山田風太郎明治小説全集12
明治バベルの塔
目 次
明治バベルの塔
牢屋の坊っちゃん
いろは大王の火葬場
四分割秋水伝
作者後口上
明治暗黒星
関連年表
[#改ページ]
明治バベルの塔
―万朝報暗号戦―
一
「万朝報《よろずちようほう》は、廟堂の諸卿が淫猥《いんわい》の文学を坑《あな》にせんとまで国家の風教を重んぜんとするを見て、甚《はなは》だこれを多としたりき。しかるに今や彼らが千万言の道徳論も何の効なき事実に遭遇し、彼らのために痛嘆せざるを得ざるのみならず、彼らのいわゆる国家道徳のために深く歎息し、その流毒の及ぶところを想像して、慄然《りつぜん》肌に粟《あわ》するを禁ずる能わざるものなり。……」
黒岩|涙香《るいこう》はここまでいっきに筆を走らせて、そのとき扉のあいたままの社長室に幸徳秋水がはいって来たのをちらっと見たが、それにはかまわないで筆をつづけた。
「いやしくも国家の大事にあたるもの、芸者買いや妾狂いなどの女道楽をせねば何の仕事もできぬほどやくざな脳味噌や身体なら、彼らに元老大臣を頼み申さずとも、国民はいささかも困りいたさず。……」
秋水は歩いて来て、うしろにまわり、これを黙読しはじめた。涙香は意に介する風もなく、さらに筆を走らせる。
「事はすなわち総理大臣桂太郎君に関するものなり。……」
そこで彼は、はじめて煙管《きせる》をくわえた。涙香は、「余が鼻は煙突のごとし、終日煙を吐く」といったほどの愛煙家であった。
「君、新橋の芸者で、お鯉っちゅう名を知っとるか」
秋水が読みおえたらしいのを見て、涙香は声を出した。
「ああ、知っております」
秋水はうなずいた。
「むろん私なんぞがお近づきになれる身分じゃないが、なにしろ役者の羽左衛門や相撲取りの荒岩の女房になったり別れたりしたあげく、また芸者に戻ったという派手《はで》な履歴を持つ女人ですからな」
「桂は、そのお鯉を妾にしようとしておるっちゅう話だ」
「新橋から聞いて来ましたか」
と、秋水が笑うと、涙香はちょっと照れたような表情をした。彼にも新橋になじみの芸者がいるのである。
秋水は、この「まむしの周六」と世間から呼ばれる社長が、案外に照れ性《しよう》なところがあるのをちょっと好ましく思っているが、涙香は次に真っ赤な顔になって、
「おれなんぞとは立ち場がちがう。いやしくも一国の総理大臣だぞ」
と、うなるようにいった。
「しかも、その総理大臣には、先月なったばかりじゃないか。……その上、聞いたところによればじゃ。夫人はちゃんとあるのに妾を持つことを勧めたのは、山県や井上や伊藤らだそうだ。彼らは、総理の激職には頭やすめが必要だから、といっとるという。ナニが頭やすめだ」
「みんな芸者を女房や妾にしとる連中ですな」
「日本の元老は女衒《ぜげん》と見える。落籍代は七千円とか聞いた」
涙香はいきまいた。
「これから猛烈に筆誅《ひつちゆう》を加える」
「結構ですな」
と、秋水はいった。
涙香はこの情報を昨夜仕入れたのであった。それで昂奮して、きょう社に出て来ると、すぐに右の原稿をしたためはじめたのだ。ところが、こんなニュースを聞くと自分に倍して立腹しそうな秋水が、意外に落着いているのに、涙香は少し拍子《ひようし》ぬけの感じがした。
「幸徳君」
「はあ」
「君はこんな話を聞いて、公憤を感ぜんのかね」
「感じますよ。実に呆れはてた話で」
「それにしてはだいぶ冷静じゃないか。――我輩はこれでも決死の覚悟だ」
「そりゃそうでしょう。総理大臣に、こんな問題でかみつくのは、いままでに例のないことですからな」
「発行停止処分を受けるかも知れんが、君はどう思う?」
「いいじゃないですか。万朝報に名誉の歴史を刻《きざ》むことになります」
「万朝報がつぶれるかも知れんが、それでもいいか」
「黒岩さん」
と、秋水はしずかにいった。
「ほんとうに、あなたにその覚悟がありますか?」
涙香の顔にちょっと動揺が走ったようであった。
「いや、まったく私は黒岩さんの勇気に感心しておるのです。土佐のイゴッソウの先輩として敬服します。ただ、しかし……その弾劾《だんがい》は無効でしょう」
秋水は悲しそうにいった。
「桂の行状は変らんでしょうし、元老連中の無神経は癒《なお》らんでしょう」
ふとって、あから顔をした涙香にくらべ、幸徳秋水は痩せて、小柄で、寒々とした印象を与える男であった。が、そう見えて、その内部に、自分よりももっと烈しいものを――おっかない、と思われるようなものを蔵していることを、涙香は知っている。その色のない炎が、いまめらめらと秋水の身体をふちどったような感じがした。
「あいつらは日本をわがもの顔に心得、国民を虫ケラ同様に思っているんです。そして、それよりもっとやり切れんのは、国民のほうでそれを当然と考えていることです。この根性が癒らんかぎり、しょせん言論など盃一杯の酒でしょうな」
明治三十四年七月下旬。――京橋弓町の万朝報社長室である。そこに各種新聞雑誌、事務上の帳簿類などが積みあげてあるのは当然だが、異彩をはなっているのは、壁際の書棚にギッシリならんでいる洋書と、そして机のまわりにおいてある碁盤《ごばん》、小卓上のトランプ、花札のたぐいだ。向うには、撞球《どうきゆう》台まである。
このとし社長の黒岩涙香は数えで四十歳、論説社員の幸徳秋水は三十一歳であった。涙香は洋服を着ているが、秋水はゆかたの着流し姿であった。
涙香は、銀ぶちの眼鏡ごしに、憮然たる眼で相手を見まもっている。そういう眼になったのは、二つの混合した心情による。一つは、彼がこの年若の記者を心中ひそかに畏敬していたから、いまの言葉でちょっと気勢をそがれたのだが、もう一つはそれと反対の闘志であった。
「君がそんなことをいう!」
と、吐き出すようにいった。
「盃一杯の酒で結構だ。そいつを浴びせかけてやる。ただし、これは司牡丹《つかさぼたん》の熱燗《あつかん》だぞ」
怒気をふくんでいったが、自分の口から飛び出したこの形容に自分で笑い出して、それでやや平静をとり戻したと見えて、
「君、何か用かね」
と、あらためて訊《き》いた。秋水はいった。
「黒岩さん、二六がいよいよ三井攻撃を始めるらしいですぜ」
「ふうん。……」
「私の見込みによると、これは当ると思います。一般民衆にとって元老大臣はまだお国のため、と見のがすところがありますが、財閥にはみな反感をおぼえていますからな。その幹部連の豪奢な生活、女性関係の乱脈、役人との結託ぶりなどをあばけば、これは大きな憤激を呼ぶでしょう」
「そりゃそうだろう。しかし、だからといっていまさらこっちもその真似をして、三井攻撃をやるわけにもゆかんが」
「もっと攻撃するに足るものがあります」
「なんだ」
「足尾銅山です」
「足尾か。あれは鉱毒防御工事命令が出て、古河鉱業側が大々的にその通りやったはずだが。……」
「それが全然無効なのです」
秋水の髭《ひげ》がふるえた。
「私、この間も何度目かの足を現地に運んで、その工事でかえって鉱毒の惨害がいよいよ広がり、いよいよ甚だしくなっているのに衝撃を受けました。渡良瀬《わたらせ》川一帯、山河に生色なしといったありさまです。……大臣の獣欲はむろん、財閥の驕慢もまだ民衆には雲霧をへだてての現象ですが、あの銅山の害毒は現実の地獄絵として眼前にある。万朝報はこれを大々的に報道し、これを徹底的に批判するために起《た》つべきです」
「いや、それは以前、何度も記事にしたつもりだが。……」
「あの程度では足りません。これこそ社運をかけてやらなくちゃいけません」
意外にも、こんどは涙香のほうがむずかしい顔をして、煙草のけむりを吐いているばかりであった。
ややあって、あまり乗気でないつぶやきをもらした。
「それならその前、古河側の鉱毒防御工事を慎重に調べんけりゃ、簡単に記事にはしにくいぞ。……」
二
「万朝報」は明治二十五年に涙香が創刊した新聞だが、みるみる朝日、読売を追いぬいて、このごろは八万部という日本一の部数に達していた。それはあくまでも大衆新聞としての方針に徹したからであった。
最初の呼びものになったのは、涙香みずから筆をとった「死美人」「鉄仮面」「白髪鬼」「幽霊塔」などの飜案西洋探偵小説で、げんに「巌窟王」を連載中だ。彼がこういうものを書いたのは、何も日本探偵小説史上の遠祖たらんとする野望からではなく、ただ新聞を売りたいがためであった。
次に、原始的なまでの懲悪主義をふりかざし、具体的には曝露記事を売り物にした。個人を槍玉にあげて執拗な人身攻撃のいけにえとしたのである。それは下劣残酷と評されるほどで、彼が「まむしの周六」という異名をつけられたのはこのためだ。数年前には、「獣欲獣行、しかもなお紳士の名を冒《おか》せる怪物」と銘うち、妾を蓄《たくわ》えている紳士たちを実名で紹介する、ということまでやった。
その一方で論説陣には、万朝報とは異質と見える内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦などいう知識人を迎えて、清新で自由な筆を揮《ふる》わせた。
さらに、市民的娯楽を普及するために、連珠、撞球、トランプ、カルタ遊戯などの欄を作り、また両国の大相撲を記事にした。社長室にある碁盤、花札などはそのための研究用のものであった。
現代では当然な新聞の編集だが、こういうことも実は涙香の独創だったのである。彼は天才的なジャーナリストであった。
ところが、去年に至って、突然、強力なライヴァルが台頭した。
「二六新報」という新聞だ。出したのは秋山定輔という怪人物で、これが万朝報を真似て、しかもそれに輪をかけて煽動的な紙面であった。しかも――他紙が一部一銭三|厘《りん》から一銭五厘というのに、万朝報は一銭で売り出してそれで成功したのだが、二六新報はなんと二厘というメチャクチャな定価だ。
それではどう計算しても赤字になるばかりではないか、と計算高い涙香も首をひねったが、その二六新報がみるみる部数をのばして万朝報を追いぬき、十万部に達し、多量の広告の申し込みを受けて、充分採算が合っているという事実を知るに及んで、さすがの涙香も舌をまいた。
さて、この明治三十四年夏、三井財閥攻撃で天下の話題をさらった二六新報が、ついで打ち出した新アイデアの販売手段は万朝報をいよいようろたえさせた。
月ぎめの購読者に福引券をくばり、抽選で一等から十二等まで景品がつくという企劃を発表したのだ。一等は純金三十|匁《もんめ》の延棒《のべぼう》、二等は上等白米五俵、三等は三十円の商品券、以下順次十二等までナベカマのたぐいをくばるというものであった。
万朝報の読者は、雪崩《なだれ》を打って二六新報に移りそうな気配が現われた。販売部長が不安そうに、同趣旨の企劃を持ち出すと、涙香は怖ろしい顔でどなった。
「わかっちょる! じゃが、二六とそっくり同じ福引などが出来るか。黒岩周六が秋山定輔のまねが出来るか!」
八月半ばのある午後、社長室で、ふんどし一つで頭に濡《ぬれ》手拭いをのせ、それでも汗をかいてフウフウいいながら、机に向って何か苦吟していた涙香は、吹き通しになった入口からはいって来たのが、幸徳秋水と内村鑑三であることを見ると、驚いて立ちあがり、あわててそばの着物をまとった。
幸徳はともかく、内村鑑三は、自分のところの社員でありながら、涙香が「わが厳師」と呼んだほどの存在であったのだ。
社長の狼狽ぶりを見て、「まあまあ」といいかけた秋水も、詰襟の黒い服を着た内村が厳然と立って黙っているので、これも口をつぐんでそっくり返った。内村鑑三はこのとし涙香より一歳年長の、数えで四十一であった。
「お暑いですな」
やっと内村は、それでもこんな挨拶をして口を切った。
「実は、二つの用件でここへうかがったのですが」
「何ですか」
「一つは、お礼です」
「お礼?」
「それは――例の二六新報の福引騒ぎですな。あんな低級で愚劣な策に、あなたがとり合われない――先日販売の方に、二六のまねが出来るか、と叱咤されたそうで――その御態度に内村は敬意を表したいのであります。いうまでもなく新聞は、あんな邪道で売るべき性質のものではありません。どうかこれからも、その御方針を御堅持下さらんことを望みます」
涙香は眼鏡の奥で眼をパチパチさせて、
「もう一つは?」
「近く、田中正造氏に逢って下さらんか」
「田中正造さん。――」
それがここ十年ばかり、渡良瀬鉱害の惨を訴え、被害農民の救済と銅山の中止をさけびつづけている栃木県選出の老代議士であることは、むろん涙香も知っている。
「先日、はじめてお逢いしたのですが、まさしく明治の義人というべき人物だと感銘しました。聖書を捨てよ、ただちに渡良瀬川に来いと私は叱られました」
と、内村はいった。涙香はあいまいに笑いを浮かべた。
「私が逢うと、万朝報を捨てて渡良瀬川に来い、といわれるんじゃないかね」
「いや、そんなことは申しません。田中さんの正当にして悲壮な訴えに、万朝報が全面的に協力せられんことを懇願されるでしょう」
「とにかく田中さんにいちど逢って下さい」
と、秋水もいった。涙香は首をかしげた。
「さあ、逢っていいか、どうかねえ」
「どうしてです」
「その全面的協力というのが困る」
「田中さんの訴えに反対ですか」
「反対はせん。それどころか、その訴えの正当性は充分認めて、以前から何度か私も論じているじゃないか。……ただ、いかんせん、万朝報の読者は栃木県にほとんどない」
「黒岩さん」
内村鑑三は声をはげました。
「これは栃木県の問題ではありません。個人的な一産業のために数十万人の農民が滅亡状態に追いこまれているのを放置していていいのかという――これは日本という国のありように関する根幹的な問題です」
「それもわかっています。しかし、先生」
涙香も大声でいった。
「口はばったいが、私は、新聞というものの本来の性質は、決して利にあるのではない。義だ、正義だと信じて、万朝報を出しております。しかしながら、それでも最低の限度はある。それは万朝報をつぶしてはならん、ということです。いや、それも事と次第ではつぶしてもやむを得ん場合もあるでしょう。しかし不肖黒岩は、足尾銅山問題で万朝報をつぶしてもいいとは考えておらんのです」
「何もつぶせとはいっておらん。万朝報はもっと売れるかも知れん」
と、内村はいった。涙香は首をふった。
「いや、だめです。東京人はその問題にあまり興味がありません」
「東京人に興味がないからこそ、万朝報が。――」
「いけません。――黒岩周六は、万朝報の記者であるとともに経営者であり、全社員の責任者でもあります。その経営者と責任者の立場にかけて、いまあなた方の御希望にそうわけには絶対に参りません」
涙香は、老獪《ろうかい》な、しかししぶとい笑顔で答え、ふりむいて、机の上から、さっきまで何か書いていた紙をとりあげた。
「それどころか、先生、ただいませっかくお褒《ほ》めをいただいたが、私はやはり万朝報にも懸賞をつけることにしたのですよ」
「へええ」
と、秋水が奇声にちかい声を発した。
「やっぱり、福引ですか」
「いや、そんな無意味なことはやらん」
おれは無意味なことはやらん、というのが涙香の口癖であった。――彼は団子《だんご》鼻と形容していい大きな鼻をうごめかした。
「クイズだ」
「クイズ?」
「この英語の語源について然るべき説があるが、まあ日本の謎々《なぞなぞ》遊びだ」
涙香は紙片を秋水につきつけた。
「幸徳君、君、これが解けるかね?」
紙には、まずこんな文字が書いてあった。
サイネアワサドカクナデコ
三
「何です、これは?」
「もとは一つの文章さ。カナにすると、十二字になる。それをメチャクチャにならべ変えたものさ」
「これが、一つの文章。――」
「このバラバラの文字で意味のある言葉を作って、もとの順にならべ戻すと、ある場所を示す文章となるんだがね」
「ほほう。……」
秋水はこの奇妙な文字をにらんで、口の中でブツブツつぶやいたが、
「何が何だか、さっぱりわかりませんな」
と、匙《さじ》をなげたようにいった。
「うん、これには応募規定が必要で、そこに、この文章は七五調になっていること、読み方は表音式による――ハをワと読む場合はワとしてある――ことなどを断わるつもりだがね」
「七五調……表音式……それでも、まるで見当がつきませんね」
「アサクサデナイ、カネワドコ、さ。浅草でない、金はどこ」
「ははあ。……」
秋水はまた口の中で読みくらべて、
「なるほど、字は合っているようですな」
と、うなずいたが、
「で、この文章が現われて、それからどうするのです?」
と、けげんな表情をした。
「それが第一問さ。このカネは金と鐘の二つを意味している。ここでこっちは、花の雲鐘は上野か浅草か、という有名な芭蕉の句を思い出してもらいたいんだよ。つまり、鐘が浅草でないとすると、上野だということをね。――次に、第二問」
涙香は紙片の次の文字を指さした。
ロドイシヌマナヤワイデコ
「ううん」
うなっている秋水に、「どれどれ」と、ついついつりこまれて内村鑑三ものぞきこんで、ややあってこれも「ううん」と、ニーチェみたいな顔をして、
「まるで崩れたバベルの塔の破片だね」
と、深遠なつぶやきをもらした。
「シロヤマデナイ、イヌワドコ。――城山でない、犬はどこ、だ」
涙香はいった。
「上野は西郷どんの銅像じゃ」
高村光雲作るところの犬を連れた西郷の銅像は、三年ほど前に建てられたばかりであった。
「そして、第三問」
秋水は眼を移した。
ミロミケシウシニギギハン
涙香は説明した。
「ウシロミギハシ、ミギニケン。――うしろ右はし、右二|間《けん》」
「というと?」
「つまり、上野の西郷の銅像の台座、うしろの右端から右へ二間、ということだ」
「それがどうしたのです?」
「そこを掘ると、金が出て来るという仕掛になっとる。これが万朝報のクイズだ」
「へへえ」
「おれはこうしようと思っとる。毎週、月曜日に第一問、水曜日に第二問、金曜日に第三問を掲載する。第一問を解いた人間でなくちゃ、第二問に移れない。第一問第二問を突破した人間でなくちゃ、第三問にとりつけない、という仕組みにね。これを、問題を変えて毎週やる」
「その金、というと?」
「あらかじめ、こっちで埋めておくのさ。いまそれは、五百円と考えとるがね」
「五百円!」
秋水は眼をむいた。秋水の月給は六十円、内村の月給は百円、これは万朝報なればこその高給であったが、この懸賞金は一回で五百円。ちょっとした家が建つ金額だ。
「万朝報は、二六のような、あんな子供だましのことはやらん。これだけの知的な仕掛をやるなら、大衆の頭脳訓練として内村先生もお認め下さるのじゃないか。――」
内村鑑三は、紙上の文字の羅列を見ていて、しばらくしていった。
「黒岩さん、あんたは無意味なことはきらいだとさっきいわれたが、これも私にはまったく無意味な頭脳訓練に思われますがね」
「そりゃ先生から御覧になりゃ、聖書の研究以外はみな無意味でしょうが。――何しろこれは大衆相手のことですからな」
「大衆相手とおっしゃるが、黒岩さん、こいつは少しむずかし過ぎやしませんかねえ」
と、秋水は嘆じた。
「十七字の俳句でさえ、無限に出来るのですぜ。こりゃそれより少ない十二字だが、それでもその組合せは無限に近い。あなたのほうはもとの文章を作った本人だから、もとに戻すのは何でもないでしょうが、第三者にとっては、それこそバベルの塔の残骸からまた塔を組み立てるにひとしい難事ですよ」
「そうかな? 私はそれほどとは思わんがねえ」
涙香はあらためてその紙片の文字を眺めながらいった。
「組合せは無限だといっても、言葉になる組合せには限りがあるからね。とにかくこの文字を拾って、いくつかの言葉を作る。その言葉を連結して一つの文章を作りゃいいんだから。――それに、あまりだれもかれもがやすやすと解答を出して、何千人もが西郷さんのところへ押しかけるようになっても困るしね。いや、そういう騒ぎも販売政策上いいかも知れんが、毎週五百円ずつ持ってゆかれては、万朝報が破産してしまう」
新聞一部が一銭だから、涙香の心配ももっともだ。
もっとも、それならこんな企劃を考え出すのはおかしいが、一方で当選者が稀なことも計算にいれているのだから、その点はちゃっかりしたものだ。
「ただし、みんなにはじめから投げ出してしまわれては、たしかにアブハチとらず、だな。――よろしい、幸徳君に譲歩してその忠告を受けいれよう」
涙香はしばらく考えて、第一問をこんな風に書き換えた。
コアサクサイワカネドナデ
「応募のためのヒントとして、一行中に二つの単語がはじめからそのままはいっていることを教えておこう。この場合は、アサクサとカネがはいっとる。あとの文字でそれを結び合わせりゃいいことになる。これならだいぶらくだろう」
「少しはそれでとっつき易くはなったでしょうね。それでも私から見れば、まだむずかしいと思いますが……まあ、それくらいでやってごらんなさい」
「それじゃ、君も賛成だね?」
秋水は苦笑したが、異論は出さなかった。
「いや、内村先生も許して下さい。これは食うか食われるかの戦争で、二六に負けないために私も一所懸命なのです。これはきっと万朝報の呼びものになります」
涙香はものに憑《つ》かれた人のようにいった。
社長室を出て、騒々しい編集局の中を歩きながら、幸徳秋水は頭をかいた。
「つい、ひきずりこまれてしまいましたなあ」
内村鑑三は嘆息した。
「相変らず、黒岩さんは凝《こ》り性だねえ」
「何しろ五目並べの欄を作るのに、自分で碁盤を出して三日三晩眠らないで研究するという人ですからね」
「あの徹底性が、そんなことにむけられるのはもったいない話だ。正義感も人並以上にあるほうなんだが」
秋水は首をかしげた。
「いや、あの人の正義は、ただ新聞を売るための正義ですよ。商売上の正義ですよ。いわば、濁った正義ですよ。――いちど、何とかその点についてあの人の眼をひらかせてやる必要があるかも知れませんな。あはは」
内村は秋水のことを「羽織を着たアイクチだ」と評していた。
四
数日後、万朝報に、「万朝報精読賞、宝探し」の社告が出た。
「解くべし、探すべし、拾うべし。
このたび万朝報は、百万の読者の御愛顧に応え、目下西洋の新聞界で大評判の『宝探し』(missing treasure)を当社独特の新案にて行うことになりました。読者諸君こぞって御参加下さい。
万朝報は、ある場所に五百円の大金を隠しております。
その場所は東京で、地の下あるいは水の中三寸または五寸ばかりのところにあります。
それは、月、水、金の万朝報に出る三回の謎々の文字を解けばわかります。詳しくは次の注意をよく読んで下さい。
ただし、埋めるか沈めるかしてあるのは、『一金五百円也、万朝報』と書いた小判型の木札ですが、それを本社におとどけになれば、ただちに現金五百円をお渡しいたします。
早いもの勝ちです。幸運な方は、毎週五百円ずつ手にはいることになります。
ただし、正解者の出ないときは、日曜日の午後十時までにその木札は回収します」
その次に、バラバラの十二字を組み換えて一つの文章とすること、それは字余りの場合をのぞき原則として七五調となっていること、問題の十二字中に解答中の言葉がそのまま二個所はいっていること、などを懇切に説明した応募規定が載っていた。五百円という金額が大活字であったことはいうまでもない。
第一週の問題は、涙香が秋水たちに示した原案が、第二問以下も単語が二個所はいるように訂正されて使われた。
月曜日。
コアサクサイワカネドナデ
水曜日。
イシロヤマドデイヌワコナ
金曜日。
ギミハミギケウシロニシン
これはたちまち話題のまととなった。むろんケタはずれの賞金にみなが沸いたのだが、その問題のむずかしいことが、かえって興味を呼んだのである。秋水には意外であったが、涙香の狙いのほうが当ったといえる。
一家が首をよせ集め、手分けして十二文字をいろいろと組み換える風景がいたるところ現われ、それがブームとなった。
しかし、むろん容易には解けない。その第一週の問題も正解者はなかった。その夏四週のうち、みごとに解き当てたのは一週だけであったが、これがまんまと五百円手にいれたというニュースが、また万朝報の煽動的な記事になった。
その当った問題を次にあげる。――いまの読者の中で物好きな方があれば、左の問題よりあとの部分を紙で伏せて、ひとつ解いて見られるのも一興だろう。
月曜日の問題。
カルクニハフタツニシカノ
水曜日の問題。
ノシノハシタシタモトノニ
金曜日の問題。
カサンボンノナイグノミズ
正解は、月曜日の分は、「フタツノクニニカカルハシ」で、フタツとクニがそのままはいっている。
水曜日の分は「ニシノタモトノハシノシタ」で、タモトとシタがはいっている。
金曜日の分は、「サンボングイノミズノナカ」で、サンボンとミズがはいっている。
すなわち、
「二つの国にかかる橋」これで両国橋と解く。そのころの両国橋はまだ木製で、鉄作りのものがその上流五十メートルばかりの場所にかけられたのは、これより三年後のことであった。
「西のたもとの橋の下」
「三本|杭《ぐい》の水の中」
つまり、両国橋の西のたもとに三本杭があり、そこの水の中に木の小判がぶら下げてあったのだ。
次に、当らなかった他の問題の一つも例としてあげておく。
月曜日の問題。
ノシアトカシロウヤムアリ
水曜日の問題。
ノノトキノカネラハタツミ
金曜日の問題。
ハイヌイロクドウセンノシノ
これはそれぞれ、ロウヤ、アトがはいって「ムカシロウヤノアリシアト」、トキノカネ、タツミがはいって「ハラノタツミノトキノカネ」、イヌイ、ロクドウセンがはいって「イヌイノハシノロクドウセン」となる。
すなわち、
「昔牢屋のありし跡」
「原の巽《たつみ》の時の鐘」
「乾《いぬい》の端《はし》の六道銭」
と、いうことになる。
牢屋も時の鐘も六道銭もはいっているじゃないか、というのが涙香の言い分であったが、これはたとえ右のごとく解けても、なお読者にはわからなかったかも知れない。
昔牢屋のありし跡とは、旧幕時代伝馬町の牢屋敷のあった跡で、まだ原っぱのままになっているところに、その巽――東南隅に、時を告げる鐘楼が立っている。その乾――西北の角に、六道銭すなわち地底の金が埋めてある、という意味であった。
涙香の凝り過ぎの例である。
これらの問題は、すべて涙香が考えた。考えたのみならず、万朝報社員にも知られないために、その木の小判を埋めたり沈めたりするのも、必ず彼自身がやった。のちに社員の倉辻白蛇が書いている。
「懸賞の目的物を配置するに、秘密の他に洩れんことを恐れて単身その事に任じ、深夜|鍬《くわ》を抱《いだ》き人目をしのびて巷《ちまた》を徘徊せることあり、暁闇宝を抱いて身を日本橋の水中に投じたることあり。しかれば懸賞の手段工夫よりこれが実行にいたるまで、一々独断専行して毫《ごう》も他の協力を俟《ま》たず、その細心緻密なると、その精力絶倫なるおおむねこの類《たぐい》なり」
当たらなかった問題も、あとで必ず解答を出したから、読者はみなくやしがり、面白がり、納得した。
ともあれ、この「宝探し」は大評判となって、万朝報はみるみる二六新報を抜きかえし、十一万部に達した。
五
その鼻高々の涙香が、これをよろこんでいいのか悲しんでいいのか、わけのわからない心境にある幸徳秋水のもとに、ただならぬ顔を持って来たのが、九月半ばのことであった。
「幸徳君、どうもひっかかる事件に遭遇した」
「何ですか」
「農商務省に鉱山監督署という役所がある。そこの元署長が、いまの署員十数人と新橋で連日豪遊しとるのだ」
「元署長というと?」
「草田貞蔵という男だがね。この春、役人をやめたが――旧交を暖める、と称して、その費用はぜんぶ草田から出ているらしい」
「ふうむ。しかし、それがどうかしましたか」
「草田はいま古河鉱業の重役になっちょる」
「へへえ」
「幸徳君、おれはしまったことをしたかも知れんぞ。この夏な、君が足尾銅山のことをいい出したとき、古河のほうは懸命に鉱毒防御工事をやっとるから、その結果を見てからのことにしよう、と、おれはいった」
「そう、おっしゃいましたな」
「その防御工事が完全か不完全かを調べるのが、政府の鉱山監督署じゃ。その署長が古河の重役になっとるとは面妖だ、と調べてみると――政府の足尾銅山鉱毒防御命令は、三十一年に第一回目が出、監督署の検査が通ったが、まだ鉱毒がとまらんというので、去年の秋からこの春にかけて二回目の工事をやった。これまた検査が通った。そのときの署長が草田で、そのすぐあとに草田は役人をやめ、この夏に古河の重役になっとるのだ」
「ははあ」
「それがかつての部下と豪遊しとるのはどういうわけか」
涙香のふとった顔は赤らんでいた。
「草田は検査に手心を加え、その見返りで古河の重役になり、そしてこんどは同じ穴のむじなたるかつての部下に、口封じをかねて褒美をやっとるのだ。あるいは、顔をきかせて、これからもよろしく頼む、と籠絡《ろうらく》してるのだ。それ以外に考えられん」
「それにしても傍若無人ですな」
「いや、君にあやまる。こういうことは許せん。断じて筆誅を加えてやらんけりゃならん。君、君が書く気はないか」
「やってもいいですが。――」
秋水は首をかしげて、
「ききめがありますかねえ。検査に手心を加えたとか、豪遊はその礼だとかの証拠があればとにかく――そんな証拠はあがらんでしょう。へたな記事にすると、名誉毀損罪か官吏侮辱罪でやられますよ」
少し虚無的に彼はいった。
「告訴されるならまだしも、この前あなたが筆誅を下された桂でさえ、訴えるどころかどこ吹く風で、お鯉をあれから永田町の官邸にいれて身の廻りの世話をさせておる。それで世間も何も騒がんじゃありませんか」
「おいおい、幸徳君、君はこの前、桂なんかより古河をやれといった。これはその古河にからんだ事件だぜ」
「それはわかりますが……私はその後いよいよ、権力や財力を持ってる連中には、言論なんてものはしょせん蚊が刺したくらいの力しかないんじゃないかと感じられて来ましてね」
「それじゃ君、この件については拱手《きようしゆ》傍観しとれというのかね」
「いえ、そりゃ糾弾しなけりゃなりませんが、何か相当思い切った工夫《くふう》が必要なように思います」
「工夫というと?」
「さあ、それが私にも、ちょっと思い浮かばないんですが、とにかくそんな気がするのです。……ところで黒岩さん、その情報は栄龍|姐《ねえ》さんのほうからのお仕込みですか?」
涙香は答えず、ただまごついて、赤い顔をした。
六
「幸徳君、工夫ができたよ!」
涙香が大声で呼びかけて、秋水を社長室に連れこんだのは、十月半ばのある朝であった。その日は内村鑑三は出社していなかった。
「工夫? 何の工夫です?」
秋水は、キョトンとした表情をした。
「例の鉱山監督署の連中の件だ」
「ああ、あのことですか」
実は、あれから一ト月ばかりたって、涙香がその件について何もいわないので、秋水は一応忘れていたのだ。
「どういう工夫です」
「それをいう前に、君に聞かせたい話がある。事はいよいよ出でて、いよいよ奇怪なことになった」
「と、おっしゃると?」
「調査の結果、判明したことだが、まあ聞きたまえ。――例の草田貞蔵だね。あれは花月の女将《おかみ》と出来とる。それ、鉱山監督署の連中が豪遊しとるお茶屋じゃ。そのことが家のほうにばれて、草田の息子が花月へ、父がここへ来ないようにしてくれ、と頼みに来たこともあるそうだ」
「草田の息子が。――」
「まだ慶応の学生らしいが」
「ほう」
「ところで、一方で花月には、農商務大臣の芳川東助もときどき遊びに来る。農商務省は、鉱山監督署を管轄《かんかつ》しとる官庁だがね。つまり芳川は草田の元上司にあたるわけだ」
「芳川が来るっちゅうのは、鉱山監督署の連中といっしょなのですか」
「いや、それは別々らしい。しかし、草田が女将《おかみ》と出来とることは知っとるようで、ときどき女将《おかみ》をからかっとるという」
「なるほど」
「芳川東助は、大臣中でも名題《なだい》の好色漢でね。お茶屋に遊びに来て、気にいった芸者があると、あれを今夜我輩のところへ、と指さして、そういい出したら、その芸者に旦那があろうとなかろうと――新橋あたりのちょっとした芸者には、みんな然るべき実業家の旦那がついとるが――相手がだれでも、自分の言い分を通さずにはおかん、っちゅう男だ」
「女ぐせの悪い大臣だ、っちゅう噂は聞いとります」
「その芳川が、先ごろある雛妓《おしやく》を指さした――のだが、その妓《こ》が首をたてにふらない。芳川はことし六十一で、その妓《こ》はまだ十七なのだから無理もない。どうせそのうち芸者《いつぽん》にしなけりゃならんことはわかってるが、一夜の慰みにするだけであとの面倒見の悪い芳川じゃ、その妓《こ》の先々が思いやられる、と、その妓《こ》を出してる芸者屋の主人も承知しない。となると、芳川はいよいよ執心する。間にはさまった花月の女将は大弱りだというのだ」
「ははあ」
「やはり筆誅を加えんわけにはゆかんだろう」
涙香はいった。
「しかもだ。その雛妓《おしやく》が――小雪というが――鉱毒で流亡《るぼう》の運命におちいった渡良瀬村の農民の娘と聞くに及んではだ」
「え。――」
「流浪の果てに父親は首を吊って死に、母親も長わずらいしとるという。――以上のことを知って、しかしおれは、これはただの筆誅では足りん、と考えた。この事実を書いただけでは、芳川も草田も法律的に罰せられはせん」
「ううん、いかにもお茶屋で雛妓《おしやく》を強引に呼んだだけではねえ。……伊藤なんぞ、芸者の水揚げ専門家といいますからな」
「それに伊藤はそんな評判にも馬耳東風だが、あの芳川は同じ長閥でも小人で、そのくせかんしゃくもちだという噂だから、こっちが茶化すくらいじゃ、猛然とかみついて来るだろう」
「そのおそれはなきにしもあらずですな」
「いや、そんなことは怖れはせんが、へたにやると、困った立場に追いこまれるのは、だれよりもその雛妓《おしやく》の娘だということになる」
「ああ、そうかも知れませんね」
「そこでおれは、いま書いとる巌窟王そこのけの陰謀をめぐらした。いや、巌窟島伯爵の場合は復讐だが、おれの場合は懲悪の陰謀だ」
涙香の眼に笑いが浮かんで来た。
「いちばん草田貞蔵を苦しめ、いちばん芳川東助を嘲罵し、しかもそのことがいちばん世間の笑いのまととなるような方法は何か。――その第一歩として、おれはまず、いまいった草田の息子とその雛妓《おしやく》を恋仲にさせてやったよ」
「へへえ?」
「いや、一方だけが惚れたんだが――草田の息子のほうが」
「……」
「おれはその雛妓《おしやく》の小雪に事情を打ちあけて、草田の息子を誘惑することを頼んだ。草田貞蔵は古河に買われて渡良瀬川の鉱害に眼をつぶった役人だが、そいつに仕返しをしてやる気はないか、とね。――小雪は承知した」
「……」
「で、小雪は、お父さまのことで御相談があるからといって、そっと草田の息子を――友房という名だが――呼び出して、逢わせたのさ」
「……」
「その相談の内容はともあれ、案の定、友房は小雪に惚れた。何しろ小雪は、渡良瀬村の百姓の娘とは思いもつかんほどの――女狂いの芳川がぞっこん参ったほどきれいな娘だからね。そこをおれも見込んだのよ。しかも、それが、そのつもりで誘惑にかかったんだ。いくら雛妓《おしやく》でも、そこはその道だ。慶応の坊っちゃんなど、のぼせあがらせるのは朝飯前だったろう」
「……」
「これが半月ほど前の話だが、二人ならんでいる写真までとらせた。……これで草田一家は、おやじは茶屋の女将《おかみ》と、息子は雛妓《おしやく》に呆《ほう》けとるという状態が出来上った」
なるほど、巌窟王そこのけだ、と秋水は少し呆れた。しかしこれは、ただ涙香だけの仕事ではあるまい。新橋にいる涙香の色おんな、芸者栄龍の助力あってのことだろう、と彼は想像した。
「そこでだ。以上の事実を、例の宝探しに結びつける」
「えっ、それを、どういう風に?」
「まず、見給え、幸徳君」
涙香は、机の上にちらかっている紙片の一枚をとりあげた。それには、こう書いてあった。
「クサタヤイケハノサカアカ」
「ノンサアナダイジンリオノ」
「カナモンタウズノミアラノリ」
七
「例によって……私はこういう問題にはまったく無能で」
と、幸徳秋水はすぐ降参した。
「いや、それも無理はない。こんどは、一問ずつに二個所単語をいれるというルールをやめたからね。その通り規定でことわるつもりだが……むずかしいだけに、その代り、今回は賞金千円とする」
「千円!」
「これをもって、おれは芳川大臣と草田貞蔵を膺懲《ようちよう》する手段とするつもりだから、千円は安いものだ」
「これが、どうしてそんな手段になるのです」
「その前にね、土曜日になると思うが――こういう予告を載せる」
涙香は机上から別の原稿をとって見せた。秋水は読んだ。
「……およそ新聞紙として、わが万朝報のごとく批評さるるものは稀なり。而《しか》してその批評の多くは悪評なり。曰《いわ》く毒筆、曰く嫉妬、曰く脅迫、曰く某々機関。もし万朝報を悪徳の新聞とせば、万朝報は以後もかくのごとき悪徳をつらぬきてやまざるべし。
万朝報は戦わんがために生まれたり。
万朝報は何のために戦わんと欲するか。吾人みずからあえて義のためというがごとき崇高の資格あるにあらず。しかれども断じて利のためにはあらざるなり。
万朝報が人身を攻撃することあるも、いまだ悪を責む、悪を除く以外の心をもって人を責めたることなし。ありていにいう。万朝報は悪人に対しては極端に無慈悲なり。悪の改むべからざるまでに団結したるものと見れば、ただこれを誅戮《ちゆうりく》するを知りて宥《ゆる》すを知らず、特に権門の醜聞において、吾人は露ほども雅量なし。
わが手に斧鉞《ふえつ》あり。わが眼に王侯なし。いわんや大臣においてをや。
さて来る月曜日よりの本紙名題の『宝探し』を刮目《かつもく》せられよ。今回にかぎり、これは某大臣の『醜聞探し』なり。それを解けば某大臣の醜聞、照魔鏡のごとく現わる。さればこのたびは、懸賞金は特に一千円とす。請う、百万の読者ことごとく参加せられよ!」
秋水はうなった。
「これは、堂々たるものですな」
彼は心中、このあいだ内村に、「黒岩の正義は濁った正義だ」と悪口をいったのを悔いたほどであった。
「なに、そのクイズが大評判になるためのラッパだ」
せっかく秋水が感心しているのに、涙香は例の奇妙な照れ笑いを浮かべた。
「いや、ほんとうにこれは、こんな懸賞の宣伝文句にしちゃもったいない大文章です」
先日の自分の悪口は聞いていたはずはないが、それと同種の批判は涙香も以前から耳にしていて、それに対する不満がはしなくも炎上してこの文章になったものにちがいない、と秋水は考えた。
「で、これが、どうして醜聞探しになるのです」
あらためて、秋水は首をひねった。
「これと、さっきおっしゃったような芳川大臣の女道楽や鉱山監督署の役人の茶屋遊びと、どこがつながるのですか」
「君にだけいうが、これはね。……こう解くのだ」
涙香はゆっくり読んだ。
「クサタハヤイケアカサカノ」
「オンナアサリノダイジンノ」
「ウラモンアタリノミズノナカ」
もういちど、朗唱した。
「草田早やいけ赤坂の」
「女|漁《あさ》りの大臣の」
「裏門あたりの水の中」
秋水は読みくらべて、
「な、なるほど、そういうことになりますか」
と、さけんだ。
「いまいったように、こんどは例の手引きがないから、一般の読者にはこれを解くことはむずかしいだろう」
と、涙香はいった。
「しかし、草田貞蔵一人は、のっけにクサタという文字が出て来るから、はてな、と眼を吸いつけられるにちがいない。いや、万朝報を読んどらんかも知らんから、いまの予告の載った分から、速達便で送ってやることにしよう。そしてその予告を見れば、すねに傷持つ元役人として、どうしてもクイズを解いてみたい気になるにちがいない」
それはそうかも知れない、と秋水もうなずいた。
「しかも、そのすぐあとにサカアカとある。これをアカサカと読むのは筋だ。すると、草田早やいけ赤坂の、という一行が、少くとも草田の眼には現われて来る。赤坂の溜池町には、芳川の屋敷がある」
「あ。――」
「しかも第二問にはダイジンという言葉がそのまま出て来る。芳川を思い浮かべると、女漁りという言葉が出て来るのに、それほど手間ひまかからんだろう」
そううまくゆくものか、という反論は、秋水の口からこんどは出なかった。
「裏門あたりの水の中、これはちょっと考えてもらわんけりゃならんが……しかし、溜池は旧幕以来のものが、あのあたりまだ少し残っておって、芳川家の裏門はわざわざその水に面して作られて、遊びか避難用か、小舟まで用意してあるという家だからね」
「ほほう」
「先の二問を解けば、これも結局解けるだろう。いいかね、これはふつうの人間にゃえらくむずかしいが、草田だけには解けるんだ。解けるはずだ」
「――で、解くと?」
「あいつはあわてて、早やいけの答え通りに、赤坂の芳川邸へ駈けつける。裏門あたりの水の中を探す。すると、その杭におもしつきの油紙の包みがぶら下がっとる」
涙香の顔には、悪童のような笑いが浮かんでいた。
「包みをひらくと、一枚の写真が出て来る。草田友房と雛妓《おしやく》小雪が、むつまじげにならんで笑っとる写真が。――」
八
「……それだけですか」
と、ややあって秋水はいった。
「それだけですか、といって、これがどれほど芳川と草田の二人に打撃を与えると思う。草田のほうは、この写真自体がショックだろうが、さらにこれが芳川をこれ以上ないほど嘲けったことになると考えて、文字通り身の置きどころがなくなってしまう。いまは古河の重役だが、農商務省というバックあっての自分だということは百も承知だろうからな。それからまた芳川のほうは、自分の馬鹿げた行状が万朝報に握られとると知って狼狽する。――」
「しかしね、黒岩さん」
と、秋水はいった。
「二人はむろん驚愕したり、狼狽したりするでしょうが、それは世間にはわからない。二人が知らない顔をしたら、それまでじゃないですか」
「知らん顔ではすまさせんつもりだが」
涙香はいった。
「それより、かりに二人が――特に芳川が立腹して、わが社に抗議ないし告訴をやった場合だがね」
「おう、そのとき、どうします」
「ひとまず、こっちは関知せんという」
「しかし、その、赤坂の女漁りの大臣云々の問題は万朝報に出てるんですから――その解答も恒例通り出さんわけにはゆかんでしょうから――いいのがれは出来んでしょう」
「それが出来るんだ」
涙香の満面は笑み崩れんばかりであった。
「幸徳君、二、三年前、万朝報で、いろは四十八文字を使って、古来のいろは歌ではないものを募集したことがあったろう。その一等はこういうものだった」
彼は眼をつぶって吟じた。
「鳥鳴く声す、夢さませ。見よ明けわたる東《ひんがし》を、空色映《そらいろは》えて沖つ辺《べ》に、帆船群《ほふねむ》れゐぬ靄《もや》の中《うち》。――つまり、いろは四十八文字を組み換えると、こういう文章も出来るという見本だね」
眼をあけて、
「そいつをやったんだ。おれが工夫が出来たというのはそのことだよ」
そして、机の上からまた一枚の紙片をとった。
「イケノハタカヤアサクサカ」
「ナンノアサリノダイオンジ」
「ウラモンアタリノミズノナカ」
繰返した。
「池之端《いけのはた》かや浅草か」
「なんの蜊《あさり》の大恩寺」
「裏門あたりの水の中」
得意満面である。
「こういう意味のつもりだ。いいかね?――ダイオンジという寺は、上野池之端に台園《だいおん》寺、浅草に大音寺があるが、そうじゃない、蜊|河岸《がし》にある大恩寺だ、ということだ。蜊河岸を君は知っとるか? 京橋川と三十間堀の合うあたりで、幕末、有名な桃井《もものい》春蔵の剣術道場があった場所で、いまはその一帯銀座一丁目にはいっとるが、それでもまだ大恩寺あたりを蜊河岸と呼んどる人もある。その大恩寺の裏の川の中、という意味だよ。――少し苦しいところもあるが、そんなことをいえば、いまの鳥鳴く声の歌はもちろん、人口に膾炙《かいしや》したいろは歌だって、前半はともかくあとのほうは実に変な文句だからねえ」
幸徳秋水は、「草田早やいけ赤坂の……」以下の三行と、「池之端かや浅草の……」以下の三行を読みくらべて、ただうなるばかりであった。
三行目は同じ文句としても、まさに、同じ仮名《かな》を使って、まったく別の七五調の文章が忽然《こつねん》と出現したのである。
「大恩寺の裏の川の杭には、たしかに一金一千円也の木の小判をぶら下げておくよ。万々ガ一、なんの蜊の大恩寺……と解いた人がありゃあ、まちがいなく千円進呈する。じゃから、もし芳川が告訴すれば、万朝報はこういうつもりだったと弁明する」
「予告の中に、某大臣の醜聞云々と大見得を切ったのはどう説明するのです」
「うまい具合に大恩寺は、例のお鯉の檀那寺なんだよ。そこに最近お鯉が大金を寄進した、という事実がある」
「へえ?」
「その金はどこから出たか。――醜聞と思ったが、実はそれなりに美談じゃった、と、あやまるつもりだった、という」
涙香は、ここでもう、そらっとぼけた顔をした。
「さて、芳川が告訴した場合はだね。――右のごとくこちらはかわして、それは芳川大臣のかんちがいだとし、さてそのかんちがいのよってきたる事情を推測すれば、と銘打って、はじめて芳川と雛妓《おしやく》の件、その雛妓《おしやく》と草田の息子の件、ことのついでに草田ら鉱山監督署の連中の茶屋遊びの件を報道し、水の中の写真は、この事情に慷慨《こうがい》せるいずれか正義の士のしわざにあらざるや、とやる」
「……」
「またもし、あっちが頬かむりで通そうとしたら、大恩寺の解答を出したついでに、ここに驚くべし、別の解答をもたらせし人あり……と、女狂いの大臣云々の解答を紹介して、それにひっかけてやっぱり右の醜聞を、風評として報道する」
「……」
「いずれにせよ向うは、たたかれるだけたたかれて、こっちをどうすることも出来ん。芳川は腹立ちのため、草田は煩悶のために、地団駄《じだんだ》をふみ、七転八倒しても、わが万朝報はひょうたんなまずのごとく泰然として髭《ひげ》をそよがせておる。そのこと自体も、懲悪の一つじゃないか?」
涙香はふとい煙管をくわえて、火をつけて、うまそうに一服吸い、
「ああ、しかしこのクイズを作るのは実に苦労したぜ。理詰めに考えて出て来る性質の問題じゃない、まるで素手で空中から水素と窒素《ちつそ》をつかみ出すようなものだからね」
と、煙を吐き出し、自分の奇抜な形容がおかしかったと見えて、肩をゆすって笑った。
「そもそもは二六と戦争するための懸賞だが、こうなると、何が目的だかわからなくなってしまったなあ。あはははは」
九
――万朝報に、その週のクイズの第三問、
「カナモンタウズノミアラノリ」
が掲載されたのが、十一月上旬のある金曜日であった。
これは、ものものしい予告と、大臣の「醜聞探し」という異様な設定と、そして何より千円というとびきりの懸賞金で、涙香の期待通りの大評判を呼んだが――その翌々日の日曜に、驚倒すべき事件が勃発《ぼつぱつ》した。
赤坂の溜池町の農商務大臣芳川邸の裏手の池の上に、二つの屍体が漂っているのが発見されたのである。
その日、日曜日であったが、秋水は仕事があって麻布榎坂の自宅から出社した。すると、その情報がもたらされたのだ。当時社会部とか警察《さつ》廻りなどという言葉はなかったが、タネトリ記者というものがあって、それが聞きこんで来たのだ。
社長の黒岩涙香はいなかった。日曜は涙香にとって、まだ連載中の「巌窟王」を書きためるのに大事な日だったからだ。
秋水は、すぐ麻布|笄《こうがい》町の黒岩邸に電話をかけた。
「黒岩さん、大変なことが起りました。けさ赤坂の溜池に、あの草田友房と小雪の心中屍体があがったそうです」
電話の向うは沈黙したきりであった。
「ほう」
しばらくして、そんな声が聞えた。
「心中とわかったのかね」
「いや、それは……いま大塚君が急報してくれただけで、まだよく事情はわからないのですが、とにかく私もこれからそちらへいってみます」
「詳しいことがわかったら、こちらへ来て知らせてくれたまえ」
電話を切ると秋水は、タネトリ記者の大塚をもういちどうながして、俥《くるま》で赤坂溜池に駈けつけた。町にはどこも菊のかおりが漂っているような秋晴れの日であった。
秋水たちが現場に着いたときは、屍体はすでに運び去られていたが、まだ十数人の弥次馬が残って、溜池の――まだ小舟を浮かべてもおかしくないほどの池の、冷え冷えとひかる水面を指さして、がやがやと話し合っていた。
そのざわめきの中から、
――女は雛妓《おしやく》姿、男は書生姿だったそうだ。
――しごきで身体を結び合わせて、あんな美しい心中死体は見たことがない。
――死体はもう芳川さまのお屋敷へ運びこまれてしまった。
――発見したのは、芳川さまの裏門から出て来た舟だったそうだ。しかも、死んだ男の父親だっていうぜ。
――それじゃ、前から何か匂いがあったのかなあ。
秋水は、そんな声を聞いた。
一時間ばかりで二人はそこを立ち去ったが、新橋近くで秋水は大塚記者に、「おれはちょっと途中で寄るところがあるから」といった。彼の顔色は蒼ざめて、そそけ立っていた。
十
秋水は金春新道《こんばるじんみち》の芸者置屋吉野屋にいって、芸者栄龍を呼び出してもらった。
けげんな表情で出て来た栄龍は、
「姐《ねえ》さん、小雪が草田の息子さんと心中したことを知っていますか」
と、秋水にいきなりいわれて、
「えっ、いつ?」
と、さけび、立ちすくんだ。
「けさ、赤坂の芳川邸の裏手の池の中で発見されたそうです」
秋水は、穴のあくほど栄龍を見つめている。
――彼はむろん涙香の情人であるこの芸者を何度か見ている。なんでも、もとは大友何とかいう徳川|直参《じきさん》の娘だそうで、瓜実《うりざね》顔の大変な美人だが、芸者というよりやはり武家の娘を思わせる、きりっとした印象があった。涙香が首ったけになっているのも当然とうなずかれる。秋水も好意をもっている。
「姐さん、単刀直入にお尋ねしますがね」
と、秋水はいった。
「まさか、黒岩さんがやったんじゃないでしょうな?」
「まあ、何てことをおっしゃるの?」
栄龍はさけんだ。
「どうしてそんなことをおっしゃるの?」
「こんどの万朝報の宝探しの問題、あれに草田友房君と小雪ちゃんがからんでいることは、あなたも御存知のはずだ。芳川大臣と父親の草田に二人の写真を見せるのが眼目で、そのために前々から若い二人を結び合わせるのにあなたも手をかしたのだから」
「いえ、あの」
栄龍は何か弁解しようとしたが、刺すような秋水の眼に、唇をふるわせて黙りこんだ。
「しかし、それほど手をかけた目的が、ただ一枚の写真とは、なんだかあんまりあっけないようだ、と私は以前から首をひねっとったんですな。それが写真じゃなくて、二つの屍体となると、ナルホドとはじめて腑に落ちたような。――」
「ばかなことをいわないでちょうだい!」
栄龍はたまりかねたようにさえぎった。
「黒岩の旦那がやったのは、あの二人を殺したという意味なの? 何を途方もないことをいうの? いくら何でも、懸賞のために――あるいは芳川さまや草田さまをこらしめるためだといっても、二人の人間を殺すきちがいがありますか!」
「私もそう思うんだが。……」
「ましてあの二人には何の罪もないじゃありませんか。罪もない二人の若いひとを、そんなことで殺すなんて……そんなことを考えるあなたのほうがきちがいだわ」
「そういわれれば、その通りだが――」
秋水はみるみる意気|沮喪《そそう》したが、たちまちまた眼に光を戻して、
「しかし、姐さん。……あの二人が心中するということは知ってたんじゃありませんかね?」
と、いった。
「さっき私は、のっけからあなたに、小雪が心中したことを知ってるか、と訊きましたね。それに対して、え、それはほんとうか、とか、まさか――とかいう返事があるのがふつうのはずだ。それなのにあなたは、まず、いつ? と訊き返した。それは心中の事実だけは当然あり得ることという予感がなくちゃ、そんな返事は出て来ない、と思うんだがどうです?」
栄龍は息をのみ、その息を吐かなかった。
「考えてみれば、その写真をおやじに見られ、そのためにおやじの前途もまっくらになると思うと、友房は死にたくもなるでしょう。心中を思い立つのも無理はないが、迂闊にもこちらは、あの二人のことまで思慮をめぐらさなかった」
秋水は憮然としていった。
「しかし、あなたのほうは――従って黒岩さんは、そのことを予想していたのじゃないですか?」
まだ栄龍は黙っている。秋水はちょっと笑顔を見せた。
「姐さん、誤解しないで下さい。私は疑問があるからお尋ねしてるだけで、たとえそうだったとしても黒岩さんには好意を持ってる人間なんですから」
栄龍はやっと首をふった。
「いえ、二人の心中を予想なんかしていません。けれど……あの、正直に申しますと、小雪ちゃんはあたしにいちど、死んでしまいたいといったことがありますわ。……草田さまの坊っちゃんのほうは、むろん何も知らないで小雪ちゃんが好きになったのよ。それでも、お父さまのことで抗議に来ながら、自分も小雪ちゃんとそんな仲になっちまったことを、ひどく苦しんでたようです。一方、小雪ちゃんは、はじめは黒岩の旦那のおいいつけで坊っちゃんを誘惑したんだけど、そのうちほんとうに惚れちまったらしいの。相手をだましてるのが、苦しくなったらしいの。けれど、お役人の草田さまは恨めしいし、何もしなけりゃ芳川さまの餌食《えじき》になるよりほかはないし、それで、もう死んでしまいたいと。……」
栄龍はふるえる声でいった。
