山田風太郎明治小説全集14
明治十手架(下)
目 次
明治十手架 下
けだもの勝負第一番
姉いずこ
けだもの勝負第二番
破牢の企て
けだもの勝負第三番
鬼さんこちら
けだもの勝負第四番
けだもの勝負第五番
胤昭座談終篇
明治かげろう俥
黄色い下宿人
関連年表
[#改ページ]
明治十手架 下
けだもの勝負第一番
一
入獄してから原胤昭《はらたねあき》は、さながら雑居房の牢《ろう》名主の観があった。
彼は軽|禁錮《きんこ》三ヶ月で、本来は別房なのだが、みずから志願して、いちばん大きな雑居房にいれてもらったのである。
この逆ならむろん受けいれられないが、監獄のほうではこの願いをきいてくれた。こういう点はまだ大ざっぱなところがあった。
役人の中には、十年前までここに勤務していた胤昭を知っていて、しかも悪くない記憶を持つ者も少なくなかったようだし、かつ十字屋で彼が出獄人保護などという仕事をしているのを知らない者はなかった。
もっとも、逆に悪意を持ってこの処置をとってくれたという考えも成り立つ。――犯罪を取締る側の人間がいったん牢にはいるとえらい目にあうのは、旧幕以来の、いまだに改まらない伝統だったからである。
ただし、事実において、その五、六十人もいる雑居房で、胤昭は大事にされた。まさか、その昔のように一人でたたみを積みあげた上でふんぞり返っているなどという光景ではなかったが、一種の牢名主的な待遇を受けた。
ここにいる囚人たちすべてが、前から直接原を知っていたわけではないが、十字屋で世話になった出獄人の出戻りが少なからずいて、これが胤昭の前にひざッ小僧をそろえ、かつ他の囚人にもこれにならうことを強制したからだ。
それどころか、彼らは、胤昭のために以心伝心の「親衛隊」を作った。
というのは、胤昭はただ雑居房にはいったのみならず、ほかの囚人同様作業に出ることも志願して、これも許可になったのだが、この間そばに寄って来て、彼をあざ笑ったり、つらく当ろうとしたりした数人の看守がある。
いうまでもなく、鳥居、寺西、牛久保の三看守だが、残虐の悪名高いこの三看守が原胤昭を敵視していることを、こういうことには敏感な囚人たちはすぐに見ぬいた。
のみならず、この三看守と原とのいざこざを、十字屋で世話になっている間に何となく聞きこんでいた連中があって、これが次から次へと伝える。こうして、
「原の旦那《だんな》をまもれ」
という声は、胤昭の耳のとどかないところで、異常な共鳴をもってささやき合われていたのであった。
で、原胤昭は、大げさにいえばいい気分で牢屋暮しをやっていた。この三ヶ月のお勤めは、自分にとってもいい勉強だ、くらいに考えていた。
ただ、彼は、自分のことについて不安はなかったが、娑婆《しやば》に残した有明《ありあけ》姉妹については、むろん心配していた。
鍛冶橋《かじばし》監獄で裁判を待っているあいだ、十字屋の「出獄人保護所」の看板は当分下ろしておくようにいってはおいたが――二人、どうして暮しているだろうと思う。
この石川島に来るとき、さんず茶屋で見送っていた有明姉妹、とくにお夕《ゆう》の梨《なし》の花のような顔色が、なぜか一つのおびえをもってよみがえる。が、そのおびえは漠然《ばくぜん》たるもので、考えてみると根拠がない。
石川島に着いたとき、迎えた三看守のうす笑いの顔を見て、これはひょっとすると相当な目にあうかも知れんぞ、と予感したが、しかしそれ以来、彼らの敵意はしばしば経験したが、さればとてそれ以上のものではない。
ましてや銀座に残っている姉妹に、何のわざわいも起ろうはずがない。それに、岸田|吟香《ぎんこう》先生や小林|清親《きよちか》画伯もいることだし、さらにヘボン先生もしょっちゅう上京してのぞきに来て下さるはずだ。
そう自分にいいきかせていた胤昭に、ふいに闇《やみ》から忽然《こつぜん》と落ちて来た十手であった。
自分が愛用していた例の欠け十手だが――こんな奇々怪々なものがまたとあろうか。
自分には見える。が、この雑居房に同居しているほかの囚人にはこれが見えないらしい。らしいではない、事実まったく見えないことを、げんに胤昭はたしかめた。
見えないけれど、触れればわかるらしい。
大勢の囚人の中には看守の鼻息をうかがうやつも少なからず――むしろそれが本来の囚人のありかただが――彼に敵意をあらわにした行動を見せる者もままあったが、あるときなぐりかかろうとしたやつを、反射的にその十手でちょいと払ったら、「痛《い》ててっ」と打たれた手首をおさえてはねまわり、カマイタチに襲われたような妙な顔をして眼をむき出したやつがあったが。――自分を打った鉄の棒が見えないのだから、むりもない。
こりゃなんだ? こりゃどうしたことだ?
こんな面妖《めんよう》不可思議な現象は、むろん以前にこの十手に現われたことはない。
そうだ、これを渡すとき、ぬらりひょんの安は、おれに悪態つきながら、小声でいった。――
「旦那《だんな》、しんぺえねえ、こいつアほかのやつらにゃ見えねえんです」
してみると、ぬらりひょんの安には見えたらしい。――いよいよもって解《げ》せない。
それからまた安はいった。
「お夕お嬢さんからあずかって来やした」
してみると、有明姉妹は健在らしい。
と、胤昭は、その点だけにはほっとした。――なんぞ知らん、あの夜にあの悲劇が起っていようとは!
しかし、だれがそんなことを想像するだろうか。胤昭にすれば、自分だっていのちまで狙われるほどの憎悪を受けているとは、夢にも考えていない。ましてあの清らかな姉妹に、だれが死の爪《つめ》をかけるだろうか。
とはいえ、この十手を受けとって、胤昭の不安は別のかたちでいや増した。
ぬらりひょんの安は、どういういきさつでこの十手をとどけてくれたのか。そのうしろに三人の看守がついていたのは何のためか。そして――おう、あのときあの三人の悪党はたしか涙を流していたが、あれはいったい何の意味であったのか?
ともあれ、きゃつらにもういちど会って話をきかなくてはならぬ! それ以来胤昭は、懲役場へ出るたびに三人の悪党の姿を眼で探し求めたが、どうしても彼らをつかまえることが出来なかった。
またその後の有明姉妹の消息を知るために、新しく雑居房にはいって来た連中に、十字屋について何か知らないかと訊《き》いた。が、ここのところ新入りがとぎれていた上に、かりにあったとしても、まったく銀座などとは無縁なやつばかりで、これまた何の手がかりも得られなかった。――
二
いや、そうではない。右の怪異があってから十日ばかりたったある雨の夕方、胤昭は新しい入牢者《じゆろうしや》で、珍しい人間に逢《あ》った。――青びょうたんの金助という男だ。
もう四、五年前になるだろうか。こいつも十字屋に来て数日間暮し、深川の荷馬車屋だったかに世話してやったことがある。しかし三ヶ月ほどで姿をくらましたそうで、それを聞いて、あいつには少しきつすぎる仕事だったかな、と考えたこともおぼえている。
「おい、青びょうたん、しばらくぶりだなあ」
と、奥のほうから胤昭が声をかけると、相手は眼の玉を飛び出さんばかりにして、
「ひえーっ、これは原の旦那じゃあござんせんか」
と、すっとんきょうな声をあげた。
「お前、何でまたここへ来たんだ」
「ま、ま、ま」
と、金助は壁をぬるような手つきをして、
「あっしはともかく、原の旦那が、どうしてここへ?」
こっちがつかまったことは、新聞にも出なかったろうが、たとえ出たとしても、新聞なんか読む手合いではないから、知らなかったとしても当然だ。
「おれのことは、まあいい」
と、胤昭も手をふって、
「それはそうと、お前このごろ銀座の十字屋をのぞいたことがあるかい?」
と、訊《き》いた。
「いえ、それがせっかく旦那やお嬢さん方に御厄介をかけながらあんなことになっちまって……面目しでえもござんせん。とうていあそこにゃ近寄れねえ」
胤昭は失望して、
「どいつもこいつも世話のしげえのねえやつだ」
と、にが笑いしたあと、ふと、
「おめえ、あのときたしかアラダルといっしょだったな。アラダルもいまここへ来てるよ」
と、いった。
胤昭はあのとき、アラダルと同郷だというこの男から、アラダルの過去を聞いたことを思い出した。それは、越後で倖《しあわ》せな暮しをしていたアラダルが、瓦解《がかい》の年の北越戦争にまきこまれ、敗退する会津兵のためにアラダルの女房は連れ去られたという悲惨な話であった。
「ひえっ、アラダルが、どこに?」
金助はまた奇声を発して、キョロキョロまわりを見まわした。
「いや、ここじゃあねえ、ほかのどこかの獄舎で、おれもいっぺん会ったきりだが」
「アラダルといやあ」
と、金助はふいに声をひそめて、
「おれ、あいつの女房に逢いましたぜ。……」
「なんだと?」
こんどは胤昭のほうが奇声を出した。
「いつ、どこで?」
「ほんの半月ほど前、両国の盛り場で……買った夜鷹《よたか》が、いや、買おうとした淫売婦《じごく》がそいつだったのには驚きやしたよ。指おり数えりゃ、あのことがあってから十五、六年たってるんだからねえ。おれが気がついて、もしかしたら……といい出したら、向うははっとして、ふいに悲鳴をあげて逃げてゆきやしたがね。……」
「ほほう」
「会津から東京へいったなんてあてにならねえ話だと思ってたが、ほんとだったんですね。だけど、そういうわけだから、その後どうしてそんなことになったんだか聞くひまがなかったんですがね」
金助は話した。
「もう四十は越えたでしょう。それでもいまから思や、近郷一番の美人のおもかげはどこかとどめてましたが、えらく痩《や》せて、咳《せき》をして、ありゃ肺病にかかってるね」
「ふうん」
「それから何日かたって、こっちも窃盗《がん》でつかまってこの始末でさあ。どうもこの世ってえやつは、どいつもこいつもうまくゆかねえね、えへへへ」
しばらく考えて、
「金助、お前このシマで、もしアラダルに逢《あ》うことがあっても、いまの話をしちゃあいけねえぜ」
と、胤昭《たねあき》はいった。
アラダルが東京まで来て、十六年も探しまわっていた恋女房が、いま売春婦に落ちているとは――何ともいいようのない悲惨な話で、それはとうていアラダルには告げられない、と胤昭は判断したのだ。
このときはそう考えたが、一夜たって彼の思案は変った。
待てよ、アラダルは悲嘆するより歓喜するのではあるまいか。その女房を責めるより、まず抱きしめてやるのではあるまいか。――
が、そうはいっても――売春婦となった妻と再会させるのは何としても忍びがたい。自分が石川島を出てから彼女と逢って、ちゃんとした身なりをさせて、然るべき場所で逢わせたい。あと二タ月もすれば自分は放免になる。これはそれからのことにしよう。
それはそれとして、アラダルはいつここを出るのか。何にしてもアラダルにもういちど逢って、それとなく話をしたい。――胤昭はその思いにかられた。
三
翌朝、桶《おけ》洗いの作業があった。
どの牢《ろう》にも隅っこに、原則として一つの大きな長方形の箱と、大小四つの桶がおいてある。みんな黒塗りで、桶のタガは鉄製だ。箱は大便器で、大桶は小便、中桶は水、小桶は唾《つば》や痰《たん》吐き用、もう一つの大桶には砂がはいっている。これは大便|排泄《はいせつ》後、その上から砂をまいて匂《にお》いを消すためのものであったが、果してどこまで効目《ききめ》があったか。
これを毎日、一定時刻、各房の囚人たちがみずから監房の裏手の門外まで運び出し、代りの便器や新しい砂桶などを受けとって帰る。
さらに、その裏門に持ち出されたそれらの便器や桶を、そこからひろがる空地の、いちばん遠方のあたりへ運び、内容を海に捨て、海水で容器を洗って、また裏門へ戻す。――この作業を、全囚人が交替でやることになっている。これを桶洗いと称する。
胤昭はみずから志願して「懲役」に服したが、彼がえらんだのは、いちばん苦しくて、いちばん面白味のない水|汲《く》みの仕事であった。
が、全囚人が懲役の種類のいかんに関せず、すべて定期的に勤《つと》めなければならない桶洗いには参加したことがなかった。周囲の連中が、「旦那《だんな》にそればかりはさせるわけにゃゆかねえ」と、強硬に反対したからである。
その日、胤昭のいる雑居房にも当番がまわって来た。
胤昭は、きょうはその作業に出るといい出した。
例によって制止する連中に、「いや、あそこで逢《あ》いてえ人間がいるんだ」といって承知させた。
実際、アラダルに逢いたかったのだが、その作業にその日彼が出ているかどうかは別に保証はない。が、肥桶《こえおけ》の糞尿《ふんによう》というとアラダルが浮かんで来る――といったらアラダルが怒るだろうが、浅草寺《せんそうじ》の肥ぐるま騒動の記憶はまだ鼻に残っているし、「雪隠《せつちん》強盗」の疑いはなお消えていない。――ともかくも、この「連想」によって胤昭は桶洗いの作業に出てみる気になったのであった。
で、相牢《あいろう》の連中と隊を組んで、看守の監視のもとにゾロゾロと裏門へ出て――胤昭は眼を見張った。
実はこの桶洗いは、はじめて見る光景ではない。胤昭が勤務していたころから同じ処理法をやっていたのだが、それが一種不可思議な壮観と見えるほどのものになっているのであった。
こちらばかりではない。ほかの獄舎からも狩り出された囚人たちがむらがり、行列し、すでにこの作業をはじめている。
何しろ、以前胤昭が勤めをやめたころの石川島の囚人は、たしか三百七十余人だったと記憶しているが、いまは在監者二千七百余人と聞いた。従って、その日々の排泄《はいせつ》量も莫大《ばくだい》な量にのぼる。
しかも、きのうまでの数日、雨であったので運搬が出来ず、そのため裏門の外にならべられ、積みあげられた箱や桶は、ウンザリとはこれから発した言葉かと思われるほどであった。
この日はその雨があがって、まぶしいほどの秋晴れであった。
その中で――胤昭の牢の人数も加えると、百人以上にもなるだろうか。柿色《かきいろ》の獄衣を着たむれが、蟻《あり》のようにこの運搬作業に従っているのは、やはり一つの壮観であった。ただし、運搬しているものを知らなければ、である。
大地は砂地なので、大八車を使うわけにはゆかない。それで糞《くそ》箱は二人で、小便|桶《おけ》は二荷を一人で、てんびん棒で運ぶ。
これがひと通りやふた通りの重量ではない。しかも、踏む地面は砂だ。運ぶ距離は、いちばん遠い海だから一キロ以上もあるかも知れない。
大半はよろめいている。尻《しり》もちをつくやつがある。四つン這《ば》いになるやつもある。そのたびに箱は落ち、桶はころがり、内容は盛大にぶちまかれる。その行列の通る道は、そこだけ糞汁のぬかるみと化していた。
本来なら爽《さわ》やかな秋風の吹いているはずの広大な空の下に、吹きわたっているのは猛烈な臭気であった。
行列のあちこちには看守や押丁《おうてい》が立って、叱咤《しつた》し、怒号していた。これはまさに牛頭馬頭《ごずめず》の邏卒《らそつ》に責めはたかれる亡者の行進の図であった。
ほかの囚人と同様に獄衣をつけ、笠《かさ》をかぶった胤昭《たねあき》は、青びょうたんの金助と組んで、糞箱をかついだ。
糞箱ははじめから鉄金具《てつかなぐ》に縄《なわ》をかけて、それに棒を通してかつげるようになっているが、一足ずつがひざまでメリこむのではないかと思われる重さだ。
「前にもやらされたが、これやるときほど石川島のつらさが身にしむときはないね」
と、歩きながら、あと棒の金助がいう。
「娑婆《しやば》じゃもう駕籠《かご》なんてものはねえのに、ここで糞のかごかきとはねえ」
「自分で製造したもんだ。文句はいえねえ」
と、前の胤昭が答える。
「しかし、旦那は肥かつぎがうまいね。お見それいたしやしたよ」
「おそれいったか。ふふ、毎日水|汲《く》み人足をやってるから、腰のふり方のコツをおぼえたんだろ」
石川島は埋立地だから、井戸を掘っても水の出が悪い。それでも獄内には何ヶ所かあるが、その水は塩っ気《け》をふくんでいる。それで役人たちの使う水は外から船で運んで来るが、囚人たちの分はこの塩気をおびた水ですます。
そんな水のせいか、その井戸には滑車などとりつけてなく、ただ井戸の上に張りわたした板に立って、桶を下ろして縄でたぐりあげて、そばにおいてある大桶に移すのが「水汲み」作業だ。
その昔佐渡の島流しにあった水替え人足の労働に似ている。胤昭はあえてこのまったく面白味のない苦行をえらんだのである。
「水汲みが肥《こえ》運びの修行になるとはなあ。人間、何かやって、あとで役に立たんことは一つもない。あははは」
と、胤昭《たねあき》は笑った。
重いものをかついで軽口をたたきながら、胤昭は反対側から帰って来る囚人たちに注意をむけている。
出来ればアラダルに――やむを得なければぬらりひょんかサルマタに逢いたい、と考えてのことだ。
いまも彼は胸に十字架を下げているが、金助にもほかの囚人にもまったく見えないらしい。
こんな怪異な現象がどうして起ったのか、そもそもお夕はどういう状態でこれを安たちに渡したのか、それを訊《き》かなければならない、と思ったのだ。
胤昭は、まだその三人がふつうの囚人として石川島に来ているとばかり思いこんでいた。
往路の囚人たちのあえぎや苦鳴も鼓膜をたたくが、復路にかかった囚人たちは、箱や桶《おけ》がからになっているせいもあって、いよいよ騒々しい。
この往還からはずれて、ところどころ落伍《らくご》した組もあった。
砂の上にぶちまかれたもののそばにへたばったやつを、看守がどなりつけていた。しくじった組は、むろんそのままでは許されず、はじめからやり直しを命じられるのだが、中にはくずおれたまま動けない連中もあったからだ。
そんな一団を発見して、次に胤昭ははっとした。
四
まず眼を射たのは、二人の看守であった。鳥居|鶏斉《けいさい》と牛久保|蓮岳《れんがく》だ。
そして二人に怒号されているのは、四人の囚人だが――まさしくあの会津自由党のめんめんに相違なかった。
福島県令三島|通庸《みちつね》の暴政に抵抗してつかまった六人の壮士が、この石川島にほうりこまれていることは、むろん胤昭は入獄当初から知っていて、少なからず気にかけていた。出来れば逢って、激励の一語でも送りたいと考えた。が、その人々の獄舎は別棟なので、いままで顔をかいま見ることも出来なかったのだ。
その人々が、いま糞《くそ》運びをやらされている。――
どころではない。その一人は、落した糞箱のそばに打ち倒れ、まわりに立っていた仲間の一人が何やら弁明したかと思うと、牛久保看守がいきなり平手打ちにした。
平手打ちになったほうは、横に三メートルくらいものけぞっていって、あおむけにころがった。
「あっ」
悲鳴のような声をあげたのは、胤昭《たねあき》のほうであった。
夢中で肩の棒をはずしてかけ出したから、糞箱はもろに落ち、あと棒をかついでいた青びょうたんの金助はそれにつまずいて、糞箱の上に四つン這《ば》いになった。
それをふり返るいとまもなく、胤昭は走った。――ちょうど、さきに倒れていた囚人に、「起《た》たんか!」とわめきながら、鳥居看守が例の棒をふりあげたところであった。
「何をするんだ」
と、胤昭はその棒の前に立ちふさがった。
「きさまか。……懲役人のくせに、きさま、役人に抵抗するのか」
と、鳥居看守はどなった。砂の上に倒れた囚人のあごをしゃくって、
「こやつ、小官にとがめられて、鬼とか外道《げどう》とか雑言《ぞうごん》しおった。だから懲罰を加えるのじゃ!」
もういちど胤昭は地上を見た。
倒れているのは、たしか会津自由党の田母野秀顕《たものひであき》という人だ。
実物はただいちど十字屋で、あの似顔絵事件のときに見ただけだが――いまざっと見まわしたところでも、あと三人の名もわかる。大将の河野|広中《ひろなか》の顔は見えないようだが、花香《はなか》恭次郎、沢田清之助と――いま、砂袋みたいに飛ばされたのは愛沢|寧堅《やすかた》らしい。
小林|清親《きよちか》画伯がこの人々を錦絵《にしきえ》に仕立てるまで、胤昭もずっと立ち会っていたし、そもそも自分がこの石川島に来たのが、その六人の似顔絵がもとなのだから、胤昭にとってとうていあかの他人の顔とは思えない人々なのだ。
それどころか胤昭は、このうち田母野秀顕が去年会津で帝政党に襲われ私刑《リンチ》を受けて、数ヶ所骨折の重傷をおい、その傷がまだ癒《い》えないうちにここに投獄されたことも知っている。――
いったい、どうしてこんな事態が生じたのか。
彼らもまたこの苦役にかり出されたのだが、田母野秀顕の傷はまだ完全には癒えず、花香恭次郎もこの数日来|風邪《かぜ》で発熱していた。そこで糞箱は四人で運ぶことにした。――すると、そのことを発見した二看守が飛んで来て、定式通り二人でかつぐことを命じた。やむを得ず、田母野、愛沢だけで十数歩歩いて、田母野がくずおれ、おまけに片足の足首から先を糞箱におしつぶされて動けなくなった、というのが、胤昭が気がつくまでのいきさつであった。
そんないきさつは、見なくてもだいたい見当がつく。
「てめえら、鬼、外道にまちげえねえんだから、文句をいうことはなかろう」
と、胤昭は叫んだ。
彼は自分のことより、会津壮士のために逆上していたのであったが、その言葉が別の意味で二人の看守の肺腑《はいふ》を刺したことには気がつかない。
「こいつ、ぬかしおったな」
鳥居鶏斉の棒が空中でわなないた。
「言う。そもそも自由党の壮士に糞《くそ》運びをさせようってえのが、鬼、外道の了見《りようけん》だ」
と、いいながら、倒れた田母野のほうへ半かがみになった胤昭の背に、
「牢《ろう》法に異議をほざくか、このふとどき者っ」
鳥居の棒がふり下ろされた。
眼の隅にそれを意識すると、胤昭は反射的にうしろざまに十手で薙《な》いでいる。
かっ! 異様な音がして、鳥居は棒をとり落した。
胤昭《たねあき》は身体を立て直し、相手と向い合った。
鳥居鶏斉はかっと眼をむいたまま、それこそ棒立ちになっている。落した棒を拾おうとすれば危険だ、と判断したからではなく、拾うことも忘れたのだ。
「き、きさま……」
と、うめいた。
いま、音のみならず、異様な手ごたえを感じた。が、鳥居の眼には、胤昭が右手で棒を薙ぎはらったとしか見えなかった。
このときまで胤昭はなお紐《ひも》を首にかけたままであったが、電光のごとくそれをはずして右手に持って、
「切支丹バテレンの妖術《ようじゆつ》を見たか。あははは」
と、笑った。
ほんとうに悶絶《もんぜつ》するほどこの無謀無礼な若僧を打ちすえるつもりはなく、ただこらしめのためにふり下ろした棒であったから、胤昭もふせぐことが出来たにちがいないが――それにしても鳥居鶏斉からすれば、まさに妖術としか思われない胤昭のわざであった。
いま胤昭が妙な手つきをしたのも、まさか見えない十手をはずしたなどと判断するよすがもなく、それも妖術の一つと見えた。
「落した糞箱の分は、あとで私が運ぶ。会津の衆はほかの作業場にまわしなさい。怪我していなさるじゃないか」
と、胤昭はいい、
「それより、鳥居さん」
と、声を落して、
「いいところで逢《あ》った。ちょっとおうかがいしたいことがある」
「な、なんじゃ?」
いまの神変に心を奪われて、鳥居|鶏斉《けいさい》は唖然《あぜん》たる声を出した。
「十字屋のお夕は、いつ石川島に来たのですか?」
ただならぬ胤昭の眼であった。
胤昭にしてみれば。――
この十手がどうして自分に伝達されたのか。その伝達者がぬらりひょんたちである以上、お夕がこの島に来て彼らに渡したものとしか思われない。しかもそれに随行していた以上、看守たちも承知の上としか思われない。
ただ安は、「こいつ、ほかのやつらにゃ見えねえんです」といった。事実いまも鳥居たちに見えないことはあきらかだ。その怪異がわからないが、とにかくこのことをこちらから口にすることはない。
それだけに、いっそうお夕のことが気にかかる。この看守たちは、何か知っている。それを訊《き》きたい――と、思いつめての胤昭の問いであった。
鳥居看守はぎょっとした。とっさに何と応答していいかわからない。
「おい、お夕はここに来たろう。教えてくれ」
必死に、胤昭は訴えた。
「そんなことは知らん。またいう必要もない!」
鳥居は激しく首をふり、
「それより、きさま、不審なことがある。監獄に戻れ、取調べんけりゃならん。……おい、牛久保、連れてゆけ」
と、ふり返った。
鳥居と同様、いまの胤昭の「妖術《ようじゆつ》」をたしかに見て、むろんわけがわからずこれまた数瞬ボンヤリしていた牛久保看守は、はっきりとわれに返って、
「来い!」
と、うなって、胤昭のほうへ歩み寄ろうとした。――と、
「なんだなんだ」「原の旦那《だんな》をどうしようってんだ」
さっきから、かついでいたものを地において、眼をパチクリさせてこの場のなりゆきを見ていた「親衛隊」十数人が、いっせいにかけ出して、胤昭のうしろを半円形にとりかこんだ。
「きさまら……看守に反乱するか!」
立ちすくんだ牛久保看守の眼の前に、にゅっと一つの肥《こえ》びしゃくがつき出された。
「なんじゃ?」
ふり返った両看守の眼に、それをつき出しているアラビアのダルマ――アラダルの姿がうつった。
五
「あっ、アラダルじゃあねえか!」
と、胤昭は叫んだ。
糞《くそ》運びだからアラダルがいるだろう、と彼が考えたのは、溺《おぼ》れる者がわらをもつかむような苦しまぎれの思いつきにすぎなかったが、なんと、果せるかなこの男はいたのである。
嵐《あらし》のようにかけつけて来て、アラダルは嵐のようにはあはあと大息をついていた。のみならず、つき出した肥びしゃくは空《から》には見えたが、それでも何やらくっついていたと見えて、風の向きかげんで両看守の顔に、ピシャピシャと降りかかったようだ。
「わっ、ぷっ」
と、顔をぬぐう二人に、
「はあ、こりゃまた相すまんことで……」
と、アラダルは愚鈍な声を出す。
「それどころではない! こやつ、こちらに刃向いおった!」
「しかも、妖《あや》しきわざを使った。もはや見のがしは出来ん!」
かけつけて来たくせに、アラダルは両陣営の間に肥びしゃくを地についたまま、うすぼんやりした顔でつっ立っている。
――彼がこの作業場に出ていたのは、むろん囚人としてではない。そんな懲役は免除されているのだが、娑婆《しやば》に出ると大飯くらいの怠け者のくせに、ここにいて何もしないとこれはまたたいくつのきわみらしく、ついノソノソとやって来て、昔とった杵《きね》づかならぬ肥びしゃく片手に、よろめきあえぐ囚人たちをコーチしたり、どなったりしていたのであった。
そこへ、看守と原胤昭という囚人が喧嘩《けんか》をはじめた、と聞いて、砂けぶりをあげ、地ひびき立てて飛んで来た。
彼はどっちに加勢するつもりなのか、いま肥びしゃくを地に立てて仁王立ちになったアラダルは、ちょっと弁慶の立往生といったていに見える。
一方、胤昭はむろんよろこんだ。アラダルの出現に、会津の壮士も悪看守もけし飛んでしまった。
「よく来てくれた、アラダル! お前がきょうここにいると、おれは信じていたんだ」
と、破顔して歩み寄り、
「おい、こないだの晩、お前たちはどうしてこの……」
と、いいかけて絶句した。
胤昭《たねあき》は、あやういところで声をのみ、
「教えてくれ、お夕さんは無事か?」
と訊《き》きなおした。
依然、アラダルは、立っている水死体みたいに黙って、ふくれあがっている。
が、曇天のような表情の奥に、何やら異常なものがゆれているのを感じて、はじめて胤昭は不安をおぼえた。
「おい、アラダル」
胤昭《たねあき》は声をあらためた。
「お前の女房は生きてるぞ。……」
「なんでがすと?」
アラダルの眼が、かっとむき出された。
「お麻が……そりゃ、ほ、ほんとでがすか?」
「神に誓って!」
胤昭は大きくうなずいた。
「おれがここを出たら逢《あ》わしてやる。お前、いつ出られるんだ?」
「おら……あしたにでも出られる。いや、きょうにでも出られる!」
アラダルは、胤昭にとって乱心したかのような応答をし、事実乱心したとしか思えない形相《ぎようそう》で、
「お麻のいどころを……いま教えておくんなさい!」
と、咆《ほ》えた。
「お夕の消息を教えてくれたら言う」
胤昭ははね返した。
「どうだ?」
「うう……」
アラダルはうなって、
「お嬢さんは……」
と、いいかけた。――そのとき、両看守が二人の間に割ってはいった。
「何をここでグダグダ問答をしちょるか!」
と、アラダルの前に立ちふさがったのは牛久保看守で、
「作業のじゃまだ。とにかくお前は取調べ室に来い!」
と、胤昭の前に立ったのは鳥居看守だ。
二人は心中|狼狽《ろうばい》していた。――近日中に原を始末する予定だが、むろん自分たちが直接手を下すつもりはなく、傀儡《かいらい》の凶徒たちを使う気だが、それでも彼らが罰せられない――少なくとも彼らにそう思わせる――やりかたでなければならない。そして、この石川島ではそれが出来ると考えていた。
が、まだそのときではない、と思っていたのに、突如きょう、はからずも原胤昭とののっぴきならぬ事態が出現したのであわてたのだ。
いまお夕の死をしゃべられては、万事休す。
「作業中に、囚人同士私語は許されん!」
と、牛久保はにらみつけた眼で、この言葉以外の意味で合図したが、この愚鈍と見える囚人には通じた風もなく、
「いや」
と、彼をおしのけて原に何かいい出そうとするのに、たまりかねて、
「黙れっ」
と、その横っつらを張り飛ばした。アラダルの手から肥《こえ》びしゃくが遠くはね飛んでいった。
さっき会津自由党の一人を張りつけたのと同じ、相撲《すもう》の張り手である。元力士の牛久保|蓮岳《れんがく》よりもさらに大男のアラダルが、地ひびきたてて、もろに横倒しになった。しかし、
「や、やりゃがったな」
彼は猛然と立ちあがり、大きな拳骨《げんこつ》を握りしめると、牛久保を殴りつけた。
こんどは看守のほうがころがった。のみならず、鼻から鮮血を噴いた。が、これまた猛然とはね起きると、
「しゃあっ、うぬは看守に腕立てするか!」
発狂したような声をあげて、アラダルに組みついた。
凄《すさま》じい砂けむりの中に、それは二人の大男の格闘というより、双方ひげむしゃのせいもあって、二頭の熊《くま》――いや、大怪獣の争闘に見えた。
思いがけぬ組合せの衝突に、こちらの胤昭も鳥居看守もあっけにとられ、数分、茫然《ぼうぜん》と眼をむいているばかりだ。糞尿《ふんによう》運びの行列はむろんさっきから止まり、桶《おけ》を地に下ろして、この大争闘を見まもっている。
六
アラダルという男がふだんはウスボンヤリしているくせに、突如理解不能の大爆発を起すことは鳥居も胤昭も知っている。牛久保の力を頼んでの凶暴性は常時のことだ。ましてや双方とも百キロを超える巨体である。なみの人間には、ちょっと手が出せない。
「アラダア、ルウー!」
「ウシクウ、ボウー!」
「残った、残った」
「ハッケヨイヤ!」
囚人の中から掛声を送ったやつがある。
その声に、はっとわれに返って、
「よせ、こいつら、気でもちがったか!」
鳥居|鶏斉《けいさい》は、自分も気がちがったような声を出してかけ寄ったが、竜巻《たつまき》みたいな砂つむじに吹かれて、二歩三歩、たたらを踏む。
このとき牛久保は、ふたたびどうとアラダルを投げ倒した。身体の大きさより、元力士のわざがものをいったのだ。
そもそも以前、牛久保看守はアラダルを私刑《リンチ》にかけるとき、いつも砂袋みたいにたたきつけて愉しんだのである。
相撲なら、投げつければそれで勝負あっただが、こんどばかりはこの相手の息の根をとめなければおさまりがつかない。
「この野郎! こ、この野郎!」
鳥居看守の制止の声も耳にはいらばこそ、さながら鍾馗《しようき》の形相《ぎようそう》で牛久保は、あおむけになったアラダルに馬乗りになって、両腕でそのふとい首を絞めつけた。
果せるかなアラダルは物凄《ものすご》い力であばれ狂い、牛久保の身体は荒馬に乗ったように躍りあがり躍りあがり、ついに重なってしまった。それでも牛久保の両手は|のど《ヽヽ》輪となって相手の首から離れない。
「くえーっ、くえーっ」
アラダルは怪声を発し、天地|晦冥《かいめい》となるばかり砂けぶりをあげて足をバタバタさせ、重なったままの両巨体は、頭のほうへズルズルと移動していった。
これまたどうしていいかわからない昏迷《こんめい》の中に立ちすくんでいた胤昭《たねあき》は、そのアラダルの苦鳴の中に、
「旦那《だんな》……お嬢さんは無事だよっ」
というあえぎ声を耳にした。――
それは同時に、看守に対する降伏、哀訴の声であったか。
が、怒りに逆上した牛久保の殺意はもうとまらない。首に両手をかけて、なお絞めあげる。
アラダルの両手は、砂の上ですでにバンザイしている。そのかたちで両人はなお頭のほうへ移動した。
「やめろ! もうやめろ!」
胤昭も叫びながら駈《か》けよったとき、アラダルの両手が一個の桶《おけ》に接触した。囚人が下ろした糞《くそ》桶であった。
と、見るや、彼はあおむけにバンザイした姿勢のまま、なんたる馬鹿力《ばかぢから》、それを両手で挟《はさ》んで持ちあげ、自分の顔を越えて、のしかかった牛久保の頭に、がぼっとかぶせてしまった。
むろん、中の糞汁を滝のごとく落しながらである。
一瞬、桶と糞に眼も鼻も口もふさがれた牛久保は、その桶をぬごうとして、アラダルの|のど《ヽヽ》から手を離した。
「くそーっ」
アラダルははね起きた。この罵声《ばせい》ほど実体を表現したものはない。上下逆転したアラダルは牛久保に馬乗りになり、その首に両手をかけた。
牛久保看守の鼻口から、ビューッと血が噴出した。
「う、うぬは!」
その刹那《せつな》、人間とは思われない声を発して、鳥居鶏斉の棒がななめにふり下ろされ、アラダルの後頸部《こうけいぶ》に、ばしっという音が立った。
アラダルはピーンと身体を垂直にし、首は天を仰いだ。
これまた満面糞だらけの口から、
「お麻よう……」
という吐息のような声がもれた。
次の瞬間、その口からこれも血の滝が噴出し、前へ首を吊《つ》るしたようにがくんと垂れたかと思うと、アラダルはどさっと牛久保と重なって身体を伏せてしまった。――
アラダルの頸椎《けいつい》を一閃《いつせん》の棒で打ちくだいた鳥居鶏斉は、しかし同僚の牛久保を助け起そうともしなかった。
あきらかに牛久保は眼球を飛び出させて絶命している上に、とにかくこの血と砂と糞にまみれつくした二つの巨体には手が出せたものではない。
「ああ、アラダル……アラダルウ……」
突然、がくりと砂にひざをついて、両掌で顔を覆った者がある。青びょうたんの金助であった。
「せっかくお麻さんが見つかったってえのに、何てことを……」
その悲痛な声を聞きつつ、鳥居鶏斉も胤昭も、駈け集まって来て大円陣を作っていた他の看守や囚人たちも、みな白日の砂の上に、冥府《めいふ》の亡者のむれのようにしんとして立ちつくしているきりであった。……
七
――さて、この一件の始末はどうなったか。
結論からいえば、ウヤムヤになった。
牛久保看守を殺したアラビアのダルマもまた、鳥居看守にその場で殺されてしまったからである。
殺した鳥居鶏斉は、看守として正当な懲罰行為と認められたが、その前に牛久保とアラダルがなぜ争いを始めたのか、その原因がサッパリわからない。
きっかけとなった原胤昭とアラダルの問答のことを、鳥居看守も胤昭も黙っていたからだ。鳥居の場合は隠蔽《いんぺい》の必要があり、胤昭の場合は、お夕が無事であることがたしかめられた上は、あの問答についての証言は無用と考えたのである。もっともこのことは、たとえ鳥居や胤昭が何か証言しても、やっぱりわけがわからなかったろう。
とにかく原因は、アラダルという囚人のもちまえの、理由不明の狂的爆発にあると認めざるを得なかった。
鳥居看守は胤昭《たねあき》の「妖術《ようじゆつ》」について取調べもしなかった。
自分の棒をはね返されたあの一件については首をひねりつつ、見えない十手が世に存在するなど想像外のことで、改めて取調べる意欲を失ったのだろう。
何より牛久保のあまりにも凄《すさま》じい死に方に、彼といえども他の一切をかえりみる余裕のないほど胆を奪われたにちがいない。
それはいいが、胤昭もまた数日首をひねる状態になってしまった。アラダルと牛久保の大争闘の原因やいきさつが、彼にとってもまったく腑《ふ》に落ちないのだ。
ただ、さきに述べた通り、アラダルが最後に、「お嬢さんは無事だ」といってくれたので、むろんそうだろうとは思っていたが、その点だけは胸をなで下ろした。……
なんと、これが無惨と形容するしかない大嘘《おおうそ》であろうとは!
のちにそれが嘘であったと知ったとき、むろん胤昭は怒りのために数瞬頭が灼熱《しやくねつ》した。
なんのためにあいつは、あの土壇場《どたんば》でおれに嘘をついたのだ?
煮えくり返る頭で考えているうちに、はっと気がついた。
もしもあのとき、あいつがほんとうのことを――お夕《ゆう》の死を告げたなら、まちがいなくおれは狂乱状態におちいったにきまっている。そうなったら、待つや久しとばかり、あそこで看守側に抹殺されたに相違ない。
それをふせぐために、アラダルはおれに嘘をついたのだ。
あの暗闇《くらやみ》の牛みたいな男に、それだけの智慧《ちえ》が働いたとは。――
アラダルという男は、突如理由不明の大爆発を起す。あのとき牛久保との大争闘も、てっきりそうだと思っていたが、そうではなかった。
あいつは、おれが看守たちとただならぬ悶着《もんちやく》を起しているのを遠望して、おれを救うためにすッ飛んで来たのだが、あきらかにおれに味方してはあとあとの障《さわ》りになるから、それを牛久保たちに感づかれないように、大爆発に見せかけたのだ。その結果が自分の死につながることは承知の上で。
しかも、その直前おれはアラダルに、彼の女房が生きていることを告げた。
最後にあいつは、その女房の名を呼んで息絶えたが、……
――以上のことをのちに知り、かつ考えて、胤昭は涙をながしながら、全身が冷たくなるのを禁じ得なかった。
姉いずこ
一
話は数日さかのぼる。
十月末から、十字屋のおひろは横浜にいっていた。その前、横浜に腸チフスが発生し、ヘボン館にもたくさんの患者が収容されたので、そのための手伝いにいったのである。
五日ばかりいて帰って来て、はじめて姉が姿を消していることを知った。――
飯炊きの婆さんに訊《き》くと、お夕《ゆう》が出ていったのは、おひろが横浜へいった日の夕方のことであったという。
「えーっ?」
おひろは息をひいた。
なぜそんなことを横浜に知らせなかったのかと一応|叱《しか》ったけれど、婆さんは、きょう帰るかあす帰るかと気をもみもみ、どうしていいか途方にくれて待っていたと、もともと半ぼけの顔をいよいよぼんやりさせて弁解するばかりだ。
何でもそのとき、店にはお夕だけがいた。それが、お高祖頭巾《こそずきん》をつけて外出の身支度をし、「ちょっと所用があって出かけるけれど、夜のうちに帰るから」といって出ていったという。
別にあぶないところへゆくような気配でもなかったし、自分はちょうど飯が炊きあがるところだったので、つい見送りもしなかったけれど、どうやら訪ねて来た客といっしょだったようだ。いまから思うとその客は女だったような気がするが、何しろ自分は店に顔を出さなかったので、ただそんな感じがするだけでたしかでない――と、おひろの問いに婆さんは、ただ泣きながらオロオロと答えるのであった。
婆やをそれ以上とがめてもしようがない。
しかし、お夕が出ていって、五日たつのにそれっきりとはただごとではない。
おひろは蒼《あお》ざめた。
有明《ありあけ》家は、瓦解《がかい》のときに江戸を離れて、五、六年前帰って来たが、一族離散して、いま五日も泊りにゆくような知り合いはない。
ついでにいえば出獄人のほうは、胤昭《たねあき》入獄以来看板を下ろしていて、いま物騒な滞在者はいない。
ふと気になって調べて見ると、三百円前後のお金と例の十手が消えている。十手は護身用のものと思われるが、しかし姉があの十手を護身用に使ったなどという記憶はない。とにかく、どんな用事で出かけたのか、まるきり見当がつかない。
おひろはすぐに、銀座二丁目の楽善堂の岸田|吟香《ぎんこう》先生に来てもらって、この大異変を知らせた。
「なんじゃと? お夕さんがいなくなったと?」
吟香は眼をむいたが、むろん何の推量も出て来ない。
あくる日、深川から小林|清親《きよちか》を呼んで来たが、これまたただうなり声を発するばかりだ。
「十手と三百円」
と、首をひねり、
「とにかくそりゃ、胤昭君に関したことにちがいない」
両人とも、そういった。
おひろも、はじめからそう思っている。それ以外に、お夕がいそいで出かけた理由が考えられないのだ。が、三百円と十手がどうかかわるのか、どう考えてもわからない。
泣いて泣いて、おひろのさくら色のまるい頬《ほお》は蒼白《そうはく》にひからびはてていた。
「それにしても、夜分とはおかしいな」
「しかも、呼び出したのが女だとは?」
おひろがいった。
「いえ、女といっても、婆やもふたしかで、はっきりしないんです」
たとえ女としても、この絵草紙屋へ来る客の大半は女だし、例の出獄人保護でやって来た女囚も延べ数十人に上る。
――悪魔のみぞ知る、お夕が連れ出されたような理由は、あまりに善人の世界の常識を超えていて、三人の想像の及ぶところではなかった。
ただ。――
「とにかく、すぐに警視庁に捜索願いを出さなくっちゃ」
と、清親がいい出したのに、
「待てよ、それより先に原君に面会して訊いたほうがよかないか。お夕さんの失踪《しつそう》を知ってるかどうか、何か思い当ることはないか、と、――」
と、吟香先生がいい出したのは、世故にたけたこの苦労人の豪傑に、何かのカンが働いたのだろうか。
「うん、それが出来ればそのほうがいいかも知れん――胤昭君のことは、以前から気がかりでもあったんだから」
と、清親もうなずいた。
「でも……」
と、おひろがいった。
「前にもヘボン先生と星先生に、面会のことを警視庁にお願いにいっていただいたのですけれど、三ヶ月くらいの軽罪では面会は不許可ということで……」
「いや、是非とも原君に面会する必要がある。その前にお夕さんの失踪事件など持ち出すと、いよいよ面会はむずかしくなるかも知れん」
吟香はいった。
「とにかく捜索願いは、胤昭君と話した結果を見てからにしたほうがいいと思う」
「そういうことにしよう」
と清親はひざをたたいたが、
「しかし……僕らが警視庁へいっても、門前払いでしょう。もういちどヘボン先生と星さんに御尽力をお願いしよう」
と、さしせまった眼でうめき、
「いや、それにしても明治の御聖代とやらに、神かくしというような怪事が起ろうとは!」
と、長嘆した。
その御聖代に、官服を着た悪魔がくしという怪事があることを、しかし三人はまだ知らなかった。――
とにかく横浜へ、このことを知らせた。ヘボン博士も、驚愕《きようがく》して上京して来た。
二
二日後、ドクトル・ヘボンと代言人|星亨《ほしとおる》は警視総監に面会した。
警視総監は樺山資紀《かばやますけのり》という薩摩人で、オットセイ然たるひげをはねあげた豪快な風貌《ふうぼう》の持主であった。
これは初代総監の川路|利良《としよし》から三代目にあたる。二代目は有名な大山|巌《いわお》だ。
ついでに余談を述べると、この樺山資紀は、陸軍中佐としてかつて熊本鎮台の谷干城将軍の参謀長となり、西南の役で西郷軍と戦った人物だが――この翌年警視総監をやめると、こんどはなんと海軍に籍を移し、のちに大将、海軍大臣となった。――いかに薩閥が軍と警察を掌握するのに傍若無人であったかがわかる。
そして、一代おいて五代警視総監に、いま福島事件を起したやはり薩人の三島|通庸《みちつね》が就任するのである。
ドクトル・ヘボンと星代言人の再度の面会要求に、
「それほどお望みなら、よか、接見を許しもそ」
と、樺山総監は意外にあっさりとうなずき、警視の一人を呼んで、その手続きをとるように命じた。
その結果、翌日は日曜だから、明後日、石川島の原胤昭との面会が許可されることになった。
ヘボン博士は手の離せない腸チフス患者を多数かかえていたし、星亨は翌日から地方|遊説《ゆうぜい》の予定があったので、面会者は有明《ありあけ》ひろと後見人岸田吟香ということになった。
両人がひきとったあと、警視はちょっと考えて、檜《ひのき》巡査と船戸巡査を呼び、右のむねを伝えた。
これも薩人の警視は、明後日、面会許可状を持って、原胤昭の面会者と石川島に同道することを命じたあと、
「おはんら、十字屋をよう知っちょるからの」
と、つけ加えた。
むろん警視は、こちらのこんどの陰謀など知るはずがない。ただ過去何度か、自分たちが何かと原胤昭といざこざを起したことを耳にしていて、この用を二人に命じたものだろうが、二人にとってはそれでも悪寒《おかん》のようなものを感じざるを得ない。
偶然の命令以上に、それは、二人の巡査に大動揺をひき起した。
十字屋から姉娘の失踪《しつそう》について捜索願いの出ることは、むろん予想していた。そうなったら捜査中ということにして、永久に迷宮入りさせるつもりであった。それが捜索願いではなく、原胤昭への面会願いになったとは意外であった。
いま原に面会すれば、そちらにお夕の消失を告げるにきまっている。当然原は黙ってはいまい。――それからどうなるかわからないが、とにかくいま、原にそのことを知られるのはまずい。
その夜、二人の巡査は、築地居留地の唐人町の空地に、邯鄲《かんたん》お町《まち》と化師《ばけし》の秀《ひで》を呼び出した。
お町は相変らずその一軒の二階を棲家《すみか》としており、化師の秀も、いまは同じ場所に住んでいた。
彼らはいったんは町に戻されたが、むろん二人の巡査の監視下にあった。裏切れば牢《ろう》にぶちこむという――鎖はないが、飼犬の身分だ。それを本人たちはどう考えているか、部屋は一応別々だが、この美しい悪女と美しい悪党は、毎日毎夜、いい気な顔でトチ狂っているらしい。
「いよいよ、妹のほうの始末でやすか」
と、秀が問いかけた。
「いや、その前にちと厄介なことが起きた」
両巡査は、ドクトル・ヘボンらの原との面会の再要求を総監が許可し、あさって石川島へゆくおひろと岸田|吟香《ぎんこう》に自分たちが同行せねばならぬことになったと告げ、
「しかし、いまあの娘を原に会わせると、あと非常にやりにくくなる」
「なんとか、面会不能の事態に持ってゆきたいんじゃが」
と、いった。
秀とお町はしばらく黙っていた。ひるま降っていた雨はいま小止みの状態にあるが、漆黒といっていい闇《やみ》の中で、その顔はまったく見えない。
「そもそも姉娘を連れ出すことをいい出したのは、おまえらだったな?」
と、檜巡査が陰気な声でいえば、
「あれを始末するのがちと早過ぎたわえ」
と、船戸巡査も舌打ちする。
お夕が消えればこういう騒ぎになることは眼に見えているのに、いまになってあわてるとは粗雑な頭だが、その頭には、この二人の悪女悪党を責める怒気しかゆらめいて来ない。
「まさか死ぬとア思ってなかったんですよ」
「それにあのとき旦那《だんな》は、女を黙らせるという目的にゃ叶《かな》った、といったじゃありませんか」
と、闇《やみ》の中でもあきらかに口をとがらせて、秀とお町はいった。そういわれると返す言葉もない。
「いや、たしかにいま、妹を原に会わせちゃまずいやね」
と、しかし化師の秀はうなずいたようだ。そして、
「ちょ、ちょっと待っておくんなさい。お町とあとの思案をしてみやす」
二人は、五、六歩離れた。
事実、彼らもあわてている。いま原胤昭がお夕の死を知ると、たしかにぶじにすまない。
その見解は同様だが、巡査側が、事後の計画が狂うと狼狽《ろうばい》したのに対し、こちらは原自身がぶじにはすまなくなると気づいたからであった。あちらには、血ぶるいしているような三人の看守がいるのだ。
――十分ほどして、二人は立ち戻って来て、
「旦那、一工夫《ひとくふう》つきやした」
と、化師《ばけし》の秀《ひで》がいった。
そして、あさって、おひろを胤昭に面会させない方法を説明し出した。聞いているうちに、二人の巡査は呆《あき》れたような声を出した。
「そ、そんなばかげた……」
「しかし、警視総監の御命令をぺけにするにゃ、いまのところそれしか方法を思いつかねえんですがね。……」
闇中にもニヤニヤ笑っているのがわかるような声であった。そもそもが、面白がって大悪事を働く――笑いながら人殺しをやる美男の悪党である。
三
その翌日のひる過ぎだ。
十字屋の帳場に、おひろは依然放心したように坐《すわ》っていた。
夕方、吟香《ぎんこう》先生と清親《きよちか》さんが来るはずだ。そして一晩ここに泊って、あした正午、吟香さんといっしょにさんず茶屋へゆくことになっている。そこで警視庁の面会許可状を持った二人の巡査と待ち合わせる予定になっている。
胤昭さんに会える!
それだけで、闇夜《あんや》のような胸に閃光《せんこう》の走る思いがする。
が、胤昭さんに会うと、姉の失踪《しつそう》の謎《なぞ》が解けるだろうか? と考えると、おひろの心はまた闇につつまれる。牢《ろう》の中の胤昭さんがそんなことを知っているとは疑わしいのだ。
姉さん! 姉さん! どこへいったの?
姉が消えたのを知ってからこの三、四日、何百ぺん呼んだか知れない叫びをあげると、また涙があふれて来る。店にはだれもいなかったから、おひろは幼女のように嗚咽《おえつ》した。
姉とはいうけれど、母は早く死に、父が非業《ひごう》の死をとげたのも少女のころであったから、彼女は姉を母の代役にしていた。またそれを自覚してのことか、お夕は気丈なところがあって、その上――妹の自分から見ても、神秘的なほど清浄な姉であった。プロテスタントではマリアは信仰の対象ではないが、おひろはいつしか姉をマリアさまの代役にもしていたくらいであった。
やがてそこへ、原胤昭が現われた。彼女たちの「騎士」としてもっとも頼もしい存在となってくれたのみならず、彼はまさしく活気|横溢《おういつ》、清爽《せいそう》無比の青年であった。
しだいにおひろは、彼を慕わしく思うとともに、複雑な眼で姉を見た。
だいぶ以前、おひろはそっと姉にたずねたことがある。
「姉さん、姉さんは胤昭さんのお嫁さんにならないの?」
「そんなこと……こっちの勝手にゆかないわ」
お夕は苦笑した。
「だって胤昭さんは姉さんを好いていらっしゃるわ。あたしはわかるの。……ほんとうにお似合いよ」
お夕は顔をほのかにあからめ、しばらく黙っていたが、やがて、「そうはゆかないの」と、首をふった。
「なぜ?」
「なぜって……」
お夕は遠くを見つめる眼になり、
「あたしね、いつか……イエスさまのために死ぬ日が来るような気がしてならないの。だから……」
それっきり、お夕は口をとじた。
おひろもそれ以上|訊《き》かなかった。この問答をつづけることが怖《こわ》かったせいもあるけれど、この異常な姉の返事を、この姉にかぎって異常とは思わなかった。
それにもかかわらず、お夕もまた胤昭を愛していることを、おひろは知っていた。――
結局おひろは、姉のかげにかくれて満足しているおとなしい娘であった。
そしてこのあいだ、牢屋《ろうや》にはいる胤昭《たねあき》をさんず茶屋で見送っての帰途、二人だけで歩いているとき、姉がぽつりとつぶやいたのである。
「胤昭さんが牢から出て来たら、あたしお嫁さんになろうかしら?」
どんな心境の変化があったのかは知らず、おひろは叫んでいた。
「ああ、それがいいわ。そうなさいよ、ね、ね!」
――その姉が、忽然《こつぜん》と消えてしまった。
十字屋でひとり、おひろは、すすり泣きながら、声に出していった。
「姉さん! 姉さん、どこへいったのよ?」
そのとき、表戸があいた。――表戸をそのままにしてあったのは、いつ姉が帰って来るかと、それを待ってのことであったが。
はいって来たのは、十二、三の少女であった。|しゃぐま《ヽヽヽヽ》というこのごろ流行《はやり》の髪を結《ゆ》いあげ、黒|繻子《じゆす》と染分け絞《しぼ》り昼夜帯を胸高《むなだか》に、足には塗り木履《ぽくり》をはいた小娘だ。
「あ、お夏ちゃん」
おひろはあわてて涙をふき、それでもかすかに笑顔を作って、
「いらっしゃい。でも、きょうはわけがあってお店やってないんだけど――いえ、お夏ちゃんならいいわ、何がお望み?」
「いえ、あたし、銀座へ買物に来たら、むしょうに十字屋のお姉さんたちに会いたくなって来てみたの。それだけなんだけど――」
と、少女はいった。
少女の名は夏子という。――家は下谷だそうだが、まだ、そんな年ごろで絵草紙、読本《よみほん》のたぐいが大好きで、それよりひどくこちらを好いてくれて、しばしば店にやって来ておしゃべりしてゆく。とくにお夕を尊敬さえしているようすであった。父は元幕臣と聞き、おひろもなみの少女の客より、ひとしお親愛の情を持っていた。――
が、きょうばかりは、暗い声をどうしようもなく、
「あの……お夕姉さんは、いまお出かけなのよ」
「あら、そうなの」
夏子は残念そうにいい、ふとおひろの顔にきれながの眼をそそいで、
「おひろ姉さん、どこかおわるいの?」
と、心配そうに訊《き》いた。――容貌《ようぼう》も年齢よりませて秀麗だが、ふだんから打てばひびくように利発な子だ。
「いいえ、べつに」
おひろが憂鬱《ゆううつ》そうに首をふると、
「そう。……じゃ、またね」
と、夏子は袖《そで》をひるがえして、木履を鳴らして出ていった。――
気の毒だけれど、きょうばかりはこの娘と問答している心のゆとりはとうてい無い。
――と、十分ほどすると、また夏子が立ち戻って来て、
「姉さん」
と呼んで、妙な顔で表通りをふり返っている。
「どうしたの?」
「いま、あそこの角でね、変な女のひとに変なことをたのまれたの」
「えっ、だれに?」
「わかんない。お高祖頭巾《こそずきん》をかぶったひと――頭巾かぶってても、何だか芸者さんみたいな感じがしたけど――それがあたしに、お嬢さん、あなたいま十字屋という絵草紙屋から出て来たでしょ、申しわけありませんけど、あるひとの命にかかわることだから、もういちどあのお店へいって、おひろさんというお嬢さんに伝言して下さらないって――」
「何て?」
「きょうの午後一時から二時の間、本石町の長崎屋ってえ宿屋の横に立って、上野ゆきの鉄道馬車をごらんになってて下さいな、ただし、ただお一人で――これはきっと守って下さいねって――」
おひろは数瞬、判断力を失って相手の顔を見ていたが、すぐにはっとして帳場のそばの柱時計を見あげた。時刻は十二時半になろうとしていた。
「用はそれだけ――わかりました?」
「わかったわ。ありがと」
少女は、自分でも納得《なつとく》できない表情で、しかしまた袖をひるがえして店を出ていった。
ふしぎな用だと思いながら、しかしこんな事件は、この樋口夏子という少女が後年樋口一葉という女流作家になってからも、いちども思い出さなかったろう。
この明治十六年当時、十二歳の彼女にはまだ父もあり、二人の兄も妹もあり、裕福とはいえないまでも、元幕臣の体面をはずかしめない暮しをしていた。すなわち薄倖《はくこう》の一葉の、短いけれど幸福な前半生の、これはある秋の日の一挿話であった。
だれか知ろう。この一葉と妹の関係が、別世界の何かを信じて生きる姉と、そのかげにかくれ、ひたすら姉を尊敬して生きる妹と――ちょうど有明姉妹《ありあけきようだい》と相似たものになろうとは。
お高祖頭巾の女は何者だろう? それを考えるより先に、その女がいったという「あるひとの命にかかわることだから」という言葉が、刃《やいば》のようにおひろの胸につき刺さっている。
これは姉の失踪《しつそう》にかかわることでなくて何だろう?
それ以上は何も考えず、おひろは家の戸締りもせずに駈《か》け出した。
そして、銀座から日本橋へ、そして本石町へ駈けていった。
四
昨晩までの雨はやっとあがり、きらびやかな秋の日光の下に無数の市民たちが、当時すでに日本一の繁華街となっていた柳並木の大通りへ浮かれ出ているのを、おしわけかきわけして走りながら、それさえ意識していない。
息も切れそうになって、本石町の長崎屋前にたどりついた。
すぐ近くの時計店の屋根の上に立っているこのごろ流行《はやり》の時計塔をあおぐと、一時ちょっと前であった。――間に合った!
たしか、長崎屋の横といった。それで横にまわる。
やや落着いて見わたすと、そこの十字路一帯はまるで石置場か材木置場だ。そこで働く工夫《こうふ》にまじって、柿色《かきいろ》の囚衣を着たむれも見える。
人々は大通りのふちを、石をよけよけ歩いている。ここから鉄道馬車の新しい支線が出ることになり、また新しい停留所が作られる工事が行われているのであった。
あれはおととしの秋であった。十字屋で面倒みていたサルマタの直熊《なおくま》が、突然気が狂ったようにあばれ出し、おひろをさらって俥《くるま》で逃げ出したことがある。
そのとき銀座の大通りは馬車の鉄道を敷く工事でごった返していた。その鉄道馬車は去年六月から走り出した。
それは新橋と上野を結ぶものだが、開業してみると大好評で、それでこんど新たに、途中のこの本石町から分れて浅草に至るものが作られることになったのである。
鉄道馬車とは、道にレールを敷き、その上に馬車を走らせる。二十八人乗りを二頭立ての馬にひかせる。
まあ後年の市内電車、というより小型バスの動力を馬にしたようなものだが、車体はイギリス製の真《ま》っ赤《か》なペンキ塗りのはでなものだし、そもそも二十八人をいっぺんに運ぶ車というものが、市民にとって物珍しさのきわみであったのだ。――この動力が落す廃棄物に、沿線の人々が悲鳴をあげ出したのは、あとになってからのことである。
その馬車が、車体の前の馭者《ぎよしや》台にとりつけた鐘と二頭の馬の蹄《ひづめ》の音たかく、いまも上野の方角へ十字路を通りすぎてゆく。
「たしか、上野ゆきを見張ってるようにってことだったけど……」
おひろは血走った眼をそれに向けたが、馬車はいつも銀座を走ってゆくものと変りはない。そもそも馬車の何を見ろというのか、いまになってわからない。
だいたい本石町に来るには、銀座からその鉄道馬車に乗ればよかったのだが、そのことさえ思いつかないほどおひろは動顛《どうてん》していたのであった。
そのうちに、働いている工夫にまじっている柿色のむれが外役に使われている囚人らしいと気づき、はっとして、あれは石川島から来たのじゃないか知ら? と考えたが、すぐに軽禁錮《けいきんこ》三ヶ月の胤昭《たねあき》がこんな外役に出て来るわけがない、と胸でかぶりをふった。
それより、鉄道馬車を見張っていなければ!
一時半ごろであった。
また上野ゆきの鉄道馬車が通過しかかった。
――と、そのまんなかあたりの窓に、こちらをむいている白い顔が見えた。あきらかに自分のほうを眺め、口に指をたてたから気がついたのである。
見て、おひろは、さあっと全身|粟立《あわだ》つ思いがした。恐怖と歓喜のために。――
「姉さん!」
彼女は絶叫した。
三十メートルくらいの距離であったが、それがだれか見まがうことがあろうか。
姉が、あんなところにいる!
「姉さん!」
おひろは無我夢中で駈《か》け出した。
馬車までの路上は、石や材木で埋めつくされている。それをよけ、飛び越えて、おひろは走り寄ろうとした。二度ほど、ひざをついてふしまろんだ。
二十八人乗りとはいえ、ともかくもレールの上を走る馬車だ。町を駈けるガタクリ馬車などよりずっと早い。――とはいえ、何といってもひいているのはただ二頭の馬だ。みるみるかなたへ消えてゆくといった早さでもない。
「姉さん! 姉さあん!」
通りはすぐに石や材木のないふつうの街路に変っていた。そこを狂乱したようにおひろは駈けつづけた。
道は神田にはいったが、まだ追う対象を見失ってはいない。それどころか、鉄道馬車はやがて止った。次の停留所の須田町であった。が、おひろがあと三十メートルくらいまで近づいたとき、それはまた動き出した。
おひろは、黄色くなった銀杏《いちよう》の街路樹の根もとに、しがみつくようにしてしゃがんでしまった。
姉さん! あたしを見ながらどこへいったの? と心で叫びながら、足は石のようになり、息は火となって、それ以上もう一歩も走れなかった。
五
「もし、お嬢さん」
数分して、そう呼ばれてやっと顔をあげると、すぐ前に二人の青年が立っていた。
「いまあなたの追っかけておいでる姿、見ましたぞな、もし」
と、その一人がいうと、
「僕たちは、いまの鉄道馬車に乗って、須田町で下りたんです」
と、もう一人がいった。
どちらも書生風だが、年は十七、八だろうか。
「実は、須田町で下りようとしたら、隣りに坐《すわ》ってた御婦人に呼びとめられて御伝言をたのまれたんですがね」
「えっ?」
しびれはてた足も忘れて、おひろは立ちあがった。別の青年がまたひきとって、
「御婦人は、追うて来るあなたを指さして――あれは妹ですが、いまわけがあって、あたしゃ急いでこのまま上野へゆかなきゃならんけれ、どうぞお願い、ここでお下りたらあの娘《こ》に伝えておくれんかな、もし。――あたしはタネアキさんのために用を果たしておるけれ、そちらはもうしばらく騒がんと待ってておくりゃれ――」
どうもこの青年は、田舎出の人で、伝言を自分の田舎言葉に変えているようだ。
つづいてもう一人が、
「それから、いまタネアキさんに会ってあたしのことなどしゃべると、何もかもブチコワシになってタネアキさんの命にもかかわることにもなるから、決して面会などにゆかないようにって」
と、こっちは東京弁であった。
さっき窓の姉が指を立てて口にあてていたのは、その合図だったのだろうか?
白痴のような顔になって立ちすくんでいるおひろを、これまた狐《きつね》につままれたような表情で、しげしげと見あげ、見下ろし、
「実は|あし《ヽヽ》たちも、何ともけったいな伝言でわけがわからんのじゃがな、もし」
「とにかくたのまれたことをお伝えします。――いいですか?」
と、二人の青年はいった。
「はい」
からくもおひろは声を出し、頭を下げた。からだがブルブルふるえていた。
つんつるてんの小倉《こくら》の袴《はかま》に手拭《てぬぐ》いをぶら下げ、朴歯下駄《ほおばげた》をはいた二人の書生は、なおしばらく心配そうにおひろを見つめていたが、ようやくその前を離れていった。
その方角から見て、おそらくこのごろこのかいわいにふえ出したいろいろな学校の学生を相手に、急速に本屋街のたたずまいを見せ出した神保町にでもゆくのだろう。
ぶらぶら歩きながら、「おい、愚陀仏《ぐだぶつ》」と、一人が話しかけた。
「いまの鉄道馬車の女じゃがね。――濃艶《のうえん》無比だったぞな、もし」
「うん。――しかし何だか変な美人だったねえ」
「変なとは、どういうことぞい?」
「よくわからんが、とにかく変な感じがしたよ」
「実は|あし《ヽヽ》も同感だ。そこで一句ありよ」
あごの張った、精悍《せいかん》無比の容貌《ようぼう》をした青年は高い空を仰いで、
「悪のきく女形《おんながた》なり唐辛子《とうがらし》」
と、詠じた。
「女形? ああ、変な感じがわかったよ。そういえば、そう見えんこともなかったね。まさか化粧したまま鉄道馬車に乗る女形《おやま》もあるまいが――しかし、うまいや」
愚陀仏と呼ばれた青年は、おっとりとした調子で、
「それじゃ僕も一つ。僕のは平凡だ。……正一位女に化けて朧月《おぼろづき》。こりゃ季がちがうか」
「いや悪くないぞな。それからいまの娘さんじゃが、|あし《ヽヽ》は東京に来ていちばん可愛らしい娘さんを見たぞい。……いまの伝言の意味はわからんが、ふるえてたぞな。……驚くや夕顔落ちし夜半《よは》の音、っちゅうところだ」
「うまい、うまい! 正岡の句は、猛烈な顔に似合わんね、ははははは」
二人は笑いながら、朴歯下駄の音を鳴らしていった。
正岡という青年の名は升《のぼる》という。愚陀仏の本名は夏目金之助という。すなわちのちの子規と漱石である。――正岡升はこの六月に四国の松山から上京して、いま駿河台の共立学舎にかよっている。夏目は江戸ッ子で、これまたすぐ近くの成立学舎に通っている。どちらも大学予備門(後の一高)をめざす塾だ。この夏ふとしたことで古本屋で知り合い、俳句と落語が好きなことで意気投合して、いまは毎日曜日つるんで歩く仲であった。
奇妙な伝言者になった二人は、百歩も歩くといまの伝言を忘れたろうが、おひろのほうも、この伝言者のことはすでに念頭になく、茫然《ぼうぜん》と上野の方へ眼をむけたままであった。……
六
夕方、約束通り十字屋にやって来た岸田|吟香《ぎんこう》と小林|清親《きよちか》に、おひろは、
「姉さんは生きています!」
と、叫んだ。
「それはよかった!」
と、反射的に清親が大声を出し、
「な、なんでわかった?」
と、吟香が訊《き》き返した。
「あたし、生きてる姉さんを、この眼で見たんです!」
おひろは、きょうの昼間の話をした。――聞くにつれ、吟香と清親は驚倒し、また混沌《こんとん》たる顔つきになってゆかざるを得なかった。
それがほんとうの話とすれば――おひろが嘘《うそ》をいうわけがないが――お夕は十手と三百円を持ち出して何をしようとしたのか。なぜおひろに直接会おうとしないのか。なんのために鉄道馬車に乗って、どこへゆこうとしていたのか。そのことを告げたもう一人の女は何者なのか?
