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柳生忍法帖(上)
山田風太郎
目 次
破戒門
堀主水一件
七凶槍
修羅の巷へ
蛇ノ目は七つ
髯を生やした京人形
十兵衛先生
まんじ飛び
般若組
地獄の花嫁
水の墓場
晒 す
江戸土産
北帰行
僧 正
女人袈裟
[#改ページ]
破戒門
寛永《かんえい》十九年の春、砂けむりをあげて東海道をおし下ってゆく異様な大行列が、沿道の人びとの眼を見はらせた。
総勢は百人以上にものぼるであろうか。大部分は長槍《ながやり》を空にたてつらねた足軽だが、馬にのっている武士が七人ある。その七騎は、先頭から後尾ちかくまでほぼおなじ間隔をおいていたが、そのあいだに歩かされている人間たちをのぞきこんで、人びとはぎょっとした。
両側をつつんでいる足軽たちも、べつにかくそうとしてはいない。一頭の馬につき、ちょうど三人ずつ、墨染めの衣をつけた僧が二十一人、文字通り数珠《じゆず》つなぎに縛られて、よろめきながら曳《ひ》かれてゆくのであった。しかも、ただの縛り方ではない、両腕はうしろにくくりあげられているが、綱はそれぞれ輪にして、僧の首にかけてある。逃げることはおろか、遅れることも、転倒することさえもゆるされない。
「はやくあるけ」
「それ、ひょろつくと、うしろのおいぼれ坊主の首がしまるぞ」
間断なく、哀れな僧たちの腰や背に槍の石突きが飛ぶ。僧たちの衣はぼろぼろに裂け、はだしの足は血まみれになっている。
が、二十一人の僧は、砂ほこりを汗と涙で塗って、人間ではないもののような顔色になりながら、いずれも昂然《こうぜん》とあたまをあげて歩こうとしていた。みれば白いひげの老僧や、十から十二、三の小坊主も数人まじえているというのに。
「まあ、何という無残な――」
「まるで犬か牛のように」
「しかも坊さまを」
両腕をねじりあわせて、この恐ろしい行列を見物する人びとは、そのうち、だれからともなく、彼らが百里以上もの西の高野山から送られてきたのだときいて、さらに身の毛をよだてた。そのうえ、人びとをなお恐怖させたのは、行列の先頭に三匹の小牛のような白い秋田犬が、目をひからせてノソノソとあるいていることであった。
「いったい、何をしたのじゃ」
「あれは元来坊さまでなく、高野山ににげこんだお武家らしい」
「なんでも会津《あいづ》の殿様にむほんをおこした一門の衆だとよ」
「なに、むほん――それでは――」
そこまできくと人びとは息をのみ、ざわめきをやめて、その一行を見送るのであった。
行列は藤沢《ふじさわ》の宿場まできた。これから江戸まで十二里十二丁。
藤沢につくすこしまえから、先頭の馬にのっていた猿に似た小柄な武士が、うしろにひく三人の僧の綱を足軽に託し、ひとり後方へ馬を走らせていって、あと六人の騎馬侍とつぎつぎに何やら話し合い、打ち合わせがすんだとみえてかけもどってきていたが、藤沢にはいると、江戸へゆく遊行坂《ゆぎようざか》を見すてて、急に南に折れて進み出したのである。彼のうごくとおりに、三匹の巨大な犬が従う。
「具足丈之進《ぐそくじようのしん》、どこへゆく」
綱で首をひかれながら、ひとりの僧がいぶかしげに声をかけた。
「江戸へはゆかぬのか」
猿面の武士はふりむいて、にやりと歯をむき出していった。
「江戸へゆくまえに、鎌倉《かまくら》のおんな寺へ参る」
「なに」
たずねた僧は五十あまりの、みるからに剛毅《ごうき》の相の所有者であったが、具足丈之進の返事に血の気がひいたようであった。
「おんな寺――東慶寺《とうけいじ》へゆくと申すか」
「堀の一族一党、あか子にいたるまで草の根わけても捜し出せとは殿の仰せである。うぬらの縁につながる女ども三十人あまり、東慶寺へかけこんで尼になりすましておるのを知らぬわれらと思うか」
「ようさがしあてた。しかし」
僧の声は不安にしゃがれた。
「東慶寺は弘安《こうあん》以来百五十年、男子禁制の寺であるぞ」
具足丈之進はふりかえって、また歯をむいて声もなく笑った。
「うぬの娘お千絵《ちえ》も尼になっておるであろうな。殿の御執心であったあたら十九の花盛り、美しい黒髪をおろして念仏|三昧《ざんまい》とは、うぬの大不忠の報いとはいいながら――」
「だまれ」
僧は叱咤《しつた》した。
「丈之進、その東慶寺へ何しに参る」
「ここから鎌倉へはたった二里半、せっかくちかくを通りかかったのだ。生きておるうぬらの最後の姿をみせて菩提《ぼだい》をともらうよすがとしてやろう。武士の情けだ。ありがたいと思え」
僧はしばらくだまっていたが、やがて唇がわななき出すと、
「かたじけない」
とふかい声でいった。そして、綱のかけられた首をさしのばし、うしろをむいて呼ばわったのである。
「おおい、東慶寺におる女どもに、最後の対面をさせてくれるそうな。みな礼をいえ」
いままで、生きながらの地獄旅に、泣きごとはおろか、うめき声ひとつもらさなかった二十人の僧たちは、はじめてどよめいた。まるで氷と化したからだに熱湯をふりかけられたような衝動をみせ、その目に涙がうかんだのである。
「かたじけのうござる」
「これで殿へのお恨みもいささか消えたようでござる」
その感動ぶりを、七人の武士は、馬上からうす笑いしてながめていた。
行列は、藤沢から一里、江ノ島を通り、春の白波たつ七里ケ浜をよぎってさらに一里半、鎌倉にはいっていった。
かつては覇府《はふ》であった鎌倉も、北条滅亡以来三百余年、いまはただ無数の堂塔|伽藍《がらん》をいだく一寒村にすぎない。地ひびきをたててはいってきたこの異形の大行列を、心みだして迎えるものは散る花ばかりとみえた。春がふかいので、いっそうわびしいのである。
山ノ内街道を北へすすむと、右の深い木立ちのかなたにみえる円覚寺の甍《いらか》と相対し、左の丘陵の中腹に建っているのが松ケ岡東慶寺であった。
馬からおりた三人の武士が、苔《こけ》むした高い石段を、山門のほうへゆっくりと上っていった。
男子禁制の尼寺《あまでら》だから、寺内に雄ねこ一匹もいないといえば嘘になる。門番は男であったし、それ以外にも少数ではあるが、下男もいた。ただ彼らは例外なく老人で、しかも腰に数個の鈴をつけられていた。
その老門番が、石段をのぼってくる三人の武士をみると、まったく別の星からきた人間をみるように、あわてて門をしめかかったのである。
「あいや」
と、三人の武士は足をはやめて門のまえに立ったが、このとき厚いとびらは音たててとじられた。
しかし、門の内側に鳴る鈴の音をきいて、彼らは口ぐちに名乗った。
「われらは会津藩加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》家中のもの、鷲《わし》ノ巣廉助《すれんすけ》と申すものです」
全身が瘤《こぶ》からできているかと思われる巨漢のひげ侍であった。
「拙者は司馬一眼房《しばいちがんぼう》」
と、もうひとりがいう。これはなるほど左眼のつぶれた青ンぶくれの入道あたまである。
「大道寺鉄斎」
最後のひとりは、真っ白な髪とひげにつつまれた枯木のような老人であった。それがねこなで声といってもしかるべき神妙な声でこういった。
「もはや御存じのことであろうが、昨年春、あるじの式部少輔に大不忠のことをしでかし、会津を退転した元家老堀|主水《もんど》の一党を、このたび御公儀のおゆるしをうけ、高野山より召し捕って、ただいま江戸へ護送の途中でござる。ところで主水の申すには、彼らの縁につながる三十人あまりの女どもが当寺に逗留《とうりゆう》いたしおるとのこと、今生のなごりにひと目会うてゆきたいとの願いにより、いま山下に待たせております。このむね堀一族の女どもに告げられたうえ、最後の対面のためまかり出るようお申しつけ相なりたい」
「しばらく、待たっしゃれ」
門の内側を鈴の音が遠ざかっていった。
三人はあらためて山門を見あげた。鉄鋲《てつびよう》をうった巨大な山門は、尼寺にふさわしからぬいかめしいものであった。
「この門は、駿河《するが》大納言様の御門を移したと申したな」
「うむ、なかなかの客殿、仏殿、方丈なども、みな駿河からひいてきたときいておる」
「それではこれが五十万石の門というわけだな、道理で――」
と、三人はうなずきあった。
駿河大納言とはいうまでもなく将軍家光の弟で、駿河五十万石を領しながら、むほんのうたがいをうけて、九年前切腹の羽目においこまれた徳川|忠長《ただなが》だが、この尼寺は開山以来百五十年の歴史をもつとはいえ、あまり老朽していたために、忠長自刃の翌年の寛永十一年、主だった建物を駿河城から移建してきたものであった。
門の中にまた鈴の音がちかづいてきた。しかし、数人の足音であった。
「会津の衆」
下男の声ではない。老尼らしい声であった。
「ただいまのお申し入れ、住持様に言上いたしましたなれど、せっかくながら、女どもを逢《あ》わせることはならぬとの仰せであります」
「ほう」
三人の武士はちょっと意外だったらしく、門の外で顔を見あわせたが、白髪の大道寺鉄斎が目でおさえ、またねこなで声でいう。
「それはまたなにゆえでござるか」
「ひとたびこの寺にはいった女人は、門をくぐったとき、恨み、哀しみはもとよりのこと、恩愛ともにこの浮世からふっつり縁を切ったのです。今生の別れに、母、女房、娘に会いたいという志はふびんながら、いまは御仏のみにすがっておる女人たちの小さな胸に、また涙の波をあげましょう。もはや男どもの修羅の世界をみせなさるな、どうせ死ぬものならば、男らしゅう死になされ、われらともども心からなる回向《えこう》はささげ参らそう、そうおつたえなされ」
「これは仏に仕える方とも思われぬ無慈悲の仰せ。――われらすら、武士の情けによって、わざわざ鎌倉まで回り道いたしたに」
「武士の情け?」
老尼の声がきびしい調子にかわった。
「いま門番にきけば、囚人どもの首には獣のように縄をかけておるとか――武士たるものをそれほど恥ずかしめて平然たる方々が、そのお言葉を口になさる」
三人の武士の顔が硬直した。
「女を出せと申さるるも、決して慈悲のこころからではあるまい。かならず恐ろしいわなであろう。――おひきとりなされ」
「いいや、ひきとらぬ」
と、大男の鷲ノ巣廉助がいった。
「われらは堀主水に、女どもにあわせてやると誓言したのだ。会津七本|槍《やり》に名をつらねるものが誓言して、それを破ることは相ならぬ」
「それは、そちらの勝手。当尼寺はふところにはいった哀れな鳥を、みすみすわなと知りつつ外に出しはせぬ。きくがよい。松ケ岡東慶寺は女の城じゃ」
「女の城。――」
青入道の司馬一眼房がにやりと笑った。笑いながら、石段の下で見あげている具足丈之進に手をふった。丈之進がうなずいて、寺の横の方向に走り出した。三匹の秋田犬が砂けむりをあげてあとを追う。
「女の城ときけば一番攻めてみたいの。尼、みごと護《まも》ってみるか」
「何をしようというのじゃ」
老尼はぎょっとしたようである。
「当寺は北条時宗公|御台《みだい》さま覚山尼公が女人救済の尼寺として勅許を受けられてより、いまだかつて外より男を入れたことのない寺じゃ。時移り世は変っても、この寺法に手をふれた幕府はないぞ。それを、そなたら破る気か」
このとき寺の周囲で、びょうびょうと犬のほえる声がした。犬というより野獣のほえ声である。各僧房からはしり出た尼僧たちのうち、裏門および左右の潜《くぐ》り門のちかくにいたものは、空をふりあおいで恐怖のさけびをあげた。
その門の屋根に、それぞれ小牛のような犬がすわって、血ばしった目で見おろして、魔王のごとくすさまじい咆哮《ほうこう》をあげているのであった。
その声におとらぬさけびを、鷲ノ巣廉助があげた。
「破る」
鷲ノ巣廉助は門のまえで左足を一歩ふみ出して、半身の姿勢になって、ひじをひいた。
「おおりゃっ」
ひっ裂けるような絶叫と同時に、右腕をつき出した。
掌《て》はこぶしににぎってはいなかった。親指だけをまげ、四本の指をそろえてのばしたかたちであった。それが、鉄鋲をうった厚い樫《かし》の扉を、まるで薄紙のごとくつきぬけたのである。
腕は電光のごとくひかれて、その左約三尺の点をまた突いた。大兵なからだを敏捷《びんしよう》に平蜘蛛《ひらぐも》みたいにかがめたかと思うと、下方に三つめの穴がかっと突きあけられた。とみるや、すさまじい勢いでとびらを蹴《け》りあげたのである。――とびらには、人が通りぬけられるくらいの三角形の穴が、ぱっくりとひらいた。
これが、ほとんど一瞬のことだ。怪力というより、なんたる恐るべき手刀の威力だろう。――彼はたしかに「破る」といった。しかしこの厳粛な禁断の門を、だれがこう無造作に、文字どおり破ると考えたろう。
三角形にあいた穴から、三人の武士はつぎつぎにはいってきた。気絶したようにつっ立っている老尼僧をみて、鷲ノ巣廉助はにたりと笑った。
「破ったが、どうした?」
「お出合いなされ、狼藉者《ろうぜきもの》がちん入しました。お出合いなされ……」
と、尼僧は鶏みたいに首をさしのばしてさけんだ。
すでにあちらの仏殿、こちらの方丈、樹立《こだち》の中の僧房からは、ばらばらと無数の白い影がかけ出し、走りまどっている光景がみえる。ひろい境内の青白にただよっていた香煙の霞《かすみ》はいっきにかきみだされた。
門番がとび立って、すぐよこの鐘楼の方へ走り出した。鐘をついて、この大|椿事《ちんじ》をちかくの寺々に告げ、その助けをもとめようとしたのである。門番が撞木《しゆもく》の綱をとったとき、白髪の大道寺鉄斎は、二度跳躍してそのあとを追った。実にこの枯木のような老人は、二飛びで二丈はたしかにとんだ。その腕から黒い鎖《くさり》がのびると、鐘楼までさらに一丈はあるのに、門番のひいた撞木はそのままうごかなくなった。鎖が撞木に巻きついたのである。大道寺鉄斎の手にあるのは、鎖と鎌であった。
「見ろ」
鉄斎がほそい手で鎖をひくと、ふとい綱につるされた撞木は、まるで細工物のように地上にもぎおとされた。とみるや、鎖は生命あるもののごとくはねかえって、鉄斎の手中にもどった。
三人の武士はノソノソと境内をあるき出した。この女の聖地に足をふみ入れたことに、なんの遠慮も恐れもおぼえるどころか、にげまどう尼僧たちをながめて、好奇と嘲笑《ちようしよう》と、そして妙な好色のひかりすらはなっている傍若無人な目であった。
「堀一党の女どもは出合え」
「逃げようとしても、もはや逃げられぬぞ」
そのとおりだ。破られた山門の扉の内側に四人めの武士があらわれていたし、ほかの三つの門の屋根には、なお三匹の巨大な犬が、びょうびょうと牙《きば》をむいてほえつづけている。
しかし、このとき三人の武士の足がぴたりととまった。
ゆくての方丈から一団の影があらわれた。人数は二十人あまりであろう。大半はむろん尼僧であったが、そのなかに黒い衣ではなく白小袖《しろこそで》をき、頭を切下《きりさげ》髪の若い女が六、七人まじっていた。それが、周囲のさわぎも目に入らないかのように、粛々とこちらにあるいてくる。すると、悲鳴をあげてにげまどっていた尼たちも、一|杓《しやく》の水をあびたようにおのれの立っていた場所にひざまずいた。
しずかな一団は、三人の武士のまえにとまった。その中から、純白の頭巾《ずきん》をかぶったひとりの尼僧がすすみ出て、三人をじっと見つめた。年は三十をややすぎたくらいであろう。美貌《びぼう》というより、この世の人間とは思われぬ清浄さときびしさと気品に彫刻された表情であった。さすがの凶暴な三人侍も思わずひるんだ。
べつの老尼がいった。
「当尼寺の御住持天秀|尼公《にこう》であらせられます」
人を人くさいとも思わぬ三人の男の面だましいにおさえきれぬ動揺の波がひろがるのをみて、老尼はなおいった。
「御存じであろうが、天秀尼さまは、故|豊臣秀頼《とよとみひでより》公のおん姫君、すなわち豊|太閤《たいこう》のおん孫にあたらせられるおん方じゃ。いまきくところによると、そなたらは会津の加藤家のものとやら、先代の左馬助|嘉明《よしあき》どのは賤《しず》ケ岳《たけ》七本槍のひとり、音にきこえた豊臣家恩顧の家柄ではないか。尼公さまに御無礼があってはなりませぬぞ」
もとより三人の武士がためらい、動揺したのは、そのことを知っていて、いま眼前にあらわれたひとを、太閤の孫と直感したからだ。それを承知の上であばれこんだ三人であったが、あらためてこう名乗られると、やはり本能的に全身がこわばるのを禁じ得ないのであった。
天秀尼はしずかにいった。
「いままでの所業はゆるします。このまま、ひきとるならば」
珠《たま》をころばすような澄んだ声である。鷲ノ巣廉助、司馬一眼房、大道寺鉄斎はわれしらずはっとあたまをさげかけた。
そのとき、尼公をかこむ一団が、すっとかげった。いままで、あくまでも明るい春の日をあびていたのが、雲でもかかったかと空を見あげる者もなかったが、ふいに頭上にふれた異様な感触にはじめて顔をあげて、みな愕然《がくぜん》としたのである。
彼女たちは大きな網に覆われていた。まるで紗《しや》のようにみえ、そのときにははっきりと正体もわからなかったが、それは黒髪で編まれた網であった。それが、忽然《こつぜん》として天からふってきたのだ。
むろん軽いものだから、尼僧たちの頭上からフンワリとかかったままだ。何であるかはしらず、彼女たちはそのえたいのしれぬ網を指でかき破ろうとした。しかし、それが鋼線のようにきれないのに彼女たちは狼狽《ろうばい》した。つぎに、まわりに立っていた尼僧たちはかがみこんで、網のすそをあげようとした。一か所をつかんでひきあげると、左右のすそが流動体のように寄ってきて、その脱出口をふさいでしまった。いくどうろたえてくりかえしてもおなじことであった。
「奇怪な――」
「こ、これはどこからおちてきたのじゃ」
その網は天からふってきたとしか見えなかった。が、ほとんど人の目にみえぬ糸が――正確にいえば、ながくつないだひとすじの髪の毛が――その網からのびて、くだかれた山門の内側に立っているひとりの男の手ににぎられていた。
いうまでもなく、四人めの会津侍である。まだ十七、八、前髪立ちの若衆だ。しかも、女のような真っ白な肌の色、朱をひいたような唇。ぞっとするほどの美少年だが、いったい、いつ、どうしてそんな傷ができたものか、ひたいから鼻さき、唇からのどにかけて、無残、絹糸をひいたような赤黒い刀痕《とうこん》があった。
だれひとりとして気づいた者もなかったが、その網は彼の手からなげられたのである。はじめ放たれたときは、まるめて手中に入るほどの塊《かたまり》であったのが、天空の一点でぱっとひろがると、数十人をいちどに覆うぐらいの網となって、音もなく霞のように落下してきたのであった。
三人の侍はふりむいて、つぶやいた。
「香炉《こうろ》銀四郎」
「しかし」
とちらと、網につつまれてもがいている尼僧たちに眼をやったのは、太閤の孫にあたる天秀尼そのひとをこんな目にあわせて大丈夫か、という意味だ。
香炉銀四郎とよばれた美少年は、遠くからにやりと笑った。
「おい、何をしておる。はやく堀一族の女どもをとらえぬのか」
黒髪の糸を手中にたぐりこみながら、そろそろとちかづいてくる。
「それ、その霞網のなかに、堀主水の娘お千絵がおるではないか。主水の弟、多賀井《たかい》又八郎の女房お沙和《さわ》もおる。またおなじく弟|真鍋《まなべ》小兵衛の娘のさくらの顔もみえる。そのほか、まだ六、七羽、小鳥どもが羽ばたいておるようだぞ――」
老尼が、狂気のようにさけんだ。
「し、賤ケ岳《たけ》七本|槍《やり》の家柄のものが――天秀尼さまに、な、なんたることを――」
「賤ケ岳七本槍は、もう六十年もむかしの話よ。そこにおる大道寺鉄斎老さえ、生まれていたか、どうか。――そのとき御手柄をたてられた御先代も、太閤もいまやこの世にない。時勢もかわり、人もかわった。おれたちは、会津七本槍衆というのだ。しかし、豊臣家とは、なんの関係もない」
美しい顔に似合わぬかわいた冷笑であった。
「天秀尼天秀尼と、護符《ごふ》のようにいうのが笑止千万。大坂落城後、六条の河原で首をきられた秀頼の子、国松の妹ではないか。女ゆえにからくも命をたすけられ、徳川家の方でもてあまして、この尼寺へほうりこまれたのを、尼将軍にでもなったと思っているのか」
きいていた尼僧たちは、ことごとく蒼白《そうはく》になっていた。
はっきりいえば銀四郎のいうとおりだ。しかし、むごい言葉でもある。こういう人の皮膚をひんめくるような言葉を、けろりとしていってのけるのは、彼の年齢のせいか、それとも、彼の性格のゆえだろうか。
しかし、それで三人の武士は理由のない逡巡《しゆんじゆん》から解きはなたれた。
「そうだ、会津七本槍がいちどいい出したことは、あとにはひかぬ。望んだことは、かならずとげてみせるのだ」
「ひとたび高野山の受け入れた罪人は、大名ですら手が出せぬという。――その高野山ににげこんだ堀一族を、われら会津七本槍がみごとにひきずり出したのだぞ。いわんや、たかが尼寺をや」
「わが殿は、このたびのことに四十万石を賭けておいでなのだ。あくまで堀の女どもをかばおうとするならば、このままこの寺を踏みつぶしてくれる」
口ぐちにわめいたあとで、大道寺鉄斎がふいにまた猫なで声でいった。
「何も女どもまで仕置にかけようとはいわぬ。やがて仕置にかける男どもに、最後の対面をさせてやろうという親切気から思い立ったことだ。にもかかわらず、女は出さぬ、ふところに入った鳥ははなちはせぬなど、増上慢な口をきくから、ちょっと手荒なことをしたのだ。……おとなしく、女どもを門前まで出されい」
「御住持さま」
霞網《かすみあみ》のなかで、思いつめたような女の声がきこえた。
「せっかくのお情けでございますが、お千絵は参ります。これ以上、この人々にさからいますと、ほんとうにこの寺がふみにじられます」
天秀尼は怒りの眼をじっと会津侍の方にすえたまま、ふるえる声でいった。
「おもしろや、ふみにじらせてみるがよい」
「いいえ、そんなことになりましては、尼公さまの御恥辱のみか、覚山尼公以来、東慶寺の山門にぬぐうことのできない傷がつきまする。堀一族の女として、左様な大事をひきおこしては、このまま生きてこの寺に暮すこともなりませぬ」
「山門に傷はもうつけられておる。――それに、生きてとそなたはいうが、あのものどもの所業、顔つきをみるに、ただ口で申すばかりでない恐ろしいたくらみがあるような気がしてならぬ」
「あれも会津七本槍というて、殿のお心入れのふかい侍衆でございます。その言葉は信じましょう。それに」
若い女の声は吐息をついていった。
「わたしたちは、死んでゆく父や夫に、やはりひと目あいたいのでございます」
それこそは、天秀尼のただひとつの弱味といってよかった。寺におしかけてきた会津侍たちの心事に疑いをもってはいるものの、いちどは会わせてやろうかと、先刻まよったくらいなのである。――天秀尼はだまった。
「堀一門の女ども、山門を出ます」
と、若い女の声は澄みきってひびいた。
「銀四郎どの、この網をおとりなさい」
眼前二間半ばかりの位置に立っていた香炉銀四郎の手がうごいたともみられなかったのに、このとき尼僧たちを完全に覆っていた黒髪の投網《とあみ》のすそがフワリと地から浮いた。
それは風のごとく彼女たちの鼻や頬をなでながらはなれ、漏斗《じようご》状に空をながれていったかと思うと――おどろくべし、銀四郎のこぶしのなかに一塊となってきえてしまったのである。とり去られてしまえば、だれがそれを鋼線からできているような強い網だと想像もしようか。
まるで網からのがれた小鳥のように、尼僧たちは四方に散った。あとには天秀尼と十人ばかりの女がのこった。天秀尼をのぞいてはみな切下髪に小袖をきた女たちばかりであった。
そのなかから、ひとり、四人の会津侍のまえにすすみ出たのは、十九かはたちのうら若い娘であった。
「お千絵です。父にあわせてください」
優婉《ゆうえん》な気品にみちた顔である。おそれげもなく、四人を見すえていう。
「高野山からとらえられてきたのは、父のほかにどなた方でございますか」
「堀主水、多賀井又八郎、真鍋小兵衛ら、すべて二十一人。――そなただけ会わせるわけにはゆかぬ。この寺に逃げこんだ堀一族の女ども、すべて出い」
と、鷲ノ巣廉助がいった。
「何人おるか」
「みんなで三十人。いわれるまでもなく、みな出ます」
裏門および左右の潜り門の上で吼《ほ》えつづけていた白い秋田犬が、このとき境内にいっせいにとびおりると、扇の要《かなめ》にあつまるようにこちらに走ってきた。ちかづいただけで身の毛もよだつような巨大な犬であった。そのうしろから、猿のような顔をした武士がにやにやと歩いてくる。やはり会津七本槍のひとり具足丈之進である。
お千絵のまわりに、女たちがあつまった。半分以上は頭を剃《そ》り、僧衣をまとった尼僧たちで、彼女たちはすべて中年か老年であった。のこりの若い女たちは、まだ髪を肩のところで切りそろえたままの姿である。
「おお、これが稲葉《いなば》十三郎の女房お圭《けい》」
「金丸半作の女房お品、おまえもここに逃げこんでおったか」
「や、板倉不伝の娘お鳥もおるな。みな、なつかしいぞ」
四人の武士は無遠慮に彼女たちのまわりをあるきまわって、その数を勘定した。そのとき、ふいにピシリと音がして、具足丈之進が頬をおさえてとびのいた。
「うぬ、こやつ、うす馬鹿のくせにやりおったな」
「ひとの鼻をつつくからよ、この猿め」
ののしったのは十七ばかりの娘であったが、これは愛くるしい顔をしているのに、あたまはつるつるに剃っている。怒りにまるい頬をまっかにしていた。
「いけません、お笛、いまは心しずかに父上たちに対面するときです」
と、お千絵が叱《しか》った。可愛らしい小坊主はいちどこっくりしたが、まだまけぬ眼を具足丈之進にそそいでいる。彼女はお笛といって、お千絵の婢《はしため》であったが、すこし知恵のおくれた娘であった。
頬をおさえた丈之進を、足もとの三匹の秋田犬が見あげた。人と犬と、凶悪な眼が会った。双方のあいだには、まるで同種類の動物のようにある意志が交流したようであった。
三匹の犬がお笛を中心に三方にわかれ、前足を土にくいこませて、地にひくく這《は》った。
「丈之進」
と、青入道の司馬一眼房があやうく制した。
「まだ早い。見世物には、見物人が要る」
それはどういう意味か。――うたがうような天秀尼から顔をそらし、一眼房はお千絵にあごをしゃくった。
「たしかに三十人。――よし、山門の外に下りろ。下の広場にそなたらの父や兄が待ちくたびれておるわ」
五人の武士と三匹の犬に追いたてられるように、三十人の女たちは山門の方へあるいてゆく。あとを、天秀尼は不安な眼で見おくった。
高い石段の下の広場は無数といっていい長槍の波であった。しかし、女たちは、その前にずらりとならんでひきすえられた二十一人の僧を見下ろして息をのんだ。
僧のうしろからは、ひとりずつ槍の穂が背につきつけられている。そればかりか、彼らのくびは一本の縄でつらねられて、その両端をふたりの武士がつかんで立っているのであった。――下男の知らせできいてはいたが、眼前にまざまざと見ては、身の毛もよだつ無残なながめだ。
「おお、父上さま!」
「だ、旦那《だんな》さま!」
犬や武士に追われるまでもなく、三十人の女たちは、まろびおちるように石段をかけおりていった。ひきすえられた僧たちも、首の綱を忘れて、どどと前へ出ようとする。
「待った!」
僧を数珠《じゆず》つなぎにした綱の右端をもっていた男が、足軽にそれをわたして疾風のようにかけてきた。長い――実に一丈八尺はあろうと思われる槍をかかえた男であった。
その槍を横にして、あいだをへだてると、
「これからさきは、ゆくことならん!」
と、さけんだ。
満面墨をぬったような皮膚に、眼だけが白くひかっている。異常な体色のみならず、黒豹《くろひよう》そのもののような精悍《せいかん》さにみちた男を、
「平賀孫兵衛どの」
と、女のなかからつぶやいた者があった。会津七本槍衆という、その名は先君一代の功業にあやかったもので、真に槍をあつかう者はこの平賀孫兵衛ひとりだが、それだけに、この男の凄《すさま》じいまでの槍術《そうじゆつ》を知らぬ者はない。
「そなたらも武士の妻、娘ではないか。あまりに見苦しいさわぎようはするな。そこに坐《すわ》って別れを惜しめ」
と、彼はいった。お千絵が女たちを見まわした。
「おっしゃるとおりです。みな、お坐りなさい」
女たちは、いっせいに地べたに坐った。
あいだをへだてるのは平賀孫兵衛の三間|柄《え》の槍《やり》ひとすじだが、彼に叱咤《しつた》されてわれにかえれば、彼女たちはいかにも侍の女房であり、娘であった。その一線にぴたと坐ると、ただ歯をくいしばり、唇をふるわせて、むこうの僧たちにくいいるような眼をなげる。
「…………」
「…………」
ものうい春昼に、うごくものとては散る桜ばかりであった。この尼寺に入っていた三十人の女たちは、いうまでもなく、江戸へ死出の旅につく二十一人の囚人の家族である。父がいる、兄がいる、夫がいる。――なかでも、たとえそれらのことを知らぬ者でも、ひと目みただけでも、はらわたのちぎれるような思いにうたれずにはいられないのは、十から十二、三の小坊主、その母らしいいくつかの組の対面であったろう。
ようやく声をもらしたのは、堀主水であった。
「われら侍の意地として会津を退転いたしたが、殿の御気性としてひとたびとらえられた上は、いかなる御成敗をうけてもやむをえぬと覚悟はしておった。さりながら、わざわざこの鎌倉へ寄って、そなたらに最後の対面をゆるされた御慈悲を思えば、江戸へいってもかならず侍らしい御仕置をたまわるであろう。……みな心安らかに、われらの後生を弔《とむら》ってくれい」
剛毅な顔に微笑さえうかべていった。
「さらばだ」
女たちが嗚咽《おえつ》の声をのんでいっせいにあたまをさげたとき、数珠つなぎの綱の、ほかの一端をにぎっていた武士が、これまた綱を足軽にわたして、すうとすすみ出てきた。
「一同、最後の別れはもはやすんだか」
と、ひくい声でいった。長身のあごの剃りあとの青い男だが、左の袖はだらりとたれている。左腕がないのだ。……が、その襟に、桜の一枝がさしこんであるのをみたとき、堀一族の男や女は背に冷たいものがながれるのをおぼえた。
漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》という――やはり会津七本槍の一人だ。剣をとれば藩中第一の使い手であることはだれしも認める男だが、剣鬼といっていいくらい無造作に人を斬り、そのくせ、その血の匂いをきらうのか、人を斬るまえに手ぢかに花があれば、かならずその花をさす。すなわちこの男が花をからだに飾るときは、それは人を斬る前兆だということを知っているからであった。
「では、斬る」
と、彼はぶっきらぼうにいった。堀主水がしずかにふりむいた。
「ここで斬る?――江戸へはつれてゆかぬのか」
「いや、女どもだ」
僧たちは、はじめて愕然《がくぜん》としていった。
「女たちを斬る? この東慶寺に入った女たちをか!」
それには返答もせず、漆戸虹七郎は片腕で音もなく一刀をぬきはらった。
三十人の女たちの背後――山門への石段には、鷲ノ巣廉助、具足丈之進、司馬一眼房、香炉銀四郎、大道寺鉄斎が、死神の祭壇のごとく重なり立ち、両側には三匹の秋田犬が唐獅子《からじし》のごとくひかえている。
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堀主水一件
そもそも堀|主水《もんど》一族は、どうしてこのような死の座にひきすえられたのか。
当時|会津《あいづ》の加藤家は、外様《とざま》としては、加賀の前田、薩摩《さつま》の島津、陸奥《むつ》の伊達《だて》と相ならぶ大々名であった。すべて先代の加藤左馬助|嘉明《よしあき》が槍ひとすじでかせぎ出したものである。
秀吉|麾下《きか》の荒小姓として賤《しず》ケ岳《たけ》七本槍の勇名をとどろかせたのは、彼がまだ孫六とよばれていた天正《てんしよう》十一年、二十一歳のときであった。爾来太閤《じらいたいこう》の四国陣、九州陣、小田原陣、征韓の役などに、主として水軍の将として大功をたて、伊予《いよ》の真崎に十万石をたまわった。
関ケ原以後、彼は太閤恩顧の多くの武人派と同様に徳川方に従い、伊予松山で二十万石を領するにいたった。しかも、その後、おなじ七本槍の人々の裔《すえ》が大半ほろんだのにくらべて、この加藤家のみが、寛永《かんえい》四年、さらに会津四十万石に移封されたのは、彼の手腕と苦心のなみなみならぬことをしめすものであろう。寛永八年、左馬助嘉明は死んだ。六十九歳である。
そのあとをついだのが、一子の式部《しきぶ》少輔《しよう》明成だ。――結果からみれば、はなはだ出来がわるかった。
彼としても、少なからず言い分があるであろう。家臣や領民の大半が、先君に傾倒して、どうしてもそれと彼を比較することになるからだ。
その偉大なる父というおもしがとれて羽根をのばしすぎたのか、あるいはその父に劣らぬ器量をみせようと虚栄をはりすぎたのか、気がついたときには、明成は四面|呪咀《じゆそ》の声のうちにあった。
いったいに初代が何らかの礎をきずいた場合、二代目はただその礎をまもる温厚篤実な人間である方が大過がないようだ。家康の子|秀忠《ひでただ》しかり、毛利|元就《もとなり》の三子しかり。これに反して、あまりに積極果敢な二代目は、かえってその礎を飛散させてしまうことが多い。武田|勝頼《かつより》しかり、長曾我部盛親《ちようそかべもりちか》しかり。――そしてまたこの加藤明成も。
彼は父からその勇猛の血だけを受けていた。家臣領民に人望がないのを意識すると、彼はさらに威たけだかになった。戦国の余炎なお去りやらぬ時代の荒大名として、なし得るかぎりの暴虐をつくし出したのである。
幕府にむかっては、彼は名門の太守らしいものしずかな顔をみせていたが、内部にあっては淫虐《いんぎやく》の魔王ともいうべき人物であった。荒淫と残虐と――ひとたびこの凄じい悦楽の世界に魅せられた人間が、およそ想像し得るかぎりのことを彼はやった。
会津若松《あいづわかまつ》の城と江戸の屋敷に、秘密の蔵がたてられた。そのなかにおびただしい美女と美少年と――そして主君をいさめた少数の家来がつれこまれて、永遠に出てこなかった。
そのなかで何が行われたのか、それを知っている者は、明成自身と、彼の親衛隊ともいうべき「会津七本槍衆」と、彼らの総首領「芦名《あしな》銅伯」なるものだけであった。
もう、六、七年もまえのことになる。
会津若松の城にあった式部少輔明成は、鷹野《たかの》に出て狙撃《そげき》された。さいわい微傷ですんだものの、下手人はとらえられず、ついに何者ともしれなかったが、それ以来、明成が特にえらび出して親衛隊とした「会津七本槍衆」であった。
これは加藤家の移封とともに、伊予からつれてきた家来ではない。土着の郷士のうち、あらたにとりたてた武士である。
なにしろ伊予二十万石から会津四十万石となったので、新規に召しかかえた侍も多かったが、会津にはそれ以前に上杉|景勝《かげかつ》がおり、その前には蒲生氏郷《がもううじさと》がおり、さらに南北朝時代から連綿として芦名氏の領国であった。
この会津七本槍は、そのうちの芦名衆からえらび出したものだ。それは芦名銅伯の進言による。これに加藤家の歴史的な名誉の「七本槍」の名を冠したのは、明成を不肖の子らしくみる譜代《ふだい》の家臣に対する彼のシッペがえしでもあるが、現実にこの七人の男は、数百年にわたる北国の豪族の末裔《まつえい》らしく、しかもこの数代逆境にあった亡家の遺臣らしく、なんとも妖異凄絶《よういせいぜつ》の武術の体得者だったからでもある。
具足丈之進
鷲ノ巣廉助
大道寺鉄斎
司馬一眼房
香炉銀四郎
平賀孫兵衛
漆戸虹七郎
このうち少年香炉銀四郎のみが、もとはその兄銀三郎が七本槍衆であったのを、二年ばかりまえに狂死したので新しく入れ替っただけで、あとのメンバーはおなじだ。
この抜擢《ばつてき》にふるいたったか、いままで白眼視した征服者たちを見かえす快感にそそられたか、それとも明成のえがき出す地獄美の世界にこれまた酔いしれたか、彼らは明成のもっとも忠実なる護衛者となり、もっとも盲目的な協力者となった。
彼らは領国を徘徊《はいかい》して美女をあさり、さらに、主君の淫虐の祭壇にささげた。また主君をひそかにそしる者、うらむ者を敏感にかぎつけて、上意の名のもとにこの世から消し去った。彼らは魔王の親衛隊であり、ゲー・ペー・ウーであった。
ほとんどすべての者が、主君の所業に沈黙し、七本槍衆の行動に戦慄《せんりつ》した。
そのなかで、ただひとり、明成に屈しなかった人間がある。それが家老の堀主水|綱房《つなふさ》であった。
彼の父が、嘉明の片腕としてその一代の戦歴のすべてに加わり、大坂の役で討死した人物であったが、彼自身も、嘉明晩年の重臣として信頼され、家老のひとりとして篤《あつ》く用いられた。
明成が新当主となってしばらくのあいだ、主水はむしろ明成の後盾であった。その性格と所業にやや見当はずれのところがあっても、主水は微笑してそれをかばい、そのあとおしをした。剛毅《ごうき》な彼は、明成が劣等感をもつことをおそれ、若い主人が意気地のないよりは、勇壮活発なのを望んだからである。
しかし、二年にして主水は、じぶんのこの方針のあやまっていたことを知らなければならなかった。三年にして彼は、じぶんの期待がすべてむなしいことを知った。彼は明成をいさめた。明成は苦い顔をし、彼を遠ざけ、はては憤怒した。それでも彼は面をおかしていさめつづけた。
そして両者のあいだには、険悪な雲がたちこめるにいたった。
しかし、さすがの明成も七本|槍《やり》衆も、堀主水だけには手が出せなかった。その家柄、その人望――それに堀家を中心とする一族の結束はかたく、ほかの人間とちがい、大根をきるように始末することはできなかったのである。
最初のうちのはげしい、しかし陽性な争いは、しだいに陰鬱《いんうつ》な、ぬきさしならぬ抗争に変わっていった。明成は、鷹狩りで狙撃された事件の黒幕さえも疑いをもちはじめたらしかった。しかも堀主水はなんらの逡巡《しゆんじゆん》をもみせず、諌言《かんげん》をやめなかった。会津七本槍が往来をおし通るとき、たいていのものが顔をふせるのに、堀主水とその一族のものは、彼らをあからさまな冷眼でみて過ぎた。が、それ以外に、七本槍衆がいかに切歯しようと、堀一族はよく身をつつしんで、つけ入るべき落度というものがないのである。
どちらも一歩もひかず、しかも相手をどうすることもできないこの対立を、はからずも一輪の花が吹きゆるがした。堀主水のひとり娘お千絵である。
一日また鷹狩りに出た明成は、ふとゆきずりに寺|詣《もう》でのお千絵の姿をみた。そのたぐいない美しさに、
「あれはだれの娘か」
と、うかつなことをきいた明成は、
「堀どのの娘御でござりまする」
という返事をきいて、眼を見ひらいた。主水に娘のあることは知っていたが、この数年ほとんど主水の顔もみないほどの関係になっていて、その娘がこれほど美しく成長していようとは、まったく思いがけなかったのだ。明成の顔には、ありありと悔いにちかいものがうかんでいた。
明成のこの顔色をよんで、主水に娘を御|側妾《そばめ》としてさし出すように命じられませと進言したのは、七本槍衆のうちのだれであったかつまびらかではないが、彼らのうちのひとりか数人であったことはたしかである。
使者に立ったのは大道寺鉄斎であった。これに対して堀主水は苦笑していった。
「主水は狒々《ひひ》に人身御供《ひとみごくう》はつかまつらぬ」
「殿を狒々と申されたな」
と、鉄斎はいった。
「左様、ただいまの殿は、恐れながら人間ではおわさぬと、はっきり申す」
堀主水は毅然としてこたえた。
「もし殿が人間の仲間におもどりあそばしたら、娘は妾なり婢《はしため》なり、お望みのままよろこんでさしあげるでござろう」
「殿を狒々といわれたな。その通り言上してよろしいか」
「その通り、言上して欲しい」
ふしぎなことに、大道寺鉄斎は白い髯《ひげ》のなかで、きゅっと笑った。実は七本槍の面々としては、主水がおとなしく娘を献上するよりも、これを拒否することの方をのぞんでいたのだ。そして、主水の返答は期待のとおりであったから、思わずにんまりとほくそ笑んだのである。
髯のなかの笑いを、はたと主水はにらみすえた。
「いい齢《とし》をして、女衒《ぜげん》商売を恥じぬか、たわけめ」
鉄斎の笑いは凍り、うなずいて彼は去った。
会津七本槍衆が上意討ちの声をかけて、堀主水の屋敷にのりこんだのは、その翌朝の夜明け前のことであった。
門が八文字にひらかれたとき、七人はあっとさけんだ。もとより主水ほどの人間が、あれほどの挨拶《あいさつ》をした上は、不覚悟、無準備にねむっているものとは思われず、こちらもそれ相応の覚悟をもってかけむかったのだが、門の中には百数十人の人間が武装して、数十|梃《ちよう》の鉄砲さえむけて待ちかまえていたのである。
さすがの七本槍と三匹の犬も、まるで出陣としかみえぬこの光景には、気死したかのごとく立ちすくんでいるばかりであった。
「堀主水綱房、今日ただいま加藤家を見かぎって退転いたす」
兜《かぶと》までつけた堀主水は、大音声に呼ばわってあるいてきた。山のゆるぎ出したような気迫の凄《すさ》まじさに、思わず七人が路をひらく。
馬のくつわをとった若党がそれに従う。つづいて数十人の騎馬武者、おそらく女子供をのせているのであろう、数十梃の乗り物、さらに槍をもった足軽たちが、砂塵《さじん》をあげて堀屋敷を出ていったのである。
「堀主水、今日ただいま会津を退転いたす」
こう堂々と呼ばわりながら、この大集団は会津若松の町をはなれてゆく。すでにうちあわせてあったのであろう、町のあちらこちらから堀一族のものが武装してあらわれこれに加わり、総勢三百人余りの隊伍《たいご》をくんで、足音とどろかせて若松から東へ一里有余の滝沢峠にむかった。
ここを越えれば、赤井、赤津、勢至堂《せいしどう》などの集落をへて白川に至る。
このとき、ようやく追手を召集した七本槍の面々は、猛然と追いすがった。しかし、轟然《ごうぜん》と峠の上にとどろきわたった銃声に追手は崩れたった。堀一党は銃隊をならべ、いっせいに射撃したのである。
ただし、銃口を天にむけて。――あたかもそれは、西の若松城に歯ぎしりする暴君めがけて、屈せざる者ここにあり、と挑戦の弾をはなったかのごとくにみえた。
それが去年の春、寛永十八年三月十五日のことであった。
「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」――というのは、もうすこしあとの泰平時代の武士道だ。
忠節の観念はもとよりあったが、乱世とその余燼《よじん》ののこるこの時代には、忠義よりもおのれ自身の名誉を重しとした。じぶんの名誉を傷つけるか、あるいは認めない主人に対しては、堂々と絶縁状をたたきつけて退転した。
すでに、この加藤家には塙《ばん》団右衛門という先例がある。先君の嘉明に「なんじは大将の器でない」といわれた団右衛門は、憤然と加藤家を去って大坂城に入り、主人にひと泡吹かせたのである。同様に、後藤|基次《もとつぐ》もやはり主君の黒田|長政《ながまさ》とあわず、その下を数百人の郎党をつれて去ったとき、長政は討手までかけたが、だれも基次を不忠とは呼ばなかった。さらに黒田家で、家老の栗山大膳が主君|忠之《ただゆき》の非を鳴らして幕府に訴え、ために忠之が罰せられた、いわゆる黒田騒動は、わずか六、七年前のことである。
主君明成の上意討ちにはまったく理がない。むざと討たれることは男ではない。堀主水はそう信じて会津を去った。多人数となったのは一族およびその家来たちが彼に同感し、これ以上加藤家の禄《ろく》をはむことをいさぎよしとしなかったためであり、武装したのは防衛のためである。
暴虐な主君に侍の面だましいをみせた堀主水は、しかし会津を去ると一党を解散した。武装した集団で諸国をあるきまわるわけにはゆかない。加藤家の討手の及ぶおそれのない若党や、小者すべての身のふりかたをつけると、つぎに一族の女たち三十人を鎌倉《かまくら》の東慶寺《とうけいじ》に託し、弟の多賀井《たかい》又八郎、真鍋《まなべ》小兵衛をはじめとして、血縁のふかい者すべて二十人をつれて高野山に入った。
高野山、東慶寺が、このもの救うべきなりと判断して受け入れた者は、俗世のなげかけるあらゆる愛憎をたちきるのはもとより、たとえ時の権力者が追及する政治犯でも、広大無辺の仏の慈悲の袖《そで》にかばい通すのが、厳たる寺法であり、そして社会が容認している不文律であった。
加藤式部少輔明成は、堀主水一党のその後のこういう動静を知った。
彼の怒りははげしく、激情のために、なんどかひきつけを起こしたほどであった。彼はまるで乱心したかのごとくつぶやいた。
「たとえ会津四十万石を棒にふろうと、堀一族をとらえ、なぶり殺しにしてやらねば気がすまぬ」
そして加藤家は幕府にむかって、
「堀一族を高野山より下したまわるべし」と乞《こ》うたのである。この請願運動は一年にわたり、深刻|執拗《しつよう》をきわめ、その結果、幕府はついにそれをゆるしたのである。
幕府がそれをゆるしたのは、たんに大々名の強請におしきられたためでなく、やはり封建制度のいしずえをかためる必要上、侍個人の名誉と主君の意志が相反した場合、後者を重くみようという政策的な方針がきざしていたからではあるまいか。
加藤式部少輔明成という大名の行状や、この事件の原因について、幕府はどこまで知っていたか。いずれにせよ、公儀はそれらのことについては黙殺した。
幕府のみとめた堀主水の罪は、主家を退転したことではなく、そのとき鉄砲切火縄で隊伍をととのえて城外に去り、そこから城にむけて一斉射撃を行ったのが、叛逆《はんぎやく》的行為であるというのであった。
幕府の許可状を手中にして、七本槍の面々がわがこと成れり、と、高野山にかけむかったことはいうまでもない。彼らは、堀主水、弟の多賀井又八郎、真鍋小兵衛、叔父《おじ》やいとこの天野久太夫、小城修理、板倉不伝、千田直人、さらにそれぞれの重だった家来たちあわせて二十一人をとらえて、東海道を江戸へひきずってきた。
「きゃつらの首に縄をつけ、犬のごとくひいて参れよ」
そう命じた主君の言葉通りに、彼らは実行した。
しかし、東海道を下る道すがら、馬首をめぐらして鎌倉の東慶寺へ迂回《うかい》したのは、これは明成の命令ではない。が、彼らはじぶんたちの恐るべき着想に手をうち、あとで報告すれば、主君はかならず「ようした!」と満悦し、褒美の言葉をたまわるであろうことを信じてうたがわなかった。
堀主水があずけた尼寺の女たち三十人をすべて誅戮《ちゆうりく》する。――この思いつきだ。
これは高野山とちがって、公儀の許可をうけていない。しかし、名にしおう高野山でさえ公儀はゆるしたのだ。堀一族の叛逆的行為は断固刑殺するに足ると幕閣がみとめたのだ。たとえあとで多少のとがめはあろうと、結局大したことはあるまい、彼らはこう考えたのである。
――で、いま、東慶寺の門前に、まんまとおびき出した堀一族の女たち三十人のまえに、会津七本槍の一人漆戸虹七郎は、隻腕に一刀をぬきはらってすすみ出た。
「虹七郎」
おのれはしょせん死ぬ覚悟であった堀主水も、全身水をあびたような思いで絶叫した。
「女たちを殺す? うぬらは先刻、われらと最後の対面をゆるすために鎌倉に立ち寄ったと申したではないか」
「あれはうそだ」
と、虹七郎は青いあごをあげて、恬然《てんぜん》とそらうそぶいた。
「まことを申せば、うぬらがさわぎたててうるさいからの」
「ひ、ひとたび約定《やくじよう》したことをやぶって、それで武士といえるか」
「それは武士が相手のときだ。御主君に叛《そむ》いた人非人を相手に、人間なみの約定は無用の沙汰《さた》だ。主水、うぬの逆心のため、殿のお怒りはいかばかりか、まだそれがのみこめぬか」
「されば、われらはことごとく、火あぶり、磔《はりつけ》すらも覚悟しておる。しかし、女どもに罪はない」
襟にさした桜を春風が吹き、ちりみだれる花の中に漆戸虹七郎は冷たくうすら笑いをした。
「いうことは、それだけか」
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七凶槍
「あーっ」
この世のものともきこえぬ絶叫があがったのは、次の瞬間であった。漆戸虹七郎の背後に、首を綱でつながれた僧たちが、――あえて主君に抗し、いまはなぶり殺しも覚悟しているはずの鉄腸の男たちが、思わず悲鳴をあげたのである。
虹七郎の長刀は一閃《いつせん》していた。むろん、うしろの僧たちにむかってではない。眼前にひざまずいた尼僧に対してだ。――ただひとなぎで、三つの青い頭が地にころがり、三つの切断面から、血の霧が一丈あまりも虚空にたちのぼった。
しかも、首のない三体の胴は、いまじぶんが首を失ったことを知らないもののごとく、墨染の衣をまとったまま、寂然と坐《すわ》っている。空からふりそそぐ血の霧が、その衣を真っ赤に染めかえた。
「火あぶり、磔だけではすまぬ。うぬらをただ殺しただけではあき足りぬのだ」
堀一族の男たちをかえりみて、剣鬼漆戸虹七郎は陰々とつぶやく。
「いま、うぬらの生きているうちに、眼のまえでうぬらの母、女房、妹、娘どもの首をはね、この世の地獄を味わわしてくれる」
「……おお、母者!」
「……姉上!」
このとき、ようやく人間の声を発して、堀一族のうちから三人の僧がまろび寄ろうとして、のけぞりかえった。首にかかる綱が、うしろにひきもどし、しめつけたのだ。三人のみならず、それにつながる男たちも、首に手をあてて苦悶《くもん》した。
「それ、さわぐと、ほかの奴らが、迷惑するぞ」
虹七郎はうす笑い、すぐそばの五人の尼僧にあごをしゃくった。
「こちらからいってやれ。これ、ほかの奴らはならぬ。その五人だけ、父なり兄なりのそばへいって別れを惜しむことをゆるしてやる」
五人の尼は、暗示にかけられたように立ちあがった。いま三人の尼が斬られた恐怖もさることながら、眼前に苦しむ父や兄をみて、われを忘れてかけ寄っていったのである。
そのかけ寄る五人の尼僧の背後を、横に漆戸虹七郎はかけぬけた。隻腕の長刀が上下にそれぞれ二つの山をえがく白虹《はつこう》をえがいた。その姿は、稲妻を縫ってとぶ大鴉《おおがらす》のごとくにみえた。
それにも気づかぬ風で、五人の尼は走る。声をはなった者すらあった。……「父上」「兄上」――と。
五人、それぞれ五人の男にしがみつこうとして、その刹那《せつな》、彼女たちのすべての脳天からのどまで、赤い絹がたばしりながれたかとみるまに、そのからだはふたつにわかれた。頭部はもとより、全身左右に切り裂かれ、そこに凄《すさ》まじい緋牡丹《ひぼたん》の花弁をぶちまけながら散乱していた。
なんたる剣技――漆戸虹七郎は、彼女らのうしろをかけぬけつつ、一人を頭から斬りさげた刀を、つぎの一人の股《また》からはねあげ、さらに次の二人を同じ刀描で裂いて、最後のひとりを斬りさげていたのである。
……口で八つを数える方がまだ時がかかるだろう。転瞬の間に漆戸虹七郎は八人の尼僧のいのちを断って、うっそりと立っていた。春風が背の花びらを吹きなびかせるほかは、あとにのこした八つの屍骸《しがい》をふりかえりもせず、微動だもしない。
あたかもみずからの刀術に酔って、芸術家の恍惚《こうこつ》を味わっているかのような、前かがみのぶきみな姿であった。――ひくい声でいった。
「つぎは、どやつを斬ろう」
「こんどは、おれに遊ばせい」
と、いったのは平賀孫兵衛だ。一丈八尺の槍《やり》は朱柄《あかえ》で、それをひっつかんだ手は、なめし皮みたいな光沢があった。ただならぬ色をした皮膚に、すこしちぢれかげんの髪の毛は、この男の血に何やら奇怪な空想さえいだかせる。
「ま、ま、待てっ」
遠くで、蹄《ひづめ》の音とともに、声がきこえた。
砂けむりをあげて一団の人馬が、ころがるように走ってきた。僧侶たちの姿もみえるが、馬にのったのはちかくの山内郷の村役人らしい。東慶寺《とうけいじ》の騒動を知ったちかくの寺の僧が、あわてて呼んできたものとみえる。
「おのおの方はどなたじゃ。御存じでもあろうが、ここは殺生禁断の地、しかも尼寺のまえで――」
と、さけびながら、ばらばらと馬からとびおりたが、広場にくりひろげられた大虐殺の景に、口から泡をふいて立ちすくんでしまった。
「村役人どのか。われらは会津《あいづ》の加藤家のもの、上意を受けて謀叛人《むほんにん》を成敗に参ったものだ。かけあいは江戸屋敷に来てくれ」
平賀孫兵衛は笑いながら、その方へちかづいた。
「ちょっと、その馬を借りるぞ。馬代の支払いはこれまた江戸屋敷にねがう。――あぶない、どけっ」
その黒い顔が人間ではないもののような凶相にかわると、槍がひらめいて、村役人ののってきた馬の横腹をつらぬいた。一頭ではない。二頭ならんで串刺《くしざ》しにしたのである。
いなないて、前肢《まえあし》をたかくあげた腹の下をかいくぐると、平賀孫兵衛は二頭の馬のまんなかに入った。とみるや、その槍を両腕でつかんで、馬もろとも、眼よりもたかくさしあげたのである。
「そうれ、水ぐるま、血ぐるま、馬ぐるま――」
両側の空に、たてがみを渦とまいてあがきぬく二頭の馬が、巨大な水ぐるまのように回転しはじめた。――この超人的な槍術《そうじゆつ》と怪力に、村役人たちは失神せんばかりの顔色で立ちすくむのみで、いまや、声もない。
そして、馬を左右に遠くふりすてた平賀孫兵衛は、六人の尼僧を殺害した。――いまの馬とそっくりに。
「人非人」
「鬼」
「ら、羅刹――」
堀一党の僧たちは歯がみをし、身もだえした。そのくびをからめた綱はたわみ、波うったが、いうまでもなく彼らの苦悶は肉体的なものでなく、じぶんたちの妻や娘がこのむごたらしい殺戮《さつりく》にあうのを眼前にみる魂の苦悶であった。
七人の武士は、そっくりかえってどっと哄笑《こうしよう》した。
「いかにもわれらは鬼だ。羅刹だ。ここは、主君に叛《そむ》いた逆賊一族のおちる地獄、泣け、わめけ、悶《もだ》えろ、まだまだこれくらいではこらしめが足りぬわ」
かけつけた村役人たちは手を出すどころか、完全に恐怖に射すくめられて、でくのぼうのように立っている。
「こんどは、おれに遊ばしてくれい」
石段に坐っていた五人のうち、青入道の司馬一眼房《しばいちがんぼう》がぬうと立ち上がった。手にぶらさげているのは一メートルばかりの棒状のものであった。
「えやあっ」
怪鳥《けちよう》のごとき声をあげて、彼がそれをうちふるうと同時に、ぴしいっーと虚空でつん裂くようなひびきが鳴りわたって、その棒から黒い紐《ひも》が十数メートルものびた。
たんなる棒ではなかった。それは鞭《むち》であった。
鞭といっても、馬をうつ竹や籐《とう》でつくった鞭ではない。猛獣使いがけものをならす皮鞭である。司馬一眼房がもった一メートルばかりの棒には、ほそい皮の紐がその長さに折りたたまれていたのだ。――距離三メートルの敵ならば、それは三メートルだけのびるだろう。距離七メートルの敵ならば、それは七メートルだけのびるだろう。しかも――
いまその皮の紐は、十数メートルのびて、その距離にあった一頭の馬のくびにからみついたのであった。
馬は、悲鳴をあげた。その皮紐は厚い馬の皮膚に、紐もみえないほどいっきにくいこんだ。とみるや、それはゆるみ、馬が歯をむいて呼吸をしたとたん、またもや、くびもねじきらんばかりにくいこんでいった。
いかなる呼吸が十数メートルの皮紐に脈をうってゆくのであろうか。鞭をつかんだ司馬一眼房は、手くびを異様にくねらせながら、腕そのものはわずかに動かせているばかりだが、微妙な波は皮紐をつたわって、そのさきの対象を、或いはゆるめ、或いはしめあげ、生命あるもののごとく自在に搏動《はくどう》するのであった。
しかしながら、これにからみつかれた生き物の苦しみは、大蛇にまといつかれたよりもなお甚だしい。皮紐に、犠牲者の苦悶そのものを愉《たの》しもうとする邪念があるかにみえるからだ。馬の鼻と口から――いや、眼と耳からさえも血があふれ出した。
突如、紐はとけて空におどった。次の瞬間、皮鞭は、ばしいっと馬のたてがみに鳴って、刃物のようにその頚《くび》のなかばまで斬り裂いていた。
そして、そのつぎに司馬一眼房は、五人の尼僧をひとたばにして、馬そっくりに殺害したのである。
屍山血河とはまさにこのことだ。真っ赤にぬりつぶされた広場には、すでに十九人の尼僧の屍体がつみかさねられ、散乱していた――。
百里の東海道を犬のごとくひかれつつ、しかも毅然《きぜん》としてあたまをあげてあるいてきた堀|主水《もんど》以下の荒武者たちも、いまは腰がぬけたようにぺたりと坐っているばかりであった。さっき七本槍の連中は「この世の地獄を味わわしてやる」といった。まさに、血の風にねばる網膜にうつる光景は、夢魔の世界のものとしか思われない。
ふいに、われにかえった堀主水は、しぼり出すようにいった。
「ゆ、ゆるせ」
血ばしった眼は、七本槍衆にむけられてはいない。凄惨《せいさん》な十九個の屍骸の方にむけられ、もはや一個の蝋《ろう》細工みたいにうごけなくなっている残りの女たちへむけられて、
「いずれ、われらもあとでゆく、堀の一族に生まれたをこの世の不運とあきらめ、い、い、いさぎよう死んでくれ。せめて、堀の一族らしく、侍の女房、娘らしく――」
と、いうと、歯をくいしばり、眼をとじた。二十一人の僧はみな眼をつぶり、石のごとく坐《すわ》って、いっせいに「なむあみだぶつ」を唱えはじめた。
……そういうよりほかはない。まことに念仏をとなえるより、彼らはどうすることもできない。この大虐殺は、魔王といえどもとめることはできないだろう。しかし、とじた眼からながれる涙は、血潮であった。
「これ、眼をあけろ。うぬらの叛逆《はんぎやく》のために死んでゆく女房、娘たちの最後を、夫として、父として、しかと見とどけてやるのが侍としての根性ではないか」
むざん、その堀主水以下のまぶたを、嘲罵《ちようば》の指でひきあけようとする。――酔ったような足どりで出てきたのは、春風に白い髯《ひげ》を吹きなびかせ、鎖鎌《くさりがま》をもった大道寺鉄斎だ。
この骨に皺《しわ》だらけの皮膚のへばりついたような老人も、年甲斐《としがい》もなく、血に酔い、血に浮かれ出したとみえる。
「見ろ」
その腕から、鎖がたばしりながれたと思うと、これまた十数メートルもはなれた馬の眼を、がん、と鉄球がうった。
悲叫をあげ、狂い出した馬は、しかし片眼をたたきつぶされたせいか、血みどろの広場に大きな輪をえがいてかけめぐる。――馬の苦悶をみせるのも、あとにつづく人間の殺戮をみせるための予告篇であった。なるべく堀一族を恐怖させ、苦悩させ、のたうちまわらせるのが、七本槍衆の狙いなのだ。
冷然と、馬の狂奔をみていた鉄斎が、
「では」
と、わめくと、その腕からまたきらめくものがとんだ。
それが分銅でなく、刃わたり二尺ちかい鎌そのものであることがわかったのは、馬の首がいっきにかき斬られたあとであった。首のない馬は、血の滝で大地をうちながらなお十数メートルはしって、どっと屏風《びようぶ》のように横たおしになった。
……大道寺鉄斎が、分銅と鎌でかわるがわるに屠《ほふ》り去った尼僧が四人。
「――あと七人」
と、夢みるようにつぶやいた声がきこえた。前髪に大振袖《おおふりそで》の香炉《こうろ》銀四郎であった。広場に横たわる二十三個の屍体を見わたして、
「ちと、過ぎたな」
と、いう。――これが、ふつうの人間らしい悔いの言葉でないことはすぐにわかった。
「あと七人しかのこっておらぬではないか? まだ、当方は三人あくびしておるというのに」
「いや、三人と三匹だ。もう人間は遠慮せい」
と、具足丈之進《ぐそくじようのしん》もたちあがった。足もとを見おろして、
「待て待て、天丸、地丸、風丸。――いまおまえたちも遊ばせてやるぞ」
三匹の巨大な犬は、まっかなのどを空にむけて、びょうびょうとほえた。
「何をいう、犬のおもちゃには、生きている尼はもったいないわ」
と、わめいたのは鷲《わし》ノ巣廉助《すれんすけ》だ。前につき出した大きな掌《てのひら》の十本の指は、ひくひくと、それぞれ一匹ずつの動物のようにうごめいている。
「三人で七人。……数が合わぬなあ」
銀四郎はまた仔細《しさい》らしくくびをひねった。
「芦名《あしな》銅伯よりつたえられたわれらの武術。……生きておる人間を相手に、これほど大っぴらにつかった機会はないし、これからもこないだろう。どれだけ恐ろしい人間を敵としたか、腹の底から堀一党の奴らに思い知らせてやらねばならぬ。是非とも、われら三人の武術をみせてやりたいが……」
美しい眼を、血の海にひたと坐った七人の女の方へ投げた。美しい眼を――しかし、その顔は、ひたいから鼻ばしらにかけて、赤い絹糸のような刀痕《とうこん》にわけられて、美貌《びぼう》だけにひとに眼を覆わせるようなものがあった。
「お」
と、ふいにその眼を大きくみひらいた。
「偶然だが……若い娘ばかりのこっておるな。しかも、美女ぞろい――」
まだ十七歳のくせに、四十男のような声でいう。じっと七人の女をながめた具足丈之進が「お千絵《ちえ》がおるぞ」とうめいた。
広場に静寂がおちた。日はあくまでもあかるくかがやいているのに、何か、眼をとじていて、ふっと見ひらいたときのような透明な暗さが広場にみちているのは、気のせいか、それとも二十三個の屍骸《しがい》からたちのぼる血の蒸気のせいか。
ほんのいましがた殺戮《さつりく》の嵐の吹きまくったときよりも恐ろしい鬼気が、一帯におちていた。人はすべてうごかない。――加藤家の番卒たちも、かけつけた村役人たちもじっとうごかない。彼らすべてが、すでにこの世のものでない地獄の亡者のようにみえた。
が、るいるいと横たわる屍体よりもなお死者にみえたのは、そこに寂然と坐ってうなだれている七人の女であった。
それも偶然であったろうが、ただひとり頭を青くそった女をのぞき、あとの六人はみな有髪であった。白小袖をきたやさしい肩に、切りそろえた黒髪をかけた娘たちは、春日の下に、なぜか黄昏《たそがれ》に咲く夕顔の花に似た印象をあたえた。
彼女たちは、死を決しているというより、すでに完全に死の世界に入りこんでいる人間のようにみえた。
「主水の娘、お千絵。きゃつ、まだ生きておったか」
「主水の弟、多賀井《たかい》又八郎の女房お沙和《さわ》もおるぞ」
「真鍋《まなべ》小兵衛の娘、さくらもおる」
「お圭《けい》、お品、お鳥、お笛――」
「こりゃおもしろい。なるほど銀四郎の申し分ではないが、みな、会津ではそれぞれ男どもの噂にのぼった美女ばかりではないか」
三人の男は、ひそひそと話した。銀四郎が笑った。
「残りものには福があるとはこのことじゃて。あれならば……あの女たちをゆっくりと愉しみながら殺すことができるならば、たった七人でも不服はなかろう。おい、わしはあのさくらという娘に、ちと惚《ほ》れておったのだ。あれをおれに殺させてくれるなら、あとの六人は二人にまかしてもよいぞ」
「それでは、おれは、お千絵と、さて、あとは――」
と、具足丈之進が指をおりかけると、鷲ノ巣廉助が、
「いや、お千絵はおれにまかせてくれ。おれが、お千絵と、お圭と――」
まるで、膳《ぜん》の上の美食を、まずどれから食おうかと、舌なめずりして相談しているような三人の笑顔であった。
相談はきまった。三人はならんであるき出した。そして、あとに三匹の犬さえも。――それは、死の車がふたたび行進を開始したということであった。
住持の天秀尼、村役人、いや、いかなる人間にもとどめることのできない死神の行進だ。
――三人は、七人の女のまえに仁王立ちになった。
山門の下に、老尼たちに抱きかかえられるようにして立っていた天秀尼は、絶望的な祈りの眼を春の蒼空《そうくう》にあげて――このとき、ふっとその視点が空にとまった。
何かを見るより、天秀尼は、何かの音をきいたのだ。眼を下になげて、天秀尼は、むこうの樹立《こだ》ちをまわってこの広場にちかづいてくる一団の行列をみた。
いまや、ふたたびくりひろげられようとする最後の大虐殺に息をのみ、広場に群れる男たちのことごとくは、ふつうの聴覚も失ったかのごとく、その行列がすべて姿をあらわしても、まだ気がつかなかった。
鷲ノ巣廉助が、ひとりの女のまえでたかく手をあげた。親指だけをまげ、四本の指をそろえてのばして、あの鉄鋲《てつびよう》うった山門さえつらぬきやぶった恐ろしい手を。
「待て」
会津七本|槍《やり》衆のうちで、最初に気がついたのは、一つ目の司馬一眼房であった。
その視線をそばの漆戸虹七郎と平賀孫兵衛と大道寺鉄斎が追い、さらにこの四人の態度に、あとの三人もふりかえった。
青い樹立ちをまわってあらわれた行列は、ぴたりととまった。このときまでの十数分、広場には奇妙な静寂がおちていたので、まさかこのような修羅場が展開していようとは夢にも思わず、シトシトとやってきて、突如眼前に出現したこの言語に絶する凄《すさ》まじい景観に、さすがに息をのんだようである。
ふいに、天秀尼が何か声をあげ、とめる老尼たちの手をふりはらって、石段をかけおりてきた。そして、血の海の広場をつっきって、まろぶようにその行列の方へかけてゆく。
行列は三十人あまり、槍は一本もない。人数のなかばは、身分ありげな女たちであった。それにしてもはなやかさというもののまったくない、地味で質素な一団であったが、そのなかにただひとつ黒い網代《あじろ》の女乗物をつつんでいた。
天秀尼はその乗物のそばにひざまずいて、何かうったえているようだ。
「はてな?」
と、司馬一眼房がくびをひねった。
具足丈之進もしげしげとのぞきこみながら、
「女乗物だな、してみると、よくいって寺|詣《まい》りの大名の奥方か、息女か、いやいや、あの人数ではとうていそこまでゆかぬ。あれではせいぜい旗本だろう。四十万石を背負っているわれらだ。恐れることはない。――廉助、やれ」
香炉銀四郎が、ふりあげた鷲ノ巣廉助の袖をひいた。
「女乗物? 面白い、その女にも、これからとくと見物させろ」
行列はふたたび動きだした、血の池地獄さながらの広場をまっすぐにあるいて、こちらにちかづいてくる。――さすがに立ちすくみ、じっと眼をこらしていた一眼房が、
「やはり、そうだが、奇怪至極」
と、またさけんだ。
「一眼房、何が?」
「さっきから不審に思っていたが、あの乗物にうった金紋をみるがいい。小さいが、あれは五三ノ桐だ」
「なんだと?」
いままで、平然としていた漆戸虹七郎もはじめて片袖をそよがせた。
「五三ノ桐というと――豊臣家の」
そういったとたんに、七人がいっせいに想起したのは、この東慶寺の住持の天秀尼が豊臣秀頼の遺児だということであった。
しかし、豊臣家の血をつたえるものは、この天下に、ただ天秀尼ひとりだけのはずだ。それ以外に絶対に存在しないはずだ。その天秀尼さえも、まさか五三ノ桐の紋はつかわないであろう。この徳川の世に、堂々と五三ノ桐の金紋うった乗物でまかり通るのは、いったいだれなのか?
