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忍者|六道銭《ろくどうせん》
山田風太郎
目 次
忍者六道銭
摸牌《モーパイ》試合
武蔵忍法旅
膜《まく》試合
逆艪《さかろ》試合
麺棒試合
かまきり試合
忍法甲州路
[#改ページ]
へうと飛びゆく雲は冬
鶴に身をかる幻術師
白秋「海豹と雲」
[#改ページ]
忍者六道銭
一
『甲子夜話続篇《かつしやわぞくへん》』巻五十五に、次のような意味の記事がある。
「余が臣の話に、某、先年坂本天山の語をきくに、天山同国松本にゆきたるとき、松平侯の家臣に代々 諜術《ちようじゆつ》 伝来の者あり。平生《へいぜい》入城するに、夜分城門を鎖《とざ》せる後、ただその名を通ず、門吏これに応ずればただちにその者門内にありと。ある人|曰《いわ》く、これ決して士太夫のなすべきことにあらず、我は家業なり、されどまったく下法《げほう》なれば伝授のことなかるべしと」
右の文中、坂本天山とは、高遠《たかとお》藩でそのころ聞えた砲術家であり、松本の松平侯とは戸田家のことである。
これについて、また『甲子夜話』はいう。
「松本侯の詭術《きじゆつ》を職とする者、はじめは神祖も知《しろ》しめされ御免ありしより、今に至って臣とせらると」
つまり家康|公許《こうきよ》の相伝の忍者であるというのだが、戸田家はそのころからずっとひきつづいて松本を城地としていたものではない。享保《きようほう》十年、志摩《しま》から転封された大名である。戸田家は譜代にしてはじめて松平の名を与えられたほどの名家だが、それ以前も、家康時代こそたしかに松本であったが、その後、明石《あかし》、美濃《みの》、淀《よど》と転々と所領が変っている。では、この忍びの者はそれに従って居を移した戸田家重代の家来かというと、『甲子夜話』のその他の記述によると、どうやら古くからずっと信州に棲息《せいそく》していた一族のような感じがある。――
その通り、犬は人につき、猫は家につくというが、この忍びの者は「筑摩《ちくま》一族」といって、少くとも戦国のころからこの信濃に棲《す》み、松本城のあるじは、小笠原、石川、戸田、越前松平、水野、また戸田と、主《ぬし》は変れどこればかりは変らず、特別にこの地に残ってそれぞれの主君に仕えることを許された、猫のようにふしぎな郷士《ごうし》一族なのであった。いずれも譜代の大名ばかりである。神君の「御免」とはこのことをいい、その家にはこれについての大御所の印可《いんか》状を伝えているという。――
さて、その戸田家が松本に転封されて来た享保のことである。参覲《さんきん》交代という制度はむろん残ってはいたが、このころは大名自身が領国に帰ることは極めてまれで、戸田家でも当主の丹波守|光慈《みつちか》がはじめて松本へゆくことを許されたのは、転封以来五年目の享保十五年秋のことであった。
むろん、初|入部《にゆうぶ》に伴うさまざまな儀式や行事があって、丹波守がはじめてその一族を見ることになったのは、翌年も信濃の巨大な山々の雪がようやく消えかかるころであった。
「筑摩の忍びの者を御覧遊ばされまするか?」
国家老の岩坂伴左衛門にこう伺《うかが》いをたてられたとき、
「おう、あれか。――」
と、年を越えての相つぐ行事にやや疲労気味の丹波守が眼をかがやかしてひざをたたいたのは、むろんそれがはじめてきく名ではなく、それについての予備知識があったからだ。だいたい松本という土地は百年前に戸田家がその主《あるじ》としてあったところであり、こんど転封されたとき、それ以来変らぬものは山河と城と――それから、その一族だ、ということは藩中でも幾度か話題に上ったくらいである。
「忘れておったのがふしぎなほどじゃ。すぐに召し出せい」
丹波守はせきこんだ。
「して、何人くらいおる?」
「それが。――」
と、伴左衛門は冴《さ》えぬ表情をした。
「首領の筑摩|縄斎《じようさい》なるもの、恒例によりただ一人にてお目通りつかまつりたい、と申しまする」
「――ほ? そんな恒例があったか」
「忍びの一族でござれば、と申しておりまする」
その忍びの一族が妖《あや》しの術をあやつる、ということは戸田藩でも古伝説のごとく伝えられているが、べつに然るべき記録として残っているわけではなく、何しろこの一族と別れてから百年もたっているのだから、すべて曖昧模糊《あいまいもこ》として、そういわれると、そんな恒例があったか、というしかない。その百年の間に生じた恒例かも知れない。
とにかく、若い主君をいただく国家老として絶大の権威をふるっている岩坂伴左衛門も、この一族に対してだけはまだ知識もおぼろであるらしい。
「で、その者、何ぞ忍びの術、とやらを知っておるのか」
「それが。――」
と、伴左衛門はいよいよ冴えぬ顔をした。
「筑摩縄斎、年は八十八歳とか申し、介添《かいぞ》えなくては歩行も出来ず、相当に聞き馴《な》れねば言語もよくわからぬ老耄《ろうもう》ぶりで。――」
「そんなものに逢《あ》ってもしかたがない。あとつぎの子はないのか」
「それが、ござらぬと申しております」
「なに? では、何のための忍び組なのじゃ?」
「縄斎の申すには、この術は血脈なしといえども、伝授は師の観《み》るところに拠《よ》る――すなわち、一族のうち、然《しか》るべき素質のある者に相伝してありますれば何ら障《さわ》りはないとのことでござりまする」
「ならば、それを召せ。余は彼らの術が見たい」
忘れていたくせに、思い出すと、丹波守はだだッ子みたいに焦《じ》れた。もっとも、若い。お国入りが遅れたのはそのためもあるが、この年まだ二十二歳である。
「ところが縄斎のまた申すには、筑摩の忍びわざ、行うには術者いのちを削《けず》り、私欲や戯《たわむ》れにては決してその術行われず、それのみか魔天の冥罰《みようばつ》ありとのことで。――」
「ほほう? いや、何を申しおるか。家来が主君にその能を見せるのが、何の私欲、何の戯れ。――しかも、ただ国換えされて来た主《あるじ》ではない。百年ぶりにもとの国へ帰って来た旧主ではないか。それにもよそよそしく隠すという法はない。――見てつかわす。何と申そうと、余は筑摩の一族の忍びのわざを検分せずにはおかぬぞ!」
と、丹波守は白い額《ひたい》に青い筋を浮かべてさけんだ。
主命もだしがたし。――こうまでいわれては、おそらく筑摩組も、それでもとなお渋るわけにはゆかなかったのであろう。やがて、ならば仰《おお》せの趣《おもむ》き承知つかまつってござる、という返答があった。
ただし、罷《まか》り出でるは頭領の筑摩縄斎、ならびに介添えとして甥《おい》の鴨《かも》ノ内記、下僕の牛《ぎゆう》 塔《とう》 牛《ぎゆう》 助《すけ》なるもの、この両人を以《もつ》てわざの一端を御見《ぎよけん》に入れることにてお許しいただきたい、とのことであった。
これは、一応丹波守も承知した。
ただ、その術の予告をきいて、みんな眼をまるくした。
二
その日、桜ちる松本城の奥深く、庭に面した大書院には主君の戸田丹波守をはじめ、二、三十人の人々がいながれた。
筑摩組の意向を汲《く》んでやって、これでも人数を大いに制限したのだが、藩の重臣、近習、それに江戸からついて来た丹波守の妹奈々姫さま、さらに数日前から訪れている戸田の分家にあたる戸田兵部という人物や、奥向きの腰元や――で、これだけの人数となったのである。
それはともあれ、大障子をあけはなった広縁《ひろえん》に妙なものが置いてある。
二個の鎧櫃《よろいびつ》である。
庭には三人の男が平伏していた。前には白髯《はくぜん》に埋《うず》まったような老人が両手をついており、そのうしろ左右に、二人の若者がひれ伏している。両人とも月代《さかやき》をのばし、山《やま》 侍《ざむらい》 然《ぜん》とした風態である。
彼らはいま。――
「筑摩組の筑摩縄斎でござります」
「鴨ノ内記と申す」
「牛塔牛助」
と、名乗ったところであった。
いちばん早く顔をあげたのは鴨ノ内記であった。書院の女たちのあいだに、声ではないざわめきが起った。それが、野性味はありながら、それだけに凄味《すごみ》のある美男であったからだ。彼は、ざわめく座敷の女たちを、恐れ気もなく見まわした。どこか人を小馬鹿にしたような不敵な眼であった。
「れろれろ……筑摩……れろ、術は……女子、小人の愉《たの》しみ、……ず、れろ……特別……れろ、れろ、れろ」
と、縄斎老人がいった。彼は先刻、二人の介添えの若者に両側から吊《つ》られるようにして、そこへ運び込まれて来たのである。国家老も言語不明といっていたが、なるほど何をいっているのかわからない。わからないのみならず、甚《はなは》だ聞き苦しい。
「わかった、わかった」
と、丹波守はいった。若いだけに、辛抱がない。
「ともあれ、まず筑摩忍法……天風往来とやらを見せてくれ」
では、というように、両側から二人の男が立ちあがった。鴨ノ内記の恰好《かつこう》よさにくらべて、もう一人の方は――牛塔牛助とはよくも名づけた。猫背のくせに六尺以上もあろうが、まるで牛のようなからだつきである。顔もまた牛に似て、少なからず鈍で、またふとい下がり眉《まゆ》には見るからに人のよさそうな感じがある。並んで歩いて来る動作も、鴨ノ内記を主人筋とする下郎然としたうやうやしさがあった。
二人は縁側の鎧櫃をそれぞれ軽がると抱《かか》えて、もとの位置に戻った。
もっとも、その二個の鎧櫃の中は空《から》である。
彼らが、それを一間《いつけん》ばかりへだてて大地におき、金具《かなぐ》をはずしてそのふたをひらいた。そしてその傍《そば》に立って、書院の方に向って一礼し、その中に両足を入れて中に入った。
鎧櫃というものは、その寸法に定まった式作法というものがなく、中に入る具足《ぐそく》に合わせて作るのだが、大体は胴丸を中心とし、その隙間《すきま》にあとの籠手《こて》やら脛当《すねあて》やらいわゆる七ツ物を入れれば足りる。ふつう縦二尺余、横一尺余くらいの――人間なら小童《こわつぱ》しか入れない程度のものだ。
「……あ?」
みな、信じられないような吐息をもらした。
両足そろえてその鎧櫃の中に立った二人が、スルスルとその中へ沈んでゆくのを見たからである。
そして、二人は消えてしまった。長身の鴨ノ内記はもとより、牛みたいな巨大な体格をした牛塔牛助までが、完全に。――いや、それぞれ一本ずつの手だけを残して。
その手が横のふたをつかむと、みずから櫃《ひつ》にかぶせて――あとには、庭に寂然《じやくねん》と、二つの鎧櫃が離れて鎮座しているだけであった。
それから次に起った出来事まで、人々は時間の知覚を失った。あとで考えても、それは数十秒のことでもあったような気がするし、数分のことでもあったような気がした。それのみか、その間、
「れろ……れろれろ……れろ」
と、縄斎老人が何やら解説したといった人間もあったし、まったく静寂な時間が過ぎたといった人間もあった。
とにかく、そのあと、ふたたび二つの鎧櫃のふたがひらいて、一本ずつの腕が見えた。と見るや、その中からニューッとまた二人の人間が立ちあがって来たのである。
その事実を事前に予告されていたにもかかわらず、人々は、
「あーっ」
と、悲鳴にちかいさけびをあげていた。
なぜなら――書院から見て左の櫃に入った鴨ノ内記が現われたのは右の櫃からであり、右の櫃に入った牛塔牛助が現われたのは左の櫃からであったからだ。
そんなことが、あり得ようか。二つの鎧櫃のあいだにあるのは春の風と大地だけであり、その二つの櫃はたねもしかけもない戸田家の道具で、それを揃《そろ》えることを筑摩組から依頼されたのは、前からだが、蔵から持ち出してそこの縁に置いたのはほんの最前のことであったのだ。
「ど……どうしたのじゃ?」
と、丹波守は呆《あき》れてさけんだ。
「これは。――」
「れろれろ……れろ」
と、縄斎がいった。白い髯《ひげ》の中で、歯のない口がニンマリと笑っているのだけがわかった。
「どうしたのじゃ。いまの術は?」
「これは、たとえ江戸の将軍家よりお尋ねがありましても、金輪際《こんりんざい》明かせぬ筑摩組の大秘事でござりまする」
と、鴨ノ内記が答えた。彼はすでに鎧櫃から外に出て、地上に膝《ひざ》をついている。
その返答に不服をおぼえるよりも――彼の凄味のある顔が、これまたうすら笑いを浮かべているにせよ、紙のように蒼《あお》ざめていよいよ凄惨《せいさん》の翳《かげ》を彫り、あきらかに容易ならぬ念力の消耗《しようもう》をうかがわせて、戸田丹波守を絶句させてしまった。牛塔牛助のごときは肩で大息をつき、ひたいからくびすじにかけてあぶら汗をひからせている。
「よいわ」
女の声がした。
「世にも珍しいわざを見せてくれた。褒美《ほうび》をつかわそう」
これは、書院の一同にも意外であったらしい。みな、あっけにとられたように見まもっている中に、縁側まで一人の女人が歩み出して来た。――主君のおん妹奈々姫さまである。
「参りゃ」
彼女はさしまねいた。
鴨ノ内記はちらっと老首領の方を見たが、すぐにそのままスルスルと縁側の方へ流れるように膝で歩いて、姫の手ずからさし出した白い紙につつんだものをおしいただいた。
そしてなお茫然《ぼうぜん》として眼をひろげている城の人々に一礼すると、来たときと同様、牛塔牛助と二人で両側から首領の縄斎をぶら下げて、庭を遠ざかっていった。――
……ややあって、鴨ノ内記と牛塔牛助は濠端《ほりばた》を歩いていた。前を、やはり筑摩の郷士にかつがれた縄斎の駕籠《かご》がゆく。筑摩郷に帰るのだ。
「牛助」
と、内記が呼んだ。
「阿呆《あほう》みたいな顔をしおって……何を考えておる?」
牛塔牛助の顔が赤黒く染まった。
「おれが考えているから、おまえの考えていることもわかるのじゃ。うふふ、うぬでもあの姫君には見とれたか?」
内記は笑った。牛助は身も世もあらぬ表情をしたが、珍しく内記はこれをからかうようではない。彼自身が、先刻見た女人の幻影をまだ空中に見ているような眼つきをしている。
「おれもあれほど美しい人ははじめて見た。まるでこの地上の女人とは思われぬ。……まして、御帰国なされて以来、半年《はんとし》目にはじめてお顔を拝見したくらい、おれたちにとってはかけ離れた天上の花と思っておったが。……」
彼はつぶやいて、ふところから白い紙包みをとり出し、それをひらいた。中から金色《こんじき》にかがやく数枚の小判が現われた。
「あの姫君でなければ、こういうものをいただくこともなかったろうが。……見ろ」
内記は小判をとりのけ、紙の方だけを牛助の前につき出した。牛のように鈍重な顔といったが、眼だけはぎょろっと大きい。その眼を牛助は、張り裂けるほどむき出した。
紙には走り書きでこう書いてあった。
「ふたりのものにたのみあり。あす子《ね》のこく、のりくらの庭へきてたもれ。なな」
三
年代からいえばこの物語よりやや後年――すなわち、筑摩一族の後裔《こうえい》のことになるが、冒頭にあげた『甲子夜話』に次のような話も書かれている。
すなわち例の高遠藩の砲術家坂本天山が逢った松本の忍者が、高遠城の内部のことを手にとるように知っているので驚愕《きようがく》した。
「天山不審して、わが主の城内、われら却《かえ》って内のことは知らず、なんじいずくんぞ知ると問えば、この不審|尤《もつと》もなり、わが職は諜者《ちようじや》なり、よって事大小となく隣国のことはみな往《い》って伺い知る、これ業《わざ》とするところなりと」
これによっても知られるように、藩の重要人物でも自分の城の内情はあまり知らないのを常とする。おそらく藩によっては多少とも存在したかも知れない忍びの者にしろ、他藩はともあれおのれの城の内部は、主君への遠慮もあって、これまたタブーとしていたであろう。
もっとも人によらず地によって百年以上も同じところへ棲《す》みついている筑摩一族だけはどうだかわからないが、とにかく主君の命令ならば知らず、それ以外のことで夜中城の中を自由に往来するなどということは、普通|憚《はばか》ったであろう。
ただ、この場合は、主君の姫君の依頼ではあるけれど、それならいっそう危険である。なぜなら、それなら半ば公然の行為となり、あとでばれる怖《おそ》れが当然あるからだ。にもかかわらず。――
彼らは指定された時刻、指定された場所へやって来た。
もっともそれに至るまで、両人の間には次のような問答が交わされたのである。
「内記さま……万一のこともござりますれば、ただ牛助めが参ってひとまず姫君の御用件承わりましょうず」
と、牛助がいうのである。鴨ノ内記は筑摩縄斎の甥《おい》ではあるが、いまでは筑摩組の大事な後継者と目されている人間だからであった。
しかし内記はちょっと思案して、
「いや、おれもゆこう」
と、かぶりをふったのだ。
で――彼らは、その夜|子《ね》の刻、松本城内|乗鞍《のりくら》の庭へ妖々《ようよう》と現われた。
最初、奈々姫さまの姿を発見したのは彼らの方であった。忍者でなくてもだれでもまず見つけ出したにちがいない。雲のひくく垂れた重い春の闇夜《あんや》であったのに、その姿はふしぎにぼうっと夜光虫みたいに、浮かびあがって見えたからだ。
「お召しによって参上。――」
と、鴨ノ内記がしのびやかに声をかけた。
「ああ、びっくりした」
と、庭の中央で奈々姫はさけんで、すぐにはずむ息を抑《おさ》えた。
「やはり、来てくれたのね」
「は。――」
「真っ暗で何も見えないわ。どっちが美《い》い男の方?」
少し調子がおかしい。きのうの忍法検分の場における改まった語調とはだいぶ趣きがちがう。つりこまれて内記が、「拙者でござる」と声の方へ膝をのり出したのもおかしかったが、しかし実際その通りにちがいなく、うろたえなくても内記は同じ返事をして顔をつき出したかも知れない。
「ああそっち。でも、もう一人の男の方がもっと強そうね」
「これは拙者の下僕でござる」
「二人に頼みたいことがあるの」
「は。――何を?」
「ほんとうに秘密よ」
彼女はしゃがんだ。春の闇《やみ》の大地に蟇《がま》みたいに両手をついた二人は、鼻孔《びこう》にからまる甘い香《か》に頭がしびれるような気がした。この姫君が常人にはあり得ない鮮烈で芳潤《ほうじゆん》な花の匂《にお》いに似た体臭の持主であることに二人が気がついたのも、あとになってからのことである。
「わたし、まだお嫁にゆきたくないの」
と、奈々姫はいい出した。
「それが、どうしてもゆかなくちゃいけないらしいの」
闇の中で、二人の忍者は何の判断も解釈も絶した表情でいる。
「いやだ、といったら、候補者を三人も持ち出して、その中から選べ、それ以上のわがままは許さない――と、去年の暮から、兄上と伴左が膝づめ談判なのよ」
「…………」
「一番目の候補者は、先日からこの城に来ている戸田兵部どの」
「…………」
「二番目は岩坂伴左衛門の息子の孫十郎。――」
「…………」
「三番目は、松代《まつしろ》の真田《さなだ》家の三男坊で真田江之介というひと。これは江戸にいて、暮からこちらへお招きしてあるのだそうだけれど、まだお見えにならない。噂《うわさ》によると、女と借金に追っかけられて身動きがつかないというひとなんですって。だから、まだ逢ったことはないけれど、逢ったところでしようのないひとにきまっているわ」
「…………」
「問題ははじめの二人なんだけれど、どっちもイヤ。顔を見ただけでこちらはからだにぶち[#「ぶち」に傍点]でも出そうなのに、あちらは二人とも、放っておけばおたがいに果し合いでもしそうなくらいなんですって」
「…………」
「もう、わたしの力ではどうにもならないの。といって、藩のだれの力もかりるわけにはゆかないの。だから、おまえたちの力をかりたらどうかしら、とふいに思い立ったのよ」
むろん、はじめてきく話である。
しかし、たとえ以前から知っていたとしても、両人の表情を見てもわかるように彼らの判断や解釈を超えた話であった。いま説明されても、頭はしびれつづけていて、何の感想も出て来ない。それなのに。――
「殺せばよいのでござるか?」
同時に二人は――鴨ノ内記までが牛のような声を這《は》わせた。無思考のまま、反射的にその声が出て来たのだ。
「それはこまるわ」
と、奈々姫はいった。
「わたしの花婿《はなむこ》候補者が二人とも急に死んでしまったらおかしいし、こんなことで人を殺したりするなんて感覚的にイヤだわ。――だいいち、そんなに簡単に死にそうもない人たちよ」
「――へ?」
「きいているでしょ? どちらも大変な力自慢、腕自慢なんですって」
「いや、それならば。――」
と、内記はいいかけたが、
「そんなことなら、おまえたちに頼みはしない。――きのうあんな摩訶《まか》不思議なわざを見せてくれたおまえたちだから、何とかいい工夫を考えてくれるのじゃないか知らと思って頼む気になったのだわ」
と、ややいらだったような言葉をきいて、
「ううむ。……」
と、うなってしまった。しかし、それもひとうなりである。すぐに彼は牛助をふりむいて、ささやいた。
「では、さばおり[#「さばおり」に傍点]をやるか」
「したが、あれには女が要《い》りましょうが」
「さればだな」
鴨ノ内記はちょっと思案したのち、しずかに姫の方へ顔を戻した。姫には見えなかったが、このとき彼はうっすらと妙な笑いを浮かべていた。
「御意《ぎよい》の趣き、承知つかまつってござりまする。たしかにその花婿志願の方々、何とか然るべく処置をいたしましょう。ただ、そのためには女が必要でござる。筑摩一族の女を使ってもよろしゅうござるが――いっそ、姫君御自身の御出馬は叶《かな》えられませぬか?」
「――うひゃ!」
というような驚愕の声をたてたのは、牛塔牛助である。
「内記さま、それは」
奈々姫自身も立ちあがっていた。
「わたしが、どこへゆくの?」
「相手のところへ、虫封じに」
内記はいった。
「拙者どもと御一緒に。――姫君御出馬が相手方に知られる怖れなど神かけてなく、決してその他あとくされはござりませぬ。それについては、わが筑摩組の忍法を御信頼下さりまするよう」
そのとき、雲がわずかに切れて、淡い月光が銀灰色にぼうとけぶって、内記のニンマリした顔を浮かびあがらせ、すぐに消えてしまった。
内記がなお説明しようと口をひらくまえに、奈々姫ははずんだ声をたてた。
「おまえと一緒。……面白いわ。とにかく、おまえたちのしたいようにおし」
……しばらくののち、鴨ノ内記と牛塔牛助は城のどこかの暗い石垣《いしがき》の下を歩いていた。
「内記さま。……だ、大丈夫でござりまするか?」
と、牛塔牛助があえぐようにきいた。――むろん、奈々姫の頼んだ事柄についての問いではない、そのことに姫君を同行させようとしたことについての危惧《きぐ》に相違ない。
「ふふん。……あの姫君とせっかくおつき合い出来る機会を、たったあれだけで捨てるにはもったいない。――」
と、内記はいった。
もとから牛助が不安がるほど奔放な内記ではあるが、しかしこれはあまりにも大胆なふるまいといわざるを得ない。――が、ほんとうをいうと、牛助も同感ではあった。同感どころか、内記の申し出たことが実現することを考えると、全身の血が重々しく鳴りどよもすような思いがしていたのだ。
「しかし、危ないなあ。……」
内記も舌の根をふるわせていう。
「なにが?」
「あの姫君がよ」
「え、姫さまが?」
「あの奈々姫さま、本質的には……左様さ、恐れながらおん浮気の御天性と見る。それが御婚礼をおいといなさるというのが不思議。――いや、浮気の性でも、いやな男はいやか、ふふ」
と、苦笑して、またいった。
「いや、ほんとうは、こっちが危ないのじゃ」
鴨ノ内記はウットリとつぶやいた。
「何にしてもこりゃ伯父御《おじご》には申せぬこと。あの奈々姫さまは、たいていの男をめちゃくちゃにしておしまいになるわい。……」
四
三日のちの夜子の刻、鴨ノ内記と牛塔牛助はふたたび城の奥庭に立っていた。約束しておいた通り、奈々姫もそこへ現われた。
「では、岩坂孫十郎どののところへ参りましょうず。……一刻ばかりで用は相済みましょう」
と、内記はいった。
「この間申しましたる通り、御下知の趣き相果たしまするために、何とぞ姫君をそこへおつれ申しあげたく……ただし、そこへの往来中、姫君にしばし天風に乗っていただかなくては相なりませぬ」
「天風に乗る?」
「眠っていただくのでござりまする。それは筑摩忍法の秘事を護るため。……すべて、われらをお信じ下さりましょう」
「そう。……では、おまえたちのしたいようにして」
おぼろ月の下に平然と立つ奈々姫に、かえって二人の忍者の方がためらったように見えた。しかし、それも一瞬である。その両側に鴨ノ内記と牛塔牛助が立ち、両人やや身をかがめて、何やらささやくように紅貝みたいな奈々姫の耳に口を近づけた。
「どうするの?」
あどけなく首をかしげようとしたとたん、奈々姫は一方の耳から他方の耳へ一陣の風が吹き過ぎるのをおぼえ、同時にその眼はギヤマンのようにまばたきしなくなり、顔は人形みたいに無表情になっている。彼らは――内記が「阿《あ》」と息を吹きつけ、反対側で牛助が「|※[#「口+云」、unicode544d]《うん》」と風を吸引しただけであった。
両側からそのからだを支えて、しかしその溶けるような肌《はだ》触りに、鴨ノ内記と牛塔牛助は麻痺《まひ》したような感じになっている。
「これからどうするか、われわれに何をきこうともなされぬ」
ややあって、内記は感にたえたようにうめいた。
「われらをお信じなされたからでござりまする」
牛助がうめく。内記は肩をゆすって苦笑した。
「いや、姫君は、筑摩の忍びの者など人間のうちに勘定に入れておいでなさらぬのだ。眼中にないものに、危険などおぼえるわけがない。――」
が、すぐにきっとして、
「では、ゆくぞ。――」
両側から奈々姫をぶら下げた二人の忍者は、そのまま一羽の大|蝙蝠《こうもり》のように見えた。それは事実、なみの高さの塀《へい》など蝙蝠みたいに飛んで、しかも跫音《あしおと》もたてず、たとえ数メートル離れたところに立っている者があっても、おぼろ月にけぶって、ものの影とも見えなかったであろう。
堀、門、石垣を風のように吹き通って、数十分のうちに彼らは三の丸の一画にある国家老岩坂伴左衛門の屋敷のうちにあった。いや、その息子の岩坂孫十郎の枕頭《ちんとう》に立っていた。
孫十郎は雷《らい》のごとき鼾声《かんせい》をあげて眠っていた。伴左衛門自慢の息子で、顔は鬼瓦《おにがわら》に似ているが、肉体は力士のようだ。力は三十人力とかいっているが、先日も姫君の前で、馬を両足でしめつけたまま大木の枝に手をかけて馬ごめにぶら下がったり、鉄砲の筒口に指をつっこんで鉄砲自体を水平に持ちあげて見せたりしたところを見ると、その呼号も偽《いつわ》りとは思われない。
これが奈々姫さまに執心《しゆうしん》した。ライバルは主家一門の戸田兵部だから本来なら遠慮して然《しか》るべきところなのだが、どうしてどうして一歩も譲らず、それどころかなりゆき次第ではそのために決闘さえ辞さない覚悟までもらしていたのは、恋着《れんちやく》ぶりもさることながら、本人の人を人くさしとも思わない自信からであった。
さて、その岩坂孫十郎が眠っている。――いや、眼をあけたまま、鼾《いびき》をかいているのだ。彼はその前に、寝ている両耳から二人の忍者の息の風を脳髄に通された。そのとたんに眼をひらき、枕頭に立っている三人を見たのだが、全身が棒みたいに動かず、声も出ないのだ。
立っているのは、なんと奈々姫さまであった。その両側に二つの黒衣の影が寄り添った。と見るまに、スルスルとその衣服を剥《は》いでゆく。――
たちまちそこに雪白の裸形《らぎよう》が浮かびあがった。正気で見ても、それはこの世のものとは思われぬほど神韻 漂渺《ひようびよう》として、しかもこの世のものとは思われぬほどかぐわしい肉感的な裸身であった。いわんや岩坂孫十郎の見ているのが夢の中で見ているのと同じ、文字通り夢幻の眼であるにおいてをや。
実は、奈々姫も、眼を洞穴《ほらあな》みたいにあけて自分を見ている孫十郎を見ている。彼女の心に燃えているのは、嬌羞《きようしゆう》よりも、「この無礼者めが!」という怒りの炎であった。にもかかわらず、彼女もまた声も出ず、からだが動かないのだ。
そして奈々姫は、鴨ノ内記がしゃがみこみ、夜具をはねのけ、岩坂孫十郎の股間《こかん》から何やらつかみ出すのを見た。いや、それはつかみ出すまでもなく、自律的にはねあがって来た、赤黒色にふしくれ立った恐るべき筋肉の棒であった。そして彼女は、内記がそれをつかんで、いとも無造作に、何とも名状しがたい音をたてて、ぐきりと二つにへし折るのを見た。――
……まさに一刻もたたないうちに、妖しの人間|蝙蝠《こうもり》は、城内のもとの庭に立っていた。
そして奈々姫の両耳から、こんどは牛塔牛助が息を吹きこみ、鴨ノ内記がこれを吸引し、その刹那《せつな》に姫は覚醒《かくせい》した。
「……どうしたの?」
と、彼女はふしぎそうにまわりを見回した。奈々姫にしてみれば、たったいま「どうするの?」ときいてから、一瞬頭がふらっとしたような気がしただけである。
「御安心下さりましょう」
と、鴨ノ内記がニンマリとして答えた。
「もはや岩坂孫十郎どの、姫君さまの花婿になりたいなど、二度と申されぬでござりましょう」
岩坂孫十郎の方は明け方になって醒《さ》めた。「阿《あ》|※[#「口+云」、unicode544d]《うん》の夢遊」は捨てておいても、時間をかけ、かつ不快の感を以てすればひとりでに醒《さ》める。まるで悪酔いから醒《さ》めたときのようなドンヨリとした不愉快な感覚にひたされていたのもしばし、たちまち股間にただならぬ痛覚の脈搏《みやくはく》をおぼえて彼ははね起きようとし、そしてこの力士みたいな男が、「うひゃあ!」と怪絶叫を発していた。
このときは彼のへし折られたものは軟体化していたから、へし折られたということも本人にはわからない。昨夜の記憶は全然無であったからである。
――さて、それから数日のうちに、松本城をめぐって不穏な噂《うわさ》が流れ飛んだ。国家老の岩坂孫十郎が戸田兵部どのにふくむところあり、兵部どのが松本にあるうちにこれを襲うことを計画しているというのだ。
たんなる噂ではなかったかも知れない。岩坂孫十郎は一夜にしておのれの花婿たるべき機能が永遠に損壊されていることを発見して、何が何だかわからないなりに、この怪異の元凶は戸田兵部にありと猜疑《さいぎ》したのかも知れず、またそれが当っているかどうかはべつとして、ともかくこうなったら当面のライバルを無事にしてはおかぬと狂憤して、その身もだえが外部に伝わったのであろう。
――なに、孫十郎めが?
戸田兵部の方は色めいた。
彼の方とて、岩坂孫十郎の男根へし折れ事件など知る道理がない。それは知らないが、しかし孫十郎方が自分を襲うときいては充分思い当るところがあった。相手が相手であり、かつ孫十郎の奈々姫への執着は、自分の執着に照らしてもいやというほどわかるだけに、
――やはり、きゃつも、ともに天をいただかざる運命にあることを承知しておるか。やる気ならば、それはこちらの望むところじゃ!
と、兵部はうめき出し、所領の小県《ちいさがた》からつれて来た数十人の家来に厳戒を命じた。
その家来はことごとくなみなみならぬ剣士たちであった。彼らはたたかわざるに、もう血ぶるいした。
――きゃつ、いかに国家老の倅《せがれ》とはいえ、戸田の家臣の分際で、主筋に刃向うか?
戸田兵部は無類の剣法好きであり、かつ彼自身が当代切っての使い手と自負している人物であった。事実彼は仕官を求めて来た浪人などを試験と称して数人斬った経歴がある。戸田流という剣法は伊藤一刀斎《いとういつとうさい》のころからあり――一刀斎自身戸田一刀斎と名乗ったこともあるという――その正統の継承者だと称している。
彼が松本城に滞在すべき日程はもはや終ろうとしており、かんじんの奈々姫の心事がまだはっきりしないので、少なからず焦《じ》れていたが、この噂に、
――姫はわしと孫十郎の間に立って困惑しておられるか。よし、ならばこの際、きゃつを返り討ちにして、それで結着をつける。
と決心し、むしろそれが奈々姫をおのれのものに出来る天機のように待ち受けた。
「――や、これは一息つき過ぎた」
と、鴨ノ内記は舌打ちした。
いっそ一気に孫十郎につづいて兵部の方も処理すればよかったのだが、さすが相手を主家一門の人と見てためらったのと、牛助が二度とあんな風に奈々姫さまを使うことに難色を示したために一息おいたので、少々面倒なことになったと悔いたのだ。
岩坂孫十郎の事件後十日目であった。松本城の天守閣の勾欄《こうらん》に一個の銭様《ぜによう》のものが糸で吊り下げられた。
下界から常人の眼にはほとんど気づかれないが、内記と牛助にはわかる。それは内記が奈々姫に手渡した『筑摩六道銭』というもので、それが吊り下げられれば、その夜の子《ね》の刻、姫のもとへ必ず参上するとかねて約束した合図のしるしであった。
六道銭とは、死者を葬むるとき三途《さんず》の川の渡銭として棺に入れる六文の銭のことだが、筑摩の六道銭は、これを以《もつ》て生きながら地獄を往来出来るという。――
五
「お呼びの御用はいわずとも知れたこと……。ただし、こんどは姫君をおつれ申すわけにはゆくまいな」
と、鴨ノ内記は腕ぐみして、それからうなずいてつぶやいた。
「姫の代りに、姫のおん精を頂戴して参ることにしよう。……風媒夢精の法」
「あいや、そ、それはなりませぬ」
と、牛助は絞《し》め殺されるようなうなり声を発した。
「あの姫君に! それはなりませぬ。この前、姫をおん裸になし参らせることさえ、拙者《せつしや》はいかがかと存じておりました。ましてや……内記さま、それだけはなりませぬ!」
「ほかに法があるか? 相手は日夜相当の使い手に見張らせておるのだぞ」
「そ、それにしても、それだけはお許しを。――」
「うぬが止めるものじゃから、かえってかくのごとく面倒なことになったのではないか」
内記はじろっと牛助を見た。
「いま、お許しを――とか、妙なことをぬかしおったな。うぬは、姫さまに惚《ほ》れておるのか?」
「あ、いや。……」
「人間なみの気を起すでないぞ」
口の悪いのは今更のことではないが、幼童時代からの主従でついぞ陰湿《いんしつ》なものを残さなかったのが、ここのところ内記の舌には本人も意識しない毒がある。が、痛烈に牛助を笑殺したあと、彼はおのれに対しても苦笑した。
「姫君から見れば、われら一党がすでに人中のものではない」
――その夜子の刻、彼らはまたも城内|乗鞍《のりくら》の庭に現われた。姫は待っていた。
「兵部どのが、いよいよわたしをお嫁にくれと強《こわ》談判なさったのですって。――何なら、いっしょに小県《ちいさがた》につれてゆくとまでおっしゃっているそうよ」
彼女は両腕をねじり合わせていった。
「はやく、何とかしておくれ」
「では」
両人はまた姫君のふたつの耳に口を寄せた。――例の「阿《あ》|※[#「口+云」、unicode544d]《うん》の夢遊」に飛翔《ひしよう》させるためである。
しかし、その夜、鴨ノ内記は奈々姫をよそへ――城内の一画に客として滞在している戸田兵部のところへつれてゆかなかった。彼は、眼をひらき息づいてはいるものの、ものもいわず動けぬ姫をそこに横たえて、そのもすそをかきひらいたのである。
「……う!」
牛助はうめいた。
「しいっ」
内記はふりむいて叱咤《しつた》した。
牛助を封じておいて、それから彼は何をしたか。――あろうことか彼は、まだ処女に相違ない奈々姫を指を以てあしらいたてまつり、そこに溢《あふ》れる花の露を採取しはじめたのだ。――この操作はむろん内記にとってはじめてのことではなく、その指は花の蕋《しべ》に戯れる蝶《ちよう》のように軽やかに動くのだが、それがこの夜無惨なばかり不器用におののいているのを牛助が見たのははじめてであった。
牛助の方は、おののくどころではない。全身の骨までが鳴っている。その音をききつけたように内記はまたふり返った。厳粛な――といいたいが、見せるべからざるものをやむなく見せた人間の憎悪に青びかる瞳《ひとみ》であった。
「牛助」
「――へ」
「うぬは――」
と、地を這《は》うような凄絶な声で、
「男根を出せ」
「へ?」
「われらのわざ、邪念あっては冥罰《みようばつ》を受けるという掟《おきて》は知っておろうが。見せろ」
牛塔牛助は牛の死面《デスマスク》みたいな顔になって、まるであやつり人形みたいな手つきで、命じられた通りにした。それは先日見た岩坂孫十郎の一倍半はあろうと思われる巨大なものであった。
「案の定じゃ。うぬは邪念を以てこのわざに参じておるな」
それをひっつかんで、鴨ノ内記はいった。
「おれが冥罰を与えてくれる」
凄惨なひびきとともに、内記はそれをぐいとへし折ってしまった。――苦鳴とともに仁王立ちになっている牛塔牛助をもはやふり返りもせず、鴨ノ内記はまた作業にとりかかる。――やがて彼は、採取したものを、ふところからとり出した蛤《はまぐり》の内になすりつけ、二枚の貝をとじてふたをすると、ふところに戻した。
「何を呆《ほう》けたような顔をしておるか」
まるで、いまその男の男根をへし折ったことなど念頭にないかのように厳かにあごをしゃくった。
「身づくろいして、おん魂を呼び戻せ」
数十秒ののち、奈々姫は「阿※[#「口+云」、unicode544d]の夢遊」から醒《さ》めた。
覚醒《かくせい》したのちは、夢遊の状態にあったときに感覚したことはすべて忘却しているのがこの術である。しかるに――いま、彼女は、そこに茫乎《ぼうこ》として立ってはいるものの、何やら異様な感覚の残り火にあぶられているように、あきらかに無意識ながらかすかに腰をうねらせていた。
「わたしは……どうしたのかしら?」
彼女はこれまた呆《ほう》けたようにつぶやいた。
「では」
さすがにその面《おもて》を見るに忍びないように、鴨ノ内記はうつむいて、小さな声でいった。
「戸田兵部さまのおんこと、御憂慮の根を断《た》って参りまする」
……半刻もたたないうちに、内記と牛助は城内の別の一画に立っていた。――戸田兵部の逗留《とうりゆう》する辰見櫓《たつみやぐら》に近い書院の庭である。
彼らは鍵《かぎ》も錠《じよう》も閂《かんぬき》も、ものともしない。信じられない眺《なが》めだが、その門なり戸なりの前に立って何やら手を動かすと、その内側の鍵なり錠なり閂なりがそれにつれて音もなく動き出すのだ。しかし、今夜はそれだけではすまなかった。相手は、門や戸や壁のみならず、人によっても護られているはずであった。
その通り、戸田兵部の寝所は、数人の剣士によって見張られていた。例の風説にそなえて、万一のことをおもんぱかっての寝ずの番である。内記と牛助はそれが七人もいることを見とどけた。
これを斃《たお》すことの可能不可能はべつとして、そもそもこの二人は、今夜襲う者が何者であるかを気どられてはならなかった。それを知られることなく、いかにして兵部のもとに達し、これを阿※[#「口+云」、unicode544d]の夢遊にみちびくか。――
「――はてな?」
剣士の一人が、つと立って雨戸をあけにいった。
「どうした?」
「何か、物音が聞こえたようじゃが。――」
と、晩春の闇をすかしたが、やがて一刀ひっつかんだまま、庭へ下り立った。その動作にあとのめんめんも、開いた雨戸に顔を集める。――闇の庭に何も見えるものはない。ただ樹立ちのそよぎと若葉の匂いがたちこめているばかりだ。にもかかわらず、たしかに彼らを「さては?」とぜんぶ庭に吸い寄せる何かの気配があった。
そして、何者か――あきらかに生きているものが彼方《かなた》に走る跫音《あしおと》がした。
「曲者だ!」
七人は抜刀して、その方へ殺到した。ゆくてには辰見櫓へ入ってゆく門の扉《とびら》があった。その鉄鋲《てつびよう》打った黒ずんだ門の扉の前まで逃げた曲者を、半円形に彼らは包囲した。
最初の一声のほかに剣士たちがほかの仲間を呼ばなかったのは、はじめは曲者の正体が人か獣か不明なほどえたいが知れなかったためであり、また彼らに自信があったためであり、最後には、もはや完全に追いつめられたものと見込んだためであった。
「岩坂のものか。……名乗れ」
相手は答えない。黒い門の前に立っている黒い影だから、その外形もさだかではないが、しかし闇といっても空の下のことだから、その巨大な――充分疑惑の人物を推定させる影が、扉に背をつけていることくらいはわかる。
「名乗らねば、斬るぞ」
噂にきいていた剛力者の沈黙に、ふいに恐怖して一人が斬りかかった。
重い鋼《はがね》の音がして、それははね返された。七人の剣士は猛然として乱刃を集めた。曲者はふせぐ。しかし、どうしたのか決してこちらに逆襲しようとはしない。たしか、あちこちに手応えがあったはずなのだが、曲者は緩慢《かんまん》な防禦《ぼうぎよ》を示すのみで、牛のように黙っている。――
最初の「曲者だ!」という一声に、眠っていた戸田兵部はむろんがばとはね起きて、一刀ひっさげて縁側まで出て、庭をすかしていた。――たちまち闇の彼方に刃の打ち合うひびきをきいて、彼もまた殺気の化身と変じて庭へ飛び下りた。
――そやつ、おれに委《まか》せろ!
と、さけぼうとしたのである。そのとたん、縁の下にひそんでいた何者かが、うしろから鎖みたいに抱きついて、兵部の左耳に「阿《あ》」とさけんだ。同時に右耳をひっつかまれ首が逆にねじまわされると、「|※[#「口+云」、unicode544d]《うん》」とその耳もとで声がした。
事の次第では、阿※[#「口+云」、unicode544d]の夢遊は一人の術者でも可能なのである。ただそのためにはかくのごとく頸椎《けいつい》も折れんばかりに手荒に首を回転させなければならないが。
さしもの「大剣客」戸田兵部も、何らなすところなく棒のように大地に横たえられた。曲者は――鴨ノ内記は、兵部の股間をあらわにすると、ふところから一個の貝をとり出し、その中のものを兵部の男根の頭にぬりつけた。忍法風媒夢精。――
たちまち怒脹《どちよう》したそれを、内記は無造作にへし折った。実に三本目のさばおりである。
扉の前の曲者――牛塔牛助が黙々と防禦《ぼうぎよ》一方に回っていたのは、内記がこの作業を完了するまで剣士たちを、他に助けを求めずひき寄せておくためであった。
内記が作業を完了して、魔鳥《まちよう》のように駈け去ったのと時を同じゅうして、七人の剣士は自分たちの刃が門の扉へ斬り込んでいることを知って、あっとさけんだ。半円の剣陣は崩さなかったのに、曲者の影は忽然《こつぜん》と消えていた。
――まるで鉄鋲打った扉に吸い込まれたように。
六
「れろ……れろれろ……れろ」
と、筑摩縄斎がいう。
日がな一日、鴨ノ内記と牛塔牛助にしゃべりつづける。おまえたちは何をして来たのか、おまえたちの身の上に何が起ったのか、と、まるで二人の腕白坊主に、頭の呆《ぼ》けた老婆がクドクドとその行状をきくように。
当然である。牛助はよく歩いて筑摩郷に帰って来たと思われるほど頭や肩や腕などに無数の傷を受けて来て、さすがにそれ以後|臥《ふ》せっているし、それについて鴨ノ内記は何も説明しようとしない。牛助も何もいわない。
縄斎はむろん事のいきさつを知らなかった。ただ老人は、こんな事件が起る前から、筑摩組秘蔵のこの二人の若者に何やら異変が起ったのを感得《かんとく》している。二人とも放心状態で、縄斎とは別世界のことを思いつめているようなこと、それがどうやら同じ問題についてのことのように思われるのだが、それにもかかわらず両人が背を向け合っているような感じがあること――特にそれは内記の方に甚《はなは》だしく、口では乱暴な毒舌を吐くが、しんは毒気を持たない彼が、牛助に対して妙に残酷な眼をむけていること――すべて、これまで二人の間に絶対になかったことだ。一見暴君と忠実な下僕のようだが、その実はむしろ兄弟、しかも牛助の方が兄で、内記の方がだだッ子の弟のような二人であったのに。
文字通り血によって結ばれた筑摩一族の中でも、その術の奥義《おうぎ》を極めた同志として、特別の一体とも見えた両人が、何やら仲間から浮きあがり、かつ二人がまたべつべつに分離したかのように思われる。――
縄斎は朦朧《もうろう》たる脳髄に、自分の知らない魔風《まふう》が二人を襲っていることを感じた。また漠《ばく》とながら、遠からず致命的な破局が筑摩組を訪れてくることを予感した。――それを知りつつ、しかし彼はどうすることも出来なかった。老耄《ろうもう》のためのみならず、この秘蔵の愛弟子《まなでし》二人が自分からさえも離れてしまったという意識のために。
――さて、その縄斎のいないとき、いないところで、
「江戸から、三番目の花婿どのが参られたわ」
と、鴨ノ内記がいった。
牛塔牛助の枕頭においてである。あれから半月以上になるのに、牛助はまだ横たわっていた。
「駕籠《かご》で城にゆかれるのを見たが、これがとんだ色男じゃ。美男にはちがいないが――まるで元禄《げんろく》のころ西鶴《さいかく》などが書いた色男じゃな。のっぺりして、へなへなして、とろんとして。――あれでも真田家の血をひくおひとかな?」
いつか奈々姫がいっていた松代《まつしろ》真田の三男坊で、江戸で女と借金に追っかけまわされているという真田江之介という人にちがいない。――
「あれなら、岩坂孫十郎どのや兵部どのの方が、まだ奈々姫さまのおつれ合いとしてふさわしい。――」
牛助に相談している語調ではない。ひとりごとにちかいつぶやきだ。
「そのうち、お呼びがかかるじゃろう」
それ以前からのことだが、内記は毎日松本城下に出かけては、戻って来た。何をしにゆくか、いや何を見にゆくか、牛助だけは承知している。そして、日ごとに内記の顔には焦燥《しようそう》と落胆の色が濃くなっていった。
「まだ御天守に六道銭はかかりませぬか?」
と、牛助はきいた。
「おかしいな。まだかからぬ。――」
と、内記はくびをふった。これまた返答ではない。彼自身、いぶかしみにたえぬうめき声であった。
「……まだでござるか?」
「まだじゃ」
いくどこの問いと答えが繰返されたろう。
「まだ?」
「まだ」
そして、さらに半月。――松本をめぐる山岳にあきらかに夏のものと知れる雲がむらがり立つころ、ある一夜からふっと鴨ノ内記の姿が見えなくなってしまった。その日、松本城下にいったきり、彼は帰って来なくなったのである。
――鴨ノ内記は罠《わな》に落ちていた。
それより三日前、内記は城の天守閣の勾欄《こうらん》に六道銭が吊り下げられているのを見出したのだ。――夜、子《ね》の刻、彼は城内乗鞍の庭に現われた。
「お召しによって参上。――御用の趣き心得てござりまする」
「呼んだ用を知っているの?」
奈々姫がそう呼びかけたほど、内記の声は躍々としていた。
「真田江之介さまの一件でござりましょうが」
「……そう、おまえ、あのひとを見たのですか」
「は、このお城に参られましたときから」
このとき、奈々姫は、はじめて気がついたようだ。
「おや、おまえ、一人なの?」
「牛助めは、この前――戸田兵部さま一件のとき少々|怪我《けが》をして臥せっておりますが、御用は拙者一人で大丈夫でござりまする」
「兵部どの――孫十郎も、いかにもあれっきり黙ってしまったけれど、いったいおまえ、何をしたの?」
「ふふ」
と、内記はふくみ笑いをしたが、じっと自分に注がれている好奇にみちたつぶらな眼を見ると、急にまた生来のいたずらッ気《け》が出た。
「なに、あの衆の――交合の道具をさばおりにしたのでござりまするよ」
奈々姫は、わかったのかわからないのか、それもわからない、あいまいな顔をしていたが、
「おまえ……わたしにも何かしやしなかったでしょうね?」
と、いった。
今夜ここへ来たときから、内記は気づいている。奈々姫さまが以前に倍して美しく肉感的になって、なにやらゆらめく炎にあぶられているような印象を具えて来たことを。
彼の脳裡《のうり》を、いつぞやの姫の裸形《らぎよう》と、また「風媒夢精」の術を施したときの光景が掠《かす》め過ぎた。それはあれ以来、不断に彼の脳髄に生《なま》なましく明滅しつづけている。――
しかし、内記はきっぱりといった。
「いえ、何しに以《もつ》て姫君を!」
辱《はずか》しめ、涜《けが》すような行為をするであろうかという語気であった。そしてそれは或《あ》る意味では真実であった。
「――で、江之介どのをどう思う?」
と、奈々姫はまた話を戻した。
「あれはだめでござる」
内記は一笑した。むしろ、笑殺といっていい。――
「このたびの花婿さまがたのこと、もとよりわれら言葉をさしはさむべき分際ならず、ただ姫君のお心に従ったまででござりまするが、真田江之介さまに限ってあえて一言お許し下さりまするならば、いかなることがあってもあのお方ばかりは、姫さまのお花婿として拙者異を申し立てとうござりまする。そもそもあのお方、わが忍者の心眼を以て見通しても、さばおりに出来るほどの筋肉があろうとも存ぜられず。――」
「では」
と、奈々姫さまはうなずいた。
「三日後、子《ね》の刻、来ておくれ。――」
――で、その三日後の夜の子の刻、鴨ノ内記はまたそこへ現われたのである。彼はあれほど六道銭の出現の如何を案じていた牛塔牛助に、なぜかこのことを告げなかったが、つまり彼が帰って来なくなったのはその夜からのことであった。
その夜、乗鞍の庭にやって来た鴨ノ内記に姫はいった。
「内記、今夜はわたしを天風とやらに乗せないで」
「――は?」
「眠らないで、いちどおまえのやることを、この眼で見ていたいの」
さすがに内記はぎょっとしたように奈々姫を見ていたが、姫のいたずらッぽい眼に、むらむらと例の悪童的ないたずらの衝動を誘発された。よし、ではあの江戸から来た色男どのの――彼が看破したことに百に一つもまちがいはない――哀れなしろものを姫の御見《ぎよけん》にお入れ申そうか。
「さ、左様な仰せならば、よろしゅうござる」
「それなら、何もおまえにつれていってもらわなくてもいいわ。わたしが江之介どののところへ案内してあげる」
「では――お願い申す。――」
しばらくののち、鴨ノ内記は奈々姫にみちびかれて、長い廊下を幾つか回っていった。すでに姫はそのつもりで、事前に命じてあったのであろうか、道中には人影はおろか猫一匹も見当らない。
――ここよ。
眼でいって、奈々姫は立ちどまり、縁に沿う一室の障子をそうっとあけた。
淡いひかりに、向うに寝ている男の姿が見えた。顔をこちらにむけているが、むろん眼はさまさず、記憶のあるのっぺりした顔はいよいよだらしなく長い。
うなずいて、一歩入りかけて、鴨ノ内記はふと立ちどまった。彼の手は、いつのまにか姫に握られていた。緊張のためか、その手がしっとりと粘《ねば》りつくようだ。一瞬、内記の頭を掠めた異様な感じは溶けて消えた。彼は一歩踏み込んだ。とたん。――
「…………!」
ものもいわず、いま彼の手を握っていた姫の白い手がその背を突いていた。
さすがの内記も、三、四尺、部屋の内側へのめっていった。その足もとがふいに消失して、どうと彼は床《ゆか》の下へ沈みこんでいた。土けぶりすらあがった。
その土けぶりの中に、頭上から、がっぱと蓋《ふた》がかぶせられた。太い木で組んだ格子であった。その木格子を通し、床の四方から長い槍《やり》がいっせいにさしこまれた。
畳と見えたのは、その部分だけ同じ外見に張られた茣蓙《ござ》であったのだ。その下は畳一畳分、深さ五、六尺の穴ぐらになっていた。床下にその大きさの穴を掘り、周囲に土を床に接するまで盛りあげて厚くかため、完全な土の龕《がん》となった中へ、みごとに内記は落とし込まれたのだ。
その直前、ふと一歩立ちどまったのは、さすがに四周の殺気に背を撫《な》でられたからだが――遅かった! 床上《ゆかうえ》四方から斜めにさしこまれた槍は縁《ふち》に千段巻が消えるところで止《と》まったが、穂先は内記の左右腹背を包んでいた。
「こやつか――筑摩組の痴《し》れ者は!」
「われらをあのような目に合わせおった外道《げどう》めが!」
槍手のうしろからのぞいたのは、驚くべし、戸田兵部と岩坂孫十郎であった。してみると、槍手はもとより、いま格子をかぶせた面々は、兵部配下の剣士連であろうか。
それにしても、敵は彼らだけであるか。――先刻、自分をつき飛ばしたのはだれだ?
