることを、いまにして身をもって知ったのである。
三
江戸より三十里――水戸の西山にある黄門さまの隠居所へ、砂塵をあげて疾駆してきた馬からとびおりると、わらじ、裾《すそ》はもとより、天蓋《てんがい》までまっしろに埃《ほこり》をあびてはせつけたふたりの虚無僧がある。
「なに、助三郎と格之進がかえったと? 足などすすぐにおよばぬ。すぐに通れと申せ」
と、御老公にいわれて、ふたりはすぐに奥へとおった。天蓋をとった顔は、これは江戸の甲賀町玄斎屋敷で、刑部と葉月に見とがめられたあの虚無僧であった。
ふたりは、はずむ息をおさえて何やら黄門に報告したが、その言葉をきくのもいらだたしげに、
「それで、若君のおわすところはまだ知れぬのか」
と、きく御老公の声に、
「はっ、それが蓮華寺に一足ちがい――」
と、ひとりがいい、またひとりが、例の玄斎屋敷の壁の文字のことをいうと、
「ほ、柳沢のものが――三日ののち、小塚原に葵の花散るべし、とかいてゆきおったと?」
黄門は首をかたむけ、すぐにその眼が眉雪《びせつ》の下で爛《らん》とかがやくと、
「よし、すぐにわしも江戸へゆこうぞ」
「はっ。……さりながら、ご帰国あそばしたばかりのところ、ご老体には――」
「たわけっ」
と、黄門は叱咤《しつた》して、ぬっくと立ちあがった。
「わしのからだのことなどどうでもよい。天下の一大事じゃ。ただちに江戸へゆく支度を申しつけい!」
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虎口と狼牙
一
鮎姫は、屋敷にきて吉保《よしやす》と密談し、夕刻|倉皇《そうこう》として去ったふたりの客が、江戸町奉行の松前伊豆守《まつまえいずのかみ》と牢奉行の石出帯刀《いしでたてわき》だということをきくと、顔色をかえた。
彼女のあたまを、きのうきいた吉保の言葉がかすめた。「お縫をかえしてやるから、悠太郎に受けとりにまいれといってやった」と、吉保はいい、「いつ? どこで?」と、じぶんがたずねたのに、「三日ののち、小塚原で」という、返事を耳にしたのである。
あのとき、とっさにその意味もわからなかったが、いまようやく鮎姫は、吉保の心を読みとったのであった。小塚原――千住にあるその地名は、いうまでもなく刑場だ。吉保は、お縫を刑場にひきずり出そうというのだ! お縫を悠太郎の一味と知って、斬ろうと思えばこの屋敷でも斬れるのに、三日のち小塚原へひき出そうというのは、お縫を斬るためのみならず、悠太郎さまもそこへさそいよせようという企《たくら》みからに相違ない。吉保はじぶんとの約束をふみにじろうとしている。じぶんの哀願など、どこふく風とききながしている!
三日ののち――いや、それは二日のちにせまった。いま町奉行と牢奉行を呼んだのは、大老職の権威を以て、お縫を小塚原へひきずり出す手をうったのだ。おそらく、きょう明日にも、牢屋敷からお縫を受けとりにくるだろう。そうなったら、万事休す。いかにじぶんがあがいても、お縫のいのちはもはや死の竜車にのせられたも同然だ。
彼女はわななきつつ、立ちあがった。しかし、そのまま釘づけになった。
「わたしは、何をしようとしているのだろう?」
お縫が死ぬ! それはじぶんの何より望んでいたことではなかったか。
「わたしは、あの娘をたすけようとしているのか?」
あの娘をたすける。あの娘は、悠太郎さまのところへかえってゆく。耳を、「甲賀町の往来を俎《まないた》として、わしははだかになって身を投げ出しても、お縫だけは救い出さねばならぬ」と、うめいた悠太郎の声がかすめた。瞼《まぶた》に、「姫、いってくれ!」と、さけんで、忍者たちを指さした悠太郎の姿がうかんだ。あのひとは、わたしよりもお縫のほうを心にかけていらっしゃる!――彼女の心は、嫉妬《しつと》にねじれた。
鮎姫は、眼をとじてすわった。しかし、悠太郎の悲痛な声は耳底に鳴りつづけ、祈るようなあの姿が、彼女のまっくらな視界をぐるぐるとまわった。
いや、わたしはあの娘を救い出さねばならぬ! あの娘のためにではなく、悠太郎さまのために!
鮎姫はまた立ちあがった。そして、よろめくようにあるき出した。
お縫をとじこめてある場所は、気配で知っていた。屋敷をとりまく四方長屋のうち北御長屋のひとつらしい。
「姫君、どこへおゆきなされます」
二、三度、すれちがった武士や侍女たちに呼びとめられたが、鮎姫は返事もしなかった。この姫君の活溌な気性はだれも知っていたし、強《し》いてきけば鞭《むち》でうたれかねない経験はみながもっていたし、またそのゆくさきがお縫という囚人《しゆうじん》だときいたところで、まさか鮎姫が彼女をたすけにゆこうとは、想像もおよばないことであった。
北御長屋のその一戸は、いま空家になっていたが、そのまえに槍をついた三人の番人が立っていた。
「あっ……これは、鮎姫さま!」
と、三人は狼狽《ろうばい》しておじぎするのに、
「みな、あっちへおゆき」
と、鮎姫は犬でも追っぱらうようにいった。
「仰せではござりまするが、拙者どもは……」
「存じておる」
と、鮎姫はうるさげに、
「ここにとらえられている娘は、わたしにとってもにくい敵の一味じゃ。わたしにゆだんはない。……それはそうと、この娘にすこし内密にききたいことがあるのじゃ。みんな、あっちへさがっていや」
番人たちは顔を見あわせたが、つかつかと寄ってくる鮎姫に、いまにも打たれそうにあたまをかかえてとびのき、それからうなずいてあるき出した。ふりかえりふりかえりつつも、命じられたとおり遠ざかっていったが、百歩ばかりはなれたところで立ちどまって、不安そうにこちらをうかがっている。
鮎姫は長屋の中に入った。
なかは、まっくらであった。雨戸はぜんぶ釘づけになり、ただ鮎姫の入った戸口からながれこむ夕ぐれのひかりが、うしろ手にしばりあげられうなだれているお縫の姿をうかびあがらせた。顔をあげて、しばらくこちらをみていたが、ふいに、
「あっ」
と、お縫はおどろきの声をあげた。
「おまえは!」
思えば、蓮華寺《れんげじ》で、そのきものをとりかえて別れて以来である。あのときは鮎姫が囚人であったが、こんどはお縫のほうが囚人だ。それにしても、この姫君が、どうして蓮華寺からもどってきたのか?――囚《とら》われて以来、じぶんの身の上よりも、胸もつぶれるばかりに悠太郎さまのことを案じていたが、それではやっぱり、悠太郎さまは討たれておしまいになったのであろうか?
「殺せ」
と、お縫はうめいた。鮎姫は、しばらくだまっていたが、やがて、これまたひくい声で、
「わたしは殺してやりたい」
と、いった。――それも、蓮華寺でこのふたりの娘がかわした問答とそっくり逆であった。
「けれど……わたしは、おまえをにがしてあげる」
「なぜ?」
「おまえは、二日のうちに、小塚原でお仕置になるからじゃ」
「そんなことは、かくごのまえだわ。それよりおまえの手で殺しておくれ」
「だまって、きくがよい。――おまえの死ぬのはよいとして、そうと知れば悠太郎さまは、きっと小塚原へ斬りこんでおゆきになる――」
「えっ」
と、お縫は息をひいて、
「そ、それでは悠太郎さまはご無事なの?」
そして彼女は、ケラケラと笑い出した。歓喜に縄もひきちぎれそうなほど身をもむ姿を、鮎姫はくやしそうににらみつけて、
「悠太郎さまを殺しとうないのはおまえばかりではない! 悠太郎さまをその死の罠《わな》においこまないために、わたしはおまえをにがしてやるのじゃ!」
と、さけんだ。
笑いの発作《ほつさ》がとまると、お縫はキョトンとして鮎姫を見あげた。
「わたしをにがす。――けれど、わたしをにがせば……」
「わたしは父上に叱られよう。いいえ、叱られるどころか、ご成敗《せいばい》を受けるかもしれぬ。けれど、わたしは、もう死人《しびと》も同然。……」
ほんとうに鮎姫は、その顔色といい、様子といい、死人のようだった。そのまま、彼女はものうげに帯をときはじめた。
「何をするの?」
「おまえは、まえにわたしに化けた。もういちどお化け」
「えっ……」
「これから、わたしのきものをきて、門を出てゆくのじゃ。外は夕ぐれ、遠眼には、まさかわたしに化けたおまえとはだれも思うまい。やすやすと門を出れるとは思えないけれど、このままここにいては、ただ死ぬのを待つばかり……勇気を出して、出ておゆき」
「姫さま……けれど……」
と、思わず、お縫はさけんでいた。
「あなたも、悠太郎さまが好きになったのですか?」
「悠太郎さまは、おまえが好きじゃ」
と、鮎姫は、お縫の問いにはこたえなかった。
「姫さま、それなら、なぜあなたがこの屋敷を出て、悠太郎さまのところへゆかないのですか。小塚原の罠におちないように――お縫を助けになどいらっしゃらないように、と告げに――」
「わたしが悠太郎さまのところへいっても何にもならぬ」
と、鮎姫らしくもなく、かなしげにいった。
「それに、わたしは悠太郎さまのゆくえを知らぬ。それを探しているあいだに、二日が過ぎたら――」
身をふるわせると、といた帯のあいだから懐剣がおちた。鮎姫はきっとして、その懐剣をとりあげて、
「さあ、縄を切ってあげる。じっとしていや」
と、二歩、三歩あゆみ出したとき、うしろから声がかかった。
「姫、何をしておる?」
ふりむいて、鮎姫は、あっ、と絶望の声をあげた。戸口に、いつのまにか侍臣を従えた柳沢吉保が立っていた。
「そなたがここにきたという注進に、もしやと思ってきてみれば、なんたるおろかな――姫、気でも狂ったのか!」
「父上さま!」
と、鮎姫は必死の声をしぼって、
「父上さまこそ、わたしとの約束をおやぶりになりました! あなたは悠太郎さまをやっぱり殺そうとなさっているではありませんか?」
「うむ」
と、吉保は肩をゆすって笑った。眼は、しかし怒りにぎらぎらとひかって、
「約束も、ことによる。犬猫のいのちを助けるのではないぞ。――これ、ものども、姫をとらえい! この両三日、次第によってはこの姫も、しばっておかねばならぬ大事のからだじゃ」
二
さすがにしばりはしなかったが、それから数時間のあいだ、鮎姫は姉のおさめの方《かた》のまえに坐らせられて、涙とお説教の洪水をあびせかけられた。
めずらしく反抗もせず、うなだれたままの鮎姫に、おさめの方は、ようやく胸をなでおろしたというより、甲府|中納言《ちゆうなごん》の愛妾となる夢をすてて、ご公儀が草の根わけてもさがし出し、亡きものにしようとしているえたいのしれぬ素浪人の情婦をのがそうとした彼女の行為が、どんなにばかげたことで、どんなに恐ろしいことか、ちょっとあたまを醒《さ》ましてかんがえてみれば、わかるのがあたりまえだ、と思いこんだが、その実、鮎姫が二日のちに確実に小塚原にえがき出されるであろう無惨な終局を想って、ほとんど自失状態にあることを見ぬくことができなかった。
ああ、なんとかして、お縫をにがしてやれないか?
