山田風太郎
戦中派虫けら日記――滅失への青春
目 次
昭和十七年(1942)
十一月  十二月
昭和十八年(1943)
一 月  二 月  三 月
四 月  五 月  六 月
七 月  八 月  九 月
十 月  十一月  十二月
昭和十九年(1944)
一 月  二 月  三 月
四 月  五 月  六 月
七 月  八 月  九 月
十 月  十一月  十二月
あとがき
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昭和十七年(満二十歳)
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10月   下旬よりガダルカナルの死闘最高潮に達す。
11月19日 ソ連軍スターリングラードで反攻開始。
12月1日 アメリカ原子核分裂に成功。日本もこの年銑鉄生産、敗戦前の新記録。
4日 大本営陸軍部の秋山中佐、「アメリカの捕虜にお可哀想といった上流婦人あり」と放送、国民の戦意を煽る。
31日 大本営ついにガダルカナル撤退を決定。
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十一月
二十五日
○地上には白い霧が淡く降りているが、空は燦爛たる蒼い日の光に満ちた美しい朝である。田町駅から会社へ半里の路を、大股に歩きながら、自分は始終微笑を洩らし続けた。
何かこの頃は愉快でならない。天気のよいせいであろうか? それもある。自分が働いて生きているという満足感の為であろうか? それもある。が、歓喜は心の内面から仄かに照り通ってくるような気がする。
「真」とは何であるか?「善」とは何であるか?「美」とは何であるか?
これを追い求める心が、漸く微かながら萌え出て来て、それが魂の内側へ次第に廻り込んでゆく最初の出発点に立ったような喜悦の念である。
日記は魂の赤裸々な記録である。が、暗い魂は自分でも見つめたくない。日記を書いて置こうと思い立ったのも、この悦ばしく明るい魂のせいかも知れぬ。しかし、嘘はつくまい。嘘の日記は全く無意味である。
○アダムス・ベック『東洋哲学夜話』を読む。
二十六日
○朝、田町駅から会社への途中、幾台もの捕虜を満載したトラックに会う。カーキ色の外套にカーキ色の縁なし帽子をつけた赤い顔は、通りすがりに物珍らしそうな顔をふりむける日本の労働者よりも遙かに暖かそうで、寒い朝風もさほど苦にならぬように見える。それに彼らも平気なもので、彼らの敵国の労働者を面白そうに眺めてゆく。しかし、トラックの行先には、東京湾の積荷を運搬する一日の課役が待っているのだ。
トラックの一番前には銃を抱えて日本兵が監視しているが、その両側には、その一倍半もありそうな捕虜が立って、ポケットに両手をつっこんだまま愉快そうに喋っている。お互いに話し合っているのか日本兵と話しているのかはわからないが、日本兵は特有の無表情な厳格さの中にも、眼に微かな愛情の光を湛えている。
そして道ゆくわれわれもこの敵兵に対して、さほど憎悪を感じない。われわれは貧弱である。しかも容貌体格魁偉な彼らを捕虜とし、その生命はわれわれの掌中にある。その外見の優劣は一層われわれに満足と愉快の念を起させるだけである。
○しかし、彼らの余りに平然とした態度は、一面軽侮の念を抱かせると共に、半面、妙な不安を与えそうである。自分は、彼等西洋人の深刻激烈なる闘争の歴史を知っている。それから見ると、今度の大戦争を除いた日本史などは、まるで子供だましのような気がする。――一体、徳川時代は三百年もの未曾有の平和を有しながら、どれほどの文化を築いたというのだ? 大雅――芭蕉――馬琴――西鶴――西欧の芸術に較べればみんな子供だましだ!
昨夜読んだアダムス・ベックの『東洋哲学夜話』では、東洋で偉大な思想を創造した唯一の民族印度人は、欧州人の先祖と同一系統に属する先祖を持つらしい。彼は他の東洋人よりも西洋人の方が確実に印度人に近いような口吻を洩らしている。そして、印度人以外には、彼は支那人にも多少の敬意を表しているが、日本人には、「模倣の非常に進んだ猿」或いは「日本は、アジアは独立してアジアを処理出来るという謬まった思想をアジア人にふきこんだ」というような言辞を引用してそれを否定しようともしない。
日本は、果してこの戦争の終局に勝つであろうか? 余りに冷やかな眼をこの祖国の運命をかけた大戦争に注ぐことは責められてしかるべきであるが、勝たねばならぬ、勝つにきまっているという単純な断定は少くとも自分を昂奮させない。
しかし、現在までのところ、日本は彼等に勝っている。しかし、ベックの如き観方を根本的に粉砕するためには、戦争に於て最後まで彼等を敗北させる一方、その血の勝利を、克己の中に隠し、弱々しい虫のいい他の東洋人を尊重して、燦爛たる亜細亜黄金時代を創造せねばならぬ。
日本は、世界史に未だ曾てない唯一の犠牲的民族となることによってのみ、永久に輝かしい不滅の名を以て想起されるのだ。
○十返舎一九『東海道中膝栗毛』を読む。
二十七日
○「人に同情することは憐愍を与えることである。憐愍を与えることは軽蔑することである」
二、三日前のこと、自分は会社の昼休みに煙草を吹かしながらこんな意味のことをいった。
それは菊池さんが、高須さんにオーバーを借りて、「高須さんはえらい人だよ。とてもああはなれるものじゃない」と感激讃嘆の声を放っているのを聞いたからである。そのオーバーなら、既に高須さんが自分に貸してやろうかといったものである。が、自分は断った。借りたオーバーで冬をしのぐより、寧ろ我慢をした方が男らしいと考えていたからであった。だから、素直な菊池さんの感謝の声にも、ちょっとこんな皮肉を以て酬いたわけである。しかも自分は、この皮肉が、菊池さんの心に与える影響など全然無関心であった。自分はただ得意であった。
すると、その時、傍の椅子でやっぱり煙草を吹かしていた深沢さんが、澄んだ眼を閃めかしていった。
「すると同情することは軽蔑することになるんだね。――が、僕はそうは思わない」
自分は、乞食の例を挙げた。しかし深沢さんはいった。
「例えばこないだ僕の兄さんが出征した。近所の人々は僕のお母さんに同情の言葉を注いだ。が、これが軽蔑することになるだろうか?」
――僕は黙った。
成程そういう場合もあった! 明らかに僕の考えは浅薄なものであった。そこで深沢さんとの間に達した結論は、こうである。
「人に同情を与えることは、必ずしも軽蔑することではない。が、人の同情を受けることは、軽蔑を受けることと同様である。――」
これは、若い、荒々しい思想だ。心の底で自分はなお疑う。同情することは例外なしに美しい感情ではないだろうか? そして同情を受ける場合にも、菊池さんのごとく純粋の感謝を以てさえすれば、これも愛らしいことではないだろうか? それでこそ、優しい、和やかなこの世が現われるのではあるまいか?
今日の午後、何かの時に、突然菊池さんが「山田さんはこわい」といった。――無論、あの皮肉で自分をそう深く恨みも憎みもしていないことは明らかである。ただ文字通り、「こわい――」という感じが、菊池さんの心の奥底をうすら寒く通りすぎたのであろう。
が、この一言は短刀のように自分の胸につき刺さった。――自分はまた|へま《ヽヽ》をやった。無邪気な、いい人の心に、浅薄な皮肉で、たとえ淡くとも恐怖の念を抱かせた。――「人格は太陽のごとく円満なるべし」また「真実の愛を以て対せよ」と曾てノートに書いた自分は一体何処へいったのだ?
しかも、自分こそ、あらゆる卑怯な手段をつくして、(たとえ、それが、天涯孤独の自分を護る本能的なものであったにせよ)他の同情を得るに汲々としている人間だのに。……オーバーのことだって、寒がりの自分には、そうしてまだ東京のこがらしを知らない自分には、大して、確固たる決意がありもしないのに。……
が、今のところ、オーバーは借りずに、冬をすごすつもりである。――何だか、こんな小さなことに心をひねくり廻している自分が情けなくなって来た。
○トルストイ『人生読本』を読む。
二十八日
○初霜ふる。大東京の屋根屋根に、白じろと置いた霜から、ほのぼのとした蒸気が立ち昇っている。
今日、同じ作業課から、橋爪という人が出征した。
この人については、ずっと前に久瀬川さんから妙な話を聞いたことがある。お父さんは軍医中将で非常に立派な人であるが、橋爪さんは頗る不良性を帯びていて、流石《さすが》のお父さんも手を焼いているというのである。
その真疑の程は知らないが、その軽薄そうな白い顔に、如何にも不良めいた眼の光、きざっぽい銀縁眼鏡。――この外貌の上に、いつかちかくの椅子でケンカの話をしていたことがある。勿論、徹底した不良青年ではあるまいが、少くとも謹厳朴訥というほどの人ではない印象を持っていた。
同じ作業課に益田さんという娘さんがいる。眉の黒い、瞳の大きい、凄艶といった容貌で、まずこの作業課の女の人の中では屈指の美貌であろう。この人と橋爪さんと「相当な仲になっていた」と、きょうの午前、仲間の人々が話しているのを聞いた。
正午から、会社の門の前で、橋爪さんの歓送があった。空は蒼く、日は輝き、幾筋かの美しい出征旗は風に吹き靡いた。白い台の上に立った橋爪さんの白い頬は薄く血をのぼし、眼は見違えるほどきよらかにりんと澄んでいた。数々の祝辞に対する橋爪さんの答辞は簡潔をきわめたものであった。唯、「では、いって参ります! 有難うございました!」という最後の声だけが、見送る人々の森厳な空気の中に鳴り渡った。
自分は、群衆の間から、益田さんの横顔を見やった。唇は微かに震え、長い睫はうるおっているように見えた。自分は美しい感じに打たれた。
その時、「海ゆかば水漬く屍」の奏曲が風のように流れはじめた。みんな、首を垂れていた。この悲痛勇壮な曲は、どんな日本人にも、心の底から愛国の情を呼び起さずには置かない。……自分でも、何だか国の為に死にたくなった。
やがて征く人を載せた自動車は、人の波に包まれた。万歳の声と激励の声はこもごも湧き上った。益田さんは、うしろに静かに身をひいて、見ていた。自分は、車の窓にとりついたはしたない女の子らをつき飛ばしてやりたかった。自動車は動き始めた。橋爪さんは前を眺めていた。
自動車が向うの角を曲る時、自分はまた益田さんを振向いた。益田さんはなお動かず、大きな瞳を見開いて、これを目送していた。自動車は陽に一度輝いて、そうして軽塵とともに消えてしまった。……
橋爪さんと益田さんが果して仲がよかったかどうかは疑問である。よし仲がよかったとしても、それは春の雲のように淡々しい幻のようなものであったかも知れぬ。……
この二人を結びつけて大いに悲壮がったのは、例の自分の空想の果であるにしろ、自分は嬉しい。自分が覚えた感激は、仄かな一時的なものではあったが、一点の濁りもない美しいものであった。純粋な感激というものは、たとえ他人にとってどんなに笑うべきものであっても、本人にとっては確かに容易に得られぬ快いものである。
○トルストイ『人生読本』を読む。
二十九日
○自分はこの頃、確かに口腹の欲に溺れている気味がある。時局の関係で美味いものがなければない程、また懐が貧しければ貧しい程、美味いものがたらふく食いたい。
自分は元来、食物に全然魅力を感じない方ではない。が、この頃ほど、食欲に悩みを覚えたことはなかった。これを考えて見ると、次のような理由があるかも知れない。
もともと人間は、生活の中に何らかの快楽を持たねば生きてゆけないものである。ところが自分には山野を旅したり、芝居を見にいったり、ほしいままに読書したりする時間の余裕も金の余裕もない。しかし食物だけは、生きてゆく上に必要な最大条件である。食べるだけは、如何なる賢者も貧乏人も省略するわけにはゆかない。自分がこれに楽しみをおぼえて来たのは、実に実用と快楽を一に兼ねようとしたのである。金と時間に、極端に余裕のない人間の、悲しい本能的の打算である。
が、果して飽食が快楽を与えたかどうか? と吟味して見ると、必ずしもそうではない。満腹の後には、うら哀しい索漠とした感が心に漂い充ちてくる。自分は、まだ食べたいなと思い、もう止めて置こうと、心の中で小さな争いが起る時、いつも、食欲は青春の健康の象徴である。若い時にはうんと吐くほど食べるようでなければならぬとか、こんな醜い小さな問題に心を悩ませるのは却って下等だとか、或いはこの次から節制することにして、まあ今度だけは、とか、或いは何も考えず、馬鹿みたいに漠然たる心持で、胃の腑を満足させる。
が、この欲望は、停まる時がない。満足させる場合が増すに従って、それは次第に癖となり、むしろ拡大する。そうして、この欲望が、あまり高等なものでないことも明らかである。
食欲より他に高尚なる快楽を見出せばいいのだ。例えば読書などに。――
金と時間に余裕がないといっても、自分の決意|如何《いかん》では、食事に与える時間と金の幾割かを読書に廻すことは明白に不可能ではない。
書物が好きだと人には高言する癖に、一円五十銭の書物と二円の書物を選ぶ苦悶は、十銭の野菜と二十銭の魚を選ぶ苦悶より遙かに大である。つまり自分は徹底していないのだ。高貴なるもののみを求め、秋天の如く透明なるべき魂が、この世の最も下等な種々の欲望の薄霧に濁り、煙っているのだ。
よし、今日から、一週間、まず食欲だけを押えてみよう。あらゆる理由を粉砕し、仙人になったつもりで、清らかな胃を保って見よう。これは笑うべき小さな争闘ではあるが、一面、実に深刻な偉大なる争闘である!「知」よ、「肉体」を征服せよ!
○アラン『人間論』を読む。
三十日
○純ちゃんは、同じ第三計画に勤めている十六の女の子である。小学校を卒業すると直ちにこの会社に就職して来た会津生まれの、血色のいい、顔のまるまる肥った可愛らしい女の子である。
箸が転んでもお腹をかかえて、笑いころげる。自分たちは「純べ」と呼んでいる。
このあいだ、昼休みの雑談の中に混った「愛のささやき」という一句をこの「純べ」がききとがめて、
「愛のささやきってなあに」
と、尋ねた。自分はそのとき、
「純ちゃん純ちゃん、|あいのささやき《ヽヽヽヽヽヽヽ》ってものはね、そら川に、鮎って魚がいるだろう。あの鮎を焼いてね、笹でカシワモチみたいに巻いたものさ。醤油をつけて食べるととても美味いよ」
といって笑った。そして、
「純ちゃん、鮎の笹焼きならね、正木さんが沢山持ってるから正木さんにお貰いよ」
とつけ加えた。すると正木さんは大いに狼狽して、
「それは高須さんにお貰いよ、高須さんこそ本家本元だ」
と、いった。
それから数日たった或る夜、自分たちが残業していると、主任の机の傍に膝を組んだ金子さんと正木さんが、純ちゃんを中に、愉快そうに笑っているのを見た。そして、
「ねえ、金子さん、鮎の笹焼きってほんとうにおいしいの?」
と、まじめくさって尋ねている純ちゃんの声が聞えた。自分はまたノコノコと近寄っていって、
「純ちゃん、鮎の笹焼きもこのごろは配給制になったからね。ちょっと手に入らないよ、配給券がなくっちゃあ。――そいつは高須さんが持ってる。一枚もらって、キミの隣組長に世話してもらうんだね、|あいのささやき《ヽヽヽヽヽヽヽ》を下さいって。――」
と、いった。正木さんは心配そうに、
「純ちゃん、君はホントに何にも知らないね。十六にもなったら、もっと知っていなけりゃならないんだがねえ」
とつぶやき、金子さんは愉快そうに、
「純ちゃんは長生きするよ」
と笑い崩れた。
自分は、こんな他愛もない悪戯に少し憂鬱になった。しかし純ちゃんの「無邪気」には一毫の疑いをも挟まなかった。ほんとうに、そんなに笑い続けている金子さんや正木さんを、まだケゲンそうにボンヤリ見ている純ちゃんの、どこに疑問を抱く余地があったろう。
その翌朝、純ちゃんが高須さんに、「鮎の笹焼き」の配給券を貰いにやって来た。高須さんは澄まして、処女林のチケットを見せびらかしていた。処女林というのは新橋駅すぐ下のカフェーの名である。チケットは上半分青い色で青中隊と印刷してあり、下半分赤い色で節江と印刷してある。純ちゃんはこれを受取って、
「ほんとに、これ隣組長さんとこへ持ってけば、鮎の笹焼きが貰えるのね?」
と、きまじめな顔でいっていた。自分は少し悪戯に念が入りすぎたかなと思った。
ところが一週間ほど前に、突然純ちゃんが会社を休んだ。そして代りに、純ちゃんのいる会社の寄宿舎の舎監がやって来た。舎監は四十くらいの、あまり上品とも見えぬ婦人である。
この口から、純ちゃんに盗癖があり、また二、三日前寄宿舎に小さな盗難があったことが明らかにされた。自分は初めこれを疑った。しかし、同時に舎監が持って来た純ちゃんの日記を、主任の坪松さんから借りて読む機会を持った高須さんや菊池さんが、口々に、
「とんだヤツだ。まんまと一杯くわされた」
といっているのを聞いて、この純ちゃんに関するすこぶる不面目な事件を信じないわけにはゆかなかった。
その後、この日記は自分の手に入った。自分は、読みたくはなかった。が、読みたい気もした。それで、そのまま机の中へ放りこんで置いた。
一日休んで純ちゃんは会社へ来た。その顔は別人のように深い影を持ち、眼は暗く光ったり、沈んだりした。みなは依然として、純ちゃん純ちゃんと相対したが、どこか妙にギゴチないところがあった。純ちゃんは、一日中、押し黙って机の前に坐っていた。
その翌日、偶然、純ちゃんが自分の机の傍に立っている時、自分は煙草を取り出す為に机の抽出をウッカリあけて日記を発見された。純ちゃんは眼を光らせていった。
「山田さん! それどこから持って来たの? だれだれが読んだの? あなたは読んだの?」
自分は可笑《おか》しくなって、笑いを押えるのに骨が折れた。自分の迂闊さと狼狽が腹の底から可笑しくなったのである。が、自分はまじめな顔になって立ち上った。
「純ちゃん、この日記は君に渡すことはできない。日記をだれが読んだかもいうことはできない。――しかし、僕はまだ読んでいないことは断言する。これはまもなく君に返してやる。が、今は絶対に返すことはできない」
純ちゃんは哀しげにいった。
「読んでもいいの。あなたが読んでもいいの」
そして急に賢こげな顔になって、
「この日記は、私が書いたものじゃないのよ。小学校時代のお友達にむりに書かされたものなのよ。だから、だれが読んでも何でもないわ」
と、いった。
自分は、高城さんや高須さんに相談した結果、日記を純ちゃんに返してやることにした。読まないつもりであったが、最も危険な一生の或る日に立っている十六歳の女の子をやけにならせないためには、日記の返し方に注意を払う必要があると思い、そのためには一通り日記を読む必要があると思った。そこで、日記をひそかに隣の青写真室に持って入って、青い透明な光線にふり包まれて読み出した。
日記の字はすこぶる稚拙であったが、文章はそう拙い方ではなかった。それは小学校時代同級の男生徒に対する少女の心を赤裸々に書いたもので、眉を顰めさせるより、その露骨ぶりはむしろ微笑させた。胸を悪くするより、そのくどさはむしろ倦怠を覚えさせた。自分は飛ばして読んだ。が、それは明らかに友達に書かせられたものではなく、純ちゃん自身の手で書いたものであること、そうして「愛のささやき」を知らないなど、とんだオヘソが茶をわかす話であることを示していた。
が、自分は純ちゃんに対してボンヤリした嫌悪は感じたが、憎悪は覚えなかった。自分は青写真室から出ると、日記を白い紙につつんで純ちゃんに返してやった。その白い紙の裏にこう書いてやった。
「純ちゃん。
純ちゃんの日記について口でいうのは少々めんどうなので、筆でいいます。あの日記は二、三日前、舎監の先生から坪松さんにわたされたもので、坪松さんは最初の二、三頁だけ読んだようですが、すぐいそがしそうに外出してしまいましたから、ほとんど読まなかったと思います。それから日記はしばらく机の上にありました。もし他の人が読んだならその間のことでしょう。僕は昼休み、偶然坪松さんの机のそばにいって、あなたの日記を目にとめました。そうして悪いことですが、ちょっとひらいて読みました。――しかし、純ちゃんだって、ひとの日記というものは、ちょっと見たいものでしょう?
そうして読んでみて、いやこれはあまり他の人に読まれては、純ちゃんにとってよくないと考えましたので、失敬して僕の机の中にしまって置きました。――坪松さんはまもなく帰って来ましたが、日記のことなどケロリと忘れてしまっていたようです。
その机の中にしまって置いた日記を純ちゃんにうっかり見つかって、僕は大いにあわてました。
僕は純ちゃんの日記をよみました。ごめんなさい。しかし、あの中に書いてあることは、だれにもあることで、僕は少しも悪いとは思いません。そんなことより、僕は純ちゃんがはずかしがってもう会社にこなくなるのではないかと心配です。けれど純ちゃんもこんなことで会社をやめるのは、お父さんやお母さんに合わせる顔もないでしょうし、またあなたはなかば徴用的に就職したのですから、やめようと思っても一寸やめられないでしょう。
あなたの日記を僕よりほかのだれが読んだか、純ちゃんも知らないでしょう。それは大部分がまだ読んでいないから何も知らないためであり、読んだ人はあなたを可哀そうに思ったから、知らない顔をしていてくれるのです。あなたはこの人たちの好意に対しても、明日から元気よく会社へ来なければいけません。
そして僕に関するかぎり、ほかのだれにもいいません。僕だけ知っている秘密としてこの日記はあなたに返します。どうか心配しないで、また明日から今までと同じようにニコニコして会社へ出ていらっしゃい」
純ちゃんはこれを隅ッこで読んでいた。そしてしばらくして走って来て、いきなり、
「私、もう会社へ出たくなくなっちゃった!」
と、いった。
自分は、このあいだの風雨でこわれた傘を修繕していたが、これには驚いて顔をふりあげた。しかし純ちゃんの表情で、それが感動のあまり極度に言葉を圧縮したためで、純ちゃんのいおうとしていることは、
「私はもう会社へ出たくないと思っていたが、その気持が消えてしまった」
と、いうことであることがわかった。
しかし、しばらくの間は、純ちゃんにもと通りのふざけた態度で相対することができなかった。わざとらしい冗談をいう気にはなれなかったので、自分は澄ましていた。
しかし、日記を読んだ菊池さんは単純なだけに、ロコツに純ちゃんに対して悪意を示した。二、三日のちの或る夜、だいぶふつうに返った純ちゃんが、何が可笑しかったのか、ゲラゲラ笑いころげているのに向って、
「何でもないことに、ゲラゲラ笑うな!」
と、どなりつけた。純ちゃんはシュンとした。自分はいった。
「いいから笑え。怒るのは顔面神経を七十三本動かさなきゃならんが、笑う方は二十七本でいいそうだ。笑う方が経済的だからウンと笑いなよ」
といって、アハハと笑った。純ちゃんもアハハと笑った。
そこで冷たいものは全く消えて、いまでは元通りに純ちゃんに相対することができる。純ちゃんもいまでは元通りに明るく働いている。
けれども自分は、この少女を救うために、それほど深い関心を持ったわけではない。それは尊いことだとは承知しているが、他の考えごとに忙がしい自分は、純ちゃん一人を力づけ、励ますだけの余裕をおぼえない。寧ろ「同情イクォール憐愍イクォール軽蔑」のあの定理に近い感情であったろう。ただ、漠然とした浅い道徳感で以上のことをやったに過ぎないが、しかし悪いことではなかったろう。
純ちゃんに日記を返してやった日の退社時刻である。工場の門の前で、純ちゃんの仲間の二人の少女が自分を呼びとめて、
「あなた、純ちゃんに日記返したでしょう?」
と、尋ねた。
「うん、返した」
と、自分がいうと、
「坪松さんに無断ででしょう?」
と、とがめるようにいった。
「純ちゃんのものを純ちゃんに返すのが何が悪い?」
と、どなりつけた。二人は恐れたようにあとずさりし、首をすくめて笑った。
この二人の少女は明らかに友情よりも残酷な興味にとらえられている。これだから女に対して神秘の感を持つよりさきに、軽蔑の念が起る。男の方がよほどいいところが多い。
○一九『東海道中膝栗毛』を読む。
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十二月
一日
○「見知らぬ人への手紙に託して」
「――このごろ僕は、自分の未来というものについて悩んでおります。
第一はこのまま会社へ来年三月まで勤めている一方、一意専心受験勉強をし、医者の学校に入ることであります。正直に申しあげて、僕は医者という職業にさほど熱望を持ち得ません。が、以前ほどいやでなくなったのは確かです。しかも昔はどちらかといえば内科的方面がいいなと思っていましたが、今は外科の方が好ましくなりました。膿の流れや血の匂いや露出した内臓などに、さほど恐怖を抱かなくなりました。のみならず、あのメスを以て人間の皮膚や肉を切るときの手さばきには、一種芸術的な陶酔をさえ感じることができはしないかとさえ思っております。
――が、僕が医者の学校に入りたいという直接的な動機は、まず生活の安定ということが望まれるからであります。三年か四年、とにかく人並みに医学を学べば、まず一生、人並みな生活は可能なのです。次に間接の動機は、医者となることによって人間の肉体と心理を明白に知りたいと思うからであります。人の死なんとするやその声やよし、人間が肉体の苦悩の最高潮に達したとき、赤裸々に現わすその心を見たいと考えるからであります。
僕を育ててくれた人々が、僕に深い憎悪の念を抱いていることは、僕もよく承知しております、が、僕が医者の学校に入り、新しく洗ったような心情を以て通学をお願いしたなら、決して許されないことはあるまいと考えます。
僕は、明るい東京の下宿で、静かな深い学生生活を想像します。豊かな金と豊かな時間を以て、あらゆる知識を吸収してゆく自分を、はげしい瞳で遠く見つめます。そうして医者の学校が終れば、東京の病院に勤務してもよろしい。或いは船医にでもなって三、四年、南の島々と青い地球の海を航海してもよろしい。そうして僕は田舎に帰って開業している自分を想像します。明るい花を庭一杯に咲かせ、病人を診る一方、瞑想しつつ、創作しつつ、都から毎週とりよせた書物の山をかたっぱしから読んでゆく自分を想像します。……これが僕の描く第一の未来であります。
第二は、このまま学校へゆくことを断念し、一生会社に勤めて暮すことであります。もっともこの沖電気はまったく自分の個性と背馳し、かつ軍需工場であるため二年間の徴用を適用される怖れがありますので、長く勤めていることはできますまい。いま会社の或る上役の人から、或る婦人雑誌の出版社へはどうだろうというお話があります。婦人雑誌は少し思いがけないことでしたが、雑誌の編集ということは、僕のもっとも渇望していた職業です。少くとも軍需工場よりよほど個性に合い、また真剣に考えれば、医者よりもはるかに僕らしい仕事であります。
第一の道は、いかにも僕らしい空想が多分にふくまれているとはいえ、現実的な基礎を置いており、第二の道は、自分の個性に合致するとはいえ、明らかに夢想的であります。
――が、更に一つ深くえぐって考えてみれば、第二の道の方が、第一の道より正確に現実的ではないでしょうか? 医者になり、悠々自適している人はあまり見かけません。みんな老いて朽ちるまで、夜昼の境なく働いて死んでゆきます。そして自分も医者になれば、あまり興味もない医者の仕事に一生追われ、何ら自分本来の仕事をなすことなく死んでしまうのではないでしょうか? それに僕を育ててくれた人々との現在の深刻な断層は、容易なことで埋められそうな自信もありません。
一方、会社生活は愉快です。たとえどんなに貧乏でも、今のようなはればれとした男らしい独立の感情は、この年来抱いたことはありません。
――が、この貧乏にもめげず、独立そのものに愉快を見出すという若者らしい心が、一生続いてゆくかどうか? と考えてみると、自分でも決して自信はありません。
僕のアパートの隣の三帖に、楊白石という支那人だか朝鮮人だかが住んでいます。六十歳くらいの痩せこけた老人で、朝早くから労働に出かけ、夜遅く帰って豚のように眠るだけです。豚のように? ――いや、おそらく胸を病んでいるのでしょう。一晩じゅう、死ぬような咳と痰にもがいている様子が、こちらも苦しいほどはっきり聞えて来ます。はじめ空洞《うつろ》な胸腔のひびき、そして咳が昂じて息を吸いこめなくなったときの恐ろしい喘ぎ。――僕は、老衰と貧窮が同時に訪れて来たときの典型を毎日眺め、深い恐怖に打たれます。そして僕は、とうてい、これを予想し得る可能性ある第二の道に躊躇を覚えずにはいられません!
が、また考えてみれば、いかに自分が苦しんでも、それは両親なき自分としては当然な道であって、二十歳すぎて、なお自分に好意を持たぬ人々にすがって勉強するより、ずっと貴いことではないか、とも思われるのです。
どちらの道が、人間として立派なのか。どちらの道が、自分にとって現実的なのか。これがわかれば、あとは僕の精神の力の問題です。が、どちらが立派なのか、現実的なのか、それがわからないのです。考えてゆくと、頭がボンヤリして、ぼけてしまいそうなのです。
――果して僕は、どちらの道を選ぶべきでしょうか? 教えて下さい。古い道徳感と損得感を超えて、真に僕をして笑って納得させるような言葉を以てどうか教えて下さい」
○トルストイ『人生読本』を読む。
二日
○今日の午後、昨日の問題について高城さんに尋ねる。勿論、高城さんが「姐御」という綽名《あだな》通りの侠気肌のまじめな性格を持っているせいもあるが、自分は必ずしもその決定的な返答を期待していたわけではない。自分は真に信用する人を持たない。神のごとき叡智と人格と愛情を持っている人でなければ、いかなる小事でも、こと自分に関するかぎり、その指示には服し得ぬ。といって、じぶんをそれほどエライと思っているわけではない。その「神のごとき人」にいわせれば、憐れむべき自我だと笑うであろう。
高城さんは、聞いてから、
「……そうね、そういえば私にもどちらがいいか、わからないわ」
と、いって、
「でも、やっぱり医者になった方がいいと思うわ」
と、つぶやいた。自分が予想していた通りの返事であった。
自分はそのとき、自分がその問題そのものよりも、自分の頭の中に展開されている複雑な葛藤を整然と発表して訴えることに一種の得意を感じていることを自覚し、急に自分がいやになった。自分は吐き出すようにいった。
「高城さん、人間って、見かけより、なかなか面倒くさいことを頭の中では考えているものだろう? ――しかし、それを人が口に出していうとき、その言葉ほど実際は苦しんでいないものだよ。頭の中はモヤモヤとし、漠然としていて、口でいうほど苦しみの本態がはっきりしていないから、べつにそれほど苦しんじゃいないものだよ」
そして、
「実は、今僕のいったことは弁解《ヽヽ》にすぎないんだよ。要するに僕が徹底して代数や幾何を勉強すればいいんだ。それをしなければならないのに、意志薄弱でやらないものだから、それを自分の心に弁解しているんだ。わざとしかつめらしい問題をこねあげて、自分の良心と意志をごまかしているんだ」
と、いって笑った。
……しかし、こんどはその云い方そのものが、まだテラッていることを自覚した。人間の悲惨なる見栄よ、この世から消えよ。
○トルストイ『人生読本』を読む。
三日
○「大霊これを天地に享け、肉身これを父母に嗣ぐ。万世一系の聖天子上におわしまし、秀麗の山河永えに存す。吾らこの神州に生を享け、体すこやかに気澄みて、今日もまた生産のわざに従う。太陽は炳乎《へいこ》として天に輝き、至誠は炎々として胸奥に燃ゆ。皇国産業の興廃はかかって吾らの双肩にあり。炎熱屈せず沍寒《ごかん》たゆまず、力を協せて産業立国の大道に精進せん。病める人、傷つける友を思えば、溌剌として働き得る身のなんぞ幸いなる。一瞬の油断は忽ちにして身を破り人を傷つく。切々の注意、念々の緊張、安全第一こそげに吾らの信条なれ。父母あり吾らの安らけきを念じ、児女あり吾らのつつがなきを待つ。国安かれ民安かれと祈り給う大御心の厚きを思えば、いかでかこの身命を不慮の災禍に損うべき。願わくば身心ますます壮健にして、いよいよ報国の業にいそしまんことを。いでやつつしみ畏みて祈らん。天地神明も照覧あれ」
これは「安全頌」といって、沖電気では、毎朝朝礼の後に、交替に一人ずつこれを朗唱し、一句ごとに全員がこれを唱和してあとで安全祈願の黙祷をすることになっている。
作業課でも、毎朝これをやるのであるが、一室百人ちかい社員の前に出て、課長のすぐ傍でこれを読むのだから、一人として泰然たる態度で終始する者がない。声のふるえる者、顔色の変る者、文句をまちがえる者、いろいろであるが、一般に二十歳内外の若者は溌剌と勇ましく、老人級の主任などの方がまずいようである。
○きょうから食堂の御飯に玉蜀黍《とうもろこし》が入る。ちょうど卵焼をまきちらしたようで、一見したところでは却って食欲をそそり、そのために食っても美味いような気がする。
しかし、ことしは戦争五年目の末であり、人々が食物に荒《すさ》んでいる上に、例年にない豊作だったから、しばらくでもあの光るように美しい内地米を食べさせるのが「人情宰相東条将軍」の所以《ゆえん》であり、政治の妙諦だろうと考えていたら、かえって飯に麦を入れるようになった。政治はそう甘いものではないらしい。いや、戦争の影響が、それどころではない深刻なものとなった為かも知れぬ。
○今日、高須さんといっしょに午後から神田の松竹映画劇場にゆく。今日封切りの「ハワイ・マレー沖海戦」を見るためである。明後日が休みなので、そのときの方が落着くことは承知しているが、そのときまで待ち切れなかったのである。
劇場はおそるべき満員で、最初の一回は立見席でさえ殆ど見ることが出来なかった。二回目には落着いて見ることが出来た。
これは東宝がその航空映画に於ける本領を最高度に発揮したもので、海軍航空隊の攻撃魂が完成するまでの訓練過程を淡々たる劇に仕組み、最後に凄絶なハワイ・マレー沖海戦を展開する。
特に、ハワイ海戦に於て、オアフ島の山脈をかすめ翼をそろえて翔け下りてくるわが攻撃機、ことし正月の新聞に出た海軍航空隊撮影の歴史的写真と寸分変らぬセットの見事さ、白い航跡を曳いて走る魚雷の突進、噴き上る米太平洋艦隊、それから、乱雲の中を飛びつづける味方編隊の彼方を、訣別の手をふりつつ機尾から一条の白い煙を曳いて自爆してゆく悲壮な犠牲の一機――など、日本人の心を奮い起さずにはおかない傑作であった。その気魄、構成、演技、撮影に一点の欠点も見出す能わず。これは自分がいままでに見た映画のうち、最高のクラスに属する。
○午後五時十五分大本営発表。
「帝国水雷戦隊は十一月三十日夜間、ガダルカナル島ルンガ沖の敵有力部隊に対し強襲を敢行せり。その戦果左の如し。戦艦一隻撃沈。オーガスタ型巡洋艦一隻轟沈。駆逐艦一隻撃沈。駆逐艦二隻火災。我方の損害、駆逐艦一隻沈没。本夜戦をルンガ沖夜戦と称す」
○『人生読本』読。
四日
○夜、会社で菓子の配給がある。カルケットなど、一人あたり小さな風呂敷に一杯分くらいあるが、一円五十銭とは少し高い。しかし、甘味に飢えたみなには狂喜の菓子である。これの配給に眼の色を変えているのが突然可笑しくなった。
「仕事にこれくらい血相変えてやればいいんだがな」
と、つぶやいたらみな笑った。分配しながら、チョイチョイつまんで口に入れる人がある。みな何もいわない。勿論大して不快に感じるほどのことでもない。自分もときどきその誘惑を感じる。が、自分はやらなかった。他人がいなくてもやらなかったろう。小さなつまらんことであるがゆえに、一層こんな行為は、一片の菓子で自分の魂を売っていることになるのである。
○志賀直哉短篇集『小僧の神様』を読む。
五日
○今日は休電日なので、会社は休みである。空は蒼空とはいえない。ドンヨリと煙っているが、光の満ちた曇天である。地上には申し分なく光があふれ、大変暖かい。
○光と暖かさに誘われて、ひるまえ、省線に飛び乗り、小石川の後楽園に開戦一周年記念の催物の一つ「米英撃滅展覧会」を見にゆく。
後楽園グラウンドの入口に、杉の葉で造った美しい大アーチと、「情報局・陸軍省・海軍省後援、東京日日新聞社主催、米英撃滅展覧会」の大看板が立っていた。
先日「ハワイ・マレー沖海戦」に現われたハワイ・オアフ島の大セットがグラウンド一杯に展開し、周囲に聳えたつ山脈、精巧を極めたホノルルの大市街、ヒッカム、ホイラーなどの飛行場に並ぶ飛行機の群、またことし元旦の新聞に掲載された「写真」そのままに並んで浮かぶ米太平洋艦隊など、大規模かつ巧妙に作ってあるが、先日あの映画で凄惨真に迫った情景を見て来た眼には、何となく玩具じみて映る。
空は光をみなぎらせた雲がどんよりと垂れ、群衆は異様な眼をかがやかせて、ハワイ島を足下に見わたしている。拡声器からは軍歌が雷のように鳴りひびき、グラウンドの周囲の壁には、突撃咆哮する兵士の顔、乱雲をついて飛ぶ爆撃隊、砂塵をまいて疾駆する戦車など、過去の戦争映画の一齣がすばらしい大写真になって陳列してある。凱歌の一年を送り、敵の新攻勢を予期する開戦記念日を迎える日本の、精気に充ちた猛々しい一風景である。
○午後二時ごろ九段下の大橋図書館に入る。上京以来、図書館に入るのは、これが三度目である。
最初、この大橋図書館で浸った感動を今も忘れることはできない。宏壮な建物の中に、自分の欲するいかなる書物も山ほどある。まるで熱い歓喜の泉がこみあげるようで、静かな雰囲気を神々しいまでに感じ、階段を躍り上っていった。しかも、一日じゅう読んでいたって、たった五銭とは!
精神的娯楽機関は、それが高尚になればなるほど安いと見える。しかし、これが五銭であるということは、決して人間にとって自慢にできることではない。そうまでしなければ図書館に入る人がなくなるという原因も、決してないことはないからである。
今日はしかし満員なので入口で三十分ちかくも待つ。待っている人々は学生か少女で、大人は全くいない。満員で図書館の入口に待たされるという現象も、喜ぶべき現象であると同時に、悲しむべき現象である。もっと図書館がふえなければならない。
『レ・ミゼラブル』読了。
○夕刊には、米英の戦後対策として、日本をして再び立つ能わざるまでに屈服せしむべき「日本の降服条件」が、米英の新聞から転載されてある。笑えそうで笑えない。深い恐怖と猛烈な敵愾心が湧いてくる。
七日
○ふしぎなほどよい天気がつづく。そもそも自分がこの秋に上京してから一度も会社の往復に雨に逢ったことがない。十月下旬、やっと傘を買うまで、傘なしで通したわけだが、一度も濡れ鼠になったことがないとは全くふしぎである。傘を買ってから一度夜雨に逢った。そのとき風が強くて傘の骨を半分折られてしまったが、先日、割箸を利用して修繕した。が、その割箸の傘を爾来一度も使ったことがない。しかし、寒くなった。きょうなど、空は蒼く澄み、日の光はキラキラと地上に溢れているが、何となく底冷えする。
○このごろ、自分を犠牲にして人のために尽そうと考えている。勿論、その意志だけで、実は自分一人が暮してゆきかねるくらいだから、大したことはできはしない。その意志さえも冷却していることが多い。しかし、この信条を思い出すことが、一月に数回はある。
もっとも自分が、人のためにつくしたという事柄は、あまりに小事で、どんなことがあったか忘れてしまった。が、自分を犠牲にする毎に、苦痛を覚えた記憶だけは残っている。善をするということに悦びを見出せぬ自分が残念である。
自分は善いことをしたときに、あまり悦びを感じることができない。一種悲壮な崇高感を覚えることはある。つまり「善」をなすものが良心ではなく理智であるからである。自分に善をさせるものが良心でない証拠は、悪をなしたときにも大して後悔を感じないことでわかる。ただ理智だけが冷たく静かに自分を拘束している。この理智は、トルストイの『人生読本』から多分に影響を受けた気味がある。
しかし、これをくりかえしてゆくうちに、次第に善が自分と一体化し、ついにそれに悦びを見出すようになるであろう。――が、これを期待するのも、やっぱり冷たく悲しい理智ではあるまいか。
○『人生読本』
八日
○十二月八日。新世界史創造の日。
日本中は湧き返っている。が、どことなく薄ら冷たい恐怖と殺気を抱いて。
読売報知の標題は、「皇祖皇宗の神霊上に在します」――まことに過去一年の日本には神魔が乗り移っていたに違いない。
○去年の十二月八日を思い出す。あの朝、自分は春眠暁をおぼえずといった感じで、ウツラウツラと半覚醒のまま、床中の暖をむさぼっていた。すると下で、あわただしい節の声と、「旦那さま、旦那さま」と叔父を呼ぶ声が聞えた。
「日本が、西太平洋でアメリカとイギリスと戦争を始めましたって!」
自分は愕然として眼を大きく見ひらいた。ついにやったか!
痛快とも何ともいいようのない壮大感に圧倒され、身体はしばらくぶるぶると震えていた。起きると東天に微光あり、白雲は西へ流れて天空一碧。
十一時、ラジオのスイッチをひねると、調子は極度に悪く、雑音の中に軍艦マーチが聞えた。
新聞には、例によって日米会談の重圧、南方包囲陣の狂奔を載せているだけで、戦争の気配があると云えばあるが、ないと云えばない。
零時すぎ、宣戦の大詔をきく。東条総理の談話をきく。政府発表をきく。戦況には全身の血が躍った。曰く、帝国海軍は今日早朝より西太平洋にて英米海軍と激闘中なり。香港、シンガポールには第一回の大爆撃を行い、上海英米租界は占領せり。上海淀泊中の米艦は撃沈、英艦は降服せしめたり。マレー半島に対する敵前上陸に成功し、ハワイ、グアム、ウエーキ等はわが大空襲にさらされたりと。ワシントン電によれば、ハワイ沖合に日本軍の大輸送船団の影見えはじめたりと。
東条首相疾呼して曰く「帝国の興廃はこの一戦にあり」ああ、実に帝国の興廃はこの一戦にあり!
午後は、碧い空の下を、村中は小学生の楽隊にどよめいていた。夜は、全村あわただしい燈火管制に入った。
昭和十六年十二月八日、この日、日本にとって歴史最大の栄光の日となるか。また恐るべき滅亡の日となるか。いや、われわれは断じて栄光の日たらしめなければならぬ。自分は昂奮の笑いを顔じゅうに浮かべて、一日中、ラジオにかじりついていた。
○あれから一年、世界は変った。
が、枢軸国と連合国の激闘はいまなお勝敗の色を見せぬ。むしろ現在の戦況は、枢軸側が防禦態勢にある。ドイツ、イタリーは何をしているか?
○『人生読本』
九日
○霰たばしり、耳の切れるような恐ろしく寒い朝。一日中日がさしたり曇ったり、凍るように寒い日。
谷萩大本営報道部長の、昨夜日比谷公会堂に於ける演説が新聞に出る。
大東亜共栄圏の建設は着々進捗中なること。ガダルカナルの血闘では、日本軍が武器糧食の欠乏に耐え、寡兵を以て一寸刻みに米軍を退却せしめつつあること。将来に於て日本は、インド、オーストラリア、アラスカを攻略せざるべからざること。
平出海軍報道課長も演説している。
「ソロモン海域の海戦に於けるわが沈没戦艦は陸奥長門級のものにあらず、二十八年前に進水せる老艦なり」また「わが新鋭戦艦、新鋭航空母艦は続々就役中なり」と。
去年の今日は、雨が蕭々と降った。新聞には、宮城前にひれ伏して戦勝を祈る国民の写真が出ていた。
○『人生読本』
十日
○マレー沖海戦一周年。
今にして思えば、もとより日本の雷撃機の性能を信じていたとはいえ、開戦三日にして英国東洋艦隊の主力を全滅させた物凄さには、たんなる航空機以外の超強力武器があったのではないかと当時考えていたが、やはりあの海戦の成功した最大原因は、勇猛果敢な大和魂以外の何物でもなかった。
しかし、あの日の感激は今も忘れることが出来ない。自分は有頂天の中に、ああ日本の過去未来にわたって、これほど雄大悲壮、荘厳をきわめた国家的栄光の日はまたとあるまいと思い、深い憂鬱の念につつまれたことを思い出す。そうして、それは事実であった。
あれから一年、捷報《しようほう》は櫛の歯をひくごとく至ったが、あの開戦直後の三日間ほど大いなる感動を与えた日はなかった。そうして、遠い未来、日本が完全に英米を粉砕して凱歌の日を迎える時も、あの三日間ほどの暴風的な感動を国民に与えることはあるまい。
○『人生読本』
十一日
○最近の省線電車の混み方は殺人的である。特に朝出勤の時など、人間待遇ではない。
けさ、大崎駅から、三歳ぐらいの男の子の手をひいた老婆が乗りこんで来た。折れ曲った腰の上に、大きな風呂敷包みを背負っている。すると、傍に坐っていた、立派な体格をした四、五十の紳士が、つと立ってこれに席を譲った。お婆さんはペコペコ頭を下げて、その席に子供を坐らせて自分は白い鉄棒にかじりついた。傍に立っていた自分は、その紳士の傍の眼鏡をかけた若い会社員の心が少し動揺しているように感じた。彼は新聞をひろげていたが、眼は活字を読んでいるようではなかった。しばらくすると、その会社員の隣りの少女が思い切ったように立って、お婆さんに席を譲った。子供とお婆さんの間にはさまった会社員は、こんどはむしろ嘯《うそぶ》くように新聞に眼を注ぎつづけていた。――が、その心が決して平静でないことは、すぐにわかった。なぜなら電車が品川を発してからしばらくたつと、突然彼はビクンと立ちあがり、
「品川はもう過ぎましたか?」
と、すっ頓狂な声をあげたからである。
○『人生読本』
十二日
○臨時休電日であるが、会社にはゆく。四時半、会社がひけると、金子さん、久瀬川さんと五反田にゆく。
駅前のすし屋で、鮪とあおやぎと海苔のすし一皿を食う。それからフルーツパーラーにいって、おしるこを食う。次に食堂に入って、魚の天ぷら、鰯団子、大根、こんにゃくなどのランチを食う。最後にパン・ケーキ・ベーカリーに入って、ミルクとケーキを食う。ここで思いがけなく菊池さんに会う。高須さんから借りたオーバーの襟を立て、ソファでコーヒーを飲んでいるところは、貧乏仲間とは受けとれない。
駅前で別れ、生暖かい南風の吹きわたる夜の町を、いい満腹の気持で帰る。しかし、どことなく物哀しい感じを抱いて。
○島崎藤村編『北村透谷集』を読む。
十三日
○このごろすこし憂鬱だ。ときどききちがいみたいに陽気になることがあるが、すぐに秋の虚しい午後のような憂鬱が心に充ちてくる。これは考えてみると、金がないことに起因するらしい。
実際上京して以来、一日として金に余裕を感じた日とてはない。いつも借金に苦しんでいる。それで金を借りる術が、一つもうまくなったわけではない。勿論、鮨やケーキを食べて廻った日もあるが、これはみな誘われたか、人にオゴって貰ったものばかりで、自分で進んで贅沢に金を濫費したことはない。――ただ、本を買う金を除いては。
が、金がないので憂鬱になるなんてシャクだ。考えてみると「不勉強」の為もあるらしい。実際、みずから好んで上京して来た意義は勉強の二字の中のみにある。が、毎夜、八時過ぎに残業を終えて、三帖のアパートの部屋に帰ると、たちまち睡魔と倦怠に襲われて布団にもぐりこんでしまう。「みずからの務めを果さない哀しみ」はここから生まれる。――
○アダムス・ベック『東洋哲学夜話』を読む。
十四日
金がなくなったので、心が殺伐になった。人間なんて単純なものだ。「倉廩《そうりん》充ちざるも礼節を知り、衣食足らざるも栄辱を知る」ようになれないか?
○夜、菊池さんといっしょに帰る。菊池さんはきょうが給料日なのですこぶる気が大きくなって、ケーキとコーヒー、あん蜜とおしるこを奢ってくれる。貧乏仲間の親切は涙の出るほど嬉しい。が、この涙の中にはホロ苦いものも含まれていないこともない。
○吾々は堕落という言葉を聞くと、ユスリ、タカリの無頼漢とか、酒に爛れた娼婦とかを想像する。だから、吾々は口でこそ、「俺も堕落したな」と自嘲的に呟くことはあるが、腹の底から、自分の堕落について自信を持つことは少ない。そうしてどこかで、「自分なんかまだいい方さ。いつかは立派な人間になるにきまっている――」と呟く声を聞く。しかし考えて見れば、こんな意味の堕落なら千人に一人、万人に一人堕落するだけで、世間は今より遙かに平和で美しいものになるだろう。しかし世間を汚ないもの、苦痛に充ちたものにするのは、一人の大堕落者よりも、万人の小さな瞬間的の堕落である。すなわち堕落とは、いかなる小事でもあれ、「悪」をなすことである。いや、考えようによっては、小事であればある程、良心の苦痛を感じることが少いため、習慣性となることの可能性が多いから、その方がほんとうの堕落と云えるかも知れない。
○アダムス・ベック『東洋哲学夜話』読。
十五日
○明けても暮れても出征の人を見ない日はない。会社の門の前では、いつの日の昼休みにも「出征兵士を送る歌」の楽隊の音がひびいている。毎夜通勤帰りの五反田駅前の朧ろな灯の中に、旗の波が靡《なび》き、揺れている。
けさ、田町駅から会社への路でも、その一組を見た。軍服を着た若い青年を先頭に立て、晴着を着た一群の人々が、軍歌を高唱しながら行進していた。その歩みは遅かったので、自分は通り過ぎた。
すると、そこから五十歩も行った頃、例によって東京港へ急ぐ捕虜満載のトラックに会った。捕虜は相変らず、赤い手をポケットにさし入れ、傲然として眼下の風景を眺めていた。――その時、自分は突然はっとなって後をふり向いた。捕虜と出征の青年が会った時、両者がどんな顔をするだろうか、と思ったのである。――いや、日本人の青年の方は、特有の無表情を守って眺め上げるだけであろう。しかし米国人或いは英国人である捕虜の方は? しかしそれはもう遠い後ろの方だったので、その表情は見ることが出来なかった。
しかし、顔に現われるかどうかは疑問として、彼らの心が動揺を感じることは間違いなかろう。彼らは青年を睨み下してその敵愾心を示すであろうか。顔をそむけて恥じ入るであろうか。――いや、彼らのことだ、自分は、おそらく彼らは青年を憐れみはしないかと思う。
○夜、残業して帰ったので八時過五反田に着く。途中或る横町で煙草屋の赤い看板を見つけたので駈けてゆくと、運よく今売り出したばかりのところだった。五回反覆行列に加わって五ケ買った。このごろは煙草を買うのも人間業では買えなくなった。
それから町会へいって、正月餅の配給券をもらい、ちん餅を扱う家を探してうろつく。今日が、それを頼む期日の最終日なので、足が痛くなるほど歩き廻って、ようやく或る海苔店に、これを頼むことが出来た。
ところが、この徘徊の為、途中で下駄の鼻緒を切ってしまって大いに閉口し、道ばたの縄を拾って足に結びつけていると、前の或る蜜豆屋の女が、親切にも鼻緒の前緒になる皮を呉れた。大いに感謝してこれを利用しようとしたが、切れた鼻緒のきれが穴につまって、これを抜く釘状のものは勿論見当らず、また縄を拾って足に結びつけようとして苦しんだ。戦時中で薄暗くなった町とはいえ、まだ九時頃の大通りである。寒風の底に蹲《うずくま》っている自分の傍を、往来の人々が通り過ぎた。「忠告、忠告っていうものは、ちゃんと筋道が通っていなくっちゃあ。――」と話しながらゆく声が耳に残った。
どうにか足と下駄をくっつけて歩き出したのは、それから二十分もたった頃であろう。
途中、風呂屋を見つけて飛び込む。
○『人生読本』
十六日
○今朝、会社の作業課室から第三計画のみ今度新築された作業課分室に移る。細長い、殆ど一日中日当りのよい白い部屋である。製造技術係が一緒だが、これは製図ばかりやっているので、ひっそりと静かだ。この分室は部長室も兼ねているが、衝立で隔てられているから、気づまりなところは一つもない。
○自分は曾てこういう思想を抱いたことがある。
即ちここに肉親の母と継母がある。その前に上等の林檎と安物の林檎がある時、前者は必ず、全く何も与えないか或いは上等の林檎を子に与えるであろう。が、後者は必ずその子に安物の林檎を与えるに相違ないと。
これは必ずしも事実ではないと今は思う。が、この例の底に流れる意味について当時考えたことは今も殆ど信じている。
即ち、真の母はまず子に対して愛が先に立ち、それを理性でねじふせて教育を考える。ところが真ならざる母はまず教育が念頭に浮び、その後から愛の義務がついてゆくと。
これはいかにも皮肉な見方であろう。が、或いは真実に徹した見方でもないだろうか。自分はそういう継母の態度を絶対に責めるものではない。それは人間として仕方のないことである。しかし人間の愛の狭さに抱く哀しみはやっぱり消えやらぬ。
自分はこう思う。愛は絶対に理性が含まれてはならぬと。理性は愛を不純なものにする。例え理性なきため不幸な結果を招いたとしても、その愛は人間の性質――いや、生きとし生けるものの感情の中で最高のものである。自分は、人が瀕死の位置に追いつめられた時、昂然とこれに万金を与える人よりも、彼がそこまでゆかぬ中、見るに忍びず十銭の金を乏しい嚢中《のうちゆう》から投げ出す人を崇高と思う。愛に駈引は要らないのである。
○それからまた愛についてこんなことを考えたことがある。
即ち真に愛されるためには真に愛さなくてはならない。が、真に愛されなくとも真に愛することは可能である、と。
これは確かに真理である。が、どこか矛盾しているような気がした。しかし、この矛盾を解くほど頭が落着いていた時期が今までになかった。ところが、けさ、通勤の途中、それが解けた。
即ち凡人は愛されるためには愛さなくてはならない。また愛されなければ愛さない。が、聖者は愛されなくても愛されても、愛する。そうではない、愛されなくても愛されても愛する人が聖人である。だから、これを守ったとき、凡人たる吾々も聖人になり得るのである。
○『人生読本』
十七日
○今日、朝起きるのが少し遅かったので、朝飯を食べそこねた。自分は毎朝、会社の食堂が朝飯十銭で頗る安価なため、これを利用することにしている。
この序でに書きとめておくが、会社の食堂の情景といったら、実に恐るべきものである。
食事の時間五分くらい前になると、食堂入口の階段は一本の錐《きり》を立てる余地もないほどギッシリと工員の波に埋められる。階段の一番上には藍色の腕章を巻いた警備係の男が、眼を怒らせ、叱りつけて、ひしめく工員を制止しているが、後ろから後ろから押し寄せ、もみ上る工員は、ともすればこれを突破して食堂内へ雪崩れ入ろうとする。
遂に二分前くらいになると、警備係も辛抱しかねて、この制禦を放棄してしまう。工員は凄じい履物の音と叫喚を揚げながら、食物の売出口へ殺到する。三十秒と立たぬ中、そこに長い長い四つの列が出現する。この列を作るということは、大東亜戦争が生んだ国民の新しい習慣の一つである。
食堂は、天窓からさしいる日光に透してみると、真っ白な塵埃に充満していることがわかる。この中で工員たちは二十銭と引換に、一皿の副食物と、麦と玉蜀黍《とうもろこし》の混った少量の御飯を入れた丼を両手にして、寒い雨の日ならまず食堂の中央の木卓に、また晴れた暖い日ならまず窓際へ駈けて行って、これを食べ始める。それは全く餓鬼のようである。
歩きながら、皿のふちから垂れ下がった菜っ葉を舌ですくい上げて食べている者、中腰でお茶をのんでいるもの――このお茶が、また、丼に注ぐと一面に茶かすばかり|おろおろ《ヽヽヽヽ》と立ち迷う凄いものである。吾々はこれを柳の葉っぱと呼んでいる――勿論落着いて食事するなどということは、海の中で静止するより困難なことだ。ただ掻きこみ、呑み下すのである。
自分がこれを食べ始めた当初は、数日下痢したり便秘になったりした。今は完全に馴れて、一杯ではすぐに空腹を感じるので、二杯食べることさえある。いつか警備の人の話を聞いていると、二杯食うのは普通で、三杯も珍らしくない。時には五杯位食べるのもいるそうだ。先日聞いたところによると、鍍金《めつき》係の宗田という男は七杯食べたそうである。尤も後で凄じい下痢をしたとかいうことである。
さて、けさの話に戻るが、自分は朝食をとらなかったのは屡々あったことで珍しいことではないが、今日の午前のように空腹に襲われたことはない。菊池さんの腕時計を盗み見しながら、昼の時間を待っていると、十一時近くに気が遠くなりかけた。一秒がかけ値なしに三分位に感じられた。そのとき純ちゃんがお茶を汲んで来たので一杯のんだ。それからまた一杯のんだ。少し腹がブクブク鳴ったが、暫くしてさらに一杯のんだ。すると忽ち体内が悉く湯気になったように熱く煮えて来て、汗が全身の皮膚に滝みたいに流れはじめた。眼の先が朦朧として、坐っているのがやっとであった。こんな現象は珍らしい。しかしかんたんなもので、昼飯を食ったらケロリと元通り元気になった。
○ドストイエフスキー『死の家の記録』上巻を読み出す。
十八日
○『死の家の記録』読了。共感と讃嘆。
○今日高須さんから、第三計画|捻子《ねじ》係だけの忘年会に芸者を呼ぼうかという話をきく。せっかくの忘年会が憂鬱になる。
芸者に変な興味や好奇心があって、その反動で憂鬱になるのではない。本能的に気が進まないのである。女の美しいところは、瞳と、顎から頸にかけての線だけで、あとは男より生々しい感じがして、むしろ嫌悪を覚える。
十九日
○朝起きて見ると、空は白い亀裂の入った灰色の雲にどんより覆われているが、しかしその中に何処か仄明るいところがある。が、そのうちに、屋根に烈しい音がたばしり始めて、霰がふり出した。
休電日で休みなので十時頃までアパートにいたが、そのころになると嘘みたいに空が真っ青に晴れて、白い太陽がキラキラと輝き出したので、急に洗濯をしに五反田から品川の工場まで出かける。自分には盥《たらい》もないし階下の薄暗い三畳部屋では干すところもないので、会社の洗面所で洗濯して、日当りのいい作業課分室で乾かそうと思ったのである。八月下旬上京以来、これが最初の洗濯なのだからわれながら恐れ入ったものだ。
○今日は会社で新規入社の人々の第二回徴用式が行われている。自分も入るかと先日来戦々兢々としていたが、運よくのがれることができて、ガッカリするほど安心した。来年の三月まではどんなことがあっても自分の自由は確保して置かねばならぬ。もし自分がこの六、七月ごろ入っていたらこの徴用にかかることは明白だった。危機一髪というところである。
○午飯は会社にちかいそば屋に入ったが、猫の食べるほどの量のライスカレーしか食べられなかったので、金子さんと田町の方へいって、おしることジャムパンを食べる。会社は三時に退いて、帰途またおしるこを二杯食べる。
○炭がまだ配給にならないので、辛抱できないほど寒い。風邪気味でしきりに咳と洟水が出る。
物資が不足なのだから、配給制になることは文句は云わない。しかし国家が統制し、切符を発行し、一冬に何俵(一人当り二俵)と定めて配給する以上は、この切符を持ってゆくと直ちに配給するくらいの在庫品を有し、その手続きをとらないで、いまの日本の役人の責任が全うされたといえるだろうか。風邪をひいた余憤ではないが、そんな不服もいいたくなる、もっとも自分が切符を提出したのは十一月下旬であるが、きくところによると、十月分の炭がまだ配給にならぬところもあるそうだ。
○洗濯して来たシャツ類は、まだべとべとに湿っているので、部屋に縄を張りわたして、ブラ下げることにする。三畳の上部、空間の半分はこれでふさがれて、みるからに陰気だ。
○島崎藤村編『北村透谷集』読。
二十日
○夜、窓ガラスを通し、月光が部屋に吊った洗濯物を蒼白く照らしているのを仰ぎながら、もの思う。
四ヶ月前上京して来るとき、自分は毫末の夢も持たないつもりでいた。貧乏暮しをすることは覚悟の前であった。しかし、上京以来の貧乏は、その覚悟ほど深刻なものではなかったけれど、心理的には遙かにみじめなものであった。借金をしないですんだ月は一ト月もない。借金をすることも覚悟の前であったが、その時の気持のみじめさは、到底予想の外だった。その借金も、文字通り|食う《ヽヽ》だけのために!
自分の才能に対する疑惑が心に充ちて来る。
来春の受験も、いまのような子供だましの――というより、殆ど何もやらないにひとしい状態では、合格できようとは思われない。
○電灯をつけて、一本|金鵄《きんし》を吸い、まるで地獄の底の囚人が天を仰ぐような心で『人生読本』を読む。時計がないので何時ごろかわからず、遠くにきこえる汽車の唸りが、いかにも真夜中らしい。
二十一日
○東京湾に繋留した船が原因不明の火事でよく沈没する、という噂は以前からよくきいた。
午後三時ごろ、突然廊下で「東京湾で船が燃えている」という叫び声がきこえた。
自分は廊下を走り、階段を駈け上り、屋上に出て見た。たちまち海の上の空を覆って、巨大な煙の竜巻が這っているのを見た。
空は雲一つなく晴れ、沖の水平線は紫がかった霞にけぶっていた。その左端の一点から、殆ど海一面の空を流れ、その尾は次第にひろがって市街の南西にまで、濛々漠々たる灰色の煙が見えた。煙の小さな頭の下に、赤い炎が見えた。はじめ、ぽつりとした点に見えたが、まもなく横に龍みたいに長くのびて、燃えているのが船だということを明らかにした。燃える蜜柑のような光と色。
現場に近づいてみれば必死の消火作業が行われているのだろうが、遠いこの工場の屋上からは、広い海の上で、いとも静かにおちついて燃えている火を見るだけだった。ただそこから湧き上る煙の巨大さだけが物凄かった。風は海から吹いた。屋上の鉢植の樹々は西へ吹き靡いた。船が完全に沈没するまで見とどけようと思ったが、火は一点に縮まり、また長い線となり、いつまでたってもきりがないので、寒風に耐えかねて退却する。日は沈みかけていた。大東京の西の涯に、ゆらゆらと血のような不気味な色で沈みかけていた。
○今日ボーナスが出た。今度のボーナスは八月末までの出勤に対して与えられるもので、それ以後の入社は来年六月のボーナスがこれに当てられるときいていた。九月二日に入った自分は、貰えないと覚悟していたが――神は偉大だ!
四十六円で、月給より多い。ただしその中所得税四円六十銭、国民貯蓄二円を差引かれて、実際は三十九円四十銭である。
○夜、勇躍して炭屋にゆく、二円七十三銭と引換に一俵を受けとり、夜の裏町をエンヤエンヤと肩にかついで帰る。それから炭まみれになってアパートの台所の裏口にそれを据えつけ、いい気持で風呂に出かける。風邪はまだぬけないが、風呂に入らずにおれるものではない。途中、大廻りをして、或る食堂でコーヒーとトーストパンを食べる。これでひそやかなただひとりのボーナス祝賀会のつもりである。
炭が出来たので早速これを|おこし《ヽヽヽ》て、今夜はいつもより大分夜ふかしをした。三好十郎の『バイロン伝』(新潮文庫)を読む。この天才詩人の妖鬼のような華麗な肌の匂いにつつまれて、白日夢の思い。
二十二日
○午前品川区役所にゆく。餅を買うことになったのだが、自分のような外食者には、砂糖や醤油の配給がない。そこでこの餅につけて食べる砂糖か醤油の配給はないかとききにいったのだが、もののみごとに断られる。
○帰途散髪屋に寄る。隣りの椅子の話。
「初さん、お前みてえないい身体なら、南方へいって軍属になりゃどうだ。いい金になるっていうぜ。ちょいとまとまった金になるよ、一年もいってりゃ」
「へん、五十円でも百円でもまとまった金だあな」
「冗談じゃねえ、今どき五十円百円がまとまった金かあ。よう初さん、千円はたしかに入る。何しろ金は本人に渡さず、帰るときまとめてくれるそうだから、確かなもんだよ。生活費は安いしね。何しろ家なんか、柱の上に屋根をのせただけで吹通しだっていうよ」
「暑いだろうなあ、しかし。……」
「うん、そりゃ始めはたまんねえそうだ。しかし馴れると、内地みてえに蒸さねえだけに、かえって暮し易いっていうことだ。どんな日盛りでもちょいと椰子の葉の下に入ると、ヒインヤリ涼しいっていうからね」
「そうかねえ、そんなものかねえ」
「ただ教練があって、そいつがつらいそうだ。何しろ団体生活だから思想の悪化してる奴は、絶対排斥だそうだからね。こちらで渡る前の調べでもなかなか面倒なんだって。……」
「じゃ、警察なんかに呼ばれたことがあると、駄目かね」
「おや、おめえ、前科があるのか?」
「いんにゃ、前科はねえがね。――酒に酔っぱらってお巡りに叱られたくらいはいいだろうね?」
「そんなくらいならいいだろうよ。――何しろ、初さん、ゆけよ、千円も入りゃ大した儲けもんだ」
「千円かあ。――しかし、おれ、この前、あのときね、ほら――三日三晩できれいに三百円つかったからね。へっへっへっ」
○夜、金子さん久瀬川さんと「食おう会」敢行。会社が退けてから五反田にゆく。
玉屋食堂にて、コロッケ、里芋の煮ころがし、こんにゃく、大根の煮付けをお菜に大丼二杯飯を食う。これでもう満腹の気味である。
が、まだ序の口だと、或るベーカリーで、ミルクコーヒーにケーキを食べる。
そこを出て、或るお汁粉屋に入る。
ここを立ち出でたときは少し腹が痛かったが、負けぬ気で平気を装い、街を歩き、またべつのお汁粉屋でお汁粉を食べる。中の餅がさきのお汁粉屋よりも大きかったので、もう一杯食べる。
散歩ののち、またお汁粉屋に入って、あべ川餅を食べる。「まるで馬だな」と自分が云った。その下に鹿をつけられても、文句のいいようがない。
腹は重々しく痛み、胃袋は鶏の砂嚢のごとく張り切り、口からは苦しいゲップが頻りに出る。
ここを出たとき時計を見たら、まだ七時過ぎであった。いままでつかった金を勘定してみると、わずか一円六十銭である。時々ちょっと食物屋に入った時など、食物は何て高いんだろうと呆れ気味であったが、こうイザ腰を据えて食う段になると、食物ほど安いものはまたとあるまい。何分苦しくって、もう食べるはおろか、動くのも大儀である。風も凍るように冷たいので解散する。
○アラン『人間論』読。
二十三日
○昨夜の馬食がたたって、腹が膨満してたまらない。昼飯はパンでも食べようと思って、昼前芝浦工場へいったついでに、精新堂へいってパンを食べる。三時ごろまで芝浦工場の旋盤工場で、轟然たる自動機の唸りの中をうろついていると、菊池さんも捻子を取りに来たので、二人でまた精新堂へ出かけてハムをオゴってやる。先夜のお礼のつもり。
○夜、残業していると、正木さんがやって来て、頻りに馬鹿馬鹿しいを連発する。きいてみると、ボーナスがたった二十九円で、余りといえば人を馬鹿にしているというのである。なるほど今年の九月に入った金子さんや六月に入った菊池さんや久瀬川さんが二十七、八円だのに、去年の八月に入った正木さんが二十九円はひどい。「もう、絶対に怠けてやる」という正木さんは、薄い涙さえ浮かべている。最も新しく入った自分でさえ四十六円貰ったのに。
主任の申請内容にもよるだろうが、やはり学歴のこともあるだろう。中学を出るか出ないかの相違で、これだけの差を生じるのだ。やっぱり学校にゆかねば駄目だ。
○夜、正木さんの顔を思い出し、じぶんの四十六円のうち十円を割いて正木さんにやるべきだという結論に達し、暫くして、じぶんのような孤立無援な人間とちがい、正木さんは東京に母や兄のいる家庭を持った人間だとまた思い直す。『人生読本』をやろうかとも思う。
頭の奥に美しい火がちらちら光り輝いているのを意識しながら、だんだん朦朧たる霧がかかって来る。
○『バイロン伝』読了。天才のみ極度にあり、道徳は全く欠いたこの詩人は、怪物というほかはない。白日の下にかがやく美しい毒蛇を見るような抵抗感と讃嘆の念。
二十四日
○MS3-5E(円皿捻子直径三ミリ、長さ五ミリ、ブロンズ鍍金)の、長谷川製作に先日来至急納入を促していたものがついに遅れ、組長の高須さんが真杉重役に叱責されたため、今日は朝からこれに奔走。夕刻、到頭これを納入させ、「受渡」から「寸度試験」を通じて「庫入」させるに成功する。この件につき、高須さん自分に怒りを見せかけたが、自分が平然としているのであきらめる。
○要領要領といって、変通自在の商人的才能を誇る人々が、自分からみると余り要領がいいとは思われない。
少年時代「大人」に対して深い恐怖と神秘感を抱いていたが、今考えてみると、「大人」も「子供」も大した変りはないようだ。
○夜、菊池さんと靴下を買いにゆく。ついでに、オレンジジュースを一瓶買う。これは前に買った砂糖入りコーヒーに失望させられた自分が、何かちょっと茶碗に入れて熱湯にとかして美味く飲めるものを求めているとき、菊池さんがジュースを提案してくれたからである。が、帰って飲んでみたら、コーヒーよりもっとひどかった。湯にとかすもとかさぬもなく、そのまま飲んでも、酸っぱいばかりで甘味など全然ない。舌に苦味さえおぼえるくらいなものである。
馬鹿なことをした。こういうたぐいのものを買って馬鹿を見たのは、これで四度目である。「貝の缶詰」「タイミソの缶詰」「砂糖入りコーヒー」とそれから、この「オレンジジュース」
○昨夜の正木さんについての「神と悪魔の戦い」は、きょう早速遅刻して来た正木さんのニキビだらけの顔を見たとたん、一気に解決した。それはちかいうち、鮨でもおごってやることである。
勝ったのは神でも悪魔でもない。小さな、浅ましい、そのくせ良心なるもののカケラを持った人間である。
二十五日
○大正天皇祭であるが、会社は出勤日である。一週間ほど前からの風邪がまだ癒らず、寧ろジリジリと進行して、午後から頭痛さえ感じはじめる。憂鬱そうに始終沈黙する。
○菊池さんは大はしゃぎである。今夜第三計画捻子係の忘年会があるからである。これは外註の下請、常盤工業の親父さんが費用を持ってくれるそうだ。自分はどんなところからこの話がまとまったのかは知らないが、とにかく一種の「ワイロ」であろう。しかし自分達みたいな人間に「ワイロ」を贈ってくれる常盤の親父さんが気の毒に思う。自分がこの日一日じゅう憂鬱だったのは決して頭痛のせいばかりではない。が、若い好奇心がすべてを押し伏せた。
○四時半、会社を退くと、高須さん、正木さん、菊池さん、自分と、目黒駅に急ぐ。
目黒駅で待ち合わせていた常盤の主人と会い、自動車に乗るほどの距離でもないからというので、ぶらぶら下目黒の「ときなか」という料理店へゆく。絶えず咳と頭痛に悩まされるのみならず、その夜一面の夜霧につつまれた夢のような目黒の風物は、歩く距離を案外長くした。
「ときなか」では、自分たちの聞いていたことと相違して、まだ約束が出来ていないらしかったが、常盤の主人は、物馴れた応待で、相手の女中がまだ首をかしげている中に、はや下駄をぬいでいるので、向うもついにまけて「比翼の間」に、長い廊下を案内する。
「比翼の間」は離れで、廊下を隔てて一足で飛び渡れるタタキと踏石があり、その向うにある。六畳と六畳の間の襖をとり払った十二畳の日本間。一方の床の間には夕涼みの女をかいた軸、一方の床の間には水藻の中を泳ぐ金魚の軸。いまは十二月末ではないか。
黒い大テーブルに一同坐る。あまり美人でない女中があらわれて、あちこちに火鉢を置く。
「どうだい、この頃は忙がしかろう」
と、常盤の親父さん。
「ええ、おかげさまで。でも、もうこの頃は大したことありませんわ。二、三日前までそれァ大変」
「だから約束なしでもいつでも遊ばせる間があるだろうと見込みをつけてやって来たのさ。姐さん、この期待を裏切っちゃだめだよ。――そこで、酒は何本出すの」
「お一人さん、一本ってことになってるんですよ」
「おい、あんまり人を馬鹿にするなよ。二、三本は出るだろう。ほら、何処そこの何屋は、いつも三、四本出しているのを見たことがあるぜ」
「あれは空の徳利でしょうよ」
「おい若い者ばかりなんだから、何とか二、三本は出せよ」
「それがね、おなじみなら特別に一本半ですけどね、初めての方は――」
「なんだなんだ、初めての方だから愛想よくして、おなじみにさせるのが腕じゃないか」
結局、哀願の結果、五人に八本持ってくることに話がきまる。
刺身、茸の吸物、貝、その他もう一種何だかわからないものが出る。熱があるせいか何にも美味くない。酒は大いにのむ。女中のさす酒は悉くのむ、全身が熱く、頭がボケてくる、やがて歌になる。
菊池さんが、鶯が黍団子をくったような声で「私や十六満州娘」と歌い出す。高須さんが「米山さんから雲が出た」とやり出す。常盤の親父さんが、渋い節廻しでドドイツをうたう。正木さんがニキビだらけの顔を振ってうなり出す。こんなときには愉快に騒ぐのが礼儀なのだろうが、自分は何の材料もなく、中学時代十点満点中五点の音楽能力を発揮する勇気が毛頭出ない。御勘弁を願っているうちに、八本の酒は尽きてしまった。
常盤の親父さんの外交術でウイスキーをとりよせ、サイダーを割ってのむ。そのあとでうどんが出たが、頗るまずく自分は三口ほど食ってあきらめた。飯は出ないのだそうである。
そこで、女中の持ってきた勘定書に、常盤の親父さんが払ったのは六十円だった。たった一時間ほど、これだけの酒と五種類ほどの料理で六十円とは。――
その金を出すときの常盤の親父さんの白い髪や髭の中に、一抹の寂しさを自分は見た。きのどくだ。
尤も、人間が財布から金を出すときは、たいてい、どこか寂しげな影のかすめるものである。
「ときなか」を出て、常盤の親父さんに礼をいって別れ、みな目黒駅に向ってぶらぶら歩き出す。途中、或るケーキ屋に入ってケーキを食う。或るビリヤードの前で、高須さんと正木さんが玉をついてゆこうかといい出し、自分も一緒に入る。細長い階段を上って二階の大広間では、四台の青い玉突台の中、すでに一台は先客によって使用されていた。壁にはモナリザの画像と、何処か大きな夕暮の市街を描いた絵がかかり、大広間はどこか哀しげな寒さと薄暗さを湛えていた。
自分はソファにうずまり、半覚醒にウツラウツラとした気持で、高須さんたちの玉突きを見物した。次第に眠くなり、眼をあいているのもやっとのありさまになり、ただ赤い球と白い球が交錯し、ゲーム取りの少年の「二点!」「三点!」という声を、幻影のごとく見、聞くだけ。向うの台では痩せた小男と、肥満した紳士がよほど熱中しているとみえ、師走というのに暗い窓ガラスを押し開いた。
ビリヤードを出てからの目黒駅までの深い夜霧の路。すべて、光と影。それがことごとく朧ろにぼかされて浮かび、また消え、ボンヤリした薄白い空には、月が薄赤い暈《かさ》をさして動かずにあった。アスファルトはぬれ、自分の背はぞくぞくと寒かった。頭は酒のためか燃えるようで、咳は頻りに出て、頭痛は消えない。
アパートに帰ると、すぐに床をとって眠る。
二十六日
○今日は休電日で工場休み。十一時ごろまで眠る。
しかし午後正木さんが遊びにくるという約束を思い出して起き上り、部屋を掃除して町へ食事に出かける。そのついでに例の砂糖入りコーヒー――やむを得ない! ――を買ってくる。
すでに留守の自分を訪ねてうろついていた正木さんに会い、つれ立って帰る。全然甘くないコーヒーをのみつつ暫く話をした後、二人で神田に出かける。白雲は漣の如く流れ、太陽も輝いているが、何分師走だ。寒い。なお咳が出て、頭痛がつづく。
神田につくと、早速ケーキ屋に入り、それから神保町で本屋を漁って、ようやく『人生読本』二冊を発見。じぶんのプレゼントで一冊は正木さんに、もう一冊はこれも欲しがっていた金子さんに買ってやる。自分は別にやはりトルストイの『哲学読本』を買った。
みんな自分に|あて《ヽヽ》られて『人生読本』に伝染しているが、しかし正木さんや金子さんに、どれほど功徳があるものかしら? が、ひるがえって自分はと考えると――大同小異ではないか。
途中、或る鮨屋に入り、オゴってやる。熱があるせいか、一つもうまくない。夕暮が迫って来たので帰途についたが、正木さんが神田松竹映画劇場の、金語楼と虎造の「山まつり梵天唄」という映画を見ようといい出し、身体が苦しくて反抗するだけの気力がないので入る。出てからサンドウイッチと天どんを食べる。
――今日、「非凡なる人のごとくにふるまえる後のさびしさ何にたとえむ」という心理を痛感。もう御免だ。
帰途、五反田でちん餅を受けとり、菊池寛の『忠直卿行状記』を求めて帰る。
風邪がひどくなっては孤立無援の自分ゆえ、万事休するので、二十八日まで公休をとってもらうように正木さんに頼む。
二十七日
○昼近くまで寝る。じっとりと全身に滲んだ寝汗が不安だが、なに、厚着をして蒲団をかぶっていたせいだろう。
しかし、じぶんが結核にかかる可能性は充分ある。平生の極度の虚弱ばかりではなく、朝六時半ごろから夜八時ちかくまで毎日休みなき塵埃と騒音の中にもまれ、食物はほとんど栄養価値なく、しかも衣服に乏しいので、同僚の中でも一番寒そうな服装をしているのだ。その上、絶えず金と将来に対する不安が胸をしめつける。――
よく以前疲れ切って布団に入るとき、死を思うことがあった。が、朝新鮮な眼をひらくときには、ケロリとして生を考えた。――が、このごろは朝起きてさえ、死を思う。それは惨澹たる絶望とか自棄を含んだものではなく、静かな、美しい思慕を以て死を思うのである。今なら、平和に、いつでも死ねるだろう。
昼飯を食べに出かけた序でに、浅野晃『西洋二千年史』を買って来る。金のあらんかぎりは本を買う因果を持っていると見える。
二十八日
○今朝も寝汗を感じる。咳はまだやまぬ。起きている時はそうでもないが、蒲団の中で猛烈に咳くと、全身に湯のような汗が出る。深く息を吸うとゼイゼイという音が微かにするので、咳くと、それは徹底的にそのゼイゼイを咳き出してしまうほど元気のよいものにならず、単調なものがとめどなく続くばかりである。
死ということを考える。結核と判明したら、直ちに自分はわが命を絶つだろう。自分は、美しい山国の湖にゆくだろう。そして、夜に入ると岸から舟を漕ぎ出し、石塊四、五ケを舟につみこみ、湖心に出てから、少なくとも自分が水中で白骨となるまで腐朽せぬだけの縄を以てその石塊を全身に結びつけ、永遠に美しく冷たい湖の底に沈み去るだろう。
○昼食をとりに出かけた序でに、また書物購入。六冊。
『日本の甲冑』山上八郎
『良寛の一生』須佐晋長
『ソアーナの異教徒』ハウプトマン
『孔孟思想講話』高須芳次郎
『新日本の図南の夢』菅沼貞風
『生命と物質』服部静夫
○街頭では、深い静かな澄んだ日の光の中で、露店商人が、蜜柑や羊歯《しだ》や松の小枝やおかざりなどを売っている。ふと自分は立ちどまって、思いがけぬ郷愁を感じた。遠い遠い日の但馬の追憶。
○自分は、自分のような少年を育てる運命を持った人々に満腔の同情を覚える。
いま、じぶんの周囲の人々は、どんな人でも自分を愛してはいまい。また愛することもできまい。しかし自分は、その点に悲壮な誇りを覚える。
二十九日
○四日ぶりに出勤。「あ、来た来た」と、みな悦んでくれる。が、身体の調子が快調でないので憂鬱だ。
○朝刊には二つのビッグ・ニュース。
二十八日午後五時の大本営発表。
「帝国海軍戦闘機隊は十二月二十三日ガダルカナル島方面より飛来せる敵二十数機をニュージョージア島ムンダ上空に邀撃《ようげき》、その十四機(内不確実六機)を撃墜せり。戦果の内容左の如し。
グラマン戦闘機六機(内不確実二機)カーチス艦上爆撃機七機(内不確実四機)P38一機。本航空戦に於ける我方の損害、自爆亦は未帰還二機」
もう一つは四大銀行の合併である。三井と第一、三菱と第百。
いまは戦いの時代であるから南海の空中戦の方が劈頭《へきとう》を飾るのは当然であるが、その内容に躍る人間群像のたたかいを見るなら、或いは空中戦よりこの銀行合併の方が、遙かに深刻なものがありはしないだろうか。
○最近あの高島田、桃割れなどの日本髪が一般から罵倒され、排斥されていることは、毎日の新聞を見ればわかる。が、なかなかこいつが街頭から消え去らない。非生産的だ、やれ非活動的だとやっつけられても、容易に全滅しない、女なんて、可笑しなものに未練を持っているものだと思っていたら、今日、工場に出入する数千人の女工員の中に、水も垂れるような島田が少なからず眼についたので驚かざるを得なかった。正月に備えてではあろうが、島田で軍需工場に働きにくる心理は、真に笑えないものであり、恐るべきものである。
○ハウプトマン『ソアーナの異教徒』を読む。
三十日
○いよいよ大晦日が迫った。会社は今日で終りだ。
午前中は廊下越の部品倉庫分室でコークスの焚火で股あぶりをして過し、午後は大掃除の後、課長、主任、寸度検査係、受渡係、鍍金ラッカー係などに、旧年中の礼を述べて廻る。工場内でこういうことは、虚礼以外の何物でもない。
○しかし、これに限らずいわゆる礼儀は大部分虚礼ではないか。にもかかわらず、この虚礼がなくなれば、人間の生活はさらに荒涼たるものになるだろう。
人間は虚偽の本性を持っている。虚偽で育てられる。虚偽の世界に住んでいる。だから、虚偽の生活に気づかない。気づかないから苦痛もない。苦痛がないから、却ってこれを善事だと解していることが多い。「神は信じる者にはあるのだし、信じなければないのさ」と『どん底』のルカ老人がいったように、善を信じていればそれでいいのだろう。虚偽もこの点で社会の歯ぐるまを滑らせる油となるのだろう。してみると、神と虚偽とは両極にありながら、似たところがないでもない。いや、神と虚偽とは同極にある同一のものかも知れぬ。
○同僚たちはみな故郷に帰ったり、温泉へいったりする。みな嬉しそうだ。
夜、『ソアーナの異教徒』及び『線路番テイール』を読了。自分の嗜好とは合致しない作家なので、さしたる感銘なし。
夜、全東京燈火管制に入る。正月に敵機の来襲が予期されるのだろう。
三十一日
○朝、故郷から回送されて来た小西のハガキを受取る。軍事郵便で日付は全く不明。
「拝啓、小生十一月十四日海兵卒業致し、今本艦に乗じ海上第一線の艦にある喜びを味わい居り候。米国の戦力まことに雄大なるものの如く、われまた必勝を期し奮励仕り居り候。右御報せ迄如斯候。敬具」
現在の自分の不遇を笑うよりも、まず親友小西の武運長久を祈った。慰問文をやりたいが、「軍艦伊勢にて」とあるだけでどうしようもない。
○昼飯は食べないにも拘らず、午後四時近くになっても一向腹が空かないので、散歩に出る。
町では子供たちが凧をあげたり、羽根をついたり、独楽《こま》を廻したりしている。しかし、それら遊び道具がどれも安っぽく、何となく侘しい。
逓信省の電気研究所の傍から池田山に上り、一周して五反田の大通りに下りる。池田山は、素晴しい贅を凝らした大邸宅ばかりである。しかし、青い瓦や彫刻した屋根の下や技巧を尽した樹の刈込みなど見て廻っていると、次第に子供たちの遊び道具にも劣らず安っぽく見えて来て、こんな家に住んでいる人々をさほど羨ましいとも思わなくなった。
一たん大通りへ下りてから、省線に沿って建武神社の方へゆく寂しい道をとる。ガードをくぐった繁華な通りをゆくと目黒にゆくことは知っているから、その反対をゆけばきっと大崎へ出るのだろうと思っていたところが、意外にも向うに見えて来たのが目黒駅であったのには少々驚いた。自分は方向音痴のところがある。
その途中、絶えず坂路になった長い長い道路の上で、西の果てに落ちてゆく太陽の荘厳に打たれた。空のなかばから西へかけて、一面に紫色とも灰色ともつかぬ色で覆っている雲は、その果てに近づくと急に乱れ立って、金色に燃える太陽の光に、これまた金色の龍が数匹狂い昇っているように見える。
自分は目黒につくと、道を上大崎の方へとって、足が痛くなってくるのもかまわず、のろのろと日吉までいった。ここで廻れ右をしてひき返すと、今や西の空に落ちんとしている太陽が見えた。それは真っ赤な、恐るべき巨大な落日であった。
「噫。……」
と、自分は立ち止って、息をのんだ。
「昭和十七年がゆく。……」
何という年であったろう。この昭和十七年は。――日本にとっても、自分にとっても。
日本は獲得した。自分は何もまだ得ない。が、得ようとする、何物かを得ようとする心の叫びに眼をひらいたのみならず、上京という――肉体、行動までもそれに委ねた年ではなかったか。
町は慌しかった。どこの家も掃除し、水で門口を洗っていた。「本日休業」の店も少くはなかった。食料品店や、松飾り生花の花屋など混雑していた。三畳の部屋だけが待っている自分は、何を買う気もしなかった。正月を迎えるのも、普通の明日を迎えるのも同じだった。それだけに、慌しい夕暮の町は何となくさみしかった。
目黒駅前に再びついた時は、足は石のように重く肩は裂けるように痛かった。咳はなお止まらず、疲労が全身に這いのぼって来た。
しかし自分は、また下目黒の方へ下りていって、ロータリーのところへ五反田へゆく長い路をとった。
空は紫色を次第に暗くしてゆき、地平線は青味をおびた黄色い微光でふちどられていた。そして町々には、美しい、静かな夜靄が、青く、仄かにただよいみちていた。もう薄暗い通りには到るところ反古《ほご》紙が散乱し、それが吹き渡る夜風に、すべり、ころがり、カサカサという音をたてるのが、いかにも師走らしく、大晦日らしく思われた。しかし風は南風で、むしろこころよいほど暖かかった。
六時ごろ、五反田に帰ったが、まだ腹が空かず、食欲を感じない。が、勇を鼓して、いつもの食堂で夕食を軽くとる。
アパートに帰ってからはいつもの通り。――『孔孟思想講話』を読む。こんなもの静かな、さびしい大晦日は生まれて初めてのことである。明年「生まれ変って」暮そうと決心するだけの元気がない。ただ、静かに、静かに、ひっそりと。――
昭和十七年よ、永遠にさようなら。日本民族にとっては、不滅の輝かしい追憶を以て憧憬させるであろう偉大な年だった。が、二十一歳という自分の年よ。輝かしかるべき青春の一年にも拘らず、何という惨めな――今の自分は敢ていう――何という惨めな年だったろう。
しかし、まあ有難うといって置こう。そうして、さよならともいって置こう。「二十一歳よ、さようなら。……」
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昭和十八年(満二十一歳)
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
2月1日 この日から7日までに日本軍ガダルカナル撤退。
2日 スターリングラードの独軍降伏。
4月18日 山本五十六、ソロモン上空で戦死。
5月29日 アッツ守備隊全滅。
6月25日 学徒戦時動員体制確立要綱決定。
7月1日 東京都制実施。
9月8日 イタリア無条件降伏。
22日 男子の就職職種制限、25歳未満の未婚女子動員決定。10月21日東条首相激励のもとに神宮にて出陣学徒壮行会。
11月25日 ブーゲンビル島沖にて航空戦相ついでいたが、この日マキン、タラワの守備隊玉砕。
12月1日 第一回学徒兵入隊。
21日 都市疎開実施要綱発表。この月、情報局、米英楽曲の演奏禁止。
[#ここで字下げ終わり]
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一月
一日
○人間は不思議な精神を持っている。
新しい勇気が湧いた。見よ、少年の日の友、小西は南海の碧濤の中に、祖国のために血戦している。
今からでも遅くはない。二十二歳もまだ花盛りだ。この年をして、日本と同じく「勝利を決するの年」たらしめよう。
○昨日、あんなにうららかな晴天だったのに、元旦たる今朝は、曇り空というほどでもないが、仄白い薄い雲が一面に日の光を弱めている。
八時ごろ街へ出る。何処もまだ大戸を鎖して、路地に散乱した昨夜の名残りの紙片が妙にしらじらしい。故郷の町や村では、元旦といえば朝も暗いうちから、神棚に灯をあげ、トソをのみ、清澄な歓喜が声なく流れ、立ち昇る感じなのに。――やっぱり、素朴な、きよらかな、清水のような民衆の力は、都会よりも田舎にその源を発することが、この一事でもわかる。
○食堂がどこでもひらいてないので、新聞だけ買ってくる。特に奮発して、朝日、毎日(東日が今日から改題した)、読売の三部を買って来る。
しかし、期待にそむいて、普通の日よりむしろ物足りない、無味単調な紙面であった。去年の元旦の、あのハワイ海戦の言語を絶する雄大凄絶な写真を飾った新聞を思うと、この平凡な紙面は、何かこの一年に於ける日本の苦闘を暗示するような気がして、いささか不安だ。
ガダルカナルでは制空権を敵の掌中に握られているため、皇軍は密林を防禦物として戦っているらしい。まず制空権を奪回することが焦眉の急だと極力力説している。しかし、ガダルカナル位でこの死闘ぶりでは、豪州、アラスカ攻略など、どうもおぼつかないではないか?
一体「大東亜戦争」という呼称は、最初は雄大荘厳を極めた史詩的なもののように感じられたが、今となっては、やはり平凡に「日米戦争」とでもつけた方がよかったような気がしないでもない。民衆は単純なものだから、この方が遙かに直接的にアメリカに敵愾心を起すであろう。
○正午過ぎ、空腹に耐えかねて――どうもヒドイ正月だ――ふたたび町へノソノソ出て見る。
或る一軒のお汁粉屋が開いていたので、甘酒とくず餅とうどんを食べる。どれもあまり美味くない。しばらくゆくと、一軒の食堂が開いていたので、ようやく食事をとった。
中で、モーニングを着た三人の紳士と、インバネスをつけた老人とが、卓の上に十本ちかい徳利を並べ、蛸《たこ》をサカナにしきりにくどき合っていた。自分にはさっぱりわからなかったが、その中でいやに顔の間のびした、そのくせ陰気な感じの紳士が、
「君、いまの日本は共産主義と紙一重じゃ。……」
といった声だけが、意味のわかった唯一の言葉だった。しかし、その声には、勿論うれしそうなひびきはないが、それかといって、哀痛の調子もない、ただ無感動の中に一種得意めいた語気が含まれているように聞えた。
○社会主義と日本の民衆との関係についていうならば、日本の民衆の中、八割までは確かに、真に社会主義なるものについて知らない。五割までは完全に無知であるといえよう。ただ、幼児の時代から、その国体に合致しないゆえんを、執拗かつ徹底的に教えこまれているために、これに対し漠然たる恐怖の念を育てられている。が、共産政府のもとに惨澹たる苦難を嘗めた歴史的経験もないから、一方に於ては、これに対しさほどの憎悪も覚えてはいない。しかし、国体観念は強烈にふきこまれているから、これを日本に採用することは、例え為政者が許しても、恐らく不可能であろう。
もっとも共産主義に限らず、日本の民衆がその統治者に対して典型的に従順であることは、過去の歴史に照らしても明らかだから、いかなる場合でも、どれ程遠い未来にも、共産主義が日本民族と抵触するということはいえない。げんに大化改新の班田収授の制など、一種の社会主義だったのではないか?
自分としては共産主義に好感を持つわけではない。しかし、金持には反抗を感じる。また、いまのソビエットのナチスに対する驚くべき抵抗ぶりから見て、共産主義が、今まで教えられてきたほど民衆にとって悲惨なものであるかどうか疑問を持たざるを得ない。が、何にせよ、共産主義に憧憬を感じるほど積極的なものを覚えない。これも今までの教育の潜在的な結果かも知れぬ。
ナチスといえば、今日読了した『西洋二千年史』から、それがドイツの悲痛を極めた歴史の反動的産物であることを知り、ドイツに対し衷心から同情を感ぜざるを得ないが、それが反動的産物であることに対し、頗る不安を覚える。個人の自由に飽満の苦悩をなめた民族の心理の振子が、一番反対の極へ揺れたものが全体主義であるなら、飽きっぽい人間が、再び「自由」に渇望するのは殆ど眼に見えている。今は国家的闘争が最高潮に達している時代だから、また民族はすべて逆上しているといっても過言ではない時代だから仕方がないが、しかしまたそれゆえにこの全体主義は、案外早く人類から見捨てられるかも知れない。「日独伊三国同盟」は精神的結合だ、と谷外相は力説したが、主義の融合を指すならばそれは危険だ。利害の結合に停るべきであろう。もっともそれは、ヒトラーやムッソリーニの方がよく知っているかも知れない。彼らは心中で「小癪な黄色の猿め」と軽蔑しているかも知れない。
『西洋二千年史』を読んでまず痛感したのは、ローマとカルタゴの百年に渡る血闘の果てである。今の英独もこれと同質のものかも知れないが、この古代の一篇の史詩ともいうべきほどまとめあげられた過去の物語は、国家が結局、外力によっても完全に滅ぼされ得るという例を示したものとして、日本魂に無限の自信を持つ自分たちに大いなる戦慄を与える。
第二は英国の「悪運の強さ」である。エリザベス時代のイスパニア艦隊の撃滅といい、強大を極めたルイ十四世がイスパニアに侵入したとき、これに対抗する同盟国に加入して、結局フランスからはニュー・ファウンドランド、ハドソンを、イスパニアからはジブラルタルを割取した抜け目なさといい、ナポレオンの時といい、前大戦といい、その他無数の例に於て、その執拗と堅実と酷薄と狡猾を以て、危機一髪の事態を変じて以て勝利に終えている。今次の世界戦争の結果について、いっそうの緊張をおぼえざるを得ない。
――が、いったい、この終局の見込のつかぬ戦争はどうなるであろうか?
