山田風太郎明治小説全集10
明治波濤歌(下)
目 次
巴里に雪のふるごとく
築地西洋軒
横浜オッペケペ
関連年表
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明治波濤歌 下
[#地付き]波濤《なみ》は運び来《きた》り
[#地付き]波濤は運び去る
[#地付き]明治の歌………
巴里に雪のふるごと
呉越同車
西暦一八七二年十一月三十日、午前十一時、マルセーユ発パリゆきの汽車に乗りこんだ十七人の日本人があった。
車室は定員八人で、彼らは三車室を占めた。それがたまたま、七人ずつ二室、あと一室に三人だけがはいった。
その三人の名を、川路|利良《としよし》、井上|毅《こわし》、成島甲子太郎《なるしまきねたろう》といった。
どの車室も同じだろうが、彼らはほとんど二時間ばかり、ろくにものもいわず、ただガラスに顔をこすりつけるようにして、窓外の風景に見いった。はじめて見るフランスの大地であった。ヨーロッパはもう完全に冬にはいり、野はすべて枯れつくしていたが、水晶のように澄み切った大気の中に、太陽は明るく、黄褐色の森や、赤い屋根の村々や、その中にそびえる教会の尖塔などを照らしていた。それらは果てしもなく流れ去っては、果てしもなくまた現われた。
おととい、はじめてマルセーユというヨーロッパの大都市に上陸して、
「市街ノ楼閣空ニ聳エ繁華ノ景況人ヲシテ先ヅ喫驚《きつきやう》セシム。……瓦斯《ガス》燈夜ヲ照シ白昼ニ異ナラズ真ニ安楽国ナリ」
と、日記にしるした成島が、
「いや、田園の景色も美しいなあ。拙者は、日本ほど景色のいい国は世界中にもまたとあるまいと考ええていたが、まったく井の中の蛙《かわず》大海を知らずとはこのことで……これが春や秋ならどれほどか。それに、山といってもなだらかな丘ばかり、あとの平野の広大さはどうだろう」
と、茫然とした声で感慨を述べたのが、汽車が二時間ばかり走りつづけたころであった。
「しかし、どこまで走っても、こう一望の大平野ばかりだと、まるでのっぺらぼうで、私など退屈して来ますな。やはり、日本のように、山あり谷ありでないと。……」
と、いったのは井上だ。そして、横を見て尋ねた。
「マルセーユからパリまで何マイルですと?」
「ええと、二百十里、ということになりもすか」
と、さっきから、窓外の景と掌《て》の中の紙片をしきりに見くらべていた川路が答えた。それは地名も日本字で書きいれた自家製の地図であった。
「東京から京までの二倍近くありもすなあ」
「それを十七時間二十分で走る。……」
成島がまた嘆息をもらした。
彼らが汽車というものに乗るのも、これがはじめてであった。――実は彼らは、この十月十五日――日本の暦では明治五年九月十三日、東京と横浜にはじめて鉄道が通じた日の翌日に、横浜から出航したのだ。もっとも前日は天皇を迎えての開通式で、とても普通人の用は足せないし、あらかじめ荷物を運んでおく必要もあり、やはり人力俥で横浜にいったので、汽車に乗るのはこのヨーロッパが最初ということになった。
――ちなみに、現代では、マルセーユ・パリ間、急行で八時間である。
「とにかくこの広大な平野には、みな小麦か葡萄が出来るのでごわしょう。それをみんな食ってしまうとは、人間とはよく食うもんでごわすなあ」
しみじみと川路が、妙な感想をもらしたので――成島は高らかに、井上は低く――笑った。
彼らは、ほんの五年前、敵味方であったはずなのだが、日本を出てから一ト月半ばかり、同じ船に乗って来たので、かくは汽車でも同室となり、ともかくも一応は笑い合う仲となっていたのであった。
敵味方、といっても、それは薩軍の一将であった川路利良と、元幕臣、しかも騎兵奉行であった成島甲子太郎との間のことで、肥後人の井上毅は、その中間というところだろう。もっともいまは、成島が民間人であるのに対し、川路と井上は司法省の役人というちがいはある。
彼らは横浜からゴダベリー号というフランス船で出航したのだが、はじめから承知して同乗したわけではない。
警保寮大警視川路利良はパリの警察制度視察のため、司法|中録《ちゆうろく》井上毅はフランスの法制研究のため、ほか六人の司法省関係の役人とともに派遣されたのだが、瓦解以来、野《や》にあった成島甲子太郎は、たまたまヨーロッパの宗教事情を知るために洋行することになった東本願寺法主|現如上人《げんによしようにん》一行四人に、渉外係として同行を求められ、これに応じたものであった。
ともあれ彼らは、香港《ホンコン》でマルセーユゆきの定期船メーコン号に乗り替え、はるばるとインド洋を越え、三年前に開通したばかりのスエズ運河を通り、四十六日間を費してフランスへやって来た。
その間、二つのグループは自然と混合し、マルセーユからの汽車でもこの三人が同室する羽目になった。
別に、特に意気投合したわけではない。川路は一見茫洋としているが、どこかえたいの知れない、何を考えているかわからない、うす気味悪いところがあり、井上は氷柱《つらら》のように冷たく鋭利過ぎるところがあって、何となくほかの連中に敬遠されているところへ、これは春風駘蕩たる成島が、何のこだわりもなくいっしょにはいりこんだという結果に過ぎない。
この年、満で川路は三十六歳、成島が三十五歳、井上が二十九歳であった。
汽車は、ローヌ河に沿うフランス第三の都市リヨンに近づき、平原の風景にいつのまにか薄闇がヴェールをかけていた。
「やっと半分あたり来もしたな」
と、川路がいった。
「いよいよ、音に聞えたパリか。胸が躍る。――いや、拙者、これでもいろいろな目にあったが、これほど胸がドキドキするのは生れてはじめてのことだ。パリに着いたら、何から見よう? パリには何が待っているだろう?」
軽快な皮肉や辛辣な警句が口をついて出る成島が、少年のように頬を赤くしていた。
「おはんは、フランス語が出来《でく》るので気が楽ごわすな」
「いや、それがだめなんです」
「しかし成島どんは、フランス人の教官の下で幕府騎兵奉行をやんなさって、フランス語がわかるっちゅうので、上人のお供を命じられたのでごわしょう?」
「それが、実は、教官のほうがさきに、日本語を少しおぼえてくれて、それで何とか曲りなりに用が足せていたんでねえ」
かつての騎兵奉行成島|大隅守《おおすみのかみ》は頭をかいた。
「怪しげなものであることは承知していたんだが、この機会を逃すと洋行なんか出来っこないと、何喰わぬ顔で現如上人にかじりついたんでさ。しかし、カタコトくらいは何とかなるつもりだったんだが、これほどまるきり通じないとは驚いた。明日《あした》からパリで、上人のお供をして、どうしよう?」
「それでも、こちらよりゃマシでごわしょう。こちらは、どげんして恥をかかずにすむか、いや、恥をかくのが少くてすむか、それだけで胸一杯ごわす」
「これは川路さんらしくありませんな。大事なのは、言葉より行動です。精神です」
と、井上がいった。いちばん若いのに、いちばん平然としている。むしろ冷然としている。
長い顔だ。蒼白い皮膚だ。濃く太い眉の下の眼は暗い光を放っている。厚い唇を、垂れた口髭がとりかこんでいる。とうていまだ二十代とは思えない老成した容貌だ。――のちに明治憲法、教育勅語制定の主軸となり、天皇制を確立するのに明治政府最大のブレーンとなった男の顔であった。
それが、成島のほうをむいていった。
「そこで、気になるのは、成島先生ですがね」
「ほう、拙者の何が」
「例の、西洋の銭買いです」
「やあ、御存知か」
成島はちょっと狼狽した。
彼は、ヨーロッパへ来る途中、船の中でしきりに外国人の船客から貨幣を買っていた。むろん現在通用している貨幣ではなく、昔の貨幣だが、それを所持している西洋人を発見すると、例のカタコトも通じない言葉でどうやりとりするのか、いや、その外国人の国籍を問わず、何人かから買いいれていたのだ。内々のとりひきであったが、それを井上に見られていたものと見える。
「あれは、その、何だ、現如上人の御趣味でな」
「坊主の銭買いとは、いよいよもって感心しませんな」
井上の言辞は痛烈であった。
「銭買いというが、いま通用している貨幣を買うわけじゃない。古銭蒐集という、これは趣味だ。西洋人のだれでもが愛好している趣味だよ。だから、船客の中にもそれを持っている西洋人がいたんだ。私は高尚な趣味だと思う」
おだやかな成島も、さすがに憤然とした表情でいった。
この顔も長い。それどころか、こちらは髭を生やしてないせいか、長い井上の顔の倍はあろうかと思われるほどだ。――彼と親交のあった蘭学者桂川甫周の娘今泉みねが、「長いといったら、まあ人間じゃないようなお顔」と評したほどの長さだ。
人間ではないような顔とはひどい。むしろ成島甲子太郎は美男といってよかった。ふつうの意味の美男というより、江戸城奥儒者の家に生まれ、彼自身将軍侍講となり、さらに幕府騎兵奉行であった気品が、その長い顔に優雅な印象を与えた。
そういう身分、要職にありながら、一方、柳橋などでの遊びも欠かさなかった成島だ。だれに対してもざっくばらんにさばけた応対をする。現如上人に対してさえそうなのだから、ましてや川路、井上には、友達扱いの口のききかたをする。年長の川路にはともかく、井上に対しては友達以下のあしらいをする。彼としては親愛感の表現のつもりなのだが、それが若い井上にはひっかかる。何ぞや幕府をつぶしたのらくらどものなれの果てが、昔の身分を鼻にかけて、かりにも新政府の役人に、何を横柄な口をききくさる、と、笑止千万なのだ。負け犬が、卑屈でないところが|かん《ヽヽ》にさわるのだ。
そこに気のつかない成島は――と、いいたいが、実は腹の底に、九州くんだりから成り上った政府の役人どもに対する軽蔑感はたしかにある――ただ、それは一般論であって、べつに井上個人に対して悪意があるわけでなく、それゆえに平気で同室したくらいであったが、つづいて、
「たとえ上人の御趣味にしても、かりにも幕府の高官であったお人が、その手先となって西洋の銭集めをやられるのは、武臣銭を愛すれば亡国の兆、という言葉を地でゆくようで感服しませんな。まあ日本でやられるのは御自由だが、フランスで大々的にやられるのは、ほかの日本人にも面目なく思われるでしょう。それだけはおつつしみ願いたい」
と、ズバリと井上にやられて、
「井上君、それは言葉が過ぎるだろう」
と、長い顔を朱に染めて、
「古銭蒐集が日本人の恥か、パリに着いたらフランス人に聞いて見ようじゃないか」
と、いった。
さっきからゆるやかになっていた汽車が、そのときとまった。暗い窓がぱっと明るくなった。リヨン駅であった。
車室ごとの扉がいっせいにひらかれ、降りてゆく客、乗りこむ客の騒がしさ、また駅の歩廊の華やかな景観に、こちらの険悪な雲ゆきはそのまま停止した。
「七時ごわすな」
と、川路が懐中時計をとり出していった。同車の二人の顔が馬鹿に長いので、ひどく寸詰りに見えるが、大体正方形の顔であった。その四角な顔に、口髭が少しだらしなく垂れていた。
いままでの二人の口論には、知らん顔をしている。
汽車がふたたび動き出してからまもなく、通路側の扉をたたいて、一行中の一人、土佐人で司法省の役人河野|敏鎌《とがま》が顔をのぞかせた。
「こちらはそろそろ食事にしますが、部屋はこのままでよろしいか」
川路は、二人の同室者の顔を見もせず、
「結構ごわす」
と、答えた。河野は消えた。
駅によって、十分、二十分と停車時間があり、その間に食事させる食堂があるが、フランスの汽車旅行がはじめての彼らは、マルセーユのホテルから弁当を作ってもらって乗りこんだのである。まず川路が、つづいて成島、井上の順で、その白いナプキンでつつんだ籠をひらいた。
「おや、これは凄い」
と、成島がさけんだ。
籠の中には、煮こごりの中に、包丁をいれた雛鶏の肉や、ソーセージ、チーズ、ゆで卵、酢漬けの胡瓜《きゆうり》、玉葱、パン、砂糖菓子、梨、それにワインの小瓶までが、眼もあざやかに詰めこまれていた。
この弁当を、最も手ばなしで美味《うま》がったのは成島であった。
「これは何でごわすな。このうすきみ悪かものは何でごわすな?」
と、何度か、川路は訊いた。弁当のチマチマした配合の中に、フランス船やマルセーユのホテルの食堂でも見たことのない食い物がいくつかまじっていたのである。
「これはパテというものじゃないか知らん? これは薫製にした、さあ何だろう?……そうだ、牛の舌じゃないか知らん?」
成島は、乏しい知識をふりしぼって答えた。さっきの井上との喧嘩は、もう忘れたようなこだわりのない表情に戻っている。
「ほう、牛の舌。……異人はよくこげなものを食いもすのう!」
川路は辟易した顔をしたが、その牛の舌を口に入れて、
「こりゃ、美味《うま》か!」
と、さけんだ。
――さて、彼らが食べている間に、いまフランスの汽車で同室しているこの三人の未来の相関図をここで書いておこう。
翌明治六年六月帰国した成島甲子太郎は、明治七年、成島|柳北《りゆうほく》という筆名で「柳橋新誌」初篇を売り出し、洛陽の紙価を高からしめた。それは古きよき時代の狭斜柳橋の讃歌であったが、ついで第二篇において、ここに遊ぶ成り上りの官員どもの野暮ぶりを嘲笑し、しかも彼らに屈従する御一新以来の柳橋を挽歌として描き出した。この筆名は、しかしそれ以前から彼が雅号として用いていたものであり、かつこれが本名より有名だから、この物語では以下彼を柳北と呼ぶことにしよう。
同年柳北は、「朝野《ちようや》新聞」の主筆として迎えられた。
さて井上毅は、このころ法制局二等書記官の地位にあったが、明治八年、官吏を誹謗する者は牢屋に放りこむという、いわゆる讒謗律《ざんぼうりつ》の制定に当った。
柳北は起《た》って、新聞で井上を痛烈に揶揄した。揶揄どころか、彼を評するに、権力者に迎合する奸物というような表現を用いた。井上は告訴し、柳北はまさに右の讒謗律によって禁獄四ケ月と罰金百円の刑に処せられた。
彼を逮捕した警視庁の大警視――後の警視総監は、川路利良であった。
――日本に帰ると、彼らはまたも呉越の関係に戻っていったのである。
柳北巴里新誌
マルセーユのホテルの弁当をいちばん大量に食ったのは、いちばん気味悪がった川路利良であった。いちばん大量に、というのは、ほんの三口四口つっついただけで籠をとじようとした井上毅から譲り受けて、その分もだいぶ手をつけたからだ。
彼は、井上が半分かじったソーセージも平気で口にほうりこんだ。
「さっき川路さんは、この大平原に作った穀物を人間がみんな食うのかと感心されたが、フランス人がみんな川路さんのようだと、それでも足りなくなるのじゃないか」
と、柳北が呆れたくらいである。
汽車は、北へ、北へと、闇の中を走りつづけている。
食後三十分ばかりたってからであった。
「この汽車っちゅうもんの早さにも驚きもすが、それより驚くのは、これだけ人間を乗せた輛《はこ》を何台もひっぱって走るその力ごわすな。蒸気でこげな力が出るとは、いくら説明を聞いても信じられんごわす。ところが、おいにはまだ驚く事《こつ》がごわす。それはこの怪物のごとある汽車を走らせるのに、レールっちゅう二本の鉄の帯をつけた事《こつ》ごわすよ。野越え山越え、ときには大河に鉄の橋をかけ、それを何百里も鉄の帯をしく。わが国じゃ、それあぶなか、それ田畑がつぶされる、それ御先祖さまに申しわけなか、と騒ぎに騒ぎたてるやつがあって、まずその点で、はじめからあきらめんけりゃならんでごわしょう。……」
飽食への満足感からか、ワインの陶酔か、ふだんは無口のほうといっていい川路が、自分では気がつかないらしい奇抜な視点による長広舌をふるっている途中で、ふいに、
「ちょっと、手洗いへ」
と、いって、扉をあけて通路へ出ていった。
柳北は、車室のランプの灯に、横浜から持って来た皺くちゃの「横浜毎日新聞」をとり出して、読み出した。もう何度も読み飽きた古新聞だが、所在なければ文字に眼を遊ばせずにはいられない彼のくせであった。
便所はこの輛《はこ》の端にあり、みな一度は小便にいっている。ところが、十分たっても二十分たっても、川路が帰って来ない。
「はてな、どうしたかな」
と、黙って坐っていた井上が、首をひねった。
柳北は新聞から眼をあげて、
「小便じゃないようだ。あれだけ食えば出すほうも時間がかかるさ」
と、笑った。
そこへ、川路が帰って来てさけんだ。
「困った! えらか長糞のやつがおって、いくら扉をたたいても出て来ん。何かいう男の声が聞えるばかりじゃ!」
「隣の輛《はこ》にいったら?」
と、井上がいった。
「いったが、そこも使用中じゃ。戻って、またたたくと、こんどは女の声がする」
「そりゃ、隣へいった間にいれ替ったのでしょう。もう出てるのじゃありませんか」
「そうか、では、もういちど!」
川路は、あけた扉をしめもせず、また駈けていった。
柳北と井上は、顔見合わせて笑い出した。さっき口論した二人だが、これには笑わずにはいられない。
五分ほどたつと、川路がまた帰って来た。
「いかん! また男に替ったらしか。出て来ん! こっちのほうが先に出そうじゃ!」
満面蒼白になり、ひたいにあぶら汗がひかっている。足踏みしながら、あえぐようにいった。
「弱った! 川路利良三十七歳、維新回天の嵐にいくたびか苦難に遭逢したが、これほど弱った事《こつ》はなか! 助けてくれ!」
二人も、はじめて狼狽した。
「しかたがない、やんなさい」
と、柳北が立ちあがっていった。
「かまわん、ここでやんなさい!」
そして、いままで読んでいた新聞紙を床にひろげてやった。
――車窓をあけて、柳北が新聞につつんだ大塊を闇の風の中に放り出したのは、五分ばかり後のことである。
彼は鼻をつまんでいった。
「一件落着。……これで何とかフランスに日本人の恥を見せずにすんだようですなあ」
川路利良は、まだ床の上に尻もちをついたような恰好で、両肩で息をしていた。
一行がパリに着いたのは、十二月一日の午前四時二十分という時刻である。宿泊先がちがうので、彼らは、まだ暗いパリの町を、それぞれ別の馬車に乗って別れた。
成島柳北、すなわち本願寺現如上人らの宿泊先は、キャプシーヌ大通りに面するグラン・オテルであったが、これはパリ屈指の大ホテルで、宿泊料も一行五人で一日百五十フラン――日本の金で七百五十両――という高いものであったので、二日間滞在しただけで、イタリアン通りのオテル・ド・ロールビロンに移った。ここはグラン・オテルの四分の一ないし六分の一の室料であった。
これらの交渉は、柳北がした。異国での渉外係は、同時に会計係たらざるを得ない。
ただし、柳北にとってはこれが最初にして最後の、精一杯の働きで、同時にこの交渉で、期待された彼のフランス語が、パリの案内役などとんでもないしろものであることが曝露され、一同あわてて、改めてフランス語の教師を傭う始末となった。
柳北にしてみれば、むしろ厄介事からの解放といっていい。彼は頭をかいてみせたが、ノンシャランとした顔をしていた。
そして彼は、現如上人など放り出して、一人でパリを歩きはじめた。上人の案内役などは出来ないが、一人で歩く分には、それだけの勇気と好奇心にこと欠かなかったのだ。
パリは前年の普仏戦争敗北当時のパリ籠城戦、つづくパリ・コンミュンの騒乱における砲弾銃弾のあとがいたるところ残っていたはずだが、こちらから見れば――天外から来たような柳北には、そんなものは眼にもはいらない。
言葉の不自由さは最初から、だれより彼自身が承知していたことであったから驚かなかったが、それより柳北を参らせたのは、横浜であつらえて来た自分の洋服と靴であった。
十二月三日の日記に彼は書いている。
「本邦ヨリ着シ来リシモノハ皆|陋悪《ろうあく》ニシテ本府ニテハ車夫馬丁モ着セザル様ニ思ハル又一笑ス可シ」
スタイルの問題もさることながら、それ以上に困ったのは靴だ。これも横浜で買って来たのだが、あまり歩行することのなかった船中ではどうにかごまかせたが、いざパリの町を歩き出してみると、たちまち左足が痛みはじめたのである。「又一笑ス可シ」と日記には書いたが、彼にとっては実に笑いごとではない。
彼はこう日記に書いた日、早速パリの仕立屋にいって、新しい洋服を、靴屋にいって新しい靴を注文している。パリに着いて三日目、何より先に彼がやったのは、この洋服と靴の注文だったというのだから恐れいる。成島柳北は伊達男《だておとこ》であった。
そして、洋服と靴が出来るまで、念のため日本から持って来た羽織袴を着用した。このいでたちで、山高帽をかぶった。
この姿で出歩くと――ゆきかうフランス人たちは、むろん物珍らしげな眼をそそぐけれど、洋服のときほど笑わなくなったのはふしぎである。いや、ふしぎではない。柳北はパリ人の美的感覚を理解した。
ところで、三日目の洋服注文以上に恐れいった行状が彼にある。
十二月八日、ボア・ド・ブロン(ブーローニュの森)を見物したあと、「ザングレイ楼ニ飲ム、肴核頗《さかなだねすこぶ》ル美ナリ。帰途|酔《よひ》ニ乗ジテ安暮阿須街《リウ・ド・アンボアス》ノ娼楼ニ遊ブ、亦|是《こ》レ鴻爪泥《こうさうでい》ノミ」と、日記にしるしていることだ。鴻爪泥とは、泥に残った白鳥の足あと、という意味である。
つまり、パリ到着後、八日目に、アンボアス街でもう女を買っているのである。
――立教大学教授前田愛氏によると、「さすがに『柳橋新誌』の作者らしいが、どういうわけか柳暗花明の記事は、この一個所だけなのである。『亦是レ鴻爪泥ノミ』と軽くかわしているあたりが、かえってうさんくさい。あるいは語学力の不足から通人の面目丸つぶれの仕儀となったのではあるまいか」と、ある。
言葉の不自由は覚悟の前だといっても、彼もさすがに困ることも多かったにちがいない。が、数日中に彼は、うまい具合に適当な案内役を得た。
パリに着くと、彼は早速旧知のシャノアン大尉を訪問した。
そもそも柳北が、成島大隅守などというしかつめらしい名をいっとき得たのは、幕府が急遽近代式騎兵隊を編制しようとしたとき、その指揮官に任命されたからである。元来将軍侍講の学者であった柳北が、そんな役を命じられたのは、彼が弓術と馬術だけにはわりに熱心に修行していたのを見こまれたせいもあるが、その騎兵隊を指導するためフランスから教官団を招くことになったについて、それとの応接に、何となく成島柳北という人間が、フランス語を解すると否とを論ぜず、それにふさわしいと認められたからであろう。
で、フランスからやって来た十五人の教官団の隊長が、そのシャノアン大尉であったのだ。彼は、アルジェリア、インドシナの植民地戦争を体験した勇士であった。
こうして、はじめは横浜の太田屯所で、後には江戸の駒場野で西洋式騎兵調練が行われたのだが、騎兵奉行の柳北は、調練そのものもさることながら、それより幕府の閣僚連とシャノアンたちの意見の調整に苦労した。双方の出す要求が、おたがいに無茶、非常識と感じられるものであったからだ。
それは慶応三年のただ一年のことで、その年の終り、いよいよ幕府の運命が決しようという直前に、柳北がみずからこの職をひいたのは、実はこの苦労に疲労|困憊《こんぱい》し、自分の本質がこの職とは合わないということを自覚したからであった。
しかし、シャノアン大尉は柳北に、いい感じを持ったらしい。武人としてより、カタコトのやりとりながら、柳北の持つ、日本人には珍らしいエレガントなセンスが好もしく伝わったらしい。それはシャノアンの態度のはしばしに現われた。しかし、幕府瓦解とあってはもはやなすすべもなく、やがて彼はフランスへ帰っていった。
さて、柳北はこのシャノアン大尉に、五年ぶりに挨拶にいった。それは儀礼的訪問のつもりであったが、大尉は――シャノアンはその後退職していたが――柳北が恐縮するほど歓待してくれた。柳北は書いている。
「氏ノ書室ニ余ガ曾《かつ》テ贈リシ日本刀一腰及ビ江戸名所図絵一部ヲ置ケリ。且《かつ》余及ビ荊婦《けいふ》(妻)ノ写真モ亦氏ノ写真帳ニ挿《さしはさ》ミテアリ。氏ノ旧情ヲ忘レザル寔《まこと》ニ感嘆ニ堪ヘタリ」
そのとき二人は、貨幣蒐集の話もした。それはシャノアンが在日時代に教えた趣味であったのだ。柳北の知識が、その後長足の進歩をしているのを知って、シャノアンはよろこんだ。
そして、シャノアンは、何日かパリの案内役を買って出たのである。
それをはじめてやってくれたのが十二月十三日のことで、連れてゆかれたのが、ノートルダム寺院であった。
いまでさえ訪れる日本人を驚かせるノートルダム寺院の、石の交響楽ともいうべき荘厳華麗さに対する柳北の感動は、ことさら述べるまでもない。
やがて二人は、真っ暗な螺旋階段を上って、光の穴からその塔上に出た。
柳北はこの日もまだ羽織袴に山高帽といういでたちであった。しかも、シャノアンが面白がって、それが日本のサムライの正装だからといって、自分がプレゼントされた日本刀を持ち出して、その腰にささせた。
この当時、エッフェル塔はまだ存在せず、パリの町を見下ろす最適の場所としては、モンマルトルの丘以外には、このノートルダムの屋上しかなかった。
晴れた日であったが、しかし大気は氷のように冷たく、見物客はまばらであった。
シャノアンは手をあげて、眼下のセーヌ河から順々に、パリの宮殿や塔や門や街路や庭園、その他の建築物を説明した。
それは、ナポレオン三世の命を受けたパリ市長オスマンが、昔からの町並をほとんど根こそぎに大改造したあとの、すなわち現代われわれが見るパリであり、当時は、古きパリを懐しんで新しい市街に違和感を持つ者が少くないパリであったが、しかし、いまやって来たばかりの日本人にとっては、いよいよ整然とし、いよいよ壮麗なパリを眼前にするばかりであった。
柳北は、東京でさえこんな高いところから俯瞰したことはない。この壮観に、ただ人外境にある思いがした。
やおらシャノアンが、ノートルダム塔上の有名な怪獣像の解説にかかろうとしたときだ。背後から、大きな声がした。
「おう、こりゃ、成島どん!」
ふりかえって、柳北はそこにシルクハットをかぶった川路利良の姿を見とめた。
二人連れである。もう一人の見知らぬ男も洋服を着た日本人であった。
いま上って来たところらしく、川路はふうふうと馬みたいに白い息を吐いている。ふだんあまり笑わない男が、満面に笑みを浮かべ、しかし持前のノソノソした動作で歩いて来て、
「思いがけず、こげな高いところで……牽牛《けんぎゆう》が織女《しよくじよ》に逢った心地がする!」
と、彼に似合わしからぬ風流な表現で久闊を叙した。
――パリ到着の朝、司法省関係の一行は日本公使館に向ったので、パリ駅で別れたきりであったのだ。
川路は連れを、公使館の長船《おさふね》という書記官だといった。
柳北はシャノアンを、御一新前、幕府の騎兵隊を調練に来たフランスの大尉どのだと紹介し、川路を、元薩摩の一将校で、いまは司法省の役人として、こんど自分と同船でフランスの警察事情を視察に来た者だと紹介した。――もっともこれは、見るに見かねた長船書記官の助けをかりてである。
「オー、サツマ。……」
シャノアン大尉は、川路に握手の手をのばし、笑顔でベラベラといった。川路にはそれだけわかっただけで、あとはわからない。
川路は握手しながら、長船書記官をふりむいた。長船が通訳した。
それによるとシャノアン大尉は、鳥羽伏見の戦いの前後、将軍慶喜とともに大坂城にいて、自分が調練した幕府の伝習隊をみずから指揮するつもりでいたところ、何もしないうちに幕軍が大敗してしまい、将軍と同じ開陽丸に乗って江戸へ逃げ帰った、というのであった。
長船はなお伝えた。
「アナタハ、トバフシミ、ノ、イクサ、ニ、サンカ、シテイマセンデシタカ?」
川路は微笑して、
「ウイ!」
と、いった。これだけはおぼえたと見える。
それは、馬上で相見《あいまみ》えることが出来なかったのは残念、と、シャノアンはいい、また手をのばして、しかし昨日の敵は今日の友です、よくいらっしゃいました、と握手を求めた。
そして、改めて彼が、例の怪獣の説明をしかかったとき、塔上にまた一団の人々が上って来た。
こんどはフランス人ばかりで、しかも相当な身分の人々らしい。十人ばかりの中に、美しい貴婦人の姿も三人ほど見える。
――と、そっちを見たシャノアン大尉が、突然妙な声を発し、柳北らを放り出して、つかつかと歩いていった。そしてその前で、直立不動の姿勢になって敬礼した。
彼が敬礼しているのは、その一団のまんなかの、黒い長いマントを羽織った一人の老人らしかった。
あっけにとられて見送っていた柳北が、長船書記官に訊いた。
「あれはどなたです? 将軍ですか?」
ひたいはひろく禿げあがっているが、銀髪の獅子のように、フサフサとした白い髯につつまれたその老人は、実際、老将軍のような威厳にふちどられて見えた。
「いや……私は見たことはありませんが……はてな、写真では見たことがある。……」
長船書記官は首をかしげてつぶやき、突然大きな声をあげた。
「あれはユゴーです! 大詩人のヴィクトル・ユゴーです!」
ノートルダムの示現《じげん》流
「あなた方、レ・ミゼラブルという小説を知っていますか?」
と、長船書記官は尋ねた。
「いや」
と、成島柳北は首をふった。
「ジャン・ヴァルジァンという名を聞いたことはありませんか?」
「いや」
と、川路利良は首をふった。
長船書記官は、やんぬるかな、というように、フランス人風に肩をすくめてみせた。もっとも彼にしても、この大文豪の他の作品や生涯について、それほど詳しく知っているわけでもなかったが。――
「とにかく、フランスの誇りともいうべき偉大な詩人で、小説家で……それがナポレオン三世の独裁に反抗して、たしか二十年近くも、英仏海峡にあるガーンジー島という孤島に亡命していたのです。ところが御存知のように、おととしのプロシャとの戦争でフランスが負けて、こんどはナポレオン三世のほうがロンドンに逃げていった。そこでユゴー氏は二十年ぶりにパリに帰って来た。……私はその直後に着任したのですが、それは英雄の凱旋のような光景だった、という記事を何かで読んだことがあります」
「それにしても、フランスじゃ、どげにえらか詩人にしろ、詩人に軍人が、あげにしゃちほこ張って敬礼するもんでごわすかな」
「一般に、詩人でも画家でも音楽家でも、日本よりはるかに尊敬されてるようですね」
「さすがは、文明国ですな」
と、感心したのは柳北である。
「いや、しかしそりゃ一流の芸術家に対してでしてね。特にあのユゴー氏は例外です。そうそう、何でもいちじは大統領になるとかの話もあったとかで。……」
「へえ」
と、川路はいったが、とにかく知らないフランスの大詩人のことだから、それ以上興味の持ちようもなかったらしく、それにシャノアン大尉がそちらへいってしまったので、とりあえず柳北と、一別以来のおたがいの消息を交わし出した。
川路の参観先が、警察、監獄、兵営などが多かったのに対し、柳北のいったところが、博物館、公園、劇場などが大半であったのは当然として――やがて柳北は、こんな感慨をもらした。
「しかし、私のいちばん驚いたのは、建物や街路や公園ではなく、こちらの人が女を大事にすることですな。これには敬服した。――もっとも、女も美しいが」
「まったくごわす。じゃが、おいは別に敬服しもさんが。――ああ女にデレデレしちょるから、いくさに負けたんじゃと思いもした」
「それから、女性に劣らず、動物や小鳥を大事にすること。――街頭で、雀までが足もとで餌をついばんでいるのには驚いた。日本じゃ、想像も及ばんことだ」
「日本は、それ米を食われる、と、二千年来追いまわしておりもしたからの。貧乏のせいごわす」
「要するに、こちらの人は、生活を楽しんでおる。戦争に負けても、生活を楽しむことを捨てようとしない。――こちらの人は、死ぬときみんな、おれは人生を生きた、おれは人生を愉しんだ、といいそうだが、日本人で死ぬとき、そういえるのは、よほどえらばれた人間か、悪いやつか。――」
「それも日本が、貧乏のせいで、みなあくせくせんけりゃならんためごわす」
川路の鼻の穴から、二本の息が白い棒みたいに吹いた。
「プロシャとの白人同士の共喰いはともあれ、あげに広い豊かな国土を持って、なおアジアやアフリカに植民地を作ろうとする。――こちらのあの美しか宮殿や庭園は、みな植民地からの富の奪取の結果じゃごわすまいか」
パリ初見聞《はつけんぶん》十三日間にして、両人の感想はかくのごとく別れた。
「いや、おいはパリよりもおはんに感心しもした」
川路は改めてジロジロと柳北を見まもった。
「何が?」
「その姿が」
柳北の刀をさした羽織袴姿である。
「立派なもんでごわすなあ。おいはそげなもの、日本から持って来る事《こつ》を忘れて残念ごわす」
柳北は、衣服はともかく、刀の件については事情を説明し、さてその衣服について、目下洋服を新調中であることをいい、川路にも至急あつらえることを勧めた。川路は依然、おそらく彼も横浜で作らせたであろうダブダブの洋服を着たままであったからだ。
「なに、沐候《もつこう》にして冠しても、どげんしようもなか」
川路は、柳北をほめたくせに、自分の姿には平気な顔をしていた。
「ただし、日本からはいて来た靴は、痛んで痛んで、やむなく靴だけは新しく買いもした」
それだけは彼も御同様だったと見える。
柳北は、川路のピカピカひかった靴を見下ろし、眼をあげて、シルクハットを眺め、
「それにしても、頭にもそんなものをかぶってるじゃないですか」
「いや、こりゃどこかを参観しちょるときに、向うのお人が、ふいに頭に乗っけてくれたもんで――見るに見かねたもんでごわしょうか」
と、彼は大笑したが、すぐに何やら思い出した表情になって、
「おう、そうじゃ、沐候にして冠すで思い出した――と、いっちゃ悪かが、例の岩倉卿の使節団な、あれが近くパリに回って来られるっちゅう事《こつ》ごわすぞ」
と、いった。
「ほう」
と、柳北は眼をまるくしたが、やがて、
「なるほど」
と、うなずいた。
自分たちより前に――日本の暦ではたしか去年の十一月に、日本を出ていったいわゆる岩倉使節団のことを思い出したのである。
使節団約五十人に、留学生六十人という大人数で、まずアメリカに渡り、そのあとヨーロッパを回るということであったが、それが、さきごろイギリスに到着し、ついでいよいよフランスへ来ることになったらしい。むしろ、自分たちより一年近くも前に出たその人々が、いまごろやっとヨーロッパへ渡って来たことに対して、その悠長さのほうに驚く。
「そりゃおなつかしい、といいたいが、拙者には縁のない方々で」
「それについて、一つ妙な話がごわす」
と、川路は、微苦笑、ともいうべき顔になっていった。
「その一行を、パリにおる日本の芸人に土下座して迎えさせようっちゅう事《こつ》が」
「えっ、日本の芸人? そんなものがパリにおりますか」
「それが、おるのです」
と、長船書記官が口をさしはさんだ。
「こちらへ来て、私も驚いたのですが、独楽《こま》回しやら、大《だい》神楽《かぐら》やら、手品、足芸、軽業師、それに娘手踊りなんてのが一座を組んで、いま公使館の調べでは二十余人。……中には、御禁制の時代に渡航して来たらしいやつらもおります」
「そんなものがパリに来て……商売になるのですか」
「よくわかりませんが、生きているところを見ると、何とかなるのでしょう。こちらには日本の寄席と同様、場末に小さな劇場《こや》がたくさんありますし、辻や大道、広場もある。パリには、ほかにも東ヨーロッパやトルコやアルジェリアなんてところからも、踊り子やら歌うたいと称して、怪しげな連中がゾロゾロ来ていますからね」
「へへえ」
これは、まったく意外であった。これまでヨーロッパに来た日本人は、政府の使節か役人か、あるいは留学生か、さらには自分のような僥倖《ぎようこう》者かで、それ以外にはないと思っていたのに――しかも、みんなお国で水盃をかわして出て来たというのに、そんな異《い》な連中が、さきにノコノコやって来ていようとは。――
「それはとにかく、その連中になぜ出迎えさせようというのかね」
「それは――こちらじゃ、どうも日本人を見下すやつが多い。政府関係の人間はともかく、一般民衆のほうですな。まるで土人国からでも来た人種のように見るやつがおる。それは下々のわれわれだけじゃなく、おそらく大使一行が来られても大差ないだろう。それでは日本の国威にかかわるのみならず、現実の見学そのものにも害がある。そこで、そんなことのないように、大使一行が馬鹿にされないように、その方々が日本の貴種貴品であることを知らせるために、彼らに土下座させて迎えさせる、という案が出て来たのです」
「そんなことすりゃ、いっそう馬鹿にされやしないか。――だれです、そんな案を出したのは」
「井上どんごわす」
と、川路がいった。
「ははあ」
「あの仁、若いが、なかなか信念家でごわしてな」
「鮫島公使も首をかしげられたのですが、それがすでに公使館が白人に卑下しておる証拠だといわれるのですよ」
と、長船書記官も憮然としていった。
そのとき、三人は、向うのユゴー一行がこちらを見ているのに気がついた。ユゴーが何か訊き、シャノアンが答えているようであったが、突然、川路が、
「や、こりゃいかん」
と、狼狽した。
「何です」
「あの中に、おいを知っちょる人がおる」
「え、あの中に?」
「あのいちばん端の、わりに小柄な、髪のちぢれた蒼い顔の男――ありゃたしかパリ警視庁のルコックっちゅう警部じゃで。……あの人が、おいがパリ警視庁にいったとき案内してくれたが……こりゃ弱った」
「何が?」
「そのときにな、ルコック警部が――数日前、マルセーユからパリへの汽車で、窓から糞を外に投げた日本人がおる、っちゅう話をした」
柳北は思い出した。いや、いま思い出したのではない。さっき川路と再会したときからあのことが頭に浮んで噴き出しそうになったのだが、故意に知らない顔をしていたのだ。
「な、なぜ、あれが日本人だと」
「糞をつつんであった新聞が日本語の新聞っちゅう事《こつ》が判明した、っちゅうんでごわす」
いわれて見れば、まさに明々白々だ。それまで自分がその失敗に気がつかなかったことも、あとになって思えば二重の可笑《おか》しさとなったが、このときは柳北も二の句がつげず、ややあって、
「それで、あの糞があなたの糞だということがわかったのですか」
「いや、それは知らんらしかったが……おいは赤面しもしたよ。や、こっちへ来る。おいをつかまえに来たのかも知れん」
歩いて来たのは、そのルコック警部とシャノアン大尉であった。
ヴィクトル・ユゴーがノートルダムの塔上に上って来るのは、少し|つき《ヽヽ》過ぎているようだが、それにはわけがあった。
ユゴーは、ナポレオン三世の亡命とともに、いったんパリに帰り、国民議会の議員などになったものの、その後パリ・コンミュンその他の事件でパリは物情騒然として、彼自身生命の危険さえあったので、またガーンジー島に帰り、その後、機会を見て、パリとの間をひそかに往来していた。ともあれ、二十年間亡命していた彼には、オスマンが改造したパリが物珍らしく、それだけに、昔に変らぬ建築物は彼の懐旧の念をそそった。それで、大パリっ子の彼が、パリに帰るとお上りさんのごとく、日夜パリを逍遥するのを習いとした。彼がノートルダムを訪れたのも、その想いの一つの現われであったのだ。彼はこのとし七十歳であった。
さて、三人の日本人のところへやって来たルコック警部は、川路に向って何かいった。長船が通訳した。それは川路の怖れていた糞事件についてではなく、ここにいたのが先日警視庁を訪れて来た日本の役人だと知っての挨拶であった。
そして、シャノアン大尉がいう。
「あそこにおられるのは、わがフランスの誇り、文豪ヴィクトル・ユゴー先生です。あなた方を、かつての日本の王党と革命党の人間で、それがいま手に手をとってはるばる東洋からパリの見学に来られたむね申しましたところ、ユゴー先生はいたく感動されました」
シャノアンは、ユゴーの熱狂的愛読者であり、心酔者であったのだ。
「ユゴー先生は『九十三年』という作品で、フランス革命当時の王党と革命党の、血で血を洗う、敵味方ともに相討って死んでゆく悲惨な物語を書かれたので、特に感動されたらしいのです」
「へえ、王党と革命党」
通訳を聞いて、柳北は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
「どっちが王党で、どっちが革命党で?」
「ムッシュウ・ナルシマが王党で、ムッシュウ・カワジが革命党ですよ」
「ほう、おいが革命党」
川路も、狐につままれたような表情をした。
「いや、わかり易いように、一応そう説明したのです。ところで、ユゴー先生は、日本のサムライと剣術に甚だ興味を持っておられるそうで、日本の剣術はヨーロッパの剣術とは剣の使い方がちがうという。倖い、見たところ、日本の刀を腰におびておられるようだ。もし出来たら、それをここで拝見したいものだが、とおっしゃるのです」
「いや、それは」
と、羽織袴の柳北は、腰の刀を見下ろして当惑した。彼は馬術と弓術は一応修行したものの、剣法のほうはまるで自信がなかったのだ。とにかく、人さまに見せるようなものではない。
「むろん、何かを斬るわけにもゆきませんから、型だけでいいのです」
「……そうでごわすか」
と、川路のほうがうなずいた。――どういう心情が動いたか、一見鈍重に見えるこの人物が、ふいにみずから何かやる気を起したと見える。
「そいじゃ、おいが、御愛嬌までに御覧にいれもそう」
「あんたが?」
けげんな顔をする柳北に、
「ちょっと、拝借」
と、川路は、柳北の刀に手を出した。
「それから、おはん――例の西洋貨幣を御所持じゃろ――二間ほど離れて、それを空中に投げて、おいの前に落ちるようにして下さらんか」
それから、長船書記官のほうをむいていった。
「あちらに、きょうは王党派がちと風邪気味じゃから、少し腕は落ちるが、革命派のほうが芸を見せるといって下され。しくじっても、お笑いなさらんようにと」
数分ののち、刀を鞘のまま左手に持った、シルクハット、ダブダブの洋服姿の川路利良は、右足踏み出し、刀の柄に手をかけて構えた。
ユゴーを囲む一団は、中にはからかい気味の笑顔の者も混え、何かささやき合いながら、好奇に満ちた眼を、彼らには滑稽奇怪と見える東洋の剣士の動作にそそいでいる。
成島柳北自身、めんくらった表情で、自分の持っているリシュス・ヴェリウス銅貨と呼ばれるローマ貨幣を、ノートルダム寺院塔上の空高く放りあげた。
「チェストー!」
怪鳥のごとき気合一声、川路利良の鞘からひらめき出した電光がキラと宙に一閃した。
ローマ貨幣は落ちた。それは石の上に二つのひびきを割ってころがっていた。
片手斬りで両断された貨幣を、信じられない眼で追って、ユゴーたちはしばし声もなかった。
それがまだ静止しないうちに、刀身は鍔鳴りの音をたてて、剣士の鞘に消えている。
――先刻、川路は鳥羽伏見のいくさに参加したといったが――「史談会速記録」には、蛤《はまぐり》御門のいくさのとき彼が長州の剣法師範をただ一撃で討ちとめた事歴を伝えている。実際に彼は、薩摩の誇る凄絶の剣法、肉を斬らせて骨を断つ一撃必殺の示現流の名手であったのである。
「失礼しもした」
川路が一礼した。
「ヴォアラ! セ・トゥ」
と、シャノアンが向うに通訳した。
「セ・フォルミダーブル!」――見事!
と、ヴィクトル・ユゴーが、髯の中でつぶやいた。
異国旅芸人
岩倉使節団は、それから三日目の十二月十六日の夕刻に、ドーバー海峡のカレー経由でパリに到着した。留学生の大半はアメリカに置いて来たが、なお六十名前後の人数であった。
特命全権大使の岩倉卿だけ、羽織袴に公卿髷《くげまげ》といういでたちであったが、それに靴をはいていた。副使の木戸、大久保、伊藤ら、その他福地源一郎、林|董《ただす》、佐々木|高行《たかゆき》、山田|顕義《あきよし》、田中光顕、久米邦武らの書記官、理事官らはシルクハットをかぶっている。長与専斎、宇都宮三郎、大島|高任《たかとう》、村田新八、金子|堅太郎《けんたろう》、団琢磨、中江篤介らをふくむあとの随員たちも、みなアメリカないしイギリス仕立ての洋服を着用に及んでいる。
大使、副使は現在すでに明治政府の主脳であるが、それ以下の随員も、のちに明治の政財界、学界、言論界などの指導者となる人々であった。
彼らは馬車をつらねて、フランス政府が用意した公館に向った。それは元トルコ公使館で、凱旋門の西北にあり、リュウ・ド・プレスブール街に面した三階建ての白堊の建物であった。
これは当時のパリにも遠来の珍客で、公館の前の街路には、珍らしく大勢のパリっ子が見物に集まっていた。
その中に、柳北、川路も混っていた。パリ仕立ての洋服が出来て、柳北はそれを一着に及んでいる。
行列が来る前から、彼らは、入口の石段の両側に、十何人かずつくらいにならんで坐っている妙な日本人たちに注意をひかれていた。地面に両膝そろえて坐っているのもこちらでは見かけぬ風景だが、中にはもう両腕ついて首を垂れて動かない者も、七、八人はある。そのうち三、四人は女であった。
柳北と川路は、心中憮然たるものがあった。
「あれがパリの日本芸人か」
改めて、柳北がいう。
「長船書記官によるとな、あのうち半分は、五年ばかり前――日本で言や慶応三年、このパリで開かれた万国博覧会に余興としてやって来た連中じゃっちゅう。これは幕府公認じゃ。もっとも、そのあと、ここに居ついてしまったのはどげなわけか。――そして、残り半分は――本人たちも咎めを怖れて正直にいわんが、それ以前かその後に、無断で海を越えて渡って来て、パリに流れついたものらしか」
と、川路がいう。
彼らはみんな、チョンマゲ、女は島田、その多く裃《かみしも》―― というより、芸人用の肩衣《かたぎぬ》をつけていた。それがすべて色あせているか、こちらの安布《やすぬの》で仕立てたものらしく、異様にケバケバしく、下司《げす》っぽい色をしたものだ。その姿、その顔、ことごとくうらぶれ果てて、中には男のくせに白粉や紅を塗ったものもあり、まるでこちらの道化師だ。
――と、大路の向うから、四輪馬車がやって来た。十台近くつづいている。
この公館は、シャンゼリゼーを一望のもとに眺める広い後園を持っているが、正面は大通りに向いているので、馬車は街路にとまらなければならない。
一番先頭の馬車から、澄ました顔で下り立ったのは、なんとシャノアン大尉だ。ただし、日本からの珍客の接伴員として大尉がかり出されたことはすでに柳北も川路も知っていたので、このことには驚かない。つづいて、二人ほどフランス政府の役人らしい男が下り、鮫島公使、それから岩倉、木戸、大久保、伊藤と下り立った。
芸人たちは、平蜘蛛のように地べたへひれ伏した。
街路の見物人たちはいっせいにどよめいた。
大使たちは、この思いがけぬ異装の日本人たちの出迎えにめんくらったらしい。伊藤博文が何か訊き、鮫島公使が何か答えたが、すぐそのまま公館の中に消えていった。ただシャノアンだけは入口に立って、あとにつづく人々を待っていた。
「……あっ」
ふいに、柳北が小さなさけびをあげるのを、川路は聞いた。川路はふりかえって、柳北が飛び出すような眼で、ある一点を凝視しているのを見た。
実は川路も、その人間に気がついて、おや、と眼を見張っていたのである。それは芸人たちのうち、右側の列のいちばん端にいる女であった。そこにいた三人の女は、使節団の一行が到着する前からひれ伏していたが、いざそれが到着すると、その女一人が身を起して、平伏もせず、じっと大使たちを見つめていたのだ。
それは、ほかの芸人のようにうらぶれた感じのしない、生命力に満ちた、日本人には珍らしい肉感的な、美しい顔をした女であった。
「どげんなされた?」
と、川路は尋ねた。
「あの女、知っておる。……」
と、柳北が答えた。
その間にも、次々に到着する馬車から、随行の書記官や理事官、さらに随員たちが下りて来て、公館にはいってゆく。
――と、その随員の中の、ステッキを持った一人が、ピタリと立ちどまった。その女に気がついたようだ。しばし棒立ちになっていたが、つかつかとその女のほうへ歩いてゆき、その前に立った。
そして、何かいった。何といったかわからなかったが、叱りつけたことはたしかであった。
すると、しずかに女が立ちあがった。花かんざしをさして、島田に結っているのに、朱鷺《とき》色の肩衣と袴をつけた姿であった。それが、何か答えて、いきなり、シルクハットをかぶった男に唾を吐きかけた。
随員は激昂して、女の胸ぐらをつかもうとした。女はとびずさり、石の壁に背をおしつけて、
「恥さらしはどちらですか!」
と、さけんだ。それだけは、はっきりと聞えた。
ものもいわず、柳北は駈け出していた。
駈けて来る跫音を聞いて、随員はふりむいた。シルクハットの下は、青銅のようなかたさとつやを持つ面長の顔に、ふとい鬚をピンとはねあげた三十半ばの男であったが、その口が洞穴《ほらあな》みたいに開かれた。
「成島か。……貴公、いつパリに?」
二人の間にはいって、柳北は答えた。
「お前さんが新政府に仕官して、こんどの使節団の随員になったってことは聞いていたが……ここで、こんな逢い方をしようとは思いがけなかったよ」
それから、女のほうを見やって、
「しがねえ恋の情けがアダ……いや、花の巴里で源氏|店《だな》をやろうたァ、切られ与三でも御存知あるめえ。まったく、お前が柳橋から姿を消したってことも聞いちゃあいたが、まさか、こんなところで逢おうとは。……」
柳北は歩み寄った。
「しかも、柳橋切っての名花が、異国を流れる旅芸人とは……いったい、どういう手蔓でここへ来た?」
「あたしゃ、自分の銭で来たんだ」
近づいていった川路は、女が低い声でそういうのを聞いた。
「オメオメとあてがいぶちで、敵のお供をして異国へ来るような男の顔、見たくもないや!」
白い手があがると、ぴしいっと柳北の頬に音が鳴った。それから、女は両手で顔を覆って、壁に背をつけたまま、はげしく嗚咽《おえつ》しはじめた。
「成島、どけ」
あっけにとられて立ちすくんでいる柳北をおしのけて、例の随行員が出ようとする。ステッキが、刀のように握られていた。
そのとき、別のシルクハットが駈けて来て、
「およしなさらんか、フランス人が大勢見ておりますぞ」
と、声を殺してさけんだ。
長船書記官である。彼はほかの館員たちとともにパリ駅まで大使一行を出迎えにゆき、最後の馬車でここにいっしょに来て、この光景を見て、びっくりして飛んで来たのである。
随行員は、はじめて周囲を見わたし、特に入口でじっとこちらを眺めているフランス側接伴員――シャノアン大尉に気づき、狼狽した表情になって、そちらへ逃げるように去っていった。シャノアンも中にはいった。
「もういい」
と、長船書記官は芸人たちにいった。
「ひきとってよろしい」
芸人たちは、いっせいにお辞儀して立ちあがった。
そして、散りはじめた見物人たちのほうへ、ゾロゾロと歩いてゆく。それを小走りに追ってゆくいまの女を、柳北は二、三歩追おうとして、とても及ばぬこととあきらめたらしく立ち戻って来た。
「いったい、何事ですか」
と、長船が訊く。
「いや、随行員の中に、いまの芸人の女と知り合いの者があったらしい」
柳北はとぼけようとして、すぐに自分も頬っぺたをひっぱたかれたのを見られたことに、気がついて、
「実は私も知り合いの女なのですが」
と、つけ加えた。
「いったい、あの芸人たちはどこに住んでいるのですか」
「パリの北のほうにモンマルトルという丘がありましてね。そこを住家《すみか》としていることを私もこんどはじめて知りました」
と、長船は答え、
「とにかく、だからあんな連中を呼ぶことは私は気がすすまなかったのだ」
と、にがり切った。
「それにしても成島どん、どげな知り合いごわすな」
いつのまにかそばに寄っていた川路が尋ねた。
「唾を吐きかけ、横っつらをひっぱたくとはただごとじゃなか。よっぽど悪か事《こつ》をあの女にされたんじゃごわせんか」
眼に笑いの翳があった。
「そうでもあるような、そうでもないような」
と、柳北も苦笑いした。が、すぐに、
「パリへ来て驚くことばかりだが、いや、こんなに驚いたことはない。いずれにしろ、こんなところであの女に逢って、このまま捨ておけぬ気持がする。それについてこれから長船さんに御尽力願わなければならんこともあるかと思いますので、お話しましょう」
と、いい出した。
「あの女は柳橋の芸者でね。仇吉《あだきち》といったが、本名も阿陀《あだ》というそうで、こっちの字は南無阿弥陀仏の阿陀です。よほど親父が信心深い男だったと見えるが、これが御家人で、かれこれ十年ほど前――文久のころ京へいって、見廻り組にいれられて、勤皇の浪士ってえやつに殺された。――」
眼をむけて、
「川路さん、あんた、おぼえはないかね?」
「馬鹿な事《こつ》をいいなさるな」
と、川路は苦笑した。
「は、は。それで、あの女、十七の年とかに芸者になった。私が知ったのは二十歳《はたち》ごろだったが――いまでも美人だが、そのころは柳橋でもとびきりでした。ところが、これが身持ちがかたい。なにしろ勤皇方の生首を持って来た男じゃないと身体をまかせない、と、本気でいうんだから。――この女を何とかしたい、と私は熱をあげました。大いにくどいた結果、とうとう仇吉もなびきそうになった。まさか私に生首は土産《みやげ》に出来ないが、当時私は幕府騎兵奉行ってえ役目だったからね。首の一つ、二つは目じゃない。薩長軍来らば百万といえども蹴散らす、とか何とか法螺を吹いてねえ」
柳北は若いころから、天才的な女たらし、くどきの名人であった。あえて天才的、というのは、この人物は、酒ものまず長い顔をして品よく悠然とくどき、お目当ての女は必ず落したからである。それが、そんな法螺まで吹いたのはよくよくのことだ。
「ところが、同じころもう一人強敵があらわれた。雨宮親兵衛という旗本です。剣聖といわれた男谷下総《おたにしもふさ》の高弟で、当時講武所の教授をやっておりました。むろん大変な硬派ですが、これがどういうわけか、仇吉に一目惚れした。いや、強敵も強敵、騎兵調練のことで当時私は講武所の連中とよく折衝する機会があったが、薩長を膺懲《ようちよう》せよという彼の鼻息の凄じさには、こちらは鼻白むほどだった。私は、瓦解寸前に騎兵隊から逃げ出した男ですからな。その前後、雨宮はとうとう、生首をぶら下げて、仇吉の前にあらわれた。……例の薩摩の御用盗の生首です。川路さん、あんたにいうが、あの御用盗はよくないよ。ありゃ首をとられてもしかたがない」
川路は黙っている。
「御用盗が神田のある商家に押しいった、と聞いて、たまたま近くの講武所にいた雨宮が急行して、その頭分《かしらぶん》と見える三人と斬り合い、三人とも斬り捨てたという。見ていた者によると、ただ一太刀ずつで仕止めたそうで、講武所教授もふだんの広言も伊達じゃあなかった。……とにかく、私のほうは、ま、敵前逃亡、あっちは敵の生首土産、これじゃあ勝負にならない。とうとう雨宮が仇吉をものにしたと、あとで私は聞きました」
「……」
「ところが、去年の秋、岩倉使節団が日本を出た。たまたま幕臣の旧友とそのことについて話しているうちに、その随員の中に例の雨宮親兵衛が加わっていると聞いて、私は眼をパチクリさせた。あの徹底的抗戦派だった雨宮が、いつのまに、どういう心で新政府にひっくり返ったものか。どういういきさつで、使節団の一員にもぐりこんだのか。聞いてみると、どうやら長藩のおえら方の息女と結婚したらしい。やるもんだなあ、と感心したが、それはともかく、海舟先生だって鉄舟先生だっていまの政府に仕官なすっているし、それどころかこの使節団の中に、ほかにも田辺蓮舟、福地源一郎なんて元幕臣もちゃんと混っている。雨宮だけをどうこういうわけにもいかんでしょう」
「……」
「もうおわかりだろう。いまの男が雨宮親兵衛です。……そうそう、雨宮はその後改名して……ええと、何といったっけ、そうだ、たしか義親《よしちか》といった。雨宮義親、いかにも新政府の役人らしい名前ですな」
柳北は薄く笑った。
「ところで、その仇吉はその後どうしたか。私は瓦解以来、柳橋にほとんど足踏みしたことはないし、まして右のいきさつから仇吉とはいたちの道であったのですが、その雨宮の転身を知って、仇吉はどうしたろうと調べて見たら、二、三年前に柳橋から姿を消したという。雨宮のことを、泣いて、さんざん悪口《わるくち》をいってたあと、しばらくしてのことだったそうです。ま、男の変心に腹をたてたからでしょうが、柳橋から消えるのはいいとして、日本からも消えていたとは驚いた。はげしい気性の女だとは知っていたが、そこまで思い切るとはね。――さっき、雨宮に唾を吐きかけ、私の顔を平手打ちにしたが、まだそのことを根に持っているんですな」
柳北は指折り数えた。
「あれはことしもう二十六になっているはず。……何にしても、放ってはおけない。長船さん、申しわけないが、近いうち、いちどそのモンマルトルとやらへ案内して下さい」
そのとき、すぐ近くで何か声がした。
ふり返ると、二人のフランス人が近づいて来た。長船書記官が訊き、その中の一人がしゃべりはじめた。何かおずおずした調子であり、うしろの一人は少し酔っぱらっているように見えた。あとで長船から説明を受けたところによると、次のような問答が交されたという。
口をきいたのは、黒い服に黒い山高帽、黒いあご髯をはやした、いかにもまじめそうな若い男であったが、自分は株式仲買人をしている者だが、趣味として絵をかいているという。ところが先刻はからずもかねてから念願していた恰好のモデルを見た。あの日本の芸人たちのうち、あなた方と何か悶着を起していた美しい娘である。だいぶためらったが、友人もすすめるので御依頼する気になった。事情はわからないが、もし出来たら、あの娘が私の絵のモデルになってくれるように話をしていただけまいか。――
「で、あなたのお名前は?」
と、長船が訊いた。
「ポール・ゴーギャンといいます」
長船は、そのうしろの、夕暮の風の中にフラフラと立っている、まるでオランウータンみたいな怪異な顔を持つ男に眼を移して尋ねた。
「あの人も絵をかく方ですか」
「いえ、あれは詩人です」
と、絵をかく株式仲買人は答えた。
「友人のポール・ヴェルレーヌと申しますが。……」
月と六ペンス
ポール・ゴーギャンは、明けて一八七三年、二十五歳の株式仲買人であった。株式取引所近くのカフェなどに集まっている相場師たちから、株の売買の注文を集める仕事で、彼が水兵からこの職業についたのは二年前からだが、大変有能で、従って、若いに似ず金廻りがよかった。
このゴーギャンが、安定した職業と妻メット、五人の子供のいる外見平穏な家庭を捨てるのは十年後で、やがて芸術の業火《ごうか》に身を焼かれつつ、一人、南太平洋の孤島タヒチへ去ることになるのだが、しかし三十五歳になって、彼が突然変異のように大画家に変身するわけがない。
事実、ゴーギャンは、このころから絵をかいていたのである。しかも、アトリエを持つほど熱心に描いていたのである。
彼が住んでいるアパルトマンは、ラ・ブリュイエール街十番地にあったが、アトリエはメーヌ通りに近いヴェルサンジェトリックス街の空地に建てられた、大きな小屋のような建物の二階にあった。彼はまだ親友以外には、自分が絵をかいていることを知られたくなかったのだ。そして、彼には親友がなかった。彼はゴッホをまだ知らなかった。
その建物は、ほかにも貧しい芸術家が何人か住んでいて、彼らの仕事の材料となる石や大理石のかたまりが、すぐ外にゴロゴロしているといった場所である。
今のところ、彼にはそれでいい。
最初のうちは、日曜日だけ使っていたのだが、いつのまにか、勤め先から直接このアトリエに帰ることのほうが多くなった。十七歳のときから海で鍛えて、背はそう高くないが、かたくしまった身体にきちんと服を着こなして山高帽をかぶったこの敏腕の株式仲買人は、アトリエに帰ると、ブルターニュの刺繍をした青いセーターに着かえ、テレビン油がしみついた絵具だらけの上衣を羽織って、楽しげにカンヴァスに向う。
姿より、精神が別人に化するのを彼自身、意識している。
彼はさきごろからメットというデンマーク娘を愛するようになり、婚約した。たくましい生活人であるゴーギャンは、以前大臣の家の家庭教師もしていたというその賢くてしっかり者の娘を、自分にふさわしい伴侶だと見こんだのだ。
そのメットには、まだ自分のこの趣味のことを話していない。自分のアパルトマンには連れて来たこともあるのに、このアトリエのことは教えていない。漠然と、彼は、メットがその趣味やアトリエに眉をひそめるであろうことを想像している。その趣味が彼女との愛情と相いれず、このアトリエが家庭と両立しないことを予感している。
彼の想像や予感は的中していた。このヴェルサンジェトリックス街のアトリエは、現実と相いれず、世界と両立しない彼の聖域の萌芽であった。
一月十九日の日曜日の午後であった。ゴーギャンはアトリエでデッサンをやっていた。
隣りに鉄のベッドが置いてある狭い部屋があるが、アトリエはやや広く、空地を見下ろす一面には焼絵ガラスをはめた窓がある。ほかの三面の壁には、いろいろの絵がかけてある。
大半は彼が好きな印象派のドガ、マネ、セザンヌなどの小さな絵だ。むろんこれらの絵は後年ほど天文学的な値段ではなく、小品なら、腕のいい株式仲買人の彼にも、らくに買うことが出来たのである。そして、ほかの画家のアトリエとちがうところは、それらに混って、ウタマロ、ホクサイ、ヒロシゲなどの日本の版画が貼ってあることであった。
彼はまだそれら同国人の先輩に遠い位置にある。名声はもとより、技術的にもである。ここにいるのは「未成熟」のポール・ゴーギャンであった。
ゴーギャンはそれを自覚していた。そして彼を苦しめているのは、技術的にいかにして描くか、ということではなく、何を描くか、ということであった。ドガやマネやセザンヌの描く「物」は、おれの描く「物」ではない。おれには別に描く物があるはずだ。燃えるように彼はそれを考えていた。それは自覚というより、自負であった。
しかし、それがわからない。わからない以上、そんな自負は口に出せない。未成熟の自覚はありながら、自負だけはすでに後年の大ゴーギャンなみであった彼は、鬱々と苦しんでいた。
そこに、「もしや?」と思われる対象を発見したのだ。
モデルはいま、壁の下のベッドにやや横向きに坐って、着物のつくろいをしているポーズをしていた。彼女は髪をといて背に流していたが、むろん全裸であった。つくろっている着物は日本のキモノで、それは日本の女であった。
――日本《ジヤポネ》の使節団を迎える芸人たちの仲に、偶然その女を見いだしたゴーギャンが、それからずっと、使節団よりその女に眼をそそいでいるのを見て、連れの友人ヴェルレーヌが、
「おい、あの女をモデルにして絵をかいたらどうだ」
と、彼の心のうごきを見すかしていった。
「君は東洋の女に魅力を感じるといってたじゃないか。あの女は、日本の女にしては顔もきれいだし、プロポーションもいい」
「うん。……しかし僕が東洋の女に魅力を感じるといったのは、原始的な力をひそめていると見るからだが、あの女にその力は弱い」
「その代り、ウタマロの匂いがある」
「そうだな」
「君はばかに日本の版画を買ってたじゃないか。日本人のすばらしいデッサン、装飾的な描法に感心し、あの極度に少い線と色彩で、物や風景の本質をみごとにつかみ出しているといって感心していたじゃないか」
「その通りさ。僕にはとてもああまでゆかない」
「それならいちど日本の女性をモデルにして、その装飾的描法を試みてみたらどうだい。君の憧れる原始の力は将来の宿題として」
「では、一つ、やってみるか」
――こういうわけでゴーギャンは、その女芸人と知り合いらしい日本人たちの前へ出ていったのである。
通訳をした長船書記官は、あまりこの依頼が歓迎出来なかったと見えて、露骨にしぶい表情をした。するとそこへ、さっきまでのなりゆきが気になったと見えて、またシャノアン大尉が出て来て事情を聴き、その依頼に応ずることを勧めた。むろんゴーギャンの名など知らないが、日本の女性がフランスの画家のモデルになることは、日本《ジヤポネ》ファンの彼にとってきわめて好ましいことだったからだ。
ついでにそのときのシャノアンの質問と日本公使館員の返答で、さっき女が二人の男に侮辱を加えたのは、女がかつて日本の王党派で、男二人もそうでありながら、一方は脱落し、一方は革命派に寝返ったことによることを、ゴーギャンは知った。長船書記官はその関係やいきさつを、何とかぼやけさせようとしたのだが、彼にとっても実はそれほど自由でないフランス語の問答のためにその努力が功を奏せず、かえって事実をしごく明快かつ単純にゴーギャンは理解することが出来たのである。
日本にも王党派、革命派などいうものがあることをゴーギャンは面白く思ったが、ただそれだけだ。それより、芸人になったその女が、日本の高官となった男たちに――ゴーギャンは日本人の男を二人ともそう理解した――唾をかけ、平手打ちにするという行為に出たことで、その女に、さっきまで感じられなかった烈しさを感じて、ますます彼女をモデルにしたくなった。
さて、こういう次第で、日本公使館員から、モンマルトルに住んでいる日本の芸人一座の親方にかけ合ってもらい、その日本の女をモデルに使うことが出来るようになった。女の名は、アダといった。
きょうの日曜日が二度目だ。
彼に描かれるといっても、まさか裸体になるとは思いもよらなかったらしく、前の日曜日には、さすがにそのことに抵抗感を見せたアダも、やがてゴーギャンの熱情を理解して、きょうは素直に、針を持つ女のポーズをとった。
日本人の標準から見れば、眼の大きな、彫りの深い容貌で、色も白く、みごとな乳房とくびれた胴の持主だが、ゴーギャンから見れば、肌に淡黄色を沈ませた、やさしいウタマロの女の同族に過ぎない。
しかしゴーギャンは、その女に、ウタマロと同様にオブジェの本質を凝視しようとした。
アダから見ると、背はそれほど高くはないが、骨ばってどっしりした大きな顔、押しつぶされたような鼻、黒い髯につつまれた、意志力を示す厚い唇、ややとび出した青い眼――それらを持つその画家に、ほかのフランス人とはちがう、そしてフランス人も気づかない原始の力を感じた。人種がちがうだけに、かえって素直に、その若い画家に、後年の怖ろしいゴーギャンを見たのである。
午後三時ごろ、冬のパリはもう灯《あかり》が欲しい暗さとなる。
大きく眼を見ひらいて素描していた画家は、ちらっと暖炉のほうを見た。その眼に、まぶたがかぶさった。
「少し、休むか?」
と、いった。むろんフランス語だ。やや嗄《か》れた、落ちついた声であった。それまでとは別人のような子供っぽい笑顔になった。
アダは着物を羽織った。
そのとき、ドアをたたく音がした。
暖炉のそばで、ワインの瓶をとりあげようとしていたゴーギャンが応答したが、返事がないので、つかつかと歩いていってドアをあけた。
そこに立っていたのは、あきらかに日本人であった。それどころか、ゴーギャンは――日本人の顔はよく判別出来ないので、しばらく考えたが――彼は、先日アダに平手打ちを食った長い顔の男を認めた。
彼はゴーギャンに一礼したが、すぐに、部屋の奥のベッドに、着物を羽織って腰かけているアダを見つめた。
「モンマルトルとかに訪ねていったが……独楽《こま》回しや大《だい》神楽《かぐら》などの連中、みなわざとおかしなフランス語をあやつって、わしの問いをはぐらかす。公使館の書記官から、無理に、日曜日にはここに来ていることを聞いて来た」
数分間黙っていたのち、苦しげに彼はいい出した。
「わしはこの三月にはフランスから去る予定だ。しかし、こんなことをしているお前を見て、知らぬ顔をして去るに忍びない。仇吉《あだきち》、わしといっしょに日本に帰ろう」
「あたしでさえ住みたくない、御一新とやらの日本に」
と、アダはいった。
「よくまあ、騎兵隊で敵を蹴散らすなんて高言したあなたが、平気で住んでいられますね」
「それをいわれると、返す言葉もないが」
「……いえ、ひとさまへのお節介はやめましょう。あなたもあたしへのお節介はやめて下さい。帰って下さい」
男は立ちつくしたままであった。
「帰らないと、またぶちますよ」
「ぶってもいい。たたいてもいい。仇吉、日本に帰ろう」
アダは歩いて来た。
以上の問答はむろんわからなかったが、何となく危険を感じて、ゴーギャンが二人の間に立ちふさがると、そのゴーギャンにアダはひしとしがみつき、顔をあげて、音高く接吻《ベーゼ》した。
口をはなしてアダは、フランス語でさけんだ。
「あの男を放り出して!」
はじめてゴーギャンは、アダに燃え立つような原始の力を認めた。
彼はふりむいて、日本人のほうへ歩み寄った。
「バ・タン!」――帰れ!