しかし、もう夜もふけたというのに、庭には吉保に命じられた武士たちが、刀槍をきらめかして巡回している。
――と、そのひとりが、突然「やっ?」と、さけんで立ちどまった。
「なんだ?」
みな、かみつくようにそこへかけあつまる。
「いま、あそこで妙な物音がしたのだ」
「あそことは?」
ぎょっとして耳をすますと、いかにもむこうの樹立ちのなかを、ざ、ざ、ざあっと枯葉をふみちらすような音が、遠ざかってゆく。
「あっ、曲者だっ」
「北御長屋のほうへいったぞ!」
武士たちは愕然《がくぜん》として、一団の黒つむじとなって、その方角へなだれていった。むろん葵悠太郎の襲撃にそなえて、屋敷のまわりは、鉄桶《てつとう》のような警戒陣をしいているはずだから、突如として内庭にきこえた怪しい物音に狼狽したのである。
「待ちや!」
おさめの方は仰天《ぎようてん》してたちあがって、縁側までかけ出した。――そのとたんその縁の下からすうと庭にながれ出て、忽然と立った白い影に、はっとして息もとまり、それが虚無僧の姿とみてとった瞬間、おさめの方は全身の血がひいて、ばたりと喪神した。
「悠太郎さま!」
鮎姫はとびたち、まっしぐらに虚無僧にしがみついた。
「よく、よく、よく――」
と、あえぎつつ泣声をしゃくりあげる肩を、虚無僧は抱きかかえて、梟《ふくろう》みたいに笑った。その声に鮎姫は愕然《がくぜん》として、
「おまえは!」
と、叫ぶと、いきなりその天蓋《てんがい》をはねのけた。そのなかから、朱色の般若面《はんにやめん》をつけた白頭巾の頭があらわれた。
「拙者では、不服かな?」
おぼえがある。蓮華寺からじぶんをさらっていった空蝉刑部という忍者だ。
「いや、さすがの拙者も、今夜の柳沢屋敷に忍びこむには苦労をした。悠太郎にはちとむずかしいな。これも忍者なればこそのわざだ。――あっちへいった物音は、ありゃ蛇のむれでござる」
と、また笑った。
「刑部――な、何しにまいったのじゃ」
「姫君|頂戴《ちようだい》に推参《すいさん》いたした」
「え――」
空蝉刑部は、朱面のまま、足もとに裾をみだして失神しているおさめの方を見おろして、
「ははあ、公方さまご寵愛のからだはこれか。なるほど、姥《うば》ざくらながら、これまた捨てがたいが――」
「刑部っ、ぶ、ぶれいであろうぞ!」
「拙者は、若い姫君の方をとるぞ!」
手甲《てつこう》をつけた爬虫《はちゆう》そっくりの冷たいヌラヌラする手が、鮎姫のうでをまたつかんだ。
「拙者、公方さまと兄弟になりとうてな。いや、姫にはまえからぞっこん惚れておったのです。蓮華寺からのかえり、あのままどこかへさらってゆきたいくらいであったが、さすがにあのときはまだそれほどの決心がつかなんだのでな」
「おまえは、父上を裏切るのか!」
「拙者どもに縁切りを申し出されたのは、あちらさまでござる。それにしかも、姫の口から、裏切りのお言葉をきくのは、こりゃおかしい」
「だれか――だれか――」
その口を、刑部の一方の手がおさえた。
「姫、悠太郎が恋しゅうござろうが」
「お、おまえ、悠太郎さまのゆくえを知ってか」
「やっと、けさがた――」
「どこじゃ、悠太郎さまはどこじゃ」
「ゆきとうござるか。あいとうござるか?」
刑部の声が、憎悪にしゃがれた。鮎姫は身をもんで、
「そんなことではない。悠太郎さまにぜひ逢って、早う告げねばたいへんなことになるのじゃ」
「ならば、拙者とこの屋敷を出られえ。すぐと案内して進ぜる」
「おお」
と、息をはずませてうなずいて、さすがに鮎姫はじっと般若面を見つめた。
「そなた、悠太郎さまのいどころを知って、手は出さなんだのか」
「ふふん、出羽守さまから縁切られたうえは、もはや悠太郎は路傍の男」
「そりゃ、ほんとかえ?」
「悠太郎を討ったら、ほうびに姫を所望いたすつもりでござったが、もはやそののぞみもたえ、やむなく姫を盗みに入ったしだいです」
鮎姫は、もういちど腕をつかんだ手の冷たさを感じて、ぞっとした。
しかし、いまをはずして、じぶんがこの屋敷から外に出る機会があるか? このまま六日のちに甲府中納言の伽《とぎ》に侍《はべ》る運命を待つよりほかはないか? 甲賀町にゆくことなら、いちど覚悟していたことであった。きみはわるいけど、こんなあやしげな男など、智慧と才覚でどうにもさばきぬけられよう――と、彼女は判断した。彼女は、まだ空蝉刑部の恐ろしさをよく知らなかったのである。
「よいわ」
と、鮎姫はうなずいた。
「ともかく、わたしをこの屋敷から出しておくれ」
「やっ、おとなしゅう出てくださるか」
と、刑部は喜悦のさけびをあげた。鮎姫はすぐにそれに乗じた。
「ただ、わたしにはおまえという男がまだ信じられぬ。もし、わたしのいうことをひとつきいてくれたら――」
「それは?」
「あちらにお縫がとらわれている。あれもいっしょにつれ出しておくれ」
刑部はしばらくかんがえこんでいたが、やがてうなずいた。
「きゃつか。――なるほど、あれもつれてゆけば、幻五郎が舌なめずりして喜ぼう」
「え?」
「いや、よろしゅうござる」
三
竹林のなかを、空蝉刑部と鮎姫は、北御長屋の方へちかづいた。ゆくてに、さっきかけつけた侍たちが右往左往している。
そのとき、だれかはしってきて、
「たっ、たいへんだっ、おさめの方さまが――」
「なんじゃと?」
「そして、鮎姫さまの姿がみえぬ!」
武士たちは、狂気のごとく、もときた方角へはしり去る。
「いまだ!」
と、同行異夢《どうこういむ》のふたりが竹林を出ようとしたとき、表門の方でどっと重おもしい声がどよめき起った。
はっとしてふたりがたちすくみ、ふりかえると、もうむこうの庭に無数のご用|提灯《ぢようちん》が、潮《うしお》のようにながれこんでくる。
「あれは、牢屋敷の提灯じゃ」
と、刑部がうめいた。
予想はしていたが、鮎姫は茫然《ぼうぜん》とした。ついに小伝馬町の牢屋敷から、お縫受けとりの一隊がやってきたのである。ご用提灯に林立するつく棒、さすまた――たとえ、どんな罪を犯したものであろうと、たかがひとりの獅子舞いの娘を護送するのに、何百人ともみえる人影は、正気の沙汰とも思われないが、それもむろん葵悠太郎を警戒してのことにちがいない。
「――いかん」
と、さすがの刑部が音《ね》をあげた。役人のむれは、みるみるお縫のとらわれている北御長屋のまえにあふれていた。そのなかに、厳重なとうまる籠《かご》の影がみえた。神田橋から小伝馬町へ、眼と鼻のあいだをこの物ものしい護送ぶりでは、悠太郎はおろか、魔神といえども手が出せまい。お縫を小塚原の刑場へ送るのをふせぐ機会はついに去ったのである。
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二人刑部
一
吉保は、牢屋敷からお縫受けとりの役人たちがやってきた、という報告をうけて数分後に、おさめの方と鮎姫に、異変の起ったのをきいて驚倒した。
牢役人たちとの応対については、かねてから家来に命じてある。ただちにお縫をとうまる籠に入れて、小伝馬町の牢屋敷に護送させるだけだ。ほんのひと足の距離であり、たとえ葵悠太郎があらわれても如何ともしがたいであろうが、万一彼が姿をみせれば、それこそ飛んで火に入る夏の虫であるし、またそのように松前伊豆や石出|帯刀《たてわき》にいいふくめてある。
その牢役人の一隊が、北御長屋の方へ入っていった物音をやぶって、あわただしく侍臣のひとりがまろびこんできたのである。
「殿っ、一大事でござりますっ、おさめの方さまと鮎姫さまが――」
「なにっ」
「おさめの方さまがお気をうしないあそばし、姫君のお姿がみえませぬ!」
吉保はおどりあがって、かけつけた。おさめの方は、家来に水をのまされて、やっと意識を恢復していたが、吉保をみると、
「殿――あの悠太郎めが、たったいまここに――」
と、土気いろの顔に、瞳《ひとみ》をひろげてさけんだ。
そのための警戒もさせてあったはずだが、その失態で家来を責めるより、おさめの方からくわしいことをきくより、吉保は歯がみして、
「これ、門よりだれも出すまいな?」
「牢屋敷の衆が入った以外、だれも出たものはござりませぬ。門はすべて閉じてござります」
「それでは、きゃつは、まだおるのだ! よし、牢役人たちにも手伝わせ、屋敷の中を虱《しらみ》つぶしにさがしてみよ」
それから、のどのつまったような声で、
「あ、これ、ただ、鮎姫の身に危害のおよばぬよう、たのんだぞ。――そうだ、大声で、鮎姫をはなさねば、お縫はこの場で刺し殺すと申してみよ!」
「――いかん」
と、もういちど、空蝉刑部がつぶやいた。
ぎ、ぎいいいっと、遠く四方に門のしまる音がきこえたのだ。もとより、彼ひとりなら、鉄の壁でもぬけ出すことは可能であろうが、鮎姫というものをかかえている。ぜひとも彼女をさらってゆかねば、なんのために苦労して柳沢屋敷にしのびこんだのか、意味がない。
そもそも、葵悠太郎の捜索に血まなこになっている葉月をよそに、彼がこんな酔狂《すいきよう》なことをはじめたのに、葉月はすこぶる不機嫌なのだ。「悠太郎は、ほうっておいても小塚原にあらわれるわ。それより、まず出羽へのしッペがえしをやらねば気がすまぬ」と、こたえたものの、むろん彼は、この匂いたかい名香のような姫君をじぶんのかくれ家《が》につれていって、思いのたけをはらしたい、というのが目的だ。
「刑部。……お縫はたすけられぬのか」
と、その姫君は、竹林のむこうにみだれうごく提灯をのぞきこみながらいった。そのわき腹から無遠慮にまわされた刑部の手も意識していない様子であった。
「それが、少々。……」
「それくらいのことが忍者のおまえにできぬのか。それでは、父上にお叱りをうけるも道理。……」
「どうやら、あなたの姿のきえたことが知れた様子、いや、それでさわいでくれればむしろありがたいのでござるが……どうしたことか、妙にしずまってしまったのが都合がわるい。へたにこちらがうごけぬことに相成った」
「お縫が救えぬとあれば、わたしだけが外に出ても何にもならぬ。刑部、それでは声をあげて、人を呼ぶぞ」
「あ、お待ちくだされ」
と、刑部は狼狽《ろうばい》して、
「姫君だけは屋敷を出られて、なぜわるいのでござるか。悠太郎のところにゆかれとうはござらぬか?」
「悠太郎さまは、どこにおいでじゃ」
刑部は、天蓋をまわして、鮎姫をのぞきこんで、面のおくでニヤリとした。
「葵悠太郎は、馬喰町《ばくろちよう》のさいづち長屋と申すところに」
「え、馬喰町のさいづち長屋」
「実に不敵な奴にて、まったく燈台の下……しかも、もと、きゃつの住んでおった長屋でござるわ」
ものもいわずにかけ出そうとする鮎姫をはなさず、
「あいや、姫君とて、いまこのお屋敷は出られまい。まず、おちつきなされ」
鮎姫は、われにかえった。まさに、刑部のいうとおりだ。――それにしても、みると提灯の灯《ひ》が、一方から一方へ、櫛《くし》の歯をひくようにうごいて、こちらをさがしはじめた気配なのに、刑部もおちついたものだ。
声がきこえた。
「葵悠太郎、姫君をかえせ。――」
鮎姫は気がついた。屋敷のものたちは、じぶんが悠太郎さまにさらわれた、と思っているのだ。考えてみれば、じぶんも最初そう思いこんだくらいだから、当然だ。それならいっそう、もはや屋敷は蟻のはい出るすきもあるまい。空蝉刑部は、くくっと笑った。鮎姫の姿が永遠にこの屋敷からきえても、それは悠太郎のしわざであった、と思わせるように、彼のたくらみなのだ。
声はつづいた。
「悠太郎、姫をかえさぬと、この場でお縫を刺し殺すぞ。――」
鮎姫は、愕然《がくぜん》とした。
「刑部、どうする?」
「いや、あわてなさるには及ばぬ。お縫を殺してしまえば、あなたの命《いのち》もなくなる、と、出羽守さまもお考えなさろう。そう簡単には、お縫を殺しもなさるまいが――」
提灯が五つ六つ、竹林の両側をはしってゆく。
「しかし、姫、あなたはどうしてそれほどあの娘をたすけようとなさるのか。――あれは、悠太郎がよほど大事にしておる色おんな」
鮎姫はだまって、歯をカチカチと鳴らした。恥辱《ちじよく》が全身をしめつけた。――この化物までがそのことを知っている!