七本槍衆は、しばし、七人のいけにえを忘れて、その乗物を見まもった。
だれ?……誰? 頭の中でつむじ風のごとく思考をめぐらしたが、思いあたる人間はひとりもない。あるとすれば、狂人だ。
乗物は、彼らの眼前に下ろされた。しかし、その引戸は寂然としてとじられたままである。
老臣らしい侍が、しかし狂人の従者とも思えない粛然たるものごしで、彼らのそばにやってきた。
「この悪虐をほしいままにされたのは、お前さま方じゃな」
「悪虐?」
七本槍衆は顔を見あわせたが、平賀孫兵衛がすぐ傲然《ごうぜん》として、
「そうだ!」
と、いった。
「ただし、悪虐をほしいままにしたわけではない。第一に、これは叛逆者《はんぎやくしや》への成敗である。第二に、これはわれら主君加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》の――」
「その仔細は、あとで承わろう。まず、これらの屍骸をとりかたづけられよ。それから話がある」
「けっ」
と、具足丈之進が猿のような声を出した。
「大名の城にあと足で砂をかけるどころか、鉄砲をうちはなして退転するような謀叛人《むほんにん》は、またと世にあるまいと思っておったら、上には上がある。徳川の天下に五三ノ桐の紋を打った乗物でおし回るとは、狂人、謀叛人、何といってもいい足りぬ。しかも、そんな高慢な口をきくそちらはいったい何者だ」
すると、乗物の中でしずかな声がした。
「修理、わたしが申そう。戸をあけよ」
女の声であった。老臣はひざまずいて、引戸をあけた。侍女が乗物のまえに履物《はきもの》をおいた。
しずかに乗物から出てきたのは、白羽二重の小袖《こそで》に綸子《りんず》のうちかけをきた女人であった。年は四十以下ではないが、しかし年齢を意識させないふしぎな美しさだ。ややふとりぎみの肌は、白いというより透明で、何やら幽冥《ゆうめい》の世界の女人のような気がする。ただ眼だけ深沈として、じっと見すえられると、さすが七本槍衆が面をふせたほどの黒い迫力があった。
いつのまにか、天秀尼もその足もとにひざまずいている。
「わたしは、この天秀尼の母です」
と、女人はしずかにいった。
「――母?」
ややあって、大道寺鉄斎が奇妙な声を出した。そうきいても、まだわからない。みたところ天秀尼と十くらいしかちがわないので、いよいよ不可解だ。
「天秀尼の母――しかし、天秀尼は、豊臣|秀頼《ひでより》公の――」
「左様、わたしは秀頼の妻でありました」
はじめて七人は愕然《がくぜん》としてとびずさっていた。思わず、がくと膝《ひざ》をついていたのである。いっせいにうめいた。
「千姫さま!」
「いかにも、ここにおわすは徳川千姫様」
修理と呼ばれた老臣は、重々しくいった。ひくい声であったが、まわりがしんとしずまりかえっていたので、加藤家の番卒たちは電撃されたようにひざまずいてしまった。
千姫様。
それならば、乗物に五三ノ桐の紋がついていたとしても、まったくあり得ないことではないし、天秀尼の母というのも一理ある。しかし七本槍衆はまだ茫然《ぼうぜん》として、この女人の出現を信じきれない顔つきであった。
彼らといえども、この千姫の若き日の悲劇は知っている。徳川家の政略の犠牲となって、七歳にして豊臣秀頼に嫁し、十九歳にして大坂落城の運命に会った。炎の中から奇蹟《きせき》的に救い出された姫は、その後いちど本多|忠刻《ただとき》に再縁したが、その忠刻も数年にして卒去した。それから十数年。――彼女はまったく世の噂からあとを断った陰の人であった。この女性が生きてまだこの世にあるということさえ、とっさに彼らには意外なことに思われたのである。
まして、いまなお豊臣家の紋をつけるなど不敵なふるまいをし、眼前にみるような異様な迫力をもった女性であろうとは、ただ薄幸のひとという印象をいだいていた人間にとっては、かさねがさね思いがけないことであった。
その千姫は、透きとおるような顔色をうごかしもせずいった。
「この寺に男は足をふみ入れてはならぬ、手をかけてはならぬ――という古くからの寺法を知って、あえてこのような無残をいたしたか」
「あいや」
と、鷲ノ巣廉助は必死にいった。
「拙者どもは会津加藤家の家臣、去年主君に叛逆し退転した堀一族|誅戮《ちゆうりく》のことは、すでに御公儀よりおゆるしを受けておりまする」
「それは堀の男どもであろう」
「さ、左様にはござりますが、高野山に逃げこんだ男どもすらしかり、いわんや――」
「この尼寺はちがう。わしの娘が住持をしておる寺じゃ」
千姫は七人の武士を見すえた。蒼白《あおじろ》い炎のような眼であった。ただひとり、真の恐怖というものを知らぬ少年香炉銀四郎が、猛然と顔をふりあげていった。
「おとがめはあとで受け申す。拙者どもの主人は会津四十万石をかけております。――ここにのこった七人の女、あくまで、ことごとく成敗せずにはおきませぬ。まず、御覧下されい」
殺気の眼をかえす銀四郎と七人の女のあいだに、千姫は音もなくあるいて立ちふさがった。
「待て、お千が相手になろう」
銀四郎はたちすくんだ。千姫の眼の炎がゆれた。
「会津四十万石をかける? おもしろい。かけるがよい。お千はこのいのちをかけて、この尼寺を護《まも》る」
さすがの七本|槍《やり》衆が、とっさに言葉も出なかった。千姫の頬に凄絶《せいぜつ》な片えくぼがよどんだ。
「きくがよい。このお千がいのちをかけた上はの、ただこの尼寺を護《まも》るだけではすまぬぞよ。――あそこに捕われておる男どもも、この場で解き放ってつかわすが、よいか」
「あ――」
と、七人はさけんだ。あきらかに狼狽《ろうばい》した。具足丈之進がいった。
「あれは、将軍家のおゆるしを得て――」
「たとえ、将軍家の御意にそむこうと」
冷然といった。七人の武士は完全に黙りこんでしまった。
いうまでもなくこの千姫は、将軍家の姉君である。しかし、彼らを沈黙させたのは、この千姫が何をやり出すかわからない、実に容易ならぬ女性だという恐れの予感であった。――もし、その通り、あの堀主水以下の縄をとき、彼女が五三ノ桐の紋をつけた白綸子の袖にかばいこんでしまったら、たとえここで女どもを幾人殺そうと、彼らにとって本末転倒の誤算とならざるを得ない。
――あとひとひねりというところで、とんだ邪魔が入ったが。
――相手がわるい。
――この場合、ひとまず旗をまくより手がなかろう。
――やむを得ぬわ。
司馬一眼房と大道寺鉄斎が、まず眼と眼で話しあった。一決したとなると、無鉄砲な銀四郎などにまたこわさしらずの言葉を吐かれて、この上ともに風波をまねくのは愚かだ。
「恐れ入ってござります」
がばとふたりが平伏すると、つられてあとの五人も両腕をついてしまった。もっとも、漆戸虹七郎だけは一本腕だが。
「待ちゃ」
頬ひきつらせつつ、するするとさがってゆく七人の武士を、千姫はよびとめた。
「おまえたちが殺《あや》めたこの無残な仏たち、殺めたおまえたちが片づけよ」
「片づける、どこへ?」
「東慶寺の中へじゃ。男子禁制の寺なれど、このたびだけはとくにわたしがゆるす。ただし、おまえたちだけであるぞ。余の番卒どもは相ならぬ」
あっと思ったが、すでに、あらゆる点で七本槍衆は千姫におしひしがれていた。
――やがて、殺戮者《さつりくしや》たちの恐ろしいお百度参りがはじまった。たんに二十三体の屍骸《しがい》ではない。それは花弁をちらした血の花束であった。すべて、彼らがやってのけたことだ。ひたいからあぶら汗をしたたらせ、歯をかちかち鳴らしつつ、石段を上下しているのは、しかし悔いでも怖れでもなく、怒りと恥辱のためであった。
地獄の苦役にしたがう亡者のようなその姿をながめて、
「天樹院《てんじゆいん》さま」
と、声ふるわせて天秀尼はいった。
「あのものども、あれだけでゆるしてやるのでございますか」
千姫はこたえず、死骸をはこぶ七人の男をふりかえりもせず、広場のまんなかに眼をむけていた。
間一髪で死の運命からひきもどされた虚脱のせいか、それともなおそれまでの大虐殺に心が死んでしまったのか、七人の女は、最初とおなじようにひとかたまりになってうなだれて、身動きひとつせず、しーんとそこに坐《すわ》っているのであった。
千姫はようやくわれにかえった。
「あの七人の悪鬼をゆるす?」
しばらくかんがえて、これまた放心したように坐っている堀一族の僧たちをふりかえって、
「左様、七人の男は、あの罪人たちを江戸へ護送する用があるのじゃな」
「江戸へゆけば、あの僧たちも殺されます」
「それは将軍家のおゆるしなされたことじゃ」
「では、わたしどもはどうすることもなりませぬか」
「今はのう」
千姫は沈痛な声でいった。
「いったん幕命によって罪人とされた者を、わたしたちがほしいままに解き放っては、御公儀のしめしがつくまい。とくに将軍家がわたしの弟であるだけに、それはこの際ひかえたい。……もとより、そのようなむごい扱いのことは、わたしより将軍に申しあげておこう。それによって彼らの運命が変るか、変らぬか、それは御公儀のお心ひとつじゃ。すべては、わたしが江戸にかえってからのこと」
このとき堀主水が、しぼり出すようにしてさけんだ。
「かたじけのうござる、か、か、かたじけのうござる」
むろん、千姫の声をきいたわけではない。彼はおのれのことより、助けられた七人の女たちのことをいっているのであった。
「われら、江戸にていかなる死にざまをとげましょうと、冥土まで御恩のほどは忘れ申さぬ」
千姫は山門をふりあおいだ。山門の扉はぱっくりと口をあけたままだ。
「しかし」
と、くびをふって、
「いまだかつて破られたことのないあの女人の門を破った男どもは」
はじめて、よく透る声でさけんだ。
「かならず女人の手によって罰が下されよう」
そして、しずかにあるき出して、七人の女のそばにちかづいた。
「心がたしかなら、きくがよい。思うところあって、わたしはあの悪鬼どもをこのままこの場を立ち去らせたい」
七人の女は顔をあげた。虚脱したのでも喪心したのでもない十四の黒い眼が、異様なひかりをたたえて千姫を見つめた。
「あえて彼らを見のがしたいわたしの心がわかるか」
「――わかりまする」
と、お千絵がいった。一刻まえとは別人のような、乾いた声であった。
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修羅の巷へ
ここでちょっとこの物語の発端たる鎌倉東慶寺《かまくらとうけいじ》について書いておきたい。
山号は松岡山《しようこうざん》、寺号は、正確にいうと、東慶総持禅寺という。弘安《こうあん》八年、北条時宗《ほうじようときむね》夫人|覚山尼《かくさんに》の開創になるものである。
文永《ぶんえい》十一年および弘安四年、再度にわたる元寇《げんこう》の国難に心血をしぼりつくした執権北条時宗は、弘安七年、三十四歳の若さで歿《ぼつ》した。夫人はただちに落髪して、仏門に入った。覚山志道大師という。
東慶寺はその翌年、この覚山尼によってひらかれたのであるが、覚山尼はたんに夫の菩提《ぼだい》をとむらうだけでなく、古今に類のない独特の寺法をたてた。
苦難薄幸の女人は、罪人であっても、この寺に入れば広大無辺の慈悲の袖《そで》にかばいぬかれるというのである。これは彼女が、鎌倉の覇権をめぐる男たちの修羅の争いをいくどかみて、そのたびにいくたの罪なき女人がまきこまれ、その犠牲者となる悲劇に心をうたれたからであろう。同時に覚山尼は、女の悲劇は、男性の横暴そのものによることが多いことを見ぬいて、わが子たる執権|貞時《さだとき》に願い出た。
寺の由緒書にいう。――
「覚山尼、貞時へ願われ候は、出家の身ながら女のことに候えば、利益《りやく》の種もこれなし。しかるに女と申すものは、不法の男にも身をまかせ候ことも尋常に候えば、ことにより女のせまき心よりふとよこしまの心さしつめたることにて自殺などいたし候者これあり、ふびんのことに候あいだ、右様の者これあり候節は、三か年のうち当寺へ召しかかえおき、なにとぞ夫の縁をきり、身ままにいたし存命つかまつらせ候寺法に相きわめたき段、願われ候」
貞時は、とくにこれを勅許をあおいで、母たる尼公の望みをかなえた。
この寺に駈《か》け込めば、横暴な夫はもとより、いかなる権力の手もおよばぬ。――これが後年、東慶寺を、駈込寺、あるいは縁切寺として有名たらしめた由来である。
東慶寺の門に一歩でも足をふみ入れれば、もはや追手はどうすることもできない。危急の場合は、草履をぽんと門内になげこんだだけでも、ただちに寺法が発動したといわれる。
「縁なき衆生を済度する松ケ岡」
「縁きるにゃ鎌倉殿が後立て」
「鎌倉の厳命にしたがい離縁」
「松風の音で寄手を吹きもどし」
「くやしくば尋ねきてみよ松ケ岡」
「松ケ岡男の意地をつぶす所」
これら、のちの世の川柳は、東慶寺の権威をいかんなく物語っている。いまの家庭裁判所にくらべ、この一刀両断的な処置による悲喜劇はむろんさまざまあったろうが、しかし封建時代にはやむをえぬ、そしてはるかに効果絶大な女人救済の機関であったにちがいない。
初代の覚山尼につづき、東慶寺の住持は代々名門の後室ないし姫君であった。
代々の住持のなかでも、いかにもこの女の城の城主にふさわしい逸話をのこしているのが、三世の清沢尼である。
清沢尼は、元弘の乱に討死した桜田貞国の後室であったが、絶世の美貌《びぼう》は花のごとく、これに恋着した一剣客が道に待ち伏せ、刀をもって彼女にせまった。清沢尼は手にした紙片を巻いて、相手の眼頭につきつけた。このとき尼の全身は紙刀に没却して一寸のすきもなく、剣客は恐怖してのがれ去ろうとした。その刹那《せつな》、尼一喝して紙刀をもってこれを撃ったところ、剣客は泡をふいて悶絶《もんぜつ》したという。――
この尼寺の権威は、北条、足利《あしかが》、さらに戦国の乱世にあってさえ、よく保たれた。そして、二十世の住持が、天秀|法泰《ほうたい》尼、すなわち豊臣|秀頼《ひでより》の娘であった。
大坂落城のとき、彼女はわずか七歳であった。八歳の兄国松とともに捕えられ、国松は六条河原で首うたれたが、彼女はゆるされてこの尼寺に入った。このとき家康が、
「なんぞ願いのすじがあらば、心おきなく申さるべし」
と、やさしく問いかけたとき、七歳の小尼僧に代って、
「開山以来の寺法断絶なく、ながく相立てばこれにすぎた願いはありませぬ」
と、挨拶《あいさつ》したのは、千姫であった。
千姫はこのとき十九歳である。もとより天秀尼と血のつながりはない。千姫自身には子がなかった。天秀尼の母は、秀頼の愛妾《あいしよう》のひとりで、素姓は成田五兵衛助直という武士の娘である。しかし、千姫はおなじ薄幸の子たる幼女を、じぶんの養女として後見した。これは豊臣家をほろぼした祖父家康に対する意地でもあった。
さすが鉄血の大御所も、実のところ天秀尼はふびんに思っている。まして、おのれの野心の犠牲者たることに於て、天秀尼におとらぬ千姫の願いである。
家康はうなずいた。はじめ、正直なところ、天秀尼をこの尼寺へ入れたのは、ていのいい監禁のつもりであったが、このときの千姫への大御所の約諾によって、この尼寺も天秀尼も、幕府にとって特別の重みをもつ存在となったのである。――しかし、このいきさつは、東慶寺になんの関係もない人間には、ほとんど知られていない。
それから二十七年。――
この東慶寺を、たんなる尼寺、たとえ男子禁制女人救済の寺法を承知していようと、草ぶかい鎌倉に苔《こけ》むす野仏同然の寺と思い、亡家の遺孤が住持であるだけにいっそう見下した会津《あいづ》七本|槍《やり》衆は、軽率といおうか、凶暴といおうか、その男子禁制の山門を文字通り土足でふみやぶり、三百数十年、女人を護《まも》りつづけた寺法を血で染めたのであった。
その惨劇から十日ばかりののち、網代笠《あじろがさ》をかぶった雲水と、深編笠をつけた武士のふたりづれが、東慶寺の石段をのぼっていった。
「老師」
と、石段をのぼりながら、深編笠の武士が呼ぶ。
さきに立った雲水は、もう山門の下について、それには返事もせずしげしげとその扉をながめながら、
「なるほど、これか」
と、つぶやいた。
あれから十日ばかりたっているというのに、山門はまだぱっくりと三角形の大きな穴をあけたままだ。この破壊ぶりでは、なまじな修繕はきかず、扉ぜんぶをかえなくてはなるまいが、かつて駿河《するが》五十万石の城門であっただけに、おいそれとかわりは見つかるまい。しかし、応急のつくろいさえもしていないということは、あれ以来この寺をとらえているふかい愁いが、まだ門のことなどをかえりみるいとまもないということをあらわしていた。
「この穴をな、素手で突き、足で蹴《け》ってあけたというぞ」
「拳法《けんぽう》でしょうな」
「陳元贇《ちんげんぴん》のながれをくむ者か?」
陳元贇とは当時|明《みん》から来朝して江戸にあり、精妙きわまる少林寺拳法を披露して、日本の兵法者たちの眼を見はらせた人物である。
「いや、陳元贇が会津者に指南したという話は聞いたことがありませぬ。何せ、拳法は達磨《だるま》大師以来のものと申しますから、陳元贇をまたずとも、古くより日本に伝わり、どこかの深山秘峡で練りあげられた一派があるとかんがえることもできましょう」
深編笠の武士は、そこでもういちど、
「ところで、老師」
と呼んだ。
「拙者、尼寺にはいるのははじめてでござるが」
「わしも、はじめてよ」
「いや、老師は、お年もお年、それに千姫さまよりのお呼びにてお越しゆえ仔細《しさい》はありますまいが、拙者が入ってよろしいのか」
「ふふ、お前さんらしくもない、えらくしりごみしておるの」
「何なら、拙者この門前で待っておってもよろしいが」
「とか何とかいって、何やらたのしそうな顔をしておるぞ」
「いや、これはどうも」
「なあに、見るとおり、穴をあけられた生《き》娘よ。もう男の二人や三人入れたところでおなじことじゃて」
坊さまらしくもない冗談をいう。
ふたりはからからと笑いながら、笠をとった。雲水は、あたまはつるつるに禿《は》げて、白い髯《ひげ》をはやした老僧であった。武士の方は三十四、五歳。彫刻的な男らしい容貌の所有者であったが、右眼は糸のようにとじられたままだ。
「頼もう」
老僧がわれ鐘のようにわめくと、鈴の音がして、門番が走ってきた。
「天樹院さまお召しにより、江戸東海寺の沢庵《たくあん》が参ったとお伝えを願う」
「沢庵さま」
門番は、あわてて破れた山門の扉をあけた。かねてから通じてあったとみえるが、そのせいばかりでもなく、まるで男女の性別を超越したひとが舞い下ってきたように地にひざをついて、
「千姫さま、お待ちかねでござります。……どうやら、御仏殿においでのようで」
と、いうと、鈴を鳴らしながらさきに立った。沢庵の同伴者のことなど念頭にない風情である。
宗彭《そうほう》沢庵、このとき七十一歳、とうていその年齢にはみえぬ元気さだ。また江戸品川の万松山東海寺の開山として将軍家光の帰依があつく、また天皇から国師号を賜わらんとして固辞したこともある高僧とも思われぬ洒脱《しやだつ》さである。
「ほう、尼寺にしてはなかなか豪勢なものでござるな」
「おまえ、知らぬか。いまの山門をはじめ、方丈や仏殿、主だった建物はみな駿河のお城から移してきたものじゃから、それも道理よ」
あるきながら、ふたりは話している。地をうごいてゆく黒い影を、燕《つばめ》がかすめてとぶ。
「それを承知であばれこみ、尼をなんと二十三人も殺《あや》めたというのだから、ふつうの奴らではない。従って、ふつうの人間には、ちょっと手におえぬ。まず、おまえさんくらいだな」
「いや、いくら私でも、そんなむちゃはやりませぬ」
武士は苦笑した。
「なに、将軍家をぶちのめしたこともあるおまえだ。いい相手だよ」
「あれは拙者の若いころの話です」
門番は、はじめて武士の存在に気づいたように、ちらとふりかえった。何といわっしゃった。将軍さまをぶちのめしたおひとじゃと?
身なりからして大身と思われるが、しかしどこか浪人めいた奔放|不羈《ふき》な野性の匂いがある。声はものしずかだが、眼には異様な凄《すご》みがある。つぶれた右眼のうすきみ悪さもさることながら、苦笑している左眼のひかりが、ただ者でないのだ。しかし、尼寺の門番には、この武士が何者か、ついに判断はつかなかった。
「とにかく、千姫さまの御書状をいただいたとき、これはおまえの役割りだと、すぐあたまに浮かんだのだよ。きょう招かれてこの寺にきたのはわしではなく、ほんとうはおまえさんだといってよい」
彼らは石だたみをふんでいって、仏殿についた。二層の青い屋根をぴんとそりかえらせた巨大な建物だ。――彼らはしずかに中に入っていった。
外はもう春というより初夏にちかい日ざしなのに、仏殿のなかはうす暗い。ひえびえとして、蒼《あお》い香煙がみちていた。仏壇にはおびただしい位牌《ひはい》が安置されて、そのまえに白い影のむれがひれ伏していた。
明るいところから入ってきた沢庵と武士は、しばらく眼がなれるまで、入口に立っていた。やがて、武士がつぶやいた。
「四十四」
位牌の数だ。
ぬかずいている七人の女の横に正座していた千姫と天秀尼が、ちらとこちらを見た。
「禅師、遠路大儀です」
沢庵と武士はひざまずいたが、しかし挨拶よりさきに、沢庵はふしぎそうにいった。
「天樹院さま、位牌が四十四とは?」
「さればです。江戸へひかれていった堀|主水《もんど》をはじめ二十一人、すべて殺されたそうな」
「ほう。やはり」
「ひそかに人をやって探らせてわかったことです。加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》は、七本槍の男どもからこの東慶寺へ乱入したことをきくやいなや、その件で公儀から何かと申してくることをおもんばかり、面倒の起らぬうちにと、すぐに堀一族の仕置をはじめたとやら」
「…………」
「それも切腹、打ち首ではない。はりつけ、火あぶりですらない。なるべく苦しみがながいようにと、三日にわたり、手足の指を一本ずつ斬っていって、それを酒をのみながら見物したそうな。まだ愛らしい少年僧もいたというのに、この所業が人間といえようか」
「…………」
「しかも、東慶寺乱入の報告をうけて、式部少輔は七本槍に、大きな声では申せぬが、うぬら、ようした、と嘉賞《かしよう》のことばをあたえたそうな」
仏殿のなかは、それっきり沈黙がおちた。沢庵はもはや通常の挨拶をすることも忘れてしまった。静寂のなかに凍りつくような女人の怒り、恨み、哀しみが、むしろ男たちの軍議の席より凄壮《せいそう》な鬼気で、沢庵の面を吹いたのだ。
ややあって、千姫はいった。
「もとより、それをきかぬうちから――ただこの尼寺に狼藉《ろうぜき》をはたらいたことだけでも、加藤家の奴ばらをゆるしてはおけぬとわたしはかんがえておった。この天秀尼はわたしの娘、それが護るこの女の城を血に染めただけでも、その罰をあたえてやらねばならぬと決心しておった」
もともと気性のはげしい千姫なのである。それは若い日に、いのちをしぼるような苛烈《かれつ》な苦悩をなめた過去からはぐくまれたものであろうか。
いまは江戸城竹橋御門内に天樹院としてひそと住み、めったにそこから出ることもないが、出れば堂々と豊臣家の定紋つけた乗物で出る。大坂の城をおちてから、いちどは本多家に再婚したものの、年をへるにしたがって、やはりじぶんのいのちは大坂城の炎とともに終ったという感慨がそんな行動をとらせるのか、それとも、じぶんの生涯を圧殺した徳川宗家への反感が、そんな不敵なかたちをとってあらわれるのか。
彼女はひくい声でいう――
「むろん、将軍家へわたしから訴えたならば、将軍家も知らぬ顔はなさるまい」
それはそうだろう、と沢庵はかんがえる。だから、なぜ千姫さまがそうしないで、じぶんに妙な依頼をしてきたのか、はじめしばらく腑《ふ》におちかねたくらいだ。
「しかし、わたしはそうはせぬ」
かつて、将軍となるやいなや諸大名をあつめて、
「天下草創のころ、なんじらの助力をうけた祖父や父と異り、余は生まれながらの将軍である。さればによって、向後はなんじらを左様にとり扱う。われに臣礼をとることを得心せぬ向きがあらば、いまのうちに如何ようとも了簡《りようけん》せよ」
と叱咤《しつた》して三百諸侯を慴伏《しようふく》させた徳川家光、この誇りたかき将軍家が、この世にただひとり頭のあがらぬ者があるとすれば、それは天樹院さまであろうと沢庵はかんがえる。徳川がその天下をとるために、女として最大の犠牲をはらった姉の悲劇に、いかに将軍が同情しているかは、一、二度、何かのはずみで千姫さまのことが話題に出たとき、将軍の眼に涙がうかんだのを沢庵はみたことがあるからだ。
しかし――
「将軍家には願うまい。むしろ御公儀より加藤家におとがめがあるようならば、わたしはそれをさしとめたい」
と、千姫は妖《あや》しくひかる眼をすえていうのであった。
「なぜならば、この女の城をけがした奴ばらを成敗するのに、男の力はかりとうない。また、この女たちとしても、あのけものどもに罪の恐ろしさを思い知らせるのに、公儀の介入はかえって迷惑であろう」
沢庵は、うす闇にうかぶ蝋面《ろうめん》のような七つの顔をみて、背に冷たいものがはしるのをおぼえた。みれば、みな美しい、やさしい、可憐《かれん》ですらある。その女たちの顔が、凄惨ともいうべき蒼白い燐光《りんこう》にふちどられているようなのだ。
「よいか、禅師、この寺を荒らした七匹のけだものは、かならず女の手によって討ち果し、そのはてに会津四十万石をたたきつぶしてくれようぞ」
千姫は凛然《りんぜん》としていった。そして、七人の女をふりかえって、
「もとより、わたしがいうまでもなく、この女人たちはその覚悟でおる。……そなたたち、これはふだんわたしの帰依する江戸東海寺の沢庵禅師じゃ。名を名乗って挨拶《あいさつ》しやい」
女たちは、すきとおるような声で名乗った。
「堀主水の娘お千絵《ちえ》でございます」
「主水弟、真鍋《まなべ》小兵衛の娘さくらでございます」
「おなじく主水の弟、多賀井《たかい》又八郎の妻|沙和《さわ》でございます」
「主水の縁につながる板倉不伝の娘お鳥でございます」
「堀家の家来|稲葉《いなば》十三郎の妻お圭《けい》でございます」
「おなじく金丸半作の女房お品でございます」
ここまでは有髪の女たちであったが、ただひとりあたまを青く剃《そ》った小坊主が、それこそ少年僧のように歯をくいしばって、
「お千絵さまの婢《はしため》お笛ですっ」
と、さけんだ。それから彼女はなおつづけて、その名の笛のような声をはりあげた。
「でも、天樹院さま、この皺《しわ》だらけの坊さまでも男は男、なぜ男の坊さまをお呼びになったのですか」
「さりながら」
と、千姫は急に声をしずめた。
「わたしも、女どもも、男の力をひとりもかりとうない心はやまやまながら」
また何かさけび出そうとするお笛を眼でおさえて千姫はいった。
「敵の男たちはいずれも常人ならぬ恐ろしいものども、御坊にさしあげた文にあるように、七本槍衆のひとり、鷲《わし》ノ巣廉助《すれんすけ》は、剛力無双、しかも素手と素足で鉄鋲《てつぴよう》打った山門さえも破るような奴」
「…………」
「平賀孫兵衛とやらは、槍《やり》をもたせては魔神のような男、漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》は片腕ながら悪鬼のごとき剣人」
「…………」
「具足丈之進《ぐそくじようのしん》なる男は、獅子《しし》ともみえる三匹の犬を手足のようにうごかし、司馬一眼房《しばいちがんぼう》は変通自在の鞭《むち》をあやつり、大道寺鉄斎はくさり鎌の達人ときく」
「…………」
「さらに香炉《こうろ》銀四郎という少年は奇怪な網をなげて、霞《かすみ》のごとく人を封じこめてしまうそうな」
「…………」
「のみならず、彼らの背後には、彼らをそこまで鍛えた芦名《あしな》銅伯という老人と、公儀のとがめすらものともせぬかにみえる凶暴無残の会津四十万石がひかえているのじゃ」
「なるほど」
と、沢庵ははじめてうなずいた。千姫は胸で両手をもみねじった。
「いかに恨みはふかくとも、まともにたちむかえばこの七人の女人は、竜車にむかう蟷螂《とうろう》の斧《おの》にもあたるまい」
「天樹院さま、わたしたちのいのちは、もはや何でもありませぬ」
と、お圭がいった。いかにも人妻らしいしとやかな顔だちに、涙をうかべ、りんとしていう。
「敵を討つ身が返り討ちになっては、向うの思う壷《つぼ》ではないか。はやってはならぬ。自暴自棄になってはならぬ。身をおしみ、いのちをおしみ、石にかじりついてもこの本懐はとげねばならぬ」
と、千姫はつよくくびをふっていった。
「そなたらも武士の妻や娘、一応の武芸の手ほどきはうけたであろうが、もとより尋常のことではあの男どもに歯はたつまい。それゆえ……不本意ながら、この禅師におたのみしたのじゃ。この坊さまは、坊さまどうしより剣客、兵法者とのつきあいのふかいお方ときく。それでわたしは、きょうまでそなたらをおさえ、禅師に願うて、ただひとり、たったひとりだけ、そなたらを敵の討てる女にしたてるための師匠をえらんでつれてきて下されと申してやったのじゃ……」
千姫は沢庵のそばに坐《すわ》っている男をみた。その男は青いあごを片手でなぜながら、片眼でぽかんと天井をながめていた。不敵なような、あてにならぬような顔つきだ。
沢庵がかえりみた。
「どうじゃ。わしがおまえをつれてきた事の次第、わかったか」
「わかりました。道中、老師のお話だけでは、ちと腑におちぬふしもござったが……いや、面白うござる」
と、武士は片眼を笑わせたが、つぎに吐いた言葉は、はなはだ無遠慮なものであった。
「しかし、承わったところ、いまみるところでは、この女人たちをこれから百年指南しても、その七本槍とやらの相手になれようとは思いませぬな」
「何といいやる」
天秀尼がきっとしてさけんだ。片眼の武士は冷然という。
「ただいまのお話だけでも、敵の面々は実に容易ならぬ奴ら、思うに彼らの武術がそれまでに達するには、汗血をしぼる修行をしたに相違ござらぬ。彼らのうちには片腕の男、また少年にして面貌《めんぼう》をふたつにわける刀痕《とうこん》をもつ者もあるというではありませぬか、おそらくそれは彼らの、この世のものとも思われぬ修行によるものと存ぜられます」
「おまえとおなじことじゃな」
と、沢庵がじろりと武士の隻眼をみて、
「おまえの眼も、父に斬られたものであったの」
「そのようなものどもを相手に、この蛾眉《がび》細腰の美女連をいまさらいかに仕込んだとて」
しいんと凍りつくような仏殿の中に、武士はからからと笑った。しかし、その嘲笑《ちようしよう》に奇妙な明るさがある。
千姫が何かいおうとしてひざをすすめるよりはやく、七人の女のうちから黒い蝶《ちよう》みたいに飛び立ってきたものがある。ただひとり、あたまを青く剃った尼僧だ。
あっというまもなく、彼女はピシャリとその武士の横ッ面を平手打ちにした。
「わたしたちのだれがおまえに仕込んでくれとたのんだ」
たしかお千絵の婢お笛と名乗った娘であった。顔をまっかにして、
「敵はわたしたち女だけで討ってみせる。それほどあのけだものどもがこわいなら、ただしっぽをまいてお帰り」
「笛」
と、お千絵が叱《しか》った。そして光る眼で武士を見た。
「おゆるし下さいまし、気みじかな愚かものでございます。……けれど、笛の申すとおり、どうぞわたしどもにおかまい下されませぬよう」
「禅師」
と、千姫が声をかけた。
「その侍は、いったい何と申すものか」
「いや。これは愚僧としたことが、この場のなりゆきにまぎれて、かんじんなことを失念」
と、沢庵はあわてた。
「これは、柳生但馬守《やぎゆうたじまのかみ》の嫡男」
「おお、では、これがあの――」
「十兵衛めにござります」
では、これがあの――と、いったところをみると、浮世から、すくなくともいままでは修羅の浮世から、まったく思いを断ったかにみえた天樹院も、その名はきいていたとみえる。
柳生十兵衛|三厳《みつよし》。
ただ剣聖柳生但馬守の嫡男というだけで、その名を彼女が知っているはずがない。はやくから父にまさる天才児としてきこえ、しかも、無頼の放浪性があって、将軍家指南番という役目にはおさまりかねる風来坊的な性向や行状のうわさが、いつしか彼女の耳にもとどいていたのにちがいなかった。
千姫は、あらためて、隻眼の剣客の姿を見まもった。
「弱虫、ゆけ、消えないか」
と、お笛はまた十兵衛をののしった。その名をきいても、ほかの会津の女たちにもなんの色もみえなかった。まったく柳生十兵衛なる人間について知らないのだからむりもない。
「ほう」
十兵衛はお笛をみあげて、口をとがらせ、にやりと笑った。
「おまえは、強いな。――おまえだけは、例外」
「十兵衛」
と、千姫がいった。
「そなたは敵の恐ろしさをいう、恐ろしい敵なればこそ、そなたにきてもらったとは、先刻わたしがいったことではないかえ」
「ただ修行のみならず、会津七本槍とやら申す奴らは」
と、十兵衛は、顔をお笛から千姫にもどして、しずかにいう。さっきのつづきだ。
「おそらく彼らの武術は、刀にせよ、槍にせよ、また、鞭《むち》、網、くさり鎌、ことごとくいまだ世に知られぬ流派にて、彼ら一党の家につたわる門外不出の秘法と心得ます。のみならず、彼らの天稟《てんぴん》の血そのものが、それらの武芸をつたえるために、一族同志ないまぜられたものではないかとさえ思われます」
「……しかし、そなたはさっき、面白いというた」
たまりかねて、天秀尼もひざをすすめた。
「七本槍衆のことをきいたとき、面白うござる、といったのは、どのようなつもりで申したのか」
「お話承わり、左様な化物どもが相手では、あるいは拙者もあぶないな、と思われたのが面白うて。――それが第一」
「…………」
「第二には、これらかよわき女人の鵜匠《うじよう》となるのが面白うござる」
けろりとしていった。千姫と天秀尼は声をそろえてさけんだ。
「では、十兵衛、ひきうけてくれやるか」
「かよわき女人――そこな尼どのだけは除きます。この尼どのだけは豪傑でござるが」
十兵衛は、愛くるしい小坊主みたいなお笛をみて、またにやにやと笑った。
「いずれも美女ばかりなのが、いよいよ以《もつ》て欣快《きんかい》至極。ようみな髪をのこされたな。これが坊主ばかりであったら、いささか嘆かわしいが――いや、たとえつるつる坊主であればとて、この尼どのも美人に相違はござらん」
「あのような恐ろしいことが見舞おうとは思わなかったのじゃ」
と、天秀尼はいった。
「堀一族からこの本人たちをあずけられたとき、まさか加藤家があれほど理不尽な、執念ぶかい討手をよこすとは知らなんだゆえ、年老いた女はべつとして、うら若いひとびとは、ここで一生尼にするにはあまりにふびんと思い、わざと髪をのこさせて、しばらく念のためかくもうだけのつもりで置いたのじゃが」
ただ縁切り志願の駈込《かけこ》み女が大半となった後世の東慶寺でも、
「松風を有髪の尼で三とせきき」という川柳があるように、かならずしもここに入ったものすべてが剃髪《ていはつ》したわけではなかった。まして縁切りのみならず、いかなる原因であろうと、広く苦しみ悩む女人を受け入れていたこのころの東慶寺では、いわゆる有髪の尼はさらにめずらしくなかった。
「しかし、十兵衛」
と、千姫は不安そうな声でいった。
「この女たちが美しいと――それがうれしいのみで引受けてくれてもこまるぞえ」
「もとより、みな殺します」
「え――」
「この女人たち、ことごとく死んでもらうのでござる」
はっとした。千姫と天秀尼の顔は一瞬に蒼《あお》ざめた。七人の女を見すえた柳生十兵衛の隻眼は、異様なひかりをおびてきた。
「よいか、死なねばこの敵は討てぬぞ。天樹院さま御諚《ごじよう》により柳生十兵衛後見いたすが、決しておれは手を下さぬ。あえてそなたらを修羅の巷《ちまた》へ下し、死地におとす、そのつもりにておってくれよ」
柔かい七つの胸に、鉄のくさびをうちこむような声であった。
七人の女は顔をあげた。ようやくこの片眼の男がただものでないということが感得されたようである。しずかにお千絵がいった。
「はじめから左様に申しました。みな死ぬつもりでおりまする」
「いのちだけではない。操《みさお》も捨てろ」
七人の女の面から血の気がひいたが、やがてみなこっくりとうなずいた。十兵衛はにやりと笑った。
「その覚悟であれば、及ばずながら拙者が兵法を指南いたす。――いや、剣法ではない。剣法はもはや追いつかん。軍学を教える」
「軍学?」
「あの化物を討つには、武芸よりも、孫子流、孔明流、楠《くすのき》流、甲州流、真田《さなだ》流、以て一丸とした軍学の方が適当だろう。……そのためには」
と、ふと天秀尼を見やって、
「尼公さま、しばらく拙者当寺に滞在して、この女人たちに軍学の講義をいたしまするが、よろしゅうござりましょうか」
天秀尼の顔にちょっと惑いのかげがさしたが、すぐにうなずいた。
「こちらでたのんだことです。男子禁制の寺なれど、この際やむを得まい。ただ……そなたの腰に、この寺におるかぎり鈴をつけてもらわねばならぬが」
「鈴?」
と、十兵衛はけげんな顔をしたが、すぐに微笑した。じぶんたちをこの仏殿に案内してきた門番が腰に鈴をつけていたのを思い出したのである。男来る――と、尼たちに警報の音をつたえる鈴だ。
「結構です」
やがて、鈴がはこばれて、十兵衛の腰にとりつけられた。
「謀《はかりごと》は密なるを以てよしとす……しばらく、この七人の女人と語りあいたい。とくに会津七本槍衆につき、もっと詳しいことを知りたい。どこか、べつの場所はござるまいか」
と、十兵衛がいう。天秀尼が、
「ならば、方丈へでも」
といいかけると、お千絵がいった。
「それより、裏山の杉林はいかがでございましょうか」
「それそれ、そこがよろしい。では」
十兵衛が立つと、七人の女がそれに従う。腰の鈴を鳴らし、仏殿を出てゆく姿を見おくってから、沢庵は苦笑した。
「将軍家指南の役には顔をしかめた奴が、えらく満悦したつらをしよる」
「禅師、大丈夫でありましょうか」
と、天秀尼が気がかりそうにいった。
「何がでござります」
「あの男に、七人の女をゆだねて、――ときどき不謹慎なことを申すようじゃが」
「まず、たいていは」
と、沢庵の返事も少々心もとない。
「一万二千五百石のあとつぎにしてはいささか奔放無頼の男でござるが、あれで存外しゃんとしたところもあります」
千姫もくびをかしげた。
「禅師、それにしても、あの男にまかせて、ほんとうに敵を討てるであろうか」
「まず、たいていは」
と、沢庵の返答はこれまた飄々《ひようひよう》としている。
「その一万二千五百石、将軍家指南番のあとをつぐのをいやがって、弟の宗冬《むねふゆ》にゆずり、おのれはどこかへ――大自然の山河へにげこみたがっておる男、しからずんば屍山《しざん》血河の世界へ身をなげることを夢想して、そのほかに生き甲斐《がい》はないと、毎日|髭《ひげ》をぬいてたいくつがっておった男、あの十兵衛ほど、この役にあてはまった人間はござるまい」
初夏の日を蒼くそめる美しい杉林のなかを十兵衛につづいてあるいていった七人の女のうち、ふっとお笛が気がついて顔をあげた。
「お千絵さま」
顔色をかえてささやいた。
「あのひとの……鈴が鳴っておりませぬ」
七人の女はぎょっとした。熊笹《くまざさ》の中の細道を、さっさとあるいてゆく十兵衛の腰に、鈴はゆれながら、まさに沈黙している。
柳生十兵衛はふりむいて、にやりと片えくぼを彫った。
「ははは、気にかかるか、女豪傑」
同時に、腰の鈴は、もとどおり鳴りさやぎはじめた。
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蛇ノ目は七つ
この庭園は、先代の嘉明《よしあき》が、茶友の小堀|遠江守《とおとうみのかみ》にゆだねて作らせたものという。築山、泉水、石、樹々、もとはたしかに大名屋敷のうちでもきこえた名園であったろう。
しかし、いまは築山はくずれ、泉はにごり、蓬々《ほうほう》たる草に石も樹々もうずまって、遠州《えんしゆう》流の面影もとどめない。まるで住人がいないかのような荒れぶりだが、これでも何百人かの人間はちゃんと住んでいるのである。これは主人の心の荒廃をそのまま映しているとしかいいようがない。――陰気な雨のなかに、朝というのに、草木はすえたような匂いをたちのぼらせていた。
芝《しば》増上寺にちかい加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》の上屋敷であった。さみだれにけぶるその庭を、ふたつの傘がつっきっていった。
ふたりのゆきついたのは、一棟のしっくい塗込めの土蔵であった。土戸の横に、黒い綱がたれさがっている。ひとりが、その綱をひいた。厚い土の壁にへだてられて外にはきこえないが、屋根の下に小さくあけられた穴を通る綱は、蔵の中で小さな鈴を鳴りひびかせたはずである。
土戸が中からあけられて、美しい小姓が顔をのぞかせた。
「おお、鉄斎老に孫兵衛」
と、彼はいった。その美貌《びぼう》のまんなかを、赤い刀痕《とうこん》がはしっている。香炉《こうろ》銀四郎だ。
大道寺鉄斎がいった。
「殿に御報告せねばならぬことが出来ての。――まだ御寝あそばしておられるか」
「いや、そろそろお目ざめであろう。入れ」
大道寺鉄斎と平賀孫兵衛は蔵の中へ入った。
蔵の中は奇怪な光景であった。まず眼に入るのは、壁ぎわにつみあげられたおびただしい千両箱と、長持、櫃《ひつ》、つづらの類だ。むろんそれらには名物の諸道具が入っている。のちに、「古今武家盛衰記」という本に、「明成は闇将にして武備を守らず、ただ金銀を好み、庶民の困窮をかえりみず、諸人の肉をけずりても金銀となし集めんことをよろこぶ。このゆえに金銀財宝、蔵に充満す」とかかれたとおりだ。
それと同時に、べつの壁面には、槍《やり》、刀、鞭《むち》、鎖、さまざまな武器がたてかけられ、ぶらさがっていた。南蛮渡りの寝台があるかと思うと、浴槽風の設けもある。何にするのか、人間がのれるようなまないたもある。金網を張った小さな窓からの明りに、それらはすべて変色した黒血にまみれて、もの凄《すさま》じいひかりをはなっている。
これは財宝の蔵であると同時に、悦楽の蔵でもあった。それらの武器や設備は、ことごとく主君明成の病的な空想力による女人|嗜虐《しぎやく》を現実のものとする実験道具なのだ。その実験の結果、いままですでに何十人の女たちが、のたうちまわり、這《は》いまわり、ピンに刺しとめられた美しい昆虫のように死んでいったことであろう。――たいていの場合、これに七本槍衆がかいぞえとして立ちあっている。
同時にここは彼らの詰所であり、また交替の宿直室であった。明成はこの蔵を「花地獄」と呼んでいる。
隅に巨大な階段があった。三人はシトシトとそれを上っていった。
蔵の二階は、豪奢《ごうしや》な座敷に作られていた。控の間があり、金泥の唐紙がある。
三人はそこに坐《すわ》り、しばらく耳をすませていたが、唐紙の向うに人間がうごいている気配をききとると、大道寺鉄斎が声をかけた。
「殿、お目ざめでござりますか」
ややあって、ねむたげな主君明成の返事がきこえた。
「鉄斎か、何の用だ」
「昨夜おそく吉原《よしわら》の庄司《しようじ》甚右衛門が参上いたし、ことしの京人形が京から下って参りましたが、御所望でござりましょうか、とうかがいをたててござりますが」
「何人」
「三十八人とか。……やはり、公卿《くげ》の娘も数人おるとのことでござります」
「それは面白い。美女か」
「いや、まだ私は見ませぬが、御所望ならばちかく吉原にいって見て参りますが」
「うむ、そちにまかす。余の好みはそちどもの知っておるとおりじゃ。美女で、公卿の生まれで、なるべく気品のある女がおったら、是非買うてきてくれい。値は甚右衛門の望みにまかす」
金に汚なくて、そのころ式部少輔をもじって一分少輔とさえ悪口された明成であったが、女だけには眼がなかった。とくに京の公卿の深窓に育った姫君などを手に入れるということになると、異常なばかりの熱情をもやした。いま彼が注文したように、対象の女人が気品たかく、優雅であればあるほど、それをけだものに堕す悦楽が深まるからであった。
そして、吝嗇《りんしよく》な彼が、そんなときだけ、浪費家になる。金のみならず、女をも乱費するのだ。つまり会心の女を得ると、いままでの女をいっせいに処分するのが常であった。
その女たちの処分は、会津《あいづ》七本槍衆に一任される。犯そうが殺そうが――いや、その犯し方、殺し方が、異常であればあるほど、凄惨《せいさん》であればあるほど、明成は舌なめずりし、両眼をもやしてそれを見物するのであった。
「……何人おる?」
「……六人」
三人は、顔見あわせて勘定した。それはいま唐紙の向うに主君とともに横たわっている女の数であった。
このごろ明成は、通常の閨《ねや》にはねむらない。五人の女をあおむけにならべて横たえ、その肉の夜具の上に、もうひとりの女を抱いてねむる。
宿直《とのい》の彼らを悩ませたそれら六人の女が、やがて彼らの手中におちる。彼女たちの顔とからだと声が、階下の拷問具と脳裡《のうり》でかさなり、溶けあうと、彼らもまたはやくも舌なめずりし、両眼をもやして笑みこぼれずにはいられないのであった。
「では」
うなずきあって、三人はまたシトシトと階段をおりていった。
階段の途中で、ふと鉄斎がくびをかしげた。
「はてな」
「どうした?」
と、平賀孫兵衛がいって、大道寺鉄斎の眼をおとしている階段をのぞきこんだ。
鉄斎は階段の上から五段目に立っていた。その足とならんで、大きなわらじの泥のあとが二つあった。鉄斎はそれから、十三段下の階下に眼をうつした。そこにも二つの足あとが。――それ以外に、階段に泥の痕跡はない。
「やっ?」
と、孫兵衛はさけんで、それからもういちどぎょっとした。
最初の驚愕《きようがく》は、何者かが忍びこんで、階段の中途にたたずんでいたことを知ったためであり、第二の驚愕はその足跡から、その何者かが階下からひととびに十三段を舞いのぼり、とびおりて、しかもまったく足音をたてなかったということを知ったためだ。
ものもいわず三人は階段をかけ下っていた。階下でとっさに平賀孫兵衛は壁の槍をひっつかんでいる。土戸は、鉄斎と孫兵衛が入ってきたとき開かれたままであった。そこにも二つの足跡が印されていた。
雨の庭へ足袋はだしでとび出して、三人ははたとたちどまった。庭に人影はない。人影はおろか、さっき鉄斎と孫兵衛のあるいてきた下駄の跡しかみえぬ。
「……鉄斎老」
ふいに香炉銀四郎がうめいて、指さした。土戸のそばの外壁をである。
そこの白壁に二重輪が七つ書いてあった。下に四つ、上に三つ、まるで俵をつみあげたように。――その横に「蛇《じや》ノ目は七つ」という文字が書かれてある。
「…………」
三人は、のどのおくでうなった。
二重輪の外側の輪は大きく、内側の輪は小さい。これを七つ重ねて書かれたものが何を意味するか、とっさに三人にはわからなかった。しかし、それを「蛇ノ目」と書いてあれば、半ばはうなずける。蛇ノ目は会津加藤家の定紋であるからだ。それにしても、加藤家の蛇ノ目はただ一つ。他家には三つ蛇ノ目、九曜蛇ノ目などがあるが、これを七つ重ねて書いた意味は依然としてわからない。そんな紋は世の中にないからだ。
紋も文字もいま書いたばかりだということはあきらかで、墨は雨にぬれ、黒い糸をひいてたれさがっていた。
「……何者か?」
と、孫兵衛がいった。
「蛇ノ目は七つ――とは?」
と、銀四郎がくびをひねったとき、鉄斎がまた土戸の上の小屋根に土足のあとを見つけ、そして大屋根の上を見あげて「……ううむ」とうなった。
灰色の空に、銀の雨が吹いている。その高い棟にまたがって、黒|頭巾《ずきん》、黒装束の影が、じっと彼らを見下ろしていたのである。いや、見下ろしているかどうかわからない。その黒頭巾は、顔に般若《はんにや》の能面をつけていたからだ。
屋根の上と庭――そのあいだに、さみだれは無数の銀の糸をひいている。
庭に立っている三人の背に冷たいものがながれたのは、むろん雨のせいではない。思うにその曲者《くせもの》は土戸の廂《ひさし》を踏台に、大屋根と地上を往来したにちがいない。先刻、階段にのこされた足跡から判断しても、彼がこの超人的な体術をもっていることは疑えない。しかし、鉄斎、孫兵衛、銀四郎を立ちすくませたのは、それに対する恐怖ではなかった。彼らはそんなものを恐れはしない。
彼らを疑心暗鬼におとしたのは、般若の曲者の正体だ。それというのも、その曲者があまりに平然とそこに坐っているからだ。
鉄斎が、口の中でつぶやいた。
「……隠密《おんみつ》か?」
むろん、幕府の隠密という意味だ。
彼らはふしぎに堀一族の残党ということは思いうかべなかった。堀一族の目ぼしい男はすべて殺した。あとにこれほどすばらしい体術を身につけた人間は絶対に存在しないはずだ。尼寺に残した七人の女など、殺しそこねたことをこちらから無念にこそ思え、彼女たちの逆襲など念頭にすらない。
それより彼らに一抹の危惧《きぐ》をあたえていたのは、思いがけず将軍の姉君天樹院を相手にしたという記憶であった。
東慶寺の事件からもう二タ月以上もたつ。たとえ尼寺にひそみかくれようと、あれほどの大逆を起した一族の女ども、会津四十万石の面目にかけて成敗は当然至極、と思う。すでにそれ以前、高野山ににげこんだ男どもの誅戮《ちゆうりく》は幕府からゆるされたではないか、とも思う。
その確信はあるにはあるが、それにしてもあのときの千姫さまの怒りを思うと、彼女が将軍にヒステリックに訴えて、将軍から何らかの苦情が加藤家へ申しこまれる覚悟もしていたのに、あれ以来幕府から一言の意思表示もないのを、実は少々うすきみわるく思っていたのだ。
さては隠密を出して、まず加藤家の内情、殿の行状などに探りをいれてきたな。
と、いちどは疑ったが、
「それにしても、鬼女の面をつけた隠密とはおかしい」
と、銀四郎がささやいた。
「たとえ隠密なればとて」
と、平賀孫兵衛が吐きすてると、槍《やり》をひきずるように、スルスルと蔵からはなれていった。――屋根の曲者を発見してからこのときまで、一分もたってはいない。
「ひっとらえて、あの面|剥《は》いでくれるわ」
孫兵衛がうなずくと同時に、三間柄の長槍の石突がななめに土につき刺さった。次の瞬間、千段巻をにぎった彼のからだは、びゅーっと大空を翔《か》けのぼった。
彼は走りもせねば、気合もかけなかった。ただ軽く地をけっただけで、後の世の棒高跳びとおなじ妙技を発揮したのである。
雨の糸のなかに、三間|朱柄《あかえ》の長槍がまっすぐにつっ立った。同時に、平賀孫兵衛は手をはなし、灰色の空の下を、黒豹《くろひよう》のごとく大屋根へとぶ。
下から見あげていた鉄斎と銀四郎には、屋根の上の鬼女面の曲者が、驚愕のあまり、そのまま金縛りになったようにみえた。
鉄斎と銀四郎の笑顔が硬直したのは次の刹那《せつな》であった。棟に馬乗りになっていた黒頭巾が、そのままの姿勢でふわと飛び出したのだ。空中で孫兵衛とすれちがう。黒装束が、つっ立ったままの槍の千段巻をひっつかむのと、もんどりうって孫兵衛が落下するのが同時であった。
黒い鬼女は、槍を支えに、雨の虚空に放物線をえがいて――土蔵からはるかはなれた大地にとんと立った。
「孫兵衛」
と、さけんだものの、鉄斎と銀四郎はかえりみるいとまがない。仰天しつつ、大道寺鉄斎のこぶしから鎖が噴出したのはさすがである。
黒い分銅が雨を横に切って鬼女を薙《な》いだ。相手が地についた瞬間であった。しかし、それが彼に幸いした。向うむきながら当然身をかがめた着地の姿勢であったために、分銅は彼の頭上をきえーっとうなりすぎたのである。そのまま彼は、タタタタと庭のかなたへにげてゆく。
「しゃあっ」
奇怪なさけびをあげ、老人とは思われぬ跳躍ぶりでそれを追った大道寺鉄斎は、ふいにはたと足をとどめた。鬼女のにげこんだのは、ふかい竹林だったからだ。
人も自由に通れぬほど密生した青い竹林。――その奥で、何を思ったか、鬼女もたちどまり、こちらをふりむいた。そのまま、あごに手をあてる。――笑っているようだ。
むろん、能面のおくで、笑った顔がみえる道理がない。しかし鉄斎は、たしかに相手が笑ったとみた。この竹林に鉄鎖が無効であると判断して、肩をゆすって嘲笑《ちようしよう》したようにみえた。
「不敵な奴が!」
老人の眼が血色にひかった。
彼は竹林に入らず、それに沿うてそろそろと歩いた。鬼女は依然としてあごに手をあてたままそらうそぶいている。犬に追われた猫が安全地帯ににげこんで、しゃあしゃあとふりむいている様子とそっくりだ。
突如として大道寺鉄斎の手から竹林の奥に銀色の帯がなげられた。それは縦《たて》になった鎌であった。
鬼女からすれば、彼と鉄斎のあいだには無数の竹が重なっているようにみえる。で、当然予想される分銅の飛来を避けるために、のほほんとしているようで、実は、鉄斎の移動に従って、彼もまたわずかに移動して巧みに死角に身をおいていた。
それなのに、その死角の外一尺をかすめてとび来った鎌は、鬼女の背後約五尺の位置で横になり、ザ、ザ、ザーッと凄《すさま》じい勢いで手前に薙ぎつけてきたのである。
……大道寺鉄斎は、鬼女面の曲者から横に一尺、奥に五尺はなれた地点を目標とした。その地点とじぶんとのあいだに、竹の一本も生えていない細い細い空間を見つけ出した。もとより相手の位置ではわからない。――
四、五間以上もある細い空間を、その目標めがけて縦になった鎌は銀の帯のごとくにとんだ。
いうまでもなく、くさり鎌は分銅をとばすものだ。分銅をとばして相手に鎖をまきつけ、ひきずりよせて鎌で斬るのが通常の使用法だ。だれが、その鎌をとばすと想像しようか。ましてその鎌が、鎖ののびた位置で横になり、逆に薙いでこようと予想しようか。
もっとも、東慶寺《とうけいじ》門前で馬と尼僧を対象にした鉄斎の虐殺ぶりを見た者ならば、この恐るべき妙技を知っているはずであるが。――
いま、刃わたり二尺の大鎌は、まるで稲を刈るごとく、竹のむれを刈りたててきた。ザ、ザ、ザーッと嵐のような音をたてて。
しかも――いままで鬼女面の曲者を守っていた竹林は、突如として逆に彼にとって死の檻《おり》となるはずであった。なぜなら、鎌を避けて地に転がろうとしても、林立する竹はそれを許さないからだ。
葉をちらし、雨をちらし、正確に相手の位置を薙いで大鎌が手もとにかえってきたとき、輪切りになった人間の胴から飛散する血潮まで幻覚して、大道寺鉄斎が笑ったのは当然だ。
「やっ?」
鉄斎の笑いは凍った。血しぶきはあがらない。いや、鎌に手応《てごた》えはない!
鬼女面の曲者は、もののみごとに前に伏して鎌をやりすごしていた。竹が密生して、絶対に倒れることのできないはずの前方に。彼ははねおきた。その手にはじめて一刀を見た刹那、鉄斎は彼が前にたおれながらその一刀で竹を根もとからなぎはらい、それを押しわけつつふしまろんだことを知った。鉄斎の鎌は一髪の直後、おなじ竹の上部を斬って通ったのだ。
見よ、根もとと三尺の高さと、二か所で切断された数本の竹は、いまようやく左右からたおれかかり、それにつれてさらに上部の竹ははじめて杵《きね》のごとく地におちて、ざわめく葉から霧風のような滴《しずく》をふりまいている。――
般若面の男は、さらに竹林の奥にはねとんだ。その影は、霧雨のなかにみるみる朧《おぼろ》にうすれてゆく。しかし鉄斎は、茫乎《ぼうこ》として立ったまま、もはやそれを追う気力をうしなった。
「鉄斎老、どうした?」
このとき、ようやく香炉銀四郎がかけてきた。
「にげおった」
老人は唇をひんまげ、ふきげんにうめいた。
「きゃつ――」
追おうとする銀四郎を、鉄斎はとめた。
「待て、追ってももはや及ばぬ。それに、追ったとて……」
声はふっときえたが、この老人の口からはじめてもれる自信喪失の吐息であった。
「それよりも、孫兵衛めはどうしたか」
と、鉄斎はふりかえった。
雨のつよくなった庭のまんなかに、平賀孫兵衛は向うむきにあぐらをかいてうなだれている。いのちだけは無事であったらしい。
「空からおちて気を失ったのか。……孫兵衛らしくもない不覚な奴」
「不覚にはちがいないが、孫兵衛は空でとびちがったとき、あの曲者に当身《あてみ》をくわされたそうな……。まさか、敵が左様なことをするとは思わなんだと、歯ぎしりしておるが」
と、銀四郎はいって、じぶんも歯ぎしりをした。
棒高跳びの棒が、まだ宙に立っているあいだに、空中で孫兵衛ほどの人間に当身をくわせ、その棒を利用してにげたとは何たる敵か。
――その敵の恐ろしさを、いまの竹林の決闘で、大道寺鉄斎も心魂に徹して思い知らされたのだ。
しかも、鉄斎の背をうそ寒くなでるのは、その敵がまるでこちらを嘲弄《ちようろう》するかのような余裕をもっているかにみえたこと、もし斬るつもりなら、当身どころか孫兵衛も斬れたであろうに、敢《あ》えてそうしなかったということであった。その敵の行動も、かえって嘲弄としか解釈できないのだ。
「鉄斎老……。あれはいったい何者か?」
銀四郎は血ばしった眼でいった。鉄斎は暗灰色の顔をかたむけながら、
「敵の素姓はふたつかんがえられる」
「一つは?」
「まず、公儀の隠密。しかし、それにしてはわざとおれたちに姿をみせて、からかうようなそぶりをみせたのがわからぬ」
「もう一つは?」
「やはり堀の手のものだ」
「堀|主水《もんど》一族! しかし堀一族にあのような体術を会得した男はおらぬ」
「銀四郎、東慶寺には七人の女が残っておる」
「……おい! いまの鬼女が、そのひとりだというのか。ばかな!」
「いや、いまの奴はもとより男だ。しかし、あの七人の女めが、だれかに仕返しをたのんだとしたら……そのだれかが、いまの奴であったとしたら……」
鉄斎は、しかしまたくびをかしげた。
「しかし、それにしても、いまの奴はなぜ孫兵衛を斬らなかったのか。また、なぜあのような面をかぶっておるのか。蛇ノ目は七つ、とは何のことか?」
銀四郎は眼をすえていった。
「よし、とりあえず、もういちど鎌倉の尼寺に探りを入れてみよう」
加藤家の土塀を外にはたととびおりると、人気のない雨の裏通りを風のように走りながら、黒装束は鬼女の能面をとった。
「眼っかちをみられると、おれだということがわかるでな」
柳生十兵衛だ。隻眼は彼のトレードマークである。
「しかし、ききしにまさる恐ろしい奴ら。さすがのおれも冷汗をかいたわ。……それにしても、おれが斬るわけにゆかず、きゃつらをあの女たちに討たせるとすると、これアちと骨だて」
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親父橋。――吉原《よしわら》の創業者で、廓者《くるわもの》たちが親父どのと呼んでいる庄司《しようじ》甚右衛門がかけた橋なので、みながそう呼ぶ。
小さな木橋の下には青あおとたかく芦《あし》が生え、大川からのぼってくる潮の香がなまぬるく匂っていた。
橋の東側の一方のたもとに、妙なものがある。
妙なものといっても、この時代にはいたるところに鎮座していたものだが、六尺ちかい陽根のかたちをした石の柱なのだ。下の方に注連縄《しめなわ》がまわしてあり、石のおもてには、道祖|金精《こんせい》大神霊と彫ってある。このいわゆる道祖神は、本来道路安全の神であるが、また一方性神でもあるところから、商売柄、庄司甚右衛門が縁起かつぎにじぶんのかけた橋のそばに祭ったものであった。
橋を馬でわたってきた大道寺鉄斎と平賀孫兵衛は、その道祖神のところで左にまがった。むろん、この滑稽《こつけい》にして堂々たる石の柱にはなんの興味もない顔だ。
「きょう夕刻までには、鎌倉《かまくら》から銀四郎がかえってくるはずだな」
「うむ、どうもあの尼寺が気にかかる。……あの七人の女に不審なうごきはないか、その探りがつけばよいが」
「あのとき、天樹院さまの首尾はどうあろうと、ことごとく斬ってしまえばよかったの」
「まったく、こわがることはなかった。公儀さえも何もいってこぬではないか」
「加藤家の逆臣一族を加藤家で成敗する、当然のことだ。左様なことに幕府が口を出して、会津《あいづ》四十万石を敵とするのはばかげておるからの」
馬をならべて、ふたりは話している。
「……それにしても、あの能面の男、蛇ノ目は七つ、という文字、いずれもわれらを愚弄《ぐろう》しておるようで、思い出すだに腹がにえるが」
「ともかく早々に人形えらびの御用をすませ、帰邸して銀四郎の報告を待つとしよう」
堀づたいに大伝馬町の方へ通りすぎてゆく馬上のふたりを、片側のとある軒の下で、ちらと見あげた一つの眼がある。
堀と反対側は、大工、たたみ職、鍛冶屋、ちょうちん屋、石工、いかけ屋、桶屋《おけや》などの貧しい屋並で、それがやかましい、溌剌《はつらつ》たる生産の音をたてていた。このすぐ裏側にあたる吉原という大需要地をあてこんで集まってきた職人たちだ。
その隻眼の武士が入っていったのは、そのうちの桶屋だった。道をへだてて、堀にそうて、人間も入れそうな大きな桶が七つも八つもならべてある。
「来たな」
と、武士はひとりごとをいった。
桶屋の親方は話の途中だったので、めんくらって、
「へっ、なんとおっしゃったんで?」
「いや、こっちのことだ」
と、柳生十兵衛は薄笑いした。
店には、七、八人の弟子が坐《すわ》って、竹をまげたり、編んだりしていた。親方もいっしょに大きな篭《かご》を編んでいるのである。
「手を休めずにやってくれ」
と、十兵衛は如才なくいって、
「そうか、吉原には天水桶のほかにも、そんな桶の使いようをするのか」
うなずいて、往来の向うの大きな桶の行列を見やった。
いままで親方のしゃべっていたのは「桶伏せ」の話である。吉原では、遊興のうえ嚢中《のうちゆう》無一物なことが判明したふとどきな客は、廓内の路上で桶に入れて伏せ、これを杭《くい》で地面にとめてとじこめておくという仕置をする。それが天下御免の廓の法度《はつと》だというのであった。
「ところで、篭はいずれも今日明日中にはできるであろうな」
親方が弟子に手伝わせて編んでいるのは、その桶にまけないくらいの大きな竹篭であった。それも、一つではない。べつの若い衆はそれよりすこし小さい篭を、またべつな男はさらにすこし小さい篭を、猛烈な速力で編んでいるのである。
きのうやってきて、そんな三つの篭を昼夜兼行でしあげてくれたら十両つかわすと注文し、きょうまた朝からその仕事を督促している十兵衛であった。竹篭三つで十両――と生唾《なまつば》をのみながら、そのためかえっておそれをなして、桶のタガこそ作るけれど篭は本職ではないから、と尻《しり》ごみする桶屋に、いや、難しゅうかんがえるな、なるべく編目をこまかく――こまかくありさえすれば、模様も編目もめちゃくちゃで結構だ、と彼はいった。
「え、ごらんの通りでさあ、もうひと息です。しかし、お武家さま、こんな不細工な大きな篭を何になさるんで?」
あらためて、親方はきいた。
「化物を桶伏せにしてやるのじゃ」
親方は篭を編む手をやめて、顔をあげたが、相手が煙管《きせる》をくわえたまま泰然自若としているので、何かじぶんのききちがいかと思った。
「それに、こんな途方もねえ篭は、とてもかついじゃあはこべませんぜ」
「重いか」
「いや、もとが竹でござんすから軽うはござんすが、ともかくこんなでっけえしろものは、車にのせてはこぶよりしようがねえ。お屋敷はどちらですかい」
十兵衛は煙管をはたいていった。
「なに、そこの堀のふちまではこんでくれればよいのだ」
「へえ、そこの堀っぷちまで?」
桶屋はあっけにとられ、奇声を発したが、十兵衛はもう往来の方に隻眼をむけて、新しく雁首《がんくび》に煙草をつめながら、親父橋をわたってくるさまざまな遊客たちを、面白そうにながめていた。
「道のちまたの
二もと柳
風に吹かれてどちらへなびこ
殿御の方へなびこ」
揚屋の奥で、三味線の音につれて、そんな女の小謡の声がきこえる。やんや、やんや、と男たちの酔ってはやす声もきこえる。
駕篭《かご》というものが少なく、またあっても医者以外は大門の乗打ちはならず、馬で通う客が多いので、揚屋には馬つなぎの場所が設けてある時代であった。大道寺鉄斎と平賀孫兵衛は、なじみの揚屋に馬をつなぐと、しかしその揚屋には上らないで、直接に江戸町一丁目の傾城屋《けいせいや》「西田屋」にいそいだ。
女たちが小鳥のように呼びたてる中ノ町一帯を、華麗豪放な寛永染《かんえいぞ》めの男たちがぞめき歩いている。旗本|奴《やつこ》、町奴などがようやく人の目をひきはじめたころであった。
「西田屋」と染めた柿いろののれんをくぐって店に入る。
「会津の大道寺がきたと親父どのにつたえてくれい」
と、端《はし》女郎にいうと、すぐ奥から遊女にとりかこまれて、赤い大黒頭巾《だいこくずきん》をかぶった六十五、六の老人が出てきた。まるでこの女人国にみちる精気を吸いとったようにつやつやとあぶらぎった好々爺《こうこうや》だが、ほそい眼に異様なすごみがある。
この吉原の開祖庄司甚右衛門であった。
「いや、お待ちいたしておりました。どうぞこちらへ。……これ、酒肴《しゆこう》の支度をしてな」
――いうまでもないことだが、寛永のころの吉原は、いまの浅草の吉原ではない。いまの日本橋人形町一帯にあたる。
家康が江戸に入ってから、直参、諸侯、その家来、またそれにつれて諸国の商人、職人、芸人がこの新開地めがけて雲集し、さらにその男たちの需要に応じて売女たちが、あちこちになまめかしい蜘蛛《くも》の巣をはりはじめたことはいうまでもない。はじめこれらの遊女町は江戸の諸所に散在していたが、これを一か所にあつめて大傾城町をつくることを幕府にねがい出たのが庄司甚右衛門である。
こうすれば遊客の流連荒亡を制限し、女の誘拐《ゆうかい》をふせぎ、浪人の詮議《せんぎ》にも好都合だという名目に同意して、幕府が甚右衛門の願いをゆるしたのは元和《げんな》三年のことであった。
それによって甚右衛門が、当時、沼や小川の多い湿地帯であった日本橋の葺屋《ふきや》町一帯を埋めたて、傾城町をつくりあげたのが翌四年の末である。
はじめ芦、つまり葭《よし》の生いしげった原っぱであったので葭原《よしわら》と名づけ、さらに縁起をかついで吉原とあらためた。いまの吉原は、のちに浅草へこの遊女町が移転を命ぜられたとき、名もいっしょにもっていったのである。
鉄斎と孫兵衛は、脂粉か花粉かひかりをおびた靄《もや》のようなものがただよう廊下を通って、奥座敷に通された。
甚右衛門が笑いながらいった。
「では、新しゅう仕入れました京人形をお目にかけまする」
庄司甚右衛門は縁側の大障子をあけた。
「ほう」
と、さすがに鉄斎と孫兵衛は吐息をつく。
二十畳敷きくらいの座敷に坐っていた三、四十人の女が、おびえたようにこちらをむいた。障子をあけるまでは、ここにこれだけの人数の女が息づいているとは思いもよらないしずけさで、むろん、障子をあけられても一語も発する者もなかったが、まぶしいような何かが梅雨空の日光みたいにあふれ出した感じであった。
「正真正銘の京人形でござりまするぞ」
と、甚右衛門は笑う。
いったいに、この庄司甚右衛門という人間は、いまでもよく素姓がわからない。もと小田原浪人ともいわれ、駿河の旅篭屋《はたごや》の亭主ともいわれる。彼自身はじぶんの過去を語ることを好まなかったという。もとは甚内といったが、当時、宮本|武蔵《むさし》の弟子と称する大盗|向坂《こうさか》甚内というものがあって、これと混同されることを恐れて改名したというのだが、盗賊とまちがわれることを恐れたというのも不審な話である。いずれにせよ、いま女に埋まって好々爺然とした福相をしているが、これで相当悪どいことも平然とやりかねない人物だということにまちがいはあるまい。
彼はたえず商品たる女を仕入れる。仕入れ先は、大体三か所で、一は京、二は奈良、伏見《ふしみ》、三は駿河の府中で、むろんもともと遊女であった女たちだ。
ただ、年に一回、京から遊女ではない女、しかもなるべくならば処女を求めて、江戸にはこんだ。京に人買いの出先機関を設けてあったのだが、時代が時代だから、なかには強引にかどわかしたものもあったであろう。
それは江戸のあらくれ男たちの憧憬《しようけい》は、なんといっても京女だからであった。しかもそれが美しい処女ときては、この廓《くるわ》ではたらかせるより、はるかに有利な価格で愛妾《あいしよう》として買い入れる大名もあったからであった。
そもそもこのころは、大名さえ、廓通いをして世人もあやしまぬ時代で、大名どころか、幕府の評定所ですら、遊女をよんで茶を挽《ひ》かせた。そのため、当番の遊女は前夜から客をとらないので、それから客のないことを「茶をひく」という言葉が生まれたという。――
なかでも甚右衛門の上顧客は、会津藩の加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》であった。世上の評判に似ず、明成はこれだけにはおどろくべき大金を支払った。彼が先日加藤屋敷に売りこみにいったのはそのためである。
「なるほど粒より」
と、孫兵衛は恍惚《こうこつ》としていった。枯木のような爺《じじ》いのくせに、鉄斎もまた妙な眼つきをして見まわしていたが、
「三十八人と申したな。三十八人は要らぬ。……まず当分は、五、六人で結構じゃが」
「ちょうど六人、お公卿さまの姫君がござる」
と、甚右衛門がいった。
「衣装はごらんのとおり、まずかわりはありませぬが、大道寺さま、その六人の見わけがつきまするかな」
鉄斎と孫兵衛は、座敷をめぐりはじめた。
「よいか、指さした女は前に出い」
――まるで、篭の鳥をえらぶような光景だ。
もっとも、この吉原では公然たる女人売買の市場もひらかれていた。遊廓《ゆうかく》は吉原ときまってからは、非公許の岡場所で春を売る女は、しばしば検挙されて吉原にさげわたされたが、このとき吉原の大通りで、まるで魚か青物のように競売されたのである。
ただし、これはそんな隠し売女ではない。売女たるべき運命を負って東海道を下ってきたにはちがいないが、いずれもこの傾城屋につれこまれて、まだ小鳥のようにおびえているらしい京女だ。しかも、甚右衛門が特別に仕入れてきたものほどあって、どれも、これも、それなりにあでやかで、なまめかしい。
「まず、これで一段。――出い」
鉄斎がしゃがれ声でいった。花のただようようにすべり出したのは二十一人の女であった。それをふたりはながめわたし、ちょっと途方にくれたようにふりかえって、
「御亭主、どれだ?」
といった。公卿の姫君はどれだときいたのだ。甚内がからかうような笑顔でこたえないのをみて、ふたりはもういちどえらびはじめた。
口をひらかせて歯ならびをみる。肩から腕をなでおろし、胸のふくらみをおす。さらにはふかい息をつかせて、処女の芳香をかぐ。――
そして、十一人の女がえらび出された。
「わからぬなあ」
どれをみても、公卿の姫君のようだ。いずれも百合の花のような清浄な香をはなっている。
当時、禁裡《きんり》の御料でさえわずかに二万石と十五石四斗九升五合であった。公卿一般、まして下級の家々の扶持《ふち》がどれほど哀れなものであったかは、想像にあまりある。さればこそ、その息女がこのように遊女として江戸に送られるというような運命におちて、売り手も買い手もそれをあやしむ様子もないのだが、いかに貧しくともさすがに千年の家柄の気品は争われぬものがある。もし加藤家で買わないでこの廓におけば、やがては大名すらはねつける松の位の太夫《たゆう》になることは必然と思われる美貌《びぼう》であった。
――と、感服をするのだが、さてその十一人すべてがそうみえるのだから、鉄斎と孫兵衛の眼識力もあてにはならない。ふたりは困惑した。――むろん、この困惑をたのしんでいるのである。
実は去年も十数人の女たちのなかから三人ばかりえらび出すのにこまった。公卿の姫君云々という問題ではなく、どの女もがそれぞれ魅惑的でえらびあぐねたのだ。そのとき――
去年は鉄斎とともにやってきたのは司馬一眼房《しばいちがんぼう》であったが、彼は実に奇抜な実験をしてこれを一挙に解決した。彼は庭先で馬をつがわせて、女たちに見物させ、あとで女たちの湯もじをひらかせて、その結果によって三人をえらび出したのである。
「そうじゃ」
と、ふいに鉄斎はニタリとした。
「孫兵衛、おぬしの槍《やり》が欲しいの」
「まさか、傾城《けいせい》町に槍はもってこぬ」
と、肩をゆする平賀孫兵衛の耳に、鉄斎は白い髯《ひげ》をもっていって、何やらささやいた。
うなずく孫兵衛の顔が苦笑し、眼がひかった。やがて孫兵衛は、いぶかしげに見まもる庄司甚右衛門に笑いながらいった。
「御亭主、首尾よく六人の姫君をあてたら、五人買う金で六人売らぬか」
「女たちに何もきかれてはなりませぬぞ」
「むろん」
「それなら、面白い。合点でござります」
孫兵衛はニヤリとして、庭へおりていった。
女たちは、黙ってそれを見送っている。どうやら一言の口もきいてはならぬと甚右衛門に命じられているらしいが、そもそも彼らの行動、問答に何らかの興味をおこす余裕がないようであった。
やがて孫兵衛が、二本の青竹をひきずりながらかえってきた。庭のどこかで切ってきたらしく、あるきながら、小刀でその小枝や笹《ささ》をはらいおとしている。
「平賀さま、それを槍になさりますのか」
彼が槍術《そうじゆつ》の達人であることを知っている甚右衛門はぎょっとした。
「何をなさるか存じませぬが、売るまではこの女ども、手前のところの宝でござりますぞ」
「おれは竹槍などは使わぬ。安心しろ、先は尖《とが》ってはおらぬ」
「ほ、まるで物干|竿《ざお》のような」
「さればよ、いまに何やら天日に干してやろうよ」
孫兵衛は笑いながら、一本の竹をぽんと鉄斎にほうった。鉄斎は受けとって、
「そこな十一人、立ってここにならべ」
と、縁側をあごでさした。孫兵衛も縁側にあがってくる。
十一人、ずらりとならんだ女たちの胸を、横に立った大道寺鉄斎は、青竹をのばしてピタとおさえた。孫兵衛はその反対側に立っている。
「亭主、よいな?」
立てていた孫兵衛の青竹のさきが、天井でグルリとまわった。と同時に、縁に突きたてていた方から、竹は青い流星のように、一列にならんだ女たちの足の甲をかすめて走っていた。
「こ、これは」
さけんだのは庄司甚右衛門だ。
平賀孫兵衛の青竹は、十一人の女の裾《すそ》から湯もじをこめて、巻物みたいに腰まで巻きあげていた。――そして、二十二本の足と、みずみずしい蛙のような腹が、梅雨ばれの陽光に、まさに干し出されたのである。
一瞬、いかなる事態が起ったかわからず、茫然《ぼうぜん》と立っていた女たちの上半身が、風に吹かれる牡丹《ぼたん》のように、たわみ、くねり、たゆたいはじめた。しかも腰の一線に裾をまいた槍はうごかない。うごくのは女たちの上半身ばかりで、下半身をかくすために、ほとんどからだをふたつに折った女もあった。
それは、土用干しの綱にかけられてゆれる美しい衣装のようにみえた。
「見えた!」
と、鉄斎がさけんだ。
「よし」
うなずいて、孫兵衛が青竹をまわすと、女たちの裾はいっせいに巻きおちる。それに巻きおとされたように、なよなよと崩れた女も二、三人ある。
「御亭主、どれが公卿の娘かわかったぞ」
「――どれでございます」
鉄斎は女たちのまえをあるいて、とびとびに六人の女を指した。庄司甚右衛門のぽかんとあいた口と眼が、それがみごとに的中したことを証明した。
「大道寺さま、女の腹に……なにかしるしでもあるのでござりますか」
「いや、そうではない」
と、鉄斎はしたり顔にいった。
「甚右衛門、高貴の生まれの女人はな、下賤《げせん》のものにくらべて羞恥心《しゆうちしん》が少ないという。湯浴み、手洗い、みな人まかせにするゆえだ。いわゆる恥しらず、というやつとはちとちがうが。――もとより、遊女に売られてくる貧乏公卿ゆえ、五摂家九精華の家格とは天地の差があろうが、やはり先祖代々の血は血、育ちは育ち、いま秘所をさらけ出されても、恥じらいの反応がややおそい奴、その顔とうごきから、おれはその六人をえらび出したのじゃ」
きいてみると甚右衛門にも、ちとおかしい気のする検別法だが、事実それが的中したのだから、文句のつけようがない。
「恐れ入ってござります」
と、甚右衛門はあたまをさげて、
「いかにもその六人は、右から北園、鞠《まり》小路《こうじ》、七辻《ななつじ》、下御門《しもみかど》、千条、飛鳥山卿《あすかやまきよう》の姫君たちでござります」
それから彼は、その姫君たちに笑顔でいった。
「安心したがよい。そなたたちに廓づとめはさせぬ。幸せなことに、会津四十万石加藤式部少輔さまが、そなたら六人みな欲しいと仰せなさる――」
すると、六人の姫君たちに異様な動揺がわたった。そのうちのひとりが、ふるえ声でいった。
「……それはかんにんどっせ」
「なに、いやだと? どうして――」
「殺されるのは、いやどすえ」
「加藤家に上るのは殺されることじゃというのか。な、な、なぜ?」
甚右衛門よりも、鉄斎と孫兵衛の方が愕然《がくぜん》としていた。姫君たちはいっせいに指をあげて、座敷の奥の唐紙を指さした。
その唐紙に黒ぐろと書かれた文字をみて、彼らは息をのんだ。
「会津加藤家に売られて殺されし女人幾十人なるかを知らず」
鉄斎と孫兵衛はおどりあがった。
「あれは、いつ、だれが書いたのだ?」
京女たちは顔を見あわせたが、おずおずとひとりがいった。
「――あの、お針はんが」
「お針?――何んというお針が」
こんどは甚右衛門がせきこんだ。
傾城屋にはむろん毎日、遊女のきものやら長襦袢《ながじゆばん》を仕立てたり、ほころびを縫ったり、夜具をつくろったりする仕事がうんとある。しかし、遊女がそんなことをするひまもないし、また裁縫には不調法な女が多いことはいうまでもないから、どの見世でも何人ものお針子をやとったり、通わせたりしてこの需要をみたしているのがふつうだ。これを廓《くるわ》では「お針」と呼んでいる。
京女たちは、名は知らないが、さっききれいな顔をしたお針子がこの座敷に矢立と筆をもって入ってきて、だまっていまの文字を唐紙にかいていったと口々にいうのであった。なぜそれをいままでだまっていたのだ、となじると、それでも親父さまは、きょうは何も口をきいてはならぬといいつけたではないか、というのである。甚右衛門はうっとつまった。
鉄斎と孫兵衛は地団駄ふんだ。
「甚右衛門、そのお針とやらをさがせ」
しかし、庄司甚右衛門は坐《すわ》ったまま、起《た》たなかった。
「大道寺さま、それより、ここに書いてあることはほんとうでござりますか」
「うそじゃ」
といったが、いまの出来事があまりにも突然で、また意表に出たので、狼狽《ろうばい》した顔色がその否定を裏切っているのをふたりは自覚した。
「か、加藤家に対して、か、かような根もない雑説を――」
「甚右衛門! なぜそのお針子とやらを糺明《きゆうめい》しないのだ。もしかばいだてするなら、西田屋を加藤家の敵とみとめるがさしつかえないか!」
大袈裟《おおげさ》にいえばいうほど、間がわるくなってゆく。甚右衛門は耳がない人間みたいにそのふすまの文字をながめて思案していたが、
「御両所さま、まずこちらへ」
といってさきに立った。
眼をひからせ、庄司甚右衛門のまるい背をねめつけて廊下をあるきながら、鉄斎と孫兵衛のあたまには、さまざまな思考が火花のようにふきめぐる。
――あのような文字をかいた奴はだれか?