「けれど、そうはいうけれど、それはいっときの気持の上のことで、まさかほんとうに死んじまうとは思っていなかったわ。いちどそのことを黒岩の旦那に申しあげたことがありますけど、旦那は、しかしいまさら計画をやめるわけにはゆかんよ、あの懸賞問題は、頭を三角にして考えたのだからな、それにそんなことで、二人は死にやせんよ、とおっしゃって、それきりになりました。あたしもそうだと思っていました。でも、最後に二人の写真を溜池に沈めて、草田さまや芳川さまに見せるってこと……そのことを、小雪ちゃんは坊っちゃんに打ちあけたのかしら?」
「さあ? しかし、二人が溜池で死んでたところを見ると……」
「だとすると、二人が相談して心中する気になったのもふしぎじゃないかも知れませんわ。いまになってみると……ああ、ほんとうに可哀そうなことをしたものね。でも、幸徳さん、信じて下さい。それはいまになって思い当ることで、だからさっき、いつ? といったんだけど、それを聞くまでは、まさか二人が心中するとは考えていなかったんです」
栄龍は胸を両手で抱いて、身もだえした。
「ああ、こちらも大変なことをしたものだわ!」
その眼からあふれ出した涙を、秋水はじっと見つめていたが、
「姐さん、黒岩さんをこわい人だとは思いませんか」
と、いった。
栄龍は首をふった。
「いえ、黒岩さんだって、二人の心中なんて考えていなかったと思いますわ。……あのひと、世間からはまむしの周六なんていわれてるけど、あれで、涙もろくって、可笑《おか》しくって、気弱なところもあるんです」
「そりゃ私も認める。しかし、それにしても、あれはよくわからんところのある人だ」
「それに、あの方、おうちのほうも決してお倖せじゃないし。……」
「奥さんとの不仲のことですか」
「……ええ、まあ……」
「それだけですか」
「それだけとは?」
秋水は笑った。
「なに、ただそう訊いただけです。とにかくあの人は一種の怪物だ。よく栄龍姐さんが惚れたものだと思うが、しかし私から見ても、たしかに世の常の人じゃない魅力がある。私も好きですな。姐さんが惚れたのも充分わかりますよ」
十一
その足で、彼は麻布の黒岩涙香の家に向った。秋水の家も麻布榎坂にあるが、黒岩邸も同じ麻布の笄町にある。町名はちがうが、大通りと樹木をへだてて、涙香の家が秋水の家から見える距離にあった。
そこへ俥で急いでいった秋水は、黒岩邸の近くで、前を歩いてゆく一人の老人の姿を認め、「おや?」という表情になり、すぐあわてて俥から飛び下りた。
「田中先生じゃありませんか」
呼びとめられてふりむいた老人は、|つぎ《ヽヽ》のあたった羽織に粗末なモンペをはき、長髪にした髪はまだ黒いのに、蓬々たる髭《くちひげ》と髯《あごひげ》は白い人物で、
「やあ、これは幸徳さん」
と、抜けた歯を見せた。
田中正造である。――この春から初夏にかけて、何度か足尾銅山を視察にいった秋水をおぼえていたのだ。
秋水は訊いた。
「どこへおゆきですか」
「黒岩さんのおうちへ。……きょうは新聞社のほうには出ておられん、御在宅だそうで、たしか、このあたりと聞いてやって来たのじゃが」
「ここからすぐです。しかし、黒岩へ、何の御用で?」
「ちとお頼みがありましてな」
秋水は、そこで俥を返した。
「そりゃちょうどいい。私もそちらへおうかがいするところだったんで。――」
二人はならんで黒岩邸に到着した。
幸徳の家はひどいあばら家だが、黒岩邸は立派な二階建ての西洋館である。
玄関に出て来たのは、涙香の妻の母のますであった。年は四十半ばを越えていると思われるが、たっぷりふとって、色白で――というより厚く白粉をつけて、妻の母、という立場がおかしいほど豊満濃艶な女であった。
「黒岩は、いま原稿を書いておりますが。……」
その顔で困った表情をするますに、秋水は、
「田中正造先生をお連れいたしました。そうおっしゃって下さいませんか」
と、平気でいった。
ますは奥へはいってゆき、すぐに二人は十二帖の客間に通された。広い庭の樹々はほとんど紅葉し、風がふくとしきりに木の葉をゆり落としているものもあった。
涙香がはいって来て、田中と挨拶した。初対面だ。ただ風雪に皺《しわ》を刻んだ一介の田夫《でんぷ》と見える田中に対して、涙香の態度は鄭重《ていちよう》をきわめたものであったが、それでもどこか心ここにない感じがあって、
「どうして、お二人、ごいっしょに?」
と、いぶかしげな表情をした。秋水は、赤坂溜池の事件の報告に来る途中、偶然そこでゆき逢ったのだ、と説明した。
「そうか。幸徳君、その件について」
と、涙香はうなずき、田中のほうを向いて、
「ちょっと社用の件で、失礼します」
と、お辞儀をして、秋水を客間の外に連れ出した。
「どうした?」
と、声をひそめていう。
秋水は、自分がいったときは、草田の息子と小雪の屍骸はすでに芳川邸に収容されたあとであったが、どうやらしごきで身体を結び合わせて、まちがいなく心中であったらしいこと、発見者はやはり草田の父で、それが芳川家の裏門から舟で出て来て見つけ出したらしいこと――など、見物人の噂を伝え、
「黒岩さん、どうやら図星通りに、草田はあの問題を解いたらしいですね」
と、いった。
涙香はさすがに白《しら》ちゃけた顔色をしている。が、ややあって、
「万朝報は戦わんがために生まれたり。……特に権門の醜聞において、吾人は露ほども雅量なし」
と、つぶやいた。
そして、「御苦労、それについての話はまたあとで」といい、また客間に戻っていった。
ますが茶と菓子を運んで来た。彼女が去ってから、さて改めてその老いたる来訪者が持ち出した頼みごとというのは、実に驚くべきことであった。
「実は拙者、例の足尾銅山の惨害について、直訴《じきそ》しようと志しておるのでござりまするが。……」
と、田中正造は切り出したのである。
「直訴とは……天皇陛下に対してでありますか」
涙香はさけんだ。
「左様」
自若《じじやく》として、田中はうなずいた。
「この十年、呼べど叫べど、渡良瀬川の鉱害は、拡がりこそすれ、とどまる気配もござりませぬ。これはまさしく古河鉱業と結託した政治家、官僚どものせいで、彼らの作りあげた壁のために、渡良瀬川一帯の農民の悲惨なる事実は天聴に達しておらんのではないか、とさえ思われて参った。こうなっては、直接、陛下にお訴え申しあげるよりほかはない。――」
「まさか、陛下も御存知ないわけはないと思いますが。――」
「一方、国民も、まるで縁なきよその国の災厄のように考えとるようです。ここで拙者が天皇さまに直訴すれば、それはなるほど日本のことであったか、それほど大変なことであったかと、はじめて気がついてくれるでありましょう」
野の匂いのする老闘士の声にも風貌にも、思いつめた人間の凄愴な決意が看取された。
「そう正造は決心したのでありますが、さて悲しいことに拙者無学の野人でござりまして、天皇さまへ直訴の文章をどう書いてええのかわからん。事が事だけに、どこかの大学の先生にお頼みするわけにも参らん。で……はたとひざをたたいたのは内村鑑三先生で、あの方ならそれを書いて下さるじゃろうと、昨日お願いに参上したのでありますが、断わられました」
「内村先生が。――」
「その心はわかるが、その手段は感心せん。天皇に哀訴する、などということは、キリスト教の信仰からして、内村はどうしても賛成出来ん、といわれるのでござります。そして、どうしてもというのなら、黒岩さん、あんたに頼めとおっしゃりました」
「私に!」
涙香は仰天した。
「それを聞いて、拙者はふたたび膝をたたきました。万朝報はときどき読み、あんたの御文章も何度か拝見しております。世の悪を指弾すること猛烈|暢達《ちようたつ》の御文章には、正造、深く感銘したことがござります。なるほど、そんな直訴状は、涙香さんのほうが適材じゃろう。――」
田中正造はがばと両手をつき、たたみにひたいをつけた。
「黒岩さん、お願いでござります。正造のために、どうぞその直訴状を書いて下され。お頼み申します。……」
「手、お手をあげて下さい」
涙香は狼狽した声を出した。
「しかし、それは大変なことですぞ、田中先生。――旧幕時代は、将軍への直訴は磔《はりつけ》でした。いまはまさか磔にはならんでしょうが――法律にはどうあるか知らんが、やはり大罪であることはまちがいはない。少くとも牢屋にはいらんけりゃならんことになるでしょう」
「むろん、それは覚悟しております」
「そして、直訴状を手伝った人間も、ただではすまん。――」
と、いいかけて、涙香はあわてて、
「ま、それはよろしいが、先生、私はだめです。私はそんな文章を書くのは馴れておらん」
「天皇さまへの直訴状に馴れたやつなんぞ、世の中に一人もおりますまい」
「それでも天皇陛下への直訴状である以上、それ、諸葛《しよかつ》孔明の出師《すいし》の表《ひよう》に匹敵するほどの――いや、あれほどでなくてもいいが、とにかくその言辞は荘重をきわめねば、不敬にも当るし世の笑いものになります。そんな文章は、私にゃ書けません。残念だが、私の文章は、達意の点はともかく、天性|野鄙《やひ》の匂いがあるのはいかんともしがたいのです」
彼は必死に謙遜して、手をふった。
「申しわけないが、その御依頼をお受けするわけにはゆきません。臆病風からではありません。まったく私は適任じゃないのです。田中先生、どうかお引取り下さい。そして、ほかにどなたか、義侠の名文家に頼んで下さい」
「やはり、そうでござりますか」
田中正造は深く刻まれた皺に、落胆の色をにじませた。しばらくして、
「どうも失礼を申しあげました」
と、彼は立ちあがった。
それを送って玄関まで歩きながら、数歩うしろで秋水はささやいた。
「黒岩さん、書いておあげになったらどうですか」
「とんでもない。実にこれは、とんでもない依頼だ。それにしても内村君はひどい男だ」
「内村先生は、あなたを踏み絵にかけたんじゃないですかねえ」
うす笑いする秋水をにらみつけ、涙香はむっとしていった。
「君、俥を呼んでくれ。君もお宿までお送りしろ」
秋水はつぶやいた。
「わが眼に王侯なし。手に斧鉞《ふえつ》あり。……」
それが天皇と聞いて恐慌をきたした自分に対する揶揄《やゆ》だと承知して、しかも涙香は何もいわなかった。
「ところで、奥さまは?」
下駄をはきながら、秋水が訊いた。茶を持って出たのも涙香の義母で、夫人のほうがいちども姿を見せなかったからであろうか。
「ここ、二、三日、寝とる」
「へ、お病気ですか」
「なに、例のヒステリーだ」
ふきげんに、涙香は答えた。
それっきり、二人は別れた。秋水は田中正造を送って黒岩家を出ていった。この直訴状の件に動顛《どうてん》したのか、涙香は秋水に、赤坂溜池の事件について、あれ以上何も訊かなかった。そして秋水のほうも、自分がここへ来る前に、涙香の情人栄龍のところへ寄って、あんな問答をしたことも、何もいわなかった。
十二
秋水が報告しなくても、むろんすぐにばれることだ。それから三日ばかりのち、秋水は社長室に呼びつけられた。
「幸徳君、君は栄龍のところへいって、変なことをいったそうだな」
「はあ」
「おれがあの若い二人を殺したんじゃないかと」
「いや、その疑問は氷解しました」
「冗談にもほどがある。いくら芳川と草田を膺懲《ようちよう》するにしろ、人殺しまでする――おれをそれほど馬鹿者だと思ってるのか」
さすがに涙香は大立腹の形相《ぎようそう》だ。
「いや、あやまります。ちと疑心暗鬼が過ぎました。しかし、あのクイズで二人が死んだということは動かすべからざる事実ですからな」
「それは予想外のことだ」
秋水は涙香を見つめた。涙香の顔にちょっと動揺の波がゆらめいた。
「まったく目的外の人間へとばっちりがいったわけで、可哀そうなことをしましたな」
「大義親を滅すとはこのことだ」
涙香は秋水をにらみ返し、うなるようにいった。
「二人を殺したのは、いかなる意味でもおれじゃないぞ。真の下手人は、渡良瀬川農民の娘を花街に落した一味ともいうべき草田貞蔵であり、その娘を好色の牙にかけようとした芳川東助だ。おれは断じて膺懲の刃をおさめんぞ」
「そりゃ、そうあるべきです。あの若い二人が死んで、老醜のほうの二人が頬かぶりですまさせていいわけがありません」
「とにかく幸徳君、こんご栄龍にあまり変なことをいわんでくれ。いや、二度と栄龍に逢うことを禁じる、といっておこう」
「へ、はあ。……承知しました」
――ところで、芳川と草田からは、万朝報に何もいって来なかった。
あるいは、次の月曜日に、先週の懸賞の答として、「池之端かや浅草か……」というやつを発表したので、二人ともあっけにとられて、どうしていいかわからなくなったのかも知れない。
しかし万朝報は、むろんそれですませるつもりはない。逆にこちらから、「驚くべし、先週の問題について、まったく別の解答を出されし人あり」といって、「草田早やいけ赤坂の……」の文章を出し、それにからませて溜池の心中事件をむし返し、真綿で首をしめるように、さらに芳川の乱行や草田の腐敗をあばいてゆく予定であった。
実際に、それから二日ほどのちから、万朝報はこのスキャンダルを記事にしはじめた。
ところが、このころから黒岩涙香のようすに異変が見られるようになった。
涙香の日常は、判で押したように規則正しかった。単純でさえあった。
朝、春夏は五時、秋冬は六時に起きる。浴室へいって、前夜から汲んである冷水の中にはいり、またそれを浴びる。これは冬でも欠かさない。それから一時間ほど庭内を駈けめぐる。飯と味噌汁とお新香、卵焼きの朝食後、一時間半ばかり原稿を書く。十時ごろ自転車に乗って出社する。社長が自転車通勤とは可笑しいようだが、彼は人が人を曳く人力俥はヒューマニズムにそむくからきらいだと称し、それにこの当時、自転車は大ハイカラ、大ぜいたくの乗物だったのである。社ではむろん社務をとるが、訪客はあまり好まない。そのあいまあいまに、五目並べや撞球の研究をやる。実際それは研究であって遊びではないが、にもかかわらず、彼の表情はいかにも愉しそうで、生き生きしていた。一分たりともボンヤリしていることはなく、少くとも頭脳的には絶えず活動している。そして、五時にはさっさと自転車で帰ってゆく。お茶屋へゆくときは別だが、自宅では晩酌はやらない。毎朝水風呂にはいるから、めったに入浴はしない。短時間の夕食後はひたすら読書と執筆に捧げられる。夜中でも目覚めれば本を読むので、枕頭に二つ洋燈《ランプ》をおいて、終夜つけっぱなしだ。読むのは西洋の小説が七分、漢籍が三分というところだ。
この涙香の出社が、ときどき遅れるようになった。社長室でもボンヤリしていることが多くなった。社員と応接するときもきわめてふきげんであった。
べつに芳川や草田の件とは関係はなかった。涙香と夫人の不仲が、おたがいに暴力沙汰に及ぶまでになり、ついに夫人が家出をするに至った、という話を秋水が耳にしたのは二十日過ぎのことである。
もっとも、夫人の行先は伊香保温泉だということで、どうやら当分帰る予定はないらしい。あと涙香の身の廻りは義母のますが見ているようすだが――この母親はたっぷりふとっているのに、おかしいことに娘のほうはかりかりに痩せて、いつもみけんに針をたてているような真砂子夫人の顔を、ふと秋水は思い浮かべ、「……なんにしても人間、すべて泰平というやつはおらんもんだなあ」と、ひとりごとをいった。
その二十日には、本郷の中央公会堂で、足尾鉱害救済の演説会がひらかれ、田中正造の演説中、冬を迎える鉱害農民のために義金をつのる籠が聴衆席にまわされたが、その中で一人の帝大生がいきなり立ちあがり、着ていた二重外套と襟巻と羽織をみなぬいでこれを捧げるという出来事が起った。この大学生の名は河上|肇《はじめ》といった。
二十五日の午後、秋水が社長室にはいると、机の横にある碁盤でひとり五目並べをやっている涙香の前で、二人の社員が首をたれて立っていたが、秋水を見ると、低くお辞儀して部屋を出ていった。
「何だ」
かみつくように涙香がいった。
「少々お休みをいただきたいのですが」
「お休み?」
「いや、きょう明日のことじゃなく、来月のことになるかも知れませんが――実は兆民先生がいよいよお悪いのであります。それで、最後はわれわれ夫婦ともども、小石川のお屋敷に御看病に詰めたいと思っております。それであらかじめ、いまお願いしておく次第で」
「ああ、兆民先生が!」
と、涙香はさけんだ。
中江兆民は、この春医者から、喉頭ガンであと一年半の生命だと宣告され、それから病床で書き出したエッセー「一年有半」は目下大変なベストセラーとなっていた。幸徳秋水の師だが、涙香にとっても郷党の大先輩だ。
「それはいっておあげなさい。いつでも、幾日でもいってあげなさい」
と、涙香は大きくうなずいた。
「いよいよとなったら、すぐに知らせてくれ。私もゆく」
秋水が編集局に戻ると、さっき出ていった二人が椅子に坐って、憂鬱そうに煙草を吹かしていた。
「何を叱られていたのかね」
と秋水が、その一人、販売部長の有坂善次に訊くと、
「いや小石川区の北部――特に巣鴨あたりの成績がひどく悪いんで、雷が落ちたんです」
という返事であった。
「君は?」
と、もう一人の娯楽欄の小牧弁次郎記者に顔をむけると、
「来月はじめの、例の懸賞問題をもらいにいったら、まだ出来とらん、宝探しの問題作りには少々飽きて来た、こんどはお前がひとつ考えろ、といわれたんですがね。はじめてのことだから、その問題を考えるのが厄介でねえ」
という返事であった。
「それはそれは」
このときはそういっただけで、秋水は去っていったが、あくる日、彼はまた、こがらしの精みたいな顔をして社長室にはいって来て、
「黒岩さん、きのうちょいと有坂君と小牧君から話を聞いたんですがね。今回はひとつ私にまかせてくれませんか」
と、いった。
「何を?」
「来月早々の例の宝探しの問題を作ることと、巣鴨方面で万朝報の読者をふやす件ですよ」
「その両方を――君がやってくれるというのか」
涙香はめんくらった顔をした。
「いや、もうやって見ました」
秋水は笑顔で、懐から何枚かの紙片をとり出し、一枚目を涙香に渡した。
「オウトモヨシヤミコガンス」
「シナノヌハコウトクカスノ」
「カメガネルウラデイコウチ」
手に持って、にらみつけて、涙香はうなった。
「どうです、ひとが作ったものだと、まるでチンプンカンプンでしょう」
秋水はニヤニヤした。
「ううん、わからんね」
「実はこれにも単語ははいってないのです。……それだけむずかしい。だから黒岩さん、これはやはり懸賞金は千円にしてやって下さい」
「千円、あれはあの問題にかぎって出したんだが。――」
「しかし、これは巣鴨地区の読者開拓という特別な目的があるんで、千円ならみな飛びついてこのクイズを解こうとするでしょう」
「なら、そうしてもいいが、幸徳君、こりゃいったいどう解くんだい」
秋水はもう一枚の紙をとり出した。
「スガモコオシントウヤミヨ」
「コウシノナカノハスヌクト」
「ウチカライデルウメコガネ」
涙香がおぼつかない声で読んでいると、秋水は三枚目を出した。
「巣鴨庚申塔|闇夜《やみよ》」
「格子の中の蓮抜くと」
「うちから出でる埋黄金《うめこがね》」
秋水は説明した。
「いや、有坂小牧両君の話を聞いて、ガラにもなく私などがこんな問題を作ってみる気になったのは、実は私先ごろ偶然、巣鴨あたりを歩く機会があったのです。あそこは昔有名な庚申塚があったところで、いまはそれはありませんが、やはり青面|金剛《こんごう》を刻んだ石塔を粗末な堂でつつんで、土地の人は巣鴨庚申塔と呼んでいます。それを使ってみようと思いましてね。で、その堂の木格子《きごうし》をあけると、すぐ中に埃《ほこり》だらけの造花の蓮が銅の壺にさしてあります。その壺の中に例の小判をいれておいたら、と考えましてね」
「ははあ」
「これはちょっと変った隠し場所で面白いじゃないかと思うんですが、とにかくいまいったように格子は自由にあく始末ですから、何かのまちがいで子供なんかがいたずらしちゃ困る。で、こちらが小判を隠すのは、第三問の出る金曜日――十二月七日になりますが――その夕方にやる。万一これを解いた人は、その夜にかぎって小判が手にはいるということにしたらどうです」
「それはいいが」
涙香は首をひねった。
「しかし、これを解けるやつはおらんだろうなあ」
「解けないほうがいいんじゃないんですか? 何しろ千円なんだから」
涙香は苦笑した。
「なに、あとでこの解答を出して、読者にナルホドと思わせりゃいいんです。が、そうおっしゃるなら、特に巣鴨界隈の読者よ、頭をひねられよ、とか何とかヒントを与えておいたほうがいいかも知れませんね。ま、むずかしいといや、いつかのあなたの、カナモンタウズノミアラノリ、だって相当なものでしたぜ」
裏門あたりの水の中、のことだ。例の事件を持ち出されたのは、涙香にとっていちばん痛いところらしく、彼はあわてて、
「いや、これでいい。これでゆこう。君、これを小牧に渡してくれたまえ」
と、いった。
十三
やはりこの問題に解答者はなかったが、十二月十日の昼前であった。
十時ごろ出社してから黒岩涙香は鬱々と何か考えこんでいたが、急に意を決したように電話をかけた。電話の先は、新橋の吉野屋であった。栄龍のいる芸者置屋だ。
実はこの八日、彼はお茶屋にいって例のごとく栄龍を呼んだ。ところが栄龍は、風邪《かぜ》だといって来なかった。それで、きのう九日、また呼んでみたが、やはり栄龍は来なかった。はじめ涙香はまじめに心配していたが、そのうちふっと、これは風邪じゃない、何かあったのだ、という疑いにとりつかれ、それでいま決心して電話をかけたのである。
しかも彼女の本名大友|清子《すがこ》へ、親戚の者から、と偽《いつわ》った。
――ここでいっておくと、大友清子はのちに涙香の二人目の妻となり、最初の夫人とは打って変った賢夫人と呼ばれることになる女性で、そういう相手だけに涙香は、この異変を捨ててはおけない心情になったのである。
栄龍は出た。
「おい、おれだ」
電話の向うは黙りこんだ。
「病気じゃないな。どうしたんだ」
「あなたには、もうお逢いしたくありません」
という返事が返って来た。
「なんだ、何が起ったんだ?」
「あたし、見たんです」
「何を?」
「七日の夜、あなたのおうちを」
「おれのうちを? どこから?」
「幸徳さんのおうちから、双眼鏡で」
「幸徳? 双眼鏡。――な、何が見えた?」
「あなたと……四十年配の女のかたが。……」
のどの奥で怪声を発し、こんどは涙香が黙りこんだ。
しばらくして、電話の声がふるえながらいい出した。
「あたし、この間の万朝報の千円の懸賞を考えたのよ。だって、はじめから、オウトモという名が出てるんですもの。……」
「あ!」
「しかも、そのあとの字を見ると、ス、ガ、コ、という三つの字もはいっているじゃありませんか」
「……」
「月曜日の問題ね、あれをオウトモスガコ、シンヤミヨ、大友清子深夜見よ、と解いたのです。……」
そのとき、タネトリ記者の大塚が駈けこんで来た。
「社長、大変です!」
「うるさい、こっちも大変じゃ」
受話器を耳にあてたまま、涙香は手をふった。大塚はさけんだ。
「大事件です!」
「こっちも大事件じゃ。しばらく、黙っとれ」
「いえ、先刻、田中正造翁が天皇陛下に直訴しました!」
「な、なんだと?」
これには涙香も仰天した。
「待て、栄龍、あとでまたかける」
と、いって、電話を切った。
「田中さんが――いつ?」
「先刻です。十一時十分ごろ――貴族院開院式に臨《のぞ》まれた陛下のお馬車が、正門を出られて左折され、西へ向われたあたりで――海軍省横に立っていた拝観人中から、紋付袴の老人が駈け出して、右手に高く訴状らしきものをふりかざし、お願いでござります。天皇陛下、お願いのことがござります、とさけびながら、お馬車めがけて突進したそうで。……」
「そ、それで?」
「すぐ取り押えられたそうですが……そのあとどうしたか、まだわかりません」
万朝報社は鼎《かなえ》の沸くような騒ぎにおちいった。涙香は号外の用意を命じた。
昼過ぎに、もっと詳しい情報がはいった。
――突進して来る怪老人を認めて、赤い房のついた槍を立てた前駆の近衛騎兵の一人が、あわてて馬を横にしてさえぎろうとしたところ、馬は竿立《さおだ》ちになり、騎兵は落馬した。そのとき投げ出した槍が、偶然田中正造の足にからんで彼も倒れた。そこに警備の警官たちが殺到し、すぐに麹町警察署に連行していったという。
二時ごろには、田中の捧げようとした直訴状の内容が手にはいった。
「……草莽《そうもう》の微臣田中正造、誠恐誠惶《せいきようせいこう》頓首々々|謹《つつし》んで奏す。伏して惟《おもん》みるに、臣、田間《でんかん》の匹夫、あえて規《のり》を踰《こ》え法を犯して鳳駕《ほうが》に進前するは、その罪実に万死に当れり。しかも甘んじてこれをなすゆえんのものは、洵《まこと》に国家生民のために図《はか》りて、一片の耿々《こうこう》、実に忍ぶ能わざるものあればなり。伏して望むらくは陛下、深仁深慈、臣が至愚をあわれみて、少しく乙夜《いつや》の覧をたまわらんことを」
という冒頭にはじまって、以下足尾銅山の鉱害のために、数万町歩の沃土《よくど》が満目惨澹《まんもくさんたん》の荒野と化し、数十万の人民が流離の運命におちいり、それについて自分が十年、その害を断つことをさけびつづけてきたが、終始黙殺排除されて来たことを訴え、最後に、
「――臣|年《とし》六十一、而《しか》して老病日に迫る。念《おも》うに余命いくばくもなし。……情切に事《こと》急にして涕泣《ていきゆう》いうところを知らず。伏して望むらくは、聖明|衿察《きようさつ》をたまわらんことを、臣痛絶呼号の至りに任《た》ゆるなし」
と結んだ荘重悲愴をきわめたものであった。
むろん天皇はこの直訴状を受けとることなく、つつがなく宮城へ還幸したという。
この騒ぎの中に、三時ごろ、涙香はまた栄龍に電話した。さっき聞きかけたことは彼にとって、田中直訴事件にまさるとも劣らぬ重大事であった。
「スガモコオシントウヤミヨ」
「オウトモスガコシンヤミヨ」
――すでに彼は、この二つの文章の共通したカナを一字ずつ消していって、最後にはぜんぶ消えてしまうことをたしかめて、唖然《あぜん》としていた。
「おい、さっきは失礼。なんだって? あの懸賞をどう解いたのだ?」
「水曜日の問題ね。あの中に、コウトクという名があったでしょう。それであたしにも解けたのです」
「コウトク――」
「シハス、ナヌカノ、コウトクノ、と。――」
「……」
「師走七日の、幸徳の」
「それから?」
そのとき大塚記者がまた駈けこんで来た。
「大変です!」
「直訴事件か」
「そうです」
「それは、あとで聞く。ちょっと待て」
「いえ、その直訴状は、わが社の幸徳秋水さんが書かれたことが判明したそうで。――」
「な、なに?」
涙香はのけぞり返り、ものもいわずに電話を切った。
十四
電話を切った涙香は、依然黙りこんで大塚の顔をにらみつけている。彼はじいっと、いつか相連れて自邸を訪れて来た田中正造と幸徳秋水のことを思い出していたのだ。あれから二人はどうしたか。――秋水なら、あえて自分が直訴状の文章を書くことを引受けるだろう。まさしくあれは稀代の名文家幸徳秋水の文章だ!
「幸徳を呼べ!」
と、彼はさけんだ。大塚は答えた。
「幸徳さんは、五日ばかり前からお休みです。何でも中江兆民先生の御看病とかで。――」
大塚が出ていったあと、涙香は頭をかかえて椅子に腰を沈めていたが、「幸徳の野郎」とつぶやいて、また電話口に立っていった。
「栄龍すまん。それで、あの次はどうしたのだ?」
「金曜日――七日の問題ね。あれを、ウチカラ、メガネデ、ルイコウ、と解いたの。あの中に、メガネ、という言葉がはいっていますもの。うちから眼鏡で、涙香、です」
「ううん」
「つまり、大友清子深夜見よ、師走七日の幸徳の、家《うち》から眼鏡で涙香、よ」
「そ、それで、お前は?」
「ちがってるかも知れないけれど、これじゃいくら何でも気にかかるから、あたしあの晩の夜ふけ、俥で麻布榎坂の幸徳さんのおうちへいって見たのです。幸徳さん御夫婦はお留守らしく、いくら呼んでも出ておいでになりませんでしたけれど、入口はすぐにあきました。あたし、勇気を出して、マッチをつけて二階にあがると、書斎の机の上に双眼鏡がおいてありました。その双眼鏡であたし、笄町のあなたのお邸のほうをのぞいて見たのです。幸徳さんのおうちの二階の窓から、あなたのおうちの裏手がちょっぴり見える、ということは、前から幸徳さんから聞いていましたから」
「……」
「すると、ランプのついた下のお部屋で。――」
涙香は、またのどの奥で怪声を発した。
「あなたのおうちには、奥さまのお母さまがいらっしゃるんでしたね。……もう話したくないわ。二度とあなたにお逢いする気もないわ!」
泣声とともに、電話は切れた。
――そうはいったものの、この大友清子が涙香の二番目の夫人になることはさっき述べた通りだが、それはずっとのちの話で、このときの彼女に劣らず涙香が、この世の終りのような感じがしたことはいうまでもない。
それこそは、黒岩涙香最大の闇部なのであった。
彼は裸一貫で東京へ出て来た二十歳《はたち》前後、自由党の壮士となってみたり、えたいの知れぬ新聞社の記者となって転々としたり、そのときの筆禍で横浜戸部監獄で懲役に服したり、花札ばくちばかりで食う生活をしたり、着物がなくて十日間蒲団の中にくるまっていたり、塵埃《じんあい》のどん底を這いまわっているような数年間を送ったことがある。
このとき黒岩周六を救ってくれたのが、鈴木ますであったのだ。ますはそのころ彼の泊っていた上野の安宿のおかみであったが、元芸者で、子持ちながら充分以上に色っぽい彼女と、彼は深い関係におちた。が、その後彼がめきめきと世に出てゆくのを見ると、六、七歳も年上のますは、周六より十以上も若い娘の真砂子を彼に結びつけた。あるいは周六のほうで、娘に手を出したのかも知れない。
そして現在に至るまで、三人同居して涙香とますの関係はやんでいなかったのであった。妻の真砂子のヒステリーは、これに原因した。……いまでは、むろん彼の方は当惑しているのだが、ますの肉迫はやまず、怖ろしい押しぶとさを持っている反面、妙に弱気なところもある涙香は、これに抵抗出来なかったのだ。
これは彼にとっても一種の地獄で、その上なお芸者の情人を持つとは御苦労のかぎりだが、彼にしてみれば、栄龍は一息つける「頭やすめ」的存在だったのである。
むろん、栄龍は、黒岩家のこんな秘密は知らない。
いや、知らないはずであったのだが――それを、見られた!
七日の晩、どうしていたか――と、思いめぐらすまでもない。妻の真砂子が伊香保へいって以来、ますは毎夜、裏庭に向いた彼の寝室にはいって来る。その寝室には、いつも洋燈を二つつけている。七日の夜のいつごろ、どういう状態であったか記憶はさだかではないが、とにかく見るべからざるものを、栄龍は双眼鏡で見たにちがいない。――
闇の地上に燃える二つの洋燈、そこに双眼鏡がとらえた円い世界に浮かびあがった光景はいかなるものであったか。その登場人物の一人はほかならぬ自分でありながら、それは彼がいくたびか描き出した西洋の飜案探偵小説の怪奇な情景よりも、想像を絶して彼自身を、夢魔を見るような思いに落した。
数分間、涙香は放心したように宙を見ていたが、やがてがばと身を起し、机の上の電話番号簿をめくり、また電話口へいった。かけた先は、小石川の中江兆民宅であった。彼はそこにいる幸徳秋水を呼び出してもらった。
「幸徳君、田中翁の事件を知っちょるか」
「ああ、さっき聞きました」
落ちつきはらった返事が返って来た。
「あの直訴状を書いたのは君だそうだな」
「ほう、もうわかりましたか」
「大変なことをやってくれたものだ」
「いや、その責任は私がとります」
「君の責任だけではすまない。万朝報にも何らかの影響が来るぞ」
しばらく黙っていて、こがらしのような笑い声が聞えた。
「わが眼に王侯なし、わが手に斧鉞あり。……新聞記者は、また新聞社はそうあるべきです。あなたがそう書かれたのではありませんか?」
涙香の眼に、羽織を着た一本のアイクチが浮かんだ。彼はマサカリのように歯をむき出した。
「その件もさることながら……幸徳君、こんどの宝探しの問題はありゃなんだ。君はまんまと一杯食わせたな」
「あなたに? 私が何をしたというのです?」
「大友清子深夜見よ、師走七日の幸徳の、うちから眼鏡で涙香、とは何だ?」
「え、何ですと?」
とぼけたような声が聞えた。
「私ゃ、巣鴨庚申塔闇夜、格子の中の蓮|抜《ぬ》くと、うちから出でる埋黄金、とやったつもりですがね。……あなたのおっしゃる意味が、さっぱりわかりませんが」
涙香はかっとしてさけんだ。
「電話では話にならん。幸徳、こら、すぐに帰社せい。帰って来い!」
「いや、それがね。兆民先生がいまや御臨終と見える御容態なんです。天皇陛下に爆弾が投げつけられたとしても、私はこの場をはずせません」
冷然たる声に、ふいにおかしげな笑いがまじった。
「そのくせ兆民先生は、まだ私に説教なさいましてね。たったいまも、秋水よ、新聞記者として正義に濁りあるなかれ、およそ人を論ずる以上、おのれのモラルに不感症なるなかれ、と叱咤されたばかりなんですよ。あたり前の話で、私にゃかえってよくわからんのです。お尋ねしようとしたら、そのあとはうなりにうなりたてられるばかりで……帰ったら、それについての黒岩さんの御意見を承わりたいものですな」
「世人|或《あるい》はいう、黒岩先生が前半生の歴史は実に闇黒なりと」
[#地付き]――高島米峰――
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牢屋の坊っちゃん
ズックの革鞄《かばん》二つを振分けにし、毛繻子《けじゆす》の蝙蝠傘《こうもりがさ》をぶら下げて、二十八歳の夏目金之助が下りの汽車で神戸駅に着いたのは、明治二十八年四月八日の午後五時ごろであった。
四国へ渡る汽船は、この時間もうないので、はじめから今夜は神戸の宿に泊って、明朝一番の船に乗るつもりでいる。
すると、線路をへだてた向いのプラットフォームに、ただならぬ人だかりがしている。どうも旅行客ばかりではないようだ。それでしばらくそっちへ眼をやっていると、やがてその人混みがどっと崩れて、それを追いのけ追いのけ、巡査の一団がやって来た。
巡査ばかりではない。そのまんなかに、編笠をかぶった赤衣の男をとりかこんでいる。どうやら手錠をはめられた囚人らしい。
「ありゃ何かね」
と、夏目金之助は、ちょうどそこを通りかかった駅員にきいた。
「あれは……あいつにちがいない」
駅員も好奇心にみちた眼で見やって、
「こないだ下関で、李鴻章《りこうしよう》をピストルで撃ちよったやつがありましたやろ」
と、いった。
「あの犯人がけさ早く船でここの港に着いて、神戸署で休憩《きゆうけい》したあと、これから東京ゆきの汽車に乗せられるんですわ」
「東京へ」
「いえ、東京は通過するだけで、そのまま北海道の監獄へ送られるとか、そんな話ききましたが」
「ははあ」
その男のことは、金之助も新聞で読んで知っている。
去年からの戦争の勝敗がこの二月に明らかになって、三月十九日|清国《しんこく》の講和全権李鴻章一行が下関にやってきて、日本側の全権伊藤博文、外務大臣陸奥宗光と談判にはいった。ところが三月二十四日、会場となった春帆楼《しゆんぱんろう》から、支那風の輿《こし》に乗って旅宿に帰る途中の李鴻章に、群衆にまぎれて接近し、ピストルで狙撃した男がある。
汚《よご》れたアツシを着、縞綿《しまめん》ネルの股引《ももひき》に紺《こん》足袋《たび》、草履《ぞうり》ばきという若い男であった。弾は李鴻章の顔面に命中し、いちじは談判のなりゆきもあやぶまれる騒ぎになった。
さいわい李鴻章の傷は浅く、近く談判は再開されるということだが、弾は眼の下に命中したというのに大したことはないとは、ヘンな鉄砲もあったもんだ。
鉄砲といえば、この犯人の男ほど無鉄砲なやつはあるまい。こっちがいくさに負けたくやしまぎれというならともかく、負けた向う側の使節が講和にやってきたというのにこれを撃つとは、無法野蛮これに過ぎるものはない。もっとも当人は、ただいくさの勝ち方が不徹底で、このままではあとに禍根を残すから、いまの談判をぶちこわすためだといっているようだが、何にしてもべらぼうな単細胞だ。
逮捕されてすぐ裁判にかけられ、無期徒刑の判決が下った旨《むね》、新聞で読んだが、それではその男が、下関から監獄のある場所へ――いま聞けば北海道へ護送される途中と見える。
たしかに上州出身の壮士気取りの小山六之助という男で、明治二年生まれというから自分より二つ年下になるが、若気の至りにしても軽率《けいそつ》なやつだ。
夏目金之助はそんなことを考えながら、神戸駅を出た。ひとまず知り合いに紹介された宿屋にゆくつもりだが、護送される若い囚人のことなどより、もう彼の心は、あした渡る四国の松山への希望と不安と好奇心でいっぱいであった。彼はそこの中学の英語教師として赴任するのであった。
神戸駅ですれちがって、帝大出の夏目金之助は西へ、無期徒刑の小山六之助は東へ。
漱石年表によると、彼が松山の外港三津浜に着いたのは、四月九日午後一時過ぎとある。
「ぶうと云つて、汽船がとまると、艀《はしけ》が岸を離れて、漕《こ》ぎ寄せて来た。船頭は真つ裸に赤ふんどしをしめてゐる。野蛮な所だ。尤《もつと》もこの熱《あつ》さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見詰めて居ても眼がくらむ。事務員に聞いて見るとおれは此所《ここ》に降りるのださうだ。見る所では大森|位《くらゐ》な漁村だ。人を馬鹿にしてゐらあ、こんな所に我慢出来るものかと思つたが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ」
さて、一方の若者、国事犯小山六之助の運命やいかに。
一
ぶうと云つて、汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。どの艀にも巡査が二、三人づつ乗り込んでゐる。殺気立つたお迎へだ。尤《もつと》もこつちの船に囚人が二百六、七十人も乗つてゐるのでは、巡査が見張りに出て来るのもやむを得まい。四月末と云ふのに、海は冬の様《やう》な鉛色をして、砕ける波は氷の様《やう》だ。ここが釧路《くしろ》の港ださうだ。岸を見ると掘立《ほつたて》小屋みたいな家が、ぽつぽつと黒く連《つら》なつてゐる。人を馬鹿にしてゐらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思つたが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。
――思へば長い旅をして来たもんだ。
山口監獄から囚人馬車で運び出されたのが四月六日、三田尻《みたじり》から船に乗せられて神戸に着いたのが八日、暫時休憩ののち汽車で東京へ、そして宮城監獄へ送り込まれたのが十二日のことだ。そこへ着くまで、あつちこつち途中で下車させられてそのたびに土地の警察署に泊められ、宮城監獄に至つては二週間泊められて、その間には綱糸《つないと》を綯《よ》る作業までやらされた。囚人に一日でも唯飯《ただめし》は食はすなと云ふ方針によるものらしい。
東京|辺《あた》り迄《まで》は、各地の警察署に寄る度《たび》に、李鴻章を撃つた奴《やつ》が来ると云ふので、駅や沿道に群衆が押し掛けて送迎してくれた。まはりは巡査が固《かた》めてゐる。もしおれが帝国大学でも卒業して官吏になつて地方へ赴任することになつたとしても、これほど巡査に護られ群衆に送迎されることは先《ま》づあるまいとおれは心中得意になつたが、奥羽に入《はひ》ると急に待遇が低下した。兎《と》に角《かく》おれを単簡《たんかん》に国家の大罪人と決めこんでゐるらしいが、一つの国法によつて裁かれたものを、同じ日本の警察署で土地によつて取扱ひに天地の差が生ずるとは理屈に合はんではないか。
宮城監獄で、ほかに選び出された囚人二百六、七十人と一緒《いつしよ》に北海道へ送られることになり、やがて青森から船に乗せられたが、恰《あたか》もそのとき蕭々《せうせう》と降る雨を通して海の上を、青森の海岸沿ひの料亭から女の弦歌が流れて来て、これが女の声の聞き納めかと、みな腸《はらわた》を断つ思ひがした。
そして、やつとかうして釧路に着いたのだ。
ところがさて、送られることになつてゐる釧路監獄はこの釧路の町ぢやなく、まだ北へ十二里の山坂越えた標茶《しべちや》と云ふところにあるんださうだ。そこから看守や巡査が出迎へに来てゐた。
実は標茶から釧路へ釧路川と云ふ川が流れてゐて、発動機船が通つてゐるさうだが、何しろ囚人の数が多いもんだからそれでは間に合はず、巡査や看守に有難く護られて、竹の子笠に素《す》草鞋《わらぢ》と云ふ姿で徒歩でゆくことになつた。
途中、山中のアイヌ小屋に一夜泊つて、いよいよ標茶の監獄に着いたのが、四月三十日の午後のことだ。
延々たる粗壁《あらかべ》の高い塀の真ん中にある黒い門が扉を開いた。「この門を入《はひ》る者は一切《いつさい》の望みを捨てよ」と云ふ西洋の誰かの言葉を思ひ出した。
後に知つた所によると、この釧路監獄は十年前の明治十八年に作られたもので、敷地五百六十万坪、その中に庁舎、獄舎、作業場、倉庫などが散らばつてゐる。獄舎だけでも十九棟、全体として百数十棟ある。
内地の警察などに較《くら》べて、その宏大なことは一目で分つたが、作りは粗末だ。元来囚人たちに作らせたものださうだから無理もないが、自分達を閉ぢ込める建物を自分たちで作るなんて喜劇は、人間以外ぢや演じられまい。粗末なだけに荒々しくつて物怖ろしくつて、ここへ来る迄の旅でほかの囚人から「あそこは生地獄だつて云ふよ」と聞いた言葉が、成程《なるほど》と頭に浮かんだ。
また聞けば四年前、例の露国皇太子を襲つた大津事件の津田三蔵が無期徒刑で送られたのがこの釧路監獄で、ここへ来てから津田は三カ月足らずで死んださうで、その死因はよく分らないと聞くと、おれと犯状が似たところもあるだけに少々薄気味が悪い。
一方、天地が広いだけに荒野《あれの》の中の集落と云ふ感じもあつて、ひよつとすると、こりや脱走出来るかも知れんぜ、と云ふ考へが胸の中を走つたが、そんな出来心は翌る日に封じられた。
翌日、新来の囚人一同、教誨堂《けうくわいだう》と云ふ大きな建物の中へ集められたのだが、先《ま》づ教壇に立つたのが、フロックコートを着た黒岩つてえ典獄で、「みな、神妙に服役して、おとなしく放免の日を待つやうに。模範囚ともなれば減刑|乃至《ないし》仮釈放の寛典もある」と云ふ意味の訓示をした。そのあと、色の黒い、眼の大きな、狸《たぬき》の様《やう》な顔をした大塚つてえ教誨師が立つて、こんなことを云つた。
「ここへ来た者はみんな刑期が長く、一方でこの監獄の一見用心|堅固《けんご》でないやうな模様、また周《まは》りのたいして険阻とは思はれない地勢を見て、妙な出来心を出して貰《もら》つては困る。脱走を計れば斬殺も止《や》む得ずと云ふ法になつてゐるし、外の曠野には到るところ底なしの湿地帯あり、熊、狼などの獣《けだもの》も徘徊《はいくわい》してゐる。これは徒《いたづ》らに諸君を脅《おど》す為ではなく、本心から諸君を悲惨な目に落さない為の親切心からの忠告である」
これが正真正銘|偽《いつは》りのない警告であつたことも後《あと》で知つたが、教誨師と云ふと坊主だらう、事実頭を剃《そ》つて略式の袈裟《けさ》を着けてゐる。それが有難い法話ぢやなくつて、先づこんな怖《おつか》ない威嚇をしたからこつちは面喰《めんくら》つた。
何、脱走なんて、冗談に考へただけでおれにそんな気はない。
李鴻章をピストルで撃つたのは、あの時はそれが日本の為だと思ひ込んでやつたんだが、裁判を受けて見ると成程重々自分が悪い。全く軽はずみな行為で却《かへ》つて御国《おくに》に大変な迷惑をかけた。無期徒刑を喰《くら》つたのも当然だ、その罰は潔《いさぎよ》く受けようと覚悟して来たからだ。
労役は、雨が降つてなけりや、監獄の周《まは》りの山野の開墾《かいこん》だ。鋤鍬《すきくは》を振ふのはいいが、両足を鎖で緊《つな》がれてゐるのには往生《わうじやう》した。それでも七、八年前迄はここから十里程離れた硫黄《いわう》山に駆り出されて、硫黄の粉《こな》と亜硫酸ガスのために囚人が片つぱしからばたばた倒れたと云ふ苦役に較べれば物の数《かず》でもないさうだ。
雨の降る日は作業場で坐業だ。坐業と云ふと尤《もつと》もらしいが、それが雑巾刺《ざふきんさ》しとは情けない。天下を驚倒させたあれほどの大事件をひき起こした男児が、婆さんのやる様な雑巾刺しとはわれながら愍然《びんぜん》の極《きは》みだが、それより一々糸を切るのが歯を以てするよりほかはないのには降参した。小刀《こがたな》は愚か鋏《はさみ》まで危険だと云つて与へられないのだ。「監獄の労役は手足を動かすを以て必要かつ充分だ。歯|迄《まで》使用させるとは何事か」と抗議したが取合《とりあ》つてくれない。
労役への文句はさておいて、監獄の飯の不味《まづ》いのには当惑した。晩飯でさへ、飯にお菜《かず》はじやが芋《いも》を煮たもの、沢庵|一切《ひときれ》だけ。その飯は麦六|分《ぶ》で変な匂ひがぷーんと鼻に来る。じやが芋は明らかに冬越しの霜をかぶつたもので、半分は腐つた味がする。
こんな境涯《きやうがい》に落ちても、何しろおれは上州の村でも素封家《そほうか》と云はれる家に生まれ坊つちやんと呼ばれて育ち、こんどの事件で勘当はされたが、おやぢは県会議員をしてゐると云ふ素姓《すじやう》で、学問は嫌ひだがそれでも一時《いつとき》は慶応義塾に籍を置いたこともある男だからな。それも東京で壮士稼業をやつてゐる間、芸者にお酌させて、乙《おつ》な江戸前料理をさんざん食ひ散らして来ただけに、この監獄料理にはほとほと参つた。
ただ粗悪なだけぢやない。実に馬鹿げた事もある。
これは後《のち》にあつた事だが、夏になると北海道ではオヒヨウと云ふ魚がよく獲《と》れる。カレヒの一種だが、うんざりする程獲れるので、一貫目五、六銭と云ふ安価な魚である。これが監獄では天下の珍味だ。
ところが監獄ぢや切干《きりぼし》大根|許《ばか》りの食事を三日でも五日でも平気で出す。オヒヨウが出るのは十日に一遍《いつぺん》と云ふ按配だ。ところが切干大根は北海道では一貫目五十銭するのである。
そこで何故《なぜ》安くて囚人が嬉《よろこ》ぶオヒヨウを食はせないのか、何より不経済ではないか、と申し立てて見たが、これまた一向《いつかう》に取合《とりあ》つてくれなかつた。きつと囚人が嬉《よろこ》ぶものを食はせるのが気に食はなかつたのだらう。
しかし、もう一度思案して見ると、監獄に入れられて人間|並《なみ》の御馳走を食はうなんて了見《れうけん》が間違つてゐる。かう云ふ目に会つてこそ監獄と云ふもんだ、と、これも胃袋を撫で擦《さす》つて痩我慢《やせがまん》をすることにした。
二
粗食は無理にでも口に入れるが、どうしても受け付けられんものもある。説教の無理|強《じ》ひだ。
次の初めての日曜日、また教誨堂へ呼び出された。今度は三十人|許《ばか》りだが、二十分程待たされた後《あと》、例の大塚つてえ狸坊主と、もう一人これは狐みたいな若い坊主が現はれた。
大塚教誨師は、先日と変つて妙な猫撫《ねこなで》声で、人間に――特に悪事を働いた囚人に、如何《いか》に宗教が必要なものかを説いた。その宗教と云ふのがどうやら仏教で、しかも真宗に限るらしい。
次に若い坊主が、一々指差して、信心《しんじん》してゐる宗教を訊《たづ》ね、手帳に控へる。今の話で察しをつけて、みんな真宗を信心してゐる様《やう》な返事をする。おれの番になつたから、
「私は何も信心してはをりません」
と、答へた。正直その通りなんだから仕方《しかた》がない。坊主はじろつとおれの顔を見て、
「それぢやあ、これから先、何を信心したいと思ふか」
と、聞く。
「何宗を信じる気もありません」
相手は戸惑《とまど》つた後、声を鋭くして、
「お前は何も信じなくつても、実家には仏壇があるだらう、何宗だ」
「さあ、何宗か知りません」
「葬式の時にはどんな坊さんが来るか。葬式を出したことはあるだらう」
「ええと、祖父が亡くなつた時は、確か神主《かんぬし》が立ち会つた様《やう》に記憶してゐます」
若い坊主は怒つた蛙《かへる》みたいに頬をふくらませた。からかはれたと思つたらしいが、それが本当の話なんだから止むを得ない。
尤《もつと》もおれも、この若僧が見るからに小生意気《こなまいき》な眼つきをして、到底《たうてい》囚人を教化なんか出来る力量がありさうも見えないのに、昔の宗門改めの小役人みたいに訊問口調なのが小癪に障《さは》つてゐたのも確かで、次にこつちから、
「まあ、将来何かを信仰するなら、仏教は何だか気が進みませんから、耶蘇《やそ》教を信仰しようと思ひます」
と、云つてやつたのは、本気でからかつてやる気になつたからだ。
「何を云ふか、耶蘇はいかんぞ」
主任の大塚教誨師が大声を張り上げて、おれの前へ歩いて来た。茹蛸《ゆでだこ》と言ひたいが、まるで茹狸《ゆでだぬき》だ。
「何故《なぜ》いかんのですか。御一新このかた徳川時代の御禁制は解けたんでせう」
「いくら解けてもいかん。私も研究して見たが、あれは日本人には合はん。第一、英語が読めなきや、本当の所は理解が出来ん」
「へへえ、耶蘇教を研究したとおつしやる所を見ると、先生は英語がお読めになるんでせうね」
「無論読めるさ。これでもわしは仏教の学校を出てをる。学校には英語の授業があるからな」
おれはつかつかと壁際《かべぎは》に行つて、そこにある書棚の上に載《の》つてゐた一冊の本を取つて来た。それがスマイルズの「自助論」の原本であることは、先刻《さつき》待たされてゐる間にちらつと横目《よこめ》で見てゐる。それを突《つき》出して好《いい》加減《かげん》に頁《ページ》を開き、「こりやスマイルズのセルフ・ヘルプですが、ここをちよつと講義してくれませんか」と云つてやつた。
大塚教誨師は押付《おしつ》けられた本を、縦《たて》にしたり横にしたりしてゐたが、やがてそれをおれの手に戻し、
「今日《けふ》はそんな事をしてゐる暇《ひま》はない。いづれ折りを見て」
と早口で云つて、もとの教壇の方へ引返していつた。囚人達がわつと笑つた。
「何を笑ふ。静かにせんか」
と、看守が眼をいからせて怒鳴《どな》つた。
その看守の傍《そば》に寄つて、大塚教誨師が立腹のためにこんどは青い顔になつて、時々こつちを睨《にら》みつけながら何か聞いてゐる。それに対して看守が返答してゐる。声は聞えないが、あの囚人は何者だとか何とか尋ねたんだらう。清国《しんこく》の総理大臣をピストルで撃つた男だと知つて驚いたか。
すると、傍《そば》で囁《ささや》いた者がある。
「お兄さん、面白い人だね。気に入りやしたよ」
見ると、小柄だが、役者の様《やう》に好《い》い男だ。
「しかし、これからお前さん、睨《にら》まれますぜ」
大塚教誨師がこちらに向き直つて、
「今日《けふ》は都合によつて講話を止《や》める」
と、憤然と云つた。囚人達がいつせいにまたわあと囃《はや》し立てた。教誨師の講話なんて面白くないのに決《きま》つてゐるからみんな喜《よろこ》んだのだ。
それから看守達に引率されて、ぞろぞろ教誨堂を出かかつた。もとの雑居房へ戻されるんだらうと思つてゐたら、おれだけ「お前はこつちへ来い」と引離《ひきはな》された。
「どこへ行くんですか」
「閉禁房へだ」
「何故《なぜ》です」
「危険人物だからだ」
「へえ、お坊さんに正直に答へ、分らない事を聞いたのが危険なんですか」
「とにかくお前はほかの囚人に悪影響を与へる。反省させる必要がある。来い」
そして、連れて行かれたのが、一人つきりの閉禁房と云ふところだ。
三
いや、これには参つた。初《はじ》めは静かでいい位《くらゐ》に思つてゐたが、畳《たたみ》にすれば一帖くらゐの板|囲《がこ》ひの中でたつた一人、飯は監視用の小さな穴から差入《さしい》れられるだけで、明けても暮れても話す相手がない。大体おれは、喧嘩は好きだがわいわいと仲間と騒ぐのも大好きで、ここへ来てから入れられた雑居房も、相牢《あひらう》の連中に物凄い奴《やつ》らが多かつたが結構面白かつた。
それが、三日|経《た》ち五日経ち、十日経つても一人つくねんと坐つてゐるだけなのだから、顎《あご》の辺りの肉が筋肉《すぢにく》みたいに固くなつた様《やう》な気がした。そこで堪《たま》りかねて、詩を吟じたり歌を歌ふことにした。「鞭声粛々《べんせいしゆくしゆく》」から「風|嘯々《せうせう》」、「棄児行《きじかう》」から「正気歌《せいきのうた》」。
かつぽれに棚の達磨《だるま》さんに、猫ぢや猫ぢやとおつしやいますが。日清談判破裂して……はては婆《ばばあ》芸者から習つた端歌《はうた》、鉦や太鼓でねえ、迷子《まひご》の迷子の三太郎、どんどこどんのちやんちきりん、叩いて廻《まは》つて逢はれるものならば、わたしなんぞも鉦や太鼓でどんどこどんのちやんちきりんと、叩いて廻つて逢ひたい人がある。
壮士仲間から仕入れた詩や歌を総|浚《ざら》ひにすれば何十何百とある。
これを監視用の穴へ口をつけて、釧路監獄全域に響けと許《ばか》り、夜も昼も怒鳴り続けた。声の大きさだけは、おれが書生をしてゐた政治講談の伊藤痴遊師匠から褒《ほ》められたくらゐだ。
無論看守達が飛んで来て、「八釜《やかま》しい」「黙れ」「気でも違つたか」と怒鳴《どな》りつけ、更には殴る蹴るの暴行を加へたが、それでも黙らない。雑居房とは大分《だいぶ》距離があるはずだが、そこまで届《とど》いたと見えて、そつちの方角から同じ歌の合唱や手拍子《てびやうし》があがり出した。
