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忍法関ヶ原
[#地から2字上げ]山田風太郎
目次
忍法関ヶ原
忍法天草灘
忍法甲州路
忍法小塚ッ原
忍法関ヶ原
一
近江国坂田郡といえば琵琶湖の東北隅にあたり、伊吹山から出る姉川が作る小平野だが、ここに|国《くに》|友《とも》村という村がある。
古来、これは国友|鍛《か》|冶《じ》として聞えた村であった。となりの浅井郡に|鍛《かぬ》|冶《ち》|部《べ》が住んでいて、それが集団移住したらしいという説もある。古記録によると、一村七十三軒、五百人ことごとくが鍛冶屋であったという。しかも、|鋤《すき》|鍬《くわ》などを作るのではなく、刀、槍などを製造する、いわゆる打物鍛冶である。
それが、いつのころからか、鉄砲鍛冶に変った。──「国友鉄砲記」によると、天文年間、種子島から鉄砲を献上された時の将軍足利義晴が、この国友村に、善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫という甚だすぐれた四人の鉄匠がいることをきき伝えて、その鉄砲を下賜し、それを模して新しく鉄砲を作ることを命じた。それによって四人が、半歳の苦心の末、ついに二梃の日本製鉄砲を製造したのがそのはじまりだという。
これより「国友鉄砲」の名はひろく世に伝わり、戦国の諸大名から注文が殺到し、ちょっとした「死の商人」的な鉄砲の産地となった。が信長が天下を一統すると同時に、完全にその独占するところとなった。これを直接支配したのは、国友村のすぐ南にある長浜の領主羽柴筑前である。
「国友の内を以て百石|扶《ふ》|助《じょ》せしめ候。全く|知行《ちぎょう》あるべく候。鉄砲の儀、前々のごとく相違あるべからず候。|仍《よっ》て|件《くだん》の如し。
天正二年八月吉日 藤吉郎秀吉」
という、国友村の長老にあてた秀吉の文書がある。百石の知行とひきかえに、鉄砲の注文に厳重な統制を受ける義務のあることを申し渡したものだ。
秀吉が天下の覇者となると、むろん国友村はいよいよ豊臣家の専用兵器廠になったが、こんどは直接にこれを支配したのは、同じ坂田郡佐和山の城主となった石田三成である。国友村は彼の領地に組み入れられた。
彼は左のごとき掟書を下した。──
「一、仰せなされ候鉄砲、随分入念に張り立て申すべきこと。
一、急ぎ御用の節はお手支えなきように、常に相心得申すべきこと。
一、諸国より大小の鉄砲多く誂え候わば、早速相届け申すべきこと。
一、鉄砲職の者、みだりに他国へ出候ことかたく無用のこと。
一、鉄砲細工、みだりに他人に相伝え申すまじきこと。
一、鉄砲薬調合のこと、他見他言いたすまじきこと。
右の条々、かたく相守り申すべきもの也」
二
慶長五年六月。──
それまで大坂にあって、太閤死後の天下ににらみをきかせていた家康は、会津の上杉景勝謀叛の情報に、これを鎮圧すべく、三千の兵をひきいて東征の旅に上った。十六日、大坂を発し、十七日、伏見に入る。
この夕、家康は伏見城天守閣の千畳敷の大広間のまんなかに一人立ち、何思ったか、四方を見まわしてにこにこ笑っていたという。城をあずかっていた鳥居元忠が、家康の|帷《い》|幄《あく》の臣本多佐渡とともにふしぎそうにそれを見ていると、
「彦右衛門、この城はな」
と、家康の方から話しかけて来た。
「太閤が日本じゅうの人数を集めて築いた城じゃ。何かことあれば、この本丸天守閣に使うてある金銀を|鋳《い》ても当座の鉄砲玉にことは欠かぬぞ」
「金の鉄砲玉、銀の鉄砲玉をくらっては、敵も驚くでござりましょうな」
と、鳥居元忠が笑ったとき、家康はふと笑いをとめてこちらを見まもり、
「佐渡、鉄砲村のことはどうなっておるか」
と、きいた。
「は。──」
「近江の国友村の件よ」
「さ、そのことについては」
と、本多佐渡守はくびをかしげ、一思案のていあって、
「あれはこの際、やはり服部をやった方がよいかもしれませぬなあ」
と、いった。
それからこの水魚のごとき君臣は、鳥居元忠を退けて、二人で何やら密語をはじめた。
家康の軍の中に従っていた徳川家忍び組の頭領服部半蔵が、配下の十人をつれてこの大広間に召し寄せられたのはそれから数刻ののちであった。
服部組が伏見城のこんなところに参入を許されるのははじめてだ。半蔵自身「……そも何事?」と怪しむ表情でそこへ入っていったが、もう長い夏の日も暮れかかっているのに灯もつけず、しかもその千畳敷のまんなかに、自分を呼んだ本多佐渡守のみならず、なんと大御所の姿まであることを知って、はっとした。彼らはいっせいにひれ伏した。
「近う。秘命を伝えるのはかような大広間が一番よい。半蔵、ここへ」
と、佐渡守はさしまねいた。
十一匹の蜘蛛のごとく滑り寄る服部組を見まわして、大御所がくびをかしげた。
「ほ、女もおるか?」
「最も|手《て》|練《だ》れの伊賀者十人を召しつれよ、との仰せにて、かくは参上つかまつってござりまする」
と、半蔵は答えた。十人の配下のうち、たしかに白く美しい女の顔が二つばかり見えた。
「くノ一じゃな」
と、佐渡は笑った。
「よい。くノ一ならば、かえって好都合のことがあるかも知れぬ──御用じゃ」
「御用とは?」
「実は、近江に国友村という鉄砲鍛冶の村がある。──」
「存じておりまする」
「いや、他のものどものためにも、念のため申しきかせておこう」
本多佐渡守は、国友村の歴史について語り出した。その概略の知識は半蔵にもあったが、やがて佐渡の──先年よりその国友村へ手を回して、一村そっくり徳川家に随身するように働きかけ、まずいまのところ十中七、八|分《ぶ》まで、そこの年寄たちの心を動かしておる、という話をきくに及んで、いまさらのことではないが、この人物の稀代の策士ぶりに心中舌をまいた。なぜかというと。──