鴨ノ内記は、おのれがまったく思いがけない人の手によってこの罠《わな》に落とされたことを知った。
七
「――なぜ刺さぬえ?」
立つことも出来ぬ穴の底から、格子越しにのぞいた頭上の無数の顔の中でこうさけんだ顔ほど恐ろしいものを、まだ内記は見たことはなかったろう。
「この下賤《げせん》の男が、あろうことか、わたしによこしまな心を起して、わたしの夫になるかも知れぬ人々を傷つけて回った。――この男はわたしのところへ来てそういい、もしわたしがいうことをきかなければ三人目の江之介どのも同様の目に合わせると脅迫した。――わたしがことわった結果が、今夜の始末じゃ。――そうわたしがいったことが信じられぬかえ?」
言葉は以前の荘重な姫言葉に戻っているが、声はしゃがれている。彼女は地団駄踏んでいるようであった。
「その通り、この男はここへ来た。そして、わたしがみなに教えてやったおかげでこの通りつかまえた。さあ、兵部どの、孫十郎、仕返しをしやい! 手間をかけてとかくの噂がひろがれば、戸田家の恥、またそなたらの恥となる。いま、一息に成敗しやい!」
いかにしてこのような事態が起ったかは、すでに明らかであった。
しかし、配下に槍を突き込ませたまま制止したかたちで、戸田兵部と岩坂孫十郎は、奈々姫と、それと並んで立っている真田江之介を眺《なが》めている。その眼には無限の怨《うら》みがあった。
「わたしたちを睨《にら》んで何とするえ? 何を考えているのじゃ?」
と、姫は身もだえした。
「どう殺してやるか、考えておるのでござる」
「ひと思いに殺しては、飽き足りぬゆえ。――」
と、兵部と孫十郎は陰々といった。
奈々姫の言葉をどこまで信じようと、信じまいと、この二人が花婿の「失格者」となったことは、もはや動かせぬ事実であった。また、彼らに男性を失格させた直接の下手人がこの忍者であることも、いまや疑えない事実であった。
二人は向き直り、格子から穴をのぞきこんだ。
「これ、うぬの男根を出せ」
「それをこちらに向けろ」
「まず槍の先で串刺《くしざ》しにしてやろう」
「それとも、自分で折れるようにして、自分でへし折るか」
二人は突如狂獣のような咆哮《ほうこう》を発した。
「うぬがいかに抵抗しようと、まずそれだけのことはやらせるぞ。やらせずには置かぬぞ!」
この戦慄《せんりつ》すべき宣告をききつつ、鴨ノ内記は穴の底にどっかと坐《すわ》り、さすがに蒼白《そうはく》になった顔にうすら笑いを浮かべて、寂然《じやくねん》と黙っているだけであった。
それから、夜を徹して、この部屋に眠る者はなかった。――最初、ただキョトンとして立っていた真田江之介がだんだん蒼《あお》くなり、はてはしゃがんで嘔吐《おうと》のような声をもらしはじめたので、これを介抱して途中で奈々姫が別室につれ去ったくらいである。
夜明け方、一人の侍があわただしくその部屋に駈け込んで来て報告した。
「筑摩郷におると申した牛塔牛助め、いずこにか逐電《ちくでん》して、いかに捜索《そうさく》しても見当りませぬ!」
兵部、孫十郎をあのような目に合わせた曲者のうち、もう一人は筑摩郷で臥《ふ》せっているときいて、急遽《きゆうきよ》別に派遣した兵部の剣士団の一隊であった。
「それとなく首領縄斎に問いただしましたが、おいぼれ、呆《ぼ》けておってとりとめもありませぬ。また、ほかのやつらも、事実、内記のことすら知らぬようなので。――」
本心をいえば筑摩組すべて鏖殺《おうさつ》したいくらいなのだが、何しろ御神君の御印可状を伝えているという特別の一族であり、かつは事を荒立ててはまさに奈々姫のいうごとく自分たちの恥を天下にさらすことになるので、いまのところはとりあえず、その牛塔牛助だけを捕えて来るように、と命じたのだ。
「では、そやつ、内記めがここへ来たことは知っておるのじゃな」
「こやつ、牛助めは知らぬと、それだけはぬかしおったが。――」
「そんなことがあてになるものか」
「では、その男、もうそこらまでのぞきに来ておるかも知れぬぞ」
「いや、知っておれば、逃げ去って近づくまい。――」
あわただしく兵部と孫十郎が問答を交わしているのを奈々姫がききつけて、やって来て、しばらく思案していたが、ふと、
「これを天守の勾欄《こうらん》に下げて見や」
と、糸に吊るした銭をとり出した。
「これは、何でござりまする?」
「その男を呼ぶまじないのしるしじゃ」
語るに落ちたその言葉を一種の告白と兵部たちが悟ったか、どうか、とにかく、その通りにした。一方で、なお外にあっては牛塔牛助の捜索を命じ、内にあってはもし牛助の影でも城内に現われれば、ただちに捕えることを剣士団に下知した。
しかし、翌一日、ついに牛塔牛助は彼らの手中に落ちなかった。そしてまた日が暮れ、夜がふけた。――
あとになって思えば、子《ね》の刻である。
戸田兵部と岩坂孫十郎は、ついに限界に達した。狂憤に燃えたぎって、いま自分たちの手中にある捕虜を責めさいなんで来たが、それにも疲れ、そもそも昨夜から一睡もしていないので、そのためにもはや悪酔いしたような状態になっている。
「えい、ともあれ、こやつ片づけよう」
「したが、例のことまだやってはおらぬぞ。――」
「では、両手両足、槍で縫いとめて、動けぬようにしてから、まずへし折ってやろう」
と、凄惨な眼の一閃《いつせん》を見交わした。
すでに穴の中の鴨ノ内記は、灯影もろくにとどかぬ暗がりで、ひるま見た蘇芳《すおう》を浴びたような血はもういちめんに黒ずんでいるが、それだけに何やら海藻《かいそう》をかぶった海底の怪奇な生物のように見える。
「えい、突け!」
と、絶叫したとき、
「おれはここにおるぞ」
と、いう声が、部屋の壁の方で聞えた。壁の前に、だれやら立っていた。
「……あっ」
ふりかえって、それを見て、彼らは文字通り幽鬼を見たように眼をむき出した。壁の前に立っているのは、まさに血の海藻をかぶったような凄《すさま》じい姿ながら、まごうかたなき鴨ノ内記であった。
彼は走り寄って来て、戸田兵部と岩坂孫十郎を斬った。戸田流も三十人力もあらばこそであった。二人がまるで丸太ン棒みたいに斬られたのは、むろん相手をこの世のものではないと見て呪縛《じゆばく》状態であったからである。
ついで内記は、四人の槍手を斬って回った。
これまた同じ状態にあった。そもそも彼らの槍の穂先は格子越しに穴へ入れたままであったから、防禦の法もなかった。せめて内部のものを突きとめればよかったのだろうが、それすらも忘れて、腕も頭も麻痺《まひ》していた。
――では、穴の中にいるのはだれだ?
死にゆく彼らの脳髄から最後まで消えなかったのは、ただこの疑問であったろう。――穴の底には、たしかに何者かがうずくまりつづけていたからである。
さすがに鴨ノ内記は、格子の上にどうと片ひざついてあえいでいた。六人斬ったためではない。全身|膾《なます》のように切り刻まれた深傷《ふかで》のためだ。
その姿を見つつ――むろん、部屋にはほかの剣士たちもいたのだが、これはまた悪夢の世界にいるように、声もたてずにみな立ちすくんでいた。
やおら、刀を杖《つえ》に、鴨ノ内記は立ちあがろうとした。
「内記さま。……」
穴の中で、声がした。
「どこへ?」
「な……奈々姫さまのところへ」
内記はうわごとのようにいった。穴の底は一瞬しんと黙りこんで、じいっと上をふり仰いでいる気配であったが、急にしぼり出すような恐怖の声をあげた。
「ゆかれてはなりませぬ、内記さま。――」
牛塔牛助の声であった。
八
いったい、いつ牛助は鴨ノ内記に入れ代ったのか。――
例の天風往来の忍法をつかったに相違ないが、げんに内記は絶えず槍を擬《ぎ》せられていたというのに、まさに驚倒すべき神怪のわざではある。事実、内記もいま見るような姿になるまでむなしく大|拷問《ごうもん》を受けていたのだから、とうてい内記一人ではなし得なかった行為には違いない。
「もう、それでよろしゅうござりましょう。ただお逃げなされ。牛助はそのために参ったのでござる。――」
と、牛助は穴の底でいった。
しかし、内記は立ちあがった。
「奈々姫さまに、申しあげたいことがある。……あれは魔女じゃ」
「いけませぬ、内記さま、姫君をお恨みなされてはなりませぬ、すべておれたちの罪、おれたちの自業自得、おれたちが奈々姫さまを……虫けらが月輪を恋うように、お慕い申しあげた酬《むく》いでござる。――」
牛助は、「おれたち」といった。が、内記はいつぞやのごとくこれを嘲殺《ちようさつ》せず――むしろ沈痛な声で、
「おお、いかにも虫けらのおれは月輪の姫に惚れた。いま、はっきり惚れたという。惚れたればこそ、おれはゆかねばならんのじゃ」
といって、歩み去った。
数分ののち、彼は奈々姫と真田江之介の枕頭にあった。なんと、二人は、抱き合って眠っていた。――たとえ奈々姫さまが江之介を自分の花婿ときめたとしても、まだ祝言もあげぬ前にこのようなことが許されてよいものか。おそらく彼女たちも疲労のために倒れ込んでいるうちにそんな姿になったのか、それとも眼で見た地獄と心の地獄のために平心を失って、かかる肉の魔界に沈んでしまったのか。――
別室の惨劇も知らず、眠りこけている二人は、しかし絵のように美しかった。
内記は刀のきっさきで夜具をはねのけ、江之介のすそをかきのけた。
「かかる哀れな男を好むとは、これでも魔女か、いや女というものは。……」
大|軽蔑《けいべつ》の嘲罵《ちようば》をきいて、二人は目ざめた。
「……あっ」
見あげて、信じられないような眼を見ひらいて――たちまち奈々姫の眼は、事実を悟った恐怖に彩られた。と、見るや。――
「このひとを殺さないで!」
彼女はがばと江之介の上に身を投げかけた。
その上にのびた刀のきっさきがわななき、一瞬、静止した。――そのとき、どこかで声がした。
「なりませぬ、内記さま。――」
壁の向うからであった。
「左様なことをなされては、牛助、あなたさまにお手向いせねばなりませぬ。――」
必死の声は、いかにして穴をぬけて来たか、牛塔牛助のものにちがいない。しかも彼は壁の向うからこちらの光景が肉眼で見えるのか。――いや、それは心眼にちがいない。
「なに、うぬが、おれを。――」
うめくなり、鴨ノ内記はその刃をまっすぐに落して、絵のように美しい一体の男女を串刺しにしてしまった。
そのまま、完全に正常を失った眼を――しかも異様に沈んだ眼を壁に投げた。向き直った姿勢が、徐々に身の毛もよだつ殺気の構えに変っていった。
ゆくにいとまあらず、壁のこちら側で、牛塔牛助も刃を向けて立っている。これは殺気というより、下がり眉はいよいよ下がり、悲愁に惨と濡れた姿であった。そもそも、いつぞやの乱刃のあとはまだ消えず、まるで数十匹のみみずを這《は》わせたようにその面上《めんじよう》に残っている。
最初二人が桜ちるこの城内に現われて、あの鎧櫃《よろいびつ》入れ替りの秘術を見せたとき、数ヵ月のちに両人がこのような構図で相対そうと、だれが想像したであろうか。
また、壁を隔てての決闘の構図というものが世にあり得るであろうか。
ものごころついて以来、天命の主従として育てられて来た二人である。とくに首領が特別に目をかけて仕込んだ秘蔵弟子として、同じ道に同志のごとく信じ合い、敬し合って来た両人である。とくに牛助の内記を想うこと、弁慶が義経に対するごとく、この人のためならばいつ死んでもよいとさえ覚悟して来たのだ。それゆえに、内記のために男根をへし折られても絶対服従の魂は変らず、それゆえにまた今夜、彼を助けるために死地に入って来たのだ。――
が。
いまその両人は、完全に倶《とも》に天を戴かざる敵味方の忍者と化して。――
「――えやあ!」
音波でないべつの声を発して、たがいに馳《は》せ寄った。
何たる怪異、牛助のいた部屋に、壁から湧《わ》き出したように血しぶきあげて鴨ノ内記は倒れ込んでいる。牛助の姿はなかった。壁に何の異常もなかった。
牛塔牛助は、内記のいた部屋の方に、血刃をたかだかとかかげて立っていた。しばし、魔の銅像のようにその姿を凍りつかせていたが、やがてその刀が徐々に下がり、涙にひかる眼を足もとに落した。――抱き合って、死んでいる奈々姫さまと江之介のむくろへ。数瞬ののち、呪縛から醒めたように人々が駈けて来たとき、牛塔牛助の姿はなかった。そして――鴨ノ内記の屍骸《しがい》も。
それからの松本城をめぐる騒擾《そうじよう》と混乱と事後の収拾策は叙する余白がない。
ただ、松本にある戸田家重代の墓地に奈々姫さまは葬られたのだが、数日後、その墓の前に起った怪事だけは書き残すに足りる。
凶変後、行方不明になっていた筑摩の忍者牛塔牛助が割腹して死んでいるのが発見され、さらに人々の眼を見張らせたのは、彼の変に曲がった男根の先に、糸で一枚の銭が結びつけられていたことであった。
なんのまじないか、もとより人々は知らなかった。いわんや、それ以外には何の異常もない墓の下――数十尺の地底の棺《かん》の中で、やはり筑摩の忍者鴨ノ内記の死骸が奈々姫さまの屍骸をしっかりと抱かせられていたのを知ろう道理がない。
忍びの下僕牛塔牛助が最後に行った「天風往来」忠節の行為がこれであった。
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摸牌《モーパイ》試合
一
ギギという魚がある。鯰《なまず》科の一種で、谷川に棲《す》み、捕《つか》まると、ギギ、とか、ギギュウ、とかいう妙な声を出して鳴く。その魚に似た顔をした結城中納言《ゆうきちゆうなごん》秀康であった。
幼時にはユーモラスにも見えたろうが、その後の逆境の風雪と、天性の悽愴ともいうべき血のせいで、いまは粛然としていると沈鬱《ちんうつ》の気があたりにみなぎり、怒るといっそう恐ろしい。とうてい、一目見て笑える顔ではない。
それが、思いつめた風で、父の家康にこう願った。
「私に駿河《するが》を下されますまいか」
家康は、じろと見返していった。
「駿河には、わしがゆこうと思うておる」
黒ずんだ、厚い皮膚をしているのでよくわからないが、しかしたしかに秀康の顔色が変ったようであった。彼はじっと大きな眼で父の顔を凝視《ぎようし》していたが、やがて沈痛なうなずきを見せて、しずかに立っていった。
――慶長《けいちよう》十一年秋、江戸城での話である。
なぜ駿河が欲しいかという説明ぬきの願いであり、なぜじぶんが駿河にゆくかという弁解ぬきの答えであった。この父子の問答は、いつもこんなかたちをとる。
あと見送って家康は、つかない奴だ、あの倅《せがれ》は――と、さすがにちょっと不憫《ふびん》になった。
口の重いたちだから、めんめんとじぶんの要求するゆえんを説明はしなかったが、おそらく越前《えちぜん》を出てくるときから――いや、それ以前から思いつめていたものだろう。あれが駿河を欲しいという気持もわからないではない。
秀康の弟秀忠は現在将軍としてこの江戸にあり、その下の忠吉は尾張《おわり》におり、忠輝は下総《しもうさ》にあり、七歳の義直は甲斐《かい》、五歳の頼直は水戸《みと》、三歳の頼房ですら常陸《ひたち》に国をやってあるのに――つまり、弟たちはことごとく日のあたる東海道か関東に置いてあるのに、いちばん兄のあの秀康は、北国北ノ庄に離してある。弟たちとくらべ、かつ現在|空《あ》いているところは、と思い至った結果、秀康が駿河を――と持ち出したのは、彼にしてみれば、それほど不当な願いではあるまい。
そうは思うが、あれに駿河をやるわけにはゆかない、と家康は苦笑した。なぜなら、じぶんが駿河にゆこうといったのは決していやがらせではなく、まったくほんとうのことだからだ。あとをゆずった秀忠の権威を重からしめるために、じぶんは江戸から離れて隠退しよう、という方針は以前からのものであった。
その地を駿河ときめたばかりのところへ、だしぬけに駿河へ移封してくれと願い出るとは、あいつもつかない男だが――しかし、わしの拒否をどうとったろう。
家康の顔から苦笑が消えた。いまの秀康の眼に、殺気にちかいひかりがひらめいたのを思い出したのである。
その日のうちに、結城秀康が家来をひきいて、無断で江戸をひき払い、越前へ帰国の途についたということを、まもなく家康はきいた。
「服部《はつとり》半蔵を呼べ」
と、彼は命じ、幕府忍び組頭領の服部半蔵が伺候して密語し、さらに半蔵が一人の老人をつれてまた家康の前にまかり出たのはその翌日のことであった。
「甲賀《こうが》の刺青《いれずみ》銅八と申す者でござりまする」
服部半蔵は伊賀の出身だから、甲賀者は非主流にあたるが、しかし忍び組頭領の指揮下にあることはいうまでもない。
家康の或《あ》る命令に対して、半蔵がこの甲賀者をつれて来たのは、この刺青銅八なる男が、以前、結城秀康の下にあってその忍びの者として――実は、公儀からの秀康監視のための諜者《ちようじや》として――仕えていたことがあるという履歴によったのだが、いま眼前に見て、それがあまりに老いぼれているのに、家康は唖然《あぜん》とした。とにかく、顔は白髪につつまれた皺《しわ》だらけの筋肉の一塊であり、からだは折《お》れ釘《くぎ》同様の人間であった。
しかし、家康はともかくきいた。
「銅八とやら、うぬは中納言のもとに帰れるか」
皺のかたまりがうなずいたのはわかったが、返答はよくわからなかった。
「スモレーカ」
「なに?」
「帰れ申す、と答えたのでござりまする」
と、服部半蔵が註釈した。
「この老人、おのれの言葉を尻《しり》からさかしまに申す癖がござりまして、癖というより、甲賀者仲間で交す隠語が、この年になって膏肓《こうこう》に入ったらしい気配で」
銅八老人が何かまた巾着《きんちやく》みたいな口でフニャフニャといった。半蔵は翻訳した。
「もともと拙者は中納言さまが大好きでありました。お仕え申して、大ひいきに相成りました。首領に呼びもどされたから、やむなくひきあげたようなものの、できればずっと結城家に奉公しておりとうござった――と、かように申しておりまする」
家康はふいにきびしい表情になって、これよりふたたび結城家へいって秀康に不穏の心ありや否やを探《さぐ》って報告せよと命じ、あくまで徳川宗家の忍者たる本分を忘れるなと釘を刺し、さらにいった。
「もし秀康に謀叛《むほん》のうごきでもあれば、うぬの存念にてただちに刺し殺しても苦しゅうないぞや」
二
「ナンザ・ムルタン・ナア・マワレーソ」
と、銅八は皺《しわ》の中から眼をむいた。
それはまあ、なんたる無惨な。――といったとは、服部半蔵の解説をまたなければならなかったが、老人のおどろきはその表情から家康にも見てとれた。
大家康の次男に生まれながら――しかも、長子の信康はとっくのむかしこの世を去っていたから、実際上の長男の立場にありながら――秀康はまことに不運な星の下に生まれついた人物であった。
家康三十三歳のとき、浜松城で婢《はしため》お万に生ませた子だ。当時正妻|築山《つきやま》殿が在世で、この婢の妊娠を知って大いに怒り、裸にして樹立ちにしばりつけていたのを、家臣の本多作左衛門に助け出され、城外の農家で生みおとしたのだが、家康は何も知らなかった。のち本多作左衛門に抱かれて、はじめて対面したとき、家康は、
「なんじゃ、ギギに似ておるの」
と、憮然《ぶぜん》としていったばかりで、なんの喜色もなかった。で、ギギ丸、というのはいくらなんでもあんまりだから、於義丸《おぎまる》と名づけられた。
お万がたんなる排泄《はいせつ》用として用いられたのみで、あまり美人ではなかったせいにもよろうが、しかし家康だって、どこかギギ――鯰科の魚に似ていないこともない。が、このあかん坊の顔は、家康にじぶんの顔を棚《たな》にあげさせるほど怪奇なものだったのである。
後年、小牧の役後、於義丸は秀吉の養子とされた。ていのいい人質で、実は秀吉の方はそれでも遠慮して四男の忠吉を所望したのを、家康の方でわざわざ兄の於義丸の方をさし出したと伝えられる。ともあれ彼が秀康という名をもらったのはこのときからである。
が、その後秀吉は、彼を人質としている必要がなくなり、かつようやく現わしはじめた沈鬱《ちんうつ》で片意地な性格に辟易《へきえき》したきみもあるらしく、十七歳のとき、ふたたび下総の名家結城家に養子にやった。
結城秀康がどのような武将であったかというと。――
関ケ原の役に際し、このとき彼はもう家康のもとに帰っていたが、石田三成挙兵の報をきいたとき、弟の秀忠は憂色を浮かべ、忠吉はいきり立ったのに、彼ばかりはニタリと笑ったという。「この一乱のついでに面白きことありて、天下をとることもあらんかと思《おぼ》し召す体《てい》」とある。
また、曾《かつ》て自邸で角力《すもう》大会をひらいたとき、見物熱狂して奉行が制止してもとまらなかったのを、秀康がぬうと立ちあがって例の怪奇な相貌《そうぼう》でにらみまわしたら、一帯波のひくがごとく鎮《しず》まった。それを見ていた家康が、「……いや、そら恐ろしい奴だ」と舌をまいたという。
にもかかわらず、家康はじぶんの後継者として弟の秀忠をえらんだ。関ケ原の役に際しても、秀康は背後の上杉景勝を牽制させるのみにとどめ、戦後、彼が駿河を所望したにもかかわらず、わざと越前に遠ざけた。――思えば、彼の駿河執心はいまにはじまったことではない。――
いちど豊臣一族に名をつらねたもの、というハンディキャップ以前に、家康はこの子に対し、どうしても愛情が抱けないところがあったようだ。
この家康の敬遠が的中していたか、それともその敬遠に反撥《はんぱつ》したか、秀康の方も、いまだに文書の署名を「羽柴秀康」とし、さらにしばしば、豊臣恩顧の大名たちと慇懃《いんぎん》を通じているときく。――
「秀康卿、おん片意地なりければ、権現さまお心に合せられず、その上、太閤の御忌《おんいみ》に礼服、また秀頼公へお心寄せらるる趣きありければ、権現さまいよいよ御不快に思《おぼ》し召しける」(武家秘笈)
これこそ問題であった。――いま家康が、わが子に対して、子飼いの忍者すら無惨と評したほどの秘命を発したのも、たんにこのたびの秀康の挙動によるものではなく、その根源もまた深いところにあったのだ。
「徳川の存続のためにはな」
と、家康はしゃがれた声でいった。
「曾てこの半蔵の先代服部|石見《いわみ》に、嫡男信康を殺させた家康であるぞ」
服部半蔵と刺青銅八はひれ伏した。
三
三ヵ月ばかりのち、慶長十二年の冬になって、刺青銅八は越前から帰還して来た。このころ家康はもう駿府に移っていて、服部半蔵も城普請《しろぶしん》にかかわる黒鍬者《くろくわもの》指揮のため同地にあった。
越前の結城秀康の身の上に異変があったという報告は、いまのところまだない。――
「大御所さまに、じかに申しあげねばならぬことがある」
これを逆に発音した刺青銅八老は、ひさびさに任務についていたためか、出発前のヨボヨボぶりからかえって若返り、微笑しているかに見えたのに。――
さて、大御所にお目通りゆるされて、
「……これ、中納言に謀叛の企《くわだ》てなどないか?」
と、ひざにじり寄せられて、きかれ、
「ヌセマリザーゴ!」
ござりませぬ、と断乎《だんこ》として答え、なお例の逆立ちの語法で、
「たとえ以前にそのようなお心おわしたとて、向後《こうご》一切ござりませぬ。この銅八めが、謀叛気調伏、徳川鎮護の呪《まじな》いをかけましたれば。――恐れ多くも中納言さまのおん麻羅《まら》に」
と、いったとたんに銅八老はひっくり返り、仰天して服部半蔵が抱きかかえたとき、老人はみみずのかたまりをゆでたような顔色になり、瞳孔《どうこう》散大し、雷《らい》のごときいびきをかいていた。
「――卒中のようでござる」
と、半蔵はさけんだ。
「なに、何と申した?」
と、家康がいったのは、銅八の最後にしゃべった言葉のことだ。
半蔵は翻訳した。――ただし、少なからず自信がないようであった。というのは、銅八が卒倒する以前の呂律《ろれつ》がきわめてもつれていた上に、その用語がだいぶ難解で、かつえたいの知れぬものであったからだ。
自信なげに翻訳し、さてあらためて確認し、なお問い糺《ただ》すために銅八をゆさぶってみたが、老人は口をあんぐりあけて、雷のごとき鼾声《かんせい》をあげているばかりであった。
その日のうちに伊賀《いが》組の一人が越前北ノ庄へ急行した。十日おいて、彼は帰って来た。そしてまことに意外なことを報告したのである。
結城中納言秀康が猛烈な女狂いをしているというのだ。領内に美女狩りを施行し、かたっぱしから城に入れ、ふたたび出る者はないという。――
「?」
家康はくびをひねった。
秀康にしても、妻のほかに三、四人の側妾《そばめ》はある。しかしこれは大名として通常のことで、それどころか、同年輩であったころのじぶんに較べても、よほど少ない方だ。武技以外には興味がないか、それともおのれの異相に劣等感を抱いての質実か、と見ていた秀康が。――
この異変は何から起ったか。何かを企てての偽装ではないか?
「ギギの麻羅に呪《まじな》いをかけたと?」
あらためて、刺青銅八の最後の言葉がよみがえった。何のことやらわからないだけに、いっそうぶきみ千万である。
「徳川調伏の謀叛の呪いじゃと?」
こういわれると、服部半蔵も混乱して、それを訂正する自信がない。
「……よし、半蔵、ギギの麻羅を探って見よ」
と、家康は思いつめた形相でいった。
服部半蔵は手をつかえたまま思案していたが、やがて決然と顔をあげていった。
「このたびは伊賀者を使いまする。伊賀組秘蔵の三人のくノ一がござる。これを北ノ庄に入れ、べつに連絡役の伊賀者をつけ――くノ一が探索したことを、これを以ていそぎ注進いたさせる所存でござる」
四
きさらぎ――といえば、いまの三月だが、晴れた日とはいえ、まだ雪のふかい越前の国、北ノ庄から敦賀《つるが》への街道を、あえぎあえぎいそいでゆく一人の異装の女があった。
藁沓《わらぐつ》をはいてはいるが、紅梅の小袖《こそで》に赤地の羽織を着、それに刀をさしている。男とも女ともつかぬ風体《ふうてい》だが、顔はあきらかに美しい女であった。それが、百姓に逢《あ》うと、
「ややこ踊りの一座は、いつごろここを通りましたか」
と、息せききってきく。
百姓たちは、しかし数日前雪をおかして京から北ノ庄へ呼ばれた出雲の阿国《おくに》のかぶきが、きのうまたあわただしく京へひきあげていったのを見ていたので、これはそれに遅れてあとを追う踊り子の一人であろうと判断した。
この雪のはぐれ雁《がり》が、北ノ庄から十二キロの鯖江《さばえ》の宿《しゆく》で越前家の侍にとらえられた。女狩りの侍であった。
女は北ノ庄の城へ送り返されて、その夜、秀康の人身御供《ひとみごくう》にあげられた。
燭台《しよくだい》はあったが、宏壮な寝所の片隅《かたすみ》に置かれて、褥《しとね》のあたりは朦朧《もうろう》として暗かった。その褥にあぐらをかいて坐《すわ》った結城秀康は灯を背にし、遠明かりはそこにひきすえられた女の顔を照らすようになっていた。
「阿国《おくに》一座の者ならばきいたことがあるか」
と、秀康はいった。
「あのややこ踊りを、世人みな笑いそしっておったころ、まずその芸を認めたのはこの秀康であった。しばしば、京の屋敷に呼んでやった。阿国は名高うなり、去年は江戸の城にもいったときく。わしが阿国の芸を見て――天下に幾十万の女あれど、ただ一人の女と呼ぶべきはこの女じゃ。おれは男と生まれて、天下に一人の男となること叶《かな》わず、この女にさえ劣ったは無念なり――といって、あれのかけておった水晶の数珠《じゆず》の代りに珊瑚《さんご》の数珠をやった話も、たしかに阿国の誉《ほま》れとなったはず。――」
三十四歳とは思われぬ、重い、陰々たる声であった。
「それで阿国は偉《えろ》うなりすぎたか、或《ある》いはわしを買いかぶりすぎたか。このたび北ノ庄に呼んだら、雪の中をやって来たはよいが、女のなかばを秀康のおもちゃに置いてゆけと申したら、腹立てて、逃げ出しおった。あわてたはずみに、おまえがとり残されたのはきのどくじゃ」
声に笑いがまじった。
「秀康は変ったぞや。もはや天下に一人の男となることを望まぬ」
もし数ヵ月前の秀康をこの女が見ていたら、まずその容姿の激変ぶりにじぶんの眼を疑ったであろう。魁偉《かいい》とも形容すべき肉体は痩《や》せおとろえ、頬《ほお》はえぐられたようにこけ、顔色は土色であった。ただ眼だけは、そのころにまさる異様な銀色のひかりを放っていた。
「そしてまた天下の幾十万の女は、そのまま幾十万の女であることを知った」
ぬうと立って来て、
「参れや」
と、女をつかんでひきずり寄せた。
女は犯された。
颶風《ぐふう》のように荒々しく、そして長い――ほとんど半夜にわたる愛撫《あいぶ》であった。愛撫というより、凌辱《りようじよく》と形容すべきかも知れない。べつに異常な行為を加えたわけではなく、ひたすら正常、むしろ無芸ともいうべき動作であったが、ただ恐ろしく長くて強烈で、まるで杵《きね》の永久運動のようであった。それが、凌辱といった観を呈したのは、女の方がそうなってしまったからだ。
阿国かぶき独特の男踊りをするにふさわしく、美少年にも見まがう清麗な娘であったのに、杵の下の餠《もち》のごとく、しだいに柔らかくなり、とろけ、湯気のごときものをあげはじめ、はてはながれて、まわりに白いものがとびちり、粘りつくかのように見えるありさまになりはてた。
「ギギ……ギギ……ギギ……」
秀康はそんな掛声をかけていた。それが、間歇《かんけつ》的に、
「ギギュウ。……」
というようなうめきを発する。そのたびに女は絶え入った。
この奇怪なうめきの間隔はしだいに短くなり、はては女の方が同様の声をあげて絶息するようになり、ついに女はじぶんが固体ではなくて白い液体と化して、秀康にまぶれついているような昏迷《こんめい》におちいった。
……その液体が固体にもどったのは明け方のことだ。
女は乱れた褥《しとね》からぬけ出して、じいっと秀康を見下ろした。秀康は大の字になって眠っている。早春というより、冬といっていい北国の夜明け方なのに、寝所にはむっとまだ蒸気が残り、秀康はわずかに夜のものをかけているだけであった。
女は、それをそっととりのけた。が、そのあたりが模糊《もこ》として暗いのを見てとると、しずかに動いていって燭台をちかづけた。
女はのぞきこんだ。
「見たか?」
と、眼をとじたまま、秀康がいった。女は立ちすくんだ。
「棒に彫ったようなものだ。表からでは、見てもわかるまい。かつ、のびかげんによって図が変る。――刺青銅八が、わしの妄執《もうしゆう》を冷《さ》ますべく彫ってくれたものだ」
秀康は身を起した。あぐらはかいたが、股間《こかん》はさらしたままである。
「阿国一座の女ではないな。江戸の服部一座か」
半裸の女は、凍りついたようであった。
「許してやる。江戸へ帰れ。帰って、見たが不可解であったと報告するがいい」
「……帰りませぬ」
秀康はニタリとした。
「帰らねば、死ぬぞ。すでに幾人かの女が、快美きわまって落命した」
「……殺して、下さりませ」
「左様か。では、おれ。……しかし、銅八から服部一党の掟《おきて》はきかされた。おまえが裏切ると、おまえの一家|眷属《けんぞく》は誅戮《ちゆうりく》の憂目を見るぞ」
秀康は銀色の眼を薄闇《うすやみ》の宙に投げていたが、やがていった。
「これ、江戸のくノ一、服部半蔵に報告はするがいい。おまえの見たものを、そのまま報告するがよい。ただし、秀康、恨みは醒《さ》めたとはいえ、肉親の父からかような探索を受ければ、いささか意地にもなる。おまえの探索書につけてやりたいものがある。わしのものを見たおまえの眼じゃ。さすれば、同時に、おまえの血縁の者も成敗をまぬがれる呪《まじな》いともなる。――」
「は?」
「おまえの眼をくりぬいて送る。――くノ一、めくらになっても、わしの傍におるか?」
「――はいっ」
と、女は、歓喜に身をふるわせて答えた。
駿府で、家康と服部半蔵は、伊賀者から一通の密書と二つの眼球を受けとった。
「これは、女の眼じゃな」
「されば。――」
と、さしもの服部半蔵も息をのんだ。
「この眼で、見たはずじゃな、ギギの麻羅を」
「拝見つかまつったなれど、ちぢみたる円筒に彫ったものなれば不可解。ただ浮き彫りのごとしとござる。――おお、いまにして思い出しました。刺青銅八老は、その名のごとく刺青の名手、しかもそれがたんなる入れ墨にあらずして、銅八秘伝の浮き彫りを心得ております」
「刺青の、浮き彫りとは?」
それには答えず、服部半蔵は思案していたが、やがて決然と顔をあげた。
「かくなっては拙者も意地、いかなることを浮き彫りの刺青としたか、いま一人のくノ一を送って探索いたさせまする」
五
三月、いまの暦でいえば四月、さすがに北国でも、野山には雪解けの水がながれる。
北ノ庄の城下で、一人の女巡礼が捕えられた。盲目ではあったが、妖《あや》しいまでの美貌《びぼう》であったので、そのまま城へ送りこまれた。
これに類する例はほかにないでもなかったが、城へつれて来て洗ってみると、全身|蝋《ろう》で作られたような肌《はだ》をしていて、ただの素性の女ではあるまいと思われ、糺《ただ》してみるとその昔、この越前|一乗谷《いちじようだに》で滅ぼされた朝倉一族の裔《すえ》につながるものであることがわかった。去年夫が死んだので、その冥福《めいふく》を弔うために西国巡礼に出かけようというところであったとのべた。
「……なるほど」
と、褥《しとね》に坐らせて、つくづくと鑑賞して、結城秀康はうなずいた。
「めくらは、生まれながらか?」
「七つのときからでございます」
女はほそぼそといったが、意外におちついているように見えたのは、観念したせいか、人妻であったせいか、あるいは盲人特有の無表情のゆえであったかも知れない。まるで蝋人形のような美しい顔であった。
女が何者であろうが、どのような態度をしていようが、それを気にかける秀康ではない。盲目であることは、かえって物珍しい食欲をかきたてたようだ。
「参れや」
彼は手をのばして、女をひき寄せた。その手は枯木みたいに細いのに、鋼鉄の強靭《きようじん》さがあった。
曾《かつ》て彼は、おのれの醜貌《しゆうぼう》を、男に対しては恥じなかったが、女に対してはたしかに恥じるところがあった。いまはない。が、それでも対象の女が盲目であるということは、やはり彼をおちつかせ、さらに彼を堂々とさせた。
事実、一ト月前の秀康をこの女が見ていたら――それを知らずとも、いま眼があいていたら、彼女は怯《おび》えた声をあげずにはいられなかったろう。秀康はさらに変っていた。肉という肉がおちて、巨大な鯰《なまず》の骨に皮を張ったようであった。
ただ、それだけ厚ぼったい鯰に似た大きな唇《くちびる》で女の口を覆《おお》い、その冷たい反応から彼はきいた。
「おまえの夫は、やはり朝倉一族のものであったか」
女はうなずいて、しずかにいった。
「めくらでござりました」
「めくら同士。ほう。――めくらの夫婦《めおと》は、何ぞ異《い》なことでもするか」
秀康は女を横たえ、犯すのにかかった。そのとき、女の手がのびて、彼はうごかなくなった。彼に対して、はじめからそういうふるまいに出た女はいなかったので、ちょっと驚いたのだが、すぐにその異様な感触に彼は溺《おぼ》れた。
それは蝋涙《ろうるい》のように、ぴたりと彼をつつんだ。冷たい蝋涙――それはしっとりと吸いつき、ながれ、とろとろとさざなみをたて、彼の一局部のみならずからだじゅうを冷たい蝋涙の風呂《ふろ》にでもひたったような感覚でつつんだ。
「ほう、めくらは喃《のう》」
うめいたのは、それが触覚の芸術の域に達していると認めたからである。秀康もまたそういう世界に対する感応を体得するまでになっていた。
「もうよかろう」
と、彼はいった。
「ところで、何が彫ってあったかわかったか、服部のくノ一」
蝋涙が一瞬に凍りついた。
「おまえの触《さわ》り具合、ただごとではない。……めくらは手先で読むという。おまえはその術を学んでわしを探りに来たな。しかし、わかるまい。――銅八め、鏡文字で彫りおった!」
鏡文字とは、鏡に映った文字――つまり、紙片の裏から透《すか》して見たと同様の文字のことだ。
女が不可解きわまる表情になっていたのは、いま秀康から服部組のくノ一と指摘される以前からのことであった。彼女の指はたしかに円筒形の皮膚の上のものを全面|這《は》いまわった。しかし、それがなんであるか、一切《いつさい》五里霧中であったのだ。
浮き彫りの刺青。――
現代でもそれはある。コンゴの女がそれをやっている。乳房から腹、ふとももにかけて。――刺青師は、針ではなく、鋭い刃物のきっさきで点線状に描き、そのあとに炭粉《たんぷん》をすりこんでゆく。傷がなおると、炭粉はそのまま黒びかりする図となって盛りあがる。何のためにそんなことをするのかというと、肌と肌とを摩擦《まさつ》させるとき、相手に対して、この世のものならぬ快感を与えるためだという。――
「くノ一、からだで読め」
盲目の女忍者は犯された。
「ギギ……ギギ……ギギ……」
という例の掛声。
「ギギュウ!」
という例のうめき声。
そして、あれほど――冷艶とも形容すべき女であったこのくノ一が、いつしか同じさけびの合奏をするようになったのだ。
「帰って、なんという?」
熱い蝋涙と化した女に、秀康はいった。
「……帰りませぬ」
「告げ知らすべき仲間がおるか」
秀康は妖笑を浮かべた。
「いや、きかずともよい。見ぬふりをしていてやる。そのものに連絡せよ。おまえの指で読んだものを――告げ知らすことこそ、わしの望みなのじゃ。ただし、その仲間に、おまえの修行した指十本をそえてやるが、それでもよいかや?」
「――はいっ」
と、女は法悦に身をふるわせて答えた。
駿府で、家康と半蔵は、伊賀者から十本の指と口頭の報告を受けた。
「なに、鏡文字?」
「はっ、中納言さまには、恨みは醒めた、天下への妄執は消えた、と仰せでござれど、恐れながらそのおからだに浮き彫りされたもの、鏡文字なればいかなるものか判読できませぬが、或《ある》いはみみずの這《は》いもつれたるがごとく、或いは疣々《いぼいぼ》をちりばめたるがごとく、魔のような法力を発し、女にして快美のため絶息せざるはなし――とのことでござる」
家康も、もはや秀康に大それた野望や叛心のないらしいことはわかっていたが、そのもの[#「もの」に傍点]に対する好奇心、探求心はさらに煽《あお》りたてられた。それに、野望叛心はないとはいえ、こちらから忍者を放ったことを承知していて、その忍者の肉体の一部を送り返してくるなど、この家康をカラカっていることは明白で、小面《こづら》にくくもあり、だいいち、たしかにふつうの精神状態にないと思われる。――
「刺青銅八はまだ醒《さ》めぬか」
「はっ、いまだに鼾声雷《かんせいらい》のごとく。――」
半蔵の眼は血ばしっていた。
「大御所さま、もはやかかる次第にては伊賀組も意地、いかなる手段をつくしてもその鏡文字を読みとらずにはおきませぬ。――この最後のくノ一を以て」
と、彼は同行したもう一人の美少女をかえり見た。
「銅八ただひとりの孫娘でござる」
「ほ、あの銅八にか?」
先刻からその娘の美しさ――清純さと妖艶《ようえん》さのあり得べからざるほどの結晶美に、家康はちらっちらっと眼を吸われていたが、それがあの皺《しわ》のかたまりみたいな刺青銅八の孫娘とはおどろいた。
もう止《や》めよ、その女、越前へやるのは止めよ、それよりわしの傍に置け――と家康が舌なめずりしていいかけたとき、服部半蔵が苛烈《かれつ》きわまる声でいった。
「うぬがこの役果たさずば、銅八|爺《じい》の命はないぞ。――というより、伊賀に迷惑をかけた甲賀の面目にかけてゆけ」
「――はい!」
「とはいえ、もはや眼で見ることもなるまい。手でさぐることもなるまい。いかにすればよいか、これより十日ばかり、この半蔵が秘奥のかぎりをつくして伝授いたす」
「半蔵」
と、たまりかねて家康は声をかけた。
「報告によれば、女という女、ギギのために仕殺されると申すぞ」
「その際は」
と半蔵は、連絡役の伊賀者に厳粛にいった。
「うぬは何とぞしてこの娘の遺骸《いがい》を手に入れ、その女陰を持ち帰れ」
六
慶長十二年は四月が二度あった。
閏《うるう》四月に入ったばかりである。伊賀者が越前から宙を飛んで、一個の奇怪な肉塊を持ち帰った。
「…………」
腐敗防止の処理はしてあるとはいうが、三方にのせられたそのものを見て、唖然《あぜん》、暗然《あんぜん》、慄然《りつぜん》たる家康の眼前で、服部半蔵はしずかに指を挿入《そうにゆう》した。
「読めましたっ」
と、彼は絶叫した。
「浮き彫りの鏡文字が、逆にまた肉に刻印されたゆえに、ただちに拙者にも読めたのでござる――しかし」
と、くびをひねって、
「駿河一番、と読めまするが。――」
家康もくびをひねった。
「なに、するが一番?」
半蔵が指をぬくと、そのもの[#「もの」に傍点]が残り惜しげに、「ギギュー」というような声をたてた。……
閏四月八日、北ノ庄に於て結城中納言秀康が死去したという知らせを受けたのは、それからまもなくのことである。
「痘瘡煩《とうそうわずら》い、そのうえ虚なり」
と、「当代記」にある。
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武蔵忍法旅
一
その男がやって来ると、どの傾城《けいせい》屋も恐慌を来《きた》した。
まず、容貌《ようぼう》体躯からしてただものではない。赤茶けた髪はくしけずったようすもなく、無造作にたばねている。鬚《ひげ》はまばらに口のまわりを覆《おお》っている。眉《まゆ》ははねあがって、その下の眼は三角形で、そして野獣のように琥珀《こはく》色だ。鼻は高いが、顴骨《かんこつ》もまた高く、かえって頬《ほお》はえぐられたようにくぼんでいる。そして背は一メートル八十は超えているだろう。骨太で、筋肉は黒びかりしていた。こういう容貌だから、年のほども見当はつかないが、まず三十近い年齢であろうか。
全体の風貌《ふうぼう》としては、面《おもて》もむけられないような精悍《せいかん》、また傲岸《ごうがん》にして獰悪《どうあく》といっていい印象である。
黒びかりしているのは、ただ皮膚が日灼《ひや》けしているばかりでなく、垢《あか》のせいもあった。牢人《ろうにん》風で、むろん、どう見ても嚢中《のうちゆう》豊かとは見えないが、遊女屋に遊びに来るくらいだから、貧しいせいではない。身体をきれいにする、などということに無頓着《むとんじやく》のためらしい。
そして彼は、こんなところに遊びに来るくせに、甚だ沈鬱《ちんうつ》であった。ふだん、ほとんどものをいわなかった。
とうてい傾城屋に好かれる人柄ではない。
おまけに――ただ陰気だというだけではない。口をあまりきかないくせに、万事ひどく押しつけがましい。
「……あの女」
と、あごをしゃくる。
「……酒」
と、低くいう。
用件はそれくらいだが、いかに傾城屋でも、そこに住む人間の感情を頭から無視して、それにまた全然無神経な厚い皮膚を持っているかに見えた。そうそう、もう一つ、彼がよくいいつける用がある。
「筆と紙」
そして、彼は絵をかくのだ。――時によって山水、時によって花鳥、それが何とも、汚《きた》ならしい当人に似合わぬ奇蹟《きせき》のようにみごとな水墨画を。
ただ素人《しろうと》の眼にも、気韻《きいん》生動したみごとな絵だと見えるばかりではない。こういうものにたしなみの深い富商などが見ても、
「ああ、これはたいした芸術だ!」
と、嘆賞の声をもらし、たちどころにこれを買う。
直接にではないが、その牢人は、絵を売るのだ。いつごろからそんなことになったのか、彼は傾城屋を通しておのれの絵をひさぐ習いになった。しかも、傾城屋には一文の仲介料もやらない。まるで絵が売れるのも、その仲介を頼むのも当然事のような顔をしている。傾城屋としてはのどもとまで文句がこみあがって来るのだが、どうやらその画料がこの牢人の遊興代になっているらしいのと、買う客がよろこぶので、胸をなでさすっている。――とはいうものの、むろん然《しか》るべくその間で値をごまかしていることにぬかりはないのだが。
ふしぎなことにその牢人は、そういう小細工にはまったく気がつかないらしい。
絵の売買の件はまあこれでいいとして、その絵をかくのが、必ず遊女と交合のあとというのがいただけない。それも直後、まだぐったりしている遊女のそばで、まるでそんな物体は存在しないかのごとく、大まじめ、というより、沈鬱な顔で絵をかき出すのだから、遊女にしてみれば少なからぬ侮辱《ぶじよく》を感ずる。
そしてまたその交合が。――
これがいちばん遊女のやり切れない点なのだが、この牢人の交合たるや、執拗《しつよう》強烈、むしろ激烈ともいうべきもので、しかも――彼はいつまでたっても一滴も放出しない。