と、彼は髯の中から歯をむき出した。言葉はわからないが、十七歳のときから七年水兵で鍛えたそのしなやかでたくましい肉体の迫力に押され、男は一礼して背をむけ、ドアの外へ出ていった。
一月二十六日の日曜日の午後であった。ゴーギャンはアダをモデルに、本式に画架を立てて描き出していた。
アダのポーズはこの前と同じだが、もう一人の人間が暖炉のそばの椅子に腰かけている。友人のポール・ヴェルレーヌだ。彼はこの日も酔っていた。テーブルの上にあるのは、彼自身がいつもポケットにいれているアブサンであった。
ヴェルレーヌは大頭《おおあたま》の男であった。ひたいと両頬骨は異様に飛び出し、その中の眼はいわゆる金壺眼《かなつぼまなこ》というやつであった。人々がかげでオランウータンと呼んでいるのも無理はない。この醜貌の男が、すでに三年前、詩集「やさしい歌」を発表し、大御所ユゴーから絶讃を受けた詩人だとは、知らない人には信じられない。このとしヴェルレーヌは二十九歳であった。
友人といったが、べつに親友というほどでもない。自分に対する混沌たる可能性を模索中であったゴーギャンが、何となく象徴主義の文学に魅かれて、その一派の作家や詩人が集まるオデオン広場のカフェ・ヴォルテールに出入りしているうちに、数年前知り合った一人に過ぎない。ゴーギャンが株式仲買人であると同様に、ヴェルレーヌも本来の職業を持っていて、当時パリ市役所の職員であった。
どんな女も顔をそむけるこのオランウータンが、花のような美少女マッティルドと恋愛し、結婚したのにはまったく驚いた。詩集「やさしい歌」を出版したのと同じ時期で、それは美しい恋人を得た歓喜の歌であった。
ところがヴェルレーヌは、その翌年にアルチュール・ランボーという、天才詩人にしてかつ美少年と知り合い、これはゴーギャンには皆目《かいもく》わからぬなりゆきだが、妻と職業を放り出して、ランボーと手に手をとって家出をし、イギリスに逃げていってしまったのにはいよいよ驚いた。
それっきり彼のことは忘れていたら、去年の暮にそのヴェルレーヌが、一人フラリとまたゴーギャンのところへやって来た。痩せ、落ちぶれ果て、魔酒アブサンの匂いをプンプンさせ、パリに戻って来たが自宅には帰れないので、ときどきこのアトリエを塒《ねぐら》に貸してくれまいか、と、いった。どうやら彼は、ランボーに愛想をつかされ逃げられて、それを探してみれんがましくなお追いかけまわしているようすであった。
ゴーギャンはこの詩人に、半分の嫌悪と半分の好意を感じた。その頼みを承諾したのは、半分の好意のためだ。
この不可解な詩人に半分の好意を感じるのが、それも不可解であったが――後年、彼もまた賢い妻と平穏な家庭を捨ててタヒチへ旅立つことになる。対象の性質はちがうが、自分の錘《おもり》となる六ペンスを無造作に捨てて、月へ向って、魔に憑かれたように飛び立つ行為に、すでに彼は遠い共鳴をおぼえていたのではあるまいか。
さて、ヴェルレーヌは、ときどきゴーギャンのアトリエで寝泊りしながら、パリじゅうをほっつき歩いているらしかったが、たまたまその日はそこにいて、日本の女を描いているゴーギャンを眺めつつ、話をしている。
牧神の午後また朝
ヴェルレーヌが話しているのは、マリー・セレスト号事件のことだ。
のんきといえばのんきな話だが、しかしこのころパリじゅうの話題を集めているのは、日本の使節団の消息などではなく、その大洋の怪奇事件についての報道であった。
大西洋を、フランスとスペインの抱くビスケイ湾にさしかかったところに漂っている一隻の大型帆船が発見されたのが、暮の五日の朝であった。
その船はまさしく漂っていて、しかも甲板上に人影もないのに、ゆき逢った船の船員が怪しんでボートを下ろし、その船に上って見ると、甲板にはいま絞ってかけたばかりと見える洗濯物がぶら下がり、食堂にはオートミールやゆで卵など、食事中としか思われぬ光景のテーブルがあるだけで、ミシンには子供の服が縫いかけのままになっていたが、人間の影はまったく見当らぬことが発見された。
あとでわかったことだが、それは船長と夫人、七歳の娘、十二人の乗組員を乗せて、ニューヨークからイタリアへ向けて航海中のはずのアメリカの船であった。
船に損傷はない。船中に乱闘の跡はない。救命ボートは全部残っている。すべて平穏であり、幸福そのもののような小さな世界を残して、人間はみんな消え失せていた。それ以来、アメリカをはじめヨーロッパ各国の海軍まで動員して附近の海上を捜索したが、屍体その他不審なものはついに発見されないという。――
――実際に起ったことで、まだ現代でも謎のまま残っている有名な怪船マリー・セレスト号の事件は、実に岩倉使節団がヨーロッパにあるころ、正確にいえばロンドンに滞在中に起った事件なのであった。パリでは、成島柳北が、洋服の仕立てに気をもんでいるころである。
「あれは、ほかの星からやって来た人間がさらっていったのさ」
と、ヴェルレーヌはいった。
「人間がいるほかの星があるのかね」
と、筆を使いながら、ゴーギャンが訊いた。
「あるさ。何千億とある星の中で、たった一つ、地球にだけ人間がいると考えるのがおかしい。もっとも他の星から来たのが人間といえる生物かどうかはわからないがね」
「で、何のためにさらっていったんだ」
「マリー・セレストの家族があまり幸福に見えたからさ」
「なぜ幸福に見えたから、さらっていったんだね」
「家庭の幸福ほど罪深いものはない。見給え、動物の世界に家庭の幸福はない。だから動物は罪を犯さない。人間だけが家庭の幸福に執着し、それを維持しようとしてあらゆる罪を犯す。男、女、一人ずつなら、人間はさして悪をしない。これが家庭を作ると、その幸福を求め、その幸福を保つために、男も女も悪魔となる。戦争でさえ、それをはじめた連中も、かり出された連中も、つまるところ自分の家庭の幸福のためという妄想に憑かれての所業だよ」
「しかし、なぜマリー・セレストの家族たちを?」
「宇宙人――他の星の生物だよ――から見れば、地球上の幸福な家族ならどれでもよかったんだ。ただマリー・セレスト号の家族が広い海の上で、絵のように幸福な家庭に見えたから、雷が平原の人間に飛びつくように飛びかかったのだ」
「それなら、ほかにももっとそんな話がありそうなものじゃないか」
「あるんだ。ほかにも、幸福な家庭で、ある日ふっと消えてしまった家庭がきっとあるんだ。しかしそれは地球単位で、また百年単位くらいの出来事だから――それでも何億年という宇宙の時間から見れば雨のように多い出来事だが――われわれが知らないだけなんだ」
ヴェルレーヌは、またアブサンを飲んで、ぶつぶつとつぶやくようにいった。
「それに、幸福な家庭の突然の消滅、といったって、ただ物理的なかたちだけでなく、宇宙人はいろいろな方法をとるかも知れないしねえ」
「よくわからないな。もういちど訊くが、宇宙人なるものは、何をしようとして――あの家族をさらっていって、そのあとどうしたのかね」
「罰したのさ。幸福な家庭というのが、つまり罪だから」
「どういう風に罰したのだ」
「明るい海の微風の吹く船室、ミシンをかけている若い妻、オートミールを食べている子供、ロッキングチェアに腰かけてパイプをくゆらせている夫――その生活を、他の星で、未来|永劫《えいごう》につづけさせるのさ」
「そりゃ結構なことじゃないか」
「君はそう思うかね。ほかに何の目的もない。さっき、人類は家庭の幸福のために悪をなす、といったが、それがもう抜きがたい習性となり、本質となっているから、家庭の幸福のために悪をなすことが生甲斐になっているんだ。無上の歓びとなっているんだ。それが、悪をなすことが出来ず、ただ永遠に家庭の幸福の中だけに監禁されたら、それはもう地獄だ。君にがまん出来るかね?」
「出来ない。――少し、休むか?」
と、ゴーギャンがアダにいった。
アダはうなずき、キモノを羽織りはじめた。
そのとき、ドアをたたく音がした。
暖炉のそばで、またアブサンをとりあげようとしていたヴェルレーヌが応答したが、返事がないので、ヨロヨロと歩いていってドアをあけた。
そこにステッキをついて立っていたのは、明らかに日本人であった。それどころか、ヴェルレーヌは――しばらく考えたのち、先日アダに唾をひっかけられた、日本使節団の男の顔を認めた。
彼ははいって来て、ゴーギャンに一礼したが、すぐに、部屋の奥のベッドに着物を羽織ったまま腰かけている女のほうを見て、数十秒黙っていたのち、
「モンマルトルとかに訪ねていったが……独楽回しや大神楽の連中、みなおかしなフランス語をあやつって、わしの問いをはぐらかす。で、公使館の書記官に、無理に、日曜日にはここに来ておることを聞いて来た」
と、腹立たしげにいい出した。
「聞くがよい、このたびわれらが使節としてまずアメリカに渡る際、留学生として、十一、十二、いいや八つのいとけない娘たちまで連れていった。その際、太政官《だじようかん》より何というおさとしがあったと思う。一身の慎しみ方は申すに及ばず、いささかのことなりとも、お国の御外聞に相成らざるよう心がけ申すべし。――元来が売女《ばいた》であったお前にはその意味もわかるまいが、要するに日本国の恥になるようなことはすな、ということだ。これ以上の醜態は見るに忍びぬ。とにかく来い。公使館に来い」
アダは答えず、歩いて来た。
以上の言葉はむろんゴーギャンにわからなかったが、男が大いに罵っていることはわかる。のみならず、それが昔王党でありながら、日本の革命後、革命党に乗り替えた男だということも彼は知っている。
近づいて来る女に、男がステッキを持ち直したのを見て、ゴーギャンはパレット・ナイフを握って、二人の間に立ちふさがった。
するとアダは、ヴェルレーヌのほうに歩み寄り、前に立ってフランス語でいった。
「あの日本のお役人は、あたしがフランスで芸人をしていること、モデルをしていることを日本の恥だというのです。……詩人さん、あたしを抱いて、あのベッドの上で愛して下さい」
ヴェルレーヌはキョトンとした。しかし、すぐにアダの言葉の前半と後半の飛躍を理解した。この日本の女芸人は、あの男の馬鹿馬鹿しさを嘲笑するには愚弄が一番だと考えたのだ。そして、愚弄するためには、この自分が最もふさわしいオブジェだと思い当ったのだ。
そう理解したが、ヴェルレーヌは怒らなかった。笑った。ただ、ゴーギャンのほうをむいて尋ねた。
「いいだろうか、ポール」
「やりたまえ」
と、ゴーギャンは平然といった。
アダはまたいった。
「その人が逃げないように、しっかりとあたしたちのほうを見ているようにしてやって」
「ウイ。何なら、おれがたたきのめしてやる」
ゴーギャンはうなずき、パレット・ナイフを持ったまま、日本人の男のうしろにまわって、扉のところに立った。男は狼狽し、不安の表情になり、またステッキを握りしめた。
それがただのステッキではなく、仕杖込《しこみづえ》になっていることにアダは気づいていった。
「ゴーギャンさん、でも手荒なことはしないで。――その人は有名な日本の剣士ですから」
「ほう?」
と、いったが、ゴーギャンはあまり怖がったようではない。ただニヤリと白い歯をむいただけである。むろん、フランス語の問答だから、相手にはわからない。ただ嘲弄されたと感じて、その顔が怒りに蒼ざめた。
ヴェルレーヌは、ぐっとアブサンを飲みほし、アダを抱きあげて、ベッドに歩いていった。オランウータンが、美しい鳥をかかえてゆくような光景であった。また、カジモドがエスメラルダを抱いてゆくような眺めであった。アダは全裸にあでやかなキモノを羽織っただけの姿だ。――ヴェルレーヌは自分の役割をよく心得ていて、歩きながら日本人のほうを向き、歯をむき出し、鼻の孔をひろげて見せた。
そして二人は、ベッドの上で、ほんとうに美女と野獣の春宮図を描きはじめたのである。
しかも、愛撫の途中でヴェルレーヌは、ベッドの横の棚から、一枚の日本《ジヤポン》の版画をとり出して、壁にピンでとめ、その絵そっくりの姿態をとることをアダに命じた。
アダはその通りにした。すなわち彼女はあおむけになり、両足を、その間に坐った牧神にも似た詩人の肩にかけたのであった。
船をこぐような律動をくりかえしながら、ヴェルレーヌは恍惚となり、顔に似合わぬやさしい声で歌った。
「そはやるせなの絶頂《かぎり》なり
そは恋|痴《し》れし疲れなり
そは微風《そよかぜ》に抱《いだ》かれて
おののく森の姿なり
そは朧《おぼろ》めく梢《こずえ》なる
小さき声の唱歌なり。……」
それは翌年出版することになる彼の詩集「無言の恋歌」の中の一節であった。
ゴーギャンは見ていた。西欧の半獣神と日本の浮世絵の女さながらの組合せの構図から、何かをつかみ出そうとする努力に、その眼が青い燐《りん》のような光をおびた。
そのとき、ふいに手にしていたパレット・ナイフがすっともぎとられた。ナイフは、ふりむいた日本人の男の手に移っていた。ゴーギャンがはっとしたとき、男は遠いベッドめがけて、それを投げつけた。
それは二人をかすめて、壁にとめられたウタマロの春画に、グサリと突き刺さった。
そのまま、一言も口をきかず、ゴーギャンの横をすりぬけ、彼は外へ出ていった。
彼が狙いを誤ったのではないことは、数十秒の後にわかった。ひざまずいた姿勢のヴェルレーヌと、それから斜めに垂れた藤の花のような姿勢のアダとが織りなし、律動する奇怪な線スレスレに――実に、ヴェルレーヌの身体と、アダの足と、ベッドが作る小さな三角形の空間を通りぬけて――尖端のまるいパレット・ナイフは、春画の秘所に、まっすぐに突き立っていたのである。
日本の浮世絵に転化されたものの、それは明らかに彼の怒りの意志を示したものであった。
それから二週目の日曜日、二月九日、ゴーギャンは、朝からアトリエでアダを待っていたが、彼女が来ない。雪がふっているせいかも知れない、と考えたが、アダをモデルにして絵をかくことに、先々週来いよいよ情熱をかきたてられ、その構図もきまっただけに、彼はいらいらし、ついにたまりかねて、十時ごろ、彼女の住んでいるモンマルトルへ出かけていった。
パリはその日、朝から雪がチラチラしていた。それは最初の数時間、町並に落ちては消え、舗道を暗く冷たく濡らすばかりであったが、ようやくそのころから薄白く化粧しはじめていた。それからはつもるのが早く、一時間ほどしてゴーギャンが、モンマルトルの貧しい地域にあるその建物に近づいていったときには、注意しないと靴に雪がはいりそうで、長靴をはいて来るのだったと、ちょっと悔いるほどになっていた。
その建物は、路地の奥の五階建てであったが、場末の小屋芸人や大道芸人ばかりの――しかも、フランス人は少くて、アフリカやトルコや東欧やインドや、そして東洋から流れて来た芸人ばかりの巣になっていた。
そこに二十数人の日本の芸人も住んでいたのだ。一室に何人かが同居している組が多かったが、アダは一座の花形であったので、三階のいちばん端の部屋に一人で住んでいることを、ゴーギャンは知っている。
階段は建物の両側に稲妻型にとりつけられて、各階の端に通じるようになっており、そこにも、もう雪が薄くつもっていた。ゴーギャンは、紙屑やタバコの吸いがらや台所の切り屑などが落ちているその階段に、だれかの足跡を見いだしたが、むろんそのときはたいして気にしなかった。
彼は、アダの部屋の前の、手すりだけついた吹きさらしの廊下に立って、扉をたたいた。返事はなかった。
それで、把手《とつて》をひねって押すと、扉はひらいた。
薄汚れた部屋のはずなのだが、窓にはまだカーテンがひかれたままでうす暗い中に、壁にヒロシゲの風景画や日本の扇などが貼られ、日本の古い、しかし優雅な箪笥がおかれ、衣桁《いこう》に日本のあでやかな衣裳がかけられ――夢のようなロマンの匂いが漂っていた。
しかし、奥の壁際にはベッドがおかれ、そこに向うむきにだれか寝ている。女ではない。たしかに男の大頭だ。
その手前の床に――ベッドの蔭になって暗く、最初よく見えなかったが――直接に夜具がしかれ、いくぶん身を乗り出すようにして、そこにもだれか横たわっていた。
近づいて、ゴーギャンは棒立ちになった。それはアダであった。アダの鼻孔から血が垂れて、白蝋のような頬に筋をひいていた。
「アダ!」
ゴーギャンはさけび声をあげ、しゃがみこんで鼻に手をあて、アダが完全にこと切れていることを知った。
彼はいちど逃げ出そうとして、ベッドの上の男にふたたび気づき、頭のほうにまわって、その男の顔をのぞきこみ、ふたたび悲鳴をあげていた。
「ヴェルレーヌ。……」
牧神に似た詩人は、魔酒アブサンの匂いをたてて、こんこんと眠りこけているのであった。
ゴーギャンは部屋の外に飛び出し、隣室の扉をたたいた。応答はなかった。次の部屋の扉をたたいた。これも無人らしかった。
彼はまた階段を駈け下り、管理人を呼んで来て、右の事情を説明した上、警視庁に急報させた。
ゴーギャンはまたアダの部屋に戻り、ヴェルレーヌをゆり起すのにかかった。泥のように反応のなかったヴェルレーヌは、数分後、やっとベッドの上に起きあがったが、坐ったまま、大きな頭をふりながらつぶやいた。
「暗いセーヌよ、気だるい波を運ぶがよい。――
妖気とりまく橋下を糜爛《びらん》した無数の屍体が流れたぞ。
どれもパリに魂を虐殺された奴ばらだ。」
「ポール、それどころじゃない、大変だ、アダが死んでいるぞ!」
と、ゴーギャンがさけんで、その髪をひっぱった。ヴェルレーヌはなお口ずさんだ。
「見かけの不吉に較べたら
そなたの冷たい流れが運ぶ
屍体の数なぞまだ甘い!」
ルコック探偵
警視庁の馬車が、路地の外の大通りにとまったのは午前十一時半であった。そこから下り立ったのは、五人の男である。
その中で、一番若い――三十前後と見える男が、すぐに、路地につづく雪の上の足跡を見て、
「残っている足跡を消さないようにしろ」
と、いった。このころ、雪はふりやんでいた。
そして五人は、両側の建物に身体をこすりつけるようにして、注意しながら路地をはいっていった。
路地からちょっとした空地を通り、建物の階段を上るときにも、その男は同様の注意を与えたのみならず、部屋の入口で、
「アブサント、お前はもういちど路地までいって、足跡をあのまま保存しろ。見張りしながら、足跡をとる用意をするんだ」
と、命じた。五十半ばの老刑事はうなずいて、ひき返していった。
部屋にはいって来た四人を見て、ゴーギャンはまばたきした。一人は警視庁に急報にいった管理人であったが、二人はシルクハットをかぶっているけれど、たしかに日本人だ。――ゴーギャンに正確な記憶はないが、これは彼がアダをモデルにしたいと申し出たとき、相手になった三人の日本人のうちの二人、川路利良と長船書記官であった。
川路は、長船に通訳を頼んで、その日も朝からもういちどシテ島にあるパリ警視庁を参観にいっていて、たまたま「日本の女芸人が殺された」という急報を受けた場所にいあわせ、進んで同行を請うたものであった。
「すると、警官はたった一人、あなただけですか」
と、ゴーギャンは不審そうに尋ねた。
「いや、外にもう一人いる。私はルコック警部だ」
と、相手は平然と答えた。
蒼白い顔に赤い唇、ややちぢれっ毛の豊かな髪はフサフサとして、いかにも若々しく、小柄だが俊敏の気にあふれている。これがパリ警視庁切っての名探偵として有名なルコックであった。
彼はすぐ、床上の屍体のそばに歩み寄り、しゃがみこんだ。
「手で絞め殺したな」
と、つぶやいた。
「あとで裸にして調べて見よう」
川路にはルコック警部の言葉はわからなかったが、殺されたアダを見て、もとより茫然たる思いであった。被害者は日本の女芸人だと聞いて、もしやすると、とは考えたが、現実にそれを見てはやはり衝撃を受けざるを得ない。
そして、この殺人そのものも怖ろしかったが、もう一つ殺人者についての予想に、それ以上の恐怖をおぼえた。
ルコックはゴーギャンに質問をはじめた。ゴーギャンは、自分がこの屍体を発見するに至った顛末を説明した。それを川路は、長船から小声で通訳されて聞いた。
おしまいにルコックは、ゴーギャンに尋ねた。
「ところで、君がここに到着したのは何時かね」
「左様、あのとき時計を見たのですが、十一時でした」
「そして、ドアに鍵がかけてなく、すぐに開いたというのだね」
「そうです」
次にルコックは、ベッドのほうに向き直った。大頭の詩人はなおベッドから下りもせず、あぐらをかいたままの姿で――しかし決して人を喰っているのではなく、魔酒アブサンの酔いからさめ切らない放心状態といったありさまで、訊問に答えた。
それによると、彼は昨夜モンマルトルの居酒屋で、例によってアブサンに酔い痴れた。その途中、最近ふと知り合った日本の女芸人がこのモンマルトルに住んでいることを思い出し、そこへ訪ねていって見ようと考えたことは記憶している。また居酒屋の時計が午前二時をさしていたことがあるのも記憶している。しかし、いつ、どういう風にここへ来たのかは、まったく記憶がない。実際にここに寝ていたというのが、自分でも信じられないほどだ、と、いうのであった。
「どうして、日本の女芸人などと知り合ったのかね」
「そこのゴーギャン君のアトリエで、アダがモデルをしているとき知り合ったのです」
「それだけで、夜訪問するほどの気になったのかね」
「それは。――」
恍惚として、呂律《ろれつ》のまわらない舌でヴェルレーヌは答えた。
「僕が彼女といちど交合したからです」
このとき長船書記官が数十秒いいよどんだが、結局そのまま通訳した言葉を聞いて、川路の顔は一瞬曇り、次にはればれとした。
「……で、君はここに来て、この女をどうかしたというおぼえはまったくないというのだね」
「少くともここに来て、抱いたおぼえもないのです」
ルコックはふり返った。
「君はどう思う?」
「ヴェルレーヌ君が殺害したというのですか」
と、画家は訊き返した。
「そうだ」
「それは――御覧のようにヴェルレーヌ君は、大変なアルコール中毒ですが、しかし女性を殺すような凶暴な行為をやる男とは思われません。また……そうだったら……彼をこのままにして僕が警察を呼んだりしなかったでしょう」
ルコックは突き刺すような眼で、ゴーギャンの眼をのぞきこんでいる。
「しかし、君は自信を失って来たね」
ゴーギャンはたしかにうろたえていた。彼が管理人に警察へ急報させたのは、まだヴェルレーヌが醒めない前のことであったが、漠然とながら彼が殺人者であるはずがないという直感があったからだ。しかし、問いつめられれば、自分がこの詩人にそれほど信頼をおいていないということが感じられ、そこを鋭敏な警部に突かれたのであった。
――実際にヴェルレーヌが、ベルギーのブリュッセルで、愛するランボーをピストルで撃って投獄されるという事件を起すのは、この年七月のことになるのだから、ゴーギャンが彼に対していだいた不安は、それなりに理由があったといえる。
――以上のやりとりを聞いていて、川路の表情はいよいよはればれとして来た。
たんにその詩人とかいう男の陳述の内容が、奇怪とあいまいをきわめているばかりでなく、その男のようすから見ても、彼自身が奇怪とあいまいをきわめた人間であることがわかる。
嘘をついているのか、あるいはほんとうに泥酔中の行為に記憶がないのかは知らず、この男が最大の容疑者であることが判明して来たからだ。
川路をほっとさせたのは、日本の女芸人が殺された、という第一報を聞いたとき、まず頭に浮かんだ、犯人は日本人ではないか、という疑いから解放されたような気がしたからであった。
しかし、すぐにゴーギャンがいい出したことは川路を愕然とさせた。
「その、ヴェルレーヌ君がアダと関係したというのは、アダのほうから求めたのです。それというのも、ある日本人が僕のアトリエにやって来て、僕の絵のモデルになっているアダを、日本人の恥さらしといって責めたのに対して、アダが反撥して、わざとそういう姿を見せつけようとしたのです。彼は憤激して立ち去りました。僕はあの日本人が怪しいと思う」
「その日本人を君は知っているかね?」
「去年の十二月に日本の使節団がパリに来たとき、出迎えたアダに唾をひっかけられた男です。……ああ、もう一人、やはりアダを叱りに来た日本人があったのを思い出しましたよ。これは使節団の団員ではないらしいが、やはりパリに来ている、顔の長い男です」
ゴーギャンはちょっと考えて、
「その男たちの名は、そこにいる二人が知っているはずですよ」
と、長船書記官と川路をあごでさした。
ルコックはジロリと二人のほうをかえりみた。川路は長船から通訳を聞いて、愕然となりながら、ともかくもいった。
「しかし、日本人が……あの両人が、こげな馬鹿な事《こつ》をするとは思われん」
それに対して、ルコックは何もいわず、ひとりで動きはじめた。
川路だけでなく、そこにいた者すべてあっけにとられたのだが、壁に沿って、手でなでまわすようにして歩き、窓に寄って、注意ぶかくカーテンをあけ、指さきで埃をとって窓枠をのぞきこみ、さらに床を、腹這いにならんばかりにして、まるで犬みたいに嗅いで歩いた。
それから、ふたたび屍体のところに戻った。
彼はしずかに掛蒲団をとった。アダが着ていたのは、日本の長襦袢であった。カーテンがあけられて明るくなった光の下に、襟がめくれて、まるい乳房が一つ浮かびあがって見えた。
「セ・ボー」――美しい。
と、ルコックはつぶやき、顔をあげて、
「これは日本のネグリジェですか?」
と、尋ねた。
「ウイ・ア・プ・プレ」――まあ、そんなものでしょう。
と、長船書記官はうろたえながら答えた。
ルコックは長襦袢の紐を解き出した。そのとき、自然と屍体の背に手をいれたルコックは、「……や」というような声をたてて、何か拾いあげた。
乳房だけでも、同胞として見るにたえない心地がしていた川路は、ついで全裸にむかれるアダを予想して、知らず知らず顔を横に向けかけていたが、ルコックの声にそのほうを見て、はっとした。
ルコックが手にのせているのは、一枚の西洋古銭であった。
ルコックが顔をあげて、ぐるっと見まわした。長船もゴーギャンも首をふった。知らないというそぶりだ。ヴェルレーヌはキョトンとした眼でのぞきこんで、
「そんなものがあったら、もっと飲んだね」
と、いった。アダにやったおぼえはない、という意味だろう。
しかし、川路は顔色が変るのを感じ、ルコックの視線が自分にとまったように思い、いよいよ狼狽した。しかし第三者には、彼の茫洋たる表情には何の変化も見られなかった。
ルコックは、貨幣をポケットにおさめた。
それから、ついにアダを全裸にした。そして、足をひろげさせたり、うつ伏せにしたりして、全身に傷のないことをたしかめたのち、ふと首をかしげていった。
「被害者が、床に蒲団を敷いて寝ていたのはなぜだろう?」
「それが日本の習慣なのですが。……」
と、長船書記官が答えた。しかし、見たところ、ちゃんとベッドはある。そして、それには醜いフランス人の詩人が寝ていたのである。
ともあれ、客観的にはこの詩人がいちばん不審なのに、ルコックはすぐに彼を逮捕しようとはしなかった。そして、こんどは、管理人を連れて出ていった。同階の住人を調べにいったのである。
さっきゴーギャンが二室ばかりノックしたとき返事はなかったが、やがてルコックは一人の日本人の老人を連れて来た。
あとでわかったことだが、それは反対側の一番端の住人で、あやつり人形師であったが、たまたま風邪をひいて寝ていたのである。ほかの部屋の住人はみな出払っていた。彼は事件をはじめて知り、仇吉の屍骸を見て失神せんばかりになった。
さて、その老あやつり人形師の語ったところによれば。――
この住居に住んでいる日本の芸人は二十三人で、すなわちいまパリにいる日本芸人のすべてである。半分は、六年ばかり前パリで開かれた万国博覧会のショーに出演すべく渡航して来た連中だが、あとはそれ以前、あるいはそれ以後に流れて来て、加わった者だ。軽業師、手品師、足芸、曲独楽、大神楽、手踊り、笛吹き、三味線ひきなどの芸人で、それで一座を組んで、パリの大道や、場末の寄席などに出て生活している。
以前、この中に、日本の江戸柳橋からやって来た芸者が一人いた。博覧会に出した日本茶屋の接待用にやって来た三人の芸者のうち、その一人が、どういうわけか博覧会が終ったあともパリに居残って、一座で手踊りなどやっていたのだが、三年ほど前、病気で亡くなった。その前、日本へ手紙を出して、やはり芸者をやっている妹を呼んだのだが、やって来たのはその妹ではなく、彼女の朋輩だという仇吉であった。
むろん彼女は、寄席でやるような芸は何も持たないが、一番若くてきれいで利口なのと、最もおそく来たくせに一番うまくフランス語がしゃべれるようになったので、口上役として出てもらい、いまでは一座になくてはならない花形だ。
けさも、これほどの雪になるとは思わなかったから、大半は、それも仕事になっている寄席の掃除に出かけていった。しかし仇吉は、このごろ日曜日にはフランス人の絵かきに絵をかいてもらうことになっているそうで、そっちへいっているものと思い、まさかこんなことになっていようとは、夢にも思わなかった。
美しいが、気丈な女で、自分の知っているかぎりでは、いまのところ、殺されるほど不身持ちな女とは思えない。裸になってフランス人に絵をかいてもらうなどいうことには、一同首をかしげていたのだが、やっぱりそんなことが悪い原因になったにちがいない。これは一座のためにも、大変なことになった。
あやつり人形師の老人は、洟水《はなみず》をすすりすすり、そんなことをしゃべって、屍体のそばにひざまずき、両|掌《て》で顔を覆った。
一応これだけ聞くと、ルコックは冷静かつ勤勉な動作で、
「では、ここへ出入りした者が、雪に残した足跡を石膏に取ってくる」
と、いい、それから、ゴーギャンとヴェルレーヌと管理人に、
「ちょっと君たちの靴を貸してくれ」
と、三人の靴を脱がせて、それを紐でくくって両手にぶら下げて出てゆこうとした。
それは是非実見したい、という川路の申し出に、ルコックは急にこわい顔をして、足跡の保存法はまたあとで教える。これは実際の殺人事件であり、そばでウロチョロされることは、足跡の採取そのものにも邪魔になる、といって、部下のアブサント刑事の待つ路地のほうへ出ていった。
それから三十分ほどたって、警視庁から二台目の馬車が到着した。それには判事や検屍医、屍体運搬の署員、数名の警察官などが乗っていた。
はじめ川路は、日本の女芸人が殺されたという知らせに、ルコックがただ一人の刑事を連れただけで現場に赴いたのを、それは対象が日本人の芸人であるためかと思っていたのだが。――
あとで判明したところによると、右の連中がその時刻に来るように手配したのはルコック自身であった。彼はつねに事件現場の最初の検証を自分一人でやることを主張し、ただ手伝いとしてアブサント刑事を同行させるが、これはこの刑事が大酒喰いで、そのためにアブサントという、本名でない異名で呼ばれている、正気のときにはただひたすらに従順な男だからであった。しかも、このやりかたでいままで数々の難事件を解決し、そのためいまでは彼独特のこの捜査法を特別に黙認されている存在であったのだ。
さて、改めて検証が行われ、アダの屍体が警視庁の死体置場《モルグ》に運搬されるときになって、ルコック警部は、ヴェルレーヌとゴーギャンに向って、
「君たちもむろん警視庁に来てもらおう」
と、いった。
ゴーギャンは眼をむいた。
「僕も?」
「殺人事件の関係者はみんな容疑者だ、と見るのが私の方針なのだ」
サムライの足跡
その日の午後、シテ島のノートルダム広場の、寺院とは真向いにあるパリ警視庁を出た川路利良は、まっすぐにイタリアン通りのオテル・ド・ロールビロンの成島柳北のところへ急いだ。
あの殺人の下手人として、例の変なアルコール中毒の詩人が逮捕されることはほぼまちがいないが、アダの殺されたことは、だれより先に柳北に知らせなければならない、と考えたのである。だいいち、ゴーギャンという男の証言から、ルコックに対して、成島柳北と雨宮義親という名を出さないわけにはゆかなかった。
それにもう一つ、川路には妙にひっかかることがあった。アダの死体の下から出て来た一枚の西洋古代貨幣である。そのことについても柳北に訊かなければならない。
現如上人一行は、その日パリの地下墓地《カタコンブ》見学の予定であったが、朝の雪のため中止して、ホテルにいた。ただ、柳北だけがいなかった。もともと彼自身はその日の見学には同行しない予定で、岩倉卿一行の木戸副使と会う約束があるからといって、朝から出かけてまだ帰らないという。
それでは、長船書記官に、使節団の中の雨宮義親にも右事件の通報を依頼しておいたから、そちらで柳北も聞くことになるかも知れない、と川路は考えた。
しかるに、その翌朝、長船が顔色を変えてやって来て、昨夜遅く、成島が女芸人殺害事件の容疑者として逮捕されたことを伝えたのである。
川路は驚き、長船とともに、また警視庁に駈けつけた。
ルコック警部は語った。
「犯人は、ヴェルレーヌ君ではありません。
いかにも彼は、モンマルトルの居酒屋でアブサンをあおりながら、アダのところへゆこうと考えたことはおぼえているが、しかし実際に、いつ、どういう風にいったか、という記憶はないといいます。アブサント刑事に訊くと、アブサンに泥酔すると、そういうことは珍らしくないそうです。
それほど泥酔状態にあったら、アダを訪ねて何か争いを起し、アダを殺して、しかもまったくそのことに記憶がない、ということもあり得るではないか、と考えられるかも知れません。
しかし、そういうことはあり得ない。アダが同じベッドで死んでいたとか、床にころがり落ちて死んでいたとかであれば、その可能性もあるでしょうが、アダはベッドの下に日本風に蒲団を敷き、ちゃんと夜具までかけて死んでいたではありませんか。酔っぱらっているヴェルレーヌに、そんなことがやれるわけがない。
で、その居酒屋を調べたところ、彼が店を出ていったのは午前三時ごろだったということでした。想像するのに、彼はそれからアダのところへいったものでしょう。とにかく雪のふり出す前であったことは、あそこを歩いた雪の上の足跡の中に、彼の靴跡に合うものがなかったことでもわかる。
さて、真夜中に突然泥酔してやって来た詩人を見て、アダはびっくりしたにちがいない。しかし芸人である彼女は、彼を突き出さないでベッドに寝かせ、自分は床の上に蒲団を敷いて寝た。その騒ぎで、彼女はうっかり部屋の鍵をかけ直すことを忘れてしまったのです」
あり得ることだ、と川路は考えた。彼は日本の女のやさしさを思い出した。
「犯人が来たのは、朝になってからでした。それも雪がつもり出した午前十時ごろから、ゴーギャン君の訪れた十一時ごろまでの間のことです。なぜかというと、あそこへゆく路地と空地と階段に、その足跡が残っていたからです。
調査の結果、あそこの住人で出ていった者は、すべて雪のつもる前に出てゆき、雪がつもってからは、だれも出ていった者はない、ということが明らかになりました。また建物の上の階または下の階から上下した者はないということも、階段にその足跡がないことから明らかになりました。
で、残っていた足跡は、ゴーギャン君の訪れていった足跡、管理人を呼びにゆき、管理人とともにまたあの部屋に戻ったときの足跡、それから管理人が警視庁へ急報に出ていった足跡、及びそれ以外の人間の足跡だけ、ということになります。われわれの足跡は、あの通り注意して歩きましたから、その中にははいりません。
それでも、細い路地や階段は相当に踏み荒らされていましたが、出来るだけ精密に調査した結果、私はゴーギャン君と管理人以外の足跡、しかも往復した日本人の靴跡を発見することが出来たのです」
「えっ」
川路は耳を疑った。
「日本人の靴跡――どげんしてそれがわかったのでごわすか」
「日本人の靴にはある特徴があるのです。全部ではありませんが、たいていの男性にね。女性のほうにはありません。日本人の男は、みな少しずつ、左足のほうが大きいのです」
「へえ?」
「だから、日本人がふつうの靴を買うと、右足に合わせれば左足が痛み、左足に合わせれば、右足がゆるくなる。それでもがまんする人はともかく、たいていは改めて両足に合わせて靴を特別にあつらえなければなりません。実に日本人は奇妙な人種だと靴屋がいっておりました」
川路はしげしげと自分の靴を見下ろした。なるほど、自分も左足が痛んで、靴だけは新調した。――
「しかし、これは人種による現象ではありません。女性にはない。またその現象が見られるのは、日本から来た外交官とか留学生にかぎる、という事実から、私は、それはサムライ、すなわち刀をさしていた人々の足だけに発生する現象だ、ということに気がつきました。
むろんあなた方は御承知だろうが、サムライはいつも左の腰に大小二本の刀をさしているそうですね。私もさるところから、その二本を借りて計って見ましたが、実に大変な重さです。あれを常時左の腰にさしていれば、どうしても左の足に負担がかかり、長年の間にはそのほうの足が大きくなるのは当然といえます。あなた方もサムライでしょう、嘘だと思ったら、あとで左右の足を計ってごらんなさい。もっともそれは目には見えないほどの差かも知れないが、靴は微妙なものですからね。ほんのわずか合わなくても、痛んで、その靴を替えないわけにはゆかない」
ルコックはつづけた。
「その右と左の大きさがちがう靴跡が、雪の上に残っていたのです。そうなると、被害者が日本人であることと思い合わせ、どうしても加害者には日本人を想定せざるを得ない。
そこで、この一月の二つの日曜日に、ゴーギャン君のアトリエを訪ねて来た二人の日本人が、当然疑惑の対象とならざるを得ない。しかも二人とも、アダに侮辱を加えられ、その一人のごときは、怒りのあまりパレット・ナイフまで投げつけて退散したというではありませんか」
「……」
「それで、昨夜、その両人に警視庁に出頭してもらい、事情を聴取しました。すると、その一人――パレット・ナイフを投げつけたほうですな。――これには、アリバイがあった。きのうの午前九時半ごろから十一時半ごろにかけて、彼はルーヴル美術館にいっていたというのです。むろんこの時間は、殺人事件のあった時刻を包含しております」
「……」
「もう一方の容疑者ですな。これにはアリバイがない。彼はきのう夕方ホテルに帰って来たが、朝からどこかへ出かけていたという。当人は友人に、日本使節団の副使ムッシュウ・キドのところへいっていたと話したそうですが、調べてみると、そんな事実はないのです。ムッシュウ・キドも、そんな約束はなかったといわれる。
それで、その時刻、どこにいっていたのだと訊くと、ただあてもなくパリの町を歩いていたという。あの雪の中を、ですぞ。さらにまた、それがほんとうとするなら、なぜムッシュウ・キドに会いにゆくなど、嘘をついて出かけたのか?」
「……」
「さらにもう一つ、重大な証拠があります。あなた方も知っているでしょう。あの屍体の下から一枚のローマ貨幣を私が拾いあげたことを。――私はふと、いつかノートルダムの塔の上で、ムッシュウ・カワジが、ローマ貨幣を二つに斬って見せてくれたことを思い出しました。あれは、ムッシュウ・ナルシマから借りたものでしたね? そこで調べてみると、やはりその容疑者はかねてからヨーロッパの古い貨幣の蒐集に大変熱心な人物だったというではありませんか?」
「……」
「思うに彼は、あの被害者がフランス人の絵のモデルになっていることを不快に思い、かつ逆に彼女から侮辱を受けたことを根に持って、もういちど被害者のところへ押しかけたのですな。むろん、ドアをノックしたのでしょうが、返事を待たずにそれはひらいた。被害者はヴェルレーヌ君が来たときの騒ぎで、鍵をかけ忘れていたのです。
のみならず彼女は、未明のその珍事で何時間か眠りを中断されたために、夜が明けてもぐっすり眠っていた。犯人ははいって、ベッドに寝ているヴェルレーヌ君と、床に眠っている被害者を見た。よく考えると奇妙な構図ですが、はじめから彼女の生活を快く思っていなかった犯人には、逆上に値する光景だったにちがいない。
そこに来るまでにすでに殺意があったかどうかは別として、ここで彼はかっとして、眠っている被害者を絞め殺したのでしょう。そばに妙な男が寝ているだけに、これが一番安全な殺人の方法だったといえます。しかしまた、そんな男がいるために犯人もあわてていて――かつ、カーテンがしめてあって薄暗いこともあり、そのとき自分の所持していたローマ貨幣が蒲団に一枚落ちたことに気がつかなかったものと思われます」
「……」
「こういう次第で、ムッシュウ・アマミヤにはひきとってもらいましたが、ムッシュウ・ナルシマは逮捕しました。ただいま留置場に留置してあります」
ルコック警部の明快な説明は終った。
長船書記官の通訳でこれを聞いた川路利良は、二、三分間沈黙していたが、やがて口をひらいた。
「わかりもした。ただ、一つ、二つ、聞きたか事《こつ》がごわす」
「何ですか」
「いま、もう一人の容疑者は、犯行当時、美術館にいっておったとのお言葉でごわしたが、それにはたしかな証拠があるのでごわしょうか?」
「ああ、それはいい質問です」
と、ルコックはうなずいた。
「それは私も、ほかに同行者はいたのかと訊きました。同行者はなかったそうです。では、あなたがルーヴルにいったということを証言してくれる人がほかにだれかいないか、というと、ムッシュウ・アマミヤは首をかしげて考えていましたが、ふいに手をたたいて、左様、美術館で、なんでも両腕のない美人の彫刻のある部屋で、ふいに便意をおぼえたのだが、さあ便所がどこにあるかわからず、大変困惑した。――」
川路は、ぎょっとした。
「困惑その極に達してウロウロしていると、通りかかった二人のフランス人が、どうかしたのかと尋ねてくれた。手真似で急を訴えたら――それは初老と青年の二人連れであったそうですが――若いほうが、笑いながら便所に連れていってくれたが、それが十時半ごろのことだった、というのです。もしそれが事実であったら、一方でルーヴルを見物し、一方でモンマルトルで殺人を犯す――たとえ馬車を使ったとしても、特に土地不案内の日本人ではとうてい無理でしょう」
急を告げる排泄事件には弱ったが、川路は勇気をふるい起してまた訊いた。
「その……便所へ連れていってもらったちゅうのは証人がごわすか」
長船から聞いて、ルコックの顔にやや驚嘆の色が現われた。が、すぐに微笑していった。
「その二人はどういう風態をしていたかと念のために訊きますとね。ムッシュウ・アマミヤは、そうだ、その若いほうのフランス人は、手に妙なものを持っていた――剥製にした人間の手みたいなものを持っていた、というのです。それから、どうやらその二人は、師弟の関係にあるような感じがした、ともいいました。
それで早速ルーヴルのほうを調べるとね。その両腕のない美人の彫刻とは、ミロのヴィーナスにちがいないが――きのうは日曜だったが、例の雪でその時刻入館者が少く、受付の者が記憶していました。たしかに日本人らしい入館者を一人見た、といいました。
それから、その二人については――あれはやはり剥製の人間の手でね。それを持っていた若い男の名は知らないが、もう一人は知っている。有名な作家のギュスターヴ・フローベール先生だったというのです。それでアブサント刑事を走らせてフローベール先生に訊き合わせたら、いかにもそういうことがあった、ということで、若いほうは、ギイ・ド・モーパッサンといい、いま海軍省印刷局に勤めている男ですが、小説のほうではフローベール先生の弟子なのだそうです。
その剥製の手というのは、モーパッサンが、友人のスウィンバーンというイギリス詩人からもらったインド人の手を剥製にしたもので、その日フローベール先生に見せるために持って来たものだそうです。彼もまた、きのう鬚をはやした日本人を便所に連れていってやったことを証言してくれましたよ。アブサントは、そんなものをむやみにぶら下げて歩いてはいかん、と、とっちめておいたといっていましたがね。まったくその通りです」
ここまで調査が周到であれば、もういうことはないはずだ。
しかし、川路はもう一つ尋ねた。
「そのローマ貨幣っちゅうやつですな。いま警部どんは、殺人中にうっかりそれが落ちた事《こつ》を、加害者は気がつかなんだ、とおっしゃった。しかし、おいも見ちょった事《こつ》ごわすが、あれは蒲団をかけた屍体の下から出て来たじゃごわせんか。そりゃ少し妙ではごわすまいか」
通訳を聞いて、さすがにルコックは少し持て余した顔をした。
「貨幣を落したとき、同時に被害者ももがいていたのかも知れない。蒲団はあとからかけ直したものでしょう。時と場合によって、小さな貨幣が屍体の下になっても、別にあり得ないことではないと思いますがね」
彼は、ふきげんそうに川路を見つめた。
「実は、私が心配していたのは、せっかくわが国においでになった使節団の中から、殺人犯人を出すことでした。それが、聞けばナルシマは、民間の旅行者だそうで、それで胸をなで下ろしていたところです。それともあなたは、政府使節団の中から犯人が出て欲しいのですか?」
川路は狼狽した。
「いえいえ、とんでもなか。その点は、おいも安心したでごわす」
しかし彼は、安心とは反対の表情になっていった。
「その成島でごわすが――いま留置してあるっちゅう事《こつ》ごわすが――面会させていただいてもようごわしょうか」
ルコックはいった。
「ああ、ナルシマのところへは、さっき面会者がありました。シャノアン元大尉です。いま彼がそこへいっているはずですが……まあいいでしょう、どうぞ」
そのとき、ドアがひらいて、明らかに警官ではない、三十二、三のふとった男が、貧乏たらしい髯むしゃの顔をのぞかせて何かいい、ルコック警部はそれを叱りつけた。男はすぐに消えた。
問答の中に、ジャポネというような言葉が聞えたので、川路は、あれは何者かと尋ねた。ルコックは苦笑して答えた。
「ああ、あれは以前新聞記者をやってたエミール・ゾラという男ですがね。いまは三文文士になってるらしいが、前からの縁で、小説のネタ探しにいまでもよくここへ来ます。もうどこで聞きこんだか、モンマルトルの殺人事件は日本使節団に関係があるのではないかと訊くから、全然無関係だといって追っぱらってやったのです」
無言の恋歌・殺し歌
川路と長船書記官が警官に案内されて留置場にはいっていったとき、シャノアン大尉が一つの鉄格子から離れて、うなだれてこちらへ歩んで来るところであった。
川路がシャノアンを知っているように、シャノアンも川路が何者であるか、すでに知っている。
シャノアンは川路を見て、立ちどまり、悲しそうに首をふって、
「ダメデス!」
と、さけんだ。
「コノヒト、ナニモ、シャベリマセン!」
川路は近づいた。
成島柳北は、薄暗い鉄格子の中に、棒のように立ち、首を垂れていた。かつて知っている、快活で、おしゃれで、皮肉屋の面影はなかった。
「成島どん、事情は聞いた。しかしおいは、おはんが、女を絞め殺すような人とは信じられん」
と、川路はいった。
「おはん、きのう午前、どこへいっとったのじゃ?」
柳北は答えない。顔をあげようともしない。
「それをいいさえすれば、おはんは助かるんじゃ。このまま放っとくと、おはん罪に落ちるぞ。悪くすると、こっちの、それ、ギロチンとやらにかけられるぞ。おはん、フランスくんだりまで来て、そげな最期をとげたいか? その恥をあえてしてまで、なお隠さねばならんゆき場所が、おはんにあったとは思えんが。……悪いようにはせん、おいにいってくれ」
柳北は顔をあげてつぶやいた。
「御一新以来、私は無用の人だ。いや、もともとが無用の人間に生まれついていたかも知れん。フランスへ来て、女芸人殺害の罪で死ぬのは、私にふさわしい。いや……私は、本気で惚れたこともあったから、むしろこれは、一種の心中として私にとっては本懐だ」
長い顔が笑っていた。その笑顔は、いかなる表情より川路に絶望を感じさせた。
数分間、川路はなお佇立《ちよりつ》していたが、やがてこんどは首を垂れ、背を返した。が、四、五歩、歩いて、ふいに彼はまたひき返した。
「ひとことだけ訊く。成島どん……おはんの西洋貨幣集め、そのことを雨宮義親どんは知っちょるか?」
「いや」
柳北はけげんな顔をした。
「あの人には、あの人たちがパリに来たとき、例の公館前の土下座騒ぎのとき逢っただけだ」
冬でも明るい日なら、散策する男女や馬車が絶えないボワ・ド・ブーローニュの並木道だが、空はドンヨリ曇り、底冷えがして、まるで夕暮のような銀鼠《ぎんねず》色の大気の中を、人影はチラホラとしか見えない二月十五日の午後三時ごろであった。
ブーローニュの森から一人出て来た井上|毅《こわし》は、その路上で名を呼ばれて顔をあげた。
「や、川路さん。……」
彼はちょっと眼をまるくした。
「これから、森へ御散歩ですか」
「いや、おはんがこっちへ来られたっちゅうものだから……ちょっとお願いがごわしてな」
と、川路は答えた。
彼らは、同じく司法省から派遣されたものの、井上のほうはパリ大学などへいって法学部助教授ボアソナードに近代法について学ぶことを主とし、川路のほうは実際の警察制度について学ぶことを主としたので、パリに来てからかけちがって、顔を合わせることもそう頻繁にゆかなかったのだ。
二人は、凱旋門のほうへ並んで歩き出した。
「岩倉卿御一行は、いよいよあさってお発《た》ちごわすな。うるさか連中が多かが、ゆかれるとなると、とり残されるようで心細か。――」
と、川路はいった。
暮の十六日、川路らのあとを追うようにパリにはいった岩倉使節団は、それ以来ちょうど二ケ月間、有名な宮殿、寺院、公園はもとより、おびただしい政府機関、学校、病院、天文台、銀行、さらに種々の工場から下水道にいたるまで、ほとんど一日の余暇もないほどに参観の日を重ねて、いよいよ明後日、次の歴訪先のベルギーへ向って旅立ってゆくことになっていた。
川路らはなお半年、フランスに残る予定であった。
「願いとは何です」
「その前に、ちょっと話したか事《こつ》がごわす」
川路はいった。
「井上どん、おはんは使節団の中の雨宮義親っちゅう人物を御存知ごわすか」
井上毅の足が、ちょっととまろうとした。
「余り、知りませんが」
「余り、といわれると?」
「こちらに来てから、何かのはずみで――何の機会であったか忘れたが――だれかに紹介されて、ちょっと話を交わした程度です」
川路は黙って歩いている。鋭敏な井上の顔に、不愉快そうな雲がよぎった。
「川路さん、それがどうかしたのですか」
「おはん。……あの成島の事件を御承知ごわしょうな」
川路は平気で、また別のことをいい出した。
「一週間ばかり前、日本の女芸人を殺して、パリ警視庁につかまった事件。――」
「まったく恥ずかしいことだ。何でも、日本にいたころ、馴染《なじみ》だった芸者だそうですな」
井上は、吐き出すようにいった。
「成島は大変な道楽者だったそうで、それが幕府騎兵奉行になったとはお笑いぐさだが、日本国内でのいざこざは知らず、パリまで来てこっちの警察沙汰をひき起すとは言語道断だ。お恥ずかしいが、本人にとっては自業自得でしょう」
「成島は無罪で、先刻釈放されもした」
川路はいった。
井上は立ちどまり、その横顔を眺めた。
「ほう?……しかし、成島は、その殺人事件の犯行時、どこにいたかわからないという話だったが。――」
「それが、わかったのでごわす。あの男は、その時刻、ある裏町で西洋古銭売買業をやっちょるユダヤ人の店へいっちょったのでごわす」
「ユダヤ人……古銭……しかし、それならなぜ成島は、そのことをパリ警視庁にいわなかったのですか」
「それがね。……あれはいつぞや、おはんにやっつけられたように、西洋古銭にだいぶ淫しておりもしてな。欲しいものがあると夢中になる。で、現如上人の会計をまかされているのを倖《さいわ》い、あとさきの考えもなくそこへ出かけていったちゅう。――もっとも当人は、帰国後弁済するといい、上人もその額を聞いて一笑されておりもしたが。……」
川路は歩みつづける。
「しかし彼は、この事《こつ》が公けになるのを好まなんだ。パリへ来る途中、汽車の中で、おはんに武臣銭を愛するは亡国の兆、とか何とか弾劾されたのが、あれでよほど応《こた》えたらしか。……」
薄く笑った。
「が、それにしても殺人事件の容疑者となってまで。……」
「それにね、あの男は、あの女がパリにまで流れて来たのも、その責任の一端は自分にもある、と考えたらしか。何にせよ、自分はもはや無用の人間じゃから、ここであの哀れな女のあと追い心中をするのもまた一興、と思いこんだらしか。――成島はそげな男でごわすよ」
「川路さん」
と、井上は鋭い声で呼んだ。
「それじゃ、下手人はだれですか」
「やはり、その女にひっかかりのあった男――雨宮義親ごわす。あれは、あの女の所業を日本人の恥だと罵ったげな。あるいはそれも嘘ではごわすまい。しかし本心は、あれが昔あの女をおのれのものにしながら、御一新後は時はずれの瓜か何かのように捨てて、長閥にとりいり、こんどの使節団にも加わった。その行跡が女の口から使節団ないし公使館のほうにもれやせんか、っちゅう事《こつ》が心配になったのでごわしょうな。なに、そげな連中はほかにもあるから気にする要もなか、と思うのはこっちの考えで、こっちにおると針ほどの事《こつ》が棒ほどに気にかかる。当人としては、これは捨ておけぬ、自分がパリにおる間に、どうしてもその女を始末してゆかんけりゃ、おのれのこれからの出世のさまたげになる、と大袈裟に思いこんだのじゃごわすまいか」
「雨宮義親。――」
井上は低くつぶやいた。
「雨宮はしかし、殺人の時刻、美術館にいっとったと聞いたが。――」
「美術館にいったのは別の男ごわす」
大気の光はますます暗くなった。その中に、井上の顔はかえって蝋色に浮かびあがった。
「その男は、殺人の時刻あたり、美術館におって、あとで調べがつくように、わざと目に立つフランス人をつかまえて便所に案内してもらい、アリバイの証人を作ろうとした。その、剥製の人間の手を持ったフランス人は、海軍省の若い役人ごわしたが、おいが出向いてもういちど訊きもしたところ。――」
川路は妙な笑いを浮かべた。
「その人は、はじめ日本人の男は、だれも同じじゃが芋を見るようで、人相なんかよくわからんといいもした。ちょうどこっちから見ると、西洋人はみな同じに見えるのと同様ごわすな。ただ、口鬚をはやしておったっちゅう事《こつ》で、そこをも一つ詳しく尋ねたところ――その男は何でも小説を書いとる人っちゅう事《こつ》ごわすが、それで何でも口鬚をはやしとる男と口づけする女の心理を研究した事《こつ》があるそうでごわす。実に馬鹿げた事《こつ》を研究する男もあるもので――で、男の口鬚だけにゃ、わりと注意を払っとるそうで、それで思い出してくれもした。その男の口鬚の両端は垂れかげんであったとな。ところが、雨宮義親の鬚は両端がピンとはねあがっておりもす」
井上毅のダラリと垂れた口鬚のはしが、ピクピクとふるえた。
「あの事件は、二人の男の合作ごわすよ」
と、川路はいった。
「雨宮がそげなアリバイを申し立てておる以上、二人の合作と見るよりほかはなか。――そもそもおいが、何でそげな疑いを持ったかっちゅうと、女の屍体の下に西洋の古代貨幣が落ちておった。あれはむろん成島に疑いがゆくように仕向けた細工ごわすが、その成島がそげな銭を集めとるっちゅう事《こつ》は、雨宮は知らんはずごわすからな。だれかその事《こつ》を雨宮に教えて、智慧を貸したやつがあるに相違なか。――」
そのころ、空から白いものが舞い出した。
「その男が、どげんして雨宮と知り合い、どげな話をしたかはおいもまだ知りもさん。思うに使節団到着の日、公館前で起った事件が雨宮を知ったきっかけじゃごわすまいか。――とにかくその男は、かねてから気にくわず虫の好かん成島に、この際、痛い懲罰を加える事《こつ》を思い立った。それではからずも、女を殺したか雨宮と、望みが一致した。成島を女殺しの下手人に仕立てりゃ、その望みが叶うわけごわすからな。それにしても、懲罰がギロチンとは痛過ぎるが」
ふり出した雪を気にする風もなく、川路はつづける。
「ひょっとしたら、美術館での便所探しの一件は、あのパリゆきの汽車の中の事件から思いついた事《こつ》じゃごわせんか? また、こりゃひょっとしたらどころじゃなく、おそらくまちがいなか事《こつ》ごわすが、成島がいったっちゅうユダヤ人の古銭屋も、その男に頼まれて成島を誘ったものじゃごわすまいか?」
「成島は日本武士の恥さらしだ」
と、井上はうなされたようにつぶやき、ふいに何かを切断するようにいった。
「それで成島は釈放されて……雨宮義親は逮捕されたのですか?」
「さ、それが問題じゃて」
川路利良は重々しくいった。
「使節団から殺人犯人が出て、フランスの警察につかまったとなると、こりゃ容易ならん日本の恥じゃて。……パリ警視庁も実は苦慮しておるらしか」
「それはまことに国家的大事です」
井上はそういって、シルクハットの下の頬をぬぐった。雪をぬぐったつもりであったが、それはあぶら汗であった。
「そんなことが起れば、使節団のパリ出発も怪しくなる。いや、顔をあげて日本へ帰ることも不可能となる。おととし以来の各国歴訪の苦労がすべて帳消しになるほどの大問題となります」
つらぬくような眼光であり、のしかかるような声であった。
「川路さん、お見それした。井上毅、借りを作る。……しかしあなたは、まったく要らざることをしたといわなければならない。日本の名誉にかけて、この件は闇から闇へ葬るように、あなたからパリ警視庁に働きかけて下さい」
「殺人者が出ると、日本の名誉にかかわる――っちゅうのは、使節団だけじゃなく、官吏として派遣されて来たおはんやおいも同様の立場ごわすな」
井上毅は、ちょっと考えて、
「むろんのことです」
と、きっぱりといった。
「わかりもした」
川路はうなずいて、それから笑顔になって、妙なことをいった。
「ところで、さきほど申したおはんへの願い事っちゅうのは、その雨宮義親でごわすな。あれを明朝、まだ夜のあけないうち、左様、午前六時ごろ、セーヌ河の、左様、アルマ橋っちゅう橋の、南たもとまで来てくれるように、おはんから話して下さらんか?」
二月十六日、午前六時。
雪はシャイヨー宮やグラン・パレやブールボン宮の中世の神殿めいた影に、まだともっている河畔のガス燈に、そしてまた蒼みがかりはじめたセーヌの河面《かわも》にふりしきっていた。
もう足首も埋めるくらいにつもったケー・ドルセーの河岸通りに、二人の男が向い合った。
「雨宮どん」
と、シルクハットをかぶった一人がいった。
