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柳生忍法帖(下)
山田風太郎
目 次
これより会津
銅伯夜がたり
断 橋
首合戦
沢庵《たくあん》手鞠唄
南船北馬
幻法「夢山彦」
沢庵敗れたりや
孤剣般若侠
十兵衛見参
雪地獄
霞 網
天道魔道
雲とへだつ
[#改ページ]
これより会津
「是《これ》より西北|会津《あいづ》領」
ながい勢至峠《せいしとうげ》をのぼってゆくと、道の片側に、こう刻んだ石の道標がある。
そこまでのぼると、北の方に鏡のような猪苗代湖《いなわしろこ》が俯瞰《ふかん》され、さらにその北に雲をいただく磐梯山《ばんだいさん》が遠望されるのだが、いまそこに立って、その壮大な風景をながめるものもない。
白河《しらかわ》より約八里。会津|若松《わかまつ》までほぼ十里。
峠の上を横切る黒い柵《さく》にきららのような秋の雲がひかっているが、それが美しいというより、何やら凄壮の気をおびてみえる。
ここに番所があるのは以前からのことだが、べつに関所というほど厳重なものではなく、ふだんなら土くさい役人の姿もまばらなのだが、どうしたことか、いまその番所|界隈《かいわい》は、長槍《ながやり》を立てつらねた侍でみちみちているといってよい光景であった。
「よし」
「通れっ」
峠を西へこえる旅人は、そこでいちいち面体《めんてい》をあらためられて通過をゆるされる。
ただし、はっきりと百姓町人とわかる者はべつだ。深編笠《ふかあみがさ》の武士、山伏、虚無僧、頭巾《ずきん》をかぶっている女――とくに、女にきびしい。たとえ、笠、頭巾をかぶっていても、若い女とみると、かならずそれをぬがせて、爛々《らんらん》たる眼でのぞきこむ。
「これは、どうしたさわぎかな」
「おお、そういえば数日のうちに、会津の殿様が御帰国ということじゃから、それにそなえて御警戒がきびしいのであろうが」
「なるほど、といっても、わかったような、わからぬような」
旅人はヒソヒソとささやきあっては、肩をすくめ、腰をかがめて峠をこえてゆく。
「待てっ」
ふいに、ひときわ鋭い声がかかった。番所の前に立っていたひとりの武士であった。
「その僧、待てっ」
呼びとめられたのは、網代笠《あじろがさ》の雲水だ。しかし彼はそこで調べられている連中とちがって、西から東へ越えてゆこうとしている。――会津領から出てゆく旅人は、通行自由なのだ。
「御坊、さっきいちど会津領に入られたな」
ちかづいてきた武士の袖《そで》が、秋風にはためいている。これは、漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》であった。
「なんでまた出てゆかれるのか」
きかれた僧は、初老の、いかにも悟りすましたような飄然《ひようぜん》たる顔つきをキョトンとむけて、
「いや、たいへんな落しものをしましたでな」
「落しもの?」
「勢至峠の下ではたしかにあった。それが、いまふと気がついてみると、ない。ないですむことではない。その書状をとどけるのが拙僧の役目なのじゃから」
「書状とは?」
「実は、江戸東海寺の沢庵《たくあん》禅師さまが、ちかくの出羽《でわ》の上《かみ》ノ山《やま》へ参られるについて、ひと足先に、上ノ山のゆくさきへとどけねばならぬ禅師の御書状でござるが」
「沢庵禅師が――」
と、さすがの漆戸虹七郎もやや顔色をあらためて、
「禅師が上ノ山へゆかれるのに、会津領を通られるのか。沢庵どのと申せば将軍家の帰依あつきおん方、御道中のおもてなしもひと通りではすまぬが、わが藩ではまだそのようなお知らせを受けてはおりませぬぞ」
「左様かな、それでは福島から米沢《よねざわ》をまわってゆかれるおつもりであろう」
その旅に先立つ使者というのに、なんだかあいまいだ。
「おつもりであろう――とは、御坊、禅師がどの街道をお通りなさるのか御存じないのか」
「いや、老師よりもひと足先に拙僧は東海寺を立ちましたのでな。それにこのたびの老師の御行脚はそのむかし流罪となられた土地をなつかしがっての気まぐれ旅、また老師の御気性として、御通行の領地に前|以《もつ》ていちいちお知らせなさるような仰々しいことはおきらいであろう。ひょっとしたら、御領内をお通りなさるかもしれませぬが、その節とても何とぞおかまい下さるな」
「それにしても、その大事な御書状をおとしなされたとはこまったこと、この勢至峠の下まではあったと申されたな。家来どもを狩りたてて、探させましょうか」
「いや、それには及ばぬ。なければないでもすむ書状」
と、僧はあわてて、さっきの言葉とは矛盾したことをいったが、すぐにそれに気がついたらしく、
「いちど拙僧がさがしてなければ、そのときはまたお頼みするかもしれぬ。では、何はともあれ、ひと走り――」
と、そそくさといって、柵の出口を東へ出ていった。
峠を東へ下る道はながい。――一里以上もある。
そこを、飄々と木の葉のように下りていった雲水は、いちどふりかえって、あとをつけてくる人影のないのをたしかめると、道の片側の紅葉林の中へ入っていった。
「おい、十兵衛どの」
と、息はずませて、小声で呼ぶ。
林の奥から、五つの僧形があらわれた。もとより柳生十兵衛と堀の女たちだ。お圭《けい》のくじいた足はなおったとみえて、彼女らしい影も、お沙和《さわ》、お鳥と仲よくならんで立っていた。
「物見をしてきたがの」
と、こちらからいったのは、薬師坊だ。彼だけは例の袈裟《けさ》頭巾をとっている。
「いや、とうていあの番所はぶじに通れぬぞ。ものものしくおびただしい番卒どもがつめておる上に、宇都宮で逢《あ》った片腕の男な」
「漆戸虹七郎」
「あれがちゃんと頑張って、眼をひからせて見張っておるわ」
「やはり、左様か」
と、十兵衛は袈裟頭巾の中でうなずいてから、はるか峠の方に眼をあげた。
峠の左右には重畳《ちようじよう》たる山脈がつらなって、その空に秋の雲がさざなみのようにながれている。
その向うが会津領であった。会津は海から遠く、高い国であった。
「首尾よくゆけば、われらがまず会津に入る。明成《あきなり》のうしろからくる八人に、敵が心を集めておれば、われらが先に入る。もしわれらに気を奪われておれば、うしろの八人が入る。――敵をして奔命《ほんめい》に疲れさせるために、人数をふたつにわけたのであったが、すでにそれほど警戒しておるとすれば、さてどういたそうか……」
あいている方の、もうひとつの眼もとじて、
「間道。……番所のない山を越えるか」
「それがじゃ、十兵衛どの。あの番所をいちど向うにすぎたわしが、つらつら見わたすとな、あれにつらなる山々に、点々と槍《やり》や刀のひかるのが木の間がくれにみえる。会津の国境、蟻の這《は》い入るすきもないほどの網を張りめぐらしておるとみた……」
「それなら」
お鳥が笠をあげた。その眼には恐怖よりも不敵なひかりがかがやいて、
「その一つを襲って、山を越えようではありませんか」
「そなたらがか?」
と、十兵衛は隻眼をひらいた。
「通れぬな」
無情なほど、冷たい声でいう。
「間道を越えるということはおれも思案していたが、しかしいまこうしてあの山々を見ると、間道と呼ぶべき道もあるまい。ましてや、見張りが網を張っておるという――」
「むろん、わたしたちは死ぬのでございます。そして、わたしたちに見張りの人数を集めておいて、沢庵さまの組をぶじ通らせる――」
十兵衛はお鳥の顔をみて、微笑した。
「実は、それはおれがかんがえていたことだ。しかし、それはおれがやろう」
「おれが……と、おっしゃいますと?」
「おれひとりでやるということだ。おれひとりで十分だということだ。また、おれひとりの方が働き易いということだ」
四人の女は顔を見合わせた。すぐにお品が、せきこんでいう――
「わたしたちはどうするのでございます」
「おぬしたちは、そうむやみに死に急ぎすることはない。おぬしたちは、まずぶじに会津に入ることが先決だ。おぬしたちは、明成一行をやりすごして、沢庵さまの組に入れ――といっても、またあの鷲《わし》ノ巣廉助《すれんすけ》に逢ったときのようにむちゃをやられてはかなわぬ、薬師坊どの、よろしく手綱をしめておいて下されや」
苦笑して、薬師坊の耳に口をよせて、なにやらささやいた。
「沢庵さまには、このようにお伝え下されい。――こうとなっては、大手をふって会津に入るよりほかはござらぬとな」
それから、背にななめに負うていた風呂敷包みをとってひらいた。中から般若《はんにや》面と黒装束があらわれる。
数分ののち、そこから僧形が一人分消えて、頭巾に般若面をつけた姿が一人分現出した。
「では、いのちがあったら会津で逢おう」
二、三歩、ゆきかかって、ふととどまった。十兵衛のいままで立っていたところに、まるで西瓜《すいか》か何かをくるんでいるような包みがひとつ残っていた。
「おっと、大事な土産《みやげ》を忘れた」
たちもどって、それを小わきにかかえ、
「いかに冬近いとて、生ま物はいたむでな。この土産早う向うさまにわたしたい。――明成の国入りは、あと二、三日か?」
とひとりごとをいうと、その影は、紅葉林の中を、黒い豹《ひよう》のごとくにかけ去った。
――三日のちの午後である。
峠を見おろす山の樹立《こだ》ちの中に、ほんの形ばかりの小屋が編まれて、その前に陣笠をかぶった三人の武士が立って小手をかざしていた。
「おお、いよいよ御帰国だ」
「七本槍の衆は健在か」
「待て待て――おるおる、香炉《こうろ》銀四郎は馬で先頭をきっておる」
「司馬一眼房《しばいちがんぼう》もお駕篭《かご》のそばについておるわ」
「はてな。――鷲ノ巣廉助がみえぬぞ」
「みえぬはずはあるまい。あれだけ目だった大男だ。よっく見ろ」
しかし、峠をのぼってくる行列は豆つぶのようなのに、恐ろしく眼のきく連中だ。そういえば、三人ともたんなる武士というより、どこか野獣めいた剽悍《ひようかん》さがある。
小屋のそばの喬木《きようぼく》に、妙なものがかかっていた。鎖で吊《つ》るした鉄の篭《かご》である。篭の中には木か草のようなものが入れられ、まひるなので火はみえないが、かすかにうす蒼《あお》い煙を吐いているところをみると、それはくすぼっているらしい。
「おらぬ。――鷲ノ巣廉助はおらぬ」
と、ひとり、くびをかしげてつぶやいた。
明成の行列は峠の番所についている。みちみちていた番卒たちは、両側にわかれて平伏し、駕篭から出た明成は、迎えに出た何者かと話をしているらしい。
「や?」
と、山上の小屋の武士のひとりが眼を見張った。
「また行列が東から峠をのぼってきたぞ」
「山駕篭が、一つ、二つ、三つ……六つ、七つ……九|梃《ちよう》」
「なんだ、あれは? 傍についてあるいておるのは坊主ではないか」
「雲水だ。雲水が五人」
「殿の御行列がすぐ前にあるに、ほう、九梃の山駕篭め、平気で番所にさしかかってくる――」
――加藤明成は、異様なふたりの人間の、異様な出迎えを受けていた。
異様な――といっても、一見、ふつうの女と、老人である。ただ、女は常人ばなれしてみえるほど美しく、老人もまた人間ではないもののように老いている。老人のただならず老いていることは、その死灰のような皮膚の色と、灰色のみみずのかたまったような皺《しわ》だらけの顔でわかるのだが、ふしぎに総髪の髪も黒く、胸までたれた髭も黒い。そして、異様なというのは、その女も老人も、何か妖《あや》しい虹《にじ》のような精気を発していることであった。
「おゆらか」
と、乗物から出た明成はいった。
番所の前には、二梃の駕篭が置かれていた。それは数刻前、女と老人が供を従えて、西の若松の方から乗ってきたものであった。
その前に老人とならんで坐《すわ》っていた女は、
「このたびは、つつがのう御帰国あそばし、おゆら……」
と、いいかけて、顔をあげて明成を見た。
つつがのう――と、女はいった。いかにも明成は、いまおのれの領地会津に帰国の第一歩を印した。しかし、つつがなく、というにしては、あまりにもやつれはてた姿であった。蒼白くこけた頬、みだれた髪、ドンヨリとにごった眼は、病人のような鬼気をすらおびている。
――と、みるや、女はその名のごとくユラリと立ちあがった。秋の日に、金糸銀糸をぬいとりしたかいどりが、燦々《さんさん》とひかる。女は、明成の御国御前おゆらの方であった。
おゆらの方は、しずかに蓮歩《れんぽ》をはこぶと、フンワリと明成にしがみついた。そして、下から白いあごをあげていって、ひたと明成の唇におのれの唇をつけたのである。
――何百人という家臣の見ている前で。
異様な出迎えといったのは、このことだ。
――息をのんで見まもる家臣たちの前で、おゆらはあきらかに、明成の口におのれの舌をさし入れて、しずかにそれをうごかしながら、時のうつるのも知らないかのようであった。
傍若無人のふるまいというべきか。妖艶《ようえん》無比の媚態《びたい》というべきか。
顔をはなすと、ふたりの口に銀色の唾液《だえき》が蜘蛛《くも》の糸のようにひくのまでが見えた。――にっと笑っていったのである。
「殿。……おゆらのいのちをお吸いなされませ」
――まさに、明成の顔には生色がよみがえった。頬に血がさし、眼にはかがやきがもどった。
「おゆら」
「これからは、おそばにおゆらがおって、殿にいのちを吸わせまする」
「もはや、御安堵《ごあんど》なされい。――銅伯もこれにおります」
と、老人が、黒いひげの中で、きゅっと笑った。――芦名《あしな》衆の頭領、芦名銅伯である。彼はながい柿色の道服を着ていた。
芦名銅伯、百七歳。――二十七歳のおゆらは、八十歳にしてまさに銅伯が生んだ娘であった。
「――この春以来の江戸表の凶事の数かず承わり、銅伯、案じておりましたが、もはや御国におかえりあそばした上は、ここは鉄壁」
と、百七歳の老人はいった。
「とは申せ、先駆の虹七郎より承わりますれば、御道中にもなお不埒《ふらち》な影がまといついておりました様子、念のため、国境に芦名の者どもを配置しておきました。されば、いかな曲者《くせもの》とて容易に潜入することはかなわぬこととは存ずれど、ただ、それが、よいか、わるいか――」
「よいか、わるいか、とは?」
「逆賊堀一党の女ども、むしろ女狐どもをさそい入れて、御領内にてひッ捕らえ、鶴ケ城大手門の前にて逆さはりつけにでもいたしてやった方が胸がいえるかと。――」
「銅伯」
と、いちどは生色をとりもどした明成の顔が、また蒼ざめた。
「余を狙うは、堀の女どものみではない。えたいの知れぬ男がそのうしろ盾となり、江戸にて大道寺鉄斎、平賀孫兵衛、具足丈之進《ぐそくじようのしん》ら、そちが推挙した芦名衆きってのものどもが討たれたのも、おそらくはその男のためであった。――」
「鉄斎、孫兵衛、丈之進」
と、老人は吐き出すようにつぶやいた。
「この銅伯さえそばについておれば、やわか殺しはせなんだが、しかし、不覚な奴めら、殺された方がよかったかもしれませぬ」
無念というより、憎悪と軽蔑《けいべつ》に、老人は歯ぎしりをした。――それから、明成のうしろに立っている司馬一眼房と香炉銀四郎に、くぼんだ眼をギラリとあげた。
「ところで、鷲ノ巣廉助の姿が見えぬが、廉助はいかがいたした?」
ふたりは、番所の内外を見まわして、あっけにとられた顔をした。
「廉助がおりませぬと?……きゃつ、先に帰ったのではござりませなんだか?」
「上小屋の宿より、ひとり先駆けていったはずでござるが――」
銅伯の眼が、さらに凄《すさま》じいひかりを放射した。
「たわけっ」
ひくいが、鼓膜《こまく》に疼痛《とうつう》をあたえるほどの叱咤《しつた》であった。
「さては、廉助め、上小屋からここまでのあいだに討たれおったな。きゃつの未熟は自業自得として、朋輩《ほうばい》が討たれても気づかぬとは、いやはやあきれはてたる大たわけ――」
一眼房と銀四郎は混乱した眼でなおあたりを見まわしていたが、やがてものもいわずにとってかえそうとした。
外まで出て、はたと立ちどまる。
「やっ?」
「どうした?」
と、漆戸虹七郎もはせ出して、坂の東を見下ろして、
「はて、山駕篭が九梃も上ってくるわ。おお、先に立っておるは、先刻の雲水。すると――」
すぐ頭上の柵《さく》と番所をうずめて、鳥毛や槍《やり》が林立している光景は眼にみえるはずなのに、その山駕篭の行列は、おそれげもなく悠々と坂をのぼってきた。
駕篭かきをのぞいて、五人の雲水がそのそばについていたが、その先頭に立ったひとりが、柵の外にならんで眼をひからせている虹七郎、一眼房、銀四郎のまえに、平気でノコノコちかづいてきて、
「やあ、先刻はどうも」
と、虹七郎に笑いかけた。落しものをしたといってひきかえしていった僧である。
「書状は見つからなんだが、それより書状をかかれた御当人がそれへ参られてな。いや、使いの拙僧があっちこっちで道草をくっていたことが露見いたして、いま老師から大眼玉をくったところでござるて」
「老師?――すりゃ、それは」
と、漆戸虹七郎が狐につままれたような表情で山|駕篭《かご》に眼を走らせたとき、薬師坊は蒼空《そうくう》に高だかとすッとんきょうな声をはりあげた。
「江戸万松山東海寺住持|宗彭《そうほう》沢庵、このたび出羽国上ノ山へ行脚の途中、会津領通行、おゆるし願うっ」
「――な、なに、東海寺の沢庵和尚?」
のけぞりかえったのは、番所の前にいた加藤明成だ。沢庵禅師といえば将軍家の帰依あつい高僧だから、このおどろきは当然である。供侍たちの上にも、いっせいに衝動の波がわたった。
薬師坊はすまして、
「よろしいか」
といって、返事もきかないうち、当然のごとく駕篭かきにあごをしゃくった。山駕篭はゾロゾロと柵の中に入ってきた。
「ま、待たれい」
と、虹七郎はあわてて、その前に立ちふさがった。
「御坊、先刻も申したごとく、沢庵さまが会津を御通行になるという知らせは受けておらぬが――」
「それは、私用のぶらぶら旅でござるから、いや、おかまい下さるな」
「とは申されるが、あいや、まことの沢庵さまでおわそうか。疑って恐れ入るが、実はわけあって当領では、ただいまひそかに入国せんとする曲者をきびしく改めおりますれば」
薬師坊はふりかえって、
「老師」
と、呼んだ。
「おいよ」
「おききなされましたか。老師をにせものではないかと申しておりますが」
「きいた。何じゃと? ひそかに曲者が会津に乗りこもうとしておると? つまり、その曲者が沢庵に化けて入国しようとしておる、と、こう申すのじゃな。いや面白い」
山駕篭の一つがカタカタと鳴るような笑い声がきこえたかと思うと、その汚ない垂れがひらいて、ぬうとひとりの老僧があらわれた。
「にせものとは、よう気がついた。が、そこまで気を回すなら、なぜもうひとつ頭を回さぬ、曲者は当領の領主に化けて入ろうとしておるかもしれぬぞ」
あっ……と、どこかで、ひくいが、ただならぬ叫びがきこえた。
あたまがつるつるに禿《は》げて、白い髭《ひげ》を生やした小柄な老僧は、墨染めの衣の袖《そで》をあげ、小手をかざして、遠い湖を見わたして、
「山河だけは、天下無双」
と、心からうれしそうにつぶやいた。それから、その方向を見たままでいう。――
「会津の衆、わしは江戸からきたのじゃがの。江戸で大評判になったおかしな話がある。御当家の殿さまのにせものがあらわれたというのじゃ」
漆戸虹七郎の右手がぴくっとうごきかけた。本能的に長刀の柄《つか》に手が走ろうとしたのだ。
あやうく彼はみずからの衝動をおさえた。これが沢庵?――凄じい眼がふりかえると、主君の明成は、番所の前に立ちすくんで、かっと眼を見ひらいて、こちらをながめている。
老僧はケロリとして、家来たちの頭上に遠慮なく笑いをふくんだ声をひびかせる。――
「去る日、江戸城竹橋御門内の天樹院さま――将軍家の御姉君の御屋敷の御門の外によ、こちらの殿さまが縛られて、さらしものになっていたという。後家の天樹院さまは色好み――そんなたわけた浮かれ話につい吊られて、竹橋御門に夜這《よば》いに入ってつき出された大ばか者という噂じゃが、なんとその大ばか者が、加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》じゃと、名乗ったとか名乗らぬとかいう風評であった。それがまことなら、もはや江戸にもいたたまれまい。国の会津に尻《しり》に帆かけて逃げ帰らずにはいられまい――という江戸の笑い話じゃが、むろん、わしはそやつはにせものじゃ、そんな話は嘘の皮じゃと信じておる。信じてはおるが――」
この長広舌が、会津藩士一同に、きいているだけで、全身にあぶら汗がにじみ出てくるような話であることはいうまでもない。
「……と、と」
香炉銀四郎がうめいて、絶句した。殿、といおうとしたのだ。
声がつづかなかったのは、主君の形相が異様なものに変わっていたからだ。怒りではない。その老僧の声をききながら、明成は手も足も出ない苦悶《くもん》にたえようとし、たえきれずにいまにも膝《ひざ》をつきそうな様子をしていた。さっき、「あっ……」と口ばしったのも彼であった。明成は、まさにその老僧を、ほんものの沢庵和尚であると知っている。――
沢庵ならば、しばしば江戸城へ上るから、諸大名で知らぬものはない。明成もむろん、いくどか城で相まみえたことがある。それだから彼は、いま沢庵の大皮肉をききながら、歯をくいしばって立ちすくんでいるほかはないのであった。
その明成の姿は、まったく眼に入らないかのように沢庵の声はながれる。――
「信じてはおるが……そんな話があったということは、会津の御家来衆は承知しておかれたがよいぞ。殿さまのにせものが、この世に出没しておるのじゃ。せっかく御警戒なら、何よりもまず、その大それた曲者《くせもの》にお気をつけなされや――」
そのとき、明成の足もとで、しずかにひとりごとをいう声がきこえた。
「女の匂いがする――」
すぐそばの銀四郎と一眼房だけがそれをきいた。坐ったまま、深沈たる眼を沢庵の方になげている芦名銅伯のつぶやきであった。
「あのうしろの山駕篭から、女の匂いがするぞ」
ふたりは、はっとして、沢庵のうしろにならんで地に置かれた八|梃《ちよう》の山駕篭をながめやった。
「一眼房、あのひとつの駕篭をあけてみい」
と、銅伯がささやいた。
司馬一眼房は、さっきから沢庵をみて、しきりにくびをひねっていた。何かに気がついて、あやしんでいる様子であった。いま銅伯にそう命じられて、何かいいかけたが、いうよりも銅伯の命令に従った方が疑問をとくのが早い、と決心したようである。
「心得てござる」
うなずくと、片膝をたてた。
ぱっとその手もとで何かがはためいたような音がした。そのからだから、数間さきの山駕篭の一つに――沢庵のつぎの駕篭へ、黒い流線がはしった。
ばさ! というひびきとともに、その駕篭の垂れが斬りおとされた。黒い流線は次の刹那《せつな》、あきらかにながい皮鞭《かわむち》のかたちをみせながら、一眼房のもとに巻きかえっている。
垂れの落ちた山駕篭の中に坐っているひとりの女がみえた。
しゃべっていた沢庵はキョトンとして、それをながめ、また一眼房を見やり――それから、女にいった。
「いかぬな。……これ、出てくれい」
うっと、うめいたのは、明成ばかりではない。一眼房、銀四郎も眼をむいて、その女の姿を見つめたままだ。
「坊主が女づれの旅をしておるのが露見したらしい。ふふふふ、出ろ出ろ、そして、あの男を見てやってくれ」
明成の方へ、あごをしゃくった。
山駕篭の中から這い出した娘は、片腕をついたまま、明成を見やった。うらみにかがやく古河《こが》の本陣紙屋の娘おとねであった。
「まだ話があるぞ――」
沢庵は、はじめて炯々《けいけい》たる眼で明成を凝視していうた。
「ここにくる途中でな、あれは奥州《おうしゆう》街道の新田と小金井のあいだじゃったが、乗物に女と相乗りして、女にいたずらして悲鳴をあげさせながら道中しておる大名があった。一見大名行列風にみえたが、天下に左様なばか大名がおるわけはないから、あれはきっとにせものにちがいない。――と、あとで思いあたった」
香炉銀四郎は愕然《がくぜん》として司馬一眼房をふりかえった。
一眼房は沈痛な眼色で、銀四郎をおさえた。さっき彼が気がついたというのは、そのことなのだ。あのとき網代笠《あじろがさ》の下は袈裟頭巾《けさずきん》が覆っていたから顔はわからなかったが、声にふと記憶があって、「もしや」と、胸の鼓動を禁じ得なかったのであった。
ひょっとしたら、あの袈裟頭巾の老僧がこの沢庵であったのでは?――という疑心は生じたが、まさかその沢庵が、古河の本陣の娘をつれてここまでこようとは想像もしなかったから、いまあらわれたおとねの姿には、あっと思ったきり、一眼房も二の句がつげない。
「これは、その本陣の娘じゃ。娘のいうところによると、あれは会津の領主加藤式部少輔と名乗っておったそうだが、むろんにせものに相違ない――と、わしはいいきかせたのじゃが、何じゃ、いまみると、そのにせ大名そっくりの男が、そこに棒のようにつっ立っておるではないか」
と、沢庵は眼をパチパチさせて、明成にもういちどあごをしゃくった。
「おとね、あれがその男かどうか、よっく見ろ。……むりむたいに手篭《てご》めにされ、辱かしめられて、こんど逢《あ》ったらのどぶえにくらいついてやりたいと、おまえが血の涙をながしてくやしがっていた男じゃ。ちかづいて、たしかめて、それに違いなかったら、おとね、のどぶえにくらいついてやれ」
地に片手をついていた娘は、肩で息をして立ちあがり、二、三歩あゆみよって、うなずいた。
「では、あれにまちがいないな」
突然、沢庵は大喝した。
「これ、会津の衆、何をぽかんと口をあけていなさる。ひとをにせもの呼ばわりして、おぬしらの眼はふし穴か。そこに主人のにせものが、ぬけぬけと入りこんでおるではないか」
そして、おとねの手をひいて、ノコノコとあるきだした。
「ええ、こういってもまだみなが寝とぼけた面をしておるなら、わしがこの手でそやつの面の皮をはいでくれるわ」
火にあぶられる美しい蝶《ちよう》のように飛び立とうとする銀四郎をあやうく制し、司馬一眼房は立ちあがり、ゆくてをふさいだ。
「……これは、ほんものの式部少輔さまでござる」
沈んだ声で、うめくがごとくいう。
沢庵は大げさに、眼をまるくした。
「なに、これはほんもの?」
しげしげと、明成を見あげ、見おろして、
「明成どの、ほんものの加藤明成どのなら、この沢庵を存じておられるはず――」
「……おひさしぶりでござる、沢庵どの」
明成は、歯をカチカチと鳴らしながらいった。
「相変らずのお元気、祝着に存ずる」
「わっ、こりゃほんものじゃ! これはおどろいた。いや、それにしても――」
沢庵は感にたえるように、
「おとね、おとね、おまえが見ちがえるのもむりはないわ。この明成どのはあの色きちがいのにせものにまったくよく似ておられるではないか。いや、にせものの方が、この明成どのに似ておるのかもしれぬが――宗彭沢庵、七十一年の生涯にこれほどたまげたことはない――」
墨染めの衣の袖をうちはらい、
「どうやら、おまえの見まちがえであったらしいぞ。おとね、ではゆこう」
と、沢庵はおとねを山|駕篭《かご》の方に押しやって、
「いまも申した通り、なんたる不敵な曲者か、式部少輔どのそっくりのにせものが、この街道に出没しておる。せいぜい、用心なされや……では、よろしいか」
と、明成にいった。
「御領内まかり通ってよろしいな」
明成はわずかにうなずいただけである。――澄ましておのれも山駕篭にもどろうとする沢庵に、
「あいや、禅師」
と、香炉銀四郎が呼びかけた。この少年のみは意気屈せぬ精悍《せいかん》な面だましいで、
「沢庵禅師ほどのお方をお迎えして、たんに領内御通行のままにて相すませましては、会津藩として心残りでござる。是非とも、一、二夜なりと、鶴ケ城へ駕篭をまげられとう存じまする。殿、左様ではありませぬか?」
「さればよ」
と、沢庵は平気でいった。
「実は、はじめ福島から米沢を回って上ノ山にゆくつもりが、ゆくさきざきで同じようなことを申して待っておるときいて、これは迷惑とこっちへ逃げ出してきたのじゃ。お志はかたじけないが、このたびはおかまい下さるな。いやなに、気まぐれなわしのことじゃから、気に入ったところで駕篭をとめて見物させてもらうかもしれぬが、気ままに捨ておかれる方が、わしとしては心うれしい。わがままは、ゆるされい」
「それでも、領内にて万一のことが起れば、御公儀に対し面目が立ちませぬ」
銀四郎はなおいいつのった。
彼のあたまには、奥州街道以来のことが走馬灯のごとくめぐっているのだ。いまの沢庵の挙止は、あきらかに主君を嘲弄《ちようろう》したものだが、どうみても会津に反感をもっているものと判断せざるを得ない。
江戸でこの和尚の風変りであることの噂はきいている。いや、曽《かつ》ては幕府にすら反抗してついに屈しなかった沢庵である。或いは古河の本陣で娘をさらってきたことをきいてから会津にへそをまげたのかもしれないが、しかし、それ以前の粕壁《かすかべ》の宿の読経さわぎにも、この和尚一行の愚弄の意志がはたらいていたのではないかと疑われるふしがあり、さらにいま竹橋御門の恥辱のことをさらけ出したことといい――これは、ひょっとすると?
あの、残り七梃の山駕篭にのっているのはだれだ? おお、その数は七つ、会津にとっては曽ては光栄の数だが、いまとなっては呪いの不吉な数だ。
――あの山駕篭の中をみたい! という衝動を、銀四郎はおさえかねた。それに、いまにして思い出す不審のことがある。
「禅師。――禅師御一行には、奥州街道にてお逢いつかまつりましたな」
「左様であったかの」
「あのとき、御一行は、たしか八人――」
「左様であったかの」
沢庵は半眼のままである。
ひとすじの刀痕《とうこん》でたてに割られた美貌《びぼう》を、蒼白《あおじろ》く沈めて銀四郎はいう。――
「しかるに、いまここにおいでなされたは、その娘御をのぞいても十三人。いつのまにやら五人ふえております。領内御通行中、万一のことがあった節は、御人数の点だけなりと、しかとたしかめておかねば、会津の手落ちと相なりまする。御道中の村々にも、そのようにつたえておかねばなりませぬし――」
沢庵の眉雪《びせつ》の下で、爛《らん》として眼が見ひらかれた。
「無礼であるぞ、この小せがれ、先刻からだまってきいておれば」
この痩躯《そうく》のどこから出てくるかと思われる叱咤《しつた》であった。
「あの駕篭にのっておられるは、七人の女人じゃ!」
峠の上に、一瞬、名状しがたい静寂がおちた。空ゆく雲さえも、しばし凍りついたようであった。――音もなくうごいたのは、長刀にかかった漆戸虹七郎の隻腕だけである。
「これ、沢庵と同行の者がそれほど怪しいか。ならば、きかせてやろう」
沢庵はぶきみなほど声をおとしていう。
「いかにも、はじめわしについておった僧は七人であった。そのうち三人は、所用あって途中で江戸にかえった。残りの四人と、先に使いとして出した一人が、それそこにおる五人の雲水じゃ。この勘定、わかったか」
「か、駕篭の中の、七人の女人とは?」
香炉銀四郎の歯が、かすかに鳴る。
「見たいか……ふむ、見せられぬな」
「何と仰せある」
「と、申すのは――」
沢庵はニヤリと笑った。
「これは、将軍家御|寵愛《ちようあい》の女性《によしよう》たちじゃからの」
「えっ」
「天下に知られとうないが、色きちがいの大名もこの世にあることは知らぬではないおぬしたちじゃから、ないしょでいう。実は、当将軍におかれても、すこしあの方が過ぎる。捨ておけば、女色のため御寿命までちぢみそうな――と、このわしが見かねての。御手付きの御中臈《ごちゆうろう》のうち七人、なかでも色好みのお方を、春日局《かすがのつぼね》、松平|伊豆守《いずのかみ》らと相はかって、そっとわしが持ち出してきたのじゃよ。もっとも江戸から沢庵といっしょでは、評判となるからの。実はひとあしさきに白河まで送り、それからは見るとおりじゃが、沢庵来ると待ち受けておる福島を避けたのもそのため、わざと山駕篭にやつしたのもそのため。……沢庵の苦労、察してくれい」
うそかほんとか知れぬことを、飄《ひよう》としていう。あまり意表に出たことなので、だれもがとっさに言葉を失った。
「これから上ノ山の草庵につれ参って、しばらくさかりを落とそうと存ずる。……何と申しても将軍家の御|寵妾《ちようしよう》、容易に人の目にはみせられぬわけ、わかったかの。会津領内に触れるとならば、この駕篭の中の女人、見れば眼がつぶれるとでも触れてくれい」
「……一眼房」
地にしみ入るような声がかかった。
けむにまかれて、茫然《ぼうぜん》としている一同の中で、司馬一眼房がはっとして顔をあげた。
「残り七梃の山駕篭の垂れ、みな切って落とせ」
いったのは、それまで寂然と坐《すわ》って、沢庵の説法をきいていた芦名銅伯である。
沢庵は、さっきからしゃべりながら、ちらっちらっとその方を見ていた。何やら、気にかかる風であった。――その老人が、髪と髭《ひげ》こそ黒いが、百七歳の天海僧正とそっくりおなじ顔をしているというおどろくべき事実に眼をとめたばかりではない。たとえその相似に気がつかなくとも、沢庵の心をとらえてはなさぬものがあった。名状しがたい凄惨《せいさん》ともいうべき超人的な精気だ。
それが何者か。――すでに承知していて、沢庵がきいた。
「明成どの、あれは何者か」
「あ、芦名銅伯と申す家臣でござる」
「あれは、会津四十万石をつぶす気か」
銅伯は沢庵をじっと見返した。百七歳の怪老人と七十一歳の快僧は、しばしおたがいの瞳《ひとみ》のおくをのぞきこむように相対した。ふたりのあいだに、眼にみえぬ、身の毛もよだつような大気が張りつめた。
「ま、待て」
と、明成が思わずうめいたのは、銅伯の言葉と沢庵の言葉の意味を知ってではなく、それよりさきに、この凄《すさま》じい気力の争闘におしひしがれたからであった。
「銅伯、な、何と申したか」
「きこえぬのか、一眼房」
明成の声も沢庵の声も、おのれはきこえないかのように、芦名銅伯は冷然といった。
「七|梃《ちよう》の駕篭の中をことごとく見せよ。まことに将軍家の御中臈であったときは、会津四十万石、たしかに献上つかまつろうぞ」
ぱっと一眼房はまた片膝《かたひざ》をたてた。沢庵もとめるいとまがない早さであった。そのふところから、例の皮鞭《かわむち》が電光のごとくたぐり出されようとする。――
その一瞬、彼の一眼に、向うの峰の蒼空《そうくう》をたてにきる白煙が走った。
「あっ――狼煙《のろし》だ!」
鞭を忘れて立ちあがる。
いっせいにふりむいた会津侍たちは、それにつづいて峰から峰へ、三すじ、五すじ、七すじ、みるみるうちに林立してゆく狼煙を見た。
国境の山岳に張りめぐらされた芦名衆の哨戒《しようかい》線、その一か所でも不審の影が越えれば、その左右十か所にわたって狼煙の合図があがることになっていた。
「曲者《くせもの》だ!」
「曲者が推参いたしたぞ!」
どっと立って、峰から道もない横の山へむらがり走るその剽悍《ひようかん》さ――さすがの沢庵がぎょっと眼を見張った。いままで陣笠《じんがさ》をかぶったただの雑兵のように思っていたが、いずれもただの国侍ではない。
(――あれが音にきく芦名衆か?)
見送る沢庵の眼に、山の方からも樹々をつたって飛んできた陣笠の影がみえた。
(十兵衛、大丈夫か?)
峠の上に、九匹のうす汚ないかぶと虫みたいにならんだ山駕篭。
そこから、白いひげをはやした坊主がひとり出てきた。それが、そっくりかえって主君明成に何かいっている。
声はきこえないが、それに対して殿の方はひたすら驚愕のていだ。と思うと、司馬一眼房の手から例の皮鞭が走り、つぎの駕篭《かご》からひとりの女があらわれた。
女? さてはと眼をこらすと、どうしたのか、これにむかっても藩士たちはただすくんで、何の行動に出る様子もない。
山の上の見張り小屋の前で、陣笠をかぶった三人の会津侍は、この光景を見下ろしていた。番人たる役目の彼らが、この十数分、まったく哨戒をおこたっていたのは、この峠の上の奇妙な無言劇に――その実、きこえないだけだが――思わず心をうばわれていたからとしかいいようがない。
突如として三人は、はじかれたようにふりむいた。
すぐそばの樹立《こだ》ちのあいだに、異様なものが立っていた。黒装束をつけた般若《はんにや》面だ。それが笑うようにいったのだ。
「おい、あそこに吊《つ》られているのは狼煙だろう。どうしてあげるのだ?」
手つだってやろうといわんばかりに、平気でちかづいてきた。
「早く仲間に知らせるがよい。曲者推参、しかも全部で八人――というわけは、うぬらがボンヤリしておるあいだに、すでに七人、国境をこえたぞ」
はっとしてあたりを見まわした三人の顔に、狼狽《ろうばい》の相があらわれた。眼と耳には自信があっただけに、この曲者がそこに出現するまでまったく気づかなかったことと思いあわせ、相手の言葉をまどわしときけぬものがあったからだ。
一瞬ののち、彼らはしかし沈着に左右にひらいた。
「まず、こやつから斬れ」
ひとりがうめくと、いっせいに抜刀した。
柳生十兵衛は般若面の奥で、これは、と逆に舌うちしていた。彼の目的はこの三人をたおすことではなく、狼煙をあげさせるか、急報させるかにあったからだ。彼もまた峠の上の光景を見ていて、意外といおうか当然といおうか、沢庵一行が容易にそこを通過できぬどころか、何やらただならぬ妖気《ようき》がそくそくとして山駕篭の群にせまるのを看取して、かねて覚悟の通り、峠の敵をこちらに呼ぶ目的で行動を開始したのであった。
じっと三人の敵を見て、
「うむ!」
つねならぬうめきとともに、十兵衛の腰の仕込|杖《づえ》からも一刀がすべり出た。
たんなる陣笠の山侍と思っていたのに、この三人が実に容易ならぬ使い手であることを知った衝動が、十兵衛の全身を走っていた。三人がおちつきはらって、まずこのおれを斬ろうという意志を起したのもむべなるかな――これほどの使い手は江戸の柳生《やぎゆう》道場にも十人とあるまい。
(――ふむ、これが七人|槍《やり》衆を生んだ芦名衆か?)
その刹那《せつな》、三人は十兵衛など眼中にないかのごとく猛然と殺到すると同時に、左右のふたりはそれぞれ左右から横なぐりに一刀を薙《な》ぎつけ、まんなかのひとりは、まるで大空に翔《か》けのぼるかと思われる跳躍力で、十兵衛の頭上からおどりかかっていた。
避けることもならぬ、とびのくこともゆるさぬ必殺の襲撃であった。――と、見えたのに、
「くゎっ」
化鳥のような絶叫をあげて三人はつんのめり、もんどりうっている。
十兵衛は大地に寝ていた。あおむけに転倒しながら、三池典太の剣光は、左右のふたりのふみ出した一足ずつをただ一閃《いつせん》で薙ぎはらい、そのままななめにはねあがって、虚空からとびおりてくる一人の両足を、燕《つばめ》がえしに斬りおとしていたのだ。
一塊の赤い肉塊のごとくころがりおちる頭上の敵から、木の葉虫のように身をころがして避けた十兵衛は、しかしつぎの瞬間、首をもたげてぎょっとしていた。
両足を斬られた中央の敵は、おのれの降らせた血の沼に伏して、真っ赤な草をかんでいたが、左右のふたりは一本足のまま、いまにもつんのめりそうになりながら、トトトトと駈《か》けていって――右のひとりはふところから鞠《まり》のようなものを空中になげ、左のひとりは片足で大地を蹴《け》って、ぱっと高い樹の枝にとびついたのである。
鞠のようなものをなげた男は、そのまま前へころがったが、なげられた鞠は例の樹からぶらさげられた鉄の篭《かご》におちた。ぱっと小さな青い火炎がひらめいたかと思うと、そこから蒼空たかく一道の白煙がたちのぼった。
「狼煙か!」
ふりあおいで、一瞬われにかえると、樹の枝にとびついたもうひとりの男は、まるで猿のように腕だけで樹々をわたって、血の雨をおとしつつ峠の方へ逃げ下りてゆく。
十兵衛ははね起きたが、追おうとはしなかった。これこそ彼が最初から望んでいたことだったからだ。
――しかし、これが芦名衆だとすると――何十人か何百人か、まだ数も知らぬ芦名衆のことごとくがこれほどの武術と気力の所有者だとすると――会津に入っても容易ならぬことといわねばならぬ!
転瞬の間に三人を斬ってすてた十兵衛の顔色がやや変っている。
しかし、時すでにおそく、狼煙は相ついで峰々にあがりはじめていた。さっき投げた鞠のようなものは、話にきいたとおり、あれが狼糞のかたまりではあるまいか。
が、十兵衛はすぐに一刀を仕込杖におさめると、走り出した。樹陰にかけこみ、そこから一つの包みをとりあげてはせもどる。
それを番小屋の前におくと、そのまま西の斜面の紅葉の中へ――会津の国へ、黒豹《くろひよう》のごとくかけ下っていった。
「般若面の曲者でござる!」
第一監視哨ともいうべき見張小屋から、一本足の番人が猿のように樹々をわたってきて、こう絶叫したのが急報の第一。
「他の両名も討ち果たされました! 潜入した曲者は、八人とか。――」
そういったきり、その芦名衆は息絶えた。
「番小屋のまえにこ、こ、このようなものが――」
という急報の第二は、その見張小屋に急行し、狂気のごとくはせもどってきた他の芦名衆からもたらされた。
さし出されたそのものを見て、明成は息をひいた。鷲ノ巣廉助の生首だ。それがやや膿《う》んで紫色を呈し、常人ばなれした巨大な顔だけにいっそうもの凄じい。その首が、美しい紅葉の一枝を横ぐわえにしていた。枝には短冊がむすんであった。
首がくわえているのでなければ、大宮人の風流な手すさびのようだが、それを持ってこさせると、上に一つ、下に二つの二重輪をかさねたものが書いてあり、さらに、
「蛇ノ目は三つ」
としるした墨文字が眼を射た。
いうまでもなく、これはあきらかに生き残った七本槍衆の数をかぞえたぶきみな勘定書であった。勘定書というより、まるで借金の残りの確認書のような。
「鷲ノ巣廉助、おまえもか!」
「よくも、きゃつ、廉助を――」
歯ぎしりして猛然ととび立ち、漆戸虹七郎と香炉銀四郎は、まるで地上をとぶ鳥のように峠から番所のある山の方へ駈け去ってゆく。
山の斜面一帯では、突風が吹き起ったように赤い樹海がざわめき、叫喚していた。さっきかけつけた芦名衆、さらにほかの峰々の見張小屋にいた芦名衆が、いっせいに最初の狼煙《のろし》のあがった場所を中心に、この不敵な潜入者一味を捜索し、追跡しているらしかった。
「なんじゃ、このさわぎは?」
と、あっけにとられたようにこの光景をみていた沢庵が、鼻を鳴らした。そのまま、やや日のかげってきた、こればかりはしずかな秋の大空をあおいで、
「妙なことに手間どった。――では、明成どの、出羽までは道中が長い。わしはお先に失礼しますぞ」
と、いって、山駕篭にもどり、身を入れて、
「ゆけ」
と、命じた。明成はあいさつも忘れて、ふるえながら廉助の首をながめ、また樹海を吹く叫喚の嵐をながめていた。
「……銅伯さま」
と、司馬一眼房がいった。
彼もまた虹七郎、銀四郎につづいて走り出そうとして、さっきじぶんに残りの山駕篭をあけよと命じた芦名銅伯を思い出し、ふりかえって、銅伯がまだ異様な眼を山駕篭から離さないのに気がついたのだ。
九|梃《ちよう》の駕篭はあがった。
「銅伯老」
と、一眼房はもういちど呼びかけた。――将軍家お手付きの御中臈《ごちゆうろう》を、出羽上ノ山に護送する――という沢庵の言葉を、この老人が全面的に承け入れているものではないことを見てとったのだ。
……しかし、芦名銅伯は、このときユックリとくびを横にふった。くびをふりながら、シトシトとやってくる九梃の山駕篭に、依然としてぶきみな眼をそそいでいる。
「沢庵さま」
最初の駕篭が前を通りかかったとき、銅伯はいった。
「あ」
沢庵は、もういちど垂れから顔をつき出した。――と、銅伯は、ニヤリと笑ったのである。なんのために笑ったのかは知らず、沢庵もニコリとした。笑いながら、二老人は深沈たる眼で、おたがいの心を読もうとしている。
「そのお駕篭が公方《くぼう》さまの御中臈とは存ぜず……銅伯、無礼なことを申し、恐れ入ってござります」
「ああいや、しかし見るとおり密々の旅じゃ。知らなんだのもむりはない。ゆるす、ゆるす」
沢庵はかるくいって、駕篭の垂れを下ろそうとする。
「お待ちを……つらつら思い見るに、銅伯の罪、万死に値すると存ずる」
沢庵の眉《まゆ》が、かすかにしかめられた。しつこい老人――と思ったのである。が、このとき銅伯が、おちつきはらって、腰の小刀をすっと抜いたのをみて、さすがの沢庵の眉があがった。
「おわびに拙者、みずからを刑しますれば、なにとぞ会津の罪をおゆるしたまわりたく、御公儀のむきにもよろしゅうおとりなし下されい」
そういうと、銅伯は刀をとりあげ、おのれの左胸部にぐさと刺した。灰色のみみずのかたまりのようなその顔が苦痛にねじくれつつしかも老人は徐々にその刀を鍔《つば》もとまでも胸に刺しこんでゆく。
沢庵の驚愕《きようがく》の眼が、正視にたえぬか、ふっととじられると同時に、駕篭《かご》の垂れがおちた。
「ゆけ」
舌うちしたような声とともに、駕篭はふたたびうごき出し、九梃と五人の雲水はピタピタと会津の方へ峠をおりて行く。
それを見送っているのは、芦名銅伯ただひとりであった。人々は凝然と銅伯を見まもっている……。ややあって、しずかにおゆらの方がすすみ出た。
ひざをついて、老いた父の胸の刀に手をかけて、すっと抜いた。鮮血にまみれた刀身を懐紙でぬぐう。銅伯はうめき声ひとつもらさず、それを受けとって、ふたたび鞘《さや》におさめた。石のように坐《すわ》ったままである。
「……何のためでござる?」
と、一眼房がひくい声でいった。
百七歳の老人は、何ごともなかったようにニヤリとまた笑ってつぶやいた。
「沢庵に、化物を相手にしておるということを、腹の底から思い知らせるためよ」
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銅伯夜がたり
会津若松《あいづわかまつ》が、いつの時代から若松と呼ばれたのかつまびらかではない。
加藤家以前にこの地の領主であった蒲生氏郷《がもううじさと》が、その故郷の近江《おうみ》国蒲生郡若松森を恋うて改めたという説もあるが、さらにその前にこの地をかすめていた伊達《だて》氏のころにもやはり若松と呼んだ文書があるという。
ともかく、かつてここは黒川と呼ばれた。そして黒川城を築いて、会津一円に君臨していたのが芦名《あしな》一族であったのだ。それは鎌倉時代にはじまるというから、天正《てんしよう》十七年伊達|政宗《まさむね》が来攻してこれを追うまで約四百年、芦名氏がこの地を支配していたことになる。
伊達氏は豊太閤《ほうたいこう》にしりぞけられて、蒲生氏郷が封ぜられた。氏郷は黒川城を改築して壮大きわまる七重の天守閣を造りあげたが、ついで上杉氏を経て、加藤|左馬助嘉明《さまのすけよしあき》が城主となったとき五層とかえた。賢明なる彼は、あまりに威を張って徳川氏の神経に障ることをはばかったのだ。
賤《しず》ケ岳《たけ》で勇名をとどろかせた嘉明にしてしかり、さしたる武功とてない子の式部《しきぶ》少輔《しよう》明成に、この父の万分の一の思慮でもあったなら。――
すでにこの寛永《かんえい》時代に人口が六万あったといわれる。現在ですら若松の人口は十万なのだから、当時いかに殷賑《いんしん》をきわめたか知るべきであろう。
盆地一帯に、武家屋敷、職人町、寺々と海のように屋根をかさねた若松の南方――初冬の赤い残光の中に、鶴ケ城はそびえていた。五層となったとはいえ、依然としてその壮大さは失っていない。この若松城を、またの名を鶴ケ城と呼んだのも芦名一族であったといわれる。
その天守閣の一室に一歩をふみこんだ加藤明成は瞠目《どうもく》した。あとにつづく司馬一眼房《しばいちがんぼう》、漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》、香炉《こうろ》銀四郎も、あっと口をあけている。
さきに入った芦名銅伯とおゆらの方は手をつかえていたが、見あげて、おゆらがにっと笑った。
「殿、江戸の花地獄ではかようなものをお作りあそばしておられましたそうな。――会津におかえりなされて、さびしいと仰せられては、ゆらが辛《つろ》うございますゆえ」
二十畳敷あまりの部屋は、その床も壁も、おどろくべきことに天井さえも、ことごとく生ける人間の裸身から成りたっていた。
床は女ばかりだが、壁にはおそらく数段に棚が作ってあるのであろう。天井まで三重に裸身が直立し、並列している。そして天井には、これは鐶《かん》でむすばれ、帯で吊《つ》られているのであろうが、これまた壁面とおなじく、ほとんどすきまもなく、若い女と男の裸身がうつ伏せに貼りつけられているのであった。
数は二百人から三百人にものぼるにちがいない。みれば、いずれもたぐいまれな美女と美少年ぞろいだ。それが真っ白な女身と、やや浅黒い少年の肌でたくみにだんだらをえがき、それを彩る黒い眼、黒い毛髪、赤い唇、赤い乳くび、さらに彼らをゆわえ、吊っている五彩の帯と金環と。――
これは、この世のものならぬ巨大な象牙《ぞうげ》の箱であり、らでんの櫃《ひつ》であり、それ以上になまめかしい人間華の篭《かご》であった。
のみならず、壁からつき出した美少年の腕は、いたるところ短檠《たんけい》を支えて、銀燭《ぎんしよく》の花を咲かせていた。この灯とかぐわしい吐息のために、部屋はぼっとけぶるほどにあたたかい。
「江戸の花地獄」
と、明成はつぶやいた。すでにそんなことをこのおゆらに知られている、という狼狽《ろうばい》よりも、この絢爛《けんらん》豪華な歓迎の支度に、眼は酔ったようにかがやいている。江戸屋敷の土蔵で、女身を肉|蒲団《ぶとん》として眠っていたが、あれはわずか五、六人。
「か、かようなものとはくらべものにならぬ」
「殿、ここは江戸とはちがいまする。もはや会津のお城でござる。四十万石の領地すべて、人間のすべてが殿のおんもちもの、いざ、これよりは太守らしゅう、思うままに愉《たの》しまれませい」
と、芦名銅伯がいった。――思うに、彼がこれほどのしかけをもうけて主君を待ち受けていたのも、江戸からの相つぐ情報を耳にしていて、うちのめされてかえってくる犬のような明成を鼓舞しひきたてるためであったろう。
「会津のすべて――いや、きゃつらが入っておるぞ」
ふいに、おびえたように明成は銅伯をふりむいた。
「余の命を狙う般若《はんにや》面の男と、七人の女が」
「銅伯さま、拙者にも解《げ》せませぬ」
と、司馬一眼房もいった。
「どうやら、われわれの敵はあの沢庵がうしろ盾をしている様子、それどころか銅伯さまは、あの九|梃《ちよう》の山駕篭に堀の女がひそんでいるのではないかと申されましたな。それをことさら会津に入れ、なおそ知らぬ顔をなされようとするお心が一眼房判じかねます」
先刻、大手門を入るときだ。ひとりの芦名衆が銅伯の馬のそばにかけ寄って、さっきより濠《ほり》ばたを徘徊《はいかい》していた雲水のひとりが、ふいに身をひるがえして北へ駈《か》け去ったと報告した。かねてから銅伯から何やら命じられていたらしい。
「ふむ、胸を刺した銅伯が、生きて馬にのっているのをみて、胆《きも》をつぶして沢庵のところへ注進に走ったな」
と、うなずいて、彼は笑った。
しかし彼は、会津に入ってから城に入るまで、あの沢庵の一行を追うことをかたく禁じ、故意に放置しておくことを命じたのであった。
さすがの七本|槍《やり》衆も、勢至峠以来の銅伯の言動の意味がわからない。
「それに、もうひとつおうかがいしたいことがござる」
と、香炉銀四郎がいった。
「例の天海僧正の件。――帰って銅伯に告げよ。悪はついに天に勝たず、なんじは芦名一族を滅ぼす気か、と兵太郎が申したと告げよ。――僧正はなにゆえかようなことを仰せられたのでござります」
「せっかく作った花のしとねじゃ」
と銅伯はおちつきはらって、一同をうながした。
「まず、坐ったがよかろう」
あごをしゃくられて、明成と三人は女身のしとねを踏んでゆく。――よほどしつけられているのか、女たちは乳房を踏まれ、腹を踏まれても、うめき声ひとつたてない。ただ苦痛のために口をひらき、身をよじらせただけで耐えている。それは微風にざわめく白い花か波のようであった。
無情に、傍若無人に、その上にむずと坐る。
「――まず、沢庵のことじゃがの」
と、銅伯はいい出した。
「あの残りの山駕篭に堀の女狐どもが乗っておる。――見張り小屋を襲った般若面はおそらくたったひとりで、あれはわが方の警戒をそちらにひき寄せるためだとは、あのときからわしは見ぬいていたのじゃが、ふいに方針をかえたのじゃ」
「どのように」
「もともとわしは、きゃつらを国境でくいとめて討ち果たすか、会津におびき入れて、中で誅戮《ちゆうりく》を加えるか、迷っておった。むしろ、あとの方がよいのではないかとかんがえておったのじゃ。それが、沢庵がうしろ盾しておることがわかったとなると――後者にかぎる、と、やっとほぞがきまった」
「なぜでござります」
「沢庵が何者であるかをよく思案したのじゃ。いやしくも天下の名僧としてきこえた和尚、なかなか兵法の道にもたけておるときく。もしあの山|駕篭《かご》にほんとうに将軍家の御|中臈《ちゆうろう》が入っていたなら――少くとも、堀の女たちでなかったら――こちらは腹を切らねばならぬ。いや、わしは腹を切ってもさしつかえないが、殿のおん身も無事ではすむまい。それほどの策略はやりかねぬ和尚じゃ」
「では、やはり」
「ちがう、十中九はちがう、あれはまさしく堀の女たちだとわしは見ておる。が、さて、もしあれが堀の女たちであったとすれば、こんどは沢庵がそのままではすむまい、まさか、窮して首をくくりもすまいが、さて沢庵をそれほど追いつめて会津に得《とく》か、どうか、ということに思い至ったのじゃ。あれは将軍家の師といわれている和尚であるぞ」
「しかし、沢庵があきらかに敵に一味しておる以上は――」
「いや、沢庵には手は出せぬ。堀の女たちを討ち果たさんがために沢庵に手を出すことは、毛を吹いて疵《きず》を求めるにひとしい。この鶴ケ城の天守閣がまっぷたつになるほどの傷をな」
「では、どうすれば」
「そこじゃ。将軍家の師たる沢庵を敵にまわしたことは、少なからず面倒至極なことではあるが、しかし公儀そのものを敵に回したわけではない。公儀は当家に公然と手は出せぬはずじゃ。堀|主水《もんど》一件は、お上のゆるされたことじゃからの。さればこそ沢庵も、あのような苦しげな奇道を用いて堀の女たちを会津に入れようとする。このたびのことは、噂にきいた沢庵一流の横紙破りのおせっかいと見る。――そこがわしの狙いなのじゃ」
「そこが狙いとは?」
「堀の女どもを領内で焼こうと煮ようと、沢庵から文句を受ける筋合いはないということじゃ。もとより沢庵は策を弄《ろう》してこちらの邪魔をするであろう。しかし、何といってもここはわが領内、女どもをとらえるのは、袋の中をさぐるようなものではないか? あまりにあっけのうては面白うない。むしろ沢庵がいかなるあがきをみせるか、それこそわれらの愉《たの》しみとなる」
「なるほど」
うなずいたのは漆戸虹七郎だ。彼はさっきから銅伯の声をききつつ、一本だけの腕をのばして、おのれの坐《すわ》るあたりの女体の乳房をいじっている。まるで野いちごをつまむように、いくつかの乳首をねじって、苦悶《くもん》にゆがむ美しい顔を、うす笑いしてのぞきこんでいるのであった。
「よいか、沢庵には手を出すなよ。手を出さずと、きゃつの裏をかいてやれ、そして堀の女ども得べくんば即刻成敗せずにひっとらえ、主家に刃むかった罪の恐ろしさを存分にみせつけてからなぶり殺せ。ここまで来ては、謀叛人《むほんにん》は一|毫《ごう》の仮借なく酷刑に処する、その決意と事実を見せることが、公儀に対する加藤家の鉄の壁となり、領民に対する盤石《ばんじやく》の重しとなる。……みごと女どもを一掃しても、沢庵にはぐうの音も出まい」
「仰せのとおりでござる」
銀四郎はこっくりした。
「わしは、わざと沢庵に、わしが不死身の人間であることを見せた。恐ろしい人間を相手にしておるのだぞ、ということを見せつけてやった。なるべくなら、沢庵の手をひかせたかったからじゃ、あれで沢庵がおそれをなして手をひけばよし、ひかずとも――おそらくは、ひくまい――芦名の精鋭、わしのえりすぐったうぬらなら、かならず沢庵に一泡ふかせて、女どもを血泥のかたまりと変えるものと信ずるぞ」
「もうひとり、厄介な奴がおります」
女の乳くびから手をはなして、虹七郎が顔をあげた。
「あの般若面の男――」
「それよ」
と、銅伯ははじめて髭《ひげ》をぴくっとゆすって宙をにらんだ。
「あの見張小屋にいた助内、彦兵衛、甚八郎の三人を、しかも足のみ秋の稲穂を刈るごとく、ほとんど一太刀で斬りすてた手並み、たしかにただ者でない。七本|槍《やり》のうち四人まで、むざと折られたわけがわかるような気がする。殿が恐れさせられるのもむりはない。しかし――」
じっと虹七郎をみて、
「うぬなら、どうじゃ」
「どうでござろうか」
といったが、漆戸虹七郎の満面に、さっと敵愾心《てきがいしん》と自信の血がのぼった。
しかし、銅伯はくびをかしげてつぶやいた。
「ひょっとすると、きゃつはわしがじきじきに手を下さねばならぬかもしれぬ」
銅伯のつぶやきが不服だったらしく、勃然《ぼつぜん》として虹七郎が何かいい出そうとしたとき、明成が言葉をさしはさんだ。
「銅伯、しかし」
おちつきのない、不安な表情であった。
「われらは大名としての仕置きをし、またこれからもしようとするのみ――公儀の容喙《ようかい》を受けるいわれはない、とは信じておるがの。ただ、将軍の姉、千姫どのを敵に回した。そしてまた将軍の師、沢庵を敵に回そうとしておる。その点が、ちと気がかりでもある――」
「柳営の中には、われらの味方もないではござらぬ」
「何、加藤家の味方が?」
「正しく申せば、われら芦名の一族が」
「柳営に芦名の者がおる? そ、それはだれじゃ」
「当将軍家の師沢庵などは、そのまえに出ればあたまもあがらぬ。神君家康公の師ともいうべき南光坊天海僧正」
「あっ」
と、七本槍衆は眼を見ひらいた。
「あの僧正が!」
「あれは、わしの兄よ。いや、ほんとうを申せば、兄でも弟でもない。天海はわしと同時に、同じ腹から生まれた人間、つまりわしとふた児よ」
銅伯はニンマリと笑った。
あまりにもおどろくべき事実に、明成をはじめ七本槍衆も息をのんで、しばらくこの妖怪《ようかい》じみた老人を見つめているばかりであった。
ややあって、彼らはいっせいにさけび出した。
「そう申せば、天海僧正ほどの人物の氏素姓を、いままできいたことがない……」
「しかし、銅伯さま、そのことを何ゆえいままで一語として申されなんだのでござる」
「また、その僧正が、なぜ奥州《おうしゆう》街道であのようなまがまがしい伝言をなされたのか?」
せきこみ、もつれあうような声に、銅伯はユックリといった。
「そのわけを、いまいおう」
遠くきこえる風の声は、もうこがらしといっていい暗いひびきであった。大天守閣の甍《いらか》には、もはやほそい三日月がかかっている時刻であろう。……壁の美少年の燭台の灯は、ゆらぎもせぬ。
「みなも知るように、わしはいまから百七年前――天文《てんぶん》五年正月一日、会津黒川――いまのこの若松の南二里、高田城の城主芦名|兵部《ひようぶ》景光の子として生まれた。……のちに知ったことじゃが、豊太閤も同年同月同日に誕生したということじゃ」
銅伯は語り出した。
いまきいたことはすでに知っているが、何しろ百七年前の話だから、いま一族の総首領ともいうべき老人ながら、太閤の誕生話をきくと同様、荒唐|無稽《むけい》な伝説か神話でもきいているような気がする。
――しかし、彼らは唾《つば》をのんで耳をすました。
「双生児であった。わしは法太郎、もうひとりは兵太郎と名づけられた。芦名兵太郎、すなわちのちの南光坊天海じゃ」
「われら双生児百七年の物語をのべれば、百七年かかるであろう」
銅伯は笑った。
「ただ、これだけの話はきいておけ。誕生三日めに、わしは母親の乳くびをかみちぎって母を殺したそうな。それ以来、わしは乳母《めのと》という乳母の乳房をことごとくかみちぎり、やむなく犬の乳で育てられたそうな。一方、兵太郎は、これはまた奇妙に、生まれて以来、いちどとして人間の女の乳をのまなんだという。乳をのめば、ことごとく吐き出したという――」
「…………」
「またみどり児のころ、わしの泣く声は狼の吠《ほ》える声に似ておった。これはだれにもわかったことじゃが、奇妙なことに、兵太郎の泣く声を、風のごとく来た無名の一雲水がきいてくびをかしげ、あの御子は法華経《ほけきよう》を誦《ず》しておられる、とつぶやいて去ったという。――要するに、双生児でありながら、両人はまったく相異る星を負うて生まれたらしい」
銅伯は語りつづける。
「ふたりはよく相争った。その喧嘩《けんか》は兄弟ともみえぬ宿世《すくせ》の敵の争いのように恐ろしいものであったという。兵太郎が十一歳にして高田の古刹《こさつ》道樹山竜興寺に入り、僧となったのは、当人の望みもあったが、実はこの争いを父がみかねて、ともに置けばいずれかは命を失う、と思うたがゆえでもあったらしい。……」
「…………」
「爾来《じらい》百年ちかく、一方はありとあらゆる武術兵法に心魂をもやしつくし、はては幻法をすら体得したこの芦名銅伯となり、一方は大僧正南光坊天海となる。法太郎のわしが兵法の鬼となり、兵太郎の彼が仏法のしもべとなる。皮肉に思うたこともあったが、いまとなれば、血が呼ぶか、何やら恋しく、なつかしいぞ」
老人のぶきみな眼は、六十五里の闇黒の天を、江戸の寛永寺にねむる老いたる双生児の上に翔《か》けるようにあげられた。
「血が呼ぶ。――まさに、あの天海には芦名の血がながれておるのじゃ、ひとたび沙門《しやもん》とはなったものの、たんなる坊主にとどまらず、大御所の帷幄《いあく》に参じて、ついに黒衣の宰相《さいしよう》とまでいわれる者になったのは、芦名の血のゆえでのうて何であろうぞ」
昂然《こうぜん》たる芦名銅伯の誇りにみちた眼は、いまの主君の加藤明成などを無視している。
「されば、天海とてかならずや芦名の滅ぶのを坐視《ざし》すまい。その血がゆるさず、たえきれぬであろう。――たとえ、心にはこの銅伯を嫌悪しようと」
彼は最後に、不吉な一語をつけ加えて、口をとじた。
数分の沈黙ののち、司馬一眼房はおずおずときいた。
「天海どのは、あなたさまをおきらいなのでござるか」
「と、思う……。宿世の敵という星を負うて生まれたらしい双生児じゃからの」
「ど、銅伯さま」
と、思わず一眼房は女体の上にひざをねじり出させた。
「それでは、かならずしも天海どのは、われらの味方とはかぎらぬのではありませぬか?」
「と、思う」
銅伯は矛盾したことをいって、しかし平然としている。
「天運利あらず、衆寡敵せず、かつて芦名一族が伊達のためにこの会津を追われたときに」
と、彼はべつのことをいい出した。
「天正十七年、うぬらが生まれる以前のことだ。わしは江戸にある天海に助けを求めたことがある。そのとき天海はまだ大御所の帷幄に参じたばかり、しかも時は太閤の世であったから、徳川の兵をうごかして伊達を討つなどということはかなわぬことではあったが、それはともかく、そのとき天海の申してきたことがある。芦名滅ぶべし、伊達滅ぶべし、いや天下の群雄ことごとくが滅んで、やがて家康公に一統されることこそ民草の救われる道と信じておる、という返事であった。無情な返事よ、と、そのときは憤ったが、彼とて芦名をまったく見捨てたわけではない。その証拠に――一眼房、天海はわしに、悪はついに天に勝たず、なんじは芦名一族を滅ぼす気か、と帰って銅伯に告げよと申したな。それはつまり、天海がたえずわれらの動静に気をくばり、案じておる証拠ではないか?」
「それにしても、銅伯」
と、明成は焦燥の眼をなげた。
「天海にたのんで、天樹院、沢庵の手をひかせることは相成らぬのか」
「あれに膝《ひざ》を屈することは、銅伯生涯の恥辱にて、いやでござるが、よくよく進退に窮する事態と相なれば、依頼と申すより、天海を威嚇することはできるでござろう」
「天海を威嚇する――」
「この銅伯が死ねば、天海も死ぬからでござる」
「なに」
「にくみつつも、双生児の血をともにして生を受けた天海、銅伯、一方が死ねば必ず一方も息絶えるという運命を、おそらく天海も承知しておることと存ずる」
あまりにも奇怪な言葉に、しばらく一同は声もなかった。銅伯は深沈たる眼を伏せてつぶやく。
「なぜならば、法太郎が傷つけば兵太郎も痛み、兵太郎が病めば法太郎も苦しむということを、両人幼時より思い知らされておるからでござる。……死ぬは、同時でござろう」
そして、彼は声もなく笑ったのだ。
「これはすなわち、一方が死ねば一方も死ぬということじゃ。天海が生きておるかぎりわしは死なぬ。わしが死なぬかぎり、天海も死なぬ。これにて両人が百七歳にいたって、なおかくしゃくたる理由がおわかりでござろう」
「…………」
「うぬらはこの銅伯が、いままで病もうと怪我をしようと、みるみるうちに回復する不死身のからだをもっておったわけを、はじめて知ったであろう。百七歳まで生きた秘密もここにある」
銅伯は七本|槍《やり》衆を見まわし、ついに梟《ふくろう》のような声をたてて笑った。
「とはいえ、刀を刺せば、やはり痛むぞ。同時に、相手も痛む、さる日、峠で胸に刀を刺したとき……同時刻に江戸では、天海が胸をおさえてもだえたことであろうと思うと、わしはおかしい」
それから、娘のおゆらを見た。
「ゆら、おまえはそのように美しい。美しいが、きのどくながら、いま若いおまえよりも、この父の方が長生きするのじゃ」
「父上」
おゆらはしかし、ふしぎそうに細いくびをかしげた。
「父上は、わしが死ねば天海は死ぬとおっしゃる。しかしまた天海が死なぬかぎり、わしは生きているとおっしゃる。それは二匹の蛇がたがいに尾からのんでいったらどうなるか、というようなお話ではございませんか」
「よういった」
と、銅伯は膝をたたき、キッパリといった。
「それは、天海とわしの星の強い方が勝つのじゃ。いや、人間力の強い方が一方をひきずるのじゃ。いまは――いまは、両人相伯仲しておる」
それから彼は、声をひそめた。
「南光坊天海と芦名銅伯がかかる縁につながれた双生児であること――百七年の秘密は、いまの事態にたち至ったからこそうちあけたのであるぞ。そちたちにすら、いままでわしは黙し、天海もまた何びとにも秘していたわけは、思っても見よ、この秘密を知れば、天海を討ちたくばこの銅伯を討つ、銅伯を討ちたくば天海を討つ、そのとき相手の星の力、生命力のまさっていたときは、他の一方はそれにひきずられて息絶えるのだ」
彼は凄《すさま》じい眼で一同を見まわした。
「よいか、このことを何びとにももらしてはならぬぞ」
「誓って!」
と、七本槍衆はさけんだ。
芦名銅伯はすっくと立った。
「されば、銅伯は死なぬ。あの沢庵にいかなる法力あればとて、その般若《はんにや》面の男にいかなる精妙の剣法あればとて、銅伯は討たれぬ。したがって、最後の勝利はわれらにある。左様に信じて、おそれることなく敵にかけ向え。……ゆくのじゃ」
七本槍衆をうながして立たせると、
「さて、殿、もはや大船にのった心地にていられませ。このゆらも、この銅伯の娘、なみなみの女よりは精は強い方でござります。この一年、どれほど殿を待ちこがれておりましたことか、今宵はここにて、心ゆくまで」
女体の波をふんであゆみ出した。入口で、ふりかえって、はやくも明成にひしとしがみついている娘をながめ、眼をそらして座敷を見まわしてつぶやいた。
「いまに、この壁、この天井、すべて乳のようにぬれひかるであろうな」
北の方からつたわってくる戛々《かつかつ》たる鉄蹄《てつてい》のひびきに、七本槍衆ががばと起きなおったのは、その翌朝の夜明けごろであった。
大手門からの報告で、すぐにそれが会津の北境大峠に配してあった芦名衆の伝騎であるとわかって、彼らは銅伯につたえた。
書院に出てきた銅伯のまえに、三人の芦名衆は手をつかえた。
「申しあげます。沢庵どの御一行の件につき――」
沢庵たちが会津領を通って上ノ山にゆくとすれば、この大峠を越えて米沢《よねざわ》領に入るのが順当な路程だ。これを猿倉越えという。先に会津に入ったその一行をあえて追わず、銅伯たちは主君の行列とともに緩々と若松に入ってきたから、もし沢庵たちがいそげば、もうそろそろ大峠にさしかかるころだとは思っていた。あえて追わず、とはいうものの、伝騎を馳《は》せて、ゆくさきざき、それとなく、厳重に見張らせておいたのはむろんである。
「お伝えのごとく、沢庵どの御一行、九|梃《ちよう》の山|駕篭《かご》をつらね、四人の雲水を従えて大峠を越えられ――」
「四人の雲水? 五人ではないか?」
くびをかしげる銀四郎に、一眼房がいった。
「ひとり、昨夕、城の界隈《かいわい》をうろついていた奴がある。それとは途中ですれちがったものであろう」
「――みな、何のこともなく、米沢領に入ったと申すか?」
と、芦名銅伯はふしんな表情でいった。失望した声でもあった。
「いや、それが、沢庵どの、ひとりの女人、それから四人の雲水のみは、半刻《はんとき》もたたぬうちにひきかえし――」
「なに?」
「江戸よりお護《まも》りしてきたやんごとなき七人の女性《によしよう》さえ上ノ山へ送りこめば、さしあたってわしたちは用はない。会津がいたく気に入ったゆえ、しばらく当領内を行脚して見ようと申されて、また会津領へ入ってこられてござる。沢庵どのも、駕篭を捨てられて、網代笠《あじろがさ》の雲水のお姿でござった」
「ほう、それから、どこへいった?」
「まことに申しわけござりません。ちょうど夜にかかり、行無沼《ゆくなしぬま》のあたりで見失いました」
三人の芦名衆は、面目なげにひれ伏した。
行無沼というのは、大峠の手前にある雄沼雌沼という山中のふたつの沼で、街道の両側にある。ふたつの沼とはいうものの、時によっては水相通じて一つになるかと思うと、三つ五つにも分れて変幻常なく、行人惑って溺《おぼ》れる者すらあり、それゆえいって帰る者なし、と古来いわれて、行無沼と名づけられた場所だ。
黄昏《たそがれ》にひかり、うすうすと水蒸気をあげるあやかしの沼に、ぼうっと消えてゆく四つ五つの網代笠の影が眼にうかんだ。
銅伯は声をおさえてきいた。
「帰ってきたその――六人じゃな――六人に堀の女はまじっておらなんだか」
「それはまちがいござらぬ。雲水はたしかに男でござったし、その女人も――堀の女たちならばわれわれも存じております。見失ったのは、そのゆえもござる。すなわち、仰せのごとく――」
「ふむ」
「米沢領に入った九梃の山駕篭――その二つは空になったとしても、あとの七梃に堀の女たちが乗っているのではないかということをたしかめんがため、それを追ったのでござります」
伝騎に、銅伯がそうつたえさせたのだ。会津領内では沢庵一行に手を出してはならぬ。しかし、他領に入れば別だ。向うも会津を出れば油断するであろう。何とでもして、その山駕篭の中をたしかめておけ――と。大峠にいた芦名衆が、まず全力をあげてその命令の通り駕篭を追尾したのは当然である。
「ところが、九梃の山駕篭は、ものものしい武装の一隊に護られて、そのまま北へ去っていったのでござります」
「はて、それは何者か。米沢藩の者か」
「いや、沿道の郷士にきいたところ、それは上ノ山藩の家中だと申すことでござった」
上ノ山藩というと、土岐山城守《ときやましろのかみ》である。
かつて沢庵が上ノ山に流されたとき、当然幕府の罪人であるにもかかわらず、預かった土岐山城守が師父のようにこれをあがめ、その厚遇ぶりに沢庵がかえって苦しがったという話は有名だ。その上ノ山藩ならば、沢庵から前|以《もつ》て何かの連絡があれば、よろこび勇んで出迎えるにきまっている。
しかし、銅伯を昏迷《こんめい》におとしたのは、むろんそんなことではなかった。
「して、山駕篭はそのまま、何のことなく北行していったと申すのじゃな」
「されば――」
「そして沢庵と坊主たちのみ会津へひきかえした――もとよりただの行脚であるはずがない――きゃつ、何をたくらんでおるのか――あとでまた七人の女をひそかに導き入れるつもりなのか?」
しかし銅伯はすぐに「よし」と決然とうなずき、三人の七本槍衆をかえりみて、ニンマリとしていった。
「何をたくらんでおるかは知らぬが、ともかく沢庵とひとりの女、それに四人の雲水――いや、もうひとりの雲水と加えて合計七人が、当領内に迷いこんだわけになる。そのゆくえをつきとめるのが、うぬら当面の仕事だ。やがて、堀の女たちも姿をあらわすであろう。これは、ひっ捕えろ。しかし、沢庵ら坊主には手を出すな。ちと面倒じゃが、うぬらならばできることだ。江戸以来の失態をつぐなうのじゃ、よいか?」
「もうひとり――」
と、漆戸虹七郎がいいかけたとき、唐紙の外にただならぬ跫音《あしおと》と声がたたきつけられた。
「一大事でござる。ただいま、大手門の扉に、いつ何者が打ちつけたか、真っ赤な般若面がひとつ――」
さすがの芦名銅伯が顔色をかえて立ちあがっていた。
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断 橋
地にはまだ薄く刷《は》かれている程度であったが、薄墨色の空には鵞毛《がもう》のような雪片が満ちていた。……夜までには、だいぶつもるだろう。
雪がふると、万象は静寂になる。ましてやこのあたりは会津《あいづ》でも耶麻《やま》郡といわれている僻遠《へきえん》の土地だ。耶麻郡というのは、あきらかに山郡からきている。磐梯山《ばんだいさん》の北――桧原湖《ひばらこ》のほとりの寒村であった。ふだんなら、人が住んでいるともみえぬその山中の道に、突然、けたたましい人の叫び声があがった。
「もしっ」
ころがるように、老いた夫婦が走る。百姓ではない。庄屋《しようや》ともみえる人柄だ。
その前方を、ひとりの娘を手とり足とりした数人の陣笠の侍が一団となって駈《か》けてゆく。雪空の下に、娘の白い足は宙におどり、悲鳴が尾をひいていた。
「もし、娘を何となされるおつもりか」
「娘をかえして下され、娘を――」
老いた父と母が、狂気のように追いつくと、陣笠のひとりがふりむいて、足をあげてふたりを蹴《け》たおした。
「うるさい、この娘に不審があるのだ。とり調べたら、すぐに返してやるから、おとなしく待っておれ!」
そのまま、彼らは娘をかついで、村の入口に走った。
そこの枯野に、十数人の陣笠が、雪の上に焚火《たきび》をして、ひとかたまりになっていた。馬もいる。二、三梃の駕篭が地に置かれてあるが、これは空だ。
その焚火のすぐ前に倒木に腰をかけて、司馬一眼房《しばいちがんぼう》はいま一本の立札を火にくべようとしていた。
そもそも、おびただしい立札が、会津のあらゆる山中の村々まで立てられたのは、この半月あまりのことだ。いうまでもなく、もし見知らぬ若い女を見かけたら、それは領主に対する謀叛人《むほんにん》であるから、すぐ訴えて出よ、という立札であった。
米沢領に入ったとみられる七人の堀の女が、会津にふたたび潜入したという報告はまだない。もし潜入したなら、国境を哨戒《しようかい》している芦名衆が発見しないはずはないし、その立札で、きっとどこからか訴えがあるはずだ。彼女らとて、どこかに宿らねばならないし、食べ物を入手しなければならないからだ。
その報告はない。
ないにもかかわらず、彼女たちがすでに入っているのではないかという疑いが、しだいにふかくなっていった。報告のないのが、かえって奇怪なのだ。
なぜなら、例の沢庵一行の七人が、飄然《ひようぜん》として領内を托鉢《たくはつ》して回っていることはわかっている。これがただの行脚であるはずがない。堀の女たちが入ってこなければ、まったく無意味なことなのだ。そして彼女たちが国境からひそかに入ってくるとするなら、それは雪のふる前でなければならなかった。雪ふかい、道のない大山岳を越えるなどということは、実際上不可能なことだからだ。
さらに、例の立札を、いたるところで折り捨ててゆくものがある。――
謀叛人の女を訴えて出よ、という立札にかわり、
「会津鶴ケ城に入りて殺されし女人幾百人なるかを知らず」
墨痕《ぼつこん》りんりとこう書いた、まったく新しい立札が立てられているのであった。
七本|槍《やり》衆がそれをみて愕然《がくぜん》としたのには、たんに領主の制札をかえられたというだけでなく、さらにべつの意味がある。
鶴ケ城で、美しい女は消耗品であった。明成とおゆらの方のアペリチーフなのだ。ふたりは、じぶんたちが愉《たの》しむまえに、ながいあいだ犠牲者をなぶって、奇怪な悦楽のかぎりをつくすのであった。美しい女が悶《もだ》え死ぬまで、十数人の男に入れ替り立ち替り犯させるなどということは茶飯事だ。逆にふたりの痴態をわざわざ美少年や女たちに見せて、その結果情欲をきざした肉体的変化を起こすものがあると、ただちに首をはねる。――そのことをあらかじめ予告しておいて、彼らの悶えぬく表情を見ながら、ふたりは凄《すさま》じい愛欲にふけるのであった。
そのためには、たえず美しい女や美少年を補充しておかなくてはならない。で、こんど七本槍衆や芦名《あしな》衆が手分けして、謀叛人捜索のために領内のあらゆるところを徘徊《はいかい》するついでに、美しい女とみると、お城に奉公させよ、といって連行していたのだが、その立札が立てられて以来は、パタリと領民が娘をかくしてしまうようになったのだ。
もうひとつ、そのふとどきな立札の文句に記憶がある。かつて江戸の吉原《よしわら》で、やはり人身御供の遊女を求めにいった際に、傾城屋《けいせいや》の唐紙にかかれてあったという文字とそっくりおなじ文字なのだ。
あれが堀の女のひとりによって書かれたものであったことはいうまでもない。
この仕事は、ひょっとすると沢庵一行のやったことかもしれない。また例の般若《はんにや》面の男もいる。しかし、文字は女の筆らしいのだ。しかも、筆跡がいろいろとちがうのだ。
(――きゃつら、いつ、いかにして潜入したのか。とにかく、入っておる!)