到頭引きずり出されて、今度は獄則処分としては手一杯の「闇室《あんしつ》五昼夜」といふ罰を申し渡された。
「闇室」とは拷問にしても妙な名をつけたものだが、実に大変なしろものである。三尺四方の岩乗《がんじよう》な木箱に人間をぎゆうぎゆう詰めに押し込んで蓋《ふた》をしてしまふ。下に垂れ流し用の丸い穴が開いてゐるだけで、それでも飯は一日に三度、小さな握り飯を一個づつ投げ込んでくれるが、お菜《かず》は何もない。
二日目の朝、そのむすびを投げ込んでくれる時、蓋の隙間《すきま》から看守が、「どうだ、少しは反省したか」と云ふから、「何を反省するんだ」と云つてやつた。
「教誨師の先生を愚弄するなど囚人にあるまじき僭上《せんじやう》な所業をしたことだ」
「愚弄はせん、おれは率直な質問をし、正直な返答をしただけだ。第一囚人に何の愛情もなく、ただ偽善的に、或《あるひ》は威嚇的に臨んでそれで教誨師と云へるのか」
「さう云ふ態度をここでは僭上と云ふんだ。まあ、当分その暗い所で考へろ」
と云つて、またおれは四角な闇に閉《と》ぢ籠《こ》められた。
何糞、かう見えておれは唯の囚人ぢやない。誰に頼まれた訳《わけ》でもないのに刺客を買つて出た男だ。云はばこの無期徒刑の運命も自分で志願した様《やう》なもんだ。これ位《くらゐ》の懲罰にへこたれると思つてるのか。
それでも六日目が来た。
後《のち》に聞くと大抵《たいてい》の奴《やつ》が出された後《あと》、一日二日は腰が抜けて動けないさうだが、おれは何でもなかつた。身体が四角になつた様《やう》な気がしたが、二本足で立つて見ると立てる。歩き出すと、何とか歩ける。尤《もつと》も実を云ふとひよろりと蹌踉《よろ》けかかつたので、誤魔化《ごまか》しに反動をつけて一尺ほど飛び上り、序《ついで》にもう二回、三尺|位《くらゐ》飛び上つて見せてやつた。
「どうだ」
と、胸を叩いて見せると、周《まは》りで見守つてゐた看守達も呆れ返つたと見えて、眼をまん丸くしてゐたが、みるみるこの野郎と云つた面憎《つらにく》さうな顔をした。
さうなるとおれはいよいよ意地になつてしやんしやんとして見せる。詰らない意地を張つてわざわざ憎まれつ子になるのは馬鹿げてるが、それがおれの性分《しやうぶん》だから已むを得ない。
それでもこのことで、おれの負けず嫌ひに気を呑まれたのか諦《あきら》めたのか、その後《あと》は元通り雑居房に差戻《さしもど》された。
戻るとみんな、わつと歓声をあげて囃《はや》し立ててくれたのには面喰《めんくら》つた。おれが教誨師をからかつたことや、閉禁房や闇室で強情を張り通したことで敬意の的《まと》となつたらしい。一朝|目覚《めざ》むれば天下の人と云ひたいが、監獄の中ぢや威張《ゐば》つて見ても仕方《しかた》がない。
四
雑居房は、廊下を中に格子越しに向ひ合つてずらりと並んでゐる。一部屋|辺《あた》り七、八十人入れられて、三方の板|囲《がこ》ひには上下二段の蚕棚《かひこだな》が作られてゐて、これが寝床だ。
この同室の囚人の中には、無論いろいろな奴《やつ》がゐた。
一体監獄の様《やう》な、お互ひに遠慮がなく、誤魔化しも衒《てら》ひもなく、色気もなければ稼《かせ》ぐ必要もない世界では、裸の人間の善悪、利口馬鹿が剥出《むきだ》しに分る。赤裸々な人間を見たいと思ふなら監獄に来るに限る。
それでおれは、「何びとも評判程の悪党はなく、評判程の善人もゐない」と云ふことを知つた。
ここで名を書けば誰でも知つてゐる、義賊で有名な男が丁度《ちやうど》入つてゐたが、実は看守に取入《とりい》るのに汲々として、同囚の言動を一々密告するので、みなから犬々と呼ばれてゐた。何が義賊だ。また色恋沙汰から芸者を殺して新聞でも大いに騒がれた男が、どんなに粋《いき》な奴《やつ》かと思つたら、薬缶頭《やくわんあたま》にひよろひよろ薄毛が生《は》えて、|でぶ《ヽヽ》で|のろま《ヽヽヽ》で色気どころの騒ぎぢやない。あれぢや芸者どころかどんな女でも肘鉄《ひぢてつ》を喰《く》はすに決《きま》つてらあ。
何となくけがらはしいから、おれはこんな奴《やつ》らと余《あま》り口をきかなかつた。一番よく話をしたのはチヤク屋の次郎と云ふ男だ。いつか教誨堂でおれが教誨師をからかつてやつたとき、後《うしろ》から「お兄さん、面白い人だね、気に入りやしたよ。しかし、これからお前さん、睨まれますぜ」と囁《ささや》いた奴《やつ》だ。
チヤク屋とは巾着《きんちやく》の着《ちやく》だけ取つた綽名《あだな》で、巾着切りすなはちスリだ。商売はスリだが、それが東京の何処《どこ》かでスリにしくじつて追ひ詰められ、窮鼠却《きうそかへ》つて猫を食《は》むの例《たとへ》を地でいつて匕首《あひくち》で一人刺し殺してしまつたとかで、これも無期で入つてる奴《やつ》だが、年は三十五、六、これが悪びれた様子《やうす》もなく、おれにいろんな話をした。
聞くと、何でも元旗本の倅《せがれ》ださうだ。道理でどこか垢《あか》ぬけをした顔をしてゐると思つた。尤《もつと》も生まれてから幼年の砌《みぎ》りは、箱館戦争に参加して降参した父親がその後《あと》箱館の路頭に迷つてゐた頃で、満足に飯も食へない貧乏の限りで育ち、このときにひもじさの余り隣家のお櫃《はち》から盗み食ひなどすることを覚えたと云ふ。それが十を過ぎた頃、父親が箱館に出入りする異人船を相手にふと麺麭《パン》屋をやることを思ひついて、その商売を始めたらこれが大当りで、店の帳場にはいつも銀貨や銅貨がちらばつてゐる状態になつた。何しろそれまで飯の盗み食ひさへする境遇で育つたのだから、その銭を盗んで買ひ食ひなどしてゐるうち、泥棒とは実に好都合なものだと云ふ信念を抱《いだ》くに至つた。
十五、六になると、この泥棒の呼吸を何とか他人の家にも応用して見たいと志を立てて、隙《すき》を盗んでちよいちよいよその店の品物や帳場の金を頂戴してゐる中《うち》に、到頭見つかつて首ねつこを捕《つら》まへられて家にねぢ込まれる様《やう》になる。父親も立腹して折檻《せつかん》する。そこで彼は家を飛び出して東京へ出て来た。
東京で早速泥棒を何度かやつて、揚句《あげく》の果に牢屋に入る羽目になつた。そして牢屋の中で何人かのスリと仲良くなつた。
そんな身の上話をしながら次郎は、
「牢屋つてえとこは、元来悪い奴《やつ》を善人に仕立て直す仕掛《しかけ》の筈だが、反対に間違ひなく善人を悪党に仕立てる所ですね」
と、笑つたが、それ以前からスリや泥棒をやつてたのだからもともと善人と称するのは虫が良《よ》過ぎる。
さて牢を出ると、その足で、横浜で有名なスリの親分の所へいつて弟子入りをした。
次郎が初め驚いたのは、親分が毎日毎日兄貴分のあとに付けて出すけれど、彼自身には何もするなと固く命令したことで、ただ兄貴分の技《わざ》を見学させるだけだ。そして帰ると親分みづから乾児《こぶん》達を引連れて、芸者買ひや女郎買ひにゆく。或《あるひ》は豪勢な料亭で酒を呑ませ、食ひ放題に御馳走を食はせる事だ。これが毎晩の事で、しかもその金の使ひつぷりの綺麗《きれい》な事は感心する許《ばか》りだ。尤《もつと》ももともと盗んだ金だから感心するには当らないかも知れない。――
これが半年続き、一年続く。
「親分はあんなに奢《おご》つてくれながら、どうして仕事をしろと云はないんだらう」
と、兄弟子に聞いたら、兄弟子は笑つて、
「そりやお前に遊びの面白さ、金使ひの面白さを肌で覚えさせる為さ。丁度猫に鼠の味を教へ込む様《やう》なものだ。どうだ、お前も今親分から離れたつて、遊びの為にはどうしたつて大金が入用だと奮発しなけりや納まらないだらう」
と、云つたさうだ。全くその通りだ、と彼は肯《うなづ》いた。
そして次郎は、こんな話をしながら皮肉に笑つた眼でおれを見て、
「小山さん、あんた慶応とか云ふ学校へゆかれたつてえことだが、大学教授もこんなうまい教へ方は知らないでせう」
と、云つた。
かうして彼は巾着切りの中でも、特にチヤク屋の次郎と云ふ異名を持つ程のスリの名人になつた。
このスリの名人がスリ道の妙味に就《つい》て弁ずるのを、おれは黙つて聞いてゐたが、やがて、
「面白い、それに時々相の手に説教が入《はひ》るのが面白い」
と、おひやらかした。
「そのスリの名人がとどの詰り人殺しで無期を喰《く》ふたあ何てこつた。それはどうしてだい」
と云ふと、
「その話は聞かないでおくんなさい。えへへ、全くお恥かしいドヂを踏んだもので、面目次第もねえ」
と、大照れに照れて頭を掻く。
そこでおれが云つてやつた。
「まあ、うまくいつてお前さんがスリを続けてゐたとしても、それが本当に好《い》い商売かどうか疑問だ。懐《ふところ》からスレる金なんて額が知れてらあ、今の話の親分と云つたつて、精々《せいぜい》場末の料理屋で酒を呑み芸者を揚げる程度の贅沢《ぜいたく》だらう。それ位《くらゐ》の事なら町で小商売をやつてる人だつて出来る。スリの親方で大富豪になつた奴なんて聞いた事がない」
「さう云はれりや、さうですがね」
「大体泥棒だつて割に合ふ商売とは思はれんぜ。よその家へ忍びこむにも何回か下見をして、乗り込むにも徒手空拳で入《はひ》る奴《やつ》はないから必ず出刃庖丁位《でばばうちやうくらゐ》は持つてゆく。勢ひ、脅《おど》しから殺傷に及ぶ可能性は高い。さうすると捕《つか》まりや死刑か無期の運命に陥《おちい》る。そもそも、大金持が家に大金を置いておく筈《はず》がない。それは大抵銀行か貯金局に預けてある。また家の防備も固いから成功の確率は低い。金持でない家に泥棒に入《はひ》つても仕方がない。仮《かり》に誰も傷つけなくて百円取つたとしても、あとで捕《つか》まりや少くとも十五年の懲役は喰ふ。一年にすりや六円何十銭かの儲《まう》けだ。一日にすりや二銭だ。この監獄ぢや下等労役でも一日五十銭は呉《く》れる。この囚人より割りが悪い」
「へへえ、さうなりますかい。流石《さすが》に学校にいつた人は違ふね。しかしそれほど計算の達者な小山さんが、矢張《やつぱ》り無期を喰《くら》ふ様《やう》な罪を犯したつてえのはどう云ふ訳《わけ》ですかい」
「おれのやつた事は初めから損得抜きだ。ほかの囚人みたいな低級な犯罪とは次元が違ふ」
と、おれはそつくり返《かへ》つた。
「いや、畏れ入りやした。それにしても小山さん、おいらの話に説教が混るのが面白いと茶化しなすつたが、あんたも結構説教するぢやありませんか」
二人は大笑ひした。
五
しかしこのチヤク屋の次郎とは一番話が合つた。役者の様《やう》な好《い》い男で、実際役者の声色《こわいろ》もうまい。赤い獄衣を着てゐても不思議に粋《いき》で、ぴちぴち撥返《はねかへ》る程元気がいい。おれが牢屋に入《はひ》る前の普通の世間《せけん》にも、こんな気持の好《い》い奴《やつ》は見たことがない。
それ以上に感心したのは彼が侠気あることだ。この粋《いき》な巾着切りが、同囚が不法な虐待でも受けると、普段《ふだん》それほど仲が好《よ》くもないのに傍《そば》から役人に抗議を申し立てる。
尤《もつと》もこの男は、平生《へいぜい》は竹を割つた様《やう》にからつとしてゐるが、いつたん捻《ねぢ》れ出したらどこまで捻れてゆくかわからない気性の持主でもある。
この囚人の虐待に就《つい》てだが――聞くところによると北海道の監獄の看守は、報告書もまともに書けない癖《くせ》に、唯《ただ》腕力だけで職に就いた連中が少なくないさうだ。況《いは》んやその下で働く押丁《あふてい》に於てをやで、まるで雲助《くもすけ》だ。この雲助|共《ども》に、囚人が何か待遇に不満があつて抗議しても、唯お上の都合だといふ一言で悉《ことごと》く撥《は》ねつける。
「食物は米麦《べいばく》の混炊《こんすい》と定まつてゐる筈《はず》ですが、ここ十日程、米の顔を見たこともありません。連日芋|許《ばか》り食はせると云ふのはどう云ふ訳《わけ》ですか」
「文句を云ふな。お上の都合だ」
「お菜《かず》は規則で三銭以下となつてゐる筈ですが、幾ら推量しても五厘にも足りないお菜を出すのはどう云ふ訳です」
「三銭以下だから、五厘でも三厘でも差支《さしつか》へないではないか」
「そりや面妖《をか》しい。三厘五厘でいいなら一銭以下とある筈です。三銭以下と法文にあるのは少なくとも二銭以上を意味すると考へるのが常識です」
「つべこべ理屈を云ふな、お上の都合だ」
「監獄則によると、適時司法省から巡閲官と云ふ方が来て、囚人の訴へを聴いてくれることになつてゐるさうですが、三年たつても四年たつても、そんな人の見えたことがありません。これはどうなつてゐるのですか」
「来ることもある。来ないこともある。お上の都合だ。お前らが要求すべきことではない」
まあ、万事こんなていたらくだ。こんな文句を云ふのは大抵おれか、チヤク屋の次郎である。
ある夏の午後、珍しくほかの奴《やつ》が作業場で看守とこの類《たぐ》ひの遣取《やりと》りをした揚句《あげく》、怒《おこ》り出した看守がいきなりこの囚人を殴り倒して、その顔を靴で踏んづけたのを見て、チヤク屋の次郎が駈けつけて、その看守を張り飛ばした。
「やい、何があつたとしても、人の顔を靴で踏みつけることがあるか。囚人だつて人間だぞ」
張り飛ばされた看守はのけぞつていつて、仰向《あふむ》けに転がつたが、すぐにはね起きて向ふへ駈けていつた。と、間もなく五人の看守を連れて駈け戻つて来た。みんな佩剣《はいけん》に手をかけてゐる。
と見て、今度はおれが素飛《すつと》んでいつた。
先刻《さつき》も云つた様《やう》に、普段《ふだん》からおれはチヤク屋の侠気に感心して、今度それによる騒動が起つたらおれも手伝つてやらうと念願してゐたのだから、この時と許《ばか》り看守に駈け向つた。
囚人が暴《あば》れたら看守は斬殺してもいいさうで、現《げん》にその憂目《うきめ》に合つた奴《やつ》がそれ迄おれの知つてゐるだけでも三、四人ある。しかし頭に血が上《のぼ》つたら訳《わけ》が分らなくなるのがおれの性分《しやうぶん》だから、そのときは怖くとも何ともなかつた。
標茶《しべちや》の看守|位《くらゐ》に畏れ入つて縮《ちぢ》こまるへなへなだと思つてるか、おれを誰だと思ふんだ、清国《しんこく》全権李鴻章に一発|喰《くら》はせたおにいさんだ、と無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしたが、何しろ相手は腕力を買はれて傭はれた連中で、しかも六人もゐるのだから敵《かな》はない。一緒《いつしよ》に暴れてゐたチヤク屋の次郎と共に、到頭捻ぢ伏せられてしまつた。それでも、向ふが剣を抜かなかつたのは感心だ。
六
剣を抜かなかつたのは感心だが、血|塗《まみ》れの雑巾《ざふきん》みたいになつた二人は、やがて縄《なは》で括《くく》られて屏禁檻《へいきんかん》と云ふ別棟へ引きずつてゆかれた。まるで話に聞く鰓《えら》に笹を通されて熊《くま》に引きずられる鮭《しやけ》同然だ。その上、そこで今度は天井《てんじやう》から吊るされた鮭《しやけ》そつくりな目に合はされた。
それは手錠を嵌《は》め、格子《かうし》にくつつけて爪先《つまさき》立ちに立たされて、手錠に縄を巻いて高い格子に結《ゆは》へ付けると云ふ懲罰である。アラマキと称するさうだ。これを何日か続ける。
直立と云ふ姿勢も何日かやられると、血が下がつて足は膨《ふく》れ上《あが》つて樽《たる》みたいになる。ましてや爪先立ちだ。一日に三度、格子の外から握り飯を口に放り込んでくれるけれど、下の方は垂れ流しだ。折《をり》しも夏のことで、蚊《か》や蚋《ぶよ》がわーんとひしめいてゐるが、それに刺されても掻くことも出来ん。睡眠が不可能なことは云ふ迄もない。
――このアラマキ刑の話は以前から耳にしてゐた。如何《いか》なる豪傑もこれにかけられると悲鳴をあげ、看守に放免を哀訴し、自分の罪を陳謝するさうだ。
二人並んで塩鮭《しほじやけ》の如く吊るされること半日、流石《さすが》のおれも泣きたくなつた。日が暮れて暗くなると、それ迄外から見張つてげらげら笑ひながら悪罵してゐた二人の看守が、眼を離しても大丈夫と判断したものか詰所に引揚げてしまつた。
と見るや、隣りのチヤク屋がひよいと所定の場所から離れた。そして手首を妙に捻《ひね》つたと思ふと、手錠も外《はづ》してしまつた。それからおれのところへ来ると、おれの縄も解き手錠も外してくれた。
おれはその儘《まま》へなへなとへたり込んだが、すぐに眼をまるくして、
「一体、どうしたんだ」
と、チヤク屋を見上げた。まるで手品を見る様《やう》だ。
「縄抜けや手錠|外《はづ》しが出来なくつて、東京のスリと云へますかい」
と、チヤク屋の次郎はへらへらと笑つた。
世の中で何が嬉《うれ》しいかと云つて、自分を刺す蚊を叩ける程嬉しい事はない、と云ふことを初めて知つた。今迄|散々《さんざん》刺して吸つて血膨《ちぶく》れになつた奴を、こん畜生《ちきしやう》こん畜生と片つぱしから痛快無比に叩き潰してゐるうちに、それ迄のくたびれで前後不覚にぐうぐう眠り込んでしまつた。
「兄《にい》さん、そろそろ起きてくんなよ」
揺り起されると、白々《しらじら》と夜が明けてゐる。
そこでまた改めて手錠を嵌《は》め、それを縄に結びつけた。昨日《きのふ》と同じだが、唯踵《ただかかと》は床《ゆか》に着ければ着けられる様《やう》にした。これだけで苦しさが天地程も違ふ。
やがて靴音が近づいて、看守が二人現はれ、
「よく眠れたか」
と嘲笑《あざわら》つた。
「へえ、よく眠れました。近来稀な安眠です。私は前世馬だつたと見えて立つた儘《まま》の方がよく眠れる様《やう》です」
と、チヤク屋は答へた。
看守達は変な顔をしてじろじろ覗《のぞ》き込んだが、手錠や縄に何の変つたところもないので、いよいよ狐につままれた様《やう》な表情をした。一人が憎々しさうに云つた。
「それでは反省する迄アラマキを続けるとしよう」
これには参つた。ほんものの鮭《しやけ》のアラマキなら何日続いてもいいが、人間のアラマキは戴けない。
しかしアラマキの刑からは結局五日程で放免になつた。何日たつてもこつちがぴんぴんしてゐるので、怪《あや》しみながらも呆れ返つて、なほ続ける根気を失つたと見える。
監獄で一番|怖《おつかな》いと云はれる「闇室」や「アラマキ」を何とか凌《しの》いだのだから、もう怖《こは》いものはない。囚人のみんなが大尊敬の眼でおれを見る。娑婆《しやば》にゐる時、そんな眼で見られたことは一度もない。
それに、そんな酷《ひど》い目に合はされても、身体に何の異常もない。お話にならない粗食の事は先に述べたが、それでゐて別に骨皮《ほねかは》筋右衛門《すぢゑもん》になりもしない。おれ許りぢやない、囚人みんなが余り病気をしない。
不思議な話だが、どうやらこれは決《きま》り切つた起床や就眠、その間の食事、労作など規則通りの生活と、そして右の粗食が却《かへ》つて健康に好いらしい。人間丈夫になりたかつたら監獄に入《はひ》るに限る。
それに、おれの場合、精神的にも落着いたものだ。――
「お前は自分の犯した罪に就て全然反省してをらんな」
と、いつか典獄がおれの顔をつくづくと見て憮然《ぶぜん》として云つたことがあるが、もともとおれはほかの囚人と違つて、私利私欲から発した罪人ぢやないと思つてゐる。それが国家に大害を与へたと云ふので、それぢやその罰を潔《いさぎよ》く受けようと覚悟して入《はひ》つてるんだから、心に何の不平不満もない。
牢屋にゐる事に不平不満はないが、しかし監獄の役人共が獄則違反の待遇をすれば文句は云ふ。瘤《こぶ》だらけになつても云ふ。首が飛んでも云ふ。
要するに彼等《かれら》は、囚人が泣き顔を見せて哀訴嘆願しないと辛《つら》く当るのだ。それを承知して、みんな看守達に哀れつぽく媚《こ》びる。のみならず彼らに気に入《い》られれば賞標と云ふものを貰ひ、それが幾つかになると仮出獄を許されると云ふ事がある。豈胡麻《あにごま》を磨《す》らざるを得んやだ。
おれも下らない事で憎まれて損をするのは馬鹿々々しいと思ひ、また彼ら如きを籠絡《ろうらく》する芸当がやれないでどうするか、などと考へたこともあつたが、持つて生まれた気性はどうにもならない。それで、おれはおれの分でゆける所までゆく、と、自分で断定を下した。だから最後まで胡麻磨《ごます》りは駄目であつた。
第一おれは、無期だと覚悟を決《き》めてゐる。なまじ仮出獄など当《あて》にして、娑婆《しやば》に出たらああしよう、かうしようと夢想して、思ひのほか当《あて》が外《はづ》れるとその落胆は一《ひと》通りではない。現に落胆の揚句《あげく》気が違つた奴《やつ》がある。その点、おれは何時《いつ》の日かここに骨を埋《うづ》める積りだつたから平気であつた。
さうかうしてゐる中《うち》に、牢屋にも光陰は矢の如く、いつの間にか六年程過ぎて明治三十四年の夏になつた。
この時にあたつて、標茶《しべちや》の釧路監獄は廃止されて、囚人はみんな今度《こんど》新しく出来た網走《あばしり》監獄へ移ることになつた。
七
網走へ移転すると云ふ話は、囚人仲間の噂で四、五ヶ月前から聞いてゐた。しかし見てゐると釧路の監獄では幾つかの新しい建物を建ててゐるし、新しい備品も買ひ入れてゐるやうなので、真逆《まさか》と思つてゐた。
それが本当の事だと発表されて、囚人は一斉《いつせい》にわつと歓声をあげた。
網走の方が住《す》み好《い》いから歓声をあげた訳《わけ》ではない。網走がどんな所か誰も知らない。唯《ただ》毎日々々、同じ様《やう》な鉄の箍《たが》を嵌《は》めた生活だから、何でもいい、変つた事があれば嬉しがるのだ。
標茶《しべちや》に骨を埋《うづ》めようと考へてゐたのに残念だ、とは思はない。兎《と》に角《かく》気が変つていいとおれも喜《よろこ》んだが、さてそれとは別にひつかかる事がある。
で、典獄が見廻りに来た時、そのひつかかりを持ち出して見た。
「典獄どの。……この間、網走移送の事を承《うけたま》はりましたが、それに就て疑問の点があるのですが、聴いて戴けますか」
「お前か」
と、典獄は苦《にが》い顔をした。また騒動屋が出て来たと思つたらしい。
「網走へゆくのが不平か。そんな苦情は聴けんぞ」
「いえ、まさかそんな事に苦情は申しません。唯《ただ》、先頃《さきごろ》からここの様子《やうす》を拝見してをりますと、官舎の増築、修繕など、どんどん続けてをられるやうですが、それはどういふ訳《わけ》でありますか」
「それはすべて以前からの計画に従つてやつてをる」
「この監獄はまだ充分に使用に耐へるやうに見受けられますが、看守どのに聞くと別に解体して運ぶと云ふ訳《わけ》でもないさうで、後《あと》は立腐《たちぐさ》れになる。囚人たちが何十年も苦役して開墾した田畑山林も、放りつぱなしでまた荒野に戻るとのことで、まことに勿体ない話だと思ひますが」
「そんな事を云つても、移転は政府の御命令だからどうにも致し方がない。第一お前|風情《ふぜい》がそんな心配をする必要はない」
「いや、必要はあります。特に、移転と決《きま》つてゐるのになほ新しい物品や道具をどんどん購入してをられる状態を見ては、黙つてゐられません」
「囚人の分際で出過ぎた事を云ふな」
「囚人だつて国民です。国民の一人として憤慨に耐へんのです。以上はすべて国民の財産であり、税金の結晶ですぞ。あなた方お役人は税金に対して甚だ鈍感だが、国民は税金にのた打ち廻つてをるのです。それをかくも無神経不経済に浪費されるとは――」
「浪費はせん。官舎も物品も、民間に然るべく払ひ下げられてその代金は受領することになつてをる」
「民間人と云ふのはつまり御用商人でせう。さあそれが問題です」
「何が問題ぢや」
「曾《かつ》て北海道では官有物払ひ下げ事件と云ふのがありましたな。開拓長官の黒田清隆が、尨大《ばうだい》な北海道の官有物――官舎、工場、牧場、農場、船舶などを御用商人に、只《ただ》みたいな値で払ひ下げようとして大騒ぎになつた。それが何千人かの小黒田《せうくろだ》になつて、未《いまだ》に役人の世界に棲息してをる。この釧路監獄にも御用商人と結託して役得を懐《ふところ》にしてをる連中がうようよしてるつてえのが、われわれ囚人仲間の公然たる噂で――」
「たはけものめが」
典獄は石炭を投げ込んだ機関車の鑵《かま》みたいに震動して、
「官憲を侮辱するか、云ふに事を欠き途方もないことを云ふ奴《やつ》だ。おい、この無礼なカンシケツに然るべき懲罰を加へろ」
と、左右を振り返つた。
四、五人の看守が雪崩《なだれ》を打つて、飛びかかつて来て、おれはまた「闇室」に荷物みたいに四角になつて詰め込まれた。
このとき典獄は確かカンシケツと云つたが、何の事だか分らなかつた。後《のち》に牢を出てからふと思ひ出して調べて見たら、|乾屎※[#「木+厥」]《かんしけつ》と書いて糞の乾《かわ》いた糞掻箆《くそかきべら》の事ださうだ。酷《ひど》い悪口を云つたものだが、しかしおれの異議申し立ては決してあらぬ云ひ掛《がか》りではない、牢の中|許《ばか》りぢやなく天下の正論だと今でも信じてゐる。
実際おれは永い間牢にゐて知つてゐるが、アイヌの小屋を少し頑丈《ぐわんぢやう》にした位《くらゐ》の監房に、四、五千円掛けたり、豚小屋に等《ひと》しい炊事場に一万円|費《つひや》したり、どこにそんな金が掛《かか》つたのか分らない。一方で、一襲《ひとかさね》七、八円の夜具七十組、合計五百円前後のものを、七十円|位《くらゐ》で、或《あるひ》は一頭百円以上の馬十数頭を、一頭五円程でどしどし御用商人に払ひ下げたりしてゐる。無論役人がそのホマチを取るのである。
そしておれは、北海道の牢役人のみならず、天下の役人の大半が今でも国民の血税を只《ただ》で出る小便同様に心得てゐる糞掻箆《くそかきべら》同然の手合《てあひ》だと見てゐる。
「闇室」に入れられたが、もうおれにとつては隠れん坊でしやがんでゐる様《やう》なもんだ。五日程そこで暮してゐて、出ると引つ越しが始まつてゐた。それで出さざるを得なくなつたんだらう。
全囚人は二組《ふたくみ》に分けられ、大部分は徒歩で網走迄行かされるのだが、一部は釧路から船で送られることになり、どう云ふ訳か――闇室から出たてのせゐか――おれが船組に廻されたのは何よりだつた。
標茶《しべちや》の監獄を立ち出《い》でたのは七月十九日朝であつた。生憎《あひにく》小雨《こさめ》が降りしきつてゐた。雨に烟《けむ》る監獄や周囲の山野《さんや》の景を見ると、ふと纏綿《てんめん》の情《じやう》とも云ふべき感情が湧《わ》いて来たのはわれながら可笑《をか》しかつた。
何艘《なんさう》かの伝馬船《てんません》に一船当り十四、五人の看守、六、七十人の赤衣の囚人が分乗して釧路川を下り、夜に入《はひ》つて釧路に着いて一泊した。無論普通の旅館などである訳がなく、魚の腐つた匂ひの染み着いた鰊《にしん》小屋だ。
翌日、港へ向ふ。囚人は二人づつ腰を鎖で繋《つな》がれてゐるのだが、おれの相棒が例のチヤク屋の次郎だつたのは嬉《うれ》しかつた。道中私語を禁じるとの事であつたが、みんなそんな命令は守つてゐない。付添《つきそ》ひの看守も環境が変つたせゐか黙認の態《てい》であつたが、おれ達の場合、道中で垣間《かいま》見る女に就てチヤク屋があまり切ない感想を洩らすので、ついおれが大声で笑つたら、流石《さすが》に看守が飛んで来て、「お前達は小学校《せうがくかう》の遠足に出たと思つてゐるか」と叱りつけた。
港から艀《はしけ》で沖合の本船に乗せられて海へ出た。根室《ねむろ》と知床《しれとこ》の沖を廻る三日三晩の波の上で反吐《へど》をつく者が続出し、お互ひに腰を鎖で繋《つな》がれてゐるので身を避《よ》けることもならず、これには往生《わうじやう》したが、しかし例へ少々波が荒れようと流石《さすが》に牢の中よりやましだと思つた。
網走監獄は以前から分監としてあつたものが、今度《こんど》正式に本監となつたもので、矢張《やは》り建物は新しく作られたものが多い。幾ら監獄でも新しいものは気持がよく、到着の夜は旅の疲れもあつてぐつすり眠つた。
翌朝眼が覚《さ》めると、もう新しい備品|買《か》ひ入れの声が聞え、続々出入りする御用商人の姿が牢屋の中からでも見える。買ひ入れる物品は、みんな釧路監獄にあるのだと思ふと、きのふは新しいものの方が気持が好《い》いと考へた癖におれはまた癪に障《さは》つたが、この愚を如何《いか》に叫んでも愚や愚や汝《なんぢ》を如何《いかん》せん、天下の為に歎くばかりだ。
建物は新しいが、監獄の規則、生活には何の変化もない。唯、冬が来てその寒いのには少々閉口した。寒さは釧路で充分味はつたが、ここはそれより北だけに、牢屋は氷漬けになつた様《やう》だ。飛ぶ鳥さへ凍つて落ちるとか云ふ話だが全くその通りだ。
翌《あく》る年の確か二月、看守から思ひがけぬニュースを聞いた。故郷上州|邑楽《あふら》郡大島村に住んでゐるおやぢが渡良瀬《わたらせ》川鉱毒事件で近くの農民達と共に、抗議の為に大挙上京した時、県会議員の身でありながらその陣頭に立ち、凶徒|嘯集《せうしふ》罪で検挙されたと云ふのだ。新聞には「父は鍛冶橋《かぢばし》の獄に呻《うめ》き、子は北海の獄に泣く」と出てゐたさうだ。
李鴻章を撃つたと云ふのでおれを勘当したおやぢだが、矢張《やつぱ》りおれと同じ熱い血を持つてゐたと見える。いや、おれの血が親譲りなんだらう。おれは改めておやぢを尊敬した。子は北海の獄に泣く、なんて、唐変木《たうへんぼく》め、誰が泣いたりするもんか。
八
網走監獄に毛蟹熊《けがにぐま》と云ふ看守がゐた。
無論|綽名《あだな》だが、毛の生えてゐないのは尻だけと云はれる程毛だらけの男だ。看守になる前は千島《ちしま》の方で毛唐に使はれて海獺《ラツコ》狩りをしてゐたとかで、身体も毛唐の様《やう》に大きい。しかも獣《けもの》みたいに凶暴無比の癖に、囚人如きは海獺《ラツコ》以下の獣類だと思つてゐるらしい。
これがおれを目の敵《かたき》にした。どうやらおれが、釧路から来た囚人の中で大将みたいに威張《ゐば》つてゐるので気に食はなかつたやうだ。
こいつには些細《ささい》な事で何度か殴られた。張り飛ばされると云ふ言葉通り、こいつに殴られると一|間位《けんくらゐ》素つ飛んでひつくり返つてしまふ。看守に殺意|迄《まで》覚えたのはこの男が初めてだが、そんなおれをいつも説教して止《と》めたのはチヤク屋の次郎だ。
「お止《よ》しなさい、お止《よ》しなさい。あんな獣《けだもの》と真面《まとも》にやり合つちや、皮を剥《は》がされちまひますぜ。折角《せつかく》無期にして貰《もら》ひながら海獺《ラツコ》みたいな殺され方をされちや馬鹿馬鹿しい」
考へて見ると、おれもチヤク屋の次郎も大変な癇癪《かんしやく》持ちで負けず嫌《ぎら》ひで、突《つ》つ張《ぱ》りで強情《がうじやう》な人間だが、不思議な事に一方がそんな性分《しやうぶん》を発揮しようとすると、一方が傍《そば》から説教して止《と》める。それ迄二人が何とか無事で来られたのはそのお蔭《かげ》かも知れない。
おれもその通りだと思ひ、何度か何十度か、頭に上《のぼ》る血をオホーツク海から吹きつける寒い風で醒《さ》ましてゐた。
その中《うち》、日露戦争が始まつて、オホーツク辺《あた》りにも露艦が出没するとか云ふ噂が牢内にも伝《つた》はつて来た。逆上性《のぼせしやう》のおれは、囚人許りの白襷《しろだすき》決死隊を編制して露艦へ突撃したいと思ひつき、雑居房の仲間に相談した。みんな双手を挙《あ》げて賛成し、一同|雑巾《ざふきん》刺しの針で指を突いてその血で血書して、右の志願を畏《おそ》れ乍《なが》らと訴《うつた》へて出たが、全く相手にされなかつたのは残念だ。
そして、戦争が終つた翌年のことだ。思ひがけない事でまた毛蟹熊《けがにぐま》と衝突した。世の中にはほんの小事から大事に至る例は少なくないが、この場合も原因は一匹の犬だ。
戦争が始まらうと終《をは》らうと、監獄には新しい囚人がどんどん送られて来る。雑居房など二段の蚕棚《かひこだな》を三段にして、一番上の奴《やつ》など天井の鼠の糞を舐《な》める位《くらゐ》にして寝てゐるのだが、それでも追ひつかない。そこでその夏から雑居房の大増築が始まつたのだが、もともと囚人が溢れ返つてゐるのだからほかに行《ゆき》場所がない。到頭雑居房が出来上る迄、一部の囚人は――と云つても大変な人数だが、或る倉庫に収容されることになつた。
一面だけを格子に作り直した臨時の牢で、今迄は廊下を隔てて向ひ側に雑居房があるのだが、今度《こんど》は吹き曝《さら》しだ。丁度《ちやうど》夏だから助かつたが、夜、蚊の大軍が攻め込んで来るのには降参した。
蚊には閉口したが、格子越しに見晴しの好《い》いのは結構だ。尤《もつと》も向ふに矢張《やは》り倉庫が見える荒涼とした庭だが、それでも気が変つていい。
そこへ或る朝から一匹の犬が現はれた。
可哀さうな位痩《くらゐや》せこけた赤犬だが、これがどうしたのか何時迄《いつまで》もその辺をうろうろして姿を消さない。それはおれが格子の間から物相飯《もつさうめし》の残りを投げてやつたことからほかにも次々と残飯を投げる奴《やつ》が出て来たせゐもあるが、その揚句《あげく》何時《いつ》も格子の外に坐つて、尻尾《しつぽ》を振つたりちんちんをしたりするやうになつた。
かうなると可愛いこと一通りではない。ほかの世界とは違ふ。凡《およ》そ可愛がるものなどまるで無い牢屋にこんな可愛い動物が出現したのだから、赤い着物を着た髯《ひげ》蓬々《ぼうぼう》の荒くれ男達が眼をうるませて、アカ、アカと呼ぶ。格子の間から手を伸ばして撫でまはす。物相飯《もつさうめし》だつて、命の種《たね》だがそれを惜し気《げ》もなく半分|位《くらゐ》も投げてやる奴もある。
それが可笑《をか》しい事に、黒い官服を着た看守や押丁《あふてい》が来ると一目散《いちもくさん》に逃げ出すか、時によつては牙《きば》を剥《む》いてわんわん吠えかかるのである。
「こりやこの犬の前世は、自由党員か賭博《ばくち》打ちだつたかも知れん」
と、おれが云ふと一同哄笑したが、その中でチヤク屋の次郎も笑ひながら、
「巾着切りだつたかも知れねえぜ」
と、呟《つぶや》いたのでみないよいよ笑つた。
九
夏が過ぎて秋風が吹き始め、それも北の海からの風で、夜など吹き通し、牢では眠るのも辛《つら》い様《やう》な季節になつたが、新しい雑居房はまだ出来ない。
そんな或る日、丁度《ちやうど》物相飯《もつさうめし》が配られた時、毛蟹熊が現はれた。その日が彼の監視当番の日だつたやうだが、六尺棒を一本|担《かつ》いでその先に油紙《あぶらがみ》の包みを結《ゆは》へてゐる。
実はその何日か前、毛蟹熊はアカに足を咬《か》みつかれ、翌日こんどは棒と縄を持つてやつて来てアカを捕《つらま》へようとしたのだが、汗みづくになつて追ひ廻した揚句《あげく》まんまと逃げられてしまつた。その光景は、格子の中の囚人達の大喝采を受けたと云ふ経緯《いきさつ》があつた。
はてな、何だらう、と見てゐると、毛蟹熊はその油紙の包みを解いた。中から現はれたのは血まみれになり、ぺちやんこになつた物体だ。それが紛《まぎ》れもなくアカの屍骸だと知つて囚人達は、人間の屍骸を見たよりも大きな悲鳴をどよめかせた。
毛蟹熊は左手に棒を抱《かか》へ、右手にアカをぶら下げて歩いて来て、牢の前に立ちはだかつて、
「さあ、餌《ゑさ》をやれ」
と、犬の屍骸を放り出した。棒の先も血に染まつてゐるところを見ると、その棒で殴り殺したものに相違ない。
おれは格子に獅噛付《しがみつ》いて声を振搾《ふりしぼ》つた。
「きさま、何故《なぜ》そんな事をした」
「おれに咬《か》みついたからだ」
「それはきさまがアカに嫌はれたからだ」
「そして囚人は好きなのか。役人を嫌つて囚人に尾を振る様《やう》な犬は刑罰に処せねばならん。そもそも囚人の分際で犬を飼ふなんて事が不届《ふとど》きだ。そんな事は許せん」
「熊の様《やう》な大きな図体《づうたい》をして、蟹みたいに心のちつぽけな奴《やつ》だ。犬畜生に劣るとはきさまの様《やう》な奴《やつ》のことだ」
牢屋に入《はひ》つてもう十年以上になるが、おれがこれ程|怒《おこ》つた事はない。頭の中で湯が煮え返る様《やう》な気がした。
「きさまの方がこの餌《ゑさ》を喰《くら》へ」
と、怒鳴《どな》つておれは、膝の上の物相飯《もつさうめし》をひつ掴《つか》んで、格子の間から投げつけた。眼もくらくらしてゐるのに、見事《みごと》に毛蟹熊の顔面に命中して、髯《ひげ》だらけの顔が飯粒だらけになつた。
「あつ、ぷつ、こいつ看守に暴行を働くか」
毛蟹熊は飛び上り、片手の棒を取り直すと、いきなり格子の間からおれの顔めがけてそれを突つ込んだ。
本来ならもろに顔を突かれたらうが、棒が格子に触《ふ》れたせゐか、それは横へ外《そ》れて空《くう》を突いた。おれはその棒をひつ掴《つか》むや否《いな》や、逆に突き返してやつた。引かれて棒から手を離した毛蟹熊は自分の方が猛烈に鼻を突かれて、わつと云ひながら仰向《あふの》けに地響きを立てて倒れた。盛大に鼻血が飛び散つた。
彼は撥《は》ね起きると、血走つた眼でこつちを睨《にら》みつけ、
「やつたな、きさま、その儘《まま》には捨て置かんぞ。今に見てをれ」
と、喚《わめ》きながら、怖ろしい勢ひで向ふへ駈け去つた。
卑怯な奴《やつ》だ。今度は七、八人もの同僚を連れて来た。そして鍵を使つて格子の戸口を開けると中へ雪崩《なだ》れ込んで来た。
普段《ふだん》の雑居房でも狭《せま》いのに、そのまた倍|位《くらゐ》に詰め込まれてゐる臨時牢だから、まるで鶏小屋《にはとりごや》に十頭近い馬が突入して来た様《やう》なものだ。「何しやがるんだ」「無茶するな」と、二、三、抵抗した者もあつたが、大半は相手の見幕《けんまく》の凄じさに圧倒されて、悲鳴をあげて蹂躙《じうりん》される儘《まま》になつた。
その中から、おれは引きずり出された。何しろ多勢に無勢だからどうしやうもない。
そして、恐《おそ》らく見せしめの為だらう、みんな牢の中から見てゐるそこの庭で、看守達にさんざん打《ぶ》ちのめされた。就中《なかんづく》凶暴を極めたのは無論毛蟹熊だ。殴りつけ蹴りつけ、鳩尾《みぞおち》を突き、はては空中に放り上げて落す。
「どうだ参つたか」
「参らない、参るもんか」
と、おれは眼をむいていつた。
「強情な奴《やつ》だ。そうれ」
と、今度は背負ひ投げして地面に叩きつけ、顔だらうが手足だらうが、遠慮|会釈《ゑしやく》なく靴《くつ》で踏みつける。
「こら、まだ謝罪せんか」
「何を謝罪するんだ、するもんか、もつとやれ、このモモンガーの海獺《ラツコ》野郎」
と、頑張《ぐわんば》つてゐる中《うち》、到頭おれは眼を廻《まは》してしまつた。
十
眼が覚《さ》めた時の第一の記憶は、全身に満ち渡る骨の痛みの声であつた。砧《きぬた》に打《う》たれた布はかうもあらうかと考へた。後《あと》で知つたところによると実際おれの骨は、肋骨《あばらぼね》が二本折れ、左の二の腕も右の足首も折れ、全身血|漬《びた》しの雑巾《ざふきん》みたいになつてゐたのである。
次に判明したのは周囲から覗き込んでゐる同囚達の顔と、そこが矢張《やは》り元の牢の中だと云ふことであつた。
「生きてる、生きてる」
二、三人が叫ぶ声がした。歓呼が牢内に満ちた。血|漬《びた》しの雑巾《ざふきん》みたいにまた牢に放り込まれたおれを、仲間は獄衣を裂いてあちこち繃帯《はうたい》し、只管撫《ひたすらな》で擦《さす》つてくれてゐたのである。
「えらい、よく頑張つておくんなすつた。流石《さすが》だ。感心だ」
大声をあげて褒《ほ》め讃《たた》へたのはチヤク屋だ。
おれはチヤク屋の次郎の眼に、初めて――いつの間にか日は暮れかかつてゐて薄暗い牢内の光の中に――きらりと涙が光つてゐるのを見た。
「済《す》まねえ、お前さんを見殺しにしちまつたのは申し訳《わけ》ない」
殺された訳《わけ》ではないが、おれが庭で大拷問を受けるのを牢の中で唯《ただ》見てゐたのを謝《あやま》つたんだらう。謝《あやま》る事はない、あの場合ほかにどうしやうもなかつた事はおれも分つてゐる。さう云ひたかつたが、声も出ない。
するとチヤク屋はすつくと立ち上り、
「おい、これから脱走する奴《やつ》はゐないか」
と、みなを見廻した。この時、牢の外に立番の看守も押丁《あふてい》もゐなかつた。
一同「えつ」と驚きの声をあげた。
「脱獄すると云ふのか」「そんな事が出来るのか」「脱走してどこへ逃げるんだ」「今迄やつて無事逃げおほせた奴は一人もゐねえつて云ふぜ」そんな声ががやがやと渦巻いた。
チヤク屋の次郎は演説を始めた。
「みんな聞け、今日《けふ》の毛蟹熊の所業は何とも勘弁ならねえ。おれたちが自分の子より可愛がつてゐる犬を、おれたちが可愛がつてるからと云ふ理由で殺しちまふたあ、もう人間ぢやねえ。小山さんが怒つたのも当り前だ。それをまた半殺しにしたのをこの儘見逃しちやあ、おれ達も人間ぢやなくなる。そこでおれはこれから脱走しようと思ふ。脱走して札幌にでもいつて、裁判所に訴へようぢやあねえか」
「そんな訴へなんか聴いてくれるか」
と、誰か云つた。
「いや、囚人が大勢脱走したつてえ事が世間の評判になるだけでも、ここの典獄の責任になる。それよりその火種《ひだね》を作つたあの毛蟹熊が無事ぢや済まなくなる筈《はず》だ。今こつちがぐうたら童子《どうじ》を極め込んでゐれば向ふは益々増長する許《ばか》りだ。それは後《あと》でここに入つて来る後輩諸君の為にならねえ」
「ああさうか、あいつらに一泡《ひとあわ》吹かせるつてえならやり甲斐がある。しかしどうして脱走するんだ」
「ここは海|沿《ぞ》ひだ。兎《と》に角《かく》浜辺迄《はまべまで》逃げりや、漁師《れふし》の小船が何艘《なんさう》かあるだらう、それに乗るんだ」
「成程《なるほど》、しかし、そもそもここの格子をどうして破るんだ」
「これを見ろ」
と云つて、チヤク屋の次郎は片手を上げた。その拳《こぶし》に紐《ひも》のついた大きな鍵が揺《ゆ》れて鈍《にぶ》く光つてゐるのを見て、みんな尻餅《しりもち》を突かん許りに驚いた。
「牢の鍵だ。先刻《さつき》小山さんをひきずり出す時ここに入《はひ》つて来た看守の一人の腰からスツたのよ」
チヤク屋はからからと笑つたが、
「まだ気付いてゐねえらしいが、今にも探しに戻つて来るに違《ちげ》えねえ。事は急ぐんだ」
と、真剣な顔になつて、
「しかし、仮《かり》にここを出ても、監獄の塀から出るのが骨だ。外へ出てから海まで辿《たど》り着くのがまた難行《なんぎやう》だ。これは二百三高地の白襷《しろだすき》決死隊だぜ。無事逃げおほせる保証はねえ。危《あぶ》ねえと思ふ奴《やつ》はよしな。強《し》ひて勧《すす》めやしねえ」
と、見廻した。
牢内は動揺した。結局、決死隊に参加したのは十六人であつた。
牢屋の隅に横《よこた》はつてゐたおれは、細い声を出して参加を申し出た。ところがチヤク屋は意外にも間の悪《わる》さうな顔をして、「この際、騒ぎの張本人のあんたを袖にする法はねえと思ふが、その身体ぢやあ逃げられる訳《わけ》がねえ、今度《こんど》はひとつ、胸を撫でさすつてここで様子《やうす》を見てゐておくんなさい」と、首を横に振る。さう云はれれば全くその通りなので、おれも合点ゆかない気分で歯噛《はが》みしながらも、チヤク屋の言葉に従はざるを得なかつた。
さあ大騒動が始まつた。
日がとつぷり暮れて庭に薄い月影がさし始めた頃《ころ》、突然この臨時牢からわああと云ふ大喚声があがつた。それが波の様《やう》に何度も繰返される。
忽《たちま》ち十人近い看守達が押取刀《おつとりがたな》で馳《は》せつけた。「何だ何だ」「鎮まれ、鎮まれ」「うぬら気でも違つたか」「命令を聞かんと全員懲罰を加へるぞ」と、外から牢格子を蹴りつけて喚《わめ》く中に、夜目ながら毛蟹熊の毛だらけの顔も見えた。
その看守達の背後に、黒い影が十幾つか忍び寄つて、腕を廻して首を絞めあげた。
「わつ」
「ぐう」
「何者だ」
両手をあげて苦しむその腰から、佩剣《はいけん》が何本か引き抜かれた。
「あつ、破獄だつ」
仰天して叫んだ看守達何人かは、その場で袈裟懸けに斬られた。
襲ひかかつたのは、その前に牢を抜け出してゐた十六人だ。残りの看守は死物狂ひに腕を振り払《はら》ひ、突んのめりながら逃げ出した。
「脱走ぢやつ」
「脱獄者だぞつ」
と、狂つた様《やう》な声が――その中には毛蟹熊の声もあつた――遠ざかると、脱獄した連中で、赤衣を脱《ぬ》ぎ捨て、倒れた看守達の制服を剥《は》いで身体に着けた者が数人あつた。
「それぢやあ、あばよ!」
彼らは一団となつて、疾風の様《やう》に駈けていつた。
カーンカーンと物凄い響を立てて号鐘が鳴り始めた。
再び馳《は》せつけた看守や押丁達は黒山の様《やう》だ。これが、脱走囚がすでに姿を消したと知つて、これまた八方に散つた。みな剣を抜いてゐる。
遠く近く馬の蹄《ひづめ》の音、それから銃声さへも響いて来た。
逃げてくれ、何とかうまく逃げてくれ。身体の動かないおれは、さう神様を拝《をが》むよりほかは芸がない。それでも身悶《みもだ》えしながら残つた連中に怒鳴つた。
「やい、騒げ。こつちもまた暴れ出すやうに思はせて、監獄の注意を散らかすんだ」
それでみんな、わああ、わああ、と海鳴りみたいに喚声をあげ出した。
天道是か非か、結果から云ふと、この決死の牢破りは哀れ水の泡と帰した。
十六人の脱獄者は、工場裏の柵を押し倒していつたん外に出たが、網走といつたつて監獄の中しか知らないのだから地形がよく分らない。あつちこつち逃げ惑つてゐる中《うち》、追跡隊の為に或いは斬殺され、或いは銃殺され、五人だけが不具になつて縛《ばく》に就いた。早い者は五、六時間、長いのも二昼夜で片がついた。
ところがここに愴絶神秘な話がある。後《あと》で聞いたのだが、例のチヤク屋の次郎である。
彼は兎《と》も角《かく》海岸迄は逃げおほせたらしい。それも翌朝早く海岸を歩いてゐるところを――おそらく船を探してゐたのだらう――見た者があつて、丁度《ちやうど》近くを騎馬で捜索中の一人の看守に告げた。その看守は馬を躍らせて、告げられた方角へ駈けていつた。その後《あと》、告知者はまた別の四、五人の看守達にもこの事を知らせた。
さてこの看守達が海辺に着いた時、そこに見出《みいだ》したのは、自分の剣で胸を刺されて大の字になつてゐる同僚の姿であつた。それは毛蟹熊の最期に紛《まぎ》れもなかつた。彼が乗つていつた馬の影は見えなかつたが、砂の上には物凄い格闘と血|飛沫《しぶき》の跡が拡がつてゐたと云ふ。
そして彼らが一帯を見廻した時、海を沖へ向つて小舟を漕《こ》いでゆく一人の男を見た。毛蟹熊を倒したのはそいつに違ひないが、一体どうやつて毛蟹熊を退治したのか。一体どこへ逃げてゆくつもりであつたのか。――それがチヤク屋の次郎である事を、僅《わづ》かに看守の一人が認めた。
チヤク屋の次郎はかうして秋風が白波を巻くオホーツクの海の果てへ消えたが、それつきり彼の姿を見た者はない。おれもその後牢から出て以来、彼にめぐり逢つたことがない。ロシヤにでも渡つて、あつちで巾着切りをやつてるのかも知れない。
十一
そのおれが牢から出た話である。
例の大拷問で、肋骨《あばらぼね》を二本折られ、腕も足も折られた筈《はず》だが、その後これと云つた治療もして貰《もら》へなかつたのに、何時《いつ》の間にか骨が繋《つな》がつてしまつたらしく、おれはまたぴんぴんと元通りに癒《なほ》つてしまつた。われながら特別製の身体としか思へない。
そして牢屋の暮しも元通りに戻つた。――
元通りと云へば、あれだけの騒ぎを起して、監獄の人事には何の変りもない。一体司法省にどう云ふ報告書を書いたのか、典獄も担当の課長も看守も、蛙の面《つら》に水と云つた顔で同じ職に就いてゐるのだから、日本の官庁と云ふ所は何がどうなつてゐるのか、まるきり瓢箪鯰《へうたんなまづ》のお化けみたいな気がする。
つくづく改めてチヤク屋の次郎が可哀さうになつた。世の中がひどく虚《むな》しくなつた。第一、一番うまの合つた奴《やつ》が消滅してしまつたのだから郎君独寂莫《らうくんひとりせきばく》の感を禁じ得ない。
無期で安心立命してゐたつもりだが、これから先お陀仏になる日まで何十年か、おれの丈夫さ加減からすると、下手《へた》するとまだ五十年|位《くらゐ》はそんな日が続くのかと思ふと、ついぞそれ迄感じた事のない心の弱りを感じた。
そこへ、その翌年明治四十年の八月半ばだが、突然|仮《かり》出獄を許されたのには面喰《めんくら》つた。
無期徒刑が結局十二年に減刑されたことになる。その理由が、前年の暴動に際し、よくその理非を弁《わきま》へて加担しなかつた情状に免じて、と云ふのだから狐につままれた様《やう》な話である。
夏の或る日、課長に呼び出されてこの事を告げられた時、思はずおれは云つた。
「いや、あれは何も理非を弁へての事ぢやありません。手足をへし折られて動かうにも動けなかつたんです」
「おや、お前、まだここにゐたいのか」
と、課長は心外な顔をし、すぐに笑ひ出して、
「いや何、今度仮出獄になるのはお前だけではない。あの時暴挙に参加しなかつた囚人一同すべてにこの恩典が下されたのだ。有難《ありがた》く思へ」
と、云つた。
仮出獄の日迄いろいろ思案したが、そのうちだんだん不愉快になり、腹も立つて来た。有難いとはちつとも思はない。
おれは何が嫌ひだと云つて、人の犠牲の上に自分が得をする程嫌ひな事はないが、更にその上、平生の自分の持論とは逆な行為をやる事を余儀なくされるのは我慢が出来ない。
いよいよ監獄を出される朝、おれはどうしても黙つてゐられなくなつて、見送りに出てゐた典獄におれの意見を聴いて貰ふ事にした。
「何故《なぜ》無期徒刑の囚人を今仮出獄させるのですか」
ぽかんとしておれの顔を見てゐる典獄におれは持論を披瀝《ひれき》した。
「私は以前から大赦とか仮出獄とかに疑問を抱《いだ》いてゐるのです。そもそも裁判官が罪人に或る判決を下すのは、厳格にその犯罪を糺明《きうめい》し厳正に法文に照らした結果でせう。それを後《のち》になつて、やれ皇室のどなたかが生まれたとか亡くなつたとか、やれ服役後の囚人の態度が一見しをらしいとか、元の犯罪とは全く無縁の理由で無闇《むやみ》に減刑したり釈放したりするのは、全く法律や裁判を愚弄《ぐろう》したものとしか思はれんのです。最初の刑量の正当性さへ疑はせます。成程《なるほど》、減刑され仮釈放された囚人は喜び、有難がるでせう、しかしその犯罪者の犯罪によつて被害を受けた人々の不満や悲しみは全く無視されてゐるではありませんか。一般にその人々は犯罪者の数に数倍するでせう。一人の罪人を喜ばせる為にそれに数倍する人を悲しませて何が国家の恩典恩赦ですか。私の場合、私の仮出所を悲しむ者はまあ少なからうとは思ひますが、唯《ただ》如何《いか》に何でも無期の刑が十二年で済むとは無茶です。言語|道断《だうだん》、正気の沙汰ではない。……」
典獄は猿か何かにひつ掻かれたやうな顔で手を振つて、
「おい、早くこいつを監獄の外へ摘《つま》み出せ」
と、頭をふらふらさせながら命令した。
函館から青森へ渡る船の船室で、毛布《けつと》の蔭に一冊の本があつた。誰の本だと乗客に聞いてもみんな首を横に振る。青森から函館へ来るとき誰か置き忘れたんだらう。拾ひ上げると「鶉籠《うづらかご》」と云ふ本で、著者は夏目漱石とある。開いて見ると、「坊つちやん」「草枕」「二百十日」と三本の小説が載つてゐる。
船窓から吹き込む海峡の涼しい風の中に寝転んで、先づ「坊つちやん」と云ふ奴《やつ》を読んで見た。十二年間牢屋に入《はひ》つてゐたから夏目漱石なんて小説家の名も知らないが、なかなか面白い。そして、境遇に地獄と極楽の違ひはあるが、世の中にはおれとよく似た気性の男もあるもんだと思ひ、どうやら四国から東京に帰つたらしいから、探して会つて肝胆相照《かんたんあひて》らさうと考へた。
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いろは大王の火葬場
一
明治三十七年四月十三日、斎藤|緑雨《りよくう》は、数え年三十八歳で、本所|横網《よこあみ》町十七番地の小さな借家《しやくや》で死んだ。
作家というより、「死んだら葬式にゆくやつはあるまい」といわれたほど辛辣《しんらつ》な毒舌で知られた批評家で、かつ「按《あん》ずるに筆は一本|也《なり》、箸は二本なり、衆寡《しゆうか》敵せずと知るべし」とか、「刀《とう》を鳥に加えて鳥の血に悲《かなし》めども、魚に加えて魚の血に悲《かなし》まず、声ある者は幸福|也《なり》」とか、人の肺腑《はいふ》にくいいる警句を残した緑雨だが、その末路《まつろ》は悲惨であった。
二十代のはじめからの肺病が重くなって、骸骨みたいな姿になりながら、死ぬ二、三週間前まで、これも経営難に苦しんでいる「平民新聞」などを、米代を借りにヒョロヒョロと訪れたという始末であったが、死んだ家も、のちに藤村《とうそん》が「……なにしろ薄暗い、壁まで黒ずんだ緑色に塗ったところさえある。そのうちに、しばらく人も住まないような陰森《いんしん》な感じが身を襲ったようにやって来た。何となく身内がゾーとして来て、僕は独りで暗い戸棚《とだな》などを見て居《い》られなかった。恐ろしさのあまり、その空屋を飛《とび》出した」と書いたような陰気な家であった。
それでも、息をひきとる前、同棲している女に、
「ちょっと、向うへいっておっておくれ」
と、隣室へ去らせ、ほんの一、二分の間に死んでいたというから、せめて断末魔の姿だけは見せたくないという、彼の最後のプライドだけは保ち得たということになるだろう。
翌日の朝、まだ真っ暗な五時ごろ、粗末な棺桶が出た。死んでも葬式にゆく者はあるまいといわれたが、それでも通夜《つや》に来ていた親戚《しんせき》が四人、文士の仲間が三人ついていった。