「殺人犯人としてフランスのギロチンにかけられるより、日本人のよしみとして、ここで処置しもそう」
そう宣言された他の一人は、これもシルクハットをかぶっていたが、しばらく黙ってにらみつけていた後、
「おれを呼んだのは、そんな用か。……しかし、それではまた殺人を犯すことになるが、それでよいのか」
と、いった。
相手はシルクハットを左右にふって、
「いや、安心するがよか。どっちがどうなろうと、文字通り闇から闇へ葬られると、井上どんが保証した。どっちに転んでも、あの人にとっちゃ都合がよかわけじゃて」
と、ふくみ笑いしていった。
すぐに雨宮は、自分が共謀者に売られたことを知った。
「なるほど。……どちらが死んでもか!」
そのステッキから――仕込杖から、きらっとひかるものがほとばしり出た。
相手は抜かない。ただ鞘のまま持った左手の刀の柄に手をかけただけである。
雪は霏々《ひひ》としてふりつづける。そのまま、数瞬の時だけが停止した。
そのとき雨宮義親は、雪明りと薄明のおぼろな光の中に、相手の背後、十メートルほど離れた距離に、一団の人々が浮かんで、じっとこちらを眺めているのを見た。それがたしかにフランス人だと知って、思わず心に小波《さざなみ》が立った。この相手は討ち果す。それはまちがいないが、第三者に見られては、闇から闇へ葬ることが不可能となるではないか、という動揺が生じたのである。
が、そのとき全身に高潮した殺気は、みずからもとどめあえず。――
「えやあっ」
地を蹴って跳躍させたのは、直心影《じきしんかげ》流、男谷下総《おたにしもふさ》直伝の必殺の魔影であった。
「チェストー!」
雪の虚空に稲妻が散った。仕込杖の刀身は氷柱《つらら》のようにたたき折られ、相手の抜刀はそのまま彼の左肩に胸まで食いこんでいた。一瞬、なお棒立ちになった雨宮に間髪をいれずこんどは右肩から刀が殴り落されている。
つんのめって、雪の中にころがった雨宮義親は、V字形に胸の肉塊をつけた首と、それ以外の身体に分離していた。怖るべき薩摩示現流のなせるわざであった。
向うの一団は、数分間、凍りついたように動かなかったが、やがてその中から二人歩いて来た。
これは、この朝までユゴー家のサロンで文学談をかわし、さてパリの夜明けの雪を見よう、と一同を連れ出したシャノアン大尉と、警護のためと称して同行したルコック警部であった。
「お恥ずかしゅうごわす。……」
川路利良は首をたれた。
「日本には古来、非道に女性を殺害した男には断頭の懲罰を加える武士道がある、と申しあげたところ、ユゴー先生は、噫無情《ミゼラブル》……しかしまた噫見事《フオルミダーブル》、と感にたえておられました」
と、シャノアンがいった。武士道にそんな徳目はない。
ルコックがいった。
「死体はこちらで処理します。おゆきなさい」
フランス語であったが、川路は理解した。
彼は雪で刀身をぬぐって鞘におさめて、それをシャノアンに返し、遠くに一礼して、首を垂れたまま、セーヌ河に沿って雪の中を、粛々と歩み去っていった。
――同じ時刻、オテル・ド・ロールビロンのベッドに坐ったまま、成島柳北は窓の外の薄明りにふる雪を眺めながら、異国で死んだ薄倖の日本の芸者のことを考えていた。
「……おれの心にも雪がふるようだ」
と、彼はつぶやいた。
(ヴェルレーヌの詩は、新潮文庫・堀口大学訳「ヴェルレーヌ詩集」による)
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築地西洋軒
遠来の宿泊人
正しくいえば京橋の采女《うねめ》町にあるのだが、すぐそばを流れる築地川の向う側から築地になるので、ふつう築地精養軒と呼ばれている。
明治六年にそれが出来たころ、服部|撫松《ぶしよう》のベストセラー「東京新繁昌記」には、「……精養軒は、往年一巨閣を築地入舩坊に起こし、層楼|嵬峩《かいが》、器物整斉、最もその巨擘となす」と紹介されている。実は三階建、ペンキ塗りの木造建築に過ぎないが、当時としてはやはり偉観に見えたのだ。
そして、明治期を通して、レストラン・ホテルとしては、東京第一の格式を持っていた。現代の銀座東急ホテルがほぼその位置にあたる。
明治二十一年九月二十五日の午後四時前、その精養軒へ乗りつけた二台の俥《くるま》から下り立った二人の男が、左右から上るようになっている低い石段を上っていった。一人は、山高帽に口髭という三十歳くらいの紳士で、もう一人は角帽に黒い制服をつけた二十歳くらいの大学生であった。
ドアをあけて、紳士のほうが、
「ドイツから来られたエリス・ワイゲルト嬢はおられるか」
と、ボーイにいった。
「私は東京帝国大学教授の小金井|良精《りようせい》、これは学生の森|篤次郎《とくじろう》というものだが、是非お目にかかりたいので、御都合をうかがってくれないか」
ボーイが奥へ去っている間に、また一人の紳士と、十五、六の少年がはいって来た。その前に、車輪の音が石段の下で聞えたから、馬車でやって来たらしい。
まだ九月というのに、その客はなぜか黒いマスクをしていたが、洋服とステッキから見てもいかにも身分ありげな紳士であった。少年もこのころ珍らしく洋服を着ていたが、どうやらその従僕らしい物腰であった。
少年が小声で何かいい、ボーイがうやうやしくお辞儀して、先に奥へ案内していった。
「ほう」
と、小金井良精が、あと見送ってつぶやいた。
「あれは八十綱《やそづな》伯爵ではないか」
「御存知ですか」
と、森篤次郎が訊く。
「いや、話したことはないが、顔だけは知っている。向うはこちらを御存知あるまいがね」
そこへボーイが出て来て、お客さまはサロンのほうでお待ちだから、そちらへご案内しますといって、先に立った。
――それから一時間半くらいたって、異国娘と向い合った二人は、しばし話のつぎほを失って、サロンの椅子に黙って坐っていた。
レストランの隣室になっているこの広いサロンは、むろん、ソファ、椅子、テーブルと洋式だが、壁には、梅に鶯やら、浦島やら、鷹やら、偶然ここに落ち合ったとしか思えないような掛軸がいくつもかけてある。
向うのテーブルにも、数人ずつの男たちが――軍人や、着流しや、袴などの姿もまじえて、シガレットや葉巻をくゆらし、紅茶をのみながら談笑している。西洋人の男女も幾人かいる。どこかで工事でもしているような音がしていた。
こちらの話は、それまで同じことを繰返して、そして、とぎれた。
築地川に面する窓ガラスから見える築地方面の風景も暮色につつまれようとしている。曇った日であったので、ボーイたちがサロンの中のあちこちの洋燈にもう灯をいれようとしていた。
その灯の一つを半身に受けて、ドイツから来たその娘は、ほんとうに美しかった。鍔のひろい帽子をかぶって、そこからのぞいた髪は薄い金髪で、湖のような碧い眼をしていた。異国の娘にしては小柄なほうの身体に銀鼠《ぎんねず》色の洋服と首飾りをつけて、皮膚はミルク色で、手足は繊《ほそ》くたおやかであった。
彼女は、半月ばかり前にドイツから帰朝した男を追って、この二十日に日本にやって来た。ここは二階と三階がホテルになっていて、彼女は二階に泊っている。
それで、一度その男に逢ったのだが、それっきりだ。そして、その男は帰国後の挨拶まわりや、留守中の家事の始末やらに忙殺されて、それ以後来られないので、その義弟にあたる小金井良精と実弟の森篤次郎が、代って彼女を説得しにやって来たのであった。
要するに、彼女が追って来た男は、軍人というその身分やら家庭の事情から、とうてい彼女の希望に添うことが出来ない。何とかあきらめてドイツに帰ってはくれまいか、と二人は哀願し、娘はそれをきっぱりと拒否したのだ。
むろん、ドイツ語の問答である。
帝大医学部の学生の森篤次郎のほうは少々たどたどしかったが、解剖学の教授の小金井良精のほうは、これも以前、四、五年、ドイツに留学したことがあるので、これが主として話した。
「あちらはどうやらフランス語のようですな」
と、篤次郎が向うを見ていった。二人の西洋人が話していた。
「しかし、一人はドイツ人の顔をしているよ。……ありゃ何者ですか」
と、良精が後半だけドイツ語で尋ねた。
「一人はドイツの拳銃商人で、もう一人はフランスの香水商人なんですって」
と、エリスは答えた。
さて、それまでの問答をとぎれさせたままではすまないので、改めて良精がまた訊く。
「いまの日本の現状では、外国の方を妻として暮せる日本人は、経済的にも稀《まれ》でしょう。まして軍人たる彼には至難です。あの男は、あちらで、自分が金持であるようなことをいいましたか?」
「ナイン」――いいえ。
と、エリスは首をふった。
「そんなことは申しません。日本で節約した生活をしなければならないのは覚悟しています。私は手芸が好きなので、刺繍や編物をして彼を助けるつもりでいます」
「そんなことをしたって。……」
良精はウンザリした顔をしたが、かくてはならじともういちど声を張って、
「ほんとうに彼は、あなたと結婚の約束をしましたか?」
「ヤー」――はい。
と、エリスはうなずいた。向うの客がいっせいにふりむいたほどであった。
「あの人は、約束を守る人です。あの人は、嘘をつきません!」
碧い眼だが、どこか愁いをふくんだ翳を持っているように見えたのだが、こういったとき、それは青い灯がともったようで、この娘の意志の強さと信じることの深さを示した。
「あの人は私にいったことがあります。おれは虚偽には敏感だから、人の嘘がすぐわかる。だから、人にだまされたことはないと」
「なるほど」
と、思わず篤次郎がいった。
「あの兄なら」
「そんなことをいう人が、人に嘘をつくはずはありませんわ!」
と、エリスは美しい微笑を浮かべていった。
「あの人ばかりではありませんわ。ベルリンにいる日本人は、みな嘘をつかない人ばかりでした」
良精が苦笑した。
「日本人をそう評価して下さるのはありがたいが、それは偶然の。……」
「いえ、その中のだれか、いいました。私たちはサムライの道徳、武士道で育てられた。武士道の中には、嘘はつかない、約束は守るという徳目があるのだと」
彼女はいった。
「彼は約束を守ります。私はそれを信じますわ。……お金がなくなったら、ここで手芸細工をして、だれかに買ってもらって、暮しますわ」
「……」
「それにしても、あれっきり彼が来ないで、あなた方のような人を寄越すとはひどいと思いますわ。私がここに来たとき一度逢ったけれど、そのときはほんの挨拶だけ。彼が来ないなら、私のほうで逢いにゆくわ」
エリスはふいに決心したらしく、椅子を立ちかけた。
「あなた方、彼の家に案内して下さい」
良精はあわててとめた。
「いや、あれはきょうは陸軍省のほうへいっていて、家にはおりません。……とにかく、あなたの言葉は伝えましょう」
「あの人に、早く来るようにいって下さい。明日《あした》、明日にでも!」
「わかりました」
三人は立ちあがった。
小金井良精とエリスはサロンを出て、階段の下まで歩いて来たが、気がつくと篤次郎がまだ出て来ない。エリスが、ホテルになっている二階へ上っていったあとで、篤次郎が急いでやって来た。
「何をしていたんだ」
「いや、さっき、日本の武士道の中に、武士は嘘をつかない徳目がある、と彼女がいったでしょう。はてな、武士道の中にそんなものがあったっけ? と、首をひねって――」
「武士の一言金鉄のごとし、という言葉があるじゃないか」
「ああ、そうでしたね。いや、それとは別に、先年出された軍人勅諭の中に何だかあったような気がしましてね。どうも気にかかるから、あそこにいた軍人をつかまえて訊いたんです」
篤次郎は、ポケットから小さい手帖をとり出した。
「ところが、その軍人はうろおぼえだったが、そばにいた人が以前軍人だったそうで、それが知ってて、暗誦してくれましたよ。その一節をちょっと書きとめて来たんですがね。……たしかにありましたよ」
「相変らずのんきな男だな」
と、良精は呆れたように苦笑したが、篤次郎は、通路の壁にともされた洋燈の下で、その手帖を朗読した。
「一つ、軍人は信義を重んずべし。……適当なところだけ写したんですが、いいですか。……朧気《おぼろげ》なる事を仮初《かりそめ》に諾《うべな》いてよしなき関係を結び、後に至りて信義を立てんとすれば、進退|谷《きわま》りて身の措《お》き所に苦しむことあり。悔ゆともその詮《せん》なし。……」
眼を離して、
「ひょっとしたら、これを翻訳してエリス嬢にしゃべったやつがあるかも知れない。兄がほんとにあの娘さんに約束したとしたら、こりゃ痛い文句だなあ」
と、いった。
「よくいえばぬけたところのない、悪くいえばぬけめのないあの兄貴が、よくそんなことを約束したものだ。私は、あの娘を見るまで、兄貴がドイツ娘と恋愛したということさえ信じられなかったんですがね」
「何といっても二十代の若さだからね。留学生にゃ、そんな例はうんとある。ただ、みんな適当にやって、適当に引導を渡して帰って来るんだが……君は兄貴らしくないと思うらしいが、私はあの人らしいと見るね」
二人は入口のほうへ歩き出した。
篤次郎がつぶやく。
「いまになれば思い当る。兄貴はこの八日、四年間も留学して晴の帰朝をしたというのに、船から下りたとき何だか沈んだようすでしたよ。あの女は十二日ほど遅れて――いや、横浜に着いたのはもっと早いかも知れない――やって来たわけですから、まだ兄貴の船が地中海あたりを走っているころ、彼女はそれを追っかけて次の船に乗ったということになりますな。そのおそれのあることを、兄貴はうすうす感づいていたのかも知れん」
ちょっと、うしろをふりかえり、
「とんだ安珍清姫だが……しかし、ドイツ娘ながら、いかにも清純で、しっかりしていて、人柄もよさそうだ。踊子をしていたそうだが、そんな風には見えない。さすがは兄貴だと思うところもあります。いっそ結婚させてやったほうがいいじゃありませんか」
と、ささやいた。
「とんでもない」
おだやかな容貌をした小金井良精であったが、強く首をふって、
「私費で留学したわけじゃない。せっかくお上からお金を頂戴して洋行させてもらいながら、眼の碧い女、しかも踊子をやっていた女をひっぱって来て嫁にしたりすりゃ……ましてそれが軍人とありゃ、その前途は絶望的なものになる」
と、いった。
「いや、その前に、あの喜美子が放ってはおかん。きょう帰ってから、はかばかしい報告が出来んが、あれの金切声が思いやられる、と実は私は嘆息しているんだ」
「そりゃ、そうですな」
喜美子というのは、篤次郎たちの妹で、良精の妻であった。彼女は、ふってわいたようなこんどの「一家の大難」に、もうノイローゼ気味になっている。
二人はボーイにお辞儀されて、外に出て、石段を下りていった。彼らは、きょうの会見の首尾を案じて首を長くして一族が待っている千住の家へ帰るのだ。
築地川をわたる夕風は、もう秋の気を帯びている。二人は、空俥《からぐるま》を待って、佇んだ。
「おい、君、明日《あした》もここへ来てくれんか。いや、明後日《あさつて》も、そのあとも毎日。――」
と、ふいに良精がいい出した。
「放っておくと、あの女、ほんとうに千住の家へ押しかけてくるぜ」
「そのおそれは充分ありますね。しかし、僕ひとりが――」
「いや、私も来るように努めるが、毎日というわけにはゆかん。君が来てくれ。そして、おしゃべりするか、東京見物の案内をするか、とにかく彼女をひきとめておくんだ」
「なるほど。……しかし、僕のドイツ語じゃあ……」
「そんなことをいっちゃおれん。勉強だと思ってやってくれ」
良精は懸命にいった。
「君、アラビアン・ナイトの話を知っとるだろ。王様に殺されようとする女が、毎夜、面白い話をして、殺されるのをのばし、とうとう切りぬけるという話だ。あれをやるんだ」
「そりゃいよいよ大変だ。――で、それをいつまで?」
「いつまでか、私にもわからんが……とにかく、横浜へいって、こんどヨーロッパへゆく船はいつか、調べて探す。十日か二十日のうちにはあるだろう。その船に、どうしてもあの女に乗ってもらわなくちゃならん。それまでだ」
空俥が二台来た。二人は乗った。
――小金井良精は、作家星新一さんの祖父にあたる。俗事には本来無頓着な彼は、この日の日記を淡々と記している。
「午後三時半、教室よりただちに築地西洋軒に至り、事件のドイツ婦人に面会、種々談判の末、六時すぎ帰宅」(星新一「祖父・小金井良精の記」)
彼は精養軒を西洋軒と書いている。おそらくこの店の名の発想のもとも西洋軒であったろう。
二人の苦心
あくる日、篤次郎が精養軒にゆくと、エリスは、彼が一人であることに、ありありと落胆した表情を見せ、また、
「あの人の家へ連れていって下さい」
と、いった。
篤次郎は、いろいろな事情で、兄はここ、二、三日はまだ来られない、といい、代りに自分が東京見物の案内でもしよう、と、いい出した。そして、いままでどこか見たところがあるか、と訊くと、ただあの人を待つのが大事で、外へ出かける余裕などなかった、とエリスはいった。
「それじゃあ、さしあたってきょうは、東京でいちばん古い盛り場へでもいって見ましょう」
「それはどこ?」
「アサクサ」
いまいちばん新しい盛り場というと、やはり銀座ということになるだろうが、そこは築地のすぐそばで、とうてい一日もちそうにない。それに篤次郎は、まだ洋行したことはないけれど、兄から送って来た写真で、ベルリンの市街の壮麗さは知っている。だから、外国の町の真似をしようとして似ても似つかぬ銀座|煉瓦《れんが》街などは、案内するのがかえって気恥かしい。
浅草のほうには、そんな変なコンプレックスを感じない。
といって、別に浅草を異人に誇る町と思っているわけではない。それどころか、右の心理と矛盾しているようだが、あの野卑性を見せて、日本はこんな国だと思い知らせてやったら、胆をつぶしてこの異人娘がドイツへ帰る気を起してくれるかも知れない。何よりドイツ語でしゃべるのには往生するから、とにかくゴタゴタして騒々しいところがいい。
その日の午後、二人は俥で浅草へ出かけた。
果せるかな、というべきか、意外に、というべきか、エリスは面白がった。仲見世で、いちいち店の品の説明を求めて、篤次郎を大困窮させた。
説明しても、彼女が狐につままれたような顔をしたり、何度か笑い出したりしたが、それが自分の怪しげなドイツ語によるものであることは篤次郎にもわかっていたが、どうするわけにもゆかない。もうヤケクソである。
で、以下、エリスと篤次郎の問答は、実は奇々怪々、滑稽至極なものであったのだが、物語をすすめる都合上、それは一応お互いに通じたものとして書くことにする。
彼女は、ある店で、ベッコーの首飾りを買った。――篤次郎もベッコーの櫛や|かんざし《ヽヽヽヽ》は知っていたが、そこで女のヘア・ピンやパイプ、マッチ入れ、耳飾りなどのベッコー細工を売っているのを見て、さすがに明治だと感心した。
小僧が出て来て、エリスはそれを三十円で買った。ずいぶん高いものだな、と篤次郎は思った。エリスはすぐそれを頸にかけた。
それから、浅草寺、五重の塔などを見物する。これはまだよかったが、やがて奥山にはいって、案内する篤次郎も、覚悟はしていたが、少々悔いた。
居合い抜き、砂絵、大道講釈、しんこ細工にのぞきからくり――などはまだしも、女相撲がある、デロレン祭文《ざいもん》がある、蛇食いがある、いかがわしい見世物小屋がある。それらをつつむ喧騒、雑踏、砂ほこり。――彼にしても、少年時代いちどここへ来ただけだが、いま大学生として再訪して、その猥雑さに改めて辟易した。
それに、見物に来たはずなのだが、鍔のひろい帽子をかぶった異人娘が、見世物より珍らしいと見えて、うしろにゾロゾロくっついて来る連中がある。
しかしエリスは、ほんとうに面白がっているようであった。とにかく時間がつぶせるのはありがたい。
で、とにかくその砂ほこりが夕日に染まるころまで時をつぶして――いいかげんに花川戸のほうの出口を出かかったときだ。うしろで少年の声がした。
「ああ、やっと見つけた!」
それが、さっきのベッコー細工屋の小僧だと知るまでに、一、二分を要した。
汗とほこりだらけになった小僧も、その間、大息をついていて、やっと、
「すみません、その首飾り、実は三円なんで……」
と、エリスの胸もとを指さしていった。
「なんだって? 三円? どうしたんだ」
「ありゃ、ベッコーじゃあねえ、馬の爪で作ったニセモノなんで。……」
「天の巻」の「風の中の蝶」に出て来る、いわゆるマガイモノだ。――小僧は具合悪そうに、ニキビだらけの頬のあたりをかきかきいった。
「書生さん、その異人の娘さん、おれの言葉、わからねえでしょうね。……おいらね、それを承知でホンモノの値段で売って、あとでおやじに、うまくもうけたよ、といったんでさ。そしたら、売ったのが異人さんだと聞いて、おやじが湯気を出して怒り出してね。あとで、あれが日本のベッコー細工だといって、それがニセモノだとわかったら、もうジョーヤクカイセーが出来ねえ。……」
幕末に結ばれた不平等な条約の改正は、このころ全日本人の悲願であったが――その言葉がベッコー細工屋の小僧の口から出て来たので、篤次郎はあっけにとられた。
「早くこれを持ってって、とりかえて来いって叱られた。そら……これ」
と、もう一本のベッコーの首飾りをつき出した。篤次郎が茫然としてそれを受取ると、
「書生さん、おれがごまかしたなんていわねえで……まちがえたといって……何とかうまくいっておくんなさい。お願いします!」
と、ペコリとお辞儀すると、小僧はそのまま雑踏の向うへすっ飛んでいった。
篤次郎は、どうやらその首飾りは、高いのと安いのとまちがえたらしいです、こっちがほんものだそうで、なるほどうまく作ってあるが、こうくらべるとだいぶちがう、といいながら、エリスの首飾りをとりかえた。
そして、ニヤニヤと笑った。
「それは感心だが、どうやらあの小僧、こっちを持ってゆくのを忘れたらしい」
エリスは黙って歩いていたが、花川戸のほうへ出てから、突然、大きな声をあげた。
「トクジローさん、日本人は人をだましません。嘘をつきません。……あのみじめな、小さな商人でさえ、そのことを身をもって示しました。……」
彼女の眼は、感動にかがやいていた。
「だから、どうしてあなたのお兄さんが、私をだますでしょうか?」
――きょうの東京見物は、これは逆効果だった、と篤次郎は気がついた。
「クルマヤ、サン!」
と、エリスは日本語で、通りかかった空俥をとめた。
「ツキジ、セイヨーケン!」
翌日は雨であったが、さいわいなことに小金井教授が同行してくれた。
その前に、二人は話した。
小金井は、きのう横浜に人をやって船の出航予定を調べさせたのだが、ヨーロッパへゆく船といえば、来月早々にイギリス船とアメリカ船があるが、とうていそれまでにエリスを説得出来そうにない。次は十七日にフランス船が出る。そのあたりが適当だと思うし、また何としてもそれに乗せなければならない、と良精はいった。
「きょうは九月二十七日、あと二十日間ですな。……」
篤次郎は、ふうっと大息をついた。きのう一日で、彼はヘトヘトになっている。
「それに、彼女は、どうやら俥の乗り方をおぼえたようですよ。いつ、センジュへ! と俥を呼びとめないともかぎらんです」
「どうにかして、そんなことをさせないように、ひきとめておかなくちゃならん」
「いって、何を話すんです?」
「いや、それに困ってるんだ。いいたいのは一言《ひとこと》、ゲーエン・ズィー・ビッテ・ツーリュック――お帰んなさい――ということなんだが、まさかそればかりを鸚鵡《おうむ》のように繰返しているわけにもゆかんしなあ。……」
小金井良精は、ほんとうに当惑した表情であった。
それでも、異人娘を釘づけにしておくために、二人はゆかなければならなかった。
そして、精養軒のサロンで、またエリスと話をしはじめた。――サロンでは、その日も向うで何人かの群れが談笑していた。
サロンにはいる前、良精たちは、階段の下で、ふと先日の八十綱伯爵の従僕らしい少年が銀盆で何か運んでいるのを見かけ、伯爵がまだこのホテルに泊っていることを知った。
「東京にお屋敷のある伯爵が、どうしてここに泊っておられるのだろう?」
と、良精は首をかしげ、ついで笑いながらいい出した。
「そうそう、そういえばこの篤次郎君も、すんでのことに子爵になるところだったんですよ。君、エリス嬢にあの話を聞かせてあげ給え。これこそほんとうにアラビアン・ナイトだ」
で、篤次郎が、照れ笑いを浮かべてしゃべった。
彼が十二のとき、近くのある漢学塾へかよい出したのだが、成績が極めていいので、塾の老師が知り合いの元老院議官に話したらしい。それである日、その議官が塾へやって来て、彼に論語か何かを読ませたあと、なるほど評判通りよく出来る、褒美にこれをやろう、といって長い箸で饅頭をはさんでつき出した。すると彼は手で受取らないで、そのまま口でパクリと食って、「まるで信長と光秀みたい」といった。議官は大笑した。
これで議官はいよいよ篤次郎が気にいったらしい。議官には十くらいの娘が一人あるだけであったが、いま篤次郎を養子にもらって、ゆくゆく娘とめあわせたい、といって来た。むろん篤次郎が次男坊であることを知っての上の申し込みである。そして、途中で心変りなどしない保証として、将来必ず全財産を譲る、という証文まで書いてよこした。
ところが、その後間もなく、そちらの親戚筋から、まだ海のものとも山のものとも知れない少年の養子に、いまからそんな保証をするのは賛成出来ない、と異論が出て、気持は以前と変らないが、とにかくいまのところ書類上は財産の半分、ということにしておきたい、といって来た。
それでも大した財産であったが、このことを聞いた篤次郎の兄が怒った。
「財産などはどうでもよいが、いったん男が約束したことを、はたからの口で左右されるようではさきが思いやられる。そんな話はことわってしまえ」
そのころ兄はまだ医学部の学生であったが、その言葉に父もなるほどと納得して、その養子話は御破算になってしまった。――
「その河田という元老院議官が、その後子爵になったのです。ですから、もしその話がそのまま進んでいれば、僕もやがて子爵さまになれたというわけです」
と、篤次郎はいった。その笑い顔には、むろんみれんなどない。
「兄さんというのは、あの人ですね?」
と、エリスが眼をかがやかしていった。
「あの人は、やっぱり若いころから、そんな風に約束を重んじた人なのですね!」
良精と篤次郎は、また、しまった、という顔をした。
――すると、そのとき、そばにやって来て、
「やあ」
と、声をかけた者がある。
篤次郎は顔をあげて相手を見て、「ああ、これは」と立ちあがり、良精にいった。
「これがおととい軍人勅諭を教えてもらった人です」
「私は都《みやこ》新聞の記者の波越《なみこし》余五郎という者ですが」
と、相手は名乗った。三十半ばの男だ。きりっとひきしまった顔をしているが、新聞記者らしく乱れた長髪にして、くたびれた袴をはいている。
「失礼ですが、いまこの西洋の御婦人としゃべっておられるのはドイツ語だそうですが……どなたでいらっしゃいましょうか?」
良精はすぐに答えず、黙って相手を眺めていた。とっさに彼は、新聞記者に自分たちの用件を知られたら、と恐怖して硬直したのである。
そのことを篤次郎も一瞬に理解したが、こんな場合、気楽なところのある彼のほうが機転がきいて、
「帝大医学部の小金井良精教授です」
と、ありのまま告げ、
「この御婦人とは、以前、ドイツに留学されておったころのお知り合いでしてね」
と、訊かれもしないことを説明した。――記者は改めてていねいにお辞儀をした。
「実は……出来ましたら、ちょっとお助け願いたいもので……」
「何ですか」
ほっとして、良精が訊く。
「いま、あそこで決闘論をやっておるのです」
と、いま自分が立って来た方角に眼をやった。そこに西洋人二人をまじえて、数人の日本人がかたまって、こちらを見ていた。
「決闘論?」
「いえ、日本の決闘――果し合いじゃなく、西洋の決闘の話ですが……たまたまあそこにドイツの方とフランスの方がおられまして、どちらもカタコトながら日本語を話される。それで西洋の決闘の話をうかがうことになったのですが、やはり会話に難渋しましてね。あちらのいうことが、日本語でもよくわからない。するとナウマン氏が――ドイツの方です――こちらを見て、あの人たちはドイツ語をしゃべっているが、もし通訳していただけるなら大変助かるのだが、といわれるので。……」
「あの二人、御存知ですな」
と、良精がエリスをふりかえって、ドイツ語で尋ねた。エリスはうなずいた。
「ええ、知っています。拳銃商人のカール・ナウマンさんと、フランスの香水商人のジャン・ロベールさんですわ」
「あなた……あのナウマン氏に、あなたが日本に来られたわけをお話しになりますまいな?」
「いいえ、ただドイツで知り合った日本人を訪ねて、見物に来たといっただけ」
良精は安堵の吐息をつき、改めていまの記者の話をして、
「行っていいですか?」
と、尋ねた。
「ええ」
と、エリスがいった。良精が誘った。
「それじゃあ、あなたもいらっしゃい」
――本来なら、こういう用件は願い下げにしたがる小金井教授が、とにかくこの際エリスの気をまぎらわせることなら何でもしなければならない、と覚悟しているのだな、と、篤次郎は了解した。彼らは立ちあがった。
歩きながら、良精はエリスに念をおした。
「あなた、あなたの用件を、これからもしゃべっちゃいけませんぞ。それがいま新聞記者などにひろがると、まとまる話もぶちこわしになりますぞ。よろしいか。……」
弾劾記事
紹介されて見ると、拳銃商のカール・ナウマンは半月ほど前から、香水商のジャン・ロベールは十日ほど前からホテルに滞在しているそうであった。五人の日本人は、その中で泊っているのは東京日日新聞の大熊|雄象《ゆうしよう》という記者だけで、あと登戸貞信《のぼりとさだのぶ》という朝日新聞の記者と、小金井らを呼びに来た都新聞の波越余五郎は、ただレストランのほうへ来た客らしい。それから、もう二人は細川侯爵家の家扶とかで、これはロベールに用があってやって来たようだ。
波越はボーイを呼んで、テーブルをかこむ椅子やソファに三人分の席を作らせ、新しく紅茶を注文したあとで、
「実はこういうわけです。……」
と、いいかけて、
「先生、この十一日の朝野《ちようや》新聞の決闘状の記事を御存知ですか?」
と、尋ねた。小金井良精は首をふった。
「いや、朝野新聞はとっとらんので……」
「そうですか。それじゃあ、その件からお話しなけりゃならんですな」
波越余五郎はしゃべり出した。
「も一つ、その前に、九州の高島炭坑における坑夫の虐待について、松岡好一という雑誌『日本人』の記者が三菱に向って弾劾状を発表したのです。ところが、朝野新聞の記者の犬養毅《いぬかいつよし》君が、その弾劾は虚偽から成り立ったものだという文章を書きました。そこで松岡が怒って、『日本人』の同人、志賀重昂、三宅雄二郎と連名の上で、犬養に決闘状をつきつけた、という記事がこの十一日の朝野新聞に出たのです」
彼はテーブルの上に一枚投げ出されてあった皺だらけの新聞をとりあげた。
「この新聞をたねにいままで論じていたんですが――決闘状にはこうある。
[#ここから1字下げ]
『決闘状
拙者儀、三菱会社所有高島炭坑における悲惨なる坑夫の状態黙しがたく、その実状を四方の仁人に訴え申し候ところ、貴殿いずれの方面より買われたるや、虚実を転倒せる偽記事を朝野新聞に御掲載に相成《あいなり》候段、いかにも天下の正義に相そむき候と心外無念に存じ候間、ここに決闘状呈上つかまつり候。その場所、順序、手続き等は、介添《かいぞえ》人にて相定め申すべく候。謹言。
[#地付き]松岡好一
拙者ども松岡好一の所存至当と認定し、介添人に相成り申し候間、御承諾に候わば、決闘上の件々、此方《このほう》までお打ち合せ下されたく候。以上。
明治二十一年九月三日
[#地付き]志賀重昂
[#地付き]三宅雄二郎
犬養毅殿』
[#ここで字下げ終わり]
これに対して犬養は、決闘などは旧来野蛮の遺風だ、といってとり合わなかったんですがね」
波越は新聞をおいた。
「それでこの決闘はいまのところ中ぶらりんの状態なんですが、とにかくこの、決闘という言葉、介添人という言葉などから、どうも日本古来の果し合い、ないし果し状とは感じがちがうようだ。これは西洋式ではないか、という話になったのです」
「なるほど」
「そこでたまたまここにおられたナウマンさんから、西洋の決闘についてのお話をお聞かせ願えたら――ということになったのですが、それがいま申しあげたような次第で、残念ながら明快に理解いたしかねる。で、どうか先生に御通訳願えたら、というわけで」
「ちょっと待って下さい」
と、小金井良精はいって、以上の話をドイツ語でエリスに伝え出した。むろん概略の通訳だが、エリスのみならず、いままで何とか波越らと話していたらしいナウマンも、魚がやっと水中の音を聞くような表情になってうなずいている。
やがて良精がかえりみた。
「それでは、ナウマンさん、どうぞ」
カール・ナウマンは、四十年輩の、がっしりした体格と、いかにも拳銃商人らしい精悍な碧い眼と、いかにもドイツ人らしい鷲鼻と、大きくはねあげた口髭を持った男であった。
それが、微笑をたたえて話し出した。
西洋の決闘の慣習は、いつごろから始まったのかはっきりわからないが、とにかく古い古い昔、ゲルマン族の間に起ったらしい。それが、いつのころからかフランス、イギリス、ロシアなど、ヨーロッパじゅうにひろがった。
最初は、裁判で結着がつかないとき、原告被告の間で決闘を行う、というのが始まりであったらしいが、いつのまにか、名誉を傷つけられた場合に決闘を申し込む、という習いになった。このとき挑戦者は相手に片方の手袋を投げ、相手がそれを拾えば決闘が成立する。
昔は剣をもって闘ったが、フランス革命のあとからはおおむねピストルでやるようになった。――
どの国でも何度か禁令は出たが、この風習は滅ぶことなく、いまでも行われていて、実際に罰せられたこともない。
「イギリスでは、バイロン卿もウエリントン卿もやったし、ロシアでも大詩人プーシュキンは決闘で殺されました。フランスでは……」
といって、ナウマンは、こんどはフランス語でロベールに何かいった。
香水商人のジャン・ロベールは、長身の、細い口髭をはやした、優雅さとぬけめのなさをかねそなえた容貌の持主であったが、これに対してフランス語でペラペラしゃべった。
「フランスでも、数学の天才といわれるガロアが決闘で殺されましたし、小説家の大デュマ、詩人のラマルチーヌ、批評家のサント・ブーヴなども経験者だそうです。学者や文人でさえやったのだから、ほかの、たとえば軍人などは、その例は無数だといっています」
と、ナウマンはドイツ語でいった。――これをまた小金井良精が通訳する。
「ドイツは発祥地だから、むろんほかの国に倍して盛んです。げんに鉄血宰相といわれるわが国の首相ビスマルク氏なども、若いころ、なんと二十八回決闘をやり、いまも顔にそのときの傷が残っているはずです」
そして、ナウマンは髭の下の口をニヤリとさせた。
「実は、私も二回やったことがあるのです」
「……で、その結果?」
と、朝日の登戸貞信が尋ねた。
「二人殺した、ということになります」
「しかし、あなたは罰せられることもなく――」
「いまいったように、ヨーロッパではそういう風習なのです」
「なるほど」
と、東京日日の大熊がうなずいて、さけんだ。
「光明寺三郎が、決闘は文明の華なり、と讃えたわけじゃ!」
それは右の朝野新聞の決闘事件の記事に触発されて、パリ帰りの論客で、いま大審院判事たる光明寺三郎が発表した論文のことであった。
さて、ナウマンはつづける。――
決闘には、作法がある。二人の決闘者はそれぞれ一人以上の介添人というものを選んで出す。不正な決闘が行われないため、また負傷した場合の介抱のためだ。
介添人は、決闘者の間隔を二十歩にとって、そこに線をひくか、上衣を置くかする。決闘者はその仕切線からさらに五歩退って立つ。
ついで介添人は、ピストルに装弾して、自分のほうの決闘者に渡す。このときピストルは同型のものとし、弾は三発に限る。
さて、その時間が来ると、決闘申し込み人のほうの介添人が手をふって、「始め!」とさけぶ。その刹那、決闘者は仕切線まで進み出して、おたがいに発射する。――
――こう具体的に説明されると、聞いているだけで、篤次郎はゾクゾクして来た。
「そういうことですか。それでよくわかりました。どうもありがとう」
と、波越余五郎はナウマンと小金井良精に礼をいい、一同をかえりみた。
「ところで、いま日本で決闘をやると罪になるだろうか?」
「さあ?」
みな顔を見合わせた。
「ふつうの殺人ならともかく、これは両者承知、同条件の勝負だからね」
と、余五郎はいった。
「犬養は旧来野蛮の遺風だといったけれど、野蛮どころか、文明国じゃ現在でも認められている慣習だというじゃないか。鹿鳴館騒ぎを見てもわかるように、政府はただこれ欧化に血道をあげている。西洋でも罰しない以上、日本政府も罰することは出来ないと思う。少くとも、ただおとがめといった程度ですますと思う」
「罰しちゃいかん。日本にも古来から、武士の果し合いということもあるしのう」
と、大熊雄象がいった。これはその名のごとく体格も大きく、関羽のような髯をはやした男であった。
「かりに蛮風としても、だな。いかに文明国となっても、国民精神としては何らかの蛮性を維持してゆく必要がある。世界の強国はみな然りだ、というのがかねてからの我輩の持論だ」
それから、にがにがしげにいった。
「犬養は西南の役で従軍記者として名を売った男だというのに、評判にも似ず臆病なやつだ」
「それじゃあ君は、犬養同様に決闘を申し込まれたら、受けて立つかね」
「もちろんじゃ!」
大熊は肩をゆすって笑った。
「ただし、我輩は人から虚実云々といわれるような記事も文章も書いたことはないから、決闘なんぞ申し込まれる心配はないがねえ。それにそもそも、我輩は筆より腕力のほうに自信がある男じゃ。あはは」
「いや、犬養さんは、人の書いたものを嘘だといって決闘を申し込まれたんだが。――」
都新聞記者波越余五郎は、片頬に奇妙な――皮肉な笑いとも茶化すともつかない笑いを浮かべた。
「もしだれかが、君の書いた記事を嘘っぱちだといったら、君は決闘を申し込むかね?」
「決闘を申し込む? 受けてなら立つが、我輩のほうからはそんな馬鹿なことはせん」
と、大熊は苦笑し、
「まあ、相手の出次第にもよるが」
と、つけ加えた。
波越余五郎はしばらく何か考えている風であったが、
「紳士諸君」
と、突然椅子から立ちあがって、演説調でやりはじめた。
「この東京日日の大熊雄象君は有名な記者であります。特に、去年四月、伊藤内閣総理大臣のスキャンダルを曝露して天下を聳動《しようどう》し、その大胆なる記者魂をもって雷名をとどろかせた大記者であります」
ナウマンとロベールは、本人たちもカタコトの日本語をしゃべるくらいだから、二人の新聞記者の問答をからくも何とか理解している風であったが、エリスにはむろんちんぷんかんである。
「あの人たち、何をいってるんですの?」
と、小声で小金井に尋ね、良精がざっと教えてやった。
それが終るのを見すまして、波越余五郎はまた口をひらいた。
「突拍子もないことをしゃべり出すようですが、しばらく御静聴をわずらわしたい。
昨年四月二十日夜、永田町の首相官邸で、総理大臣伊藤博文卿主催のもとに、一大仮装舞踏会がひらかれました。馬車で参集する者内外朝野の貴顕、紳士ならびに淑女四百余人。……仮装舞踏会ということですから、井上卿の三河万歳、山県卿の奇兵隊隊長、大山卿の塩谷《えんや》判官、三島警視総監の児島高徳、渋沢栄一氏の山伏姿、大倉喜八郎氏の浦島太郎、はては有栖川宮《ありすがわのみや》の西洋風将軍、その他夫人令嬢方の牛若丸、静御前、御殿女中、汐汲《しおくみ》娘……と、百花撩乱といいたいが、まさに百鬼夜行の大らんちき騒ぎのありさまは、どの新聞も報じた通りであります。
しかるに、二十八日に至り、東京日日に次のような記事が出ました」
波越はここで、懐中から一冊の小さな帖面をとり出し、その間から一枚の紙片をとり出した。
「……さてここに、仔細ありげな咄《はなし》というは、両三日前の夜、一人の人力俥夫が、虎の門内なる操練場の溝端《みぞばた》にて客待ちしたるに……」
「なんだ、そんなものを持っているのか」
と、大熊がめんくらったような声を出した。
「うん、これは、こういう話はこういう風に書くものだと、あまり感心したから、切り抜いておいて、おれはいつも参考にしているんだ」
と、波越はいった。どうやら新聞の切抜きらしい。
「いいですか。……おりしも工科大学の時計台にて打つ時計はや十二時なるも、値をつけてくれる客もなく、小雨さえ落ち来りければ、是非なく宿へ立ち帰らんとするおりから、永田町のほうよりして、由あるお家の令嬢とも若夫人とも見ゆる美しき洋服仕立て、息をせきせき馳せ来られしが、おお俥か、駿河台の屋敷まで早ういってたも、代価はその上とらす、といいも終らず飛び乗り給う。その足を見れば、靴もはかれず、靴下のままのはだしなり。……」
「ちょっと待って下さい」
と、小金井がいって、またエリスやナウマンたちに通訳する。聞きおえて、
「で、彼は何をいおうとしているのかしら?」
と、エリスがまた変な顔をしていった。
「だって、いままで、決闘の話をしていたんでしょう?」
「左様、何だか話が飛躍したようですな。しかし本人も、突拍子もないことをいうといってるのですから、もう少し聞いて見ましょう」
ドイツ語の会話である。良精は波越のほうを見ていった。
「さあ、どうぞ」
波越余五郎はつづけた。
「俥夫は心得、いっさんに駈け出して日比谷の門外まで来るとき、向いより来る一輛の黒塗り馬車、この俥とゆきあいざまに、馭者は早くもこのほうを見つけ、オヤ奥方さまお一人で、という下より、これも洋装の立派なる女中が一人飛び出して、まあもったいない、ただいまお迎えに参るところを、それに何やらただならぬお顔つき、これには何かごようすが。
おおあるともあるとも、私ゃとんだ目に逢うたわいの、何かの話は家にいってと、やにわに馬車に移りたまえば、馭者は懐中より一円札を手早く人力俥に投げやりて、ふたたびもと来し道をさして馬に鞭、たちまちその場を馳せ去りたるあとに、ボンヤリ俥夫は札《さつ》を眺めながら、おれァ狐の嫁入りでも乗せたのではないか知らん……というは、記者がこの俥夫より聞いたたしかな話」
新聞からの決闘
「さあ、この記事は当然大きな話題になりました」
波越は、切抜きと帖面をテーブルの上に置いていった。
「これを読んだ者はだれも、これが首相官邸の仮装舞踏会の夜のことだと察したからです。その夜会が終ったあとの出来事だ、と読んだからです。永田町から逃げて来た洋装の美人、といえば、そうとしか考えられない。そして記事に、駿河台の家、とあり、そこに戸田伯爵家があることを知って、みな、ああ、と嘆声をあげました。
戸田伯爵夫人は、豊艶と憂愁をかねそなえた絶世の美貌で以前から世の評判のまとであり、しかも夫人は当夜その舞踏会に出て、その美しさは群をぬいて一同の眼を奪ったと伝えられていたからであります。
その夫人が、その夜ふけ、首相官邸からはだしで逃げて来たとは何事か。何事が起ったのか、読者のだれもが、ただちに伊藤伯のことを思い浮かべたのは当然です。ここに外国の方がおられるので、まことにお恥かしき次第ですが、わが国の首相伊藤博文卿は、手当り次第の漁色家として有名な人物です」
波越は、大熊雄象のほうを見た。
「この記事を書いたのがこの大熊君なので。……時の宰相に対し、実に思い切った曝露であり、勇敢きわまる弾劾記事であります」
大熊は髯の中で葉巻をくわえて悠然と笑っている。
「のみならず――大熊君は、このあとで三島警視総監に召喚されて取調べを受けたのですが、自分はたしかに俥夫から聞いたから書いた。それだけだ。ただしその俥夫の名は知らぬ、顔も忘れた、と、つっぱねられ、かつ、総監、よく新聞の日付を見られよ、それは四月二十八日である。そして自分は、両三日前と書いておる。二十八日の両三日前といえば二十五日か二十六日のことである。二十日の舞踏会とは別の夜のことだ。それを首相と結びつけて考えるのは下司《げす》のかんぐりだろう、と啖呵を切られたという。これで、大熊君はさらに名を売られた。――」
「名を売られた、とは気にくわない言葉じゃね」
と、大熊はちょっとふとい眉をしかめた。
「我輩は事実を書いただけだ。ただその両三日前、という四字で逃げ道だけは作っておいたがね。何しろ首相を槍玉にあげるのだから、それくらいの配慮は許されるじゃろ。しかし、あとはまちがいのない事実だ」
「ところがね、大熊君。……この場合日時のことは不問に付すとして、あとが怪しい」
「なに?」
大熊は大声をたてた。波越は笑いながらいった。
「いや、私はあんたの勇気に感心していたんだ。だからこの記事を切り抜いていつも持ち歩いていた。それが……一年半もたって、さきごろ、ふとこの記事のおかしいところに気がついた」
「どこがおかしい」
「文章の中に、小雨さえ落ち来りければ、とある。それで調べたら、なるほど四月二十日の大夜会の夜、夜ふけから小雨がふり出している。ところで、小雨がふっている以上、俥の幌《ほろ》をかけてあったにちがいない。それなのに、夜、すれちがう馬車から俥の中の人間をだれと見分けがつくだろうか? 日比谷門外、とあるが、あそこにはまだガス燈はついていない」
「何を、くだらない。――重箱の隅をつつくようなことを」
「くだらなくはない。それが成り立たないとすると、この記事全部が崩れやせんか、と、おれは思うんだがね」
「とにかく我輩は俥夫から聞いたんじゃ。聞かなくて、まるで根も葉もなく、あんな記事が書けるか。――相手は権勢第一の伊藤伯だぞ」
葉巻を灰皿に投げ捨て、顔を赤くして大熊はいった。
「げんに我輩は三島総監に召喚された。鬼総監と呼ばれるあの人物が、ただ日時をずらした我輩の逃げ口なぞを容認するはずがない。向うも、調べて、戸田夫人の一件が事実だと知ったからこそ、藪蛇を怖れて結局不問に付したんだ」
「いや、三島総監は薩人中の薩人で、大の長州ぎらいだからね。職務上一応はとり調べても、長州の親玉がそういうスキャンダルの的になることは、内心望むところだろうよ」
と、波越余五郎は皮肉な笑みを片頬に彫った。
「きさま、何をいいたいのじゃ?」
大熊の眼はらんとひかった。
「ははあ、きさまは我輩のやったことに嫉妬しておるな。……」
「いや、弾劾記事に対する異論として、犬養事件以外にもこういう例がある、と持ち出して見ただけさ」
「それじゃ、その異論を都新聞に発表するがよかろう。あれから一年半もたったいまごろ、ひとが決死の覚悟でやった弾劾にケチをつけたところで、都新聞が笑いものになるだけじゃ」
「そりゃ、決死に見せかけた売名記事には追いつかんが。――」
「この野郎」
大熊は眼の前にあった灰皿をひっつかむと、波越めがけて投げつけた。灰皿は波越のひたいにあたり、床に落ちて砕けた。
エリスが悲鳴をあげた。
ひたいをおさえた波越の手の下から、血が流れ落ちた。
彼はいった。
「手袋はないが――決闘を申し込む」
「どうしたのです。何事が起ったのです?」と、エリスが小金井良精にとりすがって訊いた。
――ずっとあとになって、篤次郎が笑い出さずにいられなかったのは、この際に良精が、「ちょっと待って」と、このいきさつをドイツ語で説明しはじめたことだ。
やがて、「どうぞ」と彼はいった。
「大熊君、受けて立つだろうね。さっき君は、決闘の申し込みは受けてなら立つといった」
「……」
「何だか犬養君の場合と同じか、逆かよくわからんが、犬養の臆病を笑った君は逃げんだろうな。そっちが先に火ぶたを切ったともいえる」
「逃げはせん!」
大熊は吼《ほ》えた。
「きさまのほうが許してくれといっても、おれは許さん!」
波越はひたいから手を離した。半面を血が染めるままにまかせて、
「しかし、明治も二十年を過ぎて、新聞記者同士が刀で斬り合いをするわけにもゆくまい。偶然だが、たったいま西洋式の決闘の話を聞いたところだ。それでやろうじゃないか」
「西洋式決闘?」
大熊はうめいた。
「承知した、といいたいが、ピストルなんかないじゃないか」
「いや、ここに拳銃商人のナウマンさんがおられる。部屋に拳銃の見本を何挺か持って来ておられるようだ。それを拝借すればいい。あとで、いい宣伝にもなるかと思う」
といって、小金井のほうを見ていった。
「先生、ナウマンさんにそういって頼んで下さらんか」
良精が通訳すると、ナウマンはさすがに驚いた表情をしたが、すぐニヤリとして、
「たってのお望みなら」
と、答えた。
大熊は、突然、眼をギラリとひからせた。
「波越、きさま、以前たしか軍人だったろう。ピストルの扱いには馴れておるんだろう」
「おれが軍人? なに、少尉として西南戦争に参加したことはあるが、ピストルなど、使わせてもらったことはない」
波越は、そのとき何か思いついたような表情になって、
「それが気にかかるなら――そうだ、明日《あした》一日、おたがいにピストルの練習をやろう。ここは築地だから、海ぎわの埋立地も近い。あそこでやったらどうだ。とにかく二十歩間隔の撃ち合いだ。一日――いや、半日も練習すれば充分だろう。そして、決闘は明後日《あさつて》やる。それでどうだ?」
大熊雄象は、決然といった。
「よし、それならやろう、面白い」
波越余五郎はふりむいた。
「介添人が要《い》る。大熊君のほうは、左様、そこの登戸君に頼みたい。登戸君、やってくれるかね?」
朝日の登戸が反射的に「おう」と答えると、
「ああ、それから登戸君、このこといま記事にしちゃいかんよ。書くなら、あとで書いてくれ」
と、釘をさし、
「こちらは、そうだ、小金井先生、先生、お引受け願えませんか?」
小金井良精はキョトンと相手を眺めていたが、やがて、
「あ……うん」
と、うなずいた。
これには森篤次郎は驚いたが、良精は平気な顔で、以上の話をまたエリスに通訳してやりはじめた。
精養軒の前でしばらく待ったが、空俥が来ない。で、二人、蝙蝠《こうもり》傘をならべて大通りのほうへ歩き出した。
それまでボンヤリ黙っていた篤次郎が、やっとわれに返ったように声を出した。
「小金井先生」
妹の夫だから、小金井は篤次郎にとって義弟にあたるのだが、ずっと年上でもあり、学校では師の地位にあるのだから、そう呼ばないわけにはゆかない。
「大変なことになりましたな」
「決闘介添人か。……まったくひょんな話になったもんだ」
と、良精も溜息をついた、
「いえ、介添人はともかく、決闘そのものが。……」
「どうも通訳しとると、人間は通訳機械みたようなものになってしまうようだな」
と、苦笑した。
「話しとることが、すべて、まるで自分にゃ関係ない出来事のように感じられる」
「で、うっかり介添人を引受けられたのですか」
「うん、いや、そればかりでもないがね。……実は、ホテルで何か変ったことが起れば、その間だけエリス嬢の気がまぎれるだろう、と思ったからさ」
「ああ、なるほど!」
それは腑に落ちたが。――
「しかし、あの二人、ほんとにやるんですかなあ。何だか、もののはずみで持ち上った話のように見えるんですが。――」
「決闘の原因なんてものの半分は、そんなものじゃないのかね」
良精は意外にケロリとしている。もっともこの解剖学教授は、もともと学問以外のことには万事恬淡としていて、浮世ばなれしているところがある。
「ただね。――」
と、彼は首をかしげた。
「君はいま、もののはずみで持ち上がったとか何とかいったが――何だか、これ、あの波越という記者が、はじめから決闘へ持ってゆくように計ったんじゃないかね」
「えっ?」
篤次郎は立ちどまった。
「最初から犬養の決闘事件の新聞を持って来たり、伊藤伯のスキャンダル事件の切り抜きを用意していたりしたところから、そんな風にも思われるんだが」
俗事には無関心なようでも、さすがは学者だ。
「大熊記者をやっつけるために、ですか」
「そうじゃなかろうか」
「あれが売名的な偽記事だ、ということでですか。……それにしても、決闘へ持ってゆくとは大袈裟じゃないですか。そんなことで、相手を殺すか、あるいは自分が死にかねない決闘なんか、やるもんでしょうか」
「私もその心理はわからんがね」
「先生は、あのスキャンダルは偽記事だと思われますか」
「あの記事は大学でも話のたねになった。その後、教授連から聞いたところでは、どうやらほんとうらしい、伊藤さんならやりかねない、という話だったがね」
「すると、あの波越ってえ記者のほうが、不当なケチをつけた、ということになりますな」
「それが、そんなことをする男とは見えんがね。顔からしても、頭のいい、男らしい人物に見えるがね。軍人勅諭さえ暗誦してるくらいじゃないか。……いや何、最初からの彼の計画だというのは、あくまでいま私がふっと考えたことなんだから、あてにはならんよ」
しばらく歩いて、小金井はまたいった。
「だいたい、あの記者たちは何のためにホテルに来たのかな」
「泊ってるのは、大熊記者だけらしいですが。……」
「それがよくわからん。あそこは何しろ侯爵でさえ泊るようなホテルだからね」
大通りに出た。
「それで介添人の件だが……実は私も、ドイツ留学当時、二つ三つ、学生同士の決闘事件について聞いたことがある。実際に見たわけじゃないが、結局どれも双方無事にすんだそうだ」
「そうですか」
「長い銃を肩にあてて撃つならとにかく、ピストルなんて、特に素人は、そうめったに命中するもんじゃないとか聞いた。二十歩の間隔というと、短い距離のようで、意外に遠い距離になるしねえ」
「それならいいんですが。……」
「それに、決闘とはいうものの、それは一つのもめごとの結着をつけるためというより、二人の心理的葛藤を解消させるための儀式と化しているようで、おたがいに外《そ》れ弾を撃ち合って、あとで両人握手ということになるのがふつうらしいよ。そういう風習は知らんにしても、あの両人も、あれだけの原因で、まさか本気で撃ち合うとは思えんのだがね。明日にも手打ちということになるかも知れないよ」
「そうなりゃ、いいんですが。……」
「とにかく、明日《あした》はピストルの練習をするといったねえ。明日は……明日は私は忙がしい。どうしても解剖しなけりゃならんのが二つもある。君、いってくれ給え」
この人には、こういうところがある。
「僕が。……」
「エリスを連れていって見せてやるんだ。それで一日がつぶれりゃ、こちらはそれだけ助かるというもんだ」
空俥が来た。
二つの事故
海の色はもう秋であったが、その手前、いちめんの草はまだ夏の勢いをそよがせている。
築地東南のはずれ――子供でさえめったに来ない埋立地に、一団の異様な人間が現われたのは、その翌日の午後一時ごろであった。
赤とんぼが群れ立ち、何頭かの野犬がけたたましく咆えながら逃げていった。
小金井良精は姿を見せなかったが、前日、精養軒のサロンにいた人々は、みんなやって来た。
都新聞の波越余五郎、東京日日の大熊雄象、朝日の登戸貞信、それに、ちょうど同席していた細川侯爵家の家扶二人も、物珍らしげな顔を見せた。ピストルを貸すナウマンはむろんのこと、香水商のロベールも何やら面白げな表情でついて来た。篤次郎がエリスを連れていったことはいうまでもない。
エリスは、帽子の下で、まだ事態がよくわからないようなボンヤリした表情をしている。他の二人の外人とちがって、彼女の場合、日本に来てまだ半月たつやたたずといったところなのだから、無理もない。
「練習だけじゃない」
と、波越があたりを見まわしていった。彼の左額部には、まだ紫色の傷あとがあった。
「明日《あした》の決闘もここでやったらいいじゃないか」
海から三十メートルほど離れた場所で、山高帽をかぶったナウマンは、自分がぶら下げて来た大きなトランクをひらいた。
通訳を頼まれた篤次郎は、その中にピストルと弾丸がギッシリつまっているのを見た。よく見ると何種類か、型のちがったものがうまくはめこまれている。――ナウマンはこの見本を然るべき顧客に見せて、売買が成立すると横浜の店から注文数だけとり寄せるらしい。
「これは、わがドイツ人、ヒューゴー・ボーチャードの発明したボーチャード・リボルバーです」
と、彼は手袋をはめた手でその一挺をとりあげ、さらにもう一挺とりあげて、
「こちらはやはり、わがドイツ人、ゲオルグ・ルガーの作り出したルガー拳銃です」
と、両手に握って見せたあと、
「まあ、こちらがいいでしょう」
と、前の拳銃をもとの場所にしまい、ルガー拳銃を二挺にした。鋼鉄のなめらかな光沢が、見ているだけで、日本人たちの眼を、重く冷たく射た。
ナウマンは、その操作を波越と大熊に教え、かつ決闘のしかたを実演して見せた。
二人の記者は鉢巻をし、袴のももだちをとり、たすきをかけた勇ましい姿だ。
三十分ほどのち、波越は、「だいたい、わかった」といい、そこを離れて草むらの中をぶらつき、草の中から、看板か船板の朽ちたものでもあるらしい、幅三十センチ、長さ二メートルほどの板きれ二枚を探し出し、二ケ所、塵芥の堆積にそれをつき立てた。
この埋立地には、あちこち板きれや土や塵《ごみ》の山が盛りあがっていたのである。さっき何頭かの野犬が逃げていったのは、その堆積の中に何か食う物でもあったらしい。
「では、やるかね」
と、大熊がいい、
「あんた方、あぶないから、あっちで見てて下さいよ」
と、波越が見物たちにいった。
十メートルほど離して立てた板から、それぞれ二十歩の距離に、やはり拾った竹の棒を横たえ、さらに五歩退がった位置から、二人はピストルをつき出したまま駈け出して、竹の棒の線から、目標の板をめがけてピストルを撃ち出した。
ピストルなんて、そうあたるものじゃないらしい、と小金井先生がいっていたけれど、なるほどその通り、なかなか命中しないものであることを篤次郎は知った。
秋晴れの大気の中に、銃声はやけに勇ましくひびくけれど、弾はおかしいほどあたらない。ほとんどが板きれをそれて、その向うの海へ消えてゆくようだ。
「こりゃ意外じゃ」
「奇態なものだな」
はじめしきりに首をひねって苦笑していた二人は、やがて笑いを消し、懸命になった。
五歩駈けては、竹の仕切り線で発射する。これを繰返しているうち、二人の顔は汗にひかり出した。あごをつき出し、つんのめるように駈けては撃つ、海をすぐそこに、あくまで明るい光の中に、それは不吉な二羽の大|鴉《がらす》の踊りのような印象を与えた。
――これは本気だ!