七本槍衆は切歯し、西へ、東へ狂奔した。
憤怒したのは、その女たちにはもとよりながら、だれひとりとして訴えて出る者のない領民に対してもそうであった。はじめて彼らは、領民の沈黙の抵抗を感づいたのだ。これならば、領民どもが、たとえ堀の女たちと知っていても、ことさらかばっているという可能性も充分にある。
司馬一眼房は、立札の柄をぴしっと膝《ひざ》でへし折ると、焚火の中へつっこんだ。さっき、この村に入るとき、入口に立っていた例のにせ立札だ。
「や?」
と、たった一つの眼をあげて、村の方から走ってくる芦名衆とそれにかつがれた女を見やって、腰を浮かしかかったが、
「ちがったか。しかし、ちがう獲物があったらしいの」
と、うす笑いして、また倒木に腰をすえた。
そのとき、村の方で、またわめき声があがった。七、八人の村の男が血相かえて追ってくる。狩人《かりうど》らしく、弓矢をもった男もあった。
「待たっしゃれ!」
彼らはかけつけてくると、おそれげもなく芦名衆のまえにならんだ。恐怖よりも、もっとさしせまった不安と怒りにとらえられているようであった。
「おれの妹に何の不審があるのか」
「それをきかねば、承服できぬ」
かみつくようにふたりの若者がいった。熊の毛皮でつくった胴着をきているが、あきらかに根っからの狩人や百姓ではない、郷士と想像される面だましいだ。ふたりとも、弓と矢をかかえている。
「不審の件は、若松《わかまつ》へつれかえって調べる」
「疑いはれれば、かえしてやると申しておる」
「百姓の分際で、藩命にさからうか」
陣笠《じんがさ》の芦名衆は口々にわめきながら、平気で娘を駕篭《かご》におし入れようとしている。空駕篭は、女狩りのためにあらかじめ持ち回っているのだ。
娘の死物狂いの抵抗に、われを忘れたか、もうひとりの若者が馳《は》せ寄ろうとした。どうやら、恋人らしかった。
その足をピタととめさせたのは、この場にそぐわぬひくい深沈たる声である。
「承服できぬ――承服できなかったら、どうするのか」
ぱっと勢いよく燃えあがった炎に手をかざし、きもちよさそうに、たった一つの眼もとじている司馬一眼房であった。
「城へゆけば、妹のいのちはないことを、おれたちは知っておる」
「知っておりながら、だまって見すごしはならんっ」
「死ぬを覚悟で、いまとりもどす所存だ」
三人の若者は口々にさけんで、血ばしった眼で一眼房を見すえ、弓に矢をつがえた。一眼房は依然として、眼をとじたままだ。
「ふふん、とりもどせるか」
声もなく笑った。
「面白い。左様さな、その矢でみごとおれを射とめたら、娘はかえしてやってもよいぞ」
「なに、この弓でみごと射とめたら?」
三人はあっけにとられて、炎に手をかざしている一眼房を見つめた。
「三人、いっしょでもかまわぬぞ。いささかこのごろ矢ふせぎの術を工夫したでな」
そのときまた高くあがった娘の悲鳴に、三人の若者は理性を失ったようであった。
「いま、助ける」
「おれたちの覚悟は、この通りだ!」
「いまの約束、忘れなさるなよ!」
絶叫して、矢をいちどに一眼房に放った。
なんらの予備行動もみせぬ一眼房の眼前で、黒い蛇のようなものがくねった。三本の矢はその蛇にたたきおとされた。――とみるや、蛇はビューッとのびて、長いひとすじの皮鞭《かわむち》となり、三人の姿を薙《な》いだ。
司馬一眼房手練の鞭こそ恐るべし、それはまるではがねのごとく三人の若者の胴をうなりすぎて、またたきするまに魔術のように坐《すわ》ったままの彼のたもとに巻きこまれていた。
「死ぬを覚悟と申したな」
雪に六つの切口をみせて散乱した胴を、はじめて一眼あけて見わたして、一眼房はつぶやいた。
「雪が深うなる――」
霏々《ひひ》として鵞毛のみだれる薄墨色の空をあおいで、何事もなかったように独語する。
「いそげ」
あごをしゃくって、一眼房は焚火《たきび》のそばから立ちあがった。
完全に失神した娘を投げ入れた駕篭はあがったが、見送る生残りの郷士たちは寂として声もない。
一眼房は芦名衆とともにあるき出しながら、いちどだけふりかえっていった。
「申しておく。ここを北にのぼれば桧原峠、その北は米沢領じゃ。曲者《くせもの》が忍び入るおそれは最もふかい。もし、怪しき女を見つけたら、きっと届けて出いよ。かばい立てすると、村人すべて、見るとおり胴斬りとしてくれるぞ」
そして、足だけは立っているが、これまた完全に気死状態にある郷士たちをのこし、雪の中を、一団の芦名衆は魔軍のごとく去った。――
駕篭をつつんだこの一群が、湖畔に沿い、湖畔をはなれ、半里も山路を下りてきたときだ。
「……はてな」
馬上にゆられていた一眼房が、ふっと顔をあげた。
右はふかい渓流になっていて、寂漠《せきばく》たる雪の山中に、淙々《そうそう》たる水音が低くきこえる。それにまじって、遠くから妙な声が風にのってくるのだ。読経の声らしい――と気づいて、なお耳をかたむけて、
「……のうぼば、ぎゃぼて……ほさだらさぎゃら……にりぐしゃや……」
そうきいて、司馬一眼房の一眼に、ぎらっと異様なひかりがともった。
「あの声は――きゃつら――」
うめくと、馬にぴしっと竹鞭をあて、断崖《だんがい》を意に介さぬかのごとく、つっと先頭に立って馬をすすめる。
「……おお」
「吊橋《つりばし》の上に」
「四人の雲水が」
芦名衆がいっせいに指さした。
いかにもゆくての吊橋の上に、四つの網代笠《あじろがさ》をかぶった影が、雪風に吹かれて、茫々《ぼうぼう》と霞《かす》んで浮んでみえる。何のつもりか、四人の雲水はそんなところで、朗々と陀羅尼経《だらにきよう》を誦《ず》しているのであった。
吊橋といっても、板をならべて蔦《つた》かずらで吊ったもので、この橋は芦名衆が帰ろうとする道ではない。そのまま断崖に沿うてゆくのが本来の道で、橋の向う側は落葉樹の林と、さらにその向うは嶮《けわ》しい山だ。炭を焼くためか、狩りのためか、村人たちが作った橋であろう。山国の人の仕事らしく、頑丈に作ってはあるが、しかし二十人とは同時にわたれる橋ではない。
「きゃつら――」
一眼房は馬からとびおりた。
手綱を芦名衆のひとりにあずけ、
「駕篭と――十人ばかりついてこい。この場に待て」
眼をすえて、雪を蹴《け》ってつかつかと吊橋の方へあるきながら、
「あれは、男の声だな」
「されば――しかも、よほど読経をきたえた声で」
「しかし、声は三人だ」
「は?」
「四人のうち、手前から二人めは声を出してはおらぬ」
「…………」
「よく見よ、雲水の姿はしておるが――しかも、網代笠の下を袈裟頭巾《けさずきん》で覆ってはおるが――きゃつ、女ではないか?」
一つ眼なのに、恐ろしい炯眼《けいがん》だ。ほかの芦名衆はただ眼をむいただけで、まだはっきりとは見破れない。
とはいえ、司馬一眼房も、心中|愕然《がくぜん》としている。それは、いま見る四人の雲水の中に、たしかに女がひとりまじっていることを発見したおどろきよりも、女が雲水姿をすることもあり得る、という事実から、ゆくりなくも、あの帰国の途次《とじ》――宇都宮の界隈《かいわい》で逢《あ》った沢庵《たくあん》一行が、おなじ網代笠に袈裟頭巾という装束であったことを思い出したからであった。
あのおりは、その一行が沢庵ということも知らず、また沢庵が自分たちの敵であることも知らず、うかと見すごしてしまったが、いまにして思えば、あのときから堀の女たちの何人かが僧形をしていたのかもしれぬ、とはじめて気づき、さらに、いま会津領内を托鉢《たくはつ》して回っている雲水を、疑惑の眼で見つつも、首領銅伯の命ずるままに野ばなしにしているが、ひょっとすると、その中に堀の女たちがまじっているのかもしれぬ、と知って愕然としたのであった。もしそれが事実なら、事態はまったく一変する。猿倉越えの大峠からひきかえした六人のうち、沢庵、おとねをのぞいた四人の雲水、それを追跡の芦名衆はたしかに男であったと報告したが、雲水姿ゆえ男だという先入観念にあやまられたのかもしれぬ。そうと知ったら、銅伯老といえども、決して拱手傍観《きようしゆぼうかん》してはいまい。
そして、少くとも眼前にそのひとりがいる。それに気がついたのは、沢庵一行が敵であると知り、またあの陀羅尼経があきらかに自分たちを愚弄《ぐろう》していると知ったいまなればこそだ。
(……逃しはせぬが、罠《わな》にもおちぬぞ)
一眼房の片頬が冷笑につりあがった。
ちかづいてゆく芦名衆が雪に霞んでみえなかったのか、みえてもおのれたちには無縁のものと思ったのか、四人の雲水は、依然として蔦の吊橋の上で四本の杖《つえ》をついて、声はりあげて陀羅尼経をとなえつづけている。
「のうぼば、ぎゃぼて、ほさだらさぎゃら、にりぐしゃや……」
司馬一眼房は、吊橋の手前でピタリと立ちどまった。
「雲水」
四人が、こちらをむいた。谷から吹きあげる風をふせぐか、そのうちひとりは網代笠に手をかけて、顔をかくした。
吊橋は、五間以上もの長さがあった。
「なんのための山中の読経だ? などとはきくまい」
一眼房の声が、かすかに笑った。
「わざと人をくった真似をさらして、おれたちをおびき寄せようとでもいう算段か。なるほどここにおる芦名衆がいちどにこの吊橋を駆け渡ろうとすれば、橋はおちるであろうな。その手はくわぬ。――いや、待て、望み通り、渡ってやる。渡って、その方らの面体をみてくれる。渡ってやるが、そのまえに注文がある」
吊橋のたもとで、ふところ手をしたまま、気味の悪い猫なで声でいう。
「これ、うごくな――注文というのはな――よしっ、その駕篭の中の奴を刺し殺せ!」
ふいにふりむいて、大喝した。おどろきつつも、芦名衆のひとりが電光のごとく抜刀し、駕篭の中にそれを突きこもうとするのを、
「待て、それまで」
と制止して、また猫なで声になった。
「いや、吊橋の上の奴らが、ちょッかいを出しおったくせに、形勢不穏とみて逃げ出そうとするからよ。逃げれば、よいか、この駕篭の中の娘を刺し殺す。そこの村よりさらってきた娘、もとよりうぬらには無縁の女じゃが、うぬらの挙動のひとつで、無縁の女がひとり殺されては、後生がようあるまいが。おれの話すことをおとなしゅうきいてくれ――」
風にもうごかなかったそのたもとが、ぱっと鳴ったのと、
「逃げて!」
吊橋の上で、きぬを裂くような女の声、まさに女の声が、網代笠の下からほとばしったのが同時であった。
四人の雲水は、身をひるがえした。しかし、それまで微動だもしなかった司馬一眼房のたもとから噴出した黒い蛇のような皮鞭は、ビューッと実に二丈ものびて、正確に、手前からふたりめの雲水のからだに、クルクルと巻きついたのである。
「逃げて!」
皮鞭に巻かれながら、女の声はもういちど絶叫した。
「いや、いちどにこの鞭でたたッ斬るのはたやすい。生かしてとらえるのに、いや、手間がかかったわ。生かして、とらえろ、という銅伯老の御|下知《げじ》でもあるし、まず、おれも生きたしゃッ面がみたい」
一眼房は、皮鞭をたぐりながらいった。じぶんだけ、まず吊橋の上にあゆみ出していったのだ。
まさに、その通り、一撃のもとに鞭で切断するのは、彼にとって児戯にひとしい。しかし、一眼房が恐れたのは、切るとすれば、手前の雲水も血けむりあげるし、それが万一沢庵ででもあったらとりかえしがつかない。と判断して、橋のたもとで、その女雲水だけを鞭の虜《とりこ》にする位置と機会を、慎重に狙っていたのだ。
一眼房は、女雲水の傍に寄り、片手で網代笠をあげ、袈裟頭巾をひきずりおろした。
「お沙和《さわ》か!」
堀|主水《もんど》の弟、多賀井《たかい》又八郎の妻、お沙和。
じぶんを敵とつけ狙う女ながら、敵討ちの旅に出るのがそぐわない、いたましいような、情愛にみちたフンワリとした美貌《びぼう》。――それがいま、鼻と口から血をしたたらせんばかりの苦悶《くもん》にわなないている。
ひらかれた口の中を、司馬一眼房はのぞきこんだ。
「……美しい女というものは、口の中まで美しいの。歯も舌も、細工物のようじゃ」
感に耐えたようにつぶやく。――しかも、その皮鞭をつかんだ手は、ぬけめなく、微妙にうごいているのだ。
一撃すれば、はがねのごとく馬身すらも断つ。一方では、宙にくねりつつ、あるいは飛び来る数条の矢をたたきおとし、あるいは逃げる敵を生命ある蛇のようにどこまでも追って、からみ、巻きつき、絞めあげてしまう。微妙な指さばきとともに、ひと息はまるで胴を逆にしごきあげるようなうずきをあたえ、ひと息はまるであばら骨を切るような痛みをもたらす。およそ拷問として、司馬一眼房の皮鞭ほど粘強で惨烈無比なものはない。
お沙和のほそい胴を幾重にも巻いた皮鞭がゆるんだ。
のけぞりかえったその顔に、水死人みたいな顔でのしかかるようにして、
「……美しい女は、吐く息までも甘酒のように人を酔わす」
霏々《ひひ》としてふりしきる雪の吊橋の上であることを完全に忘却して、この世のものならぬ夢幻境にあそんでいるかのような声をもらしたかと思うと、
「これ、いつ会津にもどった?」
と、急に現実的なことをきく。
「いわねば、よいか?」
鞭の緊縛がギューッと加わって「あ、あ、会津から出たことはない……」
「なんだと?……そんなばかな……次をいえ、いわぬと、それ――」
「沢庵さまと……大峠を越えた駕篭《かご》は空駕篭……」
だれがお沙和を責めることができようか。地獄の責苦もはるかに及ばぬ大惨苦に、彼女はほとんど生きている人間としての理性を失っている。
司馬一眼房は、ちょっと瞳《め》をぬかれたように宙を見た。――やられた! と思ったのだ。
土岐山城《ときやましろ》の家中のものが重々しくかつぎ去ったのは、空駕篭だという。すなわち、それまでに堀の女は駕篭をぬけ出していたのだ。なるほど会津領内を通行中、夜もあった。山中もあった。彼女たちがそっくり脱出することは十分可能なわけだ。とは、しかし、いまきいて、やられた! と思うだけで、そのぬけがらをしかつめらしく護《まも》っていた沢庵のつらにくさ、またそれを息せききって追いまわした味方の芦名衆のまぬけさ。――
一眼房は、急に海坊主が空に潮を吹くように笑った。笑ったが、憎悪に波うつ笑いであった。
「やあ、坊主、逃げるな、逃げれば、この女、血へどをはかせるぞ」
すでに対岸にわたって林の中へかけこんだ三人の雲水にむかって、一眼房は咆哮《ほうこう》すると、お沙和の耳にささやいた。
「しかし、うぬは殺しはせぬ」
まるで、おのれの意志を持つ蛇のように、皮鞭はお沙和のからだから解《ほど》けて、スルスルと一眼房のたもとにおさまった。お沙和はなお呪縛《じゆばく》にかけられたように、フラリと吊橋の上に立っている。
「そうやすやすと殺すな、主家に刃むかった罪の恐ろしさを存分に思い知らせてからにせい――とは、銅伯さまの仰せじゃ。まず、いちどお城へこい」
それから、のびあがって、向うの林をみて苦笑した。
「坊主めら、何を血迷ったか、林の立木によじのぼったわ。あれでかくれたつもりか。頭だけ穴にかくれた狸のような奴めら。……待て待て、あいつらもつかまえて、少し痛い目にあわせてやろう」
ふりかえって、呼んだ。
「もうよいぞ。橋をわたって、あの坊主めらをとらえろ」
橋のたもとに立っていた芦名衆のうち、駕篭と駕篭かきをのこし、十人の芦名衆が走ってきた。ユラユラと橋はゆれるが、みな猿のように危なげのない身軽さだ。
一眼房はあごをしゃくった。
「うぬもゆけ。逃げようとすれば、ただ一討ちだぞ。これ、ゆけ!」
お沙和は、夢遊病者みたいに杖をついて、ヨロヨロとあるき出した。
三歩、五歩――その三尺うしろから一眼房が、さらにそのうしろから十人の芦名衆が、眼をひからせてつづく。高い吊橋《つりばし》の下から、どうっと雪まじりの谷風が吹きあげて、一瞬、あたりが真っ白にけぶった。
――と、お沙和の足もとから、橋板の隙を通して、何かがおちた。それが仕込杖の鞘《さや》にあたる部分だとは、雪風のために見えなかったが、吹きあげるその風に墨染めの袖《そで》がひるがえり、そのあいだからキラとひかったものを見て、
「あっ、うぬは!」
一眼房が絶叫したとき、お沙和の刀身がひらめいて、ぷっ! と橋を吊る蔦《つた》のひとすじを切った。
名状しがたいわめき声が、雪の空から谷の水へとび散った。――橋はおちた。ただ一か所、蔦の索条を切ったばかりなのに、からくも架けわたされていた山の吊橋は、お沙和の足もとからみごとに断たれて、それぞれ谷の両側へ、胡麻《ごま》みたいに人間をばらまきながら落下していった。
氷のような渓流に水しぶきがあがった。
雪けぶり、水けぶり――深い谷の底はよく見えないが、谷は激流、しかもこの寒中では、ほとんど助かる者はいなかったろう。橋を切ったお沙和はもとよりのことだ。
けれど、半死のお沙和は、みずからを殺すと同時に、恐るべき魔人司馬一眼房とともに十人の芦名衆をも葬り去った!
――と、見えたのに。
橋のおちたあとの谷の空に、何びとの影ものこるはずはあり得ないのに。
点と線がひとつ残った。点からのびた線は、ゆくての林の枝にビューッとのびていた。
線は皮鞭で、点は司馬一眼房であった。
なんたる超人的な縄術か。――吊橋を切られた刹那《せつな》、彼のたもとからたぐり出されたあの皮鞭は矢のごとく空を走って、向いの林の枝の一つにくるっと巻きついたのだ。
むろん、一眼房が空に残ったとみえたのは一瞬だ。彼はそのまま落下した。いや、落下しながら皮鞭を投げたというのが真実だ。
が、鞭が対岸の木の枝に巻きついた瞬間に、鞭の下の一眼房の落下は停止し、停止すると同時に、彼のからだはまた宙にはねもどった。事実はそのむちをたぐったのであろうが、まるで枝に巻きついた鞭の部分に滑車でもついていて一眼房を吊りあげたか、さらに鞭が一本の棒と化して、彼が猿のように駈《か》けのぼったか、ともみえる疾《はや》さであった。
「うぬ! やりおったな!」
ぱっと岸上にはね上った一眼房の形相は、人間ではないもののように変っていた。
敵の裏をかいてまんまと堀の女のひとりをとらえたと思っていたのに、ほんの一瞬の気のゆるみから、文字通りのどんでん返しをくって、あたら輩下の芦名衆を十人も一挙に失ったくやしさを、どこにむけたらよかろうか。まさか、おのれも乗った吊橋を、あのお沙和が切ろうとは思わなんだ! 谷へおちたお沙和はおそらく死んだであろうが、それをせめてものことと思うより、じぶんの皮鞭でそのほそ首をたたき斬らなかったことが、地だんだ踏みたいほどの無念さに思われるのであった。
歯がみして谷をのぞきこもうとした一眼房は、ふと、対岸にあがった絶叫に顔をあげて、はっとした。
そこに展開されている意外な光景に、彼が一眼をかっとむいたとき、背後で、たまりかねたような笑い声がふってきた。
ふりかえると、林の木々の上に、鴉《からす》みたいにとまった三つの黒い影が、いとも野放図にゲラゲラと笑っているのであった。キリキリ舞いをしている司馬一眼房の姿を見下ろして、笑いがこみあげてきたらしいが、それにしても何という人をくった坊主どもか。――
「うぬら――この一眼房をよく知らぬな」
わめいて、逆上した眼つきで、一眼房は林の中におどりこんだ。
三方の高い樹上に、三人の雲水は逃げ上っている。笑う声からしてもあきらかに男で、堀の女たちでないことはたしかだが、それだからこそ、彼らはじぶん――一眼房の恐ろしさをまだよく知らないものとしか判断のしようがなかった。彼らは沢庵の一味にちがいないが、一眼房は銅伯の禁制も忘れた。だいいち、対岸に何が起っていようと、いまとっさに飛びかえることができない以上、せめてこの坊主どもを血祭りにして、わきたぎる憤怒をはらすよりほかはない。
「たわけっ、そこにおれば身の安穏と思ったか!」
林の中は、うずたかい落葉であった。その上に両足かためて、司馬一眼房は仁王立ちになった。
「見ろ!」
ピシイッ! と虚空をつん裂くようなひびきにつづいて、ザ、ザ、ザーッという波に似た音が、一眼房の周囲に起こった。
頭上の梢《こずえ》にさえぎられて、林の中の雪はまだらであった。それにさっき三人の雲水が樹上に逃げのぼるときはねちらしたのか、いたるところ黒くぬれた落葉がむき出しにあらわれていた。その枝葉が一っせいに、つむじ風に吹かれたように舞い立ったのだ。
いや、うごいたのは、落葉だけではない。半径二丈の周囲に黒い旋風がまわって、その範囲にあった無数の木々のすべてが、穂すすきのように傾いた。旋回する皮鞭のふれるところ、ことごとく立木が切断されたのだ。
一瞬のことであったが、鞭の弧はすでに半円をえがき、はやくも一本の木の上にいた雲水がまっさかさまにころがりおちるのを見て、一眼房の眼が笑った。が――その刹那、すでに鞭が通りすぎたあとの落葉の地面から、突如として何者かが身を起すのをみて、一眼房ははっとした。
ふかい枝葉の堆積《たいせき》の下から、黒い豹《ひよう》のようにはね起きたもの――それを墨染めの衣に袈裟頭巾《けさずきん》をつけた姿と見、その手に白刃のひかるのを見ても、彼の鞭はなお全円を描こうとして回ってゆく。
「一眼房、覚悟!」
お圭《けい》の声だ。彼女はわずか五尺の距離から一眼房めがけてはせ寄った。
「くゎっ」
怪鳥《けちよう》のような叫びをあげながら、一眼房は横っとびに飛び、お圭は宙を切ってのめっていったが、それを追い討つべく一眼房の鞭はあまりにも長すぎた。
が、飛びのいた位置で、その皮鞭は円を描くのをやめると見るまにみるみる縮んで――一眼房の眼が血いろにひかってお圭の背に走ったとき、すぐまた足もとから別の黒い影が立った。
「父の敵!」
さくらの絶叫だ。
狼狽《ろうばい》しつつ、またもはね飛ぶ一眼房のうしろから、さらに第三の影が身を起して白刃をひらめかす。
「逃さぬぞ、一眼房!」
お品だ。
変幻の襲撃に応接にいとまなく、混乱した一眼房の手の鞭は、このときまったく主人の意志からはなれて、横の立木にクルクルと巻きついた。
「は、はかったなっ」
歯ぎしりをし、身もだえする一眼房の手から、ついに鞭がはなれた。なお鞭をにぎっていることは、彼自身を縛ることであった。
腰の一刀に手をかけつつ、さらにまろぶように逃げ走る一眼房のまえに、すっくと三つの袈裟頭巾が立った。お千絵《ちえ》と、お笛と、お鳥と――
死闘に舞いあがった無数の落葉が、雨のようにみだれちる下で、つんのめりつつ大刀を半ばまでぬいた司馬一眼房の、ひたいから鼻ばしらにかけて、まずお千絵の一刀が血のすじをえがいていった。
顔をふたつに割られながら司馬一眼房は、憤怒と無念の中に、
――あのお沙和だけでもさきに地獄に追いやったのがせめてものことだ。
と、辛うじて断末魔の心をなぐさめたかもしれない。
――しかし、お沙和は生きていた!
蔦の吊橋をみずから切断した瞬間、彼女は切った前面の蔓《つる》にとびつき、片手でひしとそれをつかんでいた。切られた橋は振子のように彼女を吊るしたままおちてゆき――あやうく断崖《だんがい》に激突しかけて、その手前の渓流に、まっ白なしぶきをあげていた。
あの死から免がれ、なお死に追いかけられているときに、切った橋の長さと下の渓流との距離を、さかしくもお沙和は計量していたのだ。
一眼房と芦名衆を、じぶんもろとも谷におとす、これは最初から企《たくら》んでいたことではない。得べくんば、彼らをさそい寄せ、じぶんたちは橋をわたってから切りおとしたいとは望んでいたが、あの一眼房や芦名衆が、そうやすやすとこちらの注文通り、無警戒に橋をわたってくるものとはかんがえてはいなかった。だから、じぶんたちがひとまず逃げわたってから、橋を切りおとすようなことはしないというたしかなそぶりをみせて、彼らを林の中におびき寄せ、そこではじめて落葉埋伏の計にかける、というのが彼女たちの兵法であった。
しかし、承知はしていたものの、一眼房の恐るべき鞭のわざをまざまざと思い知らされて、突然お沙和は、いのちをかけてじぶんもろとも、彼らを谷の底へおとすという決心をかためたのだ。
崖《がけ》にぶつからなかったものの、渓流の中の岩に落ちなかったのが髪一すじの僥倖《ぎようこう》だ。
しぶきをあげて水中に落ちたお沙和は、そのままズズズッとおしながされようとして、必死に蔓をにぎってささえたが、この場合にも片手の一刀をはなさなかったのは、むしろ男以上の女の念力であった。
幾百千の水沫《すいまつ》をちらしてはね起き、刀を口にくわえると、縄梯子《なわばしご》と化した吊橋《つりばし》をつたって崖をよじのぼろうとする。雪の中の凍りつくような冷たさは意識の外にあった。
「ま、待てっ」
すぐうしろで、ひびの入ったようなわめき声がきこえた。
お沙和はふりかえった。流れの中から、数人の芦名衆が立ちあがった。
天空からころがりおちたはずの司馬一眼房と十人の芦名衆のうち――そのまま岩に激突して即死し、おしながされたものが何人あったか。水中におちたものの、その刹那に猫のごとく身をかがめていのちを長らえた者、また吊橋をひっつかんで、お沙和とおなじく振子と化して、逆の方角の崖にぶつかっていった者。――さすがは、剽悍《ひようかん》無比の芦名衆だ。
水を蹴《け》たてて殺到してきた者が五人ある。
刀を口にくわえたお沙和は、殺到してきた芦名衆にむろんはっとしたが、その中に司馬一眼房の姿がみえないのに、やった! と思った。
めざす敵、一眼房だけはみごとに仕止めた、と思ったのだ。まさか、その一眼房が、落下する橋から逆に天空にとび返るはなれ業を演じたとは想像の外にある。
「う、うぬ!」
「よくもわれらを――」
水をわたってきた芦名衆は、しかしさすがにひとりとしてまともな姿をした者はない。乱髪、血まみれは五人すべてのことだが、中には片腕折れてブランと垂れている者もある。顔半面ざくろのごとくくだけている者もあり、ふりかぶった刀が、なかばポッキリ折れている者さえあった。
「女狐っ」
最初のひとりが、猛然とはせ寄ってきた。
お沙和は縄梯子となった吊橋に足をかけ、片腕で蔦《つた》をつかんだまま、うしろなぐりに一刀を薙《な》いだ。
獰猛《どうもう》きわまる芦名衆だが、氷のような急流に足をとられて姿勢がくずれ、この一刀をもろに顔に受けて頬から頬へ、も一つ巨大な口をつくってお沙和の足もとにつんのめる。鮮麗な朱がぱっと雪氷にちったかと思うと、そのからだとともにながれ去った。
ふりかえりもせず、お沙和は蔦の梯子を二、三段よじのぼる。その下に、ひとりがとびついて、ぶらさがり、
「くたばれっ」
と、垂直に刀をつきあげた。やんぬるかな、つきあげたのは半分に折れた刀であった。同時にお沙和が上から斬りおろす。頭を割られ、絶叫して芦名衆は水にころがりおちた。なおよじのぼるお沙和を、
「待てっ」
ほとんど人間とは思われぬ姿で、残り三人の芦名衆が、蔦にすがって追いのぼる。
蔦の吊橋は、梯子と化しているとはいうものの、もとより不自然きわまるものだ。それにあちこちと切れかかって、板や蔓がよじれ、もつれ、垂れさがっている。それにぶら下がったまま、迎え討つお沙和も必死なら、追いすがる芦名衆も、もはや死びとのかたまりのようだ。
お沙和は斬った。たしかにいくども斬ったのに、芦名衆は這《は》いのぼってきた。断崖に雪と血と水のちりしぶく死闘であった。
冷たい血にヌルヌルする一本の腕がお沙和の足くびをついにつかんだ。
お沙和は一方の足でそれを蹴りながら、じぶんの足もとの蔦をばさと切りはらった。吊橋もろとも、ふたりの芦名衆がもんどりうっておちていって、水にまっしろなしぶきをあげた。
しかし、お沙和の足をつかんだ奴はおちない。いまや彼は、お沙和の足だけをつかんでぶらさがっている。お沙和は斬った。斬られるまえから、すでにざくろのごとく半顔つぶれた男であった。半分になった顔をまた斬られても、まるで地獄の蓑虫《みのむし》のように彼はおちない。
ビシイッ、と上の方の蔓のどこかが切れる音がした。
一方、もとの断崖の道である。
橋のたもとに娘を入れた駕篭《かご》をのこし、なおそのうしろに待っていた十数人の芦名衆は、橋の上の一眼房のかけひきを、かたずをのんで見まもっていたが、突如としてその橋が切りおとされるのを見て、もとよりあっと仰天した。
ついで、一眼房だけが対岸にはね上って、そこの林で思わざる第二の激闘が開始され、さらに谷底で、おちた女と生残りの芦名衆とのあいだに第三の死闘が起されるのを見るに及んで――いや、それ以前に、橋がおとされるのを知りながら、思わずそこに殺到したことはいうまでもない。
「無念、渡れぬ」
「いや、切られた橋がこちらの崖にもぶらさがっておるはずだ」
「それをつたって河におりろ」
「それ、河をわたってゆけ」
いかにも、駕篭のすぐ向うのきりぎしから垂れた蔦梯子を、駕篭をのりこえ、はや五、六人の芦名衆が猿のごとくつたって下りてゆこうとする――
まるで天から降ったもののように、その駕篭の上に黒衣の影が忽然《こつぜん》と立ったのは、そのときであった。――立つと同時に、その黒い影は刀をふりおろし、蔦の吊橋を切った。ぶら下がっていた芦名衆は、石のごとく谷へおちてゆく。
何のこともなかったように、その影がふたたび駕篭の上でこちらにむきなおるまで、道の上に残った七、八人の芦名衆は、あっと夢でもみるかのごとく眼を見張ったまま、身動きもできなかった。その影が、道の山側の断崖から生え出した高い松の枝に、それまでまたがって見下ろしていて、このときはじめて魔鳥のようにはばたいて飛び下りてきたことを見ていた者が何人あったか。――最初から吊橋にならんだ雲水に気をとられて、空の方に注意をむける者のなかったことこそ不覚だ。
黒衣の影は、般若《はんにや》面をつけていた。
「一眼房には手を出せぬ約束でな」
快活な笑い声であった。
「いままでやむなく見物しておったが、いや、そちらより胆《きも》が冷えたぞ。女ども、こちらに三斗の冷汗を流させるわ。――うぬらの仲間はみんな死んだ。芦名衆ともあろう者が生き残って逃げ帰っても、銅伯老人がぶじには置くまい。一同うちそろって、にぎやかに三途《さんず》の川を渡るがいい。――そうれ、参るぞ――」
さけぶと同時に、真一文字に、狭い崖路《がけみち》を疾駆した。
まるでそこに芦名衆がいないかのごとく走りぬけたのだ。稲妻のように剣光がきらめいて吹きすぎたあと――そこに立っていた芦名衆の姿はなかった。いくすじかの血の滝をひきながら、彼らは断崖を三途の川ならぬ雪の谷川へおちていった。
誰もいない崖の道にひとり立った柳生十兵衛は、対岸をふりかえって、いきなり小柄《こづか》を投げた。小柄は谷を流星のごとく飛んだ。
お沙和の足にぶらさがった芦名衆のうなじに、その小柄がプスリと刺さったのはそのときである。はじめて手をはなし、彼は声もなく、これまた渓流にまろびおちていった。
寛永《かんえい》二十年元旦。
会津若松城下は大雪にあけた。水をくみ、神に祈るのは、とくにこの時代には厳粛に守られた万民の行事だが、そのうえ、城の大手門|界隈《かいわい》の町家の人々は、もうひとつ大仕事があった。
元旦のお祝いに登城する家中のお侍衆のために、雪をかきのけ、道をあけておかなければならないからだ。雪はやんでいたが、凍りつくような暁闇の中に、人々ははたらいた。
すると、城の東側の濠《ほり》にかけられた廊下橋のちかくに、ひとつの雪|達磨《だるま》がつくねんと立っているのが発見されたのである。武家の登城時刻までに道をあけておかなければならないので、みないっしんに働いているところであったから、むろんそんなひまつぶしをしている人間のあるはずがない。
「だれだ、あんなものを作ったのは?」
それに気がついた人々が集まって、ガヤガヤききあっているうちに、彼らがここにやってくるまえから、もういくつかの足跡が雪に印されていたことが判明した。よほど物好きな誰かが、夜のうちに作ったとしか考えようがない。
ただ夜のせいであったためか、それとも人々が起き出してきたのであわてたのか、その雪達磨には眼鼻がなかった。
そのまっしろなのっぺらぼうの顔に、炭をもってきて眼鼻をつけてやるほど酔狂なおとなはなかったが、そのうち子供たちが集まってくるようになると、たちまちさわぎ出した。
すると、そこへ飄然とやってきた三人の雲水がある。炭や南天の赤い実をもってきてさわいでいる子供たちをしばらく見ていたが、
「これこれ、ちょっと待て」
と、声をかけて、ひとりがちかよっていった。
「このごろ、江戸ではな、雪達磨に炭はつかわぬ」
雪ン子みたいな子供たちが網代笠《あじろがさ》の中をのぞきこんで、
「あっ、沢庵さん!」
と、うれしそうな声をあげた。
暮から、ときどき若松の町を托鉢《たくはつ》してあるいている雲水の一行の中に、江戸からきた沢庵和尚というえらい坊さまがいる、と、誰ともなくいい出したのをきくまえに、子供たちはその年よりの坊さまのまわりに笑顔で集まっていた。ほかの雲水はともかく、沢庵さんは托鉢も忘れて、ひねもす子供たちと、凧《たこ》をあげたり、鞠《まり》をついたりしてあそんでくれるからであった。
「炭をつかわないで、どんな風にする?」
と、子供たちがきく。
「左様さ、青竹をつかう」
子供たちが青竹をもってきた。沢庵はそれをみじかく筒切りにしたものを二つ作って、雪達磨の眼の部分にさしこんだ。
「やあ、眼ができた」
「どうじゃ、炭より眼らしゅうみえるじゃろうが」
「お鼻は? お口は?」
「そんなものは要らん。眼だけでよろしい」
沢庵はケロリとすましている。――子供たちはまじまじと、顔に輪の二つならんだ雪達磨をながめた。なんだか物足りないことおびただしい。
「へーえ、これが江戸のはやりの雪達磨?」
「左様さ。そして、江戸ではこんな唄《うた》をうたう」
沢庵は笑いながら、まのびした、おかしな節回しでうたいはじめた。
めでためでたの若松さまよ
達磨さんの眼があいた
おめめは二つ、蛇ノ目が二つ
蛇ノ目は二つ、めでたいな
そして、手拍子をうちながら、同行の雲水と雪の中をどこかへいってしまった。
唄の文句はわけがわからないが、その節回しが滑稽《こつけい》であったので、子供たちはすぐ真似《まね》をした。うたいながら、雪達磨のまわりをおどり狂った。
「おめめは二つ、蛇ノ目が二つ、蛇ノ目は二つ、めでたいな」
その愛くるしい合唱をふときいて、愕然《がくぜん》と顔をあげた者がある。
「なに、蛇ノ目は二つ?」
ちょうど登城のため、駕篭につきそってあるいていた香炉《こうろ》銀四郎と漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》である。蛇ノ目はいくつ――会津七本|槍《やり》衆がひとりずつ討たれてゆくたびに、ひとつずつ減って書き残されてゆくあのぶきみな言葉。
「そこへゆけ」
と、駕篭の中から、しゃがれ声がかかった。芦名銅伯である。
彼らは、唄声をたよりに、その雪達磨のところへかけつけた。
「その唄を、だれからおぼえたのか」と銀四郎がかみつくようにきくと、子供たちはその血相におびえながら「沢庵さまから」とこたえた。
「沢庵」
駕篭の戸をあけて、銅伯はつぶやいて、じっと雪達磨を凝視していたが、
「ちと、気になることがある。あれをこわしてみい」
と、あごをしゃくった。
一瞬、あっけにとられていた銀四郎と虹七郎が、すぐに顔色をかえて雪達磨にかけより、鞘《さや》ごめにぬいた刀をふるって、それをくずしはじめた。それ以前に、ただならぬ雰囲気にきもをつぶして、子供たちは逃げ散っている。
「あーっ」
さしものふたりが、突如として悲鳴をあげてとびのいていた。
雪達磨の中から、ひとりの人間があらわれたのだ。上半身をつつんでいた雪はくずされて、いまは足のまわりにしか雪がないのに、その人間は身動きひとつせず、凍結して立っている。青い海坊主みたいに、ドロンとひとつの眼をむいて。
暮に会津の北辺耶麻郡界隈に捜索にいったきり、輩下の十数人の芦名衆とともに、まるで神かくしにあったように忽然と行方を絶っていた司馬一眼房の、顔をふたつに裂かれた屍骸《しがい》であった。
おめめは二つ、蛇ノ目が二つ
蛇ノ目は二つ、めでたいな
遠くで子供たちの唄声がひびいた。漆戸虹七郎と香炉銀四郎は切歯して、蒼白《そうはく》な顔を見合わせた。――あとに残るは、まさにこの二人のみ。――
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首合戦
世にこれほど凄惨《せいさん》で、これほど美しい彫刻があろうか。
「殿、出来たようでござります」
漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》と香炉《こうろ》銀四郎の報告で、おゆらとともに閨《ねや》から出てきた加藤明成は、庭にむかって大きく障子のひらかれた書院に一歩入って、
「おう!」
と、思わずさけんだ。
この光景は予想していたことである。いや、この光景をみるために昨夜遅くまで、この座敷で酒をくみながら待っていたことなのである。それにもかかわらず、いま眼前にくりひろげられた凄惨|妖麗《ようれい》の景観に、思わず明成はそう嘆賞のさけびをあげずにはいられなかったのである。
空は暗いまでに蒼《あお》い。波うつ城の塀の甍《いらか》の彼方には、東の磐梯《ばんだい》、北の飯豊《いいで》をはじめ雪をかぶった北方の連山がみえる。そして、ひろい庭もまた白一色であった。そのいずれもがまるで玻璃《はり》で作られたように、ピーンと透徹している。実際に、すぐまえの大きな池には氷が張りつめていた。その氷の上に、数羽の白鳥が浮かんでいるのだ。
いや、白鳥とみえたのは、からみあった男女のいくつかの群像であった。
おゆらの方の発案だ。――この城には、江戸屋敷の「花地獄」に匹敵する「雪地獄」と称する快楽の密室が設けられていたが、そこに飼ってある無数の美少年と美女のうちから、手あたりしだいにいく組かをえらんで、きのうの夕方その池に追いこんだのだ。男と女一組ずつの足を、みじかい鎖でむすんで。
池の水は、腰をひたすかひたさない深さであった。夜がふけるにつれて、それはしだいに凍ってくる。いけにえの鎖には重い鉄丸がつけられていたし、だいいち逃げようにも、池辺には刀をひっさげた漆戸虹七郎と香炉銀四郎が、うすら笑いをうかべて徘徊《はいかい》している。
彼らと彼女らはもだえ、そして寒気のなかに夢中で抱きあった。池のほとりには篝火《かがりび》がもえていたが、その程度の炎でゆるむとは思えぬ八寒地獄であった。
その恐ろしくも美しい光景を、盃《さかずき》を出しておゆらに酌をさせながら、右のやつ、片足をあげよ、とか、左のやつ、倒れると縛り首だぞ、とか、命じて、命ずるままの姿態をとれば、そのうち池からあげて、解き放ってやろう、という言葉をえさに、舌なめずりして見物していた明成であったが、この着想は、その経過を見物するためというより、結果を見たいというのが目的であったから、夜がふけても容易にその結果がみられないのに、ごうをにやして、
「人間、なかなかしぶといものよの」
と、舌うちして、あけはなった座敷の寒さに、ついにたまりかねて、おゆらをつれて寝所にひきあげてしまったのだ。
いま、その結果が眼前にあった。虹七郎、銀四郎が「出来た」といったそのものが。
氷結した池の上に、幾組かの男女のからみあった裸像もまた凍りついて、キラキラと氷の珠《たま》をひからせているのであった。
「殿」
銅伯が入ってきた。
銅伯は庭をみて、
「おう、これは」
と、さすがに眼をみひらいて、しばらく黙りこんだ。おゆらがあでやかに微笑んだ。
「父上、わたしの思いつきでございます」
「かんがえたの」
と、銅伯は笑ったが、
「しかし、このごろすこし、つかいかたが荒うはないか」
それが人間のいのちの意味であることは、つぎの言葉でわかった。
「雪地獄が、このごろめっきり寂しゅうなったぞ。一方、娘や少年がなかなか手に入らぬ。あの立札以来、領民どもが、美しい娘、美しい少年をかくして出さぬようになったことは、おまえも存じておろう。こころして、大事につかえ」
それから、明成の前に坐った。
「昨夜、所々の芦名《あしな》衆からの報告を勘考いたし、銅伯つらつらかんがえたことがござります。殿、お目覚めと承わり、そのことについて申しあげたく参上いたしました」
「何じゃ」
「いうまでもなく、例の沢庵《たくあん》一行、また堀の女ども一味のことについてでござるが」
「まだ所在が知れぬか」
彼らが会津《あいづ》に潜入してから、もう二タ月になんなんとする。会津に入るはこちらの望むところ、あたかも嚢中《のうちゆう》のものをとるがごとし――という芦名銅伯の高言に反し、沢庵一行はともかく、堀の女たちのひとりもまだとらえることも、斬ることもできないのであった。
むろん、明成はこの城にあって、日夜厳重な警戒をかためさせている。じぶんのみならず、あの司馬一眼房《しばいちがんぼう》が討たれてからというものは、足ずりしてはやる漆戸虹七郎、香炉銀四郎すらも城内にとどめて、極力遠出はしないように命じている。
さすがに四十万石の城に斬りこむなどという無謀を敵は試みないが、さればといって、数十人の芦名衆の精鋭を領地くまなく派して探索させてあるにもかかわらず、彼女たちの痕跡《こんせき》をかぎつけることができないのだ。
意外でもあり、奇怪千万でもある。あの女たちは領内のどこかに必ずいるにちがいないのに、
「領民がかばっておるに相違ござらぬ」
と、銅伯はいった。明成はうめいた。
「不埒《ふらち》な土民めらが」
「それは、このごろ知れてきたことでござるが、もうひとつ女めらの所在をつきとめることができぬのは、もしやしたら――と、昨夜ふと思いあたったのでござります」
「もしやしたら?」
「きゃつら、雲水に化けて、堂々と徘徊しておるのではござりますまいか」
「何、女どもが雲水に?」
「されば、あれほど草の根わけた探索に、土民がいかにかばえばとて、七人もの女を一か所にいつまでもかくしておられるものではござりませぬ。拙者思うに、女どもはバラバラに、また転々と居をうつしておるに相違ござらぬが、その移動の際、雲水の姿をしておるのではないかと」
女が雲水に化けている。――
それは司馬一眼房と彼の輩下の芦名衆が、その断末魔にはじめて知ったことであった。そのまま冥土《めいど》にいった彼らが、その事実を復命するすべもない。
いま、芦名銅伯は、坐《ざ》してようやくそのことを看破したようだ。
「沢庵以下の坊主どもが、おとねと申す女を加えて七人、あるときには三人、四人、とわかれてこの会津を――若松のみならず、耶麻《やま》郡やら安積《あさか》郡やら、風のごとく徘徊出没しております」
銅伯はにがい表情であった。
「沢庵一行には手を出すな、雲水には眼をつぶっておれ――と拙者が命じたばかりに、芦名の者どもはこれを見のがしておったらしゅうござるが、いままでの報告をつらつら調べるに、同日同刻に、若松に四人、耶麻郡の村に五人、安積郡の湖のほとりに六人と――七人をはるかにこえる雲水がうろついておることに気づいたので」
「それはまことか、銅伯」
「もとより沢庵一味以外にも托鉢《たくはつ》の行脚僧は数多うござろう。しかし、それらが異風の袈裟頭巾《けさずきん》をつけておったときくと――その袈裟頭巾こそあやしい、と銅伯はじめて思いあたってござる。沢庵には手を出すな、当方のこの遠慮につけこんで、あの女ども、ヌケヌケと雲水に化けて横行しておるのではないかと」
漆戸虹七郎と香炉銀四郎も縁に手をかけてきいていたが、このとき銀四郎が、それみたことか、とたまりかねたようにさけんだ。
「はじめから拙者は、加藤家に仇《あだ》なす坊主、委細かまわず斬ってしまうがよいとかんがえていたのでござります」
「そうはならぬ。少なくとも、いまはならぬ」
と銅伯はいった。
「それくらいの沢庵のかけひきは、最初から覚悟していたことだ。沢庵をこの世から消すことは、あとあと当家にとってはばかりがあるが、しかし、もはや捨ててもおけぬ。なんとなれば、沢庵め、たんに堀の女どもの後盾をなすのみならず――領民ども、このごろお家に対し、何やら不逞《ふてい》不穏の気配があるが、どうやらきゃつらが手分けしてあおっておる様子。捨ておけば、一揆《いつき》でも起すにいたりかねぬ雲ゆきじゃ」
「銅伯老」
と、漆戸虹七郎がいった。
「そこまで知って、なお沢庵に手を出してはならぬと仰せか」
「沢庵は、おれが料理しよう」
銅伯は、ふとうす笑いした。恐ろしい自信にみちた笑いであった。
「どう料理なされる」
「ひさびさに、銅伯の夢山彦をつかう」
「夢山彦」
「それをもって沢庵を封ずれば、あとはそちにまかす。沢庵さえ呪縛《じゆばく》すれば、あとの女どもはあか児の手をねじるようなものであろう」
銅伯は眼を半眼にした。
「そのためには、まず沢庵をこの城におびきよせねばならぬが――」
――軒から氷のすだれみたいにたれさがったつららを、長槍《ながやり》の柄でひとなぎにすると、
「御用である」
ドカドカと三人の陣笠《じんがさ》の武士が入っていった。ここも雪ふかい南会津の田島という村落の豪家だ。
「かねて探索の謀叛人《むほんにん》が当家にかくまわれておるという密訴があった。かくし立てすると、ためにならんぞ」
「当家のものはみなここに出い」
朱盆のような口をひらいてわめきたてたのは、泣く子もだまる芦名衆であった。
大いろりにあたっていた人々をはじめ、納屋《なや》から馬小屋、牛小屋にいた家人たちが駈《か》け出してきて、土間にうずくまった。
それを、爛々《らんらん》たる眼で見まわして、
「家人は、これだけか」
「左様でござります」
「いつわりを申せ!」
三人は、怒号した。
「当家に、十八、九の娘が出入りしておったことは、すでに相わかっておるのだぞ。その娘の姿がみえぬではないか!」
「それは、わたしどもの娘お|蝶|《ちよう》|ではござりますまいか」
と、主人らしい老人がオドオドいった。
「当家の娘? 何をぬかす。われわれの探している謀叛人もその年ばえの女じゃ」
「め、めっそうもない、どうして百姓のわたしどもがそのような――」
「謀叛人か、当家の娘か、それを調べるために出向いたのだ。早くこれに出せ!」
三人は土間に長槍をつきたてて、いたけだかになった。
「それが――」
と、主人は困惑した顔で、
「娘は、出家いたしてござりまする」
「出家?」
「今朝ほど、沢庵禅師さまがおいであそばし、娘を尼にせよと申され、娘は尼になると申し、沢庵さまにつれられていったのでござります」
「……た、た、また、沢庵めが!」
と、三人はうめいて、顔を見あわせた。
きのう、この田島の村に、三人の雲水が入った――という報告をきいたのは、今朝、彼らがこの村に入ってからである。
だから、彼らがこの田島村にやってきたのは、その実否をさぐるためではなかった。この家に、ひなにまれなる美しい娘がいるときいて、かねてから命じられているお城の「雪地獄」の供物《くもつ》として、女狩りにやってきたのだ。
謀叛人の探索というのは常套《じようとう》手段の口実であったが、雲水がきたと知って、彼らは、さてこそ、と思った。
果然、その雲水が例の沢庵和尚本人であろうとは――そしてまた、その沢庵が、とんびが油揚げをさらうように、狙った娘をつれてゆこうとは。
この出来事は、この家がはじめてではなかったのだ。
「謀叛人たる堀一族の残党を見つけ次第訴人せよ」
という藩の立札をひきぬいて、その代り、
「鶴ケ城に入りて殺されし女人幾百人なるかを知らず」
とかいた立札が立てられるようになったのは、去年の暮以来のことだが。
藩の立札は、文句そのものが目的であることはいうまでもないが、芦名衆はそれを女狩りの道具にも利用した。美しい娘とみれば謀叛人が化けているのではないか、とか、ちと不審がある、とか、理由にならぬ理由をつけて連れ去って、それっきり返さない。――その立札をひきぬいて、かわりに立てた高札は、むろん領民に対して警戒をうながしたのみならず、あきらかに藩を弾劾したものだ。
さらに、最近にいたっては、芦名衆が美女を求めてゆくところ、かならず沢庵|乃至《ないし》沢庵の弟子僧と名乗るものが、先回りして美女を尼にしてつれ出してゆく――
「沢庵が、うぬの娘を尼にせいと申したと?」
「左様にござります」
「何びとが申そうと、百姓の娘がそれほどやすやすと尼になるということがあるか。こ、こ、こやつ――」
「それが、沢庵さまには、このたび鎌倉東慶寺《かまくらとうけいじ》の姉寺として、江戸に、将軍家おん姉君天樹院さま御住持として、東海総持禅寺という尼寺を創建なさるとか、さるによって諸国から尼僧を求めて行脚しておると申されて」
総持とは、陀羅尼《だらに》の訳語でもあるが、達磨《だるま》大師の弟子の総持尼にちなんで、禅の尼寺の意をふくめた名である。
三人とも、歯をかみ鳴らしてだまっている。だまっているのは、この老人の口上をもっともだと認めたからではない。
まず第一に、そのせりふがどこへいってもきかされるものだということ、第二に、それをあきらかにいつわりと知りながら、もっともらしい顔つきでいうこの豪農の老爺《ろうや》に、領主に対する不逞な抵抗と嘲笑《ちようしよう》がみられること、第三に、そうとわかっているのに、彼らに手が出せぬという無念さからであった。
実際このごろ、会津のいたるところ、農民にも町人にも、加藤家に対して隠微な反抗の雲がひろがってゆきつつあることを、芦名衆は肌で感じる。それはまちがいなく、沢庵か、潜伏した堀の女たちがあおっているものだ。――彼らが鉄壁の城を避けて、あるいは無視して雪に埋もれていることを、臆病《おくびよう》とか無為とか笑ってはいられない。
このままでは、かえって彼らの罠《わな》におちることになる。これは鶴ケ城の外濠《そとぼり》をうずめる坊主と尼僧軍の冬の陣だ! と、ようやく気がついて、
「領内を徘徊《はいかい》する雲水をきびしく詮議《せんぎ》せよ」
という密命が芦名衆に下ったのはこのごろのことだ。
ところが、それと前後して、領内の娘に尼となるものがふえ、雪の大地にうごく墨染め網代笠《あじろがさ》の影を追ってその面体《めんてい》をあらためてみれば、いずれも見知らぬ女人の顔ばかり。
「――待て、そこな雲水」
雪の野を、墨絵の中のむれのようにゆく四人あまりの行脚僧を追って、その網代笠をあげさせてみれば、いずれも男の僧ばかり。
「何か、御用か」
「うむ、用ではないが……いずれからきて、いずれへ参られる」
「これは江戸東海寺の沢庵の弟子僧。御領内托鉢の儀は、さきに師僧より式部《しきぶ》少輔《しよう》どのにじきじきおゆるしをねがっておるはずでござるが」
袈裟頭巾《けさずきん》の中の眼で、ニコと笑われても、追撃隊は一言もない。
――また。
「――あれだ! きゃつら、雲水の姿はしておるが、みな小柄で、腰つきがなまめかしいぞ。ひっとらえろ!」
雪の村落に入ってきた七人の行脚僧を、血相かえてとりつつんで調べると、まさに袈裟頭巾のあいだの眼は、いずれもやさしい女の眼ながら、
「はて、何のおとがめでございましょう。わたしたちはかようなものでございますが」
といって、いっせいに墨染めの衣から、それぞれ一葉の紙をとり出す。
「是は江戸東海総持禅寺の尼僧なり。男子禁制は将軍公許の寺法なれば、男たるもの一指をも触るることなかれ。宗彭《そうほう》沢庵」
と、かいてあって、花押《かおう》まで押してある。
ただうなって、手をひくと、尼僧たちはみずから袈裟頭巾をさげて、花のような笑顔をみせていることがあるが、いずれも、かつて見知った堀の女たちではない。
こんなことが、すでに幾十たびくりかえされたことか。
このぶんでは、会津四十万石雪の山河が、そのうち黒い尼僧のむれで埋められてしまうのではないかと思われるばかりだ。だいいち、どれが堀の女やら、おいそれと見わけられなくなってしまった。――
「えい、何がおかしい?」
――いま、田島村の豪農の家の土間に立ちはだかっていた三人の芦名衆が、めざとくも、ひとりの若者の表情を見とがめてほえた。この家の息子らしい。――
「いえ、何も笑ったわけではござりませぬ」
「いいや、笑った。――うぬら、われらを嘲弄《ちようろう》しておるな。沢庵の衣の袖《そで》にかくれて、御領主をばかにしておるな」
ひとりが、満面を朱に染めて槍《やり》をとり直す。
「待て、五郎左」
べつのひとりがとめるよりはやく、
「いや、かようなことをくりかえしておっては、所詮、加藤家、芦名衆ともに土民から見下されるばかりだ。おれが責任をもつ。おれが腹を切ればよい。もはや、がまんの緒が切れたぞ!」
わめくと、その槍が横なぐりに――いろりに燃えていた薪まで巻きあげて走って、いきなりその息子の首をなぐりつけた。骨の折れる音がして、息子は土間にころがった。
悲鳴をあげて、うずくまっていた家人たちがむらがり立つ。――むこうの屏風《びようぶ》のかげにころがっていった薪が、ぼうと燃えついた。
火を見ると、
「――もはや、これまで」
と、あとの二人も覚悟したらしい。
「やるか?」
みるみる陣笠の下が凶相に変ると、
「芦名衆を愚弄した天罰を思い知れ」
「こうなったら、ひとりも逃がさぬ。みなごろしにしろ」
背後から、どっと炎が高い屋根裏まで燃えあがるのを見て、狂気のごとく家人が入口に逃げ出すのを、ぱっととびずさった三人の芦名衆は、入口をふさいで長槍をふりたて、突く、なぐる、たたき伏せる。
「鬼っ」
「外道っ」
狂気のように手ぢかにあった鋤鍬《すきくわ》などをとって抵抗してきた男衆もあったが、所詮は窮鼠《きゆうそ》だ。ましてや相手は音にきこえた芦名衆である。若い女房や、いたいけな幼児までふくめて十人以上もいたろうが、それがまるで陸《おか》にあげられた鰯《いわし》を目刺しにするように、一瞬のうちに虐殺されてしまった。
「あははははは」
「ひさしぶりに腹のつかえがおりた」
返り血と火の粉をあびて悪鬼さながらの姿になった三人の芦名衆は、顔じゅう口だらけにして哄笑《こうしよう》すると、もう炎々たる火の柱と化している家をふりかえりもせず、雪の往来に走り出した。
あちらこちらの家々から、百姓たちが飛び出してきたが、彼らの物すさまじい姿にすべてを悟って火を消すのも忘れて立ちすくむ。それを髭《ひげ》くいそらせて睨《ね》めまわし、三人はノッシ、ノッシとあるきながら話した。
「ところで、沢庵が娘をつれ出したのは、けさといったな。いまはまだ巳《み》の刻、それほど遠くいったわけではあるまい」
「行ったのは南か北か」
「北ならば、会津方面から来たおれたちと途中で会うはず、南だ」
「こうなれば、銅伯老の意向がどうあろうと、沢庵を斬るぞ。放っておけば、事態はわるくなるばかりだ」
「将軍の師僧が何ぞや。会津にとっては獅子《しし》身中の虫ではないか」
「斬ってから、三人、銅伯老に諌言《かんげん》を残して腹を切る。それで芦名一族に活が入ることになろう」
むちゃくちゃといえばむちゃくちゃだが、その覚悟は恐るべく、あっぱれといえばあっぱれでもある。三人はまなじりを決して、南へ疾風のごとく駆け出した。
村を南へ出れば、ゆくてはやがて山王峠《さんのうとうげ》を越えて下野《しもつけ》に入る。日光を通るので日光街道といい、参勤交代も、時によってはこの街道をとることもある。ただ、これに沿って、山王峠から流れ下ってくる川を、荒海川《あらかいがわ》というのはどういうわけか。
海には遠い雪の連山にかこまれ、平野もまた山気をたたえた雪の大地であった。
その白い野路を、南からやってくる五つの黒い影がある。網代笠を伏せ、墨染めの袖《そで》を風に吹かせて。
「……うむ!」
うめいて、三人の芦名衆は殺気にふくれあがって、雪のひとすじ路《みち》につっ立った。
その殺気はみえなくとも、横たえた長槍の血びかりは眼にみえるはずだ。それなのに、五人の雲水は、歩調をゆるめず、小走りに駆けてくる。
芦名衆のうち、二人が左右にわかれて、雪の野に踏みこんで、足場をつくった。あきらかに通せんぼうをする行動であり、さらにもはや三人が満身にあびた返り血が、まざまざと見える距離だ。
はじめて、先頭の雲水が立ちどまって、笠をあげた。
「これよ」
怒った口調でいう。
「あの火事は何じゃ。もしかしたら、おまえらの所業ではないか」
沢庵であった。やせた小柄な老体から、くゎっと見すえた眼光の恐ろしさに、さしもの三人が、ふと先刻の炎より熱いものが満面に吹きつけてきた思いがしたが、すぐにぐわっと歯をむき出してわめいた。
「おお、おれたちのしたことだ」
「案の定」
と、沢庵がうめいて、野末の果てに立ちのぼる黒煙をもういちど見て、
「して、家人は?」
「みな斬った!」
左右のふたりも、凶暴無比の哄笑を鳴りわたらせる。
「芦名衆の裏をかかんとしたむくいじゃ!」
「坊主っ、尼にした女を出せ!」
その声よりはやく、沢庵のうしろに立っていた網代笠の雲水が、沢庵をかきのけて前にまろび出そうとしていた。
「あっ、ではととさまも、かかさまも!」
あきらかに若い娘の悲痛なさけびであった。沢庵とともに、尼に化けていったんはのがれ出したものの、背後にあがった村の黒煙をみて、もしやと胸とどろかせてひき返してきたものらしい。
「あぶない!」
「おどき下されませ!」
さらにそのうしろから、ふたりの雲水が前にかけ出してきた。ぷつ! と紐《ひも》に手をかけて笠をはねのけると、袈裟頭巾の中の眼は女――さくらとお笛だ。仕込|杖《づえ》の柄に手をかけると、
「この人非人ども、わたしたちが成敗します」
「あっ、うぬらは!」
芦名衆は猛然とおどりあがった。彼らは、さくらとお笛を知っていた。ついに見つけた! という喜悦に六つの眼は火を吹かんばかり、それが三条の白光と化したかのように長槍をならべると、
「沢庵っ、うぬももはやゆるさぬぞ!」
「いま、この両人を串刺《くしざ》しにしてやるが、槍は一本あまっておる。そこの雪に尻《しり》でもついて待っておれ!」
と、吼《ほ》えた。
すでに血を吸った槍は、風を巻いて動こうとした。――
槍と刀がたたかうときに、刀術者にとって武器の短をおぎなうものは、その短を利した軽捷《けいしよう》な体さばきだけであるといってよい。
しかし、この場合、さくらとお笛に体さばきの自由はなかった。ひとすじの溝のような路をのぞいて、両側はふかい野の雪だからだ。……だいいち、たとえ周囲が広い野であったとしても、女を相手にして遅れをとるような槍ではない、と彼らは自負している。
「えやあっ」
三本の槍で、獣のような声とともに動こうとして――このとき、彼らは、突如として頭上をとぶ黒い魔鳥のような影を見た。――
それは、五人めの雲水であった。
いちばんうしろにいるその雲水のことは芦名衆も知らぬではなかったが、まず当面のさくら、お笛|乃至《ないし》沢庵のみに眼をそそいで、その雲水が妙なそぶりをしていることにまったく気がつかなかった。――彼はうしろをむいて、ふところからとり出した赤いものを顔につける作業にとりかかっていたのである。
くるっと彼がもとの姿勢にもどるのと、芦名衆の気合が雪原をつん裂いたのが同時であった。その雲水のからだは、フワと宙に浮いて――さくら、お笛、沢庵などはもとより、芦名衆の頭上をも越えて、黒い鳥のように彼らの背後に降り立ったのである。
「やあ!」
文字通り、芦名衆は仰天した。
殺気を一点に凝集して行動を起そうとしていた槍は、大きく空中を回転して、反対側にむきなおる。――むろん、大|狼狽《ろうばい》をまざまざと示して、槍と槍はぶつかり、人間は相ふれて、雪の中に三人はよろめいた。
むきなおったとき、ひとりはすでに唐竹割りになっていた。相手は彼らのすぐ手もとに立っていた。
「鬼畜ども」
叱咤《しつた》とともに残る二本の槍をはねのける。槍はそれぞれ、左右の雪にグサと突きこまれた。
「あっ」
はじめて、ふたりの芦名衆は相手が何者かを知った。網代笠は、はねのけていたが、その雲水の顔を覆っているのは、真紅の般若《はんにや》面であった。
「うぬか!」
同時にあげた絶叫が、この世で最後にもらした声となる。ザ、ザ、ザーッと雪の野に散りしぶく鮮血のなかに、ふたりの芦名衆は屍《かばね》を重ねていた。
「――かんがえてみると」
と、声が笑った。
「この面は要らぬことでござったな」
般若面をとってふところにいれ、柳生十兵衛は苦笑した。
「ところで、老師」
「あん?」
「こやつら、その娘御の家族をみな殺しにし、家に火をかけた様子。――敵がそこまで血迷ってきたとなると、何かこれを封じる手だてをせねばなりませぬな」
十兵衛は、仕込杖の三池典太をせっせと雪にこすりつけて血をぬぐいながら、じっと沢庵の顔を見あげた。
雪の若松城大手門をわたった濠《ほり》のふちに、獄門台がつくられて、首が三つならべられているのが発見されたのは、それから数日の後のことであった。
そばに高札まで立ててある。
「芦名衆三頭。
右の者、大魔王加藤明成の爪牙《そうが》となり、その邪淫《じやいん》のいけにえとして領内の美女を狩り、これにあらがう父母を毒刃す。その悪業天地に容《い》るべからず。向後、これにならってなお芦名衆にして凶暴をほしいままにする者あらば、民にかわって必ずかくのごとく天誅《てんちゆう》を加うべきものなり。