その身体と同じく、その器官も常人の倍くらい皮が厚くて無神経なのではないか、或《ある》いは放出すべきものがないという異常体質なのではないかと思われるほどだが――しかし、たまりかねて遊女が、何度めかの絶息状態に陥る段階になると、さすがに彼の方も歯をかみ鳴らし、
「……ううむ!」
とか、
「なんの、これしき!」
とか、うめき出すところを見ると、感覚はあるらしい。が、その感覚をみずから禁断するらしいのだ。
結局、彼に放出させた遊女は一人もない。そして放出もしないのに、彼の身体じゅうから――ふつうでさえ、なまぐさいような体臭を放っているのに――むうっとひときわ濃く精臭がたちこめる。まるでその精が彼の全身の血管に逆流したのではないかとさえ思われる。
彼自身も甚《はなは》だ心足りぬところがあると見えて、二、三度、べつべつの遊女だが、そのあと彼の恐ろしい力わざを見たことがある。鉄で出来た鉄瓶《てつびん》の弦《つる》をひんまげたり、灰吹の竹筒を両掌のあいだでひしゃげさせたりしたのを。――しかし、たいていの場合は、何のこともなかったかのような例の水墨画だ。が、たとえ絵をかいていても、全身の毛穴からは精汁が噴き出して、白い霧につつまれているかのようなぶきみな印象は同じであった。
どうやら遊女と交合して漏らさないことを、おのれの戒律としているらしいが、それにしても、そんな修行のために傾城屋に通って来る男は、彼以外にまたとあるまい。おまけに、むしろ常人以上の頻度《ひんど》でここに通って来るのだ。
にもかかわらず、傾城屋も遊女も、彼が来て名ざすのに唯々諾々《いいだくだく》と従っているのは、この牢人の放つ悽惨《せいさん》といっていい一種の鬼気への恐怖のためであった。またすべての点に於て、むしろ人間離れしているといっていい自信に圧倒されたためであった。
自信といえば――彼はときどきまわりをさも見下げはてたように見まわして、
「……色と金、ただそれだけの人生を這《は》いまわって、それで足れりとするか?」
と、ふしぎそうにつぶやくことがある。
いかにも彼は色に溺《おぼ》れない。どう見ても金はありそうにない。――「しかし――」というようにむける顔に、
「わしか?……いまに見ておれ」
と、彼ははね上った眉《まゆ》をさらにぴくっとあげる。
何がいまに見ておれ、なのか、きいている方には見当もつかない。強《し》いて考えると、どうやらこの牢人にはたいした野心があるらしい。
ないしょの評判はむろんよろしくない。いいはずがない。
だれも、かげで笑った。
「……いやみな男」
「イケ好かない男」
「しょってる男」
「――今に見ておれ、なんて、見ていたら化物になるんじゃないかしら?」
そんなカゲ口をきいた客も、眼《ま》のあたり本人を見た客も、眉をひそめはするけれども、むろんこの魁偉《かいい》な牢人にいちゃもんをつける気はない。――彼がこの傾城屋に現われるようになったこの半年以来、だれ一人として。
それが、現われた。――しかも、一人ではなく三人も。
その結果として、人々はこの牢人のさらに恐るべき実体をまざまざと目撃することになったのだ。
二
早春――といっても、ひるごろから牡丹雪《ぼたんゆき》のふりはじめた或る夕。
例によって、その牢人が一軒の傾城屋に上り込んで、以前から執心であった一人の遊女を名ざした。
やがて、女が来た。女だけではなく、三人の武士を伴って。
「あの、およしなされまし」
しかし女はおどおどと、その武士たちの袖《そで》をひいてとめている。うしろに傾城屋の亭主たちも不安そうについて来ているのが見えた。
「新免《しんめん》という牢人はおぬしか」
と、一人がいった。
牢人は答えず、例の琥珀《こはく》色の眼をあげた。
「女はいやだといっておる」
一人がいえば、べつの二人が歯をむき出して、
「以前から、おぬしがいやでいやでたまらなかったそうじゃ。この女のみならず、どの傾城屋の、どの女もが」
「だいいち、傾城屋に来る顔かよ?」
と、嘲笑《ちようしよう》した。
「女を買いに来るならば、まずこれくらいの面相は用意して来い!」
三人、顔をつき出した。誇るほどあって、三人ともなかなかの男前であった。もっとも決して柔弱な遊冶郎《ゆうやろう》の顔ではない。精悍《せいかん》無比の面だましいだ。
牢人はそれらの顔から、じろっと彼らの手に三角形の眼を移した。三人とも、木剣を持っていた。二本ぶら下げているやつもある。
三人はさけんだ。
「分際を知らざる鈍骨漢。こうまでいわねば分るまい」
「怒ったか。怒ったら何なりとせい」
「ともあれ、この女、どうしても買いたくば腕で取って見い、そうれ!」
と、いって、二本の木剣のうち一本を投げたやつがある。木剣は牢人の顔にあたって、膝《ひざ》のあたりに落ちた。
亭主と女たちは逃げかけた。牢人の起《た》ちあがるのを予期したからだ。――これは挑戦だ。その三人の武士は、はじめて来た客ではないが、きょう木剣を抱いて上って来たのを、はてなと首をかしげていたが、最初からこの新免という客を狙《ねら》って、喧嘩《けんか》を吹っかける機会を待っていたのにちがいない。
牢人はまわりを見まわした。起ちはしなかったが、広さを測っていることはあきらかであった。
「出るか!」
武士たちは吼《ほ》えた。牢人はうなずいただけである。
「よしっ、では、外で」
「待っておるぞ。逃げるな!」
三人の武士は、もう全身の毛を逆立てて、そこから走り出していった。
牢人はそのあとを見送りもせず、蒼《あお》くなっている遊女を見て、
「ここへ」
と、低くいった。
遊女は怪しむように、ふらりと寄って来た。その手を牢人はとらえた。
そして、それから――亭主たちがあっと仰天したのは、そのまま遊女を花たばをたたきつけるように横たえ、そのもすそを傍若無人におしひらき、悠々《ゆうゆう》として犯しはじめたことだ。悠々として?……いや、それは例によって――といっても、傾城屋の亭主もはじめてじかに見る光景だが、さしもの亭主がついにへなへなと腰をついてしまったほどの凄《すさま》じい交合ぶりであった。
「墨と紙」
やがて、身を起して牢人はいった。漏らしたようすはない。きいていた通り、むうっとその全身から精臭がたちのぼった。
彼がその紙に墨を走らせはじめたとき、
「まだかっ」
どかどかと、先刻の武士のうちの一人が駈け込んで来た。顔も肩も雪片で真っ白だ。血相を変えて、
「何をぐずぐずしておるかっ」
と、さけんだが、牢人が自若として絵を描いているのを見ると、かっと眼をむいて立ちすくんだ。
牢人はかき終えた。いや、それはさすがに素描にちかいものであったが、ビューッとのびた枯木の尖端《せんたん》にとまった一羽のほととぎすは、今にも血を吐くような鳴声をあげて飛び立ちそうに見えた。
「亭主、この次に来るときまでにこれを頼む」
絵を売ることだ。そういって、彼ははじめてにゅーっと立ちあがった。先刻投げ与えられた木剣には手も触れないで。
あとずさりし、すぐに転がるように出ていった侍のあとを、のっしのっしと追って彼は歩み出た。往来へ。
傾城町ではあるが、吉原ではない。浅草の吉原はもとより、その前身たる日本橋の吉原に傾城屋が集められたのもずっと後のことで、これはそのたぐいの家がまだ江戸中に散在していたころ――といっても、二十余軒が道三《どうさん》河岸に集まって、ひとつの廓《くるわ》を作り出していた柳町である。この年、慶長《けいちよう》十七年。
「……ど、どうした?」
向うの軒先で待っていた二人の侍の姿は、雪のためによく見えなかったが、焦《じ》れて、憤怒していることはあきらかであった。
雪。――往来に牡丹雪はふりつづけている。先刻までは大まかな春の雪であったが、いまは霏々《ひひ》としてはげしく、数メートル離れると霞《かす》んで見えるほどなのだ。
が、呼びにやった朋輩が出て来たのは見えたらしく、木剣を握ったままこちらへ馳《は》せ寄って来て、すぐあとにぬうと現われた巨大な影を見ると、
「来たか!」
と、たたらを踏み、こちらをすかしてみて、
「や、木剣持たずに出て来たな。降参しようとしてか?」
と、さけんだ。
「斬る」
と、牢人は短くいった。
同時に――今走り出た武士が、あっけにとられたようにこちらに向き直ったのに、「くわっ」というような怪声を吐きかけた。
声ばかりではない。――閃光《せんこう》も。
いや、いま聞えたのは、牢人の声かどうかわからなかった。血けむりの中に、肉と骨の断ち割られた音響かも知れなかった。斬られた方はたしかに声もなく、脳天から唐竹《からたけ》割りに――恐るべし、実に股《また》までひッ裂かれて、左右完全に二つになって地にひらいたのである。網膜も染まるばかりの鮮血をぶちまけた雪の大地に。
「……あっ」
残った二人は、雪の中の二本の棒みたいになった。
「二人で来い」
と、牢人はいった。
見るがいい。彼は両腕を左右に張っている。そのいずれの腕にも、刀があった。右に大剣、左に小剣。それを宙天に立てて、まるでつばさを拡げた鷲《わし》のような姿であった。
「参れっ」
それに憤然として――とは見えなかった。あたかも魔に魅入《みい》られて吸い寄せられたように見えた。ただ、反射的に刀を抜きつれたのはさすがである。
凄じい金属音とともに、氷の破片のようなものが飛び散っている。打ち折られた二人の刀身であった。
刀とともに、両人とも左右から袈裟《けさ》がけになった。これまた完全に四つになって、盛大な血潮とともにその肉塊をぶちまけた。
牢人は双刀をいちどに使ったのである。いままでだれも見たこともない奇怪な刀法もさることながら、敵三人、その骨肉のみならず刀身までたたき折るとは、驚嘆すべき膂力《りよりよく》であった。
そのとき、やっと傾城屋の亭主たちが門口に現われた。いまの怪鳥《けちよう》のごときさけび声をきいて、往来の両側の傾城屋のあちこちの障子がひらいて、朱《あか》い格子越しに顔がのぞいた。……一瞬吹き過ぎて止んだつむじ風のようなものだ。
が、風は消えるが、殺戮《さつりく》の跡は残っている。みな、雪の上の光景を見て、「……あっ」といったように眼球をむき出したが、声にはならず、麻痺《まひ》したように立ちすくんだ。……牢人はしゃがんで、二本の大小をせっせと雪でぬぐっている。
すると、そのとき、
「武蔵。――」
と、呼んだ声があった。
「新免武蔵」
牢人はぬっと立ちあがった。先刻、この果し合いのために立ちあがったときとは、少なくとも倍の速さであった。
「斬った三人の素性は承知か」
そこから一軒おいた向う側の軒下に一人、若い男が立っていた。前髪立ちの若衆で、真紅の野羽織が鮮やかで、その存在に今まで気づかなかったのは、ここが傾城町であるということ以外にはない。
「……小次郎よな」
と、武蔵はつぶやいた。
「柳生一門だぞ」
と、若衆はいった。
背中を傾城屋の戸にもたせかけ、そこへいった足跡も見えないほどにもう雪がつもっているところを見ると、彼はだいぶ前から同じ場所に佇《たたず》んでいて、いまの惨劇を見ていたらしい。――そして、はじめてゆらりと背を離し、往来へ歩み出て来た。
「それで、おまえはもう将軍家御指南役はおじゃんだな」
武蔵はべつに驚いたようすもなかった。そのまま、二、三歩、ゆっくりと――しかし、妖《あや》しいばかりの殺気をたたえて、相手の方へ歩き出したが、すぐにそのままぴたりと立ちどまった。
数メートル離れて、ふりしきる牡丹雪をへだてて二人は向い合っている。
「しかし、それがはっきりせぬうちは、おまえはわしとの勝負は避けたかろう。……待つ。わしはやがて九州へ帰るが、あちらで待っておる。心鎮めてから、やって来い。――」
若衆の笑顔はいたずらっぽく、奇妙に明るかった。
「一日も早くその日の来ることを望んでおるぞ」
そして彼は背を見せた。野羽織の背にななめに背負っている恐ろしく長い刀がはじめて見えた。
雪けぶりの中へ、幻のように溶けてゆくそのうしろ姿を、新免武蔵は黙然として、怪異な死神の銅像のように見送っているだけであった。
三
雪が消えてのぞいた黒い大地は、江戸のどこでも春の匂《にお》いを陽炎《かげろう》としてあげていたが、この一劃の土ばかりは灰色に、何やらえたいの知れぬ悽惨《せいさん》の気を凍りつかせている。
その土の上に、男が一人立っていた。前髪立ちに緋羅紗《ひらしや》の野羽織を着て――美少年といっていい。
いや、美しいという点では、これほどの美男はちょっとあるまい。まるで、曙《あけぼの》の精を見るようだ。それを美少年といっていい、というような表現をしたのは、年齢がどう見ても少年とはいえず、二十歳を二つ三つ出ているのではないか、と見えるからだ。
それが刀を抜いて、ふしぎな構えをしていた。
その刀というのが、ふつうの大刀より少なくとも三十センチは長い。そして反りがゆるやかで、まず直刀にちかい。それを顔前に、両手で捧《ささ》げるように水平に構えているのだ。
右手はふつうの柄《つか》のように握っているが、左手は拇指《おやゆび》と他の四本を燕《つばめ》の尾みたいにひらいて、その間にきっさきを載せている。太刀が長いから、さながら風鳥が華麗な羽根をひろげたようだ。そして、その太刀には、鍔《つば》がなかった。
まるで何かの儀式のようだが、そんなことではあり得ない。それは名状しがたい殺気を孕《はら》んだ姿であった。
……しかも、ここは江戸城|麹町《こうじまち》御門外の服部《はつとり》半蔵の屋敷の中。
庭にむいて、四十年輩の武士が厳然と坐《すわ》り、左右に四、五人、ただものでない風貌《ふうぼう》の男がならんでいるが、さらに二人の若い美しい女も加わって、これを眺《なが》めていた。
「ふっ」
「えやあっ!」
突如、そんな声が起った。
同時に――すべて一瞬のことだが、順序立てて書けばこういうことになる。
ふっ、という息とともに、縁側正面の武士が手にしていた何やら白い蛇《へび》のようなものを投げつけた。間髪を入れず、裂帛《れつぱく》の気合一声、若衆の長刀がきらめきこれを両断したのだ。事実はたったこれだけのことだが。――
投げた白い蛇のようなものは、水にひたした棒状の綿であった。これを空中で切るのは、樫《かし》の木刀を切るより難しい。なみの腕では、それはくるくるっと刀身に巻きついてしまう。――また投げた者が常人ではなく、そのわざを武術とするこの屋敷のあるじ、服部半蔵であった。
しかも、これを鮮やかに切った若衆の刀が、なんと左腕を以てしたのだ。すなわち左のこぶしにその長刀のきっさきをつかみ、逆の方向から薙《な》ぎつけたのだが、眼にもとまらぬ電光の一閃《いつせん》であった。
「……みごとっ」
と、服部半蔵はうめいた。
若衆はすでにもとの構えに戻っている。と見るや、その長剣は背の鞘《さや》に忽然《こつぜん》とおさまってしまった。
「もうよかろう。……望みは達したであろう」
「おかげさまで」
若衆は微笑して会釈し、シトシトとこちらに近づいて来た。ゆったりと縁側に腰打ちかけて、
「いや、当家の御指導を受けねば、とうていこの域までは達せなんだでござろう」
と、地上に切り落とされた綿の蛇に眼を投げる。――それを切ったとき、その全身を彩《いろど》ったぞっとするような剣気はあとかたもなく消えて、ふっくらと柔らかい笑顔であった。いわんや、この若さで、西国切っての名剣士とは、だれの眼にも信じられない。
細川藩に仕える剣客佐々木小次郎である。
これが去年の秋ごろからこの服部屋敷に出入りして、半蔵のもとで修行をはじめた。いうまでもなく服部半蔵は徳川家の忍者の総帥《そうすい》で、本来なら許されることではないが、細川家の重臣からのねんごろな依頼と、その佐々木小次郎がおのれの剣法の祖とする富田勢源《とだせいげん》が先代半蔵と或る縁で親しかったことと、さらに小次郎の修行が直接忍びのわざとは接触しないものであったのでこれを受けいれたのだ。
服部家に現われる以前から、もとより佐々木小次郎は天才的な剣士であった。
半蔵はまず彼の背負う刀の長さに眼を見張った。こんな長剣をあやつる剣客はほかに知らないが、それよりも彼が剣祖と仰ぐという越前の達人富田勢源は小太刀を工夫して名高い人物であったのに、その弟子筋が、人なみはずれた長刀を使うとは――。彼はおのれの刀を「物干竿《ものほしざお》」と称していた。
「独創という心では同じです」
と、彼は笑っていった。
さて独創といえば――彼はこの物干竿をたんに普通の剣のような使い方をせず、それを以て右に描写したような奇怪な刀法を開発しようとした。剣尖を握って、逆斬りに斬る。彼が服部半蔵の門をたたいたのは、この刀身を握るというわざを体得するためであったにちがいない。半蔵は指導した。しかし、半ば以上は小次郎自身の独創であると認めざるを得なかった。鍔をとり払ったのも、さらに常識はずれの剣の長さそのものも、すべてこの刀法のための小次郎の工夫であったのだ。
そしていまや彼は、これを以て半蔵の秘術「蛇封剣《だふうけん》」を破る域に達した。――
燕返し。
小次郎みずからこの剣法をこう称したのは、はじめ剣尖を受ける左掌のかたちをいったのだが、あの石火の一閃《いつせん》そのものをたたえるにふさわしい。――
「――なんのために?」
一度か二度、半蔵がこう訊《たず》ねたことはむろんだが、これに対して、
「かかる剣法を以てせねば破れぬ敵があるのです」
彼はそう答えただけであった。
いま――小次郎はにこやかにいう。
「これにて、私、心しずかに九州へ帰れます。服部家のおかげでござる」
「小次郎どの」
と、半蔵はいった。
「おぬしの敵というのは、新免武蔵と申す剣客ではないか?」
四
小次郎は半蔵を眺めた。
「御存知になりましたか。左様でござる」
「やはり、そうか。しかし、いかなる因縁《いんねん》で?」
「宿命です」
返答にならぬ返答であったが、それだけに相手のそれ以上の質問を封じる、深い、凄味《すごみ》のある声音であった。
そして、小次郎の方から逆にきいた。
「柳町での柳生一門の件で、武蔵をお知りになられましたか」
「されば。……柳営《りゆうえい》で、相当問題になっておる。あの男は柳生衆と承知してあのような剣をふるったものか?」
「おそらく、そうでしょう。そのときは、まさか、と思ったが、あとで考えると――おのれの将軍家指南役の運動が思うように捗《はかど》らぬところから、焦《じ》れて、あえて柳生に挑戦したものと思われます。あれはそんな男です」
非難ではなく、むしろ一種の讃嘆の眼で小次郎はいった。しかし彼は、いつぞやの雪の日の惨劇を目撃したことは、まだ半蔵に語ったことがない。
そのときはまさか云々《うんぬん》という言葉の奇妙さには気づかず、半蔵はいった。
「二刀を使うそうな」
「されば、それが武蔵の無敵なるゆえんであり、また唯一の弱点でござる」
「とは?」
「左腕を使うということ。それゆえ左腕にも頼るということ。――しかし、当然、右よりも左は弱い。それゆえ、右から来ると見えて、敵に同じ力を以て左からかかられると、ここに彼の破綻《はたん》が生じます。きゃつを破るには、この法しかありませぬ」
半蔵は黙って小次郎を見やった。先刻、小次郎が編み出した剣法の敵に想定しているのは、ひょっとしたらその男ではないかといったのはかん[#「かん」に傍点]だが、いまやあの燕返しの秘剣の意味をまざまざと知ったのである。
「で、武蔵とおぬしはこれからどうなる?」
「武蔵が将軍家の剣法御師範になるという望みは、彼のあがきに反して、まずとげられますまい。私はそれを望んでいるのです」
小次郎はいった。
「第一に、そのような立場は、あの男にふさわしくない。その性たるや、執拗《しつよう》、狷介《けんかい》、傲岸《ごうがん》、無神経、その行状たるや、不潔、残忍、好色――要するに、異常人過ぎる」
ふいに彼は笑い出した。
「異常と申せば、あの男、いかに女と交わっても断じて精を漏らさぬ由」
「ほ?」
「漏らさずしてこれを溜め、これを超人的な力の根源とするもののごとくでござる。従って、いま二刀がきゃつの唯一の弱点と申したが、武蔵をして漏らしめること、これまたきゃつを破るもう一つの法かも知れませぬ。――とは申せ、ふふ、これは男の拙者には及ばぬこと」
「ふうむ。いかにも奇態な剣客ではあるな」
「要するに、いわゆるかなわない[#「かなわない」に傍点]男なのです。かかる人物が将軍家の師になれば天下がかなわぬ。もっとも、野《や》におれば、あれなりに一種の風格あり――鼻もまがるほど臭い風格でござるが――むしろ、野におれ、と拙者口をすっぱくして忠告したこともあるのですが、きゃつ、きかぬ。おのれの妙な個性には恐ろしく鈍感で、さらに、がらにもない天下御師範という野望に燃やす炎は万丈《ばんじよう》」
「ふうむ」
「第二は、武蔵のこのうぬぼれが挫折《ざせつ》すれば、拙者との宿命、両者の決闘が実現するということ」
「ほほう」
「実は裸の剣客としてはきゃつもそれを翹望《ぎようぼう》しておるのでござるが、今申した野望がそれを阻《はば》んでおる。それまでは、きゃつ……命を惜しむ気になっておるのです」
小次郎の頬に、片えくぼが彫られた。――小次郎がそういったのは、武蔵が小次郎と対決することを、一方では怖《おそ》れている、という意味であろうか。燕返しの秘剣を体得する以前の小次郎を考えても、半蔵はそれを肯定せざるを得なかった。
同時に、その小次郎ほどの男が、ここへ来て汗血《かんけつ》をしぼって特別訓練をしたということでも、彼の武蔵に対する認識のほどが思いやられる。
「で?」
と半蔵は生唾《なまつば》をのむ。
「されば、これより私は主命のために小倉に帰りますが、やがて間もなく武蔵はそれを追って来ることでござろう。野望|潰《つい》えた自暴自棄と、一方、拙者との宿命の果し合いへの歓喜を抱いて」
さしもの半蔵が、その武蔵とやらいう凶剣客とこの小次郎という天才剣士の相対峙《あいたいじ》した光景を想像して、それだけで背筋が冷たくなる思いがした。
「それこそ私の望むところ――わが生を享《う》けてより、この命、その日のためにあり、とさえ私は考えております。たとえ、敗れようとて。――」
にいっと彼は笑った、花のように。
この問答をきいていた服部組のめんめんもいずれも蒼《あお》ざめていたが、中でもいまにも気を失いそうな顔色をしていたのは二人の女であったろう。
女ながら、半蔵秘蔵のくノ一、お炎《えん》とお|※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]《ひよう》。
二人は小次郎に恋しているのであった。もとよりそれを露《あらわ》にすることは許されない。同じ屋敷の忍者たちとさえ自由に恋を語れぬ戒律がある。それなのに、外から来た男に惚《ほ》れた。
ただ、小次郎が美貌《びぼう》の若衆だから好きになったのではない。だれが見ても――すべてにきびしい半蔵さえ、なんと好ましげな眼で見ていることであろう。明るくて、優雅で、勇敢で、素直である。ときにちょっぴり皮肉な諧謔《かいぎやく》を飛ばすくせさえたまらない魅力だ。いまも、自分でいっている。
「拙者佐々木小次郎と新免武蔵。――客観的にはどう見ても、あちらが敵役で、こちらが物語の主人公ですな」
面白げに笑った。
「古来日本人は義経びいきと申すが、果して左様かな? 案外、相当に事大主義なところがあるのではありますまいか? これで仮に武蔵が勝って私が負けると、後世、私の方が敵役にならぬともかぎらぬ。――は、は、は」
「笑いごとではない。……おぬしのいのちにかかわることであるぞ」
半蔵はいった。
「わかっております。それはそうと、いのちがあれば、拙者この髪を切ります。……武蔵に勝ってはじめて一人前、と願《がん》をかけて、かくは今まで年甲斐《としがい》もなく髪を残しておいたのでござるが」
小次郎はなお笑顔を消さずに、春の日にその美しい濡羽色《ぬればいろ》の前髪をゆすった。
「天命われにあらば……はは、この髪切って青い月代《さかやき》の小次郎は、見てのお帰り、いやさ、ふたたび江戸に帰ってから御覧なされ、喃《のう》お炎、お※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]。――」
お炎とお※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]は、恋しさと恐ろしさに身ぶるいした。
五
服部半蔵が、幕閣の重鎮本多佐渡守に呼ばれたのは、それから半月ばかりのちのことであった。
「半蔵。……作州牢人、新免武蔵なるもののことはきいておろうな」
「は。――」
その剣客は、去年夏のころから、軍学を以て知られた北条安房守の屋敷に寄留し、しきりに将軍家剣法師範の地位を得べく運動していた。
そんな大望を抱く兵法家はあとを絶たず、事実上、まじめにとり扱われる候補者は稀《まれ》であったが、この武蔵にかぎってはいくたびか閣議の話題にはなった。とにかく、むやみやたらに強いことはたしからしいというプラスの評判と、一方で人物があまりにも怪奇的だというマイナスの評判が相半ばしていたからである。
そこにこの早春、柳町の事件が出来《しゆつたい》した。柳生の門弟三人が、武蔵のために斬られたという椿事《ちんじ》である。
調べてみると、新免武蔵の方に落度はなかった。仕掛けたのは柳生方であり、理不尽な侮辱に対して武蔵が反撃を加えたのは当然だからである。どうやら相手の弟子たちは、武蔵が柳生家と同じ位置につこうとしているのを知って、片腹痛いと思ったのか、或《ある》いはそれ以上にのちのち柳生家のためにならずと危機感をおぼえたのか、いまのうちに彼をこらしめたいというのぞみを発して、あの始末となったらしい。
「……うわべはまさにその通りじゃがの」
と、佐渡はくびをかしげていった。
「その実、かえって武蔵に機をつかまれた気味があるな。公然、天下の眼に柳生を叩《たた》き伏せて見せるという。――」
卒然として半蔵は佐々木小次郎の意見を思い出したが、何もいわなかった。
「いちじ、但馬《たじま》自身が出る、といきり立ちおってな。これはとめた。そして、但馬、武蔵の強弱は知らず、武蔵仕官の儀は、これでふっつり沙汰《さた》止みとなった。――」
閣議に於ける雲ゆきが眼に見えるようだ。どうやら、武蔵捨身のやりくちは、あまりに惨烈過ぎてかえってみなを辟易《へきえき》させたようである。
「で、十日ばかり前のことじゃ。北条安房と武蔵を呼び出して、御公儀に於《お》かせられては柳生の兵法御信用に相成れば、その他の兵法無益なりと申し渡した」
「……ほ?」
「そのときのことじゃが、武蔵一人を暫時《ざんじ》別室に待たせておったあいだに、あれはいかなる所存か、そこにあった衝立《ついたて》に絵をかきおった。水墨で、旭日曠野《きよくじつこうや》の図とでもいうべきか、そして蔑《さげす》むがごとく一同をねめまわし、傲然《ごうぜん》と立ち去った。――絵そのものは意外にみごとにて一同顔を見合わせたがの。さるにてもいよいよ以て奇矯《ききよう》なふるまいをするやつ、あのような非常識な人物を将軍家兵法御師範とする難は、さらに動かぬものとなった。ともあれ、この件はこれで万事終った、と見ておったのじゃが」
はじめてきく話である。
「武蔵はそれよりただちに西へ向って旅立ったという。――」
「ははあ」
「それではじめて気がついたのじゃが、大坂にゆかれては厄介なやつ」
豊臣家に仕官させると困るという意味だ。――いや、そんなことはありますまい、と半蔵はいいかけた。佐々木小次郎との一件を思い出したのだ。しかし考えてみると、例の「宿命の対決」という意味が、実は彼自身にもよくわからないところがあるので、これを口にすることはやめた。
「それにもう一つ、柳生とのいきさつをあちこちで吹聴《ふいちよう》されては徳川家の恥ともなる。きゃつ、これまでのやりくちを見るに、おのれを売り出すには手段をえらばぬふしがある。――」
佐渡守は半蔵の顔を見た。
「討ち果たせ」
「へ?」
「この役、柳生を煩《わずら》わしてはかえって具合が悪い。服部組こそふさわしい。わかるな?」
「――はっ」
このような使命をこの人物から服部組が受けたことは、いままでいくどあるであろうか。佐渡守の意図はただちに了解したが、半蔵の感慨はこの場合ひとしおであった。彼だけが知っていることだが、これまで武蔵とは間接の縁があった。しかしそれがこのような直接の縁で結びつけられようとは予想もしていなかったのである。
佐渡守はいった。
「目立たぬがよいぞや」
――服部半蔵は屋敷に帰って、腹心の配下を呼んだ。三人の忍者である。そして佐渡守から受けた秘命を伝えた。
「かしこまってござる」
「面白うござる」
平然として――というより嬉々《きき》とした応答が返って来たのは、こんな場合、いつものことである。指折り数えたやつもある。
「武蔵は、十日ばかりも前に江戸を出ましたと? こりゃ急がねばならぬ!」
三人の配下がただちに旅の支度にとりかかるために立ち去ったあと、そこに二人の女が残っていた。べつに呼んだわけではない。茶を運ばせるためにそこにいたお炎、お※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]である。
「お頭《かしら》。……わたしたちもいってはいけませぬか?」
「いいえ、是非ゆかせて下さりませ!」
二人は、思いあまったような――むしろ、身ぶるいするような決意のこもった眼をあげて半蔵を見つめた。
「うぬらが?」
お炎、お※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]はいった。
「お話を承っただけでなく、あの小次郎さまほどのお方が、あれほど必死の御用意をなされた相手でございます」
「ひょっとしたら、わたしたちの方がこの役にふさわしいのではないか、と思い立ったのですけれど、どうでございましょうか?」
二人は、さきの三人の忍者に劣らず、服部半蔵が眼をかけている秘蔵のくノ一であった。
六
一日一夜に百二十キロから百五十キロは走るという服部一党の忍者なればこそだが、しかし彼らが武蔵に追いついたのは三河《みかわ》に入ってからであった。
その赤坂の宿で、春の早暁、遊女屋から陰鬱《いんうつ》な顔で出て来た姿を見出し、
「おれが第一番」
と、物蔭に待っていたほかの四人を、来栖《くるす》紅兵衛という男が制したのは、むろんおのれのわざに絶大な自信があったからだ。彼は鎖鎌《くさりがま》の術にたけていた。
「いや、二番はなかろう。おれが片づける」
彼はひとりで進み出ていった。
霧たち迷うのみで、まだ早立ちの旅人の姿すら見えない宿場の往来で、あきらかに凶念を以て現われたこの男を、武蔵はたいして驚きのようすもなく迎えた。それでも、きくことはきいた。
「おまえは何じゃ」
「三年前、うぬに討たれたさる兵法者の縁辺の者だ。そのかたきをとる」
と、来栖紅兵衛はいった。物凄い精臭をかぎながら。――
口上はでたらめだが、武蔵は、
「そうか」
と、うなずいただけであった。これまでおびただしい殺戮《さつりく》をくり返して来て、思い当る例に不足はないと見える。
うなずいた刹那《せつな》、その顔面に鉄球が飛んだ。紅兵衛の右腕から鎖とともに分銅が振り出されたのだ。――忍者対剣客の決闘が開始されたわけだが、開始されたとたんに決闘はもう終っていた。
分銅の前に剣光が一閃した。大刀を以て武蔵はその鉄球をふり払おうとして、刀身を鎖に巻きつかれた。そのまま彼は紅兵衛をひきずり寄せた。本来ならみごと相手を術中に落したはずの紅兵衛のわざが、てんで通用しない恐るべき怪力であった。かえって鎖でひきずり寄せて、武蔵は左剣を以て紅兵衛をたたき割った。西瓜《すいか》のごとく無造作に。――以上、ほとんど一瞬のあいだのことである。
「……五十七」
と、武蔵は大刀から鎖をはずしながらつぶやいた。
そして何事もなかったように、悠々《ゆうゆう》と西へ去ってゆくのを、あとの四人が茫然《ぼうぜん》と見送っていたのは服部党の忍者らしくないが、しかしあまりの物凄《ものすご》さに、さしもの彼らも息をのんだきり、しばらくそれを吐くのも忘れていたのだ。
かくてはならじ。――
彼らがわれに返ったのは伊勢《いせ》に渡ってからだというといささか手ぬるいようだが、それほど衝撃が大きかったといえる。二番目にふるい立ったのは桑ノ実康助という忍者であった。
「おれにまかせろ、今度こそは」
桑名。――またもそこの遊女町から立ち出でた武蔵のうしろ姿を見送って、康助はうめいた。人目に立たず始末せよ、というのが佐渡守からの秘命で、その条件に叶《かな》うのは、武蔵が早立ちするその時刻、そんな場所をえらぶよりほかはなかったのだ。
三人を残し、桑ノ実康助は、ヒタヒタと武蔵の背後十五メートルばかりに忍び寄った。その右手があがった。掌《て》の先の奇妙な刃物が暁闇《ぎようあん》にひかった。彼は十字手裏剣の名手であった。
なみの手裏剣の打ち手は、その奥義《おうぎ》を極めた者でもまず八メートルから十メートルを飛ばすのが精一杯だが、彼は十五メートルでもみごとに敵を刺しとめる。いわんや、この場合、武蔵は背をむけているのだ。
康助の手から流星が離れた刹那、しかし武蔵は音もなく前に伏した。その男に、殺気を知覚する動物的な本能があったとは知らず、相手の立っていた空間を前へ流れた手裏剣に、
「や?」
狼狽《ろうばい》反射とでもいうべき動作で康助はなお数歩駈けたが、相手がふたたびくるっと起き上りつつ反転したのを見ると、あやうくうしろへ飛びずさり、飛びずさり、さらに飛びずさりつつ、二本目の手裏剣を投げつけた。
鼓膜もつん裂《ざ》くようなひびきをたてて、その手裏剣は武蔵の刀ではねのけられ、そのかたちも見えぬ距離へ飛び去ってしまった。三本目に手をかけながら、しかし桑ノ実康助はまだ必殺の自信を失っていなかった。こんどは構えは充分であったし、なお敵はこちらに一指も反撃出来ない距離にあったからだ。
が、その三本目の手裏剣を離すより先に、敵から武器が飛んで来た。おそらくそれは刀で手裏剣を薙《な》ぎ払うと同時のわざであったろう、武蔵はもう一方の手で刀を投げつけたのである。
充分二十メートルは飛んで、その一刀は大手裏剣と化して桑ノ実康助の胸をつらぬいてしまった。
武蔵は疾駆して来た。そして、仰向けになって即死している男の胸に足踏みかけて、おのれの刀を抜きとった。そのときはじめて気がついたのは、それが大刀の方であったことだ。彼は康助が小さな手裏剣を飛ばす最大距離を、矢のごとく大刀を投げたのである。
「……五十八」
と、彼はつぶやいた。
そしてまた西へ歩み去った。
物蔭で三人は、麻痺《まひ》したように見送った。――ややあって、江沼源心という男がいう。
「見たか? きゃつの投げたのは大刀の方であったぞ。小刀はあくまで防禦《ぼうぎよ》用に使うと見える。それにしても、大刀を手裏剣のごとく飛ばすとは恐るべき膂力《りよりよく》」
「五十八、とつぶやいたのは、何のことでありましょう?」
お炎がきいた。
「五十八番目の決闘、という意味ではないか?」
「武蔵がそこまで来たとき、何やら妙に匂《にお》いましたが、あれは何でありましょう?」
「む? そう申せば。――」
源心は名状しがたい顔をした。
「おぬしら、知らぬはずはあるまい。あれは精臭ではないか? 江戸を立つ前、柳町にいっておれが調べたところによると、きゃつ遊女と交合しても精を漏らさず、代りに爾後《じご》、からだから精臭を発するという。――」
「……ああ、そういえば、小次郎さまが妙なことを申された。武蔵の力の根源はそれだ、とか。……」
二人の女は、やや赤らんだ顔を見合わせ、次にそれ以前よりも蒼《あお》ざめた。相手の魔人性がいよいよ彼女たちを戦慄《せんりつ》させずにはおかなかったのだ。
戦慄しても、しかし使命を捨てて三人は逃げ帰るわけにはゆかなかった。だいいち、その気はなかった。すでにもろくも殺された二人の朋輩のためにもだ。いわんや、お炎とお※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]にとっては。――
「ああ、小次郎さま。……」
「武蔵はそちらへ」
二人はうなされたようにつぶやいた。佐々木小次郎は、武蔵よりだいぶ以前に江戸を立って、九州の小倉《こくら》へ帰っているはずなのであった。
七
「大坂に入らせてはならぬ」
焦燥から源心は火のようになった。
「それまでに、おれはやるぞ」
理性を失った眼ではあったが、自負はあった。それどころか、なみなみならぬ興味の光さえあった。
彼は、服部組でも三指の中に入る使い手であったのだ。ただ、その剣を使う場合、それを右の腰にさしかえる。そして、左腕を以て敵に対するのだ。
つまりサウスポーの剣客なのだが、これが相手にひどい昏迷《こんめい》を起させると見えて、いままでの数々の忍者として任務遂行中に、いかなる剣豪と対しても、いのちのやりとりでは必ず勝利を得て、かくのごとく生き残っている。――実は小次郎が燕返しの秘剣を編み出すについて、最も懇切に指導したのはこの江沼源心なのであった。
大坂どころか、近江《おうみ》にすら武蔵を入れさせぬ、とはやり立つ源心を、
「待って」
と、お炎がとめた。
「わたしがやります」
「おぬしが?」
「いえ、わたしには、討てぬかも知れませぬけれど、おまえが討てるようにして見せます」
「どうするのじゃ?」
「そのためにわたしたちは来たのです。黙って、わたしを先にゆかせて」
思いつめた眼であった。
武蔵が大坂に入ることを、彼女はそれほど案じてはいない。武蔵の目ざすのは九州だろうと確信しているからだ。それこそは彼女を、源心以上に焦燥《しようそう》させ、恐怖させるものであった。
「そして、草津《くさつ》を武蔵がぶじに出るならば――それを待ち受けて、源心どの、あなたが討って。――きっと討てるはずです」
お炎はそういって、さきに一人駈け去った。
――草津で、武蔵はまた遊女町に泊った。一軒の門口から駈け出して袖《そで》をとらえた一人の遊女のひなにはまれな美貌《びぼう》にひき寄せられたのだが、そういうことがなくても彼がここに泊ったことにまちがいはなかったろう。例の修行のつもりではあろうが、しかし東海道百里、夜な夜な必ず遊女屋に宿をとるとは、やはり異常な嗜好《しこう》だといわざるを得ない。
その夜。――
遊女は武蔵にたわむれた。
珍しいことだ。いや、武蔵にとってははじめてのことだ。漂泊《ひようはく》の旅の一夜に求めた、彼の性癖を知らないどんな女も、ただその風貌を見ただけで恐ろしげにからだをかたくし、歯をくいしばっているのに。――その遊女は、おのれの首の下にさし入れられた武蔵の左腕に黒髪を巻きつけたりした。
「ま、待って」
なまめかしい裸身をよじらせて、彼女は笑いかけた。
「あなた強そう。……そんなに急がないで」
そして、みずから武蔵の右掌をとってみちびいた。
武蔵は前戯ということを、いまだ試みたことがない。彼の行為たるや、真一文字に直接的であり、ひたすら一意専心で、猛烈に物理的だ。それ以外に興味も余情もない。
しかるにこのとき武蔵がこのたわむれに応じたのは、その遊女のあまりな嬌媚《きようび》に、いかな彼もいささかふだんとちがう感情を動かされたゆえであったが、さてその結果、彼は思わず知らず、
「ううむ。……なんの、これしき!」
と、歯をかみ鳴らさんばかりになった。
ふしくれだった指さきさえも、とろけかかったような感覚がしたのである。人さし指と中指と――その二本を柔かくつかんだ女は、夢みるような表情で、それを逆に折った。
ぴしいっ、という音がした。
次の瞬間、武蔵は腕をはねあげて、骨折したその掌を以て女の頸《くび》をしめつけた。――女の口から鮮血が溢《あふ》れ出して、彼女は息絶えた。にんまりと笑ったまま。
「……こやつ?」
さすがの武蔵も、驚愕《きようがく》の眼でその女の死顔を見つめたが、すぐにおのれの右手の指を口にあてて、二本の骨が完全に折れていることをたしかめた。――この女は何者か、知らず、繊手《せんしゆ》を以て武蔵の二本の指の骨を折ることによって、彼の強大な右腕そのものを封じたことはあきらかであった。少なくとも、剣を握る機能に於て。
立ちあがろうとしたが、左腕は女の黒髪になお巻きつかれている。――憤怒の眼で、もういちど女の顔を見やった武蔵は、しかし立とうとせず、やおら改めてこの死せる美しい肉体に対して、例の修行を試みはじめたものだ。
――また暁闇。
家人にさえ知られず、武蔵は草津の遊女屋を立ち出でた。――やがて、琵琶湖畔《びわこはん》にかかる。湖からの風はすでに四月のものであった。
その街道《かいどう》で、武蔵はまた新しい襲撃者を迎えた。相手は右腰に刀をさした左利きの怪剣士であった。これに対して武蔵は、左に大剣、右に小剣を握った。
つまり、彼もまた左利きの大刀をふるったのである。左利きのくせに、襲撃者はかえってこれに衝撃を受けたらしい。一瞬、武蔵も冷気をおぼえた刹那《せつな》があったが、しかし彼はこれを斃《たお》した。
「五十九」
と、彼は精臭をふくんだ呼気とともにつぶやき、それから爛々《らんらん》かがやき出した眼を、屍骸《しがい》から夜明けの空へあげた。
「ふむ、左を使うか。……小次郎めを破れるかも知れぬ」
歓喜に満ちた声であった。
スタスタと歩いて、また独語する声が聞えた。
「わが身にとり、物を忌《い》むことなし。……」
八
……数日後、堺《さかい》から赤間ケ関へ通う船の中に、武蔵の姿が見られた。
もとよりその素性を知る由《よし》もないが、この牢人は面貌怪異のみならず、常人には面《おもて》も向けられないような悽惨さがまつわりついていて、だれもまわりに近づく者もない。
それに彼の方でもまた人を避けたいらしく、荷や縄などを積んである小部屋にひとり入りこんで、黙然と足を組んでいた。
一夜――二夜――三夜。船はおだやかな瀬戸の海を西へ進む。ひるま彼は、ついぞ美しい島々を見ることもしなかった。山水を描くくせに、ふしぎなことに彼はそんなものには全然関心がないようであった。
そして、夜になると、その小部屋の闇《やみ》の中で、ひくい牡牛のようなうなり声が聞える。
「ううむ。……なんの、これしきのことに!」
例の不毛の交合に於て、彼のうめく声だ。
声は同じだが、意味はまったくちがう。――彼は、おのれの性欲をもてあましていたのだ。一滴も放出しないのに、奇妙なことに、一夜でも女と接しないと彼の血は騒ぎ、これはその血の暗い潮騒《しおさい》に耐えるうめき声なのであった。武蔵は武蔵なりに苦しんでいたのだ。
「今に至ってもかかる煩悩《ぼんのう》を抱いておるかぎり、ひょっとしたら、おれは小次郎に敗れるかも知れぬぞ。……」
近江でいちど豁然《かつぜん》とひらいた三角形の眼は、また惨としてつむられていた。――彼を悩ませていたのは、またこの「宿命の対決」でもあった。
「……きゃつ、世の常ならぬ天才児だ!」
――決して近づきはしなかったが、武蔵から離れない女の眼があった。
お※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]だ。たった一人残った服部組。
案の定、大坂を無関心に通って、赤間ケ関ゆきの船に乗った武蔵を、なお追いつづけるお※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]は、すでに服部組としての女ではない。小次郎を恋う女としてのお※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]には、それは魔神が跫音《あしおと》とどろかせて小次郎へ近づいてゆくような急迫感を抱かせた。
彼女は恐ろしいことを知った。
草津で朋輩お炎を殺した武蔵は、さらに江沼源心を斬り捨てたが、なんと左腕を使ったのだ。彼女はお炎から武蔵を弱める意図をきいていた。お炎はその兵法にみごとに成功したようだが、その結果――武蔵をしていっそう端倪《たんげい》すべからざる魔剣士にしてしまったのではないか?
つけこむべきはただ武蔵の左腕と思いこんでいる小次郎の前に、左利きの怪剣江沼源心を斃《たお》したほど、左腕を主要武器に変えた武蔵が現われる。――
それを告げるべく急ごうにも、武蔵といっしょに乗ったこの船しかない。しかも、たとえ小次郎に急報しても、半歳にわたってあの左よりの燕返しの秘剣の開発に精魂こめた小次郎が、とっさに態勢を立て直し得ようか。
胴の間の隅《すみ》にひっそりとうずくまったお※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]は身もだえした。
いまのうちに何とかしなくてはならぬ。どうにかしなくてはならぬ。
――といって、お炎の使った手はもうきかぬ。だいいち、手裏剣の飛ばないうちから身を避けるほどの武蔵に、剣を抱いてどうして近づくことが出来るであろう……?