戦争は罪悪だと、今は誰も公言さえしなくなったのは勿論、もはや殆ど本気で、狂乱的に殺人を続けているのだ。どちらが負けても、恐るべき不幸が地球上の一角に生ずる。ただそれを自国たらしめない為に、各国は死物狂いになっているのだ。悲しいことだが、野獣の闘争と同様、疲労と倦怠を以てその終局を待つの外はなかろう。
しかし、自由主義に対して全体主義を以て挑戦したのもやはり人類である以上、自由主義が今や人間に完全なる満足を与えるものでないことはすでに明白になった。かといって、全体主義も、何処か人間性を無視した脆弱さが見える。共産主義――こいつが案外、戦後の地球を覆うかも知れぬ。が、それも全体主義同様、人間性を無視しているから、永久的なものとは断じて言えない。
……人間は古代の如く「神」――キリストにあらずマホメットにあらず仏陀にあらず――太陽に対する愛、水に対する愛、その他森羅万象に対する無限にして、朴訥純情なる神秘と愛、これから生じた古代の神々を真に信仰するような未開時代にでも復帰しなければ、ついに救われないのかも知れぬ。が、一たびダーウィンの進化論によって神を失い、本質的にいわゆる近代文明に毒されてしまった人類には、もはやそれも不可能であろう。
では世界は、拒みつつ、悶えつつも、次第に滅亡の果てへ進んでゆきつつあるのか? これを救うものはないのか? 日本の「すめらみくに」こそ、これを救う唯一のものだと、国粋主義者は大声高唱する。しかしそれは少なくとも大和民族だけに通用するものではないのか。現に朝鮮が果して日本の一部たることに満足と歓喜を感じているであろうか。もし現在の歴史が全然異るものであり、彼らの能力が偉大なものであるなら、彼らは独立を欲するかも知れぬ。いや、今でさえあきらめの中に、仄かに独立を想う日がありはしないか。
日本に生まれた幸福を思うと同時に、朝鮮の運命に人類的な悲哀を感じ、さらに人間性全般に深い憂鬱をおぼえるゆえんである。
○『孔孟思想講話』『西洋二千年史』読了。
二日
○洗ったような美しい日の光と空だ。九時半、かねての約束の通り、金子さんと五反田駅前で出会し、手を携えて主任の坪松さんの家へ年始にゆく。
挨拶して辞した後、五反田の町で蜜豆やケーキや天どんなどを食べたあと、後楽園グラウンドへ興行しているサーカスでも見にゆこうかということになり、自分は金と時間の空費を思って一種軽い苦悶に襲われたが、正月じゃないかと強請する金子さんの精力と、余り見る機会のないこの種の興行物に対する好奇心にひかれて、五反田から電車に乗り、赤羽橋で乗りかえて、一路飯田橋へ向う。途中、四谷あたりで、外濠の土堤の上で、無数の凧が薄青くひかる新春の空にあがっているのを見た。
飯田橋から後楽園にゆくと、もう白い砂塵の中に、驚くべき群衆が流れ、走り、並んでいるのを見た。木下大サーカス団と赤地に白く染めた幟が青空に翻り、野卑な音楽が狂ったように拡がっている。数百メートルも幾すじかに分れた列が這っているので一寸恐ろしくなったが、はるばる、もみにもんで駈けつけて来た以上はと、その後にくっつくや否や、警官が向うで手を振りながら、
「今日切符を持たない者は帰る帰る」
と絶叫しているのを聞き、金子さんと顔見合わせてウンザリしてしまった。急にくたびれて、歩く元気もなくなった。
サーカスの傍に小さな幕を瘤みたいに張りめぐらして、身体が犬で顔が人間だという見世物があり、赤い幕を一寸あげてはすぐ下ろしているが、ひどい群衆でのぞくことは不可能だった。ジャ、ジャーンと鐘を鳴らして、支那服の一人の娘が幕の中から出て来た。幕のため薄明るい太陽の光線の中に、この肉のブヨブヨした、どこか畸型といった感じの陰気な影を持つ娘は(彼女は勿論「身体が犬で顔が人間」という本人ではなかったが)無表情無感動をあくどい化粧の奥から滲み出させ、幕の前を右にいったり左にいったりした。
金子さんは見ようといったが、自分はそれがインチキであることは明らかだし、また生まれながらの畸型児かも知れないが、どっちにせよ陰惨な影響を受けることはわかっているので、一言のもとに断った。二人はトボトボと、砂煙の中を水道橋駅の方へ出た。
サーカスといえば、忘れられない想い出がある。
去年の夏――自分が就職のため、豊岡職業紹介所と河江の村を繁く往来していたころ、豊岡の町にサーカスが来て、伯父さんたちがそれを見にいった。そして帰って来て、その美しい娘たちが「花のように、蝶のように」空中を飛翔するありさまを、朴訥な百姓らしい表情で話した。自分は、豊岡から一日夕陽の中を、河江に向って野道を自転車で走りながら、いっそ就職をやめてこのサーカスに雇われようかと思った。
薄命の少女らと、野を越え山を越えて、さびしさの果てなん国を旅してゆく。地の果てまでも。
自分は何をやるか。サーカスの広告宣伝係をやる。そしてこの可憐な少女たちの生活を、後年、珠玉のような物語に書こう。
自分は夢に憑かれたように、熱い頭で、沈んでゆく田園の太陽を見てペタルを廻しながら空想した。サーカスの泊っている宿を訪ねている自分や、その後の生活まではっきりと描いた。
そして突然愕然として、自分のたわけた夢から醒めて戦慄した。がすぐにまた、頭は霞にかかったように、ボンヤリと空想の中へふたたび落ちこんでゆくのであった。
自分は恐ろしい空想家だ。二十歳を越えながら、まだこんな十二、三の少年のような夢を本気で描くのだから。
水道橋駅から神田へ出て、神田大都館でフランス映画「レ・ミゼラブル」を見る。ジャン・ヴァルジャンが童貞尼の「嘘」によって救われ、ジャベルの手をのがれてコゼットを救うために逃走してゆくところまで。おそらく観衆のだれよりも大きな感動をもって見たとは思うが、しかし映画はついに原作に及ばずと思う。
映画館を出てから、電車で赤坂見付までゆき、地下鉄で渋谷へ、渋谷で金子さんと別れ、省線で五反田に帰る。
三日
○煙草の売出しが、朝九時と午後二時の二回になった。
自分は風邪をひいて以来急に煙草がいやになったから、それが何時になろうと知ったことではないが、さてそうなると、勤人などは全く買えないことになる。朝九時以後に始まり、午後二時迄に終る会社はないからである。
そこで行列は主婦と子供ばかりになる。朝、煙草屋のガラス戸はまだカーテンを下ろしているというのに、黙々と並んで待っている女と子供たち。今朝の如きは、八歳から十二、三までの子供たちばかり並んでいた。煙草を買うために、である。
○今日は、最も俗な誘惑に一日中悩まされた日だった。おしるこが食べたくなったり、映画が見たくなったり、そして最後には、とうとう、いわゆる弾丸切手(戦時郵便貯金切手)を買ってしまった。
これは各駅前や街角で、メガホンで一日中「皆さん、皇軍勇士のために――」云々と声をからして売っている男から買うのである。各郵便局は勿論、食堂なども強制的に販売を命じられている。自分は五反田駅前から、悪いことでもするように首をうつむけて買った。
一枚二円で、毎月一日から十五日まで五百万枚売り出す。一等千円の割増金これが二百本、二等百円が千本、三等五円が四万本、四等二円が四十万本で、
「当籤率断然優秀! 十一枚につき一枚!」
となるのである。
二十日抽籤発表で、その十日後から当った人は割増金を受取ることができ、当らなければこれを五枚まとめると貯金としてあずけ入れることが出来るのである。
しかし、この切手と同時にくれたパンフレットに書いてある文句、「買って奉公! 当れば果報!」という文句は、人間の心理をついている。愛国心と欲を両てんびんにかけているのである。
四日
○河江の伯母から小包来る。餅と干芋。それに貴重といってもいい足りない砂糖までそえて。
○菅沼貞風『新日本の図南の夢』読了。
五日
○忘れていたが、きのうは自分の誕生日だった。まったく念頭になかったのは、自尊心を持たぬ証左としていささか気になる。
六日
○朝五反田駅につくと、ちょうど北の方から長い貨物列車が入って来た。薄黒い煤煙が吹きなびいているために、その表面は薄黒く煤けてはいるが、たしかに真っ白な雪が屋根の上に七寸あまりも積っていた。ああ、雪国、雪国。
薄蒼い大空を、霏々としてふり、また霏々としてふる雪の音を、赤い炬燵蒲団に頭をのせ、青い蜜柑の香を鼻孔一杯に匂わせながら耳をすませてきいていた遠い少年の日よ。汽車の雪を見て、自分は胸もつまるような郷愁をおぼえた。
○今日、同僚金子さんに臨時招集下る。十日、水戸連隊に入営とか。実に万感無量といった思いである。
朝、会社にいってみると、金子さんが来ていない。菊池さんのいうところによると、昨夜金子さんが菊池さんの下宿を訪ねて来て、郷里の茨城県那珂郡|瓜連《うりつら》町の役場から、公用ありすぐ帰れという電報が来たから、今からすぐ郷里へ出発すると断っていったそうである。自分は直感的に赤紙を思い、「来たな!」と思った。
心配していると、昼休み、金子さんが突然現われて、それが事実であったことを明らかにした。
慌しい出征であった。金子さんは午後二時半、いつかの橋爪さんのように、会社の白い門の前で訣別の辞をのべた。
「今回いよいよ大命を拝し、日本男児としての本懐これにすぎるものはないと存じ、まことに欣懐にたえません。入営の暁は、粉骨砕身軍務に精励し、忠誠なる天皇陛下の一兵卒として、断じて皆様の御期待にそむかぬ覚悟であります。では、いって参ります。在社中の御厚情は決して忘れません。御多忙中のお見送り、まことにありがとうございました!」
夜七時十分、第三計画一同、上野駅に、ふたたび郷里に帰る金子さんを送る。
新しき春の夜なりき、一月六日。
満天の白き銀河は霜を結べど、
大いなる都の路はあつき灯影と
遙かなる望みを胸にほの光らせつ、
うつつなる生くる痛みに口くいしばり、
波のごとゆきかう人に、
どよめきてありき、たたかいの国や。
北国へかよう門なる上野駅頭。
咲きほこる灯を白じろと濁し霞ます
とこしえに打ち寄せながる人の潮を、
夢と見て常磐線の改札口に、
胸ちぢに若きわれらは人待ちいしが、
そこはかとなき蕭殺の気は、
双頬なでぬ、たたかいの国や。
春の野の花吹きみだす噴火のごとく、
おお明治白雲なびく駿河台なる
歌声は雄たけびに似てかたえに湧きぬ。
胸つかれ頭《こうべ》をあげてかえりみすれば、
角帽の眉ひいでたる男《お》の子かこみて、
師や友のこぶし打ちふり、
勝てと泣く見ゆ、たたかいの国や。
音とどろ、音やとどろと打ち鳴り渡る。
戦鼓いま大和島根の浦うら覆い、
眼《まなこ》張り、ここやかしこと光透かせば、
人波のどよもす中をいと蕭々と、
三条の、はた七条の蒼き影ひき、
大君の征旗なびきつ、
征旗なびきつ、たたかいの国や。
風蕭々、上野駅頭、風声さむく、
ますらおは一たび去ってまた還らず、
ひた急ぐ人びとすべて歩みをとどめ、
声のみて頭をたるる駅の一隅、
墨のあといとも哀しき英霊安置所。
灯は淡く、香煙蒼く、
白き遺骨箱《はこ》三つ、たたかいの国や。
これから金子さんがやって来て――彼はそれまで何処かの親戚で御馳走になっていたのだそうで、大きな顔を桜色にひからせていた――赤襷も凜然と、最後の挨拶をのべて汽車に乗っていったいきさつを書くつもりであったが、コンが切れてやめる。
七日
○自分はこのごろ知識地獄におちている。あらゆることが知りたい。哲学、文学、歴史、化学、物理、地理、絵画、音楽、医学から社会の万象に至るまで、すべて深奥まで知りたい。
それを知って決して幸福になれるとは考えていない。またそれが知り得るとも思わない。知り得たと自信する場合が来ても、それは大いなるものの眼から見れば、実に無限大の一に過ぎぬことはよく承知している。漱石は『文学論』で、すべてを知らんと欲することは青春の愚かな野心であると忠告しているし、また西欧の哲学者もしばしば同じ意味のことをいっている。が、自分は知りたい。その青春の愚かな野心を決して愚かと信じることができず、その愚かさをくり返したい。
自分が憧憬している豊富な財力も、健康な肉体も、悠々たる閑暇も、快適な境遇も、すべてこれ知識を得べき読書をなさんがためであって、それが可能である以上のことは決して希望しない。
が、ただこれだけならば、知識地獄におちているとはいわれないが、このごろ一つの書物を読みかけると、心はすでに第二の書物に飛んでおり、第二の書物を読みかけると、心は第三の書物へ焦燥しているのである。おちついて、じっくり一つの書物の内容を味わうことができないのである。
いままで読んだ書物が、いま自分の頭のどこに残っているか。それは散漫な、断片的なもので、まったく秩序が立ってはいないではないか? おちつけ。おちつけ。おちつけ。――
八日
○朝、通勤の路の水溜りに白く氷が張って、すばらしい恰好で転がる人がよく見える。可笑しいことも可笑しいが、それよりこの白い氷が、自分に幼い日の故郷の追憶をそそること、切々たるものがある。
晴れた青空、かがやく雪の田園、白い息を吐きながら、赤い毛布《けつと》をかむって通学してゆく学童の行列。――
あのころ、泣いたり笑ったりした「フクちゃん」も「ジュンちゃん」も、いまはみんな戦争にいっている。が、あの時代の小さな無心の子供たちが、のちの――今の日本の狂瀾怒濤へ飛び込む最も悲壮な青年達となることを、どうして予想したろうか。
今「第二の国民」だと、耐乏貧苦の中に、大きな愛と期待をかけられている幼児たちは、案外将来日本の大進撃を後退させる連中となるかも知れない。
九日
○夜、アパート管理人の奥さんに餅をやる。
この餅をやるのにも、自分の心には若干の闘争があった。東京へ来て以来、菓子もめったに食べることのできない自分にとっては、毎夜下宿に帰ってから炭火に餅をやきつつ瞑想に沈むほど、満足にみちた幸福を与えるものはないからである。――炉端が人間の精神的進化の田園であるとアランはいったが、まことに名言だ。
それに、ここはアパートであって、下宿ではない。自分は毎朝霜ふかい時刻に出ていって、毎夜夜靄ほの白い時刻に帰って来る。ただそれだけだ。それにこの正月、自分が食うや食わずでいたときに、甘そうな黒い小豆の中に白い餅を煮ていたおばさんの印象が、いままで自分の良心にメッキをかけていた。が、自分一人、美しい餅を食べることは、浅ましい小さな――いや、決して小さくない苦痛を、たえず心の中に波立たせていた。で、今日、決然として餅の一包みをおばさんにやった。自分は心がぬぐわれたように軽くなるのを覚えた。
おばさんは嬉しそうに――が、幾分卑屈な表情をにじみ出させて、餅の配給物など正月前に食べてしまったこと、そのため差引かれた米が不足を来して、毎日ひもじい思いをしていること――などを、クドクドと早口にのべた。自分はもっとたくさん倍くらいやればよかった思い、
「もっとあげたいのですけれど、友達が遊びに来るといってますから――」
といういいわけが口まで出かかったが、急にこのことに嫌悪をおぼえて、
「はあ、そうですか、それは――」
と、繰返しただけだった。が、このために澄み晴れた自分の心に、また幾分薄白い息のような雲がかかった。
そして、このことは、後で台所でおばさんから、米が不足したために進退きわまって配給してもらったとかいう応急米の、色の黒い、ボロボロしたものを見せられたとき、ほとんど餅をやらない前と同じ程度の不快さに襲われた。それは自分の思い切りの悪さと、それを責めるにひとしいおばさんのくどさに対する怒りであった。
しかし、国民はこれほどの苦痛に耐えているのだ。
若し日本が勝ったなら、彼らの苦しみは偉大な苦しみとして、永遠の光栄を以て記念されるであろう。負けたら――暴動が起るかも知れない。
が、将来国民は、今の時代を、果して光を以て追憶するであろうか。あれはすばらしい時代だった。苦しいが、望みがあった。国家の理念は天皇を最高頂に仰いで燦爛とかがやき燃え、毎日、痛烈なスリルがあったと。
或いはまた闇を以て追憶するであろうか。何という苦しい、生きるのもようやくの時代だったろう。あらゆる生活の娯楽と自由は奪われ、「親切週間」が声高に叫ばれるほど人心はすさみ、毎日毎日見聞きするのは、残虐と殺人の記事ばかりだ。(先日の新聞には、或る上流婦人が米国捕虜にむかって「お可哀そうに」と溜息をもらしたという事件を、或る陸軍中佐が口をきわめて罵っていた。きょうの新聞には、或る実業家が、財力吸収の方便として、国家的富籤を提唱している)ほんとうにあんな時代が来るのは、二度と御免だ、と。――
ちょっと自分には見当のつかない時代だ。今は。
十日
○今日から「精励強調週間」が始まるので、朝作業課本室に集合、A課長の訓示をきく。この課長は、去年の暮からU課長のあとを受けて、機械工場長から代って来た人で、Uさんの老人じみた温厚さに較べて、蒼白い陰鬱な表情――とくに額と後頭部が出張って、横顔が顎を一頂点とする逆三角形をなして見え、それがいかにも頭脳冷静らしく感じられる――にも似ず、毎日、会社の食堂で職工とともに丼飯を食うくらい烈しい情熱を持った人である。
「昭和六年九月十八日、柳条溝にこだました一発の銃声以来、日本は非常時非常時と叫びつづけて来て、さらに支那事変から一昨年の大東亜戦争へと突入した今日、いまさら精励強調週間とは何であるか? 私は甚だ憤慨にたえない」と開口し、ドイツがソンム戦線で大敗して、絶望狂乱したキール軍港の水兵たちが暴動を起し、ついにあの惨澹たるドイツの敗戦を生んだことを述べるあたり、愛国の熱情ほとばしり、峻厳なること秋霜を感ぜしめる。
自分は何となくフランス革命に於けるロベスピエールとかダントンとかを思った。この人は、万一日本が敗れて日本に傀儡政府でも立てたと夢想する場合、「神国青年党」か何か作って、傀儡政府の首脳を暗殺して廻りそうな空想を抱かしめる。
十一日
○朝製造事務係のKさんがやって来て、「君に今度徴用令が来ることになったが、それに不都合なことがあるか、あらかじめ事情をきいておきたい」という。
自分は驚いた。そして、Kさんの持っているタイプ文字のならんだ紙片を眺めた。それには、徴用を免れるに必要な条件――現在長期欠勤中の者、召集令状を受けている者、会社願い提出中の者――等がタイプで打たれてあって、その条件中に自分に適合するものは一つもなかった。
それで自分はやむなく、今春上級学校へ入らなければならぬ家庭的条件があり、いま徴用をかけられると甚だこまる旨をいった。そういう途中、自分はたえずKさんの同情を求める笑いを浮かべつづけていた。
Kさんはやがて長々としゃべり出した。現在の日本に於て、個人或いは家庭的事情は一切認められない。君の考え方は米英流の自由主義である。自分だって高等官の資格があるが、弁護士にもならずこの軍需工場に勤めているのは、それが日本に最も貢献すると考えているからである。――云々。
自分はしだいに微笑を消し、眼をひからせて、Kさんの蒼白い、髯のそりあとの濃い、絶えず唇の皮肉にひきつる顔を見つめた。あとで正木さんは、「あれはA課長の流儀が移ったのさ。いや移ったというより、自分でそんな風に宗旨変えをしたのさ」といったが、自分はそんなことは毛頭思い浮かべなかった。
ただKさんの軽薄な、虎の威をかる「正義」を憎んだ。それはまことに「正義」――少くとも現在「正義」と呼ばれているところのものであった。それは自分を黙りこませたが、その背後には、人間としての軽薄を憎む心が凝結していた。Kさんは、徴用令を発令しに来たのではない。発令する前の相談に来たといったではないか。だから自分はじゅんじゅんと自分の立場を打ち明けたのではないか。自分は先刻の微笑を恥じなかった。それは人間として当然な「情」である。ただ、後悔した。こんな底力のない「愛国」を標榜する人物に「情」をふみにじられたことを後悔した。
自分はきのうのA課長に較べて、この愛国者K氏に、次のごとき空想を浮かべる。もし、このK氏が偉大なる才能の所有者であるならば、傀儡政権の一部に参加するものはかくのごとき男であろうと。
しかし、徴用令は何とかこれで免れ得たらしい。が、こんないきさつのため、それも大した歓びを伴わなかった。
十三日
○今日、午休みの時間、会社で助手技工以上の人を新食堂階上に集合させて、飛田という海軍監督官から訓示があった。
広漠たる太平洋のまっただ中に飛び出した飛行機の唯一の頼りとするものは、ただ一台の無電機であり、米国機の撃墜されたものの無電機を調べてみると、それは図体こそ大きいがはるかに日本の小さい無電機に性能の劣るものであり、「商品」の域を出ない。この差は日本人特有の繊細極まる手先の器用さに起因するものであり、機械が繊細であればあるほど諸君のわずかな心のゆるみもただちに影響して、あたら世界一の日本の航空兵をむなしく波濤の彼方へ沈め去ってしまうのである。――日本の戦闘機は決して自画自讃でなく、実に世界に冠絶したものであり、アメリカ軍はこれに○○○(監督官は、今はまだこれを打ち明けることはできないともったいをつけた)という綽名をつけて戦慄している。そして今度また新型の戦闘機が出来ます。飛行機はどんどん作っております。が、これに積み込む無電機はいま辛うじて間に合っている状態であり、これに関しては諸君の努力を多とするが、打ちあけて申せば、いま一機の飛行機が出来るや否や、それにこちらから持っていった無電機を積みこむとただちに飛び上るという始末であるから、今後ますます精励されて、これで少し余裕が出来た、とともに悦び合うようになりたいものである。――と、この色の黒い、幾分老獪の感を起させる海軍将校は軍人らしい雄弁を以ていった。
飛田監督官が去ると、入替って田中部長が壇上に立った。田中部長は白髪赭顔の上品な容貌の六十を越える老人で、低い、おだやかな声で、いかなる絶望的事態が到来しても決して絶望してはならぬと励ました後、材料が極度に不足し、当分これを入れる見込みがつかないので、或いは工場を一時閉鎖するという最悪の事態に立至るかも知れぬと沈痛に述べた。社員はみな首を垂れた。
必勝の態勢なると呼号し、百年戦争をも辞せずというが、鍋やおもちゃを作っている工場ではない。海軍直属の軍需工場の第一線、戦闘機などに積込む無線兵器を作っている工場ではないか、それが材料で進退窮まるとは、実に日本のために憂えざるを得ない。
十四日
○しかし、材料の不足は実に容易ならぬ問題だ。自分の係の捻子《ねじ》のうち、無線機を作るのに最も必要な直径五・五ミリ、六ミリなどの黄銅丸棒が全然入らないため、組立工場はどんどん取りにくるし、捻子は製造停頓状態にあるし、みな毎日頭痛鉢巻だ。
材料不足のため芝浦工場ではほとんど出来ないので、下請工場に注文を出すのだが、材料持ちでやるのは長谷川製作だけで、その長谷川も最近は苦しいらしい。あと幾つかの下請けは材料支給でやるのだが、その支給すべき材料がないのだから、その上、捻子はそんな点にはおかまいなくどんどん要るのだから、進退窮まって、彼らに暫時材料立替で納入させる。
沖電気のように大きな軍監理の工場だと闇は出来ないが、小さな下請会社になると闇で買うことが出来るから、その点少し融通がきくのである。
彼らはいつか立替えた分を支給してもらえるものとして納入しているのだが、きのうの田中部長の話によると、材料はいつ入るかお先真っ暗なことになった。それでいままで立替えた分もいつ支給できるか見込みがないので、ここで一応山積した立替分を金で償っておこうかという話も出たようであったが、彼らが闇で買った材料の代償を公定で支払うのは残酷なので、とにかくいつかは支給になるという希望を持たせておいた方がよかろうということになり、「立替材料は追々支給する」という話に結着した。
それから当面の問題は、今後の捻子製造であるが、こちらで材料支給の見込みのつかない以上、当分材料持ちでやり得る下請会社のみに注文を出せという命令が出た。これは自分たちには忍び得ない命令であった。
なぜなら常盤工業や末友製作などはとうてい材料持ちではやり得ないけれど、今までずいぶん苦労して、この上顧客たる沖電気の信頼を失わないために、或いは捻子係の自分たちの苦衷を救うために、材料立替で納入してくれたからである。毎日親しくつき合っている上に、特に常盤の如き、注文を受けるのはこの沖電気だけで、この正月などは今年こそ大いに張り切りますよと胸をたたいて新工場を建てる予想などを語ったのをきいた上は、仕事進行のためとはいえ、大義親を滅すとか泣いてバショクを斬るなんてことはできない。
今日も末友製作の人と面会している間、こもごも材料不足の件について話したあげく、もう日本には材料がないのだろうか、という自分の疑惑に対して、末友は、なんのなんの、あることはうんとありますさ。ただそいつを、これから末長い戦争の先を見越して、一時に今出せないだけで、あるといえば、石油だって食糧だって山ほど貯蔵してあるんでさ、と頗る心丈夫なことをいった。
それからガダルカナルの死闘ぶりについて、日本の航空隊の空中戦は天下無敵で、敵機と一つからみ合ったかと思うと、次の瞬間には敵機は必ず白い煙を吐いている、とか、しかし敵の飛行場の迷彩が巧みで、日本の航空隊が襲ってもその所在がわからず、追えば敵機は忽然と消え去り、退けば忽然と現われて来る。これは敵がジャングルの中に飛行場を作っているためである、とか、こんな飛行場は、日本でも茨城県の方に作ってあるそうだ、とか、わかったようでわからない話を一時間半くらいくり返していた。
十五日
○今夜は第三計画親睦会をやるので、会社は定時で全員退出、七人そろって上野へ省線でゆく。
上野駅付近は戦争で極度にさびれたとはいえ、殺風景な五反田付近を見馴れた自分には、それでもずいぶん美しく見えた。とくに食堂街の食物を陳列した飾窓は心を奪った。寒風は暗く吹いたが心は愉しかった。
やがて聚楽に入り、三階で菊ランチを食べる。あずまや風に「乙女」「羽衣」など名づけた座敷がならび、花飾りを白い天井から下げている。が、給仕女は例によっていともブッキラボーで、その上御飯の量は少なく、天ぷらも大してウマいとは、思われなかった。
そのうちに傍に坐っていた肥った紳士が、食券を渡したとか渡さぬとかいう口論を給仕女と交したあげく、憤然として去るという不愉快なシーンまで見なければならなかった。
そこから二階に下りて、チャーハンを食い紅茶をのみ、やや満腹の感を得て、上野広小路の寄席「鈴本亭」へゆく。
門には鈴本亭の字を入れた大提灯が並んでいる。
寄席の中は、自分にははじめての情景で、それを見る好奇心に誘われて来た気味もあるが、前から想像していたものとほとんど変らなかった。丁度ヤブイリの日なので、恐ろしい満員で、自分たちははじめうしろで立って見ていたが、まもなく横の廊下に並んだ長椅子に坐ることが出来た。
今輔という落語家がやっていた。あまり面白いとは思われなかったが、はじめての経験のせいかも知れない。それより自分には、「陽一一行」の万才ショーの方が、はでで陽気で俗で面白かった。三番目に三味線をひいてドドイツを唄った寅子という爺さんは、赭顔肥満の老人で、みな三亀松を除いては当代の絶品だとか何とかいっていたが、自分には、その首ふりのばして声をしぼる形相にむしろ嫌悪の念を持った。
次の小文治の馬鹿踊りの水ももらさぬ洗練ぶりには一寸感心させられた。
一奴の百面相は、東条総理と来栖大使と高瀬実乗と支那娘をやった。元来が顔の長い男だから、顔のまるい役はやれないらしい。
万才ショーの「日出丸一行」手踊りの「春の家一行」みな相応に面白かったが、また大して可笑しくも悲しくもなかった。
笑わせようと努力する者を見ると、寧ろ痛ましい。それにもかかわらず、客は実によく笑う。一言一句、一挙一動ごとに義務のように笑声のどよめきをあげる。笑いに来たにはちがいないが、よくまああんなに簡単に笑えるものだ。しかしそれが観衆の九分九厘までであるところをみると、自分の方が一寸変っているのかも知れない。しかし、可笑しいことがあると、みな自分の方を気にして見るので、しかつめらしい顔をしてるのが気の毒でもあり、わざとらしく思われて来たので、義務的に笑顔を作ってみたが、こんどはその笑いがわざとらしく思われて、どんな表情になっていいものやら途方にくれた。寄席に来て途方にくれているのは自分くらいなものだろう。
それから小柳枝の落語があった。一般に落語家はみな色つやのいい、福々しい顔と、洗練された態度で現われてくるが、大きな座蒲団に坐ると同時に、俄然陽気にしゃべり出すのはふしぎな感じがする。その手さばき一つにも極度の注意を払っているのであろうと思うと、見ていて可笑しいよりも苦しい。
最後に主任の「左楽」が出た。面長の、顔色のいい上品な老人で、老年の美というものを一杯にかがやかせているような老人である。しっとりと落着いて、当代のふざけた同業者を諷し、人情噺を語れないようでは一人前とはいわれないと前置した後、幡随院長兵衛の墓の立つまでの人情噺をシンミリと語った。
途中、戦死した男の女房は一生独身を守るべし、自分の娘もその一人だが、自分は日本の女の心意気を全うさすべく、断じて再婚はさせない。しかるに何ぞや、最近の女は外国のまねをして頭を雀の巣のごとくモジャモジャにし、鈴本亭などにあまり来ないで、活動ばかり見て歩くとは――という意味のことを一際声はりあげていって、嵐のような喝采をあびた。
寄席を出てから、もう夜更けの景観を呈している上野を御徒町駅の方へゆき、途中あんみつとわんたんを食べて、また上野駅へひき返し、酔いどれみたいにブラブラうろついて、省線にのって帰る。
十七日
○朝刊に新しい増税が発表される。
今度はほとんど間接税中心の増税なので、自分のような貧乏人は大した痛痒は感じないが、煙草がきちがいじみたと思われるまでに上ったのは少し応える。
金鵄《きんし》が十銭から十五銭へ、光が十八銭から三十銭への急上昇ぶりで、会社でもみなみな大恐慌である。
煙草買いの行列は久しい社会的大問題であったが、これで一挙に解決された。みな、もう煙草は吸えない、あしたから禁煙だとさけんでいる。主任まで吸殻集めに大童《おおわらわ》である。それをキセルにつめて吸うのだそうだ。――が、こんなことがいつまで続くかは大いに疑問だ。今は値上がりの直後だから、みな買う気になれないらしいが、これが一ト月二タ月と経過して馴れてくると、また元通りの煙草難に見舞われるにちがいない。
このごろは毎日蒼い日本晴れと美しい月明りが続いて、頗る爽快であるが、この増税で幾分憂鬱な翳りが心にさした。
曾て近衛公は国民の最低限度の生活は保証するといったが、今がまさしくその限度に達しているのではあるまいか。
もちろん個人としてはまだまだ生活を切りつめることは出来るが、人間の大集団たる国家としては、この程度が限度であると思う。
盗みは罪悪である。人の悪口をいうのも不道徳である。このことにまちがいはないが、さればとて盗み悪口は死刑に処すと法律に定めればそれは明らかに暴政になるように、国家の「生活の限度」は個人のそれよりはるかに早く、限界に達するのである。みなはこんな生活がもう二年もつづけば耐えられないという。
自分はしかし四五年は大丈夫だと思う。人間は案外辛抱強い、しぶといものだからである。が、これも個人を基準にして考えたのであるから、国家としては二年説が或いは真実かも知れない。
十八日
○衣料切符の点数が上ったことが発表される。いままで二点で買えたものが今度から、四点出さなければ買えないことになったのである。何でも上る時勢で据置きは給料だけだとアパートの主人が深刻な嘆きをもらしたが、まったく笑えない。
○きょう町の煙草屋を見ると、きのうまで影もかたちも見せなかった種々の煙草が、れいれいしく美しく積み上げられているのは、腹立たしいが滑稽な眺めである。朝会社へくる途中、それは七時半ごろになるが、毎日煙草売出しの八時を待って、煙草屋の前に延々と寒風に吹かれていた行列がもう見えないのも痛ましい漫画である。
○今夜は残業当番なので、部長室の火(ガソリンの空缶にコークスを燃やしたもの)の始末をする。久瀬川さんと二人で、これを抱えて中庭に出て、バケツで水を二、三杯かける。もうもうたる白煙の竜巻が、凄じい火の消える音とともに、紗のような薄雲のさざなみのたなびいた美しい月夜の蒼空に巻きあがってゆく。
薄暗い中庭の底に立って見上げている自分の姿を思ったとき、ふと死んだ母の追憶が心を淡い光のようにかすめて過ぎた。母が天から見ているとするなら、東京のこんなところにいる、こんな自分の姿をどう思うだろう。
十九日
○衣料切符が帽子にも適用されるのがきょうからなので、きのうは東京じゅうの帽子屋はすばらしい盛況を呈したそうである。中には、五つも六つも中折を抱えて帰った男があるそうだ。これも笑えない漫画である。結局買い溜めをした人間がトクをするのは、いかに慨嘆してもやむを得ない現象である。
○夜、会社から品川駅への道をはじめて菊池君に案内されて帰る。今夜も玲瓏たる月明りだ。
二人でこもごも未来を語り合う。菊池君も勢いこんでしゃべったが、急に落胆して、ああ、しかしおれは兵隊にゆかにゃならん、と嘆いた。
自分のように極度に体格の貧弱な者は知らず、二十歳前後のふつうの肉体を持った青年なら、絶対戦争にゆかなければならない今である。
戦争にゆく以上、死は必然の事実と予期せねばならぬ。二十歳前後の少年たちに、死を見ること帰するがごとき心を持て、万一それを免れ得れば、そのときはそのときで冷静に計画を立てる心を持てと要求するのは無理であり、無情である。将来兵隊にゆく若者たちが、自棄的なデカダンな心理に陥るのは、悲痛なる当然事である。彼らが戦場に出て、妻帯者や年長者にくらべてはるかに勇敢だという定評は、もちろん祖国愛の熱情が単純なせいもあろうし、体力の点もあろうが、死というものを殆ど知らぬ――従って無恐怖の心と、もともと野性を以て生まれてくるあかん坊からほど遠からぬ年齢とが、自棄の炎に煽られて、凶猛無類となるのではあるまいか? 自分は菊池君にどう答えていいかその言葉を知らなかった。
二十二日
○きょうから会社の食堂が玄米である。町の食堂はほとんど玄米だ、固い光をはなって、質朴な美しさがある。味も存外まずくはない。
○夜五反田劇場に、菊池君、久瀬川君と映画「阿片戦争」を見にゆく。俳優の演技はどろくさいが、その広東炎上のシーンや群衆シーンなど、東宝得意の特殊撮影の技術を発揮して、自分の「夢と妖、美と壮大」に対する憧憬を幾分か満たした。高峰秀子という女優は魅力がある。
映画代は自分が支払ってやる。出てから、あんみつとコーヒーとケーキとお汁粉と焼そばをオゴってやる。
しかし、オゴられる――同僚にオゴられるということは、なんという恥ずかしい態度となって現われるものだろう。自分はもう同僚にオゴってもらうまいと覚悟した。が、オゴりながらこんなことを考えているところを見ると、自分の心は狭く小さく、欲心に満ち満ちているのかも知れない。
二十三日
○休電日なので休日である。
昼、町の食堂で新聞を見る。
ガダルカナル島に従軍した記者が、同島の死闘ぶりを報じている。制空権なきため、日本軍はただ肉弾を以て戦闘していること。ジャングルに日本兵の片影でも発見すれば敵機は何時間でも無尽蔵に爆弾銃撃の雨をふらし、戦車で日本の負傷兵をひき殺す残虐ぶりを敢てし、日本軍は飢えて、ただ血の涙を以て戦闘をつづけていること、等を報じ、かかるアメリカ軍に対しては、攻略とか撃滅とかいうことはまだ生ぬるい、断乎として全滅殺戮すべしと激越な調子で結んである。
きのう高須さんが、ガダルカナルから最近帰還した兵からきいたといって話したところによると、アメリカ軍は水陸両用の戦車を以て雲霞のごとく沖合はるかから上陸をして来て、そのトーチカなど作りかかってから二時間くらいでもう固まってしまうそうである。そして日本軍はもうノモンハン以上の犠牲を払っているそうである。
それから、この前、会社に来た海軍監督官がいった日本の海軍戦闘機に対するアメリカ軍の綽名がきょうの新聞でわかった。「地獄の使者」というのだそうだ。
それにしても軍人というものは、どうして大したことでもないのにあんな風にもったいぶるのかしらん。
○午後、東横五反田劇場に映画「開戦前夜」を見にゆく。田中絹代はやはり名女優である。
二十四日
○会社を定時で退いて、高須さん、正木君、菊池君と打揃って、常盤の親爺さんの家へゆく。今夜御馳走するから来るようにと、数日前からのことづてであったのである。
例の材料問題で、常盤の親爺さんも必死の努力をしているのだろう。しかしこの前の「ときなか」といい、今夜といい、これは一種のワイロをとっていることである。自分はまた微かな苦しみを感じたが、興味とつきあいの誘惑に負けてしまった。
目黒駅についたときは、凍るような夕風が吹いていた。身を切るようなというより、地球宇宙そのものが冷却してしまったような寒さであった。
しかし下目黒の常盤の家についてからは、良心のさざなみなどはどこへやら、すこぶる愉快で面白かった。明るい灯のついた六畳の座敷で、みな卓を囲んで皿に山盛の赤飯を食べた。おかずは大したものではなかったが、それはいまの時節、どうしようもないことである。まして赤飯のウマさと、久しぶりに畳に坐って食事をとるという愉しさは、自分たちをこの上なく朗らかな気分にさせた。
ひたいに小さなコブのある細君が、冗談の中にくりかえしくりかえし、「どうかお見捨てなく」という。これは一種のワイロではないかという憂鬱は、常盤の重々しい白髪の下に漂う口の重さと明るさと、砕けた応待のため、まったく自分を脅やかさなくなった。
食後の菓子をとりながら、みなの話のおちてゆくさきはやっぱりガダルカナルの戦争であった。「負けやしませんでしょうねえ、負けやしませんでしょうねえ」と自分たちの顔をうかがう常盤のおかみさんは、やがて何か確信するところがあったらしく、「ええ、きっと勝ちます。勝ちますともさ」と最後に唾をとばしていい切った。そしてこのおかみさんの表情の推移は、そのまま一座の空気の反映であった。
満腹のよい気持で、四人が常盤邸を辞したとき、満天には青い螺鈿《らでん》細工のような星がきらめいていた。しかし風は依然として骨の髄まで冷えこみそうに寒冷だった。
四人が目黒の大通りまで出たとき、町の屋根の彼方にぼうっと、赤味をおびた黄色い光の余炎が見えた。夜空にさすその大きな光は、どうしても電灯のそれとは思われない異様なものだった。火事にちがいない、それでなくってあんな光の出るわけがないとみなは異口同音にいい合った。
それにしては、ほんの近くの目黒の消防自動車が出ないのは不思議だと思いながら、どうだい少しあったまりにゆこうかと冗談を交しているうち、突然菊池君が笑い出した。「おいおい、ごらんよ、立派な火事だ」みながいっせいに顔をふりむけたとき、金色にかがやく甍の上に、みごとなくらい巨大な月がユラリと顔をのぞかせているのが見えた。ちょっと、あっけにとられ、やがて四人は寒風も忘れて大声に笑い崩れた。
二十六日
○昨夜残業しているとき、みなコークスの火の周りに椅子を寄せて戦争の話をしていると、突然小針さんが、「そうそうルーズベルトといえば……」といって、きのうの朝省線に乗っていると、ふいに近づいて来た奇妙な老人がくれたという一枚の名刺をポケットから取り出した。
それは表がふつうの名刺になっていて、裏が不可思議な文言の印刷になっているものだった。
(表)
東郷元帥記念賜筆
安房庵六々居士
安部宣之介
麻布市兵衛町二ノ一三
(裏)
○霊感による確実なる予言
昭和十九年六月二十五日大東亜聖戦は完全なる大勝
利を以て目出度終了なすべし。同五月三日午后三時
(日本時間)大統領ルーズベルトは国内暴動のため
横死をなす。
○以上は百日の断食によって感得せしものなり。
安房庵六々居士
観相は表記の場所に於て当分の間午後一時より応
需。
百日の断食云々は勿論ウソであろうが、たとえデタラメとしたところで、こんなものを作って電車の中で人々に配っているこの老人の風態は想像しても面白い。
しかしそれ以上に自分が面白いと思ったのは、「本年中に街の占師追放、軍需工場へ転職せしむ」という警視庁の意向をのせたけさの新聞を対照して見たときである。きのう一日中、神秘な予言を人々に伝えて廻った安房庵六々居士は、この朝刊をみていかなる心理を持ったろうか。
二十七日
○残業をすませて帰途暗い路を歩きながら深沢さんが、ふと、
「山田さんは人がおべっか使ってるのを見たら憎むだろうな」
と、いった。自分は、
「あまり感心もしませんが、憎むというほどの気にはなれませんが」
と、返事をして、
「僕が憎むように見えますか」
と、いうと、
「あゝ、徹底的に憎むように見える」
と、答えた。
自分は一寸驚いた。自分はなるほどおべっかを使ったことはない。しかしそれはおべっかを使うほどの人に出合わないからである。これは単純なウヌボレでそういうのではない、ほんとうのところである。
しかし、他人がおべっかを使っても、べつに羨ましいとは思わないが――勿論露骨なおべっかは軽蔑するけれども、そう悪いこととは痛切に感じない。むしろ愛嬌の程度のものなら、この世を柔らかにする油の役目をするものと考えている。しかし自分があまり超然としているから、こんな誤解を招くのだろう。
二十九日
○「衆口」というものがある。自分はこの「衆口」に全然恐怖を抱かない。勿論、自分は現在の如き自分であるから「衆口」も大したものではないにきまっているが、それでも小さな社会は小さな社会なりにそれぞれ「衆口」はあって、これにそれぞれ一喜一憂する人々が多いのである。しかし自分は「衆人」を余り尊敬しないから、「衆口」など全く念頭の外にある。もっとも「衆口」に無頓着なことが必ずしもよいというのではない。むしろこれは悪い傾向であろう。――
三十日
今日は一寸不思議な心理を経験した。金もないくせに大きな気になって菊池君に九円も貸したので、今日の夕飯が食べられなくなってしまった。
もっともこれは昼飯にちょっとぜいたくな(七十銭の昼食!)をとったせいもあり、夕飯くらい一度抜いても何でもないが、そんなことを考えていると、突然食いたくなり、不要の書物――『物理精義』とアランの『人間論』(これは訳がまずいためか、ちんぷんかんぷん、さっぱり書いてあることがわからない代物である)――両冊合わせて三円三十銭がとこ古本屋へ売りにいった。
ところが古本屋では一円三十銭にしか買えないという。それでも異存はないが、一円五十銭くらい欲しくなって来て、もう一軒の古本屋へ持っていった。
「幾らくらいでお売りになります?」
というので、
「一円五十銭くらい。――」
と、いうと、
「じゃあまたこんど」
と、来た。
自分は少なからずあわてて、
「一円三十銭では――」
とかぶせると、
「いえ、また今度」
と、もうとりつくシマもない。
そこで二冊抱えて、トボトボと帰途についた。その途中、最初の古本屋の前で、もういちどこれを売り込もうかと考えたが、もちろんふつうの度胸で出来るわざではない。いやな顔をするだろう、或いはののしるかも知れない。
――そこで自分はまた歩き出した。
すると突然、思う存分恥をかかされたらどんなものだろう? 自分はその後、その恥辱のために不快を感じなければならないだろうか? 或いは金さえもらえば恥は一時のことと恬然とした心境でいられるだろうか? という妙な問いが自分の心に湧き上った。
これは自分でもまったく予想がつかなかった。そこでこの奇妙な実験――勿論欲気も全くないこともない――を試みたくなって、再びその明るい店内へ入っていった。
「やっぱり一円三十銭でよござんすから買って下さい」
というと、主人はジロリと自分の顔を見て、
「へへん」
と、皮肉な笑いをもらした。
「もう買いたくなくなりました」
と、呟く。自分は平然と(!)笑っていた。すると主人は、
「しかたがねえ」
とまた呟いて、本をちょっと調べ、一円三十銭を台の上に投げ出して、
「あちこち値を較べたあげく売るんじゃ、売る方も気持が悪かろうし、買う方だって気持が悪い。最初からの話なら、気持もいいんだ」
と、憎々しげにいった。
自分はまた笑った。が、頬はこんどはいささかひきつった。
が、じぶんは一円三十銭受け取ると、悠々たる足どりで店を出ていった。が、しばらくの後、一人で暗いガードの下を歩いていると、突然異様な不快感と哀愁に襲われた。なあにクソ、あれはあれですんだのだ、あんな古本屋のことなんか忘れちまえ! といくら心にいいきかせても、鼓膜の奥で、あの軽侮にみちた主人の口吻が虫の羽音みたいに聞えてくる。やっぱりふつうの人間だった、――と、これを歎くより喜ぶより、嘔吐したいような不快感が、胸の内側を汚物みたいに這い回って、頭が熱くなる。
この不快感のため、金は晩にみな費ってしまった。悪銭身につかずか。――しかし、それでも不快感は勿論去らなかった。これを書いている今でもきもちが悪い。
三十一日
○朝初雪ふる。一寸、たまるかたまらぬかくらいの淡々しいもので、雪国生れの自分には、雪と呼びかけることさえ気恥しいくらいのものである。しかも但馬で、これくらいの雪なら、陽気はいかにも暖かく、春雪とか牡丹雪とかいう感じのするものだが、東京の雪はいやに大気を凍らせる。
夜、菊池君が給料をもらったので、こないだのお礼だといって、自分にオゴろうとする。自分はもはやオゴられない決心だから大いに断わったが、とうとう断わり切れなくなって――ああ、人間の欲望の何と強大で、人間の意志の何と貧弱なことぞ――ほんの一円足らずのところオゴってもらおうと、自分をゆるしてしまった。
そして二人で、品川を通り、北白川宮殿下の御邸宅に沿って、五反田に抜けて帰った。途中、例によっての馬食ぶりを発揮しながらである。
まず、品川でカレー丼を平げる。
それから五反田へ帰ってから、自分が昨日昼探検にいってなかなか上等なものを食わせると感嘆した大橋食堂へ菊池君を案内して、丼飯二杯、肉皿一皿、刺身一皿、芋と人参と卯の花の煮合せ一皿で、都合一人前一円十銭の大饗宴を張る。
自分はすっかりうれしくなってしまって、今度の自分の給料日には、ここで一杯飲もうととんだ約束をしてしまった。都合今夜は丼飯三杯食べたわけで、腹は苦しくって歩くのも大儀になった。
が、自分は愉快でたまらないので、今度は自分がオゴるからと、菊池君をひっぱって或るお汁粉屋で、お汁粉やあんみつやあべ川餅を大いに食った。そこを出てから、もう降参降参と悲鳴をあげる菊池君の片腕をつかまんばかりにして、今度は鮨屋に入る。菊池君が悲鳴をあげればあげるほど、自分は悠々たる態度を持つことに努力したが、腹は張り裂けるほど張り切って苦しかった。
ほんとうに救いようのない馬鹿とはこのことだ。
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二月
一日
○またもやソロモンで大海戦が行なわれた。みんな「これなら煙草が値上りしても文句はないや」と大よろこびである。
大本営発表(二月一日十時)
「帝国海軍航空部隊は一月二十九日ソロモン群島レンネル島東方に有力なる敵艦隊を発見、直ちに進発悪天候を衝きてこれを同島北方海面に捕捉し、全力を挙げ薄暮奇襲を敢行、敵兵力に大打撃を与えたり。
敵はわが猛攻を受くるや倉皇として反転南東方に遁走せんとせしが、翌三十日、さらにわが海軍航空部隊は昼間強襲を決行し、之に大損害を与え、敵の反撃企図を破摧せり。本日までに判明せる戦果及び我方の損害左の如し。
戦果――戦艦三隻撃沈。巡洋艦三隻撃沈。戦艦一隻中破。巡洋艦一隻中破。戦闘機三機撃墜。
損害――自爆七機。未帰還三機。
(註)本海戦を「レンネル島沖海戦」と呼称す。
二日
○きのう到着した『螢雪時代』中の「進学の本質を語る座談会」で、各高校の主事や文部省の役人が、しきりに学生の進学が自由主義的だと非難している。文学が好きだから文学にゆく、医者が好きだから医学に進むでは、まったく国家の求めるところのものと合致しないというのである。
その論の当否はしばらく擱くとして、よくもこんなことが図々しく喋られたものだ。そんなことをいう彼らが、果して国家を考えて学校をすませて来たか? それならなぜ、もっと昔にこんな論を唱えなかったのか?
明治末期大正時代の頽廃期に学生時代を送って来た彼らが、いまごろ得々として、青年に何を教訓する資格があるのか? いまの日本――いや新世界史を創造しつつあるのは、ことごとく二十代の青年ではないか。
げんに沖電気のごとき、日本有数の無線機製造の大会社であるのみならず、きくところによると、屋上に上って正面から左側にならぶコンクリートの蒲鉾型の工場の中では、銃弾、機関銃などを製造しているそうだが、その何千という社員工員中の九割までは二十二、三歳以下の青少年であり、その青少年の中、八割までは十代の少年少女だそうである。彼らがこの会社の最も重大な要素なのだ。
そしてこの会社が海軍戦闘機――ひいては海軍にとって重大なる要素であり、その海軍がアメリカを次第に撃破して新世界史を創造しているならば、実にこの偉大なる作者は、この乳の香仄かな幼童の群だといっていいのではないか。
三日
○きのうは最も忘れることのできない歓喜に充ちた一日だった。
午後二時ごろだった。会社で捻子の計画を立てていると、突然玄関から電話がかかって来て御面会の方という。小西さんという人ですという。
玄関へ走り出てみると、遠くに黒マントの海軍士官が立っていた。一目でそれが小西哲夫であることがわかり、驚愕と歓喜に全身が躍り上った。自分はドアを蹴開いて飛び出すや「小西!」と叫んだ。「山田!」と向うも叫んだ。二人はしっかりと両手を握りしめた。小西の手は真っ白な手袋を透して暖かかった。
三年以上の別離にも拘らず、そのまなじりの切れ上った眼、自信満々たる唇――全然中学時代と変っていないのが嬉しかった。小西も自分が全く変っていないと感心した。
二人は受付にいって暫く話した。
「よく来た。嬉しい」
と、自分は溜息をついていった。
小西はけさから五反田の自分のアパートを探して昼までかかったとか、それからこの会社に勤めていることをきいてやって来たのだとか愉快そうに笑いながらいった。
自分の過去、真に全身全霊を以て愛し、敬服した友人は小西一人だ。愛した友達はある。山村、北井はその例だ。が、敬した友人はほかに一人もいない。敬と愛とが相伴い、肝胆相照らした友人はこの小西以外に誰もいない。この友人といっしょにいると、その自信満々たる肌合いに同化して、全身が愉快になって来たものだ。
その小西哲夫がわざわざ自分を訪ねて来てくれたのだ。そしてきくと、彼は今夜六時に東京を出発して浦賀に帰り、そこのドックに待っている駆逐艦村雨に乗って、今夜中に横須賀に廻航し、一夜別離の宴を張ると、五日には南太平洋へ出撃するというのだ。
日本に於ける最後の貴重な一日を自分への訪問に費してくれた! 自分はただちにいっしょに外出して、今夜六時に彼を東京駅に見送ろうと決心した。
そこで作業課分室へかけ戻って久瀬川君から二円借り、早退の手続きをすませて、蒼い空の下を足どり軽く、二人で並んで出ていった。
会社から田町駅まで二人は専ら北井のことについて話した。
自分は北井があと十ヶ月というところで海軍兵学校をやめたのは、本人は自分がやめたような口ぶりの手紙をよこしたが、きっと何かの事情でやめさせられたに違いないと想像していたが、果してそうだった。
「おれたちが中学時代あばれ狂っていたころ、北井サン、級長でオツにすましていたっけが、そのあばれ欲が海兵のおしまいごろになって俄然出て来たんだね」
と、小西はいった。
何でも酒など密輸入したのが、手紙の検閲でわかって上官にとがめられたとき、正直に謝罪しなかったり、その他色々とすべて罪状五ヶ条(尤も酒のことはその中になかったそうだが)を以て、海軍大臣の名で学校を追い出されたらしい。
今海軍は渇えるように士官を欲しがっているはずなのに、あの厳しい過程を経てようやく卒業近くなった一生徒を放逐するのはよほどのことがあったに相違ない。ふつうならその組の係の上官が死物狂いにかばってやるのだそうだが、この時ばかりは会議の席上終始沈黙していた上官が、最後に決然と立って、ただ一語、
「放校にします」
と、いい切ったそうである。そうして小西も知らない間に、北井は風の如く江田島を追われていったそうである。
そのときの北井の心事を思うと、自分は涙を覚えざるを得ない。決して悪い人間ではないのだ。
「ただ北井は海軍将校の肌ではなかったんだ。それはその前後、自分にしきりによこした頽廃的な手紙でもよくわかっていた」
と、自分はうつむいていった。痛ましかった。
「今、高等商船に入るために新規マキ直しをやってるそうだが、やっぱり船からは離れられんと見える。しかし、高等商船でさえ、あいつの肌に合うか、どうかね」
小西が急に手をあげて答礼した。
芝浦工場の門前に並んでいた三人の一等兵が銃を捧げて棒のように敬礼しているのが見えた。
「小西、おまえ、えらい出世したもんだな」
と、自分は笑い出した。
そこから田町まで、兵学校の巡航で厳島を廻る話だの、棒倒しの物凄さだの、教官の横顔だの、小西は例の明るい調子で一人でしゃべりつづけた。
自分は少し困惑していた。もちろん現在の自分に較べる憂鬱などではない。そんな対立的観念を持つには自分は余りにもこの友人を愛しているからだ。自分のことなどは念頭になかった。またそれで自分を軽く見るような小西でもなかった。
自分が困却したのは、さてこれから六時まで、小西をどこへつれてゆこうかということである。
むろん単なるコーヒー店へつれていってもしかたがない。それかといってカフェーや料理屋へゆくには自分が余りに無知である。
「公園にでもいって見ようか」
といい出して見たが、その公園も上野以外はどういっていいか見当もつかない。そこで上野公園にゆくことにする。
省線に乗っている間に、小西は、去年の十一月だが、海軍兵学校を卒業した同僚全部と、この一月六日、宮中に参内して親しく天皇陛下から御激励のお言葉を賜わったことを話した。陛下も大いに御心痛御憔悴のていに拝察されたそうである。
上野で下りて公園にゆく。西郷さんの銅像をはじめて見る。「大きな眼をしとるなあ」と小西が笑う。
それから二人で、公園のベンチに腰を下ろして、中学時代の思い出話をする。中学の花壇の花や農園の大根を一夜の中にみんな抜いて先生を卒倒させたことや、運動会の前日、国防競技の障碍物を夜中までかかってみんなこわして川へ放りこんだことや、刑事に追いまくられた話など、話し合って腹をかかえて笑いころげた。
少し離れたところでは地べたに、ぼろ切れみたいな老婆が蹲《うずくま》って、規則的に頭を地面にすりつけつづけていた。
それからだんだん薄白く変ってゆく空の蒼さに気がついて、上野の町へ帰っていった。
小西は、南太平洋海戦で、日本の優秀な航空兵がほとんど尽きたこと、同時にアメリカの優秀な航空兵もほとんど全滅したことをいった。尤もウソかほんとかよくわからない。
それから話は、各海戦の想い出になった。
ハワイ海戦で日本の空母――四隻くらい、飛行機は三百機くらいいったらしい――が、もし途中で発見されていたら全滅していたかも知れず、そうなった場合は、進攻して来た米国艦隊を小笠原あたりでくいとめる作戦であったこと。いまのガダルカナルくらいの激戦が小笠原付近で起ることは予期していたこと。日本の火薬は世界無比であるが、おしいかな、敵は電波の観測器を持っているのに、こちらは視力による測定器のためにだいぶ分がわるいこと。
開戦前決して勝利の自信はなく、千番に一番の必死の悲壮な感じに海軍一般が包まれていたが、航空隊だけは自信満々たるものがあったこと、またマレー沖海戦に使用した航空隊は龍山の航空隊で、対ソ戦用に準備していたものであったこと。あのときほど全海軍に熱狂の暴風を呼んだものはなかったこと。
また日本のミッドウェー攻撃は、日本の第二期の攻勢作戦であったが、陸軍部隊を揚陸しようとしたために秘密が陸軍側からもれて惨澹たる大失敗に終ったこと。そのためにもしあれが成功していたら、もうとっくの昔にインド濠州は片づけていたであろうこと。当時日本の大空母が数隻沈没したために――大破とあるのはたいてい味方の手で撃沈する――参謀連が右往左往する中に、山本司令長官だけはおちついて、みずから指揮して帰って来たこと。向うの対日本放送は、きいているとなかなか面白く、このときの海戦を、
「日本軍敗走、日本軍敗走。アブ蜂とらず、アブ蜂とらず、カカ、カカ」
と笑い、このカカというのははじめカラスの鳴声のまねかと思っていたが、どうやら呵々大笑の呵々らしかったこと。放送者はやはりアメリカ人らしく妙なアクセントがあること、天皇陛下には敬意を表し、戦争挑発者は軍部であると、軍民離間策を企てていること。
そんな話をききながら、上野で或る小さなコーヒー店に入って甘酒を飲んだ。ちょうど新聞に海軍人事異動が出ていたので、それを見ながら、山本五十六と米内光政の傑物であること、島田海相が全然昂奮しない人物であることをきいた。
そのうちにいよいよ五時近くなって来たので、稲荷町から地下鉄で銀座へゆく。
銀座の勝手は勿論自分にはさっぱり見当がつかないが、小西がこの一月六日宮中へ参内のため上京したときいったというオリンピックグリルを探して歩く。
地下鉄では、小西が潜水艦にむいており、特殊潜航艇はいまも南太平洋で活躍中であることをきいた。
銀座で降りて、或るレストランで、パンと肉と焼リンゴを食べながら、小西に、卒業してから一月上旬まで何をしていたんだときくと、少し遠い海へいっていたんだという。弾は飛んで来ないところらしいが、場所はいえないといった。連合艦隊主力はいま某地に腰をすえて動かず、いま働いているのは航空機だけだという。
レストランを出て、となりの鮨屋の前をすぎると、その次の家の屋根に「スエヒロのすきやき」という看板がかかっていた。
「一つスエヒロのすきやきを食べて見ようか」
といってドアを入ると――一寸妙な気配である。
店内はがらんとして電灯も消えていて、薄暗い壁際には、反物などを入れた大きなガラス棚がならんでいるばかりである。傍の階段の上を見ると電灯があかあかとともっているので、「二階カナ?」といって上って見た。ところが、二階はいよいよすきやきどころではない。薄ら寒い黄昏の光の中に事務机が一つ、その上には何か書類が散乱しているばかりである。
「まちがったらしい、小便でもしてゆこうか」
と傍の便所に入り、並んで小用を足す。さて階段を下りて出ようとすると、いま入って来た入口の上から、重そうなシャッターがしずしずと降りて来た。
あれよあれよといっている間にシャッターはまったく降りつくして、二人はこの薄気味悪い空洞の中に囚人になってしまった。
大いに狼狽し、かつ笑いながら、ようやく二階の隅に小さな灯がもれているのを発見、そこに留守番をしていた男に、事情をあかしてもういちどシャッターをあげて出してもらった。これには小西の海軍士官の服装が大いにモノをいった。
ようやくオリンピックグリルを発見して入る。二階の立派な広間で、煌々たる電灯の下に椰子の鉢がひかり真っ白なテーブルクロスが眼に痛いほどである。しかしテーブルには白髪の老紳士と令娘の姿が見えるだけだった。片隅に坐って、スープ、焼肉、パン、果物と、本格的な洋食をとる。ふだんならこれくらいでは平気の平左なのだが、きょうは昂奮と、食い物が上等すぎるので胃袋がびっくりしてしまったと見えて、何だか食欲がない。
小西は腹の革帯をゆるめたついでに、短剣を抜いて見せた。「これで、いざというときはこれさ」と腹を切るまねをして笑う。
ここで、今夜友人と東京駅で待ち合わせていっしょに浦賀へ帰るという小西を必死にひきとめて、その結果、明朝未明に出発、それまで自分のアパートで一夜語り合おうという相談がまとまった。
とにかく三日の午前九時までに間に合えばよいそうで、
「おれは航海士官だから、おれがいなけりゃ船が動かんのだから、まかりまちがうと死刑だぜ」
と脅す小西をつれて、ともかくも東京駅で待っているという友人にその旨を連絡すべく、有楽町駅から省線に乗る。
途中、「あんまり上等のものを食ったので腹の調子がへんだ」というと、軍艦ではあんなまずいものは食わせないという。
漢口攻略戦のころ、従軍した作家部隊が揚子江の砲艦の食物に驚いたという記事を読んだ記憶があるから、現在の日本に較べれば大したものであろう。しかしほかに何の愉しみもない水兵にとっては、せめて食物くらいぜいたくさせなきゃいかんからねという。
また、卒業のとき芸者を三人ほどあげて騒いだら六百円ほど飛んだ話。呉あたりの芸者は軍人よりもよく海軍のことを知っていて、町の彼方にマストの先がちょっぴり見えると、その艦名から艦長の名までただちに当てる話。何大佐は何という艦でいま何処にいっているということまで実によく知っているが、これがみんな酒席からの知識で、だから酒はこわい。ハワイ奇襲のとき、二十艦の全員が一日一室に集められてドアをとざし、さて中央の大きな箱のふたをとると、忽然として、アオフ島の精緻な模型があらわれて、はじめてハワイ攻撃の指令が発表された。それからというものは航空隊の猛者連は、酒はもちろんのこと大いに人間をこわがり出して、人の顔さえ見れば逃げ廻った。そんな話をきいた。
東京駅で待っていたやはり候補生の木村三郎という人に逢って、むりやりに小西の双松荘碇泊を承知させた。口の重いおとなしそうな人で、東京の人だという。
「もう家で水盃を交して出て来たんだから、一寸帰れないよ。幽霊だと思うかも知れん」
と、大いに困惑するのを、じゃあ一寸有楽町あたりで映画でも見てゆこうということになり、また銀座へゆく。
ところが映画館の所在地など木村さんも知らないので、銀座一丁目から八丁目までさんざん往復しているうちに、長い艦上生活であまり歩いたことがないという小西がまっさきに大げさな悲鳴をあげ出した。そのうち夜が更けて、とうてい映画や芝居など見ることができなくなったので、或る菓子屋に入って、あん蜜や雑煮を食べる。菓子屋の壁には、吉村寅太郎の「曇なき月を見るにも思うかな、明日は屍の上に照るやと」という歌とか、田中河内介の歌とか、いわゆる愛国百人一首の短冊が貼りつけてある。小西や木村さんに、吉村寅太郎や田中河内介が何者であるかを教えてやる。
それより自分は、先刻から木村さんが手に持っている長さ二尺あまりの細長い棒型の品物が気にかかった。何だときくと、ゴザだそうだ。
「銀座をムシロを持って歩いてるのはキサマくらいなもんだ」
と、小西がいう。酷熱の南太平洋ではゴザをかむってでもなければ寝られないのだそうだ。
「小西、病気すんな、なあ」
と自分は心からいった。小西はウフフと笑っていた。
刎頸の友と三年半ぶりに、大東京の銀座でともに食をとる。しかももう十日も後には、彼は血の潮ながれる南海の上にある。かかる壮絶な友との邂逅別離も今の時代なればこそだ。自分は無限の感慨に打たれずにはいられなかった。
時刻はもう九時に近く、店々はそろそろ大戸をとざしはじめ、星影ばかりが空の果てに青かった。その大空をかすめて、三条のサーチライトがしずかに這い廻っていた。
「時々は合うかい?」
と、小西がきく。
「合うようだ」
と答えると、
「何しろ、日本の防空はヘタだからなあ」
といった。
或る十字路で木村さんに別れた。
「すみません」
と自分は頭を下げた。そして小西と、五反田へむけて省線に乗った。
省線の中で、小西は去年の四月十八日の米機空襲について話した。何でも海軍は承知していて、わざとこれをおびき寄せていたのだそうである。十九日の未明空襲して来ると、航続距離その他から推定していたところが、あにはからんや、敵が使用したのは海軍機ではなく陸軍機で、日本を爆撃すると支那と沿海州方面へ抜けてゆく作戦をたてていた。そこで海軍も、今さらあれはよく知っていたなど国民に発表するわけにはゆかず、あの妙な空襲はウヤムヤに葬り去られたのだそうだ。
そのとき、突然人ごみの向うで、
「日本は神国であります。……神の国であります」
という妙な大声が聞こえた。のぞいて見ると、酔いどれみたいに帽子を斜めにかぶり、インバネスを着た五十くらいの男が、電車にゆられながら、眼をすえて一人で演説している。
「不肖、内閣総理大臣を拝命いたしまして……」
などいう。東条首相の文句を実によく覚えている。始め酔っぱらいかと思ったが、そうではなくてきちがいらしい。奥村情報部次長の演説など大声でやって、各駅々で乗車してくる人々をびっくりさせている。
一言いっては唇をへの字にする顔が面白くて皆ニヤリと笑うが、まもなく黙りこんで耳をすませている。狂人の叫んでいる声の余韻に、何となく鬼気迫るような肌寒いものがふくまれているからである。
五反田のアパートに帰った。海軍士官でも小西である以上、三畳の汚い部屋にひっぱり込むのも、少しも恥かしくはない。やがて彼に自分の着物を貸し、火鉢をかこんで話し込む。しゃべるのは小西ばかりである。
日本の新戦艦中には「大和」「武蔵」という八万トン級の凄いものがあること。新空母中には「翔鶴」とか何鶴とか何でも鶴の名のついたものが少なくとも三隻はあること。しかし平出大佐のいうように建艦は簡単なものではないこと。
海軍機のうち|0《ゼロ》セン式は世界最優秀のもので、重慶爆撃のときのごとき、群がる敵機をあっというまに全部撃墜したくらいの性能を持っていること。しかし敵のグラマンも優秀で、殆ど垂直に爆撃できるが、わが機はほとんどこれに近いが垂直とはゆかぬこと。ドイツの航空機はそれよりまだ急降下の角度がゆるく、日本の陸軍機はさらにゆるいこと。
ノモンハンでは、ソ連は今回の独ソ開戦を予想して、そのテストをちょいと日本に対してやったらしく、空軍に関するかぎり完全な勝利であったが、陸軍があのような大草原に適応する機動戦に未熟であったため、あまり見事なものではなかったこと。
ドイツが悲境に陥れば陥るほど日ソ開戦の危機が大きくなるが、そのウラジオ艦隊及び潜水艦隊は米英を相手に激闘している海軍にとっては容易ならぬ負担となるが、関東軍がハリ切っているため、いつ開戦となるかわからぬこと。
ミッドウェー海戦で日本海軍が重大な致命傷を受けたとき、米国はアリューシャンと南太平洋から反攻を開始し、英国は戦艦四隻、空母二隻、巡洋艦駆逐艦数十隻を以て東へ急行するとのことで海軍は頗る悲壮な空気に陥ったが、米英の北阿進攻のため英艦隊が引返したのは天の助けであったこと。
「おい小西、お前海軍に入ったことを満足してるだろうな」
小西がそんなことを話しているうち、突然自分はまじめな顔をあげていった。小西は、
「あまり不平にも思っとらん」
と、気にもとめない風でいった。
小西はいかにも米英の戦力を軽視していなかった。が、それを恐れる気もまったく見えなかった。死など念頭にもないらしかった。悲壮感などクソクラエで、終始中学時代同様に、明るいいたずら小僧みたいな口調だった。
火鉢の火はいくどか白い灰になり、また新しい炭がつぎ足された。話のついでにきいた。
「小西、おまえ、東京のどこへいった?」
「宮城」
「それから?」
「明治神宮」
「なるほど」
「銀座だ」
「ふん」
自分は笑い顔になった。
「靖国神社へはいったことはないのか」
「そこへは近いうちにゆく」
といって、小西も笑った。睡魔が襲って来た。もう二時も廻っているだろう。今夜で最後の別れになるかも知れない親友同士もこの睡魔には眼をしばたたいて降参するよりほかはなかった。
しかし小西は、明日の――いや、今日三日の朝、浦賀へ着かなければならない。今度こそは、午前五時十九分東京発の電車に乗ってくる木村さんを、品川で待ち合わせなければならない。寝るのはいいが、眼がさめて見たら日が沖天《ちゆうてん》にかがやいていた――などいうことになっては、コトである。
ところが、自分は腕時計を持っていない。なんと小西も修繕に出しているという。双松荘の廊下に柱時計は一つもない。アパートの人に借りるには、もうみんな寝静まっている。……
「まあ、眼がさめようよ」
とのんきなことをいって、二人は一つ蒲団にもぐりこんだ。自分は中学時代の下宿と錯覚しそうになった。
夜更ししていたせいか、ぐっすり眠った。ふっと眼をあけると、窓の外が仄明るい。しかしどうも見当のつかない明るさである。自分はしばらく暗い天井を見ていたが、急に、
「小西、小西」
と、呼んだ。五度ばかり呼んだ。
「小西、朝が来たぞ。起きろよ」
小西はよく寝ていたが、あっさりと気持よく床を離れた。
電灯をつけると、窓の外はまだ闇だった。部屋の隅で服を着、短剣を吊り、マントをつけ、帽子をかぶる小西を、自分は悲しい眼色で眺めていた。別れたくはなかった。しかし、そんなことをいっている場合ではなかった。
「少し早いかも知れんが、遅れたら一大事だ。寒くっても待つくらいの方がいい」
と自分はいって、起き上った。
靴をはいて玄関を出ると、仄暗い黎明の空気の中を、白い水のようなみぞれがふっていた。寒気はただちに肉体に迫った。二人は傘一つに肩を並べて、人一人通らない五反田の町を歩いていった。
何もいわなかった。しかし心は肯き合っていた。友情の味は、決して話し合ったり食べたりしている時にはない。黙っているとか、何でもない動作のときに感じられるものである。そうして、これもすべて幸福と同様、決して口や筆で表わされるものではないのである。
五反田駅につくと、時計がぴったり五時を指していた。これから省線に乗って品川へゆき、東京を十九分に発する電車を待つ。何という見事な時間であったろう。時計なし、疲労して眠りこんでいた二人の上に、神がしずかに顔を寄せて、「起きろ、時刻だぞ」とささやいたかのようである。二人は顔見合わせて微笑した。
みぞれは黎明の蒼白い大気の中に筋をひいていた。屋根の真っ白な電車に乗ると、それでも一つの車に、もう六、七人乗っているのは意外だった。その中に赤黒い顔の水兵が一人、腕をくんで眠りこけていた。
品川に下りて三分ほどの間、二人はそれでもまだ黙っていた。尤も沈痛とか悲壮とかいった感じではない。しかし、いうべきことはもうなかったのだ。いいたいことは千も万もあった。しかし黙っている方が、もっとよかった。
東京から電車が来た。一人の海軍士官候補生をのせた車がピッタリと二人の前に停った。それが木村さんだった。この見事さにまた驚きながら、二人はかたく握手した。
「頑張ってくれよ」
と、自分は小西の顔を見あげて、
「僕もともかく医者になるから」
と、いった。
これがきのうからの邂逅の間、自分が自分の一身に関していった最初で最後の言葉だった。自分の愚かな苦闘の過去を、この海軍士官の友人にクドクド語る必要をまったく認めなかったからである。小西もひとことも尋ねなかった。自分がいかに悲惨な現状にあろうと、小西は自分の才能を信じてくれているらしかった。
電車はすぐに動き出した。窓ガラスに顔を寄せて、
「しっかりやって来てくれ!」
と、自分は叫んだ。
「ガダを落とすぞ」
という返事がきこえた。ガダルカナルのことである。そして電車の白い灯の中で、二人は挙手の礼をした。
みぞれのほのかな暁闇に、二人をのせた電車は消えていった。自分はひっそりした冷たいプラットフォームにしばらく佇んだ。あの電車に乗りたかった。横須賀へも南太平洋にもついてゆきたかった。全身が火のようにかっかっと熱かった。
自分はボンヤリと、五反田へゆく電車に乗って帰った。しかし電車の中で、兎の耳袋をつけた一人の小僧が、積みあげた朝刊の束を各駅ごとに投げ出すために、一心に長靴を鳴らしながら縄をくくり直しているのを見ていると、急に涙が溢れてくるのを感じた。みぞれはなお冷やかにふりつづけていた。
四日
○一番楽しいことは何だろう、ときょう久瀬川さんと話す。久瀬川さんの一番楽しいことは、つれづれなるとき、机に向って「憂鬱」とか「潮騒」とか「哀愁」とか心に移りゆくよしなしごとをかきつづっている時だそうである。そういう意味で、自分の楽しいことは、絵をかいているときである。
自分は絵をかいているときは、ほとんど無念無想の境地に入る。ひとが見ると凄い顔をしているそうである。周囲の幻影や騒音が脳裡から次第に薄れてゆき、全身がぽっと熱くなり、眼が夢でも見ているような感じになる。他の人々がまわりに寄って来て口々に感心しても、嬉しくも悲しくもない、ただ自分の絵を、ボンヤリと吸いこまれるように眺めているばかりである。普通の楽しさとは違う。――忘我の愉悦とでもいおうか、形容のできぬ楽しさである。ただ自分が絵をあくまでも趣味として余技と考えている気持がこんな苦しみのない境地にひき入れるのであろう。
五日
○朝、芝浦の路を歩きながら、妙な錯覚を感じた。時刻はふだんよりもむしろおそいはずなのに、世間が黄昏のように蒼茫と暗いのだ。水底のような空気の下を何千人とも知れぬ働く人々は静かな潮のように歩いている。
その中でモンペをつけた三人の少女が、
「ああ、三日月に見える」
といった。
自分は東の空の果てを仰いだ。太陽は見えなかった。ただ赤みを帯びた紫色の横雲が幾重にもなびき、そのところどころが金色にひかり、中天はと仰ぐと薄明るい蒼みを帯びて澄んでいる。何となく古代のような神秘な感じに打たれた。
会社へ来て聞いてみると、けさはこの後ほとんど百年もせねば見ることの出来ない日蝕――皆既日蝕だったそうである。
そういえば先日から新聞で、アメリカとの科学戦にも勝利を得べしとしきりに叫んでいた。こんどの日蝕は日本の北海道からアメリカのアラスカにかけて最も完全な相貌を示すのだそうである。
不注意なばかりに惜しいことをした。もっと熱心に観察しておくのだった。
六日
○きょう、菊池君が平生になく蒼白な顔をしているのでどうしたんだと尋ねると、「煙草に酔ったんだ」という。しかし菊池君が煙草をのんだのはこれが初めてというわけではない。また菊池君は吸うといっても、ただ吹かすのである。自分は菊池君が「朝飯を食べそこねた」といっていたことを思い出して、きっと昼食を食いすぎたんだろうと想像した。
午後になって、小羽という女の人が自分のところに捻子を取りに来た序でに、「菊池さん、蒼い顔をしていたわね、薬あげたわ」といった。自分は「丼飯を四、五杯食ったんでしょう」と笑った。そのとき菊池君は席にいなかった。
残業の時間、部品倉庫のコークスにあたっているとき、小羽さんが、
「菊池さん、あんた今日蒼い顔をしてたの丼を四杯食べたからだろうと山田さんがいってたわよ」
と、菊池君にいった。コークスに手をのばしていた菊池君はかっとしたように顔をふりあげた。
「山田さん、かげに廻ってひどいことをいうなあ」
火照りが菊池君の顔を燃やした。自分は憤然として、
「かげに廻っていったりするか!」
といった。そしてまだ何かいおうとしたが、何もいえなかった。
なるほどあのとき菊池君は席にいなかった。しかし自分はあれくらいの冗談は菊池君が傍にいたところで平気でいったであろう。
菊池君もそういったあとで、いいすぎたと後悔はしたのであろう。しかしああいう冗談も、人によっては、特に菊池君のように名誉感に常人以上にとらわれている人間にとっては突然の憤激を呼ぶことはあり得る。
菊池君は、それから自分の方を気にするようにちらちら見あげた。自分は氷のような顔つきで燃えさかる黄色い火を見つめていた。二人の心理は解剖し得たが、「かげに廻って」という悪口は、自分をひどい悲しみにつき落していた。
「かげに廻って」――何という人を痛烈な屈辱感にたたきこむ言葉だろう。
自分は「かげに廻って」コソコソすると、何度か嘲罵された過去を顧みた。自分はなるほどその人のいないところで、悪口をいったことはある。しかし、それは少くとも常人以上ではないと考えていた。そう罵る人々を、自分は心の中で、
「私は、その悪口をきいてそのまま胸におさめて相手には聞かせないような人――ちょうど子が隣人の悪口を親と語り合うように――「親」にあたるそんな人が一人もいない人間です。だから時たまいうそんな言葉がすぐにひろまるだけなんです」
と思いながら、悲しみをふくんだ怒りの眼で見上げた。しかしそう罵られる場合、自分の立場が極度にみじめなものになるのは事実だった。その暗い悲痛な記憶が「かげに廻って」という一語を、自分にこの上もなく恐怖に充ちたものにさせたのであろうか。
自分はこの夜、菊池君についに一語をも話しかける勇気が出なかった。
七日
○毎晩のように冷たい美しい月明である。今夜も紗のような薄白い雲の流れる空に、透き通る下弦の細い三日月が白い光を放っている。
出征者が最近また多くなった。夜ふけにもいずこともなく潮のような跫音と軍歌が遠くから聞えて来る。朝白じらとした街路をゆくと、赤襷をかけた青年を先頭に数条の出征旗を風にひるがえし、在郷軍人、婦人会などが手に手に日の丸を打ち振りつつ行進してゆくのを見る。他の一団とたまたま遭遇すると、どちらからともなく万才の声が起って、悲壮な笑い顔が数十の旗の中にかすめすぎる。
○きょう会社で、昭和十六年以降徴兵検査を受けた者のうち、第三乙種以上の青年達の特別訓練がある。明日沖電気在郷軍人会分会の特別査閲があるので、その予行である。
自分も、他の青年たちと一しょに、品川駅裏の広場で、木銃を持って、突撃しては、十ほど並んだ前方の俵へ向って格闘した。分隊長である伍長が、休んでいる連中の中央に立って、
「おい、何が気持がいいといって、銃剣で敵を芋刺しにするほど気持のいいことはないぞ。根もとまで楽に入る。ただ抜くときがなかなか抜けんのだ。だから足で相手の胸を蹴って抜くんだ。お前たちも突撃したとき、ヒョイとあの俵を取られたらそのままつンのめってしまうような姿勢ではダメだ。こうして、そこで、ぐっと力を入れて」
と、どなっている。
寒風は吹きわたり、青年たちは唇を紫色にしていた。品川駅の煤煙の向うに、真っ赤な夕日が血のような潮を流していた。
八日
今日、沖電気在郷軍人会分会の特別査閲があった。
第一第二補充兵は勿論、第一第二国民兵まで含めた数であるから、会社前の大通りに集まった光景は雲霞のごとく――というほどでもないが、千人はたしかに越えた大部隊である。みな蒼い奉公袋を腰にさげ、出征した人は胸に勲章を輝かせていかにも誇らしそうである。
雨雲というほどではないが、空一面に覆った白雲は日の光をすべて吸収して、巨大な会社のビルの北側の広場は氷の中のように寒冷だった。唇は震え、手の感覚はなかった。
そこで、査閲官たる一人の大佐の閲兵を受け、東から西へ分列行進をした。先日の雨のため頗る柔らかくなっていた道路は、多人数の歩行のため靴もうまるような泥濘となった。自分達はヤケクソのように手と足を高く挙げて行進したが、年輩者の人々の中には、靴と泥を考慮した人々もあったであろう、
「泥を気にするようでどうなるか」
と、あとの公評の中で大佐は痛烈にこれを叱責した。大佐はいった。
「日本は緒戦によって不敗鉄壁の地歩を占めたとはいえ、まだ米英を積極的に攻撃するごとき戦略上の要点は一ヶ所も取ってはおらぬ。やがてわれわれは第二期攻勢を決行して、この積極作戦の要点を悉く確保し、敵ののどくびに日本刀をつきつけて、降伏か死かというところまで追いつめなければならぬ。が、このことがいかに容易ならぬことであるかは、昨年以来半歳にわたって激闘をくり返しているガダルカナルを思えば明らかであろう」
といって、
「やがてガダルカナルの完全攻略も程なく国民に知らされるだろうが」
と断って、産業戦士たり在郷軍人たる人々の奮起を要望した。
そのあとで、自分達補充兵の執銃訓練があり、また奉公袋の点検があった。内容の不備な者は衆目のまんなかで、戦陣訓の一節を朗読させられ、いやというほど叱りつけられて顔から火の出るような恥をかかされた。しかし足もとに並べられた油紙やタオルや歯磨やその他兵役関係書類の中に、「遺書」とか「遺品」とか墨でかいた白い封筒があるとき、いかめしいヒゲをはねあげた査閲官は顔をあげて、前に直立しているうら若い顔を見つめて、
「よろしい!」
と笑顔で大きくうなずいた。
九日
○暗い路を一人で田町駅へ急いでいると、落莫たる哀しさが心にひろがるのを感じる。
自分が自分を見るとき、恐ろしい愚物で怠け者だ。自分で自分を見なくったって、同年輩でも、自分など暁の星のように消滅させる天才児が雲のようにいるに相違ないのだ。
自分はこの春、果して医者の学校に入るだけの勉強をしているか。一晩に代数を二つして、――二つすればまだいい方だ。ボンヤリと煙草を吹かして寝てしまうだけではないか。
自分より年下の、流行歌に憂身をやつしている連中に大きなことを吹いて、それで大得意になっていてどうするつもりだ?
自分は銀河におもてを伏せて慟哭したいような気持で歩いていた。
十日
○現在までの昭和時代に於ける時代小説の双璧は吉川英治と大仏次郎の二人であろう。
大仏次郎と吉川英治はその対立的な作風が頗る興味がある。前者は一高東大出の知識人らしく、いかにも文章が繊細で正確である。後者は小学卒業だけでのし上って来たらしく、野性味があり、豪壮である。
いわゆる典型的な小説らしい小説を作るのは前者であり、決して小さくない才能を持っているのに、大仏次郎といえば、ああ、あの小説の作者かとただちに合点するほどの大作がないのはどうしたものだろう。『赤穂浪士』も彼の全才能をそそぎつくした国民的な小説とは決して考えられない。
それに較べると吉川は、むしろ粗野な荒削りの筆致でありながら、豪壮なテーマで吉川英治といえば『宮本武蔵』『太閤記』と一瞬に肯くだけの仕事をしている。小説でもやっぱり神経や知識より情熱や精力などの労働者的要素を豊かに持っている者が勝つらしい。
○しかし楠木正成を主人公にした名作が過去にないのはどういうわけか。直木三十五もこれを書いたように記憶しているし、大仏次郎も書いたような覚えがあるが、まったく影薄い作品だった。
しかし、これはいつか大仏か吉川かどちらかが書くに相違ない。或いはどちらも書くかも知れない。大楠公を神人として書くならば吉川英治の方がすぐれているような気がする。が、楠公を人間として書き得るのは――こんな武神と大仏次郎とは畠違いかも知れないが――大仏の方であろう。
きょう週刊朝日を見ていると、大仏次郎が湊川に旅行した感想を書いている。
楠公の湊川出陣は決して青公卿の無策に災いされたものに非ず、かかる国家的大事を武将たる楠公がみずからの所信に背いて処理するはずがなく、この伝説は太平記の作者が、日本人特有の悲壮美好みを満足させるために創作したもので、楠公は確固たる勝算を以て湊川に出撃したものにちがいないと推測し、それでなくては朝から夕刻へかけて七度も足利の大軍に駈け込む壮絶な努力や、七度生まれ代って国賊を滅ぼさんなどという凄壮な言葉は吐けぬはずであると断定している。
大仏次郎は大楠公を書くつもりかも知れない。ひょっとするとこの旅行もその下準備であるかも知れない。
十一日
自分が毎日、会社への往復に寄る田町の食堂に一人の六十余りの爺さんがいる。
十年一日のごとく黒い角袖を着せられて、赤いボタ餅を潰したような顔に絶えず気弱そうな笑いを浮かべて、テーブルとテーブルの間を、御飯や皿を持ってウロウロしている。自分は何となくこの爺さんに好感を持っていた。
近頃米不足のため業務用の米の配給が激減されたので、どの食堂も外食券を出さなければ食べさせないようになった。しかし、特にこの界隈の工場に働いている労働者は、とうてい家庭用の配給米だけではその巨大な胃の腑を満足させることができないから、出来るだけ食堂で補いをつけようとする。ところが家庭用の米を配給されている者には外食券が与えられない。
先日の夕方、自分がこの食堂に入ったとき、食堂と調理場の間を仕切った窓口の中で、おかみさんがキンキンした声を張りあげて、「外食券のない人はダメですよ! お爺ちゃん、外食券ない人はおことわりしてよ!」
と叫んでいた。爺さんはその窓口にかじりついて、
「うゝ、うゝ。――ま、まあ、もう一つ、もう一つあげて」
と、訴えていた。さては外食券のない人間を一人引受けてしまったと見える。
おかみさんは高い舌打ちをして、
「お爺ちゃん、仕方がないね。月半ばにお米がなくなったって知らないよ。じゃ、これが最後だよ!」
と怒鳴りたてながら、荒々しく御飯を盛った丼を窓口につき出した。
自分はもちろん外食券を持っているから、堂々と丼を受取って、薄暗い食堂の隅っこで食べ始めた。しばらくすると、うしろでだれかヒソヒソと頼んでいる声がする。何気なくふりむくと、ペンキのはげた入口の戸に身体を半分つっこんだニキビだらけの一人の若い労働者が、爺さんの角袖をつかまんばかりにして哀願している。やはり外食券がないのに食べさせてくれといっているらしい。爺さんはドギマギして顔をそらせながら、一所懸命に断っている。工員は腹に手をやって、身をもんだ。
「爺さん、頼むよ。今夜だけ。――おら、ぶっ倒れそうなんだ。頼むよ、ねえ。……」
爺さんは、とうとう肯いた。そして眼じりに薄い涙を浮かべながらヨロヨロとテーブルの間を縫って、窓口の方へ歩いていった。間もなくそのあたりで、「トンチキ!」というカン高いおかみさんの叫び声が聞えた。
昨日の夕方のことだった。自分が例によって戸をあけて入っていったとき、まだ食事時間の五時を一寸廻ったばかりなので、薄暗い食堂の中はそう混んではいなかった。自分が箸をとってまもなく、もう一方の戸が勢いよく開かれて、外から、
「かあちゃん、タバコの売出しがはじまったよ!」
と叫びながら、わんぱくそうな子供が入って来た。おかみさんはあわてて、
「そう! じゃ、金鵄一つ買って来てよ。そら十五銭!」
とバラ銭を投げ出して、
「それからお爺ちゃん、あんたも一つ買って来てよ!」
と、ボンヤリ立っていた爺さんにいいつけた。煙草は一人一個売りなので、一番安い金鵄はこうして数人で買わないとすぐ手に入らなくなるのである。
爺さんがころぶように出ていってから、湯気の中で、おかみさんの声が聞えた。
「ねえ、ねえさん、芝居へいってもいいといったときのあのお爺ちゃんのうれしそうな顔! いやんなっちゃう」
やっぱり湯気の向うでその姉らしい四十年輩の女の、男みたいな声が答えた。
「ほんとにねえ。あんなにうれしいものかしら? 有頂天のごきげんになってね。ひっぱたいてやりたいくらい」
自分は、この対話で爺さんが今夜おかみさんの許しを得て芝居にゆくことを知った。そうして、このおかみさん達と爺さんの関係は何だろうと思った。単なる主人と傭人ではないらしいが、肉親にしては、たとえ労働者相手のこんな安食堂にしても余りに乱暴な言葉づかいである。が、何にしてもこの無能な老人が、女の浅はかな残酷性に追いまくられていることは事実だった。
爺さんが金鵄をつかんで意気揚々と子供のあとから帰って来たときは、食堂はその一寸前にどっとなだれこんで来た工員のために、蜂の巣をつついたような喧騒を呈していた。食器のふれる音、湯煙、煙草の煙、注文される色々な叫び。……爺さんはたちまちテンテコ舞いをしはじめた。
「そう、そう一緒にいいなさったって。……」
と悲鳴をあげながら、しかしその顔はふしぎなよろこびにかがやいているようだった。そして思いがけないときに、夢でも見ているような眼を空中にそそぐのだった。――(爺さん、芝居のことを考えてるな。……)と思って、自分は微笑した。
「おい、爺さん、幾らだい?」
と、やがて一人がもぐもぐ口を動かしながら椅子にそり返った。爺さんが走っていって、
「魚が二十五銭。味噌汁が七銭。……」
とやっていると、隅の方で、
「爺さん、こいつは幾ら?」
という声がした。爺さんは今受け取った金をつかんだまま、またその方へ人をかき分けていった。
「ええと、おしたしが十五銭、お新香が七銭……この半代りはあんたさんので? ……すると、全部で二十七銭でがあす。え、十円? すると、おつりが……ええと……」
すると、また中央で
「爺さん、これは?」
とどなる声がする。爺さんはそう早く計算が出来ない。その間に勿論新しい客の註文と督促が続々と聞える。それに加えて窓口の方では、
「お爺ちゃん、半代りが大分出たからね。よく気をつけておくれな?」
と、おかみさんの気をもむ声が聞える。半代りとは丼飯半分のことで、外食券一枚出すと、食堂の方で半代り券を一枚くれる。そのうちに、気の短い人間はテーブルを立っていって爺さんの腕をつかみながら、
「おら、味噌汁と魚食ったんだ。五円で早く|つり《ヽヽ》をくんなよ」
と、札をつきつける。爺さんは悲鳴のように数人の計算をいっしょに呟き出した。
ついに爺さんは食堂のまんなかに、労働者に囲まれて立往生してしまった。爺さんは悲しげに顔を前後左右にふり廻して、掌におしつけられる金をオロオロと受取った。
(あれでは、食べたものをごまかされてもわからないだろう)
と、自分は気の毒さと滑稽を同時に覚えながら、呆れてこれを眺めていた。自分の食事はもうすんでいたが、このありさまではどうしようもなかった。
(いや、ごまかされるどころか、無銭飲食されてもわからないだろう。……)
と、自分が考えたとき、自分の前の狐のような顔をした工員が、ちょいと爺さんの方をふりむいて、そのまま悠々と扉をあけて出ていった。水際立った食い逃げぶりであった。
やがてじぶんは窓口の方へいって勘定をすますと、この哀れな爺さんとその周囲にもみ合う喧騒をあとに、笑いをかみしめて灯のともりはじめた街路へ出ていった。
すると、今朝のことである。自分が朝食をとりにこの食堂に入ってゆくと、隅のガラス窓のところに影のように立って、ボンヤリと朝の裏通りを眺めていた人間がびくんとしたようにふりむいた。それは爺さんだった。食堂にはまだ人影は一つも見えなかった。自分は黙々と食事をとった。
ひっそりした朝の食堂の中で、立ちのぼる白い味噌汁の湯気を通して、自分は爺さんの瞼が黒く脹れあがっているように見えるのを眺めた。そうして、その唇はときどき微かに震えた。いつもおっとりしている爺さんだったが、今朝は目立ってションボリしているように見えた。(何かあったな?)と自分は直感した。
が、その「何か」を知ることは、むろん自分には出来なかった。しかし自分の空想は、昨夜の爺さんの惨澹たる勘定ぶりと、芝居ゆきを結びつけた。おかみさんの出した食事の代金と爺さんの掌の上の金とはもちろん少なからず相違があったに違いない。その結果、爺さんが有頂天になっていた芝居ゆきが吹っとんでしまったということはあり得る。……
自分の頭の中に、昨夜の雨の音が甦った。あの雨音をこの爺さんはどんな気持で聞いたことだろう。朽ちてゆく老残のからだを冷たい夜具にくるんで、容赦のない女達の罵倒を耳に甦えらせながら、はなやかな舞台を幻のように頭に揺曳《ようえい》させるとき、爺さんは歯のない口で嗚咽をつづけたのではあるまいか?
それは自分の空想かも知れない。しかしまた真実かも知れない。自分は陶器の丼の触感をいつまでも指に感じながら、首をたれて薄曇りの外へ出ていった。
十二日
○「機械」というものはふしぎである。
およそ人間の生んだ偉大なものの極致は機械であろう。機械によって人は火を駆使し、水を使用し、空を飛び、地を走る。文明とは機械化のことだといってさしつかえないほどである。
しかし人は機械によって幸福を得たか。火薬は一瞬にして数百人の生命を奪う。空を飛ぶのは小鳥の快を味わわんがためではなく爆弾を以て都会を粉砕するためであり、水を潜るのは魚の神秘を探らんがためではなく魚雷を以て船を沈めるためではないか。
人間は自分で機械を生み、心血をそそいでその発達をはかり、その結果機械に苦悶している。今の世界を見るのに、どの民族も、或いは自ら進んで、或いは国家の強権によって自由を捨て、人間を殺戮する船や航空機や大砲の製造に狂気のごとく使役されている。機械というものの典型はあのギロチンであるという印象を深めざるを得ない。
それは機械の罪ではない。戦争の罪である。機械は平和的に利用すべきものであり、それによる大量生産がなければ、人類はどうして文明生活を営むことができようかという人があるかも知れない。しかし、平和時代といえども労働者は機械の蹂躪に喘ぎ苦しむものである。大量生産のない時代にも人類は生存し得たのである。昔は現代より幸福であったとはいわない。しかし昔は現代より不幸であったということもできない。
機械は人間の生きんがための必要から生まれたものではなく、単なる脳髄の遊戯的作用によって生じたのがその初めであると自分は断言する。
人間は機械を使用せず、機械に使用されるという自分の印象は、現在自分が働いている軍需工場の日々から、理屈を超えて感得できるものである。轟々と廻転する車輪、奔流する巨大なベルト、噴きあがり流れる重油、塵埃と煤煙の黒く渦巻く工場の底に、たがいに一語も交わさず黙々と動きつづける工員の群。――機械はいわゆる機械的な動きを繰返す。空は晴れても鳥は鳴いても、機械は傲然索然冷然としておのれの機能をつくす。労働者はその前に首をたれて、時たま油を与え、材料たる金属を挿入し、製品を運搬するに過ぎない。――これを以て人間は機械を使用するというのか? この人々の姿を産業戦士の崇高なものというのか?
或いはそうかも知れない。しかし自分の、巨大な機械に対する恐怖と小さな人間に対する同情を如何せん。
人間は、自然と芸術の中に呼吸しているのが本来の姿であるとはいわない。機械に全身の愛情を覚えている人も多いであろう。しかし機械と人間との間の恐るべき単調な日々は、この二者がとうてい花と人間との間に見るような柔らかで平和な光景とは映らないのである。
自分に関する限り、もし自分が一生、あの人々のように機械と相対しなければならぬ運命となったら、確実に発狂せざるを得ないであろう。
○機械の前に甘んじて生活を捧げている人々に、一種異様の不思議の念を抱く自分は、神を信じる人々に対しても、一種異様の不思議の念を抱かないわけにはゆかない。
神は果してあるか? ない、と高言して心底何やら不安をおぼえるのは、自分の人間としての本性のゆえか、或いは現在に至るまでの教育のせいか知らない。しかし、ほんとうに自分の心を偽らないならば、自分の心は無神論に傾くであろう。
むろん、深夜蒼茫の銀河を仰ぐとき、過去未来、永劫に流れる時間を思うとき、またいずこよりか生まれて来て、いずこへか去る人間を眺めるとき、何やら神々しきものの手を感じる。しかしこんな大きな思想は、もとより現在の自分の胸中に絶えず蹲《うずくま》っているわけにはゆかない。
自分は日常生活に於て殆ど無信仰であると告白する。まして世間のいわゆる怪奇な「神」に於ておやである。人間の姿に象徴された「神」に於ておやである。
自分の周囲を見ると老若男女――とくに若い人々は、たいてい無信仰者である。しかもこの無信仰者たちが死期迫る落日の年齢に達すると、しきりにお経を唱え、鐘をたたく愚は滑稽千万である。それもまあ一つの善行なのだからという寛容を、自分の狭量は認めることはできない。
神を信じるならば、彼らの日常はことごとく神の影の下になければならないのに、彼らの日常はほとんど嗤うべき我利我利の狂奔である。暮色仄かに漂い来たる一瞬時に於て、口をぬぐって神や仏に対するだけである。
人間が神を信じるのは、俗物に関するかぎり、彼ら自身も意識しないいい気な欲望の一種である。そして人類の九分九厘までは俗物なのである。
十三日
○日本軍ガダルカナルより戦略的撤退!