[#地付き]般若|侠《きよう》」
門番は仰天した。昨夜も雪が小止みなくふっていたため、こんなものを作る物音はおろか、人影すらも見なかったのである。
芦名衆がとび出して来、やがて彼らに三つの首を抱かせて、漆戸虹七郎と香炉銀四郎が芦名銅伯のもとに走った。
「……ついに、やったか?」
銅伯は動ぜず、三人の輩下の生首を見まもっていった。
「田島村あたりを徘徊《はいかい》しておったのは、沢庵本人であったらしい、それと承知で、こやつら手を出して、例の般若面に討たれたな。討たれたのはおのれの未熟ゆえ、いたしかたないが、沢庵と知ってあえて手を出したのは、おそらくおれへの面当てもあったろう。その志は銅伯ようわかる。こやつら、無駄には殺すまい。……沢庵め、いまに見ておれ」
うなずくと、身ぶるいするほど冷たい声であごをしゃくった。
「雪地獄からの、左様、五人ほどひきずり出して、首を刎《は》ねい」
「はっ、男を? 女を?」
「どうでもよい。ただ五人、そして、大手門前に梟首《きようしゆ》して、立札を立てい」
「は、どのような?」
「謀叛人《むほんにん》五頭。
右の者重代相恩の主君にそむき、御家に仇《あだ》なす曲者《くせもの》に通謀し、城内に引き入れんとす。その大逆天地に容るべからず。向後、なお曲者と内応し、不軌を謀《はか》らんとする者あらば、必ずかくのごとく誅戮《ちゆうりく》を加うべきものなり。……とでもかいておけ」
三人の美女、二人の美少年の生首が、大手門前の獄門台にならべられたのは、その翌朝のことであった。
雪のなかに、五つの首は、まざまざと殺害されるときのこの世のものならぬ大|苦患《くげん》を示し、美しいだけに凄惨《せいさん》をきわめた。
会津領西部沼沢沼のほとりのある村で、またも美女を求めて乱入した芦名衆七人が何者かに討たれ、
「芦名衆七頭」
と、しるされて、その首を七つ若松城下の獄門台にさらされたのは、それから十日ばかりのちのことだ。
しかるに、その翌朝、おなじ台上に、
「謀叛人十頭」
と、書かれて、美しい女の生首が十個梟首された。――
これが加藤家対沢庵の「冬の陣」であることを、どれだけの人間が知っていたか。知らずとも、身の毛もよだち、肌は粟立《あわだ》つ恐るべき首合戦であった。
北国の春にはまだ遠いが、書院の軒の樋《とい》を走る雪溶けの水音が、自然の鼓動のようにきこえる。――
「銅伯」
と、加藤明成はふるえる声でさけんだ。漆戸虹七郎と香炉銀四郎も凍りついたような顔だ。むしろ冬の気は、外よりも書院の中に酷烈なものがあった。
その前夜、さらに十三人の芦名衆の首が城外にさらされているのが発見されたのだが、これに対して銅伯が、雪地獄の十五人を斬れと命じたのである。
「それは、あまりに」
と、さしもの明成がうめいたのは、ここ十数日、まさに会津を屍山《しざん》血河とかえんばかりの首合戦にたまりかねたとみえる。
「雪地獄のものどもを、大事につかえ、と仰せられたのは父上ではありませぬか」
と、おゆらも辟易《へきえき》の気味である。
「こちらがたえかねるか、むこうがたえかねるか、ここが辛抱の正念場でござる」
銅伯はしずかにいった。明成がいう。
「むこうがたえかねるか――と申して、雪地獄のものをいくら斬ったとて、むこうは痛くもかゆくもあるまいが」
「あいや、左様ではござりませぬ。沢庵は沙門《しやもん》でござる。おのれの手にかけたにひとしい芦名衆の返礼に、罪なき娘や少年が屍の山をつんでゆくのをみては、僧ならば動揺せずにはおられぬはずでござる」
「動揺して――芦名衆に手を出さぬようになると申すか」
「手を出さぬようになっても、もう遅い。銅伯はなお雪地獄の娘どもを斬ってゆく所存でござる――沢庵が降服を申しこんでくるまでは」
銅伯は鉄の車輪をきしらせるような声でいった。
「討たれた芦名衆は、すでに四十数名。彼らとて相当のものどもでござるに、まるで大根か人参のように斬り捨ててゆくあの般若面こそ恐るべし――この虹七郎とて、万全とは申せぬもののあるをおぼえる」
「ば、ばかな!」
と漆戸虹七郎は身をゆすった。
「きゃつと手合せいたしたくとも、銅伯さまが拙者を禁足なされておられるではありませぬか!」
「左様、おまえは城から出てはならぬ。みすみす敵の罠《わな》におちてはならぬ」
「御老人、おじけづかれたな」
「万全の策をとるのだ――そのためには、沢庵を虜《とりこ》として、般若面を金縛りにするのだ」
と、銅伯は微笑した。
「沢庵は、たえきれぬようになる。のみならず、こうして城内の娘や少年たちが斬られるのをみては、斬られた奴らの父母が、かならず沢庵めらを恨むようになる。斬られぬ奴らの親も、じっとしてはいられぬようになる。やがては沢庵一味が三界に隠れ家を失って、いまにみておれ、きっと降服を申しこんでくるぞ」
凄《すさま》じい眼で明成を見すえて、
「殿、事ここに及んでは、断固、ねじ伏せ、おしつぶすことこそ、お家を救う唯一の道でござる。銀四郎、十五人の首を刎《は》ねい!」
[#改ページ]
沢庵《たくあん》手鞠唄
土蔵の腰までまだ雪が埋めているが、ここもまた屋根から下がったつららから、たえまなく銀いろの滴《しずく》が糸をひいている。――
「老師」
と、柳生《やぎゆう》十兵衛は愕然《がくぜん》としてさけんだ。まわりに坐《すわ》った七人の堀の女たち、おとね、五人の僧も、はっとしたように沢庵の顔をふりあおいでいた。
若松の南郊|門田《もんでん》村の豪農の蔵であった。この家の娘もまた城につれ去られた。沢庵らがここにかくまわれたのは、この正月以来のことだが、城の天守閣はすぐそこにそびえるのに、芦名《あしな》衆はまだかぎつけていない。雲水のむれがあまりに神出鬼没なので奔命につかれているせいもあるが、この蔵への出入が意表に出ているせいもある。
蔵の屋根からおとした雪が、すぐそばの塀をうずめているのだが、外部から塀をつらぬいて雪洞がくりぬかれ、雪洞の外はいつも雪のかたまりを重ねて覆ってあるからだ。
昨夜、外に出ていた弟子僧のひとり雲林坊が、城の濠端《ほりばた》に、十五人の娘と少年の首がかけられていたことを報告した。けさ、戻ってきたやはり弟子僧の嘯竹《しようちく》坊が、芦名衆が十人あまり、北の塩川村へ急行していったが、また女狩りの用らしい、と報告した。
躍然として、十兵衛は起《た》とうとした。
会津《あいづ》に入って以来、十兵衛の愛刀三池典太が、すでに何十人の芦名衆の血を吸ったことか。もとより悪鬼の獄卒にひとしい奴らに天誅《てんちゆう》を加える破邪の剣ではあるが、それ以上に、江戸ではとうていかなえられなかった剣法の実技にみずから陶酔しているようで、実は沢庵は、そのために十兵衛をつれてきたにもかかわらず、内心少々うす気味わるくも感じている。――
とはいえ、もとより十兵衛を制止するいわれはない。みすみす魔王のいけにえになることがわかっている娘たちを、見殺しにはできない。
あわれ、仏陀《ぶつだ》も、この独眼の剣侠児の大殺生を、こんどばかりはゆるしたまわるであろう。
そう思って、十兵衛の快剣と、さらには大手門外の芦名衆の梟首という発案を黙認してきたのだが――いま、勇躍して女狩りの芦名衆を追おうとする彼を、ふと何やら心に決したことがあるらしく、つよくとめたのであった。
「老師、なぜおとめなさる」
「十兵衛、いかぬ」
「見のがせば、またひとりの娘が、無残のいけにえとなりまする」
「そのひとりを救おうとして、おまえがまた十人の芦名衆を斬れば、こんどは二十人の罪なき娘たちや少年たちが斬られよう」
「されば、と申して――」
「もはや、わしにそれはたえられぬ」
沢庵は弱々しくくびをふった。
「芦名衆の首をさらして敵を封じようというおまえの兵法は、さても恐ろしい反撃をくったものよの。芦名銅伯、ここまでやるとは思わなんだ!」
「…………」
「すでに城中にとらえられておる娘たちは、いわばわしたちとは無縁のもの――いかに悪人なればとて、人間ならば、わしたちにしッぺ返しをするのにその娘たちを斬ってゆくなど、非理破天の知恵は出ぬものじゃが」
さしもの沢庵が、ああ、と胸のおくそこから嘆声をもらした。
「人間を相手にしておるのではない、と覚悟はしておったがのう……」
「老師、弱気を出されてはなりませぬ」
十兵衛は沈痛ながら、はげしい声で言う。
「そこが敵の狙いでござる。われらの殺生は降魔の利剣、きゃつらの大殺戮《だいさつりく》は悪鬼の所業、天の眼も、その分別はして見ておわそうが。……いや、天のみならず、民もまた見ております。非道に殺された娘たちの親の恨みはいかばかりか。その涙だけでも、いまにあの若松城の石垣を洗い崩しましょう」
「殺された娘の親たちは、わしらが要らざることをしたばかりに、と、わしどもを恨んではおるまいか?……また、いまだ殺されぬ娘の親たちは、夜々もねむらずもだえておるのではあるまいか? 十兵衛、おまえは、わしたちをかくまってくれておる当家の主人が、この頃わしたちを見る苦しげな眼に気がついておらぬか」
沢庵は両手をもみねじった。
「いや、そんなことより、十兵衛、わしはもう耐えきれぬのだ。もとより、娘たちを悪魔のいけにえから救い出そうと願ってやり出したことではある。しかし、こと志とちがって、このように罪なき娘が非業の死をとげてゆくのをみては、もはや手をひくよりほかはない」
「手をひけば……芦名衆の奴ら、いよいよ大っぴらに女たちを狩りたてますぞ」
「さればよ。……わしが城に入って、それだけはやめさせよう」
「ば、ばかな!」
と、十兵衛はさけんだ。
「それは、老師、敵のまえに身を投げ出して――降伏するということではありませぬか」
「おお、よろこんで沢庵は降伏しようとも。娘たちが助かることならば」
「娘たちが助かるという保証はござらぬ。いまあなたさまが、人間ではない、と申されたばかりの敵でござる。恐れながら沢庵さま、それは敵の暴虐に意気がくじけなされたと申そうか、血迷われたと申そうか――」
「たわけ、相手をみてものをいえ」
沢庵は一喝した。
「おまえのおやじ但馬守《たじまのかみ》を、手に手をとって教えた沢庵であるぞ」
十兵衛は、まさに祖父に叱《しか》られた孫のように首をちぢめた――しかし、それは心術のことであって、剣法のことではあるまいと腹の底でかんがえる。
「降伏とみせかけて、敵の裏をかくという手もある。この老人にぬかりがあるものかよ」
ニコリと笑った。
「わしが城に入ることは、敵にとって腹中に石ころが入ったようなものじゃ。まずかんがえられることは、いかな明成、銅伯とて、まさかわしの眼のまえで、これ以上、見さかいのない殺生はできまい。また、これ以上、傍若無人な女狩りはできまい。いや、わしがそうはさせぬ」
「…………」
「さらに、十兵衛よ」
沢庵は、また破顔した。
「いかなおまえでも、四十万石のあの城に斬りこむ勇気はあるまいが」
「いや、事と次第ではやってみてもよろしいが、しかし私ひとりが乗りこんでもせんないことで」
と、十兵衛はにが笑いをうかべて七人の女を横眼でみる。お笛がまけない表情で何かいおうとしたとき、沢庵がまた言った。
「いくらなんでも、おまえや、そこにおる七人の女が、なんの成算もなく城に入ったとて、待つは死あるのみじゃ。で、何とかして七本槍の残りふたりをおびき出そうと、いろいろともんではみたが、一眼房《いちがんぼう》で懲《こ》りたとみえて、さすがにあの両人、城外へ出ぬ。それをじゃ、わしが城に入って、ひとつ何とか工夫してみようぞい」
「老師は、大丈夫でござろうか」
「ああ、わしは大丈夫。いかになんでも、わしに直接手は下せまい」
沢庵は、ひどく楽天的な顔つきをしていた。逆に十兵衛は深刻な表情になって、
「いや、それも承《う》け合えぬ。相手が相手です。……一服盛って、急病と公儀に届け出る手もござる」
「拙僧どもがお供して、かならず老師を護《まも》ります」
弟子僧のうちの心華坊が、従容としていった。沢庵はくびをふった。
「いや、それはならぬ。城にはわしひとりで入ろうよ」
「あいや、それは」
「実はの、おまえたちには、ほかに頼みがあるのじゃ」
「ほかに、何を?」
「……あの、芦名銅伯と申す老人。……奇怪な奴」
と、沢庵はうす暗い土蔵の壁に眼をあげて、べつのことをつぶやいた。
「いつかもいったように、きゃつ勢至峠で、たしかに胸を刺しおった。心ノ臓に、刀の鍔《つば》までさしおった。……それが、そこの十乗坊がたしかにみたように、ヌケヌケと馬にゆられて城にもどって来おった。きゃつ、不死身ともいうべき奇態なからだをもっておるとしかかんがえられぬ。わしが城に入るというのは、そのことをつきとめたいこともある」
「それは……何かのお見誤りではありませんか」
と、十兵衛はいったが、この話を聞くごとに、背すじに何やらヌラッと妖気《ようき》が這《は》うのを禁じ得ない。
「沢庵はそこまでもうろくはしておらぬ。何せ、年あけて百八歳になるという怪物、超自然の術を体得しておってもふしぎではない」
「百八歳」
「と、申すのも、江戸におわす天海僧正が当年百八歳、その僧正と芦名銅伯がそっくり瓜二《うりふた》つだからじゃ」
沢庵は、不審にたえぬもののごとく、くびをかたむけて、
「それについて思い出すのは、奥州《おうしゆう》街道で南光坊どのと明成の行列がゆき違うた折、僧正が――帰って、銅伯に告げよ、悪業はきこえておる。悪はついに天に勝たず、なんじは芦名一族を滅ぼす気か、と兵太郎が申したと告げよ――と仰せられたあのお言葉」
記憶を反芻《はんすう》するようなまなざしで、
「いまにして知る、天海僧正は、芦名一族、しかも芦名銅伯とはもっとも血のちかい御出生の方ではあるまいか?」
と、うなずいて、眼を七人の女の方にもどした。
「それをたしかめたい。銅伯の秘密を知りたい。……そこで、このうちだれか江戸に走って、僧正におうかがいしてきてもらいたいのじゃ。じかに、容易にはお逢《あ》いなされぬかもしれぬ。されば、いちど天樹院さまにおすがりし、天樹院さまを通して僧正にきくがよかろう。その秘密を知ることが、あるいは銅伯を討つ鍵《かぎ》となるかもしれぬ大事の用であるぞ。……お千絵《ちえ》、お笛」
お千絵とお笛が顔をあげた。
「おまえら両人、江戸へゆけ」
「はい!……けれど、こちらの敵を捨てて?」
と、お笛が、やや心残りな顔をする。
「大御所さまの御遺命により建立せられた東叡山《とうえいざん》寛永寺の開基南光坊天海僧正そのひとの大秘密を、僧正御自身の口より承わろうとするのであるぞ。いまや堀一族の頭たるお千絵をのぞいて、だれにこの用を果たせるものがあるか」
ふたりの娘は、はっと手をつかえた。
「とはいえ、往還百二十里、はるばると来た会津から江戸にかえり、またはせもどるのじゃ。あまっさえ、この北国の雪の中、さらに、こんどは入った鼠を外に出すまいと、芦名衆の追撃あるは必定。なかなか容易な旅ではない」
沢庵はようやく五人の弟子僧を見やって、
「そこで、おまえらに、このふたりの娘の守護をたのみたいのじゃ」
僧たちは顔を見合わせ快然と笑った。口々にいう。
「相わかりました」
「心得てござる」
「われらが守護するは、金剛力士に守護されたも同様」
何をもってこんな大口がたたけるのか。剣法のけの字も知らぬはずの禅坊主たちであった。
不安な眼で、沢庵を見、洒落《しやれ》な坊さまたちをながめて、十兵衛がいった。
「で、拙者は?」
「おまえには、また別の用がある。いままでに事前に救い出した領内の娘たち、もはや三、四十人にも上ろうか、あれを守って、この会津から上《かみ》ノ山《やま》まで避難させてくれい」
その娘たちは雲水姿として、領内のあちこちの――無数にある同情者の中からえらんで、ひそかにかくまってあるのであった。
「虎狼《ころう》の口から羊群をのがす。その牧者たるもの、また難役であるぞ」
雪に埋められた蔵の中は参謀本部で、沢庵は老軍司令官というところか。そこで彼の指揮はつづく。――
「敵が玉石ともに焚《た》くという思いきった陣法に出てきたうえは、もはや女どもを雲水として徘徊《はいかい》させておることは危険であると見なければならぬ。こうなれば、かえって足手まといのおそれがある。といって、せっかく救った娘たち、そのことごとくをひとまず安穏の地へ避難させておくことが、敵の鼻をあかすことにもなり、こちらにとって身軽になるというもの。――十兵衛、わかったか」
「和尚さま、わたくしたちは?」
と、お圭がきく。
「左様さ。おまえたちには時いたるまで――というのは、わしが城中から、よしと合図するまでのことじゃが――ここにひそんでおるか、あるいは十兵衛と行を共にして、女たちの移動を手助けするか、そこは十兵衛とよくはかってくれい。何にしても、おまえらこそ、こちらのいちばん大事な旗じるし。いのちをおのれのいのちと思わず、よくよく心してうごいてくれねばならぬぞ」
「老師、城から合図するまで――と申されて、それはいかようにして」
と、十兵衛がきく。ちょっと思案している沢庵に、
「わたしが城へお供してはいけないでしょうか」
と、おとねがいった。
「さっき十兵衛さまが、敵が老師に一服盛って――と仰せられました。わたしがたえず沢庵さまのお身回りに侍《はべ》って、毒味をいたします。お申しつけ通り、使い走りの役をいたしとう存じます」
「しかし、そなたは明成のために――」
「身を汚されて、もはや死んだも同様の女でござります。いまさら、何が起ってもびっくりはいたしませぬ。ただ明成への恨みを果たすよすがとなることならば、とねは何なりと」
おとねは凄絶《せいぜつ》に微笑んだ。
かつて奥州街道で沢庵のために救われて、そのまま古河《こが》の本陣へかえることをすすめられたのに、泣いて沢庵に同行をたのみ、じぶんを人間とは思わぬ方法で辱しめた加藤明成への復讐《ふくしゆう》のために、堀の女たちの悲願に加わっている娘である。しかし、女のからだこそ妖《あや》しい花だ。明成への恨みのために生きているといっていい女なのに、その明成のために蕾《つぼみ》をおしくだかれて、かつての可憐《かれん》な田舎娘の外貌《がいぼう》は消え、何やら妖艶《ようえん》の香を放っているおとねであった。
「外との連絡――それも大役じゃ。では、それはとねに頼もうか」
と、やおら沢庵はうなずいた。
戦闘部隊の配備は終わった。
高い土蔵の窓の金網を通して、軒の雪溶け水がキラキラとしぶいているのが見える。――沢庵は、ユルリと腰をあげた。
「北へゆくもの、南へゆくもの、しばらく待て。はじめにわしが三日ばかり、敵をからかって、出来るだけ芦名衆を城へ集めてやろうぞ。――まず、わしから陽動してみよう」
「一つとや
ひとつ目坊主の一眼房
一眼房
橋からおちて三途川《さんずがわ》
三途川」
大手門の方は、きょうも三つの女の首がさらされて寄りつく人間もないが、濠に廊下橋のかかっている城の東側の空地には、子供たちがむれていた。
雪はまだ溶けるにははやいが、このあたりはかきのけられて、ところどころ出た黒い土からは、心なしかかげろうが立ちのぼりはじめたようにみえる。そこで、十数人の町の子供たちが、ほがらかに唄《うた》をうたいながら、美しい絹糸でかがった手鞠《てまり》をついているのも、春を呼ぶ風物詩にみえた。
「二つとや
不忠の鬼にまもられて
まもられて
枕がたかいか、ばか大名
ばか大名」
はじめ、ただの手鞠唄だと、その愛らしい節回しだけにききほれていた門番たちは、そのうち子供たちの声の意味をききわけて、ぎょっとした。――見ると、子供たちの中心には、ひとりの坊さまが黒い衣をひるがえして、これまた唄いながら、熱心に鞠をついている。
「三つとや
三つの犬に芸させて
芸させて
江戸の土産に何もろた
何もろた」
注進によってかけつけてきた漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》と香炉《こうろ》銀四郎は、廊下橋を渡ったところで遠い空地の風景をながめ、「ウーム」といったきり絶句した。ながれてくる唄声は、あきらかに江戸で討たれた具足丈之進《ぐそくじようのしん》のことを意味している。しかし、彼らを立ちすくませたのは、愉しげに鞠とたわむれている老僧の姿であった。
「四つとや
吉原《よしわら》雀のいうことにゃ
いうことにゃ
とんだ買物、ひげ人形
ひげ人形」
京人形の箱につめられて帰ってきた大道寺鉄斎の屍骸《しがい》のことだ。――ふたりは、さけんだ。
「――沢庵め!」
いかにも沢庵だ。子供たちが心やすげに「沢庵さん、沢庵さん」と呼び争っている声がきこえる。――沢庵は、例の網代笠《あじろがさ》に袈裟頭巾《けさずきん》という姿ではなかった。まだ冷たい風につるつるの頭を吹かせ、足には草履をはいて、飄々《ひようひよう》として鞠をついているのであった。
「霞《かすみ》たつながき春日に子供らと手鞠つきつつこの日くらしつ」――と詠んだ大愚良寛が、となりの越後《えちご》の国に出たのは、むろんずっと後年のことだが、彼らの眼にも、子供らとあそぶ老僧の姿は、なんの邪心もない童話風の光景としか見えない。
しかし、その唄の文句の恐ろしいこと。
虹七郎と銀四郎の報告によって、これまた廊下橋まで出てきた明成と銅伯は、しばしじっと、遠い沢庵の姿をながめていたが、やがて銅伯がつぶやいた。
「……ついに、沢庵め、あらわれたな」
「……何の成心あってのことか?」
「まだわかりませぬ。……念のため、芦名衆を呼びあつめ、城の警戒をいっそう厳重にかためるが肝要と存ずる」
あくる日も、沢庵は子供たちと鞠をつき、唄をうたっていた。
「五つとや
伊予《いよ》の家来はつろござる
つろござる
殿さまいさめりゃ首になる
首になる」
むろん、伊予から従ってきた譜代《ふだい》の家臣たち――堀一族のことだ。しかし、教えられた子供たちは、その意味をまったく知るまい。
可憐なのどをそろえ、声をはりあげて。――
「六つとや
娘狩りたて雪地獄
雪地獄
親の涙で溶かしたや
溶かしたや」
明成は身ぶるいし、歯ぎしりをした。
「老いぼれめ、余が城門の外で、胆《きも》ふとくも余を嘲弄《ちようろう》せんとするか。銅伯、あの唄を、何とかならぬか?」
「いま、しばし御辛抱を――きゃつの様子を見てののち」
銅伯は深沈たる眼をそそいだままだ。
ついに沢庵は、こちらの荒兵法にまけて、心屈して、ヒョコヒョコとさまよい出てきたのではないか――とは思うが、相手が相手だけに、うかつに手が出せないのだ。かりにも将軍の師僧である。
唄声はながれる。――
「七つとや
七つの槍《やり》のほまれとは
ほまれとは
昔がたりかいま鬼か
いま鬼か」
虹七郎と銀四郎が銅伯の袖《そで》をつかんだ。
「あの唄を、まだだまってきけと仰せなさるか、銅伯さま」
「待て待て、いましばらく待て」
あの凄《すさま》じいとも何とも形容を絶する反撃をくわせた芦名銅伯が、いざ本能寺の敵が出現したいま、古沼のごとく沈んで慎重をきわめている。
それにしても、城門の外でこのような嘲歌をうたい、城内できき――いや、会津に入ってきた去年の秋以来、世にも恐るべき死闘をつづけながら、面とむかって相対すると、たがいに何くわぬ顔をしていなければならぬとは、何という奇怪な敵味方の縁か。
唄声はいよいよほがらかに、
「八つとや
槍の孫兵衛、槍のさび
槍のさび
おかげで孫六、名もさびた
名もさびた」
孫六とは、明成の父、賤《しず》ケ岳《たけ》七本槍の加藤|左馬助嘉明《さまのすけよしあき》のことであった。
三日めの午後であった。芦名銅伯は、猪苗代湖畔《いなわしろこはん》に配置してあった芦名衆のひとりが、鞭《むち》をあげて馳《は》せ来って報告した内容をきいて、はっしと膝《ひざ》をうった。
「沢庵め、左様なことをたくらんでおったか!」
沢庵、何をたくらむか――と大事をとり、領内に散らしてあった芦名衆の大半は城にひきあげさせてあった。彼と明成にとって、いまや頼みとするのは伊予譜代の家臣団ではない。銅伯子飼いの芦名衆だけであったから、この処置は当然ともいえた。
それでも、若干はのこしてあった芦名衆からその報告をきいて、沢庵がたくらんだのは、まさに芦名衆の大半をこの城にひきつけることであったことを、はじめて銅伯は知ったのである。
「……よし!」
電光のごとく事後処置を命じて伝騎を追い返すと、銅伯は起った。
「そのつもりなら、沢庵をとらえてやる。きゃつだけは、のがしはせぬ」
そして彼は、明成のところへいそぎ参上して、明成がすぐに大手門から出て、濠端《ほりばた》を回り、きょうもそこで遊んでいる沢庵をみずからいざなってくることを進言したのである。
「沢庵め、くるか」
「されば、殿の御出馬を願うのです。城のすぐそばで三日も遊んでおって、四十万石の太守みずからお出ましなされておすすめとあっては、いかな沢庵も断われますまい」
「しかし、きゃつ、ひとすじ縄ではゆかぬおいぼれ」
「抵抗すれば、手とり足とりかつぎあげても城に運び入れるときが参ったようでござる。しかし、存外沢庵はこちらの迎えを待っておるのではないかとも考えられます」
「――報告によれば、雲水のむれが大挙して領外に移動を開始したと申すが、その中に堀の女どもがまじっておるのか、きゃつらのみはまだ残っておるのであろうか」
「いまの急使のみにては、まだそのあたりが分明いたしませぬが……ともあれ、このたびのこと、結局銅伯の策があたったものと存ずる。敵のうごきのすべて、領内にいたたまれなくなってはね出してきたに相違ござらぬ。思うに沢庵、この数日来城外に大っぴらに姿をあらわし、物欲しげにうろついておるは、おのれ一身に警戒の眼をひきつけて女どもを逃し、或いは逃すとみせて何やらまた機略を弄《ろう》さんとするものと見受けますが、事によると左様な疑心暗鬼は無用にて、全面的な降服の意思表示かもしれませぬ。いずれにせよ、あの姿をみると、虜《とりこ》となるは覚悟の上のように思われて参った。すべては、捕えてみればわかること」
「しかし、銅伯、沢庵を虜とするは、かねてからのおまえの思案ではあったが、あれを城に入れてかえって面倒なことにはならぬか。獅子《しし》身中の虫となるおそれはないか?」
「もとより沢庵め、城に入っておとなしゅうはしておりますまい――当人はそのつもりでござろう」
銅伯はぶきみな笑い顔をつくった。
「それも承知。きゃつに勝手なことをさせる銅伯ではありませぬ」
もとより銅伯は、明成にとって魔術的な力をもった大軍師だ。
「そこまで申すなら、よいわ、余が彼を曳《ひ》いて参ろう」
急遽《きゆうきよ》、供回りをあつめて、小規模ながら行列の態《てい》をととのえて、大手門から出る。濠に沿って東に回って、廊下橋の方へ進む。
将軍の師僧を迎えようと――その実捕えようとすると、何とも手のかかることだ。
きょうも沢庵は、城内のさわぎはどこ吹く風と、子供たちと手鞠をついて唄っていた。
「九つとや
こぶしの鷲《わし》ノ巣《す》、足がない
足がない
手もない仏であの世ゆき
あの世ゆき」
明成の行列は、さも遠出から帰城してきたようにちかづいた。それとみて、子供たちは、「沢庵さん、沢庵さん、殿さまの行列だよ」とあわてて呼んだが、沢庵は夢中といった態で鞠をついている。――どういうものか、きょうは子供でない遊び相手がまじっている。町娘風の美しい女が、たもとをおさえて、おなじように五色の鞠をついているのであった。
小人数とはいえ、槍の穂は冬の日に幾すじかの冷光をはなって、ついに子供たちは逃げ散ってしまった。
行列はとまった。駕篭《かご》の戸があけられた。それでも沢庵は娘とふたりで鞠をつき、にわとりみたいに皺《しわ》だらけのくびをのばして唄っている――
「十とや
東慶尼寺、何万石
何万石
四十万石つぶしたなら五十万石
五十万石」
蒼白《そうはく》な顔をひきつらせ、こわばった笑いを作り出して、明成は呼びかけた。
「和尚」
沢庵は鞠をつきながら、ふりむいた。
「やあ、その後は」
と、笑った。澄みきった眼がなつかしげな笑いをうかべて、その心に塵《ちり》ほどの屈託があるとも思えない。
「勢至峠で、一別以来」
「上ノ山にゆかれるというお話でござったが――」
「ああ、そのつもりでおったがな。あまり御所領の秋が気に入って、つい見とれて道草をくうておるうち、つい冬になり、年を越し――この雪では山越えも出来ぬようになって、当国の御厄介になっております。これはあの節、そんなことになるかもしれぬとお願い申しておいたはずじゃが」
淡々たる言葉はさておき、四十万石の大名を眼前にして、なお鞠をつくのをやめない。けしからぬことに、娘もまた向うむきになって、鞠をつきつづけている。
「いや、会津御滞在は当藩の光栄。……あの折のお言葉により、お気のままが好きと推量いたし、わざとおかまいもいたさなんだが」
「何々、いろいろと御世話になり、沢庵実に恐縮しておる」
「ともあれ、御健在の御様子をそれとなく承わり、明成祝着に存じておりましたが」
せいいっぱいの皮肉をいったつもりだが、明成は唇のふるうのを禁じ得ない。
「いや、当国を行脚して、人心の良好なのに感服いたした」
沢庵には、とんと明成の皮肉が通じた様子はない。
「とくに、女人がの。仏への帰依あつく、尼になりたいものが雲のごとく多い。御仁政のたまものであろう。沢庵、彼女らの仏心捨てがたく、やがて江戸に東海総持禅寺という尼寺を建立するつもりじゃが、そのまえに出羽の上ノ山、かつてわしの住んでおった草庵のあとに、別院を設け、さきに送った将軍家の御|中臈《ちゆうろう》とともに、しばらく修行いたさせたい」
ニコニコと笑っている。まだ鞠をついている。
「やがて式部《しきぶ》少輔《しよう》どのにも尼寺建立の御喜捨をおねがいするつもりであるが、さしあたっては尼僧志願の女たちの旅、何かと便宜をはかって下されや。沢庵、よくよくお頼み申す」
明成は絶句したきり、とっさに返答も出なかったが、やがてからくも身を立てなおしていった。
「それはそうと、禅師、せっかく当城の門外までのおいで。いっそしばらく御滞城下されませぬか。ここでお姿をお見かけしてなお知らぬ顔をしていたとあっては、明成、上様に対しても顔を失いまする。是非とも御|来駕《らいが》をたまわりとう存ずるが」
すると、沢庵ははじめて鞠をつくのをやめて、拍子ぬけするほどあっさりとうなずいた。
「いや、かたじけない。では、御厄介になろうかの。……これ、おとね、いままで宿さがしにいかい苦労をしたが、今夜からもうその心配はないぞ。ここの殿様が宿を貸そうと仰せなさる」
「――おとね?」
明成は奇声を発した。
向うむきになって鞠をついていた娘が、鞠を手にのせたまま、こちらをむいて、かがやく眼で明成をじっと見つめた。
「これ、おとね、左様にまじまじと顔に穴のあくほど見つめんで、殿様に御|挨拶《あいさつ》せぬか。勢至峠で判明したように、これは、よう似てはおるが、おまえを汚した人面獣心のにせ大名ではない。正真正銘の城主加藤式部少輔どのでおわす」
そして、笑いながら明成にいった。
「気ちがい娘ゆえ、ゆるされいよ。実はさる悪党に狼藉《ろうぜき》を受けて以来、ふびんや気がふれておるので、そのうち沢庵がまじないをかけて癒《いや》してやり、尼にでもしてやろうと側ちかく召しつかっておるが、さて、どういうものか、この気ちがい娘が、この七十二の沢庵にひどく恋着いたしての。どうしてもわしにくっついて、離れようともせぬ。――」
明成はまたも言葉を失って、ただ唇をふるわせただけである。
思えば、何たる虚々実々のかけひきか。
会津に入れば、袋の鼠と思いきや、女身を墨染めの衣につつみ、他に女雲水の大群を作り出して、捜索する芦名衆を昏迷《こんめい》におとし入れた一方の奇策。
これに対し、無縁の美女、美少年の大|殺戮《さつりく》によって、その後盾たる沢庵の神経を震撼《しんかん》させて、彼を屈せしめようとはかった一方の兵法。
まさに沢庵は、この非道無残の作戦に屈して、ついに正面に姿をあらわし、あえて敵中に身を投ぜんとしているが、彼もさるもの、ころんでもただでは起きぬとばかり、その裏では、おのれの救い出した娘たちを、大挙して他領に逃がそうとし、彼自身も何か胸に一物を抱いて、城に乗り込もうとしているようだ。
「殿、お帰りーっ」
凛烈《りんれつ》たるさけびが走ったあと、加藤明成の行列は、若松城の廊下橋をわたってゆく。明成は将軍家師僧に礼をつくして、駕篭からおりて、蒼《あお》ずんだ顔色で歩をはこぶ。何やら殺気みなぎる行列の中で、ひときわ異彩をはなっているのは、まだ手鞠をもてあそんでいる老僧沢庵と、狂女と称する美しい町娘だ。
殺気は、帰ってきた行列のみならず、城そのものに名状しがたい妖雲《よううん》をはらんで待っているようであった。
「銅伯」
と、橋の途中で明成は立ちどまった。
「これは、いつぞやそなたも御|面晤《めんご》を得た東海寺の宗彭《そうほう》沢庵禅師じゃ、はからずもそこでお見かけいたし、おつれして参った。当分御滞城に相なるぞ」
平伏していた銅伯と、漆戸虹七郎、香炉銀四郎がしずかに顔をあげた。やおら銅伯が何やらいおうとするまえに、沢庵がすっとんきょうな声をはりあげて、
「やあ、御老人、その後|冥土《めいど》からおかえりか」
といった。銅伯は狼狽《ろうばい》もせずにこたえる。
「されば、いささか死なれぬわけがござって」
「それは重畳」
と、沢庵もまたえたいのしれぬ挨拶をかえす。
そのままゆきすぎる明成のうしろに沢庵はついて歩いていったが、ふいに五、六歩、ヒョコヒョコと立ちもどってきて、
「銅伯老」
と、しゃがみこんだ。なれなれしく銅伯の耳に口をよせ、何をささやくかと思ったら、
「負けたよ」
ニヤリと笑って、そのままスタスタと明成のあとへひきかえしていった。
見送った芦名銅伯の表情こそ見ものであった。暗灰色の顔色になって、じっと沢庵のひょうげたうしろ姿に凄《すさま》じい目をなげて、
「……人をくった坊主め」
と、つぶやいたが、やがてこれもニヤリと笑った。
「沢庵め、何をたくらんでおるかしらぬが、その手はくわぬぞ。不死の芦名銅伯がそばにおるのだ。銅伯の幻法『夢山彦』にかけられて、あとでほえ面かくなよ。……いまに見ておれ」
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南船北馬
まっしろな天地を渡ってゆく鴉《からす》の大群。
鴉がときに何千羽という大群をなして移動する景観は、この地方ではよく見られ、俗に「霜鴉」と呼んでいるが、それは晩夏から秋にかけての現象で、いまはその季節ではない。
いまは雪に埋められた白一色の季節だが、その中をゆく墨染めの雲水の大群は、まったく会津を飛び去る鴉のむれとしか思われなかった。
左には磐梯山《ばんだいさん》が灰色の空にそそりたっている。右には猪苗代湖《いなわしろこ》が渺茫《びようぼう》とひろがっている。湖もところどころ凍って、流氷の上には雪がつもっている。そのあいだの、湖畔の雪路《ゆきみち》を、東へ、東へと雲水のキャラバンは移動してゆくのであった。
ただ彼らは、数本の旗をひるがえしていた。長い竹竿《たけざお》にむすばれた旗には、こんな文字がかいてあった。文句はそれぞれちがう。
「是《これ》は江戸東海総持禅寺の尼僧なり。沢庵《たくあん》」
「男子禁制は将軍公許の寺法なり。沢庵」
「男子たるもの一指をも触るることなかれ。沢庵」
向戸の江――藤の本坂――長浜――蟹沢《かにさわ》――と、猪苗代湖北岸につらなる街道沿いの集落からは、むろんいたるところ百姓たちがとび出す。
しかし、この異様な大群に彼らが眼をまるくするのはほんのしばしのことで、すぐに彼らは、
「あれだな」
「あれだ」
「沢庵さまが逃がそうとしていなさるのじゃ」
「逃げた方がいい。会津におれば命はない」
「お浜坊もおるというぞ。西久保のお桑坊も――」
「それ、雪をかいて道をあけろ」
「あけたらまた雪をかいて道をふさげ」
「次の村へもこのことを知らせに、だれか走れやい」
ささやき合って、鋤鍬《すきくわ》とって、そのとおりの大活動をはじめるのであった。
むろん、この街道に点在するのは、百姓ばかりではない。村役人もいるし――ところどころ、全身から発する野性だけでもそれと知られる陣笠《じんがさ》の芦名《あしな》衆も、いたるところ、二人、三人、あるいは七、八人と長槍《ながやり》をたてて、この光景をながめている。
彼らは、苦虫をかみつぶしたような、おちつかない表情をしているが、しかし手が出せない。もとより雲水のひるがえす数条の旗に金縛りになっているのだが、それよりこの大移動があまり大っぴらで、大袈裟《おおげさ》なので、どぎもをぬかれているのであった。
加藤家が奉公を命じた領内の美女が、こちらの出向う直前に尼になり、いずれかに身をかくしてしまう。そのことがわかっても、彼女たちは将軍師僧の沢庵の署名の身分状をもっているし、それをあえて処分せよとの命令は、まだ主君|乃至《ないし》首領銅伯から受領してはいないのだ。そうこうするうち、尼僧たちはふっとみな姿を見せなくなってしまった。
それが、いま大挙してあらわれた。いままでどこにひそんでいたのか、この雪の大地に忽然《こつぜん》と湧《わ》き出してきたのがふしぎなほど、黒衣の姿をいっせいにあらわした。
この尼僧群の大移動が、何に原因し、何を目的とするかは彼らにもわかる。
すでに沢庵が鶴ケ城の門外にあらわれて、奇怪な行動に出ているという。そのために、領内で探索に従事していた芦名衆の大半は若松に呼び返されたのだ。さては、その隙を狙って、女たちを会津の外に逃がすつもりとみえる。
「おい、だまってあれを見送るのか」
「しかし、江戸の尼寺の尼僧なり、一指をも触るることなかれ、沢庵、とああまであからさまにひらきなおった旗をかかげられては」
「それがどこまでまことのことか」
「とは思うが、将軍公許とある以上」
「それに、あの中に、堀の女たちが混っているのかもしれぬのだぞ。それでも指をくわえて逃がすつもりか」
「とにかく、このことを銅伯さまに伝えねば」
というようなわけで、急使が鶴ケ城へ飛んだのだが――その伝令がかえってくるあいだにも、尼僧のむれは東へうごきつづけている。
「ともかく、追え」
三人、四人、あちこちから集まってくるうちに、それでも十数人となる。芦名衆は送り狼となって、尼僧の行軍を追尾した。
追ってみて、おどろいた。――雪の中の道は、もとより道の両側に壁のように雪がつみあげられているのだが、いたるところそれが崩れおちてゆくてをふさぎ、歩むに難渋することひととおりではない。正直にその道をたどってゆくと、とんでもない集落へそれていたり、ところどころ、ふつうの雪道かと思ってかけぬけようとすると、水に雪を浮かべたふかい穴で、あっと気がついたときは二、三人、氷のしぶきをあげて落ちたりする。はては、まったく人影もみえぬ切通しの坂の両側から、どどと小さな雪崩がおちてきて、彼らを雪けむりにつつんでしまう。――
「……ううぬ、土民めらのしわざだな」
「あとでとり調べ、ただではすまさぬ」
猪苗代湖北岸の磐根《いわね》という土地の松林の中で、四、五人の芦名衆が唇をむらさき色にして袖《そで》をしぼっていた。松林の中だ。ひとりが松の枝々を集めて燃やそうとしているが、ぬれた枝はただ煙をあげるばかりだ。
やっとそれが炎をあげはじめたとき、西から長槍をかかえた陣笠の武士が、あえぎあえぎ走ってきた。
「おう、尼僧どもはどうした」
と、きく。ひとりが、もう数刻もまえに東へ通っていったらしい、という百姓の話だ、とこたえると、
「それで、おぬしたちはここで何をしておるのだ」
「何をしておるとはひどい。雪の水の穴におちたのだ」
と、べつのひとりが、寒気に歯をカチカチ鳴らしながら、むっとしていう。あとの連中はこの雪の中で、とうとうはだかになって、びしょぬれのきものを火にあぶろうとしているが、湖から吹きあげる風に裸身をさらされて顔はひきゆがみ、みられたざまではない。
「おお、あそこにあったあの穴か――いや、尼僧どもめ、小癪《こしやく》なことをやりおったな。おれもくるとき、途中で馬をすてねばならなんだ」
と、無念げにいった陣笠の武士は、いうまでもなく鶴ケ城からきた芦名衆であった。こちらは足ぶみしながら、
「尼僧どもではあるまい。おそらく土民どものしたことじゃ」
「そのくせ、ゆきあう百姓めら、何くわぬ顔で、ばかていねいに腰などをかがめおる」
「それより、与右衛門、銅伯老は何と仰せであった?」
きかれて、与右衛門はうなずいた。
「銅伯さまの仰せには、沢庵の仕立てたにわか尼どもが領外に去ることはやむを得ぬ。けしからぬことではあるが、好きなようにさせいとのことじゃ。しかし、中にあの堀の女たちが混っておれば、これは捕えねばならぬ。壷《つぼ》おろしの番所で、きゃつらの面体をよくよくあらためて、堀の女たちがおればひっくくって城に曳《ひ》いてこい。沢庵はこちらで捕えて、その面皮をはいでくれる――との仰せであった」
彼は槍をふたたび小わきにかかえこんだ。
「では、あとの面々は、尼僧たちを追っていったのじゃな。おれはゆくぞ。おぬしらも、きものが乾いたら、すぐ追ってきてくれ」
と、いいすてて走りかけたが、ふと路傍の雪に目をうつして、
「はて、この足跡は?」
と、さけんだ。
いかにも溝のような雪道からそれて松林の中へ、いくつかのふかい足跡が点々と消えている――焚火《たきび》をしていた連中ははじめて気がついたらしく、けげんな顔でその跡を目で追ったが、すぐに、
「土民のものではないか」
「ここを通りすぎた尼僧のむれは、あれだけの人数ではない」
若松からきた与右衛門はいった。
「しかし、足跡は、どうやら湖の方へいっておるぞ。この真冬に、なんのために湖へゆく用がある?」
「そういわれれば、そうだ。よし、いって見よう」
彼らは急にあわて出して、まだぬれているきものを肌にまとい、騒然としてその足跡について松林の中へかけこんでいった。
松林は南下がりになっていて、それを越えると海のような砂浜になっている。むろん今はいちめん深い雪に覆われているが、そのひろい視界に出て、彼らはいっせいに眼をむいた。
「おお、舟で出た奴がある!」
「待て、漁に出た土民ではないか?」
「しかし、見ろ、浜にあったほかの舟も、みな空のまま湖の上にただよっておるではないか!」
「蓑笠《みのがさ》をつけてはおるが、あの舟にのっておる影は、たしかに七人!」
彼らは雪を蹴《け》ちらして、汀《なぎさ》まで走っていった。
汀はさすがに波のために砂地をみせて、遠い黒い弧をえがいている。芦名衆は右往左往した。
「舟をさがせ!」
猪苗代湖は、琵琶湖《びわこ》、霞《かすみ》ケ浦《うら》、八郎潟についで、わが国では第四の大湖だ。
湖面がひろいのと、冬、風がつよいのとで全面的に結氷することはないが、それでも場所は北国、しかも海抜五一四メートルという水面の高さから、いちめん、薄い流氷がながれていることがある。
裏磐梯の水をあつめて北方からながれこむ長瀬川が酸性をふくんでいるために、湖のひろいわりに魚類が少なく、漁師というほどの漁師もいないが、それでもあちこちの岸に小舟はいくらかつながれている。
「見つかったな」
その小舟のひとつに立って、小手をかざしてひとりの僧が舌うちした。沢庵《たくあん》門下の竜王坊であった。不器用に櫓《ろ》をこいでいるのは十乗坊だ。
「老師が城に入られて、芦名衆の大半を集められる。十兵衛どのが尼僧群をひきいて残りの芦名衆を吸い寄せる――そのすきに、この舟で湖を南岸にわたる兵法であったが、やはり敵の目をくらますことはできなんだな」
小くびをかしげて薬師坊がいったが、べつにあわてた様子も、落胆したそぶりもみえない。ふりむいて、
「しかし、浜にあった舟はみんな水にはなしておいた。きゃつら、足ずりしようと、ここまで追っては、こられまい。鬼さんこちら、手の鳴る方へ、だな。それより、お千絵《ちえ》どの、お笛、風が冷たい。蓑をもそっとひきつけなされ」
と、笑っていたわった。
小舟のまんなかに坐《すわ》っていたお千絵とお笛は笠でこっくりした。笠の下は、七人とも例の袈裟頭巾《けさずきん》をかぶって眼ばかりのぞいているが、その眼が微笑している。衣の上につけた蓑は、しかし流氷の上をわたって吹きつけてくる寒風に葉裏をかえしてそよいでいた。
尼僧群は猪苗代湖の北岸沿いに壷おろしの坂をこえて郡山《こおりやま》に出、福島から米沢《よねざわ》を経て上《かみ》ノ山《やま》へゆく。しかし、もとより会津《あいづ》藩が手をつかねてそれを目送するはずがない。かならずどこかで検問するに相違ない。だから、お千絵とお笛がそれに混って奥州《おうしゆう》街道に脱出できようとは思われないから、敵の注意をそれにひきよせておいて、湖をつっ切って南岸の舟津《ふなつ》へわたり、そこから三代村を通って勢至峠を越え、白河《しらかわ》に出ようというのが、お千絵たちの予定した行路であった。
「おお、狼煙《のろし》をあげたぞ!」
と、嘯竹《しようちく》坊がさけんだ。
猪苗代湖は東西で約四里、南北で約四里半ある。その南岸にあと一里くらいに近づいたころだ。東と西の雪をかぶった山々から、薄墨色の空へ、白煙があがるのがみえた。
「さっきの、磐根の浜の奴らが知らせたな」
いかに芦名衆が精悍《せいかん》の脚力をもっていようと、この雪の中だ。岸沿いに追ってくるより、湖をわたる方がはやい、といまも話して笑ったところだが、見ていると狼煙が北から南へ、つぎつぎにあがってゆく。してみると、先刻の連中がまず急をつげ、湖畔に残存しちらばる芦名衆に合図したものにちがいない。
「や、来たっ」
と、心華坊が絶叫した。
東から二|艘《そう》、西から一艘の舟が追ってきた。それぞれ芦名衆を満載し、槍《やり》の穂がすすきのごとくひしめいて、ひかっている。
「待てっ」
「もはやのがれられぬぞ。待たぬかっ」
陣笠がゆれ、無数の怒号が風につたわってきた。狼煙の合図で湖の異変に気がついて、西や東の岸から、舟をさがし、人員をあつめて追撃してきたものに相違ない。さすがは土着の芦名衆だ。湖をわたる櫓のあつかいにはなれているとみえて、その舟脚は矢のようにはやかった。
「竜王坊、もっと早うはならぬか」
「岸はすぐそこにみえておるのじゃが」
さすがにあわてて、薬師坊と嘯竹坊が、櫓をにぎっている竜王坊を見やり、また南の岸を見やった。はては、心華坊がたまりかねて、
「おい、拙僧がやってみる。櫓をかせ」
と、立ちあがって代ってみたが、これはいよいよ結果がわるかった。舟はゆれ、バリバリと氷の音をたてた。
湖にはいたるところ、薄い流氷がながれている。それははげしい北風に南へ吹きよせられて、それに雪がつもっているので、湖というより、雪原の中を縦横に走る黒い水路のようにみえた。
「いかぬな」
と、十乗坊がつぶやいた。芦名衆の先頭の一艘は、もう陣笠の下にみだれる髪の毛までがみえるほどの距離にちかづいてきた。
お千絵とお笛が、仕込|杖《づえ》に手をかけた。敵にきっと凄壮な眼をなげて、
「もうおよしなされませ」
「舟をとめて、ちかづいたら、斬りこみましょう」
十乗坊が笑った。
「何、そうはやまることはない。そなたたちには、老師から命ぜられた芦名銅伯の大秘事をさぐるという大役がある。まず江戸まで逃げるが肝要じゃ」
「でも」
「江戸まではまだ六十里ありますのに」
「待て待て、わしがここでひとつ、ちょっかいを出してみる。――心華坊、一息か二息、ちょっと櫓を休めてくれ。あとの連中は立って、わしの姿をかくしてくれい」
そういうと、十乗坊は笠をとり、蓑をとった。何をするのか、とお千絵とお笛が眼を見張っていると、彼は水をのむ鳥みたいに舷《ふなばた》に手をかけて、からだをさかしまにすると、そのまましぶきもたてず、ズブリと湖へ身を沈めたのだ。
「……まっ」
ふたりの声はひくかったが、眼ははりさけるようであった。ただの水ではない。氷のながれている冬の湖なのだ。
しかし、あと四人の禅僧は、べつにおどろいた様子もなく、当然のことのようにうなずいて、
「よし、ゆけ」
水に入った十乗坊をすてて、必死に櫓をこぎ、水をかいた。
「それ、もう一息だ。のがすな!」
みな総立ちになり、歯をむき出して、前方の舟に眼をなげていて、だれひとりとして気がつかなかったのである。――すぐそばの氷の下から、ぬうと水面にあらわれたひとつの頭を。
ふいにグラリと先頭の舟がゆれた一瞬、舷に立っていた芦名衆のひとりが足もとをみて、
「やっ……こやつ!」
絶叫するとともに、抜討ちの一刀をふりおろした。
鮮血のしぶきがあがった下に、真っ赤な袈裟頭巾《けさずきん》があった。唐竹割りになりながら、しかし舷にかけた両腕ははなれなかった。
「わあっ」
斬った奴が、まずもんどりうって湖におちている。総立ちになった芦名衆が、どどっと一方に雪崩ると、舟はみごとにひっくりかえって、それにのっていた七、八人をことごとく水中に放り出した。
「な、なんだ?」
水におちた連中でさえ、どうしておちたのか、とっさにわからなかったくらいだから、次にすすんできた二艘めと三艘めの面々が驚愕《きようがく》し、あやしんだのは当然だ。
見ると――水中の芦名衆たちは、ガバガバと泳ぎながら、それでも槍や刀をひらめかせて、何者かに襲いかかっていた。血の輪がひろがった。
ズタズタになりながら、十乗坊は、ひっくりかえった舟からなおはなれない。いや、彼は、最初の一撃を受けた刹那《せつな》からすでに即死しているのだ。
「ちがうっ」
「堀の女ではないぞ!」
ようやく屍骸《しがい》の顔をあおのかせて、水の中の芦名衆はさけんだが、すぐに、
「冷たい!」
「はやく、あげてくれっ」
と、ただごとでない悲鳴をあげはじめた。入ったら二、三分と辛抱してはいられない。――いや、たちまち凍りつきそうな湖であった。
あわてて漕《こ》ぎ寄せていった二艘めの舷に、みるみる十数本の腕がかかる。
「いかん!」
と、乗っていた連中が狼狽《ろうばい》した。舟はゆれて、これまた転覆しそうになったし、それに満載状態の小舟には、倍もの人間を積む余地はないのだ。
「はやくゆけ、敵は逃げるぞ!」
三艘めの舟が、あせって、うしろからわめきたてる。――だれかが、歯ぎしりしてうめいた。
「ゆけ、そのまま舟をすすめろ」
「はなせ、あの敵をのがしては銅伯さまに合わせる顔がない!」
それでも、舷にとりついた腕がはなれないのをみると、
「ええ、大事のまえの小事だ」
「ゆるせ!」
数人、眼をつぶって、抜刀するなり味方の腕をなぎはらった。――「小事」ときめつけられた連中こそたまったものではない。
あたり一帯朱色の海と化した中を、二艘めはすべりぬけ、三艘めが漕ぎぬけた。――ほんの先刻まで、この湖上の追撃戦をむしろ面白がって、笑っていた奴もあったが、もはや笑った顔はない。
芦名衆はすべて血に狂ったけものみたいな顔になっていた。これだけの犠牲を払おうとは予想もしていなかっただけに、こうなれば断じてあの敵を捕えるか斬るかせねばならぬという灼《や》けつくような焦慮にかられている。
このさわぎのあいだに、その敵の舟はもうはるか彼方の白い岸へちかづいていた。
「――つきましたっ」
その舟で、さけんだのはお笛だ。まずその岸へとびおりようとするのを、
「待った!」
と、嘯竹坊が制止した。
「ここは岸ではない。氷に雪がつもっているだけじゃ。……ほんとうの岸は、それ、向うの松の生えたところらしいぞ。うかとおりれば、氷が割れる。まず、わしがためしてみよう」
と、ヒラリと雪の上に飛び下りた。はたせるかな、割れはしなかったが、その足の下で、ぶきみな氷のきしみが四方にひろがった音がした。
トン、トン、と足ぶみをして、
「まず、しずかに歩めば、大丈夫じゃな」
と、うなずく。
二艘めの芦名衆の舟は、また四、五十間の距離に迫っているのに、何かの実験をしている学者のようにおちついた挙動だ。追手をふりかえり、かんがえこみ、
「心華坊、竜王坊」
と、呼んだ。
「ちょっと、耳を貸せ」
「よし来た」
三人、氷の上に立って、ヒソヒソと話をした。心華坊と竜王坊はニコとうなずいた。
すぐに彼らは行動を起した。嘯竹坊と竜王坊は笠と蓑《みの》をとって、心華坊にわたした。
「薬師坊」
「おいよ」
「お千絵どの、お笛を先に、あの松原のうちで、それ、臥竜《がりよう》のように見える松、あれをめざしてまっすぐにいってくれ」
「合点だ」
おまえたちはどうするのだ、ともきかない。薬師坊は、いわれた通りにお千絵、お笛をうながして、三人、一直線にならんで雪に覆われた氷上を走り出した。
あとに残った嘯竹坊、心華坊、竜王坊は何をするつもりか。不安げにふりかえるお千絵、お笛の眼に、うしろから三人横隊にならんでついてくる蓑笠つけた姿がみえた。
三人横隊になったのは、敵からじぶんたちの姿をかくすつもりか、と思い、つぎにいまさら何のために? と疑い、さらに、はて先刻嘯竹坊と竜王坊は蓑と笠を心華坊にわたしたようだが、と気がついて、もういちど眼をこらして、お千絵とお笛ははっとしていた。
はるかうしろからついてくるのは心華坊だけだ。彼は両腕を大きく左右にひろげて、二つの笠を水平に支え、二つの蓑をたらして走ってくるのであった。
それ以外に、白い氷上に人影はない。
「嘯竹坊さまと竜王坊さまは、どこにゆかれたのでございますっ?」
お千絵はたちどまろうとした。
「そんなことをきいている場合ではないっ」
と、すぐうしろの薬師坊はさけんだ。めずらしく怒った声だ。
「いまは逃げるが一番じゃ。そなたたちを逃がさねば、わしたちの役目が果せぬ。嘯竹坊と竜王坊の死がむだになる!」
「えっ?」
「ええ、走れ、いそげ!」
追いたてられて、お千絵とお笛は松林の中にかけこんだ。おなじような雪の中だが、まさしく大地だ。
このとき、岸から張り出した氷の巨大な棚の中央の地点に心華坊はふみとどまって、顔だけうしろにねじむけた。二|艘《そう》めの舟は氷のふちに達し、芦名衆はバラバラと飛び下りて、その足もとの感覚から、
「一つところに寄るな、危い。たがいに一間ずつはなれて走れ」
と、呼びかわしつつ、散らばり、前進してきた。
心華坊は大きく足ぶみをした。
「――よいぞ!」
と、さけぶ。いったい誰に、何がよいぞとさけんだのか。
右手の白雪の上に、このときキラッとひかるものがかすかにつき出した。同時に左手の雪にも一本の白刃が芦のごとくに生える。それが心華坊の足ぶみをする地点めがけて、徐々にうごき出した。
氷が切れてゆく。眼にみえぬ細い線とみえて、その実氷の溶接をふせぐために、小刻みにビラビラとゆれながら、氷の大地に一すじの条痕《じようこん》がえがかれてゆく。――まるで魔法のように。
魔法ではない。何者かが、氷の下にいるのだ。
しかし、氷の下は水のはずであった。しかも、凍りつくような水のはずであった。その中にひそんで、氷を切ってゆく超人的な人間がふたりある。
超人ではない。それは嘯竹坊と竜王坊以外のだれでもない。念仏のほかに何の芸もないはずのこの両人が、まさに超人すら不可能と思える水中からの氷切りを行なっているのだ。
「……きゃつら、何をしておる?」
芦名衆のむれが、ふといっせいに足をとめた。
きゃつら、といったのは心華坊のことで、複数で呼んだのは、両腕に吊《つ》るした蓑笠《みのかさ》を人間と見あやまったからだ。彼らがためらったのは、その「三人」が向うむきになったまま、氷上に佇《たたず》んでいる奇妙な姿勢に、わけはわからないながら一抹の疑惑に襲われたからであった。
「よし――!」
と、心華坊はさけんで、大きく前へとんだ。
両側から切ってきた二条の刀身のきっさきの間隔はまだ二間以上もあったが、足裏の感触から、その向うの氷に異変が起るのを、すばやく知覚したからだ。氷に異変を起させたのは、その上にのった八、九人の芦名衆の総体重であった。
心華坊が両腕にふたりの蓑笠をぶら下げていたのは、こちらの六人が四人に減っているのを敵に見られることをふせぎ、あとの二人の行方を感づかれることをふせぐためであったのだ。
そのことをまだ気どらず――
「あっ、逃げるなっ」
走り出した心華坊をみて、あわてて殺到してきた芦名衆の足下で氷の大地が傾き、次の瞬間、彼らは人数だけのしぶきとともに水中にあった。
「うふっ」
「ぎゃっ」
悲鳴は、彼らが水におちた瞬間から、一息か二息ついたあとで起った。氷が散乱し、うずまきかえる水の中に血がまじった。――狼狽する彼らのうちの二人、三人がいきなり胴や頚《くび》を刺され、裂かれたのだ。
「あっ、堀の女だっ」
「きゃつらが、水の中におるっ」
すぐに残りの芦名衆は、事態の真相に気がついた。湖底から浮かびあがったふたつの白い袈裟頭巾《けさずきん》が、めちゃくちゃに刀をふるって斬りつけているのを見たのである。
血と氷片と肉塊と剣槍《けんそう》とが、こねくりかえすような水中の争闘であった。それにしても芦名衆ほどの者が、あっというまに三人も落命する破目におちたのは、やはりふいをつかれたためと、水中のためであったろう。
たちまち残りの芦名衆は、猛然とふたりの袈裟頭巾をとりつつんで乱刃を集中した。
膾《なます》のようになりながら、嘯竹坊がいった。
「安禅必ズシモ猛火ヲ須《モチ》イズ」
やはり、ズタズタになりながら、竜王坊がこたえた。
「心頭ヲ滅却スレバ、氷モマタ熱シ」
そして、物凄《ものすご》い高笑いが、ふたりの禅僧の最後の凱歌《がいか》であった。
いうまでもなく、これはかつて武田家滅亡の際、恵林寺の傑僧|快川《かいせん》が猛火の山門に端座して遺した「安禅必ズシモ山水ヲ須イズ、心頭ヲ滅却スレバ火モマタ涼シ」の法語にならったものだが、これは仏僧の偈《げ》というよりも駄《だ》洒落《じやれ》にちかい。
ふたりの高笑いに、それが堀の女ではない、と知って、斬った芦名衆が一瞬|茫然《ぼうぜん》と顔を見あわせたとき、三艘めの舟が矢のように突入してきた。
「あっ、乗せてくれ!」
「あげてくれ、凍りついてしまう!」
あわてて舷《ふなばた》にとりすがる手を、
「敵が逃げる、ゆるせ!」
さっきじぶんたちが仲間にやったとおなじことを、船上の別の仲間に仕返された。
三艘めの面々は味方の手を斬りはらった血刃をひっさげたまま、あともふりかえらずゆくての岸をながめて、眼を血ばしらせている。
彼らが焦り、逆上するのもむりはない。さっきまで松林の中にいた三人の蓑笠姿はすでに消え、その手前を走っていった「三人」の蓑笠の影も、その松林へかけこもうとしている。――
三艘めの芦名衆は、やっと氷面にたどりついた。芦名衆にも似合わしからぬ不安げな腰つきでとびおりる。――
舟がそれ以上すすまないのだからしかたがないが、そこまでくるにも彼らはヘトヘトになった。捨ておけばじぶんたちの舟も顛覆《てんぷく》しそうだから、やむなく溺《おぼ》れる味方の手を斬ったが、その心理的|苦悶《くもん》以外に、いつ敵が水中から出現するか知れないという恐怖がある。敵は最初たしかに七人いた。そのうち三人を殺したから、あと四人のはずだが、しかし遠景ながら、氷上を岸へ逃げていった敵影は六人にみえた。――何が何だかわからない。わからないから、いよいよ落着かない。
氷上に下りれば、下りたで――
「気をつけろ、さっき氷が割れたのだぞ!」
「いや、あれは氷の下に敵がいたらしい。用心しろ!」
薄氷を踏む思い、とはまさにこのこと。――八、九人の芦名衆が散開したまま、一歩また一歩という足どりで前進して、舟津の松原にたどりついたときは、もう蓑笠の姿はあたりにみえなかった。
しかし、踏んでいるのが大地と知れば、もはや恐れるものは何もない。雪路は舟津川に沿って、右へ左へ移りながら南へつづいている。――血相かえて、嵐のように小半里も走ったろうか。
ゆくてから、丁々と鉈《なた》で何かを打つひびきがきこえてきた。
「あっ、きゃつだ!」
「橋を落そうとしておるぞ!」
はるか彼方で、蓑笠をつけた影が、まさに鉈をふるって木橋に切りつけているのがみえた。
殺到する彼らをみても、その影は逃げようともせず、その作業をつづけている。橋の状況よりも、その沈着ぶりに彼らはうろたえた。
「槍《やり》を投げろっ」
「間に合わぬぞ!」
さけぶと、五、六本の槍が銀光に黒い尾をひいて乱れとんだ。
まろぶように走りながらの投げ槍だが、さすがに凄《すさま》じい手練だ。五、六本の槍は一点に集中して、橋を切る影にいちどに突き立った。
蓑虫が針ねずみになった。
その影は、鉈をふりかぶった姿勢で、一、二分静止していたが、たちまち槍を全身に生やしたまま、水けむりをあげて舟津川に転落していった。
かけつけた芦名衆は、木橋の欄干をみて、鼠がかじったほどの傷がついているのを見た。
「なんのまねだ、これは?」
と、あんぐり口をあけてから、彼らはすぐにこの笑うべき作業の真の目的を知ったのである。
「ううぬ、や、槍をとられたぞ!」
彼らが投げた五、六本の槍は敵とともに川におちて、あわててのぞきこんでも、はや屍体《したい》もろともその一振も見えなかった。
「来た来たっ。……おれの見たのが地蔵堂のところださけ、やがてまもなぐ」
ひとりの若い百姓が、雪と汗にまみれて納屋《なや》にとびこんできた。