――このおやじ、妙におちついているところをみると、そのお針を知っておってかばうつもりではないか?
――かようなことで、もし京人形が手に入らぬとあれば、殿はいよいよ御立腹になるぞ。
別の座敷に入ると、甚右衛門はさきに坐って、
「さて」
と、いった。
「鉄斎さま、いまのふすま文字は、ありゃ、まことでございまするな」
「…………」
「そう申せば、いままで買うていただいた京人形が――他家にもお世話いたしました太夫も少なからず、それが季節季節には、このおやじに、文をくれたり、殿さまからの頂戴物《ちようだいもの》をことづけてくれたりしますのに――加藤さまお求めの傾城にかぎり、その後、とんと音沙汰《おとさた》のないのをふしぎに存じておりました」
じろりとふたりの顔をながめていう。孫兵衛のまっくろな顔に血がのぼって紫色になった。
「それがどうした、買うた品物はこちらの自由」
「もとより御自由ではござりまするが、せっかくの品物を買うていただいたのち壊されるとあっては、売る方も気がすすまぬようになるのも、こりゃ人情」
「なにっ」
孫兵衛を鉄斎がおさえた。
「それより、甚右衛門、あの文字の書き手を知っておるのか」
「知っております」
「だ、だれだ」
「お針たちをここへ呼んできけばたしかなことでござりましょうが、きかなくても思いあたります。きのうこの見世に、お針に使うてくれまいかと、見知らぬ女がひとりたずねて参りました。お針に使うにはもったいないような器量の女でござりまして、とにかくきょうからくるように申した次第でござりますが、おそらくその女の仕業でございましょう。そして、あのようなことをしたとあれば、もはやその女は、この西田屋から姿をくらましておるものと存ぜられます」
「なんと申した、その女は」
「おあま、といったようでござりまするが」
「おあま?……尼!」
と、孫兵衛がただならぬ声をつっぱしらせた。鉄斎が生唾《なまつば》をのみこんで、
「甚右衛門、その女、いかなる素姓のものと思うか」
「さあて、その女が左様なことをしたとあれば……いままで殺された京人形に縁ある女ではござりますまいか」
甚右衛門は、殺された、とはっきりいった。しかし、それをとがめるより、ふたりの顔に安堵《あんど》の色がひろがった。さすがに甚右衛門は堀一族の女たちのことは知らないのだ。――鉄斎がつらぬくような眼を甚右衛門にそそいだ。
「おやじ、それで、ことしの京人形、売るか、売らぬのか」
「――値段によりましては」
吉原の開祖、庄司甚右衛門はにやりと笑った。
「まず、京人形一体につき、二千両」
――当時、武家に奉公する中間の年給が約二両であった。そして、吉原で最高級の太夫一夜の値が一両であったといわれる。もって遊女を買うのにいかに大金を要したかがわかる。また傾城屋《けいせいや》がいかに荒かせぎしたかがわかる。それを身請けしようというのだから、高いのははじめから承知の上だが、それにしてもひとり二千両とは。――
「六体欲しいと仰せられましたな。――しめて、一万二千両」
吹っかけたことはあきらかだ。
しかも、この途方もない金額は、女の代金としてだけ吹っかけたのでないこともたしかである。
甚右衛門は、加藤家の秘密を知って、その黙秘料をもこめて、一万二千両というばかばかしいまでの大金をきり出しているのであった。――すばやく鉄斎はそれを読んだ。
「よかろう」
と、何かを吐き出すようにいって、うなずいた。
そして、これを報告したときの主君明成の苦汁をのんだような表情を思いやった。同時に、それだけにその六人の女を手に入れたのちの扱いぶりの凄《すさま》じさを想像し、さすがの鉄斎が、のどもひきつるような気がした。
甚右衛門がおじぎをした。
「お買いあげ下されて、ありがとうござります」
「もういちどきくが、おやじ、買うた以上、あとで文句はつけまいな」
「いうまでもござりませぬ。そもそも最初から、万一病死|頓死《とんし》不慮に相果て候とも、一言の申し分御座なく候、という証文をとってござりますでな」
ほんのいま、せっかくの品物を買うていただいても、こわされるとあっては売る方も気がすすまぬ、といった言葉をケロリと忘れたような平然たる顔でいう。
「ただ」
と、くびをかしげて、
「どうして、あの京人形を運ぶとしましょうか」
「毎年のようでよいではないか」
「いや、いけませぬ。あのふすま文字を見ましたうえに、わるいことに平賀さまの恐ろしい槍術《そうじゆつ》をみて、あの文字はいよいよまことのことじゃと、女どももおびえておるに相違ござりませぬでな。加藤家へゆくと申せば、きっとさわぎたてます」
「あ!」
と、孫兵衛はひたいをおさえたが、すぐにそのひたいにすじをうかべて、
「面倒ならば、当身《あてみ》をくわせてやろう。おれの当身は――」
と、いいかけて、急ににがい顔で脾腹《ひばら》をおさえた。先日、屋敷で鬼女面の男にじぶんがみごとに当身をくわされたことを思い出したのだ。
「女たちの気を失わせるのはよいとして、こまったことに、この廓に駕篭《かご》を入れることがなりませぬ」
と、甚右衛門はいった。
「医者以外は、廓内駕篭の乗打ちは禁制で、六|梃《ちよう》も駕篭をはこび入れ、はこび出せば、大門の番所でさしとめまする」
しばらく思案をしていたが、やがて肉の厚いひざをぽんとたたいた。
「そうだ、いっそ、京人形そのものとしてはこび出してはいかが」
「京人形そのもの?」
「いや、われながら、これは妙案。大道寺さま、いそいで木箱を六つ作って下されまし。ちょうど人間ほどの京人形が寝て入るくらいの大きさのな」
庄司甚右衛門が妙案というのは、六人の公卿出の遊女を当身で失神させ、その木箱にいれて廓をはこび出すことのほかに、その木箱を利用して加藤家から一万二千両の金をはこびこむのにも好都合だというのであった。六つにわけて二千両ずつとしても、それだけで八貫目もあるのだから、なるほど妙案にはちがいないが、現金引換えという点でいかにも甚右衛門らしいぬけめのなさでもある。
「では、そういたすとしよう」
「これより木箱を作らせることとして、いそがせても、やはりあさっての夕刻にはなると思うが、よろしくたのむぞ」
鉄斎と孫兵衛が廊下に立ち出でたときには、庭に宵闇が沈みかかっていた。甚右衛門に送られて、表の方へふたりが消えていったあと、縁の下からほそい影が庭へすべり出して、薄闇にとけこんだ。
「不浄の金、とはまさにこのこと」
鉄斎か孫兵衛がきいたなら、その声を堀|主水《もんど》の娘お千絵《ちえ》の声と知ったはずだが、いま、その廓の針子姿を見たものさえもない。
大道寺鉄斎と平賀孫兵衛は、実は心ここになかった。主命の遊女買いの用件もさることながら、ふたりの頭に乱舞していたのは、むろんあの唐紙の文字だ。それが気がかりで、強欲な甚右衛門の要求を唯々諾々ときいたということもある。
あらためて、西田屋のなかを調べたが、むろん、新参のお針は姿をけしていた。
揚屋につないであった馬をひいて大門を出ると、ふたりは夜の道をとばして、芝《しば》の加藤家上屋敷にはせかえった。
主人に復命するよりはやく、鉄斎が門番にきいた。
「香炉《こうろ》銀四郎はもどったか」
香炉銀四郎は、鎌倉からかえっていた。彼をかこんで、七本|槍《やり》衆のめんめんが腕をくんでいたが、ふたりの顔をみると、すぐに、
「おい、あの七人の女は尼寺におらぬぞ」
と銀四郎がいった。鉄斎はうなずいた。
「そうであろう。……吉原にあらわれたのは、きゃつらのひとりにちがいない」
待っていた五人の面々が愕然《がくぜん》としてきくのに、ふたりはこもごも西田屋のふすまの文字のことを話した。
「おれの調べたところによると、あの七人は江戸の方角へむかったということじゃ」
と、銀四郎はせかせかといった。
「それっきり、ゆくえはわからぬ。しかし、いまの鉄斎の話で、きゃつらが江戸にあって加藤家にたたりをしようと志しておることはたしかだ」
手をわけて、江戸じゅうを捜索しようということになった。具足丈之進《ぐそくじようのしん》が庭に出て、闇のなかにノソリと坐《すわ》っている三匹の巨大な秋田犬にいった。
「やい、天丸、地丸、風丸、さきごろの尼寺の女ども、おぼえておるか、あのうち生き残り七人の女の巣をかぎ出せ。よいか。わかるな」
京人形を運ぶ役は鉄斎ひとりにまかすということになって、鉄斎はあらためて明成のもとへ出ていった。
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髯を生やした京人形
大道寺鉄斎が、十二人の人足に、六つの木箱をかつがせて、吉原《よしわら》の大門を出たのは、それから二日後の黄昏《たそがれ》どきであった。庄司甚右衛門が大門まで見送った。
さきほど大門を入るとき、その箱に入っていた一万二千両は、むろんいま西田屋につみあげてある。そのかわり、いま箱の中に、当身をくわされて気を失っているのは六人の遊女だ。
立てればいかにも等身大の京人形の箱になるだろうが、横になった白木の箱は、むしろ寝棺のかたちに似ていた。これがまさに女の柩《ひつぎ》で、大門を出れば死出の路《みち》であることを、鉄斎だけが知っている。
きょうは鉄斎は徒歩であった。
いちど大伝馬町に出たが、人目にたつことをおそれ、堀沿いの路にまがった。
掘割りと職人の長屋にはさまれた裏通りは、日がくれれば人通りが少ない。長屋はもうみんなピッタリと戸をしめていた。空と堀の水だけがほのかな明りをのこしている。
堀のふちにならぶ七つ八つの大桶《おおおけ》のまえをとおり過ぎ、親父橋に近づいたときだ。うしろでふいに、すっとんきょうな悲鳴があがった。鉄斎はふりかえった。
「旦那《だんな》……あれ、あれは――」
いちばんうしろの箱をかついだ人足が指さしている方角に眼をやって、さすがの鉄斎が水をあびたような思いがした。
一行がゆきすぎた路上に、忽然《こつぜん》とひとつの影が立っていた。黒装束だ。そして堀の水あかりが、その鬼女の能面をおぼろに浮かびあがらせた。
「どけ」
と、鉄斎はさけんだ。
「あぶない。みな軒の下に寄れ」
箱かつぎの人足たちは、どよめきながら片側の長屋の軒下によろけ込む。鉄斎は腰のうしろに手をあてがったまま、じいっと能面の方を見すかした。
鬼女はうごかない。こちらを小馬鹿にしたように立っているが、それが無謀でも大胆でもないことは、鉄斎自身が先夜の経験で知っていることだ。――殺意とともに、その能面をはぎとって何者であるかを見きわめたい欲望が彼の手をおののかせ、腰の鎖をカチャカチャと鳴らした。
「今宵こそは……のがさぬぞ」
声は陰々としゃがれていたが、そのこぶしからほとばしり出た鎖は電光のようであった。腰のうしろにさした大鎌をぬきとると同時に、分銅は四、五間もはなれた相手の影へビューッとたたきつけられていた。
からくも相手は身をのけぞらせてこれを避けた。そのまま影は横へとんだ。
まるで黒い飛魚のように、影はそこにあった一番手前の桶の中へとびこんだのである。
桶伏せにつかう巨大な桶が、その一瞬、まるで生命あるもののように一方にかたむいて、すべり込んだ影をふたたびはたと伏せた妖《あや》しさを鉄斎は見てとったが、それによって何のためらいもおぼえなかった。
「飛んで桶に入る夏の虫か」
鉄斎は笑った。
鉄斎は敵の心を読んで笑ったのである。
あれほどの敵が、たんにおれのくさり鎌をおそれて桶に逃げこむわけがない。おれがあわてて桶をあけにゆくところを狙って、中から足をなぎつける戦法なのだ。
さっき空をうった鎖はそのまま堀の上へうなりすぎると、まるで一本の棒のようにななめにかけのぼり、いまや鉄斎の頭上で黒い旋風のようにぶうんとまわっていた。巨大な半透明な円錐《えんすい》形のとがった下で、肉のない骨だけのあごの音をカタカタとたてて白髪の老人は笑う。
「笑止なり、その手にかかるか、桶の虫!」
夕空の円錐形がかたむくと、また一本の棒となった。それはキエーッと大気を灼《や》き切って、伏せた桶の胴へ走っていった。
戛然《かつぜん》、音あり! 桶のかたちは一瞬にくずれた。桶側は破壊され、飛散し、タガは輪のまま大地へおちた。ただ一撃で、桶ぜんたいが竹と木片の堆積《たいせき》となったのである。
もとよりそれは鉄斎の計算のとおりだ。いや、それどころか、桶側を粉砕した鉄丸は、そのまま内部にかくれた人間をも一塊の血味噌《ちみそ》にかえることを彼は予期していた。――
しかし、分銅が桶を打撃した刹那《せつな》から、彼の満面には驚愕の波がひろがっていた。彼は桶の内部に何とも不思議な弾力と埋没感の手ごたえを感覚していたのだ。
桶が崩れたので、そのものは姿をあらわした。それは巨大な竹篭《たけかご》であった! 分銅は、桶の内側にスッポリはまっていたその竹篭にメリ込んだのである。
狂気のごとく鉄斎は鎖をまきあげた。鉄丸は竹篭からはなれず、竹篭は大地をひきずられて、ぶざまにころがった。それでも鎖はからみついたままだ。鉄斎は、その竹篭が一つでなく、二つ三つ重ねられていることを知った。細かに編まれた三重の篭は、凄《すさま》じい速度の分銅をヤンワリと受けとめ、吸い込み、そのうえ逆にくわえこんでしまったのだ。
あとに般若《はんにや》面の影がのこった。腕ぐみをして、悠然と立っている――しかし、いいのか、悠然と立っていいのか、大道寺鉄斎にもうひとつの武器があることを、鬼女面は忘れているのか。
鉄斎のもう一方の腕に大鎌がふりあげられた。
そのとき、反対の側で声がした。――
「大道寺鉄斎――」
くるっと、老人とは思われぬ素早さで、ばねのようにふりむいた。
老人は親父橋のたもとに五つの黒い影をみた。それが、みんな般若の能面をつけている。
――夕空の最後の蒼《あお》い残光の下にならんだ五人の鬼女、その妖異《ようい》な光景は、この世のものとは思われない。
はっきりと、透きとおるような女の声がながれてきた。
「鉄斎、尼寺を汚した罰がいま下るぞ――」
「しゃあっ、片腹いたや、堀の女ども」
残光のすべてをあつめ、大鎌が飛んだ。
前の一人の敵を討とうとして、一瞬反転してうしろの五人の敵に鎌をなげたのは、一人と五人の差のためだ。またその五人が、左右にツツと散ろうとする気配をみせたがためだ。
鎌は飛んだ。――いったいくさり鎌はふつう女子のつかう武器であって、その鎖の長さはわずか二尺二寸八分といわれる。常人が意志の通りにあやつり得る長さは、まずこれが限度であろう――しかし大道寺鉄斎の鎖は実に長かった。分銅にも五、六間、鎌にも五、六間、つまり両者をむすぶ長さは十間以上、彼はそのまんなかを握って、飛ばす、なぐ、旋回させる、自由自在であった。
その長い鎖がうなりをたてて鎌で薙《な》いだのである。一列にならんだ五人の鬼女を右方向からひと薙ぎに。
鬼女は左右に散ろうとしていた。散りながら、まろぶように右のふたりが伏した。しかし左の三人はまだ立ったままであった。
「みたかっ」
刃わたり二尺の大鎌は、突っ立った最初のひとりをまず胴斬りにしようとして――
「あっ」
絶叫したのは大道寺鉄斎だ。かっと音がして、鎌から青い火花が散った。五人のうち、まんなかの黒装束のからだがゆれて般若面がおち、にゅっと男根の尖端《せんたん》がのぞいた。
それが橋のたもとに祭ってあった金精《こんせい》大神霊――庄司甚右衛門が建立した六尺ちかい石柱の陽根であったと知ったのは、すでに鎌の刃がふれた刹那《せつな》であった。
しかも、大道寺鉄斎の術こそ瞠目《どうもく》すべし、鎌の切れ味こそ恐るべし――鎌はズーンとその石の柱になかば斬りこんだのである。
黒布をまとわせ、鬼女面をつけた等身大の石の道祖神に、彼はまんまとたぶらかされたのだ。もしそれが一個だけ直立していたなら、あるいは気がついたかも知れないが、それをはさんで左右にならぶ同様の黒衣の鬼女たちのうごきに、みごと鉄斎は幻惑された!
「たばかったなっ」
ひきちぎれるほど鎖をゆさぶったが、鎌は石柱にくいこみ、分銅は大きな竹篭をぶざまにひきずって――歯がみする鉄斎のまえに、四人の鬼女は白刃ひらめかして殺到してきた。
「鉄斎覚悟!」
声は、その四人から出たものでない。背後からだ。
はっとしてふりかえると、例の桶からあらわれた般若面が――ひとりではない。いつのまにか三人にふえて、これまた白刃を抜きつれてはせ寄ってきた。
それが女であることを知っている。鎖をはなせば、自分にも大刀があることを知っている。しかし、くさり鎌に生きる大道寺鉄斎は、そのくさり鎌を殺された以上、別人のごとく自失した老いぼれにすぎなかった。
「あうっ」
のけぞった鉄斎の胸や腹に、前後から七本の刀身がつき抜けた。
危いかな、同士討ちをしなかったのが奇跡のようなものだが、尼寺から修羅の世におりてきた女たちは、すでに命はすてている。
書けばながいが――大道寺鉄斎が最初の般若面に第一撃を送ってからこのときまで、二、三分しかたってはいなかったろう。
長屋の軒下に入っていた木箱運搬の人足たちは、この凄じい突発事に胆《きも》をつぶした。凍りついたように動かなかった。腰をぬかそうにも、体じゅうの筋肉が板みたいになっているのだ。
ふいに長屋のひとつの戸があいた。
「ひえっ」
戸の外に立っていた人足ふたりは、箱をかついだまま、ペタリと尻《しり》もちをついてしまった。
中からひとりの人間が現われた。これまた般若の能面をつけている。二、三歩ゆきかかって、ふと立ち止まり、
「これ、おまえたちは加藤家の小者か」
「いえ、傭《やと》い人足で」
「そうか、しばらくここで待っておれ。――逃げると、叩《たた》き斬るぞ」
のぶとい声でそういうと、鉄斎の屍骸《しがい》のそばにあゆみ寄った。
倒れた鉄斎のまわりに、七人の黒衣の鬼女もまた地に這《は》っていた。手が刀の柄《つか》に膠着《こうちやく》してはなれないのだ。みんな、肩で息をしていた。
「でかした」
と、十兵衛はいった。
「おれは手伝わぬ。桶屋《おけや》で煙管《きせる》をくわえて待っておったのだから、りっぱなものだ。しかし二、三人は討たれると思っておったが、みな命があったのは拾いものだ」
賞揚したような、非情なようなことをいう。石の道祖神のところへ歩いてゆくと、
「見ろ、鉄斎の鎌は石になかば切りこんでいる。敵ながら恐ろしい奴だ。おれは鎌の刃が折れるだろうと見込んでいたのだが、男根大いに怒って鎌をくわえこんでしまったのは、これ天罰というものだな」
しげしげと巨大な陽根を見あげ、ふと、つぶやいた声に、かすかな笑いのひびきがある。
職人の長屋のあちこちの戸があきはじめた。十兵衛はまた七人の鬼女のそばにもどって、
「あとはおれにまかせておけ。この場は、ひきあげろ」
「……刀が、とれませぬ」
「何?」
と、七人の刀身がくい込んだ鉄斎の屍骸をながめやった。屍体の筋肉がしまって、これまた刺しつらぬいた刃がぬけないのであった。十兵衛はかがみこんで、七本の刀をらくらくと抜き取った。
「ゆくがいい」
七人の鬼女たちはよろめきながら立ち上り、刀身を鞘《さや》におさめ、一礼して走り去った。
いましがたのただならぬ物音に、おそるおそる戸をあけた職人たちは、眼前を黒い疾風《はやて》のようなものが吹きすぎて、それが夜目にも恐ろしい般若の顔をしていたのをみると、なかには「わっ」と叫んでまた戸を閉めた者もあった。
「さて」
ひとりのこった柳生十兵衛は、往来のまんなかに突っ立って、般若の顔でみんなを見まわした。みんなというのは、箱かつぎの人足と、長屋からのぞいた住人たちである。
「そこな人足どもは知っておるはずだが、あえて名はいうまい。ここにさる大名があって、荒淫《こういん》悪虐いたらざるなく、美女をあつめてなぶり殺しにすることを何よりの快事とするものがある。今宵も、そこの吉原から六人の遊女をさらい出して、そのいけにえとするために運んでゆくところであったのだ。うそだと思うもののために、いまこの木箱をあけてみせる。……いまのさわぎは、これまでに殺された女たちの敵討ちじゃ」
そして、自分が待機するために場所をかりていた桶屋にいった。
「桶屋、そこの木箱をあけてくれ。いや、箱をこわさず、ていねいに開けるのだぞ」
桶屋の親方が弟子の職人たちをつれてとび出してきて、木箱をあけはじめた。
彼は、世にもばかでかい竹篭の注文をうけたときから、依頼者に好奇心をおぼえ、そのうち何となく、この風がわりな人物の雰囲気に魅せられて、すすんでひと肌ぬぐ気持になったらしい。――たちまち、のみと釘《くぎ》ぬきで、六つの木箱のふたがとりのぞかれた。
「…………」
ふう、というような溜息《ためいき》が、のぞき込んだ男たちののどからもれる。
いつしか東の家並みの上に淡い水色の月がのぼり、六つの木箱に眠った六人の美女を、それこそ京人形のように浮かびあがらせた。
「なるほど」
「おっしゃるとおりだ」
「これを……なぶり殺しにしようってんですかい?」
近所のたたみ職、鍛冶屋、ちょうちん屋、石屋、いかけ屋などもおそるおそる寄ってきていたが、たちまちそのうちの二、三人が人足たちを振り向いて、かみつくようにいった。
「てめえたち、よくこんなむげえ仕事の人足をひきうけやがったな」
「それでよくきんたまをぶらさげて大門をくぐってきやがった」
「ほんとにきんたまがあるのかないのか、あったら、おいらがたたきつぶしてやる」
臼《うす》みたいな顔をした石屋が玄能をふりあげたので、人足たちはきんたまよりさきに肝をつぶした。
「ま、待ってくれ。おれたちゃまったく知らなかったんだ」
「この箱の中に何が入ってるのか、いまはじめて見たんだよ。――」
「あっ、その玄能でつぶすのだけはよしてくれ。な、なんでもいうことをきくからよ。――」
十兵衛は、箱の上にかがみ込んで、六人の遊女を抱きおこし、活を入れてつぎつぎに甦《よみがえ》らせていたが、鬼面の奥で笑った。
「よしよし、それでよい。人足どもに罪はない」
一同を見まわして、
「ところで、おれのいったことがうそでないとわかってくれたら、少々みなに頼みたいことがある」
「へえ、何でございます」
「まず、とりあえず、あの桶や篭をかたづけてくれ」
「あの屍骸は?」
「あれか。あれも一応かたづけろ。ただし、これは人足にやらせろ」
「合点だ。てめえら、さあ来やがれ」
「おっと待て、石屋がおったな。石屋どのにはとくに折入ってたのみいることがある。あの道祖神だがの。鎌がくいこんだ男根をみては、廓《くるわ》通いの色男たちも怖気《おじけ》をふるって退散するだろう、いっそあれを五つ六つに叩き割ってくれ」
職人たちは、人足を追いたてて往来にかけ出していった。
桶は、鉄斎の分銅の一撃をうけて地上に散乱しているが、これこそ今夜の一番手柄の栄をになうものだろう。最初の鬼女――お千絵《ちえ》が逃げこむとき、間髪をいれず、うしろにかくれていたお鳥とさくらが力をあわせてかたむけて、お千絵をのみ込んだのはその桶だ。
「しかし、旦那《だんな》、あの金精さまは、廓のおやじさまがお建てになったもんで――」
と、石屋はためらった。
「その廓のおやじが、死神に女を売った張本人よ」
「へっ」
「待てよ、この六人の京人形」
と、十兵衛は六つの箱を見下ろした。
六人の遊女は木箱の中に坐《すわ》ったまま、ぽかんと瞳《め》をひろげている。彼女たちはさっき西田屋で鉄斎のためにつぎつぎに当身をくわされて悶絶《もんぜつ》した。いま気がついて、そばに突っ立っている般若面をみても、まだ悪夢をみているような思いなのだ。
「京へ送りかえしてやりたいが、路銀が要るな」
しばらく考えこんでいたが、やがてうす笑いしたような声がきこえた。
「そうだ。不浄の金をたんまりもっておる奴がある。あれをこの女たちの路銀とすれば、金のけがれもすこしは清まり、あちらにとっても寝覚めがよかろう」
そして、もっともらしくいった。
「これ、桶屋、石屋、近う寄れ、耳をかせ」
それから一刻ばかりのちである。吉原の大門を妙な行列が入ってきた。何十人かの人足や職人たちが、三組になって、三つの大桶をはしごの上にのせ、おみこしのように担いできたのである。
「これこれ、夜分になって何事だ」
大門は夜になってもしめるものではないが、それでも四郎兵衛番所の番人が眼をまるくした。
「へえ、西田屋のおやじさまから、特別あつらえの桶をもってきましたんで」
と、顔見知りの桶屋がいった。
「桶伏せに使うのか。三つも何にするのだ」
「さあ、それはおやじさまにきかなくっちゃあわかりやせん。へい、出来次第、大いそぎでもってきてくれってんで」
四郎兵衛番所の番人は、桶運びにしては大袈裟《おおげさ》だと思ったが、とにかく廓の実力者たる庄司甚右衛門の注文だというので、この桶の行列を見送った。
江戸町一丁目の西田屋のまえにくると、桶は下ろされた。人足や職人たちは、そのまま闇に消えてしまった。まずまんなかの桶から、ひらりと黒装束の影が、蝙蝠《こうもり》みたいにとび出した。ついで、左右の桶に手をかして、つぎつぎに白い影を抱きおろす。それから、黒装束は、西田屋の大戸にちかづいた。
昼遊びだけゆるされていた時代で、西田屋はもう戸を下ろしていたが、それをホトホトと叩く音に、くぐり戸をひょいとあけた若い者が、ひと目外をのぞいて「わっ」と叫んだ。
家の中でかんだかくさわぐ声がきこえて、庄司甚右衛門がただならぬ顔をのぞかせたのは、その数分後である。
すでに異変は聞いたであろうに、甚右衛門の太いのどから、
「げっ」
というような呻《うめ》きがもれ、たっぷりとした福相がひんまがった。
往来には蒼《あお》い月光がみちていた。銀の雨のように柳の糸が揺れている。その下に白い六つの影が坐っていたのだ。ひたいに三角の紙をつけて、経帷子《きようかたびら》をきて――しかも、その経帷子には、あきらかに血潮が墨をおびたように。
さっき、いずれは殺されるものと知りつつ、加藤家へ送り出した六人の遊女だ。
一瞬、背すじに水のはしるような思いでくぐり戸をひっつかみ、じいっと眼をすえたが、さすがは庄司甚右衛門だ。
「うぬら……何の狂言だ?」
ほそぼそとした女の声がながれた。
「会津《あいづ》加藤家に売られて……」
「殺されし女人……」
「幾十人なるかを知らず……」
「いま六道の辻《つじ》に迷い……」
「三途《さんず》の河に哭《な》く……」
庄司甚右衛門はこの人物には珍らしい凶相をみせた。
「……よしやがれ、この女狐ども」
肩で息をしてうめくと、猛然とくぐり戸から駆け出そうとしたのである。
ふいに彼は四つン這いになった。だれかがその背に土足をのせた。くぐり戸のすぐ外に立っていた何者かのために向うずねをはらわれたと知ったのはそのときだ。甚右衛門をふんまえた足は巨岩のような重みがあった。
「じゃによって、六道銭が欲しい」
と、錆《さび》をふくんだ声がいった。苦痛に呻きながら、甚右衛門は「だれだっ」と叫んで、首をねじむけた。
鬼女の面が見下ろしていた。
「閻魔《えんま》」
と、笑って、すぐにつけ加えた。
「の女房」
庄司甚右衛門の胸に生まれてはじめてといっていい恐怖がわきあがった。むろん、幽霊に化けた遊女たちに対してでも、この奇怪な曲者《くせもの》の腕力に対してでもない。いったいこやつは何者か、という疑いからきた怖れであった。
そもそも、夕刻遊女たちをつれ去った大道寺鉄斎さまはどうなされたのであろう?――甚右衛門は二日まえのあの唐紙の文字をかいた人間を、いままでに加藤の殿様の淫虐の犠牲になった女たちに縁あるものの仕業であろうとみていたが、その鋒先《ほこさき》がじぶんにむけられようとは予想もしていなかった。まして、このような恐ろしい力をもっている男が黒幕になっていようとは想像のほかだ。
しかし、彼は一介の女郎屋の亭主ではない。蝦蟇《がま》みたいにひしゃげたまま、甚右衛門は威嚇的な声を出した。
「おい、うぬはおれをどんな人間だと思っておるのだ?」
「庄司甚内」
と、般若《はんにや》面は、甚右衛門の前名を呼んだ。
「むかしは大泥棒だった男だとな」
「な、なにっ」
甚右衛門は愕然《がくぜん》として眼をむき出していた。般若面はひくく笑った。
「向坂《こうさか》甚内、鳶沢《とびさわ》甚内、庄司甚内――と、関八州を荒しまわった凶賊組の三甚内」
「うぬは……うぬはだれだ」
「おれは向坂甚内」
「な、何をぬかす、向坂甚内は三十年もむかしに失《う》せおったわ」
大盗向坂甚内がつかまって、浅草鳥越橋の刑場で磔《はりつけ》になったのは、慶長《けいちよう》十八年の夏、いまから三十年ばかりもむかしのことである。それを機会にあとのふたりは正業にたちもどり、鳶沢甚内は古着買いの元祖となり、庄司甚内は女売りの吉原の開祖となったのだが、この庄司甚右衛門の前半生の秘密はいまだれも知っている者がないはずだ。
「二代目だ」
相手は平気でいう。
しかし甚右衛門はこのとき完全に屈服した。向坂甚内の二代目ということがでたらめであることはわかっているが、それだけに恐怖はいっそうつのった。この恐怖は、いまや彼が「功成り名とげた」いい御身分にあるということからも来ている。
「いくら欲しい」
「一万二千両」
「そ、そんなむちゃな」
般若面は笑い出した。おのれは加藤家から一万二千両とりあげたくせに、そう要求されて血相かえた、この欲ぶとりの老人がおかしくなったらしい。
「まあ、おまえほどの欲ばりではないから、二千両でかんべんしておく」
「二千両」
甚右衛門はおのれの肉でもけずられるような声で呻いた。
「そ、それをやれば、二度とおれのまえにはあらわれまいな」
「いや、また来るぞ」
ケロリとしていう相手に、甚右衛門はもだえ、われながら悲痛な声をたてた。
「悪党には悪党同士の仁義というものがあることを知らぬのか」
「うふふ、じぶんで悪党であることを認めたの。ともかく廓の女を、きょう以後またも加藤家に売るようなことがあれば、おれはきっとまた来るぞ」
――二千両箱が西田屋のくぐり戸からそっと外にさし出されると、鬼面の黒装束は戸をピッシャリとしめた。
「これ、外をみてはならぬ。見ると、たたるぞ」
片手をふると闇の中から数十人の人足や職人があらわれた。こんどは二つの大桶《おおおけ》に六人の京女をかつぎこみ、ついでに二千両箱を運び入れて、またおみこしみたいにかついで、たったと大門の方へかけ出してゆく。
そうっとまたくぐり戸があいて、庄司甚右衛門のひかる狸のような眼がのぞいた。とたんに大喝された。
「眼がつぶれてよいか。泥棒甚内」
肝をつぶして、甚右衛門の方からピシャリと戸をしめた。
「今夜のことは、あとあとまでさわがぬ方がおたがいのためだと存じておるな、泥棒甚内」
いいすてると、音もなく黒装束ははしり出して、桶の行列を追いはじめた。大門の手前で、行列とならぶとみるまに、その黒い影は大地を蹴《け》って、フワと桶の中にきえた。
「へい、夜分たびたびおさわがせして、恐れ入りやす」
四郎兵衛番所の番人に、桶屋がペコリとおじぎをした。
「やっぱりまちげえで。西田屋のおやじさまは桶は三つも要らねえそうで、二つをひきとるところでごぜえまして」
番人があっけにとられている間に、桶の行列は大門の外へ出ていった。
芝《しば》の加藤家の門前に、六つの白い木箱がおいてあるのが発見されたのは、その深夜のことであった。
門番の急報に、六人の七本|槍《やり》衆がかけ出してきた。彼らは終日堀の女たちをもとめて江戸じゅうをかけずりまわり、むなしく帰ってきたが、吉原にいったはずの大道寺鉄斎の帰邸があまりにおそいので、様子をみに人をやろうか、と話していたところだったのである。
「なに、この箱だけが?」
「鉄斎はどこにいったのじゃ」
「それに人足どもが消えておるとはおかしい」
くびをかしげながら、木箱をうごかしてみると、たしかに人が入っているような重さである。ふたは釘《くぎ》づけになっていてひらかない。
ともかくも中間、足軽を指揮して、例の「花地獄」の蔵の入口まで運ばせ、あとは六人の七本槍衆が蔵にかつぎこんだ。
知らせをきいて、式部《しきぶ》少輔《しよう》明成が出てきた。蔵の中の壁際に立ててならべられた六つの木箱を見、報告をきいて、これも判断に苦しむ表情になった。
「鉄斎はいかがしたと思うか」
「何ともいぶかしいことでござりまするが、ひょっとしたら」
と、平賀孫兵衛がいった。
「御当家の門前まで運んでまいりましたとき、曲者があとをつけてきたのに気づき、それを追うていったのではござるまいか。それよりほかに思案がつきませぬ」
「尼寺の女というか」
「いや、それならば、それほど鉄斎に手間暇はいらぬはず、もしかして、先日申しあげたあの正体不明の曲者であったとすれば――きゃつなら般若の面などかぶっており、人足どもが恐れて逃げちったものとかんがえてもふしぎはござりませぬ」
「尼僧崩れの女どもを助ける般若面の男……その曲者の素姓もいまだ知れぬのじゃな」
「――御意」
六人衆は、おちつかない顔色になった。香炉《こうろ》銀四郎の歯がキリッと鳴る。
彼は先日、大道寺鉄斎を信じるあまりに、あの曲者をこの屋敷の竹林中に逸《のが》したことが無念でならないのだ――とはいえ、もし今夜鉄斎が曲者を追っていったとするならば、鉄斎のその後の運命をまったく案じてはいない。敵を知らぬ最初の対決はしらず、ふたたび逢《あ》った大道寺鉄斎の鎖鎌が、よもやおくれをとろうとは思われないのだ。
「ともかく、あけよ」
と、明成は眼をひからせ、六つの木箱にあごをしゃくった。
「お待ち下されい」
漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》がいった。眼にぬぐい去られぬ一抹の疑惑がある。彼は身を起して、まんなかの木箱の横に立った。
「どうにも不審でござる。万一にそなえ、殿、しばらくおうしろへ」
そのからだがぱっとおどりあがると同時に、長刀が一閃《いつせん》して、そのふたを釘ごめにそぎとばした。
「……あっ」
不審といった虹七郎すら、思わず絶叫をあげていた。
箱の中には、ひとつの人影が立っていた。全身に鎖をまき、大鎌を首にかけられた大道寺鉄斎だ。くぼんだ眉《まゆ》の下でむき出された眼がじいっと一同をにらみまわしているようにみえたが、たちまちどうと前の床にたおれてきた。
「鉄斎!」
かけよろうとした明成の足がふいにはたと釘づけになった。箱の底にかかれた模様と文字が彼の眼を射たのである。
蛇ノ目紋を下に四つ、上に二つかさねて、
「蛇ノ目は六つ」
という文字が。――
狂気のようにのこり五つの木箱をたたきこわすと、おがくずにつつまれた大きな石がころがり出して、あやうく明成の足をつぶすところであった。
石のひとつは、あきらかにおかしげなもののかたちをとどめていた。
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十兵衛先生
空にもえる太陽をつき刺すようにそびえている杉の大木であった。品川の沖からもみえる東海寺の千年杉である。
その千年杉の梢《こずえ》を青い夏風とともに美しい鈴の音が吹きわたる。遠くから、リリリと鳴ってきて、大きな弧《こ》を地にえがきながら、ふたたびたかくはねあがると、リーンと空中でもんどりうって下におちてゆく。鈴の音が――いや、鈴をつけた黒い人影が。
一回転すると、地に猫のようにとんと立ったのは、黒い襦袢《じゆばん》に黒いたっつけ袴《ばかま》をはいてはいるが、あきらかに黒髪ながき美少女だ。
彼女はむこうの小高い丘から、千年杉の枝に垂れさがった綱をつかみ、空中を振子のごとく飛んできたのであった。
綱の先には重い分銅がつけてあるとみえて、人間を失ってもまたそのままもとの方へかえってゆく。――すると、第二の黒衣の娘が半円をえがいて飛んできて、つかんだ手をはなし、大地にヒラリと舞いおりる。
こんどはしくじった。彼女は地面にドスンと尻《しり》もちをついた。
悲鳴をあげたのは、堀|主水《もんど》の娘お千絵《ちえ》の婢《はしため》お笛であった。愛くるしい顔をひきゆがめた頭上から、
「あとがつかえる。どけっ」
と、鞭《むち》のような叱咤《しつた》がとぶ。
お笛が必死にまろんで逃げたあとに、第三の黒衣の女が舞いおりてきた。これは堀主水の弟|多賀井《たかい》又八郎の妻お沙和《さわ》であった。
「よし! その呼吸だ!」
そばの石に腰をかけて、柳生《やぎゆう》十兵衛は扇子をひらいてお沙和をむかえた。十兵衛のうしろには、いままでにこの振子飛びの訓練をおえたお千絵、お圭《けい》、お品、お鳥などが、息はずませて坐《すわ》っていた。うしろの木立ちに、馬が二頭つながれて青草をたべていた。
「お笛、もういちどやれ」
と、十兵衛はあごをしゃくった。
お笛は両腕を土につっぱったが、腰がどうかしたとみえて、動けない。春、鎌倉《かまくら》の東慶寺《とうけいじ》にいたころ青々と剃《そ》っていた頭は、いま童女のような切下《きりさげ》髪にまでのびていた。
「これ、左様なことで、会津《あいづ》七本槍衆が討てると思うか!」
大喝されたとたん、お笛はとびあがった。腰がしゃんとのびている。顔を真っ赤にし、歯をくいしばってかけ去る姿を、十兵衛はじぶんだけ涼しげに扇子をつかいながら見送った。
しかし、鎌倉の尼寺から出て江戸に入った堀一族の女七人を、会津七本槍衆が血まなこになってさがし求めて、まだ見つけ出すことのできないのもむべなるかな。彼女たちが、ところもあろうに「葷酒《くんしゆ》山門に入る」をゆるさぬ禅寺にいようとは。
品川にある万松山東海寺。
寛永《かんえい》十五年、将軍家光が、沢庵《たくあん》和尚のために建てたもので、境内四万七千余坪、塔頭《たつちゆう》だけでも十七宇をかぞえる大寺院であった。
「でかした!」
宙をとんできて、こんどはみごとに地上に立ったお笛を迎えると、十兵衛は立ち上ってあゆみ出し、うしろにつながれた二頭の馬の手綱をといた。
「ひきつづき、馬をやる」
そして、お圭とお鳥に手綱をわたした。
お圭は、堀主水の家臣|稲葉《いなば》十三郎の女房だ。しとやかな瓜実顔《うりざねがお》の持主であった。お鳥はおなじく堀の家来板倉不伝の娘だ。これはみて気持のいいくらい、ほどよくふとっていた。十三郎も不伝も、ともに加藤家へ曳《ひ》かれていって殺された。――
馬はもとよりはじめてではない。加藤家にいたころから武家の女として一応の手ほどきはうけていたにちがいないが、さらにここで、相当十兵衛にきたえられたとみえる。――
烈日の照るひろい庭で、二人は反対側から輪乗りをはじめた。
輪乗りとは、またの名を「蜘蛛《くも》かけ縄」あるいは「五の挟み」といい、中央の五角形の各辺に頭のまるい三角形をおいたかたちの線をあゆむもので、急転回の練磨を主眼とする馬術だ。したがって、その中心となる五角形が小さくなればなるほど、精妙の域にちかづくといえる。
はじめ輪乗りの輪は大きかったが、ふたりの手綱さばきは女とも思われなかった。まっしろに砂けぶりの渦をまき、クルクル、クルクル、馬がまわるたびに、黒髪も渦をまく。しかし――満面汗にぬれ光ってきたのが、かならずしも熱気のためでないことは、その顔が蒼白《そうはく》になっていることからもわかる。輪は次第に小さくなってきた。
「宮の息……商の息……角の息……」
十兵衛が指南するのは、馬の息にあわせる人の息合いだ。
両騎がいくどめかのすれちがいをしようとしたとき、十兵衛は叫んだ。
「やれ! まんじ飛び!」
同時に、ふたりの女はあぶみを蹴《け》った。人と馬は、空中と地上で卍《まんじ》のごとく交叉《こうさ》した。ひとりは見事に相手の馬の鞍《くら》にとびうつったが、ひとりは両馬のあいだにころがり落ちた。鉄蹄《てつてい》がその顔をかすめ、砂塵《さじん》がそのからだを覆う。
成功したのはお圭で、失敗したのはお鳥だ。
「起《た》て、お鳥、こんどはお品とやれ」
冷然として、十兵衛はいった。
馬術の訓練をおえたとき、七人の女はみな肩で息をしていた。炎天の下で、もはや出す汗もつきはてて、若々しい顔がみな枯れかかった花のようにみえる。
しかも十兵衛は、彼女たちをゆるそうとはしない。――
「まだいのちがある。死ぬ覚悟でやれ、よいか、死ぬ覚悟でかかって来い!」
手に扇子をぶらさげて、まわりをとりかこんだ女たちに叫んだがこれも毎日の課程であろう。七人の女はいっせいに腰の刀をぬきつれた。
そのまま、扇子一本の十兵衛めがけてはせより、旋風のごとく斬りかかった。
たおやかな身を黒衣につつみ、顔に一抹の紅粉なき女たちとはいえ、それが十兵衛を中心に刃《やいば》をつらねて吹きめぐるさまは、嵐にゆれる七本の黒百合かとも思われる。――
事実十兵衛は、七人の女の必死の息づかい、珠《たま》とちる汗の匂いを、まるで百合の花粉につつまれたように感覚した。とはいえ、その扇子と肘《ひじ》は、穂すすきのような乱刃を、正確にはねのけ、そらし、おのれのからだに毛すじほどもあてないのみか、おどろくべきことに、七人同士の相討ちさえも微妙にふせいでいる。
もっとも、そのことは彼女ら自身は気がつかない。七人の女は、ただ死物狂いであった。
この寺にきた最初のうち、十兵衛が扇子のみをもち、彼女らに真剣をもてといわれたとき、恐れ、あきれ、さらにはさげすまれたかと顔を紅潮させた女もあったが、その不安や怒りは、文字どおり刃がたたないという事実でたちまちけしとんだ。いまや彼女たちは、あたかも十兵衛がめざす会津七本槍衆であるかのごとく全力投球をやる。十兵衛がヒヤリとするのは、おのれに対するその攻撃ぶりではなく、彼女らがおたがいに相討ちすることすら恐れない無謀さであった。
が、この訓練を経たればこそ、親父橋の畔《たもと》で鉄鎖鬼大道寺鉄斎を、防戦のいとまあらせず討ち果たすことができたといえる。――
黒い旋風はひと息かふた息のあいだであった。
鉄扇ですらない一本の扇に、あるいは刀を叩《たた》き落され、巻きあげられ、あるいは脾腹《ひばら》をうたれ、足ばらいにかけられて、七人の女は十兵衛のまわりに、七つの花束をなげ出したように地に伏した。
「起きろ」
銅像みたいにつっ立って、ニコリともせず十兵衛はあごをしゃくる。
「将軍家指南の柳生十兵衛が、手に手をとって教えておるのだぞ、ありがたいと思え」
そっくりかえって、威張った。あえぐ女たちの中に、十兵衛はひとつの顔を見とがめた。
「お笛、何やらいいたげじゃな」
「よく……よく」
と、お笛は息をきらしていった。
「尼寺でよくあたしが、あなたさまの頬っぺたをひっぱたいたものだと思うて」
「あの意気だ、起て!」
と、十兵衛は叱咤《しつた》した。
「おれは少年のころ、父から真剣の指南をうけておるうち、この片眼をつぶされたのだ。このおれですら、それほどの修行をしたのだぞ。敵《かたき》をもったおまえらが、これくらいのことでへたばって何とする。――大道寺鉄斎を討ったのはぎょう幸だ。左様なことでは残り六人の七本槍、だれに駈《か》け向っても、みな殺しの返り討ちだ。起てっ」
厳格というより残酷だ、鞭撻《べんたつ》というより無残ですらある。
刀を杖《つえ》にたちあがる七人の女を、炎天の下に秋の霜のような独眼でじろとみて、しかし十兵衛はニヤリと笑った。
「だいぶ花に水気がきれたようだ。すこし水をやろう」
これもまた十兵衛先生の課する教程のひとつである。――
すぐちかいところに大きな池があった。もともとこの東海寺の庭は、例の小堀|遠江守《とうとうみのかみ》のつくったもので、石樹泉水ことごとく遠州《えんしゆう》流の作法にかなったものだが、そのひとつ浴鳳池《よくほうち》と名づけられた大きな池に、直径五寸はあろうと思われる長大な孟宗竹《もうそうちく》が一本|架《か》けられてあった。
むろん十兵衛が架けたもので、七人の女はその竹の上を走らされたのだ。
直径五寸の青竹は、彼女たちの足裏の幅は充分超えるであろうが、人間は幅一尺の板でも疾走してわたれるものではない。しかも、竹はまるくて、なめらかで、しなってゆれにゆれる。――
その上を、お千絵がかけわたり、お鳥がわたったのは、もとより幾百回かの練磨の結果だが、それでもお品とお沙和が水音たかく池におちた。お笛はわたったが、お圭とさくらが水けぶりをあげた。
が、ふしぎなことは、彼女たちがおちた瞬間、いちどだけ水音としぶきがあがっただけで、それっきり波紋のひろがるのがみえなかったことだ。ようやく日がかたむいて、蒼味《あおみ》をふかめたひろい水面は、しーんと静まりかえっているだけであった。
――と、十分あまりもたって、思いがけぬ遠い四つの岸に、ポッカリと四人の女の首が浮びあがった、四人とも一尺あまりの細い青竹をくわえていた。
「まずまずだ」
と、十兵衛はほめた。
「上ってこい。着物がかわくまで、千年杉の下でしばらく兵法の講義をすることにする」
池からあがってきた四人の女は、黒衣がピッタリ肌にへばりついて、肉の線そのものをなまなましく浮きあがらせていた。
お鳥がその四人をながめていった。
「浴鳳池とは、よい名をつけたもんですね」
やがて、十兵衛をとりかこんで、尼寺からきた女たちは坐った。千年杉の下を吹きぬける風は、ようやく夕風に変った。
「つらいか」
はじめて十兵衛は、人間らしい笑顔をむけた。
「いいえ、ちっとも」
と、お千絵は、はげしく首をふった。
「この一日一日が、敵を討つための修行だと思いますれば、何でもありませぬ」
お千絵の従妹《いとこ》にあたるさくらがいった。
「わたしは、この一日一日、あの会津の悪鬼たちがまだ生きておると思うと、くやしゅうてなりませぬ。十兵衛さま、この七人が総がかりになれば、先夜大道寺鉄斎を討ったように、あとの六人、ひとりずつならば討てるのではありますまいか」
「うぬぼれるな」
十兵衛はにがい顔をした。
「これしきのことで、あの七本槍が討てるなどとは――そなたらに、かような修行を百年つづけたとて、きゃつらの相手にはなれぬということは、最初からとくと申してあるではないか」
お圭とお品がきっとして顔をふりあげて、
「それでは、十兵衛さま、なんのために」
「逃げるためだ」
「逃げるため?」
「七本|槍《やり》は容易には討てぬ。いちどしくじれば二度狙う。逃げなければ二度狙えぬ。しかし、きゃつらからは、逃げることすらむずかしいかもしれぬ」
「わたしたちは逃げはしませぬ」
「七本槍から逃げるために、わたしたちは尼寺から下りてきたのではありませぬ」
ふたりが声をそろえて叫ぶと、あとの五人の女も怒りにもえる眼で十兵衛をにらんだ。十兵衛は粛然として彼女たちを見まわした。
「左様な心得では、まず真っ向から返り討ちだな」
お千絵が叫んだ。
「十兵衛さま、どのような心得ならば敵が討てるのでございますか」
「もっと柔らかくなることだ」
実をいうと十兵衛は、心中もっと彼女たちにとって失礼なことを考えていた。いかに彼女たちが骨をけずり、血をしぼるような修行をしようと、あの会津七本槍衆に真正面から太刀討ちできるものではないということは、たんに彼女たちをはげます言葉ではない。まさに、そのとおりだ。
だから、彼らとたたかうには、彼女たちの特性を武器とするにかぎる。彼女たちの特性とは、女であることだ。単刀直入にいえば、色仕掛だ。それで果して剽悍《ひようかん》無比の七本槍衆をたおせるかどうかも疑問だが、いまの場合、それを武器とするよりほかはない。そう考えていた。
さいわいなことに、彼女たちはみなそれぞれに美しい。
お千絵。――堀主水の娘、十九歳、これは会津四十万石の家老の娘だが、大名の姫君のように気品があって優雅な乙女だ。
お沙和。――主水の弟多賀井又八郎の妻、三十歳。これはぼんぼりのかげで縫物でもしているのがふさわしい、みるからに情愛のふかいまなざしをしている。
さくら。――主水の弟|真鍋《まなべ》小兵衛の娘、十七歳、あけぼのの下を白馬銀鞍で疾駆すれば、美少年にみまがうばかり颯爽《さつそう》たる娘であった。
お圭。――家臣稲葉十三郎の妻、二十五歳、典雅で、しとやかで、しかもりんとしている。
お品。――家臣金丸半作の妻、二十七歳、ひときわ色白で、眼にも唇にもしたたるようになまめかしい色気があった。
お鳥。――家臣板倉不伝の娘、二十歳、まるまるとふとって、ほがらかで、つぎのお笛とともに、いちばん十兵衛を笑わせる。どれほどつらい修行のなかでも、ヒョイとユーモラスなことをいうのだ。
お笛。――お千絵の婢、十八歳。彼女はたしかにどこか知恵のおくれたところがあるが、そのかわり純真猛烈、思いこんだら命がけというところがあって、もっとも愛すべき娘だ。
――どれも十兵衛の注文には充分あてはまるはずだが、さて、いざとなると、人を人とも思わぬ柳生十兵衛が、面とむかってはその妙案を口から出せないものがあった。
七人の女は、じぶんの美しさを意識していない。十四の黒い瞳《ひとみ》は、ただ父を、夫を、母を、弟を、地獄さながらに殺戮《さつりく》された復讐《ふくしゆう》にもえたぎっている。
しかし、彼女たちが意識していないからといって、男たちが彼女たちの美しさを意識しないというわけにはゆかない。
この寺を彼女たちの根城にすることを沢庵がゆるしたとはいえ、女人の山門に入るを許さぬ禅寺だ。「大丈夫ですかな」と笑う十兵衛に、沢庵は、「わしのところの坊主に、美女がまわりをウロウロしておるからとて、道心のゆらぐ奴がおるかよ」といったが、十兵衛は念のため、彼女たちの腰に鈴をつけさせた。――もっともこれは、じぶんが尼寺で鈴をつけさせられたしっぺがえしもある。
その当人の十兵衛が――厳格無比の十兵衛先生が、実はときどき、妙なところで彼女たちのなまなましい女くささに、思わず片眼をそらすことがある。
とくにいまのように、水にぬれた黒襦袢《くろじゆばん》、黒いたっつけ袴《ばかま》を肌にまとわせて、しかも横すわりになっている女の姿には、ぞっとするような異様ななまめかしさがあった。
「もっと、柔らかくなれ――」
と、いま自分の吐いた言葉がばかばかしくなるくらいだ。
しかし、十四の瞳は、きびしい、きまじめな光をたたえて、十兵衛の眼を追う。
「十兵衛さま、柔らかくなれとは?」
「それはの。こういう話がある。――おれの祖父の石舟斎《せきしゆうさい》の師匠に上泉伊勢守《こういずみいせのかみ》というおひとがあった。いまでも兵法家に神人とあがめられるほどの達人だ。このお方が回国の際、一凶賊が幼児を人質にして蔵に入り、ちかづくものをおどしているところへ通りかかられたのだ。そのとき伊勢守さまは何となされたと思う。頭を剃《そ》り、衣をまとうて僧形《そうぎよう》となり、むすびをもって蔵に入り、やさしく凶賊に対された。そして、賊がついそのむすびに手を出しかけたとたん、おどりかかって手捕りにされたという。――強いばかりが兵法の極意ではないというよい譬《たと》えだ」
女たちは熱心にうなずく。――
現代の大学でも、女子大学生は実にきまじめで熱心で、ものおぼえがよいが、おぼえたことをいざ応用するということになると、急に融通がきかなくなるところがあるそうだ。
(おれのいう意味が、ほんとうにわかってくれたかな)
と、十兵衛は少々心細くなった。
もっとも、上泉伊勢守の逸話から、色仕掛けで敵とたたかう知恵まで融通をきかせろというのは、十兵衛の方がむりだ。
「よいよい、その話はそれで心にとめておいて、きょうは沢庵禅師の不動智神妙録なる兵法の極意をきいてもらおう。よく心をすませてきけ。……心をどこに置こうぞ、敵の身の働きに心をおけば、敵の身の働きに心をとらるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心をとらるるなり――」
独眼をとじて朗唱する十兵衛の錆《さび》をおびた声が、夕風にのってながれてゆく。
「敵を斬らんと思うところに心を置けば、敵を斬らんと思うところに心をとらるるなり。わが太刀に心を置けば、わが太刀に心をとらるるなり……」
樹立《こだ》ちの向うの堂塔や塔頭《たつちゆう》をあかあかと染める夕日がだんだんうすれて、境内はしっとりと蒼味がかった夏の夕の大気に変ってゆく。
瞑目《めいもく》して朗唱する十兵衛の声を、まわりに円座してきく七人の女人の眼が、はじめ言葉の意味の重みを心に沈めようとするひたむきなかがやきから、これまたしだいにまるで音楽でもきくようにうっとりとけぶってきたのも、その快い夕風のゆえか。
「われ斬られじと思うところに心を置けば、斬られじと思うところに心をとらるるなり。人の構えに心を置けば、人の構えに心をとらるるなり:…」
「――きゃっ」
ふいに、十兵衛のすぐ前に坐《すわ》っていたお笛が叫んだ。
「蜂が!」
きぬをさくような悲鳴とともに、両側のお沙和とお品が、身をひねって十兵衛の腕にしがみつき、十兵衛の膝《ひざ》に顔を伏せた。
はっと十兵衛が眼をあけたとたん、大きな金色の蜂がその顔をかすめ、もういちど車座の女たちの頬やあごをなぶるようにかすめたのち、ぶうんと夕空へ飛び去っていった。
それを見あげたまま、十兵衛自身うごきもできぬ。両側からお沙和とお品にしがみつかれたままなのだ。
たった一つの眼をつむっていたので、蜂の姿はみえず、じぶんの声のために、蜂の羽音はきこえなかったのだが、
「――敵ならば、ただ一撃ちだな」
と、十兵衛は心中に苦笑した。つづいて、じぶんの両腕をしばりつけているものに気がついて、もういちど苦笑した。
これ、身をはなせ、とじゃけんにはらいのけることができなかったのは、その熱い、柔かい重みに心をうばわれたのではなく、敵に対しては死物狂いの突撃をやってのけ、じぶんの荒修行には火水の中へでも敢然ととびこむこの女人たちが、たった一匹の蜂にこれほど恐慌をきたしたのを、おかしがるより可憐《かれん》なものに思えたからであった。
「女身をはなさんと思うところに心を置けば、女身をはなさんと思うところに心をとらるるなり」
ふいに、横から声がきこえた。
「十兵衛先生、坊主より、そっちが大丈夫かの」
夕闇に白い髯《ひげ》を吹かせ、沢庵が笑っていた。
「いや、これは」
と、十兵衛は狼狽《ろうばい》し、がらにもなく赤面した。
「蜂がとんできたので」
「柳生流蜂ふせぎの秘術か」
沢庵はなお笑いながらちかづいてきて、それからけろりとしていった。
「先刻、天樹院さまから茶の御使者が参っての。きょうはだれがゆく」
江戸城竹橋御門内にある千姫さまは、堀一族の女たちの心をくんでわざと表面には出ぬかわり、ひそかにひとりずつ交替に茶室に呼んで、禅寺の荒修行にたえる女人たちをねぎらうのをせめてもの心づくしとしているのであった。
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まんじ飛び
――江戸城竹橋御門の扉がひらくと、四つ五つの提灯《ちようちん》が出てきて、一団の人影をおぼろに浮かびあがらせた。夜更けである。
「……では、くれぐれも天樹院さまによしなに……」
そんな女の声がきこえて、彼女を送って出てきたらしい七つ八つの人影がひらきかけたとき――ザザザッというような音とともに、いっせいに提灯がきえた。一瞬に提灯がたたきおとされたのである。
「いや……、拙者のしわざです」
ひくい声が、闇の中にどよめきかけた人びとを制した。苦笑をおびて、
「しかし灯をけしても、むだかもしれぬ」
「十兵衛どの、どうしたのだ」
「見張られておるのです」
「な、何?」
「実は、今夜、こちらにおうかがいしたときから、そやつは見張っておりました。そして、いまも見張っております」
「何者が、どこにおるのだ、十兵衛どの。お城の御門ちかくまで監視するとは言語道断な奴、すぐに手勢をくり出してひっとらえさせるが」
「いや、それは御無用にねがう。いずれさまのお助けをかりるのも御遠慮したいと女どもは申しておるのです。実は拙者すら手をかしてはならぬという約束で」
むろん、竹橋御門を出てきた柳生《やぎゆう》十兵衛たちと、見送りに出た天樹院つきの老臣吉田修理たちとの問答である。千姫さまに招かれて、今夜ここにきていたのは、堀の女のうち、板倉不伝の娘、二十歳のお鳥であった。
「何者かが見張っておるとあっては、帰る道も不安、十兵衛どの、夜があけてからかえられたらどうじゃ」
「いや、夜があけ、また日がくれてあさってとなってもおなじことです。きゃつらは、金輪際、この御門から眼をはなすことではござらぬ。……ゆこう、お鳥」
お鳥はうなずいて歩き出し、竹橋の外に待っている二|梃《ちよう》の駕篭《かご》の一つに身を入れた。
十兵衛も、いちど駕篭のところへ寄りかけたが、不安そうに闇をすかしてたたずんでいる吉田修理のところへたちもどってささやいた。
「修理どの、見張っておるのは、犬なのです。したがって、灯を消しても無用でありました」
「犬?」
「されば、ここに眼をつけたとあっては、せっかくお招きを受けましても、今後はしばらくお伺いできぬかもしれませぬ」
そして、唖然《あぜん》としている顔をのこし、駕篭にのりこんだ。
「駕篭かき、このままひといきに品川の方へ走らんでの、しばらくお城のまわりをうろついてもらいたい」
駕篭はわざと東海寺に呼んだ町駕篭だ。垂れを下ろしていたが十兵衛は、こちらが走り出すと同時に、竹橋御門から半町も遠くにじっと坐っていた一匹の犬が、眼をひからせてノソリと立ち上がり、こちらの駕篭をやりすごすと、風のように追ってきたのを知っていた。
ほそい三日月の明りに、波もたてずにうすびかる濠《ほり》に沿うて、駕篭のなかで、十兵衛は腕ぐみをしてかんがえる。
きゃつら、やっと天樹院さまのところを見張る、という知恵がうかんだらしい。東慶寺《とうけいじ》のいきさつを思えば、天樹院さまと堀の女たちと、かならず結びつきがあるということはすぐかんがえつきそうなものだが、血のめぐりのわるい奴らで、やっといまごろ気がついたとみえる。――
しかし、いざ眼をつけられたとなると、こちらにとっては、ちとこまったことになったぞ。
天樹院さまの方はともかく、品川の東海寺をさぐりあてられるということがこまるのだ。七人の女をかくすのに、あれほど絶好の場所はない。
木挽町《こびきちよう》の柳生屋敷につれてくるとなると、かたぶつの父の但馬守《たじまのかみ》がどういうか。事情をあかせばかくまってくれないでもないだろうが、門弟一同に知られると、きっと騒ぎが大きくなる。柳生一門の後盾《うしろだて》で敵討ちをしたとあっては、女たちのけなげな意志が水泡に帰するのだ。それにくらべて、東海寺はうるさいことのおこるおそれはまったくない。禅寺と女、これはいかに会津七本槍とて、思いもつかぬのは当然だ。
なんとかして、東海寺にかえるのを敵に知られたくないが、それにしても追跡者が犬であるということに、さすがの十兵衛も閉口した。
今夜、天樹院さまの御屋敷にきたときから、竹橋の外にうずくまっている一匹の巨大な秋田犬をみて、はてな、とくびをかしげつつ門を入ったのだが、先刻ふたたび門を出て、夜目にもその犬がやはりじっと坐っているのを見とめると、はじめて、
「――具足丈之進!」
という名が脳裡《のうり》にひらめいたのである。三匹の犬を手足のごとくあやつるといわれる具足丈之進のことは、堀の女たちからきいていた。
江戸城を見張る、という大胆不敵なふるまいも、犬なればこそだれにも気づかれずにやすやす通る。おそらくほかの二匹も、ちかくの諸門を見張っているのではあるまいか。
十兵衛は心耳をすました。犬はついてくる。一匹だ。ほかにつけてくる人間の気配はない。一匹の犬だけなのだ。
「駕篭屋」
と、十兵衛はいった。
「おれの駕篭だけ、うしろにひきかえせ」
濠ぞいに一梃の駕篭は反転した。一匹の犬の追跡をまよわせ、まこうとしたのだ。
十歩走って、
「駕篭屋、犬はおらぬか?」
「――犬? あっ、途方もねえ大きな犬だが、あっちの駕篭を追ってゆきますぜ!」
「いかん、かえせ、もういちど、あの駕篭のあとを――」
十兵衛は狼狽した。犬は、人間よりもまよわされなかった。いかなる訓練をうけているのか、犬は的確にお鳥の駕篭だけに眼をつけているのであった。
走りながら、犬はほえた。――すると、遠くで、びょうびょうとべつの犬のほえる声がした。と、反対側のはるかうしろから、三匹めの犬のおなじような声が物凄《ものすご》くながれてきた。
案の定《じよう》、三匹いる。それが相呼応しているのだ。おそらくそれをつかう具足丈之進もちかくにいるのであろう。ひょっとすると、あと五人の会津《あいづ》七本|槍《やり》衆もいるかもしれない。いまにも彼らはこちらにかけあつまってくる。
――駕篭の垂れをあげた十兵衛は、前をゆく駕篭とならんで犬が走りながら、前足をかがめるのを見た。
――同時に彼の手があがり、犬めがけて流星がとんだ。とっさに小柄《こづか》をなげたのだ。
ながれとぶ燕《つばめ》ですら、うちおとす十兵衛の小柄だ。むろん彼は、その小柄が犬の首をつらぬくことを確信していた。――ところが、犬は、みごとにそれをよけたのだ。ちらっとこちらに首をむけたとみえた刹那《せつな》、その小牛みたいな巨大なからだは、ばねのようにはねかえって小柄をやりすごした。
「――きゃつ!」
柳生十兵衛が、人間相手にすら、めったにもらさぬ愕然《がくぜん》たるうめきをもらした。
「だ、旦那《だんな》、大丈夫でやすか?」
前とうしろの駕篭かきが叫んだのは、十兵衛を不安がったためではなく、じぶんたちが恐ろしくなったのだ。
「走れ、とまるな。とまるとその犬はとびかかるぞ」
十兵衛はおどした。とはいえ、一刻もはやくこの犬を始末しなければならない。
「これ、前の駕篭を追いぬけ。こちらは濠端を走るのだ」
そう命じると、十兵衛は前の駕篭に声をかけた。
「お鳥、濠側にむけた垂れをあげい」
そのまま、十兵衛の駕篭はお鳥の駕篭とすれちがおうとして――
「やれ! まんじ飛び!」
と、叱咤《しつた》した。
本能的にお鳥の豊満なからだが浮きあがって、ふわりと駕篭の外へながれ出した。空中で十兵衛のからだとすれちがう。一瞬、ふたりの位置はいれ変って、とんと反対の駕篭に坐っていた。
もし、最初からこのことを承知していてやろうとしていたなら、かえって失敗したかもしれぬ。いま突如と命じられてお鳥が行動を起したのは、ほとんど反射的だ。二頭の馬のあいだで訓練し、そのたびに鞍《くら》の上にたちすくみ、いくどか落馬したこともある「まんじ飛び」それをいま、駕篭と駕篭のあいだで、お鳥はみごとにやってのけた。
犬に気をとられていたせいもあるが、後棒さえも、このふたりの移動を全然気がつかなかったくらいである。四人の駕篭かきは、すっと一息のあいだ駕篭がかるくなったのをおぼえただけだ。
お鳥をのせた駕篭は、たったったっと濠沿いにかけぬけ、十兵衛をのせた駕篭は、ややゆるやかにその内側をはしる。むろん、その入れ替りを知らぬ犬は、それにほえついている。
先刻からの恐ろしさに駕篭屋が耐えたのは、この客が沢庵さまの東海寺から江戸城の千姫御殿に乗りつけるという、たいへんな客だという意識だけからであった。
「駕篭屋! たのむ、何が起ろうと、そのまま走るのだぞ。よいか?」
十兵衛はいうと、内側の垂れをさっとまくった。
夜目にも犬は、そこに般若《はんにや》の面をかぶって坐《すわ》っている人間をみた。金色の眼が、らんらんとにらみすえている。――
このとき、犬がどうかんがえたか、犬の心理はわからない。じぶんが追っていた人間が思いがけぬ顔に変っているのでおどろいたのか、それとも相手の手に何の武器もないのを、みてとって心をゆるしたか――
「うおうッ」
凄《すさま》じい声をあげると、犬は猛然とその鬼女におどりかかったのである。
「わっ」
駕篭屋がさけんだ。垂れはばらっとおち、駕篭はグラグラとゆれた。中で重い旋風が吹きめぐっている感じであった。人間とも獣ともつかぬ声が、たったひと声きこえた。
突然、駕篭はかるくなった。スルリと人間だけが外に下り立ったのだ。そのまま、駕篭とならんで、たったと走りながら、
「よう、辛抱してくれた。かたじけない」
と、ふりかえった顔をみて、駕篭かきはのどの奥で、げえっとうめいた。はじめて、般若の面をかぶった顔をみたのである。
小牛ほどの犬を入れたままの駕篭は、まだ人間をのせたぐらいの重みをもってきしみをたてている。――犬はいったいどうしたのか。
――かつて、柳生十兵衛は、凶暴無比の旗本|奴《やつこ》のひとりを相手にしたことがある。凶暴無比といっても、十兵衛が剣をとるのをみては、雲を霞《かすみ》と逃げ去ることは眼にみえており、しかもどうあっても十兵衛はこの男を捕えなければならない羽目におかれた。
彼は手ぶらで相対した。旗本奴は猛然と斬りこんだ。その刃《やいば》のおちる一瞬前に、彼は相手の胸もとへとびこんで、両手で敵の頬ひげをひっつかんだ。
「ばかめ」
さけんで、相手の顔へペッと唾《つば》をはきかけると同時に、ひざでみぞおちを蹴《け》りあげて、十兵衛はこの旗本奴を悶絶《もんぜつ》させたという。――
いま、彼は、それと同様のことを猛犬を相手にやってのけたのである。犬がまっかな口をあけて、駕篭《かご》におどりかかってきた刹那、彼の一腕は、その口からのどの奥までつきこまれた。
これでは腕がかまれるように思うのは錯覚だ。噛《か》むという行為は上下の歯が猛烈な早さで打ちあわされることだが、つきこまれた腕のために、口はひらいたままだからだ。
同時に、十兵衛の片手は犬の上あごにかかり、いっきにそれをひき裂いてしまったのであった。
「前の駕篭!」
呼ばれて、お鳥をのせた駕篭もふりむいて、般若面をみて、ぎょっとした。これは、うしろの駕篭にいま何が起ったかさえ、わからない。
「その橋をわたる手前で、右へ折れろ」
声はまさに十兵衛の声で、そう命じた。
濠《ほり》の水が一方にそそぎ出すところに二間ばかりの橋がかかっている。 その手前で、 二梃《にちよう》
の駕篭は右へまがった。掘割りをはさむ路《みち》の両側は、大名屋敷の土塀であった。そのひとつの細路に駕篭はにげこんだのだが、このときおそく、橋のうえに二匹の犬がかけてきた。
人を相手ならばともかく、十兵衛が犬を相手に心に染まぬ殺生をしたのも、友を呼ぶ犬の声をおそれたからだ。そして、敵が人間だけであったら、おそらくこれで行方をくらますことができたであろうが、橋までとんできた二匹の犬は、うすい月明りに、この二梃の駕篭をはっきりと見たらしい――
二匹の犬は、橋の上で、びょうびょうとほえた。
「天丸! 地丸!」
つづいて、駈《か》けてきたのは具足丈之進だ。
「おっ、あれか――」
叫ぶと、彼は、二匹の犬を先に立てて、砂ぼこりをまいて、掘割りに沿うこの横路にかけこんできた。
「――やはり、うまくゆかなんだの」
と、十兵衛はにがい声でいった。実は十兵衛は、犬の死骸《しがい》のみをのせた駕篭をどこかに捨てて、敵をそれに吸いよせ、そのすきにのがれ去ろうとしたのだが、ついにその機を逸《のが》したのだ。
一方は水、一方は土塀、追撃する犬に、もはやとうてい逃げきれるものではない。駕篭はついにとまっている。
「十兵衛さま」
前の駕篭で、決然としたお鳥の声がきこえた。
「会津七本槍衆ではありませぬか。逃げることはありますまい」
「待て、出るな」
と、十兵衛はいった。
「いましばらく様子をみよう、駕篭から出るな。――これ、おまえら、前の駕篭のところへにげておれい」
と、彼は、うしろの駕篭かきにあごをしゃくると、二梃の駕篭のあいだに立って、駈けてくる二匹の犬と具足丈之進をむかえた。
「――おおっ、うぬは!」
はたと、具足丈之進はたちどまった。小柄な、猿のように醜怪な顔がひきゆがむのが月明りにみえた。
彼が般若面に逢《あ》ったのははじめてである。しかし、かつて加藤家の屋敷に忽然《こつぜん》としてあらわれて、大道寺鉄斎、平賀孫兵衛らを翻弄《ほんろう》しつくしたこの般若面のことは、もとよりきいている。堀一党の女たちの奇怪な助勢者、しかも漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》らの見解によれば、鉄斎が屠《ほふ》られたのも、おそらくこの般若面の手が加わっているに相違ないときく。
猛犬、天丸、地丸はひくく地に這《は》った。
般若面の男は、かるく刀の柄に手をかけたまま、すっくと立っている。
――と、みるや、いちど凄じい跳躍力をこめて地に這った二匹の犬は、このときスルスルとあとにさがった。
「……待て」
と、うめいたのは、具足丈之進だ。
彼もまた、かるく刀の柄に手をかけたままの般若面が、実に鉄をも断つ殺気を秘めていることに気がついて、ぞっと背すじに氷のようなものをはしらせたのであった。わが分身のごとく飼いならした犬ながら、この敵の恐ろしさを看破したのはさすがだと思う。
「さがれ、さがれ、そのまま、見張っておれ」
と、丈之進はいって、みずから五歩、六歩あとずさった。
逆に十兵衛は、心中、しまった、と舌うちしていた。この犬がただの犬でないことは、さっきの同類を甘くみて、彼ほどの人間がいちどはみごとにやりそこねたことでもわかる。それゆえに、こんどは誘いよせて、一撃必殺のつもりであったのだが。――
二匹の犬は、さがりながらまたほえた。十兵衛がやや困惑したのは、その声でまたほかの会津七人衆がはせあつまってくることであった。奔放無頼の気性から、彼らを嘲弄《ちようろう》しているかのごときあしらいをみせたものの、本音をはけば、残りの六人を同時に相手にして、すべてを倒す自信はない。それにまた、彼が七人衆を討ち果たしては何にもならないのだ。禁じられているのだ。
二匹の犬の血ばしった四つの眼は、うしろの駕篭に吸いつけられていた。そのなかの異変をかぎつけたらしい。――
――犬ならばよかろう。
このまま時をうつし、どこまでもつけてこられたらいよいよ面倒だ、と決心して、十兵衛は、ツツと前へ出ようとした。
そのとき、べつの声がした。
「おおいっ、丈之進っ」
橋の上に、長槍《ながやり》をたてた黒豹《くろひよう》のような姿があらわれた。
「ここだ、孫兵衛。――そちらに回れ。――」
犬とともに、なおひきながら、具足丈之進はさけんだ。
橋の上の影は、遠く月光をすかしてみて、はっとしたようだ。たんに二梃の駕篭をみたのみならず、般若面をかぶった姿を見つけ出したのに相違ない。
「きゃつ、あらわれたか!」
と、恐ろしい声でさけんだ。もとより平賀孫兵衛の声だ。
むろん、かつて加藤家の屋敷で、この般若面のために空中で当身をくわされ、彼の生涯にまだ味わったことのない大恥辱をうけたことを思い出したにきまっている。
「よし、こんどこそ逃がさぬぞ」
クルリと槍が月光に弧をえがくと、それを横たえ、掘割りの向うの路を、韋駄天《いだてん》のごとく走ってきた。
「般若《はんにや》」
と、平賀孫兵衛は呼んだ。
「今夜は先日のようなおくれはとらぬ。孫兵衛の槍を思い知らせてやるぞ」
うるしをぬったような真っ黒な顔に、歯が白くむき出されると、ビューッと槍がのびてきた。
彼と十兵衛のあいだには、二間余の掘割りがあった。それを両側の路とあわせて四間あまりの空間を、孫兵衛の三間|朱柄《あかえ》の長槍がピタッと切っている。
槍の柄はもともと六、七尺であった。これ以上長くては、かえって争闘に自由をかき、敵に手もとにとびこまれた際、なすすべがないという判断からであろう。これを一丈八尺、すなわち三間の長槍としたのは信長の知恵といわれる。これは戦国の集団戦にあっては、小廻《こまわ》しのきく短槍よりも、この長大な槍をならべて突撃した方が、はるかにダイナミックな効力を発揮するものと見たからであろう。
孫兵衛は、この三間の朱柄をもつ、それに三尺の穂がついている。しかも彼はこの長槍を、まるで撥《ばち》のように屈伸自在にあやつった。
「これ、面をとらぬか」
ヒョイとその槍をひいて、彼はあざけった。
あいだには堀がある。いつぞやのこの般若面の体術を知らぬではないが、まさか助走もなくしてこの堀をとびこえることはあるまい。たとえとびこえてこようと、長槍|一閃《いつせん》、うなりをたてて堀にたたき落とし、魚のごとく刺しとめることに、漁師ほどの芸もいらぬ、そう見たうえの嘲弄であった。
「そこの二梃の駕篭に乗っておるのは、堀の女どもであろう。きゃつらはゆるせぬが、うぬは――うぬはちと見どころがある。面をとって正体をあかし、土下座をして降参すれば、殿に御慈悲をねがってやろう」
そういっているあいだにも、孫兵衛は、敵がその駕篭の一つのまえに立ちふさがって、それをまもることに全神経をあつめている気配をみてとった。
「面をとれ」
わめいたのは、一方の具足丈之進だ。
前には槍、横には二匹の猛犬。
「地丸、面をとれ!」
それは犬に命じた声であった。
ぱっと一匹が地を蹴って、空たかくおどりあがって、般若の能面そのものを牙《きば》で襲った。
犬は般若面が槍に気をとられている瞬間をとらえたのだ。同時に、般若面が犬にむきなおったとみた瞬刻を狙って、鉄壁をもつらぬく勢いで、ビューッと朱槍がつき出されてきた。
がくと般若面がひざをついたようにみえた。その頭上で、五体ひっ裂かれたような咆哮《ほうこう》があがった。一瞬、きってはなれた離弦《りげん》の太刀! 十兵衛愛用の快刀三池典太はみごとに地丸の胴を両断したが、からくもかわした朱柄の槍は、ぶすうっとうしろの駕篭《かご》をつらぬいていた。
電光のごとくひきぬかれた槍を、般若面は折敷いたままの片膝《かたひざ》でビタとおさえた。
――どぼうん! 堀に水けむりをあげておちたのは、両断された犬の死骸であった。それっきり、すべてが静止した。
平賀孫兵衛ほどの人間が槍をもって仕止めそこねたのがはじめてなら、槍をひいて相手に押えこまれたのもはじめてであった。
いわんやその槍をはたと地上にとり落としたなど、彼にとってはあるまじき不覚であった。
が、とっさにそれを相手の働きによるものと、彼は思わなかった。狭い空間からきた不覚だ。四間の幅に三間の長槍をふるう、当然、突くにもひくにも、ある程度の手ごころを加えざるを得ない、彼はそう思ったし、おそらくそれは事実だったであろう。
しかし、地に落ちた槍の石突きをとりあげようとして――「うっ」と、彼はうめいた。槍はうごかないのだ。槍は掘割りのむこうの般若面の片膝におさえつけられたまま、大地に縫いつけられたように微動だもしないのであった。
愕然《がくぜん》としつつ、
「仕止めた!」
と、彼は歯をむき出してわめいた。
「手応《てごた》えあった。丈之進っ。堀の女、たしかに一人仕止めたぞ! そやつを討って、早う駕篭をあけて見い!」
いわれるまでもなく、具足丈之進も、いま駕篭からひきぬかれた槍の穂が黒血にまみれたのをみている。いや、それよりはやく、愛犬地丸が、もののみごとに斬りすてられたのをみて、間髪を入れず、
――天丸!