「姫、悠太郎はあきらめなされ。それより、拙者と――」
「ぶれいもの、そこはなしや!」
「どうせ、悠太郎めに汚されたおからだであろう。いちど拙者とねてくだされたら、悠太郎もぶじなように、うふ、文字どおりひと肌ぬいで進ぜるぞ」
衣服をとおしても、ぬらっと感じられる刑部の腕が鮎姫のからだをしめつけたとき、その竹林のなかへ、ひとつの提灯が入ってきた。
「…………」
さすがに手をはなして、刑部がきっとみる。黒うるしの陣笠をかぶった牢屋同心の姿が、キョロキョロしながら、こちらへ入ってくる。
刑部は手をふった。鮎姫にはみえなかったが、その袖口から一匹の蛇が這い出して、音もなく同心の方へ、矢のようにうごいていった。鮎姫の眼が、突然提灯がきえたとみたときに、刑部は蝙蝠《こうもり》のように、その同心に襲いかかっていた。灯がきえて、息をのんだ同心は、そのまま心臓にこぶしをあてられて、崩折《くずお》れている。
刑部はうずくまった。
「刑部、何をしておる?」
「姫」
と、刑部はたちあがって、鮎姫のそばへもどってきた。片腕に何やらかかえている。
「いまの奴の衣服と笠でござる。髪をくずして、たばねられい。そして、こやつに化けなされ」
「そして、この屋敷を出るのか?」
「左様、牢屋敷の連中が、まさか朝までここにおるわけにもまいるまい。どうせいまにひきあげるにきまっておる」
「お、おまえは?」
「拙者は、甲賀七忍」
と、刑部は傲然《ごうぜん》とうそぶいた。
鮎姫はしばらくその衣類を見おろしていたが、やがて決然とじぶんのきものをぬぎはじめた。刑部の覆われた面部から、眼があやしくひかってじぶんの裸身をみつめているのを意識しつつも、その動作に、もうためらいはなかった。そのとき、むこうで、狂ったような吉保の声がきこえた。
「えい、もはやがまんならぬ、その娘を刺し殺せ!」
二
吉保は、まったく逆上していた。鮎姫をまたもやさらわれて、おのれの遠謀《えんぼう》に一大支障を来したことへのいきどおりもさることながら、大老格のわが屋敷に曲者が忍びこみ、人なきがごとく姫をうばい去ったということが外部の牢役人たちに知られてしまった恥に、のぼせあがってしまったのだ。
かんばしった声に、まわりの家臣がとびあがり、数人抜刀して、とうまる籠《かご》のそばへはせよった。
そのとき――表門の方から、ひとりの家来がはしってきた。
「殿、き、きゃつが参上してございます」
「きゃつ?」
「あの、空蝉刑部とやらが」
「なにっ、刑部めが!」
吉保は、眼をひからせた。きのう、この庭でじぶんの成敗《せいばい》の刃《やいば》をのがれて逃走したふたりの忍者を追って、すぐ甲賀町へ討手をむけたが、彼らは盲目の寝覚幻五郎とともに、いちはやく姿をくらましていたのである。
「――ひとりか?」
「されば――」
吉保は唇をかんで、家来の顔をにらんでいたが、
「よし、ここへ通せ」
「殿、さりながら、きゃつめは――」
「わびにまいったのであろう。かまわぬ、通せ!」
すぐに、空蝉刑部が入ってきた。例の深編笠に、黒紋付の着流しだ。
彼は、まひるのように明るい提灯のなかに、膝もつかずにつっ立って、じろっと、とうまる籠の方をみたようであった。
それを、無礼ともとがめず、吉保は妙な笑顔をひきつらせて、
「刑部、きのうはいささか余が短慮であった。とは申せ、あのままにてはゆるせぬぞ。葵悠太郎を討ち果たさねば」
刑部は、つかつかと、とうまる籠の方へあゆみかけた。
「たわけ、それは悠太郎ではない。悠太郎は――この屋敷におる。また鮎姫をさらいおった! これは、きゃつをさがしての騒動じゃ!」
刑部は、くるっと吉保の方をふりかえった。やや、愕然としたようだ。
「この役立たずどもめが、まだ、きゃつを見つけ出せぬ。さすがは甲賀七忍、よいところへまいった! そなたなら、たちまちさがし出すであろう。あらためていう。鮎姫をぶじのまま、余の眼前でみごと悠太郎を討ったら、そなたへの恩賞は、きっと望みにまかせるぞ!」
そのとき――むこうの藪《やぶ》のなかで、きぬをさくような声がきこえた。
「あっ、あれは!」
吉保はおどりあがった。
「鮎姫の声ではないか!」
家来たちは、提灯をかかげて、雪崩《なだれ》のごとく藪の方へはしった。たちまち竹林のなかは赤い火光に染まって、そこに虚無僧の影がうかびあがった。ふしぎなことに、そこに鮎姫の姿はみえない。
ひかりに追い出されたように、虚無僧は竹林の外にのろのろとあゆみ出てきた。が、じぶんめがけて殺到しようとする家来たちにあわてて手をふって、
「ちがう! ちがうぞ! おれが空蝉刑部じゃ!」
と、わめいた。そして深編笠を指さして、
「よくぞ、化けた。ううむ、かんがえたものじゃ。そやつこそ、葵悠太郎!」
「な、何を申す、斬れ、そやつを斬らぬか!」
と、吉保が絶叫するのに、虚無僧はあわててぱっと天蓋をぬいだ。その下から、真紅の般若面《はんにやめん》があらわれた。その般若面に手をかけて、彼は一瞬ためらった。吉保はぽかんと口をあけて、それを見ていたが、
「おお、その声は――これ、もし、うぬの申すことがまことなら、面をとれ。刑部、顔を見せい」
「殿、さっき仰せられたことはまことでござるな。天下の大老のお言葉は、八幡、ここにおるみなの衆が証人。たしかに承わった。恩賞は望みにまかすと――ならば、そうれ!」
般若の面が、みずからはねのけられた。
三
「あっ。……」
だれか、ひと声さけんだが、あとは言葉にならないどよめきがあがっただけであった。余人はもとより、吉保もはじめてこの空蝉刑部の肉の顔をみたのである。
しかし、それが、肉であろうか。――その顔は、まるで鳩の卵を盛りあげたような瘤々した黄銅色の一塊で、その眼、鼻、口のきれめや翳《かげ》が、獅子みたいに恐怖的な相貌を呈していた。しかも、いちめん、汗か、よだれか、いやそれとも膿汁であろうか、ヌルヌルにひかっているのだ。
天刑病《てんけいびよう》――おそらく、この恐るべきむき出しの顔をみたものは、甲賀町にもいないのではあるまいか。吉保は息をのみ、一瞬、眼前の深編笠のことすら忘れた。
その醜怪な一塊が、ぬるっとうごいて、声を出した。
「出羽守さま、拙者の所望いたすは、姫君でござる」
同時に、その両袖から四、五匹の蛇がほとばしり出て、深編笠に襲いかかっている。このとき偽刑部は、あごの笠ひもに指をかけていたが、ぷつっときると、その笠で蛇をはらいおとした。右手にはすでに刀身がぬきはなたれて、
「刑部っ」
と、さけんだ。般若面はつけているが、まさにりんぜんたる葵悠太郎の声であった。
「そのままゆけば閻魔《えんま》がこわがるぞ。冥土には面をつけてゆけ」
袈裟がけの一閃に、刑部は狼狽しつつ、かっと抜きあわせたが、たちまち五メートルちかくも風のごとくとびのいた。のめっていった悠太郎が、あやうく片手で竹をつかんでささえたほどみごとな体術であった。竹をつかみつつ、悠太郎の刀身が横にきらめいて、三本の竹が胴切りになる。そのむこうで、
「それ、おのおのっ」
と、わめきかけていた刑部の顔がむき出しになった。
「ちぇっ。……」
うめくと同時に――その頭巾につつまれた頭部に、実に奇怪な現象が起った。顔色がひたいから下へ、すうと半透明の蝋色に変ったのだ。まるで、ぎやまん[#「ぎやまん」に傍点]の壺の底から、内部のものがさっとながれ出たような感じであった。いうまでもなく、これぞ幻怪無比の空蝉の術。――
しかし、これは刑部の不覚であった。笠をかぶり、面をつけてこそ、敵はいつ彼の肉身がぬけがらになるのかわからない。けれど、いま刑部の肉の顔は悠太郎の眼に、まざまざとさらされていたのだ!
愕然とわれにかえった柳沢の家来たちが地ひびきたててはせあつまってきたが、竹林にさまたげられて、そのうごきが一瞬とまったあいだに、悠太郎の刃は、下から刑部のからだを逆に斬りあげた。
「ううふっ」
声のきこえたのは袈裟《けさ》のあたりだ。すでに首は完全に蝋色の皮膚だけのぬけがらと化した虚無僧の――鼠色の衣服に、ぱあっと血のすじがはしった。
崩折れたその影へ悠太郎は葵の花をなげつけると、
「お縫、みたか!」
と、さけんで、とうまる籠の方へかけつけようとした。しかし、その方角には、すでに幾重もの刀槍の波がうちかえしている。
「見ました! 悠太郎さま――もうこっちへはこないで!」
お縫のさけぶ声がした。
「わたしはいいのです。どうぞにげてください!」
竹林のなかは、血の雨であった。まるでつむじ風に吹きくるまれるように、その葉が狂いまわり、苦鳴のなかに、竹がたおれてゆく。悠太郎は歯がみしながらも、しだいにうしろに追われていった。
「吉保っ――小塚原にはかならずゆくぞ。わしの首が欲しければ、それまで待て!」
悠太郎の声に、吉保も身をもみながら、
「のがすな! そちらに裏門があるではないか。やるなっ」
と、足ぶみしてかけ出そうとした。家来が両側から袖をつかんで、
「殿、裏門は閂《かんぬき》がはまっておりまする。やわか、あれをあけさせることではございませぬ!」
と、絶叫した。
葵悠太郎はにげた。ふしぎなことに、裏門に立っていた二人の番人は、悠太郎がそこにちかづく以前に驚愕の死眼をむいてたおれ、門はひらいていた。ふしぎなことは、そればかりではない。はたして鮎姫をさらったのは悠太郎か空蝉刑部かわからぬままに、それっきり姫の姿が、柳沢屋敷からきえてしまったのである。
「――斬って! 斬って! あの娘を成敗して!」
狂気のごとくわめくおさめの方を、吉保は気死したように見下していたが、
「待て。――」
と、うめいた。
「悠太郎めは、小塚原にはかならずゆくと申した。不敵な奴――それがまことなら、あれの首をとるためには、あの娘をどうしても小塚原にひき出さねばならぬ。あさってじゃ、おさめ、それまで待て」
地に無数に落ちちらばって、鬼火のごとくもえていた提灯はきえた。暗い柳沢屋敷を、とうまる籠をつつんだ一隊は、そこから牢屋敷までのきれめのないほどの長蛇となって、おびえつつ、しかし剣光をひからせて出ていった。
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いのちの渦
一
小伝馬町の牢屋敷は、周囲を掘割《ほりわり》と土手と二丈の総練塀《そうねりべい》にかこまれて、二千六百余坪の屋敷内には、揚座敷《あがりざしき》、揚屋《あがりや》、大牢、無宿牢、女牢をはじめ、牢奉行《ろうぶぎよう》、刑吏の詰所、拷問蔵《ごうもんぐら》、死刑場などが、木のいろ、壁のいろ、土のいろまでどす黒くならんでいる。
その夜、それぞれの牢内の囚人は、はじめ火事でも起ったのかと、いっせいに格子にしがみついた。牢屋敷にただならぬどよめきと、夜空を焦がすばかりの火光がみえたからだ。しかし、どよめきはやがて消え、火光――無数の提灯のひかりもきえて、異変は次第におさまった。それはお縫を護送してきた一隊であったが、それを知らないものは、だれがこれを一少女の入牢に伴なうさわぎだと思おうか。――実際にまた、右の牢のどれにも入牢してきた囚人はひとりもいなかったのである。
お縫のいれられたのは、拷問蔵であった。すべてが、彼女を小塚原の斬罪場へ送り出すための、柳沢の秘密命令による異例の処置であった。
拷問蔵の前は、ちょっとした白洲《しらす》の庭になっていて、その周囲も忍び返しをうちつけた土塀にかこまれている。そこへ、うしろ手にしばりあげたお縫を、つきとばすように入ってきた十人あまりの役人たちが、番人に土蔵の土戸をあけさせて、
「やがてゆく地獄の、剣林、鉄丸、火車、黒闇、すべてはこのなかにある。とくと見て、胆をならしておけ」
と、お縫をなげ入れると、そのまま戸をとじてしまった。ひとりが、
「番人」
「へい」
「どうせあさって、小塚原で磔《はりつけ》にかける奴じゃ。飯もあたえることは要らぬぞ」
「へい」
「ただ、この娘を奪いかえそうとあせっておる曲者《くせもの》がある。やわかこの牢屋敷に忍び入らせはせぬが、もし――万一、怪しい気配でもあれば呼子《よびこ》をふけ」
「へい!」
と、三人の番人が合点をした。
役人たちはそこを立ち去ろうとして、そのなかで、
「つまり、なんじゃ、もはやこれでお奉行さまのお調べもないわけじゃな」
と、つぶやいたものがある。
「されば、ふたたびあの娘がここを出るときは死出の路」
「いかなる大罪を犯したかはしらぬが、まだうら若い娘、すこしふびんであるな」
彼らは、お縫の罪なるものを、よく知らされてはいないらしい。むろん、彼女をうばい返そうとする曲者が、前将軍の御曹子《おんぞうし》であることもきかされてはいないのだ。
「ばかな仏心を出すな。飛ぶ鳥おとす出羽守殿お声がかりの罪人じゃ。めったなことを口ばしると、首がとぶぞ」
「いや、このまま殺すにはもったいないというのだ」
「そういえば、いまだれか申したとおり、あれをお奉行がお調べになることもないが……」
と、うなずいた者もある。声はひそめられたが、この役人たちの脳裡にすこぶるけしからぬ思いつきがながれたことはあきらかであった。――しかし、妄想はすぐに消えた。なんとしても、そこにいる人間が多すぎた。
「何をたわけたことを申しておる。さ、ゆこう」
と、ひとりがうながして、役人たちは、拷問蔵の前庭から、埋《うず》み門の扉をあけて外に去った。
あとにのこった三人の番人は、提灯のまわりを六尺棒をかかえてあるきながら、顔を見あわせた。
「なんでも、公方さまか柳沢さまのお命をねらった曲者の一味だということだ」
「お奉行さまのお調べもないのは、そのせいか。それにしても面妖《めんよう》だの」
「ただ、あさって、小塚原にひき出して磔《はりつけ》にかけるという。――」
「闇から闇へ、というわけだな」
「そこで、いま旦那方がしゃべっていたことの意味がわかるかえ?」
「つまり、あの娘を煮てくおうが、焼いてくおうが、それもまた闇から闇へ、ということよ」
「ということは、旦那方だって、こちとらだって、おなじだということだ」
「――みたところ、まだ若い――」
「いや、顔はみえなかったが、姿かたちからしても上玉らしかったな」
三人の番人は、さっきの役人たちよりもっと獰悪《どうあく》な表情を見かわした。ひとりが六尺棒をとんとついて、
「とにかく、もういちど、あのしゃッ面《つら》だけでもみてやろう」
と、土蔵の錠に鍵を入れたとき――うしろに跫音《あしおと》がきこえたので、あわててとびのいた。
埋み門から、ひとりの役人が入ってきた。黒うるしの陣笠に顔はよくみえないが、いまやってきた役人たちのひとりが立ちもどってきたもの、と三人は判断した。
「だ、旦那――ご用で?」
その牢屋同心は、だまってあごをしゃくる。土蔵の戸をあけろ、というのだ、三人は不穏なことをかんがえていただけに、狼狽《ろうばい》した。
「何か、お取調べでござんすか?」
役人は、うなずいた。――土戸はひらいて、彼は中に入った。
二
土戸はすぐにしめられたが、提灯のひかりを背に入ってきた影が、役人らしいとみたが、しばられてころがったままのお縫には、どうすることもできなかった。
土蔵のなかは闇黒であったが、その闇に眼がなれたのと、一ヵ所だけ金網を張った高窓からふる星明かりに、壁ぞいにならぶ刀槍や鎖や鉄の串《くし》や鞭《むち》や石や木馬などは、朧《おぼろ》おぼろとみていたお縫は、いよいよじぶんを責めに入ってきたな、とかんがえた。
むろん、悠太郎さまのいどころをいえ、というのにちがいない。けれど、彼女はそれを知らないのである。牛込の蓮華寺も、彼女がつれていったのだが、悠太郎がそこから姿をけしたとすれば、あと、どこにいったか、見当もつかないのが事実だ。たとえ知っていたところが、口が裂けてもいうつもりはないが、しかし、知らないとも答えまい。どんな責苦にあわされても、うめき声ひとつたててやるものか、とお縫はかくごをきめた。
が、その影がキラリと星明かりに一刀をぬいてちかづいてきたのに、彼女の皮膚は意志を超えてそそけ立った。
と――その役人は、彼女のからだに刃をあてて、ぷつぷつと縄をきったのである。
「お縫さん」
お縫は、口をぽかんとあけたまま、声も出なかった。その声は、女の声だった。――鮎姫だ。その役人は、鮎姫だったのだ!