いま、佐渡自身が、うす笑いしていう。
「あと二分、三分、心もとないところがあると申すは、何しろその国友村は石田|治《じ》|部《ぶ》の領内じゃ」
石田治部少輔三成が、徳川家にとっていかなる人間か、ということは、むろん半蔵は知っている。それどころか、忍び組の頭領として、このたび大御所が東方の敵を討つと見せかけて、その実何を西に待っているかも推察している。
すなわち真の大敵石田三成の領内に存在する鉄砲村を、そっくり味方につけようとは──その大胆不敵、人をくった奇謀はたとえるに言葉もない。
「万一、石田に知られたら──と、国友村が恐怖するのもこりゃ当然じゃ。が、二分、三分のあいまいさが、もとの|木《もく》|阿《あ》|弥《み》、すべて御破算につながっては一大事じゃ。この際、国友村がこちらの手につくか、治部の全面的な支配の下に置かれるかは、徳川の安危につながると申しても過言ではないぞ」
「治部どのは、そのことにまだ気づいておらぬのでござりまするか」
「まさに燈台の下、まさかとはじめは意にも介してはおらなんだが、話の進むに従って、どうやらきな臭い顔を国友村へ向け出したような案配でもある。万一露見したらぶちこわしじゃから──せめて、せいぜい石田のためにあまり働かんでくれい。石田からの鉄砲の注文も、事に託してなるべく間に合わせんでくれい──と、話はそこでとめてある」
佐渡はいった。さっきまでの笑顔が消えて、むずかしい表情になっていた。
「が、いろいろと案ずるに──このときにあたり、その件、しかとだめを押しておきたい。国友村を完全に徳川家のものとしておきたいのじゃ」
「は。──」
「特に、国友村の頭分の中に四人の鍛冶あり、国友鎌太夫、鉄算、鍋三郎、鋤右衛門という男どもじゃが、これらの伝える鉄砲作りのわざは聞くだに容易ならぬものがある。それを思うと、いよいよ以て彼らのわざを石田に使わせてはならぬが、またこやつら、おのれの腕に自信があるだけに、いずれも煮ても焼いても食えぬしぶとい根性の持主、二分三分の不安というは、実はこの四人が煮え切らぬからともいえる。──」
「鎌太夫、鉄算、鍋三郎、鋤右衛門。──」
「されば、いま服部組に申しつける御用は二つ。……一つは、なんじらこれより国友村へ潜入し、右の四人の鉄匠を完全に徳川家へなびかせること。それから。──」
佐渡は指を折って、
「三カ月のち、まず九月半ばまでに、その|証《あか》しとして、一貫目玉鋳銅砲五梃、八〇〇目玉鋳銅砲十梃をひそかに急造させ、石田領の外に運び出させること」
「あ!」
服部半蔵は、そんな声をあげた。秘密の重さ、大きさに、はじめてなぐりつけられた思いだ。
「むずかしいぞ」
「………」
「いま、国友村に潜入することすら容易でない」
「………」
「しかし、徳川名代の服部組じゃ、先代半蔵より、これまで尽してくれた数々の働きに徴しても、決して不可能の御用でないと佐渡は信じておる」
「はっ」
それまで黙ってこの命令授受をきいていた大御所が、もぞもぞと膝の上の布をひろげ出した。
「その大砲、石田の領外に出たら、これを荷旗とせい」
葵紋のついた一|旒《りゅう》の旗であった。
「天下御免の旗、それを末長く服部組の誉れの旗とせい。もとより服部一統の栄達を保証する旗でもあるぞ。寄れ、半蔵」
満面に笑みをたたえて、大御所は手ずからその旗を半蔵に授けた。半蔵のからだに死もものかはという感動の身ぶるいが走り、彼は眼に涙さえにじませた。
家康はいった。
「この国友村鉄匠の争奪戦。──これはいわば、影の天下分目のいくさでもあるぞよ」
翌日、大御所の軍は、十一人の数を減じて東海道を東へ立った。
だいたい同じころである。
江州佐和山城で、石田三成と何やら談合していた家老の島左近は、もう夜に入っていたのに、特に名ざして十人の家来を呼んだ。そして、領内国友村に不審な者の出入せぬよう、それとなく見張ることを命じた。
「徳川より唾つけられるおそれがあるからよ」
というその理由に、呼ばれた十人の中の頭分らしい男が精悍な顔をふりあげた。
「それとなく? わが領民にそのような御遠慮は御無用ではござりませぬか」
「国友衆は石田家の宝じゃ」
と、左近はくびをふった。
「それに、職人らしく、あれで内心なかなか傲岸な変り者が多い。へたにあしらってへそを曲げられてはかえって当家のおんためにならずと、腫物にさわるように特別扱いをして来たが」
十人の男たちは、みな甚だ面白くない顔をした。彼らはみな甲賀者であった。
──しかし、特殊技能を持つという自信にかけては、決して国友村の職人輩にひけをとるとは思わないが、甲賀は、ほんのこの近くとはいえ、三成の領内ではなく、外から傭われて来ているのだから、国友衆の特別待遇を不満に思ってもいたしかたがない。
「徳川より唾つけられると仰せられて、何かそのしるしでもございましたか」
「ない。例の掟もあり、まさか、とは思うが、この際念のためじゃ」
この島左近は、もと大和の筒井家の浪人であったものを、当時二万石であった三成に、なんとその半ばの一万石を以て招かれ、召し抱えたやつもやつなら、召し抱えられたやつもやつ、と天下をあっといわせた人物である。
いま彼は、東下する家康を石部あたりで襲撃しようと進言し、大事をとる三成の|容《い》れるところとならず、その密議の果てに、ヒョイと出て来た国友村の一件であった。
家康に対してそんな計画をめぐらすくらいだから、その動静については、ここに呼んだ甲賀者たちにもずっと探らせていたが、べつにこの甲賀者たちが伏見城内千畳敷きの秘命授受をかぎつけたわけではない。これは切迫した風雲を知っている雷鳥のごとき名参謀のみが感知した一種のインスピレーションであったとでもいうしかない。