「聞けば聞くほど、その一つ一つ、またそのからみ合いがどうなっとるのか、何のことやらさっぱりわけがわからん」
と、吟香は悲鳴のような声をあげた。
「とにかくお姉さんは、いま胤昭《たねあき》さんのために用を果たしている、と伝言して来たのですわ」
と、おひろは涙を流しながらいった。
「いまあたしたちが胤昭さんと面会などすると、それがブチコワシになって胤昭さんの命もあぶなくなると――」
「そんなことを聞けば、いよいよもって面会して事情を聞かんけりゃ心配じゃが」
「よして下さい! お願い――どうかすぐ警視庁へいって、あしたの面会を取り下げて来て下さい!」
「さ、えらいことになった。面会許可状を持って来てくれるあの二人の巡査、この時刻まだおるじゃろか?」
吟香はあわてていた。
――彼らの中のだれが想像もしようか。少女樋口夏子を伝言者としたお高祖頭巾《こそずきん》の女は邯鄲《かんたん》お町《まち》だ。青年正岡|升《のぼる》と夏目金之助を伝言者とした鉄道馬車の女は、化師《ばけし》の秀《ひで》だ。
いかなる心理でか、いまもお夕の画像を懐中にしているこの稀代《きたい》の変装術の悪党は、その目的はたとえ原胤昭の命を救うためであったにしろ、警視総監が許可した「面会」をとりあえずふせぐのに成功したのである。
のちにわかったことだが、石川島の砂原で二匹の怪獣が相討ちをやったのと、これは同日の出来事であった。
けだもの勝負第二番
一
「あ、原君――」
牢《ろう》格子の外から、老看守がふと呼んで、しばらく思案する表情になった。
十一月末のある夕方だ。近日「外役」に出る囚人を選び出す用で、牢の外に名簿を持っていちいち点呼していたその看守が、牢内にふと原|胤昭《たねあき》の顔を見出したらしい。
「外役」とは、この石川島から外に出ての懲役の作業だ。主として土木工事で、いま看守が来たのは、鉄道馬車の新設のための労働であった。禁錮《きんこ》三ヶ月ということになっている原は、外役とは無縁のはずだが――その老看守は、ついで意外なことをいった。
「あなた、会津自由党の田母野秀顕《たものひであき》という人を知ってるね」
「は――」
知っているどころではない。二十日《はつか》ほど前、糞尿《ふんによう》運搬で倒れた田母野を助けようとして、胤昭自身大活劇を演じたくらいだ。
「あの人物があぶない」
「えっ? あぶないとは?」
「さっき第七獄棟をのぞいたら、医者が来ておって、明朝までもつかもたんか、とかいっておった」
「病気ですか。――何の病気です?」
「肺病だそうだが」
と、老看守はいった。
あの糞《くそ》騒動のとき、田母野秀顕は糞箱におしつぶされてもがいていたが、入獄以前から、会津帝政党のために受けた傷が回復していない、ということは胤昭も聞いていた。――それでは肺も病んでいたのか。肺病病みをあんな重労働にかり出すとはひどいもんだ。
「ま、あんたに縁のない人物でもないから、ちょっと教える」
と、看守はいって、ちょうど外役選びの用も終ったとみえて、そのままゆきかけた。
「あ、松倉さん、ちょっと待って下さい」
われに返って、胤昭は呼びかけ、
「お願いがあります。もしお許しいただけたら、その田母野さんのところへお見舞いにゆきたいんですが――」
「ほ、あんたが?」
「そばに、あの会津自由党の人々はみないるのですか」
「いや、あれは二人ずつの合牢《あいろう》だから、そこには仲間が一人いるだけだが」
「そうですか。一人いてもあの人々の刑期は六年から七年だから、当分世の中へは出て来られない。遺言でもあれば私が聞いてあげたい。私はあと一ト月くらいですから」
と、胤昭はいった。
「ふうん」
老看守はしばらくそこで首をかしげていたが、
「ちょっと考えさせてくれ」
と、いってそのまま立ち去った。
胤昭がそんなことをいい出したのは、ただ先日の騒動のとき、哀れな田母野の姿を見たのみならず、そもそも自分が石川島へ来る羽目になったのが田母野らの似顔絵を錦絵《にしきえ》にしたことにあり、かつまた、入獄以来、機会があったら彼らを慰撫《いぶ》したいという希望を持っていたからであった。
いまその田母野秀顕の命|旦夕《たんせき》にありという。出来ればその最期を見とり、遺言があれば聞いてやり、自分がここを出たら、会津の然るべき人に伝えてやりたい――胤昭はそう考えたのだ。
一時間ほどして、その老看守が帰って来た。
「原君、ないしょだが、さっきの話、特別にきいてあげよう。ござれ」
と、鍵《かぎ》を使って、牢《ろう》のくぐり戸をひらいた。
この老看守は松倉伝兵衛といい、胤昭がここに勤務していたころからいて、まだ残っている珍しい例で、これも元|徳川《とくせん》の御家人だったという縁から、胤昭に好意を持ってくれている老人であった。
胤昭が入れられている第一獄棟を出ると、もう暮れつくしている西空がぼうっと明るく見えた。
かつて胤昭がここにいたころは、東京の夜空は真っ暗だったが、こんどここへ来て、それがふしぎに明るいのに、はじめ彼は眼を見張り、すぐにそれは、昔なかった街路のガス燈と家々の洋燈のせいだとうなずいたが、それにしても、まだ屋根の低い築地銀座の町々のかなた、いま遠い空にうつる明るさはただごとではない。
「あれは何です」
と、胤昭は訊《き》いた。
「鹿鳴館《ろくめいかん》だろう」
と、老看守は答えた。
「ははあ、あれが……」
政府の大官や夫人たちが、西洋人たちと舞踏するための鹿鳴館という建物が、この六月、内山下町に出来たことは胤昭も知っていた。知っているどころではない、銀座の店から一足だから、何度も見物にいって、その白堊《はくあ》の大建築を口をあけて仰いだものだ。
「それがいよいよ開館式とかで、今夜、千人もの大舞踏会が開かれるそうで、その明りだろう」
「ほほう、今夜が開館式ですか」
二
やがて二人は、第七獄棟にはいっていった。
ランプを吊《つ》るした廊下で、所定の場所で立哨《りつしよう》していた若い押丁《おうてい》が、松倉看守に敬礼した。
「ちょっと用があってまた来た。――これは例の十字屋の原君じゃがね」
と、松倉は囚衣の胤昭をかえりみた。
「田母野を見舞いたいんだそうで――いいかね?」
すると、その押丁は落着かぬ顔色で、
「田母野秀顕は死亡しましたよ」
と、答えた。
「えっ、いつ?」
「ほんの今しがた。いま検屍《けんし》の医師を呼びにいったところですが」
といったのは、同僚のことだろう。
「そうか、やっぱりいけなかったか」
松倉看守は眼で胤昭をうながして、その監房のほうへ歩いていった。押丁は別に止めはしない。この間、むろん胤昭の胸には例の十字架がぶらさがったままなのだが、だれも気がつかない。
この獄舎は、三|帖《じよう》の小監房ばかりであったが――鍵《かぎ》でその中の一つの戸をひらく。
そのとき、両側の監房の中で低く男泣きする声がもれていたが、あとで考えると、そこにはやはり例の会津自由党の仲間が入れられていて、すでに田母野の死を知っての哀哭《あいこく》の声であったにちがいない。
「原君、あなただけおはいんなさい」
と、松倉看守はいい、自分は外に佇《たたず》んだ。
監房は暗かったが、それでも廊下の洋燈の光がわずかにさしこんで、そこに横たわった一つの影と、そのそばに坐《すわ》っているもう一つの影が見えた。
「田母野さんがなくなられたそうですね」
と、胤昭は声をかけた。
坐っている男が、会津自由党の――先日田母野といっしょに糞《くそ》箱をかついでいた花香《はなか》恭次郎という志士だと認めたからだ。
「こないだ、この牢屋《ろうや》の裏で、例の糞騒動を起した――原胤昭というものですが」
「あっ、あの原さんか!」
胤昭が小さなくぐり戸からはいって来るのを見ても、木像のように動かなかった花香が、その名乗りを聞くと、崩れるように胤昭にしがみついて来た。
「田母野君が死んだ! 田母野君が死んだ!」
「いま知りました。お見舞いに来たのですが、間に合わなかったようで残念です」
「病気は肺病だが……先日もごらんのように、ここに来てからの病体も認めぬ苦役で殺されたようなものだ!」
ややあって花香恭次郎はおのれをとり戻し、田母野の死んだようすを物語った。
きのうごろから病状ただごとでなかったので、獄医を呼んだのだがなかなか来てくれず、きょうの夕方やっと来たもののはじめからサジを投げたあしらいで、ほとんど何の手当もせず、田母野はついにさきほどおびただしい喀血《かつけつ》にむせびながら息絶えたという。
田母野|秀顕《ひであき》は三十五歳だったそうで、いまそこに横たわっている白蝋《はくろう》を刻《きざ》んだような顔は、やつれはててはいても、なおその若さをとどめていたが、しかしその口から頬《ほお》、あごにかけてなお血に染まり、気がつくとその血のあとは、床三尺四方にひろがっていた。
「原さん」
花香恭次郎はふいに声をひそめて、
「あなたが先日、われわれを助けるために戦ってくれたのみならず、その前からわれわれを錦絵《にしきえ》にして、そのためにこの石川島へいれられた義侠《ぎきよう》の士と承知して、一つお願いしたいことがある」
「と、おっしゃると?」
花香は獄衣のふところから、折りたたんだ紙を出した。
この石川島の囚人の作業の中に、紙|漉《す》きがある。東京じゅうから集めた反古紙屑《ほごかみくず》をここで漉きもどして便所紙にしたもので、「島紙《しまがみ》」と呼ばれ、粗悪だが安価なので一般にも貧乏人用として売り出されたが、この牢でもむろん右の用件に使う。
それはあきらかに、その島紙であったが、ひらくとそこに三つの大きな文字が見えた。
「自由鬼」
たしかにそう見えるが――これは血だ。血文字だ。
「断末魔にあたって田母野君が、自分の喀《は》いた血で、指で書いたものだ」
見て、感動と怖ろしさに、肌に粟《あわ》の生じる思いがする。
「これをこの通り、私は懐中におさめたが、ここにいるのじゃいつかは見つかってとりあげられる。だいいち私の刑期が終るまでには、まだ六年かかる」
と、花香はいった。
「あなたが出るのは、いつかね?」
「私が出られるのは、この大晦日《おおみそか》か新年早々でしょう」
「それじゃ、あと一ト月くらいだね。いや、そう思って、あなたにお願いする気になったのだが――どうだろう。出たら、これをわれわれの弁護人、星亨《ほしとおる》先生にお渡しして下さらんだろうか?」
「わかりました」
胤昭《たねあき》は大きくうなずいた。
「必ず星先生におとどけします」
そして、田母野秀顕の遺骸《いがい》に手をあわせて拝《おが》んだのち、胤昭は、
「あなたは死なないように、辛抱しぬいて牢を出て下さいよ」
と、花香を激励して、その監房から出た。
「どうもありがとうござんした。前々から気になってた望みをとげることができて、これでスッキリしました」
老看守に礼をいって、二人はその獄舎を出ていった。
入口で、すれちがいに検屍《けんし》の医師と、二、三人の獄丁《ごくてい》たちがはいって来るのと逢《あ》った。さすがに彼らもこちらを見とがめる余裕もないようで、あわただしく奥へかけこんでいった。
外へ出ると、西の空は依然として異様に明るい。
「あの貴顕紳士の大舞踏会」
と、思わず胤昭は心中につぶやいた。
「この明治十六年十一月二十八日という同じ夜に、会津の百姓のために戦って投獄された志士の一人が、その鹿鳴館《ろくめいかん》の遠明りが見える石川島の牢で死んでゆくとは――」
鹿鳴館がただ上流の歓楽のためではない、ということは彼もうすうす理解はしているけれど、しかしやはりこの同じ夜空の下の天国と地獄の相を見ては、そんな感慨に打たれずにはいられない。
ふと、その胸に、別のある思いつきが浮かんで来たのはそのときであった。
「松倉さん」
と、彼は看守に呼びかけた。
「それはそうと……さきほど外役のことでおいででしたね」
「うん」
「いつでござんすか」
「十二月一日の分だが」
「こうっと、三日のちですね。――どうでしょう、それに私も出していただけませんか」
「突然、どうしたんじゃ」
「いや、さっきそのことをお願いしようか知らん、と考えてたところに、田母野さんの件をいわれたので、そのほうの願いを果たさせていただいたわけですが、いままた思い出したんで」
「なんだ、田母野とは関係ない話か」
「それと鉄道馬車工事と関係なんかござんせんよ。どうも二タ月も牢屋にいると、あと一ト月がむしょうに辛抱できねえ。ここらでいちど娑婆《しやば》の空気が吸って見たくなってねえ。あはは」
「そうか。どうしてもというなら外役に出してやってもいいが」
と、松倉看守はいった。
「あとで私に迷惑などかからんことを約束するかね」
「それは、むろん!」
と、胤昭《たねあき》は叫んだ。
申しわけないが、胤昭は老看守をあざむいた。
彼は「自由鬼」という田母野秀顕の三字の遺書を、あと一ト月自分がかくしているのに忍びず、一日も早く外のだれかに渡したかったのである。
握りつぶせば掌の中に消えてしまう一片の紙を、いざとなったら始末するのはむずかしいことではないし、かりにそんなことがばれたとしても、松倉看守に累《るい》は及ばさせない――と考えていた。原胤昭の楽天性は生得《しようとく》のものであった。
が、老看守は別のことでふと気がかりになったらしく、
「しかし原君、工事場のあたり、君の知り合いも多かろうに、懲の字のついた半被《はつぴ》姿じゃ、君の恥になりゃせんかね」
「肥《こえ》かつぎまでやってる原でござんすよ。いまさら恥かきを恥じることじゃあねえ。だいいち、知り合いはみんな私の牢入りを知ってまさあ」
と、胤昭は肩をゆすって一笑した。
現場に知り合いが通りかかるのが、こちらの目的を果たすために期待するところなのだ。
三
十二月一日の朝が来た。
石川島監獄の正門内の広場に、百五十余りの囚人が五列縦隊を組まされてならんでいた。
例の笠《かさ》をかぶり、「懲」の字を染め出した半被をつけ、わらじをはいて、みんなうれしそうだ。白い息が、もうもうともつれあっている。
「こら、騒ぐな!」
「静かにせい!」
いくら制止されても、蜂《はち》のような騒音はおさまらない。
どんな重労働でも、半日でも一時間でもこの牢獄島から外へ出られることは、彼らにとって、穴から蒼天《そうてん》の下へ出るような無上のよろこびなのであった。
「外役」は、冬、東京の街路の雪かきなどもやるが、たいていは道路や鉄道の建設工事であった。げんに三年ほど前、上野・高崎間の鉄道を敷いたのも石川島の囚人なのである。
「はてな」
その集団の外に立っていた看守の一人が、ふと首をかしげた。
つかつかと歩き出した看守は、
「鳥居の旦那《だんな》」
と、呼びかけられて、
「や、ぬらりひょん、お前も外役につきあいか」
と、立ちどまった。
「へへ、ちょっと息ぬきにね」
ぬらりひょんの安は、うなぎみたいに身体をくねらせて、歯を見せた。安もまた、五列縦隊とは別に立っている。ふつうの囚人の半被には「懲」の字が染めてあるが、彼の半被の文字は「役」だ。双方あわせると懲役になるが、この場合は「役付囚」をあらわす「役」であった。
監獄則の中に、役付囚とは「囚人にして看守の命を受け、その補助をなすもの」と定義してある。囚人でありながら、上からの諭達を伝え、点検の手伝いをし、同囚の動静を報告し、ときには看守と行を共にして各房を巡回したりする。――いわば看守の番犬的存在だ。
日本の司法独特の相互監視制度だが、この役付囚になるといろいろ特典があるので、一般囚からみると恐怖の的《まと》であり、かつ羨望《せんぼう》の的であった。
いうまでもなく牢《ろう》内を威圧するだけのキャリアと貫録を持つ者の中から、特に当局のおめがねに叶《かな》った囚人が選ばれる。ぬらりひょんたち三人が、その「役」の半被を着ることを許されたのは、むろんそんな認定からではなく、別の理由からだ。
三人というのは、サルマタの直熊《なおくま》とアラダルのことだが、その役付囚の一人アラダルが、先日これはしたり文字通り看守の大物と相打ちで死んだことこそ奇ッ怪しごくであったが、その現場にいた鳥居看守すらが、その「役付囚」たちの裏切りのこんたんにはまだ気がついていない。
「旦那もお出ましでござんすか」
と、安がいう。きょうの外役に監視役としてゆくのかという意味だ。
「うん」
と、鳥居はうなずいて、
「それはそうと、あそこに原がおるな」
と、あごをしゃくった。
「あいつの刑期じゃ、外へ出られんはずだが」
ぬらりひょんの安もそっちを見て、
「なるほど。……松倉の旦那にでも頼んだんじゃあねえですかね」
「きゃつ、何か目的があるのかも知れん、おれも見張ってるが、お前も注意しててくれ」
と、鳥居看守はいった。
やがて、号令一下、囚人部隊は門から船着場のほうへ行進しはじめた。
四
石川島に二タ月いただけで、胤昭《たねあき》は外役に出て、まるで二年ぶりに東京を見るような気がした。
日本橋本石町――このあたり、彼にすれば自分の町内の一部くらいのはずだが、もうなんだかちがう町へ来たようだ。実際、見知らぬ洋館風の建物さえいくつか建ちつつあった。
ただし、胤昭の眼にどこか異国の感を与えたのは、一帯が砂塵《さじん》にけぶって、朦朧《もうろう》とした影絵のような風景に見えたせいもあったかも知れない。
島から船で渡るころから吹き出した風は、こがらしどころではない寒烈風と化していた。
その風と砂塵の中に、囚人たちは材木や石をかついだりモッコで運んだりしていた。ここから浅草へ、また新しく鉄道馬車のレールを敷く工事だ。
外役に出されるのは、丈夫でかつ獄則に従順な囚人を選ぶのだが、それだけの条件にも叶《かな》う連中は限られているとみえて、中には二人ずつ連鎖でつながれたやつもある。
囚人たちに混って、胤昭も同じように働いていた。
二十日ほど前、これと同じ景観のこの本石町の辻《つじ》で、おひろが鉄道馬車に「姉」を発見して絶叫して駈《か》け出したのだが、むろんそんなことは胤昭は知らない。
が、あの日と同じように、道の両側や店々の軒下には、きょうも見物人がざわめいている。工事もさることながら、石川島の囚人たちの外役が好奇心を誘うらしい。
そのほうへ、ちらっちらっと胤昭は眼を投げた。
だれか知った顔はないか、と探していたのだ。――松倉看守は、このあたりは知り合いだらけで恥ずかしくはないか、といい、自分でもそう思っていたが、いざ出てみれば、さすがにそうかんたんに知った顔は見つけられない。それに、用件が用件でもある。
と、午前十時ごろであった。往来を通りかかった二、三人の異国人の一人が、
「おう、あのヒト」
と、奇妙な声をあげ、相当距離があったのに、まっすぐこちらへ歩いて来た。
「ミスター・ハラ」
「やあ、これはカロゾルス神父さん!」
築地のアメリカ長老教会の神父であった。
これは有明《ありあけ》姉妹が代る代るほとんど毎日曜日にいっていた教会の神父であるのみならず、向うからもしばしばドクトル・ヘボンといっしょに十字屋を訪れて――何度も胤昭に、洗礼を受け、教誨師《きようかいし》にならないかと勧めてやまない人である。
カロゾルス神父は、胤昭の囚衣姿を穴のあくほど見て、
「あなた、こんなところで、そんなもの下げて、だいじょぶありますか?」
と、声をひそめて尋ねた。
はじめて胤昭は、神父の碧《あお》い眼がそそがれているのは、自分の囚衣ではなく胸の十字架であることに気がついた。胤昭が牢屋にはいっていることなど、神父はとっくに承知しているにちがいない。
「あ、わ、わ、わ」
胤昭はあわててかぶりをふり、口に手をあてた。小さな声で、
「この十字架はだれにも見えねえんです。だから、見てて見えねえフリしておくんなさい」
「?」
――だれにも見えない十字架が、このカロゾルス神父には見えた、ということのふしぎさに気がついたのは後のことである。
しかし、このときは胤昭はその疑念より、実にいいひとを見つけた、というよろこびにまず眼をかがやかし、
「神父さん、詳しく話してるひまがござんせん。お願いがあります」
と、ささやいた。
「自由党の田母野《たもの》ってえ人が、牢で死にました。その遺書を、代言人の星亨《ほしとおる》さんにとどけていただきたいんですが、引受けてくれますか?」
カロゾルス神父は、一、二瞬混乱したまなざしになり、しかし、すぐに、
「わかりました。とどけましょう。ミスター・タモノからローヤー・ホシに、ですね! ホシサン、知ってます」
と、うなずいた。
胤昭は獄衣の中から、例の自由鬼という三文字の遺書をとり出した。むろん、こぶしの中に握りしめたままだ。
彼はそれを、すばやく相手の掌におしつけた。――
カロゾルス神父は、ちらっと折りたたまれた紙片を見ただけで、それを胸ポケットにおさめ、風にその僧衣のすそをはためかせながら、連れの待っているほうへ歩み去ってゆく。
五
それより、少し前。
同じ本石町の辻《つじ》の旅館長崎屋の前で話しあっている三人の官服の男たちがあった。
囚人の外役には、石川島の看守のみならず、警視庁からも見張りの巡査が来る。その中の鳥居看守が、先刻|檜《ひのき》巡査と船戸巡査を見かけて声をかけ、立ち話をはじめたのである。
大通りでも舗装というものがない当時の東京である。ましてこの一劃《いつかく》は工事中で道を掘り返し、眼もあけていられないような砂塵《さじん》の中であった。
「おい、原が出ておるぞ。……ぬらりひょんの安も」
と、はじめ鳥居が知らせて、
「ほ?」
意外そうに両巡査はそちらを眺め、檜巡査が、
「何かやらせるつもりか」
と訊《き》くと、鳥居は首をふって、
「いや、原はおれも知らんうちに、別の看守に頼んだらしいが」
といった。
「十字屋の娘が原と面会するのは何とかふせいだが――その娘が、そこらに来ておるんじゃあるまいな」
と、船戸巡査が落着かない眼をまわりの見物人たちに向けると、
「まさか、そんな連絡はしておらんと思うが……しかし、きゃつのことだ。何かの魂胆あって外役に出て来たおそれは充分ある。注意しておる必要はあるな」
と、鳥居看守はいった。
また別の場所にぶらぶらしているぬらりひょんの安に眼を移しながら、檜が訊く。
「安は?」
「あいつ、ちょっと息ぬきに、とかぬかしおった。一応役付囚ということにしてあるからしようがないが、あいつのことだ、これも魂胆があるかも知れん」
といっているうちに、果せるかな、安は路傍でだれかと立ち話をはじめた。相手は、鳥打帽をかぶった商家風の、十七、八の若い衆だ。
「あいつか」
と、檜巡査がいった。彼は例によって仕込杖《しこみづえ》をついている。
「あの小僧、安の乾分《こぶん》の銀次ってえやつだが」
「ほほう。してみると、あいつのほうはしめし合わせたな」
と、鳥居はいったが、むろん彼は、仕立屋の小僧崩れのスリの乾分など知らない。
「何にしても、安の女房や娘もこっちの監視下にあるんじゃから、ま、このほうは心配ないが」
三人は知らぬ顔で、しかし交互に、囚人原胤昭と、彼らが犬として使っている役付囚ぬらりひょんのほうを見やっていた。と、そのうち檜巡査がふと思い出したように、
「お、あの件、鳥居君にもいま伝えておこうか」
と、船戸巡査の顔を見ていった。
「うん、そのほうがいいかも知れんな」
船戸がうなずくと、檜は胸ポケットから紙片をとり出し、
「十一月二十八日の夜、鹿鳴館《ろくめいかん》で、福島県令三島閣下にお目にかかった」
と、いい出した。
「そのとき、こんなものを頂戴《ちようだい》したのじゃ」
と、その紙片を鳥居に見せた。
二つに折られた固い紙で、ひらくと金でふちどられた中に、何やらむずかしい文字が十数行羅列している。「細魚蝦巻製蒸焼」とか、「犢蒸煮栗製」とか「牡丹菜製」とか……鳥居看守には読むことさえできない。
「鹿鳴館の晩餐会《ばんさんかい》の献立表じゃ」
檜はうやうやしくいった。
「三島閣下は、わざわざ福島から御上京なされてその開館式に列せられたのじゃが、宴果てて、門内の広場に待たせてあった馬車に乗られる前に、小官を呼んで申された。――」
三島|通庸《みちつね》はその夜、特に指名して警視庁の檜玄之助巡査を護衛に呼んだのである。むろん以前から檜が自分のために犬馬の労をつくす巡査だと認めてのことだ。
「それをつづめていうと、さきの福島事件の判決には甚だ不満だ。あの国賊どもがたった六、七年で出て来ることはがまんならん。何とか在獄中に処分したい――との御意向であった」
「へえ、そりゃ、こっちの――」
「左様、原の場合と同じじゃが、むろん向うのほうの刑期は長いから、即刻というわけではないが、何とかならんかと申されて――ポケットから出された献立表に、万年筆でこんなことを書かれた」
献立表をひっくり返すと、
「命一
千
三」
と、荒々しく書かれた文字が見えた。
「こ、これは?」
「会津自由党の罪人のいのち一つごとに、千円の褒美ということだ。三とは三島――」
「おう!」
「他から見れば意味不明の文字だが、われわれにとっては厳粛なる契約書となる」
檜は口にしなかったが、おそらく彼のほうから要求したものではあるまいか。――さすがの鳥居も衝動を受けた表情だ。
「これは原なんぞの小者とは比倫を絶する――大変な依頼ではないか」
「そうだ。このことこそ、貴公たちの協力を受けねばならん」
と、檜は鳥居の顔を見つめ、
「こういう大仕事が出来《しゆつたい》した以上、原は可及的すみやかに片づけたい」
と、いった。
船戸が、驚愕《きようがく》した顔のままの鳥居を冷やかすように、
「一人、死んだそうだな。千円損したぞ」
と、うす笑いしていったあと、ふいにびくっと身体を動かせて、
「や、異人が一人、原のほうへ近づいていったぞ!」
と、叫んだ。
巻きあがる黄塵《こうじん》の中に、三人は顔をしかめ、しかし眼をこらした。
「あれは築地の教会のカロゾルスという伴天連《ばてれん》じゃ!」
と、檜巡査がいった。
十字屋に出入りする西洋人としてだけではなく、檜はもう六、七年も前、横浜で邯鄲《かんたん》お町《まち》を追っかけているころから、その神父をかいま見ていたかも知れない。
「あっ、原が神父に何か渡したようだぞ!」
「うん、たしかに何か受けとって、胸ポケットにいれた!」
「案の定《じよう》じゃ!」
三人は顔を見合わせ、すぐに船戸巡査が、
「何かわからんが、あれは没収せんけりゃならん!」
と、うめいて、駈《か》け出そうとした。
「待て」
檜はそれをとめて、
「相手は異人じゃ。簡単に没収はできん。――それより、うまい智慧《ちえ》が浮かんだ」
「とは?」
「あのぬらりひょんにスらせろ」
「あ!」
船戸巡査と鳥居看守は口をぽかんとあけ、たちまち、
「なるほど!」
と、手を打った。
すぐに鳥居看守は、路傍で立ち話をしているぬらりひょんと乾分《こぶん》のほうへ、早足に歩いていった。
六
さて、そのぬらりひょんの安だが。――
彼は数日前からこの外役に出るつもりで、おととい出獄したあるスリに、本所の自分の家にゆかせて、女房にここに来るように伝言を頼んでおいた。
――五年ほど前、十字屋で女房と娘にめぐり逢《あ》ったとき、彼もいっときかたぎになろうとしたことがあるが、すぐにまたもとのスリに戻ってしまった。以後放り出したままの女房と娘が、ある日、上野広小路の道ばたに乞食《こじき》姿で坐《すわ》っているのを発見したのは乾分の銀次であった。糸のようにやせこけた母娘《おやこ》を見て、さすがの安もショックを受け、それ以来いっしょに暮すことにしたが、スリの稼業にはいよいよいそしんでいた。――
ところが先ごろ檜巡査に、現行犯でもないのに路上でパクられて、例の原胤昭《はらたねあき》抹殺の陰謀の一味にされてしまったのはすでに述べた通りだ。
ところで女房のお秋は、長い苦労のため心臓を悪くして、ちょいちょい発作《ほつさ》を起す。女房もさることながら、これに万一のことがあると、ことしまだ七つの娘がふびんなことになる。
で、石川島にいってからも、このことだけは気にかかり、そこで外役にかこつけて女房を呼び出したのだが――そのお秋の姿は見えず、やっと先刻、乾分の銀次が息を切り切りやって来たのだ。
そして銀次から、お秋がけさ出かけようとしてひどい発作を起して倒れ、ともかくも寝かせたが、どうしても娘といっしょにここへ来るといって起きあがろうとするのを、何とかなだめて代りに自分が来たという報告を聞いた。
そこへ、棒を持った鳥居看守が近づいて来た。
「おい、安、ちょっと頼みごとがある」
「ああ、鳥居の旦那《だんな》。……いま、こっちからも旦那のところへゆこうとしてたんでさあ」
と、ぬらりひょんはいった。
「なんだ」
「いえね、急な話だが、この場からあっしを仮放免してくれませんかね」
「どうした」
「こいつはあっしの乾分ですが――いま来ての話じゃあ、あっしの女房が倒れたってえことで――すぐにいってやりてえんです。なに、安否を見とどけたら、すぐに島へ帰りまさあ」
「そうか、しかしその前に頼みがある。急な用だ」
「なんです」
「あそこに原胤昭がおることは知ってるだろう――いや、そっちを見るな――その原が、いま西洋人の神父に何やら手渡した――ほら、あそこをゆく二人連れの異人の、神父のほうだ」
安はそっちを見た。
なるほど須田町方面への道の雑踏の中に、もう遠いがひときわ背の高い黒衣の姿が見えた。
「受けとったものを、たしかに胸ポケットにいれたのが見えた。そいつをスってくれ。そしたらすぐに、女房のところへいってよろしい」
「へえ?」
安はそちらの方向と鳥居の顔と、二、三度首を動かしたあと、
「旦那、いけませんや」
と、もういちど首をふった。
「なぜだ」
「あれをスるにゃ、先まわりしてぶつからなきゃならねえが、あそこはふつうの町の人ばかり歩いてる、逆《さか》流れでこの衣裳《いしよう》で近づきゃ、向うが用心しまさあ」
と、自分の獄衣を見て、苦《にが》笑いした。
「旦那、あっしよりいい人間がいますぜ」
「だれが?」
「この銀次って野郎で」
と、うしろに棒みたいに立っている乾分をあごでさした。ニキビだらけだが、年に比して鋭い眼を持ったお店者《たなもの》風の若者であった。
「まだ廿歳《はたち》にもならねえが、いい腕してまさあ――あ、牢屋《ろうや》の看守さんにこんなこといっちゃいけねえか、あはは」
と、笑って、銀次を見て、鳥居には見えないような片目をつむって、
「いま聞いたろ? あの切支丹伴天連《きりしたんばてれん》の胸ポケットにへえってるものをやってくれ。しくじるなよ」
と、いった。
鳥居もその気になったと見えて、言葉を重ねていう。
「しくじると、この安の里帰りも許さんぞ」
銀次は二人の顔を見くらべていたが、
「合点しやした!」
うなずくと、風のように走り出した。
十分ほどたって、銀次が帰って来たとき、親分の安は鳥居看守と二人の巡査とともに、長崎屋旅館の横の通りで待っていた。
「やったか」
ぬらりひょんが叫んだ。
銀次は白い歯をむいて、
「やりました!」
と、指さきの紙きれをふって見せた。
安の顔に、しまった、というような表情がかすめた。
さっき、しくじるなよ、といいながら片目をつむって見せたのは、しくじれよ、という合図のつもりであったが、それがこの乾分には通じなかったのか。それともそのとき鳥居看守が、しくじると親分の帰宅を許さぬといった効目《ききめ》のせいか。あるいはまだ十八歳だが、のちに仕立屋銀次となるこの若者の気負いの成果か。
親分が、ちょっとウスボンヤリした顔でつっ立っている間に、
「こっちへよこせ」
と、檜《ひのき》巡査が手を出して、その紙片をひったくった。
それをひらいて、
「ううん」
ひたいを集めた三人の官服が、奇妙なうなり声を発した。
いうまでもなく、その紙に、「自由鬼」とある三文字を見たからだが。――
「こりゃなんじゃ?」
「血書だな。こりゃどういう意味じゃ?」
「こんなものを、原が異人の神父に渡そうとしたのは――奇ッ怪しごくだ!」
三人はただならぬ息づかいで、顔を見合わせた。
そして、ぬらりひょんの安がそれをうしろからのぞきこもうとすると、檜巡査がその紙片をすばやくたたんで、
「これはお前など見る必要はない」
と、胸ポケットにしまいこんでしまった。
七
安は、数瞬、黙って檜巡査を見ていた。
うなぎみたいな、どこか間のぬけた顔をしたぬらりひょんで、その表情は一見変らなかったが、凶相ともいうべきものが全身に流れたのを感じとったのは、乾分の銀次だけだ。
「旦那《だんな》」
安は声をかけた。
「いま銀次がスッたものをこっちに下せえ」
「な、なにをほざくか、こいつ――」
檜巡査はめんくらった表情になり、
「これはお前とは関係ないといったのがわからんのか!」
と、叱《しか》りつけた。
「いや、関係はあらあ。そいつア、おれの乾分がスったもんだ。巾着切《きんちやくき》りの乾分がスったものア、一度親方が調べるのが巾着切りの世界の掟《おきて》だってえことを知らねえか」
ぬらりひょんの顔は燃えあがらんばかりであった。
「それを屁《へ》にされちゃあ、おれのつらが立たねえやい!」
三人の官服は、呆《あき》れはてたようにこの巾着切りの突然変異を見まもった。生簀《いけす》の中に飼い殺しにしていたうなぎが、突如毒蛇と化して、カマクビをもたげて挑みかかって来た思いがする。
安は檜《ひのき》巡査のほうへ一歩近寄った。
「おい、よこせよ」
檜巡査の顔に、むらっと険悪なものが走った。右手についていた仕込杖《しこみづえ》を左手に持ちなおし、
「見せてやってもいいが、その口のききかたが気にくわん、断じて見せられん」
「それじゃ、スるぜ」
「何じゃと?」
すでに殺気に身を鎧《よろ》った檜巡査に、安はニヤリとして、
「銀次、おれの腕を見ていろよ、いいか、おれの腕を――」
と、繰返していった。
また黄塵《こうじん》が吹きあがった。
その中を、両掌を胸の前にダラリと下げ、酔っぱらったようにグニャグニャして近づくぬらりひょんと、仕込杖のつかに手をかけた檜玄之助巡査の姿は、この世のものならぬ影絵のように見えた。
ただ視覚だけではない。いったい、スると宣言して対象に向うスリがあるだろうか。ましてやその対象は、巡査、しかも前半生、数十人の水戸天狗党を撫《な》で斬《ぎ》りにし、いまも特に佩剣《はいけん》のほかに仕込杖を所持することを許された剣技を持つ人物だ。そのことを考えただけでも、これは非常識きわまる勝負であった。
安はさらに近寄り、両者の間隔が一メートル余になったと見えた瞬間、跳躍して檜巡査の横をスリぬけようとした。
その刹那《せつな》、安の右手が大きくふられて、巡査の胸をかすめた。――
なんたる無謀、図々しさ。檜巡査の左足が一歩さがると、白光がひらめき、濡手拭《ぬれてぬぐ》いをはたくような音がした。仕込杖を抜刀したのだ。どんな成算があってのことか、余人は知らず、相手がこの使い手では、まるで斬ってくれといわんばかりの所業ではなかったか。
凄《すさま》じい血の糸をひいて、安の右腕は三メートルも離れた路傍の工事用石材の向うへはね飛んでいた。
安は二、三歩走って、前のめりに路上に身体をたたきつけた。
「……この馬鹿《ばか》もん!」
吐き出すように檜がつぶやいた。
彼とともに、何ともいいようのない表情で、船戸巡査と鳥居看守が、ころがった安のところへ寄ってのぞきこんだのは、一息か二息ついてからのことであった。
「な、何を狂いおったのか。――」
「そういえば、こいつ、時たまわけもわからず逆上することがあったが――」
「医者を呼ぶか。いや、もういかんな」
うつ伏せに倒れているぬらりひょんの安の右腕は肘《ひじ》から斬り落されて、その切断面からなおドクドクとほとばしる鮮血は、うすくつもった土ほこりを朱色に染めつづけ、安の首すじは藍色《あいいろ》に変ってゆく。
檜《ひのき》はなお血刃をうしろにまわしたまま、安の身体のそばで半身をかがめ、
「ぬらりひょん、とにかくいまの勝負はお前の負けだな。自業自得と思え」
と、首をつき出して勝利宣言をした。
その瞬間、うつ伏せの安の左手が、うしろなぐりに、さあっと宙にふられた。――
同時に、檜の首から鮮血がビューッと噴出し、彼はどうところがっていた。
「……あっ」
船戸と鳥居は飛びあがり、駈《か》けよった。何が、どうしたのかわからない。安が手をふったのも意外であった上に、その手には何の武器も見えなかったからである。
檜巡査の左|頸部《けいぶ》の動脈が切断されていることを発見したのは、数秒後であった。そして、もう絶命しているぬらりひょんの安の左手の中指と薬指のあいだに、短く折った剃刀《かみそり》の刃《は》がはさまれているのを見いだしたのは、さらに数秒後であった。――巾着切《きんちやくき》り常用の商売道具だ。
二人は茫然《ぼうぜん》とした。
烈風と、工事現場の騒がしさと、そこが大通りからちょっと横にはいった場所であったためとで、いままでこの怪決闘に気がつかなかった通行人も、やっとこの異変を知って、五人、六人、十人と駈け集まって来る。
檜巡査の遺体を抱き起こした姿勢で、
「おい、これを早く運ばんけりゃ」
と、あわてていった船戸巡査が、ふと気がついたようにその胸ポケットを探って、
「やっ……いまの紙片がないぞ!」
と、叫んだ。
「たしかここにいれた。それから――あっ、あの鹿鳴館《ろくめいかん》の献立表も!」
二人は、狐《きつね》につままれたような表情になった。
「そういえば――」
と、しばらくして鳥居|鶏斉《けいさい》が眼を宙にあげて、
「さっき、斬り飛ばされたぬらりひょんの腕のさきに、何か白いものが見えたような気がするぞ!」
と、うめいて、あわてて周囲を見まわした。
「たしか、あそこの石のかげのほうに飛んだようじゃが」
血を噴きつつ飛んだ腕は、地上にその通りの線を落していた。そして、その石材の一つには、そこに落下したらしい血痕《けつこん》をひときわ濃く残していた。
――が、その上にも、そのかげにも、安の腕は見つからない。
二人は群衆の足もとを、砂ほこりまみれで這《は》いまわり、血まなこになって探しまわったが、天に消えたか地に消えたか、その腕はかげもかたちもない。
「えっ、どけどけっ」
「ここに来てはならん!」
と、やっとわれに返って、その群衆をこわい目でにらみまわして――
「はてな? あのスリの若僧はどこへいった?」
と、鳥居看守が気がついた。
当然、親分の屍骸《しがい》にしがみついてもいいはずなのに、その姿はない。まわりをかこむ弥次馬《やじうま》の中に、あのニキビだらけの顔は見えない。
「あいつが持ち逃げしたんじゃないか?」
と、船戸がいい、両人の顔に狼狽《ろうばい》の色がひろがった。
「あの三文字の汚ない紙もさることながら、献立表のほうも、星なんぞへ持ってゆかれるとただではすまんことになるぞ」
「三島閣下の、いわば暗殺命令書じゃからな」
蒼《あお》ざめた顔を見まわし、ややあって鳥居が、
「しかし――書いてあったのは、命一、千、三の文字だけじゃ、だれが読んでも、何のことだかわかるまい。――」
と、いった。
「あ、それはそうじゃな」
安堵《あんど》の吐息をついた船戸巡査は、しかしその息を吐きおわらぬうちにまた飛びあがった。
「いかん! あの献立表の一方にゃ、福島県令三島通庸閣下、と、うやうやしく書いてあったぞ……」
――胤昭《たねあき》もこのころになって、やっとこの騒動の声を聞いた。が、まわりの囚人たちが「どうやら囚人同士のけんからしい」と、ささやいていたのと、もう五、六人の看守や巡査が大手をひろげて制しているのが見えたので、あえて近づかず、さっき自分が手放した一片の紙をめぐっての――根本的には彼を救うための死闘が行われたなど、夢にも知らなかった。
彼がこのことを知ったのは、ずっと後になって、囚人関係の仕事の中でふと知り合った仕立屋銀次という巾着切《きんちやくき》りの大親分から聞いてのことである。
破牢の企て
一
横浜のドクトル・ヘボンと、築地居留地の長老教会のカロゾルス神父が十字屋を訪れたのは、十二月上旬の日曜日の午後であった。
「ミス・ヒロ――私、先日、ミスター原《はら》に会いましたよ」
店にはいって来るなり、そう告げられて、おひろは息をひいた。
「えっ――いつ、どこで?」
「十二月一日、日本橋本石町で。――鉄道馬車の線路工事の労働に出た囚人の中、です」
「あ!」
おひろは叫んだ。
そういえば自分も、本石町で姉を見た日、あたり一帯に、たしか石川島の囚人たちの獄衣の影を見たような気がする。――が、刑期の短い囚人には外役はないと聞いていたから、その中に胤昭《たねあき》を探すなどということは思いもよらなかった。
「ミスター原は、胸に例の十字架を堂々とかけていて、それがキラリひかったので、往来歩いてた私、気がつきました」
「十字架を――ああ、やっぱり!」
おひろはせきこんだ。
「そ、それで?」
「それから私、大変な失敗、やりましたのです」
と、カロゾルス神父は両腕をねじるような動作をした。
そして彼は、その日の自分の失敗――胤昭がふしぎな紙片を自分に託したこと。それは牢《ろう》で死んだ自由党のタモノという人の遺書で、代言人のホシ・トールさんに渡してくれ、というものであったこと。それを承知してその紙片をあずかり、胸ポケットにたしかにいれたのに、そこを立ち去ってまもなく、ふと胸に手をあてたら煙のごとく消え失せていたのでびっくり仰天したこと。うろたえていま来た路上を探していると、一人の商人風の若者が駈《か》けて来て、これはあなたの落したものでしょう、とその紙片を渡してくれたので、ほっと胸|撫《な》で下ろしたこと――など、しゃべった。
「ところがその晩、ホシさんを訪ねると、ホシさんは地方遊説に出かけてて不在で、いつ帰って来るかわからない、いうので、私、当惑しました」
と、神父はつづけた。
「それ、実に奇妙な紙片なので、ほかのひと、渡してはいけないだろう、と持ち帰りました。その後どうしたらいいだろう、と悩んでいましたところ、きょうドクトル・ヘボンがいらして――」
神父は紙片をとり出して、
「とにかくミスター原からあずかったものなら、ミス・ヒロに報告しておいたほう、いいだろう、申されますので、ああ、そうだ、私も思いましてここ来たわけです。これです」
おひろは受けとった。紙片は二枚ある。
その一枚をひらくと、変色したぶきみな文字で、「自由鬼」とある。
「それ、牢屋《ろうや》で死んだ自由党の人の遺書だそうで、ドクトルに訊《き》きましたら、血で書いたものらしい」
「人民の自由のため、死んでデーモンになる、という意味か、あるいはデーモンとなっても人民の自由を守る、という意味でしょう」
と、ヘボンがいった。
おひろは、もう一枚をひらいた。
これはまったく判読不能な漢字の羅列だ。
「さ、それがわからない。日本語と英語の辞書まで作られたドクトルも、いちどはサジを投げられたほどです。それでも、どうやら西洋の料理、漢字で書いたメニューらしい、ということ、わかりましたがね」
と、カロゾルス神父がいった。
「表、ごらんなさい。福島県令、三島|通庸《みちつね》閣下、とある」
「考えた結果、これは先月二十八日の、鹿鳴館《ろくめいかん》開館式の晩餐会《ばんさんかい》のメニューらしい、と推定しました。招待された人、たいへんな人数だったそうですから、テーブル、よくわかるように、メニューに名、書きいれたものでしょう」
と、ヘボンがいった。
おひろはいよいよ狐《きつね》につままれたような顔で、
「こんなものを、どうして胤昭さんが?」
「いや、それが世にもふしぎな物語、なのです」
カロゾルス神父は、これまた奇々怪々な表情になって、
「実は、私、ミスター原から受けとったのは、一方の血の文字の紙だけ。このメニューなど、ありませんでした。ところが、いまいった私の落しもの拾った青年、いっしょに私に、渡してくれたのです」
――むろん、スリの乾分《こぶん》銀次のやったことだが、とにかく親分の斬《き》られた生腕《なまうで》からはぎとったものなので、さすがの銀次も若さのせいもあり、動顛《どうてん》していたあげくのわざであったとは、神のみぞ知る。
「そこに、ヘンな字、書いてあるでしょう」
と、ヘボンが指さした。
「命一、千、三と――その意味、これはどうしてもわからない」
「三は、三島ではありませんか」
と、おひろはつぶやいた。
「なるほど!」
ヘボンは眼を拭《ふ》かれたように、
「千は?」
「千――千円じゃないでしょうか?」
「あっ、命一つ、千円ですか!」
ヘボンは驚嘆の眼をおひろにそそいだ。
ところがおひろは放心状態であった。もし彼女の頭が正常な状態であったら、かえってこんなすばらしい推理は不可能であったろう。おひろはまったく別のことに心を奪われていたので、ほとんど無心でこんなつぶやきをもらしたのだ。
「神父さま。……いま神父さまは、胤昭《たねあき》さんが十字架を下げていたとおっしゃいましたね」
と、おひろはいった。
「そうでした。ですから、私、気がついたのです」
と、カロゾルス神父はうなずいた。
「だったら、やっぱり姉は、胤昭さんに会ったんですわ!」
おひろは叫んだ。
「姉はあの十字架を持って家を出たんですもの!」
そのことはすでに、ヘボン博士にもカロゾルス神父にも話してある。
「そうそう」
と、神父はまたいい出した。
「そのとき、私、そんなもの下げて、だいじょうぶですか、訊《き》いたら、ミスター原《はら》、妙なこと、いいましたよ。これは、ほかのひと、だれにも見えないのだと」
「?」
ヘボンがいった。
「何にしても、やはり原君に、面会する必要ありますね」
しばらく唇をわななかせていて、
「いいえ! いいえ!」
と、おひろははげしく首をふった。
「胤昭さんには、私も会いとうございますけれど……姉は、いま面会すると何もかもブチコワシになる。もうしばらく待っていておくれ、と伝言して来ました。とにかく胤昭さんが無事でいることがわかったのです。何が何やらさっぱりわかりませんけれど、とにかくもう少し、待っていましょう。……」
「そうですか」
ヘボンとカロゾルスはうなずいて、
「いや、きょうは、いま話したこと、お伝えに来たのです」
「それじゃ、ミスター・ホシが帰京したという知らせ、聞いたら、改めてこの預りもの、渡しましょう」
といって、神父は二枚の紙片を受けとり、店を出ていった。
二
師走の銀座の人混みの中を、築地のほうへ向って歩きながら、二人の老異人は、なお昂奮《こうふん》さめやらぬようすで会話をかわした。むろん英語である。
「命一、千、三、と書いて、生命一つ、千円、三島|通庸《みちつね》ですかね」
「これは外国人たるわれわれには、想像外の解読力ですね。ハイク以上です」
「しかし……ミス・ヒロには感心しましたが……そう解読しても、さてこれは何のことか?」
「そういわれると、依然不可解ですね」
カロゾルス神父は、もういちどメニューを眼の前にかざして眺めいった。
と、その五、六歩うしろで、異様な声をもらした者がある。
が、それはのどの奥であったし、雑踏の中であったから、二人の異国人は気がつかなかったが――船戸巡査であった。
彼は一瞬棒立ちになり、みるみる十歩二十歩離れた神父たちを凄《すさま》じい顔色で追おうとし、すぐにまた立ちどまった。――
そもそも船戸巡査はどうしてここに来たのか。
さる一日《ついたち》、日本橋本石町で囚人原|胤昭《たねあき》がカロゾルス神父に手渡したものを、彼と同僚|檜《ひのき》巡査は、巾着切《きんちやくき》りぬらりひょんの安の乾分《こぶん》銀次にスらせた。
それは自由鬼と血書した奇怪な紙片であったが、その獲物《えもの》を檜巡査がとりあげたことに親分の安がイチャモンをつけたのをきっかけに、安は檜巡査に片腕を斬《き》りとばされ、檜は安の剃刀《かみそり》で惨殺されるという思いがけない凶変をひき起した。
ところが、すぐそのあと、檜巡査がポケットにいれたはずの右の紙片と、鹿鳴館《ろくめいかん》で三島県令からもらったという福島事件の入獄者抹殺を命じた献立表がかき消えていることを発見し、そういえば斬られて飛んだ安の片腕が白いものをつかんでいたようだ、と気がついた。
思い起せばその直前、安は乾分の銀次に、「おれの腕を見ていなよ、いいか、おれの腕を――」といったようだが、なんたる怪技、ぬらりひょんは自分の腕を斬られながら、その腕でみごとに目的のものをスリとっていたのである。
腕ばかりではない。その根性において怖るべきやつだった、と舌をまかざるを得ない。
ぬらりひょんの安が、見かけのぬらりくらりとはうらはらに、いったんへそをまげたらてこでもおさまらない意地っぱりなやつだとは見ぬいていた。だからこそこんどの一味に加えたのだが、その想像以上にしたたかな野郎だったと思う。しかも、あいつの決死の「挑戦」の原因が、警官を相手に、ただ乾分のスったものを親分の自分に渡さない、ということなのだから、その了見《りようけん》たるや凡慮の及ぶところではない。
さて、その斬られた腕がない。当然、その腕がつかんでいた例の紙片もない。血書はともかく、こちらにとってはそれ以上に重大な鹿鳴館の献立表がない。
やがて船戸は、その腕を、安の乾分の銀次が持ち去ったのだと推察した。
いまにして安が、「おれの腕を見ろ」といったのは、スリの腕前を見ろ、というだけではなく、生身《なまみ》の腕のゆくえを見ろ、という意味であったかも知れない、と考えると戦慄《せんりつ》すら禁じ得ない。
以来、船戸は血まなこになって少年スリ銀次のゆくえを探したが、いまだにゆくえ知れずだ。
ところが先刻、はからずも銀座をゆくカロゾルス神父とドクトル・ヘボンを見かけた。
そのとき、ふと船戸の頭を、「ひょっとしたら銀次の野郎、持ち逃げした紙っきれを、あの伴天連《ばてれん》に返したのじゃなかろうか?」という考えがひらめきすぎたのであった。
まことに突飛な想像のようだが、親分ぬらりひょんの安の衣鉢《えはつ》をよくついで、その少年スリもなかなかの意地っぱりなことを、船戸巡査はすでに知っていた。
いちどこちらの命令でその神父からスったものの、親分がああいうことになっては、スったものをまたもとの持主へ返す、そんな反抗的な悪戯《わるさ》を、あいつならぬけぬけやりかねない――と、思い至ったのだ。
だいいち、あんなものを当人が持っていても、何の役にも立たんではないか。とはいえむろん確信のあるはずもなく、ただ、一面有能な巡査としてのカンもあって、彼は神父たちのあとを尾《つ》けた。
二人の異国人は、やがて十字屋にはいった。
さすがにこちらもつづいて中にはいるわけにはゆかなかったが、ややあってふたたび外に出て来たのをまた尾行した。そして雑踏にまぎれてすぐうしろに近づいた数分の間に、二人の会話を聞きとって、船戸は総身から血のひくのをおぼえた。
カロゾルスとヘボンの会話は英語であったが、船戸|伴雄《ともお》は、朝敵桑名藩出身のために若いころ食いつめて、いっとき横浜の異人館にボーイとして傭《やと》われていたことがある。いまも腰に下げているピストルはそのころ修行したものだが、同時に、生活の必要性からいささか英会話も修得した。
いま両異国人の会話から聞きとったのは数語の断片であったが、たしかに生命一個千円、三島|通庸《みちつね》という言葉を耳にした。
それどころか、やがてカロゾルス神父が、とんがった鼻っ先にヒラヒラさせたのは、なんとあの献立表ではないか!
やっぱりあれは、神父の手に渡っていた!
のみならず、自由党の囚人抹殺のメモの意味まで解読されたおそれがある。しかもどうやら有明《ありあけ》ひろの力によって!
いちどそのメモをひったくるために飛びかかろうとし、あやうくその衝動を抑えたが、あと船戸巡査はこの恐怖だけに脳中充血してしまった。
思えば五年前、大久保卿暗殺事件に際し、せっかく刺客たちの斬奸状《ざんかんじよう》草稿を手に入れながら、功を一人占めしようとしたばかりにそれを役に立てることができず、総監から大目玉をくらい、原胤昭からまで嘲殺《ちようさつ》されたことがある。
こんどまた、同僚|檜《ひのき》巡査の手を介してとはいえ、三島通庸との暗殺契約書ともいうべきものを入手しながら、それがかえって自分たちの首を絞める厄介物になろうとしている。
あたかもそのことが、自分の不遇な人生を象徴しているようで、船戸に陰惨ないきどおりをかきたてた。
何はともあれ、事態をこのまま放ってはおけぬ!
三
船戸巡査が、さんず茶屋に、看守寺西|冬四郎《とうしろう》と鳥居|鶏斉《けいさい》を呼び出したのは、二日後、そこの往来も絶えた夕暮のことであった。
ふたたび物怪《もののけ》の集《つど》いだ。
ただし、こんどは彼ら官服を着た仲間だけだが、その仲間の牛久保看守と檜巡査が消えていることの意味について、彼らは改めて検討しなかった。
実に奇妙なことに、彼らは、この二人と相討ちをやった二人の悪党の本心をまだ感づいていなかったのだ。
それはアラダルとぬらりひょんの安が、突如不可解な爆発を起す性分があると認めていたからでもあるが、また一見あまり利口とも思えないこの両人が、あにはからんや、そう見えるような相討ちをやってのけたせいであった。
アラダルとぬらりひょんのこの計略は、自分たちが原|胤昭《たねあき》のいのちを救おうとしているということを、官服の物怪《もののけ》側に悟らせないためであったが――しかし、いま、この物怪たちは、彼らなりの判断で、しゃにむに事を急ぐ必要に迫られた。
船戸巡査の報告のあと、まず決まったのは次の目的であった。
カロゾルス神父とドクトル・ヘボンの、献立表のメモを読解しての何らかの行動、原との面会の再要求、などこれ以上の動きを封じなければならぬ。
そのためにも、原胤昭を可及的すみやかに始末しなければならぬ。
ついでに会津自由党のめんめんもいっしょに処理できれば好都合だ。――
鳥居鶏斉がふといった。
「ところで、いま思い出したが、先月末から牢《ろう》に腸チブスという病気が発生した。目下囚人の患者は十何人ほどだが、すでに何人か死亡しておる。出来ればきゃつがこれにかかってくれれば、自然と目的は達せられるのじゃが……」
「ほう?」
船戸巡査は、能面のような顔の筋肉を動かして、
「その病気は聞いちょる。この夏から秋へかけて、横浜ではやった病気だな。それが石川島にはいって来たのか」
と、いい、
「病人は、きっと死ぬのか」
「いや、死ぬのは五人に一人くらい。あとは何とか癒《なお》るようじゃが」
「それでは困る。みんな、必ず死んでくれんけりゃ困る」
寺西冬四郎が嗟嘆《さたん》した。
「原が石川島に来たときは、ただひとひねりと思っていたが、いや手数がかかるのう」
そのあと、三人ともゲラゲラ笑い出したのは、困惑のあまりの談合のはずなのに、何ともふとい連中といわなければならない。
「本来、おれの剣、船戸君のピストル一発で片づくことなのじゃが」
「それを使えば、こっちの首が飛ぶ。いや、斬首《ざんしゆ》刑は御禁止と相成ったから、絞《しば》り首じゃ」
と、笑いをおさめて船戸巡査はもとの能面づらに戻り、
「そこでじゃ、きのう一夜眠らずに考えた我輩の神算鬼謀を聞いてくれ。いまいった目標、それをみんなからめて一挙に処理する法がある」
「ふむ、それは?」
「自由党が潰滅《かいめつ》しかかっておる」
船戸巡査が、突然いままでの話からかけ離れたことをいい出したから、あとの二人はめんくらった顔をした。
「政府の威圧よろしきを得て、各地の自由党員はよろめき出しておる。また、はねあがり壮士どもの自棄的行動に、自由党中枢の板垣など、かえっておじけをふるい出しておる」
そんな情報は、鳥居、寺西も耳にしてはいるけれど、しかしそれがきょうの談合と何の関係があるのか。
「いま、からくも星などがけんめいにたて直しに走りまわっておるが、自由党の自潰は近い。……この情勢を牢獄《ろうごく》の会津自由党に教えてやるのだ」
「すると?」
「獄外で自由党が消滅すれば、獄中の彼らの存在意義も消滅する。将来彼らが出獄しても生きる場所がなくなる。――で、きゃつらに脱獄をそそのかせば、きゃつら、自由党崩壊をふせぐために、焦燥してそれに応じるだろう。また、応じるようにそそのかすのだ」
「ふうん?」
「それに原胤昭もまきこんでやれ。きゃつ、オッチョコチョイだから、充分見込みがある」
「なるほど」
「一方、あのおひろという妹娘。あの姉娘と同様、原に会わせるといって、もういちど石川島へ誘い出すのだ」
「なんのためにじゃ?」
「あの娘を原の脱獄の手引者に仕立てるためじゃ。獄内の操作としては、自由党の脱獄に原をまきこむのだが、獄外からは原の脱獄に自由党が便乗したように見せかける」
「ははあ?」
「ま、結果としては同じようなものだが、とにかくあの娘が島の裏手にひそかに来ていたということになれば、原や自由党が脱獄を計ったという何よりの証拠となる」
「それだと、あの娘に口をきいてもらっては困るが……また、殺《や》るのか?」
「また? いや、姉のほうは殺すつもりじゃなかったが……こんどは死んでもらう。こちらの目的のためには屍体《したい》だけでいい」
「斬《き》るのか、あの娘を――」
船戸の能面が、痙笑《けいしよう》ともいうべき表情を作って、
「やむを得ん。貴公らが脱獄発見者として出動して、非常手段としてきゃつらを斬り捨ててもおとがめはないはずじゃ。貴公ら、というのは警視庁勤務の我輩がその場にあることは許されんからじゃが、それは貴公らにまかせても大丈夫じゃろう」
「そりゃ大丈夫だ。原はおれがやる」
馬面の鳥居|鶏斉《けいさい》が、腕に抱いた棒をカタカタ鳴らすと、
「あの娘を斬るなら……おれに、き、き、斬らせろ」
と、もう半分血に酔ったようにカラス天狗《てんぐ》の寺西|冬四郎《とうしろう》が舌をもつれさせた。
船戸はつづけて、
「たとえ会津自由党の中で生き残った者があったとしても、脱獄者としてみな処刑じゃ。あの献立表の約束は果たされることになる。……その事態になれば、かりにあの伴天連《ばてれん》がどう蠢動《しゆんどう》しようと、それこそ猛火の前の紙っきれにすぎない」
「いかにもな。――お、ところで」
と、鳥居がふと気づいたように、
「その十字屋の妹娘を連れ出すのは?」
「それもこの前同様、邯鄲《かんたん》お町《まち》と化師《ばけし》の秀《ひで》に相勤めてもらおう。……きゃつらが姉娘を連れ出したことは、まだ知られていないはずじゃ」
「なるほど――ところで、自由党の連中はともかく、原に脱獄をそそのかすのはだれがやる? おれは何度も原とやり合ったし、寺西も何かあったと聞いとる。原がたやすくこっちの口車《くちぐるま》に乗るとは思われんが」
「そうか。それじゃそれはサルマタの直熊《なおくま》にやらせるか。――」
「では、サルマタや化師の秀たちに、こちらの計略を知らせるのか?」
「知らせてもよし、知らせぬともよし。――」
船戸は腰のピストルのサックをパンとたたいて、
「いずれにせよ、そのあと、きゃつらは我輩が始末する」
と、うそぶいた。
その翌日から、船戸巡査の「神算鬼謀」は実行されはじめた。
第一幕。まず鳥居看守はサルマタの直熊を呼び出した。
「おい、サルマタ。……きょうから第一獄棟の大雑居房へいってくれ」
「へ?」
「あそこには原|胤昭《たねあき》がおる。いよいよ近日中に始末することになった」
「おれが……殺《や》るんですかい?」
サルマタは、しゃっくりみたいな声を出した。
「な、なあに、それは承知之助だが……ただ、原にゃ旗本連がくっついてるそうじゃござんせんか」
「いや、心配するな。牢《ろう》内でもろに殺《や》れば、お前が無事にはすまん。そんな馬鹿《ばか》なことはさせん」
鳥居はいった。
「それよりお前、原と大ゲンカして十字屋を飛び出したそうだが、もいちどあいつとヨリを戻せるか」
「へ、あいつがあんまりおれをうたぐるから、頭に来て十字屋の娘をさらっておどしてやりましたがね。いま、あいつがおれをどう思ってるか――」
「そこを何とか、原と話の出来る人間になってもらいたいんだが、やれるか?」
「そ、そりゃ猫をかぶれア……あんな若僧《わかぞう》」
サルマタはふてぶてしい面がまえをとり戻し、
「これでね、乱暴者に見えて、猫をかぶるのは案外うめえんで……だいいち、おっかねえ鳥居の旦那《だんな》、旦那といまこうして話をしてるじゃあござんせんか、えへへ」
と、変な笑い声を立てた。
かつていくども棒で、いやになるほどたたきのめされたことをいっているのだろう。鳥居鶏斉は苦笑した。――が、それでもサルマタが、こんなことをいった真意までは見通せなかった。
「まあ、聞け。こっちのやりかたというのは、だな。……」
二人はヒソヒソ話にはいった。
四
その日の夕刻、サルマタの直熊《なおくま》が第一獄棟の大雑居房にはいると、いっせいにただならぬどよめきがあがった。
おそらくサルマタが、石川島でも名代《なだい》の凶悪囚だということをみんな知っていたからだろう。それから彼が「役付囚」であることがもう知られていたからだろう。前にも述べたように、役付囚は監獄側の岡《おか》っ引《ぴき》的存在であるからだ。
「御存じサルマタの直熊だ。当分ここでお世話になるよ」
凄《すご》い眼で、ぐるっと牢《ろう》内を見まわして、
「みなの衆に仁義を切るのアあとだ。何はともあれごあいさつしてえおひとがある。まっぴらごめんねえ」
と、急に別人みたいに、ひげの中からお愛想の白い歯をむき出し、片手をヒラヒラさせて会釈《えしやく》しながら、牢の奥のほうへみなをかきわけていった。
そこには、原|胤昭《たねあき》がいた。――
そして、それをとりかこむように坐《すわ》っている囚人たちを、原の旗本連だな、と見つつ、サルマタは平気な顔で、
「ええ、原の旦那《だんな》、お久しう……」
と、頭を下げた。
「やあ、サルマタか」
胤昭も、笑顔で迎えた。
この石川島に来ている直熊が役付囚になっていることは、その後胤昭も耳にしている。あの俥落《くるまおと》しの強盗《たたき》の経歴を持つやつが? と、けげんさを持ちながらも、それより胤昭は彼に訊《き》きたいいくつかのことがあった。
「いつぞやは旦那、失礼申しあげやした」
前に坐って、改めてサルマタはお辞儀した。
「うん、そのことでお前に訊きてえことがあるんだ」
「まことにハヤ、かっとなるとわけがわからなくなるのが、おれのどうしようもねえ性分《しようぶん》で……」
サルマタのいっているのが、おととし秋のおひろ誘拐未遂事件のことだと、胤昭は気がついた。
「いや、あれはもういいんだ。それより……ほんのこのあいだ、アラダルとぬらりひょんといっしょにここへ来て、こいつを渡してくれたろう」
と、胤昭はひざの上の十手をひねくりまわして、
「ありゃ、どういう意味なんだ?」
「どういう意味って――」
「たしかあのとき、安はお夕お嬢さんからあずかって来たといった。後にアラダルも同じことをいった。が、おれの訊きてえのは、いつ、どこで、どういう状態でお夕から十手を受けとったのか、ということだ」
「しいっ」
サルマタは口に指をあてて、うしろをふりむいて――その首がちょっととまったようだ。
すぐに首をもとに戻して、小声でいった。
「ふん、やっぱり見張りがついてらあ」
「なに、見張り?」
「いまうしろから頭をつき出し、あわててひっこめやしたが、あれはたしかに電信の徳って野郎で……旦那とおれがなに話すか、盗み聞きをいいつかってますね」
胤昭がちらっと見ると、やはり役付囚のその囚人が、そらっとぼけた顔で天井をふりあおいだ。――窃盗専門の、しかし怖ろしく耳がよくて遠くの音も聞きつけるので、電信という異名のあるやつだ。
「だから、その十手のことは訊かねえで下せえ。……そのうち、ときが来たら話しやす」
と、サルマタはささやいた。
「アラダルといえば、あいつおれの眼の前で死にやがった。――この話ならいいか?」
「そりゃ、よござんす」
「ぬらりひょんの安も死んだ。おれは同じ外役に出ながら、檜《ひのき》巡査の首をかっ斬《き》って殺されたってえ話を、あとで聞いておったまげたが、ありゃどういうわけか知ってるか?」
「アラダルと安のくたばった件は……さあ、おれにもわけがわかりませんねえ」
と、サルマタは首をふった。
「とにかく、旦那……」
ひげがふれるほど顔を近づけ、
「おれは旦那に悪くはしねえ。それだけは信じておくんなさい」
と、早口でいい、
「武士の一言」
にやっと笑うと、サルマタは立ちあがり、囚人たちの中へ戻っていった。
訊きたいことはまだまだある。この十手をくれたときの三人の大笑いと涙は何だったのか。またこの十手がある限られた人間にだけ見えて、ほかの人間には見えないのはなぜなのか?