鮎姫は刀をおき、ぺたりと坐って、くっくっと笑いこけた。柳沢家の裏門の番人をたおし、門をあけておいたのは、役人に化けた彼女であった。
「ひ――姫さま!」
「やっと、うまくいったわ。ここまできて……」
鮎姫はまだ笑いつづけながら、あたりを見まわして、物おそろしい責道具《せめどうぐ》をながめ、さすがに笑顔をけして、
「お縫さん、こうしてはいられない、お起ち」
と、陣笠のあごひもに手をかけた。
「姫さま、いったい、どうしようというんです?」
「こんどは、おまえがこの役人姿に化けて、この牢屋敷を出てゆくのです。おまえをここに護送してくる役人たちのなかに、わたしがまじっていたことさえだれも知らぬ。まして、この牢屋敷から、役人に化けて囚人が出てゆこうとはだれが想像もしよう?……夕方、柳沢の屋敷ではしくじったけれど、こんどはうまくゆくでしょう。鮎姫は、思い立ったことは、きっとやりとげずにはおかないのです。……」
昂然《こうぜん》といって、次の瞬間、彼女の表情はわなないた。思い立ったことは、きっとやりとげる。――それこそは、葵悠太郎への恋の成就《じようじゆ》ではなかったか? そのいのちより大事なことにやぶれ、あまつさえ、彼女は、じぶんの恋がたきを、万死をおかして救い出そうとしているのであった。
ああ、いまだかつてひとりも脱獄者を出したことのない鉄壁の牢屋敷に、死刑囚の身代りとなって、破牢させようとする大それた人間があろうか。
鮎姫の頬を、涙がながれおちた。それはじぶんじしんをあわれむ涙であったが、だれがそれを責めることができよう。
お縫は起たず、ひしと鮎姫の手をつかんだ。
「そ、そんなことをして……あと、あなたはどうなるのですか?」
「おまえがここにいれば殺される。わたしは柳沢の娘、そうとわかれば、まさか殺しもすまい」
しかし、その保証はなかった。やることも、ここまでくれば、ぶじですむはずがない。いや、それどころか、彼女はだまってお縫の身代りとして、小塚原へゆくつもりなのだ。その 磔《はりつけ》 柱《ばしら》にかかることが、義父の野心に対する彼女の何よりの諫争《かんそう》であり、また悠太郎への恋をうしなった彼女の何よりの死所であった。
「おまえは、にげて、悠太郎さまのところへおゆき」
「姫さま! そんなことより、悠太郎さまはご無事なのですか!」
「お、それじゃ、悠太郎さまはあのとおり空蝉《うつせみ》刑部をみごとに斬り伏せて、ぶじおにげになった。そして――」
鮎姫はすでにじぶんのきているものをぬぎすてるのにかかっていた。
「あの方は、いま馬喰町《ばくろちよう》のさいづち長屋にいらっしゃるとか。――」
「えっ、さいづち長屋?」
お縫は、あきれかえった。さいづち長屋なら、はじめから住んでいたところだ。あんまり人をくった場所なので、あっけにとられたが、そういわれてみればいかにも悠太郎さまのやりそうなことだ。大胆といえば大胆だが、おそらく彼らしい無頓着からきた行為に相違ない。
「悠太郎さまがそうおっしゃいましたか」
「いいえ、悠太郎さまと言葉をかわすひまはなかったけれど、あの刑部が死ぬまえに、わたしにそうおしえてくれたわ。――お縫さん、はやくきものをぬいで――だれがここに入ってこないでもない」
すでに涙はかわき、夜目にも鮎姫は蒼い炎《ほのお》が皮膚の内がわにもえているような顔色であった。その鮎姫につきうごかされたように、お縫もきものをぬぎはじめている。じぶんがのがれたいというより、なつかしいさいづち長屋に悠太郎がいるときいて、さすが苦難にたえぬいたお縫も、いまはそこへとび立ってゆきたい娘ごころでいっぱいであった。
土蔵の土戸のまえに立って、妙な顔を見合わせていた三人の番人は、やがてふたたびそこに出てきた役人に、まごつきながらとびのいて、
「旦那、ご用はおすみで?」
と、いった。
役人は、重おもしく陣笠をうなずかせて、闇の埋み門の方へしずかに去った。
三
たとえお縫が、牢屋同心に化けるという驚天動地の変装をしたところで、むしろ平常の状態にあるなら、牢屋敷を出ることはそうやすやすとはゆかなかったかもしれぬ。しかし、その夜牢屋敷は、外からの襲撃にそなえて、異様な緊張につつまれていたのである。それだけに、内部から出てゆくものに対しては――むろん公的な機関だから、ご用のために出てゆく役人は数人であった――まったく放心状態にあった。
お縫は牢屋敷を出た。――わざと、しずしずと一町ばかりあるく。それから、陣笠を伏せて、脱兎のごとくはしり出した。馬喰町のさいづち長屋へ。――
葵悠太郎の住んでいた長屋は、お縫の長屋とならんで、路地の奥にあった。あのままならば、無住のはずのその家に、なるほど灯のすじが雨戸にはしっている。
お縫は戸をあけた。
「悠太郎さま!」
いちど、息をはずませ、声をひそめて呼んで、家の中を見まわした。おくの壁ぎわにむこうをむいて、蒲団《ふとん》に横たわっている男の姿が、ほのぐらい行燈《あんどん》の灯影にみえた。
「悠太郎さまっ」
二度めはむちゅうで、彼女はそのそばにまろびよっていった。
「お縫です、お縫がにげてきました」
と、その肩にかけた手を、ぐいとつかまれた。がば、とその男は起きなおった。
「あっ」
妖怪をみた、とはこのことだろう。いや、お縫はまさに妖怪以上のものをみたのだ。それは一眼つぶれ、一眼は柘榴《ざくろ》のごとくはじけた寝覚幻五郎の顔であった!
――お縫の心に、驚愕というより名状しがたい混乱が起った。いくたびか彼女とたたかい、彼女を危地に追いこんだいちばん恐ろしい忍者が、さいづち長屋に待っていたとは!
「だまされた!」
一瞬そう感じたが、しかし彼女が鮎姫にだまされたのではなく、鮎姫が空蝉刑部にだまされたのであった。あの期《ご》におよんで、刑部は鮎姫にいつわりをいったのである。かんがえてみれば、刑部が鮎姫にやすやすと悠太郎のいどころを教えるわけがない。鮎姫をそのままつれて柳沢屋敷を脱出することのむずかしいのを知った刑部は、役人に化けた鮎姫が単身のがれ出ても、結局仲間の手におちるように、ぬけめのない奸智の網を張ったのである。
「――うぬか!」
手くびもちぎれるほどお縫をとらえて、寝覚幻五郎は歯をむき出して笑った。
「どうしてうぬがここにきたか知らぬが、そのわけはあとでゆるゆるきこう、もはや、にげようとて、のがしはせぬぞ!」
いくどかみずから死地にとびこみ、それを恐ろしいとも思わなかったお縫であったが、これはまったく予期もしなかったことだけに、その衝撃はひどかった。眼をみひらいたきり、すさまじい幻五郎の形相を見つめていた彼女のあたまにすうと靄《もや》がかかると、灯のいろが暗くなり、がくりと気を失った。
腕のなかで、女のからだから力がぬけてくずおれると、幻五郎はそのうえにおおいかぶさった。きものをなで――その刀をなで、
「…………?」
ちょっとその表情にふしんの色がながれる。男の装束であることに気がついた。
彼の骨ばった手が、ぐいとその胸をかきひらいた。十本の指が、あたたかくまんまるい処女の乳房にふれた。
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ」
幻五郎は安心したように笑った。陰惨な破れ行燈の灯が、上半身あらわになったなまめかしい武家姿の娘と、そのかぐわしい乳房のあいだに醜怪な顔をうずめる盲目の忍者の影を、夢魔の世界の絵のように照らし出した。……
「駕籠屋」
ふいに土塀のかげからあらわれた深編笠の浪人姿に、鼻唄まじりであるいていた辻駕籠が、びっくりして立ちどまった。
呼びとめたものの、その浪人はうなだれて、足も、ややもつれている様子であった。しずんだ、しかし、決然とした調子で、
「小伝馬町までやってくれ」
その声に、駕籠かきのひとりが、
「旦那――旦那じゃあござんせんか?」
とすっとんきょうな声でさけぶと、もうひとりが浪人のそばへかけよって、笠の中をのぞきこんだ。
「あっ、やっぱりそうだ。葵さま!」
「お、平六と銀十か」
さすがにおどろいた声は、まさしく葵悠太郎だ。――駕籠かきは、さいづち長屋の住人だったのである。
「だ、旦那、どうなすったんで?」
「あの蓮華寺で、たいへんな騒動があったってことで、あとであっしたちものぞきにゆきましたがね。おっそろしい血しぶきのほかは、何ものこっていなかったが――」
「お縫坊はどうしましたえ?」
両側から、息せききってといかけるふたりに、悠太郎はしばらくだまりこんでいたが、やっとうめくように、
「お縫は小伝馬町の牢にとらえられておる」
と、いった。
「えっ、牢屋敷に?」
「されば、あさって、小塚原にひき出されるはず――」
悠太郎の声は、苦悩にふるえた。
怨敵《おんてき》甲賀七忍――そのうち五忍まではみごとに討ったが、まだふたりを残している。その残りをたおすためには、空蝉刑部に化けろ、という智慧は、甲賀の娘お志乃が断末魔のきわに彼にさずけてくれたものであった。刑部に化けるのは、寝覚幻五郎や葉月にちかづくための手段で、刑部そのものをたおす目的ではなかったが、はからずもそのために当の刑部を討ち果たすことが可能となった。あとふたり――けれど、丹吉の仇をとるために、そのふたりを討つよりも、そのまえにお縫を死なせてどうなろう。
平六と銀十は、恐怖の表情を見あわせていたが、
「そ、それで、旦那、それじゃあ、これから、その牢屋敷へいって――」
「なぐり込みでもなさるおつもりでござんすかい?」
そして、悲鳴のように、
「そ、それア、いくら旦那でも、ひとりじゃむりだ!」
「旦那、おちついてくだせえ。あ、あさってといやあ、まだあすもある。今夜はこのままさいづち長屋にかえって、みんなと、とっくり相談してみようじゃあ、ござんせんか?」
と、いいかけて、
「もっとも、旦那のおうちにゃ、きのうから住み手が入りやしたがね」
「それが、うすきみのわるい奴らで、二人か三人か、四人か五人かわからねえ。ひとりは盲の男だが、もうひとりは女で、しかもひとりかと思ってると、あの女め、何かのはずみで、ふたりにも三人にもみえやがる。――」
悠太郎は笠をあげた。その眼がぴかりとひかった。
「な、なに?」
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死ぬな鮎姫
一
腰のまわりを這うけだものじみた手に、お縫は意識づいた。はっとして起きあがろうとしたが、両手がうごかない。両腕は大きく閾《しきい》にひろげられて、手くびに縄がかかり、縄はマキビシで閾に縫いとめてあるのだった。
「ちくしょう!」
袴はすでにぬがせられていた。陣笠の下にかたく巻いてあった黒髪はとけて、ゆさゆさとたたみにカラス蛇のようにのたうっている。かきひらかれた胸にうずまっていた首が、だんだん上の方に這いあがってきた。
「ちっ……ち……」
身もだえする両わきの下に、男の腕がさしこまれ、犬みたいに舌を吐く盲目の幻五郎の凄惨な顔が、歯をくいしばるお縫の顔に重なりおちようとする。――
――その刹那、バネにはじかれたように、幻五郎はとびのいていた。入口にだれかかけこんできた人間の気配をかんじたからだ。
ふっと、彼はそっぽをむいた。
「葉月、嫉《や》くな」
と、醜い笑顔をつくって、
「まだ、何もせぬわ。ただ、こやつはこうでもしてやらねば腹が癒えぬ。――ところで、こやつが、飛んで火にいる夏の虫。どうしてここへやってきたのか、おまえからきいてくれ」
そのまえに、相手はすっとちかづいた。――突如、幻五郎はかっと音たてるばかりに顔をふりあげた。はじめてそれが葉月でないと知ったのである。
「だ、だれだっ?」
「この家の住人」
「なに?」
「葵悠太郎だ。めくら幻五郎、この世の見納めはいたしたかっ」
幻五郎の両腕が電光のごとくたもとに入った。マキビシをつかもうとしたのだ。その棒のような姿勢のまま、彼のつぶれた両眼のあいだに、一線の赤いすじが、胸までたばしりながれた。
途方もない悲鳴が戸口であがったのは、幻五郎がふたつに裂けて崩折れたあとであった。平六と銀十だ。
悠太郎がお縫のところにかけよって、両腕の縄をきりはなすや否や、お縫ははねおきて、しがみついて、声をあげてむせび泣いた。