と、次の犬をけしかけようとして、彼も犬も金縛りになってしまったのは、槍に片膝ついたまま、一刀を八双にかまえて、じっとこちらをむいている般若面の物凄《ものすご》さであった。
面ではない。いまの業でもない。つぎに移るべき未発の気迫の凄《すさま》じさだ。おどりかかれば、またも紙のごとく斬り捨てられるだろう。――人よりも、犬の天丸の方がそれを察して、地に這ったまま、呪縛《じゆばく》されたようにうごかなくなってしまった。
「…:出い」
と、はじめて般若面はいった。しずかな声であった。
声に応じて、うしろの駕篭の垂れをはねのけて、ひとりの娘があらわれた。一刀を右手で八双にかまえたまま、般若面は腰の小刀を鞘《さや》ごとぬいて、うしろ手にぽんと放る。受けとめて、娘はスラリとそれをぬきはらった。
「今夜は孫兵衛だ」
と、般若面はあごをしゃくった。
「槍はない」
「けれど」
娘は二間余の掘割りをみた。般若面はいった。
「竹の橋を忘れたか」
娘はもういちど掘割りをみた。
向うとこちらと――堀の上に架けわたされているのは一すじの朱柄の長槍であった。
「――おお、板倉不伝の娘」
「お鳥っ」
平賀孫兵衛と具足丈之進が叫んだのは、その娘が月明りに顔をあげて、にっと笑ったのを見たときだ。
同時にそのからだが横にながれて、フワと槍の上にのったのである。
「いかにも板倉不伝の娘、お鳥」
まるまるとふとった体が、スルスルと堀にかかった朱い細い橋をわたる。
「会津七本槍の平賀孫兵衛、逃げるなよ!」
般若面におさえられてうごかぬ槍と、その思いがけぬお鳥の妙技に胆《きも》をつぶして、思わず背をむけかけた平賀孫兵衛が、あやうくその場にたちどまったのは、七本槍の誇りからであった。
刀術は槍ほどではないが、丈之進もみている。逃げるわけにはゆかぬ。いや、お鳥を相手に逃げる必要はない。――猛然と抜刀して、
「来いっ」
と、孫兵衛はさけんだが、とまることの可能なのは鳥ばかりであろう槍の上を、まさにその名のごとく、しかも千姫さまに伺候してきた風鳥のような姿でいっきにかけわたってきた妖《あや》しさに、
「……こやつ、小癪《こしやく》なわざを!」
うろたえて、その槍を斬る気になった。むろん、こちらにかかった槍の柄をきりはなせば、彼女は堀に転落するだろうと判断してのことだ。が、その槍は、彼の命よりも大事にしている朱柄であった。そこに迷いが生じた。
平賀孫兵衛の一刀は円弧をえがいて、かつん! とその槍の柄を、堀端から三尺の位置で、斬るには斬ったが――野球でいえば「振りおくれた」ともいうべきためらいが、その瞬間の動作にあった。
槍はおちなかったのである。一端を斬りはなされつつ、一端は般若面の膝に支えられて、ピーンと堀の上につき出されたままであった。
一足前を斬られた位置で、お鳥は宙にとんだ。一端を宙に浮かせたままの槍の柄は、かえってばねの作用を発揮した。
「おまえは、おまえのいのちを斬った!」
月光に黒髪と袖《そで》をひるがえして、大空からとびおりてくる娘の姿をみたとき、彼の刀身は、まだ槍《やり》を斬った余勢であらぬ空間にながれたままであった。
「おぼえたか!」
真っ向から斬りおろされるお鳥の一刀を、孫兵衛は黒い脳天で受けた。――どうとふたりは折り重なって大地に倒れたのである。
「でかした」
そううなずくと、こちら側の般若面はすっくと立った。
「とどめを刺せ」
指図をすると、ぬきはなっていた一刀はちりんと鞘におさまったが、かわりにひざの下の槍が宙にあがって、とんと片手で地につきたてたのである。
「駕篭屋、こわかったろう」
と、般若面はいった。それから片手をふところにいれると、数枚の小判を、ぽんとうしろに立ちすくんでいる四人の駕篭かきになげた。
「これは、駕篭代、こわがらせ賃、それから駕篭を血でよごした損料だ」
まったく眼前の具足丈之進と一匹の犬を無視している。
「では、そこの駕篭をあけて、ひきとるがよい」
あごをしゃくったのは、さっき平賀孫兵衛が槍で刺した駕篭である。
駕篭屋は身うごきもできなかったが、このとき、ようやく具足丈之進はわれにかえった。狂気のようにおどりあがって、
「天丸っ」
と、絶叫した。
猛犬天丸は般若《はんにや》面に恐怖したのか、すきをうかがっていたのか、なお地にひくく這《は》ったままであったが、般若面が地についた槍を、くるっと堀の方へまわしたのを見たのと、
「とびかかれっ」
という主人の凄じい怒号に、ぱっと巨大な黒豹《くろひよう》のごとく宙におどりあがった。うごき出した般若面をめがけて真一文字に。――
般若面のからだは、しかしこのとき堀の上にあった。あり得べからざる空間を、すうっと横にながれたあとに天丸はとび――さっき斬りおとされた地丸の屍骸《しがい》の浮いている水の中へ、夜目にも銀のようなしぶきをあげて落ちていった。
般若面は、塀の向う側にうつっている。彼は長槍を堀のまんなかに突いて、棒高跳びのように対岸にとびうつったのであった。
「あっ、天丸!」
あわてふためき、堀端にかけよろうとする具足丈之進の胸を、向い岸からピタッと槍がおさえた。
「うごくな、丈之進、うごくとこの槍がとぶぞ」
平賀孫兵衛のとどめを刺して立ちあがったお鳥が、肩で息をしながらいった。
「その槍を投げて下さりませ。どうしてお投げにならないのでござります」
「おれが丈之進を殺していいのか?」
と、十兵衛はささやいた。お鳥は沈黙した。
「おれの手で犬を二匹斬ったことさえ、実は相すまんことをしたと思っているくらいだ。しかし、やはり女人と犬を勝負させとうはないからの。まあ、犬くらいなら、おれが始末しても怒るまいなあ。ゆるせ、ゆるせ」
お鳥は顔をあかくした。そのとおりだ。この敵はすべてじぶんたちだけの手で討たねばならないのであった。
「では、丈之進めはわたしが」
橋の方へひきかえそうとするお鳥の肩を、十兵衛はとらえた。
「お鳥、あまり欲をかくな。おまえひとりで孫兵衛と丈之進を討っては、ほかの六人の仲間が怒ろうが。――それに、味方のみならず」
と、笑ってささやいた。
「敵――残り五人、さらに加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》にとっても、会津七本槍が、時をおいて一本ずつゆっくりとたたき折られてゆくのをみる方が、ジリジリと恐ろしさがつのろうが」
それもたしかにある、十兵衛はそれが本心だ。しかしこのとき、心の一部では、具足丈之進をのぞく残り四人に、いちどに此処《ここ》に駈《か》けつけてこられてはちとこまる、という危惧《きぐ》も実はあった。平賀孫兵衛と具足丈之進と三匹の犬と死闘を開始してから、時間はそれほどたっていないのだから、もし四人が竹橋御門の界隈《かいわい》にいたとするならばその危険性は充分あるのである。
「まず、愉《たの》しみにとっておけ」
そして十兵衛は、堀をへだてて大声でさけんだ。
「駕篭《かご》屋。――こわがらんで駕篭をかついで早く逃げろ。そやつはおれがこの槍で縛っておく。うごけば、串刺《くしざ》しだ」
四人の駕篭かきはころぶようにそれぞれの駕篭にかけよった。お鳥の出た奴は空だが、もう一つは――
「かまわないから、中のものは捨ててゆけ」
と、般若面はいった。その槍が投げ槍となる可能性にもかかわらず、歯がみしてうごき出そうとした具足丈之進は、しかしこのとき眼をこらして、うしろの駕篭を見まもった。孫兵衛が刺しとめたのはだれだ?
駕篭かきは垂れをまくりあげ、駕篭をかたむけて中のものを放り出した。
「――風丸!」
ころがり出した血まみれの犬に、具足丈之進が立ちすくんだとき、二組の駕篭屋は、空の駕篭をかついで、雲を霞《かすみ》と逃げ去った。
堀の向うで笑い声があがった。その声が妙に遠いので、はっとふりかえると、お鳥の姿も般若面の影もすでにない。ただ、笑い声だけが、ずっと遠い方に消えてゆく。
具足丈之進が芝の加藤屋敷にたどりついたのは、それから数刻ののちであった。
夜であったのが、せめてものことといいたい惨憺《さんたん》たる姿だ。堀からやっと救いあげた犬の天丸もぬれそぼって、頭も尾も垂れていた。
うしろに二|梃《ちよう》の駕篭がついている。あれから、あのあたりをかけずりまわって、やっと探して、おどしたり、大金を約束したりしていうことをきかせた辻《つじ》駕篭であった。二梃の駕篭の一つには平賀孫兵衛の死骸、一つには愛犬地丸、風丸の屍骸がのせられている。
門をたたくまえに、丈之進はふりかえった。
「ここでよい。――では、礼をやる」
と、彼は刀をぬいた。
加藤家やおのれの恥を口外させぬためというより、だれかぶッた斬らねばやりきれないみじめさからであった。――駕篭かきたちは腰をぬかした。
そのとき、鉄鋲《てつびよう》のうった門の扉に、たん! と音して、何かがつき刺さった。ひとすじの槍だ。
「あっ」
それが孫兵衛の朱槍だと気づき、その千段巻きに何やら紙片がむすびつけてあるのに丈之進が眼をむいているあいだに、駕篭かきたちは逃げてしまった。
紙片には蛇ノ目紋を下に三つ、上に二つ重ねて、
「蛇ノ目は五つ」
と、書いてあった。
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般若組
加藤|式部《しきぶ》少輔明成《しようあきなり》は、何かもののけに襲われたような気持で眼をひらいた。まわりは闇黒であった。
「たれかある。――」
呼ぼうとしたが、声が出ない。ふと、左右の闇に、ぼうっと青い燐火《りんか》のようなものを見た。がばと起きあがろうとして、手足もうごかないのに気がついた。それどころか、手足の先から恐ろしい痛みが脈うってくる。――彼は、じぶんがまるはだかで、その四肢が大きなまないたに釘《くぎ》づけになっていることを発見した。
青い燐火がちかづいた。そして七人の鬼女の顔がうかびあがった。――いや、般若の能面をかぶった影だ。影はそれぞれ抜きはなった刀をひっさげている。燐光はその刀身から発しているのであった。
「たれか――」
絶叫したつもりだが、依然としてのどはつぶれたようだ。七人の鬼女は、刃《やいば》をならべて彼の身体の上においた。
「な、何をいたす、うぬら――」
恐怖に全身をうねらせて、明成がはじめて声を出したとき、七つの般若面がばらりと落ちた。そして、そのおくからもっと恐ろしいものがあらわれたのである。それは、血まみれの男の顔であった。
「あっ」
堀|主水《もんど》、多賀井《たかい》又八郎、真鍋《まなべ》小兵衛、稲葉《いなば》十三郎、金丸半作、板倉不伝――いや、血まみれだから、どれがどの男やらはっきりとはわからないが、この地獄の蔵で、まないたに釘づけにし、一寸だめし、五分だめしにして殺した堀一党の男たちであることにまちがいない。
彼らは黙々として、ゆっくりと刀を前後にひきはじめた。明成はのたうちまわった。しかも手足は大の字になったままうごかず、堀主水たちはその身体にあてただけの刀をひと引きするのに数分をかけているのではないかと思われるほど、緩慢な動作をつづけている。
「助けてくれ、主水、ゆるしてくれ!」
この大地獄にけもののような悲鳴をあげたとたん、七人の男の顔から、また何やら薄い皮に似たものが、ぱらりと落ちた。血みどろの男の顔もまた仮面であったのだ。そして、そのおくから、美しい七人の女の顔があらわれた。
「うぬらか! おのれ」
狂気のごとくもがくと、釘に肉を付着させたまま手足がはなれ、彼はおどりあがった。枕頭《ちんとう》に刀がある。それをひっつかむや否や、明成は抜き討ちにその女のひとりに斬りつけた。
恐ろしい悲鳴が鼓膜をうった刹那《せつな》、明成の意識はもとにもどった。はじめてめざめたのである。
みるみる周囲が明るくなり、蔵の四隅におかれた雪洞《ぼんぼり》がみえてきた。そして彼は、血刀をぶらさげて呆然《ぼうぜん》と闇の上に立っているじぶんと、足もとに朱に染まって横たわっている愛妾《あいしよう》に気がついたのである。
愛妾というより人身|御供《ごくう》の女といった方がよかろう。いや、それよりも、明成の残虐欲を満たすための美しい肉塊といった方がいいかもしれない。
はじめ彼は、父|嘉明《よしあき》の不肖の子とみる衆目になやみ、いらだち、つぎには暴君という世評にわざとひらきなおって、これみよがしに悪逆のかぎりをつくしてみせた。しかし、美しい女たちをけもののようにさいなむ快楽にとらわれてからは、この秘密の蔵の中で、ひたすらその甘美にして戦慄《せんりつ》すべき世界に没入したのであった。
しかし、明成は数か月まえから、その快楽を失った。女をさいなんでも、癌《がん》の患者が味覚の変質をおぼえるように、まったく快楽を感じないのだ。いや、女に対する正常な欲望すらおぼえないのだ。
それは堀一族の女たちが、じぶんを復讐《ふくしゆう》の対象としていることを知って以来のことであった。
じぶんでは恐怖しているとは思っていない。そのことを知ったとき、明成は激怒した。堀一族をほとんどみな殺しにしたとき癒《い》えた怒りが、ふたたび炎となってもえあがったようであった。
「きゃつら、断じてとらえろ。……この蔵へ、首に縄をかけてひいてこい」
地団駄をふまんばかりにして、彼は七本|槍《やり》衆に厳命した。
「ここで、その女どもの父や兄が味わった以上の恥、苦しみ、恐ろしさを、骨のずいまで味わわしてくれる」
その命令のとおり、七本槍衆は血まなこになって奔走した。それなのに、彼女らのゆくえはいまだに知れない。
のみならず、大道寺鉄斎、平賀孫兵衛のふたりが――彼の眼からみても魔人としかみえないこのふたりが、その女たちにやすやすと殺された。――
女たちはどこにいるのか。そして彼女たちを助けている般若《はんにや》面の男はいったい何者なのか。
鉄斎が殺されたとき、その屍骸《しがい》が、吉原《よしわら》から送られてくるべき京人形の箱に入っていたことから、それを送り出した庄司《しようじ》甚右衛門にきびしく問うてみたが、甚右衛門は、たしかに京からきた女たちを箱に入れたはず、というばかりであった。
何かをひどく恐れているようにもみえたが、しかし疑心暗鬼にかられると、甚右衛門もまた堀の女たちと共謀で、じぶんを嘲弄《ちようろう》しているようにもみえるのだ。――かんがえていると、世の中の奴らのことごとくが、じぶんの敵のように思われてくるのであった。
堀の女たちを恐れはせぬ。またその助勢者も、彼が何者であろうとも恐れはせぬ。ただ、その正体がはっきりしないのが、いらだたしく、薄気味悪いのだ。
世にこわいことを知らぬ明成を、その意志に反して、ジリジリと不安におとし入れてゆくのは、その助勢者が江戸城の中にいるのではないかということであった。
将軍家の姉君、天樹院さま。
いちじは、たとえ幕府と抗争しても、高野山に逃げこんだ堀一族をとらえる決意をした加藤明成だ。
しかも、その決意に圧倒されたか、幕府すらついに堀一族の誅戮《ちゆうりく》をゆるしたいま、いかに将軍家の姉君とはいえ、しょせんは世をすてたにひとしい後家の天樹院を、それほど恐怖する必要はない――とは思うものの、彼女が堀の女たちの後盾になっているのではないかと思うと、公儀そのものを相手にするより、得体のしれぬ無気味さ、妖気《ようき》が、ジンワリと全身をつつんでくるのであった。
東慶寺でのいきさつから、堀の女たちの糸をひいているのは、もしかしたら天樹院ではないかとは、最初から抱いた疑いであった。それで必死に手をまわして、竹橋御殿出入りの商人や、暇をもらった女中などから情報をとった。しかし、天樹院のところにそれらしい七人の女はいないという。だから、眼をはなしたのだ。
それでも、念のため、七本槍衆が交替で、ときどき竹橋御門|界隈《かいわい》を見張っていたら――果然、例の般若面と板倉不伝の娘お鳥がそこを訪ね、辞去し、そして追跡した平賀孫兵衛と、具足丈之進《ぐそくじようのしん》の愛犬地丸、風丸を屠《ほふ》り去って、どこかへ消えてしまったという。――
「なぜ、あくまできゃつらを追わなんだか」
と、足ずりしてののしる漆戸《うるしど》、司馬《しば》、鷲《わし》ノ巣《す》、香炉《こうろ》らの面々に、
「孫兵衛と地丸、風丸のむくろをそのままにしてはおけなんだ」
と、具足丈之進はがっくりと首をたれて答えたが、その眼にはまだこの男が見せたことのない恐怖の色があった。
ややあって、ふるえる吐息とともにその心をもらした。
「しかし、みなも用心するがよい。あの般若面は、実に凄《すご》い奴だ。それに、きゃつに指南されたか、あのお鳥までが、別人のような兵法者になっておるぞ」
「兵法者?」
四人はゲラゲラと笑った。丈之進の言葉を大げさにとったのだ。
明成はかならずしも七本槍衆を愛しているわけではなかった。彼らを厚く用いるのは、じぶんに絶望している旧来の家臣たちへのしっぺがえしであり、またじぶんの快楽をほしいままにするための道具にすぎなかった。しかし、このときは四人の笑い声をきいて、たのもしい奴らだ、と思った。そのとおりだと思った。
この連中ならば、よもやその般若面を相手にしても、ひけはとるまい。鉄斎、孫兵衛が討たれたのは、おそらく自信過剰からきた手ちがいであろう。
眼がさめれば、そう思う。正気ならば、そう思う。しかし、眠っているあいだに、夜の夢にじぶんを襲う恐怖は、明成自身もどうすることもできないのであった。
かつて明成が会津《あいづ》四十万石をついで初登城したとき、殿中でゆき会った仙台黄門|政宗《まさむね》が、彼をつかまえてからかった。
「式部少輔どの。会津は陸奥《むつ》ののどくびじゃ。つまり、お上がおんみに、この老いぼれをよくふせげと命じられたのでござるぞ。おわかりか」
明成はじろっと政宗を見ていった。
「老黄門が、もしいまの禄《ろく》の倍百二十万石をも領してござるなら、ふせぐどころか、こちらから馬をすすめて頂戴《ちようだい》に参るところでござるが」
独眼竜の大笑がはたととまった。
ともかく、名だたる伊達《だて》政宗に一歩もひかず、これだけの気概をみせた加藤明成である。無気力凡庸な二代目では決してない。
それだけに、夜があければ、夢になやまされたおのれ自身にまず腹がたち、その怒りが外にむかって爆発するとき――その犠牲者は女となる。
いま、もののけにうなされて、明成はひとりの女を斬った。そして、怒りの炎のめらめらともえる眼で、じいっと蔵の四隅をみまわした。
隅の柱に、環をうちつけ、そこから細い鎖で三人の女がつながれている。鎖はそれぞれの女の片足の白いくびにくいこんでいた。
かつてこの蔵に入れられた女は、明成の残虐と荒淫《こういん》に恐怖しながらも、いつしか彼のつくり出すどろどろの地獄的快楽にひきずりこまれ、酔い、爛《ただ》れ、狂乱してきたものだ。みずから、その変態的な愛撫《あいぶ》にたえるのみか、死をさえいとわない女すら少なくなかった。
それというのも、明成には明成としての女に対する熱情があったからだ。けもの扱いとしての愛情があったからだ。
しかし、いまはちがう、このごろはちがう。そこには男が女に対する欲望というものはほとんどなく、かんしゃくまぎれに皿をたたき割り、細工物をふみくだくような、乾燥した、恐るべき発作だけがあった。
敏感に女たちはそれを感じた。そして、必死に彼から――この蔵から逃げ出そうとはかった。むろん、ことごとく七本槍衆にとらえられて、この世のものとは思われぬなぶり殺しの運命にあった。そして、残りは、いまみるように、犬のように鎖で蔵につながれている。
女を愛していないくせに、女がいないとなると、明成はかつえたようになる。そんな世界は、砂地獄のように思う。――女を大事にしなければならぬ。彼は理性でそうかんがえる。なぜなら、このごろ、思わしい女が容易に手に入らないからだ。
「――会津《あいづ》加藤家に入って、生きて出た女はない。――」
そんな風評がようやく江戸でも国元でもたって、急速に女を入手することがむずかしくなっているからであった。
その貴重な女をいまひとり斬り、理性に血のひびが入って、さらに次の犠牲者を求めて、狂的な眼が三人の女の上をさまよいはじめたとき、
「殿」
と、隣室で呼ぶものがあった。
「お目ざめでございましょうや」
香炉銀四郎の声であった。中の様子をうかがっている気配である。
「夜中ではございまするが、われら五人談合いたしたることにつき、何とぞ御意を得とう、まかりこしてござります」
昨夜、明成に、堀の女たちのゆくえ、般若面の正体をつきとめられぬことをきびしく叱責《しつせき》され、面罵《めんば》された五人の七本槍衆であった。
「ゆるす、唐紙をあけよ」
と、いまはじめて夢からさめたように明成はいった。
香炉銀四郎は唐紙をあけて、そこに血刀をひっさげて立っている明成と、足もとに朱にそまって伏している女の姿をみて、さすがにおどろいたようである。
「拭《ふ》け」
と、明成は刀をさし出していった。
美少年の銀四郎はすぐに平然として、スルスルと入ってきて、明成の血刀を優雅なものごしで懐紙でぬぐった。それを鞘《さや》におさめると、明成はいった。
「ここは血臭い。余が下におりよう、……むくろはあとで片づけておけ」
もともと夏も陰湿な土蔵であるが、この数日、とくに夜に入るとひんやりするのは、夏が去り、秋がこようとしていることを思わせた。
階段をおりてゆくと、下で車座になっていた四人の七本槍衆がややあわてて主君を迎えた。
「何か、よい思案があったか」
と、明成はいった。
そのうしろから、香炉銀四郎が血まみれの美女を背にかけて入ってきたが、入口にどさりと犬の屍骸でも投げるように捨てて、すぐに寂然と坐《すわ》った。短檠《たんけい》がじじっと鳴って、かすかにゆらいだだけである。
「されば」
と、青入道の司馬一眼房《しばいちがんぼう》が、右目だけの顔をあげた。
「われら宵より談合したことでござるが、われらが当面の敵とすべきはあの七人の女にあらずして、先《ま》ず般若面であるという意見に決着いたしました」
「余もそう思う」
明成は歯ぎしりするような声を出した。
「きゃつはいったい何者か?」
「殿はあれを公儀の息のかかった者と御覧になりますのか」
明成は動揺した顔色になったが、やがてくびをふった。
「ちがう、それならば、あのような面などかぶり、加藤家を嘲弄《ちようろう》するようなふるまいをみせるわけはない」
公儀の隠密《おんみつ》ではないか、という疑いはいくどか冷たく胸をかすめすぎたことであった。しかし、江戸城に登城したさい、いくどか松平|伊豆守《いずのかみ》に会った。隠密使いの名人といわれ、知恵伊豆と呼ばれる大才物ではあるが、どうみてもあの老中が加藤家に隠密をはなっているような気配は感じられないのだ。
「それに、隠密としても、隠密ならば、当方で斬って捨ててもさしつかえないのが当代の不文律じゃ」
「…………」
「……とはいえ、きゃつに天樹院の息がかかっておることはまちがいない」
と、明成はいった。内輪の論議ながら、将軍家の姉君をこう呼びすてにするところが、彼の千姫さまに対する感情を露骨に物語っていた。
「天樹院め、あの堀の女どもが、ただ女であることという理由だけのために、この一件に肩を入れてきたものと思う」
一眼房はじっと明成を見つめていった。
「殿、天樹院さまを敵となされることを恐れられますまいな」
明成の表情にふたたび動揺がはしったが、すぐに、
「いまさら、何を」
と、肩をゆすった。
「何を恐れることがある? 堀一族の誅戮《ちゆうりく》は公儀もゆるしたことだ。すなわち公儀が堀一族を天下の罪人と認めたことだ。それを、いかに将軍の姉とて、罪人をかばい、それのみか後盾として大名に刃むかわせるとは――般若《はんにや》面の男が顔をかくしておるのも、表立っては加藤家と争えぬうしろ暗さを示す以外の何物でもない。その般若面はもとより、七人の女、ことごとく討ち果たしても、向うにはぐうの音も出ぬはずじゃ。いや、きゃつら、すべて討ち果たさねば、加藤家の面目はたたぬといえる」
このことは、明成はいくどか口にした。それを一眼房はまたいわせた。
「千姫さまを敵となさる。その御決心さえあれば」
と、みなを見まわした。あとの四人の七本|槍《やり》衆はニヤリと笑った。
「あの般若面を討つ手だてがござります」
「きゃつは、どこにおる? いつぞやの話では、きゃつは天樹院の屋敷にはおらぬとのこと。またあれ以来、とんと竹橋の御殿を訪れた様子もないというが」
「それをさそい出すのでござる」
「いかがして」
「われら、盗賊となって」
「な、何?」
「われら五人、ことごとく般若の面をかぶって、江戸じゅうを荒らしまわるのでござる」
「般若面を――」
「されば、きゃつが現われるときは、かならず般若の面をかぶる。のみならず、鉄斎が殺されたとき、例の親父橋のたもとの長屋の住民ども、後難を恐れるかみな知らぬ存ぜぬと、そらとぼけておるなかに、見ていた子供がひとりござって、その子供の申すには、鬼女は七人も八人もおったとのこと。すなわち堀の女どもそろって般若の面をかぶることもあるのです。それゆえ般若の群盗が出没すれば、きゃつらおどろきあわてることは必定」
「――それがわれらの仕業と敵にわかるかな?」
「わからせるためにやるので。そして、盗むものは、金銀にあらずして、若い娘ばかり」
五人はうすら笑いした。
「殿。……花地獄の花が、このごろ残り少のうなりましたな」
「女をさらってくると申すのか」
「と、はじめはそれだけ思いつきましたが、さらに歩をすすめて」
「何をする」
「男もさらいます」
「男を? どんな男を?」
「その女の夫となる男を。――すなわち、今宵祝言をあげようとする男女をさらうのでござる。そして女は当屋敷に、男は竹橋御殿に送りこみます」
明成は唖然《あぜん》とした。
「男を天樹院のところへ送って何とする」
「千姫さまがいかがなされるか、それはこちらの知ったことではござらぬ。しかし、もうずいぶんの昔ではありますが、千姫さまについて江戸にあらぬ噂のたったことを殿は御存じあそばしませぬか。つまり千姫さまは恐ろしき淫婦にして、手あたりしだいに男とちぎり、あとでその男をお殺しなさると。――」
一眼房はにやにや笑いながらいった。
「これはまったく根も葉もなき雑説にて、千姫さまおん嫁入りなされた第一番目の秀頼《ひでより》公は非業の死をとげられ、二番目の本多|忠刻《ただとき》どのも若死なされたゆえ、千姫さまは男をとり殺しなされる、という評判がたち、それより口さがなき奴らがひろげた悪どい噂でござるが、われら、それを利用いたします」
鷲ノ巣|廉助《れんすけ》もひざをすすめて、
「こういう噂は、なかなか人の心より消え去らぬもの。さればこんどは祝言の席、初夜の閨《ねや》よりさらった花婿を竹橋御門になげ捨てておけば、灰のなかから火が立って、またもや千姫さまにとってお痛い風評のながれることは必定でございます」
漆戸|虹七郎《こうしちろう》がいった。
「それにて要らざるお節介は怪我のもとと悟らるるはず、お怒りなされてもその盗賊がわれらという証拠はない」
「町奉行の詮議《せんぎ》をうけても大事ないか」
「やるものは、余人にあらず、七本槍でございます」
昂然《こうぜん》として、香炉銀四郎がいった。いちじ意気消沈していた具足丈之進までが自信をとりもどしたとみえて、
「千姫さま、地団駄ふみなされてのお怒りのおきどころは、そのもとをつくった般若面のほかにはござりますまい。かくて般若面めがうろたえて、われらのまえにとび出すというわけでござる」
司馬一眼房がいった。
「女さらい、天樹院さまへの牽制《けんせい》またしッぺ返し、さらに般若面の釣り出し――一挙三得とはこのことでござります。殿、おゆるし下さりましょうや」
暴虐《ぼうぎやく》をきわめる式部少輔明成であったが、みずからの手で江戸市中に盗賊をはなつのははじめてであった。彼は五人の顔をじっと見まわした。
「そちら……加藤家にわざわいをもたらすような失態はすまいな」
「七本槍をお信じ下され」
明成は大きな息をついていった。
「よし、余はそちらを信ずる。やれ、いや、四十万石をかけて、余もそちどもを殺しはせぬぞ」
月の明るい京橋を、美しい影絵のように婚礼の行列がわたっていった。
月をかすめさざなみのような雲に秋の気がある。
裃《かみしも》をつけて提灯《ちようちん》をもった男たち、それにおびただしい長持やつづらの行列――これは日本橋室町の大呉服店よろず屋の娘お糸が、京橋八官町の酒屋加賀屋へ嫁入りの夜であった。
花嫁の駕篭《かご》が、長さ十四間の京橋のまんなかあたりまできたときだ。後棒の男は、突如月明をきって空からふってきた海蛇のようなものをみると同時に、ばしいっとそれが駕篭にあたる音をきいた。
同時に、その駕篭が花嫁をのせたまま、駕篭かきの肩からもぎとられて、橋の欄干をこえ、川の上へ舞いあがったのである。
この信ずべからざる突発事に、みな眼と口をかっとむいて立ちすくんだとき、駕篭は遠く水面におちるとみえて――海蛇のようなものにからまれたまま、橋を中心に川の上に弧をえがいてもどり、橋の下へ消えていった。
「わあっ」
はじめて驚愕《きようがく》の声があがって、欄干にかけよった人々は、このとき橋の真下に一|艘《そう》の小舟がただよっているのを見た。
その小舟の上に、橋の下から蜘蛛《くも》の糸につるされた蓑虫《みのむし》みたいにいまの駕篭がおりていって、しずかに乗せられたのである。そのあとから、ひとつの影が、やはり綱をつたわってスルスルとすべりおち、舟にのった。
これが会津七本槍衆の司馬一眼房の例の皮鞭《かわむち》のわざとはだれが知ろう。
その影が橋の裏側にひそんでいて、ふいに皮紐《かわひも》を海蛇のごとくなげて橋上の駕篭にまきつけ、ひッさらったのだということを、目撃しながらだれも信じる者はいなかったし、あとになっても否定する者が多かったのである。「変化のしわざだ」とみないった。
なぜなら、駕篭をのせたその小舟が、京橋川を八丁堀の方へこぎ去ってゆくとき、舟にのっていた二つ三つの影が月に顔をさらしたのだが、それがことごとく般若の顔をしていたからであった。
――急報がころがるように八官町の加賀屋に走って、威儀をただして待っていた人々を、煮えくりかえるような混乱におとした。とくに花婿の信三郎は、室町小町といわれる花嫁に、文字通りの恋わずらいをして寝こんだこともあるだけに、色を失って、足も地につかないほどであった。人々は先をあらそって京橋へかけていった。
そのさわぎのなかで、花婿の信三郎もそのまま忽然《こつぜん》と消え失《う》せてしまったのである。
だれかが、「若|旦那《だんな》がたしかに辻駕篭《つじかご》にのるのを見たっけが――」と、あとになって思い出していったのが、信三郎の最後の消息であった。
これが江戸じゅうの花婿と花嫁をふるえあがらせた凶賊「般若組」が最初に登場した事件であった。
麹町《こうじまち》にすむ御小納戸《おこなんど》衆三千石の間宮大学の嫡子|主馬《しゆめ》が、花嫁の田鶴《たず》とともに初夜の閨にひきとったのは、夏の終りというより初秋にちかい或る一夜であった。
主馬も旗本中美男できこえた若者だが、田鶴もやはり直参《じきさん》の娘で評判の美女であった。
遠く屋敷の中で、まだ祝言の酒に酔ってうたう声がきこえる――酒は三々九度の盃《さかずき》よりほかにのまなかったはずだが、ふたりとも酔い痴れているような気がした。おたがいに恋いこがれ、この夜を一日千秋の思いで待っていたふたりなのだ。
とはいえ、主馬も田鶴も、武士であり武士の娘である。ふたりはまだ閨のうえにきちんと坐《すわ》っている。おぼろな雪洞《ぼんぼり》のひかりは、初秋の夜というのに春のようにけぶり、主馬の眼に、花嫁の姿は、この世のものでない幻のようにみえたが、それは田鶴にとっても同様であった。
頬にかげをおとすながいまつげ、貝の肉のようにやわらかく閉じられた唇、ほのかに息づく胸の隆起……。それらすべてを、いまじぶんには自由にできるのだ。吸ってやろうと、抱きしめてやろうと、思いのままなのだ。
うるんだような眼と眼が合った。意志に反して主馬は眼をそらした。枕頭《ちんとう》の金地の六曲|屏風《びようぶ》のかげに、紙と狗《いぬ》張子がおいてある。よごれた紙を入れるための狗張子であった。
「田鶴……」
くらくらとして、主馬はおしつぶされたような声でいい、いざりよって、片手を花嫁の肩にまわし、片手を花嫁のあごにかけた。
田鶴はぐったりともたれかかり、そしてあおのいた。淡雪のようにやわらかい胸と、花の香に似た吐息にふれたとたん、主馬は情欲の炎につつまれてしまった。じぶんたちの周囲が霞《かすみ》につつまれたように思ったのである。
それが錯覚でなかったと知ったのは、一息か二息ののちであった。彼らはまさに霞のような網の中にあった。
「こ、これは!」
なお夢みる思いで、間宮主馬は頭上をふりあおぐ。網を通して、天井にやもりのごとく吸いついている影にはじめて気がつき、それが般若の面をかぶっているのに、「あーっ」とさけんだつもりだったが、声は出なかった。
フワとかかった網が、このとき急速にすぼまって、ふたりをぎゅっとしぼりあげてしまったからだ。もがけば流動体みたいにうごくようで、しかも息も声も出ない凄《すさま》じい緊縛力をもつ網であった。
「よいな、銀四郎」
ふいに六曲屏風のかげで声がすると、両側からふたつの影がながれ出した。これまた般若の面をかぶっている。
「大丈夫」
声とともに、天井の般若《はんにや》も、音もなく舞いおりてきた。間宮主馬と田鶴は、網の中で、ひとかたまりになったまま失神していた。
祝言の夜、その閨《ねや》から花婿と花嫁が消失し、金の屏風に赤い般若面がひとつ打ちつけてあるのが発見されたのは、翌朝になってからのことであった。
般若組。花婿と花嫁をかどわかす般若組。
その名がようやく江戸の人々の口にささやかれ出したのは、それからまもなくのことである。
このうわさがたってからでも、般若組は実に人間業とも思われない手段で、花婿と花嫁をさらうのをやめなかった。たいていは幻術めいたやりくちであったが、しかしいつもただ花婿花嫁だけをおとなしくさらうばかりかというと、そうでもない。――斬る。
この誘拐《ゆうかい》が途中で発見され、人々にとりかこまれたとき、彼らは人々を大根のように斬った。それが三人、四人、ときには五人、いずれも般若の面をかぶり、魔神のごとく邪魔者を斬ってすてるのをみると、かけつけた奉行所の役人すらも逃げちり、そして般若面はそんな場合でも、不敵にも狙いをつけた花婿と花嫁をあきらめてすててゆくことは決してないのであった。
いったい、彼らは何者なのかわからない。また、なんのために花婿と花嫁をさらってゆくのかわからない。
――この般若組のうわさにおびえつつ、それでも、むろんあちこちに祝言は行われた。どうしても婚礼をいまあげなければならない事情のある家は少なくなく、そしてかならずしもすべての花婿花嫁が誘拐されるとはかぎらなかったからだ。
さらわれるのは、その花婿花嫁がそろって美男と美女であるときにかぎる。――ということがわかったのはまもなくであった。
さらに、彼らがなんのためにかどわかされたのか、という謎がとけはじめた。――男だけぶじにかえされて、その口から語られたのである。
まず、京橋八官町の酒屋の息子の信三郎だ。
彼は花嫁のお糸の異変をきいて京橋にかけつける途中、そばによってきた辻駕篭にのったが、どういうわけか駕篭のなかで急に気持がわるくなり、失神した。
気がついたのは、見知らぬ豪奢《ごうしや》な屋敷であった。彼は大きな緋《ひ》の夜具の上に横たわっていた。みまわすと、金泥の襖《ふすま》、絹雪洞、そしてしんかんとした夜気――どうみても大名屋敷の一室としか思われなかった。
彼は恐怖した。
「だれか――だれか――」
と、金切声でさけぶと、襖がしずかにひらいて、だれか入ってきた。一目みて、信三郎はあっと仰天した。
その人間は、般若の面をかぶっていた。が、それ以外の部分は一糸もまとわぬ、まっしろな脂肪にヌメヌメとぬれひかるような女人の裸身なのであった。
はね起きようとした信三郎は、はじめて自分も裸にむかれていることと、大の字になった手くび足くびを、厚い夜具にゆわえつけられていることを知った。
そして信三郎は、この般若面の女に犯されたのである。
女が男を犯すということが世にあり得る。そしてそれは、男が女を犯すよりも、もっと凄惨《せいさん》無比の地獄であることを、信三郎は身をもって知った。
女は一言も、言葉としては吐かなかった。ただ、快美のあえぎとうめき声だけをもらした。そして、うごめき、もがき、のたうちまわるこの美しい若者が、はてはグッタリとなっても、恥しらずに、執拗《しつよう》にもてあそびつづけて、決して彼をはなそうとはしなかった。
十日間。
夜となく、昼となく。
そのあいだ、何かのはずみで、おなじ般若の面をかぶってはいるが、ちがう女ではないか、と思われたこともあったが、すでに信三郎から、正常なあたまの判断力、肉体の感応力は失われている。
雪洞のひかりは黄色くにじみ、閨《ねや》のもえたつ緋色が瞳《ひとみ》を刺し、あらゆるものが水底《みなそこ》のようにゆらめいてみえた。いつしかとらわれた四肢をはなされても、もはや立ちあがる気力もなく、虫みたいに這《は》いまわる信三郎の手足は、糸のように細くなって、そして水死人みたいにふやけていた。
彼はいつその屋敷から出されたのか記憶がない。すべては、夜霧のなかをさまよっていたような感じであった。駕篭にゆられていたこともあったような気がするし、馬の背にくくりつけられていたこともあったような気がする。
とにかく、ある秋の朝、竹橋御門の外にキョトンと坐っている加賀屋の信三郎が発見されたのは、彼がさらわれてから十日めのことであった。彼はからだもあたまも、蝉《せみ》のぬけがらのようになっていた。
もちろん以上の記憶は、数日後になって、とぎれとぎれに近親者だけに話したことである。
突然、何かを思い出したように、ボンヤリときいた。
「お糸は?」
――お糸は、あれっきり行方不明だ、とだれかがこたえたが、信三郎の表情におどろきの色も、かなしみのかげもなかった。彼は「女」というものを思い出しただけでも、後頭部から鈍い痛みがひろがってくるような気がした。
そして、町人の信三郎のみならず、旗本の間宮主馬もまったくおなじ地獄を味わった。おなじ経過をたどり、十日めの朝、ふぬけみたいになって、やはり竹橋御門の外に坐りこんでいたのである。
「――田鶴は?」
――田鶴はかえってこない、という返事をきいても、彼もまた茫漠《ぼうばく》とした無感動な表情をしていた。
信三郎、主馬ばかりではない。般若組にさらわれた十数人の花婿のすべてがおなじ経験をした。
彼らはおたがいを知らなかった。その話もごく身近かな人間にしただけであった。しかし、噂は江戸中にささやかれ、ひろがりはじめた。
「男を地獄におとす竹橋御殿。――」
連続する怪事に、しかし、犠牲者以上に仰天したのは、江戸城竹橋御門の門番であったかもしれない。
夜があけてみると、門前に、ひからびはてた男が、腰をぬかして坐っているのだ。
それが、二人三人でなくつづいて、何をきいても夢のような話なので、はじめは、こんな神かくしめいた事件にかかわりあってはお城の恥と判断して、あわててほうり出したのだが、それがかえってわるく、江戸に、千姫さまにまつわる、あらぬ噂のながれるもととなっていることを知って狼狽《ろうばい》した。
「後家の千姫さまは、美男美女の祝言にやきもちをやかれて、男をさらい、なぶりものにし、男の精を吸いとってほうり出されるそうな」
むろん、門番からみれば、とんでもないぬれぎぬの流言だ。
どこから来たのか。どうして来たのか。
いくら問いつめても、当人たちも霧の中から茫然とあらわれたような気持らしい。
殺したり、町奉行にとどけたりすれば、ますます騒ぎが大きくなる。それで、決して他言せぬように厳重にいいふくめてかえらせたのだが、けしからぬ噂はいよいよ巷《ちまた》にひろがってゆく。――
すでに天樹院つきの家老吉田修理も、この噂を耳にしたとみえて、ふきげんな顔でいいにきた。
「その男どもを、門前にはこびこむ不敵な曲者《くせもの》をひっとらえろ」
もとより、門番はそのつもりである。
それなのに、みなが交替して眼を見張っているのに――そんな夜は、何事もない。そして監視もつかれはてたある夜に、忽然《こつぜん》として男のぬけがらがなげ出されているのであった。
むろん、見張りを完全にすてているわけではない。だれかはたしかに闇に眼をそそいでいたつもりであったのに、いつその男たちがはこばれてくるのか、何者の姿もみえず、足音もきこえないのは、まったく魔神のしわざかと思われた。
闇の底を、真っ黒な巨大な犬がノソノソとあるいてゆく。
天丸だ。――天丸は白犬のはずであったが、いまは闇の精のように真っ黒に染められていた。ただ眼だけが金色にときどきひかる。
天丸の背には、男がひとり、死んだようにうつ伏せにゆわえつけられて、ユサユサとゆれている。もとどりの切れた髪やその手足は地面につきそうなのに、犬はさほど苦労にも感じないらしく、足音もたてずに竹橋御門の方へあるいてゆくのであった。
門のちかくにくると、犬はくびをねじむけて、みずから綱の一部をかみちぎった。男のからだが、ズルズルと地上におちた。
それを見すますと、この巨大な犬はきれた綱をひきずったまま、魔王のごとく闇の彼方へかけ去ってゆくのであった。
深夜であった。
例によって、真紅の閨に大の字にゆわえつけられた旗本らしい美しい若者に、般若面の女はのしかかり、執拗な愛撫《あいぶ》でのたうちまわらせていた。
彼にとって、今夜は九日めの苦行だ。やつれはてたからだに、ムチムチとした白い肌がまといつき、吸いつつ、しめつける。それでも、これは珍らしく気丈な男とみえて、ときどき、
「殺せ……いっそ殺せ」
と、うめいた。
その耳に、ふとかすかな声がきこえた。
「おねがい、わめいて下さいませ、もっと大声で」
恐ろしい鬼面のかげから、女がささやいているのだ。
「わめいて、わめいて……わたしの声がきこえぬように。襖の引手を穴にして、あそこからのぞいている男たちがあるのです」
男は愕然《がくぜん》としながら、身もだえし、大声でわけのわからぬさけびをはりあげた。そのからだの上にピッタリと伏せた裸身を波うたせながら、女は耳もとでいう。
「ものをいってはなりませぬぞ。わたしのいうことだけをきいて下され。そうでないと、みなに感づかれます」
「…………」
「わたしはここの殿さまの側女《そばめ》。……とはいうものの、いまはあなたとおなじ捕われにひとしい身、このような所業も、鞭《むち》に追われてしていることです。わたしはこのお屋敷をにげたい」
「…………」
「あなたさまは、明朝ゆるされて、竹橋御門の外へ捨てられます。そのときは、その足でお奉行所へかけこんで、知らせて下さいまし」
このあいだ、男はうめき、わめきつづけている。女は狂ったように濃艶《のうえん》な愛撫をつづけながら、鬼面のおくで息を殺していうのであった。
「ここは会津藩加藤家の上屋敷だと」
――女は、以前から加藤明成に仕えていた愛妾《あいしよう》であった。「生き残り」のひとりといっていい。
さらわれてきた花婿たちを男のぬけがらとしてしまうのが、彼女たちの役目であった。鞭と刀と槍《やり》による強制だ。ここは蔵の階下である。階下に唐紙をめぐらし、さも宏壮《こうそう》な屋敷の一室らしくよそおって、この犠牲者の男と女の痴態を、襖《ふすま》の外で明成や七本槍衆が見物して愉《たの》しんでいるのだ。
女さらい、天樹院へのシッペ返し、さらに堀の女たちを助ける本物の般若《はんにや》面の釣り出し、これを一挙三得の狙いと司馬一眼房はいったが、してみるとこの見物は四得めにあたるかもしれぬ。
さらわれた花嫁の方は、階上に幽閉されていた。明成の色欲がそれで満足させられるにつれて、しだいに以前からの愛妾は不要になった。そして、彼女の同僚も、ひとり、ふたりと消えていった。――
どこへ女たちが消えたのか、彼女は知らない。しかし、消えるまえに、この階下で耳を覆いたいような悲鳴が断続していたことを彼女は知っている。そして、同僚たちが九分九厘まで殺害されたことも推察している。
男だけは、もてあそばれた末、竹橋御門の外へなげ捨てられることを、彼女は七本槍衆たちの会話で知った。
「公儀の手の入るより、わたしの助かる法はありませぬ。おねがいでございます。どうぞ、奉行所へ――」
女は息みじかくいった。
「もうよろしゅうございます。気を失ったふりをして下さいまし」
男は快美のあまり、痙攣《けいれん》して絶息したようになった。これはむりにそんなそぶりをしてみせたのではなく、ほんとうに気が遠くなったのであった。
般若面の女はたちあがり、肩で息をしながら、ぬれたからだをぬぐった。それから、あるき出し、階段のある方角の唐紙をあけた。彼女の任務は終わったのである。
そこに明成が立っていた。明成ばかりでなく、漆戸虹七郎、香炉銀四郎、具足丈之進、鷲ノ巣廉助の顔もみえる。
漆戸虹七郎のたったひとつの肘《ひじ》がはねた。ぱっと流星が天からふって、女の般若面はふたつに斬りわられ、息をのんで立ちすくんだ女の顔があらわれた。
「もどれ」
と、虹七郎はあごをしゃくった。斬られたのは面ばかりであった。
つきとばされたようにあともどりしながら、女の全身は粟立《あわだ》っていた。彼らは座敷の中にゾロゾロと入ってきた。このようなふるまいをみせたのははじめてのことだ。
さらわれた男の方をふりむいたとき、その下のたたみが、トントン――トントン――と鳴っているのを、女はきいた。それはたたみの下から鳴っている。――
とみるや、閨《ねや》とならぶたたみの一枚がクルリと返って、司馬一眼房の上半身があらわれた。たたみの下の厚い一枚板の裏に鐶《かん》がついて、それに結ばれた紐《ひも》を彼はにぎっていた。
女はこの階下の座敷の下が、そんな仕掛けになっていることをはじめて知った。同時に、さっきのじぶんの必死の声が、ぜんぶ司馬一眼房にきかれたことを知った。
「裏切ったか」
と、明成は冷やかにいった。
「左様」
司馬一眼房はぶきみにうなずいて、とんと座敷に立った。
「女はもとよりでござるが、きいたが不運、その花婿どのもこんどは生かしては出されませぬな」
女は片腕を鷲ノ巣廉助にとらえられて、一眼房のあらわれたたたみの傍にひきずられていった。骨もくだけるような痛みであった。
垂直になったたたみは、その分だけパックリ四角な穴をあけている。銀四郎が手ぢかの雪洞《ぼんぼり》をひっつかんで、その穴から下へ投げこんだ。
のぞきこんだ女は「あーっ」と絶叫した。
それまでのあらゆる恐怖もけしとんでしまう恐怖の極限の声であった。
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地獄の花嫁
般若組が神田の或る大きな具足《ぐそく》屋で行われた祝言の夜、その花婿と花嫁を襲ったのは秋の雨の夜だ。
これは婿養子にもらった婚礼であったから、家つき娘である花嫁の今宵の首尾を案じて、乳母がそっと寝室をうかがいにいって、途中の縁側の雨戸が一枚はずれているのに気づき、ついで凄《すさま》じい泥足のあとがつづいているのに仰天した。
新夫婦の寝室の襖に般若面がひとつ打ちつけてあるのが発見されて、人々が騒動におちいったのは当然である。そのとき裏庭の木戸のあたりで、けたたましい手代の声がした。
「たいへんっ、ここにだれかたおれています」
雨の中に気絶して、丸太ン棒みたいにころがっていたのは裸にされた花婿どのであった。花嫁の姿はなかった。
夜の大通りを、失神した花嫁を背負った般若面が走って、途中に立っているもうひとりの般若面と犬にあうと、立ちどまった。
「役人の見回りはないな」
と、きく。香炉《こうろ》銀四郎の声だ。
「異状はない。怪しい奴がうろつけば、この天丸がすぐに知らせる」
こたえた声は、見張りに立っていた具足|丈之進《じようのしん》である。犬を見張りにして、役人を曲者《くせもの》あつかいにする凶賊はあまり例がなかろう。
「廉助《れんすけ》はどうした」
「いまくるはずだが。花婿が大男での、さしもの廉助が手をやいておったわ」
と、銀四郎がつぶやいたとき、雨の中を三人目の般若面が、泥をはねあげて走ってきた。闇夜だが、雨の微光に、肩にざんばら髪の男をひっかついでいるのがみえる。さすがに息をきらせていた。
「御苦労」
と、丈之進はいった。
「そこの土塀のかげに馬が待っておるわ」
三人は走り出した。
いかにも、大通りから入ったとある土塀のかげに、二頭の馬とふたりの般若面が待っていた。司馬一眼房《しばいちがんぼう》と漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》にちがいない。
「お、さわぎ出したようだぞ」
一眼房が遠く具足屋からあがる叫喚に耳をすませて、笑いながらいう。
「いそげ」
二頭の馬に、花婿と花嫁は織物みたいに投げかけられ、くくりつけられた。
馬は南へ駈《か》け出した。さらわれたふたりの髪と四本の手足は馬腹にゆれ、帯は往来の泥のなかをひきずられてゆく。五人の般若組は、それをかこんで魔人のごとく走る。
と、具足丈之進が叱《しか》った。犬の天丸がはげしくほえてやまないからであった。
漆戸虹七郎の足がややおくれた。
「虹七郎、どうした」
と、ならんで走る司馬一眼房がいった。虹七郎はささやいた。
「一眼房、ちと不審なことがあるぞ」
「なんだ」
「天丸がほえる」
「それを、おれは妙におもっているのだ」
と、司馬一眼房は右眼だけの眼で犬を見やったが、それよりも漆戸虹七郎が異様に声をひそめていることをふしぎに思った。虹七郎はかけながら、
「天丸は鷲《わし》ノ巣《す》廉助にほえておる」
「おい、廉助の背が、すこし低いようには思わぬか?」
「なにっ」
一眼房は、思わず高い声をたてかけた。雨と鉄蹄《てつてい》のひびきがそれを消して、前方の人馬は一団となって走りつづけている。――そのなかの般若面をつけた鷲ノ巣廉助の影は長身だ。しかし、そういわれれば、巨漢ともいうべき廉助にしてはやや低い。――
「き、きゃつはだれだ」
「待っていた男だ」
「うーむ……」
「ついに、現われおったぞ。きゃつが。――」
堀の女たちの後盾をしている般若面。――それがとび出してくるに相違ないと見込んでの般若組の結成であったが、あまりに意外な人をくった出現ぶりに、さすがの司馬一眼房の背に、さあっと冷たいものが走ったようであった。
「殺《や》るか?」
「待て、きゃつ――得べくんば生捕りにして、殿のおんまえにしゃッ面をさらさせたい」
くびをふると漆戸虹七郎は、ツ、ツ、ツ――と足をはやめた。
「鷲ノ巣」
呼びかけられて、馬とならんで走っていた般若面がふりかえる。その真っ向から、雨脚の一線のごとく虹七郎の長刀がきらめいた。
「…………」
異様な音がしたのは、その般若面がたてに斬り割られたのであった。左半分が落ちて、相手は右半分のこった面を手でおさえた。
――夜目ではあったが、鷲ノ巣廉助ではなかった!