隅田川の岸に沿って歩き、吾妻橋にかかろうとするころ、しだいにあたりの風景がうす明るくなって来た。しかし、曇った日で、大川も鉛色の雲をうつしていた。それだけに、四月半ばの樹々や草はみずみずしく、そのために、たった七人の葬列はいっそうみすぼらしかった。
三人の友人は、ひそひそと話した。みな三十代で、一人だけ洋服姿、いちばん若く見えるのが袴《はかま》をはき、ステッキをついているが、あとの一人は羽織はつけているが着流しの姿であった。
「小説家にも、いろいろあるなあ」
「何千人という行列で、まるでお大名の葬礼のようなのもあるし」
「こんな哀れな葬式もある」
お大名のような、とは、半年前に死んだ紅葉の葬儀のことであった。――着流しの一人が、文士らしからぬ厚い肩をぐいとそびやかしていった。
「なに、五十年もたちゃ同じことだ。葬式の人数なんか関係ない」
そのとき、うしろから、
「おい、おい」
と、呼ぶ声がした。
ふりかえると、フロックコートに山高帽の、四十くらいの、とがった口の上に髭《ひげ》を盛りあげた男が、急ぎ足で近づいて来た。葬列は立ちどまった。
「その棺桶、どこへ持ってゆくか」
と、山高帽は横柄《おうへい》にあごをしゃくった。
「むろん、焼場《やきば》ですが。……」
と、肩の厚い男がいった。
「焼場っちゅうと、日暮里《につぽり》の火葬場か」
「そのつもりです」
「あそこには古いのと、新しいのと、二つ火葬場がある。どっちを使うか」
「へえ、火葬場が二つ。……それは、はじめて聞いた。ありがたき倖《しあわ》せで、ここのところ何年か、あそこへいったことがないから。……」
と、友人の顔を見たが、二人とも初耳らしく、けげんな顔をしている。
山高帽は髭をひねっていった。
「古いのは、昔ながらのやつで、新しいのはこの二月に出来た。近代式になっとるだけに、早く、よく焼ける。待合室などの設備もいい。どっちを使うか」
洋服を着た一人が首をかしげながら、前の親戚のほうへいったが、すぐにひき返して来て、
「昔のほうを使うそうだ。古いほうは五円と七円と十円。新式のほうは三十円かかるそうで……その古いほうの一番安いのを頼みたいそうで、こいつは昼近くなると先客が詰まっているかもしれんから、それでこんなに早く出かけて来たんだそうだ」
と、いった。こちらの二人は苦笑した。
「それはいかん!」
山高帽がいった。
「それはいかんぞ」
「なぜですか」
「仏は肺病じゃろ? 肺病がバイキンによるっちゅうことは、いまを去んぬる明治十五年に、ドイツ医学界の泰斗《たいと》ドクトル・コッホが発見したところである。従ってじゃな、肺病の亡者は出来るだけ迅速に、かつ完全に焼かんと、バイキンが煙とともに火葬場の煙突から逃げ出して空中にひろがり、雨風とともに地上に舞いおりる危険がある。肺病の亡者は、すべからく新式のほうで焼いてもらわんけりゃならん」
「肺病の亡者とおっしゃったな」
と、着流しの男がいった。
「それじゃ、仏を御存知ですな」
「あ、そりゃ……知っとる。文士の斎藤緑雨じゃろ」
「あなたはどなたです」
「我輩は。……」
相手はちょっとためらったが、すぐにフロックコートの内かくしから、大型の名刺をとり出した。文士は受取って読んだ。
「警視庁官許、東京博善株式会社営業所長、広木新七」
顔をあげて、
「なんだ、お役人じゃないのか。博善社、というと――」
「つまり、火葬をとり扱う会社で。……」
「馬鹿っ」
と、満面を朱に染めて、文士はどなった。
「どうもおかしいと思っていたが……そんなら、お前さんは火葬会社の社員じゃないか。自分の商売に、えらそうな口をききくさって。……」
フロックコートは、突然ふるえ声になった。
「しかし、警視庁官許で。……」
「警視庁官許? 何だか変な言葉だな。こりゃお前さんのほうで勝手に印刷したものだろう。いや、ほんとうなら、いよいよ御免《ごめん》こうむる。故人が聞いたら怒り出す、いや笑い出すよ」
いちばん若い袴《はかま》の文士がつかつかと寄って来て、ステッキを持たないほうの腕だが、いきなり張り飛ばした。フロックコートの男は、さっきまでの横柄な口をきいていた人間とは別人のように簡単にうしろにひっくり返り、腰をぬかしたように尻餅《しりもち》をついた。
「この時刻にあとをつけて来たとは、はじめから死にそうな病人に眼をつけて、どこかで待っていたんだな。まるでカラスみたいなやつだ。そういえば、面《つら》つきも風態《ふうてい》もカラスそっくりだ。カーと鳴け」
と、若い文士はいった。
「思い出した。いろは大王が火葬会社をはじめたと聞いたことがある。お前はその手下だろう。……逆賊|星《ほし》と組んでた奸商《かんしよう》などには思いもつかんことだろうが、斎藤緑雨は一本の筆で稼いだ金で、自分の焼場をえらんで自分で始末する。だれが牛鍋屋《ぎゆうなべや》の亭主の作った焼場などで焼かれるか!」
朴歯下駄《ほおばげた》の足をあげて蹴った。フロックコートは両手でからくもふせいだが、またひっくり返って、
「ら、乱暴すると、警視庁へ。――ただ火葬場の推薦をしただけなのに――」
と、金切声《かなきりごえ》をあげた。
「よく警視庁を持ち出す男だな。それほど警視庁をふりかざしたいなら、警視庁に帰って言え、逃げもかくれもせん。おれたちは、文士|幸田露伴《こうだろはん》、馬場孤蝶《ぱばこちよう》、そしておれは与謝野寛《よさのひろし》。……虎の鉄幹《てつかん》だ!」
ステッキをふりあげられ、フロックコートは身をねじって地面を二|掻《か》き三掻き、そしてはねあがって、こけつまろびつもと来たほうへ逃げていった。
二
「なんじゃ? まだ一人の客もとれん?」
ゆかた一枚で、床の上に寝そべって、木村|荘平《しようへい》は、妾のキヨに巨体の腰をもませながら怒号した。
「わいたちを町屋《まちや》火葬場の注文取りに命令してから、かれこれ半年にもなるっちゅうのに、七人もおって一人も客がとれんとは、わいたちのやっとることは子供の使いか!」
横たわっているのに、すばらしい関羽髯《かんうひげ》が波打ち、吹きなびいた。もっとも、風のせいもある。
向うの大きな窓ガラスはあけはなされて、夜明け方の海が見えた。しかし、霧がかかっていて、風はない。昨夜から海はじっとりと凪《な》いだままで、きょうも蒸すような日になりそうであった。七月にはいって間もない朝だ。では、その風はどこから来るのかというと、電気|扇《せん》からである。おととしあたりから売り出された輸入品の自動電気扇で、蓄電池を入れた大きな箱の上で、黒い四枚の羽根が、ブーンとまわっている。
もっとも、電気扇は、のちの扇風機のように首をふらない。ただ寝床のほうにむいているだけだから、座敷の入口に目白押しにならんでいる七人の男のほうに風は来ない。それでも彼らは冷汗をかいていた。
「智慧《ちえ》のあるやつは智慧を出せ! わいたちの中には、中学まで出してやったやつがあるやないか。おれを見い、寺子屋に三年いっただけじゃぞ。それでこの身分じゃ!」
そして荘平は、長広舌《ちようこうぜつ》をふるいはじめた。もう何度か聞かされた自慢話だが、それに飽いた顔など、毛ほども見せたりしたら一大事である。
「智慧のないやつは、涙と汗を出せ。涙と汗が涸《か》れたら血を流せ! おれはろくに学問も受けられんかったから、汗を流した。涙を流した。血を流した!」
学問を受けられなかったとは、時勢や環境のせいではなかったらしい。彼は幼年のころ、たしかに寺子屋にいったが、三年かかって、やっと自分の名を書けるだけだったという噂がある。
その代り、手のつけられないあばれん坊で、十二のころから女郎屋に出没し、十四のときは村相撲の横綱になったあげく、大坂相撲の小野川部屋にはいって、二年ばかり、ふんどしかつぎをして諸国を巡業したという。
――木村荘平は、京の伏見の百姓の子であった。
十六のとき、ふっと相撲を思い切って故郷に戻《もど》り、製茶もやっていた家業をついだ。それから彼のほんとうの才能が猛然と発揮され出した。
幕末から明治初年は、彼の二十代にあたるが、ただの製茶業ではなく、輸出業もはじめ、茶ばかりではなく、米、青物も大々的に扱い出し、回漕《かいそう》問屋をひらき、そのうちに薩摩《さつま》藩大坂屋敷の御用商人となった。
このときに、薩摩の川路|利良《としよし》と知り合いになり、かつひそかにその人間と腕を見こまれたらしい。のちに初代警視総監となった川路に荘平が呼ばれたのは、明治十一年の春であった。
川路の用件は次のようなものであった。
「御一新以来、上方《かみがた》でもそうじゃろうが、東京でも牛鍋がはやり出してな。これから人民がますます牛の肉を食う習慣がすすみ、政府としてもこれは奨励せんけりゃいかんと思うちょる。しかるに牛の屠畜は、あちこちでたくさんの業者がばらばらにやっちょって、中には病気で死んだ牛の肉さえそ知らぬ顔で売られちょるていたらくじゃ。衛生上はむろん、流通上も具合悪か。でな、ここはどげんしても政府が監督せにゃならんと思って、実は先年|千束《せんぞく》に官営の屠畜場を作ったんじゃが、そもそも牛の仕入れからして、役人じゃうまくゆかん。役人ばかりじゃなか、改めて見まわして、どうもいまの東京じゃ、安心してまかせられる者がおらん。そこで、はたと思い出したのがおはんじゃ。あの男ならやれる。いや、この仕事、やれるのはあの木村荘平しかなか、とな。……おはん、上方《かみがた》での仕事やめてもらわんけりゃならんので相すまんが、そのほうの補償はする。どうか東京に出て、一肌ぬいでくれんか」
荘平は、数日の思案ののち引受けた。
そして、政府の補償は補償として、自分の事業はぬかりなく巨額の金で売り払って、東京に乗り出した。
一年ほど官営の千束屠殺場を預ってみたのち、彼はお上《かみ》に、やはりこの仕事は官営ではやりにくい、民営として、一切自分にまかせてもらえまいか、と陳情した。そして払下げ金一万七千円、三年年賦という好条件でこれを自分のものとした。
ついで荘平は、政府の三田育種場の一劃を個人用に借用して、食肉の畜産そのものに手をつけ、さらに馬匹《ばひつ》改良を目的として、競馬会社も作りあげた。
本来の屠畜場の事業の拡張に邁進《まいしん》したことはいうまでもない。屠畜の個人業者はむろん、相当規模の屠畜業をやっている業者も、当時あちこちにあったのだが、これを逐次《ちくじ》、潰《つぶ》し、吸収し、日本家畜株式会社なるものを設立した。
川路利良が見こんだだけのことはある。その川路は、そんなことを頼んだ翌年死んでいるが、ここらあたりまでは予想していたとしても、木村荘平が牛鍋屋をひらき、それも東京じゅうに牛鍋のチェーン・ストアを張りめぐらそうとは、夢想もしていなかったにちがいない。
畜産、屠肉、食肉という一貫したシステムは、おのずと荘平の脳中に描き出されたのである。
彼が、芝の三田四国町に、のちに本店とした第一店をひらいたのが、はやくも明治十四年の末であった。それ以来、日本橋通りに第二支店、京橋|采女《うねめ》町に第三、以下、神田連雀町、深川東森下町、日本橋吉川町、浅草今戸町、浅草東仲町、本郷四丁目、麹町|隼《はやぶさ》町、麻布六本木、赤坂|榎坂《えのきざか》町、牛込|通寺《とおりてら》町、四谷伝馬町……と、すでに二十数店を数える。彼はこれを「牛肉店いろは」と命名した。ゆくゆくは四十八店をひらく予定であった。
世に、木村荘平を「いろは大王」と称するに至ったゆえんだ。
その他彼は、日本麦酒会社、日本製糖会社の重役にも名をつらねている。牛鍋に砂糖、ビールは、関連事業といえるだろう。――以上が、木村荘平の履歴の大略である。
さて、これら事業の関連やシステムはわかるが――この明治三十七年、彼は火葬会社の運営にも手をつけた。
これと、牛肉との関係がよくわからない。あるいは、肉をとったあとの牛の残骸《ざんがい》の始末から思いついたことかも知れない。
とにかく、この春、従来からある日暮里の火葬場とは別に、その北の町屋《まちや》村に、煉瓦《れんが》作りの、石炭使用の、彼の工夫による最新式のカマによる火葬場を建設したのである。
ところが、どういうわけか、全然「客」がない。
それにはある理由があるのだが、彼はその理由を認めず、火葬代が既存のものよりだいぶ高いせいだろうと思っているが、しかし彼にしてみれば投資に対してギリギリの採算なのである。
むしろ彼は中流以上の客を対象にして、高いのも一つの商法と考えていたのだが、当時、中流以上はまだまだ土葬が多かったのも具合が悪かったといえる。
とにかくこれが牛鍋のようにゆかないので、さすがの荘平も気をもんで、七人の特別の勧誘員を作った。
いま、彼の前にならんでいるのが、そのセールスマンたちなのであった。――ここは、彼の経営する芝浦の芝浜館という旅館だ。
隣にある芝浦館という料亭も彼のもので、二軒の間口だけでも百メートル以上はある。どちらも豪勢な建物で、牛鍋のほかに、海底からひいた鉱泉の大浴場を売物にしている。そして荘平は、元は後藤象二郎伯爵の別荘だったこの芝浜館の二階の、後藤伯の居室だった一室を本部事務所にして、彼自身ここに寝泊りしているのであった。
セールスマンたちは、けさ六時に来いと命令されて集まったのだが、もともと荘平は朝が早い。どんなに夜が遅くても、毎朝五時半には起きる。
この日、彼は、屠畜業界制覇のころの回顧談をやり、
「ええか、牛殺しの玄能《げんのう》や庖丁を持って押しかけて来た連中と、血まみれの喧嘩をやったことも、十度や二十度ではないぞ。その修羅場は、南山《なんざん》のいくさにも劣らん!」
と、いった。
――日露の戦いは、その二月にはじまっていたのである。
荘平は四十近くになって東京に進出して来たのだが、それからでも二十数年を経ているので、大阪弁とも東京弁ともつかない言語を使う。いや、東京弁というより――彼はどういうわけか薩摩人と気が合って、ふだん薩摩系の大官や実業家とつき合うことが多いので、むしろ大阪|訛《なまり》の薩摩弁ともいうべき妙な言葉を使い、これが変な凄味を相手に感じさせる。
――で、一時間近くこの怪弁の叱咤《しつた》を受けて、ここに至ったとき、ちょうど眼の合った勧誘員の一人が、オドオドと弁解した。
「実は、いつぞや私も、血まで流して相|努《つと》めたのですが。……」
彼は、広木新七であった。あの高圧的な出方も、彼にしてみれば、考えたあげくの勧誘法のつもりであったのだ。
「ああ、あの文士か。三文文士じゃだめだ」
「しかし、なるべく新聞に出るような有名人を狙えというお申しつけで。……」
「うん、その方針はよか。それにまちがいはないが、三文文士はいかん。もっと稼ぎのいい文士の仏をつかまえるんじゃ」
「でも、あのときは、あの男しか死なないもんで。……」
「尾崎紅葉っちゅうやつならよかったんじゃがな。あれは金色夜叉っちゅう小説を書いたくらいじゃから、金にも縁があったじゃろ。あいにく、おれの火葬場が出来る前に死んで、惜しいことをした」
紅葉は、去年の十月に死んだのである。
――荘平は、ほんとうに残念そうに大きな舌打ちをした。
「そういえば、団十郎も菊五郎も、去年死んでしもうたな。これも惜しい」
ふいに、うつ伏せになったまま、枕をたたいた。
「おう、団菊左のもう一人、左団次《さだんじ》もいまわずらってもうながくはないと聞いたぞ。こんどは逃がすな。そうだ、会田、お前、チョイチョイ芝居を見にゆくな。この件はお前にまかす。……左団次は、是非ともおれの火葬場に持って来い。それ、とりそこねたら、ええか、代りにお前を焼場にたたきこむぞ!」
三
八月にはいって時もないある小雨のふる夜、南八丁堀の河端《かわばた》に妙な風態《ふうてい》の男が立って、妙なことをやっていた。
ちかくの数軒の門燈の遠あかりに浮かんだのは、饅頭笠《まんじゆうがさ》に赤|合羽《がつぱ》という姿で、それが堀に向って足をひらき、片手をつき出して、ひとりで何かしゃべっている。
「ああいい心持だ心持だ。川岸《かし》通りの居酒屋で、たった二ツ銚子《ちようし》呑んだのだが、たいそう酔《えい》が出た。いや出るはずでもあろうかえ、まずけさうちで朝飯に迎い酒を二合呑み、それから角《かど》の泥鰌《どじよう》屋で熱いところをちょっと五合」
あまりいい心持そうではない。しぼり出すような、泣くような声だ。
「そこを出てから蛤《はまぐり》で二合ずつ三本呑み、それからあとが雁鍋に、いい黄肌鮪《きはだ》があったところから刺身で一升、とんだ無間《むけん》の梅ガ枝《え》だが、ここで三合かしこで五合、拾い集めて三升ばかり。……」
だれか、歩いて来た。蛇《じや》の目《め》をさした二つの影だ。こちらを見て、立ちどまって、首をかしげて聞いていた。雨が傘にあたる音がするのに、饅頭笠は気がつかず、
「これじゃあ、しまいは源太もどきで鎧《よろい》を質に置かざあなるめえ。裸になっても酒ばかりは呑まずにゃあいられねえ」
と、ひとりでミエを切った。
それからしばらく思い入れの態《てい》であったが、やがて足もとの石を拾い、どういうつもりか「わんわん」と犬の吼《ほ》え声をし、「この畜生め、また吼えやがるか」と、その石を投げた。
石が堀に水音をたてた。彼は右手をつき出して、またミエを切った。その手には大きな煙管《きせる》が握られていた。
「もしもし」
と、蛇の目がそばに寄って声をかけた。
饅頭笠はふり返り、びっくりした態で、しかしすぐに、
「ムム、ハハ、ムム、ハハ、ムハハハハハ!」
と、肩をゆすって笑った。
「いえ、もう結構でございます」
と、蛇の目の男はいった。相手がまだ芝居がかっているのに辟易《へきえき》したのである。二十五、六の、りりしい容貌の青年であった。その顔といい、ゆかた姿ながら絽《ろ》の羽織をつけた姿といい、あきらかに素人《しろうと》ではない。
「しかし、ただいまの忠弥の口跡《こうせき》、少し酔いかげんが足りないようで」
「千秋楽《らく》近い高島屋を思えば、あんな声を出さずにいられようか」
と、饅頭笠はまだ芝居声を出していった。
「ほう、御存知でございますか」
「知らいでか。これほど高島屋のひいきなんだから」
いかにもその通りにちがいない。高島屋とは役者の市川左団次のことだ。いま男がやっていたのは、左団次の|おはこ《ヽヽヽ》といわれる黙阿弥《もくあみ》の「慶安太平記」――俗に丸橋忠弥の堀端の段、忠弥が江戸城の堀に小石を投げこみ、煙管を聴音器としてその深さを計る場面なのであった。
そこへ松平伊豆守が傘をさして現われてとがめるのだが、それとそっくりにここにさしかかったのは、左団次の子の莚升《えんしよう》――のちに父より有名になった二世左団次で、もう一人は一門の弟子であった。
その日の芝居がはねて、ひいき客とつき合っての帰途だ。左団次の家は、すぐそこの路地をはいった新富町二丁目にあった。
「やあ、若太夫だね」
「恐れいります。こんな雨の夜に、わざわざそんな忠弥の衣裳までつけられて……父に代ってお礼申しあげます」
なみたいていのひいきではない、と莚升はさすがに胸を打たれたようすで頭を下げた。
「しかし、なにぶん夜も晩《おそ》うございまして……芝居声は御近所の御迷惑ともなりますので。……」
「若太夫、残念じゃ!」
と、赤合羽はふいにしがみついて来た。
「どうなさいました?」
「天下の左団次が死にかかっているというに、世間じゃ、去年の団十郎や菊五郎のときほど騒がんじゃないか」
「それは、まだ亡くなったわけじゃございませんし。……」
「菊五郎の葬式にゃ、三千人の行列が出来たという。団十郎の葬列は、先頭が虎の門を過ぎてもまだしっぽは築地の家を出切らなかったという。……左団次さんの葬式はそこまでゆくかね。どうもいまの前評判じゃ、そこまでゆきそうにないぜ」
「いえ、会葬の人数なんざ。……」
「天下に団菊左と呼ばれた一人だ。それどころかあたしから見りゃ、こういっちゃなんだが家柄のねえ、大阪の小芝居から出て、団菊左と呼ばれるまでになった人だけに、左団次こそ実力第一番の役者だと思っている。葬式だって、決して団菊に負けちゃいけねえ」
門弟が口を出した。
「お客さん……葬式の話は、まあ、よしにして下さい。縁起でもねえ」
「いやいや、あたしゃ心配なんだ。ひいきというものは、そこまで心配せずにゃいられねえ。葬式で負けちゃ、ひいきの名折れだ。……それには一番|工夫《くふう》が要る」
「へえ、どうしろっておっしゃるんで?」
「それさ、なんか、世間に評判になるような話を作らなくちゃいけません」
「というと?」
「そこでだ、左団次さんが亡くなったらね、特別製の金箔《きんぱく》つきの寝棺を作り、この棺に三升《みます》の中に左、すなわち高島屋の家紋をつける。しかもこれをただの焼場で焼いちゃもったいねえ。――聞くところによると、例のいろはの木村荘平がこの三月に作った新式上等の大火葬場、その第一号のお客には、是非《ぜひ》第一等の仏をもってしたい、と、いままでありふれた仏はみんなことわっているそうだが、これこそ左団次|丈《じよう》にふさわしい。あの火葬場のこけら落しは左団次丈にお願いしたい。こりゃきっと世間の大評判になります。市川家のほうで御快諾下さるなら、私が一肌ぬいで、いろはのほうに話をつけに参ってもよござんすが。……あたしゃ、木村荘平とごく親しくしておりますので、そこは何とかなります」
あぶら紙に火のついたようにしゃべるのを、門弟はやっと手をふってとめた。
「ちょっと待って下さい。いろはの大将とお親しい……いったい、あなたは、どこのどなたで?」
「あたしですか?」
饅頭笠の下の皺《しわ》だらけの顔が、戸惑《とまど》いとも愛想笑いともつかぬ表情にくしゃくしゃっとのびちぢみして、いっそう皺だらけになった。
「あたしゃ、その木村の火葬会社、博善社に勤めております会田弁蔵と申すもので」
「それじゃお前さんは、自分の商売のために、御曹子《おんぞうし》をひっかけようと、そんな扮装をしてここに待ち受けていたということになるじゃないか」
「ひっかけるなんて……あたしが高島屋の大のひいきであることに変りはない。それもこれも、ただ左団次丈を思えばこそで。……」
「かかっ、かーっ」
と、莚升がさけび、腕をのばして饅頭笠を指さした。
「この忠弥、召し捕《と》れ」
そのとたん、堀端に立っていた会田弁蔵はのけぞり返り、二、三度両手を回転させていたが、そのままあおむけに落ちていった。さっきの小石どころではない水音があがった。
門弟が駈《か》け寄って、のぞきこんでさけんだ。
「やあ、大丈夫です。石垣にとりついたようです」
「姿は武士にやつせども、まさしく曲者《くせもの》とおぼしきもの」
と、若太夫はいった。
「この水中へみずから落ち込み、その水音にて浅深の、測量なすは心得ず。……」
――初代左団次が死んだのは、それから三日目の八月七日午前三時四十分である。病名は肝臓ガン、六十三歳であった。
四
九月二十七日の午後おそく、東京博善株式会社の社員、赤堀|常助《つねすけ》は、西大久保の田舎道を、テクテクと歩いていた。
この夏は、いつまでも秋にならなかった。
「天気っちゅうものは西のほうから移って来るもんじゃが、旅順あたりで大変な量の火薬が爆発しているせいじゃろ」と、社長の木村荘平が大まじめにいったくらいで、ときどきカンカン帽をとって汗をふく赤堀のハンケチは、汗のみならず土埃《つちぼこり》のために、まるで雑巾《ぞうきん》みたいになっていた。
「洋館なら、眼につきそうなものだが。……」
彼は暑さにかすむ眼をキョロキョロさせた。
あまり暑いので、ほかに通る人影も見あたらず、このあたり有名な植木の村らしいが、その樹々もグッタリしているばかりで、働く百姓の姿もない。ただ遠く近くから、波のような蝉《せみ》の声がしている。
しかし彼は、自分の暑さより、白麻の洋服の小脇にかかえている風呂敷包みが気にかかった。
「ええ、その片眼の異人さんのうちならね、あそこの二本の欅《けやき》の向うですよ」
やっと一人の婆さんをつかまえて、そんな返事をもらったのが、午後四時ごろのことだ。さすがに秋で、日の光は夕日の色に変っている。
赤堀常助は、たしかにおととしの秋、その異人を、本郷四丁目のいろは第十二支店で見たことがあった。店に上って肉を食ったのではなく、肉塊だけを買っていったのだが、妙なアクセントながら日本語で用を足したのみならず、西洋人には珍らしく背がひくく、風采《ふうさい》があがらず、その上、左の眼が白く濁っていて、あきらかに片目だとわかった。
「異人にもおかしな異人があるもんだなあ」
と、あと見送ってつぶやいたのを、店に来ていた大学生が聞いて、
「あれは帝大でも有名な、ラフカディオ・ハーン先生だ。奥さんは日本人で、自分も小泉八雲という日本風の名にしている人だ」
と、教えてくれた。
「へえ、あんな変な西洋人が?」と首をひねっただけで、それっきり忘れていたが、きょうひる、ふと牛込|通寺《とおりてら》町のいろは第十八支店に立ち寄ったところが、早稲田の大学生たちが、「きのうの夜、ハーン先生が亡くなったそうだ」と話しているのを耳にした。
ハーン先生は、去年、東京帝大から早稲田大学に変ったらしい。そして、おとといあたりまでふだん通り講義に出ていて、どうやら急に心臓がどうかなったらしい。家は市外の西大久保村だ。――それだけ聞いて、赤堀常助は店を飛び出した。
例の新式火葬場にまだ客はない。値段が高いのも理由だが、主人の木村荘平は、意地になって下げようとはしない。採算上のこともあろうが、高級火葬場というイメージで売り出そう、という信念は不動なのである。そのためには、まず有名人をつかまえろ、こうなったら、ただの人間をその第一号にはしない、必ずそのことが新聞に出るような仏を第一号とせよ、というのが荘平自身の発案であり、命令であった。
そのためには、死亡そのものが新聞に出るような人間でなければならないが――そんな先生なら、きっと出るだろう。きのうの夜死んだというのだから、まだきょうの新聞には出ていないが、いまそれを聞きこんだということは天の助けである。七人の勧誘員の中で、まずおれが成功の第一号にもなる、と常助は躍りあがった。そして、抜けがけに西大久保へ駈けつけて来たのである。
ラフカディオ・ハーンだの、コイズミ・ヤクモだの、発音するにも小難しい名でいうから、わからなかったのだ。片目の異人さんの家といえば、もっと早くわかったかも知れない。
そしてその家も、洋館などではなく、ふつうの日本家屋、それも昔ながらの家で、古い門さえあった。
門をはいると、右手の椎《しい》の木蔭《こかげ》に机を出して、四、五人の学生がかたまっている。早稲田の学生が受付をやっているらしい。
「私、かねてから先生に可愛がっていただいたもので。……」
と、赤堀はカンカン帽をとっていった。なに、いっぺん牛肉のかたまりを買ってゆくのを見ただけだ。
「突然の御逝去を承わり、驚愕悲嘆《きようがくひたん》、ともあれ御焼香に駈けつけた次第ですが。――」
彼は声をひそめた。
「ところで御遺骸はまだそのままでございましょうな?」
「そのままです」
と、学生の一人がいった。
「ただ、遺骸はだれにも見せて欲しくないとおっしゃっていたそうで。僕たちも拝見していないんです。で、御対面ならお断わりするように、という奥さまからのお申しつけで、われわれがここにいるわけですが。……」
「ああ、そうですか」
と、赤堀はうなずいた。
「ところで、御遺骸はどこの火葬場をお使いになるおつもりで?」
「さあ、それはまだ聞いていませんが」
「私、思いますのに、あの有名なラフカディオ・ハーン先生でございます。御葬式の次第は必ず新聞に出ます。日本の新聞だけじゃなく、外国の新聞にも出ます。……そのときに、ですな、ありきたりの火葬では、ああ、日本はまだ未開の国だ、と悪口のたねにならないともかぎらない。どうか片目の異人さんにふさわしい……じゃない、えらい学者の異人さんにふさわしい焼きかたをしてさしあげたい。……」
「君はいったいだれですか」
赤堀は東京博善社の名刺を出した。学生たちは、博善社を知らないようであった。赤堀はさらに火葬会社の者です、といった。――学生たちは、それがいろは牛鍋で有名な木村荘平の経営するものだということも知らないらしかった。
赤堀はほっと胸|撫《な》で下ろし、早口に、熱誠こめてしゃべり出した。
「私、ただ商売で参ったわけじゃございませんよ。この博善社のカマはですな、煉瓦《れんが》作りで石炭使用、棺はレールで運びこむという、それはそれはハイカラで高級なものです。これなら外国人に見せても恥ずかしくない。ハーン先生にこれを使っていただくことは日本の名誉を高めると思って駈けつけて参った次第です」
学生たちは顔を見合わせた。みな素直な若者たちだけに、赤堀の言い分に動かされたらしかった。
「しかも、この新式のカマは、まだどなたにも使用したことがありません。その第一号は、特に尊敬出来るおえらい方になっていただきたいと、わざわざ空《あ》けて待っておったものでございます。ラフカディオ・ハーン先生こそ、まさにそのお方でございます。……いかがでございましょう、書生さん方、もしなるほどと思われたら、是非《ぜひ》先生のおうちの方へ、この件、おすすめ下さいませんでしょうか?」
学生たちは、ヒソヒソと話し合った。
「おい、いいじゃないか」
「どっちにしろ、焼かなくちゃいかんのだから。……」
「しかし、火葬場の推薦をするなんて、奥さんにわれわれが変に思われんかなあ。……」
赤堀は、懸命に口を出した。
「実はね、私、先生が牛肉をお好きだったこともよく存じあげておりまして、それでお弔《とむら》いのときに何ですが、まあ外国の方ならよかろうと、ここに牛肉をお供物《くもつ》に持参したのですが。何でしたら、あなた方にさしあげます」
と、小脇にかかえていた包みをさし出した。それは竹の皮につつみ、さらに風呂敷につつんだ一貫目近い牛肉であった。
「どうか、よろしくお願い申します」
そのとき、玄関のほうから、中年の婦人が、麦茶をいれたコップを四つ五つ盆にのせて現われた。それを迎えて、学生たちは、赤堀常助を紹介し、その口上を紹介した。
「私たちはここにまかせてもいいと思ったんですが、奥さん、どうでしょう?」
その婦人は、黙って夕焼けの空を見ていた。赤堀は、どうやらそれがハーン先生の奥様らしいと知り、そしていつか、ハーン先生の奥様は日本人だと聞いた話も思い出した。
「さあ。……」
と、ハーン夫人――小泉節子は、眼を学生たちにもどした。
「どうでしょうか。……あのね、主人はねえ、最初の心臓の痛みを訴えたとき――あれは、たしか十九日の午後のことでした。私が書斎にはいると、主人はいつものように部屋の中を歩いていましたが、蒼《あお》い顔をして、胸に手をあてておりました。私が、あなた、御気分でもお悪いのですか、と尋《たず》ねますと、ワタシ、ビョウキヲ、エマシタ、と申しました。それから主人はいうのです、コノイタミ、モウスコシ、オオキイノ、マイリマスナラバ、タブン、ワタシ、シニマショウ。……」
節子は、ひとり追憶の述懐をしている調子でいった。
「ワタシ、シニマストモ、ナク、ケッシテ、イケマセン。チイサイ、カメ、カイマショウ。三セン、マタハ、四センクライノ、デス。ソレニ、ワタシノホネ、イレテ、ドコカ、イナカノ、サビシイ、チイサナテラニ、ウメテクダサイ。ワタシ、シニマシタノ、シラセ、イリマセン。モシ、ヒトガ、タズネマシタナラ、ハア、アレハ、サキゴロ、ナクナリマシタ、ソレデ、ヨイデス。……主人はこういったのです」
彼女の眼に涙が浮かんだ。
「どんな火葬場がいいか、そんなことまで指図はしませんでしたけれど、私、あの主人の心を考えますと、そんな、煉瓦のカマにレールで運びこまれるなんて新式の火葬場で第一番に焼かれるなんて、そんなことを望んでいたとは思われないのです。みなさんは、どうお思いでしょうか?」
「その通りです!」
学生たちはいっせいにさけんだ。
「先生は、たしかに新式火葬ガマ第一号になんかにされたら、お怒りになります!」
ついで、
「ハーン先生は怪談がお好きだったから、そんなことをされたら、化けて出られます!」
そういった一人は、いかにも情熱的な眼をした美青年で、涙さえ頬につたわらせていた。――それがたまたま、常助が牛肉を渡した相手であったが、彼はこのとき手にした包みを鼻に持ってゆき、妙な表情をしてそれをひらき、
「ひどい臭いだ! 腐ってるじゃないか!」
と、常助の顔に放り投げた。
黒ずんだ肉が、竹の皮から半分はみ出し、怖ろしい悪臭をたてながら、常助の顔にぺちゃりと貼りついた。暑い道中の間に、それはすっかり腐っていたのである。
「葬式に腐れ肉なんか持って来やがって、オダン・モ・イヤ・チンコ・サ!」
と、その学生はさけんだ。
何といわれたのかわからないが、とにかく叱られたことはわかる。それより、顔に貼りついた牛肉をかきむしりながら、赤堀常助はころがるように逃げ出した。
常助は英語だと思ったが、その学生の吐いたのは、いやなやつだ、こいつは! という九州|柳河《やながわ》語であった。彼は、このとし早稲田英文科予科にはいったばかりの北原隆吉であった。のちの白秋である。
五
木村荘平は、火葬場の「客」がまだつかまえられないことに激怒し、焦燥した。もしこの火葬場が彼の唯一の企業であったなら、セールスマンたちはただではすまなかったに相違ない。
ただ荘平には、本来の牛鍋のチェーン・ストアがあった。
すでに述べたように、彼は東京じゅうに二十数軒の牛鍋屋を経営している。
そして、三田の本店をやらせているのは本妻のマサだが、あとの支店はことごとく彼の妾たちの担当するところであった。
ほとんどが、荘平とは親子くらいに若い。だいたい彼が牛鍋屋をはじめたのがかれこれ四十に近い年だから、どうしてもそうなる。彼はその女たちを、水商売の女からではなく、すべて落魄《らくはく》した旗本や藩士の娘たちから求めた。しかも、なるべく気品があって利口そうな娘をである。だれも信じないが、荘平にはそういう芸術的な趣味があったのだが、ただそればかりではなく、実益上、店をまかせても大丈夫という、まじめでしっかり者に見える娘を選んだのである。
さて、東京じゅうに張りめぐらしたこれらの店々を、毎日彼は人力俥《じんりきしや》でめぐる。
この人力俥が四つ目紋入りの赤塗りである。先綱《さきづな》、梶棒《かじぼう》、後《あと》押しと、俥夫は三人もいて、これが学生みたいな角帽をかぶり、そろいの股引《ももひき》に法被《はつぴ》をつけて、
「いろは!」
「いろは!」
と、勇ましいかけ声をあげて大路《おおじ》を走る。
幌《ほろ》をとった俥の上に打ち乗っている木村荘平は、フロックコートに山高帽といういでたちで、膝のあいだに立てたステッキの金の握りに両掌をかさね、みごとな関羽髯を風になびかせている。
「いろは大王」という名は、ただ二十数軒のチェーン店経営者ということからではなく、この威風あたりをはらう異彩ぶりから出たものであろう。
彼は、各支店をめぐって、前日の売上金を受けとり、鞄《かばん》にいれる。みずからまわるのは、間違いのないよう、また従業員の働きぶりに活をいれるためだ。
そして、催すところあれば、その美しい支店長を抱く。それも、盛大に寵愛する。
実に荘平は、この明治三十七年、数え年で六十六歳であったが、本妻のマサ以下いろは各支店長に生ませた子供が、男十三人、女十七人、計三十人あった。上京以前、関西にいたころだって、ますます壮《さか》んな年齢だから、何もなかったはずはないが、ふしぎなことにそのほうの子供は実子として認知せず、記録に残っていない。
さて、その認知した子供の名も、はじめは男の子のほうは、荘蔵、荘太とか、女の子のほうは、栄子、信子とか、まず尋常《じんじよう》だが、やがて男は、荘五、荘六と番号順になり、荘十二《そとじ》、荘十三《そとぞう》に至り、女もまた、五女《いな》、六、七、八、九女《くめ》、十女《とめ》と、これまた番号順になり、以下、士女《しめ》、十二《とじ》、十三《とみ》、十四《とよ》、十五《とい》、十六《とむ》、十七《とな》、とつづくが、なるほどそういう読み方も出来るのかと、その点にも感心する。
いや、正確にいうと、この明治三十七年、荘十二は満一歳であり、荘十三は十二月になって生まれることになり、女の十七は翌々年に生まれるという「現役」の状態にあった。
この年にして木村荘平は、若い日の力士の体格をなお維持して体重八十キロに近く、去年麹町の第十三支店に泥棒がはいって金庫を持ち出したが持て余し、道に置きざりにして逃げ、従業員が数人かかっても動かすことが出来ずそのままにしてあったのを、ちょうど赤い俥で巡回に来た荘平が、笑いながら両手でかかえて運びこんでしまったという話でもわかるように、その剛力ぶりは依然《いぜん》健在であった。肥満していても、心臓、血圧に異常はなく、肉体のすべてにわたって故障や老化は毛ほども見られず、顔も皮膚もつやつやと脂《あぶら》びかりして、そばに寄るだけで、精力の熱風が、むっと吹きつけて来るようであった。
まるでオットセイの王様である。ひょっとしたら「いろは大王」という異名は、牛鍋帝国の建設やその風貌の印象などではなく、この群妾巡歴の獅子奮迅《ししふんじん》ぶりを見てのことであったかも知れない。
しかもである。
このオットセイ大王的行状は、決してただの乱倫ではなく、自分の力の誇示でもなく、彼は意識して商売上のP・Rにしていた形跡がある。つまり、牛鍋を食えば、かくのごとき絶倫の精力の持主になれるぞよ、という広告だ。
だいいち、フロックコートを着用して、真っ赤な人力俥で東京じゅうを駈け歩くというのが、大宣伝行為である。
彼はひたすら商売熱心であり、いろいろ工夫をこらし、なかでも宣伝にかけてはパイオニア的な才能があった。
そもそもこの時代に、牛鍋屋をひらき、しかもそれをチェーン・ストアにするというのが大独創にちがいないが、その上に店|構《がま》えも独創的であった。
舶来の五色ガラスを市松模様にあしらったガラス戸を立てまわした二階家で、屋根の上高く旗竿を立て、白地に「牛鳥いろは」と朱文字で書いた旗がひるがえっている。
そして、内部の風景も、仲田定之助の「明治商売往来」によれば、
「……下足番から大きな下足札を貰《もら》って、広い階段を昇ると女中が座布団を人数だけ持ってきて追い込みの座敷に案内する。客が席につくと、女中は立て膝で注文をきき、それを板場に通してから、焜炉《こんろ》を持ってくる。やがて別の女中が長い柄《え》のある十能で備長《びんちよう》炭の赤々と余炎のもえている火をついで行く。そして次々に生肉や、葱《ねぎ》、豆腐、白滝などを運んで来るのであるが、その女中たちは髪を銀杏《いちよう》返しに結《ゆ》って、黒|襟《えり》のついた銘仙の着物に襷《たすき》がけ、そして紺|足袋《たび》という服装で、立居振舞《たちいふるまい》も言葉遣いも荒っぽく、伝法だった」
という活気に満ちたものであった。
どの店も同じ値段、同じスタイルであった。肉や卵や葱豆腐、砂糖醤油などの材料、容器、燃料、そして従業員のそろいの衣服などはすべて本部があつらえ、支給する。その他、ときどき全店総出の親睦慰安会を催したり、「いろは日報」と名づけた社内報を出して、各店の消息、なかんずく営業成績を一覧表にして発表したりした。いずれも、「いろは」軍団のチームワークと同時に、各店のライヴァル意識を煽《あお》りたてるみごとなアイデアだ。
少年時代、寺子屋に三年かよって自分の名前しか書けなかったというが、本来彼の頭は悪いどころか、きわめて創造的で、ただ記憶力や習練を重んずる在来の勉強法に合わなかっただけだと思われる。
実際に、荘平の子を見ても、このころの医学水準としてやむを得ぬ夭折《ようせつ》が多かったが、生き残った者のうち、長女の栄子はペンネームを曙《あけぼの》といい、一葉以前、最初の女流作家として文学史に名をとどめ、荘太、荘八《しようはち》、荘十、荘十二《そとじ》など、それぞれ作家や画家や映画監督として世に知られている。特に木村荘八は、洋画家として彼自身の生家を描いた「牛肉店帳場」や荷風の「※[#「さんずい+墨」]東綺譚」の挿絵で、いまも不滅の名を残している。荘平はむしろ芸術的な素質すら遺伝したのである。
現実の木村荘平は、およそ芸術とは縁のないような豪快無比の人物であったが、しかし彼にとって事業は、芸術家にとっての芸術にひとしいもののようであった。彼は酒も飲まなかった。賭事《かけごと》にも興味がなかった。女道楽もやらなかった。――もっとも、二十何人も妾がいれば女道楽の必要もないだろうが。
要するに彼は、ある意味で大まじめ人間であったのである。
ところで、その商売上手だが、彼がチェーンの各支店の支店長に妾たちを任用したことは縷々《るる》述べた通りだが、それを補佐する支配人その他の使用人は、それぞれの女の近親の者とした。一族一致してその店を守《も》りたてさせるためだが、一方では、猫ババ、持ち逃げなどやると一蓮託生《いちれんたくしよう》となる効果も大きい。
さて、その牛鍋チェーン企業から飛躍した火葬場である。
これにも荘平の独創性が発揮され、焼却時間を何分の一かに縮めた石炭使用の炉の設計、棺を運搬するレールの採用、豪華な告別室の設備など、それは在来のものとは面目一新した火葬場であった。
それなのに、だ。これが一人の「客」もない。
まるでランナーが一人も出ない野球の監督のようなもので、荘平は憮然憤然《ぶぜんふんぜん》として、ピンチヒッターを続々と送り出した。つまり七人のセールスマンである。
広木新七は一妾の兄であり、会田弁蔵は一妾の父であり、赤堀常助は一妾の従兄《いとこ》であった。そしてあと、梅津和作は一妾の弟であり、佃《つくだ》卯三郎は一妾の叔父であり、松井壮之助は一妾の弟であり、沼倉善兵衛は一妾の父であった。
その年の暮近く、荘平はまた芝浜館に彼らを召集し、黒髯ふりたててまた督戦するところがあった。
「旅順はまだ落ちん! 旅順はまだ落ちん!」
うめくような、悲壮な声であった。
「うんにゃ、旅順は必ず落ちる! 旅順は必ず落ちる! それはわがほうに決死の白襷《しろだすき》隊があるからじゃ。白襷決死隊は必ず旅順を落す! 必ず旅順を落す!」
――実際に、旅順が陥落したのは翌《あく》る年の一月一日のことであった。この夏以来三万を越える戦死者を出していまなお落ちぬ旅順のいくさは、全国民の悪夢となっていたのだ。
むろん荘平が旅順戦のなりゆきを案じていることは、人後におちない。それどころか、その熱狂ぶりは常人に数倍している。――そのくせ彼は、いちどこんなことをいったことがある。「あの戦死者、なんとか日本に運んで、おれの焼場で焼けんもんかいな。実にもったいない話やで。……」
木村荘平にとって、新火葬場は、旅順以上の悪夢にちがいなかった。
「わいらは、いろはの白襷決死隊じゃど! そのつもりでやれ、あと一ト月で客のとれんやつは、白襷かけて焼場の穴に突撃させるど!」
そして、次に彼がつけ加えた言葉は、白襷決死隊よりセールスマンたちをゆるがせた。
「そうだ、まず第一番に然《しか》るべき客をとったやつを、いろははじめて男の支店長として、この次の新支店をまかせてやるど!」
六
年は明けて旅順は落ちたが、いろは火葬場の客はまだ落ちない。
そして、バルチック艦隊の東航が伝えられるに及んで、ロシアの軍艦の煙が日本近海に出現するまでに火葬場の煙突から煙をあげよ、というのが木村荘平の時間を切っての新しい下知《げち》であった。
そのバルチック艦隊がついに仏領印度支那のカムラン湾にはいって、次の出港を待機していると報道された五月十三日の「朝日新聞」の片隅に、「詩人野口|寧斎《ねいさい》歿す」とある記事を見て、セールスマンの一人梅津和作は、朝飯なかばに駈け出した。
「詩人野口寧斎氏は昨十二日未明脳溢血にて死去したり。享年三十九。氏は詩才性格ふたつながら俗流と異る。多年|褥中《じよくちゆう》にありて病苦とたたかえるも、かつて吟詠を絶たず、常に千言たちどころに成るの概《おもむき》あり。葬儀は明十四日午後三時神式をもって青山斎場に行うと云う」
梅津和作は、麹町|隼《はやぶさ》町第十三支店の支店長アヤの弟であったが、その野口寧斎の家は麹町六番町であった。
ほかの人間にとられては面目まるつぶれどころか、第十三支店そのものの安危にもつながる。いや、そんな防戦意識より何より、例の最初の男性支店長の栄冠は、絶対に自分の頭上にかがやかせなければならない。
和作は、漢詩人寧斎の名を知っていた。むろん彼は詩などに興味はなく、いわんや――このころ、詩といえば漢詩をさすのが常識であったが、漢詩など歯の立つ道理がない。にもかかわらず、彼は、寧斎が、三年ばかり前に死んだ正岡子規という俳人とともに二大病詩人と世に呼ばれていたことを知っていた。もっとも寧斎の病気が何であるかは知らない。
何にしても、有名な人にはちがいない。
ほんとうは、寧斎より、その妹の曾恵子《そえこ》を知っていたので、それから寧斎の名をおぼえたのだ。妹を知っているといっても、べつに話を交したこともなく、ほんの遠見《とおみ》だけのことだが。――
野口曾恵子は六番町|小町《こまち》と呼ばれた美人であった。実は和作もなかなかの男前で、女にはすこぶる自信があるのだが、これが、そばに寄って話しかけようにも声の出ないほどの――妖艶無比、しかもどこかぼうっと霞《かすみ》につつまれているような美女なのだ。
ところが、この曾恵子に、思いがけない事件が起こった。三、四年前、この美人が、あろうことか男と密通し、駈落ちしたのだ。その男は外国語学校の学生だか卒業生だかの、武林|男三郎《おさぶろう》という不良青年で、公園で曾恵子を誘惑してから野口家に出入りするようになって、とうとう曾恵子を妊娠させ、手に手をとって駈落ちしたというのだ。父代りの兄寧斎は激怒したが、妹が妊娠したという事実はどうすることも出来ず、ついに折れて両人を呼び戻し、結婚させ、男三郎を野口家の人間として入籍させた。
それが去年のことだが、その後やはり寧斎は男三郎に釈然とせず、そのうち男三郎が外国語学校へいっていたというのもでたらめだということが判明したとかで、さきごろついにまた放逐《ほうちく》したという。――
こういう話を、和作は聞いていた。のみならず、とにかくすぐ近い町のことだから、その男三郎も、野口家にいたころ、往来で二、三度かいま見たことがある。細い口髭をはやし、細面《ほそおもて》の、冷たいような気の弱いような薄手《うすで》の美男で、あれがあの曾恵子お嬢さまをもてあそんだ色魔かと、和作は胸も煮えくり返る思いがした。あんな、ひげをはやした白瓜《しろうり》みたいな野郎にひっかかるくらいなら、おれも公園かどこかに網を張っていて、あのお嬢さんを何とか落せばよかったと、切歯扼腕《せつしやくわん》、痛恨にたえなかったものだ。
こんな予備知識と心理体験を持って、和作は六番町の野口邸へ駈けつけたのである。
野口邸は、昔|大身《たいしん》の旗本屋敷だったのではないかと思われる宏壮なものであった。――その当主で、しかも世に知られた人が、きのう死んだというにしては静かなものであったが、それでも門の内外に弔問客らしい人影が、二、三人見えた。
で、近づいて門をのぞくと、ちょうど遠い玄関の前で、若い女が客の一人と応対して、しきりにお辞儀しているのが見えた。
一目見ただけで、曾恵子だとわかった。和作は夢中で駈けこんでいった。
「このたびは、まことにはや。……」
客につづいて、家の中にはいろうとしていた曾恵子はふりむいた。
依然として美しい。美しいが、あまり利口ではないというような噂を聞いたこともあるが、この際、憂いにみちたその顔は、まるでこの世のものではないような美しさであった。和作は、わけのわからないことをいいながら、五、六回お辞儀したのち、
「あの、つかぬことをおうかがいしますが、御葬儀のことはどうなっておりましょう?」
と、やっと訊《き》いた。
「御葬儀のこと、と、おっしゃいますと?」
「新聞によりますと、明日、青山斎場で御葬式をなさいますそうで……それについて、御火葬のことがあると思うんでございますが」
「ああ」
と、曾恵子はうなずいた。
「うちは火葬はいたしません。そのまま青山のお墓に埋めていただくことになっております」
「はあ?」
「あなたは、どちらさまで?」
「いえ、その」
相手がへどもどして、それっきり自分の顔ばかり見ているので、曾恵子は妙な表情をし、そのまま玄関の中へはいっていってしまった。
土葬らしい。こういう家柄だと、あるいはそれは当然である。何にしても、これは落胆して然るべきことであった。にもかかわらず、和作は、数分間、ウットリとして佇《たたず》んでいた。彼は曾恵子と話を交すことが出来たことだけで、満足し切ったのである。
それはともかく、火葬の件はだめだ。和作は門のほうへひき返した。
あのお嬢さんは、これからどうするのだろう。お兄さんの御当主は亡くなったのだし、とうとう妻帯はなさらなかったと聞いているし、曾恵子さまにすれば、いちど夫とした男は放逐されたはずだし、あのかたは小さい赤ん坊をかかえて、こんな大きな家にひとり残って、どういう暮しをしてゆくのだろう。――とても、赤ん坊を生んだ女には見えなかったがな。……
「君、君」
五月の白い日ざしの下を、うつらうつらと歩いていた彼は、自分を呼んでいるらしい小声にやっと気づいてふり返り、眼を見張った。
野口家の近くの路地から出て来たのは、その放逐されたはずの、あの男三郎にまぎれもなかった。
「君はいま、曾恵子と話していましたね」
と、男三郎はあたりをうかがいながらいった。どこかで見ていたにちがいない。
「僕は野口家に出入りする人はたいてい知っているつもりだが、君は見かけたことがないね。君はだれですか」
「あなたは?」
と、和作は無意味に問い返した。
「僕は曾恵子の夫だが。……」
といって、彼はかすかに苦笑した。
「いや、夫だった男だが。――で、君はだれです。弔問の方とも見えないが、何を話してたんです」
「私は火葬会社の社員で、野口先生を火葬になさるのかどうか、おうかがいにいったんです」
と、和作は答えた。正直というより、この相手に不快感をいだいているので、殺風景な返答をして一刻も早く別れたいと考えたせいだ。
男三郎の眼が、きら、とひかったような気がした。
「ほう。……で、曾恵子はどういいました」
「どうやら土葬になさるそうで」
「そうだろう」
男三郎はうなずき、ちょっと思案したのち、
「君、すまんですが、もういちど曾恵子を呼び出してくれませんか」
と、いい出した。和作はにらみつけた。
「あなた……お嬢さんの旦那なら、あなたがお呼び出しになりゃいいじゃありませんか」
「それが、ちょっと具合悪いんだ。下女にいってもだれにいっても、いや、僕の姿を見ただけで一騒動になるんでね」
「それじゃあお嬢さんを呼び出したって同じでしょう」
「いや、あれだけはいいんだ。曾恵子は僕に逢いたがってるんだ。そして、いま二人、どうしても逢わなきゃならん用事があるんだ。とにかく君の力で、曾恵子をここへ連れて来てもらいたいんだ」
「そんな、変な手引きは。……」
「君、あれを連れて来てくれさえすれば、先生が火葬になるようにしてあげるよ。曾恵子に僕から頼む。あれは僕のいうことなら何でもきくんだから」
男三郎は力をこめていった。懸命の顔であった。
和作も硬直したように立っている。
このときの彼の心中たるや、実に複雑をきわめた。商売の可能性が、突然ひらけたのである。しかし、この不愉快な男に、あの曾恵子を逢わせるために手引きをする。まあ、夫と妻にちがいないが、それがこの際堂々と逢うことが出来ないとはそれ相当の事情があるはずで、本来なら、ざまをみろと尻をまくって立ち去りたいところだが。……
しかし、ついに商売気が勝った。この依頼をことわったところで、自分に何のトクもないのである。
「じゃあ、やってみましょう」
と、和作はうなずいた。何だか、恋する女を、恋敵《こいがたき》の色男に手渡すような、腹立たしい、空しい、馬鹿々々しい感じがした。いや、熱鉄をのんで大犠牲を払うような気がした。
彼はもういちど野口家の門をはいっていって、下女に、さっき御葬儀の件についておうかがいした者だが、もういちど曾恵子さまに申しあげたいことがあるから、とりついでくれ、と頼んだ。そしてまたけげんな表情で出て来た曾恵子に、「旦那さまがおいでになって、外で待っておられます」と、ささやいた。
このときの、ぱっと夕映えのようにかがやいた曾恵子の顔ほど、世にねたましいものはなかった。――男三郎が、馬鹿に自信ありげに承合《うけあ》った通り、彼女はこの白瓜《しろうり》のような夫を愛していたのだ!
やがて、そわそわと門から出た曾恵子は、近くの路地で待っていた男三郎のところへ駈け寄った。そして、泣きながら何か話し合っているうち、彼女はひしと夫にしがみつき、男三郎がかきいだき、ついには接吻というやつまでやるのを、和作は見せつけられる羽目になった。
和作の苦悶は、咳ばらいとなって溢れた。
男三郎は気がついてこちらを眺め、曾恵子に話しかけ、すぐに歩いて来て、
「火葬の件、承知したそうだ。曾恵子はいま帰るから、そこで手筈《てはず》を打ち合わせてくれ給え」
と、いった。
「あ! そうですか。それじゃ、こちらも用意がございますから、しばらくお待ちを願います。左様です。一時間ほどで、もういちどおうかがいいたしますから、どうぞよろしく」
と、和作は答えて、駈け出した。
すぐに人力俥をつかまえて、
「芝浦の芝浜館へやってくれ!」
と、息はずませてさけんだ。
「犠牲」を払った甲斐《かい》はあった。とうとう、新火葬場の第一号を獲得したのだ。何よりまず、大王に報告し、あの約束を確認しておかなければならない。おれはついに新支店長になれるのだぞ!