と、篤次郎はまばたきをした。決闘以前に手打ちということになるのじゃないか、と先生はいったが、とうていそんな雰囲気ではない。
やるとなったら、これはいのちがけの行為にきまっているから、両人が必死になるのは当然だ。なかなか命中しない、といっても、絶対に命中しないとはいえない。
げんに、はじめ十発撃っても一発も命中しなかったのが、やがて二発、三発と命中し出した。板きれに穴があき、木片が飛ぶ。――そのたびに、二人の歓声が、わっ、わっと空中にあがった。
と、なると、小金井先生は決闘介添人をしなければならないが、先生はほんとにやるつもりだろうか。いや、あのひとなら、恬淡とした顔でやりかねないが、帝国大学教授が決闘介添人などやって大丈夫だろうか。
篤次郎は、胸がドキドキして来た。
決闘そのものも罪にはなるまい、と波越記者はいったが、むろんそれはあてにはならない。やはり問題になるにきまっている。へたをすると小金井教授は、こんどのエリス嬢来日という事態における兄に匹敵する困った立場におちいるのではあるまいか。
――突然、異変が発生したのは、練習がはじまってから一時間ほど後であった。
やや飽きたのか、気分転換をはかったのか、そのとき波越記者が、
「やーっ、決闘は文明の華か!」
と奇声を発し、標的の板とは見当ちがいの海のほうへ一発撃ったのだ。
そのとたん、その方角から思いがけない悲鳴が流れて来た。海に近く、そこにも木片や塵芥の堆積があった。高さは人の背丈《せたけ》ほどあるその塵の山から、一つの黒い影が泳ぎ出したかと思うと、五、六歩いって、あおむけに倒れるのが見えた。
「なんだ?」
一同は胆《きも》をつぶし、それから駈け出した。――
駈けつけたが、とっさにはみな手を出しかねた。倒れているのは、乞食の大男であった。髪は雀の巣のようで、まとっているのは煮しめたようなボロだ。それが、何か腫物《できもの》のある醜怪な顔を、それ自身海底の生物みたいにのびちぢみさせ、草の上をころがりまわっている。
両手で押えた下腹のあたりから、凄じい量の鮮血がみるみるボロにひろがり、草を染めていった。
「こんなところに人間がいようとは知らなんだ!」
と、波越余五郎がさけんだ。
さっきから銃声がひびきわたっていたのだから、まさか昼寝していたわけでもあるまい。おそらく、その塵芥をあさっていて、そこから姿を現わしかねたか、あるいは好奇心に燃えてようすをうかがっていたのではあるまいか。――そこへ、思いがけない一発が飛んで来た。
しかし、何という苦しみ方だろう。まるで獣のような声を出し、身体を虫みたいにまるめたかと思うと、弓のようにそり返る。
汚ないこともさることながら、その苦悶ぶりがあまりに凄惨をきわめているので、医学生の篤次郎も鼻白んでいたが、やっとわれに返って、その傷をたしかめようとした。
それより早く、波越がしゃがみこみ、
「どこだ傷は?」
と、手を出したが、その手が下腹のあたりにふれただけで、まるで生皮をはがれるように乞食はその手をはねのけ、また怖ろしい苦鳴をあげた。
「いかん。病院へ運ぼう。――君、俥を探して来てくれたまえ!」
と、波越がいい、篤次郎は遠い往来のほうへ駈け出した。
数分後、彼が無理無体にひっぱって来た俥夫に波越は、あとで弁償はする、手伝ってくれ、といい、なお大痙攣をつづける血まみれの乞食を二人で抱きかかえて、俥のほうへ運ぶのにかかった。
「おいっ……明日、決闘をやるのか?」
と、大熊が呼びかけた。髯面が土気色に変っていた。
波越はふりむいて、一瞬考えこみ、しかし、
「あとで精養軒のほうに返事をする」
といい、ふと気がついたように、
「大熊君ばかりじゃなく、登戸君にもいうが、この件は書かんでくれよ。書かれると決闘が出来なくなる。ほかのみなさんも、どうか御内密に願います」
と、いった。まだやるつもりと見える。
が、そのまま怪我人を運んでゆきながら、
「そうか、一発で死なんということもあるか」
と、嘆声を発するのが聞えた。
「……怖ろしいこと。決闘なんか、やめたほうがいいわ」
と、エリスが篤次郎につぶやいて、靴で、塵芥の山から出て来た瓶をころがした。それは二年ほど前から日本ではじめて売り出された金線サイダーの瓶らしかった。
「大変な血! あの乞食は死ぬわね」
血を浴びた瓶は真っ赤であった。篤次郎は改めて嘔吐をおぼえた。
ところが、その夕方、精養軒に現われた波越余五郎は、サロンに待っていた一同に、怪我人は自分の知っている外科の名医のところへ運んだのだが、何とかいのちはとりとめるらしい。そのほうの処置はあとくされのないようにすませた、といい、
「それじゃ、大熊君、明朝このサロンに集まり、決闘はあの場所で、午前十時、というのはどうだろう」
と、いった。
大熊雄象はちょっと唖然とした顔をしていたが、すぐに髯をなでて、
「承知した」
と、答えた。
翌る日、午前九時ごろ、篤次郎は小金井良精を連れて精養軒へいった。介添人だからゆかなければならないが、良精は、篤次郎からきのうの話を聞いて眉をしかめ、「それでもやるというのか」と、さすがに当惑した顔で同行した。
サロンにはいって見ると、エリスら三人の外国人に、細川家の家扶二人――それに、新顔の中年の男二人が加わって待っていた。家扶たちの話によると、二人とも彼らの上司にあたる細川家の家令で、決闘の話を聞いて、是非それは後学のために拝見したい、というので連れて来たものだという。
その家令たちがいった。
「この件は内聞に、ということも聞きましたが、古来果し合いは武士道の華、それを西洋式決闘とあれば、武勇をもって聞えたお家に奉公いたす者として、なにぶん一見いたしたく、われわれだけ特別にお仲間にいれていただきたい、と参ったのですが。――」
「聞けば、その一方の大熊どのとやらが、なんと、けさお怪我をなされたということで」
良精と篤次郎はめんくらった。
「えっ、大熊さんが怪我をした? 大怪我ですか」
「いえ、指さきを切られただけだそうで」
と、家扶の一人がいった。篤次郎が訊いた。
「そりゃまたどうしたわけです?」
「何でも、けさお食事中、ナイフで傷つけられたということです」
「へへえ、そして大熊さんはいまどこに?」
「お医者から帰って、自室へ籠られたようです」
「医者へゆくほどの怪我ですか?」
そこにエリスが寄って来て、ドイツ語で話し出した。彼女はけさそれを食堂で見たという。大熊はベーコン・エッグスを食べようとして、誤って自分の指をナイフで切ったらしく、それもテーブルクロスの半分を真っ赤に染めるほど傷つけて、ちょっとした騒ぎだったといった。
「決闘はやめたほうがいいわ」
と、彼女がいったとき、サロンにその大熊雄象がはいって来た。片手の指に巻いた繃帯が、まず一同の眼を射た。
「やあ、とんだへまをやって、お騒がせしてお恥かしい」
と、彼は苦笑して頭を下げた。
「我輩も案外度胸がないねえ。きょうの決闘のことを考えながらベーコンを切ろうとしたら、うっかり自分の指を切ってしまった」
「その決闘はおやめになったほうが。――」
と、篤次郎がいいかけると、大熊はきっとして、
「なに、それはやります」
と、いった。
「たかがこれくらいの傷で、決闘をやめることはない。それは、やるよ」
そのとき、入口から波越余五郎と登戸貞信がはいって来た。「やあ」といった波越の顔はさすがにそそけ立っているように見えたが、こちらの雰囲気が変なのをすぐに感づいたらしく、「どうしたのかね」と訊いた。
篤次郎が大熊の怪我のことをいうと、はじめて大熊の指の繃帯に眼をそそいで、
「それじゃあ、決闘は出来んというのか?」
と、鋭い声でいった。大熊が答えた。
「いや、出来る。出来るといまもいっとる。さあ、出かけよう」
「それはいけません」
と、ナウマンが日本語でいった。
「このひと、右手のヒトサシ指、ケガしてます。ピストルのヒキガネ、ひけません」
大熊がうめいた。
「なに、それくらいは大丈夫だ」
「いや、それでは、不公平な勝負になります」
篤次郎は、大熊の怪我が右手の人差指であることに気づき、ああそうか、なるほど、と心にさけんだ。
すると、じいっとなお大熊の繃帯を見つめていた波越余五郎が、突然大声で笑い出した。
「あはははは! あははははは!」
身体を前に折りまげたかと思うと、こんどはうしろにそり返る。決して作り笑いではない。ほんとに抱腹絶倒、というような大哄笑であった。
大熊が憤然としてさけんだ。
「波越、どうしたんじゃ? 貴公、気でも狂ったのか!」
介添人不用始末
「貴公は嘘つきだ」
やっと笑いをおさめて、波越余五郎はいった。
「なに、我輩が嘘つき? どこが嘘つきだ」
「もしほんとうに指を切ったとすれば……」
「もし、とは何だ。疑うなら、この繃帯をとって見せてやろうか。いや、そこのドイツの御婦人も見ておられたはずだ」
「まあ、それはいい。切ったのはほんとうにしても、だ。それはうっかりと誤って切ったのじゃない。君はわざと切ったのだ」
と、波越はいった。
「ベーコン・エッグスのベーコンを切ろうとして、右手の指を切ったんだって? おい、君はナイフをどっちの手に持っていたんだ。君は左利きじゃなかろう。普通人通り右利きだろう。右手に持ったナイフで、どうして右手の人差指が切れるんだ?」
大熊雄象は右手を押え、のどがつまったような表情をしたが、すぐに、
「ナイフを持つ手をまちがえたんじゃ。西洋料理は馴れんから、うっかりナイフを左手に持った。そんなこともあって、指を切ったんじゃ」
と、猛然といい返した。
これに対しての波越の反響は、再度の高笑いだけであった。
大熊はいまにも脳溢血でも起しそうな顔色になり、
「だいいち、何のためにおれがわざとそんな真似をしたというんじゃ?」
と、せきこんでいった。波越は答えた。
「きょうの決闘をやめるためだろう」
「だれがやめるといった? いま出かけようといったではないか。さあ、ゆこう。おいっ、波越、さあ出かけよう」
彼は繃帯した右のこぶしでテーブルをたたき、傷にひびいたらしく反射的に顔をしかめた。波越はいった。
「いや、決闘はやめた」
「なぜだ? なぜやめる?」
「いまナウマンさんのいった通りの理由で。……ひきがねをひく指に故障の出来た人間と、ピストルの決闘は出来ん」
冷然と彼はいった。
「それでも決闘をやろうというのは君の虚勢で、こういう事態になるのが君の狙いだったろう。貴公は決闘が怖くなったんだ。それで何とかそれを中止する法を、寝もやらず考えたにちがいない。急病にかかるのもわざとらしい。それで射撃に必要な指をナイフで切るということを思いついたのじゃないか。いや、考えたものだ」
大熊は何かいいかけたが、髯の中の唇がわななくだけで、声にならなかった。それは真実を指摘され、もう弁明は無益であることを自覚した人間の表情だとだれの眼にも見えた。
「決闘はやらんが、大熊君、中止の経過は書かせてもらうぜ。登戸君、君も書き給え」
波越はいった。
「大胆なる首相弾劾記事を書いた大熊雄象君は、その記事に不審な点があると指摘した人間に乱暴をはたらき、決闘を申し込まれると、自分で指を傷つけて逃げようとした卑劣漢だと僕は書く」
みな、しいんとしている。
大熊雄象は、豪快な風貌にふさわしからぬおびえたような眼つきでみなを見まわしたが、みなの沈黙にいよいよ蒼ざめて、がくりと首を垂れた。
「どうしたのですの?」
と、エリスが小金井良精に尋ねた。
「あの人は、何をしゃべっているのですか?」
良精はいまの波越記者の言葉を通訳した。通訳がまだ終らないうちに、大熊はうなだれたまま、フラフラとサロンを出ていった。
「まあ、そういうことですの?」
と、エリスはいい、
「でも、決闘をやめることになって、いいことね」
と微笑したが、ふいにまじめな表情になって、何か考え出したようであった。
波越余五郎は一同に向って、
「というような次第で、みなさま御期待の新聞記者同士の西洋式決闘は中止となり、特にきょうわざわざ介添人としておいで願った小金井先生、登戸君、またピストルのお世話までして下さったナウマンさんには、まことに相すまん次第ですが、そのやむなきゆえんは御了承下さるだろうと存じます」
と、一礼し、
「なお詳しくは数日後の都新聞、あるいは朝日新聞を御覧下さい。――登戸君、書くだろうね?」
と、かえりみた。
「書くとも、これは面白い記事になる。介添人不用始末を是非書かせてもらうよ」
と、登戸貞信も顔を紅潮させていった。
朝日新聞がそれまでの本拠大阪から東京へ進出して来たのはこの年の七月、銀座滝山町(今の銀座六丁目六番並木通り)に新社屋が出来上ったのがこの九月のことである。東京で新聞をやるのが、東京日日(後の毎日)、読売より十余年遅れ、そのため銀座を走る鉄道馬車を借り切って無料招待した乗客に、無代で新聞を配るほどの努力をしていたところだから、登戸記者が張り切るのも無理はない。
「では」
二人の記者はサロンを出てゆこうとした。
「ちょっと待って下さい。――そういって下さい」
突然、エリスが良精にいった。
良精がそういうと、二人の記者はけげんそうにふり返った。どこかで工事中らしい木を打つひびきが聞えた。
「あの人は――あの人も嘘をついています」
エリスは波越余五郎を指さした。
――以下は、むろんいちいち小金井良精が通訳したもので、客観的には間のびした問答だが、しかし内容は聞いている連中を、たちまち驚きの捕縄《ほじよう》で縛りあげる性質のものであった。
しかも、次第に怒号に近い声になっていった波越にくらべ、エリスの調子は最後まで、小鳥のように愛くるしく、しみいるように静かであった。
「きのう、あなたが誤って乞食を撃ったのは、あれも嘘ですね」
「えっ……あれが、嘘? だって事実、その光景をあなたは見た。ここにいる人々も見たではありませんか」
「いいえ、あの乞食に弾はあたっていません」
「あの苦しみ方を知らないとでもいうのですか」
「あれはお芝居です。わざと物凄い苦しみ方をして見せたのです。……だから、病院へも連れてゆかなかったでしょう。そんな必要はないのですから」
「冗談は休み休みにいってもらいたい。あの血はどうした?」
「あの血は、あそこの草の中にころがっていた一本の瓶から出て来たものです。まさか、人間の血じゃないでしょう。おそらく、あのあたりにいた犬の血ではありませんか」
「何を――途方もないことを。何を証拠にそんなことをいう?」
「私はあのとき、足でその瓶をころがしているとき、血が瓶の外側ではなく内側にベットリついているのを見て、ふしぎに思いました」
篤次郎は口の中で、あっとさけんだ。
「けれど、そのときは何の意味かわかりませんでした。それが、いまわかったのです。あの乞食はあなたに頼まれて、おそらくはお金をもらって、撃たれたまねをしただけだと。あの射撃の前に、あなたは何か変なさけび声をあげましたね。あれは乞食に、さあお芝居をはじめなさいという合図だったのですね」
「ば、馬鹿な! おれが、何のためにそんなことをしたというのだ?」
「それは相手を怖がらせるためではありませんか。決闘の前に、決闘に対する恐怖心を生じさせるためではありませんか。いま意味がわかったというのはそのことなのです」
「そんな……そんな……あんなことで、相手が恐怖心を起すかどうか、人の心まで勘定にいれられるか。かりに恐怖心を起させたとしても、それで決闘の際、おれにあっちの弾があたらんという保証はない」
「いえ、あなたの目的は、相手に決闘を中止させることにあったのです」
「それじゃあ、おれは何のために決闘を申し込んだのだ? 決闘中止が目的なら、はじめから決闘を申し込む必要はないじゃないか」
「私は、あのオークマ氏の面目を失墜させることが目的だったと思います。あの人が嘘つきで卑怯者で信用出来ない人間だということを、ほかの人々に知らせるのが目的だったと思います」
そしてエリスは、登戸貞信のほうをちらっと見ていった。
「わたしには、そこまでしかわかりません。……とにかく、きのうの乞食がどこへ運ばれたか、調べて下さい。血だらけの乞食を運んだ人力俥を探し出せば、つきとめられるでしょう。それが怪我なんかしていなかったら、私のいうことがあたっていることになります」
口アングリとあけていた登戸貞信が、良精の通訳が終ると、われに返ったようにふりむいた。
「波越君、貴公、あの乞食をどこの病院へ運んだのだ?」
波越余五郎は答えなかった。いままで猛然と反論していた唇はただふるえるだけで、それは真実を指摘され、もう弁明は無益であることを自覚した人間の表情だとだれの眼にも見えた。
「いわなきゃ、わが社をあげても銀座界隈の人力俥を探すぞ!」
と、登戸はいい、それでも波越が鉛色の顔に口をへの字に結んだままなのを見ると、つかつかとサロンを出てゆこうとした。
その入口から、一人のボーイが異様に顔をのびちぢみさせながら駈けこんで来たのはそのときである。
「大熊さまが……自分のお部屋で……切腹しておられます!」
一同は気がつかなかったが、さっきサロンからひきあげるとき、大熊雄象はレストランの廚房《ちゆうぼう》に寄り、「梨を剥きたいから」といってナイフを――しかも大型の――借りていったそうで、彼はそれを使って腹を一気に横にひき、みごとに頸動脈をかき切っていた。
「……怖ろしいこと」
と、血の気を失い身をふるわせるエリスに、小金井はいった。
「日本の昔のサムライの作法通りです。彼は恥を知っていたのです」
良精は、幕末河井継之助を出した越後長岡藩の武士の子で、少年時その北越戦争を体験している。
エリスはまたつぶやいた。
「でも……決闘さえ怖がったこのひとが。……」
「人間には、こういうこともあり得ますな」
といった良精は、解剖学者の顔に戻っていた。
翌日の昼近く、小金井良精はまた精養軒に出かけた。エリスの件もさることながら、大熊記者の自殺事件以後の情報を聞かずにはいられなかったのだ。あの乞食を乗せた人力俥のゆくえについても、その日登戸記者が報告してくれることになっていた。
それどころか、浮世離れしたところのある良精も、この事件には不可抗的な関心をかきたてられて、篤次郎にあることを調べてもらうために、都新聞社へゆかせたくらいである。そのために、先に彼一人でやって来た。
サロンにはいると、エリス、ナウマン、ロベールに二人の細川家の家扶、と例の顔ぶれが話をしていたが、きのう決闘を見学に来た二人の家令は、きょうは来ていない。それから三人の記者もいない。
もっとも、その中の大熊雄象は、もうこの世にもいない。
さて、以上の顔ぶれの中に、新顔が二つ加わっていた。
一目見て、小金井良精はちょっと驚いた顔をした。それは、はじめてこのホテルに来たとき、ちらと見かけただけの八十綱《やそづな》伯爵とその従僕の少年であった。
あのとき伯爵はマスクをかけていたが、いまはそれをとっている。品のいい口髭をはやした、三十半ばの、堂々たる美丈夫ぶりであった。洋服の着こなしも、ナウマンやロベールに見劣りしないほどだ。
良精の挨拶に、この帝国大学教授が自分の素性を知っていることを読んで、伯爵はやや当惑した表情を見せ、小声で、
「実は私がここに泊っておることを知られたくないある事情がありますので、どうか御内聞に」
と、いった。
それまで伯爵は、食事も三階の自室へ、従僕の少年に運ばせているようであったが、きのうの記者の自殺騒ぎには好奇心が抑えがたかったと見え、そのいきさつを知っているらしいこのグループにはいって来たようだ。
彼はエリスやナウマンにはドイツ語で、ロベールにはフランス語で応対していた。
「ノボリト記者はまだ来ません。来れば、あの乞食の怪我がほんものであったか、お芝居であったか判明するはずなんですが」
と、ナウマンがいったとき、一足遅れて篤次郎がはいって来た。そして彼は良精の耳に何かささやいた。
「それでわかった!」
と、良精がさけんだ。
「何が?」
と、ナウマンがびっくりして訊く。
「波越記者の動機がです。彼が大熊記者を決闘に追いこみ、かつそれを中止させた意図がです」
小金井良精は、エリスにわかるようにドイツ語でしゃべり出した。
「彼はもと戸田家の家来筋の男だったらしい。いまこの学生に都新聞に調べにゆかせたところ、波越は岐阜県大垣生まれの士族だとわかりました。それなら戸田家の家来筋にちがいない。戸田家は維新まで、いまの岐阜県、そのころ美濃の大垣の殿様でした」
「トダ家が……どうしたというのです?」
と、ナウマンが狐につままれたような顔をした。
「いまは戸田伯爵、すなわち例の伊藤伯のスキャンダル記事の相手となったのは、その戸田伯爵夫人であります」
「……」
「あの大熊記者の記事以来――私の知っているところでも、美しい戸田伯爵夫人はほとんど世の中へ出られないようだ。かんじんの加害者たる伊藤伯のほうは、これはお役目上ひっこんでもいられまいが、元来がそんなスキャンダルなど、歯牙にもかけられない、別世界の豪傑に見える。しかし、被害者の戸田夫人のほうは、あの記事に打ちのめされ、これは逆の別世界に閉じこもっていられるのではないか。――」
「……」
「波越記者は、その悲劇的境涯にある夫人を救い出そうと思い立ったにちがいない。――それがあの決闘事件の発端であったと思います」
解剖学教授
「波越余五郎君の決心が、旧主家に対する忠節の念から発したものであったか、あるいは別の何かの感情から出たものであったか、これは波越君に訊かねばわかりませんが、とにかく戸田伯爵夫人の汚名と窮境を救うためには、大熊記者の有名なスキャンダル記事を粉砕する以外にないと、彼は考えたのではありますまいか」
と、小金井良精はいった。
「しかし、いったん世人の耳にしみこんでしまった報道をひっくり返すのはきわめてむずかしい。しかも大《おお》新聞の東京日日に対し、小《こ》新聞の都新聞が、いまごろ何か文句をつけて見たところで、まず黙殺されるか笑いものになるかのどちらかでありましょう。だいいち、その報道がほんとうらしいとあれば、手の出しようがありません。それではいったいどうすればいいのか。それはよほど異常な事件を起して、それによって大熊記者が――」
エリスを見て、
「左様、きのうのこの御婦人がいみじくも申されました。それによって大熊君が、嘘つきで、卑怯者で、信用出来ない人間だということを世にひろく知らせるのが目的ではなかったか、と。――まさにその通りであります。私は、この解釈は的中していると思います。いかにもある証言の信憑《しんぴよう》性を、あとになって疑わせるには、その証言者が信頼出来ない人間であることを見せつけるのが、最も巧妙で有効な手段にちがいない」
良精はドイツ語でつづける。
「その手段の具体的な法として、彼は――このホテルに大熊君と拳銃商のナウマン氏が泊っていることを知って――決闘談議を呼び水にして、西洋式決闘をやるように仕向けた。いまごろになって大熊君の記事に文句をつけたのは、文句そのものが目的ではなく、大熊君を挑発するためだったのではありませんか。挑発されて大熊君は怒り、まんまと決闘のやむなき立場に追いこまれた」
細川家の家扶たちには、この帝大教授のしゃべっていることがわからないはずだが、テーブルを囲む外国人たちの興味しんしんたる雰囲気につりこまれて、同じように緊張した表情で聞いている。
「決闘の練習も計算の上です。それは、そこに乞食を出して、誤射と見せかけて大苦しみのむごたらしい光景を見せるのが――そして大熊君に恐慌状態を起させるのが目的であった。エリス嬢の眼力には怖れいるよりほかはありません」
「……」
「恐怖を起させて、大熊君が果して決闘をやめたくなるかどうか、その可能性は確率の問題になりますが、私はその光景は見なかったけれども、それを見たこの大学生が吐気をおぼえたというのですから、実際に決闘をやらねばならない大熊君は内心戦慄したにちがいない」
「……」
「その夜大熊君は、波越君が皮肉な想像をしたように、寝もやらず考えこんだに相違ない。相手の波越君が元軍人で、練習中の成績はともあれ、実際は射撃はうまいかも知れない。かりに致命的な一弾を受けなくても、あの乞食のような惨状を味わうことはまぬかれない。……そんな疑心暗鬼や恐怖が大熊君をとらえ、そして彼はとうとう、指切りという法でそれを逃れるよりほかはない、と心をきめたのでしょう」
「……」
「そもそもが、彼から見れば、金持喧嘩せずで、相手のいいがかりを笑殺していれば何もやらなくてもいい性質の決闘ですからね。そう考えるとほとほと馬鹿らしくもなり、いよいよおぞましくもなったでしょう」
「……」
「で、彼はそれをやった。指切りまでは波越君も見込むことは出来なかったろうが、相手がそれに類したことをやるということは、波越君の予想であり、祈願であった。しかし何しろこれは相手の心理の動きのことですから、いま申したように確率の問題です。それを、案の定、大熊君はやった! それを知ったとき波越君が狂気のごとく高笑いしたのは、相手への冷笑もあったでしょうが、自分の狙い通りにいったという、あれはほんとうの喜悦の笑いではなかったか」
「……」
「かくて波越君は大熊君を、卑劣な虚言者に仕立てあげた。あとは記者大熊雄象の書いたものがいかに信用出来ないものであるかと新聞に書くだけです」
篤次郎はうなった。ただエリスの心をよそに向ける目的だけで、この決闘事件にかかわったかに見える小金井教授が、ここまでメスをいれたことに、ほんとうに感心した。
「先生、すばらしいですね」
「何をいうか」
良精は苦笑した。
「いまいったことは、みんなエリス嬢が解明したことじゃないか」
そのエリスは、しかし首をかしげていった。
「でも、ドクトル。……オークマ記者が、それでも決闘をやるといったら、ナミコシ記者はどうしたのでしょう? ほんとうに決闘をやったのでしょうか?」
「いや、波越君はやらなかったろうと思う。何とか、自分が逃げたとは思われない口実を作って、決闘をとりやめることにしたと思う。決闘そのものは、彼にとっても目的ではなかったのですからね。……となると、彼の計画は失敗したことになるが、そうなったらなったで、あきらめのつく性質の問題です。ただ、大熊記者の心胆を寒からしめただけで、それなりの鬱塊をはらしたものとしたでしょう。……それにしても、波越の魂胆を看破したあなたがそんな疑問を呈するとは。……」
彼は笑った。
「何にしても、こりゃこっちの想像ですな。ほんとうのところは波越記者自身から聞くよりほかはない」
そのとき、朝日の登戸貞信がはいって来て、押し殺されたような声でさけんだ。
「先刻、波越君の切腹屍体が埋立地で発見されました!」
一瞬声をのみ、そのあと、どっと駈け出そうとする一同を、「もう検屍の係官たちがいっているから」と登戸記者は制し、この驚くべき事件の説明をはじめた。
それによると、けさ、やっと、おととい血だらけの乞食を運んだ人力俥が判明し、俥夫を訊問すると、俥夫はそれを芝|愛宕《あたご》町二丁目のある家の前へ下ろし、その家へかつぎこんだという。
それで先刻登戸がそこへ急行してみると、その家は病院でも医者でもなかった。標札には波越余五郎とあった。――
出て来た青年は余五郎の弟らしく、乞食は物置にいれ、自分が当分食物その他の世話をするようにと兄から命じられたのだが、けさになって見ると、どこかへ姿を消していたという。血だらけではあったが、べつに本人は怪我をしているようすもなく、妙な乞食だと思ったという。彼は何も知らないようであった。そして、むろん兄の余五郎もいないという。
登戸は考えた末、その乞食はまたもとの埋立地へいっていやしないか、と思いついた。
そこで埋立地へいって見ると――ある場所で野犬が数頭びょうびょうと咆えている。そしてそこの草の中に、乞食の屍体とともに、切腹している波越余五郎を発見したというのであった。
しかも、乞食が荒縄で絞め殺され、波越が腹を切っているところから、波越が乞食を連れていったのか、あるいは逃げていった乞食を追いかけたのかは知らず、波越が乞食を殺して、そのあと自殺したものと思われる。そして検屍官の説によると、波越は腹を切ったもののなかなか死ねず、流血のようすから、そこらじゅう飛びはねた末に死んだようだ、といった。
話でも、その凄惨さに、みんなしいんと息をのんでいた。
「やはり、そうでしたね」
と、篤次郎は暗澹たる嘆息をもらしてふりむいたが、良精はひくい声でエリスに通訳して聞かせていた。
「彼が自殺したのは、自分の計画がうまくいって……ゆき過ぎて、オークマ氏が死ぬようなことになったのを悔んでのことでしょうか」
と、エリスが訊いた。
「さあ」
と、良精は首をひねっただけだ。
「それにしても、乞食まで殺すとは、可哀そうに。……ああ、それは彼が、自分のたくらんだ計画をかくすためですね?」
小金井良精はこれにも返事をせず、ふり返って登戸記者のほうを見て、
「ところで君、そもそも君は、どういうわけでこの精養軒のサロンに来られたのです?」
と、妙なことを質問した。
登戸がけげんな顔をするのを見ると、彼はつけ加えた。
「いや、きょうのことじゃない。ここ数日のことです。波越君がいたのは大熊君にくらいつくためでしょうが、君がなぜ同行されておったのかわからないという意味です。むろん波越君は、大熊君をああいう目に合わせて、それを朝日にも書いてもらいたいから君を同行したのでしょうが、そんなことをあらかじめ君にいうはずはないから」
「ああ、それはね、波越がいうには、あの東京日日の大熊は、精養軒に泊っているだれかを狙って張り込んでいるらしい。また例のスキャンダル事件のようなタネをとられては困るから、とにかくあいつを見張っていようというので。……」
「ほほう。……で、大熊君はだれを狙っていたのですか」
「それがわからんのです。波越も知らない。それを探るのだ、といっておりました。そいつはあてにならないが、とにかくそれを探り出す前に、こんな事件が起ってしまったのです」
と、登戸記者はいった。
「それで君はこの事件のことを書くつもりですか?」
「書きたいが、しかし……これは、書けませんなあ」
登戸は髪の毛をひっかきまわした。
「ここまで来ると、惻隠《そくいん》の情が湧いて来ました。同業者として、武士のナサケ、というやつで」
「私もそれを希望します」
と、小金井良精はうなずいた。
いっしょに昼食をとり、さらに二時間ばかり話したあとで、精養軒の入口まで送って来たエリスが、
「きょうは何日?」
と、尋ねた。篤次郎はヘドモドして答えた。
「こうっと……九月三十日ですね」
「明日《あした》から十月ね」
エリスはつぶやいた。
「あのひとの家は、センジュ・キタグミという町にあるのですね。……」
「そ、そうです。しかし、そこへゆくには、もともと刑場のあった、寂しい気味の悪い場所を通らなきゃならんので。……」
良精が口を出した。
「とにかく、いままで重ね重ね申しあげたように、いま日本の軍人の家庭に異国の女性を迎えるということは、実に大変なことなのです」
「しかしあのひとは、それを承知で私と結婚の約束をしたのですわ」
「え、ですから彼は、いま懸命に親族親戚を説得しているのです。……」
「私が、親戚の方々にお逢いしちゃいけなくって?」
「ま、ま、もうちょっと時間を貸して下さい。いま騒ぎたてると、うまくゆく話もこわれます。いま、しばらく。……」
こっくりして、うなだれてホテルの中へひき返してゆくエリスを見送ってから、二人は通りを歩き出した。
篤次郎が溜息をつく。
「こりゃ困りましたなあ。……ここ三、四日は、とんだ事件のおかげで何とかしのげましたが」
「あの波越が自殺したのはね」
と、良精が思い出したようにいった。
「その切腹という古風な法から見て――ただ自分の悪だくみがあばかれたことの恐怖や、大熊記者が死んだことへの悔いじゃなく、事が明らかになると、戸田家へ大変な迷惑がかかる。戸田夫人のスキャンダルの上塗りになると考えての行為じゃなかったのかね」
「いや、怖れ入谷《いりや》の鬼子母神《きしもじん》です」
この大学生は、医学の勉強よりほんとうは歌舞伎の好きな青年であった。
「先生はただ解剖学の権化で、人間世界のドロドロなんかわれ関せず焉《えん》のお方かと思っていたら、さっきの事件のメスさばきには、ほんとうに驚きましたよ」
「なに、あのエリス嬢が先に感づき、解明してくれたじゃないか」
さっきとまた同じことをいって、
「ありゃ、素性は踊子だといったが、頭のいい娘だね」
「私もそう思います。……先生、どうでしょう、あの娘の願いを叶えてやるように、われわれが尽力しちゃあ。……」
「だめだめ」
小金井良精は強く首をふった。
「それでは君の一家は破滅だ。喜美子のヒステリーで、私までが破滅状態になる。この際、ロマンチックな同情は絶対にいかんよ」
そして、恬淡かつ無情にいった。
「ところで、ここ二、三日、私はゆけん。君、その間、どうか死力をつくして任務を果してくれ給え」
――このころの二人のようすを、良精の妻、篤次郎の妹にあたる小金井喜美子がのちに書いている。
「……エリスの気持を柔らげ、こちらの様子をも細かに種々話して聞かすために、暇のあり次第、毎日主人は精養軒に通ひました。あちらも話相手が欲しいので待つて居ます。(中略)又お兄いさん(篤次郎)は出来るだけ、往つては連れ立つてそこらを案内などします。語学の力は不充分でも、気軽な人ですから、エリスともすぐに遠慮なく親しんだのでせう。其頃私がお兄いさんに、『どんな様子ですか』と尋ねましたら、『僕は毎日語学の勉強に通つて居るよ』と笑つて平気なのを、人の心配も知らぬ顔とほんとに憎らしく思ひました」
しかし、人の心配も知らぬ顔と妹を憎らしく思ったのは、篤次郎のほうであったろう。
ただこちらから説得し、向うの話をそらすのでさえ容易でない芸当を、ドイツ語でやらなければならないのである。
十月一日は俥で上野公園に連れてゆき、二日はお濠ばたを歩いた。そして、身体の疲れではなく、ヘトヘトになった。
三日は、あいにく雨であった。篤次郎は、きょう一日をどう過したらよかろうか、と困惑しながら精養軒を訪れた。すると、思いがけない騒ぎが起っていた。
香水からの決闘
何の用があるのか、精養軒のサロンには、ほとんど毎日細川侯爵家の家扶がやって来ていた。篤次郎はいつしか、芦名|速雄《はやお》と真木弁三郎という、その名までおぼえた。
家扶とは、華族の家で、家令の下にあって家務や会計をつかさどる役目だが、どちらも三十代で、芦名はやや細面のきびしい顔をしており、真木は多血質のふとった男であった。
両人とも、どうやらフランスの香水商ジャン・ロベールに用があるらしいと見ただけで、それ以上のことは知らなかったが、それは香水を買う用であったことを、はじめて篤次郎は知った。
拳銃のナウマン同様、ロベールはここにフランス香水の見本を持って来て顧客を探し、その注文で横浜の店から品物をとり寄せることにしていたらしいのだが、こんど細川家が最高級の香水を求め、それが横浜の店になくて、この前後に船で来るというので、それを待って毎日やって来ていたものであった。
それが来た。コティといったか、ウビガンといったか、何種類か、またどれほどの量か判然としなかったが、金額はなんと千円を越すものを、ロベールが、まとまって買ってくれなければ売らないと要求したことから、はからずも二人の家扶の間に争いが起きた。
ロベールは、以後当分その品がはいる見込みはないといい、またほかにも欲しい客はあるという。――実際、ロベールは、毎日細川家の二人以外にも、日本人の客たちと逢っていた。
芦名は、ロベールの要求通り買うという。真木は、いくら何でもそれは高額過ぎるという。やり合っているうちに、口論となり、はてはつかみ合わんばかりの争いとなった。
「刀を持っておれば斬り捨ててくれるところだ」
と、芦名がうめくと、
「刀が欲しければお屋敷から取り寄せたらよかろう」
と、真木がいい返し、その勢いで、
「ボーイ、ボーイ」
と呼びたてて、命令した。
「道三《どうさん》橋の細川邸へいって、刀を二本もらって来てくれ!」
ロベールがあわてて、
「こんなところで、キリアイ、こまります。ボーイ、細川家から、カタナじゃなく、だれか、エライ人呼んで来て!」
と、さけんだ。
それからしばらくして篤次郎がやって来たというわけだが、エリスから何とか事情を聞いたものの、原因の馬鹿馬鹿しさを笑うどころか、なだめる言葉もないほど二人の家扶は逆上し切っていた。
細川家から二人の人が俥で駈けつけて来たのは、それから三十分ばかり後であった。一目見て、篤次郎は「おや」と思った。
それは先日、二人の記者が決闘をやるというので参観させてもらいたいとやって来たあの家令たちであった。どちらも、いかにも細川家の家令らしい貫禄のある中年男だ。
「いったい、どうしたというのじゃ?」
いぶかしみ以上に立腹の表情で訊く家令に、二人の家扶は口々にいった。
それで事情はさらに詳しく判明したのだが、細川家ではこの十一月三日の天長節に予定されている鹿鳴館の大夜会に、はじめて二人の令嬢が出るので、最高級の衣裳をつけさせたいというところから、この家扶たちはそれに叶う香水を手にいれるべく、ジャン・ロベールのところへ通っていたのだが、その値段で争いとなったのだ。
値をいとわず買おうというのが芦名速雄で、それはあまり非常識だというのが真木弁三郎であったということはいま述べた通りだが、そのやりとりの間に、真木が、
「そういえば御老女が、芦名の会計はあまり大ざっぱ過ぎるようじゃ、と申された。貴公、ふだんからこんな買物をしておるのか」
と、口走ったのに対し、
「何をいうか。おれがここまで思い切ったのはこれがはじめてのことじゃ。最高級のものをと命じられたから最高級のものを買うのだ」
と、芦名はいい返し、
「そっちこそ、ふだん重箱の隅をつつくような口をきくくせに、どうもタガのはずれたところがある、と御老女が首をかしげておられたぞ。貴公の会計こそ腑に落ちぬ」
と、やった。
これが口火となって、売言葉に買言葉、はては刀を持って来いということになったのであった。
で、いま、駈けつけた家令たちに向って、
「この買物の儀、いかにおぼしめすか?」
と、二人の家扶はテーブルをたたいて訴えた。
二人の家令は、うなり声をもらしただけであった。
「のみならず。――」
と、芦名速雄は声をふりしぼっていう。
「真木めは、拙者の会計に不審のあるようなことを申した。拙者の会計は、その都度、朝倉どのに申告してその御監査を受けておるではござりませんか!」
訴えられた家令は、朝倉誠之進といって、ゆったり肥って、つやつやした皮膚をして、篤次郎はふと仮名手本の大石内蔵助を連想したような風格の持主であった。
真木弁三郎もまた涙さえ浮かべていう。
「芦名こそ、拙者の会計に異論のあるようなことを申す。拙者の会計は、いちいち西どのに報告して御検査を願っておるはず。これは聞き捨てならん!」
訴えられた家令は、西忠兵衛といって、角ばった顔にけいけいたる眼玉を持ち、いかにも剛毅な風貌の人物であった。
そして、芦名と真木は異口同音に、
「何やら御老女が御疑念のあるようなことを申されたとやら――はじめて耳にしたが、それはしかと御老女におただしせねば相成らぬ」
と、いきまき、
「ただ、その前に、現在ただいまのこと決着せねばなりませぬ。この買物、是か非か、この場で何とぞおきめ下され!」
と、いうのであった。
どうやら朝倉は芦名の、西は真木の、それぞれの上司らしいが、最初、苦り切ってやって来た彼らも、これを聞いて、しばらく黙って顔見合わせていた。やおら、
「それは、買うべきじゃろう。何しろ、姫さま、はじめての夜会御出席とあれば……しかも、御老女のたっての御下知とあれば。……」
と、いったのは朝倉だ。
「いや、千円とは無茶だ。そもそも、いかに御老女の御下知とはいえ、こやつらが香水買いにこんなところに来るのが、わしはどうかと見ておったのじゃ」
と、いったのは西だ。
二人はにらみ合った。
「――何をいっているの? どういうことになったのですか?」
と、エリスが小声で篤次郎に訊くので、篤次郎は説明してやった。むろん怪しげな通訳だが、まあ何とか通じたようだ。
篤次郎がやっとハンケチで頸のあたりをふいたとき、二人の家令はロベールにいっていた。
「論、決せぬ。まことに申しわけないが、もう二、三日、お待ち願えまいか?」
「三日以内に、御返事いたす」
篤次郎はエリスにささやいた。
「こんな人々がいまの世の中にいようとは思わなかった。これはエド時代の人々です」
しかし、彼らは江戸時代の人間ではなかった。三日たって、また一人で篤次郎がゆくと、しばらくして、ちょうど細川家の家令たちがやって来たが、ナウマンにピストルを売ってくれ、といったのである。――
その日、来たのは家令二人だけであったが、朝倉誠之進がまずロベールに、
「例の件、もう一両日お待ち下さるまいか」
と、哀願した。
そして、その理由を述べて朝倉はこんな話をした。――たまたま、ここ二週間ばかりこのホテルに泊っていた八十綱伯爵が、サロンに下りて来ていて、この人がドイツ語もフランス語も解するので、難しいところはロベールに通訳してやった。
あれから屋敷に帰ったのちも、論争はつづいた。あの家扶の間ばかりでなく、上司の家令二人の間でも議論が交されたという。
そこで出て来たのが、細川家に伝わる古いある物語であった。
二百何十年かの昔、細川家の二人の家来が、主命を受けて長崎の港へ、安南から異国船が運んで来た伽羅《きやら》の木を買いにいった。伽羅はそのころ珍重された香木である。この木に本末《もとすえ》があって、元来|本木《もとき》のほうが高い上に、ちょうど同じ目的で来ていた伊達という大名の家来とせり合ったため、眼の玉の飛び出るような値になった。
そこで家来の一方が、たかが炉にくべる木切れではないか。そんなものをそんな値で買うのはあたら主家の財産を炉にくすべるようなものだ、末木《すえき》でよかろう、といったのに対し、一方は、せっかく主人がわざわざ伽羅を買って参れと仰せられた上は、その最上品を入手するのが家来の務めだ。是非本木でなければならぬ、といい張り、前者が後者をへつらい者と嘲けり、後者が前者を不忠者と罵り、争論のあげく、ついに買うといったほうが、買わぬといったほうを討ち果した。――
聞いていて、篤次郎は変な顔をした。きのう、この細川家の家来たちを、まるでエド人だと感じたが、ほんとうに細川家には、江戸時代に同じような話があったのである。
それでも篤次郎が、これをエリスとナウマンに通訳すると、
「それから、その家来はどうなりまして?」
と、エリスが尋ねた。
「その家来は帰って殿さまに、こういうわけで朋輩を殺害しましたが、大事な侍を一人失い参らせたことはまことに相すまず、拙者に切腹を仰せつけられたい、と、願い出ました」
と、朝倉誠之進がいった。
「しかし殿さまは、お前こそよく主命を守ったとおほめに相成り、切腹はお許しに相成らず、いよいよ重くお用いになられたと申す」
「その代り、その殿さまがお亡くなりになったとき、その家来は殉死つかまつりました。その名は興津弥五右衛門と伝えられておるが」
と、西忠兵衛がいった。
殉死という言葉の通訳に困り、篤次郎はしばらく考えて、殉死とは家来が死んだ主人のあとを追ってあの世へゆくことだ、と説明した。
「なぜ、その人はそんなことをしたのですか」
「友人を殺した罪で死ぬべき命を主人に救われたので、そのときお返ししたのでしょう。そんな例は、ほかにもたくさんあります。日本のサムライの道徳です」
さて、朝倉誠之進が昂然としていった。
「細川家は、こういうお家柄なのです。……で、わしのほうは、ロベールどのの申される通りの値で香水を買うのに賛成したのです」
西忠兵衛が憮然としていった。
「しかし、いま殉死するやつはおるまい。世の中は変ったのじゃ。あまりに度はずれた買物をするのは、いまの世では不忠になると拙者は信じる」
「というようなわけで、われら両人の間でも、論、決せず。……」
と、朝倉は苦い笑みを浮かべた。
「とうとう決闘によって決めることに相成りました」
「えっ?」
ナウマンが、奇声を発した。
「あなた方が、ですか?」
「まさか。……あの家扶両人がです」
「香水を買うべきか、買わざるべきかで決闘をやるというのですか?」
篤次郎も唖然とした。
「いや、実は理由はそれだけではない」
と、西がいった。
「あの両人、口論のはずみでおたがいに聞き捨てならぬことを申し、そのため、それぞれの面目にかけて決闘せねばおさまらぬところまでゆき……何としても、拙者どももとどめ得ない始末と相成ったのです。……で、香水の件も、ともかく決闘して、勝ったほうが言い分を通す、ということになりました」
朝倉がつづけた。
「そこで思い出したのが、先日行われるはずであったピストルの決闘事件であります。あれは拙者どももいたく興味を持って参観におしかけて参ったが、ひょんなことで実現しませんでした。あれをやろう、ということになったので……両人も、あのとき西洋式決闘のやりかたはよくおぼえた、と申しております」
二人はナウマンを見た。
「そこでピストルを二挺売っていただきたい、と思い立って推参した次第」
「一応、自分たちも練習したい、と二人が申しますので」
ナウマンとロベールは顔を見合わせたが、次第にこの件に、外国人らしい無責任な興味をおぼえて来たようであった。
「香水からの決闘とはロマンチックですね」
と、ロベールが、しかしなりゆきいかんでは細川家に香水が売れないかも知れない、ということを忘れたような表情でいった。
「ナウマンさん、ピストルを売っておあげなさい」
「まさに、サムライの決闘ですね。売りましょう」
と、ナウマンはうなずいた。
「ただ、その決闘を私たちも見たいものだが。……」
すると、二人の家令は、それは自分たちも考えていた。見物どころか、実はその決闘の介添人になってもらいたいと思っていたのだ、と、いい出した。
西洋式決闘には介添人というものが必要だそうで、それは自分たちがやるつもりでいたけれど、やはり細川家の家令という身分にある自分たちが、直接部下の決闘の介添人となっては、あとで主家に迷惑を及ぼすことになるかも知れない。
むろん責任を回避するつもりはなく、自分たちも現場に立ち合うが、正式の介添人としては、とにかく治外法権を持つ外国の方にそれをやってもらったほうがよいように思う。そこでナウマン氏とロベール氏にその介添人を勤めていただけまいか。そのために自分たちから依頼したという契約書をしたためるつもりだが、といった。
結局、ナウマンとロベールが承知すると、二人の家令は、ピストルと弾丸を受取り、金を支払い、決闘の場所と時日は決まり次第御連絡する、そのとき誓約書を持参してお渡しする、といって出ていった。
相撃ち
あくる日、この日は小金井良精も精養軒に同行した。ひまが出来たせいもあるが、篤次郎から細川侯爵家の家来の決闘事件の報告を聞いては、どんな人間でも好奇心をもやさずにはいられなかったろう。
特に良精は、知人の大学の助教授に細川家の一族がいたので、それに驚きと不安も加わった。
午前十時ごろであった。サロンで、エリス、ナウマン、ロベールに、彼の知っているかぎりの細川家についての歴史を話していると、朝倉誠之進と西忠兵衛がはいって来た。
「これから、やります」
「場所は、両人の希望で、この築地の埋立地でやることにしました」
と、二人はいった。――決闘はきょうと確約したわけでもなかったが、やはりそういうことになったらしい。なるほど埋立地は、先日のことで、家扶たちも知っているはずだ。
「芦名と真木は、もう先にそこにいっております。どうかおいで願いたい」
「あ、いや、その前に、例の誓約書を」
朝倉がふところから一通の封筒を出し、中から二枚の紙をとり出した。
[#ここから1字下げ]
「当家家扶、芦名速雄、真木弁三郎、奉公人としての面目にかけ、たがいに堪忍なりがたきことあり、十月八日、ピストルを以て決闘つかまつり候については、その介添人として独人カール・ナウマン殿、仏人ジャン・ロベール殿に委嘱いたし候こと実正《じつしよう》なり。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]細川家家令 朝倉誠之進
[#地付き]   同右 西 忠兵衛」
とある。二枚とも同文であった。
良精がこれを通訳してやった。――ナウマンとロベールは、神妙な表情で受けとった。
「では、参りましょう」
と、ナウマンがいって、ロベールをうながして立ちあがった。
良精が尋ねた。
「私たちもいってよろしいでしょうか」
西忠兵衛がちょっと考えて、
「通訳していただかなければならんこともあるでしょう。こちらから、お願い申す」
「ここにおられるみなさん、どうぞ」
と、朝倉誠之進が、エリスと篤次郎にもいった。
入口のほうへ歩きながら、篤次郎は息をつめてささやいた。
「先生、決闘をやらせるつもりですか」
「うん……いや」
良精はあいまいな声を出した。
「とにかくいって見よう。何しろ決闘をやる人間はここにいないのだから」
何にしても、ここで制止出来る雰囲気ではなかった。
彼らは、俥を呼びとめて出かけた。
例の埋立地のはしで下りる。
「はてな?」
と、西がつぶやいた。
「先に来ておるはずなのに、二人の姿が見えんが」
「たしか、ここと聞いたがの」
と、朝倉も首をかしげた。
向うが海なので、実際よりも広く見える埋立地は、この間見たときと同じように――ただ十月の声を聞いただけで、ふしぎに急に秋めいて見える草を、茫々と吹きなびかせているばかりで、人影らしいものはどこにも見えなかった。
「あなた方は、ここへはじめて来られたのですか」
と、良精が訊いた。彼もこの前、記者のピストルの練習のときには立ち合わず、はじめてここに来たのだ。そういえば、この家令たちはその翌日になって精養軒に現われたのであった。
「いや、来たのははじめてですが、場所は二人に詳しい地図を書いてもらったので」
「先刻、采女《うねめ》橋の上で別れ、拙者どもは精養軒へ、両人は先にここへ向ったはずなので」
と、両人はいい、
「おかしいの」
と、首をひねりながら、それでも草の中を、海のほうへ歩き出した。あとの連中もそれに従う。
「……あっ」
突然、朝倉がさけんだ。
みんな立ちすくんだ。
海から二十メートルほどの場所に、うつ伏せに倒れている二人の人間が見えた。みな、いっせいに駈け出した。
約二十歩の間隔をおいて倒れているのは、顔は見えなくてもあの芦名速雄と真木弁三郎であることはすぐにわかった。二人はそれぞれ右手に拳銃を握りしめ、しかし完全にこときれていた。
二人のそばには、先日ナウマンが教えた通り、決闘の仕切り線となる竹の棒がころがっていた。
「ば、馬鹿なやつが!」
と、西忠兵衛がうめいた。
「介添人を連れてゆくからそれまで待っておるように、と申しておいたに!」
「またここで喧嘩をはじめたのか、気がはやったのか。――」
と、朝倉誠之進も痛嘆の声をもらした。
「撃ち合って、相撃ちになったと見える!」
小金井良精はしゃがみこんで、まず芦名速雄の屍体をひっくり返した。
「左胸部から右背部へ貫通していますな」
と、彼はいった。
それはその胸背の射入口、射出口、その周囲を染めた流血から明らかであった。
良精は歩いていって、こんどは真木弁三郎の屍体を調べた。
「こっちは左の第七肋骨部をほぼ正面から貫通しているようです。両人とも即死でしょう」
その屍体を仰向けにするとき、
「モメント・マール」――ちょっと待って下さい。
と、エリスが呼んだ。
「その人のキモノの右袖のフクロに何かはいっているようですけれど。……」
むろんこれもドイツ語で、それは袂のことであった。良精がそれを改めると、「金天狗」という日本の紙巻煙草二個とマッチが出て来た。別にどうという品物でもない。
茫然と立ってそれを見ていた家令たちが、当惑した声を出した。
「ああ、こりゃ、どうしたものか?」
「先に来させたのが、まずかったようじゃな。……」
二人はしばしヒソヒソと話していたが、やがてナウマンとロベールに近づいていった。
「せっかくおいで下すったが、思いがけぬことで介添人は無用と相成りました」
「ついては、またお願いがござる」
良精が通訳した。
彼らの願いというのは、二人の家扶は早まって決闘をやって相撃ちで落命したものと見えるが、これでは決闘の趣旨が立たない。ただの殺し合いで双方死んだということになり、細川家の不祥事として騒がれるだろう。
やはりこれは堂々たる西洋式決闘ということにしてやりたい。さっきお渡しした誓約書を警察に示したい。つまり両人は、やはりナウマン氏とロベール氏が介添人として見ている前で決闘をやったということにしていただけないか。
それによる面倒の責任はすべて自分たちがとるのはむろんのことであり、かつ、こうなったら、ロベール氏の香水買入れはもとよりナウマン氏からも相当量のピストルを買入れてもよい、というのであった。
最初から介添人になることを承諾していただけあって、ナウマンとロベールは改めて承知した。
「ありがとうござる。……さて、これからまず何をしたらよいか」
「とにかく警察に報告せねばなるまい」
と、両家令がうなずき合ったとき、真木弁三郎の屍体のそばにしゃがんでいたエリスがつぶやいた。
「この死んだ二人、ほんとうに決闘したのでしょうか?」
「えっ」
良精と篤次郎は、めんくらって顔をそちらへむけた。
「ドクトル・コガネイ。――あの二人に、私のいうことを尋ねて見て下さい」
――以下は、良精の通訳を介しての問答である。
「きのうはじめてピストルを手にした二人が、こんな距離でおたがいに命中するなんて、それほどうまくなるものか知ら?」
と、エリスはいった。
「それは、われわれもふしぎに思っておる」
と、朝倉誠之進が答えた。
「しかし、両人、あれからお屋敷の林の中で、必死に修練いたしたから。……」
西忠兵衛もいった。
「ふしぎといわれるが、偶然のまぐれ当りということもあろう。いや、おたがいに狙って撃ったのだろうから、偶然ということはない。とにかく現実にこうなったのだから、あり得ないことではござるまい」
「そうですね」
エリスはうなずいて、
「でも、この人たち、決闘をするのに……この原因と結果というものを、いちども考えたことはなかったのでしょうか?」
「と、いわれると?」
「香水を求めたのは、ほんとうはこの人たちではなく、侯爵の令嬢でしょう。それが原因で、決闘することになったのです。決闘して、こんな風に……少くとも一人が死ぬか傷つくかも知れない。その結果、たとえ香水を買うことになったとしても、令嬢が果してそんな香水をつけて夜会に出るお気持になるだろうか、ということを考えなかったのか知ら?」
「いや、それは」
と、西が、
「正直にいって、われわれでさえ頭になかった。いや、考えんでもなかったが、そんなことは口にする余裕はござらなんだ。それを考えたり口にする余裕があれば、はじめから決闘などいうことはあり得なかったのです」
と、苦渋にみちた顔でいえば、朝倉が、
「およそ人間、決闘するとき、原因と結果を天秤にかけるなどいうことはしないのがふつうではありますまいか。きのうお話しした伽羅を買う武士の例もその通りです」
と、むしろ憤然としていった。
「そうですか。それはそうかも知れませんね」
エリスは素直に肯定したようであったが、また小首をかたむけて、
「それで、とにかく二人は決闘しました。竹の棒が二本ころがっているところを見ると、それぞれ、そのうしろ五歩の位置からその線まで進んで撃ち合うという、作法通りに決闘したのでしょう。でも、ちょっとおかしいところがあるわ」
「何が?」
「そんなとき、二人ははじめから右腕をつき出してピストルを相手に向けながら駈け出して来るでしょう。どうしても身体は、右のほうが前になると思います。すると、弾は身体の右のほうから左のほうへ抜ける可能性が大きいのじゃないか知ら。少くとも、まっすぐ、じゃないか知ら。でも、その人は、身体の左の胸から、背中の右へ抜けているわ」
と、芦名速雄の屍体を指さした。
篤次郎は反射的に、右手をつき出してピストルを撃つかまえをとってみて、(――なるほど!)と心にさけんだ。
二人の家令は、ボンヤリと芦名の屍体に眼をやったが、
「その点は、どういうわけか、当方にはよくわからぬ。そのときの両人の動作を見ておらなんだから。……」
「何しろ両人は動いておったのじゃから、どういうはずみでそういうことになったか――左胸から右背に貫通したとて、あり得ないことではありますまい」
と、口々にいった。
「そうかも知れませんね」
エリスはうなずいた。
「でも、まだ変なこともあるのです。こちらの人のキモノの右のフクロから出て来た煙草とマッチですね」
と、真木弁三郎の屍体のそばに置かれた二個の「金天狗」とマッチを指さした。
「そんなものを右手のフクロにいれて決闘するか知ら? ピストルは右手に握っています。それを使う前に、じゃまっけな煙草などとり出して捨ててしまいそうなものね」
「そういわれれば、そうだが」
と、朝倉がまばたきしていった。
「煙草やマッチなど、軽いもので、たいしてじゃまにもなりますまい。だから本人も気がつかなかったものと見える」
「でも、いま見ると、煙草の一つは全然封を切ってなく、一つは二本のんだだけです。マッチも一度か二度擦っただけ、といった感じです。ですから、ここへ来るすぐ前に袖のフクロにいれたにちがいありません」
エリスは家令たちの顔を見た。
「これから決闘をやるという人が、場合によっては自分が死ぬかも知れないのに、新しい煙草を二つも持って来るでしょうか?」