「ふふん」
廉助ではない声が、不敵に笑ったのである。右手で、後生大事に面の半分をおさえているとみて、
「おい、抜け」
虹七郎の声があざ笑った。相手は刀を左の腰にさしている。左利きの男ではない。したがって、右手がふさがっているかぎり抜刀はできない。抜刀すれば、面はおちる。――一瞬、虹七郎の体勢に微妙なゆるみが生じた。
突然、その男は背をみせて走った。前方をかける馬の方へ。――
「待てっ」
ぴゅっと雨を切って、その姿を、海蛇に似た司馬一眼房の皮鞭《かわむち》が走った。影が馬の左を走っているとみて、左側から薙《な》いでいった皮鞭であった。
しかも、のがれるべからざるその皮鞭の先から、相手の姿は忽然《こつぜん》と消えていた。
「……馬! 馬のあいだだ!」
銀四郎がさけんだ。ようやく銀四郎もこの異変を知り、そして事態を悟ったのだ。
いつ疾駆する馬の腹をくぐるという離れ業を演じたか。――般若面の男の影が、たしかに走る二頭の馬のあいだにみえた刹那《せつな》、それは一頭の――右の馬の上にあった。花婿のくくりつけられた馬に。
しかも、このときふりむいた馬上の男は、なんと人をくった奴か、依然として半分の面を右手で押えたままなのである。
五人の会津七本|槍《やり》衆は狂気のごとくそれを追った。馬上の男が左手で小刀を鞘《さや》ごめにぬきあげるのがみえた。
「しゃあっ」
司馬一眼房の鞭が数丈のびて、こんどは右側からその影を薙ぎつけようとした。
「同志討ちするな」
そのみじかい声がうしろへながれてきたのと、
「あっ、馬にくくられておるのは鷲ノ巣廉助だっ」
と、香炉銀四郎が絶叫したのが同時であった。馬腹にゆられている花婿の正体がはじめてあたまにひらめいて、一眼房の鞭はすでに虚空をうなっていたが、その鞭の尖端《せんたん》にみずからを制止しようとする痙攣《けいれん》が波うった。
「えい、廉助もろともたたっ斬れっ」
漆戸虹七郎が歯がみしてさけぶ。
馬上の男は鞘のまま、おのれの馬と、ならんで走る花嫁の馬の尻《しり》を、ぴしいっと打った。
いちど渦をまいた一眼房の鞭は、一瞬生物のようにピーンとのびて、ななめにその一体の人馬をなぐりつけていった。彼の鞭は、刃物のごとく対象を斬る。
馬は竿立《さおだ》ちになった。しかし、その馬上に男の影はなかった。彼は、もう一頭の馬の背にとびうつり、あっというまに七、八間の距離をはなして前方へかけぬけていた。
「のがすな!」
血泡をふかんばかりにして宙をとぶ司馬一眼房が、ふいにどうと地に這《は》った。あとにつづいた漆戸、香炉、具足も、もんどりうって雨の大地にころがる。
一眼房をつまずかせたのが、馬からおちた鷲ノ巣廉助の身体だと気がついたのは、花嫁と般若《はんにや》面の男をのせた馬が、まったく闇の彼方へ消え去ったあとのことである。
鷲ノ巣廉助は悶絶《もんぜつ》していた。さっきの一眼房の鞭の一撃で馬にくくりつけられた紐《ひも》を切断されただけであったのは、望外の幸せであったといっていい。
しかし、具足屋の花婿をさらう途中、庭で当身をくわされ、花婿といれかえられたという大恥辱を、さめたのちに知った廉助の憤怒ぶりは、加藤家の庭のふとい樹々を、狂気のごとく手刀で切ってまわっても追いつかないほどであった。
「きゃつ……なぜおれを殺さなんだか!」
と、彼は悲痛にわめいた。
般若面の男が、廉助を生かしておいたことこそ、しかし他の四人の全身に、じーんとえたいのしれぬ冷気をあたえることであった。
高い松に鳴る風は、秋風であった。
澄みきった蒼空《あおぞら》に、無数の赤とんぼがとんでいる。松林越しに見下ろす品川の海に、白帆がかぎりもなく浮かんでいた。
東海寺のうしろの丘にある春雨庵のそばである。この庵《いおり》は、ここの住持|沢庵《たくあん》が、まえに羽前上《うぜんかみ》ノ山《やま》に流されたときの草廬《そうろ》を移してきたものだ。ここから見下ろす四万七千余坪の寺の全景、また果てしもない海は絶景だ。
秋の日の下に、七人の女が輪になって、何やら話していた。松籟《しようらい》も、白帆も、赤とんぼも念頭にないような真剣な表情である。
すると、ふと下をみたお千絵《ちえ》が、
「あ、十兵衛さまが」
と、さけんだ。
みな立ちあがったが、この秋晴れの空の下に、女たちはいつも十兵衛をみるときのかがやくような顔色を忘れたようであった。
丘の石段を、柳生《やぎゆう》十兵衛が上ってきた。彼もまた不審な表情だ。
「みな、こちらに集っておるときいてやってきたが、なんの相談だ」
「十兵衛さま。……いま江戸に流れている恐ろしい噂を御存じですか」
と、お千絵がいった。
「恐ろしい噂?」
「般若組とかいう――」
十兵衛は、じろっと女たちを見まわした。
「この寺からほとんど外に出たことのないそなたたちが、どうしてそれを知っておる」
「実は……ときどき、かわるがわる町へ出ていたのでございます」
と、お沙和《さわ》がいった。それは十兵衛からきびしく禁じられていたことであった。
「なんの用で」
「加藤家の様子をうかがいに」
危いことを――と、十兵衛は背すじに寒さをおぼえた。加藤家の方では血まなこになってこの女たちの行方をさがしているというのに。
「おゆるし下さいまし。でも、それほどしょっちゅうではありませぬ。ひとりがいちどずつ出たくらいです」
と、お品がいった。
「どうしても、このまま寺にじっとしているのがつらいときに」
「そなたらが、七本|槍《やり》衆に見つかって、ひとりやふたり叩《たた》ッ斬られるのは勝手だ。しかし、あとをつけられて、隠れ家がこの寺だと知られたら何とする」
十兵衛はにがい顔をした。彼女たちの無謀を心配するのが本心だが、しかし、わざとべつの方から釘《くぎ》をさした。
「東海寺に女人をかくまっておると、加藤家から公儀に訴えられたら、いかな沢庵和尚もお困りなされるぞ」
七人の女は、はっと胸をつかれたように顔を見合わせた。お千絵が、おずおずといった。
「ほんとうに、わるいことをいたしました」
「けれど」
顔をふりあげたのはさくらだ。
「その般若組の話です。あれは、たしかに七本槍の奴らの仕業です」
「おれも、そう思う」
「美しい花婿と花嫁をさらう。花嫁の方はかえってこないが、花婿の方は――竹橋御殿の御門前に捨てられているとかききました。花嫁は、きっと明成の花地獄の祭壇にささげられるいけにえに相違ありませぬ」
「おれも、そう思う」
「花婿がわざわざ天樹院さまの御門前に捨てられるというので、千姫さまにあらぬ噂がたっております。その噂をたてるための大それた所業」
「おれも、そう思う」
口々にいう堀の女たちに、十兵衛は平然とこたえる。いらだって、さすがにしとやかなお圭が、するどい調子できいた。
「十兵衛さま、それを御承知ですておかれる御所存ですか?」
「もうひとつある」
「もうひとつ?」
「そういうことがわかるのは、天樹院さまか、おれたちのほかにはないということだ。きゃつらは、きゃつらの所業を、わざとわれらに見せつけておるということだ」
「…………」
「つまり、きゃつらは、啄木鳥《きつつき》のごとくおれたちの尻をたたいてさそい出し、罠《わな》にかけようという陣法だ」
「おう、あの男たちのかんがえそうなこと。――けれど、それをきけば、わたしたちがじっとすくんでいるのは、いっそう卑怯《ひきよう》みれんなふるまいではありませんか」
と、お鳥がいえば、お千絵も頬に血をのぼせて、
「十兵衛さま、よろこんでさそい出されようではございませぬか。七本槍の者どもが祝言する家を襲うとあれば、先まわりして網を張り、これを討てば何よりのことと存じまするが」
「左様に、らくに事はゆかぬわい」
十兵衛は苦笑した。
「網を張っておるのは、あちらの方だ。いままで大道寺鉄斎、平賀孫兵衛を討てたのは、きゃつらの不意をつき、意表に出たおかげであるぞ」
「わかっております、さればとて、千姫さまの御迷惑を知りつつ、これ以上わたしたちが手をつかねておるということは」
「うむ、いかにも気にかかるは、その天樹院さまにかかわる風評だ。そのために、きゃつらの悪業をそのまま捨ておかれぬと、実は先夜、おれだけ赴いて、般若組とやりあった――」
「まあ、そ、それで?」
「負けたよ」
ケロリとしていう。
「えっ、十兵衛さまが?」
「完敗だ」
「でも、そこに、こうして御無事で」
「命があったのは僥倖《ぎようこう》だ。命からがら逃げ出したわ。うふ」
と、笑ったが、すぐにみなを見わたして、
「いま、うふ、と笑ったのは、白状すればおれの強がりだ」
堀の女たちは、いままでに柳生十兵衛のような男に逢《あ》ったことがない。
彼女たちの知っている堀一族の男たちは、ことごとく悲愴《ひそう》なばかり古武士的な肌合いをもった人々であった。
徹頭徹尾《てつとうてつび》男性的なところだけは共通しているが、凛然《りんぜん》とした気品と背中合わせの野性、父か兄のようなきびしさと同居するだだッ子じみた無頼性、冷血ともみえる非情さからこぼれる女人への侠気《きようき》、奔放無比の行動にないまぜられた沈毅《ちんき》と慎重。――なかんずく、たくまぬユーモアは、これは絶対に堀一族の男たちになかったものだ。
しだいに七人の女たちの心のおく底に、ある感情がかげろうのようにうごきはじめている。しかし、彼女たちは、処女は処女なりに、かつて人妻であったものはそれなりに、おたがいにそれをかくし合っていたし、第一いのちをかけた仇討《あだう》ちの悲願のまえに、そんな感情はじぶん自身にさえかくしていたから、そうでなくても女ごころに鈍感な十兵衛は風馬牛である。
「般若組とやり合った――と仰せられますと?」
息を殺して、お千絵がきく。
「むろん、きゃつらを斬るためではない。七本槍衆を討つはそなたらの役目だ。それに、こんどの悪業をとめるには、きゃつらの一人や二人斬るよりも、もっと抜本的な法がある」
「それは?」
「それは、あとでいう。とにかくの、おれは般若面をかぶって、神田の具足屋の祝言を襲ったきゃつらの一味にまぎれこんだ。一味のひとりに化けたつもりだったのじゃ。いや、いかに同様に般若面で顔をかくすとはいえ、化けるには苦労したぞ」
「…………」
「あの漆戸虹七郎という奴は片腕、司馬一眼房は水気になやんだ大章魚《おおだこ》みたいなからだつき、具足丈之進は小男だし、香炉銀四郎は娘のような色若衆だ。――やむなく、おれは鷲ノ巣廉助に化けた。おれはあれほど大男ではないが、面はかぶっておるし、闇の中ではあるし、しばし――加藤家に入りこむまでくらいは、ごまかしがきくと思ったのだ。それがそうはうまく問屋が下ろさなんだな」
「…………」
「犬に見破られた」
「漆戸虹七郎めに、いきなりこの面を斬られての。面ですんだのは、むこうがひとまず面だけを斬るつもりであったからに過ぎん。おれを斬る気なら、おれは唐竹割りになっておったろう」
「…………」
「あれは何流か? ただ一太刀であったが、おれはあれほど凄《すさま》じい剣法に逢ったことがない。尋常に立ち合って、おれが勝つか、向うが勝つか。おれにもわからん」
十兵衛はまじめな顔でいっている。単なるおどしではない。――剣の地獄を知って、それを凝視することのできる人間だけがもつ、ぞっとするようなまなざしであった。
その隻眼に恐怖の色すらみえたのは、その敵とこの女たちと、いつかは剣を交えさせなければならぬという宿命を思ったからであった。
「七本槍衆を斬る気はなかったと仰せられまするか」
しんと、秋の日がそのまま氷と変ったような圧迫感をはねのけるように、お千絵がいい出した。
「それなら、十兵衛さま、どうして左様なことをなされたのでございます」
「それよ」
と、十兵衛はうなずいて、
「般若《はんにや》組の横行をとめるたったひとつの細工をやるには、おれが加藤屋敷に入らねばならんのでの。……ちょっと、耳をかせ」
七つの花弁のように、七つの顔が寄って、そしておどろきの表情になった。
十兵衛が声をひそめたのは、べつにほかにきかれるのを恐れたためではなく、いたずら小僧が密談のたのしみにふける心に似たものがあるのは、その片えくぼを彫った表情でわかる。
「いや、般若組の噂があって以来、おれはいくどか加藤屋敷にちかづいた。そなたらには気がつかなんだが、しかし、よう敵に見出されなんだもの――おそろしく厳重に警戒をかためておるぞ。いちどおれが中に入ってからかったこともあるので、向うさまも、こりたとみえる。夜となく、昼となく、鉄砲に火縄をはさんだ番卒どもが眼をひからせて徘徊《はいかい》しておる――」
ニヤリとした。
「で七本槍衆のひとりに化けて入ろうとしたのじゃが、こいつはしくじった。そこでもうひとつ残った手だては、いろいろと案じぬいた末」
あごをなでて、
「おれが、さらわれる花婿となることじゃ」
七人の女はあっけにとられた。ややあって、お沙和がいった。
「でも、十兵衛さま、さっき漆戸虹七郎のために面を斬られたとおっしゃったではありませんか」
「なに、後生大事に割られた面の右半分はおさえていたよ。したがって、敵の見たのは、眼のあいた左半分の顔だけじゃ」
みな、あらためて十兵衛の顔をみた。右眼は糸のようにふさがっているが、左眼は新月のごとくかがやいている顔を。
「闇の中ではあり、あの修羅場で、左半分だけのおれの顔を、しかと見おぼえておる奴はあるまい。――そこでさらわれた花婿に化ける」
「どこの花婿に」
「これから探す」
こんどは、頬をなでて、しぶい顔をした。
「とびきりの美男美女の祝言。――その花婿に化けるというのが、ちとこまったことじゃて。白粉でも塗ろうか、どうじゃ、それでも追っつかんか?」
七人の女は、笑う余裕はなかった。――お品がいった。
「けれど、十兵衛さま、あとになれば、その花婿が偽者《にせもの》であったとわかることでございましょう。片眼の男だとわかれば、敵の連想が柳生十兵衛とむすびつく。それゆえに般若の面をかぶると仰せられましたのに、その片眼のお顔を敵におみせなされてよろしいのでございますか」
当然の疑問である。
将軍家指南番柳生|但馬守《たじまのかみ》の嫡男として、はやくから天才児とうたわれた十兵衛は、ずっと以前にちょっと家光を指南したこともあるが、その豪放|不羈《ふき》の性格と行状から、将軍を面くらわせて、勘気をうけて、爾来《じらい》あまり登城したこともないので、殿中で加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》にいちども逢ったことがない。だから、明成は十兵衛の顔を知らず、いわんや会津《あいづ》から来た七本槍衆が知っているわけはない。
彼らは、堀一族の女人たちを助勢している者が柳生の嫡子であるとは、まったくかんづいてはいないのだ。
しかし、もしそれが隻眼の男だと知ったなら――隻眼の剣法者、といえば、当然、柳生十兵衛、とあたまに浮かんでくることはふせげまい。加藤家対柳生家という大名同士の争いになれば、質実な父の但馬守は迷惑がろうし、十兵衛も不本意だ。彼が般若の面をかぶったのはそのためである。
とくに、相手は四十万石をかけて、死物狂いになっている。戦国の名残りさめやらぬ時代とはいえ、歯をむいて千姫さまにむかい、威嚇がましい手段に出るとは、もとから常人ではないという風評もある加藤明成だが、まったく狂気の沙汰《さた》としか思えない。
「からかうにかぎる」
十兵衛は薄笑いした。
「十兵衛さま、花婿の顔はどうなされます」
と、お品がもういちどきいた。
「おれは両眼つぶって、めくらの花婿となろうよ。敵はおれの顔もしらず、またこのごろのように商売繁昌では、敵もいちいちさらう花嫁花婿の顔をあらかじめ調べてもいまい。ただ美男美女という評判だけで狙いをつけておるにちがいないからの」
気楽至極なことをいったかと思うと、ふいにまじめな顔になって、
「とはいえ、おれは見る通り、いい男には縁が遠い」
「いえいえ!」
と、ふいにとんきょうな声をあげたのは、お千絵の婢《はしため》のお笛であった。
「十兵衛さまは、日本一のいい男でございます!」
女たちはびっくりしてお笛を見つめ、それからみな微笑んだ。むろん、苦笑したのではない。――彼女たちは、ひとりのこらずいまほんとうにそう思っていた。色は浅黒く、ときどき、無精ひげをそよがしている隻眼のこの男を。
「そう思うか」
十兵衛はニコリともしない。
「では、おれの花婿はいいとして、もうひとり花嫁が要る。探した祝言のある家にいって、事情をあかしてたのむのじゃ。花婿ばかり身代りというわけにはゆかぬ。花嫁の影武者も要る」
「……加藤家に入るのでございますね」
と、お千絵がいった。七人の女の眼がひかった。
「私にゆかせて下さいませ!」
「わたくしに!」
「わたしに!」
七人の女は、いっせいにさけんだ。
「待て。花嫁に化けるとはいえ……そなたら、だれも向うに顔を知られておるのだぞ。綿帽子をかぶり、うちかけを羽織り――敵も思いがけぬことゆえ、しばしはわからぬであろうが、しょせんは見破られることは必定」
「わかっております」
「むろん、おれもいっておる。やすやすと見殺しにはせぬつもりじゃが、しかし、いった先でどうなるか、おれにも見当がつかぬ以上、命はうけあえぬ」
「いいえ、式部少輔に一太刀でも酬いれば本望でございます」
「それがだめだ。式部少輔はまだ討ってはならぬ。こんどのことは、明成を討つためではない。あくまで千姫さまのおん名をまもるため、きゃつらの悪業を止めるのが先決。明成は、いましばし生かして苦しめておかねばならぬ。……そなたらには不服であろうが、きゃつらが盗賊|稼業《かぎよう》をはじめたことをみても、明成がいかに血迷うておるか、したがってその苦しみがいかにはなはだしいかはわかろうというもの。――きゃつらはしばらくこの世の地獄に生かしおけ。そして、死ぬ以上の生恥をかかせてやれ」
実は十兵衛からすれば、いまは――ある機会がこないうちは、加藤式部少輔を討ちたくない理由があるが、これは伏せていた。
それは、明成がいかに暴虐な大名にせよ、いま明成を討てば、この女たちも死なねばならぬということだが、死を覚悟している女たちには、いっても無用のことだから、わざとだまっている。
「で、このたびおれの花嫁になってくれる者は、ひょっとしたら無駄死させるかもしれぬ」
「…………」
「死ぬ覚悟で、それでもゆく者があるか?」
「私にゆかせて下さいませ!」
「わたくしに!」
「わたしに!」
七人の女は、いっせいにさけんだ。その心を、おたがいに彼女たちだけが知っていた。
彼女たちは十兵衛の花嫁として死ぬことができるなら――たとえそれが敵をあざむくかりそめの花嫁であろうと――よろこんで死んでもいいという、ふしぎな心を抱きはじめていたのだ。
「それは、こまった」
と、十兵衛はあたまに手をあてた。眼に感動のひかりがある。
むろん彼は、女たちの心を知らない。彼は、ただ死をおそれぬ女たちのけなげさに胸をうたれたのだ。
「籤《くじ》をひくか?」
そして、十兵衛は立ちあがった。
「みな、のけ。こっちの蛇ノ目つぶしとゆこう」
奇妙な顔で、輪をひろげた七人の女のまんなかの地上に、十兵衛は刀のこじりで、下に四つ、上に三つの円をえがき、その一つずつを、七人の女にえらばせた。
「よいか、だれにあたるか、おれも知らぬぞ」
抜きはらった刀身を、蒼《あお》い空になげあげると、それは秋の日光をキラキラとはねながら流星のごとくおちてきて、その円の一つにぐさっとつき立った。
――お圭《けい》の輪であった。
湯島に宏大《こうだい》な屋敷をかまえている当道の鳥山|検校《けんぎよう》の屋敷で祝言があった。
これは婿取りで、婿にきたのは、江戸城の奥医師三沢玄洞の弟、やはり医者の玄達であった。名門の医者が、当道の家へ婿にきたのは、玄達が眼がわるいせいと、鳥山検校がいわゆる座頭金でつんだ巨富のせいと、娘のお園がすばらしい美人だが、くびから右頬にかけて、惜しいことに薄赤い痣《あざ》があるせいだろうという評判であった。
「……お園」
閨《ねや》に坐《すわ》ったまま、玄達が呼んだ。
「来やれ」
花婿にしては、すこしとうがたちすぎている。三十いくつか――頭を総髪にして、両眼はとじたままだ。眼がわるいという噂であったが、わるいどころかまったくの盲目らしい。しかし、苦味ばしった、わるくない男前である。
「はい……」
花嫁は、いざり寄った。この場になっても、彼女は紅いお高祖頭巾《こそずきん》をかぶって、美しい眼ばかりのぞかせているのは、やはり花嫁のはじらいであろう。
「お園、わしは盲じゃ。さきごろまでは、それでも薄う眼がみえたが、いまはほとんど見えぬ。それゆえ当家の婿となされたのを、むしろよろこんでおったが、いまこうしてみれば、そなたの美しい顔がみえぬのが口おしい。……」
沁々《しみじみ》とした調子でいう。――十兵衛先生、なかなか狂言がうまい、とお園に化けたお圭は、しかし感心する余裕はなかった。
「は、はい。……」
声がふるえる。かりそめの狂言だ、とは承知しているものの、深夜、見知らぬ家の閨で、初夜の花婿と花嫁として、十兵衛とむかいあっていると、動悸《どうき》がし、血があつくなり、そして、われしらず全身がふるえてくるのを禁じ得ないのであった。息を殺していう。
「いいえ、わたしは……」
十兵衛は、お圭を抱きよせて、手でその頬をなでた。
「お、まだかような頭巾をつけておるのか」
「恥かしや、わたしの頬には赤い痣が」
「わしはそれもみえぬ。ましてや、お園、今宵からそなたとは夫婦《めおと》ではないか?」
十兵衛は、いとしげに――いかにも盲人らしく、お圭のからだをなでまわした。
お圭の肌が汗ばんで、かすかにおののく。男を知らないではない、人妻だったわたしが――と、歯をくいしばり、殺された夫|稲葉《いなば》十三郎を必死に思いうかべて、彼女はじぶんの不可解な感情をおさえようとする。
七人の女のなかで、いちばんおちついて、しとやかで、凛《りん》としたお圭だ。それがいま小娘のようにふるえて、名状しがたい嬌羞《きようしゆう》の姿をみせるのに、正直なところ十兵衛は妙な気持になった。
――はやく、何とかしてくれ、七本|槍《やり》の奴ら!
心中、悲鳴のように十兵衛はさけぶ。
眼はとじているが、彼は知っていた。天井に五匹のやもりみたいに貼りついている五つの影を。
「――あっ」
ふと、天井を見あげたお圭がさけんだ。
お圭は、天井の五つの影をみたわけではない。彼女は最初からそれに気づいていなかったし、たとえいま気がついても、見ることはできなかった。お圭がみたのは、頭上からふりかかってきた黒い霞《かすみ》のようなものであった。
それが何であるか、お圭は知っている。かつて彼女は、鎌倉《かまくら》の東慶寺《とうけいじ》で、この霞のために天秀尼やほかの尼僧もろとも閉じこめられたおぼえがある。
「か、か――」
と、さけびかけたのは、思わず「霞網」といおうとしたのだ。しかし、その声だけで彼女は十兵衛に抱きしめられた。
とっさに十兵衛がお圭を抱きしめたのは、眼はつむっていたが、彼女のただならぬ様子を察し、何もかもぶちこわしにするのではないかとおどろいて、敵に感づかれずにその口をふさぐには、これよりほかになかったからだ。
何が起ろうと、この場はあくまでも化けぬく!
とは、最初からの覚悟だが、祝言初夜の花婿と花嫁の所作の間がもてなくて、弱りきっていた十兵衛は、お圭のただならぬ気配に、いよいよ来たな! と、むしろ心中にほくそ笑んだくらいであった。
この抱擁がただの抱擁ではなく、だまって狂言をつづけろ、という合図であることは、りこうなお圭は察したはず――と十兵衛は、じぶんの胸からお圭をはなそうとして、愕然《がくぜん》とした。ふたりのからだははなれなかった。
ふたりの顔を紗《うすぎぬ》のようなものがつつんだのを知ったのはこのときだ。それは液体のように頬に吸いつき、からだに密着し、思わずもがいて、はねつけようとする両腕にフワフワと軽くまといつくようにみえて、一息か二息つくあいだに、全身をすきまもなくしめつけて、きたのである。
お圭がのけぞったのが感覚された。ふくよかな乳房と腹部が、十兵衛の胸と腹をすりあげるのをおぼえた刹那《せつな》、十兵衛は息がつまり、意識がうすれた。
――からだにまといつく蛇がはなれ、そしてまたべつの蛇がからだにまといつく悪夢から、お圭は目ざめた。
うっすらとひらいた眼に、まずうつったものを見たとたん、お圭はのどのおくからあやうく絶叫をほとばしらせようとし、がばと起きなおった。
それは加藤式部少輔明成のノッペリとした蒼白い顔であった!
からくもさけびをのんだのは、このことをあらかじめ予期していたことと、先刻、鳥山検校の家で不覚にも声をあげようとして十兵衛に制されたことを、このような半醒《はんせい》の一刹那に思い出したからだ。
「気がついたか」
と、明成が笑った。その手にひきずっているのは、お圭自身の帯であった。
はっとして、前をみる。帯はない。
このとき、お圭は、じぶんがお高祖頭巾だけはつけていることに気がついた。明成は何よりさきに、彼女の帯だけ解いたのである。
「頬に痣があるそうな。それゆえ、武士の情、頭巾はそのままにしておいてやる」
と、明成はケタケタと笑った。
じいっと頭巾からのぞいた眼ばかりのお圭を見つめているが、しかし彼女が稲葉十三郎の妻であったとは、明成はまだ気づいていない! もっとも重臣の妻や娘ならしらず、下級の家臣の――ましてや、家老堀|主水《もんど》の家来である稲葉十三郎の女房の顔を、太守の明成が知っているわけはないが、明成以外にも、たしかじぶんをここにさらってきたのは七本槍衆にちがいないと思われるのだが、彼等も気がつかなかったのは、お高祖頭巾をとるいとまがなかったのか、とっても頬につけた赤痣にあざむかれたか、まさか検校《けんぎよう》の娘がじぶんだと思いもよらなかったのか。
それにしても、ここはどこか。十兵衛さまはどうなされたか?
ここはいうまでもなく、芝《しば》の加藤屋敷であろう。しかし、加藤屋敷のどこか。お圭は江戸屋敷の内部にまだ入ったことはないが、おそらくこれは国元の城にもこの江戸にもあるという――十兵衛がいつかいっていた恐しい「花地獄」の蔵にちがいない。
その十兵衛の姿はなく、ひろい白壁につつまれた座敷に、あちこちにうずくまり、じっとじぶんをながめているのは、十数人の女たちばかりであった。
いくつかの雪洞《ぼんぼり》に、女たちの眼はいずれも恐怖と興味に異様なひかりをおびている。部屋のまんなかには、血のような赤い夜具があった。
「これ、検校の娘――痣があろうと、おまえが美しいことは、眼をみればわかる。またそのからだをみればわかる。いとしんで、つかわすぞ」
明成は、帯をなげすてて、ふたたびちかづいてきた。
「ここへ入った女は、二度と外へは出られぬ。――いや、かつて外に出ようとかんがえた女すらいない。それほどここは、女にとって極楽世界じゃ」
舌なめずりして寄ってきたその顔ののどくびに、お圭はとびついて歯をたてたい衝動にうたれた。――夢にまでみた怨敵《おんてき》が眼のまえにある! 明成の顔は、以前会津でみたときよりもやせて、いよいよ細長くなっていた。
しかし、十兵衛さまは、まだこの男を殺してはならぬと仰せられた。その十兵衛さまはどこにおいでか?
歯をくいしばって顔をそむけ、必死に眼をさまよわせる女に、
「ほ、なかなか気丈な女よな、ふふふ、はじめはみな左様なそぶりをみせるが」
明成の手が、ぐいと彼女のえりをつかんで、かきひらいた。
とびずさろうとして、お圭はどうとあおむけにたおれた。左の足くびに激痛がはしった。
じぶんの前がぱっとはだけて、胸から腹までむき出しになったことを知ったのと、右の足くびが鎖につながれているのを知ったのは、その刹那であった。
「おう、雪より白い肌をしておる!」
明成はのけぞりかえって笑い、眼をひからせて――次の瞬間、とびかかってきた。
夢中ではねのけて、横にころがる。その裾《すそ》を明成がつかむ、裾が裂けてよろめき立つと、片足が鎖にひかれてまたふしまろぶ――
典雅なお圭が、いまだかつてこんなあさましい姿態を他人にみせたことがあるだろうか。しかし彼女はじぶんの恥ずかしい姿も忘れた。明成を討つとか、怨敵とかいうことも忘れた。討とうにも、武器はない。彼女はただ恐怖だけにうたれ、死物狂いにのがれようところがりまわった。
「ウフフ、あばれろ、あばれろ」
その胸に、腰に、明成は顔をこすりつけて、よだれだらけの口でゲラゲラ笑った。
雪に泥足でじゃれつく犬の狂態といったらよかろうか。彼は一挙に目的をとげず、いつまでもこうして恐怖する女を追いかけ、はねのけられ、またつかまえる、子をとろ子とろの遊びにこそ魂をとろかせているようであった。
実際彼は異常な神経になっていて、般若の面をつけた女に男を犯させる光景をのぞき見しているうちに、じぶんでも女に般若面をつけさせて痴戯する習性までつけたほどである。お圭の頭巾をあえてとらなかったのも、そのためであった。
この凄絶《せいぜつ》とも酸鼻《さんび》とも形容しがたい光景を、柱につながれた女たちは、或いは笑い、或いは放心状態でながめていたが、どの女の眼もドンヨリとにぶいひかりをはなっていることは同様であった。
お圭の頭に薄い膜がかかってきた。もうからだは、意志がかすかに脈打っているだけで、息たえだえのうねりをみせるばかりであった。
――いのちだけではない。操もすてろ、といつか十兵衛さまはおっしゃった。
そのときがきたのだ。しかし、こんな無惨な姿で――怨敵明成に身を汚されて、それが敵討ちの何の足しになるのか?
明成の骨ばった手が、背から胸のふくらみへからみついてきたのを意識しながら、ふりはらうことができず、お圭の眼に熱涙がうかんだとき、唐紙の向うから声をかけた者があった。
「殿……下の花婿のことでござりまするが」
明成の手のうごきがとまった。
「おう、こちらがあまり面白うて、そちらの見物を忘れておった」
「たしか三沢玄達と申す奴。――」
十兵衛さまだ! お圭の意識に灯がともった。十兵衛さまがどうなされたというのだ?
「奇怪な奴にて、まだ眼がさめぬ様子なのに、これにかかった女ども、三人が、きゃつのからだの上にて悶絶《もんぜつ》をいたします」
「なんじゃと?」
明成はくびをかしげ、しばらくかんがえこんでいる様子であったが、
「よし、みてやろう」
うなずくと、刀をとって出ていった。
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水の墓場
十兵衛は、虫すだく庭の秋草の中をはこばれてくるときから気がついていた。それまでは、馬にくくりつけられていたか、駕篭《かご》にのせられたか、人にかつがれてきたかわからない。
気がついたときには、岩みたいな大きな肩にかつがれて、歩いていた。――薄眼をあけてみると、まわりを三、四人の人間がとりかこんで、その一人にかつがれているのはお圭《けい》のようだ。
――鷲《わし》ノ巣廉助《すれんすけ》だな。
と、じぶんを背負っている男を、十兵衛は推察した。こいつ、おれより三寸は背がたかい、先日、こいつに化けたのはちとむりだった。
――しかし、あの霞網《かすみあみ》にはおどろいたな、女たちからきいていたが、どうやら髪の毛を編んだもののようだ。その髪に何やら魔香が焚《た》きしめてあるらしく、それが濡紙《ぬれがみ》みたいに顔や胸にはりついて、こちらの息をとめてしまった。香炉《こうろ》銀四郎の霞網、あれをどうしてふせぐか?
十兵衛たちは、土蔵にかつぎこまれた。それが明成の「花地獄」であることを、むろん彼は知っていた。
明成は、今夜もこの蔵にきておるのか? と思っているうちに、お圭は二階へはこばれてゆき、十兵衛は階下の一室に移された。
ふっと、心に不安の波が立った。自分に対してではなく、お圭に対してだ。これから事態がどうなるのか、彼にもわからない。ままよ、思い立ったことだ。しばらく様子をみてやろう。
十兵衛は、俵のように投げ出された。やわらかな蒲団《ふとん》の上であった。これは好遇だな、と感心していると、その四肢を大の字にひらかれて、手くびを縄で蒲団にくくられた。
雪洞がともっているらしく、それにだれかがじっとこちらの顔を見下ろしている気配なので、薄眼すらあけることができない。やがて、男たちは去ったが、依然としてだれかに監視されているという感じはつづいていた。
――ばかめ、おれをほんものの般若《はんにや》面とは気がつかぬらしいな。
と、髪を総髪にして、いかにも神妙な医者らしい顔つきをした十兵衛は、心の中でうす笑いした。もっとも、見破られたら一大事だ。
厚ぼったい閨《ねや》の上に大の字になって、眼をつぶっていると、ふつうなら自然にねむくなる。いや、この場合、十兵衛は、そのうちほんとうにいびきをかいてねむってしまったようだ。
幾刻《いくとき》たったか。――ふいに彼は、柔らかなものがじぶんのからだにかぶさるのを感じた。
おどろいてうす眼をあける。文字通りの目瞬《まばた》きであったが、じぶんの顔の上にあるのが般若面であったのには、さすがの十兵衛もきもをつぶした。
しかし、からだにふれたあたたかい肉塊は、たしかに女だ。こやつ、おれに何をしようとするのか?
そしらぬ顔で、いびきをかいていると、女は彼を目ざめさせようとする、といって、ひとことの口もきかない。彼をゆさぶり、抱きしめ、はては手でいたずらをして彼を起そうとするのであった。
十兵衛はめんくらい、それから、実に困惑した。
起きざるを得ないが、起きるわけにはいかない。彼の待っている人間が、まだそこにあらわれないからだ。それまで、この女を相手にして、とうてい間がもてない。――だから、彼は依然として眠っているふりをした。が、彼とても男性だ。このむき出しの女の挑発に対して、眠りの偽態を裏切るものがある……。
「くくっ」
女が、面の奥で、かすかなふくみ笑いをしたようであった。
勝手にしろ、と十兵衛は一部分起きただけで、いびきをかいた。
すると、女は、ついに彼のからだの上に、ピッタリと全裸のからだを伏せてしまった。事ここにいたって、十兵衛はもはや忍耐の限界に達した。彼の全身の筋肉に微妙な波がうねって、走った。
「…………」
女が、うめいた。女は十兵衛の肉体とふれたおのれの皮膚に灼《や》けつくような痛みをおぼえたのである。乳房と胸、腹と腹、密着したその部分にくぼみが生じ、穴となり、それが内部で真空となったことを彼女は知らぬ。からだの前面に凄《すさま》じい衝撃を感覚した刹那《せつな》、女は悶絶した。
「ぐう。……」
これは、何事もなかったかのような、十兵衛のいびきだ。
グッタリと、粘っこい液体みたいにうごかなくなった女を、どこで見ていたか――遠くで、かすかなざわめきが起った。そして、三、四人の足音がみだれ入ってきた。
「どうしたのだ」
「わからぬ。……」
「これ、起きろっ」
とん! と刀のこじりでたたみを打つ音がきこえたが、十兵衛は依然として眼をとじたままだ。また、ぐう――と、いびきをかいた。
「まだ、こやつ、霞網から醒《さ》めぬか?」
本来なら、通用しない狸寝入りだが、七本|槍《やり》の面々がそれを看破できなかったのは、香炉銀四郎の霞網の魔力に対する信頼が、かえってじゃまをしたのである。それに、十兵衛のやってのけたことは、たとえそばに立っていてもわからない、おどろくべきわざであった。
「こやつ、疲れておるのか」
これは、女のことである。
「それとも、昨夜、殿の責めがちと甚だしかったのかもしれぬ」
「代えてみろ」
ズルズルと女のからだがひきずりあげられ、はこび去られた。
そして、第二の女が来た。――十兵衛は、はじめて般若組にさらわれてきた男たちが、人間のぬけがらみたいになってかえされてきたわけを了解したのである。
第二の女が気絶した。
第三の女が喪神した。
十兵衛にとっては、万やむを得ない正当防衛ではあるけれど。
「――うぬは、まことの三沢玄達だな?」
ついに、鋭い声がうめいた。
「寝たふりをするな、これ、起きろっ」
同時に、顔の上で、鼓膜を銀鞭でたたくような鍔《つば》鳴りの音がした。実は漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》が鯉口三寸くつろげて、一瞬|鞘《さや》におさめた音だが、これで眼がさめなかったらどうかしている。――
「あ、あ、あ」
十兵衛は、はじめて夢からさめたような寝ぼけ声を出した。
「とぼけるな、うぬ、何としても怪しい奴――」
「あ、あ」
十兵衛はそのわめき声もきこえない風で、眼をとじ大の字になったまま、キョトキョトとくびを左右にふりうごかした。真に迫った盲人の演技である。
「お園……お園」
と、しゃがれた声で呼ぶ。
「お、お園はどこじゃ。いままでここにいたようじゃが」
鷲ノ巣廉助がほえた。
「ここは検校の屋敷ではないっ」
「えっ、ここが鳥山家ではないと? どこでござる。そうおっしゃるお方は、どなたでござる?」
「般若組だ!」
ぎょっとしたように口をあけ、だまりこんでしまった十兵衛を、なお漆戸虹七郎はうたがわしげにのぞきこんでいる。
女が三人も、この男のからだの上で悶絶したことが、さすがの彼にもわけがわからないのだ。唐紙からのぞいて見ていたが、この男はたしかに眠っていた。手足はピクリともうごかなかった。しかし、あれはどうかんがえてもただごとではない。――
いきなり指をのばして、十兵衛のとじられた瞼《まぶた》を、グイとおしあけた。瞼はくっついたままであった。
「やはり、盲か?」
と、くびをかしげた。それは十兵衛のもとからつぶれている右眼であった。
十兵衛は顔をゆがめ、恐ろしげにつぶやいた。
「ああ、それでは……いましがたまでお園と抱き合うていたのは、ありゃ夢であったか。……あ、もしっ、お園はどうしたのでございます? わたしの花嫁は?」
加藤明成が、香炉銀四郎にみちびかれて、つかつかと座敷に入ってきたのはそのときである。
「眠ったまま、女どもを絶息させると?」
と、彼はいって、ちかづいてきた。
「これ、その男、まだ眠っておるのか?」
「いや、これはもともと、どうやら盲人のようでございます」
と、漆戸虹七郎はいった。
明成は、十兵衛のそばに立った。
「花婿にしては、とうが立っておるの」
ふりかえってきく。
「名は何と申したかの」
具足丈之進《ぐそくじようのしん》がこたえた。
「これはお城医師三沢玄洞の弟玄達と申す男、花嫁が鳥山検校の娘で、あのような器量でありながら顔に痣《あざ》があり、左様なことでやや婚期おくれ、したがって花婿も、かようにいささか年のいった男となったといううわさでござる」
「それが、いかにして女を気絶させるのか?」
「わかりませぬ。故意か、偶然か。――」
明成は、かがみこむようにしてこの盲目の花婿をのぞきこんだが、もとより彼に判断のつく道理がない。ちらと眼が天井にあがったのは、二階の淫戯《いんぎ》が胸によみがえったためだ。
「不審な奴、面倒なら斬って捨てろ」
冷やかにいいすてて、身を起こそうとした。
その一刹那、明成はふいによろめいて、どうとしとねの上の男に四つン這《ば》いになっていた。足をさらわれたのだ。
もとより十兵衛は、四肢を厚い夜具にくくりつけられている。その手くびをしばられた一つの掌で、いきなり彼は明成の裾《すそ》をつかんでひいたのであった。
「あっ」
七本槍衆が棒立ちになったとき、夜具の片側が赤い津波のようにまきあがった。右の手足をしばられたまま、蒲団をはねて、十兵衛は明成もろともばさっとその中に巻きこんでしまったのである。
「こやつ、な、何たることを――」
発狂的な声をあげて、夜具にとびかかろうとする鷲ノ巣廉助を、
「手出しすると、死ぬのは殿様だぞ」
夜具の中の声が、釘《くぎ》づけにした。
「殿!」
七本槍衆は、土気色になっていた。さすが幻妖《げんよう》無比の武術を体得した彼らも、この大異変に驚倒し、手足は狼狽《ろうばい》に痙攣《けいれん》するのみだ。
「と、殿!」
爪先立ちになり、絶叫したが明成の返事はなく、蒲団の赤い筒がかすかにうごいただけであった。
「ま、こういう具合に気絶するわけだ」
やがて、きこえたのは、三沢玄達の声であった。それが、さっき明成が「――いかにして気絶させるのか?」ときいた言葉に対する答えだとは、七本槍衆には思いもよらなかった。殿はこの曲者《くせもの》に抱きこまれ、失神なされた!
「う、うぬは何者だっ」
声をしぼった刹那、七本槍衆はぎょっとしていた。はじめて、先刻からの不審の霧がさっとはれたように思ったのである。想到したのは、恐るべき事実であった。――堀の女に後盾する般若面はこやつではないか?
「鳥山検校の花婿、三沢玄達で」
蒲団の中で、陰にこもった笑い声がきこえた。
「しかし、わしの花嫁とちがって、抱き心地がよろしくないな。くさい、くさい! この男からは死びとの匂いがするぞ」
三沢玄達が、般若面の男であった!
いや、そんなはずはない。般若面の男が、三沢玄達に化けていたのだ。――七本槍衆ははじめてこのことを知ったのである。
それにしても、般若面の男は盲目であったのか。彼らには、そうとしか思われないが、まことに盲の男ならば、以前からのたびたびの死闘を思い合わせると、ふたたび頭が黒い霧につつまれたようになる。信じられないし、事実だし、事実とすれば、いっそう恐るべき敵といわなければならない。
しばし彼らは、おのれらの主君がその敵に捕われたという大事すら、脳髄からうすれかかったほどの混沌《こんとん》におそわれた。
ようやく鷲ノ巣廉助はわれにかえった。
「こ、これ――うぬの抱いておるのは、会津《あいづ》四十万石の太守であらせられるぞ。それを覚悟しておるか?」
こちらの正体をうちあけることは絶対の禁制でありながら、それも忘れて足ずりしている。
「そうとわかっておったら、おとなしくしておるが利口だろう」
こたえたのは、蒲団の中の声だ。
夜具はムクムクとうごいていた。明成が気を失っていることは事実らしいが、中で何をされているのかわからない。
実は、十兵衛は少々こまっていた。彼が待っていたのは、明成の出現であった。明成はあらわれ、みごとにとらえ、肘《ひじ》をくねらせて当身をくわせたが――四つの手くび足くびが、夜具からはなれないのだ。やわらかい蒲団にとりつけてあるだけに、その裏まで通した縄が、かんたんにはちぎれないのであった。
「主君が死ねば、その会津四十万石もたちどころに断絶。――」
風呂の中で、鼻唄《はなうた》をうたっているようにいう。
眼前にうごめいているのは、巨大な芋虫のような物体なのに、その中に主君が抱きこまれているとあっては、漆戸虹七郎の剣も、鷲ノ巣廉助のこぶしも、香炉銀四郎の網もまったく手をくだすすべがない。
歯ぎしりしていた銀四郎が、突如として天井に眼をあげ、
「おお、すると、あの女は!」
うめくと、飛鳥のように身をひるがえし、二階にかけあがっていった。
すぐに彼は、その花嫁をひったてて、階段をおりてきた。もとよりお高祖頭巾《こそずきん》はむしりとっている。
「お圭だ」
「稲葉十三郎の女房だな」
廉助たちは、愕然《がくぜん》たる声をつっ走らせた。くびから片頬にかけて、赤い痣《あざ》がついているとはいえ、もちろんそれは偽《にせ》痣であろう。そこに眼をひからせて立っているのは、会津藩中でも指おりの美女の噂のたかかったお圭にまぎれもなかった。
漆戸虹七郎の刀の柄《つか》に手がかかった。
「これ、偽玄達。――殿をはなさねば、うぬの偽花嫁、お圭を一刀両断にするが、それでもよいか?」
ムクムクとうごいていた蒲団が、ちょっと静止した。
「わしのいとしい花嫁が、そこにきたのかな」
風呂の中で、ものをいっているような声がきこえた。
「お園、お園、わしはだまされたぞ。ひとを盲と思うて、いつのまにやらおまえの代りに、馬の骨のような男を抱かされたわ」
「だまれっ、いわせておけば、こやつ、四十万石の太守にむかい、な、なんたる雑言」
虹七郎の柄にかかった手が、怒りにカタカタと鳴って、
「おとなしゅう殿をはなせばよし、さもなければ、この女のほそくびぶッぱなし、かえす刀で夜具の上から串刺《くしざ》しにするぞ!」
「斬るがよい」
と、お圭は凛然《りんぜん》とあたまをあげていった。
彼女はようやく何が起ったのかを知ったのだ。十兵衛さまは、夜具の中に明成を虜《とりこ》とされている!
「あえてこの屋敷にのりこんできたわたし、いまさらいのちを惜しがると思ってか。さあ、遠慮なくその刀をぬいて斬るがよい」
「同時に、殿様のいのちもなくなることは覚悟しておるなあ」
と、また蒲団の中の声が、笑いをふくんでいった。
会津七本|槍《やり》衆はあぶら汗をしたたらせて、肩で息をした。夜具の中の様子がまったくわからないだけに、手のくだしようがないのだ。漆戸虹七郎の手は、刀の鞘に膠着《こうちやく》したまま、ついにうごかなかった。
「斬らぬのか、虹七郎、わたしを斬らないのか?」
蒼白《そうはく》な笑みを片頬にうかべて、お圭は肩をよせてくる。虹七郎はのどの奥に異様なうめきをからませて、ワナワナとふるえ、ついに狂乱がその自制を破ろうとしたとき――具足丈之進が、「ま、待て」と必死にその隻腕をおさえた。
「待て――話がある、これ、玄達、しばらく和睦《わぼく》しよう」
「しばらく、和睦? ふふふ――そうだろう、わしとその花嫁のふたつの首と、主君と会津四十万石をひきかえにしては、勘定があわぬはずだ」
「いかにも、その通りだ。われらのいのちはどうなってもよい」
丈之進はたたみに坐《すわ》り、死物狂いに手をふって、あとの鷲ノ巣廉助、漆戸虹七郎、香炉銀四郎にも、坐れと合図した。彼らは坐った。しかし、顔色は土気色に変わり、無念の形相は争えない。
「まず、蒲団から出ろ、出てくれ」
眼では仲間とうなずきあいつつ、声は夜具の山に猫なで声で話しかける。
「そんなありさまでは、おちついて話し合えぬ。どうか、蒲団から姿をみせてくれ」
ぱっと赤い蒲団がはねのけられて、偽玄達の左半身がのぞいた。が、右半分になお明成のからだをのせ、そのうえに蒲団がかかって、明成の胸から上はよくみえぬ。どうやら、蒲団にしばりつけられたままの腕を、明成のくびにまわしているらしい。
「お園。……わしのこの手足の縄をきってくれ」
と十兵衛がいった。
「刃物がないか。なければ、そこらにウロウロしておる馬の骨どもから、左様、いま、斬るぞ、斬るぞとわめいておった狂人がおったろう。刃物はあぶない。とりあげるがいい」
「それをお貸し」
お圭が漆戸虹七郎のそばに寄ると、虹七郎は凄《すさま》じい形相でまたわめいた。
「たわけっ、敵に刀を貸す武士があるか!」
「ならば、殿様のいのちはない。――おい、みろ、殿様は気絶はしておるが、まだ息はある。手足の色をみればわかるだろう。それを、こう、のどくびに指をあてると――」
「ま、待てっ」
と、また丈之進がさけんだ。身をもんで、
「虹七郎、やむを得ぬ。刀を貸せ、殿のおいのちにはかえられぬ」
「そのとおりだ。ひとり、ひどく話のわかるやつがおるな。殺そうと思えば、先刻から殺せるものを、いまこうして生かしておるのは、殺す気がないことがわからぬか」
お圭は、漆戸虹七郎の刀の柄に手をかけて、スルスルとぬきとった。
虹七郎はふるえたが、しかし佇立《ちよりつ》したままだ。お圭は刀身を抜きとったが、その手もわなないている。いずれも、恐怖のためではない。虹七郎は無念さのためであり、お圭はこの一刀でこの剣鬼を一撃ちにしたいという衝動をおさえる努力のためであった。
お圭は刀身をもって褥《しとね》にちかより、十兵衛の左手くび、左足くびをしばった縄をきりほどいた。
「こちらも、たのむ」
十兵衛は、完全に蒲団をはねのけて、右半身をあらわした。
お圭がその右の手足をきりはなすあいだ、七本槍衆はとび出すような眼で、主君の顔をのぞきこんだ。十兵衛のからだから反転してズリおちた明成は、あごがはずれたように口をあけ、鼻から鼻汁をたらし、白眼をむいて、ぶざまきわまる失神の顔をしていた。
「殿!」
どっとはせ寄ろうとするのを、
「まだ、話というのはきかぬ」
蒲団の上にムクと身を起した十兵衛は、坐ったままうしろから明成を抱きかかえて、
「鬼畜のような主従だが、それでも家来――主人が死ぬのがそれほどこわいか。さわぐな、さわぐな、殺さぬといったら殺さぬ、みろ」
ひざを明成の背にあてて、グイと活をいれると、明成ののどのおくから鶏みたいな声がもれて、白い眼に瞳《ひとみ》がもどってきた。
「さて、これで相対に話ができる。おい、話というのは何だ?」
じろっと見まわした。――といいたいが、十兵衛、この場に及んで、なおお圭をお園と呼んでとぼけていると同様、依然として両眼をとじたまま、盲をきめこんでいる。
「話というのは――」
と、具足丈之進はいいかけて、絶句した。
話などは、何もない。心中は、ただこの不敵な男をたたッ斬りたい欲望ににえたぎるようだが、相手が自由になった右腕を明成のくびにまわしているので、どうすることもできないのだ。
「まず、そちらから話せ」
と、やっといった。明成はまだ意識がはっきりしないらしく、夢中でもがき出したが、遠慮なくくびをしめつけられて、ぐっとうめいた。丈之進は狼狽《ろうばい》した。
「と、殿に危害は加えぬと誓言したではないか」
「鎌倉の尼寺で、女どもは仕置せぬと誓言して、門を出るやなぶり殺しにするという悪鬼の所業をしたのはどやつであったか」
と、相手はきみわるいほど、しずかな声でいう。
「ふふふ、まずそれはそれとして条件によってはの」
怒りのなかに、七本槍衆はさっきからひとつの疑惑にとらえられていた。それは、この相手がどんな目的をもってこの屋敷にのりこんできたのか、よくわからないのだ。想像し得るかぎりでは、今後堀の女たちの追求をやめよ、という条件だが、それなら、あっさりやめる、と誓ってもよい。そして、むろんそんな誓いはすぐ捨てる。とにかく、いまは主君をとりかえすことが何よりの先決問題なのだ。
「条件をきくか」
「きく」
「第一に、この蔵の二階におる女たちすべてを解きはなすこと。――お園、いってこい」
「な、ならぬっ」
と、明成が身をもんでさけんだ。やっと正気にもどり、おのれのおちた事態を察したらしい。
「それがならぬなら、何もかも終りだ」
くびにかかった腕に力が入って、明成はまたぐっとうめいた。
「よい、女はときはなす」
と、丈之進が歯がみしていって、仲間に眼顔で合図した。
お圭が、勇躍して二階にかけのぼっていった。やがて、二階から十数人の女たちが、まろぶように下りてくる跫音《あしおと》がきこえた。
「これ、そこの大男、蔵の戸をあけろ」
と、十兵衛があごをしゃくる。
「そして、そこから大声で、邸内見張りの侍どもに、女たちがこれより当家を退散いたすが、手を出すことかたく無用と呼ばわるのだ。それから、そこの猿面――」
と、いって、ニヤリと笑った。いうまでもなく、大男とは鷲ノ巣廉助のことで、猿面とは具足丈之進のことだが、めくらのくせにそんなことを知っている自分のしくじりに、ふっと気がついたのだ。
「犬がまだ一匹おるな。それをこの蔵の中へ呼びいれ、鎖でつないではなすな。早くしろ、おれのいうことに従わぬと、この馬の骨大名は――」
また、明成の眼が白くなる。
鷲ノ巣廉助と具足丈之進はとびあがって、歯をカチカチと鳴らしながら、蔵の戸口の方へ走っていった。相手の盲人が、じぶんたちの外貌《がいぼう》まで知っていることを不審に思う余裕はなかったらしい。
女たちをのがしても、庭や門に見張りの侍たちがいる。猛犬の天丸がみのがしはせぬ、ひそかにそう考えていたのに、まったくぬけめのない敵であった。
「やれ!」
叱咤《しつた》されて、廉助は、十兵衛に命じられた通り呼ばわった。庭のあちこちで、騒然たる人の気配がながれた。
つづいて具足丈之進が、猛犬天丸を呼び入れる。天丸はひくくうなったが、丈之進に叱《しか》られて、鎖につながれた。
蔵の戸口で、お圭はこれを監視していた。
「さあ、みんな、おゆきなさい。門までひとかたまりになって、門を出たら、思い思いに四方に散るのですよ」
そういわれて、十数人の女たちは、いっせいに蔵からのがれ出した。
これを見すませて、お圭は十兵衛のそばにかえってきた。
「すみました」
お圭にいわれて、十兵衛はうなずいて立ちあがった。いつのまにか、さっきお圭から受けとった漆戸虹七郎の一刀を、ピタリと加藤明成の背につきつけている。
「こんどは、おまえの番だ」
「何をする」
「あるけ」
「ど、どこへ」
「竹橋御門へ」
「な、何?」
「千姫さま御乱行との噂がたかい。その御相手が酒屋や具足屋ずれの花婿とあっては、あまりに千姫さまがお気のどく。せめて四十万石の大名なら、少しは釣り合うというものだ。会津四十万石の太守が、千姫さまの御門前に腰がぬけて坐《すわ》っていたら、もっと評判はたかくなるぞ。その方が、うぬらの望みにかなうだろうが」
眼をとじたまま、ニヤリと笑う。――これこそは、十兵衛のそもそもの狙いであった。案じぬいたすえ、思いついたことだ。彼らをこりさせて般若《はんにや》組の悪業をやめさせ、そして明成に死にまさる生き恥かかせるには、これ以外の法はない。――
「それが、この馬の骨大名のいのちを助けるもうひとつの条件。きくか?」
「ば、ばかな!」
「きかねば、この場で、そのそッくびをぶッ飛ばす」
すっと、手の一刀が肩にあがるのをみて、丈之進がさけんだ。
「待て。と、殿、しばらく、しばらくの御辛抱。――おいのちにはかえられませぬ。こ、こやつのいうとおりになされ。こちら、こちらへ――」
必死の眼色に、明成が歯をかみしめて、ヨロヨロとあるき出した。
三歩はなれて、お圭をそばにひきつけた十兵衛が、一刀をふりかぶったまま、褥の横へふみ出した。――そのとき、
「一眼房!」
と香炉銀四郎が絶叫した。同時に、十兵衛とお圭のふんでいたたたみが、一瞬に垂直になった。
「あっ――」
さすがの十兵衛が、ただ一声をのこしたばかり、片手に一刀、片手にお圭をひっかかえたまま、忽然《こつぜん》と座敷から姿をかき消していた。
クルリと一枚ひっくりかえったたたみの裏側から、それと合わせた厚い一枚板の鐶《かん》をにぎった一つ目の大入道があらわれた。司馬一眼房である。
「やった!」
手を舞わせ、足を舞わせて、四人の七本|槍《やり》衆がかけあつまる。
「そのたたみに、乗ってくれるか、乗ってくれぬか、手に汗をにぎって待っておったのだ。一眼房、ようやった!」
息をはずませて銀四郎がいえば、
「すべては下できいておった。腹の中は煮えかえるようで、合図があるのを、いまかいまかと待ちくたびれていたのだ」
歯をむき出して一眼房はいい、座敷へ舞いあがってすっくと立った。立つやいなや、
「何をボヤボヤしておる。女どもを追え」
と、一同に叱咤した。
「こちらは水におちた鼠だ。それより、いま逃げた女ども、加藤家より出て世間に知られては一大事、まだ遠くへゆくまい。一人たりとも逃がすな」
「ああ、そうだ」
と、七本槍衆はおどりあがって、いっせいにかけ出した。その背に、
「天丸を使え。馬もつかえ」
と、命じてから、ひざをついて明成を見あげた。
「殿、とんだ目にあわれましたな。下より様子をうかがっておって、心ははやれど、何せ殿がきゃつに抱きこまれておいであそばすゆえ、何とも手を出しかねて歯ぎしりしておりました。御無事で何よりでござった。さて、にくむべききゃつ、もはやまないたの上の魚でござる。どうなと、お気のすむようになされませ」
明成はヘナヘナと腰をついていたが、肩で息をして、
「きゃつ……何者であろうか」
眼に恐怖の色がある。よほど胆《きも》にこたえたらしい。
「もとより堀の女どもに助勢いたす例の般若面の男に相違ござりませぬが、正体は何者か、盲人にしてあれほどの使い手は、拙者、世にきいたこともござらぬ。いや、まことに盲であるか、どうか、その名とともに、拙者もたしかめとうござる」
一眼房は、一眼で明成をうながし、壁ぎわの雪洞《ぼんぼり》をとった。
明成はたちあがった。眼のひかりは恐怖から殺気に変っている。
垂直になったたたみは、パックリと四角な穴をあけていて、そこから下は闇黒であった。しかし、顔をならべてのぞきこむと、穴の底から、冷たい、吐きけをもよおすようななまぐさい臭いが、どうっと吹きあげてきた。
――これは死の穴であった。
それをまざまざと知ったのは、冷たい泥しぶきをあげて落ちた瞬間ではない。不覚! と思いながら、闇黒の中をおちていった十兵衛は、おのれのからだが何物かにふれた刹那《せつな》、片手に抱えていたお圭を宙にささえていた。彼女に対する打撃をふせぐためだ。
しかし、落ちたのは大地ではなかった。水であった。最初そう思った。
水であったのが幸せであった。しかも、もがいて、立ちあがると、それは腰のあたりまでしかなかった。
「お園、大丈夫か」
この期にいたって、十兵衛はまだお圭を変名のまま呼んでいる。
「大丈夫でございます」
そういったが、彼女は両腕をしっかりと十兵衛のくびにまわしたままだ。眼をつむり、必死に抱きついていた腕の筋肉は、はなそうと思っても、しばらくは容易にほぐれないのであった。
「やられたなあ!」
思わず、正直に嘆声をもらした。
「この蔵には、前にいちど探索に入ったことがあるが、床の下にかようなものが作ってあるとは知らなんだ!」
彼はあごをあげて、ふりあおいだ。いまおちた穴は、二丈もの高さに、四角な灯の色をみせていたが、ふたりの周囲は模糊《もこ》として暗い。
「十兵衛さま」
このとき、ようやく十兵衛から腕をはなしたお圭が、ふいにまた十兵衛の腕をつかんだ。
「これは、水でございましょうか」
「水。――」
はじめて、気がついた。ふたりをヒタヒタと埋めているのは、いたるところ粘塊をまじえた泥のようなものであった。
「水ではないな。――泥か? それにしても、くさい、妙な匂いがする。――」
息もつまり、吐気をもよおすようななまぐさい匂いがたちこめている。これはいったい何であろうか?
「般若面」
高い頭上から、声がふってきた。
「死んだか。生きておるか?」
天井の四角な穴に、ふたつの顔がのぞいていた。
「生きておっても、もはや死びとと同然、見ろ、そこは地獄じゃ」
その穴から、スルスルと灯をともしたままの雪洞がおりてきた。紐《ひも》のさきに吊《つ》り下げられた雪洞は、高くフラフラとゆれながら、もうろうと下界を照らし出した。
「……あっ」
われしらず、たまぎるような悲鳴をもらしたのはお圭だ。
同時に、十兵衛が手にふれたものをひっつかんで雪洞めがけてやにわに投げあげ、バサ! という音とともに灯は消えた。闇黒の中に、火の粉が花火のごとく舞いおちてくる。
しかし十兵衛は、これが文字通り死の穴であることを、ようやく知ったのである。
――かつて、明成を裏切って、この蔵から脱走をはかった女のひとりが、この穴をのぞきこんである光景をながめ、恐怖の極限ともいうべきさけびをもらしたことがある。
いま、中天の雪洞がひと息もえるあいだに、十兵衛とお圭はそれを見た。
高さは三丈あまり、四面の壁は石でたたまれて青黒くヌルヌルとひかり、ひろさは五間四方もあろうか。その底に――ふたりの腰まで埋めているのは、腐爛《ふらん》した屍体《したい》の堆積《たいせき》なのであった。四方の壁からしたたり落ちる地下水がたまり、それに腐肉の膿汁《のうじゆう》がとけあって、最初彼らに泥水かと思わせたのは、実にそれなのだ。
さっき、とっさに十兵衛が投げつけたものも、いま思えば骨の一片であったような気がする。――
無数といっていい屍体の正体はだれなのか?
一瞬の炎のゆらめきのあいだに、十兵衛は、虚空をつかんだ青黒い手、いまにもはじけそうにまんまんとふくれあがった水母《くらげ》のような腹にまじって、海藻のごとくただよう黒髪と、ぞっとするほど鮮やかに色をとどめた女|衣裳《いしよう》の断片を見た。
女だ。屍体は女だ。……
「花地獄に、散った花だなあ」
からくも、気性に似合わぬ詩的な言葉を吐いたのが、十兵衛のせめてものあがきであった。さすがの十兵衛が歯をくいしばっても、ひたいに恐怖のあぶら汗がにじみ出すのを禁じ得ない。それは、明成と七本槍衆の淫楽《いんらく》のいけにえとなった女たちのなれの果てに相違なかった。
「それに……」
お圭はすでに精神の平衡を失ったような声をもらした。
「ひょっとしたら、わたしたちの父や夫が」
充分それはあり得る。明成が殺戮《さつりく》した無数の人間の始末はどうしているのだろうと、いままでひとごとならず考えたことがあったが、こういうものを作っていたのだ。
それにしても、この大がかりで堅牢《けんろう》な「屍体置場」を作っていたことといい、その墳墓の上に住んで、平然と痴戯にふけっていたことといい。――
「き、鬼畜だなあ!」
魂の底から、しぼり出すような憤怒のうめきであった。
「あははははは!」
闇黒の天から、ひッ裂くような笑い声がふってきて、石壁と腐水に反響した。
「いまに、うぬらもそこに漂うておるものと同じになる。ようも、余に対して無礼のかぎりをつくしおったな」
「あまっさえ、平賀孫兵衛、大道寺鉄斎を討ち果たし、にくんでもあまりある奴。……どうしてくれようか」
憎悪と歓喜に歯ぎしりをまじえた恐ろしい声であった。
「槍でついてやろうか」
「大石でつぶしてやろうか」
「それとも、あぶらをそそぎ、松明《たいまつ》をなげこんでやろうか」
おどしではない。彼らは穴におちたふたりの囚人を、もはや断じて生かして外には出さぬつもりだから、これはその料理の法について、あれこれと愉《たの》しみぬいている声であった。
「しかし、殿、われら七本槍のめんめんをかくも悩ましたとは、敵ながらあっぱれな奴、殺してはもったいないようにも存ずる」
「た、たわけっ、きゃつを、生かしておくなど――」
「あいや、殿、しばらく」
穴の上で、ヒソヒソと何やらささやく声がした。
やがて、司馬一眼房が猫なで声でいう。
「これ、盲。――おまえだけは、事と次第ではゆるしてやってもよいぞ。おまえほどの奴を、むざと殺すには惜しいと思う。どうじゃ、われらの仲間に入らぬか? 音にきこえた会津七本槍衆の一人に加えてやってもよいというのだ。光栄に思え」
「…………」
「ただ、それには条件が二つある」
「一つは、他の堀の女たちはどこにおるか。そのいどころを申せ」
「…………」
「もうひとつは、おまえの素姓を白状すること。これ、名は何という」
猫なで声をしているが、渇《かつ》えるようなのどのひびきが、いかにこの二つのことを知りたい欲望にもえているか、彼の本心をあらわしている。――
「それを申せば、おまえの命だけは助けてやる。きかなければ……」
先刻の十兵衛対七本|槍《やり》衆の問答と、ちょうど逆であった。
「死だ。……いかなおまえでも、もはや絶対にこの穴から逃れることはできぬ。それは、わかるだろう」
くくっと、闇の底で、異様な声がもれた。穴の上で、ふたりは顔をつき出し、耳をそばだてた。
はじめ、屍臭にむせたか、それとも発狂でもしたかと思った。その声がしだいに高くなり、ついに爆発するような笑い声になったときいた瞬間、明成の顔に、かっと音して何かがあたった。
一瞬、座敷の灯に、それが腐肉をまみれつかせたしゃりこうべであることを知って、司馬一眼房が「きゃつ」と絶叫して立ちあがり、あやうく穴におちかけた明成のからだをささえた。
「もはや、ゆるさぬ!」
顔を覆って尻《しり》もちをついた明成は、発狂したようにおどりあがった。そのまま、バタバタと唐紙をあけて走り出る。
――さらってきた花婿を化かすために、やや改装したとはいえ、そこの壁際には、依然として、刀や槍やくさり鎌などの武器|兼拷問《けんごうもん》具がならんでいた。
明成はそこの弓と矢の束をひッつかんだ。
蔵の戸口は、そのとき怒声と悲鳴に騒然としていた。いちど逃げ出した女たちが、続々とつかまってくるのだ。座敷から遠く、馬の蹄《ひづめ》にまじって、凱歌《がいか》をあげるような天丸のほえ声がしていた。
「それっ……よいしょっ……おうりゃっ」
つきとばされ、けとばされ、ひきずりこまれてくる女をつかんでは、入口に立っている鷲ノ巣廉助が階段の下にほうりなげる。
花たばをたたきつけたようにそこここに崩れ、もがき、はいまわる女たちの中には、追いすがる鞭《むち》でうたれたか、天丸にかまれたか、手足を血まみれにしている者もあった。
「殿の御恩を忘れ、逃げ去ろうなどふとどきな女めら」
歯をむき出して廉助がほえる。
「何をぐずぐずしておる。二階へもどれ、もとの巣へかえれっ」
ちらっと、その光景をみて、明成は弓と矢をつかんだまま、もとの座敷へかけもどっていった。
司馬一眼房は新しい雪洞《ぼんぼり》にまた紐をつけて、穴から垂らしていた。
「これ、もういちど何か投げてみろ、そうれ」
言葉も終らぬうちに、その燈を消そうとして下から何か投げあげられたとみえて、紐をヒョイとたぐってそれを避け、ゲラゲラと笑う。
「殿、どうやら西の壁際に立っておるようでござる。あれあれ、あそこに――」
一眼房のこぶしがうごくと、紐とともに雪洞は大きく南北にゆれ出し、さらに輪をえがきはじめて、暗々たる腐水の墓場に燈の斑《ふ》がめぐる。
「おお、よし、わかった!」
弦《つる》をひきしぼった明成はぴゅっと矢をきってはなした。はるか下で、かすかな水音がきこえた。
「殿、あたりましたか、それは惜しい――」
「いや、逃げた。一眼房、惜しいとは?」
「フフフ、ひと思いに仕止めるのはもったいないではありませぬか。文字通り、袋の中のねずみ、もはや金輪際外へ逃げることのできぬきゃつらです」
明成は下をのぞきこみ、唇を片頬につりあげてささやいた。
「それも、そうだの。ふむ、あたらねばあたらぬでよい。しかし、死ねばもとよりそれでもよい。しばらくなぐさみものにしてやろう」
うなずくと、また矢をひきつがえては切ってはなす。弦音は断続した。明成はゲラゲラと笑った。
「あはははは、いや、もがくわ、もがくわ。どうじゃ、どぶ鼠二匹これで思い知ったか!」
矢は水しぶきをあげ、石壁に鳴り、腐爛した屍体にめりこんだ。
壁際に立って、うしろにお圭をかばいながら、片手に一刀をふるって飛び来る矢を斬りはらう十兵衛は、さすがに惨憺《さんたん》たる姿であった。
吊《つ》るされた雪洞の明りは、あざ笑うように旋回しているが、屍《しかばね》からたちのぼる瘴気《しようき》のためか、ふたりの立っているあたりはもうろうと暗い。
びゅっ!