が、それ以上|胤昭《たねあき》がサルマタを追わなかったのは、いまのサルマタの言葉と、彼がこの大牢《たいろう》にはいってきた由来がつかめなかったことと、さらに、あと二十日前後で自分はここを出られるという見通しからであった。
すぐにそちらで、
「おい、みなの衆、俥落《くるまおと》しにかけられた女は、どういう恰好《かつこう》になるか知ってるか。知りたきゃおれが、微に入り細をうがって、長講一席、木戸銭なしでうかがってやるから聞いていな。……」
という声とともに、われがねみたいな大声で、凄《すさま》じい猥談《わいだん》がはじまった。……
――原胤昭と会津自由党をみな殺しにしようという、船戸巡査の「神算鬼謀」の第二幕は次のごとし。
寺西|冬四郎《とうしろう》看守は、第七獄棟を毎日巡回し、会津自由党の壮士たちがいれられている監房の格子から、
「おい、読むか」
といって、適宜新聞を投げいれてやりはじめた。
これは、それまで囚人側から見ると、ただカラス天狗《てんぐ》みたいな怪異な相貌《そうぼう》ばかりでなく、その性格が、囚人に何ら関心のない、いや人間そのものに関心がないかのように見え、凄惨《せいさん》無情、人間界以外の生物みたいな印象を与える看守であった。――斬首《ざんしゆ》刑廃止まで、山田浅右衛門に代って、みずから望んでその任にあたっていた男だと聞けば、それもさこそと思われる。この人物が、新聞をくれる。
「おぬしが、なぜ?」
いちど、首領格の河野|広中《ひろなか》が尋ねたのに対し、
「おれも昔は、貴公たちと同類だった」
ぶすっと、寺西は答えた。
ほかの看守にきけば、彼寺西冬四郎は、幕末、京洛にあって、いわゆる勤皇の志士として活躍した人間だという。それが丹波|篠山《ささやま》の郷士という出身のため立身の道から落ちこぼれて、いま一介の看守の身となったという。
なに、ほんとうは鮮血に陶酔する殺人鬼にすぎないのだが、それを知らないみちのくの、いま獄中にある壮士たちは、なるほど彼が一片の同情を見せてくれるのも、その一脈の運命の相似によるものかと思う。
いや、そんな疑問を持ったのも河野一人、そんな理解をして納得したのもただ一瞬、あと彼らは、むさぼるようにそれらの新聞を読んだ。
ただでさえ外界と接触を断たれた獄中にあって、浮世の消息は、酸欠状態における酸素である。しかもこの場合、それは炎をあげる酸素となった。
新聞は、「読売」「朝野《ちようや》」「東京日日」など雑多で無雑作《むぞうさ》に与えたように見えたが、それらに共通したものがあった。いずれもどこかに自由党関係の記事がのっていたのである。
一般人はほとんど眼にもとめないような小さな記事だが、どこかで自由党員が官吏|侮辱《ぶじよく》罪でつかまったとか、またどこかで党員が集団強盗したとか、さらに星亨《ほしとおる》が、機関紙「自由新聞」維持のため大借財にあえいでいる、とか――その他さまざま、いずれも自由党崩壊の予兆を伝えるものであった。実際、当時自由党は、政府の弾圧と懐柔により解党前夜の状態にあったのである。
もとより世人に数倍して、これらの記事は牢獄《ろうごく》の志士たちを、悲憤と焦燥の炎であぶったことはいうまでもない。彼らはまだ三つの監房に分けられていたが、眼でささやき合い、息で呼びかわす声でそのことがよくわかった。
人間界には無関心な鳥類みたいな顔で、寺西看守は、みずからあえてそそのかさずとも、自由党崩壊近しと新聞で教えてやれば、船戸巡査がいった通り、彼らが一大動揺を起すという事態が見込み通りになったことを察した。
五
そして、数日後。――その日が来た。十二月十日であった。
脱獄計画の第三幕。
麦飯に菜っぱの煮つけと沢庵《たくあん》だけという、いわゆるモッソー飯の夕食の大さわぎが終ってまもなく、廊下の天井のランプに押丁《おうてい》が灯をいれたころ――サルマタが胤昭《たねあき》にささやいた。
「旦那《だんな》。……これから御相談がござんすが、大きな声をたてねえで下せえよ」
「な、なんだ?」
胤昭はふりむいた。
「牢を出る気はござんせんかえ?」
「牢を出るとは?」
「まだ旦那の放免の期限は来ねえ。牢ぬけでござんすよ」
「――えっ?」
これは声を出すなというほうがむりだ。
サルマタは首をすくめ、まわりを見まわした。が、さいわい、囚人たちでこちらに気づいた者はないようだ。――ただ、片耳に手をあてて、こちらに向けている一つの顔を除いては。
「何をいうか、そんな馬鹿《ばか》なことはせん」
と、胤昭は小さく、しかし決然と首をふった。あと二十日ばかりで出獄出来るというのに脱獄する阿呆《あほう》はいない。
が、サルマタはなおつづける。
「それもね、旦那ばかりじゃなく、会津自由党の方々もいっしょにです」
「な、なに?」
「実は星亨《ほしとおる》先生のお頼みなんでごぜえます。先日一人、この牢で死んだことはもう御存知でござんしてね。病死というが、殺されたとおんなじだ。おそらくほうっとけば、みんな同様の目にあうだろう。それなら会津衆に出てもらって、いま瓦解《がかい》しかかってる自由党にお力をかりたいことがあるそうで」
星亨とサルマタの結びつきは一見突飛なようだが、いっときサルマタが星のお抱え俥夫《しやふ》をしていたことを思い出すと、この依頼は充分あり得ることだと思う。
「ところがね、あの方々にいま牢《ろう》破りをそそのかしたって、かんたんに応じるわけがねえ。が、原の旦那が加わるとなりゃ、向うも安心してその気になるだろう、と。――実はおれがこの大牢にはいったのは、そのためなんで」
そうか。こいつが役付囚になったり、ここへはいって来たのをふしぎだと思っていたが、そんな魂胆があったのか。
「そ、それにしても、おれがいったくらいで、あの方々、聞くかなあ……」
「いえ、なに、手をまわして探ってみると、あの旦那方、いまあっしがいったような理由で、みなじっとしていられねえってありさまらしいんで……」
胤昭《たねあき》は二つ、三つ、大きく胸をあえがせて、
「何にしても、牢破りは大変なことだぞ。……いったい、どうやるんだ?」
「旦那、さっきね、御相談と申しやしたが、どうしてもやってもらわなくちゃならねえんです」
サルマタはおしぶとく、じろっと胤昭に上目《うわめ》づかいしたが、その眼は血色《ちいろ》であった。
「その牢破りは――この第一獄棟の外の小屋に、看守の官服と鍵《かぎ》が用意してござんす。それを使っていただくわけですが――」
いつそんな用意をしたものか。このサルマタが凶悪囚であることは承知しているが、その大胆、息をのまずにはいられない。
「牢を出るのはともかく、島を出るにゃどうするんだ。まわりは海だぞ」
「今夜七時、島の裏手の浜辺に、お迎えの小舟が来ることになってるんですが……それに乗ってるのが、おひろお嬢さまのはずで」
「な、なにをいう。そんな、馬鹿な!」
胤昭はまさにのけぞり返った。
「こんな話に、嘘《うそ》ついてもしようがねえでしょう。旦那に疑いを持たせねえようにってえ、星先生のおいいつけでござんす」
サルマタはニヤリとした。
「旦那……旦那はこないだ、お夕お嬢さまがどういう具合にその十手をあっしたちに渡したか、とお尋ねでござんしたね。ときが来たら話す、と、あっしは申しましたが、その件についちゃ、どうぞおひろお嬢さまにお訊《き》きになっておくんなさい」
胤昭は、白痴みたいにサルマタの顔を眺めているきりであった。まだ残っていた若干《じやつかん》の疑問は、今夜おひろが島に来る、という驚くべき事実の前に、火の粉のごとく消し飛んでしまった。
事情はよくわからないが、身の毛もよだつあぶないことをする! いくら自分がそばにいないからといって、とんでもないことだと叱《しか》ってやらなければならない。
――まさか島から脱獄はしないが、ともかくおひろだけには逢《あ》おう。そのためには、サルマタの言い分通り、一応自由党の連中をそこへ連れてゆくことはやむを得まい。
「旦那、どうでござんす?」
「承知した。やって見よう」
胤昭は、決然とうなずいた。
もともとたぐいまれなる凶悪囚とは承知しているが、それにしても不敵なやつだ、と改めてサルマタの顔を見ると、ここ数日の間にげっそりと頬《ほお》がこけて、そのくせ熱病やみのように眼が赤い。そうか、こいつもこの企みには精根をつかいつくしたのだろう、と、はじめて思いあたった。
「それじゃあ」
起《た》ちあがるサルマタに、胤昭も例の十手をとって腰をあげた。
六
「――旦那《だんな》、ど、どこへ?」
近くにいたメリケンの鉄という男が、けげんそうな顔をふりむけた。いわゆる原の旗本連の一人だ。
「ちょっと、用があって外へ出る」
と、胤昭が答えると、まわりの連中が驚いた顔になり、また鉄が、
「その役付囚さんの入れ智慧《ぢえ》でござんすね。大丈夫ですかい?」
と、不安そうにいった。――彼ら親衛隊は、数日前、突然この雑居房にはいって来たサルマタの直熊《なおくま》がばかになれなれしく胤昭にくっついていることに、不快と不安を禁じ得なかったのだ。
「まあな」
あいまいな返事を残し、しかし心ここにあらずといった顔で、胤昭はサルマタのあとを追う。
「ごめんよ、ちょっと御用だ。ええ、ごめんよ」
知らん顔で、ゆく手に坐《すわ》っている囚人の中をかきわけてゆくサルマタの足もとで、
「痛《い》ててっ」
という悲鳴があがった。
さっきから、耳に手をあててこちらをうかがっていた電信の徳だ。
「てめえ、耳は人間離れしてて、眼は見えねえのか」
あざ笑って、平気な顔でサルマタは通りすぎたが、いままでの胤昭との問答を、こいつがぜんぶ聞いていた――少なくともそのおそれのあることは先刻承知の上である。
サルマタは、これまで鳥居看守の命ずるままにしゃべり、動いているのであった。彼自身が鳥居の「犬」としての役割を持たされているが、その彼にまた「犬」がつけられているのだ。
サルマタが、やおらどこからか鍵《かぎ》をとり出して、牢格子《ろうごうし》の潜り戸をあけたのを、囚人たちはみな眼をまるくして眺めている。
いかに役付囚とはいえ、考えられない行為だが、かといって騒ぎたてる者もなかったのは、石川島で雷名高いサルマタの直熊の貫録だろう。
廊下を出て、しばらく歩くと、
「旦那、すまねえが念のために、急病のフリしておくんなさい」
といって、胤昭の片腕を肩にひっかついだ。
向うに、立哨している押丁《おうてい》の姿が見えたのだ。
二人はそのほうへ近づいていった。
立番している押丁のところへ来ると、サルマタは、
「お役目、御苦労でごぜえます」
と、ばかていねいにおじぎし、首をうしろにねじむけて、
「この人がねえ、急に熱病を出して、例の腸チブスと同じような容態だから、いそいで監獄のお医者に診《み》てもらうことにしたんでさあ」
と、いったのに対し、その押丁が、
「は」
と答えたまま通してしまったのは、相手が役付囚であることや、その言葉にあざむかれただけではなく、これも同じサルマタの威厳に押されたからにちがいない。
第一獄棟を出ると――牢屋《ろうや》の中も寒かったが――身体を吹くのは、さすがに十二月の夜の、凍りつくような寒風であった。日はもうとっぷりと暮れて、空の一角に細い下弦の月が吹きとがれていた。
すぐ近い物置小屋で、用意された看守の官服に着換えながら、胤昭《たねあき》は、
「サルマタ……お前、見かけよりたいした野郎だなあ!」
と、また心からなる嘆声を発した。
小屋のすぐ外に立っているのに、サルマタは答えなかった。
三日月《みかづき》と島特有の海の光だけの闇《やみ》の中なので、その表情は見えなかったが、サルマタのひげづらはひきつっていた。それは、この男にしては珍しい心の苦悶《くもん》のためであった。
実はサルマタは、この場に至ってなお立往生していたのである。
けだもの勝負第三番
一
ここまでは鳥居看守の指示通りにやった。いや、いまのいまも、闇《やみ》の向うで自分をにらんでいる眼を彼は感じとっている。
が、このまま事が進行すれば――胤昭《たねあき》や会津自由党のめんめんが、この監獄の裏門を出れば――そこで全員脱獄者として逮捕され、処刑されるにきまっている。いや、彼らが何かと弁明する前に、鳥居や寺西にみな殺しにされてしまうだろう。脱獄を計った者はその場で射殺ないし斬殺《ざんさつ》するもやむを得ず、とは監獄法に明記されているからだ。
さればとて、ここで自分が原に、これが罠《わな》であることを教えたりすれば、結局自分だけが殺《や》られることになるだろう。自分のみならず、すぐさま原に凶手がのびるだろう。
そもそも、官服の悪党たちとの密謀から寝返って以来、五人の凶悪囚の心に共通して根を張っていた奇怪な現象がある。
それは巡査看守たちの陰謀を、恐れながらと訴えて出る気を、みなまったく持たなかったことだ。
訴えて出たところで、未遂のものはもとより既遂のものも、悪智慧《わるぢえ》にたけたあの官服野郎どもは、必ずその犯跡をあと白波とかき消してしまうだろう。彼らをとり調べるべき官憲も、必ず彼らとグルとなる。
それ以前に、自分たちの訴えなど、はじめからまともにとりあげられることはないだろう。
それは彼らのそれまでの全生涯のそれぞれの体験から、期せずして得た哀れな、が、頑冥《がんめい》きわまる信念であった。
そこで彼らは、彼らなりの戦い方で――すなわち自分のいのちを張って――巡査たちの陰謀をたたきつぶそうとした。
官服側の陰謀そのものが、原胤昭を消すのに直接自分たちの手を下さず、生殺与奪をにぎった凶悪囚の手をもってしたいという奸悪《かんあく》なもので、実はこれが彼らの一人をして「ただひとひねりと思っていたが、いや手数がかかるのう!」と嘆声を発せしめた原因になるのだが、これに対する凶悪囚たちの戦い方も単純ではない。
彼らの目的はその原を救うことにあるのだが、その魂胆を官服側に知られては困るのだ。それを知れば官服側は、自分たちのみならず、ただちに原に手を出すにちがいないからである。
従って、その「裏切り」を察知されることなく、自分たち単独の発作的な行為として戦わなければならない。
これは闇黒《あんこく》の中の、一種虚々実々の戦いであった。
しかも官服側には共同謀議があるが、囚人側にはほとんど連携がない。ただお夕を埋葬したとき、夢遊状態でおたがいの決意をささやき合っただけだ。彼らはけものと同様、孤独な、出たとこ勝負の死闘をくりひろげなければならないのだ。
さて、サルマタの直熊《なおくま》は、いまに至って立往生した。
原胤昭を裏門から出せば、脱獄者としてやられる。
ここで原を制止すれば、自分がやられる。それどころか、島の裏手に来るはずのおひろが、この前の姉と同様の運命におちいる。
サルマタは頭がズキズキ痛み、身体じゅうが熱を持っているような気がした。
二
看守の官服をつけた胤昭が、例の十手だけはぶら下げて、小屋から出て来た。
「おい、もう七時に近いのじゃないか。ゆこう」
牢屋《ろうや》に時計はないが、夕食の時からおして、だいたいの時間はわかる。
「へ?」
サルマタはわれに返って、しげしげと胤昭を見て、
「旦那《だんな》、その恰好《かつこう》もよく似合いますねえ」
闇に眼が馴《な》れて来て、それくらいはわかると見える。
「こんなものが似合ってもしようがねえ」
胤昭は吐き出すようにいった。彼が昔、ここに勤めていたころは、元江戸与力そのままの姿で、こんな不粋《ぶいき》なものを身につけたのははじめてだ。
「しかし、大丈夫かね?」
と、いったのは、いくら官服を着けても、第七獄棟には立番しているやつがいるだろうし、看守ではない自分の顔を見とがめるおそれはあるだろう、と考えたからだ。
「いや、今夜この時刻は大丈夫のはずで……」
と、サルマタは理由不明の承《う》け合い方をした。
実はいまごろ鳥居看守が第七獄棟に先回りして、看守や押丁《おうてい》を看守室に緊急召集して、囚人が腸チフスにかかったときの取扱いについて訓示しているはずなのだ。
胤昭に官服を着せたのは、胤昭自身に脱獄を信じさせるための念入りの配慮にすぎない。
その通り、第七獄棟に着いてみると、入口も廊下もがらあきであった。
そのふしぎさをかえりみているいとまはない。胤昭はサルマタにみちびかれて、会津自由党の監房へ――まず河野|広中《ひろなか》の牢格子の外に立った。
「河野さん。……十字屋の原胤昭と申すものですが」
「おう、原さん……これは、これは!」
河野もむろん例の似顔絵事件のとき、胤昭を知っている。いや、その後の「天福六家撰」の件も、田母野秀顕《たものひであき》の遺書の件も知っているだろう。
胤昭は、人を介しての星亨《ほしとおる》の依頼だが、もしこの牢をぬけ出す意志があるなら出る気はないか。ここにいるもと星の俥夫《しやふ》出身の囚人が手引するそうだ、と小声ながら早口でささやいた。
ほかの監房の四人にも同様のむねを告げた。
しばらくの迷いののち、河野たちは承諾した。
牢を出て、あとどうするのか、という危惧《きぐ》より、自由党崩壊の予感から、彼らの焦燥は沸騰《ふつとう》点に達していたのである。それに田母野はすでに牢死し、また最近この獄棟でも腸チフスの囚人が十何人か出て、病監でもう数人が死んだという情報も聞いていた。このままここにとじこめられていれば、生命の安全は保証されないという怖れがあった。
ここで犬死するくらいなら、一夜でも星のもとへいって、自由党の崩壊をくいとめる計画に参画《さんかく》することができる!
そもそもこの脱獄の勧誘者が、彼らが信愛している原胤昭だ。
数分ののち、サルマタの鍵《かぎ》で牢屋の戸はひらかれ、河野以下五人の会津自由党は外へ出た。
そして彼らは、第七獄棟から闇《やみ》の中を裏門へ急いだ。いつどこで用意したものか、サルマタは六尺棒を一本かかえている。
石川島監獄の裏手は、例の砂原を高い煉瓦《れんが》塀でへだてているが、門はある。鉄柵《てつさく》の門だ。門番小屋はあるが、どういうわけかここにも門番はいなかった。
――実はこの夜ここに詰めているのは寺西|冬四郎《とうしろう》看守のはずであったが、このとき彼は姿をひそめていたのである。
「あける鍵は用意してごぜえます」
と、サルマタがいった。
「しかし、ちょっと待っておくんなせえ。実は七時に、星先生のお弟子さんが乗った迎えの舟が向うの岸に着くことになってますが、着いたら紙を燃して合図《あいず》することになってるんで――」
「ほう?」
胤昭《たねあき》がささやいた。
「その舟におひろも乗ってるんだな」
「そうでござんす。……ただ、その火が見えねえと、あちらに何かさしさわりがあって舟が来なかったんで、その際は残念だがあきらめて、みなもとの牢へひき返せってんで――」
サルマタのいうことは、星の弟子が迎えに来るというのを除いては、ほんとうであった。それもふくめて、すべて鳥居から命じられた通りだ。
サルマタはついに決意した。
鳥居から疑われないために、事はある程度、命令のままに進行させなければならない。が、この人々をここから出すわけには断じてゆかない。しかし出さなければ、向うに着いたおひろがぶじにはすまない。
そこで彼の決断したことは、火が見えたら胤昭らは外に出さず、自分一人が外へ出て、おひろお嬢さまにもとの舟で帰ってもらう、ということであった。
鳥居、寺西が、かんたんにそんなことを許すとは思われず、その際どういうことになるか見当もつかないが、とにかく棒はそのためのものだ。サルマタは死ぬことを覚悟していた。死んでもおひろお嬢さまは救ってみせる!
三
凍りつくような風の中に、一同は息をのんで待った。
「火が見えんではないか」
胤昭が焦燥の声を出した。
「たしか、七時をだいぶまわったと思うが――」
時計はなくとも、それくらいの時間感覚は働く。サルマタは首をかしげた。迎えの舟が来ないはずはなく、火はたしかに見えるはずなのだが。――
ただ暗く広い砂原に、海鳴りの音のみ満ちて来た――その方向からはろばろと一発の銃声が渡って来たのはそのときであった。
そこにいた者すべてが立ちすくみ、やがて顔を見合わせた。
と、監獄のほうから靴音が駈《か》けて来て、
「いまのはピストルの音じゃないか。サルマタ――」
と、叫んだ者がある。すると、すぐ近くの闇《やみ》の中から、
「鳥居か」
といって、もう一つの影が現われた。声からすると、寺西看守だ。
「火は見えたか」
息せき切って鳥居看守が訊《き》く。
「見えぬ。ただ、いまのピストルの音だけじゃった」
そう答えながら、寺西は裏門に近づき、あわただしく鍵《かぎ》で鉄門をあけた。二人の看守は外に出た。寺西はまた門をしめて、
「サルマタ――事情が判明するまで、そいつら、外に出すなっ」
と、叫ぶと、二人ともつんのめるように寒月の砂原を向うへ駈けていった。
「サルマタ――グルだな」
と、声を出したのは原胤昭であった。――ここに至って、やっと彼も察したのだ。
「申しわけねえ!」
サルマタは身をよじった。
なお数瞬、怒りと恐怖のために、胤昭の唇はわななくばかりだ。思えばこんな野郎のたぶらかしについ乗ったのはわれながら慙愧《ざんき》のきわみだが、それにしても何たる念のいった罠《わな》か。サルマタの背後にあの看守らがいたと知ってみれば、はじめて腑《ふ》におちる。
――が、いや、これがすべて幻の罠であったか。いまの銃声と二人の看守の狼狽《ろうばい》は何だ。
「おいっ、おひろが来るというのはほんとうか!」
と、胤昭は叫んだ。
「そ、それはほんとうでござんした。ただ、合図の火が見えねえから、来なかったのかも知れねえ。いまの鉄砲の音は、おれにもわからねえ」
と、あえぎながらサルマタはいった。
胤昭は進みよった。
「おれもようすを見にゆく。そこをあけろ」
「いや、いけねえ」
「おれたちもここを出るはずじゃなかったのか」
「いままではそうだったが、もういけねえ。ここを一足出りゃ、ほんとうの脱獄になる。あの看守たちの思うツボにはまることになりまさあ」
そういうと、サルマタは向うむきになって、自分の持っている鍵をかけ、その鍵を鉄門の外へぽうんとほうって、あっけにとられている胤昭に、
「旦那《だんな》、ここから引っ返して下せえ。いままでの道順を逆に帰って、もとの牢《ろう》に戻って下せえ」
と、叫び、また会津自由党に向って、
「会津の衆、申しわけねえが、あなた方も帰って下せえ。ここで引っ返しゃ、まさか処刑はされめえ」
と、声をしぼっていった。
「原さん」
河野|広中《ひろなか》が声をかけた。
「どうやら今夜の脱獄は、官憲側の罠《わな》だったようですな。いや、あんたをとがめない。あんたもひっかかったようだ。この裏門の内側まで来たが、ここで逆戻りすればまだしもだ。引揚げましょう」
そういわれて、会津の人々に対する面目なさに、胤昭はますます逆上し、
「あなた方はお帰り下さい。この不始末のおわびはあらためていたす。私は一人でも外へ出る。サルマタ、そこをどかんか!」
と、絶叫した。
サルマタは棒を横たえ、鉄門に背をつけて仁王立ちになり、
「こうなりゃ、死んでもここは通さねえ!」
と、自分で連れて来たくせに、弁慶みたいに大目玉をむいて大|見得《みえ》を切って、胤昭とにらみあうこと数分……こはそも、どうしたことかサルマタは、ふいに「うん」と妙な声をもらすと、糸が切れたようにヘナヘナと闇《やみ》の底へ崩折《くずお》れていった。……
そのとき、もう一発、さらに一発、また銃声が夜風に乗って来た。
四
――船戸巡査の「神算鬼謀」による脱獄計画の第四幕。
同じ夜の、これより一時間ほど前。
銀座三丁目の歩道に、外套《がいとう》をつけて立っていたその船戸巡査は、大通りをへだてた絵草紙店十字屋から、お高祖頭巾《こそずきん》の女の影が二つ現われたのを見て、
「よし」
と、うなずいた。
眼だけが見える頭巾だが、ガス燈の光に浮かんだ女の一人は、姿かたちからまさしくおひろだと認めたからだ。
ガス燈はつらなっていても、また歳末近い銀座でも、この寒風の夜には心ひるむとみえて、もう人影もまばらな道を、二人の女は急ぎ足に歩いてゆく。
もう一人の女は、いうまでもなく邯鄲《かんたん》お町《まち》である。彼女がおひろをおびき出したのだ。
姉のお夕《ゆう》を連れ出したのと同じ手だ。同じ手がまだ効《き》くだろうか? と、いちどは首をひねったが、考えてみると、おひろは、姉が誘い出された手を全然知らないはずだ。それに、絶対におひろが誘い出される魔法の手がある。
それはお町に、
「姉が石川島で待っている。胤昭《たねあき》さまのいのちを救うために、どうしてもまた百円要る。至急おひろに持参してもらいたい」
といわせることであった。
百円|云々《うんぬん》は、話に迫真性を持たせるためである。それにしても荒唐無稽《こうとうむけい》な話だが、これまでおひろに見せたいろいろな怪事に、あの娘は混乱状態にあるはずだ。たとえそういう話やお町という女に疑念を持つことがあろうと、ただ「姉が待つ」という一語は、おひろに狂的な魔力を及ぼすにちがいない。
それでも説得に時がかかったとみえて、お町がはいっていって、二、三十分もたってから二人は出て来た。
そしていま、二人は築地のほうへ急いでゆく。――
船戸巡査は先まわりして駈《か》け出した。ゆくての築地のある岸に、この前と同じように、船頭に化けた化師《ばけし》の秀《ひで》が待っているはずだ。
――おひろが石川島へ来る、とサルマタが胤昭に承《う》け合ったのは、胤昭を乗せるためのでたらめではなかった。むろんサルマタは船戸巡査の言葉に従ってそういっただけだが、船戸は本気でこのことを実行しようとしていた。
むろん、胤昭を乗せる目的もあるが、それよりおひろそのものを、ほんとうに消し去る必要に迫られていたからだ。
いずれ原とお夕の死を知ったとき、まっさきに騒ぎたてるだろう口を、事前に封じておかなければならぬ、と考えていたが、それに加えて、はからずも鹿鳴館《ろくめいかん》の献立表の秘密を感づかれたおそれもある。
そして、これが最大の理由だが、今夜、いよいよ原と会津自由党を脱獄の罠《わな》にかけて一挙に葬り去るについて、外部からの共犯者に仕立てるために、絶対におひろが石川島に来ていたという事実が必要になったのであった。
「……はてな?」
築地の岸に来て、船戸巡査はキョロキョロした。
お夕のときと同じ場所に、同じ小舟が杭《くい》につながれている。が、そこに待っているはずの化師の秀の姿がない。
「秀」
ひそやかに呼んでみたが、まわりの闇《やみ》から返事はない。
そういえば、きょうこの渡し舟の役を頼んだとき、腹が少し痛いと顔をしかめていたが――と、思い出し、船戸は舌打ちした。
と、いま来た方角からヒタヒタと足音が聞こえてきた。二人の女にちがいない。
船戸巡査はあわてふためき、自分から舟に乗りこみ、外套《がいとう》をぬいで頭からすっぽりかぶった。
昔、彼は異人館のボーイをしていたころ、碧眼《へきがん》の主人夫婦のフィッシングのお供をして、いくどか和船を漕《こ》がされたことがあったのを思い出したのである。
予定より二十分くらいは遅れている。それでも秀は現われない。秀の役は自分がやるよりほかはない。
やがて来た邯鄲お町にうながされて、おひろは黙々とその舟に乗りこんだ。「御苦労さま」と声をかけたお町はもとより、放心状態に見えるおひろは、船頭のほうに特に眼をむけようともしないようだ。もっとも、闇に近い三日月だけの暗さである。
黒いものをかぶった船頭に櫓《ろ》をおされ、舟は石川島のほうへ漕ぎ出された。
舟に乗って、お町はおひろにささやきかける。
「お嬢さん、まだいろいろ御不審もおありだろうけれどね、さっきいったように、いつかお姉さまに頼まれて、鉄道馬車を見にゆけといったのはあたしだけど、あのころから、あたしゃお姉さまのお手助けしてるのさ」
「わかりました」
おひろは小声で答えてうなずく。
「なぜあたしがお姉さまのお手助けしてるかってえと、あたし、女のくせにお姉さまに惚《ほ》れたからさ。あんな神さまのようなひと、この世ではじめて見たよ。……それにね、あの巡査や看守の悪党ぶりに、もうがまんがならなかったからよ」
「……」
「あいつら、人間じゃない。ねえ、秀《ひで》さん、そうだろ?」
と、船頭のほうに顔をむける。
頭からかぶった外套の中で、船戸は狼狽《ろうばい》して、
「ま、まったく」
と、答えた。
「そいつらをぜんぶ相手にしてるんだから、お姉さまの御苦心もひと通りじゃない。石川島の物置小屋にかくれて、何かと助けていなさらなかったら、原の旦那《だんな》のおいのちは、もうなかったかも知れない。ま、詳しいことは島へいってお姉さまにお聞きになりゃわかるだろうけれど」
これは船戸がお町に教えたおひろ説得のせりふだ。
「島の看守ばかりじゃない。警視庁の船戸なんてえ巡査もグルだが、こいつがまた悪いやつで、あとで十字屋にあらわれても、よせつけないがいいよ。あの野郎とかかわり合うと、ろくなことはないからね、ねえ、秀さん」
と、また呼びかけられても、この悪態には二の句がつげない。
「あたしたちゃ、ピス面《めん》って呼んでるけれど――能のお面みたいなつらして、何かといえばピストルをふるう。昔、ハマの異人館のボーイしてたそうだが、どうしてあんなぶっそうなやつが警視庁にもぐりこんだのかね、秀さんが巡査になったほうがもっとましよ、ねえ秀さん」
「ま、まったくだ」
はらわたを煮えくり返らせながら、船戸はしゃっくりみたいな声を出した。
やがて舟は島に着いた。
裏手にあたる砂浜だ。百メートル間隔くらいにランプのともった監視所があるが、その光もとどかない中間地点に、脱出防止のための柵《さく》が流されて残った杭《くい》が、二、三本つき出している。
その一本に舟をつなぐと、三人は上った。
五
空に三日月がかかっているとはいえ、宏大《こうだい》な闇の世界だが、四面海にかこまれた島特有の妖《あや》しい微光もある。――この前、お夕《ゆう》を死なせた夜と同じようだ、と船戸は思った。
そして、きのどくだが、おひろにも今夜ここで死んでもらわなければならぬ!
おひろだけではない。ここで合図の火を燃やせば、監獄のほうからサルマタの直熊《なおくま》にそそのかされた原と会津自由党の馬鹿《ばか》どもが、待つや久しとばかり無分別に脱獄して来るはずだ。
そして、それを追って来た鳥居|鶏斉《けいさい》と寺西|冬四郎《とうしろう》が彼らをみな殺しにするはずだ。たとえ脱獄者が何人いようと、武器のない彼らに、寺西の剣と鳥居の棒は充分目的を達するだろう。――これが彼の「神算鬼謀」なのであった。
むろんこの夜、ここで火を燃やすのは、本来|化師《ばけし》の秀《ひで》がやるべき役であったが、自分がやることになっても別に異存はない。ただ少し時間が遅れたかも知れない。
ぱっと船戸巡査はかぶっていた外套《がいとう》をぬぎ、ポケットから煙草用のマッチと塵紙《ちりがみ》をとり出した。そして、火をつけようとしたが、寒風の中で火がなかなかつかない。
この動作を、二人の女が――特におひろが口もきけず、お高祖頭巾《こそずきん》の中でただ眼を大きく見ひらいているのを意識しつつ――船戸は、「お町、外套をひろげて、風をふせいでくれ」と、いった。
もはや巡査として姿はむき出しだ。
お高祖頭巾の一人が寄って来て、外套をひろいあげた。
船戸巡査が、またマッチをすろうとする。その手をたたかれ、マッチが飛んだ。はっとした刹那《せつな》、外套は投げ捨てられ、そのかげから閃《ひら》めき出した何かが――船戸は、左の横っ腹に灼熱《しやくねつ》の棒がえぐりこまれたのを感じた。
「ぐわっ」
うめいて、身体をねじりつつ飛び離れた船戸巡査の眼に――お高祖頭巾の姿が一尺も高くのびる怪異がうつった。
「う、うぬは!」
人間がこれほど怖ろしい驚愕《きようがく》の声を出したことがあるだろうか。
「お嬢さまだからお品《ひん》よく懐剣とゆきてえが、てめえなんかにゃ出刃包丁《でばぼうちよう》が相応だろう」
と、お高祖頭巾はいった。
「化師の秀だ。いまわかったか」
闇《やみ》の中に、ふしぎな燐光《りんこう》にふちどられて浮かびあがった凄艶《せいえん》きわまる眼だけの笑顔は、まだおひろとしか見えないが、声も背丈《せたけ》もまさしく化師の秀だ。
「おいらがお夕さまに化けたのア知ってるはずだが、おひろお嬢さんに化けるたア思いもかけなかったか。人をだますことにゃあれほど悪|智慧《ぢえ》のまわるやつが、自分がだまされることにゃ何てえまぬけ野郎だ。あははははは」
そう罵《ののし》られても、船戸は脇腹《わきばら》をおさえ、身体をのびちぢみさせているばかりで声もない。
「おほほほほう」
邯鄲《かんたん》お町《まち》が高笑いした。
「さっき、めんと向って自分の悪態つかれてるときのお前の顔ったら――あたしゃ笑いをおさえるのに子宮が痛くなったよ。おほほほほう」
この女にも子宮があると見える。
「こんなまねまでしてここまで来たのはな」
と、秀がいう。
「銀座や築地でてめえを片づけりゃ、警視庁の大事件となる。ここで殺《や》りゃおめえの仲間が、泣き泣き死骸《しげえ》の始末をしてくれるだろ、と思ってのことだ」
そもそもさっき、秀はさきに十字屋へいっておひろに会い――いま悪いやつらが牢《ろう》で原の旦那《だんな》を脅迫するためにおひろさまを人質にとろうという企《たくら》みがあるのだが、それをふせぐために自分がおひろに化けて、やがて迎えに来る相棒の邯鄲お町とともに出かけることを許してくれ――と申しこんだのであった。
ほんとうの、もっと怖ろしい理由はいえなかった。いえばおひろが騒ぎ出し、とうていこちらの願いなどきいてくれないにきまっているからだ。
従って、その願いはあやしげなものとなる。そのいぶかしさもさることながら、申しこんだのが、うすきみ悪い化師《ばけし》の秀《ひで》だ。だいいちこの男が――女にも化けることは承知しているけれど――このあたしに化けるなんて? と、戸惑うおひろを説得するのに時間がかかった。
が、やがて来たお町とともに、この両人の声涙ともに下る必死の哀願に、ついにおひろは完全には納得できないままに承諾し、すぐさま秀がお町の手伝いのもとに大車輪で、彼女の化粧道具や衣裳《いしよう》をわがもの顔に、みるみる鮮かに自分に化けてゆく信じられないような光景を見まもる仕儀となったのだ。
かくて両人が十字屋を出るのはいささか遅れたが、多少遅れるのはかまわなかった。そのほうが、船戸巡査が秀の代りに急遽《きゆうきよ》船の櫓《ろ》をとることを余儀なくさせるからだ。船戸が舟を漕げることは、さきにお夕を死なせたあと、舟で島を逃げ出した秀とお町に両巡査が同船したとき、船戸が恐怖にみちた顔で秀から櫓をひったくって自分で押したことから知っていた。
書けば長いが――そしてまた、化師の秀なる不可思議な悪党が、三日月を背に、苦悶《くもん》している巡査に引導を渡しつつ、この場面をたのしみぬいているかに見えたことも事実だが――巡査がどてっ腹をえぐられてから、一、二分のことであったろう。
「とにかく、いまわのきわのお夕《ゆう》さまに頼まれたんだ。原の旦那《だんな》とおひろさまを殺すわけにゃゆかねえ」
と、化師の秀はいった。お夕がそんなことを彼らに頼んだことはないが、彼らは勝手に頼まれたつもりでいる。
「おめえのほうにくたばってもらう。……デデン」
たもとを片手でおさえて、黙阿弥《もくあみ》の芝居のように見得を切り、さて出刃包丁をふりかざしてもういちど秀が躍りかかろうとしたとき――左|脇《わき》を押《おさ》えていた船戸巡査のその腰のあたりで、轟然《ごうぜん》たる音がはためいた。そこにあったサックから、ピストルをひきぬいて撃ったのだ。
そのまま船戸は、夜目にも灰色の砂けぶりをあげてのめり伏した。
が、秀もまた棒立ちになった。
「秀さん!」
お町が叫んだ。
「やられたかい?」
「へっ、屁《へ》のかっぱだ、右のふとももだ。このへたくそ野郎め!」
さしものピストルの名手船戸も、驚愕と苦悶の中の一発だけに、少し狙いがそれたと見える。
「もうお陀仏《だぶつ》にしてやる。覚悟しろ!」
秀はよろめきながら飛びかかり、うつ伏した船戸巡査に馬乗りになると、その背に包丁をまた突き立てた。そのまま、立ち上ろうとして、横倒しになった。
お町は駈《か》け寄ろうとして、このとき広大な闇《やみ》の果てに眼をこらし、
「秀さん、だれか走って来るようだ。早くひきあげよう」
と、改めて駈け寄って、もがいている秀の片腕を肩にまわし、もやってある舟のほうへ、もつれ合いながら逃げ出した。
六
どうと舟の中へまろびこみ、杭《くい》から綱を解く。と――舟は横なりに流れ出した。ここは海だが、また大川の汪洋《おうよう》たる流れでもある。
「いけねえ」
秀はうめくと、立ちあがり、櫓《ろ》をひっつかんだ。
「だいじょうぶかい、秀さん!」
「大丈夫だ。それ、ゆくぜ!」
ひと漕《こ》ぎ、ふた漕ぎ――そのときまた銃声がひびいて、舟の上を、ヒューッと何かがうなり過ぎた。二人は思わず伏しまろんだ。
舟はまたもや横に流れはじめる。
「ちきしょう」
秀はふたたび立ちあがり、櫓をつかみなおした。
「あぶない! 秀さん、あいつまだ生きてて狙ってるよ! 立っちゃああぶない、秀さん!」
「何を、あんな豆鉄砲――ああいうのをひょうろく玉ってんだ」
が、三たび銃声が渡って、秀はのけぞった。
――決闘はまだ終っていなかったのである。
まさしく、出刃包丁《でばぼうちよう》を背に突きたてられ、島の砂原につっ伏していた船戸巡査が、かすかに首をあげると、ピストルを持ちなおし、舟の上に立ちあがった秀を、常人には見えない三日月と水の微光を頼りに、二発目、三発目を撃ったのだ。さすがに、怖るべき技術と執念の所有者であった。
のみならず。――その銃声に息せき切って駈《か》けつけた看守寺西|冬四郎《とうしろう》と鳥居|鶏斉《けいさい》に、
「やられた。化師《ばけし》の秀とお町《まち》にやられた。……きゃつら、裏切ったぞ!」
それまでいい残し、やっと絶命したのである。
一方――背から撃ちぬかれてのけぞった秀は、しかしたおれない。櫓を離さない。そして、三百メートルはある「流れる海」をついに漕ぎ切った。
が、岸に上ると同時に倒れ、こちらも、こんどこそ動けなくなった。
「いや、てえした野郎だったよ」
と、まず、いったのは船戸巡査のことだったろう。――あおむけにひっくり返ったまま、ニガ笑いしたが、声には死の息づかいがあった。
「たいした男はお前さんだよ!」
お町ははげしくゆさぶった。むろん相手はおんな姿のままだ。
「お前さんが死ぬものか。化師の秀が、こんなことで死ぬものかね!」
「ふふ。……お町、おれのふところにあるものを出してくれ」
秀にいわれて、お町はそのふところをまさぐり、折りたたまれた一枚の紙片をとり出して、ひらいた。
「マッチ持ってるか。持ってたら、火をつけて、照らしておれに見せてくれ」
その通りにした。――すると、その紙に描かれた女人像が浮かびあがった。
「おいら、その人のために死ぬんだ。……もう要らねえ。燃してくれ」
お町はマッチの炎をその紙片につけた。
小林|清親《きよちか》えがく女人の画像は、めらめらと燃えあがって消えてゆく。その炎の下で、化師の秀はがっくりと息絶えた。……
鬼さんこちら
一
胤昭《たねあき》は、いやまったくめんくらった。
サルマタの直熊《なおくま》が突如|昏倒《こんとう》したことに対して、である。
元来人間離れしたがんじょう無比の肉体を持ち、それまでただならぬ熱気を燃えあがらせて自分たちの「脱獄」を誘導して来たサルマタが、牢屋《ろうや》の裏門まで来て、突然ひっくり返ってしまったのがわからない。
いったい、この場をどうすればいいか――胤昭は混乱した。
「いかん、今夜のことは御破算じゃ。ひきあげよう」
と、河野|広中《ひろなか》が叫んだ。
それでも、向うの岸辺に、おひろが来ているか、いないか、それが気がかりで、裏門をゆさぶる胤昭を、会津の壮士たちはうしろから抱きとめ、声をしぼって退却を切言した。
ついに胤昭もそれに従うことに同意したが、ただしそこにころがってうめいているサルマタをいかにすべき。
「こいつが官憲と組んでいたことは明白だ。放っておきましょう」
という河野たちに、胤昭は首をふって、
「いや、私がかついでゆきましょう。こいつには訊《き》きたださなければならんことがある。かつがせて下さい!」
と胤昭はいって、サルマタのそばにしゃがみこみ、背をむけた。
背負って立ちあがると、サルマタの身体は火のように熱かった。あきらかに高熱を発していた。
そのまま彼らは撤退にかかった。サルマタの直熊が気を失う前にいったように、もと来た往路をたどって。――
会津の志士たちは第七獄棟の監房へ。直熊を背負った胤昭はついで自分の第一獄棟へ。その出口で、いまは馬鹿《ばか》らしいものとなった官服をぬいで獄衣に着かえ、ふたたびもとの大雑居房へ――それらの行動に要《い》る鍵《かぎ》は、サルマタが所持していた。
こういうと一糸みだれずのようだが、実は闇夜《あんや》の中、こけつまろびつといっていい惨状だ。
まるで悪夢の嵐《あらし》に吹き飛ばされたような一刻であった。
さっき、サルマタが胤昭を連れ出してゆくのを心配そうに見送った牢内の連中――とくに親衛隊は、こんどは胤昭がサルマタをかついで帰って来たのを見て、むろんざわめいた。
メリケンの鉄が、狐《きつね》につままれたような表情で、
「だ、旦那《だんな》、ど、どうしたんで?」
「しばらく、黙っててくれ」
と、胤昭は制して、サルマタをともかくも横たえた。いままでのことをまわりに説明することもできないし、そんな余裕もない。そして、あらためて、
「おいっ……サルマタ、どうしたんだ?」
と、その身体をゆさぶった。
今夜の「脱獄」はサルマタと、鳥居、寺西の共謀であったことは明白になったが、なぜそんなことを彼らがたくらんだのかわからない。その計画におひろを巻きこもうとした真意も、彼女がどうしたのかもわからない。また最後に至ってサルマタが、必死で脱獄をとめた理由もわからない。
十手でなぐりつけても訊き出さなければならぬことだが。――
「こらっ、サルマタ、起きろ」
が、サルマタは依然、火のような息をせわしくきざんでいるだけで、グタリところがったままだ。
そのとき、この牢《ろう》のただならぬ雰囲気に気づいたか、廊下を通りかかった看守が、格子の外に立ちどまって、
「どうしたのか」
と、のぞきこんだ。松倉老看守であった。
サルマタの異常を聞くと、松倉看守は首をかしげ、「待て待て」といって足早《あしばや》に立ち去ったが、やがて監獄医を連れてひき返して来た。
監獄医はサルマタを診《み》て、たちまち、
「こりゃ腸チブスじゃ!」
と、大声をあげた。
みな、わっと叫んでとびのいた。胤昭さえ、サルマタから手をひいて、一尺ばかりひざをずらせた。
この石川島監獄で、この半月ほど前から腸チフスの患者が出現しはじめ、病棟に移送されているが、すでに、死人も十余人出ているという話はみな聞いていたからだ。しかも、どうやら伝染病らしいということもわかっているが、どういうわけかこの大雑居房ではいままでその病人が出なかったので、直接症状を見た者はなかったのだが。――
「腸チブスって……さっきまでこいつ、ピンピンしてたんですぜ」
と、胤昭は首をひねった。
「いや、この病気は、一週か二週、潜伏期というものがある。それから症状が発現するのじゃが、こんな高熱を発するまでは、一週間くらいやはり発熱し、身体もだるく、腰など痛んでおったはずじゃ」
と、監獄医は答えた。
してみるとサルマタは、この雑居房にはいる前から感染していたことになる。
「そのようすも見えなんだとすれば、この囚人、よほどがまんしてかくしておったものじゃろ」
そういわれれば、ここ数日、サルマタの頬《ほお》がげっそりこけ、熱病やみのように赤い顔をしていたのを、今夜のたくらみに精根つかいつくしたのか、と解釈していたが、あれは実際に高熱を発していたのか。
「この薔薇疹《しようびしん》が何よりの腸チブスの証拠じゃ!」
と、監獄医は指さした。
はだかったサルマタの胸には、ぶきみな薔薇《ばら》の花のような赤い斑点《はんてん》が浮き出していた。気がつくと、それは腕にも足にも見える。
「とにかく、即刻、病棟に隔離せんけりゃ、みんなに伝染するぞ!」
すでにその前から、松倉看守はまた駈《か》け出していた。
そして、しばらくすると、押丁《おうてい》に、むしろで作った担架《たんか》を持たせてひき返して来た。サルマタを病棟に移送するためである。
しかも、病人を運ぶのは押丁ではない。
「だれか、運ぶ者はおらんか」
と、松倉は囚人を見まわした。――とっさに応ずる者はない。
「おい、原君、だれかえらんでくれ」
腕ぐみをして坐《すわ》ったまま、サルマタを見下ろしていた胤昭《たねあき》は、考えごとからはっとさめたように顔をあげ、
「おい、鉄、頼む」
と、メリケンの鉄に声をかけた。
「へ? おれが?」
鉄はヘドモドした。松倉が気ぜわしく、
「もう一人は……」
「私がゆきましょう」
と、胤昭は答えた。
彼はいまサルマタが、自分の手のとどかぬ場所にひき離されることに耐えられなかったのだ。腸チフスだろうとコレラだろうと、今夜のうちに訊《き》くべきことは訊かねばならぬ。
「えっ、旦那《だんな》が?」
メリケンの鉄はびっくりした顔をし、
「それじゃ、おいらも手伝いやしょう」
と、腰をあげた。
まもなく二人は、廊下にかつぎ出した人事不省のサルマタを担架にのせて、松倉看守のさしずするままに、病棟へ運んでいった。
二
病棟は監獄の東側にあるが、もとから病棟として存在していたものではない。昔ここで囚人が瓦《かわら》を焼いていたころの瓦|蔵《ぐら》の一つで、どういうわけかまだとりこわさずに残っていたものを、こんどの腸チフス騒ぎ以来、急遽《きゆうきよ》隔離病棟としてあてられたものだ。
入口の向きには窓一つなかったから、それは巨大な廃屋のような影を夜空にそびえさせていた。海風が、変になまぐさい匂《にお》いを吹きつけて来た。
病人を収容しているはずのこの建物にも、外から鍵《かぎ》がかけられている。松倉看守はそれをあけた。
一歩はいって、胤昭をまず打ったのは、
「――これは地獄だ!」
という印象であった。
担架はひとまず置いたが、胤昭は悪夢を見る思いで立ちすくんだ。
それでもランプが一つ、天井から吊《つ》りさがって、赤茶けた光を落としているが、三十|帖《じよう》敷きくらいの内部はもうろうとけぶっているようだ。その中に動いている影もいくつかあるが、大半は毛布をかぶって横たわって、その数は――むろん正確にはわからないが、三、四十人はあったろう。それは算をみだした死体とも見え、動いている者も、どうみても亡霊の揺曳《ようえい》のようであった。
海側に窓らしいものはいくつかあいている。ただしそこはただ格子が打ちつけてあるだけで、風はようしゃなく吹きこんでいる。師走の海風は、この空間を氷獄と化していた。
病棟がかつての瓦蔵であること、モッソー飯は入口までとどけるが、あとは患者まかせで、看護人は一人もいないこと、なんの治療も施《ほどこ》されていないこと、などの噂《うわさ》はすでに耳にしていたが、現実にこの光景を見るに及んで、胤昭は、気温のせいばかりでなく、凍りつく思いがした。
しかも胤昭がいまここへ来たのは、サルマタのこともあるが、そんな話を聞いたときから、漠然と胸にきざしていたある思いのせいもあったのだ。
「おい、原――ゆこう」
と、松倉看守がうながした。
「は――」
胤昭はわれに返った。
サルマタの枕頭《ちんとう》について、なお訊《き》き出したいことがある、という望みは恐怖のためにかき消えた。胤昭は反転しようとした。
そのとき、耳にささやくような声が聞こえた。
――胤昭さん、ゆくのですか?
胤昭は顔をふりあげた。それはまさしくお夕《ゆう》の声であった。
――この哀れな人々を見ながら、それを見捨ててあなたは逃げるのですか?
その声は寒風に乗って、窓の外から聞こえて来る。そう聞いて、胤昭は窓のほうへ駈《か》け出した。
格子の外は、とうとうたるうなりをあげる夜の海だ。せまい海辺はあるが、むろんそんなところにお夕がいるわけはない。
が、胤昭は、もう十年ほど前、お夕と再会して恍惚《こうこつ》と話をかわしたのは、まさにこの瓦蔵の窓の外であったことを想い出した。あれは同じ海とは思えない、海鳥の飛ぶ春の日であったが――あのときお夕は、神医ヘボンの愛の話をし、自分がカタリナという教名を持つクリスチャンであることを告げたのであった。
「何をしているのだ、原君――」
あっけにとられた顔で、松倉看守がまた声をかけた。
「ゆくぜ。――ここにながくいるのは危険だ」
「いや、私がここに残ることはいけませんか?」
「なに、何のためにだ?」
「見ると、看護人がいないようですが、出来ましたら私にその役をさせて下さい」
いまのお夕の声は錯覚だ、と胤昭は悟った。が、この唐突な申し出は、その幻聴のせいではなかった。
さきごろから胸にきざしていたある思いとは、この病棟の噂《うわさ》を聞いて、自分がその役をすべきではなかろうか? ――ということであったのだ。
「ば、馬鹿《ばか》な!」
松倉看守は大声をあげた。
「なんたる酔狂な――そうだ、君、君の出獄はこの二十五日だということを知ってるか?」
「えっ、二十五日? 私は年末か、来年早々だ、と思ってましたが――」
「いや、未決|勾留《こうりゆう》分があるから、この月の二十五日なんだ。二、三日前、書類を見たからまちがいない。――あと十五日だ。ここにいたりすれば、君はその間に腸チブスに伝染するおそれがあるぞ」
「旦那《だんな》、とんでもねえことをいい出さねえでおくんなさい」
と、メリケンの鉄も泡をくった表情で、
「さ、ねごとは言わねえでひきあげやしょう」
「待て。しかし、ここに看護人がいたほうがいいんでしょう」
「そ、それは監獄にとっては好都合じゃが」
松倉看守はうなずき、首をふって、
「が、看護といってもどう看護していいかわからん悪疫じゃから、やむを得ずこういうことにしておるのだ」
胤昭は、「見えない十字架」を胸にあて、二本の足を鉄みたいに踏んばって、微笑していった。
「それじゃ、私をここにおらせて下さい。――私の出獄の日まで」
それより、少し前。島の西岸の岸辺に、鳥居看守と寺西看守は、氷の彫像のように立ちつくしていた。
足もとの砂の上には、船戸巡査が横たわっている。彼が、「やられた。化師《ばけし》の秀《ひで》と邯鄲《かんたん》お町《まち》にやられた。……きゃつら、裏切ったぞ!」という言葉を残してこときれてから数分たつ。
どうしてこんなことになったのか。そもそも今夜の計画では、船戸巡査はここに来るはずではなかった。邯鄲お町が十字屋の妹娘をさそい出し、それを化師の秀が船に乗せて来る予定になっていた。それなのに、ここで船戸巡査はあきらかにどてっ腹をえぐられて殺され、おひろはむろん、秀やお町の姿はない。船で逃げたに相違ない。
「しかし、船戸ほどの男を、よくも……」
と、やっと鳥居がうめき、
「ピストルを撃つ音は聞こえたが、役には立たなかったのか。――きゃつら、裏切ったといったな?」
と、寺西が海鳴りの闇へ血走った眼をむけた。
何にせよ、今夜原胤昭や会津の壮士たちをこの場におびき出して、一挙にみな片づける計画が瓦解《がかい》したことは明白だ。
「ともかくも、この船戸の屍体《したい》、ここに埋めんけりゃならぬ」
と、鳥居看守がいい、寺西がうなずいて駈《か》け出していったが、まもなく二本のシャヴェルをかかえて戻って来た。
「きゃつら、どうした?」
と、鳥居が訊《き》いたのは、むろん裏門まで来ていた原たち脱獄予定者のことだ。
「だれもおらぬ。ひきあげたらしい」
と、寺西は答えた。さっきサルマタに「事情が判明するまでそいつら外に出すな。しばらく待て」と命じたのは彼だ。
この前お夕を埋めたのと場所がちがうが、墓掘りがまた始まった。本来なら警視庁の巡査が町の悪党に殺害されたのだから大騒ぎになるところだが、大騒ぎになっては彼らにとって、いまどんなに不都合な事態に発展するかわからないので、ともかくも屍骸《しがい》を秘密|裡《り》に埋めてしまわなければならない。
息せき切って穴を掘りながら、驚愕は怒りに変る。
「化師の秀とお町の外道《げどう》めが……明日にもひっつかまえてぶった斬《ぎ》ってやらんけりゃ……」
と、寺西があえぎながらいったとき、鳥居がはっとしたように宙を見て、
「三人目だ! これで仲間が三人|殺《や》られたことになるぞ!」
いまになって、愕然《がくぜん》たる声であった。
「おいっ、ひょっとすると、あの牛久保も檜《ひのき》も、裏切りでやられたのじゃないか!」
思い出せば、アラダルによる牛久保看守の死、ぬらりひょんによる檜の死、いずれもあまりにも異常ではなかったか。――彼らは戦慄《せんりつ》すべき事実に、やっと気がついたのである。二人は、代る代る叫び出していた。
「してみると……サルマタだって怪しいぞ!」
「や、サルマタか。しかしきゃつは、一応こちらの指示通りに動いたようじゃが……」
「いや、あいつもわからんぞ」
「何にしてもこうなったら、あとのつくろいはどうにでもなる。一刻も早く、原、サルマタ、しゃにむに片づけんけりゃ一大事じゃ!」
二人は狂気のごとく穴を掘り、船戸巡査の屍骸を投げこみ、怖ろしい勢いで砂をかけた。そして闇《やみ》の風をついてアシュラのように監獄のほうへ駈けもどっていった。
――裏切ったと気《け》どられてはならぬ、というサルマタらの「神算鬼謀」は、やむを得ぬこととはいいながら、ここでついに破綻《はたん》したのだ。やがて第一獄棟の廊下にはいった両看守は、しかしさすがに何事もなかったように冷静の仮面をかぶりなおしていた。するとそこで、松倉老看守が何やらおちつかぬていでゆきつ戻りつしているのと逢《あ》った。
「大雑居房に、サルマタの直熊《なおくま》はおるか」
と、鳥居が声をかけた。
「いや、サルマタは腸チブスにかかって――」
「え、チョ、腸チブス?」
二人は狐《きつね》につままれたような表情になって、
「い、いつ?」
「それが判明して、ほんのいましがた隔離病棟へ運ばれていった。原|胤昭《たねあき》もいっしょにな」
「なに、原も腸チブスにかかったのか!」
「いや、原は奇特にも、自分から腸チブス病棟の看護人を志願して同行したんじゃが」
鳥居と寺西は、口をアングリとあけたままであった。
三
――この二人の看守が、ここ数日熱感と倦怠《けんたい》感あり、と腸チフスの前駆症状らしき体調を訴え、数日の賜暇《しか》を願い出て許可されたのはその翌日のことであった。
さすがの彼らも、死の牢獄《ろうごく》ともいうべきチフス病棟に踏みこむことには、二の足を踏んだ。ひとまず原とサルマタは悪病の魔神にまかせよう。それよりも、もう一方の化師《ばけし》の秀《ひで》、邯鄲《かんたん》お町《まち》、さらに十字屋のおひろ、この連中こそ一刻も早くこの世から抹殺しなければならぬ。彼らはそう焦燥して、島から町へ出たのである。
その日、築地側の渡し場に着いた二人は、例のさんず茶屋の前を通りかかった。鳥居|鶏斉《けいさい》は例のごとく棒をかかえている。
さんず茶屋は、きょうも入獄者の見送り人、出獄者の出迎え人たちで混雑していた。
両人はそれも眼にはいらないかのように通りぬけようとしたのだが、ふと鳥居看守は自分を見つめている視線を感じて、ヒョイとそのほうに顔をむけた。
茶屋の軒下に、鳥打帽をかぶった若い男がこちらを見ていた。若い男というより、十七、八の少年だ。
それが、ふいにぱっと飛び立って逃げ出した。
「はてな?」
あっけにとられて見送っていた鳥居は、ひと息吐いて、
「あいつか!」
と、叫んだ。
「何だ、あれは?」
と、寺西が訊《き》く。
「ぬらりひょんの安《やす》の乾分《こぶん》だ」
「巾着切《きんちやくき》りか」
「安が、檜《ひのき》巡査を殺したとき、そばにいた野郎だが――だれか仲間を見送りか出迎えにここに来ていたものだろう」
「ほう」
「そして、船戸巡査によれば、そのときスった例の鹿鳴館《ろくめいかん》の献立表をまたアメリカ人の神父に戻した可能性が強いという――それがあのチンピラだ」
「それは――」
と、寺西はやや気色《けしき》ばんだが、その少年スリの姿はもう影も見えなかった。
「しかし、いまはそれどころではない」
寺西は首をふって、
「それよりまず、化師の秀と邯鄲お町だ」
と、いった。彼らは化師の秀が船戸巡査のピストルで死んだことをまだ知らない。
二人は、神田|猿楽《さるがく》町の、鳥居が知っている近江屋という旅籠《はたご》に滞在することにきめていたが、それより先にその足で、築地居留地の唐人町のお町の棲家《すみか》に向った。――寺西看守にとっては、思い出すのもふるえの来るほど汚辱の記憶を残している家だが、この際やむを得ない。
そこへいったが、お町はいない。家主の唐人に訊くと、昨晩から留守のようだ、という。
彼らは、こんどは銀座三丁目へ足をむけた。十字屋にいって、妹娘の動静をうかがうためだ。
銀座には、師走の風の中に、人々が歳末らしいあわただしい波をえがいている。
すると、ちょうどその十字屋のガラス戸をあけて、三人の男女が出て来た。一人の娘と大男二人だ。
「それじゃ僕はあさって来るが」
と、山高帽に羽織はかまの男がいった。
「今夜と明夜は、岸田先生にたのむ。おひろさん、用心して下さいよ」
「うん、たしかに我輩がひき受けた」
と,洋服に赤いトルコ帽の大男がいった。
寺西と鳥居はそのそばを通りぬけた。看守は巡査と同じ服装だ。そのとき三人は、ちらとこちらを見たが、特別の反応は見せない。
ただ、山高帽の男に、娘がおじぎしただけである。
その大男は、そのまま寺西たちとは反対のほうへ立ち去ってゆく。しばらく見送って、トルコ帽の男と娘も、店にはいっていった。
「ありゃ岸田|吟香《ぎんこう》だな」
と、鳥居がいった。
「うん」
この銀座の名物男の名は二人とも知っていた。もう一人の大男は知らないが、これは洋風浮世絵の小林|清親《きよちか》であった。
が、二人の眼に彫《ほ》りこまれたのは、いまの娘の立ち姿であった。
「あれが十字屋の妹娘か」
「きれいな娘じゃな。姉のほうも美しかったが」
寺西が、とがった口で舌なめずりした。
両人は、はじめておひろを見たのだ。いままで実物の姿を見たこともないのにこれを殺害の対象にして狙っているのだから、世にもひどい話である。
「しかし、あの娘、こっちを見ても、べつに怪しむ風もなかったな」
「そう見えた。しかしこっちがはじめて見ると同様、あっちも石川島におるおれたちを知らんはずじゃからな」
「それにしても……」
鳥居は首をひねった。
「もしあの娘が昨晩石川島へ来て、船戸殺害に加わっていたら、巡査と同じ姿のこっちを見て、何か不審な挙動を見せそうなものじゃが」
「では、あの娘は島に来なかったというのか?」
「それは、お町をひっつかまえんけりゃ何ともいえん」
四
――からっ風の中を、無意味に足を棒のようにして歩きまわり、彼らがふたたび居留地へ戻っていったのは日が暮れてからのことであった。
もういちどお町のねぐらを見あげたが、その窓には依然灯影は見えない。
「あいつ、どこかへ逃亡しおったか?」
「ううん。ともかくも巡査を殺《や》ったのだから、そのおそれはあるな」
二人は当惑した顔を見合わせた。
怒りと焦燥に身を灼《や》いて猛然と島から出て来たが、さてめざす相手がゆくえをくらましたとなると――それが当然のことだが――たちまち途方にくれないわけにはゆかない。しかも彼らは、捜索に馴《な》れない看守なのだ。さらに、巡査が殺された事件というのに、警視庁の協力も仰げない事態である。
「化師《ばけし》の秀《ひで》の住みかは?」
「知らん。いや、どうやらきゃつ、ここでお町といっしょに住んでいた、とか聞いたが……」
そのとき鳥居が、きっとふり返って闇《やみ》をすかし、
「そこにおるのはだれだ?」
と、叫んだ。
「待て!」
数|間《けん》のかなたから、あわてて逃げ出す足音がした。が、鳥居の腕があがると、そちらへうなりをたてて飛んだ棒が、その影の足にからんで打ち倒した。
二人は馳《は》せつけ、そこにころがってうめいている人間をおさえつけ、その顔をあおのけにした。
「きさまか!」
叫んだのは鳥居だ。――彼は夜目にも、それがひるまさんず茶屋で見かけた巾着切《きんちやくき》りの小僧の顔を見いだしたのであった。
「わっ、かんべんしておくんなさい!」
「きさま、たしか――銀次とかいった野郎だな。なぜおれたちのあとをつけた?」
「旦那《だんな》方をつけて来たんじゃあねえ。お町|姐御《あねご》のようすを見に来たんでさあ」
と、銀次は弁解した。
「なに、お町を……なんのためにだ?」
「ちょっと、おいら、恨みがあるもんだから、仕返《しけえ》しをしてやりてえと思ってね。……」
「恨み? どんな恨みが――」
「ひと口にゃいえねえ、ちょっとその手を離しておくんなせえ。もう逃げやしません。痛え! 足が折れたのかも知れねえ」
ひきたてて、坐《すわ》らせて訊問《じんもん》してみると――邯鄲《かんたん》お町《まち》は、親分ぬらりひょんの安《やす》が死んだあと、本所のその家へいって、言葉たくみに女房から、有金ぜんぶまきあげていったという。
「いくら悪党同士ったって、ゆだんもすきもありゃしねえ。……」
と、この少年悪党は愚痴をこぼした。
二人の悪看守も、これには苦笑して、
「しかし、お町はおらんぞ」
「そうらしうござんすね。どこへずらかりやがったか、化師の兄さんといっしょだとすると……」
「きさま、ほかに心当りがあるのか」
「いや、ねえ。あったらここへ来やしませんよ。また、知ってたってここじゃいえねえ」
「こら、心当りがあるならいえ。かくし立てするとただではすまんぞ」
「そういわれたって、あれでも悪党仲間でござんすからね。それを警察《さつ》にいうわけにゃゆかねえ。悪党が警察《さつ》とグルになってロクなことアねえ。おいらの親分がいい見本で――」
「こ、この野郎!」
鳥居看守は勃然《ぼつぜん》として片腕をのばして、この小ナマイキな相手のえりがみをつかもうとした。
「お町よりきさまを取調べるのが先だ。来い!」
「ま、待っておくんなさい」
銀次は地面をころがって逃げた。
「いまのはじょうだんだ。おいら、いまいった通り、あの女にゃ恨みがあるんだ」
と、手をふって、
「いったい、旦那、旦那はなんの御用でお町姐御のところへおいでになったんで?」
「そんなことをきさまにいう必要はない。ただ、容易ならぬ大罪で追っておるんじゃ」
「そ、それじゃ、あの女をとっちめるのア、旦那方におまかせしたほうがいいかも知れねえな」
銀次は両掌を打って、
「実は、お町姐御の仲間を二、三知ってます。それを当って、居場所がわかったら旦那方にお知らせしやしょう。そういうことで、ここはかんべんしておくんなさい」
「きさま……しかし、ゆだんできないやつだ。いつか伴天連《ばてれん》からスったものを、安《やす》の片腕ごめに持ち去って、また伴天連に返しおったろうが」
「あっ、あのとき旦那はあそこにいましたか。いや巾着切《きんちやくき》りがスったものを、親分にことわりもなくとりあげられちゃあ、巾着切りのつらよごしでござんすからね。とはいえ、今から思や何とも申しわけねえことをいたしやした。そのおわびもかねて、こんどは旦那方のためにひと働きしてえ。どうか信じておくんなせえまし」
まだどこか童顔の残る顔には似合わしからぬ、ひと筋縄ではゆかない口をきく。
「その言葉にまちがいないな?」
スリ小僧の誓約につられたわけではないが、何より邯鄲《かんたん》お町のゆくえをつきとめることが焦眉《しようび》の急で、両看守は自分たちの滞在予定先の神田の宿に連絡することを約束させて、その少年巾着切りを釈放してやった。
あくる日から、二人は七変化の化師《ばけし》の秀《ひで》と売笑婦のクイーン邯鄲お町のゆくえを求めて、彼らが出没しそうな東京の盛り場を、手分けして狂犬のようにさまよいはじめた。
どこでも砂ぼこりをまきあげている寒風の中を歩きながら、二人はどちらも同様に、
――とんでもないやつらを仲間にひきずりこんだものだ!
あるいは、
――いったいおれたちは何のためにこんなことをやり出したのだ?
と、胸中に呪《のろ》いの言葉を吐き、しかし悔いよりも怒りに胴ぶるいし、歯をかみ鳴らしている。
だいいちこうなったら、自己防衛のためにももう手をひくわけにはゆかない。飼犬に手をかまれるどころか、のど笛もかみ裂きかねない大変なやつらだ!
五
さても姿は巡査と同様の官服を着て、これが言語道断の手前勝手な殺し屋とは、盛り場でゆきちがう人々のだれが知ろう。
が、飛び立った闇《やみ》の妖鳥《ようちよう》二羽は容易に見出すべくもない。
彼らとて、ただ盛り場を芸もなく歩きまわったわけではなく、いつか寺西が蝮《まむし》のお政からお町の居所を聞き出したように、石川島での見聞から秀やお町を知っていそうな出獄人を訪ね歩いて聞きこみをやったのだが、こんどはうまくゆかなかった。
と、四日目であった。
夜ふけて、足を棒のようにして、二人が相ついで神田猿楽町の宿へ帰って来ると、下女が、きょう夕方、一人の若い男がやって来て、あした午後七時ごろ、麻布六本木の「いろは牛肉店」へいってみるように、という伝言を託して去ったと報告した。――銀次にちがいない。
いろは牛肉店というのは、四、五年前から木村荘平という男が東京じゅうに出した牛鍋屋《ぎゆうなべや》チェーン店である。みな妾《めかけ》にやらせ、いまは十数軒だがゆくゆくは四十八店にするというので「いろは」と名づけたとは、人をくっている。
翌日、その時刻を待ちかねるようにして、二人は六本木の「いろは」第十六支店におしこんでいった。
「いろは」は、どの店も、同じ五色ガラスを市松もように立てまわした二階家で、いれこみの座敷にランプをつらね、コンロをならべて牛鍋をつつく。肉やザクを運ぶ女中も、みんな銀杏《いちよう》返し、銘仙のきものにたすきがけ、紺|足袋《たび》キリリとはいたそろいのいでたちだ。
それが、いきなり闖入《ちんにゆう》して来た二人の巡査――一般には巡査としか見えない――しかも一人は棒さえかかえているのを見て、みな口もきけず立ちすくんだ。
二人は、こちらもものもいわず、その大広間の戸口に立って中をにらみまわした。
――いた!
鳥居と寺西は顔見合わせて、うなずき合った。
ほとんど満員に近い客の中に、まるで浮きあがった天女のように美しい顔を、彼らはすぐに認めたのである。その顔はちょうどこちらを向いて笑っていた。
むろん、こちらに気がついてではない、喧騒《けんそう》と湯気の中に、彼女は近づいてゆく二人の姿さえ眼にはいらなかったようだ。
二人は、その相手として坐《すわ》っている男に眼をやった。
――化師《ばけし》の秀《ひで》か?
ちがう、どうやら、なんと異人のようだ。
で、それを無視して、「お町《まち》」と、寺西は呼びかけた。
お町は、水のたれるような銀杏返しの頭をあげて、さすがにちょっと狼狽《ろうばい》の表情を見せたが、すぐに艶然《えんぜん》として、
「おや、旦那《だんな》。お久しぶり……まあ、一杯いかが?」
と、横の席にあごをしゃくった。寺西は土足のまま、
「馬鹿《ばか》をいえ。ちょっと来い!」
「どこへ?」
「石川……いや、警視庁へだ」
「警視庁? 何の御用で?」
「そんなこと来ればわかる。とにかく来い!」
さしのばした手をふりはらい、
「こんなところで、何をヤボなことどなってるのさ。あたしゃ今夜このひとに約束があるんだよ。このひとがいいといわなきゃ、どこへもゆけないよ!」
と、いった。
「このひと」と呼ばれたのは、しゃれた口ひげをはやした、まだ若い異人であったが、立っている二人を見上げ見下ろし、また女を見て、
「あたしゃ、いいとはいわないね」
と、変なアクセントの日本語でいった。
「それじゃ、ムッシュー、あたしゃさっきいた場所で待ってるからね」
お町は立ちあがって、
「お先に失礼。……ちょいと、ごめんなさいよ」
と、近くの客をかきわけて立ち去ろうとする。
「待て!」
追おうとする寺西と鳥居の前に、異人が身を起して立ちふさがった。手に白い紙のようなものをぶら下げている。それから、洋服なのに白|足袋《たび》をはいていた。
「じゃまするか、毛唐!」
「あれは重大事件の容疑者だ。公務執行妨害になるぞ!」
ほえたてる二人に、異人は胸の前に紙をひらいて、
「ちょと、あなた方、描《か》かせて下さい。その棒を持ったひと、その鳥みたいな顔したひと、実に面白い。ジャポネのポリス、愉快なマンガになります」
と、その紙に何かかき出した。それはスケッチブックであった。これには呆《あき》れ、ひと息ひるんだのち、
「き、きさま、何者だ?」
と、叱咤《しつた》する寺西に、異人は答えた。
「私? 私、日本帝国陸軍士官学校、画学教授、ビゴーというフランス人ですが……」
――やがて、あらゆる職業の日本人、あらゆる日本の生活風景をスケッチし、醜悪|辛辣《しんらつ》なカリカチュアの銅版画として売り出すことになるジョルジュ・ビゴーは、日本に来て二年ほどにしかならないが、そんな絵をかく目的と人見知りしない性格と見さかいのない女遊びから、もう悪達者なほどの日本語使いになっていた。
そんなことは知らないが、いまの日本帝国陸軍士官学校|云々《うんぬん》に、さしもの両看守も胆をぬかれて、数瞬ヘドモドしている間に、めざす妖鳥《ようちよう》は大広間にゆれる何十人かの客と、無数のコンロと湯気のかなたへ、あっというまに舞い去ってしまった。……
六
それからまた、三、四日目。
ふたたび銀次から伝言があった。明日午後、芝紅葉館にお町がゆくはずだから、三時ごろその東館の大廊下あたりを見張っているように、とのことであった。
スリの小僧の知らせとはいえ、それがでたらめでないことは「いろは」の例でわかった。こんどはとり逃がしてはならぬ!