「お縫……お縫」
悠太郎はやさしく、何度も呼びかけたが、しばらくのあいだは、それも彼女にはきこえない風であった。
「お縫! そなたはどうしてここにいるのだ? そなたは小伝馬町の牢へ入れられたはずではなかったのか」
お縫はふいに泣き声をとめ、顔をあげて――悠太郎よりも、宙《ちゆう》をみた。
「小伝馬町の牢には、鮎姫さまが入っていらっしゃいます。……」
「えっ」
二
お縫は、じぶんの胸を両手でかきいだいて、なお宙を凝視しているようなまなざしで、
「鮎姫さまは、わたしを牢からにがしてくれるとき、悠太郎さまはこのさいづち長屋にいらっしゃるとおしえてくれました。ここへきて、待っていたのがこの幻五郎だったと知ったとき、だまされた! と思いましたけれど、わたしをだまして殺させるつもりなら、わざわざ牢からにがしてくれるわけはありません。そういえば鮎姫さまは、そのことを空蝉刑部からきいたとおっしゃいましたが、きっと鮎姫さまも刑部にだまされたにちがいないのです。……」
「鮎姫が、そなたを牢からにがしてくれた?」
悠太郎は、判断を絶した表情で首をかしげた。
「わからぬ。あれが、なぜそなたを救ってくれたのか?」
彼の記憶にのこっているのは――「あの娘の屍骸《しがい》とわたしの屍骸をおとりかえあそばせ」「あの獅子舞いの娘のかわりになど、お鮎は死んでもいやです!」「あの娘はわたしにとって、甲賀七忍よりももっとにくい敵だわ!」――など、ことごとくお縫に対する激烈な敵愾《てきがい》の言葉だけであった。
「鮎姫さまは」
と、お縫はひくい声でいった。
「おまえは、二日のうちに、小塚原でお仕置になる。おまえの死ぬのはよいとして、そうと知れば悠太郎さまは、きっと小塚原に斬りこんでおゆきになる。悠太郎さまを、その死の罠《わな》においこまないために、おまえをにがしてやるのじゃとおっしゃいました」
声がわなないた。
「わたしが、それならなぜあなたが悠太郎さまのところへいって、お縫を助けになどおゆきにならないようにおっしゃらないのですかといったら、わたしは悠太郎さまのゆくえを知らぬ、とおっしゃいました。けれど、牢屋敷からわたしをにがしてくれたときには、たとえ刑部にだまされていらしたにしろ、悠太郎さまはこの長屋にいらっしゃると思っておいでだったのです。それでも、鮎姫さまは、わたしをにがして下さった。……鮎姫さまのお言葉は、まだ耳にのこっています」
「…………」
「悠太郎さまは、おまえが好きじゃ。わたしが悠太郎さまのところへいっても、何にもならぬ。わたしは、もう死人《しびと》も同然。……」
「…………」
「悠太郎さま! 鮎姫さまはあなたがお好きなのです! 悠太郎さまをお好きなばかりに、わたしをにがして下すったのです!」
悠太郎は、すぐには口もきけなかった。
「鮎姫さまは、牢役人に化けて、牢屋敷のわたしのところへいらっしゃいました。そして、わたしときものをとりかえて、まっくらな牢のなかにのこっていらっしゃいます」
「なに……そこまで――」
「おまえがここにいれば殺される。わたしは柳沢の娘、そうとわかれば、まさか殺しもすまい、とおっしゃいましたけれど、いま思えば、あのひとは、わたしに代って死ぬつもりなのです。でも、でも、まさか、そんな目にはあわないでしょう?」
「――そなたの顔を牢役人たちはしかとながめたか?」
「わたしは暗い庭でとうまる籠《かご》からひきずり出されて、すぐに土蔵に入れられてしまったのです」
「深窓に育った鮎姫の顔を、牢役人たちのうちで知っているものはあるまい。第一、左様に大それたことは、常人の思いもおよばぬことだ。おお、これは、ひょっとすると……」
「ああ、それならわたしは出てくるのじゃなかった! 悠太郎さま、それなら、すぐにどこかへ――このことを紙にでもかいて、貼り出して下さい。牢屋敷にいるのは鮎姫さまだと――そうしないと、たいへんなことになります!」
悠太郎は、暗然とした顔色で腕をこまぬいていた。しかし、なぜか、だまっている。
「どうしたのです、悠太郎さま、鮎姫さまを殺していいのですか?」
「お縫、そなたこそ、どうしたのだ? 鮎姫は、にくい柳沢の娘ではないか?」
と、ややあって、悠太郎はしゃがれた声でいった。
お縫はおどろいたように眼を見ひらいた。彼女は曾て鮎姫を、「おまえの父親が、あたしの弟を殺したのだよ」と、呪いにみちてののしったことを忘れていた。
「柳沢はにくいけど、あの姫さまはかたきではありません。それどころか、わたしを救ってくれたのです。わたしは鮎姫さまを、見殺しにはできない」
悠太郎の唇はふるえ、こぶしはわなないた。彼は耳のおくに、あの驕慢《きようまん》な姫が、「わたしをお嫁にして下さいますね?」と、いくどか訴えたいじらしい声をよみがえらせた。「――する」と、じぶんでこたえたこともある。しかし。――
「悠太郎さま、なぜだまって、そんなこわい顔をしてすわっていらっしゃるんです」
「――まだ、甲賀七忍はひとり残っておる。葉月と申す女だ。きゃつは、いまにここにもどってくるに相違ない」
「まだ、そんな……そんなことをいっている場合じゃありません。鮎姫さまをおたすけする算段をしなければ……」
「あの姫は、あのままにしておこう」
と、悠太郎はうめくようにいった。
「えっ」
「天意だ」
お縫は、くいいるばかりに悠太郎の腕をつかみ、ゆさぶって、
「ひどい! ひどい悠太郎さま!」
「そうだ、わしは人でなしになった。丹吉のかたきをすべて討ちはたすまで、人でなしになることを誓ったのだ。あれの殺された夜からなあ。お縫、そなたはたあ坊のむごい死に方をわすれたか?」
「わすれませぬ。決してわすれはしないけれど――」
「あれも、もとはといえば、柳沢出羽のためだ」
「でも、鮎姫さまに罪はありません!」
「わしも、いままでそうかんがえておった。だからこそ、いくどか姫に柳沢へかえれといったのだ。――しかし、すてておけば、そなたまでが小塚原の 磔《はりつけ》 柱《ばしら》にかけられるところであった」
「それを鮎姫さまがたすけてくだすったのではありませんか」
「鮎姫の名をもういうな、その名をきくと、悠太郎、肺腑《はいふ》をえぐられるようだ」
と、悠太郎はさけんだ。
「お縫、柳沢に、おのれの愛するものを眼前で殺されることが、どれほどつらいことか、苦しいことか、思い知らせてやろう」
「悠太郎さま! わたしがまえにそういったとき、おなじ所業をかえしては、わしたちも敵とおなじ悪魔となる、姫を殺すまい、とおっしゃったのはあなたではありませんか?」
「鮎姫を殺すものは、柳沢自身だ」
悠太郎は沈痛な、しかし、思い決した顔色で、その姿からは、お縫がはじめてみる、蒼い冷たい炎がもえあがっている感じであった。
「わしが、なぜこう思いたったか? それはな、吉保が私兵ともいうべき闇の忍者をつかってわしを亡きものにしようとしていたときと、事情がちがってきたのだ。きゃつが、おのれの野心のために、牢獄、刑場、天下の法をないがしろにしてまで思いをとげようとしている以上、きゃつがその酬いをうけるのを、天下のまえに見せてやらねばならぬ。また天にむかって唾《つば》したものの劫罰《ごうばつ》を、吉保自身に受けさせねばならぬ」
そして、ひくい声でいった。
「思うに、鮎姫も、それを望んでいるのだ」
「悠太郎さま!」
「もういうな、それより、ここにおれ。そして葉月がかえってくるのを待とう」
悠太郎はふりむいて、平六と銀十に、葉月のことをきいた。――けさ、ふたりが稼《かせ》ぎに出るときには、葉月はまだここにいたらしいのである。おそらく彼らがここに巣をかまえたのは、悠太郎に網を張ったものであろう。しかし、彼女はどこへいったのか、もう真夜中というのに姿をみせなかった。
――葉月は、そのあくる日もかえらなかった。
さらにその一夜があけて――ひるごろ、平六、銀十が、あわただしく長屋にとびこんできた。
「旦那! 小伝馬町から引廻しの行列が出ましたぜ!」
「なに?」
虚無僧姿にもどった悠太郎がふりかえるよりはやく、お縫はとびあがった。それまで、ほとんどものもいわずに悠太郎をにらみつづけていた眼に、涙がひかった。彼女もまた獅子舞いの姿にかえっている。
「悠太郎さま」
「お――」
「わたしは、女として、やっぱりあのひとを見殺しにはできません!」
そして、まろぶようにかけ出した。
お縫を追って悠太郎、それから平六、銀十がさいづち長屋をとび出していってから数分後――ほとんど入れちがいに、そこにもどってきたものがある。
「幻五郎どの」
と、呼んで、歯をキリキリと鳴らしたのは、葉月だ。
「小塚原で悠太郎めを柳沢に討たせるまえに、どうあってもこの手でやつにとどめをさしたいと、二日二晩かけまわったが、とうとう見つけることができなんだ。とうとうお縫を仕置する行列が牢屋敷を出た様子――せめて、悠太郎の死ぬのをこの眼でみよう。おまえも、耳できくがよい」
と、あえぎながら家のなかに入っていって、
「あっ。……」
と、ふいに立ちすくんだ。
足もとに、寝覚幻五郎は血の海にひたって絶命し、そのつぶれた眼のうえに、葵の花が一輪のっていた。
三
――まっさきに、六尺棒をもったふたり、つぎに白衣の男が捨札をかかげ、それからやはり白衣の谷の者が、抜身の朱槍二本をひからせてあるいてきた。
囚人は目かくしされてはだか馬にのせられ、まわりを馬の口取りと介添《かいぞえ》ふたりがとりかこんでいる。つぎに捕物道具をもった谷の者、それから、陣笠、野羽織、騎馬の南北組与力、さらに、槍、挟箱《はさみばこ》がつづき、野羽織、股引《ももひき》の侍ふたり、丸羽織の同心四人、あとに弾左衛門《だんざえもん》とその組下、棒突六人、頭の車善七とその配下の八人がつづく。
女はみずからのぞんで顔に面紙《つらがみ》――半紙を顔にあて眼のところで藁《わら》でしばり、半ばをまえにかえしたもの――をあてられていた。その面紙をとったところで、それが柳沢吉保の養女鮎姫だとは、顔もしらず、想像も絶している。ましてや紙の下の彼女の、氷のように澄んだ笑いを、刑吏や路傍の群像の、だれが見とどけたろう。
鮎姫がすすんで死地に入るのは、もとより悠太郎の死地に入るのをふせごうとする一念からだ。これで悠太郎さまは小塚原へおいでなさるまい。――悠太郎への恋をあきらめた彼女には、それはむしろねがってもない死場所であった。
引廻しの行列は北へすすんだ。新鳥越橋をわたり、千住街道を、粛々《しゆくしゆく》と小塚原へ。――
死の行列がゆきすぎて、どっとそのあとを追おうとする町の人々や子供は多かったが、すぐに彼らは家のなかににげかえった。引廻しにすこしおくれて、鎖《くさり》鉢巻に白木綿《しろもめん》のたすき、小手脛当《こてすねあて》の同心を先頭に、数もしれぬ捕手のむれがつづいてきたからである。
のみならず、さらに二梃の駕籠をとりかこむおびただしい武士の一隊もつづいた。
駕籠のなかに眼をひからせているのは、一方は町奉行松前伊豆守で、一方は柳沢出羽守であった。彼は、葵悠太郎の死を、その眼でたしかめずにはいられなかったのだ。
ただ、葵悠太郎がはたして出現するか、どうか。――それはいささか疑問であったが、しかし鮎姫は、「お縫は悠太郎にとって、じぶんのいのちよりも大事な娘だ」といった。それからまた悠太郎自身の「吉保、小塚原にはかならずゆくぞ。わしの首が欲しければ、それまで待て!」とさけんだ凜然《りんぜん》たる声は、吉保の耳にのこっている。その宣言よりも、いままでいちどならず柳沢家に潜入した悠太郎の、不敵といおうか無謀《むぼう》といおうか、何をしでかすかわからないやりくちからかんがえると、すくなくとも刑場にその姿をみせずにはいないような予感があった。よしその見込みがあたらなかったとしても、いまとなっては自らつくったその機会に望みをいだくよりほかはないのである。屋敷から消え失せた鮎姫の運命を想像すると、吉保は血が逆流するのをおぼえる。――たとえ養女のことはもはや断念するとしても、葵悠太郎があれほど容易ならぬ若者であるとすれば、じぶんの安全のためにも、何としても早急にきゃつを見つけ出し、この世から消さねばならぬ!