死の霧を裂く矢を、ぱっと十兵衛はまた斬っておとした。その矢もみえないほどの暗さに、依然として両眼とじためくら斬りだ。
「盲では、ちと骨が折れるわ」
と、お圭にささやいた。
「おれが盲かどうか、あの大入道がうかがっておるのでな。明成はともかく、きゃつはゆだんがならぬ。これでも片眼はあいておると知られたら、おれの正体がわかる。おれの正体がわかると、あとあと少々都合がわるい」
「十兵衛さま、あなたは、まだ生きてここをお出になる御所存ですか」
「さればさ」
十兵衛の一刀から、矢がふたつに斬れておちた。
「いかぬかもしれぬなあ」
しみ入るような声であったが、横顔は微笑をうかべている。
「すこし、きゃつらを見くびって、遊びがすぎたようだ。そなたにも相すまぬ始末となった」
「いいえ、十兵衛さまこそ、わたしたちのために――」
いいかけて、お圭は戦慄《せんりつ》した。じぶんのためにふるえたのではない。剣侠《けんきよう》柳生十兵衛さまをこのようなひとしれぬ無残の地獄でついに失うとあっては、わたしたち七人の女は、何を以《もつ》て酬《むく》いるべきか、酬いようにも、いまは時すでにおそい。
「わ、わたしは、ここで死んでも本望でございますけれど」
それはいつわらぬお圭の声であった。十兵衛さまといっしょに死ねる! 魂をどよもすような歓喜を、いまはお圭はかくそうともしない。
「十兵衛さま、刀をお捨てなされまし。そして、わたしを――」
抱いて――と、さすがに声をのんで、ひしととりすがるお圭を十兵衛はふりはらって、なお必死の刃《やいば》をふるう。矢がはねとんだ。
「いや、まだ望みはあるぞ」
「どうして? ここから、どうして?」
「蔵から逃がした女たちが、奉行所へ訴えてくれることだ。ただ――」
頬ににがい笑いが痙攣《けいれん》した。
「加藤家にはしばらくお手出し無用と、千姫さまを通じて公儀に申しこんであったことが、こうとなってはたたるかもしれぬな」
「間にあいませぬ、十兵衛さま」
「それに公儀の手で、このさまで救い出されるのもちとしゃくだな」
「死にましょう、十兵衛さま、かたきはお千絵さまたちが、きっと討って下さいます」
相ついで二条の矢が、ふたりをかすめて石壁にくだけ、闇の空にきちがいじみた哄笑《こうしよう》が反響した。
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うすい月のひかりのながれる道を、一団となってまろぶように走っていた三、四人の女は、追いすがってくる鉄蹄《てつてい》のひびきが、十間もの背後にせまると、魔風に吹きまくられたようにつんのめってしまった。
ちがう路地へかけこんだ二、三人の女は、前方にノソリと立つ片腕の武士の影に、悲鳴をあげてヘタヘタとすわりこむ。ちかよるまでもなく、それを剣鬼|漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》と知ったからだ。
また別の道を、死物狂いでにげ走って、うしろから数本の六尺棒がとんできて足をからめられ、二人ばかりつかまったのを知ると、残りの五、六人は、もう死んだ方がましだと覚悟して、ゆくての岸壁にしぶきをあげる芝《しば》の海にとびこんだ。
「待てっ」
飛んできた大振袖《おおふりそで》の影から、水際でぱっと黒い霞《かすみ》のようなものがひらいた。
「死にたくば、花地獄で死ね」
風にもたえぬ美少年とみえて、なんたる剛力、いや、それも霞網の手さばきであろうが、香炉《こうろ》銀四郎は、海にとびこんだ女すべてをひと網に、しぶきとともに魚みたいにさらいあげた。
ここにひとり、あそこにひとり――塀や橋や石置場のかげに、ふるえながらひそんでいた女たちは、遠くびょうびょうとほえる声が、疾風のごとくかけてきたと思うと、その袖や裾《すそ》を、ぐわっと猛犬天丸の牙《きば》にくわえられてしまった。
彼女たちは、あるいは馬にひきずりあげられ、あるいは手とり足とりかつがれて、またたくまに加藤屋敷につれもどされた。
「十二人……十三人……それっ、十四人」
土蔵の入口でそれを受けとって、中へなげこみながら勘定していた鷲《わし》ノ巣廉助《すれんすけ》は、
「女は十七人おったはず。まだ三人足りぬ。……のがしては、ことだぞ」
と、わめいたが、蔵の外に天丸をつれてかえってきた具足丈之進《ぐそくじようのしん》の姿をみると、眼をいからして、「これ、まだ三人足りぬぞ。天丸をもどしてはこまるのではないか!」
と、どなりつけた。丈之進はにらみかえして、
「女どもはすでにとらえたはずだ。天丸の尾のふりようでわかる」
「いや、たしかに十四人しかおらぬ、おれは勘定していたのだから、まちがいはない」
「それはおかしい。……あと、三人か?」
丈之進はくびをかしげた。
そこに漆戸虹七郎と、香炉銀四郎がかえってきた。話をきいて銀四郎が「待て待て」といって、階段の下へあるいていった。
「女三人、ここにおるではないか――」
鷲ノ巣廉助たちはかけつけて、「なるほど!」とうなった。
階段のうしろの長持のかげには、般若《はんにや》面をつけた三人の女が、折重なるようにしてたおれていたのである。灯影もとどかない闇の中にも、クッキリと浮かびあがった裸身であった。
「こいつら、忘れておったわ!」
最初、あの「盲の花婿」にかかって、悶絶《もんぜつ》させられた三人の女たちなのである。
淫《みだ》らな苦役に失敗した彼女たちは、吹きよせられた落花のようにそこに投げ出されて、蔵をめぐる変転にも気づかず、まだ失神したままなのであった。
「これ、起きろ」
そのひとりの白い脾腹《ひばら》を、香炉銀四郎はとんと蹴《け》ったが、うめき声すらたてず、グッタリと仰むけに横たわったままだ。
しばらく、じっとそれを見下ろしている四人の七本|槍《やり》衆の眼に、ふっと濁ったひかりが、あぶらのように浮かびあがる。
「えい、こやつら、捨ておけ。……殿に」
と、すぐに具足丈之進がわれにかえった。
「殿に御報告せねばなるまい。女たちはすべてとらえたと」
「殿と申せば、先刻弓矢をとりにおいでなされたが、穴の中の曲者《くせもの》を、もう誅戮《ちゆうりく》なされたかしらぬ」
と、鷲ノ巣廉助がいった。
「では、二階の女ども、つないでおこう。しばらく待て」
と、虹七郎と銀四郎が二階にかけのぼってゆくと、丈之進は入口に立って暗い広い庭に呼びかけた。
「一同御苦労。警備は平常の通りでよい。内より逃げる奴はもはやないが、ひょっとすると……外を怪しき奴がうろつくかもしれぬ。さような影がみえたときは、かまえてのがすな。ひッとらえるか、注進しろ」
といったのは、あの花婿花嫁の素姓がこうと判明した上は、当然、堀の女たちが安否を気づかって様子をうかがいに徘徊《はいかい》する可能性があると判断したからで、さすがにゆきとどいた処置だ。
「天丸は、ここでしかと番をしておれよ」
戸口の外にうずくまる巨大な犬にそういうと、丈之進は腕をのばして蔵の土戸をどんとしめた。
――助かる望みはある。それはのがれ出した女たちのだれかが、事の次第を町奉行所へとどけてくれることだ、と柳生《やぎゆう》十兵衛はいったが、しかしその女たちはすべてとらえられ、これで完全に望みは断たれたわけであった。
二階から、虹七郎と銀四郎がおりてきた。
「では、参ろう」
五人は、ゾロゾロと座敷の中へ入っていった。
秋の夜というのに、加藤明成は片肌ぬぎになって、弓の弦をひきしぼっては放し、放してはひきしぼっている。満面汗まみれになり、大息ついて、彼らが入っていったのにも気がつかない。まるで狂いまわっているような乱射の姿であった。
「女ども十七人、ひとりものがさずとらえました」
と、報告してから、鷲ノ巣廉助がいった。
「きゃつ……仕止められましたか」
司馬一眼房《しばいちがんぼう》が片眼でニヤリと笑った。
「まだ生きておるわ、なに、殿にはわざと遊んでござるのだ。のぞいてみい、罠《わな》にかかった鼠二匹、息絶え絶えに逃げまわって、いや、面白いながめだぞ」
一眼房が、紐《ひも》で吊《つ》るした雪洞《ぼんぼり》をさげ、大きくまわした。
びゅるんっ――明成の弓弦《ゆづる》が鳴った。下で、キラッと細い雨に似た光が一閃《いつせん》すると、矢がふたつに斬れて左右におちるのがみえた。
「なるほど」
穴から顔をつき出した銀四郎がうめいた。
「きゃつ……あれで、盲なのか?」
「とはみえぬ手並だが、眼を凝《こ》らしても、まこと、盲のようだ」
と、一眼房がいった。
いま、旋回した灯影に、下界のふたりのまわりは、まるで枯芦《かれあし》の沼のようだった。無数の矢が、無数の屍体《したい》につき刺さり、折れ、二つになって散っているのだ。――未熟――と、あやうく四人は、主人の手並みに舌打ちするところであった。
「どうせ逃げられぬ両人じゃ。ひと思いに息の根をとめるのはもったいないと、殿は愉《たの》しんでおわす」
苦笑をかんでとりつくろう一眼房の声も聞えぬげに、漆戸虹七郎はウットリとつぶやいた。
「敵ながら、さるものだな。にくい奴だが、いかにもこのまま討ち果たすには惜しい。いちど、おなじ空の下、同じ地の上で刃《やいば》をまじえたいもの……」
「さればよ、だからおれも先刻、本名を名乗れ、名乗らば命は助けぬでもないと申してやったが。――上へあがれば、虹七郎、おぬしに斬れるか?」
「尋常に立ち合って、おれが勝つか、向うが勝つか、おれにもわからん」
虹七郎は穴をのぞきこんでうめいたが、穴よりももっと深い地獄を凝視しているようなまなざしであった。――かつて十兵衛が、この虹七郎の剣技を口にして、おなじまなざしをし、おなじせりふを吐いたが、もとよりそれは他の七本槍衆の知るところではない。
「しかし、おれが斬られても面白いではないか?」
「いかにも、両人の勝負、面白かろう。是非見たい」
と、香炉銀四郎がうす笑いしてつぶやいた。
「ならぬっ」
明成はひたいに青筋たてて絶叫した。
「きゃつを上にあげるなど、途方もないこと。あげれば、何をいたすかわからぬ。あれに、あれに置いたまま成敗いたせ!」
よほど、こりて、恐怖のとりことなっているらしい。鷲ノ巣廉助が誇りを傷つけられたような表情で明成の顔をみた。
「殿。剣を以って尋常に立ち合って、なかなか人におくれをとる虹七郎ではありませぬ。それに、われらもおります」
「尋常に立ち合う、立ち合わぬは別として」
と、銀四郎がくびをかしげた。
「このまま討ち果たせば、名も知れぬ。堀の女たちのゆくえもしれぬ」
ふいに、はたとひざをたたいた。
「そうだ、面白いことがある」
「なんだ」
「一眼房、おぬしの皮鞭《かわむち》を垂らせ。それをつたわって上ってくるきゃつを、殿がお好きなように弓の的《まと》になさる。それでも命まぬがれて上ってきたら、虹七郎と勝負させてはいかが」
「ただひとすじの皮鞭をよじのぼってくる敵、刀を持つこともかなわぬ一方、おそらく女をつれておりましょう。殿、これなら、おん矢の的になりましょうが」
相当な侮辱の言葉だが、何といっても若衆の銀四郎、おのれの無礼さを自覚しないらしい。いや、面と向って平気で痛烈なことをケロリといってのける彼のことだから、わざと主君を皮肉ったのかもしれない。
それにも気付かぬ明成は、眼を光らせて、
「何、皮鞭をよじのぼって来る、きゃつ――それなら、あたる、あたる!」
と、叫んだのは笑止だ。
「気の毒だが、虹七郎、お前の剣は無用じゃ。お前の手は借りぬ、みごと、余が射落してみせる!」
「銀四郎、しかしそうこちらの望み通り、きゃつらがおれの皮鞭をのぼってくるか。のぼって来ても、命があろうとは思われぬ鞭の綱を」
と一眼房がいった。
「どうしても、のぼってくるようにしむけるのだ」
「いかがして」
「ここから油をそそぎ落として、火を投げる」
「その知恵か。それは俺もさっきちらと考えたが、火で追いあげようとまでは思いつかなんだ。それより、大事にはならぬかの」
「火事になる程油は要るまい、火のまわりは二丈の石壁だ。そのおそれはあるまい。が、うわべが炎となるだけで、鞭の綱が下っておれば、きゃつら、たまりかねて逃げ登って来るは必定」
「――では やるか?」
明成と、五人の七本槍衆は穴の口から六つの顔を上げた。
「待て待て、おれがいま二階から油壷《あぶらつぼ》を取って来るわ」
身を起し、たたと走ろうとした香炉銀四郎が、突然異様な声をあげて棒立ちになった。その声に、はっとして振り向いたあとの面々が、愕然《がくぜん》と立ち上ろうとした時、
「動くな、明成!」
裂帛《れつぱく》の叫びが流れて、彼らを釘《くぎ》づけにしてしまった。
銀四郎の行く手に矢をつがえた弓を満月の如く引きしぼっている者がある。般若の面をつけた他は雪白の裸身を輝やかせた女であった。
「騒いでみよ、この矢が飛ぶぞ」
右でおなじく若々しい女の声が聞こえて、そこにも弓を引きしぼった般若面の裸像が立っていた。
「会津《あいづ》で手ほどきを受けた弓矢のわざは、子供だましでなかったことを知る気があるか?」
左にも、弓の女神のような姿が立つ。
三本の矢は、凄《すさま》じい矢尻《やじり》を光らせて、三方から、ピタと明成の胸に向けられているのであった。
六人の加藤主従は、麻痺《まひ》したようであった。
地底におとした敵に気をとられ、かつは油断して、穴に顔をつっこんでいたのは不覚といえば不覚だが、これはあまりに意外なことで、しばらくは判断を絶した。
「ど、どうしたことじゃ、……」
かすかに、明成の唇がうごいた。
「これはいったい、何のまねだ?」
表情が、驚愕から怒りに変っている。この三人の女は、「般若組」を組んでからさらってきた女たちではなかった。もとからいた彼の愛妾《あいしよう》のなかの三人で、叛逆《はんぎやく》の意志をもつどころか、彼の意志を体し、例の淫《みだ》らな苦役に、むしろ酔うようなよろこびをおぼえているかにみえた女どもなのだ。
「気、気でも狂いおったか?」
しかし、七本|槍《やり》衆は、いま三人目の女のつぶやいた言葉をききとがめていた。「――会津で手ほどきを受けた弓矢のわざ――」あいつは、こういった!
張り裂けるような眼で、弓をひいた全裸の三人の女をみる。顔は鬼女の面に覆われているけれど、ちがう。ちがう! 白い泥をこねたようにくずれた線をもつ愛妾とはちがう。月輪のごとく凛《りん》とひきしまった女の裸形だ。
「うぬらは、だれだ?」
漆戸虹七郎の声がかすれた。
いちばん右の女が、弓と矢をにぎった腕を、しずかにおろした。が、ほかのふたりが、ピタリと明成に矢をむけているので、彼らは毛ほどの身うごきもできない。
その女が、片手をはなし、般若《はんにや》の面を頭上におしあげた。
「――お沙和《さわ》!」
あらわれたのは、堀|主水《もんど》の弟|多賀井《たかい》又八郎の妻、お沙和の顔であった。
面はそのまま、ふたたび弓と矢をかまえるお沙和につづいて、こんどはまんなかの女が面をとる。
「――さくらだな!」
やはり、主水の弟|真鍋《まなべ》小兵衛の娘さくらの顔であった。彼女が弓をひきしぼるとともに、いちばん左の三人目の女が面をぬぐ。
「――お笛!」
主水の娘お千絵《ちえ》の婢《はしため》、お笛の紅潮した顔に眼がひかって、彼女は香炉銀四郎をにらみつけた。
「さっき、わたしの腰を蹴《け》ったのはおまえだな。声でわかった。がまんをするので死ぬほどであったが、いまそのくやしさをはらしてやるぞ」
彼女の矢だけが、すっと銀四郎の胸板にむけられた。
逆に、仮面をかぶったようになったのは、会津七本槍衆の方であった。――三人の愛妾は、堀の女たちであったのか?
そんなはずはない。二階から面をつけておりてくるときは、まちがいなく愛妾であった。彼女たちはやがて気を失ってひきずり出され、階段の下へほうり出されたままであった。それから騒動がおこって、残り十四人の女はいちど外へ逃げ出したが即刻とらえられ、あとは丈之進が蔵の土戸をしめた。そのあいだ鷲ノ巣廉助が入口に立っていたから、外から入れるわけはない。そしてそれ以後、土戸の外には、犬の天丸が番をしているのだ。
金輪際、あるべきはずがない!
にもかかわらず、いま三方から矢をむけているのは、殺気と凱歌《がいか》に肌のいろを花のごとく燃やした堀一族の女たちであった。
――そもそも彼女たちは、どうしてこの蔵に入りこんだのか。
柳生十兵衛の籤《くじ》にお圭《けい》があたり、彼女が十兵衛の偽花嫁としてふたりして加藤家に乗りこむ。――この奇想に、いかに十兵衛を信じるとはいえ、残りの六人の女が不安にとらえられたのは当然だ。ひょっとしたら、いちばん安心していたのは死地に乗りこむ当のお圭で、そのお圭にしても籤からもれたら、おなじような、いてもたってもいられない心境におちいったかもしれない。
それだから、六人の女たちは、湯島の鳥山|検校《けんぎよう》の屋敷からさらわれてくる十兵衛とお圭のあとをつけていた。いや、ふたりがさらわれるとすれば、その祝言の夜にきまっているのだから、正確にいえば、先まわりして、この芝の加藤家の屋敷の周囲を見張っていたのである。
果たせるかな、深夜にいたって、一団の黒装束にかこまれて二|梃《ちよう》の駕篭《かご》がかつぎこまれるのを見た。九分九厘まで十兵衛とお圭に相違ないと思ったが、彼女たちは歯をくいしばって見送った。それをとめれば、こんどの十兵衛の企図がはじめからむだになるのだから、しかたがない。彼女たちが、そんなところで見張っていようとは、七本槍衆はもとより、十兵衛すらも知らないことであった。
で、六人の女は、待っていた。十兵衛の企図通りにゆけば起るべきあることを待っていた。しかし、そのことが今夜起るか、何日のちに起るかは、十兵衛すらも運を天にまかしているのだから、彼女たちにわかろう道理がない。
六人の女を、秋の深夜にじっと待たせていたのは、ただ十兵衛たちを気づかう心のみであった。
数刻ののち、加藤家の裏門から、十数人の女が逃げ出してきた。出来れば、とらえられている女たちをぜんぶ助け出してやろう、という十兵衛の話はきいていたから、やった! と思った。
ところが、その女たちがまだほど遠くも逃げないうちに、いっせいに馬と犬すらまじえて吹き出した追撃と捜索の嵐だ。屋敷の中で何が起ったのか?
数町もはなれたところで、一組となっていたお沙和とさくらとお笛は、逃げてきた三人の女をつかまえた。三人の女は、今夜新しく来た女のひとに助けられたというだけで、中の様子はよくわからなかった。女たちは動顛《どうてん》していた。すでに鉄蹄《てつてい》は遠く近くみだれている。――
「……入りましょう」
突然、胸にうかんだ決心である。言葉よりも、見かわしたおたがいの眼が、なんのためらいもなく、その意志をつげた。
彼女たちは、三人の女ときものをとりかえ、また大通りを走ってきた二人の女にまじって、追いすがってくる騎馬の前に身をさらした。――
ふしまろんだからだの上を鉄蹄がとぶ。耳たぶを鞭《むち》の風がかすめる。
お沙和とさくらとお笛は、失神したふりをして、加藤屋敷にかつぎもどされた。きものは逃げた女たちのものである上に、わざと顔もかくれるほどの黒髪をみだれさせていたから、受けとった鷲ノ巣廉助も、この女が別人だとは気がつかなかった。
階段の下になげだされた女たちは、打身にうめいたり、もがいたり、気が遠くなったりしたものがあった。すぐに廉助の怒声に、二階に追いあげられたけれど。
十兵衛さまはどこ?
その必死の眼が、お沙和とさくらとお笛に、階段のかげに横たわっている般若面のはだかの三人の女を見つけ出させたのである。二階に何が待っているかはわからないが、灯があるところへゆけば、朝を待たずしてじぶんたちの正体があきらかとなることはいうまでもない。
「…………」
また眼と眼が、瞬刻の合図をした。そこに長持があった。彼女たちはきものをぬぎ捨て、気を失っている三人の女を長持になげこみ、般若面をじぶんの顔につけて、おなじ姿態で横たわった。
すべて階段のかげですばやく行なわれたのと、入口に立っている鷲ノ巣廉助は、外から続々とはこびこまれてくる女たちに注意をうばわれていて、この作業には気がつかなかった。
やがて騒動はおさまり、七本槍の面々は、とらえた女の数を勘定して、座敷に入った。――彼女たちは、そこに横たわったまま、全身を耳にして、中の気配をうかがっていた。
そして、彼らの声から、ほぼ事情を推察し、戦慄《せんりつ》して立ちあがったのである。
ここは淫楽《いんらく》の蔵であると同時に、拷問蔵《ごうもんぐら》であり、武器庫でもあった。入口ちかくの壁には、幾十振かの刀、槍、棒などとともに、数張の弓と矢までならんでいた。明成がつかんではせもどったのもその一つである。
彼女たちは、その弓と矢をとった。そして、穴に気をとられている明成主従の背後に三方に立ち、はじめて声をかけたのであった。
射ちたい! 大魔王のごとき明成と、凶暴無残の五人の男ののどぶえに、この矢を血しぶきたてて射込みたい!
弦をひきしぼった三人の女のこぶしは、ワナワナとふるえた。
「ま、待てっ」
司馬一眼房が、ただひとつの眼を白くつりあげてさけんだ。
「射てるか? そ、その矢をはなしても、あたるは三人、われらは六人、弦を切ったとたんに、うぬらのからだはズタズタになるぞ」
「もとより、それで本望。三人も狙わぬ。ひとりを狙う。ただ明成だけを」
と、さくらがいった。まさに、矢は明成だけにむけられている。
土気色をしているのは、明成の顔色だけではなかった。あとの五人にとっても、それは一番恐ろしいことであった。
丈之進が歯ぎしりしていった。
「うぬらのみではない。その地底におる二人も死ぬ。……事と次第では助かる命を」
お沙和とさくらとお笛の顔色がかすかにうごいた。
七本槍衆にとって明成の討たれることが一番恐ろしいことであると同様に、三人にとってはたとえ明成を殺そうと、そのために十兵衛が命をおとすことが、たえがたいほど恐ろしいことであった。
「事と次第では?」
と、さくらがきく。
「さ、さればさ、今夜は相討ち、無勝負としよう。もしその矢をおさめてくれれば、そなたらはもとより、穴でもがいておる二人もぶじにかえしてやる」
「おまえらの誓言は一切あてにはならぬ」
と、お沙和がいった。これが会津にいたころ、小者や婢にまで情愛ぶかいことで評判のよかった女房とは、別人のように冷やかな笑みをうかべて、
「穴の中のふたりを助けるのに、おまえたちのゆるしは求めぬ。助けるなら、わたしたちが助ける」
「な、何?」
「鷲ノ巣廉助、入口のちかくに荒縄のたばがあった。あれを持ってきや。そして明成をのぞき、みなを数珠《じゆず》つなぎにつないでもらおう」
「さ、左様なことをして、何とする?」
「みずからを縛るなど――そんなばかなことができるか!」
漆戸虹七郎と香炉銀四郎が猛然とさけび出すのに、
「面倒なら、明成を殺す」
三本の矢じりがピカッとひかって、司馬一眼房と具足丈之進をうろたえさせた。相手が女だけに、こうギリギリ極限のやりとりとなると、向うの方の神経の糸がきれて、かっとして何をやり出すかわからないので、かえって始末がわるい。
「待て、話によってはきいてやるが、おれたちを何のために縛る?」
と、丈之進が上眼づかいにいった。
「穴の中の二人を救うのを、だまって見ていてもらいたいのじゃ」
「そ、それは、殿にもわれらにも手を出さぬと承《う》け合ってくれれば、縛らずともだまっておるが――」
「無用のあらがい見せねば、今夜は殺しはせぬ」
声がかすかにふるえたが、さくらも華麗な顔立ちに似合わぬ冷たい笑顔で感情をおさえて、
「しかし、おまえたちは、何といおうと信用のできぬ男ゆえ――」
と、いった。彼女たちがくりかえしてそのことを口にし、七本|槍《やり》衆がうしろめたく思って一言の反撥《はんぱつ》もできないのは、東慶寺での凄《すさま》じい破約と虐殺という明らかな事実があるからであった。
「よし、それほどいうならば、いうままに縛れ」
と、一眼房が鷲ノ巣廉助にいい、眼で何やら合図した。鷲ノ巣廉助がうなずいて、無念の形相で、蔵の入口から荒縄の束をもってきた。
「それを、一人にふたつずつ輪にして、一つは両手くびに、一つは首にかけて、おたがいを連ねるのじゃ」
矢は依然として明成にむけたまま、さくらがいった。
「いま、一眼房が妙な眼顔をしたけれど、すぐに縄がとけるような小細工はゆるさぬぞ。……みなに縄をかけたら、お笛、廉助も同様に縛りゃ。それから、ほかの奴らも調べておくれ」
お笛だけ弓矢をすててちかづいて、その通りにした。それから何を思ったか、この少し頭に霞《かすみ》のかかった気味のある美少女は、そっくりかえって、カラカラと笑った。
「御主人さまたちを、うぬら、こうして曳《ひ》いていったっけな」
大きな眼に涙をうかべ、気が狂ったように笑う。七本槍衆が、堀一族の男たちの首に縄をかけて東海道をひきずっていったことを思い出しているのだ。――五人はぞっとして、身をもがいた。首と手の縄がしまった。
「安心するがよい。おまえらほど卑怯《ひきよう》な殺し方はせぬ」
と、お沙和はうすく笑った。それから、きっとなって、
「お笛、その縄の端を、穴の中に垂らしゃ。……これ、五人、そのまま、手に縄をまいて、力をあわせてひくのじゃ。お笛、玄達さまを呼んでおくれ。よいか、三沢玄達さまに合図するのですよ」
声を張っていったのは、お笛が十兵衛の名をうっかり呼ぶことをふせぐためであった。十兵衛が秘密の助勢者であることは、お笛にもよくわかっている。
「合点でございます。玄達さま――めくらの三沢玄達さま、わたしがわかりますか。お笛がお救いに参りました。もう大丈夫です。その縄を巻きつけて――」
ふりかえって、叫んだ。
「五頭の牛頭馬頭《ごずめず》それひけ、やれひけ!」
七本槍衆はひきはじめた。いまやお沙和とさくらが明成の前後に立って、矢じりを胸と背につきつけているのだから、いかんともしがたいのだ。首と手くびに縄をかけられて、のけぞるようにして縄をひく五人の男は、お笛が嘲弄《ちようろう》したように、まさに地獄の亡者さながらであった。
やがて、十兵衛の顔が、穴の上にあらわれた。口に一刀をくわえ、片手にお圭を抱いている。衣類はもとより、顔まで腐肉の泥しぶきのちりかかった惨憺《さんたん》たるふたりの姿であった。
「負けたな」
と、いって、ニヤリと笑った。依然として眼をとじたままだ。
お笛がいった。
「だから、あぶない、あぶないとわたしのいわないことじゃない。わたしでもついておればともかく――」
「いや、一言もない。負けた負けた。おまえに負けた。しかし、どうも穴の上の様子がおかしいと思っておったが、まさかそなたらが乗りこんできたとはなあ」
それから、眼をふさいでいるのに、眼があるように顔を明成の方へむけた。
「ところで、この馬の骨大名を、どうしよう」
「どうしようとは?」
四人の女の眼が、血光ともいうべきひかりをはなって明成にそそがれた。
「そなたら、いま討ちたいであろう。それはわかる。おれも実は、いまのいま、その生ッ白いそッ首をねじきってやりたいと思う。おれがからい目にあわされた恨みからではなく、この穴の中の眺めで、ききしにまさる悪業を知ってはなあ。しかしだ、これほどの大悪鬼、いまひと思いに殺しては、かえってこやつの苦患《くげん》を軽うするようなものと思わぬでもない」
大悪鬼、まさにそうにはちがいないが、三本の矢に狙われ、いま地獄から這《は》いあがってきたような男を迎えた加藤明成は、恐怖のあまり心気がうすれかかって、そこに蝋《ろう》人形みたいにフラリとつっ立ったままだ。
「おれはなあ、やはり――最初の方針をつらぬきたいと思う」
と、十兵衛はいった。
「いまは、こやつを生かす」
「左様におっしゃるであろうと存じておりました」
と、お沙和がいった。
「わたしたちは、お心のままでございます」
「では」
十兵衛が一歩明成の方へあゆみよると、穴の上に数珠つなぎになっていた七本槍衆のうち、司馬一眼房が片眼をとび出すようにむいて、かすれた声でいった。
「殿を、何とする?」
「されば、最初にいったように、これより竹橋御殿へひいていって、天下の晒《さら》しものにする」
「な、ならぬっ」
鷲ノ巣廉助が身をもがいてわめいた。その顔のみならず、全身がまっかにふくれあがって、
「もはや、がまんならぬ、み、見ておれ」
うめくとともに、両手くびをしばった荒縄がぷつっと音をたてた。主君に向けられた三本の矢を忘れたか。――いや、鷲ノ巣廉助は、いま十兵衛が「では」といったとたんに、三人の女の矢尻《やじり》がすっと下った隙をみてのことであった。
「どうじゃっ」
床を踏みならし、両腕ひろげて猛然とおどりあがった姿は、黒旋風の竜巻きみたいにみえた。
「……あっ」
さすがに狼狽《ろうばい》して、三人の女が矢をむけかえる。びゅっと飛び来る二本の矢を、ぱしと両腕でたたきおとしたが、一本は肩でうけた。が、なんたる筋肉、それはまるで鉄にでもあたったように、かん、という金属にちかいひびきをたてて、わずかに矢じりのきっさきがくいこんだだけであった。
しかし、廉助はかすかによろめき、つぎに体勢をたてなおそうとぶんまわした片足が、がっしとふみしめたのは、穴の上の空間であった。
「あうっ」
巨体がよろめくと、その姿は奇怪にねじれながら、穴の中へ消えた。
廉助の姿が奇怪にねじれたのは、その首が縄につながれていたためだ。
穴の下と、床の上で、同時に凄《すさま》じいうめきがあがった。首をつらねてしめつけた縄のためである。さすがの漆戸、司馬、具足、香炉の四人が、ぶざまにどうとたたみの上にたおれている。
とみるまに、廉助につづく漆戸虹七郎がズルズルとひきずられて、これまたどっと穴から消えたのは、何しろおちたのが金剛力士のような巨漢だから、その体重にひかれたのか、それとも、支えようとした腕がただ一本であったゆえか。
あとの三人は、くくられた両手の爪をたたみにたてて、しゃくとり虫のように這いまわった。
「これ、あっさりとおちてやれ」
片腕を明成のくびにまわしたまま、十兵衛が笑った。
「おちてやらねば、下の両人が縛り首になるではないか」
まさに、その通り、穴の中にぶら下がったふたりが、縄をつかみ、空をつかんでもがいているのは、たたみの上の縄の痙攣《けいれん》でわかるが、上の三人の苦悶《くもん》もそれにおとらない。――それをまぬがれるには、いかにも、みずから穴にとびこむよりほかはない。
「やむを得ぬ。――一眼房、おちろっ」
と、一番うしろの具足丈之進が苦鳴をあげた。
つんのめるように、司馬一眼房が穴からのめずり落ちる。つづいて、香炉銀四郎が歯ぎしりしながら落ち、さらにとびこもうとする丈之進を、
「うぬには用がある」
十兵衛の白刃がひらめいて、縄をぷっつりと斬りはなした。具足丈之進は一尺ものびたようにみえる首をあごで支えたまま、たたみに這いつくばって肩で息をした。
「よし、ゆこう。ところでそなたら、得べくんば、その、なんだ、やはり何かをまとった方がよろしいな」
丈之進の背に片足のせたまま、ニコリとして十兵衛がいう。一糸まとわぬお沙和、さくら、お笛はもとより、半裸にちかいお圭までが、その肌を羞恥《しゆうち》のためにぼうと紅く染めたのは、はじめてこのときであった。
「お、それからの、ひとたび逃がしてやった女ども、またとらえられた様子ではないか。あれをもういちど逃がしてやろう。みなつれてこい」
――女たちが、二階からおりてきたとき、十兵衛は穴のそばに立って、屍《しかばね》の地獄にうごめく影に呼びかけていた。
「これより、油をそそいでの、火を投げ入れてやろうか。……とは思ったが、今夜のところはまず許してやろう。それと申すも、この明成同様、うぬらにこの世の地獄をいましばし味わわせてやりたいからだ。ひとりずつ、ひとりずつ、音にきこえた七本|槍《やり》がうち折られてゆく。一つずつ、一つずつ、名門加藤の七つ蛇ノ目が消えてゆく。――かよわい、やさしい女の手で」
穴の底で、幾頭かのけものが吠《ほ》えるような声がこだました。四人の七本槍衆が腐肉のぬかるみにもがきつつ、口々に怒りと呪いのさけびをあげたのだが、それが同時であったのと石壁に反響するのとで、何といったのかききとれない。
「死に争いすな。その日を愉《たの》しみに待つがよい」
十兵衛はカラカラと笑って、お笛に命じた。
「そのふたを閉めろ」
お笛が立ったままのふたをまわした。座敷はふつうのたたみとなり、穴の中の怒号ははたときこえなくなった。
十兵衛は、はじめてじぶんの惨憺たる姿を見まわし、それから女たちをながめて、にが笑いした。
「敵も味方も悪戦苦闘というところだな。ふふ。――ゆこうか」
両腕に明成と丈之進の腕をかかえこんで、ゆっくりと歩き出した。かるくとらえられているようだが、両人にとっては骨もくだけるような痛みであった。
「う、うぬは、眼、眼がみえるのか?」
と、具足丈之進は必死に顔をなでまわした。そうとしかみえないのだが、それにしても何のためにこの敵が偽盲のまねをしているのか、見当がつかないのだ。まさか隻眼をかくすための全盲のまねとは、想像を絶している。
「ああ、みえる。心眼での。うぬが猿のごとき面貌《めんぼう》をもっておることまでよく見えるぞ」
と、十兵衛は笑った。依然として両眼はとじたままだ。
「丈之進、土戸をあけよ。そして、天丸の鎖をとれ。――逃げようとしたり、天丸を女どもにけしかけたりすれば、明成の命はこれまでだと思え」
歯ぎしりしながら、丈之進は蔵の戸をあけた。外に坐《すわ》っていた猛犬天丸は、らんらんたる眼をあげて、一声凄じい吠え声をあげた。
「吠えるな。おれだ」
と、苦しげに丈之進がささやく。
天丸は、ふるえる手で鎖をとった主人を、いぶかしそうに見あげるのみであった。――しかし、いまの吠え声で、庭のあちこちから跫音《あしおと》が走ってきた。
「家来どもにいえ。――ただいま殿には急のおん病いにかかられ、本郷湯島の三沢玄達のすすめに従い、鳥山検校のもとへ鍼《はり》治療に参られる。馬をひけとな。――それ以外のことを申してはならぬぞ」
丈之進は、その通りのことをいった。
家来たちはめんくらい、闇をすかして動揺しているようであった。
「何をぐずぐずしておるか。上意だ。いそげ!」
と、丈之進は金切声をはりあげた。むろん、すぐうしろに恐しい黒衣《くろご》がついていて、しゃべらせたのだ。
まもなく、明成の乗馬がひかれてきた。十兵衛は明成を抱えてその鞍《くら》にとびのった。むろん、丈之進以下の妄動を牽制《けんせい》するためだが、だいいち明成が恐怖のために眼を白く吊《つ》りあげて喪神《そうしん》状態にあるのだから、支えていなければ用がたたないのである。
「具足どの。……こ、これは、どうしたことでござる?」
「拙者ども、何とも解しかねるが」
侍が二、三人かけ寄ってきて、具足丈之進の袖《そで》をとらえた。そのあいだも、眼はいぶかしげに、馬の主君と奇怪な男にそそがれている。
そのとき、蔵の前には、二十人ちかい女たちがあふれ出していた。丈之進以外の七本槍衆の姿はどこにも見えない。
加藤家の家来たちは、明成と七本槍衆の所業を知らされてはいなかった。というのは表面だけのことで、彼らも大体に於ては推察している。だからこそ、先刻逃走した女たちをとらえ、また蔵の周囲を警戒していたのだ。
そのせっかくつかまえた女たちがまたぞろぞろと現われ、見たこともない男が主君をとらえて馬上にふんぞりかえり、七本槍衆が具足丈之進をのぞいて忽然《こつぜん》と姿をけしているのだから、家来たちが断じて納得できない顔をしたのは当然だ。
「ええ、うるさい、さわぐな」
と、丈之進は顔を泣き出しそうにしかめて叫んだ。
「何もきくな、おれがついておるわ。ぐずぐずしておると、殿のお命にかかわるのだ。そこをどけ。……だれか走って、門をあけろ」
ぐずぐずしていると、明成の命にかかわるということだけが真実の声で、すべて背後の馬上にまたがっている盲の男がいわせるせりふであった。
首をひねり、狐につままれたような顔で、左右に開く家来たちのあいだを、馬はすすみ出した。
まず先頭に天丸があるき、その鎖を具足丈之進がにぎっている。丈之進の腰にまた鎖がつながれて、馬上の男が手綱とともににぎっている。――十兵衛が、具足丈之進だけを露ばらい用に残したのは犬の天丸をおとなしくさせるためで、それは天丸を恐れたからではなく、犬に吠えさせて加藤屋敷に住む幾百人かの侍や若党たちのさわぎ出すのを面倒にかんがえたからであった。
馬のあとには、女たちの群が従っていた。
さっきまで、薄い月が出ていたのに、いつのまにか空は曇って、ポツ、ポツ――と冷たい雨がひたいをうちはじめた。
生きているのか、死んでいるのかわからないような加藤明成を抱きかかえて、柳生十兵衛は意気揚々と馬にゆられていった。
凍りつくような秋の雨がふりしぶく中に、江戸城竹橋御門の外にふたりの男と一匹の犬が鎖でつながれて坐っていることが発見されたのは、その翌朝のことである。
犬も人間も、晒《さら》されたように白ちゃけて、ひとりの男などは完全に失神し、ひっくりかえった口に、遠慮なく雨しぶきが吹きこんでいた。
加藤明成と具足丈之進と天丸をそこにつれてきた者は、ただ馬にのった例の三沢玄達の偽者《にせもの》だけであった。さらってきた女たちも、堀の女たちも、雨の江戸へ、どこかへ消えてしまった。
そして、その男も、二人と一匹の犬を鎖で門のどこかにつなぐと、鉄蹄《てつてい》の音も軽くかけ去った。
夜があけるまでに、丈之進と天丸は、鎖をふりちぎろうとどれほどもがいたかしれない。天丸がそれまでおとなしかったのは不思議である。丈之進が制したせいもあるが、しかし天丸自身、例の男に何やら恐怖の記憶をもっているらしい様子でもあった。
その男が去ってから、丈之進と天丸は死物狂いにもがいたが、むろん鎖はきれなかった。丈之進の肌は血ににじみ、骨もどこかひびが入ったようであった。明成は蛙みたいに仰むけにひっくりかえったままだ。
「……殿さえおわさねば!」
と、丈之進はむしろ憎悪の眼でその姿を見やった。昨夜来の恥さらしな敗北は、すべてこの主君のまぬけぶりにつながると思う。このお荷物さえなければ、きゃつにしたい放題にされるはおろか、よもや生かして逃がしはせなんだと思う。
「……これ、ほえるな」
しかし丈之進は、狂的なうなりをあげようとする天丸を叱《しか》った。なんとかして夜があけるまでに、人目にかからないうちにこの場から脱出せねばと思う。
が、ついに朝はきた。門をあけた門番たちは仰天した。
「やあ、けさはふたりもおる!」
「それに大きな犬までおるぞ。みんな出て見さっしゃれ!」
「おかしいな。いままではえらい色男ばかりであったが、きょうはまた恐ろしく出来のわるい面をしておるぞ」
さけびに応じて、みるみる数もしれぬ中間《ちゆうげん》や若党があつまってきた。
「これ、たのむ、逃がしてくれ、われらは怪しい者ではない。名はあかせぬが、素姓はしかと通ったもの。この鎖をはなしてくれれば、あとできっと礼に参る!」
丈之進は身をもんで哀願したが、人だかりはますますふえるばかりだ。そのうち、だれかすッとんきょうな声でさけんだ。
「これは会津の加藤の犬だ、あんまりざらにねえ大きな犬だから、おらおぼえているぞ、加藤家の自慢の犬だよ!」
だれも顔を知っている者はあるまいと思っていたが、そういった声につづいて、また奇声をはりあげた者がある。
「そういわれてみると、あっちにひっくりかえった男の袖には、見や、七つ蛇ノ目の紋がついているじゃねえか。――」
「――はてな。その紋をつけた人というと――」
門番のひとりが六尺棒をにぎりなおして、門の奥へかけこんでいった。
「これは天樹院さまに御注進いたさねば!」
「天樹院さま、お出まし――」
門の奥でそうさけぶ声がすると、門前にあつまっていた連中は、あわててピタピタと膝《ひざ》をついて、うずくまった。
「これ、ひかえろ」
「犬もおさえさせろ」
「天樹院さまのお出ましであるぞ」
門番が二、三人とんできて、具足丈之進の顔をなぐりつけた。それから、ふりかえって、
「水はまだか。はやくこいつの面にぶッかけろ」
「このぶざまな男を、天樹院さまのお目にかけてはならぬ」
「それきた、よいしょ」
と、桶《おけ》をもってきたひとりが、ひっくりかえった明成の顔の上に、ざあッと水をぶちまけた。――もっとも、それまでも、雨は、バシャバシャと眼にも口にもながれこんでいるのだが。
水をかけられ、六尺棒で脇腹をこづかれて、明成はかすかなうなりをあげて眼を開いた。キョトンとした眼で、雨をながめ、のぞきこんでいる無数の顔をながめ、濠《ほり》や、橋や、あたりの景観をながめ、はじめてぎょっとしたようにはね起きた。
「ひかえぬか。天樹院さまの、おんまえである!」
肩を棒でおさえられて、明成はがくと両腕を突いたが、その一瞬、門のすぐ下に立っている人影を見た。――十数人の家来や侍女にとり囲まれ、傘をさしかけられて、じっとこちらをみている白鷺《しらさぎ》のような影を。
「加藤家の犬ということであるが」
静かな声がきこえた。侍臣にきいている様子である。
「人間も加藤家のものか、素姓と姓名をきいてみや」
家来がやってきて、恐ろしい眼で見下ろして、名をきいた。具足丈之進は狼狽《ろうばい》してこたえた。
「われら、加藤家のものではござらぬ。名、名は具足、いや、犬、犬山丈太郎、あれなるは犬川尺之助と申し、従兄《いとこ》同士の浪人者でござる」
「猿のごとき顔をして、犬山と申すか」
と、千姫は微笑した。侍女たちが、どっと笑った。傍に立った家臣は、ニコリともせず、いかめしい顔できく。
「その浪人者が、いかなるゆえあって、かようなところに鎖につながれておるか」
「それが、われらにもわかりませぬ。昨夜……道三堀のほとりを通行中、ふいに眼のさきがくらみ、気がついてみれば、この始末でござる。しゅ、醜態みせて、ざ、慚愧《ざんき》のかぎりでござるが、かく相成ったうえは、一刻もはやくこの鎖を解いて、お放ち願いとう存じまする」
「犬も、その方たちと一緒か。加藤家の犬と申すものがあるぞ」
「犬は、この犬は、どこの犬とも存ぜぬが」
「いかにも犬と猿、あわぬはずの面にみえるが」
千姫がまた言った。
「それにしては、ようなついておるような」
傘のうちで、眼が深淵《しんえん》の蛍火のように光っている。
「この春であったか、加藤家のものが犬を先にたてて、鎌倉の尼寺に推参して無礼をはたらいたことがある。会津の加藤家といえば、先代のころは例の賤《しず》ケ岳《たけ》七本|槍《やり》で天下に知られた名家であったのに、当代となってからは、犬を使って女の住まいをかぎまわるのがよほど好きとみえる。――という世の噂じゃ」
冷たい、深沈たるつぶやきが、雨の中をながれ、ひれ伏した人々の耳にしみいってゆく。
明成は棒に首をおさえられて、泥にのめずりこみそうな姿勢であったが、のどの奥で、いまにも胃の中のものがあふれ出しそうな呻《うめ》きを立てた。それを、鎖でつながった丈之進が、鎖をひいて死物狂いにおさえている。爆発したら、おしまいなのだ。なんとしても、ここは加藤家のものではないとしてのがれなければならぬ。
「と、いう噂をきくにつけても、その男どもが加藤家のものではないと申すのが、まことであって欲しい」
と、千姫は言った。
「その証《あかし》をたてるために、修理、みなにこの男どもを加藤家へひいてゆかせや。まこと、加藤家のものでなければ、奉行所へ突き出して、もういちど調べさすがよい」
はじめて、ひくい声で笑い声をたてて、千姫は背を見せたようであった。明成と丈之進は血走る眼をあげ、白鷺のような影がしずかに消えてゆくのを見た。
雨は霧のようにあがりつつあり、朝は刻々と白くなってくる。江戸城では、登城の太鼓が、とうとうと鳴りはじめた。
ふたりは、まだ鎖からとき放たれなかった。幾刻《いくとき》か――明成が発狂しなかったのが不思議なほど、むざんな、晒《さら》しものの時間であった。
やがて、支度ができたとみえて、わらじに足をかためた下郎たちが二つの輿《こし》をかついでやってきた。
「これに乗ってゆくようにと、千姫さまの仰せである」
はじめて鎖からとき放された。
明成はまだ放心状態になっていたが、具足丈之進は呪いに顔じゅうを皺《しわ》だらけにゆがめて、天丸にささやいた。
「天丸、ゆけ。……先刻われらをここにつれてきた男、あれが地丸風丸を殺した般若《はんにや》面の男であることは、もうわかったであろう。あの男の匂いを覚えておるか。きゃつのゆくえを探せ。匂いをかいで、きゃつのゆく先をつきとめろ……」
ふたりは、輿におしあげられた。その騒ぎの中で、
「あっ、しまった。犬が逃げた!」
と、あわてた声がきこえた。
「まぬけ、鎖をしっかりとおさえていないからだ」
「だって、凄《すげ》え力だよ。あんな大きな犬、とてもとても――」
「それ、そっちへいった。早くつかまえろ!」
どっと中間たちがみだれ立った。が、そぎたったような耳をピンとたてて、眼を金色にひからせてひた走る巨大な犬を、咄嗟《とつさ》にふせぎとめる者はない。
「犬はどうでもよい」
と、苦りきってはいたが、天丸の恐ろしさをよく知らぬ老臣の吉田修理は、あきらめたように言った。
「その両人を、加藤家につれていけ」
明成と具足丈之進は、高々と輿にかつぎあげられた。ちょうど大井川か富士川をわたる川越えの輦台《れんだい》のようだ。
うつむくと、罪人のようだ。天を仰げばおかしいし、横をむけば、笑っている群集の眼をまともに浴びることになる。ふたりの皮膚は灼熱《しやくねつ》のひかりをあびてひびが入り、ねじれ、そりかえったような気がした。
意地のわるいことに、中間たちにかつがれた輿は、濠沿いに大手門の方へ回ってゆく。きょうは大名総登城の日ではなかったが、それでも、時刻が時刻、場所が場所だから、老中をはじめ幕府の高官や諸役人が織るように通る。なかには特別の用件があるとみえて、登城する大名の行列もないではない。それが、ことごとく驚いたように、輿の上の両人を見あげることはいうまでもない。
薄気味の悪かったのは、老中の松平|伊豆守《いずのかみ》で、駕篭《かご》をとめさせ、まじまじと輿の上の明成をながめたが、なんの変った表情も浮かべない。ただ穴のあくほど明成の顔を見まもっただけであった。
「おお、これは式部《しきぶ》少輔《しよう》どの」
大声で呼びかけたのは、老黄門|伊達政宗《だてまさむね》である。
「ちかごろ珍らしい乗物で、いまごろどこへ参られる」
行列に遡行《そこう》する輿の一行に、わざわざそちらも反転し、雁行《がんこう》してついてきた。明成はわっと叫んで輿からとびおり、雲を霞《かすみ》と逃げ去りたいようであった。伊達家の家来がちかづいてきて、こちらの中間にといただし、これは竹橋御門外に晒しものになっていた男で、加藤家とは無縁の人間であると称しているむねをきいて、政宗に報告した。
「ほう、それではあれは式部少輔ではないのか。そう申せばなるほど会津四十万石の大名の面ではない。廓《くるわ》に十日も居つづけしておったような顔をしておる。しかし、よく似ておるのう。加藤明成どの、そっくりじゃ」
行きかう行列の末までひびくような大音声をはりあげて、哄笑《こうしよう》する。
江戸城から芝まで、獄門にかけられる罪人の引回しよりはるかにつらい、言語に絶する惨苦のパレードであった。
加藤屋敷に到着すると、加藤家では何やら混乱の様子であった。花地獄の床下の穴に、七本槍衆が四人までおちていたことが、この時刻になってやっと判明して、大さわぎで助けあげたばかりのところなのである。
「おお、殿!」
「御無事でおわしたか?」
蒼黒《あおぐろ》い腐肉の泥をつけた彼らが走り出てきたのに、丈之進が狂気のごとくわめいた。
「われらは加藤家の者ではないっ。見違えるな。これは加藤明成と具足丈之進の偽者《にせもの》だ!」
自分で、偽者だと、身をもんで絶叫している。
七本槍衆は、はじめて明成主従を連行してきた人々に気がつき、事情を推察したらしい。
一瞬、ことの弥縫《びほう》に苦しむ表情をみせたが、すぐにどっと殺到してきた。
「そういえば、こやつ殿の偽者だ!」
「ほんものそっくりの顔をして、怪《け》しからぬ奴」
「それ、ひっとらえて、糾明しろ!」
何をいっているのかわからない。鷲ノ巣廉助の腕が宙に舞うと、中間のうち五、六人がふッとばされ、明成と丈之進をとりつつんで、あっというまに屋敷の中へはこび去ってしまった。
輿の宰領をしてきた武士は笑いをかみ殺し、眼を怒らせて、
「これは、当方に何の挨拶《あいさつ》もなく無礼千万。……ただいまの両人、あれはまことに当家の御主人と御家来であったか」
「いや、あれは、正真正銘、まことの――」
と、司馬一眼房が立ちふさがるようにしていったが、顔は醜怪にねじれて、
「まちがいなしの偽者でござる」
と返答したが、苦しいことおびただしい。
「偽者。――偽者とあれば、町奉行所にひいて改めてとり調べさせよと、天樹院さまの御諚《ごじよう》でござるが」
「いや、当家の主人にあれほどよく似た曲者《くせもの》、奉行所などへひき出されては、たとえ偽者であっても主人の恥、あの両人は当方でとりしらべて、きびしく糾明いたす。天樹院さまにはおって御挨拶にうかがうつもりでござるが、この場はこのままお引取り下されい」
一眼房のひたいから、汗がタラタラとしたたりおちる。
天樹院家の武士は、これでほぼ目的は達したとみて「では、ほんものの式部少輔さまへよしなに」と、これまたえたいのしれぬ言葉をかえし、澄ました顔で中間たちに引揚げを命じた。
屋敷の奥では、明成と七本槍衆がじっとむかいあっていた。いずれも髪も衣服も血と涙と汗と泥にねばりつき、幽鬼のごとく惨憺《さんたん》たる姿だ。
突然、明成がひっ裂けるようにさけんだ。
「うぬら……あてにはならぬ。余は会津にかえる!」
七本槍衆は、ベタベタと坐《すわ》ってしまった。
会津にかえる。――むろん大名が領国にかえるのが自由になるわけではないが、実は明成は去年の四月出府してきたのだから、一年の在府義務は終って、この六月ごろ、もはや会津に帰国してもよかったのである。ところがこの春の堀一族の誅戮《ちゆうりく》事件以来、復讐《ふくしゆう》にもえる堀の女たちの影が身辺にうろつきはじめ、それを始末せぬうちは心おきなく帰国できぬとあって、公儀には病気を口実にしてそれを延期してきたのであった。
しかし、頼りに思う七本槍衆のうち、ふたりまで逆に討たれ、しかも自分自身、こんどのような凄《すさま》じい生き恥を、完膚なきまでに味わわされてしまった。もはやこの顔を白日にさらし、登城はおろか、江戸市中に外出もできぬ思いだ。
「それは、よろしゅうございましょう。会津のお城にお入り遊ばせば、いかに神出鬼没の敵といえども、もはや手の下しようがないに相違ござりませぬ」
鷲ノ巣廉助が巨体に似合わぬおずおずとした調子でいったのは、あまりに明成の受けた打撃が無惨をきわめ、神経の糸がいまにも切れそうなのを見てとって、まずそれを支えようとしたのだ。
しかし、彼らをにらみまわした明成の眼は血走っていた。
「おめおめと、何をぬかす。この不甲斐《ふがい》ない奴めら。……」
四人は平蜘蛛《ひらぐも》のように伏したままだ。
「そもそも、般若組などというものを考え出し、竹橋御門外に男を晒《さら》しものにするなどたわけたことをしたゆえ、余がかかる生き恥をかかされたのだ。しかも、余がさらわれるのを何らなすところなく見送るなど、言おうようなき臆病者《おくびようもの》めら」
じぶんがまっさきに賛成したことは忘れている。
「うぬら……みんな死ね!」
――しばしの沈黙ののち、香炉銀四郎がひくい、むしろ冷たい声でいった。
「われわれがみな死ねば……殿をお護《まも》りいたすものが一人もないことに相成りまする」
「うぬは……口だけは大きなことを」
「われらがみな死ぬことは……堀の女たちに労せずして復讐の望みをとげさせることに相成りまする」
明成は顔をひんまげて何やらうめいたが、しかしそれはその通りに相違なかった。足をあげて具足丈之進の顔を蹴《け》った。
「まず、うぬだけでも死ね。即刻、この場で腹を切れ!」
「殿、……しばらく」
と、丈之進はかっとあふれ出した鼻血で真っ赤になった口でさけんだ。
「御立腹はさることながら、しばらく御猶予《ごゆうよ》下さいませ。いや、死ぬのがこわいのではござらぬ。ただ、無念なのでござる。おなじ死ぬなら、あの女ども、またそれを助勢するあの男を討ってから死にとうござる。……実は、天丸を放して、あの男のあとをつけさせました。竹橋御門から、あの男の匂いをつけて、天丸はきっときゃつらの隠れ家をつきとめてかえって参ります。それまでお待ち下されまし、殿、御慈悲でござる!」
「何、天丸が」
と、明成はじっと丈之進を見下ろしたが、やがて、
「余は、明日明後日にも会津にかえる。その支度をせよと、みなに触れておけ、その出立までに、丈之進、かならずあの男の首をひっさげて参れ、それかなわずば、うぬが死ね、それまでは命をあずけておく、きゃつの首か、うぬの首か、それを見てから余は江戸を立つぞ」
声ふるわせていい捨てると、たたみを蹴たて、よろめくように明成は奥へ入っていった。
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江戸土産
あす、あさってにも会津《あいづ》に帰る――と明成はいい出したが、個人が振分けの荷を肩に、ブラリと旅に出るようなわけにはゆかない。数百人の供が要るのである。それらの支度もたいへんなら、江戸から会津まで六十五里、道中、泊り泊りの宿場の本陣に前もって通告しておかなければならぬ。一方では、公儀にも届けを出しておくことも必要だ。
とはいえ、言い出したら、あとにはひかぬ主君である。それに、事ここにいたったなりゆきには、七本|槍《やり》衆も充分責任があるのだから、彼らは四方にとび、おどろく老臣や、あわてふためく老女や、家来たちをどなりつけ、叱《しか》りつけて、帰国の支度にかからせた。
門から何十騎か、相ついで使いの武士がとび出す。出入りの商人がかけつける。――芝《しば》の加藤屋敷は、まるで台風にでも襲われたような混乱におち入った。
「嵐というより、まるでいくさに負けて城をおちるようだな」
と、この騒ぎのなかで、漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》は苦笑した。
「その通り、まさに負けいくさの陣払いだ」
と、香炉《こうろ》銀四郎がこたえる。声は冷たいが、その眼のひかりで、この恐るべき若衆が、にえたぎるような憤怒をおさえているのがよくわかる。
「陣払いをさせてくれるかの」
司馬一眼房《しばいちがんぼう》が、やや不安げにくびをかしげた。銀四郎はきっとしてふりかえって、
「堀の女たちがか。――きゃつら、推参すればこっちのものだ。少なくとも、おれは鉄斎や孫兵衛や丈之進《じようのしん》とはちがう。昨夜の不覚は、殿を人質にとられていたればこそだ」
「いや、堀の女たちのことでない。公儀がだ」
と、一眼房がいった。
「天樹院さまの件、あれはこうなってみると、ちとやりすぎた。あちらから公儀に申し入れがあって、あるいは帰国は相成らぬということになりかねぬおそれもあるぞ。いま、松平|伊豆守《いずのかみ》へ使者に参られた御家老のおかえりを待たねば何とも申せぬが」
「それなら、それでよかろう」
と、虹七郎がいった。
「本音を吐けば、おれは帰りたくないのだ。いや、おれはあの般若《はんにや》面の男と堀の女どもをたたッ斬るまでは、江戸をうごかぬつもりでおる」
「おれもそう考えておった」
と、鷲《わし》ノ巣廉助《のすれんすけ》がうなり声をたてた。
「こう申しては何だが、殿はおわさぬ方が、おれたちの身動きが自由となる。殿がおわせば、どうしても防戦一途となって、至極やりにくいわ。鉄斎、孫兵衛の恨みをはらすということもある。きゃつら、討ち果たすまでは、われらが江戸を去らぬということは、はじめから覚悟していたことだ」
「いっそ公儀と、正面きって喧嘩《けんか》した方が面白いの」
と、眉《まゆ》をあげる銀四郎に、一眼房は苦笑し、
「むちゃをいうの、銀四郎。まあ待て、天丸がかえってくれば、敵の始末はきょう中にも一挙につくかもしれぬ」
「天丸はまだ帰ってこぬのか」
「まだらしい。丈之進が門に出て待っておるはずだが」
「しかし、犬がたしかに敵のゆくえをつきとめてくるかの。きけば、敵が立ち去ってからも数刻のあいだ、天丸は竹橋御門につながれておったというが」
「さ、そこが丈之進にもちと心もとなげだが、しかし、ほかの犬ではない、天丸にかぎって望みはないことはないという。――犬がかぎつけて来てくれねば、丈之進は腹をきらねばならぬ」
丈之進、と一眼房はいったが、もし主君の出発までに敵の首を見せることができないと、彼らすべて、とうていのほほんとしてはいられない。
そこに、老中の松平伊豆守のところへ挨拶《あいさつ》にいった江戸家老堀川|嘉兵衛《かへえ》が帰ってきた。
さすがに堀川嘉兵衛は、明成の所業に加担はせぬまでも、その実相はよく知っている。知ってはいるが、それと諌争《かんそう》した国家老の堀|主水《もんど》の末路をその眼で見ているだけに、苦渋をおさえて黙視しているよりほかなかったのである。
「御帰国のおゆるしはござったか」
と、四人はきいた。
「あった」
「それは何より」
「しかし」
と、嘉兵衛は顔をゆがめた。
「御老中は――式部《しきぶ》少輔《しよう》どのには御子はござらなんだかの、と、ふときかれた。いま以《もつ》て、御子がない旨をこたえると、くびをかしげてほう、しからば四十万石は宙に浮くの≠ニ、仰せられたわ。御出立に際し、あまりと申せば不吉な挨拶」
「それは――殿がまだ御病中であると届けられたゆえではござらぬか」
と、鷲ノ巣廉助がいった。
帰国をのばしたのは、明成の病気のためである。その病気はいまだに快癒《かいゆ》したとはいえないが、かえって領地に帰ればなおるかもしれぬゆえ、ゆるゆると道中いたす、右の次第ゆえ、明成自身あらためてじきじき御挨拶に上るのは御遠慮|仕《つかまつ》る――というのが、江戸家老堀川嘉兵衛の老中に対する苦しい口上であったのである。
「いや、伊豆守どのは、ちゃんと事情を知っておられる御顔であった。眼に皮肉な笑いがあった。わしは穴でもあらば入りたいような思いがしたぞ」
嘉兵衛の眼には、七本槍衆に対する陰鬱《いんうつ》な呪咀《じゆそ》がある。香炉銀四郎ははねかえすように、
「それでも御帰国のおゆるしは出たではありませぬか」
「出たには出たが、それがかえって薄気味がわるい。天樹院さまの件もある。きっと町奉行所に届け出た女もあったろうに、そのことにつき一言のおとがめもなかったのが、かえってぶきみ千万じゃ」
「はて、御家老には、公儀より殿におとがめがあった方が安心だとでも仰せられるのか」
堀川嘉兵衛は、夢からさめたように狼狽《ろうばい》した。
「いや、それは」
突然、漆戸虹七郎が、狂ったように笑い出した。
「御家老、案じ過ぎでござる。だれもとがめるものがないとクヨクヨ思案投首しておられるのは、天下に加藤家の江戸家老くらいなものじゃ。とがめるものがないのは、もとはといえば、公儀も藩政の亀鑑《きかん》としておゆるしなされた加藤家内部の謀叛人《むほんにん》の断罪、もし出るところへ出て黒白をつけることになれば、理はわれらにあって、謀叛人の一族をかばい、そそのかす奴らに分がないは当然。――」
吐き出すようにいった。
「たとえそれが、将軍家のおん姉君であろうと」
そのとき、小姓のひとりがやってきて、門にいた具足《ぐそく》丈之進から伝言があったとつたえた。
「具足どのには、これより天丸についてゆくが、きっと吉報をもたらすゆえ、七本槍衆には、どこへも出かけられぬよう、夜までお待ち下さるようにとのことでござる」
「何、天丸がもどってきたのか!」
「されば、ただいま」
「そして、丈之進ひとり天丸についていったのか」
「左様にござります。しばらくうち案じておられましたが、ひとまずおれの眼でつきとめてこよう、と申されて、犬とともにどこかへ馳《は》せ去られてござりまする」
天丸について、夕ぐれの江戸の町を、具足丈之進は息せききって走っていた。
あとになって思えば、竹橋御門と、天丸のたどりついたところ、また芝の加藤家と、三地点をむすぶ距離を走るのに、天丸がそれほど時を要したのは、いかに天丸が敵のあとをかぎつけてゆくのに苦労したかを物語っている。
実をいえば、具足丈之進にも、はたして天丸がみごとに敵のゆくえをつきとめてくるかどうか不安ではあった。
昨夜以前に、あの謎の男と天丸がいちど接触したことはある。平賀孫兵衛が討たれた夜だ。しかしあのときは孫兵衛のみならず、愛犬地丸、風丸も殺され天丸も堀へおとされて、とうてい敵のあとを追わせる余裕がなかった。こんども、すこし時をおいたのが不安だが、あの敵への恨みは天丸自身も胆《きも》に銘じているであろう。
たのむぞ、天丸! 丈之進は祈った。主君の出立までに敵の所在をつきとめねば腹を切らなければならぬ絶体絶命の場に追いつめられて、彼も必死だ。その祈りが通じたか、天丸はかえってきた。
目的を達したことは、犬の眼のかがやきでわかる。つきとめるときは、さぞあちこちの辻《つじ》で悩んだであろうが、いま主人を導いてゆく足どりは軽い。
そして昨夜来の悪戦苦闘、しかもろくに眠りもせねば食いもせぬ疲労に、猿の干物みたいな顔になっている具足丈之進の眼も、見ておれ、おのれ般若面、こんどこそはのがしはせぬぞ、という復讐《ふくしゆう》欲に血いろにひかってきた。
天丸は立ちどまり、主人をふりかえって、一声たかくほえた。
品川北馬場の万松山東海寺。
山門をあおいで、具足丈之進は茫然《ぼうぜん》とした。――この大禅寺に、あの般若面の男が帰ったというのか? すると、当然、堀の女たちもここにひそんでいるという可能性も考えられる。しかし、女人禁制の禅寺に、まさか女が?
「――天丸、まことか?」
信じかねて、ふりむくと、犬は丈之進の顔を見まもって、また一声ほえる。
ふっと、この禅寺の住持が沢庵《たくあん》和尚であることを、丈之進は思いついた。将軍家の帰依厚いといわれる沢庵禅師、そこから千姫とむすぶ連想は出てこなかったが、それより丈之進の頭にうかんだのは、巷間《こうかん》につたわる沢庵の人柄だ。ただ数珠《じゆず》をつまぐって行ないすましている老僧ではなく「不動智神妙録」という剣法の要諦《ようてい》を説いた一書をあらわしたほど、兵法に関心をもっている和尚ときく。また、堀の女たちがそれ以前に住んでいたのは、鎌倉《かまくら》のやはり禅宗の尼寺であった。――
――あり得ることだ、と丈之進はうなずいた。
しかし、さすがに、まさか、という一点の疑心もぬぐい去ることはできない。犬の探索と、じぶんの推量だけで、むやみにこの寺へ乱入することははばかられた。といって、主君の出立までに敵のゆくえをつきとめねばならぬという焦りはあり、そして現在のところ、この禅寺以外に対象はない。
とつおいつ、腕をくんで東海寺を見あげている具足丈之進の眼に、山門をときどき出入りしている僧たちの姿がみえる。なかには、網代笠《あじろがさ》をかぶった行脚僧も二、三まじっている。――丈之進の姿がふっときえた。
半刻《はんとき》ほどたって、犬をつれた雲水がひとり、東海寺の石段を上っていった。
どこの古着屋から仕入れてきたか、墨染めの衣をまとい、網代笠をかぶってはいるが、まさに具足丈之進だ。あたまを青く剃《そ》ってすらいる。
はっきりと敵の所在をつきとめたら、いちどとって返して仲間の七本|槍《やり》衆を呼んでくるつもりであった丈之進が、単身こんな姿で東海寺に潜入する気になったのは、右のような疑いが心にあったからだ。
尼寺とちがって、門番はいない。大名屋敷のようにきびしい警備はない。広大な東海寺の境内は、あちこちにあるく僧の姿はあるが、犬をつれた雲水をとがめるものはない。
本堂、庫裡《くり》、方丈、鐘楼、|塔頭|《たつちゆう》|そのあいだを、天丸にみちびかれて具足丈之進は嗅《か》ぎあるいた。
突然、天丸がひくくうなった。
寺の裏手にある丘の下のひろい草原であった。数本の高い杉の木に、夕靄《ゆうもや》がからみついている。その下を、ひとりの若い女があるいてきた。
「――お千絵《ちえ》だ!」
丈之進と犬は、ピタッと草に伏した。
きゃつら、やっぱりこの寺にいた!
そうであろうと推量したればこそ忍びこんだのだが、あらためて堀一族の女の姿を見出すと、丈之進は愕然《がくぜん》とせざるを得ない。きゃつらの背後には、沢庵がついていたのか?
しだいに近づいてくるお千絵の優雅な姿を、草の中から血ばしった眼で見まもりつつ、具足丈之進の頭はいそがしく回転した。
お千絵を斬る。――これはたやすい。しかし、あと六人の女はどこにいる? また、あの般若面の男はどこにいる? あの男の手練は、思い出すだけでも毛も逆立つようだ。正直なところ自分一人で、これらの敵すべてをたおすことは不可能にちかい。
では、お千絵だけを斬って、いちど退却し、七本槍衆をつれてきて東海寺を襲えば如何。いや、それまでに敵は姿をくらますかもしれないし、防戦の支度をかためるかもしれないし、さらに巨大な沢庵そのひとが東海寺の山門に立ちふさがって、四十万石に正面きって相手となるかもしれない。
電光のごとく、ひとつの知恵がひらめいた。それはお千絵をさらい、これを人質か囮《おとり》として、のこりの敵を金縛りにし、さそい出すということであった。主君明成があの般若面の男にとらえられて、完膚なきまでに痛めつけられた手を、こんどはこっちが逆につかうのだ。お千絵は七人の女のうちの主筋にあたる。これを手中にすれば、敵のすべての死命を制したにひとしい。
得べくんば、虜《とりこ》にしたい、止むを得ずんば、斬る。
「天丸。……あの女のうしろに回れ。よいか?」
ささやくと、丈之進はぬっと立ちあがった。もちこんだ小刀は、墨染めの衣の袖《そで》になおかくしたままである。
お千絵は夕靄の中に、ふと誰か立ちあがるのを見た。しかしそれが網代笠の僧であることを知ると、気にもとめず、またなよやかに腰をかがめて、穂すすきにまじる女郎花《おみなえし》を折りとった。胸には女郎花をはじめ、桔梗《ききよう》や萩やなでしこがいっぱいであった。
また五、六歩あるき、ちかづいてくる雲水の衣のあいだから、このときすっと白い刀身がすべり出したのを見て、はっとして立ちどまった。
「お千絵」
網代笠があがった。
「おれだ」
具足丈之進の猿のような顔に、歯が白くニヤリとむき出されたのを見て、お千絵はぱっと手の七草をなげつけながら、一間もうしろへとびすさった。
「逃げようとしてもだめだ」
丈之進の声とともに、うしろでひくいうなり声がきこえた。
いうまでもなく、それが凶猛で、敏捷《びんしよう》で、へたな人間の敵よりなお恐ろしい犬であると知って、お千絵は思わずさけび声をあげようとした。
「呼ぶな」
と、丈之進はさけんだ。
「声をたてたら、天丸、遠慮なくとびかかれ」
空に花のみだれ散ったあと、なお夕靄の上に浮いて、一輪の花がのこったようなお千絵の顔をみて、具足丈之進はうす笑いをした。
「おい、ほかの女たちもこの寺にいるのだな」
「…………」
「例の般若面の男はどこにいる。きゃつの正体は何者だ」
「…………」
「白状せねば、天丸にとびつかせるぞ。かみちぎって欲しいのは、その細いくびか、美しい横顔か」
お千絵はからだを横にして、前後の犬と僧に眼をくばりながら、ジリジリとあとずさりしていた。もとより懐剣をぬきはらっている。――その横顔に眼をそそぎ、おなじ速度で移動しつつ、丈之進は、是非ともこの娘を虜にしたい! という欲望にとりつかれていた。
いよいよ濃くたちこめてくる白い夕靄に、神々しいほど美しいお千絵の横顔であった。それをみて、卒然として、彼女の父堀主水との一件が、そもそもはこの娘を主君の妾にさし出すか、否か、という問題から発したことを思い出したのだ。
この娘をとらえて、芝の屋敷にひきずっていったときの主君の喜悦ぶりは察するにあまりある。昨夜来の大不覚を帳消しにしておつりがくるくらいのものだ。もとよりこの娘は主君の肉欲の祭壇にささげられるであろうが、あれ以来のいきさつからして、よもや単に妾となるだけではすむまい。なぶりつくしたあとは、かならずこちらにお下げわたしになる。――
たおやかなその姿態を、いま胸中で、あの地獄蔵になげこんだ光景を空想しただけで、猿のような丈之進の面貌《めんぼう》は興奮に充血した。
さて、どうしてこの娘をさらってゆくか。もはやその方途まで、彼の胸にえがかれる。
ひとつは、お千絵をひきつけ、衣のかげで刀を背につきつけ、声もたてさせず門を出てゆくことだ。
もうひとつは、お千絵を失神させ、天丸に負わせて、全速力を以て寺を脱出させることだ。たとえ気づかれて怪しまれようと、稲妻のごとく疾駆する天丸をふせぎとどめるものが、世にあろうとは思われない。
「呼ぶか、悲鳴をあげてほかの奴らを呼ぶか」
と、丈之進は嘲《あざ》けった。呼ばれては困るところを逆手に出て、のしかかるように、
「うぬの父を、一寸だめし五分だめしにして、最後にとどめをさしたのはこのおれだ、その手でおれを討ちたかろう。その美しい顔をみると、討たれてやるのもわるくはないと思う。――しかし、おれを殺しても天丸は走る、走って、七本槍の面々をこの寺へつれてくるぞ。加藤家対沢庵という天下の見世物となるであろうな。坊主のくせに、謀叛人《むほんにん》の女どもをかくまって大名と喧嘩《けんか》させていたとなると、いかな沢庵も分がわるいな。いつぞやの出羽配流《でわはいる》の二の舞いにならぬともかぎらぬ、それを承知なら、みなを呼べ」
お千絵の白い頬に凄艶《せいえん》なえくぼが彫られた。
「わたしひとりが相手になる」
懐剣は天丸にむけたまま、お千絵の眼は具足丈之進を見つめている。靄の中にさんさんたる瞳《ひとみ》は、まるでふたつの碧玉《へきぎよく》のように青味をおびてみえた。
……丈之進は、ふと魅いられかけた。会津にいたころ、あらたまって話をしたことはないが、遠目やゆきずりに、ああ美しいと見とれたことはある。しかし、いま彼女が見すえている眼は、もとより男を魅する美女の眼ではない。――必死をきわめた剣法者の眼だ。
はっとして、丈之進はわれにかえった。こやつ、いつここまで修業をしたか。――と、身ぶるいするとともに、猛然たる憤怒が全身をつきあげてきた。
――天丸、飛べ!