その日、鳥居と寺西は、またそこへ急行した。
紅葉館は芝の増上寺を見下ろす紅葉山という小高い丘の上にあり、大庭園をかこむようにコの字型に建てられた宏壮《こうそう》きわまる大料亭であった。
ここでは芸者の出入りは許さず、代りにそろいの腰元風の衣裳《いしよう》をつけた数十人の女中に接待させ、それでかえって上流の紳士淑女の客を集めた。――その女中の一人|須磨《すま》と硯友《けんゆう》社の文士|巌谷小波《いわやさざなみ》が恋愛して、実録「金色夜叉《こんじきやしや》」の幕があがるのは、これより十年ばかりのちの話となる。
二看守は、紅葉館の支配人に名刺を出して、石川島の出獄人の重要容疑者がきょうここに潜入したという情報があったので、ひそかに監視する場所を与えてもらいたい、と申しこんだ。支配人は驚き、しかし他の客の迷惑にならないようにという条件で承諾した。
午後三時ごろ――膳椀《ぜんわん》の置場所となっている小部屋からちょいちょい顔を出して、二人は大廊下を見張っていた。
その大廊下には、来る客去る客、それを案内する女中たちが、きらびやかな波のように往来している。純然たる和風料亭だが、洋服の男女も多い。
と――それにまじって、向うから洋装の女がひとり歩いて来た。
はじめ、異人の女かと思った。ボンネットというのか、黒い帽子に黒いリボンをあごに結び、ひじまである黒い手袋をはめ、全身黒ずくめで、それがまた何ともいえない優雅さだが――まさしく邯鄲《かんたん》お町《まち》だ。彼女はいままで、この紅葉館のどこにいたのだろうか。
それが、前までやって来たとき、二人の看守は突然現われて前後をふさいだ。
「お町」
おすまし顔のお町は、さすがに驚いた眼で棒立ちになった。
「先日は逃げられたが、きょうはそうはゆかんぞ」
「警視庁へ来い!」
お町はウロウロと眼をさまよわせたが、そのとき、ふと向うから来る一団の中にだれかを認めると、
「あっ、秀さん!」
と、呼びかけた。
「なに、秀?」
二人がふり返ったとたん、お町はトトトと走り出し、
「秀さん、助けて!」
と、その一団の中の――一人の女性にしがみついた。
それは三十半ばの、大柄な、丸まげに黒紋付お召の婦人であった。どこかきつい顔をしているが、どう見ても身分ある女性にはちがいない。
「はてな? あれが?」
「化師《ばけし》の秀《ひで》か!」
二人の看守は眼を皿《さら》のようにむき、半信半疑の顔でそばへ寄って、その女を凝視した。――いまお町とともに探し求めている化師の秀の神変ぶりや、彼が女装して貴婦人をひっかける犯歴はよく知っていたのである。
「このたわけ者《もん》っ」
「わいら、何やつじゃっ」
たちまち、凄《すさま》じい怒号の嵐《あらし》が吹いて来た。
気がつくと、その婦人のうしろに立っているのは、羽織はかまや胸に肋骨《ろつこつ》をつけた官服の、あきらかに警察の大官姿ばかりであった。
「これは警視総監|樺山資紀《かばやますけのり》閣下夫人であるぞ!」
二人の看守は尻餅《しりもち》をついてしまった。
その間に邯鄲《かんたん》お町《まち》は、横の大障子《おおしようじ》をあけて、その中で大宴会をやっている座敷をスタスタつっ切って、向いの唐紙《からかみ》をあけて消えてしまったが、それを追うどころの騒ぎではない。
弁明のしようもない始末で、両人は身をもんでひたすら平伏陳謝するほかはなかった。
さんざんあぶらをしぼられて、ほうほうのていで、二人は神田の旅宿へ逃げ帰ったが、この打撃のために以後一両日、腑《ふ》ぬけみたいにへたりこんでいるばかりであった。
「おい、あの女、しばらく捨てておくか?」
と、さしもの鳥居が音《ね》をあげた。
「あの女より、島に残っておる原が、その後どうしておるか気がかりじゃ」
「もう腸チブスでくたばったのではないか」
「そうであったらいいが、もし生きておればあっちも始末せねばならん。むしろあっちのほうが本能寺じゃ!」
「ううん。……いや待て」
寺西|冬四郎《とうしろう》は歯がみして、
「あの女、やはり捨ておけぬ。ここまで白痴《こけ》にされて手がひけるか。こうなったらいよいよあのあばずれの首すッ飛ばしてやらんけりゃ気がすまぬ!」
するとまた三日目の夕方だ。
宿の女中が伝えるには、いままたあの若い衆がやって来た。旦那《だんな》方はいらっしゃるから、じかに会ったらといったところ、いや急ぐから口づてで頼むといい、今夜十時過ぎ、銀座の天賞堂裏側に函館屋という居酒屋がある。そこへいってみな、と、いいおいて、風のように去ったという。
銀次だ。いままでのところ、あの小僧のさしずに嘘《うそ》はない。
「これだから、やっぱりこっちから手を離せぬ!」
「よしっ、今夜こそは!」
二人は、その時刻、指定の場所にかけ向った。
けだもの勝負第四番
一
宝石店の天賞堂は知っていたが、函館屋なんて居酒屋の名を聞くのははじめてだ。いってみると、それは煉瓦《れんが》街の一画をしめる――が、裏通りだけあって、別の町のようにうらさびしい場所にあった。
そこにはいるときから、何となく日本の居酒屋とは肌がちがう印象があったが、はいってみると――二人は心中ややぎょっとした。
細長い部屋に、四つ五つのテーブルがおかれ、そこで洋燈を中心に酒を飲んでいるのは、はじめ異国人ばかりかと思ったが、それは三分の一ばかりで、あとはどうやら日本人らしいが、飲んでいるのはあきらかにグラスの洋酒だし、パイプをくわえている者もある。男の洋服はなんだか船乗り風が多いようであった。
そして、遠いカウンターに一人の女が坐《すわ》って、まるまるとふとった中年のバーテンと何やら話していた。むろん看守たちはカウンターとかバーテンとかいう呼称は知らない。が、その女がまさしく洋装の邯鄲《かんたん》お町《まち》だと見て、二人はつかつかとそのほうへ近づいていった。
さすがに客たちは、その官服を見て、ちょっとどよめいた。お町はふりむいて、
「まあ、旦那《だんな》方――」
と、眼をまるくしたが、すぐに客に向って、
「みなさん、おしずかに――これはこんなお姿していなさるけれど、あたしのお仲間さんです。悪いほうのねえ――ほほほう」
と、笑った。
両看守は酢《す》をなめたような顔で、そばに寄り、
「ふといやつだ」
「来い!」
と、低い声でいった。お町は平然として、
「よくわかりましたねえ。さすがはお二人ね。――まあ、ここへお坐んなさいよ」
と、左右をかえりみた。ちょうど両側の椅子《いす》があいていた。そしてバーテンに、
「こ、この旦那方にもさしあげて――そう、ブランデー」
と、いった。
落ちつきはらっている、というより、あきらかにこの女は酔っていた。が、二人を見あげる笑顔はぼうっと酒に染まって、何という人間ばなれした妖艶《ようえん》さだろう。
「馬鹿《ばか》、ここで酒など飲んでおられるか」
「立て!」
お町はすっとぼけた表情で、
「あら、旦那方、でも、何の罪であたしをひっぱるおつもりなの?」
寺西は身をゆすって、
「ふざけるな、きさま何度もおれたちを巻いたり逃げたりしたではないか」
「そりゃ旦那方を見りゃ、す、雀《すずめ》がノラネコを見たようなもんで、見ただけであとさき考えず逃げますさ。いえ、もう逃げやしないけど――ああ、ふ、船戸の旦那の件ですか?」
鳥居が馬面をつき出して、
「おう、それだ。どういうわけで船戸を殺した?」
「あたしが?」
「船戸は断末魔で、秀《ひで》とお町《まち》に殺《や》られた、といった――」
お町は観念したように、
「こ、殺したのは化師《ばけし》の兄さんよ。あたしゃそれを見てただけ。ほほう」
この場合に、また笑って、つき出した鳥居の顔に、ほうと息を吹きかけた。甘い、強烈なアルコールの匂《にお》いにもろにつつまれて、鳥居は一瞬クラクラとした。
「ど、どうしてそんなことになったのじゃ?」
と、せきこむ寺西に、
「それ話すわ。は、話すけど、まあ、お坐《すわ》んなさいよ」
と、いいながら、またブランデーの息を吹きつける。
バーテンがカウンターに、琥珀《こはく》色の液体を満たした大きなグラスをおいた。気がつくと、向いの壁の棚には何十本という洋酒の瓶がきらびやかにひかって、いくら文明開化といっても日本の風景とは思われない。
二人はまだそれを飲まないのに、この魔界の雰囲気に酔ったようになって、ふらふらとお町の両側の椅子《いす》に坐ってしまった。
「あの晩のことですか。――」
と、お町は話し出した。
あの晩、築地の河岸で、船戸の旦那と化師の兄さんと、十字屋の妹娘を連れ出す手はずについて談合中、何思ったか船戸の旦那が、事が首尾よく終ったら、おれがお町、お前のねぐらにいって可愛がってやる。だから秀は今夜どこかほかのところに泊ってくれ、と、とんでもないことをいい出した。それで秀とケンカになり、とどのつまり両人、石川島へ渡ってピストルと出刃包丁《でばぼうちよう》の果し合いということになった。――
それが、どうしたことか、船戸の旦那のピストルはみんなはずれ、化師の秀の出刃包丁にしてやられる結果になった。――云々《うんぬん》。
「でも、こんな話、旦那方、ちょっと信じちゃくれないでしょ? だから、あたし、逃げたのよ。――」
お町はまことしやかにしゃべったが、これがみんなでたらめだ。
二
それに、話はつづめていえば右の通りだが、その間、酩酊《めいてい》のせいか、お町のおしゃべり、息づかい、身体のくねらせ方の色っぽさは言語に絶し、二人は話の内容など恍惚《こうこつ》の天外へ飛んでしまいそうであった。
そればかりではない。お町は眼の前の銀盆に盛られている西洋菓子をとって、
「あたし、ブランデーのサカナにはこれがいちばんなの」
と、口に運ぶ。四角なのもあり丸いのもあるが、チョコレートというお菓子だと説明し、はてはその丸いのをとって、銀紙をむいて、看守の口にいれてやったりする。
思わずかみつぶすと、それは口の中でぱあっと強い洋酒の匂《にお》いを散らした。ウイスキーボンボンというものだそうであった。のみならず、
「だ、旦那《だんな》、こうして食べたらお味はいかが?」
と、自分の口にいれたものを半分唇からつき出し、看守の一人に口づけで移してやった。――
「むむむっ」
一度目は眼を白黒させたが、二度目はその眼をギラギラさせて食べさせてもらい、三度目は恍惚とした顔で、もう一つ、と自分から口をつき出した。
さて、これが全然一方的なのである。
どういうわけかお町は、ウイスキーボンボンのチョコレートを、左側の鳥居看守だけに口移しで食べさせた。
右側の寺西看守は大いに気をもんで、
「そ、それじゃ十字屋の妹娘は連れ出さなかったのか!」
とか、
「化師《ばけし》の秀《ひで》は、それからどこへいった?」
とか、横から口をさしはさんだが、お町はけだるげに、「ええ、そう」とか、「あとで別れたっきり、秀さんがどこへいったか知らないんですよ」とか、よそよそしい返事はしたが、その口で鳥居看守に十個目くらいのボンボンを供給してやり、寺西看守にはまるでとり合わない。
寺西看守は頭に来て、その間ブランデーをがぶ飲みした。鳥居はボンボンとお町の唇の蠱惑《こわく》に悩殺されつくしている。
この「差別」は、一時間ばかりたって、
「とにかく、お前は勾引《こういん》するぞ。鳥居、ゆこう」
と、寺西が憤然と立ちあがったときに、両看守の対決という結果を呼んだ。
「いや、そういう話では、この女より化師の秀をつかまえるのが先決じゃ」
そう、鳥居が首をふったのだ。
「このお町《まち》は、しばらくほうっておけ」
「馬鹿《ばか》っ、せっかくここにとらえたものをまた縄から離せというのか!」
両者の声は高くなり、べろんべろんのお町が身体をクネクネさせながら、
「うるさいわねえ。お二人、外に出て早くきめてよ、あたしはどうだっていいよ」
と、いったことで、両人、夜の裏通りへ出て、あわや棒とサーベルが火花を発する寸前までいって、鳥居看守が、「それではおれは、化師の秀を探す」といって立ち去ることであやうくおさまった。
寺西がもういちど函館屋をのぞいていたとき、お町の姿はもう消えていたが、しかし寺西は鳥居に対する激怒だけに燃えたぎっていた。
実は化師の秀は、あの晩、屍骸《しがい》を小舟にのせられて、お町が海へ流したのである。その後それが発見されたという新聞記事も出なかったから、その小舟は東京湾から外海へでも流れ去ったものであろう。
ガス燈けぶる銀座を羽ばたきして走りながら、しかし邯鄲《かんたん》お町《まち》は、酔っぱらった声でつぶやいていた。
「だけどあたしは、何のため、だれのために、こんなことをやってるんだろ?」
お町は二人の看守を翻弄《ほんろう》していたのであった。
ほんとにつかまれば万事休すなのだから、これはいのちがけの鬼ごっこであった。あの船戸巡査対化師の秀の凄惨《せいさん》な決闘の翌日、お町は、ぬらりひょんの安《やす》を介して知った乾分《こぶん》の銀次にたのんで、さんず茶屋にいってもらった。
船戸の屍骸が石川島に残された以上、前後のいきさつから寺西鳥居の看守が自分たちを不問に付すとは思われないし、また原胤昭《はらたねあき》らがその前に島ぬけの行動を起していると見られる以上、何か彼に異変が起っている心配もある。それを銀次に聞きこんでもらうためだ。
そのさんず茶屋で銀次は、すごいけんまくで島から渡って来た二人の看守を発見した。彼らの目的が、化師の秀と自分お町を捜索するためであることはあきらかだ。
以後、お町の狙いは、少年スリの手をかりて、その両人を自分にひきつけることにあった。
すでに彼女は、どうやら石川島で原がぶじでいるらしいことを知っている。彼が釈放される日まで、危険な二人の看守がこちらに出て来た以上、島へ帰る余裕を与えず、自分のクモの糸でからめておかなければならない。
狙いは、あたった。「いろは」でなじみの異人の画家を利用したのは計算の上だが、芝紅葉館で警視総監夫人を藁《わら》人形にしたのは、ゆきあたりばったりの出たとこ勝負であった。そしてこの函館屋では、ウイスキーボンボンで、とうとう二人の看守を仲間割れまでさせてしまった。――
「あたしはむろんそうだけど、あいつらもなんて馬鹿野郎《ばかやろう》なんだろ。……」
闇《やみ》の底を走りながら、こんどはお町《まち》は笑った。
「だけど、あたし、生まれてはじめて面白いことやってるような気がするよ。……」
しかし、お町は相手を少々なめすぎた。――
寺西たちを、おっかないやつらだとはむろん承知していたが、彼らは彼女の想像以上におっかない「狂」の素質を持った男たちであった。もっとも、こっちの仲間だっておなじだが。
三
それから三、四日たった午後。
ひるごろから雪になった銀座三丁目あたりで、寺西|冬四郎《とうしろう》はふと、向うから急ぎ足でやって来る松倉看守の姿を見かけた。
いちど路地に身をかくしかけたが、すぐ思いなおした風でまた出ていった。
「松倉さん」
「や」
松倉看守は眼をまるくして、
「寺西君じゃないか。……はてな、病気で欠勤と聞いたが……」
「いや、そっちはだいぶよくなりましてね。あしたごろから出勤しようと思ってるんですが……きょうはどこへ?」
「うん、そこの十字屋へ」
「十字屋へ? 何御用で?」
「明日、例の原が出獄するのでね。こちらはちょっと銀座で買物の用もあったもんじゃから、それじゃついでにわしが知らせてやろうと受け合ってやって来たわけじゃが」
この元|徳川《とくせん》御家人の老看守が、原に好意を持っているらしいことは、うすうす寺西も気がついている。
それはそれとして寺西は、いまの相手の言葉にはっとしていた。
「原が明日出獄ですと? 原の出獄は今月末か、来年早々じゃありませんか」
きょうはたしか二十四日のはずだ。
「いや、未決|勾留《こうりゆう》分をいれると、明日になるそうじゃ。……迎えの都合もあるだろうから、ちょっと教えておいてやろうと思ってな。では」
松倉看守はそういって、十字屋のほうへ歩いていった。
寺西はそのあとを見送って棒のように立っていたが、からくもわれに返って、大通りを越えて反対側の軒下に移った。
それから、十字屋のほうを眺めながら――身体は凍結したように動かなかったが、頭の中は熱泥《ねつでい》のごとくわき返っている。
寺西は一人であった。鳥居とケンカしてから、それまでいっしょに泊っていた神田の宿を別の宿に移し、別行動でお町《まち》のゆくえを追っていたのだ。
が、お町の所在がつかめないままに、この二、三日、十字屋を見張っていたのである。こちらの妹娘も放ってはおけないからだ。
しかし、通りすがりにガラス戸越しにのぞいてみると、いつも帳場には二人の大男のどちらかが坐《すわ》っていた。日によってちがうが、一人は赤いトルコ帽の岸田|吟香《ぎんこう》で、もう一人は、いつか十字屋から出て来たのを見かけた男であった。きょうはその男がいた。どうやら交替で用心棒を相勤めているらしい。
それでつい手を出しかねたのだが――いま突如として事態は急迫した。
あした原が出獄して来ると――それも捨ておけぬことだが――お夕《ゆう》の消滅がただごとでないことがただちに判明する。彼を迎えるあの妹娘を、いま即刻に始末せねばならぬ!
やがて、松倉看守が十字屋から出て来て、もと来た道を帰ってゆく。寺西は惑乱した。さていかがすべき?
と、数分して、十字屋のガラス戸があいて、おひろが出て来た。そして、雪の中に蛇《じや》ノ目《め》をひらいて、いそぎ足で一丁目のほうへ歩き出した。
雪はふっているが、まだ路上につもるほどではない。
この瞬間に、寺西の覚悟はきまった。
彼はこちらの軒下をしばらく歩き、やがて大通りをまた渡って、娘のうしろに追いついた。
「もしもし、十字屋の娘さん」
呼びかけられて、おひろはふり返った。
「は?」
いぶかしげな表情になったが、べつに逃げようとはしない。
おひろの頬《ほお》は、いままでのつづきで傘の下に笑みさえたたえて、匂《にお》うようなばら色であった。
彼女はいましがた、わざわざやって来てくれた石川島の牢《ろう》役人から、明日|胤昭《たねあき》が釈放されるという知らせを聞いた。その歓喜のあまり、ちょうど清親《きよちか》さんはいたけれど、一丁目の楽善堂、岸田吟香のもとへ報告にゆこうと出て来たのだ。
半月ほど前、化師《ばけし》の秀《ひで》と邯鄲《かんたん》お町《まち》がやって来て、わけのわからないことをいい、秀がおひろに化けて出ていった事件があり、うす気味悪くてあとで吟香さん清親さんに相談し、以来二人が用心棒に来てくれることになったけれど、実は彼女はそれほどこわがっていない。姉のことは頭痛がするほど心配だけれど――さればとて胤昭《たねあき》さんの安全は疑っていないし、いわんや自分の危険など感じていない。
果せるかな、胤昭さんが明日釈放されるというのだ。ふりむいたおひろに笑顔が残っていたのはむりもない。
それに、この巡査は――彼女には巡査に見えた――はじめて見る顔だ。
「あした原君が御放免になるそうですな。おめでとう」
寺西はしかし、むずかしい顔で近づいて、
「ところで、お姉さまのことですがね」
と、ささやいた。
おひろの顔のかがやきが、さっと曇った。
「御存知かも知らんが……お姉さまがちょっとあぶない行為をなさって……まかりまちがうと原君の放免にもさしさわりの出かねないことで……」
「えっ、姉はどこにいるのです?」
「すぐこの近くのあるところに――」
「この近く? どこです。いったい姉は何しているんですか?」
「それはお逢《あ》いになってから申しましょう。ゆきますか?」
寺西は仔細《しさい》ありげに、重々しくいった。
「ま、参ります!」
と、おひろは叫んだ。
この意味不明の数語で、おひろは動顛《どうてん》し、まんまとひっかかってしまった。いやしくも官服を着たこの男が、自分のいのちを狙う死神だとは想像を絶している。
やがておひろは、寺西の案内するままに、雪の中を築地のほうへ急いでいった。
おひろは、自分がどの方角へ歩いているのか、それもわからない。雪のふっていることさえ眼にはいらない。
が、前後左右に眼をくばる寺西は、自分たちのあとをつけて来る一つの影に気がついた。――まちがいなく、あのスリ小僧の銀次であった。
四
そのとき寺西は、突然眼からウロコが落ちたような気がした。
この半月ばかりの自分たちの醜態についてである。あれは邯鄲《かんたん》お町《まち》がこちらをひきつけておくためのジラシの行為ではなかったか。――そうにちがいない!
あの小僧は、はじめからお町とグルであったのだ。あいつはおれの行動をたえず見張ってお町に報告していたにちがいない。
かっと頭に血がのぼるとともに、彼は、しめた! と心中手を打った。
いまおひろを処理するだけではなく、それ以上にお町を早く始末しなければならないのだが、どうしてここへお町を呼びよせるか、実はその手段に困っていた。夜、これからゆく先の場所に灯でもともせばお町が吸いよせられるのではないか――とも考えていたのだが、そんなことでは間に合わぬ事態となった。
それよりいま、おひろを餌《えさ》にしてお町を釣りあげる、まさに一石二鳥の妙案が頭に浮かんだのだ。
「ちょっと待ちなさい。いい伝言人を見つけた」
曲り角を曲ったところで寺西はそういうと、つかつかとひき返していった。
逃げるまもなく立ちすくんでいる少年銀次の前に立って、寺西は低い、が威嚇的な声でいった。
「見る通り、十字屋の妹娘の生き死には我輩の手中にある。お町にそういえ。唐人館のお町のねぐらで待っておると」
そして、またおひろのところへ戻って、
「いま、お姉さまを呼んで来るように伝えましたよ」
と、いった。さっきとはちがうその言葉に、疑問を投げる余裕もおひろは失っている。
やがて二人は、築地居留地――居留地になりきらないでまだ草原のままの一画、元|遊廓《ゆうかく》の廃墟《はいきよ》を利用した怪しげな唐人館のお町のねぐらへ歩いていった。
建物の横の階段を上る。例によってずぼらなもので、戸に鍵《かぎ》はないが、中は無人だ。
が、そこにある寝台や飾り棚などのふしぎななまめかしさに、
「ここに姉が……?」
と、おひろは首をかしげてつぶやいたが、寺西は答えない。カラス天狗《てんぐ》のような怪異な相貌《そうぼう》で、眼を宙にすえている。
これは彼にとって屈辱の部屋であった。原|胤昭《たねあき》と邯鄲お町に復讐《ふくしゆう》の殺意を発生させた場所であった。
ここに来るまで、これからの自分の行動について、ほんのちょっぴりとだがひるむところもあった寺西|冬四郎《とうしろう》だが、あの日連鎖につながれて原とお町に嘲罵《ちようば》されたことを思い出すと、改めて全身の血が煮えくり返る。そのとばっちりをこの娘に浴びせかけても、なおあきたりぬほどだ。
きょうこそ二人の女のそッ首打ち落し、ついで石川島にはせ帰って、原の首をもはねてくれる。
そのあとの始末をどうするか――そんなことはいま考えてはいられない。
待っていた人間が来たのは、意外に早かった。二十分くらいだろうか。ただし、おひろにとっては、いのちを刻《きざ》むような二十分であった。この間、寺西は一語も発せず宙を見ている。彼は早くも血の幻想に酔っていたのだが、おひろはようやく自分が、人間ではないものの手でここに連れこまれたことを感じた。
「旦那《だんな》」
外で呼ぶ少年の声に、寺西は立ちあがり、戸をあけた。
雪はもう地を白く染めている。階段の下に立っているのは銀次と、まさしく邯鄲のお町であった。
時間からして、彼女は銀座|界隈《かいわい》のどこかにでもいたのだろうか。しかも、何をしていたのか、蛇《じや》ノ目《め》までさして、凄艶《せいえん》きわまる芸者姿であった。
寺西はふりむいて、
「来たようだ」
と、いった。
五
おひろは走り出て、見下ろして、それが邯鄲お町であることを知って、
「あのひと……姉さんじゃないじゃありませんか!」
と、叫んだ。
「あれが姉の居場所を知っとる」
寺西は言葉づかいも変って、
「先に下りろ」
と、あごをしゃくったかと思うと、腰の佩剣《はいけん》をひきぬいた。
「逃げれば、斬《き》るぞ」
恐怖に昏迷《こんめい》しつつ、おひろは階段を下りる。その背後にくっついて、寺西も下りながら、
「お町、この娘さんに姉さんのゆくえを教えてやってくれ」
といった。
階段の下から五、六歩のところに立っていたお町は、ぴりっと柳眉《りゆうび》をさかだてて、
「ひとの家に勝手にはいりこんで何さ。それより……そのお嬢さんをお放しよ、あたしが来たじゃないか」
と、叫んだ。
寺西は無表情に、
「来たのは、きさまが馬鹿《ばか》だからだ」
「お前さん……あたしをだましたね」
「だましたのはきさまだ、やっときさまがおれを釣《つ》ってたことに気がついたんだ」
おひろと寺西は地上に下り立った。
「おれも馬鹿だったが、これからは馬鹿ではない。こんどはきさまが釣り出された。この馬鹿め」
寺西はニヤリとして、おひろに、
「歩け、あっちだ」
と、野の一方を剣でさした。
いま出て来た銀座の町は影絵のように見えるのに、それにつづくこの一帯はいま雪に覆われつつあり、果ては灰色に茫々《ぼうぼう》とけぶるばかりで、まさに曠野《こうや》の景観を呈している。
そこへ、寺西|冬四郎《とうしろう》の刀に追われておひろが歩き、少し遅れてお町《まち》と銀次が歩く。この両人も逃げるわけにはゆかないのだ。
「お嬢さんを放してあげてよ!」
お町は絶叫した。
「寺西の旦那《だんな》……あたし、何でもするよ、どんなことでもいうことをきくよ!」
「もう遅い」
寺西はとりあわない。雪の野に鉄人のごとく足を運ぶ。
追いながらお町の顔が、生まれてはじめて苦悶《くもん》にわなないて来た。
「銀次、逃げな! お嬢さんを背負って逃げとくれ!」
銀次は輪をえがいて先回りして、おひろに追いついたが、そこではたと立ちどまった。
そのすぐ先は川であった。築地川と呼ばれているが、居留地を作るにあたって掘った堀割だ。が、とうてい人の飛び移れる幅《はば》ではない。
雪はなおふりつづき、もう一寸はつもっているだろう。
おひろはくるっとふりむき、こちらを見た。銀次がその袖《そで》をひいて何か叫んでいるが、もう動かない。蒼白《そうはく》な、しかし覚悟をきめた顔であった。
六
「そこで終りだ」
寺西は十歩ばかり手前で立ちどまり、お町をふり返った。
「きさま、おれを愚弄《ぐろう》したのはこんどのことに限らん。はじめからおれたちを裏切っておったな」
「いまごろわかったのかい、この唐変木《とうへんぼく》」
と、お町はせせら笑った。
「裏切ったなんて人聞きの悪いことをいっておくれでない。お前たちみたいな悪党にゃ、ありゃ表切《おもてぎ》ったといっとくれ。ほほほう」
「それだけじゃない。それ以前からきさまはおれを愚弄しておった――」
寺西の歯がカチカチ鳴った。あの原|胤昭《たねあき》とお町によって徹底的にやられた連鎖の一件のことにちがいない。
「しかしな、おれはお前を憎んでるのじゃない。可愛いやつだと思っておる」
とがった口から、七、八枚の牙《きば》のような歯が飛び出して、
「その可愛い女の首を斬《き》るのが、おれの一生の夢でな。……き、き、斬らせてくれえ、その美しい首を」
まるで、ふいに酔いがまわって来たように、もつれる舌でいって、寺西はお町《まち》の前に歩みよった。
さすがのお町も、思わず二、三歩あとずさりし、じいっとこの妖《よう》看守をにらんでいたが、
「昔から、そんなやつだと思ってたよ。……やんな」
と、つぶやくと、おひろのほうへ顔をむけて、
「お嬢さん、こうなっちゃ申しわけないけど、もう助けてあげられないわ。だからお町はいまこいつに殺されるけどねえ。……死んだらすぐに化けて出て、きっとお守りしてあげるよ」
と、声をかけた。一生悪だけに生きて来た女とはいえ、戦慄《せんりつ》すべき度胸だ。
同時に、ぱっと蛇《じや》ノ目《め》を投げ捨て、雪の上に芸者姿のまま大あぐらをかいたが、色っぽい上眼づかいをして、
「寺西の旦那《だんな》、死ぬ前に、ちょいとお願い――」
「な、なんだ」
「チョコレートを一つ二つ、食べさせて……いいかしら?」
「?」
さしもの寺西も、このひとを食った最後の願いには、めんくらった表情で、黙って見まもる。
お町はたもとから二つ、銀紙にくるまれたものをとり出した。その紙をむくと、例のチョコレートの玉があらわれた。
一つ、口に入れた。――そして甘ったるい声で、
「旦那、食べてみない?」
といって、もう一つ口へ――それをかるく歯でかんで、唇から半分出して、なんと艶然《えんぜん》と眼で笑ったようだ。と、そのすぼめた口から、赤いものがタラリとながれた。
その意味を知らず――なぜか、はじめてこの剣鬼が、全身|粟《あわ》立つような恐怖にかられて、
「化物っ」
化物とは自分のことだろうに、怪叫一声、その刀が銀蛇《ぎんだ》のごとくななめに走った。
ばさ! 凄惨《せいさん》な音とともに、邯鄲《かんたん》お町《まち》の首は雪の上にころがり、一メートルも噴《ふ》きあがった血潮の下に、がばと芸者姿はくずれ伏している。
「あーっ」
銀次が叫んだ。
地に落ちたままの傘のかげになって、彼のほうからは見えなかったが、傘の上へ乱れ散った血しぶきに、さしもの怪少年もべたりと尻《しり》もちをついてしまった。
七
寺西|冬四郎《とうしろう》は、その傘のかげにころがったお町の首を見下ろした。魔界の恍惚《こうこつ》が全身をはいあがった。
お町の首は何か口にくわえていた。
それがいまのチョコレートという菓子であることを彼は認めた。
冬四郎はしゃがみこみ、刀を持ちかえ、片手で島田のまげをつかんで宙にかざした。
鮮麗な血はなお雨のように流れ落ちつつあるのに、黒い眼はひらいて、吸いこむように彼を眺めている。
それまで、凍りついたように立ちすくんでこちらを見ていたおひろが、この夢魔の光景を見るに至って、これまたがくりとひざをつき、片手をついてしまった。脳貧血を起したのである。
その第二の犠牲予定者をちらっと見たが、寺西冬四郎はまたお町の首に眼をもどし、ふりしきる雪の中につっ立ったまま、なお魔界の恍惚にただよっている。
かつて牢《ろう》にいるころ、看守のだれをも媚態《びたい》でとろかしながら、自分に対してだけは、「お前さんはイヤだよ、おっかないよ!」と肘《ひじ》鉄砲をくわせた女、連鎖の逆|罠《わな》で自分に土下座させた女、そしてまた、先夜も鳥居に口移しに菓子を食べさせながら、自分には一顧も与えなかった女――その女が、いま生首になって、その菓子をくわえている! 口からタラリとひとすじの血を白いあごにひいて。
と、その口が、なまめかしい声を出した。
「旦那《だんな》……食べて見ない?」
菓子をくわえたままの口がしゃべれるわけがない。さっき聞いた声の幻聴にちがいない。
という理性をすでに寺西は失っている。彼はたしかにいまの声を聞いた。
魔魅に誘われるように自分の口をその首に近づけ、チョコレートを吸いとった。吸いとって、その褐色の菓子が口の中でとろけても、なお生首に吸いついていた。
数秒もおかず、のどの奥を絶叫が破った。首と刀が手から落ちた。
彼は全身をピーンと棒に変え、凄《すさま》じいけいれんをはためかせ、雪けぶりをあげてあおむけにころがっていた。
何が起ったのかわからず、おひろと銀次が立ちあがり、こけつまろびつかけよったのは、数呼吸ののちであった。
かけよっても、わけがわからない。
怖ろしい看守は、ひらいたカラスのクチバシのような口から鮮血をあふれさせて、あきらかに絶命していた。そして、そのそばに偶然立った邯鄲《かんたん》お町《まち》の首は、ニンマリと死微笑を刻《きざ》んで、自分の死後に斃《たお》した大敵を、じいっと見つめているのであった。
当時流行の大蘇《たいそ》芳年の無惨絵さながらのこの光景の上に、白い雪は霏々《ひひ》として舞いつづけている。……
そのチョコレートなる菓子には、あらかじめ毒がしこまれていたにちがいない、と、おひろがドクトル・ヘボンから聞かされたのは後になってからのことである。
邯鄲お町はおそらくそれを常時携帯していたのだ。その死にようから見て、それは一瞬に呼吸をとめる青酸性の毒薬であったろう、ということであった。
そしてまたヘボン博士の話では、邯鄲お町は、首を斬《き》り落される一瞬前に、すでに絶命していたのではないか、という。――
それはさておき、ちょうど同じ時刻。看守鳥居|鶏斉《けいさい》は、さんず茶屋で看守松倉伝兵衛とゆき逢《あ》った。
鳥居は十余日、化師《ばけし》の秀《ひで》を捜索したが奔命むなしく、もしやしたら新しく出獄して来る人間の中に秀を知る者がありはしないかと、わらをもつかむ思いでここに来たものであり、松倉は十字屋への通達や銀座での買物の用をすませてここまで帰って来たものであった。
「や、鳥居君じゃないか。貴公、たしか病気で休暇をとったはずじゃが……」
「それはもう快方に向かったのですが……あなたはどこへ?」
と、先刻銀座で、寺西との間に交わされたような問答をくり返し、松倉が、原|胤昭《たねあき》の明日出獄のことを十字屋に告げにいったことをしゃべると、
「なに、原の出獄はあしたなのですか!」
と、鳥居は愕然《がくぜん》とした。
「あれはたしかチブス病棟にはいったはずですが……まだ健在なのですか?」
「それが、奇態に丈夫な男でな。ひとりピンピンしておるわい」
松倉看守と同じ船で島へ帰るのを制するのに、鳥居看守は歯をくいしばって忍耐した。
かろうじてそれを抑え、二時間ほどたって次の船に乗りこんだ鳥居鶏斉は、ここの狭い海にもふりしきる雪の中に、棒をついて、アシュラさながらの姿であった。
あとは知らず、きょうのうちに原胤昭を始末しなければ、いままでの苦労は海に消えるこの雪にひとしい。
けだもの勝負第五番
一
ドイツのロベルト・コッホらがチフス菌を発見したのが、一八八〇年――明治十三年のことである。
日本では古来、温病ともいったが、それは高熱を発するからだろう。が、他の高熱を発する病気とは様相がちがい、かつ原因が不明なので、確定した正式の病名すらなかった。
一週間から二週間の潜伏期のあと発熱し、身体がだるく、頭痛、腹痛、腰痛を訴える。唇がかわき、舌苔《ぜつたい》を生じ、大便は秘結する。これが一週間ほどつづいたあと、第二週にはいると高熱を発し、腹部|膨満《ぼうまん》し、納豆様《なつとうよう》の下痢を起し、全身に薔薇疹《しようびしん》が出ることが多く、やがて昏睡《こんすい》状態におちいる。
そして第三週にはいると、薔薇疹が消えて汗疹があらわれ、重症のものは心臓衰弱、腸出血、腹膜炎、肺炎、その他あらゆる器官がやられて死亡する。
現代でも十ほどある法定伝染病の一つで、死亡率は二〇パーセント。
原因はチフス菌で、大半は糞便《ふんべん》中に排泄《はいせつ》されたものが、食物、飲料水、衣服、寝具、手拭《てぬぐ》いなどによって感染するのだが、そのことが判明してからこの明治十六年までまだ三年、その対策が後年のように電光のごとく伝わる時代ではない。当時死亡率ははるかに高かったであろう。
病名だけは腸チフスと確定したが、一般では腸チブスと呼んでいた。
ただ伝染病であることだけはわかっていたから、ともかくも隔離はする。が、それだけだ。消毒はおろか、排泄物を桶《おけ》にいれて密封し、身のまわりのものを焼却するということさえ知らない。ましてや、監獄だ。
そもそも政府の高官が、
「モトヨリ暴戻《ぼうれい》ノ悪徒ナレバ、ソノ苛役《かえき》ニ耐ヘズ斃死《へいし》スルモ、監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニオイテ、万止ムヲ得ザル政略ナリ。……」
と、各監獄に通達する時代であったのだ。
石川島監獄の隔離病棟は、惨澹《さんたん》たるものであった。
十二月半ばになると、急速にこの病人がふえ、またたくまに百人前後になった。これが三十|帖《じよう》くらいの、むしろを敷いただけの床におりかさなって横たわっている。
彼らはそれぞれ、右の症状でうなったり、もがいたり、昏睡したり、高熱にうかされて亡霊のように歩きまわったりしているが、医者は来ない。看護人もいない。隅には例の糞桶が――それこそ怖ろしい病原体の元凶なのだが――ふたをするいとまもなくならべられている。
苦しむ病人を世話したり、入口まで運ばれて来たモッソー飯を配《くば》ったり、またその糞桶まで連れていったりするのは、比較的軽い病囚同士であった。
いや、胤昭《たねあき》が来て以来は、彼一人だけがまともにこの役を勤めた。
坐《すわ》るひまもない、寝るいとまもない、といっても大ゲサではない。正直なところ胤昭は、地獄の苦役とはこのことだ、という感にたえなかった。実際自分はその世界にいるのではないか、と疑うこともあった。
胤昭をこの苦役に耐えさせたのは、かりにも囚人保護の看板をかかげている人間の義務感と、そして何より、あとでお夕がこのことを知ったら、必ずよろこんでくれるだろう、という思いのゆえであった。
が、その彼をも耐えがたい苦行と感じさせたのは――死んだ連中の始末だ。
この病棟に患者がふえるとともに、死亡する人間もみるみる増加した。それを、五十メートルばかり離れたところに掘ってある大きな穴に埋葬するのである。
穴は十メートル四方くらいの四角形で、深さは三メートルくらいあろうか。そこへ投げこんで、その上から薄く土をかけるだけだ。埋葬というが、埋めるわけにもゆかない。すぐに翌日の分を加えなければならないからである。
幸か不幸か、季節は冬であったが、それでも七日、十日とすぎれば悪臭は穴からたちのぼる。胤昭がはじめて病棟に来たとき、海風に変になまぐさい匂《にお》いをかいだのはそのせいであったのだ。すでにそのころから、穴の底はまさに死屍《しし》るいるいといった惨状であった。
それまで死人を運ぶのは病人であった。懲役の作業に使う大八車が、二、三台用意してあって、それに屍体をのせて運ぶのだ。数日のちには、運んだ人間が同じ車で運ばれることもある。胤昭が来てからは、その役も彼一人で、歯をくいしばってやった。――
巨大な穴は、屍骸《しがい》でもう埋まりかけていた。胤昭は憔悴《しようすい》し、彼自身その上に身を横たえても判別がつかないほどの様相に変って来た。
新しい患者とともに、ときどきのぞきに来る看守といえば松倉伝兵衛だけであったが、それが胤昭の顔を心配そうに見やって、
「原君、大丈夫か。もうひきあげたほうがよかないか?」
と、何度かいい、
「大丈夫です。まだ伝染しません。はは」
と、胤昭が笑って答えると、
「しかし、ふしぎじゃのう。君には守護神でもついておるのか」
と、ふしぎそうに首をひねった。
――守護神はこれだ。
胤昭は手の十手をにぎりしめて、心の中でつぶやいた。
――おれを守ってくれるのは、まさにこの「見えない十字架」だ!
まだ耶蘇《やそ》教の信仰者とはいえない彼も、いまやこの十字架だけは信仰せざるを得なかった。
二
しかるに、ここに来て約半月――十二月二十四日――その日は、ひるごろから雪になっていた。その午後に至って、胤昭は酔うような熱感をおぼえた。身体がひどくだるい。――
――はてな?
と、首をひねり、ついで、
――こりゃ、ひょっとすると腸チブスの初期症状じゃないか?
と、ぎょっとしたが、すぐに格子窓の外にななめにふる雪を見て、
――風邪だ。こう寒くっちゃ、風邪をひかねえほうがふしぎだ。風邪にちげえねえ。
と、自分にいいきかせた。
いくつかの窓には、ガラスなどはまっていない。病囚が逃げないように格子だけははまっているが、まず吹きさらしといっていい。
雪は、窓外のみならず、海からの風に吹かれて、ようしゃなく病室の中にもふりこみ、その下に横たわっている病人の上にもうす白くつもっていた。それを見つつ、胤昭もふせいでやりようがないのである。
「旦那《だんな》……」
そのとき、ほそぼそと呼ぶ声が聞こえた。
「原の旦那……」
胤昭はそのほうへ歩いていって、しゃがみこんだ。
「サルマタ、元気出せ」
サルマタはまだ生きていた。
が、高熱つづきで、ほとんど口もきけない状態であった。そもそも胤昭がここに来たのは、こいつの口から訊《き》きたいことがあったからでもあるが、それどころではない。
サルマタは妙なことをたずねた。
「旦那……鳥居、寺西の野郎はいねえそうですね?」
「うん、松倉さんがそういってたな。何だか病気で休みをとったらしいが……実はあの両人とおめえの関係について訊きてえことがあるんだが……」
サルマタは答えず、しばらくしてまたいった。
「旦那、きょうは何日でござんす?」
「十二月二十四日だ」
胤昭はふっと、きょうはクリスマス・イヴってえ日じゃないか、と考えた。有明姉妹《ありあけきようだい》といっしょに暮していただけあって、そんな言葉が浮かんだのである。
が、すぐに、いや、こりゃひでえクリスマス・イヴだ、と苦笑してまたサルマタをのぞきこみ、
「サルマタ、お前、少しよくなったのか?」
「いや、おれはもうだめだ」
ひげの中の顔は、骸骨《がいこつ》さながらだ。
「旦那、あしたが出獄じゃありませんか?」
「お、そうか、そういうことになってるそうだな」
ここへサルマタを運んで来たとき、松倉看守からそう告げられたことを胤昭は思い出した。あのときサルマタは失神状態だったはずだが、それを聞いていたのだろうか。
「もう大丈夫でござんすね」
と、サルマタは歯を見せた。
「それじゃあ旦那にいいてえことがある。いや、いまいわなくっちゃあ、死にきれねえ」
「なんだ?」
「お夕《ゆう》お嬢さんのことでござんす」
「おう、お夕がどうした?」
「お嬢さんは、もうこの世のひとじゃござんせん」
一瞬に胤昭の背は氷柱《つらら》と化し、全身が棒のように硬直してしまった。
――以下は、あとになって考えると、自分自身の絶叫もふくめて、ふしぎに遠い、あの世での声であったような気がする。
「なに、お夕がこの世のものじゃない? そりゃ、どういう意味だ?」
「お夕お嬢さんは自害されやした。……」
「ば、ばかな! サルマタ、おめえ、熱に浮かされてるんじゃあねえか?」
「頭は熱いが、ボケちゃいません。お嬢さんは、自害というより殺されなすったんです。……」
「だ、だれにだ?」
「おれに」
「なに、おめえに?」
「おれもふくむ十人に」
「じゅ、十人とはだれだ?」
「それについちゃ、話をしなくちゃならねえ。……旦那、おぼえていなさるかね。その十手だか十字架だかわからねえものを、旦那におとどけしたことがあるでしょう。あの夜のことでござんす。……」
サルマタは、抑揚《よくよう》のない声でしゃべり出した。
さんず茶屋の悪の会盟から、お夕の死に至る顛末《てんまつ》を。
三
それは、髪も逆立《さかだ》つ夢魔的な物語であった。――それだけでも、二十分くらいはかかったろうか。その間、胤昭は喪神しなかったのがふしぎであった。
その官服を着た悪党たちが、自分に怨念《おんねん》や憎悪をいだいていることは承知していたが、そこまで行動に移すとは思いがけなかった。さらにその悪念を、罪なき有明姉妹に及ぼそうとは人間の想像を超えている。
「お嬢さんは、死ぬ前に耶蘇《やそ》の神さまに、この人々を許して下さい、といい、それから、お力をもってこの十字架を胤昭さんにおとどけ下さいまし、と、いいなすった。……おれたちゃ十字屋にお世話になりながら、旦那やお嬢さん方をせせら笑い、それどころか何いってやがると頭に来たこともあったんだが、それっきりヘンになっちまった。あとでお嬢さんを埋めながら、必ずその十字架はとどける、そして、いのちをかけて旦那を守る、と、約束したんだ。……」
いまはじめて胤昭は、あの夜十字架を渡してくれたとき、三人の悪党が大笑いしながら滝のように涙を流していた意味を知ったのである。
「ただし、その十字架が、旦那とおれたちにだけ見えて、どうやらほかのやつらにゃ見えねえらしいんだが、そのわけはわからねえ」
と、サルマタはいった。
「お嬢さんはそのとき、自分は神さまといっしょに旦那と妹さんを守る、といったから、その十字架はお嬢さんの身代りかも知れねえ」
「な、なぜ、あのときそのことを教えてくれなかったのだ?」
胤昭は絶叫した。
「教えたら、旦那は狂乱するでしょう。おれたちやその看守連に飛びかかるでしょう。そいつは向うの思うツボだ」
胤昭は、いま狂乱したように床をこぶしでたたいていた。こぶしは血まみれになった。
「だから旦那に知られねえように、こっちであいつらを片づけることにしたんだ。訴えたりなどすれア、面倒なことになって、とどのつまりこっちがやられるのがオチだからね。……で、アラダルは牛久保を殺して死んだ。ぬらりひょんも檜《ひのき》を殺して死んだ。それを聞いて、ああ、やりやがったな、と思いやしたよ。あとまだ三人残ってるが、旦那がこうして無事なところを見ると、ひょっとしたら化師《ばけし》の秀《ひで》とお町《まち》がもう料理したかも知れねえ。……」
だれが知ろう、この同じ日の同時刻前後、邯鄲《かんたん》お町《まち》が死後の決闘によって凶人寺西|冬四郎《とうしろう》を斃《たお》していようとは。
サルマタはまた、この間の破牢《はろう》騒ぎは、寺西、鳥居と共謀の罠《わな》であり、彼らに裏切りを感づかれてはならないので、裏門までは命令のままに動いたが、あとは自分一人で出てゆくつもりだったと告白した。
それから、うつろな笑いを浮かべて、
「何てえこった。鬼のカクラン、サルマタが腸チブスにかかるたア……おれは生まれたときから悪い星の下で育って、ピンからキリまでイスカのハシだったが、あの巡査か看守か、ただの一匹も退治しねえで、こんな病気でくたばるたア、それこそいちばんのイスカのハシだ。……」
胤昭はがばと立ちあがった。
「あっ……旦那《だんな》、どこへ?」
「寺西と鳥居をやっつけにゆくんだ」
「その二人はいねえとさっきいったじゃありませんか」
胤昭は虚をつかれ、しかし、猛然と首をふって、
「どこにいようと探し出して、おれが天誅《てんちゆう》を加える!」
「ま、待っておくんなせえ。あした出獄だってえのに、いまあばれ出しちゃあ何にもならねえ」
サルマタは胤昭の片足にしがみついた。
「おれが牢を出たら、かえってやりにくいんだ。いや、一刻もあいつら生かしちゃおけねえ、そこ放せ」
胤昭は蹴《け》った。しがみついたサルマタの腕を蹴ったつもりであったが、肩を蹴ってサルマタはまたあおむけにひっくり返った。
その姿勢でサルマタは、けいれんを起し、口から泡をふき、高熱のため、いままで赤らんでいた顔がみるみる蒼白《あおじろ》く変り、動かなくなった。
「やっ、直熊《なおくま》、どうした?」
さすがにはっとして、またしゃがみこむ。
サルマタの息はなく、瞳孔《どうこう》は散大していた。
「死んだか!」
狼狽《ろうばい》して胤昭は、数回立ったり坐《すわ》ったりした。
この間にも、嘘《うそ》だ、サルマタの白状も、いまこいつが死んでいることも、みんな嘘だ! という声が頭の中にこだましている。
こんなむごいことが、そんなひどいことがこの世にあってよかろうか?
しかし、その怖ろしい告白をしたサルマタの口は、ぽかんとひらいて眼下にある。その声もまだ耳に鳴っている。
胤昭はどうと床に坐り、頭をかきむしった。しかしそのうち、やはり、いまここを出ていったとて無意味だ、という自制の心がからくも彼をとらえた。
そうだ、せめてこのサルマタのむくろを葬っていってやろう。
四
――しばらくの後、胤昭は死んだサルマタを大八車に乗せて、例の墓穴に運ぶのにかかった。
が、このとき車をひきながら、彼は何度かよろめいた。
身体が、異常にだるい。――そのくせ、燃えるように熱い。それを腸チフスが発現しはじめたのだ、といまは彼は意識しない。
胤昭は笠《かさ》の下で慟哭《どうこく》していた。むろんそれはサルマタなんかのためではなく、死んだというお夕《ゆう》のためであった。
左手は海だ。暗い天と黒い波濤《はとう》の間に、無限に雪はふりつづけている。
その海ぎわを途中まで来て、ふと胤昭は右手の方角に一つの影が浮かんでいるのに気がついた。――それは雪にけぶりつつ、怖ろしい早さで近づいて来る。
十メートルばかりの距離で、彼はそのヒョロ長い影がだれであるか認めた。
棒をかかえた看守鳥居|鶏斉《けいさい》であった。
胤昭は梶棒《かじぼう》を下ろした。
車の台はななめになって、サルマタの死骸《しがい》は頭から半分ズリ落ちそうになったが、それをかえりみるいとまはない。また、休暇をとっているという鳥居が、何のためにここに現われたか、それも問うところではない。
が、彼は惑乱していない。あまりの怒りのために、血はかえってしーんと静まりかえって、この悪鬼のような相手を迎えようとしている。それはまさしく不倶戴天《ふぐたいてん》のかたきであった。
胤昭は十手を首からはずし、手に下げて、鳥居のほうへ歩み出した。
「鳥居か」
と、彼は呼びすてにした。
原胤昭を始末するためにここに来たはずなのに、立ちどまった鳥居の顔に、一瞬うろたえた波がゆれた。
「身、官服をまといながら、天人ともに許さざる大悪――いまおれが天誅《てんちゆう》を下してくれる」
鳥居は、原胤昭がすべてを知ったことを知った。
が、狼狽《ろうばい》は消失した。原を始末するには、何か理由をこじつけなければならないと考えていたが、こうなった上は、もはやなんの斟酌《しんしやく》も無用だ。むしろ、これこそ待っていた事態といっていい。
「こいつ、囚人のくせに、看守に天誅を下すなどしゃらくさいことを――けっ」
彼の全身は憤怒の炎にふちどられた。
「天保の妖怪《ようかい》」の血をうけて、もともと懲罰狂の男だ。そもそも鳥居鶏斉は、自分が悪をなしているとは考えていない。原胤昭という男の反官的な行状はすべて大懲罰に値すると認めている。
ふりしきる雪をへだてて、両者は向い合った。
鳥居は六尺の棒を八双にかまえ――胤昭は徒手|空拳《くうけん》。
と、鳥居の眼には映じた。
実に胤昭は、右こぶしはつき出してはいるが武器は持たず、しいていえば拳法か唐手《からて》のかまえのように見える。
そうと知りつつ、鳥居はすぐには動けなかった。
かつてこの相手に、奇態な反撃をくったおぼえがあるからだ。
いちど浅草橋であわや決闘となりかけ、星亨《ほしとおる》に割ってはいられたことがあったが、二度目、例の糞《くそ》運びの際、この棒を原の「空拳」でたたき落とされるという不覚をとり、あとで切支丹伴天連《きりしたんばてれん》の妖術かと疑ったことがある。
二、三分のにらみ合いで、しかしその胤昭も異常な燃焼と消耗《しようもう》をおぼえている。
鳥居鶏斉の杖術《じようじゆつ》はほんものだ。
江戸南町奉行の子に生まれながら、妾腹《しようふく》であるためとその父が流謫《るたく》されたために、暗澹《あんたん》たる前半生を送り、そこから浮かびあがる一手段として、狂気のごとく修行した香取《かとり》流杖術。しかもその武芸を生かすすべもない瓦解《がかい》ののち、からくも一看守として生をつなぐ恨みに燃えて、囚人どもにその鬱塊《うつかい》をはらしていた男。
それだけに、いま彼が「天敵」と認めた人間を相手に、その棒とかまえには、妖炎のような殺気がたちのぼった。
他方、胤昭を襲ったのは、相手の殺気妖気のみならず、ほんとうに肉体的な高熱でもあった。
それを病熱とは意識せず、ただこの対峙《たいじ》だけでも敗れる、と自覚して、
「えやーっ」
彼は躍りかかった。
かっ!
空中にこだまして、棒と十手はかみ合った。
あやうくまた棒をとり落しかけて、鳥居は狼狽《ろうばい》して飛びずさったが、息もつかず、猛然と逆襲に移った。
突けば槍《やり》、払えば薙刀《なぎなた》、持たば太刀《たち》――といわれる棒だ。これを相手に胤昭の十手がしばらく相|拮抗《きつこう》したのは、それが相手に見えない、という幻妖神秘のゆえであったろう。
「見破ったぞ! 切支丹《きりしたん》の妖術《ようじゆつ》っ」
鳥居は吼《ほ》えた。
ついに彼は、見えないながらも、原胤昭のこぶしの先五寸に武器が存在する、ということを看破したのだ。
「くわーっ」
怪鳥のごとき声とともに、山をも砕く自信をもって、鳥居は打ちかかろうとして、このときあおのけにころがった。雪にすべったのだ。
地はすでに、くるぶしを埋めるほどの雪であった。
必死|渾身《こんしん》の力をふりしぼって、胤昭は走りかかろうとする。と、その胤昭も雪に足をとられて、がくと片ひざをついた。
鳥居のほうが早くはね起きた。
これぞ必殺、とどめの一撃の棒を宙にふりかざした。
と、そのとき、両者の間に、信じられない一個の大怪物がはいりこんで来た。
五
それは大八車であったが、その梶棒《かじぼう》をにぎっているのはだれだ?
サルマタの直熊《なおくま》だ。ただし彼は、大八車の外側から梶棒をにぎって、車をうしろ押しに押して割ってはいって来たのだ。
数瞬、しーんとした静寂が落ちた。
海からの風は、降りしきる雪をななめにしている。その雪のために、車が近づく影も見えず、音も聞こえなかったのだ。
胤昭もよろめき立ったが、そのまま凍りついてしまった。
恐怖は、胤昭のほうが大きかったろう。彼はさっき、たしかに直熊が息絶え、冷たい屍体《したい》となって車に乗せられ、自分が手を離すとさかさに半分ズリ落ちるのを見たのだから。これはまさしく亡霊だ。
見るがいい、雪まみれ、ひげだらけの顔はうすい藍《あい》色で、とうてい生きている人間の色ではない。
「旦那《だんな》あ……」
サルマタは、ゆらゆらと左右に首をふり、
「へへ生前はどうも」
胤昭は、かっと眼をむいたまま叫んだ。
「サルマタ……きさま、生きていたのか!」
「いや、おれは死びとだ」
ひげの中で、きゅっと笑って、
「旦那……旦那が殺《や》ると、牢から出られなくなりますぜ。……こいつは死人のおれがやる。お、おいらにやらせておくんなせえ。……」
陰々たる声でいうと、サルマタはいきなりその車の方向を変えて、鳥居看守へ突撃した。
いくら大八車でも、まともにぶつけられてはかなわない。鳥居はあわてて飛びのき、はねのき、また飛びずさった。
雪けむりをあげて、サルマタの車はそれを追う。
しかし、鳥居はこれを「死人」とは知らず、数十秒のうちに体勢を立てなおした。
「こいつ、おれの棒の味を忘れたかっ」
わめくと、突進して来る車の上に黒豹《くろひよう》みたいに飛び乗って、棒を相手の頭上からふり下ろした。
サルマタの頭に、たしかに頭蓋骨《ずがいこつ》の割れるようなひびきがひっ裂け、「死人」のくせに真っ赤な血が飛び散った。が、そのまま鳥居は、どうと車から左へふり落とされる。
「見たか、サルマタの車落としだっ」
朱をあびたような血まみれの顔で、歯をむき出し、サルマタは車を左へふった。いかに大八車とはいえ、怖るべき怪力だ。
鳥居は雪つむじをあげ、ころがって逃げた。
が、前後に進むべき車を横にひきずりまわされて、二つの車輪は怪音を発しながら壊《こわ》れて地上に倒れた。梶棒《かじぼう》も折れて、車は解体し、散乱した。
そのかなたに鳥居はまたはね起きて、
「く、くたばれっ」
ふたたび躍りかかって来ようとするところへ、車輪の一つが旋回しつつ飛んで来た。サルマタがそれを拾って、巨大な円盤のごとく投げて来たのだ。
それをはねのけようとして、鳥居|鶏斉《けいさい》の腕と棒は車輪ごめにからめとられ、ばしっと骨の折れる音がした。
車輪の放射状の輻《や》の間から、折れた腕と棒をつき出して、はじめて鳥居の馬面《うまづら》が恐怖のためにねじれた。
そこへ二つ目の車輪が、うなりをたててまた飛来した。
それは横なりにもろに命中して、こんどは頸椎《けいつい》が折れる音がした。鼻口のみならず、両耳からまで血を噴いて鳥居はのけぞっていった。
同時にサルマタが、それを投げた姿勢のままゆれはじめ、
「ぎゃははははは! これでイスカのハシが合ったぞ!」
その声が聞こえたかと思うと、どうと彼は雪けぶりをあげてたおれていった。
この夢魔的決闘を見つつ、胤昭ひとり、霏々《ひひ》として天地を埋める雪片の中に動かなかった。……
胤昭座談終篇
一
……いや、とんだなが話、恐れいってござんす。
この話をはじめたときは、たしか春雨《はるさめ》がふってましたが、きょうはなんと十二月の降誕祭。きのうからの雪が、まだチラチラふっておりますねえ。日曜|毎《ごと》とは申しながら、こんななが話になろうとは、夢にも思いませんでしたよ。
しかも、せっかくみなさん、おいで下すったのに、ちょいと取込み中でござんして、家の中が少々ザワザワしております。で、いつものようにお静かに聴いていただくわけにゃゆかねえのが申しわけござんせんが、やはりいままでの話のしめくくりはつけておかねえと、私も落着かねえんで。……
私が石川島の牢《ろう》を出たのが、ふしぎなことにやはり明治十六年のクリスマス。なんと担架にのせられての出獄でした。
それをかついで、銀座の十字屋まで運んでくれたのが、岸田|吟香《ぎんこう》先生と小林|清親《きよちか》さんで……おひろさんはむろん、ヘボン先生もカロゾルス神父も出迎えに来て下すった。
担架にかつがれたのは高熱を出していたせいで、私はてっきり腸チフスが伝染したものとばかり思ってましたが、高熱は出るには出たものの、二、三日たつとさあっとひきましてね。で、例の腸チフスのぶきみな斑点《はんてん》など出ずじまいでした。それっきり快方に向ったんです。
あとでヘボン先生から承《うけたま》わると――うちの婆やによれば、私が五つのとき、たしか熱を出して身体に斑点の出る病気にかかって死にかかったことがあるってえことで――それが腸チフスだったんだ。腸チフスってえ病気は、いちどかかると免疫ってえやつで二度とはかからねえ、またかりにかかっても軽くすむもんだそうで、石川島のチフス患者だらけの病監にいながら私が無事で、しかもとうとう伝染してもそれだけですんだのは、おそらくそのせいだろう――ってえお話でござんしたがね。
が、カロゾルス神父さんのほうは、いやちがう、それは例の十字架と――それよりお夕《ゆう》さんが守ったのだ、とおっしゃる。だいいち、それでは十字架が特定の者だけに見えたというのは、どういうわけだ? と。
ヘボン博士は本来眼科が御専門の名医ですが、それによると眼科のほうで、常人には当然見えるはずの視野の中に、「暗点」といって見えねえ部分が生じたりする。しかも当人は見えねえ、ということがわからねえ、という変な病気があるそうです。
しかし、それでも特定の人以外は、みんな見えないということがわからねえ。
カロゾルス神父は申された。
「それはイエスが、その十字架に対して、イエスを信じる人以外の眼を大いなる御手《みて》でふさがれたのです」
ヘボン博士も、そういう医学的現象がある、といわれただけで、神父の言葉に異論はなかったらしく、ふかくうなずかれました。
私も神父の言葉を肯定せざるを得ない。それどころか、私こそ現実に、その神秘なあらわれを見ただけに、いっそう強くそれを信じた。
それにしても、その十字架が、私が牢《ろう》を出るとともに、だれにも見えるふつうの十手に戻ったとはふしぎ千万な話でござんすが。――
それはそれとして私は、そのとき訊《き》かずにはいられませんでした。
「それじゃあ、あの凶状持ちの悪党たちに十字架が見えたのはどういうわけでござんす?」
神父は答えました。
「それはあの人々が、その十字架の伝達者となった瞬間から、彼らは神の使徒となったからでしょう」
訊くには訊いたが、訊く前から私はそのことを考えておりました。十字架が見える見えないという神秘より、あの五人の「その後」の行状こそ、この世の神秘の最大なものではなかったか。
その五人の行状については、実は私は出獄後すぐにみんな知ったわけではない。私のお話ししたのは、その後おひろをはじめ、ヘボン先生やカロゾルス神父、それにずっと後年、私がばかに顔がひろくなってから何らかの機会で知る機会のあった人々から――その中には例の仕立屋銀次なんてえ人もある――聞いたことなどを頼りに、それにいささか私の推量もまじえたものでござんす。しかし、だいたいのところ、まずまちがいはないはずです。
彼らはいかなる人間であったか。私が矯正不能といちどはサジを投げた凶悪無類の連中でござんす。
最近私は、「レ・ミゼラブル」という本を読む機会を持ちました。そして、昔のこの顛末《てんまつ》を思い出し、ちと大ゲサではござんすが、彼らこそ――一人、女がまじってますが――みな小ジャン・ヴァルジャンではなかったか、と感動を新たにしたものです。
その当時の感動がいよいよ大きなものであったことは申すまでもない。私がキリスト教を信じ、闇黒《あんこく》の中の人々のために余生を捧《ささ》げようと決心したのは、ひとえにこのせいでござんした。
それまで、どうしても耶蘇《やそ》に違和感を禁じ得ず、つかず離れずといった状態にあった私が、カロゾルス神父に洗礼を受けることを申し出たのは、その翌年早々であります。洗礼名はヨハネです。それこそは元和の大殉教で磔《はりつけ》になった私の先祖の一人、原|主水《もんど》の教名でござんした。
二
のみならず、それまで神父がちょいちょい持ち出された監獄|教誨師《きようかいし》になることも、そのとき決心したのでござんす。そして私は、ここ数年の間に開かれた北海道の樺戸や空知の集治監へゆくことを希望しました。
そこには、民権運動で投獄された志士や、もっとも凶悪な囚徒などが送られていたのであります。
それは、お夕を死なせた――私には、私が殺したも同然だという思いがありました――苦悩を忘れるためでもありました。
築地の長老教会でのこの洗礼式のとき、ヘボン先生やおひろ、吟香《ぎんこう》さんや清親《きよちか》さんも立ち合ってくれましたが、それが終ったあと吟香さんがいい出しました。
「原君、教誨師の仕事にゃ、やはり同心者の助力があったほうがよかないか」
「同心者?」
「この人はすでにモニカという教名を持った人だ」
吟香さんは、うしろのおひろをかえりみた。
「あらゆる意味において、あんたのベター・ハーフになると思うが」
私はあわてて、
「しかし、やがて私がやろうと考えてるのは、極寒《ごつかん》の北海道で監獄をめぐり歩くことで……」
と申しましたが、そのときヘボン先生が微笑して、
「姉さんのカタリナもそれを望まれると思うが、どうでしょう?」
と、おひろの顔をのぞきこまれた。
おひろは――私の出獄後、姉の死をはじめて知って卒倒し、年の明けるまで半病人になっていたおひろですが――顔をあからめ、しかしこの娘には珍しくきっぱりと、
「あたし、胤昭さんのおいでになるところなら、どこへでも参りますわ!」
と、ためらいなくいった。……
このとき私は三十一歳、おひろは二十四歳でありました。
――それから私の十余年にわたる監獄教誨師、そしてそのあと明治から大正、昭和に至る三十余年の囚人保護の仕事がつづいたのでござんすが、その間、むろん雨もふり風も吹いた。吹雪の日も嵐《あらし》の夜もあった。その間、家内は私から離れず、ほんとうによくやってくれました。
あるいはお気づきかも知れませんが、それがこの夏のころからどうも大儀らしうござんしてね、私も心配してたんだが、どうしても出獄人の世話は自分がやらないと用が果たせないといって……それがまたほんとうなので、私もただ見ているよりしようがなかったんでござんすが、とうとう先週たおれて……きのうの夕方、クリスマス・イヴに息をひきとりました。病気は心臓病でござんした。
棺はここにいる連中が教会に運んでくれましたが、きょう降誕祭にお葬式というのもどうかと思うので、それはあしたにすることにしました。……取込みといったのは、このことでござんす。
ああ、あの十手十字架が、いま壁にないでしょう。
あれは棺に入れてやりました。モニカはそれを抱いて、姉のカタリナのところへ、姉さん、あなたのお役目はぜんぶあたしが果たしたと、天を埋める雪の中をいそいそと昇っていったことでござんしょう。
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明治かげろう俥
運命の車
――よくあることだ。骰子《さいころ》一つが、運命を狂わせた。
京都河原町|常磐《ときわ》ホテルの裏通りにならんだ四、五台の人力車に、あかるい初夏の日ざしがキラめいていた。ちょうど真昼をすこしすぎた時刻で、挽子《ひきこ》たちはひるめしを食いにいっているとみえて人影もない。
が、その俥《くるま》のかげで、さっきから殺気ばしった小声がきこえていた。
「丁!」
「半だ!」
ふたつ、つき合わせた饅頭笠《まんじゆうがさ》のあいだの地上に伏せられた茶碗がさっとひかれると、骰子が一つ白くひかった。
「そうら、半だ」
饅頭笠をあげて、一方が笑った。苦みばしった、いかにも元気者らしい三十七、八の俥夫だが、笑った顔には底ぬけの人の好さがみえた。
「ようし、もういちど――」
と、もうひとりはのぼせあがった声で、骰子をたたきつけ、パッと茶碗を伏せて、
「丁だ!」
「半!」
また半だった。まけた俥夫は年のころ二十六、七、小柄だがその眼にも、とがったあごにも兇猛なばかりの野性がある。
「兄貴、もういちど」
「おめえ、銭があるのか?」
と、年上のほうがからかうようにいったとき、ふたりのあいだの地上に人影がさしたので、おどろいて顔をあげた。
「なあんだ、おめえか」
と、年上の俥夫は、ほっとすると同時に、テレくさそうにくびすじをなでる。のぞきこんでいるのは、背のたかい、まじめそうな若い俥夫だった。
「またやってるのか。兄貴……負けたんだろう。おかみさんにまたひッかかれるぜ」
「ところがきょうは、ツイてるね。坂本にきのどくなくれえだ」
「それあよかった」
と、思わずいったので、負けた方は、血ばしった眼でぎろっとにらみあげた。
あとからきた俥夫は、北賀市太郎という男だが、負けた坂本慶二郎があまり好きではなかった。と、いうより、勝った向畑治三郎《むこうはたじさぶろう》のらいらくな気性にふだんから好意をもっていたので、思わずそういったのだが、すぐにあわてて、
「ま、勝ったところでよすがいい。こないだもう|ばくち《ヽヽヽ》はしねえって天神さまに約束してたじゃあねえか」
「ウム、そ、そうなんだが、坂本がしつこくやろうやろうっていうものだから……こいつ北七軒の小蝶《こちよう》のところへゆく銭を、おれからまきあげるつもりだったらしい。ふてえ根性を出した罰で、おかげでおれが今夜は小蝶のところにゆける」
小蝶とは、北七軒の遊廓《ゆうかく》に、ちかごろ初見世《はつみせ》を出した女郎だったが、なかなか凄腕らしく、向畑治三郎も坂本慶二郎も熱々なのである。北賀市太郎は眉をひそめた。
「おめえ、いい年をしていて、いいかげんにしねえか」
向畑治三郎は、無類の好人物で、任侠《にんきよう》の気もある男だが、若いころは無法脛《むほうずね》の治三郎といわれて、十年ばかりまえ、賭博殴打罪《とばくおうだざい》で三ヶ月ばかり懲役《ちようえき》にいった前科がある。
「坂本、おめえもよ、こんどはもってえねえおつとめを引き受けて、少しは身をつつしんでくれよ」
といったのは、一週間のちにロシヤの皇太子とギリシャの親王《しんのう》が入京して常磐ホテルに泊る、それから大津|遊覧《ゆうらん》に出るときの俥の挽子のひとりに、市太郎も坂本慶二郎もえらばれているからだった。市太郎は、ギリシャ親王の俥の右あと押し、坂本はロシヤ皇太子の俥の左あと押しである。前科のある向畑治三郎は落第だった。
「へっ、あんな役は気ばかりつかれて、おれあ、迷惑だよ。……何にしたってしがねえ俥夫だ。なんだ、どんぶりから、キザな本なんかのぞかせやがって、もとは侍の子かもしれねえが、いまあおんなじ俥挽《くるまひ》きじゃあねえか。えらそうなお説教はよしやがれ」
と、坂本はにくにくしそうにいった。
ふだんはそれほどでもないが、のぼせ性で、女でも|ばくち《ヽヽヽ》でも夢中になるくせがある。どうせ十銭か二十銭の勝負だろうに、眼もつりあがって、
「あにき、もういちどやろうよ。食いにげはいけねえ」
「だって、おめえ、もうすッてんてんじゃあねえか」
「ウ。……それじゃあどうだ。こんどまけたらオロシヤの王子の俥のあと押しはおめえにゆずってやる。そのかわり賭け金は五十銭だぜ!」
「あんまりありがたくねえね。おれもそんな役は任じゃねえや。……だいいち、おめえがゆずってくれたって、ホテルの方でウンとはいうめえ」
「なに、出かけるまえに、おめえ、おれの傍にウロウロしてろ。おれが急に腹がいてえといい出すから、急場のことで、お鉢はおめえにまわるにきまってら。……な、あにき、たのむから、もういちど!」
「しようがねえな、いい出したらきかねえ男だからな」
と、向畑治三郎は、苦りきっている北賀市太郎を、ちらっと間が悪そうにみて、
「じゃあ、こんどで終りだぜ」
坂本は、骰子をひッつかんで、唇をかんで、ちょっとかんがえていたが、
「ようし、こんどは半だ」
「それじゃ、丁!」
ころころッと骰子がころがり、パッと茶碗が伏せられた。
「勝負!」
丁だった。
大津事件
明治二十四年四月二十七日、ロシヤ皇太子ニコライはギリシャのジョージ親王とともに、六隻の軍艦をひきいて長崎に来朝した。
目的は、シベリヤ鉄道起工式に臨席のためであったが、そのついでに東洋諸国の歴訪をこころみて、日本へも来遊したのである。
政府は国賓の礼を以って迎える一方、皇太子一行が訪れる予定の、長崎、鹿児島、神戸、京都、大阪、横浜、東京、鎌倉、箱根、熱海、日光、仙台、青森などの各都市に、全力をあげて歓迎の準備をととのえるよう命令した。
ロシヤ、ロシヤと国民はわきかえったが、その一方で、
「西にイギリス、北にロシヤ
油断するなよ 国の人
表にむすぶ条約も 心の底は測られず
万国公法ありとても いざ事あらば腕力の
強弱肉を争うは 覚悟《かくご》の前の事なるぞ」
という唱歌が、小学生のあいだでもうたわれていたのである。
ロシヤの皇太子一行は、長崎をふり出しに、祝砲と花火と万国旗に渦まく各都市をめぐり、五月九日京都に入り、常磐ホテルに泊った。
当夜は、京都をめぐる東山、船岡山、松ケ崎、衣笠山《きぬがさやま》、その他の諸山に大文字、左大文字などの火があかあかと燃されたが、皇太子は祇園にくりこんで、遊女たちの踊りなどに興がった。十日は御所、離宮、本願寺などを訪れ、十一日朝七時半人力車で大津遊覧に出かけた。
沿道は軍隊と生徒の堵列《とれつ》と、日本、ロシヤ、ギリシャの三国旗で飾られた各戸で彩られ、その中を、一行は粛々として通る。
皇太子の俥をひいていたのは、西岡太吉という俥夫で、そのうしろを和田彦五郎という俥夫と、向畑治三郎が押していた。へんなめぐり合わせでこの大役をおおせつかったこの前科者の俥夫もさすがにクソまじめな顔つきで汗をひからせていた。
この日、五月の空は碧《あお》く晴れ、湖上の微風は、しずかに吹き、ただその美しい風光をやぶるものは、花火の音と万歳の声ばかりであった。――だれが知ろう。やがて全日本を驚倒|震駭《しんがい》させる大兇変が突発しようとは。
満船、緑の葉で飾られた船で、三保ケ崎から唐津を経て大津にわたった一行は、滋賀県庁で小憩ののち、ふたたび京都へかえるべく、午後一時半県庁を出た。
県庁から約五町――京町通り、小唐崎町、五番屋敷まですすんできたときだ。北側に警備《けいび》のため立番していたひとりの巡査が、ひくく頭をたれて敬礼《けいれい》していたが、突如抜剣して背後からはしりより、
「日本刀の切れ味を知れっ」
とわめくと、いきなりとびあがって皇太子に斬りつけた。
刀は皇太子の山高帽子の|つば《ヽヽ》を切り、さっと血がほとばしる。悲鳴をあげて、皇太子がふりむいた瞬間、もう一太刀。――二ヶ所斬られて皇太子は、俥からころげおちると、つんのめるように前へにげてゆく。
「日本の国を探ろうとても、ゆるさぬぞっ」
獣のような声をあげてそれを追う巡査を、このときつづいて俥からとびおりたギリシャ親王が、県庁で買ったばかりの竹の鞭《むち》で、ぴしっとその肩をなぐりつけた。
同時に、皇太子の俥のあと押しをしていた向畑治三郎が、どっと巡査の両足にとびついた。無法脛といわれた男だけにこうなると本能的に身が軽い。
どうとふしまろぶ巡査の手から抜剣がとび、ふたたびそれをつかもうとするまえに、ギリシャ親王の俥のあと押しをしていた北賀市太郎がとんできて、刀をとりあげ、つづけざまに巡査の後頭部と背に斬りつけた。白い路上にぱッと血潮がふりまかれる。
このときまで、まるで土人形みたいになって立ちすくんでいた一行の人々、沿道の群衆から、わああっ、と、名状しがたい叫喚があがり、はしり出した他の俥夫、巡査たちが、血の一塊と化した兇漢に折り重なっていった。
帯勲俥夫
黒船以来、このときほど、全日本が戦慄したことはあるまい。
さなきだに、恐れていた世界の大国ロシヤである。国をあげて下にもおかなかったその皇太子を、事もあろうに政府の巡査が斬った!