吉保が到着したときには、竹矢来をめぐらした刑場のまわりには、すでに何百人ともしれぬ群衆がどよめいていた。そのなかを、十手をふところにのんだ目明しや手先が徘徊している。
吉保は駕籠から出た。さすがに春の日光と人目から、白い頭巾で面をかくしている。
「これよ、あやしい浪人者はまだ見あたらぬか」
さきについて、同心たちを指図していた奉行は、
「もとより、さぐってはおりまするが、何分、相手の顔もわからぬこととて……」
と、恐懼《きようく》と不服のまじりあった表情をむけた。
吉保は、むっとふきげんな顔つきになった。それは奉行の弁解を不満に思ったのではなく、彼自身、葵悠太郎の顔を知らないいらだたしさからであった。吉保は二度悠太郎の姿をみたわけだが、いちどめは虚無僧《こむそう》、二度めは深編笠《ふかあみがさ》、しかもその下に般若面をつけていて、じぶんが亡き者にしようとしているその若者の素顔をついにみることができなかったのである。おそらくそれをみた者は、あの甲賀七忍と、鮎姫だけであったろう。……
「よし、罪人を磔柱にかけてみよ」
と、彼はいった。
――古来幾百人、幾千人のいのちを吸ってきたことか、小塚原の土は、人間の膏血《こうけつ》に肥えて、まわりにひろがる武蔵野よりもきわだって、ぶきみなばかりの青草を、春風にふきなびかせている。
そのなかに、白い十字架が立った。――弾左衛門配下の男たちが、地に横たえた磔柱に罪人をしばりつけて、それを押したてて、かねて掘ってある穴へ、その根を一メートルも埋めたのである。罪人の女は、依然として面紙をあてられたままであったが、大の字になった手足は、その紙よりも白く日にひかった。
槍手がそれにむかってあるき出した。白衣に股引、脚絆に尻はしょり、縄のたすきをかけている。定法《じようほう》どおり、槍は六本、槍手は六人であった。
どよめいていた群衆が息をのんで、小塚原にはたとぶきみな静寂がおちたとき――突如、竹矢来の破れる音がきこえた。
いや、その音のきこえるまえに、竹矢来を風鳥のようにかるがるとおどりこえて、刑場に舞いおりたひとりの獅子舞いがある。それが磔柱の方へはしり出すと同時に、そのうしろから竹矢来がばりばりと斬り裂かれて、ひとりの虚無僧がとびこんでゆくのがみえた。
「――やッたっ!」
それは待ちかまえていた捕手たちのあいだからあがった引ッ裂けるような絶叫であった。
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武蔵野幻談
一
かねてから、このことあるは期していた、といってはまず足りない。
まるで、牙をといでいた獅子の口へ、われととびこんできた二羽の胡蝶《こちよう》にひとしいといえる。
しかし、刀槍はもとより、つく棒、さす叉、捕縄に梯子《はしご》まで用意して満を持していただけに、百人をこえる武士や捕手たちが、この敵の行為の身の毛もよだつばかりな無謀さに、「――やった!」とだれかがさけんだきり、数十秒のあいだ、息をつめ、かっと眼をむいたままであった。
まっさきに、この闖入者《ちんにゆうしや》に対し行動を起したのは、六人の槍手だ。これは、磔柱の方へあゆんでいた背後にただならぬ跫音をきき、ふりむくと同時に、まっしぐらにかけてくる獅子舞いの姿をみたのだから、はっとしたのは当然だ。
「あっ、狼藉者《ろうぜきもの》っ」
狼狽しつつ、いっせいに槍を廻してはせかえる。――そのまえへ、われと身をなげこんでくるかにみえた獅子舞いは、穂先から一メートルの位置で、大地を蹴るとみるまに、転がると彼らの頭上をとびこえて、あともふりかえらず、なお走りながら、
「鮎姫さまっ」
と、絶叫した。もとより、お縫だ。
六人の槍手は、もういちど反転するいとまがなかった。獅子舞いにつづく虚無僧の影をみとめたせいではなく、ただあまりの離れ業に瞳をぬかれて、タタタタ、と足をみだすあいだを――疾風のごとく虚無僧のかけぬけたあと――はやくもふたり、血しぶきとともに斬っておとされている。とみるや、なお混乱している槍手のなかへ、虚無僧は逆に跳躍して、蒼空に千段巻から斬りあげられた穂先が雲母《きらら》のようにひかった下に、またもふたりが大地にかみついていた。のこるふたりは、まろびつつにげた。
それを追おうともせず、まに磔柱めがけてはしるお縫をちらとみたままで、虚無僧ははじめて天蓋《てんがい》をほうって、仁王立ちになった。片手にぬきはらった一刀は、すでに凄じい血光をはなっていたが、笑った歯は男らしく白かった。
「わああああっ」
うなりとも咆哮《ほうこう》ともつかぬ海嘯《つなみ》のような喚声があがったのはこのときだ。同時に刑場の隅ずみから、捕手のむれが、草をちらし、砂塵をまいて殺到してきた。
葵悠太郎が笑ったのは、もとより彼らを嘲笑したのではない。彼はふたたび生きてここをのがれようとは思っていない。ただ、彼は、お縫の純情に魂をうたれたのだ。いっさいの恨みをすてて、じぶんのいのちを救ってくれたひとに、じぶんもまたいのちをすてて酬《むく》いようとする。その娘ごころをだれが笑えよう。小塚原へひたはしるお縫を追いつつ、彼は突如として彼女を制止する力を、失った。彼女の壮絶な姿に、おのれを恥じた。お縫と、鮎姫と――ふたりの若い魂が、どのように触れ合ったことか。それにくらべれば、自分とお縫、自分と鮎姫のあいだにこそ、もっと魂の共鳴りを発すべきであったのに、自分は彼女たちを無視し見殺しにしようとした! 決して死をおそれてお縫のねがいをしりぞけたわけではなく、もとより残る甲賀一忍また柳沢吉保へのうらみあればこそだが、やはり人間として恥ずべき卑怯者《ひきようもの》といわれてもしかたはない。そもそも最初から、三人の家来の望んだように世に出る意志すらないじぶんではなかったか。それをいま遺恨妄執《いこんもうしゆう》に恋々として、このふたりの娘のいのちが火花となって散りうせるのを、むなしく見すごしてそれで男といえようか。
「――よし、ゆけ!」
お縫を見おくって、殺到する捕手のまえに立ちふさがった悠太郎の笑いは、お縫のひたむきなまごころに感動し、よろこんでそれと運命をともにしようと決意した男の清爽な笑いであった。
「どうせ天下の素浪人、女にからむ義理でいのちをすてるのは望むところだ。こうなれば足柄山《あしがらやま》で猿、いのししを相手に会得《えとく》した一刀流、猿、いのししなみに、死骸の山をつんでくれるぞ!」
おしよせる捕手の怒濤に、みずから一石となって身をたたきつけたところから、鮮血の飛沫《ひまつ》が宙天に奔騰《ほんとう》した。――伊藤|一刀斎《いつとうさい》門下の三鬼人のひとり織部玄左衛門に心血そそいで教えられ、しかも富士火山脈を疾駆《しつく》して育った山岳児《さんがくじ》、それがただの剣法や体術でないことは、曾《かつ》て天羽七兵衛を逆吊《さかづ》りの死闘で斃し、お縫、丹吉を両わきに抱いて大空へとんだところからも知れる。ましてこの天才児がいまや死を決し、すべての欲望妄執を超えた無想境にあるのだ。その白鷺のような影の羽ばたくところ、首と腕と武器と血潮の旋風《せんぷう》が青草を吹きめぐった。
「鮎姫さまっ」
そのあいだに、はやくもお縫は磔柱にとびついてよじのぼり、まずその面紙をむしりとった。
「ご覧、悠太郎さまもおいでになりました!」
鮎姫の白い顔が天日にさらされて、その眼と唇にわななきがはしった。よろこびと、絶望の。
――お縫はその手をしばる縄を切ろうとした。そのとき。――
「おのれっ」
悠太郎の手のおよばぬ方角から四、五人の捕手が、血ばしった眼と歯をむいて奔馳《ほんち》してきた。
二
時間にすれば、最初お縫がかけこんできたときから、ほんの数分である。そのあいだ柳沢吉保は、ほとんど喪神していた。
まずはじめに、刑場にとびこんできた獅子舞いの姿に、愕然としたのである。彼は、屋敷にとらえたお縫の素姓《すじよう》が越後獅子であったことを知っている。いや、それを思い出すより、かけてゆく娘の横顔をみて、彼の心臓が一回転したのはむりもない。
それまで吉保は、磔柱にかかった女を、面紙はあてていたし、遠目ではあったし――だいいち、よく見てもいなかった。鉄桶のごとく護衛して牢屋敷におくりこみ、そのままここへひき出してきた女を――そのあいだ、なんの異変の報告もうけていないのに、その正体にだれが疑惑をいだく余地があろうか。
それならば、あれはだれだ? あの女は何者だ?
吉保は両こぶしをにぎりしめて立ちあがり、かっと眼をむき出し、そしてワナワナとふるえ出した。面紙をのぞかれる以前に、彼はその女がだれかに気がついて、その刹那から、眼にも脳膜にもうすい靄《もや》がかかってくるのをおぼえたのである。
あれは鮎姫だ。――姫がいつ罪人と変ったのか? またあれが鮎姫と知りつつ、葵悠太郎はなぜ斬りこんできたのか? 思考の火花は混沌《こんとん》とあたまに明滅したが、さすが明敏な吉保もまったく判断を絶した。ただ、忍者をつかったのは彼のはずなのに、敵の葵悠太郎の方が変幻不可思議《へんげんふかしぎ》な忍法をあやつっているとしか思えなかった。
見るがいい――白い影の疾駆《しつく》したあと左右に朽木のごとくたおれ伏す捕手のむれ、あれは剣技というより忍法というべきではないか?
「えっ、じゃまするな」
磔柱に両脚まきつけ、お縫は悠太郎からあたえられた小刀で捕手をなぎつけた。相手を不自由な姿勢にあるとみて、無造作にひきおとそうと手をのばしていた捕手のふたりは、真《ま》っ向《こう》から顔をわられてのけぞりかえる。
そのあいだに、お縫は鮎姫の縄をきりほどいた。ふたりの娘はもつれて、磔柱から下へどうとおちた。
「曲者《くせもの》っ」
「くたばれっ」
そのうえにのびてきた二本の長槍が、あられのごとくはじかれると、捕手は血へどを吐いて大地にたたきつけられている。宙をとんできた葵悠太郎であった。
「大丈夫だ。起てっ」
と、彼が絶叫し磔柱とその下のふたりの娘をかばって立ったとき、周囲にどっと大渦巻のごとく捕手の大群がはせあつまってきた。
「――しまった!」
さけんだのは悠太郎ではなく、こちらに茫乎《ぼうこ》としていた柳沢吉保だ。彼は自失の悪夢から醒めた。そして、捕手のむれに包囲されて、まったくその姿を没した鮎姫に恐怖のさけびをあげたのである。
「やめよ、やめさせよ!」
思わず、狂気のごとくさけび出すのに、そばの江戸町奉行松前伊豆守は仰天して、
「な、何を仰せある」
「とめるのじゃ。あれを討ってはならぬ!」
「出羽守さま、これは乱心あそばしたか!」
「たわけっ」
吉保は、伊豆守の腕をふりはらって、背後にどよめいていた家臣たちに、
「何をいたしておる。あそこにお鮎がおるぞ、あれを殺させな!」
と地団駄《じだんだ》ふんだ。
柳沢の家来たちは驚倒した。彼らは、まだ気がつかなかったのだ。――もとより彼らは、この刑場に斬りこんでくると予想されていた曲者を討つためにここに来た。しかし、それは一応は町奉行の役目だから、吉保の命令のあるまで武者ぶるいして待機していたのである。
「えっ、鮎姫さまが、どこに――」
「ゆけっ、ええ、ゆかぬかっ」
と叱咤《しつた》されて、彼らはどっとばかり刑場になだれこむ。
磔柱をめぐって死闘をつづけていた葵悠太郎は、ちらとこれをみて、最後の時がきたことを覚悟したが、思いがけず武士たちは、
「ひけひけ、ひけっ」
と、寄りつつわめき、捕手たちの肩をつかんでひきもどした。さらでだに狂乱の坩堝《るつぼ》と化していた渦に、恐ろしい混乱が起った。
「な、何しやがるんだ」
「こちらにもわからぬ。出羽守さまの仰せだ。ともかく、ひけっ」
――葵悠太郎は、血刃をひっさげたまま、みだれつつひいてゆく捕手たちを、一瞬|茫然《ぼうぜん》として見おくった。さすがに髪はみだれ、袈裟《けさ》は裂け、惨澹《さんたん》たる姿だ。
しかし、すぐに彼はこの異変の意味を知った。彼は鮎姫をふりかえった。
「姫――やっとあなたがだれかわかったのだ。愚かものどもめが、いまごろ気がついたらしい。ゆかれい」
鮎姫は悠太郎をじいっと見て、くびをふった。お縫も肩で息をしながら、
「姫さま、はやく――」
「いいえ」
と、鮎姫はいった。
「わたしもあなたたちといっしょにゆきます」
「ばかな!」
鮎姫は、足もとにおちている血まみれの刀をひろいあげて、
「わたしがはなれると、あなたたちは殺されます」
そして、ふたりをかばうようにして、よろめきつつあるきだした。
三人、一団となって、ジリジリと横へあるく。それにつれて、捕手や武士たちもどどっとうごくが、なお遠まきの包囲陣を崩そうとしない。
「ちかづくと、わたしはじぶんののど[#「のど」に傍点]を突きますよ!」
と、鮎姫は、見まわしてさけんだ。
まだ何のことやらわからない捕手たちを必死に制止しつつ、柳沢の家臣は困惑の眼でしきりに吉保の方をふりかえる。
町奉行は、吉保にかみつかんばかりに、
「出羽守さま、これはいかがしたことでござるか?」
とつめよった。
唇をかんでこれをながめていた吉保の顔から、いままで覆っていた苦悶と動揺の靄がおちた。そして、ふいに普段の――いや、ふだんもめったにみせぬ冷酷無残の表情がうかび出た。
彼は、鮎姫が悠太郎をしたい、またあのお縫という娘をたすけようとしていたことを思い出したのだ。はじめてはっきり悟ったのである。いかにして入れ替ったのか、まだ想像もつかないが、とにかくこの大意外事に鮎姫みずからの意志が加わっていることは疑いをいれない。――いま、悠太郎ともつれるようにしてにげようとはかっている彼女の姿をみて、怒りが吉保の胸に、あらい息とともにふきあがってきた。にくい奴が! それほどまでに余を裏切り、余に叛《そむ》こうとするか?