もっとも、左近は以前から国友村に対しては何やら不安感が拭えず、ひそかに監視の網を張ってはいたのだが、それがこの夜ふけに改めて名状しがたい心もとなさに襲われたのである。
左近はいった。
「これはひょっとすると、いくさそのものより重い大きな役目かも知れぬぞ。よいか、甲賀の名にかけて、しっかと国友村を護れ。わが殿が天下さまにでもおなり遊ばされたあかつきには、必ずうぬらの期待を裏切らぬ御恩賞があろうぞ」
三
国友村からは見えない位置だが、しかしたしかにその周囲に──国友村に入る道はもとより、小川の横のほとり、土橋のかげ、林の中など、必ず死角のないように番所が立てられ、番卒が立ち、出入する人間を見張っている。
もっとも、とにかくゆくてに一つの村があり、かつこれが当時に於ける兵器工場の団地だから、当の村民はいうまでもなく、日常生活に必要な物資を売る百姓、商人、或いはその鉄砲生産になくてはならない鉄、炭、木材、及び木工用具、煙硝などの売手、或いは注文者や買入れ業者など、存外出入する人間は多い。しかし、大半は番卒と顔見知りらしく、
「いや、毎日お暑いことで」
とか、
「御苦労さまでござります」
とか、挨拶をして無事に通る。とがめられる者のめったにないのは、これはこの監視が長く、もうよく周知のことだからであろう。
その番所のちかくの土手の上に、ぼんやりと三つの影が立った。六月末の、月はあるのにどんよりと曇った夜である。――当然、番所から見える距離であった。見える明るさであった。
「や、怪しきやつ?」
「曲者だっ。──」
槍を構えた番卒が三人、それを見つけて駈け出し、さらに三人、小屋から飛び出した。
土手の上に立った三つの影は、いうまでもなく服部一党の忍者であった。これが、駈けつけて来る番卒たちを見て、おちつきはらって、実に奇怪な術を使った。奇怪というより──何といっていいか、「鼻もちのならない」忍法とでもいうしかない。
彼らはみんな全裸体であった。ただその中の二人が肩に大きな袋を背負っている。一つは三人のぬいだ衣服や大小を入れたものだが、あと一つは。──
いや、それを解きあかすより、三人の忍法の第一段階を述べるのが先決であろう。三人は金剛力士みたいに立っていたが、その全身がおぼろな月光にぬらぬらとひかり出した。と、あたりに異様な匂いがひろがりはじめた。
三人はみずから全身に汗を噴き溢れさせたのだ。それが、ただの汗ではない。かすかな脂肪酸や尿素の匂いではない。腋臭どころか、強烈なインドール、スカトールの匂い──すなわち糞臭だ。彼らは汗腺から、なんと糞臭を分泌発散させ出したのであった。
──と、このとき一人が、袋をかついだまま、その口をひらいた。そこから、一陣、二陣、三陣の黒い煙が吐き出された。いちどぼやっと拡散したかと思うと、たちまち三つの影に|凝《こ》り出した。そのあいだ、風ではないのに、ぶおおっと風のような音がした。
蝿だ。蝿の羽音だ。それが何千何万匹とも知れず──蝿でもこれだけ集められると、こんな音をたてるものと見える。
蝿は糞臭に呼ばれ、三人の体表に真っ黒に吸いついた。──と、その中から、三人はすーいとうしろへ逃れ出した。このとき三人は人型の糞臭だけを空に残し、汗の分泌は停止している。
数メートルうしろに、また横で、彼らはふたたび異常発汗をやりはじめた。最初の糞臭にあぶれた蝿が、たちまちその方へわっと集まる。──と、三人はまたもうしろへ逃れ出す。
駈けて来る番卒たちを迎えつつ、三人の伊賀者は数十秒でこれをやってのけたのである。蝿の群合を以て描き出す人間のデッサン、いや、人体の彫刻。
「……あっ、あれは何だ?」
「曲者がふえたぞ!」
番卒たちは立ちどまった。彼らの眼には三つの黒影がたちまち六つに、みるみる九つにふえたように見えた。
が、たちまちわめきつつ殺到し、前面の三つの影に槍を突きかける。槍は空をつらぬいて、彼らはよろめく。とたんにその向うから、ピイインというような音をたてて薄い月光にきらめきつつ、何やら綱のようなものが躍って来て番卒たちの頸動脈を打撃し、彼らは悲鳴もあげず崩折れた。
薙ぎつけたのは|鋼《はがね》の縄だ。ふだん小さくかたく環状に巻いてあるが、ひとたび揮えば三メートルはのびる。刀で受けても彎曲して相手を打ち、そのつもりになれば充分頸ぐらいは切断してしまう。しかし、伊賀者たちは故意に番卒たちを昏倒させただけですませた。
はじめからその予定である。彼らは番卒の装束を奪い、番卒に化けて国友村に入るつもりなのであった。
まず三人を倒し、さらに草を蹴散らして来た三人を迎える。
「やっ?」
ぱあっと散った蝿の大群にきょろきょろしている番卒たちに、またも鋼の長鞭がうなりをたてて薙ぎつけられた。三人の番卒はそこから忽然と消え失せた。
どこへ? 地に倒れたのではない。彼らは三本の鋼条に布きれみたいに巻きついてしまった。実際彼らは地に直立した黒い布と変っていたのである。
伊賀者たちは、相手がただの番卒ではないことを知った。一瞬に手もとに巻きこまれるはずの鋼線は、黒い布にからまれて、しかも布の一端は、こんどはたしかに番卒の姿となった三人の男の手につかまれて、ぴいんと引かれていた。
泳ぎ出した三人の伊賀者ののどぶえに、三本の|b[#「b」は「金(かねへん)」+「票」Unicode=#93E2 DFパブリ外字=#F762]《ひょう》が突き立った。
七月はじめの灼けつくような太陽の下を、汗まみれになって、俵をつんだ車を曳いてゆく男たちがある。俵は七、八個、いかにも重いらしく、ふつうに曳く男に、綱を曳く男、うしろからあと押しが二人という人数であった。
「待て」
四、五人の番卒がその車のそばに寄って来た。
「その俵は何だ」
と、狼みたいに鋭い顔をした一人がとがめたのは、俵がふつうの米俵ではない。──その二分の一くらいの大きさの、あまり見かけない俵であったからだ。