「……おお、そうだ。小次郎さまがいっておいでなされた。武蔵の力に、もう一つ秘密の根源があると。――」
明日は赤間ケ関に入るという前日の夕方であった。船は周防《すおう》三田尻に入り、水など買い入れるためにしばし錨《いかり》を下ろした。土を踏んで足をならすため、ちょっと岸によった武蔵は、やがてまた船の出る法螺貝《ほらがい》に、ややあわてて小舟を傭《やと》って漕《こ》ぎ寄せた。そのとき、小舟のゆくてに、波に漂《ただよ》っている一人の女を見た。
救いあげると、白蝋《はくろう》のような姿と冷たさであったが、かすかに息がある。
「――はて?」
人々からみずから隔離している武蔵であったが、この女には記憶があった。それほど際立った美貌であったのだ。
「この船の女じゃ。どうしたのか?」
彼は女を抱いて船に上った。そのとき、女は気がついたと見えて、かすかに唇《くちびる》を動かせた。
「恥ずかしや。……お願い、人のいないところへつれていって下され。……」
武蔵は女をおのれの小部屋につれて入った。下ろそうとしたが、女は離れない。冷たい、なめらかな肌《はだ》をぴったりくっつけたまま、武蔵の肩に顔をおしあてて、さめざめと泣いている。
「どうしたのじゃ? 自分で海へ身を投げたのか」
「きかないで。……どうぞ、お願い、しばらくこのままにさせていて。――」
妙なことになった、とさすがの武蔵も、狐《きつね》につままれたような、こそばゆいような顔をして、女を抱いたまま、どっかとそこに坐《すわ》った。――ただそれだけで、数分のうちに、彼はいまだかつて味わったことのないような恍惚《こうこつ》感に襲われた。
が、ふいに彼は女をむしりとり、そこにたたきつけるように置いた。
「殺気がある――」
と、彼はいった。
「何やつだ?」
「草津の遊女の妹」
「なんじゃと?」
「三年前、なんじに討たれた兵法者の娘」
そういいながら、お※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98c6]はまつげをとじたままである。観念し切った俎《まないた》の上の白魚のようであったが、濡れた衣服はまくれあがり、宵闇《よいやみ》にも二つの乳房と二つのふとももは夜光虫みたいにひかって、なんという凄じいまでの媚惑《びわく》にみちた姿だろう。
「殺しゃ」
じいっとその姿に琥珀《こはく》色の眼をそそいでいた武蔵は、やがてきしり出るようなうめきをもらした。
「殺してやろうぞ」
そして、そこにあった縄を切りとって、女をうしろ手に縛りあげた。いつぞやの遊女の手を怖れてのことだが、これはいささか武蔵らしくなかった。それどころか、縛る手もふるえ、歯さえカチカチと鳴っていた。
彼は欲情に負けたのだ。そして、その姿の女を、彼は犯しはじめた。
ほんとうにあとで殺すつもりか。いや、この行為そのもので女を殺そうとでもするように、彼は激烈に女を犯した。――が、どうしたのだ、武蔵、おい、武蔵。
「ううむ……」
うめきは悲鳴のようであった。彼はいままで知った何百人か何千人かの女とはちがう絶妙甘美、それに数倍する芳潤濃厚の魔界にひきずりこまれたのである。
「な、なんのこれしき」
吼《ほ》えたとたんに、彼は放出した。怒濤《どとう》のごとく。――
と、感覚した刹那に躍りあがったのはさすがである。彼は仁王立ちになった。
「女狐っ」
女は答えなかった。眼もひらかなかった。ただ、にんまりと笑った唇のはしから、タラタラと血が頬につたわり落ちた。舌をかみ切ったのである。
しかもまだこの世のものならぬ夢幻の笑みを刻んだ顔を恐怖の眼で見おろし、同じ恐怖の眼を、なお鉄筒のようなおのれの男根に移した武蔵は、
「喝《かつ》、この煩悩棒!」
泣くがごとくうめくと、おのれの左手を以て、ぐいとそれをへし折ってしまった。
よろめき出して舷《ふなばた》につかまった新免武蔵は、血のような残光を流した西の空を眺めていた。――やがて彼は、ひどく深い声でつぶやいた。
「われ、生涯《しようがい》をかけて……恋慕の思いに、寄る心なし」
剣鬼武蔵が――それこそ天下に敵なき剣聖武蔵に昇華したのは、この壮麗妖異な海の一夕のことであった。船は、宿命の船島を抱く赤間ケ関へ波を切って進んでゆく。
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膜《まく》試合
一
「八方斎」
と、大岡越前守はにこやかにいった。
「ちょっときくが、その方は伊賀《いが》組の嫁入り前の娘をことごとく犯すそうであるな」
前にひれ伏していた巨大な頭が、たたみにはじかれたようにあがった。
「まことか」
「あいや」
海坊主みたいな顔に、眼があきらかにぎょっとした風で、
「左様な根も葉もないことを、何びとよりお耳になされましたか」
「八方斎。――わしは大岡越前であるぞ」
どんな空とぼけも通用させない一語であった。伊賀八方斎は厚い唇をふるわせただけで、しばらく声もなかった。
「まことに根も葉もないことか」
「いや。――多少は」
へどもどしてから、
「たった、いちどずつ、だけでござりまする」
と、いい直した。
「いちどずつ、と申しても、嫁入り前の娘が相手ではちと惨《むご》いようであるな」
越前守のゆたかな頬《ほお》には依然として微笑が浮かんでいたが、決して機嫌《きげん》はよくないことを伊賀八方斎は見てとった。
「そのような人身御供《ひとみごくう》にあげられた女どもの悲しみ、苦しみを考えてやったことがあるか」
「そんなはずはござりませぬ」
女たちが、じぶんの行為によって苦しんだり、悲しんだりするはずはない、という意味だ。その自信が八方斎に、よしや女が悲しんだり苦しんだりしようと、こんなことで伊賀組頭領たるじぶんが、町奉行の役宅に呼び出されてとり調べられるわけはない、という法制上の反駁《はんばく》を心に甦《よみが》えらせて、持ち前の不敵な面貌《めんぼう》を復活させた。
髪はあることはあるのだが、頭頂部まで禿《は》げている上に、何しろ巨大なので、にゅっとして海坊主を見るようだ。頭には毛がないが、皮膚はあかく、つやつやとあぶらぎっている。不敵な面がまえではあるが、細い眼がどこかユーモラスで、しかも、たんに容貌|魁偉《かいい》、精力絶倫といった感じだけではない、変な言葉だが、妙に知性的なひかりが、その細い眼にあった。
「そんなはずはない? 頭《かしら》に股《また》の役徳をさせるのは、伊賀組の掟《おきて》か」
と、越前守はきいた。股の役徳とは、初夜権のことだ。
「伊賀組の掟は知らぬが、権現さま当時の伊賀組の祖|服部《はつとり》半蔵以来、代々の頭が左様なことをして来たとはきいたことがないが」
「いや、掟ではござりませぬ」
奉行の眼をそれとなくうかがいながら、八方斎は重々しくいった。
「忍法修行のためでござる」
「ほう、忍法」
越前守はちょっと眼をまるくした。
伊賀組の職能は江戸城の諸門の警衛である。草創のころは彼らに忍者というもう一つの顔があったとはきいたことがあり、その伝統で彼らの組織にもいまだに何やら秘密の掟があるらしいとは承知していたが、現実にいま彼らがそれほどの特殊技能を維持していたり、修行しているとは初耳であった。
「伊賀組頭目のその方に処女を破られることが、女にとっていかなる忍法の修行になるのか」
「いや、女にとっての忍法の修行になるというのではござらぬ。拙者にとっての修行で」
「その年でか」
「あいや、たんなる色道修行と思召《おぼしめ》されては甚《はなは》だ迷惑に存ずる。――いま、越前守さまには、伊賀組代々の頭にして左様なふるまいをした者はきいたことがないと仰せられましたな。その通り、これはこの伊賀八方斎の独創で、これも御公儀のお役に立てばと、長年八方斎、精血をしぼって研鑽《けんさん》いたして来たものでござりまする」
「はて、処女を犯して忍法の独創をなす。……越前にきかせてくれないか」
「わざわざ御奉行さま、御召喚ゆえ申しあげましょう。御存じかどうか知りませぬが、処女にはいずれも膜がござる。八方斎、いろいろと研究いたしましたるに、この処女の膜というものは人間の女だけに存在して、犬、猫、牛馬、そのほか一切の動物の雌《めす》にはござりませぬ。実に神秘霊妙なものでござりまして、むろん、ただいちめんに張りめぐらされてその門を鎖《とざ》されては経血などの流出に障りがありまするゆえ、はじめよりその一部はひらき、最初の交合により全面的に破られるものでござりまするが、そのこといまだなき以前に於てつらつらその膜をうかがいまするに、美しき半月状のものあり、まどかなる輪状のものあり、眼のごとくぶきみに穴二つひらきたるものあり、篩《ふるい》のごとく点々と滑稽《こつけい》なる小孔をうがちたるものあり。……」
唾《つばき》がとんで、厚い唇をぬらした。細い眼が、異様なひかりをほとばしらせた。一種の学問的情熱ともいうべきものが、たしかにその魁偉な面貌を覆《おお》って、越前守はちょっと打たれたが、すぐに、その対象物を観察しているこの人物の姿に想到して辟易《へきえき》した。
「で、その膜がどうした」
「その膜を入手いたしたいために、拙者伊賀組の娘どもを、忍法の人柱といたした次第で」
「膜を手に入れていかがいたす」
「かかる神秘霊妙なる膜、これを或《ある》いは乾《かわ》かして粉末といたしたり、経血を溶かしたり……十数年に加えたる工夫は百数十種にも及びましょうか。その結果、これを以《もつ》て人を殺し得る、という妙術を編み出してござる」
「何、人を殺し得る?」
「されば、この膜を素材としたる秘薬と秘法を以て一処女の膜を処理いたすときは、その処女にはじめて交わる男は必ずその命を失うという妙術でござる」
「妙術。八方斎、いかにも妙には相違ないが、それはまた、鶏を裂くに牛刀を用いる、という例えはおかしいが――あまりに仰々しすぎるではないか」
「むろん、ただ人一人を殺そうと思えば、匕首《あいくち》一本あれば足りまする。さりながら、時と場合、事と次第では、左様にあからさまな凶行は、人に知られて憚《はば》かりがある、ということが世にござりましょうが。とくに御政道の上に於て」
越前守はやや思案して、うなずいた。
「それは、あるな」
「左様な用向きこそ忍者のつとめ。かかる場合こそ、この忍法膜封印が御用の役に立つのでござります」
「忍法膜封印」
「つまり、その処女とはじめて交わる男は、これを以て封印され、とり除くはおろか、膜が粘着しておることすら眼には見えませぬ。しかしながら事実として、それ以来、尿《いばり》は一滴も出すこと能《あた》わず、数日のうちに尿毒を以て自滅いたすよりほかはござらぬ。……かかる忍法、時と場合、事と次第では御公儀のおんためお役に立つとは思召されませぬか、越前守さま」
伊賀八方斎は大きな鼻をうごめかした。
さすがの大岡越前守も、この奇怪な忍法には度胆《どぎも》をぬかれた風で、しばしじいっと伊賀組の頭の顔を見ていたが、やがて唇をひらいた。
「験《ため》したか」
「――は」
「その方はいま、それを以て人を殺し得る、と申したな。験さねば、わかるまいが」
「いや、まだ験したことはござりませぬが、その確信はござる」
「八方斎。……その方に、十九歳に相成る娘があったな」
越前守は突忽《とつこつ》として、別のことをいい出した。
「その娘に、その術をほどこして、験《ため》してみい。忍法のために、無数の伊賀組の女をいけにえにして来たその方、おのれの娘にそれを験《ため》すことは辞せぬであろうが。いや、かくてこそその方の修行がまことに御公儀のおんためを思うてか、それとも乱倫する股の役徳かを鑑別する神明裁判となる」
越前守の眼は、にっと笑っていた。
「娘を封印して、みごと人一人殺してみい。あとで報告をきく」
伊賀八方斎は、口をぽかんとあけたままであった。
二
組屋敷に帰って来た伊賀八方斎は、蒼《あお》ざめて、海坊主が土左衛門に変化したようであった。彼は居間にひきとって、腕こまぬいて鬱々《うつうつ》と思案していたが、やがて決然としたようすで、組屋敷の中に住んでいる誰《だれ》かを呼びにやらせた。
二人の若者が来た。
「お頭。――町奉行のお呼びは何でござったか」
と、不安げにきいたのは、美男、というよりのっぺりと面長《おもなが》で、どこか弱々しい翳《かげ》すらあるような若者であった。神坂外記《みさかげき》という。
「やせてもかれても公儀伊賀組を町奉行が呼びつけるとは、所管ちがいではござるまいか」
と、心外そうにきいたのは、顔色は黒漆《くろうるし》をかけたようで、眼大きく口大きく、みるからに精悍《せいかん》、というより獰猛《どうもう》と形容して然《しか》るべき若者であった。瓦《かわら》半九郎という。
「なみの町奉行ではないぞ。大岡越前守さまじゃ」
と、伊賀八方斎はうめくようにいった。二人の若者は、頭《かしら》のこんな懊悩《おうのう》した表情をはじめて見た。
「伊賀の女で、掟を破った奴がおる」
こういったとき、八方斎の形相は凄《すさま》じい怒りにふくれあがっていた。
「両人、わしに命をくれるか」
二人の若者はめんくらって顔見合わせたが、しかし、八方斎の昂奮《こうふん》し切った、とりとめもない、断片的な言葉では、何が何だかわからない。
ややおちついて八方斎は、きょうのいきさつを語り出した。大岡越前守の喚問の内容と、じぶんの応答をである。
「伊賀の女が、この八方斎にはじめて身をまかすことは掟ではないか、それを余人にうちあけることは掟にふれる。余人にうちあけた奴がいなければ、越前守さまのお耳に入るわけがない。――十数年来、はじめてのことじゃ」
八方斎は、そのことを切り出したときの越前守の顔を思い出した。初夜権――首長などが部族の処女をまず味見をするという原始的な慣習は、この時代、まだ山間などに残っていない風俗でもない。少くとも決して法律の対象にはならぬ行為である。ましてや伊賀組は、町奉行の所管外である。しかし、それを承知であえて切り出した越前守の顔の微笑のうらには、たしかに怒りと不快があった。こう見えて、なかなか敏感な八方斎にはそのことがよく読めた。
そして越前守はたんなる一奉行ではない。上様の分身とも目されている人である。とくに、将軍職につくや大奥三千の女官のうち、美女はことごとく放逐したほどその道には厳格な――少くともそんなスタンドプレイをしてみせた八代様の、ブレーントラストといわれている人である。――
だから彼は、あの場合、「忍法修行」を持ち出さねばならなかった。騎虎《きこ》の勢い、その内容について解説しなければならなかった。その結果、その方の娘を以てその忍法を実験してみせろといわれたことは意外であったが、それだけに奉行の不愉快ぶりがよくわかる。そして、いい出した人が人だから、いやがらせにしても、もはやのっぴきならぬ。――八方斎は、じぶんのいささか調子にのった解説を悔い、じぶんにも立腹し、かつ懊悩した。
「で、命をくれと申されるのは」
「その掟を破った女を探索して刺客になれとでも仰せられるのでござるか」
これまたぽかんと口をあけていた二人の若者はやがていい出した。彼らはいよいよ衝撃と不可解のきもちに捕えられていたのが、やっとわれに帰ったのである。
彼らとしても、この頭《かしら》のそんな忍法ははじめて知った。そういえば、伊賀組の女についてあれこれと思い出してみると、思いあたることがないでもないが、とにかく一党の中でも、女が告白しないという掟はいままでそれほど護られていたのである。
「いや、探索しても容易にはわかるまい。少くとも、越前守さまの申されたことの間には合わぬ」
八方斎は怒りと憎しみにみちた眼を二人にむけた。
「外記、うぬはお貞に惚《ほ》れておるな」
神坂外記の、のっぺりとした白い頬《ほお》に血の色がのぼった。
「半九郎、うぬもお貞を嫁にくれといくどか申し込んで来たな」
瓦半九郎のとび出した頬骨の肉が、かすかに痙攣《けいれん》した。
「娘をやるといったら、もらってくれるか」
八方斎のいったことは事実であった。しかし、いままで八方斎自身がくびをたてにふらなかったのだ。彼は二人の若者に不満があるのではなく、娘を人にやるのがいやのようであった。少くとも二人の自惚《うぬぼれ》はそう認めていた。それほど八方斎の娘への溺愛《できあい》ぶりは人目についたからだ。
ひとの娘はそんな目に合わせるくせに、じぶんの娘はそんなに溺愛するとは身勝手すぎる、とは二人は考えない。伊賀組の頭《かしら》の権威は絶対的であったし、それにそのお貞が父親の惜しがるのもむりではないと思われる美女であった。このいささか怪物的な父親からあんな美しい娘が作られたとは、それこそ「お頭の忍法ではないか」と冗談に評したくらいなのだ。もっとも、もう十年も昔に死んだお貞の母親は美しかった。
一瞬、二人の若者の眼はとび出すようにひかったが、すぐにためらった。気にかかる言葉がある。「両人のいのちをくれ」だと?――いや、お頭はいま、彼らをしばし茫然《ぼうぜん》自失させたことをいった。お頭が「膜封印」の忍法にかけた女と最初に交わった男は死ぬ。
「お頭。……お貞どのを下さる。またいのちをくれとおっしゃるのは?」
異口同音に二人はさけんだ。
「お貞はすでに膜封印がしてあるのだ」
「えっ。――いつから?」
「お貞が十三のときに」
信じられなかった。あの梅花のように清純なひとに。
「お貞どのは、それを御存じでござるか」
「いや、知るまい。十三のとき、あれが眠っておるあいだにしてやったわざじゃから」
伊賀八方斎は、大岡越前守への返答とは、ちょっとニュアンスのちがう事実をいった。が、眼にためらいはなく、依然として憎しみと怒りのこもった視線を交互に移して、
「当時まだそのわざの成否に確信はなかったが、お貞に妙な虫がつくことを怖《おそ》れるあまりに試みた。いま思うと、あれはあのままでよい。あの娘をわしの許しなくして犯した男は、必ず天罰を受けるであろう。――両人の切なる願いを、いままで斥《しりぞ》けたのはそのためもある」
「その膜封印とやらは、未来|永劫《えいごう》にとけぬものでござりまするか」
「だから、わしの許しがなければといった。わしならばとける。ただし恐ろしく手数がかかる。が、わしの見込んだ男があるときは、といてやるつもりでおった。――」
ふう、と二人は息をついた。
「このごろ、ようやく、これならば、と見込んだ男ができた。外記と半九郎じゃ。半九郎はこわさ知らずの根性と武芸のわざにまさり、外記は智慧《ちえ》と女たらしのつらにまさる。忍者には、その四つ、いずれも得がたい財産となる。それが両人に分けられておるだけに、わしとしても迷わざるを得ない。――そこに、このたびの越前守さまの件じゃ」
八方斎は、じろと二人をにらみつけた。
「娘の膜封印はといてはならぬ。最初に交わった男に死んでもらって、わしが独創した忍法のいつわりでないことをお目にかけねばならぬ」
うっと二人は息をつめた。
いまや二人は、頭の忍法を信じずにはいられなかった。……ふしぎなことに、伊賀八方斎は、二人にいままで忍法を指南したことはいちどもなかった。二人だけではない。組の中のだれにもそんなことを説教したこともなければ、組の中のだれもそんなことを訓練した者はない。ひたすら江戸城の門衛たる職責に奉公すれば充分にして可といった雰囲気《ふんいき》で、実のところ八方斎はその職務すら大儀そうなふしが見える。そのくせ、ばかに規律にうるさく、掟を喋々《ちようちよう》し、そのあたりだけ忍者の末孫《ばつそん》党らしく思われるが、要するにそれはじぶんに絶対服従をさせる横着な計算かららしい。――というような批判精神は、その指導理念で飼育された党の連中の頭には浮かんでこない。それにこの八方斎には、たしかに群をぬく知力と精力と、そして配下のだれにもない――それゆえに最も敬意を買う、変に学究的なところがあった。
これまで忍法のニの字もいわず、「忍法膜封印」など妙なことを口にしたのもきょうがはじめてだが、しかしそういわれて見ると、何も忍法など教えてもらったことがないのに、次第に二人の若者にその真実性を信じさせる妖気《ようき》と迫力を持った人物にはちがいなかった。
「いずれが死んでくれる」
と、八方斎はいった。
「いずれがお貞の封印をとく」
語法は問いのかたちをとっているが、命令だ。伊賀組首領の命令は絶対であるが、しかし――その報酬が小便つまりとはこれを如何せん。
じいっと二人の若者を凝視《ぎようし》していた八方斎は、ふいにいらだった声をあげた。
「お貞、お貞」
呼ばれて、一人の娘が座敷に入って来た。
「そこへ坐《すわ》れ」
お貞は行燈《あんどん》のかげに坐った。何も知らぬらしく、あどけない顔をかたむけて、不審げに三人を見つめている。
梅花のように清純な美貌《びぼう》だと見ていたが、いまそこに半身|朦朧《もうろう》とけぶり、半身|玲瓏《れいろう》と浮かびあがった姿に、息をのむほどの肉感がえがき出されたように見えたのは、いまその父親から妖《あや》しき膜封印のことをきかされたゆえか。
「拙者が!」
「拙者が!」
同時に二人の若者は、熱病の風に吹かれたようにさけび出した。
八方斎の海坊主みたいな顔を、満足と憎悪、好意と悪意、何が何だかわからない感情が交錯した。たたきつけるように彼はさけんだ。
「両人望むならば、果し合いのほかはない。勝った方にお貞の封印をとかしてやる。それでよいか?」
三
果し合いは二日ののちときまった。
とはいえ。――
こんなばかばかしい結果をもたらす果し合いがあるであろうか。負ければ、むろん殺される。そして勝っても、死ななければならないのだ。罰として死を与えられるというのではなく、褒美《ほうび》が死なのだ。
智慧《ちえ》に於て半九郎にまさる、と評された神坂外記は、当然この思いにとらえられた。しかし、さすがに逐電という考えは頭に浮かばなかった。それこそ伊賀一党の掟《おきて》により、死以外の何者でもなかった。
逃げない以上、瓦半九郎と果し合いをしなければならぬ。果し合いする以上、ともかくも勝たねばならぬ。それが先決問題だ。
勝って、尿《いばり》の穴がつまって死ぬということも考えものであったが、負ければただ死ぬのである。ほんとうなら、と外記は思案した。死なない程度に負傷して負ける。すると勝った相手がまずお貞どのの封印をといて死んでくれる。そのあとで、こちらがお貞どのをいただく、という具合にゆけばいちばんいいのだが。――
しかし、再考してみるのに、そういうことになって果してじぶんにお貞が与えられるかどうか、その保証はなかった。だいいち、あの獰猛《どうもう》な瓦半九郎が、ともかくも最初にお貞の雪の精のようなからだを思いのままにするということは、想像しただけで血管がはじけそうであった。さらに、それは耐えるとしても、獰猛な瓦半九郎が、死なない程度にじぶんを負かすという手ごころを加えてくれそうには思われなかった。智慧は劣るとはいっても、ばかでない以上、こっちの下心を察しないはずはないからだ。
やっぱり果し合いには勝たねばならぬ。恐怖と焦燥《しようそう》の渦《うず》の巻いた果てにおちてゆく結論の穴はそれであった。
が、そもそも尋常《じんじよう》に立ち合って、半九郎に勝てるのか?
実は、両人ともに八方斎から忍法など指南されたことはない。ただ半九郎は、八方斎がいったように武芸には通じている。通常の剣法だが、あの面がまえをみてもわかるように、その方では旗本連の中でもちょっと太刀打ちできる者がないほどの使い手であった。
外記は、その点ただ一応たしなんでいるという程度であった。党に伝わる忍法の古書などひもといて、これは面白いと思ったものもあり、ちょっと新工夫を加味してみたものもあったが、少くともこんどの果し合いにものの役に立とうとは思われなかった。
「忍法。――」
改めて狼狽《ろうばい》しつつ、外記はつぶやいた。
「しかし、おれはそれを使うよりほかはない」
第二の結論はそうであった。じぶんの工夫したものの中に、何かないか?
何もない、という判断を下したあげく、彼の頭に、ふと八方斎の言葉が浮かんだ。
――智慧と、女たらしのつら、それも得がたい忍者の財産となる。
「それだ」
第三の結論はこれであった。
決闘の前夜、神坂外記は頭《かしら》の屋敷のお貞の部屋に忍びこんだ。これくらいのことには、彼が独習した伊賀流の古典が役に立った。
もはや寝衣に着かえていたお貞は、四つン這《ば》いに這って来た男をふりかえって、顔色を変えた。
「あれ」
「おしずかに。……外記と半九郎のいのち、ひいてはあなたの運命にもかかわる大事でござる」
外記は悲劇的な表情でいった。意識した表情であったが、実際に悲劇的な心境でもあった。
外記の様子ばかりでなく、その言葉の内容そのものにお貞は呪縛《じゆばく》されたようであった。
「そのことじゃ、外記どの、わたしのために二人が果し合いをするときいて、わたしは胸もつぶれるような思いです。父上にきいても、詳《くわ》しいことは何もおっしゃらぬ。――」
そういいかけて、お貞はまた父の存在に気がついて、不安げにその方角を見た。
「父がくるとこまります。話はあとできく。外記どの、いって」
「お父上はおいでにならぬ」
と、外記はいった。
「夕刻、江口どのの娘、おようどのが来て、それ以来御密談中でござろう。実はお父上は、おようどのといま重大な秘儀をとり行われておるはず」
「秘儀?」
お貞の問いには答えず、
「お貞どの、話はあとできくと言われても、もはやそんな余裕はない。――まず、おききなされ」
と、外記は話し出した。伊賀八方斎の独創「忍法膜封印」の由来と、はからずもそれが呼び出した波瀾《はらん》を。
「お貞どの、あなたは御自分の御封印を御存じか」
「――そんな、たわけた!」
あかくなったり、蒼《あお》くなったりしてきいていたお貞は、ここに至って、ただ燃えるような顔色になってそうかぶりをふったが、ふいに不安そうな、自信を失った表情を凝固《ぎようこ》させた。
「心あたりがおありか」
「そういえば。……」
はじらいに、ふるえるお貞から、外記はやっときき出した。ここ数年、父の八方斎が数度この部屋へ、先刻の外記のごとく四つン這《ば》いに入りこもうとし、彼女に怒られてスゴスゴ逃げていったことがあるというのだ。
「まさか、いかに好色なお頭でも」
と、いいかけて外記はあわてて言葉を換えた。
「それは、あなたの膜封印とやらのその後の経過を観察に来られたのではないか」
「そんなおぼえは……いくら十三でも……わたしにはありませぬ」
「いやいや、ふだん拝見していた以上に――きけばきくほど人間ばなれしておられるお頭だ。まちがいなし」
そういって、外記は改めてお貞を見て、全身の血がやき爛《ただ》れるほど熱くなるのをおぼえた。長襦袢《ながじゆばん》だけのお貞は、別の女人を見るように、凄じいほどのなまめかしさであった。
歯をくいしばって抑制し、彼はお貞をくどき出した。
彼はじぶんの美男ぶりとくどきかたには自信があった。うぬぼればかりではなく、お貞が以前からじぶんに好意を持っていることを見ぬいていた。それがいままでものにならず――最近に至って、別にくどき落した伊賀組の或《あ》る娘と祝言しようかと覚悟していたのは、ただただお頭がこわかったからだ。頭領の拒否は絶対的であった。
さて彼は、いまや意を決してお貞をくどき出したが、一方で死物狂いにおのれを抑制している。こんなくどきの例はあまりなかろう。「……忍者たるもの、またつらいかな」と彼が心中に嗟嘆《さたん》したほど、それは心理の曲芸であった。
なぜなら。――
「お貞どの、わしを愛して下され」
といったあとで、
「そのまえに、瓦半九郎を愛して下され」
と、切願したからだ。
つまり彼は、今夜ただいま、お貞を抱いてはならぬのである。抱けばこの世の終りなのである。
最初にお貞を抱く者は、瓦半九郎でなければならなかった。むろん友情などでありはしない。彼は決闘の敵である。それは想像するだに心腸九廻するほどの大苦痛であったが、半九郎に勝つためには、やはりそれ以外に法はなかった。彼はおのれにいいきかせた。おれは忍者だ。忍者ならこれくらいの苦計はめぐらさねばならぬ。忍者ならこれくらいの犠牲と苦痛には耐えねばならぬ。
そして彼は、くどきの術の極をつくしたあげく、ついにお貞にこのことを承知させたのだ。
じぶんの膜封印など全然信じないお貞が、しだいに半信半疑となり、ついに信じ、一方で外記の恋の告白にウットリとなり、その哀訴に涙をこぼし――最後に、この男を救うために、同時に瓦半九郎を自滅させるために、半九郎にじぶんの処女を与えることを約束させられたのだ。
きらいな男と結婚する前に、好きな男に処女を与えるという女はよくあるが、こういう例はほかにまずなかろう。
「わしがいえば、きゃつ警戒しようが、あなたから半九郎を呼んで魅惑なされたら、きゃつ前後を忘却し、美肉を見た餓狼《がろう》のようになろう」
外記は歯ぎしりをしながらいった。
「すぐにひそかに使いを出して半九郎を呼ばれい。今夜のうちに願い申すぞ」
同じ時刻、伊賀八方斎は、おのれの書斎たる蔵の中で、一つの秘儀に夢中になっていた。
それまで彼は机に向って沈痛荘重な顔で何やら書き物をしていたのだが、伊賀組同心江口某のおようという娘がやって来て、結婚の許可を受けるべく相談しかけると、
「なに、神坂外記と?」
と、ちょっと首をかたむけたが、たちまち自制心が酔い痴《し》れたような表情になり、書き物を早々にしまいこみ、さてそれからその娘をとらえて、その秘儀にとりかかったのだ。
彼はまず、彎曲《わんきよく》した剃刀《かみそり》みたいな変な刃物で、その娘から膜を採取した。それを棚《たな》にならべてある無数の古怪な小壷《こつぼ》の一つにうやうやしく納めた。ふたをとると、強烈な酒と薬の入りまじった匂《にお》いがした。それから、その娘をオーソドックスに犯すことにとりかかった。
こんなことがそうスムーズにゆくはずはないと思われるが、それが想像外にスムーズにいった。娘はこの首領から放射される異様な精気と妖気《ようき》にくるまれて、まるで麻酔薬を吹きつけられた昆虫《こんちゆう》みたいになってしまった。
「……どうじゃ、およう、どうじゃ?」
紅貝《べにがい》のような娘の耳たぶを、厚い唇でくわえてひっぱりながら、
「わしに、こう可愛がられて、わしをにくんだり、あとで恨んだりする女のあろう道理がない。しかも、あとで花婿《はなむこ》に金輪際わからぬ手管《てくだ》も念入りに教えこんでつかわすに。……いかにして越前めは知りおったか」
肉欲と怒りの炎が、海坊主みたいな巨大な頭を茹《ゆ》でて、伊賀八方斎はいまにも血を吹きそうな顔色であった。
――もともと卒中性体質の伊賀八方斎ではあったが、この夜彼が突然|脳溢血《のういつけつ》を起したのは、たしかにいままでとちがうこの異様な悩みと昂奮のせいであったに相違ない。
明け七ツの時刻、彼は腹上死をとげた。
四
決闘の日が来た。時刻は夜明けの六ツ。場所は伊賀八方斎の屋敷の裏庭。
晩春というのに、一本の木もない荒涼としたその庭には、うす白く晩霜《おそじも》さえも下りていた。そこに凝然《ぎようぜん》と神坂外記と瓦半九郎は向い合っていた。
検分役は、八方斎の叔父《おじ》にあたる伊賀|丹免《たんめん》という九十七歳になる人間の干物《ひもの》みたいなヨボヨボの老人である。本来なら、八方斎が検分するということになっていたのだが、その夜彼の急死という異変が起って、やむなくこの長老がひっぱり出されたのだ。
数刻前にこの椿事《ちんじ》が発見されてからのあわただしいいきさつは略す。
とにかくお貞は、神坂外記と半九郎を呼びにやらせ、両人の合議によって一族の長老たる伊賀丹免を招いたのである。
丹免は、ともかくも一両日八方斎の死を秘し、いそぎ養子を届け出るよりほかに伊賀宗家を永らえさせる道はないという意見をのべた。
すると、半九郎は、われら両人がかねてからお貞どのの花婿の候補者としてお頭に擬《ぎ》せられていたことを述べ、かつそのいずれかは両人の果し合いによることに決まっていたことを力説した。
八方斎の急死は、二人の運命の予定のコースを変更させる妨げとはならなかった。むしろ、決闘の時刻はその日の正午ということになっていたのに、事を急ぐため、かえって急にくりあげられることになったのだ。
で、外記と半九郎は、いま凍りついたように霜の庭に対峙《たいじ》している。
神坂外記の白い皮膚は鳥肌《とりはだ》になっていた。寒さのためではない、決闘の恐れのためだ。
それとは別に――彼の心を凍りつかせている思いがあった。ほんの数刻前、半九郎がお貞を抱き、その処女を破ったということだ。
事実彼は、数刻前にこの屋敷の裏木戸から出て来た半九郎の姿を、物蔭から見ている。そしてそれぞれ帰宅してまもなく、八方斎の死という意外な知らせを受けたのである。
八方斎のところへ、いいかわしたおようをやったのは外記自身で、それはこの夜八方斎の注意をお貞からそらせる陽動作戦であって、それによって頭《かしら》が死のうとはまったく計算外のことであった。しかし、半九郎にまずお貞の膜封印をとかせることは、彼自身の切願であった。にもかかわらず、その光景を想像すると、彼の胸には苦悶《くもん》の氷片がきしめかざるを得ない。
しかも、甚《はなは》だ矛盾したことだが、ついに到来した決闘の時にあたって、そのことが果してうまくいったかどうか、恐ろしい不安に彼は鳥肌になっているのだ。お貞に逢《あ》って、そのことをたしかめるいとまがなかったのだ。
が、半九郎が伊賀家の裏木戸から出て来たとき、夜目にも弛緩《しかん》した表情をしていたことといい、お貞がこの場に姿を現わさないことといい。――やったのだ。十に九までまちがいなし。
しかし。――このときに及んで、なお半九郎の醜怪な顔に、陶酔の余韻が消えていないのはどうしたことだ。
次第に外記の胸に、或る恐怖がひろがって来た。
忍法膜封印によって、相手の尿《いばり》の穴はふさがれるという。それに相違はないとしても、封印されてから半九郎は、まだ尿意をおぼえる時間に達してはいないのではないか。――果し合いの時刻がくりあげられたのがたたったのだ!
「外記」
瓦半九郎は呼びかけた。
「おれの尿《いばり》の穴はふさがったわやい」
その言葉のあとに、ケケケ、というような得意そうな笑いが尾をひいた。
「といえば、わかるだろう。外記、どうだ?」
外記はとっさに応答の辞を失った。狙《ねら》いはあたったのだ。それすらも半九郎は自覚せぬ。しかし。――
「どうせ、おれは死ぬ。それだから、うぬも生かしてはおかぬ。うふふうう。うぬに、あれほどの法楽は、絶対に味わわしてはやらぬ」
まさに狙いはあたったが、それが逆の目に出たことを外記は知った。
「では、やるか。――勝負にもなるまいが、外記、抜け」
半九郎の顔は朱色に染まった。もはや恍惚《こうこつ》の翳《かげ》はない、ただ力感に倍ほどもふくれあがって、
「抜かねば、そのまま討ち果たす。殺すぞ。こ、こ、殺してやるわ、外記。――」
瓦半九郎の腰から、厚手の豪刀がほとばしり出た。
反射的に抜刀して、神坂外記はとびずさった。絶望にその顔が土気色になっていた。
痙笑《けいしよう》とも形容すべき形相でこれを追う瓦半九郎の顔も、このとき朱色から蒼白《そうはく》に変っていた。それをただ殺気の変貌と感じ、塀《へい》ぎわに背をおしつけてついに動けなくなった神坂外記の眼前一メートルの距離で、歯をくいしばって大刀をふりかぶった瓦半九郎が、突如そのまま棒立ちになった。
何かに耐えているかに見える。――
数刻とも感じられる数秒ののち、その手から刀がおちた。半九郎は両手を下腹部にあてて身を折釘《おれくぎ》みたいに折った。
ちょうど最敬礼したような半九郎の頭を、外記のうろたえた刀身がたたきなぐった。あまり忍者らしくもない、垢《あか》ぬけのしない決闘であった。
「……なんじゃい?」
下唇をつき出し、キョトンと眼をむいている縁側の丹免老にも劣らず、神坂外記は茫乎《ぼうこ》として、血しぶきの中にのめり伏した瓦半九郎を見下ろしていたが、やがてはっとして駈け寄り、そのからだを反転させた。
彼は忍法古典にあった解剖《ふわけ》図による知識で、屍体《したい》の膀胱《ぼうこう》とおぼしきあたりに刀身をつき立てた。ひきぬくと、血まじりの黄色い液体が三メートルも噴きあがった。
日本人の膀胱の最大の容量は平均四七三ccだということであるが、その倍くらいはありそうな――ビール瓶にして一本半分くらいはありそうな――物凄《ものすご》い尿量であった。
五
伊賀八方斎の死を秘して、急ぎ養子縁組の届けを出し、神坂外記とお貞が祝言の式をあげたのはその日のうちであった。
ところが、お貞は、それから二夜、外記を拒否した。
それを父の死に憚《はば》かってのことかと思っていた外記は、三夜めに、そのわけをきいて、
「あなたは、卑怯者《ひきようもの》です」
という返事をきき、軽蔑《けいべつ》にみちたお貞の瞳《ひとみ》の奥に、ふっと――野獣のように彼女を犯している瓦半九郎を見たような気がして、愕然《がくぜん》とした。
「わたしは半九郎どのに、あなたはこれで死なれてもよろしゅうございますか、とききました。半九郎どのは、かまわぬと答えました。あのひとは、真一文字でした」
「……そ、そんな話ってあるか」
狼狽《ろうばい》し、怒りがこみあげ、祝言をあげた夫らしくもない凶暴な動作で妻に襲いかかった外記の行為は、不謹慎にもそのときヨタヨタと転がりこんで来た伊賀丹免老のために妨げられた。
「お貞、外記、知っておるか。蔵に、八方斎の遺書らしきものがあったわやい」
伊賀八方斎の書きかけの遺書。
「恐れながら大岡越前守様に申しあげ奉り候事。
伊賀組女どもの儀越前守様の御立腹重々ごもっとも恐れ入り奉り候。その節拙者あれこれ陳弁つかまつり候えども、狼狽のあまり苦しまぎれに多少|虚妄《きよもう》にわたれる言説これあり候ように覚え候あいだ、改めてお耳を汚《けが》したき儀これあり候。
いつのころよりか拙者処女の膜に学問的興味をおぼえこれを蒐集《しゆうしゆう》いたすことを八方斎の生まれ甲斐《がい》とも覚悟つかまつり候。もっとも、それを採取いたすにあたり女の口ふさぎをかねて拙者の好色を満たし候ことはまことに恐れ入り奉り候えども、この処女膜蒐集という本来の大目的の偽りならざることは、曾《かつ》て拙者の娘のものすらいくたびかとり調べんとしたるところを以て御|憐察《れんさつ》願いあげ奉り候。
この愚行の果てにはからずも越前守様御機嫌を損じ奉り候段自業自得とも申すべきなりゆきに候えども、そのゆきがかりより伊賀の若者の命二つを失いかねぬ破目と相成り候は八方斎にとっても甚だ遺憾《いかん》に存じ奉り候。すなわち八方斎の娘を執心いたす若者二人果し合いいたす顛末《てんまつ》と相成り候ことに御座候。
実は八方斎かほど年来苦心蒐集いたせし膜を、なんら学問的貢献なくかくもやすやすと無益に破らんとする若者めらがいかにもつらにくく、果し合いさせてその一人落命いたさせ、あと一人はのちほど一服盛りて然《しか》るべく始末しても苦しからずとまでいちどは思い極め候えども、再考いたすにやはりこのことまことにふびんと存じかつは狂気の沙汰とも思われ、そのまえに拙者腹切りて越前守様に虚妄の説を申しあげ候ことをおわびいたす覚悟を相固め候。
すなわち忍法膜封印|云々《うんぬん》のことはまったく世にあり得べからざる荒唐無稽《こうとうむけい》のことに御座候。ただ八方斎の蒐集せるは真実にして、それを練りも粉にもいたさずただただ大切に収納保存せる壷は、のちほどお手許におさし出し申しあげるべく、家人に申し残しおく所存に御座候。
越前守様にはいよいよ御立腹のおんことと恐れ入り奉り候儀には御座候えども、八方斎の信ずるところでは、これは後代学界に伝うるに足る尊き標本にて、古怪なる伊賀忍法などにまさること百倍なることは神仏も御照覧」
遺書はここで切れていた。
――では、瓦半九郎の膀胱はどうなっていたのだ?
神坂外記が茫乎《ぼうこ》としていたのも数刻のことである。お貞はもとより、おようにも一指も加えないのに、彼もまたおのれの尿《いばり》がどうしても出なくなっていることをやがて知った。
身を折釘みたいに折っている夫外記など眼に入らないもののように、お貞はまだ夢みるような瞳を茫と宙になげて坐っていた。
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逆艪《さかろ》試合
一
いや、強い女が現われたものである。
朧《おぼ》ろな月ののぼりかかった春の宵、木挽町《こびきちよう》の柳生屋敷の門前に一挺《いつちよう》の駕籠《かご》が下ろされて、中から黒紋付に繻子《しゆす》の野袴《のばかま》、深編笠《ふかあみがさ》の武士が立ち現われた。そのままスタスタと屋敷に入ってゆこうとするその深編笠のうしろから背にかけて、これはしたり、黒髪がバサと腰のあたりまで垂れている。
番小屋から怠惰《たいだ》な眼でこれを見ていた門番が、朧ろな黄昏《たそがれ》のひかりにこの髪に気がついて、さすがにあわてて、六尺棒をつかんで駈け寄った。
「待たっしゃれ!」
「采女《うねめ》さまにお逢《あ》いしたいのです」
と、深編笠はいった。果せるかな、ややふといが美しい女の声であった。門番は狐《きつね》につままれたような顔をして、
「あなたさまは……どちらさまで?」
「小野のものです」
「小野?」
「九段下の小野助九郎の娘。――」
「――あっ」
門番が六尺棒をとりおとし、眼をむいているあいだに、この異形《いぎよう》の女は同じ歩調でスタスタと歩み去って、玄関の方へちかづいた。
すると、その玄関から人が出て来た。出て来ながら、宵《よい》の月を仰いで宗十郎|頭巾《ずきん》をかぶりかけていたが、ふとこちらに歩み寄ってくる影に気がついて、怪しむように立ちどまった。
「柳生采女さまではございませぬか」
前に立って、深編笠をとった。
「小野のお琉《りゆう》です」
夕《ゆう》べのひかりに、眼鼻だちのくっきりした美貌《びぼう》は、あきらかに女のものであった。きらきらとかがやく眼がくい入るように相手を見すえて、
「はじめてお目にかかります」
柳生采女は、ぽかんと口をあけていた。――これは彼の婚約者だったのである。門番だってその話はきいている。だからいま、名乗られて、驚いたのだ。婚約者だが、しかし当人どうしが相見《あいまみ》えるのは、まさにはじめてのことであった。
柳生采女は一分ばかりあけていた口をとじた。口をとじても、長い顔であった。それからいった。
「まず、おあがりなさい」
「どこかへお出かけでございますか」
かりにも一万石のあとつぎである。それがどうやら他出のていと見えるのに、供の者の気配もない。
「いやなに、たいしたことではござらん。とにかく、奥へ」
「お待ち下さい。わたしはこんな姿で、人目を忍んで参りました。内密のお話があるのですが、早う用をすませて帰りたいのです。いっそ、すぐに御道場の方へお伺わせ下さいまし」
「――ほ、道場へ」
柳生采女はあらためてこの婚約者の、異様にしてかつ颯爽《さつそう》たる姿を、ふしぎそうにちらっと見たが、めんくらった表情のまま、玄関の方へひき返してゆく。
「こちらへ、こちらへ」
はじめて、家臣らしい影が、四つ五つあらわれた。その様子からみると、彼らは若主人の外出そのものも知らなかったらしい。「……用あれば、手を鳴らす」と、采女は彼らにいって、お琉のさきに立った。
音にきこえた木挽町柳生の上屋敷。最初柳生の屋敷は、初代|但馬守《たじまのかみ》在世のころは霞ケ関にあり、その後、正徳《しようとく》年間、五代目備前守|俊方《としかた》の時代にこの築地木挽町に移った。それから三十年ちかくたっているはずだが、この荒れ方はただ歳月のわざとばかりはいえないふしが見えた。手燭《てしよく》に、ところどころ、蜘蛛《くも》の網のひかっているのさえ見えたのである。
しかし、道場はさすがに宏壮なものであった。宏壮なだけに、いっそう荒れ果てて見える。うっすら塵《ちり》さえつもっているその床に、二人は相《あい》対坐した。
「……仰せの通り、はじめてお目にかかるが」
と、柳生采女はともかくあらためて頭をちょっと下げた。
「このたびは、どうも」
妙な挨拶《あいさつ》だが、これは婚約のことを意味しているらしい。異形《いぎよう》の婚約者は顔をあからめず、しげしげと荒廃した道場の天井や柱を見まわしていたが、眼にはあきらかに失望のひかりがあった。その眼が、柳生采女にもどった。
「あまり、ここはお使いにならないのですか」
「左様ですな。……あまり使わぬようですな」
ひとごとのようにいう。――顔は長いが、美男にちがいない。しかし、代表的剣家のあとつぎとは思われない。よくいえばのんき、わるくいえば自堕落な靄《もや》のようなものが、フンワリとその長い輪廓をけぶらせている。
「それにしても、お琉どの、でしたかな。これは珍客じゃが、しかしお姿もまた変っていますな」
じぶんを見ている眼が笑っているのを見ると、はじめて娘の頬《ほお》に血がのぼった。その姿に恥じらったのではなく、怒りの紅潮であった。お琉どの、でしたかな、というそらぞらしい挨拶はなんだろう。この男は噂《うわさ》にきいた通り、頭の方は少し霞がかかっているのではなかろうか。
「で、なんの御用で? いかにも御側《おそば》御用人大岡出雲守さまから、小野どのの御息女を妻にもらえ、という話はありましたが、それにしてもその御息女が、黄昏《たそがれ》、嫁入り前にここへおひとり乗り込んで来られるとは」
くびをかしげて、
「相当なもの……。いや、驚きましたな、これは」
といった。お琉はきっとしていった。
「采女さま、わたしと立ち合って下さいまし」
「えっ、わしと、あなたが?」
柳生采女は、また口をあんぐりあけた。
「なんのために?」
「わたしの夫となるお方のお腕前を知りたいのです」
采女はにやにや笑い出した。
「せっかくだが、柳生流は将軍家指南。つまりお為流《ためりゆう》で、他流との試合は御禁制となっておる」
「逃口上《にげこうじよう》でございますか采女さま、将軍家御指南――お父上さまはながらく御病床にあり、あなたさまがそのあとをおつぎあそばすことになっている以上、本来ならあなたさまが上様御指南をなさるはずなのに、いまだにそのことがない。お呼び出しがないときいております。またそのことを申せば、小野家ももとは将軍家御指南の家柄でございました。つまり、同格です。わたしが申し込めば、むげにおしりぞけなさることはございますまい。あなたさまの柳生新陰流とわたしの小野派一刀流、いずれがまさるか。――」
お琉は、右に置いた一刀をつかんだ。それが木剣であることに、はじめて采女は気がついた。
「いざ、お起ちなされませ、采女さま!」
彼女は、片膝《かたひざ》立てた。
いうまでもなく、黒紋付に野袴、髷《まげ》をといてただ結び、背に長く垂らしてここに乗りこんで来たのは、そのための仕度《したく》であったに相違ない。
男なら、だれが見ても、この男装の美女は凄艶《せいえん》をきわめ、少くとも猟奇的な興味にかがやく眼をそそがずにはいられないはずなのに、柳生采女が、
「左様か」
と、いった声にも、そのまま無防備にくるっと背をむけて立っていった動作にも、全然|昂奮《こうふん》というものがなかった。
彼は道場の羽目板にかかっている木剣をとりにいった。
「やむを得ん。では」
道場の床には、青銅の手燭が一個置かれてあるだけであったが、武者窓にはまだ黄昏のひかりが残っていたし、試合するのにことさら不都合はなかった。
しかし、妙な試合だ。これは婚約者どうしの、しかもはじめて相見《あいまみ》える二人の試合なのである。
柳生家七代目の当主たることを予約されている柳生采女|俊峯《としみね》は、旧臘《きゆうろう》、大岡出雲守忠光から、九段下の旗本小野助九郎の娘との縁組を内示された。当時、廃人にちかい将軍家重のお側にあって、飛ぶ鳥をおとす御用人たる人からの強いすすめだ。だれにしても、よほどの理由がなければ、辞退はできなかった。で、この一対《いつつい》は、目下婚約中ということになっている。木挽町と九段と、ほんの眼と鼻のあいだに住む婚約中の男女が、いままでいちども逢ったことがないというのは、この当時では珍しくはない。むしろ武家の世界では、それが当然ですらある。それどころか、女の方から男の方へ乗り込んでくるということが異常な椿事《ちんじ》だ。まして、女から男へ、武芸の試合を挑《いど》むとは。――
女は、深編笠をかぶっていれば、決して不自然には見えないほど大柄であった。やや、ふとり肉《じし》でもある。が、面《おもて》をあらわせば、まさに美女だ。眼鼻立ちがくっきりして、強烈な夏の花を思わせる。それが、すっくと立って、木剣を青眼にかまえ、大きい黒い眼をきらきらとかがやかして、
「小野派一刀流です。采女さま、お手かげんは無用!」
いらだったようにさけんだ。
対する采女は、もとより柳生新陰流、鼓舞《こぶ》されるまでもなく、相手のかまえを見た刹那《せつな》、その眼がちょっと大きくなった。決して女と見くびるべきでない相手と知ったのだ。で、一見したところ、采女のフォームに毛ほども崩れたところは見えなかったが、
「御免!」
床を蹴《け》って打ちかかったお琉の木剣には怒りをおびた風音がひびき、その声にはすでに勝利のひびきがあった。
音たてて采女の木剣は大きくころがり、一メートルばかりとびすさった采女は手首をおさえて、
「参った」
といって、お琉の顔を見て、にやにや笑った。
「采女さま。……わざとでございますか」
「いや、そうでもない。――」
「わざと負けてやったのだとお言いになりたいのでしょう。わたしもほんとうに勝ったとは思いませぬ。……いずれにせよ、お手並のほどはわかりました」
黒い、迫力のある眼に冷笑が浮かんだ。
「采女さま、わたしはあなたのところへお嫁に来て、力を合わせて小野家を再興し――いいえ、このごろは影うすい柳生家をもふたたび天下の剣家として名をあげさせたいと望んでいました。けれど、ここでお琉は、もういちどかんがえ直させていただきます。よろしゅうございますか」
そして女は木剣を腰にもどし、深編笠をひろって道場を出ていった。
口をあんぐりあけてこれを見送っていた柳生采女は、やがて、
「ずいぶん一方的な女だな」
とつぶやいて、それからつけ加えた。
「毛も濃《こ》そうだ」
二
「……しょっておるわ」
――その夜、柳生采女は、この話を絵太夫右近にした。
「で、おまえさまは、わざとお負けなされましたのかえ? それとも、本気を出せばお勝ちなされましたのかえ?」
と、右近はきいた。采女はくびをひねって、
「しょってもおるが、腕は相当なものではあるな。それにあの向うっ気の強さ、女ながら、あの気の強さだけで、たいていの旗本が呑《の》まれてしまうかもしれん」
「いや、おまえさまのことでございます」
「わしか。わしは本気になれんのだからわからん。ああいう女は苦手《にがて》だな。こういう女にほんとに女房として乗り込まれては一大事、と思ったとたんにもう気合が入らなくなってしまったよ」
彼はにやにやしている。べつに負け惜しみでもない。明るい顔だ。ちょっと枕絵《まくらえ》の殿様に似たところがないでもない。じぶんで盃《さかずき》に酒をついで、
「いや、本気を出してもあやしいな。おまえを知ってから、すっかり弱くなってしまったよ」
と、その酒を右近の口にそそぎ入れた。右近は、采女のあぐらに横坐りになって、背を采女の胸にもたせかけている。
「あんな女はごめんだ。腕の立つのはいいとして、あんまり野心的でありすぎる。かならず、夫を剋《こく》する女だな」
右近の白いあごに手をかけて、あおのかせた。ふたりの顔が合い、唇《くちびる》が合って、酒は右近の口から采女の口へ吸いこまれた。
「奥方さまをおもらいになってはいやです。采女さま」
たおやかな腕を采女のくびに巻きつけて、右近はささやいた。
だれがこれを男と思うだろう。髪は高島田に結《ゆ》いあげている。銀の簪《かんざし》をきらめかしている。友禅の大|振袖《ふりそで》を着ている。伽羅香《きやらこう》の匂いがしている。――しかし、絵太夫右近は少年であった。
柳生采女、あまり品行がよろしくない。彼が来ているのは芳町《よしちよう》の蔭間《かげま》茶屋であり、彼が盃を交しているのは、蔭間、すなわち現代のゲイボーイなのであった。
ただこの時代、いわゆる衆道《しゆどう》が、現代ほど不道徳、または変態的なものとされていたかどうかは疑問である。――この道は洋の東西を問わず、プラトンは、その対話篇で少年キャルミデスの美をたたえ、中国には早くから「後庭花」といういとも文学的な言葉がある。日本でも平安朝以来、稚児《ちご》にまつわる悲恋物語は人々の心を打ち、戦国の世にはむしろ恋童《れんどう》のことは、女に眼じりを下げるより武士らしい行為として目されていたふしがある。織田信長と森蘭丸、関白秀次と不破《ふわ》伴作、蒲生氏郷《がもううじさと》と名古屋山三郎などの話は世にきこえている。
実際、あけぼののような美少年を愛するのは、ブヨブヨ、グニャグニャした女体を抱くより、はるかに清爽《せいそう》で、詩的で、夢幻的ですらあるだろう。
ただこれらの例は、美少年を美少年として愛したのである。これが女装し、かつ商売するとなると、だいぶあやしげな雲がかかってくる。
江戸時代の男色は、女|歌舞伎《かぶき》を禁じられたことから、逆に花ひらいた。それに代って登場した若衆歌舞伎の魅力が男たちの心魂《しんこん》をとらえたのである。若衆が色を売り、かつそれがべつに不潔視されていなかったことは、たびかさなる禁令にもかかわらず、西鶴《さいかく》に「男色大鑑」の作あり、また「好色一代男」の世之介が一生のうち三千七百四十二人の女とともに七百二十五人の男を愛したとかいてあることからもわかる。
そして、この江戸のゲイボーイは、元禄《げんろく》期からさかんとなり、宝暦《ほうれき》、明和《めいわ》、天明《てんめい》にいたってきわまった。この物語はその中間にあたる寛保《かんぽう》時代の話だが、ごらんのごとくこの芳町には蔭間茶屋が軒をつらね、宵となると祇園囃子《ぎおんばやし》とともに軒行燈《のきあんどん》に灯が入り、そしてその行燈にれいれいしく書かれたスタッフたる美少年たちの名が妖《あや》しく浮かびあがってくるというメカニズムとなっているのである。
ところで、ここに柳生宗家七代目となるべき柳生采女が通ってくる。これは、いま思うほど男色が異常でない時でも、いくらなんでもあんまりだ。
実は采女は、柳生家七代目たる運命がきまってからここに通い出したのではない。――もともと彼は信州松代十万石の真田|弾《だん》 正《じようの》 忠《ちゆう》の四男坊で、ほんの二、三年前、中風になった柳生六代目飛騨守|俊平《としひら》のところに養子にもらわれた男なのであった。家柄もあるが、むろん剣の手筋がいいのを見込まれたのだ。