「そうかい、では、そろそろ」
臼《うす》に腰を下ろして、うまそうに煙草をくゆらせていた薬師坊は、まるでそこらに散策にでも出るように、ユラリと立ちあがる。
べつに土間にかしこまっていた二人の若い衆も、うなずいて立ちあがった。彼らは蓑と笠をつけていた。ほかにも四、五人の老爺《ろうや》や老婆が坐《すわ》っている。――猪苗代湖南岸の舟津から一里ばかり南に入った三代村という集落であった。
薬師坊は、立ったまま、報告にきた百姓を見下ろして、
「ところで、敵は何人おったかな」
「たしか、八、九人」
「それだけかな」
「ほかには見えねえようでがんしたが」
「ほう……。してみると、十乗坊ら、案外よう働いたな」
お千絵とお笛をかえりみて、ニコと笑った。
「湖を追ってきた芦名衆は三|艘《そう》で二、三十人もいたろうか。それが八、九人になっておるということは、生きておって追ってこぬ芦名衆ではあるまいから、心華坊らが何とか片づけたとみえる。どうじゃ、武芸を知らんでも、結構やるものじゃろうが」
いたずらっ子のような破顔をふりあおいで、お千絵とお笛は胸迫って、声もない。――
彼女たちは、氷の湖にみずから入っていった十乗坊の姿をその後見たことがない。しかし背後にあがった大叫喚から、彼が芦名衆に何をし、芦名衆から何をされたかわかる。
また次に踏みとどまった嘯竹坊と竜王坊も、あとできくと芦名衆を湖中におとすために氷の下へ入っていったということだが、彼ら自身の運命もまた察するにあまりある。
さらに、心華坊も、途中までついてきたようだが、ついに追いついてこなかったところをみると、芦名衆を一歩でもくいとめるために、敢《あえ》て一命を白雪の中に散らしたのであろう。
つたえきく、豪勇|薩摩《さつま》軍の撤退戦は「捨てかまり」といって、小部隊がふみとどまっては全滅を賭《と》して、銃火をあびせ、また一部分伏せては狙撃《そげき》し、これを反覆するもので、関ケ原で島津入道|義弘《よしひろ》の主力が、雲霞《うんか》のごとき東軍の追撃をついにのがれ去ったのは、この退却法によったものだというが、いま沢庵門下の坊さまたちは、知るや知らずや、この決死の「捨てかまり」戦法をとっているのであった。
彼らは沢庵のまえで、お千絵お笛を護《まも》って会津からのがすのは「大船に乗ったも同様」と笑った。
それがたんなる高言でないことは、かつて会津越後道で、雲林坊、多聞坊がみずからの頭部をたたきわられることを承知の上で、凶暴な拳法《けんぽう》の達人|鷲《わし》ノ巣廉助《すれんすけ》をみごとに仕止めた話を、お鳥お品からきいて、うすうす察しないでもなかったが、いま現実に、この壮絶無比のいくさぶりをみては、彼らが諧謔《かいぎやく》を愛し、一見淡々として何のへんてつもない坊さまだけに、驚嘆、感動をすぎて、胸もはりさけるような戦慄《せんりつ》をおぼえずにはいられないのであった。
沢庵が江戸からつれてきた弟子僧七人。
沢庵が彼らに何を依頼し、彼らが沢庵に何と応《こた》えたのか、お千絵たちは知らぬ。おそらくしかし、沢庵は最初からこの旅が彼らにとって死出の路であることなど口にせず、彼らもそんなことは予想もしていなかったのではあるまいか。
ただ彼らは、うら若い七人の女の復讐《ふくしゆう》を諒《りよう》とし、また彼女たちを父のごとく、兄のごとくに愛した。そして、その同情と愛に殉じて、大事にのぞむや、黙々としてその生命をなげてゆく。
「死ぬも修業のひとつでな」
と、そのひとりは、あるとき彼女たちに訓《おし》えた。
その訓えの通り、彼らは死をみること帰するがごとく、淡々として往生した。いや、その心は淡々としていようと、その往生ぶりは、いかなる戦場往来の荒武者も三舎を避けるほどの物凄じさを以《もつ》て、敵に一大痛棒を加えたのだ。
そもそも、七人の女の復讐が、彼らの静寂平穏な人生にとって何の意味があるのか。七人の女自身がそれをうたがわずにはいられない。それなのに、坊さまの方は、何の疑いもない至極当然のこととし、まさに「修業のひとつ」のごとく死んでゆくのであった。
いま――たった一人残った薬師坊さえも、
「では、参ろうか」
ふたりの百姓をうながしたのも、雪見にゆくのではない。お千絵たちの見るところでは、死以外の場所ではない。
「や、薬師坊さまっ」
と、お笛がはらわたを断つような声で呼びかけると、
「どうしても、あなたもおゆきにならなければならないのですか!」
と、お千絵も身もだえた。
この三代村は、勢至峠を会津方面に下りた最初の集落で、去年彼女たちが会津に入ったとき、いちど通過したことがある。お千絵たちはそのときただいちどだが、薬師坊はその後またこの村を訪れたことがあるそうな。――例のいけにえにささげられようとする娘を救うためで、げんに湖をこえた北岸をのがれつつある尼僧の中に、この村の娘もまじっているという。いや、この納屋が、その娘の家なのだ。
そういう縁で、薬師坊は、この集落に入るとすぐに助けを求め、この家の家族たちは二言となくかくまってくれ、さらに、この勢至峠はこの村人にとってはじぶんたちの箱庭のようなものだから、吹雪になろうと万丈の雪が残ろうと、数日のうちにかならず峠をこえて白河まで送ってやろうといってくれたのだが、薬師坊はもうひとつべつの提案をした。
あの芦名衆の残兵が、この集落をただで見逃そうとは思われないというのだ。たとえいちどはゆきすぎても、かならずまたひきかえしてきて、事と次第ではこの村ことごとくを焼討ちにしかねないというのであった。むろん、前例からおして、その可能性は大いにある。
だから、やはり彼らをどこかへみちびかねばならぬ。――勢至峠でないべつの方向へ。
この三代村から出る路は三つある。
いま彼らが北の舟津からやってきた路と、東の勢至峠へ上る路、また西の若松へゆく路と。――ところで、芦名衆をあざむくために薬師坊がえらんだのは西へゆく路だが、若松から逃げてきた者が、経路こそちがえまた若松にもどってゆくということは、敵だって奇怪に思うだろうから、それをあえて吸い寄せるにはひと細工が要る、と薬師坊はいうのであった。
「嘯竹坊や竜王坊たちをむだ死させる気か」
と、薬師坊はしずかにいった。
「沢庵さまは、そなたたちに江戸へゆけと仰せられた。そなたたちは江戸へゆかねばならん、わしたちはそなたたちを江戸へやらねばならん。目的は簡単至極、それだけじゃ」
しかし、薬師坊は笑っている。洒落《しやれ》な笑顔だ。かがみこんで、やさしく、
「……よいか、きっと、江戸へいって用を果たせよ」
「……はい!」
と、お千絵とお笛は思わずさけんで、がくと土間に手をついた。
「敵が迫っておる。ゆこう。……さらばだ」
薬師坊は衣の袖《そで》をひるがえして、納屋を出ていった。彼は蓑《みの》も笠《かさ》も捨てていた。
さきに納屋の入口まで出ていたふたりの若者は、うなずくと、路へ下りて、西へ駈《か》け出した。彼らのみ蓑笠をつけているが、雪になれた足はトナカイのように早い。
納屋の戸は薬師坊のうしろ手で閉じられた。
北の舟津から、汗みどろになって、あえぎあえぎ芦名衆が三代村に駈けこんできたのは、数分ののちであった。
「どこへ逃げた?」
「この村にひそんでおるか? それとも勢至峠へか?」
村の三叉路《さんさろ》にちょっとふみとどまって、血ばしった眼をぐるりと回した彼らは、すぐに、西の方へ飄々《ひようひよう》と消えてゆくひとつの影を見出した。
白い袈裟頭巾《けさずきん》。墨染めの衣。
「やっ、あれだ!」
「おったぞ!」
一団のつむじ風のごとく彼らはそれを追って走った。
三代村を西へかけぬけると、道は下り坂になっている。山王坂という坂であった。そこまでくると、坂下の橋をこえ、遠く逃げてゆくべつの二つの影がみえた。こちらの袈裟頭巾も橋にかかっている。
雪を蹴《け》たてて逆落しに駈けおりた芦名衆の一団は、しかし橋の手前で、どどっと立ちどまった。袈裟頭巾が、橋のまんなかでふりむいたのだ。その顔は、般若《はんにや》の面で覆われていた。
「……オオお!」
声ならぬどよめきが、一瞬、芦名衆のあいだにながれた。
橋上の風に衣の袖と裾《すそ》を吹かれ、般若面はひとり寂然と立っている。ただ、仕込|杖《づえ》の柄《つか》に手をかけて。
――たがいに口には出さないが、実は追撃にかかったとき、芦名衆のすべての肌をさっとながれた戦慄は、逃げる敵の中に、あの般若面がいるのではないか、ということであった。
恐れるのではない。恐れてはならない。あの般若面はかならず仕止めねばならぬ。いいや、このおれの手で! と胸にはさけぶのだが――しかし、いままですでに四十余人の仲間を斬ってすてた恐るべき剣人の影からひろがってくる、冷たい心の波立ちを如何《いかが》せん。
磐梯山の麓《ふもと》の森で、東山の林で、日橋川のほとりで、大沼の村落で――ところを定めず、神出鬼没、胸におぼえのある芦名衆を木偶《でく》のごとく斬っていった男、みずから般若|侠《きよう》と名乗る男のことは、たんに噂ではない、その場からからくも逃げた面々の眼にも、魔神のごとく残像を刻んでいる。
彼らの眼からみて人間とは思われない漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》、香炉《こうろ》銀四郎さえも城から一歩も外へ出ず、銅伯が外へ出さぬというのも、たんに沢庵をはばかっているのではない。この般若面に一目も二目もおいているからだ。そう判断するほかはない。
が、七つの蓑笠つけた敵を追っているうちに、その数からしておそらく堀の女たちだと思い、さらにそれに沢庵一味の坊主どもがまじっていると判明してくるにつれて、しだいに般若面の影は胸から消えていたのだが。――いま、突如として彼らを迎え討ったその姿を眼前にして、
「……出た!」
まさに、化物が出現したと同様の衝撃が彼らを吹いた。
すでに遠くへ逃げ去った敵も気にかかるが、それどころではない。
――彼らはいっせいに槍と刀をならべたが、般若面が仕込杖に手をかけただけなのが、かえってぶきみ千万である。
「……死ぬか」
陰々と、般若面のかげから声がもれた。
「死にたいか?」
一歩二歩あゆみ出ると、ずずっと芦名衆が退《さ》がる。刀もぬかぬのに、この敵には名状しがたい圧倒的な気魄《きはく》があった。空気が凍結したような数瞬がすぎた。
「……や、やり、槍」
うめいたのは、さっきの敵に槍をとられた面々だ。これは恐怖にかられた悲鳴であった。
対峙《たいじ》にたえかねて、思わずひざをつこうとしていた槍組は、この悲鳴を何ときいたか、はや死相となって、
「えやあっ」
死物狂いの絶叫とともに、三本の槍をつき出していた。
三本の槍は豆腐のように般若面の胸をつらぬいて、突いた三人の方がころがりそうになった。――あとの連中も、一瞬、何かの錯覚かと思ったくらいである。
が、眼を拭《ふ》いてよくみれば、槍はまさに般若面の背へ、血まみれの穂から柄《つか》まで二、三尺もつきぬけている。
――と、眼には見ても、芦名衆にはなお信じられない。
あの般若面が? あの魔神のような般若侠が?……と、かっと眼をむいて、三本の槍につらぬかれた姿を見ていたが、しだいにゆれはじめた敵のからだに、
「――やったっ」
「般若面を、ついに仕止めたぞ!」
狂的な絶叫をあげて、いっせいにどっとはせ寄ろうとする芦名衆を、そのとき物凄《ものすご》い声がはねかえした。
悲鳴ではなかった。それは、ついに仕込杖の柄に手をかけただけで、芋《いも》のごとく無抵抗に串刺《くしざ》しになった般若面のかげからあがった大|哄笑《こうしよう》であった。そして、ぎょっとして立ちすくんだ芦名衆のまえで、面の下からあごにかけて凄《すさま》じい血の網を垂れながら、般若面は三本の槍とともに雪に崩折れていった。
数人がとびついて、その面と頭巾をはねのけた。
中からあらわれた初老の坊主あたまを、凝然と見ていた芦名衆のひとりが、
「ちがうっ」
と、さけんだ。
「ちがう? 貴公、般若面の顔を知っておるのか?」
「知らぬ。しかし、この坊主が若松の城下を澄まして托鉢《たくはつ》して歩いておるのを見たことがある。――その同日に、味方が七人、猫魔ケ岳の麓《ふもと》で般若面にたおされたことをおれは知っているのだ」
みな、愕然《がくぜん》として、
「ともかく、先に逃げた奴を追え!」
あわてて、槍をぬき、もつれあいながら西へかけ出したが、ゆくてにもはや敵の影はない、それでも走りながら、話す。
「きゃつら、若松の方角へ逃げたな、なんのためだ。進退|窮《きわ》まってのことか?」
「それもあろうが、思うに、われらをひきつけて、あの北岸の尼僧群をぶじに逃がそうとしたのではないか?」
これは、彼らの考えすぎだが、彼らにしてみればはじめて瞳《め》をぬかれたような思いになったのは当然だ。
「やられたっ」
――あとには、白い雪に咲いた血の花のなかに、薬師坊ひとり、ニンマリと死微笑を刻んでいた。
おなじ時刻、芦名衆が駈け去ったのとは反対の三代村の納屋の、くらい雪明りのなかに、お千絵とお笛は胸のまえで、ひしと指をくんで天をふりあおいでいた。
「薬師坊さま……いいえ、七人の坊さま、申しわけありませぬ。お千絵とお笛は、きっと江戸へ走って、芦名銅伯の秘密をさぐってかえって参ります。それだけが御回向でございまする。……」
数日ののち、奥州街道を南へ弾丸のごとく疾駆してゆく二騎があった。往還の人々は、その乗手が袈裟頭巾をかぶった雲水の姿なのと、頭巾からのぞく瞳《ひとみ》の美しさと、その馬さばきのみごとさに眼を見張った。
江戸へ、江戸へ――鞭《むち》の切る風は、一鞭ごとに春の気を帯びてくる。いうまでもなくこれは、みごとに会津を脱出して江戸へひた走るお千絵とお笛であった。
――ちょうど、猪苗代湖の南でこの死の追撃が行なわれている時刻。北岸では。――
その北岸を回り切って、金の曲りという集落にさしかかった尼僧群のうち、ひとりがふと立ちどまった。おなじ網代笠《あじろがさ》の雲水姿だが、そのままうごかず、じっといま上ってきた雪路を見下ろしている。
ここからゆくて、東の方は、関の脇、壷《つぼ》おろしと上っていって、ここに会津藩の番所がある。さらに上れば楊枝峠をこえて奥州街道へ出てゆく路だ。西の方をふりかえれば、白い大地に蒼黒い猪苗代湖が俯瞰《ふかん》される。
その雲水は、はるかうしろから追い上ってくる五、六人の陣笠の武士を見とめてくびをひねった。
いうまでもなく、これは柳生十兵衛だが、彼がくびをひねったのは、いまがはじめてではない。
彼はすでに数刻まえに、湖をはさむ東西の山々に狼煙《のろし》があがったのを見ている。――湖へ出たお千絵たちが見つかったな――と思った。同時に、それまでうしろを三々五々送り狼のごとく追ってきた芦名衆の姿がはたと消えた。彼らはすべて湖上の追跡にかかったのだ、とはわかったが、尼僧群の守護役たる彼には、どうすることもできない。お千絵たちの安否を憂えつつ、うしろ髪をひかれる思いで、ともかく彼はここまでやってきた。――
しかるにいま、五、六人の芦名衆が追ってくる。その足どりが、いままでの送り狼のようなためらいを持っていない。
「はて、きゃつらは」
つぶやいてうなずくと、
「そなたたちは、このままゆけ。おれはちょっと用がある」
彼は路傍によけて、尼僧群をやりすごした。たたずみながら、網代笠をとり、ふところからとり出した般若《はんにや》面を顔にあてた。
笠をひろって、顔のまえにかざすと、スタスタとひきかえす。その足がしだいに飛ぶように早くなる。
「――あっ……」
走ってきた芦名衆の先頭のひとりが、突然たたらを踏んだ。
むろん、前方から黒豹《くろひよう》のように駈《か》け下りてきた影をみとめ、それが笠をかざした雲水であることに気づいたからだが、追ってきたくせに、こう大胆にひきかえしてこられると、さすがに狼狽《ろうばい》せざるを得ない。――両側に、ふりつもった雪にさらに雪が重ねられ、道はせまく、立ちどまった先頭の男に、つぎの男がぶつかった。
「なんじゃ?」
と、さけんだとき、雲水は笠をすて、一方の雪の堤にヒラと舞いあがった。
「……オオお!」
いつ、どこで見ても、芦名衆の口々から名状しがたいどよめきをほとばしらせずに置かないのは、もとより敵の面を覆う般若面であった。
しずかにきいた。
「何の用できた」
こちらは、とっさに声もない。
「いえ! いわねば、斬る」
この芦名衆は、例の磐根の浜で最初にお千絵たちの足跡を発見した連中であった。追う舟がない、と知るや、狼煙をあげて味方に急を知らせ、彼ら自身は本来の任務に戻って北岸の尼僧群を追ってきたものだ。
しかし、いま般若面に、いとも高飛車に――何の用できた、ときかれて、もとよりそれに易々と答えるような男たちではない。
――一息、身の毛もよだつ静寂が凝固して、次の瞬間、その一画から凄じい音響と雪つむじと血けむりが巻きあがった。
前方の四人が槍《やり》をとりなおして雪の上の敵を突こうとする。後方の二人が雪の堤にかけのぼって敵と同地点に立とうとする。――がせまい雪路に槍の石突きはつかえ、かけのぼろうとした芦名衆は、敵が軽がると雪の上に立っているのに、浮力の次元が異るもののごとく、ぶざまに足をめりこませた。
般若面は、斬った!
前のめりになって身をかがめ、前からうしろへ疾風《はやて》のごとく雪堤を走りつつ、まるでならべられた置物でも切るように、交叉《こうさ》した槍のケラくびもろとも、きれいに五人の首を刎《は》ねた。――「斬る」とは宣言したものの、いずれも常人ではない鍛錬を経たはずの芦名衆を、一颯《いつさつ》の血しぶきと変えて――そして、六人めの首のまえで、ピタリとその刃をとめたのだ。
「何の用できた」
雪の上に片膝《かたひざ》ついた姿勢のまま、息をきらさず般若面はまたきいた。
のどに、横に刀身をあてられた芦名衆の眼は、かっとむき出されたまま、吹きつける朋輩《ほうばい》の血の霧に、まぶたをとじることも忘れている、のどぶえが、ピク――ピク――と波うったかと思うと、
「殺せ!」
と、さけんだのは、さすがだ。これは鶴ケ城からきた大角与右衛門という男であった。殺せ、とさけんだのはさすがだが、からだは本能的に逃避をはかってひるがえろうとする。そののどから右頚部《うけいぶ》にかけて火の糸がたばしったような気がすると、反転したくびの左頚部に、逆に火の糸がながれた。からだは一つ回転したが、般若面の刀身は、依然としてそののどぶえにあてられている。
「死にはせぬ」
と、般若面はおなじ調子でいった。
「くびのまわりに、ちょいとすじを入れただけじゃ」
与右衛門は、じぶんの頚部の皮膚だけがグルリとうすく切り裂かれて、そこから血が胸と両肩と背に流れおちはじめたのを知った。
なんたる神技。――与右衛門が発狂しなかったのがふしぎである。
「言う! 言う!」
ついに、さすがの剽悍《ひようかん》の芦名衆も、あごをふるわせてさけび出していた。
そして彼は、芦名銅伯が、尼僧群の出国は見逃せ、ただし堀一族の女どもは断じて脱出をゆるすな、と命じたことを白状した。
「何、尼僧たちの出国はゆるす? それはまことか」
「こ、この期に及んで、なんで嘘を」
恐怖の極致ともいうべき声で、
「ど、銅伯さまの仰せには、まず第一に、沢庵ひき出しの策はあたった。沢庵が城門|界隈《かいわい》をウロつきはじめた上は、もはやきゃつは手中に入ったも同然、と――」
「というところをみると、うぬは鶴ケ城から来たな。うぬが城から出るとき、禅師はどうなされておられた」
「廊下橋ちかくで鞠《まり》をついておったところだが、きょうじゅうにも城に入れる、と銅伯さまのお言葉であったが」
もともと十兵衛は、こんどの沢庵のかけひきには半信半疑というところだ。この話をきいても、沢庵の策があたったようでもあり、銅伯の罠《わな》におちたようでもある。
「だ、第二に、例の尼僧群は、堀の女たちに無数の影武者があるようなもの、きゃつらを領内から一掃するは、かえってこちらの望むところと仰せられた」
しかし、もし芦名銅伯が、この日、湖をめぐる追跡であれだけの大犠牲を出すことを知っていたなら、それでもなおかつ冷静に、尼僧群の逃散《ちようさん》を座視する気になったか、どうか?
とはいえ、十兵衛はもとより、与右衛門も、湖上湖南の凄《すさま》じい死闘の経過は知らない。知らないが与右衛門にとっては、いま眼前に見た光景だけで、心気喪失せんばかりだ。いや、眼前に見たばかりではない。おのれのくびの周囲からながれおちる血潮とともに、さしもの気力もおしひしがれ、刻々と生命力も消耗してゆきつつある恐怖にとらえられている。
「そ、それゆえ、わしは、これから壷下ろしの番所へ――尼僧たちは逃せ、といいにゆくところであったのじゃ」
「左様か。それでは斬るのではなかったな。それはちと気の毒なことをした」
般若面のかげからつぶやいた声は、しかしあまり気の毒そうでもない。
「では、暫時、うぬはそのまま立っておれ。ふりむくと、やはり斬らねばならんのでな」
数分たった。妙な音がきこえるが、ふりむくどころではない。
「よし」
はじめて、ふりかえると、そこに陣笠の朋輩がひとり立っていた。ただ陣笠の下は、頭から頬にかけて、血に染まった白い布にグルグル巻きにされて、左の眼だけのぞいている。槍のかわりに、仕込|杖《づえ》をついている。――みると、そこにぬぎすてられた墨染めの衣と、はだかに剥《は》がれた首のない屍骸《しがい》がひとつあった。
「おい、うぬの仲間で、まだ生きておる奴で、このわしの姿と声に似ておる奴はいないか」
「そ、その顔に似た奴――」
「のぞいてみえるのは、この一眼だけじゃが」
「…………」
「ええ、いいかげんでよい」
いらだった声に、大角与右衛門は戦慄《せんりつ》して、
「そ、そういえば、野呂万八という男に」
「野呂万八はいまどこにおる」
「たしか、お城に」
「よし、ゆこう。――こい!」
陣笠姿の「野呂万八」は、血まみれの大角与右衛門をひったてて、雪の山路をもときた方へ駈けのぼっていった。
灰色の雲にそそり立つ倉手山の麓《ふもと》ちかくに、慶長《けいちよう》二年以来、番所が置かれていた。蒲生氏郷《がもううじさと》が作ったもので、加藤家がこれをつぎ、鉄砲まで数|梃《ちよう》そなえつけてある。
その番所のまえに立った十人あまりの芦名衆が、金の曲り方面から上ってくる雲水の大群を見下ろして、どよめいていた。
「……きゃつらではないか?」
「あの尼僧ども」
「当国を逃げるとみえるが、どうする?」
「ここにくるまでのあいだの芦名衆はどうしたのだ?」
「――やっ、来たぞ、陣笠が二つ見える」
彼らはいっせいに槍をそよがせて、眼を見張った。――いかにも、白い路《みち》を、ふたりの芦名衆がかけのぼってくる。一列縦隊の雲水を追いぬいて、やってくる。――が、その姿が、すこし異様だ。
ひとりは陣笠の下の頭を白い布でくるみ、杖をついているし、もうひとりはその肩にかつがれて、しかも両人血まみれだ。それがはっきりわかったのは、このふたりが番所と雲水のむれの中間あたりまでやってきたときであった。何かさけんでいるらしい。
「……おおい、おおいっ、はやく、きてくれっ」
番所の芦名衆が、どっとかけ出したとき、ふたりが雪の上にヨロヨロと崩折れるのがみえた。
ころがるようにはせ下りて、
「あっ、大角与右衛門、どうした?」
大角与右衛門はあおむけにたおれ、もうひとりはかがみこんで、オロオロと与右衛門のくびをなでまわしていた。与右衛門のくびは血まみれだ。
「般若《はんにや》面があらわれたのだ、みんな、やられた!」
と、白布の芦名衆はあえいだ。
「何、ど、どこで?」
「金の曲りのすぐ下だ」
「みんな、やられたと? それで、般若面は?」
「また若松の方へはせかえっていったが――」
「ううぬ、きゃつ――」
どっと、一団となってその方向へ走ろうとする芦名衆が、前方から上ってくる雲水のむれにためらったのと、白布の芦名衆が呼びとめるのが同時であった。
「まて、それより、与右衛門、銅伯さまの下知をつたえろ」
「銅伯さまは……あの尼僧たちは領外に逃がせ、ただ面体をあらためて堀の女たちは逃がすなと……」
与右衛門は白くむいた眼で、のぞきこんだ血まみれの朋輩を見つつ、気息えんえんといった。
「何、あの尼僧どもは逃がす?……」
ふしんげに与右衛門ともうひとりの芦名衆を交互にみていた連中のうち、ひとり奇声を発した者がある。
「はて、こやつはだれであったかの?」
「野呂、……野呂万八……」
と、瀕死《ひんし》の大角与右衛門はそこまでいったが、ふいにのどをしぼって猛然と何やらさけび出そうとした。――
――ちがうっ、とさけんだようだが、よくわからなかった。なぜなら、
「何といった?」
同時にわめいてのぞきこんだ白布の芦名衆が、そののどをおさえたとたんに、大角与右衛門はガクリと落入ってしまったからだ。
「やはり、死んだか?」
と、彼は暗然とつぶやいた。その指のひと押しで、与右衛門のいのちが冥土《めいど》へとんだことはだれも知らない。みな、その姿を見まもって、
「おお、そういえば、野呂万八だ。おぬしもやられたのか?」
「やられた。まさに六人、一太刀だ。からくも生き残ったのは、この与右衛門とおれだけだったが――無念」
と、野呂万八は身をふるわせてうめいた。左の眼だけのぞいて、あとは血に染まった白布で口まで覆われているので、声も陰々としゃがれてきこえる。
「そ、それで、きゃつの作り出したあのにわか尼どもを逃がせというのか?」
「あの旗を見ろ、これは江戸東海総持禅寺の尼僧なり、男たるもの一指をも触るることなかれ、沢庵、とある。あれには、どうしても手を出し難い――と銅伯さまは仰せられたとやら。また与右衛門がきいてきた御下知にはだ、すでに沢庵を虜《とりこ》としたゆえ、所期の目的は果たした。さらに、この際あの尼僧どもが領内より消えることは、堀の女たちを捜索するにかえって好都合だと申された由じゃ」
と野呂万八≠ヘいって、一つ眼を悲しげにあげて、
「む、無念だが、いまさら般若面を追っても追っつかぬし、それに貴公ら、いっても歯が立たぬぞ」
「何を――」
「それより、あの尼僧どもの面体をあらためろ、堀の女たちが混っておりはせぬか」
「おお」
尼僧のむれは旗をひるがえし、すぐそこまできていた。
芦名衆はあわてて、大角与右衛門の屍骸をかついで番所にかけもどり、鉄砲に火縄をはさんで、
「待てっ」
と、上ってきた尼僧たちを呼びとめた。
「藩命により、その方らの面体をあらためる。その頭巾《ずきん》をさげろ――」
尼僧たちは素直に頭巾をさげた。なかには、ニコと微笑んでいる者もある。一いちあらためてゆくうちに、雪の中に咲いた時ならぬ花の芳香に、芦名衆の面々は酔いしびれそうになった。これほど美しい女たちを、みすみす会津の外に逃がすのか、と思うと、いかに銅伯老の命令でも歯ぎしりしたくもなる。
堀の女たちは、ひとりもいなかった。
「通れっ」
と、くやしげに芦名衆がさけんだとき野呂万八≠ェいった。
「おお、そうだ、銅伯さまの仰せには、どうせわざと逃がす尼僧ども、いっそのこと、五、六人ついて、奥州街道まで送ってやれとのことであったそうな。わしもゆこう。傷はいたむが、わしもゆこう」
十兵衛は、念の入ったことをやる。
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幻法「夢山彦」
「何いない?」
「どこへいった?」
漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》と香炉《こうろ》銀四郎はかんばしった声をあげた。――若松城本丸の廊下である。
ここの一画を沢庵《たくあん》とおとねの居室にあててある。表面は、その食事、寝具その他万般にいたるまで鄭重《ていちよう》をきわめているが、お世話役と称して十数人の小姓を配し、むろんその実、ていのいい監禁である。
――いや、そのつもりであったのだが、お世話役はまったくこの両人をもてあました。沢庵和尚は七十二歳というのに、その活発なこと幼児のごとく、日中、ちっともじっとしていない。あっちこっち勝手に出歩き、出歩いたさきで勝手なことをやる。
「あいや、それより向うへは、御老体のおみ足では」
と、制止しようとしても、
「何々、苦しゅうない、行脚には馴《な》れておるで」
と、へいきで二ノ丸、三ノ丸、はては帯廓《おびくるわ》から西出丸、北出丸の方までいってしまう。
「これは、藩士外禁制の当城の大事でござれば」
決死の形相で立ちふさがれば、
「ほう、当藩の秘密。……さては御|謀叛《むほん》でもお企《くわだ》てか」
ギロリと眼光をひからせて、小姓たちを絶句させたかと思うと、急にカラカラと笑い出し、
「これ、わしは公方《くぼう》に仏の道を教える坊主ではあるがの、下司《げす》下郎の隠密《おんみつ》ではないぞ。だいいち、城の縄張りなど、一向分からぬよ」
と、数珠《じゆず》をもみ、
「どうじゃ、せっかく当城に滞在しておるのじゃ、ついでに式部《しきぶ》少輔《しよう》どのに、ありがたい仏の道を説いて進ぜよう」
と、足をかえす。
二、三度、とうとう明成がつかまって、やむを得ず禅師の禅話|乃至《ないし》法談をきく破目におちいったが、いやその話のながいこと、たいくつなこと言語に絶し、明成は気息えんえんとなってしまった。堀の女たちのこと、雪地獄のことなど、一語もいわない。
これに懲りて明成が、もはや二度とあの坊主の説教をききたくはないぞ、と厳命を下したことを、知るや知らずや沢庵は、何かといえば、
「ところで、思い出したが、きょうは大安の吉日、では明成どのにひとつ禅話を」とか「きょうは留連の悪日、厄払いにみっちりと法談を」とかいい出して、家臣たちを、ほとほと困惑させる。
それ以上に彼らの手をやかせたのは、沢庵にくっついて入ってきた例のおとねという娘で、これが正気なのか、きちがい娘なのかわからない。
いや、沢庵のそばにいるときは、しとやかで、まめまめしく、何の異常もない娘だが、時と場合では、手のつけられない、天衣無縫の行動をやってのけるのだ。
ある日。
おとねがいない。沢庵にきくと「さあ、小便にでもいったのじゃろう」と澄ましている。厠《かわや》へいったが、その気配はない。あわてて城侍たちが右往左往しているうち、その一群が、本丸をめぐる多聞《たもん》の東南の二重|角櫓《すみやぐら》ちかく通りかかると、ふいに頭上からハラハラと銀色の雨がふった。
おや、空に雲もないのに、とふりあおぐと、その蒼空《そうくう》を背景にし、そばの松の木の高い枝に仁王立ちになっている娘の姿がみえた。一方の手は頭上の枝をつかんでいるが、一方の手は裾《すそ》をたかだかとからげている。
「あっ、ぷっ」
狼狽《ろうばい》して顔をなでまわす侍たちを、ケラケラと笑って見下ろしているおとねであった。
またある日。
へいきで城の門のひとつを外へ出ようとするおとねをつかまえたが、「わたくしたちはこの城の客であって、人質ではない」と昂然《こうぜん》としていう。その処置に窮して、銅伯の命令を仰ぐために人を走らせる一方、「当城のならいとして、出門の者は身柄を改める」といったら、いきなり一糸まとわぬ姿となって、門番たちの胆《きも》をぬいた。
銅伯の命令は、そのまま出せ、堀の女たちの隠れ家にゆくかもしれないから、気づかれぬよう、ひそかにつけろ、ということであった。それで、尾行すると、彼女は城外の濠ばたで子供たちと小半日|鞠《まり》をつき、例の手鞠|唄《うた》をうたって、そのまま何のこともなく城にかえってきただけである。
またある日。
城主明成が二ノ丸か三ノ丸かへゆくために、偶然沢庵の居室のちかくの庭を通りかかると、どこで見ていたのか、風鳥のようにおとねが飛んできて、愛妾《あいしよう》おゆらがみているまえで、あっというまに明成のくびにしがみついて、その口を吸った。
「おなつかしや、会津《あいづ》の殿」
「ぶ、ぶ、無礼者」
明成が仰天しておしのけると、全身をくねらせて、ぶきみな媚笑《びしよう》をもらしながら、
「まあ、無礼者などと――ここへくる道中、駕篭《かご》の相乗りでいつもわたしがこうしてあげたら、殿さまは眼を細うしてよろこばれたではありませぬかえ」
そこへ、オロオロと沢庵があらわれて、
「や、何をしたか、おとね、御無礼はならんぞ――明成どの、狂女のことゆえゆるされいよ。こやつは、明成どのを、こやつをきちがいにいたした偽大名とまちがえておるのじゃ」
と、まじめくさっていう。――
まさに、狂女の所業だ。事実、こんなことをやってのけるときのおとねの眼のひかりは、あきらかに常人ではない。メラメラと異様な執念の青い炎にもえているようにみえる――これが天真|爛漫《らんまん》な童女めいた容貌《ようぼう》の女ならまだしも、おとねはそうではなく、美しいながら質朴《しつぼく》な田舎娘《いなかむすめ》の顔だちと姿態をもっているのだから、いっそう凄惨《せいさん》で、うすきみがわるい。
しかし、これは狂女ではない、と明成、銅伯らはもとより看破している。しかも、それを看破されていることを、ちゃんと承知した上でのおとねの不敵なふるまいらしい。
にもかかわらず、明成がおとねの行状を黙視せざるを得ないのは、沢庵があくまでも彼女を狂女とし、侍女としているからであった。
とはいえ、明成が、また漆戸虹七郎や香炉銀四郎が、ただ唖然《あぜん》として城に入った沢庵とおとねの傍若無人のふるまいを見ているわけではない。彼らは鬱屈《うつくつ》し、また憤怒し、そしてその憤懣《ふんまん》は、沢庵やおとねよりも、むしろ銅伯にむけられた。
明成がイライラとした眼できく。
「銅伯、きゃつらを何のために城に入れたのだ? 沢庵を城に入れればわが事成ると申したのではなかったか?」
「いかにも左様。あの坊主を以て、般若《はんにや》面の男を釣り出す所存で」
「いつ釣り出す?」
「いましばらく」
「なぜ?」
「般若面が当領内におりませぬゆえ」
あれから――北に般若面が尼僧群をひきいて会津から脱出してから、もう十日たつ。
いまにして、沢庵がみずから城に入ってきたのは、たんに首合戦に降伏したのではなく、その尼僧群をのがすための陽動であったことを知る。おそらく沢庵は、わが策あたれりとほくそ笑んでいるであろう。しかし、こちらの目的としているのは、尼僧たちではない。般若面と堀の女たちなのだ。
その尼僧らはどうでもよいが、彼女たちが壷《つぼ》おろしの番所を越えていったとき、それについていった野呂万八という芦名衆が、その実あの般若面らしいことは、一日後に判明していた。城に本物の野呂万八がいたからだ。
あわてて追手を出したが、すでに一行は遠く二本松領に入ったあとであった。偽物の野呂万八に、うまうまと誘い出されて同行した六人ばかりの芦名衆はどうなったか、ついにかえらないが、いままでの般若面の凄《すさま》じいやり口からして、その運命は察するにあまりある。
ただ、この尼僧群のなかに、堀一族の女たちがいなかったことだけは確実であった。
それにもう一組、猪苗代湖《いなわしろこ》をわたって南へ逃げた奴らがある。それを猛追撃してたおしたのは、すべて沢庵の弟子僧ばかりで、あと二人、忽然《こつぜん》とゆくえを絶ってしまったが、あれはおそらく堀の女たちであったにちがいない。
彼女たちが何のために会津を脱出しようとしたかがわからず、また果して脱出し得たかどうかも不明だが、少なくとも五人の堀の女がまだ領内に潜伏していることは確実だ。
「般若面はかならずまた会津に戻ってくる。戻ってこずにはおかぬ奴でござる。それを銅伯は待っております。沢庵をとらえたのは、あの般若面の男を釣る餌とするため、般若面を料理すれば、あとの女どもは雑魚《ざこ》にひとしいと存ずる」
「きゃつが戻ってきたら、たしかにわかるか」
「その点、いのちをかけて国境を見張るよう、芦名《あしな》の者どもに命じておきました」
「きゃつなら――いかに見張っておっても、魔神のごとく入ってくるぞ」
「おそらく、見張りの者どもがことごとく死びととなるは覚悟のまえ、それできゃつが入ってきたことがわかれば十分でござる」
「銅伯さま」
虹七郎と銀四郎が、歯ぎしりしてこもごもきく。
「沢庵を餌として般若面を釣ると仰せられるが、あの坊主がそうやすやすと餌になりますか。また般若面がそううまうまと釣れますか」
「餌になる。釣れる」
「あの坊主を逆吊《さかさづ》りにでもして、城門にさらすおつもりなら出来ましょうが」
「左様なことはせぬ。それができるなら、最初よりこれほど苦労はせぬ。沢庵自身をして、般若面を呼ぶようにさせるのだ」
「いかにして?」
「夢山彦によって」
しずかに、炎の燃えるような声であった。
虹七郎と銀四郎は、事実いまこの城の天守閣の一室に燃えているふしぎな炎を思い出した。沢庵が城に入った日の夜から、銅伯が命じて作らせた火炉の炎であった。
――あきらかに銅伯は、ある準備にかかっているのだ。
その炎の色を思い出すと、ふしぎに虹七郎や銀四郎の焦燥や不安は凪《な》いで、この神秘な百八歳の老首領への信頼があぶらのようにひろがるのをおぼえる。ただ不満なのは、じぶんら両人が手をこまぬいていることだ。
「銅伯さま、それでおれたちは」
「般若面が城に入ったら、あとはうぬらの手に委《まか》す。……斬れ」
「はっ」
「斬れるか?」
笑う銅伯を、ふたりはかっとしたように見あげた。
――その般若面が帰ってきたのだ。銅伯の予言の通りに、ついにきゃつがふたたび会津に入ってきたのだ!
その情報を、ふたりはいま北東の信夫《しのぶ》郡と耶麻《やま》郡の境の土湯峠から馳《は》せてきた伝騎からきいたばかりであった。あれから十日――してみると、般若面は尼僧たちを上ノ山まで送らず、途中でもはや大丈夫とみて、おのれのみひとりひきかえしてきたのであろう。むろん、土湯峠の見張り小屋の芦名衆の大半は斬られたという。――
芦名銅伯の眼は爛《らん》とひかった。そして、ふたりに命じた。
「禅師に、銅伯、しばし御面談の機を得たいが、御都合はいかがと承わって参れ」
それでふたりは、沢庵の居室にやってきた。
ところが、沢庵もおとねもいない。のみならず監視役の侍たちの大半もいない。
そこの廊下にポカンと坐《すわ》っていた小姓にきくと、沢庵は、この城を攻め落す兵学を講義するといって、みなをつれて庭の方へ出ていったという。――
「それで、一同、金魚の糞《ふん》のごとくくっついていったのか」
「はっ、あまりにも思いがけぬ、ききずてならぬことを申されますゆえ」
「たわけっ、会津侍が会津城を攻め落す法をきいて何になる?」
虹七郎と銀四郎は走りだした。
――この十日ばかりのあいだに、春は急に足どりを早めたように思われる。
雪溶けの季節に入っていた。北国の春は、訪れると早い。無数の居館や蔵や長屋や、櫓《やぐら》、多聞《たもん》、塀。層々と波うつ甍《いらか》から幾千条かの銀のすじを垂れる水が、風が吹くといたるところに虹《にじ》をえがく。梅は赤い蕾《つぼみ》をふくみはじめているし、雪はもう日陰だけに残り、あらわれた黒土からは、はや青い草さえほの見える。
ただし、もとよりそれは平野だけのことで、会津盆地をとりまく四周の山波は、まだ壮絶なばかりの雪びかりであった。
「や?」
本丸の庭をつかつかと歩いていた虹七郎と銀四郎は、向うの多聞の下を、ツツと走ってゆくひとつの影に眼をとめた。日陰をひろって飛んでゆくが、はなやかな裾《すそ》をみだして――おとねだ。
「あれは巽《たつみ》の隅櫓《すみやぐら》の方から出てきたな」
「ううむ。……すると」
「雪地獄の方からだ」
「そういえば、いつかあの女、やはりあの隅櫓のちかくの松の木の上から芦名衆に尿《いばり》をひっかけたことがある」
「しかし、きちがいではない。あの走り方を見ろ」
「では、きゃつ、雪地獄のありかを探って……ついに捜しあてたか?」
「それにしても、あれほどいってあるのに、あの娘にきままな行動をとらせて、監視の奴らは何をしているのだ?」
「雪地獄の所在を知ったとなると、いよいよ以て、きゃつら生きて城は出せぬな」
影を追って、走りながら話す。
――と、本丸の庭の一画、東南の小高い丘の上に、十人ちかい侍たちが輪をつくって、その中で手をふって演説する沢庵の姿が見えてきた。
「――で、いま申す通り、なるほど鶴ケ城は天下の名城、さすがに芦名衆が築き、蒲生氏郷《がもううじさと》、また当家の先代という名将が手を入れられただけのことはある。この縄張りでは、たとえ百万の大軍に囲まれても不落であろう。東西南北、ほとんど隙がない。ただ一か所――」
そのとき、おとねが駈《か》けこんで、沢庵の耳に口をあててささやいた。その姿に、侍たちははじめて彼女の存在を思い出した風で、急に顔を見合わせて私語しはじめたが、すぐにそのざわめきを押えるように、
「ただ一か所、巽の方角――あの小山」
沢庵が指さしたのは、東南にせり出した小田山という山だ。
「あそこを敵に押えられると、城は一望のもとに見下ろされる。と申して、あの山を守るこれといった構えもないようじゃな」
城の縄張りは知らぬ――といったくせに、沢庵は大軍師みたいなしたり顔でいう。
ふいに人垣が崩れた。荒々しく左右にかきわけ、虹七郎と銀四郎が入っていったのだ。
「禅師」
「おお」
「はなはだ唐突ですが、芦名銅伯、禅師たちと御談合いたしたいと申しておりますが、御都合いかがでござりましょうか」
「…………」
一歩、入って、沢庵は立ちすくんだ。
――芦名銅伯が逢《あ》いたい、漆戸虹七郎にそう告げられて、心なしか沢庵の瞳《ひとみ》のおくに、きらっと何やらひかったものがあったが、すぐに気軽に、さりげなく、
「おお、銅伯がわしに話したいことがあると? いや、わしの方でも銅伯に話したいことがある。よかろう、いってやろう」
と、おとねを従えて、ヒョコヒョコとついてきたものだ。
天守閣に入る。夕方ではあったが、めだって日がながくなり、まだ外は明るいのに、先に立った虹七郎と銀四郎は手燭《てしよく》をつけて案内してゆく――木の階段が、石の階段に変った。
――はて?
と、沢庵はくびをひねる。
――これは、地の底へゆくな。
会津侍たちの制止も風馬牛と、自由気ままに城内を歩きまわった沢庵だが、天守閣の真下にこのような地下室があろうとは、いままで気がつかなかった。
ギ、ギ、ギ……と、虹七郎と銀四郎が厚い扉をひらいた。
――そして、一歩その中に入って、さすがの沢庵が心中あっと眼を見張った。
それは巨大な石の部屋であった。まわりは石垣のような石を見せたままになっている。部屋はむろん四角であった。その中に三角の壇が作ってある。むこうの一辺は石壁に密着しているが、こちらの一頂点は、手前の石壁のまんなかにピタリとあたるように作ってある。
正面の祭壇には大きな鏡が立ててあり、その前の香炉からはけむりが青い糸を吐いている。前に置いてあるのは香炉ばかりではなく、灯明、念珠、鈴、瓶、法螺貝《ほらがい》、金剛杵《こんごうしよ》、刀、弓矢などがにぶいひかりをはなっていた。
――こやつ、修法《ずほう》を行うのか?
沢庵の眼には、このとき三角壇の向うの両端、つまり石室のふたつの隅においてある大きな蓮華《れんげ》形の青銅の鉢と、そのそばに坐っている白い影を見た。ふたりの美しい女――まるで魂のない大理石の塑像のような姿は、全裸の女であった。
三角壇は真紅だ。朱を塗った色ではなく、灯が暗いせいか、異様な黒ずんだぶきみな赤さで、それがほんのいま塗ったようにヌラヌラとひかっている。香の薫りと、油のような匂いと、そして何か吐気のするなまぐさい異臭がもつれあい、ひろがっていた。
赤い三角壇の中央に、こちらをむいて、円座の上に芦名銅伯が坐っていた。
「お呼び立ていたし、御無礼、おゆるしを――」
陰々たる声で、銅伯がいった。
「そこへ、ござれ」
銅伯のまえには、二つの円座が置いてあった。
階段を踏んで、壇上に沢庵とおとねは上った。沢庵に従ってこの城に入ったときから、すでに死を決しているつもりのおとねも、この凄惨幻妖《せいさんげんよう》の雰囲気に圧倒されて、紙のように顔色が白くなっていた。
ギ、ギ、ギ……と扉はとじられ、そのまえに手燭をふきけした漆戸虹七郎と香炉銀四郎が影の如く坐った。
灯がきえると、芦名銅伯の姿が、ぼうっと赤いひかりの中に浮かびあがってみえた。下にいると見えないが、銅伯の向うに壇のかたちにあわせて三角形の火炉が掘ってあって、そこに燃えるともなく、炎が燃えているのであった。
沢庵は、銅伯の前にむずと坐った。
「老人、何の用か」
しずかな声でいう。銅伯もまた沈痛にこたえる。
「もはや、多くは申さぬ。禅師……このまま、江戸へおひきとり下されませぬか」
沢庵はじっと見て、うすく笑った。銅伯は微動だもせぬ。
「かようなことをいい出すには、手前、よくよくかんがえてのことでござる。相手は名だたる沢庵どの、ただではおひきとり下されと申してもおきき入れは下さるまい。謀叛人《むほんにん》たる七人の女はゆるす。このまま、たがいに勝負なし、引きわけと致そうではござらぬか」
沢庵はふいに快活な声で笑った。
「虫がよいな、銅伯」
「いや、銅伯はこの首をさしあげる。殿に代り――」
「なに?」
「ただし、七人の女はゆるす代り、あの般若《はんにや》面の首をもらい受けたい。――有象無象の首合戦はもはや終った。この銅伯とあの般若面の首、これをひきかえにして、千秋楽のうちどめと致したい」
「ずるい、ずるいぞ、銅伯」
沢庵は子供みたいに手をたたいた。
「どこがずるいのでござる。この銅伯が死ぬと申しておるではござらぬか」
「おまえは、主君の代りに首を出すといったではないか。しかるに、こちらには、般若面の首を出せという――主君の首が浮く。また、そこにおる香炉、漆戸という牛頭馬頭《ごずめず》の首が浮く。その勘定合わぬぞ」
「だから、七人の女――加藤家にとって八つ裂きにしてもあきたらぬ謀叛人どもをとくにゆるすと申しておる。勘定は合います」
「では、鎌倉《かまくら》と江戸でむざんな最期をとげた堀一族のいのちはどうなるのじゃ?」
沢庵は叱咤《しつた》した。
「あのものどもの代りに、明成と香炉、漆戸の首もらい受けて、はじめて勘定が合う。その三つの首、そこにならべてくれれば、沢庵は般若面によういいきかせ、七人の女をつれて江戸にかえる。条件はそれだけじゃ。条件はこのほかにない!」
銅伯は深沈たる眼で沢庵を見た。
「――では、やはり、この和談は決裂でござるな?」
その声がしみ入るように消えていって、彼はそれっきり黙りこんだ。
銅伯は坐《すわ》ったまま、首をたれた。パチ……パチ……かすかに音をたてて三角火炉の護摩木がもえる以外、石室には海底のような静寂が氷結した。
「あ。……」
ふいにおとねが眼を見張って、名状しがたい恐怖の声をもらした。
――おとねが恐怖の声をあげたのは、銅伯がうごいたからではなかった。銅伯はうごかない。芦名銅伯は、首をたれたままうごかない。
「ね、ねむって、おりまする……」
おとねは、沢庵の衣の袖《そで》をひいた。
うなだれた銅伯の首の下から、かすかに息の音がきこえた。いびきだ。――対話の途中で、ふいに黙りこんだきり、銅伯はまさにねむっているのであった。
――と思うと、息の音が、声に変った。
「……兵太郎よ……」
ねごとのような不透明なつぶやきだが、そういったようにきこえた。
「……おなじ胎《はら》で、未生以前のおなじ夢をみて人となった芦名兵太郎よ……」
それっきり、彼はまた、ふかい寝息のみをもらしはじめた。
そのとき、音もなく漆戸虹七郎と香炉銀四郎が三角壇の上へのぼってきた。影のようにうごいて、火炉のそばに身をかがめ、中でくすぶっていた薪を一本ずつとりあげて、左右へ分かれて歩いてゆく。
祭壇の両端、つまり石室の隅にある青銅の蓮華鉢の方へ。
「なむ、にけんだ、なむ、あじゃはた、そわか……」
「おん、ばさら、ぎに、ねんばたな、そわか……」
ぶつぶつと、ふたりは呪文《じゆもん》をとなえていた。炉の灰をふりおとされた薪は、メラメラともえあがっている。――そして、蓮華鉢のそばに立った。
「南無、火天|閻魔王《えんまおう》、火の音を天鼓になさしめたまえ」
そういって、ふたりはそれぞれ薪を鉢の中にさし入れた。鉢の中には油のようなものがたたえられていたらしい。それは、ぼうっと赤い炎をあげた。
それまで、人形のようにうごかなかった全裸の女人が、すっと白い腕を水平にさしあげたのはこのときであった。一方の手に、キラとひかったものがあるのに、はっとしたとき、ふたりの女は、まるでおのれ自身以外の力に鞭《むち》うたれたように、みずからの持つ短刀で、さしのべた一方の腕を、ぷつと手くびから切りおとした。
――青銅の鉢の中へ。
二個の掌《て》は、もえる炎の中へおちた。しかも、ふたりの女は、手くびのない腕を棒のようにさし出したままうごかない。――夢みるように、ウットリとつぶやいているのであった。
「南無、大憤怒魔王、満天破法、十万の眷属《けんぞく》、八万の悪童子、こたびの幻法夢山彦に加護候え――」
手くびを切りおとした瞬間、あっ――膝《ひざ》を浮かせようとしたが、沢庵とおとねは、全身が金縛りになったようで、声も出なかった。
切りおとした二本の腕の切断面から、血はじょうじょうと、無限に二つの鉢へながれおちる。
蓮華鉢の炎が、赤から青へ、そして暗紫色に変わった。それはひかりを失い、もはや炎というより煙となってうずまき、雲のごとく祭壇をつつんでいく。――沢庵とおとねは、その暗紫色の煙が、しだいにじぶんの脳髄をけぶらせてくるのをおぼえた。
「ううむ。……」
渾身《こんしん》の気力をふりしぼり、沢庵はそのけぶりをふりはらおうとした。
それが、ふいにまた凝然とうごかなくなったのは、そのとき煙の中に、しだいに浮かびあがってきた或る人物像を見たからだ。
銅伯だ、とはじめ見て、その銅伯がすぐ前に坐ってうなだれていることに気づき、もういちど遠い祭壇の正面をにらみつけた沢庵は、そこに坐っている老人が、一見銅伯そっくりでありながら、衣をまとった僧形であることにはじめて気づいて、
「あっ、南光坊天海どの!」
と、のどのおくで絶叫していた。
さすがの沢庵が、心中うっとうめく思いにうたれたのは、それが画像や木像ではないと直感するものがあったからだ。やや、薄いが、その顔には生色がある。その姿にはうごきがある。まさしく、生ける天海大僧正だ。
あやうく沢庵は両腕をつかえようとして、しかし、すぐにひざを岩のごとく三角壇にゆわえつけた。
そんなことのあるべきはずはない、と当然かんがえられたからだ。江戸の寛永寺にある僧正が、忽然《こつぜん》と会津にあらわれるはずがない。いや、こちらが会津に入って以来、終始不断にこの鶴ケ城に眼をそそいでいるが、南光坊がここを訪れたことは金輪際あり得ない。
鏡だ! とはじめて気がついた。あの祭壇の上には、先刻大きな鏡があった。あの人物はまさしく鏡にうつった像だ。
しかし、それにしても――沢庵はうなされたように空中をふりあおぐ。鏡ならば、その影をうつす実体がどこかにあるはずだ。それが、ない。どこにも存在しない。――あれが鏡としても、それにうつる影像が奇怪千万なことは、実体がみえないだけに、あらわれるべからざる実体があらわれたこと以上であった。
「修法《ずほう》じゃ。……」
と、うめいて、沢庵はふるえるおとねの手を、しかとつかまえた。
――しかし、奇怪なる修法もあるものかな、銅伯、何をなさんとするか?
芦名銅伯と天海僧正がただならぬ縁にあることは、すでに感づいていることだ。それゆえに、両者の関係をたしかめ、その秘密をあきらかにするため、お千絵《ちえ》とお笛を江戸に走らせたのだが、こちらでその沢庵の眼にまざまざと見せて――さて、何をしようとするのか?
銅伯は、端座したまま眠っている。――ほんとうに、彼は眠って夢みているのだ。
恐るべし、芦名銅伯の幻法「夢山彦」――
鏡にうつっているのは、眠れる銅伯の夢の影像なのだ。夢みるものを、彼はそこの鏡に放射して、第三者に見せるのだ。
人は、自由に夢みることはできぬ。ましてそれを第三者にのぞかせることはできぬ。――銅伯とても、よくよくのことがなければ、この修法は行ないがたい。三角壇、呪文、もえあがる女の血潮、それらはことごとくこの不可能事を可能とする幻法「夢山彦」の儀式なのであった。
人間の脳髄の瞬間的な霊感、異次元的な洞察力、消えてゆく記憶の影、埋没し去った追憶の痕跡《こんせき》――そんなものを、人は夢の中にとらえて、混沌《こんとん》たるうちに忘れはてる。それを目ざめている第三者に刻々とみせて、あとでこれを分析したとき、そこにいかに恐るべき実相がつかみ出されるかは、天才フロイドが鋭利に実証したところだ。
妖煙の中にそれを見て、沢庵の背すじに異様な戦慄《せんりつ》が走った。
もとより沢庵は、鏡にうつっているものが銅伯の夢だとは知らぬ。そんなことが人智で想像できるわけがない。彼はそれを銅伯の修法によるあやかしだと思った。じぶんたちの眼がたぶらかされているのだと思った。
喝《かつ》、魔粧のものよ走れ!
数珠《じゆず》をふるって起とうとする。その沢庵の気力と膝を三角壇におしひしいでいるのは、いままざまざと見ているものが他人の夢だという、沢庵がそれを知ると知らぬとに関せず、いまだかつてこの世の人の眼がのぞいたことのない超絶の魔相から吹きつけてくる力と、それから――それが余人ならぬ南光坊天海の相貌《そうぼう》だからであった。
なぜなら、天海僧正は沢庵にとって、ただ単なる長老の僧ではない。
三代将軍の師僧たる沢庵。
いまは亡き大御所家康の師僧であった天海。
沢庵が天海を敬重するのは、決してそんな儀礼的な、あるいは年代的な理由によるものではない。沢庵にとって天海は、しんにおのれを知る人であり、かつまた、生涯大恩の人でもあったからだ。
――十四年前。
寛永《かんえい》六年、沢庵は幕府の忌諱《きき》にふれて出羽《でわ》に流された。それまで僧に紫衣をたまわるのは勅許によったものを、その権をうばって幕府の許可を要することになったので、沢庵がこれを宗門に対する干渉として猛烈に抵抗したためである。幕府も眼中にないかのようなその面だましいに、あやうく遠島にさえなろうとするところを出羽流罪にとどめ、三年にして江戸にかえされることになったのは、天海の請赦によるものであることを、沢庵は知っている。
のみならず、じぶんが爾来《じらい》一転して現将軍家に師礼までとられるにいたったのは、これまた天海が、おのれの後継者としてすすめたゆえであることも、沢庵は知っている。
将軍の師僧たることをありがたがっている沢庵ではなく、真実のところ、少なからず迷惑にも面倒にも思っているのだが、しかしそうまでおのれを推挽《すいばん》してくれる天海が大恩の人であることにまちがいはない。
むろん、沢庵はこれらのことについて、天海に礼をのべたことはない。天海もまた黙して慈眼を以て沢庵を見るだけだ。
会えば洒落《しやれ》に笑って、ゆきすぎる。それだけだ。
しかし、七十二歳の沢庵にとって天海は、この世でただひとり敬するに足るといっていい大長老であった。
それほどの天海だが、沢庵はその素姓を知らない。いや沢庵のみならず、「黒衣の宰相」といわれているほど、だれにとっても謎の人物なのだ。
こんどの会津入りで、はじめて僧正が芦名一族に関係のあること、しかもこの魔人芦名銅伯に密接な血縁のあるらしいことを知った。おどろくべき秘密だ。
恐ろしいのは、その秘密もさることながら、いままで天海がこれを秘密にしていたということであった。あれほどの人物が、このことを秘してだれにも語らなかったのは、かならずそれだけの理由があるのだ。
まかりまちがえば、思いもかけぬ大難が僧正に及ぶのではあるまいか。会津に入って以来、沢庵の胸にゆらめいていたただひとつの雲は、この危惧《きぐ》であった。やはりこの秘密はたしかめる必要がある。その秘密をたしかめることによって、僧正におよぶかもしれぬ未然の難をふせぎ、さらにすすんでは、銅伯をおさえる双刃の剣と転ぜしめることができるかもしれぬ。
ついに、そう決心して、お千絵とお笛を江戸へ走らせたのだが――いま、沢庵は、何とはしれず銅伯に先手をうたれて、双刃の剣を逆にうばいとられたような思いがした。
時すでにおそく。
身うごきもならず、妖煙の中の天海僧正をひたと見つめている沢庵の耳に、このとき、
「兵太郎よ。……」
という、地から湧《わ》くような銅伯の声がきこえた。
「おなじ胎《はら》で、おなじ前世の夢をみて人となった芦名兵太郎よ……」
微動だもせず、うなだれたままの影から、陰々たる声がながれる。
「今生で見た夢はちごうた。……べつべつに見た今生の夢は終った。……さらば後世でまたおなじ夢をみよう。……おなじ大地の胎に入ろうぞ。……」
そのとき、蓮華鉢《れんげばち》に切断した腕をさし出していたふたりの女が、ぱたと崩折れた。全身の血をながしつくしたのだ。
同時にすっと漆戸虹七郎と香炉銀四郎が立ちあがった。
暗紫色の炎が青く変り、みるみる赤色にもどってゆく。それはこの赤い三角壇と映えあって、石室を血に染めたかともみえる炎であった。
ふたりは歩いてきた。うなだれたままの銅伯の前後に立った。
「よろしゅうござるか?」
同時にさけぶと、キラ――と赤い光芒《こうぼう》が走った。抜く手もみせず、ただきらめいた二条の刀身は、背と胸から頭領銅伯をつらぬいていた。
芦名銅伯はのけぞろうとし、崩折れようとし、髪と髯《ひげ》をふりみだしてもだえた。真紅の炎に照らされて、地獄の魔王さながらの苦悶《くもん》の形相であった。
「……ああ!」
恐怖にたえかねて、おとねがつっ伏し、失神した。それを抱き起すのも忘れて、沢庵は凝然とはりさけるような眼をむけている。銅伯ではなく、鏡中の天海に。
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沢庵敗れたりや
――江戸上野、東叡山寛永寺《とうえいざんかんえいじ》。
西の比叡山に対し、東の天台総本山として、寛永二年天海大僧正が創建したもので、大本堂を中心に、法華堂、釈迦《しやか》堂、常行堂、観音堂、輪蔵、多宝塔、その他子院三十六房、無数の堂塔|伽藍《がらん》は、まさに仏法の城ともいうべき偉観であった。
その開山の住むところとも思えぬ閑寂な僧房の一つに、南光坊天海は珍しい来訪者をむかえた。
――将軍の姉君、天樹院さまである。
茶をたてる天海は、百八歳という年齢にふさわしい神韻をはなって、しかもその年のなかばにも達しないかのようなふしぎな精気をたたえていた。
「和上にはますます御健勝で」
挨拶《あいさつ》ではなく、感にたえて見まもる天樹院に、
「まだまだ死なれぬ大事がござってな」
と、天海は笑う。
天海のいう大事とは、半月ばかりあとにひかえた将軍家光に対する天台の血脈《けちみやく》の儀式のことをいうのだ。血脈とは法門相承の授与式であって、天台宗ではもっとも重い大事とする。天海の年譜に、その七十六歳のとき「大師教に応じて駿府《すんぷ》にいたる。大御所家康血脈の相承を求む。許さず、まず、諸宗の教義をきわめしむ」とある。――それほどの大事だ。
天海八十歳にして、家康ははじめて血脈を受けた。家康の没する前年のことである。秀忠にはついにゆるさず、いま三代の家光にようやく法門の相承をゆるそうとするのであった。
軒にせまるふかい樹々に青の新芽が匂い、どこかで鳩が鳴いていた。深山のような黄昏《たそがれ》だ。
その鶴のごとき清躯《せいく》をめぐる和気が一瞬にきえたのは、天樹院が、やがてきょうの来訪の目的を告げたときであった。
「何、それが堀一族の女人と申されるか」
天樹院のうしろに手をつかえた二人の娘を見やった天海の眼にも声にも、ただならぬ驚きのひかりとひびきがあった。――彼はそれまで、そのふたりを、天樹院に従ってきたたんなる侍女と思っていたのである。
天樹院は、この両人がきのう会津《あいづ》からはせもどってきたことを告げ、またそれは沢庵《たくあん》の「大和尚と芦名《あしな》銅伯なるものとのあいだに、いかなる御縁ありや、いそぎうかがって参れ」という使命によるものであることを告げた。
「芦名銅伯」
うめくがごとくつぶやいたきり、天海は沈黙した。時のながれがとまったかのように、彼はながい間うごかなかった。
「やはり、沢庵が左様なことをきいて参るときがきたか?」
やがて天海はうなずき、顔をあげた。
「芦名銅伯。ありゃ、拙者の分身でござる」
「和尚の――分身?」
「いかにも。世の常ならぬ双生児」
「…………」
「堀|主水《もんど》の一件起ってより――高野山のこと、鎌倉東慶寺《かまくらとうけいじ》のこと、また、会津における仕置のこと――すべて、存じておる」
と、天海はいった。
「明成の背後に、芦名銅伯がおることも」
顔色暗然として、
「きゃつ、会津に対する芦名一族の執念断ちがたく、魔道におちておるのでござる」
千姫は茫乎《ぼうこ》として、天海の姿を見つめたままだ。お千絵《ちえ》から、会津に芦名銅伯という怪物が存在することをきいたが、この大僧正が、会津の魔人と双生児とは?