「作戦目的達成せるを以て堂々転進を完了せり」という大本営発表は、自分が皇軍に対する海のような信頼の中に、時々浮かび上る水泡のような不安を、悲しくも現実に現わした文句であった。
日本軍が一度占領した地を敵に奪還されることもあり得るものか?
佐藤軍務局長が、この作戦の経過について議会で説明する。「戦術」だの「兵法」だの、俄かにいい出したのは、聞いていても気恥しい感じがする。緒戦の迅雷的勝利によって占領した東亜の諸地域を固めるためにガダルカナルに敵を引きつけ、一方に於てこれに打撃を与えつつ、一方に於て後方整備を完了したというのである。
この長談議を読み終ると、素人のわれわれには、なるほどそうかも知れないという感じもするが、半年以上ものこの血戦に息をこらしていた国民にとっては一大失望を与えることに間違いはない。もっともこの失望は恐怖ではない。皇軍に対する信頼はこんなことでゆらぎはしない。ただアメリカが、たとえ戦略的に格段の優位にあるガダルカナルであったとはいえ、無条件に侮るべからざる存在だという印象を、初めて深く国民の胸に残したのである。
これは緒戦の大勝で有頂天になっていた国民にとってはむしろ薬になる。深刻な敵愾心と憤怒が日本人の胸に燃え上ろうとしつつある。
ガダルカナルで死んだ一万六千の兵士の魂を誰が浮かばせるのか。
彼らの負傷した者はアメリカ兵のために顔を石で叩きつぶされ、全身に煮湯を浴びせられたというではないか。
しかし、アメリカといえどもこの戦いで、決して日本取るに足らずという印象を受け得なかったことと信じる。文字通り、最後の一兵まで、軍旗のもとに戦い、万才を絶叫して死んでゆく日本兵を、いやというほど見せつけられたであろう。
今に見ておれ。今に、今に。――
北アフリカに上陸した米英軍のために、エジプトのアレキサンドリアに迫ろうとしていた独逸ロンメル軍は、反転してこれとチュニジアに戦っている。むろんエジプトの英軍はこれを追撃して、伊領リビアを占領した。
冬将軍の再来に狂喜して猛襲を開始したソビエト軍のために、独軍はあの恐るべき犠牲を払って突入していたスターリングラードを放棄して総退却に陥った。ロストフは三たび露軍の手に落ちた。ハリコフからも独軍は撤退した。
まるで今や崩壊せんとする建築物でも見ているような気息奄々たる今の独逸だ。独逸国内では、氷鉄のような国内革新が行われつつあるという。ああヒトラーは誤った! ソビエトのためにこれほどの大犠牲――というよりも独逸の方が敗北しそうである――を払うくらいなら、むしろ最初から英国に上陸作戦を行うべきであった。しかし、それはもう時に遅れた。
負けてくれるな、負けてくれるな! と日本人は手に汗を握って見ているばかりである。イタリーは最初からまったく頼りにならない同盟国であるし、やっぱり、われはわれを頼むよりほかはない。
日本はいつ第二期の大攻勢に移るつもりだろう。国民は重っ苦しいいらだたしさで毎日毎日それを待っている。
十四日
○アパートに毎晩のように訪ねてくる一人の女がある。顔は見たことはないが声だけで判断すると、年は三十後半、ハデ好きで、男くらい屁とも思わない厚かましい女らしい。
アパートの管理人に三味線や小唄などを教えるのだが、自分までツリこまれて「坂は照る照る」などおぼえてしまった。
しかしこのごろはアパートの管理人も少し迷惑しているらしい。台所などで自分に「山田さん、毎晩毎晩お勉強の邪魔をしてすみませんわねえ。ほんとにこまっちまうんだけど、来る人を追い返すわけにゃゆかないし……」と、弁解と愚痴をいっしょにしたような口ぶりで頭を下げる。
来る当人も、アパートじゅうに迷惑となることは薄々知っているらしいが、好きな小唄の誘惑とその厚かましさで、毎晩やって来ずにはいられないのであろう。「あのね、今夜はお邪魔すまいと思ったんだけど、そこを通りかかったから一寸寄って見たの」とか、「頭痛がするから、今夜はすぐに帰らせて戴くわ」とか聞こえよがしにいいながら、毎晩毎晩十一時ごろまでチンチリトンとやっている。その間こちらは何も出来ない。
十七日
○今朝も爽やかな蒼い光に溢れている朝。
何千人とも知れぬ労働者の潮に乗って歩いていく。
或る工場からは「海ゆかば」の曲が流れていた。或る工場の屋上では豆粒みたいな労働者達が、蒼空にひるがえる日章旗の下で、雷のようなラジオの音楽に合わせて体操していた。
捕虜を満載したトラックが走ってくるのに一べつもくれず、十七、八から二十歳くらいまでの青年が、裸体となってワッショイワッショイと掛声そろえて駈足で走ってゆく。
流れてゆく「労働者」の半数は女である。老人も多い。が、最も感動するのは十四、五歳の豆粒のような少年達である。これが一人前の作業服を着て、足並そろえて歩いてゆく。一人遅れた少年が、何か呟いているのをきいて見たら、それは軍人勅諭であった。鳩のむれが翼を鳴らしてこれらの光景の上を飛び交わしていた。
十八日
○自分が来月の入学試験に合格するかどうか、ということで、自分の運命は恐るべき明暗に分れる。落ちれば、自分が東京へ出て来てからの苦しい生活はすべて水泡で、郷里の人々は永遠に自分を「しかたのない人間」にしてしまうであろう。それはよいとして沖電気から二年の徴用を受けることは確実である。退社しても国民職業指導所を仲介にしなくては絶対に就職できない現在だから、どちらにしても軍需工場にゆかねばならないであろう。「智の生活」など途方もない遠い夢だ。
しかし、自分はこのことにはさほど深刻な戦慄をおぼえず、合格のことばかり空想している。角帽をかぶり意気揚々として会社のサラリーマンどもにサヨナラし、また日曜毎にリュックサックを背負い、地図を眺めながら、また水彩画を描きながら旅行や登山をしている自分を空想する。
落ちれば万事休す。通れば万事は春だ。
それなのに自分は、現在あわてず騒がず、何もしないで茫然と暮している。無神経なのかしらん。
二十日
○きょう久瀬川さんが下宿に遊びに来るというので少し奢ってやろうと金を作るため、朝早く書物を六、七冊抱えて最寄りの古本屋へ持っていったところが、白じろと張られたカーテンの上に「二十日――定休日」と書いた木机がぶら下がっていたので、少なからず狼狽した。
朝飯はぬいて勉強していたが、おひる前になると腹がすいてたまらない。そこで有金二十銭をはたいて昼食をとりに出る。
味噌汁一杯が十銭、芋五切れほどが二十五銭もとられる今の食堂で二十銭の食事をとるのは大した度胸を必要とする。
十一時過ぎ帰ってみると、久瀬川さんがひっそりかんと部屋に待っていた。二人で、久瀬川さんの持って来た竹の皮包みの卯の花をムシャムシャ食いながら雑談をする。文学の話。
しゃべっているうちに胸もつまるような文学の重圧感と、潮のような野望が溢れて来た。ぼうっとしてきいていた久瀬川さんは、やがてコメカミを押えて、「何だか頭がぼうっとして夢でも見ているような気がする」と吐息をついた。
が、そのあとで久瀬川さんに、夕食代を五十銭貸してくれと手を出したのは、われながらコッケイだった。
二十一日
○朝、まだ真っ暗なうちに眼がさめた。往来を走りまわるあわただしい音に夢を破られたのである。
今日から来月十五日まで施行される防空演習に自分たち会社員も在宅時には参加しなければならぬことは、昨夜アパート管理人のおばさんからきいていたので、ははあ、いよいよ出なければならんワイと考えながら蒲団の暖みにみれんを残していると、とうとう各部屋部屋を叩いてまわるけたたましいおばさんの声が聞えはじめた。ようやく起き上がって、大急ぎで身支度して外へ出る。薄明で薄蒼い空気の中に街灯が白くボンヤリともっている。一人の同宿の人が鳶口で水槽に張った氷をつき割っていた。アパートのおばさんの指図で、バケツで、この水槽に水を一杯に入れた。
女の人達が出てきた。皆たっつけ袴のようなモンペ、かっぽう着をつけ、黒頭巾で眼ばかり出している姿は、平生のザーマス連中とは受けとれぬくらい、りりしく勇ましく、「やまとなでしこ」という言葉の実感が出ている。
あちこちの家で起きてくるらしく、電灯がともるのを「消灯して下さあい。訓練空襲警報発令! 消灯して下さあい」と女の人が叫びながら走ってくる。「焼夷弾落下! 焼夷弾落下! ○○○米屋の裏!」と叫ぶ声が遠くでする。バケツを鳴らしながら走ってゆく音がする。アパートのおばさんの妹さんも二階から下りて来たが、「坊や、起きないかしら?」と覆面の眼を階段の方へばかりむけている。「雪ちゃん、群長さんのとこ見て来てよ! 誰も集っていないか。……」とおばさんがいうと、「でも坊やが……」とモジモジして、「坊やが何よ!」と叱られている。
暫くして「訓練空襲警報解除」が来た。みな群長の家の前に集まる。女の人が二十人ほど、男は若い人が三人ばかりだ。「二列に並んで! 整頓!」と号令をかけているのをよく見たら、いつも配給券の印をおしてもらいにゆく群長の奥さんだった。この二列整頓がピチピチ出来ないのは、女ばかりだから、いたしかたがない。「番号!」と三べんやられて一番先頭の覆面が、思いがけない婆さんの声で、「ホホッ、わたしかの」といったのは笑わせた。
指導員がやって来て、「男子の出方が足りない」だの「連絡が不熟練である」だの、色々注意した。
ダラシがないといえばダラシがなく、こんなことでほんとに空襲があったらどうなんだろうという危惧はあるが、いつも台所で米がないだの何がないだの不平ばかりこぼしている女性諸君を見ている自分には、あの服装と走りかげん、ドナリ具合だけでも、むしろ可憐といった好感を覚えた。朝風に、そば屋の看板が軒の下に黒くゆれていた。
○会社へ出てから、金を作るため本屋へゆくべく外出する。五反田附近では買ってくれないので目黒までいった。空は霞の煙幕を通して蒼く晴れ、風の音も春を呼ぶようである。「しんばし」の上から見下ろすと、泥の多い河に田舟が一艘影をおとし、河のまんなかに一人の男がかがんで桶を洗っていた。黒い泥、黒い舟、黒い男――その周囲にひかる水は芸術写真のような趣きがあった。路の両側の灌木の葉の茂みにさしこむ日の光の斑《ふ》に、自分は早春の故郷の山河を想い、「春が来た、春が来た」と胸の中で呟いた。胸の中に、白い日の光がさしこむような嬉しさがあった。
二十二日
○夜、アパートに帰ると、台所で女の人たちがひそひそと語り合っている。自分は部屋に帰ってから三十分ほどたって、例によって火起しに炭をのせて台所に持ってゆくと――自分の帰る時刻がちょうど夕飯時なので、いつもその騒ぎが消えてから炭をおこしにゆくことにしている――おばさんがバタバタと走り出て来て、声をひそめて、
「あのね、山田さん、ガスをとめられてしまったの」と、いった。自分はあっけにとられて、おばさんの顔を見つめていた。
ガスの使用量が制限され、これを超過した者は以後一ヶ月間ガスの孔口をふさがれるということは新聞で見ていた。またこのアパートのガスが前月もだいぶ超過したという話もおばさんからきいていた。が、それが現実に襲ってくるとは迂闊にも思いがけなかった。自分は「へへえ」といったまま二の句がつげなかった。
そこでおばさんの部屋に入って、そこの炭火でおこしてもらう。この炭火は七輪で長いことかかっておこしたものだそうである。おばさんにきくと、東京市民の三分の二以上は超過して、近所でもガスをとめられた家庭がぼつぼつあるそうだ。それかといって炊事する薪はもらえず、外出して食堂で食べるには外食券がもらえず、そば屋で食事をとらねばならぬが、特に子供はそばではもちろん不満を表するので天丼などをとるのだが、一杯八十銭を一家庭が毎日毎日続けてゆくわけにはゆかず、まさに超人的生活をしているそうだ。
「米はないし、炭はないし、ガスもとめられるし、電灯も――電灯も超過しそうなんですよ。何でも航空会社などでも残業の事務などローソクでやってるそうですからね。貯金や国債で煽られるし、こんど隣組で何か内職をするんですよ。その金で国債を買うんですって――いやんなっちゃう」
とたてつづけにこぼすそばで、国民学校へいっている女の子が、毎朝、朝礼で朗唱させられているのであろう、無心な顔で、
「われら銃後の国民は現在にたえて未来の希望に生きましょう」
と唄うようにいっているのは妙な風景である。
屋根の上を、冬の尾をひく寒風が、月を吹いてヒョウと鳴りわたってゆく。
二十三日
○大英帝国に最後の反省を促すべく、ガンジーは二週間前から、印度ブーナのアガ・カーン公館の奥深く断食を開始し、幽暗なる円光を発しつつ、瀕死の老躯を横たえるこの半人半神の人物を、全世界は凝然と見つめている。激昂した印度四億の民衆は、その無条件解放を祈り、請い、怒号し、それに対して印度政府は或いは文書を以て、或いは銃火の洗礼を以て、「印度治安に害あり」との見解を固守し、これを頑強に斥けつつある。アガ・カーン公館の周囲に群衆はどよめき、警官は右往左往し、その門前には二匹の黄色い犬がふしぎにもガンジーと同じく断食して凝然とうずくまっているという。
ガンジーは将来、キリスト、ソクラテス、或いは釈迦に匹敵する神の人として歴史に残るかもしれない。またあの血ありとも見えぬ老躯を以て全世界を動かすところはまさに一大偉観でもある。が、それらの一切を超えて、悪魔のような英国の印度植民政策に、唯一人、非暴力の抵抗をつづけ、いまや最後の無言の反省を促している彼の姿は、生死人類を超越した、形容しがたい天上の人の姿である。日本の政策にとってどうとかこうとかの批評を越えて、それは神的な影をひいている。
二十四日
○東京医専に払う十一円、昭和医専に払う十二円、合計二十三円也の試験代がどうしても出来ない。合格するまでは郷里に屈服したくない。カネオクレなど電報を打つのは嘲笑の火に油をそそぐようなものである。
少なからず弱って、会社の労務課へ電話できき合わせたところが、入社以来毎月六円平均とりたてられている国民貯蓄を、事情によっては下げてやらぬこともないという。歯の治療代と偽ろうかと思ったが、医者の診断書とか何とかいい出されると面倒だし、いっそほんとのことをいっておいた方がはるかによかろうと思案して、昼過ぎ、労務課長の伊藤さんのところへいった。
「国民貯蓄を下ろしていただきたいのですが」
と、いうと、
「どういうわけで?」
と、問い返される。
「実は来月上級学校を受験しますので、その受験代に」
というと、
「その学校はどんな学校だ? 夜間なのか?」
「東京医専だから昼間です」
「――おや、君は徴用にかかってはいないのか?」
こういう問答の前後から、伊藤課長は妙な微笑を浮かべ出した。同情とも意地悪ともとれる微笑である。自分はKさんにお願いして徴用令を一回免除してもらいましたと答えると、課長はまっくろな皮膚の顔をいっそう崩して、「ほほう、そりゃ妙な話だ。――が、たとえ徴用がなくてもですね、この会社は労務調整令の下にありますから、一寸、自分の勝手な理由で退社はできませんぞ」といいながら立ち上った。
何か用事があるらしく、そういいすてて伊藤課長が部屋を出ていってから、自分はそばの出っ歯の中年の人につかまえられて、色々押問答を始めた。そんな理由で徴用を免除されるというのがそもそもおかしなことだ、K君を呼んで来いなどいう。自分は大いに弱って、それは自分の頼んだためであるから、罪は悉く自分にあるといった。そして、
「若し、君、失敗したらどうするつもりだ?」
という質問に、
「どちらにせよ、退社させて戴くつもりでした」
と答えると――合格すれば退社、落ちればそのまま居なおると答えてはかえって悪かろうと思ったからである――「あらかじめ退社の意志をもって徴用令を避けたとあっては、徴用忌避としてひっぱられますぞ」と突然、秋の霜のような語韻で彼はいった。
「君の立場には大いに同情する。会社も退社させてやりたい。――そう考えてもだ。現在はそう勝手に退社入社はできないんだ。一たん会社に入った以上、本人の一身上の理由は一切無視せよというのがお上のお達しだし、会社もその方針でいるのだ。そしてその進退は悉く職業指導所の指示許可を受けてからじゃなくっちゃ、どうすることもできないんだ」
自分は全身の血がすっと引いてゆくのを感じた。もはや受験料どころの騒ぎではなかった。自分は蒼い顔でいった。
「で、結局、自分が合格したら退社させていただけるのでしょうか。それともだめでしょうか?」
そのとき、先刻から外套や帽子をつけて外出の支度をしていた肥った男が傍に寄って来て、
「A君、何か用はないかね?」
といった。出っ歯の人は、
「うん、まあ、ないが……」
と、何か考えこみながら、突然ニヤリとした顔をふりあげて、
「ちょっと、君、○○警察署へ寄ってくれないか?」
「○○警察? 何だい、用は?」
「実はこないだから、長期欠勤している連中ね、あれを警察で調べてドンドン挙げてるんだ。だから、医者の診断書なんか、あわててこちらに送って来て――ほら、もうこんなに溜っているんだが、こいつを一寸、警察署へ持っていってくれないか?」
肥った男が心得て出ていったあと、彼は自分のほうをむいて、
「それはそのときのことだ。今、会社では何ともいうことができない」
といった。
――自分は急に全身から力がぬけて、首をたれ、悄然茫然として労務課を去った。
作業課分室へ戻ると、赤みをおびた午後の休憩の日光を背にひからせながら、みな窓にもたれてアコーディオンやギターやハーモニカなどを吹き鳴らしていた。自分はドアをしめて彼らを茫然とながめやった。
流行歌に憂身をやつしている、陽気で、おしゃれの、貧乏なサラリーマンどもよ、その背にかがやいているのは日光だけではない。国家の影ものっかっている!
自分は頭をかかえて椅子に崩れるように坐った。このとき、自分の胸には「国民徴用令」という小説の筋が浮かんだ。
二十五日
○小説などでは、人に好かれる軽薄者と、人から畏怖される剛直な人物をよく対照させ、前者の唾棄すべきことを読者に強要するのみならず、最後に於てこれが後者にやっつけられるといった筋が多いが、実際の生活に於てはどうだろうか。
こいつは軽薄者だなとよく承知していても、愛すべき明るく茶目な人間だったら、毎日が面白くて、ときどきその軽薄さに眉をひそめることがあってもその人を憎む気になれないどころか、その人がいなければ一抹の寂寥を感じる。
これにくらべていつも沈鬱な顔で黙りこみ、口を開けばがくがくといった人物は、よしそれが正しいものであっても、その気づまりな雰囲気が他人にのびのびした空気を恋いさせ、その人間がいないと深呼吸したくなる。軽薄者必ずしも世を毒せず、剛直漢必ずしも人を幸福にさせない。幸福というものは平凡な日常の人と人との応対にあるのだから。
二十六日
○煙草の行列は値上り以来消滅したが、ビヤホールの行列は消滅しない。
夕方四時――五時ごろになるとビヤホールの前にはなお寒い夕風に吹きさらされながら、延々長蛇の列が這う。こないだ東横劇場の前のビヤホールに並んでいるのを、橋の手すりにもたれかかったまま数えたら、百三十二人いた。百三十二人目はこちらの角を廻ってビヤホールの建物も見えないところにいる。いつになったら飲めるつもりでいるのだろう。
酒も決して贅沢品ではないと思わせる。
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三月
三日
○「ガンジー翁は二週間の断食を終了し、快くオレンジ・ジュースを飲みほした」と新聞に発表される。日本人は呆れ返ったろう。
「ガンジー死すとも印度は死せず」などいう大文字を張り出して、先日日比谷公会堂では奥村情報部次長や永井柳太郎が大演説をふるい、国民は熱狂して、印度救援の熱情に感動をほとばしらせているのに、「二週間の断食を終了」したとはなんだ。
英国は依然として冷然とうそぶいているではないか。なぜ最後の息をひきとるまでこれに反抗しないのか。
ガンジーも七十をこえて少し頭がボケているのではないか。とにかく日本人とは少し違う。こんな人物を印度の指導者としている以上、印度が独立など出来ないのはあたり前だ。印度独立などという一大事は芝居で行われるものではない。
感激していただけに、だまされたような思いがして、腹がたってたまらない。
四日
○陸軍記念日が迫って、街から街へは「撃ちてしやまむ」という標語が大流行している。毎日の新聞にこの文字が出ないことはないし、往来の途中、通りすがりにきくラジオの講演でも「撃ちてしやまむ」という声が聞こえる。
自分のアパートの裏の家のおばさんもこれが口癖になったとみえて、よく味噌汁の匂いとともに、「……撃ちてしやまむか……」とひとりごとをいう声が流れてくる。
しかしこの「撃ちてしやまむ」という標語が果して国民にそれほど直接的な感動を呼ぶかどうかは疑問だ。「鬼畜米英をやっつけろ!」とか、「ガダルカナルの復讐をせよ!」という方が効果的ではないかと思う。
だいいち、こうみだりに使われては、せっかくの文句が馴れっこになってしまう。武藤貞一が、いやしくも神武聖帝の御製を、化粧品の広告中に使ったりカフェーの壁に貼りつけたりするとは何事だと憤慨しているのは尤もだ。
五日
○日の出がめっきり早くなった。
八時に工場が始まるので、省線に十分、田町から高浜まで徒歩で二十五分と見つもって、七時十分ごろまでには五反田駅につく必要がある。時計がないので一切カンで暮して来ているが、朝などほとんど狂いがなく、ピッタリという時刻に起きるが、それでも機械ではないから、遅刻することもままある。
第一の自分のカンを確かめる機会は、蒲団から眼をあけたときである。傍の大きな建物との間の狭い空が碧色に変っていたり、窓ガラスが、光ではないが何となく光をふくんだ色に仄かな輝きを持っていたらもう駄目だ。空はまだ灰色であり、ガラス窓はまだ冷たい薄蒼い色に澄んでいたら、間に合う。
第二の機会は、洗面所の窓から高い遠くの電気試験所の無線塔を仰いだときである。その塔の上部にちょっぴり日光がさしているくらいなら大丈夫だが、その塔の下まで、さらに洗面所のすぐ外の屋根や芭蕉にまで朝日がおちていたら、もう八時を廻っている。
第三の機会は、いよいよ家を出てそば屋の角を廻ったとき、そこの道路にさしている光の面積である。道路の半分が光に彩られていたらもういけない。
第四の機会は、五反田の大通りに出たとき、向うの雉子神社の森と太陽との間隔である。ついこのあいだまでは太陽がこの森から全く離れてキラキラかがやいていたら、必ず遅刻の運命だった。まだ森の上が輝かしい光の潮だけにふちどられているくらいなら、安心してゆっくり足をゆるめるのが常だった。
ところがこのごろは、日が全く森を離れ、だいぶ高く昇ってかがやいていても、まだ時刻は七時ごろである。もちろん窓ガラスには微光が溢れ、無線塔は金色の塔と変り、道路に日光の精が躍っていても――まだ早すぎて、会社へいってから時間をもてあますくらいである。ああ春が来たのだ、長い長い冬が去った。いったいどうしてこの冬を過そうかと思ったほのかな憂鬱も、もう遠い昔だ。春だ。春だ。
六日
○夕方、妙に甘いものが食いたくなって、金もロクにないのに街へとび出した。
在るお汁粉屋に入ってお汁粉を注文したところが、持って来たのが白いお汁粉である。白小豆を使っているのか知らないが、あまりうまくない。そこでそばのガラス棚の中に白い皿に二きれのっていた水蜜桃を注文する。これはうまかった。
さて勘定になって、自分は二つで充分五十銭で間に合うと思って五十銭札一枚出したところが、八十七銭いただきますと来たのには肝をつぶした。お汁粉は十五銭だから、この二切の水蜜桃が七十二銭するものらしい。勿論癪だが、しかたがない。おかげで晩飯の金に苦労する。
七日
○晴々しい陽気のつづく今日このごろの中で、とりわけきょうは晴々しい陽気だった。
ひるまえ、高須さんに誘われて外出、田町で昼食をとり、省線で目黒の常盤のおやじさんの家へゆく。
白い早春の光にぬれた権之助坂をゆく女のコートも、いかにも一陽の来復を思わせる鮮やかな色である。坂を上ってゆくバスの、後から押してやりたいようなのろさも、いつものことながらまた春らしいのどかさを思わせた。バスはこんでいた。恐ろしく肥満した外人夫婦が吊革にぶら下がっていた。
常盤邸は下目黒の閑静な住宅街の中の平屋建である。石だたみの数は、去年の暮に来たときの闇中の計算では百二十七あったものだ。
親爺さんは日当りのいい縁側の隅に、一寸改造して作ったらしい二帖ほどの小さな事務室で、のんびりと大きな尻を回転椅子の上にすえていた。窓の外には青い空に象嵌されたように白梅が浮いている。円火鉢を囲んでしばらく捻子《ねじ》の話をする。前の小さな本立に「季題の研究」と「芭蕉」があるのを見て、「おじさん、あんた俳句をやるんですか」ときくと眼を細めて、「うん、よく投書してね、賞品をもらったこともあるよ」と自慢そうに答える。だいぶ堂に入っているらしい。
そのとき裏で余韻を寒くひいて鐘の音が一つした。寺でもあるんですかと尋ねると、何でも占師が一人いて、迷った奴が予言を戴きに来ているのだという。
いのち一つ占う鐘や寒椿
それから壁に小さな網にくるんでぶら下げてあった餅のかけらを、油で揚げて食う。香ばしくてオツな味がする。腹は満腹しても飽きない味だ。
そのとき親爺さん一寸身を動かして立ちかけたら、突然円椅子が抜けて大音響とともに親爺さんがしりもちをついた。
その刹那の親爺さんの顔は、ちょっと形容できないまじめさと滑稽味をおびたものだった。数秒、三人の間に沈黙がおちて、すぐに腹をかかえる爆笑となった。
しかし、親爺さんは苦笑いとともに、腰をさすりながら起き上って、円椅子を調べた。調べると、軸が抜けたのではない。折れたのである。粗製濫造のやむを得ない昨今ではあるが、それにしてもこの椅子はつい最近買ったばかりだというのに。
「椅子屋にねじこまなくちゃならん」
と、親爺さんは大いに憤慨する。
それから、みれんそうに円椅子をついだり離してみたり、ふうふういっている親爺さんをしばらく見ていて三時ごろ辞して会社に帰る。
円椅子も腰ぬかすなり梅日和
尻もちは十八貫の音をたて
宗匠も血相かえて餅をつき
尻もちをついて社長もいきりたち
八日
○米英軍の欧州大陸上陸がしきりに宣伝される。そのためであろう、新聞に独逸鉄壁の防備陣が報道される。
何でもノルウエーからヨーロッパ北岸、北仏から南仏、ギリシア、クレータ島に至る欧州の海岸線は、その防備のため数キロにわたって住民はすべて放逐し、街は焼払い、その代り鉄とペトンの要塞が延々と築かれ、暗澹たる風雲の下にハーケンクロイツの旗と、ドクロの旗がはためいているという。
かくて欧州大陸と海とを完全に遮断した独逸のやりくちは、いかにも独逸らしい徹底ぶりをしめしているが、このドクロの旗の連なりこそは、いかにも今の地球を象徴しているかのようである。
が、独逸よ勝て、ほんとうに勝ってくれ!
十日
○日本の皇軍からアジア防衛の皇軍へ。陸軍記念日。
晴れ上った東京の蒼空を朝十時ちかく、何十機かの航空機が乱舞する。大地ことごとく震わせる無数の大爆音に、会社の窓へ鈴なりの顔をのぞかせると、何たる壮観、高く低く、遠く近く、数十機の銀翼が日の光にかがやきつつ、或いは編隊で或いは単機で東へ飛んでゆく。横転逆転などの芸当をやっているものもある。
屋上へ駈け上ると、ひときわ爆音ものすごく、巨大とも何ともいいようのない大型機が屋上すれすれに飛んでいった。ふきなびく工場の煙突の黒煙がそれを追う。翼の下に何だか四角な修繕したようなあとが見える。
「やあ、ハンダズケしてやがらあ」と笑い声をあげる豆戦士(少年工)の声につづいて、「あれはいけどりのアメリカ双発だぞ」とさけびたてるのがきこえる。爆音は高くなり低くなり、やがて次第に薄れてゆく。東京の空はところどころちぎれ雲を浮かべた凄いほど美しい蒼空である。
○いよいよ医専の試験が迫ったが、受験料は出来ない。こまり切って今日、久瀬川君と高須さんから十円ずつ借りる。金は金として、こんなことで果して合格できるだろうか。考えてみると、東京へくるまでは郷里で受験書一つ開いたことはなかったし、東京へ来てからも、自分で勉強したナと思うような日曜の夜は一度もない。日曜にはたいてい遊びに来た同僚と、つまらぬ話ばかりしては映画を見にゆくし、夜は九時前には疲れはててフトンにもぐりこんでしまう。
そんな色々な心配をよそに美しい夜がつづく。今夜も幻のような白い下弦の月が出ていた。
十一日
○朝早くから荏原の昭和医学専門学校へ受験願いを出しにゆく。
あの五反田から荏原の方へゆく通り――何という通りか今もその名は知らないが、いつか休みの日ぶらぶらと星製薬会社の下までいったとき、あの広い坂になった白々としたアスファルトの大街路の頂上から白い雲が流れているのを下から仰いで、あの坂道の向うに何があるのだろうと、見えない未来に持つ夢のような一種の憧憬の念を抱いていたが、今日はじめてその坂を上って荏原へぬけた。
いってみると、やっぱり何のへんてつもない、さびしい、徒らに広い街路がどこまでもつづいているばかりだったが、まるで初冬のように静かな朝の光の中に、白い工場のコンクリートの塀に、枯れた街路樹の列が影をひっそりと落している風景は、何か幼い日の乳の香のような仄かななつかしさを感じさせた。まだ朝が早くて昭和医専の玄関はとじられたままなので、しばらく待ってやがて第一番に受験願いと写真と十二円の受験料をそえて出し、代りに二五四三番とタイプで打った受験票をもらう。第一番とはいうものの、きょうが受験願い提出の最終日なのだから、覚悟はしていたが、この番号には少し辟易する。これで合格するのは百五十人なのである。
いったん五反田に帰り、残っていた古本を五、六冊抱えて目黒にゆく。先日買ってもらった古本屋のおかみさんにこれを売って当分の食いしろを作り、省線で新宿駅へゆく。
電車にはあまり乗らないので、これを利用すると何処へつれてゆかれるかわからないような怖れを感じるので、歩いて去年の記憶をたどりたどり、裏町伝いに東大久保の東京医専へ出る。
その途中、新宿の大通りで各百貨店を回って詰襟のカラーを探したが、どこにもなかった。カラーまでない時節になった。或る大きな百貨店の下に、一人の片足のない男が松葉杖をつき、一本だけの足もとに皿を置いて立っているのを見た。胸に白い紙のふだを下げ、そこに「私は去年の十二月まで北海道の鉱山にいましたが、……片足を失い、いまだにそれがなおりません……みなさまの御同情をお願いします」という意味のことが墨で書いてある。まだ三十にならぬ頑丈な男で、戦闘帽の下に首を垂れ、通りすがりにいくばくかの金を投げる人に対してかすかに頭を下げる。金をやるのはたいてい中年の婦人で、逃げるように去ってゆく。自分はべつの昂奮を抱いてその前を通りすぎたが、この巨大な建築の下に小さな影を落して首を垂れていた男の姿は、黒い一点の印象となって不吉に胸底に残った。
東京医専でもらった受験票には二三一八番と刷ってあった。
ここは一六日まで体格検査なので、ついでにそれを受ける。
或る薄紫色の壁の部屋で――その上ガラス窓は防空のため、つまり爆風を避けるために紙が縦横に貼ってあるのでいっそう薄暗い――そこで、年輩の白い髪の老人に簡単な口答試問を受け、各部屋部屋を廻って、眼や歯や耳や体重や内臓を見てもらう。内臓のところで、自分の前の受験生が、すでに受けて来た色盲検査で色盲と認定されているのをみとがめられ、医者に、「君、気の毒だが、医者になるには色盲では……」とやさしく拒絶されていた。しかし、体検は極めて簡単で、自分みたいなものも、合格という赤い判を押してもらう。昭和医専が受験願書の中で、家庭の財産だの学資金の準備ありやだの、色んなキタナイことを尋ねているのに較べて、この学校の方がはるかに淡白で爽快である。
帰途、のどが乾いてこまり、また何か食いたくなったが、金が不如意なので甘酒を一杯のんで帰る。
これから二日ほど会社を休むのだが食いしろが足りぬので、帰ってからついに大事にしていた『人生読本』を売りにゆく。ああ神の冒涜だ。
しかも、もう目黒までゆく元気はなく(省線を利用する金もないのである)しかたがないので、いつかタンカを切られた古本屋へ――顔を変えるためにメガネを外して――ああ、自分自身の冒涜だ! ただ食うために、食うために。いや一生の未来のために。――
夜、疲労と明日の昂奮のためなかなか寝つかれなくてこまる。
十二日
○早朝から、昭和医専の受験にゆく。
通るだろうか? 通らないと一大事だ。――自信は全然ないのに、ふしぎなことに理由のない笑いがコミあげてとまらない。
隆起する大街路の最後の隆起の上に立って昭和医専の方角を眺めわたすと、いる、いる! はじめ自分はそれが人間の海であるとは思わなかった。まさしくその校門の前に集まった黒いひろがりは霞か雲であった。この受験生の大群に少し気味悪さと可笑しさを感じながら、近づいていってこの雲霞の一滴に溶けこむ。
長い長い間いらだたしい時間を待って、やがて自分たち二千四百番から二千六百番までの一群は、兵隊みたいな男に引率されて昭和医専付属病院へゆき、地下の学生食堂へつれこまれる。
柱の林立した、広い薄暗い部屋だが、清潔なところはいかにも医学校の食堂らしい。しかし席が足らぬのか幅一尺、横五尺あまりのテーブルに三人並んで坐る窮屈さは、コンディション満点とはゆかずいささか不快な感じになるのはやむを得ない。
それからまた三十分ばかり待たされたが、そのたいくつさは恐ろしいものであった。あくびがしきりに出て、眠くてしかたがない。……そのうちに、ベルが鳴った。同時に、問題用紙が配られはじめた。
二時間で数学六題。
幾何の二番と三番をやる。一寸骨のある問題で、一問二十分ずつ、四十分かかる。そして一番に帰ったが、驚いたことにこれが「三辺相等シキ二ツノ三角形ハ合同ナルコトヲ証明セヨ」という問題で、いったいどう解いていいやら、ばかげた話だが、一向に思いつかない。二十分考えて、あきらめて代数一番にかかる。
碁石の方陣の問題で、一辺五つずつの碁石なら合計十六となり、二十とはならんというワナに危くひっかかるところであった。二番は絶対に解ける問題だが、コマゴマした計算が必要な奴で、こういう計算は自分の最も不適とするところなのであとでゆっくりやることにして、三番に移る。時間は一時間二十分経過。
三番、注意すれば簡単な無限等比級数なのに、気があせり、大変複雑なふつうの等比級数の和を出してしまった。それを反省するひまもなく、また幾何の一番に移り、代数の二番を眺め、そのうち時間は一時間四十分、五十分となる。もう例え解法を得ても答案を書く時間がない……と焦るうちに、もうガタガタと席を離れてゆく連中がある。そのうちとうとうベルが鳴って万事は休してしまった。
バカみたいにほてった顔で外へ出ると、空は薄白い雲に覆われているが、地上は思いがけなく春光に溢れている。
食事をとりに閑静な町へ出て歩いていると、見知らぬ袴をはいた三十あまりの異様な受験生と話をかわし出して、ここではじめて代数三番が無限等比級数であることを知ったが、どうせもうダメだと思っていたからさほど失望しなかった。
この老受験生は新潟高校を出て今教員をしているという。それ以外何にもわからない人物で、いまこれを書いていても妙な短い交際であった。この人に或る古道具屋につれこまれてその部屋に上る。
痩せた病身そうな四十男がいて、この老受験生と、息子の中等入試の問題やら結果やらについて話している。自分は妙な顔をしてきいていたが、小便したくなって便所を借りたが、その汚なさといったら言語に絶す。台所をのぞくと、食いかけの鍋やタクアンや塗りはげの椀や、実に恐るべき状態である。
「何しろ男世帯ですから……」と古道具屋の主人が恥しそうに笑うところをみると、妻はないのであろう。この老受験生は、その息子の家庭教師をやっているような按配であった。
そのうちにいよいよ午後の試験の時刻が迫ったので、老受験生を促すと「数学三題じゃ、通りっこないからもうやめた」という。呆れて自分のみ学校にかけつける。自分だって三題しか出来なかったのである。
午後はやさしかった。カンペキと自信をもてるほど出来た。ところが、試験がすんで、がまんしていた小便を出して、ふと気がつくと腕時計がない。ドキンとなった。
狼狽してもと来た道を駈け戻り、もとの試験場に入って探したが見当らない。きっと外套を着るとき外れて落ちたに相違ないが、こんど試験のために菊池君から借りたものなので、頭がフラリとした。
日が暮れて来た。自分の迂闊さに怒りをおぼえながら、憂鬱この上ない気持で帰る。途中、ヤケになって映画館に入り「宮本武蔵・一乗寺血闘」なるものを見る。
十三日
○今日と明日と体格検査があるので、また朝早く昭和医専にいったが、もう一日分の定員千二百人満員で、やむを得ず帰る。時計をもういちど探したが、むろん見当るはずもない。金は全く尽き、夜はとっておきの蟹のカンヅメをあけてそれだけで飢えをしのぐ。
十四日
○午前会社にゆく。菊池君に時計の賠償を月賦で支払うことにする。
午後外出、昭和医専の体検にゆく。まだ長い長い列を作っている。
まず口答試問を受けたが、試験官は退役陸軍少佐だそうで、医学の目的など尋ねられたが、とうてい他の連中のように「興亜のために……」なんていう勇気はない。
体格検査は頗る厳重で、色んな色を見せて、好きな色と嫌いな色を尋ねたりした。好きな色は青、嫌いな色は黒と答える。一番しまいの判定のところで、他の人々にはスポーツは何をやるかだの色々のことをきくのに、自分だけは「よろしい」といっただけなので、頗る不安になる。
十五日
○夜、残業して久瀬川さんと母について語る。自分は母と或る短い旅行のとき、自分が母のトランクを提げて歩くのを、母が涙ぐんだ微笑をもらして眺めていたことをしゃべっているうち、涙がこぼれそうになった。
実際、母のいないほど致命的な不幸はない。どんなに悶え、どんなに苦しみ、どんなに寂しがっても、なぐさめてくれるのは母一人で、それ以外はどんなに絶叫して訴えても、しょせんはアカの他人である。この不幸は凄惨なほどである。
○みな何かたいくつするとすぐに自分のところに来て「何か山田さん面白いことないかな」という。自分のところへ来れば何かしらん面白いことがあると思っているらしい。
十六日
○夕方から気味悪い物凄い烈風が吹きはじめて、往来に出てもひどい砂塵のために眼も口もあけられない。
十日ほど部屋の掃除をしていないので、夜帰ってからやり出したが、ハタキで電灯の笠を割ってしまい、これを紙で貼り合わせるのに苦労する。何だか陰惨な晩だ。
十七日
○菊池さんの話によると、昨夜十一時ごろ、五反田大通りから電気試験所の方へ下りる真っ暗な路で、突然たまぎるような、
「アレエ」
という悲鳴につづいて、
「人殺しー」
と余韻をひく若い女の声があがり、それがくりかえされつつ、次第に消えていったそうである。それは毎晩自分がアパートに帰るのに通る道なので少し気味が悪くなった。
今朝その大通りを通ったときは何の異状も認められなかったが、何分昨夜の物凄い風と砂塵の中である。世相の険悪は、かかる天変地異にはてきめんに現われる。新聞には一向出ないが、こういう事件は今も無数に行われているにちがいない。
十八日
○明日、いよいよ東京医専の試験なので久しぶりに風呂にゆく。身体を清潔にしようというより、こうして身体中の毛穴をみな風に吹かれるようにしたら、少しは頭が明快に働きやしないかという甚だ怪しい医学からである。
すると、風呂の中でケンカが起った。自分のうしろで七八人の子供たちが輪になって洗っていたが、突然話し声が声高になったかと思うと、肉を搏つ音特有の一種凄惨な音がした。
自分が顔をあげると、うしろの方で、十二、三くらいの男の子をつかまえて、十七、八の男の子が拳で顔を殴っている。濛々たる湯気で大勢の大人はまだ誰も気づかないようだった。自分はその上眼鏡を外しているから、そのありさまは頗る朦朧としている。小さな男の子はとうていかなわないと思ったらしく、いともおとなしく殴られていた。子供たちはみんな一種残酷な瞳で、この悲劇を仰いでいた。
あっというまの出来事である。殴られた男の子は風呂のふちに腰かけた姿勢のまま、黙って宙を見つめていたが、しきりに濡れたタオルを歯や口にあてた。しばらくたって自分が足もとに薄赤いものが流れてくるのに気がついてふたたびふりむくと、その男の子のあごのあたりに薄く血がにじんでいた。そのとたん、男の子は敢然と顔をあげて、
「バカヤロ! おぼえてろ。チキショー!」
と、叫んだ。いったんもとの場所に帰って、ニヤニヤとゆがんだ笑いを浮かべていた十七、八の男の子は、
「何い」
といって、また立ちかかり、つづけざまに男の子を殴り出した。泣声が笛みたいにあがり、顔をおさえた両掌の間から赤い血が溢れはじめた。
このため傍の大人たちもやっと気づいて、何だ何だと総立ちになり、おびただしい出血にびっくりして、大騒ぎで風呂場の隅へつれていって仰向けに寝させた。
「風呂ン中でケンカするなんてふてえ野郎だ。警察を呼んで来い」
と、カン高い声で中年の男が叫んだ。
殴った少年は「あいつナマイキなんだ」とまだなかなかの勢いであったが、仁王みたいな青年がそばへいって、
「やるなら、おれとやろうじゃあねえか」
と立ちふさがったので、急に尻ごみした。
自分が脱衣場で服を着ていると、殴った少年を中心に子供たちがワイワイと騒いでいた。
「あいつも悪いんだ」「もっと殴っちゃえ」そんなことをいいながら少年を見あげる瞳はみんな英雄でも仰いでいるような畏敬のかがやきを持っていた。
しかし、明日試験だというのに、自分はこんなキラクなことを書いている。
十九日
○東京医専受験。明治大学にて。
何もいう気がしない。ただすべては終ったという、恐ろしい夕闇のような疲労を感じるばかりである。
二十日
○おれの日記はなんだ? はじめの美しい決心はどこへいったのだ? このごろは何もかもデタラメだ。この大嘘つきめ。
自分は心に考えていることを文章に書くと、急に第三者の眼で自分を眺めるから、それが嘘になる。他人が読まぬとわかっているものでも、自分に対して嘘をつく。未来の自分が読むときの心を思って嘘をつく。何にもならないことだ。
二十一日
○正木君訪問し来る。高須さんが自分を図太いといっていたと告げたが、高須さんよりも正木君がいやになる。悪口に類するものは第三者が仲介すべきではない。
二十二日
○昭和医専合格者発表。わが名なし。
自らを嗤う元気なし。雨ふる。絶望。地にメリこむような哀愁の念。
二十三日
○群長西本さんの家の応接間で隣組常会あり。
出席者はほとんど女ばかり。
みなうるさいほど自分の意見をのべるところは田舎とちがう。一ぺん空襲をうけた方が性根がついていいなど大胆不敵なことをいうのはあっぱれだ。しかし、その情景を描写する気力がない。
二十四日
○防空演習あり。これに出ない奴は非国民として警察に報告するという西本さんの脅かしに怯えたわけではないが昨夜の常会に少し感奮したので、早朝に参加、バケツの水だらけになって活躍する。
二十五日
○夜、会社の同僚たちと打ちつれて日劇に東宝映画「姿三四郎」を見にゆく。黒沢明第一回演出作品。
興趣満々、しかも相当な芸術美も具えて見事である。出てからも全身が熱し、息もつまり、こぶしを固く握りしめていたほどである。これほど昂奮させた映画は近来まれである。
僅々二時間ほどで、これほど群衆をひきずりこむことが出来るなら、映画の監督もまた男の一大事業である。黒沢明第二回の作品を待望するや切。
二十六日
○東京医専合格者発表。わが名なし。
自分は、あきらめて校門を出ては、また何かのまちがいではないかと、二度三度、発表場に帰った。二千人のうち、百五十人とるとはいいながら。――
万事は決した。全身より生気消ゆ。
一体自分はどうしたらいいんだ? 何もかも、もう終りだ。
二十七日
○会社を休みたくなかったが、負けぬ気を起してゆく。――が、何のための会社だ?
国家のため? なるほど日本はその生死をかけてアメリカと激闘しつつある。あらゆる日本人は、戦いか、生産かに従わねばならぬ。
が、そんな高遠な理念は、この絶望的な心にはあまりにもそらぞらしい。
自分一身のことを思うな。
これはしかし自分の負け惜しみだ。逃口上だ。絶望、絶望。
ああ、空はあくまでも明るく蒼い。
二十八日
○津の国のなにわの春は夢なれや蘆の枯葉に風わたるなり
○ねがわくば花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月のころ
西行が恋しい。山の中に入って花でも眺めていたい。
二十九日
○未来の生涯が空虚な幻影となって心にひろがる。自分の憂鬱は一生消えないだろう。
自分はウヌボレが強いから、自分だけは遊んでいても合格するという夢想が消えなかった。――が、自分は、少くとも数学の大事な医者の学校には、全然そんなウヌボレがきかない人間だった。
ドストイエフスキーは数学的白痴だったときいてうれしがっていたが、最近知ったところによると、やっぱり彼も学校では数学十点満点で九・五点の成績だったというではないか。
いや、数学にかぎらず、人生の何だってそうだ。自分みたいにふまじめで物事がウマクゆくはずがない。見よ、中学時代たしかに自分より優秀でなかった連中は、続々身分相応の上級学校に入り、また社会にはばたいてゆくではないか。
故郷には、こんどの受験のことは永遠の秘密となるであろう。彼らは自分を都会にあこがれて勝手に飛び出した勉強ぎらいの怠け者と見ていることであろう。しかし、それもやむを得ない、すべては沈黙である。
三十日
○貧乏ぶりが逼迫して来た。何もかもこの一戦にかけていたので、文字通りもう一文も金がない。ともかくも今日は絶食する。
そして、どうせ当選しても三ヶ月もあとのことだのに、懸賞金ほしさに『螢雪時代』募集の学生短篇小説を書きはじめる。まるで子供じみている。
○その第一、いつか退社を労務課へ願い出て叱られたときに胸に浮かんだ「国民徴用令」
その第二、いつかの小西の訪問をヒントにした「勘右衛門老人の死」
四月三十日〆切なので、毎朝七時半から夜九時半まで会社勤務の身ではなかなかの仕事だ。
自分の能力が子供だましのものであることは、自分でもよく承知している。だからこそ今まで浮かんだ腹案は、少し先になるとバカらしくて書く元気がなくなりそうな不安があるから、妙な話だが、いまのうちに書いておきたいとも思う。
その他の腹案。「蒼穹」「鶯」「神童」「百紀と由紀子」「墓二郎」「矢車に風の鳴るころ」「清麗記」
しかし自分は、テーマと構成の興味に惑溺して、いちばんかんじんな「思想」と「文章」に欠けている。――
三十一日
○「国民徴用令」書きつづける。
絶望しだいに消ゆ。ふしぎな愉しさ。――
しかしこれも自分の卑怯さかも知れぬ。そして一つの失敗をすぐにこんな手段でまぎらわせる自分が、また発奮する機会を失わせて、第二第三の失敗を生む。自分の一生を葬るものは、この「下手の考え休むに似たり」ともいうべき小説かも知れない。
二十二歳という年齢にくらべて、恥しい自分のこの幼稚さ。
○東京へ来てから以前に倍する惨たる時間。いったい自分のしたことは何であったか、ともかくも読んだ雑書は左のごとし。
○『懺悔録』ルソー/『デカメロン』ボッカチオ/『イアリング』ローリングス/『ジキルとハイド』スチヴンソン/『レ・ミゼラブル』(第三巻)ユーゴー/『人生読本』トルストイ/『死の家の記録』ドストイエフスキー/『東洋哲学夜話』アダムス・ベック/『人間論』アラン/『ソアーナの異教徒』ハウプトマン/『寂しき人々』『織匠』ハウプトマン/『アイヴァンホー』スコット/『神曲』ダンテ/『ルゴン・マカール』(第一巻)ゾラ/『生の誘惑』モーパッサン/『グリーン家殺人事件』ヴァン・ダイン/『ジョカスト』『痩猫』『ジャン・セルヴィアンの願い』アナトール・フランス/『ラオコーン』レオパルジ/『海底物語』ウイリアム・ビープ/『天路歴程』バンヤン/『科学物語』ディーツ/『シーホーク』サバチニ/『グランド・ホテル』ヴィッキー・バウム/『ヘンリー五世』『以尺報尺』『ハムレット』『ペリクルーズ』『タイタス・アンドロニカス』『アセンズのタイモン』『リチャード二世』『ジョン王』『十二夜』『ヴェロナの二紳士』シエクスピヤ/『決闘』『生活の河』クープリン/『氷島の漁夫』『埃及行』ピエル・ロチ/『イワンの馬鹿』『芸術とはどういうものか』トルストイ/『初恋』ツルゲーネフ/『小さき町にて』フィリップ/『ツシマ』フランク・ティース/『ドン・キホーテ』セルヴァンテス/『日本その日その日』モース
○『紋章・時計・その他』横光利一/『小僧の神様・その他』志賀直哉/『北村透谷集』/『生い立ちの記』島崎藤村/『忠直卿行状記・その他』菊池寛/『色懺悔』『二人女・その他』尾崎紅葉/『にごりえ・たけくらべ』樋口一葉/『歯車・その他』芥川竜之介/『都会の憂鬱』佐藤春夫/『蒼氓・その他』石川達三/『泉鏡花集』/『三木露風詩集』/『仏蘭西短篇小説集』森鴎外/『正岡子規集』/『菊池寛評論集』
○『人間性』今村正一/『野口英世』小泉丹/『天災と国防』寺田寅彦/『バイロン伝』三好十郎/『西洋二千年史』浅野晃/『西洋哲学物語』陶山密/『孔孟思想講話』高須芳次郎/『新日本図南の夢』菅沼貞風/『日本の甲冑』山上八郎/『良寛の一生』須佐晋長/『生命と物質』服部静夫/『近世日本国民史・吉宗篇』『同・天保改革篇』徳富蘇峰/『白楽天詩集』『李太白詩集』大槻徹心/『日本宗教全史第三巻』比屋根安定/『江戸ばなし』三田村鳶魚/『鴎外論稿』伊藤至郎/『芥川竜之介研究』大正文学研究会/『国難日本歴史』白柳秀湖/『民族日本歴史』白柳秀湖/『ゲーテの生涯』中島清/『南蛮帖』岡田章雄/『海援隊始末記』『陸援隊始末記』平尾道雄/『殺人論・毒及毒殺論』小酒井不木/『焔と色』式場隆三郎/『城と要塞』城方久/『聖徳太子』黒上正一郎/『日本の反省』大槻憲二/『楠木正成』浅野晃
○『東海道中膝栗毛』十返舎一九/『野ざらし紀行・奥の細道・その他』芭蕉/『近世説美少年録』馬琴/『枕草子』清少納言/『世間胸算用・日本永代蔵』西鶴/『増鏡』/『大和物語』/『柳子新論』山県大貳/『政談』荻生徂徠/『吾妻鏡』/『古今和歌集』/『読史余論』新井白石/『正法眼蔵随聞記』/『近世実録全書全十九巻』/『脚本傑作集』/『御家騒動実記』/『京伝傑作集』/『忠臣蔵浄瑠璃集』『珍本全集』
○『南国太平記』『大阪落城・その他』『楠木正成・その他』直木三十五/『ごろつき船』大仏次郎/『江戸川乱歩小説集』/『小酒井不木探偵小説集』/『五代友厚』直木三十五/『日本仇討物語』直木三十五
○これだけこんなものを読んでちゃ、入学試験に通るワケがない。
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四月
一日
○自分は愛に飢えている。抱きしめ、涙をちらし、魂と魂とがぎりぎり火花を発するほど芳醇な――いや、もっともっと透き通った、一点の塵もさしはさまない愛が欲しい。しかし、それは母と子の間の本能愛だけだ。自分はそれを望むことはできない。
が、せめては真の友情が欲しい。その人のために、文字通り火の中水の中へでも飛びこめるような友が欲しい。それにふさわしい人間はきっとある。必ずある。――が、自分は見つけることができない。人生の最高の歓喜と苦痛を欲せず、いや、それの存在することすら夢想もせず、ただ映画や流行歌や女や金もうけに憂身をやつしている青年の中に、どうしてそれを見出し得ようか。
しかも、その友を得る「学校」の関門の扉をあけそこねた自分は、いかにその青年たちを軽蔑し、嘲笑し、語るに足らずとさけんでも、ついに誰もそれを認めない。それは当然だ。自分は冷やかな虚無と倦怠と笑いが、自分の頬をかすめ去ってゆくのを、哀しく感じるばかりである。
よろしい、愛も要らない。友情も要らない。ただ自分は美を欲する。花より星より蒼空より、それらのものを色褪せさせるような心の世界の壮大清麗な美を欲する。が、ああ、何という平凡と俗臭にみちた周囲だろう。
神経衰弱は、環境の烈しさから生まれるものではない。神経衰弱は、魂が躍動しているのに、あまりにぬるま湯に似た環境との断層からきしり出る。
四日
○悪口をいわれることは恐るべきことではない。何人もあごを以て食い物を食い、糞をたれる人間である以上、悪口はのがれ得ない。
悪口をいう人もあながち憎むべきではない。心の不満をもらすことは、人間の飽満のあまり吐くゲップにひとしいものである。
ただ軽蔑すべきは、AがBの悪口をいうとき相槌を打ちながら、BにAの悪口を告げる人間である。
もっともこれもまた憎むべきではない。なぜなら、こういう人間はふつう、AからもBからも不信と不快を買い、一番ばかをみる人間だからである。
七日
○いついかなる人に対しても――叔父に対しても叔母に対しても、或いは祖父母に対しても冷やかな眼で眺め、陰鬱凄壮な雰囲気をまきちらし、叱ってもうそぶき、笑いかけても疑惑の光を眼にたたえている自分を――そして、ついに飄然として出郷上京し、それ以来|よう《ヽヽ》として梨のつぶてのごとく消息を絶っている自分を、故郷の人々はほとんど人間の魂を持たない冷血児と見ているであろう。
が、その自分が、夜毎夜毎、なつかしい幼年時代の想い出に歯をくいしばり、愛を求め、恐ろしい孤独に悶えているのを知っているであろうか。
大都会の空は大きく、風は冷やかである。天涯孤独の自分、しかもいかに泣言をならべてみても、絶対それは無益なことを骨身に徹して知っている自分。――その自分を眺めるとき、笑いはもとより湧かぬ。涙ももとより湧かぬ。ただ――沈黙するばかりである。
八日
○もし自分の前に出て、おのれにやさしき両親のあることを誇る人間があるなら、自分はこれを笑う。
どんなにやさしい両親も、それは彼の両親であって、自分の両親ではない。それなら、街頭に喧騒している無数の人間どもは、たいてい人の子の親である。人の子の親ほど他人の子に対して残酷なものはないのである。自分は、自分の父母を恋しがるのであって、その他の親など毫も羨ましいとは思わない。
だいいち、両親のない孤独の涙に、一抹の壮美な愉しさがあることを人々は知っているだろうか? 人間は悲劇を見るために、高い金を払って劇場に入るのだ。
十億の人に十億の母あれどわが母にまさる母あらめやも。
十一日
○正木君、菊池君と午後下目黒の常盤邸へゆく。
薄曇りの空の下に権之助坂の桜並木は白じろと霞のように咲き上っている。下目黒の閑静な裏道を辿ると、思いがけない場所にあちこち畠が作られているのを見た。鍬をふるっている老人、灰をまいている少女――黒く掘り起された土からも新鮮な野菜からも、早春の香は鼻を刺すように流れてくる。とくに菜の花の黄色と青色、そんな生き生きとした水に溢れているような自然の色彩は、上京以来一度も見ることのできないものであったので、自分は息をのんで歩みをとどめた。空に雲雀の声美し。
十三日
○おとといもらった桜の小枝はまだ白いかたい蕾ばかりだったのに、けさ会社に来てみると霞でも吸いあげたようにみなぽっかりと咲き切っている。インク瓶やペン皿や原簿立の中に幻のように仄かに咲いている花はゆかしくも哀れである。可憐の念にたえず、不精者の自分が珍しく立って、花瓶の水をかえてやる。窓の外は静かなきぬのような春雨である。
春雨や愚人のまえに花二輪
十九日
○戦争は死を冒涜する。あまりに大量の死は、死の尊厳を人々から奪う。なるほど表面は、輝く戦死だの尊き犠牲だの讃えるけれど、人々の心は、死に馴れて、その真の恐怖と荘厳とを解しない。
二十四日
○午前、正木、菊池、久瀬川君と九段にゆく。靖国神社に参拝し、坂下の大橋図書館に入るためである。
ちょうど天皇陛下御親拝の日なので、坂は雲霞のごとき遺族の上下するのに埋まっている。哀しみと蕭然たるものを秘めた黒衣の人々が、蒼い空の下に黙々と大きな湖のように流れてゆくのは異様な風景であった。
「日比谷ホテル」などの旅館旗をひるがえした案内人を先頭に進んでゆく親たちの顔を見よ、剛毅朴訥、老いの眼を一心にこらしてゆく頬の赤黒き色よ、武骨なふしくれだった手よ、着なれぬ黒紋付に、襟も崩れ垢じみた皺首の見える老婆よ。――自分はふかい感動に打たれながら、その大きな潮をかきわけて坂を下っていった。
二十五日
○平出大佐より「提督の最後」と題して、昨年六月、東太平洋海戦でミッドウエー襲撃のとき、航空母艦とともに悲壮な戦死をとげた山口司令官、加来艦長の最期が放送されたものが、けさの新聞にのる。
言語荘重、声涙ともに下るその描写は、当時の凄壮な海戦の全貌を伝えて余すところがない。日本人を感奮奮起させずにはおかない。
この大東亜戦史を将来書く者はだれか。
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五月
四日
○早朝七時品川駅前に、正木君、久瀬川君を待ち合わせて、北鎌倉へ汽車でゆく。
朝の太陽はうらうらと蒼み、窓外を流れゆく麦や菜の花の色濡れて春たけなわであることを今更のように感じる。それよりも自分の眼底には品川駅で見た金髪白皙の西洋の娘が残った。武勇に於ては世界屈指の日本人の容貌に於ける醜陋《しゆうろう》さよ。
北鎌倉駅は山陰地方の小駅を想わせる物寂びた駅であった。桜の落花が白い柵に散っている。
駅から左に廻ると鬱蒼とした杉木立で、地上に点々と白い光の斑《ふ》は花を踏んでゆくようだ。
しばらく歩くと建長寺につく。山門を入ると左側に絵図がある。境内を一見したのち河村瑞軒の墓へいって見ようと思う。
白い砂の上に笑い声をまきながらゆくと、大きな蓮華の形をした手洗石に水がキラキラと溢れておちていた。そばに樹齢七百余年に達するとかいう老松がある。青白い苔が幹から梢のはしまで覆い、針葉まばらに仙気が漂っている。七百余年というと、鎌倉時代からこの松の木はあったのではないか。
さらに左方に進むと、滴るような青葉の山蔭に一基の塔があった。白堊の上に青い法螺貝のような尖塔が聳え、まるでラマ塔を見るようである。関東大震災犠牲者の供養塔だという。
そこから山路に入る。五月の躑躅《つつじ》は、紫紅に咲き乱れている。長い石段を上ると中腹に空地あり、幽邃《ゆうすい》なあずまやがあった。ここでむすびを食う。もう十時ちかい。眼には青葉溢れ、地上に落花雪のごとし。鶯の声きこえ、耳をすませるとただ飄々の青嵐のみ。
やがて塵を払ってまた山路を上る。路のつきたところに瑞軒父子の墓があった。
これより建長寺を去り、白い路を八幡宮に向う。春光を揺るがして藤の花が垂れている下を燕がながれ飛んでいる。
八幡宮の大鳥居は、暗いまでの青葉の中にいよいよ赤い。大きな拝殿の前に出る。千木の下、石だたみに鳩が乱れ飛んでいる。足もとに群れるもの人を怖れず。突然大声を放って鳩を驚かせた若者があった。心ない男だ。
広い境内は、あちらの赤い太鼓橋、こちらの鄙びた茶屋、すべて豆粒のような人々にどよめいて、どこからか遠足に来た学童のむれのためいよいよやかましい。池のほとりには、ここも躑躅が満開であった。
国宝館に入る。洞然たる館中には、宋僧の花鳥図、雪舟の山水図をはじめ、仏像、古刀、みな光黒み色あせてはいるが、鎌倉時代特有の、沈鬱な力動感はたしかに見てとれる。
思うにアジアの幕府たらんとする日本の将来の理想文化は、平安朝や徳川期のそれでないことはもとより、桃山時代でもなく、この森厳簡素な鎌倉文化を選ぶべきではあるまいか。
八幡宮を出ると、学童の行軍延々として道をふさぎ、やむなくその後について進む。頬の赤い少女をとらえてきくと、朗らかに五年生と答えた。ああ、われら老いたり。
頼朝の墓所の麓で、幌古き馬車にゆき逢う。
○頼朝の墓には儀礼的な一礼を与えたのみである。自分は頼朝を好まない。ただ堅実にみえてその最期がおぼろおぼろとして妖気をはなっている点は、あくまで如才のない家康にくらべて興味がある。
鎌倉市に入り、鎌倉宮にゆく。日は依然明るいのに、神域は何だか薄暮のような凄壮の気にみちているような気がする。先刻の学童の群が、もう玉砂利を踏んで先を歩いている。そのうしろについて、神社本殿の背後に廻る。
大塔宮御幽閉の岩窟は、苔むす山かげにあった。大きな錠を下ろした大きな格子越しに、物凄い冷風が吹きあげてくる。
次に明治大帝行幸の際の御座所を拝見す。薄暗い六帖に畳を重ね上げてあるが、質朴なものである。大塔宮の御ひたたれを模したものがある。紅色黒みあせ、裾は蓬のようである。槍、刀、鎧冑などの中に、大塔宮が諸国に下された檄文がある。
日が中天にかかったころ鎌倉市内を歩く。美しい町だが、観光都市としてきいていたほどではない。ただし、空腹でだいぶ気がめいっていたから景色どころではなかったせいかも知れない。
正木君も嚢中《のうちゆう》乏しく、自分ははじめから金がない。金がないとはじめから断っているのに、何とかするから是非ゆこうと、正木君、久瀬川君がひっぱり出したのである。久瀬川君、かねて用意の国債を「鎌倉銀行」に売る。
長いあいだ待っていて、やがて国債を売った久瀬川君とともに勇気回復、市内をめぐって食堂を探すが、開店している食堂が一軒もない!
そのうちに鎌倉をぬけて由比ヶ浜に出てしまった。
空は晴れているが潮風烈しく、帽子も飛びそうなので、帽子の上から頬かむりしたところへ、松林中から戞々《かつかつ》と蹄の音をあげてさっきの馬車が走って来た。太平洋を背に、鞭ふる御者、破れた幌、老いた馬は、まるで映画のような美しいシルエットを描き出した。
烈風吼えて、海上に三角波高し、浜辺を三々五々、どこか隣組の遠足らしい群がゆく。老若男女、みな戦闘帽やモンペである。
草の吹きなびく松林の中に入り、鼎坐して久瀬川君の弁当を三つに分けて食う。やがて大声で歌いながら由比ヶ浜をゆく、一万箱王をかすめし浜千鳥はいずこ、義貞の太刀はいずれに沈める。
由比ヶ浜の端に霞のごとき大群衆を見る。立札で、やがてここでまもなく大型焼夷弾の実験があることを知った。
見上げると、雲の飛ぶ峠の上に人の影が延々と押し並んでいる。自分は現在まで焼夷弾の実験演習を見たことがない。そこでこの偶然の機会を捕えていささか見聞をひろめようと思ったが、久瀬川君、正木君はまだ先があるからと逡巡する。が、自分は、断乎として見物をとなえ、峠に駈け登り、さらに高い山上に達し、一本の松の木の下に立って下界を見下ろした。両君やむなく悄然と追い来る。
見下ろすと人影が密集した峠の下に、白い浜の突端が三角に区画されて見え、急造の平家がぽつねんと建っている。
やがて鎌倉市長の挨拶あり、つづいて警察署長、防火団長らがめんめんとして大同小異の知識を開陳する。そのとき爆音がひびいて、白いフロートの海軍水上機がすぐ真上を翼をかたむけて南から北へ飛び去った。日はすでに中天をすぎ、腕時計は二時を廻っている。こちらもようやく気が焦る。
やがて、ただいまから演習を開始するむねのアナウンスとともに、家から十メートルばかり離れた場所から誰か駈け寄り、家に火をつけ、砂煙をあげて逃げて来た。たちまち白煙があがり出し、濛々として浜を覆う。すぐ近くに待機していた一群の防火隊が駈け集ってこれに水をかけ出した。赤い火が白い煙の中からチラチラ見える。五分ばかりで鎮火したが、遠望のため、防火隊の動きはすこぶる緩慢に見えた。
ついで例のバラック内に焼夷弾が落下した場合を実験した。爆発と同時に渦巻き上った白煙はたちまち家を視界からかくし去った。美しい火炎がひらめく。防火隊がまた駈け寄ったが依然動作緩慢に見え、海風も烈しくて容易に鎮火しない。黒煙が上がるとまた火影が炎上する。十分ばかりでやっとその家が黒い骸骨のような姿を現わしはじめ、まもなく鎮火した。
しかし自分は不安になった。ただ一軒の小屋に準備万端怠りのない防火隊がかかってさえ消火の容易ならざることはかくの如くである。深夜全市に数百の焼夷弾がばらまかれたらその惨状果して如何と。
時間はもう三時に近い。で、まだあとに続く実験の見物はあきらめ、山を越えて七里ヶ浜へ出ようと思う。
山路で逢った老婆にきくと七里ヶ浜へ通じる道は海岸伝いの平路があるそうだが、しかたがない。途中、新田一門が全滅した碑を見た。
余談だが、自分は義貞という人の忠節を疑っている。南朝についたのは同族尊氏と対抗のためであって、彼には彼の野心がなかったか。――それに較べると尊氏は、ともかくも天下をして彼に従わしめたところを見ても、彼が一個の人物であったことを疑うことはできない。楠公は用兵に於ては抜群であったが全局面の戦争に於ては尊氏にゆずるところはなかったか。ともかくも尊氏は、義貞のような凡将ではない。
七里ヶ浜は水蒼白く荒れて、ぬれひかる海辺に大きな水母《くらげ》がかたまっていた。竹杖でつつくと何だかえたいの知れぬぶきみな感覚がする。みな裸足となり、足を海水に洗わせつつ、絶叫をあげて疾駆する。
七里ヶ浜はその名のごとく長い。遠くに江ノ島が見えるが、足が痛くなるほど歩いても、その渺として淡きこと相同じ。
海は幽霊じみた白い波頭をあげ、青ペンキを塗った結核療養所の上空にはゴマをまいたように鴉の群が見える。三人ようやく疲労沈黙して歩く。
日が赤あかと傾いたころ、やっと江ノ島の町に入る。路が極めて狭い。江ノ島に向うに路はいよいよ狭く、両側に並んだ店は、飲食店と土産物屋と遊戯場のみ。みな野趣をすぎて粗野下品である。ただ貝殻の細工物が薄暗い店内に五色の光をキラめかして美しかった。海に出ようとするところで一軒の店に入りソーダ水をのむ。夏の日の思いあり。
江ノ島を隔てる海は、夕日に紺青が霞んでいた。ひとすじの白い砂洲にならべて長い木橋がかけてある。ゆきかうまばらな人々みなくたびれかげんである。江ノ島に入るとその坂道を囲む家々はこれまた飲食店と土産物屋と遊戯場ばかり。
朱塗りの大鳥居をくぐると石段がはるかにうねりつづいて、いよいよ足がふらついた。ヘトヘトになって江ノ島神社についたが、べつだんの異色はない。風景が麓の土産物屋の細工物と同じである。
山路を下り、江ノ島を去る。
藤沢へ歩く。田園に落日美し。青麦一尺ばかり。子供たちが凧をあげている。足は痛み腹はへりつくして、もはや声も出ない。藤沢から汽車にのり、六時帰京。
アパートに戻って茫然として座し、やっと銭湯に立ちあがると、黒い砂がサラサラとたたみに落ちた。
十日
○高浜町の工場を六時に退いて、歩いて品川を経て五反田に帰る。
品川駅前に出るころは、水のように澄んだ大きな空から薄蒼い黄昏が下りて、あたりの風景は水族館のガラスを透して見るような清澄味をおびている。
品川駅から北白川宮邸の黒い塀に沿って長い坂を上ってゆくと、美しい宵の明星が一つキラと光って見えた。小室翠雲の屋敷は崖の上から薄紫のつつじが乱れ下がって、もう真っ暗な路にふしぎな反射を流している。かすかに脂《あぶら》の匂いを放っている大きな松の葉の向うに金の鎌をななめに置いたような月がかかっている。
横町から障子越しにラジオがチュニジアに籠城する独伊軍の終焉を報じている。
五反田についたのは、ほとんど七時に近い時刻だった。もう真っ暗な坂の下から、電車がまばゆいヘッドライトをふりたてて地響きたてて喘ぎ上ってくる。或る石の門の下に這っていた大きな犬の眼が、キラリと青く光って見えた。
おそらく仕立物屋であろう、店の方は布が足の踏場もないほど散乱しているのに、奥座敷の方は青だたみに塵一つ見えず、あかあかとした電灯の下に夕餉を待つ卓のしろい食器が清潔に光り合っていた。一瞬この光景をちらと見て、すぐに暗い往来に歩み入りながら、自分はふと哀愁をおぼえた。
十七日
○神経の粗雑な人間はどんなに快活善良であっても一脈の嫌悪を誘う。
これは自分のものの考え方のまちがいであるとも修養の足りないところであるとも重々承知しているが、ニキビ面で唾をとばしながら、大声で女や食物のことをしゃべっている人間をみると嫌悪感が先に立つのはどうしようもない。
冴えた頭脳、憂愁のとばりの向うから、洗練された皮肉をもらす人、こんな人は好ましいが、しかしこんな人間ばかりなら日本は滅亡するだろう。
よくいわれる「竹を割ったような」気性というのは、たいてい神経の粗雑な人間を指しているからこまる。あっさりしている、という好評は、自分の罪をその人間がすぐに忘れてくれそうだ、という虫のいい利己心から出ていることが少なくない。
十九日
○文学を以て生きる、というには、自分は余りにも頭が悪く、無学で、鈍感である。このことはよく自分でも承知している。過去いかに無数の青年がこの幻を夢みつつ、朝の蛍のように薄れ消えていったことか。「常識」は自分を深い疑惑と恐怖に誘う。
けれども人間が一生をかけて、黙々必死に一つのことに精進したら? と思う。何とかものになるのではあるまいか、と思う。
笑うものは笑え、この確信が弱々しく崩壊しないことを祈る。
二十日
○山本連合艦隊司令長官戦死。
このニュースをはじめて定時近い会社のざわめきの中にきいたとき、みな耳を疑った。デマの傑作だと笑った者があった。
が、それがほんとうだとわかったとき、みな茫然と立ちあがった。眼に涙をにじませている者もあった。
何ということだ。いったい何ということだ。
ああ、山本連合艦隊司令長官戦死!
二十二日
○先日、大橋図書館にいって芥川竜之介の『大導寺信輔の半生』を読んでいる中に、「本」という一章で、竜之介が幼い日この大橋図書館へ度々通ったことを知って、ふしぎな思いに打たれずにはいられなかった。
信輔、つまり竜之介の、本に対する熱愛、友人に関する一種病的ともいうべき思想、これらをはじめとして、是非は別として、信輔はびっくりするほど、自分と酷似している。もっともいわゆる「文学青年」なるものは、たいていこんなものかも知れない。
それはともかくこの図書館の古びた階段や壁や窓から見て、そう昔ではない竜之介の若い日と今とは、おそらく寸分の違いもないであろう。――この部屋に、この雰囲気に、あの風景を見つつ、あの遠い町のざわめきをききつつ竜之介が熱っぽい若々しい瞳でここの書物をむさぼっていたのだな――あるいは、たび重なるうちには、彼は今自分の坐っているこの机に向っていたのかも知れない。自分は神秘と憧憬の入り混った眼を茫然と空中へあげた。
靖国神社は大祭の名残りをひいて、今日も遠い潮鳴りのようなどよめきをあげている。
ああ、時代は変った。竜之介の生きていた大正末期の頽廃的な日は遠い夢と去って、いま日本は、大アジア帝国建設のために雄渾な戦闘をつづけつつある。自分は竜之介よりも幸福な時代に生きているといわなければならない――但し、「将軍」を書いた彼だから、これはのれんに腕押しみたいなものだが――しかし竜之介だってもし今の時代に生まれたら「辻小説」くらい書いたかも知れない。
潮は個人を圧倒する。大正時代に戦争を嘲笑した天才も、この苛烈な戦争の中では、その趣味を表面的に現わすことは彼の埋葬を意味するであろう。
三十日
○アッツ島守備隊全滅す。吹雪氷濤の中にアッツ島二千の神兵ことごとく戦死す。
自分も戦争にゆきたくなった。
ガダルカナル撤退。山本提督戦死。アッツ島全滅。
悲報相ついで至る。海軍はいったい何をしているのか。局部の勝敗に血迷うなかれとは何人がいい得るか。氷獄のごときアッツ島に冬を越した将兵をみすみす見殺しにして、どこに日本軍の真髄があるか。去年の東太平洋作戦の意義は全然霧消したではないか。
神州不敗の信念は国民の熱涙の中にかがやいている。が、キスカ島の安否が気づかわれるのはいかんともしがたい。
北洋の吹雪に軍旗ちぎれける
潮しずけし夜業の群や天の川
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六月
二十六日
○二十五日、久瀬川君が旺文社の編集部長斉藤林之助氏からの手紙を持って来てくれた。これは同社発行の『螢雪時代』の懸賞小説に応募した「国民徴用令」と、「勘右衛門老人の死」が二篇とも一等に当選し、類例のないことなのでその賞金について話があるから近日中に来社されたいというのである。
自分は久瀬川君の名を借りて出したのがわかったのではないかと閉口したが、まさか警察の呼出しじゃあるまいし、また実際自分が書いたのだからと心をふるい起し、その上これが端緒となって現在の無意味な――自分の人生に関する限り無意味な生活から脱することができるかも知れぬと、子供らしい夢を見つつ、早速旺文社に電話で、今夕六時に訪問するむねを伝える。
五時ごろ五反田を出たが、途中省線電車が急行に変っているのを知らず、四谷までいってひき返したので、旺文社についたのは六時半ごろとなり、待ちくたびれた斉藤部長はもう帰ったあとだったので、明日午後五時に再訪問するむねを伝えて、神田を回って帰る。
このごろの神田古本屋街の店じまいの早いのには呆れる。八時となるともう大部分が灯を消して大戸を下ろしてしまうのである。先日などは、正木君、久瀬川君、志沢君と少し遅くやって来たばかりに、ろくろく書棚も見て廻らないうちに灯を消されてひどい目にあった。
きょうも本を五冊ばかり買う。しかしこのごろの本は値段ばかり高くて、内容も拘束されているし、本の体裁ときたら、そんなことには鈍感な自分でさえイヤになるほどだ。
本のないことは、げんに自分が廻った書店の一軒では、二人の学生が偶然つづいて『ファーブルの昆虫記』を買ったため、結託して買いしめるのではないかと主人が嫌疑をかけたので、二人の学生が憤慨してはげしい口論をやっていたほどである。
○二十六日、きょうは遅刻すまいと意気ごんだあまり二時ごろ飯田橋についたので、時間をもてあまし、食いたくもないのにトーストや天ぷらそばを食ったり、また本を三冊買う。科学書ばかり。
自分は科学的才能に欠乏しているのに――その上べつにそれを大して気にもしていないのに、本屋では科学関係、とくに天体、生命などに関したものをよく買うのはどうしてかしらん。未知なるものを知りたい一念が、これでも働いているためかしらん。
四時半旺文社につき、廊下の椅子に腰かけて外出中の斉藤部長を待つ。夕暮の光にそよぐ涼しげな植込みの樹々を見ながら、もう学生とはなれないであろう自分がさびしかった。
五時ごろ、部長が帰って来て話をした。ふとった、知的な、立派な顔をした人だ。
「国民徴用令」も「勘右衛門老人の死」も他の応募作品よりもズバぬけて一等に値するけれども、同一人に懸賞金を二つ出すというのは何だから「国民徴用令」の方は掲載するけれども賞金はさしあげないが御了承願うというのである。
自分はそれほどあの二作品にみれんはないし、金は欲しくないことはないが、そういう話ならそれでもちっともかまわないと思った。が、部長は、あの元気のいい小説の作者が、あまりにも痩せこけて憂鬱げな青年なのに、ちょっと興ざめのしたことであろう。
部長は、小説に溺れて受験生の本道を忘れないようにといった。どういうわけかひどく感動して、自分の唇はふるえた。自分は受験生とはいえない。……
それから部長は、学生に小説を書かせるのはどうかと思うが、現代の学生の生活は既成の作家にはまったく無縁未知の世界なのだから、現在学生である人に書いてもらうよりほかはないといい、「国民徴用令」が曾てない反響のあったことをいい、またこんどからは斉藤部長宛直接に書いて送るようにといった。自分は小説を書くよりも、ともかくも学校にゆきたくなった。
帰るとき「勘右衛門老人の死」をのせた『螢雪時代』七月号をもらったので、途々読んだが、全然共鳴を覚えない。
自分はいまの若者たちが、部長は「清純雄渾」と評したけれど、必ずしも清純雄渾な魂をもやしているとは信ぜられない。それも一部にはあるかも知れない。また一般的にもそう見えるところがあるにしても、それはごく表面的観念的なものであって、内部には、国家や民族を越えた「人間」としての、戦乱と死に対する絶望が――少なくとも、このあまりに苛烈な地球上の変動に圧倒された絶望が巣くっているように思う。そしてこれは事実だと確信する一方で、それも老いこんだ自分の皮肉な見解であって、やっぱり純真熱烈な青年達とはすでに無縁の人間になってしまったのかも知れないというさびしさも湧く。
とにかく自分は自分の知識と才能に絶望しているから、あんな子供だましの小説が二篇当選したくらいで有頂天になるようなことはない。それよりも真に魂をこめた小説が書きたい。――
と思う一方、現在の境遇と未来の自分の道とをいかにして結びつけるべきかという深い悩みが湧いてくるのを禁じ得ない。
二十七日
○アパートの階下の三帖の自分の部屋、廊下のすぐ向うは洗面所と便所があり、部屋の爆風よけの紙を貼ったガラス戸の外は、暗く大きく立ちふさがる隣家の台所が、すぐ手もとどくようなところにある。
陰湿の気は充分で、蚊や南京虫が多くてこまる。蚊帳がない。蚊の方は毛布をかぶるとして南京虫の方はふせぎようがないので閉口する。夜中輾転反側、朝は身体じゅう赤い斑点だらけになる。
二十八日
○「国民徴用令」は自分でも思いがけない反響を呼んでいるらしい。旺文社ではこれを掲載するのに厚生省文部省その他いくつかの関係当局に問い合わせ、これが掲載されると毎日数十通の批評が旺文社に飛びこんでいるという。
「涙なくしては読めぬ」という手紙もあるという。
自分は慄然とした。そして恥じ入った。
ああ、純なるものの勝利だ。作者は読者に敗北したのだ。
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七月
一日
○一葉の『にごりえ』は感心するけれども魅力を覚えない。『たけくらべ』は感心すると同時に魅力を覚える。
○漱石はなつかしい。竜之介は讃嘆と軽蔑を同時におぼえる。鴎外は超人である。そしてこの超人ぶりは鴎外の恐るべき勉強ぶりから来ていることを思うと感奮しないわけにはゆかない。
二日
○自分は常に得体のしれぬ憂鬱を覚える。心の底からはればれとして、ああ愉しいと思うような時がない。
自分はこれを自分の過去と性情に原因すると考えていた。勿論それもあるだろう。
しかし、いったい人間が、ほんとうにはればれと愉しいと思うようなことがあり得るだろうか。どんなに順調に成功した人間でも、何かしら憂鬱なものを抱いているのではあるまいか。外部の原因だけでなく内部の原因で。
愉しいと感じるのは比較的の感情である。暗い夜があけて曙の光を美しく輝かしく感じるようなもので、もし夜がなくて日中ばかりだったら、夜明の美しさというものの魅力はあり得ない。同様にいつも愉しいことばかりある人間なら、愉しいことは一向愉しくないどころか、むしろ倦怠の鎖でいっそうその人を憂鬱に縛ってしまうだろう。
それかといってふだんそう愉しい生活を送っていない、いわゆる平凡な人間生活を送っている者が、ときどき愉しいと思うことがあれば、なるほどその愉しさは真実であろうが、それはそのうちにまた未来の愉しくない生活のくることを予想しての感情だから、決して純粋のものではなく恐怖の念が裏打ちされている。そしてまた若しそれが一時的の愉しさでなく一生つづく見込みのある愉しさであったら、それは第一の場合と同様である。
われわれの覚える愉しさはみな一時的なものにすぎない。
これを超えるものは、信仰と芸術か。しかし芸術は人間を対象とするからどうしても人間的な苦痛が絶えまい。そして信仰も、よく小説などに書かれる宗教の荘厳な歓喜などあくまで空想的なものであって、果してふつうの人間にあんな境地が得られるものだろうかと疑う。ふつうの人間どころか、キリストも孔子も決してあかん坊のような安らかな歓喜を覚えつつ死んだとは思えない。
四日
○六月二十九日、久瀬川君とともに、品川駅を午前六時五三分発姫路行の汽車で箱根に向う。八時一五分国府津に下車。
これは二日ほど前故郷の国府津に帰っている志沢君を待ち合わせるためである。国府津駅は薄暗いベンチに埃が白く浮き、朝日のいたずらに明るい駅前はひっそりと寂しい。志沢君はまだ来て居らず、自分たちは時々駅前につくバスを覗きこみながら九時十分まで待った。
しかしとうとう辛抱しかねて志沢君を捨て、九時十分発京都ゆきに走りこんだ。汽車がいまにも出ようとして、偶然窓からフォームの方をのぞいたら、志沢君が真っ赤な顔で階段を駈け上ってくるのが見えた。「志沢君、ここだ、ここだ」と叫ぶと、志沢君はあわてて列車に飛び込んで来た。
バスがどうしても来ないので、一里の路を走って来たのだと、滝のように汗をながしながら謝まる。実に素直で愛すべき少年である。
青葉に美しい小田原から箱根登山電車にのる。電車は比較的空いていたが、車体がギシギシと音をたてていささか不安でもある。途中座席に寝ころんでいた男が震動のために転がりおちて、尻をなでなで起き上ったのを見て吹き出す。
青葉の向う、日の光の明るい田園には田植をしている笠の列が見える。空には薄雲はあるが、風は爽やかに匂うようだった。左側の窓から見ると、下の道路を傷痍軍人の一団が駈足で走っていた。
あれがおれの商業時代勤労奉仕にいった傷痍軍人療養所だと、志沢君が指さす方を見ると、早川の対岸の山の中腹にいま掘り返したような赤土の上に大きな療養所の建物が立っていた。
早川の水は少なく石は白く光っている。故郷の但馬の風景に似ているが、どことなく明るい。山陰の風物はどんな夏の日でも妙にものさびしい薄ら冷たい黄昏の気がたたえられているのだが。
風祭、塔の沢と上る。車内には、吾妻館だの早雲閣だのいう旅館のポスターがかかっている。
電車は稲妻形に重々しい唸りをあげて上り、大平台に達する。白い標柱に海抜三四九メートルとある。重畳たる山肌の上の雲も低く、青い雪崩のような急峻な山の樹々は迫るほどの近さで下にひろがって、絶壁の下には渓流が淙々と白いしぶきをあげている。その中をバスの道路が白い帯みたいにうねっている。美しいが、しかし大きな箱庭といった感もある。電車の窓をときどき紫色の紫陽花がかすめ過ぎる。花にはいちいち「この花取るべからず」という立札が立っている。
宮の下に着く。ここから白いしずかな日の光をあびながら徒歩で宮城野に上る。右側の断崖の下を水が白く流れ、左側の山蔭には一すじの滝がかかっている。大きな独逸の水兵がコンパスの長い足をのばして自分たちを追い越していった。
宮城野の国民学校の石門の前に出ると、志沢君はここで代用教員をやっている級友を訪ねるために入っていった。自分と久瀬川君は石垣によりかかったまま、眼の前の川が階段状になっていてそのまま滝の階段になっているのをボンヤリ眺めていた。こんな天下の名山の中で代用教員をしながら一高の受験準備をしているという志沢君の友人の純粋な生活が自分の胸に痛みを与える。校庭では、白鉢巻をした学童たちが若い先生の号令にあわせて可愛らしいかけ声をあげていた。
ややあって出て来た志沢君といっしょに千石原へバスにのる。客は満員、その上ひどい坂道だから走るというより這うといった方が適当だ。左側の河の向うの山に、何の樹か白い花を美しく風に揺すっていた。ふと先刻の独逸水兵が汗を拭き拭き路傍に立ち止まっているのを見たが、バスに知った日本人でもいたのか急にニコリと白い歯を見せて首をふった。
「次は千石橋でございます」
という女車掌の声を久瀬川君が千石原とききちがえてバスを下りてしまったので、やむなく千石原まで歩き出す。
空は薄蒼く透き日光は木の葉にキラめく。先刻の独逸水兵にまた追い抜かれた。なんのためにこちらはバスに乗ったのかわからない。独逸水兵はじろじろ注視されるのにことさら無関心を粧って、ひたすら大股でノスといった感じである。
両側の低い山の草の中に白く光る路の向うを、アベックらしい二人のうしろ姿が歩いてゆくのを見て、志沢君が「おおいっ」と大声をあげてからかおうとする。自分は「よせ」と叱りつけた。
千石原の手前のバスの待合所にまたも水兵が汗をふいているのを見ながら通りぬけて、「食堂」というのれんをひるがえした店に入る。
客はなく、テーブルの上の花瓶に、白い野花が夏の微風にゆれている。
卵丼があるというので注文する。二、三十分も待つ。これから飯を炊くのだという。障子をとりはらって簾をかけた座敷で、旅行者らしい女二、三人が、おかみさんと愉しそうに話している。蚊は一匹もいないとか暑さ知らずだとか話している。裏庭の方から、メエ、メエ、と山羊の鳴声が聞える。
やっと卵丼にありつく。卵なんて東京にはクスリにしたくもない。三人、くらいついているところへおかみさんが出て来て、
「いま、つきたての餅がありますが……アンコも入ってますよ」
という。一人が三つずつもらうことにする。
ここで食うつもりであったが、おかみさんが新聞紙に包んで紐でぶらさげて来たので三人分三円九十銭を支払って往来に出る。
一ケ四十何銭かの餅だから、直径十センチくらいの大きな餅だろうと、歩きながら包みを破ると、直径五センチ足らずのもので、アンコも砂糖なし、全然甘くない。おかみさんが餅を包みにして持って来たのは作戦だったのである。東京の人間の飢えた胃袋を見すかした老婆のかけひきだったのである。
千石原の茫々たる夏草の路をゆく。右側の丘の中腹には白い小さな山小屋が点々とならび、それぞれに小路が這い上っている。鳴り渡る草、遠く起伏する丘の上に流れるちぎれ雲、三人はかわるがわる喉も破れるような声で詩吟を咆哮する。どこかで鶯の声がしきりにする。風と太陽の中に、はろばろとそよぐ草の海の果てには、飛んでいって踊りたいようななつかしさがあった。
途中、草に新聞紙をしいて、志沢君持参の海苔巻の握飯を食う。
それから樹々と赤土に彩られたゆるやかな山路を上って大涌谷に達する。山の向うから東京の女学生らしい旅行団がガヤガヤ歩いてくるのに逢う。空が急に曇って山の向うを覆った白い霧は、雲か硫黄の煙かわからない。遠い山脈からはたしかに一条の硫黄の煙がなびいている。硫酸の匂いが鼻孔を包んで来た。
大涌谷には薄暗い寂寞とした光が沈んでいた。黄色く変色した石ころばかりの山脈を木の棚がとりかこんで、その中央の七輪様のものから白い煙が立ちのぼり、山のずっと下からも幾すじかの煙がゆらめいている。つき当りの急な大きな山は、薄ら冷たい雲に包まれて、何だか身体が寒く、皮膚もジメジメ湿っぽくなって来た。
自分は一軒の茶屋で一杯三銭の水をもらって水彩画をかく。志沢君は向うの崖の上から意気揚々と小便をおとし、久瀬川君は谷間に下りて黄色い石を拾っている。
しばらくののち、先刻の女学生の一団が下りていった道を追うて山を下る。身体を青く染めるような樹の下の道は、靴もすべるほど黒々とぬれている。途中、或る神社と旅館らしい建物のそばを流れている細い流れで手を洗う。
ちょっと見たところは、清冽な透き通った冷水のようだが、かすかに立つ湯煙におそるおそる手をつっこむと、むしろ熱いほどの湯の流れだった。
起伏する山や丘の下に、蒼い静かな芦の湖が見えた。
近いようでなかなか遠い山道を駈け下る。汽船発着所で、さっきの女学生たちがキャッキャッと騒いでいる中に煙草をふかしながら汽船を待つ。三十分あまり待っていると、ほがらかな汽笛の声をあげて、白く塗った瀟洒な美しい小さい汽船が入って来た。
まっさきに走っていって、船の胴にひらいた小さな入口から船室にくぐりこみ、タラップを駈けのぼって甲板に出る。ガラスの切口を横から見たような蒼みをおびた湖の底には、名も知らぬ魚や貝殻が白く透いて見えた。
風は寒く、水は満々として、西の山に近づいた太陽の色が、何か疲労をおびた哀愁の感を起こさせた。その西の山は、頂上をまだ茫々とした白い雨霧にかくしている。
芦の湖は意外に大きく、汽船の尾にひく水脈《みお》ははろばろと流れ去って、およそ四十分もつづいたろう。自分は甲板のうしろに佇んで、白い紙片を雪のようにちぎって投げた。風に舞いつつ水に落ちた紙片は、何か過去に消えてゆく美しい想い出のように遠ざかっていった。
新箱根町に近づくと、ボートや魚釣舟が散見され出した。が、汽船は新箱根町を左に横目に流しみて、箱根町についた。
さん橋の向うにフランス的な屋根の尖った白い家が建っていた。路を歩き出すと、ここにも半ズボンの大きなドイツ人が、赤い腿に金色の毛をそよがせながら、鷲鼻の上から褐色の眼で湖を眺めていた。
箱根町から、鬱蒼とした杉並木の街道を新箱根町に向う。大名行列でも通りそうな街道を、幾人ものドイツ人がパイプをくわえて三々五々歩いてくる。
旧箱根関所趾を見たが、案外貧弱で、箱根の地図を全然頭に入れていない自分には、何のためにここに設けたものか見当もつかないほど印象の薄いものであった。しかしあとから来た女学生の一団はもちろん立ちどまって、先生から長々と説明をきいていた。
新箱根町でバスを六時まで待った。停留所でスケッチしたり、近所でレモン水をのんだり、土産物屋をのぞいたりして、ようやく「宮の下」行のバスに身を投じたのは、すでに夕べの気がひたひたと芦の湖畔に這いよる時刻だった。
――実際、バスがあえぎあえぎ坂道を上りつめたとき、窓から見下ろした湖の、煙った白い大きな鏡のような美しさは忘れることが出来ない。それは近くの水が青い細かなちりめん皺をたてていなかったら、湖とは思えないほど静かな光を曇らせていた。
道が下りになって、バスはスピードを増した。うねうねと、稲妻形のバス専用路を夕風を切って宙を飛ぶ。爽やかな愉悦感。双子山の頂上は、灰色の夕雲に黒い影を浮かび上らせていた。
黄昏、灯の美しい宮の下につく。そこから闇に沈んだ路を宮の下駅へ歩く。
真っ暗な闇の中に、石だたみの路だけが仄白い。山は静寂を極め、疲労しているのに歩くのが愉しい。あまり調子にのりすぎて宮の下駅を通り越し、大平台駅まで歩いてしまう。そこから登山電車で小田原に下る。電車はときどき瞬間的な停電を起し、そのたびにパアッと散る蒼いスパークが、ちかくの青葉を物凄く浮かび上がらせた。
小田原駅につくと同時に東京行が出たので、やむなく十時五十分の列車に乗る。小田原駅には、ボロボロの煮しめたような色のシャツに、尻の肉の見えるズボン、足の裏の出た地下足袋をはいた若い体格のよい乞食が一人、悠々とベンチに寝ていた。こんな時勢によくその存在がゆるされているものだとふしぎに思う。
汽車の中では、とうとうくたびれて寝てしまった。ふと眼をあけると、汽車はどこかの駅を動き出したところで、かすめ去る白い板に「よこはま」という字が黒い蝶のようにながれて見えた。久瀬川君は、身体を海老みたいに曲げて、口をあけて眠りこんでいた。
九日
○米軍、ソロモンのレンドバ島に上陸し来る。
――この報に、また! とのみこんだ息もつかせず、ニュージョージア島、ニューギニアに魔雲のごとく上陸して来た。さすがだ!
今や日本軍必死の反撃下に、南太平洋で恐るべき血闘が展開されはじめた。いったい、ほんとうにいったい、日本の艦隊の主力はどこで何をしているのか?