たとえ家柄は大名でも、四男坊ではどうしようもない。――なまじ腕が立つ、いささか顔が長きにすぎるとはいえ、なかなかの男前で、しかもひどくのんきなたちだけに、その冷飯食いの時代、彼は大いに遊んだものだ。そのころ、ふと悪友に誘われてこの芳町へやって来て、そしてたまたまめぐり逢ったこの京屋という茶屋の蔭間絵太夫右近に、全然いかれてしまったのである。
ちょっとした遊び手であっただけに、かえってこの衆道の味を知ると、その無限の深みにはまりこんでしまったようだ。
で、いま、柳生家の養子になっても、かくのごとく、ノコノコ、フラフラとこの芳町にやってくる。いくら宗十郎頭巾に面《おもて》をつつんでも、またほかに武士の客も少くはなかった時代であっても、何といっても一万石のあとつぎだ。白日のもとにさらされたら、とうていただではすまなかったろう。
しかし彼は、その冒険を敢《あえ》てしのぶほど、この絵太夫右近を愛しているのであった。
そして、蔭間絵太夫右近もよくこの知遇にこたえた。
采女はもともと右近を美少年そのものとして愛したのである、はじめて知ったころ、右近は濡羽色《ぬればいろ》の前髪をふさふさと揺すり、紫の大振袖に精好《せいごう》の衿《えり》といういでたちであった。むろん蔭間としての衣裳《いしよう》で、ほかにも同じようなスタイルの仲間がいるが、しかし采女はふしぎなことに、惚《ほ》れた欲目かも知れないが、この右近にかぎって――右近にその素性《すじよう》をきいても、恥じらうように笑むばかりで答えなかったが――これは、ひょっとすると武家の生まれではあるまいか、と感じたほどりりしい匂《にお》いがあったのだ。
が、まもなく右近は、いま見るような女装に変った。
「芳町は坊さまござれ後家《ごけ》ござれ」
「女でも男でもよし町といい」
という当時の川柳がある。
この蔭間茶屋は、男性女性ともに客とした。男は侍、町人のほかにとくに坊主が多く、女は御殿女中や後家が多かった。こんな場所でも京屋くらいになると、吉原同様の格式ができていて、手当り次第に若衆を呼ぶわけにはゆかない。そのルールを男の方はまもってくれるのだが、女の客となると――とくに男ひでりの御殿女中や浮気な後家などは、夢のように美しい右近の若衆姿を見ると、狂乱したようになる女が少くなかった。で、女すがたになると、ふしぎなもので、それが彼女たちの気勢をそぐ盾となり、ほかの小姓スタイルの朋輩に眼移りさせるよすがとなるからであった。
女客ばかりでなく、右近はすべてほかの男客を断《た》った。柳生采女ひとりに貞操をたてたのだ。むろんそれには采女がパトロンとしての義務を果たしたということもある。
しかし、女すがたになったらなったで、なんとまあみごとな女になったものであろう。女よりも、女らしい。いや、ふっくらとしたなかに、きゅっとしまったところがあって、妖艶《ようえん》無比のなかにふしぎな清純|可憐《かれん》さが溶けて、地獄的な媚情《びじよう》のなかに天上的な貞潔が感じられて――とにかくこれほど凄じい蠱惑《こわく》にみちた女はまたとこの世になかろうと思われる。
「お嫁には来ないよ、あの女は。……あれで、あきらめてくれたろう」
また盃を右近の口へ運びながら、采女はいう。
「どうしようかと実はこまっていたのだが、うまいときに来てくれた。ともかくも一難は去った」
右近は采女に酒を口移しにしたあと、
「でも、いつかはおまえさまは奥方さまをおもらいにならなくてはなりませぬ。いいえ、お父上さまにもしものことがあれば、お家をおつぎにならなくてはなりませぬ。一万石のお殿さまにおなりになれば、もはやここにおいでなさることはかないますまい。……」
哀切なその眼は、のんきな采女の胸をかきむしった。実際、その通りなのだ。あやうく彼は、苦しさのあまり、「……そのときは、おまえもどこかへお嫁にゆけ」とうめき出すところであった。
「柳生新陰流宗家のお殿さま」
ふいに絵太夫右近は、涙の眼でにっと笑った。
「そのお殿さまにこれほどに愛していただいたこの右近、そのときはそれにふさわしく、切腹してこの世から消えましょう」
三
いや、恐ろしく強力な男が現われたものである。
風の強い日で、砂塵《さじん》まじりの桜の花びらが武者窓に吹きつける晩春の午後、九段下の旗本小野助九郎の屋敷へ、ひとりの深編笠が大股《おおまた》に入って来た。ここには有名な道場があるので、稽古着《けいこぎ》に竹刀《しない》をかついで歩いている侍たちも多かったが、そのだれもが、ぎょっとしてその深編笠に眼を吸われたのである。
とにかく、大きい。一メートル八十はたっぷりあろう。垢《あか》じみた、灰色にちかいほど色あせた黒紋付に、ところどころ破れた野袴をはいているが、それを通してはち切れんばかりの隆々《りゆうりゆう》とした肉体だ。深編笠からその背のなかばにかけて、ばさと髪が垂れていた。腰の大刀は一メートル五十はあろうかと思われた。
それが、道場の玄関に立って、笠《かさ》をぬいだ。
「紀州熊野の浪人、神子上背鬼《みこがみはいき》と申す者でござるが、小野助九郎先生に是非お手合せ願いたい」
取次ぎの門弟は、その顔を見て仰天《ぎようてん》した。
総髪にした髪はあかちゃけて、ちぢれッ毛だ。眼は顔の面積にくらべて小さいが、妙に三角形の感じがし、琥珀《こはく》のようなひかりをはなっていた。鼻はかぐら獅子《しし》のごとくあぐらをかき、大きな厚ぼったい紫色の唇に、一方の犬歯がにゅっとつき出して、くいこんでいた。
門弟は、ふるえ声でいった。
「あいや、当道場では、御紹介なき方との試合は一切お断りすることになっておる」
「神子上背鬼なる男が来たと、小野先生にお伝え願いたい」
と、浪人はくりかえした。相手の言葉など念頭にない、押しつけがましい調子であった。
「なに? 神子上背鬼?」
道場に走った門弟も、はて、どこかできいたような名だ、とくびをひねっていたが、果せるかな、小野助九郎はただならぬ声を発した。
「よし、通せ。――これ、稽古をやめよ」
と、彼は道場に呼ばわった。それまで竹刀の音をたてていた数組の弟子たちが、道場の隅《すみ》にしりぞいた。
やがて、案内の門人より先に、ずかずかと入って来たその浪人を見て、小野助九郎もしばし瞠目《どうもく》した。
浪人は、道場のまんなかに仁王立ちになったまま、挨拶《あいさつ》もせず、じろっとまわりを見まわしている。――十数人の門人も居流れているし、よく手入れのゆきとどいた道場であった。
「神子上背鬼……と申されるか」
と、小野助九郎はようやく声をかけた。浪人はふりむいて、
「左様」
と、横柄《おうへい》に答えた。大兵であるとか、醜顔であるとかいう以前に、名状すべからざる凄惨《せいさん》の気が放射されている。
「と、いうと、そのむかし小野善鬼どのの――」
「左様、六代目の末孫《ばつそん》」
小野助九郎はうなった。
居ならんだ門弟たちのあいだにも、ひくくどよめきがあがった。六代目といえば、小野助九郎は初代小野次郎右衛門から五代目だ。五代もたつと、門弟の中にはふと胴《どう》忘れする者もないではないが、神子上といえば小野家にとっては忘れることのできないはずの姓であった。それから背鬼という名にも、一脈切れない糸がつながっているようだ。
神子上とは、小野家の前名であった。初代小野次郎右衛門は、元来神子上典膳という名前で、剣聖伊藤一刀斎の高弟《でし》であったのだ。兄弟子に小野善鬼という人物がいた。この善鬼と典膳が、一刀流印可の秘巻を争う決闘を総州小金ケ原でやったのだが、かなわじと見た小野善鬼は、その秘巻をつかんで逃げ出した。それを追いつめた典膳は、大きな甕《かめ》の中にかくれている善鬼を甕もろともに真っ向から両断した。かくて一刀流の道場は神子上典膳に伝えられることになったのだが、そのために兄弟子を討った典膳はその菩提《ぼだい》を弔うために小野の姓を名乗り、ここに初代小野次郎右衛門が誕生したのである。――小野家の神話だ。
その小野善鬼に子があったとはきいたことがないが、いまここに現われた男は、善鬼六代の末孫だという。しかも、いかなるつもりか、逆に小野家の前名神子上を称し、背鬼と名乗って、この道場に乗り込んで来たのだ。
彼はいった。
「総州小金ケ原に善鬼敗れてより百五、六十年、六代をかけて、いかにして小野派一刀流を破るべきやと工夫を重ねて参ったが、おれ神子上背鬼に至って、ようやく逆艪《さかろ》一刀流なるものを編み出してござる。いちどお試《ため》し願いたい」
「百五、六十年後の敵討ちか、それは――」
「そんなつもりはない。おれはただ逆艪一刀流を試したいだけだ。しかし、そちらが仕返しと思うなら、それでもよろしい」
傲然《ごうぜん》たるその姿をじいっと見ていた小野助九郎は、やがて、これ以上さしあたっての問答は無用、と判断した。もう四十をなかば越え、一見温厚な人物に思われていたが、剣祖次郎右衛門以来の精悍《せいかん》の血は、彼にも伝えられていたのである。
彼はふりむいた。さいわい、彼が最も信頼している高弟の板倉出雲と天野勘兵衛という男がその場にいた。彼は命じた。
「天野、相手せい」
天野勘兵衛も、この怪浪人のせりふから、のっぴきならぬ挑戦と知り、かつそのいばりくさった態度に憤然としていたようだ。即座にうなずいて、竹刀をとって立とうとした。
じろっとそれを見て、神子上背鬼がいった。
「木剣でたのむ」
「なんだと?」
「竹刀踊りの修行は、おれはしたことがない。時と場合によってはいのちにかかわる木剣でなくては、逆艪一刀流の真髄は見せられぬのだ。得べくんば、真剣の方がよいくらいだが――」
にやっと黄色い歯をむいて、
「ここは小野の道場じゃ。ま、木剣でがまんしておこう。おい、こちらにも一本貸してもらおうか」
「わ、わしは、真剣でもよいぞ。――」
「それは、助九郎先生のときに願うとしよう」
「勘兵衛、やれ!」
と、小野助九郎がさけんだ。
天野勘兵衛は羽目板にかかっていた木剣を二振《ふたふり》とり、その一本を神子上背鬼めがけてほうり投げた。
それを片手で受けとめると、背鬼はいった。
「よいか。――」
「いざ!」
勘兵衛は構えて、次の瞬間、かっと眼をむき出した。神子上背鬼は、くるっとからだをまわして、なんと、こちらに背をむけてしまったのである。
逃げるか、と見たのは一瞬であった。背鬼はそのまま、がっきと両足をひらいて、左足をやや前に出して立ち、ふたつのこぶしを右の耳に、木刀を天に立てて――いわゆる八双の構えにちかいが、ふつうよりははるかに高い、異様なフォームをとったのである。
「なんだ、それは?」
「来い」
「ば、ばかっ、背中から人を討てるかっ」
とたんに、背鬼の垂直にした木剣が消えた。はっと思った刹那《せつな》、それは天野勘兵衛の右方からうなりをたてて薙《な》ぎつけられ、勘兵衛の横胴に凄《すさま》じい音をたてた。三メートルも左へすっ飛んで、彼は床にたたきつけられた。
「背中から人を打てる。だから、来い、といったのだ」
その背中で笑ったようだが、声は殺気を孕《はら》んで、
「次っ」
と、吼《ほ》えた。
四、五人の門弟が蒼白《そうはく》になって天野勘兵衛の傍に駈け寄った。四肢《しし》をとって抱きあげると、その右の胸廓が横から破《や》れ籠《かご》みたいにひしゃげて見えた。肋骨《ろつこつ》が二、三本粉砕されたようだ。悶絶《もんぜつ》した勘兵衛の口から、がぼっと血が床にとび散った。
ひきずるように運び去られるその姿に眼もくれず、また小野助九郎からなんの命令も受けないのに、われを忘れ、師範代の板倉出雲が木剣をつかんで躍《おど》り出している。
神子上背鬼は、同じ構えをとった。背をむけて、両こぶしを右の耳にあて、木剣を宙天に立てて。――
板倉出雲の眼に、そのたたみ[#「たたみ」に傍点]ほどの巨大な背が、雷気《らいき》につつまれた鉄壁のような迫力でのしかかって来るかに感覚された。いつその木剣が右から旋回してくるか――思わず、ツツと彼は左にうごいた。すると、向うをむいた背鬼が、まるで鋭敏なレーダーのようにその方向に廻った。
出雲は三歩さがった。間髪を入れず、背鬼が三歩あとずさって進む。――
このような奇怪な剣法に、もとより出雲は相対したことはない。ひたいから、つーッと滴《したた》った汗が眼に入ると、彼は二メートルばかりうしろに飛んだ。糸で結ばれているかのように、背鬼もうしろざまに二メートル飛ぶ。それは常人の前へ飛ぶのと同じ速度と正確さを持つ跳躍であった。
「曾《かつ》て、わが祖小野善鬼は、甕《かめ》の中で斬られた。次郎右衛門に断ち割られた甕がふたつになってころがったあと、善鬼は一剣を八双にかまえ、脳天から胸へ血のすじをたばしらせて折敷《おりし》いていたという。甕の中にいた善鬼に眼がなかったからじゃ。そこからおれは開眼《かいげん》した。おれの背には眼があるぞ。無数の眼があるぞ。さればによって、おれの進退は前後自在だ。わかったか。――」
どよめくように背鬼は哄笑《こうしよう》した。
「すなわちこれ、逆艪一刀流!」
まっすぐの木剣が消滅した。それは横っ飛びにかわそうとする板倉出雲の股間《こかん》に薙ぎあげられた。木剣は垂直に旋回して、下から出雲に襲いかかったのである。
およそ人間の発するものではないような悲鳴とともに、板倉出雲はあおのけにのけぞり、それでも足りずに四、五メートルも、血まみれの肉の環となってころがっていった。あり得ないことだが、股間をたたき割られた打撃のために、彼の腰は背側に折れ、後頭部が足のきびすに接するばかりの環となってふっ飛ばされたのである。
「次っ」
背鬼はまた吼《ほ》えた。三たび、垂直に立てたその木剣は朱色にぬれていた。
「小野一刀流はこれだけか。きょうより看板を神子上一刀流と替えるか。――」
全身を灰色にし、一刀の鞘《さや》をはらって小野助九郎が立とうとした。そのとき、帛《きぬ》を裂くような声がきこえた。
「お待ち下さいまし」
道場の入口に、娘のお琉が立っていた。
四
追って、改めて御挨拶《ごあいさつ》にうかがいまする、きょうのところは、ひとまずおひきとり下さいまし、と、きっぱりというお琉の顔を、神子上背鬼はじいっと見ていた。三角形の琥珀《こはく》の眼にとろんと雲がかかったようだ。
「こりゃ、こちらの御息女か」
ときき、お琉がうなずくと、ずかずかとその方へ歩み寄った。
肩をつかまれて、お琉はぎょっとしたが、いちどくいしばった歯をひらいて、必死の笑顔を見せた。それが媚笑《びしよう》にちかいものだという自覚はあったが、この際小野家を救うためにはやむを得なかった。
が、背鬼はそのまま恐ろしい力で、お琉のからだをくるっと反転させ、そしてそのお臀《しり》をぱんとたたいたかと思うと、またずかずかとあとずさったのである。
「ふうむ」
感にたえたように鑑賞しているのは、お琉のうしろ姿なのであった。
前から見られるよりもぶきみで、かつ屈辱をおぼえ、
「……御承知ですか」
と、お琉はたまりかねたように返事をうながした。
「おれは南品川の常楽院という寺に泊っておる。果し合いを望むなら、そこの助九郎どの、あやまりにくるのなら御息女。――」
神子上背鬼は木剣を投げすてた。
「おまえさまがござれ、明日のうちだぞ」
そして、小野助九郎には一揖《いちゆう》もせず、大股に道場を出ていった。なんと、うしろ歩きに――それが、常人が前へ歩くのと全然同様のていなのだ。追撃を警戒するというより、みずからの特技の示威であるらしかった。
まるで一陣の魔風が吹きすぎたようなものだ。一同は、追い討つことはおろか、怪奇な姿勢で道場のまんなかにころがっている板倉出雲――第二の死者を収容することも忘れて立ちすくんでいた。酸鼻悽愴《さんびせいそう》の気は道場にみちた。
お琉だけがうごいて、助九郎の方へちかづいた。
「に、逃がしてはならぬ」
鉛の像みたいになっていた助九郎がふいにうめいて、よろめき出した。
「父上」
お琉はそばにいってささやいた。
「恐ろしい男です。たとえみなで総がかりになっても討てるとは思えないほど。……小野家を無事に保つためには……わたしがあした、その常楽院とやらへゆくよりほかはございますまい」
「ば、ばかな――」
「まさか、女ひとりでいったものを、殺しもしますまい」
「逢《あ》って、何とする?」
「きょうのこと、口外せぬように、なんとかまるう収まるように――金子《きんす》が要ることになるかも知れませぬ。いいえ、父上にもわたしにも、決して恥とはならぬように。どうぞこのお琉の才覚を信じて下さいまし」
小野助九郎は唇をふるわせたが、しかしそれ以上に言葉にはならなかった。老獪《ろうかい》という点がないでもない助九郎であったが、さしもの彼も処置の法を絶する怪物が相手だということを思い知らされたのだ。
翌日、お琉は南品川へいった。駕籠《かご》わきに二人の中間《ちゆうげん》を従えていたが、常楽院というその寺の門をくぐったときは彼女は単身であった。
あっぱれともいえる。無謀ともいえる。しかし彼女には七分まで自信があった。
神子上背鬼なる男が小野善鬼の六代の末孫であることは信じるにしても、彼が百五、六十年前の先祖の復讐《ふくしゆう》のために出現したとは常識的に信じられない。たとえそれを信じるにしても、それなら彼はもう目的を達したわけだ。これ以上、小野家を滅亡させてじぶんがそれにとって代ろうなどというばかげた望みは、まさか持ってはいないだろう。それならば、金ですむことだ、と彼女の機略はそう教えた。
次に彼女は、女の本能であの怪物の泣きどころを読みとったつもりであった。あんな化物でも、男だ。男としての弱味を、じぶんを見たときのあのとろんと雲のかかった眼に彼女は見たつもりであった。お琉はじぶんの美貌に自信があった。
みもふたもない言い方をすれば、要するに色と金で籠絡《ろうらく》するということになるが、お琉はその武器を、自尊心を傷つけることなくあやつって見せるつもりでいた。
ただ、三分《さんぶ》ばかりは不安がある。きのう見たあの男の態度と性向が、人間ばなれしているように思われたのだ。しかし、その不安は天性の気丈さでおぎなった。じぶんはこれまで、何か計画したことで事志と反したということは、最近の或《あ》る一事件をのぞいては、いちどもあったためしがない。
それに、いくら野蛮な男にしろ、ともかくも武士の姿はしているのだ。たった一人、そこに乗りこんでゆく女に対して、いかになんでも非常識な無礼はしないだろう。
――門を入ってから気がついたことだが、常楽院は山伏《やまぶし》寺であるらしかった。そのための宿坊もあるらしく、ゆきちがうものがみな薄汚《うすぎた》ない修験者《しゆげんじや》ばかりだ。それが、春日にまぶしいばかりの武家娘を見て、みな立ちどまり、獣じみた眼で、じいっと視線を送る。――当然のことだとは思うが、やはりあんまりきみがよろしくない。
お琉は、宿坊の一つで、神子上背鬼に逢った。
「やはりの」
修験者に案内されて入って来たお琉を見あげて、背鬼はにたっと笑った。やはり娘の方が来たか、という意味に相違ない。破れだたみ[#「だたみ」に傍点]に頬杖《ほおづえ》ついて、寝そべったまま、起きあがりもしないのである、袴《はかま》もぬいで、凄じい毛ずねをむき出しにしていた。
あごをしゃくって、案内の山伏を去らせると、
「ふうむ、かように荒れた中で見ると、いっそう引き立つ喃《のう》、色が白うて、あぶらづいて……美味《うま》そうじゃ」
例のとろんとした眼になった。
覚悟はしていたが、お琉は怒りに頬をうすく染めた。
「お話があるのです」
「ま、そこへ坐《すわ》ったがよかろう」
ともかくも、坐りかけると、
「向うをむいてな」
と、背鬼はいった。
お琉はきのうもじぶんが反対側を向かせられたことを思い出した。この男は、わたしの手並みを知っていて警戒しているのだろうか。それとも……ふっと奇怪な妄想《もうそう》が頭をかすめた。背中で剣をあやつるこの男は、女の背中にばかり興味を持つのだろうか?
いずれにせよ、その怪物的な面貌《めんぼう》と対面しなくてもいいことは、一ときのことにせよ倖《さいわ》いであった。ひと息つくとともに、お琉はせいいっぱい背中でなまめかしい演技をしようと努め、あまり出したことのない甘い声を作った。
「あなたのあの逆艪《さかろ》一刀流とか……恐ろしいものでございますね」
「だろう」
うれしそうな声であった。
「一見、こっちが不利に見える。しかし、ほんとうに不利になるのは相手なのじゃがの。相手にもこちらの眼が見えぬから、いつ、どう斬ってくるか見当がつかぬ。わかるか? それから、あれは左利きの者を相手にしておると同様になるから、大いに勝手がちがってくる。わかるか? それから、あの向きでは大上段に斬り下ろすことができん代り、下から斬りあげることができる。上からの刃《やいば》は防ぐ法を知っておっても、下からの刃を防ぐ法を知っておる者はほとんどない。結果は、それ、きのう二番手に出た奴のざまを見ればあきらかじゃ。わかるか? それから、そもそも背をむけた奴にうしろから斬りかかるというのは、やはりひけ目じゃ。あとになって、こは容易ならん剣法と知っても、いったんのひけ目はとりかえしのつかんひるみとなり、それがおのれの命を失うもととなる。わかるか?」
背鬼は、秘奥《ひおう》を講義した。見えないが、ときどき舌なめずりしているようなぺたぺたという音がまじる。
「こっちの不利は、いうまでもなく眼のないことと、うしろざまの進退が前むきほどままにならぬということじゃ。が、足の運びは鍛練によって自在となる。それよりおれの苦心して会得《えとく》したのは、背中の眼じゃ。いや、あれは背中に眼があるのではない。打ち明けていえば、うしろへ耳がひらいておるのじゃ。耳へあてた刀の柄《つか》、握った指の開閉によって、敵のうごき、息の吐きようを聞く。この秘術に開眼《かいげん》してから――いいや、耳ひらいてから、はじめておれは、背鬼とみずから命名し、逆艪一刀流と名乗って、熊野の山中から世に出る自信を持ったといっていい。――」
お琉は、耳をすませた。じぶんでもこの道には相当の素養があるだけに、いまこの恐るべき剣士がぬけぬけと打ち明ける魔剣の奥義に心をひかれずにはいられなかったのだ。わたしだから、思わず知らずしゃべっていることであろうが。――
「これは、だれにでもいう」
と、背鬼はいった。
「知っても、だれもどうにもならん。逆艪一刀流は防ぎようがない。まず天下無敵だろう」
そして彼は、雷神のごとく高笑いした。
その通りだ、とお琉は思った。たとえ手の中《うち》を見せられても、それにどう対処していいか、工夫を絶する怪奇な剣法であった。彼女は蒼《あお》ざめた。
「で。……これから何をお望みですか?」
かすれた声でそういったとき、お琉はいきなりうしろへ引き倒された。
「まっ」
思案に沈むあまり、男がすぐそこまでちかづいていることに気がつかなかったのが不覚であった。いや、たとえ気がついていても、どうにもならなかったろうが。――
彼女はうしろざまに背鬼の巨大なあぐらの上に乗っけられてしまった。毛むくじゃらの左腕がわきの下からまわされて、彼女の胸にくいこんだ。
「な、何をなさる」
「そのつもりで来たのじゃろうが」
右腕が、お琉の裾《すそ》をひき裂いた。ひらく、といったようなものではない。彼女の下半身はあっというまにまる出しにされてしまったのだ。
色も金も才覚もあらばこそ、女ひとり談判に乗り込んで来たけなげさに対する武士の情も蜂《はち》の頭もあらばこそ。――
「ち、ちいっ」
歯をくいしばって首をふり、狂気のごとく身もだえするのを、こんどは暴風のように前につきとばしたかと思うと、柱みたいな腕がその背をむんずと押えつけた。当然、彼女は、両足を相手の胴にひらいたまま、四つン這《ば》いになってしまった。
「逆艪一刀流に没頭するあまり、全然背中に凝《こ》ってしまっての。神子上背鬼、前向きの女には興味がない。――おう、これは絶品!」
ぺたぺたと、まっしろな臀《しり》をたたいた。
「じゃが、女にとってもこれはこれで捨てたものではないぞ。こっちの両腕は自在じゃからの。女相手の場合は、逆艪二刀流、いや、こりゃ三刀流かもしれぬ。――」
恥辱にお琉は全身血を噴かんばかりに紅潮してもがいたが、のしかかる男の巨体は磐石《ばんじやく》であった。晦冥《かいめい》の天地に哄笑《こうしよう》は鳴りどよもし、それから例の舌なめずりの音がきこえた。
「古来、賞して菊の花というそうじゃが、露をふくむ菊花一輪、これは品評会に出しても天の位ものじゃわ!」
五
光栄ある小野派一刀流の名を救うために、単身、敵のもとへ乗り込んだところまでは、この才女はけなげであったのである。あっぱれであったのである。――
しかし、そのあとがいけない。彼女は魔女と変じてしまった。
当然といえるかもしれない。これほど言語に絶する、天地がひっくり返るほどの大侮辱を受けては。……誇りにみちた女であっただけに、そのときのじぶんの悲惨とも無惨とも評しようのない姿態を思い出すと、実際天地も裂けよとうめき出さずにはいられないほどであった。しかも、なんたること、彼女は依然として処女なのだ!
屈辱感はよじれて二重の縄となってお琉を締めつけた。彼女は何かをしぼり出さずには息もつけぬ思いになった。
それが、復讐欲《ふくしゆうよく》となって、神子上背鬼ではなく、柳生采女にむけられたのだから、柳生采女こそいい面《つら》の皮だ。
――あのときから、じぶんの人生は狂ってしまったのだと思う。
それまでもお琉は、じぶんの人生についていろいろと計算していた。おそらく彼女は大奥にでも入れば種々権謀を弄《ろう》して相当な地位にまで昇り得るタイプの女性であったろう。ただ、なまじ剣法の名家に生まれて、女だてらにその方に趣味を持っただけに、それに思考が粘着《ねんちやく》した。柳生采女への縁談を働きかけたのは、実は彼女自身である。
剣法の名家――とはいえ、小野家と柳生家では格がちがう。最初から柳生但馬守は一万二千五百石、小野次郎右衛門は六百石であったが、それでも将軍家師範役たることでは同じであった。それが、いつのまにか、柳生家だけは代々にその儀を行うのに、小野家の方ではそのことがなくなった。
もっとも、柳生の方でもこのごろはそのことはないらしい。それは当主飛騨守の病気のせい、また将軍が廃人にちかいせいもあるが、それより柳生家のあとつぎになっている采女がだらしのないせいだというのが、いちばんあたっているだろう。――お琉はそうかんがえた。
上様はどんなお人でも、それに御指南申しあげることなど、どうせ儀式なのだから、かたちさえつけばいいのだ。
じぶんが柳生家へ嫁にゆく。自堕落だという噂《うわさ》のある采女を鼓舞激励する。そしてはなばなしく将軍家剣法師範の儀式をあげ、それを序の口として、ふたたび剣家の名声を天下にひろめる。――柳生小野合体というかたちで。
お琉はこれを夢みて、御側御用人大岡出雲守に働きかけた。彼女の才色はまずその奥方の気に入るところとなり、この運動は成功した。
しかし、さすがに少々気にかかるふしがあって、さる日、彼女は柳生家におしかけ、采女の腕を試したのである。その結果があの通りだ。むろん彼女は、采女が本気で負けたとは思わない。しかし必ずしも故意ではなかったと思う。本気にせよ、故意にせよ、あれで采女の技倆《ぎりよう》のほどはだいたい見てとれたと彼女は思う。
それより――お琉の心証を害したことがあった。そのことを彼女自身は認めたくはないが、柳生采女が、全然じぶんに興味を持たなかったらしいことだ。あのいいかげんな立ち合いも、その無関心から発したらしいことだ。誇り高い彼女は、そのことを認めたくないにもかかわらず、本能的に不快な感じを抱いた。
あれからだ、おかしなことになったのは――。
いや、おかしいどころか、神子上背鬼の出現は、彼女の人生を木《こ》ッ端《ぱ》みじんに粉砕してしまった。
なに、よく考えれば、柳生采女と神子上背鬼の出現とのあいだにはなんの関係もないのだが、彼女はすでに冷静な判断力を失っている。両者をむりに結びつけようとしたのは、このなかば狂った思考であった。
出世の道具たる対象を、采女から背鬼に変える。――いくらなんでも、それはできない。
神子上背鬼は実にいやな奴であった。たんに容貌《ようぼう》が醜悪なだけではなく、厚顔無恥で、無神経で、野蛮で、無礼で、凶暴残忍をきわめた。たとえ天変地異が起ろうと、こんな男が将軍家指南役となれるわけがない。
――にもかかわらず、お琉はそのことを背鬼にそそのかしたのだ。
彼女は、じぶんのほうから、三度、四度、常楽院の方へおしかけた。背鬼は恐悦《きようえつ》してこれを迎えた。
彼に対して、吐気のするような嫌悪《けんお》感をおぼえつつ、いつしかお琉は、彼の奇怪な凄じい愛撫《あいぶ》に、その当座の陶酔をおぼえるようになった。解剖学的にはまわらないはずの角度にまでくびをねじむけて、黄色い犬歯のにゅっと出た、紫色の、厚ぼったい背鬼の唇に、じぶんの方から吸いついていったほどであった。
「柳生采女と立ち合いしや」
と、彼女は嗄《か》れた声でささやいた。
「柳生を破れば、おまえさまは天下一となる。――」
実は神子上背鬼は、恐るべき自信家であるが、少くともこの当座、そこまでは考えていなかったらしい。熊野から世に出て来て――江戸へくる途中、何人かの人間のいのちでおのれの編み出した剣法のテストはやったらしいが――まず念願の小野道場に乗り込んで、いかんなくあの妙技を展開して見せたあと、さてどうするか、単純なところもある男だけに、順序立ててスケジュールを立てていたわけでもないらしい。単純ではあるが、天下の柳生家に、そうそう簡単に試合を申し込んで受け入れられるとは思っていなかったらしい。
「できるか」
「できるように、わたしがしてあげよう」
お琉は臀をうごめかせた。
「しかも、将軍家のおんまえで」
背面して立てば、必ず敵をたおす怪剣士。
この異色のタレントは、どんなスポンサーの食指をもうごかすに足りた。売込みは成功した。御側御用人の大岡出雲守は、「……ほ」と眼をまるくしてこの話をきき、ついに将軍家の御前で、柳生七代目たるべき采女|俊峯《としみね》との試合を上覧に供することまで承知してしまったのである。
娘のこの動きを不安げに見ていた小野助九郎は、事ここに至って、娘が何をかんがえているかわからなくなり、「……琉、大丈夫か?」ときかざるを得なかった。お琉は憑《つ》かれたような眼をすえていった。
「父上、いまのところ柳生を正面におし立てるより、あの暴風のような男から小野家を救う法はありませぬ」
助九郎は沈黙した。実際、あの怪剣士は彼の手に負えるところではない、という認識を持たざるを得なかったのだ。
そして、事態は、演出家たるお琉の考えさえも超えた。
この申し込みを受けた柳生采女は、しばし打ち案じていたが、きっぱりと答えたというのである。
「恐れながら、その試合、真剣でお願いしたい」
――お琉は、そこまで考えてはいなかった。竹刀、一歩すすめても木剣の試合を想定していたのだ。しかし、再考すれば、もしこの試合に柳生が一介の素浪人に敗れれば、采女は責任をとるよりほかはあるまいから、これは当然のことともいえた。
大岡出雲守はこれには難色を示したが、すでにこの話を言上されて、ばかに愉《たの》しみにしていた精薄将軍家重が承知しなかった。
「苦しゅうない、真剣の試合を見せよ」
と、彼はよだれだらけの口でいった。
「……おまえさま」
絵太夫右近は顔色を変えてさけんだ。
「勝てますか、その化物に」
「勝負は時の運だ」
と、柳生采女は笑った。依然として気楽な笑顔であった。
彼は例のごとくフラリと芳町の京屋にやって来て、十日のちのこの試合のことを右近に打ちあけたのである。曾《かつ》て柳生家に出入したもので、いまは小野道場に通い、先日の背鬼の道場破りを目撃した男が、「これは内密のことでござるが」と、その魔剣の怪奇さと凄絶《せいぜつ》ぶりを知らせてくれたというのだ。
「何しろ、背中だ。隙《すき》はあろう」
采女はにやにや笑った。
「背中相手は、わしはおまえでよく修行したよ」
「けれど……その背中で人を斬る……背中の強い男……きいただけでもぶきみな男でござります。小野道場の師範代さままで、ただ一打ちで討たれるとは。――」
ふいに右近は眼をひからせ、ひざをすすめた。
「おまえさま。……その男、南品川の常楽院にいるとやら――この十日のあいだに、だれぞやって、だまし討ちにしておしまいなされ。その方がよいではござりませぬか」
「蔭間の考えそうなことだ」
珍しく采女は舌打ちした。
「そんなまねをする気にもなれぬが、たとえわしがその気になったとて、十日のあいだにきゃつが殺されれば、柳生の手が及んだとだれでも思う。堂々と、試合はせねばならん」
采女はやさしく絵太夫右近を愛撫した。
「もしわしがまちがっていたとすれば、がらにない柳生家などに婿《むこ》に来たことじゃ」
じいっと、哀艶《あいえん》な右近の眼をのぞきこんで、
「いずれにせよ、右近、よろこぶがいい。わしは女房をもらわなくてもいいようだ。万が一、生きていたら、十一日目の夜、また来るぞ」
そして、彼は明るく笑った。
「来なんだら、以後、おまえはわしに操《みさお》を立てることは無用であるぞ」
六
――七日目の夕方であった。
南品川の常楽院の山門に、ひとりの香具《こうぐ》売りがあらわれた。
これが、そのあでやかさ、ただごとでない。礦《と》の茶小紋の引返しに鹿子繻子《かのこじゆす》のうしろ帯をしめて、これに短い脇差と印籠《いんろう》を下げている。高島足袋つつ短かに雪駄《せつた》をはき、髪は髱《たぼ》を少なめに、髷《まげ》を高く結《ゆ》いあげていた。肩に朱房《しゆぶさ》を垂らした桐の挟箱《はさみばこ》をのせ、中には香道具や伽羅沈香《きやらじんこう》などが入っているはずだ。
男とも女ともつかぬ風俗だが、これが当時の香具売り独特のすがたで、人呼んで「香具若衆」といった。
香具若衆そのものは江戸に珍しい風物詩ではないが、しかしいま常楽院に入って来たこの少年の美しさは、実にこの世のものでなかった。まるで、黄昏《たそがれ》にあけぼのの精がさまよい込んで来たようであった。
「……やっ?」
二人、三人、山伏が立ちどまり、じぶんの眼をうたがうかのようにのぞきこむ。たちまち、それが七、八人となり、十幾人かになった。いつぞや、ここに美しい武家娘がやって来たことがある。そのときも見る者すべてを釘付《くぎづ》けにしたが、こんどは――まるで磁石にひかれる鉄片のむれみたいに、彼らはぞろぞろとそのあとについて来た。
「香匙《きようじ》、羽箒《はねぼうき》――伽羅香はいりませぬかえ?」
香具若衆はふりかえってそう呼び、にっと笑った。
何やらどよめき立とうとしていた山伏たちは、この笑顔を見たとたん、ただのどぼとけをごくごくうごかしただけで、また声も出なくなってしまった。
その中に、神子上背鬼がいた。珍しくこの場合、彼は野卑なかけ声もかけず、香具売りの背を凝視《ぎようし》していた。とび出すような眼であった。その道の通たる彼は、茶というより紫にちかい礦《と》の茶小紋を透してゆれる少年の臀《しり》に魂を奪われていたのだ。
「香匕《すくい》、銀葉《ぎんよう》――反魂香はいりませぬかえ?」
香具若衆はまたふりかえってこう呼んだ。それから、なんと神子上背鬼に眼をそそぐと、その片一方の眼をとじて見せたものである。
「買う。――か、買う!」
のどのつまったような声で背鬼はさけんだ。
「買うぞ。みんな買うてやるぞ!」
この悪臭を放つような浪人が――知り合いの修験者を訪ねて来て、そのまま宿坊の一つにごろごろしている醜貌の剣客が、香を焚《た》く。噴き出したいところだが、みな笑わなかった。背鬼の凶暴ぶりはもうだれもが知っていたし、それにいまの形相《ぎようそう》の迫力には、みな圧倒された。
「来う。――おれのところへ、来う」
彼は馳せ寄り、若衆の手をひき、それでもいらだって、丸太ン棒みたいな両腕で抱きあげて、魔風のように駈け出した。
「あれ」
若衆はうろたえて、桐の挟箱を胸に抱きしめる。
宿坊につくと、香具売りを、こんどはそっと下ろして、背鬼はきいた。
「これ、うぬはいま、おれに色眼をつかったな」
「――は、はい。――」
少年は横坐りの姿勢のまま、なよやかに片腕ついて、背鬼を見あげ、
「あの――いま、ひと目お見かけ申して――ああ、あの御浪人さま――と思ったとたん、われ知らずはしたないことを――どうぞ、おゆるしなされて下さりませ。――」
あえぎあえぎいって、また片眼をにっとつぶって見せた。
「してみると、うぬはただの香具売りではないな」
背鬼がいったのは、香具若衆のうちには、香具も売るが男色も売る者がまれではないことをいったのだ。少年の頬に、ぼうと薄紅《うすべに》が散った。恥じらったながし眼の言おうようなきなまめかしさ。
「お、おれが気に入ったか、香具売り、おれの、ど、どこが。――」
「ひと目でわかるのでござりまする。男は、顔ではござりませぬ。あなたさまのようなお方こそ、まるで赤く灼《や》けた鉄をあてられたようで、どろどろしたものが骨まで沁み、髄《ずい》までくすぐられるような思いをさせて下さることは、わたし。……」
そもそも、問答などはどうだっていいのだ。背鬼のいっているのは、うわごとにすぎなかった。しかし、美少年のやわらかな唇から、切なげな吐息とともにつむぎ出される言葉の甘美さは、荒縄をかためたような背鬼の脳髄をもしびれさせた。彼は、女ないし美童から、いままでこのような媚《こ》びを受けたことがない。――
「わ、わかった。うぬはよう見ぬいた。よしっ、いまおれのあらくれ棒の味をはらわたまでも思い知らせてやるぞ!」
彼は香具若衆を背後から抱いた。
――ところが、はらわたまでとろけてしまったのは、神子上背鬼の方であった。いや、はらわたどころか、彼は全身が、熱い、柔かい肉の襞《ひだ》にぴったりと吸いつかれて、しごかれて、ねじられて、あらゆる体液髄液がしぼりつくされたような気がした。大味な、小野の娘の比ではない。さすがにプロだけあって、この香具若衆のテクニックは言語に絶した。
「あれ……あれ」
少年は身もだえし、背鬼の魂をかきむしるようなあえぎをあげて、
「このような思いは、わたしもはじめてでござりまする。もううごけませぬ。御浪人さま……今夜、このままここに泊めていただいてもよろしゅうござりますかえ?」
と、いった。
もううごけないのは、背鬼も同様であった。彼のあたまに、ふっと三日のちの試合のことが浮かんだ。やれるかな。――いや大丈夫だ。凄じいまでの荒修行に、全身綿のように疲れはてても、一夜ねむればたちまち回復して、内部から血とあぶらがはちきれるようになるこのおれだ。
「おう、よいわ。泊まってゆけ。泊まっていってくれ。このまま、おれに抱かれて眠れ。……」
彼は気息|奄々《えんえん》といい、そして匂いのある柔かいものを背後からかかえこんだまま、やがて自身もこんこんたる眠りに落ちた。……
その毛だらけの胸に密着していた匂いある柔かいものが、いつのまにか蜜《みつ》みたいにながれて背中の方にまわっているのを感覚したのは真夜中のことであった。
いつのまにか、あぶら皿《ざら》に灯心《とうしん》さえもえて、宿坊の中は朦朧《もうろう》とけぶっている。が、たしかじぶんの胸に抱いていたものは見えなかった。半睡半醒のままで、彼は両腕を空《くう》に泳がせた。
「もしっ」
うなじのあたりを熱い息がくすぐった。
「おねがいでござります。じっとして……」
「こ、これ、何をする?」
「……あの、女になって下さりませ。……」
「な、何っ」
神子上背鬼、この世に誕生して以来、これほど仰天《ぎようてん》したことはない。彼は全身、一本の巨大な材木みたいになってしまった。熱い息は背中まで這《は》い下りた。
「あなたさまが女になって下されば、もういちど、つまり二度愉しめることになるのでござりまする。裏を返すとは、まさにこのこと。……」
「あの、こ、この、わしが女に?」
「左様」
声が、凜然《りんぜん》たるひびきに変った。うしろから胴に巻きついた二つの腕に、急に男らしい力が加わった。背鬼は狼狽《ろうばい》してもがいたが、からだは脱水状態を起したようにふらふらになって、うつ伏せに押えつけられるのに抵抗できなかった。
「わしが女に。……」
彼はふいごのようにあえいだ。
「左様。眼をとじて……そうれ、あなたさまの胸はまっしろにふくれあがり……胴はなよなよとくびれ……腰がむっちりと張って……肌《はだ》はなめらかにしっとりと吸いつくような。……」
催眠術にかかったように三角形の眼をとじた背鬼の頭に、奇怪な幻想が湧《わ》き立ちはじめた。
ほんとうに、毛だらけの胸がふくれ、四斗樽《しとだる》みたいな胴がくびれ、鎧櫃《よろいびつ》のような腰がまるくなり、ごつごつと骨ばり、黒ずんだ筋肉と皮膚が、すべすべとなめされて、漂白されて来たような。
――ばかな! と、いくらなんでも背鬼でもそう思う。しかし、妄想《もうそう》は妖《あや》しく、強烈であった。
どんなに強くても、醜く生まれついた男の夢は、美しい女に無条件で愛される美しい男に生まれ変りたいということであろう。そして、さらに深層の欲望は、この世の美の精ともいうべき美女になりたいという夢想ではあるまいか。――
「おう、これは絶品! 見たこともないほどの大輪の菊の花!」
ぴしゃぴしゃとたたかれた打撃が、臀から、形容を絶する快感を背鬼の全身に送った。
その力に、背鬼は男を感じた。りりしく、たくましい男が、じぶんを打ちたたき、のしかかっている。そして――熱鉄のようなものがはらわたの奥までつらぬき通った感覚とともに、神子上背鬼は巨大な肉体をくねらせて、
「あれ……あれ。……」
と、悲鳴をあげていた。その声は、われながら、怪《け》しからぬほどなまめかしいものに聞えた。
七
江戸城西ノ丸吹上のお庭。
森あり、林あり、泉あり、滝あり、花畑あり――何しろこの一画だけで当時六十数万平方メートルあったというから、遠い本丸の五層の大天守閣など、おもちゃのお城のように見える。ふだん無人にちかく、ただ風と日光のみがひそとながれ満ちているこのお庭に、その日、数百人の人々がおしかけた。
将軍と御台《みだい》の上覧するあずまやを中心に、左右に大名や旗本や大奥の貴女たちが居ならんだのである。
やがて、とうとうと太鼓が鳴ると、東の幔幕《まんまく》をおしあげて、たすき、鉢巻《はちまき》、袴《はかま》のももだちとった青年武士が現われた。女たちのあいだに吐息の波がわたった。間のびした美男だが、さすがにやや蒼白い顔色だ。柳生采女俊峯であった。
また、とうとうと太鼓が鳴ると、西の幔幕をおしあげて、これはたすきも鉢巻もせず、袴のももだちさえもとらず、中年の巨漢が現われた。見物の武士たちのあいだにどよめきがあがった。さすがに衣服は改めたものの、総髪の髪を吹きみだしたその顔は、もともと三角形の眼、あぐら鼻、にゅっと犬歯のつき出した大きな口という醜貌ながら、はやくも闘志に充血して、さらに凄絶の相をむき出しにしている。神子上背鬼であった。
両人は、将軍と御台の方へ一礼すると、次第にちかづいた。
背鬼はもとより気力体力ともに充実している。かくも早く、かくもはなばなしいかたちでじぶんが剣名をとどろかす機会が来ようとは望外であった。たとえ相手が柳生であろうと一万二千五百石の大名であろうと、ただ一撃でたおす。殺気は、小さな三角形の眼から、琥珀《こはく》のひかりとなって放射された。
三メートルの間隔に至って、二人はぴたと立ち止った。抜刀した。きらっと真剣がほとばしり出た。
さっきまで背鬼の髪を吹きみだしていた初夏《はつなつ》の風はこのときはたと止んで、黄金《きん》色の日光さえも、しいんと氷結したようであった。
柳生采女は青眼に刀身をあげた。
同時に、神子上背鬼は、くるっと反転し、がっきと大地に両足を踏んばった。一メートル五十はある長剣が、にゅーっと蒼空に垂直に立って、燦《さん》と光芒《こうぼう》を発した。
柄《つか》をにぎった両こぶしが右耳に当てられて――これぞ、天下無双の逆艪一刀流。
厚い鋼盤《こうばん》のごとき背をむけて、敵の気息《きそく》を毛ほどものがさじと心気をすまし、無想の境に入った神子上背鬼は、その刹那《せつな》、臀《しり》の穴からすうっと一道の冷風が吹き通るのをおぼえた。そこから肉がひらかれて、背中まで二つにはぜ割れ、あらゆるものがむき出しに敵にさらけ出されたような恐怖に襲われた。
両こぶしをあてた背鬼の耳の外で、体内を通った空気が、ぽんとはじけて飛び出したような感じがした。
柳生采女は、敵が八方破れであるのを見てとった。彼は躍りかかった。
「ええい!」
刀身がひらめき、神子上背鬼の右肩から背にかけて朱のすじがたばしると、盛大な血しぶきが宙天にあがって、地ひびきたてて彼はたおれた。
みな、しいんとしていた。
やおら、将軍家重が、お側に侍している大岡出雲守忠光をかえりみて、よだれだらけの口でいった。
「あの男は、なんのためにこの試合に出て来たのじゃ?」
十一日目の夜、柳生采女は芳町の京屋に駈けつけて、絵太夫右近がほんの数刻まえに切腹して死んだことを知った。
がっぱと伏し、にっと笑んだ屍骸《しがい》のそばに書置があった。
「ひとふでしめしまいらせそうろう。
右近かなしくも操《みさお》をやぶりそうろうて、おまえさまにあわせまいらす顔なくそうろうまま、自害しておわびもうしあげそうろう。右近がうわきをにくみそうろうて、いちにちもはやくわすれ下され、やさしき奥さまをおむかえあそばすよう草葉のかげよりいのりまいらせそうろう。ただせめていくたびか菊花のちぎりかわしそうろうよしみに、せめて右近の骨はふるさとの甲賀国《こうがのくに》卍谷へほうむり下さらば、御恩のほど生々世々《しようじようせぜ》までわすれがたく存じまいらせそうろう。
こいしき采女さままいる。
[#地付き]あなかしこ絵太夫右近」
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麺棒試合
一
――造化の理を知らんがため産物に心をつくせば、人われを藪医者の下細工人のように心得《こころう》。(平賀源内「放屁論」)
この甲賀伊賀《こうがいが》秘争の物語は、平賀源内《ひらがげんない》が金魚に興味を持っていたということからはじまる。
金魚は足利《あしかが》時代に支那《しな》から入って来たものらしいが、ふしぎなことに日本で最も発達した。つまり「琉金《りゆうきん》」とか「蘭鋳《らんちゆう》」とか「孔雀尾《くじやくお》」とか「和藤内」とか「おらんだ獅子頭《ししがしら》」とかいう奇怪で美しい新種をさまざま生み出したのである。それをふしぎなことというのは、日本人にはこういう奇怪な独創力というものが、先天的に欠落しているからだ。
私見によれば、水爆とか人工衛星を頂点とする巨大な西洋文明の原動力は――最初の一つぶの種は、だれかの奇怪といっていい空想力だと思うが、日本では、そういう性質の能力は、わずかに金魚の新製品の開発という方面だけに発揮された。
新種の金魚というと、つまり交配の工夫にあるが、まだ遺伝学のひらけなかった十八世紀の末葉に――日本では九代将軍家重から十代将軍家治の時代に、すでに「金魚育て草」とか「珍玩鼠《ちんがんそ》育て草」とかいう小動物の交配法をかいた書物があらわれている。これは「世界博物史上特筆に値する」と、ちゃんと日本の科学史に誇らしげにかいてある。
で、平賀源内も、むろんこの金魚の新種には興味を持った。
金魚に凝《こ》って、産をかたむける者さえ出たという時代である。儲《もう》けることにもぬけめのなかった――というより、じぶんの科学的天才を利用して、鉱山を掘ったり、オランダ製陶を試みたり、綿羊を飼ったり、火浣布《かかんぷ》という耐火衣料を作ったり、エレキテルという起電機を考案したり、儲けるためにあがきぬいたといっていい源内だから、これはそういう実利の方面からの興味もあるが、しかしそれより彼の心をとらえたのは、やはり交配という学問的な興味の方が強烈であったろう。
で、彼も二、三の新種を作った。現代、金魚屋が売り歩いているものの中にも、彼の発明にかかるものがあるかもしれない。
彼はそれを、時の御側御用人田沼|意次《おきつぐ》のところへ持っていった。
源内を大山師と見る世人が大半であったなかで、この一代の権臣だけが彼を買ってくれていた。この田沼という政治家は、見方によってはなかなか近代的な人物であって、とくに政治家とはまず当人が儲けることであるという信条を持っていたことでも、現代政治家の先駆者的存在である。だから、彼が源内をちかづけたのも、むろんそんな実利的な意味からだろうが、また一面、そればかりではないべつの興味の持てる肌合《はだあ》いが、どこか彼にもあったのではないかと思われるふしがある。――
さて、安永《あんえい》八年、初夏の一日、田沼屋敷に伺候した源内が、意次に金魚の珍種を披露していると、はからずも一|椿事《ちんじ》が邸内に発生した。
意次の子息の意知《おきとも》が、じぶんの小指を切りおとしてしまったのだ。
あとでわかったところによると、その原因というのがたわけている。もう三十をすぎているというのにこの息子は、そのころ吉原で流行していた「指切り」のまねをしそこねたのだ。遊女が心の真実をみせるために指を切る、いまでも「指切りげんまん」という遊びにその形態をのこすこの奇怪な風習には、木枕《きまくら》に小指をのせ、剃刀《かみそり》でその第一関節から切るのに数種の作法があって、意知はろくでもない旗本たちと、ふざけてそのまねをしているうちに、うっかりとほんとに小指を切ってしまったのである。
この騒動をきいて、源内が現場に駈けつけたとき、しかし意知の小指はもと通りになっていた。
「なに、切れた指がつながった?」
切れた指をつないだ者が、ちょうど騒ぎの直前に茶を運んで来た侍女であることを知ったが、その侍女はもうあたりにいなかった。
蒼《あお》ざめた、あいまいな顔をして、旗本たちがいう。
「おかしなことをやったぞ、あの女は。――切れた指をもとの指につないで、あいつ、唾《つば》を塗った」
「すると、指が蝋《ろう》みたいに柔らかく溶けて来た」
「じっとそれを握っていた手を離すと、切れたところがつながっておった。――」
すると、それまで腑《ふ》ぬけみたいに、原形に回復したじぶんの小指を見つめていた意知《おきとも》が、やっとその侍女の名をいった。時雨《しぐれ》という娘だ。
やがて、その娘が、意知ではない、意次のまえに呼び出された。
「時雨と申すか。そちは奇怪な医術を心得ておるそうであるな」
時雨はひたいをたたみにつけたままであった。が、それだけでも抜群の美しさが意次の眼をひいて、
「これ、おもてをあげよ」
と、彼はいった。
時雨は顔をあげた。細おもての、蝋細工《ろうざいく》のような、しかもぞっとするほど肉感的な美貌《びぼう》であった。
意次ばかりではなく、一座の人々の口から吐息がもれた。意次も、まばたきしたようである。
「そちはいつから当家に奉公に来た」
「十日ばかりに相成りまする」
「いずれの娘じゃ」
「伊賀組の伊賀一雲軒と申すものの娘でござりまする」
「なに、伊賀組?」
と、平賀源内はとんきょうな声をあげた。しばらく黙っていたが、ややあって、ひくい声で、
「すりゃ、さいぜんのわざは、医術ではなく、忍法ではないか?」
時雨はふたたびひれ伏して答えなかった。ひれ伏すまえに、ちらりと見せたのは、よしなきことをしたと悔いている表情であったようである。
それから、何をきいても、はかばかしい返答をしない。ようやくいったのは、
「掟《おきて》により、口外は禁じられておりまする。たっての仰せならば、なにとぞ父一雲軒を召しておきき下されまするよう」
という言葉ばかりであった。
やがて退出する時雨のあとを見送って、
「……美女でござるな。妖《あや》しいまでの」
と、源内は長嘆したが、やおら意次の方にむきなおっていった。
「伊賀組の名は存じておりましたが、いまだにあのような術を伝えておろうとは、源内はじめて知りました。是非、その伊賀一雲軒をお呼びなされませ」
「わしも、はじめて知った。伊賀一雲軒といえば、たしか伊賀組の頭《かしら》じゃが。……ほう、その娘が、当家に奉公に来ておったか」
「殿、源内、ただいまもう一つ、面白いことを思いつきました。伊賀組と申せば、甲賀組、この分では甲賀組にも何ぞ奇妙な忍法がつたえられておるかも知れませぬ。ついでのことに、甲賀組の頭も呼んで、一夜忍法|咄《ばなし》をきき、またその実技を御覧なされませ」
二
――事なきときは首《こうべ》をたれて麺《めん》のごとく、事あるにのぞんでは強きこと金鉄のごとく、変化きわまりなきこと、あたかも竜のごとし。(平賀源内「痿陰隠逸伝《いいんいんいつでん》」)
数日後、田沼屋敷に二人の忍法者が呼ばれた。
一人は伊賀一雲軒という白髪の老人であったが、一人は甲賀組の頭《かしら》の甲賀|錫斎《しやくさい》が病中であるというので、その子の鉄四郎という男が来た。両者は、両者がともに呼ばれたなどということも知らずして来たのである。
あらかじめ二人には、それぞれ伊賀甲賀二流の参考資料をも持参することを命ぜられた。
意次のまえで、二人は顔見合わせてはじめて愕然《がくぜん》としたようだ。むろん双方ともに柳営の警備御用の役目柄、顔は知っていたが、こういう性質の対座はまったく予期していなかったらしい。
意次は、二人の携《たずさ》えて来たさまざまの奇妙な道具にまず好奇の眼をそそいだ。
ふつうの刀槍ではない、鉄鞭やら十手やら鎖やら手錠やら照明器具やら、その他、名も使用法も見当がつかない武器やら。――座敷の両側にならべられたそれらの道具を、一つ一つとりあげて、意次はそれぞれ質問した。二人は、意次よりもおたがいが気にかかるらしく、にがい顔をし、口も重かった。とくに甲賀鉄四郎の方には敵愾《てきがい》の相があらわであった。
意次の問いのすきを盗んで、むろん参会していた源内もきいた。
「伊賀一雲軒どの」
「は」
「娘御《むすめご》が三人あるそうですな。御当家に御奉公の時雨どのをのぞいて、霞《かすみ》、吹雪《ふぶき》とおっしゃるかたが。おいくつです」
「時雨が二十《はたち》、霞が十九、吹雪が十七」
「ほう、それはそれはみな花盛りの――妹御の方も、時雨どの御同様にお美しいか」
そのとき、意次が肘《ひじ》まである手袋のようなものをぶら下げて来た。
「一雲軒、これは何じゃ。透き通って、魚の浮袋《うきぶくろ》のようなものじゃが」
「は、それは皮手甲《かわてこう》と申しまする。いかなる小さな手の者も、いかなる大きな手の者も、それぞれピッタリとはまり、はめた以上、左様なものをはめておるとは敵にはみえず、しかも炎にさしこもうと燃えず、刃《やいば》をつかんでも切れませぬ」
「ほう、それは何とも強靭《きようじん》な。――何でできておる」
「当家秘伝のものにて、よほど古いものでござりまするが、何でも老女の顔の皮を数枚張り合わせ、これをなめしになめしぬいたものときいております」
「ふうむ。婆あの面《つら》の皮よの、なるほど」
源内は、甲賀鉄四郎にきいていた。
「父御《ててご》が御病気と 承《うけたまわ》 ったが、どのような御様子です」
「いや、さしたることはござらぬが、やつれ顔は見苦しく、恐れ多いと申して。――」