二人の家令は顔面を硬直させて立ちすくんだが、たちまち口を引っ裂くようにしてさけび出した。
「そんなことは死人に聞くがいい。そもそも決闘せぬ人間が、どうしてここに来たのか?」
「この異人女は、われわれに何だといいたいのじゃ?」
エリスは答えた。
「私は、二人は決闘しなかったのじゃないか知ら、決闘を見なかったナウマンさんとロベールさんに、介添人として立ち合ったようにしてくれというのは、どうしても二人が決闘したように見せたいからじゃないか知ら、といいたいのです」
そして、ふと二人の家令の形相《ぎようそう》を見て、
「まあ、こわいこと」
と、つぶやき、それまでと同じ、あどけない静かな顔で、
「私が変だと思ったのは、ただそれだけ。それ以上のことはわかりません」
と、いって、スラリとした足で、草の中をもと来た方角へ歩き出した。その帽子に赤とんぼが一匹とまった。つりこまれて、良精と篤次郎はむろん、ナウマンとロベールもあとを追う。
遠い往来に達してふり返ると、いまあれほどの昂奮を見せた細川家の二人の家令が、同じ場所に、銅像のように立ちつくしているのが見えた。
「……と、いうことは?」
と、ナウマンがつぶやき、エリスが黙って歩き出したので、良精をのぞきこんでいった。
「警察へ報告しなくてもいいのですか?」
良精は、深い息をついていった。
「あれも名家細川家に仕える人々です。それは彼らがやるでしょう」
一大事
いい忘れたが、精養軒を訪れた日は、篤次郎はそのあと必ず千住の実家に報告にゆき、本郷龍岡町にある自分の下宿に帰る。朝はたいてい小石川|春日《かすが》町の小金井良精の家に寄った。良精のその日の都合を訊くためもあったが、妹の喜美子が彼からも報告を聞かなければ承知しなかったからである。
で、あくる日の朝、雨の中を篤次郎が春日町へゆくと、良精は、きょうはどうしてもちょっと大学へ顔を出さなければならない用がある。少し遅れるが、用をすませたらゆく、といい、
「あれから、細川家の家令はどうしたろう?」
と、尋ねた。
「警察へとどけたら、けさの新聞に出そうなものですな。それが出ていないところを見ると、二つの屍骸をそっと細川家に運んで、まだそのままなんじゃないですか」
と、篤次郎は答えた。
「といって、そのままにしておける事件じゃないが。……」
彼は首をひねった。
「しかし、エリス嬢のいったことはほんとうでしょうか。二人の家扶が決闘しなかったとすると、二人は殺されたものと考えるほかはありませんが、いったいなぜあの二人は殺されなければならなかったんでしょうね。僕は精養軒のサロンで前から知っていますが、あの二人には、こんな目にあうような雰囲気はまったくありませんでしたよ。それが、なぜ突然、きのう、しかもあんな殺され方をしなければならなかったのか、僕にはわからない」
「私にもわからんね。特にあの二人の家扶が、決闘もしないのに、なぜあんな埋立地へいったのかがわからない。……そうだ、衛生学の細川助教授ね、あれがたしか細川さんの一族だ。あの人に訊いて見よう。もっとも、何か知っていれば、だが。――」
それから、良精はいった。
「とにかく、あのドイツ娘の提出した疑問は至当だよ。この間の瓶の内側の血にも感心したが、こんどの袂の中の煙草の件にも感心した」
「まったくかしこい娘ですね」
「ああ、そうそう」
良精は急にあわてたようにいった。
「きのう帰宅したら、ある人に頼んでおいた船の切符がとどいていたよ。十七日午前十時、横浜出帆のデュプレ号というフランスの船だがね」
篤次郎は息をひいた。やがて、
「きょうは九日。その切符を無駄にすまいとすると、あと十日もありませんが、それまでにエリス嬢がドイツに帰る気持になってくれるでしょうか?」
と、急迫した息を吐きながらいった。
「いまのところ、そんな徴候は毛ほどもありませんが。……」
「とにかく、全力をあげて努力しよう。この切符を見せて帰れ帰れといったりしちゃ、逆効果になるが……しかし、何とか急がなくちゃならん」
と、良精もうなるようにいった。
で、その日、篤次郎だけまず精養軒にいって見ると、サロンに坐っている一団の中に、例のごとくエリスもいた。
挨拶して、エリスのそばに腰を下ろして、篤次郎はささやいた。
「あれから、細川家のことで何かわかりましたか?」
「それはこちらから聞きたいくらいですわ」
「警察が事情聴取に来るとか、何とか。……」
「だれも。……そちらこそ、何かわかって?」
「いえ」
「そう」
「あなたには、あの事件興味ないですか」
「そりゃ、ないことはないけれど、それより私には、もっと大事なことがあるわ。お兄さんはまだ来られないの?」
「はあ、それが。――」
「もう、三日待って見るわ。三日たってもまだ来なかったら。……」
「ど、どうします?」
「千住のお家か、陸軍省にゆこうと思います。こんどこそ、ほんとうに」
篤次郎は脳髄が白くなったような気がした。
テーブルの向うには、ナウマンとロベールが坐っている。そして八十綱伯爵とその従僕の少年もいる。何か議論がはじまっているらしい。
しかし篤次郎は、その議論どころか、それからのエリスとの雑談も、心ここにないありさまであった。
昼過ぎに、小金井良精がやって来た。
そして、サロンで食後の座談を交しているグループが以上の人々ばかりなのを見ると、
「みなさん、ちょっと話がございます」
と、小声ながらドイツ語で、ただならぬ表情でしゃべり出した。
「きのうの事件についての御報告です。……八十綱伯爵は、きのうの事件の現場にはおゆきになりませんでしたけれども、いつぞやここで細川家の二人の家扶と同席しておられるのをお見かけしたこともあり、その二人が変死をとげたとあれば、そのことはもうお聞き及びのことと思います」
八十綱伯爵はうなずいた。
「ただ――まことに勝手なことを申しますけれど、以下、私のしゃべることは、どうぞここまでの話としていただきたいのであります。というのは――先刻、私、細川家のある知人から事情を聞いたのでありますが、それによって判明した事実に、私の想像を加えたに過ぎないからです」
「……」
「細川家には、二人の家令がおります。これはどうやら、対外的な仕事と、一家内の取締りと、分担が異っていたらしい。まあ、昔の江戸家老と国家老ですな。前者が朝倉誠之進さんで、その下で働く家扶が芦名速雄君、後者が西忠兵衛さんで、その下で働く家扶が真木弁三郎君だったということです。この組合せで、いままで大過なくいっておった、と見られていた。――」
「……」
「ところが今回、芦名君と真木君が、細川家の御老女なる人から、香水買いを命じられた。この御老女は、両家令のさらに上に位置する、細川家の|ぬし《ヽヽ》のようなおひとのようです。それが、どういうわけで二人もの家扶にそんな用を命じられたのか、そこはよくわかりませんが、とにかくその結果、二人の間にあのような争いが起ったことは御承知の通りであります。私はあいにくその日参ってはおりませんでしたが、この学生から話を聞きました」
「……」
「この買物是か非か、という争いから、どちらも相手の会計に、御老女が不審不満を持っておられるようなことを口走った。そこへ二人の家令が呼ばれ、その訴えを聞き、この件しかと御老女にたださねばならぬ、と両家扶がいきまいているのに驚愕した。――」
「……」
「なぜかというと、朝倉、西、両氏とも、それぞれ芦名、真木のとどける会計を監査していたのですが、それを水増しし、着服していた。――それは昨夜から細川家ではひと騒ぎで、大至急調査して、はじめて判明したことであります。まだざっと調べた段階ですが、相当に大きな額のごまかしが明らかになったらしい」
「……」
「さて、二人の家扶にそんなことを御老女にただされては、その横領が発覚する。急いで芦名、真木の口をふさがなければならないが、生きていてその口を封じることは出来ない。さればとて、だれの眼にも不自然な非常手段をとるわけにもゆかない。そこではたと膝をたたいたのが、精養軒ホテルで耳にした西洋式決闘というやつです」
「……」
「両人を決闘させて相撃ちさせる。これは妙手段です。妙手段だが、むろん相撃ちになる可能性はきわめて少い。いや、その前にそもそも、いかに口論したとはいえ両人が、そんな西洋式決闘を承知してくれるものとは思えない。そこで思いついたのが、第三者からは両家扶の決闘と見せかけて、実は自分たちがその前に射殺してしまう法です。――それを彼らはみごとに、また死物狂いにやってのけた」
「……」
「では、決闘しない、する気もない芦名、真木両君を、どうしてあの埋立地まで連れ出したか。二人は決闘者ではなく、介添人としていったのです。これは芦名君が当惑して、奉公人の一人にちらとそんなことをもらしたことから明らかになりました」
「……」
「家令たちは、右の論争に自分たちも巻きこまれ、屋敷に帰ってからもそれがつづいたといったそうですね。おそらくそれは、かんじんの家扶たちがお株をとられ、鼻白むほど猛烈なものであったでしょう。しかし、それはお芝居であり、自分たちが決闘するといい出しても家扶たちに怪しまれないためだったのです。のみならず、二人にその介添人を引受けないわけにはゆかないような雰囲気を作りあげた。――」
「……」
「ことのなりゆきに動顛してか、あるいは不承不承にか、芦名君と真木君の心理はわかりませんが、とにかく二人は介添人のつもりで現場にいった。それを、二人の家令は、至近距離で射殺し、ピストルを屍体に握らせ、何くわぬ顔でこの精養軒にやって来た。――」
良精はエリスを見た。
「エリス嬢の御指摘はすべて適中していたと思う。御|炯眼《けいがん》に敬意を表します」
エリスは頬をあからめ、
「でも、驚いたことね。……」
と、吐息をついた。
「ただしかし、最初に申しあげた通り、以上は私の想像で描いた事件のかたちに過ぎない」
と、良精は肩をすくめたあと、言葉をつづけた。
「その家令、朝倉誠之進さんと西忠兵衛さんは、昨夜細川邸の林の中で、決闘をやって死にました。何も告白せず、月光の中で、至近距離でピストルを撃ち合って死にました!」
みな、凝然と良精を見つめたきりだ。
「ですから、ほんとうの真相はわからない上に、細川家のほうでは、すべてを内密のことにしたいと切願しておられます。以上の話はこの場かぎりと私がお願いしたのは、そんなわけからであります」
十日。十一日。十二日。――
エリスが、あまりものをいわず、何か考えこんでいるようになった。
この間、良精と篤次郎は、ドイツ娘が日本の軍人の妻になることは難しい旨を、雨後の雨だれみたいにささやきつづけている。
せっつくと逆効果だ、ということは承知しているから、それまでもその呼吸になみなみならぬ苦心を払って来たのだが、とにかく十七日の船切符がとってあるので、さすがに焦躁して、声に力がこもった。
その念力がついにエリスに通じたのか――というと、そんな風でもない。彼女はどこかうわの空だ。
彼女が考えていることを推測して、篤次郎は手に汗握る思いであった。
十月十三日、良精と篤次郎が精養軒のサロンにはいってゆくと、椅子に坐っていたエリスが立ちあがった。手袋をはめ、パラソルを持ち、あきらかに外出姿だ。
「三日待ちました」
と、彼女はきっぱりといった。
「でも、あの人は来ません。……私のほうからゆきます。案内して下さい」
二人は立ちすくんだ。数瞬の沈黙ののち、良精が悲鳴のようにいった。
「いや、あれは、きょうは陸軍省へ……」
「私、陸軍省にゆきます」
「陸軍省も大きいから……」
「大臣に逢って、あの人を呼んでもらいます」
「そ、そんなことは、私どもには」
「では、私ひとりでゆきます。ミヤケザカ、ですね?」
良精と篤次郎がただ口をパクパクさせている前で、エリスは歩き出そうとした。――
そのとき、ナウマンが呼びとめた。
「待ちなさい、エリス。私を助けておくれ」
そこには、テーブルをかこんで、ナウマンのみならず、八十綱伯爵と従僕、それにロベールがいた。
エリスはふりむいた。
「私には、そんな話、どうでもよくってよ」
「いや、助けてもらいたいのはドイツだ。君もドイツの娘だろう。これだけドイツが悪口をいわれているのに、平気でいられるのか」
良精はあっけにとられて、ナウマンを見た。
「どうしたんです?」
「実はさっきから伯爵が、独仏比較論をやられて、ドイツは戦争には強いが、文化的にははるかにフランスに劣るといわれる。ロベール君と組んで二対一の論争です。おう、ドクトル・コガネイ、あなたは長らくドイツに留学しておられたそうですな。それじゃドイツの味方のはずだ。あなたが助勢してもらいたい」
ナウマンは、笑顔どころではなく、その身ぶり手ぶりの荒々しさから、少からず気分を害しているようであった。
「やあ、それは面白いですな」
小金井良精は無意味にはしゃいだ声をあげて、
「エリス嬢、ちょっとお待ち下さい。陸軍省にゆかれるなら、こっちもいっしょにゆきます。が、もうちょっと待って。――」
と、手をふりながら椅子に腰かけ、
「ドイツのどこが劣っているんです?」
と、八十綱伯爵の顔を見た。
エリスに陸軍省などにゆかれては万事休す。大破滅だ。ともかくその手綱をひくために、笑顔を作ってはいたが、この謹直な解剖学教授は内心必死であった。
伯爵は改めてしゃべり出した。ドイツ人の蛮性、頑冥、尊大、盲従性。そして何より料理の粗野ぶり。――
良精はこの人が、二十代ずっとパリとベルリンに遊学したことを知っていた。それで、フランス語もドイツ語も自由である。いまはドイツ語でしゃべった。
だから、自分は公平な批評が出来る、と彼はいった。
伯爵は三十半ばの、いかにも男性的なみごとな長身と、知性と気品にみちた容貌の持主であった。が、いましゃべっている内容は、まことに皮肉なものであった。ドイツ滞在中に何か不愉快な経験でもあったのか。それともナウマンを虫が好かないのか。――聞いていて、なるほどこれではナウマンが立腹するのも無理はない、と、良精は考えた。
愛国からの決闘
カール・ナウマンは、みるみる激怒の表情になっていった。――さっきから怒ってはいたのだが、八十綱伯爵の再度の説明は、さらに辛辣なものであったと見えて、彼の憤激はいよいよ昂まったらしい。
ついにがまんし切れなくなったように、彼は大きな拳でテーブルをたたいて、
「お黙んなさい!」
と、さけんだ。
「ドイツが野蛮なら、日本はどういえばいいのだ?」
髪ふりみだし、まるで巨大な鬼さながらの顔であったが、それでも小金井教授を見ると、からくも自制の意志が働いたらしく、
「伯爵はドイツに留学されたことがおありなのに、これほどドイツの悪口をおっしゃるのだから、私が日本で商売しながら日本の批評をすることはお許し下さるでしょうな」
と、一応弁明してから、
「いま伯爵はドイツ料理が粗野だといわれたが、日本の食物こそ食物という名に値しないものではありませんか。たとえば、トーフ、ノリ、タクワン、ウメボシ、ナットーと称するもののごとき、日本人になくてはならぬ食物のベスト・テンにはいるものだと思うが、あるいは水を食うがごとく、あるいは紙を食うがごとく、あるいは塩のかたまり酢のかたまりを食うがごとく、ナットーなるものに至っては、|いたち《ヽヽヽ》の糞便かと思わせる。ドイツ人なら、餓死してもあんなものを食べませんね」
と、嘔吐をもよおすような顔つきでいった。
八十綱伯爵は苦笑しながら、それらの食物は、しかしよく味わえば非常に繊細な味のものであり、少くともソーセージとじゃが芋のドイツ料理より高雅なものだ、といった。
「しかし、それらは犬や猫も食わない」
「犬や猫が食わないから、高級な食物だというのです」
「では、家はどうです。あなたはベルリンの町を御覧になったでしょう。それにくらべて東京の貧弱さはどうです。あの銀座の煉瓦街は、あちらでは、田舎芝居の書割にもならない。個人の家――木と紙で出来たあの小っちゃな家――ドイツでは兎も住まない!」
伯爵は、残念ながらその通りだが、これは地震と台風をまぬがれがたい国土のせいである。ヨーロッパでも、日本のようにしょっちゅう地震や台風があったら、石造のゴシック建築など不可能であったろう。その点、壊れてもすぐに再建出来る木と紙の家は、日本人の智慧であり、そればかりか、物みな消滅しやすい運命は、日本文化独特の滅びの美学ともいうべき深い思想を生んだ、と答えた。
「日本文化? 日本に文化がある?」
ナウマンは、厚い肩をゆすった。
「男はフンドシと称する帯一本、女はコシマキと称する布一枚、裸同然で歩きまわり、馬のように生水を飲み、従ってしばしばコレラなどの伝染病が流行する国に、文化がある?」
「裸の風習は、ヨーロッパにもある」
「あれは健康のための日光浴です」
「日本の裸も、湿気への対応策です。しかも日本人は、ヨーロッパ人よりはるかに入浴や洗濯が好きだ。私はあちらで、市民があまり身体を洗わず、よごれた下着を着て平気なのに驚いた。生水は日本の水が生《なま》でも飲めるからだ」
伯爵はやり返した。
「伝染病はあちらにもある。日本のことをいうなら、統計表を示してもらいたい。――だいいち、それほどあなた方は衛生的か。街頭でものを食いながら歩き、公園で何時間も男女が接吻し、浴室と厠《かわや》が同居しているなど、もしそちらになくて日本にだけある風習なら、あなた方は何というだろう」
「それから、日本に来て、非常に気になる風景がある。それは盲人が大変多くて、しかも杖をつき笛を吹いて、世にも哀れな姿でウロウロしていることです。なぜあれを然るべき社会施設に収容して保護しないのですか」
「あれはマッサージを職業としているのです」
伯爵はいった。
「日本人は、盲人をそんな施設にいれて保護するのが必ずしも最高の慈善とは思わないのです。彼らにもまた適当な職業を与える。マッサージ業というのは盲人専用で、しかもこれは何百年来の伝統なのです」
「とにかくあれは、ヨーロッパじゃ見られない野蛮で残酷な光景ですよ」
「あなた方白人は、自分たちの風習にない風習というと、すぐに野蛮だ、残酷だときめつける。文化には、成り立ちようは異なっても、対等の文化というものがあることを知ろうとはしない。――この傲慢は度しがたい」
伯爵は冷静さをよそおっていたが、腹の底から怒って相対しているのがよくわかった。一方のナウマンは、もともとがたしかに傲慢な性質の持主のようだ。小金井良精たちも、口を出してなだめる勇気がくじけるほどの応酬であった。
「対等の文化? 日本とヨーロッパが対等の文化? ハ! ハ! ハ!」
ナウマンは物凄い声で笑った。
「それならなぜ、あなたは昔ドイツやフランスに留学されたのか。また日本政府はなぜ、いまも少からぬ留学生をヨーロッパに送るのか? それも――」
彼は首をふった。
「学ぶといっても、まったく無批判にです。御承知かどうか知らないが、ドイツにはドイツの、フランスにはフランスの、イギリスにはイギリスの、それぞれ独特の文化がある。それをどの国へいっても、その国の政治、経済、軍事、思想、学問、芸術に飛びついて、てんでんばらばらに学んでいる。あれで日本人はそのあとどうするのだろうか、と実は首をかしげているのです」
「日本人は無批判に学んではいない。どの国の何の分野が日本にとっていちばん有益か、賢明に選《え》りわけて学んでいる」
伯爵はいった。
「たとえば、日本人はドイツ人に絵画を学ぼうとは思っていない」
「そんな選別は可能だとは思えない。それはみなおたがいに密接に関係しているのです。われわれから見ると、まるで猿の大群が、あらゆる種類の木《こ》の実を、ただもうメチャクチャにもぎとって、歯をむき出してのみこんでいるように見える。あとで腹をこわさなきゃいいが、と心配しているのです」
「猿とは失礼だろう」
「いや、事実このロベール君ともよく話すのですが――われわれは猿の惑星に来ているのじゃなかろうか、とね。――」
八十綱伯爵はポケットから白いものをとり出して、ナウマンの眼の前のテーブルに投げ出した。それは白い手袋の一つであった。
「わかったね? ナウマン君、独逸式決闘《ツヴアイ・カンプ》でやろう」
と、冷やかな声でいった。
カール・ナウマンは驚いた眼で、その手袋と伯爵を見くらべ、
「アインフェルシュタンデン」――承知した。
と、いった。碧い眼が、燃えあがるような光をはなっていた。
みんな、しいんとしていた。
「明日。――さあ、午後三時、ということにしようか」
と、八十綱伯爵がいった。
「場所は、例の埋立地でいいかね?」
「いいでしょう」
「ピストルは君から買うとしよう。それから、介添人だが。――」
と、眼を移して、小金井良精を見た。以下は日本語だ。
「先生、お願い出来ませんか?」
「私は御免こうむる」
と、良精はドギマギして首をふった。
とにかくエリスの気をそらすためにこの問答に首をつっこんで見たが、とんでもない話になったものだ。さすがの良精も顔色を変えていった。
「それより伯爵、馬鹿なことはおよしになって下さい」
「馬鹿なことではありません。いまの論争はお聞きになったでしょう。日本に対してあんな無礼な悪口をいわれては、はばかりながら日本の華族として聞き捨てには出来ません」
「論争はわかりましたが、それは売言葉に買言葉ということもあり――とにかく決闘というのは穏やかでない。穏やかでないどころか、一方は伯爵、一方は西洋人、勝敗がどうあろうと、それは世を衝動させる大事件となります」
良精はナウマンを見て、ある怖ろしいことを思い出した。
「勝敗がどうなろうと、ではありません。この前聞いたが、ナウマン氏は、かつて二度決闘をやって二人殺したという経験者ですぞ」
「そうですか。そう聞いたら、いよいよ背を見せるわけにはゆきませんな」
と、八十綱伯爵は男らしい顔に微笑を浮かべた。
「こう見えても私もヨーロッパにいたころ、ピストルをいじったことはある。決闘をやったことはないが――勝負は、やって見なければわからない。で、先生、介添人はお引受け願えませんか?」
良精がただうなり声を発しているのを眺めて、伯爵はしばし考えていたが、やがてうなずいた。
「それでは、あの人に頼もう」
「だれに?」
「いつか、ここで逢った――朝日新聞の登戸という記者ですよ。あの記者は、前の新聞記者同士の決闘に一方の介添人になりかかったことがあるそうだから、こんども承知してくれるでしょう」
「あの記者に?――書かれますよ」
「いや、どっちにせよ新聞には書かれるのです。それならはじめから決闘の理由を知っておいてもらったほうが賢明かも知れない」
彼は従僕の少年にいった。
「お前、すぐに滝山町の朝日新聞社へいって、登戸貞信という記者を呼んで来てくれ」
少年が駈け出そうとした。
「待って下さい」
篤次郎が声をかけた。そして、良精の耳に、
「なんとかこの決闘をやめるように説得してくれと、僕が登戸記者に頼みます」
と、ささやくと、
「子供の使いでは何ですから、それじゃ僕が呼んで来ましょう」
と、いってサロンを足早に出ていった。
「――どういうことになったのです?」
と、ナウマンが尋ねた。以上は日本語の問答だから、よくわからないところがあったのだ。
「こちらの介添人の話だ。新聞記者に頼むことにして、いま呼びにいった」
と、伯爵がドイツ語で答えた。ナウマンは一方をふりむいた。
「それでは、こちらの介添人は――ロベール君、やってくれるね?」
「私はいやだ」
と、ロベールは首をふった。
「もし日本の伯爵を射殺などしたら――たとえ介添人でも、これからの商売にさしつかえるからね」
「たとえそうなっても、私が罰せられることはない。万一裁判となっても、裁判権はわが公使バロン・フォン・シュミットにあるからね。ましてや君はただの介添人ではないか」
と、ナウマンはいった。治外法権のことをいっているのだ。
「しかも、決闘は向うから申し込まれたのだ」
「ナウマン君、頼むから、辞退してくれませんか?」
と、小金井良精が哀願した。
カール・ナウマンはまだ眼に碧い炎を燃やしたまま、
「せっかくですが、決闘を申し込まれて、私のほうから逃げるわけにはゆきません。――ドイツの名誉にかけて!」
と、吼えるようにいった。そしてまた、かたわらをかえりみて、声をかけた。
「エリス嬢、ドイツ人のよしみで引受けてくれませんか?」
エリスはうなずいた。
良精は、言葉を失った。この娘までが?――ここにいる連中は、みんな正気なのか?
しかし、捨ておけば決闘がほんとうに行われることは、いよいよまちがいないことになった。
八十綱伯爵はいった。
「これできまった。――では、ナウマン君、拳銃を見せてくれたまえ」
ナウマンは立ちあがり、部屋を出ていった。例のピストルの見本のトランクをとりにいったのである。
あとに奇妙な静寂が落ちた。――怖ろしい沈黙であった。小金井良精は何かいおうとしたが、何といっていいかわからなかった。
「決闘の介添人は引受けましたけれど――私、考えているのです」
と、エリスがひくい声でいい出した。
「伯爵、あなたは死ぬことを覚悟していらっしゃいますね?」
八十綱伯爵は、いぶかしそうにドイツ娘を見た。
「そりゃ、決闘をやるんだから――しかし、私が敗北するとはきまっていない」
「私には、あなたは死にたがっていらっしゃるように見えますわ」
エリスはつぶやいた。
「で、私は考えているのです。もしやすると、あなたのそのお気持と、三日ほど前の夜、伯爵を訪ねておいでになった一人の貴婦人と何か関係があるのじゃないかしら? と。――」
伯爵は、鞭打たれたような表情になった。
「あれはだれも知らないはずだ。……」
彼はあきらかに動顛してつぶやき、従僕の少年を見、これは日本語で問いただした。
「愛次郎。……だれも知らないはずだね?」
従僕は泣き出しそうな顔をして、唇をふるわせただけであった。
「あの晩おそく、二階の端にある私の部屋をノックする者がありました。ドアをあけると、この少年と一人の美しい婦人が立っていました」
と、エリスはいった。
「そして、少年は、その御婦人が急に気分が悪くなったので、洗面所を使わせていただけないだろうか、といいました。御婦人はハンケチで口をおさえて、真っ蒼な顔をしていました。……」
「旦那さま、お許し下さい!」
と、従僕愛次郎はさけんだ。
「あの晩、藤戸さまの奥さまは、三階から二階へ下りて来られたとき、急に気分が悪くなった、どこか洗面所はないかとおっしゃいました。二階の廊下の洗面所には二人ほど日本人の客がおりました。三階のお部屋にお戻りなさいますか、と訊きますと、それはいやとおっしゃいます。そのとき、二階の端の部屋がこの女の異人さんだということを思い出したので」
と、エリスを見やって、
「女の異人さんならよかろう、と考えてノックしたのです」
「しかし、そんなことを、お前は報告しなかった」
「お許し下さい。旦那さまから、藤戸さまの奥さまを、だれにも知られず裏口からお帰しするようにといわれておりましたので。……」
美少年の従僕はうなだれた。
アウフ・ヴィーダーゼーン
エリスが小金井良精にささやいた。
「何といいました?」
「ええと、フジトといったね? フジトの奥さまだね?」
と、良精は少年に訊き返した。
彼がエリスに通訳している間、八十綱伯爵は黙って立っていた。待っていたのではない。伯爵はいうべき言葉を失ったように見えた。
「藤戸夫人は、私の友人の妻です」
と、やっと彼はドイツ語でいった。
「藤戸子爵は三年ばかり前からイギリスへ留学していて、近く帰朝することになったのですが、それについてある話があって、私を訪問されたのです」
彼は微笑をとり戻した。
「といって、別に世間をはばかる訪問じゃありません。弁明するまでもないが、げんにこの従僕もいる。――その夫人が、私のところを辞去して帰られる途中、あなたの部屋の洗面所を借りられたという。それがどうかしましたか?」
彼は声を高くした。
「ましてや、そのことと……私の決闘と何か関係があるって? そのことを、私はいまはじめて知ったのです。私はめんくらわざるを得ない」
「私にもよくわかりませんわ。ただ……」
と、エリスは小首をかしげていった。
「その貴婦人は洗面所で、声をしのばせてですが……たしかに吐いていらっしゃいました」
「吐いていた? 私のところでは何も食べませんでしたが……何のことです?」
「私の従姉《いとこ》が、赤ちゃんが出来たとき、あんな声を出して吐いていたのを私は思い出しました。あれは|つわり《ヽヽヽ》じゃないか知ら? と。――」
この|つわり《ヽヽヽ》という言葉のドイツ語が大変長くて聞き馴れないものであったので、八十綱伯爵も知らなかったと見えて、キョトンとしていた。小金井良精が日本語で「|つわり《ヽヽヽ》です」と助け舟を出した。
で、一息おくれて八十綱伯爵は、雷《らい》に打たれたような表情になった。
エリスはいった。
「いまお聞きすると、その奥さまの御主人は、三年前からイギリスにいっているとおっしゃいましたわね?」
伯爵は、唇のみならず全身を硬直させていた。
そのときナウマンがトランクをぶら下げてはいって来たが、この座の異様な雰囲気に気づいたらしく、
「どうしたのですか?」
と、けげんな表情で見まわした。
「いや」
伯爵は首をふっていった。
「見せてくれたまえ」
ナウマンがトランクをあけると、ぎっしりとつまったピストルと弾丸が現われた。伯爵はその中から一挺のルガー拳銃を無造作につかみあげ、
「これにしよう」
と、いった。弾丸を受取ると、エリスのほうをふりむいて、
「その御婦人がどんな現象を呈されようと、この決闘とは関係ない。決闘はやります。明日、午後三時、ね。――」
と、いって、歩き出した。が、四、五歩いって、うしろについて来る従僕に気がついて、
「おい、これから新聞記者が来るはずだ。決闘は明日だが、介添人を依頼しなけりゃならん。お前、ここで待っていて、来たら部屋に案内してくれ」
と、命じて、一人でサロンを出ていった。彼の部屋は三階にあった。
しばらくの沈黙ののち、おそるおそる良精がいった。
「ナウマン君、やめてもらえんかね?」
カール・ナウマンは獅子のように首をふった。
「伯爵のほうで陳謝すればともかく、私からやめてくれとはいえませんな」
良精はエリスを見た。エリスは宙を見つめていて、
「……あれとこれと、ほんとうに関係ないのか知ら?」
と、つぶやいた。
あれが何を意味し、これが何を意味するかはわかったが、それ以上小金井良精には何の判断も浮かんで来なかった。……伯爵に向って妙なことをいい出して見たが、エリスも同様らしい。
また静寂が訪れた。
三十分ばかりして、篤次郎が朝日の記者登戸貞信を連れてはいって来た。「何ですと?」と登戸がいいかけたとき、従僕の愛次郎がそばによって何かささやいた。
「ほう。……では、とりあえずそちらへ」
と、登戸が従僕とともに背を見せようとした。突然、エリスが小さくさけんだ。
「そうだ、卑怯な生より栄誉ある死、という諺がドイツにあるわ!」
登戸貞信はちょっと妙な顔をしてふりむいたが、そのまま出ていった。そのとき、高いどこかで、何か音がひびきわたったような気がした。
「銃声じゃないか?」
と、ロベールが天井をむいてつぶやいた。
しかし、つづいて板をたたくような音がしたので苦笑した。このレストランは改造中で、しょっちゅうその物音が聞えて来るのだ。
が、三分たつかたたないうちに、登戸貞信がまた転がるようにはいって来てさけんだ。
「八十綱伯爵が、ピストルで頭を撃って死んだ!」
翌日、篤次郎といっしょに精養軒のサロンに現われた小金井良精は、登戸記者と三人の異人に、事件のいきさつを報告し、説明した。
「……またしてもエリス嬢の御炯眼には脱帽のほかはありません。
私は昨夕ひそかに藤戸子爵夫人に逢いました。八十綱伯爵の死に、夫人が驚愕動顛されたことはいうまでもありません。夫人は、伯爵は卑怯です、と、さけばれました。……とにかく伯爵は亡くなられ、子爵夫人は自分も死にたいともだえられるほど狂乱されておるので、御両人の関係については実は藪の中で、ほんとうの真実はつかみがたいのですが、ともかく私が知り得た、かつ真実であろうと思われることを申しあげます」
これをドイツ語でしゃべり、登戸記者のために篤次郎が通訳するという風変りな演説であった。
「藤戸子爵夫人は、エリス嬢の見ぬかれたように妊娠しておられます。二タ月くらいだろうということであります。相手は伯爵で……夫人は、夫の親友だと信頼して交際していたところ、暴力で犯されたといわれます。
妊娠の徴候が明らかになった折も折、夫が三年の遊学を終えて近く帰朝することになりました。二人の狼狽と苦悩はいうまでもありません。
善後策を相談するにも、お家柄だけに一方が一方の家をむやみに訪ねるわけにはゆきません。罪の影をひいているだけになおさらのことです。そこでやむなく、伯爵はこのホテルを借りました。
私は、なぜ八十綱伯爵がこんなところに泊っておられるのだろう? と、ふしぎに思ったことがありましたが、そのわけは右のごときものでありました。そして、東京日日の大熊記者が、これまたここに泊っていたのは、今にして思うと、どうやらその醜聞を嗅ぎつけて、伯爵に接触しようと張り込んでいたものではなかったか。その大熊記者がああいうことで亡くなってから、伯爵がこのサロンに下りて来るようになったところを見ると、伯爵もそのことをうすうす知っておられたのではないかと思われる。……登戸君は御存知なかったらしいが」
登戸貞信は、口をポカンとあけたままであった。
「子爵夫人に訊くと、最後の訪問以前にも一度訪れて来たことがあるという。伯爵はこのホテルに来られたものの、大熊記者の眼を警戒してか、精養軒に頼んで、それは深夜裏口から出入したもので、案内者は例の少年従僕であったそうです。
で、二人は相談した。しかしこの問題について、適当な善後策などあるはずもない。夫人は苦しみつつ、空しく帰るよりほかはなかった。
そして二度目の帰途、|つわり《ヽヽヽ》のために急に吐気をおぼえ、狼狽した少年が、外国の女性の洗面所を借りるならだれにも知られることはあるまい、と、とっさにエリス嬢の部屋のドアをたたいたのが、エリス嬢に看破されるもととなったのです」
「……」
「夫人も追いつめられたが、それに劣らず八十綱伯爵も追いつめられた。その結果あの人は、死を覚悟したのです。
それもただ死んで、あとで事実が曝露されては何にもならない。彼の最大の苦しみは、何より八十綱家の名にかかわるものだったでしょう。そこで彼は突然、カール・ナウマン氏にああいう論争をしかけ、日本人の名誉にかけて決闘し、殺されることを思いついたのです」
「……」
「前に波越という記者が、いったん世に盛名を得た人間の信頼性をくつがえすために、あれほど惨澹たる苦心をした事件がありましたが、逆に伯爵は、あとで起り得べき汚名をかき消すには、その前に義人烈士の名をあげておくことだ、と考えられたのではないか。それは介添人に新聞記者の登戸君を選ばれたことからそう推定される。
いかにも日本人が辱しめられたから決闘して死んだ、と新聞に書かれれば、そのあと彼が親友の妻と姦通したという報道はやりにくいかも知れない。また、それがわかったとしても、なお彼は許されるかも知れない」
「……」
「そんなことをやって伯爵が死んでも、子爵夫人は救われないことは同様で、さればこそ夫人は卑怯だといわれたのでしようが、伯爵としては、もうそこまで考えてはいられない心境に達していたのでしょう。とにかく今となってはそれが最後の手段だと思いこんで、あの決闘申し込みとなったが……そのときに至って、エリス嬢から藤戸子爵夫人のことを指摘された。
伯爵は、いったんはそれを黙殺されたが、そのあと、もはやこれまで、と観念して自殺をとげられたものと思う」
小金井良精は沈んだ眼で、登戸記者を見た。
「さて、以上のことをわざわざ新聞記者の登戸君のいる前で私が申しあげたのは、登戸君にこの事実を書いてもらいたくないからです。
それを書くには、登戸君がいまいちど藤戸子爵夫人にたしかめられなければならないが、それは新しい悲劇を呼びかねない。彼女ばかりではありません。近く帰朝する藤戸子爵にとっても怖ろしい打撃となります。のみならず。――」
彼はまばたきしていった。
「私は夫人を、大学産婦人科の同僚に託すことにいたしました。で、これを書かれると、堕胎幇助罪で私もまた罪せられることになります」
登戸記者が何かいい出そうとするのを、良精は眼で抑えた。
「なぜ私がそんなことをし、こんなことをいうか――それは、昨夜、あの八十綱伯爵の少年従僕が、切腹して死んだからであります。自分のふとした行為が主人の破滅を呼んだ、と誤解してその責任を感じたせいかも知れませんが、私の感じでは、それより、殉死のつもりでしょう。……十五歳という年相応の文字でしたが、主人の罪が世にさらされないことを天に祈る、という意味のものでした」
一座には深い沈黙が落ちた。
ややあって、エリスがつぶやいた。
「ほんとうに私は、いらないことをいったものだわ。……」
「先生。……やはりエリスに帰れといわれますか?」
精養軒に近づきながら、篤次郎が訊いた。その翌日の昼前であった。
「船は十七日の午前十時でしょう。すると、どうしても十六日の夜までには横浜にいっていなければならない。つまり、明日ですよ。きょうじゅうに、説得出来ますか?」
小金井良精は黙って歩いている。
「私は、出来ないと思います。……それより、先生、もうこうなったら、エリスさんを日本にとめておいたほうがいいんじゃないでしょうか。やはり、兄と結婚させるのです」
篤次郎はいった。
「僕は妹に、あの娘のことを、どこかボンヤリした、嘘とほんとの見境いもつかないような女で、それで何かかんちがいして日本に来たのだ、といっておきましたがね。そういうことにしておかないと、妹がいよいよヒステリー状態になるのでね。……しかし、エリスがそんな娘じゃないってことは、だれより先生が御承知の通りです。それどころか、あれほど賢くて、洞察力のある娘は、日本人にも珍らしい。あれこそ兄の妻にふさわしい、と、つくづく思いますよ」
彼は涙ぐんでさえいた。
「それに加えて……考えてみれば、四、五十日もかかるヨーロッパからただ一人、文字通り万里の波濤を越えてやって来たあのけなげさ。……あのひとがまた、ただ一人で船で帰ってゆくことは、想像してもつらい」
篤次郎はいった。
「ね、先生、われわれは万難を排して、あのひとを兄貴の花嫁にすることに努力しようじゃあありませんか?」
小金井良精は深くうなずいていった。
「実は私もその気になっていたんだ」
「私、帰ります」
と、エリスはいった。
良精と篤次郎は唖然として相手を眺めた。
「私、日本人が嘘つきだということがよくわかりました。……まともな決闘をしたひとは、一人もないわ! あのオークマ氏を罠にかけたナミコシ氏、マキ、アシナ氏を罠にかけたニシ、アサクラ氏、またこんどのヤソヅナ伯爵ばかりではありません。あの可哀そうな少年のアイジローをも含めて……彼らはみんな死んでしまいました。それも嘘を覆い消すための死です。みんな、何という嘘つきでしょう。私は日本人が怖ろしくなりました」
帽子のひろい鍔の翳で、エリスの顔は青い花のように見えた。
「私、ドイツに帰ります」
翌日――十月十六日の夕方、先月八日に帰国した陸軍軍医正は、精養軒の食堂のテーブルで、エリス・ワイゲルトと相対していた。
二人の間に落ちたしばしの沈黙を、ふと木か何かを打つ音が破った。
「日本は普請中だ」
と、男はぽつりとつぶやいた。
「何もかも。――精神までも」
それは、裏切った男の、許しを請う言葉であった。
エリスは湖を思わせる眼で相手を眺めていたが、やがて凝り固ったような微笑を顔に見せて、テーブルの上のシャンパンのグラスをとりあげていった。
「アウフ・ヴィーダーゼーン」――さようなら。
「アウフ・ヴィーダーゼーン。……」
と、森林太郎もグラスをあげた。その手は人には知れぬほど顫《ふる》っていた。
まだ八時半頃であった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ヴェールに深く面《おもて》を包んだ女を載せた、一輛の寂しい俥が西の方へ駈けて行った。
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横浜オッペケペ
南極探険船出帆す
海のかなたから吹いて来る暁闇の風に、びょうびょうと犬の咆える声がながれたと思うと、六つの人影が駈けていった。
それが、みんな三度笠をかぶり、裾をまくって帯にたばさみ、手甲脚絆《てつこうきやはん》に長脇差の落し差しという――その昔の股旅者そっくりのいでたちだ。
「やっぱり、きゃつらだ!」
「待て、川上。――」
「逃げようったって、そうはさせんぞ!」
彼らのうち三人ばかりは、すでに白刃をひらめかしていた。一人は大きな秋田犬を綱でひいている。犬は耳をさかだてて咆えつづけている。
チョンマゲを結っていないだけで、御一新前と同様な渡世人姿は、明治三十一年のこのころ、たしかに時代錯誤だろうが、彼らに追いつかれた三人の男女は、ほかに見るものがあれば、それよりもっと違和感をおぼえたろう。
男は、肋骨《ろつこつ》のついた軍服に赤い陣羽織をつけ、鉢巻をしめた髯ぼうぼうの壮漢だ。あと二人は女で、どちらも鍔広の帽子をかぶって、十何年か前の鹿鳴館から時空を超えてぬけ出して来たような洋装だが、ただ一方は大人で、一方は十二、三の少女であった。少女は小犬を抱き、小犬は追って来た秋田犬に気づいて、キャンキャンと咆えていた。
そこは、大森海岸沿いの道路であった。
壮漢は立ちどまり、女二人をかばうように両手をひろげた。一方の手に握られているのは、どうやら扇子のようだ。
「綱島一家の衆か」
と、彼はいった。
「いや、まことに申しわけない。が、大夫元お望みの芸当は、川上音二郎、やっぱり出来んと伝えてくれ」
追跡者のむれは、口々にわめきたてた。
「な、何をいやがる。てめえ、五千円ってえ大金を踏みたおす気か」
「ハマで聞えた綱島親分のつらをつぶして、ドロンをきめこもうたアふてえ野郎だ」
「そんなまねをするんじゃあねえか、と見張ってたら、案の定――」
「どこへ飛ぼうと、どこまでも追っかけるつもりでこんな装束をしていたんだ」
「夜逃げするようなら、首ったまをつかまえて、ハマにひきずって来いってえ親分の仰せだ」
「さっ、来やがれ!」
川上音二郎は、あわてて扇子をつき出し、次にそれで自分の鉢巻のまんなかをたたいた。
「待ってくれ。逃げるのは逃げるのだが、ただ逃げるのではない。川上は、金を借りた方々へ――それは港座の綱島長兵衛さんばかりじゃない――おわびのために、みずからを東京お構い、うんにゃ日本お構いにする」
「日本お構い?」
「左様」
川上は大きくうなずいた。
「われわれはこれから南極へゆこうというわけじゃ」
「ナンキョクたあ、どこの町だ」
「日本の地名じゃない。地球の南のどんづまりじゃ。そこを南極という」
三度笠の六人は、狐につままれたように顔見合わせたが、たちまち、
「こ、この野郎!」
「ふざけるにもほどがある!」
と、躍りあがった。あと二人ほど、これも長脇差をひっこぬいた。
「ふざけておるのではない。ほんとうの話じゃて」
川上は大まじめな顔でいって、ふりむいた。
「あそこに待っておるのが、我輩らの乗る船――じゃろうと思う」
三十メートルほど向うに、小さな桟橋らしきものがあり、それに数隻の漁船にまじって、一本の帆柱を立てた船がゆれているのに、六人の男も気がついた。それどころか、まだ夜明け前の光でよく見えなかったが、桟橋の上に一人の男が立っていて、それがこのときこちらに歩き出したのを見た。
「野郎、そんなものに乗って逃げられてたまるか!」
と、こちらはどよめきたち、一人が、
「あいつも来させるな、犬を放せ!」
と、どなった。
綱をとかれた秋田犬は、けしかけられて猛然と、近づいて来る影をめがけて飛んでいったが、そのなかばで、一発の銃声とともに、もんどりうって地面にころがっていた。
川上に襲いかかろうとしていた男たちは、仰天して飛びずさった。一人、尻餅をついたやつもあった。
「ゆけ。いってしまえ。ゆかんと、撃つぞ!」
相手は野太い声でいって、拳銃を前につき出したまま、大股に近づいて来た。
男たちは、わっとさけんで逃げ出した。尻餅をついた男に一人ぶつかって、二人、またころがったが、そのまま抜き身を放り出して逃げていった。
「ありがとう」
と、いったのは、ボンネットをかぶった女だ。少女を抱きかかえるような姿勢のまま、
「福沢さんからの――?」
と、尋ねた。
「左様であります。お申し越しの船は、あそこに運んであります」
と、相手は答えた。すぐそばに立って、拳銃を腰のサックにおさめるのを見ると、海員風の服装をし、川上音二郎も大柄だが、それよりさらに大男で、がんじょうきわまる体格をしている。
「ありがとう。ほんとうにあぶないところだったわ」
と、ボンネットはうなずいて、また訊いた。
「あなた、福沢さんの何?」
「は、目下福沢家の居候をしとります白瀬と申すものであります」
といって、彼はかかとをそろえ、挙手の敬礼をした。
「これからどこへゆかれるか存じませんが、白瀬がお供をいたします」
川上が尋ねた。
「あんた、軍人さんか」
「は、いまは退職しておりますが、元は中尉でありました」
「やっぱりな。海軍でしょうな」
「いえ、陸軍であります」
「陸軍? 元陸軍中尉が、船をあやつる?」
「は、陸軍ではありましたが、私、五年ばかり前の――御存知かどうか知りませんが、郡司成忠《ぐんじなりただ》海軍大尉どのの千島探険に参加して、そのときにヨット式ボートの操練など習得いたしました」
「おう、郡司大尉の千島探険! そりゃ御存知ないどころじゃない。日本男児空前の壮挙じゃと、あのころ感激したもんじゃ」
と、川上音二郎は、たちまち敬意の眼をかがやかしてさけんだ。
「そうか、あんたはその隊員じゃったのか」
郡司成忠大尉――いま世に知られる文士幸田露伴の兄だと聞いている――が、千島列島はれっきとした日本領であるにもかかわらず、無防備状態であることはおろか住む人間もいないありさまなのを残念に思って、まずそこに集団移住して学術調査をし、さらに開拓しようという計画をたてた。その企てが世にひろく知られたのは、千島が人間の住むにたえない極寒の地である上に、その志に共鳴して集まった元海軍軍人ら二十余人とともに、先遣隊として五隻のボートに分乗し、出発したのが東京隅田川であったからだ。
明治二十六年の春三月のことで、結局この壮挙は、途中遭難し、また辛うじて千島に渡ったあとでも隊員の大部分を失うという惨澹たる悲劇に終ったのだが、それではこの白瀬という元中尉はその生残りだと見える。
「しかし、福沢さんも、エライ人を居候させとるね」
「は、私、実は、こんどは北極探険を志しておるのでありますが、そのためいろいろと御援助をお願いしております。ただ、もう少し時節を待て、ということで、いま御厄介になっておる次第で――」
「え、北極探険」
川上はさけんで、そのとたんに自分の用件を思い出したようだ。
「そうだ、我輩は南極探険に出発せにゃならん」
彼は歩き出した。
「中尉に話を聞きたいが、いまはそのひまがない。――船は、あれですな?」
白瀬中尉は眼をパチクリさせた。
「南極へゆかれるのですと?」
先刻の、川上と追跡者との問答は聞いていなかったと見える。もっとも、聞いていたとしても、正気の話とは受取らなかったろう。
追っかけて、
「そりゃ、本気ですか?」
「本気です」
と、川上は答えた。人を喰っているとも思えない、真剣な顔つきであった。
白瀬中尉は、川上の連れの女をふり返った。ボンネットの女は微笑して、首をふった。
「南極はともかく、支那くらいまではゆくかも知れませんわ。……」
中尉は口をポカンとあけた。相手の言葉より、その美しさに魂を奪われたのだ。
次第に明るくなって来た光の中に、その女は、大きな黒い瞳、すっきりとした高い鼻、柔らかなかたちのいい唇、雪をあざむく白い肌――どこか西洋の女めいて、しかもあくまで豊艶な日本女性の容貌であったが、それを川上の妻|貞奴《さだやつこ》と承知していても、武骨な白瀬中尉が、思わず顔を赤らめてドギマギしたくらいであった。
「支那まで」
彼はわれに返っていった。
「それだって、食糧は――米、味噌、醤油などボートに積みこんではありますが、福沢さんのお話では、まあ五、六日分もあればよかろう、ということで――それに、見れば小さいお嬢さんもいらっしゃるようですし、まさか、支那へなんて――」
「でも、私たち、日本にいられない状態なんです」
と、貞奴はいった。
「いまごらんになったでしょう。抜身を持った借金取りに追っかけられるようなありさまで――」
「船に乗ってよろしいな? では、乗るぞ」
と、川上音二郎がふりむいた。彼らは、ボートをつないだ桟橋に着いていた。
白瀬中尉があわてて駈け出して、さきに船へ乗りこもうとすると、川上はそれをおしのけた。
「南極へは、我輩及び家族だけゆきます」
「お待ち下さい。そのボートは、風次第では帆で走るピンネース型っちゅう船ですぞ。素人ではどうにもならんでしょう」
白瀬はいった。
「万一のことがあったら、福沢さんに申しわけが立ちません。どこへおゆきになるか知らんが、ともかく白瀬がお供します」
「あんたの志望は北極で、南極じゃないでしょうが。――われわれは南極へゆくのですぞ」
川上はまだ強情に南極をふりまわしている。それにしても、さっきからの問答の、スケールの大きさよ。
「いえ、そのボートのあつかいは私が知っていますわ」
と、貞奴がいった。
「昔、福沢さんに教わったんです。いまでも何とかなると思うわ」
「あなたが!」
白瀬中尉は眼をむいて、窈窕《ようちよう》たる鹿鳴館型美人を眺め、それからふりむいた。
「あさってが、二百二十日ですぞ。この風をごらんなさい。いや、海の向うの雲をごらんなさい。これはあきらかに台風の前兆です。それを、あなたのような――」
「二百二十日より借金取りのほうがこわい」
と、川上は首をすくめてから、猛然と咆えた。
「心ならずも、こんどは福沢|桃介《ももすけ》さんのお世話になった。が、これ以上世話になることは川上は好まんのだ。ありがた迷惑なんじゃ! どきなさい、どかんか、どけ!」
そのけんまくにおされて、みるからに豪傑然とした面がまえの白瀬中尉も、思わず身をひらいた。川上は威張ってボートに乗りこんだが、たちまち盛大に尻餅をついた。
「桃介さんによくお礼を申しあげて下さいね」
そういって、貞奴は少女を抱くようにして、これもボートに乗りこんだ。そして、船尾の舵のところに腰を下ろした。
川上はやっとオールを握ってかまえている。
「白瀬中尉、綱をといて!」
と、貞奴がいった。
白瀬中尉は――矗《のぶ》という難しい名だ――かつて郡司大尉の千島探険に参加したのみならず、本人がいまいったように、さらに北極探険を志して雌伏中であった。
それが後年、アメリカ人ピアレーによって最初の北極探険が行われると、彼は絶望し、また再起して、こんどは南極探険に望みを転じ、明治四十五年一月――同じく南極征服をめざしたノルウェーのアムンゼン隊とイギリスのスコット隊と先陣を争い、惜しくも敗れたが――ともかくも、ついに日本人として最初に南極の大地を踏んだ勇者である。
そのときでさえ、スコット隊は全滅し、さらに装備劣悪な白瀬隊は、生きて帰れたのが奇蹟といわれたくらいの冒険であったが、これはそれよりさらに十四年も前の明治三十一年の話だ。このとき白瀬は、数えで三十八歳であった。
その豪傑が、いま混乱した顔で、もやい綱をとく。
「われら、いま南極への壮途につく。――しゅっぱぁつ!」
川上音二郎は雄たけぶと、オールを漕ぎ出した。オールの使い方は何とか知っていたと見えて、ともかくもボートは岸を離れた。
白瀬中尉は茫然として見送った。波は、先刻彼がここへボートを運んで来たときより、明らかに目立って高くなっている。そのうねりのかなたへ遠ざかってゆく小さな船に乗っているのが、芝居の役者と元芸者であることを知ってはいるが、彼はどうすることも出来なかった。
明治三十一年九月十日の夜明け方であった。
明治アフロディテ
……その翌々日の午後になっても、船はまだ東京湾の中にいた。
なにしろわずか十三フィートのボートを手で漕いでいるのだから、たとえ波がおだやかであったとしても同様であったかも知れないが、ましてやそれが荒天といっていい海であった。
三百メートル進んでは百メートル吹き戻される、百メートル進んでは五十メートル押し戻される、といったていたらくだ。
ボートには、「寄贈者」からの、米、味噌、醤油のほかに、暫時の食糧として、握り飯、水なども用意してくれてあったが、まだ暑さの残る季節で、そこを配慮したらしく、それは一日分ほどに過ぎず、あとの米は、適時上陸して炊かなければならないことが判明した。
また、こちらも岸沿いに進むつもりであったのだが、その岸がともすれば見えなくなる大洋のまっただ中に押し流される。まる二日半、彼らはただ巨大なうねりの中にあった。
「ああ……ああ!」
川上音二郎は、ボートのまんなかにひっくり返った。
ひっくり返ったが、オールを離しては一大事なので、それを握って肘を張った姿勢のまま、彼は直立した。波に従って、ボートそのものが直立したのだ。
次の瞬間、また波に従ってボートは逆さになり、彼は足を天にする。――この運動を、すでに何万回繰返したことだろう。
直立したときは、洗濯されたばかりの陣羽織が物干竿にぶら下がったようになり、逆に足が上になったときは、水に浮かんだボロキレのかたまりのようになる。
「南極はまだかね?」
川上が下でいった。
「まだ観音崎の燈台も見ないと思うけど。……」
貞奴が上で答えた。
彼女は船尾に坐っていたが、これまた濡れつくしている上に、抱いた少女もろとも綱で縛りつけている。帽子など吹き飛んで、髪は頬にねばりつき、またうしろに吹きなびいている。鹿鳴館美人もあらばこそだ。
少女は音二郎の姪でシゲという。シゲはまた小犬を抱いていた。犬の名をフクという。
昨夜と一昨夜二晩、暗い波濤の中で泣きさけんでいたシゲとフクは、きょうの朝があけて以来、どちらもグッタリと弱り果てて、もう声もたてなかった。
川上が上でいった。
「貞奴、帆はあげられんか。お前、福沢さんから習ったといったなあ」
貞奴が下でいった。
「この風じゃ、だめよ」
二人の声は、その風と波の音でちぎれる。
「貞奴。……お前、ヨットを福沢さんから習ったといったが。……」
しばらくして、川上はまたいい出した。
「海の上で、ただ二人だけでか?」
「そうよ。そのとき、泳ぎも教えていただいたの」
「すると、お前、裸になったわけじゃな」
「まさか。……水着を着ていたわよ」
この場合に、貞奴は笑い出した。
「あなた、何を考えてるの? 何にしてもそりゃ十年以上も昔のお話よ」
「お前を女にしたのは伊藤侯だってことは知ってるが、そのまえにお前……福沢桃介さんと何かあったのじゃないか?」
「ばかね、そりゃ福沢さんはよく遊びにいらしたけど、あのころあのひとはまだ慶応義塾の書生さんだし、福沢諭吉先生の御養子だし……あたしと深い仲なんかになるわけがないわよ」
「しかし、いまもお前が救援を求めりゃ、こうして逃げる船まで用意してくれる。ただの仲とは思われんが」
「あなた、ヤキモチやいてるの? そういえば、この船に乗るときも変なことをいったわね。これ以上福沢さんのお世話になることはありがた迷惑だ、とか何とか……こんどの場合、もし福沢さんがこんな世話をして下さらなかったら、あたしたちどうなったと思うの?」
すずを張ったような眼が、凄艶なひかりをおびて、
「きれいな仲だったからこそ、あたしがお願いし、あちらも助けて下すったのよ。かりに一歩ゆずってあたしとの間に何かあったにしろ、あたし、あなたの女房になってもう七、八年になるのよ。その間、あたしにとって、あなた以外、だれがあったでしょう」
めったに泣かない女だが、さすがに涙声になった。もっとも涙そのものは、潮しぶきのためにわからない。
「だれよりそれは、あなたが御存知のはずじゃないの?」
「いや、あやまる、あやまる」
足を上にして、川上がいった。
「ヤキモチも嘘じゃないとはいわんがね。それよりわしは、お前にすまん、申しわけないという気持でいっぱいでね。伊藤侯でさえデレデレにした葭町《よしちよう》随一の売れっ妓《こ》を女房にしながら、ここ何年かえらい苦労をさせ、あげくの果てがこの夜逃げ……いや、夜逃げというにゃあんまり物凄い、かくのごとくゆくえさだめぬ海外逃亡という惨状じゃ」
これは、しぶきにもかかわらず、大粒の涙がはっきり見えた。
「わしは、お前の運命を誤ったのじゃなかろうか。いい人があったとしたら、そっちにいったほうが、お前は倖せになれたんじゃなかろうか……と、つい考えて、あんなことを訊いた。かんべんしてくれ」
「まあ、あなたらしくもない!」
ゆくえも知らず漂い出した大海のまっただ中で、音二郎の、音二郎らしくもない陳謝の言葉を聞いて、貞奴は笑った。
「こんな話をしているより、さっ、ゆきましょう。南極でも北極でも、あなたのゆくところへ、どこへでもいっしょについてゆくわよ!」
「わかった! とにかく横須賀くらいまでゆこう。――」
と、川上音二郎はうなずき、
「それっ」
と、オールをとり直した刹那、左のオールが何かのはずみで手から離れた。それはあっというまに、波のかなたへ流れ去ろうとする。
「しまった!」
川上は絶叫した。万事休す!