兇報をうけて、箱根塔の沢にいた伊藤博文は、おりから食事中であったが、満面蒼白、箸をとりおとしたといわれる。
深夜の宮中は、にえくりかえるようなさわぎであった。
詔勅《しようちよく》はすでに発せられていた。
「今次朕ガ敬愛スル露国皇太子来遊セラルルニツキ朕ガ政府及ビ臣民ハ、国賓ノ大礼ヲ以テ歓迎セントスルニ際シ、図ラザリキ途次大津ニ於テ難ニ遭ワセラルルノ警報ニ接シタルハ殊ニ朕ガ痛恨ニタエザルトコロナリ。スミヤカニ暴行者ヲ罰シ、善隣ノ好誼ヲ毀傷スルコトナク、以テ朕ガ意ヲ休セシメヨ」
また天皇御名代として、北白川宮能久親王は、蒼惶《そうこう》とるものとりあえず見舞いのために西下していた。新橋からすでに発車していた汽車をよびもどして乗りこむというさわぎである。
御前会議はひらかれたが、松方首相、西郷内相、青木外相、陸奥《むつ》農商務相をはじめ、満堂の諸臣、ことごとく維新の風雪をこえてきた剛腹漢《ごうふくかん》ばかりなのが、惨として声もなかった。
真夜中にもかかわらず、伊藤博文は宮中に伺候《しこう》して、
「この大変にあたっては、もはや唯上御一人のお力をたのみ奉るよりほかはございませぬ。恐れながら、一刻もはやく、聖上おんみずから御見舞いに御発輦《ごはつれん》遊ばされんことを――」
と請うた。
十二日早朝、天皇は東京を発し、京都にむかった。午後十時すぎ、京都につくと、長途の疲労も意に介せず、その夜のうちにロシヤ皇太子を見舞おうとしたが、ロシヤ公使から、深夜の御見舞はかえって難儀であると申し込まれて、翌日の午前常磐ホテルを訪問した。
皇太子の傷は、大したものではなかった。頭部の右こめかみに長さ九センチ深さ骨膜に達するものと、その下方に長さ七センチ深さ骨膜に達するものの二つだけである。熱もなく繃帯こそしているが、顔いろも平常と変らなかった。
蒼ざめているのは、天皇の方だった。天皇は、今次の兇変をふかくわび、是非このまま日本で治療、快癒の上は、予定どおり東京をはじめ、各地の山河を歴訪されんことを懇願した。
「これからの進退は、父皇帝の訓令を待ちましょう」
という返答に、天皇の満面はいよいよ暗く沈んだ。このときの状況を記した一書に「文武百官恐れ畏《かしこ》みたてまつり、一人としてその頭をあげて仰ぎ見たてまつるものなかりしと承るも涙なり」の一節がある。
憂いはあたった。果せるかな、ロシヤ本国からは皇太子に対し、航海にさしつかえなくばただちに帰国の途につくべしとの飛電《ひでん》があったのである。
皇太子一行は、ただちに京都から神戸にむかい、そこに待機していた露艦《ろかん》アゾーヴァ号にのりこんだ。
日本政府はいよいよ狼狽し、十五日、京都でふたたび御前会議がひらかれて、犯人を処刑すること、責任官吏を処罰すること、有栖川宮を謝罪使として露都におくることを決したが、最後の件は、ロシヤ政府の方から、皇帝が巡幸の途につくため、当分ペトログラードには不在であるからという婉曲な拒否があった。
よって、十六日、天皇はなおロシヤの皇太子を追って神戸にいたり、アゾーヴァ号を訪問して、ふたたび見舞い、ゆるしを乞うた。このことにも「露艦|臨幸《りんこう》の刻には激昂の露艦あるいは咄嗟錨《とつさいかり》をぬきて天皇陛下はそのまま露国へ拉し去られんかと生ける心地もなかりし」と、正気で苦悩《くのう》する人々も少なくなかった。
天皇ですらこのありさまだから、国民の恐懼《きようく》は筆舌につくしがたい。
青木外相、西郷内相、山田法相、芳川文相、大山陸相は事件後内閣を去り、沖滋賀県知事、斎藤滋賀県警部長、桑山大津警察署長らはいずれも懲戒免官、位記返上を命じられた。斎藤県警部長はいちじ官舎に於て切腹しようとしてとめられ、桑山署長の妻は三人の愛児を刺し殺して自害しようとしたといわれる。
要路の大官、華族、各知事、議長、市長、それに各学校、学会、会社、協会、商社、組合の代表者はりくぞくとして京にあつまり、神戸にはしって、ロシヤ皇太子のあわれみを乞うた。
有名な烈女《れつじよ》畠山勇子の事件が起ったのはこのときだ。
二十日の夕ぐれ、京都府庁の門前に白布をしき、足をしばり、剃刀《かみそり》で|のど《ヽヽ》をついている若い女があった。発見した門番や、巡査がかけつけて「これ、気でもちがったか!」とよびかけたとき、女はくびをふり、ただ天を指してこときれた。
遺書があった。
「……本朝四千万人のうち、かの兇漢をのぞくほか、このたびの変事ただひとりも嘆ぜざるはなかるべしと思えり。わが日本皇帝より給わりし尊命、愚知小心のために失し事、小女切望のみにあらず日本帝国にすめる者みな同意なり。皇帝のおこころいささかお察し、日本国人の思うこと小女におなじゆえに、日本帝国へこの心をあらわすためこのたびに至り候あいだお察し下されたく候。……」
烈女か、狂女か、天皇の苦悩への同情と、それにもかかわらず去りゆくロシヤ皇太子に対するかなしみのあまりの憤死で、千葉県鴨川生れ、東京日本橋の魚屋の婢であった。
しかし、この遺書の文章に、詞語失格、詞語新作症のきみがあるところをみると、突発性のものであるにせよ、精神病者だったのではないかと思われる。
可笑しいのは、事件の数日後、ロシヤの一海軍大尉が部下三名をつれて、大津の遭難現場を撮影にきたのに、大津町では、皇太子のきたときと同様、各戸幕をはり、三国旗をならべ、提灯をつらねてむかえたことで、まったくどうかしているというよりほかはないが、しかしわれわれも敗戦当時、これ以上の醜態をさらしたのだから、あまり大きな顔をして笑うわけにもゆくまい。
――この「大悲劇」の中で、大もうけした人間がただ二人ある。
例の俥夫、向畑治三郎と北賀市太郎である。
十七日、このふたりの俥夫は、京都府庁によび出され、大礼服に身をかためた知事以下立会いのもとに、政府からの勲八等、白色|桐葉章《とうようしよう》、及び終身年金三十六円|下賜《かし》の証書を授与された。
あくる十八日、ふたりの俥夫は神戸のアゾーヴァ号に召されて、皇太子みずからの手から小鷲勲章《こわしくんしよう》をくびにかけられ、二千五百円ずつをたまわった。
当時米は一升五銭の時代だった。二千五百円というといまの五千万円から五千五百万円くらいにあたるであろうか。
なおその上ロシヤ政府から終身年金千円を頂戴することになった。これと日本政府からの終身年金をあわせると、いまの金で二千万円から二千五百万円くらいになるだろう。しかもこれにはいまとちがって税金がかからない。
まさに、ふってわいたような幸運である。
饅頭笠に金貨を盛って退出するふたりの俥夫は、キョトンとして、狐につままれたようだった。
甲板に出ると、ロシヤの水兵たちが歓声をあげて殺到した。そして酒をあびせかけながら、ふたりを胴あげにした。
高い蒼空に、法被股引《はつぴももひき》姿をなげあげられながら異国の強烈な酒と、この大幸運に酔っぱらったふたりの俥夫は、空中でしきりにじぶんのほっぺたをつねっていた。
かくて、五月十九日、日本にこの大悲劇をのこしたまま、ロシヤ艦隊は、ぶきみな水泡をひいて去っていった。
児島惟謙のこと
児島惟謙《こじまいけん》のことは、本篇を草する主題ではないが、大津事件を裁いたこの大審院長のことは、やはり一章を設ける義務があるであろう。
ロシヤ皇太子に斬りつけた巡査は津田三蔵といい、もと津藩|藤堂《とうどう》家の出で、守山警察署詰の巡査になったのはその前年だった。このとき三十八歳、性質は温厚であるが、やや沈鬱克己《ちんうつこつき》の念のつよい男だったといわれる。
北賀市太郎に斬られた後頭部と背なかの傷は重傷であったが、ただちに膳所《ぜぜ》監獄に収容され、とり調べられた。
兇行の動機は、要するに「西にイギリス、北にロシヤ、油断するなよ、国の人、万国公法ありとても、心の底は測られず……」という唱歌にもあるように、恐露思想のきわまったものであって、この皇太子こそ、他日かならず日本を征服にくるものと思いこんだからであった。
それから彼は重傷に苦しみつつ、自決をゆるされんことを請い、それがきかれないと食を絶つこと三日に及んだ。
しかし、典獄《てんごく》が、彼の兇行のため、内外驚愕悲嘆し、天皇もまた京に臨幸して皇太子を見舞ったことを告げると、粛然として顔色を変じ、
「恐れ入った大罪を犯しました。以後つつしんで国法をお受け致します」
といって、食事をすることをがえんじた。
ただ彼は、もういちど顔をあげてきいた。
「私を斬ったのは何人《なんぴと》でありますか」
俥夫だといわれて、彼は長嘆した。
「俥夫風情に斬られるとは……」
警保局主事大浦兼武は、西郷内相の意をくんで、膳所監獄にのりこみ、ただちに死刑執行の準備を命じ、且たとえ遺族が遺骸の下げわたしを請うてもゆるしてはならぬとまでいいきった。
五月十二日、松方首相、陸奥農相は官邸に大審院長児島惟謙を呼んできいた。
「今般ロシヤ皇太子の御遭難は、帝国の安危存亡にかかわるところであって、畏れ多くも、天皇陛下には彼地に御発輦《ごはつれん》あらせられた。今にして、わが国のとるべき途はひとつしかない。ただ津田三蔵を死刑に処して、露国皇帝と人民を満足させるよりほかはない。兇漢を罰する法律如何」
これに対する児島大審院長の答は、二人を愕然とさせた。
「それは、わが刑法第二篇第一章、通常人の謀殺、もしくは故殺未遂の法律によるほかに正条はありますまい」
「と、いうと?」
「死刑にはできません。せいぜい無期であります」
松方首相は憤然とした。
「院長、何をいわれる。刑法第百十六条には、天皇、三后、皇太子に対し危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処す、とあるではないか!」
「天皇は、わが国のみのものであります」
大審院長はしずかに答えて、きっと威儀を正した。
「わが刑法には、今のところ、外国の皇太子に危害を加えたる者は死刑に処すという条項はないのです。ない法律を以って人を死刑にすることはできません。いまや、津田三蔵に対しいかなる法律を適用するか、全国民と全世界が、明目張胆《めいもくちようたん》して熟視《じゆくし》しております。もし不幸にしてその適用をあやまらんか、光栄あるわが歴史に未来|永劫《えいごう》の汚辱《おじよく》を印するのです。あなた方は、その責任を負う勇気がありますか? この一回の擬律は、決して軽率に断案を下すべきものではありません」
首相は声をはげました。
「未来永劫? 院長、国家あっての法律ですぞ。露国の感情を害し、国家の大事をひき起して何となさる? 裁判官が左様な国家の大事を左右する権利があると思っておられるか?」
「まさに、仰せの通りであります。左様な国家の大事にあたられるのは、諸公であります。小官はただ法律をまもるのがその職であります」
「法律が国家より大事か? 院長! 区々たる法律論に拘泥しているときではない。日本が滅ぶかもしれないのだぞ」
児島院長は微笑した。
「戦いに破れたならば、法律はもとより、主権をすら放棄《ほうき》しなければならぬ場合もありましょう。しかしながら、今日のわが国は、まだその最後の秋ではありますまい。……戦をして、負けないようにして下さるのは貴方がたのおつとめではありませんか」
そして、厳然としていった。
「小官は菲才《ひさい》でありますが、陛下の御親任を忝《かたじけの》うする大審院長であります。内閣がいかに議決評議なさるとも、法律の精神に反する解釈には断じて応ずることは相なりません」
首相は狼狽し、こんどは哀訴の手段に出た。
「きかれよ、院長、事件以来、わが陛下の御心労を……恐れ多くも、京都駅より皇太子を神戸に送らるるさい、皇太子が御煙草をとり出されれば、ただちにおん手ずからマッチをすって火を点じたまい、また御乗車のときも、先ず皇太子を乗らしめて、御自身はあとより乗御あそばしたとか。……群衆の中にすすり泣きの声が起ったというのもむりではない。のみならず、現在朝夕の供物も進ませられず、御憔悴《ごしようすい》のていにおわすると承る……」
児島院長の眼に涙がうかんだ。しかし、何の返事もしなかった。
「その上、すでに陛下は、ロシヤに対し、犯人の厳罰を約束しておわすのだ。臣下として、陛下の御約束を破らせてよいものであろうか」
院長は深い眼をあげていった。
「かくも御宸襟《ごしんきん》をなやましたてまつる津田三蔵、まことに国家の大罪人であって、寸断しても飽きたりないものがあります。が、法律は国家の精神であって、裁判官の感情で以て私すべきものではないことを諒《りよう》とせられよ。閣下の御焦心は実に察するにあまりあり、小官の犠牲によって左右できるものならばと存じますが、そうはなりませぬ。小官の不誠実は、国家に不忠不義となるはもちろん、天皇陛下をして、神聖なる大権にそむかせたてまつることになるのであります。おわかりか? ……よしやいかなる国難がふりかかろうとも、法官なるものは、法律の神聖を守護するの一途あるのみであります」
ほとんど冷然ともみえる背をみせて、児島大審院長は去った。
このことをきいた副島種臣《そえじまたねおみ》は「法律もし三蔵を殺すことを能わずんば、種臣彼を殺さん」と絶叫したといわれる。果然、あらゆる圧迫、脅迫、非難は児島大審院長にあつまった。刺客にさえいくどか襲われかけたのである。その嵐の中に、この司法の偉大なる番人は、鉄壁のごとく厳然と立っていた。
大津地方裁判所長から、津田三蔵の犯罪を普通法律によるべきものとみて予審に着手したとの報告があった。児島院長は返電した。
「法律ノ解釈正当ナリ。コノサイ他ノ干渉ヲカエリミズ予審ヲ進行セヨ」
裁判が大審院にうつるや、西郷内相は各判事に犯人死刑論をいいふくめんとして会見を申しこんだ。児島大審院長はすべて会見を拒否せしめた。
内相は激怒し、一日泥酔して院長を脅迫した。
「戦争だ、戦争だ! ロシヤの艦隊は横浜、東京を砲撃するだろう。なんたるバカだ、一狂人の命のために、国家の禍をまねくとは……院長、きいておらるるかあなたに耳があるか?」
児島院長は微笑してこたえた。
「西郷さん、あなたには眼がありますか?」
それからしずかにいった。
「戦争をするか否かは閣下らの方寸にあります。ねがわくば、日本、露国、おたがいに礼譲《れいじよう》を以て、平和に交際いたしたい。しかしながら、もし彼がこのことによって脅迫野蛮のふるまいあれば、そのさいは小官ら法官に於ても一隊を組織し、閣下ら将軍の命にしたがい勇戦するでありましょう。そのさいは、もはや法律はかつぎ出しますまい」
内相は怒号した。
「おれはもう裁判官の面をみるのもいやだ!」
「では、御覧にならないがよろしい。あなたの勝手であります」
内相は顔を覆ってうめいた。
「おれは……いままで敗けたことはなかったのだ……こんどこそは、はじめて敗けた!」
五月二十七日、大審院法廷で、最後の判決が下された。
「被告三蔵ヲ無期徒刑ニ処スルモノ也」
雲とへだつ
二人の俥夫は日本の英雄であった。
この意外な判決によって、ロシヤがなんの抗議も申しこんでこなかったのも、二人の俥夫の捨身の働きで、日本国民の誠意が理解してもらえたからだという噂があった。げんに、その夏、両俥夫がちかくペトログラードに招待されるという話も、相当確実なむきからながれてきたのである。
ふたりは、モテてモテてこまった。たとえば東京赤坂芸者一同よりとして、こんな手紙がきた。
「このたびのお働き万人の及ばぬ勇気のほどおやさしく存じあげまいらせ候。且また莫大の御褒美は当然のことにて、いますこし御頂戴なされても、しかるべき事と存じ候ほどに御座候。妾《わたし》どもいまだお目もじはいたさず候えども、おふたかたさま、あまりになつかしきまま毎日毎夜お噂のみをいたしおり、総代とか委員とか申すようなものをさしあげて御慰労申したきはやまやまに候えども、何と申すも御承知の業体《ぎようたい》ゆえとかく心にまかせず、西の空のみをながめくらし候。あわれ妾どもの心底お察し下され、チト御保養がてら東京へもおあそびにお出で下され候わば、妾どものうれしさはひとかたならず、あるほどのかぎりおなぐさめ申しあげて、月は嵐山のみならず東都八景のこりなく御案内申しあぐべく候」
とにかく、一時金が、いまの金で五、六千万、終身年金二、三千万ときているのだからたまらない。
英雄あつかいされることは、いろいろと迷惑することもあるが、決して悪い気持のするものではないが、夏、ロシヤから招待されるかもしれないという噂には、ふたりとも仰天した。
市太郎はともかく、治三郎の方はまったく無学文盲であるし、オロシヤの都でまた法被股引《はつぴももひき》の姿を大空に宙返りさせられては一大事である。
ふたりは、ともかく京都をにげ出さなければならぬと考えた。ふたりはそっと東京へにげてゆこうと思った。しかし、この英雄児が人のしらぬあいだに姿をけすことは実際にはむずかしく、猛烈なひきとめ運動のあげく、彼らが京都を旅立つときは、京都の俥夫全員が駅まで見送るという騒ぎであった。
市太郎は独身だが、向畑治三郎には家族がある。女房のうたと八つになる倅の恵吉と五つの娘である。万歳の声のなかにのぼせあがっている女房の顔をみながら治三郎はチトてれくさかった。
その数日まえ、北七軒の遊廓から遊女小蝶の姿がきえていた。彼がひそかに身請けして、ひと足さきに東京へやってあるのである。
北賀市太郎はべつの夢をみていた。
彼は二十六だった。越前の下級ながら侍の子で、俥夫仲間では珍しく本などを読むのもそのせいだが、しかし彼は、瓦解以来、貧窮をかさね、ほとんど窮死した両親をみているだけに、富にあこがれた。なんといっても侍の子だし、まじめな若者だけに、一見そんな野心があるとはみえないし、また褒美の金をもらってからも、気《き》ッ風《ぷ》のいい治三郎に決して見劣りしないくらい皆にバラまいてやったが、ともかくこう「資本」ができてみると、それをもとに東京か横浜に出て一旗あげようと考えた。
何はともあれ、ゆくてにはまぶしいばかりの虹がかかっていた。
その虹の下に立っている若い女の幻がある。……どんなにあいつよろこんでおれをむかえてくれるだろう? ――はずむ胸の底に、一抹の不安があった。
一年ばかりまえまで、市太郎は名古屋で俥夫をしていた。そのときおりんという酌婦《しやくふ》と惚れ合った。市太郎にしては珍しいというより、はじめての恋で、同じ越前の生まれだということがわかったのが縁だが、しかしいまでも市太郎の胸をしびれさせるような女だった。
それなのに市太郎が名古屋をとび出したのは、思いつめると一途なところのあるたちなので、商売柄おりんがいろいろな男に身をまかせるのをみるのがつらくなり、一奮発してもっと稼ぎのありそうな京都へ出て、あとでおりんを呼びにこようと決心したのがもとだ。
実は、あれ以来、なんども便りを出したのだが、返事がない。不安なのはそれだ。あんまりおれが出世しすぎて身を恥じているのだろうかとも思う。
市太郎は名古屋におりた。
「じゃあ、あにき、ここで――」
「いっしょに東京にやってこいよ」
治三郎はニヤニヤ笑った。尤も、東京へ出てからのことは、何も打ち合わせているわけではない。ふたりの夢は大きくかけはなれている。
おりんは、いなかった。
朋輩《ほうばい》にきくと、この春伊賀上野の大百姓に請《う》け出されていったという。
女たちが、わっと寄ってきた。評判はここまでとどろいていたのである。
「まあ、市さん、えらいことにおなりだね」
「このごろ、よるとさわると、おまえさんの話だよ。ああ、そういえば、あのころから、市さんの俥《くるま》できたお客は、みんな金ばなれがよかった。よほど金に縁のある福男にちがいない――」
「そうら、このひとお金のことをいい出した。市さん、用心おしよ、あたしなんかそうじゃない。男前だし、腕っぷしはつよいし、どうかこんなひとのおかみさんになってみたい――」
「あたしもそうよ。ただ、おりんちゃんがいたから遠慮してたんだ」
「市さん、あんな心変りした女はお忘れよ」
「こんどは、あたしとね。え、せめてひと晩でもいいから、さあ」
「市さん、市さん」
無数の手が出て、市太郎の腕や足をなでまわす。
市太郎は芋虫にたかられたような顔つきであわててにげ出した。
さて、それから思案にくれる。あれほど待ってろといったのに、おりんの心がわからない。この春、請《う》け出されたといえば、五月の事件のことを予想するはずはないが、それにしても約束を忘れるのが早すぎる。……くやしさに彼は涙ぐんだ。
しかし、だんだんおりんが可哀そうになった。みれんというものは恐ろしい。
市太郎はとうとう伊賀上野へ出かけていった。
「伊賀上野……伊賀上野……」
その町へ近づきながら、彼はなんどもくりかえしつぶやいた。
ふしぎだ。この町の名をまえにきいたような気がする。芭蕉の出た町、荒木又右衛門の仇討をした町……そんなことではない。ほんのちかごろ、きいたことのある名だ。
と、前をあるいていた二、三人の百姓がたちどまった。
「あれ、またはじめやがった」
「分にすぎた女をつれてかえるからよ」
「しかし、女も女だ。まえに捨てた男が勲章俥夫《くんしようしやふ》となったら、急にジタバタさわぎだして」
「あさましいもんだのう!」
市太郎は、はっとして足をとめ、路の向うをみた。町の中から髪をみだした女がとび出してきて、それを、ひとりの青白い顔の男が追っかけてくる。
その女がだれか気がつくと、市太郎はあわてて路ばたの小さな小屋のかげに身をかくした。――おりんだ。おりんなのだ。
「こいつッ、またにげやがるか?」
男は、百姓たちのすぐまえで女をつかまえて、人眼もかまわずなぐりつけた。
「おれをだまして、ずらかろうったって、そうは問屋が下ろさねえ」
「何いってやんだい。だましたなあどっちだよ。大百姓のあとつぎだなんて大きなことをいいやがって、来てみりゃ馬方じゃないか」
と、女もまけずにやりかえす。凄まじい形相である。
「馬方だろうがなんだろうが、てめえ、おれの素姓に惚れたんじゃねえ、気ッ風に惚れたといったじゃねえか」
「女に惚れられるような気ッ風があるかないか、馬の小便でもあびて考えてみるがいいや」
「馬方と――へん、おめえは俥挽《くるまひ》きのほうが御執心だろうが」
「そうだよ。あたしゃ京都へゆけば、これでも勲八等の奥方様だ。……おまえの顔なんか、ふっふっ、見るのも胸がわるいよ」
このあいだ、ふたりは蹴合鶏《けあいどり》みたいにぶちあい、ひっかき合っている。百姓たちは、止めようともせず、ゲラゲラ笑って見物していた。
市太郎の顔いろはだんだん沈んでいった。実をいえば、おりんがこういう目にあっていやしないかと案じて、いやむしろそれを僥倖《ぎようこう》してやってきたつもりであったが、しかしこのあさましい醜態をまざまざと見せつけられると、足が釘《くぎ》づけになってしまった。
そのとき、百姓がさけんだ。
「あっ……もうよしな、町長さまがやってきなさる」
「旦那がたおそろいだ。また国賊の追っ立てにきなすったんだ」
市太郎はまた眼をあげて、町の方からくる二、三十人の男たちの姿を見た。みんないかめしい、肩肘いからせた姿であるいてくる。
眼
何だろう? ……国賊の追っ立てとか何とかいったが。――
おりん夫婦はあわてて田圃のなかににげていったが、市太郎はそれを追おうともせず、いぶかしさにかられて、なおその小屋のかげにかくれていた。
その一団をやり過そうとしたのだが、おどろいたことに、彼らはその小屋のまえに立ちどまった。山高帽をかぶり、ひげをたてた男が呼びかけた。
「津田の家族、おるか?」
小屋の中では返事はなかった。
市太郎は愕然としていた。津田――津田――それこそはあの大津の兇漢の名前ではなかったか。そうだ、この伊賀上野という町の名におぼえがあったも道理、それはあの津田三蔵の出た町だったのだ!
彼の家族は、石もて追われるように故郷へかえっていったときいたが、もしかすると、この小屋が、彼らの世にかくれすむ家ではあるまいか。
「津田千代吉、いないのか。いたら、返事せよ!」
「はい」
と、いままで無人とも思われたその小屋の中で、ふるえる声がきこえた。
「当町に於ては、すでに町会の決議により、五月二十九日、津田一家の退去を申しこんである。それからもう何ヶ月たったと思う?」
「天皇陛下をあのように悩まし奉った大罪人の家族を町内に住まわせておくのは、国民に対し、慚愧《ざんき》にたえんのじゃ」
「三蔵が藤堂藩《とうどうはん》の出であったばかりに、天下の藤堂藩人はことごとく息をひそめてくらしておるのだぞ」
「こら、返事せぬか!」
これは、返事のしようがない。しかし、どなっているうちに人々はだんだん昂奮していった。
事件のショックが大きく、国民あげて心痛しただけに、津田三蔵への怒りは激烈だった。その極端な例がある。山形県最上郡金山村では、村条令を出して「第一条、本村住民は津田の姓を付するを得ず」「第二条 本村住民は三蔵の名を付するを得ず」と決したくらいだ。そして日本全体が、これと大同小異の憎悪にわきたぎっていたといってよい。
津田三蔵は重傷のまま、すでに釧路集治監《くしろしゆうじかん》におくられていた。そして、のこった憎悪はいまここに津田の家族に雪崩となってのしかかっている。
「町を出ろ」
「なぜ戸をあけぬ?」
「出てゆかぬか?」
戸に、バラバラとわらじや石や馬の糞がとび、はてはあかん坊のあたまくらいありそうな石がなげられて、めりっと板がさけた。もともと人間が住めるものとも思われない小屋なのだ。
「何をする! 病人がいるというのに!」
はじめて、裂けた戸からたまりかねたような声が起って、若い男の顔がのぞいた。
「病人とは、あの大悪人を生んだ母親のことか?」
と罵られて、若い男の眼が血ばしった。
「母上のことはいうな。母上には何の罪もない。……ただ兄が悪いのだ。兄が悪いのだ。……それでも、わしたちは謹慎して、町の外のこの小屋まで身をひいている。夜になって物乞いに出てあるく。それさえも皆の衆はゆるしてくれぬのか!」
「ゆるさぬ、ゆるさぬ。わたしたちに見えるだけでも眼のくされだ。はやくどこなと消えてくれ!」
「ゆきたくも、金がないのだ」
「なんじゃ、引っ越し賃をゆすっておるのか? その手はくわない。いってもらいたいのはヤマヤマだが、国賊にやる追い銭はもたんのじゃ。米櫃《こめびつ》でも蒲団《ふとん》でも売って金をつくればよかろう」
「だれも、わしたちから物を買ってはくれないのだ!」
「あたりまえじゃ。だれが国賊の家財道具などを……」
国賊国賊といわれるたびに、若者のからだが鞭《むち》をあてられるように痙攣《けいれん》した。
山高帽の町長らしい男がすすみ出て、厳然といった。
「ともかく、これが最後じゃ、三日の猶予《ゆうよ》をあたえる。三日以内に退去しなければ町民がどんな挙に出てもわしは責任はもたんぞ」
そういいすてて、みなにくにくしげに戸に唾《つば》をはきかけ、ゾロゾロとひきあげてゆく中に、巡査の姿さえ二、三まじっている。
中は、それっきりしーんとしていた。まるで死に絶えたような静けさの底からやがて老婆らしいすすり泣きが、かすかに洩れはじめた。
市太郎は茫然とたちすくんでいる。これがあの日本じゅうをふるえおののかした国賊津田の家か? 同時にそれは、彼を夢のような幸運者におしあげてくれた男の家族たちだった。
いつしか、夕月がのぼりかかっていた。彼は跫音《あしおと》をしのばせ、そっと戸の裂け目からのぞきこんだ。
貧苦は生れながらなめてきたが、これほどひどい貧しさはみたことはない。家の中には、ほとんど何もなかった。破れ蒲団に、ぼろのかたまりみたいな老女が横たわり、その枕もとに若い男がつっ伏し、十五、六の少女が端座《たんざ》して、かわいた眼でボンヤリ宙をながめていた。
うめくように青年がさけんだ。
「死にたい。……ああ、母上とお葉さえいなければおれは死ぬのだが!」
「死のう、千代吉……」
と老女がいった。その眼から横に涙がつたいおちた。
「死ぬよりほかはない。いいえ、死んでみなさまにおわびしよう……」
「あたしは、死にませぬ」
ふいに誰かがいった。澄んだ鋼《はがね》の線の鳴るような声だった。まるで仮面のように蒼白い少女の唇が、またかすかにうごいた。
「死にたいひとは死になさい。あたしは死にませぬ。……国賊の娘でよろしゅうございます」
「お葉、何という?」
「あたしは国賊の娘らしく生きていくつもりでございます」
眼は、依然として宙をみていた。のぞいている市太郎をみているのではなかった。それにも拘わらず、うす暗がりのなかに、その二つの瞳は、黒い炎のように市太郎の眼を灼いた。
市太郎は痛みのような戦慄《せんりつ》をおぼえてとびのいていた。黒い炎は彼の魂まで烙印《らくいん》をおしに追いかけてきた。それは市太郎にとって運命の眼であった。
まるでこちらが悪事でもしたようににげかけて、急に彼はふところに重みを感じた。いままでおぼえなかった金の重みである。
この金は何か? ……ここに金がある。むこうの皿にこの哀れな一族の涙が盛られてある。彼の心の秤《はかり》ははげしくゆれた。
突然市太郎はその金をつかみ出し、戸のところへはしりよった。なぜそんなことをしたのか、じぶんでもわからない。ただ彼はその金の重みにたえられなかったのだ。彼はその金を、戸のさけめからなげこんだ。
「だれ?」
おどろいて立ちあがってくる気配をうしろに、彼はもと来た路を脱兎のごとく駆け去っていた。
まっぴら御免
明治二十五年十一月の末ごろの或る新聞にこんな記事がのっている。
「かの大津事件の帯勲俥夫《たいくんしやふ》向畑治三郎は、昨夏より東京に移住し、待合を営みありしが、去るころ芝の琴平《ことひら》亭なる女|浄瑠璃《じようるり》をききにゆき、鶴路《つるじ》という女義太夫を見初め、当夜すぐに或る料理屋へ呼びて懇意となり、同人を廃業させ、深川富吉町に一戸を借り受け、おみなの名をつけて妾宅《しようたく》としたるに、おみなは父が病気ゆえ三十円の金を借りうけて故郷へかえりたいというにより、二十円だけ貸与《たいよ》して出立させたるに、その後一向かえってこぬゆえ不審に思い、右の妾宅をとり調べたるに衣服などきれいになくなっておるにより、さては一番あざむきおったかと同人を探索中、神田小川亭へ入ってみると、おみなが以前のごとくデンデンとやっているゆえ、向畑もグット怒り、同人をその筋に訴えたる由」
「グット」どころのさわぎではなかったが、字の読めない治三郎は、そんな新聞記事の出ているのもしらず、その日の夕方、ムシャクシャを洗いおとそうと芝|伊皿子《いさらご》にかこってあるもうひとりのお妾お蓮《れん》のところへやってきた。
東京へきてもう一年――治三郎の道楽はますます発展してとどまるところを知らない。もっともこれは彼ばかりの責任ではなく、蟻《あり》の甘きにつくようにあつまってくる男や女の口ぐるまにのって、こんな目にはもういくどもあっている。
お蓮はジロリと治三郎をみて、ツンとむこうをむいた。――たった一年で、だれがみてもスッキリとあかぬけした東京女になっているが、京都からつれてきた小蝶である。
「おい、何をふくれてるんだ」
「それをごらんよ」
と、白いあごでさした畳の上に、一枚の新聞がある。
「なんだ、それは」
「新聞におまえさんのことが出てるんだよ」
そういわれても治三郎はおどろかない。去年から、すっかり「ジャーナリズム」の売れっ子になっているので、ぜんぜん横着になっているのだ。
つい先だっての東京日日にも出ていたそうだが、例のロシヤ皇太子が遭難したときの人力俥が、いまニューヨークのユニオン・スクエア・ホテルに飾られ、おまけに、五分刈あたまに、ふんどし一つ、息せわしげに口をひらいて梶棒《かじぼう》をにぎってはしる等身大の北賀市太郎の木像と、俥のうしろをおしている治三郎の木像がついているという。
ふんどし一つとはあんまりだし、市太郎はロシヤ皇太子の俥をひいていたわけでなく、おなじ嘘ならこっちは役不足だが、しかしわるい気はしない。
「こんどはおれの銅像でも、どこかに建ったか」
と、悦《えつ》に入りながら、ふしぎそうにお蓮をみて、
「おめえ、新聞がよめるのか」
「いえね、ひとが持ってきて、読んでくれたんだよ」
「なんてかいてある?」
「へん。おまえさんが琴平亭の女義太夫にふられてのぼせあがったって話さ。一軒もたせて、持ち逃げされたんだってね。なんてとんまだろう」
「なにをっ」
「お調子にのって、助平根性を出すからさ。いい気味だよ」
治三郎は満面朱《まんめんしゆ》をそそいだようになって立ちすくんでいたが、ふと長火鉢の中をみて、
「やい」
と、どなった。
「何さ?」
「その新聞見せにきたって奴あだれだ」
お蓮は火鉢の中にさしてある紙巻煙草に気がついて、はっと狼狽したが、すぐににやっと笑って、
「おまえさん、この煙草をみてへんな気をまわしたね。ほら、いましがたまで、呉服屋がきてたのさ。旦那に相談してからっていうのに、繻珍《しゆちん》の帯を一本むりやりに置いてったけど、おまえさん、買ってくれる?」
「呉服屋? 呉服屋をここまで入れるのか」
「火の気のない入口で、品物をひろげられたら、こっちが風邪をひいちまうじゃないか。……ほ、ほ、可笑しいこと、おまえさんらしくもないヤキモチなんか嫉《や》いてさ」
治三郎はいっぺんに笑殺《しようさつ》された。あたまや口ではとうていこの女郎あがりの妾にはかなわない。
「ばかばかしい。東京まできて間男するくらいなら、だれがわざわざ京都から手に手をとって――でもなかったわね。おまえさんにゃ、れっきとしたおかみさんがあるんだもの、あたしゃひとりぼっちでコソコソ来たっけが、あのときゃ心ぼそくて……」
眼じりをそっと白い指でぬぐう。
「ただ、おまえさんだけをたよりに東京にきたのに、そんなあらぬ疑いをかけられちゃあ、あたし死ぬよりほかはないよ……」
「な、何を――ひとりでペラペラ、かってな推量をして泣きやがるんだ」
治三郎は、もてあました。
「泣くな。おれア面白おかしい目にあいてえと思ってやってきたんだぞ。へっ、あんな女房、倅と娘さえいなけりゃたたき出しちまうんだが。……とても、待合のおかみなんてがらじゃあねえ」
なに、治三郎だって、待合の亭主ですら、板につかない。やっぱりどこか俥夫である。いいや、面だましいは無法脛《むほうずね》のままである。
「おまえさんは、ほんとに子煩悩《こぼんのう》だねえ。くやしいけれど、そればっかりはあたしも嫉く勇気が出ないわ」
お蓮は、ちらっと不快な表情をしたが、すぐにさびしげな、媚びるような調子でいった。治三郎はまたあわてて、
「もうよせ、おい、酒でもつけてくれ」
といった。
いつもの通りの痴話喧嘩《ちわげんか》になって、紙巻煙草の件などどこかへきえてしまった。体力的には精悍粘強《せいかんねんきよう》な治三郎だが、あたまの方はきわめてサッパリしたものだ。
「おまえさん、怒ったの?」
さしむかいで、さしつさされつしながら、お蓮はもう眼のふちをホンノリそめて、
「でも、あんまりおまえさんが見さかいのない助平だからよ。それだけがほんとに玉にキズ。……みんな、おまえさんのあの御褒美の金を狙ってるんだから。あたしゃ、それを案じて……」
「褒美の金か、ありゃもうあらかたなくなったよ」
「えっ? ……だ、だからいわないことじゃない!」
「なんだおめえ、人相まで変ったじゃあねえか。あはははは、なあに待合をひらくのにずいぶんかかったからな」
「そう、そりゃそうだろうね、ほほほほ、はじめからそういってくれりゃいいのに。それで待合の方はうまくいってるの?」
「それが、さっきもいったように、女房がその任《にん》じゃあねえ。いまのところ大損《おおぞん》だよ」
お蓮はうたがいぶかげにキラッとひかる眼をあげたが、治三郎が金のことで嘘をつく人間ではないことを知っているので、
「どうするの、それじゃあ?」
「なあに、年の暮になりゃ、また千三十六円の年金が下がらあ」
と、治三郎は至極気楽な顔つきである。
「こいつア、おれがどんなに道楽したって、まちがいなく天から降ってくる。はは、かりに日本がほろんだって、千円だけア、ロシヤから来らあ」
「ああ、そうだったね」
もう酔っぱらった治三郎は、しなやかなお蓮の腕をとって、じぶんの胸をドンとたたかせて、
「心配するな。おめえにひもじい思いをさせやしねえ。おれには運がついてるんだ」
子供らしい、なにか憑《つ》かれたようにみえるほど、底ぬけの楽天的な顔だった。
「ほら、だいたいおれがこんな果報にあったのもよ、もとはといえば賽ノ目一ツ。……元来はあの若僧、なんとぬかしやがった、そうそう坂本って野郎の役まわりだったんだ。運のねえ野郎たアあいつのことだね。可哀そうに、いまごろはどうしていやがるだろう?」
治三郎は哄笑《こうしよう》した。
「寒い京都で、まだ俥をひっぱってるにちげえねえ。北七軒にいったって、もうおめえはいねえしの」
お蓮はまばたきした。その妖艶なまつげがちょっと伏せられた。
「おまえさん」
と、お蓮は急に治三郎の口を封じて、
「話はちがうけど、その女義太夫って別嬪《べつぴん》なのかい?」
「またそのことをいいやがる。もうかんべんしてくれよ。一寸魔がさしたんだ。とてもおめえとはくらべものにならねえ」
ほんとうだった。こうなっても、治三郎には、なおじぶんには過ぎた女だと思う。スラリとして骨ぼそなくせに、やわらかに肉づいて、それがもとがもとだけに夜の嬌態《きようたい》は凄まじいばかり、甘美な鼻息を思い出しただけで、治三郎の眼がトロンとなった。
「おい、お蓮……」
「ちょっと待ってよ、まだまっぴるまじゃないか。それより、おまえさんの人のいいのにつけこんだそのふとい女義太夫、しゃくだねえ。ね、おまえさん、あたしをその琴平亭へつれてっておくれよ。あたしと仲のいいとこを見せつけて笑ってやろうじゃないか」
総理大臣ひっくりかえる
酔ってもいたのである。
が、この一年すっかり増長《ぞうちよう》天王になっていたこの無法脛の大将は、新聞の揶揄《やゆ》にいささか面目を失墜して、惚れた女のまえで、なんとか胸のすくようなところをひとつ見せてやりたいという無邪気なみえにかられていたのである。
小春日和の伊皿子《いさらご》の通りをブラブラあるいてゆくうちに、向うから巡査がひとりやってくるのをみると、急に治三郎はたちどまった。ムクムクとつきあげてきた途方もないいたずらっ気がある。
いきなりわめき出したのだ。
「こら、巡査、五十銭やるぞ、やるぞ」
そして、いきなり裾をまくりあげると、大道のまんなかで堂々と立小便をはじめたものだ。
巡査はかけつけてきた。あごのとがった若い巡査だったが、あきれたようにこの無法男を見つめ、また傍で狼狽しているお蓮をみて、
「酔っておるのかね?」
「はい、そうなんでございます。まあ、おまえさんったら、なんてばかな真似を……」
「酔っておるとあれば、今日にかぎって大目にみてやろう。はやくつれてゆきなさい」
立ち去ろうとする巡査を、治三郎はよびとめた。
「おい、どうして罰金をとらん? 五十銭もってゆけ」
「いや、今日はゆるす。はやくゆきなさい」
「ゆるしてもらいたかアねえ。おれはこうみえても大金持だぞ」
「はははは、わかっておる、わかっておる」
「わかっちゃいねえ。いいか、おれは天下の帯勲俥夫《たいくんしやふ》、向畑治三郎だぞ。どうだ、おどろいたか?」
巡査はたちどまって、こちらをじっと見つめた。その眼が異様なひかりをおびてきて、治三郎がぎょっとしたとき、
「向畑治三郎、……うぬか! わしの兄を殺したのは?」
「……?」
「わしは、津田三蔵の弟、津田千代吉だ」
釧路集治監《くしろしゆうじかん》におくられた無期徒刑囚津田三蔵は、すでに去年の九月に獄死していた。
治三郎は仰天した。巡査の血相をみるや否や「わっ」とさけんでとびあがり、鉄砲玉のようににげ出した。
「待てっ――」
津田巡査は、反射的に抜剣して追いかけてくる。
治三郎はむちゅうになってにげはしった。曾て無法脛といわれた足だが、酔っているし、すっかりナマになっている。息がきれ、眼がくらんで、
「この馬鹿野郎!」
という大声とともに何物かにぶつかって、どんと地面にしりもちをついた。
治三郎の眼に、俥がみえた。ひいていた俥夫が、梶棒をあげて、上にのっている人があおむけにのけぞったのがみえた。しかし、その人はまだ落ちなかったのである。ところが、そのとき相手の俥夫が、
「あ、向畑のあにきじゃないか!」
と、とんきょうなさけびをあげて、思わず梶棒から手をはなしてしまったので、俥上《しやじよう》の人は、とうとう完全に地面へ墜落してしまった。
「ひえっ、こりゃ、北賀市太郎!」
と、治三郎がはねおきたとき、市太郎ははじめてあわてふためいて、ころがりおちた老人のところへはせよっている。――かけつけてきた津田巡査が、このとき棒のように直立不動の姿勢になった。
その俥のむこうに、もう二台ばかり俥がみえたが、そこからも政府の大官らしい人が狂ったようにまろびおりてきた。
「ばか! なんたることを! 総理大臣閣下! お気をたしかに!」
さすが無法脛の治三郎も、半分死んだようになってしまった。彼がほうり出したのは、時の宰相《さいしよう》侯爵伊藤博文だった。
伊藤首相の邸は伊皿子にあったので、このとき重大用件で、警視総監をしたがえ、永田町の官邸からいそぎかえる途中のことであった。
伊藤博文は、しばらく昏倒していた。
あとでわかったことであるが、首相はこのとき前歯の一枚を折り、ほかの三、四枚もブラブラし、なおその上、後頭部に全治二ヶ月にちかい打撲傷をうけたのである。刺客のおそれなど充分にある時代のことだから、ふだんから人力俥にのるとき膝かけを念入りにまとっては急場は危ないとみずからいましめるほど用心していた人であったのに、この日にかぎって厚い膝かけをしていたのも運が悪かった。
明治二十五年十一月二十七日午後二時すぎの事件であって、第四帝国議会開院式の二日まえのことである。このため井上内相が、しばらく臨時総理大臣を仰せつけられた。
「犯人をとらえろ!」
という警視総監の絶叫に、茫然としていた津田巡査はぱっと治三郎にくみついた。
「わっ、かんべんしておくんなさい……」
このだらしのない胴間声に、警視総監はちょっとまばたきしたが、すぐにハッタとにらみつけて、
「その方は何者だ」
「へっ、その……去年勲章をもらった向畑治三郎ってケチな野郎で……」
「なに?」
「このお巡りに追っかけられたものだから、つい夢中になってにげてきたわけで……」
伊藤博文は、まだ気絶したまま、抱きおこされ、俥の上にはこびあげられていたが、このときウッスラと眼をひらいて、
「ウム、あの大津事件の俥夫か?」
と、かすかにうめいた。その口からあごひげに血がついておちた。
「巡査、なぜこの男を追っかけたのか?」
「はっ」
と、津田巡査は複雑な表情を直立不動の姿でしばって、
「先刻、おれは天下の向畑治三郎だ、五十銭の罰金をとってみよと大言し、大道のまんなかで、小官にむかって立小便をしたのであります」
「おい、巡査、ただちに逮捕《たいほ》して警視庁に拘引しろ!」
と、警視総監がわめくのを、首相は弱々しく制して、
「いや、ゆるしてやれ。他意のないものであることがわかった上は……」
「しかし、閣下――」
「日本の大難を救ってくれた俥夫じゃ。今回はゆるしてやれ。……ただ、その分では、だいぶのぼせあがっているらしい。市太郎も不覚《ふかく》な奴。よいか、あと二度、かような過ちをしたら、両人とも勲章はとりあげるぞ。それを胆に銘じて、以後つつしめ。もうよい。俥をやれ……」
そして伊藤博文は、しずかにうごき出した俥の上で、またウトウトと眼をつむってしまった。
市太郎は腑ぬけになったように俥をひいている。角をまわるとき、そっとふりかえってみると、明るい晩秋の伊皿子の路上に、向畑治三郎と巡査の黒い影が、これまた腑ぬけのようにぼんやりつっ立っていた。
影
北賀市太郎は「眼」にうなされていた。
そんなことがあっていいはずはないのだ。じぶんは何も悪いことをしたおぼえはない。それどころか、津田三蔵を斬ったということは、日本を累卵《るいらん》の危機から救った働きとして、全国民が随喜《ずいき》の涙をこぼしている。勲八等も千三十六円の年金も、およそ人間が手にする名誉と金のうち、これほどなんぴとにも祝福された、正々堂々たるものはないはずだ。
それなのに、あの黒い眼が彼の心をへんな不安につきおとす!
じぶんが、この幸運を買ったおなじ事件であのような絶望的な悲劇の一族があるということは、もしあれを見なければとうてい想像もできないことであったろう。むろん、じぶんがあの家族を悲運におとした人間ではないが。――
それなのに、あの三蔵の娘の眼が、いつまでも彼の背を追ってくる!
やさしい性質ではあるが、決して気のよわい男ではない。それなのにこれほどなやまされるとは、やはりこれは宿命的な眼であったというよりほかはない。
彼は、東京へきてからも、残りの金の重さにたえかねた。ましてやその金をもとでにいっそう金もうけをするなどということに、ふしぎなためらいを感じた。あのかわいた黒い眼がそれをじゃました。彼はそれをふりはらおうとして酒をのんだ。そして、いつのまにやら「もとで」はほとんど消滅してしまった。
彼はまた俥夫になった。
しかし、北賀市太郎という名は、とうてい彼を東京の巷に埋没させなかった。その名は俥夫仲間に喧伝《けんでん》され、伊藤侯のお抱《かかえ》俥夫から、その噂が主人の耳に入った。彼が総理大臣の俥夫となったのは、こういうわけからである。
さて、伊藤首相の奇禍《きか》が新聞につたえられ、ふたりの帯勲俥夫の名と、その一年前の大手柄を文字どおり逆転させたような大失敗が報道されてからまもなくのことである。
市太郎は、いっそうふしぎな影のようなものに狙われていることを感じ出した。
夜、空俥をひいてあるいているとき、うしろの方からシトシトとつけてくる跫音をきいたことがある。ふりかえってみると、誰もいない。ぞっとするようなことは、そればかりではない。そのあくる年の春雨のふる或る夜など、伊皿子の伊藤邸の俥夫部屋で、障子のやぶれた穴から、じっとのぞいている眼さえ見たのだ。
「だれだ?」
とび起きていったが、人影もない。市太郎は、水をあびせられたような思いがした。
茫然と立ちすくんだ市太郎の脳裡に、いまの眼と記憶にある黒い炎が重なってきた。――あの眼だ!
あの娘が、東京にきている。
それはあり得ることであった。あの人力俥|転覆事件《てんぷくじけん》のあと向畑治三郎にあって改めて久闊《きゆうかつ》を叙《じよ》し合ったのだが、そのとき治三郎を追っかけた巡査が、津田三蔵の弟だということをすでにきいていたからだ。
津田千代吉、それはあの伊賀上野の町で、町の人々の迫害に悲憤していた若い男にちがいない。してみれば、彼は三蔵の遺族をつれて上京してきたのだ。
三蔵の娘が来ている。あの「あたしは死にませぬ。国賊の娘でよろしゅうございます」とさけんだ娘が、東京にきている。――彼女は何をしている? 彼女は、市太郎の所在をつきとめた。そしていまや彼を狙っている!