芝浜館では、ちょうど木村荘平が例の赤い人力俥に打乗って、巡歴に出で立とうとしているところであった。
「なに、野口寧斎?」
と、報告を聞いて、荘平はいった。
「ありゃ、癩病じゃ」
そして、車上で髯をふってうなり声をあげた。
「お前、知らんのか。あの先生はそれで長いこと患《わずら》っとったのじゃ。癩病をうちの火葬場の口びらき第一号に出来るかっ」
五月二十七日の対馬沖におけるバルチック艦隊の全滅が詳報されたのは、三十日の新聞であったが、それと同じ日の紙面に、
「縊死《いし》か毒殺か、嫌疑者は野口寧斎氏の妹婿たりし野口男三郎」
に始まる記事を見た梅津和作ほど驚愕した者はなかったろう。彼としても生まれてこのかたこれほど驚いたことはない。のちになっても和作は、日本海海戦の記事など、まったく記憶にないほどであった。
それは二十五日朝、代々木の山林中に、麹町の薬屋都築富五郎なる者が縊死体となって発見されたが、屍体に毒殺とも見えるふしがあって取調べたところ、都築は前日銀行から三百五十円をひき出したあと、何者かから電話で呼び出されて外出したままであったこと、しかるに最近、彼に土地の世話をするといって野口男三郎なる者がしばしば訪れ、二十三日夜も都築を呼び出して往来で立ち話をしていたこと、などが判明し、そこで刑事たちが二十七日、同町の魚屋の二階に下宿していた野口を襲い、逮捕しようとしたところ、毒薬らしきものを飲んで自殺を計ったこと、野口は最近金に困っていたにもかかわらず、そのとき懐中に二百七十円所持していたこと、なお同人は、漢詩人故野口寧斎氏の妹婿であること、などが報じられていた。
――こうして、明治の犯罪として、その猟奇性において第一級の、いわゆる「野口男三郎の臀肉《でんにく》切取り事件」の幕があがったのである。
野口男三郎の一連の犯罪容疑が明らかにされたのは、七月になってからであった。それは、さる三十五年三月二十七日の夜、麹町二番町の路上で、風呂屋帰りの十一歳の男の子が絞殺され、その尻の肉が大きくえぐりとられているのが発見されたが、そのまま迷宮入りになった事件があった。それも男三郎の犯罪で、それは野口寧斎にとりいるために、人肉の肉汁を飲ませると病気がなおるという俗説を実行したものであったことを、男三郎が自白したというのであった。のみならず、さらに男三郎は、そうまでしてつとめても自分をついに許さぬ寧斎に殺意をいだき、これを殺して野口家を乗っ取ろうと計画し、この五月十二日未明、ひそかに野口家に忍びこんで寧斎を絞殺したものであって、寧斎の死は病死ではなかったというのであった。
そして、その共犯者として、なんと野口曾恵子まで拘引されたのである。
「それでは――あれは二人の事後の打ち合わせか。それから、あのとき男三郎が火葬に賛成してくれたのは、そんな証拠を隠滅するためであったか」
と、和作が身の毛をよだてて戦慄し、ついには吐気までおぼえたのも無理はない。
さて、この裁判のなりゆきだが、曾恵子は何も知らなかったものとして、釈放された。男三郎はその後自白をひるがえして、少年及び寧斎殺害は否認し、裁判所もこれを認めたが、薬屋殺しの罪だけは動かず、死刑を宣告され、四十一年七月に執行された。
従って、野口寧斎の死は、いまだに謎のままになっている。
ところが、この獄中の男三郎の心情を歌った「夜半《よわ》の追憶・男三郎の歌」と題する叙事演歌が発生した。
「嗚呼《ああ》世は夢か幻か
獄舎に独り思い寝《ね》の
夢よりさめて見まわせば……」
にはじまる、長いも長い、数百行の――ぜんぶ歌うと小半日はかかるだろうと思われるその歌が、サーカスのジンタと同じ「美しき天然」の節《ふし》まわしで歌われて、明治三十九年ごろから大正にかけて、一世を風靡《ふうび》したのだから、世の中の流行などわけのわからないものだ。
七
さて、話は少し戻《もど》って、明治三十八年の夏である。
日本海海戦から、四、五日たった六月のはじめ、セールスマンの一人、佃《つくだ》卯三郎は、福地桜痴《ふくちおうち》が糖尿病と喘息で、岸田吟香《きしだぎんこう》が心臓病で寝込んでいて、どっちも大病だという噂を耳にした。
このごろの一般人は、福地桜痴といえば「鏡獅子」「侠客春雨傘」などいう歌舞伎の狂言作者、岸田吟香といえば|精※[#「金+奇」]水《せいきすい》という目薬本舗のオヤジとしか知るまいが、卯三郎はこの二人を、ほかの何よりまず新聞人、それも大記者として承知していた。
佃卯三郎は、神田連雀町第六支店の支店長の叔父で、ことし五十二になるが、七、八年前まで新聞記者をやっていた男なのである。赤新聞「万朝報」のタネトリ記者で、人柄はいいのだが、とにかく文章がカラ下手なので、とうとう社長の黒岩涙香からクビになり、結局|姪《めい》の牛鍋店にころがりこんで、使い走りする境涯になった。
その万朝報にさらに古物《こぶつ》がいて、酒を飲むと現代の新聞と新聞記者を罵倒し、明治初年ごろからの新聞草創期における記者たちの豪快ぶり、風雅ぶりをさまざま物語った。卯三郎は新聞そのものが好きなので、ほかの聞き手がウンザリしてみんな逃げても、辛抱づよく相手になって聞いてやったが、そのときその古老の話に大記者として最もよく出て来るのが、岸田吟香と福地桜痴であった。
岸田吟香は、開港後の横浜で、ドクトル・ヘボンのもとで、日本最初の和英辞書を作る手伝いなどやった人だが、さらに慶応四年、これまた新聞の草分けともいうべき「横浜新聞・もしほ草」を出したその道の大先達であった。
維新後、彼は「東京日日新聞」に主筆としてはいり、明治七年の台湾征討にはじめて従軍記者として参加し、現地から送って来たその戦況報道は読者を熱狂させ、「東京日日」の紙価を高からしめた。ところが、そこに福地桜痴が入社して来て、岸田の倍の月給二百円をとり、彼をおしのけて主筆の地位についたのである。
吟香は天性報道記者であり、桜痴は論説記者であった。当時は大新聞と小《こ》新聞とあり、前者が重んじられ、後者が軽んじられていたが、雑報の名手吟香はしょせん小新聞タイプと見られたのである。これに対して桜痴の論説は、その小気味のいい切れ味で、これはこれとして世の喝采《かつさい》をあび、翌年に彼は社長にまでなった。論説もさることながら、過去に幕府外国奉行|調役格《しらべやくかく》までやった経歴が、この人事をあえて異としないものにさせたのである。一方、吟香のほうは、若いころ風呂屋の三助、女郎屋の牛太郎までやった男であった。
どちらも当時の大ハイカラであることは軌を一にしながら、才気|煥発《かんぱつ》の桜痴と、豪快だがどこかぶきっちょな吟香とは、肌も合わなかったようだ。
みるみる吟香は筆を持たぬ閑職に追いやられた。それ以来、酒を飲んでは愚痴をこぼし、あるいは法螺《ほら》を吹く老残記者めいた吟香の姿を、若い記者たちはしばしば見るようになった。
明治十年、西南の役が勃発《ぼつぱつ》した。かつて従軍記者として脚光をあびた吟香は、勇躍してふたたび派遣を熱望した。しかし福地はそれを許さず、みずからがその任にあたることにした。岸田は激怒して辞表をたたきつけ、「東京日日」を去った。
それ以来、新聞記者岸田吟香は消え、銀座の目薬屋の主人としての岸田吟香がこの世に生きてゆくことになる。
しかし、吟香はいまでも、古い仲間と逢って酒を飲む機会があると、しみじみ述懐しているという。
「おれは一生、新聞記者でいたかった」
「日本で最初の新聞人というのならおれの誇りになるが、ただの目薬屋として残るなら、痛恨の至りじゃ。いや、その名さえ残らんだろう」
「あの桜痴が日本最初の大記者として残るじゃろ。おれを葬ったあいつがその名を残すとは、残念無念じゃ」等々。
その古老は吟香のほうに好意と同情を持っているようであったが、佃卯三郎も不本意に新聞界から追い払われただけに、吟香の心境がよくわかるような気がした。
そして、それとは別に彼は、吟香に一種の親近感をおぼえていた。
吟香自身は自嘲しているけれど、記者廃業ののちにはじめた目薬屋は当った。ヘボン直伝の目薬で、精※[#「金+奇」]水なるものを売り出し――おそらく硼酸《ほうさん》水に毛のはえたようなものだったと思われるが――日本のみならず支那に輸出したのが、これまた大当りして、いま銀座二丁目に出している「楽善堂」というエキゾチックな薬舗は、銀座の一名物となっているほどだ。卯三郎は直接まだ話を交したことはないが、その店で、洋服に赤いトルコ帽をつけて椅子に坐っている吟香は、ちょいちょい見かけたことがある。
親近感というのは、この吟香が、その体格の雄偉さといい、その髯のみごとさといい、いろはの大将を関羽とするなら、こちらは張飛といいたいほどよく似ているからであった。それに子供がやけに多いのも同様だ。吟香も三十半ばで結婚したそうだが、それからいままで――といっても、たしか吟香はもう七十を越えているはずで、最後の子供は少くとも十年以前のものと思われるが――とにかく十四人生んでいる。これはただ一人の妻に生ませたものと聞いている。うちの大王のめちゃくちゃさとは事情が異り、かつ数も半分くらいだが、しかし世の常超えた多量生産であることに変りはない。
親近感どころか、これでも「新聞記者」であった佃卯三郎からすれば、木村荘平には全然ない知的なものを――少くとも知的なものへのあこがれを持っているらしい吟香のほうに敬意をおぼえている。
そして卯三郎が見ると、荘平もまた岸田に対して、余人以上の興味と敬意をいだいているようであった。それは何かのはずみに、いくどか荘平が岸田についてもらした人物評から想像される。興味は風貌と多産の類似性からだろうが、敬意は卯三郎の見ぬいた通り、知的な体臭があるのとないのとのちがいからで、まるきりそれのない荘平は、吟香に、敬意というよりおそれに近い感情を持っているかに思われた。
福地桜痴とは、荘平は昔つきあいがあったらしい。これは同じく知的でも、はじめから出身ちがいだと荘平が認めているからである。しかし岸田吟香とは、右の憚《はばか》りの心情もあって、いままで交際はなかったようであった。
しかし、心中に「おぬし、やるのう」と認めているだけに、吟香が火葬場の第一号となることに、荘平が異議を唱えることはあるまいと思う。いや、ほかのだれより満足すると思う。
それに、桜痴と吟香の病状を改めて探って見ると、吟香のほうが危急を告げているようだ。
佃卯三郎が、作戦を練ったあげく、銀座二丁目の楽善堂を訪ねたのは、六月五日の夕方であった。
楽善堂は、瓦《かわら》と白壁と格子《こうし》という材料を使いながら、ガラス窓のかたち、バルコニーなど、あきらかに洋風の重厚な二階建築で、店舗は左右二つに分けられ、一方が薬房、一方が中国の筆墨や硯《すずり》、紙などを売る店となっていた。ここらあたりも吟香に「知的」な匂いを感じさせる一因となっている。
その薬房のほうからはいった卯三郎は、
「福地桜痴先生から吟香先生へ、最後の御挨拶がございましたので、お伝えに参りました」
といい、番頭らしい男が、主人の重態なのを告げて断わるのを、とにかくお伝えを、と繰返し、やっと吟香の許諾を得て、中に通された。
通ってゆく部屋には、マントルピース、ソファ、シャンデリアがとりつけられ、上ってゆくのもチークの手すりのついた洋風階段であった。
二階の一室のベッドに横たわった吟香は、いつか見たときとは別人のように衰えはてて、白髪《しらが》まじりの髪も髯も蓬々《ほうほう》としてすでに死相を呈していたが、それでも、
「福地が何といって来たと?」
と、ぜいぜいという音をまじえていった。
「はて、おとりつぎの方が何を申されましたか。……」
卯三郎はそらっとぼけ、しかし哀痛にみちた表情と声で、
「私、うかがいましたのは、やはり福地先生についてでございますが、実は私、火葬会社博善社のものでございます。当社では最近、洋風の新式火葬炉を作り、そのカマびらきには是非とも高名な、それも日本開化の大先輩とも申すべきお方をわずらわしたいと念願して、そのお方のためにいまだに封印をしてお待ち申しあげているような次第でございます」
と、口を切った。
「しかるところ、過日福地先生が御病気と承わり、そこにこんな話を持ってゆくのもいかがとは存じましたが、あのお方は大変|御闊達《ごかつたつ》でハイカラで粋《いき》なお方でございますから、あるいは笑ってお聞き下さるかも知れぬと、あえて参上いたしましたるところ、案の定《じよう》、お怒りどころか大笑一番、それは面白い、その新式火葬場第一番は是非おれにしてもらいたい、とのお言葉でございました」
そのとき、遠く、しかしたしかに二階のどこかで、異様なさけび声がした。
「あけてくれ、あけてくれ!」
と、聞えたようだ。卯三郎はぎょっとした。
「火事になったら、焼け死んでしまうじゃないか。あけてくれったら!」
言葉は人間のものだが、何だか化猫のような声であった。
番頭が、うしろから小声でささやいた。
「あれは当家に少々精神異常になられた方があって、その方の声で……こちらにやって来ることはありませんから御心配なく」
卯三郎はまたしゃべり出した。
「ところが帰りまして社長に報告しましたところ、桜痴先生か、とつぶやいて社長はしばらく考えておりましたが、はたとひざをたたき、開化の大恩人といえば銀座楽善堂の吟香先生がおられる、吟香先生は昔福地先生といっしょに新聞をやられて――いや、そのほうでは、吟香先生のほうが先達であり大物だったと聞いとる、承わるところによると、その吟香先生もいま御病気とやら。……」
声は沈痛をきわめた。彼自身この死床の人物に尊敬の念を持っているのだから、決してお芝居ばかりではない。――そばで聞いていた番頭が、とんでもないことをいい出すやつだ、など怒り出すのを忘れていたほどであった。
「あのお丈夫な先生ゆえ、今どうということはあるまいが、三年先でも五年先でも、もし御予約下さるなら、福地先生のほうはおことわりしても吟香先生のために、そのカマは封印したままお待ち申しあげたいが、先生の御意向をうかがうわけにはゆくまいか、とこう申すのでございます」
「福地のあとはいやだ」
と、吟香はいった。
ひどいかすれ声であったので、卯三郎は耳に手をあてた。
「は?」
「わしがそのカマの第一号になってやるぞ」
やった! と卯三郎は心中に躍りあがった。死床にあってもなお失わぬ桜痴へのライヴァル意識をかきたてる、という彼の老獪《ろうかい》な作戦はついに成功したのである。
卯三郎は、番頭にも保証させたあと、芝浜館へ駈けていった。果せるかな、木村荘平も満面を崩してよろこんだ。「吟香ならええ! 吟香ならええ!」
しかもなんたる手順のよさか、岸田吟香はその翌日六月七日の朝に死んでしまったのである。
佃卯三郎は荘平の承認のもとに、その日のうちに、西洋式の寝棺、それをのせて焼場に運ぶ新しい荷馬車、さらにかつてドクトル・ヘボンの弟子であった故人のために棺の上に置く大きな十字架、そのころ珍らしい色とりどりの薔薇《ばら》の花などを用意した。話題となるためもあったが、ほんとにうれしかったのだ。眼のまわるような一日であった。
楽善堂の二階に安置されていた棺を運び下ろし、店の前で荷馬車にのせ、薔薇の花で飾って、日暮里町屋村の焼場へ出発したのが、翌八日の午前十時ごろである。あとには、妻の勝子、何人かは死んだが、まだ十人近い子供たちがつづいた。
生前交際のなかった木村荘平までが、フロックコートにシルクハットといういでたちで参列した。ただし例の赤い人力俥に乗ってである。彼はどんな場合でも宣伝を忘れない。
日本橋にさしかかったとき、俥の上から荘平は、棺側に神妙な顔でついていた卯三郎に話しかけた。
卯三郎にだけ聞える声であったが、
「いや、欣快《きんかい》じゃのう。あのカマをいよいよひらくとは」
「ほんとうにうまく焼けるでしょうか?」
注文のほうはたしかに成功したが、卯三郎はかんじんの点で不安になった。
「なにしろ、仏は御存知のような大きな人で……先刻二階から下ろすときも、六人がかりで階段からころげ落ちかけたほどですからな」
「なに、大丈夫じゃ。病気で死んだ牛で験《ため》した。あれはかけねなしによくできた火葬場じゃ!」
そのとき、すぐそばで声がした。
「あけてくれ、あけてくれ。……」
卯三郎はむろん、荘平の人力俥も、すぐあとにつづいていた行列も凍結した。
ただ、馬の曳《ひ》く荷馬車だけのろのろ動いて、その上からたしかに声が聞えた。
「火事になったら焼け死んでしまうじゃないか。あけてくれったら!」
それはおととい聞いたあの化猫のような声と同じものであった。卯三郎が金切声の悲鳴をあげた。これも化猫のような声であった。
やっととまった荷馬車の上で、棺がガタガタと震動した。薔薇の花が左右にこぼれ落ちた。こんどは人々がいっせいに悲鳴をあげた。そして、|ふた《ヽヽ》がはずれて、中から、垢《あか》じみたゆかた一枚の大男が、ニューッと立ちあがった。
「吟香はん……吟香はん……」
と、さしもの木村荘平も、人力俥からころがり落ちんばかりになって、両腕をつき出してあえいだ。
堂々たる巨体、風になびく漆黒の髯――まさしく岸田吟香の雄姿だ。しかし、むろんおととい卯三郎が見た死床の吟香ではない。年は三十半ばか、荘平が見たのは、数十年も前にかいま見たことのある壮年の岸田吟香であった。
タイム・トンネルを逆流したような岸田吟香は、髯の中からニタニタ笑いながら、日本橋の上の荷馬車のそのまた上で、両腕を蒼空に突きあげ、鯨の遠吠えのごとき声を発した。
「兄さん! 兄さん!」
一人の少年が駈け寄って来た。
「おとなしくして! おとなしく帰って!」
岸田家の奉公人たちが、わっと駈け寄って、車上であばれ出した男を手とり足とりして押えつけ、かつぎあげ、もと来た道へさらってゆくのを、あんぐりと口をあけて見送っていた卯三郎は、やっとわれに返り、すぐそばでふるえているさっきの少年をつかまえて訊《き》いた。
「どうしたんだ? あれは、どうしたんだ?」
「兄さんです。気のちがった兄さんなんです」
高等師範附属中学の制服制帽をつけたその少年はいった。
「座敷牢にいれてあったんです。ところが十日ほど前、火事になりかかったことがあってから、あんなことをいい出して……いつ、どうしてそこを出たんだか、さっき棺が二階に置いてあった間、父といれ替《かわ》って、自分があそこにはいっちまったにちがいない。……」
「あんたは、吟香先生の……」
「子供の劉生《りゆうせい》です」
と、少年はいった。
――実際、この大怪事は、劉生の想像した通りであった。若いころから精神病となった長男の銀次郎は、壮年時の父そっくりの膂力《りよりよく》を使って父の屍体を自分の座敷牢に運びこみ、自分が棺の中に横たわっていたのである。どういうつもりでそんなことをしたのか、気ちがいのことだから見当がつかない。
とにかく、これで、この日の火葬はとりやめとなり、岸田家では土葬することに変更してしまった。
岸田吟香の生んだ十四人の子供のうち三人は精神病で、後年、その第九子であった岸田劉生が、晩年突如めちゃくちゃな酒びたりの生活の中に自滅に近い死をとげたのも、その一因はこの遺伝に対する恐怖からであったといわれる。ともあれ、この吟香の子の劉生と、木村荘平の子の荘八が、フューザン会で結ばれ、ともに大正洋画壇の明星となり――そして劉生自滅の他の一因は、親友荘八の離叛にあったともいわれるから、人間の運命のふしぎさには嘆ぜざるを得ない。日本橋吉川町の第八支店に生まれた荘八は、このとしまだ十を過ぎたばかりで、大川端の石垣で蟹《かに》と遊んでいた。
八
日露戦争は、日本の存亡をかけたいくさであったが、後年の太平洋戦争にくらべると、特に国内は直接戦火を受けなかったせいもあって、はるかに牧歌的なところがあった。旅順戦の最高潮時に、与謝野晶子が、「君死にたまうことなかれ。……旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても何事ぞ」と歌い、同じく漱石が、のんきといえばのんきな「吾輩は猫である」を書き出したことでもわかる。それをまた、世も許したのである。
赤い人力俥で毎日群妾を歴訪する木村荘平の姿をあえてとがめる者がなかったのも、明治の神経の太さの現われであったろう。
しかし、この戦争に国民すべてが頭に血をのぼしていたことにまちがいはなかったから、旅順を落し、奉天で勝ち、日本海海戦で敵艦隊を全滅させて戦争が終ったのに、九月五日のポーツマス会議で、眼に見えて日本が得たものはたった樺太の南半だけ、という結果を見ると、日本は渾身の力を使い果していたということを知らない国民は、総逆上の観を呈した。
九月五日、ポーツマスで、日本全権小村寿太郎とロシア全権ウイッテの間で、その日露講和条約が調印されたのと同じ日、日比谷公園で、講和条約反対の国民大会がひらかれたが、激昂した数万の民衆は、午後一時ごろから四方にデモ行進として溢れ出し、たちまち暴徒と化して、公園の正面にあった内務大臣官邸、条約調印を是《ぜ》とする国民新聞社などを襲撃する一方、ついにいたるところ交番や電車の焼打ちをはじめた。
この日、木村荘平は昂奮《こうふん》その極に達して、アシュラのごとく赤い人力俥で駈けまわった。
もともと昂奮|性《しよう》の男だが、これほど激烈で、かつ複雑な昂奮は、彼にしてもはじめてであった。
いつもの巡回ではない。――いや、いつもの通りの巡回中に、暴徒の焼打ちのニュースを耳にしたのである。
まず荘平は昂奮した。彼は俥の上で、「もっともだ! もっともだ!」と、さけんだ。「愛国者」である彼もまた、こんどの講和には、不満どころか大憤激していたからである。
しかし、暴徒たちが、八頭の蛇みたいにうねり散って、いたるところに飛火を起しつつ、あちこちの交番を焼打ちしていると聞くと、急に心配になった。
日本橋通りの第二支店の近くには交番がある!
で、深川のほうに向っていた荘平は、あわててそこに駈け戻った。午後二時半ごろであった。
第二支店は無事で、暴徒はすでに、二手に分れて、神田と浅草へ吹き過ぎていったようだ。彼は第二支店に上りこみ、電話で連絡をとって情報を聞いた。
すると、神田連雀町の第六支店が危険だという。すぐ近くで電車が焼けて、弥次馬《やじうま》が乱舞しているという。
荘平は猛然と連雀町に俥を走らせた。午後四時ごろであった。
いかにも電車がひっくり返って燃えていた。そのまわりで、サーベルを抜いた白服の警官隊と暴徒が鬼ごっこをやっていた。暴徒たちは石を投げ、棒や日傘用の蝙蝠《こうもり》傘をふるい、中には屋根に上って瓦《かわら》を投げるやつもあり、なかなかの観物《みもの》であったが、しかし店から五十メートルほど距離があり、店に心配はないとたしかめてから、彼は改めて俥でその騒ぎを観戦にいった。
それどころか、見物しているうちに、
「やれやれ! もっと燃やせ!」
と、荘平はわめき出した。ただし、その声の聞える範囲には巡査はいないと見ての獅子吼《ししく》である。
「忠勇無双のわが兵士を犬死させた腰ぬけ政府をやっつけろ。ランプを集めて石油をまけ、そうすりゃ、もっとよく燃えるぞ!」
さすがにアイデアマンである。
しかも、あちこちに倒れている影さえ見える、その市街戦を眺めているうちに、荘平の頭には、さらに天才的なアイデアがひらめいた。
そこに、いま立ち寄った第六支店の支店長の弟の松井壮之助が駈けつけて来た。
「社長!」
「おう、壮之助か、いいところへ来た」
「社長、いま電話が。――」
「見ろ、あそこに、あんなに倒れとる。これじゃ、ずいぶん死人が出るぞ。――あれは、みんな火葬場の客になる!」
「は?」
「お前は、あの死にかかっとるやつのところへいってな、姓名と住所を訊《き》いて、火葬場の約束をとりつけろ。いや、お前だけじゃ足らん、みんなを狩り出して、この騒動の死人を探して、みんな町屋火葬場へ送りこむようにしろ!」
「しかし、社長は、有名人じゃないといかんとか。――」
「なに、数がまとまりゃ、駄物《だもの》でも商売になるわ。こんどに限って焼代はただでもええ、世間の評判になるのが商売になるんや。――こりゃ、第六支店だけじゃ手がまわらん、すぐに全支店に連絡して、そう下知せえ!」
「あっ、電話といえば、いま赤坂榎坂の第十七支店から、危ないという電話で――」
「なに? 馬鹿っ、なぜそれを早くいわんか。しかし、待てよ、あそこの近くには交番なんかないが」
「いえ、あの奥にある例のお鯉さんの家、そのとばっちりらしいんで」
「やあ、お鯉の家か。なるほど。――だいたい戦争をしとる国の総理大臣が、戦争中も大っぴらに妾に目尻を下げとるのがけしからなんだのじゃ。じゃからこの始末になるんじゃ。よか、おれもいって火つけの手伝いをしたる!」
木村荘平は怒髪《どはつ》天をついて、赤い人力俥をそちらにまわした。
お鯉とは、時の総理大臣桂太郎の愛妾である。これは有名なもので、この数日前からそこには全国から手紙が雲集し、妖婦、奸婦、淫婦、金毛九尾の狐等の罵言をつらね、中には、いままでの罪ほろぼしに即刻桂を殺して、女ながら日本臣民の義務を果せ、などという物騒なものもあった。――事件後、お鯉がその手紙の束を官邸に持っていって桂に見せたところ、桂は笑いながらあごで近くの卓上をさした。そこには彼女宛のものに数十倍する手紙が、封も切らずに山積みされてあったという。
さて、千五、六百人から成る暴徒は、「桂を殺せ!」「お鯉を殺せ!」とわめきながら赤坂榎坂へ襲来したが、事前に配備された警官隊と合戦となり、そのうち近くの東京電車|敷設《ふせつ》工事場から工事用の空樽数十個を運んで来て、これに火をつけ、坂を転がし出した。――警官隊は抜剣しているのだからいのちがけだが、一面、さぞ面白かっただろうと思う。
一説には、一隊は門扉を破って邸内に乱入し、お鯉は二丈の縄梯子《なわばしご》で崖下の隣家へ逃げたともいい、一説には、暴徒はついに警官隊に撃退されて妾宅には達しなかったともいう。
とにかく、一帯、この修羅場の中へ、木村荘平の赤い人力俥が突入して来たのである。午後六時ごろで、薄暮の路上に険呑《けんのん》な火があちこち燃え転がっていた。
群衆はその赤い人力俥をみとめた。荘平のほうはお鯉への天誅の手伝いでもしたいくらいに思っているのに、群衆のほうはべつの連想を働かせた。
「やあ、あれはいろは大王だ!」
「あいつも妾持ちだ。いろは四十八店、みんな妾にやらせているやつだ」
「あんな野郎がいるから、日本はこのざまになったんだ」
「桂の同類だ。あいつもやっつけろ!」
ちょうど荘平は第十七支店の前に到着していたが、殺到して来る暴徒に仰天《ぎようてん》し、窮鼠《きゆうそ》かえって猫をはむの勢いで、俥から飛び下りると仁王立ちになり、ピストルをとり出して片手にふりかざした。
――実は彼は、だいぶ前から芝区会議員であり、かつ怪傑|星亨《ほしとおる》一派の資金源の一つとなっていた。一方で、東京市|塵芥《じんかい》処理場、東京湾埋立工事などの利権にからむ疑獄事件には、星亨とともに荘平の名もなんどかチラチラした。そして、四年前、星亨はついに公盗の巨魁《きよかい》として暗殺された。荘平は大いに戦慄して、それ以来何かといえばピストルを携帯するようになっていたのである。
いま、そのピストルをふりかざし、
「寄らば撃つぞ!」
と、大喝《だいかつ》し、一発、二発、空へむけてひきがねをひいた木村荘平の威嚇射撃は、その赤不動のような面だましいとともに、充分群衆をひるませるに足りた。
こうして、いろは第十七支店は、からくも難をまぬがれた。
焼打ち騒動は一夜つづき、荘平は一晩じゅう東奔西走せざるを得なかった。
しかも、時と場所により、弥次馬《やじうま》のうしろから、「やれやれ!」と煽動したり、逆に鬼神のごとく支店の防衛にまわったり、その間、例の火葬場の商売も放念しないのだから、忙しいことおびただしい。彼の昂奮がこれほど激烈で、かつ複雑であったことはないといったゆえんである。
結局、支店はすべて無事であったが、火葬場の客は一人もとれなかった。
九
十月十六日、講和談判の日本側全権、外務大臣小村寿太郎が帰って来た。
その前日である。
神田連雀町第六支店に巡回に来た木村荘平は、たまたま催したと見えて支店長ミヤを寵愛したが、事後、その弟の松井壮之助を呼んだ。
このときはもう彼は蒲団《ふとん》の上にあぐらをかいて、ミヤに肩をもませていたが、壮之助がはいって来ると、ミヤに鞄《かばん》をとらせ、中からピストルをとり出して、壮之助の前に置いた。
「おい、壮之助、これで小村を撃って来い」
「小村?」
「明日、アメリカから帰って来る外務大臣の小村寿太郎じゃ」
壮之助は眼をむき出した。
「あの肺病やみのヒョロヒョロ野郎め、東郷どんや乃木どんの必死の手柄を、みんな狐の葉っぱにしてしまいおった。いや、二十二万っちゅうわが忠勇の兵隊の血を、みんな水の泡にしてしまいおった。あれは国賊じゃ! 売国奴じゃ!」
関羽髯がふりたてられた。
「よって、天に代ってこの木村荘平が討つ。うんにゃ、荘平に代って、お前がこのピストルで撃って来い」
「そ、そんな――」
壮之助はふるえ出した。そばにいたミヤも仰天し、色を失った。
「と、いいたいのはヤマヤマじゃが、そうもゆくまい。そんなことをすりゃ、お前だけじゃなく、おれも無事ではすまんからのう」
と、荘平はいった。冗談だったのかと壮之助は深呼吸をしたが、荘平はニコリともしなかった。
「だいいち、それでは小村をうちの火葬場にひきとれんわい。……しかしな、壮之助、この無念はおればかりじゃないぞ。新聞見てもわかるじゃろ、全国民、同じ思いじゃ。おれがやらんでも、小村はだれかにやられる。きっとやられる」
それは壮之助も同感であった。
「そこで、そのあとは、わが火葬場へ。――」
「しかし、その、国賊、売国奴ってえやつでもいいんですか?」
「かまわん。評判になる。小村閣下の御遺骸を焼いたことで、それなりにわが火葬場に金箔《きんぱく》がつく」
怖ろしい割切りぶりだ。ヒョロヒョロ野郎が閣下に復権してしまった。
「ですが、社長、いくら何でも外務大臣のところへ、僕が。――」
「困難なことはわかる。じゃから、はじめにいったように、決死の覚悟でやるんじゃ。小村を撃ち殺すつもりなら、何でも出来るじゃろうが」
荘平はピストルをとりあげ、壮之助のおでこに銃口をあてた。
「出来んというなら、おれがお前を成敗するぞ!」
脅《おど》しとわかっていても、あまり気持のいい感触ではない。――それより、ミヤが悲鳴をあげた。
「もし成功したら」
と、荘平はいった。
「お前を明治大学へやってやる」
「ほんとですか!」
壮之助が頭をつき出したので、荘平のほうが驚いて、ピストルをはずした。弾丸《たま》はこめたままであったのだ。
壮之助はいまこの支店の手伝いをしているが、二年ほど前に出来た駿河台の明治大学へゆきたくてゆきたくて、泣くようにして姉に頼んでいたのである。しかし、むろん荘平の許可を得なければならず、その荘平は何しろ寺子屋に三年いっただけという人間だから、頭から問題にせず、あまつさえ、例の火葬場のセールスマンを申しつける始末だったのだ。
「ほんとうじゃ。ミヤを保証人にしてもよか!」
と、荘平は薩摩弁でいって、大きくうなずいた。
松井壮之助は躍りあがり、ふるい立った。
――が、しかし、外務大臣にどうして近づくのか?
翌日、小村寿太郎は、アメリカ船エンプレス・オブ・インディア号で日本に帰って来た。横浜はちょうど雨であった。
「一天|暗澹《あんたん》として風全く死し、時に細雨あり。乾坤《けんこん》陰雨に鎖《とざ》されて、天も亦《また》遺恨に堪《た》えざるが如し」
と、時の朝日新聞は伝える。
横浜は、数日前入港したイギリス東洋艦隊を歓迎するために日英両国旗で市中を飾っていたが、この日ことごとく旗を撤去《てつきよ》してしまった。
むろん政府関係者は出迎え、伊藤博文のごときは小村の肩を抱いて労をねぎらったといわれるが、小村もすでに国内の大不平は充分承知していたのであろう、出迎えの中に長男の帝大生欣一の姿を発見すると、驚いたように、「お前、生きておれたのか」と、いったという。実際、あの日比谷暴動の日、小村一家の住む外相官邸も襲撃のまととなったのである。
しかし、それだけに警戒は厳重をきわめ、おびただしい巡査はむろん、私服、憲兵から着剣した兵隊まで横浜から東京にかけて右往左往し、よしかりに歓迎しようにも不可能な状態であった。
その日、壮之助は、それでもふらふらと横浜へ出かけようとしたが、東京駅のようすを遠くから見ただけで、怖気《おじけ》をふるってひき返してしまった。
――その後も、小村外相は、ほとんど国民の前に姿を現わさない。実は小村は、自分の留守中に、アメリカの鉄道王ハリマンが、南満州鉄道を買収する約束を日本政府からとりつけていることを知って驚愕激怒、帰朝以来、結核の病躯をおしてこの契約の全面破棄に全力をあげていたのだ。
いや、小村外相が何をしていようと、牛鍋店の青二才に会見の手はずのあろうはずがない。いわんやそれが、相手の火葬に関しての用件とあっては、何をかいわんやだ。
壮之助は大いに煩悶《はんもん》した。
すると、十一月にはいって間もなく、ある新聞に次のような記事が出た。
「鼻の下ニホン棒全権小村男爵と、柳橋|春本《はるもと》の芸者|小柳《こりゆう》(二十六歳)との関係は世に隠れなき事実なるが」という書き出しで、今回小柳が提議した、身受けの件、大妾宅設定の件、ぜいたく仕放題の件、役者買い自由の件などに、小村はウイッテに対すると同様、屈辱的な弱腰で、ついに調印させられた、という、面白半分、しかし悪意をこめたデタラメ記事であった。
ふつうの人間は苦笑して読み捨ててしまうこの記事を、壮之助は天来の神示のごとくに読んだ。
柳橋はすぐそばだ。そして、春本の板前も知っている。可笑《おか》しいことにその板前が、毎日魚に庖丁をふるっているくせに牛鍋が大好きで、しばしばいろはの連雀店に来るのだ。
十日ばかりして、その板前がやって来た。壮之助は、小柳のことについて訊《き》いた。
「新聞を見たかね? ありゃデタラメだ」
と、板前は憤慨していった。
「そりゃ小村閣下は、小柳|姐《ねえ》さんが大のごひいきだが、ただ、ときどきおいでになったとき、小柳姐さん一人を呼んで三味線などをお聞きになるだけさ。それも、こんどお帰りになってからは、まったくおいでにならない」
「それじゃあ、そのことだけはほんとうなんだね?」
壮之助は、では小村閣下がこんどおいでになったとき、僕にちょっと知らせてくれんだろうか。いや、決してあんたにも春本にも迷惑のかかるようなことはしない。ただひとこと閣下にお願いしたいことがあるんだ。嘘はつかない。心配なら、庭に土下座したまま、うしろから君が帯をつかまえていてくれたっていい、と頼み、
「もし、うまくいったら、今後三カ月間、毎日あんたがここへ牛鍋を食いに来るのをタダにしてやる」
と、持ちかけた。
それからまた十日ばかりたったある夜、その板前の見習いが駈けて来て、さっき小村さまがお越しになった、と伝えた。
――やっと小村大臣も、熱し易《やす》く冷《さ》め易い国民の定式通り、例の逆上のほとぼりも一応さめたと見て、この夏以来の心労をいやしに来たものと見える。
壮之助は、かねてから用意してあった明治大学の制服制帽をつけて、決死の形相《ぎようそう》で春本に乗りこんだ。
その異様を見て板前はおそれをなしたようであったが、「さあ、約束だ」とせまる壮之助の決死の形相におされ、おそるおそる小柳を通じて、親類の明治大学生が閣下に嘆願のことがあり、それも庭に土下座して数分でいい、と申しておりますので、どうかお許し下さいますまいか、と頼んでくれた。この願いはあっさりききとどけられた。
やがて壮之助は、小村と小柳の浅酌している部屋の隣座敷に平伏していた。そこでよいと小村がいったのである。まわりを、心配そうな板前と見習いたちが、何か異常があったら飛びかかるかまえでとり囲んでいる。
「――いいか、早くだぞ、短くだぞ」
と、板前が尻をつつきながら、念をおした。
「明治大学生、臣、松井壮之助、つつしんで申しあげます」
と、壮之助は荘重に口をひらいた。ふだんかぶったことのない角帽をかぶっているので、それをとることも忘れている。板前たちも気がつかない。
「臣の調査いたしましたるところでは、昨明治三十七年において、日本国民の死亡者は九十五万五千四百人でござります。……まず百万人でござります。これを土葬とせんか、土葬にする以上、一人あたり最少一坪を必要とし、従って、年に百万坪の墓地を要することと相成ります。また、現在の国民四千二百万がみな死亡したあかつきは、四千二百万坪の墓地を要することと相成ります。……」
「――おいおい、何をいい出すんだよう」
と、板前がうろたえて、声を殺してささやいた。
襖《ふすま》の向うは、しいんとしている。そちらもめんくらったにちがいない。
「わが国土、ロシアのごとく広大でありますれば、これもまた些少《さしよう》の煩《わずら》いでありましょう。しかし国土狭小なるわが国においては、決して座視する能《あた》わざる事実であると考えます。……」
「――お前、何だか変だよ。……」と、うしろからまたささやく声がした。「早く、短く、というからこうなるんだ。いま、かんじんのことをいう」と、壮之助はささやき返し、
「もしそれ、過ぐる日露の役に、わが国民が期待しておった通り、沿海州、樺太、遼東半島、すべてわが帝国の領有となれば、かかる不安は解消したのでござりまするが、いまとなってはそれも叶《かな》わず……いなとよ、右申した四千二百万坪を墓地としてつぶすことなくんば、とりそこねた樺太北半をおぎなうこととも相成る次第にて、ポーツマスにおける閣下の御無念をはらす意味でも、今後、日本の土葬を禁ずる法律の発布をこい願う次第であります」
「――なんだか、わかるようでわからねえ」
と、うしろの声がいう。
「従って、そのあかつきは、国民すべてが火葬ということに相成りますが」
と、壮之助は早口でつづけた。
「それが、在来の火葬法、あるいは火葬炉によるものは、いかにしても二時間以上の長時間を要し、かつ燃焼不完全をまぬがれず、時に生《なま》焼けの状態になって出《い》ずるものもあり、遺族は、あたかも樺太南半のみ割譲されたような、宙ぶらりんの心情となることしばしばであります。臣は、国民をして、かかる欲求不満の状態におくことを深く憂うるものであります」
「…………」
「しかるところ臣は、さきに開発されましたる木村荘平の火葬炉を知って、ああこれなるかな、と膝をたたいた次第でござります。これは完全に燃焼するのみならず、時間は三分の一の四十分で充分で、つまり一体当り八十分、時間が節約出来ることに相なりまするから、年に百万体というと、臣の計算では一千三百三十三万時間、すなわち五十五万五千五百五十五日、すなわち一千五百二十年分という尨大《ぼうだい》な時間の節約と相成ります。……閣下!」
彼は声をふりしぼった。
「閣下、実に申しあげるも怖れ多いことながら、さきごろからの国民の様相では、必ずしも閣下の御安泰、保しがたき情勢にあり、遠からざるその日のために、かつ日露役の損害をとり戻すために、さらに閣下みずから範をお示し下さるために、なにとぞ木村荘平の火葬場を御利用いただきたく、臣、明治大学生松井壮之助、泣血《きゆうけつ》して御進言申しあげる次第でござります。……」
壮之助はがっぱとひれ伏した。
日本国民の死亡数から説き起して、小村外相の責任をからめて、この結論に至る。論脈は怪絶をきわめているが、彼自身はまったくその可笑しさを感じていない。むしろカミソリといわれる小村寿太郎に理詰めで談判したつもりでいる。
彼でなくったって、ある目的だけを正当化しようと我田引水すると、たいていこういうことになる。ワイロを政治献金だとする現代政治家の怪論理を見るがいい。
さっき、お前何だか変だよ、とか、わかるようでわからねえ、とか疑問を呈した板前たちも、煙《けむ》にまかれたようにボンヤリして、平伏した壮之助を眺めている。
襖の向うも、しーんとしていたが、ややあって、
「その男、ウイッテがないのう」
と、笑みをふくんだ声がした。小村大臣は、しゃれたのである。
「小村はまだ死なん。なかなか死なれん」
「しかし――」
「しかしもハチの頭もあるか。馬鹿者、退《さが》れっ」
口髭《くちひげ》が歩いているようだ、と評された小男にしては、屋鳴震動する、木村荘平どころではない大音声《だいおんじよう》であった。談判は破れた。
十
明治三十九年は、平和|克復《こくふく》第一年として明けたはずなのに、木村荘平は芝浜館であまり面白からぬ新年を迎えた。
大みそかの夜ふけから、左奥歯が痛みはじめたのである。正月では歯医者も休みだろうし、それに鏡をのぞいて大口あけて見ても、べつに虫歯になっている気配もない。この年になるまで病気らしい病気をしたこともなく、歯も上下ぜんぶ健在のつもりであったのだが――とにかく、痛い。
そこで、毎年の新春二日、各支店全員を芝浦館に集めてやる恒例のいろは新年宴会は中止することにし、そのむね至急電話させた。そのあと、痛いぞ、痛いわい、と、うなりながら、四男で十七になる京華中学生の荘太に、山のように来た賀状を読ませていた。
荘太はハガキを読みながら、しばしばつまった。
「なんじゃ? お前、中学校へいっとって、そんな字も読めんのか」
「だって、こんなに崩してあるんだもん」
「お前、小説家になりたいとかいうとったじゃないか。賀状くらいが読めんで、小説が書けるか」
「それとこれとはちがいますよ。じゃあ、お父さん、これ読んでごらん」
「おれは歯が痛くて読めんわい」
荘平に見せたら、三割も読めなかったにちがいない。
――この荘太が、四年後の明治四十三年、文学青年仲間とともに、隣りの芝浦館の一部を編集室として、第二次「新思潮」を出し、その第一号に掲載された短篇「誕生」によって、谷崎潤一郎が誕生するのである。
そこへ、電話を聞いて、京橋|采女《うねめ》町の第三支店ナオの父親沼倉善兵衛が第一番にやって来て、お正月の挨拶をし、荘平の病状をうかがった。荘平は仏頂面《ぶつちようづら》のまま、荘太に代って賀状を読めといった。
善兵衛は読み出した。さすがに年配者だけあって、どんな達筆もまず読める。――とその七枚目くらいに、荘平が歯の痛みも忘れるような賀状が出て来たのだ。
それは福地桜痴からのハガキであった。
荘平は、この大名士を、新聞社の社長として、あるいは狂言の作者として知っているのではない。いや、そのことは知っているが、彼は福地が東京府議会議長をしていたころ、つまり政治家としての桜痴と何度か宴席をともにしたことがあるのである。福地はむろん知識人で、かつ殿様然としていたが、一面大通人といわれただけあって、甚《はなは》だくだけたところがあって、荘平は感心した。福地も、あらゆる点でまるきり正反対の荘平に妙に好感を持っていたようで、荘平が「実業家」としていろいろ持ち出す虫のいい陳情に対して、何かと好意的に便宜を計ってくれたおぼえがある。
しかし、それももう十何年も昔のことだ。桜痴が府会議長をやめ、芝居の作者となってからはつき合ったこともないし、手紙をもらったこともない。
そして、賀状などよこしたのは、これがはじめてのことであった。
「御慶《ぎよけい》」とまず書いてはあった。しかし、ただの賀状ではなかった。それには、自分も病気で、そうながくはないだろうと思う。ついては、貴君《きくん》のところの牛肉が食いたい。鍋ではない。今生の想い出に、自分のところでビステキというやつにして食って見たい。年が明けたら、なるべく早く、なるべくいいところを――フィレという、牛の脇腹にあたる肉をとどけてもらいたい。それも小僧ではなく、貴君みずから駕《が》をまげていただけまいか。実は貴君のやっていられるという火葬場の件についてお話したいことがある、云々としるされてあった。
「こいつは春から縁起がええわい!」
と、荘平は、荘平らしくもない芝居もどきのせりふを吐いて、しかしまた顔をしかめ、頬髯をおさえた。また歯痛が脈を打ったのだ。
「牛肉を一貫目持ってゆけ。それ、ここにある通りの牛の脇腹じゃ」
「あの、私が?」
「おれは歯痛《はいた》じゃ。それで、失礼だが、癒《なお》ってから参上する。とりあえず、主人に代って肉だけ持参いたしました、と申してな」
「はあ?」
「それより、ここに火葬場の件について話したいとある。そういえば、福地先生が患《わずら》っておられるということは、だいぶ前から聞いとった。それが、もうながくないと書いてある。自分のほうから火葬場を持ち出した以上、火葬のほうは頼む、ということにきまっとる」
荘平はよろこびと痛みのまじった変な表情で、善兵衛をにらみつけ、
「お前、いままで一件も注文とれんかったな」
と、いった。
善兵衛はひたいを畳《たたみ》につけた。彼も例のセールスマンの一人だったのである。
「それが、何の苦もなく手にいるボタ餅。――お前、いいところへ来た。運のいいやつだ。すぐこれからいって来い!」
「へい!」
善兵衛が立ちかけると、荘平がつけ加えた。
「万が一、万が一じゃが、話がちがったときは、牛肉は持って帰るんじゃぞ。……」
やがて沼倉善兵衛は、一貫目の牛肉と同乗して、俥で、福地桜痴の住所と聞いている築地二丁目へ駈けていった。
元旦の町はすがすがしく、各戸に門松が立てられ、日の丸の旗がはためいている。竹馬に乗った男の子や、手鞠《てまり》をつく女の子や、長いたもとで羽根をつく娘たちの姿も見える。その中を、年賀にまわる人々の俥が走る。
善兵衛は浮き浮きしていた。彼は第三支店長ナオの父親だが、実は義父で、ナオは妻の連れ子であった。だから、その縁にぶら下がって暮しているのが、甚だ肩身がせまい。それで、火葬場の客第一号をとれば、新支店長になれるというのは、大袈裟《おおげさ》ではなく、暗夜に光明を見るような希望の目標であった。
それが――むろんいままで、死物狂いに駈けまわって見たのだが、どの口もうまくゆかなくて身をもんでいたのだが――一陽来復《いちようらいふく》、突如として、まさに棚からボタ餅的事態が発生したのである。こんどこそは、まちがいなかろう。まちがいない。
善兵衛は、以前|池《いけ》の端《はた》茅町《かやちよう》にあった福地の宏壮な大邸宅を知っている。また、彼が取巻きをつれて、連日のように吉原や柳橋で豪遊し、世に「池の端の御前《ごぜん》」と呼ばれたことのあることも知っている。
しかし、彼が訪ねあてた桜痴の家は、築地二丁目の路地の奥で、門もない、三間《みま》くらいしかないのではないかと思われる、陋屋《ろうおく》といっていい小さな家であった。
それでも、書生、というより何だか戯作者の見習いめいた自堕落《じだらく》な感じのする若い男がいて、奥へ通された。
そこに、福地桜痴は横たわっていた。いや、客が来たというので起させたのだろう。蒲団を重ねて、それによりかかっていた。善兵衛ははじめて桜痴を見るが、まばらな白髪と白髯につつまれて、しなびた胡瓜《きゆうり》のようなかたちと色をかねそなえた衰死の老人であった。
「なに、木村は病気? エーヘッヘッヘ!」
善兵衛の口上《こうじよう》を聞いて、桜痴はしゃがれた、かすかな声でいった。笑ったのではない、咳の声である。
「鬼のカクランじゃな。……なに、歯痛か。牛肉を食い過ぎたのか。エーヘッヘッヘ!」
桜痴は、喘息《ぜんそく》といわれていたが、実は肺結核であった。それに糖尿病が伴《ともな》って、いよいよ悪化したのである。
しかし、善兵衛が、これは主人からの御進物《ごしんもつ》だといって、一貫目の牛肉をさし出すと、桜痴は眼から涙を流し、口から涎《よだれ》をたらさんばかりによろこび、
「それはありがたい。いや、このごろ突然、昔、パリスで食ったビステキが食いとうなってな。エーヘッヘッヘ! ビステキの焼き方にもいろいろある。レアといって生焼きのもの、ウエルダンといってよく焼いたもの、ミデアムといってその中間のもの……エーヘッヘッヘ!」
と、早速、ビステキの講釈をはじめた。彼は、昔、幕府の役人として、あるいは新政府の外交|随行員《ずいこういん》として、四回も欧米にいったことがあるのである。
「では、早速御馳走になろう。本式にはゆかんが、まずブロイルというやつでゆこう。網《あみ》焼きじゃな。……ソースというものが要るが、ちょっと手にはいらん。で、わしが褥中で考案したのじゃが、それに日本の醤油をつけて、生《なま》ニンニクをすったものをかけて食うと美味《うま》いのじゃないか。……いや、そんなことを考えたらたまらなくなって、思い切って木村に頼んだのじゃよ。おうい、白痴、コンロに炭火をいれて来い。エーヘッヘッヘ!」
白痴というのは、さっきの弟子の名らしい。桜痴にちなんでつけたものだろう。
善兵衛は狼狽した。
「あの、その前に……何やら火葬のことについて」
「ああ、あれか」
桜痴はうなずいて、
「こりゃ、直接木村にいいたかったんじゃが、そういう事情ならしかたがない。お前さんにいうから、木村によく伝えてもらいたい」
と、いい、
「わしは右の手で軍人|勅諭《ちよくゆ》を書き、左の手で吉原の看板を書いた。それがわしの一生をよく象徴しとる」
と、変なことを言い出した。
「若いころをふりかえると、じゃな。……わしはね、長崎の町医者の子に生まれ、自分でいうのもおかしいが、子供のころから神童といわれた。エーヘッヘッヘ! 漢学もやり、蘭学もやったが、まあ出来がよくて、十七のとき長崎奉行所の役人にとりたてられ、長崎じゃどっちにしてもさきゆきが知れていると考えて、その翌年には江戸に出て、聖堂にはいった。……」
何だか、雲ゆきがおかしい。しかし、そんな昔話はやめろともいえない。
「あのころ幕府に仕えて立身しようとするなら、漢学一本でいったほうが順当の道じゃったんじゃが、わしは長崎でおぼえたオランダ語が忘れられず、いのち知らずに開国を唱えて、何度か危ない目にあったよ。で、結局、そのほうの芸のおかげで、御一新前に二度も幕府の使節団に随行して、ヨーロッパへゆく羽目になった。何しろみんな、ワラジ、陣笠、味噌、ウメボシ持参という困ったお歴々ばかりだから、わしがいなけりゃ、どういうことになったか。……エーヘッヘッヘ!」
「…………」
「ま、そういうわけで、英語とフランス語も何とか出来るようになった。さて日本に帰って……外国奉行|調役格《しらべやくかく》なんて変な地位についた。実際は奉行なんかお人形で、わし一人が切ってまわしたようなものだがね。エーヘッヘッヘ! ただ当時、幕府は口に開国を唱えても、内実は開国まっぴらという連中ばかりで、わしを異物みたいな眼で見るし、わしも幕府を見限って、いっそ野に下って塾を開こうかと計画したこともある。あのとき塾を開いておれば、福沢の慶応義塾に匹敵するものが出来たろうが、わしはやはりそこまで踏み切れなんだのじゃよ。役人としても自信があったからのう。……」
「…………」
「案の定、幕府は倒れた。維新後、役人としてのわしの頭を買う人があって、大蔵省に出仕を命じられて銀行設立の下働きなどやったが、政府の方針に不満なことがあって、こんどはとめられるのを振り切って野に下った。そして、新聞屋になり、東京日日の社長にまでなり、薩長閥をこっぴどくやっつけて、あのころ大変な大人気を得た。エーヘッヘッヘ!」
「…………」
「ところが、その後、自由民権とやらがはやり出した。政府を批判してはおったが、わしはその風潮を見て、これはいかん、自由民権も度を越すとまだひよわな日本を滅ぼす、こう考えて、こんどは政府擁護にまわった。それどころか、わしは、板垣の自由党、大隈の改進党に拮抗する帝政党さえも結成した。……エーヘッヘッヘ!」
「…………」
「実は、さっきもいったが……お前さん、軍人|勅諭《ちよくゆ》なるものを知っとるじゃろ。一ツ、軍人は忠節を尽すを本分とすべし……と、いうやつだがね。ありゃ明治十四年、山県卿に頼まれて、わしがその草案を書いたものじゃよ。もっとも、その一方で、わしはちょうど同じ年、それ吉原の大門を知っとるじゃろ、あの大門の看板に、春夢正濃、満街桜花、秋信先通、両行燈影と書いてあるが、あれもわしが二千円で書いてやったものじゃよ。エーヘッヘッヘ!」
「…………」
「それはともかく、わしとしては、あの攘夷《じようい》時代、開国を唱えたのと同じ心情、同じ信念で政府方についたのじゃが、これがわしを不評のまととした。裏切者、変節漢、二股膏薬《ふたまたこうやく》、反薩長はどこへいった、福地は政府に魂を売って府会議長を買った、などいわれてね。東京日日は御用新聞になったとして売れゆきも激減し、わしはとうとう東京日日を放り出された。それまでわしにチヤホヤしておった政府のおえら方も、このときはまるで助けてくれなかったよ。……エーヘッヘッヘ!」
「福地先生。……」
善兵衛はたまりかねて、哀れな声をさしはさんだ。
「黙って聞きなさい」
と、桜痴は制し、
「わしは平気じゃった。エーヘッヘッヘ!」
とつづけた。
「芝居好きのわしは、かねてから考えておった演劇改良に乗り出すいい機会だと思い、歌舞伎座を作って社長になった。団十郎を使ってやった改良演劇すなわち活歴は、歌舞伎に西洋の演劇の骨組みを吹きこんだものといわれた。しかし、活歴はやがて人気を失い、歌舞伎座も生えぬきの興行師に乗っとられた。エーヘッヘッヘ! わしはただの狂言作者となった。それでも、わしの鏡獅子や春雨傘は、あとあとまで残りゃせんかと思うとったが。……」
「先生。……」
「エーヘッヘッヘ!」
と、桜痴は物凄い咳で、善兵衛を吹き飛ばし、
「芝居のほかに、わしは小説も書いた。政治小説、歴史小説、家庭小説、諷刺小説、飜訳飜案小説。……エーヘッヘッヘ! それから、小説ではない、『懐往事談』とか『幕府衰亡論』とかいう自伝や史論も書いた」
「先生、火葬場の件でございますが。……」
「エーヘッヘッヘ! こういっちゃ何だが、わしは、万能とはいわんまでも、少くとも、四、五人分の働きはした。いつも新しいことに乗り出し、ゆくとして可ならざるはなく、そのすべてにおいて一応成功した。自慢しているのじゃないぞ。その証拠に、その成功がいつも永続きしなかったと自分で認めざるを得ん。それでもわしは、放り出されても、自分では蹴飛ばしたつもりで、きのうは東、きょうは西、すぐ次の新しい仕事にとりかかり、また成功した。政治家、官吏、実業家、新聞人、学者、文学者、詩人……そして、大通人。――さて、いまや一代の大才子福地桜痴、六十六年の生を終らんとするにあたり、……」
「おう、それそれ、先生、御火葬の御予定は――」
「結局、何もない。ふしぎなことに、世の中からだんだん馬鹿にされ、だんだん貧乏して、死ぬ家もかくのごとき陋屋じゃ。そもそも、福地桜痴という人間が、存在しなかったにひとしい。……いま心に徹するのは、わしは、わしの才能に使われた、才能を調節出来なかった、万能余りあって一心足らず、ということじゃ。エーヘッヘッヘ!」
「主人荘平の火葬場は。……」
「やあ、その火葬場じゃ」
やっと、桜痴の口から火葬場という言葉がもれた。
「牛肉屋と火葬場は合わないよ」
「はあ?」
「何となく、レア、とか、ミデアム、とかを連想する。いや、みんなビステキは知るまいが、しかし感じとしてそんな連想を起す。エーヘッヘッヘ!」
実は、それこそ木村荘平の火葬場がうまくゆかない最大原因なのであった。それは善兵衛も思い知らされていた。しかし、それを荘平にいっても、受けつけないのである。そんな連想は、まったく彼の脳髄に浮かばないらしいのである。そんなことをいえば、雷《らい》のごとき大喝《だいかつ》がふって来るにきまっている。……
そして、きょうのいまも、そんな桜痴の意見は持って帰れない。これは、とんでもないことになった。
「ミデアムといえば、これ白痴、コンロはまだか」
そういったとたんに、桜痴は身を二つに折って、エーヘッヘッヘ! エーヘッヘッヘ! と激烈に咳きこみ、胸もとから腰にかけた夜具に、がぼっと血が飛び散った。
「木村荘平も、いろいろと新しいことをやる。わしは好きな男だよ」
灰色の顔をあげ、血まみれの口で桜痴はいった。
「しかし、二|兎《と》を追うてはいかん。一事に定住せんのはいかん。脈絡のない二つのことをやるのはいかん。この福地がよい見本じゃ。それを最後に荘平に忠告したくて呼んだのじゃ。荘平に伝えなさい、火葬場はやめなさい! と。以上が木村に対する吾輩の『軍人勅諭』じゃ!――エーヘッヘッヘ! エーヘッヘッヘ! イーヒッヒッヒ!」
沼倉善兵衛は、うしろで白痴が、牛肉を俎《まないた》にのせて、大庖丁で切りはじめたのにも気がつかなかった。
――福地桜痴は、それから三日目の一月四日に死んだ。
十一
木村荘平の歯痛は、正月が終るといちど去ったが、三月にはいってまたぶりかえした。それは、ただごとでない激痛であった。
三月半ば、彼はついに帝大病院にかつぎこまれ、外科の泰斗佐藤三吉博士の診断を受けた。病名は顎ガンであった。
ただちに左顎切除の手術を受けたが、そのあとで博士は、
「もう少し早く来られたら。……」
と、いった。
病床の荘平は、見舞いに来た二十数人の妻妾、それにならう子供たち、何百人といういろはの従業員たちを見たが、一言の口もきかなかった。顎半分切除され、包帯の化物みたいになり、流動食を与えるため喉《のど》に穴をあけられてゴム管を通されるといった状態で、口をきくことなど全然不可能だったのである。
そして、四月二十七日午後一時半、彼は何の遺言も残さずに死んだ。
町屋火葬場で、新発明にかかるレールをすべって、第一号としてカマにはいっていったのは彼の棺であった。
しかし、それが四十分で完全に燃焼して、大きな骨となって出て来たとき、妻や妾や子供たちはいっせいに悲鳴をあげた。仏は、仰向けに頭を奥にしていれたはずなのに、出て来たのは、うつ伏せで、しゃりこうべを入口にむけていたからである。
いや、その骨となった両腕は台に突っぱられて、いまにも立ちあがろうとしているかに見えた。それは、いろは大王の最後の闘魂を物語るものとしか思われなかった。
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四分割秋水伝
上半身の秋水
その男が傍聴席に上半身を現わしたとき、法廷には異様などよめきが渡った。
明治四十一年八月十五日午前九時ごろ、東京地方裁判所第二号法廷で、「赤旗事件」の第一回公判がひらかれようとして、ちょうど裁判長らが着席して、裁判所特有の重っ苦しい空気がみなぎったときに、記者席の背後のドアがまたひらいて、一人の男が立った。その姿にまず近くの傍聴人たちが気づいたのである。
「――秋水だ!」
「――幸徳秋水だ!」
禁じられているのに、低声のざわめきは木の葉のさやぎのように、しばしやまなかった。
年は四十前後か、一メートル五十にも至らぬ小男で、しかも痩《や》せている。口髭《くちひげ》ははやしているが、黄ばんだ顔色で、風采《ふうさい》は甚だあがらない。しかもその男の全身からはただならぬ精悍《せいかん》の気が放射されていた。
十三人の被告たちもいっせいにふりむいた。この中には幸徳秋水本人をまだ知らない人間もいたのだが、どの顔もが満腔《まんこう》の敬愛にみちた眼をむけていた。中には白い歯を見せている顔もあった。
だれもが秋水を自分たちの首領と認めていることは明らかであった。そして秋水もまた、いま裁かれようとした被告たちに、首領らしく、かすかに二、三度、うなずいてみせた。
この雰囲気につられたか、被告たちよりその新入者に不快の眼をむけていた裁判長は、数瞬後われにかえって、きびしい声で開廷を宣した。
いわゆる「赤旗事件」の裁判がはじまったのである。
「赤旗事件」とは、その六月二十二日に起った騒動であった。
――「平民新聞」に書いた筆禍のために一年二カ月入獄していた社会主義者山口孤剣が、刑期を終えて出て来たので、同志たち数十人が神田錦町のクラブ・ハウス「錦旗亭」で歓迎大会をひらき、夕刻、その余勢で一部の者が三本の赤旗をおしたてて、革命歌を歌いつつデモ行進に移ったとき、外に待ち受けていた警官隊と衝突し、街頭で赤旗を奪う、奪い返されるの大乱闘を演じたあげく、一網打尽に検挙され、その中の十三人が「官吏抗拒罪」および「治安警察法違反」に問われて、この日の裁判になったのである。
その被告たちの中には、堺利彦、大杉栄、山川均、荒畑勝三、などの名があったが、また四人の女性も混っていた。
幸徳秋水にとって運命の女性――管野須賀子《かんのすがこ》はその一人だったのである。被告席と傍聴席と、それぞれ集団の中であったが、二人が顔を合わせたのはその日が最初であった。
*
「赤旗事件」が起ったとき東京にいなかったので、幸徳秋水はこの裁判の被告となることはまぬがれたが、この一場の黙劇で、彼こそ社会主義の首領であることを、裁判官や検事たちも改めていかんなく思い知らされたにちがいない。
――秋水きたる!
――幸徳秋水きたる!