「銅伯は会津を芦名のものにしたいという執念に生きておる。公儀の封ぜられる大名が誰であろうと、少くとも実質においてはその体を支える骨、体内をながれる血は、芦名の骨、芦名の血たらしめようとあがいておる。その銅伯の心はわからぬでもない。会津は四百年来芦名のものでござったゆえ――」
「…………」
「それゆえ、その銅伯の望みをとげさせぬ者、さからう者は、銅伯の不倶戴天《ふぐたいてん》の敵となる。堀一族の悲劇の根はこれでござる。また加藤家以前に会津に封ぜられた蒲生氏郷《がもううじさと》が、あたら抜群の大器を四十歳にしてむなしゅうしたは、世にその剛毅《ごうき》の将来をおそれて、太閤《たいこう》あるいは、石田|治部《じぶ》少輔《しよう》が毒殺したのではないかという風聞さえながれたほどでござるが、拙僧は……当時会津の磐梯山《ばんだいさん》の山中にひそんでおった銅伯の呪殺《じゆさつ》によるものではないかとさえ思うておる」
「…………」
「蒲生のつぎに会津の領主となった加藤家、とくに当代の明成の暗愚なのをみて、きゃつ、わが事成れり、わが時至れりと手をうったに相違ござらぬ。はたせるかな、いつのまにやら銅伯とその一味は加藤家の身中ふかくくいいって、これにあらがうものは四国以来の加藤家|譜代《ふだい》のものなりと、堀主水にみるような運命に追い落とされるにいたった」
「…………」
「拙僧はそれをみて、鬱々《うつうつ》案じてはおったが、むなしゅう手をつかねておるほかはないうちに、悪業のきわまるところ、ついにこのたびのごとき破局をむかえた次第でござる。沢庵が会津にいったことも存じておる。彼が会津にいったは、堀一族の復讐《ふくしゆう》を助けんがためであることも存じておる。たまりかねて拙僧は、たまたま芦名のものにゆきあった際、銅伯に戒めの伝言をいたしたなれど、きゃつの修羅の夢はついにさめなんだと見受ける」
長嘆|瞑目《めいもく》する天海を、天樹院は見つめて、これまたはじめて嘆息をもらした。
「和上が、その芦名銅伯とやらと双生児であったとは、はじめて承わりました」
そしていった。
「わたしは、加藤家のあまりな悪逆非道にがまんなりかねて、このことを将軍家に訴えた。将軍家は、何としても堀主水は主家に弓ひいた男、それを加藤家で誅戮《ちゆうりく》するは、政道の手前、やむを得ぬと申されたが、その顔色に苦しげな惑いがあった。ならばよし、公儀の手をかりるより堀の娘たちの手によって復讐の刃《やいば》を加えた方が天誅の意にかなうものであろうと思うて、わたしはひきさがったが……」
「…………」
「いまにして思えば、将軍家にためらいの色が見られたは、和上と銅伯が双生児の縁であることに御遠慮なされたのであったか」
「されば」
と、天海はうなずいた。
「拙僧出生の秘事を御存じなは、ただいまのところ、将軍家と老中松平|伊豆《いず》のほかにはござらぬが、それを秘事といたすゆえは、ただ天海と銅伯が双生児であるということのみではござらぬ」
「と、申されると?」
「銅伯を殺せば、この天海のいのちも絶えるからでござる」
「和上のおいのちが絶えられる!」
「いかにも――それがすなわち先刻、世の常ならぬ双生児と申した理由。なんたる星を負うて生まれた双生児か、この天海と銅伯は、それぞれ兵太郎、法太郎と呼ばれておった幼児のころから、兵太郎が傷つけば法太郎も痛み、法太郎が痛めば兵太郎も苦しむという縁でござった」
「…………」
「わしにはわかっております。また銅伯も知っておりましょう。おそらくわしが死ねば銅伯も死に、銅伯が死ねばわしも死ぬということが」
「…………」
「これは逆に申せば、銅伯が死なぬかぎり、わしは死なぬ。わしが死なぬかぎり銅伯は死なぬということで、両者のつりあいがとれれば、両者は不死の生命を得る」
お千絵の顔色は紙のように変っていた。彼女は、或ることに気がついたのだ。天海僧正が死なれぬかぎり、芦名銅伯は死なぬ。
天海は、先刻までとは別人のように暗い凄味《すごみ》をおびた眼でお千絵を見やった。
「されば、沢庵は危い。――いかに沢庵が策をめぐらし、手をつくそうと、銅伯は死なぬ……」
「和上、けれど」
「和上は、わしが死ねば銅伯は死ぬと仰せられる。しかしまた銅伯が死なぬかぎり、わしは生きてゆくと仰せられる。それは二匹の蛇がたがいに尾からのんでいったらどうなるか、というようなお話ではありませぬか」
――期せずして、これは会津の城でおゆらが銅伯になげた疑問とおなじ問いであった。
それに対して、これまた期せずして天海は、銅伯とおなじ返答を以《もつ》てうなずく。
「それは、銅伯とわしの星の強い方が勝つのでござる。いや、人間力の強い方が一方をひきずるのでござる。いまは――いまは、両人相伯仲しておる」
膝《ひざ》においたこぶしをにぎりしめて、
「南光坊天海と芦名銅伯がかかる縁につながれた双生児であること――百八年の秘密は、かかる事態に立ちいたり、天樹院さまなればこそ打ちあけたことでござる。いままでこのことを天海が黙し、将軍家にもかたく秘して下されたわけは、なんぴとかこの秘密を知れば、天海を討ちたくば、あの銅伯を討つ、銅伯を討ちたくばこの天海を討つ、そのとき相手の星の力、生命力のまさっていたときは、他の一方はそれにひきずられて息絶えることを、余人に知らせぬためでござった」
「……では」
と、お笛がひくい声でつぶやくのがきこえた。――そのふところに手が入ったのをお千絵はみて、「……あっ」と口の中でさけぼうとしたとき、天海は、はたとお笛を見すえた。
「両者の星の力は伯仲しておる。――いいや、少なくともわしは負けはせぬ」
おなじ沈痛な声であったが、お笛は磐石におしひしがれたように身うごきできなくなった。
頭のいささか弱いお笛だが、それだけに「銅伯を討ちたくばこの天海を討て」という言葉に、単刀直入な反応を起こして、とっさに懐剣をつかんだのだが、眉雪《びせつ》の下の炯《けい》たる眼光に射すくめられて、金縛りになってしまったのであった。
「沢庵いかに驚天の兵法を用い、渾身《こんしん》の勇をふるおうと、銅伯はついに不死身でござろう。この天海が生きておるかぎり。――銅伯一味の悪行は存じておる。また堀一族の恨みに思い至れば、この胸ははりさけるようではござれど、右の次第ゆえ、どうにもならぬのじゃ。天樹院さま、かくなってはこの愚僧にできることは、会津に残っておる沢庵と堀の娘たちを、せめてはぶじに江戸へ引揚げさせることでござる。このことについては、ここ数か月、わしも夜々|輾転《てんてん》として思案しておったことじゃ。いまようやく決心がついた。わしが銅伯に文《ふみ》をやろう。まさか沢庵を殺しはしまいが、それ以外の娘たちはあやうい。――いそぎ和睦《わぼく》の文をかこう。そこな両人、よいか、それをもっていまいちど会津へひきかえせ」
「和睦?」
お千絵はあえいだ。沢庵より命じられた密使行の目的ははたした。天海、銅伯相似の秘密はたしかに知った。しかし、その結果が、かかる絶体絶命の凶と出ようとは?
「和睦は……僧正さま、わたしたちにとって負けいくさとおなじことでございます」
「では、わしにどうせいと申すのか?」
天海も息をきざんでいた。苦悩にみちた相貌《そうぼう》であった。
「わしは死なれぬ。わしは死なぬ。徳川家のために、わしはまだ生きておらねばならぬのじゃ」
宙を見つめてうめいた。
「少なくとも、あと半月、将軍家に血脈相承の大事をすますまでは……」
天海の様子が一変したのはそのときであった。
まるで眼に見えぬ一陣の魔風に吹かれたように、その上体がのけぞろうとし、また崩折れようとし、白髯《しろひげ》をふりたててもだえはじめたのだ。
「……いかが、あそばしました、和上っ」
三人はさけんだ。
いったい何事が起ったのか。蒼《あお》い短檠《たんけい》の灯に照らされて、この寛永寺の開山、曠世《こうせい》の大僧正は、地獄の魔王さながらの苦悶《くもん》の形相をみせている。満面に汗をしたたらせ、天海はうめいた。
「ううむ、法太郎、また兵太郎を苦しめんとするか。負けぬ、兵太郎の星は、うぬに負けぬぞ……」
――のけぞろうとし、また崩折れようとし、白髯をふりたて、地獄の魔王さながらに苦悶する鏡中の天海を、沢庵は凝然とながめていたが、しだいにその肩に波がうってくると、
「ま、待てっ」
と、絶叫した。
「その修法《ずほう》をやめよ、銅伯――」
ひたいから、あぶら汗がしたたっていた。――修法ではあると思う。しかし沢庵はそれ以上天海の大|苦患《くげん》の姿をみるにたえられなくなったのであった。
いまの天海僧正は実体ではない。――そう思ってさえ、見るにたえぬ沢庵だ。ましてやその鏡中の像は、鏡中の像とはいいきれぬ色があり、うごきがあり、なまなましい迫真の力があった。決してあれは、たんなる眼くらましではない。――
「おわかりか」
銅伯がいった。彼は目ざめていた。沢庵を見た眼に妖《あや》しい笑いがあった。
その前と後から刺しつらぬいた刀をそれぞれさげて、漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》と香炉《こうろ》銀四郎はその両側に立っている。それもまやかしでない証拠には、刀身に血あぶらが浮き、銅伯自身の胸は鮮血に染められていた。
「あ……あれはなんじゃ?」
と沢庵はあえいだ。
「南光坊天海、この銅伯とは宿世の星を負うた双生児」
と、銅伯はこたえた。……三角壇を覆う煙はしだいにうすれてゆく。
「いま見せたは、たんなる幻ではござらぬぞ。和尚、あれは僧正の実体にひとしい。その実体が、いま江戸で、この銅伯とおなじ業苦を味わったのじゃ。銅伯が苦しめば、山彦のごとく、同時に天海も苦しむ。銅伯が死ねば……僧正も死ぬ」
「な、何?」
沢庵は愕然《がくぜん》として、壇上の鏡をふりあおいだが、いまのあの鏡中の影はぬぐったように消えて、ただにぶい光を放っているばかりであった。
「この銅伯を殺せば、天海大僧正も落命すると申しておるのだ。夢、いつわりと思われな」
銅伯の口が耳まで裂けて、きゅっと笑った。
「和尚、それを承知でなおわれらとたたかいなさるおつもりか?」
沢庵は沈黙し、蒼ざめた。その表情の動揺がみるみる絶大な苦悩と恐怖に変わっていった。
「それでも、和睦しようという拙者の申し込みをしりぞけなさるか?」
「……しりぞけはせぬ。待て、いくさはやめた」
と、沢庵はがくと肩をおとしてうめいた。
銅伯は声をはげました。
「おそい。――おそうござる、沢庵どの、いまとなっては、ただいくさをやめるだけではこの銅伯はきかぬ。あの般若《はんにや》面を城に呼ばれい!」
「……ならぬ、それはならぬ、銅伯」
沢庵はくびをふり、むしろ哀れみを乞《こ》う眼で銅伯を見やった。銅伯は冷然とその眼をはねかえして、
「では、あくまで般若面をかばって、あの僧正の大苦患をまた見たいと仰せか?」
両手で顔を覆った沢庵を、銅伯の凄烈《せいれつ》な声が吹きつける。
「御坊の大切に思われるは、南光坊か、般若面か。――ささ、ただいまえらんで、即刻、返答をなされい!」
沢庵は顔から手をはなし、うつろな眼で銅伯を見やって、
「……負けたり、銅伯!」
と、うめいた。
その惨憺《さんたん》たる声は、かつて彼がこの城に乗りこんだとき、
「……負けたよ、銅伯老」とからかうかのごとくいった、あの快活な調子とは別人のようであった。
……まかりちがえば、天海僧正に難がおよぶのではあるまいか?
――その危惧《きぐ》はあたった。もはやお千絵、お笛の報告をきくまでもない。いかなる危惧も、その想像を絶するばかり、最悪の凶と出た。
南光坊天海僧正。
柳生《やぎゆう》十兵衛。
世にこの上なく敬し、愛するふたりの人物ながら――いずれが重しときかれるならば、いまの沢庵にはいうまでもない。全身のふるえをおさえつつ、どちらかをえらべといわれるならば、もとより大長老天海僧正を助けねばならぬ沢庵であった。
「では、般若面を呼ばれるか?」
「……あの男は、いま会津におらぬ」
「いや、きゃつが北の土湯峠から会津領に入ってきたと、先刻知らせがあった。少なくとも二、三日のうちにはこの若松へかえってくるでござろう」
銅伯は沢庵の逃げ道をふさぐ。沢庵はまるでおびえた幼児のごとく、
「……般若面を呼んで、どうするつもりか」
「どういたそうな。第一にその般若面をとって、しゃッ面をみて……それから料理の法をかんがえるといたそう。まず、御坊がきゃつを呼ばれることが先決」
「……呼ぼう。わしがよういいきかせて、呼んでこよう」
「いや、あなたはこの城から出られてはなりませぬ。御坊は当方の人質、手紙をかいて、そこな娘を使いに出されい」
「……おとねは乱心いたしておる、どこへいくかわからぬ」
「それが狂女じゃと? いまさら、何を、そらぞらしや」
銅伯は冷笑した。
「よいか、その娘を使いにやられい。その手紙には――般若面のみならず、七人の堀の娘どもすべて城に参れと仰せらるのでござるぞ」
「なに、あの七人も?」
「もとよりのこと」
「そ……それはならぬ」
銅伯は氷のようにいった。
「そちらの言い分はきかぬ。当方の言い分のみを申す。条件は、それだけじゃ。わが条件は、そのほかにない!」
それから、ちょっと思案してつけ加えた。
「ただし、いま七人すべて、と申したが、あるいは五人かも知れぬ」
何もかも知っておるぞ、といわぬばかりのうす笑いの眼でのぞきこんで、
「欲は申さぬ、般若面と――その五人の女で結構」
「さても禅師。――このことを――この銅伯と天海がおなじ生死の蓮《はす》にのっておることを、最初勢至峠でお目にかかったとき、禅師にお知らせしておけばようござったな、さすれば、あれ以来、おたがいに無用の殺生は重ねずとすんだものを――」
と、銅伯は嘲《あざ》けるがごとく、嘆くがごとくいう。――
「さりながら、左様に口で申しただけでは、とうていお信じあるまい。お信じいただくためには、どうあってもこの夢山彦の祭壇においで願わねばならぬ。そして、禅師に城においで願うためには、やはりあれだけの手数はふまねばならなんだかもしれぬ」
そして銅伯は、はじめてひッ裂けるように笑った。蓮華鉢《れんげばち》の火は血と油がもえつきたか、もはや煤《すす》を吐いているばかりであったが、銅伯のうしろの火炉の薪は、その哄笑《こうしよう》の渦に吹かれたかのように、くゎっと大きくもえあがった。
逆に沢庵は、死灰のごとく生気を失ってへたりこんでいる。――城に入ったのは、できれば明成、少くとも漆戸や香炉を城外へおびき出す細工をほどこすためであったが、十兵衛が案じたように、いまやまんまと飛んで火に入る夏の虫であったことを、みずから認めざるを得なかった。
「いくさは終った! 主君に弓をひいた奴らが仕置を受ける。日輪が東より昇って西へ没するごとし」
「銅伯っ」
沢庵はふいに猛然として呼んだ。銅伯はわざとおどろいた梟《ふくろう》みたいに眼をまるくして、
「ほ、何でござる」
「そちたちも、名門芦名の血をひく武士であろう。武士ならば誓え」
「何を?」
「せめて……せめて、般若面と堀の女たちを城へ呼び入れたならば、そこにおる漆戸、香炉と立合わせい! 尋常の勝負をさせい!」
血を吐くようなさけびであった。銅伯は髯《ひげ》の中からまた歯をみせて、左右の虹七郎と銀四郎を流し目に見た。
「やってみるか?」
「それは、われらの望むところ!」
ふたりは、いま血をぬぐっておさめたばかりの刀の柄《つか》を丁とたたいた。
「では、堀の女どもはうぬらにまかせよう。……般若面は」
と、小首をかしげて、
「わしが相手をしてみるか」
「いや、それは!」
むきなおろうとするふたりを手で制して、銅伯はまたニヤリとして、
「堀の女たちのうしろにあって采配《さいはい》をふるう般若面、またこやつらに軍配しておるこの銅伯、ちょうどよい取合わせでござろうがな、沢庵どの、いかが?」
沢庵はまた冷たい息をのんでいた。
芦名銅伯と柳生十兵衛を立ち合わせる。――まさにこちらも望むところのようだが、それが実に恐ろしいことであることに気がついたのだ。
見よ、ほんの先刻双刀を以《もつ》て刺しつらぬかれた銅伯は、いまはもはや血のしたたりもやみ、傷もふさがったかのごとく平然としている。まさに彼のうそぶいたように、天海僧正の死なぬかぎり、この老人は不死身なのだ。柳生十兵衛、いかに剣の天才児であろうと、この怪物を如何《いかが》せん。――さらに、さらに恐るべきことは、万が一、十兵衛がこの銅伯のいのちを絶ったならば、そのとき江戸では天海僧正の息もまた絶える。
それを恐れればこそ、いま自分が屈したのではなかったか?
二重の意味に於て、十兵衛が銅伯を討つことはできないのだ! 銅伯を討つことができぬとなれば――
「……十兵衛、死んでくれ!」
沢庵はうめいた。それも十兵衛に犬死してくれ、という意味であった。しかし、たとえ十兵衛に犬死させようと、天海僧正はぶじでおかねばならぬ。
沢庵は宙にささやいた。
「わしも死ぬる」
「いや、御坊は死なれる必要はない。御坊のいのちまではとろうとは申さぬから御安心あれ。――というより、あなたに死なれては、ちとこまるのだ」
「わしがわしのいのちをどうしようと、そこでうぬの指図は受けぬ」
「それが、あなたの御自由には参らぬのだ。沢庵どのに、この城で死なれては当家にとって迷惑至極でな。あなたには生きて、おひとりつつがのう江戸へおかえりいただかねばならぬ。その上、この城で起ったこと、この会津で起ったことは、生涯、どなたにも口外なされてはなりませぬ」
銅伯は沢庵の苦悶《くもん》をたのしむかのような笑顔でいう。――
「もし将軍家のお怒りを買い、加藤家におとがめのあるようなことになれば、この銅伯は腹切らねばならぬ。……左様なことになれば、もし銅伯の星強きときは、江戸の天海も地獄へひきずってゆくことになる。おわかりかな?」
絶体絶命。――沢庵はおのれの足に、おのれのいのちという重い鉄丸がむすびつけられるのを感じた。そのうしろにはさらに長い鎖がつながれて、そのさきをこの銅伯がしかとにぎっているのだ!
「御談合と申したのはこのことでござった。――終わったようでござるな」
銅伯は傲岸《ごうがん》にあごをしゃくって、
「では、そろそろ、おひきとり願おうか」
夢遊病者のごとくたちあがる沢庵の足もとに失神しているおとねに、銅伯は冷笑の眼を向けて、
「きちがいの気絶ははじめて見たぞ。いや、それでも沢庵どのの御侍女、銀四郎、抱いておつれ申せ。おお、虹七郎、沢庵どのもかいぞえしてさしあげた方がよいようじゃ。おみ足がもつれておわす」
いやに鄭重《ていちよう》にいったかと思うと、見送りもせず、火炉の方へむいて、
「春とはいえ、夜がふければ百八の老人には冷える。……では、三日のち」
と、背中でつぶやいた。
天守閣の地底から出て、本丸の中庭を悄然《しようぜん》として沢庵がゆく。どうっと春寒の夜風が吹きつけるたびに、その墨染めの衣が、中に実体がないかのごとくよろめく。――
「おっとあぶない」
火をもった漆戸虹七郎が、乱暴にそのからだを支える。火は、さっき三角火炉でもえていた長い薪であった。一本だけの右腕で沢庵を支えるために、彼はその薪を横ぐわえにしていた。
その炎の火光が十分とどくうしろを、香炉銀四郎はおとねを抱いて歩いている。おとねは黒髪をながく地にたらして、ガックリと失神していた。
銀四郎は犬みたいに鼻と口で女の襟をかきひらき、乳房に顔をうずめ、乳くびをくわえた。相手が失神しているのをいいことに、女の香を満喫する快楽ばかりではない。すぐ前を、将軍家師僧、名僧のうわさのたかい沢庵がゆくのに、そのうしろでこの破廉恥にふけることに、この美少年は残酷なよろこびをおぼえているのであった。
柔かい乳くびをくわえて、執拗《しつよう》に舌でまろがす。――女のからだに、痙攣《けいれん》の脈がはしった。
銀四郎は、おとねが狂女だとは思っていない。いや、彼女がいつのまにか失神からさめていることさえ知っている。
そのおとねの足のひとつが、すっとあがった。
「あっ」
傍若無人な銀四郎も狼狽《ろうばい》した。おとねのはねあがった足が、クルリと銀四郎のくびに巻きついたのだ。
「これは無礼!」
と、思わずさけんだとき、娘はからだをうねらせて、かんだかく笑い出した。虹七郎がふりかえった。乳房をあらわし、髪を地にひいて、弓なりになったまま、娘は笑いつづける。たしかに正気の女の笑い声ではない。――
「こ、こやつ――」
くびをふったが、女のふとももは、粘体のごとく巻きついてはなれない。さすがに放り出すわけにゆかず、女の足のあいだからのぞいた銀四郎の顔は、醜態をきわめた。
ただ沢庵のみ、ふりかえりもせず、うなだれて、悄然として歩いてゆく。
――あくる日。
沢庵は坐《すわ》りこんだまま、うごかなかった。食事もほとんどとらない。結跏趺坐《けつかふざ》して寂然と眼をとじたままであった。まるで生きている人間とは見えなかった。
その代り、おとねのふるまいは狼藉《ろうぜき》をきわめた。
「火がもえる! 血の火がもえる! 般若《はんにや》面よ、消しに来い!」
そんなさけびを呪文《じゆもん》のごとくくり返しながら、座禅している沢庵のまえで、まるはだかにちかい姿で踊りまわる。そこをとび出して、庭に走り出し、追ってきた武士に抱きつく。多聞櫓《たもんやぐら》の甍《いらか》の上を駈《か》けて、とめようとする番人の首にとびつく。――
「……どうも、ただごとでないようでござる」
と、香炉銀四郎がやってきて、報告した。二日めであった。銅伯はニコリともせず、
「捨ておけ。にせきちがいじゃ。……しかし、ここに至ってなおにせきちがいをおし通そうとするとは、女とは愚かでもあるが、度胸のよいものではあるな」
「いや、沢庵の方でございます」
「沢庵が?……どうした?」
「依然として、ものも食べずに坐っておりますが、ときどき眼をあけて、ウロウロとあたりを見まわす様子が、いささか正気を失っておるように見受けられまする」
銅伯はじっと銀四郎を見まもっていたが、うすく笑った。
「ふふん、うわさに柳生|但馬《たじま》に剣法の極意を教えたといわれる沢庵がそのざまか? ええ、捨ておけ、沢庵は死ねぬ、乱心もできぬ。あの娘がいかにはねまわろうと、わしが手綱を離さぬ上は、城の外へは逃げられぬ。きゃつらの命も心も、すべてわしの掌《てのひら》の上にある」
三日めの夕刻。
沢庵はついに乱心した。うつろな眼をして、ふいに起《た》ちあがって歩きだしたので、それとなく見張っていた侍が、「あ、お手水《ちようず》でござるか」とよりそったとたん、沢庵は無造作にその侍の脇差をヒョイと抜きとったのだ。
「な、何をあそばす」
仰天してとびのき、あわててとびかかろうとする武士の鼻づらを、びゅっと抜身が横になでて、
「明成どのにお話がある。邪魔するな、どけ!」
と、沢庵はそこをよろめき出した。
「一、一大事じゃっ」
「沢庵どの御乱心――」
じぶんたちの方が発狂したようなさけびをあげて駈けあつまる侍たちの中を、沢庵は刀をふりまわしながら、庭ヘヒョロヒョロと歩いてゆく。
「明成どのに見参――」
にわとりみたいに皺首《しわくび》をのばしてそうさけんでいるのだが、沢庵はあらぬ東南の角櫓《すみやぐら》の方へさまよってゆく。ひたいにはみみずのように筋が浮き、眼は血ばしりながらどこかうつろで、あごはカタカタと鳴っている。いままでの、悟りすました飄《ひよう》たる風貌《ふうぼう》はあともとどめず、まったくこの高僧は、思いつめたあげく、逆上乱心したとしかみえなかった。
この枯木のような老僧が、音にきく柳生但馬守に剣法の極意を教えたという――脇差をふりまわすたびにあっちへよろめき、こっちにつんのめる腰つきをみると、そんなことは信じられないが、そのくせ近よると、遠慮なくその刀身が胸をかすめ、たもとをはらい、そのきっさきは尋常でないものがある。
「加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》どのに見参――」
夕焼の広い庭は大騒動になった。乱心した沢庵を中心に、いたるところの長屋、櫓からかけ出した武士たちが、大きな輪をつくったものの、相手が相手だけにまったくもてあました。
「禅師、御無礼!」
意を決して、うしろから二、三人走りかかると、
「木ッ葉ども、斬るぞ」
と、沢庵はふりむいて、刀をかまえた。大袈裟《おおげさ》に八双にかまえたのは、よかったが、刃がじぶんの頭にふれて、禿《は》げたコメカミのあたりから、タラタラと血が流れおちた。侍たちはとびすさって、
「いかん! おいっ、だれか、あの娘を呼んでこいっ」
「あの娘も気がちがっておるぞ」
「きちがいでもよい! 人質にして、禅師に刀を捨てさせるのだ。早くつれてこい」
「ところが、あの娘も先刻から座敷におらぬのだ」
混乱がふいに止んだ。人々の叫喚の波はしずまり、左右にひらいた。
夕焼がきえて、黄昏《たそがれ》の色の漂いはじめた庭に、芦名銅伯があらわれていた。左右に竜虎《りゆうこ》のごとく、漆戸虹七郎と香炉銀四郎がひかえている。
「沢庵どの、悪あがきはいいかげんになさらぬか」
と、銅伯はにがい顔をしていった。
「この期に及んで、醜態でござろうぞ。乱心とみせかけて、あの約定を反古《ほご》になさろうというおつもりかもしれぬが、そうは問屋がおろさぬ」
「やあ、あらわれたりな、妖怪《ようかい》銅伯、もはやうぬの幻術にはかからぬ。沢庵ようやく正気にもどったぞ」
沢庵は皺くびをしぼってわめきたてたが、どうみても正気の顔ではない。
「いざ、降魔の利剣をふるって退治してくれる。そこうごくな」
刀をふりかぶって、駈け寄ろうとするのを、
「ええ、性懲《しようこ》りもなく――銀四郎、霞網《かすみあみ》にかけろ」
うごいたともみえぬ銀四郎の手から、シューッと煙のようなものが噴出し、沢庵の眼のまえでぱあっとひろがった。
まるで黒い霞がつつんだようだ。その中で、沢庵が鳥みたいにもがいているのがみえた。メチャメチャに刀をふりまわしたが、霞は切り裂かれず、フワフワと彼を閉じこめて、しだいに小さくしぼられてゆく。
小さく――小さく――捨ておけば、閉じこめた者の鼻孔に吸いついて窒息させ、全身をつつんで、海綿のごとく血液、体液のすべてをしぼりつくしてしまうだろう。だれがこれを女の黒髪で編んだ網と思おうか。
「それまで」
と、銅伯があわてて手をあげた。
黒い霞網の中に、波にもまれるように刀が手からはなれたかと思うと、おどろくべし、ピーンと音たてて三つに折れた。沢庵は尻《しり》もちをつき、あたまをかかえて、一塊のぼろきれみたいにうずくまってしまった。
と、みるや、霞網はスウと空中に浮かびあがり、漏斗《じようご》状にみるみる銀四郎のこぶしの中に吸いこまれてゆく。
それでも沢庵は、地面の上にいつまでもつっ伏したままであった。
「さても、沢庵どの」
何事もなかったかのごとく、銅伯はいう。
「ただいまわれらがここに参ったのは、あなたさまの猿芝居を見物にきたのでござらぬ。例の約定の期限がきたからで」
沢庵はキョトンと首をもちあげた。
「もはや般若面はこの若松へかえってきたものと思われる、そろそろ呼んでいただこうか」
「……やはり、だめか?」
と沢庵はつぶやいて、銅伯を苦笑させた。
「虹七郎、矢立と紙をあれへ」
あごをしゃくると、虹七郎が沢庵の前へゆく。矢立をわたし、懐からとりだした紙をわたす。
「では、お書きいただきたい。書きようは、御自由でござるが、文章は次に銅伯の申すことのみにて、それ以外に一句も加えられてはならぬ」
沢庵は筆をとった。紙がかすかにふるえている。
「わがいくさ敗れたり、明日の日没するまでに、般若面ならびに堀の女ども、のこらず鶴ケ城に入ること、万一、これにたがうときは――」
深沈とひかる眼で沢庵を見すえて、
「徳川家の運命にもかかわる大事となるを疑うことなかれ。沢庵、と、署名せられよ」
書きおえた沢庵の手から、虹七郎が書面をとりあげ、銅伯のところへ持ってきた。銅伯は黄昏のひかりにすかしてそれを点検して、
「よし」
と、うなずき、
「はて、あの娘は?」
と、周囲を見まわした。茫然《ぼうぜん》とこの光景をみていた侍のひとりが、
「きゃつ、先刻より座敷にみえませぬ。捨ておけ、とのお申しつけにて――」
「いや、よい、よい。どうせこの本丸の外から逃がれられはせぬ。それどころかそこらでこの場をうかがっておろうよ」
「……わしが呼ぼう」
悄然と、沢庵はいった。そして、声をはりあげて、
「おとね、来いやあい。いくさは負けじゃ、にせきちがいの面をとって来いやあい」
そして、つけ加えた。
「代りに、般若の面をかぶって来うい」
すると、いかにも銅伯が「そこらでこの場をうかがっておろうよ」といったごとく、夕闇の底を大きな蝶《ちよう》が舞うように、ひとりの娘の姿が走ってきて、沢庵のうしろに手をつかえた。
「とね、般若|侠《きよう》に連絡してくれ」
娘は顔をあげた。姿はおとねにちがいないが、顔に般若面をつけている。
「なんのまねだ?」
と、銀四郎がさけんだ。沢庵がうなだれて呟《つぶや》いた。
「般若侠ならびに堀の女どもは、いま若松のどこにひそんでおるかわからぬ。絶えず転々と居を移しておる。しかし、だれかが絶えずこの城門を見張っておるはずじゃ。だから、とねが彼らと連絡するときは、城門からこの面をつけて出る。さすれば、向うが見つけて、向うで逢《あ》う場所を指定してくる手はずになっておるのじゃよ」
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孤剣般若侠
鶴ケ城東南の濠《ほり》にかかる廊下橋から、一頭の騎馬が出た。鞍《くら》の両側に、ふたりの十ばかりの童子がついている。ひとりはくつわをとっていた。
それを不審に思わない者も、馬上を見あげてあっと眼を見はった。乗っている者はたしかに娘だが、それが般若《はんにや》の面をつけているのだ。――この奇怪な人馬は、しかし銀鼠色《ぎんねずいろ》の春の夕風に吹かれて、閑々たる足どりでポクポクと城を離れてゆく。
あっちこっちから飛び出してきた町の人々を、
「ついてくるな!」
「お城のご用じゃ!」
と、小さな武士は眼をつりあげて叱咤《しつた》した。ふたりとも、十ばかりのくせに、裃《かみしも》をつけて歩いているのだ。
――おとねの行方を絶対に追ってはならぬ、と沢庵はいった。なぜ? と、自分がそれについてゆきかねまじき香炉《こうろ》銀四郎が反問した。いまさら追おうが、追うまいが、般若侠と堀の娘たちが城に入らねばならないことは、天から滝のおちるがごとくきまりきったことではないか、というのが漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》の嘲笑《ちようしよう》であった。
「おとねの行方を追って、きゃつらの潜伏場所をつきとめたからとて、そこでとり包んで討つようなことはせぬ。……この城で、是非殿にお目にかけたいからの」
「それはわかっておる。しかし、おとねをものものしく武家衆がかこんでいっては、向うが連絡しようにも連絡できぬではないか」
と、沢庵はいうのであった。虹七郎はなお心ゆるせぬ表情で、
「ただ、きゃつら、貴僧の御書状をみて、かえって尻に帆かけて逐電《ちくてん》するのではないかと、おれはそれを憂える」
「ええ、左様なことをすれば、この沢庵どのが生きておられぬだけじゃ。いや、沢庵どののみならず、もっと大事なおひとがの。そのことは念を入れて通じたはず。――般若侠は必ずくる」
と、銅伯は気みじかにいった。
「ただ、日が暮れてはこと面倒。馬でゆかせろ。くつわは、城中の童子にとらせる。それでよかろう」
これには沢庵も異議をとなえなかった。
で、廊下橋から出ていったのは、般若の面をつけたおとねと、ふたりの童子だけであったが――その馬が、廊下橋から、濠と三ノ丸の石垣のあいだの路《みち》を出ていったころ――城をめぐる濠のあちこちに、深編笠《ふかあみがさ》の武士の影が、三つ四つ、七つ八つ、忽然《こつぜん》としてわき出した。
いうまでもなく、芦名《あしな》衆だ。どうにも不安のたちきれぬ虹七郎と銀四郎が、急遽《きゆうきよ》芦名衆を浪人風に仕立てて、ともかくあとを追わせたのであった。
「あ。……矢が」
「矢が道におちている」
と、ふたりの童子がさけんだ。
濠と三ノ丸のあいだを出たところに、ひとすじの矢が路上におちていたのだ。矢はまっすぐに南をさしていた。
「そのままゆけという合図です。……その矢は濠に捨てて下さい」
と、般若面のかげで、女はいった。
人馬はしだいに町並をはなれ、郊外の水田にかかった。蹄《ひづめ》につくしやわらびが踏まれていく。
「おや?」
とまた童子のひとりが前方をのぞきこんだ。
「道の上に、また矢が置いてある。まっすぐに」
「矢の下に青い字がかいてあるぞ。草をちぎって――あれは田という字だ」
いかにも、やや広くなった野の中の道に、草で「田」という字が書いてあり、矢はその田のまんなかの縦の棒の上に、鏃《やじり》を南へむけて置いてあるのであった。
般若面の女はうなずいた。馬はそのまま進み、草の字も矢もかき散らされた。
また数町ゆくと、おなじように路上に「山」という字が草で書かれ、矢がその上に置いてあった。
人馬はやがて川にかかった。湯川という。橋は天神橋という。川のほとりに梅が咲き、もうその白い花影もおぼろなほどであったが、橋のたもとの路上に書かれた「小」の字がからくも見わけられた。
「田――山――小?」
と、般若面が馬上でかしげられて、
「小――田――山、小田山!」
と、つぶやいた。それは若松《わかまつ》の東南にある岡の名であった。
「日がくれる。いそぎましょう。小田山へゆくのです」
ふたりの童子は橋をかけ出した。それにあわせて、馬の足もやや早くなる。
すると――その橋を渡りきったところで、黒い影がぬうと立ちあがった。「あっ」とふたりの童子は立ちどまった。その黒衣の影が、これまた般若面をつけていたからだ。彼は錆《さび》をおびた声でいった。
「よし、ここでよい。子供は城へかえれ」
「……般若侠さま?」
と、馬上の声がささやく。
「左様」
「では、おかえりなさい」
と、般若面の女は左右をかえりみた。子供たちはふたりの般若面を見くらべ、急におびえたように、身をひるがえして町の方へかけ戻ってゆく。
地上の般若面は、しげしげと馬上の般若面を夕暮の残光にすかして、
「どこから来られた」
「お城から」
「それはわかっておる」
「雪地獄から」
細ぼそと病んでいるような声でいって、馬上の般若面はふところから一通の書状を出した。
「沢庵さまの御文です」
般若侠はそれをふしんげに受けとり、黄昏の光というより水明りに眼を走らせて、愕然《がくぜん》としたようであった。
「……ばかな!」
と、ふいにうめいて、もういちどくい入るように文面を読んだが、たちまちその書状をビリビリとひき裂いた。
「……来たな」
と、般若侠は、いま馬がやってきた北の野路を見やった。
その方角から、一団の深編笠の武士が土けむりをあげて走ってくる。先頭にいまのふたりの童子がたって駈《か》けている。
「……詳しいことをきいておるひまがない。そなたは、このまま逃げられい。小田山へ――」
と、いってから、すぐにくびをふって、
「いや、小田山はいかん。東へ馬をとばして東山へゆかれい。東山の天寧寺という禅寺を御存じだろう。そこの和尚に般若侠からといって、ひとまずかくまってもらうがよい」
と、あごをしゃくった。馬はそのまま湯川沿いに東へ駈け去ってゆく。
めっきり日のながくなった春の黄昏も、ついに完全な藍《あい》色に変った。般若侠の黒衣はもとよりその宵闇に溶けこんだ。水と草の匂いだけが、夜気にひろがった。
ふたりの童子から事情をきいたものの、その闇をついて川の向うを東の方へ消えてゆく鉄蹄《てつてい》のひびきに、
「きゃつ、逃げたか」
「小田山へゆく、といったそうだな」
口々にこんな言葉を交しながら、芦名衆は橋にかかった。その橋を駈け渡ろうとして――
「待て」
おちついた声が前をふさいだ。
闇をすかして、
「やっ……般若侠《はんにやきよう》だっ」
ひっ裂けるような絶叫だった。見えない巌《いわお》にうちよせた波のように芦名衆ははねかえると同時に、きらっ、きらっと稲妻のようにいくすじかの刀光がほとばしり出たのは、ほとんど反射的な行為だ。
「はて、あしたの日がくれるまでに城にこいと手紙にあるが」
般若侠はつぶやいた。
「いまここで、やる気かの」
こちらは、はげしい息づかいだけだ。
般若侠にそういわれるまでもなく、彼らは今夜般若侠をひっとらえてこいという命令を受けてきたわけではなく、たったいままで、そんな意志を抱いていたわけでもなかった。ただ、おとねがはたして期待通りの行動をするかどうかをたしかめるために追跡してきただけで、もしここに般若侠が立って待っているのがわかっていたら、あわてて野の草の中にでも伏していたところだ。
しかし、突如としてここで相対し、自若として、しかもどこか嘲笑をふくんだ声をかけられては、恐怖とともに盲目的な殺気が血管に鳴ってくるのを禁じ得ない。――
「ふふん、お望みならば相手をしてやってもよいが……そのまえに、きいておきたいことがある。城でいったい何事が起ったのだ?」
「……では、沢庵の書状を読んだのだな」
やっと、ひとりがいった。
「それを、まさか偽手紙とは思うまいな?」
「思わぬ、まさに沢庵さまの御書状だ。が、どうにも解《げ》せぬことがある」
「沢庵が脅迫されて、あれをかいたとでもいうのか」
「馬鹿め、おれは沢庵さまをそれほど軽んじてはおらぬ。……和尚は天下第一の豪僧だ」
しかし、はっきりとはみえないが、般若の面はかすかにかしげられている。
「その和尚が、あのような手紙をかかれたことがわからないのだ、城で何が起ったのか? 徳川家の運命にもかかわる大事とは何だ? 教えてくれ」
声が、きっとして、
「言わねば、斬る」
般若侠の言行たるや、実に明快。つねに諾か否かを問い、返答のあいまいなときはただちに水もたまらぬ一閃《いつせん》で乱麻を断つ。――そのやりくちをきいているだけに、真正面の芦名衆は、はやくも全身に鳥肌をつくって、からくも、
「そ、その豪僧、沢庵が……したためた手紙だ。手紙の通りにせねば……あるいは、おれたちに敵対すれば……だ、大事が起るぞ」
「いかなる大事も覚悟のまえで会津《あいづ》に乗りこんできたおれだ。いまさらおどろかぬ。安心して言え」
脅しもかけひきも逃げ口上もゆるさない、凄絶《せいぜつ》果敢の迫力だ。――芦名衆は息もつまり、たえかねて爆発した。
「こたえる必要はない!」
「おいっ、書状はともあれ、こやつの手足をうちおとし、ここでひっくくって城へ帰っても、まさかおとがめはあるまい」
「やれっ」
――もっとも、彼らは、徳川家の運命にもかかわる大事などは知らない。銅伯の幻法も知らず、沢庵がなぜ屈したかも知らず、ただ大首領の魔力を信じ、その勝利を当然のこととしていただけで、実のところ返答のしようがないのだ。
うしろからの狂ったような声にあおられて、前方の三人が、ツツと出る。――その向うを横に、キラ――と、細い光の糸が走ったかと思うと、三人は棒立ちになった。
「童《わつぱ》」
と、般若面がいった。
「あちらへ逃げろ。向うをむいて、しゃがんで、耳をふさいでおれ」
やさしい声だが、本能的な恐怖に吹かれて、ふたりの子供はうしろへ走って、しゃがみこんだ。
前の三人の深編笠《ふかあみがさ》が、かすかにゆれはじめたかと思うと、ならんでどうと崩折れたのはそのあとであった。
裃《かみしも》をつけたふたりの子供は、しっかりと耳をおさえていた。しかし、獣の吼《ほ》えるような声と、刀身の折れ飛ぶひびきと、それから三つ四つ、橋の下で水音がきこえた。
「もうよい」
頭上からしずかな声がかかった。
「しかし、うしろを見るな。ふたりだけで、帰れるな? 城へ帰ったら、般若面、あしたたしかに参ると伝えておけ」
子供がいってしまっても、般若侠は橋のたもとに寄りかかって、春の夜風に吹かれている。草の匂い、水の匂いに、血の匂いがまじっているが、気にする様子もなく、かえって般若の面をとって深呼吸をした。
すぐに、子供の駈け去った方角から足音がきこえてきた。
「さくら……お鳥」
と、彼は呼んだ。
駈けてきたのは、夜目ながら、お高祖頭巾《こそずきん》をかぶった町娘風の姿であった。
「あ、十兵衛さま」
「どうなされました。……おとねどのは?」
声はたしかに、さくらとお鳥だ。
五人の堀の女は、たえず交替して城を見張っていた。町のどこにも味方はあって、彼女たちのひそむ場所を貸してくれた。――そして、もしおとねが城から出てきたら、おとねのゆくべき場所を、先まわりして指示する、というのが前以《まえもつ》ての約束になっていたのだ。
「廊下橋から出てきたのは、たしかおとねどのとは見ましたが、般若面などをかぶって、馬にのって」
「ふたりの童子につきそわれて」
「にせきちがいの所行であろうとは思いましたが、不審です。どうしたのですか」
といって、はじめて闇の底に横たわるいくつかの黒い影に気がついて、ふたりはぎょっと足をすくませた。
「芦名衆だ」
と、十兵衛は何でもないことのようにいった。
「では、先刻の深編笠のむれがやはり追手?――すると、あのおとねどのは、向うの囮《おとり》になって?」
十兵衛はこの疑問にはこたえず、
「和尚から連絡があった」
「えっ、どんな?」
「おれにちょいと相談があるから、城にこいということじゃ」
「あなたさまを――城へ?」
さくらとお鳥は顔を見合わせた。十兵衛はいかにもさりげなくいったが、実に戦慄《せんりつ》すべきことであり、判断を絶したことでもある。
「十兵衛さま、おひとりですか?」
「左様」
「何のご相談」
「いってみなければわからぬ」
十兵衛があまり口数の多い方でないことは承知しているが、事の重大なのに比して、あまりにも簡単で漠然たる返答だ。ふたりは十兵衛が何かかくしていると直感した。
「おとねどのはどうなされたのでございますか」
「この芦名衆が追ってきたゆえ、先に逃がした」
「小田山へ?」
「ちがう」
十兵衛はなぜかおとねをやった天寧寺という寺の名をいわず、闇にも不安げにひかるふたりの瞳《め》から隻眼をそらして、
「お圭、お品、お沙和《さわ》が待っておる小田山は敵に探られた。また新手の敵がくるやも知れぬゆえ、その前に場所を移して、ちょっと相談するとしよう。ゆこう」
さっさと、川に沿って歩き出した。
……キキチョ、キキチョ……ホーホケキョ。
珠《たま》をまろばすような声で、鴬《うぐいす》が鳴いた。
満山の樹々は芽ぶきはじめて、それが春の朝風にざわめいている。その中で、あちこち鴬が鳴いていた。鴬というより、樹々にまろがる無数の青い光の斑《ふ》の歌声のようであった。
……キチョキチョ、キキチョ、ホーホケキョ。
それは山からの声ではない。地に坐《すわ》っているお沙和の傍からきこえた。そこの地面に竹で作った篭《かご》が置いてあって、その中で一羽の鴬がしきりにさえずっているのであった。
しかし、だれもその声に耳をすませている者はいない。――五人の女は半円をえがいていて、まんなかの柳生《やぎゆう》十兵衛の顔をじっと見つめている。十兵衛は野羽織をきて、腕をくんでいた。傍に般若面と深編笠が伏せてある。
「おひとりでいかれてはなりません!」
せぐりあげるように、お圭がいった。――昨夜から、五人の女がくりかえし、くりかえしていった言葉だが、その声には依然として思いつめたひびきがあった。
「何度いえばわかる。沢庵さまのお呼びだ。ゆかねばならぬ」
十兵衛はいった。もてあました表情である。
――そこは若松の東南小田山から、東山をすぎてさらに東へいった羽黒山という山の中であった。古くからの湯上羽黒神社というやしろがあって、ここはその裏手にあたる林の中であった。
それまで小田山を潜伏場所としていたのだが、昨夜小田山という名を城からついてきた二人の童子に教え、この童子を城へかえしたので、天神橋で十人あまりの芦名衆を斬りすてたこともあり、童子からきいた芦名衆がさらに大挙して小田山に殺到するおそれが充分あるから、いそぎ小田山に待っていたお沙和、お圭、お品とともに、東のこの羽黒山へ移動してきたのだ。
ここの神社の神官もまた彼らのひそかな庇護者《ひごしや》であった。十兵衛の新しい衣裳はもとよりそこから与えられたものである。
「いくら沢庵さまのお呼びでも……いぶかしいふしがございます」
「沢庵さまは城に入って、何とか明成や漆戸、香炉を城からおびき出す算段をなさる。……その手はずがととのったら、おとねどのを以て連絡させる。……おとねどのは狂人をよそおって、向うをだましてきっと城からぬけ出す。……という約束でしたけれど、わたしたちは、そんなにうまくゆくだろうかと心配でした」
「しかも、そのおとねどのが城から出てきた様子が不審でなりません」
「十兵衛さま、おとねどのは、どこへゆかれたのでございます?」
女たちは、こもごもいった。――昨夜からの何十度めかのくりかえしである。
「……おとねか、まあ、あれはどうでもよいではないか」
と、十兵衛はむずがゆいような顔をして、眼をそらす。
なぜか、彼はおとねのゆくえ天寧寺という寺をまだうちあけない。そこが女たちのいぶかしむ点であり、彼の弱い点である。
実をいうと十兵衛も、天寧寺にゆきたいのだ。いって、城で何が起ったのか、きかねばならないのだ――ところが、この女たちは彼から眼をはなさない。彼がゆけば、必死にそのあとを追ってくるにきまっている。
しかし、堀の女たちと城からの連絡者と断じて逢《あ》わせるわけにはゆかない。
「十兵衛さま、なぜおかくしになるのですか!」
「そなたたちに、おれが何をかくす」
「おとねどののゆくえも、それから沢庵さまのお手紙も――そのお手紙をお見せ下さいまし」
「あれは、おれが破った」
十兵衛はついにかんしゃくを起して、
「そなたら、ここに至って、なおおれが信じられないのか!」
「信じます。心の底から信じております。……けれど」
「けれどは、無用だ。おれを信じろ」
「十兵衛さまは信じておりますけれど、でも、その手紙とやらは、敵の罠《わな》ではありませんか」
「罠? あれはたしかに沢庵さまの御|手蹟《しゆせき》であった。話があるから、おれひとり城にこいと――」
「どんな、お話。……十兵衛さまが城に入られて、なんのお話」
「わるい話ではないだろう」
「いまさら、城とよい話のあろうはずはありませぬ。話の結着といえば、わたしたちにとって明成主従の首をもらうよりほかはなく、向うにとって、あなたさまとわたしたちを討ち果たすこと以外にないはずでございます」
「それはそうだ」
「それなのに、沢庵さまが、あなたさまひとりをお呼びになる。――考えられるのは、偽手紙か、もしくは沢庵さまが敵に降参なされて、敵の意のままに手紙をかく破目におちなされたか――いずれにせよ、あなたさまおひとりをお呼びなされたということが腑《ふ》におちませぬ、もしかしたら、わたしたちもともに、とかいてあったのではございませぬか?」
――恐るべき女たちのカンであった。
「たわけっ」
と、十兵衛は大喝した。
「あれはまぎれもなく和尚の字だ。そうでなくて、このおれが城へゆくものか?」
「…………」
「また和尚が敵に降参して、おめおめ味方を売る書状をかかれたと? ばかも休み休みいえ、夢にも左様なまねをなさる沢庵さまか。うぬら、考えただけで罰があたるぞ」
女たちは沈黙した。
しかし、神社の屋根の梢《こずえ》を、青い煙のごとくわたる風のゆくえを追いながら、十兵衛の隻眼も疑惑のひかりは禁じ得ない。
疑惑は、あれが偽手紙とか、沢庵が脅迫されて書いたとかいうことではなく、あの書状の中にあった「わがいくさ敗れたり」「徳川家の運命にもかかわる大事となるを疑うことなかれ」云々《うんぬん》の言葉であった。
わがいくさ敗れたり、とは? 徳川家の運命にもかかわる大事、とは?