市太郎は蒼くなった。
いわば、彼女をじぶんのちかくへひきよせたのは、彼自身だ。彼のなげこんだ金を旅費にして、彼女は上京してきたのだ。
その皮肉に、彼は腹をたてるより、心の戦慄をかんじた。生命の恐怖というより運命の戦慄を。
「おれをにくむのアおかどちがいだ」
その論理は、彼自身はもちろん、だれにきかせたって正当だが、かんじんのあの絶望と自棄の結晶のような娘には通用しそうにない。といって、むろん彼自身は彼女のゆがんだ意志をみとめてやるわけにはゆかない。
影は、その後も彼を追いつづけた。彼は神経衰弱のようになって、あげくのはてにむかッ腹をたてた。
「ようし、いちどおれからふンづかまえて、よくよく説教してやる」
もうすこしはやくその決心がつけば、津田千代吉巡査の住所を警察のほうで調べてもらって手がかりがあったのだが、去年の事件の直後、千代吉が素姓をいつわっていたことがあきらかになったので、警察をやめさせられて、それっきり、行方不明になっていたのだ。
明治二十六年初夏の或る夕ぐれだった。
市太郎は、俥をしまい、侯爵邸の通用門から入りかけて、ふと何気なくうしろをふりむいて、往来のむこうに立ってじっとこちらを見ているあの娘の姿を、ついに発見した。
「待て!」
彼は地を蹴《け》った。娘は身をひるがえしてにげ出した。
市太郎は伊皿子の町を追い、娘は追われ、市太郎は薄暮《はくぼ》の小路の中についに娘の姿を見失った。
「どこへゆきやがった?」
茫然として市太郎がつっ立ったとき、横の路地から突然大声がしたかと思うと、ふたりの男がとっくみあったまま、どっところがり出して来た。
お釈迦さまでも
向畑治三郎も、彼の十字架を背負っていた。
これは、市太郎のように生命の危険ではないが、それにおとらずわずらわしいものだった。
つまり、彼の成功をあてにして、関西から、彼の親戚および親戚と称するものが、数かぎりもなくゾロゾロと上京してきて、ちょうど軍艦にくっつく牡蠣《かき》みたいに彼の背中にくっついてくるのである。彼の叔母の亭主の弟の女房の甥《おい》なんていうのが、
「治三郎さんは、わいら一族のホープやで、たよりにしてまっせ」
まあ、こんなことをいって、ころがりこんでくる。
それをまた治三郎がいい気になって受け入れてやったり、金をやったり、まったくしまりというものがない。もともと陽性の豪放な気性だから、たよられるといやとはいえないどころか、本人がうれしくってしかたがないのだ。
治三郎よりも、女房のお|うた《ヽヽ》の方が、しかめッ面をしはじめた。浅草で待合をひらいているのだが、客を入れるべき部屋に、いつのまにか、居候がゴロゴロと充満してきて、下宿屋みたいになってきたのだからむりはない。
「おまえさん、どうするんだよ。あたしゃ、まえの方がいまの半分の半分の半分もらくだったよ。そりゃ忙しいのに愚痴はこぼさないけど、こんな居候の世話ばかりでヘトヘトになるのはいやだよ。……おまえさんの道楽は天井しらずになるし、あたしゃ俥挽《くるまひ》きの女房だったころのほうが、もっと倖せだった!」
さいわいなことに、治三郎がいちばん入れあげているお蓮のことはまだ知られていない。しかし、ときには治三郎もこれではいかんと反省心をおこすこともないではなく、突然、居候一同を呼びつけて、訓示《くんじ》をこころみることもあるのだが、
「治三郎さんほど侠気《おとこぎ》のあるひとは京になかった。あれくらい気っ風がいいと、福の神がひいきにするのもあたりまえだって、いまでも京の語り草になっている」とか、
「いやいや、治三郎さんが福の神じゃあないか。毎年、ねころんでいても千三十六円を振り出す打出の小槌《こづち》をもっているからな」
とか、
「それではこれから京都にかえるから、せめて治三郎さんにあやかるように、下駄《げた》にくっついた泥をもらってかえって、みんなに分けよう」
など、ムヤミヤタラにおだてあげられると、本人が有頂天になって、
「そうだそうだ、おれは打出の小槌をもってるんだ。みんなおれにしっかりつかまってろ、少しはおれから運がうつるかもしれねえ」
などといばり出して、みんなに酒でもふるまって、それでオチである。
五月の或る日、彼はこのことでまた女房と大喧嘩して、三つ四つ張りとばして家をとび出した。ゆくさきはむろん芝、伊皿子である。
実はそこから今朝かえったばかりだが、このムシャクシャをふっとばすにはどうしてもお蓮の美しい顔をみるよりほかに方法はないような気がして出かけていったのだが、そこで彼は思いがけない人間と事件に出合ったのである。
格子戸《こうしど》をあけて、彼ははっとした。
長火鉢を中に、お蓮がだれか男と話している。男がふりむいた。
「これア……さ……坂本!」
と、治三郎はうめいた。あたまを、さっとはしった直感があった。いつかその長火鉢でみた紙巻煙草の主の正体だ。
ふりむいた坂本慶二郎の顔がゆがんだ。二年前も決しておとなしい顔ではなかったが、頬がこけ、眼がとび出し、いっそうの悪相になっている。
「なんだ!」
凄まじい怒りにつきあげられたように、治三郎がおどりあがろうとしたとき、急にお蓮がさけんだ。
「だから、いやだったらいやだよ!」
「なにい?」
と、いったのは坂本だ。
「そりゃあまえは、おまえさんと知らない仲じゃあなかったけど、あれは商売。商売は商売するときだけで御破算さ。あたしゃいまじゃ治三郎さんにお世話になってる身の上、治三郎さんがウンといわなきゃ、箸のあげ下ろしだって勝手にゃしないよ。ましておまえさんに金を貸すなんて、ヘッ、鐚《びた》一文だってごめんだよ、おかえり!」
治三郎はめんくらった。どうも想像とは風向きがちがうようだ。
「どうしたってんだ?」
と、彼は咳ばらいして上がっていった。坂本は彼を見ても、じろっと上眼づかいに見ただけだし、お蓮はそっぽをむいて煙管《きせる》でフーッと輪をえがいただけである。ひどく腹をたてている様子だ。
「坂本じゃあねえか。いつ東京に来たんだ?」
と、治三郎の方から、おだやかに話しかけた。坂本慶二郎はまだだまっている。もとから気味のわるいところのある若者であったが、いまみる彼はなにか古沼のような妖気すらあった。
「こんなところへ何しに来た?」
「お金を貸せってさ」
と、お蓮がいった。
「二、三日まえ、あたし、ひとりで、回向院《えこういん》へアームストンの曲馬団を見物にいったろ? そこであたしの姿を見つけて、ここまでつけて、この家をつきとめたらしい。さっきやってきて、あたしをゆすってるんだよ」
「そうか。……足を洗ったむかしなじみの女郎をゆすろうなんて、とんだケチな野郎だ」
治三郎はむかっ腹と、安堵のまじった優越感につきうごかされて、うっかり、
「坂本、金がほしいなら、なぜおれのところへ来ねえ?」
「おめえのいるところが分れアいったさ。小蝶《こちよう》をこんなところに囲ってる旦那が兄貴たあ、たったいま知ったことさ」
と、坂本慶二郎ははじめていった。
「そういってくれりゃ、なるほどそうだ。兄貴にすがった方が順当《じゆんとう》らしい」
そして、お蓮の横顔をチラッとみて、うす笑いした。
「東京の水のせいか、兄貴の手入れのせいか、いっそうふるいつきてえほど色っぽくなったね、小蝶」
治三郎は、改めて危険性をかんじた。
「坂本、ちょいとここを出てくれ」
「なに?」
「いやここで一ぺえやりてえが、こいつあ腹をたてると酒の|かん《ヽヽ》もうまくはできねえ女だ。ちかくの知った家に、ちょいとつきあってくれ。その後のおめえのなりゆきもききてえし、おめえの願い事をきいてやらねえでもねえ」
坂本慶二郎は笑顔になって、素直に治三郎について外に出た。が、口論はそれから三間もゆかないうちに起ったのである。
「兄貴、兄貴は、ほんとに果報者《かほうもの》だね」
「イヤ、なに……」
「おれア、まったくツイていねえや。あれから、することなすこと、いすかのはしとくいちがい、さんざんのていたらくだ」
「そうか。きのどくだな」
「本来なら、おれが年金つきの勲章《くんしよう》をもらい、小蝶を手活《てい》けの花とたのしむところだったんだ。それを賽《さい》の目一つの勝負から……」
「骰子《さいころ》は天の配剤だ。坂本、愚痴をこぼすなあ男らしくないぜ」
「などと、兄貴はツイてたからそんなことをいう。……しかし、兄貴、すこしは冥加《みようが》にすぎるたあ思わねえかね?」
「そりゃ、どういうわけだ、坂本」
「つまりだな、兄貴のいまあるのも、いわばまあおれのおかげ。……金と女をひとり占《じ》めにしようたあ、ちいっとふとかあねえか? 血のかよう人間なら――」
「血のかよう人間なら?」
「兄貴、どっちかをおれに譲ってくれても罰はあたるめえよ、小蝶か、年金か――おれア、年金の方が都合がいいがね」
「この野郎! ふてえなあどっちでい!」
それで、たちまちとッくみ合いが起ったのだ。
治三郎も、血の気の多い男だし、それに生まれつきの剛力だ。そして坂本慶二郎は、小柄だが豹のように精悍な男だった。ふたりのからだがもつれ合ったかと思うと、どっと路地から往来へころげ出して、治三郎は馬のりになった。
そのとき、下でピカリと何かひかった。匕首をもっていたらしく、坂本が下から治三郎のあごをめがけてつきあげたのだ。
「危ない!」
絶叫とともに、飛鳥のようにとんできた足が、坂本の腕を蹴って、匕首は遠く往来へとんだ。
びっくりしてたちあがった治三郎の下から、坂本は鞠《まり》のようにはねおきて、ちらっとじぶんを蹴とばした男の顔をみてはっとした。
「てめえか! ……おぼえていやがれ!」
そして、まるで地をはしる蝙蝠《こうもり》みたいに薄暮の中へ消えてしまった。
治三郎も自分を救ってくれた男の顔をみておどろいた。北賀市太郎だったのである。
それから、しばらくの問答ののち、治三郎が市太郎の手をひっぱってむりに小路の奥へつれさったあとの、もう闇のおちた往来に、沈んだ会話がながれた。
「叔父さま。……あそこに敵がふたりいます」
若い娘の声だ。
「敵か。……お葉、そう考えてはなるまい、わしも去年の秋ついかっとしてあのうちの一人を追っかけたが、思いなおしてみればあの連中に罪はない。それどころか、兄の犯した大罪で、天子さまですらあれほど苦しめた国難を救った日本の大恩人だ……」
「あたしたちは、日本の人々からみな爪はじきされている人間です。……そのため、母上は、あのさわぎのあと、気がちがって河へとびこんでしまい、おばあさまは、東京へくる途中で亡くなりました。……父上は北の果てで地獄の虫のように死にました。……せめて、その父上を斬ったあの北賀という俥夫だけには、あたしは復讐せずにはおれません」
「お葉。おまえはまだ子供だから……」
「あたしは、子供ではありません。人間でもありません」
「ああ、どうしたらおまえの心を満足させてやれるだろう。わしは苦しい……」
「叔父さま。それでは叔父さまはもうあの俥夫たちをにくんではいらっしゃらないのですね」
「わたしたちには、にくむ資格がない……」
「それでは……叔父さま、どうか、お葉を捨てておいて下さい。いいえ、別れて下さい」
「なな、なにをいうのだ。お葉」
「いって! いって! あたしはひとりになりたい! 叔父さまの顔など、もう見たくもない、さようなら、叔父さま」
涙ひとつない、悲痛凄絶な娘の声だった。
この娘の性格は、もとよりよく知悉《ちしつ》しているのであろう。やがて、気の弱げな男の声がきこえた。
「お葉、それではわしは先にいってるぞ。……坂の上で待っておる。気がしずまったらくるがいい」
そして、ひとつの跫音が伊皿子坂の上の方へのぼっていった。
あとにのこっている娘は、そこに人ありとも思われぬほどただ深い闇にぬりこめられていた。
すると、ちがう跫音が、その傍へちかづいていって、押し殺したような声でささやきかけた。
「おい……おめえ、津田三蔵の娘か。北賀市太郎と向畑治三郎に恨みがあるんだな? おっと、にげることはねえ」
「にげはしません。あなたは、どなたですか」
「いやにおちつきはらった娘だな。ウム、おれもあの二人が面白くねえ人間だ。話は合うというもんだ。いいや、話にのってやろう。おれと組む気があるなら、いっしょについてこねえか?」
「あなたは、どなたですか?」
「稲妻小僧《いなずまこぞう》。去年ごろから東京を荒しまわっている人殺し強盗のことは、新聞で知っているだろう。どうだ、おどろいたか?」
「おどろきはしません……いっしょにつれていって下さい」
しばらくして、坂の上の方から、バタバタと跫音がかけおりてきた。
「お葉!」
不安と悔いにみちた呼び声であった。さっき叔父と呼ばれていた男の声だ。
いつまでも娘が坂を上ってこないので、はっとしてかけもどってきたのであろう。
「お葉!」
しかし、伊皿子坂の上にやっと顔をみせた鎌のような三日月は、そこに人の姿を照らさず、ただ暗い空にほととぎすのわたる声がぶきみにきこえてきたばかりであった。
赤い夕日に照らされて
明治二十七年秋。――
北賀市太郎は、遼東《りようとう》の野を、俥をひいてはしっていた。
落日を吹く冷ややかな風にまじって、ときどきむっとするような悪臭が鼻をさす。どこか高粱畑《こうりやんばたけ》のかげに、軍馬の屍体でも腐っているのだろう。或いは清兵の屍体かもしれない。――高粱畑のなかをながれる幅のせまい濁った川にも、大砲の車輪がつかっていたし、葉のおちた楊柳の下にも、折れた軍刀がおちていた。
が、すでにこの金州の東――劉家屯のあたりは、完全に日本軍に占領されて残敵は掃蕩《そうとう》されているはずだった。
或る将官を劉家屯の陣営に送って、俥は空俥である。市太郎は顔にあたるなまぐさい風をむしろ心地よげにはしっている。
日清戦争はこの年六月の豊島沖海戦からその火ぶたをきっておとした。七月、陸軍は朝鮮牙山に於て清軍とはじめて会戦、これを撃破して北進を開始した。爾来、海に陸に連戦連勝、破竹のごとき勢いである。そして十月、大山|巌《いわお》のひきいる第二軍は遼東半島花園口に上陸し、西進して大連を占領し、さらに、旅順めがけて殺到しつつあった。
戦地に軍属俥夫が送られたのは、このときが最初である。第二軍の要求により陸軍省では、とくに優秀な健脚の俥夫を数十人雇いあげ、遼東に送った。彼らの法被《はつぴ》の背中には、いずれも「第二軍軍属俥夫」という文字が白く染め出してあった。
市太郎はすすんでこれに応募した。それは、内地にわきかえる熱狂的な愛国熱に浮かされたせいもあるがそればかりではなかった。
彼はあれ以来、津田三蔵の娘に狙われて、生命の危険まで感じるようになった。夜の銀座の煉瓦通《れんがどお》りを俥をひいてあるいていて、修理中の建物の上から、ふいに数十個の煉瓦が頭上におちてきたことがあるし、目黒の行人坂を下ってゆく途中、うしろから重い石材をつんだ大八車が、地崩れのごとくひとりでに追いかけてきたことがあるし、それどころか、去年の夏など、伊藤侯を上野の松源楼に送りこんだあと、遠くアーク燈の映っている不忍池のほとりで待っていて、門の中から短銃《たんづつ》で射たれたこともある。
何者ともわからないときもあったがやはり影のようににげさる若い女の姿をチラと見たことがあるし、またその女といっしょの男の影をみたこともある。市太郎はその男がだれか見当もつかなかったが、しかし男がついているとなると、これはいっそう恐ろしいことだった。
しかも彼は、なぜかどうしてもあの娘をにくむ気にはなれなかったのである。じぶんでもふしぎな心理だし、われながらいらだたしいことであった。
それやこれやで、すすんで従軍したというより、市太郎は日本からにげ出したのである。――
ふいに何処かで、へんな叫び声がした。
はっとして俥をとめて、市太郎はぎょっとなった。むこうの高粱畑から四、五人の清兵がとび出してきたのだ。やせこけて、軍服が黒血にまみれて、あきらかに敗残兵だが、それでも手んでに軍刀をぶらさげている。それが、こちらをみていたが、急にまた何かさけんで、どっと走ってきた。
「あっ」
と市太郎は俥をかえそうとしたがもうおそい。おどる辮髪《べんぱつ》と犬のように歯をむき出した顔がみるみる大きくなった。そのとき、遠く一発の銃声がきこえたかと思うと、清兵のひとりが急に棒をたおすように地に這った。
清兵たちはふりむいた。
高粱畑のあいだの道を、むこうから赤い肋骨《ろつこつ》のある日本兵が騎馬でかけてくる。
清兵たちは仰天してにげかかったが、それが一騎であることに気がつくと、やおらたちどまって、その方へ殺到《さつとう》した。一騎だったのは、伝令《でんれい》か何かであったらしい。
日本兵は大喝して、すれちがいざま馬上から軍刀をふるって一人を斬った。が、とたんに馬からもんどりうって路上におちた。
「わあっ」
市太郎はわけもわからず絶叫した。のこった二人の清兵がその日本兵におどりかかるのがみえたからだ。
恐ろしく冴えた鋼の音が、かん、と空にひびいて、また清兵の一人が身をねじってどうとくずおれたが、同時に日本兵の赤筋のある軍帽が裂けて折れた軍刀と血がとび散った。
とみるまに、日本兵は血まみれになって、残りの清兵にくみついた。ふたりは黄塵を染めて、ゴロゴロところがったがたちまち、衰えはてた清兵はうごかなくなり、日本兵はヨロヨロとたちあがった。
「……旦那!」
旦那というのもおかしいが、それにも気づかずかけよる市太郎を、真っ赤な血糊の中から白くひかる眼でにらんで、
「ここらをひとりで歩く馬鹿があるか!」
と、叱りつけたが、騎兵はそのままバッタリつんのめってしまった。
「旦那ありがとう……しっかりしておくんなさい!」
市太郎は狂気のようにそのからだを抱きあげた。
「いや、もういかん。劉家屯の屯営に告げてくれ。おれは第一旅団の……」
「旦那! 死んじゃいけねえ、おれみてえな人間を助けて死ぬって法はねえ……」
「おれの名は、騎兵少尉、津田千代吉……」
市太郎はふいにその兵隊をつきはなしてたちあがった。
もののけに襲われたように見おろす地上に、真っ赤な落日に染まって、彼の生命の恩人は、みるみるうごかなくなってゆく。――姿が変っているのと、血まみれなのに、いままでそうとは知らなかったが、いかにもあの津田千代吉だ。ちょうど二年前、伊皿子坂で向畑治三郎を追っかけてきた巡査である。
ふしぎな縁だった。彼の兄津田三蔵も、明治初年越前の暴動事件にあたり、兵卒として出動したが、そのときの指揮者は乃木|希典《まれすけ》少佐だった。そしていま津田千代吉の所属する第一旅団長も乃木少将なのである。
しかし、運命のふしぎさは、それどころではない。市太郎の斬った男の弟が、はからずも死を賭して市太郎の生命を救ってくれた。
「お葉……」
ブツブツと津田千代吉がうめいた。手が虚空をかきさぐるようにうごいて、
「お葉、倖せでくらしてくれ……」
「旦那、すまねえ。おれは……おれの名は……」
急にがばと伏して、市太郎は抱きつき、慟哭に声がとぎれた。
「おまえ、……もし生命あって日本にかえったら、お葉という娘をさがしてくれ。津田葉……おれの姪だ。可哀そうな娘だ。あれだけがおれの心残りだ。……たのむ、その娘をさがし出して、救ってやってくれ!」
「お葉さん、津田お葉さん……旦那、承知した。おいら、きっと! きっと!」
津田少尉の頬が、ガックリと地におちた。
高粱《こうりやん》の葉の鳴りわたるひびきの中に、いつまでも市太郎の悲痛な叫び声がながれている。赤い、赤い、真っ赤な遼東《りようとう》の夕日の下で。――
打出の小槌
向畑治三郎の人生観は、だんだん変っていった。
あれほど、女房と喧嘩してまで面倒をみてやった連中が、全然、恩も敬意もはらっていないことが、しだいにわかってきたからである。
儲け口だといってもってきた話はみんな詐偽《さぎ》だし、それがばれそうになると金や物を盗んで逐電《ちくでん》した奴があるし、あちこちの料理屋から、彼の名でおぼえのないツケがくる。きいてみると、その食い倒し飲み倒しの連中は、
「あては、あの年金車夫の向畑の縁つづきの者なんやから心配ないわ。あれはなあ、勲章もらうまでは、極道者《ごくどうもん》で素寒貧《すかんぴん》で、えろう手をやかせてくれたもんや。あてがあのうちを出ようったって、あちらが恩を返したいからって承知しよらんわ。うそだと思うなら、向畑のうちまでついてきてみなはれ」
しゃあしゃあとして、こんなことをしゃべっていたことまでわかってきた。
治三郎は、あきれかえると同時に激怒した。
そのときもまだ二、三人の居候がゴロゴロしていたが、治三郎はとんでいって、いきなりわめき出した。
「やい、てめえら、出てゆけ。腹の中じゃあおれをばかにしやがって、たかってやらなくっちゃ損だと思ってやがるんだろう。みんなわかってるんだ。もうかんべんならねえ。今日かぎり、人の面倒みるなあコリゴリだ。とっとと出てってくれ!」
この居候たちは、まだそういう犯罪は準備中であったからキョトンとして、やがて急にあわててペコペコし出したが治三郎は火の玉みたいになっている。
そのうち、いつも青い顔でゴロゴロして、硯友社《けんゆうしや》に出入しているとかいう甥の従弟にあたる若い男が、急にうらめしそうに治三郎をじっとみて、
「ああ、人間というものは、金ができると、いっそうケチになるものだなあ」
と、嘆かわしげにため息をついた。
「なんだと?」
「富は人間のまわりに壁をつくって、自らを孤独とする。必ずしも倖せとはいえん。人々の情けは貧しい仲間にこそ存在するんだ。……よろしい。僕は悄然また欣然《きんぜん》として巷へ出てゆこう」
治三郎は立ちすくんだ。金ができたからケチになったといわれることは彼にとっていちばんいたい点だった。見栄もあるが、治三郎の場合、見栄ばかりとはいえない性質がある。
この悩んだことのない男に、悩みが生じた。そして悩めば悩むほど、金は依然として、まったく無意味に出てゆくのだった。
しかし彼には打出の小槌がある。毎年、千三十六円の年金だけは、一年に一回、お正月のくるように、きっと下りてくるからだ。これがなかったら、むろんとうのむかしに手をあげているところだ。
その年の年金が下りてきたとき、それをめぐって彼は女房の|うた《ヽヽ》と、とっくみ合いの喧嘩をした。|うた《ヽヽ》が「もうおまえさんにその金をまかせちゃおけない」といい出したからである。ところが治三郎は、それこそ旱天の慈雨《じう》で、この一、二ヶ月、のどがヒリヒリするほど待ちかねていたものだった。それがないので、じぶんの妾のお蓮のところにさえ、ずっと顔が出せないありさまだったからだ。
「何を――てめえにこそ、金勘定をまかせられるかってんだ。家にゃおいとけねえ。おれが外にちゃあんとあずけておいて月々の暮しのぶんだけ、毎月やらあ」
「外にあずけるって、どこにあずけるのさ?」
|うた《ヽヽ》は血相をかえた。
「へん、伊皿子だろう? あたしゃちゃんと知ってるんだから。いいかげん馬鹿におしでないよ!」
それから、くんずほぐれつのとっくみあいになったのである。女房にのしかかって、ポカポカなぐりつけている治三郎の背が急に重くなって、だれかうしろからめちゃめちゃに彼のあたまをたたき出した。
「ちゃんのばか! ちゃんのばか!」
十二になる倅の恵吉だった。
治三郎はあたまをかかえて入口までにげ出した。抱き合って泣いている母子の姿をみて、彼の顔がくしゃくしゃとひきゆがんだ。怒りと悔いと悲哀と自暴自棄が、彼の顔を醜悪きわまるものにした。
「かってにさらせ!」
やっとそう鉛の玉を吐くようにわめくと、彼は年金をふところに入れたまま外へとび出した。
暑い夏の日ざかりの町をあるいてゆくと、途中で往来をながれてくる大群衆にあった。みんな昂奮し、ただならぬ気配である。口々につぶやく声が大きなうなりとなって、砂塵の中を波うってゆく。
「ロシヤ――ロシヤ――ロシヤ――」
壮士風の男が、木刀を宙にあげてさけんだ。
「諸君、この恨みをわすれるな! 遼東《りようとう》の野《の》にながしたわが将兵幾千万の血を忘れるな! ロシヤを撃て! ロシヤを撃て!」
これは、演説会の流れであった。
この年、日本は戦いに大勝して遼東半島を割譲《かつじよう》させたが、突如としてロシヤを主導とする独仏の三国干渉により、血涙をのんでこれを還付《かんぷ》した。全国ではいたるところ憤激の国民大会がひらかれ、警官によって解散せしめられた。しかしその警官たちも涙をながしているのだった。
「ロシヤを撃て! ロシヤを撃て!」
治三郎は急にふところが冷たくなるのを感じた。ここにあるのは、そのロシヤからきた年金である。彼は漠然《ばくぜん》としてうす暗い不安をおぼえた。
伊皿子の妾宅にたどりついたとき、治三郎はむしろ悄然としていた。
金をみて、花のような笑顔になり、治三郎のくびったまにしがみついて、はしゃぎぬくお蓮も、ふっと彼の沈んでいるのに気がついた。
「おまえさん、どうしたの?」
「お蓮、おれはなあ。……何だかむかし京都で俥夫をしていたころの方がよかったような気がするよ」
「何をいってるのさ?」
「いつか女房もそんなことをいったっけ。こないだうちにいる居候野郎もいいやがったよ。人間は貧乏しているときの方が人情がある。なまじ金ができると、トゲトゲしくなるもんだってなあ。どうも、おれも、なんだか気持が不倖せになったような……」
「ほ、ほ、ほ、ほ」
と、お蓮は高笑いした。
「おまえさんらしくもない弱音をおはきだね。そりゃ人間貧乏してるとおたがいに親切だってのは、人が死にかけてたって金がなけりゃ、口さきだけですむからさ。だれも貧乏人から取ろうって奴あないし、ないものは出しようもない。じぶんのおなかが痛まなきゃ、人間だれだって親切になるよ。人情が売り物のその貧乏人だって、ちょいと小金ができりゃ、みんなケチになるじゃあないか。あたりまえさね、人間、お金をためるにゃ、なみたいていのことじゃないんだから。おまえさんだって、生命をはったおかげで、いまの運がむいてきたんだろう? それをタカるのをあたりまえみたいに考える奴らの方が、よっぽど欲深の虫のいい奴らさ。くよくよおしでないよ、おまえさん」
「なるほど、そういわれればそうだな。おめえ、うめえことをいう!」
「気持が不倖せって、おまえさん、これでも不倖せ?」
お蓮は耳たぶに熟れた果物みたいな息を吐きかけて、白い蛇のようにからみついた。
治三郎はグニャグニャになった。こいつはいい奴だ。利口な奴だと思った。すっかりうれしくなって、女の胴に手をまわしたが、ふっとその耳の奥に遠く、
「ちゃんのばか! ちゃんのばか!」
という子供の声がきこえたような気がして、あわてて、
「ちょっと待て、お蓮」
「どうしたの?」
「実は、女房と喧嘩して年金全部を出してきたが、すまねえが半分は残しておいてやってくれ。うちにゃ何にもねえんだから」
お蓮はじっと治三郎を見て、それからニッコリした。
「あいよ、そりゃあ、おまえさん、ここにみんなもってきちゃ、おかみさんにわるいわ。ここには、ちょっぴりだけ置いといてくれればいいよ」
その夜、彼は久しぶりに泥酔し、お蓮と狂いまわった。
そして、はやい夏の朝があけてもう日がカンカンしているころ、重いあたまをあげたとき、治三郎はキョトンとした。
「お蓮!」
お蓮はいなかった。年金は全部なかった。それどころか、眠りも眠ったもので、あきれたことに箪笥《たんす》から長火鉢まできれいに消えていた。
「あっ、やりやがったな!」
治三郎に愛想をつかせて、お蓮がドロンをきめこんだことはあきらかだ。
治三郎ははね起きて、よろめいて、茫然とたちすくんだ。あたまの奥に、
「ちゃんのばか! ちゃんのばか!」
というかなしげな子供の叫びがきこえた。
彼は日のくれるまで、腑ぬけみたいにボンヤリそこに立っていた。来年の年金のおりるまで、全くの文無しになったことはたしかである。
やっと、北賀市太郎の顔が浮かんだのは、夜になってからだった。
「北賀がいる。あいつに借りるよりほかはねえ。あいつ、何かうまいことをしてえらく景気がいいらしいから……」
水晶館
北賀市太郎は凱旋《がいせん》していた。
まったく「凱旋」だった。従軍して特別の褒賞をもらったのはむろんだが、それ以外に、彼はへんな思いつきをして、それが大あたりしたのである。べつに儲けるつもりはなかった。ただ彼は、戦地で、将兵が一ト月も二タ月も垢だらけのままたたかっているのを見るにたえず、据風呂《すえぶろ》をたくさん作らせて、それを荷車にのせて軍夫たちにひいてまわらせたところが、これがひどくよろこばれて、はからずも大金を得たのである。
しかも、帰ってみると、幸運は笑みくずれて待っていた。
明治二十七年七月二十二日の「郵便報知」に、次のような記事がある。
「府下各宿俥屋の挽子《ひきこ》幾千の俥夫は、今回の朝鮮事件爆発して、ついに戦場をひらくに至らば、そのときこそ出世の時機なれば、人夫となりて彼地わたり、死を期してひと儲けせんとて非常に意気ごみ、日々の仕事も手につかざるありさまゆえ、各雇主はすこぶる迷惑し居る由なり」
これとちがって、市太郎はとくに陸軍省に選抜してやとわれたものであるし、戦死を覚悟して従軍したわけでもないが、べつに一儲けしようとはゆめゆめ考えたわけではなかった。
それで、国を出るとき、それまで持っていた金を、ほとんど捨てるつもりで、欲しがる知り合いに貸してやって出征したのである。
そのなかには、人力俥の輸出業者もあったし、伊藤家出入りの鰹節屋《かつおぶしや》、梅干屋、漬物屋まであった。ところが、戦争の影響で、これらの値がひどく騰貴《とうき》したために商人たちは大儲けをし、帰ってきた市太郎に倍にも三倍にもして返してくれたのだ。
市太郎はめんくらった。それでも、金の関心はうすれていた。市太郎の金とその恬淡《てんたん》ぶりに興味をおぼえた株屋がやってきて、その金をつかわせてくれないかといった。市太郎はその男にまかした。
すると、戦後の好況で、二十八年十月には、東株は四百七十円台にあがり未曾有《みぞう》の出来高といわれたが、十一月には、五百七十円の高値を示し、十二月には八百二十円にまで騰《あが》った。株屋はそこで売った。その直後に一挙に五百円台まで下ったのである。株屋はこんどは買いに出た。するとこんどはまた騰り出して、二十九年五月にはまた六百七十円台となり八割の配当を受けた。市太郎が莫大な金を手中にしたのはこういうわけである。
彼はこのころ、伊藤家のお抱え俥夫をやめていた。金が儲かったからではない。戦役の経過中、軍夫となって従軍した俥夫は、結局数万にのぼったが、戻ってみると悪質な周旋屋の食い物になったことがわかったので、両者の対立が不穏となり、彼は俥夫の代表の一人として奔走していたのである。
そうしているあいだも、市太郎の心をしめているのは、ただあの津田千代吉の最後の願いだけだった。
「お葉を救ってくれ。……お葉をたのむ……」
あの津田の娘はどこにいる?
戦争前、それから逃げまわっていた市太郎は、こんどは血眼になってその娘をさがしているのだった。たしかに不倖せな娘だ。どんなことをしてもおれはあの娘を救ってやらなければならない。
市太郎が伊藤家から去って、そのゆくえがわからなくなったのか、それとも戦争中の混乱で、彼女がどこか闇黒のなかに沈んでいったのか。――ふしぎなことに、お葉は彼の身辺からふっと姿をけしてしまっていた。
明治二十九年五月、市太郎は浅草公園にあそびにいった。凌雲閣《りよううんかく》の下に、水晶館《すいしようかん》というものが開場されていたので彼はブラリと入ってみた。
中に入ると、水晶橋というものがかかっている。名は水晶を売り物にしているが、要するに鏡だ。まんなかの部屋が茶屋になっていて、そこまでゆくと三人の美人が珈琲《コーヒー》を進上するというのだが、途中、さまざまな形の部屋がつくってあって、これが床も扉も天井もすべて鏡となっている。
ときにはじぶんのからだが数百にみえ、化物のようにひろがり、通りぬけようとして鏡にぶつかるものがある。そうかと思うと、とんでもない離れた部屋でウロウロしている人の姿がみえることもある。簡単な着想の見世物だが、鏡の魔力は、いつしか入っている人間の心を、妖しい悩乱《のうらん》にひきずりこんでゆくのだった。
「あ……」
興がってあるいていた市太郎は、鏡の一隅に思いがけない人の姿をみて立ちどまった。思わずその方へあるき出そうとして苦笑した。
向畑治三郎なのである。治三郎が、十二、三になる男の子と九つくらいの女の子を両手にひいて、キョトキョトとあるいている。
市太郎は微笑した。去年の夏、あのお蓮に年金全部もち逃げされたといって、じぶんのところへやってきた治三郎のしょげた顔を、思い出すだけでもふき出しそうになる。
しかし、いま微笑ましいのは、それよりも彼の人の好さそうな子煩悩の姿だった。あのころのあらあらしい、とげとげした表情がきえて、すっかりなごやかな父親の顔に変っている。
(こりゃいいね。兄貴をもとにもどすのは、やっぱり子供の力にゃかなわねえ)
それでも、その方へゆこうとして、グルリとまわりを見まわした市太郎は、こんどは声もたてずに立ちすくんだ。
お葉だ! 津田お葉がそこにいる!
彼女はすっかり「女」になっていた。黒ちりめん紋付《もんつき》の羽織、お召の小袖に繻珍《しゆちん》の帯――どこかの令嬢か若奥さまのような姿だが、まさにお葉だ。しかも、依然として白蝋のような頬の色だった。
そのとき、その傍に立っていた男が、ギョロリとこちらをむいた。ふたたび市太郎は愕然とした。それは坂本慶二郎だった。
「おい」
といった風に男があごをしゃくると、ふたりはソロソロあるき出した。
その声がきこえないのに、市太郎は、彼らも離れた鏡の部屋にいることを知った。それでも、思わず、
「待て」
という声が出た。
お葉が、あの坂本慶二郎といっしょにいる。それはどういう関係なのか。わかりようはないが、坂本という男のあいまいさ、兇暴さから推して、彼女が決して幸福なはずはない。いやいや、いっそう不幸な世界にいることはまちがいないと思われた。
その証拠に、いまあの娘の眼をみるがいい。暗く沈んだ何ものかに訴えるような眼。ふたたびその眼は北賀市太郎の魂を灼《や》いた。
「お葉さあん」
彼はさけんで、はしり出した。そのとたん、どうしたはずみか、二人はヒョイとこちらをみた。どういう角度であったか、二人も市太郎の姿を見とめたらしい。
お葉の眼が驚愕に見ひらかれ、坂本の口が憎悪にゆがんだ。
そしてさっとかけ出したが、それは市太郎の方へ来ようとしたのか、逃げようとしたのか、まるで魔の鳥のように鏡面をよこぎって消えてしまった。
「待て、お葉さあん」
絶叫してはしる市太郎は、鏡にぶつかった。かけもどってまた鏡にぶつかった。狂気のように水晶館の中をかけまわりながら、北賀市太郎は坂本へのはげしい憎しみをおぼえ、そしてそれから津田お葉への恋をはじめて意識した。
花火
「両国の花火聞ゆる月夜かな」
根岸の病床で子規がこう想いをはせていた明治三十年の川開きは八月十日だった。このところ曇り日のつづいたあとに、この日は朝からよく晴れて、夜に入ると月の色もみるからに涼しげだった。
まして花火の夜である。夕方から花火見物かたがた納涼《のうりよう》の客は大川筋へおしかけて、みるみる両岸はもとより、川面は屋根舟、やかた船、伝馬船《てんません》にうずめつくされてしまった。川端の料亭は桟敷を設け、毛氈《もうせん》をかけて人と灯を盛り、花火のきえたあとも群衆の顔を真昼のように浮きあがらせていた。
「あっ」
その雑踏の中で、ふいに立ちどまった女がある。
「このごろ、いたちの道をきめこんでると思ったら、やっぱりあの小娘とくっついてやがる」
そのとき、大空に流れ星の花がひらいて、女の嫉妬にもえた顔を照らし出した。
「ばか、あるけ」
と、うしろからつきとばされて、
「何するのさ」
と、女はふりむこうとしたが、たちまち群衆におしながされた。おしながされながら、彼女はのびあがりのびあがり、いま見た誰かの影の方へゆこうとあせったが、それも思うにまかせない。
が、そのうち彼女はふと声をからしている巡査の姿を見出した。
「こら、押してはいかん、しずかにあるけ、しずかにあるけ」
「旦那……」
女は、やっとその巡査をつかまえた。息せききって、
「旦那、あそこを稲妻小僧があるいています……」
「なに?」
巡査は、はっとした。
稲妻小僧――それはここ数年、東京およびその周辺を荒しまわっている兇盗の異名である。覆面しているので正体はわからないが、やや小柄な方だが、両手に短銃と日本刀をもちしかも決してそれが脅しではなく、被害者が抵抗すればたちまち虫のように殺戮してしまう。つい先だっても深川区海辺町二番地の荒物商に押し入り、その主人を殺害したが、さわぎにとんできた巡査がいちど捕えようとして、その指をくいちぎられてとりにがしたほどの兇猛な強盗だった。
「なに、ど、どこに?」
「みえませんか、四、五間むこうに女づれで歩いているパナマ帽の男――」
巡査は仰天してとび出そうとし、急に気がついて、
「うぬ、きさまは何者だ?」
ふりかえったが、白い顔がゆがんだ笑いを浮かべたのがちらっと見えただけで、かすめるように群衆にのみこまれてしまった。
が心も空に、泳ぐようにあるいているので、その女は何かに足をとられてヨロリとなった。
「危ない――」
と、うしろの男が、あわてて抱きとめてくれたのに、
「ありがとう」
と、ふりむいて、おたがいにぎょっとした。
にげようとした女の手を、男はそのままグイとつかんだ。
「お蓮じゃあねえか」
「治三郎さん――」
「こ、この野郎――」
向畑治三郎は、二年ぶりに大それた妾をつかまえて歯をかみ鳴らしたが、急に狼狽して、
「えい、ゆきやがれ」
とつきとばそうとしたが、時すでにおそし、治三郎のうしろから、古女房の物凄い形相がのぞいた。
「おまえさん、その女、だれなのさ?」
「う……いや」
「ひょっとしたら、あの伊皿子のじゃあないかい?」
治三郎の女房のお|うた《ヽヽ》である。両手に子供の手をひいているところをみると、一家をあげて花火見物にきていたものとみえる。
「あっ、また迷い出してきたね、あの女狐――」
お蓮のようすが、がらりとかわった。ふりかえって、イイーという顔つきをして、
「お化けじゃあるまいし――お化け面はそっちだろう。花火見物なんかに浮かれ出してくる面じゃあないよ」
「な、な、なんだって――ちきしょう、この泥棒女、さあ、年金をかえせ、お巡りさんを呼んでくるよ」
「ほ、ほ、たかが千円ほどの金――このひとには、一万円くらいのうれしい目をさせてやったじゃないか。亭主を泥棒してもってゆかれなかっただけでもありがたいと思うがいい」
「地獄! 淫売め!」
「おたふく! おかちめんこ!」
凄まじい女同士の喧嘩のまんなかに、それこそサンドウイッチみたいにはさまれて、治三郎は全然弱っている。じぶんの怒りなどケシとんでしまって、
「これ、これ――」
と、口から泡をふくばかりだ。声をたてるすきもない雑踏の中で、二人が手を出そうにも出せないのがまだしもだが、そのため、じぶんも逃げられない。
「よしやがれ」
と、前のお蓮をおしのけようとすると、不本意にも彼女を抱きすくめる姿勢になった。お蓮はニヤリとして、不敵にもヤワヤワともたれかかるかたちになって、
「おまえさん、いろいろお話があるんだよ」
「な、なにを――」
「あのときはひどく腹をたてたろうけど、あれには深い仔細があってねえ。悪い奴に狙われて、ああしなきゃおまえさんの命も案じられるようなことがあったのさ。あたしゃ、血の涙をながして――」
へんな世話場になってきて、うしろからはお|うた《ヽヽ》が昂奮して怒り狂う。
「おまえさん、何を鼻の下をながくして泥棒女のいうことをきいてるの?」
グイと尻をつねられて、
「あいた、たっ」
と、治三郎はとびあがった。お蓮はへいきで、
「ほんとうにあたしゃ可哀そうな女だよ。いままでどんなにおまえさんのことばかり想ってくらしてきたことか。……ねえ、そのうち、いちどあたしの苦労話をきいておくれでないか?」
と、治三郎の胸のなかでからだをくねらせた。
治三郎は狼狽その極に達した。しかも――ふしぎなことに彼女のくねくねする肉の触感に、とろけるような快感をかんじている。忘れられない女の肉体の蠱惑《こわく》であった。
お蓮ににげられて、治三郎の家は平和を得た。あれからヤケのように家業に精出したおかげで、このところ大分銭もたまったのだが、その安心の一方で、なにやらひどくつまらない気がしていたのも事実だった。無法脛《むほうずね》の血はまだおさまってはいないのだ。生来の女好きの虫が、ムズムズとうごき出してやまなかったのだ。
「ねえ、おまえさん……」
「うむ。……いたいっ! ばか!」
尻の猛襲は狂気のごとく反覆《はんぷく》されていた。何が何だかわからないほど心とからだのもつれあった三人の男女を、花火の音と光が彩《いろど》った。――両国橋の方から、何ともいえない大叫喚がひびいてきたのはこのときだ。
「橋がおちた!」
「欄干《らんかん》がおちた!」
このややすこしまえである。
ここもまた人間を盛りあげた両国橋のまんなかで劇的な邂逅《めぐりあい》をした一組がある。
偶然花火見物にやってきていた北賀市太郎は、橋の上でお葉を見出したのである。
あの浅草の水晶館で、まざまざとこの眼で見ながらついにとらえることの出来なかった運命の娘と、市太郎は実に額もふれるちかさで相対したのだった。
「お葉さん……」
名をよばれて、顔をあげて、お葉の黒い瞳が大きく見ひらかれた。
「おれは、ずうっとおまえさんをさがしてたんだ。どうぞおれといちど話をしてくれ!」
お葉の手を市太郎はヒシとつかんだが、そのとき、
「やい」
と傍の男が、これもまた、驚愕しつつ凄まじい顔をふりむけた。
「忘れてはいねえだろうな。坂本慶二郎だ」
「や?」
「てめえはその娘の親の敵だぞ。おれもてめえにゃ恨みがある。話たあなんだ。こっちの話は、てめえのそのどてっ腹に匕首《あいくち》でもつきたてる話しかねえ。覚悟しているか?」
「何を――」
「その話は、ここじゃできねえ。あっちでしよう。いっしょに来い」
大空に、牡丹《ぼたん》、白菊、糸桜、五色のひかりの花が咲きみだれて、まわりからうわっという喚声があがった。波うつ群衆の中に、三人、石のように硬直してむかい合っている。
その一つが突如くずれて、ぱっとふりむいた。
「稲妻小僧、御用だっ」
うしろから声がかかって、必死に群衆を割ってきた影があったからだ。数人の巡査だった。
「あっ」
坂本慶二郎は兇悪な顔をむけたかと思うと、またひらめく花火のひかりの中に、上の空にあげた片腕に匕首をふりかざしていた。
「どけ! 斬るぞ!」
と、わめいて、だだっと西の方へかけ出す。人々の悲鳴があがった。
「待て! 稲妻小僧!」
巡査たちも、これまた群衆を無視して、一団の雪崩《なだれ》となって追いかけてゆく。
叫喚のつむじ風が、西の橋畔《きようはん》の方へ吹きわたっていったとき――当時の新聞によると、ちょうど中村楼の前の仕掛花火が、八方矢ぐるまを打ちあげた時刻、八時二十分ごろだったといわれる――その西の橋畔から、たちまち名状しがたい大音響が颱風《たいふう》のごとくまきかえしてきた。
橋の欄干がくだけたのだ! さなきだに恐るべき重量をのせて、からくも支えていた両国橋が、突発的に起った捕物さわぎで、力学的な一撃をうけて、メリメリと破れはじめたのである。
「わあっ」
津波《つなみ》のごとき叫喚とともに、人々は豆のおちるように川面に転落していった。五彩のしぶきの中に、橋の柱ややかた舟にぶつかって、ひっさける悲鳴が渦をまいた。
「橋がおちた!」
「欄干がおちた!」
さかまきかえす必死の群衆の手前に、橋のまんなかに北賀市太郎とお葉は、金縛りになったように立ちすくんでいる。
執行猶予第一号
両国橋は、川の西岸から十三間余距って、橋の十駒目から三駒、約四間にわたる欄干を押しくだかれた。
当然、それに接近した位置にあった群衆は、死物狂いに東側へにげようとする。雪崩《なだれ》る波がどっと東へわたると、こんどは逆に大波がゆりかえそうとした。東側のうしろの方にいる連中が、わけもわからず、単に力学的な反撥を感じて押しかえしたせいであるが、こうなるとそちらは欄干がないだけに支えがない。
「わあっ」
五体バラバラになりそうな集団の撃突の中を泳ぎつつ、北賀市太郎は片手にしっかとお葉の手をつかんでいた。
「はなれちゃいけない、お葉さん!」
のけぞりつつ、お葉は世にもふしぎそうな眼で、ちらっと市太郎を見た。
市太郎は夢中で片手でふところの匕首を抜き出した。
彼が匕首をもっていたのにはわけがある。じぶんを敵とねらうお葉から身をまもるためではない。それは、もし彼女があくまで欲するならば、その匕首でじぶんを刺させるためであった。
しかし、今やその匕首は、じぶんとお葉をまもる守護神となった。いいや、お葉をまもるためだけの絶体絶命の武器となった。
「野郎!」
彼はメチャメチャにその匕首をふりまわした。
「押すな! 押すな! 押しやがるとたたっ切るぞ」
顔や肩に、火のように熱い液体がザッとふりかかってきたのは、四、五人のからだに匕首が触れたのだろう。物凄い悲鳴の渦がまき起った。
「あっ、人殺しーい!」
「無茶するな、うっ」
この無鉄砲な抵抗には、周囲の連中が仰天した。傍にいたものこそいい面の皮だ。――が、これにはだれもが胆をつぶして、死に声あげて逃げようとする。それはそうだろう。こっちに雪崩れかかれば切り裂かれるのだから。はじめて、この一回がすべて超人的死力をあげて東へ巻きかえした。そして群衆の波は、ようやく一方的に東へ奔騰《ほんとう》していった。
お葉の手をひいて、やっと橋からにげもどった市太郎は、しばらくお葉の手をひいていることも忘れていた。ただ片手に血刀をブラさげて、放心したようにあるいていた。
「あいつだ!」
「あいつだ、あの中で刀などをふりまわした乱暴な奴は!」
やっとそんな声が耳朶《じだ》をうつと同時に、バラバラとかけてきた二、三人の巡査が市太郎の手をつかんだ。
市太郎とお葉の手は膠着《こうちやく》していた。それが皮でも剥げそうな痛みとともにひきはなされて、はじめて市太郎はわれにかえってふりむいた。
「来い! 警視庁へ!」
お葉はたちすくんで、市太郎を見つめていた。おどろいたような、哀しんでいるような、異様にひろがった黒い瞳だった。
市太郎は、だまったまま、かすかに微笑んだ。
この明治三十年八月十日夜の両国川開きの大椿事《だいちんじ》は、のちの調べによると、河中に顛落したもの二百数十名、そのうち大半は救いあげられたが、それでも三十名ちかく、ついに生死不明の者が出たという悲劇を出したが、このほかに溺死ならで、刃物で怪我させられた不運な人が四、五人ある。
その加害者として北賀市太郎は警視庁にひったてられた。
留置場にはぶちこまれたが、二日二晩に放擲《ほうてき》されていた。
のちにきいたところによると、警視庁では、彼を罰すべきか、許すべきか、おちついて考えてみて、頗《すこぶ》る困惑したらしい。あの中で刃物をふりまわしたのは、正当防衛か過剰防衛か。本人が助かったことはさておくとして、もし彼の捨身の力闘がなければ、あの際、さらに何百人もの群衆が河におちたか想像にあまりあるからである。「一殺多生」という言葉を如実《によじつ》に現わした不可思議な犯罪というよりほかなかった。
「なに、北賀市太郎?」
報告をきいて、警視総監はくびをかたむけて、じっと天井を仰いでいた。やがてはたと膝をたたいた。
「ちょっと待て。その男の扱いは伊藤侯に伺いをたててみねば決めかねることがあるのだ」
その日の夕方、市太郎は警視庁を釈放された。
警視総監みずからが出てきて、市太郎に申しわたしたのである。
「人を四、五人傷つけて、本来ならたやすく許せぬ人間ではあるが、あの異常な事態の際ではあり、情状を酌量して、特に釈放する。それから、おまえはおぼえているか。五年前、おまえは伊藤侯爵を俥の上からほうり出すという大|失態《しつたい》をやらかしたことがあった喃《のう》、そのとき侯爵は、あと二回おまえがこのようなあやまちを犯すと、勲章も年金もとりあげるぞと仰せられたのを忘れはすまい。このたびの事件がその第一回めの失態にあたるかどうか、失態というには少し事が大きいが、特別の仁義を以て見のがしてやる。よいか、あともういちど、まちがいを起せば、こんどこそは年金も勲章もふいになるぞ、よくおぼえておけ!」
執行猶予という制度が正式にとり入れられたのは、それから八年後の明治三十八年のことである。
この市太郎の場合が、執行猶予にあたるかどうかは疑問だが、その精神はたしかに共通するものがあって、いわばこれが日本に於けるその第一号であろう。
市太郎は、ボンヤリと町に出た。暑い真夏の炎天の下を、真っ赤な人力車をつらねて、七福神や白浪五人男の扮装をこらした男女が、にぎやかに通っていった。有名な牛肉店いろはの宣伝行列である。それをふりかえりもせず、ばかみたいに歩いている市太郎の眼に、しだいに微笑が浮かんできた。お葉とは、またひきはなされてしまった。しかし、この混乱の中で、おどろいたようにじぶんをみた黒い眼は、まだ彼の瞼にしみついていた。あの眼はたしかにずっとじぶんを悩ませた氷のような眼ではなかった。
市太郎は、いつの日か、きっとまたお葉がじぶんの運命の路上にあらわれてくることを予感した。
稲妻小僧
向畑治三郎は、ふたたびお蓮とヨリをもどしていた。
川開きの夜、お蓮に、「ねえ、明日の晩にでも逢っておくれな、ねっ、池の端の川島で――」と素早くささやかれ、迷い迷いつつ、ついフラフラとその待合へ出かけていったのがきっかけで、案の定、そこで一応の口舌ののち、たちまちお蓮の肉の虜《とりこ》となって、またもや彼女を向島に囲うようになってしまった。
ヨリがもどれば、やはりあれだけ惚れた女である。
その白い蛇のような肢体、さすがの彼が悲鳴をあげるほどの手練手管、とても古女房のお|うた《ヽヽ》などとは較べものにならない。
彼は、腹の底でこう弁解した。
「こいつア、ちょいと伝法で、ダラシがなくて、ヤクザなところが、おれとウマが合うんだ。……こうみえて、案外情のふけえところがある。いや、こんな女が、ほんとに情の深えものさ。干魚《ひざかな》みてえな女房とはちがう」
まえにお蓮が、治三郎のねているあいだに家財道具をもってドロンをしたことについて彼女はこういいわけをした。
家財道具をもち出したのはじぶんではない。あの坂本慶二郎である。お前さんは知らなかったろうが、あの晩、あいつが刃物をもって押しこんできて、あたしを脅した。いっしょにかけおちしてくれなければ、このままお前さんを刺し殺すといいやがった。あれは恐ろしい男だよ、ほんとにやりかねない男だよ、そしてあたしは、まるで蛇に魅入られた蛙みたいに、半分気を失ってつれ出されてしまったんだ。それから、あたしはあの男のために、どんな苦労したことか。
さすがの治三郎も、はじめは眉に唾をつけてこれをきいていた。しかし、だんだんお蓮のいうことが、必ずしも嘘ではないと思われるふしが出てきた。
あの坂本という男は、お蓮のいうように、たしかにそんなこともやりかねない男であることはまえから承知していたし、それに坂本はお蓮をさらったのちも、別にひとりの女をもっていたという。そしてお蓮の眼のまえでその女を犯したり、その女のまえでお蓮を手籠《てご》めにしたりしたという。
「……地獄だよ、ほんとうに恥ずかしい女の地獄だよ!」
そんな話をしながら、お蓮は急に酔ったような妖しい眼になって、急にあらい息づかいになって、治三郎にからみついてくるのだった。
それはいいが、その坂本といっしょにいる女が――あの津田三蔵の娘で、彼女は治三郎と市太郎を、とくに津田を斬った市太郎に対し、救われないほどの恨みを抱いているという。
治三郎はそれをきくと、おどろいて市太郎のところへすッとんでいって告げた。ところが――
「知っている、知っている」
と、市太郎、暗然としてうなずいたから、さてこそ! と思った。
「知っている? どうして、おめえは――」
「おれはなんどもその娘に狙われて殺されかかった」
「なに?」
「それで、その娘は、いまでも坂本といっしょにいるのか」
と、市太郎は息せきこんで、
「そいつアいけねえ。あの坂本って野郎は、ひょッとすると――」
と、声をのんで、蒼い顔をあげると、
「おい、向畑の兄さん。おめえ、今の話をだれからきいた?」
こんどは治三郎がだまった。お蓮を伊皿子に囲っていたころから、市太郎はお蓮という女を遠ざけろ、となんども忠告したくらいだから、またお蓮とヨリがもどったとは白状したくない。
「ウム、その、なんか変なところから、ふいとそんな噂をきいたものだから――」
と、治三郎は急にムニャムニャとごまかしてしまった。
市太郎は、お葉といっしょにいた男が坂本慶二郎だったことを、浅草の水晶館で知った。どこで、どうしてふたりが知り合ったのかわからない。これは恐ろしいことだ。じぶんにとって危険なばかりではない。お葉にとって、身ぶるいするほどおそろしいことなのだ。――あの坂本はひょッとすると。
そのあとの言葉を、市太郎は治三郎にすら打ちあけかねた。
市太郎と治三郎は、なお時どきつき合いながら、心はすでにバラバラであった。
――こういうわけで治三郎は、お蓮の言葉をだんだん信じてきたが、しかし、彼がお蓮をふたたび身辺に近づけたほんとうの理由は、そんなことではなく、お蓮のからだの凄まじいばかりの魅力にあったことにまちがいはない。それに彼の底ぬけの好色と人の好さ。
治三郎の家にまた風波がたち、商売の方が千鳥足になってきた。
両国の夜以来、彼の様子がソワソワしているから、こんどは女房がすぐに感づく。金をめぐって、ドタンバタンとつかみ合う両親の姿を、二人の子供は泣きながら見ていた。倅の恵吉は、もう十五にもなるのだ。親に似合わぬよく出来た子で、中学校に通っていた。
明治三十一年の年金がおりて数日ののち、治三郎が銀行にひき出しにゆくと、金は一銭のこらずひき出されていた。すぐにそれはお|うた《ヽヽ》のしたことだとわかった。治三郎は阿修羅《あしゆら》のごとくはせもどった。
「やい、か、金をどうしやがった?」
「あたしがしまっといたよ。それがどうしたえ?」
「何を――さあ、出しやがれ。今日にも要るんだ」
「へん、また尻《し》っ尾《ぽ》の九本ある女狐《めぎつね》のところにはこぶのだろう。だれが、ちくしょう」
治三郎がぶんなぐると、お|うた《ヽヽ》は新橋の汽笛みたいな悲鳴をあげた。
「おまえさん、あれだけいちどひどい目にあいながら、どうして眼がさめないんだろう! ばかにもほどがある……」
「ばかだろうが、何だろうが、俺のもらった年金を俺がつかうのにどうしたってんだ、さあ、出しやがれ、このスベタ」
「お前さんのもらった金かもしれないが、お前さんの好きなようにさせておけば、恵吉の授業料も出やしないじゃないか。あたしゃ恵吉のために金は出さないよ!」
治三郎は鼻じろんだ。恵吉が、彼の急所だ。
彼は肩で息をして女房をにらみつけていたが、やがてあたまをかかえて出ていった。
向島のお蓮のところへ悄然とあらわれた治三郎は、恐縮して右の次第をのべ、二、三日待ってくれるようにたのんだが、お蓮の何ともいえない不快げな顔をみると、じぶんの妾宅ながらいたたまれないような気持になって、夕方そこを出た。そして町で泥酔して夜ふけに家にかえってきた。
「おや?」
酔眼《すいがん》ながら、家の前に立っている女の影が、さっきわかれたお蓮のような気がしたからだ。
「お……お蓮じゃねえか」
影はふりむいて狼狽して逃げながら、ひゅうっと口笛を吹いた。
あっけにとられて見送った治三郎は、ふいに異様な胸さわぎをおぼえて、家の中へとびこんだ。
――と、入れちがいに外に出ようとして仁王立ちに立ちすくんだ影がある、紺の股引《ももひき》に脚絆《きやはん》をつけ草鞋《わらじ》をはき鳥打帽のつばの影は黒い布で顔を覆っていたが片手に短銃、片手に日本刀をぶらさげている。
その姿を一眼みるや否や、
「――稲妻小僧!」
噂にきいていたその兇盗の名があたまをかすめ、あっと治三郎の舌が上顎にくっついてしまった。
――と、治三郎の姿にほっとしたらしく、奥の方から、
「お、おまえさん!」
と、女房のお|うた《ヽヽ》が、ぬけた腰で――尻で這ってきた。
「あ、あ……有金ぜんぶ持ってくよ!」
欲望に火のついたような女房の声に、治三郎も点火された。
「野郎!」
と、狂気のごとく前からとびつく。同時にうしろからおうたがしがみついた。強盗の狼狽した手から、轟然と短銃が火をふいて、畳にぱっと黒い穴があいた。しかし、その音で、夫婦ははじかれたようにとびはなれて、こんどはほんとに腰をぬかしてしまった。
「…………!」
稲妻小僧の帽子のかげから眼がそれこそ稲妻のようなひかりを発した。殺意に痙攣しつつ、右手の日本刀がふりあげられようとした。
そのとき、奥から弾丸のようにとんできて、治三郎に抱きついたものがある。
「お父さんを殺してはいやだ!」
倅の恵吉だった。
稲妻小僧はふりむいた。
「お母さんを殺しちゃいや」
十二になる娘が、お|うた《ヽヽ》のからだに覆いかぶさっていた。
「へっ……」
兇盗の覆面のかげから、そんな嘲りとも溜息ともつかぬ声がもれた。が、そのとき、いまの銃声をきいたとみえて、ガヤガヤという声が近隣からきこえはじめたのに、びくっと耳をたてると、稲妻小僧は両手に武器をさげたまま、悠々とあるき出し、外の闇へきえてしまった。
一家はそれからなお数分間みえない恐怖の鎖にしばりつけられていた。
やっと、ひいっというような声でおうたが泣き出した。
「おまえさん……うちは文無しだよ。一銭のこらずもってかれちゃったよ」
治三郎は蒼い顔で眼をすえていた。おうたは這いよって、しがみつくと、
「すまない。やっぱりお金をお前さんのままにさせときゃ、それだけでも助かったのに。……ひどい奴だったよ、金はない、といったら、きょう銀行から金を下ろしてきたろう、と笑いやがるんだよ。ちゃんと知ってやがるんだよ!」
治三郎は、それに耳のないもののように考えこんでいたが突然バネ仕掛けみたいにとびあがった。
「はてな? いまの奴おぼえがあるような気がするぞ!」
そして彼は、歯をかみ鳴らして外へとび出していった。
治三郎は巡査を同伴して、向島のお蓮のところにかけつけた。お蓮はふたたび姿を消していた。
明治の世に恐怖の名をのこした稲妻小僧の正体が坂本慶二郎という男らしいと警察にはじめてわかったのはこの夜のことである。しかし稲妻小僧はなお捕えられなかった。
向畑治三郎は、それより、あれだけ信じていたお蓮がその相棒であったと知って、完全に人間不信のこころに陥ってしまった。
木枯
二タ月ばかりまえに建った西郷隆盛の銅像の下に、北賀市太郎は夕方の寒風に吹かれて立っていた。紺の腹掛けにしるし半纏という姿だが、片手に蜜柑籠《みかんかご》のようなものをさげ、籠には、蜜柑や餅やパンや本が盛られていた。
傍に四、五人の男が立っているが、その中のふたりは西洋の男と女だ。それが男は日本人と同じように木綿の着物に兵児帯《へこおび》をしめ、女もやはり束髪《そくはつ》に結って、木綿に丸帯などしめている。男がときどきラッパを吹くと、女は日本語と英語チャンポンの、へんな調子で、
「ミナサン、オイデナサーイ、カム・オン・ツー・クライスト、カム・オン・ツー・クライスト!」
とさけんだ。
そのうしろの粗末な台に、市太郎のもっているのと同じような籠が幾つかのせられて、やはり菓子やおもちゃや色紙や筆などが入っていた。籠によって内容はちがうが、その中にどの籠にも入っている『鬨《とき》の声』や『救世|叢書《そうしよ》』や『福音書』は共通している。
集まってくる群衆、歩いてゆく人々の中に貧しげな子供がみつかると、市太郎はすぐかけ出して、その籠をやるのだった。
これは、日本救世軍である。日本救世軍は、明治二十八年十月に来朝した英国救世軍ライト大佐外十六人からはじまった。爾来彼らは世のおどろきや好奇心や嘲笑や無視の中に、救世軍独得の熱情をこめて、毎日毎夜、東京のいたるところで伝道をつづけていた。
北賀市太郎はまだべつに耶蘇教《やそきよう》の信者になったわけではない。俥夫仲間の世話をしているうちに、ふと小石川音羽町にある救世軍の出獄人救済所につとめるようになっただけだ。しかし、彼のこころには、たしかに不幸な津田三蔵とその家族の追憶が生きていた。いや、追憶どころか、どうやら兇賊稲妻小僧と同棲しているらしいお葉の姿が烙印となっている。
治三郎がいった。稲妻小僧は、お蓮とお葉を情婦にしている。そしてお互いのまえでもてあそんでそれを見せつけたりしているという。……それは想像するだけで全身ねじまわされるような地獄の図絵だった。
「いったい、どういうつもりなのか」
お蓮はしらず、市太郎はお葉の心持ちはわかっている。
「あたしは国賊の娘、あたしは国賊の娘らしく……」
それだけなのだ。八年前の恐ろしい、むごたらしい迫害の嵐に、当時小娘だったお葉のこころは、すっかり片輪になってしまったのだ。――それを、なんとしても救わなければならぬ、市太郎の目的は、いまはただそれだけといってよかった。
「あ……」
市太郎は突然眼を見張った。
公園の石段をのぼってきたお高祖頭巾《こそずきん》の女が、ちらっとこちらをみたのだ。市太郎をみたわけではない。おそらく銅像か救世軍を見たのだろうが、その顔は忘れもせぬお蓮だった。
彼は、籠をかかえたままかけ出したが、救世軍の人々は、彼がまた貧しい子供を見つけ出したのだろうと思って気にもとめなかった。
市太郎はお蓮の所業を治三郎からきいていた。みごとに一パイくわされて、はじめて治三郎が白状したのである。四年ばかり前、同じ手でひどい目にあいながら性懲《しようこ》りもなくまたひッかかるとはあきれたお人好しの男だ。だからこそ治三郎はお蓮とヨリのもどったことをかくしていたのだろうが、しかし、その白状で市太郎は、はじめてお蓮が坂本慶二郎とまだ関係をつづけていたことを知ったのである。そして――。
坂本慶二郎――あいつのところにお葉がいる!
彼はお蓮のあとをつけた。暗い冷たい如月《きさらぎ》の夜がまもなくおちてきて、立樹づたいにゆく市太郎にお蓮は気がつかなかったらしい。
そして、ほそい三日月のかかった五重塔の下で、お蓮《れん》の傍に、音もなく黒い影がちかづいてきた。
「お蓮」
坂本慶二郎の声である。市太郎は早鐘《はやがね》のような胸をおさえた。
「もどってきたか、御苦労だったな」
「下館《しもだて》の親分に話をつけてきたよ」
「うむ、それで……」
「飛んでくれりゃ、たしかにかくまってやるってさ。安心おし」
「そいつアありがてえ。もう東京は、どこにいっても刑事《でか》の眼がひかってて、息もつけなかったところさ。それじゃあ、今夜にも飛ぼう」
のちにわかったことだが、この数年ほとんど十日のあいだをおかず、東京およびその近県の家に押し入り、十数人の人を殺傷し、数十人の女を強姦した稲妻小僧は、その夜、茨城県下館伊讃村の博徒の親分七五郎のところへ、ひそかに高飛びしようとして、お蓮にその受け入れを依頼にゆかせたものだった。坂本はやはり茨城県新治郡東村の出身で、故郷がちかいという縁もあるが、それ以外に、泥棒と博徒としてのいろいろの悪因縁があったのであろう。
市太郎にも、彼がどこかへ逃走しようとしていることはわかった。それでは、お葉はどこにいるのだろう? これからどうしようというのだろう?
「ただね、おまえさん」
と、お蓮が苦笑いの声をしのばせていう。
「なんだ」
「親分は、まさか義経じゃあるまいし、情婦をふたりも三人もつれて村へ来られちゃ、目立ってこまる。せめて夫婦者らしく、二人になってこいといったよ」
「そりゃあ、あたりめえよ」
「あたりめえよって、だれをつれてゆく気?」
稲妻小僧はだまった。
「つれてゆくなら、おめえだな。おめえも実は手配がまわっているんだから」
「ふん、だいぶ考えたね」
「まさか、あれア、|ばくち《ヽヽヽ》打ちンところに、わらじをぬがせる女じゃあねえ」
「あたしとちがって、お上品だからね」
「なにをいってやがる。どうもあいつは、妙な女だ」
「そこが、おまえさんにゃ気に入ってるんだといつかいったじゃないか」
「うむ。しかし、なんだかうす気味わるいところがある。おれにこの五年もくっついているんだが、もとはといえばあの親の敵を討ってやろうってえ約束がもとだ」
「市の野郎かい。あいつアもとからあたしを胡散《うさん》くさい眼でみて、いやな奴だったよ。おまえさん。あたしゃわからないことがある。おまえさんほどの人が、どうしてあの女の本望をとげさせてやらないのさ?」
「へ、へ、そうしねえところが、おれのかけひきさ」
「あっ、ちくしょう。おまえさん、そうまでしてあの女をひきつけておきたいのかい? それほどみれんがあるのかい」
「痛え! よしやがれ。もう、あいつとも縁を切るんだからよ。――そうだな、あの女の気味のわるいというのは、おれがその望みをとげさせてやらなくてもよ、へんにおとなしく黙ってるぜ。とくに一年ばかり、何にもおれを責めねえのがふしぎだよ」
「それかい? ……それアわかってるよ。それアね、いくら馬鹿にしたって、せっかく打出の小槌をもった男から、枕もたかくしてねられないところへ、あたしをひきずり出したおまえという男のせいさ。……ごらん、あんな日かげの青桃みたいだった小娘が、すっかり色ッぽくなっちまったじゃないか」
「へ、へ、へ、やっぱり、そうかな」
「そうかなって……にくらしい人だよ、おまえは。――こんなにやせてるくせに、なんか獣《けもの》みたいに固くって、しなやかなところがあって、ほんとに女をおかしな鎖でしばりつける男だよ」
「ふ、ふ、ふ」
「ねえ、おまえさん、これから飛ぶとすりゃ、もうユックリねられもしないね」
そして、急にぬれた肉の吸いつくような音がした。闇のなかで獣じみた喘《あえ》ぎと匂いがながれてきた。
――と、
「あっ……」
と稲妻小僧の敏感なさけびがあって、
「誰かいやしねえか?」
はたと凍りついた沈黙と葉のおちた樹々を、ざっとこがらしが吹いてとおる。
「風だよ……」
「そうか。そうか。なんか、へんな音がしたと思ったが」
「かなしいね、お尋ね者は。――ねえ、おまえさん」
「なんだ」
「あの女を、どうするのさ?」
「どうするって?」
「おまえとあたしがにげ出して、あの女を放り出しといて、大丈夫?」
「暮しか」
「いえ、さ、警察《さつ》の方にばらしゃしないかってこと」
「いや、あいつはそんなことはすめえ」
「いやに信用してるわね。なぜ!」
「なぜか、そんな女のような気がするよ。……待てよ」
稲妻小僧はしばらく思案《しあん》している風だった。
「いいや、やっぱり、あいつは心のゆるせねえところがあるな」
「何をいってるのか、さっぱりわからない。なぜ?」
「なぜだか、そんな女のような気がするよ。……お蓮、おめえ、あの女をどうしたらいいってんだ?」
「おまえさんは?」
「おめえは?」
ふと市太郎の耳に声がとぎれた。
その代り、何とも名状しがたい兇猛な風のようなものが面を打ってきた。
おそらくはそれは、二人の悪党のささやきの吐息であったろう。
「それじゃああとくされのないように!」
恐ろしいお蓮の歓喜にみちた声がながれてきたのはそのあとだった。
闇の果て
上野公園を谷中へぬける二人を尾《つ》けた市太郎は、寛永寺《かんえいじ》坂でふっと幻のように稲妻小僧が消えたのに狼狽した。
それまでも、いくどか飛び出そうとして必死に自制したのは、どちらかを捕えてもひとりにはにげられるおそれがあるし、にげた一人がいまの相談を実行しては万事休すと恐怖したからだった。
いまの相談。いうまでもなく、高飛びの前に、不必要になったお葉の殺害と考えてまちがいあるまい。
巡査はいないか、せめて頼りになれそうな通行人はいないかと、なまじ思案《しあん》を凝《こ》らしたのがまずかった。さすがにお尋ね者の二人である。連れ立ってあるくほどばかではない。あっと眼を見張ったときは、稲妻小僧は、夜の蝙蝠《こうもり》のように消えてしまっていた。
「待て!」
あわててとび出した市太郎に袖をつかまれ、ふりかえってお蓮はぎょっとしたが、
「おや、おひさしぶり」
と、すッとぼけて、にっと笑ったところはみごとなものだ。
「やい、坂本はどこへにげた」
「坂本? 坂本って、だれさ?」
「稲妻小僧」
お蓮はびくっとしたが、急に袖をふりはらって、
「そりゃ大泥棒の名じゃないか。おふざけでないよ。あたしの知り合いに、そんな物騒な人間があるものか。へんないいがかりをつけると、人を呼ぶよ」
「呼んでみるがいい。――おい、お蓮、かくすのはよしな。おれはいま公園の中であいつとおめえの話をきいてたんだ」
お蓮の全身が硬直した。市太郎はあせった。
「いや、だからといって、おれは、おめえたちを捕まえてどうしようというわけじゃあねえ。おれの知りてえことは、あの津田ってえ巡査の娘の居場所だ。たのむから、それを教えてくれ」
お蓮はじっと市太郎をにらんでいたが、やがてほっと息をついて、
「あっ、そうか。おまえはあの女の敵だったね。それじゃああいつを見つけ出して返り討ちってゆくつもりか。なら市さん、そんな手数は要らないことだよ、いま坂本がいって始末するよ」
「そ、それがこまるんだ。おれは、あの娘を助けなくちゃいけねえ」
市太郎は、このお蓮という女が、ゆだんのならないこわい女だということは知っていた。が、あの川開きの夜の事件でもわかるように、お葉への嫉妬のためには坂本さえもやっつけかねない、或はほんとうにお葉を殺したがっているのは彼女だということはまだ知らなかった。少なくとも、さっきの密談は、坂本とお蓮の安全をはかるための殺人計画だと考えていた。
「なぜ、助けなくちゃいけないの?」
「そのわけをおめえにいう必要はねえ、そんなひまはねえ! さ、坂本がどこへ帰ったか、はやくいってくれ。いわねえと――」
市太郎は、例の匕首をとり出して、お蓮につきつけた。
お蓮はジロリとそれを見下ろした。さっきの狼狽はきえ、かえって落ち着きをとりもどしている。ふてくされたのと、それから市太郎のむきになった顔色から、彼がじぶんたちを捕まえるより、なぜか理由はわからないが、たしかにあのお葉を救うために焦っていることを見てとったのだ。
「いわないと殺す? ほ、ほ、殺したら、あのひとの行先がわかんなくなっちまうじゃないか」
からかいかけて、お蓮は息をのんだ。市太郎の眼に、夜目にも狂おしいばかりの殺気《さつき》がきらめいてきたからだ。
「あ……おまえさん、ほんとにあたしを殺《や》る気なの?」
そのとき、向うからあるいてきた黒い影が、いちど立ちどまり、すぐに佩剣《はいけん》をガチャつかせてはしってきた。巡査である。
「なんじゃ? いま、殺すとか、殺《や》るとかいう声がきこえたが――」
ふたりは息をのんだ。市太郎はあわてて匕首を背にかくした。
訴えてはならない。稲妻小僧のかくれ家に巡査とともにおしかけることは、お葉を兇盗の共犯者として捕えることなのだ。
「へ、へ、旦那、すみません。実ア、痴話喧嘩《ちわげんか》で――」
と、やっと乾いた唇で市太郎がいった。
「物騒な夫婦喧嘩じゃな。まあよろしい、はやくゆきなさい」
と、巡査は叱って、立ち去った。
「おい、はやくいってくれ。おねげえだ……」
と市太郎は哀願した。どちらが強者か弱者か、どちらが追うものか追われるものかわからない問答であった。
しかし、それだけに市太郎の必死の気迫はお蓮をふるえあがらせたとみえて、彼女は、彼の匕首に追われ追われ、ふてくされたように歩き出した。
それは谷中墓地裏の小さな家だった。
灯影《ほかげ》をみて、お蓮はくびをかしげた。さもそこに灯のともっているのがふしぎだといわんばかりの顔つきだった。
「おや?」
彼女は、はじめて自分の意志を甦らせたように、二歩、三歩近づいて、その窓に耳を近づけたが、どんな気配《けはい》をききとったのか、
「ちくしょう。……片づける、とか何とかいいやがって、まだあんなことしてやがる」
と、歯ぎしりしながらつぶやいて、それから物凄い眼で市太郎を見た。市太郎の背に何やらさっと冷たいものがながれた。その瞬間、お蓮はいきなり叫び出したのである。
「おまえさん! 北賀市太郎がきたよ!」
どどっと家の中で、畳を蹴る音がしたとき、市太郎は狂気のごとく戸口に突進していった。そのあとに、お蓮は不吉な鳥みたいに闇の中へ消えてしまった。
戸をあける。むこうの壁ぎわに、坂本慶二郎とお葉が立ちすくんでいた。
真冬というのに、坂本はまる裸にちかい姿だ。二年前、両国橋の上で逢ったときとは、また一段と兇悪の色を上塗りした顔である。
そして、お葉は長襦袢《ながじゆばん》一枚の、白い肩から胸まであらわになったしどけない姿だった。
「北賀か」
といって、ニヤリとした。
彼もまた、市太郎がお葉に仕返しにきたものとかんちがいしたらしい。急にあわてたのを損をしたような、狡《ずる》そうな眼になって、
「もうおれア、おめえと喧嘩はやめた。こいつはやるよ。どうなと勝手にしろ」
どんとお葉をつきとばした。よろめいてきたお葉を市太郎はしっかと胸に抱きしめて、
「お葉さん、さあ、おれといっしょにゆこう」
その様子に坂本はけげんな表情になった。
「おや、おめえ、この女を殺《や》らねえのか? おめえを殺そうとして、なんども狙った女だぜ」
「ばかをいうな。おれはこのひとを救い出すためにやってきたんだ。お葉さん、あんたはこいつが稲妻小僧って強盗野郎だってことを知ってるんですか」
「知っています」
と、お葉は沈んだ声でいった。
「それじゃあ、今夜こいつがお蓮といっしょに高飛びする前に、おまえさんを殺してゆこうとしていることも?」
お葉よりも、稲妻小僧の方が愕然とした。
「お蓮!」
と大声で呼んで、返事がないのに、
「ちくしょう、あいつ、ばらしやがったか!」
とうめいたかと思うと、眼を血ばしらせて市太郎をみた。
「やい、そこまで知られちゃあもうきさまを生きてかえすわけにはゆかねえ。いいや、第一、おめえがこいつをここで殺すなら別、ふたりを無事にここから外に出すことアできねえんだ」
その右手にピタリと短銃がかまえられた。
「覚悟しやがれ!」
その顔から全身に、明治一代の大盗人の物凄まじい殺気が、炎のようにもえあがった一瞬――「あ!」お葉がかすかなさけびをあげた。
どこか、遠くの闇で、呼子笛が鳴ったようだ。
「あれは?」
と、稲妻小僧がびくっと耳をたてたとき、
「巡査の佩剣《はいけん》の音がきこえます」
と、お葉がさけんだ。稲妻小僧はとび立っていって、入口をピシャリとしめ、心張棒《しんばりぼう》をわたして、凄まじい眼でふりむいた。そのときお葉が、
「どうしましょう」
とよろめいて、稲妻小僧にしがみついた。稲妻小僧は足をもつれさせた。
お葉は、縄みたいに、ピストルをもった腕にからみついている。
「あっ、こいつ、おれを売る気か」
稲妻小僧の腕からお葉がふりはなされ、とたん、轟然とピストルが火を吹いたが、弾の行方はむろんあらぬ方だった。あわてて銃口をむけなおすよりはやく、猛然と市太郎は組みついている。
二人の男は、凄まじい格闘に輾転《てんてん》した。
そのとき、外に跫音が殺到してきて戸を乱打《らんだ》しはじめた。
「あけろ!」
「こら、あけないか、警察の者だ!」
市太郎は死物狂いだった。稲妻小僧の兇暴さはよく聞いていたが、曾て喧嘩したこともあるので、これほど強い相手だとは思わなかった。市太郎がもと侍の倅で、武術を習ったことがあるのでなければやられたにちがいない。稲妻小僧はここ数年の間に、魔人のような怪力を具えてきたとしか思われなかった。
「あけろ!」
戸がメリメリと音をたて出した。
突然、市太郎ははっとして、
「お葉さん、にげろ!」
と、格闘しつつ、裏口の方へ顔をふった。このままなら、お葉も稲妻小僧の共犯者としてつかまえられる。お葉をそんな目に合わせてはならぬ!