「あ、それは塩でござるよ」
と、あとから来た番卒がいった。車を曳いて来た男たちとは顔見知りらしく、その男たちが鉢巻をとってお辞儀するのに、「や、や」とうなずいて見せている。
「塩?」
「この男どもは長浜の塩問屋の男衆でな。国友村では鍛冶場に浄めの塩をまくから、よそよりも塩使いがあらい。──そうじゃろ?」
「へい、国友鎌太夫さまのところへ持って参じます」
「そうか、通れ」
と、あごをしゃくるのに、さっき止めた狼みたいな顔をした番卒が、じいっと下積みの方の俵に眼をそそぎ、なに思ったか、槍をとり直した。
「あ、あの中に何かかくれておるとでも思われるのか」
と、本来の番卒はあわてた。槍をとり直したのは──甲賀者とまでは知らないが、家老の島左近から特別の命令を受けて応援に来た武士だということは承知している。しかし。──
「まさか?」
といったのは、その塩俵が、あかん坊なら二つ重ねて入るかも知れないが、一人前の人間なら、からだをどうまるめようと入りっこない大きさだからであった。
が、甲賀者は、もう二人の甲賀者とうなずき合い、三本、槍をそろえて、その中の三つの俵にぷすうっと突き刺した。
べつに、ただの塩俵を突き刺した以上の反応があったとは見えない。のみならず──やがて引き抜いた槍の穂先に血潮のあともない。ただ白く塩がこぼれたばかりである。
そうれ見ろ、何を疑ぐりぶかい──といった顔をふりむけた番卒に、しかし甲賀者は横柄にあごをしゃくった。
「水を持って来い。桶一つではない。七つ、八つ、大桶に持って来させい!」
ただならぬ気配をおぼえたらしく、番卒は駈け走り、やがて仲間といっしょに桶に水を入れて運んで来た。
このとき、いま槍を刺された三つの俵は路上に放り出されている。甲賀者たちは、それに桶の水をぶっかけた。
「何なさるだ」
「これはうちの塩蔵にあるものを運んで来ただけだに」
「水かけた塩俵は商売物にならねえだぞ!」
と、塩問屋の男衆は、われに帰っていきり立った。甲賀者たちは無表情にいう。
「わかっておる。おまえたちには罪はない。塩蔵で変っておったのじゃ」
「塩代はあとでくれてやる」
「──見ろ!」
そこにいたものすべてが、ぎょっとして眼を見張った。俵の中から、何かがたしかににゅーっとふくれあがって来た感じなのだ。水を吸った塩ばかりではない。
甲賀者たちが躍りかかって俵の縄を切るより早く──塩を散らしながら、中から転がり出して来たのは、まるはだかの、幼児大の人間であった。幼児といわないのは、それがことごとく皺だらけであったからだ。きいきいと錆びたような声が、三つの巾着みたいな口からもれた。
「水……水……」
甲賀者たちが残りの水桶をそばに置くと、その奇怪な動物たちは桶にとりついて、ぶきみな音をたてて水を飲みはじめた。それにつれて、彼らのからだは刻々と大きくふくれあがってゆく。──爛々たる真夏の白日の下に、それは見ていてもおのれの眼が信じられない怪異の光景であった。
むろん、これがただの人間であるはずがない。彼らは伊賀者であった。
人間の六三%は水である。人体からあらゆる水分を瀉泄し、排泄すれば彼は約三分の一の肉体となる。彼らはそれをやって、塩漬けになって、国友村へ潜入しようとした。が、水分がないのに全身の骨がことごとく軟骨化したように一団の肉塊と化していたのは、そもいかなる忍法か。
しかも、──いま、小柄ながら、たしかに大人の人間とわかるからだに戻って。──
「あっ。……|痛《つ》う!」
「む、無念!」
ひどくタイミングの遅れた悲鳴を発したかと思うと、改めてその胸や脇腹の槍傷からビューッと盛大な鮮血が噴出し、彼らは地に爪をたてると、そのままみるみる蒼褪めて、がくりと動かなくなってしまった。
四
服部半蔵は愕然とした。
だれが見ても、実に驚くべき怪術で、彼ら自身それを使うのを大袈裟なように思ったものの、ともかくも国友村へ潜入するのが先決だということになり、それだけに潜入そのものについては絶大の自信を以て試みたのだが、あっというまに十人のうち六人まで、伊賀組中のベテランを失ってしまったのだ。
半蔵が佐渡守に「最も手練れの伊賀者」とあえて言明したほどのめんめんである。彼らが体得する忍法のうち、それら「蝿達磨」「枯葉だたみ」の秘術の奥義に達するまでにも、どれほど超人的な修行を必要としたことか。──
──いま、国友村に潜入することも容易でない。
改めて佐渡の警告が想起された。
その通りだ。この思いがけない打撃を受けたところを見ると、国友村を防衛しているのはただの石田方の侍であるはずがない。おそらく、三成手飼いの忍者だ。
そう認識を新たにして、半蔵と生残りの四人の伊賀者が衝撃を受け、立ちすくんでしまったかというと、むろんちがう。
敵中に忍者ありと知ればこそ、またはからずも味方に六人の犠牲者を出したことを思えばこそ──彼らはふるい立った。|敵《てき》|愾《がい》|心《しん》を燃えたたせた。ことここに及んだ以上は、ただ徳川家のためのみならず、服部組の名にかけて!
三成手飼いの甲賀者たちも、|素《す》|破《わ》とどよめきたっていた。
徳川方が国友村に唾つけるおそれがある──と島左近からきいたとき、半信半疑、まさかと、それこそこちらこそ眉に唾つけてやって来たが、偶然、蝿を群舞させて国友村へ入ろうとした不審の者を発見して、彼らははじめて衝動を受けた。左近の言は杞憂にあらず、しかもあれはあきらかに徳川の忍者だ。十日ばかりのち、彼らが塩俵に人間のミニアチュアと化して潜入しようとした敵を看破したのは、先の経験による厳戒の功にほかならない。
さいわい、これまでは完全に阻止し得たものの、敵の企図がこのまま挫折するものとは断じて思われない。さらば、敵が徳川の忍び組とあれば、ここはおのれらの出生した国とおなじ近江、すなわち「純生」の甲賀者の誇りにかけて!