「弟《おとうと》 御《ご》がござるそうな」
「銅七郎といいます」
「おいくつになられる」
「二十四でござる」
鉄四郎は二十七、八の、それこそ全身の皮膚をなめしたように精悍《せいかん》な若者であった。
そのとき、意次が、脇差《わきざし》といまの手甲をぶら下げてちかづいて来た。
「見よ見よ源内、おまえの発明した火浣布《かかんぷ》などが泣こう。この伊賀の皮手甲、脇差で切ろうとしても切れぬぞ」
源内は受けとり、ひっぱって見、光にかざし、首をかしげた。そしていった。
「鉄四郎どの、若し伊賀者が、これをはめて立ちむかって来たらどうなさる。甲賀の方も、文字通り刃《は》が立つまいが」
「失礼」
甲賀鉄四郎は受けとり、その手袋を右腕にはめた。
「……それほど強うござろうか?」
ニヤリと笑ったとたん、意次も源内もあっと口の中でさけんで眼を見はっていた。
鉄四郎の右腕がみるみるふくれ上って、ふとももみたいにふとくなったのである。同時にその皮膚に亀裂が入った。そう見えたのは、皮手甲が透明であったからで、実はそれが四分五裂に裂けたものであったことは次の瞬間にわかった。
「しゃあっ、な、何をいたす、伊賀の秘具を。――」
伊賀一雲軒が駈けて来たときは遅かった。伊賀の皮手甲はズタズタになって、たたみの上にむしりおとされていた。
「かようなものは、大事にしておっても何の役にも立ちますまい。頼むべからざるものを頼む危うさにくらべれば、いまこうして始末しておいた方が伊賀の恥をふせぐことになろう。――」
と、甲賀鉄四郎は平然といった。
蛙《かえる》が雷雲のひろがるのを感覚するような殺気をおぼえて、源内ははっとしたが、意次はそれほどには感じなかったらしい。それよりも、いま目撃したものに心を奪われたようだ。
「鉄四郎、いま、そちの腕は二倍になったな」
「はて、左様に見えましたか」
と、鉄四郎は冷笑にちかいそらっとぼけの顔を、伊賀一雲軒の方にむけたまま答えた。彼の右腕はもとの通りにもどっていて、いま二倍に、いや三倍以上にもふくれあがって見えたのは錯覚ではなかったかと思われるほどであった。
「そのわざは――何の役に立つ」
「たとえ、鉄鎖を以て縛られようと紙紐《かみひも》のごとく断ちまするように――甲賀忍法肉だわら、と申しまするが。――」
「左様なわざは、だれでも修行すれば成るものか」
「いや、これは他の者には無用、修行しても効なきわざでござりまする。わざというより、血のなせるわざ」
「血のなせるわざ?」
甲賀鉄四郎の顔に、やや困惑の色があらわれた。いまじぶんのみせたわざ、じぶんの口走ったことを、しだいに悔《く》いて来たようだ。が、意次に強《し》いてきかれて、しぶしぶと無愛想に答えた。
「これは甲賀直系の血すじの者のみ、数百年血と血をかけ合わせてようやく現わすことのできる秘術でござりまする。その証拠に、父と弟の銅七郎をのぞいて、他の甲賀者には一人としてこの肉だわらの忍術をふるえる者はござりませぬ」
「なに、血と血をかけ合わせる?」
源内はじっと鉄四郎の異様な精気にみちた顔を見つめていたが、やがてふりむいて、
「一雲軒どの」
と、呼んだ。
三
――コリャ綸言《りんげん》は汗のごとし。違背すれば違勅《いちよく》のとが、討手にゆくか、ただしはいやか。なんとなんととせりかけせりかけ、おのが企《たく》みをおしかくし、勅諚ごかしのきめ圧状《おうじよう》。(平賀源内「神霊矢口《しんれいやぐちの》 渡《わたし》」)
伊賀一雲軒は端座して、甲賀鉄四郎をにらんでいる。蒼《あお》い白髪鬼のようなぶきみな姿であった。
「先日の、あの娘御の忍法は?」
「伊賀忍法|肉蝋燭《にくろうそく》と申す」
「それは?」
「御同様、だれにも成るものではござらぬ。伊賀組百年の血をかけ合わせ、いまでは拙者と娘だけが心得おる」
彼はひざの上に、裂かれた皮手甲を置いていた。指を唇にあて、唾をつけると、裂けたところが溶接した。しかし、つくろいつつ、その手は怒りにかすかにわなないている。――
「殿」
と、源内はいった。
「いま、拙者の思いついたことでござりまするが、甲賀伊賀、なるほどききしにまさるふしぎな天分、ふしぎなわざ、これが両者合体すればいかが相成るか」
「合体、と申されると?」
と、鉄四郎がけげんそうにいえば、一雲軒も手をやめて、
「伊賀組、甲賀組は、そのなりたちからして別あつかいでござる」
と、吐き出すようにいった。二人とも、何か或《あ》る不安を予感したようだ。
「両家の縁組、ということでござるが。――」
「ば、ばかな!」
二人は、同時にさけんだ。
「甲賀と伊賀、いまだ曾《かつ》て両家のあいだに縁組など交わしたことはない」
「途方もないことをいうおひとだ。双忍競い合ってこその伊賀甲賀と、両家不通のことは権現さま以来の掟《おきて》でござる」
源内は田沼意次の顔を見た。
「左様なことに相成っておりますか」
「そう申せば、なるほど甲賀組、伊賀組の縁組とはきいたことがないの。しかし、別にそのようなお定めになっておるともきかぬが。……」
「不文の掟でござる」
と、伊賀一雲軒がいった。
「そういうものはだんだんとお取払いになっておる。御時勢だ」
源内は手をふった。
「正直なところ、私などは甲賀伊賀にそれほどの血、それほどのわざがつたえられていようとは、いまのいままで知らなんだ。世のだれしもが――いや、御公儀の御執政たる殿におかせられてが、はじめておん目、おん耳にお入れなされたように拝される。さほど大事にまもるほどの慣習ではござるまい」
何かいおうとする二人を、源内はおさえた。
「あいや、いま拝見しておると、御両派、どうやら相当の敵愾心《てきがいしん》をお持ちのようですな。柳営鎮護の大任にあたられる御両家が、左様に隔意あることこそふしぎ、それこそ御公儀のお心にそむくこととは思われぬか。悪いことは申さぬ。きょうをよい折りとして、仲なおりなされ、合体なされ。――」
「源内、いかようにおまえが旧套《きゆうとう》打破を望もうと、まさか甲賀組伊賀組の区別をなくするわけには参らぬぞ」
と、意次がいった。
「いや、いま申した通り、縁組すればよいのでござる。さっき 承《うけたまわ》 ったお年ごろから、左様、この甲賀鉄四郎どののところへ、伊賀の御次女が嫁《とつ》がれればよい。あいや待たれい、その代り、伊賀の御長女のところへ、甲賀の御次男が婿《むこ》入りなさればよい。……いかなるお子が生まれるか、金魚でござる」
「――金魚?」
はじめて意次も、源内のアイデアが思いあたったらしい。急に新鮮な興味にひかれる眼で、甲賀伊賀の代表者を見くらべた。
二人はにらみ合っている。胸が大きく起伏しているところを見ると、よほど衝動を受けたものであろう。金魚|云々《うんぬん》のことなど何のことか、判断力も失っているようだ。
「古き甲賀伊賀は御公儀直属のもの。この両派の合体によって生まれる新しい忍法は……それを仲立ちなされた殿のおんもの。いや、殿の御代には間に合いますまいが、田沼家は万代です。それどころか、いま新しい忍者を創出し、これを手飼いになさることこそ、田沼家を万代たらしめる一助となるのではござりますまいか。……」
「よし、わしが仲立ちしてとらす。……ふうむ、甲賀伊賀の縁組。いまだ曾《かつ》てなかったこととすれば、なるほどいよいよ以《もつ》て面白い」
意次はひざをのり出し、双方を見ていった。
「一雲軒、鉄四郎、否やはゆるさぬぞ」
ちょっと不安感をおぼえた平賀源内は、釘《くぎ》をさした。
「それ以前に、両派のあいだに不平分子のごときものが出たら、御両人、頭《かしら》たる家柄を以てとり鎮めなされ。死者など出たら、殿の御面目をふみつぶされたものと見る。……なあに、男と女。祝言すればたちどころに殿のお仲立ちを涙をこぼしてありがたがるようになるわさ」
甲賀忍法肉だわら、伊賀忍法|肉蝋燭《にくろうそく》、一は肉を新しく生みだすものといってよく、一は肉を溶かすものといっていい。
そのような忍法を心得ている――心得ているというより遺伝的に体質化している男女が結婚するとどうなるか。胎児はどうなるか。どのような素質を持った忍者として成長するか。
平賀源内は、この恰好《かつこう》な実験例を得たことにワクワクし、この遺伝の結果をながく観察したいという望みにとり憑《つ》かれた。
……ひょっとすると源内は、先刻から両家の家族についていろいろと質問していたようだが、この数日のあいだに何やら調査していたことがあって、あらかじめ或る腹案を抱いていたのかも知れない。
しかし、優性劣性、確実に把握《はあく》することのできる遺伝因子の問題など、うまくゆけばメンデル以上の先駆者となれたかも知れないアイデアマンは、それからあまり日もたたないうちにくだらないことから人殺しをして入牢《にゆうろう》する破目となり、年のうちに牢死してしまうことになるのである。
そして彼のそもそものアイデアはおき去りにして、無意味にして恐るべき実験だけが独走することになる。――
四
――うつろいやすき色糸の、濡れの糸口|綻《ほころ》び口、吸いつき引っつきしめつけて、離れがたなき風情《ふぜい》なり。ときにふしぎや義岑《よしみね》公、娘とともに色変り、ハッと身ふるいたちまちに、どっかと倒れ息たえたり。(平賀源内「神霊矢口《しんれいやぐちの》 渡《わたし》」)
甲賀|錫斎《しやくさい》の貧しい家に、人々がつめかけていた。甲賀組のめんめんである。
その夕《ゆうべ》、この屋敷から次男が花婿《はなむこ》として出かけてゆき、ほとんど入れちがいにこの屋敷の長男のところへ花嫁が来た。婚礼が終って、花嫁を送って来たつきそいの連中がひきあげてゆくほとんど入れちがいに、花婿を送っていったつきそいの連中が帰って来た。まるで煮えくりかえるような騒ぎである。
それだけに、いまの静けさがじっとりと凝縮《ぎようしゆく》するようで、ただ雨の音ばかりがきこえた。梅雨《つゆ》に入っていた。しかし、むろん雨声に耳をすましている者はない。
「……起きておるのか?」
と、ひとりがあごをしゃくると、ひとりが沈痛にうなずいた。
「御側御用人さまからの、お目付役つきの婚礼とは、こんな祝言が世にあろうか?」
御側御用人とは、もとより田沼|主殿頭《とのものかみ》意次のことである。そこから派遣された目付は、この家の一室にひかえている。今宵《こよい》、伊賀家から花嫁を迎えるにつき、これに不穏なふるまいをしかける者などがないように監視し、首尾を見とどけるための役目であった。
「あの平賀源内とやらの智慧《ちえ》だろう。あくまでもぬけめのないやつ」
「甲賀伊賀の縁組など、実に途方もないことを思いつく奴だ」
「とはいえ、これに叛《そむ》けば、甲賀組は断絶のほかはない」
「また、今宵伊賀家へいった銅七郎のいのちもあやうい」
「おお、銅七郎はいまごろどうしておるか?」
病みあがりの甲賀錫斎は、憎悪と苦悶《くもん》にみちた眼を、或る方角に投げてうめいた。
「と、申して、捨ておけば、今宵、甲賀の血はけがれる。……」
その方角の一室で、今宵、いや、いまのいま、甲賀鉄四郎は伊賀の花嫁|霞《かすみ》と相対しているはずであった。
甲賀鉄四郎は花嫁霞を見た。
伊賀組の頭《かしら》の家に三人の娘がいるとはきいていたが、無縁の女人として、彼はいままで関心を持ったことはない。その一人を、はからずもじぶんの花嫁として迎えて、今宵彼ははじめて彼女を見たのである。
美しい。……と、彼は心中に舌をまいた。行燈《あんどん》のかげにうなだれている花嫁のまわりには、霞がたなびいているようであった。
鉄四郎にはかねて嫁にもらうべき女が甲賀組の中にいた。しかし、その美しさはだんちがいだ。じいっと花嫁を見すえている鉄四郎の眼に、しだいにあぶらのようなひかりが燃えて来たのは是非もない。
「霞」
と、彼は呼んだ。
霞は顔をあげた。ぼうっとうるんだ眼ににじんでいるのは、しかし世のつねの花嫁のはじらいの色ではない。それを見たとたん、鉄四郎もわれにかえった。
「さて、おれはおまえを抱かねばならぬ」
「…………」
「いやでも抱かねばならぬ。初寝《ういね》の朝、花嫁の血のついた紙を見てたち帰る役が、当代の権臣の目付だ」
「…………」
「たとえ、おまえがいかにおれを嫌《きら》おうと、おれをどうとかすれば、御意に叛《そむ》いたものとして伊賀組は無事にはすまぬ。それは、おれの場合も同様だ」
甲賀鉄四郎の眼には憎悪に似た炎がまじって来た。
「また、これもおたがい同様だが、もしおまえがみずから死ぬようなことがあれば、それは伊賀が甲賀に敗北したものと認めて、爾後《じご》、伊賀組をそのようにあしらう。……と、田沼さまの仰せだが、おそらくあの源内のさした釘《くぎ》だろう」
「…………」
「だから、いま以後、おまえは死ぬ日まで、安らかにこの甲賀鉄四郎の妻として生をすごしてゆかねばならぬ」
「…………」
「霞、来い」
鉄四郎はみずから立っていって、霞のそばに寄り、そして彼女の帯をとき、衣服をぬがしはじめた。
「一応調べる。妙な道具は持っておるまいな」
霞は人形のように裸身にむかれた。人形のように――いや、さすがにさくら色に染まり、息づく、美しいともなまめかしいとも形容を絶する処女の裸身だ。
鉄四郎は、褥《ねや》の中に彼女を抱き入れた。
「おまえの唾は、その気になれば肉を溶かすのであったな。口は吸えぬ」
といって、彼はわなないている二枚の貝のような女の唇を見ていたが、
「いや、溶かして見ろ。お目付が見る」
うめいて、その唇にみずから吸いついていた。――腹合わせになった恐怖と悦楽、このような初寝《ういね》の床が、いまだ曾て世にあったであろうか。
数分後、ふたりはうごかなくなった。一塊となって凝固したようであった。
じつにながいあいだ、呼吸もとめていて。――
「……あーっ」
同時にふたりの口から名状しがたいさけびがもれた。
宙に躍《おど》りあがるように、甲賀鉄四郎は座敷の一角に跳《は》ねとんでいる。一息おいて、霞もまた反対の隅《すみ》にすっくと立っていた。
一糸まとわぬ裸形《らぎよう》の霞のまっしろなふとももに、ひとすじの血がつたいおちた。
「わたしにおまえの子は生めぬ」
と、霞はひくい声でいった。
「おまえは、いまのままのその姿で、死ぬ日まで、この霞の夫として生をすごしてゆくがよい」
霞は棒立ちになった鉄四郎のからだを見つめていった。
「それとも、その甲賀の恥をお目付の御検分にかけるかえ?」
甲賀鉄四郎の股間《こかん》のものは、みみずのように細くとけて、弱々しくゆれていた。
半刻ののち、甲賀鉄四郎は真夜中の庭に坐《すわ》っていた。
座敷に、呼び出された目付役と甲賀一族が、仰天した表情で詰めかけている。そうしておいて、鉄四郎はみずから雨の庭に坐ったのである。
「存ずるところあって、甲賀鉄四郎、自裁いたす」
彼はいって、短刀をぬいた。
目付は腰を浮かせてさけんだ。
「鉄四郎。……伊賀の花嫁に何かされたのか」
「何も、されませぬ」
「そちゃ……き、気でも狂ったか」
「いかにも、甲賀鉄四郎、乱心して死んだと、主殿頭《とのものかみ》さまに御復命下されい」
事実彼は、たしかにうつろな、狂的な眼をして、雨の中に腹一文字にかっさばいた。
同じころ、もとの座敷の行燈のかげには、霞がけぶるように寂然《じやくねん》と坐っていた。
五
――前をまくって突きつけるは、一尺八寸胴返し、厳物《いかもの》作りの黒塗りに、青筋張ったる一物は、赤銅《しやくどう》で鋳《い》た半鐘を、蛇の巻いたるごとくなり。(平賀源内「長《なが》 枕《まくら》 褥《しとね》 合戦《がつせん》」)
伊賀一雲軒の貧しい家に、人々がつめかけていた。伊賀組のめんめんである。
その夕《ゆうべ》、この屋敷から次女が花嫁として出かけてゆき、ほとんどいれちがいにこの屋敷の長女のところへ花婿が来た。婚礼が終って、花婿を送って来たつきそいの連中がひきあげてゆくのとほとんど入れちがいに、花嫁を送っていったつきそいの連中が帰って来た、まるで煮えくりかえるような騒ぎである。
それだけに、いまの静けさがじっとりと凝縮《ぎようしゆく》するようで、ただ雨の音ばかりがきこえた。梅雨《つゆ》に入っていた。しかし、むろん雨声に耳をすましている者はない。
「……起きておるのか?」
と、ひとりがあごをしゃくると、ひとりが沈痛にうなずいた。
「御側御用人さまからの、お目付役つきの婚礼とは、こんな祝言が世にあろうか?」
御側御用人田沼主殿頭意次から派遣された目付は、この家の一室にひかえている。今宵、甲賀家から花婿を迎えるにつき、これに不穏なふるまいをしかける者などがないように監視し、首尾を見とどけるための役目であった。
「あの平賀源内とやらの智慧だろう。あくまでもぬけめのないやつ」
「伊賀甲賀の縁組など、実に途方もないことを思いつく奴だ」
「とはいえ、これに叛《そむ》けば、伊賀組は断絶のほかはない」
「また、今宵甲賀家へいった霞のいのちもあやうい」
「おお、霞はいまごろどうしておるか?」
白髪の伊賀一雲軒は、憎悪と苦悶にみちた眼を、或る方角に投げてうめいた。
「と、申して、捨ておけば、伊賀の血はけがれる。……」
その方角の一室で、今宵、いや、いまのいま、時雨は甲賀の花婿銅七郎と相対しているはずであった。
時雨は花婿銅七郎を見た。
甲賀の頭《かしら》の家に二人の息子がいるとはきいていたが、無縁の男性として、彼女はいままで関心を持ったことはない。その一人を、はからずもじぶんの花婿として迎えて、今宵彼女ははじめて彼を見たのである。
美しい。……と、彼女は胸のときめくのをおぼえた。行燈《あんどん》のかげに、端然と坐っている花婿のまわりには、かげろうがゆらめいているようであった。
時雨には、かねて婿にもらうべき男が伊賀組の中にいた。しかし、その美しさはだんちがいだ。じいっと花婿を見つめている時雨の眼に、しだいにうっとりとしたひかりがけぶって来たのは是非もない。
「銅七郎どの」
と、彼女は呼んだ。
銅七郎はまばたきをした。冴《さ》えざえとした眼にひかっているのは、しかし世のつねの花婿にはあり得ない皮肉な色である。それを見たとたん、時雨もわれにかえった。
「さて、わたしはおまえに抱いてもらわねばなりませぬ」
「…………」
「いやでも抱いてもらわねばなりませぬ。……たとえ、おまえがどのようにわたしを嫌おうと、わたしをどうとかすれば、飛ぶ鳥おとす田沼さまの御意《ぎよい》に叛いたものとして、甲賀組は無事にはすまぬ。それは、わたしの場合にも同じことです」
時雨の眼には憎悪に似た炎がまじって来た。
「また、これもおたがい同様ですが、もしおまえがみずから死ぬようなことがあれば、それは甲賀が伊賀に負けたものと認めて、以後、甲賀組をそのようにあしらう。……と、田沼さまの仰せですが、おそらくあの源内とやらのさした釘でありましょう」
「…………」
「だから、いまよりのち、おまえに死ぬまで、安らかにこの時雨の婿として生きていってもらわねばなりませぬ」
「…………」
「銅七郎どの、おいでなされませ」
時雨はみずから立っていって、銅七郎のそばに寄り、そして彼の帯をとき、衣服をぬがしはじめた。
「一応改めます。妙な道具を持っていないでしょうね」
銅七郎は人形のように裸身にむかれた。人形のように――いや、さすがにさくら色に染まって、息づく、清爽《せいそう》とも若々しいとも形容を絶する童貞の裸身だ。
時雨は、褥《ねや》の中に彼にからまって横たわった。
「おまえ、口の中に毒などいれていますか。口は吸わせませぬ」
と、いって、彼女は燃えるような息を吐いている男の唇を見ていたが、
「いえ、毒を口移しにして見や、お目付が御覧なさる」
あえいで、その唇に、みずから吸いついていった。――腹合わせになった恐怖と悦楽、このような初寝《ういね》の床が、いまだ曾て世にあったであろうか。
数分後、ふたりはうごかなくなった。一塊となって凝固したようであった。
じつにながいあいだ、呼吸もとめていて。――
「……あーっ」
同時に、ふたりの口から名状しがたいさけびがもれた。
宙に躍りあがるように甲賀銅七郎は座敷の一角に跳ねとんでいる。一息おいて、時雨もまた反対の隅にまろび逃げた。
一糸まとわぬ裸形の時雨のまっしろなふとももに、滝のように血がつたいおちた。
「おまえに、おれの子は生ませぬ」
と、銅七郎はひくい声でいった。
「おまえの子宮《こつぼ》の口はひき裂かれた。そのままのからだで、死ぬ日まで、この銅七郎を婿として生をすごしてゆくがよい」
時雨は、仁王立ちになった銅七郎のからだを見つめていた。
「それとも、その伊賀の恥をお目付の御検分にかけるか?」
甲賀銅七郎の股間のものは、腿《もも》ほどになり、へそのあたりまで聳立《しようりつ》していたが、やがてゆうゆうと原形に復していった。
半刻ののち、時雨は真夜中の庭に坐っていた。
座敷に、呼び出された目付役と、伊賀一族が、仰天した表情で詰めかけている。そうしておいて、時雨はみずから雨の庭に坐ったのである。
「存ずるところあって、時雨、自裁いたしまする」
彼女はいって、懐剣をぬいた。
目付は腰を浮かせてさけんだ。
「時雨。……甲賀の花婿に何かされたのか」
「何も、されませぬ」
「そちゃ……き、気でも狂ったか」
「その通り、時雨、乱心して死んだと、主殿頭《とのものかみ》さまにお伝え下さりませ」
事実彼女は、たしかにうつろな、狂的な眼をして、雨の中に、のどぶえを刺しつらぬいた。
同じころ、もとの座敷の行燈のかげには、甲賀銅七郎がかげろうのように寂然《じやくねん》と坐っていた。
六
――これはわが仙術の奥儀《おうぎ》をこめし団扇《うちわ》なり。なんじが修行|成就《じようじゆ》して、ふたたびこの土へ帰りしとき、また対面をなすべし。さらばさらばという声は、障子にのこる風の音。(平賀源内「風流志道軒伝」)
妙なことになった。
伊賀の花嫁を迎えた甲賀の男が、「相手に責任はない」といって自裁し、甲賀の花婿を迎えた伊賀の女が、これまた「相手に責任はない」といって自害したのである。
相手にしてやられた、ということはみずからの軽重《けいちよう》を問われることだからその言葉に信用はおけないが、しかしあきらかに傷を受けたようすも、毒をのまされたようすもない。
妙なことになった。
この報告を受けた田沼意次は、しばらく狐《きつね》につままれたような顔をしていたが、やがて、
「よし。……もういちど祝言させい」
と、いった。
「伊賀の生き残った霞という女を、甲賀の生き残った銅七郎とやらと夫婦《めおと》にせい。伊賀の家には、もう一人、吹雪《ふぶき》という妹娘があるときく。伊賀の家はそれにつがせればよいであろうが」
これはもう遺伝学上の興味などというものではない。謎《なぞ》としかいいようのない破局への強烈な好奇心からであり、また何やらじぶんがばかにされたような感じに対する意地からでもある。
甲賀伊賀両家は、時の大権力者からの重ねての命令にうめき声をたてたが、しかしどうすることもできなかった。
伊賀家へ婿入りした甲賀銅七郎は甲賀家へひきあげた。甲賀家へ嫁入りした霞も、一応、伊賀家へ帰って来た。それはまるで捕虜の交換のように、同時に、ものものしく行われた。
途中、双方がすれちがう機会があったが、この年下の義姉と、年上の義弟は――いや、数日のうちにも、改めて夫婦《めおと》のちぎりを交わさねばならぬという妖《あや》しき縁《えにし》の糸に結ばれた二人の男女は、眼と眼を合わせ――そのとき甲賀銅七郎は、美しい唇に、ニヤリと不敵な笑みを浮かべたということである。
二度目の嫁入りする前夜、霞は妹の吹雪を呼んだ。
「姉上。……甲賀へおゆきになることはやめて下さいまし」
吹雪は泣いた。十七の、美貌はさらに姉にまさるが、まだあどけなさのどこかに残る妹であった。
「地獄です」
と、霞はいった。
「田沼さまが、おもちゃのようにお作り出しなされる地獄。……でも、伊賀家を残すためとあれば、地獄の中へでもゆかねばなりませぬ」
霞は宙を見すえていった。
「ただ。……いま、おまえにいい残しておかねばならぬことがある」
「なんでございましょう」
「たとえ甲賀へ嫁にゆこうと、わたしは甲賀の子を生むことはできぬ。向うもわたしに子を生ませることはがまんできまい。だから……もういちど、同じことが起る」
「同じこと」
「銅七郎が死ぬか、わたしが死ぬか」
吹雪は蒼白になった。
「銅七郎が死ねば……まさかもはや田沼さまもそれ以上、この無惨な婚礼遊びをお申しつけになるようなことはあるまいと思うけれど……わたしの方が殺されるような気がします」
「そんな、姉上」
「わたしも銅七郎がどんな手でくるか知っているつもりだけれど、銅七郎も姉上との忍法争いで、わたしの手を知っているはず。いちど、あの男を見ました。わたしはあの男に勝てないような予感がするのです」
「…………」
「が、ただで、みすみす、わたしは負けぬ」
霞は凄艶《せいえん》な笑みを片頬《かたほお》に彫った。
「そこで、わたしが討たれたならば」
彼女は妹の顔に見入った。
「こんどはおまえの番となる。おまえが伊賀家に残っているかぎり、きっとそうなる。――けれど、おまえの忍法はまだ未熟です」
「――はい。お仰せの通りです。姉上」
吹雪は身ぶるいし、身もだえした。
「それについて、おまえにいい残しておきたいことがあるのです。おきき、吹雪」
霞はやや顔をあからめて、しかし必死の眼で妹の耳に口をちかづけた。
伊賀の霞が急死したと甲賀家から伝えられたのは、霞と銅七郎の婚礼の翌朝のことであった。
七
――まら[#「まら」に傍点]坊が弟子となりて、かくべら[#「べら」に傍点]坊とはなりにけり。しかれどもまたかかる中にも、おのずから孝悌の意|備《そな》われるは、わが筆力の妙なり。もし目玉の明きたる人ありてその妙を知るにいたらば、こいつ咄《はな》せる奴なるべし。或は知らずしてそしるものありとも、我らへちまの皮とも思わず。(平賀源内「長枕褥合戦」)
いよいよ以て妙なことになった。
三人もの不可解な死者を出して、さしもの田沼意次も恐れをなしたか、酔狂な縁組の仲人《なこうど》はあきらめたらしく、それ以上何もいってこなかったのに、なんと伊賀の末娘、吹雪が、甲賀銅七郎とどうしても結婚したいといい出して来たのである。
「やはり両家の縁組は不吉でござる」
と、甲賀家の方では拒否した。
ところが、吹雪が田沼家へ出した口上が意次の興味をひいた。
「たんに甲賀銅七郎どのと祝言したいばかりではない、そのまえに銅七郎どのと忍法の争いをしたい。そしてもしじぶんが勝ったならば、じぶんが甲賀家へ嫁入りするのではなく、銅七郎どのを伊賀家へ婿にいただきたい。もとより忍法争いといっても、あとで祝言を望むくらいであるから、じぶんが銅七郎どのに手をかけて殺《あや》めるなどいうつもりはない。こちらはそのつもりであるが、銅七郎どのの方が勝たれるならば、この祝言をことわるのはもとより、その勝負の結果としてじぶんがいのちを失うことになろうとも、それは覚悟のまえである。伊賀甲賀のこの忍法争いはいかなるものか、それは田沼|主殿頭《とのものかみ》さまのおんまえに於て御見《ぎよけん》に入れたい」
というのである。
このような申し込みを受けては、甲賀の方でももはやあとにはひけなかった。
平賀源内が人を殺して入牢した、という知らせを受けて数日ののち、田沼意次は自邸の庭で、甲賀伊賀の忍法の果し合いを見ることになった。何かこの世がこの世でないような――異次元の世界が到来したような、朱と金と紫に天地が染まった、夏の夕焼けの下であった。
甲賀銅七郎と伊賀の吹雪は、遠く離れ、向い合って立った。夕映えに浮かび、いずれも妖花のような美しさだ。
「……お」
最初、吹雪を一瞥《いちべつ》したとき、銅七郎の眼にそんなひかりがきらめいたようだ。決闘の相手のあまりに可憐《かれん》な美しさに瞠目《どうもく》したものと見えた。
「吹雪というか。妙なことになったな」
彼もそのことを口にした。
「甲賀、伊賀の忍法争いとは――何をやる」
吹雪は答えない。両腕をうしろにまわし、叱《しか》られた子供のように立っている。
腰に双刀をたばさんではいるものの、これでは銅七郎も柄《つか》に手をかけられなかったが、相手の眼に、にっと笑いが浮かんで来たのを見ると、夕焼けの中にも、ひときわ彼の頬《ほお》に血がのぼるのが見えた。
――それまで彼はむしろ憂鬱《ゆううつ》げであった。なぜか、病みあがりのように蒼《あお》ざめて、やつれて、苦しげにさえ見えたのが、このとき敵愾《てきがい》と闘志に、美しい豹《ひよう》のような精気にみちて来たのである。
「やりたいことをやって見ろ」
嘲笑《ちようしよう》 的に彼がそういったとたん、吹雪の両腕がうごいた。はっとしたが、吹雪は、なんとおのれの帯、衣服をスルスルとぬぎはじめたのである。
吹雪はすべてをかなぐり捨てた。そして全身をうしろへ、弓のように反《そ》らせた。反らせて、髷《まげ》がくずれて地に這《は》い、そして両|掌《て》も地についた。みごとな弧をえがいて、のびきった腹部の皮膚に落日が映えた。そのままの姿勢で、足から先へ、彼女は徐々に徐々に、銅七郎の方へうごき出した。
それまで、田沼意次はもとより、甲賀銅七郎も息をのんで、この娘の奇怪な変形《へんぎよう》ぶりを見ていた。そも、この娘はこの構えでいかなる忍法をつかおうとするのか。
吹雪はすすんで来た。銅七郎の眼には、二本の白い足と、球形の腹と、そしてそれらが織りなす妖《あや》かしの翳《かげ》が見えるばかりであった。
それが三間の距離にちかづいたとき、銅七郎の顔に、異様な苦悶《くもん》の表情がけいれんしはじめたようであった。
両者の間隔は二間となった。
「伊賀のくノ一」
と、彼は絶叫した。その美貌が、醜怪といえる物凄まじいものに変っていた。
「この勝負、おれがうぬを討ち果たすは勝手だと申したな」
――やめよ、銅七郎、と意次が立ちあがるより早く、甲賀銅七郎は一刀をふりかぶったまま、空に躍《おど》りあがっていた。真っ向から、吹雪の股間を断ち割ろうとしたのである。
しかし、刃《やいば》はすれすれに、彼のからだは吹雪の足のまえに落ちていた。落ちたまま、彼はキリキリ独楽《こま》みたいに地上を回転した。廻りながら、彼は刀も投げ出して、両手で腹のあたりをかきむしっていた。満面は充血して、あきらかに窒息《ちつそく》状態の顔貌《がんぼう》であった。
苦悶の爪《つめ》がおのれの衣服もかき裂き、それも及ばず甲賀銅七郎ががくりとうごかなくなったとき、伊賀の吹雪はすっくともとの立ち姿にもどった。
「お見とどけ下さいまし。伊賀忍法が勝ちました」
その声もよそに、田沼意次はかっと眼をむいて、甲賀銅七郎の腹部を巻いているものを見つめている。蛇《へび》のようだが、蛇ではない。あきらかに肉だ。細い、筒状の肉だ。――それが屍体《したい》の腹をちぎるばかりに絞めつけて、腰のあたりにかまくびをもたげていた。
そのかたちを凝視《ぎようし》していて、意次は恐怖の声をあげた。
「や、や、あれは何だ?」
だれが知ろう、いちど女身を裂くばかり肉だわらのように巨大化したそれが、次に肉蕎麦《にくそば》のごとくひきのばされたものであろうとは。
そのものがそういうかたちに変るまでの、甲賀銅七郎と伊賀の霞《かすみ》との死闘の光景は、人間の想像を絶している。――げんにそれをまざまざと眼前に見た田沼意次も、肉蝋《にくろう》のようにひきのばされたものを、銅七郎がみずからの腹に巻きつけて秘していたとは空想のしようもない。
それにしても、なぜ彼はみずからの肉体の一部に絞め殺されたのか。
「わたしは一指もふれませぬ」
と、吹雪はいった。
「ただ、いまの構えで立ちむかえば、甲賀忍法はみずから敗れる、破ってみせる――と、姉霞の遺言でございます。……」
「それは、男のものではないか」
と、意次はさけんだ。
「わたしは何も存じませぬ」
と、吹雪は童女のようにあどけなくくびをふってのぞきこんだが、しかしはじめて何やら本能的にぎょっとしたらしく、ふいに両掌で顔を覆った。
たちまち彼女は全身を羞恥《しゆうち》に染めて、朱と紫の色を濃くした夕闇《ゆうやみ》の中へ、はたはたと逃げこんでいった。
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かまきり試合
一
有馬作兵衛に対するおゆかの印象はなんどか変った。
最初は、彼が道場破りを始末してくれたときだ。
おゆかの父鳥羽織右衛門は、豊後《ぶんご》の佐伯《さえき》で町道場をひらいていた。指南ぶりもすぐれていたし、思慮ぶかい人柄であったので、町道場とはいえ、藩士で入門する者も多かった。たまたま藩の剣道指南役が急病でなくなったので、織右衛門をその後任として召しかかえようという話があった。異例のことであるが、それだけに鳥羽家にとっては千載一遇の機会である。
そんな秋の或《あ》る日、一人の浪人風の侍がやってきて、試合を申しこんだ、やせこけて、野良犬みたいに凶悪な相を持った男であった。
「武士の立合いは真剣を以《もつ》て最上とする。ま、そうもゆくまいが、せめて木剣でおねがいしたいな」
慶安《けいあん》のはじめ――諸国に浪人の充満している時代の話である。
こんな高飛車なおどしをかけて、些少《さしよう》な草鞋銭《わらじせん》を投げあたえるとホクホクして立ち去る連中がまず大半であったし、このみるからに尾羽《おは》打ち枯らした浪人もてっきりその同類と見て、居合わせた門弟の一人が立ち合って、手首をたたき折られた。つづいて、二人、血相かえて道場におどり出して、これまた医者を呼ぶほどの重傷を受けて悶絶《もんぜつ》した。
道場には、惨として声もなかった。次に試合の用意をしていた師範代も腰がたたず、蒼白《そうはく》になって坐《すわ》っていると、その浪人はつかつかとその前に寄って来て、
「あるじを出されい。……おぬしがやってもむだだ」
と、しゃがみこんでいった。そのとき鳥羽織右衛門は、奥で佐伯藩の重職を接待していたのである。
「しかし、鳥羽さんが来られても、やはりだめだろうな」
なれなれしく、そしてぞっとするような自負にみちた姿であった。それから、ニヤニヤと笑いながら、小声でいった。
「打ちあけていえば、おれはただの道場破りではない。或る目的があって乗りこんで来たのだが、その目的を変えた。いま門を入るとき、ちらと美しい娘を見かけたが、あとできくと、あれは鳥羽さんの娘御《むすめご》で、佐伯小町といわれるおひとじゃそうな。……唐突で、どう思われるかしらんが、どう思われてもさしつかえない。あの娘御を頂戴《ちようだい》すれば、おれはおとなしくここをひきあげよう」
師範代は泳ぐようにやってきて、用談中であった鳥羽織右衛門を呼び出して、報告した。
織右衛門は、その浪人に打ちすえられた弟子の名とその状況をきいて眉《まゆ》をひそめた。
「そやつ、一匹|狼《おおかみ》ではなく、頼まれて来たな」
と、つぶやいた。彼が指南役に就《つ》くことについて、藩中にも反対勢力のあることは耳にしていたからだ。
たまたま傍《そば》に娘のおゆかがいた。
「よし、いまゆくといえ」
と、師範代を追いやった父の顔色を見て、
「お父さま。……その男の申す通りになされたら」
と、おゆかは唇《くちびる》をふるわせていった。
いまの話をきいていただけで、相手がただ者でないことは了解されたし、父が若いころは知らず、またいま教授法そのものはすぐれているとしても、実戦に於てやはり老いの争えないことは娘の眼からみてもよく知っていたし、またこのたびの指南役就任は父の年来の夢を果たされる唯一《ゆいいつ》の機会であることも、痛いほどよくわかっていたからだ。
時代は、剣を以て仕えるにも、その実力よりも人柄を重んじられる傾向に移りつつあった。これより少しまえの寛永《かんえい》時代にすでに、柳生の門人たる木村助九郎が紀州藩に六百石で招かれたのに対し、剣名一世を圧した宮本武蔵が細川藩にわずか三百石で召し抱えられたなどというのは、そのよい例である。とはいえ、いまの場合、こうまであからさまに挑戦されて、敵の言い分通りになることは、決してゆるされることではない。
「いえ、ゆかは決してその男の言いなりになりはいたしませぬ。よくいいきかせてやりますゆえ。……」
「ばかなことを申すな、そこどけ、ゆか」
鳥羽織右衛門は決死の表情で道場にむかった。蒼《あお》ざめて、おゆかもそのあとを追った。
すると、道場から戸板にのせて運ばれてゆく者があった。こんどは師範代がやられたのか、と愕然《がくぜん》としてちかよると、思いがけなくそれは道場破りの男で、しかももう死相に変りつつあった。
「手足四本とも折られたそうで、……」
と、戸板を持った四人の門弟は、じぶんの足も折れそうにガクガクさせていた。
「だれのしわざだ」
「有馬作兵衛どのが……」
「なに、有馬?」
織右衛門はしばらくその男を思い出せなかったらしいが、やがて、
「有馬作兵衛がどうして?」
「先刻より、作兵衛どのがずっと道場におられて、じぶんが相手になろうと立たれ、そしてなぜかわれわれ一同に道場の外に出るようにと申されたので、どのようななりゆきでこのようなことになったのか、一切《いつさい》わかりませぬ。こやつは町の外の畑にでも捨てておけといって、作兵衛どのは寂雲寺に立ち帰られてござりまする」
有馬作兵衛はちかくの寂雲寺という寺の一|草庵《そうあん》をかりて暮している浪人者だが、ときどきこの鳥羽道場にやって来て、ひっそりと稽古《けいこ》を見学している男であった。いちども竹刀《しない》をにぎったのを見たことはなく、まして織右衛門に弟子入りしたわけでもないので、織右衛門もとっさに思い出せなかったのだ。
で、おゆかにもそれまであまり深い印象はなかったのだが、この事件でまず彼に対して抱いたのは、当然、
――強い男。
という感情であった。
それ以来、おゆかはときどき寂雲寺を訪れるようになった。そして次第に有馬作兵衛という男に恋するようになった。
彼はガッシリとした肉体と、彫刻的な重い唇を持った三十過ぎの男であった。寺の草庵を借りて、どういう目的で暮しているのかわからない。仕官の口を探《さが》しているようには思われない。ただ黙然《もくねん》として秋から冬へ移ってゆく大空の雲をながめたり、町の東の豊後《ぶんご》海峡の潮鳴りに耳をすませたりしているばかりである。その横顔に、おゆかは、男らしい清潔さとストイシズムと孤独を感じた。
おゆかのみならず、父の織右衛門も、例の事件以来、彼に対する眼を一変したらしい。注目してみれば、たんに恩人というだけではなく、織右衛門の最も好むタイプの男である。
「ゆか、有馬という男をどう思う?」
冬の或る日、父にきかれて、おゆかはみるみる頬《ほお》を染めた。
それからのいきさつを、ゆかは父の口からはっきりきいたわけではないが、織右衛門は一日、寂雲寺を訪れて、有馬作兵衛の胸を打診したらしい。――鳥羽家の婿《むこ》に、という希望である。むろん、このころ鳥羽家は佐伯藩の剣法師範であった。
ところがこれに対して作兵衛の返事は、「……存ずるところあって、女|断《だ》ちの願《がん》をかけておりますれば」という意味の、妙なことわりであったらしい。
おゆかは恥じ、そして悲しんだ。しかし彼の返事はそのままに受けとった。
彼の様子にはほんとうにそんな感じがあったし、それからおゆかは勝気な性質のせいばかりではなく、じぶんは決して作兵衛にきらわれてはいないという直感を持っていた。その証拠に、半月も彼女がゆかないと、作兵衛の顔に寂寥《せきりよう》はおろか、やつれにちかい変化さえ見えるようであった。
気がつかなければ、暗闇《くらやみ》の牛みたいに気がつかない。しかし、いったん心を奪われると、まさに暗闇の牛のようにバイタリティにみなぎっている男であることを、女の本能で彼女は感じた。
おゆかは父と作兵衛とのあいだにそんな話があったとは、全然知らないふりをよそおって、寂雲寺に通《かよ》った。
それをべつに強いて止めもしなかった織右衛門が、
「ゆか、寂雲寺通いはよさぬか。……あの男、敵《かたき》持ちではないか?」
といい出したのは、冬の終りであった。
「敵持ち?」
「あの男、どうも奇妙だ。その暮しをみるに、そうとしか思われぬ。……」
父がいだきはじめたこの疑惑が、決して縁談を断わられた不快感ばかりではないことが証明されたのは早春になってからだ。
「ゆか、そなたはあの有馬作兵衛とあとに尾をひくような約束などせなんだであろうな」
或る日、城から帰ってきた織右衛門が顔色をかえていった。
「一大事じゃ。けさ早く、寂雲寺の僧から密訴があった。……昨夜のことだ、作兵衛のところへ二人の男がそっと訪ねて来たらしい。べつに喧嘩《けんか》口論の声もたてなんだが、なんとなく異様な予感がして、庭でうかがっておると、やがて三人はいっしょに藪《やぶ》の中へ入っていった。月のない夜のことで、何が起ったかは判じがたかったが、その藪の中で無数の青いながれ星のようなものが飛び交わし、人のあえぐ声とうめく声がしたのちに静寂にもどった。しばらくして有馬作兵衛だけが出て来て、鍬《くわ》を持ってまた藪へ入ってゆき、ひとしきり土を掘る音がしたという。二人の男は殺されたに相違ない、何とぞお調べを請《こ》うという訴えじゃ。浪人とはいえ捨ておけぬ奇怪事だ。で、今夜のうちに藪を探索し、証拠があがれば、明日にも有馬を捕縛《ほばく》するという手はずになっておる。――」
織右衛門はくびをふった。
「果たせるかな、あの男、敵持ちだ。仇討《あだう》ちに来た奴を、返り討ちにしたのではないか。……いや、敵討ちどころではない、藪の中で青いひかりが飛び交わしたと?……きゃつ、なんともえたいのしれぬ、化物じみた、ぶきみな奴じゃ。……」
この話をきいて、おゆかの胸に浮かんだのは、当然、
――うすきみのわるいおひと。
という感情であった。
そういえば、彼の暮しよう、彼のじぶんに対する応対ぶりも、たしかに異常である。そもそも、あれだけの腕を持ちながら、影のようにひかえ目な彼の態度もいぶかしい。
が、おゆかの胸を、その藪の中の青いひかりみたいに染めて来たのは、父とちがって、恐怖ではなく、彼に対する妖《あや》しい魅力であった。
その夜、彼女はひそかに家をぬけ出して、寂雲寺に走った。
そして有馬作兵衛に、僧の密訴のことを告げ、もし思いあたることがあれば、いまのうちに逃げてくれといった。
「ほう。……まもなく役人がここへくると申されるか」
作兵衛は眼をまるくしたが、べつにあわてた風でもなかった。しかし、
「思いあたることはござる。では、逃げるといたそう。――そんなことがなくても、そろそろここをひきあげなければならぬところでござった」
と、いった。
「えっ、ここをひきあげなければならぬ。――」
おゆかも眼を大きく見ひらいたが、たちまちがばと彼に身を投げかけた。
「作兵衛さま、どこへいらっしゃるか存じませぬが、わたしもいっしょにつれていって下さりませ。わたしはそのつもりで家を出て来たのでございます」
「なに、わしといっしょに。――」
作兵衛ははじめて愕然《がくぜん》とした様子で、しがみついたおゆかを見まもった。燃えるようなおゆかの眼をちかぢかとのぞいて――おゆかは彼の眼に驚きのみならず、苦悶《くもん》にちかいものを見た。
いや、それどころか、恐怖ともいうべき眼の動揺を。
「作兵衛さま。……わたしがおきらいなのでございましょうか」
彼はくびをふった。
「好きだ。しかし、わしは修行のために、女を断っておるのです。それで、こまっておる。……」
「修行とは、なんの修行?」
「――忍法」
「え」
おゆかには、作兵衛が何といったのかよくきこえなかった。彼女は必死になっていった。
「作兵衛さま、おいやと思われましたら、ゆかを殺してからお立ちのきになって下さりませ。……」
「おゆかどの、わしはまもなく死ぬのだ」
と、彼はいった。
「わしがここをひきあげるというのは、死ににゆくのです」
重厚な有馬作兵衛の顔は幽霊のように影うすく、声も風のようにふるえていた。
おゆかは口もきけず、彼を見まもった。
「おゆかどのの心は知りながら、わしもおゆかどのが好きでありながら、父御のお話をおことわりしたのは――いや、わしがいままで女人禁制の暮しをしていたのは、おゆかどのとはいわず、ただ女人というものがこわいからでござった。そのこわい女のところへ、或るひとりの、恐ろしい女の精ともいうべき女人のところへわしはこれから帰ってゆかねばならぬ」
作兵衛はからだをふるわせていった。
「その女人に殺されるために」
二
文殊《もんじゆ》弥八郎に対するお蓮《れん》の印象はなんどか変った。
お蓮は三絃の師匠で、かつ彼女の住む江戸日本橋箱屋町の家主の妾《めかけ》であったが、この春から、ちょうど隣りの裏店《うらだな》を借りた弥八郎には、最初から注目していた。
これが、この世のものとは思われぬほどの美青年であったからだ。
二十歳《はたち》は越えているらしいが、青年というより美少年といったほうがふさわしい容貌《ようぼう》と姿で、こんなところに住むくらいだから、綺羅《きら》をかざるどころか、つぎはぎだらけの衣服をつけているのに、まるでかげろうの精かと思われる。透きとおるような色白の細面《ほそおもて》も、なよやかな四肢《しし》も、いまにも消えも入りたげに、はかなく、弱々しい。――彼は、どこへゆくのか、毎日江戸の町を出歩いて、夜になって帰って来た。ときには夕方出かけていって、朝帰ってくることもあった。
お蓮はいろいろな用事にかこつけて、彼の家をのぞいた。ほころびをつくろってやったり、お菜《さい》を持っていってやったり、ときには飯の支度をしてやったり。――
むろん、近所では眼ひき袖《そで》ひきしたが、お蓮はへいきであった。彼女を妾にしている家主の源兵衛も、噂《うわさ》はきいているだろうに、知らない顔をしていた。知らない顔というより、源兵衛はもう六十を越えていて、しかも最近中風の気味を起していたからだ。そういう病気を発したのも、場所はお蓮の家であった。時刻は夜だ。源兵衛は、もはやとうていお蓮を鎮める力のないことを自覚しているはずであった。
「弥八郎さん、毎日いったいどこへゆくのさ」
お蓮はきいた。
「仕官の道を求めて、亡父の縁故をたずね歩いているのですが。……」
と、弥八郎は疲労を顔にあらわして答えた。江戸の巷《ちまた》には、もとよりそんな浪人はちりあくたのように溢《あふ》れている。――
こんなに美しく弱々しいおひとが、侍奉公ができるだろうか、と腹の底でお蓮は思った。いっそ、そんなみるからに重たげな大小など捨てて、町のひとになっておしまい――と彼女はいいたかった。しかし、こうおとなしく、生活力が皆無とみえる人柄では、町人になってもしょせんは生きてはゆけまい、彼女はそう思い返さずにはいられなかった。
いや、このひとはこのまま、ここにこうして暮していたほうがいい。そして。――
お蓮はほんとうのところ、燃えてじりじりしていたが、はたの想像に反して、事実は夏がすぎても、まだ彼を誘惑できなかった。
待望のきっかけは、夏の終りの或る朝に来た。待望の――それがなんとも、うすきみのわるい事件がきっかけであった。
その朝、まだうす暗いのに、文殊弥八郎が例によってどこからか帰って来て、庭で行水をつかっているらしい気配に、眼ざとく気づいたお蓮は、そっと彼の家に入った。上り口に大小を投げ出してある。「夜遊びに、こんなものを」と、べつにそれほど本気でもなく、何気なくその大刀のほうをちょっと抜いてみて、お蓮はぎょっとした。あけ方の光線にかえって妙にはっきり見えたのかもしれない、その刀身には拭《ふ》いてもなおのこる血あぶらが、うっすらと浮かんで見えた。……
「見ましたね」
いつのまにか庭のほうから入って来た文殊弥八郎がそこに立っていた。お蓮は顔から血の気をひいて、
「お、おまえさん、まさか。……」
辻斬《つじぎり》強盗のたぐいを――といいかけて、彼女はじぶんでくびをふった。辻斬強盗などやれる弥八郎ではない。
「実は、敵討《かたきう》ちです」
と、弥八郎はいった。最初ちょっと異様な気配があったが、このときはもう平生の弱々しげな弥八郎にもどっていた。
「敵討ち。――」
お蓮は彼が毎日出歩いていたことを思い出した。
「まあ、そうなの、そうだったの。……で、敵は討ったの?」
「いえ、討ちもらしてしまいました」
たよりないことおびただしい。しかし――刀に血がついているところを見ると、敵に傷をあたえたことはまちがいなかろう。それにしても、よくまあこっちが怪我《けが》もしないで――いえ、あの優腕《やさうで》で、恐ろしい刃物|沙汰《ざた》を。
「お、おまえさん、よくぶじで――」
お蓮は夢中で弥八郎にしがみついていった。この瞬間は誘惑のつもりはちっともなかったが、あとは、かねてからお蓮が夢みていた通りのなりゆきになった。
文殊弥八郎は童貞であった。そのことは、お蓮にもはっきりとわかった。美少年はお蓮の白い肌《はだ》の下に、恥じらいつつ、ただもだえた。
秋から冬へ。――お蓮にとっては、酔っているような夜と昼が過ぎた。
多情といっていい彼女だが、こんな経験ははじめてであった。男が、初々《ういうい》しい娘を犯し、弄《もてあそ》び、恥ずかしめるのは、こうもあろうかと思われるのだ。弥八郎はおびえていた。夜、彼女の白い腕の中で、ときどきびくっと首をもちあげることもあった。討ちもらした敵の反撃を警戒しているのだと彼はいった。あれ以来、彼は女郎|蜘蛛《ぐも》の網《あみ》にむせぶ蝶《ちよう》みたいに、ほとんど外へ出られなかった。お蓮が出さなかったのだ。いっしょに、こうしてからだを重ねたまま、白刃で串刺《くしざ》しにでもなったら、どんなに倖《しあわ》せだろうとさえお蓮は思った。彼女はただ弥八郎がいじらしく、いとしかった。
お蓮は弥八郎との痴戯《ちぎ》に全能力をあげた。恥も外聞もなく、あらゆる官能の部分と、あらゆる手れん手くだをつかいきった。日本橋でも、通りすがりの男がみなふりかえるほど美貌《びぼう》のお蓮だ。若い弥八郎は溺《おぼ》れ、あえぎ、ときには半狂乱になり、失神することさえあった。
冬から春へ――弥八郎に対するお蓮の印象はこのあいだに変った。
弥八郎は色道の猛者《もさ》に変化したのである。じぶんがそう仕立てたのに、お蓮は虫が蛾《が》になるのを見るようなおどろきを味わわずにはいられなかった。彼は恥も外聞もなく、あらゆる官能の部分と、お蓮に教えられた手れん手くだをすべて逆にお蓮につかった。その肉体の泉は無限にわき出るように思われた。このころになると、お蓮の方が弥八郎の攻め手に溺れ、あえぎ、ときには半狂乱になり、失神することさえあった。
――女には強い男。
お蓮は舌をまいて、かすんだような眼で弥八郎をながめた。
しかも、弥八郎の外見は、依然として弱々しく美しいのである。いや、お蓮との日夜をわかたぬ愛欲のために、いよいよ透《す》きとおって蜻蛉《せいれい》のような美少年に見えるのである。お蓮の方はまえより肉づいて来たが、これはどこかふやけて来たような感じになっていた。
その弥八郎が。――
早春の夜明前。彼のからだの下で、泣き脹《は》れしたようなお蓮のまぶたにヒラとかかった白いものを見た。破れ障子から散りこんで来た白梅のひとひらであった。
「や」
と、彼はさけんだ。ひくいが、ただごとでない声に、ぼうっとお蓮は眼を見ひらいた。
「お蓮、別れの日が来たようだ」
まだ半失神状態にあったお蓮は、脳天を槌《つち》でたたかれたような顔をした。
「……おまえさん、今なんといったえ?」
「春が来た。わしが旅に出なければならぬ日が来たといったのじゃ」
「た、旅へ? どこへ――」
文殊弥八郎は答えず、彼女のからだから身をはなし、押入れをあけて、中からひとそろいの衣服をとり出し、身仕度をはじめた。
あっけにとられ、ぼんやりとそれを見まもっていたお蓮は、突然はねあがって、半裸の姿のまま四つン這《ば》いに這い出して、弥八郎の足にむしゃぶりついた。
「どこへゆくの? おまえ、ど、どこへゆこうってのさ?」
「――わしの故郷《ふるさと》へ」
と、弥八郎はもう大小を腰にさしながら低くいった。
「伊賀《いが》へ」
「……伊賀へ。いまさら、何しに」
「死にに」
「えっ」
「或る女人に殺されるために」
まったく判断力を失って、白痴みたいにお蓮は唇を半びらきにしていたが、このとき人間とは思われぬ声を出した。
「何をいっているのか、ちっともわかりゃしない。……或る女に殺されるために伊賀へゆくって……ゆかせるものか、そんな用事に、あたし、ゆかせやしないよ! どうしてもゆくってのなら、あたしを殺してからいっておくれ! いいえ、あたしもいっしょにつれてって、いっしょに死なせておくれ!」
弥八郎はじいっとお蓮を見つめて、
「そうであろうな。わしと別れれば、おまえは死ぬであろうなあ」
と、いった。
「では、いっしょにゆくか」
三
「――わしはこの伊賀鍔隠れ谷の忍者でござる」
と、有馬作兵衛はいった。深い、青い樹々の中であった。
「そなたは、どんなことがあっても、どこへでも、わしのゆくところへゆくと申されたゆえ、ここまでつれてきた。いま、望み通り、わしがなぜ九州の佐伯であのような暮しをし、そしてきょうここへ帰って来たか、そのわけを申す。
この鍔隠れ谷は、平家の昔から忍者の谷であった。この谷は、忍者たるものの誇りときびしい掟《おきて》を岩として成り立っておる。いまの首領には、ただひとり孫娘がござる。お遊さまという。当年十九歳、絶世の美女じゃ。
一年前、このお遊さまの花婿の候補として、この谷から十三人の男がえらび出された。その十三人の男のうちのだれを花婿とするか。
一年間、十三人は鍔隠れ谷の外に出ることを命じられた。一年たって、生き残った者だけがこの谷へ帰って来いと。
その一年、どこにいようと、おたがいの殺し合いは自由、いや、それどころか、おたがいに殺し合うことを命じられたのでござる。殺された奴は、忍法未熟者として、自動的に花婿の座から消えることになる。――
生き残った者だけが、この谷に帰ってくる。何人残ろうと、それは改めてここで果し合いをして、ただ一人勝ち残った者が花婿となる。その花婿となるために、一年のあいだに、強敵はできるだけ消しておこうとして、相手の捜索に狂奔《きようほん》する者あり、それを避けて一年後を期して潜伏する者あり、このあいだ、奇襲、暗殺、だまし討ちは忍者の慣《なら》い、またそれこそ忍者の真髄でござれば、これは何より、恰好《かつこう》の花婿えらびの手段でござろう。
ただ、途中でこの計画から逃げることはゆるされぬ。逃げきれもせぬが、逃げるつもりの奴は一人もおらなんだでござろう。鍔隠れの掟は、それほど苛烈《かれつ》厳粛なものでござる。拙者とて、たとえ潜伏の道をえらんだとはいえ、一年たったら鍔隠れ谷に帰ることだけは鉄のごとく決っていたことでござる。
――かくて拙者はここに帰って来た。そなたの御芳情は多とするが、しかしわしはお遊さまのところへゆかねばならぬ。
さて、お望み通りおゆかどの、わしはそなたをここへつれて来て、そして仔細《しさい》を語った。ふびんではあるが、もはや二度とここから生かして帰すわけには参らぬ。なに、それは覚悟のことか?