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八月
十六日
○イタリアはシシリア島に米軍の上陸をゆるし、ムッソリーニは辞職した。まさに潰滅一歩前である。ドイツはめちゃくちゃに爆撃され、東部戦線もソ連軍のために一塁一都崩されてゆく。
日本はすでにアッツ、ガダルカナルを奪還され、山本司令長官は戦死した。
最近の東京の防空壕の設置ぶりは凄じいくらいである。各戸は必ず一つの防空壕を設け、夜更けまでタタキを崩して、黒い土を往来にはね出している風景が見られる。往来の舗道なども、二、三間置きに、長さ一間半、幅半間、深さ半間ばかりの防空壕を掘り、いつ歩いて見てもシャベルやツルハシをふるう市民の姿が見られる。
しかし、噂によれば――いかにアメリカ強大なりとはいえ、支那やアラスカから、また空母からだけでは、それほど大規模な空襲ができるわけはない。これは近いうちドイツを助けるために対ソ開戦をするので、この大がかりな防空設備は、ウラジオストックを対象にしてのことだという。
一般に国民は志気旺盛で、別に恐怖しているとは見えない。「いよいよ、日本一人でやりますかナ」といった調子である。ガダルカナルだってアッツだって、イタリアのシシリアとはちがうと思っているのである。
イタリアのシシリアは、日本の九州みたいなもので、あんなところにやすやすと上陸させるなんて何という弱虫だろうと、味方ながらみな愛想をつかしている。ガダルカナルは南海の果て、アッツは北溟の極み、同じく渺たる孤島に、前者は一年ねばり、後者は、全滅したとはいえ日本軍の真価を敵に知らしめた。
十八日
○大磯紀行。
沖電気株式会社が強制的に全社員を連日大磯に錬成に派遣する企てに従い、正木君と早朝より大磯にゆく。
駅前で約二百人余の参集者とともに整列。駈足で高麗神社に参詣、皇軍の武運長久を祈願したのち、高麗山麓の沖電気の錬成所につく。これは社長浅野総一郎の別荘だったものの由。
玄関前で点呼したのち、まず日課第一の勤労奉仕にかかる。地下室から肥料袋を背負い、庭園内を坂路を通ってほかの地点に運ぶもので、これも錬成かも知れないが、まるで浅野の下男仕事をさせられているようなものだ。
空はそろそろ蒼い光にかがやきはじめ、青葉の下道もみなのながす汗に濡れて来た。
それが終って、座敷に入り、鎌倉円覚寺から来た或る老僧の説教をきく。痩せてはいるが強い気魄にみちた顔の老僧であった。
彼は日本の国難をいい、けさ新聞に発表された米軍ベララベラ島に上陸との報から、独伊の苦戦をのべ、もうこうなっては日本は日本を頼むよりほかはない。もし、万ケ一、万万ケ一、日本本土に米軍上陸をゆるすがごとき日ありとも、われわれは山崎部隊にならい、戦うこと能わざる老幼はことごとく自らの手で殺し、戦い得る者は最後の一人まで戦い、日本全土を紅に染めて、大和民族が地球上に一人も残らないようなみごとな終焉を告げよう。その覚悟で日々生産戦に敢闘してもらいたいといった。
庭にかがやく青葉若葉を背景に、数珠をふりふり叫ぶ老僧の姿は凄壮の気にみちみちて、少年工たちは蕭然としてこれを仰いでいる。
座禅を習う。十分間ほどであったが、クスクス笑い出した者に、老僧はピカと眼光を走らせて、「そんなことでアメリカに勝てるか!」と叱咤した。
食事後、西瓜一片配給。午後一時より大磯海岸にゆく。
砂は黒く汚なく、海は岩ばかりで波は荒い。それでも一かたまりの色紙をまきちらしたように女子供の海水着姿が見える。
正木君と二人でおそるおそる岩だらけの浜を歩き海に入る。海は汚いヌルヌルした海藻を漂わせて、色は下水のように濁っている。海底はまるで針の山を歩くようなものだ。一足そっと下ろすと鋭い岩の突起を踏み、また一足そっと下ろすと首まで沈むような深みである。波が高くて身体のつり合いがとれず、歩いていると却って危いと思って、少し不安だが泳ぎ出した。
波は盛り上り、うねり去り、岩にぶつかると大袈裟なまっ白な飛沫をあげる。だいぶ泳いでからちょっと心配になってふり返ると、正木君は渋面を作ってはるか陸近いところにボンヤリ立っている。
「どうしたんだぁーい」ときくと、「足に何か刺さったぁ」という返事である。
あわててひき返すと、正木君は口を極めて大磯を罵倒しては痛い痛いと悲鳴をあげる。ともかく背負って、浜の日本医大の臨時診療所につれてゆく。砂が灼けていて走るにも走れない。
傷は足の裏に海藻のトゲが二、三本つき刺さったので、黒いものが薄桃色の肉の中に透いて見える。医学生はメスでえぐってその中の二本をとり出し、繃帯した。瀕る不器用であと一本はもてあまして、「何、放っておいても大丈夫」といって、あたりの女たちとふざけ出した。
二人で脱衣所に入って支度していると三時になった。みな集まって、解散。このとき一人帰って来ず、責任者が社のマークをつけた紫の旗をかつぎ、赤裸に赤フンという姿で水辺を走り廻って見つけ出した。
解散後、町で正木君とコーヒーをのみ、古本屋により、六時ごろ帰京。
十九日
○人間は善人ばかりでも悲劇は起り得る。それは「理解しない」ところから起る。
「理解しない」のではない。「理解できない」のだ。
理解できないのは、教育や環境の相違もあるが、もっと根本的なことは「生まれつき」がちがっているからだ。
二人が結ばれて子が生まれれば、子は必ずその二人とはちがったものが出来る。古今東西、同じ人間はないのだから、理解できるわけがない。人間の悲劇は不可抗的である。
二十日
○自分は、だれも自分を理解しないからさびしいと思った。が、だれもが自分を理解したらいっそうさびしくなるかも知れない。
二十一日
○アッツに全滅した山崎部隊に感状下り、部隊長以下二階級特進の光栄に浴す。
○小説を考える。
山崎部隊は、戦いに参加し得ざる者は自決せしめ、残存兵力をあげて最後の猛襲を敢行、激闘数日ののちついに全員残雪を染めて全滅したものであって、これはアメリカの「日本軍の捕虜一人もなし」という発表からも明らかである。
が、もし――もし不幸、重傷を受けたが死に至らず、人事不省のまま捕虜となった者があったとしたら如何。
一人でもいい、数人でもいい、瀕死の夢から酔めて、アメリカ軍の幕屋に敵軍医の看護を受けつつあるのに気がついたとしたら、彼らの心理果して如何。
彼らは敵の厳重な監視下に自決の器具なく、やむなく恥じて、舌をかんで続々死ぬ。その中に、例えば――山崎部隊長その人がいたとしたら如何。
彼もまた舌をかみ切ったが、敵軍医に発見されてついに死するを得ず、本国に送られる。悶々の捕虜生活。
やがて日米血闘の数年去って両国の間に和議成り、その身柄は日本に送還されることになる。
そのときが迫った一日、ついに捕虜収容所を脱走。一牧師にかくまわれてさらに数年。ようやく旅費を得て、望郷の志にたえずしてひそかに祖国の土を踏む。志操全く衰えて、ただ日本の山河の中にひそかにその晩年をゆだねようとするのである。
昭和三十□年、――
「昭和十八年五月二十九日、アッツに玉砕した山崎部隊長の墓」の前に、茫然としてたたずむ一老人があった。
香煙たえず、その日もまた墓前に泣く少女あり、瞳をかがやかせる少年あり。児童らにその殉忠を訓す老教師あり。ああ、彼はすでに日本の師表となり、英雄となり、神となり、讃仰の的となっているのである。
しかし、彼の現実の肉体はここに生きている。不具と老齢のため、蹌跟とした一醜夫としてここに立っている。――このとき彼の心情は如何。
生くべきか。言語に絶する苦難の数年ののち、美しい国土はいまや自分の足下にある。沈黙し、人目をのがれ、しずかなる晩年を終るべきか。
彼は終日そこに立っている。人々は怪しむ、しかし彼は立ちつづける。
苦悶と自嘲と寂寥の半日過ぎて、彼はここにひとり自決しようとする。今こそ、ほんとうにこの世を去ろうとする。
殉忠山崎中将は、昭和十八年五月二十九日より永遠に日本国民の胸に生きている。その幻影をみずから砕くに忍びない。自らを嘲りたいが、日本人の幻をみずから消し、みずからの幻をみずから消すに忍びない。
その翌朝、参拝した敬虔の一日本人は、墓前にくびれた老醜の一塊を見た。そのからだは醜かったが、顔にはしずかな微笑が残っていた。
新聞の三面記事に小さく載った。
「住所姓名不明の一老人が、軍神の墓の前で縊死していた。おそらく自分の人生と軍神の死との差に絶望したからであろう」
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九月
九日
○イタリア無条件降伏。
全日本に一瞬の蒼白き風吹きすぎて、蕭と静寂おち来る。
イタリアへの冷蔑、ドイツへの同情をこめて、一剣天によって寒き森厳の決意。恐怖の色見えず。
○夜、半月の月光の下に、防空演習。水キラキラと往来を濡らし、駈けつどう覆面たちの怪奇壮絶なる美しさ。中天に霧のごとく散る水の清冷さ。
十日
○午後五時半より会社にて産業戦士慰安のビール配給あり。会社の西側の広場に長い長い天幕を張り、あかあかと電灯をともし、みな頗るほがらかになって、崩れた声でどなったり叫んだりしている。サカナは胡瓜とイカを串に刺したもの。きょうも出征する人があるのか、赤襷の影もある。それをとりかこんで、勝って来るぞと勇ましく……の歌声。バンザイの絶叫。
一升瓶を持って来て、テーブルの下で配給のジョッキをそっとつぎ入れている男あり。家に帰ってだれかに飲ませるつもりだろうが、そんなことをしてビールが飲めるのかしらん。
こちらも酔っぱらって、七時ごろ蒼い半月の下を仲間と荒城の月を吼え歌いながら、田町へよろめき歩く。
十二日
○午後、上野の東京都美術館に院展と決戦美術展を見にゆく。
大観の「中秋無月」の前は黒山のような人だかりである。天心先生歌意「……月なき秋のやるせなや」と傍題がつけてある。
決戦美術展の方の見物は、やはり藤田嗣治の「アッツ玉砕」で、ほかにもこれと同じ画題の絵があるが、みな緊迫感が足りないか、もしくはリキミすぎて、この藤田作品の薄暗い凄壮感には及ばない。晴れた日なのに、天窓からさしこむ日の光も白じろと煙って、汗ばむむし暑さの中に人々は一脈の冷気を背におぼえ、みな帽子をとってこの絵を眺めている。
美術館を出てから動物園に入り、キリンや猿を眺めているうち、カーンカーンと鐘の音に追い出される。
十三日
○孤独は寂しい。しかし単純な孤独なら、なまじ友あるに優る。友と愚にもつかないことをしゃべっているときの悲哀は、孤独の読書よりも空虚なものがある。
十四日
○世には、女とか酒とか、或いは無内容な世間話を面白可笑しく話して人を笑わせ、平凡な個性ゆえにみなに愛され、幸福に暮している者がある。
一方で、話がギコチなく、調子ははずれているが、精神はまじめに、人間最高のものをめざして神経を苦しませ、それゆえにみなに敬遠され、また他に不幸不快の気を及ぼしている者がある。
どっちが悪いのか。
善悪と幸不幸が両立しないところに、そしてこれが相争うとき、善悪を選ばないで幸不幸を選ぶところに人間の悲劇がある。
十五日
○石鹸が一円から一円五十銭となって売れる時代である、いや、花柳界などに持ってゆくと五円にも買うそうである。酒一升十円なら飛ぶように売れる。料理屋などでは、酒一升につき五、六十円でも百円でも商売になるからである。
石鹸や酒どころではない。米が問題である。内地へ運んでくる外米を、ボーキサイトに変えると、年に八千機分の重爆が製造できるそうで、この九月からは一ケ月のうち十日分は、芋、豆、乾パンが配給される。
飯の半ばは豆と芋が入っているが、まだ米が半分入っていれば大歓声もので、会社の食堂などでは絶対にうどんである。うどんを十日くらいぶっ通しに食わされると、いかなうどん好きでも気分的に参って、みなしきりに昔を恋しがる。このごろはみなあきらめて、十日目ごとに、うどんではない――芋、茄子をまぜた御飯、或いはうどんをまぜた御飯が出ると、それだけでみなバカみたいにニヤニヤ笑っている。
こういうことを書くのは決して悲鳴をあげているのではない。こういう時代があったという記憶のためである。
日本人は、この戦争がどんなに苦しくても、たとえ冗談に悲鳴をあげようと、必勝の信念を崩してはいない。盲目的な信仰、自己慰安の空想もないとはいえないが、たとえ負けるにしても、空襲などに音をあげたイタリアを嘲罵する気力はある。米国軍が反撃しても、ソロモン――ニューギニア――蘭印――ボルネオ――フィリッピン――台湾。英国軍が反撃しても、ビルマ――マレー――泰――仏印――支那。ソ連とたたかうにしても、蒙古――満州――朝鮮と、日本へたどりつくまでには、ヘトヘトになることは疑いない。
第一前線が敗れても外国みたいに総崩れになるはずはない。死地に追込まれればいよいよ頑強となる大和民族を自ら信じているから、決して志気の衰えは見られない。
母校の中学でもことしの卒業生百六十人中百人は航空隊に入るそうである。ガダルカナルで戦死した河江の勇兄の教え子の小学生たちは、その師の戦死の仇討ちのためことごとく少年航空兵を志願しているそうである。きょうの新聞には、命令を受けた仕事が思うように進捗せず、責任を感じて古式通りに切腹した東大出の伊藤海軍技術中尉のことがのっている。
日本は大丈夫だ。
十七日
○真価を後世に期すということは信じられない。
最も浅薄な大衆に迎合的な意味でも真相をまげて書く史家がいるし、偉大な信念を以て偉大なもののために真実を覆う記録者がいるし、第一当人がたとえ真剣に書いても、人間は偽らざる告白の中になお真実をかくすものだからである。例は無数にある。
十八日
○ときどきなお夢みる。
とくに自分の個性と何らの関係もない会社の事務や、呆れ返るほど愚かしい同輩を眺めているとき、なお夢みる。
自分が中学卒業と同時に高校に合格していたら? と。そうして、それは実にあと一歩、いや間一髪の努力を要するばかりであったのだ。もし、話すに足る友や尊敬すべき師や、書物を買う時間と金が自分に恵まれていたら、自分はもっと平静な明るい人間になっていたろうと。
今の運命はことごとく自分が招いた罪となってしまった。しかし、ほんとうに自分だけが招いたことなのか?
意志薄弱な、責任のがれの心でそう疑うのではない。
ただ、そういってみたところで何にもならないことは、骨身に徹して知っている。
十九日
○アパートの管理人のおじさんが、サルマタ一つで柱にもたれかかり、両足投げ出して、トックリと壺の混血児みたいな容器に棒をさしこんで、何かの運動みたいに突いている。となりの楊白石君の部屋からも、壁ごしに同じ物音がトーントーンと聞こえる。
これは配給の玄米を精白しているので、これはどこの家庭でもやっているらしい。
玄米は量が増すのでわざと配給しているのだし、またこの時節に玄米を食うことを敬遠するような輩は、断乎罰すべきであるという声もある。
しかし、これを罰するような法律がない。僕思えらく、それはボーリ取締令に限る。
二十一日
○終日曇天、会社の騒音をいとわしくききながら、事務机に向って沈黙苦悶すること長時。身体力なく、脳に鬱血し、蒼白く沈んだ眼をすえて――現在の生活の、精神とは何ら結合なき苦痛、未来に対する絶望、その他道徳的自棄(実際には何もやらないが、魂の上で)に対する不安――等を思い、頭より払いのけんと欲すれど能わず。神経衰弱の前兆かも知れぬと意識し、いっそキチガイになってしまえとさえ想う。死の影さえも頭をかすめたが、死後の嘲笑を思って首をふる。
夕刻より雨吹きしぶき、傘を横に、ズボンが足にまとわりつくのをいらいらしつつ帰る。雨蒼茫として、街路、河、橋、そして雲、いずれも薄暗き黄昏の光をはなち、省線のスパークひとしお物凄く美しくあたりを照す。
夜『四谷怪談』を読んで眠る。
二十二日
○朝、夜来の風雨、いつのまにか晴れ、白き床に冷涼を感じて眼覚むれば蒼空見ゆ。染めたるがごとき紺碧なり。風|颯々《さつさつ》として一朝秋の来れるを知る。勇気体内に満ちくるを感ず。陽白し。澄明、爽涼、静寂、孤独、甘美――生の歓喜を覚ゆ。
秋風の野の庵に、香を焚きつつ読書でもしたし。しかも、いかなる悪戦の修羅場にも勇気りんりんとして立ち向う勇気を含める静かなる心なり。
ひるまえ、散歩。今里町近くの裏町の小さき草原に出て腰を下ろす。彼方に玉蜀黍《とうもろこし》、芋、ヒマなどの葉生々とひかる。子供ら四五人、「爺ちゃん婆ちゃん」と歌いつつ、笑いつつ、竹杖を手に腰をまげてめぐり遊ぶ。碧空にすすきを立てたるがごとき一刷けの淡雲。日の光強く、草いきれ烈し。
われ、腰を下ろしてヴォルテールの『チャールス十二世伝』を読みつつありしに、書物の真白き紙より甘きパンの香りせり。ふと尻の下の石、さながら呼吸するがごとく動くを感じ、この美しき朝には石も動くならんかと思い、またかかるはずなし、わが尻の呼吸するにつれてふくらみ、ちぢむなるべしとも考え、要するに神経過敏なるためかとも苦笑しつつ、ともかくも眼は書物を追いつづけたり。
しかるに少時ののち、ふたたび石の呼吸するが如きを覚え、ようやくのぞきみるに一匹の大いなる瓦のごとき蟇ヘタばりつ。その背に血の赤く薄く滲みたるを発見、仰天して飛び上りぬ。
直ちに喜戯せる子らを呼びて竹杖を借り、いっしょに探せどもこはいかに、忽然として消ゆ。さては幻影にてありしかとふと思いたるも、いやそんなはずなしと、草を撫でてていねいに探し廻れば、子らのようやくあきらめんとするころ、蟇の鈍き動作にて飛びて逃げんとするを見つけたり。
棒にて中央の草少なきところにはじき出すに、男の子直ちに走り寄りてこれを足にて踏む。グーという音にわれ顔をしかめ、あわてて止む。子ら棒もてその背を乱打し、うれしげなる叫びをあげぬ。吾は子らに知らせたるを後悔しつつしきりに制す。女の子の方はさすがに恐ろしげにあとずさり、黒き眼にてわれを見る。可憐なり。男の子らは代る代るその足を持ちては、すでにノビたる蟇をふりまわしては投げとばし、また拾いあげては投げとばす。
われはいささか顔を蒼くして、やめろ、許してやれといえども、その声に力なし。そは単純なる憐愍の情のみならず、先日来徳川時代の実録などを読みつつあれば、その中に頻出するタタリ、呪いのごときものにいつしか感染し、これとこの不気味なる生物を結びつけたる一種の恐怖と、それを笑う心理とのためなり。
日、いよいよ暑し。真っ青なる空に箒のごとき雲うっすらと消えつ。雲の碧空に溶け消ゆるは、その時間短きも、いと長きように感ず。無窮なるものの出没は、一瞬のうちにも永劫を感ぜしむるなるべし。
○夜七時半、首相官邸より、東条首相より国内大改新を告げる重大放送あり。
日本国民はそのすべてを今こそ大君のおんために捧げまつる時や来れりと叱咤し、放送後、ラジオを圧する「みたみわれ、生けるしるしあり天地のさかゆる時にあえらく思えば」の合唱は、恐るべき鐘の鳴動のごとし。
二十六日
○「それは暴風的な時代であった。血の時代であり、光の時代であった。地球上すべての人は、暴風の中に立ち、血の洗礼を浴び、夢幻の光を見つめていた。揺籃の嬰児も白髪の翁も、すべてが悪魔となり神となった。日の光もせせらぎも、物凄い妖気と燦爛たるかがやきを堪えていた。人はことごとく英雄であった」
後世の史家は、今の時代をこう書くであろう。そして後世の人々は、この言葉に改めて今の時代を賛嘆と恐怖をこめた眼でふり返るであろう。
しかし、その今の時代に住んでいる吾々は、さほどに感じない。それは、苦しんでいる。息も絶えるような生活の苦しみにあえいでいる。しかし、それほど今の時代に恐怖も光も見出してはいない。
自分たちは、このごろ食事に満足な米の飯を食べてはいない。米一に芋九という割の飯を皿にうすく盛り、おかずは丼に芋ばかりというありさまである。「おれの兄貴はガダルカナルで戦死した」「あたしの従兄はアッツで死んだのよ」こんな会話がいと無造作にくり返されている。しかし、何らの感動、何らの恐怖をも感じない。
為政者は叫ぶ。指導者は絶叫する。人々はその声に感動せず、ただ忍従する。黙々と耐えるだけである。
しかし、国民は決して悲観的ではない。その志気は昂然たるものがある。学生は凜然として海の鷲となって羽ばたいてゆくし、女でさえも「負けたら、死ぬ」とはっきりという。アメリカの諜報部長が「日本国民の志気、軍隊の攻撃精神には微動だも見られない」といっているのはまさに事実である。
負けるとは考えられない。例え日本が本土に星条旗の影を落されるような日が来ても、日本人は必ず精神力を以てしてもアメリカ軍と相討ちとなるであろう。
二十七日
○去年までは、十月からは朝八時出勤であったが、今年は十月になっても七時半の由。
そして今までは午後四時退社であったが、これが午後五時半に延長される旨発表。八時間勤務が十時間になったのである。
二十八日
○依然ソロモンに激闘つづく。ニュージョージア島に米軍が上陸して来てから、もう三ヶ月になろうとしている。昨年この方面に米軍の反撃が開始されてから、もう一年半に近い。
近々数ヶ月の間に攻略した地域の尖端を、その数十倍数百倍の犠牲を払わせて奪還に狂奔させているのは、これはこれで有効というべきである。こうしてその外廓で何年間か敵をくいとめている間に、蘭印などの建設成り、日本は巨大な戦力を養成してふたたび大反撃に移るのであろう。その作戦であろう。
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十月
七日
○自分の勤めている作業課第三計画係に高柳正太郎という十七歳の少年がある。
べつに給仕や運搬人として傭われたのではなく、これでもふつうの事務をやるために入社したのであろうし、また現在新宿工学院の夜学にいっている少年であるが、どうしたわけか給仕や電線の運搬ばかりやらされている。仕事をさせれば案外シッカリしていて、どうしてどうして主任などより頭がいいのじゃないかと思われるふしもあるのだが、みんなにどういうわけか馬鹿扱いをされる。
これは高柳にも責任がある。女の子などが、自分に命じられたお茶くみを高柳に命令しても平気でやってやるし(これは同年輩の少年少女同士としてほんとに珍しいことである)山のような電線を抱えてベソをかきながら電車の中で虎造の次郎長をうなり出して、傍についている主任を赤面させたりする。映画はことごとく見にゆくし、捕物帖はことごとく読むし、頭を叩かれても叱りつけられても、可愛い顔でニヤニヤ笑っている。このあいだも課長にどなりつけられながら、エヘヘヘ……と山羊みたいな笑い方をして、頬っぺたをひっぱたかれた。これがもし年下でなかったら、自分は高柳を神秘的に尊敬したかも知れない。
実際、きのう結婚したばかりの社員のそばに頭をつき出して「Mさん。……いいなあ」などといってニヤニヤ笑いながら「きのうの晩は寝られなかったろう?」などいう心理は見当がつかない。「シ、シッケイなことをいうな」といったきり、呆れ返り、まごついている相手の前で、あごのしゃくれた顔をつき出して、例の「エヘヘヘ……」という野放図な、明るい、人を小馬鹿にしたような笑い声をたてている。
この高柳が、先日机の前に坐って、珍しく泣きそうな顔でションボリしている。きくと、海軍の少年航空兵の試験に失敗したのだそうだ。そういえばこの高柳は、入社したころから「朝日航空」という航空雑誌を恍惚と見ていたり、飛行機の絵ばかり書いていたようだ。
「おい、高柳、お前飛行兵になるつもりかい? 馬鹿、おまえみたいなのが飛行機乗りになったら、日本の航空隊の前途は絶望だワイ」
「いや、かえってこんなのがソロモンの空で火をふきながら、エヘヘヘと馬鹿笑いしているのかも知れないよ」
など口々にからかっていた自分達も、あまり高柳の落胆ぶりがひどいので、気の毒になって、黙ってしまった。
ところがきのうは、予科練の歌など一日じゅう歌ってばかりいて、調子っぱずれにはしゃいでいるので、きいてみるとこんどは陸軍の少年飛行兵になるつもりで願書を出すのだそうだ。
竹沢さんが、
「高柳さん、あんたどうしてそう飛行機に乗りたいの? 死んじまってもよくって?」
というと、また、エヘヘヘ、と馬鹿笑いして、
「内地におっても菓子がないからナァ。飛行兵になると、菓子なんか山ほど食べられるんだゾ」
と、いった。
「馬鹿柳!」
と、だれかがいった。みんな笑い出した。高柳はニヤニヤ笑いながら、相変らず予科練の歌をうたっている。
自分は高柳の横顔を見ていた。その頬には光がさしているようだった。
この少年は、たんに戦争の嵐に昂奮しているのではないらしい。そういう点にはひどくのんきな、鈍感とさえ思われるところがある。それかといって、まさかお菓子にあこがれて飛行機乗りになりたいわけでもないようである。要するに、飛行機が好きで好きでたまらないらしい。
無邪気なるがゆえに、可憐なるがゆえに、血しぶく南海の蒼空へ身もだえする少年の姿は、彼すらも知らない凄絶の光をはなつ。知らずして悪へ進む者は、知って進む者より悲惨であり、知らずして祖国の難に赴く者は、知って赴く者より崇高である。もとより、この知らぬとは、祖国の難を知らぬという意味ではない。自分の運命を知らずして、少くとも他人にそのことを絶叫することを知らないで、という意味である。
「高柳、通れよなあ」
と、自分はしみじみといった。
九日
○本日、雨、休電日。
九時ごろ正木君、久瀬川君来る。久瀬川君は旺文社から自分宛に送って来た小説「蒼穹」の賞金五十円を持って来てくれたのである。
同時に久瀬川君はもう一つの吉報をもたらしてくれた。それは受験準備中に徴用令を受けた者は、もし合格すれば、その入学許可証明書によってその徴用が解除になるかも知れぬというのである。欣喜雀躍。
しかし、先日の東条首相の宣言にもあったごとく、近い中に大半の学校は閉鎖され、理工医の学校のみ残される関係上、受験者はそれらに殺到するだろう。それに先天的に理工科のきらいな人間でも医者にならなってもいいと考える者も多かろうし、さらに医者なら軍医になれるということもあるのだから、来春はおそらく言語に絶する激戦となるだろう。
昼、つれ立って雨中を外出、目黒キネマへフランス映画「モスコーの一夜」を見にゆく。途中、パンと玉子焼とミルクという、近来真にまれなるものにありついた。小説の賞金が入ったので、これらの食物と映画代は全部自分が支払う。合計六円。
「モスコーの一夜」といえば、これでも数年前、傑作の評判が高かったようだ。なるほど映画の美しさ、構成の巧妙さ、俳優の演技などはるかに日本映画を抜いている。しかし、自分たちがいま血を以て描きつつある現実の歴史の方がはるかに深刻凄惨を極めている。恋愛をえがき、賭博をえがき、自殺をえがき、最後にヘンにひねくれたヒューマニズムをえがいて、それが何だ? といいたくなる。いまの吾々はどうすべきか、この強烈な問いを満足させてくれなければ、この映画の感動は空回りするだけである。
○目黒駅前で解散。自分は東中野にいって柏木の吉田の下宿を訪ねる。大きな美しい家で、下宿人は学生ばかり、吉田の四帖半の清潔な部屋は、自分の陰湿な三帖とはくらべものにならない。尤も自分はこんなことには少しも羨望をおぼえない。「君の部屋では病気になる」といって、先日からもっといい下宿を探してくれつつある吉田の友情もただ無関心に眺めているくらいだから。
吉田から、もっと真の意味の歴史を勉強せよといわれる。彼は吉田松陰とフィヒテの言葉をひきつつ、日本精神を説く。色々文句をつけたいが、いってみたってこの男には通じない。第一、純なるもの正と信ずるものを信じ、堂々たる吉田の態度のまえには、ただ、つつしんでその言を傾聴するのほかはない。
○夜、アパートの二階にいるやはり山田という職工が下りて来て、話し相手になってくれという。この人は、この間まで防空資材研究所というところに通っていて、三井三菱を夢みつつ、風呂代にもこまり、人には大言壮語して笑い者になり、借金取と二階でとっくみ合って階段から転げおちる騒ぎをやり、それにもかかわらず毒気のない人柄のためにみなから愛されている人物だが、とても二十八には見えない。そのくせ自分は世渡りはうまいと確信し、人をだますことも商法の一つであると力説し、すべては金だと信仰している。――見廻すと、世には何とかかる人物の充満していることよ!
金に困って、自分のところにも「人にだまされぬ秘訣」だの「販売秘術」だのという本を売りつけに来たりしていたが、もともと今の何とか研究所というえたいの知れぬところに勤める前は亀戸の精巧社に籍を置いていて、そのままになっているので、先日警察に呼び出されて大いに叱られて、今では毎日その方に朝早くから出勤している。
いってみると、やはりそっちの方が金がもうかることがわかったらしく、今度は恐ろしくそれに熱中して、工場では足らずアパートに帰ってからも、弾丸の中に使用する小物部品の「返り取」という作業をつづけている。捻子のようなものをヤスリでこする仕事で、千個につき一円、一晩に六、七千個出来るという。これが二円六十銭の日給以外のもうけとなる。その仕事を見せて自分にもやれとすすめる。
見ていて――自分も恐ろしい貧乏だが、とうてい人間のやるべき仕事じゃないと考えた。それは国家、また軍から見れば、この仕事は必要であり、緊急であり、こういう仕事に従事する人々を産業戦士として特別待遇するのはむりからぬことであり、自分もそれを決して笑ったりはしない。本など読むより、或いは今の世に役立つことかも知れない。
しかし、自分にはやれない。
十三日
○昨夕会社で第三回ビール特配あり。前と同じく会社の北の蔭に長いテントを張り、会社のサービスたるスルメをサカナに、一人分ビールをジョッキで二杯分ずつ配給。ほろ酔いにて知人K氏の宅へつれられてゆく。
Kさんの家は湯島にあり、大きな家で、下は軍需工場の下請工場となっているが、上をKさんと、そして――驚いたことにS陸軍中将が愛妾とともに借りている。どうも変な一家である。
中将はもちろん予備役だが、いま何とか飛行機その他十数の会社の重役をつとめており、ここに住む愛妾は何とかホテルの女将だったという。Kさん夫妻とむろん親しい。
八時ごろになって、S中将は帰って来た。妾宅の方へ自分を呼ぶ。年は六十近くか、ふとっている。お妾にオーバーをとらせながら自分を見て、年は何ぼだ? 二十二か、ヒョロヒョロしとるが、ひっぱられて大丈夫かいな、といった。
それから、酒をのみながら、しゃべり出した。実に驚くべきおしゃべりで、まるで落語家のようだ。
歴史のこと、時勢のこと、その他あらゆる知識が、その大きな口から流れ出る。言うことに妖気がある。あけっぱなしの妖気である。
歴史的知識では、自分もそう負けるとは思わなかったが、日本を罵倒する言葉の猛烈さには、こちらが陸軍中将と意識して対しているだけに驚いた。「大東亜共栄圏なんて夢です。米国はシッカリしとる。アメリカは例の無限の物量だし、日本人よりはるかに頭がいい。日本人は頭がカチカチで、ウヌボレだけが強くて、自画自讃ばかりしていて、兵隊もアメリカの方がよっぽど勇敢だ。それに日本人の内輪喧嘩はもう癒しがたい民族的な痼疾となっている」云々。
もし天皇陛下への敬意と、日本人の死への悟りを強調しなかったら、これは偽中将かと思ったかも知れない。
自分は同年輩の連中にくらべると、最も冷静に日本と西洋を眺めている方のつもりなのだが、こう真っ向からやられると大いに腹をたてて、ただし言葉はかよわく抵抗を試みる。
お妾は傍で中将の諧謔を冷笑しながら、むずかしい話はおことわり、といった顔で手袋を編んでいる。中将は十一時半までしゃべった。
深夜帰る。月光と夜霧、白じろとひかり、お茶の水高台のおぼろな美しさ。書物の活字でも読めそうな光の中に、ニコライ堂の円塔が白くぬれていた。人影はまったく見えず。……何だかへんな一夜であった。
――きょうきくとS中将はKさんに「あの子はちょっと面白いやつだ。時々つれて来い」といったそうである。
十五日
○真に自分の心に強烈な動揺や刺激を与えた事件は、メモしておけるものではない。その内容が豊富広汎にすぎて、とても整理などできはしない。またそんなことは無意味だという感を深くする。
十六日
○自分を道徳的に恥ずる行為はしていないと頑固に信じこみ、人に公言する人間は尊敬に値しない。救いようがない。ただその「意志力」に感嘆するのみである。しかし、いわゆる成功するのはこういう連中であるようだ。もっとも彼らが精神上でも成功したといえるかどうかは怪しいものだが。
○現代発表される詩も小説も、すべてうそである。彼らはその心理心情を全然いつわっているか、もしくは浅薄なものを無理に誇張している。
そして彼らがいかに誇張しようと、現実の方が比較にならぬほど強烈で深刻で、彼らがその小智をしぼって時代にへつらっても到底追いつき難くて、見るもあわれなシドロモドロのていで、あえぎぬいているように見える。
二十四日
○十月十八日から、昭和十五年度以降の補充兵と本年度の現役兵の訓練はじまる。ラクではない。
苦は肉体的なものではなく精神的なものである。正直にいう。世にもバカバカしいことを、世にもバカバカしい人間によって、機械的に盲従させられるのに、人間として苦痛を禁じ得ないのは当然のことである。
苦痛にたえるのも一つの精進と観念して連日出勤する。夜は六時から八時まで、工場の食堂の学術訓育と称するものあり。
手なく足なき場合、兵はどうすべきかという問いに、一青年猛然と立って「食いつきますッ」という。
重傷を負って隊長から命じられた場合「銃と剣と防毒面だけを持って帰る」ということを復唱するとする。それを復唱させられた一人「はっ、銃剣術を持って帰りますッ」と答え、満座爆笑。
教官までが、「日本軍は骨を斬らして皮を斬る」という。
二十三日、査閲を以て終る。
二十七日
○食生活、最低に達せんとす。
一日二合三勺はいかにしても不可能とみえて、都民しきりに近郊に買い出しにゆく。ところが先ごろから近郊農村に見張員を立たせて通行人を取調べることになった。その上、駅で厳重な検査をやることになったので、買出しは不可能となった。
会社の食堂では、いままで昼食は芋飯にせよ出していたが、昨日から外食券がなければ食わせないようになったので、みんな蒼い顔をしている。町々の食堂も、本日休業の札をかけた日が多い。
何か食おうとしてミルクホール、喫茶店に入っても、何もない。水くさいコーヒーだけである。先日、某君は喫茶店でリンゴの皮を食わされたそうだ。きょうの新聞には、芋の茎を食えと書いてある。
餓死者が出たというが、あながち嘘とも思われない。
これも記録のために書くのである。
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十一月
三日
○きょう床屋できいた話。一人の老人がしゃべっていた。
先日千葉県の某村へ大トランクを持って米の買出しにいったところ、二股道、十字路のいたるところに警官が立って調べている光景が見えたので、イヤこれはダメだと空のトランクをそのままに帰途につくと、或る辻で警官が見せろといって、いくらカラだといっても承知しない。そこで、
「こう、田舎ッペは気が長いから、おてんとさまがどこに動こうと大したことはないでしょうがね、東京は生馬の眼をぬくところだ、一分一秒で千円万円の大損となるんだ。もしあたしが汽車に乗り遅れたら、あんた、責任をとってくれますかい」
といって、カラのトランクをドーンと投げつけてやった。――
「イヤ気持のいいの何のって。……」
と、老人は鼻をうごめかしてしゃべる。
再考するのに、この老人はやはり馬鹿である。警官も好んで立っているのではない。命令で立っているのである。李下の冠瓜田の履(くつ)、火薬庫の近くをマッチに火をつけてウロウロしながら、とがめられてタンカを切ってみたところでしかたがない。
○本日晴天、夜は弦月。
四日
○自分はどちらかというと女性軽蔑論者だが、それは自分が女の悪いところをすべて性質の中に持って、それを痛感しているからである。
九日
○大東亜会議の幕あがる。
汪精衛、張総理、ワンワイ殿下、ラウレル大統領、バーモ長官等、東条総理を囲んで大東亜総進軍を誓う。日比谷にて大東亜結集国民大会に臨んで、歓呼する国民に熱弁をふるう。雄渾壮美、アジア十億の旗碧空にひるがえり、世界史未曾有の大アジア復興の歌声きこゆ。
南太平洋には、真珠湾以来の大撃滅戦展開中と伝えらる。
ブーゲンビルめがけて襲来した米軍を、日本海軍及び航空隊は、米空母二隻、艦船六十余隻を撃沈破、米機二百数十機を撃退、その後なお狂乱的に進攻し来たる敵戦艦三隻、巡洋艦駆逐艦十数隻を撃沈したと大本営発表。
国民は歓喜の熱涙にひたる。
十日
○しかし、支那を救うものは汪精衛三分。蒋介石七分。あの執拗な抗戦は、少し眼識ある人間には、憎むことはできても決して軽蔑できないであろう。
十二日
○買出し奇談。これは吉田からきいた笑話。
○買出しにいって、警官の眼をくらますのに、軍人の服装をしてゆく者があるそうだ。
なるほど軍服を着て、ついでにツケヒゲでもつけて、両手に革鞄でもブラ下げていれば、警官は疑うどころか敬礼でもするかも知れない。いまの世相を最もシンラツに衝くものとして、この犯人は頗る頭脳優秀である。
○或る母親が背にカボチャのカゴを背負い、その上に赤ん坊をのせて、あかん坊のきものの裾でカボチャをかくして汽車にのったところが、汽車がゆれたはずみにあかん坊がおちて死んでしまったそうである。母親はもう一生カボチャを食べる気になれないと泣いているそうである。
○これは高須さんからきいた話。
高須さんはいまの世に珍しい立派な本革の靴をはいている。これは新宿あたりの大道靴屋にヤミのうまい奴がいて、どこからか本革を仕入れて、それで作ってくれるのだそうだ。
それで先日、下請会社の常盤のオヤジさんが百七十円出して、その本革の靴を作ってもらうべく高須さんに頼んだ。高須さんが引受けてその大道靴屋に前払いで支払ったところ、翌日から彼は大道に姿を現わさない。
持逃げではなかった。ヤミがばれてつかまったのでもなかった。彼は先日から、警官の試験を受けにいっていたそうであった!
十三日
○吉田ほか三人の外語生と新橋演舞場に前進座を観にゆく。「元禄忠臣蔵・大石最後の一日」「梵鐘」「春雪積巷談《はるのゆきつもるよばなし》」
観劇というと威勢がいいが、なに三等のはるか上空からチョンマゲばかり見ているのである。それでも税四割で二円四十銭。
一等は税九割で七円二十銭、二等は七割で四円二十銭である。
映画を見なれた眼には、テンポがにぶくてしかたがない。筋が不自然で、誇張した演技には、どうしてもひきずりこまれない。映画よりすぐれているのは、色彩があるので絢爛たる雰囲気が出せることと、その不自然さを押し通して性格描写内面告白を露骨に説明できることであろう。
内蔵助が上使に「上野介を討ちもらしていたら、今の忠臣義士の名は裏返しに阿呆ようろたえ者よと笑われていたであろう。それを思うと世評というものの恐ろしさに冷汗がわく」という意味のことをいうところがある。内蔵助が心中果してそこまで考えているほどの人間なら、この場合、それを尤もらしい顔で上使にしゃべることはなかろう。
また、われわれは罪人であるという気持を忘れて増上慢になるなと義士をいましめるところがあるが、これも屁理屈であるような気がする。
また堀内伝右衛門が義士に、一人一人、最後の言葉をきいて書きとるところがある。みなそれぞれむずかしい伝言を頼むのだが、伝右衛門はいともカンタンに何か筆で書いて、すぐ「お次は、そさまは」と動いてゆく。あんなに早く次へ次へと移って、果して書き留めていられるだろうかと思ったら、この場面が急に滑稽なものになった。
しかし、長十郎は熱演である。
「梵鐘」は質実。しかし自分は「春雪積巷談」のような絵のようなカブキ調を好む。絢爛たるダンスとして眼を愉しませてくれるからである。
芝居に理屈を持ち込む愚は承知している。しかし、これは芝居ではない太平記の場合だが、桜井垂訓の章でも小島法師の空想ではないかと思うと興味が薄れる。事実はどうでもよろしい、われわれはその一章に感奮すればいいと浅野晃氏はいう。自分はくびをかしげる。感奮できない人間はどうするのか。好んで皮肉に考えるのではない。そういう疑いは無意識に湧くものであり、いったん湧いた以上、興味が卒然と薄れるという事実はどうしようもないからである。
帰途、吉田は「君はユイブツ主義だ」と笑う。「歴史を魂を以て読め、君のは頭の遊戯だ」ともいう。歴史を読み得るのは詩人のみか。たしかに天心などはその例かも知れない。
十七日
○いつまでたっても堂々めぐりの心理。
会社の椅子に坐って、惨澹たる眼を空に投げていると、つくづく自分の現在の愚のまどろっこしさが身悶えを呼んで来て、何とか医者になりたいと思う。いままで医者の学校に入りそこねたのも、また現在一つもその勉強をしていないのも棚にあげて、ただ医者になりたいと思う。
貧しい人々を金銭を度外視して救ってやりたい。好ましい書斎を作って、書店から月に数十冊の本をとり寄せる。花を植えたい、小鳥を飼いたい。美しい夜、天体望遠鏡で星座を眺めたい。
そのうちに、滑稽なことに未来の「妻」の幻さえ浮かんで来て、可愛い男の子と青い芝生の上で遊んでいる自分の姿までが彷彿としてくる。
空想。少年じみた典型的な空想。が、それでも自分の眼はいつしか凝然とひかっているのを意識する。
たかが、医者の学校に入るくらいの勉強がなんだ。結構、馬鹿が入っているではないか。よし、やろう、今夜帰ったら、早速数学をやろう、そういつも決心するのである。――
が、帰って、つかれはてて、まず開くのは歴史や文学の本である。江戸時代の随筆などの考証的興味、或いはトルストイなどの文学的感動――そんな法悦にふと沈みこむと、数学など自分の頭とは全然正反対な、トリツクシマもないもののように思われて、そんなものは自分の一生にとって、それこそ迂遠な、空虚な、無意味な無駄事に思われてくる。――こんなに愉しい法悦にひたり切れるなら、これからちょっとでも離れるなんてゆめゆめできることではないと、いっそ安サラリーマンで一生を終ってもよろしいとさえ考えるのである。
前者の生活を現実的、常識的、後者を理想的空想的の願いといいたいが、しかしどちらが果して空想的なのか、現実的なのか、自分でワケがわからなくなり、そしてまた心が陰鬱な沈痛な濁りにかすんで来てしまう。
十八日
○夜、高須さんの家にゆき、酒をのむ。帰途夜更けのお茶の水の駅で、下駄を階段から踏みはずして転がりおち、途中でいったんとまったが、またフォームまで落ちてしまう。向うずねに怪我をする。
二十一日
○夜、吉田の学徒出陣を見送るために東京駅にゆく。
宮城前の広場には、篝火と歌と万歳の怒濤が渦巻き返っている。嵐にもまれるようにゆらめく提灯、吹きなびく幾十条の白い長旗、それに「A君万歳、L大学野球部」とか「祝出征B君、Y専門学校剣道部」などの文字が躍り狂っている。
右を見ると、長髪弊衣、黒紋付角帽の群が木刀をうちふり、朴歯の下駄を踏み鳴らして、「あゝ玉杯に花うけて」と高唱している。左を見ると、真っ裸に赤ふんどしをつけた若い群が、「弘安四年夏のころ」と乱舞している。
仰げば満天にこぼれ落ちんばかりの星屑、蒼茫の大銀河、広場をどよもす「赴難の青春」の歌声。――みんな泣いている。みんな笑っている。情熱に酔っぱらって、旗と灯影にゆれ返る無数の若い群像の上を、海の夕風のように渡ってゆく声なき悲哀、絶望の壮観。
「死んで来うい!」
「おれたちも、すぐゆくぞ!」
「フレー、フレー、フレー!」
胴あげされて宙に舞う影、ちぎられて火の輪のようにまわる赤襷、その中からやがて出陣の学生を神輿みたいにかついで、駅の方へ走り出す。みるみる前後左右を、数団のお神輿がうわーっとつむじ風のように駈けてゆく。
吉田にはついに逢えず。
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十二月
二日
○十一月十八日朝よりギルバート諸島に殺到したアメリカ艦隊は、二十一日朝マキン、タラワに上陸、守備隊と激戦中なること発表あり。
爾来数次にわたるギルバート沖航空戦によって、アメリカ軍は空母戦艦巡洋艦等十数隻を撃沈破されつつ上陸を強行、ついにけさの新聞によると、ほぼ占領されたらしい。大本営はさきに両島との無電連絡が絶えたことを発表しただけだが、アメリカ側の発表によると、いまや日本軍を掃討中とある。
名にしおうアメリカ海兵隊の大軍を迎えて、わが守備隊の死闘ぶりは敵の報道の中にもれきれきとうかがわれる。
曰く、日本軍の勇戦ぶりは、いかなるハリウッド映画の凄絶さも及ばない。
曰く、日本兵の無降伏の哲学は恐るべきものである。
曰く、某地点で追いつめられた日本軍将校は、衆寡敵せずとみるやいっせいにみごとなハラキリをとげた。
曰く、某地点では、頭に羽毛の軍帽をいただき、胸に勲章をつけた日本将校二名は、白刃をひっさげて斬り込んで来た。云々。
海軍はなぜこれを救援してやらないのか。よしいかなる事情あるにせよ、どうしてこのような日本軍を見殺しにしているのか。古賀司令長官はいずれにある。
みな、無念と焦燥に痛恨甚だし。
四日
○十二月四日夕刊に斉藤忠氏の論説のる。
支那事変は、大東亜戦争を準備するための天与の機であったと。
まさしく支那事変がなくて、昭和十年ごろまでのような世相がつづいていたら、物質的に軍事的に精神的に、このような凄惨な大戦に突入はできなかったろうと思う。
氏はまたいう。
支那事変は日本人が日本に帰るみそぎの時代であった。かくて日本は沈潜し、黙々として耐え、営々として内に蓄え、十二月八日に至ってついにあの驚天動地の大爆発をしたのであると。
その爆発力は昭和十七年四月ごろの、ニューギニア、ソロモンに至ってひとまず限界に達した。それから現在に至る沈痛な防戦時代に入ったのである。アメリカは宣伝する。日本は緒戦期の攻撃力をすでに喪失した。もはや戦争はアメリカ本来の力によって左右される。日本はもはや猛烈な力は発揮できないであろうと。
そうではない。ソロモン――ビスマルク群島――ギルバート――大鳥島――北千島にわたる太平洋の大長城の中で、大アジアの国々に建設は疾風のごとく進んでいる。進んでいるはずだ。愕然としたアメリカの識者がこのごろ「日本に時をかすな」と叫んでいるらしいが、時すでに遅し、日本は今や時を得た。
第二の爆発はちかい。アジアの無限の富を熱火のごとく開拓し、生産し、蓄積しつつある日本が再び大爆発する時は近い。そのときこそ、インド、オーストラリア、さらに米本土は炎々たる戦火に包まれるであろう。
東郷元帥はいう、「敵が七分、味方が三分と思われるとき、ちょうど五分五分なのである」
ナポレオンはいう。「負けたと思った方が負けるのだ」
五日
○去年の今ごろの世相を深刻に感じたが、ことしは更に深まっている。較べてみよう。
○去年はまだ紙のいい日記が探せば店頭にあった。ことしは紙の悪いはおろか、日記様のものすらまだ見えぬ。
○去年の会社の始業時間は朝八時、終業時間は夕四時半であったのに、今年は朝七時半、夕五時半である。
また去年の十二月の休日は、五日、十二日、十九日、二十六日、三十一日の五日間あったのに、ことしは十一日、二十五日の二日だけで、三十一日まで出勤だそうだ。
○去年は米にトーモロコシが入ってはいるものの、量的にはさほど不足と思わなかった。ことしはほとんど我慢が不可能と思われるほど、一食が小さな茶碗に一ぱいだけである。
○去年は暴食会をよくやった。スシも食べられたし、お汁粉風のものもあり、ケーキようのものもあった。ことしは暴食会をやろうにも何にも、その対象がない。まれにスシ屋がひらいていると、数百人の行列が並んでいる。口のなぐさみに食うのではなく、一食の足しに食うのである。ケーキなどは夢の夢で、よくいって芋をまるめたものである。天どん、お汁粉などはそのあとを絶っている。去年は会社でときどき菓子の特配があり、それも一人当り風呂敷に一杯もあったが、ことしは菓子などその沙汰もきかない。
○去年は忘年会云々の話が出たが、ことしはそんなことを口にする者もない。炭の配給が遅いと去年は不平をいったが、ことしはそんなぜいたくな不平は、口にする勇気もない。
六日
○街路樹が丸坊主になった。先月の二十日ごろ柏木の吉田の下宿を訪ねたころは、黄色い枯葉の樹々が碧空の下に浮いているのを、青葉よりも美しいと眺めたのに、もうカサカサと、白い生気のないアスファルトの上を、一枚二枚、枯葉が紙屑といっしょにころがってゆく。――また、辛い、冬が来る。……
二十七日
○志沢君のアパート青雲荘で朝を迎える。
朝刊にタバコの大幅値上げが発表される。だいぶ前、賀屋蔵相が間接税引上げを仄めかしたとき、その翌朝からいっせいに煙草屋の店頭から煙草が雲隠れして、それが相当長い間つづいたが、とうとうみな待ちクタビレて、そろそろ姿を現わしはじめた一刹那をつかんでみごとな値上げぶりである。
金鵄十五銭が二十三銭に、光三十銭が四十五銭に、鵬翼五十銭、桜四十五銭がともに七十銭に。――
光平時定価十銭がその四倍半の価格で売られる一事が現在の日本の経済状態の異常さを示している。自分は正月田舎へ帰る予定であったので、光、桜などを二十個ばかり買っておいたので、何だか嬉しいような悲しいような気持であった。
○昼過東京駅八重洲口に、二十九日の急行券を買いにゆく。
年末年始の旅行制限のため、人々は百メートル以上もの列を作って並んでいる。立ちつつ泡鳴の『耽溺』を読む。
二十八日
○巨人の時代は後世で考えるほど一般人にとってラクなものではない。ナポレオンの時代も秀吉の時代もそうであったろう。
今も――ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、チャーチル、ルーズベルト、東条、蒋介石もことごとく或る点に於ては近世稀有の巨人であろう。しかし後世の人々は、いまの時代をあまり讃美しないがよろしい。
二十九日
○一日じゅう銀座上野新宿を駈けずり回って、故郷の伯母への土産物を買う。昔なら菓子とか何とか苦労はなかったろうが、今ではホトホト途方にくれる。とにかく買い集めたものを書いておくと次の如くである。
玉露二筒(一箇三円三十銭)銘茶三箱(一箱一円六十銭)仙人香(線香である。四円八十銭)
その他、ワサビ粉、七味トーガラシ一缶ずつ、小犬のおもちゃ、ライオン歯磨、封筒、花瓶、絵本二冊、煙草、ガダルカナルで戦死した勇兄をしのぶよすがに「ソロモン戦記」、「東亜地図」一葉。
○夜、高須さんの家により、弁当、奈良漬の土産などもらい、夜二十一時大阪行の急行に乗る。
朝八時から東京駅にならび、切符を買うのに午後二時までかかったので、予定が狂って忙しくってヘトヘトになってしまった。車中バルザックの短篇を読む。
○車中同席の人、前は兵器学校を卒業したばかりの若い下士、横は体格のいい戦闘帽の青年、これはカブト町で株をやっているそうだ。兵隊としきりにノモンハンの話をしている。この株屋はノモンハンで戦った過去を持っている由。ノモンハンで停戦協定が結ばれたとき、兵士は泣いたが将校は悦んだこと、兵隊にいったら人間いいことは覚えないこと、軍隊ではまじめ一方より要領が大切なこと――などしゃべる。覇気満々としてしゃべる。
カブト町ももうどうしようもないから、いっそ徴用など受けるより進んで船員になろうと思っているという。「しかし、いまは船員もいのちがけですね」といったら、「いまの世にいのちなど――」と鼻で笑った。
夜中スチームなきため、寒くて眠られず。
○朝八時京都着。山陰線にのるや否や、雨の風景に変った。ドンヨリした冷たげな雲、茫々と暗くけぶった山陰特有の風物、例によって例のごとしか。遠い山々にはすでに雪が白かった。
午後二時江原駅着。
○河江の村まで坂三つ。一つ越えたら、日が暮れかかった、腹はへる。雨はふる。とうとうトランクとボストンバッグを途中の農家に託し、雪の坂を越える。伯母の家についたとき、もう外は暗かった。
○勇兄戦死の話を炉端できく。いま大阪の陸軍病院に入っている部下が、右腕手術中のため代筆を以て送って来た手紙を見せられる。
昨年九月某日、ガダルカナル、ルンガ岬の敵飛行場を襲撃した勇兄の中隊は、敵機と戦車群に包囲され、なお肉迫攻撃中、飛弾一発頭部をつらぬかれ、従卒と折り重なって戦死したとのこと。
仏壇には、在りし日の写真と、シンガポールに於ける牟田口部隊長、ガダルカナルに於ける那須部隊長の新聞切抜写真が飾ってあるだけで、墓の下には遺髪遺爪あるのみにて骨はないとのこと。
寿子姉は涙を浮かべて「ガダルカナルなどへゆかせるのは、軍でちゃんと調べて、死んでもよい兵隊を選べばいいのに」という。
伯母に靖国神社へゆきたいと思うか、戦争が終ったらガダルカナルへいって弔いたいとは思わないかと問えば、くびをふって「ガダルカナルという名をきいただけで身ぶるいがする。靖国神社さえもゆきたいとは思わない」という。
伯父は、勇兄戦死の報が伝えられた日からしばらく病気になったそうである。
それでも、連隊からの悔み状に対して、三人額をあつめて出した返事には「大君に捧げまつりしわが子は」云々と書いたそうである。
○白米を食べる。白すぎて、青味すらおびているように見える。きみが悪いほどである。しかし供出がきびしくて、農家もそれほど余裕はないらしい。しかし、あまりヨロコビすぎて、伯父や伯母が少しばかりモッタイをつけ始めたので、心中に悔いた。二十軒あまりのこの山奥の村に、京大阪から続々と遠い親戚が訪ねてくるらしい。近所の爺さんがそんな話をして、「みんな腹をへらしての」と笑う。自分は早く東京にひきあげるべきである。
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昭和十九年(満二十二歳)
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1月29日「中央公論」「改造」の編集者検挙、いわゆる「横浜事件」起る。
2月1日 クェゼリン、ルオットの日本軍全滅。
3月8日 インパール作戦始まる。
29日 中学生勤労動員大綱決定。
4月4日 雑炊食堂ひらく。
6月6日 連合軍ノルマンディ上陸。
15日 米軍サイパン上陸。
19日 マリアナ海戦。海軍航空隊ほぼ全滅。
7月7日 サイパン玉砕す。このころインパールの日本軍全面潰走に陥る。
18日 東条内閣倒る。
20日 ヒトラー暗殺未遂事件。
9月18日 満17歳以上兵役編入決定。
10月10日 米機動部隊、沖縄攻略戦開始。
12日 台湾沖航空戦。
20日 米軍、レイテ上陸。
24日 フィリピン海戦で海軍ほぼ消滅。
11月2日 新聞建頁一日二頁に削減。
3日 鹿島灘より風船爆弾飛行開始。
7日 ゾルゲ、尾崎秀実死刑執行。同日、スターリン、日本は侵略国なりと宣言。
24日 B29東京初空襲。
12月7日 東海大地震。
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一月
二日
○日が暮れて、夜があけて、ただ寝ることと食うこと。――
おまえは一体何になるつもり? と心配気に尋ねる伯母に、茫漠とうす暗い微笑をむけて、まあ寝ていて食える商売がいいなあ、と答えるのみ。
今さら何をいっても無益だ。おのれを知るものはこの空の下、ただおのれのみ。伯母には、実際馬鹿なのか、それほどでもないのか、見当のつかない――イヤモウ手のつけられない大怠け者として映るより外はなかろう。
わが人間界の運命は医者を指している。しかしわが天の運命は医者を指してはいない。
三日
○伯母からきいた話。
一昨年の冬|太田《ただ》の村が全村灰燼に帰したことがある。その失火の原因が変っている。村の或る農家で、亭主が死んで、若い妻とその義父が残った。二人で暮しているうち、爺さんが、若い嫁に手を出しかけて、つっぱねられた。嫁は実家に逃げ帰った。あとにとり残された爺さんが、やけっぱちでいろりばたで酒を飲んでいるうち、絶望のあまり自分の家に火をつけてしまったのが原因だという。
その冬も村は大変な雪だった。六尺から一丈くらいふるのである。ポンプを動かそうにも道はない。河は雪の底にある。その上、村の習慣として雪風をふせぐために、家々は板やむしろで四方に城壁を作ってしまうので、家財一つ持ち出すことができなかった。
焼けっぱなしの燃え放題で、全村ほとんど丸焼けになってしまった。
「それで、その爺さんはどうしました?」
「それが、まだ村にいるんだよ」
「へえ?」
「そりゃ、はじめはみんな怒ったけど、何といってももう年寄りだし、だんだん可哀想になって、今じゃ村の人が小屋を建ててやって、代る代る食物を運んでやっているんだよ」
○また伯母の話。
先日、近所の老婆が訪ねて来て、「おかみさん、誠に申しかねますが、一つ手紙を書いてくれませんでしょうか」という。どんな手紙かときいてみると、事情というのはこうである。
一年ほど前、村の役場から各部落全家庭へ、前線へ慰問文を送れと、郷土部隊の兵隊の名と部隊名が、割りあてられた。そのときにこの婆さんは出した手紙の裏に「秋野千江子」と書いた。ほんとの名である。この婆さんはおちえ婆さんなのである。
が、宛名の兵隊がヨロコンで、ばかに昂奮した感謝状を送って来た。またこちらで慰問品など送った。そのうちに写真を送ってくれといって来た。婆さんは弱って、家のふるい写真のうち、昔の遠縁の娘の写真を送ってやった。兵隊はいよいよ嬉しがって、凱旋したら結婚してくれといって来た。当惑しているうちにその兵隊は戦死した。
その母親が遺品を整理しているうち、肌身につけた秋野千江子さんの写真の裏にしたためた息子の恋の詩から、この「乙女」の存在を知り、泣く泣く是非葬式に来てくれといって来たので婆さんは仰天した。
ゆくにゆけない、断ることもできない、何とか手紙を書いてくれと、婆さんは泣きながら頼んだそうである。伯母がどんな手紙を書いてやったのか、それはいわなかった。
○小田垣与吉郎の話。
小田垣与吉郎は、伯母の家の前に住む百姓である。みなからヨキさんと呼ばれている。年は四十に近い。六尺近い大男で、眉が下がり、おちくぼんだ眼窩の奥に、小さなまるい眼がキョトキョトひかっている。馬占山みたいなひげが情けなく生えている。大男のくせに、大臆病者で、大なまけ者で、大無精者で、そのくせちょっと狡猾でもある。
恐ろしい貧乏だから、六つになる男の子もいつもほとんど丸裸である。家の中はムシロ敷きである。村中のつきあいもこの男だけは例外で、自分がいる間にも、ちょうど国債の割当てがあって、去年まではヨキさんは除外してもらっていたのだが、今度からはダメだということになった。伯父にその旨いい渡されてもヨキさんはもじもじしていたが、やがていった。
「旦那さん、そりゃ買ってやってもよござんすがね。けんど、一度買うと、クセになるからね」
自分が買うクセがつくというのではなく向うがツケ上るという意味である。
「おまえ、いっそアメリカ人になるんだな」
と、伯父が一喝した。この一言でさすがのヨキさんも、一番安い国債を一枚買った。
このヨキさんの妻君がおはなさんである。名ほどではないが、百姓の女房にしては骨細で、小柄で、上品――というほどではないが、わりに整った顔をしている。眼は大きくて、いかにも善良そうに澄んでいる。が、この女房、亭主と合わせて、どことなく抜けている。この正月にも、餅を切っているうち、六つになる勝という男の子が、うるさくマナイタに手を出すので、怒ってその指を一本切ってしまったという事件を出来した。
このヨキさんがこのおはなさんをもらうに至った話が頗るふるっている。
ヨキさんは若いころ、ちょっと小金が入ると必ず江原か豊岡の町へ出て、カフェーにいった。そらヨキさんの江原ゆきだ、と彼の自転車を指さして村人たちは笑ったという。今でさえも、ともすれば町へ出たがって、おはなさんなども来てから、まもなくこの亭主の濫行? にヒステリーになって、いちどなどは伯母のところへネコイラズをもらいに来たこともあるそうだ。「何にするんだい、はな」と伯母がきいたら、小さな声で「死にますんじゃが」と答えたという。
さてこのヨキさんがカフェーから女をつれて帰って来て女房にした。なるほど顔だけはちょっと小綺麗だが、もちろん野良へ出て土まみれになるようなしろものではない。果然そのうち有金残らずかきさらい、どこかの男と雲がくれしてしまった。ヨキさんがあっけにとられてとり残されたのはいうまでもない。
さておはなさんは、近所の或る農家へ嫁入りしていた。子まであった。ところがこの亭主なる男が、やぶにらみでびっこで、少々足りない男であったから、むろんおはなさんは少なからず不満であったにちがいない。この不満がいつのまにかヨキさんと結ばれる機縁を作ったのであろう。或る日おはなさんはちょっと用足しに出るといって、フロシキ包み一つをかかえたまま、亭主と子供を置きざりにしてヨキさんの家へ逃げて来た。
さあその亭主が騒ぎ出した。探しまわって、やっとおはなさんがヨキさんの家にいるということを知ってつれ戻しにこの村へ乗りこんで来た。
その注進を受けたヨキさんは仰天し、恐怖した。おはなさんは伯母の家に逃げこみ、ヨキさんは家に残り、死んだふりをした。
部屋の隅にふとんを敷いてヨキさんは横たわっていた。村中の人が集まっての騒ぎである。伯父の本家の若旦那が脈などをみて、「どうやら脈はあるようだけんど……」と呟いたが、ヨキさんは眼をつむっている。顔色蒼ざめ、息もせず、事情は知らないが、実際ヨキさんは死んでしまったものとみな思ったそうである。線香をあげて念仏を唱える者もあったそうである。
「はな、ヨキも死んだが、もとの亭主んとこへ帰るかいや?」と伯母がきいたが、おはなさんは首を横にふる。
「そういうわけだから」とみなが、つれ戻しに来た亭主に酒など飲ませ、手切金をやった。二円! そこで、そのやぶにらみでびっこの亭主は、二円と折詰をもらって、いいごきげんで帰っていった。
この騒ぎののち、ふとみなが気がつくと、死んだはずのヨキさんの姿が見えない。みな総立ちになって探したところ、ヨキさんはすぐ裏の小川で芋を洗っていたということであった。
五日
○四日ひる前河江出発、帰京の途につく。空晴れ、雪少なきもかえって道悪くして、伯父にトランクを運んでもらう。餅、ホシ柿などを土産にもらう。
五日、朝八時ごろ帰京。東京は美しく晴れている。こちらに帰った方が「帰った」という感が深い。
十日
○昨夜恐ろしい夢を見た。
何でも自分は広い運動場みたいなところに立っていた。薄暗かったような気もするし、秋の日の午後みたいにまだらな日が照っていたような気もする。何でも校庭の向うにはお寺の本堂みたいなものが建っていたし、空には胡麻をまいたように鳥が飛んでいたような気もする。
すると、空の向うから一機、飛行機が飛んで来た。昔の二重翼で、破れた翼の上にいっぱい人が乗っている。それは若い海軍予備学生たちで、彼らは翼の上からのんきそうに口笛を吹いたり歌をうたったり笑ったりしていた。翼に腰かけている者もあったし、ボロボロの穴だらけの胴部から両足をブラブラぶら下げている者もあった。
自分が見ていると、その妙な飛行機から突然スーッと黒いひとすじの糸をひいて何か落ちて来た。それはお寺の本堂にピシャンと衝突すると、卵をつぶしたように白く砕けて、白い汁がとびちった。しばらくすると、また落ちて来た。みるみる運動場にもおちる。それらはことごとく、卵をつぶしたようにピシャンとつぶれて、白い汁を飛散させる。そのうちに自分の周囲にも落ちてくる。自分はいったい何だろうと思って眼を凝らした。それは実に海軍予備学生たちなのであった。
よく見ていると、だれか飛び下りると、すぐそのあとを追いかけるように飛行機から白い布製の円い筒が下りて来て、その墜落しつつある身体をしゃくいとろうとする。が、いずれも間に合わず、彼らは卵のように地上で砕けつぶれてしまう。
「新発明のテストをやっているのだ」
と、だれか叫ぶ声がした。
その数はいよいよ繁くなって、しまいには自分の肩やひたいをかすめて落ちては、自分の足に白い汁が散りかかる。これはたまらぬと思っていると、二メートルばかり離れたところに二人抱き合うようにして落ちて来た。白い筒が下りて来て地上スレスレのところでそれをすくおうとしたが、一人はやはり砕けてしまったし、一人は下半身ピシャンとつぶれてしまった。が、彼はヨロヨロと立ち上ると、天を仰いで「天皇陛下万歳」とさけんだ。
自分は恐怖のために顔を覆って逃げ出そうとしたが、必死の勇気をふるって、その潰れた屍体のありさまを、嘔吐をこらえて見てやろうと思った。その潰れた屍体にはみな新聞紙がかけてあって、汁がにじんでいる。
自分がその新聞紙をとりのけてのぞきこむと、それはいつのまにか赤飯だの卵焼だのいうすばらしい御馳走に変っていた。
○夢はとりとめのないのが特徴である。が、自分はそれほどとりとめのない夢を見たことがない。奇想天外なものもあるが、それはそれなりにまた脈絡一貫した夢を見る。文字通り小説的な「夢物語」を夢みる。従って人にきかせても、かえって夢の話ではないような感じを与えそうな夢である。
十三日
○久瀬川君、出征前夜のため、荏原の久瀬川君の家へ送別会に呼ばれてゆく。来会者五人。御両親必死の御馳走で、酒もたっぷりあり、大いに酔って、よろめきつつ駅へ帰る。
○久瀬川君に送る長歌?
淡雪《あわゆき》の大和島根や 咲きみつる花吹きみだれ 風|起《た》ちぬ雲の果てより 国難来いま国難来 鐘の音《ね》に御旗揚りつ 起たんかな時こそ至れ 鎌を捨て書《ふみ》をも投げて眉若き久米の末裔 数こぞり太刀とり佩《は》きて ひた走りむらがり集い 軍船《いくさぶね》鳴りどよもして 征《ゆ》かんとす南ゆ北ゆ 勇ましやしかはあれども 海遠く水泡《みなわ》曳きすて 霞みゆく舳《へさき》に立てる 君見ればわれはかなしも 征く友を恋うるにあらず ひたすらにこのおんときに鞍ならべ箙《えびら》ひき負い 蒼蠅《さばえ》なし寄せくる敵《あだ》を 切りなびけ砕きはて得ぬ ひよわなる身をし思わば 頬あかみ涙たぎりつ 聞きねかしこの御戦《みいくさ》は 朽え濁りけがれたる地を ひさかたの空の極みに ひかります日の輪を中に 九星美《ここのぼしうま》く正しく とこしえにへめぐるごとく 新しきまことなる世を 創《う》みねとの神の命なる 君見ずや北の楽土に はためける五色の旗を 君聞きね中華の国に 砕けちる鉄鎖の音を あるはまた千重《ちえ》の八潮路 みんなみの島の果てより 溢れくるふいりっぴんや 泰びるま印度の歌を いけにえは彼らにあらず 血と涙のみつ流しつ たたかえる強き祖国ぞ 幸《さち》なれや若きわれらは この神の国の民なる 音とどろ音やとどろと 雲飛ばし濤《なみ》巻きかえし 敵こぞりいま寄せむとす 十億のわれらの同胞《とも》の 肉すすり骨かみくだき 罪ふかき朱血《あけち》にぬれし 髪はいまただれ逆立ち 百年《ももとせ》の不義の快楽《けらく》に 酔い痴れし碧きひとみは いま兇《あ》しき稲妻とばし 吼えたけぶ怒りの声は いかづちの砲《つつ》をも消して 雪崩《なだれ》なし襲い来りつ いざや寄せ眼にもの見せむ ほほえめば太刀鞘走り 百万のあめりか軍の血は まさに洋《うみ》を色染む されどまた北溟あっつ あるはまたまきんたらわに 刀折れ弾つきはてて いやはての一兵までも 大君の御名呼びまつり散りゆきしわがますらおの 魂魄をいかにまつらむ ききたまえこの血戦に 今宵いま征《い》でます君ようら若き君が剣に かかわるは祖国のみかは 亜細亜なる民のいのちぞ 音にきく葉隠れ武士は 名を惜しむことすら越えて 死狂い一語を守《も》りき 死狂えただ死狂え残れるわれも ひたすらに生きて狂わむ
返り歌
今日よりは顧みなくて大君の醜《しこ》の御盾と征で立つ君は
十四日
○夜六時半東京駅中央口に久瀬川君を送る。深沢君志沢君といっしょなり。
待ち合わせた場所にどうしても久瀬川君が来ない。いらだって、あきらめかけたが、それでもと思って八重洲口に廻り下関行のフォームへ走ってゆくと、いる、いる、臨時の防空壕になっているフォームの下の薄暗いトンネルに、戦闘帽に国民服赤だすきの連中が何百人か何千人かウヨウヨと押しこめられて、訓示を受けたり、名を呼ばれたり、煙草を吸ったりしている。見送り人も三十人ちかく、ここまで探しあててトンネルの入口にひしめいている。
「久瀬川くーん」
と大声で呼んでいると、やがて出て来た。何でも東京駅につくや否や、憲兵風の兵士に「赤だすきはすぐに何番フォームにゆく!」とどなられて、中央口へゆくひまもなくここへ押しこまれてしまったのだそうだ。
八時ごろまで話して、惜しい別れをつげる。九時の汽車で下るとか。久瀬川君は満州へつれてゆかれるのだそうだ。武運の長久を祈るや切である。
十八日
○きょう五反田茶房にゆくと、干柿とミルクコーヒーがあった。ミルクコーヒーといっても、薄い水のようなもので甘みなど全然ない。これで十五銭。干柿は一つ五十五銭。
三十日
○夜尿意をおぼえ、床より立とうとすると身体が異常なのを感じる。のどがひどく乾いている。アパートの廊下を歩いてゆくと、左腹部が鈍器に打たれたように息がつまり、途中一段高くなったところを上るのに、苦痛のため約三分間うずくまって息をとめていた。全身に湯のような汗が流れる。排尿中もいちど苦痛に中止してうずくまる。帰るときヤカンに水を一杯汲んで帰ったが、朝までに夢中でそれをのみほしていた。熱のせいであろう。
三十一日
○会社欠勤。外食に出たところ左腹部痛く歩行困難である。夜の外食も然り 熱は計らないが、うんとあるような気がする。
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二月
一日
○出勤。頭茫々。夕志沢さんに後頭部の頭痛を訴えたところ、流行性感冒の前兆じゃないかという。流行性感冒の流行りはじめたのは前日来の新聞の報ずるところ、すでに英米でも猛威をたくましくしているという。新聞にも「大戦と流感」という記事がのっている。明日から二日間の公休を申し込む。
五日
○二日、三日、四日、五日、恐ろしい頭痛。午後から夕刻にかけて特に甚だし。熱もあるようだ。依然左腹部(というより左胸部)ひきつり、歩行困難、食欲俄然減退。一日に一度ないし二度、無理に町の食堂に出るが七勺の飯も食べることができずもて余す。
六日
○出勤。やや気分よし。頭痛も去ったが、念を入れて会社の療養所からアスピリン一服をもらって帰る。夜気分よく、相当おそくまで読書す。寝る前アスピリンをのんで寝る。
夜半目ざむれば全身水につかったような盗汗で、ねまき密着し、からだゾクゾクと寒し。ねまきをかえた方がいいと思いつつも、手拭いでぬぐっただけでまた寝る。
七日
○高熱絶食。頭痛盗汗。
八日
○むりに出勤。むりに仕事をしたがどうも身体の調子が妙である。全身酒に酔っぱらったようにほてり、頭ややボケたような感じがする。
午後一時ごろ診療所にいって体温を計ったところ三十九度三分あり。こんなはずはないと再検温したが、やはり三十九度三分あり。寒い日で、窓外烈風の声凄し。「君の眼は高熱の眼だ。うるんでいる。今日の寒さでは裸にもできん。すぐ帰って寝て、明朝でも近所の医者にかかれ」と医者がいうので、それから約一時間、以上の始末と以後の仕事のことにつき、高須さんに書き残し、アパートに帰る。
部屋が汚ないのでよろめきつつ大掃除をする。先日願書送付を請うていた久留米医専から願書が到着していて、〆切二十日かつ一定人員をすぎると東京の受験は許さずとある文言に怯え、必死にその願書を製作、郵便局に走ったが、すでに定時をすぎていたので受付けられず。
夕食進まず、広小路ちかくの医院にいったが、医者は往診に出かけようとするところでこれもまた断わられる。
帰ってアパートの奥さんから体温計をかりて計ったところ、依然として三十九度三分あり。「何度ありまして?」ときくから「三十九度三分」と平然と答えたら「ホホホホ」と笑ったが、こちらのまじめな顔に、ふいに恐怖の叫びをあげた。
それからやっと床に入る。夜ふけてアパート管理人の奥さん、牛乳をコップに一杯もって来てくれる。頭痛盗汗。
九日
○朝、近所の伊藤医院にいったところ「左湿性肋膜炎」と診断される。
「二ヶ月の療養を要す」との診断書と三日分の薬とすべて、合計一円二十銭。
僕は前に、健康保険の証書を出すのがはずかしく、この二日、食欲不振なのを案じて同じく近所の神山病院にいったとき診断書と薬で五円とられたから、はじめて健康保険の威力を知る。
肋膜とは意外であった。罹ってみれば、東京の塵埃と日光の全然入らないアパートの三帖、下等な食事と馬のごとき労働、それに元来の虚弱な体質と、当然なことではあるが、それにしても専ら流感だとばかり思っていた自分には意外であった。「水が溜っていますよ」といわれてはじめてそれが事実であることを知ったが、恐怖の念はなかった。僕は病気に対して全然恐怖心を持たない男である。ただ学校の試験に重大支障が生じたことを思う。
医者、田舎があったら帰った方がいいという。
帰途病人用として診断書を見せてリンゴ百匁買う。アパートに帰って茫然としているところへ、純ちゃん来て、竹沢さんの弁当を持って来てくれる。感涙にたえず。夜頭痛盗汗。
十日
○炭の配給、今冬ついに一回もなし。
寒気に閉口、苦痛をこらえて品川区役所まで歩いてゆき、病人用として炭半俵の配給証をもらう。
炭屋にゆき半俵の炭を背負ってアパートに帰る。相当の道のりである。考えれば大変な病人である。
食欲が進まないが、みずから励まして外出、食堂へいったが、七勺の飯がどうしても食べられない。二杯食べても足りなかった二週間前の自分はどこへいったのか。
午後深沢君来り、パンを一塊くれる。ありがたし。夜頭痛盗汗。
十一日
○半日ウツラウツラと眠る。午後高須さんの奥さん来り、鍋ごとのおかゆ、副食物、リンゴなどをくれる。
午後米屋にゆき、外食券三十枚(十日分)引換で米二升三合もらう。麦まじりの真っ黒な米である。夜頭痛盗汗。
十二日
○昨夜高須夫人の持って来てくれた副食物の残りに米を煮て食う。夜深沢君来り、卵、カタクリ粉などをくれる。やや気分よく九時ごろまで話す。あとひどく疲労をおぼゆ。
十三日
○昨夜の夜ふかしタタリ、朝来苦し。午後正木君来る。正木君先日兄君を失う。香典として五円を出す。高須夫人来りまた食物を恵まる。夜頭痛盗汗。
十四日
○高須さん来、味噌、リンゴをくれる。夜主任来、タイデンブようの魚粉をくれる。
十五日
○高須さん再び来り卵をくれる。
十六日
○朝来気分よく、夜出かけて高須さんの家へ礼にゆく。
五反田は何のこともなかったのに、神田までいったとき、省線電車の窓に大きな雪片がちりかかってくるのを見て一驚。お茶の水駅から妻恋町一番地の高須さん宅まで雪に真っ白になって駈足、息切れ甚だし。湯豆腐を食べさしてもらう。気分はいいが、雪がやまないのでそのまま泊めてもらう。眠られず、石坂洋次郎の『何処へ』を読む。
十七日
○炬燵をこしらえてもらい、ひるまで眠る。『何処へ』を読み終る。ばかばかしい。
昨夜何がいちばん食いたいかときかれ、冗談にパイナップルと答えたら、高須夫人けさよりふらりと出かけたが、どこからかパイナップル一缶を携えて帰る。いまの時勢にこれを探し出した苦心と費用、尋ねるに忍びず。黙々として感謝のほかなし。
夕刻アパートに帰る。留守中正木君より卵五個とどけあり。夜気分よし。
十八日
○気分よし。終日読書。この発病以来会社を休み、苦しみつつも読書時間増大せるがうれし。夜、志沢君のくれたカタクリ粉をとかして飲む。医者のくれた薬はろくろく服まず。
十九日
○身体快調、殆ど病気以前と変りなし。食欲俄然進む。夕食を食べたほかに支那ソバ屋にいって、支那マンジューようのものを食べる。夜頭痛なし盗汗なし。
二十日
○朝、帝大病院にいって見てもらう。
九時までに初診は申し込めとのことで申し込んだが十時半まで待たされる。
予診室で簡単な診察の結果やはり左に水がたまっているといわれる。しかし水は採るまでもなく自然に吸収するかも知れないとのこと。
またしばらく待ち、ようやく内科第二号室に通される。大学生三人来り、背中を叩くもの、胸を叩くもの、横腹のあたりを叩くもの、それがどいつも大変な叩き方で、もしこれがひどい肺病ででもあったら大変だと思う。聴診器を左右前後より押しつけること約二時間、ほんとに風邪をひいてしまいそうである。親の死亡原因について、既往症について、それから舌を出したり、眼をむいたり、腹をなでたり、脈を見たり、「ひとーつ」と百三辺もいわせたり――結局ハッキリ分らんらしい。おたがいの言葉はドイツ語だが大体の見当はつく。「脈を見ようか?」とドイツ語でいうから、こっちは黙然として手を出し、「熱はいくらか?」とドイツ語でいうから「熱はありません」といってやる。ヘンな顔してこちらを見る。
あとで教授に見てもらう。やはり左がおかしいといわれる。もう一度レントゲンでみるから二十六日に来いといわれて木札をもらう。学生十数人集り、教授一々説明す。診断終り、シャツを着ていると、また三人ばかり追っかけて来て「ちょっと拝見」といい、それからまた大変である。一人左胸部に聴診器をあて、「聞える聞える猛烈に聞える」と大声で叫ぶ。ハシタない医者の卵ではある。
時計十二時半を示す。二時間も裸にされていたわけで、これだけおもちゃにされると三十銭の診察料も安くないと思う。
腹がへって、食堂の食事時間に遅れるのを恐れ、薬の出来るのも放り出して走り出す。明るい日である。途中、天ぷらに飯、さらに天丼を食べて帰る。夜気分爽快。
二十一日
○一縷の希望にすがり、代数の本など開いてみる。夕刻目黒へんまで散歩、牛肉飯、すしを食う。往復一里以上も歩いたであろうか。やや疲れる。
これがほんとに肋膜だったとすると、満足な手当も受けず薬ものまず、友人知人の親切で癒ったようなものだ。
二十二日
○ひる五反田で牛鍋を食う。一円十銭。このごろ食事だけに一日六、七円を使う。とてもやり切れない。あといったいどうなることか。
二十三日
○ひるアパートの野崎氏と食堂に寄り四十銭分食す。それよりコーヒー(十五銭)をのみ、広小路ロータリーの角の洋菓子店にゆき、パンとオムレツ、コーヒー(計九十銭)をとり、反対側の甲州屋にゆき、定食をたべコブ茶を飲む(一円四十銭)。
午後野崎氏の部屋にゆき日向ぼっこしていると竹沢さん来、鍋に一杯の五目飯をくれる。それから正木君が来る。夕刻町に出でコーヒーをのみ(十五銭)、支那そば屋にいってウマ煮を食い(七十五銭)、五反田劇場の酒屋にいって酒一合のみ、カレイとミソ汁で飯を食う(一円四十銭)。別れるにあたりまたコーヒーをのむ(十五銭)。
酒屋で外註の小野の爺さんに会う。子供が多いので米が足りず。毎夜爺さんはこのように町をウロついて外食しているという。ただし、いまは外食券がなくてはどこも食わしてはくれない。げんにここも飯を食おうと思えば外食券が要るのである。爺さんはむろん持っていない。よって、一枚やる。
本日食事代合計五円三十銭。いよいよやり切れず。その上、外食券の不足甚だし。
夜、よせばいいのに竹沢さんのくれた五目飯を食べはじめる。二、三合分もあったであろうか、ウマキこと甚だしく、全部たいらげる。夜眠られず三時半ごろまで読書、窓外雨声蕭々。
二十四日
○陰気なる日。雲暗澹として雨降りみ降らずみ。昨日正木君の持って来てくれた二月分の給料袋をあけると五十円十八銭也。
二十五日
○風邪気味で鼻汁が出てたまらん。しきりに鼻をかんでいたら、右の耳が痛くなった。肋膜で風邪で中耳炎なんかになったら面白い。
○いつか雪の夜高須さんの家に駈けていったことにつき、会社では、「ロクマクだというのに、何も雪の夜わざわざ駈けまわるとは、さすが山田は変ってる」と会社でみな大笑いした由。何も雪がふると知っていて駈けまわったわけではない。
二十六日
○帝大へレントゲンとりにゆく。
○きょうから当分支出をかいてみる。
お茶の水まで省線十銭。昼食代五十銭。レントゲン代二円。タバコ光四ヶ一円八十銭。単行本滝沢馬琴二円八十銭。神田より三越まで地下鉄五銭。お盆二円。屑入箱一円五十銭。夕食三十銭。五反田まで省線十銭。夕刊三紙六銭。コーヒー二杯三十銭。夕食五十銭。――計十二円一銭。
二十七日
○アパートの二階にやはり山田さんという人がいる。この山田さんが「病気になっては再起不能が出来なくなるから用心して下さいヨ」と慰めてくれた。この人は住宅営団のことを営宅住団という。
○二ヶ月の休みに、三度三度外食するのは時間的にも財政的にも苦しいので、外食券で十日分米を買い、適時自炊することにしたが、副食物がないのに苦労する。野菜、魚はむろん、砂糖も味噌も醤油も券がなければ手に入らない。
ライスカレーを作ろうと思ったが、肉や野菜のないことは承知のライスカレーでも、そのカレー粉もコショーもない。二月六日発表された物品税の税率改正で、また食料品の或るものは税務署から販売中止を命じられており、この中にカレー粉やコショーが入ってるとかでどうしようもない。
土鍋を二つ買って来たが、一ヶ一円七十銭。このフタを売ってない。いまの鍋は全部フタがないとかで、フタのこわれることはまあないのだから前の鍋のフタを使えという。
茶碗もない。あってもカケラの三分の二以上持って来なければ売ってくれない。
ショーユの素だの野菜の煮つめ汁だの、ヘンなものはたくさん売っているが、これも空ビンを持ってゆかなければ売ってくれない。
何しろ菜っぱにカレーをかけたもの一口ほどが、デパートの食堂で一円も一円二十銭もとり、そしてそれを食べるために五十人も百人もが、一時間も一時間半もならぶ時代である。
○土鍋二つ、三円四十銭。フタ(木製にて割れた古いもの)三十銭。昼食代四十五銭。新宿往復省線二十銭。伊勢丹で野菜のカレー煮とリンゴジュース(甘味全然なし)一円二十五銭。干人参百| 匁 《もんめ》一円五十銭。タバコ光五ヶ二円二十五銭(五反田に光全然なきため)。生海苔の佃煮一円五十銭。マンジュー二ヶ三十銭。――計十一円十五銭。
二十九日
○病人用としての半俵以外、今冬ついに炭の配給なし。
ほんとうはこの冬三俵配給になるはずが、はじめの二俵は町会事務所の手ぬかりでもらえず、一月分のは二月が終ろうとするのにまだ配給にならない。もらえればありがたいが、もうそろそろ暖か味のある陽気になった。少なくとも酷寒の期は過ぎ去ろうとしている。
しかし一月分の炭が二月の終りになっても配給にならないなんてばかなことだ。国民は配給制度に関して全然政府に信頼を置いていない。
はじめの二俵は町会の手ぬかりだが、さればとてどこへ不平を持っていっても相手にしてくれない。一般に「お上」が国民に対して損害を与えたときは、結局泣寝入ですませるほかはないようだ。これは古今東西の通則かも知れぬ。
炭がない、米がない。――この国民の前に、実は米屋の前には俵がつみ上げてあるし、炭はいたるところに一ト月も二タ月も野積みにされっぱなしである。きょう床屋できいたところによると、野積みの炭を一俵夜なかにさらっていって、あとに五円札と「無断借用仕候」と書いた紙きれをブラ下げていった人があるそうだ。米屋の前の俵にふしをぬいた竹槍をつっこんで、下の袋に受けて盗んでいった者もあるという。こんなことをする国民は憎むべきでない。それを売って儲けようという気はないにきまっているからである。一冬炭なし、一日二合三勺の米ではそんなことをやるのがむりもない話なのである。飢人の前に俵を置く、これ民をして何とかかんとか、孟子なら何とかいいそうだ。
政府も好き好んで国民を寒がらせ、ひもじがらせているのではなかろうから、べつに憎いとも思わないが、ただもう少しウマくやれそうなものだ。しかし厖大な政府機関に携わっている役人もやっぱり俗人ばかりなのだから、機械のごとく正確にゆくのを要求するのはまちがっているのか。
アッツ玉砕、ガダルカナルからの撤退、ニューギニアの後退、山本司令長官の戦死、タラワ、マキンの玉砕、クェゼリン、ルオットの玉砕、トラックの悲劇。何という暗澹たる一年であったろう。
光明は今や国民にとって夢幻のごときものになりつつある。作戦上の機密など分るべくもないから、いまは「必勝の信念」「皇軍に対する信頼」以外は、ただ「忍耐」よりほかに持つべきものがない。都民はいま一人一人平均一時間は何かの行列に並びはしないか? 家庭の主婦は二時間くらい配給の行列に時間をつぶされる。昼飯夕飯は、外食券のない者はない者で、ある者はある者で、いずれも延々と並び、料理店コーヒー店、映画館劇場、ビアホール酒場、どこへいっても凄い行列ばかりだ。
先日新宿のデパートにいったら、四階の食堂に、その入口から階段、三階を横断してまた階段、二階を横断してまた階段、はては一階の入口まではみ出していた。
これで三時間くらいかかる。それでやっとありつくのは、菜っ葉にカレーをかけたしろものなのである。この行列は消滅しない。空腹のせいである。しかし、この行列は解消させなければならない。増産増産と血を吐くような焦眉のときに、何たる時間と精力の浪費であるか。この行列を解消させるには、その機会を解消させなければならん。
僕思うのに、ビアホール、酒場、ミルクホールなど閉店させよ。なくても死にはしない。映画館寄席劇場も右同様、百貨店料理屋など高級下級の区別を問わず一切廃止せよ。そしてたとえ数粒の米でも、各人の配給量に加えよ。またいま必ずしも東京にいる必要のない老人病人子供たちは、悉く強制的に疎開させよ。軍需工場に関係のない六十歳以上の老人、中学三年以下小学三年までの少年少女の疎開こそ目下の急務である。(それ以下の子供は親のもとに置くほかはあるまい)
本日の支出。昼食四十五銭。二回目昼食三十銭。「だるま」にて三回目定食一円五十銭。夕食(飯、カボチャ、味噌汁、味噌)六十銭、二回目定食一円十銭。コーヒー十五銭。計四円十銭。
本音をあげると食物屋を整理してもらわないと、コチトラのような意志薄弱者は破産しなければならん。
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三月
一日
○午後東大へゆき、先日のレントゲンの結果をきく。「肺浸潤」と診断される。あえて動揺せず。
いったい人間の生涯の目的は――特別製の偉人天才はのぞき――まず幸福であろう。富も美も名誉も知識も道徳も芸術も、それぞれ独得の幸福の境に達せんがためである。それを得ようとしてみなもがく。その希望の九割九分までは惨として眼前に去る。得ては苦しむ、得たるものを手にとれば、まるで幻の花のようなものである。それが淡雪のようにたよりないことに、人おそらくは憂悶を禁じ得ないであろう。しかもこれを失うと、珠玉を失うかのごとく悶え悲しむ。
不幸は自分だけではない。すべての人が不幸である。事実自分が生まれてから見た幾百幾千の人で、ああ幸福な人だと羨んだ人がどこにいる。この人生にそれほどの未練があろうか。五十日の余命も五十年の余命もその間に何の径庭があろう。
これは強がりではない。死などちっとも恐ろしくはない。といって死後の世など絶対に信じはしない。ただ生死の間にそれほどの区別を自分は感じない。
死の門が見えた。いそげ。もう代数も三角形もクソクラエだ。いのちのあるうちに、やりたいことやってやろう。
本日の支出。昼食三十五銭。お茶の水ゆき十五銭。すし四十銭。洋食五十銭。光二ヶ九十銭。東大薬代三円五十銭。夕食四十五銭。ライスカレー四十銭。天丼八十銭。夕刊四銭。五反田まで省線十銭。計七円五十九銭。
二日
○本日の支出。昼食四十五銭。すし四十銭。おでん一円五十銭。レポート用箋三円。夕食五十銭。定食七十銭。生ブドー酒一円十銭。計七円六十五銭。
この五日間で計四十二円五十銭。
月給五十円の男が――テヘッ。
応召記
九日
○高須さんの家にゆき、奥さんと三人でシネマ・パレスにレ・ミゼラブルの続篇「コゼットの恋」を見にゆく。
春の夜靄の漂った湯島で二人と別れて五反田に帰り、寝についてまもなく、十一時半ごろであったろうか、突然アパートの入口を鳴りゆるがせて、
「双松さん! 双松さん! 電報ですよ! 山田さん、山田さんて方はいられますか!」
と、叫ぶ声がした。自分は一寸胸の動悸がしたが、すぐ直感的に、来たな! と思った。起きようと身を起しかけたとき、台所でまだゴトゴト音をたてていた斉藤さんの奥さんが受取って、持って来てくれた。「シヨウシユウキタアスムカイユクタカシ」とある。
二階にやはり山田金市という職工さんがいて、このひとのところにときどき電報がくる。「山田さん、電報ですよ!」などと叫ばれると、いままで自分は全身が震えたものだが――尤もこれは召集の恐怖のためではない――ふしぎなことに今度に限って震えなかった。ただどういうわけか可笑しくなって、電報を見つめたまま、しばらくクツクツ笑っていた。
まもなく、その山田さんが外から帰って来て、廊下を通りすがりに電灯のついている自分の部屋の戸をあけてのぞきこんだ。酔っぱらって、明日卵丼をくわせるから自分の部屋に来いという。デタラメだが好意にみちたデタラメである。自分は持てあまして、召集の電報を見せた。見せるとウルサイナと思いつつ、さすがに自分一人では押え切れない昂奮があった。
果して山田さんはびっくり仰天した。たちまち町会にいって来ようだの、隣組で壮行会をやらねばならんだの、酒は二升もらえるだの、アパート中ガンガン鳴りひびくような声で騒ぎ出す。自分は持て余し、後悔した。こんな身体で、肋膜で、九分九厘までは帰されるにちがいないから、あまり大ゲサに騒ぎたててもらいたくないと静かに断った。
十日
○九日夜、孝叔父が国を出たとすると、きょうの昼ごろ着くはずだと思って、東京駅に待つべく省線にのる。
さて考えてみるのに、いつ入隊なのか日が分らない。十五日過ぎかも知れないし、二十日ごろかも知れない。「アスムカイユク」というのは、自分を徹底的に信用していない叔父のことだから、ひょっとしたら赤紙くらい平気でおっぽり出しかねない奴だ、という途方もない心配のせいかも知れない。
とにかく一日二日は叔父が在京するものときめて、さて懐中の財産三円五十銭では情けないので、途中田町に下りて、一ト月ぶりに会社にゆき、竹沢さんから二十円借りる。
召集が来たというとみんな驚くが、すぐにニヤニヤと笑う。自分も笑う。もっともこれは自分がいまロクマクをやっているというせいもある。そうでなかったら、とられるか、とられないかは、現在の状勢から見て五分五分だから、みなもニヤニヤ笑い出すことはなかったろう。
それから田町にやって来たが、もうひるちかく、果していつ叔父が来るか、来たとしても東京駅に下車するか品川に下車するか不安なのでまたアパートに引返す。するとまた電報が来た。「シヨウシユウキタキヨウムカイユクタカシ」とある。
郵便局にいってその文の末尾にあるセ九・四九・オの意味をきくと、オは特別の符号だが、セ九・四九は午前九時四十九分という意味だそうだ。発信は福知山駅だから、五反田駅で汽車発着時間表を貸してもらって調べると、どうしても今夜八時以後東京に着くことになる。しかしこの電報はだれかに打ってもらって、叔父はもう汽車に乗っているということもあり得るので、五時ごろアパートを出て東京駅にゆく。
改札口のあるホールで待っていると、寒気身に迫る。電灯の数少なく、薄暗い。チョボクレ調ばかりの小説が書けないかな、など考えていて、召集に対する不安は全然ない。そうかといって絶対に帰されるという自信があってタカをくくっていたわけでもない。
急行がくるたびに改札口に走り寄る。待ち合わせる一群の人々は、汽車のつくたびにそれぞれ目当ての人をつかまえて去ってゆく。八時――八時半――九時。そのうちに雪になったとみえ、外から入ってくる人々の帽子もオーバーも真っ白だ。風がびゅうーと吹きこんで来て、全身は冷たくなってしまった。それでもこの闇と雪の中で、叔父が五反田の自分のアパートをさがすことを思うと、帰るにも帰れない。十時まで待って、ようやく東京駅を去る。
五反田のアパートに帰ってみると、自分の部屋の窓に灯がともっている。さては、と思いつつ玄関で靴をぬいでいると、自分の部屋の戸をあけて叔父が飛び出して来た。「ああ!」といってお辞儀すると、ウム、ウム、と恐ろしくふきげんな顔である。立派な態度で相対そうという決心も心構えもケシ飛んでしまった。
それから挨拶をして、お茶をわかしたり火を起したりする。三帖の汚ない座敷にはちょっと参る。
召集は十二日朝九時、姫路に集まるのだそうだ。白紙で、教育召集である。時間的に故郷に帰る余裕はないのだから、姫路で待ち合わせようと思ったが、万一まちがいでもあると一大事なので迎えに来たといった。やっぱり品川駅で下りたのだそうで、そのむね浜松駅から打ったのだが、その電報は叔父がこのアパートについてからやっと到着した由、叔父はプンプン怒りながら、その電報をポケットからひきずり出して見せた。
何にしても郷里に帰って、挨拶することをまぬがれたのはありがたい。帰されるかも知れないのだからあまり大きな口はきけないし、それかといってあまり意気悄然たる挨拶もできないし、実際閉口していたのである。
「この冬、河江に帰ったそうだが、なぜうちに帰らなかった?」といった。「帰るとドヤサレそうだから」というと、「そういう心がけだから!」と大変怒った。
受験のことを話す。とにかく久留米医専の願書はとったが、ロクマクにかかった上、しかも天なるか命なるか、その試験日がこの十二日なのだ、というと、もうほかにはないのか、ときく。東京医専の〆切が十五日だが、あそこはとうてい自信がない、というと、若し軍隊がだめだったらともかく一応受けるだけは受けて見ろ、といった。
叔父は、河江の伯母の愛は小愛だという。女の盲目の愛だという。そうかも知れぬ、しかし、真の愛はつねに盲目の愛ではあるまいか。少なくとも自分の飢えていたのはそんな愛であった。奮発心を起させるために万金の金を見せつつ与えない人よりも、ただ涙をそそいでくれる人の愛であった。
自分はとても軍人や政治家やいわゆる立志伝中の人の性向ではない。自分の心に起ったのは奮発心ではなく、絶望と疑惑と虚無と孤独であった。しかし自分は必ずしも奮発する人よりも自分がえらくないとは思わない。えらいにもえらくないにも、自分はそういう人間なのである。
身体を診てくれる。大したことはないと思うが、まあ九分九厘まで軍隊にとられることはあるまい。しかしそれは何ともいうことができない、といった。
一時近く寝る。旅館もないので、丁度廊下の向うの赤坂さんが疎開で引っ越したあとの六帖に、自分のふとん一つに寝る。おまえはそちら向きに寝ろ、僕はこちら向きに寝るというのでたがいちがいに寝る。顔見合わせて寝るのはこっちも御免こうむりたいが、そのくせ向うからそういわれると、神経質で自尊心の強い自分にはひびく。
十一日
○朝早くから起きて火をおこしたり、湯を沸かしたりする。そのうち叔父も起きて急行の時間を調べて来てくれというので、五反田駅まで雪のうすくつもった街路を駈ける。やはり息が切れる。
九時半の下関行急行がきょう一番に姫路へゆける汽車なので、東京駅にゆき、召集令状を見せてやっと切符を買う。
車中、戦争の話をする。戦争というより叔父が読んだ『御盾』という小説の話である。自分は読んだことはないが、叔父は大変感心のていであった。また何かのはずみに親子の愛の話をする。「親の愛というものは、はたから見ていると腹立たしいものだ」と叔父いう。ああ、親のない自分と、子のない叔父が、親子の愛について話す! どっちも暗中模索だ。二人とも分らないのだ。愛し合うべき叔父と甥が、冷然と他人の親子の愛をあやしみ、嘲笑する。何たる喜劇ぞやである。
食堂車で昼飯を食べ、夕飯を食べる。八十銭の定食、東京よりはマシである。叔父は酒をとったが水っぽいといって飲むのをやめた。こんどは哲学の話をする。ショーペンハウエルの厭世哲学やアインシュタインの相対性原理や――ショーペンハウエルやアインシュタインがきいたら吹き出すような哲学談。
夜十時過姫路につく。街路に灯は一つもなく、月はあるのに小雨がふっている。
宿屋に二軒寄ったが、やはり召集兵満員で、やむなく警察へいって召集令状を見せ、三木屋というのに電話してもらう。ガランとした薄暗い夜の警察に夜勤している二人の巡査の黒服は妙に陰惨だった。
三木屋も実は満員で、大広間にはもう蒲団の列が並んでいた。自分はその端に、これまた蒲団が一組しかないので、昨夜と同じ寝方で寝る。
叔父は薬瓶をとり出して、ひとりでのんだ。「のまんか」というので二杯ほど水筒のふたでのむ。酒であった。それから長い説教がはじまった。とにかくおまえのものの考え方は根本的にまちがっているという。
「今の状態では、おまえは首でも吊るよりほかにないぞ」
最後に、薄暗い大広間で、叔父はトドメを刺すようにいった。
十二日
○宿屋で召集兵一同といっしょに朝食を食べる。みな、その飯のほかに持参の弁当を食べる。こちらには何もない。こんな哀れな召集兵は他にあるまい。
やがて中部第五十二部隊の所在地にゆく。
長い道路は、ゆきちがう青い国民服の、二つの潮に波打っている。反対側へゆくのは第四十六部隊へゆく人々だそうだ。練兵場のかなた、樹々の間に白鷺城は美しく朝の太陽にかがやいていた。それは今にも羽ばたこうとする白鷺のようだった。草の葉はひかりつつざわめき、地は白く、山脈のひだひだの残雪は爽やかだった。町の出口の橋のたもとに一群の兵が立ち、つきそいの人々を追い返していた。
叔父と別れて、自分は一人で広い大道を歩いていった。叔父には十時ごろまで姫路駅に待ってもらって、それ以後は勝手に帰ってもらうことにした。
道を大股に歩きながら、自分はすがすがしい気持がした。軍隊に入った方がいいと思った。
五十部隊の立札があった。五十一部隊の立札のところには、もう雲霞のような召集の青年の群が、腰を下ろしたり、煙草を吸ったり、笑ったりしていた。
ここで自分は中学時代の下級生で寄宿舎にいたという千葉という青年に逢った。しかし自分は彼を知らなかった。小学校時代の友人の宮本という男に逢った。しかし自分は彼も知らなかった。自分にとって過去は一つの巨大なる幻である。それは幼年時代だけ春の日のように無性な光輝の眩惑にきらめき、あとは暗い、薄ら寒い宵闇の色にぬりつぶされ、煙り霞んだ一つの漠然たる湖である。
九時になって、練兵場に集合する。
千人くらいもいたであろうか、ムチャクチャに集合した中で、軍医が台上に立って、最近播州方面の工場にいた者や、家族中に伝染病が出た者を呼び出して、赤インクをつけたコヨリをわたした。播州方面にはいま腸チフスや赤痢がはやっているそうで、それはすでにこの部隊にも侵入しているそうで、なるほどそこらに立っている兵隊はみんな口に白いマスクをかけていた。
次に最近結核とか肋膜にかかった者は手をあげて前に出ろという。自分はためらった。ためらったのは、卑怯に見られることを怖れたのである。他人に見られるより自分に恥じたのである。しかし百人近く出たであろうか。「嘘をついては部隊の迷惑になる」と軍医がいう。自分は手をあげて、前に出た。そして白いコヨリをもらった。
それから一々名を呼んで、中隊分隊に分ける。まず右の一人の兵隊が、何々郡何々と呼ぶと、駈けていって右の青江隊という立札のところへゆく。次に左の兵隊が、やはり同じ文句で呼ぶと、左の「藤枝隊」の立札のところへ走ってゆく。二人の兵隊の声は交錯し、高らかな「はいっ」という返答は波のようにひびく。空は薄白く曇って来、風は冷たくなり、自分はだんだん異様な緊縛感に包まれて来た。
終り近くなって、自分は右の兵隊に呼ばれた。青江隊であった。走ってゆくとまた二人の兵隊がいて、名をいうと、よし第五分隊! といった。やがて全部呼び終った。
自分の分隊が三十五人ほどいたから、そして第五分隊が終りだから、青江中隊で百七十五人、藤枝中隊も同様、合わせて三百五十人ほどで、そう計算してみると案外少ないが、実際に妙にたくさんに――千人ほどにも見えた。
練兵場では十騎あまりの騎馬兵が水たまりにしぶきをあげつつ駈けめぐっていた。そのうちに一頭の馬がたてがみを躍らせて走って来た。鞍もふりおとし、狂いまわって練兵場の門から走り出し、前の道路をいっさんに駈けていった。兵が二、三人追っていった。
「あれが中隊長殿、青江・彦殿である!」
と曹長の徽章をつけたマスクの兵隊が叫ぶ。ふりむくと若い中尉で胸にキラリとひかる銀色のマークをつけて、何かそばの兵隊が報告するのに肯いていた。みなの注視を意識して、その頬は赤く染まり、どこかういういしい、しかし凜々しい長身の貴族的な容貌であった。
やがて引率されて営門をくぐり、広場を横断し、真正面の営舎に達する。天井の高い大きな厩《うまや》みたいな建物で、土間にはムシロがしきつめられ、つぎはぎだらけの毛布が折りたたまれて並んでいる。戸は全正面にわたって観音開きになり、その中央に「青江隊兵舎」と書いた標札が打ちつけてあった。隣の同じ様式の兵舎の前には藤枝隊の連中がぞろぞろ入っていた。今は全兵舎満員で、即日帰郷者以外は今日からここが自分の御殿となるわけである。
各毛布の前にめいめいの持物を置き、また引率されて出る。小さな坂をのぼり、右へ曲って、連隊事務室や軍医室などのある建物の横に集合、裸になって、走ってその入口の一つに入る。日蔭で、風は吹きめぐり、その中を雪どけの水溜りを蹴たてつつ、猿股一つのはだしで走るのは辛かった。
廊下をウロウロして、兵隊にどなりつけられつつ、やっと或る部屋に入り、すぐに身長体重胸囲をはかる。徴兵検査のときより、体重は四キロへって四十四キロ、胸囲も三センチへり、身長までが六十三センチから六十一センチになっていたのには驚いた。
内診で白いコヨリを見せる。この一月下旬風邪をひき、二月中旬肋膜となり、三月上旬東大で肺浸潤といわれたと報告したら、すぐに書類に「右肺浸潤」と書き、上に※[#○に「帰」]と書いた。
自分は「左湿性肋膜炎」であった! 何かいおうとしたら「黙れ、次っ」とどなりつけられた。
――しかしどちらにせよ、それは大したちがいではない。自分は兵隊にはなれぬ肉体の所有者であり、要するに即日帰郷者になったのだ。
検査が終って、もとの位置に集合。みなが終るまで、ガヤガヤと佇んで兵隊の話をきく。
つき当りにそびえているのが青江隊の本舎で、その周囲に縄が張りめぐらせてあるのは、この連隊の伝染病が青江部隊から発生したものだからだそうだ。砲をひっぱって駈け廻るのは恐ろしく苦しくて、一食二合の飯なんかすぐにどこかへケシ飛んでしまうだの、はじめはこんなに辛いものかと予想以上に驚くが、馴れてしまえば何でもないだの、砲弾の一部の部品を失って中隊全部が夜中の十二時まで演習地をさがし廻っただの、演習演習で洗濯のひまなどなく、夜中にそっとぬけ出して洗濯をするのだが、見つかると恐ろしい罰を受けるから、まったく泣くに泣かれない、だの話した。
それからもとの兵舎に帰って、昼食をとる。アルミニュームの食器に盛りあげられた二合の凄い飯。同じくアルミニュームの食器に入れられた煮豆。それだけだ。どちらもアルミの匂いが異様に鼻をつき、どんなものでも食うに馴れた自分もこの二合の飯には参った。しまいには、飯がのどもとまでコミあげて来そうだった。しかし曹長がギロギロ睨みまわしているし、だれも平げているし、とうとうお湯をながして食い終った。豆は少し残した。
さて、その食事のはじまりのときである。各入口の前に置かれた机の上で分配したのだが、そこに飯の食器が二個、お菜の器が三個余って、当番の兵隊は曹長に雷のようにどなりつけられた。
「上田っ、飯が一つ足らんではないかっ」
「――はっ? たしか、キチンと配りましたが……」
「配った? だってここに飯は二個しかないではないか! こら、貴さま、どうしたのだ、返事しろっ」
あとで調べてみたら飯が足りないのではなく、お菜が一つ余ったので、持ってくる前のまかない所でまちがったのだそうであったが、叱られている兵隊は黙ったまま、眼に涙をいっぱいためていた。そしてその小柄な兵隊は、曹長がいってしまってから、机の上にこぼれた飯のかたまりを、顔をうつむけてゴソゴソ口に入れていた。どやされても、涙ぐんでも、二合の飯ではなお足りないのであろう。それがすむと、二列縦隊で食器を洗いにゆく。
兵が四、五人、並んで手袋だのナンキン袋(靴下)だの洗っていた。まだ二十歳にもならぬかと思われる少年兵と四十くらいの老兵とが、同じような口のききかたをして話している。食器を洗ったが、油でぬるぬるしていた。
それがもう一時半ごろであったろうか。さてそれから四時半までが実につらい時間だった。すなわち即帰者(即日帰郷者)は前に出ろといわれ、出た者がちょうど二十人、兵舎の前にボンヤリ立たされたまま、四時半まで帰郷の旅費を渡す手つづきがかかるそうだから待てといわれたのである。
曹長が来て、おまえどこが悪いのだ、お前は? と次々にきいた。中に一人、そういわれてもポカンと顔を見つめている男があった。こら、返事をせんか、と曹長はいらだった声をはりあげた。それでも彼は、ポカンと顔をむけ、それから横をむいてムニャムニャと何か口を動かしている。
「おまえ、自分で勝手に帰郷をきめたのか? おいこら、きさま」
すると向うの兵隊が、自分の頭をたたいてさけんだ。
「おーい、関口、そいつはダメだダメだ。ここが悪いんだ」
その男はいつのまにか、ぺたんと地べたに腰を下ろしたまま、うつろな眼つきで、真昼の日光のみちた練兵場を見ていた。その横顔には改めて一種のいやらしさが感じられた。しかし自分は彼といっしょに練兵場を見ていた。
背後の兵舎の方では、さっき自分に「この中に帰郷者もいるんですが、可哀そうだなあ」と話しかけた「半日の戦友」をも含めた合格者? たちが、今や入営当時の注意を一将校からきかされていた。その声をききたくなかったからである。しかし、将校の声はよく聞えた。
「便所にゆくにも一々断わらんけりゃいかん。何々二等兵は便所にいって参りますっ。何々二等兵は便所から帰りましたっと。わかったか? わかったな?」
練兵場では、一台の砲を五、六人の兵が操作していた。うしろに将校が二人立ち、その前に下士が一人立って、下士が何か叫ぶと、兵隊たちは電気にかけられたようにはね上り、飛びつき、駈け廻り、砲撃の動作を練習しているのである。それはいつまでもいつまでも、同じことが繰返された。
すると上の方から、肥ったえらそうな将校が騎馬でゆるやかに下りて来た。
「けえれーえっ」
と絶叫して、通りかかった二人の兵がその方に向って敬礼をした。
砲のところでは一人の将校が走り寄って、抜剣敬礼し、何かいうと、その馬上の人はゆるやかに肯いて、その一団の将兵が火の玉みたいになって今の練習をくり返すのを見ていた。
「あれが連隊長○○大佐どのだ。きをつけーえっ、けえれーえっ」
と、演説していた将校が突然絶叫した。みんな将棋の駒みたいに立って、そのときにはもうはるかかなたに馬を歩ませてゆく連隊長の後姿に敬礼した。自分たちもした。敬礼しないのは、地面に坐って薄笑いしている白痴の男だけであった。
ようやく四時半、連隊事務所にいって、帰郷の金をもらう。自分は九円六十銭もらった。乞食より恥ずかしいことに思った。だれか一人「これは国防献金にして下さい。お願いします」と叫んだが、係りの兵は微笑しただけだった。
夕日の色になった練兵場をななめに通って門の外に出る。送って出て来た兵が「おまえたちは残念ながら身体が悪いので即日帰郷となった。しかしまたすぐ召集がゆくだろう。それまでにしっかりと身体をなおして御奉公できるようにしておけ、ではこれで」といった。自分たちは敬礼して別れた。路には夕日がしずかにのびていた。自分たちはトボトボと歩いた。からだも心も疲れていた。
姫路城の下に来た。美しかった。さびしい美しさであった。樹々の半面も赤くひかっていた。その下に、いつのまに先に来たのか、先刻の白痴がまたぺたんと腰を下ろして、茫然と道ゆく人々を見あげていた。
○腹がすいて駅にちかい支那料理店で何かえたいの知れないものを食い、駅にいったが、もう今夜の汽車は満員だというので、明朝の急行券を買い、町に戻って昨夜断わられた岩城旅館に泊めてもらう。三帖の部屋のうす暗い灯の下で、さまざまの思いに眠られず、煙草をふかしふかし、夜をすごす。
十三日
○朝日にかがやかしい姫路の町を離れる。急行は三十分遅れていた。
御著駅がその次にあったので一寸驚いた。すると、三木城はどこにあるのだろう?