「にげるんだ、お葉さん!」
「いいえ、あたしは」
「ゆかねえか! おれの命を無駄《むだ》にする気か!」
市太郎の絶叫《ぜつきよう》に、背を火に吹かれたようにお葉の姿が裏口へとんだ。数秒ののち、入口から巡査の群がなだれこんできて、稲妻小僧と市太郎の上に折り重なった。
明治三十二年二月十八日の夜のことである。
あとでわかったことだが巡査たちが襲ってきたのは、お高祖頭巾の女が巡邏中《じゆんらちゆう》の刑事に稲妻小僧の潜伏している家を教えたからだった。その女は、それを教えるや否や妖しい鳥のように闇に姿を消してしまったが、警察の方でも、それがどうやら稲妻小僧の情婦として手配中のお蓮という女らしいとまでは見たが、なぜ彼女が密告したのかわからなかったし、稲妻小僧もそれをきいて、ただ苦笑いをしただけで何も答えなかったという。
北賀市太郎もその事実をきき、いちどは狐につままれたような顔をしたが、すぐに背すじに寒いものをおぼえた。思うに、お蓮は、市太郎をつれていったとき、坂本がもはやお葉を片づけているものと期待していたのだろう。そのあてが外れ、坂本がまだ未練の炎をもやしているのをみて、かっとなり、坂本もお葉もひっくるめてとらえる警察の縄を呼びよせたのに相違ない。
この恐ろしい女は、警察に追われつつ、しかしそれっきり闇の中に姿を没してしまった。
そしてお葉は? ――北賀市太郎は、またも彼女をこの手にとらえながら、これまた闇の世界へ自ら放ち去ってしまったのである。
賭ける女
「さあ、おれと賭けるやつはいねえか!」
と、治三郎はわめいた。茹《ゆ》であがったような、まっかな顔だ。
「ええ、旦那、あたしじゃだめなんで?」
と、新造のお源が、うす痘痕《いも》のある顔をつき出したが、
「いけねえ、そんなガンモドキみてえな面を、いくら剥いだって五十円はやれねえ。花魁《おいらん》だ。花魁をはだかにしてみてえんだ。おれに勝ちゃあ一ト勝負五十円やる。おれに負けたらまず裲襠《うちかけ》をぬげ。それからきもの、長襦袢と、さあ、だれかいねえか」
吉原京町一丁目の新万楼の二階だった。
まだ夕ぐれには間があるのに、ここはまるで杯盤狼藉《はいばんろうぜき》、のめやうたえのらんちきさわぎである。
治三郎は、ここ二、三日ばかりの流連《いつづけ》だった。相変らずのくせがまだやまないとみえる。――というより拍車をかけている。
おととし、もらったばかりの年金を、一夜にして稲妻小僧にまきあげられて、それから惨澹たる暮しをなめた反動が、次の年金をもらうと同時に爆発したきみもあるが、それより彼を|やけ《ヽヽ》のようにしてしまったのは、じぶんが「金持」になってから思いしらされた人間というものの|えげつなさ《ヽヽヽヽヽ》、醜さ恐ろしさだった。
(ええ、どうせこの世はケダモノか虫ケラみてえな奴らのあつまりだ)
そう思うと、とうてい建設的な考えが出てこない。
それでも、治三郎のやっている待合へ、ときどきあそびにやってくる客に、横浜で運搬《うんぱん》会社をやっている人があって、この人が治三郎の馬力と年金を買ってくれて、「おれが遊びにきて、こんなことをいうのもおかしいが、おまえに水商売は不向きだ。どうだ、横浜にきて、おれといっしょに仕事をしねえか」といってくれたのに、ふいと心のうごきかけたこともあるのだが、そのとき――十日ばかりまえのことになるが――息子の恵吉が家出をした。
恵吉は、父親の放埒《ほうらつ》と両親の喧嘩に愛想をつかしてしまったのである。
この上なく熱愛していた息子だっただけに、治三郎は狂ったようになって探しまわり、探しあぐねて――また大やけになって、このしまつなのである。
「五十円だぞ! おれに勝ったら五十円だぞ!」
台の物のお椀と、ふところからとり出した賽《さい》ころを両手にふりまわして、治三郎はまたわめいた。
「五十円!」
「まあ、五十円!」
座敷にいた四、五人の花魁、それから新造、遣手、幇間《たいこ》たちはゴックリ生唾をのみこんだ。五十円はいまの百万円ぐらいにあたる。
敵娼《あいかた》の此糸《このいと》をはじめ、ならんでいた初紫、小万、千鳥などの花魁たちはたがいに肩肘つきあったが、だれもすすみ出るものがない。金は欲しいが、もし裸にでもされると――。
初会できて、流連《いつづけ》をする。恐ろしく気前がよくて遊びなれたところがある一面、へんに野暮ったく、品のわるいところがある。治三郎もいくらなんでもあれから十年ちかくたっているのだから「帯勲俥夫」をもち出さないので、彼の正体がよくわからないのだ。
「なんだ、だれも出ねえのか、おれに五度勝ちゃ、証文が棒引きになるぞ!」
「それはわかっているけれど……あなた、ばくち打ちでござんすか?」
「あはははは、ばくち打ちじゃあねえ。だが、ばくちで帯勲俥夫となった男だ。賽の目一つで、途方《とほう》もねえ運をまねきよせた男だい」
とうとう、出た。――が、次の瞬間、苦ッぽい笑いが酔った顔をかすめて、
「へっ、まったく、途方もねえ運よ。が、この金なんざ、花魁相手のばくちで散財《さんざい》した方がいっそサバサバすらあ。さ、だれか運をためさねえか!」
「あたしが」
うしろの方で、ひくく声がかかった。
だれも気がつかなかったが、さっきそっと入ってきてからじっと治三郎の顔を見つめていた花魁であった。
「まあ、小車《おぐるま》さん!」
だれかがおどろいてさけんだ。
その小車という花魁は、ふだんから冷たくだまっていて、朋輩《ほうばい》にもおたかくとまってるよと、いわれているくらいの、こんな悪ふざけに乗るようなたちの女ではなかったからだ。
彼女はすっと立ちあがった。
「やあ、おめえがやるか」
見あげて、治三郎は恐悦した顔になった。
「なんて名なんだ」
「小車」
沈んだ声であった。蝋《ろう》のような顔いろであった。その眼の異様なひかりを酔った治三郎は異様とみず、世にも好色的な笑顔で迎えた。この花魁はどうも花魁らしくねえ。なにか妙に品がありやがる。こういう女こそ、はだかにしてみる甲斐があるっていうもんだ。
「よし、やるぜ――」
俄然、彼は闘志にもえた。
「丁だ!」
「半」
と、小車がこたえた。
「丁」
治三郎はお椀をあげて哄笑した。
「花魁、裲襠をぬいでもらおうか」
小車は、裲襠をぬいだ。何かいいかけた此糸が、彼女の横顔をみて息をのんだ。そこには、こんな遊びをしているとは思われない、恐ろしいまでにさしせまった蒼い顔があった。
「こんども半です」
「や、つづけてやるか。そうこなくっちゃ面白くねえ。それでは、丁!」
治三郎は、ゲラゲラ笑った。
「丁だ!」
小車は帯をとき、きものをぬいだ。
「小車さん、よしなさいよ、ばからしい」
「いいえ、いいんです」
「いいんですって、――いくら女郎だって、みんな見てるまえで裸になるなんて、悪い名がたちますよ」
「わたしは、運を占っているんです。――半!」
「その意気! 丁!」
小車は、だんだん脱がされていった。大きな獅噛火鉢《しがみひばち》に火はおこっているとはいうものの、冬というのにやがて彼女はなまめかしい長襦袢一枚になった。
治三郎は、小車の顔をみた。その眼をみた。賽の目も彼の顔もみないで、じっと宙をみている眼を。――なんとなく、彼はぞっとした。それこそ、曾て北賀市太郎を戦慄させた黒い炎のような眼だった。
「おい。もうよそうか?」
治三郎は、思わずかすれ声を出した。
「いいえ、やりましょう」
「そうかい。では、振るぞ。丁!」
「半!」
そのとき、外で高らかなラッパの音がきこえて、
「あっ、また来やがった」
とお源がさけぶと、二、三人、ドヤドヤと立ちあがって障子《しようじ》の方へかけていった。
「旦那、やっぱり丁ですね」
と、小車は微笑した。何ともいえない、寂しい笑顔だった。
「へっ、何しろおれは、ばくちの神さまなんだから、花魁相手に勝ったって自慢にゃならねえやな。えい、賭はおじゃんだ」
と、治三郎の方がヘドモドして、
「それより、あれアなんだ?」
「救世軍ですよ」
「救世軍が、なんだって廓《なか》にねりこんで来やがるんだ」
「籠の中の花魁鳥を出してやるんだってね。大きな世話でゲスよ、ねえ、旦那、こんなきれいな籠って世の中にあるもんじゃあねえ」
と、幇間が腹立たしげに舌打ちをした。
「外にゃ風も吹き、雨もふる。ここにいる、ダラシのねえ――いいや、かよわい女たちを世間に放り出して、いってえどうなるもんでさあね。出ろ出ろ、籠を出ろったって、出てどうしてくれるってわけでもねえ。へっ、女の稼ぎとして、ここの玉代にまさるところがあるもんか。ほんものの籠の鳥だって、籠の中にいる方が倖せか、鷹や鷲のいる森へゆくのが倖せか……」
「みなさーん、眼をさまして下さーい。肉を売って生きることは、罪です。女の恥です。勇気を出して、私どものところへおいでなさーい」
「うるせえ野郎どもだな。こっちは面白くあそんでるってえのに」
と、治三郎は下唇をつき出して、あけはなった障子の方へ立っていった。
「おれが追ン出してやろうか」
仲の町の通りを、太鼓をうち、幟《のぼり》をはためかして、十人あまりの救世軍がやってきた。高らかに遊女解放のさけびをあげながら、しだいに近づいてきたその一団のうち、何をみとめたのか、
「あっ」
とふいに治三郎はよろめいた。
めぐる小車
日本の娼妓解放の|のろし《ヽヽヽ》は、救世軍からあげられた。もっとも、それ以前、明治五年、例のマリヤルーズ号事件に端を発した奴隷解放運動から、大江卓の奔走により、遊女解放令が発せられたけれど、その司法省布達に、
「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失ウ者ニテ牛馬ニ異ラズ、人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ、云々」
とあるように、真に遊女を人間と認めての立法であったかどうかは、そう断言するのにははばかられるところがある。
それからみると、この明治三十二、三年ごろ最高潮に達した救世軍の解放運動は、宗教的な人権思想からもえあがった第二の波であって、第二の波というよりほとんど吉原をはじめ全国の人肉の市を葬り去ろうとしたほどはげしいものであった。
この明治三十三年九月五日、この新万楼の遊女、綾衣《あやぎぬ》が自由廃業の届けを出したのを皮きりに、十二月までわずか四ヶ月の間に、東京の娼妓に六百余人の廃業者を出したほどの勢いをしめしたのである。
当時の読売新聞に左の記事がある。
「一昨夜九時ごろ救世軍本営隊長桜井松太郎は、明朝七時を期し、浅草広小路に於て部下の士官兵卒を集合の上、大挙吉原へおしかけゆき、さきに依頼《いらい》されたる江戸町二丁目当世楼の娼妓一花の廃業手続を続行せんと準備をなせり云々の飛報、浅草署へ到着せしより、同署に於ては、それっと手配をなしけるに、昨朝同軍よりすでに内務省令発布の廃業手続の簡易となりしを以て、あえて非常手段を用うるの、必要なしとみとめ、吉原へ赴くことは見合わする旨を同署へ申し来りしも、他日を期して唐突に吉原へ押しかけゆくやもしれざる模様なりと」
こういう壮烈な救世軍の攻撃《こうげき》に、吉原の抵抗も猛烈をきわめた。なんといっても野蛮な時代である。――
「一昨日、午前十一時ごろ、本郷区元町二丁目救世軍第三小隊長大尉林又八(二六)が、布教上の用事にて浅草区亀岡町にいたり、帰宅の途中、午後四時四十分ごろ、下谷区竜泉寺町にさしかかるや、ごろつき態の男六七人づれにて、同人のあとになりさきになり、同町派出所よりやや半丁ばかりへだたりたるところまでしたがい来りたるが、このときいずこより集り来りしかたちまち四五十名の多勢となり、同人をおしとりかこみ、瓦石を投げつけたるに、此方はおどろきまどい、傍なる薪炭商《しんたんしよう》某方にかけこむと、彼らはまたまた同家をとり囲み、救世軍を殺せと口々に罵りながら、なお同家に踏み入り打つやら蹴るやら散々殴打したる騒動を、同町派出所の巡査がききつけ出張したるに、今しも同家をとりかこみおるよりひとまず被害者を救い出さんとする最中、彼らの過半数ははやいずれかへ逃走したりと云々」
救世軍が吉原へのりこんでくるのは、実は決死の行動であった。
が、治三郎がおどろいたのは、そればかりではない。
「恵吉!」
なんと、十日前に家出をした息子の恵吉が、その救世軍にまじって、十七歳の肩に意気揚々と幟《のぼり》をかついでいるのだった。
待合の子が、おれの子が、アーメン野郎になる! 遊女解放の幟をかついでいやがる!
あれほど可愛がっていた恵吉だったのに、いままでその子が何を考えていたのか、想像もつかなかったということは、治三郎にとって、何かぞっとするような恐ろしさであった。
「恵吉!」
治三郎の絶叫に、下を通りかかった恵吉は、ヒョイと新万楼の二階を見あげたが、唇がかすかにふるえた以外は、無表情な顔であるいてゆく。
「あ……」
それより、立ちどまったのはちがう男で、
「兄貴じゃないか!」
北賀市太郎だった。
彼は先にゆく恵吉をちらと見たが、すぐに意を決した風でこの家の軒下に走りこんできたかと思うと、まもなく、
「やいやい救世軍、何しやがる」
「貧乏神、出てゆけ!」
口々に罵る若い衆や遣手たちをおしのけおしのけ、その座敷にあがってきた。
「兄貴、かえろう、いっしょにゆこう」
治三郎は茫然として、恵吉を見送っていた。
「兄貴、あの子がとび出して、心配したろう。あの子がおれのところへとびこんできたから、実はこっちもおどろいたんだが、色々きいてみると、あの子の思案に尤もなところがある。で、少し兄貴をこまらせたら眼もさめるだろうと、わざッとだまっていたわけさ。あれゃ、おめえの子にしちゃあ、出来すぎた子だよ……」
そのとき、治三郎が、ぐっと身をのり出した。市太郎はそれに気をとめず、
「さ、兄貴、あの子といっしょにかえるがいい。救世軍の旗をもってるからというわけじゃあねえが、やがて五十に手のとどこうって男が長居する場所じゃあねえ」
「旦那、わたしがばくちに負けたんですよ」
うしろでからみつくような声がした。
治三郎はふりかえらず、市太郎がふりかえって、かっと瞳をひらいた。
「あっ、いけねえ、恵吉!」
ふいに治三郎がとびあがって、血相かえて座敷をとび出した。
何事が起ったのかと、一同は手すりの方に走りよった。
水道尻の方で、わあっと物凄い喚声があがった。
「あっ、はじめやがった!」
「アーメン野郎め、ザマをみろ……」
幇間や遣手婆《やりてばばあ》あたりがこぶしをふりまわしてさけんだ。
売笑の牙城《がじよう》にのりこんできた救世軍に、はたせるかな、吉原おやといの無頼漢たちが襲いかかったのだった。
おはぐろどぶ
その絶叫、悲鳴、鬨《とき》の声をよそに、市太郎は立ちすくんでいた。
小車は、長襦袢をぬぎすて、腰巻ひとつになって、うすら笑いを浮かべていた。うすら笑いを――いや、必死に笑おうとはしているが、どうみても笑いの浮かばぬ眼を、じっとひからせて。
あけはなった障子から、如月《きさらぎ》半ばの、寒風が吹きこんでくる。が、その花魁は、無数の男に愛撫されつくした肌をさらして、平然としてつっ立っていた。まるで蝋細工のように、白く冷たく、遊女らしくもなく緊《しま》っているだけに、いっそう妖しい媚惑にけぶった裸形《らぎよう》だった。
ついに、沈黙にたえかねたのは、女の方だった。彼女はかすれた笑い声をたてた。
「ホ、ホ、ホ、いやなひと、このはだかは、あなたに見せるはだかじゃなかったわ、いまの旦那よ。ばくちをして負けたら、わたしがはだかになる約束だったの。……そんなに見ちゃあ、イヤ」
市太郎はだまって歩いていって、彼女の肩に長襦袢をかけた。
「お葉さん、出よう」
遊女小車は――いや、お葉は肩をそびやかした。
「出る? どこへ?」
「どこへでも、こんなところにいちゃあいけない」
「いけなくっても、わたし、うんとお金を借りてるわ」
「そんな金なんざ返す必要はない。……たとえ、何百円借金があろうと、おれにまかせておいて下さい、おれアそのために、お前さんのために、金をためて待っていたんだ」
「あなた……あたしを、どうしてそんなに助けようとなさるの? なんどもあなたの命を狙ったあたしなのに」
「おれは、遼東でお前さんの叔父さんに命を救われた。叔父さんは、おれを助けるために戦死なすったんだ。そのときおれはたのまれた。お葉を救ってやってくれ……」
そのとき、手すりの方でまたさけぶ声がきこえた。
「わっ、あれアいまの旦那じゃあねえか」
「アレアレ、あの旦那、酔っぱらって敵と味方をまちがえてるぞ」
「だれかはやくいって教えてやれ。あの旦那がアーメンの味方をするはずはねえ。そんな面じゃねえ」
水道尻のアーク燈の柱をめぐって、向畑治三郎は獅子奮迅《ししふんじん》の大あばれを展開していた。丸太ン棒で二、三回なぐられて、血まみれになったが、たちまち相手をおはぐろ溝《どぶ》にたたきこんだ。愛児の危機をみて、無法脛《むほうずね》の本領を発揮したのだ。
「この野郎ども! 女の生血を吸って生きてる虫ケラども、みんなドブへ這いこみやがれ!」
じぶんが待合のおやじで、いままで女郎買いしていたことを棚にあげている。
こちらでは、市太郎はひざまずいて、お葉の足にすがりついていた。
「お葉さん、おれはおめえさんの父親を斬った男だ。仇を討つなら討ってくれ。そのための匕首《あいくち》は、いつも用意してある」
「……それも、基督《キリスト》さまのお教えですか」
「いいや……。おれはおめえさんが好きなんだ。はじめて伊賀上野で見たときから」
はじめて言った。
お葉は愕然として、市太郎を見すえた。
「もしかすると……もしかすると……上野でわたしたちが町の人々にいじめられていたとき、お金を投げこんで下すったのはあなたじゃありませんか?」
市太郎は口をおさえ、だまりこんだ。
「ああ」
と、お葉はよろめいて、肩で息をした。
「あなたを殺さなくてよかった。……いいえ、あたしに殺せなかったのも、天の神さまのお指図だったのだわ……」
「お葉さん、そんなことア気にすることはねえ、おめえさんの思いのままにしてくれ」
「いいえ、あたしはもうずっとまえから、あなたを」
といいかけて、彼女は急にあかい顔をして、ヒシと長襦袢の襟をかき合わせた。立つにも、坐るにも、居たえぬ風情だった。
「なに」
市太郎が顔をあげて、その眼をかがやかせ、急にとび立って彼女を抱きしめた。
「お葉さん、ゆこう、ここを出よう」
それから、ふと気がついたように、
「きょうは、運命の日って奴だなあ。お葉さん、世間に出ても、もう恐ろしい奴はいねえ。あの坂本はこの世にいねえんだよ」
「え」
「ほら、見な、きょうの新聞だ。さっき上野で買ったんだが」
と、懐から一枚の新聞をとり出した。
「稲妻小僧の死刑執行」
という文字が大きくお葉の眼にとびこんだ。
「稲妻小僧と名にうたわれし坂本慶二郎も、娑婆《しやば》の命も尽きて、いよいよ昨日午前九時四十分絞首台の露ときえたり。
鍛冶橋監獄署には一昨日夕控訴検事より死刑を執行すべき旨の通知ありしかば、昨朝五時慶二郎を起し死刑執行の趣を申しわたし、かねてあつらえおきし白木綿の着物をきせ、八時にいたり看守長一名、看守三名に護衛せしめて、慶二郎を市ケ谷に送りたり。
かくて慶二郎は、馬車にて市ケ谷監獄署に向い、途中何事もなく市ケ谷に着したるが、ふつう死刑に処せらるべき被告人は、同署門前にて馬車より降さるるを例とすれど、名にしおう稲妻小僧のこととて、万一をおもんぱかり、監獄署裏手仮監のところまで馬車をひき入れ、看守数名にて厳重に監視し馬車より下したり……」
お葉のふるえる手から、新聞紙がヒラヒラとおちた。
彼女はうしろの柱にもたれかかって、うつろな眼で市太郎を見つめた。
「ダメ……ダメ……わたしは、ダメ……」
「お葉さん! な、なにが駄目なんだ!」
「わたしは、この稲妻小僧の情婦だったんだわ……」
「そ、そんな……それア、ただ、運がわるかっただけなんだ」
「わたしは、すすんで情婦になったんです」
「そういうことにさせたというのも、もとはおれだ」
「いいえ、あなたはわるくはない。あなたに父が斬られたというのも、あの大罪ではあたりまえ、だからこそあなたはお国から勲章や御褒美をいただいたのでしょう……」
「…………」
「そのことはよくわかっています。わたしの恨みは逆恨みです。でも……どうにもならなかったんです。わたしの心はねじけているんです。わたしはお日さまの下をあるいてゆけないように生まれついてるんです……」
市太郎は両手をもみねじった。しかし、二度と抱きよせられないくらい、彼女の眼は絶望的な虚ろな穴だった。
「さっき、わたしが、あのひとを向畑治三郎というひとだと知って、賽ころで勝負したきもちもそうだったんだわ。あのひとの賭けるお金は、父を殺したおかげでお上からいただいた年金にちがいない。それと勝負して、わたしは負けたんだわ。わたしの運の星はそうなんです……」
彼女の唇はピクピクふるえ、じっとひかる眼で市太郎を見たまま、ふいに気味わるい笑い声をもらした。
「あなたが、上野でわたしを救ってくれたお金は、父を殺した御褒美の金でした! そして、いまわたしを救って下さるというそのお金もきっとそうでしょう。……それでわたしが、どうして倖せになれるでしょう? いいえ、どうしてわたしが生きてゆけるでしょう? そんなことになったら、まあ可笑しい、おほほほほほ!」
そして、お葉は急にさけび出した。
「いって! いって! あなたとわたしは、やっぱり仇同士の運に生まれついていたんだ。もう顔をみるのもイヤ、はやくここを出ていって! あたしは、けがらわしい廓《くるわ》の女、大泥棒の色おんな、いいえ国賊の娘です!」
窓ぎわにいた連中は、半分こちらに顔をむけ、半分はなお外を見ていた。
座敷の中にただならぬ劇が進行中であることは気づいていたが、外にも、それに劣らぬ面白い場面が演じられていたからである。
向畑治三郎が大あばれのあげく、うばいとった丸太ン棒で、二、三人を半殺しにして、かけつけた巡査に拘引されてゆくのだった。
「なんだい、あのおやじ、何が何だかサッパリわからねえ」
と幇間があきれて、ひとりごとをいった。
「メチャクチャに女郎買いをしておいて、救世軍の味方をしやがるたあ……おい、どうも、あのおやじさま、瘡《かさ》ッ気《け》があって、すこしイカれてるんじゃねえか」
お葉は気がちがったようにみえた。
茫然として口もきけない市太郎を指さして、
「みんな、このひとを追い出しておくれ! わたしがいやだというのに、むりに廓からひきずり出そうとしているのだよ、はやくこのアーメン野郎を追い出しとくれ!」
と、さけび出したのである。
最初からこの救世軍を狂犬でもまよいこんだような眼で見、花魁小車とただならぬ縁があるらしいのに手びかえていただけの廓の者たちは、騒然として不穏な形勢をしめした。
「さわぐな、野郎ども!」
と、市太郎はふりむいてさけんだ。
「おれをただのアーメンと思うか!」
そして、懐中から、ギラリと匕首をひきぬいた。――なるほどただのアーメンではない。たいへんな救世軍もあったものである。
彼はお葉が一種のヒステリイに陥っていることを認識した。そして、暗然たる思いで、いちじ退却をきめたのである。むろん、あきらめてはいなかった。
「お葉さん、おれはまた明日くる」
と、彼はしずかな声でいった。
「それまで、ようく心をしずめて待っていて下さいよ」
そして彼は、一同をにらみまわし、悄然として出ていった。
翌日、彼はふたたび新万楼を訪れた。すると――お葉はもういなかった。
例の自由廃業の届けを出したわけでもないらしい。無断で脱走したのだ。
たとえ、内務省|布達《ふたつ》によって、遊女が警察にころがりこんでも、警察はそれを保護することはできなかった。
遊女が楼主に借りた金は、決して棒引きにはされなかったからだ。借金の弁済は依然として法律的な義務としてのこった。「自由廃業」が有名無実の一騒動として終ったゆえんであるが、このため脱走した遊女は、業者はもとより警察の追及すらもとどかない闇黒の底へ堕ちてゆくよりほかはなかった。
「お葉……どこへいった?」
大門の外に、茫然と立ちつくして、市太郎は灰いろの冬の雲をあおいだ。その顔には、ふかい絶望と、そして自棄の翳さえあった。
港
治三郎は、大いに反省した。
吉原で、用心棒を二、三人半殺しにして警察へしょッぴかれてゆき、三日ばかりで釈放されたのを迎えにきた女房のお|うた《ヽヽ》と息子の恵吉をみて、彼は子供みたいにしょげた顔をした。
出るまえに、彼は署長に妙なことをいわれた。
「おまえが大津事件の帯勲車夫向畑治三郎か」
ときかれて、彼が面目なげにおじぎをしたら、
「おまえは総理大臣閣下から、おもしろい御約束をいただいておるそうじゃな」
といわれた。
「総理大臣?」
「伊藤侯爵じゃ」
伊藤博文は、このころ第四次伊藤内閣の首班であった。実は、治三郎が吉原で大あばれした事件を新聞でみた伊藤侯が、ふと七、八年前の伊皿子での約束を思い出し、警視総監に電話をかけさせたことが、治三郎の「微罪釈放」の理由となったのである。もっともそれには、治三郎が愛児の危急をすくおうとしたこと、相手がさきに救世軍におそいかかった無頼漢たちであったことなどの好都合な理由もあった。
「あと一回、このようなまちがいをおこすと、もはや大目にみるはもとより、年金もとりあげるぞ。よいか、心して身をつつしめよ――」
治三郎は、こう署長に釘をさされて出てきたが、腹の底では、「たのまれたって、もうまちがいをおこすものか」とうめいていた。彼は新万楼で女郎をはだかにむくという馬鹿あそびの真っ最中に、寒風に「遊女解放」の旗をひるがえして吉原にのりこんできた息子の姿をみたときの衝撃に、まったくうちのめされていたのだ。
「恵吉。お父ちゃんがわるかったよ」
と、彼は息子の手をとってうなだれた。
「お父ちゃんはな、これからまじめにはたらくから、おめえ、ずっとうちにいてくれるなあ」
「いるとも、いるともさ、ああ、やっぱりおまえさん、眼がさめておくれだねえ」
と、お|うた《ヽヽ》は泣き声でさけんだ。恵吉も涙顔で笑っていた。彼は父親に反抗して救世軍に入ったのだが、いまではそこから出ようとは思わない。しかし、彼は父をゆるした。(おやじはいい奴だ。悪い人間どころか、日本一の善人だ……)心から、そう思った。
治三郎は家にかえってから、女房と相談した。「もう、こんなケチのついた待合はやめようよ」とおうたが言うと、治三郎が「それに子供たちの教育上もよくねえ」といったので、おうたは涙をこぼして笑いころげた。
そして治三郎は、ふと横浜の客を思い出したのである。
運搬会社をやっている人で、まえから治三郎に、いっしょに商売しないかと熱心にすすめてくれていたのだ。
「おい、おうた。横浜へゆこう」
「横浜へ?」
「小西の旦那が、まえから来い来いといってくれてるじゃあねえか」
「横浜へいって、何をするのさ」
「まあさ、はじめ小西の旦那のところで、裸一貫ではたらかせてもらうのさ。それから、追々……」
もらったばかりの年金は、吉原での大尽遊《だいじんあそ》びでほとんどつかいつくしていたが、一年たってまた新しく年金が下りたら、それをもとでに俥宿《くるまやど》をひらこうというのだった。
「まったく小西の旦那もそういってたっけが、おれに待合は不向きだよ。俥なら、むかしとった杵づか――じゃあねえ。梶棒《かじぼう》だ」
「おまえさん、もういちどひく気かい? そのなまくらなからだで」
「何を! これでももとは天下の無法脛だぞ。そこらの朦朧《もうろう》車夫たあ、素姓がちがわあ」
治三郎は、何ならほんとにじぶんも、もういちど俥をひいてもいいとさえかんがえた。俥で運がひらけたのである。俥からはなれたことがそもそもケチのつきはじめだったのだ。瞼を俥の輪の幻影が軽快にまわると、それ以外にじぶんをふたたびまッとうな道へはこんでゆくものはないように思われた。
「とにかく、横浜へゆこう。もうこんなケチのついたところはくそくらえだ」
まもなく治三郎一家は横浜へひっこした。明治三十四年の春のことで、治三郎は四十七になっていた。
それから一年半ばかりのあいだほど、向畑治三郎が真剣な日々をおくったことは、彼の人生になかったのではあるまいか。彼は、ほんとうに裸一貫になってはたらいた。そして、翌年になると、年金をもとに、雲井町に小さな俥宿をひらいた。
小さな俥宿であったが、よく繁昌した。実際、この当時が東京でも横浜でも人力車の全盛時代だったので、やがて電車が敷設《ふせつ》されるにしたがって、追々衰亡の路をたどるようになるのだが、治三郎にはそこまで見とおす力はなかった。彼は有頂天になった。
「やっぱりおれは俥にかぎる!」
そして、また魔がさしたのである。
もっとも、こんどは道楽ではなかった。実をいうと、彼が居をさだめた雲井町は、あまりいい環境ではなかった。ちょっと裏に入ると、淫売の巣窟であり、犯罪の迷路であって、恵吉もいやがったし、娘のお|さだ《ヽヽ》もそろそろ思春期に入りかけていたから、その点も心配だったので、もっと、いい場所に移りたいとあせったのである。――しかし、一番大きな理由は、有頂天になった治三郎が、もちまえの山ッ気をふっとおこしたことだった。
彼は或る香港《ホンコン》からきたシナ商人に、人力俥を売る計画をたてたのである。
当時、人力俥はシナ印度などでなかなか好評で、その輸出額は十一、二万円にも達し、その六割は銀座の秋葉大助という人力俥製造業者があつかっていたが、ようやくその車をゴム輪とすることがはやりかけていた。治三郎は、この新製品の俥を、数十台、秋葉商店から買いこんで、このシナ商人に売ろうとしたのである。
秋葉の主人とは商売柄よく知っており、また向うもひどく治三郎を可愛がってくれたので、安くおろしてはくれたが、しかし彼はそのためにほとんど全財産を投じた。しかし、数日ののち、それを相手にわたせば、その利益は巨額なものになることは確実であった。
さすがの治三郎も、昂奮のためねむられなかった。彼は、じぶんの家の俥置場から裏庭に、びっしりと黒びかりしてならんでいる俥を見まわりながら、ふっと、むかし捨てた賽ころの感触を思い出した。それは彼にとって、生まれてはじめての大ばくちであった。
明治三十五年、秋の夜のこと。
あわれむべし、向畑治三郎は、雲井町のまわりに、その夜、その時、何百人という巡査がちかづきつつあるのを夢にも知らなかった。
黒い炎
この夜、雲井町を包囲《ほうい》したのは、警官隊ばかりではなかった。それに倍する消防夫や人足がいっしょであったし、医者らしい白衣の姿もみえた。何事がおきたのか、人足たちはすべて大きな亜鉛の板をもって、みるみる町のまわりに途方もなく巨大な円周の塀をつくってしまった。
そして、突如として、おどろおどろとした声が町の夜空をながれたのである。
「雲井町の住民きけ。……ただいま神奈川県庁より、緊急命令が発令された。当雲井町に黒死病が発生し、住民がここにとどまることはきわめて危険である。住民はいそぎ退去せられたい……」
まさに、青天《せいてん》の霹靂《へきれき》ともいうべき声であった。
「ただし、所在のものすべてにペスト菌附着のおそれあり、有価動産その他、各自手にもてる程度のもののほかは、すべて放擲《ほうてき》し、ただちに係官の誘導にしたがって町を退去せられたい。……一時間後、当町はすべて焼き払われる」
これより数日前、長浜沖で、郵船会社所有の鹿児島丸という船にのりこんでいた船員三名が発熱し、長浜病院に収容されたが、黒死病と確定し、当局の方では愕然《がくぜん》としたのである。
果然、昨日、この雲井町で相ついで熱病患者が六人出て、その病状からいそぎ伝染病研究所で検査したところ、夕刻にいたってそれがまごうかたなき黒死病患者であることが判明したのだった。もとから犯罪と売春の巣として手をやいていたところだったから、当局がここを病源地と決定したのはやむを得ないことであった。もちろん、さらにその伝染病径路をたどれば、おそらく船舶から輸入された綿花などの荷のなかのペスト鼠が、検疫の眼をくぐってまぎれこんできたものにちがいない。
ペスト――黒死病!
高熱を発し、全身灼熱、血を吐き、皮膚ははれあがり、紫黒色に変り、腺ペストでも九五パーセント、肺ペストなら一〇〇パーセントの死亡率で、いったんこれにかかったら、まったく手のほどこしようがない。中世期ヨーロッパで全人口の四分の一が死亡したという伝説的事実はさておき、この年から八年後、明治四十三年に満州に発生したときも、実に五万人がたおれたのをみても、いかにこれが恐怖すべき伝染病であるかがわかるだろう。
ただ、厳重な検疫によって菌の侵入をふせぐよりほかはないが、ひとたび上陸をゆるし、患者が発生したら、その皮膚、喀痰《かつたん》、嘔吐物《おうとぶつ》から菌がまきちらされるほか、鼠、さらに蚤を介して伝播《でんぱ》してゆくのだから、なまじな消毒より、疑惑《ぎわく》の区域を全部焼きはらう方が、はるかに確実というより、厳密にいえばこれより安心できる方法はないといっていい。横浜にはじめて黒死病患者が上陸したのは、明治二十九年、英国船にのっていた清国人であったが、このときはさいわいにそれ以外に患者の発生をみなかった。したがって、日本人に、しかもこれほどの数の患者を出したのは、このときが最初であって、当局が狼狽むしろ逆上の気味すらあったのも当然である。
一帯は、たちまち阿鼻叫喚のちまたと化した。
泣く声、さけぶ声、争う声、罵る声。――それでも、どこからか大八車などをひき出して、それに箪笥や夜具をつんでいるもの、背中に山みたいな大風呂敷をかついでいるもの、何をもっているのか脱兎のごとく逃げ出そうとするもの――それらは、ことごとく、町のあらゆる出口に網をはっている巡査たちにつかまえられて、持物をすてさせられ、一定の空地に集められて、酸化炭素ガスや二酸化硫黄ガスで消毒を受けた。
「このなかには、何十人と手配中の奴もいるはずだが」
「いいや、どいつもこいつも、みんなだろう」
「ま、今夜は、それには眼をつぶれ」
と、巡査たちはささやきあった。
まったく、横浜の巡査でありながら、この迷路のような犯罪の町の隅々まで知りぬいているものは、ひとりもないといってよかった。それほどひろくない町のはずなのに、あとからあとから、かぎりもなくフナムシみたいに這い出してくる男女の数に、いまさらのようにあきれかえった。悪質の中毒にかかっているらしい幽霊みたいな男や、お面のように塗った白粉の下に、ぶきみな腫物を浮きあがらせている女が多い。これはハマのどん底の町であった。
「そもそも、町そのものが黒死病じゃな」
「掃除をするにはいい機会じゃ」
巡査たちには、同情がなかった。提灯をふりたてつつ、あらあらしい声をはりあげて、
「こっちだ!」
「はやくあるけっ」
罹災民《りさいみん》どころか、まるで犯罪人あつかいのきみすらあった。町の周辺は、すでに凄まじい破壊のひびきをたてている。延焼防止《えんしようぼうし》のため、人夫たちが鳶口をふるって家々のとりこわしを開始したのだ。
――一時間後、警官たちは、無人と化した町へかけこんでいった。手に手にさげた石油鑵から、いたるところに石油をまきちらしつつ、辻々に立って声をかぎりにさけんだ。
「だれもいないか――だれも残ってはいないか――」
「残っているものは、鼠といっしょに焼き殺されるぞっ」
そして、彼らが町の外へかけもどると同時に、家々は炎上しはじめた。
港の夜空を、炎と煙が焦がし出した。何ともいえない大叫喚が、横浜全市にどよめきわたった。すでに市民は今夜の火事の意味をきいて雲井町の周辺はもとより、あらゆる丘、あらゆる屋根にむらがり、それは巨大な劫火《ごうか》の下に虫のようにみえた。港に碇泊《ていはく》する船も通達をうけていたが、それでもたがいに断続して鳴らす号笛は、名状しがたい悲泣のようだった。
とはいえ、炎は消防隊の水の砲列でさえぎられ、鼠は亜鉛の牆壁《しようへき》で追いかえされることはわかっていたから、それは第三者にとってこの上もなく豪華な見世物といえたかもしれない。
しかし、ちかくの数ケ所の消毒場にあてられた空地に、獣のごとく狩り出された雲井町の住人たちにとっては、まさに悪魔《あくま》の火であった。彼らは炎をあおいで泣きわめき、手をもみねじり、泡をふき、老婆など、失神するものすらあった。
そのなかで、混乱の極ともいえる四辺を圧して、ひときわ大きな号泣の声がきこえた。
向畑治三郎である。
「ああ、焼ける焼ける! おれの俥が」
いままで、はんぶん気絶したようになって、ここまでつれ出されて、なんども眼をこすっていたのが、突如として、その炎にあぶられる昆虫みたいにはねあがったのだ。
「おれの俥が……おれの全財産が……ちくしょう! だ、だまって燃やしてたまるかってんだ!」
狂気のようにかけ出そうとするそのからだに、恵吉とさだがぶらさがった。
「お父さん、あぶない!」
「お父さんまで焼け死んじゃいやだ!」
「はなせ、はなさねえか!」
治三郎が身をもがいて、おさだをはねとばしたが、恵吉が背から抱きかかえると、もううごけなくなった。十九になった息子の力の強さにおどろく余裕は治三郎にない。
「ああ、カミもホトケもねえものか!」
「おまえさんがわるいんだ。おあしさえのこしときゃ、こんなことはないのに、ガラにもない大それた商売なんかやろうとするからこんなことになったんだよ!」
と、髪ふりみだし地だんだふむ母親のおうたを、恵吉はふりむいて、しずかにいった。
「お父さんもおっ母《か》さんも、のぼせあがるのはいいかげんにしとくれよ。もう二タ月もすりゃ、また年金が下りるじゃないか。そしたらまた新規まきなおしとゆきゃいいんだ。ほかのひとのことを思や、神さまをうらむどころのさわぎじゃなかろう」
――こんなさわぎは、むろんここばかりではなかった。炎のかげに、無数の欲望と絶望のうめきがひしめき、嘆きと呪詛の吐息がもつれ、なかにはこの魔窟の滅亡に歓喜する笑い声もまじった。が、それはさておき、ちょうどこの空地とは反対側の空地にしぶきをあげた一つの運命の渦だけは、どうしてもかいておかなければならぬ。
「はてな」
「おや?」
群衆のなかでゆきちがいかけて、ふいに同時に、そんな声がはしった。黒い雨のように面をふく煤《すす》と燃えかすをあびながら、ふたりの男女は、どうしても忘れることのできないおたがいの顔を、火光にはっきりとみとめたのである。
「おまえは、あのお蓮じゃあねえか?」
「あっ、北賀市太郎だね?」
坩堝《るつぼ》
思えば、三年半ぶりの邂逅《めぐりあい》である。
木枯しの鳴る谷中墓地裏の、兇盗稲妻小僧のかくれ家へ、市太郎をみちびいたお蓮は、警官に密告するやいなや、その影を闇へ消してしまったが、それから三年半――彼女は思いがけなく、ここに不死鳥のような姿をあらわしたのである。
火照《ほで》りをうけて、厚化粧した顔は、いよいよ濃艶だった。あれから彼女は、どこで何をしていたのか――問うまでもない。ここにいるのは、みな雲井町の住民か、もしくはこの夜この町に泊っていた人間かだ。いかにもお蓮という毒花にふさわしい腐臭の場所といえるが、北賀市太郎にはそんなことがどうだろうと、興味はなかった。
「ふん、妙なところで逢ったな」
吐き出すようにいったきり、そのままゆきかかるのを、
「待ちな」
と、お蓮の方で、袖をとらえた。
「妙なところで逢ったとは、こっちでいいたいせりふだよ。ははあ、おまえ……」
と、市太郎をジロジロと見あげ、見おろして、
「今夜、この町に泊ってたのかい?」
市太郎は顔をそむけた。
彼は、このまえお蓮に逢ったときとはまったく変っていた。いや、救世軍にいたころだし、紺の腹掛けにしるし半纏という風体だったから、それにくらべると、いまの着ながしの裾をちょいと片手にまくりあげた姿ははるかにいきだが、それにもかかわらず、どこか覆えぬやくざの匂いがある。――すぐに、きっとお蓮をにらみすえて、
「どこに泊ろうと、おめえの知ったことか。おれアおめえとつきあいたかあねえ。まえのこともいまのことも、おたがいにだまっていることとしよう。ごめんよ」
「待ちなってば! どうせ消毒がすまなきゃ、外へは出られやしないわ。ほ、ほ、ほ、ほう、そうか、おまえ、この雲井町に泊ってたのか、おもしろいねえ」
「なにがおもしろい?」
「おまえ、その身なりじゃ、遠くからきたんでもないらしいね。だいぶながくハマに住んでるね? 雲井町には、ちょくちょく遊びにきてたんだろ?」
「うるせえ、おれはゆくぞ」
「もっとも、あたしの店にはきてくれたこともないが」
「おめえの店? というと、おめえ、淫売屋でもやってるのか」
「ずぼしだ。ほほほほ。紅屋ってんだ。これからはせいぜいひいきにしておくれ――あ、そうだった。あのとおり、焼けちゃうんだねえ、ちくしょう」
「いいきみだ。ざまみやがれ」
「おい、市さん、あんまりにくまれ口をきくと、いいことをおしえてやらないよ」
「おめえの口からいい話が出たことがあるか」
「いつか、あの子のいどころを知らせてやったじゃないか、谷中でよ」
「あの子?」
「おや、おまえ、もうお忘れか。あたしゃてッきり、おまえはあの子をにくんでいるのかと思ってたら、あとできくと、おまえ、あの子に惚れていたんだってねえ。何がなんだかちっともわかりゃしない」
北賀市太郎の顔色が変った。逆にお蓮の腕をむずとつかんだ。
「おめえ、その後お葉に逢ったのか」
お蓮は白くくくれたあごをひいて、上眼づかいに見かえした。酔った眼であったが、その奥にぞっとするような不吉な笑いがあった。
「お葉は、いま、紅屋のお職さ」
「なに!」
「思えば、へんな悪縁さ。あいつとはねえ。……吉原からながれてきて、野良犬みたいにハマをうろついているのをあたしが拾ってやったんだよ。まあ坂本もお陀仏になっちまったから、もうおたがいに喧嘩することもないやね。悪縁どころか、前世はひょっとしたら姉妹だったのかもしれない……」
「お蓮」
市太郎は絶叫した。
「お葉はどこにいる?」
お蓮はふりむいて、町からたちのぼる熔鉱炉みたいな炎をながめた。その熱気を全身に感じながら、市太郎の骨を氷のような冷気がつたわった。お蓮は酔いにもつれる舌でつぶやいた。
「いおうか、いうまいか……」
「な、なにを?」
「半病人の女を置いてきぼりにしてきたのは、あたしの店ばかりじゃないし、なまじつれ出すと、とんでもないヤブヘビになるしんぱいがあるから……」
「お蓮!」
「市さん、お葉は阿片を吸って、まだうちで眠ってるんだよ」
突然、お蓮はのけぞってたおれた。市太郎に蹴あげられたのである。ふりかえりもせず、市太郎は猛然と身をひるがえしていた。
「こら、どこへゆく!」
巡査が二、三人はしってきて、市太郎の手をとったが、たちまちはねとばされて地上にころがった。そのまま、炎の方へ突進《とつしん》する影をみて、
「あっ、狂人だ!」
「つかまえろ、発狂者が出たぞ!」
はね起きて、追いすがるのと同時に、まえからも抜剣した巡査が立ちふさがった。
「どけ!」
市太郎は、炎だけみてはしった。巡査のからだと衝突したとたん、佩剣《はいけん》が大きくとんで、巡査は肩をおさえてくずおれた。市太郎の手に、匕首が血と火光に染まってまっかにかがやいていた。
わあっという叫喚の海嘯《つなみ》をあとに、数秒ののち北賀市太郎は、炎の海嘯のまッただなかをひた走っていた。紅屋へ――紅屋へ――たしかそんな名の店のまえを通ったことがある。
市太郎は、いまハマの荷揚人夫の頭《かしら》をしていた。だから、手下の人夫たちにさそわれて、いくどかこの雲井町へも酒をのみにやってきた。とはいうものの、キリスト教とは縁がきれてはいたが、彼はまだ雲井町の女を買う気にはなれなかった。たとえ買ったとしても、何百人かの淫売婦のなかで、彼女とめぐり逢えたかどうかはわからないが、いま彼の心をわきたてているのは、この町へなんども来ながら、なぜ彼女のいることを知らなかったか! というくやしさだけであった。
なぜなら、彼が横浜にきたのも、やっぱりお葉をさがすためだったからだ。むろん、彼女が横浜にいるという確信のあろうはずはない。しかし、東京の隅々までさがしあるいてもどうしてもわからず、それに、関西で迫害をうけて東京へにげてきた彼女がまた関西へにげてかえろうとは思われず、また曾ては一世をさわがせた一泥棒の情婦で、吉原まで堕ちた女が、人目のうるさい田舎に身をひそませようとはかんがえられないところから、なんとなく、この港――むしろその港という言葉にひかれて、横浜へやってきたものであった。
市太郎は、けれど彼女をわすれようと、どんなに努力したかしれなかった。あまりにもかたくなな彼女の心、仕打ちに、にくしみをすらおぼえるのだ。しかし、どうしてもあの姿、あの顔を胸からけすことはできなかった!
姿、顔というよりは、眼だ。最初、伊賀上野のあばら家でみたあの凍りつくような黒い眼だ。……むりもないと思う。罪なくして、彼《か》ほど重い荷を背負わされた女が、そうざらにはあるまいと思う。そう思うと、こんどは彼女を怒るよりも、そんな運命に彼女をおとした自分自身ににくしみをおぼえてくる。彼女と黒い紐でよりあわされた自分の運命を。
盲目的にこの横浜へやってきて、偶然伊藤侯のおかかえ車夫をやっているころに知った貿易商と逢って、いまの仕事を世話してもらったのだが、ともすれば荒れがちになる彼の心を、からくもつないでいた希望の糸は、最後に吉原の新万楼でわかれるとき、お葉のつぶやいた、しみ入るようなあの一句であった。
「――いいえ、あたしは、もうずっとまえから、あなたを」
そうだ。にげながら、彼女も彼を呼んでいたのだ。盲目的にきたと思っていたが、決してそうではなかったのだ。
いま、炎のなかでお葉は呼んでいる。このあやういところで、彼女が焼けうせてゆく町の中にいることがわかったとは、それが運命の呼び声でなくてなんだろう。
「お葉、お葉――」
煙が、眼と鼻を刺した。皮膚はあぶられるようだった。それでも市太郎は、いちどそのまえをとおったかすかな記憶をたよりに、紅屋という店へはしった。
「お葉、死ぬな――」
そして、ついに彼はその店へたどりついた。
狂気のように、あちこちの戸障子をあけたて、ふみたおして、その一室をさがしあてたとき、その場に市太郎は、あっと思わず立ちすくんだ。
お葉は、ねむっていた。周囲にまっかにもえさかる炎もしらず、こんこんとして象牙のような顔色でねむりこけていた。やせて、病みおとろえているが、苦痛のいろはなく、すごいような美しい顔だった。しかも、寝ているのは彼女だけではない。ほかにもふたりばかり、ボロ蒲団にくるまっている女があったのだ。お蓮の酔いにもつれた声が、耳によみがえった。
「半病人の女を置いてきぼりにしてきたのは、あたしの店ばかりじゃないし、なまじつれ出すと、とんでもないヤブヘビになるしんぱいがあるから。……市さん、お葉は阿片を吸って、まだうちで眠ってるんだよ――」
阿片でねむっているのだ。雲井町で阿片の密売がされているということは、まえからなんども警察沙汰になったことだ。お葉たちが、その魔の花の虜となっていたということは、からだと心の苦しみをしびれさせるためみずからすすんでそうなったのか、それとも彼女らをしばる悪辣なお蓮のたくらみか、ともかくそれが曝露するのをおそれて火の中に淫売婦をすててきた鬼畜のような行為をしたのは、お蓮ばかりではないらしい。べつの店にも、きっとまだねむっている女たちがあるのだ。
しかし、いま、それに憤怒しているひまもない。それどころか、ほかの女たちのあいだをかけまわって、蒲団を蹴って彼女たちを起すと、市太郎は、ぐいとお葉を背負いあげた。さいわい、女たちは起きあがって、呆けたような眼でまわりを見まわした。
「火事だ、にげろ!」
市太郎は絶叫した。
「いいか、おれのあとについてくるんだぞ!」
そして、店の外へとび出した。お葉はまだガックリとねむったままだった。はじめて女たちは、恐ろしい悲鳴をあげて、まろびながらついてきた。
とおく、ちかく、轟――と、潮《うしお》のような火の音がする。その火の色さえもうみえなかった。ただ、夜霧のような煙が眼をふさいでいるのだ。方角はまったくわからなくなってしまった。町の外へは、どうゆくのだ?
「こっちだ! こっちへこい!」
彼は、うわごとのようにさけびつづけていたが、それは無意味な言葉だった。彼と彼女らは、巨大な火の海のなかを、虫みたいに這いまわった。市太郎のあたまに、真っ赤な死神が翼をひろげた。
「もうだめ! もうあるけない!」
と、女のひとりが、あえぎながら、胸をおさえて坐ってしまった。もうひとりは、さっきから、ケラケラと笑い出していた。絶望のさけびをあげ、気も狂いそうなのは市太郎の方だった。背なかのお葉が眠りからさめないので、ともすれば崩れおちそうなのをおさえるのに、腕は棒みたいにしびれていた。
――死ぬか、ここでお葉といっしょに!
絶望の歓喜ともいうべき感情が彼をとらえかけたとき、風がまき起って、煙を吹きはらった。一瞬、照らし出された真紅の地獄のような四辺の光景の中に、彼は思いがけないものを見たのである。
柱だけになってもえている一軒の向うに、何十台か人力俥がならんでいたのだ。その半ばはすでに炎をあげてはいたが、それを見るや否や、市太郎はおどりあがった。
「おいっ、待ってろ、ここをうごくんじゃねえぞ!」
彼はお葉を路上におくと、もえている柱のあいだをかけぬけて、その人力俥のところへはしった。彼はそれが向畑治三郎の運命をどん底へはこんだ俥だということはむろん知らなかった。彼にとって、それは天の車であった。
市太郎は、そのなかから二人乗りの奴を見つけ出すと、死物狂いにそれをひいてきて、ふたりの女をのせ、そのひざにお葉を抱かせた。
「いいか、はなすなよ、しッかりつかまえてるんだぞ!」
炎の中を、三人の女をのせた俥は快走した。
もえる町の外へ出たとき、半死の市太郎はそれを意識せず、ただ群衆の大叫喚で、はっと夢からさめたように周囲を見まわした。
抜剣した巡査が四、五人走ってきた。そしてさけんだ。
「さっき巡査を斬ったのはおまえだな?」
市太郎はだまって、梶棒をおろし、お葉を地上に横たえた。ふたりの淫売婦は、ベッタリそのそばに腰をぬかしたきりだ。
「おまえを逮捕する。こい!」
両腕をとらえられて、五、六歩ひきずられて、市太郎はかすかなさけびにふりかえった。お葉が、あの黒い瞳に炎をうつして、こちらをみていた。
市太郎は微笑していった。
「お葉、東京の小石川、高田老松町五十番地のブラックマー・ホームというところへゆけ。もうこの町へ二度とかえってくるんじゃあねえぞ――」
われは官軍わが敵は
ふたりの俥夫のもつ打出の小槌が、はたして彼らに幸福をもたらしたか、それとも不幸をもたらしたか。――その小槌を最初にあたえられたときの酔いが、しだいににがい盃にかわってゆくのを、向畑治三郎は味わった。しかし、彼はそれをすてることはできなかった。
だれが治三郎を笑うことができるだろうか。人はすべて、地位や美しさや才能や、生きてゆくための最も強い武器のために、みずから苦しみつつ、それをはなすことはしないのだ。とくに治三郎のように、ほかになんの取柄もない人間にとっては、やはりそれは天からふってくる起死回生の妙薬であった。
なんどその妙薬を身につけたいとあがいたことだろう。そのために甘言《かんげん》を弄してちかづいてくる連中をはねつけたり、それをもとでに大もうけをやろうとしたり、彼は彼なりの惨澹たる努力をした。しかし、その結果はすべて丁と張ったのに半と出た。思い知らされたのは、世間の恐ろしさと運命の悪意だけであった。――そして、世間と運命に裏切られれば裏切られるほど、そろそろ髪に白いもののまじりかけた治三郎は、年金に、年金だけにしがみつかずにはいられなかった。
彼は、その年の年金をもらうと、もとのところに小屋みたいな家をたてた。もう孟母ならぬ孟父の三遷への努力はやめた。ともかく、家のために使ったのはそれだけで、またもとどおり、ばかげた浪費をはじめたのである。
そんな治三郎をおびやかすものが、二つあった。ひとつはむろん女房と子供たちのかなしそうな眼だが、もうひとつは時勢だ。
時勢というより、風雲といった方がいい。明治三十六年――北辺にうずまき出した、ただならぬ黒雲の形相である。
三月、ロシヤの第二次撤兵は履行《りこう》せられず、かえって戦備をいそぎ、また渤海湾《ぼつかいわん》の露国軍艦の挙動はあやしく、人心は恟々《きようきよう》とわいた。
五月、ロシヤ艦隊は黄海で大演習をおこない、暗に日本を威嚇した。
七月、露国蔵相ウイッテは、対日開戦もまた辞せずと高言し、日本にも主戦論がわきたってきた。
十月から十一月にかけて、露軍はしだいに南下をはじめた。……
これらの事実を騒然とつたえる新聞を、治三郎は一行もよまなかったが、険悪な世相を眼にし、耳にしなかったわけではない。彼は、漠然とした恐怖をおぼえた。その恐怖は、日清戦争直後、遼東還付のさわぎのときから、彼の背をうすら冷たく這いまわっていたのである。
いったい、ロシヤとほんとに戦争をするのか、もし戦争がはじまったら、おれはどうなるのか?
ふっとかんがえると、なんだか、果なしの、からっぽな世界へほうり出されるような恐ろしさに襲われて、彼は眼をつぶらざるを得ない。治三郎は、何もかんがえないことにした。
彼はまたもやお蓮に入れあげていた。迷路のような雲井町がやきはらわれて、いちど吹きとおしの焼野原となったおかげで、あのあとバッタリと彼女に逢ったのが運のつきである。
雲井町は、また毒花の町となっていた。まるで、野火にやかれた雑草みたいに、いっそう不死身の生命力をみせて、小暗いまでに繁茂していた。そのなかに咲きくずれるお蓮という女が、どんな妖花か、もはや治三郎も知っている。知っていながら、吸いよせられるのだ。
魔性をおびた底知れぬ女の蠱惑《こわく》もあったろう。おさえてもおさえきれぬ治三郎の天性の好色もあったろう。もはやあの恐ろしいお蓮の情夫稲妻小僧がいないという安心もあったろう。断続的ながら十五年になんなんとする彼女との交情にみれんのたちきれぬ彼のばかばかしいほどの人のよさもあったろう……。しかし、いっそう大きな理由は、彼の自己破滅の快感ともいうべき感情だった。つまり彼はヤケクソになっていたのだ。
彼はお|うた《ヽヽ》や娘の内職も知らない顔をしていた。倅の恵吉が波止場の倉庫につとめに出たのにも風馬牛《ふうばぎゆう》であった。そのとし、恵吉が徴兵検査に乙種合格をしたことを知っても、「ふうん、じゃあすぐにはゆかなくてもすむか」といったきりだった。家族ももう彼にはかまわず、彼はまったく孤独《こどく》だった。
しかし、本来、ひと一倍のさびしがり屋なのである。彼の愛欲は、盲目的にお蓮だけにもえたぎった。さすがのお蓮が、紅屋のおくのうす汚い部屋で、|しん《ヽヽ》をほそくした洋燈《ランプ》に、ところどころ銀のようにひかる白髪にふちどられて、色餓鬼みたいな形相をしたこの初老の男をみるとき、ぞっとするような鬼気におそわれることがあった。
悪魔のような、泥酔のような一年半がすぎた。
明治三十六年の師走の或る夜、治三郎は千鳥足でわが家にかえってきた。五、六日、ずっと雲井町にいつづけだったのだが、ちかいうち年金がおりるので、お蓮にせきたてられてかえってきたのである。
灯の下に、恵吉ひとりが坐っていた。治三郎にはときどききみがわるいくらい大きな、ガッシリとした若者になっている。
入ってきた父親をみると、白い歯をみせて、
「ああ、よかった」
といった。そんな言葉を息子からかけてもらったのが珍しいので、
「なんだ?」と、治三郎は照れたような顔になり、小声できいた。
「お|うた《ヽヽ》とお|さだ《ヽヽ》は、どっかへ出かけたのか?」
「お母さんとおさだは、もういません」
「なに?」
と、治三郎はめんくらって、まわりを見まわし、
「いないって……ど、どこへいった?」
「お父さんにはいえません。おれが或るところへやりました」
「なんだと? な、な、なぜだ?」
「お父さんといっしょに住んでいても、どうしても幸福には暮してゆけないということに、やっとみんなの意見が一致したからです。お母さんとお|さだ《ヽヽ》は、これから二人だけで、細ぼそと、しかしちゃんとした暮しをしてゆくことでしょう。お父さん、もうあのふたりのことはかまわないで下さい。もっとも、いままでだって、あんまりかまってもらえなかったが……」
「縁をきってくれというのか!」
治三郎は猛然《もうぜん》として、
「しゃらくせえ、女房や子供の方から縁切状をたたきつけるなら、おれもみれんなく離縁してやる。てめえも勘当してやる。どこへでもゆきやがれ」
とわめいたが、すでに女房も娘もどこかへいっているという話を思い出すと、顔をゆがめ、歯をむき出して、
「しかし、離縁するなら、おれも男だ。ちっとア手切金をやりてえところだ。さいわい近えうち年金が下りるんだが、そっちでいい出したのなら、ビタ一文もくれてやらねえからそう思え」
「一文も要りません。みんな、あの女にやんなさい」
と、恵吉はさびしく笑って、
「あれは、みんなお父さんのお手柄でいただいたお金です。どうぞ、お気のままに……ほんとにながいあいだ、お世話になりました。お父さんの御恩は一生わすれません」
と、両手をついた。治三郎は少しきみがわるくなって妙な表情になり、
「よしやがれ、いまさら。……恵吉、てめえ、えらそうなことをぬかしやがって、あとでこまったら、遠慮せずにやってこいや。小遣いぐらいならやるぜ」
「いや、お父さんからはもらえません。あのお金はもらえないのです」
「あの金って?」
「ロシヤ皇帝からくれる年金です」
「なぜだ?」
「おれはこれから、そのロシヤ皇帝と戦争にゆくんです」
「なにっ」
「お父さん、おれに召集令状がきたんです」
脳天を丸太ン棒でうたれたようである。治三郎は、かっと眼をむいたきり、口をパクパクさせるばかりだった。
まったくその予感をしていなかったといえば、|うそ《ヽヽ》になる。しかし、それはふっとあたまをかすめても、あわててはらいおとした予想であった。治三郎にとって、それほど恐ろしいことだったのだ。――かすれた声でいった。
「いつだ?」
「三日まえです。……お母さんや妹と相談の結果、ふたりはきのう引っ越しました。おれだけ、お父さんを待っていたんです。出来たら、最後に一目だけ逢ってゆきたいと思って……」
治三郎は、あたまをかかえて、
「――やっぱり、ロシヤと、やるのか?」
「やるでしょう、だから、お父さん」
と、恵吉はじっと父親の顔を見つめて、
「ひょっとしたら、ロシヤからの年金はもうダメになるかもしれませんよ。ここらで正気をとりもどさないと……」
「恵吉」
と、治三郎はさけんだ。年金のことなど、いまはあたまになかった。ただ恵吉を抱きたかった。しかし、恵吉のからだが山のように大きく、なぜか妙に冷たくみえた。
「恵吉、おれは正気にもどる」
うめいたが、あまり一生懸命にいったので、声がつまった。恵吉はまじめな声で、しかし冷ややかにこたえた。
「なるべく、そうして下さい」
信じていないのだ。なんどこういう言葉をおれは口から出したろう。そしてなんどそれが|うそ《ヽヽ》になったろう。恵吉は、|とことん《ヽヽヽヽ》までおれを見かぎったのだ。……治三郎はうちのめされて、舌が凍りついてしまった。
「おれは明日入営します。それじゃあ、お父さん、お元気で」
恵吉は立ちあがった。治三郎は腰がぬけたようになって、ただ息子の顔を見あげているきりだった。
「さようなら、お父さん」
家を出てゆく恵吉の跫音を、治三郎は放心したようにきいていた。子供に対して、愛情をあらわす権利さえないことを自覚した哀れな父親の姿であった。小屋の屋根を冬の雨がたたきはじめた。
ながいあいだたって、彼はしぼり出すようにうめいた。
「あんちくしょう……生かしておくんじゃなかった」
|あんちくしょう《ヽヽヽヽヽヽヽ》とは、ロシヤ皇帝ニコライ二世のことである。治三郎のあたまには、十二年前琵琶湖畔で、俥からころげおち、血まみれになってにげてゆく若いロシヤ皇太子の姿がうかんでいた。
御破算
もちろん日露戦争はニコライ二世ひとりがひき起したものではないが、当時の日本人にとって、三国干渉以来、最大の怨敵の元兇にちがいなかった。
無智な治三郎のあたまを、ときどきふっとかすめる不安は、ただひとつそのことだったといってよい。しかし、このとき彼の心には年金のことはなかった。それどころではなかった。
恵吉が戦争にゆく!
思いは、ただそれだけだった。あの恵吉が――孝行息子の恵吉が、戦争にゆく! 敵はロシヤだ。恐ろしいロシヤだ。そして敵の大将は、おれの助けてやったあの皇太子だ!
夜の雲井町を、治三郎はあるいていた。雨が全身をたたいているのにも気がつかなかった。習慣的にいつもくる迷路のような魔窟の中を足はさまよっていたが、そこをあるいているという自覚はなかった。彼はグデングデンに酔っぱらっていた。
飲まずにはいられなかった。倅は死ぬかもしれない。死ぬかもしれない戦争にゆく倅は、最後におれに縁を切ってゆきやがった!
「恵吉! 恵吉!」
雨の中で、彼はなんどもしめつけられるようなうめき声をあげた。
幼いころからの恵吉のまぼろしが、酔《よ》った視界をぐるぐるとまわった。京都で貧乏のどん底で、元気よく生まれてきた恵吉、東京にきてから、お|うた《ヽヽ》との喧嘩のなかにとびこんできて「ちゃんのばか! ちゃんのばか!」とじぶんのあたまをポカポカなぐった恵吉、浅草の見世物に手をひいてつれていったとき、眼をキラキラさせて昂奮していた恵吉、稲妻小僧の兇刃の下に「お父さんを殺してはいやだ!」とじぶんに抱きついてきた恵吉、吉原をふく寒風に救世軍の旗をひらめかせて、きまじめな顔であるいていた恵吉、この雲井町がやけるとき、のぼせあがっているじぶんを、おちついてたしなめた恵吉。――その恵吉が、おれにあんな冷たい顔で、あんな冷たいことをいって、戦争にいっちまいやがった!
「よくよくのことだ。よくよくのことだ……」
と、彼はつぶやきながら、なんどもくりかえした。
倅がおれを見かぎったのはあたりまえだ。わるかったのはおれだ。おれがわるかったのだ!
「ゆるしてくれ、恵吉、おれはこれからまじめになる!」
それでもかなしかった。息子の断然たる顔が、彼をたたきのめした。
「あら、ごきげんね、おじさん」
「おじさん、寄っておいでよ」
肩がふれそうなほどせまい路地の、軒下にならんでいる油じみた女たちが口々にさけんだ。中には、「おじいさん」と呼んだものもあった。さしのばす手を、治三郎は無意識的にはねのけた。ときには、「うるせえ!」と恐ろしい声でどなりつけることもあった。
酒をのむ店には、なんども入って、ガブ呑みをした。そして、とうとう或る店で、うごけなくなった。豚だか犬だか、えたいのしれない臓物を油であげている店だった。
「かんべんしてくれ、恵吉」
と、彼はあたまを両手でかかえた。
「おれが、あの野郎を生かしておいたばっかりに!」
治三郎の脳裡には、またあの湖畔の活劇がよみがえっていた。いままで、まるで芝居の舞台みたいにかがやかしく黄金《きん》いろの灯につつまれていたあの光景が、いまなんという吐気のするような呪わしいものに思われるだろう。それどころか、おれはあのロシヤ皇帝から金をもらって生きてきたのだ!
「おれは息子殺しだ。日本人の面よごしだ!」
彼はたまらなくなって、すぐ外の地べたに坐って、まわりの店々でのんでいる男たちの背なかにペコペコおじぎをした。雨が彼をたたいて、からだじゅう泥だらけになっていた。
そこは偶然、紅屋に近かった。治三郎の顔を知っているものがあった。それで、だれかが紅屋へいって、お蓮を呼んできた。
「おまえさん、いったい何をしているのさ?」
迷惑そうな表情だったが、ふいに眼がきらりとひかって、笑顔になった。
「おまえさん、年金をもらったね。こんなところで飲んで……しようのないひと! さあ、おいでな、はやくあたしんところへ――」
と、抱きかかえようとするのを、つきとばされた。
「あっちへゆきやがれ」
「あっ、何するのさ?」
お蓮はぬかるみの中へひっくりかえった。店々の汚らしいのれんからのぞいていた顔が、みんなゲラゲラと笑った。お蓮はさっと険悪《けんあく》な表情になったが、すぐに治三郎にとりすがって、
「おまえさん、ひどく酔っぱらったもんだねえ。あたしがいないと、すぐこうなっちゃうんだから――さ、ゆこうよ、うちへ」
「どなたかしらねえが、おれにさわると、からだがけがれるぞ」
「なんだ! あたしがわからないのか、お蓮だよ、おまえさん、お蓮だよ!」
「お蓮?」
治三郎はふりかえって、恐ろしいものでもみるようにじっと見つめていたが、突然、大きな泣声をあげてお蓮にしがみついた。
「お蓮! 恵吉が兵隊にいっちまったよ! おれを勘当して、戦争にいっちまったよ!」
「おまえさんを勘当して戦争へ? 戦争なんかまだないじゃないか」
「はじまるんだよ。これからはじまるんだよ、ロシヤと――」
「えっ、やっぱり、とうとう、やるのかい?」
と、お蓮は息をのんだが、泥酔した治三郎の口からながれているよだれをみると、苦笑して、
「まさか? 戦争なんて、起りそうでなかなか起るものかね。だいいち……そんなことが起ったら、おまえさんの年金は、みんなふいになっちまうじゃないか」
「年金?」
治三郎はうめいて、急に両こぶしを大地にたたきつけた。
「そんなものはいらねえ!」
「いらないったって、向うでくれるものはしかたがないじゃないの。ね、おまえさん、ことしあれは、もういただいたんだろ?」
「もらわねえ。向うでやるったって、こっちでいらねえ! 倅が戦争にゆく相手から、金がもらえるかってんだ。馬鹿野郎!」
お蓮は身をはなして、しげしげと治三郎を見あげ見下ろしていたが、やがてうなずいた。
「おまえさん……年金はもらえなかったね?」
「…………」
「そうか、戦争が起りそうだってことはきいてたが……ロシヤが断ってきたんだろ?」
「…………」
「それでおまえがいばってるんだ。いやさ、ヤケになってるんだ。そうでなくって、おまえがそんなことをいい出すものか。おまえから年金をひいたら、何もないじゃないか」
「なんだと?」
「打出の小槌だの、天からふってくる金だの、罰あたりの太平楽をぬかしやがって、人間いつまでもそんなうまい話ばかりはないと思ってたら、案の定、年貢のおさめどきがきたらしいね、ざまみやがれ、この老いぼれ」
お蓮はすっくと立ちあがった。
「おまえ、いま妙なことをいってやがったな、倅が戦争にゆくので縁を切られたとか何とか――読めたよ」
「な、何がでい」
「親子だって、金のきれめが、縁のきれめさ。あの年金がなくなりゃ、だれがおまえみたいな奴を親あつかいにするものか。それで縁を切ったんだよ。それどころか――」
酔ってはいたが、あまりに思いがけぬ恐ろしい言葉が耳をうったので、治三郎はかっと眼をむいてお蓮をにらんだまま、口もきけなかった。
「戦争にいってひとはたらきすりゃ、金鵄《きんし》勲章がもらえる。勲章をもらや終身年金がつく。おまえほど年金のつかい方のヘタな爺いはないってことは、いやというほど思い知らされてる。だれだって、もう縁をきりたくなるよ。たとえば、あたしだってね」
肩をゆすって、せせら笑った。
「おまえ、もうあたしんところへこなくったっていいよ。きたら水をぶッかけて追ン出してやるから――ああ、もったいない、一帳羅を泥だらけにされちゃって!」
「待ちやがれ」
と、治三郎ははね起きた。
「お蓮、いいやがったな」
「ああ、ほんとうのことをいってやったのさ。あばよ」
「待て、おれの悪口ならいくらいってもいいが、倅の悪口をよくもいいやがった。……おめえにやりてえものがあったが、もうよした」
「なに、あたしに、何を?」
ふいとお蓮の顔に迷いの翳がゆらめいた。ひょっとしたら、年金をもらったのではなかろうか、と思ったのだ。
「欲しけりゃ、待て」
そういうと、治三郎は二、三歩横へよろめいて、臓物をあげていた店先へ寄った。灼けきった大鍋を無造作にわしづかみにすると、一瞬、魔力にかけられたように身うごきもできないお蓮のあたまから、
「これが欲しいかっ」
ざあっと煮えたぎった油をあびせかけた。
恐ろしい悲鳴があがったのは、路地の無数ののれんからだった。雨の夜空へ、形容もできない色をしたけむりが立ちのぼったあと、一帯は、泥とさけびと足音にこねくりかえした。
急をきいて巡査がかけつけてきたとき、向畑治三郎は人々にとりおさえられたまま――いや、ぬかるみにベタンと尻をついたまま、
「恵吉、恵吉……安心しろやい。ちゃんは正気にもどったぞ……」
と、泥酔した顔をなでながら、ブツブツとつぶやいていた。彼はそのまま巡査にひかれていった。
治三郎がおぼえているかどうかは知らないが、これで彼は伊藤侯からゆるされた犯罪の回数? を超過したことになる。もっとも、たとえ超過しなくても、これほど大きな罪が大目にみられたとは思われないが、なんにしても、当の伊藤侯も、もう向畑治三郎のことなど忘れていたろう。
伊藤博文は、それどころではなかった。
日露の国交が断絶したのはそれから約一ヶ月のち――明治三十七年二月六日であった。宣戦布告に先立って、東郷平八郎のひきいる聯合艦隊は旅順港の攻撃を開始し、東洋に新しい運命をひらく大戦争のひぶたはきっておとされたのである。
この世の車
明治三十八年晩秋の或る日であった。
横浜の港は、蒼い空に浮かびあがった白い船や黒い船や、すみきった日光にひらめく無数のマストや旗に彩られていた。戦争は終った。講和条約に不満をとなえて九月中旬に起った市内の大騒擾も鎮静に帰して、港は東洋制覇の首途《かどで》についた新興帝国の活気にあふれていた。
海岸通りをしずかにあるいていたふたりの男女が、やがてベンチに腰をかけて、遠い港の外をながめやった。外国へゆくらしく、足もとに大きなトランクがおかれた。
「あの海の向うへゆくのね」
「アメリカへ」
しみじみとふたりは話しあった。
男は北賀市太郎で、女は津田葉であった。巡査傷害罪で、根岸町の横浜監獄署に入獄していた市太郎が、三年の刑期をおえて出獄してきたのはつい一ト月まえのことである。監獄のまえで彼を出迎えたのは、お葉ひとりであった。
お葉はまるで尼僧のように白く透明な感じに変っていた。彼女はそれまで、市太郎にいわれたとおり、東京小石川高田老松町のブラックマー・ホームというところにいたのである。
ブラックマー・ホームというのは、アーズバン女史というアメリカの婦人が、売春婦三人を救って収容したのがはじまりで、彼女が故郷のイリノイ州の有志にはかったところ、ブラックマーという老農夫が汗をながして得た金一万円を寄附してきたので、彼の名を記念してつくられた愛の家であった。そこにはすでに何十人かの売春婦が救われて暮していた。アーズバン女史は熱烈なクリスチャンではあったが、べつに女たちに宗教の強制はしなかった。市太郎は救世軍ではたらいていたころ彼女の知遇を得て、ふかく彼女を尊敬していたのである。
宗教は強制されなかったが、お葉は洗われていた。そしてアーズバン女史は、市太郎にも罪のないことを認めた。それでふたりをブラックマーに紹介したのである。ふたりはブラックマーの農場の監督《かんとく》夫婦として、これからアメリカへわたるのであった。
夫婦――そうだ、ふたりは、十日ばかりまえ、教会でひっそりと式をあげたのである。
「もう、おれたちは、日本に何もないね」
と、なつかしそうに背後を見まわしていた市太郎が、ふかい声でいった。それは日本にみれんのないことを、じぶんにもお葉にもいいきかせるためであった。
何もない――恩も恨みも――ただひとつ、愛するものは、これからいっしょにアメリカへつれてゆく――市太郎はふっと、年金のことを考えた。日露戦争とともにロシヤ政府から送ってくる年金はうちきられてしまったのである。そして前科者となった彼には、日本政府からの年金もとりけされていた。しかし、あの年金が、はたしてじぶんに幸福をもたらしたろうか? それこそ、じぶんとお葉をへだてる、ぬきさしならぬ最大の障害物ではなかったか?