では、わしはゆきますぞ。さて、何人、どやつが鍔隠れへ帰って来たか?」
樹の中に坐らせたおゆかの頸《くび》に、ひとすじの髪の毛を巻きつけ、有馬作兵衛は歩き出した。
おゆかの頸に巻きつけられた髪の毛は彼の左の足くびにつながっている。どこまでものびる長い長い髪の毛であった。
「――わしはこの伊賀鍔隠れ谷の忍者じゃ」
と、文殊弥八郎はいった。深い青い樹々の中であった。
「望み通り、わしはおまえをここにつれて来て、わしが伊賀へ帰って来たわけを物語った。
さて、ここでわしが或る女人に殺されるというわけを言おう。そのお遊さまが、男と交合すれば、吐く息がしだいに毒と変ってくるという女人なのじゃ。むろんお遊さまは、まだ処女でいられるから、いままでお遊さまと交わって死んだ男はひとりもない。しかし首領の申されることゆえ、魔天も照覧、このことにまちがいはない。
また、ひとたび交われば、お遊さまはかならず御懐胎なされるという、この首領のお言葉にも相違はないはず。――
しかし、生まれてくるその子を見ずして、夫たり父たる男は交合中に死ぬ。これが生き残った一人の忍者の光栄ある運命じゃ。鍔隠れ谷の鉄の掟じゃ。
そうと知りつつ、なぜわしがこの谷へ帰って来たか、かまきりは交合中に雄《おす》が雌《めす》に食い殺されると申すの。また魚の中には卵を生みおとすためだけに所定の河へもどって来てすぐに死ぬ奴があると申すの。それとおなじ――いや、人間の男というものが、つきつめていえば、女と交合するために、または女と交合したために、そのいのちの炎を燃やしつくすものではないか。
――かくて拙者はここに帰って来た。おまえの深情は多とするが、しかしわしはお遊さまのところへゆかねばならぬ。
さて、望み通りお蓮、わしはそなたをここへつれて来て、そして仔細を語った。ふびんではあるが、二度とここから生かして帰すわけには参らぬ。なに、それは覚悟のことか?
では、わしはゆくぞ。さて何人、どやつが鍔隠れへ帰って来たか?」
樹の中に坐らせたお蓮の頸に、ひとすじの髪の毛を巻きつけ、文殊弥八郎は歩き出した。
お蓮の頸に巻きつけられた髪の毛は、彼の右の足くびにつながっている。どこまでものびる長い長い髪の毛であった。
深い青い森にかこまれた、まるい美しい牧歌的な草原に、春の日光がふりそそいでいた。
そこに奇怪な祭典のごとく、黒衣黒頭巾のむれが、数十人、いながれていた。そのまんなかから、ひとり僧正みたいにながく黒衣をたれた人間が立ちあがった。
「三月三日、午《うま》の刻」
彼は太陽を見あげてさけんだ。
「帰って来たのは、ただ二人」
両側の森から、二人の男が現われ、中央の方へ歩いて来た。
有馬作兵衛と文殊弥八郎であった。
日光がしだいに氷のような冷たさに変ってゆき、吹きなびいていた樹々の枝も草も、凍りついたように静止した。太陽すらもそのうごきをとめたようであった。
二人の間隔は五間くらいに縮まった。
なんら投擲《とうてき》の動作も見せずして、有馬作兵衛の手から銀色のひかりが飛んだ。同時に、文殊弥八郎の手からも青いひかりが飛んだ。
作兵衛の投げた手裏剣と、弥八郎の投げた青い竹筒は、空中で戛《かつ》と音して衝突した。次の刹那、手裏剣は青竹につき刺さり、一個の鎌と化して、凄《すさま》じい速度で作兵衛の方へ旋回していった。
森の中で、おゆかの首が切断されて草の上に落ちた。だから、彼女は見なかった。有馬作兵衛が旋回しつつ飛来した鎌に、股から斬りあげられた姿を。――
同時に、反対の森の中でも、お蓮の首が草の上にころがり落ちた。だから、彼女は見なかった。文殊弥八郎が、遠く女の首を切断した髪の毛をおのれの足くびからときはなし、さて黒い僧正の背後に横たえられた一枚の巨大なまないたのほうへちかづいてゆく姿を。――
まないたの上には、この世のものならぬ一人の美少女が、一糸まとわぬ雪白の裸形《らぎよう》となって横たわり、神々《こうごう》しい眼で、じっと蒼《あお》い春の大空をながめていた。
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忍法甲州路
一
白い雪の上の一滴の赤い血液。
――ちがう。血ではない。一匹の轡虫《くつわむし》だ。
それにしても、いよいよ以《もつ》てこれは世にあり得べきことではない。冬に轡虫などが生きているはずがない。いや、冬でなくっても、あんなに真っ赤な赤い轡虫が存在し得ようか。
それが、みるみる鼠《ねずみ》ほどになり、猫《ねこ》ほどにふくれあがって来た。
――息をのんで見ていると、その轡虫がぱっと羽根をひろげた。まるで赤い紗《しや》の団扇《うちわ》をひらいたように。
「――あっ」
その二枚の紗の羽根に、痩《や》せた細長い男の顔がぼんやりと浮かんでいた。――同じ顔のようでもあり、似てはいるが、ちがう人間のようでもある。――
「む、夢竿《むかん》……睡竿《すいかん》……」
赤倉才兵衛はうめき声をたて、その自分の声にぽっかりと眼を醒《さ》ました。
夢であった。すぐに夢であったと気づいたが、才兵衛はまだ放心したように天井を眺《なが》めている。冬だというのに、全身びっしょりと汗をかき、心臓がまだ波を打っているのを、みずから笑う気になれなかった。
頭を動かして横を見る。女が寝ていた。
これも冬というのに、半裸のからだをのり出し気味にして、むろん枕《まくら》をはずし、口をあけて眠っている。いまたしかにこちらはうなり声をたてたはずなのに、ピクリとも動かない。――才兵衛は、改めてここが吉原の遊女屋であることを知った。
……遊女屋に来てまでも、きゃつらにうなされておる。
はじめて、赤倉才兵衛は苦笑して、ぼんやりと女の寝顔を見ていた。
小銀という遊女である。この女が実によく寝る遊女であることは、いまはじめて知ったわけではない。――熟睡し切って、弛緩《しかん》しぬいた表情であったが、しかし実になまめかしい寝顔であった。
うす暗い小さな燭台《しよくだい》のけぶるような灯《あかり》のせいかも知れない。夜明前で、障子にうつる雪あかりのせいかも知れない。しかし、この女は寝顔の方がたしかに魅力があった。閉じたまつげの翳《かげ》、半びらきの厚目の唇《くちびる》からちらっとのぞいている仄《ほの》赤い舌、むっちりとしたあごからのどへかけての白い脂肪の息づき。――ことごとく淫猥《いんわい》をきわめ、しかも眠っているためにあどけない幼女のように見えるところもある。――
才兵衛は次第にまたむらむらとして来た。
「おい」
と、呼んだが、返答はない。
「小銀」
片腕をのばして胴に巻いた。ぐいとひきよせたが、遊女のまつげは微風に吹かれたほども動かない。
「……いや、よく寝るやつだ、こいつ。――ようし、起してやるぞ」
才兵衛は本格的にのしかかった。
そして、次第に夢中になった。――女は風に漂《ただよ》う柔かい雲のようであった。事実彼は、雲の上にフワフワと乗っている心地がした。決して無反応なのではない。口を吸われれば舌を動かす。腰は彼の腰に応じる。――しかも、依然として女は眠っているのだ。文字通り、「夢中」にいるのは女の方なのだ。……
「あう、あう、あう」
才兵衛は奇声の韻律《いんりつ》を発した。彼がこんな声を出すのは、女が目醒《めざ》めて相手をしているときにはいちどもない。――それでも女は眠りつづけている。
いつのまにか、才兵衛も眼をとじていた。快美のためでもあったが、それ以上に、女の蕩漾《とうよう》たる夢の世界と波長を合せていたのだ。こんなに眠りこけている女と交合したのははじめてであったが、それは曾《かつ》て経験したことのない微妙で妖美《ようび》な、夢幻的な恍惚《こうこつ》の境であった。
「……これだっ」
ふいに彼の眼はかっと見ひらかれ、そして全身がぴいんと硬直した。――やっと遊女小銀は眼を醒《さ》ました。
「まっ、どうしたのでありんす?」
彼女がそんな地上の――いや、廓《くるわ》の女の声を出したとき、赤倉才兵衛はもうダランと彼女のからだの上にのびている。眼をとじていた。
「びっくりするじゃありんせんか? もしっ、どうおしなんしたえ?」
いちじ、客が絶息したのではないかと思い、ぎょっとしてゆり落そうとする前に、才兵衛のからだがながれるように横に動いた。
ほとんど水平のまま宙に浮いた感じで、そのまま彼はスウと立った。まるまっちい、しかしズッシリと充実した肉体がそろそろと歩き出すと、まるで雲を踏むような軽さに見えた。
「ぬしさん。……寝ぼけなんしたかえ?」
彼は眼をつむり、まったく夢遊病者としか見えなかった。――が、彼がしゃがみこんで、そこにあった刀をつかむのを見て、遊女小銀は悲鳴をあげようとし、その声ものどでとまった。
スウと刀の鞘《さや》を払った男の姿に、見る者の息さえとめる物凄《ものすご》い妖気があったからだ。――しかし彼は刀を向うへむけて構えたまま、スルスルと前へ歩み、スルスルと後へ退った。依然として眠れるがごとく眼をとじたまま。――
才兵衛は眠ろうとしているのであった。或《ある》いは半睡半醒《はんすいはんせい》の状態で剣をあやつろうとしているのであった。
ほんのいま。
……これだ! とさけんだ刹那《せつな》、彼はおのれの剣法に、稲妻のような霊感を得たように思ったのである。眠りつつ、客と交合する遊女。その半睡と半醒の間から醸《かも》し出されるあの微妙、妖美、夢幻的な恍惚は、決して覚醒《かくせい》している肉体から生み出すことのできないものであった。
剣の極意は無の境地にあるという。無念無想であれという。剣を以て就職したといっていい赤倉才兵衛もその通りだと思い、人にも口にするけれど、いうは易く行うは難《かた》い。彼自身がその境地に入れることはめったにない。少くとも意識して、そうなれたことがない。意識したとたんに無念無想ではいられないからだ。
いま、それに至る法を、或いはそれと近似した状態になり得る法を彼は発見したのであった。すなわち、半睡半醒で剣をふるうわざを。
そんなことが出来るか。――出来る。少くとも、観念的な無想の境よりも、修行によっては可能な状態だ。げんにいま、この寝ぼけ女郎がみごとやってのけたではないか。起きているにあらず、寝ているにあらず、しかも充分自分も快感を味わい、それよりそもそも、相手のおれを、いまだ曾《かつ》て経験したことのないほどの微妙甘美の極楽に飛翔《ひしよう》させたではないか。――
閉じたまぶたにぼうと明るみがさす。才兵衛はありありと燭台《しよくだい》に燃える蝋燭《ろうそく》を見た。
――眠竿!
気合もかけず、一閃《いつせん》、水平に薙《な》いだ。
「……!」
声ではない、息の音をたてたのは、ただ遊女小銀だけである。
灯が風になびきつつ一メートルも右へ動き、静止した。彼の一刀のきっさきには二つに切れた短い蝋燭が乗り、なびいた炎はすぐにまっすぐに立ちのぼり出した。
眼をつむり、その姿のまま赤倉才兵衛はなお茫《ぼう》と立っていたが、やがてニヤリと会心の笑みをまるい頬《ほお》に滲《にじ》ませて来た。
赤倉才兵衛が、麻耶《まや》藩の江戸家老|石来監物《いしきけんもつ》のもとへ伺候《しこう》したのはそれから数日の後であった。
「三竿討ちの義、いつなりと才兵衛承知つかまつってござる」
「おう、目算ついたか!」
監物は、いかにも愁眉《しゆうび》をひらいた、という感じで眼をかがやかした。
「して、どのような工夫をつけた」
「半睡浮遊剣と申す」
「半睡……浮遊……剣?」
「されば。――」
赤倉才兵衛は、半分眠りつつ刀をあやつる奥義を体得したことをのべたが、それは半睡の遊女との交合から大悟したものだとはさすがに告白しなかった。
「半分眠りつつ……人が斬れるのか」
「それ以外にあの三竿は討てませぬ」
「そもそも、そんなに自在に半分眠れるのか」
「それは修行次第でござりましょうなあ。実は、半分眠りつつ斬る、ということより、自在に半分眠る、ということの方が難しく、この点については拙者なお修行の必要がござりまする。ただし、これまでの、いかにして三竿の眠りの術を破るべきや、まったく手がかりなしといったありさまとはこと変り、これは目算のある修行でござる。拙者にあと十日間の時を下されば、必ずこの境に入ってごらんに入れる。まず、三竿討ちの儀は、この赤倉才兵衛におまかせ下されい」
「三竿、すべて一度に討てるか」
才兵衛の顔にやや動揺のさざ波がわたった。
「一人ずつ、誘い出して討ちまする」
「そううまく問屋がおろすか」
石来監物は、才兵衛以上に不安げな表情になった。
「きゃつらが一人ずつ誘い出されて来るかどうか、それは保証できぬ。……やはり、黄瀬川黄白《きせがわこうはく》、漆沢魚五郎《うるしざわうおごろう》の力も借りねばなるまい。――」
「黄瀬川、漆沢らでは歯がたちませぬ」
「いや、あれたちも三竿破りの工夫については日夜心血をしぼっておるときく。……三竿いまだ現われず、彼らが現われたという報告あるまでしばらく待て」
「それは待ちまするが。……」
と、赤倉才兵衛はうなずいて、何やら考えているらしい眼をしていたが、やがてその眼が変に粘《ねば》っこい光を帯びて来た。
「監物さま、もし拙者が三竿すべてを仕止めたなら……お婉《えん》どのは頂戴いたしてもよろしゅうござりましょうな」
「よい。もっとも、お婉を消すのがそもそもの狙《ねら》いじゃが、消すまえにお婉を、おまえがどうしようが勝手じゃ」
才兵衛はうす笑いして独語した。
「拙者、あの娘御を半睡半醒のうちに犯し、半睡半醒のうちに殺して見とうござる」
二
――こういうわけだ。
麻耶《まや》藩三万石。
藩主|主《しゆ》 膳《ぜんの》 正《しよう》は七十にちかい老体だが、若殿が一人あって、大三郎という。ちょうど年ごろで、二年ばかり前縁談があった。某藩一万石の姫君である。それを大三郎が拒否した。
理由は、その相手が、某藩の姫君とはいうが実は養女で、しかもなんと江戸の下屋敷にある父主膳正の愛妾《あいしよう》お櫛の方の妹だからであった。老体の主膳正の死後をおもんぱかったお櫛の方と野心家の江戸家老石来監物のたくらみだが、しかし陰謀ではない。主膳正自身もそれを望んでいたからだ。主膳正が承知の上だからこそ、その娘を一万石の大名が養女とするというお膳立てをしてくれたのだ。ともあれ、姉を自分の愛妾とし、妹を子息の奥方とするなどという、いささか人倫にはずれた関係をかたちづくろうとしたのも、もうろくしかかった主膳正が、まだ若くて妖艶《ようえん》なお櫛の方のいいなり放題になったからであろう。
麻耶大三郎はそれをはねつけた。
孝心ふかい大三郎が、父の意向にそむいてまではねつけた理由は、しかしそれだけではない、とお櫛の方と石来監物は考えた。大三郎にはべつに意中の女人があり、そのせいだと見た。
国元《くにもと》にあるいわゆる国家老和佐右太夫の娘お婉。
そして和佐右太夫は、江戸に於ける若殿の縁談には強硬に反対して来た。
自分たちの望みが思い通りにゆかない憤りから、お櫛の方や石来監物は、若殿の恋愛を純なものと見ず、右太夫の反対を忠心からとも見ず、すべて和佐親娘の野心からの支障だと判断した。疑心暗鬼というやつだ。
和佐親娘を消せ。
ついに焦慮《しようりよ》のあまり、お櫛の方と監物はこううなずき合ったが、まさか藩士のだれかにこれを命ずることはできない。
で、石来監物は秘密|裡《り》に、彼の私兵として七人の浪人を傭《やと》った。泰平の時代で禄《ろく》にあぶれてはいるが、麻耶藩のうちでも相手になる者はないのではないか、と思われる剣客たちであった。これをひそかに国元に送り込んだのである。――一年前のことだ。
その結果。――
或《あ》る雪の一夜、彼らは和佐右太夫を暗殺した。しかし――お婉はとり逃した。しかも彼らのうち四人は命を失ったのである。
右太夫に返り討ちになったのではない。彼らははじめて思い知らされたのだが、麻耶藩に存在していた雨師夢竿《あましむかん》、雨師|眠竿《みんかん》、雨師|睡竿《すいかん》という三人の男のために討たれたのである。
この暗殺隊ばかりではない。江戸家老の石来監物でさえその存在を忘れていたのだが、彼らは遠い昔から麻耶藩に仕える忍者の子孫であった。三人は、兄弟である。むろん身分の低い者で、三人とも和佐家に僕《しもべ》のごとく奉公していた。これが、四人の剣客を斬った。
生き残ったのは、黄瀬川黄白、漆沢魚五郎、そしてこの赤倉才兵衛の三人で、和佐右太夫を討ち果したのは彼らである。で、彼らは右太夫にかかっていて、ほかの四人が雨師夢竿らに斬られたありさまを見ることができなかったのだが、あとでまだ断末魔の息をふるわせていたやつが二人あって、これが、
「……眠うなる。……きゃつ、ひとを眠らせる。……」
また、
「赤い轡虫《くつわむし》。……」
という奇怪な言葉を残してこと切れたのである。
まるで大根でも斬るように無造作にしてかつ凄《すさま》じいその斬り口を見て、才兵衛たちは舌を巻いた。その四人の剣客が自分たちと匹敵《ひつてき》する――中の一人のごときは、はるかに上と思われる使い手であることは、三人とも認めていたからだ。
才兵衛たちが、和佐右太夫を殺害しただけで、かんじんのお婉には手をつけず、蒼惶《そうこう》として引き揚げたのは、この戦慄《せんりつ》の衝撃のためであった。
四人の仲間が斬られた光景を見ないにもかかわらず、斬り手がだれかということがわかったのは、その前何ヵ月か和佐家を偵察《ていさつ》しているとき、中の一人が――一番の使い手だとみなが認めていた男が、
「あの三人の男、ひょっとしたらゆだんできぬ奴らだぞ」
と、ささやき、それでその三人の男の、いずれも相《あい》似た細長い顔を記憶にとどめていたことと、それからこの騒ぎのあと、その三人がお婉を擁していずこかへ姿をくらましてしまったことから逆に知れたのである。
雨師夢竿、眠竿、睡竿、それが麻耶藩の忍者であることは、江戸へ帰って石来監物に復命したときにはじめてきいた。もっとも監物も、彼らの術がいかなるものであるか、よく知らなかったようだ。
「そうか。右太夫めはきゃつらを使うておったか?」
と、歯をかんで、
「しまった」
とはつぶやいたが。――
さて、不可思議なる忍びの三兄弟は、お婉を護って姿をくらました。国家老の家来にして、暗殺の襲撃を受けながらそれ以後逃げたのは、この襲撃の背後に容易ならぬもののあることを感知したからであろう。それっきり、彼らは姿を現わさない――。
「きゃつら、しかし必ずまた現われる。……永遠に消える奴らではない」
と、監物はおちつかぬ表情でいった。
その一方で、監物とお櫛の方は、例の縁談を推進した。主膳正に、「わしは孫を見なければ、安心して眼をつぶれぬ」といわせた。実際このころから、主膳正はいよいよもうろくして、床につく日が多くなったのである。彼は国元《くにもと》の大事件を知っているのに、この方には眼をつぶるほど、理性も意志も衰えはてていた。そして――ついに大三郎はうなずいたのだ。
大三郎もむろん事件については知っている。証拠がないので如何《いかん》ともしがたいが、黒幕はわかっている。はらわたも煮える思いとはこのことだ。にもかかわらず、彼が監物らの手に乗りかけたのは、やはりその衰えはてた父への孝心のためだ。彼はもはや死んだつもりで一応父の意向にそい、自分が名実ともに麻耶家のあるじになったあかつき、監物らを粛清《しゆくせい》しようと覚悟をきめたのであった。
ともかくも、父自体が意識的無意識的にその陰謀の一味であるという事実は、彼の抵抗をほとんど無益なものとした。
ただ彼は、
「一年たてば」
ということだけを条件とした。
国元の事件の背後関係については彼は看破《かんぱ》していたが、事件そのものについての知識ははっきりしないところがあった。お婉が姿をくらましたということはきいたが、そういう風にとりつくろってあるので、実はやはり殺害されたのだ、という情報も耳に入っていたからだ。それは監物らが故意にはなったデマであった。
もしお婉が生きているなら、必ず彼女は自分の前に現われるだろう、と大三郎は考えたのだ。彼女にとって、それは実に危険なことだが、噂《うわさ》によれば雨師ら三人の忍びの者がついているともいう。もしそれがまことならば、一年のうちに、何らかの機会をつかみ、何らかの方法で少くとも自分に連絡してくるだろう。……
お婉の生死もわからず、事実上、江戸屋敷で監物一派に囲まれている大三郎にとっては、一年待てというのは、ただ一つの抵抗であり、期待であり、賭《かけ》であった。
「お婉はどこへ?」
それを大三郎に劣らず気にかけていたのは、むろん石来監物だ。
あれ以来、彼は手をつくして四方を捜索させた。しかし、杳《よう》としてその行方はわからない。国元にもいる同腹の者にも情報をとらせた。――すると、そのうち、
「雨師たちはお婉に仇討《あだう》ちのための剣法を山中で修行させている」
という噂が耳に入った。
しかし、彼らがどこにいるか、依然としてはっきりしない。――しかし、あり得ることだ。
監物は恐怖した。お婉はべつに恐ろしくはないが、雨師という三人の忍者兄弟がこわいのである。それは赤倉才兵衛たちの恐怖が逆に伝染したせいもある。
彼は国元に、古来から雨師一族という忍びの者が奉公していることを知らなかったわけではない。そういえば、その一族の伝説的|武勇譚《ぶゆうたん》をきいたおぼえがある。しかしそれは遠い遠い昔の話であって、彼が麻耶藩に生を享《う》けてからは、その子孫たちの功名|噺《ばなし》など耳にしたことがない。だいいち、忍者が功名をたてるような風雲などあり得ない泰平の時代だったのだ。ただ、いま奉公している雨師三兄弟が奇妙な術を心得ているという噂はちらときいた記憶もあるが、何しろ監物は江戸家老であるし、それ以上、詳細な興味を抱くという気にもなれない程度の存在であったのだ。
その存在が、俄然《がぜん》、強烈に浮き上って来た。彼らは四人の剣客を斬ったという。のみならず、残った三人が、その話が出ただけで、その後も実に自信の動揺した態度を見せる。――
斬られためんめんの力量と、その斬られっぷりから、よくよく心根《こころね》に徹したらしい。
「夢竿ら、きっと出て来るぞ」
と、監物はいった。
「きゃつらを江戸に入れてはならぬ。どのようなことがあっても防げ」
これに対して、赤倉才兵衛たちは、その三人の忍者と刀を交えることに甚《はなは》だ苦慮しているようであった。
この防衛戦に成功すれば、彼らを高禄を以て大っぴらに麻耶藩に召し抱えるという約束も与えた。むろん三人の剣客ははじめからそのつもりで傭《やと》われたのだが、さらに彼らを鼓舞するものがあった。
それは国元でいくどかかいまみたお婉という娘の美しさだ。なるほどあれでは麻耶藩の若殿が、ほかの女人との婚儀を拒否し、またいまもなお未練がたちきれぬようすなのもむりはない――と認めざるを得ない、まさに絶世の美女であった。
三人の忍者を討ち果たしたあとはこのお婉をやるという。
あとで始末しなければならないのはいうまでもないとして、その前にこの美女をいかになぶりつくし、けがしつくしても異議はないという。
この条件が彼らをふるい立たせた。それまで三人が協同関係にあったのに、この条件が加わってからは、むしろ彼らは殺伐《さつばつ》な競争の心理にかりたてられたようだ。
夢竿、眠竿、睡竿。――これを合わせてこちらでは三竿と呼んだ。
三竿討ちの工夫|如何《いかん》?
赤倉才兵衛たちは、実のところ、三竿とまだ直接相対したことはない。斬られた四人の仲間のどれが、三竿のだれに、いかにして斬られたかを知らない。にもかかわらず、彼ら三人ともこの道には少なからぬ自負を持つ男たちだけに、相手の物凄さがぞっとするほどよくわかるのだ。
その屍体《したい》を見るや否や、とるものもとりあえず引き揚げた行動を、彼らは恥じはしない。あとになって思い出せば思い出すほど、あれは当然なカンであったと、みずから胸なで下ろしたくらいである。
「……眠くなる。……きゃつ、人を眠らせる。……」
また、
「赤い轡虫《くつわむし》、……」
殺された男のこの言葉がなんども甦《よみがえ》る。三人は、ひたいを集めて凝議した。
とにかく見ていないのだから「赤い轡虫」という意味はわからない、しかし「眠くなって」斬られたことだけはたしかだ。彼らほどの連中が大根のように斬られた傷を見ても、それは明らかだ。
睡魔を以て襲う忍者に対抗する工夫如何?
文字通り、寝ても醒《さ》めても脳裡《のうり》から離れないのはそのことであった。――赤倉才兵衛が吉原の遊女屋で悪夢に襲われたのもこういうわけからである。悪夢の中の轡虫の羽根の、痩《や》せた男の顔は、三竿のうちのだれであったかはよくわからない。
そしてまた赤倉才兵衛が、豁然《かつぜん》として自ら称する「半睡浮遊剣」を発明したのも、右のような苦心の下敷きがあったればこそだ。
眠りの術を以て来る剣法には、眠りつつ勝つ刀法を以てするよりほかはない。――
赤倉才兵衛は、半睡の剣法に関しては、極めて自信を持った。もし、お婉たちの所在が判明すれば、自分一人でも駈け向ってもいいと思うほどに。
ただ、自在に半睡の状態に入れるかどうかという点と、またもし三竿すべてをいちどに相手にしなければならぬ場合に、いささか問題がある。
このことについては、なお一段の研究の要がある。――それに、三竿たちの所在はまだわからない。
赤倉才兵衛は右の次第を報告だけして、石来監物の前をひきとったが、その歩みぶりは妖々として、すでに半睡半醒の境界を浮遊しているかのようであった。
三
「黄白、なんの機縁で才兵衛が突如自信を持つに至ったかわかるか」
「――いや、わからぬ」
漆沢魚五郎にきかれて、黄瀬川黄白はくびを横にふった。
石来監物から、赤倉才兵衛の報告を伝えられ、両人のいっそうの発奮を期待するむね鞭撻《べんたつ》を受けてしりぞいて来た二人は、雪晴れの路を歩きながら、まだショックのおさまらぬ顔を見合わせていた。
「しかし、三竿が現われたらどうする。それに対して才兵衛だけが立ち向い、万が一首尾よく仕止めたらわれらの面目はどうなる」
「面目はともかく、お婉を才兵衛のなぶるがままにさせるのが残念じゃわい」
と、黄瀬川黄白は下唇をつき出した。名は黄白だが、岩のように黒くて、背は低いががっしりと幅広いからだの持主だ。彼もまた、魚五郎と同じうめきをもらした。
「才兵衛め、いかなる機縁で、何やら悟ったようなことをいうか」
「たしか、御家老は半睡にして人を斬る法とか申されたな」
「半分眠りつつ斬る。――そんなことが出来るか」
ふしぎなもので、そうきいても二人には、ひざをたたいてああそうか、というわけにはゆかない。自得するにはそのきっかけに感動を要し、その感動は自得した本人以外には味わえない微妙なものがあるからだ。
「そういえばきゃつ、さる朝から妙に明るい顔色になっておったが、その前に何かあったな」
ふと、黄白が立ちどまった。
「前夜だ。夜の間に何かがあった。――」
「前夜はたしか吉原に泊ったはずじゃ」
と、漆沢魚五郎がいった。これは金剛力士みたいな感じの男である。
「例の小銀のところへ。――」
「ふうむ」
と、黄白はくびをひねったまま、なおつっ立っていたが、やがて厚い肩をゆすって苦笑した。
「まさか、女郎から剣法の奥義《おうぎ》を伝授されたわけでもあるまい。……ともあれ、われらもわれらなりに工夫せねば、才兵衛めにしてやられる。せいぜい、努めようではないか魚五郎」
――しかし、黄瀬川黄白はその夜吉原の小銀のところへいった。
漆沢魚五郎の前で一笑したが、彼はその話を交わしたとき、突如として何やら触発されるものがあったのだ。「……まさか女郎から剣法の奥義を伝授されたわけでもあるまい」といったのは、ライバルたる魚五郎に対して煙幕を張ったので、その刹那《せつな》彼は、赤倉才兵衛が遊女から何かを会得《えとく》したに相違ない、ということを確信したのであった。
それは黄白も、小銀の馴染《なじみ》であって、この女が寝くたれ女郎として名高いことをよく知っていたからだ。たんによく寝るばかりではない、寝ぼけたまま厠《かわや》へいったりする姿を、彼もいくどか見て笑ったこともある。
半分眠りつつ斬るという「半睡浮遊剣」――その極意を、才兵衛はこの寝くたれ女郎からつかんだのだ!
恒例のごとく一交し、時をおいてまた一交し、さらに夜更《よふ》けてまた一交した。
二交目あたりから、小銀はすでに寝ぼけ声を出していた。半分眠ったその顔、そのからだを、黄瀬川黄白は満腔《まんこう》の熱誠こめて観察し、また研究する。
半睡の交合。――半睡の剣法。
なるほど、浮遊とはよくいった。その感じはわからないでもない。
「……が?」
黄瀬川黄白、なんにも霊感のひらめくものがない。
赤倉才兵衛と同様の体験をしているわけだが、さきに述べたようにその機縁は微妙なものであり、また当人の素質のちがいということもあるだろうし、さらに、よしここで悟りを開こうと構えた自意識がかえってじゃまをして、黄白はいつまでたってもあいまいな顔をかしげているばかりであった。何でもないときの快感すら味わえないようだ。
――しかし、才兵衛はたしかに何かをつかんだのだ!
覚醒《かくせい》しているとき小銀にきいたのだが、先夜才兵衛は眼をつむったまま燭台《しよくだい》の蝋燭《ろうそく》を斬り、刃にその蝋燭を乗せてその火も消さなかったという。いよいよ案の通りだ。
この一夜、なんの収穫もなく吉原を去ればついに才兵衛におくれをとることは決定的だと思い、黄白はあせった。
「こ、これ、いまいちど!」
呼びかけて、あわてて声を制した。小銀はもはや白い泥のように眠りこけている。その眼をさまさせてはならぬのだ。――
それをそのままに、黄白は四交目にとりかかった。さすがの彼も、年齢は四十を越えているし、これはただ念力だけの苦行であった。
その念力が通じたか。――小銀は、ぴくぴくっと動いた。ぴくぴくっ……ぴくぴくっ……全身が、ではない。ただ一局部だけが。
彼女は眠っていた。口を半びらきにし、瞼《まぶた》すら動きはしない。腕も足も、ダラリと投げ出したままである。彼女はあきらかに眠りこけていた。にもかかわらず、黄白必死の運動と脈波を合わせ、ぴくぴくっ、ぴくぴくっと名状しがたい微妙な痙攣《けいれん》が、黄白の一局部に応えるのだ。
はじめて、快感の噴水が脊髄から脳天まで伝わろうとし、
「……これだっ」
ふいに彼の眼はかっと見ひらかれ、そして全身がぴいんと硬直した。――
「まっ、どうしたのでありんす?」
このとき黄瀬川黄白の岩のようなからだは、ダラリと柔らかくなっていた。ただ一部分だけに硬直を残して。
むろん、意識してそれをやったのだ。一部分だけ目覚めていて、あとの部分は眠っている。――できないことではない。げんにこの遊女がやって見せたではないか?
眠ろう。一部分を残して、あとは眠ろう。いちど眼をあけて、ふしぎそうな声を出した遊女小銀は、すぐにまた眠り出した。黄瀬川黄白は腰のあたりだけを目覚めさせて、あとは全身を弛緩《しかん》させている。眠らせようとしている。……もとより、完全にそんな器用なことが出来はしない。しかし、からだじゅうの魂を一つところに寄せると、あとはからっぽになって麻痺《まひ》して来たような感じがたしかにした。
ぐう。……
かすかな小銀の寝息に、彼も寝息を合わせた。
ぐう。……
そして、有意識的に一部分だけを運動させている男と、無意識的に一部分だけ反応させている女は、いつまでも寝息の合奏をつづけているのであった。
黄瀬川黄白が石来監物のところへ伺候したのは、それから数日の後であった。
「三竿討ちの儀、いつなりと黄白承知つかまつってござる」
「おお、目算ついたか。して、どのような工夫をつけた」
「仮睡自在剣と申す」
黄白は、一部分だけ目覚めていて、あとは自在に仮睡する奥義を体得したことをまずのべた。
監物はいぶかしげな表情をした。
「待て、全身起きていてすら、その方自身恐怖していた相手であるぞ。それが一部分だけ目覚めていて、どうしようというのか。どこの一部分を目覚めさせているのじゃ」
「いえ、それより発して拙者、その後、一部分だけ仮睡して、あとは起きているという工夫を凝《こ》らしてござる」
「一部分だけ仮睡する。――しかし、それにしてもそれは、それだけおまえの弱味になるではないか」
「まず御覧下されい」
黄瀬川黄白はスルスルと膝《ひざ》ですすみ、監物のそばの唐金の大火鉢《おおひばち》の炭火に鉄火箸《てつひばし》をつっこんだ。それから、端座したまま、二、三分首を垂れた。まるで居眠りでもしているように。
すぐに彼は右手にその火箸をとって、赤く灼《や》けたそれを、ピタと左腕に押しつけた。ぽうと白い蒸気と肉の焼ける匂《にお》いが立ちのぼった。
黄白の眉《まゆ》がふっとしかめられた。――ただそれだけである。
「いかぬな」
と、彼はつぶやいた。
「若干《じやつかん》、感じるところをみると、まだ左腕は完全に熟睡してはおらぬ。そもそも、その前に眠りに入る準備行動をせねばならぬようでは、未熟、未熟。――ただし、そのうちわが欲する肉体の部分を、わが欲するときに、瞬間的にかつ完全に仮睡させることが、かならず出来るようになるでござろう」
しかしこれは、実に身の毛もよだつ工夫だ。これを黄白が吉原で機縁をつかんでからわずか数日間で達したのは、やはりそれ以前の苦心|惨憺《さんたん》がいちどに花ひらいたものと見るべきであろう。
石来監物の方が顔色を変えていた。
「黄白。……しかしそれが何になる?」
「仮睡、と申すが、まことは麻痺でござるな。局部麻痺。――」
と、火箸を灰につき立てて、黄白はいった。
「敵の眠りの術を、われとわがからだの一ヵ所に凝集《ぎようしゆう》させて、そこだけ眠らせるのでござる。ほかは自在でござるから、敵の刀で以てわざとその部分を斬らせることもできるでござりましょう。一ヵ所斬られて全身が破れるは、ただその痛苦のゆえでござる。痛みなければ斬られざるにひとし。かくて、斬ったと思いこんだ敵の隙《すき》をついて、こちらから斬る。――」
黄白の笑顔はすでに満腔の自信に溢《あふ》れていた。
「すなわちこれ、仮睡自在剣」
監物はうなった。――ややあっていった。
「三竿、いちどに斬れるか」
「いや、それは、……いましばし、時をお貸し下されい」
黄瀬川黄白はややうろたえたが、すぐにその眼が異様に粘っこい光を帯びて来て、
「とはいえ、三竿すべてを斃《たお》し得るは、しょせんは拙者以外にないと信じ申す。そのあかつきは、例のお婉どの、ままにいたしてようござりましょうな」
四
漆沢魚五郎が石来監物に呼ばれて、黄瀬川黄白もまた三竿討ちの秘法を発見したらしいと伝えられ、うっと鉄丸でものんだような表情をしたとき、監物のところへ一通の書状がとどけられた。
――南無三、才兵衛のみならず黄白にもおくれたか?
強気な男だけにかっと来て、さらにいま自分を責めるような監物の口吻《こうふん》に対し、そもいかなる返答をすべきや、ワクワクして相手を見まもった魚五郎は、監物の顔色が変っているのを見た。
「いそぎ赤倉才兵衛と黄瀬川黄白を呼べ」
と、監物は書状をとどけた家来に、ただならぬ声でさけんだ。
「御家老、なんでござる?」
「お婉と三竿がいよいよ出て参る」
「えっ?」
魚五郎はからだにピーンと冷たく鋼線が通ったような気がした。
「い、いつ? どこから?」
監物は書状になお眼をそそぎ、心も空にひとりごとのようにつぶやいた。
「案の定だ。そういえば若殿が御約定《ごやくじよう》の一年がやがて来る。少くともそれまでにきゃつら現われると思っておったが、果せるかなじゃ」
それっきり、深刻な顔になって、漆沢魚五郎が何をきいてもろくに答えない。――魚五郎はすでに自分が員数外に目されているように思い、いても立ってもいられない憤懣《ふんまん》をおぼえた。
やがてあわただしく、赤倉才兵衛と黄瀬川黄白がやって来た。石来監物は書状を手にしたままいった。
「いよいよ、その方らの奥義をふるう時が到来した」
「や、すりゃ。――」
「国元におる腹心の者より知らせがあった。この三月一日、三竿はお婉をつれてあちらを立ち、江戸へ向ったとのことじゃ。雨師一族の留守宅にひそかにそういう連絡があったという。――」
さすがは石来監物だ。あれ以来、国元から監視の眼は離さなかったと見える。三竿たちが必ず江戸へ出て来るという予想もそのあたりからたてたのであろう。
「若殿の近ぢかの御婚儀のことも、きゃつら知って、それをじゃまするためもあろう。若殿はこのごろようやくお婉のこともあきらめかかっておわすに、今あの女に出府されては、すべてが水の泡《あわ》となる。いや、それどころか。――」
監物はこくんとのどぼとけを動かせた。
「きゃつらの出府、わしの命をも狙《ねら》ってのことに相違ない。――」
「参りましょうぞ」
と、赤倉才兵衛がいった。おちつきはらった声調であった。
「それこそわれらの待ち受けておった事態でござる」
と、これも武者ぶるいして黄瀬川黄白がいった。
「三月一日、向うを立ちましたと? では、甲州街道《こうしゆうかいどう》をもはやどれくらい来ておるか? さて万が一ゆきちがうとこと[#「こと」に傍点]じゃて」
「それじゃ」
と、監物はうなずいた。
「それを先刻、わしも思案しておったのじゃ。で、念のためおまえら三人が、三日ずつ日をおいて西へ立てばよもや見逃すことはあるまいが、さてそうなると、たとえ捕捉したとしても、こちらが一人ずつでは喃《のう》。……」
「いや、その御懸念は御無用でござる」
「拙者の剣法、その後ますます堂に入り、われながら不思議と思うほどの域に達してござりまする」
赤倉才兵衛と黄瀬川黄白は同時にいって、うす笑いしたが、いい合わせたようにその笑いをはっきりと軽侮|憐愍《れんびん》の色に変えて、漆沢魚五郎をジロリと見た。
「ただ三人と仰せられるが、漆沢のみはゆく必要はござるまい」
「な、なぜだ?」
と、魚五郎は悲鳴のようにさけんだ。
「ならば、おぬし、三竿をどう討つか」
「われらの前で虚勢は無用じゃ」
才兵衛と黄白は露骨に嘲笑《ちようしよう》した。――魚五郎は、うっと絶句した。
「よし、漆沢はともかくもわしの傍《そば》におれ。万一の際、何ほどかの役には立つであろう」
と石来監物はいよいよ魚五郎の自信を傷つけるようなことをいったが、監物自身はそれを意識する余裕もない。
「赤倉と黄瀬川はすぐに立て。女と三竿、断じて江戸へ入れるなよ」
早春の日ざしの下を、漆沢魚五郎は眼を血走らせて歩いていた。無念である。嘲笑されたことよりも、その嘲笑が事実であることが無念である。
あの両人は、たんなる悪意で嘲笑したのではない。専門家の正確な眼で判断を下したのだ。実際魚五郎は、いかに考えてもあの三竿を討つ工夫がつかなかった。
しかし、石来監物は「おまえはわしの傍におれ」といったが、彼はむろん江戸にいる気はなかった。意地でもあの三竿にかけ向わねばならなかった。それにお婉という娘のこともある。あの名花を、でぶでぶ肥った赤倉才兵衛や碁盤みたいな黄瀬川黄白にまず散らさせてなるものか。――
それにしても才兵衛や黄白は、いかにして三竿に対抗する新剣法を編み出したのか。その新剣法はきいてはいるが、半睡状態で人を斬る、などいうことはよくわからないし、からだの一部分だけを麻痺させる、などいうことはどう考えても自分には不可能だ。
いったい彼らは何から触発されたのか。彼らはそれをかくしてはいるが、そもそも何から?