命令しようとして、しかし現実の声はこのとき、「あーっ」という驚愕の絶叫をあげていた。彼はこのとき、信ずべからざるものを目撃したのだ。
信じられることか! それは靄のただよう地上から十数尺の虚空をとび来たった影が、白刃をひっさげて、まっさかおとしに天丸の上におちてくる光景であった。かっと眼をむいたまま、あまりの怪奇さに、丈之進がとっさになんの言葉も出なかったのは当然だ。
ただ、同時に視界に映ったのは――地に前肢をくいこませて、いまや跳躍の姿勢に移ろうとした猛犬天丸が、草に這《は》ったまま首を宙にあげて、これまた愕然たる眼を見張った姿だ。その上に、天からおちてきた影が、どっとかぶさった。
「わわわわうっ」
吼《ほ》えたのは、犬ばかりではない。丈之進も吼えた。
おなじ刹那《せつな》に丈之進も、肩から胴へ、灼熱《しやくねつ》の痛覚とともに凄《すさま》じい打撃を受けていた。
一声、つん裂くような苦鳴をあげたまま、丈之進は、しかし、大地に仁王立ちになっている。かえって、彼を串刺《くしざ》しにした人間の方が、もんどりうって草の中にころがりおちた。
空から刀身をかまえて襲いかかったのは、天丸を狙った影ひとつではなかった。彼の背後からも、もうひとりの人間が舞いおりてきたのである。彼が天丸めがけて落下する影に魂をうばわれて、じぶんの背後をかえりみるいとまがなかったと同時に、天丸もまた一瞬、主人の頭上からおちてくる影に仰天して、おのれの危機を感づかなかったに相違ない。
天丸を襲ったのはお笛。
丈之進を襲ったのはお品。
いずれも草原の彼方に立つ杉の大木と、それにかけた長い綱を振子のごとく利用した襲撃で、かつて十兵衛から鉄鞭《てつべん》をうけて、血の汗ながして体得した天狗《てんぐ》飛びの妙技だ。
かつて――ではない。彼女たちはいまも、十兵衛の眼のないところでも、黙々としてこれらの鍛練に余念がない。ほんのいまも、お笛とお品がそうしているのを、お千絵は微笑してふりあおぎ、そして高い杉の木の上で、お品とお笛が手をふったのを見たばかりであった。
じぶんが、犬と僧のはさみうちになっている。――その姿を、彼女たちが発見してくれることを信じて、お千絵は具足丈之進と天丸を一定の地点に誘導し、そしてお品とお笛はみごとにその期待にこたえたのであった。
長い綱を振子として飛ぶ角度、綱をはなす空中の地点、落下してゆく姿勢。――いかにお千絵がたくみに僧と犬を誘導し、釘《くぎ》づけしているとはいえ、それらの条件の一つでもあやまれば、当然彼女たちはむなしく大地を打つ。
しかし、お品とお笛は、みごとに僧と犬にとびついた。――のみならずお品は、具足丈之進の肩から腹腔《ふくこう》にかけて、さかおとしに一刀を刺しつらぬいた。
ところが、あやまったのは、むしろ天丸を襲ったお笛だ。これもその頭を一太刀で刺しつらぬくはずであったのが、一瞬、動物特有の敏捷無比の反射的運動で、からだをくねらせてその一刀を避けた。いや、完全に避けきったのではなく、血しぶきはとんだが、致命傷とはならなかった。
そのことはいちどお笛とともに大地にへたばったものの、次の瞬間、「わわわわうっ」という驚愕《きようがく》の咆哮《ほうこう》の尾もまだきれぬうちに、血けむりとともに四、五尺も空中におどりあがった凄じい姿でわかった。
「……あっ」
血の気をひいて立ちすくんだのはお千絵である。
お笛を背にのせたまま、ふたたび地上におちた天丸は、つぎに旋風のように周囲をかけめぐりはじめた。
どれほど犬の頚《くび》を切り裂いたか。――お笛の一刀は、あとの地面にぐさっと立ったままのこっている。
「お笛!」
小牛のような巨犬の背に、お笛は腹ばいに乗っている。天丸はからだをくねらせてそれをふり落そうとしながら、狂気のごとくはせめぐる。それでもお笛は、ひしとその頚に両手をまわし、その腹に両足をからませてしがみついている。ふりおとされれば、その刹那《せつな》、彼女ののど首に、犬の牙《きば》がうちこまれるだろう。犬の血と、女の黒髪が、もつれあって地に曳《ひ》いていた。
「天丸」
と、しゃがれた声がきこえた。具足丈之進だ。
ふりかえって、お千絵は、お品もまた失敗したかと思った。丈之進は依然として、仁王立ちになったままであった。お品の方はまだ草の上に這っていた。
しかし、丈之進の肩には、たしかに一刀がつき立てられている。肩から鍔《つば》まで、きらりとひかっている刀身は、わずか二、三寸をあますのみだ。……無念の痛苦にひきゆがんで、人間というより一塊の腫物《はれもの》のような顔に、眼が白く光って天丸のゆくえを追い、むらさき色になった唇がうごめいた。
「天丸、女をはなすな、髪をくわえろ」
天丸は走りつつ、首をねじむけて、ぐゎっとお笛の黒髪をくわえこんだ。
「そのまま、芝の屋敷へゆけ」
そういうと、具足丈之進は、どうと草の上にたおれた。
「お笛、お放し」
お千絵はさけんだ。いちど地に這っていたお品もはね起きて絶叫した。
「おはなし、手を、足を――」
お笛を背にのせたまま、巨犬天丸は走る。東海寺の門の方へ。――あとにひく血潮の量からみて、確かに重傷を受けていると思われるのに、まるで悪魔の力を持っているかのような天丸であった。とうてい、人間の脚力では及びもつかない。――
お千絵とお品は、天丸がお笛の黒髪をくわえ、牙にからみつかせたのを見た。しかし、いま天丸からはなれなければ、ほんとうに寺から芝まで一気に運び去られてしまうだろう。その恐怖に、全身つきとばされたように走り出しながら、ふたりは|の(、)|ど(、)をあげてそう叫んだのであった。
「いや、手をはなすな――」
遠くでそんな声がきこえた。
「笛、はなしてはならぬ。はなせば、のどがかみ破られるぞ」
「あっ、十兵衛さま!」
ふたりは、狂喜した。もう小さくなった犬の彼方に、十兵衛の姿があらわれたのだ。左右に、お沙和《さわ》、お圭《けい》、お鳥、さくらたちもつらなって、犬のゆくえをふさごうとしている。
天丸は一瞬の速度をゆるめもせず、横に疾駆した。小柄な娘とはいえ、人間ひとりを背にのせたまま、その四肢は地上数尺の空間を跳躍して、まるで悍馬《かんば》のような疾《はや》さであった。
もとより、その上で、お笛は死闘している。その姿は、もはや半裸にちかい。髪は天丸の牙にひきしぼられて、血を吹くように痛む。刀はさっき地におとしてしまった。だから、死物狂いの力をこめて、腕で天丸の首をしめつけ、足で天丸の胴をしめつけようとするのだが、魔犬の精悍無比の筋肉の弾撥力《だんぱつりよく》は、ほとんどそれに何らの障りを受けたともみえないのであった。
このまま犬に身をまかせれば、さっきの具足丈之進が断末魔に下した命令通り、芝の加藤屋敷に運ばれてしまう。といって、地上にわれみずからころがりおちれば、十兵衛の警告のごとく、凄じい牙は彼女ののどぶえを襲うにきまっている。
天丸は樹林の中や潅木《かんぼく》の上や、人間の通る路《みち》でないところを飛び、迂回《うかい》し、駆けた。
「あれあれ、あっちの方へ――」
「犬は、逃げまする、十兵衛さま!」
お圭とさくらの悲鳴に、十兵衛は走りながら、小柄《こづか》をぬいた。手が宙にあがった。
しかし、小柄をつかんだ十兵衛の手は、そのまま宙にとまってしまった。犬にかぶさったお笛のからだが邪魔をするのだ。しかも対象は躍りあがり、疾駆し、一瞬の静止もみせない。
「いかん!」
さすがの十兵衛が顔色をかえて狼狽《ろうばい》するあいだに、天丸は石段をとびおり、僧房をめぐって、はやくも彼らの手の及ばぬ彼方へその姿を消そうとしている。
すでにこのとき、女人を乗せて駈《か》ける犬の姿は、東海寺の禅僧たちの発見するところとなって、ただならぬ叫び声とともに、あちこちの塔中から、僧たちがかけ出していた。
「あっちへ逃げた!」
「あっ、こっちへ来たぞ、それ普明坊!」
中には、棒、如意棒、錫杖《しやくじよう》などをふりまわしている坊さまもある。その数は数十人をかぞえた。
その群をのがれ、つっ切り、天丸は走る。ちかくへくると、その姿の巨大さともの凄じさに圧倒され、意志に反して僧たちは思わず蜘蛛《くも》の子のようにとび散った。その中を、なお血の帯をながくひきながらひた走る天丸は、地獄の魔王のごとく、何びとを以《もつ》てしてもとどめることはできまいと思われた。
山門は数間の先に、夕空にそそり立っていた。
その山門へ、真一文字に走ろうとして、ふいに天丸は地に前肢《まえあし》をくいこませて停止したのである。
山門はあけはなたれていた。その屋根の下に、キラと青い夕星すらもみえた。そこに黒い影が、たったひとつ、ぬうと立っていたのである。
ぬうと――と形容すると大きいようだが、五尺をわずかに越える小さな影だ。腰はこころもち曲っているらしい。夕風に、墨染めの衣がしずかにひるがえっている。
その影にむかって、数十人の僧はおろか、柳生十兵衛すらもひるませた猛犬天丸が、まるで鉄壁にぶつかったかのように、そこから一歩もうごけなくなってしまったのであった。
そのあいだには、何があったか、……何もない。
にもかかわらず、タタタタッと向うからまっさきに鉄丸みたいにかけてきた十兵衛が「……あっ」とひくくうめいたきり、これまた何かにはねかえされたようにとびずさってしまった。
「如是畜生発|菩提《ぼだい》心。……」
と、その影はしゃがれ声でいって、ゆるゆると門の中へあるき出した。
「おお、老師っ」
はじめて、十兵衛がさけんで、べたとそこに坐《すわ》ってしまった。これはいまの瞬刻、目にみえぬ気力の壁にはねかえされ、心胆をおしひしがれたのが、このときようやく全身の硬直がゆるんだからだが、あとにつづいた六人の女や僧たちは、何が何やらわからぬままに、目を見はって十兵衛のうしろにひざまずいた。
沢庵は天丸のそばにあゆみ寄った。天丸は地に這って、かすかに尾をうごかしている。その背から、音もなく半裸のお笛がずりおちた。お笛は気を失っていた。
「犬よ」
と、沢庵はかがみこんで、天丸のあごをやさしくあげた。
「ふびんや、おまえはまもなく死ぬぞよ」
天丸は黒くうるんだ目で、老いたる僧を見あげていた。この恐るべき猛犬がこんな目で、具足丈之進すらも見あげたことがあるだろうか。
「これ、だれか――薬をもってきてやれ。頚にひどい傷をしておる」
ふりかえって、沢庵はいった。僧のひとりが駈け去った。
十兵衛が、寄ってきた。
「老師、何となされます」
「手当はしてつかわすが、しかし、おまえは死ぬな」
と、沢庵はなお犬に話しかけた。
「ここは、いわば敵陣、そこにのりこんできて、これまでの働きをするとは、人にも劣らぬあっぱれなものではないか?」
「ここをかぎあてたのも、この犬であろうと存じます。人に劣らぬどころか、人間にまさること万々」
と、十兵衛は苦笑した。
「あまっさえ、お笛を負ったまま、芝の加藤屋敷にかけ去るところでござった」
「加藤と申せば」
と、沢庵ははじめて顔をあげた。
「式部少輔は二、三日中にも会津へ帰るらしいぞ」
「ほう」
沢庵は、いま外からかえってきたところであった。ただし、江戸城へいっていたか、町の葬式にいっていたかは、どこでも墨染めの衣ひとつに草履をつっかけて飄然《ひようぜん》たる沢庵さまだから、見当がつかない。
「おまえに、あれほどいたい目にあわされては、さすがの明成も江戸にいたたまれなくなったとみえる」
と、沢庵はきゅっと笑った。
「しかし、会津に帰らせると、ちと面倒じゃの。どう思う」
「いよいよ以て面白うござる。おのれの巣に逃げこんだと安心しておる狸めを、またうしろから、ジワリジワリといぶしてやれば、きゃついかなる面をするか。――かんがえただけで、ムズムズするようで」
「いや、こんなことは、おまえは好きだな。遊び心半分の助太刀とは、明成もつくづくわるいものを敵にした」
「老師が拙者をおえらびになったのではありませんか」
「ちがいない。……また、まさにあの明成は、それほどこの世の苦患《くげん》をなめさせるに足る奴だ」
犬には慈悲の手をさしのべる沢庵さまも、人間だけには、一片の仏心も感じないらしい。
「行くか。十兵衛、会津へ」
「参ります」
「わしも、ゆきたいの」
「ほ、老師が、会津へ?」
「いや、みちのくへさ、実は、この大伽藍《だいがらん》には飽きた。江戸にも飽きはてたよ。つくづくと、流罪になっておった出羽上ノ山の山風の涼しさが、このごろなつかしいぞよ」
十年ほどむかし、沢庵は、いわゆる「大徳寺事件」で幕府の命をきかず、まる三年間、出羽上ノ山に流されていたことがある。その想い出をいっているのだ。
僧のひとりが薬をもってきた。
「ところでこの犬じゃがの、あっぱれな忠義者じゃが、仕えた主人がわるい。このままならば、地獄へおちる」
と、沢庵は天丸を見下ろした。
「仏の慈悲は、穢土穢物《えどえもつ》をきらいたまわず、空とぶ鳥、地を走る獣、草葉にすだく虫、わだつみのうろくずまで、悉皆成仏《しつかいじようぶつ》せざることなし――という。こやつにみずから罪を浄《きよ》めさせて、成仏させてやろうぞよ」
芝の加藤家の表門の内外は、おびただしい人馬で騒然としていた。
大鳥毛や槍《やり》が林立して、秋の朝のひかりにきらめき、七つ蛇ノ目の金紋をつけた先箱や長持が砂ぼこりをたてて移動している。陣笠に野羽織をつけた武士たちは右往左往しつつ、しだいに行列をととのえてゆくのであった。
加藤式部少輔が帰国の旅につこうとしているのである。
「殿はまだか」
「まだ御|駕篭《かご》に召されぬか」
騎馬の侍が二騎、いらだった声をかわしながら、門の奥へかけこんでいった。
――大玄関の式台の上に、加藤明成は立っていた。
背後に奥方をはじめ侍女たちが坐っている。奥方は保科弾正忠《ほしなだんじようのちゆう》の娘だが、明成とのあいだに子供はなく、なんの愛情もなかった。いや。全然、なんの交渉もない名目だけの奥方といっていい存在だが、いま式台で夫を見送っている顔も、白くかわいた能面のような無表情であった。
明成もまた奥方に一言の別れの言葉ものべず、
「丈之進はいかがいたした」
と、式台の下にうずくまっている四人の七本槍衆に声をかけた。
司馬一眼房、香炉銀四郎、漆戸虹七郎、鷲ノ巣廉助の四人は、はっとあたまをさげたが、装束がやや種を異にしている。前のふたりは旅支度だが、あとの両人はいままで通りだ。
「丈之進はまだかえってこぬのか」
「はっ、まだのようでござりまするが――しかし、ほかならぬ丈之進のこと、かならず吉報をもってかえることでござりましょう」
と、鷲ノ巣廉助が巨体を焦燥にもむようにこたえた。
「余は、いまたつぞ」
「はっ」
「江戸を発《た》つまでに首を見せいと、余は申しておいたはずだが」
秋の朝というのに、廉助のひたいからタラタラと汗がしたたりおちる。
「さ、されば、丈之進帰邸いたしたるのち、かならず敵を討ち果し、その首ひッさげて殿のおあとを追おうと存じ、かくは待ち受けておりまする。それまでは、われわれ断じて江戸を去らぬ所存でござれば……いましばらくの御猶予を――おん行列がものの十里もゆかせられぬうち、きっと追いついて御見に入れ申す……」
「一眼房、銀四郎」
「はっ」
「ぬけぬけと旅装束して、うぬらどこへゆくつもりだ」
明成の眼は痛烈というより、酷薄そのものであった。
「それは死出の旅につく、死装束とでも申すか」
「事と次第では」
平然と香炉銀四郎は蒼白《あおじろ》い面をあげる。明成はかっとして足で式台を蹴《け》った。
「おお、死ね、敵の首をみせねば、丈之進の首を見たいと余はいった。丈之進はどこにおる?」
「…………」
「おそらく、きゃつ、加藤家を見すて、逐電《ちくてん》したに相違あるまい。丈之進の首を見せることもかなわいでは、うぬら、そこに四つの首をならべろ」
明成は絶叫した。
「会津におる、うぬら一族|芦名《あしな》衆への、余の江戸土産としてやるわ!」
そのとき、門の外の方から、ただならぬどよめきがつたわってきた。
「おお、天丸っ――」
「天丸がかえってきた」
「――あっ。丈之進どのも!」
銀四郎をのぞく七本槍衆は、おどりあがった。
「なに、丈之進と天丸がかえってきたと?」
かけ出そうとして、彼らはそこに氷結したようになった。
門のあたりの喧騒《けんそう》も、何かに断ちきられたようにしーんと止まっている。一帯に群がった武士たちはことごとく爪先立ちのまま、うごかなくなり、わずかにうごいたとみえたのは、何者かに道をひらいたのであった。
天丸だ。――天丸だけだ。向うから、よろめくようにやってきたのは、見おぼえのある一匹の犬だけであった。丈之進どのも――という声はさっき聞えたが、その姿は見えない。
いや、丈之進はいる。天丸の口にぶらさがっている。青道心の首だけになって。
首はざるにのせられ、ざるに吊《つ》るされた紐《ひも》を、天丸はくわえているのであった。
しかも、その首がまた歯のあいだに、一枚の紙片をくわえているのだ。何か紋のようなものが書いてある。下に三つ、上に一つ、二重輪を重ねたものが。――そしてその下に墨痕《ぼつこん》あざやかな文字は、
「蛇ノ目は四つ」
犬は式台に這《は》いあがってきた。
明成が、とびのこうとしたが足はうごかず、グラリとうしろにのけぞったとき、天丸は式台に前肢をかけただけで、生首をそこにおき、じっとそこに坐《すわ》ってしまった。かっと眼をむいたきり、明成は声も息もない。
何百人かの人間がその界隈《かいわい》にいると思えぬ死のごとき沈黙ののち、ようやく三人の七本槍衆が、ばねのように天丸のうしろにはせ寄った。
「天丸、どうしたのだ!」
「丈之進は何のために坊主になり、だれに殺されたのだ!」
「おまえはどこから帰ってきたのだ!」
むろん、犬がこたえるはずがない。天丸はかなしげに、丈之進の首を見つめたまま、うっそりと坐っている。
「ええ、丈之進を討ったのはあの般若《はんにや》面か堀の女だ」
漆戸虹七郎は絶叫して、地だんだをふんだ。
「天丸、そこにわしを案内しろ。つれていってくれい!」
「天丸もひどい傷をうけておる」
と、冷たい声で、坐ったままの香炉銀四郎がいった。
このとき天丸は、前肢をがくと折り、あたまをその上にのせてしまった。その眼に白く霞《かすみ》がかかってくるようにみえたかと思うと、しずかに瞼《まぶた》がおちていった。
「……死におった!」
と、喪神したような顔色で明成はさけんだ。
天丸は、式台の下にうごかなくなっていた。――四人の七本槍衆も頬を鉛色にして、茫然《ぼうぜん》と見おろしたままだ。
さしもの彼らを、ぞっと背に氷をあてられたような思いにおとしたのは、ただ具足丈之進が討たれ、天丸が瀕死《ひんし》の傷をうけたことではない。丈之進の首がぶきみな青道心になっていることと、そして天丸がその首をくわえてかえってきたのが、別の何者かの意志によるものとしか思われないことであった。
……その恐怖をふりはらうように、漆戸虹七郎がしゃがみこみ、天丸を抱きあげて、ゆさぶった。
「天丸、どこだ。敵はどこだ、もういちど立ちあがって、案内しろ!」
巨大な犬は、しかしもはや完全にこときれて、重く冷たくゆれるばかりであった。
「あるいはこんなこともあろうと思っておった」
坐ったままの香炉銀四郎は冷やかにつぶやいたが、ふいに猛然と立ちあがって、
「ええ、見るな、ゆけ! 殿は御出立じゃ。いそぎ行列をととのえろ、先駆は出たか、はやくゆけっ」
と、まなじりを裂いて、武士たちにさけんだ。きっと明成を見あげて、
「殿、何とぞ御乗物へお召しを願いまする」
網代|溜塗《ためぬ》り、棒黒漆の乗物は、すでに式台にかつぎあげられている。明成はちらっとそれをみて、
「――ゆくか?」
と、いった。先刻の憤怒はどこへやら、眼に圧倒的な恐怖がひろがっていた。
香炉銀四郎は声をはげました。
「御公儀にもお届けあった御帰国のおん旅、もはや御変改は相成りませぬ。会津までの道中六十五里、この分にては、きゃつら、追跡してくることは必定と存じますれば、われら、いのちをかけてお護《まも》り申しあげまする」
「大事ないであろうな?」
明成はおびえきっている。銀四郎はニヤリとした。
「あるいは、殿の仰せのごとく、この旅装束がわれらの死装束となるやもしれませぬが――」
嘲弄《ちようろう》されていると思っても、明成にはかえす言葉がなかった。この恐るべき敵に対し、彼ら以外に護ってくれるものがあろうはずはないからだ。
気をとりなおし、三人はこもごもいった。
「殿、御推察のごとく堀の女ども、江戸にあって容易ならぬ向きよりかばわれておるものと存ぜられまする。江戸をはなれ、きゃつらが追ってくることとなれば、向うもそのかばい手から離れることとなるゆえ、当方にとってもっけの幸せ。――」
「会津へつくまでの道中こそ、きゃつらを返り討ちにする絶好の機会かもしれませぬ」
「万一討ちもらすとも、ひとたび会津へ入れば、鉄壁の城あり、芦名一族の精鋭あり――」
皮肉な眼で、壮語する年長の七本|槍《やり》衆をながめ、明成を見やっていた銀四郎が、このとき美しい笑顔でいった。
「殿、ところで、この首、江戸土産になされますか? 無用と仰せなさる。では、お発ちいーっ」
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北帰行
秋風をきり、白い砂塵《さじん》をながくひいて、一騎、奥州《おうしゆう》街道を北へ駈《か》けていった。
馬がみごとな鞍《くら》をおいているのに、陣笠《じんがさ》もかぶっていなければ、野袴《のばかま》もはいていない。寛濶《かんかつ》なこうもり羽織、それに黒|小袖《こそで》の袖口から女のような紅の襦袢《じゆばん》がもれているのは、これはこのころ江戸の流行であったから、江戸からきた武士とわかる。それにしてもほんの一、二里、江戸市中を往来するふだん着の姿にみえる。
しかも、一刻に十里も走るのではないかと思われるほどの猛疾駆だ。
街道の旅人は胆《きも》をつぶしてとびのき、怒った声をなげようとして、その武士が鞭《むち》を口にくわえ、右手で手綱をさばき、左の袖は風にひるがえっているばかりなのを見おくって、あっと眼を見張っただけであった。
これは、江戸から会津《あいづ》へ、主君に先行して走る漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》であった。
旅装束でないのは、たんに急いで飛び出したせいばかりではない。六十五里を駆けるのに、ふだん着同様のままでいることが、彼のお洒落《しやれ》であり、伊達《だて》なのだ。
彼が先に会津に飛んだのは、主君の国入りに先立って、会津藩士――とくに芦名衆に警報をつたえて会津領に潜入しようとする曲者《くせもの》に気をつけろという注意を喚起するためであった。
いまにして、さすがの虹七郎も、大変な奴を敵にしたと、心中いささか悔いるものがある。
堀一族の生きのこり、わずか七人の女どもに、大道寺鉄斎、平賀孫兵衛、具足丈之進《ぐそくじようのしん》の三人まで討ち果たされたとつたえても、芦名衆が信じるだろうか。彼らの惨憺《さんたん》たるかばねを見た虹七郎自身が、いまだに信じきれないくらいなのだ。
もちろん、あれはあの女どもの働きではあり得ない。あの般若面の男の助太刀のせいだと思わざるを得ない。しかし虹七郎のおそれるのは、当面のその敵ではなく、彼女たちの背後に、もっと巨大な影がうしろ盾になっているのではないか、という想像であった。すでにわかっている千姫さま以外の。――これは想像というより、確信にちかい。
そもそもの原因が、公儀もゆるした叛臣《はんしん》の誅戮《ちゆうりく》だから、その影は表立っては加藤家の前にあらわれてはこないが、しかし主人が国へ帰れば、やがてこのことは、藩士一同にもしだいに感得されてくるだろう。
かならず動揺してくる奴が出る。加藤家がそんな破目におちいったのは、じぶんたち七本槍衆が主君の乱行をそそのかしたのがもとだ、とそしる奴も出てくるかもしれない。
そんな場合に、たよりになるのは、七本槍衆を出身させた芦名衆だけだ。
一族の老頭領芦名銅伯は健在のはずである。
御国御前おゆらの方はその娘だ。
敵が何者であろうと、彼らは全力をあげてたちあがるであろう。明成のためでなく芦名一族生存のために。
加藤家、そのまえの上杉家、そのまえの蒲生《がもう》家――それらはことごとく豊臣家や徳川家から任命された領主にすぎないが、それ以前に芦名一族は、おのれの実力による会津の支配者であった。
その「よき時代」への懐旧の念はすてるとしても、すでに三代以前に滅んだ一族が新生するには、いまの当主加藤明成にくい入るよりほかはない。
秘密の一族会議からそういう指令が下された結果、頭領の娘おゆらの方は明成の寵姫《ちようき》となり、えらび出された七人はその寵臣となり、いまや会津藩の内部では、実質上の藩士は芦名衆といってよい状態になっている。
先代|嘉明《よしあき》に従って伊予《いよ》からやってきた本来の加藤家の家臣たちが、いたずらに先代をしたって、当代の明成を軽んじ、ために明成の反撥《はんぱつ》をひき起したことは、芦名衆のつけ入る間隙《かんげき》であった。彼らはピッタリ明成の側につき、明成が何をしようとその忠実な協力者となった。
堀|主水《もんど》一件こそ、彼らにとって天来の好機であった。明成からみれば、堀主水が娘を側妾《そばめ》としてさしだすのを拒否したことから端を発した事件だが、彼らからすれば、主水が拒否したことがもっけのさいわいであった。事態は彼らの望んだとおりに進展し、堀一族は誅戮され、爾来《じらい》伊予以来の旧臣派は急速に凋落《ちようらく》した。
しかるにいま明成に万一のことがあれば、そのよりどころを失い、こんどこそ芦名一族の完全な滅亡を意味するといってよい。
漆戸虹七郎の面をうって氷のごとく冷たくするのは、秋風ばかりではなかった。
彼は一族に奮起をうながし、敵に対して万全の備えをかためさせるために、主君に先行して会津に長駆するのであった。
早朝に千住《せんじゆ》をとびだした馬は、はや十数里を走って古河《こが》に入った。その古河で本陣のまえをかけぬけようとして、彼はふと群衆があつまって、本陣の屋根をふりあおいでいるのに気がついた。
馬上で見あげて、虹七郎はぎょっとした。
本陣の大屋根の端にのっている鬼瓦《おにがわら》が夕焼けをあびて真っ赤なのだ。いや、それは夕焼けのせいではなく、朱塗りの面をかぶせられているのであった。
般若《はんにや》の能面。
彼は馬からとびおりた。群衆をかきわけて、「本陣の者はおるか」ときいた。亭主が見つかった。
「あれはどうしたのだ」
「へえ、いつあのようなものがあがったのか、手前どももびっくりしておるのでございます」
「亭主、こちらが明夜、会津の加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》さまのお宿となることは存じておろうな」
「はい、おととい江戸から加藤さまのお使者が参られて、その旨申し達せられました」
三日前、明成が帰国のことをいい出すやいなや、三人の武士がまず江戸屋敷をとび出して、本陣の予約をとるために、この奥州街道を北上したはずであった。数百人の供侍がいちどに宿泊するのだから、これは当然な手配である。
「亭主、まさか、ずっと以前から、あの般若面があがっておるのではあるまいな」
「気がついたのは先刻でございますが、ずっと以前から、そんなことはございませぬ。ほんのこの二、三日のことでございます」
漆戸虹七郎は凄《すさま》じい眼で大屋敷の般若面をふりあおいでいた。
主君明成が宿泊する予定の古河の本陣に、前もってあざ笑うようにかかげられている般若面。これが偶然のいたずらであるはずがない。きゃつだ。きゃつのしわざだ!
彼らはすでに主君明成の帰国を知っている。これはあるいは当然で、こちらの覚悟していたことだ。ただおどろくのは、それを知ることのあまりに早く、さらに先回りして、主君の本陣に般若面をかかげるという人をくった行動である。
おお、そうだ。彼らははやくも奥州街道を北上している。そのことに気がつくと、さすがの漆戸虹七郎も満面から血のひく思いであった。
先刻から屋根の面にぶきみさをおぼえていた本陣の亭主は、隻腕の武士のただならぬ形相にいよいよ恐怖して、
「お、お侍さま、あの般若面はどうしたことか、御存知でございますか」
虹七郎はわれにかえり、たたきつけるようにいった。
「あれはすぐに取りはらっておくがいい。放っておくとあとでたたるぞ」
そして、急ぎ足で馬にもどり、とび乗った。
「夜道も駈け通すぞ。よいか、行け」
ピシリと鞭うつと、またも疾風のように走り出す。北へ――
敵が先行していると知って、いちどひきかえし、明成の行列に警戒の注進をしようかと考えたのは一瞬のことだ。すぐに彼は思いなおした。なんとなく、敵がこの古河よりさらに先にいっているような直感があり、それを追いつつ捜してやろうという気になったのだ。
七人の女、ひとりの男、それらしい旅人の姿を求めて、月明の道に鉄蹄《てつてい》をとばしつつ、漆戸虹七郎の眼がひかる。――しかし、そんな影はどこにもみえなかった。
主君明成の三日めの宿泊地は新田の予定であった。
その宿場の本陣の前を通るとき、彼は大屋根を見あげた。
「……ううむ!」
虹七郎は思わずうめいた。そこにもまた般若面が口を両耳につりあげているのが、月光に浮かびあがってみえたのだ。
――してみると、明成の第一宿泊地|粕壁《かすかべ》の宿でも、じぶんが通るときは気がつかなかったが、本陣の屋根にはおそらく般若面がかかっていたに相違ない。
漆戸虹七郎が宇都宮を通りぬけたのは、夜明け方であった。日のみじかい秋の日に、すこしでも多く歩こうとするのか、チラホラ見えるのは宇都宮を早発《はやだ》ちしたらしい旅人の姿だ。
そのなかに、八つの僧形《そうぎよう》があった。網代笠《あじろがさ》に墨染めの衣をつけ、杖《つえ》をついた雲水の姿である。
ゆきすぎかけて、虹七郎はふいに馬を返した。
「卒爾《そつじ》ながら」
馬上から、虹七郎は呼びかけた。
いちどゆきすぎて、馬を返したのは、その雲水たちが網代笠の下に妙なものをかぶっていることに、ふっと不審の心を起したからだ。
そのむかしの僧兵や、ちかくは信玄とか謙信などの武将の画像によくみる袈裟頭巾《けさずきん》だが、それだけかぶっているのなら僧として異風というわけではあるまいが、さらに、その上網代笠をつけているのが、いぶかしい――と思った刹那《せつな》、虹七郎の手綱をひきしめさせたのは、その雲水が八人ということであった。もしや、と思ったのである。
「日光へは、この道を参るのでござろうか」
と、虹七郎は問いかけて、爛《らん》と眼をひからせた。
「いや、ちがいます」
「この道は奥州街道――白河《しらかわ》の方へゆくのでござる」
先頭の三人ばかりの僧が、網代笠をあげてこたえた。
虹七郎は失望した。声はいずれもしゃがれた声であったし、頭巾のあいだからのぞいているのは、あきらかに見おぼえのない男の、しかも老いた眼であった。
「左様か。いや、かたじけない」
彼は馬を、もういちど反転させた。――いま、日光へゆく道ではない、といわれたのに、平気でその道を北へ駈《か》け去ってゆく。
すると、砂塵《さじん》にかすむその影を見おくって、ぽつりとつぶやいたものがあった。
「漆戸虹七郎、ひとりさきに会津へいったな」
うしろの五つの網代笠のうちのひとつから洩《も》れたつぶやきだが、あきらかに柳生十兵衛の笑みをふくんだ声であった。
「何のためでございましょう」
と、いったのは、お圭の声だ。
「わしたちの会津入りを予測して、それをふせぐために先に走ったものであろう」
と、十兵衛は首をかたむけつつ答えた。
「しかし、いまの問いようは、あきらかにわしたちを疑っての探りだ。してみると、わしたちが明成より先に来ておることをすでに知ったものとみえるが、そのことを明成に知らせたかの。知らせてくれなければ、ちと困るが――そう知らせてくれると、明成の行列は待ち伏せのみを警戒して、うしろからついてくる一行には気がまわらぬということになるが」
「……いま、虹七郎を討てばようございましたに」
と、つぶやいたのはお沙和《さわ》の声であった。
「ふむ、いまのきゃつの様子では、わしたちを捜し、見つけ出したら斬ろうという面がまえであった。それで、わしたちがもっと先にいっているのではないかと思って、あわててすッ飛んでいったのだ。それが見当らぬとなったら、きっとまた引っ返してくるわ」
十兵衛は手の杖をとんとついた。
「しかし、きゃつ、難敵だぞ」
彼以外に四人の行脚《あんぎや》僧――お圭《けい》、お沙和、お鳥、お品と杖をついている。杖は仕込み杖であった。
先に立った三人だけが、ほんものの東海寺の坊さまで、あとの五人は偽《にせ》雲水であった。四日前、明成が帰国するということをきくや否や、夜を日についで先に奥州街道を急いできた一行である。
「引っ返してくれば、勝てるかな、十兵衛どの」
と、ほんものの坊さまのひとりがきいた。
「それはわからぬ」
十兵衛はくびをふった。実際十兵衛にも、あの漆戸虹七郎との立合いの結果いかんは予測がつかないのであった。ましてや、最初からの約束で、七本|槍《やり》衆を刃《やいば》にかけるのはじぶんではなく、かならずこの女たちにかぎるとしている。とすると――
「ただ、いまのところ、この女人たちには太刀打ちもできぬ。これだけはハッキリしております。拙者は断言してよろしい」
実をいうと、十兵衛が先刻、眼前に漆戸虹七郎を見つつ、拱手傍観《きようしゆぼうかん》して通したのは、それがひとつの理由でもあった。
「いやなことを断言するの」
雲水は苦笑した。
「それなら、会津へ入ってもこまるではないか」
「そこが工夫のしどころで」
「どんな工夫」
「それをこれから追い追いに工夫するのでござるよ。したがって、いまのいまは間に合わぬ、虹七郎が引き返してきても、実は痛し痒《かゆ》しです」
「しかし、貴公はさっき、虹七郎はわれらの会津入りにそなえて、防戦の準備をととのえに走っていったといわれたな」
「されば、会津は全土をあげてわれらの敵となるでござろう、まさに文字通り死地に入るわけです」
「おい、自信があるのか」
「あるといえば、うそになります」
「心ぼそいな」
「しかし、それゆえに、なおかつ敵をたおしてゆけば、敵の無念と恐怖はいかばかりか。それこそこの女人たちも敵の討ち甲斐《がい》があるというものでござるし、拙者としても久しぶりに生き甲斐をおぼえるほど面白うござる。いかにして敵を討つか――それは、敵状いかん、天の運、地の運、時の運によります」
「のんきといえばのんき、大胆といえば大胆――しかし、正直なところ、少々身の毛がよだつな」
「いや、御坊たちはほんの案山子《かかし》、なるべく御迷惑はかけぬ所存ですが」
「ふふ、いや、そんなつもりでいったのではない。われらにあまり斟酌《しんしやく》せられるな。和尚の御付託といい――なに、和尚の御申しつけがなくとも、このような美女たちのために一役買えるなら、たとえ往生しても坊主の本望と思うておるわ」
三人の坊さまは、カラカラと笑った。
これは数珠をもむか、木魚をたたく以外には腕の筋肉の使いようを知らない人々だが、しかし傑僧|沢庵《たくあん》が信じきった天空|海濶《かいかつ》の禅僧たちであった。
その名を、多聞坊、雲林坊、薬師坊という。――
宇都宮から北へ、さらに六里十一丁、喜連川《きつれがわ》の宿に到着して、漆戸虹七郎はようやくその本陣の屋根に般若面のかかっていないことを知った。
馬上で、彼はしばしば迷っていた。
敵はさすがにここまでは来ていない。主君の行列より先にまわっている奴があることはたしかだが、これよりまだ南にウロウロしている。おそらく、宇都宮から喜連川のあいだだ。
このとき虹七郎の頭には、宇都宮の町はずれで見た八人の雲水の姿は、まったく浮かんでいなかった。あのとき、ふっといぶかしんで調べたものの、面体は見知らぬ僧にちがいなかったし、そもそも女が雲水に化けるなどとは、常識を超えている。
ひき返して、捜索するか――しかし、敵が主君より先行しているという意外事をしったあとでは、彼の心は会津になお急いだ。それに関東から会津に入る道は、この奥州街道一つではないのだ。宇都宮から今市《いまいち》に入る日光街道もあるし、今市から会津に入る道も二つ三つはある。さらに中仙道を通って越後《えちご》をまわるという道だってあるのだ。
「そうだ」
思いかえして、また馬をとばす。
その喜連川の宿場を北に出たところで、果たせるかな、四、五騎の武士の姿を前方にみとめた。
「おおい、待て」
呼ばれて、手綱をひいてふりかえったのは、加藤家の侍たちであった。みな、陣笠、野羽織をつけている。さきに江戸を出て、明成の本陣の手配をしにきた連中だ。
「おれだ」
「おお、漆戸虹七郎どの、何か急用で」
「貴公ら、ここまでくる道中、不審な女のむれに気がつかなんだか」
「不審な女?」
「殿のおいのちを狙う奴らだ」
「そ、それは――拙者らまったく気がつかなんだが、例の堀主水の残党が、はやくも待ち伏せておると仰せか」
会津藩士のすべてが、堀の女たちの復讐《ふくしゆう》の経過を詳悉《しようしつ》しているというわけではないが、うすうすは知っている。とくに、お千絵《ちえ》など七人の女を見つけ次第、成敗するかひっとらえろというのは、芝の藩邸でひそかに下されていた厳命だ。
「しらぬなら、まあよい」
と、虹七郎はじれた。
「しかし、きゃつらが先行していることを、殿の御一行はまだ御存じないかもしれぬ。貴公らのうち二人ばかり、ここからはせもどって、殿に御用心あそばすようにいそぎ注進してくれ」
「はっ――しかし、御承知のごとき火急の御出立、本陣の手配が大仕事で、われら夜もねむらずかけつづけ、談判し、いまのところ手一杯でござるが――」
「たわけっ、ほかの場合ではない。殿のおんいのちにかかわるのだぞ。左様に骨惜しみする奴らがおるゆえ、加藤家が滅びるのだ。ゆけっ」
「漆戸どのは?」
「おれは会津に急を告げにゆく」
虹七郎は、馬に鞭《むち》をあて、蕭殺《しようさつ》たる乱雲のふきなびく北の山脈の彼方へ、凄《すさま》じい形相で疾駆していった。
話の道程は、奥州街道を南へかえる。
鳥毛の大槍《おおやり》を先頭に、会津四十万石加藤式部少輔の一行は、千住を出ると、一路北へすすんでいった。
刈りとられた田の水に、しきりに雁《かり》の影がうつる。武蔵野《むさしの》の秋の大気は澄みきって、行列は絵のように美しかった。――が、気をつけてみると、ふつうの大名行列とはすこしちがう。乗物をめぐって、両側に髭《ひげ》だらけの巨漢と大入道がヒタヒタとあるき、その前後左右を槍や鉄砲をかかえた甲胄《かつちゆう》の騎馬武者がものものしくとりかこんで、乗物もよく見えないほどなのだ。しかも、
「えーっ、下にーっ、下にーっ」
という大名行列特有の声もなく、まるで逃げるように早い足なみであった。
その行列がゆきすぎて、路傍に土下座していたふつうの旅人たちは、やっと立ちあがろうとした顔のまえを、また疾風のごとく砂塵《さじん》をまいて、逆に駆けもどる鉄蹄《てつてい》におどろかされた。
馬で走りすぎたのは、華麗な陣羽織をひるがえした十七、八の若衆であった。秋の日光の精のような美少年だが、その美貌《びぼう》を無惨にたてにふたつにきる赤い刀傷がある。香炉《こうろ》銀四郎である。
銀四郎は一里も駈けもどると、また馬をかえして行列を追った。
草加――越《こし》ケ谷《や》――大沢――と、行列が北へうごくのを追いつつ、香炉銀四郎は飽きもせず、この反転と追跡をくりかえしている。そのあいだ、眼はたえずするどく往還にくばられてゆく。――むろん、これは彼の哨戒《しようかい》行動であった。
明成の行列が、江戸から六里半、粕壁の宿に入っていたのは、その日の夕刻であった。これが第一の宿りとなる。そのころ、粕壁から二里以上も手前の大沢の宿場で、銀四郎の眼は奇妙な一団にそそがれた。
八人の雲水。――それが、網代笠《あじろがさ》の下に、さらに袈裟頭巾《けさずきん》で面をつつんでいるのだ。
これは翌る日の早朝になるが、漆戸虹七郎が江戸から二十七里の宇都宮で発見した八人の雲水とおなじ――すくなくともおなじ姿の雲水が、そこを北へあるいていた。
そして、虹七郎がふとあやしんだように、銀四郎も彼らを見とがめた。
「待たれい」
と、馬をとめて呼びかけた。
「御坊たち、どこまで参られる?」
「出羽の上ノ山まで参ります」
と、しゃがれた声で網代笠をあげたのは、あきらかに老いた眼であった。
「出羽の上ノ山へ」
心中、なんだ、と思いながら銀四郎は、しかたなしに問う。
「越後をまわらず、福島を通ってゆかれるか」
「されば、福島から米沢《よねざわ》を通ってゆこうと存ずる」
答えたのは、老僧とならんだ雲水の声だが、彼も、そのうしろの二、三人の僧も、網代笠をあげて馬上の銀四郎を見あげているが、あきらかにいずれも見知らぬ男の眼であった。
しかし香炉銀四郎は、さらにそのうしろの三人の雲水に視線をなげた。
まさか、その三人が、自分の探しもとめている人間だ、と気がついたわけではない。とはいえ、そのとき北から風が吹いて、こちらを見あげている五人の雲水の網代笠をあおり、うしろの三人は手をあげて、伏せたままの笠をおさえた。――その手甲をかけた腕のうごかし方に、銀四郎はふと漠《ばく》たる不審をおぼえたのだ。
毛すじほど気にかかったことで、どんなに無礼な行動でも平気で起す香炉銀四郎であった。つかつかと馬をすすめた。鞭をさしのばした。――その鞭で、うしろの雲水のひとりの笠を、ぽんとはねのけようとしたのである。
「……おおいっ」
声がきこえたのはそのときであった。
ふりかえった銀四郎は、もう粕壁の本陣に入ったはずの鷲《わし》ノ巣廉助《すれんすけ》が、鞭をあげて馬をとばしてくる姿を見た。
「銀四郎、早く来てくれ」
「どうしたのだ」
「敵は、先回りして、待ち伏せておるぞ」
「なに?」
廉助は馬上で歯をむき出した。
「粕壁の本陣の大屋根に、般若面がのってわれわれを迎えておった。むろん、きゃつらの仕業にきまっておる。本陣の主人もはじめて気づき、しばらく曲者《くせもの》を捜索してみたが、いまのところ見あたらぬ。しかし、敵が先に待ち伏せて殿を狙っておるに相違はない。殿にはいたく恐怖なされ、おぬしも早くきて護《まも》ってくれるようお望みなされておる。……来い、銀四郎」
「本陣の屋根に般若面」
銀四郎の歯が、きりっと鳴った。
「それはまことか。……さりとはにくい奴ら」
むろん、八人の行脚僧の影など、彼の視界からけしとんでしまった。たちまち馬を大きく反転させ、銀四郎は鷲ノ巣廉助と鞍《くら》をならべて、夕やけの下を北へ駈《か》け去った。
「……いや、あぶないところであった」
と、雲水のうち、最初に銀四郎と言葉をかわしたひとりが、ふりむいて、皺《しわ》の中の眼を笑わせた。
「見つけ出されても、わしは知らぬぞよ。ここには十兵衛もおらぬ」
うしろの三人の雲水は、いまはじめて笠をあげて、砂けぶりに消えてゆくふたりの馬影を見送った。――赤い夕日に、六つの瞳《ひとみ》がもえるようにかがやいている。
これは、お千絵《ちえ》とお笛とさくらであった。
「笠をあげられたら、ただ一打ちと存じておりました」
と、さくらが仕込|杖《づえ》をとりなおしてつぶやいた。
「見つかった方が面白いに――と、わたしは待っておりました」
異様に光る眼を、不敵に笑わせたのはお笛だ。
「待て待て、早まるな、十兵衛のおらぬところで手を出して、万一のことがあれば、わしが十兵衛に合わす顔がない」
「御苦労をかけまする。沢庵さま」
と、お千絵が網代笠をさげた。
沢庵は笑いを消し、森厳な眼を三人の女雲水にそそいでいった。
「あの若衆に、おまえら三人、所詮《しよせん》歯が立たぬぞよ」
武州《ぶしゆう》粕壁の宿。
古利根南岸にあるこの小駅は、夕刻から夜にかけて、ただごとでない騒ぎにつつまれた。
それでなくても、ふつうの旅人以外に数百人の加藤家の供侍たちが宿泊するのだ。本陣|高砂屋《たかさごや》彦右衛門方はもとより、あらゆる旅篭屋《はたごや》に、会津侍たちがあふれかえったことはいうまでもないが、それで迷惑したのは一般の旅客だ。ふつうなら、何月何日ごろにどこを大名行列が通るという噂は前もってながれていて、それを避けることができるのだが、こんどばかりはあまりに急な帰国であったから、よく情報がゆきわたっていなかったとみえて、夜になってこの宿場に入ってきた旅人たちは、旅篭に泊ろうとして泊れず、泊っていた客はたたき出される。――
それで、荷物をかかえて往来をウロウロしているところを、あっちこっちで血相かえた会津侍たちにつかまり、
「これ、面をみせろ」
「ちがう、ゆけっ」
「うぬら、じゃまだ、踏みつぶすぞ」
と、わけもわからないのに、誰何《すいか》され、検問され、つきとばされ、蹴《け》とばされる。
主君明成のいのちを狙う曲者が、この粕壁の宿に入りこんでいる。
――という指令に狂奔する加藤家の侍たちであった。しかも、その曲者は、例の堀一族の女たちだ、ときいたので、女の影とみるよりはせよって、その笠をはねのけてのぞきこむ。
女を探している――というささやきが、江戸からきた誰かの、探しているのは女ぐせのわるいという評判たかい加藤式部少輔だ、という話をきくと、悪大名の女狩りだ、という声に変って、いたるところで悲鳴やののしりがあがる。
その混乱も、ようやくおさまった夜ふけになって、本陣の高砂屋の前で、またひとさわぎが起った。
本陣の門には、加藤家の定紋七つ蛇ノ目を黒く染めた白麻の幕をはり、おなじく定紋入りの高張|提灯《ぢようちん》をかかげ、その上に関札がかかげてある。
関札とは、幅一尺、ながさ四尺の分厚の札を、一丈ほどの柱に高だかと立てたもので、その札には、
「加藤式部少輔様御泊」
と、かいてある。
その関札に気がつかなかったのか。いや、門の内外に眼をひからせて警戒している武士たちが見えないことはあるまいに、その門前にやってきた五人の雲水が、しめやかに読経の声をあげはじめたのだ。
「これ、坊主ども、この関札が見えぬか」
「今宵ここには会津の殿様がお泊りである。縁起でもない、あっちへゆけ!」
とびだして、叱《しか》りつける侍たちに、そのひとりが網代笠をあげ、
「いや、それは承知しておりますがの、この本陣にかかる雲気をうかがうに、何やら不吉な、あの世の匂いのする、魔性のものがとり憑《つ》いておるようでな。それをとりのぞいて進ぜるつもりで――」
と、澄ましていった。木の瘤《こぶ》みたいな老僧だ。
「不吉な、魔性のもの?」
と、会津侍たちはぎょっとしてふりかえり、本陣の屋根をあおいだ。夕方、ここについたとき、その大屋根の端にぶきみな般若《はんにや》面がかかっていたことを思い出したのだ。
しかし、むろん、いまはその般若面はとりはらわれている。
「それは、どのようなものだ?」
「されば、雲気ゆえ、俗人の眼にもみえず、口にも語りがとうござるが、心眼をこらしてみるに、女人のかたちをした煙のごときものが数人、屋根の上で乱舞しておるような……」
このあいだにも、陰気な読経の声は、うしろの四つの網代笠の下からながれだしているのであった。
「……何、あの読経の声は、行脚僧だと?」
門の中から、ツカツカと出てきたのは、香炉銀四郎だ。五人の僧のまえに立って、ジロリと見まわすと、
「おお、これはひるまの若いお武家」
と、向うから、なつかしげに声をかけられた。
「あなたは、会津の御家中でござったか。いや、いまも申したところじゃが、この本陣には、不吉な悪気がめぐっておる。くれぐれも、殿様にお気をつけられよ。――」
五つの網代笠があがって、銀四郎を見た。高張提灯に照らされたのは、先頭の老僧をはじめ、どれもひるま見た顔だ。依然として袈裟頭巾《けさずきん》をかぶっているから、見えるのは眼だけだが、いずれも悪念など塵《ちり》もとどめぬ、童児のごとき澄んでおだやかな眼であった。
「いらざることだ、会津の武士に怪力乱神を語るなど――」
と、舌打ちしたが、銀四郎といえども、本陣をうかがう曲者の存在を信じているだけに、この僧たちの言葉を笑いきれない。
「とにかく、左様なことより、読経の声そのものが不吉だ。殿も御不快におぼしめされている。はやくゆかっしゃい!」
と、美しいみけんに針をたてて、門の中にひきかえしていった。さすがの銀四郎も、ひるまの八人の雲水が、いま五人になっていることを気にもとめなかった。――
叱りつけられて、五つの網代笠は、スゴスゴと門を離れる。しかし、依然としてお経をとなえることをやめない。
半町も離れても、その合唱は、恐ろしく陰気で低音なのにかかわらず、そこが修行のせいか、どこまでも、しみ入るようにながれてくるのであった。
「待てっ」
ついに、たまりかねて、また数人の会津侍が追ってきた。
「その読経をやめぬか! 殿の御寝にかかわる、やめろ!」
声がやんだ。
武士たちが去ると、路傍からゾロゾロとちかづいてきたいくつかの影がある。
「なんだって? 殿様が寝られねえって?」
「ひとを、この秋の夜に追んだしゃがって――」
「てめえはヌクヌクとあたたかく寝ようってのがふてえ――」
会津の大名行列のために、宿に泊れず宿から追い出された連中であった。町人もいれば行商人もいる。浪人者もいれば山伏もいる。
――その貧相な浪人のひとりが、
「ふむ、これは面白いことを思いついた」
と、髭《ひげ》の中から白い歯をみせると、
「雲水どの、いま唱えられていたお経でござるな。あれは、なんというお経で」
「あれは、悪魔退散の雨宝陀羅尼経《うほだらにきよう》でござる」
「ほう、あほだら経――」
「いや、雨宝陀羅尼経――」
「その文句をひとつ教えては下さるまいか」
老雲水は浪人をみた。きいて何になさる、とは問い返さなかった。これも眼を皺《しわ》にうずめて、ニヤリと笑った。
「それはじゃ、よいか――のうぼば、ぎゃぼて、ほさだらさぎゃら、にりぐしゃや……」
「のうぼば、ぎゃぼて――それ、みんなで憶《おぼ》えろ、ほさだらさぎゃら――」
夜の道に、いっせいに読経の声が起こった。
ひとくぎり教えこむと、五人の雲水は笑いながら、ブラブラとあゆみ去ってゆく。粕壁の宿を北に出はずれたところで、三人の網代笠が、ふと路傍から立ってきて、いっしょになった。
「沢庵さま、今夜の宿がきまりました」
「ほ、宿があったか」
「あれでございます」
月光にひかる古利根の流れを背に、小さな地蔵堂の黒い影が浮かんでいた。
「おお、これぞまさしく仏の加護――では、仏さまの御手に抱かれ、ありがたいお経を子守|唄《うた》として眠ろうぞ」
粕壁の宿に、どこからともなく読経の大合唱がわきあがったのはまもなくである。
会津侍たちが血相かえて四方にかけだしたことはいうまでもない。
すると、いたるところ蜘蛛《くも》の子をちらすように逃げ出すのは、何十人ともしれぬ町人や行商人や浪人や山伏たちであった。逃げながち、いたちの最後ッ屁《ぺ》のように唱えている。
「のうぼば、ぎゃぼて、ほさだらさぎゃら、にりぐしゃや……」
宿を追ん出されて大名の横暴に腹を立て、声のつづかんかぎりわめきちらす大合唱であった。
あちらを走れば、こちらから唱える。高い樹《き》や屋根の上、はては井戸のつるべにつかまってやっている連中もあるようだ。
「これぞ甲州流十面埋伏の計、いや何十年ぶりかに雑兵を指揮してみたが、軍学というのは面白いな」
と、どこかの牛小屋の藁《わら》の中で、垢《あか》じみた浪人の先生が髭をなでていた。
「それ、やれ、のうぼば、ぎゃぼて……」
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僧 正
加藤明成の行列の第二夜の泊りは、下野《しもつけ》の古河《こが》であった。
そのむかし、いわゆる古河|公方足利成氏《くぼうあしかがしげうじ》が住んだ古河城は、いま小笠原《おがさわら》八万石の居城となっている。――
ここの本陣紙屋五郎右衛門方の屋根に般若面はなかったので、ひとまず胸をなで下ろしたが、泊ってから、話をきいておどろいた。般若面はやっぱりかかっていたので、それを二日前、片腕の騎馬の侍に注意されて、あわててとりはらったという。――
「……虹七郎だな」
と、一眼房《いちがんぼう》がつぶやいた。
加藤明成は鉛色の顔になって、唇をふるわせただけである。道中も、鬱々《うつうつ》と沈み込んで、話かけても、うなずく眼色がどこかうつろだ。曽《かつ》ての勇猛無比の荒大名の面影などはさらになく、江戸を立つ前に、あの般若面の男にいためつけられたのが、よほど骨身にこたえたらしいが、あの笑うにも笑えぬ、泣くにも泣けぬ大難を思うと、それも或いは当然かもしれない。
しかし、この人物に発狂されたり、病気になられたりしたら、七本|槍《やり》衆は万事休すなのだ。たとえ、どんなロボットであろうと、彼らにとっては生存にかかわる金看板なのである。
それが、夜になると、寝所で、
「誰かおらぬか」
と、呼ぶ。
「いま、雨戸の外で妙な音がきこえたぞ」
「あれは、秋風に木の葉の散る音でございます」
十分もたたぬうちに、
「誰ぞあるか」
「はっ」
「遠くで読経の声がする。あれを、やめさせろ」
「はっ――しかし――われわれには、何もきこえませぬ。あれはこの宿の外を流れる思川のせせらぎの音ではございますまいか」
半刻《はんとき》たつかたたないうちに、
「これ、誰かある。――」
宿直《とのい》の侍たちの詰めた隣室をおいた座敷で、
「情けないなあ。……」
と、香炉《こうろ》銀四郎が舌うちした。
「まるで鶏のしめ殺されるような声ではないか。あれでも四十万石の大守か」
「しかし、あれでは殿のおからだがもつまい」
と、鷲《わし》ノ巣廉助《すれんすけ》がふとい腕をくんだ。
「昨夜もよくお眠りにならなんだようだが、日中もお乗物の中で、ぶつぶつつぶやいておられるお声をきくと――堀、堀、堀|主水《もんど》、まだ余にたたるか、これ、そのように余をにらむな。――どうやら、堀主水の亡霊と話しておられたらしい」
青入道の司馬一眼房《しばいちがんぼう》の顔はいよいよ蒼《あお》ざめたが、
「殿よりも、こっちのからだがもたぬ。江戸からわずか十数里、会津《あいづ》までまだ五十里もあるというのに、いまからこのざまでは。――」
「女がおらぬのがわるい」
と、突然、香炉銀四郎がさけんだ。
「殿に女がはべっておらぬのは、植木に水なく、行燈《あんどん》に火なく、風車に風のないようなものじゃ。しおたれて、御生気がないのもこりゃ当然。……江戸から女をつれてこなんだのが手ぬかりであったなア」
「なるほど、あの殿なら……平生の御慣習としても、そういうこともあるかもしれぬ」
「しかし、江戸屋敷の女は、ひとりのこらず逃げられたしのう」
「なに、この古河で求めればよい」
と、銀四郎はケロリとしていった。
「この古河で? 銀四郎、いかに何でも四十万石の大名だ。女なら、だれでもよい、給仕の下女や飯盛女郎でもかまわん――というわけにはゆかんぞ」
「なに、女は美しい女ならば素姓は問うまい。どうせ、道中のいっときしのぎだ」
「だれか、思いあたる女があるのか」
「ある、この本陣の娘だ」
「なに、本陣の娘、いつ見たのだ」
「この夕刻、庭でチラリと――奉公人にそれとなくきくと、年は十九、名はおとね――本陣の娘なら、まず辛抱できぬということはあるまい」
「しかし、それを殿の御|側妾《そばめ》に――くれるかの」
「突然、申し込んだところで、それはくれまい。――それに、たとえ千両つんだとて」
と、銀四郎はうす笑いした。
「いざとなると、娘は逃げだすかもしれぬ。なんとなれば、おれはその娘にこれからの夜に殿のおとぎを申しつけるのみならず、日中もおなじ駕篭《かご》にのせてつれてゆこうと思う」
「おなじ駕篭に?」
「いざとなれば肉の盾にもなろうし、殿にとっては気ばらしの御道中になろう。あたたかい柔らかい肉につつまれてゆられてゆけば、殿もここちよくお眠りなされようというもの――」
「お、それは妙案! 例の花地獄とはまた変った趣向――」
「銀四郎、ぶじ会津にかえれば、また御加増になるぞ」
「そんなことを望んで思いついたのではない。おれの忠心の発するところだ」
銀四郎は真珠のような歯をみせた。この少年の笑顔は、ぞっとするほど妖艶《ようえん》だ。
「ただし、あの殿のこと、御駕篭の中で何をなさるかしれたものではない。娘はたまらず逃げ出そうし、ひょっとすると、いのちも保証できぬ。されば、はじめからことわって娘をもらいうければ、あとで面倒のおこるおそれがある」
「では、どうする」
「さらうのだ」
「本陣の連中に気づかれずにさらえるか」
銀四郎はすっと立ちあがった。
「おれにまかせろ」
大名が宿泊するとなると、本陣はたいへんだ。さまざまの面倒な支度、あしらいもさることながら、それは本陣としてのつとめだからやむを得ないが、宿の家族は目ざわりになるといって、みんな離れとか隅っこの座敷に追いこめられる。
大名およびその重臣の食事は、ぜんぶ大名つきの膳部方《ぜんぶかた》がつくり、夜具、食器、屏風《びようぶ》、風呂桶《ふろおけ》までじぶんのものをもちこむのだから、いまの天皇の行幸もこれほどではあるまい。
もっとも、むろん全部の道具、食器をもちこむわけではなく、家来の大半は本陣のものをつかうのだが、その大名が立ち去ると、いつもあとで盃《さかずき》とか燭台《しよくだい》とか煙草盆などだいぶ紛失していたというから、集団旅行のたちのわるさは、いつの世もおなじことだといえる。――というより、いわゆる団体旅行の元祖というべきものかもしれない。
本陣紙屋五郎右衛門の娘おとねは、離れで眠っている間にさらわれた。ふっと異様な匂いに、夢の中で振った手がふと髪の毛のようなものにふれて眼をあけたとき、頭上いっぱいにひろがる黒い霞《かすみ》みたいなものを見、はっと息を吸いこんだとたん気を失ったのである。
失神からさめたのは、庭の薮《やぶ》の中であった。
おとねは、はじめそれも夢の中かと思った。竹林にしずみかかる残月を背に、そこに立って見下ろしているのは、暗いひかりにも浮かびあがるような美少年だったからだ。――すぐに彼女は、その美貌《びぼう》をたてにきる恐ろしい刀痕《とうこん》で、ひるま庭でふとみた加藤家の家来であることに気がついた。
「すまぬことをしたな」
と、少年はやさしくいった。
「かようなことをしたのは、そなたにたっての頼みがあるからじゃ」
彼はかがみこんで、おとねを抱き起しながらいう。――
「会津四十万石をかけて、そなたに頼みたいことがある。そなたの家も、われらが殿の江戸への御往来のたびに宿をする家、加藤家への恩義は重々存じておろう」
「……たのみとは、何でございましょう?」
「殿を道中おなぐさめしてもらいたい。わが殿は、御身のまわりに女人の気なくば、実はいっときも平常ではおわさぬ御病気をもつお方なのじゃ。それゆえ、そなたに、殿といっしょに駕篭にのっていってもらいたい――」
「殿さまとごいっしょに――いいえ、そんなことは、いやでございます」
「いやといっても、それは通らぬ。いやと申すなら、この本陣がつぶれる。――」
ひくい声だが、恐ろしい圧倒感をもつ香炉銀四郎の声であった。おとねは、戦慄《せんりつ》した。
「あの、父や母に申して下さりませ!」
「わけあって、そなたの父や母にも知らせることはならぬ。だまって会津にゆき、お部屋さまになってくれるか。いやならば、そのときに送りかえしてつかわそう。千両の金をそえて」
「いいえ、いま、いやでございます――それだけは、どうぞ――」
身もだえして、逃げようとするおとねの前後を、ふっとべつの二つの影がふさいだ。
「娘、見ろ」
と、前に立った男がいった。見あげるような髭面《ひげづら》の巨漢だ。
それが指をあげて、そばの青竹の幹をついた――すると、その竹の幹に、ぷすっと指だけの穴があいた。
「いやだというなら、この穴がおまえののどでも胸でも、望み通りのところにあく」
そういいながら、鷲ノ巣廉助の指のうごくところに、竹林の四、五本の幹に、点々と黒い穴があいてゆく。
見ているうちに、おとねは恐ろしさのあまりまた気が遠くなって、よろよろと両腕をついてしまった。
その翌朝だ。
明成が睡眠不足のやつれた顔で玄関に出たとき、駕篭の両側には、鷲ノ巣廉助と司馬一眼房がピッタリとついて坐《すわ》っていた。式台の下にうずくまった駕篭かきも、えりぬきの屈強な大男だ。
廉助が乗物の戸をあけた。
「……ほう、これか?」
と、のぞきこんだ明成は、蒼い顔で、ニヤリと笑った。――駕篭の中には、娘がひとり、恐怖の眼を見ひらいて坐っていた。
「……よう支度した」
と、明成はほめた。気に入ったらしい。そのノッペリとした顔に、いくぶんか生気がよみがえったようである。
身をかがめて、乗物に入る。――ひとりでさえいっぱいになる狭い駕篭の中で、娘は恐怖のあまり身をくねらせたが、声も出ないようであった。恐ろしい髭侍が昨夜からそばにピッタリとついている上に、眼前に、現実に四十万石の太守をみると、大名の威光というものを、本陣の娘として骨の髄まで知っているだけに、抵抗する気力もないとみえる。――
むろん、乗物の戸をあけた方角に、本陣の人々がいるわけはない。父の紙屋五郎右衛門は、玄関から門へいたる砂利のあいだに、蒼ざめた顔色で土下座している。
「殿様、お発《た》ちい――」
と、香炉銀四郎がよく透る声でさけんだ。
紙屋五郎右衛門をはじめ、本陣の家族や使用人がいっせいに騒ぎ出したのは、会津の大名行列が古河の宿を離れるか離れないうちであった。
娘がいない――そのことは、けさ早くからわかっていて、それがようやくただごとでないことに気づいて狼狽《ろうばい》し、しかも殿様がまだ宿泊しているのでさわぎ出すこともならず、心もそらに、いままで手足を砂利にむすびつけていたのであった。
「お嬢さまはどこに」
「おとねさま、おとねさま――」
必死にさけびかわしつつ、本陣は上を下への大騒動になった。
すると、混乱する本陣の門前を、ふと通りかかった八人の雲水が、何気なくこの騒ぎの原因をきいて、網代笠《あじろがさ》をかしげた。
「本陣の娘が消えたと?」
と、老僧のつぶやく声がきこえた。
「ほかの大名ではない。女さらいには、前科があるぞ」
「えーっ、下にーっ、下にーっ」
古河から一路北へ、秋晴れの奥州《おうしゆう》街道を、加藤家の行列は進んでゆく。
ここまできて、はじめて大名行列らしい声が出た。これは香炉銀四郎が先払いの武士に命じてその声を出させたせいもあるが、主君の乗物を中心に、何となくあらあらしい生気が発しはじめたのを、犬が主人のきげんを敏感に看取するように、供侍たちが見てとったからである。
が、沿道に土下座する人間のだれが、まさかこのいかめしい乗物に、大名が女と相乗りでゆられていようと想像するだろう。
殿に女が侍《はべ》っておらぬのは、植木に水なく、行燈《あんどん》に火なく、風車に風のないのも同然――と銀四郎がいったが、よくいった。
せまい乗物の中で、明成の眼は酔ったようなひかりをおび、唇はぬれて、
「こわがるでない、これ、近う寄れ」
近う寄れ、といったって、これ以上近く寄れるものではない。――おとねは、乗物に背をおしつけて、全身をふるわせていた。
豪奢《ごうしや》な漆《うるし》と金具がきらめいているとはいえ、しょせんは木の箱だ。戸に鍵《かぎ》がかかっているわけではない。しかし、すぐ外に、あの髭侍と大入道がくっついてあるいていることをおとねは知っているし、それから鉄砲をかかえた十数騎の蹄《ひづめ》の音が周囲をつつんでいるし、さらに何百という供侍の足音が、ざっざっ、とひびいている。これはおとねにとって、鉄の箱にひとしかった。
「これ、娘、とね、とか申したな。美しい顔をしている。本陣の娘としておくのには惜しいと思ってな、余の側妾《そばめ》にしてつかわすぞ。会津へゆけば、栄耀《えいよう》栄華は心のままじゃ」
ゆれる駕篭《かご》の中で、明成はしだいに娘の足の下に、じぶんの膝《ひざ》をわりこませる。娘がからだをくねらせてもだえると、明成の膝はいよいよふかくくいこんで、ついに娘をじぶんのあぐらの上にのせてしまった。
「あの、おゆるしなされて下さりませ……」
「いや、苦しゅうない、ふとっておるようでもかるいからだじゃ。これ、遠慮なく両方の足を、余の腰のわきにのばせ」
苦しゅうない、といったが、柔かい女のからだを膝にのせて、明成は実際痛みも重みも感じなかった。鞭《むち》をもって女にどんな恥ずかしい姿態でも強要して、そんなことには麻痺《まひ》しているはずの明成だが、駕篭で道中しながらこんなことをするのははじめての経験だから、新鮮で、物珍らしくて、満悦その極に達している。
「えーっ、下にーっ。下にーっ」
冷たい秋風も戸にさえぎられ、戸の御簾《みす》を通すのはあたたかい日光ばかりで、駕篭の中はオンモラと蒸れるようだ。犬みたいに鼻で娘の胸もとをかきわけ、明成は、日光ばかりではなく、身もだえする女の芳醇《ほうじゆん》な香に酔うた。
古河から間々田《ままだ》へ、小山へ、小金井へ。――
第三夜の泊り、雀の宮の本陣についたとき、何をされたかおとねは半裸にちかい姿となって、グッタリとなっていた。
駕篭の相乗りは道中のなぐさみ、宿に泊ればもちろん伽《とぎ》を申しつける――というのは、七本|槍《やり》衆の最初からの意図であったが、ふしぎに明成は、新田の本陣の式台で、グッタリとなった娘を見下ろして、ニヤリと笑い、
「今宵は休ませてやれ。……すこし疲れたようじゃが、すぐ馴《な》れるわ」
といったきり、ひとりで奥へ入っていったのは、彼自身もたんのうしたのか、それともその日の快楽が気に入って、また明日の愉《たの》しみに獲物をとっておく気になったのか。
その翌日。きょうも、自然だけは清朗な秋晴れだ。
おとねは、はやくも駕篭になげこまれていたが、どんな休養をとらされたのか、きのうとおなじ、半病人のような姿であった。
明成だけはたしかに以前のような妖《あや》しい精気にみちて、また乗物に身を入れた。
行列は宇都宮へむかってすすみ出した。――一里もゆかないうちに、駕篭の中からは、泣くとも笑うともつかぬ、たえがたいような娘のうめきがもれはじめた。
「あの、おゆるし……あっ、あっ」
それに明成の異様におし殺したような、きちがいめいたふくみ笑いがからむ。ついに娘の声は悲鳴と変った。
「助けて……だれか、助けて下さいませ!」
両側をあるく司馬一眼房と鷲ノ巣廉助は、顔見合わせて奇妙な笑いをうかべ、駕篭をとりかこむ騎馬隊も何やら放心状態になった。そのとき道をはさむ亭々たる杉並木の一方の陰から、フラフラとあらわれた黒い影が、すぐ傍によるまで気がつかなかった。
「もうたまらん。助けてやらずばなるまい」
その大声ではじめてみなふりかえって、彼らは路上に網代笠をかぶった雲水を見出した。ちらっと横をみれば、松の木立ちの下に、まだ六つ七つ網代笠が土下座をしている。
「これ、無礼者! ひかえおらぬか!」
「会津の加藤|式部《しきぶ》少輔《しよう》様御帰国の御道中であるぞ!」
一眼房と廉助が眼をむいて叱咤《しつた》するのに、
「いや、殿様の御帰国はちっともかまわぬが、娘もいっしょにつれてゆかれるのはこまる」
ユラユラと笠をふり、つぶやくようにいう声は、あきらかに老人のものであった。
「娘? どこに娘がおる?」
「いま、声がきこえた。殿さまのお駕篭の中に」
「た、たわけっ。――お乗物に召されておるのは、殿のお部屋さまだ」
「ちがう、ちがう。古河の本陣紙屋の娘おとねという――」
「こやつ、おかしな坊主め、さては古河から何かきいてきたか。要らざる口をきくと、そのままに捨ておかぬぞ」
「いや、わしも口はききとうないが、紙屋五郎右衛門夫婦の嘆きを見るとな、出家としてやはり知らぬ顔の半兵衛はできぬ。これでも、ここまでいろいろと思案して、遠慮しておったのじゃが」
「これ、待て、うぬが何者であろうと、娘はかえすことはならぬ。ゆけゆけ、ゆかぬか!」
鷲ノ巣廉助の眼が、ぎらっと殺気にひかった。
網代笠の下を、さらに袈裟頭巾《けさずきん》で秋風をふせいでいるが、声からしてあきらかな老雲水は、鷲ノ巣廉助には眼もくれず、
「紙屋の娘御、そこにあるな、返事なされ」
と、呼んだ。
――ところが、駕篭の中では、何のいらえもない。おとねの声はあれっきりきこえてこないのであった。老雲水は、いささかあわてた。
「これ、娘御、声を出しなされ、おる、といってもらわねば、わしがこまるが」
駕篭はむろん停止し、それを中心に先行の武士たちも、あとにつづく侍たちもかけあつまって、黒い壁のようになっていた。その壁を、
「どけどけ」
馬でかきわけ、入ってきたのは香炉銀四郎だ。いままで、例のごとく行列のうしろをゆきつもどりつして哨戒《しようかい》していたとみえる。
「また、あの坊主どもか」
馬上で、はたと見すえたかと思うと、あごをしゃくって、
「廉助、斬ってしまえ」
「おれも、そう思っておったが、相手が僧侶ではな、と、ちとためらっておったのだ」
「いいや、おとといの夜、粕壁で、読経でわれらを悩ました張本人はこやつらだぞ。素姓はわからぬが、何となく気にかかる坊主ども、二つ三つそッ首ぶッぱなせば、あとの奴らが変った音《ね》を吐くかもしれぬ。斬れ」
と、さけんで、じぶんも鞍《くら》の上で刀の柄《つか》に手をかけた。この少年は口も早いが、手はそれよりもまだ早い。抜かぬまえに、はやくも殺気の稲妻が、老雲水の網代笠めがけてほとばしったようであった。
「……あっ」
どこかで、女の声がした。みんなきいたが、それは駕篭の中からだと思った。だから、杉木立の下にうずくまっていた七人の雲水のうち、三人がさっと杖《つえ》をひろったのに気がついた者があったか、どうか。――空を覆《おお》う杉の枝からもれる秋の日光が、その杖のどこかで、キラと冷たい鋼《はがね》のひかりをはねた。仕込み杖が、鞘《さや》ばしりかけたのである。
そのとき、行列の先頭の方でただならぬどよめきが起った。
街道のゆくてから、べつの行列がやってきたのだ。行列、といっても、むろん大名のそれのような大袈裟なものではない。乗物をつつんで四、五人の武士、それに十人あまりの僧ばかり、いともしずかにさしかかったのを、みんなこちらの騒ぎに注意をうばわれていて気がつかず、ふりかえったときは、ほんのそこまで、すれちがいに進んできていたのである。
それにしても、加藤家の鳥毛の大槍、金紋の先箱がみえぬこともあるまいに、なんたる横着、大胆な一行か。――さすがの一眼房たちが、制止するより気をのまれて、眼を見張って見まもり、わずかに銀四郎が、
「また、坊主か――」
と、うめいたとき、老雲水が何に気づいたか、
「これは、めずらしや、大和尚」
と、呼びかけた。
たしかに、大和尚ときこえた。こちらの行脚僧は、例の笠《かさ》と頭巾で顔はよくわからないが、その声の様子から、少なくとも五十や六十ではない年齢と思われる。その雲水が「大和尚」と呼ぶ人間はだれか?