遠いむかしのお葉の悲痛なさけびが、かすかに耳のおくで鳴る。――
――あなたが、上野でわたしを救ってくれたお金は、父を殺した御褒美の金でした! そして、いまわたしを救って下さるというそのお金もきっとそうでしょう。……それでわたしが、どうして倖せになれるでしょう? いいえ、どうしてわたしが生きてゆけるでしょう? ――」
市太郎は、いま、はればれとお葉の横顔をみた。お葉はかがやく眼で、碧い海の果てをながめていた。障害物はとりのぞかれたのである。
お葉は、年金のことなど夢にもかんがえていなかった。過去のことも忘れようとしていた。彼女の心にあるのはただ市太郎と、そして市太郎とともにわたってゆく新しい国のことばかりであった。むろん、そこにも辛い、苦しいことはあるだろう。しかし、いままでじぶんが踏んできたあの恐ろしい暮しにくらべれば、ほんとにそれがなんだろう。そして彼女の魂《たましい》には、いまやしずかでつよい宗教の灯があった。
彼女はウットリとあたまを市太郎の肩にもたせかけた。風がひかりつつわたって、黄金《きん》いろの銀杏の落葉が大通りを舞って、ふたりの足にまつわりついた。
ふと市太郎は眼をあげた。
大通りを、十何人かの女があるいてくる。みんな、けばけばしい、そのくせ貧しげな女たちだ。その先頭にたって、何かあらあらしく叱りつけている女がある。
市太郎は、このごろこの港からも続々と満州や大連などにわたってゆく一旗組の船があることをきいていた。そして、そのなかに、売春婦の一団もあることをきいていた。おそらくこれもそうだろうと思った。そして、彼女らをひきいる先頭の女を、眉をひそめてながめた。女――服装をみなければ、それが女かどうかも判然としなかった。あたまの毛はぬけ、顔は真っ赤な痣《あざ》にひきつっていた。さすがの市太郎もお葉も、それがお蓮のなれの果てだとは想像もつかなかった。
お蓮は不死身だ。おのれひとりの美しさと彼女なりの智慧だけで、闇黒の世界を生きぬいてきたこの女は、その美はあとかたもなく、智慧はねじれゆがんでも、いまは欲望と気力だけであるいてゆく。淫売婦の一隊をひきいて、まだ血と硝煙の匂いのする新しい天地へ羽ばたいてゆく彼女の姿には、醜怪だが、凄愴な鬼気のはしるものが尾をひいていた。
「はやくあるけ、何をマゴマゴしてやがんだ? 向うへわたりゃ、金はもうけ放題、お姫さまみたいな暮しをさせてやるからよ」
ふりかえりつつ叱咤するお蓮は、ついに路傍に坐っているものしずかなふたりに気がつかなかった。
その恐ろしい一隊が波止場の方へきえていったとき、はろばろと銅鑼が鳴った。
北賀市太郎とお葉は、トランクを手に、ゆっくりと立ちあがった。
彼らは、みなそれぞれ、おのれの運命の船に身を投じて波濤をこえてゆく。
向畑治三郎はどうしたか。彼もまた生きていった。この世の車にのって。――
そうだ、人はすべて、じぶんの足であるくのではない。人は車にのっている。どんなつよい人間でも、運命の車に。――だれしもが、ひとをながめ、おのれ自身をかえりみるとき、ふかい戦慄とともにそのことを思わないではいられないであろう。
われわれは、この無類に好人物の、哀れな、罪のない男の幸福な晩年を祈りたい。しかしわれわれは、大正十四年四月十九日の新聞に、左のような当時の新聞らしい悪文のいたましい記事をみる。
「――京都市上京区出水堀川東入ル向畑治三郎(七一)は、明治二十四年五月大津市で露国皇太子に危害を加えた巡査津田三蔵を取押えた殊勲者《しゆくんしや》であるが、不測の賜金にわれをわすれ、金のあるにまかせて放蕩《ほうとう》三昧に日をおくっているうち、日露戦争と重なる犯罪で一時に両国からの年金を棒にふり、あまつさえ勲八等をも褫奪《ちだつ》され、息子の戦死と妻子の離別と、あわれな境涯におちいり、紙屑拾いにまで零落《れいらく》していたが、去る三月下旬附近の少女三名に金品をあたえて自宅につれこみ暴行を加えて負傷せしめたことが発覚し、目下西陣署で取調中である――」
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黄色い下宿人
一
「ワトスン君、君はあの『マクベス殺人事件』を忘れちゃいないだろうね?」
「おぼえているとも。あの事件はあんまり月並だから公表はよすがいいと君がひどくとめるものだからさしひかえているが、そういう君の了見がわからない。いったいあの事件のどこが月並なんだね?」
「月並じゃないか。大トランクに屍体を入れてはこんだこと、黒眼鏡に黒髯の男が犯人の変装であったこと、五人の連続殺人計画のうち三人目に重傷をうけただけで死ななかった唯一の生残りが犯人であったこと。……へどがでるほどのマンネリズムじゃないか」
「しかし、あの事件のなかで、犯人が、シェイクスピアのせりふそっくりに予言した『女から生まれたものには人を殺す力はない』とか『森がうごくまではお前は決してほろびない』とかいう言葉が、あんなに二重のふかい意味をもっていようとは、僕は思いがけなかった。実は僕は、君があれほどシェイクスピア史劇学者だとは知らなかったから、その点だけは君を見なおしたよ」
「おやおや、これはひどく見下げられたものだね。尤も君が『緋色の研究』で紹介した僕の特異点一覧表によると、僕の文学的知識は皆無ということになっているくらいだからむりもないがね。しかし白状すると、あの知識は、実は或るかくれたるシェイクスピア学者に教えを請うたものだった。すなわち、今やわれわれが訪問しようとしているクレイグ博士さ」
手帳をみると、これは一九〇一年五月上旬の或る火曜日の夕方のことである。
クィーン・アン街の自宅を出かけて、ひさしぶりにベーカー街を訪れると、シャーロック・ホームズはちょうどどこかへ外出しようとするところで、そのままいっしょに、もう霧のなかにおぼろ月のように灯をともしはじめたロンドンの町へ出てきたわけだった。
ホームズは路々はなしつづける。
「クレイグ博士はもとウェールズの或る大学の文学教授だったのだがね。シェイクスピア辞典をつくるために毎日大英博物館へ通うひまがほしくって、その椅子もなげうって、ホーマー街の或る四階に燕のように巣をつくってくらしている学者なんだ。外国の留学生の個人教授などをして収入を得ているらしいが、とにかくシェクスピアに関するかぎり、その学識は深遠きわまるものだ。それにもかかわらず……」
ホームズは一通の手紙を、街灯にかざすようにしてみながら、溜息をついて、
「字の下手くそなのには恐れ入る。いつも何がかいてあるのかわからない。難解なること、二三年前の、あの『踊る人形』事件の暗号以上さ。一時間以上もこの手紙をひねくりまわして、さて何が判読できたと思う? トーマス・カーライルも字が大変まずかったという挿話がながながとかいてあるのさ」
「へえ、たったそれだけの手紙かい?」
「尤もそのおわりにちょっぴりと、事件の依頼らしいこともかき加えてあったがね。どうやらとなりに住む大富豪が、この半月ばかり前から失踪して行方不明らしいのだが、どうせ僕がのり出すまでの事件じゃあるまい。相手がクレイグ博士でなければ、もちろんことわるんだがね」
ホーマー街につくと、われわれは赤煉瓦の建物に入り、階段を四階までのぼった。幅三フィート足らずの黒い扉にぶらさがった真鍮のノッカーでたたくと、内側から、おどろいたような大きな眼に眼鏡をかけた老婆がのぞいた。
「ジェーン婆さん。こんばんは。クレイグ博士はいらっしゃるだろうね。ホームズがきたと、つたえてもらいたいんだが」
いったんひっこんで、すぐまた出てきたジェーン婆さんに案内されて、われわれはとっつきの客間に通された。客間といってもべつに装飾も何もあるわけではない。窓が二つあって、書物がたくさんならんでいるだけである。
先客がひとりあって、クレイグ博士はその男を相手に大声でしゃべっていた。博士は、あまり風采にかまわないたちとみえ、ひどくいたんだ縞のフランネルをきて、むくむくした上靴をはいて、鼻眼鏡をかけた肉の厚い大きな鼻の周囲には、一面にむしゃくしゃと髯が黒白乱生していた。
「君はこのロンドンの人間の多いことにおどろいているが、あのなかで詩のわかるものは千人に一人もいない。可哀そうなものだ。いったい英国人ほど、詩を解することのできない国民はいない。そこへゆくとアイルランド人ははるかに高尚だ。実際、詩を味わうことのできる私だの、君のような東洋人は幸福だよ。それなのになぜ、テニスンよりもウォーズウォースの方が深遠だということが君にわからないのだろう? ……むかし、ホイットマンとしばらくいっしょに暮らしたことがあるが……」
語尾にひどいアイルランド訛りがあるうえに、せきこんだ恐ろしい早口で、おまけに論理も少なからず支離滅裂だから、何をいっているのかわからない。
先客というのは、なるほど東洋人らしく、三十四五の口ひげをぴんとたてた、黄色い小さい男で、鼻のあたまに、うすいあばたがあった。彼は博士の口から猛烈にとび出す唾に、にがい顔をして立っていた。
ホームズが小声で私にささやいた。
「支那《シナ》人らしいね」
「いや、私は日本人ですよ」
と、その黄色い男が突然こちらをむいて、するどい声でいった。うっかり口にした非礼を耳ざとくもききとがめられたのと、めずらしく自分の観察があやまっていたこととで、さすがのホームズが耳までまっかになった。
「いや、これは失礼、日本の方はめったにおめにかかることが少ないとはいえ、あすにでもわが大英帝国と攻守同盟をむすびそうなお国の人を見まちがえるなんて? いや、こんどは第一御皇孫が御誕生になったそうでおめでとう。けさの新聞でみると、お名前はヒロヒトと名づけられたそうですね。シャーロック・ホームズをまず劈頭《へきとう》に赤面させられた唯一の国民に、永遠の繁栄がありますように!」
そういい終って、ホームズはほっと汗をハンケチでぬぐった。私はホームズがこれほど狼狽したのをみたことがないので、可笑《おか》しくってたまらなかった。黄色い日本人も、うすあばたの鼻のわきにちょっと皺をよせて笑ったようだった。
話を中断されてきょとんとしていたクレイグ博士は、はじめて私たちに気がついたように、指環をはめた手を出して握手しながら、
「いや、よくきて下さった。これは日本人の留学生で、ジュージューブ氏――」
「え?」
「ジュージューブ――棗《なつめ》さ、まだ未熟で黄色いが」
クレイグ博士は、じぶんの洒落が大いに気にいったらしく、からからと大笑したが、日本の棗氏は可笑しくも悲しくもない無表情な顔で立っていた。
「こちらはロンドンで有名な私立探偵のシャーロック・ホームズ氏だ」
ホームズに応じて手を出しかけた棗氏は、このとき何が気にさわったのか、急に手をひっこめて、ぷいとそっぽをむいてしまった。気位のたかいホームズはむっとしたようであったが、さりげなく博士の方にむきなおって私を紹介してから、
「早速ですが、御依頼の事件について承わることにしましょうか」
「事件?」
博士はけげんそうな顔をしてこちらをみたが、急に膝をたたいて、
「おお、そうでしたな。それをおねがいしたのじゃった。実はとなりのジェームズ・フィリモア氏が、この半月ばかり前、蝙蝠傘一本持ったきり、どこかへ消えてなくなってしまったのです」
「それはお手紙で承知しております。フィリモア氏というのは、いったいどういう人物なのですか?」
「それが、私はよく知らんのです。そこの窓からフィリモア家の広い庭園が見下ろせるが、とにかく、たいへんなお金持であることにまちがいはない。
なんでも若いころ香港とか台湾とかにはだか一貫で出稼ぎにいって非常な巨富をつみ、帰国してからも東洋関係の貿易商をしていたらしいが、五年ばかり前からこのホーマー街に隠退したということで、とにかくよほど変り者らしい。それほどの金満家でありながら、ひととおりでないしわん坊で、召使いといえば下男ひとりしかつかっていない。また私はときどき庭を散歩しているフィリモア氏をみたことがあるが、痩せて、背なかがまがり、大きな丸い眼鏡をかけ、むさくるしい山羊髯をはやして、とてもそれだけの富豪とは思われないよぼよぼの老人じゃったが」
そういうクレイグ博士自身も、断じて変物でない方ではなく、決してむさくるしくないとはいえない老人だから、ホームズはかすかに笑ってうなずいた。
「それがこの半月ほど前に、下男のクロプマンをつれて埠頭へ出かけていったきり、行方不明になってしまったのです。警察へもむろんとどけたのだが、まだはかばかしい消息を得られない。そこで下男のクロプマンめがひとごとならず気をもんで、私のところに相談にきたというわけですじゃ。いや、そのクロプマンが、おかしな用事でしょっちゅう私のところに出入する男でな、実はいまいったフィリモア氏の履歴もあいつからの又聞きで、それというのが――あ、きましたじゃ! 本人のクロプマンがやってきたようですじゃ!」
と、クレイグ博士は耳をドアの方にむけて叫んだ。なるほど階段を上ってくる跫音とぜいぜいという息づかいの音がきこえる。
しかし私は、シャーロック・ホームズが、博士の話の途中から、しきりに黄色い東洋人の方をちらちら注目していることに気がついていた。彼はなぜか非常に不愉快そうにもじもじしていた。顔色が蒼く変ってきて、額にはつぶつぶ汗さえ浮かんでいたが、ホームズの眼とあうと、はっとしたように窓の方へあとずさりしていって、向うの庭をながめているようなふりをしてみせた。
二
扉がひらいて、ひとりの老人が入ってきた。痩せた貧弱な男で、顎に爪の甲くらいの大きさの黄褐色の疣《いぼ》がある。腋の下に布でくるんだ大きな平たい板のようなものをかかえていた。
「おお、クロプマンか。御主人の消息は何かわかったかね?」
と、クレイグ博士はいった。クロプマンはぜいぜい息をきりながら首を横にふると、もってきた物体の布をときながら、
「うんにゃ、なんにもわかりましねえ。それより先生さま、またこんなものを手に入れただが、ちょっくら御覧になってみて下せえまし」
布の下からあらわれたのは、一枚の絵だった。きよらかな少女が、くだけた花瓶をエプロンにつつんで、かなしげなまなざしを空にそそいでいる構図である。両手にささえて見入っていたクレイグ博士は、やがてかすかにうなって、
「クロプマン、お前どこでこれを手に入れたのかね?」
「ウェスト・エンドの或る古物商でがす」
「またかい? いくらで?」
クロプマンは、掌をこすって狡猾そうに笑った。
「三十シリングでがしたよ」
のぞきこんでいた私は、思わず笑い出した。
絵の署名はたしかにジャン・バプチスト・グルーズらしいが、グルーズなら三十シリングで手に入るわけはない。いくら安く見つもっても三千ポンドはするだろう。
「古道具屋の主人は、贋物はただより安いといっていましただがね。はい」
「ほんものだよ、クロプマン」
と、クレイグ博士は溜息をつきながらいった。私はあっと口のなかで叫んで、しげしげとグルーズの絵に見入った。
「なるほど、もと画家ほどあって、絵をみる眼にくるいはないね」
突然ホームズがこういった。ほれぼれと絵をながめていたクロプマンは、昂然と疣のある顎をふりあげたが、急にひどく狼狽してうろんくさそうにホームズを見やった。
「それにお前は、以前に支那にいったことがあるね?」
ホームズの神のごとき推理は私のよく知るところであるが、まったく経験のないものはたしかに度胆をぬかれるにちがいない。はたしてクロプマンはめんくらったようにどぎまぎして、
「お前さまはどなたでがす? どうしてそんなことがわかりますだ?」
「お前の右手の人さし指に大きなペンだこがあるじゃないか。そんなたこは、成長期に人並はずれてものをかく習慣があったのでなければできるはずがない。そして古物商の主人の眼をぬくほどの絵画の鑑定能力があるなら、もと画家だったと考えてまあまちがいあるまいよ。
次に、まくれあがった袖からちょっぴりのぞいてみえる右手頸のうえにある魚の形の刺青は、その紅の染めぐあいから、支那特有のものであることがわかるんだ」
「なあるほど、きいてみれば何でもないことじゃね!」
と、クレイグ博士が舌打ちして笑い出すと、ホームズも苦笑しながら私をふりむいて、
「ワトスン君、僕はいつも説明しといちゃうっかり口をすべらせて損したという気がするよ。原因をいわずと結果だけを知らせた方がずっとありがたく聞えるんだが」
「クロプマン、この方はね、お名前はお前もきいたこともあるだろうが、英国の誇り、ベーカー街の名探偵シャーロック・ホームズ氏だ。お前の御主人の失踪をわざわざ調べにきていただいたのだよ」
下男は眼をぐるりとむき出して、たまげたようにホームズの姿を見つめた。
「へえ、あなたがあの有名なホームズさまでがすか? これはお見それしましただ」
「それで、お前の御主人はどんなぐあいに消えてしまったんだい?」とホームズはせかせかと、「そのときの情況を話してくれないかね」
「へえ、あれはたしか四月十日の水曜日でがしたよ」と下男は恐ろしそうにしゃべりはじめた。
「なんでも東洋から或る船がくるっちゅうことで、私もお供をして、旦那さまと埠頭へ出かけましただ。まずフェンチャーチ街の事務所へいって――これは御隠居まえの旦那さまのやっておられた英亜海運会社の事務所でがす――私は外に待っていただが、あとでわかったところによると、そこの支配人マーチンさんと何やら御用談をされたということでがす。それからそこを出てこさっしゃると、埠頭へいって、聖カザリン船渠《ドツク》に入っている船へ……」
「ちょっと待った。それはどこのなんという船だね?」
「たしか、日本のヒタチマル、という船でがしただよ。はい、何をつんできたのか、わしは知らねえでがすが……」
ホームズはちらりと窓際の方を見た。思いなしか、そこに背をむけて立っている男の耳がぴくりとうごいたようである。
「うん、それから? つづけてくれ」
「船荷の積下しはもうはじまっていやしただが、旦那さまは、ここで待っていてくれ、ちょっと会わねばならん人間があるから、とわしを埠頭においたきり、蝙蝠傘一本をもってひとりでヒタチマルの甲板に上り、それから船艙の方へおりてゆかれる姿がみえたきりで……それっきりでがす」
「え?」
「はい、それっきり、わしが一時間待っても二時間待っても出てこられましねえ。やっとこれは面妖なこともあるもんだと気がついて、わしもヒタチマルに入ってあちこちさがしてみましただが、小っちゃい黄色い、猿みてえな日本人ばかりで、旦那の姿は影もかたちもみえなかったでがす。……」
「警察へはとどけたろうね?」
「もちろんでがす。それからあわてて事務所にかけもどって、支配人のマーチンさんに急をつたえたわけでがすよ。マーチンさんは、なんでも警視庁で知りあいのレストレード警部とかに連絡して、捜査をおねがいされたようでがすが、それ以来なんの手がかりも得られねえようでがす。……」
ホームズはじっとこの奇怪な事実を物語る下男の顔をみつめて考えこんでいたが、やがて、
「フィリモア氏がヒタチマルで会いたいといっていた人物には、お前は心あたりはないかね?」
「ありましねえだ。若いころはこれでも旦那といっしょに南|支那《シナ》海あたりを面白い航海をつづけたものでがすが、いまじゃすっかりその方とは縁切りで、わしはもう庭の手入れのほかは、まあ絵の掘出しものでもみつけるほかは、たのしみといってねえでがすからね。……ただ……」とクロプマンはものものしく首をかしげて、「旦那を呼び出した奴は、きっと黄色人にちげえねえと、このわしは思いますだ……」
「黄色人? なぜだね? 船が東洋の船だからかね?」
「うんにゃ。旦那さまが行方不明になる二タ月ばかりまえから、変な手紙がきはじめましただが、その手紙をみるとき、旦那さまは、両手でぴしゃぴしゃ額をたたきながら、畜生、あの黄色人め! とうなって、まるで気が狂った人かなんかのように、部屋のなかを小さい円をえがいてあるきまわり、ときには口をひきつらせてひっくりかえったこともござらしただよ。そしてその手紙の封のところには、いつも赤い卍《まんじ》というしるしが押してあったですからね。……」
「なんだって? 赤い卍《まんじ》の封印をおした手紙だって?」
「失礼ですが、それは紅卍教のしるしじゃないでしょうか?」
と、突然、窓の傍から声がかかった。棗氏である。まだ蒼い顔をしているが、口をへんにひきつらせて、皮肉な笑顔をむけていた。
「紅卍教とは?」
「道教から由来した支那の秘密結社ですがね。卍というのは……」
と、彼はいいかけたが、急に心臓の下のあたりをおさえて、苦しそうに顔をゆがめて沈黙してしまった。
ホームズはその様子をちらりとみてから、また下男の方にむきなおって、
「それで、その手紙の内容は、お前は見たことはないのかね?」
「それが面妖なのでがす。手紙は全部で十通あまりもきましただか。みんな旦那さまがどっかへ処分なすってしまった様子でがすが、たったいちど、旦那さまが封をきられたところへ入っていって、その手紙をちらりとみたことがありましただ。ところが、その手紙は、なんといちめん真っ白だったでがすよ。――」
「えっ、真っ白?」
「はい。たしかになんの字も絵も符号もかいてなかっただよ」
事はいよいよ出でて、いよいよ奇怪であった。はじめこの家をおとずれるときあまり気乗りしないようだったホームズも、いまは強烈な興味に双頬をかすかに上気させていた。
「差出人の署名は?」
「なかったようでがす」
「切手の消印もみたことはないね?」
「それがでがす。その手紙は郵便局から配達されるものでなく、いつも庭に――左様、ちょうどこの部屋のあの窓の下あたりにおちていましただよ。どんな奴がなげこむのか、その姿をみたこともありましねえだが、とにかくその手紙のくるのは、毎週火曜日ときまっていましただ」
突然、その窓際にたっていた日本人が、奇妙なうなり声をたてたかと思うと、つかつかとクレイグ博士の前へあるいていって、ひくく辞去のことばをのべた。
ホームズが私の横腹をつついて、ひくい声でささやいた。
「ワトスン君、君はあの日本人を尾行してくれたまえ」
たしかに挙動のあやしい東洋人であった。彼が階段を二階あたりまでおりていった跫音《あしおと》をききすまして、私は、猟犬のようにあとを追った。
三
外に出ると、霧はいよいよふかい。色のさめたへんてこな外套をつけた棗《なつめ》氏は、ステッキをふりふり、ホーマー街からベーカー街の方へあるいてゆく。ひょっとすると、ホームズの居所をたしかめにゆくのかもしれないと思って私は緊張した。
ベーカー街に入ると、彼はまず或る薬局に入った。毒薬を買うのだろうか。私は店と反対側の街灯のかげに身をひそめてその姿をうかがっていたが、このときたいへんな失敗をするところであった。
霧のなかから、突然大声をかけられたのである。
「ワトスン先生、こんなところで何をしていらっしゃるんです?」
ぎょっとしてふりかえってみると、去年のはじめからホームズの有力な助手をつとめているシンウエル・ジョンスン青年がけげんな顔で立っている。
「しっ……それより、君、あの東洋人が薬局で何という毒薬を買ったかたしかめてきてくれたまえ」
一瞬に万事を了解したジョンスン青年はひととびに、ちょうど薬局から出てきた東洋人といれちがいに薬局へとびこんで、すぐまたかけ出してきた。
「先生、毒薬じゃありませんよ。ただのマグネシア剤とカルルス泉一瓶ですよ」
「はてな。……あいつ胃でも悪いのかな」
「先生、何か知りませんが、僕もお手伝いしましょうか?」
「いや、大丈夫だ。尾行には二人よりも一人の方がいいだろう」
恥ずかしいことだが、ながいあいだシャーロック・ホームズの形にそう影のような役割をつとめてきた私には、この俊敏な新しい助手に対して、かすかな嫉妬心があったようである。
私は冷淡にそういいすてると、はや霧の彼方へきえかかってゆく東洋人の影を必死に追いはじめた。
彼はベーカー街からオクスフォード街に入り、そこで一軒の書店に入って小一時間も本をながめていたが、やがて一冊買い求めて出てきた。すぐに私が書店に入ってたしかめると、彼が買ったのは、なんと「ドン・キホーテ」であった。
彼は、ボンド街からピカデリーへ出て、まだてくてくと歩きつづける。と或る辻で黒いイタリア人がヴァイオリンをひき、赤い頭巾をつけた四歳くらいの少女が踊っていた。彼はまたこれを半時間ほども面白そうに見物していたが、やがて半ペニーの銅貨を一枚イタリア人のさし出す帽子になげこんで、そこを立ち去った。
地下鉄の入口で、少年が夕刊の最終版を呼び売りしていた。東洋人はそこでテレグラフ紙とスタンダード紙を求め、やっと昇降口へおりていった。私はわざと彼より一輛うしろの車にのりこんで監視をつづけた。夕刊の片隅には、満洲(中国東北地方)からロシア兵が撤兵しないために、日本との雲行が次第にあやしくなってくる旨の報道ものっているようだが、彼が熱心に読んでいるのは、どうやら下宿の広告の欄らしかった。
テームズ河の底をくぐってケニングトンまでくると、日本人はやっと地下鉄をおりて汽車にのりかえた。ともすれば人混みにきえそうな小さな姿を私が見失わなかったのは、ホームズとともに何十回か奸智にたけた悪漢どもを尾行した経験のおかげといわねばならない。
棗氏はトウティングでおりた。そのときすれちがった二人づれの婦人が、ふりかえって、はしたない声で叫んだ。
「ごらん、あの小さな支那《シナ》人!」
その声がきこえたとみえて、棗氏はちょっと肩をそびやかしたようであった。私の心にそのとき「あの男はほんとに日本人だろうか?」という疑問がおこった。ひょっとすると、彼は紅卍教の一員ではあるまいか?
東洋人は、あちこちからクレイグ博士によく似た髯だらけの御者が指をたてながら四輪馬車《ランドウ》や二輪馬車《ハンサム》をちかよせてくるなかに、乗ろうか、乗るまいか、という風に思案していたが、やっと決心して、いちばん汚ない二輪馬車にのりこんだ。私がもう一台の二輪馬車をつかまえて命じたのはむろんのことである。
「あの馬車を追ってくれたまえ」
ここらあたりは、もう場末も場末、新開地とまでもゆかない地域で、あちこちいちめんに掘りかえした穴に水がたまり、霧の底に沼がひかり、家はほとんどむさくるしい貧民窟で、荒涼とした夜気がただよっていた。
馬車は、あんまりぞっとしない、いかがわしくも怪しげな町を通っていった。ところどころ、けばけばしく下品な灯をかがやかせている酒場の前でも停るのではないかと思ったが、そこを通りぬけて、馬車はついに、この新開地にたてられた一群の家の五軒目の門口へとまった。そのほかにはただ一軒灯をともしているだけで、あとはすべて空家らしく、まっ暗である。周囲には何もない。ただその一群の長屋のうしろに、池とも沼ともつかない水がひろがって、冷え冷えとひかっているばかりである。
東洋人は馬車からおりると、四軒目に入っていった。私は三百ヤードばかりはなれたところにひそかに馬車をとめて考えこんだ。彼のゆくさきはつきとめたものの、これだけで帰るのも気がきかない。私は意を決して馬車からおりると、そろそろとその長屋へちかづいていった。
すると、おどろいたことには、いったんしまった入口の扉をまたひらいて、いきなりさっきの棗氏がつかつかと出てきたのである。逃げるにも驚愕のあまり身がすくんでうごけない私のまえに、彼は一直線にやってきた。
夜目にも彼の激怒した顔がみえるように思った。彼がぐいと片手をつき出したので、ぎょっとして私が身がまえると、
「おい、探偵君、遠いところを御苦労さまだな。さっきの半ペニー銅貨があやしいと思ったのか。欲しければお前にもやるから、こいつをもってかえってゆっくり調べろ!」
なんとその掌のうえには、銅貨が一枚のっていたのである。
茫然としてそれを受けとったときの私の顔だけは、南無三宝、ホームズだけにはみせたくないが、まぬけなことに、彼がいまいったさっきの半ペニーとはイタリア人にやった銅貨のことらしいと気がついたときには、すでに彼がひきかえして、ふたたび玄関のドアをぴしゃりとしめたあとだったのである。
これはいったいどういうことだろう? この銅貨が贋造だとでもいうのだろうか。それともあのイタリア人も彼の一味なのだろうか?
私は混沌としてわけがわからなくなったが、とにかく尾行が大失敗に終ったことだけはあきらかであった。
悄然として私がひきかえそうとしたとき、またその家のこんどは台所の方の戸がひらいて、ひとりの女がでてきた。台所の窓からもれる灯に一瞬ちらりとみえた顔は、頬っぺたの赤い、いかにも人の好さそうな若い女の顔である。しかもまごう方なき、わが同胞の娘の顔である。何者だろう? まさかいまの東洋人の妻ではあるまい。
彼女は両手に桶をさげてあるいてくる。どこかへ水でもくみにゆくらしい。私はしばらくためらってから、やがてそっとちかよった。どうせあの男に発見されたのだから、もうやぶれかぶれといってもいい気持だった。
「もしもしお嬢さん、こんばんは」
「あっ、びっくりするじゃないか。誰だい?」
彼女は片手からひとつ空桶をとりおとしておどろいた。
「いや、これは相すみません。実は、僕はこのあたりにいい下宿はないかとさがしてあるいているのですがね。どこかお心あたりはないでしょうか?」
彼女はこちらの顔をのぞきこみ、急にきげんのよい声で、
「ああ、それならブレット夫人のおうちがいいよ。そこになさいよ」
「ブレット夫人というと? お嬢さん」
「お嬢さんはよしとくれよ。あたしゃ女中だよ。つまりブレット夫人の女中さ。いまあたしが出てきた家がそうよ。ごらんのとおりあんまりきれいじゃないけどね、その代り下宿代は安いよ。なにしろ一週たった二十五シリングだからね」
唾の水珠をちらす水車のような早口で、そのうえうっかりするとききとれないほどの下町訛《コツクネー》だった。これは相当なおしゃべりだぞと私はほくそ笑みながら、すばやく一ソヴリン金貨を彼女のエプロンのポケットにおしこんで、
「そいつは願ったりかなったりだが、僕はこれでなかなか人見知りする方だからね。おうちの方々がいい人ばかりだといいんだが――」
「そりゃみんないい人ですよ。ブレット夫人は前にカンバーウエルで女学校を経営してた人なのよ。それがうまくゆかなくなって下宿屋をひらいたんだけど、そこも手筈がちがって、この半月ばかり前からもっとへんぴなここへ移ってきたのさ。女学校ひらいてたくらいだからあたしにこそ、あんまりおしゃべりしちゃいけないってしょっちゅうがみがみいうけれど、お客さまに失礼なことなんかしませんわよ。
妹さんがひとりあるけど、これは神さまばかり祈っている人よ。こないだもね、うちに下宿している東洋の人をつかまえて、イエスさまを信じないとは情ないって、泣いて、泣いて――」
「ほう、じゃもう下宿している人もあるんだね?」
私はごっくり唾をのみこんだ。
「ええ、二人ね。けど二階にお部屋は三つあって、一つはあいていますよ。まんなかに住んでるのがいまいった東洋の――日本とかいう国のひと。日本って印度のなかにあるんですってね。これは去年の暮カンバーウエルにいたころから下宿していて、いっしょにここへ移ってきたのよ。
まあほんとにへんな男ですよ。食うものもろくに食わないで、かびくさい本ばかり読んで、まるでむかしの魔法つかいの博士のようですわよ。このあいだもね、いったい何をしているのかと思って、ドアの鍵穴からそっとのぞいてみたんですよ。すると、まああなた、髯なんか生やしてるくせに泣いてるじゃありませんか?」
「えっ、泣いてた?」
「それがね。恐ろしいことはまだその次にあるんですよ。あたしに背なかをみせてるのに、まああたしがのぞいてることがどうしてわかったのかしら、いきなりたちあがると、とんで出てきていきなり、ペン、お前は探偵か、犬のめすかって、それはそれはこわい顔をしてどなりつけるじゃありませんか。それでもあたしが泣き出してみせたら急にこまった顔になって、ちかごろ、僕は頭の調子がわるいものだから、がみがみ叱ってかんにんしてくれってあやまったけどね。たしかにちょっと気がへんよ、あのひと――」
「誰かたずねてこないかい」
「めったにこないわ。この半年に二三人――やっぱり黄色い人がきただけよ。御本人は、雪か雨でもふらない以上、毎日どっかへ出かけるようよ。そしていつも山のように本をかかえてもどってくるわ。……でもね、もうひとりのギブスンさんほど変人でもないかもしれなくってよ。
ギブスンさんは北隣りの部屋にいるひとで、カンバーウエルからここへ引っ越してきたとき新しく入ってきたの。丸い眼鏡かけて山羊みたいな髯をはやしたお爺さんよ。それが面妖《おか》しな条件でね。ひるでも夜なかでも自由に外出したり帰ってきたりできるように玄関の合鍵をわたしておいてもらいたい、食事は部屋でするからいつもドアの外においてもらいたいっていうの。でも、ほかに下宿してくれそうな人もないし、下宿料は一週三十三シリングはらうからっていうので、ブレット夫人も承知したのよ。ひるまはめったに家にいないわ。夜だけもどってきて、いつも気味悪い跫音をたてて部屋じゅうあるきまわっているのよ。そしてときどき、恐ろしい声をたてて窓から、椅子だとか花瓶だとかを裏の池になげこむくせがあるの。……」
私は、あのふしぎな東洋人の話をきいたあとは、女中の饒舌をもうあまり気にとめないで考えこんでいた。すると、この恐るべきおしゃべり女中は、私の様子にはっと気がついたとみえて大あわてにあわてて、
「でもね、めったにそんなことないのよ。どっちも人に害を与えるような方じゃないし、そりゃあふつうの人以上におとなしいしずかな方だから。……」
「ペン! ペン!」
と台所の方でよびたてるけたたましい声がきこえた。ブレット夫人にちがいない。ペンは私の手をとらんばかりにして、
「ねえ、うちへきめなさいよ。ブレット夫人に紹介しますわ。……」
「ありがとう。いや、しかし今夜はもうおそいから、あらためて明日にでもまたうかがおう。それでは、ペン、おやすみ」
私はひとまずこれくらいでいいだろうと、もときた道をひきかえした。
四
ベーカー街にかえると、ホームズは例のとおり黒いパイプをくわえたまま、しきりに部屋のなかをあるきまわっていたが、私の顔をみると、
「ワトスン君、これは存外興味をそそる事件かもしれないぜ。面白い、たいへん面白い」と生き生きした顔で笑いかけながら、「あれから、クロプマンにいろいろきいたのだが、フィリモア氏は若いころ支那人や日本人をつかって、スクーナー船で上海から台湾へ阿片の密貿易などやっていたらしい。そして或るとき反抗しようとした彼らの一団をライフル銃でやっつけたこともあるという話だ」
「ほう、それで、彼らが紅卍教の一党で、復讐のため、あのふしぎな白紙の手紙をなげこんでいったとでもいうのかい?」
「いや、それはまだわからない。当時クロプマンはほんの下ッ端で、事情はよくわからないというんだが、あの絵の掘出しもののことといい、あいつもなかなかくわせ者らしいからね。どうやらずっと以前から主人のフィリモア氏にもないしょで、かくれたる名画を二束三文で買ってはクレイグ博士のところに鑑定をたのみにやってきていたということだ」
「日本のヒタチマルという船との関係は?」
「それは帰途ちょっと警視庁へいってレストレード君にもあってきたんだが、これはいくらしらべても、フィリモア氏とはなんの関係もないというんだ。支配人のマーチン氏も、あの日フィリモア氏と話したのは、全然別の用件で、なぜそのあとフィリモア氏が聖カザリン船渠《ドツク》などへいったか、さっぱりわけがわからないといってるそうだよ。尤もその日のフィリモア氏はどうもふだんとちがって妙なところがあったそうだがね」
「クロプマンがどうかしたという疑いはないのかい?」
「それも一応は考えたが、人目の多い埠頭では誘拐することも殺すこともまず不可能だろう。尤もわれわれも是非埠頭へいってもういちど調べてみる必要はあるがね。
しかし、あのクレイグ博士のところにいた日本人の挙動はたしかに疑惑につつまれていると思う。君はあの男が立っていた窓の外の庭に火曜日というと紅卍の封印をおした手紙がおちていたという話をおぼえているだろう? あの男は去年の十二月から一週一回七シリングの約束で個人教授をうけにかよっているということだが、その日が何曜だと思う?」
「きょうと同じ……火曜日だろう?」
「そうだ。さあ、それでは、君の話をきかせてもらうことにしようかね」
私は今夜の尾行の結果をくわしく報告した。ホームズはときどき細かい点について反問しながら、興味ぶかい表情できいていたが、ふと眼をぴかりとひからせて顔をあげて、
「ワトスン君、君はそのギブスン氏という老人はみなかったかい?」
私はホームズのききとがめた言葉の意味がわからずぼんやりしていると、
「その老人は、半月ばかりまえから下宿してきたそうだといったね? それから山羊髯をはやしてるそうだともいったね?」
私はとびあがって叫んだ。
「ホームズ! 君は、その老人がフィリモア氏だというのかい?」
ホームズは、事件が神秘性を深めれば深めるほどかがやきをますあの溌剌《はつらつ》たる微笑を両眼にみなぎらせながら、
「そうであるかないか、とにかく明日朝はやく、もういちどトウティングに出かけてみようじゃないか?」
翌日、はやくから急患があって、じりじりしながらこれを治療しおえた私が、朝もだいぶおそくなってから、とぶようにしてベーカー街をおとずれると、意外なことにシャーロック・ホームズは、外出の用意をしたまま、にがりきった顔をして部屋のなかをあるきまわっていた。
「ワトスン君、一歩おくれたよ」
「どうしたんだい?」
「ついいましがたまで警視庁のレストレードがきていたんだが、昨夜トウティングの下宿屋で、ギブスン氏が殺されたということだ」
「えっ、いつ? むろん僕がひきかえしたあとだろうね。それで、犯人の黄色い下宿人はもう逮捕されたのかい?」
「ギブスン氏は、けさになって下宿の裏の池に屍体となって浮かんでいるのを発見されたそうで、あの日本人は発見直前に、どこかへゆくえもつげず姿をくらませてしまったそうだよ」
私は、昨夜私の胸ぐらをとらんばかりにして激怒の罵声をあびせてきたあの黄色い顔を思い出して、背なかにぞっと水のようなものがはしるのを禁じ得なかったのである。
私たちがトウティングのブレット家を訪れると、警官の知らせですぐさきにきていたレストレード警部が出てきた。
「ホームズさん、昨日警視庁でおあいしたとき、フィリモア氏の失踪は一通りでなく奥ゆきのふかい事件だとおっしゃいましたが――そして残念なことにフィリモア氏は殺害されてしまいましたが――犯人という点ではこれほど明瞭な事件はありませんよ。二三妙なこともありますが、とにかく隣室にすんでいた黄色人をさがせばいいんです。もう時間の問題ですよ。おや、まだその黄色人については御存知ないのでしたね?」
「知っていますよ、日本の留学生でしょう?」
レストレードは妙な顔をしたが、気をとりなおして下宿のなかに案内しながら、
「ギブスン氏の屍体はまだ池の傍にひきあげておいたままなんですがね。ポケットから蝋マッチが一箱、金時計、金貨七ソヴリンがでてきただけで――しかしギブスン氏がフィリモア氏であることは、写真でまちがいありません。下男のクロプマンを呼びにやったのですが、これもけさから外出しているらしいので、目下さがしにやっています。とにかく、まあ兇行の行われた部屋をみて下さい」
「レストレード君、君はギブスン氏の屍体が池に浮かんでいたといいましたね。それなのに兇行が部屋で行われた、というのはどうしてわかったのです?」
レストレードはやせた顔をにやりとさせて、
「いや、それはギブスン氏の部屋の壁に、大きく紅卍のしるしがつけてあったからです。それに……」
そのとき、突然、あっというおどろきの声がきこえた。ふりかえってみると、階下の食堂に茫然と坐っている蒼白い顔をしたふたりの婦人――おそらくブレット夫人と妹のスパロー嬢であろう――のうしろから、女中のペンがたちあがって、とび出すような眼をして私をみつめていた。きっと私を警官のひとりとでも思ったのであろう。あとでよくあやまらなくてはならない。
「それに――昨晩十二時ごろ、ギブスン氏の部屋の窓から彼を池になげおとす水音を女中がきいたというんです。むろん、そのときは人間などとはゆめにも思わず、ギブスン氏はふだんからよく物を池になげこむ妙な癖があったそうで、また花瓶か何かを投げたんだろうと考えて大して気にもしなかったといいます。それにしてもどうして水音の大きさに疑いをもたなかったのかとふしぎですが、寝入りばなでゆめうつつだったらしいのですね」
「なるほどね」
「屍体にはかすり傷こそ処々にありますが、致命傷とは認められず、また毒殺らしい所見もみえませんので、溺死にちがいなく、死後硬直の点からみて、昨夜十時ごろからけさの一時ごろまでのあいだに兇行が行われたらしいのです」
「で、そのまえに、争う声とか格闘の物音は?」
「それはべつにきかなかったといいます。ただ十一時ごろギブスン氏がどこからか帰宅してきた靴音をきいたそうです」
「それはギブスン氏にまちがいないでしょうね?」
「靴音の癖と調子で、まちがいないと女中のペンは証言しているのですがね。犯人は被害者にいきなり阿片でもかがせたのかもしれない。……」
「ちょっと!」
と、階段を上ったとき、ホームズはすぐ前にひらいたままになったドアをのぞきこんだ。
「これは問題の東洋人の部屋ですね?」
「そうです、一応みたところあやしいものもないようですが、そのうち本格的に捜査すれば、かならず、証拠物件が出てくるものと思います」
窓の鎧戸に金巾《カナキン》だか麻だかえたいのしれないきたないカーテンがさがり、天井にはひびが入っているまずしげな部屋で、装飾といえば棚においた小さなシェクスピアの石膏像だけで、机の上にカルルス泉の瓶と安物のビスケットの鑵がのっていた。
しかしわれわれの眼をうばったのは、机から棚、床のうえまでもつみかさねられたおびただしい書物の大群だった。ワートンの英国詩史もみえるし、スペンサー、ハズリット、スウィンバーンの名前もみえる。これだけわが国の文学書を読破しているものは、英国人にもたんとあるまい。そのかわり、東洋の神秘な雰囲気などどこにもただよっていそうにない。
「まあ、あれをごらんなさい!」
と、レストレードはせかせかとして、北隣りの部屋のドアをひらいた。
部屋はおなじつくりだが、調度はだいぶこの方が上等で、壁にかかっているのはあきらかに本物のゲーンズボローの「婦人像」であった。が、その額の下には、血のようにぶきみな――よくみれば赤インクに指をひたしてかいたものらしかったが――真紅の卍のしるしがなすりつけてあったのである。
ホームズは拡大鏡をもってあちこち調べていたが、やがて何かをつまみあげてにやりと笑った。
「ほう、毛髪ですか。白いところをみるとフィリモア氏の頭髪がぬけおちたのですね」
と、レストレードが意外そうに見とがめたが、ホームズはとりあわずに、
「それで、ギブスン氏の水死体は、あの窓の下に浮かんでいたのですね?」
「そうです」
「池の深さは?」
「まあ、ふかいところで大人の胸くらいまでですな。屍体の下にはいままで彼がなげこんだガラクタがいっぱい沈んでいましたよ」
ホームズはまた声もなく笑って、ふと窓の方をみたが、
「おやおや、ギブスン氏の屍体にかがみこんで調べていたあなたの部下が、突然たちあがりましたよ。レストレード君、どうやら意外な事実が発見されたようですね」
「えっ、なんだろう?」
「おそらく、あの屍体がフィリモア氏でないことを発見したんだと思いますね。顎でもいじっているうちに山羊のようなつけ髯がぽろりとおちて――」
私とレストレードが驚愕のあまり白痴のようにつっ立っているのをホームズはうれしそうに両手をこすりながら見やって、
「ここにおちていたあの毛は、たしかにつけ髯の毛だったからね」
レストレードがあえぐようにいった。
「だれですそれは――」
「おそらく、年輩からいって、まず浮かぶのは、下男のクロプマンだね。さあそれをたしかめにゆこうじゃないか」
三人がいそいで裏庭へ出ると、息をきりながらかけつけてきた警官の一人とばったりあった。
「警部、実に意外なことが――」
「わかってる。わかってる。屍体は、フィリモア氏じゃないのだろう?」
と、レストレードはふきげんな顔で、かみつくように叫んだ。
池は青みどろを浮かせて、ぷつぷつと黒い泡をたてているような、ぶきみな色をしていた。そのふちに、栄養不良の月桂樹が苦しそうに立っているほかは、わびしい雑草ばかりの地面に、水死体はあげられて、横たえられていた。むろん、それは顎の大きな疣《いぼ》をみてもわかるように、変りはてたクロプマンの恐ろしい顔だったのである。
医者としても、ホームズの助手としても、昨日まで元気にうごいていた人物を今日ものいわぬ屍体としてみたことは、何十回経験したかわからないが、後者には前者とちがって、私はいつも一種異様の恐ろしさを禁じ得ないのである。生命の恐怖というより運命の恐怖といったらよいだろうか。
しかし私は、そんな恐怖よりこのなんとも不可解な事実にすっかり惑乱してしまった。
「ホームズ! これはいったいどうしたわけなんだ? クロプマンは主人の影武者になって、紅卍教徒の毒手の犠牲になったとでもいうのかい?」
「忠僕というわけかね」ホームズは特有の声のない笑いを笑って「たいへんな忠僕だよ。忠僕に神罰を下すなんて、復讐の神も皮肉だね」
「それはどういう意味だろう?」
「ここに下宿していたギブスン氏は、はじめからクロプマンだったのだ」
「えっ? ……それは、君はさっきギブスン氏の髯がつけ髯だということを発見してはじめて知ったのかい?」
「確実に知ったのはそうさ。しかし最初ギブスン氏の異様な挙動をきいたときから、それが誰かの変装じゃないかと疑っていたよ。玄関の合鍵をもって大抵夜だけもどってくること、食事も部屋のドアの外にはこばせて他人に顔をかくしたがっていたこと。……」
「なんのためにクロプマンはフィリモア氏に化けたのかね?」
「フィリモア氏が黄色い下宿人に殺されたようにみせかけるためさ。最初聖カザリン船渠《ドツク》でフィリモア氏が消失したというのがそもそも奇怪千万だ。おそらくあれもクロプマンの一人二役だったのだろう。はじめフィリモア氏に化けて支配人にあい、次に埠頭の積荷か樽のかげでクロプマンにかえって急を注進にかけもどったものと思う。自邸で主人が消滅すれば自分が疑われるから、わざと雑踏をえらんだのだがさてその雑踏のなかだけに、あとになって主人の屍体が発見されない点に人々が疑惑をいだくのにこまった。
そこであらためてあの紅卍の手紙とか、それを受取ったときのフィリモア氏の恐怖とかを創作し、犯人を隣家のクレイグ氏のところへ通ってくる東洋の留学生に擬したのだと思うよ」
「すると、あの日本人は無実の罪だというのかい? では、あの男の奇妙な行動はどう証明する?」
「奇妙なことは奇妙だが、しかしあの火曜日ごとにクレイグ氏の部屋の窓の外に紅卍の手紙がおちていたというクロプマンの話がうそっぱちだとしてみれば、ほかにそれほどこの事件とぬきさしならぬ関係はないじゃないか? 他人からみてずいぶん面妖《おか》しな行為をやる点では僕も人後におちない方だからね。
第一クロプマンの話がほんとうで、このトウティングの下宿にすんでいたのがほんもののフィリモア氏だったとすれば、それこそ奇妙じゃないか。そんなにおそれている黄色い下宿人の隣室にわざわざ住んで、いつでも逃げ出すチャンスはあるのに、なぜそうしなかったんだね?」
「じゃ、ギブスン氏は――いや、クロプマンは、あの黄色人につきおとされたんじゃないと考えていいんだね?」
「そう思う。クロプマンがものをなげたり、きちがいじみた行動をしたのは、あとでいかにもフィリモア氏が隣室の住人をおそれていたようにこじつける予備行動のつもりだったのかもしれない。ところが、なにしろあの老人だから、重い花瓶かなにかをなげるはずみに自分も墜落してしまったんだ。
なぜなら、下女はクロプマンが昨夜十一時ごろ帰ってきた跫音をきいたといい、十二時ごろ水におちる音をきいたという。いかに夢うつつであったにせよ、第三者が兇行を加えたなら、そのあいだになんの物音もきかなかったというのは奇妙だ。すべてクロプマンのひとり相撲であった証拠で、つまりさっき神罰だと僕がいったゆえんさ」
「なるほど。それでわかったよ。ところでクロプマンはなぜフィリモア氏を殺したんだ?」
「あのグルーズの絵の件を思い出しても、あいつのくわせものであることがわかるじゃないか。なにか不正をやってフィリモア氏に発見された反撃か、それともそれよりさらに可能性のある想像だが、もっと名画を蒐集したいあまり大それた慾望をおこしたのか――その点は、フィリモア氏にきけば明らかになるだろうがね」
「えっ? ……フィリモア氏は生きているんですか!」とレストレード警部がとびあがった。
ホームズは微笑して、
「むろん、クロプマンの予定では、今日このような悲劇を演ずるのはフィリモア氏のはずだったのです。しかし、フィリモア氏がすでに半月まえに死亡していたなら、それ以後あれほど苦労してフィリモア氏に扮することは無意味ですからね。だからあの老富豪はまだ生きているものと考えていいと思うんですよ」
「ど、どこに彼はいるんです?」
「クロプマンにとっていちばん幽閉し易いところは、いうまでもなくフィリモア氏の自邸ですよ」
しばらく唖然としていたのち、われにかえった私達が急遽ホーマー街にかけつけたことはもちろんである。
五
ホームズの神のごとき明察はあたった。はたせるかな、ジェームズ・フィリモア氏は、じぶんの屋敷の地下室から救い出されたのである。
哀れな老富豪は、発見されたとき廃人のようになっていた。われわれが入っていっても、なんのよろこびの表情をたたえるどころか、右の頬がゆるみ、口角はだらりとたれて、そこから牛のようによだれをながしているばかりだった。すぐに私は診察してみて、彼の右手も右足も不随になっていることを知った。
「ホームズ君、僕は医者として保証するが、お気の毒にこの老人は中風にかかっているよ」
「そうか、それでわかった」とホームズも暗然としてうなずいて、「クロプマンが悪心をおこしたきっかけがね! フィリモアさん、 わかりますか? われわれは警視庁のものなんです。半月ばかり前、あなたが中風にかかってから、クロプマンがここにおしこめたんですね?」
フィリモア氏はどんよりとした眼にかすかなひかりをうかべて、ものうそうにうなずいたようだった。
レストレードが仏頂面でいった。
「とにかく事件に関するかぎり、またホームズさんにしてやられましたね」
まことにそうであったのだ。フィリモア氏にとっていかに悲劇であったにせよ、ホームズのかがやかしい事件簿に、ここにまたひとつの星が加えられ、大団円の幕はまさにおりかかっていたのである。
その幕をあげ、実にわれわれを震駭《しんがい》させる驚くべき言葉をもった人物が闖入《ちんにゆう》してきたのはその直後であった。トウティングにのこしてきた警官のひとりと、そこに入ってきたのは、あの不可解なうすあばたのある黄色い日本人だった。
「君はけさからどこへ行方もしらさず姿をくらましていたんだ?」と眼をとび出させて、レストレードは猛然と叫んだ。
日本人はその方を世にもにがにがしい顔でながめたが、おちついたもので、
「クラパム、コンモンあたりに下宿探しにいってたんですよ。いまのところはどうも不愉快で、おちついて本を読むこともできませんからね。ずっとまえから考えていたのです。が、ブレット夫人にはそうはっきりとはいえないからだまって出たのですが、英国では下宿探しでもいちいち警視庁へとどけなくちゃいけないんですかね?」
「いや、それは……」と、レストレードはへどもどして、「しかし君の出たあとで殺人事件が発見されたじゃないか!」
「出るまえに発見されていたら、むろん出やしませんよ。帰ってはじめて警官やペンに事件のことをきいておどろいたんです。しかし、シャーロック・ホームズさん、私が不在中とんでもない水死人の犯人に擬せられたのを――日本では、無実の罪のことを『濡れた衣』をきせられるというんですが、これほど当を得た諺はないということがわかりましたよ」と彼は自分の洒落ににやりとして、「その濡衣《ぬれぎぬ》をかわかしていただいたそうで感謝いたします」
「いやいや」とホームズは、讃嘆されたり感謝されたりするときにかならずみせる処女のごとき恥じらいの色を浮かべて、「そんな誤解はちょっとした推理的才能のあるものなら、簡単にうちけすことはできますよ」
「ところで、たいへんぶしつけですが、私はあなたのその推理にちょっと異論があるのですが、きいていただけるでしょうか? それでここに参上した次第ですが」
と、その東洋人は、ものしずかに、まじめな顔でいった。
さすがのホームズもこの意外な申し出には愕然としたようだった。が、すぐにきびしい、皮肉な、傲然とした表情になって顎をしゃくった。
「どうぞ、おきかせ下さい。東洋の紳士」
「探偵術というものはよく知らないんですが、まあ科学にちかいものであり、その目的は『如何《いか》に』にあると思うんです。ところで私は文学的研究に従っているものでありまして、これは『何故《なぜ》』ということに重点がかかってくるので、まったく発想法がことなりますから、或いはお笑いになるかもしれませんが……」
「はやく、はやくこの事件についての、あなたの御意見というやつをいってもらいたいんですがね」とホームズは足ぶみをしてせきこんだ。
「では、まあおきき下さい。実は昨夜十二時ごろ、私もペンとおなじく、ギブスン氏の部屋の窓から池になにかおちこんだ水音をきいたんですがね。ペンとこれまたおなじく、あれが人間のおちた音とはきこえなかったのです。けさになっても、まさかあの池にギブスン氏が浮かんでいようとは思いもかけなかったというのは、その点もあるのです」
「しかし、現実に彼は水死体となっていたじゃありませんか?」
「それは誰かにつきおとされたのでしょう」
「わからないね、君のいうことは」とホームズはいらいらとした眼で相手をにらんで、「窓からおちたのはギブスン氏か、ギブスン氏じゃないのか――」
「窓からなげおとされたのは、いつものように、花瓶かなにかでしょう。それは、他のガラクタといっしょに池の底をさぐればみつかるでしょう。そして、それをなげこむとギブスン氏は、跫音をしのばせてまた外に出て、こんどは庭の池の向うからクロプマンを水につきおとしたんじゃありませんか?」
「なんだって? ギブスン氏はクロプマンじゃなかったと君はいうのか?」
ホームズは、私がはじめてきくような大声でさけんだ。指のさきがぶるぶるとふるえ、頬の血の気はひいている。
「水死体は窓の下にあった。沼の水はながれない。それなのに、どうして池の向う側から投げこまれたとわかるんだ?」
「沼の水がうごかないことを利用したのでしょう。私はさっき池の向うをみてきましたが、そこの草の上に、たしかに重いものをひきずってきたあとがありました。もし屍体が溺死にちがいないなら、水になげこむまえ阿片でもかがせてあったのでしょうね。そのからだに自分の服をきせ、その顔に黒い丸い眼鏡をかけさせ、山羊髯をつけさせて池まではこんでくればあとはもうらくなものです。水は腹のへんまでしかないから、水のなかをおして窓の下まではこべばいいということになりますからね」
「君が、ギブスン氏がクロプマンでないという根拠はなんだね?」
「それはね、大胆な想像で気がひけますが、ギブスン氏がひっこしてきたとき、荷物のなかにあのゲーンズボローの婦人像があるのをちらとみたのですよ。ところがあの絵にあの額ぶちはぜんぜん似合わない。むろん私は絵の専門家じゃないが、それにしても、ギブスンという人は絵にはまったく無関心な人だなと感じたことをいまでもおぼえています。それが、あとでクロプマンだとあなたがおっしゃったというのをきいて、いやそれはちがうとまず思ったのです。あなたも昨日のグルーズの絵に見入っているときの、ほれぼれとなめるような下男の眼をお忘れじゃないでしょう?」
「もういい。……それじゃ君、クロプマンを殺したのはだれです?」
とレストレードはうなるようにいった。
「クロプマンを昨夜トウティングまで呼び出すのにいちばん都合のよい人間。……」
「紅卍教」
「まだそんなことをいっているのですか。私は大学の卒業論文が老子ですから、道教を研究したついでに紅卍教の知識もちょっと得たのですが、あれはなにもアメリカのキウ・クラクス・クランのように恐ろしい殺人秘密結社じゃありませんよ。……私はそこにいらっしゃる方がギブスン氏そっくりにみえるんですがね」
「ジェームズ・フィリモア氏?」
三人はいっせいに叫んだ。ああ、なんという単純にして明々白々、しかも意外千万な指摘だろうか。
しかしわれわれがこれを意外とするにはそれだけの理由があったのである。やがてホームズが痛烈な笑顔で、かすれた声でいった。
「そりゃ似ているだろうさ。しかしフィリモア氏がフィリモア氏の顔に扮するなんて、そんな馬鹿なことが……僕はあの部屋でギブスン氏のつけていたつけ髯の毛まで発見したのだぜ!」
「私のは単なる第三者の意見ですから、まちがっていたらおゆるし下さい。フィリモア氏はただフィリモア氏に化けたわけではなく、クロプマンの化けたフィリモア氏の心ぐみで暮らしてみせたのではないでしょうか? あの埠頭の消滅といい、紅卍の手紙といい、すべてフィリモア氏自身の考えからでたことで、それはすべて現在ただいまホームズさんや警察の方々がたち至られたような推理の罠にみちびく予備行動であったとみた方が妥当ではありますまいか。一見、私という東洋の野良犬の犯罪のようにみせかけ、もし警察の頭がもっとよくてそうゆかないとなれば、クロプマンの自殺|乃至《ないし》奇禍死としか考えられないようにしてね。……」
しばらく、ふかい沈黙が地下室を支配した。ホームズは隅っこのなかば壊れた椅子に腰をおろしたまま、顔を両手で覆っていた。レストレードがいった。
「それはすべてなんのためです? 千万長者のフィリモア氏が小さなあわれな下男を殺していったい何の得があるんです?」
「紅卍教云々のうそっぱちな話はまずおくとしても、もしフィリモア氏に他に重大な秘密がないならば」と黄色い男は、犀利《さいり》な人間洞察力をたたえた眼をあげて、「原因はクロプマンが二束三文であつめた絵がみんなすばらしい名画であることを、フィリモア氏が知ったことにあるのではありますまいか? 驚きもし、不愉快にもなり、憎しみにまでたかまって、それに慾望の炎が点火されたとみるわけにはゆきませんか? 金銭財物にあこがれるのが、かならず貧乏人にかぎっていると考えるのは浅薄な見解です。むしろ手段をえらばず千万長者になった人の方が貧しいもののちょっとした贅沢《ぜいたく》にやきもちをやき、一シリングにさえも貪婪《どんらん》な渇望をもっているものじゃないでしょうか? ――国家にたとえていえば、この大英帝国のように」
この恐るべき東洋人は、そこで皮肉に、しかし上品でどことなく鷹揚な笑いをにやりと笑った。
「しかしその点はあんまり文学的空想のきらいがありますから、万一私のいままでしゃべったことがあたっているなら、どうぞこのフィリモア氏にたしかめてみて下さい」
「フィリモア氏は中風なんだよ。お気の毒だが、君のいったような大活動はできないからだになっていたんだ!」
私は激怒に身をふるわせながらさけんだ。瞳のはしに悄然としたホームズの姿がもういちどうつった瞬間から、私はかっと全身がもえるような気持になっていたのである。
いままでにも、美しい春の或る朝、一団のガスのなかへ入っていったきり永遠に消息をたってしまった帆船アリシア号の事件とか、一匹の珍奇な虫の入ったマッチ箱をまえにおいて、それを凝視したまま発狂しているのが発見されたイザドラ・ペルサノ氏の事件とか、未解決に終ったものもないではなかった。しかしそれは、他のどのような人物にも絶対不可解な事件だったのだ。いまだ曾《かつ》てこの不世出の大探偵シャーロック・ホームズが敗北したことは断じてなかったのである。
なまいきな日本人は、横たわったままのフィリモア氏を気の毒そうにのぞきこんで、
「ほう、そうですか。それではやっぱりちがいましたかね」と微笑しながらいった。
自分の見解が根本からくつがえされても、さして驚きも失望もしない様子に、かえって私の方が拍子ぬけがしたほどだった。
そのとき、シャーロック・ホームズがしずかに、椅子から腰をあげた。その顔をみた一瞬、私はぞっとした。沈痛な、恐るべき瞬間だった。
「ワトスン君、僕は敗北した。あの人のいうことにまちがいはない。――あれをみるがいい」
指さきの向うに、じっとこちらをみているフィリモア氏の蒼白い顔があった。その顔面筋肉は依然として弛緩し、口からはよだれがたれている。が、そのどんより曇った眼に涙がうかび、その涙の奥から、あきらかに最大の恐怖と悔恨を物語る魂がほのびかっているではないか。……
「ホームズ! しかし、どうしてこの半身不随の人間が……」
「半身不随になったのは半月前とはかぎらない。おそらく、あの殺人を犯してここにもどってきた今朝、恐るべき脳髄に神が復讐の血のしぶきをまいたのだ」
その瞬間、フィリモア氏が奇妙なさけびをあげ、全身を、ぶるぶると痙攣させた。私ははしりよって抱きあげたが、もう呼吸はとまり、脈搏もとまっていた。
「しまった! また卒中発作がおそったのだ」
私は首をふってふりかえった。
「もう手の下しようはないよ。こんどは延髄に出血したらしい」
しばらくのあいだ、一同は暗然として、この永遠に審判の座に召されていった殺人者の屍骸をながめていたが、やがてホームズがふかい讃嘆の眼で黄色い東洋人をふりかえった。
「事件は神の裁きにまかされましたが、しかし東洋にもあなたのようなすばらしい探偵的才能にすぐれた天才があることを、知っただけでもよろこばしいです。帰国なさってから、その方面へ活動なさってもあなたはきっとめざましい成功をなさるでしょう」
「とんでもない、僕は探偵的な仕事は大きらいなんです。正直に申しあげると、世にこれほどいやな下等な商売はないと思っているくらいで」
と、彼はにべもなく、世にもにがにがしい顔つきでいった。私はいささかむっとしながら、
「しかし、あなたの行動にもずいぶん奇妙な点がありましたよ。クレイグ博士のところで、どうしてあなたはあんなに蒼い顔になったり、突然とび出したりしたのですか?」
「え? ああ、あれは胃がいたんできたのですよ。僕は生来胃がわるくってね。たまらなくなってきたのです。もっとも、散歩しているうち、いくらか痛みはうすらいできましたがね」
と、彼はかなしそうな表情でいった。
「尤も、胃ばかりではなく、このごろ頭の調子もわるいので、変なふるまいとみられるようなことをしたのかもしれませんね。留学の期間はみじかし、費用は雀の涙ほどですし、このあいだに最大限の勉強をしておこうとする無理がたたったのかもしれません。ふいに大声で泣き出したくなったり、笑い出したくなったりする発作にうたれることもあります。
そればかりでなく、これが文明国にきた未開国人のだれでもが経験するひどい劣等感かとも思いますが、たえず英国人全体が私をばかにし、虐待し、監視し、追跡し、悪口をいっているような強迫観念におそわれるのです」
「そんなことはありません。あなたのような方を生んだお国をどうしてわれわれが軽蔑してよいものですか。いまに日本がわれわれの恐るべき敵に――いや、力強い友邦となることは眼にみえていますよ」
シャーロック・ホームズは魂の底からしぼり出すように、めずらしく誠実な声音でいった。
「よし探偵にならなくても、私はあなたのそのすばらしい分析的才能と綜合的才能とそして想像力を人間の心に――文学の世界に用いて大成なさるように祈ってやみません。どうぞ、もういちど、あなたのお名前をおきかせ下さい」
黄色い日本人は、うすあばたのある鼻の頭にちょっと皺をよせて笑ったが、やはり誠実な調子でしずかに答えた。
「それほどえらくなれそうな人間ではありませんが、では、キンノスケ・ナツメとおぼえておいて下さい。むろんお忘れになっても結構です」
[#この行1字下げ]「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり。……英国人は余を目して、神経衰弱なりと云えり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云える由。賢明なる人々の言う所には偽りなかるべし」
[#地付き]――夏目漱石「文学論」序――
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〈関連年表〉
年 出来事
寛政二年(一七九〇) 石川島人足寄場の設置、後に監獄に
文久二年(一八六二) ユゴー『レ・ミゼラブル』
明治元年(一八六八) 明治維新
江戸町奉行所が市政裁判所に改まる
一月、鳥羽伏見の戦い
明治五年(一八七二) 九月、新橋〜横浜間鉄道開通
帯刀禁止令
明治七年(一八七四) 一月、警視庁の設置
二月、江藤新平による佐賀の乱
明治九年(一八七六) 三月、廃刀令の発布
八月、高橋お伝事件
明治十年(一八七七) 西南戦争
明治十一年(一八七八) 五月、大久保利通暗殺事件
明治十三年(一八八〇) コッホによるチフス菌の発見
明治十四年(一八八一) 七月、斬首刑の廃止
十月、自由党結成
開拓使官有物払い下げ事件
[#この行13字下げ]十二月、木村荘平のいろは牛肉店一号店がオープン
明治十五年(一八八二) 五月、岐阜事件(板垣退助刺傷事件)
[#この行13字下げ]十二月、福島事件(県令三島通庸の土木工事強行に対して、県会議長河野広中らが反発。県政に不満を抱く数千の農民が決起した事件。これをきっかけとして多数の自由党員が弾圧された)
明治二十年(一八八七) ドイル『緋色の研究』
明治二十四年(一八九一) 四月、ロシアのニコライ皇太子が長崎に到着
五月、大津事件
明治二十七年(一八九四) 七月、日清戦争開戦
明治三十三年(一九〇〇) 九月、夏目漱石、ロンドン留学に出発
明治三十四年(一九〇一) 夏目漱石『倫敦消息』
明治三十七年(一九〇四) 二月、日露戦争開戦
明治三十八年(一九〇五) ドイル『シャーロック・ホームズの帰還』
明治四十年(一九〇七) 夏目漱石『文学論』
明治四十四年(一九一一) 森鴎外『雁』
[#地付き](作成・日下三蔵)
山田風太郎 (やまだ・ふうたろう)
一九二二(大正十一)年一月、兵庫県養父郡関宮町の医家に生れる。三六年中学に入学、その頃の仲間の渾名が雲太郎、雨太郎、雷太郎で、筆名・山田風太郎の契機となる。四九年、「眼中の悪魔」「虚像淫楽」で第二回探偵作家クラブ章を受賞。五〇年、東京医科大学を卒業するが、医師の道を進まず、作家として身を立てる決心をする。
『甲賀忍法帖』『くノ一忍法帖』を初めとする、風太郎忍法を生み出し、忍法ブームをまきおこす。さらに四八年より『警視庁草紙』『幻燈辻馬車』『明治波濤歌』など、独自の手法による明治もの≠発表、ファンをうならせる。他に、『人間臨終図巻』『あと千回の晩歌』など死をみつめた作品もある。二〇〇一年、尊敬する江戸川乱歩と同じ、七月二十八日没。
本作品は一九九七年一二月、ちくま文庫として刊行された。