のみならず――いかに彼が姫をたすけようとしても、この大失態をどう町奉行に説明したらよかろうか。鮎姫がお縫と入れ替ったということにはかならず町奉行の方の手ぬかりがあったに相違ないが、すくなくとも鮎姫自身の意志から発していることもまちがいないのだ。しかもおびただしい捕手がみている。いや、雲霞《うんか》のような群衆がみている。――いかに鮎姫がじぶんの野心にとって重大な布石であろうと、こうなったうえは、もはやあれを救う手だてはない! すでにじぶんがこの刑場にのぞんでいることすら密々のことなのだ。それをいまさら、あれはまちがっていた、罪人はじぶんの養女であったなど公表しては、柳沢吉保、天下に醜をさらすものだ。もはや大義|親《しん》を滅《めつ》す! と彼は心中にさけんだが、これは大悪親を滅すといった方が至当であろう。
雲が翳《かげ》ってきた。――屍をふんで、修羅の世界を移動する悠太郎、お縫、鮎姫――それを追う百数十匹の送り狼に似た捕手、武士のむれ――このぶきみな均衡《きんこう》のやぶれずにはいないことは眼にみえていたが、それは実に、思いがけない人間によってひき裂かれた。
吉保の断《だん》ではない。そのとき、捕手をかきわけて、つかつかとひとりの女が悠太郎のまえにあらわれたのである。
「葵悠太郎、待ちや」
悠太郎は、はたと足をとどめ、その眼が爛《らん》とひかった。
「葉月か!」
葉月は、美しい唇をつりあげて、ニンマリと笑った。
「おまえのいのちは、これまでじゃ」
三
最初、捕手たちは、狂人かと思った。この時、この場に闖入《ちんにゆう》してきたものが女とみて、彼らがどぎもをぬかれたのは当然だ。柳沢の武士たちは、それ以上に、あっと眼をむいた。これは葉月が何者か知っている。三日まえ、主人吉保の成敗《せいばい》の刃を翻弄《ほんろう》し、討手がせまる直前に、甲賀町から姿をけした女忍者だ。
しかし、彼らをその場に釘づけにしたのは、そんなとまどいやおどろきではなく、その女自身の姿態、表情から発する名状しがたい凄《すご》みであった。
彼女をみた悠太郎の眼の殺気とよろこび以上に、悠太郎をみた彼女の眼は、炎のような殺気とよろこびにかがやいていた。夫――寝覚幻五郎を討たれて、彼女は復讐の鬼女と変じている。
「葉月――よう来てくれた!」
悠太郎はさけんだ。
「これで甲賀七忍、七頭の牛頭馬頭《ごずめず》として、冥途へ曳《ひ》いて丹吉に見物させてやれる!」
思わず、お縫、鮎姫のこともわすれて、まっしぐらに悠太郎ははせよると、葉月を袈裟がけに斬った。
「――あっ」
さけんだのは、捕手たちだ。彼らは棒立ちになり、口をあけた。血けむりをあげてたおれたとみた瞬間、女がふたりになったのをみたからだ。――その幻術を知りつつ、悠太郎は稲妻のごとく刃《やいば》をかえして、ふたりの葉月を斬った。と、女は四人となった。四人の葉月が、刃をさげて、すっと立った。
魔神のごとくあばれまわる葵悠太郎には、血に酔う狂獣《きようじゆう》と化していた捕手たちも、その刹那、全身に水をあびたような恐怖におそわれて、思わずどっと四方ににげさった。
「あぶない! 悠太郎さま」
悠太郎のうしろにしのびよる女忍者の姿に、お縫と鮎姫がかけよろうとした。そのまえにふわ[#「ふわ」に傍点]とべつの葉月が立つ。お縫と鮎姫がふるう一刀に、それは四人の葉月となった。
小塚原の蒼空にみだれ雲がわき、地上に黄金《きん》いろの斑《ふ》と黒い翳《かげ》が交錯《こうさく》し、そのなかに数十人の葉月が、五色の陽炎《かげろう》のごとく乱舞している。――いつしか、悠太郎とお縫と鮎姫は、三人はなればなれになって、その幻影とたたかっていた。――曾て悠太郎は、蓮華寺で、この女忍者の「陽炎乱し」の妖術を、無想の八双剣でからくも身をふせいだことがある。が、いまはあのときとちがう。ほかに、お縫と鮎姫がいるのだ。
彼は、お縫が刀身もろとも、ながい薄絹に蛇のようにまきつかれているのを見た。そのうしろにニンマリと笑った葉月をみた。
「おのれっ」
その方へ一足とびにとぶ悠太郎の背後から、忽然と舞ってきたべつの葉月が、鉄壁もとおれと一刀をあびせかけた。
「悠太郎さまっ」
横からはしりよった鮎姫が、はっしと刃をこれにかみあわせた。
「えっ、くやしや」
はじめて、葉月の声がした。同時に、よろめく鮎姫の肩へ、怒りの一刀をなぎつけて、その影は、ひら――とうしろへとびさがった。と、そこに漂っている幾人かの葉月に溶けこんで、どれがまことの葉月かわからなくなった。
悠太郎は血ばしった眼をふりむけたが、どうと草にうち伏した鮎姫をみると、
「おう、姫っ」
と絶叫して、思わずひざまずき、一刀を大地につきたて、抱きあげた。
そのまったく無防禦《むぼうぎよ》の姿のまわりから、幾十人かの葉月が、時いたれり――と最後の血笑の歯と刃をひからせてせまってきた。
そのときだ。――どこかで波音のような声がした。
「悠太郎、天蓋《てんがい》をつけろ。――」
ひとりではない。何十人かの声だ。そのふしぎな声に、悠太郎よりも無数の葉月の方が、はっとしてふりかえる。
――と、ああ、これはいかなることか、周囲をめぐる竹矢来のまえに、忽然《こつねん》と白鷺《しらさぎ》のような数十人の虚無僧が浮かび出ている。それが、いっせいに刃をぬきはらうと、草を蹴って刑場のなかへはせあつまってきた。
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帰《かえりなん》 去来《いざ》
一
刑場の中央の夢幻的死闘に魂をうばわれて、その刹那まで、ほとんどだれもが気づかなかったのである。
あっとばかり瞳をひらいた人びとに、その幾十人かの虚無僧のはしる影は――葵悠太郎自身が、これまた女忍者同様の幻術をつかったとしか思えなかった。
しかし、ほかのだれよりも驚愕したのは、葉月そのひとであったろう。――見るがいい、おのれが大気にえがいた幾十人かの幻影のひとつひとつを、その虚無僧のひとりひとりが斬り裂いている。しかもそれは葉月の分身とならず、ことごとく五色の布《ぬの》となった。――やんぬるかな、心の破綻《はたん》と同時に、「陽炎乱《かげろうみだ》し」の妖術がやぶれたのである。
たちまち刑場に満ちただよっていた葉月の姿は無数の薄絹とかわって、ただ一個の本体のみが――眼も口も茫然とひらいたまま立ちすくんだ女忍者ひとりだけが浮かび出した。
ほとんど夢みる思いにうたれたのは、葵悠太郎も同様だ。彼は天下に自分をたすけるものが誰一人としていようとはかんがえてはいなかった。たよるべきものは、おのれのいだく孤剣あるのみと信じていた。あれはいったい何者だ?