──かくて両者の国友村潜入作戦と阻止作戦がくりひろげられることになったわけだが、さてそのなりゆきは一見、意外にあっけなかった。
七月半ばの或る夕方である。
長浜の或る居酒屋で鮒鮨をさかなに酒をのんでいる四人の男があった。二階は|旅《はた》|籠《ご》になっていて、下は土間の店となり、しかも裏側が湖を一望に見渡せるように吹きぬけになっているので、特に夏にはよく繁昌する。
むろん、客はその四人ばかりでなく、足軽、町人、行商人、表に馬をつないだ馬子、そんな手合いがわめき合っている|態《てい》の店だが、その四人の中の一人が、突然、
「おう、ややこ[#「ややこ」に傍点]踊りか」
と、大声を発し、
「ここへ来い。ここへ来い。話をきいてやる」
と、手をひらひらさせてさしまねいたのである。
ほんのしばらく前から門口に来て、店の男にしきりに哀願している男女の一行があった。
男二人、女二人。──男の方は赤い頭巾にたっつけ袴、それに太鼓を背負い、鼓、|鉦《しょう》、笛などを持っている。女は、一方は紅梅、一方は白梅の小袖をつけ、これも金糸銀糸で|刺《ぬい》|繍《とり》をした袴をはき、腰に大小をさしている。こう書くといかにも華やかげだが、また本来そうあるべき男装にはちがいないが、事実はそれらの衣裳は風雨にさらされ、埃にまみれて、相当にくたびれた外観であった。
それが先刻から、宿の男に宿泊を頼み、旅籠の方は一杯だと断わられて、途方にくれているようなのだ。女二人の方はとくに疲労しているらしく、ぼんやりと立ったまま、またときどきかなしげな眼を店の中の景観にさまよわせていた。
で、いま、その四人の客の一人に。──
「悪くはしないから、ここへおいで」
と、呼びかけられて、四人の旅芸人はほっとしたように、またおずおずとして居酒屋の中に入って来た。
「ややこ踊りの一座らしいが、たった四人か」
「はい」
と、太鼓を背負った男が答える。
「京までは七人おりましたが、京で三人ぬけまして」
「どこへゆくつもりだな」
「北国へでも向かおうと存じてここまで参りましたが。……」
「では、はっきりした見当もないのだな。それじゃ、おれたちの村へ来たらどうだ」
「あなたさまがたの村、とおっしゃると?」
「ここから一里ばかりの国友村という村だ。年に何度かはわざわざ芸人一座を呼んでいるんだ。くたびれておるようで、また少々歩かせるのは気の毒だが、来た以上悪くはしない。何なら、暑い盛りずっと滞在して、秋ごろまでいてくれたっていい。来る気があるかね?」
「そ、それは願ってもないことでございます」
四人のややこ踊り一座が顔色をかがやかすのを、四人の国友村の男たちは、にやにやしたり、ささやき合ったりしながら、穴のあくほど見あげ、見下ろした。
十年ほど前から出雲の阿国という巫女が「念仏踊り」とか「歌舞伎踊り」とか、この「ややこ踊り」とかいう舞踊団を組織して一世を風靡しはじめてから、無数に現われたその物真似の、最も小さな一座だろう。しかし、うらぶれたその衣裳にも似ず、国友村の男たちの眼をひいたのはあきらかにこの一座の男女の美貌であった。とくに女たちの、たとえ埃にまみれていても、一人の肉感的な、一人の優雅な顔だちは覆いがたい。
「おまえたち、|夫《め》|婦《おと》かな」
「いえ、これはわたしの妹でござりまする」
「ほ、兄妹か? ほんとうかね? こっちも?」
「わたしどもは、これでも夫婦の縁を結んでおりまするが。──」
「ははあ」
改めてなめまわす視線が、いかにも田舎者らしく傍若無人だ。──いったいにこの四人の国友村の男たちは、さっきから酌女に対してもほかの客に対しても無遠慮で、人を人とも思わないところがある。とくに、しきりに問いかけている|蟇《がま》みたいな顔をしたでぶ[#「でぶ」に傍点]はひとしおで、
「おうい、もっと酒を持って来い!」
と、また傍若無人なしゃがれ声を張りあげた。
「じゃ、ともかく芸を見てやろう。そこで一踊りしてもらおうか」
「まあ、よせ、鋤右衛門」
と、色の黒い痩せた男がとめた。
「では、酌でも一つ」
「いや、もう引揚げよう。日が落ちて涼しくなってからと思っていたが、こういう連中をつれてゆくとなると、夜となるとかえっていろいろと番所がうるさい。もう帰ろう」
「あれか。うふ、ああいう木ッ端役人というものは、こっちでおどしつけるとかえってちぢみあがるものじゃが、しかし、ではそろそろ帰るとするか」
やがて国友村の男たちは、ややこ踊りの一座をつれて居酒屋を出た。
ぶらぶらと北へ向って歩き出す。夏の夕日は湖の西の山々を紫紺に染めて沈みかかっている。田圃の中の道を二キロもゆくと、
「待て」
果せるかな、水車小屋のかげから槍を持った番卒たちが現われた。
「やあ、御苦労さまでがす」
と、こちらの一人が笑って挨拶した。色は白いが、ぼってり肥った男だ。
「これから村へ帰るところでござる」
「わかっております。……しかし、そちらの異形の四人は?」
顔見知りで、しかもこの四人は国友村でも重だった連中らしく、番卒たちは案外に鄭重である。
「長浜で逢うたややこ踊りの一座でござる」
「それは一応、取調べる。こちらへ」
「わしらがつれて帰る人間を疑いなさるのか?」
傍からのそりと立ちふさがったのは、一番年上の──五十年輩の、眼がおちくぼみ、口がへの字に曲がった、いかにも頑固そうな男であった。
「ここ四、五年、毎年国友村へ呼んでおる一座じゃが」
「え、ここ四、五年。──」
「わしら国友|新《しん》|家《や》衆をお疑いなされるか。石田家の方で御信用なさらぬとあれば、わしらもこれからそのつもりでおるが」
「い、いや、信じる。信用し申す。毎年のなじみとあればよろしかろう。おゆきなさい」
と、番卒たちは狼狽して道をひらいた。
四人の国友村の男たちはそっくり返り、ややこ踊り一座をうながして、大手をふって通った。そのあとを見送って。──
「あのめんめんは何だ」