まさしくそれが沢庵の文字であるがゆえに、このおれは城にゆかねばならぬ。たとえ万死に一生なかろうとも。
ただ。
いかに沢庵を信じようと、沢庵の命ならば屍山《しざん》血河の中へはせ向う覚悟は抱いていようと、どうしても承諾できぬことがある。
それは「般若《はんにや》面ならびに堀の女どものこらず」という一句の後半だ。
ただ事態に推量を絶したところがあるのに、この女たちを同行することは断じてできぬ。従って、あの手紙にその一句のあったことを、決してこの女たちに知られてはならぬ。十兵衛が書状を読むなり、直ちに破りすてたのはそのためであり、また城からの連絡者とこの女たちの接触を絶とうとしているのもそのためであった。
神経のとぎすまされた女たちは、そこに敏感に胡乱《うろん》くささをかぎつけて、昨夜から十兵衛の行方を追い、その表情を追い、心のうごきを追う――十兵衛たるもの、閉口せざるを得ない。
――とどのつまり、面倒くさくなり、一喝、吹きとばしたくなるのが彼の性格だ。
「では、おれは、ちょっといって来る」
十兵衛は、傍の般若面と深編笠《ふかあみがさ》をとろうとして、ひたとじぶんを凝視している必死の――しかし、いじらしい十の瞳《ひとみ》に、
「案ずるな、おれは決してそなたたちを裏切らぬ。裏切らぬ、というのは、そなたたちの望みを空にせぬ、という意味だ。かならず明成と漆戸、香炉を討つ。いや、そなたらに討たせるようにしてやる。吉報を待て」
と、いった。そのとき、見えない糸にすがりつくようにお沙和がいった。
「十兵衛さま、お待ち下さいまし」
「まだ――何を」
「いいえ、もはやお止めはいたしませぬ。またお止めしても、十兵衛さまにはむだでございましょう。ただ、ひとつだけわたしたちの願いをきいていただきたいのです」
「願いとは?」
「この鴬を御一緒につれていって下さいまし」
チッチッチッチッ、クーと鴬が鳴いた。十兵衛はめんくらった表情で、お沙和の傍の竹篭に眼をやった。
この冬、里の或る農家でもらってきた鴬なのである。それを彼女たちは持ち歩いた。転々と居をかえながら、そのあいだ芦名衆とこの世のものならぬ死闘を交わしつつ、女たちはこの鴬を捨てなかった。
藁《わら》で作ったかごに入れ、綿でつつみ、夜は篭ごと抱いて寝る。玄米や糠《ぬか》を炒《い》り、石臼《いしうす》でひき、青い葉とまぜて擂餌《すりえ》とする。
――その手数をいとわず、ときどき篭に七つの顔をあつめて、可憐《かれん》な鴬の音をきいているとき、一念|復讐《ふくしゆう》に明けくれる彼女たちの眼に、わずかな日光のような微笑がひろがる。
それも、七羽の鴬のようにみえて、
「――女だなあ」
と、十兵衛に、しみじみと思わせるものがあった――その鴬なのである。
「この鴬を、おれがつれていって、何とする?」
「この鴬が城からかえってきたら、十兵衛さまは御無事である。かならずよい知らせがあろうと信じることにいたします」
鴬がかえってきたら、十兵衛さまは御無事だと思う、かならずよい知らせがあろうと信じる――という、自分に関することよりも、十兵衛は、鳥類学上の興味にうごかされて、隻眼をまるくして、
「ほ、この鴬《うぐいす》を飛ばしたら、城からここへ帰ってくるか」
「いいえ、まさか――」
お沙和はくびをふって、どこからか薄紅の布をとり出した。たたまれているのをひらくと、三、四尺の紗《しや》である。それをほそく裂きとって一片とし、さらにその半ばをたてに二つ三つ裂いた。
「これを鴬の足に結んでおきます。軽いものでございますから、鴬の飛ぶのにさしつかえはございますまい。足にこの薄紅のうすぎぬをながくひいた鴬――それを見たら」
「……これ、いかに異風の鴬とはいえ、広い天地だぞ」
「十兵衛さま、城に入られましたら、きょうのうちにまず吉左右《きつそう》はお分りでしょう。そのあいだ、わたしたちは城の外の四方にひそんで、城の空、城のまわりに眼を見張っております。また町の子供たちにたのんで、見張ってもらいます。よいお便りでございましたら、この鴬を飛ばして下さいまし。念力だけでも、わたしたちはそれを見つけ出さずにはおきませぬ」
「……鴬が飛ばなんだら?」
「悪い知らせと思います」
「そうであったら、そなたら、どうするつもりだ」
「…………」
女たちは、だまって顔を見合わせた。
それっきり、返事がない。返答のしようもないだろう――おれが死地に落入ったからとて、それならいっそうこの女たちを呼ぶわけにはいかぬ。ふむ、何事が起ろうと、この鴬を飛ばせばすむことだ、と十兵衛は軽く意を決して、「ときに、おれはこの鴬篭をブラブラ下げて、城へゆくのかな」
「いえ、それをかんがえていたのです。向こうに見とがめられて、とりあげられては何にもなりませぬ」
と、お圭がいい出した。女というものは、こんなことには恐ろしく、細かく気のまわるものだ。
「こうなされませ。……いいえ、そのお笠をちょっと」
お品から深編笠を受けとると、お圭は立って、すぐちかくから箸《はし》のようにほそい一本の枯枝をひろってきた。何をするのかと見ていると、笠の内側に――背にまわる部分に、その枝をわたして、しっかと糸で結びつけた。
「鴬を」
篭から出した鴬の足に薄紅の紗をゆわえつけ、またべつに足を糸で結んでその枝にとまらせた。紗も枝にゆるく巻きつける。
深編笠を草に伏せると、外から鴬の影は見えぬ。笠の中の枝にとまってキョトンとしているらしかったが、たちまち、
「……ホウ……ホケキョ……」
と、美しい声がその笠にこだました。
「うぐいす侍……」
十兵衛は破顔した。
「鴬張りの兜《かぶと》をいただき一騎城にはせ向うか。――これほど風流な出陣を、いまだ十兵衛はしたことがないぞ」
般若面をつけた。彼らしくもないやさしい手つきで、深編笠をとり、止まり木の鴬をうしろに回して頭上につけた。
隻眼は、般若面にかくれ、般若面と鴬は笠にかくれて、起《た》ちあがったその深編笠に、ただ青い春の樹もれ陽がチラチラと浮動する。
ただかくせないのは、びっくりした鴬の声で、五歩十歩、ゆくあいだにも、
「チャッチチャッチチャッ、チー……ホーホケキョ」
と、鳴きさわいだ。
「ではさらばだ」
笑いをふくんだ明るい声と鴬の声のまじりあい、なんとなくユーモラスで、五人の女は思わず微笑したが、たちまちしゅんときまじめな表情にもどって、十兵衛のあとを追う。
神社の本殿を回って、つづら折りの山道を下りてゆく。道はいちめん青い苔《こけ》であった。八丁も下りてゆくと、仁王門があった。門の両側に立つ木彫りの力士は高さ八尺あまり、剥落《はくらく》していつの世に彫られたものか知れないほどだ。
「おい、もうよい」
と、十兵衛はうしろをふりむいた。
「はい、では、すこし間をおきます」
「でも、お城まで、見えつかくれつ、お供いたします」
「鴬のことがございますから」
十兵衛は、心中に、いかん! と舌を打っていた。実は彼は、途中、東山入口の天寧寺へ寄って、城からの連絡者にききたいことがあったのだ。
しかし、五人の女たちはどこまでもついてくる。いや、しばらく仁王門の下に立ってはいるが、とうていすがりつくような眼を離そうとはしない。
……ついに十兵衛は、天寧寺の前にさしかかった。かすかに足がとまりかけたが、はるかうしろを樹《こ》の間《ま》がくれに追ってくる女たちに気がつくと、ツ、ツ、ツと、その前をゆきすぎた。
――ええ、どうせゆかねばならぬ敵の城だ。何事が起ろうと、ただ信ずるは腰間の愛刀三池典太のみ。――
「頼んだぞ」
と、柄《つか》をたたいたとき、また編笠の鴬が鳴いた。
「おまえも頼む。事無ければ飛ぶか。飛んでくれるような形勢であってくれよ。おまえが飛んでくれぬと、あの女たちが……」
つぶやいて、はじめて十兵衛の足がとまった。あの女たちが――あの女たちはひょっとすると――そう思い至って、すうと背をうそ寒い風が吹くのをおぼえたのである。
「――ちぇっ、おれらしくもない取越苦労だ。いまさら案じても、この足は止まらぬ」
十兵衛の足は地を蹴《け》った。深編笠をかたむけ、速度をましたわらじの下から、春風は土ほこりをうしろへ吹いてゆく。
孤剣、北へ――鶴ケ城へ。
まひるである。
鶴ケ城の鉄門《くろがねもん》の前に、深編笠の影が一つ立った。
どこから拾ったか、一本の槍《やり》をかかえている。もっとも千段巻から折れて穂先がないところをみると、足軽が捨てたものであろう。それを逆さまにとりなおすと、やおら石突きで、はっしと門をたたいた。
グワワワン。……
鉄門という名の通り、扉も柱も鉄で包んである門は、まるで鐘のようなひびきを発した。
おどろいて、横の潜門《くぐりもん》からとび出してきた数人の門番が、そこに武芸者風の姿を見出して――かえっておどろきの表情を消し、
「……やあ、帰ってこられたか!」
と、さけんだのは、とっさに、昨夕ここから出ていって、狂女おとねを追った芦名衆かとかんちがいしたのだ。
――その芦名衆は、若松の南の湯川にかかる天神橋で斬り捨てられていたことはすでに判明して、城内を聳動《しようどう》させていたが、中に行方不明の者も三、四人あった。屍体《したい》の一つが水中の橋脚にかかっていたので、河に流れたものとも思われたが、いまおなじような姿をそこに見て、思わずそのひとりが帰ってきたのかと錯覚したのだ。
それも、むりはない。だれがこれをまったく外来の人間と思おうか。
追手門にはちがいないが、何も大道に面しているわけではない。これは帯廓《おびくるわ》から本丸に入る門だが、その帯廓まで入ってくるにも、濠《ほり》もあれば、いくつかの門もある。
そこをどうして通りぬけてきたのか。きょう日のくれるまでに般若侠《はんにやきよう》と称する例の男がやってくる、その警報はすでに全城くまなく伝えられ、城侍たちは満身を監視の眼としていたはずなのに、いったいいかなる魔術をつかったのか、それともあまり緊張しすぎると、かえってどこか空白の盲点が生ずるのか。――いま、忽然《こつぜん》と天からふってきたようなその姿を本丸の門外に見出して門番たちが味方と錯覚したのは当然だ。
「沢庵禅師はおられるか」
深編笠《ふかあみがさ》はしずかにいった。一同はなお煙につつまれたような顔で、
「沢庵――はおるが……貴公は?」
「お呼びによって、般若侠参上。――」
みなまできかず、あっ――というようなさけびとともに、門番たちはいっせいにとびずさり、つむじ風に吹かれたように潜門からにげこんで、しかもその潜門までしめてしまったのはおかしい。
絶叫と跫音《あしおと》が、みだれつつ遠くへ走っていった。
たちまち本丸の中に異様な颶風《ぐふう》のような物音が吹きめぐりはじめた。
それがきこえぬことはあるまいに、深編笠は、折れた槍を捨て、石段を下りて、春風に野羽織をひるがえしつつ、そこにウッソリとたたずんでいる。
――不敵といおうか、無謀といおうか。いや、ムチャクチャというべきだろう。
いかに天稟《てんぴん》壮絶の剣技に自負を抱いていようと、孤剣、四十万石の城に入って、柳生十兵衛、果して何をしようというのか。――道場破りではあるまいし。
しかし、いまや鉄門は、内側に、八文字に開いてゆく。
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十兵衛見参
鉄門は、徐々に開いてゆく。
これは北向きの門だから、扉が開いてゆくにつれて、南風が内側から吹き通りはじめた。青味をおびた風であった。
それをまむかいに受けて、般若侠はちょっと片手を深編笠のふちにかけて、うつむきかげんに、じっと立っている。まるで何か考えこんでいるようだ。
彼は何を考えているのか。
彼は何も知らない。――なるほど彼は沢庵《たくあん》の手紙を読んだ。「わがいくさ敗れたり」云々の、その文字は信じ、その言葉は信じる。だからこそ、彼はやってきた。
しかし、もとより不可解の念はぬぐい得ないのだ。いま、こうして門の前に立ち、扉をひらいてゆくのを見つつ、なお彼は首をかしげている。
いったいこの城の中に何が起ったのか。沢庵和尚の身の上に何が起ったのか。――わからないから、彼はやってきた。むしろ、それもある。
人は、真相を知らない者ほど強い者はない。十兵衛にも、それがあるのではないか。――たしかにそうであった。
天下の豪僧沢庵さえも苦悩のあまり乱心させるほどの意外事、絶体絶命、ついに白旗をかかげて降伏させたほどの事態、それをだれが想像し得ようか。もとより十兵衛は知らぬ。
かくて完全な勝機をつかんだ銅伯の条件は絶対だ。にもかかわらず、知らぬが仏の十兵衛は、平然として昨夜も十人の芦名《あしな》衆を斬り、さらに、敵の条件を無視して、堀の女たちをかばい、おのれ一人、かくのごとくにやってきた。
もとより、いまさらどんなおだやかな行動をとろうと、彼と加藤明成また芦名一族のあいだが無事な結着を見せようとは思われないからおなじことだが――それは彼も先刻承知のことだろうに。
沢庵が魔人と評した芦名銅伯、十兵衛もいくたびか冷気をおぼえた剣士|漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》また香炉《こうろ》銀四郎、さらに城中にはなお芦名衆は雲のごとく、それらは満を持して待ちかまえているにきまっている。刀槍《とうそう》、弓矢もあるであろう。鉄砲もあるであろう。
それに対して、柳生《やぎゆう》十兵衛、いくばくの自信ありや。自信ありやときかれたら、彼はニンガリとして答えるだろう。
「ない」
まさに、ない。
あるのは万斛《ばんこく》の恨みをのんで殺された父母のために、あえて四十万石に挑む七人の女に対する熱血の義心と、鬼畜のごとき敵の大悪業に対する破邪顕正の勇心のみだ。
鉄門は完全にひらいた。
ほんの先刻、どよめきわたったその内側は、いままでふしぎな沈黙がシーッとわたって死に絶えたようだが、もとより無人と化したわけではない。いや、それどころか、編笠越しに見えただけでも、樹氷のごとき刀槍のひかりが、数をも知れずに氷結している。
「……ホーホケキョ」
どこかでやさしい声で鴬《うぐいす》が鳴いた。
般若侠は、深編笠から手をはなし、ツ、ツ、ツ、と石段を登って鉄門の下に立った。
般若侠は歩み入る。
見るがいい。――庭のまわり、樹々のかげ、櫓、石垣、塀の下――満目、ただ、刀と槍《やり》と弓と矢の波涛《はとう》だ。そのすべてが芦名衆というわけではなく、四国から従ってきた加藤衆|譜代《ふだい》の家来たちが大半だろうが、ふだん、芦名衆に要所を占められ、またあごで使われていることからくる不満は別として、この際、不敵にもただひとり城に乗りこんできた曲者《くせもの》に、いっせいに刃《やいば》をむけたのは当然であった。
あちこちの城壁の上から、うすい煙がたちのぼりはじめた。鉄砲の火縄に点火した煙であった。……その煙以外には、しかし、どの影も、どの刀槍のひかりも、武者人形みたいにうごかない。
うごけないのだ。――みずからの布陣を知っているだけに、その必殺鉄壁の城へ、たったひとり飄々《ひようひよう》と入ってきた深編笠の影をみては、それが春のかげろうのかもし出した妖《あや》かしではないかと、いまさらおのれの眼を疑わずにはいられないのであった。
歩いている人間といえば、般若侠だけだ。十歩、二十歩。……鴬がまた鳴いた。
夢からさめたように、だれか手をふった。天守閣の真下に立っていた香炉銀四郎だ。遠く、茫乎《ぼうこ》として般若侠を見送っていた門番たちが走り出して、扉のひらいていた鉄門をしめた。
それを合図に、全城、火山のごとく鳴動する気配が起ろうとして――まずその矢の弦を切って放したのは、香炉銀四郎の声であった。
「笠をとれ、般若侠!」
深編笠は、歩いてくる。おなじ足どりだ。――春風が、野羽織のたもとを吹きはらう。彼は、なんと、ふところ手をしているのだ。「無礼であろうぞ、――般若侠。殿の御前である。冠《かぶ》りものをとらぬか!」
銀四郎の絶叫も、どこ吹く風と、般若侠の両手はふところから出ようともせぬ。――なまじ、香炉という少年の恐ろしいことを知っているだけに、それを完全に無視した深編笠の寛濶《かんかつ》放胆さはかえって身の毛もよだち、暴発しようとしていた城侍たちを、あらためてまた金縛りにしてしまった。
山雨到らんとして、風楼に満つ。――
般若侠の歩いてゆく正面には、天守閣に入る広い石段がある。
いちばん下に、香炉銀四郎と漆戸虹七郎がならんでいる。四、五段上に、芦名銅伯と沢庵が立っている。そしていちばん上の――天守閣に入る門の前に、加藤明成と愛妾《あいしよう》おゆらが見下ろしていた。沢庵をのぞけば、魔神の祭壇ともいうべき構図だ。
「……はじめて見ました。般若侠という男」
と、おゆらがいった。
「敵ながら……あっぱれなものではございませぬか?」
むしろ、恍惚《こうこつ》としたまなざしを下界になげて、
「雲霞《うんか》のような城侍の中を、あなものものし、といわぬばかりにただひとり歩いてくるあの武者ぶり……かえって、城侍の方が気を失っているようにみえまする」
「いいえ、こうして見ているわたしさえ、心がしびれるような」
いたずらっぽく明成の方をふりかえって、おゆらは眉《まゆ》をひそめた。
視界のうちにある何百人かの人間のうち、いちばん蒼《あお》い顔をしているのはだれかというなら、加藤明成であったろう。
……ちかづいてくる深編笠を、まるでうなされたような、義眼に似た眼で見下ろしていたが、ついにたまりかねたように、
「……ど、銅伯!」
と、さけんだ。
「それ以上、寄らすな」
はじめて、芦名銅伯が声を出した。
「般若侠《はんにやきよう》」
声だけでも常人を何やら身ぶるいさせずにはおかないひびきを持っている。――が、般若侠の歩みに、風のそよぎほどの異常はない。
「約定にそむいたな? 堀の女どもはどうしたか?」
かえって、鞭《むち》をあてられたように反応を起したのは沢庵であった。――それまで、城内にひしめく幾百ともしれぬ刀槍の波を、ひとりつッ切ってくる影を、凝然と見下ろしていた沢庵の眼に涙がうかんでいたが、このとき沢庵は、はねあがって、ころがりおちるように石段をかけ下りていった。
「これ。……は、般若侠」
はじめて、深編笠《ふかあみがさ》の影が、ピタととまった。石垣の下から五間あまりの距離だ。
「老師。いかがなされました?」
沈痛な声できいた。沢庵はこぶしをにぎりしめて、ひきつけでも起したような形相で、
「もはや、事終った! たのむ、死んでくれい!」
「それは覚悟の上で参りましたが。……いかがなされたのでござる」
「いくさは負けた。想像を絶したことが起ったのじゃ。よいか。……そこにおる芦名銅伯と江戸寛永寺の天海僧正とは双生児じゃそうな」
深編笠をかすかにあげて、石段の上をすかし見て、
「……なるほど」
「しかも、ただの双生児ではない。同じ日に生まれた両人は、同じ日に死ぬという。銅伯を殺せば、天海僧正も死ぬという。いや、それはいつわりではない。沢庵、しかとそれを思い知らされたわ。……銅伯を殺さねば、このいくさには勝てぬ。が、南光坊天海どのを殺すわけにはゆかぬ。僧正は、徳川家にとって守護神のごとき大柱石、のみならず、かんがえてみれば……僧正はちかく将軍家に天台|血脈《けちみやく》の大儀をとり行なわせられる。その天海僧正を盾とされては、もはや、われわれは刀を捨てざるを得ないのじゃ。……きいておるか? わかってくれるか?」
深編笠は影を地におとしたまま、微動だもしない。
沢庵は血を吐くようにさけんだ。
「そなたが、堀の女たちをおいて、たったひとりで乗りこんできた心はようわかる。が、この沢庵があえてみなに死地に入ってくれといってやったのは、よくよくのことじゃ。あらゆる意地、面目、侠心は、この大事のまえには、風の中の塵《ちり》のごとし。――」
般若侠は依然として沈黙している。
沢庵の顔色は、焦りと恐怖に鉛色に変っていた。
「堀の女どもの恨みはようわかる。わかればこそ、わしやおまえは、わざわざ会津《あいづ》までついてきた。……しかし、このたびの復讐《ふくしゆう》はあくまでも私事、私闘。そのために天海どのを犠牲にするわけには参らぬ。このことをようかんがえて、般若侠、約定通り、あの女どもを呼び、いっしょに死んでやってくれい!」
「…………」
「いや、ただ手をつかねて死んでくれと申すのではない。堀の女どもを呼んでくれれば、おまえの助太刀を求めて、ここにおる漆戸虹七郎と香炉銀四郎と尋常に立ち合わせよう。漆戸、香炉も名門芦名の血をひく男、それくらいの武士魂はもっておるはず、それだけは沢庵が承知させる、受け合う!」
「…………」
「もとより両人を討てばとて、女どもの命はなかろう。おまえもまた、もともとただ一片の義心よりあれらを助けてきた縁にすぎぬが、いまとなっては深入りしすぎた。生きてこの城を出ることはかなうまい。それを思うと、この沢庵、胸もはりさけるようであれど、事ここに至っては、せめて漆戸、香炉の両人のみをたおし、少なくとも一矢を酬《むく》いることで笑って眼をつむってもらうよりほかはない……」
「いやでござる」
と、般若侠はふいにいった。
「拙者はともかく、左様なわけであの女どもを死なせることはいやでござる」
「こ、これ……わしのいったことを信ぜぬのか。そなたらに死んでもらわねば、天海僧正に災いが及ぶのであるぞ」
「さしつかえござらぬ」
冷然たる語調であった。沢庵はあっけにとられ、息をひいたまま二の句のつげぬ様子だ。
「天海僧正に死んでいただこう」
「しかし、南光坊どのは、徳川家の大柱石――」
「老師、血迷われたか」
と、般若侠はいった。笑いをおびた声であった。
「いま老師は、このたびの復讐はあくまでも私事、私闘と申されましたな。拙者はそうは思わないのです。あれだけ江戸の耳目をうばった大悪業、これに天誅《てんちゆう》を加えるのは、もはや私事、私闘とは申されぬ。会津の人民も、天の裁きや如何にと、いまや眼を張って見まもっております。これを無にし、むなしく討たれるは、天に日輪なく、地に人の道なしと諸人の望みを泥土にゆだねるに等しい――」
「む、むなしく討たれると申して――さればこそ、漆戸、香炉と尋常に勝負させるといっておるではないか」
「その保証はない。そもそも、この大仰な騒ぎはなんでござる。きょう、拙者ひとりがここに参るとは、いまはじめて知ったことのはず、あちらとしては、当然堀の女どもも同行いたしおるものとして、この軍勢を狩り出してきたものでござろうが。しかるに、あの弓矢は何事、あの鉄砲は何事、きゃつらの武士にあるまじき卑怯《ひきよう》、奸悪《かんあく》、背信ぶりは、鎌倉東慶寺《かまくらとうけいじ》以来知れたことではありませぬか!」
「…………」
「拙者は信ぜぬ! したがって、断じて、みすみす女どもをなぶり殺しの運命におとすわけには参らぬ!」
錆《さび》のきいた声は、広場の隅々までよく通った。どよめきかけた城侍たちの頭上を、男性的な快笑が吹きわたる。
「あの女たちを見殺しにして、なんの士道、なんの仏法。仏法なくしてなんのための天海僧正、士道なくしてなんのための徳川家でござる。もし、あの可憐《かれん》な女たちを殺さずんば、僧正も死なれる、徳川家も滅びると仰せあるなら、よろしい、僧正も死なれて結構、徳川家も滅んで結構。――和尚、和尚のふだんの御教えは、左様ではありませなんだか」
言いも言ったり!――というところだ。この時代、この場合、この男の、いってのけたことは、痛烈、壮絶、まさに身の毛もよだつばかりの言葉であった。
ここまで思いきって言われては、とっさに、全城「アア」と息をもらしたきり、しばらく声をあげる者もなかった。――沢庵にいたっては、アングリと口をあけて、キョトンと般若侠の笠を見ているばかりだ。
――どこかで「……ホウ、ホケキョ」と鴬《うぐいす》が鳴いた。
その沢庵の口がしまった。
「……どうも、おまえは、そんなことをいいそうな気がしておったぞよ」
思いがけなく、この老僧はきゅっと笑ったのだ。
「実は、おまえがそう言ってくれるのを、わしは待っておったような気もする。しかしの、わしが迷ったのも、よくよくのことと察してくれいよ」
それから沢庵は、首をまわして石段の芦名銅伯を見あげた。
「きいた通りじゃ、銅伯老。……わしの力では及ばぬよ。徳川家が滅んでもよろしいとかんがえている奴には、わしも手のつけようがない」
「――射てっ」
こわれた楽器の絃《げん》を切るような声で、加藤明成がさけんだ。遠く城壁の上の鉄砲がいっせいにあがった。
「御免」
同時に般若侠は地を蹴《け》って、沢庵をひっかかえ、盾とした。
「射つか。射ってみろ。両人は蜂の巣となる。城外にある堀の女どもの行方は、ついにわからぬようになるぞ。のみならず、そのひとりは江戸に走って、加藤家が将軍家師僧沢庵どのを銃殺したと訴えて出るがよいか!」
「ま、待て!」
思わず銅伯がさけんだ。われにもあらず、狼狽《ろうばい》している。
沢庵を殺す。――これは彼の意図のほかだ。沢庵だけは殺してはならぬ。この老いぼれだけは江戸にかえす。ただし永遠にこの銅伯の夢山彦の人質としてだ。――と思っていたのに、その人質をまた逆に人質とされようとは、まったく思いのほかであった。
「鉄砲は待て」
もういちどいって、銅伯はじっとこの想像以上に手におえぬ不敵な深編笠を見下ろした。
「般若侠。……しかし、おまえは、ここにおる漆戸虹七郎と香炉銀四郎と立ち合えと申したら、不承知か?」
深編笠をしずかに回し、般若侠は、前とうしろに立つ漆戸虹七郎と香炉銀四郎を見やったようである。
「それは、ちとこまるな」
うすく笑った声であった。
「この両人は……そのうち、堀の女たちに斬らせるという約束でな。わしが斬っては、あれたちに叱《しか》られる――」
「く、くっ」
言葉にならぬ憤怒のうめきをあげたかと思うと、漆戸虹七郎の腰から右の頭上にかけて、白い虹《にじ》が立った。一本だけの右肘《みぎひじ》が静止したとき、はじめて彼が一刀をぬきはらっているのが眼に見えた。
頭上にさし出ていた一本の木蓮《もくれん》の枝がパサリとおちてきたのはそのあとである。木蓮の枝は大きな紫の花を、二輪、三輪つけていた。
「――では、やってみるか」
と、般若侠《はんにやきよう》はつぶやいた。
「禅師もごらんの通りです。この場合、やむを得まい。堀の女たちには、あとで禅師からあやまっていただこう」
「般若侠! 沢庵とともに生きてふたたびこの城を出る気か」
と、香炉銀四郎があざ笑った。般若侠はそれにはこたえず、自若として芦名銅伯を見あげて、
「勝てば、禅師をつれて、ひきあげてよろしいかな」
と、いった。――銅伯は、とっさに返事に窮したようだ。
「よい、とおこたえなされ」
と、虹七郎はわめいた。それから、銀四郎の方に、はげしい声で、
「手を出すな、おれにまかせい!」
「いや、それはならぬ」
「ええ、おれひとりこやつと立ち合ってみたいのだ。銅伯さまがいままで禁じられておったのを、おれはふしぎにたえなかったのだ。もしおまえが立ち合いたければ、おれのあとでやれ」
「おぬしのあと?」
虹七郎のあとといえば、虹七郎が斬られたあとという意味だろう。
――しかし虹七郎は、すいと地にたらした刀身をうごかすと、落ちていた木蓮の枝を刺し、宙にほうりあげた。ふたたび顔の上におちてきた枝を、ガッキと口にくわえる。――
人を斬るとき、手ぢかに花があれば、かならず手折って、この男は口にくわえる。ぶきみな剣鬼の、必殺の予言であり、儀式でもある。
「よかろう。ひとりでやらせい」
と、石段の上で、銅伯がいった。
――この両人の勝負には、一点の疑心があるとはいえ、それだけに彼にもただならぬ興味があるようだ。眼が、冷たい好奇心にひかってきた。
「銀四郎、どけ」
「禅師、ちょっとおはなれ下さい」
と、般若侠は、しずかに沢庵をおしやった。
沢庵はうなずいて、ヒョコヒョコと避難する。顔だけうしろにねじむけて、その眼にも銅伯におとらぬ興味の色があった。
「……負うた子に教えられるとは、このことじゃて」
いまさらのように、沢庵は口の中でつぶやいた。先刻からのなりゆきのことをいっているのだ。――それまでの大|苦悶《くもん》をケロリと忘れたような顔をしているのはすこしおかしいが、十兵衛の一断によってすべてを放下し、無我の境に入ったのかもしれない。しかしまた沢庵にしてみれば、完敗の窮地から、般若侠対漆戸虹七郎の一騎討ちという機会をつかみ得たのは、せめてもの満足とせねばならないであろう。
それに、この和尚には元来剣の道に対するふかい興味がある。ふりかえったその眼には、勝敗を度外に置いた澄明なひかりさえあった。
「笠《かさ》をとれ」
と、うしろで銀四郎がまたさけんだ。
「そうであったな」
はじめて、気がついたように般若侠は深編笠の紐《ひも》に手をかけた。二、三間はなれて前に立つ漆戸虹七郎の手に、すでに刀身がひかっているのも見ないかのような、ユルユルとした手つきである。
……彼は、笠をとった。見ていたもの、すべてが眼を凝らした。彼の正体は何者か。――
あらわれたのは、般若面だ。
――あたりまえのようだが、銀四郎はかっとした。
「人をくった奴だ。これ、面をとれ!」
「おれが斬られたらの」
と、般若侠は笑う。
「おれは禅師をおつれしてかえるつもりじゃからの。この面は、なかなか以《もつ》て」
なおさけび出そうとした銀四郎の口を封じたのは、般若侠の人を小馬鹿にした笑い声より、そのとき、地上からあがった、思いがけぬ美しいひと声であった。
ホウ……ホケキョ……なんと、笠の中から、鴬が鳴いたのだ。
般若侠は、ぬいだ笠をあおむけにして地にころがしていた。人々は、はじめてその深編笠の中にとまっていた一羽の鴬を見た。
「……なんのまねだ?」
一瞬、人々の眼は鴬よりも般若侠に吸い寄せられた。彼の腰間からも一刀が鞘走《さやばし》ったのである。
眼ばかりではない。すべての人間の全感覚が、その地点――空間に吸いとられて、あとは真空状態になったかと思われた。
春光のなかに、寂と相対した二本の刃。いずれも青眼。それが、凍りついたようにうごかない。
大天守閣の甍《いらか》にかかった雲片が、淡雪のようにふっと消えた。
このとき、般若侠の刃が、すうと下におりた。人々が息をつめたとき、その刀身はクルリと横にうごいて――なんたる大胆、そこにあった深編笠の中の何かを、音もなく切っさきで切ったのである。
ケキョ、ケキョ、ホウ――鴬は羽ばたいて、ぱっと空中に飛び立った。橄欖《かんらん》色の羽根がななめに翔《か》けのぼるにつれて、その足から薄紅の紗《しや》が、細いすじをもつれさせながら舞いあがっていった。
鴬《うぐいす》が帰ってくればよい知らせ、というのが女たちとの約束だ。
その鴬を飛ばせた、ということは、放胆なり般若侠、すでにこの決闘にわれ勝てり、と見たためか、それとも、わが事終る、とみて、せめて彼女らの危惧《きぐ》を断つためか。
漆戸虹七郎の隻腕の一刀があがった。その口から木蓮の花が落ちた。ながれるように前にすべり出た。もとより電瞬の間である。
が、人を斬らぬうちに彼の口から花がおちたのもはじめてなら、すべり出た足も、自由意志というより、操り人形のようにもつれている。満面は土気色だ。――全身隙となった般若侠をたおすのはこの一撃と、彼もまた凱歌《がいか》をあげたのか、それともこの恐るべき敵に誘い出されたのか、神のみぞ知る。
「キキ……ッ」
空に異様な悲鳴があがったのは両者の間隔が一間となった刹那《せつな》であった。
それよりまえ――般若侠の編笠から飛び立った鴬に、はっとしたのは香炉銀四郎である。足に薄紅の紗をひいて舞いあがった鴬――それが何を意味するものとは知らず、鴬が天の一角に飛び去ろうとしたとき、銀四郎の腕から流星のようなひかりが翔けのぼった。
小柄《こづか》は鴬をつらぬいた。蒼空《そうくう》から地上へながれ落ちた赤い色は、紗であったか、血潮であったか。
般若侠の姿勢に、突如ただならぬ乱れのみられたのはその瞬間であった。
大空の悲叫にチラと顔があがり、同時に頭上からたばしり落ちる虹七郎の刀尖《とうせん》をむかえ討つにいとまなく、横っとびに大地を蹴《け》ろうとする。
一瞬おそく、漆戸虹七郎の一刀は、彼を梨割りにした。――とみえて、ぱっと音たてて、その顔から二つになって割れおちたのは般若面であった。
面はおちた。般若侠はついにその顔をあらわした。
「……おう!」
異様などよめきがあがったとき、般若侠は虹七郎の剣尖からすでに三間もはなれた位置に立って、ニンガリと苦笑の顔を春風にさらしている。
「……やられたな」
と、いったのは、いまの一撃のことかと思われたが、チラと足もとの鴬の死骸《しがい》に眼をおとしたところをみると、鴬のことであったかもしれない。
漆戸虹七郎と香炉銀四郎は、ひと息、ふた息、茫《ぼう》として立っている。彼らははじめてこの敵が、はたして眼を持っているのか、盲目なのか、ついにわからなかった謎を知ったのである。
見よ。その右眼は糸のようにとじられて――
そして、たんに彼の右眼がつぶれていることを知ったばかりでなく、その事実から、さらにふたりの心肝をふるわせてくるある名がある。剣をとっては江戸にならぶものなしといわれた隻眼の天才児。――
「……柳生十兵衛!」
ふたりは絶叫した。
相手は石段の上の明成と銅伯をふりあおいで、ニンマリと笑った。
「柳生十兵衛、はじめて見参つかまつる」
あっ――と息をひいたきり、城侍たちに声をあげる者もなかったのは、いかに会津の田舎侍とはいえ、その名を知らぬ者もなかったからに相違ない。
漆戸虹七郎も香炉銀四郎も凝然として立ちつくしている。――やがて、肩で息をして、ふたりはつぶやいた。
「そうか。そうであったか」
「道理で――」
ひとにきかせる言葉ではない。おのれ自身の胸に矢の立ったようなうめきだ。
道理で――といったのは、江戸以来の、この敵の超絶の剣技をいまさら思い当ったうなずきだが、いま名乗られてみて、すでに沢庵が登場している以上、沢庵と縁の深い柳生という名に当然想到すべきであったのを、いままで思い浮かべもしなかった不覚に歯をかんだ嘆息もあった。
しかし、彼らが柳生十兵衛という名を思い浮かべなかったことにも理由がある。十兵衛はその磊落《らいらく》奔放の性がたたって、将軍か父|但馬守《たじまのかみ》かの不興を買い、ここ数年来、国元の柳生の庄《しよう》にかえったとか、西国を放浪中とかの噂もあり、とにかく久しく江戸からふっつりと名を消していたからだ。
が、虹七郎と銀四郎の眼が、しだいに名状しがたい妖光《ようこう》をはなってきた。
「つづけるかね?」
と、十兵衛がいう。
「のぞむところだ!」
ふたりは絶叫した。その眼には、よろこびにちかいひかりすらまじっている。虹七郎の剣尖がぐいとふたたびあがると同時に、銀四郎の手がふところに入った。
「ま、待てっ」
ひッ裂けるような声とともに、芦名銅伯が石段からおどりあがったのはそのときであった。十数段の高さから、この百八歳の老人は鷲《わし》のように羽ばたいて、十兵衛のまえにすっくと舞い下りた。
「待て」
十兵衛の前六尺の位置に、にゅっと立って髯《ひげ》に覆われた顔をつき出し、
「ほほう、うぬが……噂にきいた柳生十兵衛か?」
「噂にきいておったか。それは光栄」
「十兵衛。……うぬが堀の女どもの黒幕となって、会津四十万石に盾つくは但馬も承知か」
「いや、おれの勝手だ。……おれは行状が悪うてな。柳生家からはすでに廃嫡《はいちやく》されて、まず天下の素浪人だ。安心するがいい」
「沢庵どの。……その通りじゃな」
銅伯にふりむかれて、沢庵はうなずいた。さっきちょっと明るくなっていた顔色が、また暗くなっている。
「銅伯、それをきいて、何とする」
「十兵衛の相手は、わしがしよう」
「それはならぬ!」
沢庵と同時にさけんだのは、漆戸虹七郎と香炉銀四郎であった。ふたりは血相をかえて、銅伯のそばにはせ寄った。
「銅伯さまっ……手前どもでは危ないと仰せでござるか」
「まず、そのあたりだ」
「危ないか、危なくないか、まずここに血がながれてからもういちど申されい!」
「柳生十兵衛。……」
銅伯は、漆戸虹七郎の声もきこえぬ風で、春風に吹かれて立つ隻眼の剣士をまじまじとながめ、
「なるほど」
つぶやいたのは、あらためてその名と、いままで無数の芦名衆を斬ってきた事実を思いあわせたものであろうか。そのくぼんだ眼には、たしかににくしみ以外のひかりがあった。
「……いや、やはり、わしが料理してみよう」
何かに憑《つ》かれたような声であった。
「な、ならぬ!」
沢庵は、またさけんだ。が、この場合、おのれにそれを制止する力のないことを思い出したらしく、足ずりして、
「十兵衛! 銅伯は不死身の男であるぞ!」
「不死身の男?」
十兵衛はくびをかしげる。芦名銅伯が不死身の肉体を持っている。ということはすでに何度も沢庵からきいたが、そんな奇怪なことはまだ十兵衛によく納得できない。だいいち、ほんのいま、この銅伯を殺せば江戸の天海が死ぬことになる。それゆえいくさは負けだ、と沢庵がいったばかりではないか。
沢庵は両手をもみねじった。この矛と盾のような関係を、一言で説明するのはむずかしい。――しかし、沢庵には、その恐るべき結果だけははっきりとわかっているのだ。
銅伯を殺したとき、銅伯の生命力が強ければ天海が死ぬ。
銅伯を斬ったとき、天海の生命力が強ければ銅伯は死なぬ。銅伯が死なぬということは十兵衛の敗北、すなわち死を意味する。
いずれにしても、絶体絶命だ。
「……いよいよ以て面白いな」
銅伯を見つめた柳生十兵衛の眼にはむしろ好奇の色がある。
「――いざ、参れ!」
銅伯が肩をゆすると、見えない力にふりとばされたように虹七郎と銀四郎がとびさがった。――止めて止まらぬ老首領の意志を知ったというより、あらためて銅伯の不可思議な肉体力を思い出し、彼らもまたただならぬ興味にうごかされたように、ふたりはじっと見まもった。
芦名銅伯は、腰の小刀をぬいて、ピタとかまえた。片腕につかんで、すうとのばしただけである。
が、この一瞬、十兵衛の眼には、わずか一尺ばかりの銅伯の小刀が、じぶんの大刀よりもはるかに長くのびて、おのれの瞳孔《どうこう》につき刺さるように見えた。
十兵衛の顔色が次第に変ってきた。
芦名銅伯の構えが常人ではない。とはっと瞳《め》を射られたような思いがしたのは一|刹那《せつな》のことで、次の瞬間、この怪老人は実に無防備な姿に移っていたのである。まるで、刀を生やした古木同然なのだ。
時間が経過した。銅伯の口が黒くあいた。笑ったのだ。
さっき、虹七郎と相対したときと逆であった。全身隙となった銅伯に、何か罠《わな》がある――と知りつつも、吸いこまれるように十兵衛は大地を蹴っていた。
「――ええいっ!」
鉄をも断つ十兵衛の声であった。
まさに、鉄をも断った。――快刀三池典太は、芦名銅伯の小刀を氷片のごとくたたき折って銅伯の左の肩から、ズーンと斬りさげた。
このとき、ふしぎなことが起った。十兵衛は斬りこんだ愛刀から手をはなし、勢いあまって銅伯の左をかけぬけながら、こんどはうしろなぐりに小刀を抜きはらって相手を胴斬りとしたのである。しかも、彼はさらにその小刀からも手をはなした!
「あーっ」
凄《すさま》じい悲鳴をあげたのは銅伯ではなかった。
見ていた沢庵であり、明成であり、また雲霞《うんか》のごとき城侍たちであった。
むろん、銅伯は赤い霧風のような血しぶきにくるまれている。――が、その血の霧風が去ったあと、銅像のごとく依然としてそこに立ったままの銅伯の姿が見られた。
彼はたおれない。肩から斬りこまれた大刀を胸と背にニョッキリと生やしたまま、胴から斬りこまれた小刀を腹と腰につき出したまま、彼はノッソリと仁王立ちになっている。
二、三間|駈《か》けすぎて、茫乎《ぼうこ》として立っているのは柳生十兵衛であった。
彼は最初銅伯を袈裟《けさ》がけにしたとき、まるで鉛にでも斬りこんだような、異様に重い手ごたえをおぼえていた。大刀をはなしたのは、みずからの意志ではない。もぎとられたのだ。はっとした刹那、とびちがいつつ、うしろなぐりに小刀で斬りはらったのは十兵衛なればこそだが、その剣技がかえってたたって、彼は次の瞬間、その小刀もまた手からもぎとられていたのであった。
「……沢庵どの」
つぶやいたのは、芦名銅伯であった。
「いま、江戸で身をもんで苦しがっているひとがあろうな」
苦痛にけいれんする顔を、しかしニヤリとさせながら銅伯はいい、胸と腹に出ている二本の刀の柄《つか》に手をかけた。
「さすがは天海。わしより生命力が強い。……わしは死ねそうにない」
つぶやいて、彼はスルスルとその二本の刀をじぶんのからだから抜きとった。血はながれおちる。
――血はながれおちるが、しかし常人が同様の傷を受けた場合にながすであろう血にくらべて、おどろくべき少量だ。
彼はようやくこちらに向きなおった。
「芦名銅伯の忍法なまり胴。……十兵衛、わかったか」
十兵衛は、ブラリと両腕をぶら下げて立っている。――彼は、沢庵ほどの人間が降服した意味をはじめて知ったのである。
「わかった。おれが負けた!」
白い歯をみせて、無防備の胸をさらした前に、
「いまさらわかっても、もうおそい!」
狂笑ともいうべき声をほとばしらせて、それぞれ一刀をひっさげた漆戸虹七郎と香炉銀四郎が殺到してきた。
「――待って!」
空をきぬを裂くような声がながれた。
すでに俎上《そじよう》の鯉のごとく、泰然と仁王立ちになっている柳生十兵衛の面上に、二本の刀身がひらめこうとして、
「待たぬか!」
もういちどするどい声が、刀を宙に静止させた。刀がとまったのは、思いがけぬ女の声であったからだ。
明成の愛妾《あいしよう》おゆらであった。おゆらはチラリと明成を見たが、すぐにそのまま石段にかいどりをひいて、トトトトと駈けおりてきた。
刃をとめた虹七郎と銀四郎は、豹《ひよう》のごとくはねもどって間合いをとり、左右にその刀をかまえて一触即発の姿勢のまま、
「なぜ?」
「なぜ、お止めなさるっ」
怒りの声であり、形相であった。おゆらはいった。
「殺すに惜しい――」
「何?」
「いいえ、ひと思いに殺してはもったいない」
と、いいなおした。
「いままで、この男ひとりのために、わが芦名衆のものどもが何十人落命したか、いいえ、いかばかり殿のおわずらいとなったか、それを思えばただ一太刀で成敗しては胸が癒《い》えぬと考えぬか。江戸で謀叛人《むほんにん》の堀一族を仕置したときは、俎《まないた》の上にしばりつけて、その指を一本ずつ断って、この世の苦しみのかぎりを味わわせたという。わたしは……」
じいっと十兵衛の顔を上眼づかいに見て、
「この男が犬のようにのたうちまわり、鳥のように悲鳴をあげる姿を見たい……」
ネットリと恐ろしい言葉を吐く妖艶《ようえん》な唇を、十兵衛は見返して、うす笑いしている。その隻眼が瞳に匕首《あいくち》のごとく刺さるのをおぼえた刹那、おゆらの眼はさざなみのようにゆれて、石段の上を見あげた。
「殿、左様に思われませぬか?」
「いかにも、ゆらのいう通りだ!」
加藤明成はわれにかえり、憎悪に歯ぎしりした。
「が、ともあれ、捕えろ、そやつ、何をするかわからぬ男だぞ」
「銀四郎」
銅伯はいった。先刻の流血はすでにやみ、顔色は平常にもどっている。十兵衛の双刀を手にひっさげたまま、
「その男をくくれ、抵抗の気配があれば、虹七郎、斬れ」
香炉銀四郎がいちばん手ぢかにかたまっていた芦名衆の一団をさしまねいて、
「ひとまず、こやつをひっくくれ。十兵衛、神妙にしろ」
と、いった。その切っ先は十兵衛ののどもとにさしつけられ、虹七郎の片腕の一刀はその頭上にふりかぶられている。
銅伯はおゆらをふりかえった。
「実はの、わしもこやつをこのまま討ち果たしては愉《たの》しみがのうなると思うておった。わしが相手になったのは、そう思うたがゆえもある。また、堀の女どもの所在をきき出す必要もある。――ところで、ゆらよ、おまえはこの男をどうしてやったらよいと思うな?」
「柳生但馬のせがれか。どうしてくれよう」
石段の上でうめく声がした。明成だ。銅伯はふりあおいだ。
「あいや。案ずるには及ばれませぬ。こやつはすでに勘当の身と本人が申しております」
「勘当の身ならずとも、なんでそれを恐れるか!」
明成はわめいた。
「いかに将軍家師範とはいえ、たかが一万石余の小大名、そのせがれの分際で四十万石に刃向うとは――柳生但馬もそのままには捨ておかぬぞ。そやつの耳をそぎ、眼をくりぬき、指一本ずつを斬って、江戸の柳生に送りとどけてやろうか。いや、そやつを一寸だめし五分だめしに成敗するはもとよりのことながら、そのまえに、堀の女どもを一寸だめし五分だめしにするのを、そやつの眼にみせてからでのうては気がすまぬ、いかなる手段をとっても、きっとそれを白状させい!」
「仰せ、かしこまってござる」
「この男が――何をされようと、それを白状するでしょうか」
おゆらがつぶやいた。すでにうしろ手にくくられた柳生十兵衛は、これらの問答をうす笑いしてきいている。びんの毛をなでる春風を愉しんでいるとしかみえぬ顔だが、思いきった男の意志というものを、彼女は感得したようだ。
「ゆら、何とか思案がありそうじゃな」
男をさいなむ知恵については実に天才的なものをもつ娘に、このときばかりは銅伯は、何やら期待の情をうごかしてそのきれいな顔を見た。
「人間は、生きたい、と心から思うたときに殺されるのが、いちばんつらい、恐ろしいもの――」
と、おゆらはいった。
「父上、この男を、いちど女地獄へ投げこんでやってみたら、いかがでございましょうか」
「女地獄?」
「雪地獄に、たったひとりで」
「雪地獄。――いまは、あそこは女ばかりだぞ」
「さればこそ、女地獄というのです。もとより、この男の手足をくくって――そうすれば、どうなるか、女の肉の香に酔って、この世に生きることの悦楽にしびれるか、あるいは女どもに吸いつくされ、むさぼりつくされて、男のぬけがらとなるか。――いずれにせよ、この男の気力はなえて、こちらのききたいことを白状させるにはどのような大拷問よりもききめのある方法と存じますが――殿が、この男の耳をそぎ、指をきるのをどうしてもお望みならば、そのあとでよろしゅうございましょう」
おゆらは、十兵衛のまえに近づいて、すれすれに顔をよせ、じいっとその隻眼を見入っていたが、いきなり身をふるわせると、ぺっと唾《つば》を吐きかけた。
「芦名一族を悩ましぬいたにくい男め! しばしいのちが助かったと安心したなら大まちがいじゃぞえ。いまに――いまに――わたしは、哀れな、あさましいけだものとなって這いずりまわるおまえの姿が見たい!」
「面白い!」
石段の上で、明成は全身をゆすって笑った。
「よい! 雪地獄におとせ! 余は毎日、見物してやろう。……しかし、そやつは天魔ともみえるわざを持っておる男だぞ。ゆめ、逃すなよ」
「ばかな!」
小声だが、主君に対して無礼きわまるつぶやきを銀四郎はもらした。
「石の壁と、鉄の格子につつまれた雪地獄でござる。もとより、その外は不断に芦名衆に見張らせましょう。刀を持たせてこその般若侠《はんにやきよう》、いや柳生十兵衛、徒手で何が出来ましょうや」
しかし、その間、漆戸虹七郎は一刀を横ぐわえにして、ズカズカとちかづき、片手で十兵衛の全身をなでまわした。なでまわす、というより、ひきちぎるのだ。彼の指は剃刀《かみそり》のような爪をもっているのか、みるみる十兵衛の襟もと、袂《たもと》はズタズタになった。むろん、武器をさぐっているのだ。
「よし!」
「何も持ってはおらぬか。しかし、くくったままにしておけよ。その縄は切れることはあるまいな?」
石段の上で、鵜《う》みたいにくびをのばす明成を、チラとあおいだおゆらの眼に、けむりのようなさげすみの表情がながれたが、しかし、これは江戸以来の明成の災難――とくに、江戸屋敷の花地獄のいきさつを、身をもって知らないからだ。
「拙者の縛らせた縄は、人間の力、人間のわざでは、たとえはたから爪や歯をたてようとも切れませぬ」
香炉銀四郎は昂然《こうぜん》といって、どんと十兵衛の腰を蹴《け》った。
「歩け!」
よろめいた十兵衛は、実に惨憺《さんたん》たる姿だ。――その足が、そのとき思わず地上に横たわった小さな鴬《うぐいす》の屍骸《しがい》を踏みつけようとして、からくもかわし、
「……しまった」
と、はじめて彼はつぶやいた。
「しまった? いまさら、何を――」
おゆらが笑った。
「なんとまあ、にぶい男よの」
――しまった、といったのは、じぶんのことではない。鴬のことだ。鴬が空で刺されて落ちてきた刹那《せつな》、彼をあれほど狼狽《ろうばい》させたゆえんのものが、あらためてまた彼の体内を吹きすぎたのだ。鴬が城外に出ぬならば――薄紅の紗《しや》を足にむすんだ鴬が城外で発見されないならば――あの五人の女は、どうするつもりか。
冷たいものがすうと十兵衛の背をはしり、はじめて彼は生をねがった。この城からの脱出を祈った。じぶんのためではなく、あの女たちのために。
しかし、もはや万事休す。十兵衛は縄をかけられて、漆戸虹七郎、香炉銀四郎をはじめ、はせ集った何十人、何百人とも知れぬ城侍の刀槍《とうそう》に、車輪のごとくかこまれて曳《ひ》かれてゆく。
本丸東南の方角へ。――雪地獄というのは、その方角にあるのであろうか。
「……ようやく、顔色を変えたようじゃ」
あとを見送って、銅伯はつぶやいた。ふりむいて、
「さて、沢庵どの……かかる結果と相成ったが、あ、これ、お立ちなさるな。江戸の天海をも地獄におとすということは、先刻御承知でござろうが」
沢庵は石段のいちばん下に腰を下ろして、両手であたまをかかえこんでいたが、ふと顔をあげて、「銅伯、雪地獄とは巽《たつみ》の角櫓《すみやぐら》にあったのか」
と、いった。十兵衛のゆくえを見送った眼が血ばしっている。
「いま、それに気がつかれても、もう手を下すすべはござるまいが」
銅伯は冷たく一笑して、
「十兵衛と――やがてはひっとらえずにはおかぬ堀の女どもの命は、まずこれにておあきらめなされ。ちょっかいをかけようとした相手が悪かったのじゃ。ただし、禅師だけは御安泰に当分お世話申しあげる所存でござれば、御気楽に、ユルリと御滞在あれ。禅師には、やがて当家のことにつき、柳営にしかるべくおとりなし願わねばならぬのでな」
あごをしゃくった。
「お連れ申せ」
いいすてて、おゆらをうながし、あともふりかえらず石段を上っていった。
命じられた城侍たちは、沢庵をとりかこんだ。お連れ申せと命じられたが、あらあらしくひッたてて、まるで罪人あつかいだ。事実、あれ以来、沢庵の起居には以前とうって変った監視の眼がつき、格子なき座敷|牢《ろう》だ。
柳生十兵衛は、曳かれていった。巽の角櫓だ。櫓とは、べつに矢蔵の字をあてるように、武器の貯蔵庫であり、また高所から敵を見下ろして鉄砲や矢を放つためのもので、天守閣はこれの壮大なものである。若松城本丸東南のこの角櫓も、三層の堅牢な塗篭《ぬりご》め造りであった。
鉄鋲《てつびよう》をうった巨大な扉がひらく。
「入れっ」
どんとまた十兵衛の腰を蹴った漆戸、香炉につづいて、ゾロリと芦名衆のむれがつづいて入る。背後に、扉がしまった。
「あの扉のひらく音を、うぬはもはやきくことはあるまい」
「まず、かけねなく、地獄の門というところだ」
どっとあがった哄笑《こうしよう》が反響した。
三層の角櫓だが、十兵衛は石段を下へ歩かせられた。武器の貯蔵庫だから、むろん地下室もあるだろう。石段の両側はすべて巨大な石だ。足音も声も、芦名衆の具足のすれるひびきも洞然たる反響を呼ぶ。
すうと冷たい風が吹きあげてきたのもしばし――やがて十兵衛の鼻を、ふしぎな――なま暖かい、甘ずっぱい香りがうってきた。石段の下から、ぽっと蒼白《あおじろ》いひかりがさしている。
石段を下りつくして約十歩、ゆくてをへだてる格子の前に彼らは立ちどまった。格子は動物を入れる檻《おり》のように鉄で出来ていた。
そして十兵衛は、鉄格子のかなたに、女たちが群れているのを見た。その数は、幾十人ともしれず。――
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雪地獄
これは、かつて加藤明成が帰国の際、おゆらと銅伯にみちびかれて眼を見張ったあの天守閣内の人肉の部屋ではない。あれは心身消磨した明成への気付薬として、とくにおゆらと銅伯が臨時に作りあげたもので、本来の「雪地獄」はこの巽の角櫓の地下に設けてあった。
「雪地獄」――といっても、べつにそこに雪があるわけではない。魔王加藤明成が参勤交代のたびに、江戸では「花地獄」、会津では「雪地獄」、そこに美しい少年や娘を飼って淫虐《いんぎやく》をほしいままにする秘室だ。
すでにこれは数年前から――明成が芦名《あしな》一族をちかづけ、おゆらを側妾《そばめ》としてから作ったもので、床にはたたみをしき、夜具もあり、一隅には石壁で区切って、浴室もあれば厠《かわや》もある。が、周囲と天井はすべて石だ。二丈ちかい高さに、ところどころ小さな通風孔があいて、外光はそこから入ってくるが、空よりも草がのぞいているところからみると、あそこが地上になるのであろう。
広さは二十畳ほどあるであろうか。そこに三十七人の女がいた。ことごとく二十前後の娘だ。芦名一族が明成のいけにえに供すべく、とくに狙いをつけて領内からあさり、狩りたててきたほどあって、そのどれもが文字通り、ひなにまれなる美女ばかりであった。
それが――いずれもが、ほとんどまともに衣服をまとっている者はない。女の衣装にまでは手がまわらぬのか、この女たちにきものは要らぬとみているのか、あるいは、どうせちかいうちに誰ひとりとして彼女たちを見るものもない国へゆくものとして、いまさら面倒をいとうのか。
片袖《かたそで》ちぎれて、脇がむき出しのもの、わきばらや裾《すそ》の大きく裂けているもの、いかにかくそうとしても乳房がむき出しになってみえるもの、いや、ほとんど裸体にちかいほどのものさえある。しかも――黒髪はみだれ、あらわになった肌に、何をされたか、赤いみみず脹《ば》れや切り傷のある女もあった。
みんな蒼白い顔をして、恐怖と苦悩にみちた眼をして、まさに地獄の花園に咲く花としかいいようがない。
――以上のようなことに十兵衛が気がついたのは、鉄格子をあけて、そこへ物体のようにほうりこまれて、だいぶたってからのことだ。
このとき十兵衛は、うしろ手のみならず、両足もくくられた姿であった。二十畳ほどの部屋に四十人ちかい女がいるのだから、彼のからだが落ちたのは、むろん女の肉の上である。
悲鳴の輪の中で、
「ゆるせ!」
と、さけんだのがせめてものことだ。
「ゆるせ?……どこまでもおかしい奴だ」
鉄格子の外で、漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》が笑った。
「いまに、うぬはその言葉を何百度かほえつづけるぞ」
銀四郎も笑った。
「ううむ……」
十兵衛は満身の力をふりしぼったが、手足の縄は切れない。縄の中に、何やら鋼《はがね》で切るような痛みをあたえるものがある。
「切れるか」
鉄格子の扉の向うで、眼をひからせてのぞきこんでいた銀四郎があざ笑った。
「切れるものなら、切ってみろ」
十兵衛は思い出した。いま投げこまれる前に、うしろ手と足くびをくくった縄を、銀四郎の手が冷たい爬虫《はちゆう》のように這《は》いまわったことを――芦名衆の無数の手にさえぎられて、彼がしたことは見えなかったが、あのとき何か細工をしたらしい。それからまた思い出した。さっき銀四郎が明成に「拙者の縛った縄は、人間の力、人間のわざでは、たとえはたから爪や歯をたてようとも切れませぬ」と誇ったことを。
「……そのうち、切ることとしよう」
十兵衛は顔を扉の方にむけてニヤリとした。
「切って、どうする。この鉄格子が破れるか。この石の壁が破れるか」
漆戸虹七郎がいう。
「……そのうちに、破ってみせよう」
「破ってどうする。この角櫓には扉がある。扉の外には芦名衆が鉄砲をかかえておる。角櫓の外に出てどうする。四十万石の城侍、やわかうぬらを城の外には出さぬぞ」
虹七郎はにくにくしげにたたみかけたが、そこまで気をまわしたのが、ばかばかしくなったらしく、
「ええ、そのまえに、おれと銀四郎が交替でここを見張っておるわ」
「それは、御苦労なことだな」
「うぬに不穏のうごきがあれば、ここから鉄砲を撃ちこむから、左様に覚悟しておれよ」
「おまえが飛道具を使うのか。さりとは、あたら隻腕の刀法がもったいない。……おれと一騎討ちするのが、よほど恐ろしいとみえる」
「なに?」
「これ、虹七郎、おれはおまえの腕だけは買っておったのだ。いちどおまえと立ち合ってみたいと、前々からたのしみにしておって、先刻こそはついにその時を得たと欣懐《きんかい》にたえなんだのじゃが……」
「それは、おれもおなじことだ! ううむ、あのとき銅伯さまかおゆらの方さまの要らざる御制止さえなくば、あと一太刀で……」
「漆戸虹七郎の首は宙にとんでおったところだ。危いところを助かったものだな」
「だまれっ、蓑虫《みのむし》のようにころがっておって、へらず口だけは達者な奴だ――銅伯さまにはまんまと敗れて、この始末になったことを忘れたか」
「いや、あれはふしぎだ。十兵衛たしかに負けた」
十兵衛は真率に首をかしげて、
「斬っても斬れぬ不死身の男とはきもをつぶしたな。……あれを破る方法はないかと、これから一思案してみるつもりじゃが……」
「たわけっ、その一思案がつくまで生きておれる身と思うか」
「そうかもしれぬ。いわれるまでもなく、いのちはないものと覚悟しておる。それにつけても虹七郎、ならばいよいよおれが死ぬまえに、是非ともおまえと人まじりせず刃《やいば》をかわしてみたいの」
しみじみと、いったものだ。
剣鬼虹七郎の蒼白《そうはく》な頬に、酔ったような血がぽうとのぼった。
「で、出来ればのう」
と、つぶやいたのはたしかに本心から発した言葉らしく、現在の事態をふと忘れ果てたかのごとく鉄格子に片手をかけてカタカタと鳴らしたのは、まるで彼の方が檻に閉じこめられた人間のようで、よく考えるとおかしいが、ぶきみでもある。
「あぶない。――おだてにのって、罠《わな》におちるな」
あわてて、銀四郎が虹七郎のその脇をつかんだ。
「いわせておけば、どっちが虜《とりこ》かわからぬ。いいかげんにせぬか」
と、いったが、銀四郎の十兵衛をにらんだ眼つきも、殺気に憑《つ》かれているようだ。
「とはいえ、きゃつのいのちをしばしのばされたおゆらの方さまのお気持が、おれにはよくわからぬ。堀の女どものゆくえを白状させるためと仰せられたが、なみの責め道具では口をきかすことはできまいと、最初から何を見こんで左様にあきらめられたか」
憎悪に歯ぎしりして、
「おれにまかせられたら、半刻《はんとき》もたたぬうちに白状させてやるものを」
そして、しゃがれた恐ろしい声でこの少年はいった。
「十兵衛、堀の女どもの隠れ家を白状せぬか? あっさりといってくれれば、いらざる苦痛はあたえぬ。即刻首をはねるという慈悲をあたえてやるが」
「ありがたい慈悲じゃが、おまえらの約束は、あてにならんのでな」
と、十兵衛は笑った。
「ま、うぬらはうぬらのやりたいようにやって見るがいい。おれはおれのやりたいようにやる。おれのやりたいように、というとな、まず第一にそんなことは白状せぬ。第二に、ここを逃げる」
「こ、こ、こやつ――」
と、眼をむくが、
「おい、銀四郎、江戸の花地獄で、絶体絶命の墓穴から、みごとにこの十兵衛がのがれ出して、うぬら、腰をぬかしたのを忘れはすまい」
銀四郎は憤怒のうめきを発し、こんどは彼自身が格子に手をかけたがあやうく自制し、ふいに虹七郎をふりむいて、
「おれは、斬る。銅伯さまのおゆるしを得てくる」
というと、背をみせて、息はずませて駈《か》け去った。
ふしぎなことに虹七郎はこのときはだまっていたが、遠く角櫓《すみやぐら》の扉が開閉する音をきくと、まわりの芦名衆に、
「四、五人だけ残れ。あとの連中はひきあげてよい。おれが残るから大丈夫だ」
「しかし――」
「銀四郎のことか。銅伯さまはゆるされはせぬ。ゆけ」
と、あごをしゃくった。
が、彼が平静な気持でいるのでないことは、やがてそばの石壁の下に坐《すわ》り、長大な愛刀を抱いたまま、寄りかかるという一見おちついた挙動にもかかわらず、檻《おり》の中の十兵衛をじいっと見た青い炎のような陰惨な眼つきからもわかる。
忘れねばこそ思い出さず候――とは、後世の遊女の有名な殺し文句だが、漆戸虹七郎も、決して忘れぬある恥辱の記憶を、いまの十兵衛の「江戸の花地獄を忘れはすまい」という言葉で、あらためて脳裡《のうり》によみがえらせたのであった。
あのとき、水の墓場から脱出した十兵衛のために、じぶんをはじめ七本|槍《やり》衆が首に縄をかけられ、数珠《じゆず》つなぎになって、たたみの上に爪をたてながら這いずりまわったぶざまな光景を。
思い出すだけでも、脳髄はわきたち全身煮えくりかえるような記憶だが、かえって彼の顔は蒼《あお》ざめている。――彼は十兵衛をにらみすえてうめいた。
「やはり、おれもうぬをひと思いに殺すのは惜しいと思いはじめたわ」
あのとき、この十兵衛の高笑いしていった声を忘れはせぬ。「……今夜のところはまず許してやろう。それと申すも、この明成同様、うぬらにこの世の地獄をいましばし味わわせてやりたいからだ」
そしてまた、先刻おゆらの方がいった言葉を思い出す。
「いいえ、ひと思いに殺してはもったいない。ただ一討ちで成敗しては胸が癒《い》えぬ。わたしはこの男が犬のようにのたうちまわり、鳥のように悲鳴をあげる姿が見たい!」
その通りだ。おゆらの方の言葉をきいたときはまどろっこしいように思ったが、まさにそうあってこそ、この敵に対してはじめて胸が癒えるというものだ。
この男を犬のようにのたうちまわらせ、鳥のように悲鳴をあげさせる。――そのためにおゆらがどんなことをかんがえているか、だいたいわかるようでもあり、またはっきりとはのみこめぬ点もある。ただ、あの美しい愛妾《あいしよう》が、こんなことにかけては天才的な知恵をもっているのを期待することとしよう。
精悍《せいかん》凶暴な漆戸虹七郎がふいにだまりこんだので、はじめて十兵衛は、逆に背すじがすうと冷たくなるのをおぼえた。
このとき彼はからだを海老《えび》のようにまるめてクルリと起きなおり、両手両足をくくられたままながら、ともかくも坐《すわ》った姿勢になっていた。
そして、あらためて一眼を凝らして、足くびを縛った縄にまじって、ほそい髪の毛がからんでいるのを発見した。身うごきしただけで、切断するような痛みをあたえる正体はそれらしい。
それが先刻銀四郎が細工したものらしい――と、はじめて気がつくと同時に、銀四郎の「霞網《かすみあみ》」が女の黒髪で編んだものだという堀の女たちの話を思い出した。彼はそのひとすじを抜いてからめたのであろうか、それにしても、ただひとすじの黒髪を加えただけで、このように恐ろしい力が生まれるとは?
「ううむ……」
もういちど、満身の力をこめてひきちぎろうとしたが、髪はかえって肉までくいこんで血をにじませた。
「十兵衛、むだだ」
と、漆戸虹七郎が唇を耳までつりあげてうす笑いした。
「さすがの柳生《やぎゆう》十兵衛も、かく相成っては丸太ン棒にひとしいな」
といってから、急に虹七郎は声をはりあげた。
「これ女ども、いうのを忘れておった。いや、いわずとも、女の海のなかの雄魚一尾、どうせなるようになるだろうが、あらかじめゆるすといっておく。その男は、うぬらがどうしようと勝手であるぞ。魚の素姓をいえば、柳生一万石の伜《せがれ》、剣をとらせては当代無双――この虹七郎をのぞけばの話だが――といわれた柳生十兵衛という男よ。鱗《うろこ》のむしり甲斐《がい》があろう。身のほじり甲斐があろう――」
そういわれても、女たちはじっとうごかない。もっともこの恐ろしい男にそんなことをいわれても、何をどうしようという気にならないのが当然だ。
にもかかわらず、虹七郎はさらに怒号した。
「ゆるす――ゆるすではない。命ずるのだ。これ、その魚を、女の熱い肌で焼いて、骨までしゃぶれ!」
が、女たちは隠花植物のようにしんとしている。
虹七郎は、先刻の銀四郎同様、猛然と立ってきて鉄格子の錠に手をかけたが、すぐに苦笑してもとの位置にもどって坐《すわ》りこんだ。
「まあよい。事をいそいでは、銅伯さまの仰せの通り、愉《たの》しみが少ない。これから数日のうちに何が起るか。ユルユルと見物するとしよう」
――やがて、日がくれた。それでも食事は運んできた。飯も汁も茶も、家畜のようにことごとく、鉄格子を通してさし入れるのだ。
「……おあがりになりますか?」
耳もとでささやく女の声がした。
「……要らぬ」
十兵衛はくびをふる。さすがに鉄丸のように胸をふさぐものがある。
さっき虹七郎や銀四郎に「おれはここを逃げる」と宣言したが、それは売言葉に買言葉で、むろんそんな確信はない。「江戸の花地獄のことを忘れたか」とからかってやったが、かんがえてみれば、あの九死に一生を得た脱出も、堀の女たちの決死の救援あればこそ出来たことだ。じぶんの力ではなかった。
ふたたび彼女たちがじぶんを救いにやってくる?――それこそ、十兵衛のもっとも恐れる事態であった。若松城は江戸屋敷とちがう。あの手は、二度ときかぬ。それは鉄門に卵をぶつけるにひとしい。
――彼女たちを来させてはならぬ!
鴬が飛べばよいしるし、飛んでこねば不吉のしるし――その約束を、何が起ろうと鴬を飛ばせばすむことだとかるくかんがえたことが、いま夢魔のごとく十兵衛をおびやかす。
堀の女たちをこさせぬためにも、一刻もはやくここを脱出せねばならぬ! そう思うと、さすが十兵衛も焦燥に全身が熱し、あぶら汗にぬれてくるようだ。
しかし、脱出の道は文字通り万に一つもない。城をかためる重装備の数百の藩士、この櫓をつつむ数十人の芦名衆の精鋭、この檻を見張る漆戸虹七郎と香炉《こうろ》銀四郎。さらにあの鉄格子とこの奇怪な緊縛。
さらに、不死身の芦名銅伯が一方にあれば、人質となっている沢庵《たくあん》がある。
ただ――もういちど、愛刀三池典太をにぎることができるならば!
――遠く扉のひらく音に、石壁の下にまどろんでいた漆戸虹七郎は眼をさました。
春とはいえ、夜明けの風は、とくにこのような石の地下室では冷たいはずだが、しかしなんともいえない甘いあたたかい蒸気がこもっているようなのは、ここに閉じこめられた三十七人の若い女のせいであろう。
「もう朝飯の時刻か」
ちかづいてくる足音に、虹七郎は顔をあげて、ふと格子の中の異様な光景をみた。七、八人の女たちが、柳生十兵衛をおみこしのようにかついで歩いているのだ。
「……はじまったか!」
と、不寝番の芦名衆にきくと、彼はくびをふって、
「いや、あれは厠《かわや》へつれていったかえりでござる」
みていると、女たちはうやうやしく十兵衛のからだを下ろして、もとの通りに横たえる。まるで王者に仕える侍女のむれのようだ。
「漆戸どの、ふしぎです」
「どうかしたか」
「この件ばかりではござらぬ。昨夜から女ども、きゃつの足腰をもみ、いたれりつくせりの世話をしております」
「くくった縄を切ろうとしたろう」
「そんな女もござりました。これは一喝してとめてござるが」
「ふふん、女の指できれる縄かよ――しかし、それほど女たちが勤めるとは?」
「だれ一人として、一語も口をききませぬが」
「はてな、一万石のあととりといったがわるかったか」
「というより、どうやらあの男が女どもの味方であることを、最初よりよく知っての上のふるまいらしゅうござる」
「はて、いままで城外に起ったことは、ここにおる女どもは知らぬはずじゃが」
そのとき、通路の方から、一団の武士が入ってきた。いつものように、食物を入れた重ね箱を天秤棒《てんびんぼう》でかついだ足軽たちが先頭だが、そのうしろについて入ってきた影をみて、虹七郎たちはあわてて膝《ひざ》をついた。
朝まだ早いのに、主君の明成とおゆらの方、それに香炉銀四郎までがいっしょだ。
「大儀じゃ。異変はないか」
と、明成がいって、鉄格子の中を見た。
「異変と申せば、意外な異変がござる」
と、虹七郎はいまの芦名衆の話を報告して、おゆらの方にむかい、
「お方さま、これはきゃつめに、ただ果報を味わわせることになるようでござりまするぞ」
と、うめくようにいった。
「はじめのうちは、左様なことでありましょう」
おゆらは動じない。
「どちらにせよ、檻《おり》の中の獣どもじゃ。焦ることはない。だんだんと面白い芸当をさせてみせるゆえ、そちたちも見物しや」
といって、うしろの足軽を眼でまねいた。虹七郎は、足軽たちがかついでいる食物の重ね箱や汁を入れた桶《おけ》のほかに、四斗|樽《だる》がまじっているのに気がついた。
「ふつうの酒の三倍はきく濁酒じゃ」
おゆらは笑った。
「女たちを酔わせて見やい」
「三十七人の女に四斗の酒、一人あたり一升以上にもなるが、まさかそれほどは飲めまい」
芦名衆の一人が、槍《やり》をとりなおし、石突きでぱしっと酒樽のかがみをぬいた。
「しかし、なるべく空《から》になるように飲ませよ。飲まぬ女には、ほかの食べ物をあたえてはならぬ」
おゆらは面白げにいって、酒樽の方をふりむいた。すでに芳烈な香がそこからたちのぼり、石室にみちひろがってゆく。
「では、汁椀《しるわん》で?」
と、足軽がうごきかかると、おゆらはちょっと考えて、
「それは面倒じゃな。それに、女ども、飲むふりをして捨てるかもしれぬ――よいわ、口移しに飲ましてみや」
と、いった。
「へっ、口移しに? 三十七人に?」
「そこにおる足軽ども、みな口に酒をふくみ、女どもを格子に呼んで、格子越しに飲ましゃ」
いかにもおゆららしい着想だ。野獣のような芦名衆や足軽たちはいっせいに眼をかがやかしたが、すぐに不安げに、ちらと明成の方を見た。この女たちは、いかに淫虐《いんぎやく》のいけにえとはいえ、ことごとく主君の持物にちがいないからだ。
「かまわぬ。どうせ、いまにそこの十兵衛のからだじゅうに吸いついて、その生血を吸う女郎蜘蛛《じよろうぐも》となる女たちじゃ。殿に遠慮は無用じゃ」
おゆらが言うと、明成もうなずく。遠慮は無用どころか、本人も足軽にまじって同じことをやりたそうにみえる。
「面白い。やれ――ちょっとその槍を貸せ」
虹七郎が身を起すと、銀四郎も同じように足軽から槍をひったくった。
「酒を飲まぬ女、酒を口からこぼした女があったら、即座に成敗してやろう」
そして、ふたりは鉄格子のそばに寄って、
「女ども、ここへ来い」
「来ぬか?……串刺《くしざ》しになりたいか?」
と、いった。
実際に、何の容赦もなく、平気で人を虫のように殺戮《さつりく》する男たちなのだ。それはわかっているが、だれひとりとしてうごこうとする女はなかった。
ころがったままの十兵衛が言った。
「ゆくがいい、いのちは大事にしろ。からだにいかなる辱しめを受けようと、心さえけがれねば、きっと、神仏の冥加《みようが》があろう。いや、かならずおれがここから助け出してやる」
「まだ、あのようなことを申しておる」
と、おゆらが笑った。
「心さえけがれねば?……その心が、いま酔いしれるものを」
「ゆけ」
もういちど十兵衛にいわれて、女たちはしおしおとして立ちあがり、うなだれて鉄格子の向うへ歩いてきた。
十数人の芦名衆や足軽は先を争って四斗樽にあつまり、柄杓《ひしやく》で酒を口いっぱいにふくみ、鉄格子の前に殺到して、ひしめいた。
恐怖と嫌悪にみちた蒼白《あおじろ》い顔を寄せてきた女を、鉄格子のあいだから毛だらけの両腕をさしのばしてひきずり寄せ、わななく口に口をつけて酒をながしこむ。
「うっ……」
うめいて、口と口のあいだから琥珀色《こはくいろ》の液体が散りおちると、
「こぼすと、刺すぞ!」
すぐそばで監視している銀四郎がさけぶ。こくこく、と白いのどがうごいて大きくあえぐのを、
「女、まだだ。足軽、その手をはなすなよ。次に回せ」
ならんでいる次の足軽がまたその女をつかまえて、おなじく酒を口にそそぎ入れる。
「次っ」
鉄格子の扉の外側には、醜悪な顔が五つならんでいた。
ひとりの女は、その五人からつぎつぎと酒を飲まされるのだ。ふつうの酒の三倍は効くという濁り酒を。
五人から酒を飲まされた女は、そこで崩折れてしまうが、虹七郎と銀四郎の勁烈《けいれつ》な叱咤《しつた》は、なお彼女をゆるそうとはしない。
「うぬはそこで待っておれ。三十七人、ひとめぐりすんだら、もういちど飲むのだ」
「樽がからになるまで」
口の酒を吐きつくした五人の男が酒樽の方へかけもどると、そのうしろにならんでいた次の五人が交替して、ふたりめの女の口に酒をそそぎ入れる。凶悪で、淫《みだ》らで、むごたらしい儀式であった。
酒は残らず女たちに口移しにしているはずなのに、さきに芦名衆や足軽たちが酔いの症状を発してきた。それほど強い酒だが、またこの凶悪で、淫らで、むごたらしい儀式の雰囲気に酔ってきたともいえる。
ひきずり寄せた女を、鉄格子にくいいるばかりに抱きしめて、女の胴や腹の苦悶《くもん》のうねりを愉《たの》しんでいる者があるかと思うと、黒髪を片手にまいて、密着した顔をいつまでもはなそうとしない者もある。ふしくれだった指は、女たちの肩を血をにじませるばかりに這《は》いまわり、中には痣《あざ》のつくほど乳房そのものをわしづかみにしている者もある。
それを、次に待った男たちは焦って、
「これ、はやく回せ」
「それほど一人に執心せずとも、女は無限の車で回ってくるではないか」
鉄格子をかきむしらんばかりに足ぶみしているのは、まるで肉を争う餓狼《がろう》のひしめきに似て、どちらが檻の内か外かわからないほどの光景だ。
その光景を、明成とおゆらは名状しがたい笑顔でながめ、十兵衛はころがったまま、涙を浮かべて見ているのであった。
「やっ勘定してみたが、三十二人しかおらぬぞ」
「あと五人――おお、あんなところにおる!」
石牢《いしろう》の隅に、十兵衛とはべつに五人の女がわだかまっていた。ひとりとして立つはおろか、坐《すわ》っている者もない。みな折り重なるようにして伏しているのだ。
「これ、うぬら、なぜ来ぬか!」
と、虹七郎は槍の穂で鉄格子をたたいてさけんだ。
ひとりの女が髪をねばりつかせた頬をあげ、血のこびりついた腕で這ってこようとしたが、すぐにバタリとつっ伏してしまった。
「病んでおるのだ。うぬらの責苦のためにな」
たまりかねて、十兵衛が言った。
「あれほど弱りはてた女、たとえ酒を飲ませようと鞭打とうと、役にはたたぬよ」
「うぬの指図は受けぬ!」
虹七郎はわめいたが、このとき「待ちや」とおゆらが声をかけた。じっと五人の女たちの方をうかがって、「いかにもあれは、ほんの五、六日まえ、木馬乗りさせた女どものようじゃ。……十兵衛の指図を受けるわけではないが、当分女の役にはたつまい」とうなずいた。
「よい、その三十二人でよい。酒をつづけや」
もはや鉄格子の内側の女で、しっかりと立っている者はなかった。その格子によりすがって身をささえている女、両腕をついて肩で息をしている女、さらに完全にのめっている女。ただ、――あらわな肌が、さっきの蒼白さからいずれも薄紅色に染まっている。
「これ、立てっ、酒はまだたんとあるわ!」
銀四郎がさけんで、槍をつっこむと、ひとりの女の背に垂れた髪を穂先で巻いて、ひきずり立てた。
半刻もたたぬうち、そこにはまぎれもなく酔い痴れた女の群れがもつれあっていた。酔うとわかっていても、酔うまいと心にちかっていても、飲めば酔わずにはいられないのが酒の魔力だ。
唇をなめまわして、ぶつぶつとうわごとのようなつぶやきをもらしている女があるかと思うと、泣上戸というのか、むせぶようにすすり泣いている女がある。中にはむこうから格子をつかんで、
「もっと飲ませて下さりませ!」
「このまま、わたしは死にたい――」
「もういちど、口移しに――」
と、身もだえする女もあり、また明成とおゆらをにらみつけて、
「外道、魔王、ようもわたしをあのような目に合わせたな!」
とさけんで、唾《つば》を吐きかける女もあった。
それがいずれも若くて、えりぬきの美しい女たちで、しかももともと乱れた衣服を着て、半ば以上裸体にちかい姿をしているのだから、その酔態は淫美を通りこして凄惨《せいさん》ですらあった。
何をののしられても、おゆらはいつものように柳眉《りゆうび》をさか立てず、
「……殿、案の通りになりましたな」
笑顔をかたむけて、明成を見あげた。明成は舌なめずりして、
「これから、さて、いかがいたす」
「されば、次なる見世物は」
おゆらは二、三歩、鉄柵《てつさく》の扉の方にあゆみ寄り、
「これ、そなたら、寄ってたかってあそこにころがっている男を犯せ。口を吸おうと、どこをまさぐろうと、馬乗りになろうと、見る通りあの男はうごけぬ。女とて、男を犯せぬ法はない。人数のつづくかぎり、この日がくれ、夜が朝になるまで、責め、もてあそび、しぼりつくしてやってたも。あの男が蝉のぬけがらのように変るまで!」
と、さけんだ。
「さあ、かかりや」
おゆらの眼は青い炎のようにもえたぎって、
「素姓は一万石、芦名の怨敵《おんてき》でさえなくば、わたしでさえ惚《ほ》れ惚《ぼ》れとするような勇ましい男――」
明成をふりかえって、不敵にニンマリと笑ったが、すぐに声も炎のように変って、
「女が犯すに犯し甲斐《がい》のある男じゃ、もしわたしのいうままにすれば、これ、そなたらことごとくここから解き放ってつかわす。嘘ではない。ゆらのいう言葉は、殿さまよりもまちがいはない。が、もしわたしのいうことをきかなければ、そなたら、きょうをかぎって生地獄におとすぞえ」
女たちのうちで、二、三人風に吹かれたようにフラフラと歩み出た者があった。眼をすえて、舌で唇をなめて、十兵衛の方へ。
それに釣られて、五人、七人、十数人が、白い蛇のようにもつれあいながら、おなじ方向に移動しはじめた。……まがうかたなき女の姿でありながら、それは人間ではない、女獣のむれのような物凄《ものすご》い光景にみえた。
さすがの明成も芦名衆も、息をとめてそれをながめている。きこえるのは、はっ、はっという女たちのあえぎばかりだ。その息に、強烈な酒の匂いのほかに、あきらかに肉欲の香がまじり、冷たい石牢を薫蒸するように感じられた。
「待って!」
だれか、さけんだ。まだ鉄格子の下にわだかまっていた一団のうちの一人の女だ。
「あなたたちは、何をしようというのです。どんなに酒に酔おうと、どんな責苦に逢《あ》おうと、それはわたしたちのこと――」
そういう声も酔いのためにもつれ、ユラユラとゆれるからだを、じぶんの手で必死に鉄格子にしばりつけて、
「そのお方がどんなお方か、みなよく知っているではありませんか。会津をこの世ながらの地獄の国とした大魔王を誅戮《ちゆうりく》するために、天からおいでなされたようなお方、そのお方を、悪鬼の甘言におぼれて苦しめようとするとは、恥を――」
声が、絶叫に変った。そのからだが鉄格子からはなれた。たまりかねて、駈《か》け出そうとしたようにみえたが、床に血が散ったので、はっとしてみなが見まもると、その女の胸には白じろと槍《やり》の穂先がつきぬけている。
「推参なり、女狐一匹」
鉄格子の外から槍を突きこみ、獣のように白い歯をむき出しているのは香炉銀四郎であった。
そのまま、穂先をグルグルとまわすたびに、女は黒髪をふりみだし、声もあげ得ずのたうちまわる。穂先が胸からきえると、どうと崩折れて、鮮血の中にそのままうごかなくなった。
「さしでがましき口をきくと、この通りだ。さあ、やれ!」
――しかし、牢の中の女たちは、無残な仲間の屍骸《しがい》をふりかえり、見つめたまま、それっきり凝然と静止してしまった。
「えい、きかぬか。きかぬとあらば――」
鉄格子の外で、銀四郎の槍がまた構えなおされて、槍よりはやく殺気の眼光が、次の犠牲者を求めて走った。
「待て!」
十兵衛は身もだえした。しかし、例の銀四郎の霞網《かすみあみ》のひとすじをまじえた縄は切れない。
「そなたたち、抵抗してはならん。おれはかまわぬ。きゃつらのいうままにしてやれ。おれをどうとでもしろ!」
しかし、女たちはうごかない。酔いがいちどにさめて、いつかおゆらが実験した氷の彫刻に化したようだ。――それが仲間のひとりが惨殺された恐怖のためではなかったことは、すぐにわかった。
「死にましょう」
ひとりがさけぶと、突然みんながよろめきながら格子の方へかけもどってきたのだ。
「みんな、一緒に死にましょう」
「わたしたちも殺して!」
「さあ、一番さきにわたしを突いて!」
鉄格子の内側にならび、そのあらわな胸をおしつけて、ひしめいた。
「なにをする。これ、危ない!」
さけんだのは、うしろでこれを見ていた十兵衛だ。手足をしばられたまま、ごろごろところがりながら絶叫した。
「殺すなら、おれを殺せ!」
「やれ、銀四郎」
明成が歯をむき出してさけんだ。
「十兵衛も、その女どもも、望みどおりみな刺し殺せ!」
銀四郎が、その言葉こそ待っていた、といわぬばかりに槍をとりなおし、穂先を十兵衛にむけた。むろん格子は女たちにふさがれているが、その胸を串刺《くしざ》しにして、向うの十兵衛も刺しとめるつもりだ。
「待ちゃ」
その槍を、おゆらがおさえた。
「人間が死にたがっているとき殺しては、興が乗らぬ」
「ゆら、まださようなことをいっておるか」
「ゆらは、いちどいい出したことはかなえずにはおきませぬ――よいわ、銀四郎、この槍をひけ。あさってまで待て」
「あさってに――なにをするのでござる」
「父上に、獣心香を作っていただこう」
「獣心香――」
明成が手をうって、うなずいた。
「なるほど、よいものを思いついた!」
「それには乳香や竜涎香《りゆうぜんこう》や蛇の皮、いもりの肉、馬の精――それに人間の女の経血がいるし――二日はかかる。しかし、獣心香さえ焚《た》けば、あの女どもはどうなるか」
おゆらは、まるでそれを焚いたときの妖《あや》しい光景を、もう眼に浮かべているような邪悪な笑みを浮かべ、
「殿、きょうはこのままひきとりましょう。虹七郎、銀四郎、その獣心香の調整を手つだってもらわねばならぬゆえ、いっしょに父上のところへいってたも」
そして、明成と漆戸、香炉をうながして去った。
地底の石牢《いしろう》の格子の外には七、八人の芦名衆だけが残って、そこに置かれた樽《たる》の酒をさわがしく飲みかわしはじめたが、格子の内には、人がいないかのような沈黙があった。
「……獣心香とはなんだ?」
十兵衛がささやいた。
女たちは、それを知らなかったらしい。「獣心香?」とつぶやいて眼を見合わせたが、その中で、ふいにうつむいて顔色をかえた三、四人の女を、十兵衛は見とがめた。
「そなたら、知っておるか」
「…………」
「その獣心香とやらを焚かれたことがあるのか」
「それは……恐ろしい香でございます」
やっとひとりがいった。頬があかくなったが、眼は恐怖のひかりにみちている。
「その香を焚かれると……女はきちがいのようになるのでございます。どんなにがまんしても、全身をたえずくすぐられているようで、息がはずみ……男にしがみつかずにはいられない。どんないやな男であっても、死んでも……犯し、犯さずにはいられない……」
消え入るような声だ、顔を覆い、がばとひれ伏してしまった女もあるところを見ると、おそらくその香を焚かれたときのことを思い出したからであろう。
「男恋しさに這《は》いまわり、のたうちまわり……男のいうことなら、どのように恥ずかしいまねをしても恥じず……それが、三日三晩つづきます」
「その三日三晩のうちに、わたくしたちといっしょに香を焚かれた方がたは、みんな明成のいうままに……いまここでは申しにくいような淫《みだ》らでむごたらしいふるまいを、みずからすすんでして……みな死んでしまいました」
「わたしたちが命あってここに帰されたのは……途中で何が何やらわからなくなり、気を失ったせいでございます」
「あの明成でさえが……この香を焚くのはかんがえものだ、あまりに女のあさましい姿をみると女がいやになる、とつぶやいたのをおぼえているくらいでございます」
「あの香を焚かれるくらいなら……わたしたちは、いまここでみんな舌をかみ切って死んでしまった方がましでございます」
「いや――早まってはならぬ」
といったが、十兵衛は実に名状しがたい悪寒のようなものに襲われた。
そんな奇怪な香が世にあるとは信じがたいが、しかしそれよりもっと信じがたい奇怪事を、みずからの肉体で具現してみせた芦名銅伯だ。あの銅伯の調合した香なら、どのような魔力を生み出してもふしぎではないような気がする。
「……それは、男にも同じようにはたらくのか?」
「男にはどうはたらくのか、よくわかりませぬ。けれど、明成や、いっしょの男たちは……たしかげらげらと笑っておりましたから……女だけにきくのではないかと思われます」
「それなら大丈夫だ」
と、十兵衛はいった――いくらあなたさまが大丈夫でも、女であるわたしたちの方が、といいたげな眼で身もだえしたが、さすがにそうはいいかねて、彼女たちは歯をくいしばる。十兵衛は獣心香の恐ろしさを知らないのだ。
「よいか、舌をかんで死んだりしてはならぬぞ」
十兵衛は、このときに至ってなお冗談をいった。
「いや、これはおれにも愉《たの》しみだ。そなたら、せいぜいはでなところを見せてくれ。おれが正気であるかぎり、おれは笑わぬ」
二日のちの午後であった。
牢格子の外に、また明成とおゆらがあらわれた。虹七郎と銀四郎はもとより、芦名銅伯まで姿をあらわした。
その少しまえに、高い通風孔は外からふさがれて、石牢は地底そのままに闇黒となっていたが、虹七郎と銀四郎は手に燃える松明《たいまつ》を持って入ってきたのである。
そのとき、銅伯が両手になにやら青銅の香炉のようなものをささげているのが見えたが、鉄格子の外に彼がそれを置くと、あとは人の影と松明の位置の関係で、彼がなにをしているのかわからなくなった。
「ゆら」
銅伯の声がきこえた。
「女のおまえは、ここを出たがよかろう」
「ふつうなら、そうするところですけど」
おゆらがいやいやをするのが見えた。
「きょうばかりは、わたしが見なくては、獣心香を焚くかいがありませぬ。あの男の醜態を見たいばかりに、わたしが獣心香を焚く知恵を思いついたのではありませぬか」
「よいではないか、銅伯」
と、明成はおゆらの肩を抱いていう。
「ゆらがどのようになろうと、見ているのは余と銅伯、それに虹七郎、銀四郎も身内といってよい人間ばかりではないか。そのためにほかの芦名のものどもは、この櫓《やぐら》の外に待たせて来たのじゃ」
「おゆらさまがどのようなお姿を見ても、いまさらおどろく拙者どもではありませぬ」
白面の銀四郎は、四十男のようなことをいう。銅伯はうなずいた。
「では、おれ。……よし」
彼は立ちあがり、二、三歩ひいた。
格子の外に置かれた青銅の香炉からは、ユラユラと煙がたちのぼりはじめた。ふつうの香ではない、おどろくべき多量の青い煙であった。宙にあがるとそれは透明になるが、匂いから、それがみるみる密閉された石牢を満たしてゆくのがわかる。
十兵衛が聞いたいままでのどんな香にもそんな匂いはない。甘臭い花か果物のような香りだ。栗の花と腐った熟し柿のまじり合ったような匂い。――
はじめ、ちょっと不快で、すぐに酔うような甘美さが嗅覚《きゆうかく》を刺激し、しびれさせる。十兵衛にはただそれだけだが、そのとき彼は、周囲の女たちがしだいに肩で息をしてくるのを見た。
「殿。……殿」
おゆらの声がきこえた。とろけるような声だ。
「ま……まだでござりまするか。女どもは、まだ?」
「まだ」
「情のこわい女ども。……ゆらは、もう」
蒼《あお》い煙の向う――鉄格子のかなたで、おゆらがのびあがり明成のくびに腕を巻きつけるのが見えた。
「殿、ゆらの口を吸って……舌を吸って……乳房も……」
そしておゆらは、からだをくねらせながら、じぶんで胸をあらわにして明成におしつけた。
十兵衛はこのとき、じぶんのまわりの空気が、急に濃くなるのをおぼえた。香ではない。……女たちの熱気だ。
女たちは、じいっと十兵衛の顔を見つめている。
はじめ酔ったような恍惚《こうこつ》とした眼であったのが、しだいに女豹《めひよう》に似た凶暴なひかりをおびてきた。小鼻がはげしくうごき、みんな口をひらいて――なかには、息のはずむのをおさえきれず、犬みたいに舌を出した顔さえ見えた。
いままでの女たちとはちがう。人間ではない――人間の魂を持つものではない――肉欲そのものが息づき、もえあがるような顔だ。
「ま……待て」
思わず十兵衛はさけんだ。
眼前四、五尺まで迫ってきていた七、八人の女たちは、ピタリとその線でうごかなくなったが、その顔にまた七つ八つの顔がかさなる。
「十兵衛さま、おゆるし下さい……」
「わたしを抱いて……」
吐息のような息がもつれた。
縛られたままの十兵衛がごろりと反転すると、そちらにも無数の顔がかさなって、あえぐようにいう。――
「十兵衛さま、わたしの口を吸って……」
「乳房も……」
はじめから半裸にちかい女が大半のはずなのに、なお身にまつわるものをかなぐり捨てようとする者もある。
こんどは先日の酒責めのときのように、制止する女はいない。
獣心香の魔力だ。女たちとて、みずからどうすることもできないのだ。それをいま知ったのではなく、女たちの話からすでに承知していて「せいぜい、はでにあばれろ」とからかったくらいの十兵衛であったが、いまそれが現実のものとなって、美しい淫獣《いんじゆう》そのものと化した数十人の女をみると、さすがの十兵衛が息もつけないほどの恐怖に襲われた。
向うで、泣くようなおゆらの声がきこえた。
「女たちはまだ?」
「……いや、はじまったようでござる」
虹七郎と銀四郎は鉄格子に顔を押しつけてさけんだ。牢の中には、期待していた光景はまだ見られなかったが、ふたりは明成にからみついたおゆらの凄じい痴態を見るにしのびなかったのだ。
「十兵衛さま……」
「十兵衛さま!」
女のひとりが十兵衛にすがりつき、肌と肌が触れた刹那《せつな》、それでもかすかに残っていた最後の理性がもえつきたように、ひしと彼のからだの上に全身を投げかけた。
「むっ」
うめいて十兵衛が身をひねると、その手足は縛られているはずなのに、どこをどうされたか、女はふいに気を失って傍らにころがりおちる。
しかし、このとき二人めの女が反対側からしがみついてきた。これまた悶絶《もんぜつ》させたと思うと、三人めの女が襲いかかる。
十兵衛の全身はあぶら汗にひかった。獣に変った女たちとのたたかい――それは、幾百人の会津侍にかこまれて死闘するより恐ろしいものであった。十兵衛の周囲は、なまめかしいヌルヌルした肉塊の海だ。その中をころがりまわる十兵衛は、まるでじぶんが魚だけのみちみちた桶《おけ》に投げ入れられ、しだいに埋没してゆくような気がした。
「あはははは!」
「あはははは!」
格子の外で哄笑《こうしよう》があがった。鉄格子につかまって、蒼い煙のうずまく中の女地獄ともいうべき光景をのぞきこんでいた虹七郎と銀四郎であったが、ふと、
「はてな」
と、同時につぶやいた。
哄笑がやんだので、明成とおゆらがふりむいた。十兵衛の苦悶を見るために香を焚いたはずなのに、おゆらの方がまずその魔香に酔い、そのおゆらの痴戯に明成が酔って、それまで牢《ろう》の中を見るいとまもなかったのだ。
「しつこい女がおるの」
と、銅伯も気がついた。
「十兵衛は精根つきはててうごかなくなったが……あの女をひき離さねば、どうにもならぬわ」
十兵衛はもう、あおむけになったまま身うごきもしなかった。その下半身にひしとしがみついた女がひとりあるのだ。両腕で十兵衛の胴をまき、その腹に頬をつけ、その足に胸をつけて、膠《にかわ》のように離れない女がある。
「おどき!」
「離れや!」
「おまえだけの十兵衛さまではありませぬ!」
こちらで気をもむより、女たちが狂気のようにさわいでいた。重なった女の髪をつかみ、手足をもぎはなそうとするのだが、その女は離れない。無数の爪にかきむしられて白い背の肉は血まみれになっているのに、その女は離れない。
「こうなると、にくいの」
「よし、ひき離してやれ」
舌うちして、虹七郎と銀四郎は鉄格子の錠をはずし、扉をひらいた。
「お……、余も入ってみよう」
と、明成がいった。そのくびから花のようにおゆらを下げたままの姿である。
「あいや」
じっと牢の中を凝視していた銅伯が、ふりかえってなにやらいいかけたが、ふと気にかかることがあるらしく、
「そんなはずはない。……いや、わしも入ってみよう」
と、珍しくせかせかと虹七郎、銀四郎よりも先に扉の中に入った。
「大丈夫でござる。きゃつを縛った縄は鎖にひとしく、それにきゃつ、寸鉄もおびてはおりませぬ。われわれがついております」
銀四郎は笑って明成をうながした。
おゆらを抱いたまま明成が入る。つづいて三人も牢の中に足を踏み入れた。
五人は牢内をつっ切って、気絶した女たちを無情に蹴《け》り、踏みつけて、奇妙な姿で女にからみつかれている柳生十兵衛の傍らにちかづいた。
「しぶとい女。これ、顔を見せろ」
銅伯がしゃがみ込むのと、さすがの彼が夜鴉《よがらす》のようなさけびをあげたのが同時であった。
「あっ……こやつ!」
眼をとじていた十兵衛が、女をふりおとし、ぱっとはね起きたのは、その刹那であった。
霞網《かすみあみ》の縄はバラバラに切れていた! 寸鉄をおびぬはずの十兵衛の片手には、氷のごとき一刀がひっ下げられていた!