見ていると、老雲水は、その乗物にちかづいて、側にならんであるきながら、何やら話しかけている。言葉はわからないが、ひどくなれなれしい語調だ。しかし、向うは、その乗物の戸もあけない。
あっけにとられ、じっとこの光景を見まもっていた司馬一眼房が、ふいにふりかえり、
「ここは宇都宮の手前だな」
と、きいたかと思うと、
「もしや――」
と、うめいた。このとき一眼房も、その乗物の人物の正体について何やら感づいたらしく、ただならぬ狼狽《ろうばい》の相をみせて、
「いかん。いそぎ、お駕篭をすすめよ」
と、明成の駕篭に手をふった。
しかし、おそかった。老雲水がふりむいて、ひどくおごそかな声でいったのである。
「法印、大和尚、南光坊天海大僧正のお通りでござるぞ。御会釈なされ」
あっ……というような、しかし声ではない声がはしったかと思うと、加藤明成の駕篭はどんと地におちていた。鷲ノ巣廉助と香炉銀四郎は思わずひざをつき、会津の供侍たちもいっせいにベタベタと大地に坐《すわ》っている。
南光坊天海といえば、当年百幾歳とかいわれ、神君家康公ですら師礼をとった大和尚、柳営にあって「黒衣の宰相」と呼ばれている神秘の大僧正だ。東叡山《とうえいざん》寛永寺の開基、日光山輪王寺の開山――ほんのいま、司馬一眼房が、「ここは宇都宮の手前だな」ときいて、「もしや――」と狼狽したのは、このあたりを往来する大和尚といえば誰か、ということが直感的にあたまにひらめいたからに相違ない。これは、天海大僧正が、日光の輪王寺から江戸にかえる道中であった。
――「いかん!」と、一眼房がうめいたというのには、ある理由がある。
そもそも大名と大名が道中で行きあえば、先駆の者が、これを告げる。おそらく加藤家の先払いの武士もいちどは誰何《すいか》したものの、向うの供侍から素姓を名乗られて、あまり思いがけない名なので、あっと息をのんだり、足をすくませてしまったのではあるまいか。なぜなら、大名同士なら、駕篭《かご》のなかばをあけ、目礼してゆきちがうだけだが、相手が御三家なら、駕篭をおりて挨拶《あいさつ》しなければならぬ。むろん天海は三家ではないが、その実は三家以上の大老師、こちらが当代の将軍であっても、乗物の戸をあけて会釈くらいはするだろう――一眼房が、あわてたわけだ。
天海の駕篭はちかづいてきた。
老雲水が叱咤した。
「式部少輔どの、お耳がないか、天海大僧正でござる。御会釈なさらぬか」
一眼房は、全身を胴ぶるいさせて、主君の駕篭の戸をあけた。中から、女を抱いて、眼をうつろにひらいた明成の姿があらわれた。女は一糸まとわぬ裸であった。
絵を鑑賞するには、場所というものがある。洋間に墨絵を飾ってもそぐわないし、茶室に油絵をかければぶちこわしだ。
いま、人々は絵と背景との異様な対称を見た。
秋天を黒ぐろとさえぎる杉並木、その下にむらがる大名行列の行装――その中には甲胄《かつちゆう》をつけた騎馬隊すらある。このあくまで森厳な背景にはめこまれた一枚の絵、それはまたこのうえもないなまめかしい秘画であった。
世にこれほどの不釣合いはないが、あまりに不釣合いすぎて、これはむしろ夢魔の世界の幻燈でも見るような気がする。――あらかじめ承知していた七本槍衆ですら一瞬、うなされたような眼でこの光景を見まもったくらいである。
が、見ているのは、むろんじぶんたちばかりではない。すぐ眼前の乗物の御簾《みす》を通してこれを見ているものはだれか、ということに想到したとき、やむを得ぬ破目とはいえ、彼らは全身冷汗にぬれる思いであった。いうまでもなく、黒衣の宰相、天海大僧正。
加藤明成がほとんど自失の状態におちいったのは当然であるが、おとねもまた全裸のすがたを白日にさらされて、しばし麻痺《まひ》したようであった。
はじめて声をかけたのは老雲水である。
「おとねどの、ござれ」
おとねは眼をひらき、ふいに身をもがいた。
「これ、きものを忘れるな」
老雲水はぬかりなく注意する。おとねは腰のまわりにまつわっていたきものをつかむと、それをひきずって、よろめくように駕篭から逃げ出した。
「いやいや、そちらへ、そちらへ」
老雲水は、少々あわてて手をふると、
「では、大和尚、拙僧はこれにて失礼」
会釈して、おとねをかばうようにして、杉並木の方へつれていった。すると、そこにうずくまっていた七人の網代笠の行脚僧がしずかに立って墨染めの衣の輪のなかに、娘の白いからだをつつんだ。おとねがきものをまとうのを、外の眼からさえぎったのである。
ふたつの行列のあいだに、しばし、白じらしい沈黙がながれた。
やがて、向うの供侍があごをしゃくると、天海の乗物がしずかにあがる。――この間、ついにその乗物の戸はいちどもひらかず、そのままゆこうとしたのである。
「待たれい!」
そのまえに走り出したのは、香炉銀四郎であった。
「御無礼であろう」
満面を朱にそめてさけんだのである。司馬一眼房と鷲ノ巣廉助が仰天して、制止するいとまがなかった。
「いかに柳営の尊崇あつき南光坊天海どのとて、四十万石の大名に道中挨拶させて、一片の御会釈もなく通りすぎられるとは、あまりな御仕打とは思われぬか」
すると、乗物のなかで、しゃがれた声がきこえた。
「駕篭をあけなんだのは、見ぬが礼と思うたゆえじゃ。そちらで、この上とも恥を見せたいと申すなら、見てつかわそう。戸をあけよ」
乗物の戸はあけられた。――中に、白と紫の影がおぼろに見えた。
白いのは髯である。紫の衣にかけ袈裟《けさ》も覆うばかりにゆたかに垂れていた。人間ではない。鶴の化身のような気がする。むべなり、天海僧正は、実にこの年、百七歳ときく。
この神韻にうたれて、明成をはじめ、司馬、香炉、鷲ノ巣、その他、加藤家の家来たちは、思わずべたと手をつかえようとした――いや、手をつかえたのは供侍たちだけであった。
いちど、身を伏せかけて、次の瞬間、明成と七本|槍《やり》衆は電撃されたように硬直し、とび出さんばかりの眼で、この神秘の僧正を見まもったのだ。
百七歳の天海である。いまやこの僧正は、ほとんど俗人の前に姿をあらわさない。神君家康の死後二十数年ほとんど江戸の大城に登城すらもしないと聞く。もし諮問《しもん》することがあれば、将軍みずから寛永寺に赴いてきくとさえいわれる。――実のところ、明成も、いままでこの僧正をその眼で見たことはないのだ、いわんや、七本槍衆に於てをや。
それにもかかわらず、彼らは驚愕《きようがく》した。この世のものではないような眼で凝視した。
それから、明成は、ひいっ――と、のどから風笛に似た声をもらしたのち、こううめいたのだ。
「……芦名《あしな》銅伯!」
つづいて、三人の七本槍衆も、地に爪をたてていざり寄りながら、あえぐように、
「……ど、銅伯老ではござらぬか?」
と、いった。
乗物の中の天海は、しかし微動だもしなかった。いま、奇怪な名を呼ばれても、寂然《じやくねん》として加藤主従を見すえている。暗い駕篭の中で、百七歳の老人とは思われない――いや、人間とは思われないような眼が、燦々《さんさん》と青くひかっていた。
すぐに、七本槍衆のうごきはとまった。
「……ち、ちがう!」
「……銅伯老のひげはくろい!」
「……似てはいるが、別人だ!」
昏迷《こんめい》したつぶやきが交されると、三人はあまりな人ちがいに面目を失って、そのまま地にひたいをつけてしまった。傍若無人な銀四郎さえも。
すると、そのとき、乗物の中から、また僧正の声がきこえたのである。
「その方ども、芦名の残党か?」
はっとして、ふたたび顔をあげる。三人を見おろした眼は、依然として青い炎のようにひかっていたが、ふいにそれがふとゆらめいたようであった。三人には、思いがけなく涙と見えたのだ。
その刹那《せつな》、駕篭の戸ははたと閉じられた。天海みずから閉じたのであった。
「帰って、銅伯に告げよ」
声は森厳であった。
「悪業はきこえておる。悪はついに天に勝たず、なんじは芦名一族を滅ぼす気か、と兵太郎が申したと告げよ」
痴呆《ちほう》のごとく、アングリと口をあけている明成と七本槍衆の前で、
「ゆけ」
駕篭はあがり、ふたたびうごき出した。通りすぎながら、もういちど声がきこえた。
「うぬら、わるい者を敵に回した。芦名衆を滅ぼしとうなければ、少なくともその方ら三人、敵に首をささげるのじゃな。さもなくば、芦名一族は地から絶えるぞよ」
ぶきみな声の余韻をのこし、行列は去ってゆく。――四十万石の太守たる加藤明成には、ついに一言の挨拶もないままに。
三人は茫然《ぼうぜん》として顔を見合わせた。
「……銅伯老を知っているのだ」
「……芦名を知っておるのだ」
「兵太郎が申した、とは?」
つぶやいて、司馬一眼房は明成をふりかえり、
「殿、銅伯老より、いままで何かおききあそばしたことがございまするか?」
「きかぬ。おなじ芦名の一族たるその方らこそ、何か知っておるのではないか?」
鷲ノ巣廉助がうめいた。
「音にきこえた天海僧正が、芦名一族を知り、芦名銅伯を知っておるとは、思いもよらなんだ! しかも、天海と、銅伯老とはたしかに旧知のあいだがらだ!」
「旧知どころか、ひげこそ黒白のちがいはあるが、顔はそっくり――、おお、いま気がついたことじゃが、銅伯老も百七歳、あの僧正も百七歳というではないか!」
と、香炉銀四郎が立ちあがって、杉並木の後方にきえてゆく天海の行列を見送り、思わず二、三歩追おうとして、はたと立ちどまり、
「それにしても僧正は敵か味方か?」
「何やら、うすきみわるいことを申したぞよ」
と、一眼房がじいっと眼をひからせてかんがえこんだとき、銀四郎はふいにあたりを見まわした。
「おお、さっきのおいぼれ雲水はどこへいった? きゃつもまたえたいのしれぬ奴、それにしても、いま僧正にひどくなれなれしげに何やら話しかけておったが、きゃつ、僧正の素姓について何か知っておるかもしれぬ」
「おらぬ! たしか八人おった坊主ども、一人もおらぬ!」
「娘の姿もみあたらぬぞ!」
いかにも、彼らの姿はいつのまにか忽然《こつねん》と消えている。杉並木のうしろに枯野のすすきが、茫々と日にひかってなびいているばかりであった。
「娘がおるのだ。あれほど弱りはてておった娘をつれて、それほど遠くへ逃げたわけがない!」
「よし、そこに三、四十人をのこし、御行列はさきにやれ」
「捜して、きゃつらをひっとらえろ!」
三人に指揮されて、加藤家の供侍たちはいっせいに杉並木から両側の枯野へ散った。
おかしい。
きゃつもまたえたいのしれぬ奴、と銀四郎はいった。最初から、虫の知らせか、何だか気にかかる雲水たちであった。それが、粕壁の宿の読経の大合唱で悩ませたことといい――これは、あとであのいたずらをした町人のひとりをつかまえて、かならずしもこの行脚僧たちがそそのかしたものではないことがわかったが――いま古河本陣の娘をさらっていった手際といい、どうしてもただものではないような気がする。
とはいえ、彼らを、まさか敵の一味だ、と思っていたわけではないのだ。さがして、つかまえろ、といったのは、もしかしたら天海僧正の素姓を知っているのではないか、という疑いと、それから、娘を救っていった大胆な行為に対して、ひとつ眼にものみせてくれなければ、という怒りのほかに何もなかった。
ところが、彼らは消え失《う》せてしまった。
街道を南にも北にも逃げていったということはあり得ない。そこには、こちらの行列がつづいていたのだから。
かんがえられるのは、杉並木の背後にひろがるすすき野だが、それにしても、天海僧正に気をとられ、彼らから眼をはなしていたのはほんのしばしのあいだなのに、三、四十人の加藤家の供侍たちが、その尾花を散らして枯野をかけめぐっても、彼らの姿はどこにも見あたらないのであった。
「きゃつら、いよいよ怪しき坊主どもだ!」
銀四郎はついに本気になって、爛々《らんらん》たる眼で野を掃いて、ふっと一本の欅《けやき》の大木を見あげた。
葉はむろんおちつくしているが枝は天を覆うばかりの巨木だ。それは杉並木のすぐうしろにあり、またあまりに大きいために、かえって人の注意の外におかれた。その根にちかいあたりは、人の丈ほどあるすすきにつつまれている。――
「はてな?」
ふと、銀四郎はその方向へ、五歩六歩、あゆみかけた。
そのとき、街道の北の方から鉄蹄《てつてい》のみだれる音がちかづいてきたと思うと、行列が騒然とした。
身をひるがえして、銀四郎は街道にはせもどった。
北から駈《か》けてきたのは、本陣を手配するために先行させていた加藤家の侍たちであった。三人、息を切らせて、こもごもいう。
喜連川《きつれがわ》の北で漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》に追いつかれたこと、彼のいうには敵はすでに北方に待ち伏せしている形跡があること、そのまま彼は会津に急を告げ、その国境をかためるために先に走ったこと、じぶんたちは怪しい曲者《くせもの》の影を捜索しつつ、このことを報告するために駈けもどってきたこと。
「やはり、そうであったか!」
ひと吹き、どよめきの波が吹きわたったあと、行列は緊張に覆われた。もはや風のような雲水のむれにかかずらっているときではない。
野に散った侍どもを呼びあつめ、行列がふたたび北へすすみ出したあと――欅の大木の下で声がした。
「あぶない、あぶない。もうすこしで見つかるところじゃった」
すすきに覆われた幹の根ちかく、ぽっかりあいた大きな洞の中から、八人の僧とひとりの娘が枯野にただよい出した。
「しかし、きゃつら、天海僧正を芦名銅伯と呼んだぞ。芦名銅伯とは何者か?」
「――沢庵さま」
と、傍の網代笠《あじろがさ》の下から、お千絵《ちえ》の声がきいた。
「あなたさまは天海さまを御存じでございましょう」
「むろん、存じておる。わしとはひどくうまが合うが、しかしよくかんがえてみると、えたいのしれぬおひとではあるな。とにかく、わしの生れた七十年ばかり前――元亀《げんき》のころから、すでに武田信玄公などの帰依を受けておられたという御仁じゃからの」
「まあ、いま、おいくつ?」
「たしか、百七歳とか……。人間ばなれしたお方じゃな。いまや、神僧と申してよかろう」
沢庵は笠をかたむけてつぶやいた。
「わからぬといったのは、あの和尚の生まれじゃ。百余年もむかしのこととなれば、茫々としてだれも問いただす者もない。皇子といわれても、唐人といわれても、もはやおなじようなものじゃ。それでわしも、いままでかんがえたこともなかったが、さてあの大和尚はいかなる素姓の方であるか。そういえば、さまざまの伝説をきいたことがある」
「…………」
「僧正は足利十一代の将軍|義澄《よしずみ》公のおん胤《たね》であるという説」
「…………」
「また古河公方足利|高基《たかもと》公のおん胤《たね》であるという説」
「…………」
「甚だしきは、僧正は明智日向守《あけちひゆうがのかみ》光秀の後身ではないかといった者すらある。明智が小栗栖《おぐるす》で死なず、神君の帷幕《いばく》に参じて豊臣家を滅ぼしたというのじゃ。わしは笑ったが、あとになって、ふっと、それも笑えぬ、と思ったこともある」
「…………」
「その説のひとつに、いま思い出せば、僧正は戦国のころ滅んだ会津の芦名家につながるおひとじゃということがあった……。いまにして、加藤主従、とくに芦名一族たる七本槍衆の驚愕《きようがく》の言葉をきけば、その説がいちばんあたっておるのかもしれぬ」
「…………」
「会津に芦名銅伯なる人物がおる。――それはきいておったが、それが百七歳で、天海僧正と瓜《うり》二つらしい。――とは、はじめて知ったぞ」
「…………」
「もし、僧正が芦名一族のおん方ならば、何ゆえ、七本槍衆がいままでそれを知らなんだか。それがいぶかしい」
まわりの雲水に語りかける声でなく、沢庵みずから深くあやしんで、ひとりで胸に問うている声であった。枯野に雲の影がかぎりもなくわたってゆくのに、彼はそこを去るのも忘れて、いつまでもそこに佇《たたず》んでいる。
「しかし、ともかくも天海僧正が芦名の血につながることがまことなら」
沢庵は網代笠をあげて、北の方の雲を見やった。
「十兵衛め、まだこのたびの修羅の争いを面白がって、遊びの心が失せぬらしいが、しかしそう軽んじておってはとりかえしのつかぬ恐ろしい敵かもしれぬぞ」
[#改ページ]
女人袈裟
「おお、美しい――」
「江戸の紅葉とはだいぶちがう。色がすき透るようだ」
「いや、奥州街道よりも一段と濃いようでござる」
崖《がけ》をまわり、道をめぐるたびに笠をあげ、思わず讃嘆の声をあげずにはいられない。
江戸から四十八里、秋風の吹く白河《しらかわ》の関から奥州《おうしゆう》街道をはなれて、いわゆる会津越後《あいづえちご》道に入っていった八人の雲水たちだ。
白河から西北へ、この道は猪苗代湖《いなわしろこ》の南を通って会津若松まで十七里だが、さすがに奥州街道とちがって、山は両側にせまり、道はけわしい。――しかし、それだけにその山や谷の紅葉の色はいよいよ鮮麗に、むしろ凄絶《せいぜつ》の感をおぼえさせるほどであった。
「人間は人それぞれちがうようでも、十人つきあえば俗臭は似たりよったりで飽き飽きするが、自然は百里あるいても飽きるということがないの」
「いや、沢庵《たくあん》さまが、また出羽《でわ》の上《かみ》ノ山《やま》へ旅に出られたわけじゃ」
「おかげでこの世の法楽をした。……四人の美女も道づれじゃし」
「なんじゃ、いま人間には飽き飽きしたといったくせに」
「いや、拙僧もまた俗臭満々たるおなじ人間」
からからと、ほんものの坊さまたちは笑う。……大いに笑い、かつ山河の錦繍《きんしゆう》に感嘆のさけびをあげるのは三人の坊さまだけで、雲水すがたの柳生十兵衛と四人の女はだまりがちだ。
尽きることなき黄葉紅葉に飽きたのでも、疲れたのでもない。五人の、ともすればだまりがちなのには、わけがある。
さすがの十兵衛が、この旅に出てからはじめて経験した意外事に面くらい、少々がらになく神経を病んでいるのは、四人の女のあまりな女くささであった。
沢庵と相談し、思うところあって、七人の女を二組にわけた。じぶんの方に、お圭《けい》、お沙和《さわ》、お品、お鳥をつけたのは、お鳥をのぞいてはぜんぶ人妻で、そのお鳥もとくに明るくユーモラスで豪快ですらある気性を見込んでのことであった。お千絵《ちえ》、さくら、お笛の三人の処女は、沢庵にゆだねた。これでも十兵衛としてはだいぶかんがえたつもりであったが、いまにしてじぶんの方が三人の娘を引率すればよかったと思う。――とにかく、お圭、お沙和、お品という三人の人妻が、あまりに女くさいのである。
むろん、いまはじめて彼女たちが女だと思い知らされたわけではない。東海寺で指南している際でも、しばしば瞬間的にその匂いが満面を吹きつけてきて、心中|狼狽《ろうばい》したことがある。
しかし、それは男のじぶんが勝手にあわてただけのことで、彼女たちは、たとえ十兵衛とからだがもつれあおうと、ただ敵討ちのための荒修行だと信じているらしく、その壮絶なまなざしに、たわけたことをかんがえているじぶんが恥じ入ったくらいであった。
ただいちど、お圭がうわごとのごとくさけんだことがある。
「わたしはここで死んでも本望でございます。十兵衛さま、刀をお捨てなされまし。そして、わたしを――」
――しかし、それは加藤家のあの花地獄、絶体絶命の死の穴に於てのことであった。とくにしとやかで凛《りん》としたお圭があんなさけびをあげて、ひしと抱きついてきたのも、平生の心理であったとは思われない。
それに、いやしくも東海寺は禅寺である。宏大《こうだい》な寺院には数百人の禅僧がおり、森厳な、宗教的な雰囲気はすみずみまでながれている。だいいち十兵衛はもとより彼女らと起臥《きが》をともにしたわけではない。
ところが旅に出てからは、いうまでもなく寝食を同じくしている。とくに、彼女たちが異様な変装をしているだけに、なるべく旅篭《はたご》をとらないようにして、地蔵堂とか神社の拝殿などを利用してきた。秋風のつよい夜もあった。冷雨の夜もあった。自然とからだをすりよせるようにしてねむる彼女たちの姿態が眼に入り、におやかな体臭が鼻腔《びこう》に満ちざるを得ない。
もちろん、ほかに三人の雲水がいるのだが、彼らは天空|海濶《かいかつ》の諧謔《かいぎやく》をとばすくせに、まるで女人など眼中にないかのようにふるまった。ふるまってみせたのではなく、さすがに沢庵の鉗鎚《けんつい》にきたえられた人々だけあって、まさに雲か水が人間のすがたをとったような超然居士ばかりであった。――そしてまた女たちも、坊さまは眼中にないかのようであった。
いや、彼女たちは十兵衛の悩みも知らないのか。
武州栗橋《ぶしゆうくりはし》の渡し小屋に眠った夜、十兵衛は知らないうちに片足をお圭の足の上にのせていた。眼をさまし、それに気がついて、十兵衛がその足をそっとおろしたとき、彼はお圭が眼をつむってはいるが、眠ってはいないことを知った。彼女は幾時間か、じっと十兵衛の足の重みにたえていたようであった。
下野氏家《しもつけうじいえ》の地蔵堂に眠った夜、十兵衛は夢の中に甘美な香気を吸って、お沙和の顔がじぶんの顔とすれすれに寄せられていることを知った。彼女はじっとじぶんの寝顔をのぞいていたらしかった。このとき十兵衛の方が、わざと眼をつむったままであったが、お沙和の方が何か気づいたらしく、十兵衛のからだに女衣装をかけた。情愛ぶかい女であったから、じぶんを夜寒からふせごうとしてくれていたのかもしれない。
女衣装といえば、彼女たちが背にななめに背負っている風呂敷包みの中身はそれだ。
しかし、道中はいうまでもなく墨染めの衣である。それが、ときによっては、女衣装をまとったよりもなまめかしくみえることがある。とくに、夜に入って眠りにつくとき、袈裟頭巾《けさずきん》をとって、僧衣にながい黒髪を垂れたときなど、異様な美をかもし出すのであった。
十兵衛先生は、夜に対して少々神経衰弱気味である。
じぶんが足をのせても、くっつくほど顔をよせられても気がつかないとは剣の天才児らしくないが、むろん相手に殺気があれば、たとえそのあいだに数間の距離があろうと、十兵衛の眼は霧の一滴を吹きつけられたようにふっとひらく。が、周囲に凶気のないかぎり、こんこんとして童児以上の眠りに沈み、この熟睡が、ひとたびめざめたときの彼の剣技のすばらしい集中力の源泉になるのだから、どうにもいたしかたがない。
といって、急によそよそしく離れて眠るなど、いかにもそのことにこだわっているようで、淡々たる坊さまたちの手前もいささか気恥ずかしい。だいいち、空間的にそんな余裕のある夜々の泊りではない。――かくて十兵衛は、少なからず悩むのである。
女たちが、十兵衛を女ごころに風馬牛であると信じているごとく、十兵衛もまた、復讐《ふくしゆう》一途、凛然たる女たちに対して、じぶんだけがひとり相撲をとっていると恥じているのであった。
とはいえ、女たちもいささか様子がおかしい。――と、十兵衛も妙に感じることもある。
旅の当初はべつに異常をおぼえなかったが、道中を重ね、日を重ねるにつれて、女同士のあいだに、何やら重っ苦しい、湿潤な、ときによっては険悪なものがながれ出したように感じられてならない。
それは旅による肉体の疲労、しだいに敵地にちかづいてゆく心の緊張、あるいは女たちの統制者たる千絵を欠いているという事情のためかもしれなかった。
「お品どの、明成はいまごろどこらあたりまで来たのでしょうか」
と、お圭がきいても、お品は耳がないもののようにだまってあるいている。
「明成の行列を追うお千絵さまたちが、まさか敵に気づかれたということはないでしょうね」
と、お沙和が話しかけても、お鳥はだまって頭上の紅葉をひきちぎって、ふっと吹いたりする。
これはいかん、と十兵衛は案じた。敵を討つのに、徐々に時間をかける――というじぶんの方針に、しだいに首をひねり出した。
それは敵に恐怖の苦悶《くもん》をとっくりと味わわせるためだ、と女たちにはいい、じぶんでもそう信じている。しかし一面、この千載一遇ともいうべき四十万石相手の争闘を、なるべくながく愉《たの》しみたい、という彼独特の稚気もたしかにある。――が、いまから女同士、何となくふきげんになるようでは、あまり時をかけるのも考えものだ。
とはいえ、怨敵《おんてき》明成、七本|槍《やり》衆の一行はたしかに後方からやってくるけれど、これを待ち伏せて一挙に討ち果たす、ということはそう簡単にはゆかない。
じぶん個人でも容易なわざではないと思うが、ましてじぶんが直接手を出しては何にもならないのである。あくまで女たちに復讐させなければならないのだ。
あの超人的な男どもを、このかよわい女たちに討たせる。――それはそれとして、芸術的な意欲をそそることである。ただ、その方法をまだ十兵衛はかんがえていない。
まるで、大いに意欲はあるが、アイデアが浮かばない芸術家のようなものだ。
いままで、江戸で三人の七本槍衆をたおし、明成に生き恥をかかせたが、そのうち十兵衛の計算どおりに仕止めたのは、石の道祖神と竹篭《たけかげ》を利用した大道寺鉄斎だけで、平賀孫兵衛と具足丈之進《ぐそくじようのしん》は偶然の出合い、出たとこ勝負の結果であった。彼の教えたまんじ飛び、天狗《てんぐ》飛びの技を使ったとはいえ、よくぞ女たちが彼らをたおしたものと思う。明成の一件にいたっては、敵をはかりかけてかえってこちらが罠《わな》におち、彼女たちの決死の救出がなかったら、じぶんもあの水の墓場の腐肉と化するよりほかはなかったと思う。
「あまり、おれの軍略もあてにならぬようだ」
敵もひとすじ縄ではゆかぬ奴ら、ましてこれからは一国すべて敵といってよい会津に入ろうとする。作戦も何も立つわけがない。ただ、おのれを信じ、女たちを信じ、天を信じて斬魔《ざんま》の剣をふるうよりほかはない。それだけに、おたがいに精妙な車のごとき連繋《れんけい》動作を必要とし、何より大事なのは、人の和だ。それなのに、いったいどうしたのだ?
と、十兵衛はくびをひねるのだが、女たちがなぜふきげんなのかわからない。疲労しているのなら叱《しか》っては気の毒だし、それに、こんどの旅に出てからの例の感慨だが、なんだか女たちに対して、なまこのごときえたいの知れないぶきみさを感じているという弱味があって、ちょっと口もきけないような気がする。
――これが十兵衛と四人の女が、ともすればだまりがちなゆえんだ。
白河から二里四丁で飯土用《いいどよう》の宿場、そこから上小屋まで一里十四丁。
からっと晴れた秋の蒼空《そうくう》に、三人の坊さまの哄笑《こうしよう》のみこだまする。
――ややおくれて、眼にはみえないモヤモヤとした雲のようなものにつつまれてあるいていた五人のあいだに、ついに爆発が起ったのはこのときであった。
お圭が岩だらけの道で、足をくじいた。
「負ぶって進ぜる」
と、十兵衛が立ちどまった。お圭はしゃがんだまま眉《まゆ》をしかめた。
「いえ、もったいのうございます。あるきます」
「いかん、くじいた足であるけば、あとあとまでたたる。大事を抱いたからだだぞ。遠慮せずに、さあ」
十兵衛はお圭のまえに、これもしゃがんで、大きな背をむけた。
ためらえば、一行よりおくれて、かえって迷惑をかける――と判断したのであろう。お圭は恥じらいながら、その肩に両腕をなげかけようとした。そのとき、するどい声がとんだのである。
「敵地に入るまえに足をくじくなど、なんという不覚な」
「大事なからだとは、わたしたちより十兵衛さまです」
網代笠《あじろがさ》の下で、眼をひからせているのはお品とお鳥であった。
「それでなくとも十兵衛さまに、いろいろ御援助をねがって心苦しいのに」
「いまから負ぶわれてゆくようで、どうするのですか」
ふたりの女の言葉はきびしく、むごい。――十兵衛は、ややあっけにとられて左右のふたりを見かわしていたが、苦笑して、
「まあ、そういうな。江戸から五十里、しかも明成の行列に先んじて、夜昼さかいもなくあるいてくれば、男だって足がどうにかなる。まして女人、不覚でくじいた足ではない。それに、女のひとりやふたり負ぶってあるいたとて、それでくたびれるおれではない。かえって、男の果報で、元気がつく――」
冗談をいったつもりだが、お圭は笑わなかった。袈裟頭巾からのぞいて見えるだけの顔だが、蒼白に変っていた。
「いいえ、もう結構でございます。わたしの不覚でございます」
キッパリといった。
「あるきます。あるけなければ、捨てていって下さいまし」
「敵討ちはどうするのだ」
「明成の一行は、やがてここを通るではございませぬか。待ち伏せて、七本槍衆のひとりに傷でもつければ、それを本望としてお圭はよろこんで死にまする」
「ばかめ、それがたやすうできることなら、おれに苦労はないわ」
と、十兵衛はお圭に対してはじめてはげしい叱咤《しつた》をなげた。お圭の言葉の内容よりも、彼女がいちどは人妻であった女でありながら、小娘のようにすねている態度をばかばかしく思ったし、それに彼女をはげます意味もあった。
「それは、むだ死だ」
「むだ死でよろしゅうございます」
そして、お圭はしゃがんだまま、顔に両手をあてた。網代笠の下から、むせび泣きの声がもれはじめたのだ。
十兵衛はめんくらった表情でそれをながめていた。やがて、笠をあげて前方をみる。お沙和がボンヤリ立っているが、坊さまたちは崖《がけ》の彼方に回ったらしく、姿は見えない。――十兵衛は、波うっているお圭の肩に手をかけた。
「子供のようなことを申すでない。あまりだだをこねるなら、十兵衛ひっかついでも連れてゆくぞ」
それから、左右のお品とお鳥をきびしい声で叱った。
「なぜそちたちはそんな無情なことをいう。大望成就までは、仲ようしてくれよ。仲ようすることが、大望成就につながるのだ。親はちがい、夫はちがっても、その親や夫を殺した敵を討つためには、みな姉妹のようなものではないか」
すると、あきれたことには、お品とお鳥の目からも涙がながれていたのだ。ふたりはさけんだ。
「でも、十兵衛さまは、お圭どのだけに親切をなさる――」
「あの般若《はんにや》組騒ぎのとき、お圭どのをにせの花嫁となされて以来。――」
「ばかっ!」
と、十兵衛は大喝した。声は秋の大気を切って、巌壁にこだました。
まったく彼はおどろいたのだ。女とは、ときには男の想像もつかない邪推をするものだ。――というくらいの見解は十兵衛も持たないではなかったが、ひともあろうにこの女たちが、相手もあろうにこの自分に対して、そんなばかげたことをかんがえていようとは沙汰《さた》のかぎりで、おどろくと同時に、彼は猛烈に腹をたてた。
「何を申すかと思ったら、た、た、たわけたことを――」
と、珍らしくどもって、
「お圭だけに親切とは、何をひがんで言う。それはおぬしら七人に、親切を目分量してきたというおぼえはないが、邪推にもほどがある。十兵衛は左様なことをかんがえたこともない! いいや、おぬしらにみごと敵討ちさせたいという願いのほかに、おぬしらのうちのだれひとりとして、特別眼をかけて、ごきげんとりをするような余裕はもたないのだ。うぬぼれるのもいいかげんにしろ!」
お品とお鳥は棒のように立っている。お圭さえも気をのまれて、口をかすかにひらいて十兵衛をふりあおいだままだ。
「おぬしらに、武術兵法のみを教えて、心の修行をさせなんだのはおれの誤りであった。そこまで心がねじけては、おれの手にあまる。あらためて、禅師の警策《きようさく》を受けてこい!」
「参ります」
「沢庵さまのところへ参ります」
とお品とお鳥は涙をうかべていった。そして、おじぎをした。
「では、十兵衛さま、しばらくお別れをいたします」
十兵衛は、キョトンとした。何も、いまのいま、沢庵のところへゆけといったわけではない。――
が、決然とした態度で、くるりと笠をまわし、スタスタと山道をひきかえしてゆくお品とお鳥をみては、とっさに二の句がつげなかった。
それから、また思う。――ここまでこじれては、同行してはいよいよもつれるばかりだ。いちじ別れるのもいいだろう。いいや、ほんとうに、あの両人、沢庵和尚の一喝を浴びてこなければ、眼がさめぬかもしれぬ!
頭巾《ずきん》の中で口をあけて、見送っているうちに、はっと気がついたことがある。
お品とお鳥が禅師一行の組にゆくのはよいとして、そのあいだには加藤明成の行列がある。――
「おおい」
と、十兵衛は呼んだ。
「申しておく。加藤の行列に見つかってはならぬぞ。身をひそめて、やりすごせ。よいか、そなたらから、断じて手を出してはならぬぞ!」
ふたりは、ふりむいて、ちょっと笠を伏せた。そのまま、走るように山道を駈《か》け去ってゆく。――
「……どうも、おかしなことになった」
と、十兵衛はわれにかえると、苦い笑いを浮かべた。
――路上に、じっと立っているお沙和を見て、
「いったい、あれはどういうつもりかの」
「さあ」
と、お沙和も妙によそよそしい。十兵衛はなんとなく女ぜんぶがうすきみわるくなって、
「お沙和どの、あなたも拙者がお圭どのに親切だ、などと思われるかな」
いつになく鄭重《ていちよう》に、おそるおそるきいた。
「わたしは、わたしをのぞいては、十兵衛さまがみんなに御親切なように思われてなりませぬ」
お沙和はそういうと、これは前方へ、あともふりかえらず、早足であゆみ去った。おだやかで情愛ぶかい彼女にしては、めずらしいそぶりである。
これまた唖然《あぜん》としてそのうしろ姿を見送っていた十兵衛は、これではならぬ、と思い直した風で、もういちどしゃがみこみ、
「ゆこう、お圭」
と、背をむけた。
さっきいちどは身をもたせかけたお圭は、こんどは十兵衛にふれようともしない。
「どうした」
ふりかえると、眼が合った。お圭の頭巾の中の皮膚が、みるみる紅葉よりも赤い嬌羞《きようしゆう》の色に染まった。それを見ると、十兵衛もわけもわからず赤面した――ようにじぶんでは感じて、あわてて前をむき、
「乗れ!」
と、例の二頭の馬を以《もつ》てするまんじ飛びの修行の際のごとく叱咤した。
三人の坊さまが、崖を回ってかえってきたのは、やっとお圭を背負って十兵衛が立ちあがったときである。
「どうなされた、さっき十兵衛どのの大きな声がきこえたようじゃが」
「ひきかえしてきて、そこでお沙和どのに逢《あ》ってきいたが、存じませぬ、といって先へ走っていってしまったぞ」
「おや、お品どのとお鳥どのは?」
十兵衛は撫然《ぶぜん》として、
「それが、拙者にもわけがわからんのです。ふいにお品とお鳥が、老師のところへ参る、といい出して離れていったのだ」
「はて、面妖《めんよう》な。それはそうとして、お圭どのはどうなされたのじゃ」
「これは、そこで足をくじいたのでござる」
三人の坊さまは、十兵衛とお圭の姿を見上げ、見下ろして、ニヤニヤした。
「ははん、十兵衛どのがお圭どのを負ンぶしたので、すねおったか」
「さ、左様なことも何やら口走っておったが、敵討つべき身で、あまり子供じみておるので、実は少々腹を立てておる」
「いや、このことは子供じみておるが、それはほんのきっかけで、道中そんなことも起ろうかと、拙僧どもは前々から案じておった」
「何をです?」
三人の坊さまはそしらぬ顔であるき出しながら、
「いや、それにしても十兵衛どの、腹を立てなさるな、敵討つべき身のけなげな女人たちが、その中のひとりを負ンぶしたからとて、大すねにすねる。可憐《かれん》なものではないか?」
「どこが可憐か。らちもないこと」
むっとした顔色の十兵衛を横眼でみて、坊さまたちはカラカラと笑う。
「さっきも話しておったのじゃ。十兵衛どの、どうやら恐ろしいのは、剣難よりも女難らしいと」
「ばかな!」
「いっそ、剣難の方は、拙僧らの方で受持とうではないかと」
雲水たちの諧謔《かいぎやく》のたびに、どんな表情をしているのか、お圭がかすかに身をよじらせるのが十兵衛の背につたわる。
遠く、背後で、山々にこだまする鉄蹄《てつてい》の音がつたわってきたのは、それから五町もゆかぬうちであった。人の影もまれな秋の山道に、物のひびきは蒼空《そうくう》を響板とする。
「あれは?」
まず十兵衛がききとがめて顔をふりあげた。坊さまたちも立ちどまった。
「ひづめの音じゃな」
「まだ遠いが、疾《はや》い。……武士の手綱さばきだ。ただ一騎」
と、十兵衛が耳をすませてつぶやく。坊さまのひとりが、
「あの漆戸虹七郎《うるしどこうしちろう》と申す男ではないか?」
「いや、あれはもうとっくに先に、会津へ行ったはずでござる」
と、十兵衛はくびをふって、
「しかし、ひづめの音に殺気がある」
「やはり会津侍かの?」
「左様に思います」
十兵衛の顔色がすこし変っていた。それを雲水たちはのぞきこんで、
「いま別れたというふたりのことか」
「それでござる。――むろん、加藤家の行列にゆきあえば、身をかくして、やりすごせ、決して手を出してはならぬとかたく申しておきましたが」
それはいわずとも彼女たちも心得ているはずのことであったが、もし相手が七本|槍《やり》衆のひとりであったら、手綱をひく人間のないとき、彼女たちがどういう心境になるかわからない。
とくに、べつべつの意味で気性のはげしいお品とお鳥である。また先刻のいきさつからして、ふたりの気のたかぶりが尋常でない。――しかし、恐ろしいのは十人の会津侍より一人の七本槍衆なのだ。
「待て」
と、十兵衛はお圭を背から下ろした。
「待ってくれ!」
もういちどさけんだのは、お圭にではなく、遠いお品とお鳥の無謀な行動に対してであった。
が、十数歩、もと来た道へ走り出しながら、十兵衛は慄然《りつぜん》たる息を吐いていた。
「蹄《ひづめ》の音がとまった!」
十兵衛先生のお心はよくわかっていたのである。
彼が決してお圭だけに親切なわけではないことも、足をくじいたお圭を背に負ってくれるのが、当然な、それどころかありがたい処置であることも。
あれは、ほんのきっかけであった。この旅に出てから、日ごとにたまり、耐えに耐えたある感情が、せきを切ったように爆発したのであった。
夜々、十兵衛が夜風があたらぬかと、ひそかにのぞくとき、彼女たちは、おなじようにそっとのぞいている誰かの眼を感じた。また人目のないところをえらんで、十兵衛の肌着や脚絆《きやはん》を洗うとき、彼女たちは、先をとられた女たちのくやしげな吐息を背にきいた。女たちだけが知っていたことだ。
おたがいの牽制《けんせい》ばかりではない。かつて夫をもった女が四人のうち三人、娘のお鳥といえども敵討ちという厳粛な至上命令のもとに生きているのだ。
さらに柳生十兵衛は一見|飄々《ひようひよう》たる剣侠《けんきよう》のごとくみえて、実は一万石の大名の嫡男に相違なく、ただ、じぶんたちの悲願をとげさせる以外に邪念のあるはずがない。――
それを百も承知しているだけに、おさえにおさえたものが、あのときヒステリックにほとばしり出たのは、やはり旅の疲労のせいだったのかもしれない。ただ、あのときは、四人、十兵衛とともにこれ以上道中をつづけていくのに耐えかねたのだ。あれは、きっかけだけつかんで、じぶんの方から逃避をはかった行為であった。
――してみると、気丈とみえるお品とお鳥が、実はしとやかなお圭やお沙和より弱虫といえるかもしれない。
「けれど――」
涙をながしつつ、無我夢中にひたばしりながら、もうお品とお鳥は思い思いに悔いている。
「十兵衛さまにむかって、何という恥ずかしい言葉を――」
「あんなことをいわれて、びっくりなされたあのお顔――」
ほんとうをいうと、沢庵さまのところへなどゆきたくはない。どんなに苦しかろうと、十兵衛さまの組に入れられたわたしたちは、お千絵さまたちより幸せなのに、じぶんでその運命をすてるとは!
ふたりは南へ走っていった。いまにも、もういちど馳《は》せかえりたい衝動をおぼえつつ、ふたりがそのまま駈けつづけたのは、おたがいへの牽制と、それから山道が南へ下がっているという物理的な理由以外に何もない。
面を吹きあげる風にまじって、鉄蹄の音がきこえた。
「……はて?」
つんのめるようにふたりは踏みとどまった。
一方は、秋草も生えぬ山の崖《がけ》、また一方は紅葉につつまれて河はみえないが、はるか下に水音のきこえる、これまた絶壁にはさまれた一本道だ。それは向うの崖を回り、つづら折りになって、はるか彼方に、白い紐《ひも》のような街道が隠顕している。
そのひとつのきれめから、こちらに馳せのぼってくる騎馬の武士がみえた。
ふたりは、同時にさけんだ。
「鷲《わし》ノ巣廉助《すれんすけ》!」
見かわしたふたりの眼からは、いちどさっと十兵衛の幻が消えた。
「鷲ノ巣廉助!」
「……ただひとり」
燃えたのは殺気だ。
ひづめの音はちかづいてくる。明成の行列はまだこの会津越後道に入ってきてはいないはずだ。それなのに鷲ノ巣廉助がなぜただ一騎やってきたのか。彼もまた漆戸虹七郎と同様に会津に先行しようとするのか。
そんなことを、ふたりは考えない。また考えているいとまもない。まずわきたったのは、いまここで、廉助を討つ、という復讐《ふくしゆう》の意志だけであった。
しかし、すぐにふたりの胸には十兵衛がよみがえった。明成の行列に逢ったら、身をひそめて、やりすごせ、断じてこちらから手を出してはならぬ、という言葉がよみがえった。いま接近してくるのは大行列ではなく、鷲ノ巣廉助ただひとりだが、その廉助の凄《すさま》じい怪力と拳法《けんぽう》は、もとよりふたりともよく知っている。――
「十兵衛さまのところへ告げますか」
「……いえ、間にあいませぬ。あの馬がわたしたちに追いすがる方がはやい」
「身をひそめて、やりすごせ、と十兵衛さまは仰せられましたが」
「一方は山の壁、一方は河への崖、身をひそめるところはありませぬ」
ふたりは、息せわしく、こんな対話をかわしたが、しかし、ほんとうの意志はきまっていた。たとえ、かくれる場所があっても、ふたりにかくれる心はなかった。
お鳥が眼をひからせていう。
「向うはただひとり、よい折ではありませぬか」
「そうだ、廉助が馬にのっているのが、こちらの幸せ――」
ふいにうなずいたお品に、お鳥は顔を寄せた。
「と、おっしゃる意味は?」
「こうするのです」
二語、三語、ささやきかわすと、お品は背の包みをあわただしくとりおとし、お鳥は足もとから手ごろな石をひろうのにかかった。それからふたりは、逆に前方へ――崖がまわって、やや道のひろくなった場所をめがけて駈《か》け出した。
鉄蹄の音は、すぐそこまでちかづいてきた。鷲ノ巣廉助は山道をかけのぼってきた。
彼は、例の堀の女たちが、主君の行列より先にいって待ち伏せしている――という虹七郎の情報に、一眼房《いちがんぼう》、銀四郎と交代で「索敵」しつつやってきたのである。
馬は崖をまわろうとした。
そのとたん――崖の向うから、ぴゅっと何やら赤いものが地を走って、馬の脚にからみついた。それは石を分銅とした赤い紐であった――
竿立《さおだ》ちになったあと足に、間髪を入れず、石をつけたもう一本の紐が薙《な》ぎつけられた。
遠く、十兵衛が鉄蹄のひびきの止まったのをきいたのは、この刹那《せつな》であった。
もとより紐は糸のごとくちぎれた。
が、猛烈にかけのぼってきた悍馬《かんば》である。場所は崖の曲り角であった。足なみみだされ、竿立ちになった馬は、そのまま巨大な別種の怪物のようによろめくと、道の向うの空間に足をふみ出し、次の刹那、逆に回転してひづめで宙をかきまわしながら、岩と紅葉を鳴らしつつ崖をころがりおちていった。
「やった!」
絶叫して、ふたりの雲水姿が崖の向うから躍り出し、そのまま道のまんなかに、はたと釘《くぎ》づけになった。網代笠《あじろがさ》はかなぐりすてているが、お品とお鳥である。
実は、躍り出す瞬間に、ふたりの眼は、崖から転落していった馬の鞍《くら》に人影がないというおどろくべき事実を映していた。それにもかかわらず、疾走する馬の脚に石を分銅として薙ぎつけるという技に一念を凝集させ、それがみごとに成功したとみた刹那に、思わず知らず絶叫はのどからほとばしり、身体は意に反して前へ泳ぎ出していたのであった。
「…………」
「…………」
二人は凝然《ぎようぜん》として立っている。
そのまえに、鷲ノ巣廉助はウッソリとたたずんでいた。――馬が竿立ちになった一瞬に、みごとに鞍からうしろへ跳躍して、よろめきもせず地上にフワと立った廉助であった。
廉助の眼は大きくひろがっていた。それがいまの襲撃におどろいたからではなく、別の理由によるものであることが、すぐにわかった。
「……ほう、雲水とは」
ニヤリとしてつぶやいたのである。
「化けたな。――これは、思わざった! 道理で、容易に見つからなんだわけじゃ」
ぱっとふたりはもとの崖の下にはせもどっている。そこに置いた仕込|杖《づえ》をとるためだ。
――雲水の姿に化ける、それは十兵衛の案出した天外の妙案であるだけに、これをひとたび知られた以上、たんに敵討ちのためのみならず、この男を断じて生きてかえすわけにはゆかなかった。
キラッ、キラッ、と二条の白光が秋の日をはねたのを、廉助はしかし刀に手もかけず、依然、ひげだらけの分厚い笑顔で見まもっていた。
「眼だけ見えるが、お鳥とお品じゃな。――ところで、ふたりだけとはおかしい。ほかの奴らはどこにおる?」
まるで、その刀身が眼に入らないかのごとく、ノシノシとちかづいてきた。
「ほう、女にしてはかたちがついたの。よほど鍛えられたとみえる。――鍛えた奴のつらが見たい。きゃつ――あの般若《はんにや》面の男のつらを、もういちど見たい!」
ものもいわず、猛然としてお品とお鳥は斬り込んでいた。
そのふたりの眼のさきに、凄じいひかりがひらめいた。それは交叉《こうさ》したじぶんたちの剣光ではなく、そのまえに平気でぬっと顔をさし出した鷲ノ巣廉助の眼光であった。
「おおりゃっ」
獅子《しし》のような咆哮《ほうこう》とともに、二条の刃は宙にうごかなくなった。――鷲ノ巣廉助は両腕をひろげて、裸の掌《て》で、その名のごとく刀身をむずと鷲づかみにしていた。
なんたる鋼鉄の筋肉か。――いや、たんなる皮膚の強靱《きようじん》さではなく、おそらくこれも人間業とは思えぬ技のひとつであろう。
鷲ノ巣廉助は、二本の刀身を裸の掌でひっつかんだまま、またいった。
「歯が立たぬ、とはこのことだな。いかに修業しようと、うぬらではこのおれに刃は立たぬ。これ観念して、ほかの奴らのいどころをいえ」
ぐうっと両腕をうしろに張ると、ふたりの女はそのままそばにひきずりよせられる。
「いわぬか!」
わめいたかと思うと、仕込杖から手をはなしてとびのこうとしたお鳥とお品は、ふいにからだを前に折って、崩折れた。廉助の両ひざが交互にはねあがって、ふたりのみぞおちを打撃していたのだ。
声も出ぬ。息も出ぬ。……地に這《は》いつくばったまま、ふたりの女はからだをくの字なりにしてのびちぢみした。
廉助は、両手の刀を左右に投げすて、ぶきみな笑いをうかべて、ふたりの苦悶《くもん》する姿を見下ろしていた。
「けなげなり、七本|槍《やり》の鷲ノ巣廉助に刃向うとは……しかし、無謀じゃな。いまにして思い知ったであろう。このまま踏み殺してやろうか。ようも、いままでわれらに手向いおったな。それを思えば、この足を踏みおとしてうぬらの九穴から五臓をはみ出させてやりたいが……待て待て、面白いことを思いついたわ」
視線をうごかせて、路上から、ちらばっていた赤い紐をひろいあげた。
赤い紐で、ふたりの足くびを、それぞれ縛った。それから、ユックリと、ふたりの袈裟頭巾《けさずきん》と墨染めの衣と――脚絆《きやはん》からわらじまでぬがせにかかる。
このあいだ、何をされても、ふたりの女は路上を転々とするばかりであった。足くびを紐で縛られたせいばかりではない。――
さっきの打撃にいかなる秘術がこめられていたのか、下腹部からの痛みの脈搏《みやくはく》が胸に波うって、一分ばかり呼吸がとまり、わずかに息をもらすと、またも一分ばかり息がとまる。その苦悶の波動に、ふたりは地に爪をたててのたうつばかりであった。
「おお、美しい。――お品、うぬのはだをはじめて見た。会津家中でも、もっとも色気のふかい女房として評判であったが、いかにもこれは、ききしにまさる。――」
白日の路上にクネクネと這いまわる全裸のからだをながめやって、ひげの中から廉助の口が朱盆のようにひらく。
しゃがみこんだかと思うと、いきなりそのひざをおしひらいた。足くびを縛られているので、菱形にひらいたその空間に首をつっこんで、ぐいともちあげたのである。それからこんどは、お鳥の両足をひっつかんで、これまたうしろからじぶんの首にかけた。
「うぬらにならって、おれも雲水とゆこう」
ぬうっと立ちあがった。
「女の袈裟!」
首に二つの輪となった四本の足をかさねてかけ、立ちあがるとお品は前に、お鳥はうしろに、それぞれ乳房を前後にさらして、ナヨナヨと垂れた。まさに、なまめかしい、白い肉の袈裟のように。
むろん、肩はばが常人の倍はある巨人の廉助なればこそ出来たことだ。嫋々《じようじよう》と垂れさがったふたりのあたまから、黒髪はわずかに地を這う程度であった。
「これは絶景!」
そのまま、かるがるとあるき出しながら、鷲ノ巣廉助は吼《ほ》えた。それでも用心ぶかく、両刀を鞘《さや》ごめに抜き出して、左手にぶらさげていた。
彼の顔のすぐまえには、交叉したお鳥の足が足ゆびをそりかえらせている。彼のすぐ眼の下には、お品のまっ白な腹が日につやつやとひかっている。
そのあいだから紅葉の山々をながめて絶景と称したこの巨人は、顔に似合わぬ諧謔《かいぎやく》を解する男らしいが、それにしても、これはあまりに凄惨《せいさん》な悪謔であった。
「いたむか、いたむなら叫べ」
笑いながら、廉助は大きな舌を出して、お鳥の足をしゃぶっている。毛むくじゃらの右手をまえにまわして、お品の乳房をもてあそんでいる。
「これ、声を出して仲間を呼べ」
さかさになったふたりの顔から、涙は髪をつたわって地におちていた。
恥辱と、無念と――それから、足くびの緊縛に全身の体重をかけられた痛みと、逆さ吊《づ》りの苦しみのためであった。
「うぬらの一味は、鉄砲をもっておるか? 矢をもっておるか? 何をもっていようと、この肉の盾で前後をつつんでおる上は、まず手は出せぬな」
その肉の盾を、ふとい指で傍若無人にさいなみながら、鷲ノ巣廉助は行進する。
「おおい、般若面、ほかの女ども、おらぬのか」
声は鐘のように、赤い山々に反響した。
「うぬらが待ち受けていた会津七本槍の鷲ノ巣廉助がここに参ったぞ。出合え、出合え!」
肩にかかった四本の足が、苦悶のために痙攣《けいれん》しはじめた。垂れさがった顔は紅潮し、たえきれぬうめきをたてはじめている。
この世のものならぬ苦しみに断末魔のわななきをしめす柔媚《じゆうび》な肉を、背と腹になまなましく感覚し、あやうく忘我の快感に酔いかけた廉助は、このときたしかにどこかでおのれをながめている血ばしった目を意識した。
「般若面、出ろ」
あの謎の男の剣技の恐ろしさは、廉助といえども百も承知だ。しかし、おのれの前後は、お品とお鳥の裸身でつつまれているのだ。一指を加えただけで、このふたりの女のいのちは、血へどとともに天にとぶ。それを知って、敵に何のなすべきすべがあるか。
たたかわざるに、すでに彼は凱歌《がいか》の哄笑《こうしよう》を蒼空《そうくう》にこだまさせた。
「臆病《おくびよう》者、卑怯《ひきよう》者、お品とお鳥は、あと息を十もつかぬうちに悶《もだ》え死ぬぞ。それを知ってまだ姿をあらわさぬか!」
「……竜車にむかう蟷螂《とうろう》の斧《おの》じゃな」
と、多聞坊がいう。
「……十兵衛どの、どうなさる」
と、雲林坊がいう。
そこは、谷というほどではないが、片側の山がすこし入りこんだ白すすきの中であった。だらだら上りになっているので、そこから街道がすぐに見下ろせる。――
同行の僧たちの声も耳に入らぬかのように、十兵衛は隻眼をその道に投げている。白い女体の袈裟《けさ》を胸と背にかけて、口を耳まで裂いて哄笑しながらあるいて来る鷲ノ巣廉助の姿がみえた。十兵衛のひたいから、つーッとあぶら汗がしたたった。
――だから、手を出すなといっておいたではないか、という弁解は成り立たないし、そんな弁解をする気は毛ほどもない。ただ十兵衛の胸をまむしのごとく噛《か》むのは、あのふたりを手放すのではなかった! という悔恨ばかりであった。
いや、胸を悔恨にのみまかせている場合ではない。承知はしていたが、なんたる残忍な敵か。――彼女たちの血は逆流し、あと数分にして息絶えるだろう。
十兵衛のからだが、穂すすきをわけて前に泳ぎ出しかけた。
「待った」
と、右から多聞坊がその腕をおさえた。
「どこにゆかれる」
「もとより、あのふたりを救いに」
「救えるか」
左から、雲林坊がいう。
「あれは、拳法《けんぽう》の達人と申したな。貴公がちかづくまえに、あのふたりはひとひねりだろう」
「拙者、命をすてます」
と、十兵衛はうめいた。
「この仕込|杖《づえ》の三池典太を投げ出し、頭巾をとって地に這いつくばり――きゃつのいうままになっても、お品、お鳥のいのちだけは救わねばならぬ」
「貴公が死に、お品、お鳥も殺されるのがおちだろう」
血ばしった眼で、はたとにらみかえす十兵衛を見かえして、多聞坊はケロリといった。
「左様に殺気につっぱりかえっておっては、よい知恵も出るはずがない。また敵も用心するにきまっておる。――」
「いったい、御坊たちはどうせいと申されるのか!」
「わしたちなら、ひょっとしたら救ってみせるがの」
「御坊たちが!」
唖然《あぜん》とする十兵衛にこんどは雲林坊が兵法の夜ばなしのごとき口調でぼそぼそという。――
「十兵衛どの、上泉伊勢守《こういずみいせのかみ》といえば、おぬしの祖父柳生|石舟斎《せきしゆうさい》どのの師匠、その伊勢守どのが、子供を人質とした凶賊を無刀でとらえられた話をきかされたことがあろう」
「…………」
「賊は土蔵に逃げこんだが、子供をさらって白刃を胸につきつけおるので、だれもが手を出せぬ。そこを通りかかった伊勢守どのが、あたまをまるめ、僧形となり、むすびをもって蔵に入られた。そして賊の注意が、ちらとそのむすびに走った刹那《せつな》、稲妻のごとくとびかかってその刀をうばい、まっ向から賊を斬り下げられたという――」
「お言葉でござるが」
十兵衛は身もだえした。
「あの鷲ノ巣廉助と申す奴は、左様にまぬけな盗賊ではない。また御坊らは伊勢守どのでもない。――」
「ふむ、もしわれらが伊勢守どのであったら、この場はどうにもなるまい」
「われらなればこそ、お品とお鳥が救えるのじゃ」
こもごもいって、うなずきあう多聞坊と雲林坊を見くらべて、十兵衛は昏迷《こんめい》におちいった。このふたりの初老の坊さまが、いずれもいままで刀を手にとったことすらないことがわかっているからであった。
ふたりの雲水はかえりみた。
「では、ちょっと、その刀を貸してもらおうか」
茫乎《ぼうこ》たるお圭とお沙和から、それぞれ仕込杖を受け取った。十兵衛は隻眼をむいて、
「御坊ら、その使い方を御存じか」
「知らぬ、知っているのは禅ばかり」
「じゃが、剣禅一致とは、沢庵和尚おとくいのおん教え――ひとつ、十兵衛どのに、その真髄を見せてやるか」
不恰好《ぶかつこう》に、多聞坊と雲林坊はその仕込杖をぬいた。ニコリと眼を見あわせて、
「では、ソロソロと参ろうか、雲林坊。剣難はわれらが引き受けると冗談を申したら、どうやらひょうたんから駒が出たようじゃの」
「ちがいない。しかし、済度せんとするのは窈窕《ようちよう》たる女人、いや、これはわれら生まれてはじめての女難かもしれぬぞ」
洒落《しやれ》な一笑をのこすと、ふたりは頭巾《ずきん》をぐいとさげて、ぬいた刀を口にくわえた。鞘をポンとすてると、双方にわかれ、白すすきをかきわけて、別々の方角に飄々《ひようひよう》と街道に下りてゆく。
「…………」
全身の毛を逆立てつつ、十兵衛は茫然としてそれを見送るばかりであった。
鷲ノ巣廉助はピタと立ちどまった。山の方から下りてきた網代笠《あじろがさ》と墨染めの衣のふたつの影に気がついたのだ。
「来たな――待っておった」
と、彼はつぶやいて、ニタリと笑った。
秋風にふかれつつ、ふたりの僧形は山を下りてくる。――彼らは鷲ノ巣廉助を中に、街道の前後に出ると、そのゆっくりした速度を変えもせず、トコ、トコ、トコと廉助にちかづいた。
はじめ廉助がただ眼をひからせてこれを見まもっていたのは、その両雲水が、堀の女のうちのだれか、それともあの般若《はんにや》面の男か?――とさぐりあてるためであったが、突如として彼は奇声を発した。
「はて――うぬらは、何者だ?」
胸と腹に、女身の盾をあてているうえは、たとえ敵に弓鉄砲があろうとも使いようがなかろう、と嘲笑《あざわら》っていた鷲ノ巣廉助であったが、それでもなんとなくうす気味わるく思っているのは、あの般若面――盲目の怪剣士の出現であった。
眼を凝らして、前と後から迫ってくるふたりの雲水を見る。
ふたりの雲水は刀を横ぐわえにし、両腕をダランとたれ、黒い衣のすそを秋風にひるがえしながら、飄々と近づいてくる。
ちがう。袈裟頭巾をさげて刀を口にくわえているので顔はみえるが、むろん女ではなく、またあの花地獄でみた盲目の男でもない。平凡な、おだやかな、初老の男の顔だ。――それにしても、刃をくわえているというのは、いったい何の構えだろう?
しかし、それより廉助にいまあやしみの奇声を発しさせたのは、そのふたりの雲水がまったく案山子《かかし》同然だということであった。いや、いかに案山子同然とみせかけようと、一応兵法の手ほどきを受けた人間ならば、どの程度のものか鷲ノ巣廉助には看破できる。それなのに、そのふたりは、まったく体をなしてはいないのだ。全然無芸で、殺気というものすら感じられないのだ。
すでに三間の距離にちかづくのを見つつ、
「うぬら、何やつだ?」
もういちど、廉助はいった。
雲水は黙っている。もっとも刀をくわえているのだから、返事のできるわけがない。
二間。
左手にダラリとぶらさげた長刀に、廉助の右手がぴくっと動きかけたが、やめた。こちらを見ているふたりの雲水の眼に、何とも平和な、おどけた笑いが浮かんでいるのを見たからであった。敵にはちがいないが、なんたる奇妙な奴ら。――
一間。――五尺、四尺、三尺。
すでに刀を鞘《さや》ばしらせても及ばぬ死角の中にふたりは入りこんでいた。――よし! ひっとらえて、こやつらの正体を吐かしてくれる。電光のごとくこの思念がきざすのと、左手の刀をすてて、ふとい双腕がにゅうと左右にのばされたのが同時であった。
「うぬら――きちがいではあるまいな?」
廉助のこぶしが、ふたつの網代笠の上にはしったとき、両雲水の口からポロリと刀身がおちた。
「拾え、お品、お鳥」
「降魔の利剣をもってきてやったわやい」
はっとした刹那に、廉助のこぶしは死の鉈《なた》と変っていた。五寸にもいたらぬ空間で、彼のこぶしは凄《すさま》じい速度を生む。――それは同時に、真っ向からふたりの雲水の脳天を打撃していた。
網代笠はひしゃげた。いや、頭蓋骨《ずがいこつ》そのものもひしゃげた。
しかし、おなじ瞬間に廉助は、おのれの腕にからみついた重いものを感じたのである。
それはふたりの雲水の腕であり、からだであった。
彼らはおのれの頭部を粉砕されつつ、粉砕した腕に、しかとしがみついた。
鷲ノ巣廉助は吼《ほ》えた。両腕をふりまわし、全身を回転させた。しかし、ふたりの雲水は離れなかった。彼らはもとより即死している。すでに完全に屍体《したい》となっているのに、死んだ腕は鉄鎖のごとく廉助の腕にからみついて離れないのであった。凄じい怪力にふたつのからだは空中をぶんまわされながら、朱に染まった袈裟頭巾から、血の霧風を吹きつけた。
「あーっ」
山々に震憾《しんかん》する鷲ノ巣廉助の絶叫であった。その巨体が回転しつつ、道が沼になったようにメリこんだ。
四人のからだをぶらさげたまま、地を蹴《け》って走り出そうとした刹那にその足がなくなったのだ。彼は膝《ひざ》だけで路上に立ったのだ。
先刻地上にころがした二本の刀身を、たれさがったお品とお鳥はわずかにひろいあげていた。そして、白い花環《はなわ》のようにまわりながら、全身を海老《えび》のように折りながら、最後の力をふりしぼって、うしろなぐりに廉助の両足に斬りつけたのであった。
前にたれさげられたお品の右手の一刀は、廉助の左足を。
後に背中あわせにたれさげられたお鳥の右手の一刀は、廉助の右足を。
地上から逆さながれに旋回して斬りあげられた二条の刀身は、それぞれみごとに鷲ノ巣廉助の足を、膝のすぐ下で切断した。
「うっ、うぬらは――」
すでに、人間の声ではない。いや、人間の姿ですらない。それは巨大な一匹の芋虫であった。青竹に穴さえあける廉助の指、その腕にはなおふたりの雲水の屍体がくっついている。鉄鋲《てつびよう》うった門さえも蹴破る廉助の足、そのひざから下はすでにない。
切断された両ひざからしぶく流血に、みるみる満面|藍色《あいいろ》に変わりつつ、鷲ノ巣廉助は、血のぬかるみの中をのたうちまわった。
「よ、ようも鷲ノ巣廉助ほどのものを――」
歯をかみ鳴らしつつ廉助は、そのとき山のすすきを吹きわけて、疾風のごとくはせおりてくる三人の雲水の姿をみると、
「首はやらぬ」
うめいて、断崖《だんがい》の方へ這《は》いかけた。――首とは、おのれの首のことだ。彼はすでに敗北を認めていた。
這う。手と足のない人間が這う。それは這うのではなく、全身の蠕動《ぜんどう》だ。
しかし、崖の一尺手前で、廉助の胸は十兵衛の足で押えられた。
「お沙和、首を討て」
そういいながら柳生十兵衛の眼は、失神しているお品、お鳥よりも、死んでいるふたりの雲水にそそがれた。
その眼には、廉助におとらぬ敗北の色があった。
「沢庵流の真髄《しんずい》、おわかりでござろうが」
手をあわせつつ、飄としてもうひとりの雲水――薬師坊がつぶやいた。
本作品中には、今日では差別表現として好ましくない用語が使用されていますが、歴史的時代を背景にしていること、著者が故人であることを考慮し、最低限の改変にとどめました。
[#地付き]【編集部】
本書は、昭和四十九年十二月に角川文庫より刊行された『柳生忍法帖(上)』を底本としました。
角川文庫『柳生忍法帖』平成15年3月25日初版発行