この法廷のみならず、また直接その姿は見ないでも、当時その名を耳にしただけでも日本じゅうに、大げさにいえば一種の戦慄《せんりつ》を与えた幸徳秋水とは何者か。
彼は土佐の中村で先祖代々酒屋と薬屋をいとなむ町家に生まれた。本名を伝次郎という。が、父は親戚の鉱山師《やまし》にひっかかって家産をかたむけたまま、伝次郎が生まれた翌年に死んだ。以後彼は三人の兄姉《きようだい》とともに母の手一つで育てられた。
幼少時、伝次郎はヒヨワで、家の中でひとり遊びばかりしていて母を心配させた。が、やがて漢学塾へかようようになると、成績抜群で、神童と呼ばれたことさえあった。そして少年期にはいると、小柄なくせに気性のはげしさを現わすようになり、自由民権運動に熱中するようになった。土佐は自由民権の発祥地であった。
親戚に士族が多い中に、幸徳家だけが町家で、そのコンプレックスが彼を孤独な少年にさせていたが、少年期に至ってそのことが逆に彼を士族の子以上のサムライ魂の持主に変えたようだ。
明治二十年夏、数え年で十七のとき、彼は高知にゆくとうそをついて東京に出て、自由党残党の壮士となった。
ところが、その年の暮、保安条令が出て、自由民権論者はすべて東京から追放されてしまった。少年壮士の彼までその網をのがれることが出来なかったが、その追放者の中にむろん大物の中江兆民の名があった。
兆民もまた土佐の大先輩だ。で、伝次郎は、大阪に落ちてそこで新聞を出しはじめた兆民の書生となった。それも、辛辣《しんらつ》放胆な中江兆民が心を許した最高の愛弟子《まなでし》となり、その後追放令が解除されて兆民が東京に帰ると行をともにし、明治三十四年には師の死水《しにみず》をとっている。
その間に、明治三十一年に彼は黒岩涙香の「万朝報」に入社していた。
秋水というペンネームは兆民から与えられたものであった。兆民にきたえられた秋水の文章は「万朝報」の読者をうならせた。
特に、明治三十三年夏、旧自由党の血をひく憲政党が伊藤博文の政友会に吸収合併されたときの「自由党を祭る文」は有名だ。
「歳は庚子《こうし》に在り八月某夜、金風|淅瀝《せきれき》として露白く天高き時、一星|忽焉《こつえん》として墜ちて声あり、嗚呼《ああ》自由党は死す!」云々。
かつて自由のために政府とたたかった自由党の末路を悲憤する文章だが――あるとき兆民が彼に、「お前は政治運動をやるより文学者になったほうがいい」といったが、この師はまさしく弟子の本領をよく見ていたといわなければならない。しかし、稀代の文章家ではあるけれど、その才能は文学というよりアジテーションに最適のものであった。
「万朝報」の読者以外に、幸徳秋水の名を天下に知らせた事件が起った。
明治三十四年十二月十日、貴族院に臨んだ天皇の帰途、その馬車の前に駈けていって白い奉書をささげた老人があった。それが栃木県選出の田中正造という代議士で、足尾銅山の鉱害の惨を天皇に訴えようとしたものであったことがすぐに判明したが、ついで、
「草莽《そうもう》ノ微臣田中正造誠恐|誠惶《せいこう》謹ミテ奏ス。……」
にはじまる、渡良瀬《わたらせ》川流域の人民の苦難と役人の非情冷酷を訴えた直訴状の書き手が、三十一歳の「万朝報」記者幸徳秋水であったと知って、みなあっと眼をむいた。
秋水は、その師中江兆民のフランス式自由民権を超えて、いつしか日本最初の社会主義の思想家に変っていた。
やがて人々は、この人物がたんなる慷慨《こうがい》の文章家ではないことを知る。
日清戦争の勝利で自信を得、しかも三国干渉の屈辱をなめて、いわゆる「臥薪嘗胆《がしんしようたん》」を合言葉に国をあげて軍国主義につきすすみ出した日本人に対し、幸徳秋水ら数人が「万朝報」で公然反戦の論陣を張ったのである。
秋水は、万一戦争となった場合の兵士の惨苦、遺族の悲哀、戦地住民の災難、国費の蕩尽《とうじん》等を列挙し、国民にあえてこの道を進ませようとしている指導者の姿勢を、カライバリ的、飴《あめ》細工的帝国主義だと痛罵《つうば》した。
こういう論説をあえて掲載することを黙認した「万朝報」社長の涙香も相当なものだが、しかしその涙香も、日露の風雲急を告げる最後の段階に至ると、さすがに方針を変えざるを得なくなった。
秋水と、彼とともに「万朝報」論説委員で同じく非戦論者であった内村鑑三、堺利彦は退社した。
内村の反戦は宗教的信念によるものであったが、幸徳と堺は社会主義の思想から来たもので、二人は「万朝報」を退社すると、わずかな退職金と借金で、週刊「平民新聞」という新聞を出して社会主義を鼓吹するとともに、いよいよ激越に非戦論を唱えた。
「ああ、朝野戦争のために狂せざるなく、国民の眼はこれがためにくらみ、国民の耳はこれがために聾《ろう》するのとき、ひとり戦争の防止を絶叫するは、隻手江河を支うるよりも難《かた》きは吾人これを知る。
しかも吾人は、真理正義の命ずるところに従って信ずるところを言わざるべからず。絶叫せざるべからず。ああわが愛する同胞、今においてその狂熱より醒《さ》めよ。……戦争ひとたび破裂するときはその結果の勝と敗にかかわらず、次に来《きた》るものは必ず無限の苦痛と悔恨ならん。……」
しかし、日露戦争の火ぶたは切られ、ひたすら満州における戦況に一喜一憂している「わが愛する同胞」から見れば、このような論は異和感を越えて、憎悪憤激の的《まと》以外の何物でもなかった。政府はむろんいくたびか発行禁止を命じた。
が、秋水は屈せず、凄《すさま》じい「イゴッソー」ぶりを発揮する。
「吾人は断じて非戦論は止《や》めじ。吾人はこれがために如何《いかん》の憎悪、如何の嘲罵、如何の攻撃、如何の迫害を受くるといえども、断じて吾人の非戦論を止めじ。……」
それどころか、旅順戦の最高潮時に、「平民新聞」はマルクスの「共産党宣言」を日本ではじめて訳載する「怪挙」をやってのけ、ついに秋水は禁錮《きんこ》五カ月に処せられるに至った。「平民新聞」は一年二カ月にして廃刊に追いこまれた。
彼の「終刊の辞」は、当然のことながら例のごとく悲壮であった。
「ああ、わが平民新聞、短くしてかつ多事なりし生涯よ、だれか創刊の当時においてしかく短き生涯なるを思わんや。独座燭を剪《き》って終刊の辞を艸《そう》すれば天寒く夜長くして風気|蕭索《しようさく》たり」
明治三十八年二月末から七月末まで巣鴨監獄にぶちこまれた秋水は、出迎えた同志たちに挨拶《あいさつ》した。
「下獄の時の十二貫の体重は、いまはわずかに十貫三百|匁《もんめ》となりました。……多謝す、巣鴨監獄、それは私をして層一層不忠不良の臣民たらしめました」
彼はいよいよ社会主義の殉教者《じゆんきようしや》たる決意をかためて出獄して来たのである。
しかし、もはや新聞を出すことは封じられ、秋水の身体はやつれはてていた。のみならず反戦の非国民たる彼は、日露戦に勝ったばかりの日本に、当分いるにもいられない状態にあった。彼は同志のカンパにより、十一月アメリカに亡命した。
秋水は半年ばかりサンフランシスコに滞在して、同地のアメリカ人、日本人の社会主義者や無政府主義者と交わりを結んだのち、翌三十九年六月に帰国した。この滞米中に彼は、堺利彦たちの議会に労働者を送らなければならないとする運動より、労働者自身の「直接行動」すなわちゼネストこそ支配階級への最大の武器だという戦術を学んで来て、これを鼓吹した。
相変らずの当局との悪戦苦闘のうちに、彼はいつしか病みはじめていた結核に加えて、これも慢性の腸カタルが悪化し、さらに妻千代子のリューマチが高じて、その療養のために母や妻を伴って、ひとまず故郷の土佐へ帰ったのは明治四十年秋のことであった。
そして四十一年六月に「赤旗事件」が起り、盟友堺利彦らが逮捕されたのである。――「サカイヤラレタ スグカエレ」
東京からの飛電に、故郷の中村で、ロシアの無政府主義者クロポトキンの英訳本「麺麭《パン》の略取」の飜訳に日を暮していた秋水は起《た》った。
母と妻は残してただひとり旅立ち、途中、知り合いの社会主義者やそのシンパ――紀州新宮の医師大石誠之助、箱根の僧侶内山愚童ら――と旧交をあたためながら上京した。
そして、冒頭に記したように、八月十五日の法廷の記者席に現われて、捕われた同志たちと相まみえたのであった。
被告たちから見れば、最も先鋭な理論の指導者、怖れを知らぬ不屈の首領の帰還であり、この以心伝心の光景を見た裁判官や検察側から見れば、不敵な叛逆の教祖、日本人とは思えない怪物の挑戦であった。
*
この一場のドラマを幸徳秋水自身が記している。
「午前九時に僕が駈けつけたときは、傍聴席はもはや満員ではいることが出来ぬ。公廷のあけはなちたるドアの前に立って見いると、被告席の同志諸君がいっせいに僕を見つけて、満面に笑みをたたえてドヨみ渡ったのには、僕はおぼえず胸迫って涙が落ちた」
秋水は、師の兆民に似て――ただし兆民は陽、秋水は陰だが――外見冷徹のようで、実は熱血の人物であった。
裁判の判決は八月二十九日に出たが、管野須賀子ら二人の女性をのぞき、あと全員重禁錮や罰金に処せられた。
さて、秋水はこの公判を見とどけたのち、入獄した同志たちの期待にこたえて社会主義の運動を再開することにした。
それはやがて、彼自身の死へつながる道であった。
社会主義は天皇制を根底からゆるがすものと見た政府は、それが燎原《りようげん》の火とならないうちに社会主義を絶滅すべく、秋水はもとより日本じゅうの社会主義者やそのシンパたちにきびしい監視の眼をひからせていた。
その中で秋水は巣鴨村に小さな家を借り、「平民社」の看板をかかげた。そこには遠近から社会主義に共鳴する人々が訪れた。
盟友堺利彦によれば、「秋水は五尺に足らざる小男であったが、精悍の気、眉宇《びう》に現われ、文章、弁論ともに殺気をおび、常に後進の渇仰《かつごう》を博していた」
若い連中に人気があったのだ。
訪問者たちはこの家に監視の眼がひかっていることを知っていたが、大半は平気であった。特に若者たちは、近くでウロチョロする巡査の前を、皮肉な笑顔をむけながら肩をそびやかして出入した。
八|帖《じよう》、六帖、四帖半、三帖の小屋《しようおく》から、物騒な論争の声がもれることもまれではなかった。秋水はこれに加わって、若い人々を激励したり、たしなめたりした。
このありさまは――「赤旗事件」の判決が下った日から三日目の九月一日から、「朝日新聞」に漱石が「三四郎」を連載しはじめていたが、その漱石が、早稲田南町の家で、このころも木曜日の面会日に、若い弟子たちと談話していた構図と一脈通じるところもあったろう。
ただそれは師弟談論の構図が似ているというだけで、雰囲気は天国と地獄ほどちがっていたことはいうまでもない。知的で上品で、ういういしい三四郎やその仲間そっくりな漱石の弟子たちにくらべて、ここに集まるものは、虐げられ、差別され、怒りに燃えた若者たちであった。彼らは、それぞれタイプはちがうが、火の玉のような激情の持主であることは共通していた。
中に、幸徳家を訪れて、そのまま住みついてしまった青年もいた。秋水と同じ土佐から出て来て小石川砲兵|工廠《こうしよう》のガードマンをしていたが、志士なるものにすこぶる憧憬を持つ男で、これが書生として入りこんだ。名は坂本清馬というのだが、坂本龍馬とは何の関係もない。怖ろしく怒りっぽい単細胞の若者で、半年ばかりいて、あることで秋水に叱《しか》られることがあって逆上して飛び出してしまったのだが、それでものちに彼はいう。
「秋水は眼光の鋭い、無愛想で冷淡な感じを与え、神経質な人であったが、実際は人間的なあたたかみを持っていた」
この坂本清馬に代って、もう一人の同居者があらわれた。しかも、女である。それは「赤旗事件」で裁判にかけられ、釈放された管野須賀子であった。
いや、その前にしるしておかなくてはならないのは、秋水自身の妻の千代子のことだ。
秋水の上京後、土佐の彼の実家においてけぼりにされていた妻の千代子は、リューマチに悩む身ながら、かくてもおれじと翌年一月半ば夫のあとを追って上京したものの、ほとんど病床から離れられないありさまで、この妻を秋水は三月一日に離別したのである。
これに先立って彼は、千代子をひきとってくれることになったその姉、名古屋に住む松本判事夫人に手紙を送っている。
「……私は数年内に、病気で死なねば刑罰で死ぬ運命、と充分に覚悟しております。ついては、むしろ出来得るかぎり革命のために働いて、いさぎよく死にたいと思いますから、千代もそのつもりでいてもらわねばなりません。で、妻としては、私の運動に同情し、私の地位を呑みこんで常に私を激励して死処を得るようにしてもらわねば困るのです。さなきだに心弱き婦人が、ややもすれば足手まといとなる怖れがある上に、もし他から種々と革命の危険を説かれ、損害や悲惨を論ぜられて忠告を受けると、常に夫の事業を掣肘《せいちゆう》し、士気を沮喪《そそう》せしむることになるかも知れぬのです。それくらいなら、むしろ妻なきにしかずです」
千代子は、勤皇で知られた国学者の娘であった。それはそれとして彼女は、迫害と窮乏の中に十年間黙々とよく夫に仕えた妻であったが、夫の行動を見まもる眼はいつも哀しげであった。秋水はそれを、彼女の病気よりも足手まといと感じたのである。
妻を離別したすぐあとの三月半ばに、秋水は千駄ヶ谷九〇三番地へ転居した。それまでの巣鴨の家は、警察におどされた家主から追い立てをくったからであった。千駄ヶ谷の家は、そばに鉄道が走っているために、屋根も壁も赤い鉄粉の錆《さび》に染められたような家で、それでも二十坪ばかりの広さがあるが、首吊り人が出たために空屋になったもので、家賃は十一円という安さであった。
ここに管野須賀子がころがりこんだのである。
*
ほんとうに同居したのは三月十八日のことだが、むろん須賀子はそれまでに何度か秋水に逢っている。
はじめて相見たのは、さきに述べたように前の年の八月の裁判の法廷においてであったが――釈放後かねて名をきいていた社会主義の巨頭のところへあいさつに来たのである。
秋水のほうも、その裁判ではじめて管野須賀子の名を耳にしたわけではなく、それ以前から、「毎夕新聞」という小さな新聞の婦人記者で、また、こんどの裁判で重禁錮一年六カ月の刑を受けた同志荒畑勝三の恋人であることを知っていた。
この須賀子を、秋水は自宅兼用の千駄ヶ谷平民社にいれたのだ。
妻に代って、食事、洗濯、掃除をしてくれるものが必要なほか、なみの客ではない客のあしらい、また秋水個人の仕事の助手も必要であった。何度か逢って、この女性ならと秋水が見ぬいたとおり、病身な千代子にはとうてい望み得なかったそれらの役を、須賀子は何とかこなしてくれた。
須賀子は、ひらべったい、口の大きな、どうみても美人には遠い顔だちなのに、ふしぎに妖艶《ようえん》の印象を与え、またあとで知ったことだが彼女もまた肺を病んでいるのに、奇妙に蒼白くけぶるような肉感があった。この明治四十二年、数え年で二十九歳となる。
秋水のほうは、年以上に老《ふ》けて見えるが、三十九歳であった。
二人の魂はやがて相寄った。肉体が結ばれたのは、汗ばむような初夏の夕《ゆうべ》であった。
ひそかにではあっても、ひとたび結ばれると、その男女の微妙な変化は外から、訪れる客にもわかるようになる。それ以後も二人は「先生」「管野さん」とおたがいを呼んではいたが、もともと大胆なところのある須賀子は、秋水に対する特別な親愛感をあらわに見せるようになった。
最初から、須賀子の同居を変な眼で見ていた同志たちは、やがてごうごうたる非難の声をあげはじめた。特に須賀子が、いま監獄にいる荒畑勝三の恋人であったというにおいてをやだ。直接|面詰《めんきつ》した者もあり、手紙で絶交を申しこんで来た者もあり、訪れる者はみるみる減った。
この風あたりの中に、秋水は昂然《こうぜん》と頭をあげて弁明し、ひらきなおった。
うわさをきいて、心配して、「あまり人に笑われぬようにせよ」という故郷の母からの手紙に彼は答えている。
「これまで何の関係もないときから、世間からはいろいろ評判をたてられ悪口も言われましたが、かえってそれがために本当の関係を生ずるようになったのです」
また、このゴシップを小説にした作家|上司《かみつかさ》小剣に彼はいう。
「僕は管野との関係を問わるれば、別に隠す気もないが、進んで公表する義務もないので今日まで過ぎたのだが、とにかく愛しているにはちがいない、それが気にいらなくて絶交されればしかたがない」
一方で、須賀子はこんな歌を作っていた。
今日もまた沈黙《しじま》の人の恐ろしき
一つの力はぐくみてあり
わが心そと奪ひゆきなほ足らで
さらに空虚《うつろ》を責めたまふかな
恋のひとときに恍惚《こうこつ》としている女の歌だ。
が、管野須賀子は、ひたすら恋に酔いしれているだけの女ではなかった。須賀子は彼女の信じる「革命」を忘れてはいなかった。彼女は、秋水が見ぬいた以上に勇敢きわまる闘士であった。
事実――千駄ヶ谷に来てから当局の監視の眼をくぐって出した「自由思想」という四ページのパンフレットが見つかって、新聞紙法違反として発行禁止となり、その発行人兼編集人の名義が管野須賀子となっていたために、七月十日に逮捕された。
そのとき病臥して絶食状態にあった彼女は、にいっと笑って拘引されてゆき、九月一日まで市ヶ谷監獄の未決監にいれられていたのである。
須賀子は、その檻室は四帖半に、女十四、五人という状態であったと語っている。おまけに南京《なんきん》虫がウヨウヨしていたが、南京虫より悩まされたのは、取調べの検事や係りの巡査たちの残忍下劣きわまる取扱いであった。
九月一日、罰金四百円をいいわたされて仮釈放された。
彼女は意気屈せず、かえって権力への復讐の鬼となって出て来た。
そして、秋水もたじろぐような怖るべき計画の推進者となるのである。
*
まばらになったそのころの訪問者の中に、秋水と須賀子とのスキャンダルなど眼中にないかのような数人の男たちがいた。
いちばんよく出入りしたのは、新村《にいむら》忠雄という信州|屋代《やしろ》町出身の、ことし数えで二十三になる青年と、古河力作《ふるかわりきさく》という福井県生まれの二十六になる男であった。
新村は少年期から「平民新聞」などを読んで社会主義に共鳴し、浅草の従兄《いとこ》をたよりに上京したのち幸徳のもとへ出入りするようになり、幸徳が千駄ヶ谷へ引っ越す前後、坂本清馬と代りばんこのようにしばらく居候《いそうろう》をしていたこともある。銀ぶちの眼鏡をかけ、さくら色の頬をした美青年で、笑うとその頬に愛嬌のあるえくぼが出来た。性質は陽性で、相手かまわず怪気焔をあげるくせがあり、調子がよすぎて軽率オッチョコチョイと見える場合もあるが、とにかくどうしてこんな若者が殺気ただよう幸徳のそばへ寄ってきたのか、ふしぎなような青年であった。
殺気ただようといえば、古河力作こそ満身殺気にみちた男で、その満身の背丈《せたけ》というとわずかに一メートル二十センチ、という短躯《たんく》であった。だからふだん、朴歯《ほおば》の高下駄をはいていた。身体も小さくまるいが、顔も童児みたいにまるく、それにまんまるい眼鏡をかけている。はやくから上京して滝野川の植木屋にやとわれている身分だが、これまた社会主義に熱中して、「平民社」に出入りするようになった。この童顔の小人はしかし、無鉄砲なくらい大胆な気性の持主で、いっとき短刀をふところに時の桂首相を狙《ねら》って歩いたことさえある。
この二人は、秋水が書斎で執筆していると、別の部屋で須賀子と何時間も話しこんで、ときには秋水とは逢わずに帰るほどの日常的な親密さであった。
ここに、これほどひんぱんではなく、秋水と数回逢っただけだが、彼の運命に間接直接に致命的な影響を与えた二人の人間がいる。
一人は、箱根|大平台《おおひらだい》の林泉寺の内山愚童という三十六の禅僧で、これがやはり「平民新聞」に心動かされ、秋水にも二、三度逢いにきたが、そのうち不敵にも寺に印刷機械を運びこみ、革命鼓吹の秘密パンフレットを作りはじめた。
「なぜにお前は貧乏する
わけを知らずば聞かしょうか
天子金持大地主
人の血を吸うダニがおる」
などいう歌や、
「今の政府や親玉たる天子というのは、諸君が小学校の教師などよりだまされておるような、神の子でも何でもないのである。今の天子の先祖は、九州の隅から出て、人殺しや強盗をして、同じ泥棒仲間のナガスネヒコなどを亡ぼした、いわば熊坂長範や酒呑《しゆてん》童子の成功したものである」
などという文章を印刷したもので、これを「平民新聞」から借り出した読者名簿を参考にして発送した。むろん差出人の名は記さず、ただ受けとった人々が民衆に散布してくれることを期待したのである。
ところが、期待に反して、受けとった人々の大半は戦慄し、あわてて焼きすてるか、警察にとどけた。彼らはみな自分たちに警察の眼がそそがれていることを承知していたのだ。――実は秋水自身、愚童からその配布を依頼されたのだが、それをことわったくらいである。
果せるかな、内山愚童自身が、探知されてつかまった。明治四十二年五月のことだ。
しかし、この時点では警察もまだ知らなかったが、ひとすじの煙も立てず消えたかと見えた愚童の秘密パンフレットは、ただ一人、ダイナマイトのような人間の手にはいって、それが炎をあげはじめていたのである。
甲府生まれだが、愛知県亀崎の鉄工場に勤めている宮下太吉という三十三歳の機械工で、そんな秘密出版物の送り先の対象になるくらいだから、以前から「平民新聞」の愛読者であったが、ただデモ行進をしたというだけで社会主義者たちを懲役に処した「赤旗裁判」への憤慨と、この内山愚童のアジテーションによって一挙に燃えあがり、ついに爆弾で天皇を倒そうと発想するに至った。
彼はこの二月上京して、当時まだ巣鴨にいた幸徳秋水を訪れ、遠まわしながらこの志を打ちあけ、秋水の意見をきいた。
宮下は、たくましい、にが味ばしった男ぶりで、まるで風呂からあがったような皮膚をしていたが、性格も火のような熱血漢に見えた。
秋水はこの途方もない相談に、どこかウワの空で、
「あるいは将来、そんなことをやる人間も必要だろうが。……」
と、よくいえば用心深い、宮下から見れば歯切れの悪い返答をしただけであった。
秋水はそのころ、「平民社」の引っ越しや、妻の千代子を去らせる身辺の雑事に忙殺されていたことを、まもなく宮下は知る。
しかし、当時「平民社」に同居していた新村忠雄に話すと、これはたちまち元気よく賛成した。
六月になって、宮下は信州|明科《あかしな》の製材所へ職工長として転任することになり、そのときまた上京して、もういちど、さらにつっこんで秋水を打診した。秋水自身は依然賛成とも反対ともいわなかったが、このときはそばで、下獄前の管野須賀子も聞いていた。
こうして信州へゆき、明科の酒屋に部屋を借りて製材所に勤めた宮下太吉は、一方で爆弾製造にとりかかった。
爆弾の作り方は、秋水との手紙のやりとりで、その昔自由党に籍をおいたこともある秋水が、自由党の大先輩奥宮|健之《けんし》から聞いたことを教えてくれた。
またこのころ新村忠雄は、秋水の紹介で前記紀州の新宮在住の医師大石誠之助の薬局に書生として移り住んでいたが、そこから塩酸カリ一ポンドを送ってもらい、また宮下みずから、鶏冠石、鋼鉄片、筒形の鑵などを入手した。
八月の末には、新宮でこんなことをやったあと新村が帰京して、また「平民社」に住みこんだ。九月一日には須賀子も未決監から仮釈放で出て来た。
宮下太吉がついに爆弾を作りあげたのは十月末のことで、十一月三日、明科の裏山でひそかにテストしてみたところ、彼自身が恐怖心にかられたほどの爆発を起した。爆弾製造は成功したのである。
こうして大破局《カタストロフイ》の明治四十三年が来る。
その元日の午前、前日信州から上京した宮下が千駄ヶ谷平民社にやって来て、ふところからブリキの筒をとり出して、秋水や新村に見せた。それは直径三・五センチ、長さ六、七センチくらいの空鑵であった。
「ほほう、こんなものが爆弾になるのか」
と、さすがに秋水は眼をまろくした。元旦というのに彼は、よごれたドテラに細帯をしめ、穴だらけの足袋《たび》をはいていた。
「どういう風に投げるのだ」
宮下は、前と後のふすまをあけて、三つの部屋を素通しにして、はしからはしへ投げて見せた。
ちょうど、そのとき徳利と盃を運んできた須賀子がこれを見て、自分もその通りにやって見た。
「私の予定では、ことし秋、観兵式か何かへゆく天皇の馬車にやって見ようと思うのです」
と、宮下が不敵な眉をあげていった。
秋水はしばらく黙っていたが、やがて、
「とにかく正月だ。それでも酒は買ってあるらしいな。きょうはお正月らしくチクと一杯やるとしよう」
と、笑ったが、そのひょうしに烈しくせきこみ、手拭いで口をおさえた。彼が肺に持っている痼疾《こしつ》が、去年の秋ごろからいちだんと病勢を深めていることはだれの眼にも明らかであった。
が、酒とともにその黄ばんだ頬が妖《あや》しいあからみをおびてくると、
「ことしの勅題は、たしか新年雪《しんねんのゆき》、だったな。それじゃガラにないが腰折れを一つ」
と、秋水はいい、笑みを浮かべて、
「爆弾の飛ぶよと見てし初夢は
千代田の松の雪折れの音」
と、口ずさんだ。
みんな笑って、拍手した。
この天皇に対して爆弾を投げるという破天荒な計画に対して、秋水の態度は晴れた日の雲のかげのように明滅したが、この日はこんな浮かれかたをした。そのためにみな、いま日なたに出たようにいっそうよろこんだのである。
「しかし、よくこんなものを番犬に見つからなかったもんだな」
と、秋水はあらためて表のほうをふりむいていった。
この千駄ヶ谷の平民社の前の空地には、このころ二つのテントが張られ、五、六人の巡査が常時つめていて、来訪者をいちいちつかまえて、住所、氏名、来意をたずね、それどころか懐中、たもとを改めるのはもとより、帯を解かせ足袋までぬがせて検査するというありさまだったからだ。
「いや、調べられたんです。この鑵も……先生の持薬をいれるんだといっておきましたがね。まさかこいつがあとで天皇を吹きとばす爆弾になろうとは、いかなる番犬どもも嗅《か》ぎつけられなかったようです」
と、宮下太吉は快笑した。
しかし、一月二十三日、古河力作が高下駄をはいてやってきて、須賀子や新村と話しこんだとき、何思ったか須賀子はこんなことをいった。
「先生はやはり筆の人だと思いますわ。爆弾を実行するのは、私たち四人にしましょう。先生は除外しましょう」
この日秋水は、身体の具合が悪くて書斎で寝ていた。須賀子らは、この計画をよく出入りする古河力作には打ち明け、予想通り大胆不敵な古河は、宮下をまだ見たこともないのに、たちまちその同志となることを約束したのだ。
「そのことは僕も考えていたんだ」
と、新村忠雄もすぐにうなずいた。
「実際の行為に、老人の参加は不必要だ。僕たち若いもの四人だけでやろうじゃないか。……今後先生には、この話から遠ざかってもらおう」
そして三人は、天皇の馬車に爆弾を投げるのは、一人だけでは成功率が低いから、両側から二人ずつ時間差をおいて襲撃することにしよう、という話をし、宮下をもふくめて四人の配置まで相談した。
三月下旬になって、秋水と須賀子は湯河原温泉へいって、しばらく滞在することになった。のんきな保養ではない。またそんな費用もない。
実は、若いころ新聞記者時代からの親友で、いまは政財界にも一応の地位を保っている三申《さんしん》・小泉策太郎が、秋水の病気と窮迫、そして彼に迫るただならぬ妖雲を案じて、彼に離脱と静養を与えるためにそうしてやったのである。一応「通俗日本戦国史」なる本を執筆させるという名目であった。
二人は湯河原の天野屋旅館に泊った。
温泉などへ来たのは須賀子にははじめてであったが、彼女はそれどころではないように見えた。
それも理由がある。前年の夏、起訴された「自由思想」の発行名義人として須賀子は四百円の罰金を命じられて仮釈放になったのだが、それを支払わなければ換金刑として百日の労役に服さなければならない。官吏の初任給が五十円のころの四百円である。そんな金が幸徳に、さかさにふっても無いことは、だれよりも彼女は知っていた。須賀子は服役の覚悟をきめたが、その入獄の期日が五月十八日と迫っていたのだ。
五月十七日、須賀子は秋水に別れを告げて上京した。「百日間、がまんしてくれ」と、秋水は暗然たる眼で見送ったが、停車場へゆく俥《くるま》の上で、真一文字に口をむすんだ須賀子の表情にウェットなものは何もなかった。
しかし、百日をまたず二人は再会することになる。ただしそれは大逆罪の法廷においてであった。
須賀子は入獄前夜を千駄ヶ谷の某家で過したが、その前の連絡で、古河力作も、信州屋代町の実家に帰っていた新村忠雄もわざわざ上京して来た。
そして彼ら三人は、例の天皇暗殺の爆弾の投擲《とうてき》者の順番のクジ引きをやった。不在の宮下太吉をふくめ、白いコヨリのクジは四本で、宮下の代わりに新村が二本ひいた。
第一の投弾予定者は管野須賀子、二番目が古河、三番目が新村、四番目が宮下ということになった。
須賀子は、これも肺を病んでいる蒼白い頬に、ぽっと美しい血の色をのぼせて笑った。
秋水と別れるとき、彼女の心にあったのは、別れの悲しさよりこのことであったかも知れない。――
実に、この大逆の計画の推進に最も熱烈であったのは管野須賀子であった。新村をさそい、古河をひきずりこんだのも彼女である。この時点において、なお古河は宮下と逢っていない。この身の毛もよだつ共同謀議の中心は管野須賀子なのであった。
*
元気者の宮下太吉は、「番犬ども」をなめすぎていた。
警察は、千駄ヶ谷平民社に出入するときのみならず、信州における彼の動静を――いや、彼がまだ愛知県の亀崎にいたころから、危険人物として見張っていたのだ。彼は信州明科の製材工場に転勤したのだが、この工場の仲間の一人は当局から命令を受けた警察官の息子であり、守衛の一人は元巡査であったとは。
それでも、さすがに宮下が明科の裏山で爆弾の実験をしたことまでは探知することができなかったが、前年彼が不審なブリキ鑵二十四個を注文して作らせたということを聞きこんだのが、この五月中旬のことだ。
早速宮下のところへ警官がいって訊問《じんもん》したところ、彼はそれは工場で使う釘や鋲《びよう》入れに使うものだ、と答えた。
一方また警察は、宮下と親しい製材所の朋輩清水市太郎なるものが、十数日前、宮下から何か大事なものを預かったらしい、といううわさを聞きこみ、この清水を取調べたところ、実に驚倒すべき自白を受けたのである。
それによると、清水が宮下から預かってくれと頼まれたのは二個の白木の箱で、その中には火薬がはいっている、これで爆弾を作って、この秋天皇を斃《たお》すのだ、お前も参加しないか、と笑いながらいわれ、恐怖のあまりことわることもできなかったが、とにかくそんなものは預かれない、製材所のどこかに隠しておいたほうがいいだろう、と答えた、というのであった。
ただちに製材所が捜査され、塩酸カリ、鶏冠石、その他の火薬原料をつめた容器が発見され、同日のうちに宮下が逮捕された。実に東京で管野須賀子らが、爆弾|投擲《とうてき》のクジをひいた一週間後である。
これが一世を震撼《しんかん》させたいわゆる「大逆事件」発覚のはじまりであった。
新村忠雄、古河力作をはじめ、一週間前「新聞紙法違反」で入獄したばかりの管野須賀子も、前年五月「出版法違反」でつかまって入獄中であった内山愚童も、あらためて大逆の俎上にのせられた。
秋水が上京の途次立ち寄った紀州新宮の医者大石誠之助も、秋水に爆弾の製法を教えた老壮士奥宮健之も、用途を知らずして爆弾材料をわたした者も、次から次へといもづるのように、その親族友人まで――いもづるではない、飛火のように、まったく無縁でも、ただ社会主義者というだけで、その後数カ月にわたって全国各地で検挙され、その総数は数百人に及んだ。
中でも気の毒であったのは、幸徳家にいちど書生をやっていた坂本清馬で、彼は宮下も古河も知らず、管野須賀子といれちがいのように、しかも秋水に離反して去った青年なのに、その後放浪中であったのを逮捕された。
――結局彼は、事前に幸徳家に居候をしていただけで、無期懲役の判決を受け、在獄二十五年、大正を越えて昭和九年に至ってやっと仮釈放されることになる。
以後彼が、昭和五十年、九十歳で死ぬ日まで、西へ走り東へ走って自分の無罪をさけびつづけ、最高裁に再審請求したことを記憶にとどめている人もあろうが、この大逆裁判が全体として政治的なデッチアゲであったことが白日のもとにさらされた昭和戦後に至っても、なお最高裁はこの再審請求を斥《しりぞ》け、坂本は一生を棒にふった恨みをのんだままこの世を去ったのである。
ましてや国家権力が最高潮に達した明治の末だ。司法は政治と一体となって、反体制者根絶の方針をたて、この事件を機に社会主義者を掃滅しようと決意していたのだ。その背後には、政治はもとより司法すら超越した大元老山県有朋の怖るべき鉄の意志があった。
権力側はすでに、社会主義者の巨魁《きよかい》は幸徳秋水という男だと見ている。
秋水が拘引されたのは、宮下が逮捕されてから一週間目の六月一日のことであった。
彼は湯河原で、専心原稿に筆を走らせていた。通俗戦国史などではなく、「基督《キリスト》抹殺論」という著述であった。
当時、「明治叛臣伝」の著者として知られる田岡|嶺雲《れいうん》が――実際に筆をとったのは弟子の田中|貢太郎《こうたろう》だが――やはり天野屋のとなりの部屋に滞在していたが、「信州で社会主義者を捕縛」という新聞記事を見て、「困ったことをしてくれた」と秋水がつぶやいたのを聞いたが、それはまだ例の「赤旗事件」などにも及ばぬ小さな記事で、まさか大逆につながるとは思わず、秋水もまたそれが自分につながる事件とは思っていなかったようだ、という印象を述べている。
六月一日、秋水は上京しようとした。そして旅館から人力俥で停車場へ向う途中、天なり命なり、彼を逮捕に来た検事、警察官一行の馬車とゆきあったのであった。
一応旅館に逆もどりさせられて、どこへゆこうとしていたのかという訊問に、秋水は、いま書いている著作が近く出来上るので、その出版元を求めるためだった、と答えた。
彼は東京へ連行された。
暑い夏の間、東京地方裁判所検事局で、秋霜の取調べがつづけられた。
八月に、日本は韓国を併合した。この明治四十三年夏、日本は外に帝国主義の鉄の足を踏みかけ、内に同じ鉄の足で反体制者群を踏みつぶしたのだ。
これが、日本が一つの大いなる坂をのぼりつめたときであった。西暦にすれば一九一〇年、以後、日本は次第に坂を下ってゆくのである。
*
予審における取調べに、当然、秋水は協力的というわけにはゆかなかった。それでも、十四回に及ぶ調書で、彼の反応はだいたい三段階に変った。
第一段階では、爆弾製造その他についての検事の追及を否認あるいは不得要領の返答をすることが多かった。これはその返答一つで同志を罪におとす怖れがあったのみならず、事実彼は、宮下らの陰謀から一歩離れていたと思っていたからだ。
しかし、そんなことでは通らなかった。第二段階では、さすがに狼狽《ろうばい》し、混乱した。
――逮捕以来、外部との連絡はいっさい絶たれていたが、検事の訊問内容からおびただしい人間が検挙されていることが判明し、それらの人々の自供から、自分のこれまでの過去の言動が酒談の片言隻句に至るまでつかまれていて、なまじな言いのがれは通用しないことを思い知らされたからだ。
しかも、それらの片言隻句は、検事の明らかな故意の誤解によって、怖るべき大陰謀の構築材料に使われていた。たとえば、自分が唱えた労働者の「直接行動」という言葉は戦術としてのストライキを意味していたのに、これがテロを指向したものだときめつけられたのだ。
そして、当局の構築した自分たちの大陰謀は「大逆罪」であることを秋水は知った。
刑法第七十三条。「天皇、太皇太后、皇后、皇太子|又《また》ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又《また》ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」――これを大逆罪という。
これには教唆《きようさ》犯や従犯はない。この罪にかかわるものは、すべて主犯で、しかも処刑は死刑ただ一つである。その上、この刑法第七十三条を裁くのは大審院(いまの最高裁)だけで、もはや上告の道はない。
秋水はまさしく自分が、この大逆罪の「天皇ニ対シ危害ヲ|加ヘントシタル者《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」にあてられていることを知った。
自分の法律的常識では、自分の言動程度では決してそれにあてられるものとは思われず、宮下、管野らにしてすらせいぜい「鉄砲火薬取締罰則違反」か「爆発物取締罰則違反」にあたるものとしか思われないが、権力側は強引に、「超法規」をもってしてもそれにあてようとしていることを知った。
ことここに至って、秋水の態度は平静なものにもどった。第三段階で秋水は、内山愚童、大石誠之助、奥宮健之ら関係者をかばい、宮下らの理論指導者は自分であると認め、かつ自分たちの立場について、「外に言論出版の自由を奪い、内には生活の糧道を絶つ政府の異常なまでの迫害に対する人間としての正当防衛である」と反論した。
この酷烈な予審を受けながら、彼は湯河原で書き残した「基督抹殺論」を書きあげている。
キリストは伝説の人物であり、聖書は文字通り神話である、としたこの著書は彼の独創ではないが、これを彼が彼なりに書いた意図に、キリストをもって日本のある存在を暗喩《あんゆ》しようとするものがあったことは明らかだ。
もともと彼は、神はなく、霊魂なるものもないとする師の兆民の宗教、生死についての唯物論の伝承者でもあった。
しかし、管野須賀子らから見れば、この裁判で、幸徳は真の罪なくしてただ首領のプライドにかけてあえてその罪をひっかぶった殉教者であり、権力側から見れば、八つ裂きにしても足りぬもののけのような叛逆の巨魁であった。
いずれにしても、死を前にした秋水の態度は、尊皇と天皇制批判と、正反対の位置にあるが、安政の大獄における吉田松陰と似ていないこともない。その孤高蕭殺たる痩躯《そうく》風貌も一脈の相似がある。
暑い夏の予審が終結し、霞ヶ関の大審院で大逆事件の第一回公判がひらかれた。この日十二月十日、一帯の霜枯れした柳並木の間は、おびただしい巡査の剣光帽影にうずめつくされていた。
結局、裁きの廷《にわ》にひき出されたのは、幸徳秋水を筆頭に二十四人であった。
その二十三人の同志の中に、秋水の眼はまず反射的に管野須賀子を探しあてた。
秋水との同棲中、ほとんど笑ったことのない須賀子が、にいっと笑った。
いかに恋愛しても彼女を美人と思ったことのない秋水も、この刹那《せつな》だけ、彼女を天来の美女と感じたのは、七カ月ぶりの再会のゆえであったろうか。それとも、裁くもの裁かれるもの男ばかりの殺気みなぎる法廷に、ただ一人浮かびあがった女性のゆえであったろうか。
秋水は胸の奥そこでつぶやいた。
「……おれをこんな運命にみちびいたのは、やはりあの女だった。……」
下半身の秋水
「万朝報」の若い記者だったころ、同僚であった作家斎藤緑雨と、酔余散歩中、秋水は恋愛論を交《かわ》したことがある。
「人間、境遇が変れば恋愛も変る」
というのが、緑雨の考えであった。たとえば、若い男女が愛し合うとする。その後、女は娼婦となる運命におちいる。何年かたって、この女のところへ昔の恋人が客として現われて、二人はまた愛し合うようになる。が、このときの恋は、昔の恋とはまったくちがったものだろうじゃないか。
これに対して、秋水はいった。
「そりゃ人間のすべては境遇で変るさ。しかし、その中で恋愛だけは変らんほうじゃないかね」
秋水は、恋愛に関してはロマンチストであった。――あたかも、思想についてもロマンチストであったごとくに。
しかし、現実の秋水と女性との関係はだいたいにおいてロマンチックとはいえなかった。むしろ荒涼たるものであった。
管野須賀子と同棲する直前に妻と離別したことはすでに記したが、それ以前に彼は、もう一人の妻と別れている。
その別れかたが、甚だ社会主義の巨頭らしくない。
*
もっとも緑雨との恋愛問答は明治三十二、三年ごろの話で、あのころはまだ巨頭でも何でもなく、新鋭の論説記者だったのだが――その数年前に彼は最初の妻をもらっている。
明治二十九年、秋水は二十六歳、花嫁は福島県|三春《みはる》のある士族の娘で朝子といい、十七歳であった。
仲人に写真は見せられたが、いざ祝言の席について、秋水は実物を見て驚いた。写真とはまるでちがうオカチメンコの花嫁であったからだ。
その夜、吉原に遊びにいった新聞社の同僚は、そこでベロベロに酔っぱらっている秋水を発見して、いぶかしい顔をした。今夜は秋水の結婚式だということをきいていたからだ。
どうしたんだ、と訊《き》く同僚に、秋水はにが笑いして、
「口直しにきたんだ」
と、いった。
しかしこの朝子は、学問はなかったけれど、素直で質朴で、新婚早々裸足でけんめいに働く女で、そのころ土佐から呼んでいっしょに暮していた母の多治子《たじこ》には大いに気にいられた。
ところが三カ月ほどたってから、秋水は朝子に、「ひとまず落着いたろうから、いちど三春に里帰りして親御さんを安心させておいで」と、いった。――そして、自分も上野停車場に送っていった。
ところが、夫の思いやりへの感謝と、しばしの別れの悲しさにしゃくりあげる妻をのせた汽車の煙が消えたあと、その足で秋水は、自分の職業上、原稿の清書くらいできることを期待したのだが――という、十七歳の妻に無情な落第点をつけた離縁状を、駅前のポストに投げこんだのである。
*
二番目の妻千代子を迎えたのは、明治三十二年夏のことだ。
ある知人の紹介によるもので、維新後、司法宗教関係の役人をしていた師岡正胤《もろおかまさたね》という人の末娘で、姉はすでに名古屋の裁判官にとついでいる。その父はこのとし一月に死去していたが、幕末、京の等持院の足利尊氏の木像の首を切って三条河原にさらした有名な事件の一味として知られた人だ。
さきほど述べたように、当時秋水は少々左がかった一介の記者というにすぎなかったとはいえ、この逆賊尊氏の木像を斬首した人物の娘を、後年逆賊の代表と呼ばれた男へ嫁入りさせたとは、そのときは仲人は夢にも知らなかったろう。
縁談がまとまったあと、秋水はこのことを親友の小泉三申に報告した。
「どうもおふくろが、早く嫁をもらえとせきたてて、うるさくてかなわんのでまた妻《さい》をもらうことにしたよ」
「そりゃよかった」
「何でも、英語もフランス語も出来、絵も書く、字もうまいというふれこみだがね」
「そりゃきさまの希望以上の才媛《さいえん》じゃないか。……しかし」
ふと三申は、心配そうな眼でながめやって、
「もう一つの希望のほうは大丈夫かね?」
「もう一つの希望とはなんだ」
「きさまはガラにもなく面食いじゃからね。この前は写真で失敗したといってたじゃないか。こんども写真だけか」
「いや、こんどは見合いをした」
「ほほう、美人だったかね」
秋水は少しあいまいな表情をした。
「美人らしかった」
「らしかったとはなんだ」
「見合いのとき、むこうはうつむいてばかりいたので、よくわからなかった。が、立ってゆくうしろ姿を見たら、スラリとして美人のようだった」
「きさま、馬鹿だな」
三申は笑い出した。
「おい、また失敗の覆轍《ふくてつ》を踏むなよ」
ところが、婚礼の当日である。その日、休みをとっていた秋水が、夕方新聞社へすっとんで来て、三申を呼び出して、これから吉原へゆこうという。
「どうしたんだ。きょうはきさま、婚礼のはずじゃないか」
「それが大失敗だ。きさまの予言的中して、また覆轍を踏んでしまった」
「へーっ、美人じゃなかったのか」
「とにかくこれから吉原へゆこう。三日くらい流連《いつづけ》したら、花嫁もおどろいて逃げ帰るだろう。三日とはいわない、今夜一晩つき合ってくれ」
小泉三申は呆《あき》れかえった。
結婚の初夜というとよく吉原へゆきたがる男だ。――と、可笑《おか》しくなったが、笑っておれる事態ではないので、
「こら、きさまはそれでいいとして、相手はどうするのだ。それより、おふくろさんの体面をどうするのだ。嫁さんと二人だけになって、おふくろさんはいまごろ居ても立ってもおられまい。先妻の一件で泣かせて、こんどまた泣かせて、きさま、親不孝が過ぎるぞ!」
と、叱りつけた。
結局吉原行きはやめて、近くの小料理屋で飲むことにしたものの、その料理屋で泥酔しきった秋水を俥にのせて、三申はその夜おそく彼を家まで送りとどけてやった。
いったいに秋水は、そのころはよく酔い、酒にはむしろ弱いたちなのに、トコトンまで酔わずにはすまなかった。吉原へもよくいった。虐げられた人々のために論陣を張る男が熱心に女郎買いをして、べつにふしぎには感じなかったのだ。酔うては枕す美人のひざ――という維新の志士たちの伝統を彼はついでいた。だいいち、だれより彼の敬愛した師の兆民がこういう行状において奔放|不羈《ふき》な人物であったのだ。
秋水が緑雨に例の恋愛観を披瀝《ひれき》したのはこの結婚の前後のことだが、前にしろあとにしろ、いずれにせよ二度目の妻も、彼の夢みる恋愛の範囲外にあった。
この千代子を、彼は結局十年妻とすることになる。
しかし千代子は、人並以上に美人好みの秋水の気にいらなかっただけで、それほど不美人ではなかった。ただ、一応の家柄に生まれ、なみの女性以上の教養を持ちながら、ふしあわせに生まれついたように寂しい顔立ちをしていた。
実際に彼女はふしあわせであった。それは彼女自身の至らなさがまねいたものというより、明らかに秋水の妻となったことによる。
第一にその夫が世に叛《そむ》いた人間であるがために、生活は窮乏のかぎりをつくした。それでも彼女は、自分の育ちとは正反対の夫の思想や行動を悲しげな眼で見まもるだけで、黙々と貧しい生活に耐えた。
すでに、結婚した年の暮の日記に、「積陰|暗澹《あんたん》、年まさに暮れんとして嚢中《のうちゆう》一銭なし」と、秋水自身が書いている。母があまりこぼすので、心みだれて原稿が書けず、冷酒をあおって高言し、社に出かけたが乱酔していてだれも相手になってくれず、俥で家に送り返される。
「又妻を拉《らつ》して出《い》づ。酔歩|蹣跚《まんさん》八官町の川島に至りて又飲む。夜に入りて雨蕭々たり。十二時に至り泥濘《でいねい》を歩して帰る」
飲み代は借りにきまっている。おそらく夫婦とも全身雨にぬれ泥まみれになっていたであろう。彼みずから「不孝の子、不仁の夫なり」と、白状している。
これは秋水の日常が兆民気どりで、まったくズボラで無計算であったための悶着《もんちやく》であったが、やがて彼が叛者の位置をたかめてくるにつれて、迫害による窮迫が加わる。
右のような、泥酔の夫を介抱しながら、もつれあって歩くなどという騒ぎは、妻としてまだしもの経験であったのだ。千代子の不幸の第二は、ふだん夫が彼女にまったく情愛を示さなかったことであった。彼は彼女に、離縁しないのは母を心配させたくないためだけだ、と放言した。また、自分の思想や行動に理解がない、と彼女を叱った。
こういう十年の夫婦生活の果てに、ついに秋水は、彼女が「革命家の妻にふさわしくない」という理由で、その姉に前に記したような手紙とともに強引に送り放《はな》つのである。
妹が危険人物の妻となっていることに懊悩《おうのう》していた裁判官夫人の姉は、これでほっとする反面、いまさらのような幸徳の言い分と仕打ちに怒って、妹を裸同然で追い出した、と責めた。まったくその通りであった。
これが明治四十二年三月のことで、それから二十日足らずのうちに秋水は、管野須賀子を招きいれたのだ。
*
その前年八月、秋水が土佐から上京し、翌年一月、夫を追って千代子が上京するまで、五カ月ほどの間、秋水は独身で暮していたわけだが、この間に彼はおかしげな下半身のトラブルを起している。
彼は郷里で飜訳した「麺麭《パン》の略取」を印刷してくれるところを見つけるのに苦労したあげく、やっと「秀英社」という印刷所で秘密出版したのだが、このとき協力してくれた印刷所の校正係りに岡野辰之助という男がいた。これは秋水を尊敬する社会主義者であったが、男世帯では先生も何かと不便だろう、と、自分の妹を家事手伝いとして住みこませたのである。
秋水が独り身の生活をしているのを知って、箱根の怪僧愚童は、秋水身辺のある同志に、この冬こんな悪謔の手紙を送っている。
「大塚の老人は凍りついているだろう。君たちからも勧めて、千代子姉を迎えるようにしたまえ。何でも動物は摩擦をやらなければだめだ」
和尚が心配することはなかった。
この小娘に「大塚の老人」――これは巣鴨のまちがいだろう――秋水は手を出して、いささか摩擦してやっていたのである。
このことを知って兄の岡野は逆上し、すぐに妹をひきとって郷里の茨城へ送り返したあと、酒気をおびて、まだ半分残った一升徳利をふりまわしてあばれこんで来た。
「この野郎、ひとの親切を逆手《さかて》にとりやがって、何が麺麭《パン》の略取だ、娘の略取じゃあねえか。もう先生とはいわねえ、やいっ、幸徳っ、この徳利がわれるかきさまの頭がわれるか、ぶったたいて調べてやるから覚悟しろ!」
たまたま幸徳家を訪れていたほかの社会主義者がこれを必死におしへだてたが、岡野の憤慨はおさまらず、土佐の千代子にこのことを曝露《ばくろ》した手紙を送った。
千代子が病身をおして上京して来たのはそのためもあるが、彼女を待っていたのは、さらに大いなる敵――「魔女」管野須賀子であった。
いや、千代子はその敵の姿を見ることもできなかったのである。
*
千代子が上京して来たとき、秋水の家には書生として例の坂本清馬がいた。いたけれど、これが家事にはまったく不向きな青年なので、みるにみかねて岡野が妹を手伝いによこしたのである。
この坂本清馬は、秋水をしたってころがりこんで、危険な「麺麭《パン》の略取」の発行名義人をあえて引受けたくらい勇敢だが、一方で異常なくらい熱情的で、滑稽なほど早合点で、きちがいじみたかんしゃくもちで、そして怒ると真っ赤にふくれあがって悪鬼のごとく飯を八杯食うという厄介な居候《いそうろう》であった。
こんな珍事件がある。
「赤旗事件」のカンパだといって、秋水のところへ若干の金を送って来たものがあった。宮崎県の太田清子という差出人だ。坂本は感激して礼状を送り、向うから返事が来、何回か手紙のやりとりをしているうち、ついに坂本は恋文を――それも一日に二通も三通も書いて送るようになり、はては結婚を申しこんだ。すると向うから、まことに申しわけないが、あなたの熱情にまけてついだます結果になったが、私は男です、という当惑した手紙とともに、背広を着た男の写真が送られて来た。坂本はひっくりかえって驚いた。
この話をきいて、管野須賀子は、
「これがほんとのプラトニック・ラヴね」
と、笑った。――
そのころ彼女は、柏木のやはり同志の女友達のところに身を寄せていたが、秋水にあいさつに来てから何度か平民社に姿を見せるようになり、坂本清馬も逆にしばしば須賀子のところへ遊びにゆくようになっていたのだ。
ところが、二月にはいって間もなくであった。
坂本は秋水に呼びつけられた。上京して間もない千代子は、リューマチで奥で寝ていた。
「君はこのごろひどく煩悶しているようだが」
と、秋水は光る眼でいった。
「ひょっとすると、管野君に惚れたのではないか」
坂本は鉄丸をのんだような表情をしたあと、それを吐き出すように、
「そんな、馬鹿な!」
と、うなった。
「そうか。それならいいが……君も知っているように管野君は、赤旗事件でいま牢にはいっている荒畑勝三君の恋人だ。細君といっていい。もし万一のまちがいがあったら、君の面倒をみている僕が同志に対して顔むけならんことになる。注意したまえ」
「先生……先生は……先生だけは、私という人間を知ってて下さるだろうと思っていたのに……」
と、坂本はうめき、大粒の涙をポロポロこぼしたが、次の瞬間、真っ赤になった。ふだん怒ったときの三倍くらいにふくれあがった。
「革命家が、同志に対してそんな邪推をするのか!」
と、彼は怒号した。例の逆上癖が狂的爆発を起したのだ。
「もうこんなところにいてやらん。きさまが革命をやるかおれが革命をやるか、将来見ておれ!」
いままでの先生をきさま呼ばわりして、坂本は猛獣みたいに平民社を飛び出した。
頭から湯気をたて、眼をすえて往来を歩いてゆくと、うしろから秋水が追って来て、
「どこへゆくんだ」
と、声をかけた。
「管野さんのところへ相談に」
「それじゃ僕もゆこう」
坂本は応答につまって、ただ砂けぶりをたてて歩いた。そのあとを秋水が追う。坂本がふりむいて白い眼をむけると、秋水は立ちどまるが、またついて来る。――ほんのさっきまで師弟の仲であった人間同士の、口一つきかない喜劇的道中がつづいた。
柏木の目的の家の前につくと、秋水が急に足早に近づいて来て、
「ちょっと、僕を先にゆかせてくれ」
と、いって、つかつかと家の中にはいっていった。坂本は須賀子に相談にゆくといったが、実は何をどういっていいか自分でもわからず、それよりただあっけにとられて、丸太ン棒みたいに外につっ立ったきりであった。
二十分ばかりして、秋水が出て来たが、坂本には知らん顔して去っていった。
やがて、しゃなりしゃなりと須賀子が出て来た。
「坂本さん、先生といま何かあったようだけど……あなたとあまり親しくすると誤解されるから、これからそのつもりでおつき合いしましょう」
と、彼女は笑いながらいい、
「先生がこれをあなたに……当分の生活費にやれといって置いておゆきになったわ」
と、金をおしつけた。三十円あった。
坂本清馬は放心状態でこれを受けとった。
そしてこれから彼は、一宿一飯の旅人《たびにん》のように全国各地の同志を訪ね歩く放浪の旅に出るのだが、これがのちに当局から、坂本清馬は幸徳から軍資金を領して、大逆参加の決死の士を募集に出かけたという疑いをかけられるのである。
とにかく秋水は、これで坂本を追いはらった。
ついで、前に述べたように、妻の千代子も追い出した。「革命家の妻らしくない」という理由は、それはそうにちがいないが、十年目に持ち出すなど、まったく苦しまぎれの言いがかりだ。
千代子が去ったのが三月一日のことで、十八日には管野須賀子が同棲することになる。
*
偶然ではない。
秋水は一目見たときから須賀子に愛を――もっとはっきりいえば、肉欲をおぼえていた。
そのために、強引に「邪魔者」を消したのである。そして千駄ヶ谷に居を移し、そのころ居候をしたり出ていったりしていた新村忠雄を紀州に追いはらった。
須賀子がその引っ越しと同時に千駄ヶ谷の家にはいったのは三月十八日のことだが、二人が結ばれたのは五月下旬のことであった。それまで、同棲はしたものの、さすがに秋水にブレーキをかけるものがあったのだ。
しかしあとで故郷の母に、「世間がいろいろ評判をたて、悪口をいうから、かえってそのために二人が結ばれた」と弁解したのは、なりゆきを見ていない遠い母に対してのごまかしの言いのがれだ。
彼にブレーキをかけたのは、むろんその世間の評判や悪口であった。なかんずく同志の指弾で、その指弾はいうまでもなく須賀子が入獄中の荒畑勝三の事実上の妻であることから発するもので、それは事前に予想されたものであった。
事実彼自身このことを口にして、坂本清馬を叱責し、追放したのである。
どの面《つら》下げて――と、自分でも思う。が、その自制、羞恥も二タ月くらいしかもたなかった。
ほんとうのところは、坂本に説教したころから、秋水は自分のいっていることにウワの空であったのだ。
すべては須賀子に魅せられたのである。
世には、決して美人ではない、一つ一つの造作を見ればむしろその反対かも知れない女性で、ありきたりの美人以上に性的魅力をしたたらせている女性があるが、管野須賀子はまさしくその種の女であった。
彼女の夫であった荒畑はのちにいう。「彼女は色こそ白かったがいわゆる盤台面《ばんだいづら》で鼻は低く、どうひいき目に見ても美人というには遠かったが、それにもかかわらず身辺つねに一種の艶冶《えんや》な色気をただよわせていた。実にふしぎな魔力を持っていた」
秋水が須賀子を知ったときは、「毎夕新聞」の婦人記者、または社会主義の珍しい女闘士としてであった。
ところが彼女は、世の常ならぬ過去を持つ女であったのだ。
管野須賀子は大阪の鉱山師《やまし》の娘として生まれたが、幼いとき母が死に、継母が来た。十六のとき荒々しい鉱夫に凌辱《りようじよく》されたが、そのとき男は「お前のおふくろにたのまれたんや」と、嘲笑《あざわら》った。半裸になって帰った須賀子は、自分を迎えた継母のうす笑いを見て、暴行者の言葉がほんとうであることを知った。継母は彼女をあばずれ娘にして家から追い出そうとしたのである。
その後須賀子は自棄的にいちどある職人といっしょになったが、すぐにそこを飛び出して家に帰った。
そのころ父親は中風で半身不随となり、それでも酒のサカナにぜいたくをいう癖はやまなかった。継母はいなくなっていた。残された幼い弟や妹をかかえて彼女は苦闘した。
こんな境涯に生きながら、須賀子はふしぎに知的なもの、精神的なものを求める性向があった。彼女はよく読書し、歌から小説まで作ろうとした。二十歳《はたち》ごろ彼女は、そのころ大阪で有名な宇田川文海という老作家のところへ下女をかねて弟子入りした。すると、「大阪朝日新聞」に、「勤皇佐幕・巷説|二葉《ふたば》松」などいう小説を連載したこともあるこの文海は、たちまち彼女を犯したのである。
以来須賀子はすてばちになり、いろいろな男に身をまかせた。二十代前半の彼女は、闇黒の中で男たちにもてあそばれ、この世のどん底でのたうちまわっていたといっていい。
たまたまそのころ、「万朝報」の人生相談欄で、はからずも強姦された女性がその悩みを訴えたのに対し、当時その欄を担当していた堺利彦が、そんなことは路上で野犬にかまれたようなもので、本人には何の責任もない、不幸は早く忘れて明るく生きてゆくように、と答えた文章を読んで心打たれ、上京して堺に逢ったのだ。これが彼女が社会主義に眼を開くきっかけとなった。
そして堺の紹介で、紀州の「牟婁《むろ》新報」という地方新聞に記者の職を得ることができたのだが、やがてこの社主もまた彼女を犯したのである。
どうも管野須賀子は、彼女を見ると男はみんな犯したくなる女性であったらしい。
ところで、この紀州の新聞には、荒畑勝三という記者がいた。彼は年少のころから社会主義に魂をもやし、東京で週刊「平民新聞」の販売に働いたが、週刊「平民新聞」がつぶれたので、これまた堺の紹介でこの「牟婁新報」に職を得たもので、須賀子より六つ年下であった。須賀子はやがてこの若い記者と恋愛におちいった。
純情な荒畑は須賀子の官能美に魅せられ、一方、肉の世界以外に何かを求める須賀子は、清冽《せいれつ》な年少の社会主義者に吸引されたのだ。
そのうち荒畑は、「牟婁新報」に書く社会主義的文章が問題になり、また堺に呼ばれたこともあって、須賀子をつれて東京に帰り、日刊「平民新聞」の記者となり、やがて例の「赤旗事件」で牢屋にほうりこまれることになったのである。そして須賀子もまた赤旗を守って逮捕されるという憂目《うきめ》にあったのだ。
管野須賀子は、こういう経歴と、矛盾した二つの心を持つ女であった。
秋水が彼女に魅せられ、須賀子が秋水に吸引されたのも、荒畑と同じかたちであった。
秋水は、それまで二人の妻から性的満足を得たことがなかった。吉原にはよくいったものの、それは志士豪傑のならいによったもので、実際は女郎の商売の一対象としてあしらわれたに過ぎなかった。むしろ、小柄で、痩せていて、精力も強いとはいえない彼は、白ちゃけた朝になって、みじめな、うそ寒い心で遊廓からさまよい出るのを常とした。
ところが、須賀子はちがった。彼女は、過去の放縦な性の世界でおぼえた羞恥を知らない反応と、一方で偉大な首領に対する滅私の敬意を熔《と》かして白金の光をはなって燃えあがったのだ。
秋水はこんな女をはじめて知った。いや、こんな世界をはじめて知った。
明治四十二年の春から夏へ――忘我の日々の中に、秋水の胸には、それでも一つの影が這《は》い過ぎた。それは須賀子の情人荒畑勝三の顔であった。
「荒畑君にはすまんことになった」
と、秋水はいった。不安そうに須賀子をのぞきこんで、
「君はそうは思わんかね?」
須賀子は首をふった。
「私はあのひととフリー・ラヴをしていただけで、あのひとの妻だなんていちども思ったことはありませんわ。性格もちがうし、六つも私のほうが年上だし……それにあのひと、私の昔のことを気にして気にして、おしまいのころはケンカばかりしていたくらいですもの。……」
それでも秋水は気にかかり、数日後、別れるなら獄中の荒畑に手紙をやり、はっきり別れる返事をもらえ、と提案した。
須賀子はそうした。何日かたって、牢屋から荒畑の返事が来た。
「手紙の趣きよくわかりました。御相談とか何とかいうわけでなく、通知の形式なのですから、まことに返事のしようもないわけですが……僕はただここで、つつしんで秋水兄とあなたとの新家庭の円満幸福を祈るのみです」
秋水はこの手紙を、鬼の首でもとったようによろこんで吹聴《ふいちよう》した。
そして、須賀子との同棲以来彼を責めてやまない同志たちに、「須賀子は荒畑から絶縁状をもらった」と強弁した。
しかし、同志の反感は解けなかった。かつて坂本清馬が「自分は主義のためなら恋も捨てる」といったとき秋水は、「おれは絶世の美人と恋をしたら主義は捨てるよ」と揶揄《やゆ》したことがあるが、この挿話まで持ち出されて、「秋水は女に溺《おぼ》れてまさしく主義を捨てた」と罵られた。
須賀子は「妖婦」と呼ばれた。淫蕩な前半生を持つ女、獄中の恋人を裏切って捨てた女。そしてわれわれの指導者の気の毒な妻を追い出し、彼を堕落させた女。
この妖婦はしかし、四カ月ばかりのち、例の「自由思想」発行人として、牢へ、ニッコリ笑って曳《ひ》かれていったのである。
あとには、狐つきが落ちたような幸徳秋水が残された。
*
明治四十三年十二月十日にはじまった「大逆事件」公判は、ほとんど連日つづいて、わずか二十日後の十二月二十九日には結審した。公判とはいえ、社会の安寧秩序に害があるとして、一人の傍聴人も許さぬ秘密裁判であった。
弁護士の一人今村力三郎はいう。「裁判所が審理を急ぐこと奔馬のごとく、一の証人をすらこれを許さざりしは、予の最も遺憾とするところなり」
あとは判決を待つばかりであった。
背中の秋水
このとき秋水の心をとらえていたのは、裁判のなりゆきより、母のことだった。公判のはじまる前――十一月二十七日に面会に来た母の多治子である。
土佐中村の実家はすでに秋水が売り飛ばしたので、親戚に養われていた母は、六月に事件が発覚したのち、いちど往来で、「あれ見い、明智光秀の母が通りよる」という声を耳にして以来、一歩も外に出ないと聞いて、秋水は胸もふさがる思いがしていたが、十一月十日、接見禁止が解かれると、七十一の身で、何日もかかって土佐から出て来たのである。
逢ったのは、市ヶ谷監獄の面会所であった。「赤旗事件」で牢にはいったが、このときは出獄していた堺利彦が連れて来た。
一目見たときから、秋水は、ああ小さくなったな、と思った。小躯の秋水を生んだ多治子はもとから小さかったが、それがまるで掌《て》にも乗りそうにいよいよ小さくなっていたのだ。
母と子は、鉄網をへだてて、ただ顔を見合わせた。時間が経過した。
「お母さん……こんどのことは」
と、秋水がやっとわれにかえって、頭を下げた。
「僕の愚かさから起ったことで申しわけありません。ただ、一点の私利私欲に出たものでないことは信じて下さい」
老いた母はただうなずいた。
そのとき看守が、「時間です」といった。
秋水は決然としていった。
「もうお目にかかれないかも知れません」
「私もそう思って来たのだよ」
と、多治子はいった。
看守がまたうながすのを見て、秋水が、
「どうかおからだを御大切に」
と、いうと、多治子は、
「お前もシッカリしておいで」
と、答え、すぐ背を見せて、コトコトと看守のあとを追っていった。
これだけの問答を子と交《かわ》すために、母は土佐から出て来たのである。彼女はこの間、一粒の涙も見せなかった。
土佐に帰ってから、十二月六日、多治子は手紙で知人に東京での面会のことを知らせている。
「いつものとふり伝次郎はにこにこしてかわいいかおして出てきたかおが、私にはいまにもめの先にちらついてやつぱりみえており升《ます》よ。よるねてもやつぱりみえるよふでねへ。行《い》て会《お》うて、いいあんばいでした」
二十八日、すなわち結審の前日のことである。
閉廷後、弁護士の花井卓蔵と今村力三郎が立会い検事にたのみ、幸徳、管野に被告の友人堺利彦を逢わせてくれと依頼し、その用件をきかれた上で許可された。
それまでの法廷で、遠く離されていた秋水と須賀子は、この日、はじめてならんで、けげんな表情で弁護士たちと相対した。
花井卓蔵が咳ばらいしていった。
「まことにお気の毒ですが、幸徳君、けさ午前三時、お母さまが亡くなられました」
さすがに秋水の顔に衝撃が走った。
「堺君、電報をわたしたまえ」
堺利彦は、きょう来た電報を幸徳にわたした。秋水はそれを受けとったまま、堺の顔を凝視して、
「まさか、自殺したんじゃあるまいね?」
と、嗄《か》れた声できいた。
「電報には、肺炎により、と書いてあるが。……」
と、堺がいった。
幸徳も管野も、一語も発せず、うつむいて法廷の板敷をじっと見つめていた。
「幸徳君、管野君」
このとき、花井が突然大きな声で、
「お母さんはお許しになっているだろう。……握手したまえ」
と、いった。
その大声につりこまれ、反射的に秋水と須賀子は握手したが、蝋のような二人の頬がさっと紅潮した。……
秋水と須賀子のうわさをきいて、土佐から母が「人に笑われぬようにせよ」と叱って来たことを、花井弁護士らは聞いていたと見える。
三日たって、明治四十四年が来た。
市ヶ谷監獄の独房の中で、秋水は堺に次のような内容の手紙を書く。
「いよいよ四十四年の一月一日だ。鉄格子を見あげると青空が見える。火の気《け》のない監房は依然として陰気だ。畳も衣服も鉄のごとく凍っている。毛布を膝にあやうくうずくまり、今は世に亡き母をおもう。
母の死は僕にとってはむしろ意外ではなかった。意外でないだけになお苦しい。去る十一月末、兄《けい》が伴うて面会に来たときに、思うままに泣きもし語りもしてくれたなら、さほどにもなかったろうが、一滴の涙も落さぬまでに耐えていたつらさは、骨身にこたえたにちがいない」
書きながら、秋水の涙はいま手紙の上にしたたった。
「二十八日に花井君や今村君がその死を告げ知らせてくれたあと、仮監へ下りて来て弁当箱をとりあげると、急に胸が迫って来て数滴の熱涙が粥《かゆ》の上に落ちた」
秋水は公判の開始以来、例の持病の腸カタルで、監獄から持参した弁当まで粥にしてもらっていたのである。
彼には重大な疑惑があった。故郷からは、まちがいなく病死だと改めて伝えて来たが、別れてから一ト月後の母の死だ。あの冬の旅が、東京での生別も加えて、死に至るほど骨身にこたえたことはよくわかるけれど。――
「万万一、もし自殺したのなら、その理由は一つある。すなわち僕をして、せめてもの最後はいさぎよくせしめたい。生き残る母に心をひかれて、めめしく未練らしい態度に出でないようにとの慈悲にほかならないのだ。この理由においては、あるいは刃《やいば》に伏すことも薬を仰ぐこともなしかねない気質であった。
十七にして僕の家に嫁し、三十三歳にして寡婦《かふ》となり、残された十三と五つの女の子、七つと二つの男の子の四人の可憐な者のために固く再婚の勧《すす》めを拒んで、四十年間犠牲の生涯を送ったのだという、そのとき二歳の子が、すなわち天下第一不孝の子たる僕なのだ!