地図を全然見ないで史書を読んでいる自分には、自分勝手の位置に城や戦場を置いていることがある。小牧長久手の戦場を意外のところに発見して驚いたのは最近のことである。
京都をすぎて食堂車に入り、二人前食う。大津でまた弁当を買って食う。軍隊ではアルミの飯を一人だけもてあましたほどの小食の自分にも、なお三食分食えるほどの分量なのである。
西下するとき一面の吹雪に暮れて、しかも西の空の雲の一方を妖しい赤さでかがやかし、白い田園のところどころに群がり立つ肥料の堆が、何となく燃えるモスコーを攻撃するナポレオン軍を空想させた伊吹、美濃あたりの風景は、きょうはもの憂い春日に眠っていた。
夜十時ごろ東京品川につく。帰って寝たら、久しぶりに寝汗をかいた。やっぱり活動がすぎたのであろう。
…………………………
十四日
○東京医専に願書提出、早速体格検査を受ける。薄ら寒い曇り日。
長い間待たされて、まず口頭試問を受ける。「運動の特技は?」というから「スキーと水泳だ」と答えた。「水泳、では相当泳げるでしょう」「ええ大したことはありませんが、故郷が海辺ですから」といった。大したことはない、たった三百メートルだ。
「崇拝する人物は?」と問われたのにはちょっと参る。そんな人はありはしない。とりあえず「徳富蘇峰」と答えた。「どこが?」といったのに「さあ、その人物はよく知りませんが、近世日本国民史という偉大な仕事に敬服しているのです」と答えた。軍人みたいな感じの教授で、書類に「近世日本国民史、徳富――」とまで書いて、蘇峰という字を知らないらしかったので教えてやった。向うは平気な顔をしている。
それから、体格検査である。二階の衝立のそばに立っていると、前で一人の小男とデップリ肥った大男が話している。「口頭試問にいつまでかかっとるんだ?」と小男がせっかちに怒っている。はじけ豆のような口調で、みすぼらしい貧弱な風態にはじめ小使いかと思ったが、その先生らしい肥満漢と対等の口調で話してるところをみると、やっぱり教授の一人らしい。肥満漢は隣室に去る。
小男は「君、入って」といいながら、そばのドアをあけて先に立つ。眼の検査らしい。壁に検眼の図表が貼ってある。「君、そこの机にのっている杓子を眼にあてて」というから、「眼鏡をかけたままですか、はずしてですか?」ときくと、「君そこの杓子を眼にあてて」と同じことをいう。聞えないのかと思ってまた尋ねたが、やっぱり杓子を固執する。やむなく眼鏡をかけたまま杓子をとる。「右ですか左ですか?」ときいたら、また「その杓子云々」といった。そして突然大声で、「おれは眼だけではない! 耳の検査もしておるんだ。こう見えても見るところはチャーンと見ておるんだから!」といばった。何だか腑におちないところもあるが、愛すべき善人といった印象の人であった。
次の大きな部屋には、もう十人近く裸になって待っていた。試験官は先刻の肥満漢一人である。人を裸にしたまま「ちょっと待って」とどこかへいってしまったが、十分以上もたってから帰って来て、平然として、一人一人台上に上らせ、手をふらせ、足をまげさせ、うしろむきにさせて、「よろしい、体格検査終り、もう帰ってよろし」といった。おそろしく簡単な体格検査だ。いくら自分でも、眼は見えるし、手足くらいは動く。しかしあしたまたレントゲンをとりに来いといい渡されたので少なからずショゲる。
帰途、或るコーヒー店に入った。前はカーテンを下ろして、本日売切の札をぶら下げて、客は裏口から出入している。ヘンな団子を七つほど皿にのせて一円である。店の主人はキョトキョトして、入っているお客を見ている。
自分が団子を食っていると、警官が入って来た! 入口近いテーブルに坐ったまま、ニヤニヤ笑って見ている。自分は劇的な場面を想像した。
すると亭主は、うしろで団子を盛っている細君や娘とコソコソ話していたが、たちまち大皿に団子を山ほど盛りあげて、警官のところへ持っていった。そして、二十銭で結構です、などいっている。
すると、警官は怒った――と思いのほか、彼は依然ニヤニヤと笑いながら、亭主に何か耳打ちし、二人でいっしょに店の調理場の方へ入っていった。しばらくすると、警官が大きな新聞包みをかかえて裏口から出てゆく姿が見えた。
人々はこれを見ていた。笑う者もない。怒る者もない。これはきわめてありふれた光景で、食堂なんかつねに警官が出入して、裏の方でゴソゴソ飯を食わせてもらっているのは珍らしい風景ではない。
彼らが捕える泥棒の中で、これほど恥ずかしい姿をさらしている者があるか。配給量以外に、警官がそうしてセシめる食糧の量は知れたものだ。そのために食堂の横流し、闇取引、それを検挙できぬ弱点が生じたとしても、それもまあ眼をつぶってやっていいかも知れぬ。しかし彼らは「政府」の具体像なのである。そんな風に裏口を這いまわる彼らをじっと見つめている民衆の眼を、暗黙の哀しみをたたえた眼を、彼らはいかに感じているのであろうか。――とはいえ、彼らもまた哀れむべきかな。
夜、代数は参考書は半分しかやっていないし、幾何は全然手をつけていないし、英語もろくに眼を通したことはないし、国漢はこの二、三年本を開いたこともない始末だから、何をやろうかなと腕組みしているうち、眠くなって寝てしまう。
十五日
○昼、東医にゆきレントゲンをとる。茫々として一日暮す。
十八日
○夜中の一時ごろまでかかって、やっと代数の参考書を一回すます。しまいの肝心の級数対数は走り読みである。外は吹雪。
十九日
○朝、幾何をパラパラめくり、あきらめ、英語の単語集をパラパラめくり、苦笑する。
昨夜の物凄い吹雪で道の白い雪の絨毯にはまだ人の足跡もない。五反田の大通りへ出るまでの道――左の電気研究所の長い黒塀と、右の池田山の高い石垣は、両方とも真っ白に吹きつけられた雪に反射し合っている。昨夜の吹き狂った風の性質をよく判断させる。
お茶の水駅下車、明治大学へ、ここで一五〇〇番以下の受験番号の者が受験する。自分の番号は二七〇一番であったが、最後の人は二九八〇何番かであった。二十人に一人の割合いである。
八時四十分。ベルの音とともに各教室に入り、九時より代数英語。
監督の教授は写真を持って来ていない。のんきなものだ。いったいにこの学校はのんきなところがある。そして、
「写真をまだ提出していない者は、この試験が終ったらすぐ第何号教室へいって、指紋をとって来い!」
と、いった。
「その指紋と、入学後の指紋と照合して、ちがっていたら承知しない」
といったので、みなどっと笑った。いかにも医学校の試験らしい。
午後幾何国漢。
四時四十分に終る。すんだ。明るい暖かい日。碧い空に金色の太陽がかがやいている。
二十四日
○この数日、試験がすんだので、早速好きな本を読みはじめる。
『野の鳥の生態』『日本科学史夜話』などいう本を読むかと思うと、ドストイエフスキの『貧しき人々』はては京伝の『昔語稲妻草紙』『本朝酔菩提』『双蝶記』などメチャクチャである。
まるで牢獄から青空の下へ両手をひろげて飛び出したような、渇ききった者が冷水を満喫するような気持である。
二十五日
○金なし。アパートの野崎氏におととい二十円借りたが二日で費い果す。やむなく本郷の高須さんに借りにゆく。空晴れたるも北風はげし。さすがに一脈の春気はあるが、底冷えする寒風である。
○途中大橋図書館に寄り、ダーウィンの『ビーグル号航海記』を借り出したが、途中で放棄する。これはもう少し生物学、地理学、鉱物学を知ってから読んだ方がいい。日夏博士の『鴎外文学』を借りる。鴎外は野末の落日を背に、冷然、厳然、寂然と立つ巨像の如し。へだたること万里にして膝を屈する思いがある。野心も自惚もヘナヘナと霧消してしまいそうである。
高須さんの奥さんに三十円借りる。
二十九日
○午後、東京医専の試験発表を見にゆく。二七〇一番合格。
○夜、高須さんの家に報告にゆき、帰れば合格通知書来りあり。
「通知。――昭和十九年度本校入学試験ノ結果入学許可ニ決定ス。右及御通知候也」
尚納入すべきもの。入学金十円。授業料百二十五円。実習費三十円。報国団入会費十円。報国団費六円。計一八一円。四月四日まで。
三十日
○人間、一つの難関を越えるとかえって重っ苦しい気持になるものらしい。そうしてなまじ幸福になると、次の不幸を予想して、どんな不幸にももう耐えられそうにないと思う。そのくせ人間というものは、いざとなればどんな恐ろしい不幸にも耐えるのだが。――耐えるよりほかはないから。
○午前会社にゆく。白い冷たい巨大な工場。それは自分にいつも戦慄にちかい重っ苦しい憂鬱を与える。
主任とともに部長のところにゆき、退社を請う。まあよろしいでしょう、勤労課長のところへいって話してごらんなさいという。勤労課長のところへゆくと、ニベもなくダメだと拒絶された。学生でさえ工場に狩り出す時代に逆に学校へ戻る奴があるかといった。茫然たり。
A課長のところへいって話すと、果して怒ったが、「勝手にしろというほかはない。しかし君の尻を追うようなことはせんから安心して」という、これは黙許の雰囲気である。
しかしこんなことで入学しても不安だから、一通嘆願書(おお何たるイヤな言葉ぞ)を出すことにする。
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四月
三日
○家より金来らず、入学金納入すべき日を明日にひかえて大いに苦しむ。
四日
○孝叔父より痛烈無比の手紙来る。中に、
「先般御身ニ召集ノ来タ際小生ガ上京シタコトニ就テ、御身ハ解釈ヲ誤マッテハイナイカ。電報一本打テバワザワザ上京シナクテ済ムモノヲ東京マデ迎エニイッタコトハ、御身ノ従来ノ行状ガ電報ダケデハ到底安心出来ナカッタコトニ外ナラナイ。大義親ヲ滅ストイウカ、コノ国家最大ノ非常時ニ際シテノ召集トイウモノノ如何ニ大切ナモノデアルカ、万一コレニ誤リヲ生ゼンカ国民トシテコレホド大ナル不忠ナシト考エ、ワザワザ上京シテイッタワケデアル。……」
云々。以下自分の不遜不軌の行状を責め、陳謝を要求するの言辞つらねあり。これに対する返答の文は一句も念頭に浮かばない。
七日
○四日以来、わが生涯最大の難事にあたって、なんたることか、ひねもす江戸時代の小説など読みふけっている。曰く『熊谷女編笠』、曰く『傾城色三味線』、曰く『梅若一代記』、曰く『諸道聴耳世間猿』、曰く『赤烏子都気質』、曰く『西山物語』、曰く『近江縣物語』etc。
八日
○雨。けぶるような春雨。金ついに来らず。入学金も納めず、暗澹たる心で入学式へ。
十時から入学式講堂にてあり。式後大詔奉戴式、そのあとで陸海軍の委託生がこもごも起って委託生になれと勧誘、運動部の勧誘などその声もない。
制服は国民服でも中学時代の制服でもいい、徽章も金属製のものなく刺繍製のものだがそれも今月末にならないと出来ないという。書物としては当分ドイツ語の教科書だけでいい、要するにいまや医学校は軍医学校のつもりでいよと訓示される。とにかく入学金も納めていないので意気上らず。
九日
○登校。授業間にも金の来ない苦悶。頭髪も白く変るやと思われるばかり。
十日
○ついに学校はあきらめる。登校せず。死にたくなり、また坊主になりたくなる。一方でコッケイ感も禁じ得ない。
十一日
○夜、高須氏の家へいって相談。高須氏、入学金を自分が出してやろうかという。そうまで他人にしてもらって学校へゆく要なしと答える。泊る。
孝叔父の怒りは自然なり。しかし自分の心情行状の今日に至れるもまた自然なり。不自然もまた人間心理の自然なり。
十二日
○高須氏より、ともかく故郷に帰って謝って来いといわれる。朝の日光の美しさに、その気持になる。「話せば何とかなるものだ」と高須氏はいってくれるが、しかし自分にその確信はない。
午後、五反田の駐在所に百キロ以上の旅行証明書をもらい、五反田駅でまた証明してもらい、やっと東京駅八重洲口で急行券を買う。
この期に及んで、夜有島武郎の『或る女』など読む。この作家が明治屈指の文学者であることを感銘する。
十三日
○十時夜行にて西下。雨。
車中眠らず、里見※「弓+享」]と鏡花を読む。里見※「弓+享」]はウマい。しかしこれが文学だろうかという気がする。しかし鏡花よりは文学である。鏡花は指が六本ある美女のような気がする。
十四日
○朝八時京都着。山陰線にのる。直接関宮に帰る勇気なく、河江に寄る。伯母、孝叔父の怒りにおびえ力にならず、勇をふるって明日一人で帰らんと思う。
十五日
○ひるごろ河江を出る。途中法華寺坂で便意をおぼえ、二時半の汽車に遅れ、次の六時過ぎの汽車に乗ったので、八鹿についたのは夕刻、もうバスがない。やむなく駅前の旅館に泊る。夜具きたなくしてしかも、夕食なしという。
十六日
バスにてすっと帰る勇気なく、朝七時、四里の道を歩いて帰る。一歩ごとに考えをまとめようとしたが、何の考えも出ない。
○十二時家につく。叔父、照れたように笑う。しかし応答ギゴチなし。
夜大説教。大説教のあとにて、ともかく学資は出してやるという。ただしこれは借金として自分に負わせるという。そのタンポとして診療所の名儀を書きかえるという。
十八日
○和睦成り、十二時家を出る。
八鹿駅で英霊の行列に逢う。その写真と名で、それが小学校時代の級友であったことを知って驚いた。いつか書いた小説『白い船』に似た現実がここに生じた。
車中靖国神社へゆく遺族多し。五時五十五分京都駅着。流れるような雨。急行券は前日売切れてしまうそうで、やむなく六時五十二分普通列車で東上。車中『心理学総論』を読む。
八鹿から東京まで、汽車賃十三円。
十九日
○朝六時半品川着。東京も雨。重い荷物をかついでアパートに帰るのにズブぬれになる。
夜、高須氏宅へゆき、土産のボタ餅、炭、小豆などを献上する。借りていた七十円を返す。十一時過帰宅。
二十日
○空美しく晴れる。颯爽として登校。
昼休み、教室にて校歌の猛練習あり。やはり各部の勧誘演説あり。文芸部なんていうのもある。医専の文芸部に入るのには、自分は自尊心? が強すぎる。
○黒沢明の映画「一番美しく」を見る。九十七銭。
二十一日
○午後四時より、昭和二年卒の升岡海軍軍医中佐の講演あり。すばらしいひげの軍医である。マレー沖海戦に参加した航空隊の軍医長であったそうだ。
○昼休み、二人の学生が、入学試験のときの口頭試問について無邪気な顔で話していた。
「お前、崇拝人物、何てった?」
「おれは西郷隆盛」
「おれの前の奴もそういってたよ。その前の奴も――いや、楠木正成だったかな。おれはもうタネギレで、しかたがないから桂小五郎といってやった」
「いっそ近藤勇といえばよかったね」
「いまは勤皇の時代だもん」
二十二日
○心理学研究会に入る。夕食、雑炊食堂に二回ならび、甲州屋食堂に一回ならんだらヘトヘトになって、食ったものが消えてしまってキリがない。また大橋食堂に入る。
二十三日
○凄いような快晴。ところが十時ごろより一天にわかにかき曇り、しのつくような大雨、閃光ひらめき春雷鳴る。
昼は、食事のほかに五反田の雑炊食堂にならぶ。午後本郷の高須家にゆき、正木君に借りていた二百円返してくれるように依頼。鞄一個七円五十銭、靴のヘチマ一足分五十銭を求む。夕食はこれまたふつうの食堂のほかに昌平橋の雑炊食堂にならぶ。
列は昌平橋を渡り、右に折れて望楼の下を通り、省線のガードのところまで、四百メートルもならんでいる。
列中、労働者の私語、酒は一升闇で五十円。夕食も満腹するまで食うと五円かかると。
雑炊は一食分二十五銭か三十銭。
二十四日
○陽春らしい晴天、省線沿線の桜も美しい葉桜。外食券ついに尽き、夜は郷里からもらって来たイリ豆を煮て飢えをしのぐ。
二十七日
○ここ数日、外食券なく、雑炊ばかり食って生きている。
朝は雑炊食堂がないので絶食のほかはない。それで午前の授業がすむと、すぐに校門を駈け出して、新宿の雑炊食堂の数百人の行列のあとにくっつく。帰ってくると午後の授業に間に合うのが精一杯だ。
ところが昼休みに二年の指導で校歌の練習がある。それに出ないといって、きょう六つ殴られた。これは中学で鍛えられてるのでこわくも何も感じないが、頬がほてり、頭がぼうっとして、授業もボンヤリ暮してしまった。夕方には、殴られた頬より歯が痛む、やっぱり面白からず。
学校前の小池という酒屋に貸間の札が下げてあったので部屋を見せてもらう。二階八帖、床の間つきで日当たりよし。一ト月十六円、他に電気代一円。主人はすこぶる威勢のいい江戸ッ子風の男である。明日か明後日引っ越す約束をする。
○昨夜、珍客あり。中部第三十七部隊(京都)にいた吉田が上京したのである。航空隊の試験を受けるためだが、体重が足らずダメだったという。そう痩せてもいないが、航空隊はそんなに重い必要があるのか知らん。しかし検査用紙の体重を自分でひそかに訂正したので、イヤというほど殴られたという。
吉田は、去年学生生活にアイソをつかして、救われるように軍隊に入っていったのだが、もう軍隊にアイソをつかして航空隊に入りたがっている。男の世界があんなにキタナイものだったとは思いがけなかったと歎く。軍隊では一人の真の友人も出来っこないという。みな要領のいい、人の鼻毛をぬくことばかり考えている軽薄きわまる奴ばかりだという。しかしたとえ、航空隊に入ったところで彼は幻滅するだろう。
軍隊生活というものが新聞で書かれるほど、崇高なものでないことは自分も承知している。
二十八日
○一日じゅう霧のような不快な雨。昼食ぬき。それで校歌練習、帽子をふりふり十二回。
下校後、雨の中を神田の帽子店へ帽子を買いにゆく。明日でなければ出来ないとのこと。
二十九日
○凄いような蒼空。
○天長節の式のあと、運送店を探して歩く。どこも一週間くらいかかるという。人手が足りなくて、一週間前に頼まれた荷物もそのままにしてあるという。きょう運んでくれなどといったらオドされるよ、という。オッカナビックリで、やっと一軒の運送店できょう午後運んでもらう約束をとりつける。
昼、雑炊食堂に並ぶ。裏長屋のおかみさんや人夫たちの、延々たる路地の間の大行列。そして巷の政談。軍人政治はもうイヤだ。大衆に一つも同情がない、東条さんも一日二合三勺で一週間くらいやってみるがいいという。もう戦争よりも食う方が心配で、一日に三時間も毎日行列しなければならない。ぜいたくはいわないが、せめて家で食うだけで何とかがまんができるくらいにして欲しいという。
昼すぎまた大驟雨。運送店へゆくと、この雨で予定が狂ってきょうはだめだとおやじいばっていう。
夜、神田へゆくと、もう帽子は売切れたという。明日まで待ってくれといったではないかと抗議すると、ないものはしかたがない、とけんもほろろである。遠いところから来たんだから何とか一つ頼みたいというと、だれもそうだとうそぶく。文句をいうならよその帽子屋へいってくれとそっくり返る。よその帽子屋といっても、帽子屋など殆ど廃業してほかにないではないか。
癪にさわる胸をなで下ろし、ではきっと明日くるからと約束して、夜の神田を歩く。帽子一つ買うのにこの騒ぎである。
靖国神社へいってみると、篝火に桜満開。凄じいまでの参詣者のむれ。青銅の大鳥居は姿を消して木の小さな鳥居に変っている。
英霊への敬意もさることながら、高位高官のむきから贈られた饅頭、菓子、紅白の餅、ビール、正宗などの御供物の山にも敬意を表せざるを得ぬ。あさましい心情である。
三十日
○朝、またきのうの運送屋へ頼みにゆく。昼ごろゆくという。
その昼ごろ、凄じい豪雨一過、五反田の町の軒下で雨宿りしていると、闇黒々たる品川あたりの上空に真っ白な稲妻が龍のようにキラめくのを見た。雨には霰さえまじる。来月の外食券をもらったので、昼飯三杯も食う。これでふつうの腹だ。甲券七勺とはいうものの、規定通りに食堂は盛ってくれないから、三杯やっと一人前なのである。雨なのでまた運送屋がゴネはしないかと案じたが、やっと午後に荷物を運び出してもらう。
こちらは先に出かける。途中、五反田の角田フルーツパーラーで冷凍リンゴを食っていたら、窓の下をワイワイ人が走ってゆく。のぞいてみると、子供や大人の好奇にみちた瞳々々の追跡をおし分けて、一人の警官が口ひげもりっぱな中年の紳士の手をひっぱってゆく。きいてみると、果物屋の店先で夏蜜柑を一つかっぱらおうとしたのだそうだ。果物は一切病人か妊産婦の配給で一般人の手には入らないからである。しかし、何たる時勢であるか!
夕、また神田へ。帽子また売切れたと。こうなると悲惨なんだか滑稽なんだかわからない。漱石の猫の西日のかんかんあたった障子を思い出す。
駿河台下から北へ、省線につき当り右に折れて長い坂をお茶の水へ。橋を渡り、帝大病院の門前へ出て、帽子をさがしつつさまよい歩く。夜は迫る。何処が何処だかわからないままに歩いていると不忍の池らしいところへ出た。足はヘトヘトになったが、静かで美しい場所だ。池の向うの料亭らしい家の窓が夕映に火のように輝いていた。やっと店を閉めたばかりの帽子屋を見つけ、哀願して、ついに一個の角帽にありつく。上等のやつはあさってにならなければ出来ないというのを、下等のやつでいいからと、七円三十銭のものを買う。
帰れば足は棒のごとし。新しい下宿に戻り、荷物の整理をして死んだように眠る。
○帰京以来、二十日から月末まで約十日間の費用。
借金返済二百七十五円。下宿代十七円。医書ノートなど学用品五十円七十銭。帰京用旅費十三円六十銭。運送費往来電車賃四円十銭。食事代十七円八十五銭。タバコ五円。その他雑費七十五銭。
計三百八十四円。
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五月
一日
○新しい下宿に美しい朝の太陽。こんな爽やかな朝は数年来のことである。
早朝飛びおき、掃除をして体操をしたら、腹がペコペコになって、朝食は二軒廻る。夜は銭湯にゆき、食堂を三軒廻る。ハシゴ酒という言葉はきいたが、ハシゴ飯とはきいたことがない。
きょう一日でもう外食券九枚(三日分)を食いつくした。
二日
○白い校舎にコバルトの空。眼のさめるような樹々の鮮緑。午後教練。不動の姿勢、歩行、捧げ銃、担え銃、立て銃など。
五日
○午後はじめて人体解剖を見る。
地下の解剖室、西向きの薄明るい窓際の台上の屍体に、白帽にゴム手袋をはめた人が、のしかかるようにして何かやっている。どうやら解剖のあと始末をしているらしいが、そこに近づく勇気が出ない。堂本が来たので、やっと一緒にのぞきにゆく。
汚ない黄色味を帯びた金ダライに、魚の臓腑みたいなものがゴチャゴチャに盛られ、肉や血がウジャウジャとくっついた骨を傍に置いて、その人は一心に何かを探している。屍体には紙がかけてあり、蒼黒い、痩せた人間の足の裏が見えた。紙の向うに痩せてとがった肩が紫色に見える。その向うに顔があるのにちがいないが、のぞきにゆくことができない。勇気をふるって枕もとの方に廻ってみると、若い男の顔がガックリと垂れ下がっていた。額が下になっているので、顔の上半分は紫色に近い赤色を呈し、二つの眼が白っぽくドロンとにごって、むき出されている。下半分は蒼白で、出ッ歯が紫色の唇からギッとくいしばって、むき出されている。同じように白帽、手袋の人がやって来た。二人で、何が見えない、とか、あるにきまってる、さがしてみろ、だの話している。正直にいって、自分は医者になったことを後悔した。しかし、やらねばならぬことだ。
午後、蛙の腓腸筋が電気刺戟で収縮を起すのを観察する実習。解剖にくらべれば子供だましの感がある。
○午後五時。連合艦隊司令長官古賀大将が、さる三月殉職したむね大本営発表。去年の山本司令長官のときほどみな激動せず。
しかし殉職という文字はふしぎである。戦地で死ぬなら、たいていのことは戦死といっていいはずだ。思うに先にギルバートの玉砕あり、マーシャルの失陥あり、しかもトラックの大失態あり、戦局いよいよ苦難の相を加う。古賀大将は切腹したのではないか。
殉職の文字はこう解釈するよりほかはない。
○夜月明。『正法眼蔵随聞記』を読む。
七日
○政府のやりかたがまずいために国民が苦しむと国民が考えている間はまだ希望が失われてはいない。手腕如何にかかわらず、政府にそれは不可能であると考えるようになったら恐るべきことである。現在の食糧問題に関してはこの傾向に移りつつある。日本は敗北するのではないか。
後楽園にて野天夏場所はじまる。
八日
○講堂にて大詔奉戴式。緒方校長より左のごとき訓示。
「今や国家は危急存亡の時にして、諸君を一日も早く医者として捧げるべく、吾々は国家から諸君をさずかっていると考えている。それにも拘らず今年三月、少なからぬ落第生を見た。調べてみると殆ど出席不足のためである。これはまさに不忠者の名に値する。ゆえに今後私は、私情の忍び難きを忍んで、出席良好ならざる者は、落第を待たず退校処分とするであろう」
○午後また解剖を見学する。死因肺|壊疽《えそ》。まさに言語に絶する悪臭。
九日
○最近頭すこしも働かず。知識に対する吸引力の自覚がない。頭の鉢をむりにこじあけて砂をザラザラ流しこんでいるような気がする。
○九日にして外食券すでに二十日分を食いつくす。いかにすべきや。友人連は殆ど故郷から米を密送してもらっているとのこと。
口腹のことは理智的に考えれば、飢餓なにものぞ、勉強こそすべての妄念を駆逐する清浄道だと思うけれど、毎日毎日の現実の空腹には抵抗しがたく、月に十日分も不足するともう澄ましてはいられない。『正法眼蔵』を読んでも自分には何の効果もない。
十三日
○日記は投げやりに書いているので、あったこと、考えたことの十分の一も書いてはいない。それなのに読み返してみると、それが一日のすべてであったような感じがする。書かないことは忘れているからである。しかしこの忘却は現在の自分に至る重大な潜在的礎石の塁層であったものである。後年この日記が今の自分のすべてであったと錯覚しないように書いておく。
十五日
○現在東京都でやっている雑炊食堂は三百三十五軒。合計一日分六十万食だそうだ。
だから一日分一軒について千八百人分売っていることになる。昼と夕だけだから、九百人の行列が、東京の三百三十五ヶ所に昼夜並ぶことになる。一食三十銭だから、一日雑炊だけで十八万円の金が費される。
行列に要する時間は、このごろ自分の経験によると一時間二十分かかる。昼十一時、夕五時から始まるのだが、この時刻にゆくと絶対売切れになるから、少なくとも三十分前にゆかなければならぬ。三十分前にいって、やっと四、五百人目くらいに並ぶのである。それがようやく進み出して食堂の入口に入るまでに四十分、食事をとるのが十分。――例えうまくいって一時間ですむとしても、自分の家から食堂まで往復二十分はかかるから、どうしたって一時間二十分かかるのである。
一食食べるのに一時間二十分とすると、東京都民がこのために失う時間は八十万時間、すなわち三万四千日、すなわち百年間ではないか?
一日十時間労働として、一万人の大工場が八つに相応する労力空費だ。一食分に米五勺だそうだから(実際は三勺くらいなものであろうが、これは食堂の細工の結果で、当局からはそれだけの配給は受けているわけだ)この六十万食は三百石。五百万の都民は一日、一・八勺増配になる。
こんなことをするより一人一日もう一合ふやしてくれたらといううめきが聞えるが、東京全体となるとこの通りだから、やっぱりこれでなくては当局もやってゆけないのであろう。
○もっとも自分にとってはこれは読書の時間である。きょう寺田寅彦全集第三巻の『手首の問題』を読んでいて、ことしの入試現代文がこの中から出されたことを発見。ただしそのときから寅彦の感触はしていた。「――であろうと思われる」といういいかたは彼のくせらしい。
十六日
○月半ばにして外食券あと三枚。金は一円。危急いよいよ迫る。
○夕、雑炊食堂に並ぶ。
乞食のようにボロボロの衣服に垢だらけの足を出した労働者、油だらけの「産業戦士」中に十にもならない子供たちが手に手に鍋を持って並んでいるのは哀れである。
やっぱり「こんな時間の空費、また要らぬ金をつかうより、一日一合でもいいから増配して欲しい」という呟きが諸所で聞える。
この雑炊用の莫大な米も、全都民に配給すれば一日二勺にも足りないものであることを、計算しない彼らは知らないのである。全都民に一日一合増配する米を使えば、今の雑炊食堂は五、六倍になる。
ドイツ人らしい女が、女の子といっしょに並んでいた。やっぱり腹がへるとみえる。母親は灰色の髪で、そう立派な容貌の持主ではない。みすぼらしい洋服にストッキングなしの足がくたびれた靴の中に入っていた。しかし金髪の女の子はお伽噺の中の子供のように愛くるしかった。二人が不自由そうに箸を使って雑炊を食べているのを見たら、三枚しか残っていない外食券をやりたいような気がした。この感情はよいものである、と一時は思ったが、実は外人崇拝根性に由来しているふしもあることに気がついた。
これが朝鮮人や支那人なら、かえって同席するのに不快をおぼえるだろう。これは人種的な軽蔑というより、自分たちの平生見る支那人や朝鮮人が極めて不潔で、ふつう外人がスッキリと上品な風采をしていることに基づいている。が、アジアにいながら、われわれの出会うアジア人は悉く貧困の極をつくしているのは日本の恥辱である。それを救うのは日本の義務であり責任でなければならない。
十七日
○外食券ついに尽く。金は九銭残る。霧雨ふる。古本屋に『江戸から東京へ』を売って一円二十銭を手中にする。意地のわるいことに、明日体力章検定がある。飯を食わずに駈け廻ったらどうなるか、この生理的現象を身を以て体験するのはつらい。
十八日
○外食券も金もなし。また古本屋に『北斎』『海援隊始末記』『陸援隊始末記』を売り、二円六十銭を得。朝食ぬき、昼夜ともに雑炊のため、階段を上るにも息が切れる。空腹のあまりミルクホールに飛びこんだら、水のように薄くて味のないミルクなるものと、スルメの足三本で五十銭とられた。霧のように寒い小雨。
○午前身体検査あり。体力章検定ではなかった。それで、駈けたり飛んだり俵をかついだりすることは免れたが、マントー氏反応で去年の秋までは陰性だったのが、夜見るともう10ミリ以上の直径を有する赤い円となって陽転している。この春肋膜だの肺浸潤だのいわれたのが、それっきりになってしまったので狐につままれたような思いがしていたが、やっぱりほんものではあったらしい。
○ヴァレリー・ラドの『ルイ・パストール』を読み出す。パストール! この天才は自分の年ごろではすでに光学異性体の神秘を解かんとしていた。自分は教室でいくら丁寧に教えられてもちんぷんかんぷんである。
二十日
○朝飯ぬき。昼飯の雑炊食堂に並ぶべくその費用を得んとして『レ・ミゼラブル』を古本屋に持ってゆくと、二十日は東京古書籍業組合の公休日とあって、あてがはずれて大まごつき。残金四銭。
午後、半死半生になって新宿から本郷まで歩き、高須家にゆく。奥さんよもぎ餅をやいてくれる。ウマかった!
高須氏、今夜よそへ招待されているとのことであったが、自分が来ているときいて、部下の古清水氏をつれて帰宅。酒で夕食。
九時半ごろ警戒警報の叫び声町を走る。十一時ごろ雨ざんざとふる坂道をお茶の水駅へ。燈火管制のため全部闇黒。この中を深夜下宿に帰るのも気がひけて、また高須家へひき返し泊めてもらう。
二十一日
○依然曇天。警戒警報解かれず。
きのう高須さんに三十円借りたが、三十円四銭の現金では、十銭の電車に乗り難し。町はまだ早朝で森閑としているので、また本郷から歩いて新宿に帰る。きのう来るときは眼が廻りそうだったが、きょうは朝飯を腹に入れたので元気はいい。四谷区役所ちかい町角で光一個を買い、やっと金をくずす。
すると路傍から片腕に編籠をかけたみすぼらしい若い女が近づいて来て、
「あの、私はけさ一寸用事で新宿へ来たものですが、財布を落して電車に乗れないのです」
という。はじめ道でもきくのかと思っていたが、案外であった。しかし、澄ました顔で、とっさに財布から金をつまみ出す。
「いくらあったらよろしいんですか」
「神楽坂ですから――いま電車の乗換えがききませんので、二十銭なんですけど。……」
こまかいものがない。五十銭やる。
「サヨナラ」
といって、スタスタ歩く。これがきのうは四銭だけ持って新宿から本郷まで金を借りにいった男とは知るまい。おそらく、金があって親切な学生に哀願の相手を見出したのだろう。
しかし、そういう哀願を、まだほかにたくさん人は歩いているのに、相手もあろうに自分に持って来られたので、歩き出しても笑いがとまらなかった。
下宿近くに帰ってみると、学校の校門に一年が二、三人立っていて、「おーい、山田、どうしたんだい」という。「どうしたんだいって、どうしたんだい?」ときくと、昨夜の警戒警報でみんな学校に駈けつけて来たのだそうだ。防空団規則にそんなのがあったなと思い出して、あわてて下宿に帰り、ゲートルをまいて駈けつける。どうやら日本の北方に敵機が現われたらしい。
○学校地下食堂甚だ暴利をむさぼる。学校附近の食堂で二十五銭か三十銭の品を六十銭くらいとるので、一大反撃運動を起すべしとの決議成る。二十四日、緒方校長がカシンベック氏病研究のため渡満されるので、早速明日より談判を開始すべしと三年生血涙をふるって誓う。
今夜も町闇黒。警戒警報まだ解けず。
二十二日
○朝、きのう高須さんから借りた米一升を隣の食堂に持ってゆく。さまざま向うはモッタイをつけるのに頓首再拝。米代は受取らず、十三回食わしてもらうことにする。つまり自分の持っていった米を毎日一杯十銭で食わしてもらうのである。
○午後一時半やっと警報解除。三時半からことしより新設された人文学講義第一回。きょうは下村海南博士の講演。
海南氏は髪半白、細面痩身の老紳士、国民服を着ている。声ものしずかにして、いつまでたっても声嗄れしない調子で、時々上品な諧謔を混える。
演題は「学生と教養」という予告であったが、これは学校がお膳立てしたものであって、海南氏は勝手にしゃべる。
国民の人口問題について。(戦時下の出生、発育、青年期の結核etc)
日本文字の問題について(その無統一と煩瑣。アジアならびに世界の人間にただちに日本語を学ばせる系統的簡明な文字の創造の必要性)
宣伝戦の問題について。
二十六日
○新宿泰華楼で県人会あり。四年一人、三年二人、二年二人、一年四人の計十人。
料理十人で皿は六皿。ビールはジョッキに三杯だけである。これで午後五時半から九時までねばるのは手品である。勘定書は見なかったが(一年は会費五円)四年三年がそっとのぞいて、「ベラボーだな!」と眼をまるくしていた。
それでも隣りでは十数人の日本大学の学生たちがまっぱだかになって踊り狂っている。料理や酒はこちらと大体同じだろうから、これは手品どころか精神病だ。
二十九日
○六月分外食券をもらったので、昼食に食堂三軒、夕食四軒廻る。また月末惨澹、キューキューのていや必せり。どこまで馬鹿で下等なのかわれながら見当がつかない。
○秦檜が奸で岳飛が忠か、井伊大老が奸で水戸浪士が忠か、犬養が奸で青年将校が忠か、ペタンが忠でドゴールが奸か、蒋が奸で汪が忠か。だれが真の愛国者であるかは千年たっても定まらないであろう。忠奸を並びたたせて鼓舞煽動する者にはさせておけ。鼓舞煽動される者も放っておけ。考えるだけばかげたことだ。
三十一日
○午後三時半から月例防空訓練。
真っ青とはいえないが、碧空を薄い白紗で透かしたような空に日の光がみなぎっている。
一、二年教練服にゲートルを巻いて校庭に集合。佐野教授より、特に一年は最初の行事ゆえ奮励するように訓示。田林教授より、指、腕、足の止血法を教えられる。防空の大家の由、小柄ながら国防服に身をかため、頗る精悍の気に満ちている。
それから担架演習、自分は第五担架の二番だから、担架の後をかつぐ役である。駈け廻ると汗だらけになる。
四時半から総合訓練開始。救護班が道場に待機していると、向うで、
「訓練警戒警報発令!」
と、メガホンの大声がきこえた。学生の大声だから、隣近所がびっくりして飛び出して来た人もあったらしく、
「チョイト|どこが《ヽヽヽ》警戒警報なんだろ?」
というおかみさんらしい声が聞えたのでみな笑った。
そのうちに「訓練空襲警報発令」の声が聞え、騒然たる中に「どこどこに○○弾投下!」という叫びと同時に、消火班のポンプの音が聞え出す。伝令が駈けて来て「救護班出動!」という。ただちに担架を提げてかけつけ、本館付近に横たわった負傷者を救いにかかる。負傷者は二年の連中で、胸に「大腿部貫通出血多量」とか「上膊部切断」とか書いた図入りの紙片をつけている。
最初の人は上膊部の軽微な負傷だということで両肩にかついで事務所の前につれてゆく。二人目、三人目は担架で運ぶ。あんまり騒ぐので、ツリ込まれて駈け出したら、見ていた佐野教授に、「担架は走っちゃいかん!」と叱られた。
六時近くになると空腹のため気息奄々。やっと六時過淀橋警察警防主任のすこぶる頭の悪そうな講評があって解散。
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六月
一日
○午後三時半より青野寿郎氏の講演「大東亜戦争の意義」
物質的な意義はよく判ったが精神的な意義は判らなかった。少なくとも英米人が野獣的で日独が道徳的民族であるといういいかたは素直に受取れなかった。
英米人だけがえらいとは思わない。野獣かも知れない。しかし日独といえども野獣性がある。どっちも人間である。神と罪の間をしきりに往来する精力的民族だというだけである。
われわれが神で、敵は悪魔だと確信し、それで勇気をふるい起す人間も多いだろう。また国民を動員し、世界の世論に訴える関係上、その宣伝は必要であろう。しかし自分は、どちらも神でなく悪魔でなく、どちらも人間だと信じるから、それゆえ最後まで戦わねばならないのだと思う。神と悪魔の戦いなら戦ってもムダである。
ただし歴史上からみれば、英米が世界を支配していた期間が長かっただけに、彼らのほうが罪は重いかも知れぬ。しかしそれは彼らが英米人であったためではなく、人間であったからである。日本やドイツが印度を支配していたら、印度が天国になっていたろうとは常識的に信じられない。
『パストール』読み終る。千頁をこえる大冊。パストールも解剖や死人を見ると気分が悪くなったということを読んで安心。
二日
○昨夜いやにむし暑いと思ったら、突然沛然たる雨。夜明けとともにあがる。薄青い空からしずしずと流れてきた霧は、雨の名残をとどめた道路を這って、二羽三羽飛んで歩く鳩の足が痛々しいほど赤い。
五時に起床、独逸語をやる。朝食は飯に生卵をぶっかけたものだけ。六時半登校。
朝の太陽の爽やかにさす校庭に全校生徒整列。執銃帯剣で戸山ヶ原へ行進。明後日行なわれる教練査閲の予行演習のためである。
腹具合、皮膚の感触、頭の調子、珍らしく生き生きとして、静かな精力にみちみちているような気がする。七時半ごろ戸山ヶ原につく。
むろん草原などいうものではなく、土を盛りあげたような丘、砂地や石ころの多い一角、それにすぐ傍を省線が走ってるし製材所はあるし、何だか建築前の地面のようだが、しかし整列したり歩いたりしてるうちに、やっぱりその広さが久しぶりに爽快な感じで身体を包んで来た。
予行開始。一年は伏射と膝射。二年は銃剣術。三年は戦闘教練。四年は実弾射撃。
昼前やっと自分たちの舞台をすませて休憩となる。休憩といっても教官は見学せよといったのだが、みんな知らん顔しててんでに煙草をのんだり弁当を食べたりしている。一度教官がどなりに来たが、すぐにまた勝手放題に食いはじめる。自分は弁当がないので草の上に腰を下ろして、青い空の雲を見たり、広場の向うに屋根だけみせて走る省線を見たり、日のジリジリと灼く大地にせっせと動く蟻を見たりしていたが、やがてポケットから『読史余論』を出して読みはじめる。
ふと立って原っぱの向うの製材所へ歩いてゆく。白い日光、青い炎のような草、ここから見ると向うに伊勢丹の白い建物が朧にひかって絵になる風景だ。
製材所はバラックで、その中で丘のように重ねられた木材板を機械で鉋《かんな》をかけていた。また直径一メートルくらいの大木を、根本の方から大鋸でひいている老人もいた。彼はみずから切ってゆく鋸の刃のあとをのぞきながら、ゆっくりと手を動かしている。恍惚として、何となく名人といった趣きである。
日本人はこういう仕事に名人芸を発見するものである。そして外国人は手さきの名人芸よりも、もっと大規模な機械を考案するのである。
昼ごろより集合、閲兵分列。大隊長は解剖の佐野教授。大きなのどぼとけからすばらしい号令を発し、ふだんの俳味ある人柄とは別人のごとし。一年の指揮官は法医の山本助手。これは入試のとき指紋をとるといって笑わせた人。言葉なまりからみて大阪の人らしい。かん高い声ははりあげるけれども、運動神経は鈍いとみえて、何度叱られても指揮刀の順序をまちがえ、また奥野教官に叱られている。
一時過終了。四年の銃を一年がもらい学校に帰る。美しい日光、白い砂塵、溢れるような樹々の緑。珍らしく、若い日の歓喜と、こころよい哀愁を感じる。
○午後、吉田に送る書物の小包みを郵便局へ持っていったら、小包みは午前中だけ受けつけると断わられる。
夜風呂へいって体重を計ってみたら十二貫五百。銭湯に、
「本日ヨリ兵隊剃刀オ貸シ致シマス。御一人様六十銭。但シトギハ八銭也」
と貼紙あり。ついでにいえばいま銭湯代は八銭である。
湯気の中でしきりに儲かってないことを力説している大声あり、のぞいてみたら坂下の食堂のおやじであった。燃料の薪だって配給なんかあてにできん、先月など百何十円もヤミで薪を買った。万事この調子だから、ばからしくって食堂をやめたいのだが、自由にやめさせてくれんと湯気の中で力説していた。しかし彼は肥っている。この時代に食堂やってる男のテレカクシかも知れん。
三日
○解剖の佐野教授曰く「教練や勤労奉仕で学生の学力が低下すると気をもんだのは昔の話だ、今はもう学力低下はあたり前のことで、その中に工場の機械の中で諸君に脈管系統でも教えることになりましょう」
内臓学の井上教授曰く「このごろはもう唾液腺《スパイツエルドリユーゼン》もすっかり厄介ものになってしまいました」
化学の小山教授曰く「ムチャでも何でもこれが文部省の命令なんだから、文部省はすっかり右翼になっちゃってるんだから……」
物理の石川講師曰く「今ごろの子供は五十銭一円平気で使ってますねえ。僕先日驚いちゃったんですが……」
医化学の三坂教授曰く「何しろ一年から臨床をやらせろってんですから、文部省の考えることは私など見当もつかんです」
数学の福田教授曰く「実数は公定です。※[#○に「公」]です。しかしこればかりではとうていやってゆけない。どうしても闇が必要です。それがすなわち虚数ってやつで……」
人文の青野講師曰く「いまの薄っぺらな書物が、一日ごと、一月ごとにみるみる肥って、厚いドッシリした書物に帰ってゆく日が一日も早くくるといいですねえ」
生理の久保教授曰く「今年から体力検定の方法が変ることになったんですが、文部大臣はメートル法でなく尺貫法を使えといって承知しないのだ」
学生たちの憎悪と冷蔑をこめた嘲笑。
教授たちに対する愛情とはうらはらに、教練の教官の怒罵にはいちど慴服《しようふく》してみせるが、彼が背を見せるや否や、たちまち投げかける口笛や冷笑。
ああ、教授や学生はうめく、その冷笑の是非はともかく、彼らはたしかにうめいている。
四日
○本日査閲。朝六時半集合。奥野中尉大いに怒る。
「六時半を過ぎること二十三分! たったこれだけ、三百人ほどの人数がたったこれだけの装具をつけるのにこのザマだとは、子供じゃあるまいし何たることだ! 先日校長からも時間の厳守について御注意があった。その上、おれもよくいってある。本日は査閲である。その朝まっさきにおれも叱言はいいたくない。きく君たちよりも、いうおれの方がよっぽどナサケない! いうまいと思ってもいわざるを得ん、君達にまったく誠意が認められんからだ。五分も十分も遅刻して門を入って来たやつが、おれを見ながらノソノソと平気で歩いている。てんぜんとして恥じるようすもない。遅刻したら汗ダクになって駆けつけろ。それくらいの誠意は見せて欲しい! もうおれはきょうは何もいわん。黙っているから、君達は君達の学校の名誉のために、立派な成績をとってもらいたい! よし、遅刻の時間は駈足でおぎなう、第三中隊より戸山ヶ原に向って駈足!」
七時前学校出発。七時半戸山ヶ原着。八時より査閲開始。
黄塵万丈。薄曇りの戸山ヶ原のはしからはしへ、吹きなぐり湧きあがり立ちのぼる凄まじい砂塵。
黄色い煙に向うの町も樹々も、査閲中の学生も朦朧と浮かびつ消えつする。眼もあけられない。口もきけない。口の中がガリガリいう。耳の中がザラザラする。
自分たちは九時ごろ査閲される。三年四年の射撃の戦闘教練意外に長びく。おまけに終りごろになってポツリポツリと雨粒がおちて来た。
服に砂を吸いこまれてはたまらんと、みないっせいに服をたたき出す。自分もツリこまれてたたき出したが、フト皆がたたかなかったら自分はこういうことに気がつかず、存分に雨と砂を服に吸いこませて澄ました顔をしているだろうと、つまらんことに感心した。が、叩いても叩いても、砂塵は吹きなぐってくる。青い服地に乾いた雨粒が白い玉模様となって浮かび上る。最後まで雨は、雨らしい雨とはならなかった。
だれか雨と砂塵をこぼした。するとまただれかがいった。
「いや、こんな天気の方がいいんだ。ゴマカシがきくし、ワリビキして考えてくれる。一種の悲壮感が出るからな」
こういう考えは、今ごろは国民学校の児童でも口に出していうほど、みな小賢しくはないか。
楢原が妙にのんきなことをきく。「おい、神社の唐獅子は、あれ一方だけが口をあけてるのどういうわけかね?」突然何を思い出したのか見当もつかない。
午後一時半ごろ終了。砂塵で眼もあけられず、するとふしぎに耳も遠くなった感じで、査閲官たる大佐の講評もよく聞えず。が、こんなときの講評はきまっている。「おおむね良好。しかし、云々」
○下宿のおばさんは明るくて元気のいい、江戸っ子風の女だ。口のききようはあらっぽいが、ふしぎなシトヤカささえ感じられる。いつも大学から帰った子供は弁当箱を洗うことを命じられているが、子供は男の子だからいくら叱られてもよく忘れる。きょうも階段の下からおかみさんが叫んでいる。
「ヨシ! 由公! またお弁当洗うの忘れたねッ。どうしてそうなのッ。バカヤロー、大バカヤロー、ほんとにどうしてやったらいいか、下りといでッ。恥を知らないかッ」
いくら威勢のいいおかみさんでも、あんまりヒステリーじみているので、自分はびっくりした。あんな声の調子は女じゃないと出せない。
「おうい、今洗うよう」
と、息子は弱ってるらしいが、声はすこぶる間のびがして、男の子らしいのどかな感じが消えない。実際こわいのだろうが、またそれほどこわがっていないところもちょっとある。それは「母親」であるためでなく「女」であることに由来しているふしもある。
これが親爺の方だともっと事態切迫しているらしい気配だ。いつも、
「てめえみてえなやつはこれから軍隊教育だ。いいかッ」
とドヤシつけられているのだが、その親爺がきょうはおかみさんの元気に無意識的に圧倒されて、
「なに、寝ころんでるんだよ。ゴロンと寝ころんでいやがるんだよ」
と、女性的なケシカケかたをしている。
○夜雨。蕭条《しようじよう》たる雨音。連句がやりたい。
連句をやって、ピッタリと呼吸の合う芸術的感性と空想力、聡明さとそれから自分とは対照的な気質の所有者である娘があったら愛せるか。愛せるような、愛せないような。
五日
○科学の世界と芸術の世界は截然《せつぜん》として二つに分れている。この壁に小さな孔をあけて往来する人もあるが、天の炎をとって来てこれを渾然と溶かしてしまう人は稀である。――こんなことを寺田寅彦がいっていたような気がする。
むろん自分もこの凡人の範疇から脱することはできない。両者の間に孔があるとさえ感じない。
一日、恐ろしく頭が科学的なことがある。こういうときにはどうしても小説など読む気にはなれない。一日、恐ろしく空想と幻想に酔うときがある。こういうときにはいかにしても科学的なことに手がつかない。この変化は、彼方に忽然と立ち、此方に忽然と現われる、全然別人のようである。
天の炎をとって来て両者を融合させたらどういう世界が現われるか、全然見当もつかない。
○色々な言葉が流水の如く去来する。
「非常時」「新体制」「高度国防国家」「八紘一宇」「大東亜共栄圏」それから「討ちてしやまむ」
今は「攻勢移転」という言葉が毎日の新聞に現われる。
皇軍はインパールを攻撃しつつある。洛陽も攻略した。ニューギニアのホーランディアで敵上陸軍を掃蕩中とけさの新聞にある。「今や攻勢移転の神機来らんとす」と大きな字で出ている。
苦難の二ヶ年間であった。日本軍果してふたたび驚天動地の「攻勢」に「移転」し得るや否や。
○月曜だが、きのう査閲なので代休。朝あまりの爽快さに浮かれて、電車にのって本郷にゆく。口笛でも吹きたい気持である。
帝大病院の前へ出て、南江堂書店、金沢書店をのぞく。福田教授の「人体生理学の概略」竹内教授の「近世細菌学及免疫学」を探したが一冊もない。
古本屋をのぞきのぞき赤門の方へいってみる。黒いほどの緑の樹々に赤門と赤煉瓦の建物が西洋の油絵のように美しい。葉には金色の五月の陽が円く斑らにふっている。
引き返す。途中、パン屋でパンを食わせていたので飛びこんで食う。どこかの紳士がコップを割って、パン屋のおやじに五十銭置いてゆけとどなられていた。
妻恋町へゆき高須さんの奥さんと神田へ出かける。小川町で外食券なしの食堂があったので入ってみたら、飯の小塊とロール巻きを食わせた。尤もいくらロール巻をかじっても芯までキャベツである。これで一円。
美津濃へいって靴下でも買おうかと奥さんがいう。いってみると軍需工場に切換えのため廃業と雨戸に貼紙がしてあった。
奥さんと別れ、一人で大橋図書館に入る。人まばら、中学生か夜学生の少年少女ばかり。江戸時代の大名の玄関の構造と風車売りの風俗が知りたくなって『日本建築史江戸時代』と『日本風俗史考江戸時代』という本を注文してみたが、その部屋が工事中で出せないといった。係は去年まで男であったが、いつのまにか女の子に変っている。恐るべきつっけんどんだ。
きょうの読売で「女子の職場教育」という社説がのっていた。駅、郵便局、官庁などの職業女性が、ほんの先日まで人の顔もろくに見れない小娘であったのに、もう下劣極まる態度と、乞食に対しても発してはならないほどの下等な言葉と無意味な嘲笑をあらわすことについて、身の震えるほどの憤激をおぼえるといい、あれを見てはだれも彼女らを妻にもらう気はしないであろうとまで筆を飛躍させていた。この指弾はまことに同感である。
しかし再考してみるのに、これはやっぱり男性の卑怯の一つである。今の世に彼女たちより、横柄なもの、残酷なもの、暴逆なものははるかに多い。それだのに、大新聞が毒舌を浴びせるのは、からくもこの哀れむべき少女たちに対してだけである。新聞が政府機関に攻撃のはけ口を見出すのは、せいぜい運通省くらいなものである。
図書館を出て神田駅へゆく。途中、もうしめかかった洋食屋にとびこんだら、焼飯四十銭で食べることを得。一度皿を受けとってテーブルにおき、また並んで二杯食う。
道をまちがえて神田駅をすぎ、馬喰町の方へ出てしまった。めちゃくちゃに歩く。電車も停留所がいたるところ減らされていてなかなかつかまえることが出来ない。やっと三田行きの電車にのる。白金台町の正木君のところへいって見る気になったのである。
宮城の空に鳶が二、三羽舞っていた。議事堂が淡い緑の中に遠望された。濠の水蒼く、つつじが真っ赤に点在している。増上寺附近の公園はことごとく畠となり、シャツ一枚の警官の群が熱心に豆の手入れをしている。
正木君の家にいったが正木君は留守。
六日
○午後教練。六時ごろまで、先日の戸山ヶ原での凄い砂塵にまみれた銃の手入れ。
夜猛烈な雷雨。どこかに落ちたような気配である。
○ついに米英軍がフランスに上陸し、ドイツ軍と激闘を開始したとのこと。ついにこの大戦争の運命の日が始まった。
十一日
○ビルマ戦線、雨期襲来の中に依然死闘がつづいているごとし。フランスに上陸した米英軍はついに橋頭堡を確立、次第に拡大してゆくらしい。ドイツいよいよだめか? その方がスッキリして、日本の悲壮な孤戦の予想にも却って勇気が湧くのをおぼえる。
○発疹チフスが流行しているとのこと。石鹸の不足がその原因の大きなものの一つだろう。今の風呂屋は板の間稼ぎとシラミの活躍舞台だという。
教室で「発疹チフスの予防法」を、だれか生理の福田教授にきくと、簡単に「罹らないようにするんだな」といった。
○翼政会がヒ総統に「米英撃滅の神機至る」という激励電報を発した由。この神機という言葉は、日本国民の最も警戒すべき脆弱点を内包しているような気がする。
○東京の犬よ! おまえたちは祖国を知るまい。正義も聖戦も永遠の平和も知るまい。だから、なぜこんなにひもじい時代になったのかふしぎに耐えないだろう。いや、おまえたちの哀れな脳髄では、ふしぎということさえも考えないだろう。
ただ往来をヨロめき、ハーハーあえぎ、夜更けの道を二三匹打ちつれてゴミ溜をさがしているおまえたちを見ると、自分は心から同情する。
しかし――人間だって――果して祖国や、聖戦や、永遠の平和なんてものを、それほど正確な深刻な意味で凝視して、この戦いを戦っている人間は存外少ないのだ。知っている人もあるだろう。知っていると思っている人もあるだろう。いや、ほとんど大部分がそう思っているだろう。しかし、それは決してそうではないのだ!
十二日
○昼、新宿のエビス・ビヤホールの雑炊に並ぶ。ここは昼だけで二千食。自分の並んだのは千人めくらいで、一時間かかった。その代り安くて一杯二十銭である。
中の柱に次の如き文句を記せる貼紙あり。
「お願い。行列の整理は手不足の為不充分のところがありましたら皆様御注意下され、日本人として恥じるような不道徳な人のなきよう御注意下さい。新宿ビアホール」
この文章は少しヘンである。
○午後、二時間にわたり「大戦下の政治経済」なる題目で、産業新聞主筆小汀利得氏の講演あり。
この前の下村海南氏もそうであったが、この人も朝日の鈴木文四朗氏の世話でこの役をつとめたとのこと。文四朗氏の枠が同級生にいることをはじめて知った。鈴木が多くてどの鈴木かわからない。
小汀氏、顔面黒く眼光鋭く、よくいえば精悍の気にみちて、悪くいうとガラが悪い。
言葉使い荒く、医者を罵り大蔵大臣を罵倒して学生を抱腹絶倒させる。新聞記者だっていま東京に三千人くらいはいるだろうが、その中で記事の書ける記者は十人くらいしかいない。第一、日本語も知らない奴が多い、などいう。「――と私には思われる」なんておかしな文章があるが主格は一体だれなんだ、と罵ったがこの方がおかしい。この「れる」は受身の「れる」じゃなく、可能の「れる」だろう。天動説と地動説の意味を逆にしてしゃべっていたのも粗雑である。要するに税金は日本ほど安い国はなく、公債など多額なれば多額なほど偉大な国家であるというのが主題であったが、ほんとにそうか知らん。
十三日
○三越と伊勢丹の雑炊に並ぶ。約一時間かかる。
三越で、すぐ前の品のいい老人が、自分の鞄が背にふれるたびにぎろっとふりむいて、にらみつける。とうとう「君……あまりくっつかないように……」といった。こちらもシャクにさわって、「爺さん、くっつかれるのがいやなら雑炊の行列などにならばないで、帝国ホテルにでもゆくがいい。行列とは、くっついて並ぶことだ。くっつかれるのがいやなら、いまの世に生きることをやめた方がいい。いやでも何でも、この世は傍からくっつかれるとこだ」といってやりたかったが、ここまで考えたら急にこの老人の潔癖さが気の毒になって、ハイハイと後ずさる。
デパートにはろくなものを売っていない。この行列からみえる売場にも、まず慰問用の絵ハガキ、「発芽絶対保証」と袋に書いた瓜のタネ、そんなものだ。「絶対保証」なんて書いてあると、何も書いてないより不安感を起させるからふしぎである。それから、富士石なるものを売っている。美しくもなんともない、黒い石のかたまりだ。卵ほどのものが二十五銭、リンゴほどのものが五十銭、こんなもの買う人はどんな人だろう。よくこの輸送難時代にこんなものをここまで運んだものだ。
行列の中で学生が今の世の不平を並べたてている。傍の若い娘が二人、痒いところをかいてもらうような顔で耳をすませている。
さて三越はスラスラ行列が進行するのに、伊勢丹の方はなかなかうまくゆかない。十分間くらい停止していたりする。売る方の係が無能なのか設備が不足なのか、それに同じ二十銭でも三越の方がうまい。デパートも雑炊によって品評される時代になった。
○「高くてまずくて不愉快である」こういう料理屋があったら、昔ならつぶれてしまったろう。現代なら、高いほど、まずいほど、不愉快なほど人間がたくさん集まりはしないか。そんなイヤなところならきっと人も集まらないから、行列しなくていいだろうと子供だって考えそうなことだからである。美醜とか快不快などケシ飛んでしまう時代になった。
ヒマラヤ山中の部落を見なけりゃ人生なんて口に出せないように、こういう時代に逢わなければ芸術もわからない。
十四日
○例によって家より学資未だ来らず。ジメジメと、どこかでナメクジが生まれ出ているような雨つづく。
「そんなムキにならんでもいいではないか」と、いったりいわれたりする。いう心は最も卑劣なときであり、いわれるときは最も阿呆なときである。
○罪なくして投獄せられる国家にあっては、正しき者の棲家は牢獄である、とトーローはいった。この言葉とはニュアンスが違うが、たしかにいま全世界は狂っている。毎日の新聞を、ふと眼を洗って見ると、真に愕然とさせられるものがある。
狂え、狂え、狂え! 地球を覆う嵐の中に聞えるのは、ただこの声ばかりである。崇高な狂人の話が毎日狂熱的にのせられる。自分は狂っていないと考えるものは黙っている。何かものをいいたければ、必ず狂ったことをいわなければぶじではすまない世の中なのである。
十五日
○金ついに尽き高須さんに二十円借りにゆく。
帰途市ヶ谷附近で警戒警報発令のサイレンをきく。電車の窓から見ると、ドンヨリ重っ苦しく垂れ下がった黄昏の空の下に、消防署の望楼でしきりに鐘を乱打してる姿が見えた。各家々から主婦が水槽めがけて走り出る姿も見えた。
十六日
○登校すると、警戒警報発令中にて授業なしと。九時より十時まで正門前に番兵立つ。
○敵サイパンに上陸、きのうより激戦中の由。今暁二時、米機二十数機北九州に来襲せりと。
サイパンを奪われたら海軍はなんのかんばせあって国民にまみえるのか。
○夕刻、東京の空に十数個の軽気球あがり、爆音物凄く飛行機飛び交う。遠く四谷の小学校の屋上にも点々と空を仰ぐ兵士たちの姿が見える。
○午後五時より二年三人、一年十五人また登校、学校に泊りこんで警戒に当る。教官室横の一室の土間に柔道場のたたみをしき、ゲートル靴ばきのまま眠る。部屋暑く、体臭と靴下などのすえたような匂いに眠られず、深夜廊下に出て電灯の下で、緒方富雄訳の『蘭学事始』を読む。
十七日
○二時ごろ寝て、四時に目ざむ。ブルノー・タウトの『ニッポン』を読んでいるうち夜が明ける。
学校の近所に四十くらいの狂人がいて、いつもステッキをつき、インバネスをひるがえし、予科練の歌をうたい、大はしゃぎでランランランとわめきながら歩いている。けさも歩いているのを、みな退屈のあまりつかまえてからかう。狂人、空を仰いで、
「おや、鶴がとんでいる。ランランラン」
という。学生の一人が、
「そのうち軍艦が飛んでくるかも知れないぜ」
とからかうと、
「学生さん、あんたは陸軍大将か、それとも海軍水兵か。ランランラン」
海軍水兵にはみな大笑。そのうちだれかが、今に爆撃でもはじまったらそのショックで、このきちがいが常人に戻り、こっちがランランランになるかも知れんと呟いたのでまた爆笑。
○「若者の心、若者の心など、書物や人が特別製のものとして大ゲサにとり扱うものだから、若者自身が二口目にはこれを盾にしてふりまわす、教師の中にもいかにも若者の心を知ってるような顔で学生に対する人もある。しかし、若い奴の心とは何であるか? いや若い奴とは何であるか? それは未完成の、ハシにもボウにもかからぬ片腹痛い青二才にすぎない。若者は人間の標準ではない。若い者を標準にして甘やかすことは絶対にならん」
といえる教授あり。大いにわかる。
わかるがこの先生はやっぱり若い者には好かれないだろう。
十八日
○午後三時警戒警報解除。外食券あと四枚。
○何といって大した心配もないのだが、何となく心が晴ればれしない。早く学校を卒業したくなった。
しかし卒業したってべつに心がからんと晴れ上るようなことはなく、かえって学生時代はのんきだったなと思うにきまっている。
自分は、もし青天のようなのどかな、平和な、澄み切った心になれるのだったら、乞食になってもかまわないと思う。これは弱音でいうのではない。ただ、乞食になったら一層心が苦しいにきまっているから、どうせ苦しむなら何か仕事に苦しんだ方がいいと観念するのである。それなら狂人ならよかろうという人があるかもしれない。しかしきちがいだって、何か考えているだろう。決して秋天一碧という心境ではないだろう、そういう心境の狂人があれば、むろん自分はきちがいになることだって歓迎しないわけではない。
○夜九時十五分、ブールジェの『死』を読んでいると、忽然陰々たる警戒警報のサイレンがきこえ、ぶきみに半鐘が鳴り出した。遠く近く「警戒警報発令」の叫び声きこえ、犬がしきりに吠える。
すぐ登校する。闇夜星なし。ゲートル鉄かぶとの学生続々かけつける。十二時、夜番の者を選んでみな一応ひきあげる。残置燈の下で二匹の犬しきりに交尾せんとしてはあきらめ、また交尾せんとしている。
十九日
○午後四時警報解除。今後は警報の第一種第二種を問わず、警戒警報ならば軍装のまま授業をなすとの告示あり。
○午後、小汀利得氏の講演第二回。
一寸旗色が悪いとまるで葬式か通夜みたいな顔をする肝っ玉の小さいばかが多い、と学生たちの顔をジロジロ見る。「この次私がくるころは、私も諸君ももっと明るい一陽来復の顔で相対することができましょう」と何を根拠にいうのか自信満々。この戦争はもうあと一年、長くても二年でおしまいになるような口ぶりだ。
もっともアメリカを滅亡させる終結といった口吻ではない。戦後の金もうけの話ばかりする。
二十一日
○サイパン島に敵太平洋艦隊集結、真に興亡決す大激戦なお展開中。
敵艦二十数隻撃沈破、飛行機三百機以上撃墜せりと大本営発表あれど、なにゆえか新聞論調沈痛なり。
しかし、敵主力をおびきよせてこれを一挙に粉砕するとは、いままで国民が慰撫されて来た論ではなかったか。いまこそ敵は皿にのって卓上に並べられているというべきではないか。
万が一不幸サイパンを奪われんか、東京は四時《しじ》敵機の爆撃下に置かれるのみか、日本と南方資源との連絡はここに切断される。真に日本の運命決す戦いだ。
しかし、日本海軍は相討ちとなってはならない。アメリカと違って、こちらにはカケガエがない。豊田司令長官の胸中察するに余りあり。
二十二日
○二十四日より学生は教練服ゲートル姿にて通学すべしとの告示あり。
二十三日
○連合艦隊は敵機動部隊と遭遇、マリアナ附近にて敵空母五隻、戦艦一隻以上撃沈破、敵機百機以上撃墜せるも未だ決定的打撃を与うるを得ず、我が方もまた空母一飛行機五十機喪失したむね、午後三時大本営発表。
敵の言明によると、今回の機動部隊は百隻の空母を含んでいるとか。ドイツはとうとうシェルブール軍港放棄を決めたらしい。
○夜林髞博士の『生理学なぜなぜならば』読む。久しぶりに戦況を忘れるほど熟読した。
○家よりの送金は七十円。とても足りるわけがない。二十円返しに妻恋町にゆけど、奥さん不在。本郷の南江堂にいって『内科診断学の実際』七円五十銭を買う。
二十六日
○午後小汀利得氏の講演第三回。あたるをさいわい馬鹿よばわりをする。曰く、
「酒や煙草を減産にするなど馬鹿の骨頂で、そんなものは景気よくメチャメチャに作って、その代り酒を一升百円、煙草を五円くらいにしたら国民は元気づく、政府は増収になって一挙両得ではないか。こんなことがわからん大蔵大臣は古今の大馬鹿である」
「女のきものの袖を切れなど金切声をあげるババアどもも大馬鹿で、気の弱い女どもはあわてて振袖を切って元禄袖にしたが、元禄袖で何が出来る。長い袂なればこそ襷がかけられるではないか。襷さえかければ田植だって出来る。元禄袖では襷もかけられぬ、かといってそのままでは邪魔になるだけではないか」
「女子挺進隊なるものが駅の切符売りになって、女学生が工場で働いてる。人間を不適な方へ不適な方へと頭をしぼっている政府は馬鹿も馬鹿も大馬鹿三太郎で、女学生こそ駅の切符窓口に配置すべきである。先日私は七十八銭の切符を買うのに一円出したら、女子挺進隊が三十二銭|つり《ヽヽ》をくれたが、教養の高い女学生を窓口に置いたらこんなことはなかろう」
「大阪の堂島にいったら、上りはエレベーターで上らせてくれたが、下りる方は電気節約のため歩いて下さいといった。エレベーターガールごとき無学文盲の馬鹿娘にくってかかるほど私は馬鹿じゃないから黙って東京に帰って来たが、政府に進言してやった。上りの客こそ制限すべきで、重力の関係から下りはいくら人を沢山のせても自然に下るではないか」
「統制経済は永遠につづくなどいう馬鹿がいるが、そんな馬鹿なことがあるものか。いまに必ず自由経済の時代が来る。どうも日本には馬鹿ばかり多くて、馬鹿馬鹿しいこと言語に絶する」
五時ごろやっと馬鹿の罵声から開放される。
二十七日 晴
○昨夜、地下食堂で開催された心理学研究会の新入生歓迎会兼卒業生歓送会について、いささか書きとめておく義務を感じる。
会員は全部で二十数名のはずであるが、集まったのは卒業生たる四年が菊池さん一人、司会者たる三年生が――何という人か名を忘れたが――一人、二年は一人も来ず、一年は蘇原と早野と自分の三人。納富は午前から航空医学研究会の用件で立川へいっているので欠席、これに去年九月に卒業し、いま軍医学校へいっている千塚少尉の合計六人のみ。
会費は五円と、米一合乃至外食券二枚。六時半ごろ、松沢病院より村松博士来席、七人のささやかな会食はじまる。
菊池さんは、色の青黒い、瞳がいかにも内省的な性格らしく黒々と沈んで、暗い感じさえする人である。ポツリポツリ語る。
「私は曾て医者になることに対し、悲哀を覚え煩悶したことがありました。しかしその後、自分は単に人の肉体のみの医者であってはならない。魂の医者にならなければならないと考えてから、一条の光芒を見出したのであります。私は卒業すれば精神科の方へ入ります。そういうと、だれもが私をへんな眼でみるのです。しかし私はかまいません。人間にとって精神ほど偉大なものはありません。現代の眩惑するような科学の戦いの原動力は、実に人間の精神なのです。内村鑑三先生はこういっておられます。人類史上最大の遺物は、知識でもなければ事業でもない、ただ人格であると。私は立派な医者になりたいと思います。しかしそれは流行るとか技術がうまいとかいう点で立派なのではなく、人格的に立派な医者になりたいのです。……」
この論理はちょっと飛躍している。人間の最大の所有物、精神を研究することと、自分が人格的にすぐれた医者になるということが、単なる言葉の魔術でいつのまにか連結されている。獣医は人格的な医者になり得ないというような誤解を与える危険がある。また人間の心理と人格とを混同しているような気もする。
しかしこれは単に菊池さんが話し馴れないためで、その心の中にはきっと深い確固たる論理が生まれているのであろう。きわめてまじめな、もの静かな風貌を見ていると、こんな揚足取りは自分の軽薄さを痛感させるだけである。
千塚少尉は、肥って赤い顔をした、頗る快活な人である。人なつこい性格らしく、恐ろしい早口で、そばの村松博士にひっきりなしに話しかけている。
「私は実は非常に忙しいのであります。諸君もご存じのように、軍隊では朝起きてから夜寝るまで一分一秒と雖も自分の時間というものがない。どの瞬間も、軍が課した仕事を果していなければなりません。しかし私は、心理学研究会というなつかしい会合があるときいて、何は措いても駈けつけて参った次第であります。そして先刻から菊池君の話をきき、また村松先生のそばへ坐らせていただいて、例え一時間二時間でも、こういう深い静かな内省的な雰囲気にひたることができ、何ともいえない愉快な感動に打たれております。実にいいものです。新入会の諸君に申しあげるのだが、何とぞ諸君は今の新進気鋭の情熱を忘れず、兄弟のごとく一致団結して、先輩の苦労して維持して来たこの会のバトンを後輩へつないでいっていただきたい。どんなに気分の上らないときでも、とにかく常に出席してごらんなさい。結果に於てきっと何か得るところがある。それは諸君は、以前の学生とちがって、時局の要請の重圧に苦しいであろう。年限を短縮され、なおかつ教練とか勤労奉仕とかに少なからぬ時間をさかれる上に、特別にこういう会に入ることは実に重い負担であろうと察する。しかし、諸君は自ら進んで入って来たのである。やり出したことは最後までやり通せ。地味な、陰気な研鑽に、中途で絶望してはならない。医者の学問は死ぬまでつづくのである。医学校が三年になろうがまた七年であろうが、そんなことはほとんど影響はないのである。またいかに時局の負担が大なりとはいえ、君達の友人が前線で苦闘していることを思えば、決して教室で眠ったり、学校を休んだりすることはゆるされない。自分なども医学生のころ、そう、あれは大東亜戦争勃発の当時であったが、医学生の本分を尽くさなくてはひとさまに対し、自分の良心に対し恥ずかしいことだと考えたが、君たちはどう思う。内に熱情さえあれば、克服できない困難は断じてない。裸になって、ただ純粋に村松先生のふところへ飛びこんでゆけ。先生は諸君を引きあげたくってウズウズしていられるのです。しかし諸君の中に、自ら登する熱情がなければ、先生といえどもどうしようもないのであります。……」
書物で読んだら、おそらく何の感動も与えないであろうこんな言葉も、こういう会で、自分たちを見つめて話しかけられると、胸深くひびくものあるを感じる。自分は珍らしく若々しい純粋な気持でいちいち肯いた。
村松先生は四十――或いは五十の界隈か、ひげのない、痩せぎみで、いかにも頭脳の冴えたらしい、しかもあたたかみのある好紳士である。
三十分近く話されたであろう。これからの医者は綜合的でなければならない、耳の病気だといって耳の穴ばかりほじくっていたり、関節の疾患だといって関節ばかりいじり廻しているようではいけない。その耳の病気、関節の疾患が起って来たゆえんのもの――それを引き起した一つの力を見なければならない、といったようなことをいわれた。
そして、特に医者という職業は、たんに人間の身体のみでなく、人事全般にわたって深い教養を持ちたいものである。だからこの会合も、ただ精神医学と限ることなく、社会、思想、文学、或いは宗教に関しておたがいの意見をたたき合うものでありたい。それにはまず、どんな馬鹿話でもいいからしゃべり合うことだ。それは、教授は教室ではよくしゃべる、アメリカへいってもイギリスへいっても、ドイツへいってもオーストリアへいっても、日本ほど教授のよくしゃべり、学生のよくノートする国はない。あちらで医科教授の教授ぶりを見ていると、実に平凡な医学のアウトラインをしゃべるだけで、その代り実習だけは大いにやる。その機会に学生は自ら発した疑義を教授にただし、教授もそのときに親身に教える。このいかにも人間的な接触の中に、伸びのきく、真に身についた素養が生まれるのである。実は日本は、短い年限にすぐ実用に役立てられる医者を作る方針で、とくにこういう時勢になると、私なども自然あれもいっておきたい、これもいっておきたいとツイしゃべり通しになりがちですが、いざ教室外に出ると、教授と学生はまったく無縁の人間になってしまう。そして何も問いもせず答えもしない。言挙《ことあげ》せぬ国――といいますが、これは反面非常に遺憾な弊風だと私は思っている。それゆえにこんな会合は私は大変嬉しいものに考える。といって諸君は、何かわからないことがあるとすぐ自分のところへ持って来て、それで簡単に分ったつもりになるような安易な態度であってはならない、自ら進んであらゆる書物をあさって徹底的に追求し、まず自分で一連のセオリーを立てるようでなくてはならない。――こんなことをいわれた。
そして最後に、私は修身を申しあげる気もなく、またそんなガラではないが、と断って、「先刻菊池君の申されたことをきいていたのですが、私も立派な医者になるには、まず人間的に立派でなくてはいけない、こう思います。これは私のシミジミとした実感からいうのです」
と、話を結ばれた。
そろって写真をうつし、卒業生の菊池さんに鏡を贈る。解散したのは九時近くであった……
珍らしく静かな昂奮を感じて、下宿に帰ってからも一時まで勉強する。こういう昂奮は悪いことではあるまい。
村松博士がつくづくと千塚少尉の襟章を眺めながら、
「ホホウ、少尉かね。僕と大変ちがうね。僕は第二国民兵なのだよ。すると三等兵になるのかね。なに、そんなものはないって? なるほど、じゃあ二等兵だね」
といったのは可笑しかった。
村松博士のいった日本人のノートする問題、実際これは考えるべきことだ。
教室で考える暇もない、従って疑問を発する余裕もない、それどころか、書いていることが何が何やら本人に分っていない。先生はしゃべり、かつ黒板に書く。学生は、その黒板に書かれたものをノートしつつ、耳はその次の問題に関する先生の声をきいている。そんな両刀使いは聖徳太子ならぬ凡人たちにはとうていできるわけがない。
このひたすらノートし、またノートする習慣は、必ずしも日本が学術における後進国であるという結果ではなく、その原因ではあるまいか。模倣の性がここに現われているのである。そしてこの現実は、未来に於て一層助長される危険がある。すなわち、この思考力を没却してノートする習慣が、さらにその模倣性をぬきがたいものに定着させるのである。
心理学研究会の会員はみな暗いような感じのする人が多いようだ。しかしそれは喜ぶべき現象でないと同時に、また憂うべき現象でもない。明朗とか陰鬱とかは、真の人生に於て別に大した問題ではあるまいと考える。
○凄じいほどの碧空になった。白い校庭にカーンと太陽が燃えている。午後より中隊密集教練あり。その最中、一つの事件が持ち上った。
伸びるためには縮まなければならない。――これは尺取虫だけではない。われわれが「気ヲツケ」をやる前に、実に微かな瞬間であるがこの全身の弛緩をやる。
第一小隊の小隊長をやっていた神倉という生徒が、この現象を異常に発揮する癖があった。つまり、一々号令をかける刹那に、両膝の間に電光のごとく菱形の空間を作るのである。それが可笑しくて、四方八方からみな吹き出した。
自分達の第二小隊はそのときちょうど校庭の隅に位置していたが、第三小隊は運悪く号令台に近いところにいたので、その笑い声に台上に立っていた奥野中尉がきっとふりむいて、
「誰だ! 笑うのは!」
と、どなった。そしてほとんど言葉のはずみとも思える短い瞬間をおいて、
「前へ出ろ!」
と、いった。
第三小隊は急にしんとなってしまった。奥野中尉はまた、
「いま笑った奴は前へ出ろ!」
と、さけんだ。だれも出なかった。中尉は台上から飛び下りた。そして第三小隊の方へつかつかと歩きながら、もういちど、
「出ないか! 今笑った奴はここへ出て来い!」
と、少しカン高くなった声で叱咤した。
第三小隊は唖になっていた。中尉はその小隊長に、今笑った奴を調べろ、と命じた。小隊長は弱って、列中にたずねて廻ったが、ついに「わかりません!」といった。
「よし、そいつが出るまでは、この小隊には何も教えん。そこに立っていろ。――出るまでは、今日何時になっても帰さん!」
と中尉は宣言してこちらに戻りかけたが、またふりむいて、
「第三小隊、捧げ――つつうッ」
と叫んだ。
第三小隊は捧げ銃をしたまま、十分くらい立っていた。暑い。目もくらむような日盛りである。その中に幾十本か立ちならんだ捧げ銃が一斉にユラユラ動き出し、銃先の上下が見苦しく不揃いになりはじめた。見ると、弾薬箱に肘を支えている者、殆ど肩に担ぐようにしている者――両こぶしの間は、ことごとく次第に狭くなっている。
「こら! そんな捧げ銃があるか!」
と、こちらで指揮していた中尉が叫んだ。
みなの額にあぶら汗が浮かんで、滝のように頬をつたっている。顔色の蒼ざめて来た者もあった。
小隊長はおずおずと列を一めぐりしながら、
「おい、笑った奴は出てくれよ」
といったが、誰も黙っていた。しかたなく彼はもとの位置に帰ってまた捧げ銃をしたが、十分くらいたつと三度《みたび》歩き出して、隊員に哀願した。
「ちぇっ、イクジのない小隊長だなあ!」
と、自分の小隊で舌打ちした者があった。自分も、彼が苦しくなるとそうやって短い息つぎをやっているのではあるまいかと皮肉に考えた。しかしこの小隊長はしばらくの後に、実に勇敢な行動に出たのである。
教官の山辺中佐が、歩みながら、例のロレツの廻らない不明瞭な声で、
「おい、笑った奴は正直に出ろ」
と、呼びかけた。しかしそれは一種のゆきがかりでいったので、腹の底から怒っている声には聞えなかった。
虚心坦懐に考えて、自分は少しバカバカしくなった。この感情は老中佐のみならず、奥野中尉その人の心の底にも小さく動揺していたに違いない。しかし中尉や中佐は、それを色々な理屈で道理づけようと努力したであろう。――その理屈は自分にも想像される。
正直さとか男らしさとか、軍事教育の威厳とか――しかし、笑ったそのことを問題にする者はもうなかろう。たしかにそれはバカバカしいことである。奥野中尉の言動を必ずしも責めない人々はいうだろう。「それは小事に似て、小事ではない」と。この考え方はよく使われる。しかし自分はこのいい方に頗るあきたらぬものを感じている。例えばそういう人に、「では小事に似て小事ではない、とはどういうことか」とつきこむと、その返答としてあげる例が、たいてい的はずれか牽強付会か或いは誇張であるか、いずれにしても不自然なものの多いことをみても分る。
一般に軍隊教育、いや日本の修養教育には恐ろしいムダがあるのではないか? もっとも人間の肉体そのものにすらムダなものが少なからず存在していることを知っている自分は、そのムダの是非を断然決定するほどの勇気はないが。――
今、ちょっと考えるのであるが、「例」はすべて例であって、その本態ではない。神はこの世に一つも同じものを――形而下のもののみならず形而上のものをも含んで――創らなかった。本態本質はそれぞれ世界にただ一つである。しかし人間はそれを説明するには、どうしても言葉をつかわなければならない。いや思考それ自身言葉なくしては成り立たない。ところがこの言葉というものが――言葉はほとんど「例」の集合体といってさしつかえないほど不安定で不明瞭なものである。絵は絵具で表現する。絵具もまた「例」の一つである。文学に於ける文字の羅列ももちろん「例」である。それによってその本態の朧ろげなる相を想像させる相互の規約にすぎない。「雷のごとく怒った」という。動物は怒ったときにはかみつく。それを雷のごとくという例で表現するのは、万物の霊長たるゆえんの一つかも知れないが、「かみつく」ほど明白で直接的ではない。かかるいいかげんな言葉で表現し、わかったつもりですましているのは、人間の不完全な証拠である。芸術のみならず自然科学でさえも、そもそも仮説から発している。自分は規約で表現するのを責めるつもりはない。それは真にやむを得ないことである。しかし、いい古されたことではあるが、画家は絵に溺れ、詩人は詩に溺れて、それで自他ともに満足しているのは――いや、それはいい、自然を描いたのではなく、自然を歌ったのではなくとも、絵具には絵具そのものに、文字には文字そのものにまた別種の美がある。ただ、道徳の「例」だけは鼻持ちがならない。修身の講義が無益であるのみならず、かえって反撥を起させるのはそのためである。要するに、自然とか精神とかの真髄は、ただ直感により、以心伝心により、不立文字により、悟りによってわがものとなる。
何だか話が横にそれてしまった。
さて、教練中の出来事であるが――自分がふと顔をあげたとき、捧げ銃をしていた三小隊の中から、一人さっと歩み出た、「やった!」と、だれか小さく叫んだ。すると一分ほどおいて、また一人進み出た。それから二人。――五人になったとき、それに気づいた奥野中尉が、遠くで「よし!」と叫んだ。
「その五人はその位置で捧げ銃だ! あとの者は立て銃、休め!」
五人の者は三小隊の列と向い合って銃をあげていた。銃を下ろした三小隊にはだれもヤレヤレといった顔をする者はなかった。微風のような感情が波打っているのが感じられた。こちらの小隊で、「あとの奴らはなぜ出んか? 卑怯者だなあ!」と叫んだ者があった。そう見られていることを三小隊は感じている。またそれぞれの心にも、五人に対する後ろめたいものがある。それから、本人が笑ったと否とにかかわらず、敢然と進み出てみたい二十歳前後の感情がある。――ノコノコと、三人ほど出て来た。つづいて、また四人。――
十分も立たぬうちに、今度は前と反対の方向にむいて、長い一列の捧げ銃の連なりが出現した。真っ白な日の下に、それは一つの壮観であった。
奥野中尉が走っていった。そして何かわめきながら、最初の五人をのこして、あとはもとの位置に帰らせた。中尉が戻って来て、しばらくすると、突然小隊長が、
「捧げ――つつうッ」
と、全員に叫んだ。
「こらっ、何故そんなことをするか! だれがそんな勝手なことをしろと命じたか! 松柳、やめさせろ!」
と、中尉がさけんだ。ほんとうに怒ったらしく、頬が真っ赤になっていた。松柳は黙っていた。中尉はまた駈けていった。
「やめさせろというんだ、松柳、貴様ツンボか?」
ふだん茫洋としている松柳は、モジモジしながら、黙って中尉の顔を見ていた。
「号令が分らんか、立て銃だ。言え、松柳、言え!」
「言えません!」
と、松柳が叫んだ。
「なぜ言えない?」
「笑ったのはAたちだけではないのであります」
中尉はうっとつまってしまった。そして次に、甚だ精彩のない言葉を吐いた。
「何でもいい、おれの命令だ。あとの者は立て銃にしろ」
松柳はしぶしぶ「立て銃」といった。この問答は約五分くらいであったろうか。しかしはらはらと手に汗を握っていたためか、大変長く感じられた。「へへえ、見直したぜ、松柳」とこちらでまただれかつぶやいた。
中尉は強権を以て征服してから、こちらに戻ってまた指揮をとりはじめたが、軍隊のみならずこの学校の教練でも、かかる事態を経験したのは初めてだったと見えて、時々ボンヤリと号令をかけたり、また号令を忘れたりした。
教練が終ってから、もちろん二人の教官は叱った。
山辺中佐の話。
「われわれがお前達に軍事教育を教えるのは、何も銃の操作や戦闘法ではない。ただ軍人精神を叩きこまんがためである。軍人精神は、畏れ多くも軍人ニ賜ワリタル勅語の中にある。その中に――気ヲツケ――「下級ノモノハ上官ノ命ヲ承ワルコト実ニ直チニ朕カ命ヲ承ワル義ナリト心得ヨ」――と仰せられている。軍人精神の中で最も大切なものは、服従の精神である。それに照らしみて、先刻の第三小隊長の行動は甚だふとどき千万である。教官の命令のもとに、みなが一致団結、機械のごとく動くようでなくてはならん!」
「バカヤロめ、一致団結したら、おまえみたいなオイボレ、ノシちゃうぞ」
とだれか小声でいった。
「今や日本の全階級、ことごとく軍隊組織に切換えられようとしている。工場はもちろんどの社会も在郷軍人が主体となってこれを指導する時代が今に来るのである。おまえたちに教練を教えるのは、軍隊的学生を以て社会の中心構成の一つたらしめようという目的であって、単なる学生に対する教育ではない。われわれはおまえたちを通して、社会を改良せんとしているのである。先般、学校軍事教官あてに、東京師団兵務局長から、学生の日常行為すべてに注意を払い、たとえば乗物等に於ても老幼に席を譲らず平然と坐っているような学生、直ちにその学校名を調べ通報せよという命令が参っておるが、それはすべてこの大きな趣旨に基づいておるのである!」
「チクショー、おれたちゃ前科者じゃないぞ」
と、後ろの方で小さい声。
代って、奥野中尉の話。相当、考えに考えていた顔である。
「おまえたちがこの学校で教育を受けているのはなんのためか? 飯野!」
と、第三小隊最前列の学生を指さす。
「はいっ、医者になるためであります」
「医者。――文科の学生はことごとく前線に立ち、他の理科諸学校の生徒もほとんど動員で工場にいっているのに、おまえたちだけ許されて学校に来ているのは、たんに医者になるためか。――早野!」
と、そのうしろを指さす。
「はいっ、国家に有用なる医者になるためであります」
「国家に有用なる医者とは? 山田!」
「はいっ」
と、三小隊の山田が口ごもっている間に、きっと中尉はこちらをむいて、
「山田! まだほかにも山田がいるはずだ。なぜ返事をせん?」
と、どなった。――ここにもムダの甚だしい適例が発揮される。
「それは軍医になるためでありますっ」
「そうだ!」
と、奥野中尉は大きく肯いた。
「そうだ。軍医になるため。軍――軍医、軍人になるためだ。まず軍人、医者は二の次だ。いかに医術にたけていても、軍人精神のない軍医はものの役に立たん! まず軍人精神さえあれば、医術など知らなくても――」
ちょっと、言葉のハズミがすぎたようだ。中尉は黙ってしまった。それから、やっと何か言葉を見つけ出して、色々怒ったが、その文句は忘れてしまった。
自分はこの教官たちの言葉や行動を云々することはできない。その人たちの心情はよくわかるし、またそれを是非する資格もない。自分は何にもわからない。一世の木鐸の言にも首をかたむけるし、乞食、殺人者の歎きにも首をかたむける。
ただ教官たちの言葉が、二十歳前後の学生たちのワンパクな、ナマイキな失笑を買ったことだけは事実である。
二十八日 晴
○「勤労動員令下ル。三十日、重大ナル注意アルニツキ、一中隊全員放課後講堂ニ集合スベシ、奥野中尉」
と、掲示が出る。あとで見たら、「中尉」の横の二本の棒がいたずらされて、「小尉」となっていた。
みな騒然となる。噂によると期間は二十日間、日暮里あたりに疎開作業にゆくとのこと。
○街をゆくと、第一国民兵の老人部隊が銃を担いで、大声に軍歌を歌いながら、どこかに訓練にゆくらしく、ハリ切って行進していった。どこへいっても、裸になって体操している中学生や、銃剣術をやっている産業少年群、戦闘教練で散開して伏射の姿勢などしている学生の姿が見られる。依然、本格的な白熱の酷暑。
二十九日 晴
○午後より化学試験。
○先日の「例」の無力論を有力ならしめる論を二つ発見した。
「生命はエネルギーの一つの型である。それ以上いうのはなかなか容易ではない。生命に関する定義はアリストテレスの昔から現在に至るまですべてひとしく不満足である。生命とは何ぞや、という質問に対し、科学者は総括的な解答を与えることはできないのである。生命とは生きている状態である、というようないい方は、ただ言葉の上の綾でしかない。生命の完全かつ満足な定義を与え得ないことには理由がある。それは生命なるものが余りにもユニークなもので、これを他の如何なるものに比較して定義して見ようもないからである」(The story of science by David Diety)
「げにあらゆる人間の想像を超絶し、ひとえに無限、円満、全智、全能というがごとき消極的観念によりて、わずかに思念せらるる宇宙の創造主たる大御神をば、人間の形似と色彩を以て表現せんと擬す。事すでに不倫の極みたるを免れず。その結果の滑稽に終るなきを以て無上の幸いとせむ。吾人は本邦古今の美術に就て仏陀の像を観たるものほとんど無数、しかもついに一個歎美すべき表現に接せざるは、吾人の大いに遺憾とするところなり。かのいわゆる出山の釈迦と称するものは、多くは憔悴垂死の一乞食漢のほかに何物をも現示せるものにあらず」(高山樗牛『人物の理想表現』)
例えがたきは、生命や神のみではない。塵も膿も糞も、森羅万象ことごとくユニークであり、人間の想像を絶している。糞の汚なさは、糞よりほかに現わしようがない。
三十日 晴
○昼休み時間、医化学教室で、第二類陽イオンB属。第三類陽イオン、第四類陽イオンの反応及び分離実習。午後生理学教室で、筋肉の攣縮曲線を塗煤円筒に描く。
○放課後、講堂にて奥野中尉より、明日よりはじまる勤労動員に関する注意あり。
今回の命令は非常措置要綱に基づくもので、たんなる勤労奉仕ではない。現在のところ第一学年のみに発動す。仕事の内容は疎開事業を促進せしむるものにして主として運搬に携わる。警戒警報発令さるとも続行す。期間は約十日間の予定なり。明朝八時半常磐線南千住駅に集合すべし。
大体こんな注意を与えてから、奥野中尉は、新らしく作られた「軍医勤労報国隊の歌」を歌ってみなに練習させる。それから、
「めったにきかれないぞ。つつしんで聞けい」
と大いにいばって、歌い出したのが明治初年に作られた「陸軍教導団」(?)とかの歌で、一節歌ってはみなに合唱させるのだが、あいの手にコリャコリャといいたくなるようなもので、みな抱腹絶倒。しかし、ゲラゲラ笑うみなの声を尻目に歌いつづける奥野中尉にはしだいに感心し、しまいにはみな一所懸命歌った。
軍人はやっぱりいいところがある。もし新聞が軍人様々と神様みたいな記事ばかりのせ、それにつりこまれて軍人どもが、「軍人にあらずんば」というような顔さえしなかったら、自分は無条件に中尉を敬愛するかも知れない。
○軍人を見る眼と、祖国を見る眼が一致する必要はない。軍人を批判することが、日本を冷眼視することにはならない。愛国者は軍人のみでないことは知る人ぞ知るである。
それを故意に混同して煽りたてるのは新聞の一つの任務かも知れないが、一毫の思慮もなくそれに煽りたてられて混同し、得々としたり、戦々兢々としているのは見苦しい。
さらにすすんで、祖国に絶望することが必ずしも非国民ではない。吉田の傾倒する浅野晃氏のごとき、自分は大きらいである。二口目には、「しきしまのみち」だの「かえりみなくて」だのいう万葉言葉を使用して、読んでいる方で背中に冷汗が出る。もちろん本人にいわせたら深刻な信念があるのであろうが、惜しむらくはもっと昔にいって欲しかった。
日本の前途に悲観的であったという点で彼が斥ける漱石や鴎外が、はたして彼よりも価値のない日本人であったかどうかは歴史が決定するであろう。浅野晃のごとき名は歴史のレの字の中にも残らないであろう。そんなことは自分の意とするところではないというのは浅野氏の勝手だが、ただどんなに鴎外や漱石が日本に絶望していたとしても、いやそれゆえにこそいっそう、自分たちは彼らになつかしさとありがたさを感じ、また誇りに思うのである。
自分たちは神の国の子でも、悪魔の国の子でもない。日本の子である。アメリカ人がアメリカの国民であるように、日本の国民である。自分はその宿命に甘んずる。この観念以上に日本国民であるのは――特別製の非人類的な観念、神秘なるウヌボレを以て日本のカラにとじこもるのは、未来の日本にとって決してよろこぶべき現象ではない。
○ロマン・ロラン『ミレー』読了。
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七月
一日 晴
○ドンヨリ水蒸気の多い灰色の雲が垂れ下がって、息をするのも苦しいような蒸し暑い日。朝七時半新宿を出て、日暮里でのりかえ、八時ごろ南千住の駅につく。
八時半より作業にかかり、とりこわすべき省線沿線の家々の間を歩いてみる。
もちろん住人は強制疎開をさせられたあとで、たたみ建具は取払われ、すでに崩れた壁、穴のあいたガラス窓、ひっくり返った門――埃のたまった床は荒れて、この家々につい先日まで幾十人幾百人かの人間が生活していたのかと思うと、鬼哭啾啾《きこくしゆうしゆう》たるものを感じないわけにはゆかない。
それからみなあばれ出した。道具といって金槌一つを与えられたわけでなし、ただ肉弾のみでやっつけろということで、しかたがないが、ていねいに壊せばまだ色々用途もあろうと思われる戸、板、襖、柱などメチャクチャに叩き壊す。都の方でも、まず壊すことが最大かつ緊急の目的なので、いかに荒れ狂ってみても天下御免である。
天下御免で一市街ブチ壊すなんて、夢にも思わない果報だとばかり、みなよろこんでイヤ暴れるの何のといったら、壁は蹴りまくって穴をあける。閾をはずしてブンブン振り廻す。果てはお調子者が屋根に飛び上って音頭をとり、数十人力を合わせて家一軒を押し倒してしまった。流れる汗、朦々たる埃の中に荒れ狂う連中の一過したところ、みるみる一帯は惨澹たる廃墟と化してしまった。
この疎開作業に学生を使うのはまことに適材適所というべきで、医者になるより壊し屋になった方がマシな連中ばかりである。
休憩時間には数十人輪を作って、ヒポクラテスを歌い狂う。空屋となった風呂屋に水風呂を作って、中で大あばれしている連中もある。何だか自分は滄桑《そうそう》の変というより、もっと烈しい悲哀を感じ、荒れはてた家々を眺めながら憂鬱になってしまった。
それでも一ヶ所に幾らかはとりまとめてあったトタン板やガラス窓がないないと騒いでいるので近づいてみると、どうやらこの辺一帯の裏長屋の女房隊の奇襲によるものらしい。実際、今眼の前で壊している背後から、木ぎれなどひっ抱えて逃げるのだから手に負えない。
はじめは、「ここを追い出された人々のことを考えて下さい。これは貴重な軍需品にあてられるんです」とか何とかしおらしい注意を与えていた連中も、しまいにはみなカンシャクを起して、
「きさま、それでも日本人かっ」
と大喝し、ゲンコをふりまわして追い払うのにかかり、はては根まけがして、「わしゃかなわんよ」と坐ってしまう、「なに、一種のバクテリアだと思えばいいさ、あれもまた清掃事業になくてはならん因子だよ」という苦労人派と、「その精神がいかん、とにかく現在われわれの目の前でドロボーして逃げる――それを黙って見ていることはいかん。片っぱしから殴ってしまえ」と叫ぶ正義派と。――
午後、たたみなどを指定された臨時倉庫に運び入れ、ムスビを一つずつ貰って三時ごろ解散。まるで蟹だ。
全身汗と埃にまみれて、混んだ電車の中の気味悪さ。ツーンと鼻を刺すような寒冷な空気を一息吸ってみたくって、口をパクパクさせる。
新宿につくと、雨になっていた。雨はふってもむし暑さは薄れず、埃まみれの服と皮膚がベタベタ雨にぬれて、いっそう気持が悪い。
三日 晴
○きょうは四年の仮卒業式なので労働は休みだ。朝洗濯をする。
○午後一時講堂で卒業式。窓の外の青葉にくらくらするような白熱の太陽が照っている。卒業生は三カ月後にことごとく軍医となり、戦争にゆく。下級生が捧げる送別の辞には、「諸兄よ、われわれがふたたび諸兄に見《まみ》ゆるのは、必ず砲丸の中でありましょう」という一節があった。
○図書室より寺田寅彦全集第八巻を借り出す。
四日 曇時々雨
○きょうも南千住へ。朝九時ごろ第一種警戒警報発令。
廃屋の二階から見ていると、学校から避難して帰ってくる国民学校児童の大群が通る。先生に護られて、頭に座布団で作ったトンガリ帽子をかむって。……小さいとき読んだお伽噺の中のこびとや妖精があんな姿をしていたっけ。
しばらくすると、近所に住むこの小さな連中が遊びにやってくる。黙って仕事していると、うしろで「やーい、ばか大学生やーい」とはやしたてる。相手にしてもらいたくてしかたがないのである。ばか大学生には僻易する。しかしちょっとかまってやると、いつまでも相手にならねばならん。
昼休み本を読んでいると、うしろから首ったまにかじりつく。帽子を掴んで投げ捨てる。馬乗りになろうとする。手に負えないが怒る気にもなれない。しかしあとで何だか身体がムズ痒くなった。実際、まっくろな手足、洟汁、ボロボロの衣服、シラミでもおりかねない。
「ナニいってやんでい。バカヤロー」
というのが男の子の口ぐせ。
「あたい、もうオッパイがふくれるの」
これが一年生くらいの女の子のいいぐさ。
高等科くらいの女の子が、子供たちのうしろからじっとこっちを見ていて、だれかいたずらものが声をかけると、五、六歩逃げるが、すぐにまたじっとこちらを見つめている。だんだん馴れてきて、ときどきみせる表情、身ぶりには、すでに嬌態ともいうべきものが現われる。ああ、貧民窟の子らよ!