と、うしろの方に立っていた番卒が、くびをかしげながらきいた。甲賀者である。
「ばかにいばりくさっておるの」
「あれが、いまの国友村の実質上の頭分、新家と呼ばれておる四人の鉄匠でござる。いったいにこのごろ景気よく、肩で風を切っておる国友鍛冶の中でも、最も手のつけられぬのがあの四人で、何でもそれぞれ鉄砲作りの秘術を心得、その力をかりねばろくな鉄砲が一梃も出来ぬそうで、いちばん手がつけられませぬ」
「ははあ、あれがそうか」
と、甲賀者はにがい顔をした。彼は、島左近の──職人らしく、なかなか傲岸な変り者が多い。へたにあしらってへそを曲げられてはかえって当家のためにならずと、腫物扱いにして来たが──という言葉を思い出したのである。
「あの四人、何という名であったな?」
「鎌太夫、鉄算、鍋三郎、鋤右衛門。──」
──国友村へ入ったとき、その一人、色の黒い、痩せた鴉みたいな国友鉄算が、突然ふりむいていった。
「徳川家の方かな」
四人のややこ踊りの男女は息をのんだまま、とっさに返事も出来なかった。
「さきごろ、国友村へ潜り込もうとして殺されたという妙な連中があった話をきいておったので、もしやと思ってきいたのだが、どうやらそうらしいな」
鉄算はうす笑いして見まもった。
「しかし、女を使者にするとは|喃《のう》。よほどせっぱ詰って焦ったか。……いや、徳川家からのその後の話、待っておった。きいて進ぜる。ただし、それを受け入れるかどうか、それは物は相談じゃが」
半蔵を除く服部組の男女四人の忍者は、はじめから長浜の居酒屋にいた国友衆を、国友鉄砲鍛冶の中で、とくに本多佐渡から名ざしで注意を受けた実力者たちと知っている。知っていて、それにとり入るつもりであったが、生むは案ずるより易し、向うからのこのことこちらの|罠《わな》に落ちて来たと思った。
しかし、いまにしてこの四人の鍛冶衆が、石田の防衛線に劣らず厄介至極な、一筋縄ではゆかない存在であることを予感せざるを得なかった。
五
「──とにかく、村の四人の年寄衆には逢わせるが」
と、国友鉄算がいう。
「それはそれとして、表向きにはやはりややこ踊りの一座ということにしておく。ときどき辻の広場で踊って見せてくれい。一応の踊りは出来るであろうが」
にやにやと笑った。徳川からの使者と知りながら、彼はまだこんな言葉使いをする。
──たしかに戦国でも異色な部落ではあった。トンテンカン、トンテンカン、トンテンカーン、と、至るところで鉄で鉄を打つひびきがする。ふいごの音が流れる。それはふつうの刀鍛冶の家からも発する音響だが、そのほかどこかで、轟然と鉄砲を試射するらしい連続音が聞えるし、村の中の道をゆき交う車にも、おびただしい鉄塊、銅塊、それに出来上った鉄砲の部品類が多く、いかにもものものしい景観である。
鍛冶町という町名が日本じゅうあちこちに多いように、ほかに例もないではないが、この村のように鉄砲鍛冶ばかり七十三軒も軒をならべているところは──特にこの慶長初年代に於ては珍しい。
鉄砲を製作しはじめてからでも約五十年、それ以前の長い刀鍛冶の歴史をも加えて、その伝統を物語る家々は、たんに田舎の職人町の規模を越え、厚い土塀や漆喰塗りごめの壁はむしろ土豪の屋敷に似て、しかし作っているものがともかくも近代兵器だから、自然と、当時に於ては異風な工都の趣きをすら呈している。
新家四人衆は、その村の中を、四人の年寄の家にひきまわした。
国友村の四人の年寄というのは、天文年間、足利将軍から鉄砲製作を命じられた四人の刀匠の子孫であって、組合組織の事務局を司っている。その下の組合員は、年寄脇、若年寄、平鍛冶と階級づけられていて、さらにこの平鍛冶は上下に分けられている。年寄は外部からの発注を受け、組合員の割りあて、製品の規格検査を行い、また試射に立ち合い、支払われる鉄砲代の受領に責任を持つことになっている。
名も、先代通り、善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫をついだ四人の年寄は、徳川の密使を迎えて、眼をまるくした。しかし、むろん騒ぎたてることはない。本多佐渡が七、八分までその心を動かしておる、と打明けた通りであった。
徳川家に随身すれば、村の安泰はもとより、永代徳川家の専属兵器廠たる身分を保証し、鉄砲の代金のほかに、四人の年寄にはそれぞれ百石、以下下級の平鍛冶の三石三斗三升に至るまでの扶持を給する。使者は、かねてから与えられていたこの条件を告げ、これを承諾するならば、その証文代りに、九月半ばまでに十五梃の大砲を製作して徳川家に引渡すべく相つとめよ、という契約を持ち出した。
「存外、高飛車じゃな。太閤さま時代とちっとも変らんではないか」
と、つれて来た新家衆の一人、蟇みたいな顔をした国友鋤右衛門がしぶい顔をした。
「そこが大御所さまの大御所さまたるところじゃて」
と、長老の国友善兵衛がうなずく。
「しかし、大御所さまが名も実も天下取りにおなりなされるは、まず大地を槌で打つがごとしとわしは見ておるぞよ」
職業上、各大名の軍備の内情については詳しいらしく、年寄たちは、天下の形勢については、|野《や》の軍事評論家以上の見識を持っていた。
「ただし、そのような大砲をないしょで作り、かつ外へ持ち出すのがむずかしいが」
「その条件では、まず一思案しよう」
と、国友鉄算がいった。
服部の使者の一人はたたみかけた。
「大砲製造の秘密を防衛するという点については、われらも協力いたす。あまりに大事をとっておられると、かんじんな期日に遅れましょう」
「遅れたら、どうなるな」
と、国友鎌太夫がいった。
「徳川が天下をとった場合、国友村の不利となります」
「それはわからぬよ」
と、鎌太夫はぐいと下唇をつき出した。
「徳川の天下となるかどうかはまだわからぬ」
そして彼は、傲然とそり返った。