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霞 網
はじかれたように、五人が飛びのこうとしたがおそかった。いや、銅伯、おゆら、虹七郎《こうしちろう》、銀四郎はそれぞれ四方に飛び散ったのだが。
加藤明成はうごかない。うごけないのだ。驚愕《きようがく》のせいもあるが、それよりはやく、十兵衛の刀がスウとのびてきて、ピタリと彼の胸にさしあてられたからだ。
「――いかが」
しずかな息だが、何かを押えたような物凄《ものすご》い十兵衛の声であった。
「同じことがまた起ったな。江戸で絶体絶命の墓穴から、みごとにこの十兵衛がのがれ出したのを忘れるな、とことわっておいたではないか。おれは逃げる、といった通りだ」
十兵衛はたか笑いした。笑ったが、これはたんに逆転の快に酔うよりも、いままでの凄じい怒りと苦悶が爆発しようとして、からくもそれを転換させたような哄笑だ。
石壁に反響して、四方からはねかえってくる哄笑の中に、五人は全神経をひきぬかれたように立っている。
一体これはどうしたことか。
「……ううぬ、いつ、どこから刀を……」
のどの奥で、漆戸《うるしど》虹七郎がうめいた。十兵衛をとらえたとき、その双刀は奪った。そのからだを調べて、体に寸鉄もおびていないことを確かめた。そのままこの鉄格子と石壁の牢に入れた。牢にもとからそんな刀のあるはずは絶対にない!
「か、か、霞網の縄を、うぬはどうして……」
香炉《こうろ》銀四郎も、のどで喘鳴《ぜんめい》をもらした。ふつうの縄に霞網の髪をからませただけだが、それであたかも鋼線のような作用を発揮し、刃物でもなければ絶対に切れぬはずなのに。――もっとも、その刀を忽然《こつぜん》として十兵衛が出現させたのだから、驚倒の根源はやはりその刀に帰する。
まるで手品だ。魔術だ。彼らには、判断を絶した。
みな、とび出すような眼を十兵衛の刀に吸いつけているなかに、芦名《あしな》銅伯は、やはり愕然とした眼ながら、いま十兵衛にふりおとされた女の顔を凝視している。
「そうか。……そうであったか」
胸のおく底から、しぼり出すような声であった。
おとねだ。それまで十兵衛にしがみついていた女は、城から出ていったはずの沢庵の侍女おとねであった。城から般若《はんにや》面をかぶって出ていったはずのおとねが、いつのまにか石と鉄と芦名衆に護《まも》られたこの雪地獄に入りこんでいた!
銅伯の頭に、いまこそこの不可能事の謎が、走馬灯のごとくくりひろげられてゆく。
本丸の一角に幽閉していたはずの沢庵《たくあん》とおとねは、監視を無視して、傍若無人にうろつきまわった。とくに、みなが沢庵をもてあまし、そのあとを追っかけるのをいいことに、この女は狂人に化けてはね歩いた。どうせ釜中《ふちゆう》の魚だ。あがきたいだけあがけ、と冷笑して見ていたが。――
いまにして思えば、この女はとかくこの巽《たつみ》の角櫓界隈《すみやぐらかいわい》をうろついていたようだ。あのとき、雪地獄がここにあることを探りあてたに相違ない。
とはいえ、たとえ雪地獄のありかをかぎあてたとて、不断に芦名衆の護るこの角櫓に、おとねがおいそれと潜入できるわけがない。いったい、いつ、いかにしてこやつはここに潜りこんだのか。それなら、沢庵の使者として城の外へ出ていった女は誰だ?
あのときだ。天海か、般若|侠《きよう》か――と、追いつめられて、ついに沢庵が狂乱して庭にとび出し、刀をふりまわして大あばれしたときだ。あのときの騒ぎで、思わず知らず、角櫓に詰めていた芦名衆たちも、沢庵をとり押えるためにその方へ駈《か》け集った。あれは夕刻であったから、ちょうど雪地獄に夕食を入れるために、何かのはずみで扉も鉄格子もあいていたのではないか。そのすきに、おとねが雪地獄に入りこみ、中の女ひとりと入れ替ったのだ。
あのとき――沢庵が呼ぶと、般若面をつけた女がこの巽の角櫓の方から駈けつけてきた。「おとねがこの城から連絡に出るときは、般若面をつけて出ることになっておる」と沢庵がさりげなく、また仔細《しさい》らしくいったのを、うかとききのがしていうがままにしておいたが。――
いまにして、この雪地獄に閉じこめられていた女たちが、城外に於ける般若侠の活躍をよく知っていたことも腑《ふ》におちる。また十兵衛が刀を持つに至ったわけもよくわかる。……おとねの仕業だ。おとねが持ちこんだのだ。
いや、正しくいえば沢庵の仕業であろう。ことごとく沢庵の命じたことであろう。なんのために?
いかに沢庵でも、柳生《やぎゆう》十兵衛がこの雪地獄に追いこまれようとは想像の限りではなかったろうが、堀の女たちが城に入ってきたとき、この雪地獄に投げこまれることは充分あり得る、と考えたのではないか。そして、その万一の場合にそなえて、当然予想される無残な恥辱と死に抵抗するためか、自決するために、おとねに刀を抱かせてこの牢に潜入させておいたのではないか?
牢には三十七人の女がいた。その中のひとりがおとねと入れ替っていることを見ぬけなかったのは、明らかに監視の芦名衆の不覚だが、おとねの方も見つけられるのをふせぐために、傷つき、病んでうごかぬ女の中にまぎれていたに相違ない。――
ううぬ、それにしてもあの坊主め、しおらしくうそ泣きしてみせて、あの土壇場に至ってなおまんまとこちらを計りおったな!
――以上のことが、芦名銅伯の頭をかすめすぎたのは一瞬のことだ。思わず沢庵のところへとって返そうと身をひるがえしかける銅伯を、
「うごくな、化物」
と、十兵衛の声がひっとらえた。
「うぬら、ひとりでも気ままにうごくと、この明成の命はないぞ。いままでがまんにがまんをさせてきたこの刀だ。時をかけて、おれを縛った縄を引き切り、それからうぬらがここに入ってくるまで待ちくたびれさせておったこの刀だ。いなないて、武者ぶるいして、ともすればおれの手綱をふりきってあばれ出したがっておるから、そのつもりでよっくきけよ」
「おれはここを出る」
と、十兵衛はいった。
「しかし、うぬらがここにうまく入ってくれるかどうか、そこは千番に一番のかねあいであったので、その時を待つのに精根こめすぎて、出たあとでどうするか、正直なところまだよく考えてはおらなんだ」
「十兵衛さま、はやく、はやく」
足もとから、白い二本の腕が這《は》いあがってきた。さっき女たちにかきむしられた半裸の肌から血をながし、しかも恍惚《こうこつ》とあえいでいるおとねであった。
「いま、逃げる」
「いいえ、はやく、わたしを抱いて――」
いままで身を挺《てい》して女たちの襲撃から十兵衛を護っていたのが、おとねの最後の理性であろう。ふりあおいだ顔が、ほかの女たちと同様、肉欲の火に煽《あお》られているように変っているのを見て、
「いや、これはいかん」
と、十兵衛はくびをふった。
そのとき、明成、銅伯、虹七郎、銀四郎も同様に足からまつわりのぼる女たちに狼狽《ろうばい》していた。女たちがあれほど恐れ、憎悪していた男たちだが、それが男であるということ以外に、彼女たちの眼はくらんでいるらしい。
「どうぞ、わたしを」
「いいえ、わたしをはやく」
虹七郎と銀四郎が足をあげてその女たちを蹴《け》たおそうとした。
「うごくな。そのままにしておれ」
大喝する十兵衛の刀身は、明成ののどくびで灼金《やきがね》のごとくひかる。牢《ろう》に入るまえに、虹七郎と銀四郎が石壁のすきにさしこんだ二本の松明《たいまつ》がパチパチと火の粉をあげた。
「とはいえ、これはお互いにこまったな」
十兵衛はニヤリと笑った。
「いまのいままで、この女たちを即刻この牢から解き放ってやろうと思っておったが、このありさまでは到底外には出せぬ。――獣心香のききめは、三日三晩つづくと申したな?それでは、甚だきのどくだが、もう三日三晩はここにおってもらわねばなるまい。したがって、おれはもう三日ばかり、この城に滞在せねばならぬということになる」
そういっているあいだにも、白い蛇のようにまつわりうごめく女たちの群像に、大いに辟易《へきえき》した様子で、
「おとね、ようしてくれた。礼をいう。礼は――待て待て、後生だから、もう三日ばかり待ってくれ」
やさしく、片手でおとねをおしのけ、五人に向って、
「おい、これはたまらん。一刻もはやく逃げようではないか」
まるで友人とよからぬ相談でもするような、いたずらっぽい笑顔でいった。
「虹七郎、銀四郎、まず先に出ろ。次に銅伯、おゆら――おゆらにもさかりがついておるゆえ、銅伯、しかと娘の手をはなすな、最後に明成。――その順で、そろそろ進軍をはじめてもらおうか」
十兵衛の笑顔に明成がふと気をゆるし、金切声で、
「ど、銅伯、なぜ十兵衛のいうがまま、なすがままにしておるか。そちならば、この十兵衛を――」
といいかけたとたん、十兵衛の快刀|一閃《いつせん》して、ばさと明成の袴《はかま》が股間《こかん》から裂かれて、血潮とともに小さな肉塊がころがりおちた。
「魔王大悪の根元を断つ!」
「あーっ」
さけんだのは、明成よりもおゆらだ。愕然としてはねのこうとする三人の眼に、両手で股間をおさえ、のたうちまわる明成のくびに、片手の刃を横にピタリとそののどにあてて、
「さわぐな、死にはせぬ。四十万石棒にふるよりはましだろう」
笑った十兵衛の顔がうつった。先刻とはうって変った凄絶《せいぜつ》な笑顔だ。
「だからいま、刀が武者ぶるいして、おれの手綱を切ってあばれたがっておるといったろう。……それ以上、あがけば、この首も地に落すぞ」
眼を宙にあげ、十兵衛は胸の中で呼びかけた。
――七人の女人よ、約束通り、こやつの首はそなたらにまかせる。が、おれだって恐ろしく腹をたてておるのだ。……まず、これくらいはゆるしてくれるであろうな。
そのまま、明成をつるしあげるようにして、
「歩け。……沢庵さまのところへ案内しろ」
と、叱咤《しつた》した。
漆戸虹七郎と香炉銀四郎があるき出した。肩が上下に大きくうごいているが、どうすることもできない。つづいて、銅伯とおゆらがあるく。
「急がぬと、流血のため、殿さまの息が絶えるぞ」
背から十兵衛の声が鞭打《むちう》つ――鉄格子の外に出ると、
「銅伯、錠を下ろせ。前の二人は向うをむいたまま立っておれ。ふりむくな」
と、命じた。女たちは三日間、獣心香のききめが消えるまでは、可哀そうだがここにとじこもっていてもらわねばならぬ。
当然、それまで自分もこの城にいなければならぬとすると――たとえ斬りたくとも、この明成は斬ってはならぬ、と十兵衛の胸にはしだいに爾後《じご》の対策が描かれてくる。こやつはそのあいだ、たえずおれと沢庵さまの傍にひきつけておかねばならぬ人質だ。
銅伯は、黙々として鉄格子の錠を下ろす。牢の中は、明成が遺棄した肉塊を争って、女たちが血潮の中で争っていた。――このとき十兵衛は卒然として、二重の戦慄《せんりつ》をおぼえた。
一つは獣心香に酔った女たちの狂態を見ての戦慄であったが、もう一つは、じぶんに背をむけた銅伯の、百八歳とは思われぬ強靱《きようじん》な肉体に、この事態の急変に対する敗北の表情はみえず、底知れぬ不屈の自信を見たからだ。
「化物め」
思わずうめいた。銅伯は背をみせたままでひくくいう。
「斬るか」
「いや、おまえを斬るのは懲りたよ」
こんな場合に、ふいに微笑するのが十兵衛のくせだ。
「化物め、うぬの料理法はやがて考える――望むなら、うぬよりもおゆらを斬る」
はじめて銅伯の背に狼狽の波がわたったようだ。この百八歳の怪物にも、やはりおのれの娘に対する愛情があるのであろうか。
「よし、それでよい。さあ行け」
行進が開始された。地底の牢獄から石の階段へ――明成の足もとから、血の糸がひかれてゆき、まるで亡者の行進だ。
「あけよ」
角櫓《すみやぐら》の巨大な扉が内側からひらかれた。外はまぶしいばかりの春光の広庭であった。
そのひかりの中に、角櫓からあらわれたこの一群を見て――警衛の芦名衆は、はじめ何も気がつかなかった。まず、漆戸虹七郎と香炉銀四郎、ついで芦名銅伯とおゆら――当然、みな槍《やり》をたてて、敬礼して――通ってゆくこの芦名一門の有力者たちの気配が何となく変っているのに気がついて、顔をあげて、
「あっ――」
とばかりに仰天した。
最後にゆく主君明成のうしろに、もうひとりの人間がついている。その顔をたしかめるより、その男が明成のくびにピタとあてた白刃のひかりが眼を射、さらに、主君の足もとに咲いてゆく血の花を見て、
「…………」
人間の声とはいえないどよめきが散った。むろん、人間そのものも庭にとび散ろうとしたのだが、
「やめさせるがいい」
と、十兵衛がひくい声でいう。声はきこえなかったが、芦名衆は金縛りになった。
「ついでだから、よく下知しておけ。牢内の女たちに害をなすと、この主君にも害が及ぶとな、やさしく、鄭重《ていちよう》にあつかうのだぞ、とな。人数は三十七人、あとで勘定するぞ。――とまるな、行け」
十兵衛は悠然といった。
「沢庵さまのおわすのはどこだ?」
あくまで明るい広い庭をつっ切ってゆくのは、この六人の奇妙な行列だけだ。遠くからあやしみの声をあげつつ駈《か》けてきた者も、この六人の最後のふたりを視界に入れると、そのまま凍りついたように動かなくなってしまう。
六人は次第に天守閣にちかづいた――そのとき、どこかでただならぬ声がした。
「――来ましたっ」
そうきこえたようだ。そして大手門のある方角から、ころがるように陣笠《じんがさ》つけた三人の芦名衆が走ってきた。
こちらの六人を見て、方向をかえて駈け寄ってきたが、明成のくびにさしつけられた白刃すら眼に入らぬほど動顛《どうてん》した様子で、
「来ましたぞっ」
と、またうわずった絶叫をあげた。――銅伯がきいた。
「誰が……」
「五人の堀の女が――」
「な、な、何?」
「般若侠《はんにやきよう》は御無事でおわすか、もしとらえられているならば、わたしたち五人の首をさしあげますゆえ、般若侠のいのちをお助け願いたいと申して」
柳生十兵衛の顔から、いままで浮かんでいたうすら笑いの影がかき消えた。
同時に、虹七郎と銀四郎がぱっと跳躍の姿勢に移ろうとした。――十兵衛の声がとんだ。
「うごくな!」
ふたりを釘《くぎ》づけにしておいて、注進してきた芦名衆にむかい、
「ここへつれて来い」
と、しずかにいった。――このときようやく芦名衆は眼前の変事に気がついて「やっ?」とさけんでとびずさる。
「見る通りだ。へたにさわぐな。その堀の女たちにここに参れと申せ。もちろん、けがをさせたり、縄を打ったりしてはならぬ。また小細工をして時をかけると――殿さまの命がそれだけ冥土《めいど》に近づく。それ、こうしている間も、血はながれつづけているではないか」
「この者のいう通りにいたせ」
と、銅伯が沈痛な声でいった。なおためらう芦名衆に、
「いそげと申すに!」
別人のごとくはげしい叱咤をあびせられて、芦名衆はころがるようにもと来た方角へ駈け去った。
――やがて、その方から竜巻きみたいな土けぶりをあげて、一団の城侍たちがあらわれた。いまの芦名衆が急報したものらしい。――巨大な車輪のごとく長槍につつまれて、五人の女があるいてきた。
その槍の穂も見えぬかのように、五人の女は眼をひからせて近づいてきたが、こちらを見ると、
「あっ、十兵衛さまーっ」
いっせいにさけんで、まろぶように走ってきた。あわてて、長槍の車輪がそれを追って、必死に間に垣を作る。その槍の柄をつかんで、
「十兵衛さま、御無事でございましたか!」
「わたしたちは、もう……」
息せききっていい、はや眼に涙の珠《たま》をひからせている女もあった。
お沙和《さわ》、お品、さくら、お圭《けい》、お鳥――わななく顔は、みなやつれている。鎌倉《かまくら》――江戸――会津《あいづ》、一年にわたる春風秋雨、屍山《しざん》血河の大争闘のあいだにも、なおその美貌《びぼう》と若さを失わなかった彼女たちが、この三日間にみんな別人のようにやつれはてているのであった。
いうまでもなく、飛んでこない鴬に身もだえして、十兵衛さまはどうなされたか、心配していた通り敵の罠《わな》におちて、この世のものならぬ責め苦を受け、あるいはもはや討たれなされたのではないか――と、三日三晩、必死に鴬をさがし求めた苦悩のゆえにちがいない。
そのあげく、ついに彼女たちは、じぶんたちの恨みもいのちも捨てて、十兵衛一身を救うために、あえてこの必殺の城門に美しい五つのからだを投げ出してきたのだ。
とっさにそれがわかっただけに、十兵衛の隻眼にもじわんと涙がうかびかけて、彼はあわてて、
「御覧の通り、十兵衛は健在だ」
と、にっと白い歯をみせた。
そのとき、春風にまじって、火縄の匂いがした。どこかで、鉄砲で狙っているらしい。
「銅伯、馬鹿者に鉄砲をやめさせろ」
と、十兵衛はいった。そして、ふいにきびしい声を女たちに投げた。
「そなたら――明成と、七本槍の生残り二人はここにおる」
女たちはすぐにわれにかえり、すぐまえの漆戸と香炉をみて、ぱっと帯のあいだの懐剣に手をかけた。
「やる気があるか?」
と、十兵衛がきく。五人の女たちはふちどる春の日光が殺気の氷と変ったかのようであった。
「もとよりです!」
「やらせる気があるか?」
十兵衛はこんどは銅伯にきく。銅伯よりも、虹七郎と銀四郎がふりかえった。その姿も、もとより殺気の化身のようにみえる。
「おれたちが、この五人を斬ったらどうする」
「おれが相手になる」
「殿は?」
「むろん、その前に命はないものと思っていてくれ」
十兵衛は刃を明成ののどにあてたまま、冷然といった。ふたりは動揺して、
「そ、それは」
「その代り、勝負がつくまで、おれは手を下さずに見ておるぞ」
十兵衛は五人の女をじっと見やって、
「よいな? 臥薪嘗胆《がしんしようたん》、恨みをはらすときがいま来たと思え」
「十兵衛さま、かたじけのう存じます!」
女たちはさけんだ。十兵衛はうなずいて、
「もし、そなたらがその両人をたおせば、次にこの明成を投げてやる。もしそちたちが討たれれば――一撃のもとにこの明成をあの世へ送り、そのあとこのおれが必ず漆戸、香炉を討ち果たしてやる。あとに思いを残さずに死ね」
といったが、五人の女の握りしめている懐剣にふと眼をやって、
「刀が小さい。そうだ、そこに案山子《かかし》のようにならんでおる陣笠ども、みな芦名衆だろう。いままでおれとやりあってきたところでは、刀だけは感心に、田舎剣法にはもったいないほどのものをみな持っていたようだ。その小刀の方を借りろ」
と、いった。
虹七郎の剛剣、銀四郎の妖剣《ようけん》に対して、これは当然の配慮だが、それにしても芦名衆とたたかうのに芦名衆の刀を借りろ、という。あまりにも人をくった十兵衛の思いつきに、ちかくの芦名衆は腰の両刀をおさえ、血相かえてあとずさる。
「そこの五人、小刀を出せ!」
何かふきあげるものを押えるように、歯をカチカチと鳴らしながらさけんだのは虹七郎だ。
「いやといって、きく相手ではない。――ともかく、勝負は即刻つける。はやく貸してやれ」
ためらいつつ、五人の芦名衆が腰の小刀を鞘《さや》ごとぬきあげようとする。五人の女はその方向に、二歩、三歩、進み出た。
このとき、こちらに銅伯とならんで立っていたおゆらが、ひとりフラフラと十兵衛の方へ近づいてきた。
女を牝獣《めすじゆう》に変える獣心香、それがたちこめた雪地獄からおゆらが出てきたことは、十兵衛も知っている。それだから銅伯に、おゆらの手をしかとつかまえているように命じたのだ。
雪地獄を出たときから、ふしぎにおゆらはしずかであった。それを十兵衛はむしろあやしむべきであったが、さすがの彼もほかに満身の注意をはらうべきものがあったので、このときまでおゆらを等閑に付していたのである。
が、おゆらが異常な状態におちいっていることを、父親の銅伯は知っていた。彼女がチロチロと唇をなめまわし、美しい涎《よだれ》がムッチリとした白いあごの肉につたわり、乳房が大きく起伏し――そして、もえるような眼で、十兵衛の方を盗み見ていたのを知っていた。知っていたから、それまでしかと父親の手でおゆらの手をつかんでいたのだ。
その手を、銅伯ははなした。
糸が切れたように――蛾が火に吸いよせられるように、おゆらは十兵衛の方へ歩き出した。
十兵衛はチラとそれを見た。
もしこのときおゆらに兎の毛でついたほどの害意とか殺気とかがあったなら、十兵衛たるもの、何しに以《もつ》てそれを看過すべき、稲妻のごとく即応の体勢をとったであろうが――いま、ユラユラと寄ってくる女は、全身あけっぱなし、横たわりこそせね、その表情といい、姿勢といい、女が男にゆるすときに特有のまったく弛緩《しかん》した感じであったから、十兵衛はかすかに狼狽《ろうばい》したが、その狼狽に警戒の意はなかった。
「くるな」
眼でいったとき、彼女はすぐ前にとまった。しかも、欲情にとろけるような声で、
「十兵衛……」
あえいで、彼の腕に手さえかけようとしたのである。
どうと十兵衛がおゆらを蹴《け》たおしたのは、それに驚愕《きようがく》したのではなく、この電瞬の隙に向うの香炉銀四郎のこぶしから、ビューッと一条の黒い紐《ひも》がほとばしり出たのを見たからであった。
黒い紐はのびた。芦名衆から刀を受けとろうとしていた五人の女の方へ。――
それがぱっとひろがって巨大な網となったとき、十兵衛は明成をひっかかえたまま、二間も大地を蹴って銀四郎の脳天から唐竹割りにしていた。
「か、か、霞網《かすみあみ》……」
銀四郎がさけんだ。
もともとこの前髪の少年には、ひたいから鼻ばしら、あごにかけて絹糸のような傷痕《きずあと》があった。おそらくそれまでの酷烈な修行時代に生じたものではないかと思われるが、白面の美貌だけにいっそう無残で、それがいよいよ彼に吐き気のするような妖気をあたえていたのだが、その刀痕《とうこん》に沿って――一線の狂いもなく、十兵衛の刀身が走ったのだ。
間髪を入れず、背後に剣気の熱風をおぼえ、十兵衛は反転した。
「明成を殺すか!」
一刀の柄《つか》に手をかけたまま、漆戸虹七郎が硬直した。
「ゆるしてくれいよ」
十兵衛はさけんだ。
ほかのだれにいったのでもない。堀の女たちにいったのだ。それは彼女たちに斬らすべき香炉銀四郎を、危急の場合とはいえ、じぶんが斬ったことをわびたのだ。
しかし、さけんだあとで、十兵衛は愕然としていた。
五人の堀の女は、霞網の中にあった。
そして、こちらの銀四郎は依然として棒立ちになっている。顔からのど、胸にかけて二つに裂かれながら、仁王立ちになって、その手には黒髪で編んだ霞網を、なおしかと握ったままであった。
「ど、銅伯さま……」
裂けた唇から血泡を吹きながら銀四郎はいった。
「た、たとえ殿が死なれようと……会津四十万石が滅びようと……芦名一族は負けぬ。おれは負けぬ。……堀の女どもは殺す。……おれの勝ちだ!」
明成を虹七郎にむけて盾としたまま、十兵衛の刀がまたきらめいた。霞網をつかんだ銀四郎の右腕は肩のつけねから、ばさと地に飛んでいた。
唐竹割りになった顔と、断ちきられた肩から、血は滝のように飛散し、銀四郎はいまや満身朱にひたったようになって、しかも、
「おれの勝ちだ! 堀の女どもは殺す……」
血笑の声をひびかせると、はじめてどうと崩折れた。
このとき芦名銅伯が、ツ、ツ、とうごき出した。刀は抜かず、ただ十兵衛と堀の女たちのあいだに立ったままだ。
十兵衛の眼が血ばしった。
五人の女は、依然として霞網の中にいる。それは頭上にひろがり、大きく彼女たちにかぶさって、その足もとから流動体のようにすべりこみ、完全にとりつつんでいた。
この紗《しや》のような黒髪の網の恐ろしさを彼女たちはよく知っているはずであったが――いや、知っているだけに、逃れようとして小鳥の狂ったように中で羽ばたいた。が、それはフワフワと霞のごとく浮動しつつ、破れない。懐剣をぬいて切ろうとした者もあったが、刀でも切れないのだ。
ただ一すじの霞網の黒髪をまじえて縛られていただけで、その縄が容易に切れなかったことを十兵衛は知っている。
「待て、おれが――」
手中の明成も、背後の虹七郎も忘れて、十兵衛は駈《か》け寄ろうとして、そのあいだに、にゅっと立つ芦名銅伯に気がつき、
「どけ!」
と、さけんだ。
銅伯はうごかない。その足は、一本の生腕を踏んまえていた。
香炉銀四郎の斬りおとされた右腕だ。それは銅伯の足の下で、なお霞網の一端をつかんで、しかもその蒼白《あおじろ》い指はみみずのようにうごめきつつ、霞網をあやつることをやめないのであった。
もとの所有者は血の沼の中に伏して、もはやピクリともうごかないのに。
なんたる執念――いのちなき腕にあやつられ、霞網はしだいにしぼられてゆく。
内部から切りひらこうとする懐剣がそのひだにはさまれ、ピーンと音たてて二つ三つに折れた。五人の女の黒髪はもつれあい、顔とあごはのけぞり、手足は白い蛇のようにたわみ、からみ、へしまげられている。
「あーっ」
いちど、たえきれぬ悲鳴があがったあと、もう声はなかった。いまに網の紗は彼女たちの鼻口に吸いついて息の根をとめ、胴をしめつけて九穴から血を吹かせ、さらに五人を一塊として海綿のごとくしぼりぬいてしまうだろう。
「銅伯、どけっ」
十兵衛は絶叫した。
しかし、芦名銅伯はうごかない。怒りもせず、笑いもせず、まさに銅の面をつけたような無表情でウッソリと立っている。すでに十兵衛は、銅伯の肉体が斬っても斬れぬ不死身のものであることを想起していたし、またあきらかに銅伯がそれを承知で立ちふさがっていることを知っていた。
「やめさせろ、霞網を――」
「…………」
「その腕を、踏みつぶせ!」
「…………」
「きこえぬか、銅伯っ」
「…………」
「やむを得ぬ、明成の命はもらった!」
十兵衛は半死の明成を片腕にひきずりあげ、そののどにピタリと刃《やいば》をあてた。
「よいか。覚悟しろ!」
それでも芦名銅伯は、沈黙したまま、微動だもしない。まるで感情のない無生物みたいに立ったままだ。
黙っているのは銅伯ばかりではない。虹七郎も、芦名衆も、まわりにはせ集った数十人の城侍たちもいまや一語もなかった。身の毛もよだつ静寂が広場一帯に張りつめた。
十兵衛の刀は、明成ののどぶえでうごかなくなった。彼は苦悶《くもん》の眼で銅伯を見、霞網の方を見た。
銅伯もじっと十兵衛を凝視している。おちくぼんだ暗い眉《まゆ》の下で、両眼が二匹の蛍のようにひかっていた。
これはもはや剣のたたかいではない。精神力の死闘だ。
そして――かつて、あの凄《すさま》じい首合戦で、沢庵と銅伯のあいだに交された気力の争闘が、その時間を一瞬に圧縮して十兵衛と銅伯のあいだに交され――ついに十兵衛はよろめいた。
「負けたっ」
蒼白《そうはく》になって十兵衛は絶叫し、その刀を大地に投げた。
――刀を投じてどうなるか。いま屈服して、あの五人の女のいのちが助かるか。そんな保証はない。いや、明確にその可能性は皆無であろう。そう承知していて、それでも十兵衛は、眼前で五人の女が虫のように圧殺されるのを見るにたえきれなかったのであった。
しかし、同時に銅伯の足の下で、銀四郎の腕の指の骨が折れる音がした。
霞網がうごかなくなった――しかし、五人の女も、白い泥みたいに折り重なったままだ。フンワリと覆った霞網の下で、それはもはや屍体《したい》の堆積《たいせき》としかみえなかった。
漆戸虹七郎の長剣が鍔鳴《つばな》りの音をたてた。
「待て」
と、銅伯がいった。虹七郎の刀は十兵衛の頭上でとまったが、
「また待てとは――なぜっ?」
と、さけんだ。眼は血光をはなって、
「ぎ、銀四郎を見られい!」
「殿を見よ」
と、銅伯があごをしゃくった。
「斬るなら、殿のおん目の前でのうては、あとで殿のお叱《しか》りがあろうぞ」
加藤明成は、いま十兵衛が刀を投げた瞬間から地上に崩折れて、白い眼をむいて失神していた。
「これよ、殿をお抱き参らせて、天守閣へおつれ申せ。いますぐにわしがいってお手当いたすわ」
銅伯に命じられて、芦名衆が駈け集り、明成を抱きあげ、まわりをとりかこんで、まろぶように天守閣の方へ走っていった。
「女たちは、死んではおらぬ」
と、銅伯はいった。はじめてうすい笑いが顔に漂っていた。
「成敗は、これも殿のおん目の前でする――いかなる成敗をするか――虹七郎、どうしてやったらよかろうな」
「に、に、にくんでもあまりある奴ら、とっさに拙者もその手段を思いつかぬほどでござる」
「こやつをかばった領民どもへの見せしめもある。おれのいま思いついたことだが、大手門外に磔柱《はりつけばしら》ならべ、逆さ磔にかけてやろう。女どもを裸にむいて、ユックリと時をかけて、股《また》から頭へ切り裂いていってやろう。……それを十兵衛に見せつけてから、こやつの成敗にとりかかるのじゃ」
虹七郎の眼が歓喜にもえ、歯が憎悪にカチカチと鳴った。その長剣を十兵衛のくびすじにピタリとつきつけた。
「それは、いつ?」
「まず、三日のち」
「とは?」
「殿のお傷がいちおうふさがって、その仕置を御見物になれるまでじゃ」
「それまで、この十兵衛めは?」
「沢庵とともに、例の夢幻法の祭室に入れておけ。もはや、こんどこそは二度と逃さぬ。つれてゆけっ」
「承わった。あるけっ」
虹七郎が十兵衛を刀で追いたてるうしろで、銅伯の下知する声がきこえた。
「これ、女たちを巽《たつみ》の角櫓《すみやぐら》に入れろ。あの花地獄ではないぞ。一階の矢倉にじゃ。それから、白木の磔柱を五本――いや、あのおとねの分をふくめて六つ、いそぎ作れ!」
「――そうだ、忘れておった、いや、きくひまがなかったが、どうしてもうぬにきかねばならぬことがある」
と、虹七郎が十兵衛にいった。
「堀の女、二人が足りぬ。お千絵《ちえ》とお笛はどうしたか?」
十兵衛は黙っている。虹七郎はぞっとするような笑いを投げた。
「いわぬか、いわぬではすまさぬ。見ておれ、かならず口を割るようにしてくれるぞ」
そのとき、虹七郎がふいに「あっ」とさけんだ。
「十兵衛……」
そう呼んで、ふいに風鳥のように飛んできて、十兵衛のそばに立った女があった。
虹七郎がうろたえたのは、それがさっき十兵衛に蹴《け》たおされたおゆらであったからだ。
「おどきなされ」
と、さけんだが、おゆらはその声など耳に入らないかのように十兵衛にしがみついて、
「十兵衛、わたしをつれていって!」
と、とろけるような声でいった。
「――ば、ばかな」
虹七郎は眼をむいて、春風に溶け入りそうなおゆらの姿に、彼女のからだを燃やしているものが獣心香であることをようやく知った。
「おゆらどの、何をなさる! まだ例の香に心をみだしておられるな。――その男は、怨敵《おんてき》柳生十兵衛でござるぞ!」
「知っておる。わたしはその十兵衛が好きなのじゃ」
「た、たわけたことを――殿のお耳に入ったら――」
「殿は、もう男ではなくおなりなされた。それはお前も知っているではないか。わたしにとって、世に恋しいのはこの男ばかり――」
この問答を十兵衛は耳の遠くできいている。彼はふりかえって、じっと堀の女たちが芦名衆にあらあらしくかつがれて巽の角櫓の方へ運ばれてゆくのを見ているのであった。
もとより彼は絶望してはいない。かならず――かならず、おれが救い出してみせる。救い出さずにはおくものか、と彼は不屈のさけびを胸にあげつつ、虹七郎の刀に追われて歩いていたのだが、そのくせ、いま自分にからみついてきた女体を反撃の手がかりにするという知恵が、とっさに出なかったのだ。
もっとも、五人の女を救うために、人質の明成をさえ手ばなした十兵衛だ。代って誰かを人質にするという知恵は、このとき十兵衛にまったくなかった。
むしろ、うるさげにおしのけようとしたのだ。
「うるさい、どけ」
「そんなことを言わないで――十兵衛、わたしを一緒につれていって!」
頬をあつい息がかすめ、腕にあつい肌がまつわりついた。
「おゆらどの!」
隻腕に一刀をふりかぶったまま、虹七郎の声はほとんど殺気をおびた。十兵衛にからみついたまま、ふりかえったおゆらは燃える花のように笑った。
「斬りゃ」
そういいながら、自分でもキラリと懐剣をぬいている。
「わたしをひきはなそうとすれば、わたしは死ぬ」
虹七郎は狼狽《ろうばい》と困惑と憤怒の顔を、ちらと銅伯に向けた。――そして十兵衛は、芦名銅伯もまた満面に、虹七郎におとらぬ狼狽と困惑と憤怒を墨汁のごとくちらして立ちすくんでいるのを見たのだ。
その顔に眼もくれず、
「はやく、十兵衛、いっしょにいって――わたしを抱いて――」
肉欲に歯をカチカチと鳴らしながら、おゆらはあえいだ。
銅伯のおどろきはいかばかりか。
娘のおゆらがなお獣心香の虜《とりこ》となっていることを銅伯は知って、一触即発の態勢にある十兵衛のまえに、あえて娘の手をはなした。それは一見無謀に似て、その実十兵衛の全神経が虹七郎と銀四郎にむけられていること、また春心|蕩揺《とうよう》たるおゆらをみて、とっさに十兵衛が虚をつかれるであろうことを――充分計算に入れた彼の賭であった。
そのきわどい賭に銅伯は勝った。十兵衛の剣意がふとおゆらにゆるみをみせた間一髪の隙を狙って、銀四郎の霞網《かすみあみ》がとび――そして十兵衛は敗れた。
勝った!
見よ、十兵衛は明成を手ばなし、虹七郎の剣に追われてゆく。もはや二度と失敗はくりかえさぬ。あとは魚篭《びく》に入った十兵衛と堀の女たちをいかに料理するか、ということにあるのみだ、と会心の笑みをうかべたとたん。――
思いきや、そのおゆらが、またフラフラと十兵衛の手中に入ってゆこうとは。しかも、虹七郎に刃むかってまでも、十兵衛にしがみつこうとは。
これは銅伯にとってまったく計算外の事態であったが、しかし同時に十兵衛にとっても、とっさに判断に迷う事態であったらしい。
「…………?」
十兵衛がぽかんと立ちすくんでいる一瞬のあいだに、銅伯は態勢を立て直した。
「捨てておけ」
と、きしり出すような声でいった。
「虹七郎、おゆらのしたいようにさせろ」
「し、しかし」
「十兵衛にも、おゆらのしたいようにさせろ。辱しめようと、殺そうと――おゆらのごとき、四十万石の前には鵞毛《がもう》のごときからだであり、いのちだ。ただ――もし十兵衛が左様なふるまいに出れば、五人の堀の女の死にざまが、その数十倍も酸鼻なことを覚悟しておくがよい」
そして彼は巌《いわお》のような背中をみせて、明成の運ばれた方角へ歩み去った。
「十兵衛、ゆこう」
おゆらはいよいよ十兵衛に燃えるからだをこすりつける。
「いま、父がいったとおりじゃ。わたしをお前のしたいようにしておくれ。いいえ、わたしのしたいようにお前がしてくれなければ、あの堀の女たちの苦しみは阿鼻《あび》叫喚の大地獄にまさることを覚悟しや」
虹七郎は何とも言語に絶した顔をふり、刃《やいば》をつきつけたまま、
「ゆけっ」
と、さけんだ。
おゆらはケラケラと笑いながら、のびあがって、傍若無人に十兵衛のくびに片腕をまき、頬ずりをして、はては十兵衛の顔をねじむけて口を吸おうとさえする。唾液《だえき》と吐息が頬をぬらし、まつわりつき、十兵衛はじぶんも堀の女たちに劣らぬ恐ろしい霞網にかかったような気がした。
[#改ページ]
天道魔道
――一日目であった。
加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》明成はなお意識不明であった。――が凄《すさま》じい痛覚だけは、からだの中心部からたえまなく脈うち、輪をひろげてくる。いちど気がついた。あまりに激烈な痛みのために覚醒《かくせい》したのだ。
「殿……お気をたしかに」
銅伯の声であった。
「ただいま、銅伯がお手当をいたしておりまする」
「手、手当――」
明成の意識づいた脳裏を、はじめてじぶんの受けた傷のことが、痛み以外の恐怖を伴ってかすめすぎた。
「銅伯、傷はなおるか?」
「お血はすでにとまりました。お痛みもやがてうすらぎましょう」
「血ではない。痛みではない……傷がもとにもどるかときいておるのじゃ」
「…………」
「なぜ黙っておる?」
「…………」
「銅伯っ」
「…………」
銅伯はこたえず、ただ明成の傷の治療に専念している様子だ。銅伯の沈黙に明成はしだいに息をつめ、そして絶望の衝撃にうたれてまた失神した。
失神したのに、彼はもがいている。苦痛と悪夢の世界をのたうちまわっている。
彼は沼の上に、水死人みたいにあおむけに浮いていた。沼――血の沼だ。しかも腐った泥のようにドロドロした血の沼だ。頭上には黒い雲の渦が巻いていた。
その雲とたわむれるかのごとく鴉《からす》のむれがとびかわしている。数は七羽――その鴉が、よくみると、みんな般若《はんにや》の顔をしているのだ。それがぱっと羽根をひろげて舞い下りると、人間が手をひろげたほどの大きさであった。一羽ずつ舞い下りて、彼の腹をつつく。きゅっとつりあがった般若の口が、その刹那《せつな》黒くなり、突出し、鋭いくちばしとなってブスリと彼の下腹部につき刺さる。
悲鳴をあげて沈もうとしても、血の沼は彼を軽くおしあげて、ただはらわたみたいな泥をはねちらすだけだ。たちまち七羽の鴉は羽ばたきの音も凄じく、こんどはいっせいに彼に襲いかかってくる。
「――ゆるせ! ゆるせ!」
血にむせびながらあげる悲鳴は、天地もつんざくような高笑いにかき消された。
「鴉、面をとれ」
雲の上に、天狗《てんぐ》がひとり腰かけている。いや、姿は天狗僧正のようだが、顔はこれまた般若だ。
七羽の鴉の顔から面がおち、闇黒の風に吹きとんだ。――あらわれたのは、あの堀の女たちではなかった。そのいずれもがおゆらの顔であった。
「明成――これから、おゆらをどうするな?」
雲の上で哄笑《こうしよう》する影からも般若面がおちた。たった一つの目をひからせて、肩をゆすって笑っている柳生《やぎゆう》十兵衛の顔であった。
「師の御坊」
と、十兵衛はいった。
「まだよい知恵は出ませぬか?」
三角壇の上に沢庵《たくあん》は、座禅をくんだきり、答えない。
天守閣の地下室であった。虹七郎《こうしちろう》に追いこまれて、十兵衛はそこに寂然と坐《すわ》っている沢庵の姿を見つけ出したのである。
この地下の石室に入って、はじめちょっと十兵衛は眼を見張った。巨大な石室に真紅の三角壇、正面には鏡を立てた祭壇がある。いうまでもなく、これはかつて沢庵が銅伯のためにこの世のものならぬ夢幻法の秘儀を見せられた部屋だ。
「おお、十兵衛、生きておったか?」
「……老師、こんなところに?」
めぐりあって狂喜し、あれ以来のことを交互に話し合ったのもしばし――ふたりは、それまでのことより、これからのことを即刻に語り合わねばならなかった。
「案じてはおったがの。どうすることもできなんだのじゃよ。何しろ、一歩もここを出られんのでの」
沢庵は入口の厚い扉をさした。十兵衛を追いこんだ虹七郎が外に出て、閂《かんぬき》をかけた大きな扉は、鉄壁のごとく立ちふさがっている。さすがの沢庵が心痛のために、先日見たときとはまた一段とやつれはてているのであった。
心痛とは、むろん沢庵自身のことではない。十兵衛の運命だ。そしていま、五人の堀の女もまたとらえられて巽《たつみ》の角櫓《すみやぐら》に入れられ、三日のちの磔刑《たつけい》を待っているときいて、沢庵のひたいに苦悩のすじが浮かび出た。
「……やはり、左様のことに相成ったか」
「われわれの命はどうでもようござる。あの女たちだけは何とかして救いたいのです」
そして、十兵衛は沢庵の知恵を乞《こ》い、沢庵は三角壇の上で眼をとじて座禅をくみはじめたのであった。
ところで、このあいだ――陰鬱《いんうつ》なふたりの問答をたえまもなく彩る甘い声があった。おゆらだ。十兵衛はむずと一方の腕をとらえられているが、それをいいことに彼にからだをこすりつけ、しがみつき、身もだえしつづけているおゆらであった。
「十兵衛、まだか……まだ話はすまぬか?」
むろん、このおゆらは、最初沢庵の眼をきらっと光らせた。
「人質か」
「いや、この女が勝手にくっついてきたので」
こんな場合に、十兵衛は苦笑し、獣心香のことを話した。
「さすがの銅伯もめんくらい、なすすべもないようでござった」
「この女を、かけひきには使えぬか?」
「どうつかったらよろしかろう」
十兵衛は意外に自信のない様子だ。
「この女が拙者についてきたとき、芦名銅伯の顔にあらわれた狼狽《ろうばい》と困惑、あれでも人の親か、と思わせるものがありましたが、しかしこの女と交換に、堀の女たちをゆるすか、となると、首をかしげざるを得ぬ――そんな銅伯の様子でござった――」
十兵衛はあのときの芦名銅伯の顔貌《がんぼう》を思いかえすように、
「このおゆらを犯したくば犯せ、殺したくば殺せ、ただし、堀の女たちにはその数倍のむごたらしき刑戮《けいりく》を以て酬《むく》いるぞ、と云いすててゆきましたが――あの銅伯の剛腹さでは、冷然として娘を見殺しにするということもあり得る。少くとも、こちらにとって起死回生の切り札になるかどうかは、疑わしいと思いましたが」
むろん、銅伯が好んでおゆらを十兵衛にゆだねたわけがない。なろうことなら――少くともおゆらがあのような正気を失った状態でなかったら、いかなる手段を用いても奪還したかったことであろうが、さればといって、おゆらとひきかえに、やすやすと堀の女たちを城外に逃がすかというと、それは大いに疑問だ。
「――それに」
十兵衛は、そばで妖《あや》しい嬌笑《きようしよう》をもらしているおゆらの手を強くおさえて、
「この女、御覧のごとく媚香《びこう》のせいとはいえ、乱心同様のもの、それを切り札に使いとうはありませぬ」
十兵衛は、この土壇場に追いつめられて、まだそんなことにこだわるところがある。男の誇りにかけて、といったところだろう。
「しかし……手持ちの切り札としては、それしかないのう」
沢庵はおゆらをみてつぶやく。
「三日たてば、その女が正気にもどるといったのう。……そのときを待って、銅伯はきっととりもどそうとするぞ。きゃつのことだ。いかにもその代償に堀の女を放すようなことはすまい。かならず、向うはとりこめたまま、おのれの娘のみはとりあげるたくらみを講ずる」
「そのたくらみの裏をかいて、何とか堀の女たちを逃がしてやりたいのです」
そして――何時間おきかに、
「――老師、なんとか知恵はありませぬか?」
という沢庵に対する十兵衛の問いがくりかえされているのだ。
この間、むろん、おゆらはたえず笑い、淫語《いんご》をささやき、はてはたえかねるようなあえぎをもらして、凄じい痴態で十兵衛にいどみかかっている。片手をおさえて、彼女の自由を奪ってはいるものの、十兵衛はもてあました。
「――老師、なんとか……」というのは、三日のちのことではなく、現在ただいまのこの状態に対する悲鳴でもある。
なんど彼は、彼女の脾腹《ひばら》にこぶしをあてて、しばらく悶絶《もんぜつ》させようとしたかしれない。
しかし――銅伯の、「犯そうと、殺そうと自由。しかし酬いは堀の女たちに」という言葉が縛るのだ。おゆらを悶絶させることも苦痛の打撃をあたえることになりはしないかと、それが十兵衛には恐ろしい。
「――老師、何とかいい知恵が浮かびましたか?」
沢庵はあたまをかかえてうめいた。
「それが出るようなら、わしははじめからこれほど苦労はせぬわい……」
――二日目であった。
つみあげた厚い夜具にもたれかかったまま、
「銅伯、おゆらは?」
と、明成はいった。それは一日目の悪夢の中でもがきぬいているようなあいだも、たえずもらしていたうわごとであった。
「おゆらはなぜ参らぬ。おゆらはどうした?」
きのうも、おゆらはついに枕頭《ちんとう》に姿を見せなかったようだ。じぶんの失神中にあらわれたのかと思っていたが、ともかくも半身を起せるようになったきょうも、おゆらは姿を見せない。
――それについて、銅伯はいった。きのうの事件の衝撃のために、おゆらもまた病人のようになって床についていると。――銅伯にしてみれば、いかに獣心香のわざとはいえ、おゆらがみずからの春心に煽《あお》られて、十兵衛にまつわりついていったとは告げ難かったのだ。
それは想像もし得なかったが、おゆらの天衣無縫の色好みと、そして自分の「失ったもの」とを思いくらべると、本能的に明成は不安になり、四十万石の大名でありながら「おれは捨てられるのではないか」という、男としていてもたってもいられない焦燥にかられてくる。
「よし! それでは余の方でゆこう。余に肩を貸せ!」
明成がこぶしをにぎりしめて、こうさけび出すに及んで、ついに銅伯は苦汁をのんだような表情で告白した。
「殿……それほどまでに仰せられるならば申しあげまする。いままで殿があまりにお苦しみゆえ、いよいよお心のわずらいとなろうかとかくしておりましたが、おゆらは十兵衛にとらえられ、この天守閣の下に沢庵とともにおります」
「な、なんと申す?」
明成は仰天した。
「そ、それで、おゆらはぶじか?」
「そのつもりでおります。殿、御安心なされ。十兵衛はおゆらに、一指をもさすことはできますまい」
「な、なぜ、それがわかる?」
「おゆらに一指だにさせば、べつに巽の角櫓にとじこめております堀の女どもに酬いると、釘《くぎ》をさしてありますから」
「それで、はたして十兵衛が」
「あいや、十兵衛なる男の気性として、この釘は充分ききましょう。それについては、この銅伯の見込みをお信じ下されと申しあげるほかはござりませぬ」
「十兵衛を、まだぶじに生かしておいたのか。堀の女どもをなぜ成敗しなかったのか!」
「それは殿のおん眼のまえで誅戮《ちゆうりく》すべく、殿の御回復を待っておりました。殿、その眼でしかと御覧になりとうございましょうが」
「もとよりだ! では、いつ?」
「明日――明日ならば、殿も大手門外にお出ましになれましょう」
「そ、それでいかように成敗いたす?」
「大手門外に磔柱《はりつけばしら》をならべ、堀の女どもをはだかにむいて、ことごとく逆さ磔にかけようと存ずる。またこの光景を城下の領民どもにみせ、以《もつ》て四十万石の威を腹の底まで知らせてやりとう存じまする」
「……ううむ」
「もとより沢庵、十兵衛にもそれを見せ、そのあとで十兵衛を斬り、沢庵を放逐いたしましょう」
銅伯はしずかにいう。
「たとえ沢庵は江戸に帰しても、決して加藤家に害をなすうれいはありませぬ。南光坊天海のいのちの綱をこの銅伯がにぎっておる上は」
「銅伯、おゆらはどうなるのだ」
「むろん、その前に拙者がとりもどしまする」
「……とりもどせるか」
「銅伯をお信じなされませ」
「では、なぜ、いまとりもどさぬのだ。余はおゆらに逢《あ》いたい。一刻もはやくおゆらの顔を見たい」
芦名銅伯の顔に、ちょっと狼狽があらわれた。いまおゆらはおのれを失って肉欲の白鬼となっている。あの獣心香のききめがさめないうちは、銅伯としても如何《いかん》ともしがたいのだ。――銅伯は威嚇的に声を張っていった。
「殿。……いざとなれば銅伯は、十兵衛の刃《やいば》もなすところなき不死身の男でござりまするぞ。先日、おんまえで、みごとにきゃつをとりひしいだ光景をお忘れではありますまい」
「それは存じておるが」
「いわんや十兵衛にはその刀すらないのでござる。きゃつ、まさか銅伯に二度と腕立てする愚は犯しますまい」
銅伯は何か闇をのぞきこむような眼つきになった。
「殿、御案じ下されますな。いかに沢庵、十兵衛があがこうと、明日きゃつらを呪縛《じゆばく》にかけて、そのあいだにぶじにおゆらをとりもどしてお目にかけまする」
「呪縛――」
「夢山彦にかけて」
「おお」
「江戸の天海の苦しみをふたたびまざまざと鏡にあらわして沢庵を金縛りとし、沢庵の苦しみを十兵衛にみせつけて、またきゃつの手も封じまする」
「……そ、それはきょうにはならぬことか」
「祭壇の支度もござりますれば」
明成は茫乎《ぼうこ》としてうなずきかけたが、ふいにまた不安に襲われたらしく、腰を浮かしかかって痛みに顔をひきつらせ、
「しかし、余はきょうにも一目、おゆらを見たい」
「殿、ききわけのないことを仰せられまするな。――あの十兵衛にちかづいて、二日前の御大難をくりかえされるようになっても、銅伯は知りませぬぞ」
銅伯の顔にはどす黒い憤怒の色がひろがったが、すぐに慰撫《いぶ》の口調になって、
「しかし――思いかえせば、このたびの江戸以来の始末――七本|槍《やり》衆のうちすでに六人までを失い――思いのほかに恐ろしい敵でござりましたなあ。もとより、敵もまたわれらに対し、同様以上の胴ぶるいをおぼえておりましょうが」
銅伯に叱《しか》りつけられて、がくと腰をおとした明成は、犬のような眼で、
「銅伯。……しかも、余は……十兵衛のために……片輪とされた!」
と、うめいた。
「加藤家に世嗣《よつ》ぎはない。四十万石のあとつぎの出来る見込みは、もはや消え失《う》せたのだぞ!」
「殿。……ゆらは身篭《みごも》っております。ほんの数日前、わかったことでござりまするが」
「なに」
「ゆらに打ちあけられたころ、例の夢幻法を沢庵にかけねばならぬ事態生じ、また、ゆらの懐妊をいましばらくたしかめたく、殿にはまだ言上いたしませなんだが」
「ゆらが、余の子を――」
「その後つらつら銅伯見ておりますに、まさしく事実でござる。それが事実である以上、われら念力によって、みごと御男子を御出生いたさせましょう。もはや会津《あいづ》四十万石は御安泰――あらためて銅伯、お祝いを申しあげまする」
芦名銅伯ははじめて笑い、ピタと平伏した。
「そのためにも、ゆらは断じて十兵衛の手よりとりかえさねばならぬのでござります」
明成の満面は大きくひきつった。はじめは、あまり思いがけないことを耳にしたおどろきのためであったが、やがて笑おうとする表情になり、さらにその笑顔はなかばでこわばってしまった。
「……そうか。ゆらは世嗣ぎを身篭ったか」
と、つぶやいた声は、しかしうつろであった。
あれほどの好色にもかかわらず、むしろ常軌を逸した荒淫のせいで、いままでついに子に恵まれなかった明成だ。愛妾《あいしよう》が懐胎したことはよろこぶべきことにちがいないが、しかしそれとはべつに、これ以後の人生の荒涼さを思うと、彼は脳髄も灰色に変るような気がした。
じぶんはもはや女を愛することは不可能なのだ。――いや、たとえ子を生んだとしても、あのおゆらが、いままでのような濃艶《のうえん》な媚態《びたい》で、これからもなおじぶんに抱かれてくれるであろうか?
醒《さ》めて思う未来は、きのうの悪夢よりもなお戦慄《せんりつ》すべき地獄相であった。
芦名銅伯は、しかし、平伏して見えない顔で笑っていた。
明成が男としての機能を失ったということは、むしろ彼にとって望ましいことであったからだ。もはや江戸の奥方に嫡子の生まれる見込みがない上は、おゆらの生む子が会津四十万石をつぐことになるのは不動の事実だ。芦名《あしな》の血をつたえる者が、名実ともに会津の支配者となる――それこそは、わが百八年の生涯、夜毎に見つづけてきた夢の実現ではないか?