――ふっと、漆沢魚五郎は眼を宙にとめた。赤倉と黄瀬川がそれをかくしている、という事実から、ピカリと頭にひらめいたものがあったのだ。
ただたんに、わざ惜しみの秘法だと思っていたが、しかしそのわざそのものの内容は彼らはかくそうとはしていない。その機縁をかくしているだけだ。
魚五郎の頭に、いつか雪晴れの日、同病|相憐《あいあわ》れみつつ黄瀬川黄白とこの道を歩いていたときの問答がよみがえった。
「……前夜だ。夜の間に何かがあった――」
「……前夜はたしか吉原に泊ったはずじゃ。例の小銀のところへ。――」
「……ふうむ」
といったあとの黄白の表情までまざまざと思い出した。すぐにそのあと黄白は、
「……まさか女郎から剣法の奥義を伝授されたわけではあるまい」
と一笑したが、その直前の顔色はたしかにただごとでないものがあった。
魚五郎の眼がひかり出した。才兵衛といい黄白といい、きゃつら小銀のところで何かを会得したな。――
彼はその足で吉原へ駈けつけた。そして小銀を買った。
彼にとって深刻重大。しかも焦眉《しようび》の感がある女郎買いである。はじめに、ここに来た赤倉才兵衛と黄瀬川黄白のようすをかみつくように訊問《じんもん》した。この小銀という遊女がもともと起きていてもぼうっとしたところがあって、そんな大まじめな話よりも、早くことをすませて眠りたいというたちなので、きいてもよくわからない。……いや、赤倉、黄瀬川がここで何やら会得したことはいよいよ確実になったが、さてそうと知っても、いままでの予想になんら加えるものがない。
しかし、そう匙《さじ》を投げてはいられない。あきらめてはいられない。――
「頼む、いまいちど!」
歯をくいしばって交合しながら、
「おのれ、半睡浮遊剣!」
と、うめく。
すると、きょうひるま武者ぶるいして甲州街道をいったであろう赤倉才兵衛の姿が眼に浮かび、頭がクラクラとする。
「や、いかん。……もう一回!」
あぶら汗を浮かべて交合しながら、
「おのれ、仮睡自在剣!」
と、うめく。
すると、三日おいてから勇躍して西へ立ってゆくであろう黄瀬川黄白の姿が瞼《まぶた》に浮かび、心気がぼうとする。
遊女小銀は、こんなに気ぜわしい、しかも心ここにない、こんなに殺気にみち、しかも放心状態になるという変な客に逢《あ》ったことがない。鈍といっていい資質の彼女だが、たんに肉体ばかりでなく、ふつうの客の倍も三倍も精神的に疲れた。――そして、眠った。
「い、いま一本!」
その凄絶《せいぜつ》といっていい声を、遠い歌声のようにききながら。……
漆沢魚五郎は、遊女が半睡にして反応するのを知った。また全身熟睡しつつ、一局部だけぴくぴくをやるのも味わった。しかも依然として何ら得るところがない!
彼にしても、こんな精神分裂的交合はしたことがない。まるで熱い湯と冷たい水の混り合ったような感覚の沼の中をもがいているうち――ふっと彼は妙な快感をおぼえた。
この夜はじめての快感だ。――それがあまり突然であったので、はっとそれに精神を集中させたとたん、快感はピューと噴きあがり、ダクダクと拡がり、そしていままでのわけのわからない感覚の沼を沸騰《ふつとう》させはじめた。
こんな凄《すさま》じい快美の世界ははじめてだ。それまで不本意ながら出すべきものは出していて、もはや出すべきものがないといった感じであったのに、まだこれほど出すべきものがあったかと自分でもあきれるほどであった。しかも、それが無限につづくのだ。意志とは無関係に、彼の腰は上下した。それと合わせて、遊女小銀も半裸にちかいからだをあげさげしている。
その小銀の姿が見える。眼をとじてあえいでいる横顔、大きく起伏する乳房、白い二匹の蛇《へび》のようによじれる足。――言語に絶する淫蕩《いんとう》の姿態であった。
――はてな?
と、からだを動かしながら、魚五郎の脳髄に不審の雲がかかった。
――おれは小銀の全身を横から見ている。どうしておれにあの姿が見えるのだ?
とたんに雲がみるみる霽《は》れて来て、彼の肉眼ははじめてはっきりと実態を見た。まさに小銀は、掛夜具をはねのけて、あらわな痴態を展開続行している。しかし、一人だ。
――きゃつ、寝ぼけておる!
笑おうとして、その笑いがとまった。魚五郎は、自分がその夜具から数メートルも離れたところの座蒲団《ざぶとん》にかぶさっていることに気がついたのだ。がばと起き直ると、その座蒲団に洪水《こうずい》のような夢精のあとがあった。
――おれもまた寝ぼけていたのだ!
と、彼は心中に愕然《がくぜん》としてさけんだ。
いつ、自分が蒲団を這《は》いずり出してここまで来たのか、まったくおぼえがない。幼時は知らず、こんなばかげた経験はないが、これはこの夜、あまりに思うこと多く、また肉体を苛烈《かれつ》に使用しすぎたために、はからずもうなされたのであろうか。
――うなされる?
うなされたにしては、しかしなんという強烈な、なまなましい快美の世界であったろう。あれは現実そのものであった。いや、現実以上のものであった。このおびただしい夢精のあとを見るがいい。
「……これだっ」
ふいに彼の眼はかっと見ひらかれ、そして全身がぴいんと硬直した。――やっと小銀の夢中遊行的痴態が停止した。
「まっ、どうしたのでありんす?」
その声も聞えないかのように、漆沢魚五郎は、いまの形相と姿勢を凝固させている。
人は夢を見たといって笑う。寝ぼけている人間を見て笑う。しかし、夢みている人間にとっては、夢の中の世界が現実なのだ。現実が夢の世界といっていいのだ。
もし自分が三竿に眠らされるとする。その状態を自分にとって現実とすればいいのだ。そのときは眠りの術をかけている三竿こそ夢の中の人物といっていい。両者は対等に剣を交えることになる。――
つまり、自分は夢遊の剣をふるう。しかし、それが客観的に現実に通用するであろうか?――通用する!
げんにいまの自分と小銀の行為は夢遊交合ではないか。あれは小銀の夢遊的行為が自分に伝染したのか、それとも自分の夢遊的行為が小銀に放射したものか。――平生のくせから見ると前者といいたいが、しかし今夜にかぎっては、彼は後者と思いたかった。
いずれにせよ、夢遊の行為でも、現実の人間を翻弄《ほんろう》し得るのだ。いや、自分はその境地に達せねばならぬ。また自分にその能力のあることをはじめて発見した。
ただ、みずから夢遊状態に入るにはいささかの修行をせねばならぬが、それだけの時日があるか。
漆沢魚五郎は指を折った。
三日後、二番手の黄瀬川黄白が出発し、さらに自分がゆくまでに三日ある。また甲州街道をいってからも、敵とゆき合うまでには幾夜かがあるであろう。――出来る!
その翌日、漆沢魚五郎は石来監物のところへまかり出て、自分の大悟した新剣法を報告し、かつ自分もまた三番手として出動したいむねを述べた。
「なに? 寝ぼけて敵と勝負する?」
監物は眼をむいた。
「そんな、ばかな。――」
「その幻妙の気合は口を以て説き難うござるが、ただ御家老さま、夢中遊行の人間が、ときとして、醒《さ》めておる者には及びもつかぬ危ない場所を走ったり飛んだりすることのあることをお知り下されい」
「なるほど、そういうこともあるな。しかし、果し合いとなるとどうか?……ま、よい、先に赤倉、黄瀬川という者どもがいっておるゆえ、三番手ならよかろう」
「赤倉、黄瀬川の徒輩《とはい》では到底あの三竿を討てますまい」
漆沢魚五郎は、きのうとは別人のごとく堂々といい切った。
「お婉を頂戴するのは拙者だ。拙者の剣よりほかにない。――と拙者は確信しております。すなわち、夢界生動剣。――」
五
信濃《しなの》から甲斐《かい》に入ったあたり。
江戸の雪はとっくに消えたが、このあたりは遠い連嶺がまだ真っ白に雪をかぶっているのはもとより、そこらの山あいの谷間、林の奥にもいたるところ白いものがひかって、ひょうと頬《ほお》を吹く風は薙刀《なぎなた》みたいに冷たい。
ただ空だけは真っ蒼で、その蒼い光に黄色く浮いた柏《かしわ》の枯葉や白樺《しらかば》の枝が鮮やかに美しかった。
その下の峠《とうげ》の茶屋で、
「――さ」
と、熱い茶の残りを地に捨てて、一人の雲水が立ちあがり、杖《つえ》を腹に立てかけ、網代笠《あじろがさ》をかぶり出した。
「参ろうではござりませぬか」
うながしたが、縁台に坐《すわ》った三つの影は動かない。というより、まんなかの若い女を、両側に坐ったやはり二人の雲水が、じっと不安そうに見まもっているのだ。
立った雲水は苦笑した。
「まだおためらいか」
「――ほんとうに江戸へいっていいでしょうか」
と、娘は顔をあげて、おずおずといった。
日かげの中に、あきらかに化粧もしていないのに、その肌《はだ》の白さ、眼と唇《くちびる》の鮮やかさが、ひかるように浮いている。先刻、茶屋の婆さえ、数分間、人間ではないものが入って来たように茫《ぼう》と見とれていたほどの美しさだ。
「まだ左様なことをおっしゃるか」
「――若殿は、やはり向うのお方と御祝言なさるのがおふさわしいのではあるまいか。向うはお大名の御息女、わたしは家老の娘。――それが、江戸へおしかけるなど。……」
麻耶藩国家老和佐右太夫の娘お婉《えん》であった。
立っていた雲水、雨師兄弟の末弟睡竿は、墨染めの衣《ころも》の痩せた肩をゆすった。
「向うは大名の息女といっても、女狐《めぎつね》お櫛の妹ではござらぬか。しかも女狐の方は、あれはあれなりに大殿をとろかすほどのつらを持っているが、この妹の方は、大名の息女といったら、いやはや狸が笑うほどのつらときく」
「でも、その大殿さまが。……」
「大殿は、睡竿のいうように女狐に化かされておいでなさるのでござります」
と、右側の仲兄《ちゆうけい》眠竿がいった。実に睡竿とよく似た細長い顔をしているが、年はそれより二、三歳上の三十七、八であろう。
「それに、石来一味は、お父上の敵でござりまするぞ!」
眠竿はかるく、しかしいらだたしげに縁台をたたいた。
「拙者ら、なんのためにあなたさまに剣を御修行させ申したか。ひとえにあなたさまがお父上の敵を討たせられるように――またあなたさまがあの修行にお耐えなされたのも、ただそのためではござりませなんだか」
「それはわかっている。わたしもそのつもりでした。……」
お婉はこっくりしたが、しかしなお立とうとはしなかった。
「わたしはあの夜の怒り、悲しみに燃えて、お父上を殺した人々ののどぶえにくいついても敵を討ちたいと思いました。けれど……いま、そんなことをして、ほんとうに若殿がおよろこびになるでしょうか? 若殿は、このまま石来どのらのお膳立て通りにお暮しなされた方がお倖《しあわ》せではあるまいか?」
「そうは参らぬ。それは天道《てんどう》が許しませぬ」
と、眠竿はくびをふった。
「お父上が強く御反対なされたのも、ひとえに天道のためでござった。天道にそむいた道をゆかれても、結局若殿がお倖せになれる道理がござらぬ。……それに、情報によって若殿の御心中を推量申しあげるに、たしかに若殿はこの春にあちらと御祝言なさるお気持になっておわすようでござるが、それはいっときのがれのおつもりでござろう。若殿としては敵の手に乗ると見せかけて、あとで敵の一味を清掃なさるお心らしゅうござりまするが、奸悪《かんあく》なる石来や女狐が、そうは問屋におろすものか。いよいよ若殿を閨《ねや》の縄でがんじがらめに縛りあげ、麻耶一藩を心のままにしようと計るに相違ござらぬ」
睡竿も網代笠の下で眼を血走らせてうなずいた。
「それは、恐れながらお心やさしき若殿のお気の迷いでござる。将来、とりかえしのつかぬ禍根《かこん》となる。忌憚《きたん》なく申せば、その女狐の妹におん子でも生まれ給えば、若殿のおいのちすらお危い。――」
「このときにあたって、あなたさまが江戸に参られ、若殿にお逢《あ》いなされば、若殿の御迷夢は豁然《かつぜん》と霽《は》れたまい、正義の太陽は燦《さん》として麻耶藩のためにかがやくは必定。――」
左側の雲水がはじめてしずかに口をひらいた。
「若殿は、あなたさまをお恋いなされておるのでござる」
恋、などいう言葉を混えるのがおかしいような重々しい口調だ。やはり、眠竿睡竿によく似ているが、年は四十くらいであろう。痩せて細長い顔をしているのに、重厚の気がみなぎっている。それにこの人物、左眼がつぶれて、糸のように閉じられている。――長兄の雨師夢竿であった。
「ひょっとしたら若殿は、あなたさまがどこぞに生きておられる。必ず自分の前に現われると信じて、待っておわすかも知れませぬ。……いや、それにちがいない!」
「ゆきましょう」
彼女は眼をかがやかし、杖《つえ》をとって立ち上ろうとした。
「ちょっとお待ちなされ」
と、片眼の夢竿は、いま激励したくせに、手をあげて制した。
「しかし、お婉さまがおためらいなされ、かくのごとく道がはかどらぬのも、われらにとっては必要なことでもある。つまり江戸へ出たとて、われらがいきなりお屋敷へ推参することはならぬ。――その前に、石来監物を始末しておかねばならぬ」
ひとりごとのようにいう。――
「やむを得ずんば、われらの御家老さまがえたいの知れぬやつらに殺害の悲運にあわれたごとく、眼には眼、歯には歯、きゃつ監物の屋敷に押し込んで斬らねばならぬが、このことお婉さまにはお勧めしがたく、出来るならばそれは避けたい。――」
なぜか彼は、往来の方を見ている。明るい山道を、しきりに南へ北へ旅人が通る。
「で、監物に、こちらに出て来て欲しいのじゃが、さて望み通りに監物が出て来るか。是非出て来させたい。この街道の途中で監物に天誅《てんちゆう》を下したいのじゃ。――監物としても、お婉さまが御出府になるのは一大恐慌事であろう。されば、それをとどめに刺客を送ってくるであろう。その刺客をかたっぱしから討ち果してゆけば、きゃつ、いても立ってもいられなくなって、ついに本人がふらふらと出向いて来るであろう。――そう思って、われらはわざとわれらの出府が監物の耳に入るようにしておいた。――」
「その通り」
「しかし、兄者、前からおれはそのことを気にしておるが、そううまくゆくか」
と、眠竿睡竿がいう。
「いった」
夢竿はぎゅっと唇をつりあげて笑った。
「いや、監物自身の出馬はともあれ、想定通り、刺客の第一陣が来た」
「なに?」
「ど、どこへ?」
どよめきたつ眠竿睡竿に、自若として夢竿は答える。
「監物とて、大っぴらに麻耶藩士は使えぬことじゃ。お婉さまを知らぬ藩士はないからの。で、必ず私の暗殺隊を使う。この前のやつらと同様に。――いや、この前、たしかに生き残ったやつが三人あった。少くとも、きゃつらを混えた剣客を使うであろう――と思うておったら、果せるかなじゃ。その一人が、いまそこの往来を北へ通っていったぞや」
と、夢竿はあごをしゃくった。
「深編笠《ふかあみがさ》をかぶってはおったが、たしかにあの中の一人じゃ、ちらっとこちらを見て通り過ぎていったが、きゃつ、必ずまた戻ってくる。――」
「……ううむ」
「よし!」
二人の雲水は往来に駈け出そうとした。
「待て」
「なぜ?」
「わしもくびをひねっているのじゃが、敵が一人というのが面妖《めんよう》じゃ。罠《わな》かも知れぬ。罠でのうて、まずただ一人出向いて来たならあっぱれじゃ。いや、あの三人、この前から相当なものじゃと見ておった。きゃつらなら、雨師の眠法の相手にして遊んでやっても面白かろう。……二人、ゆく必要はあるまい。一人でゆけ」
「あ、なるほど。――」
「睡竿ゆけ」
と、長兄夢竿はおちつきはらっていった。
「わしたちはそろそろと先へゆこう。うぬはきゃつと立ち合い、監物が何を考えておるか絞めあげてから始末して、われらを追うて来い」
葉の落ちた白樺の林の中の街道を、タッタと歩いていってから、くるっと赤倉才兵衛は反転した。
さすがに胸が高鳴っている。――きゃつらだ! ついにきゃつらを捕えた!
三人の雲水を一目でそうだと見破ったのではなく、茶屋の中に光の精のごとく浮かんだ娘の姿が、ぴしいっと胸に鐫《え》りこまれたのであった。
ただ、予想はしていたが、あの雨師三兄弟いっしょというのがちとこまる。絶対に自信がないというわけでなく、やむを得なければ同時に相手にするよりほかはあるまいが、出来るなら、一人ずつ、離れたところを襲いたい。――これは当然な兵法だ。
さて、どうして彼らを分離させるか? 才兵衛の足はやや歩みなずんだ。
思案をしたが、むろんとっさにうまい智慧《ちえ》が出るわけがない。といって、思案をしていればきりがない。それよりも、いまちらっと見たお婉の艶姿《あですがた》が、この一年、妄想《もうそう》にえがきつづけていたよりも数倍の魅惑を以て彼の足を鞭打《むちう》った。
よし、ともかくもあとをつけて、機会を狙《ねら》う。
タッタとまた早足に歩き出した赤倉才兵衛が、はたと立ちどまった。――林のはずれの道の上に、一人の雲水が杖をついてヒョロリと立っている。
雲水はじいっとこちらを眺《なが》めていたが、やがてゆっくりと歩いて来た。
「……石来からの刺客か」
と、しゃがれた声をかけて来た。雨師睡竿である。
それには答えず、才兵衛は深編笠をゆすった。
「僧形じゃが、雨師とやらいう下郎じゃな。――一人か。あとのやつらはどうした」
「うぬが一人なら、こちらも一人でよいわ」
――すっと赤倉才兵衛の腰から一刀が鞘走《さやばし》った。待ち受けていた事態は、敵の方で作ってくれたのだ。
同時に、雨師睡竿の杖から水のような光がほとばしっている。――仕込み杖であった。
それを睡竿は水平にあげた。才兵衛も同様だ。
睡竿の網代笠が、ややかしげられた。――腰から一刀をぬく、構える、この動作のあいだ、相手の深編笠が風ほどもゆらがないのに容易ならぬ自信を読んで、彼の方がふしぎに思ったのだ。
たんなる自信ではない。――「あれは相当のもの、雨師の眠法の相手にしても面白い」と兄夢竿はいったが――それ以上の剣客であることを、はじめて睡竿は感得した。深編笠をとらぬとは不敵なやつだが、それだけに相手の眼の動きが見えぬので、いささか始末が悪い。――
墨染めの袖《そで》から、しかしこのとき赤い小さなものが、ふっと湧《わ》き出した。
それは一匹の轡虫《くつわむし》であったが――しかし、正確にそう呼ぶのは憚《はばか》られる。たしかにかたちは轡虫だが、羽根の真っ赤な轡虫など世にあるものではない。だいいち、肌寒い早春の山風の中に轡虫が現われるはずがない。
にもかかわらず、現実にその赤い轡虫はここにいる。早春どころではない。曾《かつ》て和佐右太夫を襲った雪の一夜ですら、それは出現したらしい。――雨師睡竿はおのれの肌の暖かみでそれを飼っているのであろうか。
奇怪な昆虫《こんちゆう》は、しかし羽根もひろげず、スルスルと睡竿の刀身のみねをわたって、その剣尖にとまった。
「赤い轡虫。……」
いま赤倉才兵衛は、曾ての朋輩の断末魔の声を思い出したはずだ。いや、それどころか、いつぞや吉原で見た悪夢をここにまざまざと見たはずだ。――が、その深編笠は動かない。
――と、轡虫は、このとき鳴き出した。微《かす》かに微かに。
それが轡虫本来のガチャガチャという鳴声ではない。薄い羽根と羽根とをすり合わせ、ふるえつつ流れ出してくる音は、消え入るように細く、水晶のように澄んではいるが、なんと――たしかに女の声であった。むせぶような女のあえぎ声そっくりのひびきなのであった。
何ぴとも、ふっとその美しくも奇怪な音源に耳を吸わせない者があろうか。その刹那《せつな》から、彼は聴覚のみならず、全感覚、全脳髄を吸いこまれる。――
このとき、彼は強烈な睡魔に襲われる。――
催眠術とは、それをかけられる者の意識を或る単一な観念に集中させることから始まり、そこに大脳の禁止作用が起り、あらゆる思念が一斉《いつせい》に休止し、かくて彼はこんこんと眠りはじめる。その精神集中を起させるには種々の方法があるが、これはその中で聴覚刺激法というべきものであったろう。実験の際、耳に時計の音や、滴水の音などを聞かせるのと同じ原理だ。
いま、肌寒い早春の山風といったが、白樺の林はからあんとむなしいばかりに明るく、梢《こずえ》は細い枝の先まで動かない。その中に、江戸からの刺客は、深編笠と刀身の影を寂と地に落したまま、これまた微動だもしない。
雨師睡竿はそれを眠りにおちたものと見てにやっと笑い、ヒタヒタと前へすすみ寄った。大根でも斬るように、無造作に一刀をふりかぶった。
赤倉才兵衛はたしかに眠っていた。しかしそれは睡竿の聴覚催眠に眠らされたのではなく、自己催眠をかけてみずから眠ったのであった。半分。――
眠りは半ばだから、虫の鳴声は微かに遠く聞えている。しかしまた半ば眠っているのだから、それによる観念集中ということはあり得なかった。半分眠った脳髄に、術は反応を起さなかった。――
無念無想ではない。半念半想の心眼に、一刀ふりかぶった黒衣の影がうつった瞬間、泳ぐように才兵衛は動いている。――
「やっ?」
網代笠の下の眼が驚愕《きようがく》と狼狽《ろうばい》にかっと剥《む》き出され、頭上の剣が波打ちながらふり下ろされるより早く――赤倉才兵衛の一刀は、水平にながれた。いつか蝋燭《ろうそく》を切ったときよりもっとなめらかに。
雨師睡竿は、刀をななめ空中につき出した姿勢のまま、しばし凝然《ぎようぜん》とつっ立っていたが、たちまちその墨染めの衣から鮮血をぶちまけながら、文字通り二つに分れて、どうと地上に崩折れた。
睡竿の刀尖からぱっと飛び立った赤い轡虫を、流れるように返った才兵衛の刀がこれまた二つに切って落す。
それを半無意識の朦朧《もうろう》たる声で、赤倉才兵衛はつぶやいた。
「半睡浮遊剣」
六
甲州猿橋。
甲府から東へ五十キロ。
山中湖《やまなかこ》から流れ出した桂川《かつらがわ》にかかる橋で、長さ三十三メートル、高さ三十数メートル。見下ろせば眼もくらむような谷底に、富士の雪解けの渓流《けいりゆう》が真っ白な泡《あわ》をかんでいる。
桂川という名は葛から来たといわれているように橋の手すりは葛の蔓《つる》を編んだものだ。当時のものの本に。――
「橋の上より見下ろせば、岸のなかばから生え出でたる木どもそそり立ち、いと暗う茂りたる中より、ひとすじの滝津瀬、響きもさやに轟《とどろ》き落つるが、これも五、六丈はあらん。岸より少し降りて、橋の裏を見るところあり。ここより仰ぎみるに、橋柱立つべきところならねば、両岸より巨きなる材を雁《かり》のならびゆくらんように次々にさし出して、橋のけたを受けて、その上に板を伏せたり」と、ある。
その猿橋の上を、西へ――甲府の方へ、タッタと渡ってゆく一人の深編笠の影があった。
「おいよ、黄白」
どこからか声が吹きあがって来て、ばかに背のひくいその影は、橋上に立ちどまり、キョロキョロした。黄瀬川黄白だ。
「おれだ、赤倉。――」
「……やっ、才兵衛か」
黄白は、橋のはるかに下に、川につき出した岩の上に、やはり深編笠が立ってこちらをふり仰いでいるのを見出した。岩にも樹々が茂っていて、最初から注意していない者には気がつかない。
「ど、どうしたのじゃ、赤倉。――おれより三日前に江戸を出たおぬしがまだこんなところにおるとは」
と、黄白は葛の蔓をつかんで身をのり出した。
「三竿どもはどうした? まだ見つからぬか」
「二竿はやがてここへ来る」
「な、なんだと?」
黄白は眼をむいた。
「それを知っておって、おぬしは――さては三竿に臆《おく》して、おれの来るのをここで待ち合わせておったか」
「いま、おれが二竿といったのが聞えなんだか」
「なに?」
「一竿は斬った。たしかにいちばん弟の睡竿というやつじゃ。きゃつは、甲斐《かい》に入ったあたりの山中でわしが斬った」
「ふうむ」
「あと二竿が残っておる。わしが斬ろうといえば易《やさ》しいがの」
才兵衛は笑った。
「しかし、いろいろ考えて、あとはおぬしに譲ることにした。江戸を立つときおぬしとあれほど先陣争いをしたいきさつからものう。――一竿でよい。まずものはためし、一人を斬って見い」
橋の上から見下ろしている黄白の眼には猜疑《さいぎ》の光があった。猜疑は、赤倉才兵衛が一竿をほんとうに斬ったか、ということと、事実としてもいまの才兵衛の妙な勧誘の真意は何か、ということだ。
すぐに後者の方は了解した。
江戸を立つとき、こんなことがあった。赤倉才兵衛が出発する時点に於て、すでに黄白も三竿を斃《たお》し得るという剣法を開発したつもりであったから、どちらが先に立つか、ということで二人は論争した。三竿を斃《たお》せば、斃した者がまずお婉を犯すことができるからである。
しかし、まず旗をかかげたのはおれだ、と赤倉才兵衛は先取権を主張し、黄白はついにそれを了承した。――理に服したのではない、才兵衛に三竿が討てるわけがない、きゃつが返り討ちになれば、あとお婉を手に入れるのに、かえってこちらの面倒がかからぬ、と黄白は計算したのだ。
案に相違して、才兵衛はまだ生きている。しかも、睡竿は斬ったという。――事実ならば、黄白たるもの、失望を禁じ得ない。
そしていま、ここに待ち受けてそんなことをいう才兵衛に、黄白は自分が才兵衛に対して抱いたと同様の悪意を看破した。きゃつめ、敵の手によっておれをここで片づけさせるつもりでおるな?
そうはゆかぬ! 負けてなるか、三竿はおろか、才兵衛めにも。
黄瀬川黄白の眼が、ぎらぎらとひかり出した。
「で、雨師兄弟二人がやがてここへ来ると?」
「左様」
「お婉もか?」
「もちろん」
「おぬし、一竿だけを斬ったといったな。いかにして一竿だけを離した」
「一竿だけ離すのも兵法のうちだ」
才兵衛は冷然と笑った。
実は才兵衛があれ以来手をつかねて、ここまで雨師一行の送り狼《おおかみ》となって来たのは、夢竿と眠竿を分離し難《がた》かったからだ。やはり万全を期するには各個撃破にしくものはないから、機をうかがいつつ追って来て、ふっと――自分より三日おいて江戸を立ったはずの黄瀬川黄白のことを思い出した。
……きゃつ、もうこちらへ現われるころだ!
そう思ったとたんに、黄白が推量したような悪意が胸にむらっと浮かんだのである。もっとも黄白も同様の皮算用を抱いたことは看破しているから、べつにこちらだけの悪意とは思わない。
よし、黄白と雨師兄弟をかみ合わせてやろう。どうせ黄白は討ち果されるであろうが、夢竿眠竿の術を偵察《ていさつ》するだけでも参考になる。万一黄白がその一人を傷つけでもしたら、めっけものだ。――
そう思って才兵衛は、大月《おおつき》でお婉一行が昼食をとっているのを見すまし、裏道を駈けぬけてここまで来て、果然《かぜん》、桂川の向うの山道を橋の方へ廻ってくる深編笠を黄白と知るや、いかにも図星だ! とみずからの計算に感服し、もっともよい観戦の席を探《さが》してここに待ち受けていたものであった。
「……才兵衛、おぬしの望み通りにはゆくまいよ」
黄瀬川黄白は、しかしにやっと笑った。
「よしっ、二竿残っておるならば、二竿ともいっしょに討ってくれる。その代り、二竿を斬ったおれの方に、お婉をままにする権利があるぞ」
そして、大刀のこじりをぐいと野羽織の裾《すそ》からあげて、橋の上を西へ歩き出そうとして、彼はふいにぴたりと足をとめた。
その西の方から、シトシトと雲水がやって来た。一人であった。
雲水は、雨師兄弟のうち仲兄にあたる雨師眠竿である。
彼ら三人は、猿橋の手前までやって来て、遠く橋の上の深編笠を見、それが谷川の方へ向って何やらわめいているのを見た。――問答をきくより先に、
「きゃつらの、一人じゃな」
と、夢竿がいった。
「睡竿を討ったやつではないが、例の剣客の一人じゃ」
「ふうむ」
と、眠竿はじっと前方をうかがっていたが、やがてうなずいた。
「兄者、わしがゆこう」
「眠竿」
と、お婉が菅笠《すげがさ》の下から不安げな声を出した。すでに彼女は、雨師睡竿が討たれたことを知っている。夢竿も沈痛な眼を向けた。
「きゃつら、この一年に何やらつかんだな。……わしもゆこうか」
「いや、橋の上におるのは一人じゃ。こちらも一人で立ち向わねば雨師の眠法の面目にかかわる。――」
「そんなことをいっている場合ではない。われわれの任務は敵の刺客を討ち果すこと。それにお婉さまを江戸へとどけることじゃ」
「それだからこそ、わし一人でゆく。橋の上の敵は一人じゃが、べつにまだ何人かおることは明らかなのだ。それらに対して、兄者、お婉さまをお護り申しあげてくれ」
眠竿は笑った。
「なんの、あのような野良犬侍。兄者、見ておれ」
そして雨師眠竿は、杖《つえ》をついてシトシトと歩き出したのである。
数百歩平静に歩いて――しかし眠竿は、橋のたもとから四、五メートル離れた路上に立ちどまった。
杖をついたまま、両足ひらいて凝然《ぎようぜん》と立つ。
これまた橋の上に佇立《ちよりつ》していた黄瀬川黄白は、数十秒、これを深編笠の中からうかがっていたが、やがてタタタタと、碁盤みたいなからだに似合わぬ軽い音を橋板にたてて、その方へ駈け向った。
路に出たところで抜刀し、
「おたがいに名乗る必要はなかろうが、ちょっときく。いま、ちらっと向うに見えたのはうぬの兄か弟か」
と、いいながら、実に無造作に、おのれの背丈よりまだ長いような刀身を垂直に立てた。両こぶしを右肩にひきつけ、いわゆる八双の構えをとったのである。しかも、左|肘《ひじ》を水平に張って、前に突き出すようにして。
「ま、いずれでもよい。あとかさきか、一足ちがいで冥土《めいど》へゆくだけのこと」
と、いったが、彼の八双の剣はなお空中に動かない。相手の構えに疑惑を抱いたのか、それとも何かに呪縛《じゆばく》されたのか。――
眠竿が突いている杖は仕込杖だ。が、それを両手に握って地についたまま敵を迎えるとは実に大胆な構えだが、彼はこれで敵のいかなる第一撃でもその柄をあげて受けとめ、はねのける修行をつんだ。それよりも。――
仁王立ちになった眠竿の両足のつまさきが、トーン、トーン、と音もなく地を叩《たた》いていることに、これまで彼の相手になった敵で気がついた者があったか、どうか。――
その軽いつまさきの叩打《こうだ》が地に伝わり、相手の足の裏にひびく。するとそこから名状しがたい快美の感覚が神経を走って脳髄に送られるのだ。それは軽度で断続的だが、その快さにウットリとなり、瞬間瞬間に於て絶頂の失神を人は味わう。そして数十秒のうちにそれがつながって、彼は立ちながら完全な失神状態におちいってしまう。――いわば、催眠術の実験で被験者の皮膚を軽く撫《な》でさする触覚|刺戟《しげき》法と同じ原理だ。
ぴくっ、ぴくっ、ぴくっ。……
いま、そのたびに大地から、黄白の全身に痙攣《けいれん》の波がわたり、そしてみるみるそのいかつい肩もダラリと垂れて来た。眠りはじめたのだ。――と眠竿は見た。ただ水平に張ったままの左肘に小きざみな痙攣が残っていたが、やがてそれも徐々に下がって来た。
間一髪、ニヤリとして眠竿がすすみ出た。仕込杖の鞘《さや》だけ股《また》のあいだに残して、その刀身が下から回転しつつ銀光を描いていった。走り寄りつつ眠竿は、その仕込杖を逆手に握ったまま下からはねあげるという稀有《けう》な刀法で、まずもっとも前方に突き出した黄白の左肘を薙《な》ぎあげたのである。
ばすっ!
それが離断されたのを見たのは眠竿の正確な視覚であったが、当然その姿がよろめいたと見たのは錯覚であった。
本来ならば、薙ぎあげられた眠竿の剣は、よろめいた敵の頭上から、燕返《つばめがえ》しに振り下ろされる。八幡、これがとどめの唐竹《からたけ》割りとなるのが通例だ。しかるに。――
黄白はよろめいたのではなかった。右八双に構えた長剣は、左腕を肘から落されながらそのまま、接近して来た雨師眠竿の真っ向から一閃《いつせん》して、こちらをこそ唐竹割りにしてしまったのだ。
――きゃつ、眠ってはおらなんだ!
その驚愕《きようがく》は、顔の半ばまで敵の刀を受け入れたときの、眠竿の最後の知覚である。しかし、恐るべし、彼はなお突撃して、予定通りの第二撃を振り下ろしたが、そこに黄瀬川黄白の姿はなかった。碁盤のようなからだは、飛燕《ひえん》のごとくこれをかわしたのである。
雨師眠竿は、誰《だれ》もいない橋の上までつんのめっていって、なお無意識的に刀身をうしろなぐりに払ったが、もとよりそれも空を斬り、そのはずみに彼自身が橋の葛《くず》の蔓《つる》にぶつかって、はじめてからだを輪のようにして、渓流の底へ落ちていった。高い谷に血の滝津瀬をひきながら。――
黄瀬川黄白はふりかえりもしなかった。いまの一撃で充分手応えをたしかめていたからだ。彼は眠ってはいなかった。機能も知覚も健在であった。
彼は地に落ちたおのれの左腕をながめた。惜しい、とは思う。しかしこれくらいの犠牲を払わなければ到底討てぬ敵であったと思う。――
最初大地から伝わって来た敵の眠術は、抵抗できぬ微妙さと強烈さを持つものであった。しかし、その眠りを彼は、ただ左腕だけに集めたのだ。まどろんでいたのは、彼の左腕だけであったのだ!
「仮睡自在剣。……」
地上のおのれの片腕を見つつ、会心の笑みを浮かべて黄瀬川黄白はつぶやいた。
が、すぐにわれに返り、ぎらっと前方に眼をあげ、血刀をひっさげたまま彼はそちらへ駈け出した。
いない。先刻、ちらっともう一人の雲水と女の影を見たように思ったが、山峡《やまかい》の道にはだれもいない。
「逃げおったか?」
そこへ、ばたばたとうしろから駈けて来る跫音《あしおと》がした。
「黄白」
珍しく、息を切らしている赤倉才兵衛だ。眼に驚愕《きようがく》と失望と――怒りにちかい光がある。
「これで同条件じゃな」
と、機先を制するようにさけんだ。
「あと一人、一竿を斃《たお》したやつがお婉をとる、ということになるぞ。よいか、黄白。――」
七
日野《ひの》から東はすぐに多摩川《たまがわ》。
信濃境《しなのさかい》に雪を見た春も、ここらあたりは河原にたんぽぽが咲き、雲雀《ひばり》が飛びたち、蝶《ちよう》が舞う。――ただし、それらの姿はまだ見えぬ暁闇《ぎようあん》の白い霧であった。
「――こちらでござる」
霧の中で声がした。道ではない河原の草を、河へ向ってななめに分けてゆく音がする。
「舟の来る音がいたす。急ぎ申そう」
雨師夢竿の声だ。霧の中を、多摩川の渡し場へちかづいてゆくのは夢竿とお婉であった。
彼らはここまで来た。敵の刺客を――少くとも二人の刺客を避けつつ、ようやくこの江戸の口までやって来た。雨師夢竿にしてみれば、最初の想定とは、だいぶ事態がちがっている。最初の想定では、あり得べき敵の迎撃を途中ですべて粉砕し、めざす石来監物を誘い出すつもりであったが、弟の眠竿睡竿が意外にも討ち果された結果となっては、むしろ一日も早くぶじに潜入し、お婉を然《しか》るべき安全なところに置き、さてその後の行動を考えるべきだという心に変っている。
敵の刺客が、二人とも実に恐るべき存在に成長したことを知ったいまでは、街道《かいどう》の途中では、どうしてもお婉が足手まといになるからだ。まして、第三の刺客につづいて他の増援も加わって、それらが連繋《れんけい》作戦を張る可能性は充分予想されるにおいてをやだ。
むろん、夢竿は、あの二人の刺客を必ずしも恐れはしない。眠竿睡竿を討たれて、これは、と瞠目《どうもく》したことは事実だが、自分は弟たちとは数段ちがうという自信は失われていない。あの敵が眼前に現われれば、もとよりたたかうにやぶさかではない。それどころか、弟たちの復讐《ふくしゆう》のためにも、しょせんは絶対に討ち果さねばならぬと決意している。
しかし、少くとも今は、こちらから探して彼らを討つつもりはない。――それだけ夢竿の心境は変化していた。そして、猿橋以来、どうしたことかあの二人は現われなかった。
「ちょっとお待ちなされ」
夢竿はささやいて、渡し場をうかがった。
そして、そこに群れて待っている早朝の旅人たちの中に、例の二人がいないことを確認すると、改めてお婉をいざなって、渡し場へ歩いていった。
霧の中を、水音がちかづいて来た。対岸の柴崎村の渡し場からまずこちらにやって来る舟の水棹《みさお》の音であった。やがて舟の影が見えはじめ、こちらの渡し場につき、これまた七、八人の客が上って来た。
「……やっ?」
突然、大声がして、雨師夢竿はふりむいた。
まことに迂闊《うかつ》なことだが、彼はなおこのとき、背後からの追跡者を気にして、日野の宿場の方をふりかえっていたのだ。事実、霧の河原をあわただしく走ってくる複数の跫音《あしおと》が聞えていた。
網代笠《あじろがさ》をまわして、夢竿は、反射的にお婉を背にかばい、そして棒立ちになった。
春の朝霧はあがりつつあったが、なおたちまよい、一帯は朦朧《もうろう》としていたが、その中に――いま江戸方面から来た客の中に、彼は深編笠の二人が、これも棒立ちになってこちらに眼をそそいでいるのを見出した。
「お婉じゃな」
といった深編笠の声は――思いきや、というべきか、最初の想定によれば案の定、というべきか、麻耶藩の江戸家老石来監物のものであった。
「ううむ。うぬら、ここまで推参したところを見ると、赤倉、黄瀬川を討ち果しおったな。――」
うめくと、いま乗って来た舟にもういちど飛び乗らんばかりの逃げ腰となり、
「魚五郎、やれ!」
と、悲鳴のようにさけんだ。
もう一人の深編笠が、その監物をこれもかばうように立ちふさがった。もとより、第三の刺客、漆沢魚五郎である。
魚五郎がこの舟に乗って来たのは予定通りの発足だが、石来監物がそれについて来たのは、突然の思いたちである。彼は、赤倉才兵衛、黄瀬川黄白らに対し、その出発にあたって、首尾よく雨師たちを討ちとめたら、全速力で江戸に馳せもどってそのむね報告するように命じてあった。
その報告がいまに至るまでないので、坐して待つに耐えない恐怖と焦慮にかられたのであった。雨師たちの出府が或る時点まで隠密行たらざるを得ないように、監物の方も、このいきさつを大っぴらに藩士たちに知られたくない弱点がある。すべてを秘密|裡《り》に処置したい、という願望から、彼は発作的に最後の刺客漆沢魚五郎についてみずから偵察に出かけて来たものであった。
雨師夢竿はしずかに網代笠をぬいだ。剃《そ》った細長い顔の左眼は、糸のように閉じられている。
監物自身はふいの発心のつもりで、夢竿からすれば監物がここに出て来たことはかねてからの想定通りにすぎない。ただそれは途中の討手をすべて粉砕したら、という想定で、それがかなえられなかったから、実は夢竿はいま監物が現われたのを見て意外には思ったが、しかし何はともあれ、これこそ彼が狙っていた最高の設定ではあった。
「監物よな」
と、いって、彼はきゅっと唇を耳まで吊《つ》って笑った。仕込杖から、刀身がすべり出した。――
が、彼はその方向に顔だけむけたまま、からだはお婉を背に、横なりに両足を踏んばった。いま彼は、背後から駈けて来た二つの深編笠を見たのである。
「やあ、魚五郎、おお、御家老さままで!」
「しなしたり、漆沢が出て来るまで、ついに阿呆《あほう》のように手をつかねておったとは!」
と二人はさけんだ。赤倉才兵衛と黄瀬川黄白の無念げな声であった。
彼らは夢竿とお婉から眼を離してはいなかった。――にもかかわらず、ここまでたんなる送り狼となってついて来ただけであったのは、雨師夢竿を恐れたからではない。睡竿眠竿を斃《たお》した彼らは、もはや絶対の自信を持っている。手をつかねたのは、実は自信を持ちすぎて、どちらが先に夢竿を討つか、まことにばかげたことだが、いままで二人同士で相牽制《あいけんせい》し、獲物争いをして来た結果であったのだ。
いまここに第三陣の漆沢魚五郎を迎えて、二人のさけびには、しまった、という舌打ちの音がつづいた。が。――次の瞬間、彼らは深編笠越しに顔を見合わせ、うなずき合った。以心伝心というやつである。
「おれは雨師睡竿を討った」
と、赤倉才兵衛がいった。
「おれは雨師眠竿を斬った」
と、黄瀬川黄白がいった。それから、声をそろえた。
「夢竿はおまえに譲る。魚五郎、この雨師夢竿を一人で討って見い!」
友情ではない。獲物争いの味方を一人でも消すのが彼らの真意だ。さてそのあとは、そのときのことだ。というのは、不敵な自信に裏打ちされたおちつきだ。
要するに、いま夢竿はにやっと笑ったものの、事実としてここに恐るべき敵三人を腹背《ふくはい》に迎えてしまったわけである。
「心得たりっ」
漆沢魚五郎は絶叫し、抜刀した。
雨師夢竿は動かない。べつに動揺の気配もない。――彼はもとの位置、もとの姿勢のまま、寂然と魚五郎を眺《なが》めやった。魚五郎ばかりではなく、その背後に立ちすくんでいる石来監物や、旅人たちや船頭を眺めた。
それから、数十秒をおいて、頭《こうべ》をめぐらして反対側の赤倉才兵衛と黄瀬川黄白を見た。
雨師夢竿の、あいていた右眼は閉じられていた。その代り、閉じられていた左眼はあいていた。しかし、それは眼ではなかった。少くともふつうの生きている眼球ではなかった。義眼――というより、銀のようにひかる物体であった。
ひとたびこの銀光にふれた以上、何ぴとも数十秒眼を閉じることができない。吸引されてしまうのだ。眼ばかりでなく、魂までも。――そして、やがて彼は眼を閉じる。眠ってしまうのである。どのように抵抗しても、眠らずにはいられない魔光の力であった。催眠術において、しばしば水晶球や鏡を用いるが、それと同じ「視覚刺戟法」の原理だ。
河原に暁《あかつき》の風が吹き、草や花がなびき伏した。しかしそこにいた人間すべて――雨師夢竿とお婉をのぞき――動くものはなかった。
「ふふっ」
と、夢竿はくぐもった笑い声をたてた。
仕込杖の刀身をひっさげたまま墨染めの衣をひるがえして、飄々《ひようひよう》としてまず石来監物のそばに寄っていった。
――そのとき、お婉がさけんだ。
「夢竿!」
ふりむいた夢竿の眼前に、一閃《いつせん》の光がきらめきながれた。
まったく思いがけないことであったので、雨師夢竿はまるで大根のように、左肩から右脇腹にかけて、いかんなく斬り下げられた。
ななめに血の紐《ひも》をたばしらせながら、夢竿の眼は――いま、動いて自分を斬った者は何者かとたしかめるように、左の眼を閉じ、右眼をあけていた。斬りつけたのは漆沢魚五郎であった。彼は夢竿をかえり見もせず、そのまま妖々としてお婉の方へ歩み寄ってゆく。
それを見て、雨師夢竿は一歩踏み出そうとしたが、しかしすぐにその上体が大きくゆれはじめた。かっとむき出された右眼の驚愕は、すでに名状しがたい悲哀の色に変った。この場合に、彼はひとすじの涙を頬にたらしたのである。――
しかし彼は、そのままどうと河原にうち伏した。夢竿の無敵の眠術にかからなかったその男の最初の動きに気がついたのはお婉だが、夢竿が一撃のもとに斃《たお》されたのを見ても、なお信じられないようにそこに立ちすくんでいる。――だれが想到するであろう、その男がたしかに眠っていたことを。
夢中遊行のままふるう漆沢魚五郎の「夢界生動剣」。
雨師夢竿が断末魔の一眼で哭《な》いたのも、次に起るべきお婉の運命を思ったからであったろう。一年、必死の修行をさせたとはいえ、たおやかなお婉の刀術の限界を知っている者は、教えた彼自身であったからだ。なみの武士を相手にするなら知らず、眠竿睡竿、そしてこの夢竿まで破った三人の剣客を。――
そこまで思わず、ただ雲を踏んでいるような漆沢魚五郎の歩みぶりの妖気《ようき》に打たれて、お婉はわれ知らず、トトトトとあとずさった。その背後から、しかしこれまた眠っていない赤倉才兵衛と黄瀬川黄白がゆっくりとこちらに動き出した。
立ちすくみ、お婉は決然として、突いていた仕込杖の鞘《さや》を払った。
八
さて、これからあと、春の暁闇《ぎようあん》、霧たちまよい青草吹きなびく多摩河原にくりひろげられた決闘の光景は、ただ一人をのぞいてはだれも見ていた者はない。
その一人は、お婉である。
のちに、彼女は麻耶大三郎にこう語った。――
「自分でも信じられません。それはまるで夢でも見ているようでございました」
多摩河原で、彼女はまず自分に向って来た、まるまると肥った男を右|袈裟《げさ》に斬った。
「それが……その男はふらふらとして、まるで半分寝ているようでした。……」
次に、その向うに仁王立ちになって、歯のあいだから泡《あわ》をかみ出している碁盤のような男を左袈裟に斬った。
「それは、左腕がなく、右腕だけの男で、その腕を刀の柄《つか》に手をかけようともがいているようでしたが、ダランと垂れたままどうしてもそれが動かず、つまり両腕なしと同じありさまでしたから、わたしの手でも討てたのでございます」
――黄瀬川黄白が、雨師夢竿の魔眼を見たとたん、うかとその眠りを右腕だけに集めてしまったことは神のみぞ知る。
お婉は二人を斬って、血に酔った。そして向うへふらふらと歩いてゆくもう一人の男の背中を見た。彼女の眼に逡巡《しゆんじゆん》の光がゆれた。が、足もとに伏した夢竿のかばねを見下ろすと、意を決したように追いすがり、その男の背中から仕込杖をつき通した。
「夢竿を殺したその男は、まるで寝ぼけて歩いているようでございました。――要するにみなふつうではありませんでした。わたしでなくても、子供でさえ討てたにちがいございません。なぜあの男たちに、睡竿眠竿夢竿が討たれたのか、わけがわからないのです」
そして彼女はくびをかしげてつけ加えたのである。
「ほんとうに、どうしたのでございましょう。みんな半分寝ているか、からだのどこかが麻痺《まひ》しているか、またはただ寝ぼけて動いているようでしたが、夢竿の眠術がきいていたのでしょうか。でも、夢竿の眠術をかけられて、動ける人間はないはずです。……それとも、あのひとたちは雨師たちの術を破るほどの術を心得ていても、相手が未熟なわたしであったために、かえって念力の集め方が足りず、術が中途半端となったのでしょうか。……いいえ、あれはきっと、悪事に加担した男たちに、天が冥罰《みようばつ》を下したに相違ございません」
――血の香をまじえた河原の風の中に、お婉は茫《ぼう》としばし立ちつくし、あたりを見まわした。渡し場あたりに立っている影――旅人たちは、ことごとくふらりと立ったまま動かない。みんなその姿勢のまま、眠っているのだ。
その中に、石来監物の姿を見ると、お婉は近づいた。ただうつろな眼をあけている江戸家老を見ると、お婉の顔にまた恐怖とためらいの波がわたった。が、彼女はもういちど雨師夢竿の屍骸《しがい》をふりかえり、そして遠く西の方――信濃や甲斐の空を見た。さらに、過ぎ去った日をかえりみるまなざしになった。
「おゆるしなされませ、監物さま。あなたさまは、わたしの父に手をかけられました」
いちど片手をあげて拝んだが、ふたたび決然とした表情になり、
「それから、お家のため、天道のためでございます」
そして彼女は、棒のように立っている石来監物を斬り伏せた。
このみな殺しの光景を、ぽかんと空《むな》しい眼で見ている旅人たちに気がつくと、それがみな眠っているのだと承知はしていても、お婉はのがれるように舟のそばに走り寄った。――船頭もまた眠っている。
お婉は江戸の空を見た。その美しい顔に、また気弱な恥じらいの翳《かげ》がたゆたった。
「……わたし、ほんとうに、若殿さまのとこへいっていいのかしら?」
と、つぶやいた。
が、暁の光がそのひたいにさしたとき、お婉は三たび決然とした顔で舟にのり、みずから水棹《みさお》をとって、早春の冷たいせせらぎを砕《くだ》いている多摩の流れを、東へむかって漕《こ》ぎ出していった。……
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『忍者六道銭』昭和55年6月30日初版発行