ああ、何事も運命なのだ。……
許してくれ。もう浮世に心残りはみじんもない。不孝の罪だけで、僕は万死に値するのだ」
「許して下さい」とは、堺への手紙だが、これは明らかに母への言葉であった。たとえ病死であろうと、自分が母を殺してしまったことにまちがいはない。
書きおえて、独房の鉄窓から冷たい蒼い空を見あげて、
「お母さん」
と、秋水は呼んだ。明けて四十一になる、口髭をはやし、やせこけたその顔を、「かわいい」と見たのは、その空から見下ろしている母の多治子だけであったろう。
*
運命――自分の叛逆者としての運命について、それはおれの性格から来たものか、それとも境遇からのものか、いままで何度か彼は考えこんだことがある。
かえりみれば、若年のころから反権力の道をたどって来たが、最初から特別の迫害を受ける境遇に生まれついたとも思われないから、それは自分の性格から発したものと一応は考えないわけにはゆかない。また、自分の社会主義思想にも確信がある。
にもかかわらず、彼は、自分のあまりにも凄惨な人生を招いたのは、自分の性格や思想ではない、それは自発的自動的なものではない、権力側の非常識な弾圧に対する被害者としての反撥、抵抗に過ぎない、つまり境遇が自分を叛逆者たらしめたのだ、と思うことがしばしばであった。
なるほど文章や演説や座談で、のちにこの大逆につながるものと認定された激越な言葉を吐いたことはある。しかしそれはあまりにも苛酷な当局の迫害に対する「人間としての正当防衛」で、予審で検事にそう答えたのは決して言いのがれではなく、本音だ、むしろ悲叫だ、と彼は思っていた。
自分の運命は受動的なものであったと考えるのは、いままでなんどか、叛逆者としての座をのがれようと苦悶した心理的体験があったからだ。
それは当然、牢にはいったり、八方ふさがりの窮地におちいったときが多かった。
すでに渡米前、巣鴨監獄に収容されたときに彼は告白している。
「巣鴨の夜ふけて、ほの暗き電燈の下に雨聴ける夜、眼前に髣髴《ほうふつ》す三十余年のこと、げに今までの吾のいかに小さく卑《いや》しかりしよ。……」
それまでの過去、社会主義と称しつつ、実際の自分が、いかに名を求め、人を嫉妬し、世を恨み、傲慢であったか――思いかえして彼は嫌悪にかられ、牢を出たらもはや一切を放擲《ほうてき》し、世事を断念し、山中にはいって著述するか、野に出て農民とともに耕《たがや》そう、と夢想した。
彼は若いころの師兆民の指摘を想い出し、あれは当っている、と思った。少くとも自分は行動的人間ではない。文筆をもって思想を伝道することを天命として生まれた人間だ、と自覚した。が――
「監獄の門を出ること一歩にして、我はふたたび煩悩、憤怒《ふんぬ》、傲慢の人となれり。元の小人となり、元の俗物となれり」
そして彼は、またも権力と悪戦苦闘する生活に返る。事は壮烈に似て、社会主義者たちの世界も、それはそれでやはり、喜怒、信疑、愛憎、褒貶《ほうへん》のひしめく人間世界であった。
しかし、この隠遁離脱の意思は、その後もいくども雲のように彼の胸中を去来し、特に二年前、管野須賀子が第一回目の未決収監から出て来た秋以降、完全に彼の全身をひたしてしまった。
彼の書くものはすべて出版禁止になった。筆以外に収入の道のない人間として、生活の窮乏は極限に達した。大げさではなく、餓死のおそれすらあった。さらに彼と須賀子の肺病は進行した。
あの愛欲は、双方の病体をおしての妖恋であったのだ。
須賀子は未決から出て来たが、秋水はすでに炎が燃えつきていることを感じた。須賀子は、入獄中のおぞましい記憶がよみがえるのか、なんどもひきつけを起して昏倒し、ヒステリー状態になった。おまけに、以前荒畑に盤台面――ひらべったい顔――と、からかわれたのを気にして、なんと隆鼻術をほどこした由であったが、このころになってそのパラフィンが溶けてきて、いよいよ彼女のヒステリーは昂進した。
その上、何より秋水をいためつけたのは、依然、須賀子との同棲を許さない同志の攻撃であった。
さすがの秋水も沈鬱とならざるを得ない。
書斎に影のように坐っている秋水をよそに、出獄した須賀子をはさんで、新村、古河らが何やらヒソヒソ密談していることが重なるようになった。
何やら――ではない。それが、あろうことか天皇爆殺という途方もない計画であることは彼も承知している。秋水自身、なんどか宮下から相談を受けたことがあるのだから。
これに対して彼は、あいまいな反応を示しただけであった。
表情には見せなかったが、最初宮下のもちかけた計画に、相当な衝撃を受けたことは事実である。一般から見て過激な社会主義を唱える彼も、天皇暗殺のことは脳中になかったからだ。漠然と、もし社会主義の世の中になったら、天皇は政治とは無関係の地位におくべきだ、くらいは考えたこともあるが、それよりはじめから意識的無意識的に、天皇のことは思考の外においていた。
「明治大帝」の姿は、思想を超えて、彼の胸の中に、やはり一種の神性をおびてそびえ立っていたのである。――内山愚童のパンフレットを一読したときは、その凶暴性と野卑性に不快を感じたほどだ。
天皇|弑虐《しいぎやく》――この四文字を宙にえがいただけでも、腹の底からやはり戦慄が気泡のようにたちのぼる。
これを行えば、罪九族に及ぶだろう。法による以前に、民衆によってだ。
すでに社会主義を唱えただけでも、一般には夢魔のような印象を与えている自分だ。いずれ刑死するだろう、ということはしばしば口にしたけれど、それは言論出版のことで拘禁されて、病んでいる自分は獄中で死ぬだろう、という予想で、天皇暗殺とはまったく次元を異にする。
だいいち、母はいま自分の苦闘を、それでも世のため人のためのものだ、と信じて、例の須賀子のことでも「人に笑われぬようにしろ」と叱って来たくらいだが、これが天皇弑虐などという罪に落ちたら、たちまち|のど《ヽヽ》をついて死ぬだろう。……
――しかし、と、秋水は考えた。
宮下らの発想にも一理ある。彼らをみちびいた自分の思想をギリギリつきつめてゆけば、やはり天皇抹殺につながるのではあるまいか?
最初に相談をもちかけられたとき、双手をあげて賛成しなかったにもかかわらず、その後爆弾の製造法を聞き出してやったり、時に昂奮して激越な言葉を吐いたりしたのは、その時点時点において、当局のしめつけに対する狂憤、あるいは自暴自棄となった痙攣《けいれん》的反応もあるが、根底においてやはり一つの共鳴があったからだ。
そしてまた、だれにもいわないが、彼が明確に反対しなかったことに、もう一つの理由があった。それはこの計画推進者の管野須賀子に対する迎合であった。
彼はいつのまにか須賀子がその企ての中心となり、若い連中が彼女をとりまくかたちになっているのが気にかかった。
いつであったか、同志の一人が、「管野さんはどんな男にも色目を使っているように見える」と笑っていったことがあった。それが須賀子の天性か、過去から来たものかよくわからないが、彼女がただエロチックな女だけでないことは自分は知っている。しかし、あの若い連中は、そんな須賀子にひかれてそのまわりに集まっているのではないか?
かつて坂本清馬にもその怖れがあって、のぼせ性の若者だけにいっそうの危険性が急迫したものに感じられて、否も応もなく追い出したのだが。――
実は秋水は、宮下、新村、古河らに全幅の信頼をおいてはいなかった。彼らは、自分をめぐる社会主義者たちの中の最も軽い兵卒たちにすぎない。
宮下は無謀な男だ。
――こんどの裁判ではじめて知ったことだ。宮下太吉が爆弾を作っていることが発覚したのは、宮下が爆弾の材料を製材所の同僚清水市太郎なる男にあずけようとしたことが端緒となったというが、宮下は実は清水の妻と姦通していて、その弱味から逆に清水を恐怖させるために、おれは天皇に投げる爆弾を作っているのだぞ、と威嚇《いかく》したという。まるで自爆行為としか思われないが、ひょっとしたら宮下自身、爆弾を作りながらみずから自爆を欲していたのかも知れない。……
そんな宮下太吉の「下半身」は知らなかったが、最初からこれは無謀な男だという印象はあった。
古河力作は、これも裁判で知ったことだが、彼らが爆弾|投擲《とうてき》の順番のクジビキをしたとき、一番が管野、二番が古河となったことについて、管野はこれから牢にゆくのだからどうなるかわからない、これは自分を最初の実行者に仕立てようとしたカラクリのクジではないか、と疑ったという。
ふだん大言壮語ばかりしているが、それは一寸法師のコンプレックスから来た反動で、あの高下駄をはいた小人が、中に女のような猜疑《さいぎ》心を持っていることは、これも最初から感じていた。……
そして新村忠雄は、ただロマンチックな革命の歌を鳥のようにさえずっている軽率な青二才に過ぎない。
――と思っていたのだが、さてこんどの裁判になると、この新村が捕縛者の中で目立って堂々として、怖れず屈せず検事に相対したというのだから人間とはわからないものだ。軽薄児と見えた新村の「背中」は、ほんものの志士であったのか。
これはあとになってからわかったことで、そのときは、
「こんな連中の立てた計画だ。どうせ途中で仲間われしたり、逃げ出したりするやつがあって立消えになってしまうだろう」
と、秋水は考えた。
ただ、気がかりなのは管野須賀子であった。
いまや秋水は、このエロチックな女が、火のような革命の魂をいだいていることを知っている。こんなふしぎな女性がほかにあるだろうか。外国は知らず、少くとも日本に前例はあるまい。――自分をひきつけたのは、断じて彼女の性的魅力だけでなく、この炎であった、と思う。
しかし、その炎は怖るべきものであった。
須賀子はやる。須賀子だけでもやる、と秋水は考え、身ぶるいした。
ただ一つの逃げ道は、彼らが実行を明治四十三年の秋と想定していることであった。まだ時間はある。それまでに何とかして計画を中止の方向へ持ってゆけるだろう。……
かつて、「いかなる憎悪、嘲罵、攻撃、迫害を受くるといえども、吾人は真理正義の命ずるところに従って信ずるところを言わざるべからず」と絶叫し、政府の弾圧と一般民衆の非難の嵐の中に、不撓《ふとう》不屈、凄壮不敵の面貌をさらしていた「首領」が、なんぞ知らん、天皇爆殺の計画にこれほどよろめいていようとは。
いや、そのことに気づいた者がある。須賀子だ。
須賀子はいった。
「先生は筆の人です。本を書いて伝道する人です。この計画を実行するのは私たち若い者にまかせて下さい。先生は離れて見守っていて下さい」
彼女の顔に軽蔑の色はなく、ひたすら真率《しんそつ》なまなざしであったのと、虚をつかれたこともあって、そのとき秋水は黙って相手を見つめていただけであったが、事実としてそれ以後、若い連中だけが話し合っているのを、書斎で座視しているだけになった。
須賀子の提案に、新村も古河もすぐ賛成したらしい。しかしこれ以後、秋水を見る彼らの眼には、心なしか、どこか軽蔑の色がただよっていたようだ。
それでいよいよ動揺して、書斎に坐ったまま、読まず、書かず、別室の密談のほうへ、落着かない顔でじいっと耳をすましている秋水であった。
湯河原ゆきがきまったのはそのころで、外の同志たちは、こんな計画は知らずして、これを秋水の「逃亡」といった。あきらかに逃亡であった。しかし秋水の湯河原ゆきは、自分はもとより、須賀子をその計画からひきはなすためであったのだ。
彼女さえひきはなせば、計画は瓦解する、と彼は信じた。
*
明治四十三年春、秋水と須賀子が湯河原へいったのは正確には三月二十二日のことだが、その一日から「朝日新聞」に漱石の「門」が連載されはじめている。
去年掲載された「それから」を秋水は読む余裕はなかったが、あとで新村から、主人公が友人の細君を奪う物語だと聞いて変な気がしたけれど、こんどは東京の山の手の奥の崖下に住む夫婦の話で、まだ筋はわからないなりに、清澄で暗いその筆致が、一日分読んでも心を落着かせるので、湯河原に来ても秋水は読み、また須賀子にも読むことをすすめたが、小説好きな須賀子が、こんどは受けつけなかった。
ここに来て、そんなものを読んでいる秋水の心情に――秋水は除外すると宣言したにもかかわらず――彼女は釈然としないらしかった。
須賀子は湯河原に来たことさえ気にいらないように見えた。
秋水は眼を伏せた。彼はこの小説のような静かな世界に住むことを、ここ数カ月ほど切実に欲したことはなかった。須賀子よ、この小説の中に出てくるお米《よね》のようなもの静かな女になってくれないか? と、祈るように考えることもあった。
五月半ばには、須賀子は百日の換金刑に服さなければならない。それまでの間に彼女を例の計画からひきはなさなければならない。が、自分の口から説得はできない。ただ湯河原の晩春の美しさの中に、荒々しい彼女の前半生を癒《いや》してやり、ふつうの女のやさしい心をとりもどしてやるよりほかには法はない。
一人の女を救えずして何が社会主義か、とさえ彼は考えた。
ちょうど「門」の物語が進んで、主人公は実は友人の妻を奪うという罪を犯し、その結果人目をしのぶ暮しに落ちた夫婦だということがわかって、秋水がこれはと鼻白んだとき、一通の手紙が来た。
秋水はこの湯河原が決して逃避の聖域ではなかったことを知った。手紙は、彼がその妻を奪った夫――かつての若い同志荒畑勝三からのものであった。
「赤旗事件」で入獄した荒畑は、一年半の懲役を終えて、この二月に出獄した。それから彼はあちこち放浪して歩いたが、その胸をやきただらせているのは、獄中の自分を裏切った管野須賀子と、彼女を奪った大先輩幸徳秋水への怒りであった。須賀子からの縁切状に対して、「秋水|兄《けい》とあなたとの新家庭の幸福を祈るのみ」と返事は書いたものの、思えば思うほど二人への痛憤やみがたく、ついにピストルを一挺《いつちよう》手にいれ、この五月九日湯河原へのりこんで来たというのだ。
しかるに偶然、その日の前夜、秋水と須賀子は所用あって東京に帰っていた。荒畑は二人を射殺して自分も自殺するつもりであったから、宿賃も帰りの汽車賃もなかった。ふり出した雨の中を小田原まで歩き、砂浜に出てピストルをひたいにあててみたが、湯河原での蹉跌《さてつ》が気をくじいて死にきれず、幽霊のように横浜の兄の家にたどりついた。
この一件で殺意の憑《つ》きものは落ちたが、しかし秋水兄と須賀子に対する悲憤はいまも変らない。――荒畑の手紙にはそうあった。
秋水は驚きつつ、彼に弁明の返事を書いた。
「……兄《けい》が雨の夜に、荒涼たる相州の海岸に坐して銃口を頭部にあてたと読んだときに、僕はおぼえず一滴の涙を浮かべた。
兄の僕に対する怒りも、恨みも、憎しみも無理はない。よし僕は兄を満足させるために甘んじて兄の銃口の餌食《えじき》となろう。
特にいまや僕の命も惜しからぬ命である。
去年の夏からこの恋愛のために多数の同志に憎まれ、見捨られ、ほとんど完膚なきまでに中傷されたと同時に、その筋の迫害でまったく衣食の道を断たれ、蔵書を売り、刀剣を売り、郷里の老母を住まわせていた家屋まで売り払い、百計つきてついにこの地に下宿するのやむなきに至った。
加うるに管野下獄以来、はげしいヒステリー症におちいって、一時は発狂したかと疑われたが、今なお依然として脳神経症の軽からぬ容態である。……」
荒畑はこれを読んで一応心打たれたが、また再読すればあまりに泣《な》き言《ごと》めき、湯河原の温泉宿滞在を百計つきての下宿など欺瞞《ぎまん》めいた表現も散見され、結局謝罪の言葉はどこにもないのに、さらに大爆発した手紙をふたたび幸徳に送った。
しかしまったくの偶然で荒畑は殺人者となる運命をまぬがれたのだが、それ以上に、そもそも「赤旗事件」で入獄していなければ、彼は百中百、あとの大逆罪に連坐していたにちがいないから、天は不可思議ないたずらで彼を救ったのだ。
荒畑はやがて社会主義の清冽孤高の大先達荒畑寒村として、昭和五十六年まで九十五歳の生命を保つ。
彼の手紙に秋水は打ちのめされたが、須賀子は一読一笑して、数日後には、二回目の入獄のために東京へ去る。そしてその夜爆弾投擲のクジビキなどやったのはすでに記した通りだ。
彼女の大逆の挙は成らなかったが、しかし秋水を大逆の座にひきずり寄せた。
検事の取調べ中、須賀子がいちばん懸命に力説したのは、「幸徳先生は関係ない」という一事であったという。
秋水自身、その運命をのがれようとしてアクセクしたのに、やっぱりその運命からのがれられなかったのだ。
六月一日、湯河原から上京しようとしたのは、本の出版元を探すためなどではなく、信州で宮下がつかまったという報道に、小さな記事ながら、そこにいるにいたたまれず、同志のだれかと相談しようと思い立ってさまよい出たのだが、時すでにおそく逮捕に来た連中の手にとらえられてしまったのだ。……
いま大逆の「首謀者」として鉄鎖につながれて、秋水は痛烈なにが笑いを浮かべずにはいられなかった。
「おれの性格でも境遇でもない。おれの運命を招いた手は、おれの運命だった。……」
*
大逆事件の判決が下ったのは、公判終結後、二十日目の明治四十四年一月十八日のことであった。
幸徳秋水以下二十四名、刑法七十三条の罪により死刑。
被告の一人飛松与次郎は書く。「裁判官の退廷の足音が――それもきわめて物静かな足音が、およそ音するものの終りであった。息をのむ音も聞えなかった。すべては空虚であった。そしてすばらしい充溢《じゆういつ》であった。凄愴を通りすぎていた。悲壮を飛び超えていた。惨絶とか荘厳とかを超越して、一切が尋常であった。雷のような沈黙であった。疾風《はやて》のような静けさであった」
突然、看守の手で編笠が、銀杏《いちよう》返しに結《ゆ》った被告管野須賀子の頭にのせられた。入廷の逆順に、彼女がいちばん先に法廷を去るのである。
須賀子は居合わせた弁護人たちに黙礼したのち、椅子を立った。白い手に手錠がはめられ、腰縄がかけられた。
出口のところで、彼女はふりかえり、手錠のままで編笠をとった。その背がすっと高くのびたように見えた。暗い法廷にその顔がまぶしいまでにかがやいた。彼女は透きとおるような声でさけんだ。
「みなさん、さようなら!」
一息おいて、内山愚童が錆《さび》のある声で答えた。
「ごきげんよう」
須賀子はふたたび笠をかぶせられ、小走りに出ていった。
突然、被告たちは両手をあげた。声は法廷にこだました。
「革命万歳! 万歳! 万歳!」
大脳旧皮質の秋水
翌十九日、天皇陛下の御仁慈により、その中《うち》なかばの十二名に対し、罪一等を減じて無期懲役に処する、という発表があった。その中に坂本清馬の名もあった。
桂内閣有松警保局長談話。
「惟《おも》うに彼らのごとき悪逆無道の徒も、この恩命《おんめい》を拝して必ずや御聖徳の大なるに感泣せしこと疑いなかるべし」
しかし、昭和戦後のみならず、すでに当時から、二十四名全員の大半は無罪だという声があった。
前年暮に「一握の砂」を刊行したばかりの二十六歳の石川啄木は友人への手紙にいう。
「宮下太吉を首領とする管野須賀子、新村忠雄、古河力作の四人だけは明白に七十三条の罪に当っていますが、自余の者の企ては、その性質に於《おい》て騒擾罪《そうじようざい》であり、しかもそれが意志の発動だけで予備行為に入っていないから、まだ犯罪を構成していないのです」
彼は、幸徳秋水すら罪にあたるものと見ていないのである。
十二人の減刑――といっても無期懲役だが――は「御聖徳」を売物にしようとする権力側の計算であった。秋水はその一月十九日に、友人堺利彦に最後の手紙を書く。
「まずは善人栄えて悪人滅ぶ。めでたしめでたしの大団円で、僕も重荷をおろしたようだ。これから数日間か数週間か知らないが、読めるだけ読み、書けるだけ書いて、そして元素に復帰するとしよう」
書きながら、ふっと秋水は宙に眼をあげた。法廷で、「さようなら!」と透きとおるような声でさけんだ、まぶしいまでにかがやいていた須賀子の顔が明滅したのである。
彼女も元素に帰るのか?
秋水の顔に動揺がゆらめいた。
おれをこんな運命にみちびいたのはおれの運命にちがいないが、強《し》いていえばやっぱりあの女だった、と、秋水は改めてつぶやかざるを得なかった。
しかし、須賀子を恨む心は露ほどもなかった。それは感謝の表白であった。この罪の座にひき出されたときからいままで、終始一貫して彼は須賀子に歓喜の讃歌をうたいつづけていたのである。
それは怖るべき地獄の恋歌であった。
*
「須賀子が最後の別れを告げたとき、向い合った二十三人の男の中におれがいなかったら、どんなにおれはやり切れなかったろう。
それだけの人数が連坐するとは思いもよらなかったが、しかし、発覚したら管野、宮下、新村、古河の四人だけは死をまぬがれまい、と予想はしていた。
須賀子を守って、あの三人の若僧どもだけが死ぬ。特に一寸法師の古河などよろこんでいるだろう。そんなことはがまんできない。
須賀子はおれに、おれだけに挨拶したのだ。おれもいっしょに死ぬのだ。あの、おれにとって世のいかなる美しい女よりもエロチックな女は、地獄でも貧相なおれといっしょにならんでいるのだ。歓喜、歓喜、なんたる大歓喜」
*
のちに弁護人今村力三郎はいう。
「秋水は、ひっきょう須賀子の狂的情熱に抱擁せられ、心身ともに焚《や》き尽《つく》されしなり」
ふたたび上半身の秋水
幸徳秋水は、「死刑の前」という文章を書きはじめた。結局人間の死とは、物質の化学的変化に過ぎない、という彼の持論の死生観による哲学であった。――須賀子はこの唯物論の外にある。
一月二十四日朝――刑の宣告からわずか六日目――独房にいれられた朝食に、特別に塩焼きの小鯛が膳にのっていたので、彼はその日が来たことを知った。
彼は鯛のにおいをかいだだけで残し、白湯《さゆ》をすすって、「死刑の前」の原稿をつづけ出した。
「今の私一個としては、その存廃を論ずるほどに死刑を重大視していない。……病死と横死と刑死とを問わず、死すべきときのひとたび来らば、充分の安心と満足とをもってこれに就《つ》きたいと思う。今やすなわちその時である。これ私の運命である」
そこまで書いたとき、廊下に靴音がして、刑の執行を告げられた。幸徳は、書きかけの原稿のしめくくりをつけたい、と願い出たが拒絶された。
沼波|教誨師《きようかいし》が、辞世ならいいでしょう、というと、幸徳はちらっと獄窓の外を見た。外は昨夜からの大雪で銀の世界であった。彼は皮肉な笑みを浮かべて、
「爆弾の飛ぶよと見てし初夢は
千代田の松の雪折れの音」
と、口ずさんだ。それは去年の元旦の爆弾の鑵投げ遊びの際に、たわむれに詠んだ歌であった。
その場から、市ヶ谷監獄の北隅にある刑場へ曳かれていったが、途中、教誨師に、
「僕はしかたないとしても、あと十一人の中には、どう考えても罪のない人々がいる。まことにお気の毒だが、たまたま同じ船に乗り合わせて、嵐に逢っていっしょに沈んでゆく、とでもあきらめてもらう外はないですな」
と、いった。
煙草を一服後、彼が絞首台に上ってゆく姿は「船長」らしく従容《しようよう》としたものであったが、あまりに従容としすぎて、ひょっとしたら彼は、強いて平気を|装うた《ヽヽヽ》のではあるまいか、と思われる印象であったと沼波教誨師は述べている。
判決において断じられた「国家の権力を破壊せんと欲せばまず元首を除くにしくはなし、となし、凶逆をたくましゅうせんと欲し、中道にして凶謀発覚したる」男の足下の落し板がガタンとひらいた。――午前八時六分。
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作者|後《あと》口上
「明治バベルの塔」
これは一種の暗号小説だと思いますが、あるカタカナの一団を組みかえて、それだけで二種類の文章を作るという作業には苦労しました。しかもその二つの文章が、どちらも、この小説に意味のあるものでなければならないのです(たとえば黒岩涙香の夫人が大友|清子《すがこ》というのは事実であります)。作中、涙香に、「まるで素手で空中から酸素と窒《ちつ》素をつかみ出すようなものだ」といわせていますが、しかしそういうバカバカしい苦労がまた面白くもあります。こういうアソビが好きな私には、自分の作品で、まあ好きな部類に属するかも知れません。
「牢屋の坊っちゃん」
漱石の「坊っちゃん」は松山であんなに大あばれして、その後は、「おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げた儘、清《きよ》や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれも余り嬉しかったからもう田舎へは行かない、東京で清やとうちを持つんだと言った。其後《そのご》ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ」とありますから、まずまず平穏な人生を送ったようで大慶の至りです。
しかし、あんな気ッぷの持主なら、まちがって牢にはいるような運命をたどる可能性もあります。もし「坊っちゃん」的人物が牢にはいったらどうしたろう? そういう空想に叶う人物が、「坊っちゃん」の物語と同時代に実在していました。日清戦争の講和談判で、清国全権|李鴻章《りこうしよう》を狙撃するという短絡的行為をして北海道の監獄に放りこまれた小山六之助という男です。
この物語の素材は、小山六之助自身の手記「活《いき》地獄」に得ました。
私はこれを漱石の「坊っちゃん」とそっくりの文体で書こうと試みました。
漱石のふつうの文体ならとても不可能だけれど、「坊っちゃん」の文体なら何とかまねられるだろう、と考えたのですが、いや文体摸写というのはむずかしいですね。どこか微妙にちがってくる。文体が微妙にちがう、ということは、まるっきりちがう、ということです。この作品の場合、一つ一つのセンテンスが原作にくらべて少しずつ長いようだ、とあとで気づきましたが、おそらくそれだけではないでしょう。
「いろは大王の火葬場」
いつのころからか、小説を書くときその参考にした文献を表示するならいが生じました。
おそらく参考にされた諸著の著者からの要求の結果だろうと思いますが、学問的著作なら知らず小説の場合、原著の特別のアイデアをそっくり盗用したり、非常識なほど長文を引用したりした場合はべつとして、私はそれは料理店で料理の材料や仕込み先をならべたてるようなものではないか、と首をひねっています。
ひとたび著書を世に出した以上、ただ参考にしただけという程度なら、それは黙認の許容範囲にはいるのではないか、と考えて、私は参考文献の羅列はごめんこうむっていますけれど、この作品の場合、雑誌に発表したとき珍らしく参考にした本をあげてあるので、次にこれを掲げて著者たちに謝意を表します。
伊藤整「日本文壇史」高橋雄豺「明治警察史研究」北荻三郎「いろはの人々」小沢信男「木村荘平」柳田泉「福地桜痴」東珠樹「岸田劉生」「新聞集成明治編年史」
これは、はからずも明治の一時期の小「人間臨終図巻」となりました。
「四分割秋水伝」
人間を四分割して描いてみよう、と思いたちました。
四分割とは、「上半身」「下半身」「背中」「大脳旧皮質」に、です。
「上半身」とは当人のタテマエです。当人が世にそう見せかけているタテマエの姿です
「下半身」とは、ふつうにはセックス面ですが、そればかりではなく、人間がもっとも弛緩凡俗《しかんぼんぞく》の姿を見せる家庭などにおける一面です。
「背中」は、彼の逆の反面です。人間は何かを思考するとき行動するとき、たいていはその反対の思考、行動を試みているものです。そして意外に、そのほうに彼の本音が見られるものではありますまいか。
そして「大脳|旧《きゆう》皮質」は、その本音以前の――彼自身も認めないもう一つの原始深部の声です。大脳についてはまだ不可解の分野が多いらしいのですが、一応ここでは大脳旧皮質という言葉をあてます。
さて、こんな風に四つの視点から見ると、同じ人間の同じ行動がまったく相異る相貌を呈するのです。いや、一つの皮袋にもともと分裂した数個体が棲んでいるようです。
そう考えて、まず明治天皇爆殺を計ったとされる幸徳秋水を俎上にあげました。私はこれについで、数十人の歴史上の有名人物を四分割して観察してゆくつもりでした。
ところが、秋水は大逆賊としてその生涯が完膚《かんぷ》なきまでに解剖されているので、ともかくもこのような作品とすることが可能だったのですが、さてあとがつづかない。「下半身」がわからないのです。「上半身」はもとより、「背中」や「大脳旧皮質」はこちらの想像、推理で書くことが可能ですが、その人間の「下半身」の真相だけは想像や推理で書くわけにはゆかない。
それにまた同一人の同じ行為を、繰返し繰返して書くという手法が、それがこの四分割の根本アイデアなのですが、果して読むほうに面白いかどうか、ということも疑問になって、この試みはいまのところただ幸徳秋水だけで終った次第です。
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明治暗黒星
一
剣士の物語は、たとえ実在した人物であっても誇張や美化をまぬがれがたいが、実際に、これほど流星のような、また落花のような壮絶な生涯はほかにあまりないのではないかと思われる剣客が一人ある。
伊庭《いば》八郎である。
伊庭家は、代々剣術をもって知られた。元禄年間に心形刀流《しんぎようとうりゆう》という新剣法を創始した伊庭|是水軒《ぜすいけん》以来、剣ひとすじに生きて来た旗本の家柄だ。
中でも有名なのは、その八代目にあたる幕末の伊庭軍兵衛である。江戸|御徒《おかち》町にあるその道場は荒修行をもって聞えた。――
天保年間の話だ。当時の風潮として、長羽織に細身の大小を落し差しなどという姿で道場に現われる旗本の子弟などがあると、軍兵衛はものもいわず、長剣一閃、その袴《はかま》のすそをひざのあたりで切って落したという。
またその門人中に、外に出て武勇をふるう者が多いという噂が高かったので、老中水野越前守が軍兵衛を呼んで注意を与えると、軍兵衛は憤然として、
「武士の粗暴は惰弱《だじやく》よりはマシでござる」
と、吐き出すようにいって座を起《た》ち、越前守を苦笑させたという。
伊庭八郎は、この軍兵衛の一子だ。記録によると、「容貌俊爽、白皙《はくせき》長身」とある。花のような美貌を持ちながら、剣においては伊庭家代々のうちいちばんの天才児ではないかといわれた。それが誇張でも美化でもない、ほんとうの話なのである。
後年明治三十二年九月十日、上野の東照宮社務所でひらかれた「旧幕府史談会」に出席した八郎の弟、想太郎《そうたろう》や、八郎の従者であった荒井鎌吉の語るところによれば。――
幕末、山岡鉄太郎の突きといえば、鉄砲突きといって剣客仲間に畏怖《いふ》されていたが、一日この山岡が八郎と立ち合った。鉄太郎の突きを八郎は飛燕のごとく二度までひっぱずし、三度目、こんどこそはと歯がみした山岡の電光の突きの走るところ、竹刀《しない》は道場の羽目板を突き破り、観る者を戦慄させた。しかも、またも軽がるとこれをかわした八郎は、鉄太郎が猛然とふりかえったとき、顔色も変えずあたりまえのことのようににこっと笑い、山岡を茫然とさせたという。
さて、この伊庭八郎は、明治元年、将軍親衛隊として鳥羽伏見の戦いに加わり、真っ先に敵に斬り込んだが、血戦中飛来した弾丸が腹部に命中した。ところが弾が鎧《よろい》にふせがれたため、気絶しただけで蘇生《そせい》した。彼の戦歴の第一である。
ついで江戸に帰り、将軍の降伏方針に抵抗して講武所の若手連中六十人ばかりとともに安房にたてこもったが、やがて船で伊豆にわたり、さらに沼津に蟠踞《ばんきよ》して官軍への反撃を計った。そのうちに江戸では彰義隊が起ったという知らせをきき、これと相呼応して箱根に進撃した。
むろん官軍の退路を絶つ、という雄大きわまる意図ではあったのだが、これはむちゃだ。もっともそれは箱根を守っていた小田原藩の蜂起をあてにしてのことであったが、果然、事はそうは問屋が卸さず、その小田原藩と官軍合わせての大軍とやり合う結果になった。
早雲寺の東、箱根官道と湯本路のわかれるところ、早川にかかった三枚橋という橋がある。ここにおける八郎の戦闘ぶりが有名で、何十人かの敵兵を斬ったなどという武勇譚もあるが、従者の荒井の話によれば、――
「この日の戦争は、朝の十時ごろからはじまり、灯ともしごろまでかかりました。日の暮れがたからして四方の山から敵の撃つことが烈しくなり、先生は腰を射たれ、尻もちをつかれましたが、そのとき、二、三人を斬り倒されました。手を斬られたのは三枚橋の上でした。戸板に乗せて引き揚げましたが、敵が下から烈しく撃ちかけますので、湯本の宿の両側に火をつけて逃げのぼり、夜の十二時ごろに峠に着きました。
その晩は畑の宿にゆき、林さん(幕臣林昌之助)のお医者が先生の腕首のブラブラしているのを切り落して血をとめ、縛りつけなどしました」
と、ある。語りかたに誇張はなく、それだけに死闘の凄じさをまざまざ思わせる。八郎はこのとき、三枚橋上の斬り合いで左の手首から先を失ったのである。彼の戦歴の第二である。
彼はそれから熱海へ落ちていって、漁船で品川に帰り、そこに碇泊していた幕艦朝日丸に収容された。このとき同じ戦闘に参加してさきに引き揚げていた幕臣の飯島半十郎という人がそれを見舞いにいったときの談話がある。
「朝日丸へ参りますと、伊庭八郎が蒼い顔をして、ヤリソクナッタ、手がこういうことになった、といいました。片手では力がはいらぬが、鉄砲があると申し、瓶《びん》など吊るして撃ち当てなどし、勇気は盛んなることでした。これからどうすると尋ねましたら、榎本の指図にまかせると申します。……」
これが五月のことであったが、九月ごろまで八郎は、御徒町の自宅に潜伏して、手の治療をつづけていた。負傷直後、手首を医者から切断されたのだが、どうも経過が思わしくないので、改めてまた別の医者に切り直させたのだが、麻薬がきかないにもかかわらず、痛いとは一句ももらさぬ剛情我慢ぶりには、みな舌を巻いたという。
この間、兄を見守っていた弟の想太郎は、こんなことを話している。
「兄の八郎が、敵に斬られながらその敵を斬り倒しましたときに、刀勢が余って岩を切ったそうです。刀は無銘です。兄は申しました。竹刀の勝負で考えるから、ほんとうに斬れるかと心配するが、実地にはなかなかよく斬れるもので、余勢で岩を切るくらいだ、と言いました。……年は二十五歳でした」
想太郎はこのときまだ十八歳であった。彼もまた剣の修行には熱心で、これらの戦いに参加しようと焦るのを、兄の八郎がかたく制して家にとどめ置いたものであった。右の三十二年後になっての語り口でも、当時傷ついて帰って来た兄の武勇譚を、眼をかがやかせて聞いていた少年の顔が見えるようである。
それより、想太郎の若い脳髄に強烈に印象されたのは、兄とその恋人の哀艶な或る姿であった。颯爽たる八郎が女にもてないはずはなかったが、誓い合ったのは柳橋のお貞《さだ》という芸者であった。
ふつうなら、芸者など入れる家庭ではない。想太郎も、兄の恋人にこんな女があったとは、そのときはじめて知ったのである。八郎が傷ついていることと、公然と表を出歩けないことと、それからまたもう一つの重大な理由で、彼女を家に呼んだらしい。
「ゆかないで下さいな、あなた」
座敷でお貞は、せぐりあげるようにいった。
「そんな姿になって……片手でどうしていくさが出来るんです」
「両手があったって同じさ。どうせ望みのないいくさだよ」
「そんないくさに、なぜゆくんです?」
「侍だからさ」
「侍だって……両手があるのに、はじめから逃げかくれしているお侍はいっぱいいます」
「そういう男が、おまえさん、好きかい?」
女は、片手をついて、あえぎながら、縁側に坐って片ひざをたてて草鞋《わらじ》をはいたりぬいだりしている八郎を見つめていた。その日にどこかへ旅立つというわけでもないが、彼は右腕一本だけで何とか緒《お》を結ぼうという練習をしていたのだ。
「伊庭の家ではね、こんなときにはこうするように教えて来たのさ、お貞、おれはゆくぜ」
いま、女を呼んだもう一つ重大な理由といったのがそれで、その日ではなかったが、遠からず八郎はまた江戸を脱出しようとしていたのだ。いや、江戸はもう東京という名に変ってしまったが、その東京の新政府と戦うために、北へ。――
蝉しぐれの中で、庭の夾竹桃《きようちくとう》のかげに想太郎はひそんで、これを見ていた。
「八郎さま……でも、あたしはどうなるの? これから、どうして生きてゆくの?」
「お貞」
八郎はふりかえった。涙にぬれつくしたお貞を見まもって、さすがにその声は沈んだ。
「おれのような男に惚れて、おめえ、運の悪い女だったなあ。……」
「いいえ、いいえ、いいえ! そんなことはないわ、そんなことは――」
「おれみてえな無茶な男のことはすっぱり忘れて、だれかいいひとを見つけて、なるべく倖せになってくれ。おれは蝦夷《えぞ》の草っぱのかげから――」
急に八郎は自分の言葉に照れたらしく、いきなりお貞をぐいと片手で抱き寄せて、唇を吸った。
蝉しぐれと夾竹桃の花の中で眺めている十八歳の想太郎の眼にも、それは哀切きわまりない抱擁の像であった。
九月半ば、伊庭八郎は、幕艦|三嘉保《みかほ》丸に身を投じて海へ出た。途中、嵐にあって難破し、銚子に吹きつけられて、船から陸へ怒涛《どとう》の中にふとい縄をつないで這いのぼるという離れわざで、そのまま波にさらわれて溺死する同志も多かったのに、片腕の八郎は何とかいのちを永らえた。
それから、僧形《そうぎよう》にさえ身をやつして、難行苦行の末、ついに北海道にわたって函館戦争に参加することになる。彼の戦歴の第三であり、そして伊庭八郎最後の戦闘であった。
翌二年四月からはじまった五稜郭《ごりようかく》をめぐる戦いのさなか。――八郎のあとを追った従者荒井鎌吉はいう。
「私がちょうど箱館へ着きました日が、木古内《きこない》で先生が、肩から腹へかけて鉄砲玉で撃ちぬかれたときでした。この戦争は松前に攻めにゆくときで、先生は先鋒でしたが、引き揚げて木古内に来た朝、太陽に面《おもて》をむけて指図をせられていましたとき、遠くから来た弾が立木に当り、その木の片《へげ》を包んだまま先生に当って倒れられました。
先生は箱館の病院へいれ、松前の殿さまの着た蒲団などをかけてお世話をしましたが、何分気性の勝ったかたですから、大砲の玉がひびくと、死にかかっているのに飛びあがる勇気です。お医者が麻薬で鎮《しず》めて、やっと御死去になったほどです」
かくて伊庭八郎は、花のごとく流星のごとく散った。
墓は五稜郭に、新選組の土方歳三の墓とならんであるという。
二
伊庭想太郎の運命はこれで変った。
幕臣の家として一挙に禄を失ったのは伊庭家にかぎったことではないが、彼の場合は特別に変ったのである。
兄の死んだ明治二年といえば想太郎は十九歳になっていたが、彼には二年ほど前からいいなずけの娘があった。それが、たたみ屋の棟梁の娘なのである。名はお綱といった。
ただし、ただのたたみ屋ではない。葦編《いあみ》屋といって、江戸城へお出入りのたたみ屋であった。
旧幕時代、旗本の次男坊三男坊というと、いわゆる冷飯食いといって、どうにも処置にこまる存在であった。金のある町人の婿の口でもあれば仲間からやっかみの的になるくらいで、ふつうならそういう由緒あるたたみ屋なら、想太郎に異存のあるはずがない。父の軍兵衛も、だからこそそんな話に乗ったのであろう。
とはいえ、何といってもたたみ屋の娘だから、職人風なところはまぬがれない。それどころか、もともと彼女自身がよくいえば快活、わるくいうと蓮っぱなところがあった。――縁談がほぼまとまってから半年くらいたっての話だが、
「こんな縁になって、まだ何をしゃちほこばってるのさ、想太さん」
職人たちの眼の前で、どんどんと背中をたたかれて、想太郎は赤面したことがある。こんな縁――といっても、彼のほうからはまだお綱の手をとりにいったこともないのだ。彼は粋《いき》な兄とちがって、固っくるしい若者であった。
「でも、うちに来て、何をするのかしら? 想太さん、たたみ屋は剣術より年期が要《い》るよ」
葦編屋の裏庭であった。この娘を女房にしたあとは、彼は葦編屋の離れに住むことになっていたが、さてそれからどうするか、彼にもわからない。剣術と多少の漢学以外、彼は何も知らないのだ。何にしても、そこでたたみの表替えなどしている何組かの職人のむれを眺めながら、おれの剣術ももう終りか? という寂しさの念が、想太郎の胸をとらえていたことは否めなかった。
「ほ、ほ、ほ、まさか想太さんにたたみ屋なんかやらせやしないから心配しないで。お父《と》っつぁんに頼んで、どっかに道場出してもらうから」
お綱は、上眼づかいに、いたずらっぽく想太郎を見て笑った。
「でも、あんた、いっぺんにたたみの、五、六枚は運べそうねえ。……」
想太郎は大男であった。兄の八郎も長身ではあったがスラリとして見えたのに、これはがっしりと岩のようで、そしてまた岩のように寡黙なたちであった。
もっとも、お綱も大柄だ。しかも、ふとりじしで、見るからにたっぷりしている。それがなかなか積極的で、あるときなど、裏庭で――そうだ、想太郎はこのときのことを、あとあとまでよく想い出したが、それは彼の家の裏庭であった――ふいに重く身をもたせかけて来て、
「想太さん、お刺身していいわよ」
と、ささやいたことがある。
「お刺身とは何だ」
接吻のことである。彼はほんとうに知らなかった。
「このことよ」
お綱はいきなり唇をおしつけて来た。熱くぬれた柔いものがふれたとたん。――
「うっ」
反射的に彼は大きな手でお綱の両肩をつかみ、ひき離していた。
「いかん」
と、彼はうめいた。
「なぜさ?」
お綱のやや怒った眼に、自分でも何をいっているのかわからず、
「祝言をあげるまではいかん!」
と、想太郎は悲鳴のように繰り返した。
「いつ祝言をあげるの?」
「兄上が……お帰りになってからだ」
ちょうど将軍が大坂へいっていて、兄の八郎も奥詰としてそれに従っていっている留守のことであった。
「だってえ。……」
と、肩から手を離されたお綱は、また身体をすり寄せて来た。
「これくらいはいいじゃない? ねえ、お刺身してよ。……」
厚ぼったい花弁みたいに鮮麗なものがふたたび近づき、お刺身という言葉のなまなましい語感が、想太郎の頭をくらくらさせた。体格のいい彼として、そういう欲望はないはずはなかったからだ。
「む」
またうなって、両手を出したのは、こんどは抱き寄せるためであったが、その手つきが甚だぶきっちょであったと見えて、
「じれってえなあ。……」
と、そのときどこかで舌打ちした者があった。
想太郎は飛びあがった。実に一|間《けん》あまりも女から飛び離れて、声のしたほうをふりむいた。樹立ちのかげに、ひとりの若い男が切株に腰を下ろして笑っていた。書生風で、手には書物さえひらいているが、ずんぐりした身体で、あぶらぎって、|にきび《ヽヽヽ》さえ出して、いかにも下司《げす》ばった顔が、にたっと笑っている。
「どうもいけませんな、そういうことは若さまは」
と、いった。
「浜吉か、馬鹿っ」
と、想太郎は吼えた。
昔から伊庭家に出入りしていた左官屋の倅であった。それが今はなんと開成所の書生とかに成り上っているそうだが、これがきょう伊庭家にやって来ていたのだ。実は父親の軍兵衛が、何思ったか、八郎が帰って来るまでにあれの居室の壁を塗りかえ、たたみも新しくしてやっておけといい出して、その左官屋が朝から来ていた。それといっしょに浜吉も挨拶がてらぶらりとやって来ていたことも承知していたが、いまそんなところで本を読んでいようとは思いがけなかった。――
「こんなところで何をしておる、たわけ者」
「英国証印税法を読んでおります」
と、浜吉はいった。ヒラヒラさせた本は、どうやら横文字らしい。
「?」
想太郎は絶句したが、すぐにいっそうたけりたって、
「用がなくば、帰れ!」
と、一|喝《かつ》した。
「お刺身を食べたって、修行のさまたげにはならんと思いますがねえ」
浜吉は笑いながら、ゆっくりと立ちあがり、背は低いがいかにも重量感のある身体を左右にふって、のっしのっしと歩み去った。――お綱がそばにいなかったら――そして、彼女が、「いやみったらしい男!」とつぶやいて、ぺっと唾を吐いて、想太郎の立腹と嫌悪感を代弁してくれなかったら、彼はその無礼な左官屋の倅を追っかけていって、どうかしたかも知れない。
しかし、あとで考えると、そのときその変なやつが思いがけぬ半畳をいれなかったら、お綱とちょっと縁の切れぬことになったかも知れない、と想太郎は思った。思えば、それがお綱と妙なことになりかかった最後の機会であった。――
それからすぐに時勢は急速に暗転し、兄は上方《かみがた》から帰って来たが、新しい部屋に住むいとまもなく安房へゆき、箱根で血戦し、その間に幕府は倒れ、そして兄はついに北の果てで討死をとげるという騒ぎになってしまったのだから。
伊庭八郎、箱館で戦死す。――その報が伝えられたとき、想太郎が覚悟はしていたが衝撃を受けたことはいうまでもないが、それに伴ってもう一つの異変が彼の心に起った。彼の運命が変ったといったのはこのことである。
想太郎はお綱がいやではなかった。どこか気にくわないところもあったが、充分魅力を感じていることも事実であった。何にしても、あのまま事がなければ、前々からの約束通り、お綱を妻としたに相違なかった。――
そこへ、兄の死が事実となったのである。伊庭家のあとをつぐのは自分となったのである。事態は変った。
それでも相当に考えたあげく、思い決して想太郎は父のところへいった。
「父上、私の縁談の件ですが、あれは破談にいたしたいと存じます」
「なぜ?」
「私が伊庭家をつがねばならなくなった以上……あの娘はそれにふさわしくないと思われます」
軍兵衛は病床から弱々しい眼をあげた。その昔、秋霜《しゆうそう》水野越前守さえやりこめたこの剛毅な剣客も、老いさらばえた上に、幕府の瓦解、愛する嫡男《ちやくなん》の死という言語に絶する打撃のために床について、しかも明日にもふっと灯の消えるように消えてゆくかに見える衰えぶりであった。
「しかし、幕府は倒れ、禄を失い、伊庭家はもうないにひとしいぞ。……」
「いいえ、伊庭家はあります。たとえ禄は失ったとはいえ、元禄の昔から代々伝えた剣の名家伊庭の家に――あの娘は、どう考えても伊庭家の妻ではありませぬ!」
彼の決断はまったくそのことにあった。
たとえ時勢がどうあろうと、まさかたたみ屋の娘を伊庭家の当主の妻に迎えるわけにはゆかない。――こう考えるとともに、彼は、それまでのお綱からぬぐい切れなかった不満が、いっぺんに色濃く心中に拡がって来るのを感じたのであった。あの職人風、あの蓮っぱさ、あのなれなれしさは、どうにも剣の一宗家とは異質のものだと思う。そもそも職人じゃあるまいし、ひとを想太さんとは何だ。……
つまり彼は、伊庭家のあとつぎとして、急に頭《ず》が高くなったのである。これを自分勝手だとは、彼は思わない。当然な責任感だと考える。実際、伊庭家は禄を失ったのだから、欲得からの判断ではない。――二十歳《はたち》まえの男の考えにしては実にしっかりしているともいえるし、またいかにもその年齢にふさわしい昂ぶった考えだともいえた。――いや、彼のこういう独特の「瘤《こぶ》」のある思考形態は、彼の一生についてまわるのである。
「何にせよ、このような時勢、当分祝言どころではありますまい」
「それは、そうじゃ。……しかし、葦編屋には――」
「私から申しておきます」
すでに伊庭家の当主になったかのように、想太郎はきっぱりと答えた。
彼がお綱を呼んでこれを伝えたのは、それから数日後のことであった。彼は世の中が一変し、伊庭家も禄を失ったので、まことにいかんであるが縁談は破棄のやむなきに至った、と通告した。
「あらっ?」
と、お綱は眼も口もまんまるくしてさけんだ。
「あたい……お宅のそんなもの、あてになんかしてやしなかったわよ! 想太さんだって、そのつもりじゃあなかったの?」
想太郎はまごついた。しかし、幕臣として、伊庭家として、この際とうてい祝言などあげていられる事態ではない、ということをじゅんじゅんとして説いた。そう説く想太郎を、お綱はどんぐりみたいな眼でじいっと見つめていたが、突然またさけんだ。
「あんた……ほかにだれかいいひとが出来たんでしょ?」
想太郎はまた狼狽《ろうばい》した。なぜだか胸に矢をあてられたような想いがし、なぜだか、この女、考えていたよりずっと利口なやつだ、と思った。
が、すぐに彼は大喝した。
「馬鹿っ、そんなものはない! 弓矢八幡も照覧あれ、そんなものは断じてない!」
お綱はわっと泣き伏した。この女が、こんな泣きかたをするとは意外であった。肉の厚い背中が烈しくゆれているのを見下ろして、さすがに想太郎は憮然とした気持になったのみならず、はじめてこの捨てたいいなずけに可憐なものを感じた。……
それでもとにかく、この甚だやりにくい始末を強引にやり通すことが出来たのは、主観的には彼の一種の剛情さと、客観的には彼の武骨な面だましいのせいであった。こんな場合、男の態度は似たり寄ったりのものだといわれるかも知れないが、あとになってわかるように、この女性を相手にこういうことをやってのけられたのは、ふつうの男なら相当に難しいことであったのである。
そのあとで、想太郎の胸に浮かんで来たある影像があった。……お綱に、「だれかいいひとがいるのではないか」と指摘されて、はじめて気がついたことだ。彼はそれまでその影像をほんとうに自覚していなかったのだ。
それは芸者お貞であった。
兄の戦死の報が伝えられてから十日ばかりたって、彼は思案の末、柳橋へ知らせにいった。すると、だれから聞いたのか、お貞は半月も前にそのことを知っていたということで、そして数日後から姿を消し、そのゆくえはだれも知らない、ということであった。
死んだのかも知れない。――想太郎は、直感的にそう思った。いや、あの女は死んだ!