(ふむ……してみると、あの柳生十兵衛なる男も、芦名一族のために魔天がさしつかわされた守護神といえるかもしれぬ)
皮肉なうす笑いをうかべて顔をあげた銅伯は、地獄をのぞきこんでいるような表情の明成をみて、たちまち持ちまえの銅面に似た顔にもどった。
「とは申せ、殿をとりかえしのつかぬお躰《からだ》にさせた凶剣柳生十兵衛」
炎のような声でいった。
「殿のおん苦しみに相応の――いや、数十倍もの大|苦患《くげん》を、きゃつに酬《むく》いておやりなされ」
「十兵衛、この手をはなして」
からだをくねらせて、おゆらがいう。
十兵衛はもはや返事もしない。雪地獄にいた数日には見られなかった憔悴《しようすい》がその顔に這《は》いのぼっている。
あのときには、縛られてはいたが、眠りがあった。ここでは、縄はないのに、眠ることができないのだ。しかと、おゆらの腕をつかまえていなければならないからだ。おゆらの帯か何かを解いて縛ればいいのだが、それができない。――漆戸《うるしど》虹七郎の眼があるからであった。
しょっちゅう虹七郎は、この地底の祭室に入ってきた。芦名衆に食事を運ばせ、その指図をする用もあったが、それ以外にも、用はないのに、たえず扉から顔をのぞかせる。
「磔柱が二本できた」
十兵衛にいどむおゆらの痴態をじろと見て、ひくい声でときどきいった。
「三本できたぞ」
そういっても十兵衛が銅伯の、威嚇に縛られてどうすることもできないのを見通して、彼が苦悶《くもん》するのを嘲弄《ちようろう》し、愉《たの》しんでいるかのような眼であった。
おゆらの持っていた懐剣は、ここに入るとき、すでにとりあげてある。
沢庵もまた眠らない。一夜じゅう、座禅をくんだまま、あぶら汗をながし、うめき声すらたてて苦悩している。明日に迫った堀の女たちの処刑――矢のごとくとぶ時間の責め木にかけられているのだ。
十兵衛には、その上に、これは眠るということを忘れたようなおゆらのうごきを押えておくという努力が要る。
「十兵衛、まだわたしの願いをきいてくれぬのか」
彼女は腕をつかまれたまま、禅僧沢庵の眼も度外において、いまはみずから半裸にちかい姿となって、凄惨《せいさん》なばかりあらわな挑発の行為を見せつけるのであった。
「もう、わたしはがまんができぬ――もはや、あきらめた。この手を放しや」
「お――あきらめてくれたか」
「いって、父に告げる。堀の女たちを早うなぶり殺しにするようにと」
「そ、そうはさせぬ」
「ならば、わたしの願いをきいてくりゃ。いちどだけ、わたしの思いをとげさせてくれれば、あの女たち、わたしのいのちにかけて助かるようにとりはからってあげるほどに」
それがどこまで頼りになることか、とは思うものの、これは恐ろしい誘惑であった。
「不承知なら、虹七郎を呼ぶ。呼んで堀の女たちを殺させる――虹七郎、虹七郎!」
あわてて口をおさえれば、手がゆるむ。それでなくても、白いあぶらにヌルヌルするようなおゆらの肉体だ。それが魚みたいにぱっとはねて、必死に押えこむ十兵衛に、こんどは向うからしがみついてくる。
「せめて、いちど口を吸わせて――」
十兵衛はまったくもてあまし、悲鳴のようにいった。
「明日まで待て、明日になれば、そなたのいうことをきく」
しかし、その明日こそは死の日であった。
――三日目であった。
「大手門外、すべて支度は整ってござりまする」
漆戸虹七郎が顔色を青びかりさせて報告に来た。
「できたか!」
加藤明成はがばとひざをたてた。とたんに痛みに顔をゆがめたが、ともかくもそれだけの動作ができるまでに回復したのだ。――さわがないのは芦名銅伯だ。
「磔柱《はりつけばしら》は立てたか」
「いかにも五本。――一本、おとねの分は、それ以前に成敗すると申されましたゆえ、とりのけておきました」
「それでよい。領民どもは集まったか」
「三日来の高札を読み、数千とつめかけております」
「では。――殿。お出ましを」
「おお、おゆらのところへゆこう」
「あいや、しばらく。――虹七郎、ゆらはいかがしておる?」
「それが――三日前とおなじでござります」
銅伯の顔に、やや惑いの波がゆれた。あの獣心香に酔ったままのおゆらを、どうあっても明成に見せてはならぬ。――しかし、あの香は三日にして醒めるはずだが。
「ゆらの身にまちがいはあるまいの?」
「三日前とおなじでござります」
銅伯におゆらの狂態を口にすることは禁じられてはいるが、虹七郎のくりかえす言葉にはにがにがしげなものがあった。
「では、わしがいって、とりかえしてこよう」
「銅伯、まるで手の中のものを移すように申すが……」
「殿。銅伯がひとたび意を決すれば、ゆらをとりかえすことは手の中のものを移すよりたやすいことでござる。ただ、ゆらも三日間、十兵衛にとらえられておった以上、身づくろいも崩れ、化粧もあせておりましょう。左様な姿を殿にお目にかけるのを、もっとも恥じる娘。――父のわたしのみが参ります。殿は、虹七郎とともに、さきに大手門へお出ましを」
そして、声を張った。
「芦名の者ども!」
待ちかまえていたように、庭さきに、ものものしく武装した芦名衆のむれが走ってきて、平伏した。
「殿のおん供申せ!」
「はっ」
「それから、堀の女のうち、お千絵《ちえ》、お笛の両人のゆくえがまだ知れぬ。しかし、三日高札をたてて他の五人の処罰のことに触れてある以上、きゃつら群衆の中にまじってうかがっておるやもしれぬ。よく見回って、捜し出せ」
「承わってござる」
「万一の場合のため、鉄砲隊も用意してあるな?」
「仰せのごとく」
「おお、それからもうひとつ。おとねと申す女、あれだけは別に天守閣の地下蔵の入口に曳《ひ》いて参れ。わしもそこに待っておる」
銅伯はすっくと立ちあがった。
「では、殿、お立ち下されませい。銅伯、美しゅう化粧し直したおゆらをつれ、また沢庵と十兵衛をひっくくって、ほどのうおあとから大手門に参るでござろう」
――き、きいっ、と厚い扉が外側にひらかれた。
外側もまた地底のはずだが、それでもどこからかさす蒼《あお》い光を背景に、陣笠《じんがさ》をかぶった数人の芦名衆の姿がうごいて見えた。
「いよいよ、……きょうよ」
すぐそばで、笑うような声でおゆらがつぶやいた。
いわれるまでもなく、十兵衛は心臓をわしづかみにされたような思いになっている。それは芦名衆よりも蒼い外光を見たせいであった。昼夜もわからない地底だが、彼の脈搏《みやくはく》は時をはかって、きょうが三日目――と、毛穴から血を吐かんばかりであったのだ。
「十兵衛どの」
おゆらは熱い息でいった。
「わたしといっしょに逃げぬか?」
「逃げる?」
「いまでも、わたしといっしょなら逃げられる。わたしは芦名銅伯の娘じゃ。わたしなら、沢庵どのや堀の女たちも逃がしてあげる。ただ、これからさき、十兵衛どのがわたしと暮してくれるなら……」
何をしているのか、芦名衆は中へ入って来なかった。十兵衛は、扉の方からおゆらに眼をもどした。おゆらの言葉はなおどこか酔っているようであったが、その語韻がきのうまでとは違うひびきを持っていることに気がついたのだ。
「……醒めたか?」
と、きいた。
「わたしは正気じゃ」
おゆらは笑った。肉欲の花そのもののような笑顔だ。
かえって昏迷《こんめい》におちいった眼で十兵衛がその妖艶《ようえん》な顔を見まもったとき、沢庵の声がきこえた。
「……芦名銅伯!」
入口の外光を背に、ぬっくと銅伯が立っていた。彼の影だけではない。もう一つ――全裸の女の姿がならんでいる。銅伯は、右手に燃える松明《たいまつ》をもっていた。
彼はそのまま、ユックリと入ってきた。それについて、女も入る。銅伯が左手にしかとつかまえているその女を見て、沢庵がまたさけんだ。
「……おとね!」
もえる松明の火粉をあびつつ、銅伯は無表情だ。が片腕とられたおとねは、それだけでどれほどの苦痛で縛られているのか、沢庵を見、十兵衛を見ても、とっさには声も出ぬ表情で彼に従う。
何のためか、扉は外からとじられた。
銅伯はおとねの手をひいたまま三角壇に上ってきて、三角形の火炉に松明をつきこんだ。すぐに火炉に積んであった護摩木は、パチ……パチ……と音をたて、やがてユラユラと炎をあげはじめた。
「ゆらをもどせ」
と、銅伯ははじめて声を発した。
沢庵と十兵衛はただ眼を血ばしらせて、彼をにらみつけている。――銅伯はまたいった。
「きけ、いまごろ……大手門外では、五人の堀の女が磔柱に曳かれている時刻じゃ。ゆらをもどせ」
「おゆらをもどせば、堀の女たちをはなすか?」
「左様なことは、相ならぬ」
冷然として銅伯はいった。
「磔にかけようと、心ノ臓をただひと刺し、せめて苦しみを一息にとどめられるをありがたいと思え。大手門外の女どもは、群衆のまえで舌をぬかれ、指を切り、凌辱《りようじよく》のかぎりをつくし、苦患《くげん》のきわみをつくしてなぶり殺しになろうぞ。……おとなしゅう、ゆらをはなせ」
歯ぎしりしながら、十兵衛はおゆらをひきつけ、そのくびに腕を巻いた。
「しょせん、堀の女たちのいのちのないことはおなじことだ! うぬの娘の命はもらったぞ!」
「殺すか。……殺せ」
銅伯もまた、鉄輪がきしるような声でいった。
「会津四十万石のまえには、娘一人のいのちが何であろうぞ。……ゆら、父が見ておる。みごとに死ね!」
身の毛もよだつような静寂の時がながれた。
「……銅伯」
かすれた声で、十兵衛がいった。
「おゆらをやれば……堀の女たちを、武士の娘らしゅう死なせてくれるか?」
銅伯がうなずいた。きゅっと、笑ったようだ。
そのうなずきと笑いが、あてにならぬものであることは知っている。それどころか、娘を見殺しにするといういまの宣言が、こちらの屈服を見越した威嚇であることも知っている。――しかし、知ってはいても、みすみすあの女たちが恥辱のかぎりをつくしてなぶり殺しにあうときいて、十兵衛はたえられなかった。
彼は屈服した。
「……ゆけ」
銅伯の笑った口に、吸いこまれるようにおゆらをつきとばしたのだ。
おゆらは父の方へ、ト、ト、ト、とのめって――しかし、その中間で、からくも踏みとどまった。銅伯が片手を出した。
「ゆら、参れ」
「父上」
と、おゆらはいった。
「十兵衛どのをおゆるしなされて下さりますか?」
「十兵衛どの?」
銅伯はけげんな眼で娘を見て、
「左様なことがなるものか。堀の女以上ににくい奴――ゆら、来い」
「では、わたしは、十兵衛どのの方にもどります」
ヨロヨロと足をかえすおゆらを一、二歩追って、銅伯はさけんだ。
「ゆら、まだ獣心香に酔っておるか?」
「いいえ、ゆらは醒《さ》めております。醒めても、いっそう十兵衛どのが好きなのです。おゆらがはじめて知った男の中の男――父上! おゆらを十兵衛どのといっしょに、どうぞこの城から出して!」
「な、な、なにっ?」
銅伯のみならず、十兵衛も仰天した。
「……弓、鉄砲、何百人ともしれぬ城侍がひしめくこの城へただひとり、この十兵衛どのが乗りこんで来たときから……その姿をひと目見たときに……わたしは身ぶるいした。その身ぶるいが何んであるか、わたしは知らなかった。いいえ、知ってはいたけれど、わたしは知るまいとした。そして、十兵衛どのをにくもうとした。十兵衛どのを辱しめ、そのあさましい姿を見ようとした。……」
もはや、まったく十兵衛のそばによりそっておゆらはいう。眼は父の銅伯にむけられてはいるが、虚空の何者かにささやきかけるような声だ。
「しかし、ほんとうは、わたしは十兵衛どのに魂をゆすぶられていたのです。いま、そのことがわたしにわかりました。ゆらは、はじめて知ったこの恋をまもらずにはいられない。とげずにはいられない」
おゆらは、銅伯を見て笑った。銅伯はおのれの娘の、これほど美しい、これほど恐しい笑顔を見たことがなかった。
「父上、おゆらは、十兵衛どのといっしょに城を出ます」
「――ば、ば、ばかなっ」
銅伯はのどの奥からうめきをあげた。
「ゆら、そちの胎内には、いま殿の」
思わずいいかけて、顔じゅうをひんまげてはたと口を閉じたのを、
「いかにも、わたしのからだには、加藤家の胤《たね》があります。殿さまはもはやあのおからだ、したがって、まちがいなく、ただひとり、加藤家の血すじをつたえるややが」
と、おゆらはうなずいた。
「それゆえ、ゆらを殺されることは、加藤家の命脈を断つも同然、世嗣《よつ》ぎがなければ何十万の大々名でも家名断絶となるは幕府の定法。――加藤家が滅びれば、芦名一族のながい大きな夢も、ただ水の泡となることを、父上、御承知でございましょうね」
「ゆら、て、敵のまえで何をいう。うぬは――父を裏切るつもりか!」
「ほほほほ、父上を裏切るつもりはありませぬ。芦名一族の夢の消えることを、わたしがよろこぶわけはありませぬ。……ややが生まれたら、城に送りかえしましょう。それを父上は、お好きなようになされませ。ただわたしは、ひとまず十兵衛どのといっしょに、この城を去ります。わたしの願いはそればかり……」
彼女は、十兵衛の腕にすがり、なお獣心香に酔っているとしかみえない眼で見あげた。
「十兵衛どの、おききか、それゆえ、わたしはおまえさまにとって、願うてもない人質となる。父はわたしを見殺しにできぬのじゃ。わたしがそばにいるかぎり、おまえさまはぶじに城から出られるのじゃ。……さっ十兵衛どの、ゆこうではないかえ?」
思わず、ひかれて十兵衛が二、三歩あゆみかけたとき、死灰のような顔色でにらみつけていた芦名銅伯はさけんだ。
「沢庵、とめぬか!」
沢庵は坐《すわ》ったまま、眼を半眼にしてうごかない。
「とめぬか、とめぬなら……」
銅伯はおとねをついた。全裸のおとねはよろめいていって、三角壇の端にある巨大な青銅の蓮華鉢《れんげばち》にからくも身を支えた。
「ゆこう、十兵衛どの」
おゆらは、父を無視して十兵衛の手をひく。
「おとね、腕をあげよ」
銅伯もまた、おゆらと十兵衛を無視して、おとねの方へ足を踏み出し、腰の一刀に手をかけた。百八歳の老躯《ろうく》に、猛虎《もうこ》のごとき殺気がみなぎった。
蓮華鉢にすがっていたおとねが、魅入られたようにすうと片腕をあげた。それまで、死も恥もおそれず、あれほど芦名衆に抵抗してきたおとねが、まるで自己の意志を喪《うしな》ったように。
「いかん……」
結跏趺坐《けつかふざ》していた沢庵が、腰を浮かした。――女の腕を斬って蓮華鉢に血をそそぎ、油とともに燃えあがらせる。それが恐るべき芦名銅伯の幻法夢山彦の儀式のはじまりだということは、先日まざまざと見知らされていたからだ。
それは知らず、いままた銅伯がおとねに投げかけた眼光の呪縛《じゆばく》は見えなかったが、その背からもこの世のものならぬ妖気をおぼえて、
「……待て」
徒手|空拳《くうけん》の十兵衛は、ツ、ツとその方へ走りかけた。
「危い」
それより早く、おゆらは白い人魚みたいに銅伯のまえに身を泳がせていた。
「父上、およしなされまし」
すでになかば鞘《さや》ばしらせた銅伯の刀の柄《つか》に手をかける。
「――あっ、こやつ!」
銅伯がさけんだのは、おゆらの手がじぶんを制止するよりも、その刀を奪いとろうとする意志を感覚したからだ。背後にかけ寄る十兵衛の足音をきくと、さすがの彼も狼狽《ろうばい》と憤怒の黒炎に理性を失った。
「うぬ、それほどまでに」
身をゆすり、おゆらをはねとばすと、刃影は護摩木の炎にきらめきつつ、びゅっと前方の空間を裂いた。
――斬るつもりはなかった。それで威嚇して、おゆらの不逞《ふてい》にして無謀な意図をおしひしごうとしたのだ。愕然《がくぜん》としたのは、いったんはねのけられたおゆらが、鞭《むち》みたいにはねもどって、その刃《やいば》の下に身を置いたことであった。
「……あっ」
絶叫したのは、銅伯だ。刀はザックリ、おゆらの肩から乳房まで斬り下げた。同時に、銅伯の手から刀がはなれた。驚愕のゆえもあったが、刀がまるで鉛にでも切りこんだように、おゆらのからだそのものに奪いとられたからであった。
「おゆら!」
おゆらはとびずさった。――すでに獣心香に心狂っていたころから、髪はみだれ、姿は半裸にちかい。雪白の肌をいま黒髪と血潮に彩りながら、
「忍法、銅伯流。――なまり胴」
上眼づかいに、にっと笑った。そして、崩折れた。
うめいて銅伯が、ふたたび飛びかかろうとしたとき、そのあいだに十兵衛が猛然とはせ寄っている。
「……ゆ、ゆら」
芦名銅伯をふりかえりもせず、十兵衛は彼女を抱きあげた。
銅伯の腰には、なお小刀がある。それもまったく意に介しないかのごとく、十兵衛はおゆらをゆさぶったが、とっさに声もない。
何をいっていいのか、わからないのだ。魔香からさめたおゆらが、さめてもなおじぶんを恋するといったことすら心惑っているのに、さらにすすんで刀を奪うために、父に斬られるとは。
――いったい、これはいかなる女か?
「十兵衛どの、口を吸って」
まるでじぶんが斬られたことを知らないかのように、十兵衛の腕の中で、おゆらはあごをあげていった。
「……望みをかなえてやれ」
はじめて、沢庵がいった。
「口を吸ってやらねば、その女、妄執断ちがたく永劫《えいごう》無間地獄に堕《お》ちようぞ」
十兵衛は、じぶんの胸でわなないている女の死相を見た。死相の中で、眼ばかりがいのちの炎をもやしている。……十兵衛は、ふいにひしと抱きしめて、おゆらの唇を吸った。
沢庵の言葉のゆえではない。またあわれみの心からではない。彼は、死をかけた女の情熱に打たれたのだ。――おゆらの唇は、熱かった。その唇と溶け合って、この場合に、十兵衛はわれにもあらず忘我の一瞬に沈んだ。
――それを、かっと眼をむいたまま、芦名銅伯は立ちすくんでながめている。
なんたる娘か! 娘をおしひしごうとして、おしひしがれたのは彼の方であった。
「忍法、銅伯流、なまり胴」――いま、おゆらはたしかにそういった。それこそは銅伯が山野に雌伏していた修行時代、惨憺《さんたん》たる練磨の末の会得した超人的忍法だ。敵の刃が斬りこまれた刹那《せつな》、おのれの筋肉、血管、骨髄を鉛のごとく凝縮させて、その刃を奪う。――七本|槍《やり》衆ですらついに学び得なかったこの忍法を、いつ、いかにしておゆらが体得していたか? むろん、彼が教えたおぼえはない。
見よ、男から口をはなしたおゆらの頬から死の影はきえ、護摩壇の魔炎にもえるような顔色になって、ニンマリと笑んでいる。
「十兵衛どの、わたしのからだから刀をとって」
「…………」
「とれるはずです。わたしは父ではありません」
「…………」
「いいえ、大丈夫。わたしは死にはしません。父が殺しはしません。わたしの胎内には、会津四十万石と芦名一族の運命が宿っているのですから」
ふいに銅伯は、凄《すさま》じい狂憤の嵐にくるまれた。
おゆらは死ぬ。あの深傷《ふかで》で、生きるはずがない。「忍法、なまり胴」――しょせん、おゆらの場合は門前の小僧の真似にすぎない。この術は、おのれのように絶対死なぬという保証があってこそはじめて可能なものなのだ。おゆらは、会津四十万石と芦名一族の運命とともに、死の国へ飛び去ってゆく。――しかも、それはおれ自身の加えた刃のために!
「いいや、生かしてはおかぬ」
銅伯はしぼり出すようにうめき、どうと坐ると、おゆらの血だまりの上へつっ伏した。
それを銅伯の絶望からきた喪神だと見ていた沢庵も、つっ伏した銅伯の顔の下から、ピチャ……ピチャ……ピチャ……と、怪獣が何かをなめるような音がしはじめたのをきいて、ぎょっとした。
いや、たんに何かをなめている音ではない。ときどき、ゴクリ……ゴクリ……と、すすりこんでいるようだ。
(おゆらの血を飲んでいるのだ!)
と、気がつき、
(銅伯、狂ったか?)
と、凝然と見まもったとき、銅伯は顔をあげた。
「おゆら、会津四十万石とともに死ね」
そういった唇から鬚《ひげ》に血のしずくが垂れた。
そして彼は、ニューッと立ちあがった。
「沢庵、うぬも死ね、十兵衛も生かしてはおかぬ」
このとき十兵衛は、おゆらのからだから一刀をぬきとって、これまたぬっくと身を起した。ジロとみて、銅伯はいう。――
「が、そのまえにきけ、きょうは江戸寛永寺でいかなることが行なわれる日か知っておるか?」
「江戸の寛永寺で?」
この唐突な問いには、沢庵もとんきょうな声を発した。
「おお、わしは南光坊天海の行事については、一日も欠けることなく知っておる。きょうは天海が、将軍家に天台の血脈《けちみやく》を授ける大事の日じゃ」
「――あっ」
沢庵もがばと禅座のすねを解いていた。
「いまごろ、天海は将軍を迎えておる時刻かもしれぬ。あるいは、すでに将軍と対座しておるかも知れぬ。……いずれにせよ、天台相承の秘儀は行なわせぬ。うぬも坊主なら、血脈相承の大事が今日やめて、明日行なうといったものでないことは知っておるであろう……そもそもわしは、そのことをうぬに思い知らせて、おゆらを無事にかえすよう、十兵衛に説かせるつもりであった。しかし――見る通り、わが事おわんぬ、じゃ!」
血まみれの口から歯をむき出し、芦名銅伯の目は、これまた血光をはなっている。
「ゆらも死ね、沢庵も死ね、十兵衛も死ね。加藤家も会津四十万石も滅びよ。が、同時に天海もこの世ながらの地獄におとし、血脈相承をぶちこわし、将軍家にも徳川家にもたたってくれる。……すべて、沢庵、うぬのまいた種と思え」
銅伯は、腰の小刀をぬきはらった。
「十兵衛、相手になってやろう。芦名銅伯の剣法、やわか柳生流ごときにひけはとらぬぞ!」
全身から凄《すさま》じい剣気が放射したが、しかし銅伯はダラリと小刀を垂れたままだ。
「が、待て、いまわが夢山彦で、天海の大|苦患《くげん》をその目に見せてくれる」
不敵に腰をかがめて、もえる三角火炉の護摩木を一本ひろいあげ、十兵衛に背を見せて、青銅の蓮華鉢《れんげばち》の方へ歩み出した。
蓮華鉢の油に女の血をそそぎ、火を点じて幻法夢山彦がはじまる。――銅伯は、いま飲んだおゆらの血を吐いて、これを行なおうとしているのだ!
沢庵は、はじめて銅伯の恐るべき意図を感づいた。
「やるな、十兵衛!」
思わず絶叫したとき、銅伯はふりむいた。
「斬るか。銅伯が斬れるか、十兵衛。その刀を、わしにくれるか?」
床を蹴《け》ろうとした十兵衛は、はたと立ちすくんだ。銅伯の言葉だけに金縛りになったのではない。さしもの天才児たる彼を、見えない放射ではねのける銅伯の剣気――というより妖気《ようき》であった。
剣をとっていまだたたかわざるに、柳生十兵衛が生まれてはじめておぼえた敗北の意識であった。
「待て待て、天海の地獄相を現じておいて、その下で立ち合ってくれるわ」
悠々として、銅伯は背をむけて、蓮華鉢へ歩み寄る。おとねはすでに沢庵のうしろへ逃げているが、なお魂を失った人間のようにうずくまったままだ。
「おん、ばさら、ぎに、ねんばたな、そわか。……」
ひくく唱えつつ、銅伯は左腕の護摩木をふりかざした。青銅の鉢に顔をつき出したかと思うと、その口から、バシャバシャと赤い液体があふれおちた。
「南無、火天|閻魔王《えんまおう》、火の音を天鼓になさしめたまえ」
そういって、銅伯はもえる護摩木を鉢にさし入れた。そこから、ぼうっと赤い炎があがった。
「南無、大憤怒魔王、満天破法、十万の眷属《けんぞく》、八万の悪童子、こたびの夢幻法に加護候え――」
そのまま、銅伯はうごかなくなった。護摩木は蓮華鉢に投げこんだが、右手の小刀はダラリと垂れたまま、向うむきになって、つくねんと立っている。
「十兵衛。きゃつ……眠っておるのだ!」
と、沢庵がうめいた。
十兵衛は歯がみした。眠っている? それは信じられなかったが、眠っているにひとしい銅伯のうしろ姿だ。しかも、彼だけにはわかる。いま斬りつけても、彼の刃《やいば》はくろがね作りの金剛神に斬りこんだように、ただ刃を奪われるばかりであることを。
「き、斬れ」
炎の色が赤から青へ変った。
「いや、斬るな」
炎は青から暗紫色に変った。それはひかりを失い、もはや炎というより煙となってうずまき、雲のごとく祭壇をつつんでゆく。――十兵衛はその暗紫色の煙が、しだいにじぶんの脳髄をけぶらせてくるのをおぼえた。
沢庵は中腰になり、両手をよじって身もだえしている。もう何をいっているのか、じぶんでもわからない。銅伯を斬らねば、夢山彦によって、天海がそこに呼び出される。しかし、銅伯を斬れば、その痛苦が天海につたわる。――十兵衛の刃をこそ、銅伯は待っているのだ。
そして、妖煙の中に、正面の祭壇の鏡に、もうろうと天海僧正の姿が浮かび出した。
鏡にあらわれたのは、銅伯の夢だ。
銅伯は夢みつつ、右腕の一刀を逆にもちかえた。――刀は、まるで高速度撮影のようなゆるやかさで、上にあがってゆく。徐々に、徐々に、おのれの胸へ。
十兵衛の刃が来ない、と判断したとみるより、天海を苦しめるために夢山彦の眠りに入ったときは、寝返りするごとくおのれのからだを傷つける、という反射的行為のようであった。
「さ……さ……刺させてはならぬ、刺させては……」
沢庵の声は、すでに声ではない。喘鳴《ぜんめい》だ。しかし、銅伯の刀は何者の力を以《もつ》てしてもとまらぬ超絶の光芒《こうぼう》をはなって、胸へきっさきをあげてゆく。
その刀が、ふととまった。
このとき銅伯は耳に一つの声をきいた。
「法太郎よ。……」
地から湧《わ》くような声だ。余人にはきこえぬ。銅伯だけにきこえた。法太郎とは、彼の幼名であった。
「おなじ胎《はら》で、おなじ前世の夢をみて人となった芦名法太郎よ。……」
それは江戸の寛永寺にいる天海の声であった。そんなことがあり得ようか。みずから夢みつつ。芦名銅伯は悪夢にうなされているような思いがしている。
「もはや、わしはそなたに負けぬ。天海が負けたのは、可憐《かれん》な女たちのけなげな悲願じゃ。それに負けて天海は、将軍家への血脈相承の大儀をも捨てようとする。百八歳を以て、天海は死ぬぞ、悪逆芦名銅伯を死なすために。……わしの星が強いか、なんじの星が強いか?」
「……て、て、天海」
銅伯はひっ裂くように吼《ほ》え、かっと両眼を見ひらいた。
彼の夢はさめた。彼の夢山彦は破れた。――しかも、鏡中の天海は消えず、白髯《しろひげ》の中から、神秘な微笑を浮かべて、じっと彼を見下ろしている。そして、さめた銅伯の耳を、霹靂神《はたたがみ》のような声が鳴りわたった。
「今生で見た夢はちごうた。……さらば後世でまたおなじ夢を見よう……おなじ大地の胎に入ろうぞ……」
「銅伯っ」
声は現実のものであった。
「こちらをむけ!」
十兵衛の声だ。彼は突如として、芦名銅伯が八方破れのもろい姿となったのを見てとったのだ。
愕然《がくぜん》として、銅伯がふりかえる。その刀を氷片のごとくたたき折り、十兵衛の一刀は芦名銅伯の左肩から右脇腹にかけて斬り下げていた。
「う、うぬ、兵太郎め!」
驚愕の表情を火光にひんまげて、彼はどうとうち伏した。
斬った柳生十兵衛が、斬ったあとで、先刻までの銅伯のように茫乎《ぼうこ》としてつっ立っている。刃は彼の腕にある。
鉄人銅伯を豆腐のごとく斬った、ということにみずからおどろいたばかりではない。彼は、じぶんの一刀が銅伯を斬る寸前に、銅伯の肉体がすでに死んでいたのを感覚したのであった。
沢庵は鏡を見ていた。
妖煙はうすれ、天海の姿は消え失《う》せている。しかし、なお鏡に眼をそそいでいる沢庵の顔は蒼白《そうはく》であった。
沢庵には、銅伯のきいた天海の声はきこえなかった。彼の見たのは、天海の微笑した顔だけであった。微笑した天海の顔に、沢庵は本能的な恐怖をおぼえたのだ。
彼は眼をうつして、床の上を見た。銅伯は死んでいる。――おお、魔人芦名銅伯は死んでいる! 銅伯が死んだということは、何を意味するのか?
――天海僧正も死なれた!
この直感は、ほとんど沢庵をそこに喪神させんばかりであった。
しかし――いま見た鏡中の天海は、いつか見た鏡中の天海とはちがっていた。いま、僧正は莞爾《かんじ》と笑み、銅伯をからかっているのではないかとさえ見える顔であった。ひょっとすると――僧正が死なれたとするならば、それは銅伯が死んだからではなく、僧正が死なれたゆえに、銅伯が死んだのではないか?
いま、銅伯は断末魔の声をあげた。
「――う、うぬ、兵太郎め!」と。
そうだ、僧正は銅伯を殺すためにみずから死なれたのだ! しかし、なぜ銅伯を殺すために僧正が死なれたのか?
沢庵の脳裏には、江戸にやったお千絵、お笛のことが浮かんだ。僧正が死なれたのは、お千絵、お笛の話をきかれたゆえではないか!
おお、堀の娘! 会津に残った五人の女!――沢庵は卒然としておのれをとりもどして、十兵衛を見た。
「大手門外で堀の女たちが磔《はりつけ》になると申したな。十兵衛、こうはしておられぬ」
「おお」
いま銅伯を斬った刃が、その死のあとを追って走ったような奇怪な感覚に、これまた茫《ぼう》としていた十兵衛も、ふいに火に吹かれたようにわれにかえった。
「参ろう」
タタと走り出して、おゆらのからだに足がふれた。
「十兵衛さま」
おゆらのかすかな声が、足もとを這《は》った。彼女はまだ生きていた。しかし、わずかにふりあげた顔は、あきらかに断末魔だ。十兵衛の胸に痛みが走って、彼は立ちどまった。
「天命です。……」
と、いって、おゆらは微笑した。
「おゆきなされまし。……た、沢庵さま、わたしを、ち、父のところへ」
「わかった。十兵衛、ゆけ」
沢庵は手をふって、十兵衛をうながし、おゆらを銅伯のそばへ運んだ。
「わしは、おとねといっしょに雪地獄の女たちを救ってからゆく。おまえは、一刻もはやく大手門へ」
十兵衛は走って、扉の前に立った。
「あけろっ。一大事だ」
さけびながらふりかえると、ふたたび赤色にもどった蓮華鉢《れんげばち》の尖光《せんこう》を受けて、手をとりあってこときれた魔性の親娘《おやこ》の姿は、真紅の毫光《ごうこう》をはなっているように見えた。
首領銅伯が入っているので、むろん扉に閂《かんぬき》はさしてない。あけろ! という十兵衛の声をきいても、まさか絶対の信頼をおいている超人銅伯が討たれたとは想像もせず、芦名衆はその扉をひらいてのぞきこんだ。
「邪魔だ。どけ!」
驚愕してとびのくいとまもない。朦《もう》――と血の旋風が渦まいて、そこにいた五、六人の芦名衆すべてが左右にのけぞるのをふりかえりもせず、十兵衛は五、六歩走りかけたが、天守閣の外に馬のいななきをきくと、何思ったか、タタタとたちもどってきて、
「老師、拙者がここを出ますと、外からあわてて乱入して参りますぞ。拙者はもはやそれをかまってはおれませぬが、よろしいか?」
と、いった。
「いうにゃ及ぶ。心得たり」
と、沢庵は答えた。先刻までの意気消沈ぶりを思うと、滑稽《こつけい》なほど元気のいい声だ。
「わたしたちのことはかまわずとはやく大手門へゆけっ」
十兵衛はちょいとかがむと、足もとにまだのたうちまわっている芦名衆の大刀から小柄《こづか》を抜きとり、一刀ひっさげて、獅子王のごとく地上に馳《は》せのぼっていった。
天守閣の下に十兵衛は立った。
石段の下に三頭の馬と、十数人の陣笠《じんがさ》の芦名衆が待っているのが見えた。おそらく一頭に銅伯、一頭におゆら、そしてもう一頭に沢庵と十兵衛をゆわえつけて、大手前へむかうつもりであったろうか。大手門までには数町の距離がある。芦名衆たちは、みな遠いその門の方へ顔をむけて、その方向からの物音に耳をすませている様子であった。
十兵衛の右腕が音もなくあがった。
ふいに一頭の馬が竿立《さおだ》ちになり、狂ったように駈《か》け出した。その背につき刺さった一本の小柄に気がつくより、芦名衆たちがこの突発事に仰天して、あわてふためいてそれを追いにかかったとき、十兵衛は疾風《はやて》のごとく石段を馳せ下りて、そのまんなかあたりから宙を飛んで、他の一頭の馬の背に飛びのった。
「この馬、借りるぞ!」
声はもう数間の先にあった。
さきに狂奔した馬を追って走り出した芦名衆たちが、わけのわからぬ叫び声をあげてはせもどり、十兵衛の馬にとりすがろうとしたが、たちまちこれまた血けむりをあげてはねとばされた。
「大変だっ」
はや、広場の彼方へ猛疾駆してゆくその姿を、信じられぬ魔影のように見送った芦名衆は、すぐに、
「銅伯さまはどうなされたか?」
「おゆらどのは?」
一団となって、もつれあうように石段をかけのぼり、地底の石室へむかって走った。
扉はひらいていた。その外に、算をみだしてころがった同僚たちの屍体《したい》がある。石室の中には、これまた銅伯とおゆらの血まみれになって伏した姿が見える。
彼らがそこにまろびこんでいったとき、開いていた扉がしまった。
外側から閂をかけて、おとねの手をひいた沢庵は高笑いした。――が、すぐに、しーんと厳かな表情になってつぶやいた。
「――大手門には、おそらく城侍こぞって集っておろうに、剣侠児《けんきようじ》、まことに堀の女たちを救い得るか? ああ!」
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雲とへだつ
桜、さくら。
蒼空を吹雪のごとく流れ舞ってゆく桜の花びら。
その美しさを、美しいと見た者が何人あったろう。それが美しいだけに、下界にくりひろげられた地妖《ちよう》ともいうべき光景とくらべてむしろ吐気のするような天変と見た者が大半であったろう。
大手門から濠《ほり》を渡る橋がある。橋を渡ったところに床几《しようぎ》をかまえ、加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》は、多数の芦名《あしな》衆に護《まも》られて坐《すわ》っていたが、しきりに門の方をふりかえった。
「銅伯はまだこぬか」
しだいにイライラとした表情になって、
「おゆらはまだか」
彼がふきげんになってきたのは、ただその両人があらわれないからだけではない。すぐ前は広場になっていて、ここにおびただしい城侍たちが武装して徘徊《はいかい》しているが、その彼方に、巨大な円をえがいて竹矢来が組まれ、竹矢来の向うにはさらにおびただしい城下の庶民たちが雲集している。――その庶民たちの憎悪の眼が、いっせいにじぶんに集中しているのを感じてきたからであった。
あちらこちらに、高札が立っている。主家に弓ひく大逆の女どもの末路を見て、以後のみせしめとなせ、という布告で群衆はそれを見に集ってきたと思われるのだが、何百ともしれぬ眼は、その大逆の女たちよりじぶんの方にそそがれて、しかもことごとく憎しみのひかりをはなっているのだ。
ときどき、たまりかねたような声がとんだ。
「鬼っ」
「謀叛人《むほんにん》はまだ出るぞ!」
「いつまでも、果てしなく出るぞ!」
そして、竹矢来の向うから、石や、わらじや、馬糞《ばふん》がとんでくる。――むろん、明成のところまではとどかないが、広場にいる武士たちの胸や頭に、バラバラとあたる。
血相かえて、その方向へ走れば、そこの群衆だけはしんと静まりかえる。だれがわめいたか、だれが投げたかわからない。
きょうの刑戮《けいりく》は、芦名銅伯の案によるものだ。その光景を城下の領民どもにみせ、以《もつ》て四十万石の威を腹の底まで思い知らすべし、といったその当人の銅伯がまだ出てこない。――おれを責めるのは見当ちがいだなどと、しかし明成は思わない。彼にしてみれば、江戸以来、じぶんと、じぶんのもっとも頼りとする七本|槍《やり》衆及び芦名衆の受けた大惨禍をかえりみれば、まだあきたらないくらいなのだ。それを思い、これを思って逆上した彼の頭には、民衆の怒りと憎悪が意外であり、且《かつ》、腹もにえくりかえる思いであった。
「……ふとどき者めら、一人ものがすな」
と、ときどきそばに立つ漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》にいう。虹七郎はうなずく。
「心得ております。一人ものがしますまい」
――実際、矢来の外で反抗の言動を示した者は、すぐにその腕をとらえられた。とらえた者は、虚無僧風であったり、雲水であったり、あるいは町人風の男であったりしたが、まわりの者が愕然《がくぜん》として恐怖の眼で見まもるのを、じろっとにらみかえす眼は、あきらかに精悍《せいかん》な武士の眼であった。
密行の芦名衆である。
変装した芦名衆が群衆のあいだをあるきまわっていたのは、しかし、そんなふらちな町人百姓どもを捕えるためではない。芦名銅伯に命じられた通り、きょうの刑戮にまぬがれたお千絵《ちえ》、お笛の両人が、もしかしたら見物人のなかにまじって来ているのではないかと見て、その探索のためだ。
だから、女とみれば、横から、前から不遠慮にのぞきこむ。笠《かさ》をかぶっている女があると、無礼にもそれをはねのけたりする。――領民どものうちに、堀の女たちに心を寄せる者があることはあきらかにわかっているから、あるいはやぶれかぶれに乱入することもないとはいえない。それにそなえて、濠のむこうの塀の上には、鉄砲隊まで伏せるという周到さであったが、しかし、いままでのところ、見物人のうちに、お千絵の顔も、お笛の姿もないようであった。
「いま、しばしお待ち下されませい」
イライラする明成に、虹七郎はいった。
「銅伯老どのは、いまに参られる。――十兵衛、沢庵《たくあん》めに、かならず女どものざまを見せてやらねば気がすみませぬゆえ、いましばらく」
そして、虹七郎はそこをはなれて、つかつかと歩み出し、
「もういちど回せ!」
と、大声でさけんだ。
濠を背に、五本の磔柱《はりつけばしら》が立てられていた。あくまで明るい春光の下に、白蝋《はくろう》のようなひかりをはなって、それに大の字にくくりつけられているのは、五人の堀の女たちであった。
堀|主水《もんど》の弟、多賀井《たかい》又八郎の妻お沙和《さわ》。
おなじく弟、真鍋《まなべ》小兵衛の娘さくら。
主水の家来、稲葉《いなば》十三郎の妻お圭《けい》。
おなじく家来、金丸半作の妻お品。
おなじく家来、板倉不伝の娘お鳥。
それが千をこえる群衆の前に、一糸まとわぬ姿とされて、高々とさらされている。
いずれも、覚悟の眼をとじてはいるが、ひき縛られた両腕の下を春風が吹きそよいでゆくのを何としよう。乳房にとまる花びらの冷たさをどうしよう。――見物人たちが、城主明成に眼をそそいだのは、にくしみもさることながら、この無残な五人の女の姿をながく見るにたえかねたせいもあった。
ただ裸身を天日にさらされただけでもたえがたいのに、
「そうれ、回せ!」
虹七郎がさけぶと、磔柱の下に立っていた足軽たちが、その柱を回しはじめた。
縦に立てられた柱に、斜め十字に横木が組んである。その十字に、四肢をひらかれて女たちは縛りつけられているのだが、その十字形がグルグルと回るのだ。――虹七郎が「磔柱が二本できた」「三本できた」と、さもことごとしげにいったのは、こんな細工を頭に思い浮かべていたからであったろう。――
回るたびに、蒼空《そうくう》を背に、五人の女の裸身は、五つの白い花環《はなわ》のように回った。黒髪は垂れ下がり、巻きつき、女たちの肌は苦悶《くもん》に紅潮し、恥辱に蒼《あお》ざめた。
ちょうど、逆さになった五人の女をふりあおいで、
「あははは、見ろ見ろ、これぞ女人大逆の相!」
虹七郎と芦名衆は、天狗《てんぐ》のようにどっと哄笑《こうしよう》した。
「まだまだ、これくらいのことは序の口だ。これより痛めつけ、なぶりつくし、女としての恥のきわみともいうべき、さまざまの芸をさせてやるぞ」
蒼ずんだ顔に、むらさき色の舌を出し、唇をなめて、
「最後は、舌を切り、乳房を切り、逆さ磔にして股《また》から順々に裂いてくれる。銅伯さまがおいでになれば――」
そういって、大手門の方をふりかえった漆戸虹七郎は、それっきりだまりこんだ。
それまで、明成以下、だれもがいくども門をふりむいて銅伯を待ちかねていたのだが、このときしばらく、回る女体の磔柱に眼を奪われていたのである。――その大手門の前に、誰かが立っていた。
むろん、そこにも門番が二、三人いたはずだが、彼らではない。いや、彼らはそこにいる。そこにはいるが、門の下に折重なっている。――その男は向うむきになって、門の柱に何やら書いているのであった。
ふとい柱は鉄鋲《てつびよう》うって、黒ずんで――ふつうなら何を書こうと、この遠くから見えるはずもないが、このときばかりは、はっきりとわかった。わかるはずだ。彼は人間の生腕を筆として書いているのだ。
いつ門番たちは斬られたのだろう。こちらの無残な哄笑にまぎれて、悲鳴もきこえなかったのか、その男の筆としているのは、たしかに門番の生腕だ。いや、そんなことに気がつくよりも。
大きく二重の円をえがいて、その下に「蛇ノ目は一つ」と。――
鮮血のしずくをたらしていま書き終えたところを、漆戸虹七郎たちは目撃したのであった。
「…………」
だれひとりとして、声を発する者もない。
信じられないのだ。じぶんの眼を疑わずにはいられないのだ。まるで氷結したような虹七郎や芦名衆や城侍たちの様子に、群衆までが息をのんで、その方を見まもった。
男は、生腕をなげすて、こちらをむいた。そのまま、スタスタと橋をわたってくる。
「……やっ?」
はじめて、どこかで声があがった。
塀の上で、銃口をならべていた鉄砲隊であった。城の内部から出て来たその男に、いま彼らは気がついたのだ。
彼らもまた城門外の広場の凄艶《せいえん》な見世物に眼を吸われていたとはいえ、内側からその男が出てくるとはまったく予想もしていなかったからこそ、その姿に幻影でもみるような驚愕をおぼえたのは当然であろう。
「き……きゃつだっ」
「や、や、柳生《やぎゆう》十兵衛!」
はや、血のしたたる一刀をさげて、橋の半ばまで出て来た十兵衛は、ふりむいて、塀の上にみだれる鉄砲のむれを見あげて、
「銅伯、おゆらはすでに捕えた。うぬらの銃声とともに、沢庵さまが一刺しに刺し殺す合図ゆえ、覚悟して射てよ!」
と、さけんだ。
すでに遠くから鉄砲隊の影を見て、馬を乗り捨て、足音をしのばせて大手門まで出てきたものであろう。――あっとうろたえる銃口をふりかえりもせず、十兵衛は橋を走り出した。
橋のたもとにいた明成を、どっと芦名衆がとりかこんだとき、十兵衛は欄干の上にとびあがり、あと一間で渡りきるとみえたとき、濠《ほり》をななめに広場のふちへ宙を飛んでいた。
「えやあっ――」
つん裂くような絶叫とともに、そこに立っていた漆戸虹七郎の隻腕の肘《ひじ》がはねて、長剣がうなりを発していた。
斬ったと思った。濠の水へ、ふたつになって落ちていく敵の影を、彼は幻覚したほどであった。
しかし、彼の真っ向からなぎつけた長刀は、飛んでくる十兵衛とのあいだにさし出していた満開の桜の二、三枝のみを切って、濠と地にみだれ落ちたのはその枝ばかり。――十兵衛は、信じられぬほどの跳躍力をもって、濠のふちのその桜の大樹のうしろに、すっくと立っていた。
一瞬、瞳《め》をぬかれたような表情で、茫乎《ぼうこ》と立つ虹七郎に、
「せくことはあるまい、漆戸虹七郎」
花のかげで、柳生十兵衛は白い歯を見せた。
「時が来たのだ。いつかおまえと話したことがあったな。いちど、是非ともおまえと人まじりせず刃《やいば》を交してみたいものと――その日、その時がいま来たと思え」
「おお――」
漆戸虹七郎の頬に、れいの酔ったような血がのぼった。
「おれも、それを夢みた」
「やってみるか?」
虹七郎はニヤリと笑ってうなずいた。負け惜しみではない。――あきらかに彼の全身からは、彼が一種の陶酔状態に移りつつあるかげろうのようなぶきみな殺気がたちのぼりはじめていた。
「やあ、寄るな。寄ってくれな。しばらく待て」
ふいにふりむいて、うしろにどよめきかけた芦名衆たちを制した声はどこかもつれ、それからかがみこんだ動作も蛇のようにしなやかで、まるで酔った人間かと思われた。
芦名衆は静止した。虹七郎の声のせいではなく、彼が、地におちた桜の一枝をひろいあげるのを見たからだ。
人を斬るとき、手ぢかに花があれば必ずその花をくわえる漆戸虹七郎。――また、花をくわえれば、かならず人を斬らずにはおかぬ隻腕の剣鬼。
その儀式を思い出すと同時に、芦名衆は、彼に対して絶対の信頼をおぼえるというより、何かこれまた酔ったような眼つきをみんなした。
虹七郎は、花をくわえた。その長剣がスイと前に出た。
桜の大樹の下に立つ柳生十兵衛の剣尖《せんけん》があがった。
それっきり、二本の刀身は空中に嵌《は》めこまれたようにうごかない。ふたりのからだも動かない。――いや、それを見まもる何百何千という城侍や領民たちもうごかない。
うごくのは、散る花と、天守閣にかかる春の白雲だけであった。
漆戸虹七郎にしてみれば。――
さっき十兵衛がいった。――銅伯とおゆらはすでに捕えた。もし鉄砲隊が鉄砲を射てば、それを合図に沢庵がふたりを刺し殺す、云々というが信じられない。あの銅伯が討たれたり、捕えられたりするとは、信じられないが、げんに十兵衛は悠々と大手門を出てきて眼前にいる。いったい、いかなる天変地異が起ったのか、不可解な雲のごとくその全身に渦まいていた。
柳生十兵衛にしてみれば。――
五人の女を救う一念でまっしぐらに出て来たものの、城門の外には何百人ともしれぬ敵がひしめいている。よしやこの虹七郎をたおしたところで、じぶんはもとより五人の女が無事にここを切りぬけられようとは思われない。とっさに鉄砲隊を押えはしたが、たったいま沢庵とおとねがフラフラ迷い出してくれば、数十|梃《ちよう》の銃口が火を吹くことは眼にみえている。
しかし、ふたりの疑惑や危惧《きぐ》は、ただ刃をまじえるまでの迷いであった。
いま、虹七郎は銅伯を忘れ、十兵衛は五人の女を忘れた。彼らの全身全霊は、それぞれの刀身に凝った。
両人ともに、この一年の攻防は、ただこの一瞬のためにあったような気がしたのである。むしろ陶酔にちかい満足感は、一つの道の極致に到達した人間のみが知るものであった。
が、もとより凝視し合うふたりのびんの毛はそそけ立ち、満面からは血の気がひいて、生きながらすでに死相を呈している。
ふたりの視覚、聴覚――あらゆる感覚からは、周囲の人間のむれも、花も雲もすべて消えうせた。いや、その人間のむれも、陶酔と死相の織りなす精のような両剣士に魂を奪われ、この刻々、ふぬけのようになって立ちつくしている。
寂寞《せきばく》たる時がながれた。
ただ一間の間隔をおいて静止した二つの剣尖に、春光がえがく妖《あや》しい二つの光芒《こうぼう》だけがあった。
その二つの光芒が、チカッとはねた。人々の眼には、光の輪がひろがって交錯したのが灼《や》きついた。その彼方にながれるようにとびちがった姿は、幻影のごとくとらえがたいものに見えたのである。
はっと眼をこらしたとき、漆戸虹七郎と柳生十兵衛は、依然として刃を青眼にかまえたまま相対していた。ただ、その両者の位置が入れかわっている。
磔柱《はりつけばしら》にちかく虹七郎、それと向いあって十兵衛が立っていたのだが、それが完全に逆になっていた。
「……か、勝った、虹七郎!」
息をのんでいた加藤明成がうめいた。
柳生十兵衛の額から右眼を通り右頬にかけて、糸よりほそいすじがはしったが、このときみるみる血のしずくとなって垂れはじめたのである。――向うむきになった虹七郎は、依然として青眼に長刀をのばしていたが、どこにも斬られた様子はない。
二条、三条、血のすじをひきながら、十兵衛がニヤリと白い歯をみせた。
「おたがいに、一つずつのものを失ったが、虹七郎、おれはないものを失い、おまえはあるものを失ったな」
つぶやくような声であったので、むろん遠い明成たちにはきこえない。
ただ彼らは、十兵衛がクルリとふりむいて、磔柱の方へ馳《は》せ寄るのを見た。
五本ならんだうち、一番端の十の字をまわし、稲妻のような早さで、四肢を縛った縄を切る。――待つ間も惜しととびおりるさくらを、ふりかえりもせず十兵衛は、次のお品の磔柱に走る。
それを見ながら、漆戸虹七郎は何をしているのか?
十兵衛の傍若無人の行動もさることながら、その虹七郎に、明成たちはかっと眼をむいていた。――青眼にかまえたままの虹七郎の長剣が、しだいに浮動しはじめた。剣尖が下がりかけては、またわずかにあがる。それだけの動作が、いま虹七郎に千貫の物をあげるより大苦闘であるらしく、そのひたいにあぶら汗がひかり出したが、それは明成たちに見えない。
「虹七郎、何をしておるか?」
夢魔でも見るような眼で、明成がさけんだ。
すでに二本めの磔柱からお品を切りはなしていた柳生十兵衛が、ふりむいて答えた。
「おれとの勝負はすでに終った! あと虹七郎には、この五人の女と立ち合う用がある。――断っておくが、相手は女だ。名を惜しむ武士ならば、卑怯《ひきよう》な鉄砲などを使って笑われるな」
と、制しておいて、どっと同意のどよめきをあげる群衆の方へ顔をむけて、さらに大声をはりあげた。
「皆の衆! 会津《あいづ》に住むおひとならば、ことごとくこの五人の女と、加藤明成、また芦名衆とのいきさつを御存じであろう。いまこの女人ら、惨苦の春秋を経て、ここに父母の敵を討とうとする。――しかも、見る通り、刀がない。一片の侠心《きようしん》あらば、しばらく刀をお貸し給わりたい――」
声のまだ終らないうちに、竹矢来をこえて、五、六本の刀が鞘《さや》ごめに放りこまれた。
「とめろ! 刀をやるな!」
明成の愕然《がくぜん》たるさけびに、芦名衆がどっと駈《か》け出したが、その頭上に、こんどは抜身のままの刀身が、十何本となく流星のようにおちてきて、彼らにたたらを踏ませた。ふつうの力では重い刀などとばない距離だが、それを越える民衆の義憤の投擲《とうてき》であった。
「さくら、お品、刀を拾って、お圭とお沙和とお鳥を助けろ」
十兵衛は命じて、馳せもどり、虹七郎と芦名衆のあいだに仁王立ちになった。
「それ以上はやらぬ。死にたい奴だけ、参れ」
このとき、漆戸虹七郎の刀は、ダラリと下に垂れていた。長剣なので、きっさきが地について、わずかにななめに支えられてはいるが、その刀身をつたわる赤いものがある。……その隻腕の袖《そで》ぐちから、手くびをつたい、鍔《つば》をつたわってくる血潮であった。
「……くっ、くっ」
いままで、みずからその血を信じ得ないように、あぶら汗をしたたらせて刀をあげようと苦闘していた虹七郎は、いま五本の磔柱から五人の女がはなれて散ったのを見た。
漆戸虹七郎は、悪夢からさめたように両眼を見ひらいた。前からは、春の日に雪白の裸身をひからせた五人の女が、それぞれ一刀をひっさげて、五匹の女豹《めひよう》のようにヒタヒタと寄ってくる。ふりかえれば、十兵衛の血笑がうしろをふさいでいる。
虹七郎の口から、桜の枝がおちた。――花をおとしたことは、彼の誇りをすてたことであった。
「鉄砲隊――」
のどをあげて絶叫した。
「かまわぬ、射て」
濠《ほり》の向うの塀上の影が、鉄砲をかまえていっせいに立ちあがった。――ふりむいて、十兵衛は、「卑怯っ」とさけんだ。同士討ちをおそれて、すぐそこまで殺到していた芦名衆が、どどっと逃げもどる。
虹七郎は歯をむき出した。
「おれにあたってもよい。おれごめに、十兵衛も女も射ち殺せ、射て!」
しかし、銃声はあがらなかった。塀上の影はのびあがって、町の方をながめているようだ。
「…………?」
ただならぬ気配に、明成や芦名衆が、惑乱した表情になってその方をながめたとき、竹矢来の向うの群衆が、どっと崩れるのが見えた。――はじめ、ふとどきな抵抗をみせた領民を、密行の芦名衆が逮捕するさわぎかと思ったのである。
しかし、領民たちは混乱しつつも、みずから左右に、何者かに道をひらいたようであった。その道を進んで来た、あるものを見て、加藤家の家来たちはあっとさけんだ。
まっさきに、二つの先箱をかついだ奴《やつこ》が二人歩いてきた。その先箱に燦《さん》とひかる黄金の紋に仰天したのだ。鉄砲隊がひきがねをひく指がしびれたのも、むべなるかな。
「葵《あおい》!」
「葵の御紋だ!」
――その行列が、ここに入ってくるまで、どうして気がつかなかったのか。
会津若松《あいづわかまつ》の町は、いまでもそうだが、城下の通りが諸所でわざと道幅だけずれて、くいちがい、縦の見通しがきかなくなっている。むろん、この町が戦火に襲われたとき、敵の侵入をふせぐためで、蒲生氏郷《がもううじさと》の戦略的創案になるものだ。――そのため、その行列が忽然《こつぜん》と出現したようにみえたのだが、そればかりではなく、国境をこえて会津領に入ってきたときから、関所や番所の役人をすべておさえ、彼らが先行して注進することを、きびしく制止されたことが、あとになってわかったのである。
先箱につづいて歩いてきた十人ばかりの武士が、いっせいに抜刀すると、藁《わら》でも切るように竹矢来を斬りはらった。
「……何だ?」
「あまりといえば、――」
その傍若無人さに、ちかくにいた芦名衆がわれにかえって駈け寄るのを、
「お先をけがすか、無礼者め」
血けむりとともに、ただ一太刀で斬り捨てた。――それぞれ、腕におぼえのある芦名衆のはずなのに、それこそ大根でも斬るような凄《すさま》じい手練ぞろいの武士たちであった。
柳生十兵衛は、眼を見はった。
その武士たちの手練と行動よりさきに、その顔をみて愕然としたのである。
「木村助九郎……出淵平兵衛……庄田喜左衛門……村田与三……狭川新左衛門……」
以下、いわゆる柳門十哲といわれる剣人たちのなつかしい、きびしい顔がそこにあった。しかし彼らはいずれもふだん大和《やまと》国柳生谷に住み、江戸に出府するのも珍しい面々なのに、それが会津に現われるとは?
つづいて、乗物が四|梃《ちよう》、竹矢来を越えて入ってきた。あと後箱の奴が二人ついているばかり。――行列の人数はたったそれだけであったが、乗物に誰が乗っているにせよ、しかし世にこれほど強力無比の護衛役はあるまい。
「……あれが、漆戸虹七郎と申す奴か?」
先頭の駕篭《かご》の中で、しゃがれた声がした。
「お千絵。……お笛、出い。まず敵を討て」
つづいて二梃目、三梃目の駕篭の引戸があけられると、中から、ふたりの娘が風鳥のように飛び出した。華麗な袖をすでにたすきで結んでいるが、江戸にいっていた堀主水の娘お千絵とその婢《はしため》お笛だ。
「おお、間にあった!」
「神御照覧!」
ふたりは刀をぬきはらって、疾風のように馳《は》せ寄っている――こちらの五人の女もわれにかえった。
蒼《あお》い虚空に花吹雪がみだれて、それが一陣の花つむじとなって地に巻いたとき、前後から七本の刀につらぬかれてのけぞった漆戸虹七郎の断末魔の姿があった。
その光景よりも、十兵衛は先頭の乗物から出てきた老武士の姿をみて、肝をつぶしている。
「……父上」
と、さけんだ。
将軍家剣法師範の柳生|但馬守《たじまのかみ》は、伜《せがれ》の十兵衛をジロとこわい顔で見ただけで、すぐに橋のたもとに気死したようにわだかまっている加藤明成と芦名衆の一団に眼をうつして、
「将軍家御名代として――」
と、勁烈《けいれつ》な声で呼ばわった。
「加藤式部少輔問罪のため、わざわざ天樹院さま会津にまかり越されてござるぞ。つつしんでお迎え奉れ!」
最後の乗物から、しずかに千姫さまがあらわれた。純白の綸子《りんず》の裲襠《うちかけ》を地にひいて、白鷺《しらさぎ》のような姿であった。
その凛然《りんぜん》として清麗な威にうたれて、ベタベタと城侍たちが土下座した中に、ひとりまろび出して来たものがある。芦名衆の手をふりはらった加藤明成であった。
「明成を問罪?」
と、絶叫した。眼がつりあがり、のどをひきつって、
「問罪とは、堀一族を誅戮《ちゆうりく》のことか? 主人に弓ひいて退去した堀主水成敗の儀は、すでに御公儀の御裁許をたまわったことでござる。その仕置を敵呼ばわりして、なお主家に仇《あだ》なす女狐どもを刑戮するが何の罪。その罪を問うと仰せあるならば、天下の諸大名は何によって領内の仕置をなすべきか、いかに将軍家御名代なりとも、御法にはずれたお裁きは、明成断じてお受け仕《つかまつ》りませぬぞ!」
苦鳴にちかい抗争の声を、どこを吹く風かというように空の雲を仰いでいる千姫さまの横顔は、まるで氷を彫ったもののように見えた。
それに気がついて、明成が一瞬唇を凍らせたとき、
「御上意!」
透きとおるような声で千姫はいった。われにもあらず加藤明成は大地に両腕をついている。
「その方儀――鎌倉松岡山東慶総持禅寺は、男子禁制の寺法たるをわきまえず、自分の宿意を以て、その山門を破り、ほしいままに尼僧を殺害に及び候始末、重々ふとどきに思召《おぼしめ》され候」
「やっ?」
のどの奥で、明成はうめいた。まったく意外な罪案だ。彼は堀一族成敗のことだけで脳中ふくれあがり、尼寺の一件はその後まったく念頭になかった。
その動顛《どうてん》ぶりを、千姫は森厳な眼で見すえて、
「これによって領地召しあげられ、その方には石見《いわみ》国に配流仰せつけらるるもの也」
まるで切腹でも命じられたように、がばと土に面をうずめてしまった明成に眼もくれず、千姫はしずかに歩み出した。
もはや人影のない磔柱《はりつけばしら》の下に、七人の女はうずくまっていた。お千絵とお笛はともかく、あとの五人は一糸まとわない裸身だから、まぶしいばかりの春の日光の下に、消え入りたげにみえる。その雪の肌は、しかし血と花に彩られ、この世のものならぬ妖美《ようび》な姿に見えた。
「切腹仰せつけられなんだことを不満に思うであろうが」
と、千姫はひくい声でいった。
「配流のさきは、この世ながらの地獄じゃ」
千姫の頬には、凄艶《せいえん》な片えくぼが彫られた。
「それに、かんがえてみれば、あの男にとっては、生きることが、死ぬことよりもこれから地獄になろう。その手はじめに、石見国へ送られるとき、道中何百里、首に縄をかけて曳《ひ》かれてゆくとやら」
そのとき、どこかでしゃがれた唄声《うたごえ》がきこえた。
「十とや
東慶尼寺、何万石
何万石
四十万石つぶしたなら五十万石
五十万石」
それにつづいて、おなじ手鞠唄《てまりうた》をうたう女声の合唱がわき起った。
大手門に沢庵があらわれて、手拍子をうっている。ヒョコヒョコと尻《しり》をふり、まるで雲水の案山子《かかし》が踊っているようだ。それにあわせてうたっているのは、おとねと雪地獄から救い出された女たちであった。
唄声は水のようにながれ、波のごとくひろがる。節回しはのどかで哀調をおびているが、その文句は黙示録のように恐ろしい。――ひれ伏した芦名衆たちは耳を覆って身もだえしたが、いまや女声の合唱は、波涛《はとう》となって彼らをつつんだ。
但馬守に叱咤《しつた》されて、加藤明成は鞭《むち》をあてられたようにはねあがった。しかしその眼は、すでに狂った人間みたいに虚《うつ》ろであった。
「ところで、七本|槍《やり》とやらは?」
と、きく千姫さまに、
「ことごとく討ち果たしてござる」
と、答えたのは柳生十兵衛だ。快然たり――といいたいところだが、十兵衛は、なんだか、おちつかない顔をしていた。
「おお、さすがは十兵衛よの、けれど、わたしがくるまでに、間に合うか、合わぬか、道中どれほど気をもんだことか。――それに、芦名銅伯とやらいう化物はいかがいたした?」
「はっ、それもどうやら」
十兵衛は、うわの空であった。
父の但馬守|宗矩《むねのり》が、じっとこちらをにらみつけていたからで、天樹院さまの相手になってその視線をかわそうとしたのだが――柳門十哲にとりかこまれて、明成が大手門の方へ曳かれてゆくのを見送ると、但馬はやはりつかつかとこちらへやって来た。
「但馬」
明成といれちがいに、踊りながら橋を渡って来た沢庵が、あわてて、
「伜を叱《しか》るな。おまえには叱る資格がない。勘当した伜ではないか」
と、機先を制した。但馬はむずかしい表情のまま、
「和尚、このたび但馬が天樹院さまのおん供申して参ったは、和尚が会津に入られたとはじめてきいて、おどろいて来たのでござるぞ。――無頼の十兵衛など、どうなろうと知ったことではないが、ただ和尚が心配でならなんだのでござる。最初より大難と知れておる国へ、禅師を道づれにいたすとは、なんたるむちゃな奴かと――」
「ちがう、ちがう、この一件は、わしが十兵衛をひきずりこんだことじゃよ」
「いや、それでも十兵衛がわるい。もうろくした老人にひきずりこまれるとは」
「もうろくした老人? な、何をぬかす。もうろくしておるのはどっちじゃ。たった一万石もろうて諸事しゃちほこばっている奴の方が、よっぽどぼけておるわ。――一片の義心を抱き、ただ一剣を抱いて、屍山《しざん》血河の修羅の世界へ、わきめもふらず馳《は》せむかう――しかも女のためというところがうれしい。伜の方が、はるかに話せる。……それに、但馬、かけねのないところをいうがの」
「何でござる」
「命のやりとりでは、伜の方がおやじよりだいぶ強いのじゃないか」
「ばかなことを――十兵衛の剣は、ただ殺人剣にすぎぬ。捨ておけば、また何をし出かすかわからぬ。いったい、どうしてくれようか」
「簡単なことよ。勘当を解いてやれ、この城で、牢《ろう》まで入って苦労したものを」
「おお、では勘当をといて、もういちど膝下《しつか》において、きびしくし修行させ直そうか。――これ十兵衛、どこへゆく?」
春風の下の、師たる快僧と、剣聖たる父との問答の隙をぬすんで、そっと逃げ出そうとしていた十兵衛は、忍び足をとめられて、閉口しきった顔をした。
「はっ、その、ごらんのごとく、女人は裸形、で、その衣服でも捜してきてやろうと――」
「何、ああそうか、しかしそれはお笛にでもたのめ、おまえは父がきっと窮命してやらねばならん。おお、この城に牢屋があるといわれたな」
――さっき過ぎたのは、福良《ふくら》の宿場であったから、若松から南東へ、もう七里ちかくは離れたろうか。
北側の山がきれるたびに、明るい藍色《あいいろ》をした猪苗代湖《いなわしろこ》が望まれた。山桜の奥で、鴬が鳴く。みどりの風をかすめて、蝶《ちよう》が舞う。
鞭《むち》もかろく、快馬をとばしてきた柳生十兵衛が、この春色に酔って、思わずその鞭を休めたとき、はるかうしろから追ってくる鉄蹄《てつてい》のひびきをきいた。――一騎ではない。たしかに七、八騎だ。
思わず全身の毛穴がしまるのをおぼえたのは、この一年の死闘からきた条件反射だが、すぐに、そんなはずはない、と苦笑して、ふりむいた。
しかし、十兵衛の隻眼は大きくひろがった。
もう一方の眼は――前は糸のようにとじられたままであったのに、いまはそれを縦に縫うかすかな刀痕《とうこん》がある。漆戸虹七郎の必殺剣が、最後の死力をそこにとどめた名残りであった。
追ってきたのは、七人の女だ。いや、もうひとり、馬のくびにしがみつくようにした女――おとねもいる。八騎であった。
「十兵衛さまーっ」
「いつのまにか、おひとりで」
「わたしたちにも知らさないで」
「ひどい! ひどいお方!」
春風が、ふいに火のような熱さに変わって、十兵衛の面を吹いた。
「いや、そなたたちに別れの挨拶《あいさつ》もせんで、黙って城から逃げ出したのはおれがわるい。しかし、じっとしておると、ほんとに父に牢に入れられそうでな」
と、十兵衛は迎えて、白い歯をみせた。
「鶴ケ城の石牢はこわい。懲りたよ。もういちどあんな目にあわされてはたまらんと思って、天樹院さまや沢庵さまや父が何やらむずかしい相談をなされておる隙に、いのちからがら逐電《ちくてん》してきた。ゆるせ、ゆるせ」
「ゆるせ、なんて――わたしたちこそ、どのように十兵衛さまにお礼を申しあげたらよいか……」
十兵衛の馬をとりかこみ、左右を進む八騎から、哀怨《あいえん》な、そのくせ情熱的な十六の瞳《ひとみ》がからみつく。――受けとめる眼は、たった一つだ。
「礼はいらん。おれは面白かった。それより、そなたら、女人の身にはたえられぬほどの苦難にあわせたのう。しかし、会津はもはや平和にかえった。加藤に代って、こんど会津入りなさるは、将軍家の弟君、保科肥後守《ほしなひごのかみ》さまときく。保科|正之《まさゆき》さまと申せば、天下に知られた御名君じゃ。会津は文字通り、桃源境となるだろう。……そなたらの幸せを、十兵衛祈っておるぞ」
十兵衛は、ゆくてを仰いだ。白河へゆく勢至峠はもう白雲の下に、青い影を浮かべていた。馬は麓《ふもと》の三代村の辻《つじ》にさしかかっていた。
彼は左右を見まわした。
「これから道は上る。もう見送りはここらでよかろう」
「いいえ、わたしたちは、みんな江戸までお供いたします」
「江戸へ?」
十兵衛の仰天した表情と、八人の女の哀しげな顔が対照的であった。
「あの……わたしたちがお供したら、いけないでしょうか」
「いけないとは申さぬが……、実は、おれは、この三代村から猪苗代湖へ出て、湖の東の岸をたどって、壷《つぼ》下ろしの関所を越え、さらに北へ――陸奥《むつ》へゆこうと思っていたからだ」
「まっ、江戸へはおゆきにならないのですか」
「江戸へはやがて父が帰ってくる。ろくなことはない――それより、そなたら、どうして江戸へ?」
「わたしたちは、江戸よりまだ遠い鎌倉へゆこうと思っていたのでございます」
と、お千絵がいって、うなだれた。
「みなさま、鎌倉の東慶寺へお入りになるおつもりとやら――承わって、わたしもお供させていただこうと思いたちました」
と、おとねがいった。
「みな、尼寺へ?」
十兵衛は、いよいよめんくらった。
「なぜ?」
「菩提《ぼだい》を弔ってやりたいおひとが多いのでございます。まず、滅び失《う》せた堀一族」
と、お圭がいう。
「この勢至峠の向う――会津|越後《えちご》道で、去年の秋、わたしたちを会津に入れてくれるため御自分を殺された多聞坊さま、雲林坊さま」
と、お鳥がいう。
「またこの三代村から湖へかけて、この春先、わたしたちを江戸へのがすために死んでゆかれた五人の坊さま」
と、お笛がいう。
「それから、江戸寛永寺の天海僧正さま。……沢庵さまの仰せでは、僧正さまもわたしたちのために、みずから死なれたに相違ないとのこと……してみれば、わたしたちがお願いしたことは、そのときは存ぜぬことながら、僧正さまに死んで下さるようにと申したも同然……」
と、お千絵は声をのんだ。
十兵衛は春風の中に片掌《かたて》をあげておがんだが、黙って馬を歩ませ、
「……みな、尼になるか?」
と、深い声でいった。
が、じいっと見まわして、八つの顔に涙がひかっているのを見ると、決然と手綱をとめて、
「では、おれとはここで別れよう」
「十兵衛さま、ほんとうに北へおゆきになるのですか。陸奥に何があるのでございます?」
「何があるかわからぬ。何か、あってほしいな」
そして、笑った。
「どうせ、おれのゆくところだ。そこもまた屍山血河の修羅場かもしれぬ」
何かを断ちきるように、馬に鞭をあてた。
「では、さらばだ!」
あとをふりかえらず、疾駆してゆく影の彼方に、波涛《はとう》のごとくひかっている北国の積乱雲があった。
馬上で、八人の女はうなだれた。
「莫妄想《まくもうぞう》――喝《かつ》!」
さけびつつ、北へ、北へ、一騎馬をとばせてゆく柳生十兵衛の胸に、どうしてもふりきれぬいまひとつの顔があった。彼はつぶやいた。
「もうひとり――おれだけが弔ってやらねばならぬ女がある」
本作品中には、今日では差別表現として好ましくない用語が使用されていますが、歴史的時代を背景にしていること、著者が故人であることを考慮し、最低限の改変にとどめました。
[#地付き]【編集部】
本書は、昭和四十九年十二月に角川文庫より刊行された『柳生忍法帖(下)』を底本としました。
角川文庫『柳生忍法帖』平成15年3月25日初版発行