しかし、悠太郎のほうが一瞬はやくわれにかえった。彼は、葉月を見た。葉月も彼を見た。その手が痙攣《けいれん》するようにうごいて、からだにまとう薄絹をむしりとった。それが彼女の最後の一枚であったらしい。しかしそれはむなしくただの薄絹として虚空にひるがえり、彼女の上半身は美しい肌をむき出しにした。――
その恐怖の眼を、むしろ、ふびん、と思いつつ――
「見たか、たあ坊! これで甲賀七忍!」
悠太郎の牡獅子《おじし》のような姿が躍ってきて、その雪の肌に血の一閃をえがいた。
鮎姫が葉月に斬られた刹那から、柳沢吉保はぴたと沈黙していた。その衝撃《しようげき》もさることながら、それに相ついで視界にうつった光景は、まさに夢魔の世界のこととしか思われないはずと信じていたから、彼が甲賀の忍者同様の忍法をつかったものとみて、名状しがたい恐怖におそわれたのだ。
おなじく松前伊豆守をはじめ、捕手や武士たちも、かっと眼をむき出したままだ。
――刑場に、無数の虚無僧の影は渦まいている。それらはいずれも、地に舞いおちてきた五彩の薄絹を、天蓋に、肩に、腕に、刃にとまらせて、それが乱れ、なびき、ひるがえるさまは、この世のものとは思われぬ幻妖の光景だ。――そのなかに、葵悠太郎も、獅子舞いの娘も、鮎姫の姿もまったく溶けこんでしまった。
「あっ。……」
はじめて、松前伊豆守が声をあげた。
その虚無僧の渦が、いっせいに潮のひくように竹矢来の東の方角へうごき出したからだ。ようやくそれが幻影でないと気がついて、
「やるなっ」
と、じぶんもかけ出しながら絶叫した。
その声に、捕手たちもわれにかえった。ひろい刑場に算《さん》をみだしてたおれているのは、味方の屍骸ばかりだ。
「待てっ」
「のがすな!」
雪崩《なだれ》のように追っていた捕手たちは、猛然たる虚無僧のむれの反撃をうけて、たちまち浮足だった。いったい、いかなる素姓の連中なのか――公儀の役人たちを遠慮会釈のない血しぶきにかえて、迅速に――しかも、一糸みだれぬかけひきをみせてひきあげてゆく。
「――鮎姫!」
吉保は、ただひとつのこった女の屍骸のそばにまろびよった。――が、それは朱にそまった乳房のあいだに、一輪の葵の花をのせられた女忍者のむくろであった。
鮎姫の姿はどこにもみえなかった。
二
一面、ひろがる武蔵野のなかを、東へはしる街道に、捕手たちの屍体《したい》が、点てんところがっている。そのむこうへ、白い霞のごとく消えてゆく虚無僧のむれを、しばらく追う者もなかったが、
「御公儀をおそれぬ曲者《くせもの》、のがすな!」
狂気のごとく馬にとびのって叱咤《しつた》する町奉行に、捕吏たちは追いかえされて、十手をふりふりかけていった。
「きゃつら――何者か?」
歯のあいだから泡をふいて馬に鞭《むち》をあてる松前伊豆守は、突如、はっとして手綱をひいた。竿《さお》だちになった馬のまわりに、捕手たちもたたらをふんだ。
ゆくての千住大橋に、ふいに思いがけないものがあらわれたのだ。それは、いままでそこにうずくまっていたものが、急に立ちあがったようにみえた。いや、事実、それまで伏せられていた鳥毛の槍や薙刀《なぎなた》が、ぐーっと立てられたのである。おびただしい人数だが、むろん、いまこの方角へ姿をけしたはずの虚無僧群ではない。――大名行列だ。
それが、地ひびきを起し、重おもしくこちらへうごき出した。
「――やっ?」
と、松前伊豆守が絞め殺される鶏《にわとり》のような声をあげたのは、鳥毛の槍につづく先箱に葵の金紋を見出したからだ。
千住大橋をわたり、江戸に入ってくる大名で、葵の紋をつけたお方は――とかんがえるまでもなく、松前伊豆守は思わず馬からとびおりて、路傍に坐ってしまった。奉行が坐るのだから、あとの捕手たちは埃《ほこり》にひたいをうずめて土下座せざるを得ない。そのあいだを――
「えーっ、下にーっ。下にーっ」
行列は、江戸町奉行など眼中にない表情で、粛々《しゆくしゆく》と通りすぎてゆく。
――さきに逃げて、行列のうしろにまわった虚無僧のむれが、大橋の上からいっせいに天蓋やからだにからむ五色の布を川になげこみ、橋上においてあった合羽《かつぱ》をまとって、澄ました顔でそのうしろにつづいたのを、松前伊豆守は知らなかったが、行列の中の駕籠が通りすぎようとしたとき、かすかにあたまをあげて、駕籠のすぐうしろの馬に、まぎれもなく虚無僧の姿がゆれているのをみて、うなされたような眼つきになった。思わず叫び声をあげて立とうとしたが、その馬のくつわをとってあるいている白髯の老人に気がつくと、雷にうたれたように、ふたたびがばとひれ伏していた。
――老人は、ひとり大声で何かしゃべっていた。
「なるほど。左様か、いや相《あい》わかった」
だれかと話しているらしいが、相手の声はよくきこえない。馬上の虚無僧はむしろ憂愁をふくんだ顔で唇をむすんだまま、駕籠の方を見おろしている。
「この一件については、織部玄左《おりべげんざ》の横死以来、探索の網は江戸じゅうに張っておいたゆえ、事情はあらかた承知のつもりであったが、小塚原の磔《はりつけ》にかかる者の素姓《すじよう》がそうであろうとは、いかなわしでも思いおよばなんだ。そこまで徳川のためを思ってくれたとは、その忠義の一念、わしからもかたじけないと礼をいうぞ」
馬上の虚無僧は、じぶんに話しかけられたともみえないのに、思わず、
「徳川家への――忠義?」
と、かすれた声でききかえした。
そのとき、老人は前方をみて大音声《だいおんじよう》をはりあげた。
「これは、出羽ではないか。――出迎え御苦労」
悠太郎を追うのか、鮎姫を追うのか、それともいまの奇怪な虚無僧群を追うのか、侍臣にかこまれてふらふらと路に出てきていた柳沢吉保も、ゆくてにあらわれてきた行列には愕然とした。
どこの大名ともしらず、「まずい。――」と舌打ちしてうろたえたが、その足をあやうくふみとどまらせたのは、大老格としての身分と、家来たち、また遠くうしろにあつまって路をふさいでいる群衆の眼であった。しかし、その行列がちかづくにしたがって、先箱の金紋を見とめるや否や、彼は体面もわすれて背をみせようとしたのである。そのとき、遠慮もなく呼びかけてきた大声は、吉保の足をびくっと釘づけにしてしまった。
白い頭巾に面をつつんでいるのに、まるで千里眼のように名を呼ばれた。それにしても。――いまをときめく将軍家側用人に、「これは、出羽か、出迎え御苦労」という高びしゃな言葉をかけられるものは――頭をめぐらすまでもなく、ちかづいてくる馬上の虚無僧、またそのくつわをとっている老竜《ろうりゆう》のごとき人の姿に、吉保はかっと眼をむき、声も出なかった。
水戸西山にかえったときいて、胸なでおろしていた彼のいちばんけむったい老人――黄門|光圀《みつくに》である。いや、けむったいどころか―― そもそもこの事のはじめ、葵悠太郎の家来三人が訴えようとした当の相手がこの御老公であったことを彼は知っている。知ればこそその結果をおそれて、それを絶対に阻止するように甲賀七忍に命じたのだ。前将軍に世子が生まれたということを、この御老公だけは承知していたと思われるふしがあったからだ。はたせるかな、ついにこの恐るべき老人が乗り出した! と思うと、髪も逆立ち、脳中に火花がとびめぐるようであった。いまにして知る、先刻の虚無僧群をあやつったのは、この御老公に相違ない!
が、もはやこの老竜のうそぶきから身をさけるすべはなかった。大老の面目にかけても堂々と対決せねばならぬ。いや、何におびえ、何をおそれるのか。じぶんのうしろには将軍家があるではないか。
頭巾をぬぎ、蒼白な顔で目礼する吉保の頬には、微かな痙笑《けいしよう》すらうかんでいた。
「出羽」
と、その微笑の目礼に会釈もせず、黄門はあるいてきた。
「頭《ず》がたかい」
「はっ」
「余がくつわをとるお方を何ぴとと思う。ひかえおろう!」
雷のごとく叱咤されて、覚悟のほぞをきめていた吉保が、おもわず膝をついた。
「これは前将軍家の御世子葵悠太郎君でおわすぞ!」
吉保はあたまをあげた。馬上の悠太郎はかがやく眼で見おろしている。視線が空できりむすび、吉保の胸に戦慄が波だったが、彼は歯をくいしばって耐えた。
「これは、御老公の仰せではござりまするが、奇怪なことを承《うけたま》わる。御先代さまについては御世子なく、さればこそおん弟君の当代さまが公方さまにおなりあそばしたのではございませぬか」
「さればよ、余はそのことについてすら――綱吉どのが将軍家をつがれることさえ反対であった。御先代にお子がおわさねば、御先代の御次弟甲府綱重どのがあとをつがるるが順当、そして綱重どのが早世なされたうえは、その御子の綱豊どのをたてるのが物の道理、それを叔父御の綱吉どのが出しゃばりなさるのは、人間の道にたごうと思うてな。綱吉どのの鼻づらをこするようではあれど、あれほど学問自慢のお方が伯夷叔斉《はくいしゆくせい》の故事を御存じないわけはあるまいに、さりとは論語読みの論語知らず。――」
光圀自身、よんどころない事情で水戸家をついだが、じぶんの子をしりぞけて兄の子をあとつぎにした人だけに、もっとも得意とする長広舌《ちようこうぜつ》だ。事あればこれをもち出していやがらせをいうから、綱吉などこの隠居の顔さえみれば、苦虫をかみつぶしたような表情になる。が、何しろ神君の孫にあたる黄門さまだけに、何とも口ごたえができないのだ。
吉保はみけんに針をたてた。
「恐れながら、御老公さま、その御談義はいずれ城中にてもゆるゆる拝聴《はいちよう》つかまつりまする」
黄門は髯《ひげ》の中で、きゅっと笑った。
「左様か。それでは、そちはさきに城へ参って将軍家に告げよ。光圀追って御先代の嫡々《ちやくちやく》をおつれ申しあげるとな。ついでに江戸城を掃除して待っておれ。ゆけっ――と申したいが、出羽、それもこの若君のおゆるしあればだ」
「何と申される」
「そちはこの若君に、無礼のおとがめを受けるおぼえはないか?」
「御老公」
吉保は黄門をにらんで、それから悠太郎をぎらりと見あげた。
「さいぜんより、何やらしきりと、若君とやら嫡々とやら前将軍家の御世子とやら仰せられるは、この若者のことでござりましょうや」
黄門はまた笑った。
「出羽、とぼけるのは上手だな。もっとも、おのれの妾に将軍の子を生ませて、とぼけ面をしているような奴であれば、このくらいのことは感服するにもあたるまい」
「あいや、聞きずてならぬことを仰せある。拙者が――いや、拙者のことはさしおいて、この若者が御先代の御嫡子とは、将軍家御側衆として天下の機密をつかさどる拙者すら、まったく存ぜぬことでござる。なんの証拠あって――」
「余が証人じゃ!」
黄門は大喝《たいかつ》した。
「余は水戸光圀であるぞ。御三家第一の水戸の光圀が、なんの証拠もなく、宗家の嫡流など申したてることがあると思うか。このたわけめ、世のなんぴとよりも徳川家の純血を祈る光圀の眼の黒いうちは、出羽、どこの何者ともしれぬ女の生んだ小倅を、やわか将軍にはさせぬぞよ」
おさめの方の生んだ吉里のことを諷しているのだ。吉保は土気色の顔になって、
「この若者なら存じておる」
と、ふるえながら、
「こ、こやつならば、ただいま小塚原の刑場で罪人をひっさらってにげた不敵な浪人でござる」
と、馬のかげをのぞきこんだ。彼はそこにあの獅子舞いの娘を見つけ出したのだ。天下の公事を無視し、罪人をのがした罪に加担したとあれば、たとえ天下の副将軍といわれる老人でも捨ておかぬぞ――という必死の形相《ぎようそう》であった。
「なに、罪人をさらってにげたとな。その罪人とは、いかなる奴じゃ」
「直参の旗本を殺害した女でござります」
「出羽、これか?」
黄門は、あごをしゃくった。お縫にはかまわず、家来のひとりが駕籠の戸をあけた。なかから、朱に染まった鮎姫の姿があらわれた。
三
「ち……父上さま」
風のような声で、鮎姫は呼んだ。
黒髪は白蝋のような頬にみだれ、全身にはすでに死のかげが這いのぼっていた。吉保は、立ちすくんだまま、のどをごくごくとうごかすばかりであった。
「黄門さまのおっしゃるとおりです」
と、鮎姫は微笑した。
「このお方は、まちがいなく厳有院さま御世子葵悠太郎さま。父上もそれを御承知ゆえ、甲賀七忍をさしつかわされたものではございませぬか。その忍者の手にかかり、わたしが死んでゆくのは、天の配剤《はいざい》。……」
「姫!」
絶叫したのは、悠太郎であった。お縫もまろびよった。馬からとびおりようとする悠太郎を鮎姫は手で制して、
「父上さま、もはや大それたお望みはおすて下さいませ。お鮎が最後のおねがいでございます。……どうぞ悠太郎さまにおわび申しあげて下さいませ。いいえ、どれほどわびても足りるはずのない大罪、黄門さまの仰せのとおり、お手討ちの御成敗をうけてもしかたない父上の御所業でございますけれど……」
鮎姫は駕籠の外に這い出して、両手をついて、膜《まく》のかかったような眼で悠太郎をふりあおいだ。
「悠太郎さま、お鮎に免じて、どうぞ父をおゆるし下さいまし。……」
「おお!」
悠太郎はその姿から、ふるえている吉保に眼をうつし、また鮎姫を見おろして、ふかい声でうなずいた。
「天の裁《さば》きはもう終った」
鮎姫は死蝶のようにつっぷした。
「鮎姫さま! 鮎姫さま!」
お縫は狂気のごとく抱きあげた。お縫の腕のなかで、がっくりと白いあごをのけぞらした鮎姫は、じいっとお縫をみて、
「お縫さん……丹吉さんのこと……どうぞ父をゆるして……」
「鮎姫さま、もうその恨みはすてました。――」
鮎姫の唇がわなないて微笑んだが、その眼からはきらきらと涙があふれおちた。
「お縫さん、悠太郎さまと倖《しあわ》せにお暮し。――」
「はい。……いいえ! いいえ! 鮎姫さま、死んではいやです。鮎姫さまこそ。――」
「わたしは……あの世で、丹吉さんといっしょにあそんであげます。……その方がいいの。その方がいいの。……」
鮎姫のまつげがとじられ、笑顔のまま、息絶えた。
みんな、だまっていた。身じろぎもしなかった。――最初にうごいたものは、柳沢吉保であった。彼はずるずると膝をつき、大地に伏してしまったのである。そして、最初にしゃがれ声を出したのは、黄門であった。
「いざ、参ろう」
と、くつわをとりなおすのに、
「どこへ?」
と、悠太郎が夢からさめたようにいった。
「江戸城へ」
「何しに」
「悠太郎どの」
と、黄門はおどろいたように見あげて、
「おん身は、徳川家正統のお方でござるぞ。おん身がこの世にあるなれば、いまの公方は強《し》いて申せば、ありゃ横領。――」
「ゆずりもすまいが、欲しくもない」
と、悠太郎は微笑した。
「御老人、拙者に左様な望みはありませぬ」
「なに?」
「三人の家来どもが何を望んでおったかはしらず、私はただ江戸見物のためのみに出てきたのでした。それが、はからずもかような修羅のたたかいにまきこまれたのも、ただ一少年の恨みをはらさんがため――その恨みもほぼ消えてござる。いまになれば、私の出府に、おどろき、おそれ、悪あがきした奴らの胸もわかるようです。下界は恐ろしいもの、悲しいもの――いまはただ、山にかくれた母上のおこころのみがなつかしい」
悠太郎はお縫に手をさしのべた。
「ゆこう、お縫、山へ――」
その手がからまったとみるまに、お縫のからだはかるがると悠太郎とならんで馬上にあった。
「山は春だ。もう鳥も獣もあそんでおろう。お縫、足柄山へかえろうな」
「はい! 悠太郎さま」
「御老人、御好意ついでに馬を頂戴《ちようだい》いたす」
ふりかえった葵悠太郎の瞳はもう山岳の青空のようにきれいであった。
愕然として見おくる黄門、吉保、その他の家来たちのまえを、馬はしずかにあゆみ出した。いちど、それは鮎姫のそばにとまり、そのむくろに悠太郎のふところから、無数の葵の花と――お縫の眼から涙が散りかけられた。
「おさらば」
ふたりをのせた馬は、蹄《ひづめ》の音をあげはじめた。それは春の雲の果てへ翔《か》け去ってゆく天馬のようにみえた。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『江戸忍法帖』昭和50年11月20日初版発行