「それはじゃな、この国友村が徳川につくか石田につくかということによって、天下の秤がどう動くか知れぬからじゃよ。とくに、大砲製造にかけては、口はばったいが、まずそこのお年寄衆もお口の出しようのないこの鎌太夫の心次第でな」
六
──特に、国友村の頭分の中に四人の鍛冶あり、国友鎌太夫、鉄算、鍋三郎、鋤右衛門という男どもじゃが、これらの伝える鉄砲作りのわざは聞くだに容易ならぬものがある。それを思うと、いよいよ以て彼らのわざを石田に使わせてはならぬが、またこやつら、おのれの腕に自信があるだけに、いずれも煮ても焼いても食えぬしぶとい根性の持主、二分三分の不安というは、実はこの四人が煮え切らぬからともいえる。──
どうにかこうにか国友村に入った伊賀者──秋篠内記、川枯兵之介、お眉、お墨の四人は、この本多佐渡守の言葉を、はじめはなるほどとうなずき、やがて心魂に徹して思い知らされるようになる。
この国友村の支配者は、名目上或いは事務的にはいかにも例の四人の年寄だが、ほんとうの実力者はこの新家衆と呼ばれる四人らしい。彼らが異議を唱えれば、年寄もどうにも動きがつかないらしい。それはこの新家衆が鉄砲ないし大砲製作上の独歩の技術者だからであった。
そして彼らが年寄の意向に必ずしも従わないのは、これまたそれぞれ独歩の理由があった。
国友鋤右衛門。
例の蟇みたいな顔をしたでぶ[#「でぶ」に傍点]である。ひたいが禿げあがり、唇あつく、あぶらぎって、いつもふうふうとふいご[#「ふいご」に傍点]みたいな息づかいをし、大して可笑しくもないのに、濁った声でげらげらとよく笑う。
彼が徳川家の誘いに乗ることに気が進まないのは、その金銭的条件に不服だからであった。家康の出した条件が、太閤時代とほぼ同じというのもたしかにしぶいが、しかしこの鋤右衛門その人が、もともと強欲のためであることは争えない。
彼の鍛冶場に出入りする商人は──大半、女だ。というのは材料を買うにも、製品を売るにも、相手が女でないと、その強欲ぶりにいかなる近江商人も音をあげるからだ。一文のちがいにも終日大声を発してやり合うことを辞さない。それが、女だとややまけ[#「まけ」に傍点]る。──
ただまけ[#「まけ」に傍点]るのではない。彼は必ずその代償、すなわち女の肉体を要求する。そしておのれの鍛冶場で平然とこの「商関係」を望んで恥じるようすもない。国友村は刀匠時代から鉄砲鍛冶時代に変ったが、まだ|注《し》|連《め》縄などを張った家も多いのに、これは特別例外であった。その点、これまた一個の天才といってよかったかも知れない。
彼は甚だ好色であり、かつ同時に技術上の天才にちがいなかった。銃身の製作にかけては彼に及ぶ者がなかったのである。
もともと日本に渡来した南蛮銃の銃身ははじめは鋳造法による──つまり、鋳物であって、のちに鍛造法になったが、それも一本の幅広の錬鉄を心軸のまわりに捲きつけ、そのふちを重ね合わせるだけの単捲法によっていた。それを国友鋤右衛門は、鉄板をマキシノと称する鉄棒を心として、ワカシ延ばしに捲いて|真《しん》を作り、この管へさらに葛の材料鋼を捲きつけて鍛接するいわゆる双層交錯法を発明したのだ。それによって火薬の爆発力とその発生熱に対する耐久力は倍加した。
彼は国友村のほかの鍛冶にもこれを教えたが、教えるには必ず金か女かを要求した。それでほかの鍛冶の銃身も売物にはなったが、そのくせ鋤右衛門自身の作る銃身にはとうてい及ばなかったところを見ると、彼はまだ余人には隠している秘術を保持していたにちがいない。
この秘法を餌にして、彼は女を釣り寄せる。──彼は好色であるのみならず、甚だ多淫でもあった。
「鋤右衛門は、相手が女でありさえすればだれでもいいのじゃないか」
と、かげで笑っていった商人もあった。
「何なら、牝でさえあれば」
実際その通りだが、それでいてやっぱり彼は心中点数をつけていて、美人であればあるほどまけ[#「まけ」に傍点]る。それがあまりげんきん[#「げんきん」に傍点]なので、あまり美人でない女に「商関係」を結ばせた場合など、その使い方のはげしさに比して、あまりにまけ[#「まけ」に傍点]方が少いので、その女が自尊心を傷つけられて怒り出すことがしばしばであった。
もっとも彼としても相手が美人であるほど、事実上その使い方がはげしいのだからあたりまえだというだろう。
「おれがいやかね」
と、にたにた笑い、
「まあ、|人《ひと》|身《み》|御《ご》|供《くう》だから、女に好かれる|狒《ひ》|々《ひ》はいないね」
と、自分でも承知していて、
「ところがこちらからすると、いやがる女ほど──女がいやがればいやがるほど面白いのだから、そのつもりでおってくれ」
というのだからまったく助からない。
実際鋤右衛門はサディストであった。べつにぶったりたたいたりするわけではないが、常識外の野卑醜悪な行為を強いて、女が嫌悪、苦痛、屈辱感にもだえればもだえるほど、この世が愉しくてたまらないといった顔をする。
しかも、ふしぎなことにその結果、このあぶらぎった蟇みたいな面構えの、強欲好色な男に、それ以後くっついて離れたがらない女がまま現われるものだから、彼としてはやめられない。
この鋤右衛門がお眉に眼をつけた。
国友村へ来て、はじめて眼をつけたのではない。そもそも長浜の居酒屋で、門口に立った一座のうちまっさきにお眉を、|涎《よだれ》もたれんばかりに呼びこんだのはこの鋤右衛門である。
恐ろしく肉感的な彼女の美貌は、いちばん彼の好みに合った。というより、相手えらばずといわれたほどの彼が、生まれてはじめて、
「この女が手に入るなら、世の中のほかの女はみんな|要《い》らない」とまで思い込んでしまったのだ。
ところが、さて、お眉は一座のうちの秋篠内記と夫婦だという。──いや、ややこ踊りの一座がいつわりである以上、それもいつわりであるかも知れないが、しかし二人のようすを見ていると、逗留している国友善兵衛宅では、夜の寝室など男二人、女二人と分れているにもかかわらず、やはり夫婦者らしいふしが見られる。そもそも鋤右衛門の眼からみると、あんな美しい女と、同行している男が肉体関係を結んでいないはずはないと思われるのだ。