このとき貞奴は、きっとオールのゆくえを眺めていたが、たちまちクルクルと姪とともに縛っていた綱をとくと、例の衣裳のまま、身を躍らせて海の中へ飛びこんだ。
それを見ながら、川上は身動きも出来ず。――
「あっ、貞奴、何をする!」
と、そのあとで声だけが出た。
貞奴はみごとな抜き手を三度四度切ったが、その身体の上から小山のような波が雪崩れかかって、そこはしぶきの坩堝《るつぼ》と化した。
数分、全身を硬直させて見まもる川上の眼に、また抜き手を切る貞奴の姿が、うねりの向うに見えた。
そして、彼女はついにオールをつかまえた。
「ねえさん……ねえさん!」
と、舷《ふなばた》に手をかけて、少女のシゲが金切声をたてる。音二郎の姪だが、貞奴はそう呼ばせているのだ。貞奴はこのとし数えで二十七であった。
ボートと貞奴の距離は、約十メートルであった。
その十メートルが、無限の距離となった。
ボートが近づけば、貞奴がかなたへ流れ去る。貞奴が近づけば、ボートがひき離される。
オールが一本の上、音二郎が素人なのでむりもないが、たとえ二本あったとしても、いかなる熟練者もどうすることも出来なかったかも知れない。
「貞奴、ここだ、ここだ!」
「ねえさん! ねえさん!」
悲叫をかき消す風音、濤声。
実に貞奴が飛びこんでからボートにひきずりあげられるまで、十分以上も要した。ただの十分ではない。たおやかな女の身で、超人的大格闘の十分である。
それでも貞奴は、しっかりとオールをつかんでいたが、あとはそのまま溺死人のごとく船底に横たわった。
「貞奴、しっかりしろ、死ぬな!」
音二郎がゆさぶると、貞奴はかすかに眼をあけていった。
「とにかく、どこへでも岸につけて」
「よしっ」
音二郎は這い戻って、二本のオールをつかみ直した。
が、すでに海は完全な台風の下におかれようとしていた。ちょうど二百二十日だ。怒濤の中に、ボートは木の葉のごとく宙天に巻きあげられ、小石のごとく逆落しに巻き落される。果せるかな、オールを拾っても、もう何の役にもたたないようであった。
「あれは何だ」
風のうなる高い空で、声がした。倉庫らしい建物の屋根の上に立って、ふと海のほうを見た若い男がさけんだのだ。
そこは横浜から海岸沿いに十キロほど南へ下った長浜というところで、小高い山に囲まれてちょっとした平地があり、ここに三、四十棟に及ぶ大小の建物が建てられ、海へ向って二本の長い桟橋がつき出している。
それは「横浜海港検疫所」であった。
もっとも、正確にはまだ開かれてはいない。――明治初年来、船舶の検疫はもっと南の長浦でやっていたのだが、日清戦争以後、すぐそばの横須賀を軍港として拡張するため、その設備を移動する必要が生じ、さきごろからこの長浜に新しく建設中のもので――それらの建物は将来検疫所はむろん、船客の待合所、宿泊所、食堂、浴場のほか、伝染病院、屍体安置所、火葬場、倉庫などになるはずだが――建物の大半は、まだ工事中であった。
来航する船は、ここで検疫を受けたのち、改めて横浜に入港することになる予定である。
そこへ、東京の北里伝染病研究所の所員がきのうやって来た。彼は来年この検疫所がひらかれたら検疫官として赴任することになっている若い男で、自分の勤務する細菌検査室の工事状態を見に来たのだが、この日、強風を案じてあたりを歩きまわっているうち、手にしていた設計書を風に吹き飛ばされ、それが、あっというまに、ある一棟の高い屋根にひっかかった。
で、梯子をかけて屋根に上り、ふと海を見て、さけび声をあげたのである。
「こんな嵐に、海にボートを出しておるやつがいるぞ。……三人、人間が乗っておる!」
大工や人足が下に集まり、数人屋根に上って来た。
「やあ、ほんとうだ!」
「あれは馬鹿か、きちがいか」
「おや、一人は女で……一人は女の子じゃあねえか!」
「三人とも、動かねえ。女は倒れてるし、男も坐ったきりで動かねえよ!」
男たちは騒ぎたてた。
ボートは、つき出した桟橋の向う、五十メートルばかりのところを怖ろしい落差で上下していた。が、乗っている男は、もうオールを使ってそこに近づく気力もないらしい。だいいち、おしよせる波が砕けて数メートルものしぶきをあげている桟橋は、近づくとかえって危険だ。
「助けてやれ」
と、北里研究所員がいった。
「女、子供もいる。放っとくわけにはゆかん」
彼は屋根の上の男たちを見まわし、それがみんな鼻白んでいるのを見ると、下に集まった連中を見下ろして、
「だれか舟を出して、助けにゆくやつはおらんか。やってくれた者には、十円……いや、五十円やるが」
と、さけんだ。
下でもみんな顔を見合わせていたが、その中で、二、三語ささやき合い、
「おらがいって見る」
と、駈け出していった者が、二人あった。――あとでわかったところによると、それは近くの漁師で、この建築現場に日傭いで働きに来ていた男たちであった。
……彼らが、沖からそのボートを舟で曳いて岸にたどりついたのは、それから一時間ばかり後であった。ボートは、それまで沈まなかったのがふしぎなくらいなかば水が満ち、女の頭部はその水に洗われていた。それを見ながら、他の二人はどうすることも出来ないありさまであった。
岸まで迎えた北里研究所員は、その遭難者の男の陣羽織を見て、
「おや、あんたは……壮士芝居の川上音二郎さんじゃないですか?」
と、さけんだ。
「僕はあんたの芝居を見たことがある。――」
人夫に両肩かつがれた髯だらけの大男は、ただがくがくと首をふっていた。うなずいたのか、ただ物理的にゆれたのかよくわからない。
所員は、完全に気を失っている女を見ると、自分の上衣をぬぎ、まるめて地面におき、その上に女の上腹部があたるようにうつ伏せに横たえ、背中を強く押した。女の口から水が吐き出された。
が、次に女を仰向けにして、口をあけさせ、胸を摩擦したが、女の失神はさめなかった。
「いかん、一刻も早く人工呼吸をやらんけりゃ。……あそこへ運べ!」
と、うしろをふりむいて彼はさけんだ。
人夫たちは、その女性はもとより、男と少女と犬も抱きかかえて、いちばん手近かの完成した建物に運んでいった。
それはさっきその屋根に上った一棟で、将来倉庫になる予定だが、まだ板切れやかんな屑やむしろなどが散乱しているだけの、がらんとした建物であった。
そこへかつぎこむと、女性をむしろに横たえ、所員は川上を見た。
「これから人工呼吸を試みますが、よろしいですね?」
「たのむ。……たのみます!」
と、川上音二郎は、あの世からのもののような声を出した。
聞くやいなや、所員は失神した女性のそばにひざまずき、その衣服の胸をビリビリとひき裂いた。
みな、声にならないどよめきをあげた。その行為は、身体にピッタリ貼りついた衣服を除いて胸廓の動きを楽にするためにちがいないが、あらわれ出でた雪のかたまりのような乳房の美しさには、こっちのほうの息がとまりそうな気がしたのだ。
それも当然。――西洋の美神アフロディテ、別名ヴィーナスは海の泡から生まれたと伝えられる。そんなことは知らないけれど、彼らはまさしくそこに、日本のアフロディテ、川上貞奴のあらわな乳房を見たのである。
明治ドン・キホーテ
北里研究所員は、こんどは人足たち数人の半被《はつぴ》や襦袢をぬがせ、まるめて床におくと、その上に仰むけに貞奴を寝かせた。で、彼女は乳房を天に盛って、弓なりの姿態を横たえた。
彼は貞奴の垂れ下がった頭のほうに坐り,両腕で貞奴の両腕を――肘の上をつかんだ。そしてグイと頭の上にひきあげ、ついでその腕を貞奴の胸の上に戻して押えつけた。
この運動を一分間に十回くらいのリズムで繰返した。
人足たちはもとより、川上もこれを茫然と眺めていた。川上は板壁にもたれ、両足を床に投げ出して坐ったままであった。声にはならなかったが、ときどき髯の中の唇が動いた。それは、「貞奴、生き返ってくれ、貞奴、生き返ってくれ。……」と、のどを痙攣させていたのであった。
このとき、窓ガラスが音をたて出した。ようやく風に雨がまじりはじめたのだ。が、みんなそれにも気づかず、ひたすらこの美女のいのちなき体操を見つめている。
ただ、このとき、これをやらせている北里研究所員の異様な左手に気づいた者があったか、どうか。――
その手は、親指と中指が見えず、ほかの三本も鉤《かぎ》のように折れまがったままの、一見したところではスリコギみたいな手で、ここへ来て以来、彼はそれをいつもポケットにいれているか、背にまわしているか、とにかく人には見せなかった。それも実に自然な動作で、そのことを怪しんだ者もほとんどなかったから、彼がいまその手を現わして、女の腕を握ったり、胸を押したりしていることに、特に注目した者はなかったけれど。――
それより男たちは、ただその女性が蘇生するかどうかが心配であったのだ。それから……ひたすら見とれていたのだ。なにしろ、それは美しかった。美人にも人それぞれの好みがあるだろうが、客観的に見て川上貞奴は、明治以来現代に至るまでの日本の美人ベストテンには、充分はいる資格のある大美女といっていいだろう。
いちど所員は、「……しめた」とさけんで、彼女の乳房のあいだに耳をおしつけた。
が、すぐに、「いかん」と、つぶやき、それから右の体操をやめ、あわてて立ちあがって、彼女の横にまわった。
「……あ!」
壁にもたれていた半死の川上音二郎が、思わず声をあげたのも無理はない。――
なんとその所員は、貞奴の上に身体を重ね、顔を重ねて接吻したのだ。
「な、何をする」
もがいて、立ち上ろうとして、音二郎はまた尻餅をついた。
所員は口を離していった。
「こりゃ、息を吹きこんどるのです」
そしてまた、失神していても魅惑的な貞奴の口に、自分の口をおしつけた。
そういえば、ふつうの接吻のようではない。大きくひらいた貞奴の口からたしかに息を吹きこんでいるようだが。――
その男を、どうやら医者らしい、と川上は見ていたが、いま、医者にしては粗野過ぎると、感じた。はじめ、二十過ぎの若い男と見ていたが、ひどく女ずれしている中年男のようにも感じた。長い髪が波を打って、広いひたいの上で猛烈にゆれている。まるで貞奴を喰っているようだ。……何にしても、夫として、長く見ていられる光景ではない。
川上が、ほとんど泣き顔になって、そっちへ這い寄ろうとしたとき、
「や!」
口を離して、その所員がさけんだ。
「心臓が打ちはじめたぞ!」
そして、またかぶりついた。
数分のうちに、蝋のような貞奴の頬に赤味がさして来て、次第に胸が起伏しはじめた。……
「やった、やった!」
「よかった、よかった!」
人足たちは狂喜した。
川上が這い寄り、貞奴を抱きしめてその名を連呼し、貞奴がかすかな声で、「ああ、あなた」という声をもらしたとき、その所員は立ちあがって、人足たちに、大至急お粥を作ることを命じていた。
川上音二郎は、床の上から、両掌を合わせてその男を拝んだ。
「ありがとう、ありがとうござる! よくここまでやって下すった!」
「いや、僕は医者だから、当然のことです」
「お名前を……なんとおっしゃる方で?」
「僕は野口英世っていうもんですが」
彼はふしぎそうに音二郎を見た。
「それにしても、あなた方は、どうしてまあ、こんな日に海へ?」
川上音二郎が借金取りに追われて嵐模様の海へ逃げ出すに至った顛末を語る前に、彼の履歴をざっと述べておこう。
川上音二郎は、筑前博多の生まれだが、明治十一年、十五歳のとき、継母に虐待されて家出をして、無賃で船に乗って大阪へ来た。船員に見つかったのだが、少年なので大目に見られたのである。
それから東京に来たが、一文なしで、空腹のあまり芝増上寺でお供えの仏飯を盗み食いしているところをつかまったのだが、これまた許されて増上寺の小坊主になった。どこか憎めない天性があったらしい。
ここで、散歩中の福沢諭吉と知り合う機会があって、その学僕になった。――当時、福沢家には彼より四つ年下の桃介という養子がいた。彼がのちに福沢桃介にいささかこだわるところがあったのは、ただ貞奴の初恋の男となったらしい、ということばかりではなくこういう縁があったからだ。
地味な学僕は性《しよう》に合わず、彼はまた飛び出した。そして裁判所の給仕をやったり、巡査になったり、さらに大道の蝙蝠《こうもり》直しまでやったりした。
そのうち日本の青年を熱病のように風靡した自由民権運動時代が来た。彼はこれに飛びこんだ。
音二郎は「自由童子」と名乗り、主として関西で政府攻撃のアジ演説に駈けまわった。そのために百八十回も検挙され、奈良の監獄に一年もはいる羽目になったが、彼はこの運動ではじめて魚が水を得たような人生の快感を味わった。
やがて、政治演説が禁止されると、寄席《よせ》でフランス革命などをたねとした政治講談をやり出した。このとき彼は講釈師や落語家の芸を学んだ。さらに、民衆に自由民権の思想を吹きこむためには芝居のほうが効果的だと知って、大阪で歌舞伎の弟子となり、やがて改良演劇と称して一座を組み、独特の芝居をやりはじめた。いわゆる壮士芝居である。
板垣遭難劇とか、佐賀暴動記とか、主旨はともかくそれは芝居とはいえないような内容のものであったが、このとき彼がショーとして幕の前に出て、黒木綿の筒袖に小倉の袴、それに古着屋から買って来た赤い陣羽織を着、白鉢巻に日の丸の軍扇をふって、
「権利幸福きらいな人に
自由湯をば飲ませたい
オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポーポー
かたい裃《かみしも》、かどとれて
マンテルズボンに人力俥
いきな束髪、ボンネット
貴女に紳士のいでたちで
うわべの飾りは立派だが
政治の思想が欠乏だ
天地の思想がわからない
心に自由のたねをまけ
オッペケペッポー、ペッポーポー」
あるいは、
「不景気きわまる今日《こんにち》に
細民困窮かえりみず
目《ま》ぶかにかぶった高帽子
金の指輪に金時計
権門貴顕にひざをまげ
芸者たいこに金をまき
内には米を倉につみ
同胞兄弟見殺すか
オッペケペッポー、ペッポーポー」
などと歌ったのが、意外に人気を得た。それどころか観客を熱狂させた。――芸能の世界には、えてしてこんなことがある。
むろん御難のときもあったが、他の類似の壮士芝居はたちまち消滅したのに、川上一座ばかりは命脈を保ち、ときには、人気の点では大歌舞伎すら顔色なからしめるようなこともあったのは、ひとえにこのオッペケペッポーのおかげであった。
しかも、そのうち演技力さえ馬鹿にならないものになった。せりふのやりとり、絶叫、格闘など、歌舞伎とは別世界の迫真力があって、観客を泣かせ、笑わせ、感動させるのだ。
この川上音二郎が、葭町随一の――おそらくは東京一の美妓貞奴を獲得したのが、明治二十四年のことだ。
そのとき貞奴が、「まさか一生役者をしてはいないだろうと思いましたので……」と、あとでだれかに話したということを聞いて、音二郎は苦笑したものだが、だから彼女が役者としての川上に惚れたのではないことはたしかだ。また、そのころなおオッペケペーなど歌っていたのだから、彼の芝居は自由民権を鼓吹するための手段に過ぎないと見られてもしかたがない。貞奴は、自分が政治家にでもなると思っていたのだろうか、と音二郎は考える。
そのうちに日清戦争がはじまると、彼はただちに「壮絶快絶日清戦争」とか、「戦地見聞日記」などいう戦争劇を仕組んで大当りをとった。あまりの評判のため、当時すでに日本一の檜《ひのき》舞台といわれていた歌舞伎座が彼に請うて、「威海衛《いかいえい》陥落」を上演したくらいである。
自由民権と戦争謳歌劇とは矛盾している、と思うのは後代の考え方であって、当時のいわゆる民権運動の壮士たちは、同時に猛烈なナショナリストであった。
というより、川上音二郎の場合は、実はどちらも自分の芝居のたねにしか過ぎなかったのだ。
ついでにいえば明治二十八年、当時まだ無名にひとしかった泉鏡花の原作「義血侠血」を「滝の白糸」と改題してはじめて上演したのは川上一座だ。改題はともかく上演そのものが無断で、そこで鏡花の師匠紅葉から厳重抗議を受けて新聞に謝罪広告を出させられているなど、いかにも川上音二郎らしい。もっともこの原作に眼をつけたのもプロデューサー川上の有能さの証明といえ、この芝居がのちに壮士芝居の後身たる新派劇の十八番となったのも無理はない。――ちなみにいえば、ヒロイン滝の白糸はむろん女形によって演じられた。
ともあれ貞奴を女房にしたころはまだ何かの手段に見えた芝居が、いまや彼の人生の大目的となっていたのである。
貞奴もいまはそれを理解している。そして、思いこんだら他の一切をかえりみず突進する音二郎の性格も理解している。
というより、そもそも最初に彼女をとらえたのは、その音二郎の気性であったのだ。
二年前、神田三崎町の原っぱに、五万円という大借金をして、千人の椅子《ヽヽ》席を持つ、自分の劇場「川上座」を建てたのも、その猪突猛進の現われであった。さらに、盛大な落成式のために一万円を借りいれた。
それが、いまの大難のはじまりであった。
「新しい芝居」を志向する彼は、フランス喜劇を試みて、これがさんざんの不入りであった。
そしてこの夏、衆議院の総選挙に立候補して、落選した。これは彼の政治好きの初心がヒョイと出たのと、劇場建設、芝居の失敗による債権者に対する信用を回復する目的からであったが、そのためにまた選挙費用を借り、落選によって、いよいよぬきさしならぬ大借金を背負う羽目になった。
川上座は差し押えられた。大森の自宅も差し押えられた。座員の大半は四散した。
川上の芝居ばかりでなく、彼の人生行路そのものに以前から投げられていた、山師、ハッタリ屋、ホラフキ、ガムシャラ男、ムチャクチャ野郎、などいう悪口は、みるみる大ラッパと化して、もろに吹きかけられた。
このとき彼は、横浜の港座に出演する約束で、前金として五千円を受取った。ただし、特別の条件があった。
それは必ずオッペケペーをやり、しかも川上のみか、貞奴にも同様の服装をさせて、かけあいでやらせるというのだ。
――訊くと、川上座の落成式のとき、余興として貞奴が娘道成寺を踊った。――それをたまたま横浜在住のあるアメリカ人が見ていて、あれなら舞台に立てる、そもそも演劇に女形を使うなどグロテスクだ、女役には女を使うのが当然だ、あの女性なら充分その資格がある、と吹きこんだのがもとらしい。
これは当時の日本の芝居としては実に革命的なことで、港座の大夫元もそこまでは飛躍出来ず、ただ貞奴にオッペケペーをやらせるというアイデアに転化してこれを申しこんだ。
苦しまぎれに音二郎は独断でこれを承諾して、前金を受取った。
ところが、いざとなると貞奴が、いやだ、絶対にいやだ、といった。女が芝居に出る、などということは前例がない――いや、それならばまだしも、ドサまわりといっていい横浜の小屋で、オッペケペーのかけあいなどはいやだ、と強烈な拒否反応を示した。川上座落成式のときの娘道成寺とはまったく意味がちがう、というのである。
――ところで、これは後の話になるが、この翌年彼らはアメリカに渡ったが、あちこちの劇場で出演をことわられることが多く、その最大の理由が女形というものにあることを思い知らされることになる。一座は餓死寸前の状態となり、進退きわまって音二郎が思い出したのが、このとき強制された貞奴出演の一件であった。かくてついに貞奴はアメリカの劇場の舞台にはじめて立ち、日本における女優第一号となるのだが、絶体絶命の場に追いこまれたのは同様だが、このときはまだそこまで踏み切ることは出来なかったのである。
妻に対する自分の力を信じつつ、豪快な川上が、それでも貞奴という女を自分の妻にしたことを、奇蹟のように思っている。彼は妻の拒否を説得出来なかった。
さて、ところがその相手が悪かった。
だいたいこのころ、芝居小屋の興行師などまともな人間は珍らしかったのだが、その港座の経営者が、横浜のばくち打ちの親分、綱島長兵衛なる人物であった。
五千円という金はもらった、それは使ってしまった、お望みの芸当は出来ない、では通らない。
すったもんだの交渉の後、大森にあった川上の家は――すでにこれも差し押えられているが――日夜、綱島一家の乾分《こぶん》に監視される羽目になり、そこで進退きわまった貞奴が、旧知の、いまは電力業界、セメント業界などの少壮実業家となっている福沢桃介にひそかに助けを求め、かくてボートによる一家の脱出騒ぎとはなったのだ。
実は川上音二郎は、たとえ貞奴にオッペケペーをやらせて港座の件を片づけたところで万事解決とはゆかない、ほんとうに日本から脱出でもしなければどうにもならない満身創痍の状態にあった。
それにしても、二百二十日をひかえた海にボートで乗り出すとは。――
陸の難破船
海にはすでに来ていた二百二十日の嵐は、ようやく本格的に陸にも吹きたけりはじめた。その夜一夜、工事中の検疫所の建物は、ぜんぶどうかなるのではないか、と心配になるほど、雨と風が荒れ狂った。
お粥を食べると、あとは昏々と眠りつづけた三人の遭難者と一匹の犬にとっては、半失神の状態がかえって倖せだったろう。
あくる朝、蒼い秋が来た。海は嘘のように凪《な》いだ。
「いや、えらいお世話になりました」
改めて、川上音二郎は頭を下げた。
「まったくあなたは命の恩人です。ここでお礼らしいお礼が出来ないのが残念ですが、海が静かになったようなので、これからまた出発します」
「えっ?」
野口英世は、あっけにとられた。
「どこへ?」
「南極へ」
「南極って……北極の反対側の、あの南極ですか」
「左様」
「そんな馬鹿な……あんなボートでゆけやしませんよ」
「ゆけようとゆけまいと、ゆかなきゃならんのです」
貞奴がそばから、自分たちは大借金の山を背負って、いま日本にいるにいられない状態であることを告げた。
「借金なんて、払えないものは払えないんだから、放っときゃいいじゃないですか」
と、野口は気楽なことをいったが、その借金の大どころがこの横浜のやくざの親分で、げんにボートに乗る直前にも、そこの乾分に抜身で追っかけられた始末を話すと、眼をまるくして黙りこんだ。
「あ! ここは横浜のすぐそばですってな」
音二郎は顔色を変えて、
「それじゃ、われわれのボートの漂着したことが、綱島の親分の耳にもうはいっとるかも知れん。こりゃ、すぐ出発せんけりゃ。……」
と、あわてて立ちあがった。
南極はともかくとして、彼らがここに長くとどまってはいられないことを、やっと野口も認めた案配であったが――ふと、横に眼を移して、
「しかし、どこへゆかれるにしろ、この海へ、あんな子供さんまで連れてゆかれることはありますまい」
と、そこにつくねんと犬を抱いて坐っている女の子を見やった。
「ああ、それはそうでありますな」
音二郎は虚をつかれたような表情になり、貞奴としばらくヒソヒソ話をかわしていたが、やがて向き直って、
「まことにおっしゃる通りです。あれは私の姪でシゲと申すものですが、家にひとり置いてけぼりにすることも出来んので、いっしょに連れ出しましたが、いや泣かれて困りました」
と、頭をかいた。
「この子と犬はここに置いてゆきましょう。いや、ここというわけにゃゆかん。……どなたか、東京にゆかれる方はおありにならんか」
「僕がきょうにも帰るつもりですが」
と、野口がいった。
「それじゃまことに相すまんですが、この子を届けてもらえんでしょうか」
「どこへです」
「私の一座の女形で藤沢浅二郎っちゅう男のところへ、といいたいところだが、一座解散して、おたがいの連絡もとりかねる状態で、実はいまその居どころがわからんのです。そこでいま考えたのですが、こうっと……左様、東京新聞の記者に岡本綺堂ってえ方がおられる。記者とはいうものの、劇評家です。まだ二十歳《はたち》半ばのお若い方ですが――」
「東京新聞の岡本綺堂」
「あんまり年輩の方だと事が大袈裟になりそうで、こういう用件はやはりお若い方のほうがよかろうと思う。そこへ連れてって下さると、新聞社だから、藤沢の居どころもつきとめて下さるんじゃないかと思います」
話の途中で少女のシゲは、自分の身のふりかたがどうなるかを知って、シクシク泣き出した。それを貞奴が、懸命にいいきかせる。
「だって、海へ出ると、またあんなこわい目にあうのよ。それでもいいの?」
野口が声をかけた。
「川上さん。……承知しました。で、あんたが南極へゆこうと北極へゆこうとそりゃかまわんですが、奥さん同伴はひどいと思う。奥さんも置いてったほうがいいんじゃないですか?」
音二郎と貞奴は、顔見合わせた。ややあって、貞奴が微笑していった。
「あの船はねえ、ヨットにもなるんです。だから舵とりがいりますし、また帆をあげるのも私じゃないとだめなんですよ」
結局、川上音二郎と貞奴は、またボートに乗って海へ乗り出した。
川上の強情我慢ぶりは、芝居の世界では知る人ぞ知るであったが、それを知らないこの横浜の大工や人夫たちも、きのうのあやうく死にかけた遭難ぶりを見ているだけに、ただ口アングリと見送るばかりであった。
「たいへんなひとだなあ。……」
小犬を抱いた少女の手をひいた野口は、吐息とともにつぶやいた。
「おじさんのこと?」
と、シゲが顔をあげた。
「いいや、おばさんのほうだ」
と、野口はいった。その眼には、驚嘆というよりむしろ恍惚の光があった。
――と、そのとき、その恍惚を現実にひき戻そうとするものがあった。
「ええ、先生」
ふり返ると、二人の土方だ。
「まことに恐れいりますが、ちょっと心配になってお尋ねするんですが。……」
「あの二人を助けたら五十円やるというお話でしたが、ありゃほんとのことでしょうね?」
野口は、きのう決死の覚悟で、川上たちを救いにいった二人の漁夫の顔を見た。しかし彼は現実にひき戻されなかった。
「ああ、お前らか。ありがとう。あんな美人を救ってくれてありがとう。これはお前たち一生の想い出になるよ。しかし、もしそんな金をもらってみろ、せっかくのそのいい想い出が壊される。無償であんな美人を助けたからこそ、それがかけがえのないいい記憶になるんだよ。わかるかね?……」
相手が二の句もつげないほど、恍惚たる表情であった。
しかし、川上夫婦は、まさしくたいへんな人物だったにちがいない。
結局彼らは、そのボートで――たとえ吹き戻されたとはいえ、二日半かかって東京から横浜までしかたどりつけなかったボートで――なんと、神戸までいってしまったからである。
もっとも途中では、貞奴の働きで帆もあげて走ったにはちがいないが、それにしてもやはりいのちがけの苦労をした。
のちに川上は、これ以後の海難について、次のように述べている。
「――名にし負う遠州灘では、南の大暴風でひどい目にあいました。
仕方がないので、三日間錨を下ろして、洋中に漂うて、風の変るのを待っていましたが、なかなか変りそうにもない。エエやッちまえというので、風の吹く方向にまかせて、帆を充分に張ってぶッ放すと、船は矢を射るように、北の陸の方へ向って走ったが、とうとう天竜川の砂原に乗上げて、大破損をしました。あとで思えば船の破損より二人の命の助かったのが、不思議なくらいと思われた。
遠州灘よりまだ困難をしたのは、紀州灘の潮の岬です。ここは第一番の難場で、普通の小蒸気などではとても駄目です。
私どもが乗ってるのは、わずか十三尺のボートだから、却《かえ》って自由に操つりやすい。まかり間違ッて沖へでも出たらそれッきりだから、岸へ岸へとくッついて、ようよう岬の鼻まで漕ぎつけて、そこを回ろうとすると、山のごとき大濤と、岩をちぎるような風がやって来て、たちまち後へ戻される。そういう風に、一丁行っては打ち戻され、二丁行っては吹返され、わずか七八丁のところを、一日かかって、ようよう、ようようのことで通り越しました。
以上が、相、遠、紀の三大難で、三度死地にはまって三度命を拾うたという苦心惨憺たるお話である。それから一直線に淡路島へ渡って、由良の燈台の下へ船をつけて、無事に神戸に着いたことは着きましたが、このため身体が非常に弱って、とうとう血を吐いて当分入院しました」
ホラフキ音二郎という異名をとった川上で、たしかに大言壮語の傾向もあるけれど、彼にしてみれば、いままで全然虚偽の意味でホラを吹いたつもりはない。
ただ、それまで世間になかったことを――この時代に、素人《しろうと》ばかりの壮士で、いわゆる歌舞伎ではない劇団を作るとか、自分の劇場を建てるとか、代議士に打って出るとか、あとの話になるが、アメリカ、ヨーロッパにいって芝居をやるとか、自分の女房を日本の女優第一号に仕立てるとか、世人があっと眼をむくようなことを思いつき、宣言し、そしてその目的のためには他事をかえりみない言動が、そんな形容をかぶせられるもととなったのだ。
で、南極へゆくというのも、彼としては、ほんとうにそこにゆきたい――そこへでも逃げ出さなければおさまりがつかない、という心情にいつわりはなかった。大森海岸を出で立ったときは、半分以上本気であったのだ。
が、むろん、不可能なことは知っている。それでも、少くとも朝鮮から支那沿岸をさまよって来るぐらいは覚悟していた。
それからあと、どうするか。それはお先真っ暗だ。
ただ、そんな評判がたてば、債鬼たちも、同情はしてくれないまでも、呆れ返って少しは追及の手をゆるめてくれるだろう――それもあてには出来ないけれど、いまとなってはこの手以外に何の逃避手段もなかった。
しかし、神戸でこの雄図は挫折した。船は修繕不可能なほど破損し、彼は入院する羽目になってしまったのだ。
ところが川上の、この千番に一番の冒険遁走の試みはやはり無駄ではなかった。
彼のボートがボロボロの三角帆をあげて、神戸の港にたどりついたとき、岸壁には数百人の見物人が待っていた。――
川上音二郎のムチャクチャな出帆が東京の新聞に出て、それが関西の新聞にも伝えられていたのだ。
大森を出るときはただ逃走の一念が先に立っていたが、頭の一部に、何とかこれが評判になるのも一つの手だ、という考えがあって、それで横浜で姪を残すことになったとき、念のためわざわざ、ちょっと知っているだけの新聞記者に託するというアイデアがふっと浮かんだのだが、それが図に当ったらしい。
川上がまた山師とか売名屋とかいう別の異称も持っていたのは、こういう才覚、かけひきの能力の持主だったからでもある。
彼が神戸に漂着したという報道を読んで、いちど解散した一座の連中が駈けつけて来た。その中には、シゲを無事あずかっていた女形の藤沢浅二郎もいた。
こんな評判を聞いて、これは商売になる、と見込んだのだろう、まだ入院中の川上のところへ、地元の神戸の興行師から、ひとつここで芝居をやってくれという申し込みがあった。
土肥嘉助という、大黒座という小屋の経営者で、以前は大阪の千日前で見世物の興行をやっていた男であった。千日前は御一新まで磔《はりつけ》や獄門のあった刑場跡で、だれも商売をやるのに二の足を踏んでいた土地だが、明治初年にそこに見世物小屋を出して一代の財を築いたという人物で、その凄みはむろんとどめてはいるが、いまはまずまずいい好々爺《こうこうや》となっていたが、これが右の談合中に、
「実は横浜の綱島から回状が来とるんやが、そっちにはわてから挨拶しとくで」
と、ニコニコしていった。
川上がいっても劇場には出すな、という回状だろう。ひょっとしたら、ひっくくって横浜にまわしてくれ、くらいは書いてあるかも知れない。
「それやから、あんたはんもいまんとこ、小《ちい》そうなってたほうが利口やで」
と、川上一座の出演料を、それまでの相場の半分ほどに値切った。
考えた末に、音二郎は承諾した。だいぶ落着きをとり戻して、とにかくこれで再起のきっかけをつかむよりほかはない、と思案したのだ。少くとも、債鬼たちの反応が見られるだろう。
大黒座での芝居は、十二月一日からはじまった。
さて、その出し物だが――「楠公桜井の別れ」と例のオッペケペーであった。楠公のほうは川上自身のアイデアで、地元の湊川は楠公討死の場所だからだ。その上、彼は自分の破損したボートを大黒座の前に運んで来て、すえつけた。
ころんでもただでは起きぬ根性だが、実は彼には、役者としてよりも、こんな興行師的なセンスがあった。それも山師と呼ばれたゆえんだが。――
それやこれやで、この芝居は大変な大入りであった。
むろん東京方面の債権者が何人かやって来たが、「こういうわけで再出発したので、借金は追い追い返すから」という音二郎の弁明に、鶏を殺してしまってはモトもコもないという判断で、ひとまずはみな胸をなでさすってひきあげていった。ただ、ふしぎなことに、横浜港座の綱島長兵衛からは何もいって来なかった。
のみならず――別に、天からふって来たようにうまい話が舞いこんで来たのだ。
それが、実に奇想天外な話で――アメリカに芝居をしに来ないか、というのだ。
ちょうど移民の世話で帰国していたアメリカ在住の光瀬耕作という弁護士が持ちこんで来たもので、アトランティックという町で日本式公園や茶屋を経営し、盆栽など売って大成功している櫛引弓人《くしびきゆみと》という人物がある。これが以前から、渡米して来る日本の旅芸人などの面倒を見ていたのだが、こんど光瀬が帰国するについて、ひとつ日本の芝居の一座を連れて来てもらいたい、その選択は君にまかせる、と依頼した。しかし歌舞伎はあまりに向うの演劇とは異質で、かつ容易に応じてくれる役者もありそうになく、どうしようかと迷っていたところに、たまたま川上の芝居を見て、これだこれだ、これならアメリカ人にもわかる、と手を打った、というのであった。
聞いて、川上音二郎の眼はかがやいた。
化かしあい
――いま大黒座では当っている。
しかしそれは、あの苦しまぎれの冒険的逃走の評判から客が来ただけの話で、この次、神戸以外のどこで芝居をやるにしろ、その御利益がいつまでもつづくとは思えない。
しかも、これからドサ廻りをつづけて、いつになったらあの大借金から解放されるか、考えると気も遠くなるようだ。また債権者も、いつまでもおとなしく待っていてくれるとは期待出来ない。特に、あの綱島が、何ともいって来ないのが、かえってうす気味が悪い。
ここで、アメリカにゆく! アメリカまで追っかけて来る借金取りはいない。
しかもだ。そこで芝居をやる! 必ず当てて見せる。日本でも、いままでなかった芝居をやりはじめたおれだ。向うでも、きっと青い眼の連中が面白がる芝居を作って見せる。大もうけをする。
しかもだ。アメリカで成功して金箔をつけて帰朝すれば、こんどの御利益は半永久的なものになるだろう。借金はこれで返せる。あの大借金を返すにはそれ以外に法はない。借金を返すのみか、川上一座の前途は洋々たるものだ。
「承知しました」
と、音二郎は快諾した。
「それで、いつ?」
「劇場の関係で、向うじゃ来年六月を予定しておるのですが」
と、光瀬弁護士は答えた。
「ですから、五月下旬ごろにあちらに着くようにして下さればいいのです」
思いのほか期間があるので、川上はかえって拍子ぬけがした。しかし、それはこちらが急に迫っているからで、常識的にはそんなものかも知れない。
ただ、そのあとで、こんな問答があった。――
「その渡米費ですが」
川上はごっくり唾をのんで、
「いま、私の一座は、私ども夫婦を除いて役者が十人、そのほか裏方、囃子方など――私どももいれると合わせて十九人いますが、その船賃は前もって出していただけるのでしょうな」
「いや、それがね」
と、光瀬はいった。
「これは櫛引さんの特に念をいれておっしゃったことですが、来てくれる一座は、とにかくアメリカまで自費で来てもらうようにしろ、ということで――これはあなたには失礼な話かも知れませんが、実は櫛引さんはあちらで幾組かの日本の芸人とつき合われた結果、前金とかそれに類するものを渡されて、何度か痛い目におあいになったらしいのですな。で、片道切符でいいから、とにかく自弁で来てくれれば、むろんその費用はあとで支払う、と、おっしゃるのですよ」
音二郎は、上眼づかいに相手を見た。――はてな、この人物はおれの「前科」を知ってこんなことをいうのかな?
相手は笑顔で、しかしキッパリという。
「それくらいの誠意、意気込みを持つ一座じゃないと、来てもらっても成功するはずがないと。――どうです?」
これはえらいことになった、と川上は心中に当惑した。
来年五月まで、どうしてつなごうか、という心配が生じた上に、一座十九人の渡航費を作らなければならないとなると、いまのところこれは相当以上の難題だ。
音二郎は、ちらっと貞奴を見た。――この交渉は、彼らが泊っている宿屋で行われたのである。
――やりなさい!