それでも男の子をつかまえて、「おまえ、大きくなったら何になるの」ときいたら、そっくり返って「少年航空兵だい」といった。
五日 雨
○朝より梅雨のような雨。作業にはゆかず。登校し、十時半まで奥野中尉の話あり。声涙ともに下るとも形容すべき声調。
「おれの経験した戦争は、比較的楽な戦争であったろう。追撃追撃で敵をシンガポールに追いこんで降伏させてしまったのだから、まず順調な戦争であったろう。だからおれは、ほんとに苦しい戦いを知らんともいえる。しかしそれでも、戦争というものがどんなものであるかは、チラリと見て来たような気がする。その思いをサイパンに馳せると、正直、このごろおれは夜も寝られんのだ。いかに悲惨なものであるか、わが軍がいかに壮烈な戦争をつづけておるか、こうしてあんかんと暮しているのさえ、すまなさにいても立ってもおれんではないか。日本は負けやせん、負けやせんとはおれも確信している。しかし、もし最悪の事態となったら――星条旗がこの日本本土にひるがえり、男はことごとく去勢され、女はことごとく米国のたねを植えつけられる――眼をつぶって、その地獄のような光景を想像してみろ。――」
眼をかっとむいて、みなを見まわしていった。
「がんばってくれ。すべては君たちの肩にかかっているんだ。おれだってまだ三十代だ。君たちに負けはせんと思うが、しかし潜在的な戦闘力は君たちの方がはるかに多く持っているんだ。……今日は君たちをねぎらうつもりでいたところ、へんなお説教になって相すまん。いや、お説教ではない。医学生に教練の教官がお説教するのではない。日本人の先輩が日本人の後輩に呼びかけ、訴える言葉だと思ってきいてもらいたい。……」
○午後、高須さんの家にゆくと、古清水さん来る。きょう会社で課長にひどく叱られたという。子供の病気で欠勤し、その子供の診断書を提出したのだが、「いま子供より国家の時代なのだ。子供が病気だからといって一々休んでいたら、子供の五人もあるおれはいつ出勤ができる」と課長に叱られたという。
その上、古清水さんは、いま住んでいる北千住のアパートを持主が軍需工場の寄宿舎に売ったため、至急立ち退いてくれと責められているという。ところがその引っ越し先がない。――
いまは全都に荒れ狂う疎開の嵐のまっ最中である。八百万の人口を二百万にするとかで、軍需工場、官公庁、駅、その他重要建築物の周辺及び鉄道省線の沿線、さらに人家|櫛比《しつぴ》して避難場所のない町はことごとく破壊されつつあり、町をちょっと歩いてみても至るところ惨澹たる光景だ。この人々は、貸間貸家を調べあげた区役所にいって、新しい引っ越し先を指定されるのだが、軍関係とか徴用の証明書のないかぎり東京に居残ることは禁じられているから、やむを得ず知人親戚の家に転がりこむ。需要と供給の差がひどいので、古清水さんのような理由のものは、どうにもゆくさきがないのだという。
その上、たとえ引っ越し先が見つかったとしても、区役所へいって、そのとき前住所の強制疎開証明書がないと配給物がもらえないようになっているという。まったく手も足も出ない。
高須さんも近く目黒へ引っ越すことになっているので、これは家はあるがいささか不安そうな顔になる。
ともかく、まず向うの家の前住居者の同居人として入り、その人々がいなくなると、その留守居として、その人の国債、貯金の割当を払う犠牲を負ってゆくより法はないとのこと。
○四時半、警戒警報解除。
五時のニュースで、サイパンの戦況に関する大本営発表。敵軍次第にわが陣地に侵入し来り、わが軍は白兵を以てこれと戦い、目下紛戦状態なりと。
それからラジオはシーンとして、突然、「情報局発表」を叫び出す。今回大陸に開始されたる大作戦は支那民衆を敵とするものにあらず、米英撃滅のためにして、わが真意を了解するものに於ては、重慶軍といえどもこれを受入れるにやぶさかならずと。
サイパン! ああ、また玉砕ではないのか。将兵はとにかくとして、万余の在留邦人はどうなるのか。
――いうに忍びず、血涙の思いではあるが、しかし在留の老幼男女は、やはりことごとく将兵とともに玉砕してもらいたい。外敵に侵された日本国土の最初の雛形として、虜囚となるより死をえらぶ日本人の教訓を、敵アメリカに示してもらいたい。
しかし、海軍はいったい何をしているのか。なぜこの同胞の危急を救いにゆかないのか?
もしや――連合艦隊は――もはや太平洋から永遠に消えているのではあるまいか? そんなはずはない。まだその原型は厳として残っているはずだ。サイパンごとき小島に日本海軍を賭けることはできないとでも首脳部は考えているのだろうか。しかしサイパンを見殺しにして、海軍に本土を護ってもらいたいとは自分は思わない。
支那方面の作戦に関する帝国政府声明の真意がのみこめない。それは近衛声明をくつがえしている。事実に於てはすでにそうであったかも知れないが、ハッキリとそれを帝国政府の名に於て宣言したのである。
蒋介石を敵として戦死した過去の将兵やその遺族の心は忍ぼう。日本め、とうとう弱音をあげたな、と蒋介石や米英がこちらの鼎の軽重を問うおそれも忍ぼう。それより、いったいぜんたい、こんな声明が果して効果のあるものなのであるか?
たんに苦しまぎれの声明ではあるまい。そんなことを承知の上で、何らかの効果を狙って当局がこれを声明したものと信じよう。その効果を想像すると二つになる。
一つは、このたびの作戦で重慶も真に窮地に陥っているので、そこを狙った声明だということだ。これはまあ楽観的な見方である。もう一つは、最近の日本の苦戦に、国民政府とその治下の民衆が動揺を始めたのに対する鎮静剤だということだ。これは悪い方の見方である。汪精衛が重慶と連絡し、いつ裏切るかわからないので、いま日本の名古屋に監禁してあるという噂がある。
いずれにしても、日本の地盤がゆらぎはじめたことの表白である。
高須さんの話によると、いま沖電気の会議でも、みな満面蒼白のありさまだという。先日も軍需省の将校が自動車で飛んで来て、E金物という艦船用の無線機がないため潜水艦が出撃することができないと叫び、とりあえず出来上っていた二十台ばかりを持って駈け去ったという。
なんだか、黙々と耐え、ひたすら攻勢移転の機を待って、戦力を蓄積して来たという呼声が怪しくなった。八月攻勢という声は、このあいだまで国民の合言葉のようになっていたのに、このありさまでは八月まで持ちこたえられるのか。少なくとも八月攻勢の日に跳躍台となるべき要地を保持し得るのか?
ドイツも次第に後退してゆく。北仏に上陸した米英軍の橋頭堡は次第に拡大されてゆく。
「負けたら、死ねばいいんでしょう」
と奥さんがいう。死んだって追いつかない。
いざという場合、日本人はみずから全滅するとみないう。そうありたいものである。しかし、いざという場合、それが果して出来るか否かは疑問である。
これは自分の恐怖心で懐疑するのではない。そんなことになる前に、二十代の自分たちはすでに第一線で戦死しているからだ。
ただ老幼女子やその他多少の男子も死残る者があるだろう。東条はじめ軍と政府の首脳部は切腹する。切腹したって追いつかないが、それよりほかにしようがない。老幼男女もできるだけ死んでもらう。それでもなお、天皇と国民が生き残ったらどうなるか。おそらく、――
「みな死ね、日本人の最後を全世界に見せろ」と叫ぶ者と、「耐えろ、耐えろ、今日本人すべて死に絶えることは敵の思う壺にはまるものだ。犬死だ。歯をくいしばって再起復讐の時を待て」という者との二派に分れる可能性がある。そのときの新宰相は――近衛公?
ヘンな妄想におちた。
どちらにせよ、自分たちの死は覚悟の前である。あとは、日本人全部を信頼するよりほかはない。
六日 雨のち晴
○雨なので登校。生理学、条件反射の話。十時ごろ空碧く晴れて来たので南千住にゆく。
○みなメッチェンだのザーメンだのと騒いでいる連中ばかりなので、ドイツもコイツも話をする気がしない。自分はいつもひとりぼっちだ。自分がいつも一人ポツンと離れて立っているので、みなヘンな男だと思っているらしい。
「君、あまり勉強すると神経衰弱になるぜ」
と、蘇原がいった。
この言葉をよくとっても悪くとっても、自分は大変な勉強家と思われているようだ。なに、全然まともな勉強はしていないのだ。神経衰弱になるほど頭も冴えてはいないし、またものをつきつめて考える根気もないのだ。
「あまり、やりゃせんのだがね。……」
と、自分はぼんやり答えたが、自分の勉強しないことを吹聴したってはじまらないから、それ以上ものをいうことをヤメにする。
みなサイパンのことを話している。
「日本の海軍にはアイソがつきたよ。アメリカ艦隊に手も足も出ず、頭をかかえてちぢみ上っているんだよ」
この憎々しげな声の裏から溢れる海軍への愛と憂いの叫びをきけ。
帰途、お茶の水に廻り、明日とあさって高須さんが引っ越しをすることをきく。二日間学校を休んで手伝いにゆくことを約束。
○寅彦全集第八巻にはヘキエキ。力学も熱学も、物理の時間には居眠りをしているのだから、『地球物理学』なんて歯の立つ道理がない。代りに第九巻を借りる。これなら分らぬこともない。ポアンカレーの『偶然』や『事実の選択』など、純粋物理というより哲学に近い。
八日 晴
○運送屋の都合わるく、引っ越しはきょうはだめ。それで遅ればせながら南千住へ駈けつける。
作業途中で二十人ばかりエスケープする。運悪く、終りごろ奥野中尉来り、出席をとり直させ、このふとどき者どもは明日教官室へ出頭させよと中隊長に命ずる。
「あれくらいいったのに、おれの誠意は君たちに通じないのか? いったいおれはどうしたらいいんだ? な、正直にいってくれ」
と、中尉は怒りをたたえた微笑の顔である。
解散後、三々五々帰途につく連中の話。
「奥野め、イヤに芝居がかってやがる。あれに乗るほどこちらは甘くねえぞ」
「どうしてもあいつは追い出さねばならん。猫っかぶりめ」
「軍人軍人といばりやがって、戦争さえすんだらみな廃物だぞ。今ごろ航空隊へゆく奴らはみんな知恵の足らん大バカ野郎だ」
「とにかく遊べ遊べ、日本なんかまけちまえ。アメリカが上陸したら、おれはメチ公つれて信州の山奥へ逃げこむからいいや」
無邪気といえば無邪気かもしれない。しかし自分は軽蔑する。中尉は、「君たちの生活には何一つ青春の愉しみというものがないのには真に同情する」といった。自分は全然同情しない。こいつらは真に地に踏みにじって唾を吐きかけてもあきたらぬ連中である。そしていう、
「おれはキョムに落ちたよ」
笑わせてはいけない。虚無というのはもっと高尚な思想だ。
中尉が正直にいえというと黙っている。試験になるとキューキュー勉強する。女女と騒ぐ。虚無とは縁なしだ。自分は決していわゆる愛国者でも慷慨型でもないから、こういうことについて皆に何かいうガラではないが、とにかくこの連中を腹の底から軽蔑する。
自分が奥野中尉を罵る連中を軽蔑するのは、それが言語道断な非愛国的言辞であるからではない。またとくに中尉が好きだからでもない。好くも好かぬも、もともと自分は中尉とは全然肌の合わぬ人間である。従って中尉の方からみれば自分のような学生は、最も始末におえぬ無縁の学生であろう。
「山田は皮肉屋だ」とよくいわれる。
しかし自分はべつに故意に意地悪い観察をしている覚えはない。人間は美と醜の両反面を持っていることは事実である。そのどちらをも自分は唇に上せたい。ただ人間は醜を美の仮面で覆うことが多いから、その刹那に真実を指摘したい衝動にかられ、かくて「山田は辛辣だ」といわれることになるに過ぎない。美だって、公平に認めようとしているのである。だからこの場合、中尉の誠意のうめきも、たしかに胸に受けとめることができる。
それを看取し得ないで――まごころをまごころとして認めることができないで――ムチャクチャをいう連中を人間的に軽蔑するのである。それだけの感受性、理解力を持たぬ連中を人間として(人格という意味ではない)軽蔑するのである。
相手が誠意を以て語ってくる場合、「そんなに甘くはないぞ」と威張っている人間に限って、虚偽の仮面にコロリと化かされる率は多いにちがいない。この精神的鈍感はどちらにも応用されるからである。
中尉の誠意は認めるが、ただチョットいってみるだけだ、という者があるかも知れない。これは美しい絵に糞をたれるにひとしい。
○徳川中期以前の歴史は自分にとってほとんど興味のないものになった。そこに躍る群像は「日本」の意識に薄い。幕末明治の歴史こそ今胸を打つ。吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、etc、彼らが心血を以て作りあげた日本は、いまや累卵《るいらん》の危きにある。われわれは死を辞せない。しかし一朝にしてこの人々の苦心を水泡に帰せしめるに耐える心を持たない。
○今未明、米機ふたたび北九州へ来襲す。
九日 晴れ
○日曜ではあるが晴天であるかぎり作業はあるとのことで、きょうも南千住へ。
○三河島から南千住駅のあいだ――朝の光が、惨澹たる廃墟と「小塚原烈士の墓」を照らしている。
○昼休み、或る家の前の竹の涼み台に横たわっていると、高山だの松内だの土端だのいう連中が、誰を殴らねばならんだの、やくざの喧嘩の作法だの、しきりにしゃべっては唐手の構えの実演などやっている。何とかいうやつはカンジが悪いから一ぺん殴ってやるとか何とか唾をとばしてしゃべっている。なに、本人たちだってあまりカンジのいい方ではない。
――なるほど、自分たち学生の世界には、こういう世界もあった! ということを久しぶりに発見して、自分は大いに感心した。ただ非常にばかばかしかった。
「なに、一発どやすだけどやしておいて、あとでサッパリと仲よくなりゃいいんだよ」
など聞える。殴った方はサッパリするだろうが、殴られた方はサッパリとはせんだろう。突然同級生に殴られて、それであとサッパリとするようでは男ではない。
○ぶらぶら円通寺へ入って、黒門を見たりする。お盆のためかしきりに読経の声が聞える。自分はしきりに忠という道徳について考えた。
いったい世に純一無雑な忠が存在するだろうか。興りゆくものへの忠も滅びゆくものへの忠も、どちらにせよ「自分」が絡まっているような気がしてならない。人間の世界ではそれが当然といえるかもしれない。
門前の「殉難幕臣之碑」の傍に腰を下ろして、往来の向うで、建具はもちろん壁もとりはらった骸骨みたいな大きな家に綱をつけて、七、八人の人夫が声をそろえて引いているのを見る。メッキ、メッキと、低い、そのくせどんな遠くでも耳に響くぶきみな音をたてて、家がきしみ、ゆれはじめ、往来の見物人たちのわぁーっという悲鳴とも喚声ともつかぬ叫び声の中に、家は轟然と崩れ落ちた。凄じい土煙――息もつまるような土煙が、一瞬に往来やあたりの家々をかき消してしまった。
十日 晴
○午前中たたみ四十枚と襖建具四十枚を第二瑞光国民学校へ運ぶ。
○自分は学校へ入りさえしたら、たちまちすぐれた友人を見つけることができると思っていた。その望みは裏切られた。
何たる軽薄な雀どもだ。見ていると、裏長屋のおかみさんを相手にドイツ語の単語をつかって、きいていても背中に汗が出る。しかし、みなは自分をどう見ているか。
A曰く「あんた、いつもじっと何か考えているようですね」僕「何も考えていやしない、そう見えるならとんだ買いかぶりです」A「とてもゲンシュクな感じですよ」僕「同時に腹がへって、倒れそうな顔でしょう」A「そういえばそうかも知れない」
僕曰く「あんた、何読んでるの。――ヂンメル・断想――へへえ、ヂンメルってだれですか」B「あんたヂンメルを知らないの? 山田さん、底が見えるよ」僕「ソコ? 僕の底が見えるって、どんな意味なの?」B「いや、あんた何でも知ってるらしいから……」僕「冗談じゃない、僕は何にも知りませんよ」
C曰く「山田さんはいつも一人離れて黙っていますね」
D曰く「あんた、何だか哲学者みたいだね。俗気を超越しているね」
軽蔑と敬意の混合した評。軽蔑はいいが、いくばくかの敬意もあるとすれば、まとはずれだ。自分はほんとに何も知らない。俗気にはみちみちている。
○昼休みまたぶらぶら歩いていたら、下谷金杉町というところへ出た。挺進隊の余得で、すしとそばにありつき、引返したら道をまちがえて白鬚橋に出る。名に似合わない近代的な鉄橋だ。「明治天皇行幸対鴎荘遺跡」という橋畔の碑を仰いでいると、満々とした河面からまひるの白い熱風が吹いてくる。石垣によせる水には重油が碧い虹をえがいている。河を舟が二艘動いている。橋場町を通る。吉野町を通る。
このころからしきりに便意をおぼえ、公衆便所なく大いに苦悶す。青くなって山谷町の疎開中の銭湯に入り薄蒼い大天井の下にしんかんとしたタイルの上に脱糞する。
○午後三時の休憩に第一瑞光国民学校の体操器具室のマットの上でひるねをしていると、相撲部の連中が四、五人ドヤドヤと入って来て、何やら密議を交わし出す。ちらと自分の方を見たが、すでに仙人視している自分に安心したらしく、ことし落第したAがBを叱っている。名は知らない。Bがこのごろ気にくわない連中を殴ってまわるのでそれが問題となって、学校に訴えるという動きがあり、そこでBに少しつつしむようにAが説教しているのである。
落第氏曰く「そりゃおれも殴る。おれも殴るが、お前の殴るのとはワケが違う。だれだって同級生に殴られてみろ、何をこの野郎という気になるにきまってる。おれは殴っても、だれも不平はもたんのだ。あの人はふつうなら二年のところを一年にいるんだから……と」
自分は吹き出さざるを得なかった。人間うぬぼれとカサッ気を持たないものはない。金持は金持なるがゆえにうぬぼれ、乞食は乞食なるがゆえにうぬぼれる。柔道部は男性的なるを以てうぬぼれ、文芸部は知性的なるを以てうぬぼれる。勉強家も怠け者ものん気者も神経衰弱も、ことごとくそれゆえにうぬぼれて鼻の穴をひろげている。
片腹痛くもあるが、また荘厳な人間の心といっていいかも知れない、「うぬぼれ」なる心理現象はまじめな研究対象となるに値する。
○『ミル自伝』を読む。
十一日 晴
○暑い。午前中、たたみ六十枚、建具四十枚を瑞光国民学校に運ぶ。
学校より示達。
一、本年度夏期休暇ハ左ノ通リ実施ス。
第四学年ハ七月十一日ヨリ七月三十一日迄トス。但シ陸海軍軍医学校ニ入校スル者ヲ除ク。
第三学年以下各学年ハ八月一日ヨリ八月三十一日迄トス。但シ勤労動員ソノ他ニヨリ臨時変更スルコトアルベキニツキ旅行先ヲ届ケ出ズベシ。
八月中ニ於ケル防空要員トシテ滞京待機ノ割当ハ決定次第示達ス。
○孤独に耐えよう!
○日記などに、自分に関する人の批評を書くと、よかれあしかれ、自分のうぬぼれをふくんだ感じになるのは免れ難い。他人が見ると、これも片腹痛かろう。しかし、自分にはそんな気持は全然ない。他人を軽蔑するといったって或る見地から軽蔑するのであって、全面的なものではない。従って他人から自分を見ればまた軽蔑すべき人間に見え、またそれに値する人間であることは充分に知っている。
十二日 晴
○炎天続く。作業もまた続く。
○サイパン北隅に追いつめられた日本軍はなお死物狂いの戦いを続けているらしい。すでに島の大部分は占領されたらしいが、他の住民はどうなってしまったのか? もはやサイパンの失陥はふせぎ得ぬとしても、せめて残存の将兵や住民は救い得ないものか? 海軍は何をしているのだ。海軍を恨まざるを得ない。
十三日 晴
○碧い夏の日の下に、瑞光国民学校のプールで赤いふんどしの子供たちが水しぶきをあげて遊んでいる。赤い夾竹桃の花が夏の風にかがやいている。南千住の町にも、氷の赤旗がポツポツ出はじめた。九銭のもの、十銭のもの、十五銭のもの、値段はメチャメチャだが、味も量も全然同じ。何か赤や黄の液体をかけてはあるが、甘味は全然ない。クラクラするような日の光の中に、雑炊食堂の前には依然として恐ろしい人間の行列。
このごろ、また金なく外食券なく、絶食すること多し。
ツルゲーネフの『父と子』を読む。
十四日 晴
○連日の作業に身体のふしぶしが懶《ものう》く痛く、グッタリと疲れ、一日休む。風全くなく、まるで砂埃に埋まって皮膚呼吸ができなくなった蛙のような気持である。悪夢のような半睡半醒の間に、ツルゲーネフの『処女地』を読む。
十五日 晴
○依然酷熱。無風。明日はお盆なので疎開事務所の役人が休むので、学生も休んでよいとのこと。
食堂にも配給なく、休業のもの多く閉口の至りである。
十六日 晴・雨・晴
○暑い日。ミュッセの『ステラダラス』を読んでいるうち、ウトウト眠ってしまった。突然一脈の冷風を感じ、眼をさまして窓を見る。――と、一粒の白いものがさっとかすめて落ちた。雨だ!
煙草に火をつけて、窓に寄る。
空はそれほど曇ってはいない。白じらと覆った雲のところどころ薄蒼く透いてさえいるが、雨はポツリポツリと灼けたアスファルトに粒々の斑を描き出した。空気が薄暗い光に澄んで、それほど涼しくはないが、何だか涼しそうな蒼茫とした風景になって来た。
雷鳴が聞え出す。雨はいつまでたってもポツリポツリの範囲を出ない。しかし、何という大きな粒だろう。顔を出したら痛いような大雨滴である。往来のポプラが颯然とそよいだ。グヮラグヮラと飛び上るような雷が鳴る。たちまち沛然たる豪雨となった。三時半だった。
それから雨と雷鳴との大交響楽となった。南西の空――前の煙草屋の物干台に南瓜の花が黄色くそよいでいる大空に、かっと白い龍が狂いのぼると、またグヮラグヮラという凄じい音。雨は滝のようにふる。あわててガラス窓をしめる。桟のすきまから雨が漏って、白い埃のたまった桟の内側が黒くぬれにじんでくる。ガラスはどうどうと洗われている。むっとむし暑くなったので、ちょっと窓をあけて往来を見ると、南瓜の花も白い水煙に霞んで、アスファルトの往来は河のようだ。家々の雨樋は濡れて、軒から水の簾でもたらしたよう、家々の上の大空を、周期的に白い雨風がわたってゆく。
カンとガラスにぶつかったものがある。みると、あられだ。おやと思って往来や向いの屋根をみると、白い粒がコロコロ無数にころがっている。自分の眼の下の物干台にもパラパラと降ってくる。中には直径一センチもある氷の塊さえある。これはもう雹というべきであろう。
下宿のおばさんのさけぶ声がした。
「大変な雨ね。こんな真夏に雹なんかふって――サイパンでも落ちたんじゃないかしら?」
何となく凶変とか天災といった感じである。
しかし雨は一時間くらいで晴れ、日の光がさして来た。西空は眼のさめるようなきれいな青をのぞかせ出した。雷はまだ鳴りつづける。それも雨を失っていっそう激怒したような大雷鳴である。くわっときらめき、だだぁん、と咆哮し、それからごろごろ三分くらい反響をつづけている。
風呂に出かけると、途中またドシャぶりとなり、洗面器をかぶって逃げ帰ったが、ほんのちょっとのまにズブぬれになる。これでは風呂にゆく必要がない。
十七日 晴
○瑞光国民学校のまひるの日を眺めつつ、作業休憩時間に、だれが持ち出したことか、みなが「音楽に於ける音符と、文学に於ける文字との相似、相違」について議論している。のんきなものだ。
自分もきいていたが、用語があいまい不正確で、議論が混乱している。文字が言葉と混同され――漢字はそれを免れがたいが――「音響と文学」との比較に逸脱してしまっている。
○学童疎開の命下る。南千住あたりの子供は福島県、下宿の辺の児童は群馬県にゆくらしい。
最近またいたるところに防空壕を無数に掘りはじめた。その掩蓋とする材木、たたみは、疎開の廃材を使う、その上を土で覆う。九州空襲より得た知識だそうだ。
ちかく理工科系も学徒出陣の噂が流れる。医科だけは残されるらしいとの話だが、よろこぶべきか、悲しむべきか。吉田が去年出陣のとき、ああ救われる、とさけんだ気持が少し分って来たような気もする。
十八日 晴
○南千住から帰ると下宿のおばさんが「どうやらサイパンが玉砕したらしいですわ。女子供は豪州に送られたっていいますよ」という。頭に一撃を受けた思いである。
「へへえ、発表がありましたか」ときくと「まだないようだけど……」
デマだろうと思ったが、一ト月になる、あり得ることである。
正木さんの家にゆこうと東大久保の通りを歩いていたら、どこかのラジオが大本営発表を伝えていた。
「およそ戦い得る在留同胞は敢然戦闘に参加し、おおむね皇軍将兵と運命を共にせるがごとし」
といっている。
「戦い得ざる」ものはどうしたのだ? 豪州に送られたって? 日本人として実に冷酷無残な要求であるが、しかし一人残らず死んで欲しかった!
しかし、考えてみると、われわれにそれを要求する権利はない。一ト月余も死闘を継続して、しかもわれわれは何ら救援の手をのべることなく、ついに見殺しにしてしまったのだ。
「陸海軍が全然背中合わせなんですって! ケンカばかりしているんですって!」
と、下宿のおばさんが腹の底から怒りにたえぬかのごとく叫ぶ。
それが蜚語であることを信じたい。しかし自分は、敵に対してのみならず悲憤の念を禁じ得ない。
サイパン戦ついに終焉を告ぐ。空襲はやがて来るだろう。
○正木さん強制残業のため九時過帰って来る。沖電気では、今年中に命ぜられた生産量を二ヶ月内に仕上げろとの軍命令があった由。
十九日 晴
○東条内閣瓦解の噂あり。
○夕、下目黒の高須さんの家にゆく。浅草に住む高須さんの知人のラッカー屋加藤さん来り。三人でウイスキーをのむ、サントリー・ウイスキーいま一瓶二百円の由。
東条内閣瓦解の噂につき、加藤さん、酩酊して、
「だれがやったって同じだ。東条がいまやめるなんて、そんな無責任なことをさせてたまるか」
と、絶叫する。十一時過ぎ下宿に帰る。戸をあける下宿のおばさん甚だごきげんななめ。
二十日 晴
○今朝東条内閣総辞職発表さる。日本の苦悶――われわれはいかにすべきか。いかに祖国の難に応ずべきか?――一日中、このことが頭にこびりつく。
疎開の運搬作業中も「無責任な奴だなあ!」とみな東条さんを罵る。東条さんの苦しみはしかし一個人の責任無責任ではあるまい。ともあれ、緒戦当時議会で獅子吼したあの力強い声はもうきかれない。
小磯国昭大将に大命降下の噂あり。けさ朝鮮から飛行機で帰来したそうだ、と朝から噂をきいていたら、夕刻、小磯米内両大将に大命降下の発表、民衆の間のささやきの恐るべき早さよ!
二人の人物に大命降下とは稀有のことだ。国難の容易ならざるを見る。しかし――しかし――ああ、天才出でよ、超人出でよ。
今日もはや努力型の人間ではそのなすことは知れたものである。ヒトラー、スターリン、チャーチル、ルーズベルト、蒋介石、これらは敵味方を問わずことごとく一種の超人たちである。日本にはいないのか?
○本日を以て勤労動員終る。明日一日は慰労休暇とのこと。夏休みは時局の逼迫により短縮されるであろうとのこと。
上野公園を歩いていたら、茶店に蚊取線香を売っているというので、二束買う。自分の下宿には蚊はいないが、高須さんの家には蚊が多いので持っていってやろうと思う。軍隊用のものとか干うどんのひからびたような奇態な香取線香で一束二十本あまり二束で三円。
二十一日 曇時々雨
○ドイツ大本営爆破の陰謀によりヒトラー総統負傷す。
「いやンなっちゃうわねえー」
と下宿のおばさん嘆声をあげる。
○午前、学校で配給の白衣を買う、五円十銭。午後高須さんの家に香取線香を持ってゆく。夕飯をいただき夜八時過ぎ帰る。雨蕭々時々雷鳴。
○「妙なことにラスコーリニコフは大学にいるころは、殆ど友人を持たなかった。みんなから離れていた。誰のところへもゆきもしなければ、自分のところへも気軽く寄せつけなかった。彼は非常に貧乏であったが、何となく尊大で、傲慢で、打ちとけなかったが、何か自分に隠しているものでもあるかのようであった。彼の友人達には彼が高くとまって、みんなを子供のように見下し、知能の発達している点からいっても、知識の点からいっても、信念の点からいっても、自分の方がぬきん出ていて、他の者の信念や興味を何か低級なもののように見なしているという風に思われていた」
現在の自分に似ている。特に「何か自分に隠しているものでもあるかのようであった」という点は、自分は誰からみてもそう見えるところがあるかも知れない。高須さんでさえもそういった。「山田君がもっと肚をうちあけて、頼って来てくれたらなあ」
自分はこういいたい。
神様の世界ならそれでよろしい。赤裸々で、自分の心の隅ずみまでぶちまけてよろしい。しかし、悲しいことに人間の世界ではそうはゆかない。ちょっと隠している、ボンヤリしたところがあってこそつき合っていけるので、ほんとうに赤裸々に、従って恥知らずにぶちまけたら、だれだっていやになる。屁をひることは人間の生理現象だとは知っていても、自分の好きな女が屁をひれば百年の恋も醒めるだろう。それが人間なのだ。自分はそれを知っている。私なんかどこの馬の骨かわからない女だと、正直に或いは得意になっていったばかりに、そういうことには普通人以上に理解のあるはずの小説家に愛想をつかされた女性もある。人間には礼儀というものが必要なのだ。孔子ほどの人が礼を主張したのは、彼がこの人間性を底まで知りぬいていたからなのだ。
――さて、右の弁明はほんとうはウソである。自分の「礼儀」は恐怖である。打ち明けないのではない。打ち明けられないのである。如何に自分が人に訴えようとしたか。少年時代、いかに自分の回りの人々に、悲しみや苦しみや寂しさを訴えようとしたか。そしてそれに対して自分に酬いられたものは何であったか。「白状は軽蔑を買うだけである」この信条をさぐりあててから、しかもなお、自分は幾たび白状し、幾たび軽蔑を買ったか。
この体験がこわばって、今や自分の皮膚を薄いヴェールとなって覆いつつある。
「人間は自分が不当に判断されていると考える場合には、直ちに、そして永久に、真実を語ろうとする努力を放棄してしまう」(スチヴンソン『若い人々のために』)
二十二日 晴のち雨
○授業再開。夜高須さんの家にゆき九時ごろ帰宅。夕また雷鳴、夜更けても雨中を青白の稲妻照らす。
○米軍大宮島(グアム島)に上陸、激戦中との大本営発表。
○本日新内閣閣僚発表。首相小磯国昭、陸相杉山元、海相米内光政、軍需相藤原銀次郎等の大物に、新鋭大達内相のごときを加う。
二十三日 曇のち晴
○変に薄ら寒い日。この二、三日、防空壕の増設と、以前からあったものに掩蓋をかぶせる作業で、往来には朝の四時ごろから隣組の人々の叫んだり笑ったりする声がひびいているので、朝の眠りはしばしば破られる。けさもその半眠半醒の状態に加えて妙にうすら冷たく、夏というのに蒲団の中でふるえるほどだった。
○午後、晴れて来てからも、汗も出ぬ冷気。先日の約束に従い、午後一時、目黒駅前に高須さんの奥さんと、その知人高輪螺子のおばさんと待ち合わせ、近郷に買い出しにゆく。学校をさぼってのことなので、気は沈むが、高須家には数日ごとに食いにゆくのだから、この買い出しを手伝う義務はある。
目蒲線で大岡山へ、やがて砧につく、空青く晴れ来る。稲七寸あまり風に青い波をうち田園の夏たけなわである。
砧の或る農家にいったが、もう午後なので、胡瓜も茄子もない。早い人は、電車のない暗い時刻から歩いて東京から買いに来る、ととくとくとして農家のおばさんいう。やっとトマトを手提籠に二杯売ってもらう。六円なり。野菜の中でトマトが一番安いそうだ。
路へ出ると、あちらこちら、東京から買い出しに来たアッパッパのおかみさんが、籠を負ったり提げたりして歩いている。
トマトだけでは台所の足しにならず、二子読売園、三軒茶屋、桜新町など、高輪螺子のおばさんの知り合いだという農家を訪ねてみたが、知り合いといっても以前一度来ただけという程度で何の収穫もなし、むなしく帰る。
○下宿の女の子がこんど草津温泉に学童疎開をするので、蒲団の修理におばさんは大童である。蒲団が要るのなら子供はやれない、という家庭も大分あるそうだ。
二十四日 晴
○夏休みの短縮発表。一年は八月一日より二十日まで。二年は八月十一日より三十一日まで。三年は八月一日より十日まで、及び二十一日より三十一日まで。四年は休暇なし。ただし登校すべき十日間の授業は午前中限りとのこと。
○いままで出席は、出席票を配って授業後集めたのだが、人に頼んだり、席を二度移して二枚集めたりする学生の細工が絶えないので、きょうから教室の机に白エナメルで番号を書き、出席番号に合わせて着席することになった。とにかく出席せよ、全然休むよりはマシであるという校長の苦心の結果らしい。
自分は一二五番。これは一番うしろの席。ところが自分の眼鏡は中学時代買ったもので、その後買い換えることができない。度が合わなくて黒板の字見えず。
○人間は道徳的にはこの幾千年一つも進歩していないような気がする。宗教家も芸術家も、大道の靴屋以上の貢献を人類に捧げてはいないように思われる。
最も確実な貢献をするものは科学である。エールリッヒが六〇六号を、パストールが狂犬病ワクチンを発見した結果は、明確に残っている。しかし――この世界が昔より精神的に向上しなかったら――結果として、昔より幸福にならなかったら――何の役に立つであろう。牢獄は鉄から黄金に変ってもやっぱり牢獄である。
つまりわれわれは、ただこの世に生まれ、ただ生き、そしてただ死んでゆくだけなのではないか。
○「こうして彼は自分を悩まし、こうした質問で自分をいらいらさせ、そうすることによって一種の快感をさえ覚えるのであった。ことにそれらの問題はいずれも新しい問題でもなければとっさの問題でもなく、むしろ古くから持病のようにこびりついているのであった。これらの問題はもうずいぶん長い間、彼をさいなみ、彼の心をかきむしっているのであった。こういう悩みはすでにずっとずっと以前から、彼の中に芽生え、成長し、聚積し、最近では成熟し、集中して、恐ろしい、荒々しい、空想的な形をおびて来て、彼の心と頭を悩まし、どうしても解決を求めてやまないのであった」
ラスコーリニコフの殺人動機。こういった心理状態は自分もしばしば経験したことがある。
「頭が病的な状態にあるときに見る夢は、とかく妙に筋道が立っていて、鮮明を極め、現実とひどく似通うものである」
これも覚えのある現象である。
こういったほんの何でもない叙述にも人間の心理をえぐっているドストイエフスキーの恐ろしさ。人間の物凄さを描くという点では、ドストイエフスキーはトルストイよりも上なのではないか。
二十五日 晴
○依然うそ寒い朝。午後から日光がさし出したが、どこかうすら冷たい。ことしの作物が気にかかる。
○現在のように陸海軍が根本的にそれぞれ独立しているような組織は至急に改めなくてはならない。機構上、同体とまでゆかなくても、今より流通の自由なものにしなくてはならない。ことに空軍が陸海軍別々に存在しているのは、およそ意味をなさない。今や空軍は、陸軍海軍よりも偉大であり、決定的である。空軍省の独立はやがて必然的事実として現われるであろう。
○新宿の夜店――といっても、いまは暗くなれば閉じてしまうが――から、夕、カラーを買う。いまのカラーはみな紙製なので、自分は去年からヒビの入った惨澹たるカラーをつけていたが、珍らしく本格的なかたいカラーがあったので、奮発して五本買う。一本一円である。
夜店の大部分の品物は、ボタン、紐、靴のかかとの皮、鋲、針、団扇、扇子など、大声で人々を雲集させているのは、洗濯用の特製ブラシなるもの、それに燃料を節約できるというヘンな石ころ。
二十六日 午前冷雨、午後うすら日
○日本はほんとうに勝てるのか、果して「米英撃滅」が実現できるのか、勝たねばならぬ、どんなことがあっても勝たねばならぬという。まことにそうである!
しかしそれには、物的に或る程度まで敵と近似していなくてはならぬ。少なくとも向うが十の物を持っていれば、こちらも七(六でもよい!)の物を持っていなくてはならぬ。それすらもなくして、いたずらに勝たねばならぬ勝たねばならぬとウワゴトのように叫んでも――ああ!
それに、たとえ日本が現在の共栄圏を確保し得たとしても、問題はそれから始まる。自分は日本の武力よりも文化水準に悲観せざるを得ない。芸術、科学に於ても、正直にいって外国に数歩数十歩遅れていると思うが――根拠のない国粋主義から醒めよ! ――なお恐ろしいのは、国民的道徳水準の差である。ニイチェのいわゆる「積極的な国民個人の人格的な力」に於ける日本人への不安である。
二十七日 雨
○雨がざんざと一しきり降り、ぱっと日がさすかと思うと、またどしゃぶりになる。一日じゅう殆ど一時間ごとに空模様が激変する変な、しかし夏らしい日。
午後、辰野隆氏の講演。緒方校長の裸踊りを目撃した若い日の友人の一人だそうである。著書で想像していたような瀟洒たる老紳士、しかしまた想像していたほど威勢のいい人でもない。やっぱり大学教授といった感じのする人だ。
演題「新しき兵隊」
なんだか下手な小説の題みたいだが、内容は近来の戦争中に点見されはじめた「新しき兵隊」の姿について述べたもの。
ノモンハンの凄惨な戦いの夜々、幕屋で学徒兵の講義する『源氏物語』に聴き入っていた兵士の一群、シンガポール戦終結の翌夜、硝煙と月光のけぶる廃屋のピアノでショパンを弾いていた一士官、またバターンで米軍退去後落ちていたホイットマンの『草の葉』を拾って、以後陣中身辺から離さず愛読していた一兵卒、また仏印進駐終って帰還する船中で、「最大の土産物だ」とポーの全集を抱えこんで笑ツボに入っていた兵隊など。――これは日清日露の役には見られなかった「新しき兵隊」の姿だという。
またモスコーで芸術座上演するところのチエホフの『桜の園』を観劇して泣いた松岡外相の涙をスターリンが見てから、一瀉千里に不戦条約が成立したといい、真の文学の価値を説く。
――さてしかし、右のような「新しき兵隊」が、兵隊としていくばくの進歩であるか?
なんらのロマンスも理想もなく、黙々と命令のままに行軍する牛のような農村出身の兵士、またあたかも免許皆伝の若い剣士のごとく、ただおのれの技術を敵艦隊撃沈にためしたいという欲望だけに燃えたぎった純真熱烈な少年航空兵。
戦いそのものの運命はこのたぐいの兵隊によって決せられるのではないか?
二十八日 晴雨反復
○酔いどれの呆けた頭脳を信じることが出来ない。子供の無邪気な表情も、狂人の神経も、犬や猫の意味のない瞳さえも信じることができない。それらはみなじっとじぶんを見つめ、嘲笑し、そらとぼけているように感じられる。
○午後、各動物の筋肉の収縮と知覚神経の状態を幻燈で見る。和辻哲郎『偶像再興』を読む。
二十九日 晴
○本日で一学期授業終る。
午後友人とともに文化劇場に映画『暖流』を見にゆく。映画の目的からすれば、まず上々であろう。しかし、ほんとうのところあまり感服せず。一種の知恵の遊戯といった感あり。
夜、帰省の挨拶に高須さんの家にいったところ、あさって奥さんが千葉へ薪をもらいにゆくから手伝ってくれといわれる。
○『ミル自伝』読了。
ミルはその妻を最大限度にほめたたえているが、この自伝を書くころまで彼女が生きていたら、こうまでほめちぎるかは疑問である。
これは皮肉でいうのではない。いかに高尚な人間でも傍で息をしていたら、やっぱり人間である。それに反し、追憶の美しいメッキで飾られた人はもう人間ではない。――ただし、あれくらい自分の父を宣伝するミルのことだから、妻が生きていてもこちらの考えるほど謙遜するかどうかは分らないが。
どうも西洋人は、日本人には判断しかねるところがある。東洋人は「豚児」「荊妻」「愚父」などと呼ぶ。それは他人の前では、これらを「自分」の一部として考えるからである。その呼び方は卑称であるが、この東洋人的な考え方の方が、なお美しい心情ではないか。
○幼い時には犬が好きであった。このごろは嫌いというよりこわい。恐怖といっても、噛みつかれるとか害を加えられるといった恐怖ではなく「野性」に対する恐怖である。夜ふけ、往来でびょうびょうと吼えている声をきくと、びくっと眼がさめて、じっとそのまま寝ていられないようないらいらした恐ろしさ、静寂を破られた怒り、飼主に対する呪咀が、ほとんど激情的に襲う。学校で自然科学、下宿に帰って文学や哲学の本ばかり読んでいるうち、自分の「野性」は糸のように衰弱してしまったらしい。
三十日 雨
○雨のざんざとふる中を、本郷へ本買いにゆく。解剖の本と、力学熱学の本を買いにいったのだが、本郷の金原書店、南江堂、南山堂と探し廻り、神田の本屋街をしらみつぶしに一軒のこらず歩いたが、ついに一冊もない。医書といえば、戦陣医学だの南方医学だの空襲手当法みたいなものばかり、物理関係書といえば、飛行機工学だの旋盤何とかだの――こんなものばかりで、基礎的な書物が一冊もないのは何ということだろう。くたびれはてて、もう何でもいいという心境になり『医学序説』と『雨月物語』を買って帰る。
○現在の工場で一番成績の悪いのは徴用された連中だそうだ。彼らは「要領」をモットーとし、幹部が廻ってくると忙がしげに机や機械にかじりつき、幹部が去るとニヤニヤと煙草をくゆらし始める手合いが多いそうである。
女学生の報国隊は、最初の一ト月ほどは恐るべく働くが、次第に能率曲線は低下してゆくという。肉体的の原因ばかりでなく、右のごとき工場内部の状態に対する精神的絶望のためもあろう。
男子の学徒隊は、最初は女学生ほど成績は上らないが、しかし長期間にわたって、相当な好成績を維持するという。燃える胸の火のゆえであろう。
最も超人的成績を発揮するのは、監獄の囚人だという。これは男子学徒隊よりさらに高い宗教的労働観のせいだというが、この説はアテにはならない。
勤労学徒報国隊などが出動して農家の田植えをやっている。彼らは家庭から生活費を送金してもらっており、労働に対する報酬は一銭ももらわない。その農家の人々はというと、近所の飛行場設置に傭われて、一日十円ないし十五円の賃金をもらっている。これで黙って働いているのは学生なればこそである。ひたすら国家のためだと信じ、それ以外のことに頭を煩わしていては、到底やってゆけない。
○北九州の空爆で死んだ者は五百人くらいだそうである。大部分は埋没で、負傷者中の死人は頭部の負傷が一番多いという。女学生の態度が一番好ましくなかったという。医者の中では歯医者がよくなかったという。
どうも可笑しいと思って考えてみたが、これは空襲の動顛でメッタヤタラに負傷者を歯医者のところへ担ぎこんで、歯医者が当惑したところからこんな批評が出て来たのではあるまいか。衆口とは、そうしたものである。
三十一日 晴
○朝七時半目黒を出発。高須さんの奥さんと千葉へ薪を買いにゆく。
目黒を出るときは美しい碧空だったのに、電車の窓から見ていると、空が水っぽい灰色の雲に覆われて、雨滴がポツリポツリと窓ガラスにあたり出した。
それが千葉につくと、凄じい日光の直射を浴びて、カーンと音の出そうなほどの白い道を歩かねばならぬことになった。途中石蟹を買う。ここらの蟹は黒いのですかときいて笑われた。自分は赤い蟹が海の中を泳いでいるものとばかり思っていた。百| 匁 《もんめ》一円五十銭で三百匁ほど買ったようである。
十時ごろ目的の家につく。奥さんは奥さんの友人で、夫君はこの海岸の造船所の総務部長の由。涼しい海風の吹いてくる小じんまりした家で、庭の樹々の光りそよめく青さ、一輪二輪柘榴の花残り、点々とあかん坊の握りこぶしほどの実がなっている。空の碧さは言語を絶している。
ひるまえ、高須さんの奥さんと、その家の女の子をのせたリヤカーを押して、半里ばかりの造船所へゆく。海の紺青は暗いばかり。檣《ほばしら》が群立していた。造船所では三、四隻の木造船が出来かかっていた。
総務部長をしている人を呼び出し、リヤカーに木片をもらって山のようにつみ、その上に女の子をのせて昼すぎ帰る。
薪、ジャガイモ、あわび、蟹などをリュック、風呂敷、籠につめ、汗ダクになって、五時二十分発の汽車で千葉発、目黒に帰る。
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八月
一日 晴
○朝より爛々たる天気。下宿に帰ってみたら、驚いた。
昨日の午後五時ごろ、学校が火事だったという。あわてて駈けつけると、部室(馬術部や山岳部など)のある建物全部が焼けてしまって、白日の中に黒い骸骨みたいな柱の残骸が立っているばかり。そばの塀もあちこち穴があいて、トタンやムシロや板でふさいである。講堂の中は机や椅子が惨澹とつみあげられ、ガラス戸はみな壊れおち、天井も穴があいて垂れ下がり、三々五々、学生が茫然と――しかもニヤニヤ笑いながら――立っている。白服の警官が二人いて、寄せつけない。
原因はタバコの不始末か漏電か放火かまだ不明。学校のポンプもまごまごしていて防空演習のときのようにうまくゆかず、消防自動車も十五分くらいたってから来たという。近所じゅう大騒動であったらしい。昨日登校した連中は一晩中夜警に立たされたらしい。
○いよいよ帰省しようと思う。その切符を買おうと、十時ごろ新宿駅へいってみたら――驚いた! 十二時から売り出す切符に、凄じいとも何とも形容のしようのない行列の群である。百キロ以上の旅行制限は承知していたが、いよいよ自分のこととなると、ふだん馴れっこになって横目で見て通るこの大行列が、恐るべき迫力を以て圧倒してくる。
この行列に並んで証明書をもらって、また並び直して切符を買って、さらにまた別の行列に並んで急行券を買う? おそれをなして、先日高須さんが、加藤さんに頼んで買ってやろうかといったのを思い出し、高須さんの家にゆく。加藤さんの妹さんの友人が東京駅に勤めているのだそうである。なんだか漱石の『猫』の天璋院さまの御祐筆の何とかみたいだ。加藤さんに電話してもらったところ、とにかく山伏町へ山田さん来て下さいとのことで、午後山伏町にゆく。学生割引証を置いて、今日明日中に買ってくれるように頼んで四時ごろまた目黒に戻る。
今夜七時から八時までの間に、こちらに電話してもらいたいとのことで、七時過、大鳥神社そばの公衆電話からかけてみると、いま用足しに出たという。三十分ばかり近くをブラブラしてまたかけ直すと、ジージーいうばかりで何の声も出ない。十分ばかりムシャブリついていたが、あきらめて外へ出ると、一人の工員風の男が代りに入った。
また散歩して二十分ばかりたって戻ってみると、驚いたことに工員はまだ中にいる。のみならず、何か大いに怒っている。
「君は交換手だろ、え、交換手ならもう少し親切にやってくれたらどうだい。おい、返事しろ、責任者を出せ、責任者を、――ええ、こちらは警察の者なんだがね、いま緊急の用があるんだ、緊急の――」
こわれた公衆電話のガラス窓越しにみると、ニキビだらけの工員だ。ははあ、ここにもまたいま指弾されている職場の女性のつっけんどんが現われているな、と思ったり、こういう手合を相手の仕事だから気の小さい女が虚勢を張るようになるんだと考えたり、またこの工員みたいな気合でゆかなくちゃだめだと感心したり――十分ほど待ったのち、ようやく入れ代って入る。
今度は交換手が出た。電話番号を告げると、しばらくたってからモシモシという。よし来たと思って十銭ガチャンと放りこんだら、交換嬢が「只今お話中でございます」といった。
十銭玉がなくなってしまって、ボンヤリ帰ったら、高須さんの奥さんが「いったいどうしてしまったのかと思っていたわ」という。しかじかかくかくと話したら、呆れ返って「山田さんは電話もかけられない人ね。わたしがあとでかけてあげる」といってくれた。
あとでかけてもらったら、明日奥さんに来てくれとの返事だった由、世話のやける切符だ。
○夜、芋をくいながら、自分がふと「芋食って口がモツァルト」といったら、奥さんが「塩鮭たべて口がショパン」といった。すると高須さんが「うんこたれてお尻がベトベン」といったので大爆笑。
二日 晴
○朝奥さんにいってもらう。午後帰って来て、今夜五時五十五分の切符しか買えなかったという。急行は満員でだめだったという。学生割引証は記入すべき個所に自分が何も記入していないので使用できなかったという。こういうことには、どこまでも自分はボンヤリしている。
○四時半、弁当を作ってもらって東京駅へ。五時にはもう着きながら、東海道線のフォームがわからず半狂乱になって探し廻り、やっと発車間際に乗りこむ。
○凄じい満員。通路に立つ、などいう混雑ではない。自分はデッキに足を二本ぶら下げたまま京都まで。小便などは疾走中そこで失礼する。太平洋に月輪さしのぼり、風は爽々として快絶の極みである。――と、ノホホンとしていたが、あとで考えたら、時々満面に霧のごとく吹きかかって来たものは、潮風どころか、前のデッキの小便だったに相違ない。
○デッキがすでに身動きできないのだから、降車も何も出来ればこそ、小便もみんな窓から飛び下りて――あいにくそっちがフォームでなかった場合は、闇夜の線路の間に立ってやる始末だ。暑いものだから、大きな駅につくとみなわっと飛び下りて、洗面所の水をのみに殺到する。いちど自分も駈けつけたが、前の男が死にそうな顔でのどぼとけを動かしていて離れない。発車を告げるベルは鳴る。いらいらして水の溢れる洗面所を見たが、なお蛇口にタコのごとく吸いついていた男の恐るべき口を忘れることができない。
○飛び下りたのはいいが、無我夢中で洗面所へ駈けつけて、自分の乗っている客車を忘れてしまい、ベルの音の中に、「ミエコ! ミエコ! ミエコはいないかあ。もし――だれか、だれかっ、あたしの子供がいるんですよっ。助けてえっ」とさけびながらフォームを半狂乱にかけ廻っている母親の姿も見られた。
○そうかと思うと、浜松駅であったか、自分の坐っているデッキの側の窓から一人の娘が入ろうとして入り得ず、汽車は動こうとして、七転八倒しているので自分が仰天して駈けつけ、死物狂いに押しこんでやったが、その臀部の巨大さには大いなる憤りさえも覚えた。
○デッキの踏台に腰を下ろし、足は虚空を走っているのだが、涼風は吹く、身体はグダグダになるで、深夜思わずウトウトとしてははっと眼をさましたことも一度や二度ではない。――それでも駅員は何ともいわない。二、三年前まではデッキに一人だけ立っていてもどなりつけたくせに。――
このごろ急にカボチャの種や茄子の葉っぱにカロリーだのビタミンだの勿体をつけはじめた現象と同様だ。道徳も一つの流行である。
三日 晴
○朝五時京都着。
中学時代の下級生で、いま明大の経済に入っている男に逢う。例によってこっちは名を忘れているが、向うはこっちを憶えていて挨拶し、色々話す。
自分のクラスメートはことごとく戦争にいっているらしい。上級学校に入った連中も全部途中で出征したらしい。――語る下級生も徴兵検査に帰るのだという。
明大の先生の中にはこんなことを教える人もあるそうだ。「いま経済経済とみな馬鹿にするが、まあ見ていたまえ、ここ二、三年の中に必ずまた経済の学生が昔日の盛をなす時代が来る。いま軍人の学校や工科にいった連中は、過剰になって世のもてあまし者になる時代がきっと来る」
その男もいう。
「いま笛吹きに躍って予科練などに入る連中はありゃ馬鹿ですよ」いったい、いま欣然として太平洋の雲の中へ羽搏いてゆく若者たちがそんなことくらい知らないと思っているのか、みんな承知の上だ。ただやむにやまれぬ義務感から戦争に馳せ参じているのだ。それに彼らは、その二、三年後まで生きようとは思っていない。
○今は真に学生を教育する自信のある教師はそうたくさんいないだろう。工員を指導する重役、民衆に号令する政治家で、独坐して良心に何の不安も感じない者はあるまい。
青年と民衆は常に馬鹿であり、また本能的な勇者である。しかし、結局小利口な者がうまい目を見ることは間違いあるまい。ちょうど物資のまだ豊富なころに買い溜めした連中が結局正直者より得をしたように。
しかし、それにしたって五十歩百歩。その愚や兄たりがたく弟たりがたし。
○八時十五分、京都発。山陰線で、十二時八鹿駅着。関宮へ帰るバスも炎天に恐るべき行列を作って、待つこと二時間。この春帰ったときは五十銭だったバス代も八十五銭になっている。
○関宮の家は、前庭ことごとく畑とし、キビが青々と風にひかり、診察所横の溝には稲が植えられ、庭園にはヒマが作ってある。鶏も四羽、雛が二羽いる。食糧はこちらも大変らしい。「移動申告持って帰ってくれたか」と叔母がいう。持って帰らないというと、憂鬱そうな表情になった。持って帰りたいのはヤマヤマだが、八月分の外食券をすでに二十日分くらい食いつくしているのだから、万やむを得ない。
四日 晴
○酷熱。雨は六月中旬より降らず、ところどころ水騒動ある由。百姓男が来て、庭で乾草を切っている。供出命令が来て、乾草十貫目を馬糧として出さねばならぬそうだ。この草は叔母や女中たちが山へ出動して刈って来たのだそうで、乾草くらいならいいが、医者の家に麦まで供出しろといってくるのはどうかと思う。ヤミで買って供出するよりほかはないとのこと。国民学校の六年生には、一年間に六十貫の乾草供出が割当てられているという。勉強は殆どしないらしい。きょうもこの暑さの中を、全校あげて山へ炭焼きにやらされているという。
六日 晴
○「河江の伯母さんのところに麦を約束してあるのだが、もらって来てくれないか」と叔母がいうので、午後河江村に出かける。江原あたりの稲田白くかんかんに干涸びて、ところどころ亀裂が走っている。
河江につく。麦の話、ついお愛想にいったのを本気に受けとられて閉口の模様。何なら要りませんよと自分はいう。たよりない買出人だ。
八日 雨
○きのう大雨。きょうも日が当ったり、ときどきサーッと降って過ぎたり。――
庭で晴れ間を見て、藤の皮を剥くのを手伝う。これも供出で、一家五貫目だそうだ。藤の皮、桑の皮は、衣服になるという。とても固くて、まず石の上で槌で蔓を叩きつぶし、それから手で剥いてゆく、剥かれた肌は蒼白く生々しく湿って肺病の少年みたいだ。庭先の朝顔へ、ときどきぶうんと虻が入ってゆく。虻はどんな気持で入るのだろう。露にぬれてふくいくたる大輪の花へ入ってゆくような美しい心持は、人間の世界では味わえそうにない。
十日 晴時々雨
○関宮に帰ることにする。「うちの食い分を」といってくれた大麦二升と小麦一升をリュックにつめて法華坂を越える。
関宮へのバスの中で、豊岡中学の一年生たちが可愛い顔で睡っていた。中学一年生も生野鉱山に動員されているのだが、お盆なので短い休暇をもらったのだそうだ。制帽も戦闘帽に変ったらしい。
○夜半、突如、寺の半鐘が鳴り出した。村には以前から火の見櫓式のものと、小さなエッフェル塔式のものと、二つ半鐘があったのだが、どちらも供出してしまったのだそうだ。その寺の半鐘の鳴り方で空襲警報であることがわかった。下でラジオをひねったらしく、松江とか津山とかいうアナウンサーの叫び声が聞える。
十一日 晴
○敵二十機内外、中国地方に来襲した旨大本営発表。
十六日 晴ときどき雨
○居心地わるく、帰京することにする。弁当二食分、カボチャ一個、梨二十個ばかりをリュックにつめる。
学資をもらうにつき「一ヶ月の食費はいくらだ」と叔父きき、自分が「朝飯は二十銭、昼飯は……」と答えるのを、傍の紙片に一々書きとめている。非常にいやな気持だった。直接に情けないというより、叔父のために憐れみ、そういう憐れな叔父に学資を出してもらう自分が情けないという気持だった。叔父は自分を相当な乱費家だと思っているらしい。冗談じゃない! いかにも自分は叔父のように、朝飯はいくら、電車賃はいくらと細かな予算をたてるような人間ではない。(いつか日記に書いたが、あれは予算のためではなく、記録のためである)しかし、そううまいものを食べたがったり、面白い娯楽も欲してはいない。少なくとも同年輩の友人たちより、はるかにそれを制限しているつもりでいる。要するに自分は「金」など眼中にないのである。けれどもそんなことをいうと、いっそう誤解され、腹をたたせるにきまっているから、自分は黙っていた。自分の顔色を見たのか、あとで叔母は「叔父さんはあれで寄付などうんと出される方なんだよ」と弁解した。
○八鹿駅にバスでついたのが午前十一時。すでに切符を買う行列が駅から遠く鉄道荷物倉庫の方まで並んでいる。
汽車がつく二十分前になると売り出して、十人も売ると「暫くお待ち下さい」と札を出して窓口を閉じてしまう。駅の入口のあたりの人は、けさ七時から待っている人だときいて、二時の上りには乗れないぞと心配になって来た。
果して乗れなかった。日盛りの中に行列することさらに数時間、四時になる。ようやく自分の位置は駅内に進んでくる。しかし四時の上りもいってしまう。
せめて六時の上りに乗ろうと思う。それが到着する三分前、やっと窓口に到達する。ところが――駅員曰く、百キロ以上の切符はもうとうに売切れた、それに東京は一日一枚ときめられていて、それはけさ早く売切れてしまったという。それならなぜそういう意味のことを窓口に掲示してくれないのか、となじっていると、うしろで時間のかかる奴はあと廻しとどなるので、やむを得ずそこを離れる。最後の六時何分かの上りの汽車は出ていってしまう。
――日盛りの中に七時間立ちつくしてこの始末である。
大いに怒って駅長室に談判にゆく。実はそういう制限がありはしないかと、一昨日電話で駅に問い合わせたら、べつに制限はないという返事だったのである。そのことをいうと、あのときは東京ゆき一枚があったのだという。なぜ東京ゆきは一日一枚ときまっているということをそのとき教えてくれなかったのだときくと、そんなことはいわなくても、今の時節から見て推量のつくことだろうとうそぶく。言語道断である。自分たちは鉄道事情に精通した専門家ではない。切符が買えますかと駅にたずねて、駅の方で買えますといったら、そのときはその買える一枚があるのだが、明日になればわからない、などいう突飛な推量がつくか、とどなりつける。駅長はついに、きのうの夜大鉄局から厳重な制限命令が来たので、一昨日とは事情が変って来たのだとそらぞらしい嘘をいう。
要するにこの駅は、東京駅ゆきは一日一枚と定められており、それが午前零時一分に売れてしまえば、その日はもう東京ゆきの切符はない。五里十里の山奥から毎日バスで通《かよ》ってみても、買えるか買えないかは駅の方で保証はできないという。……こういう問答をいくらくりかえしていてもラチはあかぬと決意し、駅長に「それではその明日の分をとっておいてくれ」と断然申しわたして外へ出た。
弁当を改めて作り直してもらわなくてはならないので、また満員のバスで馬鹿みたいに村へ帰る。
十八日 晴
○朝七時五十分のバスで改めて八鹿へ。やっと東京ゆきの切符を入手する。駅長もきのうの談判におそれをなしたとみえる。
○駅長室の卓上の新聞にふと視線を落したら「ガダルカナルの皇軍なお勇戦中」とあるので、去年の一月ごろの新聞かと思いながら日付をみたら、意外にもきのうの日付だ。日本軍撤退のとき、連絡つかずとり残された部隊がなおジャングルの中でアメリカ軍を攻撃しつつあるらしい。去年の二月上旬からすでに一年有半、孤立無援の孤島になお意気屈せぬ日本兵がいる。
○十時十五分京都行に乗車。立ったまま二時十分京都駅着。急行は山陰線にないので、急行券は買えない。京都に着くと、東京行急行券は前日に売切れている。山陰地方の人間は上京するのに決して急行が利用できないのである。下駄をはいた少女駅員が待合室を乱暴にはいている。
○四時十五分京都発。これまた立つ。
各駅では、例によって恐ろしい喧嘩のくり返しだ。鈴なりのデッキに乗ろうと割込みかけてはハネ出され、デッキからデッキへ、フォームを駈けずりまわる客の群。駅員が窓から首をつっこんで、
「真ん中へ詰めてくださあい。こらっ、詰めろったら詰めろ! 幾らでも入るんだ!」
冗談ではない、荷物と人間の足と、一センチも動かないというのが、決して形容ではない。「ほんとに神経が尖っちゃうわねえ」とデブデブ肥った、あまり神経の尖りそうもない女が嘆声をあげる。
名古屋でやっと坐れる。
窓際の男の顔が、どうも見たような記憶である。その記憶中の本人でないことは明らかだが、たしかにこういう顔を見た憶えがあるのだが、思い出せない。たしか不快な思い出、それほど大したことでもないが、何となくイヤな感じのする想い出の中の顔だ。潜在意識の底からそれを浮かび上らせようと呻吟数刻、やっと思い出した。あれは五反田の古本屋の顔だ。去年の冬であったか、古本を売りにいって値段が安いのでまた別のところにゆき、ヘンな心理を起して、またその古本屋に戻ったとき、自分を笑ったおやじの顔だ。
「ちょいと学生さん坐らせてえ」
と、豊橋から乗りこんだ中年の女が自分の端に腰かけたが、夜の更けるに従ってだんだん寄りかかってくる。不快でたまらないので窓際の男の方へ逃げると、ついに両人の間からハミ出されそうになる。大阪から小便を一度もやらないと苦悶していた前の席の婆さんは、ついにくたびれて寝てしまう。横の爺さんと仲よく頭をよりかからせて。……それでどうやらあかの他人らしいから、婆さんの横の娘がクスクス笑っている。車内はもちろん三人掛である。
一つうしろの座席で赤ん坊を眠らせて、その傍でコクリコクリ母親が眠っている。その肘かけの傍に立った男が、尻でその母親の頭をぐいと押し返したので、眼をさました母親が、
「意地の悪いひとだね、何サ、お尻でひとを押して!」
と金切声をあげると、その男が、
「何い、お尻で押すとは何だ。小さい赤ん坊に一人分占領されて、寝るならそっちへカタムイて寝ればいいじゃないか。それをこっちへ頭をもたれさせて、お尻で押すとは何だ!」
と、やり返した。そして「ねえ、あなた。……」と、傍に立っている男をつかまえて、いつまでも共鳴を求めている。眠っていた母親がついにたまらなくなって、
「いつまでクドクドいってんの? わかってるわヨ、何サ、人が寝てるのに!」
と、眼をあけて叫んだ。すると、デッキの方で、
「何だ何だ、こっちはデッキに立ってるのに、寝てるなんてえ米英主義があるか!」とどなる声が聞える。阿鼻叫喚の汽車は、千里の夜風をついて轟と走る。
太平洋の沖合はるかから一定の間隔を置いてサーチライトが天空に数条の光を投げている。
十九日 晴
○今夕五時、米機六十機、本州西部へ来襲した旨大本営発表。
○米従軍記者の報じた「タイム」誌上のサイパン戦の抄訳、新聞に掲載さる。
米軍の近づくを見つつ、皇居遙拝ののち巌頭より海へ身を投げる少年、嬰児ののどをみずからかき切る父、手をとり合って蒼い波の中へ沈んでゆく女性たち、ウォーミングアップのごとくお互いに手榴弾を投げ合って、嬉々として死んでゆく学童たち。――悲愴言語に絶す。この人々よ、霊あらばきけ、必ずこの仇は討って見せる。
二十三日 晴
○煙草の行列、最近また深刻になる。下宿の前の煙草屋など、八時から売り出すのに、六時からもう並んで待っている。これは東京じゅうどこでもそうらしい。朝二、三軒掛けまわって、プレミアムつきで売り、一日に二、三円かせぐのを内職にしている女が少なくないという。工員で煙草買いのため遅刻する者がめっきりとふえたという。専売局長官「何とか名案はないか」と記者に悲鳴をあげている。煙草に銀紙のなくなったことは久しいが、きょうからは蝋紙もなくなった。裸の煙草だけ入っているのは、あまり感じがよろしくない。
二十五日 晴
○本日午後六時より八時まで、学校の校庭で防空訓練あり。闇夜の中で三角巾の使用法を習う。
○高村光太郎『美について』を読む。
二十九日 晴
○午前解剖実習。教室員がみなに配るヘルツを見て、模型かと思って受取ったら実物だったので驚いた。皺だらけの、紫がかった灰色の一塊。――「ああ、僕のこの熱い胸の鼓動を聞いて下さい――なんて、よく言えたもんだ!」と誰かいって大笑い。三十分ばかりつらつら眺めて、「もうよく見つくしましたから、帰らせて下さい」と一人申し出たら、佐野教授大いに怒る。今の医者の学校で生徒一人一人に実物の心臓を与えるところがどこにあるか、見つくしたとは何だ。君たちにはこの心臓を一週間見続けたってまだ見つくせないはずだ、この冥加《みようが》知らずめ。
三十日 晴
○パリ陥つ。ブルガリア降服の噂あり。
○H・G・ウェルズ『宇宙戦争』、ジュール・ヴェルヌ『海底旅行』を読む。
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九月
五日
○化学の小山教授、近来糖分なきとも人間の栄養にさしつかえなしなどいう学者現われ、その心にくむべし。糖分は人体に必要なり。必要なれども、無きものは無きなり。国民よ我慢せよとなにゆえにいわざる。糖分足らざるも異常なしなど、良心ある学者のいうべきことにあらず、これを称して曲学阿世の徒というと喝破す。
八日 雨
○病を得て「東舞鶴海軍病院第十六病棟三号室」に入院中の小西哲夫より返事来る。わが便りを受け「歓天喜地封を切るのももどかしく」とあり。相変らずの文字、文章、なつかしき極み。二枚のハガキに散見さるる彼の出撃後の動静をこちらで連絡すれば左のごとし。
昭和十八年二月上旬出撃、三月まで軍艦村雨に乗艦。「それからしばらく陸上でひょろひょろして」六月東京に来る。年末より内地に於て普通科学生として過す。十九年一月再び上京、四月より航海長として潜水艦に乗る。胸膜炎を病み八月より東舞鶴海軍病院に入る。「経過よく、ちかごろ大体平熱、なお一、二ヶ月の静養を要す」
「この秋まことに申訳なし」「兵学校の級友もどんどん死んでゆくのでさびしい気もしますが、これがまた死ななくちゃ戦えないんですからね。決して一人も無意味には死んでおらぬ。太平洋の底でクラス会でも開いてるだろうと思います。あとからいったら、御苦労だったなくらいいってくれるでしょう」
十七日 降りみ晴れみ
○米軍パラオ、モルッカ諸島に上陸すとの大本営発表。米英撃滅の壮挙近しと政府明言し、一方敵側もルーズベルトとチャーチル、ケベックに於て対日作戦の談合交しつつあり。
一箱のマッチ大にして、米英艦隊を一挙に粉砕飛散せしめるウラニュームの原子爆弾、或いは成層圏を飛ぶ航空機すでに日本に完成せりとの噂あり。
米軍やがて決死の東京爆撃を敢行し来るならん。われは怖れず。しかもわれは今何をかなす。
○午後より吹きはじめたる風、夜更くるに従い形容しがたき猛台風となる。学校前の欅並木、怒濤のごとく咆哮す。
十八日 晴
○颱風一過、嘘のような紺碧の空。雲一つなく日は灼けるような輝かしき朝。
○ルーズベルトとチャーチル、ケベック会談を終えて声明す。曰く欧州戦完了次第、米英両国は全力をあげて日本を攻撃せんと。
十九日 晴
○解剖の井上教授 Dunndarm(独:小腸)を講ぜんとし、その Intestinum tenue Mesenteriale(羅:小腸、腸間膜)につき、切腹に於て溢れ出づるはこれなりといわる。ふと己も曾て切腹せんとせしことありきと呟かれしより、みなの請いに応え、時計の針にためらいつつ、一つの追憶を語らる。ときどき、さて Dunndarm はといいかけてはまたこの話に戻り、ついに一時間半の授業を潰されしは可笑しかりき。ただし話されしは先年切腹せんとせし当の話にはあらざりき。
「――今より十数年前のことなりき。余は西洋に遊びてスエーデンのウプサラにハムマー教授を訪ねたりき。教授迎えて大学に案内し、終りてレストランに入り、ともに茶を喫しつつ、ふと教授、日本には今もハラキリのことありやと問う。余、断じてなしと答う。教授はいぶかしげに、先日その事実を英国新聞紙上に見たりと呟かれしが、そはそのままにて止めり。当日余はノルウェーに去らんとし停車場にゆきたるが、荷物あり、外国汽車のことなればデッキに上る階段高く、小躯なる余の苦渋しつつありしに、この七十を越ゆる老碩学、みずから荷を車中に運びくれたるは感激の至りなりき。その後、ノルウェーに赴き故国の一知人にまみえ、このことを語りたるに、そは事実なり、軍縮会議の結果に痛憤せる一海軍将校みごとなる割腹自殺をとげたりときかせたり。これ余が西欧奔走の途上に於ける事件なりしがごとし。切腹の話はこれだけなり。――外人多くはこの自殺法を忌む。いずくんぞ知らん、彼らの自殺法といえどもその方法に関するかぎりこれと大同小異なるを。しかもその精神に於ては雲壌の差もただならず。余は切腹こそは古今に冠絶せるものとして推賞に値すと信ず」
ついでまた教授、眼を虚空にあげて曰く、「このウプサラの町といい、ゲッチンゲンといい、ゲーテ、シルレルの住みしヴァイマールといい、バーゼルの都といい、ことごとく冷やかに明るく、清澄静寂にして学問の雰囲気ひたひたと満ちぬ。かかる町に学ぶ学生のいかに幸福ならんと思うにつけ、余は日本にも数ヶ所かくのごとき町あるを翹望《ぎようぼう》しぬ。もとより山紫水明の地なるにこしたことはなけれども、なお重要なるは人間の生める学究の雰囲気なり。人の心やさしく鄭重にして、みずから学生に自尊と好学の念を生み出さしむる環境なり。国家を偉大にし、人類に光芒投ぐる壮大の研究発見は、かくのごとき静寂の幽境に生まる。いたずらに狂呼慷慨するところに生ぜず。余は数ヶ所とはいわず、ただ一ヶ所のみにても日本にもかかる真の美しき清潔の学都の建設せられんことを夢想してやまず」
○十二時半突如警戒警報発令さる。全校生徒校庭に集合、先般定められたる新編制により防空訓練を行う。
警報二時過ぎ解除となれども、訓練はなお五時まで続行さる。警備班、ポンプ班、防火班、給水班、救護班、消毒班etc。
奥野中尉四方八方を睥睨《へいげい》して痛罵鞭撻す。学生の反感を買うことおびただし。
「校庭に大型焼夷弾落下!」との想定訓練中、「奥野中尉戦死っ」と絶叫せる者あり。中尉大いに怒る。
「不可抗力による失敗はよし。故意に真剣なる空気を乱すやから、これ真の空襲下に於ては、必ず声もあげ得ざる臆病者なるべし」と、叱咤す。
吾は思えらく、かの絶叫は或いは不可抗力にあらざるか。吾人しばしば無意識にかかる暴挙を発し、一瞬ののちに事の意外に大なる反響を呼びたるに驚愕することあるを経験す。
「わが叱罵、反感を呼ぶはもとより知る。されど謬りを見て糺《ただ》さざるはわが責任にもとれり。真の親心にあらず」と中尉いう。
これ剛直に似て必ずしもしかあらず。それ道徳的教育の根底は感動にあり。学生の感動を喚起せざる冷淡無気力なる訓示はその効まったくなし。これにくらぶれば中尉の怒声いくばくかの影響を学生の胸奥に呼ぶを以てなお見どころあるがごとし。
しかれどもその怒声野卑にすぎて学生の自尊心を傷つけ、感動逆転して反抗とならば、その効過ぎてむしろ毒薬化せんとす。このあり得べき人間性を無視せるは、中尉いまだ足らざるなり。中尉もとより野卑を美徳とは信ぜざるならん。しかもなお野卑を以て奇妙なる誇りとなせるがごとく見ゆ。軍人にはしばしばかくのごとき人物を見るものなり。
○六時半より警戒管制訓練に入る。八時より四十分間空襲管制訓練に入る。
下宿の雨戸ことごとく閉づれども、なお欄間より隣の空室のガラス戸に微光さすを以て、ついに闇黒となせども無聊にたえず、昔配給になりし一本の赤蝋燭を机下に立て、机の三方に風呂敷寝衣などを垂らし、一方より首をさしこみて子規の『歌よみに与うる書』を読む。
子規の偉大なるは、彼の澄まさざるところにあり、鉄石の意志と明晰の理智を有しながら、その泣くや声をあげ、その弾劾するや筆端火を吐き、悲喜幼児のごとく直接的に現わるるところにあり。けだし死病の子規、とり澄ます心の余裕などあらざりしなるべし。
眼つかれて灯を消し、雨戸を微かに明くれば、新宿界隈一点の灯もなく、蒼茫の大銀河に疾駆する哨戒機の爆音と打鳴らす町々の警鐘交響せり。
二十日 晴後曇
○昼本館前のベンチにみなと腰うちかけ散語しつつありしところに、「敬礼っ」との叫び聞ゆ。顔をあぐれば井上老教授のお帰りなり。五尺さえもあやしき小躯に予想外に大いなる頭顱《とうろ》、その上に戦闘帽をチョイとのせ、短きズボンの足つきひょこひょこと遠ざからるる姿、どう見ても世界のどこに出しても恥ずかしからぬ碩学とは思われず。途中にてふりむき、十数人の学生、挙手の礼を以てなお見送りつつあるに、ちょいと兵隊式に手をあげ、腰をふっておどけられぬ。皆どっと笑う。
五尺すらもあやしきといいぬ。されど泰然自若という言葉この老師のために作られたるが如し。満身に悠揚の気満ち、婦人のごときものやさしき声音、身振の中にも、眼鏡越しの眼清澄をきわめ、しかも炯たる一種異様の光は、猛獣的年少の学生連をしてなお静粛に聴講せしむ。この不可思議なる現象は、けだし内に発する人徳の微光なるべし。当代の学者にしてなお小児のごとく無邪気なるところあり、澄まし切ったるユーモアあり。あながち西洋の社会を讃美せらるるにあらず。しかも学問の設備、雰囲気に対しては国家を超ゆる敬虔の瞳を西欧に投げらる。その洩らさるる授業以外の言々は必ず日本科学の未来に関する憂いと希望たらずんばあらず。
われはかくのごとき師に日々教わるを真に勿体なしと思う。而して老体の学校に往復せらるるに特製の自動車でも提供したしと思う。否、その学問に酬い得るほど日本が金持にて、かつ科学に対する理解と尊敬を国民が持ちくれいたらばと思う。
○午後、胃、大腸などのプレパラートを幻灯にて見る。佐野教授より話あり。来週より屍体解剖実習行うにつき、使用するメス、鋸等、いま販売しあらざるを以て学校より貸与するも、その修繕費用徴収することとならんと。また今般東京医科大学昇格の一道程として小田急沿線の松原病院を本校に収めたるを以て、その開院前後の種々工事に勤労の提供を望むと。
二十一日 晴
○秋晴、透き通るような大気、第一教室傍の廊下の窓より、校庭と往来を越えて欅の葉が一枚一枚はっきりと見ゆ。午後、折口信夫博士の「日本神道と文化史」なる講演あり。きょうは万葉集のことばかり話さる。
二十四日 晴
○松原病院へ勤労奉仕にゆく。新宿発の小田急に間違って急行に乗りたるを以て目的の梅ヶ丘を通過。乗り越すこと九つ目の稲田多摩川までゆき、やっと気づいて引返す。
梅ヶ丘に着きたるは八時十分なりき。三十人集る予定なりしが、二十人より来らず。藤井教授、佐野教授、奥野教官ら来る。松原病院にゆく。
秋晴の美しき田園にオレンジ色の壁、赤き屋根、外見近代的アパートのごとく瀟洒なれども、四辺夏草蓬々と生いしげりて恐ろしきばかり。窓ガラス破れ、水洗便所もつまる。よく今までこれを経営したるものかなと思うに、果してベッド百床以上を有しながら、現有の患者は七人のみとか。
以前より勤務せる看護婦に聞くに、院長甚だけしからぬ男にて、患者用の配給缶詰をことごとく自宅に持帰るがごとき人物なりし由。
病院前の道路、周囲の空き地などの草あらかたむしられ、ところどころうず高き草の堆あるは、昨日の組の仕事なるべし。病院裏の空き地の草をとりはじむ。実に恐るべき草の林にして、みるみる底面積二坪、高さ七尺余の草の堆生じぬ。日光きよらかに明るく、四辺虫声しげし。
こはこの二十日より吾らの病院となる。何となく草創といった感す。
近くに斎藤茂吉先生の脳病院見ゆ。あの病院は受付から小使まで何だか眼つきが怪しいとはここの看護婦の悪口なり。
午後、佐野教授に命じられ、便所の外の竹叢の中の枯葉、蔓、紙片、くいかけの果物、はてはクリーム瓶から便器に至る汚物をかき出しつつありしところに、ヘルメットの中年の男来り、しきりにミョーガミョーガと口走る。何でもこのあたりに茗荷の畑あり、掘り出さぬようにとのことなり。どうやら前の持主の病院長らしき模様。ミョーガさえ手に入らば病院など何軒でも売りますといった顔つきなり。佐野教授にがい表情なり。
二時ごろ、淀橋病院より、ベッド、蒲団、薬棚など、荷馬車二台に満載して来る。これを二階に運びあげて仕事おしまいとする。ムスビ二個のほかに笊《ざる》にふかし芋出さる。これはきょう裏の草むしりの間に土中より累々と転がり出せる意外の馬鈴薯なり。三時半解散。
○帰途、松葉の話によると、さきに当局より閉鎖を命じられたる中央公論社改造社は、国際共産党より金をもらっていた由。その真なるや否やを知らず。しかれどもかかるあいまいなる話を尤もらしく語るは、例えそのこと真なるも流言の範疇に入れて可なり。死人に口なし、発刊禁止の出版社は言われ損の殴られ損なり。
二十五日 曇
○吾人は金銭を軽蔑す。而も金銭の意にならぬに痛苦す。吾人は浮世を軽蔑す。而も浮世のままならぬに憂悶す。
吾は人並以上の頭脳を有するとはうぬぼれず。しかれども人類平均の知能線を描くときは、吾は少なくとも中程度の位置にあらんとは確信す。しかして吾が周囲はことごとく吾が程度、優るといえどもわずか一歩、大部分は吾以下なり。その吾以下と思う人々の心、大いに吾が心を悩ますは何ぞや。
古来いかなる英雄豪傑も、金と浮世には苦しみたり。彼らがその高邁なる理想の実現に苦しみたると、この軽蔑すべき金と浮世に苦しみたるとは、その分量の大小、容易に定めがたきものあらん。
帰郷時もらいたる百四十円は、四十日足らずにしてあと十数円を余すのみ、部屋代十七円、加藤元一『生理学』上巻九円四十銭、国民貯蓄六円、ノート十円、プリント三円、その他正木君への餞別、散髪、風呂代等、やむを得ざるものにして、食事煙草に費やせしは五十円内外のみ。
まことに虫よき話なれども、金のことにて苦労するはいやなり。金がくだらぬものと承知しているゆえに、そのくだらぬ金にて苦労するはいよいよいやなものなり。
二十八日 晴
○ストリンドベルヒは『痴人の告白』に於て、果して自己を弁解し、世に抗議し、女に復讐せんと欲したるか。
彼がこの『痴人の告白』一篇によりてこうむれる惨澹たる爾後の人世を思うとき、まさか彼が冗談にこの小説を書きたるものと思う能わず。(ただしこの「告白」のごとき生活をなさしめたるものは彼の性格に由来すること多大にして、爾後の人生もまたこの性格に由来するものなれば、「告白」は必ずしも爾後の彼の人生に全責任を負うべきものにあらざるべし)
ただ彼が病的なるまでに、狂せるばかりに、あくどく、執拗に戯画化せんとせる吸血鬼的奸婦マリアは、果して読者にその印象を与えうるか。その淫婦よりこうむれる悲惨なる彼自身の受難に、読者は同情し得るか。ストリンドベルヒは明らかに失敗せり。
というは表面の解釈にして、吾は何となく、女に「小汚ない愚物」「臭い牝豚」「類人猿的動物」「半猿類」「いとうべき牝犬」等と徹底的なる悪罵を浴びせる「女嫌い」ストリンドベルヒの背後より、男性の自我に泣きもだゆる哀れむべき女性への満腔の涙を見るがごとき感す。『痴人の告白』は女性痛撃の書にあらずして、男性痛撃の書たらしめんと彼は意識し、計算せるものにはあらざるか。
ただ彼はその実際的生活に於ても真に女性軽蔑論者なりしやも知れず。ただこの一篇に於ける限り、否、その他彼の全著作に於ける限り、必ずしも男性崇拝にあらざりしがごとし。
当人も女性軽蔑論者、その作品も女性軽蔑を標榜し、しかもその裏より女性愛憐の情の滲み出るは、複雑聡明なる男の思考し得る表現法なればなり。
二十九日 晴
○先週高須さんの奥さんに頼まれたる国債を売らんと、始業前、日本勧業証券新宿支社にゆきみるに、九時より買いはじむるとのことなるに、すでに百人以上も並びて待ちあり。遅刻すること必定なれば、いったん諦めて帰りかけたるも、いったん頼まれし上はともかく果さんと思い、かつまた日曜はこの銀行も休日なれば、いずれにせよこれを売却せんがためには遅刻せざるべからずとも考え、ふたたび立ち戻る。
雑炊とちがい、一人一人の計算に或る程度の時間を要するを以て、吾が窓口に立ちたるはすでに十時に近かりき。
並ぶ人、いずれも貧しき風態にして、隣組にて強制的に買わされたる人、或いは賞与等の一部に国債を与えられたるを、今現金に換えんとする人々なり。
窓口に達したるに依頼されたる五十円三枚の割引債券は引受けずという。どうせ遅れついでに、どこかの銀行にて始末をつけんと、三菱、東海、貯蓄等を廻れど、いずれも或いは本日は買う日にあらずといい、またただちに現金と交換する能わずという。人に教えられ、淀橋郵便局にゆく。
五十円券三枚にて百六円と若干なり、あまりに価安くしてかつ受取もくれざればちょっと途方にくる。しかれどもわが罪にあらざればいたしかたなし。
勧業銀行にて売りたる人の中に、大倉喜八郎なる人ありたるとみえ、現金引渡しのとき、
「大倉喜八郎さん! 大倉喜八郎さん! いないか。はは、大倉喜八郎さんは別荘にゆかれたりと見ゆ」
と、行員がひとりごといいしは可笑しかりき。みな笑う。
債券売りにて午前まったく振る。午後金をもちて高須さんの家にゆく。百六円換金したるもののうち、三十円借用す。
吾は高須夫妻がまったく吾を信頼せりとの信頼を抱いて、かくのごとき用を果せし日にかくのごとき借金をなす。されど、吾はそれまでの信頼をあがない得る人物らしく見ゆるや。悪いことはしそうもないというだけの、フラフラの風来坊的貧乏学生ならずや。考えれば頼りなきわがうぬぼれなり。
○夜八時半ごろ辞す。途中、沖電気に動員され来る米沢高工生の寄宿せる清和寮あり。野獣的なる「野毛の山」の合唱聞ゆ。玄関に花環あり、生徒中に出征する者あるなるべし。乱れたる手拍子の中より一抹の悲風吹き来るをおぼゆ。「学問の灯消えんとす」ふと、新聞の一標題を思い出す。
三十日 晴後曇
○午前中はまばゆきばかりの秋晴なりしが、正午ごろより俄かに黒雲渦まき出て暗澹たる天気となる。烈風砂塵をまきて梢に鳴る。雨ポツポツと混るもついに沛然たらず。午後四時まで校庭にて担架訓練。
○テニヤン、大宮島の将兵全滅せるむね大本営発表。
これを以て現在までの大本営より全員戦死を告げられたる島、アッツ、マキン、タラワ、クェゼリン、ルオット、サイパン等を合して八を数う。他に怒江戦線の玉砕あり。これ果して誰の罪なりや。吾人は暗涙惨としていうべき言葉を知らず。
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十月
二日 雨後晴、寒し
○小山教授の化学の時間に小説など読みいたるもの少なからず。覗きに来たる三坂助教授のため数人没収さる。授業後三坂助教授叱責す。
「諸子はこの国家存亡の折なお勉学を許さんとする国家の知遇に恥ずることなきや。文科の学生今やことごとくあげて前線に死闘す。大宮島テニヤン玉砕を報ぜられたるは一昨日にあらざるか。母校の先輩もすでに少なからずこれら玉砕部隊に加われり。諸子なんのかんばせあって、これら玉砕の先輩にまみえんとするや」
振りまわす没収本のうち、吉屋信子の『妻の場合』あり、みなどっと吹き出しかけたるが、温厚なる三坂師の顔面紅潮し、双眼に涙あるを見てしんとなる。
○トルストイ『幼年時代』を読む。母の死せる前後の光景、わが母の死せる当時の追憶を誘う。
薄暗き部屋なりき。蒼き冷たき母の屍の傍には中学二年の吾の外一人もなかりき。吾は涙すらおぼえず、ただ涸れはてて茫然と坐し、やがて手をさしのばして母の眠れる瞼を開きぬ。母の眼の凝然と吾を見つむるを感ぜるとき、吾はそれがすでに空しきものなりとはいかにしても信ぜられず、小さき声にてただ一語「お母ちゃん」と呼びたり。涙出でしはそれより二、三日後のことなりき。
○今夜中秋名月。魚住食堂には、徳利にすすきをさし、籠に柿、皿に野球のボール大の団子を盛りて、往来の人々の唾液腺を刺戟することおびただし。入ればきょうのおかずは卯の花のみ。
三日 晴
○ひるごろ、碧い大空にみごとなる飛行機雲を見る。コバルト色の大円空に四機編隊にて――その飛行機はあまりに高空なるためふつうならば見えざるところなれども、ただその跡に四条の白き細き糸のごとき雲、美しき平行線となりて次第に伸びるを見て、はじめて機の存在に気づくなり。鮮明なる四すじの白線、はるか後方にて次第にぼやけて太き一つの筒となる。他にまた一機、この四平行線を或いは縫い、或いは截り、或いは随うて白雲の筋をひく。かくて大空に、円、線、稲妻、三角、縦横むじんの壮美なるいたずら書き出現す。
四日 雨
○「一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命に此学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて、職業にありつくと、その職業をなし遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来その間に劃した一線である。此線の上に生活が無くては、生活は何処にもないのである」(鴎外『青年』第十章)