彼は|と《ヽ》胸をつかれ、首うなだれて柳橋を去った。
が、それにもかかわらず、お綱を追いはらったあと、伊庭想太郎の無意識の底から、色あざやかにきらめき浮かんで来たのは、あの夏の日にかいま見た兄とそのひととの哀艶な別れの像であった。……
三
父の軍兵衛が間もなくこの世を去ってから、想太郎は苦闘した。――生活のためである。
二年ばかり、なお御徒町の道場をひらいていたが、若い彼が当主では弟子の来ようがない。いや、そもそも世は急速に剣術などを笑ういわゆる文明開化の時代へはいっていったのである。
それでとうとう道場も売らなければならない始末に立ち至った。それも元禄の世からつづいた由緒ある道場を、だまされて、二束三文に手放し、四谷へ引っ越し、ここに塾をひらいた。二十歳を越えたばかりの若さで、それでも何とか糊口をしのぐだけの子供を寄越す親があったのは、彼自身の力のせいより、幕末の有名な父の軍兵衛の名、それよりさらに高名な兄の八郎の名のおかげであったろう。
その貧しい想太郎のところへ、父の弟子筋の男たちがよく集まった。想太郎は毎日狭い裏庭で木刀の素振り何百回という習慣を欠かさなかったが、いまはもう道場はないから、その連中はただ酔っぱらって、時勢への不平を吐きちらすだけであった。
「想太郎君、もう剣の修行はむだじゃよ」
「今は、ただ銭を持ってるやつのほうが強い。この世は、銭だ、銭だ」
「それから、やるなら、新政府への尻っ尾のふりぶりの修行。――」
何かといえば、その金を儲けた某々、また金や色で傍若無人な政府の大官某々、その大官への恥も外聞もない幕臣の阿諛《あゆ》者某々の話が出て、その末におちるのは自分たちの落魄ぶりへの愚痴だ。元幕臣の困窮は、想太郎ひとりの話ではなかったのである。
想太郎は黙って聞いていることが多かったが、沈鬱な憤りの表情はいちばん凄味があった。世の激変は、瓦解当時の彼の予想をなお超えるものがあったのだ。
彼は、最後にいつもうなるようにつぶやいた。
「いや。……こういう変な世の中はいつまでもつづかぬ。人間は、天の日月と同じく、人間としていつかあるべき相《すがた》に戻る。……おれはそう信じておる!」
そのうめきは信念にみち、実はそれを聞くために、旧友たちが集まって来るといってよかった。――「剣術はもう流行《はや》らないにしても、想太郎君はいつかは何かやる男だ」彼にはそう思わせるものがあった。
明治五年初夏のある午後であった。
榎本武揚《えのもとたけあき》がこの世に出たと聞いて、彼はお祝いの挨拶にいった。
幕臣榎本は最後まで五稜郭で抵抗し、降伏後、東京に送られて伝馬町の牢にいれられていたが、この四月についに放免されたのである。想太郎は直接面識はないので迷っていたが、兄八郎が榎本をしたって箱館にゆき、その下で戦死したという縁があるので、どうしても一言祝意を表しにゆかなくてはならぬと思い立って出かけていったのである。
榎本は名刺を見て、すぐに会ってくれ、兄八郎の勇戦ぶりをたたえた。それはよかったのだが、想太郎は、その榎本がもう新政府の禄を食《は》んで、開拓使とかを命じられて、この五月の末には早くも北海道へゆく予定になっていると聞いて唖然とした。唖然としたのちに、彼は勃然と怒り出した。
「あなたは……新政府に抵抗しておびただしい部下を死なせながら……その新政府に尾をふって……」
「時代は変ったよ、伊庭君」
と、榎本はけろっとした笑顔で想太郎を見た。
「若い君が、まだそんなことにこだわっておるのは愚かじゃね。いつまでも古いことにこだわっているより、私は君に、新知識の勉強をすることを勧める」
想太郎がいよいよ猛然と反駁《はんばく》するのに、榎本は顔色も変えずにうなずき、「伊庭君、私の言葉を思い出し、何か考えることがあったら、遠慮なく私のところへまたおいで」といったが、彼は聞く耳持たぬといったていで、そこを出た。
そして、怒りに酔っぱらったようになって、夕暮の新橋のあたりを歩いているとき――彼はもっと恐ろしいものを目撃することになったのである。
一台の合乗俥《あいのりぐるま》だ。
明治初年に出現した人力俥はみるみる全都にひろがって、このころは車体に豪奢な彩色をしたものや、さらに二人乗りのものまで出来ていたが――その合乗俥に二人ならんでやって来るのは、思いがけない男女であった。
男は左官屋上りのあの浜吉であった。もともとグロテスクにちかい顔が、あきらかに酔っぱらって、それが傍若無人に、女に頬ずりせんばかりで乗っている。着ているのは立派な洋服で、銀ぶちの眼鏡さえかけている。そして女は――芸者風で、困ったように身体をくねらせていたが、それはあのお貞であった!
「……あっ!」
想太郎のさけび声に、お貞はちらっとこちらを見た。しかし路傍の人混みの中に彼の顔をさがしそこねたのか、いや、見つけてもそれがだれかわからなかった風で、浜吉にいたっては、その声さえ聞かなかったらしく、夕日のけぶる街頭を、なお厚顔な酔態のまま俥を走らせていった。――
……あれから四年。
あの女は生きていたのか。
想太郎は悪夢にうなされたような思いで、家に帰った。
それから数日、彼はなお悪夢の中を泳いでいるように、その二人の調査をつづけた。その結果、お貞は二年ばかり前から新橋で芸者をしていることがわかった。柳橋から消えたあと、どういうなりゆきでそうなったのかはまったくわからない。
お貞が生きていることも驚くに値することであったが、それより瞠目すべきはあの浜吉の「出世」ぶりであった。彼女が新橋で芸者をやっていることも、浜吉の現状を調べたことから明らかになったのである。
すでに述べたように、浜吉は伊庭家にも出入りしていた左官屋の倅であった。
父親は徳兵衛といい、素性からいえばこれまた代々の左官業で、「佃屋」という屋号さえ持ち、だから伊庭家にも古くから出入りしていたのだが、この徳兵衛に関するかぎり、まったくどうしようもない男であった。左官そのものの腕はいいのだが、遊び好きで、大酒飲みで、しょっちゅう仕事をすっぽかして、どこかへいってしまう。おとくいだけではなく、家族もほうり出して蒸発してしまうのだから、無責任もいいところだ。
想太郎は幼時のころから、髪ふりみだし、やつれはてた女房のお松が、二人の女の子と一人の男の子の手をひいて、泣きながら母や下女に訴えている光景をなんども見た。家が近かったので、左官以外のことでも、女房は門人の多い伊庭家の台所へよく手伝いに来ていたのである。
そのくせ、この女房も始末におえない酒好きで、伊庭家の台所でも泣上戸ぶりを発揮していることがあった。
「あんな男といっしょになったばかりに! あんな糞爺いといっしょになったばかりに!」
その呪咀《じゆそ》にみちた泣き声は、少年の想太郎の耳にも残った。お松はもともと某旗本の下女だったのを、二十以上も年上でもう四十半ばになっていた徳兵衛にだまされるようにして夫婦になった女であった。
そのころ、たしか下女から聞いた話がある。
そのお松が、生活に疲れはてて、いちど浜吉を赤坂あたりの堀へ投げ込もうとし、あわやというところで思い直したというのだ。下女は笑いながら、「あんな子は、堀に放り込んでもだれも可哀そうにも思わないわねえ」といっていた。――
さて、この男の子が浜吉であったが、想太郎より二つ年上だ。だから、身分はちがうけれど、同じ年ごろの子供同士として遊ぶこともあっていいはずだが、想太郎にはそんな記憶がない。
彼ばかりか、浜吉はだれも友達がいないらしかった。さすがに年下でも大柄な想太郎には手を出さなかったが、小柄な浜吉は何かといえば近所の子供泣かせでみなからきらわれていたらしい。女中が悪口をいった通り、大人にも好かれなかった。顔もそのころから子供らしくない顔をしていたが、何より可愛気がなかった。
もう一つ、想太郎自身の記憶として頭に残っているのだが、あるとき想太郎が庭にいる浜吉に餅を一つ投げてやったら、浜吉はそれをぽーんと蹴って外へ出ていった。それから数分して想太郎が外へ出て見たら、浜吉は台所のすぐ外の塵箱《ごみばこ》に頭をつっこんで、魚の腐ったようなものを拾って食べていたが、想太郎を見ると、それをくわえたまま、にたっと笑った。――
そのお松や浜吉が、いっとき完全に想太郎の視界から消えてしまったのはいつごろのことであったろう。
――あとで知った知識の断片をつなぎ合わせ、またこんど調べて知ったことを加えると、そのころ無責任おやじの徳兵衛がとうとう消え失せて何十日たっても帰って来なくなり、お松は手蔓《てづる》を求めて二本榎あたりの某家に下女にいったらしい。そのうちに近所の医者とくっついて、これと夫婦になってしまったというのだ。
現代の考えからすると、そんな女が医者と夫婦になるとは大変な幸運のように思われるかも知れないが、当時の医者はまったく自分が医者だと名乗って看板をかかげればだれでもなれたのである。ただインチキではすぐにばれて流行らなくなってしまうが、このお松といっしょになった医者が相当にいかがわしい医者であった。
こんど想太郎が調べて知ったことだが、なにしろ裏長屋に住んで、医者のほかに易者もやり、さらに子供の凧の絵を書くことも内職にしていたというのだから。――
一方、お松は近所の洗濯女などをやってもなお食えず、連れ子の女の子二人――浜吉の姉は、とうとう川崎の女郎に売り飛ばし、あげくの果ては江戸を夜逃げして、浦賀へ流れていって夫婦で提灯張りなどしていたという。
この間、浜吉は伊庭家の見えるところから姿を消していたわけだ。
そして、十年ばかりたって、彼がふたたび現われたのは、なんと開成所の学生としてであった。
開成所は幕府の官立英語学校であって、いまの東大の前身である。実に、毛虫が蝶となって出現したようなものであった。
これはその前後に聞いたのだが、浜吉は――数年前、母親のお松が重病にかかり、藪にも至らない例の養父が近所の医者に診療してもらっているうち、その医者に見込まれて彼はそこの見習いとなった。そして、その医者の世話でさらに神奈川奉行が速成した英学所にはいり、そこでまた目をつけた人があって開成所にいれてもらったということであった。
これも驚くべき転変ぶりだが、その浜吉がまた伊庭家に現われたいきさつが奇怪である。そのころ、すっかり老い果てた実父の徳兵衛がまた出て来て左官をやりはじめたのだが、そこへ浜吉がやって来て、「ふたたび父子《おやこ》のつきあい」をはじめたというのだ。
実の父子だからあたりまえといえばいえるが、母のお松や自分たちを捨て、姉二人は女郎に売られ、浜吉もさんざんな苦労をしたろうに、伊庭家などから見ると、「いったい、どうなってるのだ?」といいたくなるくらい、驚くべきルーズさであり無神経ぶりであった。浜吉は徳兵衛を、「爺、爺」と呼んで、あごで使うようなところがあったが、さりとてべつに恨んでいる風もなかった。……磊落な八郎はそれを見て、「きゃつ、存外エラ者だぞ」と感心したていであったが、想太郎から見ると、人間世界でない世界に住んでいる人間たちとしか思われなかった。
毛虫が蝶になった――といったが、だれが見ても、浜吉は依然として毛虫であった。子供のころと同じく可愛気がなく、それどころか、容姿はずんぐりむっくりして、顔だけやけに大きく、その顔が、小さいよくひかる眼、あぐら鼻、分厚い唇、いやその一つ一つの道具立てより、何ともいえない野卑、下品、厚かましさの相貌を作り出して、芝居でいえば、これ以上はないにくていな敵役の面がまえなのである。
これが、これ見よがしに英語の本を持ち歩いて、名を、なんと星亨《ほしとおる》と改めたという。星は例の医者兼易者兼凧の絵かき兼提灯張りの養父の姓であったというが、想太郎はにがにがしくって、わざと昔通りに、「浜吉、浜吉」と呼んでいた。――あの裏庭で自分を揶揄《やゆ》したころのことだ。
さて、こんど調べたあれからの星亨だが――彼はあれから開成所の英語世話役とかになり、海軍伝習所の翻訳師、英学校の教授などを経て、なんといまは大蔵省租税寮出仕のお役人になっているというのであった。
以上述べたような、素《す》町人どころかまるで|どぶどろ《ヽヽヽヽ》みたいな環境から、どうしてこういう地位に成り上ったのか、想太郎などの想像を超えた一人の男の運命であった。
四
敬意をおぼえるより、想太郎は気味わるさを感じた。瓦解前、亨が開成所の書生として伊庭家へ平然と姿を現わしたときから、こいつ、やっぱり|どぶどろ《ヽヽヽヽ》男だ、という印象は、強烈になりこそすれ、決して消滅してはいなかったのだ。
しかも、現在のその星亨が。――
大蔵省の役人のくせに、飲む、打つ、買う三拍子そろった放埓無惨の生活をしているらしい。役所の配下や自分の教えた英学生を乾分《こぶん》のようにつれ歩いて豪飲し、吉原であばれたり、俥夫と殴り合いをしたり、甚だしきはポリスに喧嘩を吹っかけるという横紙破りぶりだという。
それはいいが――ここで想太郎にとって、魔のようなあの相乗俥が登場する。
星はここのところ新橋に流連《いつづけ》することが多く、そして芸者お貞を、ひいきどころか、今は彼の完全な色おんなとしているというのだ!
お貞。――
想太郎は、身の毛がよだった。
あの女が、生きていようとは思わなかった。しかし、戦死した幕臣の妻や娘の大半は生きているのだから、ましてたんなる兄の情人であった彼女が生きていたとしても、それはあたりまえのことだ。死んだにちがいない、と思い込んだのは、若い自分の早合点であった。
もし? と、彼は考える。あのとき、お貞が生きていることを自分が知っていたなら?
お綱に疑いをかけられたとき、「弓矢八幡にかけて」など大袈裟な形容で否定したのはほんとうだ。だいいちお綱をしりぞけたのは彼女がたたみ屋の娘であるということにあったのだから、芸者のお貞ならもっと不都合だということになる。それより何より、尊敬する兄の恋人であったあのひとは、自分に触れることの出来ない禁断の聖花であった。……
しかしいま想太郎は、あのときから、兄の死によってそのタブーが解かれたような気がしていた――その花を自分のものにする可能性が生じたことを、漠と感じていたことを知ったのである。
ただし、お貞が生きていればの話である。死んだ女はどうしようもないことだ。
それが生きていた!
しかも、あの怪獣のような男と相乗俥に乗って、――それを思い出すと、彼は身の毛もよだつのを禁じ得なかった。
相手もあろうに、あんな男と。――どんな男とよりも、我慢がならない。俥の上でも、厚顔無恥なあの男にからみつかれて、あのひとは顔をそむけ、身体を悶えさせていたけれど。――あれは、いくつになったろう、たしか自分より一つか二つ年上だったと憶えているけれど、あれから四年たったいまでは、むしろ自分より若い、あのころのままの清艶さを保っているように見えたが、合乗俥でどこかへいって、あの二人はどうしたろう!
想太郎は、あぶら汗までながして、輾転反側《てんてんはんそく》した。
その結果、彼は決断した。彼女を奪い返すことを。――「それは自分のためではない」と、彼はつぶやいた。清らかに散華した兄のために、兄の愛した女を、あのけだものの手から救ってやらなければならない」
数日後、彼は大蔵省租税寮に出かけていって、星亨に面会を申し込んだ。
星亨はけげんな顔をして現われ、想太郎を見て、いよいよけげんな表情になった。
「やあ、伊庭の若さま。……お久しぶりですな。その後はどうお過しで……」
「浜吉……君」
想太郎はのどに何かつまったものを吐き出すようなぎごちない調子で、
「君はお貞という女を知っとるだろう」
と、挨拶ぬきでのっけから切り出し、
「あれが、私の兄、八郎と縁のあった女だということは聞かなかったか?」
と、いった。
「や、お貞の件ですか。お耳に入りましたか。これは困ったな」
星は笑った。べつにあわてた風でもない。
「そういえば、お貞からそんな話を聞いたような気もしますな。……」
「それを知りながら、君は……」
あの女が、この男に、兄のことをどんな風にしゃべったのか。……想太郎は吐気のようなものを感じた。
「しかし、伊庭さん、ああいう商売の女はいろいろの客を知ってるもんで……」
弁解したのか、茶化したのかわからない。伊庭さん、と、なれなれしい呼称に変えたのも想太郎のかんにさわった。
「あれを返してもらいたい」
蒼ざめた顔で、彼はいい出した。
「返す? だれに?」
「私に――あの兄の愛した女を、弟のこの私に」
この論理が、客観的には実に変なものであることに想太郎は気がつかない。彼は、この世にこれ以上当然な要求はないと確信している。
しかし、この不逞な成り上り者の心情には、彼も理解を超えたところがあった。こんどのことに限らず、以前からあった。それで想太郎は、万一の場合、彼を恐怖させるために懐に短刀さえ忍ばせて来た。
「なんだか険呑《けんのん》ですな。……心形刀流」
星の醜悪な口はなお笑っていたが、細い眼は銀ぶち眼鏡の奥でぱちぱちとまたたいた。
「よろしい、譲りましょう」
と、彼はうなずいた。
「しかし、あなた、あの女をどうなさる?」
「妻にする」
と、想太郎はきっぱりと答えた。
星は微笑した。
「そうですか。それなら私からお貞に話して見ましょう」
「――え?」
「伊庭さん、あなた私にそんな話を持ち込んで、これからどうなさるおつもりでありましたか。新橋へいって、お貞に談じ込まれるつもりでありましたか。おかたいおうちに育てられたので、あなた、よくわかっておられんようだが、これは相当に変な話ですぞ。それに、そう簡単に芸者を身請けするわけにもゆきませんよ。……あなた、あまりそういう手順を御存知ないようだから、かえって、お気の毒になって、私が落籍させて、あなたにさしあげます。尤も、お貞がうんといえば、の話ですが」
それから、にやっとまた笑った。
「実は、私は遠からずここを|くび《ヽヽ》になりそうなんでね。もう持ち切れんのです」
想太郎は、彼のつぶやいた言葉の意味もよくわからず、
「じゃ、承知してくれたか」
と、いい、名状しがたい歓喜のために――洋服を着た役人たちがしきりに出入している宏壮な一室を見まわして、彼としては思い切ってお愛想をいった。
「浜吉……君。しかし君が、こういう身分になるとはなあ、こういうところで――」
「ここは大蔵省。私は現在のところ大蔵省の官吏です」
と、相手はふいに、懐中時計の金鎖のついた洋服の胸をそり返らせていった。
「私用のことならともかく、公けの私に物をいわれるなら、本名の星亨と呼んでいただきたい」
――伊庭想太郎が新橋でお貞に逢って、彼女を落籍させる手続きをしたのはそれから数日の後であった。いや、その手続きをしてくれたのは、みんな星であった。
置屋の一室で、片手をつき、横坐りになって、じっと自分を見あげているお貞を見て、想太郎はいつか兄を見ていたあの姿を思い出した。そっくりだ。あれと同じお貞なのだ。――感動のために、彼は一語も口がきけなかった。
「伊庭さん、お貞はあなたには記憶はないそうだ。……あなたの一人相撲だったらしい」
星はそばにあぐらをかいて、からかうような笑いを浮かべて二人を見くらべていた。
「が、八郎さんの弟さんと知って、あなたの女房になってもいいと思ったんだそうだ。それほどとは知らなかったが、こいつ、よっぽど伊庭八郎に惚れていたんだなあ」
ふつうなら腹を立てる述懐であったが、このときは想太郎は、さすがに怒らなかった。いや、星の声も夢うつつであった。
星は、そんな想太郎を見て、ふとまじめな眼になっていった。
「しかし、伊庭さん、男が女房を持つと義務と責任というものが出来るんですぜ。あなた、努力して、このひとが不倖せにならんように働いて下さいよ、いいですか?」
あぶら切って、てかてかひかって――星亨はこのときまだ二十三の独身者のはずであったが――まるで四十男のような顔をしていた。
五
まったく、わけのわからないやつだ、星亨という男は。
新聞を読み、噂を聞いて、伊庭想太郎は改めてそう思った。右のようなことをしてくれてから三カ月ばかりたって、星はほんとうに大蔵省をくびになってしまったのである。
その理由と経過が凄じい。その行状あまりに乱暴狼藉を極めて公安を害するというので、司法省断獄課に下され、新律綱領に照らし、閉門百日の刑に処せられたあげく、ついに免職を命じられたものであった。
想太郎が調べたときの彼の素行がまことにその通りで、こういうやつが大蔵省の役人になるのか、と首をひねったくらいだから、星がこういう目に逢ったのは当然至極、やはり天道いまだ健在であったか、と想太郎は大きくうなずいたが、理解を越えるのは、星がそれを承知で――彼はそのことを想太郎にもいった――あとでお貞に聞いて想太郎が黙り込んでしまったくらいの大金を投じて、彼女を身請けしてくれたことであった。
星という男も、この世も、いよいよわけがわからなくなったのは、それからまた数カ月たってからのことである。
|くび《ヽヽ》になった星が、すぐにまた同じ大蔵省租税局に召し返されたというのだ。
それどころか。――
翌年の春になって、想太郎は茫然とした。星が横浜税関次官を命じられたという新聞記事を見てである。しかし彼の眼をひいたのは、その記事につづいて、星がちかく御徒町何番地の伊阿弥津奈子なる女性と結婚し、新夫妻そろって横浜に赴任する予定、という数行であった。
伊阿弥津奈子。――
この見知らぬ、高雅な名を、ふしぎにどこかで聞いたような気がして、彼はまばたきしていたが、ふいにどきんとした。
葦編《いあみ》綱子――こりゃ、あのお綱じゃないか!
番地を見ると、やはりあの葦編屋だ。そうにちがいない。
お綱がそんな名に変っていること、また、まだどこへも嫁《い》っていなかったということも意外であった。昔は、どっちも伊庭家に出入りしていた左官屋の倅とたたみ屋の娘ということで、この両者が当時から知り合っていたということは充分考えられるけれど、それにしても、あの娘が。――
彼は、いったいこりゃどうしたことだ? と、何度もつぶやいた。やがて、勃然《ぼつぜん》と怒り出した。
浜吉――きゃつ、おれを愚弄しておる! 彼はそう思った。あいつ、ただのやつではない、胸に一|物《もつ》も二物もある男だとは思っていたが、たしかに伊庭家に悪意を抱いて、奇っ怪なしっぺ返しを企んでおる!
重い性格のくせに、決断すると前後を忘れて熱するたちでもある想太郎であった。彼は葦編屋に忠告にゆくことにした。
お綱に対しては、いまは申しわけないことをしたという気持だけであった。一途な彼は、深いいきさつはあれ、とにかく芸者を妻とした現在となっては、お綱にうしろめたい感情を禁じ得なかったのである。
……あの罪のない、無邪気な娘が、|どぶどろ《ヽヽヽヽ》の中から這い上って来た、破戒無惨の男の妻となるとは――これは、黙ってはいられない。それは自分の、せめてもの罪滅ぼしでもある。……
御徒町の景観へのなつかしさも、葦編屋への間のわるさも忘れて、彼はその家を訪れた。お城出入りということはなくなっても、武家とちがってそこはたたみ屋のありがたさで、店は昔と同じ構えで商売していた。
が、店の名は、なるほど伊阿弥屋と変っている。が、それより想太郎が眼を見張ったのは、そこからちょうど大八車で運び出されているのが、たたみではなくて――今まで見たこともないほどの書物だということであった。大八車は、四台も五台もある。しかもその書物の大半は、あきらかに洋書であった。
お綱の父親が出て来た。彼を見てびっくりしながらも、何のこだわるところもなく挨拶するのも上の空で、想太郎は聞いた。
「あの本は何だ」
「あれは星さまのもので……」
「星さま?」
想太郎はまばたきしながら、
「浜吉は、もうここに住んでおるのか?」
「へえ、去年大蔵省をおやめになったあとから、こちらの離れにお住まいで。……」
親爺は、自分の娘の婿になるはずの人間に、殿さまに対するような敬語を使った。
「きょうは、あの本を横浜へ送り出すために御在宅で。……」
想太郎はふたたびまごついた。さすがに、たじろぐものがあったが、たちまち自分のたじろぎに立腹をおぼえ、
「実はお綱に話したいことがあって来たのだが、浜吉がおるというならますます好都合だ。ちょっと逢いたい」
と、毅然《きぜん》としていった。
親爺は何やら不安そうな表情で、それでも彼を案内した。
早春の裏庭で、離れから人夫たちが書物を運び出すのを大声で指揮していた星|亨《とおる》と、それを手伝っていたお綱は、想太郎を見て、さすがにはっとしたようだ。
お綱は以前より少し痩せた。いや、それでふつうなみの女になったのだが、それだけきれいになったように見える。顔さえ、まるかったのが面長になったようであった。
「やあ、伊庭君じゃないか」
すぐに星は笑いながら歩み寄って来た。書生姿であったが、何だか似合わない。
「これはまた妙なところで……奥方はお倖せかね?」
それでも、あんな世話をかけたのだから一応の礼は述べようと思っていたのだが、このひどく威張った、また愚弄したような第一声に、想太郎はむっとした。
「いや、おぬしへの礼はまたのこととして、きょうはおぬしにとってあまりありがたくない用件でやって来た」
と、彼はきっぱりといい、お綱のほうに眼をむけて、
「お綱――おまえ、この浜吉と夫婦になると聞いたが、これはどういう男か、よく知ってのことかね?」
と、いった。
お綱は、挨拶もせず、笑いもせず、黙って想太郎を見つめていた。
「これは、身持ちが悪くて、大蔵省を|くび《ヽヽ》になった男で――」
と、いったが、相手は無反応だ。
信じられないことだが、もういっしょに住んでいるくらいだから、何もかも承知の上にちがいない。想太郎は、風をはらんで自分がここへ来たのが、まったく拍子ぬけしたことを感じないではいられなかった。が、騎虎の勢い、熱誠こめていう。
「こちらでは、ただ現在の浜吉の出世ぶりに眼を奪われたのだろうが、夫婦などいうものは、人間がもとだぞ。おまえのさきざきを思うと、あえておれは――」
「あなたは、わざわざ四谷から御徒町まで、そんな告げ口をしにおいでになったのですか」
と、お綱は軽蔑的に口をひらいた。
「お節介なひと!」
「告げ口ではない! げんに眼の前に浜吉をおいておれはいうのだ」
「浜吉浜吉なんて、自分の家の下男みたいに呼ばないで下さいな。あたしの夫は星亨というんです」
「星亨? ふっ、そしておまえが伊阿弥津奈子か」
想太郎は肩をゆすった。どうしても、意に反して、せせら笑うような調子になる。
「いま思うと、おまえの改名もこの男の思いつきだな。いくら名を変えたにしても、もとは左官屋の倅ではないか」
「あたしもたたみ屋の娘です。どちらも、おえらい伊庭家の若さまから見たらゴミ芥《あくた》みたいなものでしょうけれど、おたがいに似合いの夫婦でしょう」
鞭打たれたように絶句した想太郎の肩を、星亨はたたいた。
「君……君は、やはりひとのことより自分のことを心配したほうがよいようだ。私も、御覧の通り、自分のことが忙がしい――」
「浜吉!」
想太郎は逆上して吼えた。
「きさま、おれを愚弄するか!」
「これは驚いた。何が愚弄です」
「いちどはおれの兄の恋人を奪い、こんどはかつておれと婚約した女を、何くわぬ顔で妻にしようとするとは……きさま、伊庭家に恨みでもあるのか」
「面白いものの考え方をするひとだなあ。あなたは、兄上の女や御自分の捨てた女について、どういう根拠でとやかくいう権利を主張されるのか。もっとも、お貞はお望み通りさしあげたが、図に乗って、僕と津奈子との結婚を妨害しようとするのは理不尽だ」
まったくその通りだ。想太郎はまた絶句した。
そんなつもりではない。そんなつもりではない。……自分はただ、まったくの親切から、お綱に忠告にやって来たのだ。想太郎は心中に身もだえした。理窟づめにそういわれると自分のほうがゆすりじみたかたちになるけれど、ほんとうはこいつのほうが悪い。なぜ悪いかというと、こいつがいいやつのはずはないから悪いやつなのだ。これも理窟にはならないが、実際そうなのだからしかたがない。そこがお綱にはわからないのか。――
「お綱、おれにはおまえの将来が、掌《たなごころ》をさすがごとくわかる。悪いことはいわない。――」
「大きなお世話!」
と、お綱は吐き出すようにいった。
「伊庭さん、みんな偶然のことですよ。私の人生はね、あなたを愚弄するとか、伊庭家に恨みをいだくとか、そんな突飛なことにかかずらうほどひまじゃない」
星は悠然たる笑顔でいった。
「だから、これもあなた同様こっちのお節介になるが、いやまったく私は、あなたと、従ってお貞さんの将来のほうが心配になった。将来どころか、伊庭さん、現在も……実は、お貞のときもちょっと心配したのだが、やっぱり、今でも剣術ですか? 剣術は、やはりもうどうしようもないと思う」
もっともらしく考える表情になり、顔をあげて、
「それより、あなた、心形刀流の亡霊などさっぱり捨てて、文明開化の世に再出発の第一歩を踏み出す気にはおなりなさらんか。さしあたって、そうですな、横浜税関の守衛でも――」
「ぶ、無礼者!」
想太郎は大喝して、いきなり星の横っ面をなぐりつけた。
大男で、大力無双で、修行充分の伊庭想太郎である。でっぷりふとってはいるが、背は低い星亨である。その一撃でひっくり返るのが当然と思われたのに、星はひっくり返らなかった。彼はどっしりと顔色も変えずに地面に立っていた。
かえって想太郎のほうが、粘土をたたいたような手応えを感じた。笑いさえ浮かべている相手の眼が、底知れぬ恐怖を彼に与えた。彼は思わず知らず、背をむけてスタスタと歩き出した。
庭を出るとき、想太郎は自分が逃げる態勢になったことに気づき、ふりむいて、歯がみしてさけんだ。
「浜吉――きさまのような悪党が大きな面をするような世の中は、そういつまでもつづかんぞ。見ておれ、遠からず天道が裁くときが来る。――おれは信ずる!」
星は、笑って津奈子のほうをふりむいた。
「さっぱり理窟が通らんな」
その不敵さに、かえって一種の可笑し味をおぼえ、蒼ざめていた津奈子も笑い出した。
遠からず天道の裁くときが来る――と、伊庭想太郎はいった。「彼の天道」が裁くときまで、それから二十八年が経過する。その間、二人のあいだに、何の接触もない。いつぞや星が想太郎に向って一人相撲だと笑ったが、それから二十八年間、伊庭想太郎の「一人相撲」がつづくのである。
六
「その日」までの間、伊庭想太郎は直接には星亨に接触することはなかったのだが、彼はただいちど星とその妻の姿を目撃したことがある。
明治三十一年真夏の夕方であった。駐米公使星亨とその夫人津奈子がその日帰朝して、新橋から二頭馬車で進むのを彼は見たのである。この星公使の帰朝は当時騒然たる話題のまとであったから、往来はそれを見るための群衆でいっぱいであった。
ときに星亨は四十九歳である。肥躯にシルクハット、金ぶち眼鏡に葉巻をくわえたまま、悠然と群衆に会釈する姿、また羽根飾りのついた帽子に洋装の津奈子の、ほっそりとはしているが優雅な姿は、すでに衆議院議長の栄職さえも極めた名流の人として、余裕たっぷりの華やかさであった。
……ゆくりなくも想太郎は、三十年ばかり前、星が芸者姿のお貞にたわむれながら、合乗俥でそのあたりを通った日のことを思い出した。
――あいつが?
まるで魔を見たようにあの日も驚愕したが、その日の衝撃は、星公使の通行とはあらかじめ知っていたにもかかわらず、現実にその姿を見ては、やはり相当なものであった。
――あいつが!
こんなはずはない。あんな悪いやつが、こういう姿になるはずがない。想太郎はうなされたように首をふった。
彼がそんな思いになったのは、しかしその日はじめて二頭馬車の華やかな二人を目撃してのことではない。それまでの二十八年間、彼はたえまなく星の行跡《ぎようせき》に首をふりつづけていた。
悪いやつの行跡。――べつに想太郎は、何も星亨の人生ばかり見つめていたわけではない。むしろ顔をそむけて来たのだが、それでも耳にはいって来るほど彼の「悪名」は高かった。
明治六年、星は横浜税関次官になった。
このとき、横浜税関の旗がロシヤの国旗にまぎらわしいので、ロシヤ領事が税関の旗のデザインを変更してくれるように抗議を申し込んだ。星はいった。
「そんなことが気にかかるなら、ロシヤの国旗を変えたほうがよかろう」
翌年税関長官になったが、西郷をはじめ幕末維新にかけて日本の大官たちを戦慄させた英国公使パークスと大喧嘩して、この職を免じられている。
が、その年のうちに彼は条約改正理事官に任ぜられ、イギリスに派遣を命じられた。
「別に公用を課せず、もっぱら学問修業せよ」という、政府も使い方を持てあました、彼にとっては願ってもない条件であった。
明治十年、彼は帰朝して、司法省付属代言人となった。代言人とは、弁護士の前身だが、その職業がそれまであたかも江戸時代の公事宿《くじやど》の手代のごとき怪しげなものであったのを、断然、政府保証つきの権威ある存在に変えるため、彼自身が望んで「司法省付属」の名称を獲得したのである。
やがて彼は「福島事件」の弁護人として立った。「福島事件」とは、福島県令三島|通庸《みちつね》の弾圧によって蹶起《けつき》した県民有志が国事犯として裁かれた事件である。国家の強権が非道といっていいほど猛烈な時代で、被告たちはついに禁獄に処せられたが、当時一般から「謀叛人」と見える被告たちを弁護する星の堂々たる弁論は聴く者を驚かせた。
これはのちの話になるが、星はまた「相馬事件」の被告側の弁護人を買って出ている。「相馬事件」とは相馬子爵家のお家騒動だが、一般の眼からはこれが草双紙のお家騒動さながらに、忠臣奸臣に色分けされて喧伝されたのに、あえて彼は奸臣側の弁護人になってその無実を説いたのである。
これらは弁護士として当然な行為だが、逆賊の味方、奸物の味方をするように見えて、民衆の好悪を逆なでして平気な面だましいは、彼を怪物視させるのにあずかって力があった。
右のような弁護士行為ならまだしも、やはり怪物視されていた自由党の後藤象二郎が、炭鉱をあてそこなって大借金をし、その債権者から依頼されて債権取立人となった星が、後藤を追いつめているうちに、ふいに後藤と握手して自由党に入党することになったのは、まことにたんげいすべからざる行動としかいいようがなかった。
当時の自由党は、むろん現在の自民党とはまったくちがう。政府に対して民権を主張するために結成された日本最初の政党であって、党首は板垣退助で、この板垣が古風な刺客から国賊視されて刺され、「板垣死すとも自由は死せず」とか何とかさけんで倒れたというのが明治十五年のことである。これは物語にしても、当時の国民の自由党観、また自由党の気概を知るべきである。
この自由党に、星は一陣笠として入党した。
そのころの自由党は、矯激《きようげき》な壮士の集団であって、それを実質上支配していたのは、壮士中の壮士ともいうべき大井憲太郎であった。まったくの親分肌で、よく飲み、よく使った。乾分に頼み込まれると、羽織をぬいでも放り出すといった東洋風の豪傑であったから、乾分は集まったが、当然いつも金に困っていた。
そこに星が入党したのである。後藤ほどの人間が、「星君には多少の資産もあり」と保証して入党させたくらいだから――実はそのころ代言人としてすでに相当儲けていたのであろう――壮士たちはわっとこれにも集まった。
むろん、金だけがめあてだ。ところが、星はこれら餓狼に対して簡単に金をばらまかなかった。たちまち星はケチだという噂がたった。大井一派は冷笑した。
しかも、このケチな星が、たちまち自由党の首領的存在となる。星は、金の要求に対してその理由を問い、納得出来れば、要求以上に出すということがわかったからである。その見積りの精密、成否の見込みの正確は党員を心服させ、いっぽう大風呂敷をひろげ、ただ無計算にばらまくだけの梁山泊《りようざんぱく》的な大井憲太郎は、かえって真に頼むに足らずという印象に変って来たのである。
実に星は、金だけではなく、狂暴といってもいい自由党の壮士連の将に将たる不敵な男でもあった。
自由民権の遊説で、政府を弾劾し、臨監の警部が「弁士中止」をさけんでも、平然としてとりあわず、かえって警官を愚弄した。得意の法律を盾にとって、警察を金しばりにするのである。
実際に星の演説を聞いた自由党員の伊藤痴遊はいう。
「星の演説は決してうまいとはいえなかった。けれどもよく人を傾聴させる演説であった。漢語もあまり使わず、英語もほとんど用いなかった。俗談平語で、ジリジリと攻めつけてゆく、という風の演説であったが、イギリスの法律学者であるから、議論のロジックはよく整って、識者が聞いても首肯出来るものであった。
それに、悠々として演壇に現われ、テーブルのそばに立って、ジロリと満場を見わたすときに一種の威力を持っていて、我輩はこう考えるが、諸君は何と思うか、などいってニヤリとしたときの調子に何ともいえぬ凄味があった」
明治十七年五月、新潟における星の演説は、日本の貴族制度に対しての論難激越をきわめ、ついに警察によって中止解散を命じられたのみならず、彼自身の出頭も命じられた。これに対して星は自分が「従六位」の有位者だからと一蹴して、平気で次の演説地へ向った。
当時の評に、「星の演説は、あたかも奇形の嘴《くちばし》を有する怪鳥が悪声をはなつがごとし。その性格は猛獣の血液を混じたる人中の悪魔なり。……」云々とある。
いよいよ恐怖した警察は、理も非もなく、新発田《しばた》で星を逮捕し、「官吏侮辱罪」で六カ月監獄に放り込んでしまった。
このとき「従六位」をふりまわした星だが、のちにアメリカ駐在公使として帰朝したとき、留守の書生が門標に「従四位」というそのころの肩書を書いているのを見て、一喝して捨てさせたという。
さらに彼は、四年後の明治二十一年にも、出府条令違反、置人隠匿罪でまた六カ月間石川島監獄に収監されている。
出獄すると彼は、欧米漫遊に出かけ、帰国後、明治二十五年、栃木第一区から立候補した。そして実に百十七人という運動員の死傷者を出すという政敵との争いに勝利をおさめて当選した。このとき彼のついやした選挙費が一万三、四千円であったといわれる。米一升七銭であったころの一万何千円かである。現代に換算すると何千万円何億円になるのか見当がつかない。
しかも彼は、衆議院にはいるや、たちまち議長に選ばれるのである。このとき彼は数え年で四十三歳である。
一年半ばかりして彼は議長不信任案により議長を追われ、除名されることになるが、このとき星弾劾演説を行った改進党の高田早苗は、「当時星のことを少しでも悪くいったりすると、ただちに死を覚悟しなければならないくらいであった」といっている。まるでゴッドファーザーだ。
星が不信任案をつきつけられたのは、取引所問題にからむ収賄《しゆうわい》ということであったが、星はこれは誤解であり、自分は潔白であると駁《ばく》し、
「折角《せつかく》諸君の勧告でござりますけれど、星は疚《やま》しいところがござりませぬから、受けることはお断わり申しまする」
といって、不信任案が可決されても、悠然と議長席から動かなかった。
そのあげく、ついに議員さえも除名されて衆議院から追放されるに至るのだが、数カ月後の総選挙にはまた当選して、平気で議場に姿を現わしている。ために――
「あれは星亨ではない。|押し通る《ヽヽヽヽ》だ」
と、呆《あき》れかえった評を捧げられた。
その後彼は韓国に赴《おもむ》き、視察の結果、「韓国には日本の金と人が必要である」と現代の韓国ロビーのような意見を具陳したり、日清戦争に際しては、事前に三国干渉を予言したりしたが、明治二十九年、駐米全権公使としてアメリカに赴いた。
その在任中――明治二十九年――アメリカのハワイ併合問題が起ったが、このときの星公使の剛腹ぶりは戦慄的である。彼は、当時ハワイ在留邦人がハワイ人につぎ、アメリカ人の四倍にも達することを指摘し、またこれがアメリカの有に帰せんか、「太平洋上における均勢を失するに至りては帝国の決して遅疑逡巡《ちぎしゆんじゆん》すべき秋《とき》にあらず」として、事前にハワイを占領することを外務省に意見具陳をしている。結局ハワイは日本に賠償金を支払ってアメリカのものになるのだが。――星はその賠償金をとるためにこの強硬策を述べたものともいわれる。
星公使の下にあった松井慶四郎書記官はのちにいう。
「……容貌といい、言葉づかいといい、はたその態度といい、米国の交際社会の好評なきは当然なり。しかるに君は米国の政治家よりたしかに人物なりと認められたり」
そして、明治三十一年夏、日本で最初の政党内閣いわゆる隈板《わいはん》内閣が成立したと聞くと、彼は勝手に自分がその外相になるものと決めて帰国の途についた。外務省は驚いて「帰国を許さず」と命じたが、彼は強引に帰って来て、横浜に出迎えた外務省の役人にニコリともせず、
「電報はサンフランシスコで受け取ったが、まだ見ていないよ」
と、その電報をそこで開封して見せて、役人を唖然たらしめたという。
……伊庭《いば》想太郎が新橋で見たのは、まさにその「押し通って」日本に帰って来た星亨の姿なのであった。
七
そのあいだ、伊庭想太郎は東京の巷の砂塵の底を這うように生きて来ている。
近所の子弟を集めて武士道を教え、一汁一菜のストイックな生活をものともせず、愉《たの》しみはただ木剣の素振りと、旧幕臣とのたまさかの会合における回顧談だけといってよかった。
まさに清貧の生涯である。
ただ彼としても決して貧乏を快としているものではなく、それどころか常人以上に体力もあり気力もある人間だから、長い人生のあいだには、もう少しよい生活をしようとあがいたことがなかったというと嘘になる。
明治十五年――星亨が自由党に入党したころだ――十一月四日の「東京日日新聞」に彼のことが出ている。想太郎は三十一歳であった。
「旧幕府のころ撃剣をもって世に鳴りたる伊庭軍兵衛の子息想太郎氏(維新の乱に函館にて戦死せられし八郎氏の弟)つらつら世の変遷を見て、日本将来の富強をいたすにはいたずらに兵技の力によるべきにあらず、よろしく工業を起すこと肝要なれと思いたちて、昨年より江戸川端に製紙場、下二番町に提灯製造所を開かれしが、最初のほどは千百の艱難《かんなん》こもごも来りて窮苦の困地にいたりしこと数々なれども、氏は忍耐と勤勉を盾としていささかも屈せず、ついに本年に至りて社基もはじめて堅固なる地位に至れりという。
されば製紙場にては半紙の類をはじめ漉返《すきがえ》しという下等の品まで漉きたて、提灯の方も高張《たかはり》提灯ブラ提灯は申すに及ばず、開業式に用うる赤玉提灯など張り立つるに、その賃を廉《れん》にしてもっぱら信実を旨とすればにや、註文も至って多しと申すもこの社のために決して提灯を持つわけにはあらず。
ただ世にいえる士族の商法にしてかくのごときに至れるも、まったく忍耐の功なることを示さんとてのことになん。とにかく撃剣屋の提灯屋と化したるはけだし異数というべきものか」
旧幕臣仲間との合作事業であった。
このころ彼は、珍らしく懐具合がよかったのか、前後して二人の妾を持っている。
甚だ豪勢なようだが、ただ彼のために弁じておくと、このころの蓄妾は、一種の人助けでもあった。女性の職業が極端にかぎられていた時代で、食べさせてくれさえすれば――どころではない、食うや食わずの男でも、持つ気になれば簡単に妾が持てたことは、当時の小説類を見れば明らかだ。で、彼は製紙場に働きに来た貧しい女を、二人まで妾にした。
ただし、そうはいっても、これは想太郎のあまり倖《しあわ》せでない家庭生活の反動であったことは否めない。
原因は、妻のお貞であった。――彼女との仲は、最初から、しっくりしなかった。あんな事情で妻とした女であるにもかかわらず、である。
「……あんた、八郎さんとはちがうわねえ!」
妻にして間もないある夜、なに思ったのか、お貞が舌打ちしてつぶやいたのに、想太郎は衝撃を受けた。それがはじまりだ。
兄八郎は、こんな女を愛したのか? 日とともに、彼の狼狽と幻滅は底なしになった。
お貞は、酒好きで、美味《うま》いもの好きで、家事がきらいで、ただだらしのない女であった。――芸者上りだからあたりまえといえるが、いったいあの日の哀艶なお貞はどこへいったのだ? 年とともに、顔かたちさえ、いたずらにだぶだぶと崩れてふとって来るようであった。食事の粗悪なことを、年がら年じゅうこぼしながらである。
さらに想太郎をぎょっとさせたのは、夜の彼女が実にいかがわしい行為を求めたことであった。彼は蒼ざめてさけんだ。
「伊庭の男は、左様な下劣な所業を教えられてはおらぬ!」
お貞はあっけにとられたように彼をながめ、やがてげたげたと笑いながらつぶやいた。
「そうねえ、そういえば、こんなことは八郎さんはしてくれなかったわねえ。……こんなこと、してくれなくっても、八郎さんはほんとによかったよ。……」
――では、だれに教えられたことだ?
卒然《そつぜん》として、想太郎の頭に、グロテスクな、肉欲的な、獣的な星の顔が浮かび、彼はわれを忘れてお貞を殴りつけた。お貞は負けず、泣きわめきながら彼にかみついて来た。……彼は負けた。そして、あやまった。
このときにかぎったことではなく、彼はしょっちゅうお貞と喧嘩してはいつも負けたが、それは彼の自制のためもあったが、何よりお貞の最後にはなつ一言のためであった。
「あんた、兄さんに恥ずかしくないの?」
それは想太郎を打ちのめす何より効果的な鉄槌《てつつい》であった。
――そのくせ彼は、二人の妾を持ったときに、お貞からやれといわれたことを試みたが、いずれも栄養不良の陰気な妾では、まるで猫が古沼の水をのんでいるようで、ひたすらもの哀しく、あさましいばかりであった。だからといって、お貞には、どうしても出来ないのである。お貞の身体にまつわる兄の亡霊は、彼を縛る鉄鎖でもあった。
右の製紙業や提灯屋は、いっときうまくゆくように見えたが、しかし槿花《きんか》一朝の夢であった。やがてまもなくそれは潰れて、彼はもとの塾に引き籠《こも》らざるを得なくなった。残ったのは、少なからぬ借財と、二人の妾だけである。誠実さという点では疑えない想太郎は、妻と同様、妾が逃げ出さない以上、彼女たちを捨てることは出来なかった。
女たちと、貧しさのあまりの諍《いさか》いを繰返しながら、彼はますます沈鬱な男になっていった。ただ、毎日の慣習として木刀の何百回かの素振りをやりながら、彼は自分だけにいい聞かせた。
「……いまに見ておれ、おれは兄に恥じない弟だということを思い知らせてやるぞ。死ぬときだけは、世のため、人のため――武士道のため、壮絶な死にようを見せてやるぞ!」
その悲願の対象を星亨に見つけ出そうとは、その日が近づくまで彼自身とて意識しない。あの二頭立ての馬車の華やかな星夫婦を見たときでも。――彼はそれほど下等な嫉妬漢ではなかった。
しかし、星亨の凄じくもまたかがやかしい軌道は、想太郎もよく知っていた。想太郎のことが新聞記事などになったのは、最後のあの日を除いては、あのときただ一度だけであったが、星に関する記事は、明治中期の新聞を埋めつくすほどだったからだ。
こんなはずはない。こんなはずはない。……
――あいつが!
実にそれは、伝統ある伊庭家に生を受け、育った想太郎の想像を絶する怪物の軌跡であった。
あの酔っぱらいの無責任おやじ、あの台所で食を乞うていた幽霊のような母親のあいだに生まれた男、彼自身|塵《ごみ》箱の腐れ魚をあさるような育ちかたをした男、それが官吏となったことさえ奇怪なのに、官吏となってもなお遊里で乱暴のかぎりをつくし、俥夫巡査となぐり合いをするような男が、なんと衆議院議長となり、アメリカ駐在全権公使になるとは?
あり得ないことが現実にあり得るのは、彼の「悪」そのものの力というしかない。
げんに新聞に彼のことが出るたびに、必ずといっていいほどつけ加えられている用語を見るがいい。曰く「収賄」、曰く「放言」、曰く「策謀」、曰く「恐喝」、曰く「除名」、曰く「懲戒」、曰く「拘引」、曰く「罪状」……。
何が聖代だ。こんないかがわしい、けがらわしい化物が、幕府の栄職についたことがあったか。徳川家が滅んで現在のような世の中が出来上ったことが、何ともいいようのないまちがいであったことは、星亨一人を見ていてもあきらかだ。……
しかも、明治の暗天を飛ぶ怪星を仰ぎつつ、地上の剣はなお錆びたまま横たわっていた。明治三十二年の夏、上野東照宮での「旧幕府史談会」に出席して兄八郎のことを語りつつ、「刀は案外よく切れるものだ」などしゃべったとき、まさか彼はおのれの二年後の凶行を夢にも考えてはいなかったであろう。
そのころ彼は、東京農学校の校長をしている。彼が塾のほかに小笠原子爵家の子息長生の家庭教師などをやっているのを榎本武揚が知って、その職に推薦したものであった。所を得て、生活はやや落着き、やがて五十になろうとするその姿には、古武士の風格さえそなわり出していた。史談会に出た老人の中には、「軍兵衛どのかと思うた」と笑顔になった人もあった。
アメリカから帰った星亨は、望みの外務大臣にはなれなかった。その代り、でもないが、明治三十三年秋には第四次伊藤内閣の逓相《ていしよう》となっている。しかし一方では、東京市会議員でもあり、東京市会は完全に彼の掌中にあった。
果然、その冬、東京市会の疑獄事件が起り、収賄の嫌疑で逮捕されるものが続出し、それら市会議員の首領株であった星もまた「公盗の巨魁」として新聞の攻撃を受けるに至った。彼は内閣に迷惑のかかることを恐れて大臣の辞表は提出したが、「疑獄は政敵の陰謀である」と公言して、依然として市会議員の座にあった。
地上の錆びた刀は、妖光をはなった。
八
明治三十四年六月二十一日、この日は東京市参事会の例会日であった。
午後三時、会議の終った参事室では、星が松田市長や助役や参事会員などと談笑していた。三時半ごろ給仕がやって来て、星に面会者がある旨を伝えた。テーブルに左肘で頬杖ついていた星は、名刺を見てちょっと首をかしげ、眉をひそめ、「きょうは多忙だといってくれ」といった。
そのとき、ほとんど給仕と踵《きびす》を接して一人の男がはいって来た。黒|絽《ろ》の紋付羽織に仙台|平《ひら》の袴をはき、口髯を生やした長身の立派な顔をした男で、ゆったりと歩いて来て、星亨のそばに立つ。
「天下の逆賊星……まだ悪を悔いぬか」
と、ほかの人間には聞えない低い声でささやいた。
星はけげんそうに見あげ、それから相手が袴のかげに持っているものを見て、がばと起って、
「君は……退がれ」
と、大喝した。
とたんにその男の袴のかげから電光のようにひらめき出したものが、星の右腹をつらぬいた。
翌日の「読売新聞」にいう。
「伊庭は、仕すましたりと、今まで事もなげに穏容をつくろいたる形相一変し、満面阿修羅のごとく怒髪逆立ち、眼光を炬のごとく血走らせ、ヒラリとふりあげたる一刀の血はすでにその鍔際までしたたりたるを見たる一座は、さてはと驚愕したる一刹那に、伊庭は、天下の道のために奸賊を誅す、といいざま三度その左脇を刺し、なおあき足らずして半ば死したる星氏をひきずり寄せ、またもや三刀を加えたり。この間わずかに十数秒時」
星が絶命したのを見ると、伊庭想太郎は立ち騒ぐ人々に、
「あなたがたに危害を加えないから安心なさい」
と、神色自若としていった。
「ただ、願わくば、拙者にここでみごとに割腹させていただきたい。……」
狂乱した人々は、あり合わせの器物を雨のように投げつけはじめ、それに打たれて血をながしながら、明治の剣客伊庭想太郎は、宙にだれかの幻を見るように眼をあげて、銅像のように立っていた。
九月一日の夜、鍛冶橋監獄署の独房の扉がひらき、だれか、看守に案内されて、灯さえ持たずにはいって来た。
「伊庭君」
と、影は呼んだ。
「明後日は君の公判だな。君は死刑を望んでいると聞いたが。……」
闇の底に坐っていた男はたずねた。
「されば、死に遅れたのです。あのとき腹を切らせてくれれば、せめては兄の死にならえたものを。……しかし、あなたはどなたです」
「星君の友人だ。数少ない、友人の一人だ。……しかし、君の凶行に及んだ心情はよくわかるので黙っていようと思ったが、明日私は洋行に出かけるので、やはり星君のことについて、君に一言いい残してゆきたい」
と、影はいった。
「私から見れば、星君は結局、一生、自由と民権のために力闘した人であった。そのために死ぬことは、常に覚悟していた。だからすでに夫人に遺言があった。墓は、星亨之墓、それだけでよい、それだけだ。――それは守られるだろう。……」
「私はあの男の目的は知らない。生き方が許せなかったのだ」
「そうか。それでは私の感慨は私のものとして、事実だけをいっておく。いいかね。星君はよく集めたろう、しかし、よく散じた。友人として死後調査したところでは、星君の財産は一万三千冊の書物と借金のほかは、一銭もないといってよかった。……星君は、結婚後はただ夫人を守るだけで、ほかに一妾もない清潔なものであった。この事実だけは信じて、心に刻んで欲しい。……その男を殺した君は、公判の結果、なるべく生命があられんことを私は祈っておる」
影はしずかに去った。扉はしまった。
闇の底の男は、闇そのもののように動かなかった。
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〈関連年表〉
年 出来事
明治元年(一八六八) 明治維新
一月、鳥羽・伏見の戦い
十月、五稜郭の戦い
明治十年(一八七七) 西南戦争
明治十四年(一八八一) 開拓使官有物払い下げ事件
十二月、木村荘平のいろは牛肉店第一号店オープン
明治十五年(一八八二) 四月、岐阜事件(板垣退助刺傷事件)
十二月、福島事件
明治二十四年(一八九一) 五月、大津事件
明治二十五年(一八九二) 十一月、黒岩涙香、「万朝報」を創刊
明治二十六年(一八九三) 十月、「二六新報」創刊
明治二十七年(一八九四) 七月、日清戦争開戦
明治二十八年(一八九五) 三月、清国全権大使・李鴻章狙撃事件
四月、下関条約調印新
夏目漱石、松山中学校に赴任
明治三十年(一八九七) 尾崎紅葉『金色夜叉』
明治三十四年(一九〇一) 六月、星亨暗殺事件
与謝野晶子『みだれ髪』
十二月、足尾銅山鉱毒事件をめぐり、田中正造が天皇に直訴
明治三十七年(一九〇四) 二月、日露戦争開戦
「万朝報」を退社した幸徳秋水、堺利彦らにより「平民新聞」発行
小泉八雲『怪談』
明治三十八年(一九〇五) 一月、旅順陥落
三月、奉天の戦い
五月、日本海海戦
九月、ポーツマス講和条約調印
日比谷焼き打ち事件
夏目漱石『吾輩は猫である』
明治三十九年(一九〇六) 夏目漱石『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』
明治四十一年(一九〇八) 夏目漱石『三四郎』
明治四十二年(一九〇九) 北原白秋『邪宗門』
夏目漱石『それから』
明治四十三年(一九一〇) 小山六之助『活地獄』
六月、大逆事件、幸徳秋水ら逮捕さる
石川啄木『一握の砂』
夏目漱石『門』
[#地付き](作成・日下三蔵)
山田風太郎 (やまだ・ふうたろう)
一九二二(大正十一)年一月、兵庫県養父郡関宮町の医家に生れる。三六年中学に入学、その頃の仲間の渾名が雲太郎、雨太郎、雷太郎で、筆名・山田風太郎の契機となる。四九年、「眼中の悪魔」「虚像淫楽」で第二回探偵作家クラブ章を受賞。五〇年、東京医科大学を卒業するが、医師の道を進まず、作家として身を立てる決心をする。
『甲賀忍法帖』『くノ一忍法帖』を初めとする、風太郎忍法を生み出し、忍法ブームをまきおこす。さらに四八年より『警視庁草紙』『幻燈辻馬車』『明治波濤歌』など、独自の手法による明治もの≠発表、ファンをうならせる。他に、『人間臨終図巻』『あと千回の晩歌』など死をみつめた作品もある。二〇〇一年、尊敬する江戸川乱歩と同じ、七月二十八日没。
本作品は一九九七年一〇月、ちくま文庫として刊行された。