と、貞奴が眼でいった。
「わかりました。それではこちらの力で参りましょう」
と、川上はうなずいた。
実は彼もその決心をかためていたのだ。そのほかに、現在の運命を切りひらく法はない、と考えていたのだ。
怖ろしく細かい契約書をかわし、光瀬弁護士が帰ったあとで、二人は話し合った。貞奴の意見は、先刻の眼の合図の通りであった。
「それにしてもあの人は、わたしたちの前歴を知ってああいう条件をつけたものかな?」
「さあ、どうかしら?」
貞奴は首をかしげた。
「でも、たとえ知らなくっても、あんな注文をつけるのも至当だと思うわ。それにあんなかたいことをいうのですもの、こちらから見ればかえって安心出来る話じゃないかしら」
「そうともいえるな。なにしろ、もしこっちのことを知っとれば、いよいよ文句のつけようがないわい」
音二郎は笑った。
「それではとにかく金をためて、来年五月までに一座の渡航費を作らんけりゃならんな」
「ええ、食べるものをへらしてもね」
そういってから貞奴は、ふいに音二郎を見つめて、
「この宿屋も変ったほうがよかなくって?」
と、小声でささやいた。
宿屋は兵庫屋といい、神戸でも五指にはいる高級旅館であった。二人はここにもう一ト月以上も泊っていながら、まだ全然宿賃を支払ってはいない。――実は、毎日大黒座で芝居をやりながら、興行元の土肥嘉助から、これまた一円の出演料も受けとってはいなかったのである。
嘉助は、芝居が終ってからまとめて払う、といった。――これは大黒座に限ったことではなく、芝居の前に役者に給金を出すのは特別の場合で、むしろこれが地方興行の定例《じようれい》であった。アメリカからの話にあんな条件をつけられて、川上が当惑したものの、大意外事とも思わなかったのは、彼に前金踏倒しの弱味があったせいばかりではなく、日本でもその通りの慣習だったからだ。
では、いままでどうして暮していたか。
債鬼に追われて逃げ出したとはいえ、それでも大森を出たとき、川上は三百円ほどの金を懐にしていた。しかしそれは、自分の入院費、集まって来た一座の連中の宿代、それからいまやっている芝居の用意などにほとんど使ってしまった。
座員たちは安宿に泊らせたが、彼ら夫婦は右に述べたように一流の旅館に泊っているのだが、実をいうと、いまその代金を請求されたらたちまちお手あげという始末だ。
いや、泊って五日目に、貞奴がそっといった。
「あなた、ここの払いは七日目ごとのそうよ。あさってになったら、どうするの?」
「ううん。……待て待て」
音二郎は訊いた。
「お前……残金いくらある」
「もう五十円きりよ」
「そうか、それを出せ」
「何になさるの?」
「いいから、出せ」
その晩、彼はチップとして、番頭に二十円、板前に十五円、女中三人に五円ずつやった。お祝儀としてはめざましい額だから、彼らは眼をまるくして百拝した。
それっきり――七日目になっても、十四日目になっても、宿代の請求はない。
「どうだ! お貞、わが計略図に当ったろう」
と、彼は鼻うごめかした。音二郎のハッタリの典型的な見本だ。
――これに味をしめて、のちに彼はロンドンにいったとき、文無しでありながら貞奴とともに第一級のチュードル・ホテルに二頭馬車で乗りつけて、もっと大胆に同じ手を使って成功している。
で、いま貞奴に、「この宿変らなくてもいいのか」と訊かれて、音二郎は、「ううん」とまた考えこんだが、
「宿を変れば支払いをせんけりゃならん。かえって困る。しばらく待て」
と、いった。その通りにちがいない。
神戸にいる間はこれでいいとして、来年五月の渡航までのつなぎをどうするか、さらにその渡航費をどう捻出するか、と思案していると、果報は寝て待て、その心配を解消するうまい話が、また相ついで飛びこんで来た。
神戸の芝居の大当りを見て、大阪の中座と京都の南座からお呼びがかかったのだ。
これに対して、音二郎は次のような要求を持ち出した。
中座には、初日は料金タダ、しかも入場者は無制限とすること、という案を持ち出した。むろん出演料からは一日分差引いてもらってさしつかえない。
「料金タダ? そりゃタダにすりゃ、客は来るでっしゃろ。けんど札止めにせんとは……ことによると怪我人が出る騒ぎになりまっせ」
と、交渉に来た中座の奥役は眼をまろくした。
「それが、私の狙いです」
と、音二郎は平然と答えた。
「それじゃ芝居も何も出来んでしょうが」
「いや、桟敷にどういう騒ぎが起っても舞台を見せるのが、川上の芝居です。だいいち、私がオッペケペーをやれば、どんな騒ぎもピタリとおさまる」
「しかし……料金タダいうのは、見世物小屋じゃあるまいし……」
「歌舞伎なら、役者はむろん中座の名にもかかわるでしょうが、私の場合、悪口をいわれるのは私だけですさ」
音二郎は豪快に笑った。そして、この案で押し切った。
むろん、大阪でも当てなければならない。そのためには評判にならなければならない。そのためには、むしろ怪我人が出るくらいの騒ぎが起ることが望ましい、という「山師」川上音二郎ならではの思い切ったアイデアであった。
次の京都の南座に対しては、客の入りが平均五分以下なら出演料はいただかない、九分以上ならそれを五割増しにしてもらいたい、と申し込んだ。
絶対、大阪で当る、その影響は京都まで及ぶ、という自信あっての申し込みであったが、しかしイチかバチかの背水の陣ともいえた。
これも南座のほうで了承したのは、川上の自信と気魄に圧倒されたのだ。
これですべてうまくゆく。危機は一応脱した。一座のアメリカ渡航費など悠々作れる、と彼は計算した。
それにしても、まずこの神戸の大黒座の給金をもらうことが――たとえ相場の半額にしろ――最初のスタートとなる。いまはただ、千秋楽を待つばかりであった。
さて、その千秋楽の日が来て、成功裡に幕を下ろした。
その夜、興行元の土肥嘉助が川上一座を近くの料亭に招待してくれた。当然その席で、こんどの興行の給金を支払ってくれるものと考えた。
ところが、二階の大広間で宴会がはじまってまもなく、羽織袴の嘉助が川上に思いがけない話をはじめた。
「実はな、川上さん、えらいすまん話があるんやが」
「何です」
「こんどの興行の給金払えんのや」
「な、なんですと?」
どうもはじめから、それらしい|もの《ヽヽ》が土肥の身のまわりに見当らないので、おかしいな、とは感じていたが、さすがに仰天しないわけにはゆかない。
「いや、このことをいうと舞台に影響が出ると思うて、隠しとったがな。……」
と、土肥嘉助はしゃべり出した。
それによると、横浜の綱島一家から、川上音二郎がそちらにいっても、舞台に出してくれるな、という回状のあったことは前に話した通りだが、それでも幕をあげると、果せるかな向うから使者が来て、何度も厳重な抗議を申し込んで来た。それを自分が、あるいはなだめ、あるいははねつけて来たという。
それで押し通すつもりでいたところ、数日前にまた使いの者が来て、綱島一家の乾分の中に、もう我慢が出来ん、たとえ親分の意に反しても、嘉助と音二郎をたたッ斬る、という連中が出て来て、もう抑えかねる状態だから、そのつもりでいてくれ、という話をした。――
「それが、わてのカンでは、ただの脅しでもないらしいのや。――何にしろ、あっちはただの興行師やない、ばくち打ちもかねとる一家やからな」
と、嘉助はいった。
「それでしようないから、こんどの興行の給金は払わん、その分をあっちにまわす、っちゅうことで手を打った。それで手を打たんと、わてだけやない、川上さん、あんたのいのちにもかかわりそうな雲ゆきでな」
この老人のいっていることは、必ずしも嘘ではなさそうだ、と感じてのどに何かつまったような思いになったのは、おそらく音二郎と貞奴だけだ。
まさか、はじめからだますつもりなら、興行前に給金を半分に値切るはずがない、と考えるとともに、二人の頭にはこのとき、大森海岸を追って来た綱島一家のことがかすめたのであった。いままで綱島が黙って来たことに、実はときどき首をひねることさえあったのだ。
とはいえ、これはあまりのことで、脳天を棒でなぐられたような思いのしたことはいうまでもない。
「それなら――土肥さん」
さすがの川上ものどをしぼらずにはいられなかった。
「舞台に悪影響があると思っていままで黙っていた、なんて――そんなことなら、なぜ芝居をやめろといって下さらん。千秋楽《らく》までやらせて、いまになって給金は払えんとはそりゃひどい」
土肥嘉助は福々しい笑顔でいった。
「左様、うちの小屋でただ働きさせたことになってえらいすまんが、しかしこんどの大入りで大阪京都でも芝居がでけるようになったんやから、まんざら丸損でもなかったと思うておくんなはれ。……もとはといえば、あんたがあっちの前金を踏み倒したのが悪いのや」
嘉助は笑顔のまま一座を見まわして、
「ただ、今夜の御馳走はわてが持ちますさかい、遠慮のう飲んでおくんなはれ。ほんなら、わてはちょっと用があるよって、おあとはどうぞごゆっくり。――」
と、立ちあがって、横に歩き出した。
それと見て、あっけにとられていた一座の連中はわれに返り、どっと色めきたった。
「な、なにを、ふざけた――」
「そんな馬鹿な!」
「こら、土肥、待てえ」
もともとが舞台で組んずほぐれつの格闘が売物の壮士芝居の役者たちだ。それが血相変えて、いっせいに立ちあがった。
流転荒亡
最初からそれくらいの騒ぎにはなるだろう、と覚悟していたにちがいない。土肥嘉助は身をかがめて、トコ、トコ、と壁沿いに歩き――歩くというより、老人とは思えぬ軽捷さで去り――障子をあけて、廊下に出た。
と、そこに、十人近い屈強な男たちが待っていて、これが嘉助を守ってとり囲み、向うの階段めがけて走り出した。二、三人、匕首《あいくち》をひっこぬいて威嚇の態《てい》を見せた者もあった。
彼らは、ドドドド……と、階段を駈け下りた。
するとそこへ、入口から、三度笠をかぶった三人の男が、にゅっとはいって来た。
それが、出合頭にこの一団とはたとぶつかり、その一人が、
「あっ……土肥嘉助だっ」
と、眼をむき、もう一人が、
「やるかっ」
と、絶叫した。同時に三人、いきなり長脇差をひっこぬき、歯をむき出してふりかぶると、その一団に突入した。
土肥嘉助を護衛して逃げようとしていた連中にとって、この外からの敵はまったく思いがけないものであったらしい。それに、嘉助をまず先に外に出そうとしていたこともあって、渡世人風の一人の刀は、もろにザックリ嘉助の肩に斬りこまれた。
「わっ」
土肥組は仰天して飛びのき、狼狽してまた階段を逃げ上ろうとする。そこへ彼らを追っかけて、川上一座のめんめんが駈け下りて来て、おたがいにぶつかり合い、みんなもつれ合って階段の下に転がり落ちた。そして、
「川上、そこにおるな!」
「うぬもたたッ斬る!」
階段の下でわめいて、駈け上ろうとしていた三人の渡世人は、蛙のようにその下敷きになった。
三組の集団が雪崩《なだれ》のように混り合って、いやもう手をつけられない大騒動であったが、数分後、それでも三人の渡世人は、宿の男衆もふくめた人数に、寄ってたかってとり抑えられた。
川上音二郎と貞奴は、茫然として階段の上からそれを見下ろしている。――二人は、その渡世人風の三人が、横浜の綱島一家の連中であることを知った。が、それより何より川上らの胆を奪ったのは、むろん入口のところに血まみれになって倒れている土肥嘉助の姿だ。
「いま、お巡りが来るでっ――」
と、宿の男衆が一人、往来から駈けこんで来てさけんだ。
音二郎はわれに返り、貞奴をうながして階段を下りていった。そして、「藤沢、山本、野垣――」と、弟子の名を呼び、
「お前ら三人残ってくれ。あとは兵庫屋へ来い。三人も警察の調べが終ったら、兵庫屋に来てくれ」
と命じて、外へ出た。
すると、床の上にねじ伏せられていた三人の殴り込み男たちは、顔ふりあげて、
「川上っ、もとはといえばてめえが港座の前金を踏み倒したからだぞっ」
「これからどこへ逃げようと、綱島一家は追っかける。絶対、逃がしやしねえ。そのことをよくおぼえておけっ」
と、声をふりしぼった。
そのとき巡査が二人、佩剣《はいけん》をおさえて駈けこんで来た。
さあ、この椿事《ちんじ》のよってきたるゆえんが、わかったようでわからない。土肥嘉助は、綱島一家と話がついたようなことをいったが、そうではなかったのか。
あとで判明したところによると。――
土肥嘉助のいったことは、音二郎が察したように、まるきりでたらめでもなかった。綱島一家からおどされ、彼がそれをなだめたり、はねつけたりしたことはほんとうであった。しかし、川上一座に払うべき給金を向うに渡す約束をした、などいうことは大嘘らしい。とにかく、煮ても焼いても食えない土肥嘉助は、そんなやりとりをしながら、大入りの川上一座には何喰わぬ顔で千秋楽まで芝居をやらせ、あがりは一人懐にいれて知らん顔をしようとしたようだ。
それでは綱島一家が、ほんとうに怒り出したのも無理はない。つかまった三人は、土肥と川上が、ヌケヌケと千秋楽打ちあげの宴会までひらいていると聞き、そこへあばれこんでやろうとやって来たところへ、突然、当の嘉助をはじめとする一団がただならぬ雰囲気で出て来たので、てっきり迎撃に出たものと早合点して、あの凶行に及んだというのであった。
土肥嘉助は重傷を受けたが、生命だけはからくもとりとめたらしい。
裁判で、三人の犯人はそっくり返って、
「土肥は興行師の仁義を破ったから斬ったが、悪い野郎は前金を踏み倒した役者の川上音二郎でござんす」
と、凶行時に口走ったことをそこでも力説し、
「親分とは関係ない。これはあっしたちで思いつめてやったことだ。しかし川上がどこかでまた芝居をやれば、きっとおれたちのあとにつづく連中が出て来るでござんしょう」
と、いったという。――
裁判で――というのは、そういう記事を、旅先の潜伏場所で、音二郎は神戸在住のファンから送られた新聞で読んだからである。
加害者のいさぎよさに加えて、被害者が死ななかったこともあり、新聞は犯人らの心情を諒《りよう》とする筆致で、同時に川上音二郎を弾劾する筆致であった。「……さるにてもこの騒ぎの元凶、山師川上音二郎はいづこに遁走せるか。事件以来|杳《えう》として姿をくらましをれるが、一日も早くその所在を義徒《ヽヽ》の面々に教へてやりたきものなり」など書いた新聞もあった。
音二郎の潜伏場所はきまっていなかった。翌年の一月の末ごろまで、大阪のひいき客――彼は東京進出以前に関西で売り出したから、そんなひいきがあったのである――の家々を転々としていたが、そこでも危険を感じた。
まったくあんな連中が出て来るようでは、これから先の生命の保証はない。
さすがの音二郎も弱った。世間の悪口には千枚張りの古|強者《つわもの》だが、これからの身のふり方については当惑した。
借金を踏み倒すつもりはない。それどころか、それを払うべき大魔術をやろうとしていたのに――アメリカでの興行という世紀の快挙に向って第一歩を踏み出したばかりというのに、何もかもが木ッ端みじんに砕かれてしまったのだ。
土肥から給金をもらえなかったから、滞在していた兵庫屋の宿賃も払えず、あの夜、一座会合したあと、警察に出頭を命じられたとお手のものの一芝居を打って、そのまま雲を霞と逐電した始末で、大阪、京都で芝居をやれるような状況ではない。一座はチリヂリにならざるを得ない。
アメリカゆきなど、夢のまた夢と化してしまった。
いや! いや! いや! そうなれば、それこそ万事休す!
アメリカゆきこそ、彼と一座を救う唯一の魔法であることは、それまでにも増して不動のものになった。絶体絶命、それだけは実現しなければならない。
一月の末、大阪で一座がチリヂリになる前に、音二郎は座員たちにいった。
「じゃから一同、四月二十五日正午に、みんな横浜に集まってくれ」
光瀬弁護士は、五月末までにアメリカへ来てくれ、といった。このころ太平洋を渡るには二十日くらいかかったから、少くとも五月上旬には出航せねばならず、その適当な船便や旅券などの都合から、用心して四月二十五日としたのである。場所は横浜大桟橋と指定した。
「ああいう事情で芝居は出来ず、そこにこんなことを要求するのは実につらいが、アメリカまでの船賃は最下等でも一人五十円はかかる。それまで、乞食しても五十円ためてもらいたい」
と、音二郎はいい、
「しかし、たとえそれが二十円、三十円しか出来なくても、横浜には集まってもらいたい。この十九人が揃わなければ一座として芝居が出来んのだ。わかるな?」
と、つけ加えた。
「その本懐とげる日まで、一同、薪の上に寝、胆をなめてもがまんして生きぬいてくれい」
「まるでかたき討ちの赤穂浪士みたいでありますな」
と、弟子の山本嘉一が弱々しく苦笑した。
「いや、こっちがかたき持つ身じゃ」
と、音二郎は不安そうにまわりを見まわした。
「いまのいまも、綱島一家がやって来るかも知れん。……だからいま、われわれは四散するのじゃないか。どうかくれぐれも気をつけて、一同無事で四月に横浜に姿を見せてくれることを、我輩はひたすら祈る」
四月七日の朝八時ごろ、東京の入谷《いりや》の町を上野のほうに向って歩いている二人の若者があった。いくつもつづく土塀越しのお寺の庭から、しきりに鶯の鳴く声がした。
「ちぇっ……いい陽気になりやがったってえのに、何てえことだ。淋病にかかるたあ。……」
と、一人が舌打ちして、股間のあたりを押えた。
まだ二十《はたち》くらいだろう、長い、のっぺりした、いかにもにやけた顔をして、頭の刈り方といい、ゾロリとした羽織といい、いきな雪駄《せつた》といい、芸人か落語家風の若い男であった。
「君、はじめてかね?」
訊いたのは、三つ四つ年上と見える書生風だ。あまりきれいな書生というものはないが、これはまた汚な過ぎる。髪はモジャモジャで、それに合わせるように、袴のすそなど、数ケ所ちぎれて、垂れ下がっている。ただ、手にすり切れた革鞄をぶら下げていた。
「淋病でゲスか。はじめてでゲスよ」
「相手が悪かったんだな」
「先生はどうです」
「倖いなことに、僕はまだだ」
「先生は不死身だからなあ」
「不死身? どうして?」
「いえ、ただそんな気がするんですよ」
書生はしかし、特別に立派な体格をしているわけではない。むしろ平均よりは小柄なほうだ。それにもかかわらず、いかにも都会の遊冶郎《ゆうやろう》然とした淋病男にくらべて、たしかに強烈な野性の匂う――はっきりいえば田舎者めいた濃い体臭があった。
彼は大口あいて笑った。
「あはは、しかし淋病に不死身な男というものはおらん。淋病の女と交接すれば、百発百中だれでも淋病になる。しかも、何度でもかかる」
「へえー、そういうもんでゲスか」
二人は、吉原からの朝帰りであった。
はじめからいっしょにいったわけではない。大門《おおもん》を出たところでバッタリ逢って、旧知の顔なのでおたがいに笑い合い、打ち連れて歩き出したのだが、先刻若いほうが――落語家、といってもまだ内弟子の分際だが、とにかく名は三遊亭夢之助という男だ――途中、立小便をして、いきなり「イテテテ……」と悲鳴をあげて、右の問答となったのであった。
「とにかく僕のところへ来たまえ。治療してやる」
「すぐ癒りますか?」
「それは保証出来ん。いまのところ淋病を一発で癒す薬はない。しかし、まあ淋病で結構だった。これが梅毒だったら大変だ。ゆくすえはきちがいになる」
「へえ、淋病と梅毒はちがう病気でゲスか」
「それが別の病気だということがわかったのも、二十年ほど前のことだが……淋病はナイセル氏の淋菌という細菌によって起るんだ。梅毒は別だ」
空を見て歩きながら、つぶやいた。
「僕は、梅毒もきっと特有の細菌があるものと考えてるんだが……まだそれは発見されていないんだ」
彼はふいに夢之助をふり返った。
「おい、金があるか」
「金? こんなところで何にするんです」
「俥に乗るんだ。僕の住んでるのは芝の伊皿子《いさらご》だから、俥に乗らんけりゃ帰れん」
「先生……先生は、俥賃もないんですか」
「ない」
「驚いたな。あたしに逢わなきゃ、どうしたんです」
「そのときは歩くさ。……とにかく淋病にかかったら、余り運動しちゃいかん。歩くより俥に乗った方がいい。で、君が俥に乗るとすれば、それを治療に連れてゆく僕も俥に乗らんけりゃならんということになるじゃないか」
ふと、そのとき背後にただならぬ跫音を聞いて、彼らはふりむいて、眼をまるくした。
三度笠をかぶった三人の渡世人風の男が駈けて来て、その一人が、
「ここはどこだ?」
と、さけんだ。
「入谷――入谷から、こうっと坂本町にはいるあたりで――」
と、夢之助がびっくり仰天して答えると、
「このあたりだ」
「たしかきゃつら、虚無僧姿に身をやつして、昨日入谷をうろついておったという話だったな」
そんな問答を交わしながら、渡世人たちは二人の横を前へ駈けぬけていった。
と、向うの路地から二人の虚無僧がふと現れて、ちらっとこちらを見た気配であったが、はっとしたようすで身をひるがえして、また路地へかくれようとした。
「いたっ」
三人の渡世人は躍りあがった。
「待てっ、川上。――」
「もう逃がさんぞ、川上音二郎!」
砂けぶりをあげて走ってゆくその姿を見て、若い医者も飛び上った。
「ひょっとすると――」
「ど、どうしたんでゲス、先生。――」
三遊亭夢之助が胆をつぶして訊くと、
「僕はあの人を知ってるんだ」
と、医者は駈け出しながら答えた。
「へ? あのやくざの衆を?」
「いや、向うの虚無僧を――たしかいま、川上音二郎といった。すると、もう一人は――」
三人の渡世人は前後から虚無僧たちを挟み、長脇差をつきつけていた。虚無僧は天蓋をぬがされている。
「明治三十二年に、三度笠の渡世人と虚無僧の出合いたア……お芝居にしてもアナクロニズムだ」
と、三遊亭夢之助は英語を使って嘆声を発し、ついで、
「あっ、虚無僧の一人は女だ! 先生。――」
と、眼をむいて横を見て、それからうしろを見た。
うしろの路上で、若い医者はしゃがみこんで、鞄から白衣《ぴやくえ》と聴診器をとり出していた。その白衣を羽織り、聴診器をぶら下げると、
「さあ、ゆこう」
と、また駈け出して来た。
「そ、そりゃどういうわけで?」
「どういうわけか、僕にもよくわからん。しかし、とにかく、さあゆこう」
渡世人に何か脅されていたようすの虚無僧のうち、女がこちらに眼をむけて、
「あ。……」
と、声をもらし、一息おいて、
「まあ、野口先生!」
と、さけんだ。
もう一人のドン・キホーテ
「川上音二郎夫婦だな」
近づいて来た野口は、むずかしい顔をしていった。
それを去年九月、東京湾で遭難したとき助けられた横浜の海港検疫所の医者だと思い出して、笑いかけようとした川上音二郎も、相手の口のきき方があまり横柄なので、めんくらった表情で黙って見まもった。
「やっと見つけたが、何をしているんだ」
と、野口はかみつくようにいった。
「はい」
貞奴もびっくりしたようすで、オドオドと、
「あの、いつかお話ししたように、私たち横浜のある方に大変な借金をして逃げまわっていたのですけれど、これがそのほうの方々で、いますぐ横浜に来いといわれておりますところで」
と、いった。
「いかん!」
野口はどなった。
「横浜へなど、そんなことはいかん! とんでもないことだ。すぐ、こっちへ来てもらおう」
「どこへ?」
「芝|愛宕《あたご》町の伝染病研究所にだ」
それまで、あっけにとられていた渡世人の一人が、おずおずと、
「あんたさん、いったいどなたで?」
と、尋ねて来た。
白衣を着た野口は、鞄の口をあけて、中から一枚の名刺をとり出して、つきつけた。名刺には「北里伝染病研究所所員 野口英世」と、ある。――
「これは、市の衛生局の命令でこっちも探していた危険な伝染病患者なんだ。君たちも、コレラやペストなどいう名は聞いたことがあるだろう。この両人は、それよりもっと怖ろしい、西半球から来たナイセル氏病という病菌の保菌者だということが判明して、こないだから研究所のほうで必死に捜索していたんだ」
と、野口英世はいった。
「生殖器から膿《うみ》や血を流す――接触すれば、衣服を通しても伝染する。――もし生殖器が弱い場合は、血と膿を小便ほども流して、涸れはてて死んでしまう」
音二郎と貞奴の袖をつかまえていた三人の渡世人は、いっせいに飛びのいた。
「大至急、研究所に収容せんけりゃならん。用があるなら、君たちもそっちへついて来給え」
と野口はいって、ふりむいた。
「それ、早く俥を四台、探して来い」
三遊亭夢之助がすっ飛んでいった。
渡世人が首をひねって、
「あれはだれで? 研究所の方じゃないようで……」
「あれもナイセル氏病の患者だ。いま、つかまえたところだ」
「しかし、見たところ、ピンピンしているようでござんすが……」
「だから危険なんだ。潜伏期といって、症状が発現しない時期があって、いまそれに当る。が、これが突如発現すると、いまいったような怖ろしい症状を現わし、猛烈な伝染力を発する。……君たちも早く俥をつかまえて来てくれ!」
渡世人たちもすっ飛んでいった。
十分ばかりして、川上音二郎、貞奴、野口英世、三遊亭夢之助を乗せた四台の俥が、春の朝の光の中を上野のほうへ駈け去ってゆくのを、三人の渡世人は狐につままれたようにキョトンと見送っていた。
――その三つの影がうしろに見えなくなり二台の俥が偶然ならんだとき、
「……と、いうわけです」
と、野口が貞奴に笑いかけた。
「失礼な口をきいて申しわけありません」
「いえ、すぐわかりましたわ。あの人たちから逃がして下さるためだと」
貞奴は俥の上で頭を下げた。髪を束髪にした虚無僧姿が、異様な美しさだ。
「この前、事情は聞いていましたからな」
と、野口はいった。
「しかし、よくわれわれのことを憶えておって下さいましたなあ」
前の俥から、春風に頬髯をなびかせて、川上がふり返った。これはただうす汚ない。
「なに、子供さんまで東京の新聞社にとどけたじゃないですか」
「あっ……いや、あの件については、どうもありがとう。何といってお礼申しあげていいか。……」
と、川上も頭を下げて、
「それで、この俥はこれから、その、芝の伝染病研究所とやらへゆくんですかな?」
「あ、いや」
野口は狼狽した。
「あなた方は病気じゃないから、そこへゆかれる必要はない。あの借金取りから逃げればいいんだから……いま、どこにお住まいです」
「それが、追手の眼を盗み、居所定まらぬ境涯で。……」
と、川上は苦笑いした。野口は数秒考えて、
「それじゃ、一応僕の住んでるところにでもゆきますか」
「どこですな」
「やはり芝ですが、伊皿子坂で……僕の住んでるところといっても、僕の家じゃない――しかも、ほんとにひどいところですが」
野口はちょっと赤い顔をした。これはこの若い医者に珍らしい現象であった。
「あれからの話も聞きたいし」
ここで野口は何かを思い出したらしく、俥夫に俥をゆるくすることを命じ、うしろから来る三遊亭夢之助の俥とならぶと、
「君、君はもう来なくてもいいよ」
と、いった。夢之助はあっけにとられた顔をした。
「ええと、そうすると、あたしの淋病はどうなるんで?」
「ああ、あれか。あれはさっきいったように、今のところこれといった即効薬もないし、ま、放っとけばそのうち癒ることが多いんだが……」
「突然、無責任になりましたな」
と、夢之助は皮肉な笑顔になった。
「しかし、先生。――あの夫婦は、あたしも知ってますぜ。川上さんのほうは何度も舞台で見た。いちじはあたしも壮士芝居にはいろうか、と大まじめに考えたこともあるくらいで。……細君のほうは、拝見したのはいまがはじめてだが、あれがむかし葭町で艶名をうたわれた貞奴だってことは知っていまさ。なるほど噂にたがわぬ大変な美人でございますなあ」
いつのまにかとり出した扇子でひたいをたたいて、
「ところで、その美人を俥に乗せて、さて向うに着いたら、先生自身の俥代もない、なんてえことになったら、先生、少し男が下がりやしませんかねえ?」
野口は絶句し、また赤い顔をした。
伊皿子坂の野口の住まいに着いて、川上夫婦と三遊亭夢之助は眼をまろくした。それは長い二階家であったが、草蓬々の中に、あちこち壁は崩れ、羽目板ははげ、障子もたたみも破れ放題のあばら家だったからだ。
が、その部屋部屋には、書生たちが出入している。――
「隣りに大きな学校らしい建物があったでしょう。あれは高山歯科医学院という歯医者の学校で、これはそこの生徒の寄宿舎なんで」
と、野口は説明した。川上は尋ねた。
「へへえ、あんたは歯医者のほうもやられるんで?」
「いや、私は歯科のほうは知らないが、高山歯科医学院の幹事をやっとられる方を知っておりまして、その方の御好意でここに住まわせていただいております」
狐か狸の住み家のような一室での問答だ。
ここは各部屋で自炊出来るようになっていて、三遊亭夢之助は早くも土瓶、茶碗を見つけ出し、まるで自分の家みたいにまめまめしくお茶を出した。
さて、川上は、一別以来の話をした。
あれ以後のボートの苦難の旅、神戸での芝居とその御難、横浜の綱島一家の襲撃、それからの逃避行。――この三月末からやっと東京に帰って、木賃宿を転々としているが、またも綱島の乾分《こぶん》につけ狙われた次第。それも、いまはただアメリカゆきの時を待つための苦労だといういきさつ。――
ところで、川上がしゃべっている間に、野口英世がここに住むに至った顛末、というより、明治三十二年四月における野口英世の現状について述べておこう。
有能な人間は、地に落ちている藁《わら》しべでも、自分のよじ上る太い綱に変えてしまうものだが、彼ほどこの魔術を地でいった者はない。
福島県|耶麻《やま》郡の山村の雑草のような貧乏百姓の家に野口清作という名で生まれた彼は、赤ん坊のときに囲炉裡にころげ落ちて、左の手に大《おお》火傷《やけど》をし、五本の指は一塊の団子みたいにかたまってしまった。
ふつうなら尋常小学校だけで、よその作男《さくおとこ》か日傭いにでもなるほかはない境遇なのに、たまたま視察に来た猪苗代高等小学校の首席訓導小林栄が、彼の成績の抜群なのと――全課目百点満点に近い――家が極貧であることと、手が不具であることを知って同情し、「相談ごとがあるならうちに来給え」といった。ただ、こんな場合、挨拶に過ぎない気味もあったこの言葉を真正面からつかんで、少年清作は小林を訪ね、さらに四年間、猪苗代高等小学校にかよわせてもらう約束をとりつけた。
明治二十五年彼が数え年十七のとき、この小林先生は彼の手の不具を憐れんで、ほかの職員や級友からも醵金して、会津若松で開業していたアメリカ帰りのドクトル渡辺鼎の手術を受けさせた。幼時に癒着した指は第一関節から先は欠落しており、常態に戻るわけはなかったが、それでもこの手術で、癒着を離し、彼は左手でもものをつかむことが出来るようになった。
高等小学校を出た清作は、このことで知った会津若松の渡辺ドクトルの玄関番にころがりこむ。不具の手さえ彼は自分の運命打開の機縁としたのである。
ここで彼は、三時間睡眠で、医術開業試験のために勉強する。
この間に、やはりアメリカ帰りの歯科医師血脇守之助が東京から若松へやって来て、同じアメリカ帰りの渡辺ドクトルと談論風発の幾夜かを過した。そのとき渡辺が、大秀才にして大努力家たる自分の玄関番を紹介した。血脇は感心して、将来上京するようなことがあったら僕を訪ねて来給え、といった。これも心にもないお世辞ではないが、やはりその場の挨拶であった。
明治二十九年秋、清作は上京して、医術開業免許前期試験(基礎医学)を受けて一発で合格するが、このときも小林先生、渡辺ドクトル、友人たちから金をかき集めての上京であった。
医師の免許を受けるには、もう一つ後期試験(臨床医学)を受けなければならないが、ここで清作の金はつきた。
そこで彼は、いつか声をかけてくれた血脇守之助を思い出し、そこへころがりこんだ。
くらいついたら離さない。――スッポンのような若者である。
血脇はこのころ芝伊皿子の高山歯科医学院の幹事兼講師で、その世話で、歯科医学院の隣りにあった寄宿舎に居を与えてくれたのである。
住居は得たが、生活費が要る。そこで彼は、血脇を高山医学院の病院長に祭りあげ、月十五円の学資を出してもらうように運動し、成功する。
というと、彼はもとより血脇もなかなかの策士に思われるが、血脇自身は義侠心にみちた快男児で――だからこそ高山院長が彼を病院長にすることにべつに異議を唱えなかったのである――このときは、ただ野口清作の熱意に動かされたのである。そして清作の行為もまた、策士というより、自分にある必要が生ずると、それを充たすためにはあらゆる障害を排除してその目的へつき進む本性の現われに過ぎなかった。
彼はこういう風にして、医師免許の後期試験のための予備校、本郷の済生学舎にかよい、翌三十年十月、試験にパスした。これに合格するためにはふつう十年かかるといわれ、このときも受験者八十人中、合格者は四名に過ぎなかった。
野口清作は満でいえばこのとき最年少の二十歳である。このころ正式の東京帝大医学部の卒業生の平均年齢が二十七・五歳であったから、いかに野口が秀才であったかがわかる。
一見、順風満帆の驀進に見える。
事実そうにちがいないが、しかしこれはあくまで傍系のコースであった。全然正規の学校を経ないで、ただ開業医の書生をしていたという資格で右の試験を受け、それに合格すれば開業医になれるというのは、医学教育制度の完備しないこの当時の便法に過ぎず、右に述べたような難関にしろ、たとえ合格しても、せいぜい田舎の医者になるくらいがせきのやまであった。また、それでみな満足したのである。
ところが野口清作は、それで満足しなかった。
彼は、途方もない夢をいだきはじめていた。それはアメリカに渡って、世界的な医学者になるというドン・キホーテ的な夢であった。
彼としては、自分がドン・キホーテだとは考えていない。ドイツ帰りの大先生ばかりが権勢をふるっている日本の医学界で、将来うだつのあがる見込みは絶対にないことを知っていたからだ。
とはいえ、その裏をいってアメリカに眼をつけるとは――それが彼の計算とはいえ、実に意表に出た着想であった。
しかも、早くも野口は、自分が世界的医学者となるのは細菌学の世界だと目標を定めている。時あたかもいわゆる「細菌の狩人」時代で、ここ十年ばかり、コッホの結核菌、コレラ菌の発見をはじめ、マラリア病原体、ジフテリア菌などの相つぐ発見が、栄光のフットライトをあびていたからだ。
が、いまのところ、アメリカへゆく手がかりはない。金もない。田舎に帰って開業すれば小金ははいるだろうが、右の大目的のための手がかりを失ってしまう。
野口は血脇の斡旋で、お茶の水の順天堂医院の助手としての職を得た。しばらく時を経てから、こんどはその順天堂の斡旋で、北里伝染病研究所の助手補の地位を得たのは、去年明治三十一年四月のことであった。
実は十月からという約束であったが、彼は勝手に四月から研究所に出入しはじめ、名刺にはチャッカリ「北里伝染病研究所所員」の肩書を刷りこんだ。
なおつけ加えれば、同年に彼は、偶然、坪内逍遥の「当世書生気質」を読み、この小説の中に野々口清作という田舎出の医学生が悪所がよいにふける場面があるので辟易し、改名を思い立った。実はそれまでも、野口清作という自分の名に、いかにも百姓らしいコンプレックスを感じていたのだ。
そこで故郷の役場に改名を願い出たが、むろんこんな理由では改名を許されない。
が、いったん思い立つと、どんな手段をもってしてもその希望を叶えずにはいられない彼は、自分の生まれた村の隣村に佐藤清作という青年がいるのを見つけ出し、それに頼んで自分の村の野口という家にいったん籍を移してもらい、もう一人の野口清作を作り出すというトリックを用い、これでは紛《まぎら》わしいからと改名の必要を申し立てて、ついに目的を達した。
ここに野口|英世《ひでよ》という、いかにも高貴でハイカラな名が誕生したのである。右の名刺にその名を刷りこんだことはいうまでもない。
奇人の集い
北里伝染病研究所は、ドイツの大細菌学者コッホの高弟といわれる北里柴三郎が作ったものだ。本来なら、傍系コースを辿った一開業免許医などが寄りつけるところではない。
野口は、実は研究室にもいれてもらえず、図書室にほうりこまれて、そこで外国論文の切り抜きなどやらされたのである。ではなぜそんなコースはずれの男を傭いいれてくれたかというと、それは彼の抜群の語学力――特に英会話の能力を買われたのだ。
まあ独学といってもいい野口の英会話力は、ドイツ留学の体験者ばかりのエリート所員に対する唯一の武器であった。アメリカ、イギリスからの学者の客とか、横浜からの外人患者とかが来ると、北里所長さえも彼を呼んで通訳させたほうが用が通じた。
ただし、それ以外は完全に無視された存在だ。このころ彼は、恩師の小林栄への手紙に書いている。「(北里)先生の所は錚々《さうさう》たる学者が大ぜい揃つてをる。指折の博士及び博士級の人で二十余人をる。私はその最下等です」
とはいえ、これは野口自身の望んだ道だ。彼はいまを将来の大飛躍への里程標だと考えている。
さて、以上のように彼の人生の里程標ばかり述べていると、まことに順風満帆のようだが、事実は、猛スピードの船が走るあとに残す波は凄じい。具体的にいうと借金のしぶきである。
東北の極貧の家に生まれた子が、東京に出て、二十歳《はたち》を越えたばかりで医者となり、しかもみずから薄給の研究所員の道をえらぶ。その学資、生活費は、ほとんど他人の――生まれ故郷と東京のありとあらゆる知人から、何度も何度も借りまくった金であった。
後年に判明したところでも、よくこれだけ借りたものだと呆れるばかりだし、貸したほうも貸したほうだと感心するほどである。
いまも残っている金策のための手紙は、おだて、泣き落し、空《から》約束の言葉に満ちている。彼はこういう手紙を書くことでも天才的であった。
これに操られて、小学校の友人で、親の眼を盗んで家財道具まで持ち出して工面し、彼に送金した者さえある。
また、彼にせびられて、新調したばかりのインヴァネスを送ったのが親にばれて、親が野口に返還を要求すると、そのインヴァネスの質札が送られて来、やむなく受け出しの代金を送ったところが、こんどはなしのつぶてだったという話もある。インヴァネスも金も、二重取りされてしまったのである。
一方でまた野口は、ふしぎな人柄の持主であった。のちにアメリカへ渡ったあと、彼を知ったアメリカ人の一人が、首をひねって、「ノグチはつい助勢《ヘルプ》してやりたくなる男だ」といったという。どこか人にそういう感じを起させるところがあったらしい。
そんな闇部をいだきながら、野口自身はこういう行為に牡牛《おうし》みたいに痛みを感じなかった。それは、おれは稀有の大秀才だ。必ず世界に名をあげる学者となる。そのために、おれと接触した人間はみんなおれに奉仕する義務がある。それこそが彼らがこの世に生まれて来た意義なのだ、というふてぶてしい自信から来た。
といって、悪辣なのではない。――いや、見方によっては、これ以上悪辣な行状はないといえるかも知れない。
彼の生活は八方破れであった。むしろ、天衣無縫であった。そんな風に鉄面皮に、あるいは苦心惨憺して、借りたり、もらったり、集めたりした金を、片っぱしから紅燈の巷に使いつくすのだ。むろん最初からそんな心では決してない。ほんとに研究生活をするため、あるいは渡航費の積み立てのつもりなのだが、ひとたび意馬心猿にかられると、何もかも忘れて遊里に俥を駆《か》ってしまうのである。
もっとも、この明治三十二年で野口が数えでもまだ二十四歳の若者であったことを思えば、それも無理はないといえるかも知れない。――
ともあれ、以上がこのころの野口英世の青春の、混沌たる状態であった。
「ほほう、アメリカへ」
――いま、川上音二郎の話を聞いて、野口は眼を大きく見ひらいた。
「僕もそのうちアメリカの大学に勉強にゆこうと思ってるんです」
実は、右に述べたような野口の行状であったが、去年の秋ごろから奮起して、こんどこそは渡航費を作ろうと決心し、やっとのことで百五十円ばかりためたところなのであった。もっとも、そうはいいながら、昨夜も吉原へ出かけたようなていたらくではあったが。――
「おや? この前、横浜の検疫所が出来たら、そこに勤めることになってるとかおっしゃいましたけれど。――」
と、貞奴が訊いた。
「あのときはまだ工事中でしたけど、あれは出来まして?」
「出来ました。この四月下旬から開かれます。開かれたら、僕もゆくことになっています。が、あそこの仕事では研究にならんので、なるべく早く御免こうむってアメリカへゆきたいと考えてるんです」
このとき野口の広いひたいに垂れ下がった髪のかげに、ふっと憂鬱なものがよぎった。
それは、検疫という仕事への不満もさることながら、自分がそこへゆくことになったいきさつを思い出したからだ。
研究所図書室に勤めている彼は、去年の夏、例の八方破れからそこの洋書を十数冊持ち出して売り飛ばし、吉原で遊んだのだ。それがばれて北里所長からきびしい叱責を受け、来年、つまりことし開かれる横浜海港検疫所へ飛ばされることになったのであった。月給はそれまでの十二円から三十円に上ることになったが、野口にとっては致命的な追放だ。――彼が本気でアメリカゆきを決心したのは、そのせいでもある。
だから彼は名刺にあんな肩書を刷りこんではいるけれど、正確にはその肩書がほんとうになったときには、実はもうクビの通告を受けていたのである。
――ちなみにいえば、のちに野口がアメリカのロックフェラー研究所にはいったとき、その履歴書に「東京医科大学卒業」と詐称している。
そんなことは、むろん貞奴は知らない。
「それじゃ、うまくゆくと、あちらでごいっしょになれるかも知れませんわね」
と、彼女は無邪気にいった。
「いや、そのためには向うの然るべき筋と話をつけなきゃならんので、僕の場合はきょう明日というわけにゃゆかんが――あなた方はいつ御出帆の予定です」
「一応いま、四月三十日出航のゲーリッグ号というイギリス船に乗るつもりですが」
そうはいったが、このときの川上の頬髯にも、ふっと不安の風がそよいだ。
不安のたねは二つある。不安どころか、懊悩、苦悶といってもいい。
一つは、金のないことだ。あれから、どこでも芝居をやるどころではなく、門付《かどづけ》の虚無僧に身をやつして上方から東京まで歩いて来た始末で、弟子たちには最低五十円は作って来いと命じたけれど、彼ら自身が食うや食わずで、やっとこれまで五十円ほどの金を作ったに過ぎない。もっとも貞奴は、もういっぺん福沢桃介さんにお願いしようかしら、と持ち出したことがあるが、音二郎は、それはあんまり厚かましいと――実は彼は、どうもその貞奴のパトロン的人物にこだわるものがあるので――それをとめている。とにかくいまのところ、懐にあるのは、一人分の渡航費だけである。
もう一つは、さらに重大なことで、さっき入谷で綱島一家につかまったとき、その一人が「――てめえら、アメリカへずらかろうとしてるそうだな。そんなことをさせてたまるかってんだ!」と口走ったことだ。してみると、神戸であの話をどうやら耳にしたようだ。となると、横浜は綱島一家の地元だから、毎日大桟橋を見張っているにちがいない。それでは、お目当ての船に乗れるどころか、その前にこの二十五日に集まれと命じてある弟子たちの安全も保証出来ない。
「で、それまで、どこに?」
と、野口が訊く。
「いや、それが先刻申しあげたように、追手から逃げまわっておるありさまで――」
「それなら、ここにおられたらどうです」
「えっ、ここに?」
と、貞奴が眼を見張った。
「どうも汚ないところで恐縮ですが」
「そんなことは何でもありませんけれど……いいんですか?」
「いいんです。あんまり汚ないんで生徒も敬遠して、げんに隣りの部屋も空いています。学院のほうもほうったらかしにしてるんです。僕がいなくなっても、いて下さって結構ですよ。出帆の日まで、隣りにでもいて下さい」
「あの綱島の人は、知ってないかしら?」
と、貞奴が不安そうにいった。
「いや、僕は北里研究所に連れてゆくといっただけで、ここのことはいわなかったつもりだし、また、あとをつけて来たようすもなかったようですが」
「天の助けじゃ!」
と、川上音二郎はさけんだ。
「ありがたい。あなたはわれわれにとって、重ね重ねのいのちの恩人じゃ!」
彼の眼からは、大粒の涙さえころがり落ちた。
「われわれが先にアメリカへいったら、あなたのゆきたいと思っとる大学へいって――何ちゅう大学でしたかな?」
「それはまだきまっておらんです。出来ればいちばん伝統のあるペンシルヴァニア大学の医学部にはいりたいと考えてるんですが。……」
「じゃ、そのペンシル……何とか大学へいって、あなたのことをくれぐれもよろしくと、よく頼んでおきましょう」
ありがたさのあまり、口から出まかせの調子のいいことをいったが、事実川上は、自分たちのアメリカゆきがどうなるかわからないことを忘れている。
どんな窮境にあっても、何、なんとかなるさ、という楽天性を失わないことで、川上と野口は似ている。
そういえば、年齢もタイプもちがい、志望も大ちがいだが、この二人には、ふつうの人間ときわだって異なっている共通の性質がいくつかあった。
そのガムシャラなヴァイタリティ、その馬車馬のような突進性、その山師的ともいえるハッタリ、人の意表に眼をつける独創性、そして何よりも、自分の目的のためにはほかの人間にどんな泥水をひっかけようとてんで意に介しない、強烈無比のエゴイズム。
それからもう一つ、そのくせどちらも「なぜか助勢《ヘルプ》してやりたくなる」だれかを持っていたことにおいて。
「さあ、ことはきまった!」
実は野口も、右に述べたような窮境にあったのだが、これもそれを忘れたように浮き浮きしてさけんだ。
そして、立ちあがり、隅の机の抽出しを鍵であけて、中から五十銭銀貨をひとにぎりとり出して、
「おい、夢之助君、町へ出て、貸蒲団二人分、借りて来てくれ」
と、三遊亭夢之助に手渡した。
「いえ、それは私たちが……」
貞奴があわてていうのを、
「いいんです、いいんです」
と、野口は手をふって制した。
いままで興味津々たる顔つきで一部始終を聞いていた夢之助は、このとき野口の顔を見て、ちょいと皮肉な笑いを走らせた。
さっきここに来たとき、四人分の俥代を払わせられたのは彼だ。だから、それは、なんだ持ってるじゃないか、という表情であった。野口のほうは、吉原にいって、もし金があればあるだけ使ってしまう危険があるので、わざと所持金に制限を課していたのである。
野口英世は夢之助の表情にはまったく気づかない風で、
「茶碗と箸、二人分もだぞ!」
と、いった。
「合点でゲス」
夢之助が出てゆくのを見送ってから、
「あれも、その、伝染病研究所の方で?」
と、川上が変な表情で尋ねた。
「いや、あれは伝染病自身で……なに、落語家《はなしか》の弟子です」
と、野口は答えた。ゾロリとした長羽織を着て、まるで黄表紙の色男が現われたような風態からして、これは嘘のつきようがない。
「それはまたお医者さんが、妙な方とおつき合いですな」
吉原で知り合った仲だ、とはいえず、野口は困って、
「あれでね、家は――おやじさんは何でも元お役人で、いまは日本郵船の上海《シヤンハイ》支店長という家柄の息子なんですよ」
と、いったが、ついでに思い出し笑いの表情になって、
「うん、そういう家の息子が芸人の真似をしておる、それが原因で僕と知り合ったといっていいかも知れない」
と、話し出した。
去年の春、向島で、と野口はいったが、実は吉原に近い日本堤の上であった。あの男が、桜の下で、若い軍人にポカポカ殴られ、蹴飛ばされて気絶状態になっているところへ、偶然自分がゆき合わせて、応急の手当をしてやったのが、知り合いになったはじまりだ。――
「どういうわけだ、と訊くと、その乱暴を働いた軍人は、高師の附属中学時代の同級生だ、というのです。そのころからソリが合わなくて、同じ相手に鉄拳制裁を受けたことがあるが、それから三年ほどたった今ごろ、バッタリそこで再会して、こっちがホロ酔いきげんのせいもあって、ちょっとからかってやったところ、そういう目にあったんだそうで。――」
と、野口は笑いながら話した。
「いまは朝寝坊むらくという落語家の弟子だそうで、それが附属中学にいってたとは珍らしいと思って訊いて、おやじさんはそういう身分の人だとわかった。そういう身分の人の息子でありながら、生まれつきの軟派はどうしようもないのですな。おやじが上海にいって留守なのをいいことに、いちどはいった外国語学校を放り出して、落語家の弟子となっている――という変った男です。あれでまだ二十一だそうですが。……そうそう、何度かあなたの芝居を見て、いちどは川上一座に弟子入りしようかと考えたこともある、といっていましたよ」
「ほほう、それはありがたき倖せで。……」
「もっとも、あれほどニヤケておっちゃ、壮士芝居にゃ向かんでしょうな。殴ったのは士官候補生で、寺内という陸軍中将の息子だそうだと聞くと、あいつには気の毒だが、もっともな気がせんでもない」
「ははあ。……」
――その士官候補生が、後年太平洋戦争で南方軍総司令官寺内寿一という人物になったことは――殴られた三遊亭夢之助だけが知っている。
明治メフィストフェレス
その三遊亭夢之助は、一日おきにやって来て、いろいろ用を足してくれた。
伊皿子坂の蓬々たる草の中の、高山医学院の寄宿舎という妙なところで、一週間ばかりの春が過ぎた。
いちど彼が野口に、
「先生のほうが夢之助でゲスな」
と、笑いかけたことがある。
それでも野口は何の意味かわからないらしかったが、一週間のうちにその顔がみるみる一種の憂愁にとざされて来た。
四月半ばのある日曜日の午後、夢之助がやって来ると、庭の一隅にある井戸端で、野口英世が洗濯をしていたので、彼は眼をパチクリさせた。
野口はふり返って、
「おい、やってくれるか」
と、いった。
「いや、洗濯なんて、あたしゃいちどもやったことがないんで。……」
さすがの夢之助も尻込みの態《てい》を見せたが、たらいの中をのぞきこんで、
「や、女の襦袢でゲスな」
と、奇声を発した。
「うん、僕のものを洗うついでだからね」
と、野口は答えたが、赤い顔をした。どこからか、桜の花びらが散って来て、たらいの水に浮かんでいる。
その女の襦袢がだれのものか、聞かなくてもわかっている。――けさ、寮を出てゆく川上夫婦に野口は、「汚れた下着があったら出しておきなさい。洗っておきますから」といい、遠慮する貞奴から、無理やりに洗濯物を受けとったのである。
夢之助は寮のほうを見やって、
「で、きょうもお出かけ?」
「うん」
と、うなずいて、ゴシゴシ洗っている野口に、
「先生」
と、夢之助は、受け口気味の唇に笑いを浮かべて、
「惚れましたね」
「馬鹿野郎っ」
と、野口はどなった。相手は平気で、
「人妻で、しかも年上の女に惚れるなんてまったく馬鹿野郎だが、人間、こればっかりは思案の外でござんすからね。……しかし、いっしょに住んで一週間で酔っぱらうとは、強烈でゲスな」
と、いった。
「しかし、あれほどの美人だと、無理もゲセん」
野口はただ、ほんとうに酔っぱらったような顔をして、口をモグモグさせているばかりであった。
――まさに図星だが、彼はただこの一週間で貞奴にのぼせあがったわけではない。
それは去年の秋、海から救いあげた彼女に、人工呼吸を施して以来のことであった。むろんあのときは医者としての手当以外に余念はなかったはずなのだが、さてそのあと――夜の夢はもとより昼の幻にもよみがえるのは、雪花石膏《アラバスター》のようなあの乳房のかがやきであり、泡雪の中の花のように冷たく柔らかな唇の感触であった。何しろ対象が、かけねなく絶世の美女なのだから是非もない。
しかし、しょせんは返らぬ幻であり、見果てぬ夢だと思っていたのに、はからずも入谷でまた再会したときの驚きはいかばかりか。しかも、なんと自分の住み家に連れて来て、たとえ短い期間でも、いっしょに暮すことになろうとは。――
その有頂天の思いが、みるみる憂鬱にとざされて来たのにはわけがある。
一つは川上の存在だ。夫だから貞奴とくっついているのはしかたがないが、それをまざまざと毎日身近かに見ているのは、何ともつらい。しかも、見ていると川上は、妻の貞奴に馬鹿に威張る。野口が義憤にかられるほど、貞奴にカンシャク玉をまき散らす。
そしてもう一つは、その威張りくさった川上が、近いうちに貞奴を連れてアメリカへいってしまうことであった。
おられると、切ない。去られると、悲しい。苦難というものにどこか鈍感な野口が、これほどねじれるように痛む心をいだいたことがない。
野口は黙って、ただゴシゴシと洗濯をしている。彼の左手は前に述べたようにまだ怪異なかたちをしていて、ふだん彼は、その手を懐《ふところ》にいれるかポケットにいれるか、または背にまわすかして、極力人目にふれないようにしているのだが、いまはそれも念頭にないようだ。そして、たらいをのぞきこんでいる三遊亭夢之助も、その手を見ている気配ではない。
やおら、夢之助はいった。
「先生、どうです、川上音二郎から貞奴を奪《と》っちゃあ」
「なにっ?」
野口は立ちあがった。
「そ、そんなことが出来るか」
「とは、かたちの上で出来るかってえことですか。気持の上で出来るかってえことですか」
「どっちもだ。特に、現実の問題として、そんなことは出来ん」
「出来ますよ」
「どうするんだ」
「あの川上をでゲスな。川上のほうだけ、横浜の綱島ってえ親分にひき渡しゃあ、ようがしょう」
野口は眼をむいて、相手を眺めた。夢之助はニヤニヤしている。
「ここの場所を教えてやるか、外を歩いてるところを知らせてやるか。川上のほうだけつかまえさせるってえのが難しいが、そりゃ工夫次第で何とかなるでしょう。その工夫はってえと……なに、考えても無駄でゲス。この手は使えないんです」
「そりゃ、どういう意味だ」
「そうするとね、川上は、横浜に連れてゆかれて痛い目にゃ合うでしょうが、まさか殺されやしないでしょう。しかし、少くともアメリカゆきはだめになる。すると、やっぱり川上は日本に残ることになる。……それじゃあ、だめだ」
夢之助は長い顔をなでた。
「川上だけ、アメリカへゆかせる。それしか法はござんせん」
「あ!」
と、野口はさけび、また、
「そ、そんなことが出来るか」
と、息せきこんだ。
「いったい川上は、どういうわけで貞奴さんをアメリカへ連れてゆくんでしょうねえ? 貞奴さんがべつに芝居をするわけじゃああるまいし。……」
「それは、夫婦だからだろう」
「なら、ほかの役者はどうです。それは一人ずつなんでしょう。……そりゃ、川上のわがままでさ。貞奴さんはゆかなくってもいいんです」
「そんなことを、こっちが決めこんでもしようがない」
野口は失望した表情になった。
「それが川上さんだけアメリカへゆかせる理由か。それは方法じゃない」
「いえ」
夢之助は首をふった。
「川上だけアメリカへゆかせる法は、つまり貞奴さんだけ日本に残す法でゲス」
「なるほど」
「それには貞奴さんが病気になってくれりゃいい」
「しかし、貞奴さんは病気じゃない」
「病気にしちまえばいい」
「なんだと?」
野口はまた眼をむいた。
「伝染病でゲス。川上一座が出帆する月末ごろまで、病気で動けなくする。それもコレラとかチブスとか、そんな烈しい、色気のないやつはいけませんよ。何か、こう、軽い――梨花一枝、春、雨を帯ぶってえような風情の病気を――伝染病研究所の先生なら、何とか適当にお見つくろいの品があるでしょうが」
「ば、馬鹿っ」
野口は満面を紅潮させた。
「そんなことが出来るかっ」
「出来ませんかね。さっきの話のつづきのようだが、そりゃ事実として出来ないんで? それとも気持の上で?」
「そんな好都合な伝染病はない。気持の上でも出来ん。だいいち伝染病を発生させる医者があるか!」
「やっぱりいけませんか」
夢之助は頬のあたりをかいた。
「とんでもないことを考えるやつだ。それにしても、川上さんたちに何の関係もないお前が、どうしてそんな突飛な、お節介なことを思いついたんだ」
「ええ、それは、一つには先生が可哀そうで」
「……」
「二つには、あたしも、せっかくの御縁だからもう少しあの貞奴さんのお顔を拝見していたいんで」
「……」
「三つには、へ、へ、あたしゃこれでも芸術家でねえ。あの川上の壮士芝居ってえやつが気にくわないんでさ。いやなに、そりゃいちど、あたしもあの一座へはいろうか、なんて考えたこともありましたよ。それはそのころ、とにかく役者ってえものになってみたかったからで――まさか歌舞伎役者になるわけにゃゆかないしねえ――しかし、そのうち、あの壮士芝居の野暮ったさ、泥くささにへどをつきたくなりました。あんなものがアメリカへゆきゃ、日本の恥でゲス。なに、日本の恥はこちとらなんぞの知ったことじゃあないが、あの貞奴さんが恥かき組にはいるのは、何ともがまんが出来なくってねえ。それで昨晩寝もやらずに考え出した、張良孔明もはだしの軍略だったんだが、先生がいやだとおっしゃればどうしようもない」
依然、うす笑いの浮かんだ眼で野口を見て、
「これはちょっとお見それしてたようでゲス。先生は、食いたいものがあったら、人の口に半分はいっててもひったくるお人だと思ってたんですがねえ」
と、いった。
野口はやや狼狽した風で、
「いくら何でもそれは出来んよ。これでもいつかは世界的な医学者になろうと志してるおれが、そんな犯罪に類したことは。……」
と、ぶつぶついった。
夢之助は腹の底で、
――実は、それが気にくわないんだ。その世界的何とかいうやつが。……あの貞奴をくっつけたら、お前さんはフラフラになって、世界的もシャケの頭もケシ飛んじまうだろ。成功だの名声だの、それも途方もない夢に頭をふくらませて、つっぱってるこの田舎っぺえを、女でグニャグニャにしてやるのも、あたしの狙いの一つだったんだが……いくら成功のお化けでも、あの貞奴にかかったら、たちまちトロトロにとろけちまうことは受け合いだ!