七日 雨
○ポール・ブールジェ『吾等の行為は吾等を追う』を読む。
この作家が医学を学びたる経歴を有することは、わが沈思を起さしむるに足れり。いかにも医者らしきなり。ただ彼の小説は果して科学と文学との混合なりや、との疑問胸中に浮かばずんばあらず。
○頭山満翁逝去。十月五日午前零時三分。
○パラオ諸島の戦況大本営発表。連日肉弾斬込隊の死闘、アメリカ軍を震駭せしむ。ペリリュー島守備隊はいずこの師団ならん。
○凄じき風雨東京をつつむ。暴風警報発せられたるがごとし。
八日 風後晴
○昨夜の風は凄じかりき。轟々と天空を鳴りゆるがせて吹きまくる颱風に、例の欅並木、大海の吼ゆるがごとし。ざあっとガラス戸にしぶく雨、雨、闇黒の中に逼塞する町の底より、轟く風雨を縫いて陰暗と猫の鳴声きこゆ。昨夜一時ごろ、雨戸をひらきみるに、不可思議なる青白き光、暴風の虚空に満つ。
明くれば碧落――といいたきも、依然として灰色の雲渦まき流れて風声凄し。雨やみしがせめてもの幸いなり。
ひるごろより微光さす。風依然吼えたけるも、光次第に強くなる。大いなる雲塊、真っ白にかがやきつつ疾駆し、のぞける蒼空絵具のごとく鮮明なり。ついにまったく白熱の地上現出す。
夏シャツを出して着、今回島田農相の英断によりて特配になりたる鮭と鰯の缶詰三個を高須さんの家に持ってゆく。一時間ほど奥さんと話したるのち、辞して正木君留守宅へゆく。
母上一人、下駄の鼻緒を縫い作りつつありき。わが姿を見、大いによろこびかつ恨む。「宣弘征きしよりおいでにならず、こちらより手紙でも出さんかと思いいたるところなり。あの子の帰って来たるがごとき心地す。何はともかく上り給え、茶を飲み給え」とて、林檎、小麦粉の菓子など運び来る。高須さん宅へはしばしばゆきつつ、この淋しき母上を訪ねざりしわが心悔まる。
吾は、この二月に次男を失い、六月に長男を太平洋に送り、九月に三男宣弘君を高射砲隊にゆかしめし母上の淋しさを知る。知るゆえに吾はその顔を見るにたえざりき。気の毒なるかなと思い、訪ねんと思いしは屡々なれど、かくのごとき心には当然訪問に重き義務の念伴い、かつ、せっかくの日曜をかかる淋しき家にゆくにたえざりき。
土曜毎に明るき高須家は吾を待てり。話せば必ず夜更となるゆえ、こちらに廻るを得ず。ここに来れば泊りゆけといわるるは必定なれば、高須家に待ち呆けをくわす結果とならん。目黒駅に下りしとき、余は左白金台町を望み、右下目黒を俯瞰して、無意識的に右へ歩みしなり。思えばわが心の身勝手なるよ。
母上、吾に下宿してもらいたき口吻なり。吾も下宿したし。されど――孤独を好む吾ながら、二十三の身には、かかる年老いし人と二人のみ住むに耐えず。またこの人に世話を願いて、それに報酬を表すべく、わが故郷より送り来る金はとうていわが情を満たすに足らず。心苦しきを抑えて、顧みて他をいう。
夕飯を御馳走になり、泊りゆけといわるるを固辞して八時ごろ新宿に帰る。夕刻までなおみれんがましく吹き続けたる風ついにまったく落ちて、重苦しき蒸暑き夜となる。
九日 快晴
午後、佐野教授の解剖休講。それを利用して薬理学の原教授、「歴史と歴史性」なる一席をぶたる。この講義中、吾首をひねりしことまた心にかかりしこと二つあり。
その一、教授曰く「古きを温ねるは新しきを知るためなり。過去を顧りみるは未来を善処せんがためなり。歴史を究むるは将来の発展のためなり」
こは善し。
「ゆえに滅亡する国に歴史は要らず。生々躍動の気を心中に喚起せずして徒らに年表の精密、故事の詳細のみを探究するは真の読史家にあらず」
吾は一点の疑惑あれど、これまた真を含めるは肯定す。
「ここを以て歴史は例え真相と異るも吾人を感奮せしむるものなるを必要とす。否、吾人は史を読みて、わが心の清く雄々しく心の修練の一助たらしむべきなり」
吾が首をひねりしはここなり。「歴史の光明面のみを見よ」かく言われたるが如き感したればなり。
教授の言は正しそうな感じす。而してまた正しからざるような感じもす。ただ現在の吾が確信は「歴史は文学よりもむしろ科学に近し」との判断にとどまる。
こは編史の人の心掛けにして読史の人の気構えにあらずという人も或いはあるべし。しかれども編史家の意図は当然読史家の意図と一致するが当然なり。かくのごとき論はおそらく永遠に続くべし、そは人さまざまなればなり。
その二、教授曰く「実は本戦争が勝つか否かは疑問なり。もちろん必勝の信念は有す。石にかじりついても勝たねばならぬ戦いなり。されど思いをひそむれば大いに心配なり。諸君も同感なるべし。――とはいえど、われらが現在に於て、未来を計画するには勝利を前提とせずんば全く成立せず」
これまったく人間の死生観の問題にひとし。而して死生の問題よりさらに重大なり。
死後なお世界ありという者あり、すべて無なりとする者あり。無なりとしてデカダンスに沈淪する者あり。無は無なり、喜びもなければ哀しみもなしとして澄明秋天のごとき哲人あり。
されど吾らは、祖国の無のみは清徹の諦念を以て相対するを得ず。しかく教育されておらず。吾らはたとえ狂乱するも悪鬼と化するも、なお祖国を永遠のものたらしむべく教育さる。絶体絶命敗北滅亡の運命確定するときは、吾らはいかに人間として生くべきか。たんに万朶《ばんだ》の花の散るを理想の相とする能わざるべし。
十日 曇
○「日本の諸君に、自由を奪われたる国民の生活が如何なるものかを理解していただくことは、むずかしい。また、侵略者の方では愛国心とか自由とかのごとき、最も高貴なる感情を罪悪だと信じているということを、理解していただくのもまた困難である。またポーランドの国民が、自分たちのポーランドの土地を所有することを許されなかったということや、ポーランドの児童が自分たちの国語で歌ったり話したりすれば、血の出るまで打擲されたということを、信じていただくのは不可能である。
このように拘束されたる厭うべき歳月の間、ポーランドの政府もポーランドの軍隊もなかった。ポーランドの詩人は、古代の予言者のように、未来に於ける国民の再生を予言し、自由を失って悩み、困憊しつくしている魂を励まし、彼らが実行するように祈ったのである」(昭和三年・新潮社版『クオ・ヴァデス』序。ポーランド公使館ドクトル・ヤン・フリーリング)
○午後教練は銃剣術なりしところ、学校の重要薬品、機械、書類などを貯蔵せんがため、この九月以来、講堂と事務所の間の広場に設置中なりし地下洞に、先日の大雨満々と溢れたるを以て、ポンプ、バケツ等にて排水作業をなす。空陰暗として風寒く、時々パラパラと雨ふりすぐ。
十二日 曇
○きょう雑炊食堂の行列にならびて周囲の話をきくに、今ごろ植木屋に一日刈込みを頼むと二十円の日当なる由。古くからのおとくいにはかくのごとき賃金さすがにいい出せざるにより、病気等の口実を以て応ぜず、見知らぬ家ばかり廻る由なり。また防空壕掘りの人夫は一日四十円の賃金を要求すという。この夏わが知り合いの小工場主、西瓜三つを百五十円にて購いしことききたり。(ちなみにいえばわが一ト月の送金は七十円なり)友笑いて曰く、「勉強なんかしたって、まったく仕甲斐のない時代になったな」
○新設の諸医専、師なく書なく資材なく、実に惨澹たるものなる由。松本医専病理教室には顕微鏡三台よりなしとのこと、実に恐るべき医学校なり。ほとんど教練ばかりやっているという。某医専生徒より、わが校へ編入を嘆願し来れるもの血書を以て書きありしとのこと。
○一昨日午前米機四百、沖縄諸島に来襲。
国民驚かず、ただ暗澹たる雲を仰いで無表情なるのみ。憤れども如何せん、頼りに思う軍、政府、あたかも暗闇のごとく沈黙す。いずこに向って何を叫ぶべきや。
十三日 曇後やや晴
○午後一時二十分より升岡海軍軍医少佐の講演ありとの掲示ありしが、時刻に至るも見えず、医化学実習定量分析をやり始めたるところ、中佐見えられたりとの報告あり。第一教室にてその講演をきく。
この四月見たるときと同じく達磨にひげを――達磨にひげはあれども、さらにさらに猛烈偉大のひげなり――つけたる如し。軍医勧誘の話なり。
戦局まさに決戦に突入せんとし、全海軍満を持して待ちあり。敵潜水艦狩の新兵器すでに使用中にして、敵に劇甚なる打撃を与えつつあり。成層圏飛行の航空機も成功したるがごとき口吻なり。負くればすべて空《くう》なるに、いまなお新航空機に必須なる白金を蔵して出ださざる者あり、実に痛憤せずんばあらずと大いなるひげをひねる。軍医生活を自己の経験に照して語り、五時に終る。
○きのう台湾に敵機群来襲、すでに百機撃墜せるもなお交戦中なりとの大本営発表、朝刊に載りしが、本日午後三時のラジオ発表によれば、きのう来襲の敵機は千数百機なりし由。而して本日またも空襲し来り、目下なお激戦中なりと。
比島に来るか、台湾へ来るか。敵いずれへか上陸を試みるにあらずや。ああ、決戦迫る。決戦迫る。東京に夕雲暮れて秋風しずかなり。
○赤門文学会編『夏目漱石』を読む。毀誉褒貶さまざまなれど、片腹痛きこといずれも異らず。死者に香華を捧ぐるも鞭の一打を与うるも、その人が死者と対等以上の人物にあらずんば陰弁慶の名を免れざるべし。
十四日 快晴
○凄いばかりの快晴なり。空暗きまでに蒼みわたりて一片の雲もなし。日本晴という言葉には何となく明るき感じす。コバルト色の光の中に、一片二片の白雲遊ぶが如き感じす。かくのごとき凄壮なるばかりの蒼天は何とも形容しがたし。
午後、防空訓練。救護訓練として止血法を習う。
○マッチなきため、このごろ煙草はレンズを以て点火す。
○学校の校舎、クリーム色の壁を真っ黒に塗りはじむ。
○台湾東方海面に敵機動部隊を捕捉、陸軍雷撃機をふくむわが航空部隊殺到。空母一、艦型未詳一撃沈。空母一、艦型未詳一撃破せりと。
○斎藤茂吉『源実朝』読。茂吉は実に太々しき男なり。
十五日 晴後薄曇
○清冽の気天地に満ち、捷報到る。
吾航空部隊なおも敵機動部隊を捕捉中にして、さらに敵空母二、艦型未詳二、駆逐艦一轟撃沈破。その他数隻撃破せりと。敵一艦たりとも生きて還すことなかれ。
○昨日夢を見る。
敵艦隊、故郷の八木川を遡行し来る。川の浅き、何すれぞ艦艇の航行し得んと、噂を嘲りつつ駈けつくるに、驚くべし、敵は河底深く開鑿《かいさく》しつつ進撃中なり。時々木の葉のごとく海兵隊を沿岸に上陸せしめて、放火殺戮をほしいままにす。
敵上陸軍来るとの叫びに数人の女子とともに吾隠る。一人の米国将校来り、婦女子のおののくを見て笑って曰く、わがアメリカ軍は婦女子に対しては何ら敵意を有せず、恐るることなかれと。
彼去るや吾物陰より脱兎のごとく躍り出て、欺かるるなかれと叫びて上流に馳駆す。
大ダムあり、機械ありて、ここの舵輪を廻転すれば全河氾濫して敵軍を一挙飛沫裡に葬るを得。されどまたわが愛する肉身の人々をもその犠牲となるや必せり。友数人来る。みな同じことを思いて、逡巡することしばしなり。
気づけば一人の女、扉外にうかがう。スパイよと叫びてわれ飛び立ち、これを|はた《ヽヽ》と蹴るにこは沖電気時代の某少女事務員なりき。蹴倒さるると同時に、女二つにたたまれて座蒲団となる。座蒲団悲しげにうめきて曰く、あら恨めし、吾への疑いいまだ晴れざるかと。吾顧みて叫ぶ。犠牲を顧みることなかれ。祖国のためなり、いざ舵輪を廻せと。
夢醒む。冷たき白き暁の光部屋に満ちたり。
十六日 晴
○隠忍歯をかみて国民の待ちに待ちたる日はついに来ぬ。敵機動部隊は空母戦艦二十三隻撃沈破され、蒼惶として東方に敗走、わが海軍は全力をあげて猛追撃中なりと。
「決定的撃滅を待つべし、ついに攻勢移転の神機は到来せり、世界史の流れを逆転せしむる偉大なる日の序曲は奏せられはじめぬ」――と新聞の意気当るべからず。
ただし那覇全市灰燼に帰せし由。
○午後佐野教授より、延期中なりし屍体解剖を明後日行うにつき種々注意あり。
一、屍体はわが同胞にしてその尊厳犯すべからざること。
一、屍体の一部分などを校外に持出さざること。
一、これに先立ち、各自与えられたる部分につき、徹底的に予習し来るべきこと。
一、実習中、一々教示に従い、独断的にメスを進行せしめざること。
その他、器具のことにつき――等。吾は右脛部をもらうこととなる。頭部を割当てられたる連中、大閉口の態なり。
十七日 曇後雨
○神嘗祭《かんなめさい》。敵艦の損害ついに四十隻を突破す。大決戦の火ぶたここに切って落されたりと小磯首相宣言。
独軍のホープ、ロンメル元帥戦死せりとのことなり。
○終日、明日行わるる屍体解剖に、吾の割当てられたる下腿部につき予習。
十八日 曇
○本日解剖を行う予定なりしが、佐野教授来られざるため延期さる。
昼休み、解剖室をのぞく。屍体十個、台上に並ぶ。油紙の下より二つずつの足のぞき見ゆ。吾は足なればまず大したことなしとタカをくくっていたけれども、あの足を見てよりいささか動揺を覚ゆ。皺だらけにて薄紫の皮膚ベロベロに剥けてさながら猿の足なり。
近寄りて油紙をもたげて顔を見れば、みな口をこじあけられてフォルマリンをねじこまれあり。女は髪バサとしていよいよ凄じ。鏡花にちょっとこの顔を見せてやりたし。まさに凄惨といわんか鬼哭啾啾といわんか、人間を描写せる幾十幾百の小説を読むより、この「死」をひとたび見る方がはるかに――などと思いたれど、たちまち臍下丹田に力をこめ、否、吾は冷然たらん、冷然としてこの屍体ととり組まん、と覚悟をかたむ。
○午後高須家にゆく。夜八時ごろ辞す。
省線電車、網棚の網ボロボロに破れ垂れ下る。前の少年工「国際スパイ戦」なる本を読みあり。その傍に立てる娘、大いなるあくびをなす。顔すこぶる長く口のあたり突出していと醜し。醜き女はあくびも大々的なり。よく己を知るものというべきか。右隣の工員風の若者達、銃剣術の教官の悪口を語り合う。左隣りの三十二、三の会社員、そのまた隣の男に「――なあんにも、真っ正直に僕に打ちあけろ、決して悪いようにはしないから――といってやったんだ。すると――」などと話す。聞き手は重々しくうなずきつつ、天井を見ている。いずこのグループの話も、何だか一度はどこかできいたような話なり。同じき人生、同じ世に幾百万と明滅して永劫につづくものの如く思わる。
○二葉亭四迷『平凡』を読む。四迷を見直す。
十九日 雨後曇
○昨夜半より蕭々と雨ふる。夜半往来に靴音さびしくいずこへか去る者あり。眠られず。午前も雨、午後より雨あがる。
○佐野先生、きのう午後より卒業生の結婚式に媒酌人として参列し、いそぎ帰れどもみな解剖なしとして退校せるあとなりしとのこと。この六月のアッペのあと快然たらず、今も懐炉を抱きたるが、きのうの結婚式に於て挨拶中、懐炉股間にズリおちて大難渋されし由。
○夜、級友松葉の下宿にはじめて招かれ、芋をくらい、柿をくらって、医学の話、文学の話、女の話エトセトラを十時まで談ず。
二十日 曇後晴
○敵輸送船団ついに比島レイテ湾に侵入す。ついに決戦の時に突入せり。
さる日、小磯首相の獅子吼せし米英撃滅の壮図ちかしとの予言は、幸か不幸かわれ先制の現実とはならざりき。しかれども、事ここに至りてはもはや先制も防戦もなし。比島攻略戦には米艦隊ほとんど参加しありとの事なり。実に凄絶の大戦とならん。
日本の最近の大陸戦線はおそらくこの比島を失いたるときの南方との連絡の方途なるべく、一国の運命担える首脳の人々の計画としては、最悪の事態をおもんぱかりて第二第三の手を打ち置くはさもあるべし。しかれども比島戦は日米決戦の関ヶ原に相違なし。祈るらく、勝たせたまえ、勝たせたまえ、勝たせたまえ。
台湾沖航空戦に六十隻になんなんとする艦艇を屠られつつ、なお計画通り比島に襲来せる敵アメリカはさるにてもさすがなり。実に憎むべく驚くべく――頭脳熱するばかり――さすがなり。
二十一日 曇後晴
○昼休み淀橋百人町へゆく。このたび各家庭に米五日分特配。外食者には乾パン五袋配給になりたるを以て、その指定配給店へゆかんがためなり。なかなかわからず、人に尋ぬること七度、交番に訊すこと三度、ようやく目的の店に達す。一時間以上かかりたり。店頭に「外食者特配給乾パン取扱店」とありて「十月二十三日より三十日まで」とあり。はてなと購入券を見るに、なるほど期日はその旨印刷しあり。吾は隅から隅までよく見たるはずなるに、カンジンカナメのこのボンヤリ、呆れ返ってむなしく東大久保の下宿に帰る。二里は充分歩きたり。
くたびれて眠らんと思いしも、今日午後より学校講堂にて、この七月の疎開事業勤労をねぎらい、学校より慰安会の招待あり、漫才浪花節などある掲示を見たれば、ぶらぶらと立ち寄りて見る。
講堂正面に学校の校章染めたる幕や屏風等にて急造の舞台作りて、今や春日清鶴なる四十年輩のすこぶる体格よき浪曲家出演中なりき。何でも侠客の女房が色にかこつけて夫のかたきを刺し殺す話なりき。次は十二、三の女の子の独唱なり、あまり上手ならず、次は二組つづけて漫才なり。四人の出演者中三人は女なりしが、みな一様に顔まずし。次は歌謡曲、女二人、最初の歌手は笑くぼあり、恥ずかしげにてみな大いに気に入ったるごとし。後のはその師匠らしかりしが、痩せてときどき咳す。かつ痰のどにからまる、T・Bの疑いあり。最後に奇術。これまた女二人。吾はこの奇術のみ面白かりき。舞台に呼ばれて道具に使われたるは二年の級長なりしが、奇術師の請いにより、或いはその腕を縛り、或いはその指をくくり、死物狂いにしめつけて、「あれっ、すごい力!」と悲鳴をあげられて頭をかき、「まあ、恐ろしい眼でにらんでいらっしゃること!」といわれて尻をかき、大いに照れる。
一般にかくのごときものを見て、吾は笑うこと能わず。かかる誇張せる演技に吊られて笑うには自己に対し恥ずかしき気味あり、かかる下等なる演芸に喝采すべくいささか高尚ぶりたき心もなしとせず。また演ずる当人より、見ているこちらの方が恥ずかしくなる不思議なる心理もあり。されど笑う能わざる心の十中八分は、彼らに対する憐れさ気の毒さにほかならず。みなは女さえ出てくれば、いかに不美人なるも大いにうれしがる。何がメッチェンなりや。
○印度洋上ニコバル群島に来襲せる英国艦隊を迎撃、その空母艦隊等四隻撃沈破せりとの大本営発表。
二十三日 曇
○ひる休み、百人町へゆき乾パンを受取る。
○靖国神社大祭なれど休日ならず。昨夜招魂式なりしが、恒例の遺族参拝も催されざりし模様。本戦争はじまりてより曾てなき現象なり。現在の戦局の重大以て推察するに足る。
○台湾沖航空戦完結してよりまた一しきり重苦しき沈黙国民を襲う。百年戦争とさえ称せらるる現大戦に、一日二日戦況報ぜられざることあれば、たちまち重苦しき不安なる心持に陥る。甚だ神経細しとの誹まぬがれざるも、いよいよ最後の運命的事態が遠からざるうちに到来するがごとき予感あり。
○トルストイ『戦争と平和』第一篇を読む。
二十四日 快晴
○午前九時より京浜地区軍官民防空訓練あり。授業なし。これに従事す。
午後四時、一年はいちど解散、二年のみ残り続行。吾は松葉とともに牛込の貨物運送店へゆく。松葉の郷里茨城より送り来たる荷物が一週間前に到着しあるも運送人手不足にして配達する能わずとのことにて、待てばいつのことなりや心細ければこちらで担ぎ帰らんとてなり。牛込あたり、途中鉄かぶとの女連、バケツを鳴らして走り、かつ伏し、なかなか勇ましく見ゆ。
六時再び学校に参集。二年と交替。九時まで学校に待機す。解剖教室の窓外にかたまりて、みなみな大雑談。
東条大将と小磯首相とはいずれが頭よきや(これは解剖してみねばわからぬとみな大笑い)東条大将が新築の家とか別荘とかを建てたりという風評に対する憤慨、東条勝子夫人の出しゃばりに対するに、近衛公の奥さんのひそやかさへの好感、陸軍と海軍の勇怯の差、スパイの遺骨は荒縄をかけられるという話。かと思うと新宿二丁目はいま一夜何十円かかるや、などいう話に落ち、内容盲馬のごとし。
薄赤き半月南西の空に浮かび、仮想敵機、尾灯赤く乱れ飛ぶ。
○『戦争と平和』第二篇第三篇を読む。
二十五日 薄ら日
○きょう午後一時より解剖を見る。
屍体は、井ノ頭精神病院の患者なりし由。顔赤く全身肥満して生けるがごとし。いわゆる卒中性体質なり。皮下脂肪多くしてメスなかなか力を要するようなり。
二時半よりいよいよわれら初めての屍体解剖をなす。今日は Hautschnitt(独:皮膚切開)のみ。吾は下腿なり。皮を剥けば皮下脂肪ほとんど純白にして美麗なり。わが屍体は五十年輩の男。これに十人くらいの学生が、頭、胸、腹、腕、足等にむらがり寄る。やっているうちに、ぶきみ感、恐怖、嫌悪等種々不快なる感情ことごとく消え、全身陶酔せるがごとくホテリて、悪臭すらもかえって一種の恍惚に引き入る。五時まで熱心に皮切を続く。
○日本歴史上、永劫に忘るべからざる日。十月二十五日、比島東方海面に連合艦隊ついに燦然として出現、アメリカ艦隊を猛攻撃中なりと。すでに敵空母その他十隻ちかく屠る。――この今も、日米の運命決す大海戦は続けられつつあるなり。――北九州に米機百機来襲。ついに正真正銘の決戦に突入せり!
○夜、松葉酒持ってくる。二人、連合艦隊のため祝杯をあぐ。
○『戦争と平和』第四篇を読む。
二十六日 快晴
○三時半より五時半まで、折口信夫博士の万葉集を中心とせる古典講義。退校時、日まったく暮れて蒼天に星影白くきらめく。フィリッピン東方に大海戦なおも継続中。
○ポール・ブールジェ『死の意味』を読む。
二十七日 曇後冷雨
○全学徒号献納運動。一円献金、作るも学徒、乗るも学徒。
○学校の教室、比島沖の海戦談に満つ。わが方戦艦一沈没、一中破。たとえ敵戦艦十を撃沈するも、吾方二隻を喪失せば、歓喜憂愁相殺するがごとき思いあり。
午後光学の時間に、ついに教室備えつけのラジオをひねりて三時のニュースをきく。わが航空部隊成都を急襲、敵機六十機撃破炎上との大本営発表あり。みな拍手喝采なり。福田教授困った顔なり。
○十一月より煙草配給制となるゆえに、このごろの煙草の行列真に恐るべきものなり。千メートルは優に続く。八時より売り出すに朝五時より待つ者少なからず。いぶせき女房連、ペチャクチャとさえずりつつ、惜気もなく巻煙草をプカプカと吹かして煙草屋店頭に待ちつづける風景、いかにも戦争八年目の巷らし。
○ミルトン『失楽園』を読む。
サタンの言々、今や実に全世界に満つ。地球を覆う全民族の指導者ことごとくサタンの絶叫を発し、かつ匹夫匹婦の民衆ことごとくビエルゼバブたり、モーロクたり、ビーリエルたり、マムモンたり。否々宛然として小サタンたり。しかも彼も彼らも、これ英雄にして勇士と称せられる。想ここに至ってサタンを見れば、実に壮大炎々大英雄たるの風貌を具う。失楽園の主人公はサタンなり。従って現世の主人公もサタンなり。各人各霊の主人公もまたサタンなるを如何せん。
○昨夜また例によりて奇怪なる夢を見る。
吾は誰やらと二人飛行機に乗りて飛びき。前に山の壁迫る。急上昇すれどもすれども青き山、永遠に上に続き、機はほとんど垂直になりたり。転落の危険ありと心にさけびたる刹那、果して何者なりや同乗せるもの落ちゆきたり。操縦士下をのぞきて見よ見よとさけぶ。吾見るに、落ちたる者谷間に頭部を地に刺して逆さに立つ。白きとろろ汁のごときもの地上に散る、ああ惜しむべき男無惨なるかな、と思い、ふとこの機に同乗せるは二人にしてしかし操縦士はなお眼前にありと気づき、愕然としてふたたび見下ろせば、地に刺さりし者、そは吾自身のごとく見ゆ。しかもその吾は遙か上よりこれを見、機はなおも上へ上へと昇りつつありき。――
二十八日 晴ややうす曇
○大木惇夫、『海原にありて歌える』は、現在迄の大戦を主題とせる文学の中、後世に残るものの一つならんか。
トルストイの『戦争と平和』のごとき作品なにゆえ日本に出でざるやとの問いに丹羽文雄答えて曰く「そはこの戦争の全貌を静視し、探究するに足る幾十年後ならざれば不可能なり」と。しかし幾十年後と雖も果して出ずるや否や。
日本人は思想的といわんより感情的国民なれば、小説の生み難くして詩の出で易きはむべなり。かつ静視し探究し得る幾十年は、またその「情」をも消磨するに足ればなり。
○ちなみに『戦争と平和』は実に嘆ずべく驚くべき作品なり。いやしくも歴史を描かんと欲する者は、すべからく瑣々たる片篇を顧みずしてかくのごとき作品を典型とすべきなり。英雄の壮大なる言動も、少女の可憐なる恋愛も、老人も少年も、軍人も政治家も、男も女も、かくのごとく冷静に、徹底的に、その塵のごとく薄雲のごとき虚偽を剔抉、描破するトルストイの人生観はいかに苦しかりけん。しかも全篇をつらぬきてながるるは、必ずしも冷酷皮肉なる人生観にあらず。いまさらいうまでもなけれども、トルストイは実に仰ぎて膝を屈せしむる大作家なり。
二十九日 快晴
○フィリッピン沖海戦に、愛機に爆弾を施し、敵空母陣に巨大なる人間弾丸として突入、一機一艦必殺の体当りを以て炸裂轟沈せる神風特別攻撃隊に感状授けらる。
吾曾て、飛行機を以て砲弾とする案を考え友に語りしに、友曰く、もとよりこれを行う兵は生還を期せず。しかれども命ずる上官としてはかかる文字通りの必死行は口にするを得ざるべし、真珠湾頭の特別攻撃隊といえども、十に一は生還の望み懸けられたりしにあらずやと。吾首をふりて曰く、戦は冗談にあらず、ゆく兵も日本人なら命ずる将も日本人なり。而して眼前にあるは日本の危急興亡にあらずや。命ずる人の個人的感情に関せず、必死の征途、血の微笑を以て将は命ずべく。死の歓喜を以て兵は受くべしと。そのときは水掛論に終りしが、果然出撃即死の命令授受はこの海戦に於て出現せり。吾はたんなる小説的空想を以てかくのごとき案をのべたるにあらず、吾が将たらばこの必死の壮途に就くを部下に命ずべく、吾が兵たらば安んじてこの命を受けんと思いたるに過ぎざりき。しかれども、いざ事実として現われ来れば、全身氷のごとく粛然として戦慄せざるを得ず。これらの隊員すべて吾と同年輩の花のごとき青年、これを思えば実に慙愧の極みなり。
ああその名神風特別攻撃隊、南海に颶気《ぐき》起らず濤吼えず。ただ昭和の神風は特別攻撃隊の魂よりほとばしる。つつしんで讃仰の祈りを捧ぐ。
○吾は航空兵にあらず、医学生なり。現在の任務は学問にあり。午前生理学を勉強す。頭疲るればトルストイの『戦争と平和』第五篇を読む。ロシア人とフランス人ひしめく紙上の戦野に幻のごとく日本軍将兵の姿見ゆ。
○午後、目黒正木宅にゆき七時まで母上と語る。辞して高須家にゆく。九時ごろ朧月の権之助坂を帰る。
三十日 終日冷雨
○この十日あまりほとんど規則正しく一寒一温をくり返す。きょうは寒し。
○東京に狂犬病猛威をふるう。いかにも戦国の世の悪疫らし。軍用犬以外は家庭犬といえどもことごとく撲殺せよと新聞にあり。
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十一月
一日 晴
○午後第一時限、吉岡教授組織学を講ぜられんとするや、警戒警報発令さる。教場騒然たり。空襲だ空襲だとさけぶ者あり。
教授、一人に命じて事実を尋ねに走らしめたるところ、空襲警報なりと。耳をすませばぶきみなる半鐘乱打するが聞ゆ。みな歓声をあげて校庭に走り出づ。歓声とは、授業の中止になりたること、スリル満点の事態到来せることに昂奮せる声なり。
一年の半数は、かねて指示のごとく警視庁直属の救護隊としてただちに高田の馬場へ、堀部安兵衛のごとく走り去る。残りはそれぞれ所定の部署につく。
吾は救護所詰なれば柔道場に屯す。空うららかに晴れ、しきりに爆音聞ゆるも機影見えず。何にせよ白昼この秋晴の下を来襲するとは、敵例によって大胆不敵のふるまいなり。横須賀鎮守府より敵機数機帝都上空に侵入中との発表ラジオでありたりという者あり、否九十機なりという者あり。屋上にて見たる者は、敵機らしきもの白煙を吐きて郊外へ墜落せりという者あり。
細菌の中山先生、外より帰り来りて、町の混雑は大変なりといわる。バス中にて警報をききしが、みな半狂乱になりて外に出でんと焦り、出でたる者は鞄も風呂敷包みも投げ捨てて防空壕に飛び込み、すこぶる醜態なりし由。
吾は歯痛みて頗る憂鬱甚だ意気上らず。機影見えざるに、満天に爆音のみ満つるに次第にイラだち来る。突如、屋上の監視所より、敵機、敵機っと絶叫聞ゆ。急遽退避の半鐘凄じく鳴る。敵機見たかりしも、とにかく解剖実習室に飛び込む。
例の半分切り刻まれたる数十の屍体、寂としていまだ並びあり。あまり気味よからねば地下室へ入る。入りて二分もたたざるに、空襲警報解除の叫び聞ゆ。しからば今の敵機来襲はウソに相違なしとつぶやきいたるところ、原教授より、吾らはただ命令に従えば足ると叱らる。
四時半警戒警報解除。ラジオの発表によれば、敵一機、京浜上空に飛来せるが、何らなすところなく南方に遁走せりと。泰山鳴動して鼠一匹。この鼠一匹がやがて何万の鼠を導き来るや否やは未知の未来に属す。
○ペリリュー島沖に魚雷挺進隊、敵船団を襲撃、肉弾斬込隊逆上陸に成功せりと。
○珍らしく快晴二日つづく。下宿のおばさんの予言によれば、必ず三日までは晴れる由。
その理由如何ときけば三日は明治節なればなりという。またいうには、明治節に雨ふりたること曾てなし、一般に天皇陛下が宮城外のいずれかへ行幸遊ばさるる日には、必ず天晴る。明治節と御幸の日は、いかに前日まで暗雲つづくも奇態に拭うがごとく晴ると、かく信じて疑わざるもののごとし。一般に忠良なる日本臣民はかくのごときたぐいのこと確信する例甚だ多し。
○正木宅にて食いし煎豆、歯を傷つけしと見え、二、三日前よりいと痛みてほとんど眠る能わず。歯ぐき腫れた感あり、耳も痛し、頭も痛し。四辺の事象音響ことごとく脳髄にひびき、その印象ことごとくナマコのごとくねばりつく。何もかもあまりに鋭敏鮮明にしてたえがたきものあり。
○天才は苦しめり、こは彼の才能が対象とせしものを穿鑿する努力の苦悩もあれど、また彼の性格と周囲との矛盾撞着に由来するもの少なからず。
而して人間と人間との性格上の葛藤は、一般にいずれか一方のみが苦しむものにあらず。一方が苦しめば他の一方も必ず苦しむ。吾が経験によっても、吾が苦しみたるとほとんど同程度以上に相手をも苦しめたり。
而して天才は吾ら常人と異なり遙かに苦しむものなりとせば、彼の他を苦しむる程度もまた吾らに百倍す。天才は自己にとりても周囲にとりても不幸の種なり。ただこれを仰ぎて香を焚くは、何らの直接関係なき後世の人々のみ。
なお思えらく、天才とは生物学上より見たるホモサピエンスの畸型なるものなり。従って不完全なるものなり。更に従って劣等なるものなり。完全なるはすなわち凡人なりと。
○『戦争と平和』第七篇を読む。夜九時半ふたたび警戒警報発令。
二日 晴やや薄雲あり
○佐野教授仏舎利考「仏舎利とは仏骨のことなり。舎利とは骨の謂なり、握鮨の陰語に米のことをシャリという。思うに骨と米とその白きを以て連想せしむるためならんか。
さて火葬場より拾いあぐる舎利は、第二頸椎Epistropheusなり。おそらく棘突起を以て仏の頭部と見なし、横突起を以て両腕の衣と見なすものならん。
然るに余は大阪に於て実に頭よき隠亡《おんぼう》を見たり。そはこの地方に於ては、この舎利を手指の遠位指骨に求む。指骨滑車を仏頭となすなり。こは必ず両掌合して十なれば、唯一の第二頸椎より求め易く、かつ棺に入るるに際したいてい掌を胸前に合せしめ数珠などをかけしむれば、焼きてこれを拾わんとするとき、あたかも胸の中より見出さるるがごとく見えん。而して最も大なる拇指の遠位指骨を以て親分となし、他指のそれを以て脇仏となさば、いかにも三位一体ないし三尊仏を示すがごとくにしていと尊し。しかれども諸君は夢そは指の骨なりなど口にして、遺族の随喜の涙を笑うべからず。いわんやそは足にもありなどいうは以ての外なり」云々と。
なお吾はこのときはじめて髑髏をシャリコーベという意を了したり。舎利頭なり。ドイツ語にてHirnschaleという。schaleとは殻ないし甲羅の意にして、いわゆる頭蓋骨の蓋を意味するものならん。
○午後二時半より五時まで折口信夫博士の万葉集講義。釈迢空先生の国民服姿あまり似合わず。
○『戦争と平和』第八篇を読む。
三日 雨
○おばさんの予言に反して雨なるは可笑し。
○朝八時半より講堂にて明治節の式。緒方知三郎校長の訓示わずか二分。実に見事なり。
吾ら生まれて訓示をききしこと幾万べんなるかを知らず。しかも記憶に一時間なりと残れるものはほとんど皆無なり。一般に訥々として男らしきものよし。ハッキリした訓示よし。ネチネチと、結局要点わからざる訓示、亀の甲を説明するがごとく、四角四面、無味定型的にしてわかり切ったる訓示多し。訓示者のそのときの心理状態を怪しまざるを得ず。
吾は、中学二、三年以降の訓示は無効なりと思う。されど二十三歳の吾がかく思うと同じ比例にて、老人は三十、四十の者にも訓示は必要なりと思うならんか。いかにも訓示によりて感奮する者百人に三人くらいはあるやも知れず、されど三人の感奮よりは九十七人の時間の方が大切なり。吾は一生人に訓示せざるを以てわが生涯の唯一の美徳となさんとさえ思う。
この点より見て、緒方校長の訓示は長くして五分を出でず。校長よく訓示の空しきを知る。校長を実に偉しと思うは、その学士院賞その他の研究を仰ぐよりも、この数分の訓示をきくときなり。しかもハッキリとメモを眼前にかかげて朗々と読みタマウ。メモを卓上に置き、見るがごとく見ざるがごとく、あたかもカンニングをやる学生か大道の詐欺師のごとくうろんなる眼つきをなす一般の演説者の醜態を見ることなし。
○夕、高須家にゆき夜七時帰る。雨蕭々とふり、風暗く荒れて、傘の横より半身濡れしぶく。時に目黒街上を、粛々と馬蹄の音も寒く通り過ぎる一隊の兵士あり。馬上の将校も徒歩の兵士も目深き頭巾外套ぬれひかり、砲車の輪の音かなし。何となく胸あつきものあり。
四日 快晴、夕刻曇やがて雨
○昨夜の夢。
――いちど吾は東京空襲の夢を見たり。だいぶ以前のことなれば、詳しきことは忘れたり。何でも吾は砂浜に逃げ出し、破船の中に身をひそめき。夕暮なりしとおぼゆ。水暗く荒れ、破船累々とならび人なき浜は荒涼と仄白かりき。息をひそめ、やがて恐怖にたえず板はねのけて天を仰げば、幾百の敵機、黒き乱雲の上を魔影のごとき翼つらねて海より陸のかなたへ去り来りつつありき。陸のかなた――そこには白き大東京市街の石楼群、どす黒き火炎を背に「地獄篇」のディイテの城のごとく燃えいたり。――かかる夢なりき。
昨夜また見つ。東京は空襲され、前後左右の家々火の粉を舞わしつつありたり。吾はその中に立ちて、西北の方を眺めたり。海越えて満州見ゆ。沿海州、関東州等と海との筋々、灰色のパノラマのごとく見えたり。
而して新京は燃ゆ。吾が立つところは夜にあらざりしに(といって昼にもあらず)満州は夜にて、新京の大市街より炎々と竜巻のごとく立ちのぼる幾十条、幾百条の炎は白々とかがやきて、げに凄じくも美しき光景を呈したり。市街より無数の人の群、蟻のごとく南満州へ逃げ下る見ゆ。なんじらなんぞ弱き、なにゆえに死すともその首都を守らざる、満州人はやはりだめなり、と慨嘆する一方、彼らがかのごとく爆撃さるるも日本の犠牲なり、気の毒なりとも思いき。
眼を西に転ずれば、南京もまた白き火柱をあぐ。渺茫として暗きアジアの天地に、大小無数の火、野火のごとく燃え、その中に、東京、新京、南京の炎、壮として凄じく、吾は思わず、「ああアジアは燃ゆ!」とさけびたり。
眼さめて思えば可笑し。余は空襲を愉しと待つものにあらず。されど、悪夢にうなさるるほど恐れてもいず。ただこの夢のごとき壮大凄絶の景、『神曲』、『失楽園』に於ける理智的想像以外は、現にこの眼(現実の眼と夢中の眼と何ほどの区別あらん?)にて見たること曾てなく、将来もまたふたたび見るを得ざれければ、ちょっとここに書いておくとしかいう。
五日 曇
○午前十時警戒警報発令。これを追うがごとく空襲警報となる。
ただちにゲートルを巻いて登校す。校医室より救護資材の大箱(繃帯、ガーゼ、脱脂綿、三角巾、骨折の場合の竹片、棒等入る)を道場に運びて陣す。
日曜なるゆえみなそれぞれ何処かへ遊びに出ているゆえならんか、学生あまり来らず。学校のすぐ前に下宿せる吾はつらし。やむなく、救護班と本部を連絡する伝令となる。敵一機伊豆半島を北進中なりと。間もなく頓走せりとのラジオ発表あり。十二時空襲警報解除。
午後生理学教室にて希望者のみの、血液の表面張力及び粘度測定実習ありたれば、吾は申し込みてはおかざれど、一寸入りて手伝う。その中警戒警報も解除となる。
○夕、空一面、灰色の雲垂れ覆うに西空ばかり光の帯ながる。黄色から次第に緑色に変り、浮世絵の江戸の夕空のごとく毒々しく物凄し。『戦争と平和』第九篇を読む。
六日 晴
○朝寒。寝床恋しくいつまでも往生際悪く天井を見る。この寒さにては定めし晴ならんと思い。ようやく起くれば曇なり。
一時間目脈管学を終えて屋上に出ずれば天晴る。西の方青く澄みて連峰紫に霞めり。伊勢丹の白堊の上に壮然と富士見ゆ。屋上の端に立ち、望観久しうしているところへ、友人「あれはサイレンの音にあらずや」という。「毎日、まさか。――」といいかけたるとたん、たちまち耳近く警戒警報のサイレンわめき出す。
教室に馳せ帰りラジオをかけるに「敵機らしきもの一機伊豆上空を北進中」との発表なり。また一機かと失望しつつ、校庭に飛び出し待機す。
これが神経戦というものなりや知らざれども神経には何らの影響なし。ただ、そのたびに全東京の防空員に声をからして叫ばしめ、それだけのエネルギーを使わしめ、それだけの腹をへらしめ、それだけの飯を食わしむ。毎日一機の定期便にしては大出来なり。果して十二時ごろ解除となる。
○級友楢原、余に自分の家に下宿せざるやという。このごろ高須さんもいう、正木家も然り。この時勢に吾ごとき者といっしょに生活せんと望む人あるは不可思議の現象というべし。
七日 晴
○ついに敵機を見る。
正午ごろ、みな空を仰ぎつつ、今日の定期便、もうそろそろおいでのはずなりといい合えるに、一時果してサイレンの響聞え来る。皆笑い出す。
しかれどもいくら何でも、一日の朝、夜、五日、六日。――きょうと、敵機来るとあれば、きょうあたり、いよいよ本格的爆撃ありて然るべきときなりとの予感期せずして皆の顔色を緊張せしむ。
ただちに救護箱を提げて本館地下職員食堂の救護所本部に入らんとせしが、入口に学生ひしめきて空を仰ぎ、通る能わず。たちまち、見よ見よB29と叫ぶ声あり。天を見る。
雲白く刷毛にてかすりたるがごとくながる。秋天高く碧空深し。はるかなる空の果て、いかにも小さき米機一機。夢幻のごとく白く、悠々と西方へ飛びつつあり。遠くに高射砲の音聞え、点々と蒼空に白煙の玉散る。
このときようやく空襲警報のサイレン聞ゆ。俄然として近くの高射砲凄じく吼えはじめ、大空に幾十かの閃光散るを見ゆ。一瞬キラめき一瞬消え、あたかも神の手にて投げられたるガラスの粉を見るごとし。白煙の玉追うも、敵機は悠々として飛びつづく。味方機一機も飛ばず。軍は何をしておるやとみなさけぶ。わが顔もいつしか上気しありたり。切歯とはこのことなるべし。
突如爆音高く味方機頭上を過ぐ。みな拍手喝采す。しかも味方は敵機よりはるかに低く、全然見当ちがいの方向に飛び去る。
解剖実習室の方に廻りて地下室に入り、ようやく救護の準備万端を整う。中山先生に消毒液を作るため燃料の炭を事務所よりもらい来れと命ぜられ、吾校庭を横切りかけたるに、事務所横の防空壕にありたる奥野中尉に大喝して追い返さる。されどみな、地下にあるも敵機来襲待避の警鐘聞ゆれば、かえって敵機を見んと校庭に走り出て天を仰いでひしめく。奥野教官遠くよりこれを叱れば「奥野来襲」とさけび、敵機よりもこれにあわてて地下に逃げこむ騒ぎなり。
数度敵機は実に悠々として上空を過ぎたり。されど彼ら搭乗員もみな決死の顔色蒼白ならん。吾らは無念と昂奮にうち騒ぐ。空は蒼し、秋の日なり。ヘンな感じしたり。爆弾は落さざりし模様なるも、これだけ飛べば全都の写真は充分とりしならん。
午後三時半警戒警報解除。実に実に日本の航空隊は何をしておるや。
この分にては、近日中にいよいよほんとうの爆撃を経験することとなるべし。明日にも、否々今夜にも。――
○極度なる善人はあたかも脊髄病患者のごとし。脊髄病患者は痛みの感覚を失いたるにより、火傷するも切傷を受くるもまたは衝突するも苦痛を感ぜず。幸福といえば幸福ならん。されどこの「健康の目覚時計」とも称すべき痛覚なきにより忽然として死の床に突入す。極度なる善人も、人の悪に対する怒り、恨み、憎しみ、つまり精神の痛覚なきゆえに、一瞬に社会的に葬らるるおそれ多きにあらざるや。
○『戦争と平和』第十一篇を読む。
八日 曇頗る寒
○解剖。「頭蓋骨の連合」について講義中、佐野先生、下顎骨の脱臼について語らる。「医者の信用はかかるものを直すときに加わること多し。そは直るが直接的なればなり、即座なればなり」とて、決して医書になきもしばしばあり得る事故について語らる。甚だ面白し。
一、釣糸をのみ、針が胃袋にひっかかった場合。これは数珠玉を糸に通して屈伸自由の一個のステッキと変えてぬきとる。
二、甲虫のごとき小昆虫が耳に入って出でざる場合。これは煙草の煙を吹き入るるか、アルコールを注入す。
三、豆等の耳に入りしときもまたアルコールを注入し、豆の表面に皺生じたるのちピンセットにてつまみ出す。
このような話をしたら、解剖の授業はいやになりたると見え、「頭蓋骨の連合」はそのまま終る。
九日 快晴
○午前生理学の久保教授休講、その代り佐野教授の骨学補講。きのうの釣糸と豆の話にて潰れたる講義の補講のつもりならんも、また次のごときことを話さる。
先日、わが高射砲の破片による被害相当数に上る由。カンナ屑のごとき鉄片忽然と空中より落下して、この大久保にも大腿部を貫通せられたる者あり、下町にては肩をそぎとられたる者あり、新宿駅のフォームにては頸動脈をかき切られて即死せる者ありしとのことなり。敵弾によるものならばともかく、味方の高射砲の破片によって死するなど本人の不注意極まりなし。高射砲の音聞ゆるあいだは、素直に防空壕に入るべしと訓さる。
○三時半より朝日新聞記者川手泰二氏の「ビルマ戦線より帰りて」と題する講演あり。学校卒業後ただちに朝日に入社し、支那事変以来従軍転戦せる人にて、年は三十前後、話はさして上手というわけではなけれども、元気あり、すこぶる傾聴せしむ。
一、ドイツはもはや絶望なり。今のところジークフリート戦にて持ちこたえおれど、すでにこれによりてソビエトないし米英の息の根をとむるがごとき希望は千に一もなし。
このときにあたり、日本と中立条約を結び、かつこのことについて今まで可も不可も唱えざりしスターリンが、今度はじめて日本を侵略国呼ばわりしはじめたるは大いに注目に値する事実なり。
これを解釈するに二つの見方あり。一はドイツの潰滅の見通しつき、大兵をソ満国境に移動し得る可能性生じたること。他の一はアメリカの比島作戦思わしからず、ここに於て日本の関東軍を牽制すべき要生じたること。
しかしいずれにせよ、英国もソ連も、本家はヨーロッパなり。両者いずれも虎視たんたんとしてまず欧州の覇を保たんと欲す。何すれぞ好んで精強の日本軍を相手として、よしこれを破るもこれも致命的困憊を招くの愚を演ぜんや。ソビエトが例え本格的に日本に挑戦するとも、そはなお時日をへだてて後のことなり。
二、比島作戦について。アメリカはまず逆八陣地をなせる八の字の足比島を爆撃し、その発表によれば、日本の艦船二十五隻、航空機百五十機、石油タンク等を爆破撃滅せりと。話半分としても、わが方の打撃を受けたるは事実なり――ちょっと断わりおけども、米英の発表には敵ながらあまりウソはなし――而して次に他の足沖縄を襲いて那覇を全滅せしめたり。
かくて八の字の頂点台湾を攻撃せんとして偵察せるに日本機の姿余り見えず、時やよしと敵五十八機動部隊出撃し来れるところ、あにはからんや、雲霞のごとく日本機迎撃す。吾方の損害は大本営の発表によれば三百十二機、これに損傷を受けたるもほぼ同数と想像すれば七百機。さらに無傷のものを加うれば、実に吾航空部隊の出動機数は千五百機と推定さる。かくて敵機動部隊は致命的損害を受けたるなり。
しかもいまや強引に比島戦を強行し来る。これを天王山とだれもいう。しかれども日本にとりては決して天王山にあらず、玄関強盗を追っぱらう段階の話なり。ただ敵の機動部隊もなかなか頑強ゆえ、参謀本部の見込みにては、これを撃退するには三月ごろまではかからん。而して来年四月ごろより日米の雌雄決する本格的決戦はじまらん。
三、ビルマ戦線について。太平洋作戦が軍事作戦ならばこれは政治戦争なり。一、重慶への補給路遮断。現在のレド公路より重慶へ注ぎ込まるる軍需品は、月に約八千トン、大東亜戦争以前のビルマルートに於けるよりも遙かに多く、而して重慶への唯一無二の補給路なり。二、まずインド国内にチャンドラ・ボース政権を樹立するの重要なること。東部インドはむしろ反日的にして重慶に同情を寄す。されど西部インドは親日的なり。というより猛烈なる反英の旗幟をかかぐ。ただし日本としては今のところ東部インドに作戦するより他なし。その他、在支米空軍の頸動脈切断等、種々の目的を以て、先般インパール作戦は開始せられたるなり。しかれども飛行機の数足らずして、成功せざりき。いくらくらいあったかというと、これははっきりいうを得ざれど、百機もなかりき。五十機くらいあったかというと、それもなかりき。ただし兵のみは実に驚くべき大軍を集結しあり。何となれば、もしビルマにして敵に奪還せられんか、泰は実に頼りなき国なり、先だってバンコックより遷都せしも、米空軍の爆撃に仰天してのことなり。ピブンなどいう男は雑貨屋上りの腰抜けなり。仏印はもとより白人の国なり。さればビルマを奪還せらるるか、インドを奪うかは、今次大戦を決定する重大作戦ならずして何ぞ。
四、前線将兵の士気について、一話あり。軍神加藤隼戦闘隊長に愛せられたる一少年航空兵あり。彼は大東亜戦のほとんど全戦場に転戦し、その功を以て内地帰還、陸士入校の特別命令を受く。しかるに彼は、われいま何のかんばせあって、隊長の魂翔ける緬印国境を捨てて日本に還れんや、と死の決意動かず、引揚前夜、インド領内へ飛び去り、ついに帰らず。この少年兵の心は前線将兵のすべての心なり。伝えきく、比島戦線の神風特別攻撃隊出撃のときは、整備員ことごとく地に伏して機影の没するを拝すと。
かかる将兵あるに、少しばかり米足らざるとて現在銃後の醜態は何事ぞや。未だ餓死せし者の話をきかず。この程度にて人々おたがいに仏頂面を見せ合うとは、浅ましとも頼りなしとも言語道断なり。以上。
○夜、松葉と中野の映画館に大映映画「かくて神風は吹く」を見にゆく、菊池寛が社運を賭する大作品と宣伝したるほどのものにあらず。歴史映画などにては断じてなし。米の供出、産業戦士、女子挺進隊、船の不足、サイパンの玉砕(壱岐対馬の全滅)等を結びつけたるもの、かかるしろものにて果して士気昂揚になるなど国民を甘く見るや、人をばかにするなといいたき映画なり。俳優みな極度にまずく、ただ神風のシーン、東宝特殊撮影のみちょっと見どころあり。
○比島総司令官は山下奉文大将なり。頼もしきこと限りなし。
十日 曇
○山下奉文、ラウレル大統領に向い「余はマレー攻略戦に於て大東亜戦史の第一頁を書くの光栄を有したり。期せらるべし、余はこの比島戦に於て大東亜戦争の最後の頁を書かん」とか、「シンガポールに於てパーシヴァルを一喝せるごとく、フィリッピンにてはマッカーサーを大喝してお目にかけん」等の言辞を吐きたる由。
少し心配になりたり、過去の栄光は過去の栄光なり。現在とは何らの関係なし、過去の栄光に酔い、ついに不覚をとりしもの、ナポレオン然り、豊太閤然り、西郷然り、而して今またヒトラー然り。
吾はもとより山下大将がこのたび不覚をとるとはいわず。かかる過去の条件のみに乗りて未来の成功を期せんとする愚を、山下大将のために不安がるのみ、山下大将の成功を祈らずして何を祈らんや。願わくば「シンガポール」とは全然別問題として、マッカーサーを大喝して、大東亜戦争掉尾の頁を飾られんことを。
○近松秋江『舞鶴心中』を読む。巣林子の心中物に感激しおのれの心中を飾る夢のヴェールとなすがごとき明治大正の青年の心理、現代の吾らに納得できず。
十一日 曇
○午後、白金台町正木氏の留守宅にゆく、夜泊。
○夜、正木家にありしアンドレ・モーロアの『仏蘭西敗れたり』を読む。
フランスがドイツに敗北した直後、全日本を席巻せし書なり。当時あまりに流行せしかば、吾はアマノジャクを発揮して故意にこれを読まざりき。而して世界の歴史さらに数歩暗流を進めたる今これを読めば、感興ことに深きものあり。フランスはやはり日独とともに新秩序の一端を担う国にあらず、しょせん米英と運命を共にする国なり。当時この書を残してアメリカへ逃げたる――モーロアはこの書をアメリカにて書きたるに相違なけれども、この書のごとき顛末の後アメリカに渡りたるなり――彼を、日本人は非難せり。今ならば、さらに熱してこれを誹らん。祖国の敗滅という恐ろしとも何とも形容する能わざる現実を、かかる冷徹なる史眼を以て見るモーロアの心を嘆すべきか、嗤《わら》うべきか。
ただ、吾らならば、かかる眼にて日本の滅亡を見る能わざるべし。第一に、モーロアのごとく逃げるべき国なし。第二に、狂熱的国民性が一人たりとも同胞のかかる逃避を許さざるべし。第三に、これ最大の理由なれども、吾らの心そのものが日本を傍観視する能わざればなり。
この書を以て推すに、ドイツ敗北後、世界史がドイツをいかなる観点より見るや推察するに余りあり。従って日本もいかなる歴史的役割の極印を打たるるや、これまた火を見るよりも明らかなり。
しかも日本が、たとえいかに憎むべき好戦国、奸獪にして嗤うべき身のほど知らずの国なりとも、吾らは全身を以てこれに殉ず、いわんやインドその他アジア諸国を白人の手より解放するという大旗幟は、公平に見て燦たる大正義なるをや。解放してのち幾年、幾十年、幾百年、日本がこれをいかにするやはそのときの話なり。
請う、見よ、後世の日本人、吾らがたとえ世界史の流れの果てを明察するの力ありとも、なお戦わざるを得ず。日本が戦う以上、日本人は戦わざるを得ず。而して運命と正義があくまで戦うことを日本に命じたりと確信し、吾らが笑ってこの信念に殉ぜしことを。
十二日 曇
○八時過眼をさます、朝飯をいただき、十時ごろ正木宅を辞す。五反田を廻りて帰る。
雲寒く冷たく、街路樹刈りとられ、町白々として秋の気深し。五反田駅附近、疎開にて除去されたる建物跡の広場なお石ころに荒れ果てて、清徹の秋といわんよりは蕭殺の秋の感身にしむ。往来ゆく人の顔も何となくバサバサとして、さびれ切ったる印象なり。過ぐる日、哀れなる姿にて今はなきこの建物の中の鮨屋や食堂を、あぶらじみたるムク犬のごとくさまよいたる自分をしのび、感無量なり。
○汪精衛死す。
いかにして病を得たるか、いかにして病進みたるか、いかにして死せしか、ただ謎のとばりの彼方にあり。ただいつのころよりか日本の病院にあり、突如として死せるを発表せられしのみ。
今後色々とその経過等発表さるるならんもいかにせん死者は黙す。これまでその症状を刻々と世界に発表せざりしは、日本の大いなる失態なり。帝国政府深甚なる哀悼の意を表す。しかも吾にしてすら橘外男の「ナリン殿下への回想」を想起す。重慶及び反枢軸諸国が、いかにこれを宣伝するやは察するに余りあり。
汪主席の死が新中国民衆にいかなる影響を及ぼすやは予想する能わず。ただ、事実として現状はほとんど動かざるべし。新中国を統治しあるは、過去、現在、汪主席にあらずして日本軍なればなり。ただ、だれが汪精衛のあとをつぐやは大いに問題なり。少なくともその側近に、蒋介石を向うに廻して見劣りせざる人物のなきことは明らかなり。
汪主席の死が純然たる病死にまちがいなしとするも、それならば、いよいよ日本医学の恥辱なることはぬぐうべからず。この点に於て日本は米英のあなどりをいかほど受くるも一言もなかるべし。
十三日 快晴
○学校の屋上よりきょうも富士見ゆ。
午後細菌実習、血液型検査。吾は血清ABともに凝集するもB凝集の方鮮明なり。やはりAB型にして、どちらかといえばA型強きか。なるほど。
○『戦争と平和』第十二篇を読む。
十四日 快晴
○陸軍特攻隊の戦果発表。
現在までの特別攻撃隊――神風特攻隊、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊、葉桜隊、左近隊、富岳隊、梅花隊、聖武隊、時宗隊、桜花隊、万朶隊等十指をこゆ。
これらの特攻隊、ことごとくおのれの戦果を見る能わず、知る能わず。激突せる敵とともにみずからも五体微塵となればなり。人間の本性を超ゆることここに到ればむしろ凄惨というべし。
果然日米の決戦は、まさしく科学と精神の戦たるの相貌を呈し来れり。
○本月二十一日より三泊四日にて、富士山麓板妻に於て野外演習を行うとのこと。
これこの夏より適地を求めありたれど、ことごとく軍にて使用中なるため、ついにこの初冬に入るのやむなきに至りしごとし。十二月近き富士、野外演習には好適地以上なり。
これに関し午後、奥野教官より延々五時まで話あり、要領次のごとし。
一、期間及び課目。
十二月二十一日午前九時学校集合。九時半学校出発。十一時二十五分東京駅発。国府津乗換、午後二時十二分御殿場着。三キロ行軍、宿舎に至る。約三時となるべし。以後宿舎など種々の区分及び準備。
二十二日。午前各個戦闘教練。午後陣中勤務。夜間歩哨。
二十三日。午前各個戦闘教練。午後分隊戦闘教練。夜間攻撃。
二十四日。直ちに帰京準備。午前八時御殿場発。十二時半東京駅着。帰校。午後二時半解散。
二、携行品。
教練教科書、筆記具。当日の昼飯。米七合。レインコート。
十五日 快晴
○屍体解剖つづく。
○歴史上より天才を見るに、みな人類進運のための犠牲たり。(この人類の進運とはいかなるものなりや。考うれば色々疑問あれど、ひとまず常識的に解釈す)
この犠牲に二種あり、一は自ら犠牲たるを知るもの、他は自ら犠牲たるを知らざるものなり。
自ら犠牲たるを知るものとは、他に避けんと欲せば避け得べき幸福の道あるに、進んで犠牲の、不幸の道を選ぶものをいう。犠牲をえらぶ人の心にはまた別の幸福感あらんも、犠牲そのものは不幸なり、不幸にあらずんば犠牲にあらず。真の善とは己れの少なくとも若干の損害を伴うものなりとは一哲学者の言にして、人類犠牲の象徴とたたえらるるキリストが人類の不幸を一身に背負いたるものといわるるはこの常識に従うものなり。例えば今次の神風特別攻撃隊のごとし。彼らは少なくとも日本の犠牲なり。訓練、軍令その他の厳たるものは死の道を指せども、彼らにして否といえば決してこれに殉ずるに外なしとはいうべからず。このゆえに彼らの武攻全軍に布告せられ、国あげて彼らを軍神とは呼ぶ。
自ら犠牲たるを知らざるものとは、他にゆくべき道を知らず、犠牲たるべき道そのものが彼にとりて唯一の幸福なるものなり。天才はすなわちこれなり。彼らは自ら犠牲たることを或いは知らん、或いは、悲しげにこれを人に訴えん。而も彼らは他にゆくべき道を知らず。知るともゆく能わず。たとえおのれの事業が他にとりて恐るべき不幸なりとも、彼らとしてはこれをなすよりほかなきなり。犠牲か否かは彼らにとりていかんともする能わざるものなり。
世人天才を目して犠牲といい、世界の進歩に貢献するものとし、これを讃仰するにやぶさかならざれば、彼ら断じて天才の自我を責むるなかれ、厭うなかれ、哭くなかれ。甘んじて天才の自我の犠牲たれ。
天才の自我の犠牲たることこそ、すなわち世界の進歩に貢献するものなり。過去の天才の赫燿たる光のかげに、薄暗くうずくまりて泣きもだゆる凡人の姿を見ずや。見てこれこそ真の犠牲たるを知り、而してかのごとく犠牲礼讃の口角の泡を惜しまざれば、なんじら断じて自らのこの犠牲を避くることなかれ。
十六日 雨、寒
○三時より五時まで、清野謙次博士の「日本民族の生成」講義第一回。
日本石器発見史、矢の根発掘、弄石会の話、木内石亭平賀源内のこと、コロボックル、その他、甚だ面白し、筆記とらざりしが残念なり。
二十日 晴
○午後細菌実習、沈降反応。
○『戦争と平和』第十三篇第十四篇を読む。
ネロのローマ炎上とナポレオンのモスクワ炎上とは、世界の大都市炎上史中、双璧を占むるものなり。
しかるにシェンキーヴィッチの描くローマの阿鼻叫喚に比し、トルストイの燃ゆるモスクワをいかに淡々と写したるかは頗る面白し。両者おのおの意図ありその分を知る。シェンキーヴィッチの凄絶の景はもとより感嘆に値す。されどトルストイの偉大さ、ほとんど偉大なる狡さとまでいいたき偉大さは、膝を屈してなお及ばざるの感あり。
○「二国が剣をとり決闘をはじめたとする。勝負は長くつづいた。突然、果し合いをしている二国の一つが、自分の負傷したことに気づいた。
そのとき。――
剣術の法則に従って一揖したのち、柄を逆さにして、慇懃を極めた優雅な態度で、寛大な征服者に剣を渡す国民は幸いでない。
幸いなのは、かかる国家の試練の秋、他国民が法則に従ってどんな行動に出るかなどいうことを意に介せず、誰の趣味にも法則にも迎合せず、率直に無造作に、ありあわせの棍棒をとってふりかざし、辱しめられた感じと復讐の念とが、相手への侮蔑と憐愍のそれに変るまで、物凄じい、愚かしいほどの単純さで、めちゃくちゃに打ち下す国民である」
○「力(運動の量)は、数量と速度の乗積である。軍事に関していおうなら、軍の力はその数に他の何物か――未知のXを乗じた積である。
新しき用兵学は、兵の数がしばしば兵の力と一致せず、小部隊が大部隊に打ち勝った無数の実例を歴史の中に見出す結果、漠然とながらかかる未知の乗数の存在を認め、或いは幾何学的編成の中に、或いはまた装備の中に、或いはさらに指揮官の天才の中に、かろうじて乗数を見出そうと努力する。しかしながら、こういう風なさまざまな意味の乗数をあてはめてみても、歴史的事実と一致する結果は得られない。
このXは、軍の士気である。気魄である。
すなわち軍を組成する各人の戦わんと望む気持、自分を危険に投じたいと望む気持であって、かかる気持の大小は、戦闘に参加する人々が、天才の指揮を受けていようが鈍才の指揮を受けていようが、戦線が三重になっていようが二重になっていようが、武器が棍棒であろうが一分間に三十発も発射する銃であろうが、そんなことには全然関係がない。最も多く戦わんと望む気持を保持する人は、常に最も有利な戦闘条件に身を置くのだ」(トルストイ)
二十一日 晴れみ曇りみ
○朝薄碧い空から日がさしているので、しめしめと思う。
富士は寒い。この夏いったときも一晩中ふるえ通しだったと誰もが大いにおどすので、大事をとって、メリヤスのシャツ一枚、毛糸のジャケツ二枚、毛糸のチョッキ、背広のチョッキ、その上に教練服の冬服、さらに冬の制服、おまけにレイン・コート合計八枚。下はサルマタにモモヒキに、教練ズボンに制服ズボン、靴下三枚という実に恐るべきいでたちで下宿を立ち出でる。
空がしだいに曇ってくる。校庭に集ってくる学生たちはみな物凄いリュックを背負っている。中には毛布だのオーバーだのが充満している由。さすがのこちらもなお心配になる。雨がポツリポツリおちてくる。みな心配そうに空を仰ぎつつ、山辺中佐奥野中尉に引率されて九時半校門を出る。
新宿より中央線にて東京駅着。プラットフォームに折敷いて待ち、十一時二十五分発米原行の東海道線にて下る。
沿線の満山紅葉し稲は黄に波打っている。大部分は刈りとられ、切株をひたす水に秋の雲が映っている。二宮あたりから晴れてくる。空は碧く澄み、黄葉に露がひかっている。午後一時ごろ国府津着。
長い長いフォームを駈けて御殿場線に乗り換え、一時十分発車。汚ない汽車だ。トンネルが多く、車中の少女鉄道員の鼻の頭も煤で赤黒くなっている。下曾我駅附近には干した稲に薄日がひかり、池の枯蓮が赤くそよいでいた。稲を干すのは、自分の故郷では高い長い数段の木を組みあげるのだが、このあたりは小童の高さ程度にただ一段木を組むにすぎないらしい。田園の向うにならぶ藁屋根も勾配がゆるく、自分の故郷の急峻な藁屋根に比して、かえってこの地方の雪の少ないことを示している。
車内、空席がある。自分と反対の側の窓に日がさしこんでいるので、そちらに移ろうかなと考えていると、自分の前の本物の兵隊がつと立ってそちらに移った。窓際の百姓のおかみさんらしい人が、風呂敷包みから芋をとり出して、前の自分の子供に与え自分も食い出したが、傍にやって来た兵隊にもすすめた。兵隊は二度ばかり辞退して、やがて、あまりうれしくはないのだが、といった顔つきで、黙って真っ直にむいて芋を食い出した。何だか自分はその方へゆけなくなってしまった。前の唇の厚い豚のような顔をした娘が蜜柑を食べ始めた。一つ食ってじっと空中を見つめていたが、また一つ取り出して皮を剥いた。これを食うとしばらく空を見つめ、また一つ食った。この娘は御殿場につくまでに、十はたしかに蜜柑を食った。
二時に御殿場につく。
曇っている。暗い、肌寒い風が吹く。駅附近は、安っぽい旅館兼食堂ばかりだ。陸海軍御指定と札をぶらさげた宿屋の前に、学校の小使いそっくりの老人がリュックを背負って立っていたので友人の注意を促したら、この老人が動き出して自分達の行列の尻について歩きはじめた。よく見るとやっぱり学校の小使いであった。
途中、浅間神社に十分ほど休憩して、山辺中佐を待つ。中佐はどこからか馬を借りて、あとから追ってくるのだそうだ。仲間で感心に、神社を拝んでいるものが四、五人ある。「浅間神社って祭神はだれだい」と尋ねると、だれも知らんという。富士山でも祭ってあるのだろう。境内の横の方にいってみると、四、五歳の女の子や男の子が、笊《ざる》や箕《み》を頭にかぶって、何だかごっこをやっている。みんな頬を真っ赤にして、その眼のかがやきは彼らがすっかり空想の世界に没入していることを示している。傍から見ると馬鹿馬鹿しいが、大人の感激することだってこれと同じことだと思える。大人のやるすべてのこと、みな何だかごっこだ、という思いがこのごろ自分の胸を深く占めつつある。
やがて出発して、三時に原里村国民学校につく。ただちに叉銃《さじゆう》して、小隊長連は奥野教官に引率されて宿舎を見にゆく。宿舎は全部軍が使っているので、ふつうの民家に入るのである。
富士が見える。夕日の校庭でモンペの子供達がフットボールに戯れている。非常に美しい、なつかしい、羨ましい感じがした。代用教員らしい青年が職員室から現われて、色々話しかける。こんなところにいると知的に遅れてしまうとか、東京の方に色々教えてもらいたいことがあるとか。――東京の学生がその知的なものを身につけていると、彼は考えているのだろうか。彼らは一皮剥けば、剥かなくったって、村の青年と同じく無智無恥、野暮野卑の獣類にすぎない。
黄昏、宿舎に入る。竹藪や柿の木や栗の木に囲まれた大きな家三軒に、三個小隊が分宿する。
自分達の家は仏壇の扉をしめた奥の間六帖、その前の庭向きの八帖、土間に面する八帖、これだけに五十人が入ることになる、尤もこのうち十人あまりは二階に上る。毛布が八枚ずつ重ねられて壁沿いに並んでいる。庭の右側は竹藪で、左側は馬小屋である。真っ黒な馬が首をふっているそばに、小羊が白いひげを垂らしてキョトンとこちらを見ている。鶏は例によってセカセカと餌をひろっている、一般にこのあたりの百姓家は但馬よりもだいぶ裕福そうだ。
食事当番がきめられて、五時に食事となる。薩摩芋だらけの麦飯に、えたいのしれぬ汁。
こちらから三日分七合の米を持参した上、一日一合五勺の米が特配追加されるという話であったが、全然東京の食堂と同じ――いや、混ぜてある芋を除くと、もっと米は少ないひどいものなので、みなこれじゃたまらんと悲鳴をあげる。
食後、上中、堂本、見塩の幹部たち、みな一円ずつ徴集してもう少し分量を増してもらおうではないかとひそひそ相談をはじめる。飯に関する不平はあるかも知れんが、何事も訓練だ、三日の演習だ、必ず耐えてもらいたいと先日奥野教官がいったばかりなので、教官には絶対秘密にして百姓に交渉しようと話している。
やがて一同が相談にゆく。格子の向うのいろりばたで主人の百姓と話す声がする。
「……その代り少し高いですよ」
と、主人が欲の深そうな陰にこもった声でいう。
「芋一貫目が、まあ三円ですな」
「三円? そりゃ安い。そりゃ安いです」
と、一人が答えている。まじめくさった声だが、彼らはいくぶん得意なのである。自分にはその気持がよくわかる。教官には秘密で大人なみにこんな闇取引をするのが得意でたまらないといった気分なのである。
奥の方で片山が歌を歌い出す。顔ものどもゆがんで、ねじまがるような凄じい歌声で、みなが拍手喝采すると、いよいよ狂的熱度をあげて歌う。
八時半消灯。便所にゆく途中、縁を廻ってゆくと、雨がしずかに降っている。南の空に青白い稲妻がひらめいて、ドロドロと鈍い雷鳴が聞える。
毛布は一人八枚なのだが、二階に上った連中の分が余っているので、下に五枚、上に十四枚重ねて、来たときの服装のままでもぐりこんだら、重くて、うなされて悪夢を見た。
ふと、眼をさましたとき、天井でどんと寝た足をあげて力まかせに落したような音がした。塵がバラバラと降って来た。
「静かにしろっ」
と片山がさけんだ。するとまたどんどんと床をかかとで打つ音がした。
「こらっ、二階の野郎っ」
と、松内が叫んだ。二階でどんどんどんと音が答える。
「ようし、チキショウッ」
と、狂ったように叫んで片山が起き直った。それに続いてその一党の|あにい《ヽヽヽ》連が二、三人、だだだっと二階に駈け上っていった。
「こら、今やったやつはこちらに出て来い」
「生意気な野郎だ。相手になってやるから出て来い」
「出て来ねえか。畜生」
と、どなる声がする。二階はしんとして、みな寝たフリをしているらしい。下もしんとしているが、大部分眼をあけて、二階の事件に耳をたてている気配である。
「ひとが三度も注意したのに、ふざけたまねをしやがる。出て来いったら出て来い、卑怯者め」
などと十分間くらいやっていたが、やがてゾロゾロと降りて来た。すると二階で――これはどんどんをやった男が、ほかの者への面目上、ちょっと何か強がってみたものと思われるが、誰か小さな声で何かいったらしく、それをききとがめた松内が、猛烈にタンカを切っている声が聞えた。
「ようし、あしただ。大体やったやつは分っているんだ。忘れるなよ」
そしてみな、おお寒、えらい目に合わせやがった、風邪ひくわい、などブツブツいいながら下りて来て、毛布にもぐりこみ、さかんに、いかに自分がかあっとなったか、いかに猛烈に憤怒にかられたか、ということを力説し合っている。
しばらくすると、二階からゴソゴソと二人ばかり下りて来て、宿のおばさんに水をくれと頼んでいる声がきこえた。彼らはいささか心配になって、水にかこつけて下の雲ゆきを偵察に来たものと思われる。
果然、それに触発されて、また片山一味が躍り上って、そのあとを追い、二階に上っていった。いま黙っていては、自分たちの怒りが見くびられると思ったかららしい。電気をつけろ、とか、北川、テメエだろう、とかいう声がする。すみません、と北川の恐れ入った声がする。以後気をつけろ、と大いにいばって片山たちは下りて来たが、自分達の足もとを、暗闇さぐりに通るとき、
「ハイ、御免よ、どうもすみません、おっと、どうもすみません」
と、ふだんきいたことのない、へんにやさしい声でいって通った。一方にあの武勇あり、一方にこの優しさあり、といったところである。
昔の、義に強く、情けに弱き侠客の――とナニワ節の舌頭に伝えられる連中の心理は、おそらくこういうものだったのであろう。すなわち彼らは、本来は多血質の凶暴無頼の人間で、犬や女を踏み殺してもなんら痛痒を感じない連中なのだが、いわゆる強者へ狂的にぶつかっていったあとの物理的反動が、弱い者へのやさしいしくざとなったのであろう。それに彼ら自身心ひそかに、芝居ががった得意を自覚していたものに相違ない。
二階のどんどんは止んだが、この凱旋軍の手柄ばなしはあたりの静寂を破っていつまでも傍若無人にひびき、神経質な善人たちの迷惑することおびただしい。
二十二日 晴
○午前六時起床。
庭に飛び出して、点呼を受ける。昨夜の雷鳴はどこへやら、空はぬぐいとった鏡のように暗く澄んで、黎明の空気の玲瓏たる鋭さ。庭先の黄葉は露にぬれ、軒にぶら下げた黍の行列が、四辺薄蒼く沈んだ中にひときわ目立つ生々しい赤黄いろさで浮かんでいる。
中尉の命令で、近くの広場めがけて掛声勇ましく駈足する。枯野に散って兵式体操行う。
突然、一人が感嘆の叫びを発した。
富士の頂上に、暁の第一の光がさした。これこそ日本、いや神州にさす最初の日光であろう、そう感じたほどそれは美しい、美しいというより荘厳な、荘厳なというより実に形容を絶した、かぐわしい、微妙な薔薇色であった。雪はすでに山の半ば以上まで降っている。頂上の薔薇色のひだひだは紫だった。光の花はしだいに下へひろがり、垂れ、裾をのばしてゆく。みな体操を忘れて、恍惚として、合掌せんばかりの顔つきで見とれていた。曙富士、この三文小説の題にでもありそうな言葉の素晴しさが、自分の眼を洗って、爽然と虚空に彫り出された。演習第一日のほがらかな晴天は富士から明けつつあった。
朝食後、いよいよ近くの裾野演習地にゆく。霜はとけ、曠野を覆う白い霧は消える、枯草の野に折敷いて、教官からこの周辺の地勢についてきく。
「眼前にあるのが、もちろん三国一の富士の山! この三国一とは何をさすか、道々考えたのであるが、おそらく世界一と同意語であろうということに結着した」
と、奥野中尉は学問のない解説をする。
「向うの山が愛鷹山だ。あちらにあるのが保土沢村、ここら附近を原沢原といい、あの哨舎を板妻哨舎という」
と、一々鞭をあげる。
「うしろの連峰、あれが有名な箱根山、いわゆる天下の嶮だ!」
と、襞々の多い背後の山をさす。
原沢原の起伏の多い枯草は暁の風に吹きなびき、いたるところに、円いのや弓形のや四角なのや凹字形凸字形、種々さまざまの浅い濠深い濠が黒土を見せている。
午前中、各個戦闘教練。
各小隊ごとにそれぞれの幕敵を定め、各々三列縦隊にならび、二百メートルほど手前からこれに突撃演習を反復する。
まず伏せをしてこの幕敵を射撃し、第一分隊長の、
「突撃ーっ、進めっ」
との号令一下颯然と立ち、躍進開始、五十メートルほどかなたに立つ第二分隊長の、
「停れっ」
との号令で、ばっと伏せる、その地の選択、匍匐状況を、教官がバセドー氏病的眼球でにらみつけている。
「前へっ」
との叫びとともにまた疾駆、幕敵近く三十メートルに立つ最後の分隊長の、
「突っ込めえっ」
という絶叫をきくや、うわっと猛獣のごとき咆哮(ただし、四辺あまりに雄大にして、みなの必死の声も、腹のへった猫のような声なり)をあげて突貫。幕敵を突くまねをして、
「よし、成功!」
と、讃辞を頂戴し、頂戴しなくってもフラフラになって、広場を迂回してもとの位置へ帰る。
自分たちの小隊は、幕敵が丘の上にあり、その下に濠があるので、最後の突貫にすっかり精力を消耗しつくして、これを三回反復させられたら、みな涸れ果てた哀れな顔つきになってしまった。
十二時に昼飯を食いに帰る。午後は、夕の炊事当番なので、楢原、加藤とともに宿舎に残る。
四時ごろまでは暇なので、西向きの午後の日の暖かい縁側にゲートルの足を投げ出して、ディッケンズの『クリスマス・キャロル』を読む。ディヴィヴィエの「幻の馬車」を思い出す。
例の片山、土端、松内らがさぼって縁側に寝そべっている。他にも桑木や中川や、数人ごろごろしているが、この連中は病気その他の故障があるらしい。むろんきのう行軍して来たくらいだから、意志さえあれば演習に参加できることはたしかである。他の宿舎にもこんな連中が多いと見え、奥野教官が恐ろしい眼をして見廻りに来て、一々訊問した。
それに答える一同の、いかにも痛くってたまらん、苦しくってたまらんといった表情の迫真さ。片山のごとき、プルスがアブノーマルだとか何とかいって中尉をけむに巻いてしまう。何とでもいえ、おれは決して信じはせんぞ、といった一にらみをくれて教官が立ち去ったあとも、みなは今の悲劇的な表情の惰性が残って、おたがいに悲しそうな顔をしたまま、毛布をかぶって寝てしまう。
二階に上って見る。二階はすなわち屋根裏である。屋根の棟や木組みが黒々と頭上に見える煤けた板にむしろをしき、毛布だけは六、七枚十分重ねられ、西向きの日のあたる油障子の窓の下に、杉原と佐藤と赤羽根が寝そべって、煙草を吹かしている。赤羽根は来た瞬間から腹の痛くなった男である。自分が上っていったときには、赤羽根のロマンスが語り終えられたという残念な過去完了のときであった。「おれは過去に女だけには失敗したナ」
と、杉原が沈痛といった顔つきでいう。三人とも女の話で持ち切っている。自分が黙ってきいていると、「山田、おまえは女に興味ねえのか」といった。そんなに女の話が面白いかなというと、女の話が面白くない理由をいえとねじこまれる。自分の説といってはないから、ショーペンハウエルの「婦人論」を思い出し、これを盾にして弁論をふるう。
赤羽根が大いに昂奮して、健全なペニスを持った男なら、女が嫌いなはずはねえ、少なくともderである以上は――それとも、君はdasか? 自分は男にして女がきらいといった顔つきをしている奴は、断じて偽善者だと思う、と大確信にみちた顔でいった。
ふいに、彼らに対しても自分に対しても意地の悪い気持になる。「何だかごっこ論」を思い出す。
「大体、みんなのやっていることはみなまねだ。大人のやってることはもちろん万事まねだが、僕達のやってることもことごとくまねだ。気の大きそうなまねをする。不良らしいまねをする。若者らしいまねをする。女にモテるようなまねをする。何か考えているようなまねをする。淡白そうなまねをする。友情のあるようなまねをする。何もかもまねで持ち切っている。僕はそうだが、みんなを見廻してみて、そうだとは思わんかね?」
といったら、意外にもみんなおちつかない表情になった。ただ杉原だけが、
「友情もまねかしらん? そんなことはないだろう!」
と、悲鳴のように叫んだ。これが一番こたえたらしいことは、それだけは若者のまねではなかったようだ。
腹がへった。窓から見ると、下で百姓のおかみさんと娘が芋を焼いている。
「杉原、その凄腕をふるって、あの娘さんに芋をもらって来いや」
といったら、「よし来た」と意気ごんで駈け下りていったが、いつまでたっても帰って来ない。窓に寄ってみると、向うの第二宿舎の農家の庭で、そこの残留組とスモウをとっている。たいへんな病人達があったものだ。
呆れて、
「おうい、アレはどうしたんだあい」
と尋ねると、狆《ちん》のような顔をして、だめだめという風に手をふった。あとできくと、その娘のそばに寄って何かをいおうとしたら、ジロリとにらまれて、しかもそれはそれは冷淡な眼つきだったので、一ぺんにちぢみ上って、一言もいえなくなったそうである。
夕刻みな帰ってくる。演習後騎馬戦をやった由。騎手になった連中の上衣は、袖はちぎれ、ボタンは飛び、さんたんたるありさまである。
夕飯は芋飯。菜は同じ薩摩芋の蔓と漬物なり。ここらの百姓は自分以外の人間を豚だと確信しているらしい。きょうはみな、案外おとなしく寝てしまう。
二十三日 晴
○朝やや曇。それだけ昨日より暖かい。
例によって六時、近くの野へ体操にゆく。雲はあるけれど、日は同じ時刻まちがいなく富士の頂上を薔薇色に染める。野に積まれた堆肥の小山から、しずしずと湯気がたちのぼり、百姓家の軒下の干柿が赤い。野菊が微風にゆれている。
帰途北川が一昨夜のどんどん事件について話している。面白いの何のったら――出て来いといいやがったから出てゆこうと思ったが、馬鹿らしいからやめた云々。
午前中、村道を通り、田や畑や雑木林や杉並木や――その間絶えず清澄な富士の雄姿を頭上に仰ぎつつ、昨日とは別の演習場にゆく。今日は各分隊順に散開攻撃演習である。
枯野の中を、陸軍のカーキ色のトラックや、騎馬隊や、野営の道具一式を背負った兵士のむれが通る。空は晴れて来、遠くでいんいんたる砲声が断続して聞える。
自分達の分隊長は青井である。白い顔、赤い唇、がっしりした両肩、勉強好きで運動好きで、人並に騒ぐのも好き、ただし、将来は必ず俗物の見本となること大地に槌を打つがごとき青年である、などというとこちらがえらいようだが、自分のことはまず考慮外におくとして、青井に関するかぎりこれは事実なのだからいたしかたがない。
自分を皮肉屋だという者に、自分はいつも答える。
「事実だからしかたがない」
それが事実かどうか、こちらも若い人間なのだから、僭越の罪は免れないだろう。また将来自分が今をふりかえって、よくまああんな未完成の時代に大きな顔して愚な皮肉をいったものだと恥ずかしがるであろう。――しかし、今の直感は「事実だからしかたがない」と自分に教える。その直感をあくまで信じて、他の言を一切聞こうとしないところ、自分もまた充分俗物の範疇に入る資格がある。
昨夜の夕食を思い出す。
芋飯、芋の茎のお菜のほかに、漬物の菜を刻んだものを一つまみずつ、各自の丼の上にのせてゆくのだが、もともと少ないものなので、必ず二、三十人足りなくなる。昨晩も不足だった。尤も、自分も当番だが、漬物を配給したのは自分ではない。
青井もこれがもらえなかったと見えて、
「おうい、漬物がおれんとこにはないぞう」
と、どなっていた。自分は飯を配っていたが、青井に向って、
「ありゃどうせ足りないんだよ。それにあんな臭いもの、なくったって別に大したものじゃない」
といったが、青井は顔色をかえ、眼をひからせ、
「そりゃ欲しくない、おれは欲しくはないが。――」
と、唇は笑ってはいるものの、へんにこわばった表情でいったが、
「山田、当番の君の丼にもそれは無かろうな」
と、釘をさした。
「ない!」
と、自分はいったが、
「ないかあるか、おれが配ったのじゃないから、与り知らん!」
といった。
「そんなら、よろしい」
と、青井は黙った。それから「僕は欲しくはないが。……」とまたぶつぶつ呟いた。
正直なところ自分は心中大軽蔑を感じた。感情の烈しさ、必ずしも原因の大小に比例しない。かかることに「そんなら、よろしい」というところまで血相をかえて浅ましさを押しつめてくる相手と、それに相手になった自分に、胴ぶるいするほどの哀れさを覚えたのである。
さて、散開攻撃が始まる。
野の果てに丘が連なり、秋の雲の下に黒々と奥野中尉がつっ立って、凄じい咆哮をあげて叱咤している。そこから五百メートルほど手前の野の中央に山辺中佐が立ち、不透明な声で指揮している。
自分たちはそこからさらに五百メートル手前の道路に伏し、分隊長の号令とともに前進を開始する。丘の下の白い旗がふられると、それは敵の軽機関銃の猛射を意味し、左の林の中の赤い旗が動くと、それは重機を意味しているわけである。これらが動かなくなったとたんに起って、身を曲げて鞠のごとく走り、これが動くところがり伏す。匍匐、疾走、伏射、着剣、喚声、突撃、狂気のごとく敵の軽機の前に殺到、これを刺殺するまねをすると、丘の上の中尉が、
「敵陣はまだまだ深い! さらに突撃っ」
と、絶叫した。
犬のように喘ぎながら丘を駈け上る。その向うにまた一つ丘が隆起し、幕敵が並んでいる。走ろうとすると、中尉が、
「こらっ、犬死するかっ」
と、叫ぶ。伏して胸を波打たせていると、
「何グズグズしとるかっ」
と、また叫ぶ。みな、心臓の激動と命令者への怒りに、眼がギラギラひかり、顔色は真っ蒼だ。からからに乾いたのどをしぼって、うわわわあっ、と最後の突貫をすると、左手の丘の陰から、着剣した前の分隊がわっと躍り出て来た。むろん見知り越しの顔だからこれを相手にせず、大いに幕敵を突くまねをしていると、
「逆襲っ、逆襲だぞっ、何をボンヤリしとるかっ」
と、中尉が叫んだ。あわてて反転して銃剣を向け直したがもう遅い。
「今の分隊は敵の逆襲を阻止し得ず、分隊長部下を掌握できず、全員戦死っ」
との宣言を下されてしまった。
かくて戦死した吾々の幽霊が、新しい逆襲部隊を編成して、次に突貫してくる分隊を全滅させた。幽霊が相手なのだから、どの分隊もことごとく全員戦死してしまう。
これを一わたり終えると、みなヘトヘトになり、ほんものの幽霊部隊みたいになって、一キロあまりの道を宿舎に帰り、昼飯を食う。
午後は中隊を二分して対抗の戦闘演習をやる予定であったが、それをなすべき広い演習地は今本物の軍が全部使用しているので、予定を変更、御胎内神社まで参拝行軍をする。
往復十キロということであったが、十二、三キロはたしかあったような気がした。草原や畠や胸つき八丁の山道をどんどん進む。靴底が口をあけたやつが、あちこちに見え出した。赤羽根が、「おれ、腹が直るんじゃなかったよっ」と悲鳴をあげる。途中、道をまちがえて或る谷のどん詰りに立つ断崖に阻まれ、引返してやっと御胎内につく。二時過ぎであった。三時まで休憩。
この間に希望者は、五銭払って小さな蝋燭を買い、いわゆる「自然の驚異」御胎内に入る。
御胎内は地底をウネウネと走るトンネルで、そのあちこちに、小腸部、大腸部、五臓部、乳房石、精水池。臍帯部、後産石、安産石、などいう名がつけられている。
入ってみて、驚いた。入る前に四つン這いにならねばならぬ所があるとはきいていたが、断じて自分は四つン這いなんぞなるものか、と決心していたが、絶対に這わねば通れないのだからしかたがない。蝋燭の灯はかそけく、ポトポトと地下水は背中におり、いたるところで尖った岩に頭をぶつける。眼前に進む松柳のごときは、ついに苦しさのあまりか、もがいたはずみにズボンが破れて巨大なる臀部をうごめかし出した。精水池にたどりついたときは、汚ない水溜りを見て、人をばかにしてやがると怒る元気もなかった。やあ、こいつがザーメンだザーメンだ、とみな嬉しがっている。断じて二度と生まれるものかと心中にどなりつつ、さんざん|生まれ《ヽヽヽ》の苦しみをなめて出口から這い出したら、ちょうど休憩の時間が終ったところで、休むひまなく出発となる。
この地下のトンネルを女の胎内と見たてた人物は、実にふざけた空想家である。
帰途は、印野村、保土沢村を通る。重畳たる箱根の山脈は夕日に紫色にかすんでいる。いつのまにか、唇をそろえて口笛を吹き出した。晩秋の静かな空に消えてゆくトレモロのような哀愁、白い路に微かに立つ砂ぼこり、疲れはてて不規則な中にも、若々しい足音が一種の調和をふくんで、ざっざっとひびく。夕日に赤々と染まって重なり動く友人の肩を見ていると、ふと物珍らしい「青春」を感じた。……
夜は、最後の夜というので、みな発狂したような騒ぎであった。手拍子、歌声拍手喝采、家鳴震動といった大喚声である。自分は一人だけ離れて、毛布に凭《もた》れたままそれを見ている。「ヘンな奴だな」というような眼を、ちらっちらっと投げる者が多い。こちらも異分子みたいにぽつねんとしているのは、自分に対しても不愉快である。しかし、彼らの歌っている歌を全然知らないのだからつき合いようがない。
ぼんやりしていると、神尾が来て、こんな意味のことをいう。
「僕は人生というものが疑わしくなって来た。何にもつまらない。このごろ、生きてゆく張合がない。考えてると、気がちがいそうに憂鬱になる。だから、だれかほんとうの友人を見つけて……」云々。
自分は全身に寒気をおぼえた。神尾は自分に指導してもらいたいというのだ。自分はとにかく閉口して、いうべき言葉を知らなかった。自分は苦笑いする気力もなく、ただ部屋で二、三人と静かな声で哲学の話をしている納富らの方を指さして、
「そんな話なら、あの人たちの方へいった方がいい。僕は難しい理屈は知らない」
と、いった。
「いや、難しい理屈は僕もききたくないんだ」
「じゃあ、あの人達にきくがいい」
と、自分は障子の傍で仲よく毛布に足を入れ、芋の話をしている木村と柏原を指さした。
「あの二人はほんとに善人だよ。もちろんここに誰だってそう悪い人間はいないがね。しかし大人になるとあまりきれいとは言えなくなる人間が、この大部分だろうということは確信できる。しかしあの二人の善人病は一生癒らんね。あの二人と話した方が、僕みたいな人間と話すより、よっぽど君の希望にそえるよ」