と、ひとりごとをいっていた。
が、何くわぬ顔でまたしゃべる。
「しかし、先生、それより何よりあの二人、ほんとにアメリカへゆくんですかねえ?」
「ど、どうしてそんなことをいう」
「かりにも半月先にアメリカへゆこうってえ人がさ、まだ毎日、虚無僧に出て門付して回ってるのはどういうわけでゲス。虚無僧に身をやつしたって険呑なことは、こないだのことでわかってるでしょう。それでも門付して回るってのア、一銭でも金を稼ぎてえからじゃあないかとあたしは見てるんですが、いったいそんなありさまでアメリカへゆけるんですかねえ?」
野口はまばたきし、混乱した表情になって、
「お前、あの二人が帰って来てから何をしゃべるかわからんな」
と、不安そうにいった。
「いえ、こんな話は先生だけにすることで……」
「お前は僕の頭をメチャメチャにしてしまう。もう話したくない」
と、野口はいらいらしていった。
「とにかく、きょうは帰ってくれ。帰れ」
「へ、きょうは何ともハヤ、みんなたらいの中の水の泡でゲシた。それじゃあ」
と、三遊亭夢之助はお辞儀して、ケロリとした背を見せ、十歩ばかりいったところで、向うむきのまま、草だらけの中へ立小便をはじめたが、たちまち、
「イテテテ!」
と、悲鳴をあげた。
「先生、このデンセンビョーは使えんでしょうなあ?」
「まだそんなことをいっとるか、この馬鹿っ」
川上音二郎が妻の貞奴にあたりちらしていることは、ほんとうであった。そしてそれは、この期《ご》に及んでまだ渡航費のメドがつかないことの焦躁から来ていた。
一座の者に最下等の船賃五十円は持って来いといってはあるが、その結果はこころもとない。それを補ってやる用意が必要な上に、だいたいみみっちいことの大きらいな川上は、夫婦そろって一人二百円の上等船客として渡米したいと望んでいる。――ところが、実際はまだ最下等の一人分五十円前後しかないのだ。
虚無僧の門付をしたってしようがないが、かといっていまさら、ほかに金を手にいれる法はない。東京の知人という知人からは金を借りつくし、それを解決するためのアメリカゆきなのだから、どこからか借りるどころではない。
二人は、夢遊病者のように門付をして歩いた。
そんなとき――ちょうど春雨にけぶる白金《しろがね》三光町あたりの路地を、その雨にも気づかないように歩きながら――川上は、ふと貞奴に話しかけた。
「お貞。……あの野口先生、やはりアメリカへゆくといってたな」
「ええ」
「そのために金をためてるとか聞いたが。……」
「それは、聞いたけれど……」
「その金を、こっちにまわしてくれんかな」
「そりゃ、あなた、あつかまし過ぎるわ。あんなに貧乏な暮しをして、せっかく用意なすってるお金だもの。……」
「そこを何とか一つ……お前の口で……ひょっとすると、お前なら、貸してくれるかも知れんぞ」
「あたしならってのは、どういう意味?」
貞奴は川上を見た。川上は天蓋《てんがい》をかぶっていて、顔は見えない。
しかし、この男が、こんなことをいうのは珍らしい。はげしくなって来た雨の中で、平静を失ったうわごとのような声で、音二郎はいう。
「その金は、あとでアメリカでもうけて、送って返せばいいんじゃ!」
貞奴は首をふり、あえぐようにいった。
「そんなこと、あたしには出来ないわ!」
伊皿子坂の寮の庭で、野口と夢之助があんな問答をかわしてからまた一週間ばかり後のことだ。
むろん川上たちは、そこで一応自分たちを罠にかける話が出たことは知らない。知らないで川上夫婦も、ともかくこんな話をした。
どっちもどっちだ。
――雨にぬれて歩いたせいだろうか、その夜から貞奴が熱を出した。
恋する野口英世
あくる朝になっても、貞奴の熱は下らず、三十七度八分あった。咳が出、痰が出た。
「風邪だと思う」
と、野口は診断した。
「薬をあげますから、しばらく寝て、安静にしていて下さい」
「アメリカへ発つ日まで、もう十日もない。それまでに癒ってくれないと大変なことになるが。……」
川上音二郎は不安そうにいった。
「癒るでしょうか」
「それは保証出来ないが、風邪だったら癒るでしょう。とにかく僕が責任をもって手当てしましょう」
川上は、昼近くまでそばに坐って、貞奴のひたいにのせた濡手拭いをとりかえてやったりしていたが、そのほかにすることもないので、
「それじゃ、あとを頼みます。わしはきょう逢う者がありますので」
と、いい、例の虚無僧姿で出ていった。
実際、彼はその日、座員の一人山本嘉一と、高輪《たかなわ》のある寺で逢う約束をしていたのだ。いままで連絡がついたのは五人だけで、山本はその一人であった。
逢って話さなければならないのは、この二十五日、横浜大桟橋に集まることになっているが、それをどうするかだ。案じていた通り、山本の報告によれば、あれから綱島一家の乾分が、やはり見張っているようだという。
興行師であるのみならず、ほんもののばくち打ちの綱島一家は、どこまでも川上一座を追いつめるつもりらしい。神戸で三人の乾分が殴り込みをやってつかまったが、あれを一家のほまれとして、乾分たちはいよいよ武者ぶるいしているらしい。
――げんに、ほんの先日も川上自身入谷で見つかったくらいだ。捜索隊はいまでも東京をうろつきまわっているはずで、その山本をいま住んでいる伊皿子の寮へ呼ぶことも険呑なので、その寺で逢うことになった。
いまや、三十日の出帆以前に、二十五日の集合が危険なものになった。――で、その対策を相談するために、川上はそわそわと出ていったのである。
――さて、そのあと、枕頭に坐って、野口が恍惚と病人の顔を見つめていると、貞奴がふっと眼をあけた。
「先生、すみません」
「いや」
野口はあわてて、手拭いをとりかえるのにかかった。貞奴も訊く。
「二十五日までに癒るでしょうか? あと三日しかありませんけれど。……」
「二十五日……二十五日には、あなたはゆかれる必要はないのじゃありませんか。それは出発前の打合せの会合でしょう。三十日の出帆に間に合えば。……」
「そりゃそうですけれど、早くみなの顔が見たいし……三十日の出発までには癒りますね?」
「大丈夫だと思う。いや、大丈夫ですよ」
冷たい手拭いをひたいにのせてやりながら、野口の頭には、この美女に人工呼吸を施したときの感覚がまざまざとよみがえっている。
もっとも、あのとき白い蝋細工のように見えた貞奴の顔は、いま熱のために赤らんでいる。外はきのうの雨があがって、キラキラと陽炎《かげろう》が立ち、破れ障子の部屋の中にも、オンモラと温気《うんき》が満ちている。
「しかし」
と、彼はいい出した。
「いったいあなたは、どうしてアメリカへゆくんです?」
「どうしてって?」
「あなたが芝居をするわけじゃないでしょう?」
「そりゃあたしはそうですけれど、川上がゆくんですもの。……」
「しかし、役者ぜんぶがみな細君を連れてゆくわけじゃないでしょう?」
夢之助のいったことの繰返しだ。貞奴はほのかに笑った。
「川上は、あたしがついてないと、何も出来ない男なんですのよ。……」
野口は頭に血がのぼるのを感じた。彼は思わずわれを忘れてさけんだ。
「ふしぎだ!」
「なにが?」
「アメリカゆきもそうですが、それよりなぜあなたのようなひとが、川上さんと夫婦になってるんですか? それがふしぎだ!」
貞奴はめんくらった顔をした。
「こういっちゃなんだが、役者としての川上さんはあんまり上等とは思えん。僕もいちど舞台を見たことがあるけれど、芸などてんでわからん僕でさえ、背中を逆なでされるような感じがした。そうそう、去年、小さい娘さんをとどけた東京新聞の岡本綺堂という人ですな。あれは記者であると同時に劇評家だそうですが――そこへ、川上さんはどういうつもりで娘さんをとどけてくれとおっしゃったのか知らんが――そのとき岡本さんは、子供を託されて眼をパチクリさせながら、それはそれとして川上一座はまったくイケナイ。あんな野蛮な芝居をよろこんで見物している客が沢山いるとは、まったく悲しい、といってましたよ」
野口は、火の風に吹かれたようにまくしたてた。
「あげくの果ては、現在ただいまのような窮地だ。やくざ一家につけ狙われてるといっても、事情を聞くと向うが怒るのももっともだ。川上さん自身が招いた災厄といってもよろしい。しかも、見ていると、川上さんはむやみにあなたに威張る。まるで、美女と野獣だ。それが、これからもアメリカへいって芝居をやろうとは……あんな芝居をアメリカ人に見せようとは、まさしくきちがい沙汰だ。まちがいなく、野たれ死しますよ。川上さんは自業自得として、あなたのようなきれいな女性が、異境で野たれ死するなんて、想像しても僕はたえられない。……」
貞奴は、じいっと野口を見つめていた。
「川上については、あたっているところもありますわ。……」
と、彼女はつぶやいた。
「ほんとうに乱暴で、ムチャクチャで、いったん何か思い立ったら、馬車馬のように泥水はねちらして、駈け出してとまらない。世間から山師、ハッタリ屋といわれるのもあたりまえだ、と。――」
――実は、これは野口にもそっくりあてはまる批評であったが、むろん野口は気がつかない。
彼はいった。
「あなたもそう思いますか!」
「正直なところ、あたし何度あのひとから逃げ出そうと思ったか知れやしない。……」
野口の眼は、狂喜に近いひかりをおびた。
「いまは?」
「いまも、ちょっぴり思いますわ」
「ちょっぴり、とは?」
「あのひとが、いま困ってるから見はなせないんです。葭町で少しは知られた芸者貞奴の意地にかけて!」
あやうく、感動のあまり野口は、貞奴を抱き起し、抱きしめたくなったほどであった。
しばらくの沈黙ののち、かすれた声で彼はいった。
「……で、いっしょにアメリカへゆく。――ゆけるんですか? 失礼だが、ちょっと気にかかることがあるからお尋ねしますが、渡航費はあるんですか?」
「それが、ないの。――」
「えっ、ない! それじゃ、どうするつもりだったんです」
「二十五日に集まる一座の人が、余分のお金を持ってやしないか――それは、あてにはなりません。そのときは、あたし、船で娘道成寺でも踊ってお客さまにお見せするから、とでもいって、船長さんにお願いしようか、と考えていました」
「そんなことで船に乗る……そんなことでアメリカまで乗せてくれる船があろうとは思われん!」
呆れて、野口はさけんだ。
貞奴の眼から、涙が糸をひきはじめた。
「貞奴さん……それじゃあ、もし……もし、川上さんに渡航費を渡せたら」
と、野口はいった。
「あなたは気がすんで……川上さんと別れてもいいじゃないですか?」
貞奴は答えず、その大きな眼からはただ涙があふれつづけた。
哀切の思いきわまって、すんでのことに野口は、
――その金は、僕が出してあげますよ!
と、さけび出すところであったが、あやうくその声をのんだ。自分のいま持っている百五十円ばかりの金は、これも強引に知人友人からかき集めたもので、それを吐き出せば、自分の渡米そのものが半永久的に絶望的なものになる、という理性がからくもブレーキをかけたのである。
この容易ならざる問答は、しかしそのとき貞奴の小さな悲鳴によってとぎれた。
「あ!」
「どうしました?」
「鼠が、そこを……」
野口がふりむいたときは、もう見えなかったが、横たわって顔を横にむけた貞奴の眼には、いま壁際をチョロチョロと走っていった一匹の鼠が見えたらしかった。
もっとも、そう聞いても野口は驚かず、実は貞奴もただ声をあげただけである。この寮のいたるところ鼠が出没しているのは、いまさらのことではなかったからだ。
その晩、貞奴の熱は三十八度七分に達し、しきりに咳をし、痰を吐き、ひどい頭痛を訴えた。
「こりゃ、ただの風邪じゃないかも知れん」
野口は腕組みした。そして――暗くなってから帰って来た川上にささやいた。
「ひょっとすると、肺ペストかも知れんぞ。……」
「えっ、ペスト?」
川上は仰天した。
ペスト――その伝染病は、三年ばかり前、香港かどこかに発生し、そのときこれにかかったら数日で死ぬ、と聞いたことがある。またそのとき、大昔ヨーロッパにはやって、何千万人か死んだ「黒死病」と同じものだと聞いたことがある。
もっとも、川上の知識はそれだけだ。――判断を絶した表情の川上に、野口は厳粛にいった。
「念のため、あなた、今夜から僕の部屋で寝て下さい」
「ペストだとすると……」
「それはもう大変です。明日、痰を伝染病研究所に持っていって調べて見ましょう」
むろん、嘘っぱちである。
野口は、断じて貞奴をアメリカへやらないことを決心した。三遊亭夢之助にそそのかされたときは首を横にふったけれど、貞奴との問答の結果、断然その決心をしたのだ。
まさか、夢之助の出したアイデアのように、伝染病を発生させることは出来ないが、ふつうの風邪を重い伝染病といつわれば、右の目的を達することに気がついたのである。
ペストは鼠を見たから思いついた病名であり、貞奴に与えたのは、解熱剤ではなくただの胃腸薬であった。
一匹の鼠から大山を鳴動させるにひとしい。
あくる日も、貞奴の熱は下がらなかった。可哀そうだが、この際多少の熱くらいはがまんしてもらわなければならない。――こうなったら、野口は「鉄の人」であった。
彼は、貞奴の痰を持って出かけ、昼過ぎに帰って来て、検査の結果が出るには、二、三日かかる、といった。――これも嘘だ。
もしほんとうにペストの疑いがあったら、そんな悠長なまねはしていられない。それこそ天下の一大事だ。――しかし、ペストについてはただ漠然と怖ろしい伝染病だということを聞いただけで、ほかに何の知識もない川上は、「北里伝染病研究所所員」のいうことを、そのまま信じるほかはなかった。それに、三年ばかり前、げんに香港に流行したという事実があるので、まるきりあり得ないことでもなかったのである。
川上音二郎は、狼狽し、苦悩した。
貞奴を廊下からのぞいて、溜息をついたり、眼をとじたり、あけたり、うなり声をたてたり、見る眼もいたましいほどの懊悩ぶりであった。病人の枕頭には、白衣を着用に及んだ野口が厳然と坐っている。ペストなら、医者だって危険なはずなのだが、川上にはそれを怪しむ余裕もなかった。
その日も、翌日も、彼は虚無僧の門付に出ないで、そんな風に七転八倒していた。
二十五日は、雨であった。
そして、川上が悶えたのは、ただ貞奴の病気ばかりではなかったことが判明した。
「お貞。……わしは横浜にゆかなきゃならんが。……」
廊下から、彼が悲壮な声で呼びかけたのは、その朝のことであった。
その日の正午、一座の者は横浜大桟橋に集合することになっている。しかし、それがあぶない。で、先日も座員の山本と相談したのだが、まだ連絡のつかない者が大半で、彼らがそこに集まって来るのをふせぎようがない、という結論に達した。とにかく途中で彼らを見つけ、別の場所に連れてゆくより法はないが、みんなつかまえることが出来るだろうか?
だいいち、川上がそこへゆくこと自体が危険なのだが、しかし彼はゆかなければならないのであった。
「あたしも、ゆくわ!」
貞奴は身を起しかけた。
彼女の熱は、この朝から三十七度三分まで下がっていたのだが。――
「それはいかん!」
川上と野口は同時にさけんだ。
そして川上は貞奴を説得し、
「どういうことになるか知らんが、とにかく明日まで帰って来なかったら、わしは綱島一家につかまったと思ってくれ」
と、いった。
「つかまったら、どうなるの?」
「そりゃ向うさま次第だが、まさか殺しもせんだろう」
川上は笑い捨て、「じゃあ」といって、出ていった。――
それといれかわりに、番傘に雨の音をたてて、三遊亭夢之助がやって来た。ボンヤリ坐っていた野口は、ふいに何かを思い立った風で、寮の入口まで夢之助をひっぱってゆき、事情を説明した。
「こういうわけだ。お前、すぐあとからいって、情況を偵察し、報告してくれ」
「先生。……川上がつかまったら、それこそもっけの倖いじゃありませんか」
野口は部屋のほうをふり返り、
「この馬鹿、そんなことをいってる場合じゃない」
と、叱りつけた。
夢之助は首をすくめ、
「しかし、川上さんも壮士芝居を地でいってますな。風は……いや、雨は蕭々《しようしよう》として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず、でゲスね。いや、そうなったら大変か。ようがす、合点だ!」
と、いって、また雨の中へ駈け出していった。
女・一本刀土俵入
「――やられた! やられました!」
品川駅から人力俥で駈けつけた夢之助がころがりこんで、そうさけんだのは、その日も午後おそくになってからであった。
まだ熱があるのに貞奴は、寝ていられない風で、それまで床《とこ》の上に坐り、それをとめる言葉も失って、野口英世も腕組みしていたが――ある程度危惧していたにもかかわらず、この声にははっとせずにはいられなかった。
「どうした?」
「川上さんは、綱島一家につかまりました」
息をのむ二人に夢之助は報告した。
正午《ひる》前から彼は、横浜港の大桟橋附近の雑踏の中に、川上音二郎を見張っていた。横浜に着いたころから雨はあがっていた。
川上は虚無僧姿で、そのあたりをブラブラといったり戻ったりしていたが、べつに何事もない。ほかに一座の者が集まって来るということだが、そんな風の人間と逢ったようすもない。
そのうちに川上は、大胆にも虚無僧の天蓋をぬいで歩き出した。まるで、川上ここにあり、といわんばかりである。
――と、午後一時半ごろのことだ。
川上のそばへ、つと寄った者がある。それがやくざ風の大人《おとな》ではなく、麦わら帽をかぶった小さな土方《どかた》風の人間なので、夢之助は眼をまろくした。それが川上に、ニコニコと話しかけている。――
「小さな土方?」
野口がけげんな顔をした。
「へえ、年は十四、十五くらいの――」
「なに、それ?」
と、貞奴も首をかしげた。
「いえ、まあ、聞いて下さい」
しばらくして、その小さな土方はこっちにやって来た。しかしべつにこちらに気づいたようすもないので、夢之助が声をかけようかどうしようか、と迷っていると、その少年がすれちがいざまに、
「夢之助さん、こっちへ来て」
と、声をかけて、スタスタゆき過ぎていった。
夢之助はめんくらいながら、そのあとを追った。そして、海岸通りのある洋館の蔭に来ると、
「川上さんのおいいつけです」
と、少年はいい出した。
「川上さんは、綱島一家に借金して、狙われてるんですってね。だいたい話を聞きました。で、さっきから一座の人は、あそこにやって来て、次々に綱島の乾分衆につかまって連れてゆかれてるらしいんです」
「えっ……全然、そんなことには気がつかなかったぜ」
「人混みの中で、ふいにどてっ腹に匕首《あいくち》をつきつけて、連れてったそうで――」
「へへえ。……」
「もういままで、十人つかまった。そのくせ川上さんにはまだ手を出さない。むろんあちらはもう眼《がん》をつけてて、一座ぜんぶをつかまえてから、川上さんに手を出すつもりらしいんです」
少年は真剣な表情でいった。
「で、川上さんのおっしゃるには、もうこうなったら、おれ自身が綱島へ乗りこむ。そして、一座の連中は、自分とひきかえに放免してもらうことにすると。――もう川上さんは、大桟橋にはいないでしょう」
「やあ」
夢之助は、はっとした。
「で、このことを、あそこにいる男に――あなた、三遊亭夢之助さんです――告げてくれ。そして、東京の女房に知らせるようにいってくれって……。あなたのこと、ちゃんと知ってるんです」
夢之助は茫然としたが、一息おいて、改めて相手を見下ろした。
「お前さん、だれだえ?」
「横浜の土方でさあ」
「土方……そんなに、小さくて?」
「小さくったって、人間、食えなきゃ何でもやらなきゃなんねえんです」
「そりゃそうだな。しかし、どうしてお前、川上さんを知ってるんだえ?」
「いえ、おれ、こう見えて、芝居が好きでね。川上さんが前に横浜で芝居をやったとき見にいったことがあるんでさあ。そのとき、楽屋ものぞきにいった。――そのオッペケペの音二郎さんが、いまへんな虚無僧姿で大桟橋に立ってるからびっくりしちまって、ふと声をかけたら、こんなことを頼まれたってえわけで。……」
夢之助は、貞奴に訊いた。
「川上一座は前に横浜で芝居をやったことがあるんでゲスか?」
貞奴は、うなずいた。
「え、二年ほど前。――港座じゃなくって、蔦《つた》座でしたけれど」
「そのとき楽屋をのぞきにいって、貞奴さん、あなたにも逢った。そして考えれたといってましたよ」
「えっ、あたしに?」
貞奴はまばたきして、それから、
「ああ、あの子!」
と、やっと思い出したようにさけんだ。
「まだ、十二か十三かの、小さな子!」
「それがその小僧なんですよ。たしか長谷川伸二郎とかいってましたがね。その年ごろで、横浜埋立地で土方をやってたが、その時分から芝居が好きで好きで、芝居が来たら劇場《こや》の内外《うちそと》をうろつきまわるのがただ一つのたのしみだったそうで――あなたにそういったら、まだそんなに小さいのに、いまごろから芝居が好きなんて、それはよくない、いまのうち堅気になって学校へおゆき、と、こんこんと説教されたって。学校にゆけるくらいなら、何も土方になんかなりやしないのにねえって、本人はこぼしてましたよ」
「ああ、そんなことがあったかも知れない。けれど、それより夢之助さん、川上はどうしまして?」
「そうだ、で、また海岸通りへいったが、果せるかな大桟橋に川上さんはもういない。――といって、そのまま帰って来るってえのも芸がなさ過ぎるから、その小僧に案内させて、綱島の家をのぞきにゆきました。小僧の素性《すじよう》や、いまの話はその道中で聞いたんでさあ」
息を切り切り夢之助はしゃべった。
「その子はまた、綱島一家の乾分衆の中にゃ知ってる人がたくさんあるが――長兵衛親分は知らない。知らないが、ゴーツクバリでおっかねえ人だってことは聞いてる、といってました。そして、川上さんはいくら踏み倒したのさ、って訊きますから、何でも五千円だそうだ、というと、眼をまんまるくして、そりゃ大変だ、あの綱島の親分から五千円も踏み倒しゃあ、川上さんのいのちがいくつあっても足りねえやって、大きな溜息ついてましたよ」
「……」
「で、住吉町の、港座と背中合せになってる綱島の家にゆくと――裏通りだが、ばくち打ちの家に門まであるには驚きました。そこに、二、三人の遊び人風の男が立ってて――その一人がこっちをじいっと見ていたが、ふいに、あの野郎、こないだ入谷で見たやつだ! 川上を連れてった野郎だ! と、わめいて駈け出して来たのには胆をつぶした」
「……」
「ほら、入谷であなたたちをつかまえようとした三人の渡世人があったでしょう。その中の一人だったらしい。――で、あたしゃ一目散に逃げて、汽車に乗って、こうして帰って来たってわけで――」
「……」
「ま、こういう次第だが、これからいったいどうしたもんでござんしょうねえ?」
そういって、夢之助は野口の顔を見て、片眼をつぶった。どういうつもりかわからない。野口はぎろっとにらみつけただけで、何もいわなかった。
貞奴は床の上に坐って、首の折れるほどうなだれていた。それは夕闇の中の白鳥のような姿に見えた。
あくる朝。
貞奴は、野口に尋ねた。
「この近くの髪結いさんを御存じ?」
場所を聞くと、彼女は出かけようとした。
「あの、熱は?」
「熱はもうありません」
が、まだ少し――三十七度一、二分はありそうだ。しかし、同時に貞奴は、野口の制止など耳にもいれない顔色であった。
「それに、いつまでもこんな髪じゃあ。……」
彼女はこれまで、といた髪をただ櫛巻きにしていたのである。
貞奴が出ていったあと、しばらくして三遊亭夢之助がまたやって来た。「どうも気になるもんだから」といい、「あ、貞奴さんは?」とキョロキョロし、野口が説明すると、「へへえ、そりゃ……」と、首をひねった。
やがて貞奴が帰って来たのを見て、二人は眼を見張った。
彼女は、水もしたたる大丸髷に結い、手にどこから買って来たか、一本の短刀を携えていたのである。――わけを訊く二人に、
「しばらく、ここをのぞかないで」
とだけ答えて、貞奴は自分の部屋にとじこもった。
十分ばかりして、障子をあけて廊下に出て来た姿を見て、二人はあっと尻餅をつかんばかりになった。
貞奴は、黒縮緬の一ツ紋、朱鷺《とき》色の帯に短刀をたばさみ、髪はいまいった濡れ羽色の大丸髷で、その衣裳は、ここへ来てから数日後、川上がどこからか――おそらくそれまで泊っていた木賃宿からだろうが――運んで来た行李から出たとすぐに野口は察したが、とにかく浮世絵からぬけ出して来たような、と形容してもまだ足りない、まさしく当代無双、嬌艶無比、この世のものならぬあで姿であった。
「あ……どこへ?」
と、夢之助が訊いた。
「横浜へ」
貞奴は答えた。
「綱島親分とお話しにゆきます」
「どういう風に?」
「それは向うさま次第」
口をアングリとあけていた野口が、われに返ってさけんだ。
「貞奴さん……あなたは、川上さんを助けるためにゆくんですか?」
「いえ、それより、貞奴の意地で」
「しかし、あなたは、その、ペストの疑いが……」
貞奴はふり返って、にっと笑った。
「そうだったら、綱島一家にうつしてやりますわ」
その笑顔で、野口は、彼女がはじめから自分の嘘を見ぬいていたことを直感し、とっさにそれ以上、口がきけなくなった。
「あ、そうだ、野口先生」
と、貞奴はまたいった。
「こんなことをお頼みするなんて、身もちぢむようですけれど。……」
「何ですか」
「少しお金を貸して下さらないでしょうか?」
その顔が、熱のためばかりでなく、はじらいのため、花のようにあからんでいた。
「向うにいって何を話すにも、とにかくもとがお金の話でしょう。そりゃ五千円なんてどうにもなりませんけれど、まるで手ぶらでゆくのじゃ、ひとことの口もきけないような気がしますの。一応の挨拶にも、やはり少しは持ってったほうが心丈夫な気がしまして……」
「わかりました!」
野口はさけんだ。そして、ドタドタと自分の部屋に駈け戻ってゆき、すぐに出て来た。
「百五十円あります。どうぞ役に立てて下さい」
と、彼は紙包みをつき出した。
この間、口に出しかけてあやうくやめたが、ついに彼はそれをさし出したのである。彼がただで百五十円も人に提供するなどいうことは、へその緒切ってはじめてのことであったろう。しかし、野口の眼は、感動のあまりぬれていた。
「ありがとう。御恩にきます」
貞奴は受取り、お辞儀して出ていった。
野口と夢之助は顔見合わせ、そのあとを追った。入口のところで、貞奴はふりむいた。
「あの、あたし一人でゆきますわ。お二人に来ていただいても、この際、何もなりませんもの」
「いや、その」
と、野口はいった。
「僕も横浜に用があるんです」
「え?」
「実は、例の海港検疫所の開所式がきのうで、それはまあいいんですが、きょうから仕事がはじまってるはずなんで。……」
「まあ!」
実際、野口はこの数日、そのことを忘れていたのである。
横浜住吉町の大通りに面する港座の前で、ボンヤリ立って絵看板を見あげていた麦わら帽の少年土方が、ふとふりむいて、眼を見張ったのに、三遊亭夢之助が気がついた。
「やあ、きのうは」
小さな土方は走って来た。
「貞奴さんですね?」
息はずませていう。
「ああ、やっぱり、あのときの子供さん」
と、貞奴はちょっと微笑んだ。
「ずいぶん大きくなったわねえ。……でもまだ、小さいといえば小さいのに、そんな……」
「貞奴さんは、ぜんぜん変りませんね。あのときより、もっときれいだ」
少年長谷川伸二郎は驚嘆の眼で見あげて、
「川上さんを助けにゆくんですか?」
「まあ、そのつもりだけれど……」
貞奴は歩みをとめない。
「たった三人で?」
「いえ」
貞奴はふりむいて、
「あの、ここらでもうおいでにならないで……かえって、あぶのうございますから」
「警察に保護を依頼しにゆきましょうか?」
と、野口は両手を――あの怪異な手を、もみねじりながらいった。
「警察? 警察に頼んでも、借金の件はどうにもなりませんわ。あたしたちのほうが分《ぶ》がわるいんですもの」
貞奴は首をふり、
「綱島さんのおうちは、こっちね?」
と、少年土方をふり返り、横町のほうへ曲った。綱島一家は港座の裏通りにあると聞いていたからだ。
長谷川伸二郎がさけんだ。
「おれ、川上さんが心配だから、さっきそこをのぞきにいったんだ。大変だぜ、乾分衆が何十人か集まって殺気立ってるよ!」
まさしくその通り、それらしい黒板塀をめぐらした家の門のところに、数人のやくざ風の男たちが立っているのが見えた。
「では」
貞奴は、眼で野口と夢之助を拒否し、黒縮緬に丸髷のあで姿で、シトシトとその方向へ歩いていった。乾分たちがそれに気づき、仰天して飛びのくのが見えた。
横町から首をつき出したまま、野口と夢之助は、夕方までそこから動かなかった。うしろに長谷川伸二郎少年も、心配そうに立っている。
「出て来ない!」
夢之助がさけんだ。メフィストフェレスじみたその長い顔も蒼くなっていた。
「みんな、勇ましく乗りこんでゆくんだが……だれも出て来ない!」
シャベル一杯の鼠
綱島長兵衛の家は、座敷、土間、庭に乾分がひしめいているといっていいありさまであった。
彼らにとっても、川上音二郎の五千円踏倒し事件は、近来にない大事件だったのである。
金銭的に大痛手であることはいうまでもないが、それ以上に、面目玉を踏みつぶされたという怒りが大きい。ドジ、トンマ、まぬけと、興行師仲間、貸元仲間から笑われているだろうと考えるだけで、はらわたが煮えくり返る。
といって――逃亡した川上が、しゃあしゃあとして暮に神戸で芝居をやっていることは知ったが――へたに傷害事件など起せば、五千円取り立てる見込みがなくなるのみならず、こっちが加害者となってうしろに手がまわるので、歯をくいしばって腹の虫をおさえて、向うの興行元とかけ合って来たが、とうとうはからずもその興行元のほうに危害を加える羽目となった。
それはそれで胸のつかえは下りたとはいうものの、三人の乾分は牢にいれられてしまった。むろん出て来たら旗を持って迎えにゆくつもりだが、とにかくいまのところ、こうなったらいよいよもって、元凶川上音二郎をただではおけないという殺気と執念が、いまや破れんばかりに綱島一家にふくれあがっていたのであった。
その川上一座が、きょう大桟橋に集まって来る、ということを探りあてて、一家総出動で網を張っていたところ、まんまとその連中を網にかけたのみならず、御大の音二郎自身もついにつかまえた、というので、その殺気と執念は万丈の炎をあげた。――
いや、音二郎は自分からここにやって来たのだ。
彼は、自分が大桟橋に立っていることが、一種の囮《おとり》となっていることに気がついた。すでに自分の見ただけでも、十人くらいが連行されている。まだ来ないのは、山本嘉一に知らされてあやうく逃げたものと思われるけれど、これ以上自分がそこにいることはかえって危険だ、と判断した。だいいち、先につかまっていった連中の安否のほどもはかりがたい。
で、みずから来た。
そのときのなりゆきだが。――
果せるかな、その家の土間に、一座の者は――来て見ると、十三人いた――みんなひきすえられて、惨澹たるものであった。綱島の乾分は、手に手に木刀や割竹をぶら下げて、それまでに私刑《リンチ》にちかい所業を受けていたことは明らかだ。その衣服はひき裂かれ、顔や手足に紫色のみみず脹れが這い、血を流している者さえあった。
音二郎を迎えて、乾分たちがどよめき立ったのはいうまでもないが、それを、「静かにしろい!」と一喝して鎮めたのは、あがり框《がまち》に腰かけていた綱島長兵衛親分であった。
「やって来たか、川上」
と、彼はいった。
「えらい手数をかけさせたな。少々|罰《ばち》があたってもしようがねえと思え」
年は五十に近いが、でっぷりふとった身体にも唇の厚い顔にもさすがに貫禄があって、声はわざとおさえているが、眼はただならぬ光をはなっている。
川上は土間に坐って、両手をついてお辞儀をした。
そして、借金を踏み倒す結果になったことを陳謝し、自分のアメリカゆきもその金を返すための起死回生の挙なのだ、必ず成功して向うから、拝借した金を送るむね、声涙ともに下って述べた。が。――
「そんなお芝居は、港座でやってもらいたかったのう」
と、長兵衛は冷笑した。
「いまとなっては、もう遅えや」
地を這うような声でいった。
「遅いといっても、殺しゃあしねえから安心しな。いや、殺してもあき足りねえくれえだが、おめえさんたちを殺すとな、こっちの手がうしろにまわる。前金を踏み倒された上に牢にはいっちゃあ間尺に合わねえから、そんな真似はしねえよ。ただ、その代り……」
彼は変な笑いを浮かべ、あごをつき出して、
「おい、貞奴はどこにおる? きょうは連れて来なかったのか?」
と、いった。
「いままで一座の連中に訊いたが、みんな白状しやがらねえ。そのためにあの通り痛い目に合ったんだ。こちとらは、今はおめえじゃあねえ、貞奴さんのほうにお目にかかりてえんだ」
音二郎は猛然と首をふった。
「貞奴は、あんたと関係ない。借金の全責任は私にある」
「関係はあるさ。そもそもその前金を渡したのも、貞奴にオッペケペーをやらせるという約束をしたからのことだからな。……しかし、もういちどそのことは頼まねえ。いまとなっては、それじゃ足りねえ」
長兵衛はいった。
「おれともあろうものが、抵当《かた》もとらずに五千円という大金を渡すというヘマをやった。こんどは抵当《かた》をとる。それが貞奴だ! さあ、あの女をよこせ、よこさねえなら連れにゆく。貞奴はどこにおる?」
音二郎は鉄丸でものんだような表情になった。
「いわねえなら。……」
乾分たちが兇暴などよめきをあげるのを、手で制して、
「いわねえでいい。その抵当《かた》をとるまで、こっちは待っている。五日でも、十日でも……ああ、おめえら、船は三十日だってな。一応、それまで待つことにしよう」
きょうの集合の意味からして、そのことは探り出したらしい。
「親分!」
音二郎は声をしぼった。
「それじゃ私どもはアメリカへゆけない」
「何を虫のいいことをいってやがる。そう、あと白波とアメリカへゆかれてたまるか!」
「アメリカへゆけなきゃ、借金も返せない。……」
「いったって、てめえのような山師野郎があてになるものか。……とにかく、貞奴をよこせ!」
音二郎は歯をくいしばり、沈黙した。
絶体絶命とはこのことだ。ここに貞奴を呼ぶなど、金輪際出来ない。が、連れて来なければこの事態はつづき、アメリカゆきは御破算になる。同時に、川上一座の未来も御破算になる。
「まあ、ユックリ考えな」
綱島長兵衛は薄笑いして、煙管《きせる》と煙草入れを持って立ちあがった。
「こっちはそれまで待たあ。おい、みんな、そのつもりで見張ってな。退屈ならその間、死なねえ程度にいたぶってやれ」
と、まわりを見まわして、奥へ消えていった。――
こういう状態でその日が暮れ、第一夜が過ぎた。
そして、あくる日の午後になって、その貞奴自身が姿を現わしたのであった。
川上が来たときはどよめきわたった綱島一家が、このときは奇妙なくらい、しいんとしずまりかえっていた。
そのわけは、いうまでもない。――乗りこんで来た貞奴の水際立った凄艶ぶりに心魂を奪われたからで、それを待っていた綱島長兵衛までが、しばらく声をかけるのも忘れて、座敷に棒立ちになっていたくらいであった。
貞奴は土間を見まわした。やつれはてた音二郎をはじめ一座の者も、ただ口をパクパクさせるばかりで声もない。それは、貞奴がやって来たことの感動と、ああ、来てくれなければよかったのに! という当惑のためであった。
「親分さん」
貞奴はしずかに呼びかけた。
「これはどうしたらいいのでござんしょう?」
「どうしたらいいとは?」
長兵衛はのどに痰のからまったような声を出した。訊き返す、というより、ヘドモドした調子だ。
「もう御存知でしょうが、川上一座はどうしてもこの三十日、船へ乗らなきゃならないんです。けれど、五千円という大金を拝借させて下すった親分さんが、それは許さないとおっしゃる。お金をお返しするためにもアメリカへゆかなきゃならないんですけれど、許さないとおっしゃるなら、それまでです」
「で、どうする?」
「一座、ここで死ぬよりほかはありません」
貞奴は、帯の間の短刀を手で押えた。
「あたしが、これでみんなを刺し殺して、あたしも死にます」
みな、息をひいて貞奴を見まもった。ただのおどしではない、ただの女のおどしではない、ということが明らかに感得されたのだ。
かつて彼女は、一本のオールを拾うために怒濤の中へ飛びこんだ。音二郎以外、そんなことは知らないけれど、絶体絶命の立場に追いつめられると、どんな思い切ったことでもやりかねない彼女の度胸が、いま、まさしく一同の顔に冷炎のように吹きつけて来たのであった。
「ま、まあ待て」
長兵衛は手をあげた。
「それではミもフタもない。……その前に法がある」
「どんな法が?」
「きのうから川上にもいっとることだがな。……川上一座は、それじゃあ船に乗せてやろう。その代りお前さんを抵当《かた》として残すことだ。アメリカから金を返して来次第、お前さんもアメリカへ送ってやる」
――実は、綱島長兵衛の考えていたことは、それどころではなかった。五千円を踏み倒されて以来の怒りと恨みは、その程度では手を打てるものではなく、貞奴が来たらこの場で陵辱し、あとは乾分たちに犬の肉を与えるがごとくくれてやり、それを見せつけたあと音二郎たちを海へ放りこんでタラフク水を飲ませる……くらいの報復を考えていたのだ。
音二郎に抵当《かた》云々といったのは、ただ貞奴を呼ぶための方便に過ぎない。――
ところが、いま、現実の貞奴を見たとたん――長兵衛親分は、突如、ほんとうに右の条件までよろめいた。
――この女を残せ! それだけでいい!
あやうく、そういおうとして、ちらっとまわりの乾分たちの険悪な顔を見ると、彼は照れかくしに物凄い声をはりあげた。
「それ以外は、絶対に許さん!」
貞奴が、音二郎をふりむいた。音二郎は哀しげなその眼を読んだ。
――あたし、残ります。一座はあたしを置いてアメリカへいって下さい。
貞奴は、そういっていた。とたんに音二郎もまた物凄い声をはりあげた
「そんなことは許さん!」
数十秒の沈黙ののち、綱島一家の乾分たちのわめき声が、荒海のごとく煮えくりかえった。「何をぬかしやがる」「でけえつらをしやがって」「なら五千円返せ」「殺しちまえ!」云々。
それを凍らせたのは、貞奴の澄んだ声と稲妻のような動作であった。
「川上に手を出してごらん。あたしはこうするから!」
抜きはなった短刀は、ピタリと自分自身の白いのどに向けられていた。
「あっ、待て!」
綱島長兵衛は、あわてて両腕をつき出した。……
談判は決裂し、同時に凍結した。
実に、四日間。――その日二十六日も、あくる日二十七日も、二十八日も、二十九日も。――
音二郎たち川上一座は、その土間から逃げられなかった。しかし、握り飯は与えられ、厠《かわや》にゆくことは許された。それは貞奴の自分を対象とする短刀の力のおかげもあったが、綱島長兵衛の何やら一物《いちもつ》あるらしい指示のためでもあった。
何やら一物あるらしい?――それが、三十日の川上一座の出帆予定を考慮にいれたものであったことは明らかだ。すなわち、それまでに音二郎は屈服するだろうという。――
ただ、その三日間に、妙な事件が別に進行していた。
貞奴が乗りこんで来た翌日、二十七日の朝だ。
この騒ぎで、綱島一家の乾分の出入りはむろん多かったが、その中で、
「や、伸コ、そりゃ何だ」
と、門のすぐ内側で、何かを見とがめる声がした。
声をかけたのは乾分の一人で、本牧の安という男であった。彼はふだん芝居の木戸番をやっているが、見知り越しの土方の少年が、両手に鼠を一匹ずつぶら下げて外へ出ようとしていたのを見いだしたのである。
知った顔なので、そんなところをその少年がウロウロしているのを、だれも見逃していたらしい。
「死んだ鼠だよ」
「そりゃわかってるが」
「あそこに死んでたんだよ」
と、長谷川伸二郎は、母屋の縁の下のほうを指さした。
「だから捨てて来てやろうと思ってさ」
伸二郎は二匹の鼠のしっぽをつまんだまま、往来へ出ていった。
本牧の安には、何のことだか見当もつかない。
二十八日の朝になった。
「本牧の兄さん」
同じところで安は呼びとめられて、眼をむいた。あの伸コが、こんどは右手に三匹、左手に二匹の鼠をぶら下げて立っていたからだ。
「きょうはあそこで死んでたよ」
と、少年は横の塀の内側の蔭を指さした。
「へへえ? そりゃいったいどうしたんだ?」
「わからない。だけど、気味が悪いねえ」
少年は門の外へ出ていった。
本牧の安もぶきみな感じがしたから、このことを親分の長兵衛に耳打ちした。長兵衛は狐につままれたような顔をしたが、これもむろんわけがわからないらしく、かつ右のような川上騒動が継続中であったので、それ以上何もいわなかった。
そして、二十九日の朝。
本牧の安は、長谷川伸二郎が、こんどはシャベルに一杯、鼠の屍骸を盛って出てゆこうとしているのを見た。
「きょうは裏庭のあっちこっちで死んでたよ。探すとまだ死んでるかも知れないよ」
伸コはいった。
「あ、それからね、あにい、きのうの鼠五匹、あれをぶら下げて歩いてたらね、それはいったいどうしたんだと道で訊かれたんだ。綱島さんちで死んでたんだといったら、首をひねっていたっけが、僕はこんど開かれた海港検疫所の者だが、ちょっと気にかかるから、それ呉れって持ってったよ。だからこれも検疫所に持ってってやるつもりだがね」
「ふうん。……」
「おいらも気になるさ。このこと、ちょいと親分に話しといておくれ」
あめりか物語
綱島一家に警官と役人が殺到したのは、その夜八時ごろであった。みんな手袋をはめ、マスクをかけ、中には白衣の医者らしい男も何人か混っていた。
仰天して迎えた綱島長兵衛に、その白衣の一人がいった。
「大変だ! ペストが発生した!」
「ペ、ペスト?」
「この家から続々発見された鼠に、ペストの疑いのある細菌が見つかったんだ。すぐにここにおる全員、海港検疫所に隔離して検査する。全員動くな!」
白い頭巾をかぶり、白いマスクをかけ、白い手袋をはめ――その右手をまっすぐにのばして長兵衛をさし、どなっている検疫官を、土間で口をあけている川上音二郎はしばらくだれかと気がつかなかったが、じいっと見ていた貞奴だけが、ふいににっと笑った。
綱島一家の連中は、言葉を失って馬鹿みたいにつっ立ったきりであった。長兵衛親分の頭を、おとといときのうの、乾分の安の鼠についてのうす気味悪い報告がかすめた。だいいち、医者やお巡りがこんなにものものしくおしかけて来た事態に、どうして疑う余地があろう?
いちど笑いかけた貞奴も、ふと首をかしげ、みるみる真剣な顔になったほどである。まさか……まさか……こんな大がかりなペテンが世にあるだろうか?
が、このとき貞奴は、マスクの上で、たしかに野口と思われる眼が、その一方だけとじられて合図するのを見た。――
綱島一家はもとより川上一座も、そこにいた者すべて、夜の町に追い出された。そして、なお外にも群れていた巡査たちに囲まれて、ゾロゾロと歩かされた。
――ペスト?
――ペストだって?
――ペストだ! ペストだ!
暗い町角のあちこちから、恐怖にみちたそんな声が遠くへ走っていった。
なんと彼らは、横浜から八キロもある海港検疫所まで連行されたのである。
ペスト、それは地上で最も怖ろしい伝染病である。
歴史上いちばん有名なのは、十四世紀なかばヨーロッパにひろがったときのもので、「黒死病」と呼ばれ、実に当時の欧州住民の四分の一、二千五百万人が死亡したといわれる。
感染後二、三日以内に突如四十度前後の高熱を発し、みるみるミイラのような顔貌になる。猛烈な肺炎症状を現わし、血を吐く肺ペスト、あちこちの淋巴腺《リンパせん》がクルミ大からネーブル大に腫れあがる腺ペスト、皮膚に出血性の潰瘍を作る皮膚ペストなどの種類があるが、その間にはそのどれかをかねる移行性のものもある。
症状が現われてから、早くは数時間、遅くとも三日くらいで死に、死亡率はほとんど百%に近い。
感染すれば、人間から人間へ、咳により、分泌物、排泄物により、またそれらが付着した衣服、器具によっても伝染するが、元来はペストにかかった鼠が発生源だ。そして、その鼠にとりついた蚤が人体にたかってペスト菌を移すのである。
しかし、以上のことは長い間、わからなかった。――
この黒死病がペスト菌による、ということが発見されたのは、ほんの五年ばかり前、明治二十七年香港に発生したときで、これには北里柴三郎も関係がある。
ペスト香港に発生す、ということで、日本政府はその防疫と調査のために、医学界の泰斗青山|胤通《たねみち》博士と北里博士を現地に急派した。このとき青山博士自身も感染して重態におちいったが、文字通り九死に一生を得た。そして一方の北里博士がはじめてペスト菌を発見したのである。
ただし、このときやはりフランスから調査に来ていた医学者アレクサンドル・エルサンも同じくペスト菌を発見した。やがて二人が学術誌に発表した内容が、エルサンのもののほうが正確であったので――ほんとうをいうと、北里が発見した菌はペスト菌ではなかった――ペスト菌の最初の発見者はエルサンということになっている。
ついで明治三十年、やはり日本人の緒方正規によって、伝染が鼠と蚤によるものであることが証明された。――
ただし、ペスト・ワクチンなどが作られたのはずっと後年のことで――これとて効果は決定的ではない――当時は、もし出来れば現場の大々的焼却か、それが不可能なら一帯の鼠を徹底的に駆除するしか防疫の法がなかった。
この恐怖すべき伝染病を持った鼠の屍体が、横浜で発見されたという。――
その鼠の見つかった綱島一家を囲んで、とりあえずその一帯に寸分のすきまもなくトタン板の壁が張りめぐらされ、その中で、大がかりな、徹底した鼠退治がはじまった。
ふしぎなことがある。
こんな大騒動をして検疫所に収容された連中のうち、川上一座が異常なしとしてその翌朝釈放されたことだ。
彼らは横浜に帰って来て、正午出航の予定で大桟橋に横付けになっているイギリス船ゲーリッグ号へ向って歩いていった。
乗客だけがそれ以上はいることを許される場所で、貞奴は送って来た野口にお辞儀した。
「先生、ほんとうにありがとうございました」
「いや」
野口は哀感そのもののような顔をしていた。
「でも、この後始末、どうなさるおつもり?」
「まあ、何とかなるでしょう。僕の責任で収拾します」
野口はすがりつくような眼で、貞奴を見た。
「やっぱり、あなた、アメリカへゆくんですかなあ? ひどい苦労をすることになると思うんですがねえ。……」
「ええ、それは覚悟しています。だからこそ、あたし、意地でもいっしょにゆかなきゃならないんです。……それに、あの、先生に拝借したお金をお返しするためにも!」
「いや、それはいいんですが。……」
船で銅鑼《どら》が鳴り出した。
「それじゃあ、ごきげんよう」
少し先に、一座とともに立っていた音二郎が戻って来て、どういうつもりか日の丸の扇子をぱっとひらいて、野口を煽ぎながら、
「川上音二郎、終生先生の御恩を忘れませんぞ。あのペンシル大学に、何とぞ先生のことをよろしくと伝えておきますぞ!」
と、髯の中から満面の笑みを投げていった。
正午、ゲーリッグ号はしずかに動き出した。
見送っているのは、野口ばかりではない。うしろに三遊亭夢之助と長谷川伸二郎も立っている。
「先生、貞奴さんはいっちまいましたね」
と夢之助がいった。
「なぜペストだといって、船に乗せないようにしなかったんです」
「そうしたら……川上のほうも残る」
「なるほど」
夢之助は笑い出した。
「貞奴さんだけペストというわけにゃゆきませんな」
「それに貞奴さんは、はじめからペストじゃないってことは知ってたんだ」
野口は、自分たちがものものしく踏みこんでいったとき、貞奴を安心させるために、片眼までつぶって見せて合図したことを思い出した。まことにいらざることをしたものだが、あのときはそうせずにはいられなかったのだ。
もっともあとで、貞奴だけは残るように哀願し、自分のあの驚天動地の努力に対しても貞奴が承知することを期待していたのだが。――
「してみると、こんどの大騒動は、何にもならなかったじゃありませんか?」
「けど、川上一座を綱島一家から助け出したことにはなったじゃないですか」
伸二郎が口を出したが、すぐ心配そうに、
「けど、大丈夫かなあ、あの鼠のこと。……」
と、溜息をついた。
貞奴が綱島のところへ乗りこんでいった日――突然、「ただ一つ、川上一座を救い出す法がある!」と野口が躍りあがったのが、ことのはじまりであった。むろんそれには、数日前、伊皿子の寮でペストの空撃ちをやったことが心理的な伏線となっている。
あの鼠は、東京の芝の北里伝染病研究所から持ち出した実験用のもので、それを長谷川伸二郎に頼んで、綱島の家で死んでいたように見せかけたのだが。――
「お前が白状しなきゃ大丈夫だ」
野口は伸二郎の肩をたたいた。
「ともかくペストは僕の誤認だったということにする。北里先生だって間違われたんだから――細菌の誤認は珍らしいことじゃない」
――後年彼は、みずから誤認して、黄熱病のためにアフリカで死んでゆく。
碧い春の海を遠ざかってゆくゲーリッグ号の甲板で、川上音二郎と貞奴が、それぞれ扇とハンケチをふっているのが見えた。野口は夢中で手をふった。
「しようがねえな」
三遊亭夢之助は横目で見て、長い顔をなでてニヤニヤ笑った。
「野口英世先生、純情の巻でゲスな」
中等以上の客でなければ、甲板には出られない。一座は下等船室にいれて、川上夫婦だけ、一人百円の中等船客になりおおせたのである。
「あの金は、野口先生から借りたのかえ?」
と、扇子をふりながら、音二郎が訊いた。
「そうなの」
音二郎が所持していた五十円に、貞奴がさし出した百五十円を加えて、彼らは中等切符を買ったのであった。
「いつか、野口先生に頼めといったら、あれは先生がアメリカへゆくために苦労してためなすったお金だから、そんなことは頼めないといって、お前はことわったが。……」
「そういったけれど、綱島のところへゆくとき、手ぶらじゃ心細くって……」
「それを綱島に渡さず、船賃にしたのか」
「結局、そういうことになってしまったようね。……」
貞奴はニコヤカに、もう小さくなった岸の見送り人へ向って、ハンケチをふりつづけていた。海風に吹かれて、丸髷がほつれて吹きなびいている。
その横顔を、改めて神秘的なものに感じながら、川上音二郎は、心中、こいつはおれよりふといかも知れん、と感心していた。
「サヨナラ、サヨナラ!」
と、貞奴はさけんだ。
「オッペケペッポー、ペッポーポー!」
と、音二郎もさけんだ。
川上一座がサンフランシスコに着いたのは、五月二十三日のことであった。
斡旋役の弁護士光瀬耕作が出迎えてくれ、早速二十五日から、オッファーレル街のカリフォルニア劇場で開演した。出し物は、例の「楠公桜井の別れ」をはじめ、「児島高徳」「鞘当《さやあて》」などはまだいいとして、「台湾鬼退治」「心外千万遼東半島」などいうのを披露している。
これがなんと大当りで、四日間で二千ドルの儲けがあったと光瀬が報告した。
ところが、五日目、劇場にゆくと、楽屋のドアは鍵がかけてあった。そして劇場支配人がこわい顔をして出て来て、昨夜光瀬が二千ドルの儲けを持ったまま、小屋料も踏み倒して逐電したことを告げた。
あとでわかったことだが、その光瀬耕作という男は、移民事業のピンハネをしている悪徳弁護士であったのだ。
川上一座は、日本の神戸の大黒座の二の舞いを、アメリカでもやられたのである。
いや、音二郎自身が踏み倒しの前科があるのだから、おたがいさまというべきか。
しかし、異郷のサンフランシスコでそんな目にあっては、もう虚無僧の門付もきかない。彼らはホテルも追い出され、公園のベンチで食うものもなく数日を過す羽目におちいった。
それを見て、これは国辱ものだとたまりかねた在留邦人たちが寄附金を集めて帰国の費用を作ってやったのだが、その金をもらうと――ここで川上音二郎の強情我慢ぶりが発揮された。彼は帰国するどころか、シヤトルに向ったのだ。
シヤトルからタコマ、それからシカゴへ――歩けるところは汽車にも乗らずに歩き、野宿し、ときには餓死寸前の難行をつづけながら――むろん、第三者には抱腹絶倒の珍談をまじえながら巡業していった川上一座は、その年の末、ボストンに着いたときは、なんとシェクスピアの「ヴェニスの商人」をやるまでになっていた。
これまでに貞奴は、すでにマダム貞奴として「娘道成寺」など踊っていたが、このときはじめてポーシャ役で出演した。むろん、日本語の芝居だが――そのせりふでさえ、自由に彼女は口に出来ない。
「あたしゃ、何といえばいいんですよう」
と、悲鳴をあげる貞奴に、音二郎は悠然として、
「どうせ毛唐にゃわかりやしないんだ。チャカポコ、チャカポコ、スチャラカチャンチャン、とでもいっておけ」
と、いった。――しかし、この芝居がすばらしい評判を呼んだ。
こうして、翌明治三十三年一月末、ワシントンに着いたとき、小村寿太郎公使が彼らのために大夜会を開催してくれ、マッキンレー大統領まで姿を現わした。
彼らは、ニューヨークのブロードウェイで、日本物の「芸者と武士」、翻案物のドーデの「サフォ」を演じた。
そして、五月にはロンドンに渡ったが、このときのチュードル・ホテルでの川上のハッタリぶりは前に記した通りだ。なんとこのとき彼らは、バッキンガム宮殿にまで招かれている。
それから約半年、川上一座はロンドンと当時万国博のひらかれていたパリの間を往来して出演した。
彼らが意気揚々としてロンドンを出航し、日本への凱旋の旅についたのは、その年の十一月九日のことであった。
音二郎と貞奴の頭にはもうその影もなかったが、その船がおそらく印度洋あたりにかかっている十二月五日、野口英世は横浜からアメリカへ向けて出帆している。
野口は、またもや路上の縄を天へのぼる綱に変える魔術をやってのけた。
あのペスト騒動の少しあと、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学病理学教授のサイモン・フレクスナー博士が来日して、伝染病研究所を訪れたとき、例によって北里所長は野口を呼んで通訳と案内役をまかせたのだが、その間に野口は、自分の米国留学の希望を打ちあけた。フレクスナー教授は挨拶として、渡米したときは自分を訪ねるように、といった。
野口はこれでフレクスナーの承諾を得たと信じ――強引に解釈し――勇気百倍した。そして改めてまた猛然と留学費のかき集めにとりかかった。
それから一年半――彼はついにアメリカゆきの船に身を投じたのである。それは、その九月、夏目漱石がイギリスへ向って出帆した同じ港であった。
野口にやって来られたフレクスナーはびっくり仰天したが、結局彼の面倒を見ることになる。しかも、何たる幸運、その翌年にフレクスナーは、新設されたばかりのロックフェラー医学研究所の所長に就任したのである。
かくてロックフェラー研究所員として、野口英世の世界的医学者への突進がはじまる。――
川上音二郎にしても野口英世にしても、強烈なエゴイズムの熱塊であった。それは人間すべてがそうだといえばいえるが、しかし彼らには、ただの私利私慾とは次元とニュアンスのちがう何かがあった。それゆえに彼らは、のちのちまで人々の胸に好意あるいは敬意の念を残したのである。
さて、野口が渡米してから三年後の明治三十六年九月二十二日、二十四歳になった三遊亭夢之助もまた横浜からアメリカへ旅立った。
これこそ、川上、野口も三舎を避けるエゴイズムの化物ともいうべき人物で、ただ心中「予は淫楽を欲して已《や》まず、淫楽の中に一身の破滅を冀《ねが》うのみ」と、さけびながら。――
すなわち、その名永井壮吉、のちの荷風散人。
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〈関連年表〉
年           出来事
安政四年(一八五七)   幕府、オランダより三百トンの木造戦艦を購入、咸臨丸と命名する
万延元年(一八六〇)   咸臨丸、遣米使節の随行艦として、初の太平洋横断に成功
文久二年(一八六二)   ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』
慶応三年(一八六七)   パリの万国博覧会開催。日本より旅芸人渡仏
明治元年(一八六八)   明治維新
鳥羽・伏見の戦い
五稜郭の戦い
明治二年(一八六九)   エミール・ガボリオ『ルコック探偵』
明治四年(一八七一)   十一月、岩倉具視視察団の渡米
明治五年(一八七二)   九月、パリ警察組織視察のため、川路利良渡仏
十二月、マリー・セレスト号事件
明治六年(一八七三)   築地の西洋料理店・精養軒開業
明治七年(一八七四)   成島柳北『柳橋新誌』
明治八年(一八七五)   六月、讒謗律の制定
明治十年(一八七七)   西南戦争
明治十五年(一八八二)  四月、岐阜事件(板垣退助刺傷事件)
明治十七年(一八八四)  十月、秩父事件
十二月、金玉均による甲申事変
明治十八年(一八八五)  坪内逍遥『当世書生気質』
十一月、旧自由党員・大井憲太郎らによる大阪事件
粘菌研究のため、南方熊楠渡米
明治二十二年(一八八九) 北村透谷『楚囚之詩』
黒岩涙香『無惨』
明治二十三年(一八九〇) 森鴎外『舞姫』
明治二十四年(一八九一) 六月、川上音二郎、東京で壮士劇を興行
明治二十五年(一八九二) 十月、北里柴三郎、伝染病研究所を設立
十一月、黒岩涙香、「万朝報」を創刊
明治二十六年(一八九三) 一月、川上音二郎、初日を前に演劇視察のため、仏へ向けて突然神戸を出発
明治二十七年(一八九四) 樋口一葉『大つごもり』
七月、日清戦争開戦
明治二十八年(一八九五) 樋口一葉『たけくらべ』
十月、京城の閔妃殺害事件
明治二十九年(一八九六) 三月、横浜に、中国人ペスト患者上陸
明治三十二年(一八九九) 福沢諭吉『福翁自伝』
明治四十年(一九〇七)  一月、福田英子、日本最初の社会主義的婦人雑誌『世界婦人』創刊
明治四十一年(一九〇八) 永井荷風『あめりか物語』
明治四十三年(一九一〇) 森鴎外『普請中』
明治四十五年(一九一二) 一月、白瀬矗中尉による北極探検隊の出発
大正八年(一九一九)   野口英世、黄熱病病原体を発見
サマセット・モーム『月と六ペンス』
昭和六年(一九三一)   長谷川伸『一本刀土俵入』
昭和四十九年(一九七四) 星新一『祖父・小金井良精の記』
[#地付き](作成・日下三蔵)
山田風太郎 (やまだ・ふうたろう)
一九二二(大正十一)年一月、兵庫県養父郡関宮町の医家に生れる。三六年中学に入学、その頃の仲間の渾名が雲太郎、雨太郎、雷太郎で、筆名・山田風太郎の契機となる。四九年、「眼中の悪魔」「虚像淫楽」で第二回探偵作家クラブ章を受賞。五〇年、東京医科大学を卒業するが、医師の道を進まず、作家として身を立てる決心をする。
『甲賀忍法帖』『くノ一忍法帖』を初めとする、風太郎忍法を生み出し、忍法ブームをまきおこす。さらに四八年より『警視庁草紙』『幻燈辻馬車』『明治波濤歌』など、独自の手法による明治もの≠発表、ファンをうならせる。他に、『人間臨終図巻』『あと千回の晩歌』など死をみつめた作品もある。二〇〇一年、尊敬する江戸川乱歩と同じ、七月二十八日没。
本作品は一九九七年九月、ちくま文庫として刊行された。