神尾を撃退すると、こんどは桑木がやって来た。この男は歴史が信じられないという。
「今の世の歴史観はおかしいと思い出したら、今まで教えられた過去の歴史は信じることができなくなり、また現在の歴史もどう眺めていいか分らない」
と、いう。同感である。
で、自分もこんな意味のことをいった。
「楠木正成が逆臣だった時代があった。今は犯すべからざる神的忠臣である。しかし、未来には――楠公への民衆的信仰の大勢は動かないと思うが――しかし、その他の歴史的人物にしても、ただ忠逆の点のみならず、その性格、事業、歴史的意義など、いかに事実と相違し、或いは不当な評価を受けている例が多いことだろうか。歴史は筆と口によって残る。しかし筆と口は、あてにならぬものである。まさに君のいう通りだ。しかし、それはどうにもいたしかたのないことではなかろうか。それが人間の相だからだ。過去のことなどどうでもよいではないか。
過去のことは、どう残念がったって、どう感激したってはじまらない。
そしてまた現在だって、吾々がただ生きて死ねば、あとは吾々の知ったことじゃない」
それからまた、変に冷たい熱にかられてこうもいった。
「どうせ人間は、巨大な振子ともいうべき地球の軸が或る程度傾斜すればまた氷河時代に入って、何もかも御破算になるんだ。今の人類、今の歴史、ましてや今の人生など、思いつめて考えるのはばかげている。では、どう生きればいいのか。ただふしぎなことに、吾々の生の中には精神というものがあり、精神の中には良心というものがあることは事実だ。その良心の指さす方向に違うと非常に不愉快になるから、ありがたいことにその良心の指さす方向は、理屈を超えて自分にも分り、かつ、ふしぎなことにほぼ万人一致しているようだ。だからまあ、せいぜいこの良心って奴の指令に従って、なるべく不愉快でないようにこの生を終るよりほかに法はないじゃないか」
桑木はいう。
「いや、自分はそんなあやふやな良心なんてものを信ずることはできない」
「じゃあ、どんなものなら信ずるのだ。二プラス三イクォール五みたいなことか。三角形の内角の総和は二直角みたいなことか」
「いや、それすらも信じられないんだ。光の直進も引力も星の公転もみんなまやかしもののような気がするんだ。自分も、心も、生も、宇宙も、法則も、何もかも夢か幻みたいな気がするんだ」
しかし、桑木の顔から見て、彼がそれほど深刻に考えていないことは事実だった。
それにもかかわらず、これは実に恐るべき言葉だ。実際、この世のすべては夢なのではあるまいか。
夢か夢ではないかはこちらの心によるといわれるかも知れない。しかしいちど心が万象を夢と認めたなら、これを動かすものはこの世にない。そしてその心さえ夢だ、夢を見る心さえ夢だと考えはじめると、――
合唱は続いていた。いつまでも続いていた。
これが青春の哀歓の盃をほすような歌声なら、こんな問答の伴奏にふさわしいのだが。
昭和の学生の、いや学生中の医学生の歌う歌がいかなるものか、それを伝えれば現代の日本の青年の精神の曲線の一坐標を知るよすがとなる。
しかし、それはここには書けない、書くにしのびない。「野毛の山からのーえ」なら、まだいい、淫猥という文字にあたるものならまだ雅味があるといいたくなるほど下等低劣の歌だ。それはこの乱痴気騒ぎの果てに、西田という馬鹿者が毛布の上にころがって、四十八手なるものの実演をやったことでも判断できる。それを見てみなげらげら笑っている。しかもたんに笑うのみならず、それぞれ心中に各自の妄想を描いて生臭い息を吐いている。
この歌や馬鹿騒ぎは、すぐ裏の民家に泊っている教官達にも聞えていないはずはない。しかし針を落しても大喝しにやってくる教官達は今夜は黙っている。若い者は仕方がない。或いは元気があってよろしいくらいに考えているに相違ない。
なるほど自分みたいな青年ばかりだったら、日本は消滅してしまうにちがいない。しかしそんなことなら消えてしまった方がいい。軍人の教育ほど曖昧な偽善にみちたものはない。
二十四日 晴
○朝五時半起床。
まだ暗い。しかし、ただちに準備していよいよ帰京するのである。みな大はしゃぎである。
八時、まだ霜の白く浮く道を踏んで行進をはじめる。八時半に御殿場に着く。まだ発車までに一時間あるので、叉銃して休憩する。
三小隊の中の四、五人が、駅前の広場で、ストームやろうやストームやろうやと肩を組んで踊り出し、その中に落第が一人いてみな来ないかと呼びたて、ついに半分の人数が加わって大円陣を作り、ヒポクラテスの歌を歌いながらグルグル廻り出した。紺野一平が中に入って、一人で踊り狂っている。田舎の人々は珍らしげに笑顔で眺めいっている。
九時半発。農家を出るときもらった弁当の握飯二個は、みなこの御殿場線で食ってしまう。十時半に国府津駅着。十一時東京行に乗る。
ついウトウトと眠ってしまった。ふと眼を醒ますと、拡声器が、
「空襲警報発令! 空襲警報発令!」
と叫び出したので愕然となる。横浜駅であった。プラットフォームも車内もいっせいに騒然となり出した。
「なつかしの東京に、とんでもないことが待ってたなあ」
と、だれもが笑う。みな生き生きと嬉しげな顔になる。
ただちに武装し、車窓の青幕を引いてそのまま発車する。
川崎駅に入るや、全員退避の命令が下った。自分達も一般乗客も、デッキから構内へばらばらと飛び下りて、駅前の広場へ逃げ走る。プラットフォームではないので、一メートル余りの高さを飛び下りる女の中には、足を挫いて倒れる者もある。
駅の前は、おそらく疎開除去した建物の跡らしく、何となく荒廃した広場になっていて、そこに無数の男や女が三三五五集まって空を仰いでいた。十二時過であった。あちこちの建物の屋上には、対空監視の人々が胡麻粒のように動いている。駅員の寮らしい建物の横まで走って来たら、今や一人の男がせっせと防空壕を掘っているところであった。
「なあんだ、これから掘るのかあ」
と、みな悲鳴をあげる。
「どうかゆっくり掘って下さい。僕は敵の爆弾の穴に逃げこみますから」
と、皮肉をいう奴もある。
しかし、駅前に点々として小さく掘られた防空壕には女子供が充満しているので、走って来た巡査の指示に従い、近くの駅付属の建物の中に走り込む。荒れはてたがらんとした大きな部屋に、十数人の少女駅員が一団となって不安そうに佇んでいる。そこへ三十人近い学生が走りこみ、両方ともテレて、窓の外ばかり眺めている。
突然、轟と高射砲の唸りがひびき、「敵機来襲っ」という叫びが聞え、部屋の中は少女の悲鳴と学生の喚声に満ちる。爆風を怖れてガタガタと窓ガラスをはずす者、騒ぐな騒ぐなと騒いでいる者、静かに、静かに! と叫んでいる者。――自分が傍の空地に走り出て見ると、雲の多い高い秋の空を、恐ろしく小さなB29が八機編隊、六機編隊と合計十四機飛んでいるのが見えた。その姿が薄雲に没し、高射砲の音が止むと、みな急にしんとなる。部屋の隅にかたまっている女駅員のむれに、最も接近して席をしめた片山松内の徒がしきりに無意味なドイツ語を連発しているのは、可笑しくもあるし、にがにがしくもある。
一時間以上、ここにどたどたしていて、しかたがないので、東京まで徒歩行軍で帰るということに決定し、隊を組みかかっていたら、山辺中佐と駅との交渉がまとまって電車に乗れることになった。自分達のほかに、非常線突破証所持の人々ばかり乗りこんだのだが、それでも凄じい混雑である。大森に着いたら、また全員待避の命令が下った。
線路のそば、道路沿いの崖の下の広場にならぶ防空壕にみなとびこんで、棚の西瓜みたいに首だけ出して空を仰ぐ。漠々と雲の流れる大森の西空に、日は白くボンヤリとかがやき、雲の間の碧空に、敵機か味方機か、三条ばかりの細い飛行機雲が見えた。時計は三時を指していた。
そのうちに電車が出そうな気配なので、みなわっと立って乗り込み、鮨詰めになってあわや発車せんとしたら、また待避である。
今度は駅の往来に飛び出して、店舗の軒下に目白押しに並んでいると、警官が走って来て、そんなところにいたって駄目だ、あっちに千人入りの防空壕がある、とどなりつけた。
みな往生際わるくシブシブとそちらにゆくと、天現神社へ上る石段の横に、縦六尺横四尺くらいの洞窟が口をあけ、入口に十数人の人々がひしめいている。奥の方で、
「みな入って下さあい。どんどん詰めて、そこの女の方、もっと入って下さあい」
と叫ぶ声がする。それでも神社横の洋食屋らしい建物(おそらく国民酒場であろう)の「六時ヨリ営業致シマス、本日ハ日本酒デス」と書いた立札の傍に、女や男がかたまって空を仰いで動かない、突然凄じい音がして、近くで高射砲を打ち出した。
たちまち、みな、あんなに入りしぶっていた横穴に逃げ込む。自分が入口に近い穴の中に立って、小腸の内部のような天井の土を仰いでいたら、奥から、
「おっと学生さん、これはいい人を見つけた。どうかこちらへ詰めて下さい」
と、腕をひっぱった者がある、何気なくその方向へ進むと、ズブリと靴が埋まるようなぬかるみへ踏みこんだ。さてはこのため穴の途中があいて、人々が逡巡していたものとみえる、もうこうなってはかまうものかと、ズブリズブリと友人といっしょにそのぬかるみを占領してしまう。腕をひっぱった男は、防空隊員らしい。例のカーキ色の団服、黒襟、黒戦闘帽の中年のでっぷり肥ったあから顔が、入口の微光に厚い唇を動かせていっている。
「おどしたり、だましたりしなけりゃ、みな入らねえんですからな。どうぞお入りになってくださいませじゃ、お役目が勤まらねえんです。――居心地はもちろんよかぁありませんや。しかし命にゃかえられません。ここなら大丈夫です。二千三百人入れます。この奥ずっと百六十メートルあります。実に大したもんですよ」
みな改めて、
「なるほど大したもんですなあ」
と感心した顔つきで、天井や壁をしげしげと見廻している。
ふりむくと、洞然とした穴深く、赤い暗い裸電球がボンヤリ二つばかりぶら下がり、何人とも何十人とも知れぬ男の戦闘帽、女のフケの白っぽい髪の毛などが重っ苦しく動揺している。町の方ではまた猛烈な高射砲の音があがり、穴の土がどろどろとゆれた。子供が泣き出した。背負っている母親が、ささやくような声で、山猫が来るわよ、こわいわねえ、とあやしている。十分ばかりたつと、また地ひびきたてて砲の音がわたって来た。そのたびにみなしんとへんに沈黙する。
もう一時間もたった。狭いトンネルの空気が炭酸ガスに濁って、暑く、息苦しくなって来た。工員風の男で煙草を吸い出して、みなから弾劾された者がある。傍の眼鏡をかけた女はしきりに知ったかぶりの顔つきでしゃべりたてる。先日の偵察飛行でアメリカは東京の写真をきれいにとっていったそうだから重要建築物は助からない、だの、アメリカの爆弾は五尺くらいの鉄板なんぞ火箸のようにつらぬいてしまう、だのしゃべっているのである。自分は何度黙れとどなりつけてやろうかと思ったかわからない。イライラして来た。みな苦しさに、例え危険でも、一刻も早く外へ出たそうな顔である。がやがやしはじめると、また地響きたてて高射砲の音が聞えて来る。
「しつッこい奴だな!」
「これァ大変な爆撃らしいですぜ」
しばらくの沈黙の後、誰かがうなるようにいう。
一時間半もたって、ようやく入口から這い出すことを許された。空は灰色の雲に覆われ、もう砲声も爆音も聞えない。
満員電車に乗ってやっと品川に着き、山ノ手線で新宿に帰る。空襲警報は解除になったが、乗客はむろん何となく殺気立っている。がやがやと話し声は聞えるが、べつに今の空襲について話しているわけではないらしい。無意味なる騒音、沈痛なる動揺――といった態である。
すると、五反田から乗り込んで来た二十二、三歳の工員風の男が二人、突然溜息を吐いて、
「おい、凄かったなあ、おれ、飯が食えねえや!」
と、叫んだ。みなふりむいた、一人の紳士が、おずおずと、
「――何か――見て来たんですか?」
と、たずねた。工員は待っていたように、カン高い声でしゃべり出した。
二人は荏原を通って来たのだそうで、そこの防空壕に入っていると、突然しゅうっという実にいやな音が聞え、つづいて、ゴーという凄じい地響きがした。しばらくたって這い出してみると、二、三百メートル向うに黒煙が見えた。いってみると三十メートルくらいの大穴が地にひらいて――「五十メートルはあったよ!」と一人が訂正する――家は吹き飛ばされ、なぎ倒され、崩れおち、近傍の屋根瓦や戸障子やガラスなどが恐ろしい惨状をえがき出して――人はむろん死んでいた。防空壕の中で十数人全員即死したのもあり、身体の表面に傷は見えないのに真っ白になって死んでいるのもあり、幼児など石垣に叩きつけられてペシャンコになり、――
「病院へもいってみましたが、実に何ともむごたらしいかぎりでさあ。おら、腰がぬけちまった。顔の半分なくなったのが、口をあけてうなってるんですからね。たいてい女です。子供はわあわあ泣いている。――工場に主人の出た留守、一家全滅したのもあるそうです……おれ、今夜飯がくえねえや。……」
一人がはっと気づいて眼で知らせながら、
「おい、あんまりしゃべらねえ方がいいぜ」
と注意した。
二人は急に沈黙したが、また昂奮を抑えきれないらしく、蒼いカン走った声で「おら、飯が食えねえや」を繰返しはじめる。――
○五時前に帰校。ただちに解散。
下宿に帰ると、部屋のガラス窓はみなはずされ、まるで暴風の一過したあとのようだ。しかし、こちらは全然何事もなかったということであった。やがて警戒警報解除となる。
夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい。
二十五日 曇
○午前、独逸語の一時間のみに出て、白金台町の正木留守宅を、心配なれば見にゆく、正木君の母上、怯えいたれど安全なり。
踵をめぐらして下目黒の高須氏宅へゆく。先日来、高須氏よりうちに下宿しないかとの話あり、空襲のおそれあり、吾がいれば留守中いささか心丈夫ならんとのことなり。昨日の空襲にてその話急に実現化せんとす。正午、また警報鳴り出す。敵機八丈島上空を北上中なりと。
しかし何事もなく、二時ごろ解除となる。
○正宗白鳥の短篇集を読み出す。
二十六日 晴
○夜明前、雨一過せしごとし。青天露にひかりて美し。
○朝松葉といっしょに散髪にゆく。坊主刈りにて七十五銭なり。
○引っ越しの件、下宿のおばさんにいう。急に冷淡になる。よき人なれどこの現象は免れがたし。下宿を移るは実にいやなものなり。
午後、あちこちと運送屋を探す。全然人手不足にて不可能なりという店あり、今すぐといっても前よりの註文多ければ出来難しという店あり。イヤに恩に着せて運搬賃二十円ならば三日後応じやらんという店あり。この四月末、五反田よりここに移るときの値は十円なりき。半年の間に倍にはね上る。物みな凡て然り。
※[#○に「公」]の代りに闇なる言葉あり。公定価格は社会の水面に浮ぶ油の類にして、流れの本体は厳として闇定《ヽヽ》相場占む。リヤカー一台の引っ越賃二十円、サツマ芋一貫目三円、米一升十五円。外食券一枚二円等、これら警察も黙認してはばからず。
ただし下宿のおばさんにかく通達せる上は、のんべんだらりと数日待つは苦し。夕高須氏宅にゆき奥さんに相談す。その結果夜高輪螺子へゆき、明日午前リヤカー一台を貸してもらうことにす。明日は神宮外苑にて体力検定の予定なり、いってみたところで初級合格もおぼつかなき次第なれば、明日自らリヤカーをひいて運ぶつもりなり。
午前、散髪後、外食者特配の乾パンを受取りに百人町の配給店へゆくに、ちょうど正午なりしがまた警戒警報となる。街上たちまち警官と防護団のみとなる。折角来たるなれば是非もらいて帰らんと店頭に立ちたるところ、二十日より三十日までの期間中、ただし二十六日のみは休業との赤字札嗤うがごとし。
何処かのラジオ、敵一機今や帝都上空にありと叫ぶが聞ゆ。あわてて新大久保駅のフォームに帰るに、町の屋根屋根小春日和に眠れるがごとく、白きうす雲かがやき蒼空に二羽の鳶舞うが見ゆ。爆音聞ゆれど、まさかあれが敵機にあらざるべし、とはいえどあまり気持よくもなし。
三時ごろ警報解除、一機帝都に飛来し、二十四日の爆撃地域を偵察、投弾することなく一時間後去れりとのこと。連日白昼同時刻の御来訪、ただこれを告ぐるのみの軍も頼りなきありさまかな。
二十七日 曇、霧雨
○朝リヤカー借りに白金台町高輪螺子へゆく。丁度出勤時刻なれば省線気も遠くなるような大混雑、目黒で下りかけたらまた肩で押しこまれ、五反田までいってしまう。
ようやく白金台町へたどりつき、九時ごろリヤカーを廻し、渋谷道玄坂を越えて新宿へ向う。渋谷で役所の前、狂犬病の予防注射にて、人と犬との大行列。
下宿につき、蒲団と行李、机をつみこんでいるうち小雨となれど、いまさらいかんともしがたし。蒲団車輪につかえておれど気せくままに押し出す。
代々木の海軍館を過ぐるころ、しきりに爆音聞え、雨雲の下低く十機二十機味方機の急ぐ見ゆ。はてなと思ううち警戒警報鳴り出す。正午なり。
雨ふり、車輪パンクす。死物狂いに焦りに焦りてようやく下目黒に入る。高須家近くなりたるころ、空襲警報となりたれば、坂の途中にリヤカーを放り出したまま逃込みたり。
隣りの遠藤さんの防空壕に入れてもらう。敵機雲の上より無差別爆撃。地をふるわせて伝わり来る爆発の音響、あまり気味よきものにあらず。
遠藤家の防空壕四帖半の座敷を地に埋めたるごとし、電灯水道等の設備具わる。コンクリート作りのみごとなるものなれば、子供ら嬉々として将棋などさし、恐怖の色つゆほどもなし、吾もまたそこにありし石坂洋次郎の『私の短篇集』など読む。
三時ごろ敵機遁走。
夕、高輪螺子にリヤカー返しにゆく。蒲団、車輪との摩擦により泥まみれとなり破損甚し。
○夜『戦争と平和』第十五篇を読む。
二十八日 晴天
○朝雲、やがて凄いほどの晴天となる。
○午前中新宿にゆき、旧下宿より残品の大部分を松葉の下宿に運び、一部のみを持ち帰る。
○ひる、みな防空服装に鉄かぶとを空に向け、そろそろおいでになりそうなものなるが、待つもの来らずとは何とやらんさびしきものなりなど口々に呟く。敵機ついに来らず。
○午後、移転の手続きとして町会、米屋などを廻る。
○『戦争と平和』エピローグ第一篇を読む。
二十九日 晴
○レイテ湾特別攻撃隊、八紘隊、十機命中十隻を屠る。凄絶いうにたえたり。隊長年齢二十三歳、隊員大半一昨年学窓より羽ばたきし学鷲なる由、わが生、わが命、謝すべきか、恥ずべきか。
○きょうは水道局、目黒区役所を廻る。
三十日 雨
○昨夜――真夜中、敵機来襲。
小雨ふる冷たき壕中に、投弾爆発する音響をきく。泣くがごときサイレン、むせぶがごとき半鐘の音、ぶきみなる爆音とともに、ドドド……と地を震わし来る響。
ときどき二階へ駈け上り、東南の方を見るに、雨雲血のごとく燃えてその下の火炎も見ゆ。敵機は千葉方面より侵入し、また伊豆方面よりも来襲し、三時ごろまで投弾をつづく。
いまや、全長五十メートルの黒きB29の翼の下よりビール瓶のごとく落ちゆく爆弾の幻影、夢にあらず、あたかも巨人、群家を蹂躪しつつ大股に迫り来るがごとき恐怖、正直に白状してあまり気持よきものにあらず。千万の都民中死する者は千としても、感覚的確率は千万中の千万なり。吾一人の頭上にいつ爆発するや、そは神乃至悪魔のみ知るところなればなり。寒く、足泥に冷たく、文字通り死の恐怖を満喫す。
一時警報解除となり、手足を洗い、ややまどろみたるところ、また敵機千葉方面より来襲、ふたたび轟音鳴りわたり来る。いちじ消えたる東南の紅雲、また血色に彩らる。
寝たるは五時過なり。死せるがごとく眠る。二度目にはやや馴れたると、爆発と距離の関係ほぼ分りたると、くたびれはててカンシャク起きたるとで、最初ほど恐ろしからず。ただひたすら無念なり。
○午前中眠り、午後高須さんとともに雨の上野を山伏町の加藤さんの家に見舞いにゆく。浅草下谷相当やられたりとの噂ききたればなり。
省線の途次、沿線いたるところ爆撃の余燼を見る。浜松町付近、人々雨の中を残骸整理に影のごとく働く。神田駅界隈、ビルの吹き飛べるを見る。家々のかなたより青白き煙朦々と雨の空にながれ、橙色の炎いまだチラチラと見ゆ。
上野駅、荷物を担える人々切符買うために恐ろしき行列なり。焼け出されしか、昨夜の恐怖に動顛せしか、田舎へ家財を運ぶためか、老親幼児を送るか、疎開の相談にゆくか、いずれにせよ、百の説法より屁一つ、疎開もこれで一挙に捗るべし。
然れども、疎開し得る者は疎開せよとのたびたびの命令ありしに、今になりて疎開せんとするものは、すなわち疎開し得るに今まで残りし者にて、実に敵を利するの輩なり。
吾らは帝都を死守するの義務あり。日本が降参せざるかぎり敵機なお来襲せん。而して断じて降参すべからず。されば吾らは死すとも帝都に踏止まるべきなり。昨夜でだいぶ度胸つきたるようなり。
「死」について色々考う。根本は死を安んじて迎え得る解脱の心を得ることなり。その道について色々考えたり。
下谷浅草全然被害なし。加藤さんの家には見舞客数人あり、みな昨夜には相当参ったる模様なり。されど、これくらいのことにて音をあげてはならぬとの結論に達す。
室町、堀留町等灰燼に帰せし由、二百軒全焼せりとのこと。夜敵再襲を待てども来らず、眠ることの有難さを思う。
○荷風『おかめ笹』を読む。
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十二月
一日 雨
○昨朝の朝礼には一年八人出席せるのみなりし由。きょうはふつうの通りみな来ている。みな眠くて怠けたとのこと。一同恐怖の色なし。敵愾心のみ旺盛なり。
○午前中、高等数学はお手揚げなれば、授業中、荷風の『新橋夜話』を読む。微分積分と荷風、戦国の雲の下の美妓物語、何ぞそれ似合わしからざるや。
ひる前、雨中防空訓練あり。電車のプーの警笛、みなサイレンとまちがえしんとして次の瞬間爆笑す。風声|鶴《かく》|※[#「口+戻」]《れい》とはこのことなるべし。
○夜風呂にゆく。湯中の巷談、ひとしく昨夜の恐怖なり。飛行機足らざることをみな切歯す。彫物の男、しきりにこれを嘆じ、べらべらと落語のごとし。みなそのおしゃべりに感心してその顔を見るのみ。嘆じ、怒るは半ば、無表情に天井見て顔を手拭いにてなでまわすは半ば、いずれも日本人らし。されど中年以上の人々「一生の中、色々こわい目にも逢ったが、昨夜のごとき恐ろしさは初めてなり」との感慨はみなひとしきごとし。
二十歳代の友、みなのんきにて平気なり。かくまで恐ろしきことを二十代になめ、かつさほど恐ろしからざる勇気を有する今の年齢に生まれ合わせたること、豈幸福ならずや。
○神田日本橋あたり三千軒以上焼けたる由。真かデマか、話はだんだん大きくなる。別に見にゆく気もせず。いったとて何百軒焼けたか測量し得るものにあらず、されど大本営の「吾方の損害軽微なり」の文句と事実との関係ほぼのみこめたり。「軽微」は相当のものなり。
雲上よりの盲爆なれど、一般に河と線路の沿道やられたるごとし。
二日 晴午後曇
○帰宅後、高輪にゆきシャベルを借り、庭にもう少しましな防空壕を掘りはじむ。このごろ雑事頻り、頭鈍化す。
○荷風『すみだ川』『妾宅』を読む。
三日 晴れ
○午前中、奥さんの弟勇太郎君来り、庭の防空壕掘り続行。
○午後二時近く空襲警報発令。日曜なれど直ちに登校。省線にて新宿に着くやただちに待避命令に逢い、青梅口より出づ。
十歩走りては壕に入り、壕に入りては二十歩走る。高き蒼空をB29八機また十一機編隊にて飛ぶ見ゆ。高射砲の白煙雪のごとし。壕中に怯ゆる母の背に、無心の嬰児ねむる。
学校にて待機、しばしば敵機を見、高射砲の煙その周囲に散るや喝采し、吾戦闘機それを追うや歓呼し、佐野教授壕中にありて生徒を促せども、みな校庭にて空を仰ぐのみ。うれしげなる叫びに教授もつりこまれて、壕より這い出づることしばしばなり。
四時近く警報解除。屋上に上るに、市街あちこちより黒煙上る。
○美しき落日。澄みて暗き夕空に伊勢丹の白堊ギリシアの建物のごとく浮かぶ。宵の明星キラとして、空爆の後の如くならず。
省線、新宿駅になかなか来らず、三十分も待つ。従って殺人的混雑なり。群衆少し馴れたるか恐怖の話声なし。
四日 晴
○昨日の敵機は七十機なりし由。二十一機撃墜と大本営発表。
○その爆撃にて中島飛行機大分やられたりとの噂あり。
○手紙検閲せられありとの噂もあり。
○このごろ、自分も他人も、すなわち人類すべての顔、姿、声イヤでたまらず。澄みて快き暗愁にひたり得るは、黄昏の空と、芸術至上主義者ともいうべき人々の芸術のみ。
五日 晴
○午後講堂にて、先般敵の投下せし爆弾焼夷弾の残骸を見せつつ奥野中尉の話。
焼夷弾直径十センチ、長さ五十センチくらい。汚なき青白の布ビラビラとその一端につく。この布燃えつつ空より下るなり。これを数十個外側に並べめぐらせて、中央に爆弾の筒あり、直径四十センチくらい。上部に巨大なるプロペラつく。これら空にて分れ、地には焼夷弾爆弾混じ拡がりて落つるなり。
焼夷弾の火力大したことなし。爆弾の爆発力も恐るるほどのものにあらず。いったん消火を始めたる上は死すともこれを放擲するなかれと教えらる。
六日 晴夜雨
○白雲乱れ飛び、時に天日暗むばかり、夜ついに雨となる。
○午後一時警戒警報発令、敵一機帝都上空を偵察飛行、暫時にして去る。
○荷風『雨蕭々』を読む。
七日 曇
○無限の雲片、大空を往来。午後曇る。銀杏、黄葉きわまりて路上に雨のごとく降る。
○本未明二時ごろより空襲警報。敵二機来襲したけれども投弾せずして去る。開戦記念日を明日にひかえ、今夜明日最も危うし。
○ひる伊勢丹三階にて催されある「必死必中展」を見にゆく。レイテの各特別攻撃隊員の写真、遺書、遺品等の陳列展なり。遺書の字、遺愛の品、吾らと少しも変らず。もとより彼らすべて二十歳前後の人、これ当然のことなれどいささか混迷を感ず。
○午後二時前、相当の地震を感ず。鉄筋の校舎三階の教室波のごとく揺れ、電灯、授業用の掛軸、振子のごとく揺れたり。
○午後六時、空襲警報。敵編隊南方より本土に接近中なりと。
われ家にありしが、ただちに壕に畳等をかぶせ、身支度して飯をくらう。飯なかばにして高須さん帰宅。東航空にて御馳走になりたりとのことにていたく酩酊す。奥さん昂奮して叱れども、ふざけちらして手のつけようなし。ただしへべれけと形容するほどにもあらざればその元気にかえって安心して登校す。
雲垂れて風寒く、処々またたく星影むしろ凄然たり。目黒駅前に防護団員立ちて、左側通行厳守を叫ぶ。もとより燈火管制中なれば、目黒駅の改札口、階段、フォーム、鼻をつままれても分らぬ闇黒、一歩一歩這うごとし。省線電車も闇中を徐行して走る。窓より見る闇黒の大東京、さながら夜の森林地帯ないし荒原地帯を走るごとき錯覚を与う。
電車内の人、恐るべき巨人にして今にもわが頸を絞めるにあらずや、或いは外国婦人にあらざるや、等、真の闇の中なれば、色々空想すればそれらしく見ゆるも可笑し。
新宿に着くに駅に電灯ともる。空襲警報解除になりたるとのこと。電車の轟音のため分らざりしなり。あっけなくてかえってがっかりしたれども、ついでなれば登校す。当番の十人の級友のほかに一年二年各々十人ずつ来りあり。三坂先生中山先生の顔も見ゆ。七時半警戒警報解除。松葉の下宿に寄りて晩く帰る。
深夜の目黒権之助坂を下りつつ西の空を見るに、雲ドンヨリと鈍く赤し。今夜の来襲機投弾せりともきかざるに不思議な雲の光なり。実に陰惨なる夜なり。
八日 午前晴午後曇
○午前三時ごろ敵機本土来襲。弾薬投下の音聞かざれば起きざることに決心したれば、ついに蒲団を離るることなし。敵機は静岡茨城地方方面を爆撃せりとのことなり。
○十一時より第一教室に大詔奉戴式。戦争満四年目に入りて、敵ついに帝都上空に侵入しきりなり。
されど吾らは何らこれを痛まず。見よ見よレイテの米軍今や追い落されんとするを。
連日神風特攻隊敵艦に突入し、さらにまた高千穂落下傘部隊レイテの敵飛行場に吹雪のごとく降下す。いかに連日敵機本土をうかがうといえども未だ神経戦の範囲を出でず。運命決すレイテ戦場に、日本次第に有利なり。何を恐れ悲しまんや。
○正午、警戒警報発令。八日を期して大爆撃を行うべしとは敵の捕虜飛行士の白状するところなりとぞ。この八日前後頗る危険にして、国民学校全児童休校す。さらに噂あり曰く、サイパンに集結中なりし敵空母三十隻いずこへか姿を没せりと。俄然緊張して待てども敵機来らず。午後三時一まず解除となる。されど今夜一晩最も警戒の要あり。
○夕、高輪螺子へ奥さんが先日五十円にて買いたる牛肉を進物に持ってゆく。藁草履をくれる。またこの近くの時計屋に修繕を頼みおきたる柱時計をもらいて帰る。ゼンマイ切れいたりとのことにて八円なり。
○荷風『あめりか物語』を読む。
九日 晴
○午後三時敵一機本土来襲。
○ドイツ語道部教授、出席をとり「この八日、最も危険なりといわれたるが、何事もなくて幸いなり」といいかけたるとたん、プーと警戒警報発令、みな爆笑。
○一時間にして解除。
○午後帰宅後、庭に防空壕掘りを続行す。
○夜八時半警報発令、敵一機、信越地方に進入焼夷弾投下。半時間にして出る。
○このごろ敵来襲、一日に三回珍らしからず。しかも一機二機の少数にて小癪の極みなれど、神経戦にもならず。
主戦場はあくまでレイテ、天王山はフィリッピン、その決戦場にて皇軍ブラウエン飛行場に突入。戦勢転換ついに成るか。
○『あめりか物語』を読む。
十日 快晴
○朝霜深し。終日庭に防空壕を掘る。
三坪くらいの庭に一坪の面積のものを掘るなり。今のところ一丈掘り下げ、さらにその底より横に、縦四、五横三尺あまりの横穴を六尺ばかりうがちたり。大いに疲労す。
○五時半ごろ銭湯にゆく。このごろ七時八時ごろしばしば空襲となるゆえに、この時刻の銭湯の混雑凄じとも何ともいいがたきものあり。湯槽より一人出でざれば、新しき一人入る能わず。ようやく入るも身をかがむること能わざるありさまなり。
○夕飯のとき「本日珍らしく敵機来らず。毎日来るもの来らざれば、心さびしきは可笑しや」と打笑いたるところ、サイレン陰々と鳴りひびく。時に午後七時半。
敵伊豆半島より北上、帝都の西方を何くわぬ顔してなお北上し、突如反転して帝都に侵入し来る。ただちに壕に入る。高射砲の炸裂音凄し。満天の星影閃々と爆光に薄れる。敵機焼夷弾を投下、二階に上りて望見すれど、四方に火影なし。大したことにあらざるごとし。
東部軍の発表によれば、敵一機は南方に去りたるも高射砲による命中弾あることはほぼ確実なりと。頼りなし。
十一日 晴午後曇
○昨夜あまりに疲労せしゆえか、かえって寝苦しかりき。身体へとへとになりたるを銭湯の湯また熱きにすぎて蒸したるためか、グッタリとものうきに、頭ぶきみに冴えてわれながら苦し。十二時過ぎまで荷風『断腸亭雑藁』を読み、ようやく眠る。
三時ごろ敵機来襲。焼夷弾を投ず。近しと見え、どしんと家揺る。われ、蒲団を離れもせず、目ばかりパチクリさせつつ、敵機の爆音の恐怖と寒夜のつらさを勘定す。ついに起きず。
○ドイツ語教科書、変る由。但しむろん書物の増刷きかずプリント印刷も難しければ、今後当分ドイツ語の時間は、各自筆写して教科書を作ることになりたり。べつに大変なことになりたるとも思わざるは時勢のゆえか。
○今日は珍らしく敵機来らず、恐らく三時ごろまたプーと来ることならん。夜甚だ寒なり。
ショーペンハウエル『自ら考えることに就て』『読書と書籍』を読む。胸刺さるること少なからず。しかし荷風を読みショーペンハウエルを読む、ほとんど時代錯誤なり。
十二日 晴
○昨夜十二時、今晩三時の二回にわたり敵機帝都をうかがう。警戒警報を半眠半醒の中にきく。
○午後教練銃剣術。敵機空にあるに下界にては銃剣術、考うれば珍なり。一時二十二分伊勢神宮に遙拝黙祷。これも何のことやら分らざればききたるに、一昨年のきょうのこの時刻、天皇陛下神宮に御親拝、敵国降伏を祈願したまえばなりと。これも珍なり。
○友人M、昨日よりボンヤリと様子ヘンなり。今日吾に訴えて曰く、
「われ先ごろより一少女と恋愛せり。一日手紙やりしに向うの親の見るところとなりて少女返事する能わず。われ知らざれば大いに怒りて絶交の手紙やりしに、相手驚きてわれに謝するの文を送る。この手紙をこんどはこっちの親に発見されて閉口の至りなり。
一昨日のことなりき。吾午後より映画を見に出で、夕刻帰りてただいまと玄関より呼びたるに返事なし。茶の間に入るに父母火鉢に額集めてヒソヒソと相談の模様なり。吾、腹へりたれば、芋くれや、芋々と呼べども、蒼い顔して穴のあくほど吾を見つむるのみ。吾、一人にて台所へゆかんとするに、父吾にちょっとここに坐れという。傍に坐れども二人なお沈黙す。これはおかしとようやく吾も変に思い沈黙するに、父突如としてT子なる少女なんじ知れりやという。吾愕然として驚愕のあまり思わず二、三語にて知る旨を白状す。なんじ今の時勢を何と見るや馬鹿めと父大喝せしとたんプーと警報鳴りわたり、危うくも虎口を脱せり。爾来親父を避け避け、芋をも食わすなとの厳命を、母にすがりてからくも糊口を養う。きのう、如何せんこのなりゆきは、と相手の少女を鶯谷にて待ち合わせんと電話にて約せしが、女の子より早くこれを待つは男の威信にかかわると思い、わざと悠々とゆきたるところ、時計止りいて一時間遅れ、女待ちかね、ついに去れるあとなりき。本日電話にてその事を知り、ふたたび四時に鶯谷にて会せんとす。山田よこれを如何すべき」
吾吹き出して、ばかめと呟きたるのみ。Mは当年十九歳、少女は十八なる由。これを如何すべき、双方とも恐らくは夢見心地を出でざるべし。
Mはその愛の将来に確固たる成算ありや。明らかになし。相手の人格性格才能をよく洞察しありや。まさしく知らず。而して愛そのものも漠然として薄弱なり。されどこれを指摘すれば彼必ず否定せん。あまりに打算的なりと吾を恨まん。かかる場合にこれを一概に馬鹿めと笑うは彼の吾に期待せざるところにして、吾も欲せざる不粋なり。吾考え考え曰く、
「女子にとりて愛は生命なり。されど男児にとりては恋愛以上のもの胸中になかるべからず。志を高く持つべし。一個の少女の背後に、さらに凜として高き火を見るべし。これさえあらば、何びとにせよ人を愛し人に愛さるるは悪しきことにあらず。純粋なる愛の交際を続くるは悪しからざるべし。
しかれどもなんじいまだ十九歳なり。なんじがいかに考うるも、ほとんど何も知らずといいて可なり。高潔の理想ともすれば眼前の少女のまなざしに眩惑さるる怖れあり、勉強の邪魔には、少くとも幾分かはなるに相違なし。この際ともかくも交際を中止しては如何。それをいいきかせてなおわからざる少女ならば、僕敢ていわん、君みれんなくあきらめ給え。
ただ交際絶交は君の心如何によって定まる。他人の僕の助言の彼岸にあり、願わくば君平静に堂々と自ら決せよ。万一女と別るるも不快の感情を以て袂を分つことなかれ、清らかに凜然として訣別せよ。而して君を愛する父君母堂に対しても、堂々として右のいきさつを説明し、これより断じて女々しく逃げ廻るがごとき醜態をさらすことなかれ」と。
M蹌跟としておぼつかなげなる足どりにて鶯谷に去る。
他人のこととなれば、吾もまたかくのごとき立派なる口利くを得。吾を説教せんとする長上諸子以て範とせよ。
○夜勇太郎君先日来頼みおきたる電気スタンドを買いて来てくれる。
今の部屋電灯天井に固着して机上殆ど薄暗きゆえにやむなく先日よりスタンドを求めてあちこち探せども、町にかかるもの一個もなし。勇太郎氏の会社の徴用工の中に曾て電気屋なりし人あり、この人より求めたりと。価一個四十四円五銭なり。学生用としてふつうの電気スタンドなり。近来の物価以て知るべし。
○夜七時半、空襲警報。
敵焼夷弾を投下しつつ、東京の上空を東南海上に去る。ただちに二階に上りて東北の空望むに雲ぼんやりと赤し。学校のある新宿のあたりにあらずやと高須さんおどす。
約二時間を経て九時半、敵房総半島より侵入。しばらく房総上空を旋回中とのラジオ発表ありしが、たちまち帝都上空に飛来、閃々とあたり一帯照明弾にひらめき、爆弾焼夷弾を附近に投下す。現在まで東京都の主なる区中、無被害は四、五区なる由、その中にこの目黒区もありしが、いよいよ今夜は番が廻ったりと考えたるほど轟音近し。
家内震動し、ヒュウッ、ヒュウッと何やら空より落ちる音凄じく鼓膜を震わす。焼夷弾爆弾の落ちるとき聞ゆるという音はあの音ならんと、壕より躍り出でんとするも、またその轟音のため出づるを得ず。ただしこは先日までの漠然たる根幹的なる恐怖にあらず、遠近を測る計算的なる恐怖なり。たちまちゴウーッと家も何もかも吹き飛べるがごとき大音響伝わり来る。
四、五分息をひそめ、次に躍り出て二階に駆け上りたるが、何も異状なく、四辺また火影なし。遠くよりカン高き群衆の叫び聞ゆ。路地を走りて大通りに出づるに、両側の家々寂莫と暗く、軒々の下にいずれも四、五人ずつ殺気走りたる高声にて何やら話し合うのみ。遠く消防自動車のウーウーの唸り聞ゆ。
ラジオによれば、敵帝都南部の爆撃を企図せる模様なるも、爆弾の大部分海中に落ちて火災なしと。
本日よりゲートルをつけたまま寝につく事とせり。十一時窓より天空を見るに雲はれて銀河凄然。
十三日 晴
○今暁四時敵機来襲。樋に雨ふるがごとき音すれば恐縮してついに起きず。時々何か崩れ落ちるがごとき音すれど何とも見当つかず。
七時起きれば雪なり。省線沿道の道、屋根、枯木、白々と薄雪かぶり、まだらとなりて、雪の北国風景よりもさらに荒涼たるものあり。
一時間目、佐野教授より注意あり。警報発令のときは各員登校参集すべきに、昨夜のごとき十人余来りたるのみ。学校焼失すれば現在の情勢として再建などいつの日やら分らず、焼けっぱなしのそれまでなり。而して諸君の医学生生活もそれまでなりと知るべし。かく考えれば学校こそは命より二番目ともいうべき大切なるものならずや。万難を排して登校、学校防衛の任に当らんことを望むと。
午後一時空襲警報。雪天晴れて凄じきまでの蒼空となる。空気あたかも水晶のごとく澄みて冷たし。敵三機、上空を飛ぶが見ゆ。
情報によれば敵主力は静岡以西を狙いおるごとし。長野にも侵入せるとのこと。先般の地震に喘ぐ東海道沿線の住民の頭上にさらに銃火の洗礼を浴びせて厭戦思想を惹起せしめんとの肚ならんか。三時半ごろ警報解除。
東京は大したことなかりしも、静岡辺は相当やられたるなるべし。
東海道線といえば先般の震災にて不通となりてよりすでに一週になんなんとし、しかもいまだ開通予定不明なるとのこと、日本のカロチス(頸動脈)ともいうべきこの幹線をかくまで長期に断絶せしめおくとは困ったことではすまざる大事なり。
○M、少女と甚だセンチメンタルな訣別をなせし由。彼の吾に語る様、あたかもキングの恋愛小説の一情景のごとし。吾、まじめくさりてふんふんときく。
○昨夜の爆撃は、目白、高田馬場あたりなりしとのこと。今夜木枯し荒れて窓ガタガタと騒がし。神に祈る、敵も今夜くらい一晩休息したまえ。
○荷風を読む。
十四日 晴
○午前三時B29一機来。帝都上空を旋回して去る。
○昨日愛知静岡に来襲せる敵八十機中二機を撃墜せりと。軍は恥なきや。朝、霜柱かがやく。
○奥野中尉明日出征。己れも多忙、生徒も多忙なるを以て改めて挨拶はせざれど、諸子の敢闘を祈ると。心しみじみと淋し。皆このことをききて歓声をあぐ。
みなに人の心なきや。教官はよき人なりき。
○午後二時より、地下食堂にて緒方知三郎校長を囲む座談会あり。校長をはじめ各教授微笑を以て靄々《あいあい》たり。
人文講義に関する学生の注文多し。菅野、曰く、
「人文講義に哲学概論でもやってもらいたし。哲学的素養は何びとにも必要にして、かかる教育なきゆえに、現在のごとき無味乾燥なる小人的医者生ずるなり」
この意味のことを、最も生意気にして失笑すべき口吻にていう。この男が哲学なる語を発するたびに余は背が寒くなる。(これより日記には、わが一人称に余なる一字を当《あ》つ。夏目漱石みたいにて可笑しけれども、この字最も簡略なればなり)
荒木曰く「吾らは人文講義に、なまぬるき老成的学者の涸れはてたる講義を欲せず。吾らは夢を欲す。従ってたとえ一方に偏すとも吾らの情熱をかきたてるごとき人の熱弁を待望す」と。
かく書けばさほどまでに感ぜざるも、荒木が現に「ジョーネツをカキタテル」という言葉を発せしときに、余はまた背が寒くなる。
「諸君の期待にせいぜい添うことに致したし」
と答うる校長がつくづく気の毒となりたり。もっとも校長も苦笑のかげより、この無邪気なる若者たちを愛するの慈眼あきらかなり。
余は現在の人文講義は、学校としては出来過ぎたくらいに感心しあるものなり。折口信夫博士、下村海南博士、辰野隆博士、清野謙次博士等、それぞれの専門に於て堂々の人々なり。校長が医者として各方面に広き常識を得させんとする配慮を充分認むるに足れり。
しかれども学生は万葉を知らず政治を知らず仏文学を知らず考古学を知らず、知らずして徒らに敬遠す。敬遠して徒らに情熱をかきたてる壮士風の演説を求む。いわゆる観劇的興味を以て味わい得る学問いずこにありや。
もとよりわれらに対する右碩学の講義は一道の深きに入らず。万象にわたって一噛りして回る態のものなりといえども、余にはそれすら面白し。現在の吾々としてはこれを以て満足感謝せざるべからず。
菅野の欲する哲学講義も、若しこれを開筵せんか、出席するものは三十人に足らざるべし。万葉に反撥し、政治にうとく、仏文学を避け、考古学に無関心なる学生群が、なんぞことごとく哲学を欲せんや。非常短縮のため、わずか三年間の医学生生活なり、吾らには哲学よりももっと学ぶべき雲のごとき知識あり。哲学的興味なき大部分の生徒を掴まえて一週一回これを教えたりとて、いくばくの価値ありや。而して菅野の呼号する哲学なるものも実に噴飯にたえざるものなるを如何せん。余は現在の万般総花的人文講義にて結構と思う。
また荒木の一方に偏したるとは如何なる意味ぞ。一方に偏したるとは東西南北いずれか一方へ偏することなり。北に偏せし人来りて論ずれば同傾向の学生或いは悦ばんも、あと三方の学生はわれ関せざるところなり。荒木のいわゆるジョーネツをカキタテル人とはわれこれを知る。そは一剣天に倚って寒き壮士型人物なり。彼は尾崎士郎、林房雄の小説を世界一と信ずる男なり。しかれども、たとえば吾のごときは、むしろ情熱を現わさざるところに情熱を感ず。冷徹温雅なる人をなつかしく思う。「夢を欲す」と彼はいう。夢とはいかなるものぞ。彼はそれを知らざるべし。ただいたずらに「夢を欲す」という抽象的言葉に若者らしくあこがれおるものならん。彼は何びとか来りてその例として一個の夢を示すとも、決してこれに没入する能わざる神経鈍感の男なり。夢を欲すとはその人が最も夢に乏しき素質の表白なり。夢は風蕭々として易水寒き風景にのみ存在するものにあらず、一輪の花にも夢はあり、一匹の蛇身にも夢はあり、一片純白の紙片にも夢はあり、かかる境界の夢をおそらくは彼知らざらん。いわんや冷やかなる形而上の夢、機械のごとき科学上の夢あるに於ておや。余はむしろ夢を排す。医学入門の道程上、いかに安価なるいわゆる「夢」が障害をなすや、その過剰なるに余みずからつくづくと苦しめばなり。
納富立っていう。
「いかに学校に注文出しても自らしっかりせねば駄目なり。こちらに自覚あり、内面的にも勉強せん、立派なる人間にならんとの意志起らざれば何にもならず。それに何ぞや、みな団結とはサボルことのみに於て団結す。諸君は団結という言葉の意味をはきちがえてはおられずや」
満場騒然たり。納富の意気壮なりとす。彼白面の温厚児、決然、起ってこの叱咤を吐く。甚だ敬愛すべしとなす。
荒木満面熟柿のごとくなりて曰く、
「納富君のは理想論なり。現実の学生はごらんのごとし。自覚自覚と口にいうは易けれど、これを待つは百年河清を待つにひとし。ゆえにこの怠惰にして乱暴なる現在の学生を、最も正しく導きていただくべく、種々学校に注文するなり」
ただし、この荒木の言、余が大部分補えるものにして、彼は訥々として弁は立たず、かつ頭脳不緻密なればとても納富とは太刀討ちおぼつかなき男なり。
補えば荒木の現実論、また一つの真実性を有す。余は荒木の論にさらに徹す。曰く、
「何をいってみてもしかたがない!」
若者らしからずと誹るなかれ、余はいわゆる若者らしき言動に冷汗をおぼゆ。純真なれといい、情熱あれといい、素直であれといい、大人がそれぞれ若者に出す注文は勝手なり。而してその注文の出所は必ず各自一個人の過去の経験と現在の打算より割り出せるものなり。吾人はその注文に一々係り合いて注文通りの人間となるには、あまりに吾を愛す。吾はつとめて不純真なる、不情熱的なる、不素直なる、要するに根性曲りの若者たるべし。
しかれども荒木の現実論、先刻しきりに夢々と乱発せるにくらべ、たとえ単なる言語上の応対なりといえども、その矛盾錯雑笑うべし。
この両人をめぐり他の数人それぞれ両陣に分れ、私の議論に堕せんとす。四時にちかく地下食堂のコンクリートの壁床、氷のごとし。黙ってきいている校長教授連ウンザリした表情なり。二十八歳の上中、以上の問答に全然興味を有せざるがごとく、強引にこれを打切らしめて閉会。
○フロイドの夢の心理、誤謬の心理等、その象徴変移が西欧特有の童話、神話、洒落、諧謔、民間説話、詩語、俗語、ないし言葉の綴りに由来することをいう。これらの根本観念に於ては日本と大差あるまじきも、単なる講義上にても全然日本的なるフロイドの日本版を書く人なきや。
十五日 曇、寒
○午前三時前後、敵三機、各一機ずつ順次三回にわたって侵入投弾。起きて警戒せるゆえに眠くてやりきれず。学校は休む。
○午後六時、登校当直す。途中電車ちょうど工場の退け時なればまったく息も吐き得ざる混みようなり。駅員の客を押し込むさま、さながら豚を概柵に蹴こむに異ならず。
○空襲当直十一名。中山先生を囲み、事務所入口横の小部屋に薪を燃しつつ十一時ごろまで雑談す。
新兵器の話。
ドイツより技師団来り、V2号製作中なること。九十九里浜方面に大要塞建設中にして、かつ毎日早朝、赤、紫、青等の大風船をあげつつある怪異のこと。この風船中に爆薬あり、成層圏を飛んで米国へ流る。いま米国に頻々として山火事起りつつあること。殺人光線及び発動機をとめる怪力線研究中なるもまだ十メートルないし二十メートルの至近距離にあらざれば用をなさざること。
空襲の話。
上級生の尾坂なる人は日本橋の人なり。先日彼の家を除き、周囲ことごとく火の海と化せる壮観を語る。待避不完全にて壕中にありて高射砲の断片にやられた人々の話、待避完全すぎて壕中に蒸し殺されたる医者一家の話。東京の被害、過大に地方へ喧伝されある模様にして、東京はもう半分くらい焼野原と化したなどと伝えられある由。ただし先日の神田日本橋は数千の家と数万の人を失いたる惨状なりしも、あの調子でいっても全東京が灰燼と帰するにはまだ二年かかる計算となること。地方からくる噂もこれと同じにて、東海道の地震も空爆もそれほどのことにてはあらざらん、ただし浜松にかぎっては海嘯《かいしよう》さえも起りて相当凄き損害を受けた模様なること。銀座の犬屋の犬がことごとく焼死した話。
火事の話から、昔の白木屋の火事の話。風呂屋の火事で、逃げ出す女が下を押えず乳房を押える不思議なる話となり、Y談となる。
Y談。
一人、中学時代の臨海学校にて、一年生に命じて悉くパンツ一枚として坐らしめ、その前にて朗々と春本を読み、勃起の順に従いてその翌日の訓練の度を決定せし話をしゃべる。
その他、陸奥の沈没した話、九州の兵強くして大阪の兵弱き話。
隣の部屋に十一人雑魚寝す。蒲団全部で上下合わせて十枚しかなし。みないつまでも春写真みて騒ぐ。その声と息のはずみ具合、きいていてこちらも苦しくなるばかりなり。しかれども性欲のカタマリともいうべき人間群をみているも面白きものなり。
十六日 曇
○突如として医化学試験、「糖尿、血尿の検出法」みなみな大恐怖を来す。三坂教授ニヤニヤ。
○午後、帝都座に松竹映画「陸軍」を見にゆく。今までの戦争映画中第一と評してもさしつかえなき傑作にあらずや。田中絹代の演技実に驚嘆に値す。まことに群をぬける大女優というべく、古今の俳優どころか明治以来のあらゆる芸術家をして顔色なからしむる至芸にあらずやと思う。監督木下恵介大才あり。映画に於てはまず才気こそ第一のものにして、他の分野に於けるがごとき鈍重誠実の徳などを余は認め得ず。
○夜勇太郎君来り、ともに銭湯にゆく。八時半ごろなり。
今はみな空襲を怖れて早々に入浴するゆえ、この時刻は意外にすきてあれど、そのゆえに汚なさは一層なり。
昨日午前三時以後空襲なく、みなかえって気味悪がる。先日二十九日夜の空爆明けたる朝、甲州街道は荷物を背負いたる男、子の手をひける女などの罹災民、避難民延々とつづき、あたかも大正の大震災当時を想起せしめたりと。大きな声ではいわれざれど、あの夜の神田日本橋にありてまのあたり惨状を見たる者は、だれでも逃げ出したくなると話す。今夜あたり大空襲あるにあらずやと皆ヒソヒソと語る。されど、やられっぱなしでは情けなし、日本にB29への対抗武器なきものかとみなくやしがる。
○レイテ西岸アルブエラに敵上陸。ミンドロ島にも敵上陸。比島戦とみに悪化す。山下奉文頑張れ!
十七日 晴風強し
○午前中留守番、引っ越しのとき真っ二つに割れたる火鉢を針金にてくくりて修繕したり、部屋のこわれたる窓ガラスに紙片を貼りつけたり、防空壕をいじったり、蒲団を干したり、なかなか忙がし。
○午後零時半、心理学研究会、松沢病院にゆくため京王電車前に集合のことという約束なれど、遅れて新宿にゆきたるため、すでに一同出発。京王電車にてあとを追う。八幡山の松沢病院へゆけど来ておらず、どこへいったかわからず、あきらめて帰る。
空碧く日澄めど、風強くして寒し。されど葱の畠や松林をわたる風の声や、生垣の間の日ざしの中を紅色のエプロン美しきどこかの奥さんの姿など、すこぶる平和的にして心なごむ。
○イタリー、フランス、ポーランド、ギリシア、実に地獄のごとき混沌裡にあり。独軍、ソ連軍、英米軍交互に侵入し、政府なく、食物なく、ただ流血と革命の嵐吹きすさむ。まことにヨーロッパ最後の日のごとし。
しかも時運いずれに暗転するも、大英帝国の挽歌止まず、最近の英国の焦燥、血みどろの回天の努力は敵ながら見るに痛まし。つねに外国をして相争わしめ、必ず漁夫の利を占め終る英国の辣腕は今も同じなれど、今次対戦にかぎりそうは問屋が下ろさざるごとし。
ドイツは遠からず刀折れ矢尽きん。ソ連の、勝つも負くるもぶきみに沈黙しあるは恐ろしきものなり。実に将来は米ソ暗闘の世界とならん。
而して日本は? アジアは? アジアの運命を担えるは日本なり。われら心血を注ぎつくすも、断じてこの難局を切抜けざるべからず。
十八日 晴薄雲あり
○昼、警報発令。敵編隊大挙して中部地方に侵入。
サイパンはこの二、三日嵐なり、とのこと。さてこのところ安眠つづくるを得たれど、今夜よりまた丑三つ時の定期便来るべし。
○午後細菌実習、溶血反応は山羊のブルート(血)を用う。
○地震と爆撃のため、東海道線不通。他の鉄道も軍公用者以外の私用を許さず。友みな帰省に焦り、何とかして切符を手に入れ、或いは不通の場所は歩きても、或いは北陸線を廻りても西国へ帰らんとす。
さまで帰りたきものなりや。われ不思議にたえず。されど沈思して亡き母若しあらばと思えば、おそらくわれも何とかして帰省を焦りしに相違なし。
○ショーペンハウエル『自殺論』『観相論』を読む。
十九日 晴
○昨夜十一時敵一機偵察来。
○朝、先日高須さんが借りたる自転車を高輪螺子に返しにゆく。パンクしていたので途中修繕所で直す。自転車屋も企業整備の結果、今は「東京都自転車共同販売修繕何とか所」といういかめしき看板をかかぐ。六十銭なり。
○教室のコンクリートの壁床氷のごとし。足のつまさき冷えて授業中痛覚をすらおぼゆ。
帰宅しても火に乏し。夜は風呂にゆきて暖まればそのまま眠るにしかず。炬燵ごときは、例え欲すとも炭なきのみならず、夜間空襲の怖れあれば設ける能わず。
電灯も夜十時以後は常に警戒管制なれば洩るるを許さず、しっかりせる雨戸等ある家はよけれども、これなき家は意外に光の漏洩防止は難しきものなり。敵機は必ず光を目標に投弾す。敵機来らざるときは少しは漏洩するもよさそうなものなれども、敵の隠密侵入することあり、第一隣組が神経質にうるさければ、各下宿のおばさん大いに気をもみ、みなみな全然勉強できぬと大こぼしなり。
○来年度の高専入学には学力検査なしと。どうして選ぶかというと、出身中学の過去の上級学校入学者数の割合いより割出すとのこと。実にふざけた話なり。
これがふざけた話なることはだれよりも文部省のよく知るところなるべし。今は政府みずから学問を禁止しあるにひとし。されど、この学問禁止令より日本を救う学徒生産陣生れあるも事実なり。
二十日 晴暖
○今夜一時、敵焼夷弾を投下しつつ帝都上空を通過。一発どしんと枕をゆすりしが、後にきけば上目黒のあたりなりしとのこと。ちょっと電灯をつけたるため、果然投弾せられたる由。
○午前十時半敵一機また西より帝都北方を東方海上に去る。
○二、三年くらい警視庁勤めの医者になってみたき気を起す。警視庁技師医博荒木治義なる人の『鑑定奇譚』なる書を読んだからなり。
○木村淀橋病院長今朝死去さる。
二十一日 晴
○午後より、木村院長宅へ葬儀その他の準備手伝いに五人ほど来てくれよとの命にて松柳らとともに小石川林町の院長宅へ駈けつける。
玄関に陣取りて、焼香の人々を受付す。吾は靴そろえの役なり。
三時より四時半まで通夜。夜は空襲のおそれあれば通夜かなわざるなり。
目黒権之助坂を下るに、月弦にして星まばら、夜靄深し。目黒は実に靄の町なり。花おぼろなる春夜も南風暑き夏の宵も月輪氷盤のごとき秋の暮も、目黒といえば余は必ずこの坂の青き美しき夜靄を想起せずんばあらず。
○夜十時敵一機帝都来襲。警鐘乱打にがばと起き身支度して庭に出ずれば、幾十条の探照灯一万メートルの夜空にがっきと敵機を捕えて、B29の姿あざやかに光る。一度わが頭上に来るがごとく思われて吾狼狽せしが、横へそれて東へ去る。光芒これにつれて東へ動き、閃々とたばしる高射砲、敵機の前後左右にきらめき裂く。敵機一度|ぐぐ《ヽヽ》と止まるように見えしが、徐々に彼方に没す。月南西の空に赤く沈まんとす。
東部軍情報によれば高射砲の命中弾ほぼ確実なりと。
二十二日 晴
○きょうまた来てくれよとの昨夜の請により、朝九時また小石川林町へ。きょうは死亡通知の宛名六百枚ほどみなで書く。院長は風邪よりクルップ性肺炎となり、さらに右肺上葉に肺|壊疽《えそ》を併発して逝去されたる由。夜六時半辞去。
○ひる敵機中部地方に侵入。弦月夜靄きのうと相同じ。
○ショーペンハウエル『天才論』を読む。
二十三日 晴
○医化学ハルン(尿)の化学的組成を以て、学校に於ける授業はともかくも終らす。若干足らざれど、時間足らざればあとはやむを得ず各自でやれとのことなり。
○このごろB29の侵入経路すこぶる根性曲りなり。今朝四時より五時にわたり、相当長時間にわたりて関東北部地区を旋回、このまま去るやと思いしに、突如南下して帝都に襲来、投弾して脱去す。闇夜なり、一分間に四、五里は飛ぶB29なり。一寸の角度を違うも、とんでもない場所に出現すべし。敵機もマゴマゴしてようやく東京を探しあてたるならんと可笑しかりしも、なかなか以てそんなにのんきな話にあらざるごとし。
今夕八時ごろ突然ラジオのブザー鳴る。騒ぎいて警報聞えざりしかと大いに狼狽して消灯せるに、東部軍情報に曰く、彼我不明の一目標東方海面を北上中なりと、彼我不明なるがゆえにサイレンも鳴らさざりしなり。
最初の中はたとえ不明なるも必ず警報を発せしが、このごろは例え敵機なること明白なるも、少数機にては空襲警報を鳴らすことなく、警戒警報のみにてすます。出来得るかぎり人心をイラ立たしめざるようにとの方針によるものなるべし。
それより二十分ばかりも経て、一目標旋回しつつなお東方海面を北上中との情報あり。さらに相当時間を経て関東東北地区に侵入し来る。果然B29なり。九時、この機南西に下りはじむ。いざや来れと待ちかまうるに、また反転して北上す。北上せしかと思いしにふたたび京浜地区に機首を向く。しかしてついに帝都に入ることなく房総方面より南方海上に没し去る。
これまさしく敵は東京の地を探しあぐねたるにあらず、吾を愚弄せるなり。神経戦の意もあるべし、日本防空戦闘機の釘付けの心もあるべし、されど幾割かはたしかに愚弄せること明白なり。
腹もたてど、可笑しくもあり。何となれば愚弄の半ばは悪意なるも、他の半ばはユーモアなればなり。もとより敵も決死、吾らもまかりまちがえば脳天に一発くらわさるるやも知れざる死の幾時間なり。されどこの戦慄の中に於けるこのユーモアは掬《きく》すべきものなしとせず。
B29には女も搭乗しているとの噂あり。「あんた、チョイと落すわよ」などと爆弾のボタンを押さるる下界では、幾百万幾千万の男どもが毛だらけの尻をかかえて防空壕に逃げこむさま、これ人間界の一大漫画ならずや。
およそこの幾年ほどユーモアなき時代あらざるべし。病院船を爆撃する米機、身体に五十発の弾丸を受けてもなお狙撃をやめざる孤島の日本兵、ジャップを殺せと負傷兵の上を戦車走らす米軍、必死必中の日本特別攻撃隊。――玉砕、殱滅、鬼畜、残忍、復讐、血、煙、肉、涙。――世界にみじんのユーモアなし。この中にたった二つのユーモアは、日本軍人の和歌と、米機の日本上空に於けるこの横着ぶりなりとす。
この米機の愚弄に青筋立てて怒るは、いわゆる神経戦にかかるものなるべし。こちらも笑わん、泰然とせんと思いたれど、今夜のごとく二時間以上、近傍をふらふら飛び廻られては、実に時間の使用にこまるなり。
敵関東地方北部を旋回中なれば、本を読むほどの電灯もつける能わず、火鉢の火も消さざるべからず、眠るわけにもゆかず、といって寒夜、地底の壕に震えつづけも能なき話なり。
二十七日に解剖の試験あり、少し調べんと思い、今に解除になるかなるかと闇黒の机に面して一時間待てども敵去らず、また来らず、えい、寝てしまえと蒲団にもぐれば京浜地区に飛来中との情報なり。かくして無為にして終る時間は戦争中幾ばくぞ。
よし、明日よりこの闇中の静坐を利用して少し屁理屈を考えん。別にほかに考えることもなければ、いわゆる哲学的空論でも考えるよりほかに考えることなし――と、いって、思想はショーペンハウエルもいいしごとく、考えんと努めたりとて滾々《こんこん》と湧き来るものにあらず、そは朝茶の湯けむりに、また夕暮の散歩に、忽然として閃光のごとく湧き来るものなればなり。されば考えごともモノにならざるときは、一人手を振り足を振り、猛烈なる運動を試み、寒中の待機を暖かきものとし、かつ眠りがてなる夜々をして短くも深き熟睡を得さしめん。
――とは思えども、深夜に来襲せば、例え爆弾頭上に裂くるも断じて起きずと決心するほど、外は寒く蒲団は暖し。人間の意志はコッケイなほど薄弱なるものなり。
愚言縷々。
二十四日 晴
○今晩一時より五時にわたり敵来襲。高射砲弾など射ち相当凄かった由。
余前後不覚に眠りてついにこれを知らず。朝これをききて驚く。
○夜、学校に空襲当直。六時半登校。
八時ごろまでに全員そろう。宿直室にて、例によりて戦争の話、恋愛の話。なかんずく明後日の脈管学試験の話。
敵アメリカに例え十万の艦船あるも、日本にまた百万の出陣学徒あり。ことごとく特別攻撃隊たるを辞せず。ただ切歯扼腕のほかなきは飛行機足らざること!
松柳、歎声しきりなり。
「おれ、やってもらえんかなあ! 特攻隊にゆきてえなあ! みな、同い年なのにおれたちはこうしてる。なぜこんだけ違うんかなあ!」
ついに顔をかがやかして、天皇とおふくろを讃美す。天皇とおふくろのために死ぬんだという。みな笑む。そして口々に各自のおふくろを讃美す。幸福満面にあふれんばかりなり。
余は幸福を欲せず、優しき女も美しき未来の妻も、金も平和も要らず。ただ、やりたいことをやりたいのみ。黙して想を他に転ず。無限の空、時、生命、魂、運命、歴史などを混沌と考う。
勿論、解決の彼方にあれど、何だかみな分ってしまえそうな夜なり。しかも胸底に惨としてながるる虚無をおぼゆ。この流れ、中学時代よりひとすじのせせらぎとして心中に出現せるものなれど、時とともに次第に太く、今や生そのものも明日はおぼつかなき暗澹の世界にありて、渺茫の音たててながる。夜一時ごろみな眠りにつく。
二十五日 曇
○二時半警報発令。がばと起き、鉄かぶとをつけ、バケツを抱きて当番の剣道場に走る。星凍り、闇夜の校庭に霜、雪のごとし。
敵一機伊豆より侵入。例によりて意地悪く関東地区西部を旋回して帝都に入らず。而して新たなる敵一機、房総方面より帝都に入り、爆撃を開始し、南方――品川あたりなるか――焼夷弾らしきもの、空にぶきみなる赤きひとだまのごとくふわふわと落つる見ゆ。このとき俄然として西方の敵機も侵入し、帝都の空、探照灯と高射砲弾に閃々たり。
暫時にして二機帝都を去れど、一機は関東地区東方を旋回して容易に去らず、四時に至る。寒気たえがたく、みな校庭をかけめぐる。この敵ついに去るやまた別の一機、房総より来襲、ここにてしばらく旋回し、西方に飛びて伊豆に入り、さらに西に進みて中部軍管区に入り長野に侵入す。眠さと寒さ甚だしくてすこぶる閉口す。
近傍の家に一瞬点灯せし者あり、警防団走りゆきて戸を叩き、告発するぞと罵詈凄じ。みな神経尖れるなり。
長野地区の敵機東進してふたたび関東西部を旋回。その動静かくのごとく明々白々なるに。B29の怪物如何ともなし難しと見え、敵の傍若無人ぶり、実に切歯のきわみなり。東部軍は情報を発するばかりが能にあらざるべし、撃て、落せ、それとも東部軍あげてアナウンサーになれるやとみな痛憤甚だし。
五時前敵機帝都に侵入。ふたたび薄明の空、弾幕に揺れ、ようやくにしてこの執拗なる敵退散す。みなヘトヘトになる。毎晩このありさまなれば、神経戦ならずとも生理的に敵の思うツボにはまること必定なり。
六時に眠る。眼醒むれば八時半なり。珍らしく曇天なり。依然寒し。
十時に帰宅。昼になれば学校より帰るとは、考えてみれば奇怪なり。
○夜、高須さんと風呂にゆくに、高須さん熱湯にアタリしと見え、衣類つけんとするころ、顔色蒼白となりてうずくまり、ひたいに玉のごとき冷汗をふつふつと落す。ようやくにして外に出でたるも吐気あり。横町に入りて吐き、うずくまりて大息す。
野良犬来り、この吐物をくらう。高須さんがゲーというたびに犬キョロキョロと不安げに逃げかかり、また吐物を狙って近づく。犬になりたしと思いたることもあれど、犬はやっぱり哀しきものなり、惨めすぎるものなりと感心す。高須さん蹌跟と帰る。
○『大モガール帝とその医師たち』を読む。
二十六日 晴
○頗る暖かし。午後、茂原の東亜工業所の使い来り、米、野菜、卵、それに生きている鶏を一羽くれる。これをつなぐに大汗をかく。
○脈管学を勉強す。動脈系をやったら、静脈系と淋巴管系をつづける気がしなくなる。疲労といわんよりは飽きたるなり。吾ながらコマッタことなりと思えども、飽きたるものは自らも如何ともする能わず。ドーデモナレと思いて寝る。
○このごろ女の子にして男のズボンを借りて穿きたる者多し。あたかも近来の月末に於ける各家庭の米櫃のごとし。こころは、またくいこんじゃう。これは某友人の駄ジャレ。
二十七日 晴
○解剖試験「門脈に就て記せ!」
如何せん、静脈出でたり!
○正午より二時半にわたり、B29大編隊七梯団に分けて怒濤のごとく次から次へと襲い来る。
冬天晴れて染めたるがごとき大円穹、白く飛ぶ敵機編隊に突撃する日本戦闘機、砕け散る高射砲の白煙、西南の方に一すじの白煙、巨大なる香煙のごとく天地をつなぐ。敵機の落ちたるあとなりと悦べば、隣の少年の曰く、
「兄ちゃん、あれ味方らしかったよ!」
突如として近所の屋根より喝采と叫び声聞ゆ。
「落ちる! 落ちる! B29が!」
狂喜して二階に駆けのぼりて見れば、南東の空にB29裂け散りて、白熱せる火焔の一塊を認む。
「また一機、煙を吐いて!」
あたり一帯爆風のごとき大歓声なり。
B29、長き一すじの白煙を吐きて頭上を南へ逃走せんとせしが、やがてキラキラと真白き煙と焔巻きつつ錐もみとなりて墜落をはじめ、わが戦闘機、それとすれすれに乱舞す。
「落ちる! 落ちる!」
と、みな躍り狂って喜ぶ。実に豪壮凄絶、血湧き肉躍るの壮観なり
B29、錐もみ状態となって墜ちゆくに、一つ白き花のごときものポンと空に残る。落下傘なるがごとし。ここに至ってなお生きんとする米航空兵の心唾棄すべし。白き花ゆらゆらとしずかに碧空中に没す。敵機墜ちたるあと、いずこなるか市街より黒煙上る。
ふたたび登校せんと目黒駅へ駈けつけたるも、電車運転中止中なり。やむなく権之助坂を帰るに、西南の方にあたりて雲のごとき大黒煙地より渦まき空に流るるを見たり。
日はかがやき、女子供すらも今日の壮観に心はずみて嬉しげなり。昼間は何百機なるも恐ろしからず、夜は一機のみにても不安の至りなるは、人間と闇との原始的関係を考えさせらるることなり。
今の空襲、すこぶる大規模。敵に与えたる損害大ならんも、味方の空爆を受けたるところもまた惨大なるものあるべし。
○奥さん、食糧入手のため、田舎の鶴岡に帰る。
夜七時前これを送って勇太郎君とともに上野駅にゆく。有楽町の毎日新聞社の電光ニュース廻りて、余がちらと見たるとき、「ウチ四キハ体当リ」とかがやき消えたり。車中の人の話によれば、今日来襲せるB29は五十機。うち四十機は撃墜破せりと。
上野駅は気も遠くなるような人波なり。省線の切符を買う行列、汽車の切符を買う行列、旅行申告をせんとする行列、至るところ延々たる大行列交錯し、塵埃灯を覆う。
改札口付近は駅員や警官立ちて、右往左往する群衆を叱り、罵りて追い払い、今夜の出発客はことごとく浅草口の階段下に並ばしむ。「秋田新潟行」と「北陸線廻り大阪行」と「北陸線廻り米原行」の三列の行列、延々と数百メートルつづきて次第に五筋となり、八筋と増し、末は混乱して駅外に溢る。叫ぶ声、笑う声、喧嘩する声、子供の泣く声。
かくのごとき切符買い難き時代に、よくもこれだけの人数が切符買いたるものなり。男はみな地下廊の壁際に小便をたれて、流れて、靴の下はぴちゃぴちゃに濡る。幾千とも知れぬ人々、薄暗き乏しき電灯の下に、小便と人いきれと叫びと埃にまみれつつ並ぶ。
九時前やっとこの行列動きはじめ、改札開始さる。奥さんを改札口より送り出し、始末を見とどけんとせしも、いったん改札口を出たる群衆はかなたの汽車に凄じき勢いにてむらがり走り、塵埃朦として何ものをも見る能わず。あきらめて帰る。
東京駅附近まで帰りたるとき、突如車内の電灯消ゆ。はてなと思いたるとたん電車とまり、サイレンの音聞えたり。すわや敵機また至ると、奥さんの安否を不安がり、かつ電車の遅きを焦り、ようやくして目黒に帰る。
高須さん月光の外に立ちて待つ。敵三機、関東地方に侵入。しきりに東部を旋回す。十時半ごろ、京浜に入ることなく海上に脱去す。
二十八日 晴
○本日の授業、病理の佐々教授遅刻せられて四十分ほど講義せられたるのみ。細菌の四方教授は休講。いかに冬休みを廃すとも、先生の方が休んでは何にもならず、学生を馬鹿にするも甚だしとみな怒る。
○昨日千駄ヶ谷に味方機墜落。航空兵落下傘で下りたるも半開のまま惨死せりと。
○また東宝撮影所全焼したる由、噂あり。
○午後三時半より五時にわたり、敵三機、関東地方に侵入。
このごろは常に九十九里浜北方より入り来り、関東東北海岸を旋回す。敵上陸地点の偵察にあらずやとの大それた疑惑を抱かざるを得ないほどの情勢なり。
さらに午後八時半より敵三機侵入。火なくあかりなし。寒さと退屈に耐えず、蒲団に入る。敵帝都に近接中なりとの警報を夢うつつに聞きつつ、ついにその結果を知らざりき。
二十九日 晴
○奥さん留守なり。今は一刻も家を留守にする能わざるを以て、学校は休む。二階の日向に机をすえて、フロイドの『精神分析学』を読む。ガラス越しに澄みたる冬の日光すばらしきサンルームをなして、午後はぐうぐうと眠ってしまう。
精神分析、これは将来とも三読四読するの要あり。
○現時の物価をうかがうよすがとして書きおく。先日奥さんに頼まれてゴムヒモを、新宿三越の前の露店の老婆より買う。一尺一円三十銭。一丈頼まれたるゆえに十三円払う。掌中にまるめれば蜜柑大にも足らざる糸の一塊、それほどの上等品とも思われざるに驚きたり。尤も、他に並ぶ店にゆけば、同じ長さのものを或いは一円五十銭といい、一円七十銭という。この店最も安くして、それすらかくのごとし。
○夜八時ごろなりしか、相当の地震あり。窪田空穂の歌集『土を眺めて』を誦しつつ、センチメンタルないい心持でいたるところ、突然家ぐらぐらとゆれはじめ、じっとしばらく天井を見つめいたりしが、急に驚きて外へ飛び出す。空晴れ、星冷たく、満月近き月一つ皎《こう》たり。
しばらくののち、サイレン鳴り出す。敵関東地方に来襲。十一時ごろ解除。
三十日 晴
○今暁、まず深夜より二時にかけて敵空襲、投弾して去る。未だ完全に去らざるに蒲団にもぐりこみて眠りに入る。
ふと目醒むれば、周囲に高射砲の轟音烈しく、どすん、どすん、と敵投弾の音、枕に凄じ。実に一夜三回目の空襲なり。飛び出せば、屋外ときどき蒼白き閃光きらめく。時計を見れば四時なりき。暫時にして敵去る。
○午前目黒のガス会社にゆく。余来りて二人が三人に増したるゆえ、ガスの割当量増加の申告のためなり。米穀通帳をもちゆきたれど、他に以前のガス領収書が要る由、むなしく帰る。
○高輪より鶏をとりに来る。
先日、茂原の持ちくれし鶏、そのまま風呂場に飼いありしものにて、餌なければ、爾来この米なきに米を食わす。あたり一面、米の形をつぶつぶと浮き上らせし青白き糞だらけ、洗面台の足に鶏の足を結びつけておきしが、鶏みずからその周りを歩きて、足をつるしあげコケッコーと大騒ぎすることしばしばなり。滑稽よりも憐愍よりも、その愚かしさにカンシャクの起るをおぼゆ。
しかもこの鶏、この元旦に食うつもりなれど、料理する能わず、されば高輪螺子に持ちゆきて料理してもらい、その半ばの肉を与えて残りをもらわんとす。使いの者、殺して持って来いといわれたりと思案す。三日飼いたり、眼前にて殺すに忍びずと高須さんいう。
トルストイ曰く、動物愛護を説く人間が、嬉々として肉食するは矛盾嗤うべしと。しかれどもそれが人間にあらずや。肉体的欲望と精神的欲望は、十中八九両立するものにあらず。しかも人間はいいかげんなところにて目をつむり、この両者を妥協せしめんとす。人生は実にこの鶏一羽をめぐる人間の態度の延長にしてまた拡大なり。
ついに鶏は生きたまま持ち去る。
○ショーペンハウエル『性愛の形而上学』を読む。
三十一日 晴
○けさ奥さん山形県より帰京の予定なり。朝五時半、勇太郎君とともに赤羽にゆく。夜いまだ明けず、東に月いまだ沈まず、青く冷たき月光、耳朶に凍りつくがごとし。省線途次にゆきちがう汽車の白き蒸気、暖かげに冷たき空に渦巻く。
汽車大いに遅る。来る列車はことごとく宇都宮発などなり。八時ごろプラットフォームに白き日さす。勇太郎君待ちかねて会社にゆく。六時に赤羽駅につくべき汽車、ようやく十一時に着くありさまなり。寒気烈しく、たえずフォームを歩きいたるを以て大いに疲る。十一時、車窓につらら下がり、屋根に煤煙に汚なき凍雪をのせたる汽車来る。「上越線廻り上野行」とあり、これに相違なしと手を打ちて駅員に、「これ六時八分到着の秋田より来れる上りなりや」と尋ねるに然りと答う。しかるに降り立つ人々の中に奥さんの姿なし。三度フォームを往来す。
池袋にゆき、駅前の公衆電話にて勇太郎君を呼び出し、如何せんと相談す。そのあとに当分汽車なし、切符買えざりしやも知れず、ともかくも人事つくしたれば帰り給えと勇太郎君いう。
目黒に帰る。高須さん会社より帰りてボンヤリとしあり。結果をいいて二人ウンザリとなる。しかたなく米を炊き、味噌汁を作り、二時ごろ食う。それから晩までぐうぐう寝てしまう。
夜風呂にゆき、酒だけのんで寝んとおかんの湯をわかしいたるところに奥さん帰る。
鉄塊でも入れあるやと疑わるるばかりの重きリュックに風呂敷包み、鞄など左右に提げ、玄関に入るやどうと尻うち落し、十数分喘ぐのみにて声も出し得ず、顔色変り、髪乱れて、両眼のまわりに褐色の隈生ず。こはいかにと問うに、今夕六時に赤羽に着きたりといい、出迎えなきを恨む。出迎えはせり、と二人答えて茫然、かつ持てあます。
話の結果、余が見たる十一時の上越線廻りは、昨日発せしもののごとし。
北国積雪物凄く、長岡にては四時間も停車せりと。走り出しても進行遅く、ついに十二時間遅る。車中食糧を食いつくして泣き叫ぶ子あり、実に地獄の如かりきと。
それでもしばらく話すうち、大分元気をとり戻して来たるゆえ、安心す。
○森田たま『続もめん随筆』を読む。
この著出でたるが昭和十二年。十年以前の昭和初年の女性の服装に比し、現時のそれの華美鮮麗なるを嘆じ、さらに十年後はいかなるものなりや楽しみなりなどいう。
その十年後は今や来らんとす、而して近時街頭の女性の惨たる服装、たま女史見て以ていかんとなす。
○大晦日、一片の色彩も美音もあらず、管制にて闇黒なる都に、むなしき木枯らしの風のみ吹く。
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あとがき
――自分の書いた日記にはちがいないが、読み返すのは三十年ぶりのことである。それは書いたものがボロボロになったノート、ノートともいえないばらばらの紙片であったためと、二十歳前後の年齢特有の自己肥大症ともいうべきものの考え方、感情、文章にふたたびお目にかかる羞恥、さらに「あの時代」へひき戻される恐怖から読み返すのを、蛇をつかむように憚かる気持があったからである。
しかし、改めて再読して見て、正直なところ、嫌悪感よりも、実は自分で感心した。自分で書いたものに自分で感心していれば世話はないが、それだけ現在の自分があのころの自分と別人になって、ほぼ客観的に「あの時代」を眺めることが出来るようになったということでもあろう。
当然なことではあるが、今の自分では絶対に書けない文章であり、内容である。たしかに書いた当人としては背に汗をおぼえるような思いはあるけれど、さてその感覚が果して正しいかどうかと考えると、現在の自分のほうが怪しくなる。その証拠に、ひとさまから見たら、現在の私に失笑される人のほうが多いだろうと思う。しかしまた再考するのに、それは私にかぎらず、ひょっとしたらどなたでもそうなのではないか?
ただし、このころの私は大苦しみの中で「奮戦」していたが、それは何も志すところがあっての悪戦苦闘ではなく、まったく受動的なものであったから自慢にはならない。戦争のまっただ中、まだ生活力はなく、保護者もいないことに因する強制的なストイック生活で、条件反射的にそれなりのストイックな哲学をたてずにはいられなかったに過ぎない。
文章中、はじめのほうの異常な食欲には自分でも驚く。いまの若い人が読んだら笑い出すだろう。しかし私は、現在はもちろんそのころでもむしろ同年輩の人にくらべて小食のほうであった。この暴食は、慢性的飢餓の状態におかれた人間の間歇爆発にほかならない。
思えば、この日記につづく翌二十年の空襲は、いわば日本の外科的拷問であり、それ以前の餓えは内科的苦痛であった。そしていまになってみれば、外科の傷より内科の病いのほうがあとまで長くたたったような気がする。体験者はだれでも、戦争といえば空襲よりもまず空腹を思い出すだろう。「戦争を知らない」連中に、言っても無益だとは思いつつも、ともすればそのことを口にせずにはいられないゆえんである。
私はさきに『戦中派不戦日記』と題して、私の昭和二十年の記録を出版してもらった。それは私自身のことよりも、昭和二十年の世相の記録としての意図からであった。ただ日記というものの性質上、両者の叙述がわかちがたいのであえて全文を提出したのである。
そしてこの昭和十七年から十九年に至る日記は、自分のことについて叙する傾向がさらに甚だしい。当然のことで、日記はそもそも世相よりも自分のことを書くのが目的だからである。しかも、いざ現実に空襲が始まるまでは、世の中は暗澹としていたけれど、徐々に進行する内科的疾患と同様で、或る程度あたりまえの変調くらいに感じていて、とくに外界について記録する考えが生じなかったのだ。
が、かえりみればこの三年間の暗澹ぶりは、決して二十年に劣らない。昭和二十年は天地逆転のドラマチックなところがあるが、それ以前は、ただ鉛色の曇天の下で、いつ終るとも知れない無限の苦役に従事していたような気がする。
しかし、ほんとうのことをいうと、私自身としては、この日記以前の数年のほうがまだよくない状態であったのである。いま、当時の悪戦苦闘は強制的に投げ込まれたものといったけれど、実は自分で自分をそういう事態に投げ込んだところもあるのだ。それにこの日記の当時の、生きるための苦しみぶりは私一人ではないが――私はひとりぼっちであったがゆえに困りかげんもひとしおであったが、またそれゆえに気楽なところもあったろう――それ以前、まだ世の中がそれほど急迫していないころは、私一人の悩みであったからだ。
中学二年のころ母を失い(父は五歳のときに亡くなっていた)やけくそになって停学などくらい、そのためにその当時上級学校へ入るため不可欠の免許状と思われた教練合格証――軍隊に入れられたとき幹部候補生になるための資格証――ももらえず、勉強はちゃらんぽらん、体格はひょろひょろ、しかも親戚の廻り持ちで養われている身とあって、ついに家出をしてしまう破目になったのである。日記で明らかなように、決して養うほうにとっては養い甲斐のある少年でも青年でもなかった。
最初家出したのは、昭和十七年三月で、片道切符の金だけ持って、但馬――兵庫県北部――の田舎から、だれ一人として知人のいない東京へ出て来て、三日ばかりうろつきまわった。宿屋に泊ることも出来なかったから、東京駅の待合室に寝た。夜、追い出されて、寒夜丸ビルの入口の石段で過して、朝になったら、皇軍ラングーン占領の号外が走っていたことを思い出す。結局、中学に入ったとき母親から買ってもらった腕時計を売って旅費を作り、とにかくそのときは一度帰ったのだが、この偵察によって改めてその夏また出奔上京した。
とにかく上級学校に入らなければどうにもならないことは承知していたから、その勉強はやるつもりではいたのだが、それにしてもどこかに就職はしなければならない。そしてそのころは本人の意志で勝手に就職することは許されず、国営の職業紹介所の指定で軍需工場に勤めるよりほかはなかった。私の場合、それは沖電気となった。
上京した当座は神楽坂に下宿していたが、隣室に肺病患者がいて夜々喀血する声が聞えるので怖れをなして、五反田のアパートに三畳を借りた。一ト月の間代十円、沖電気の月給は四十五円であった。
ちなみにいえば、これは昭和四十八(一九七三)年夏現在の貨幣価値にして約千倍と考えればいいのではあるまいか。十九年ごろに入ると物価は上昇し、従って五百倍くらいと見ていいようだ。物により、年によってばらばらだが、この日記中の物価はまず五百倍ないし千倍に引き直して読んで下さればいいと思う。
実は、以上の時代のほうが、日記として書いていたなら「面白かった」にちがいない。物質的にはともかく、心情的にはなお悲惨であり、絶望的であったからである。しかし、その当時、日記はつけなかった。――
私が生まれてはじめて日記を書き出したのは、ここにあるこの昭和十七年十一月二十五日からである。
それ以前のものはない。だから、いつ上京したのか、その正確な日付もわからない。今読むと十二月二十日の項に四ヶ月前とあるから、八月下旬のことであったらしい。
どうして日記をつける気になったかは、今となってははっきりわからないが、上京してから二ヶ月ほどたってそれなりにひとまず生活のかたちがきまったのと、それから、孤独な青年しかも満二十歳前後の年齢特有の「自分との対話」をやりたくなったからだろうと思う。
十八年ごろの日記の日付がひどく飛んでいるけれど、削除はしていない。右のような心情で書き出したものの、おそらく自分にとって空白の日々が――そしてまた日本にとっても、さらに恐ろしい空白の日々が経過したのであろう。
ともあれ以上のような心情で書き出したものであろうが、結果として、やはり当時の世相を描き出すことにはなったと思う。あきらかに記録を意識して書いているところもある。もっともそれは自分自身に対する備忘としての記録であることはいうまでもないが。――そして、このころの世情を正直に書いたものは、検閲下の新聞雑誌はもちろん、さまざまな人々の日記類にもほかにそう沢山はないように思う。一般の人々はさらに急迫した現実に追われていたからである。
ひきあいに『断腸亭日乗』を持ち出すのは大それたことだが、その文章は古今に冠絶するとはいえ、荷風は老いてすでに座して動かず、記するところあまりに伝聞のたぐいが多くて、少なくとも戦争中に限り、記録としてはどうであろうか。もっとも、噂もまた一つの真実ではあるけれど。
いまの若い人々がこの戦争のまっただ中の人間相を見てどう思うだろうか。私は現代の庶民とあまり変らないような気がするのだが。――
人は変らない。だから、こういう記録を出したところで、実はどれだけ意味があるのかわからない――などいうと、やっぱり私自身も三十年前とちっとも変ってはいないじゃないか、と苦笑しないわけにはゆかないが、私自身についていえば、実は、日記の中でまでふざける必要がなく、またいかに自分のための日記といっても人はなおおのれを偽るもので、わざわざ不愉快な邪念を書きつらねたくないものだから、日記中の自分は、当時としてもほんとうの自分よりも、おそらくはるかに上等に、かつ大まじめに書いたのであろう。さきに、自分で感心した、など馬鹿なことを書いたけれど、実際は第三者が外から見れば、だれも感心しない若者であったにちがいないのである。しかし、それらを割引いても、なお自分は退行性変性《たいこうせいへんせい》を来したことを痛感しないわけにはゆかない。
二十歳から二十二歳に至るまで、文章などははじめの稚なさから、後半その自在性という点で幾らか発達しているのが認められるような気もするのだが、さてこの日記の時代からのち、かえって退歩をはじめたとはこれ如何《いか》に?
「滅失への青春」という副題は、翌年の日本の大破局へ向って進行する日々を意味したつもりなのだが、この暗澹たる青春の底で夢想した幻影――平和と豊かさ、そのそこばくを思いがけず得た瞬間から、おそらく私は退歩しはじめたのである。そして、決してかえりみて他をいうわけではないけれど、そういう滅失への歩みは、同年輩の人々の大半が味わわれたのではあるまいか。その人々の好んで歌う若い日の軍歌に籠る哀調は、「あの時代」にすべてがあった、というその表白ではあるまいか。
昭和四十八年七月
[#地付き]山田 風太郎
山田風太郎 (やまだ・ふうたろう)
一九二二(大正十一)年一月、兵庫県養父郡関宮町の医家に生れる。三六年中学に入学、その頃の仲間の渾名が雲太郎、雨太郎、雷太郎で、筆名・山田風太郎の契機となる。四九年、「眼中の悪魔」「虚像淫楽」で第二回探偵作家クラブ章を受賞。五〇年、東京医科大学を卒業するが、医師の道を進まず、作家として身を立てる決心をする。
『甲賀忍法帖』『くノ一忍法帖』を初めとする、風太郎忍法を生み出し、忍法ブームをまきおこす。さらに四八年より『警視庁草紙』『幻燈辻馬車』『明治波濤歌』など、独自の手法による明治もの≠発表、ファンをうならせる。他に、『人間臨終図巻』『あと千回の晩歌』など死をみつめた作品もある。二〇〇一年、尊敬する江戸川乱歩と同じ、七月二十八日没。
本作品には、今日の人権意識にてらすと、穏当を欠くかと思われる表現もあるが、昭和十七年から十九年という時代を背景にして書かれた日記であることに鑑み、原文のまま掲載した。
本作品は一九九八年六月、ちくま文庫として刊行された『戦中派虫けら日記――滅失の青春』を底本としたが、電子化にあたり解説は割愛した。