或る日、鋤右衛門は、お眉をひとり、自分の鍛冶場につれこんだ。
「鉄砲筒を作るところを見せてやるから」
という名目だ。
実際に、それは見せた。弟子を使い、燃える炉の前で、ワカシ延ばしに捲いて作った真へ、リボン型の鋼をぐるぐる捲きつけて鍛接する光景を見せた。
半身に真っ赤な|火《ほ》|照《て》りを受けて、下帯一つで仁王立ちになり、この作業をにらんでいる蟇入道みたいな裸像はさすがに森厳であり、はじめてお眉もこの男の姿を美しいと見たほどである。
が、美しいと見えたのは、ほんのいっときであった。
「お眉、おまえさんはほんとうにあの内記と夫婦かね」
みるみる出来上って来る鋼の銃身を見下ろしたまま、鋤右衛門はいう。
「ほんとうでございます」
と、お眉は答えた。事実、その通りであった。ちらっとそれをふりかえった鋤右衛門の眼に戸惑いの波がゆれた。
「残念じゃのう」
「何がでございます」
「お前さんの受けた御用命、首尾よくとげさせてやりたいがよ、それはお前さん一人の手柄にかぎる。それがあの内記と夫婦ってえなら、おまえさんの手柄は内記の手柄となる」
「………」
「けっ、年寄に百石。それじゃおれらにはまず五十石がいいところだろう。たった五十石で、へたに動けば首のとぶ徳川加担など大それたことが出来るかよ。千石より、ビタ一文もまからない」
お眉は不安そうに弟子たちの方を見た。が、弟子たちは危険な仕事に精魂を吸いとられているのか、親方に完全に掌握されているのか、その動作に乱れはない。
「はっきりいっておくが、おれはやめた。大砲筒と鉄砲筒は同じじゃないが、しかしおれが手がけるだけで大砲筒の強さもちがうが、おれは手を出さぬことにした。おればかりじゃない、国友村ぜんぶを抑えて見せる」
鋤右衛門は自分の言葉に昂奮した。あまりにも国友鍛冶をなめた大御所のしわん坊ぶりが、思えば思うほど腹にすえかねるのだ。ほんとうに怒り出したので、その濁った声には恐ろしい迫力があった。
「お眉、いいかえ?」
彼はやや自制心をとり戻したようだ。蟇が美しい虫を見つけたように舌なめずりを一つして、
「これからおれのいうことが不承知だったら、すぐにこの鍛冶場を出てってくれ。同時に、おまえさんたちと国友村の縁も切れたと思ってくれ。……いいかえ? この国友鋤右衛門、おまえさんに惚れたよ。だからおまえの亭主の手柄になるのが好ましくないのだ。けちなようだが、男ってえものはそんなものさ。そこを──せめていっぺん、ぎゅうっと抱かしてくれえ。そうしたら、おれの扶持、ビタ一文もまか[#「まか」に傍点]らない千石を、そうだのう、九百石までまけ[#「まけ」に傍点]て承知する」
お眉はじっと動かなかった。鋤右衛門の眼はかがやいた。
「あっちへゆけ」
灼熱した鉄砲筒を冷やしにかかっている弟子たちにあごをしゃくった。
彼は巨体をお眉とならんで坐らせた。
「出てゆかぬの」
にたっと笑った。
「それじゃあ、一つ」
そして、毛むくじゃらの片腕をお眉の肩にまわし、ぎゅうっと抱きしめた。いった通りだが、まるでお眉をねじ切らんばかりの抱擁であった。
分厚い唇から出るとは思われない声でささやく。
「口を吸わせてくれえ」
「………」
「吸わせてくれたら、九百石を八百石にまける。承知したら、まばたきをしてくれえ」
──数十秒後、お眉はかすかにまばたきした。
蟇入道は吸いついた。これまた盛大強烈な接吻で、お眉は窒息寸前の痙攣みたいにもがき出したが、鋤右衛門はまだ離さない。彼は百石分吸いあげるつもりでいる。
やっと離れると、お眉は脳貧血を起したようにのけぞり返った。それを抱きとめて、
「ひとつ、乳をさわらせてくれえ。……」
次第に、鋤右衛門は図々しくなった。これが彼の本領であって、これまでは惚れたあまりに彼らしくもなく、むしろ遠慮しすぎていたといえる。
女ががっくりと首をのけぞらしたまま、苦しげにただあえいでいると、鋤右衛門はこんどはそのゆるしを待たず、襟かきひらいて雪のような乳房を出し、一方を芋虫みたいな指でもみながら、一方にしゃぶりついた。
それから──。
「どうじゃい? いっそ。──」
と、薄目をあけていう。
「六百石……いや、五百石にまける」
相手のいうべきことを、自分でいっている。
「もう一声!」
なに、騒いでいるのは鋤右衛門一人だが──しかしこのとき波打っている女のからだが、はじめて彼の方へおしつけられて、
「ああ、もうたまらない!」
と、あえぐと、熱い腕がひしと鋤右衛門の猪首に巻きついた。
──実は、こういうことはときどきある。はじめ嘔吐をつかんばかりに苦しんでいた女が、彼の舌の執拗な攻撃に、からだのみならず精神状態まで|麹《こうじ》みたいにべとべとにとろけてしまうことがある。
だから、狒々を以て自任する国友鋤右衛門といえども或る意味では変な自信を持っているのだが、これは彼がはじめて真実惚れた女であっただけに、かえってびっくりして、一瞬手を離した。
そのとたんにお眉は鍛冶場の戸口まで泳ぎ出し、乱れつくして名状しがたい凄艶な姿で鋤右衛門をふりかえり、
「夫が。……」
と、いったきり、身づくろいもせず、はたはたと逃れ去っていった。その背に、鋤右衛門はしゃがれ声をふりしぼった。
「このままじゃと、御破算じゃぞ! 大御所さまのお望みも御破算じゃぞ!」
──三日間、お眉は彼の前に現われなかった。村のどこにも現われなかった。そのあいだ、鋤右衛門ほどの男が、全身情欲にあぶられてのた打ちまわる思いがした。
四日めの夜、お眉は鋤右衛門の鍛冶場にやって来た。珍しく一人で、じっと炉の炎を見つめて坐っていた鋤右衛門は、ふりかえって、火明りを受けた彼女が蝋を削ったようにやつれているのに眼を見張った。
「やっぱり、あなたが忘れられませぬ。……」
と、お眉はいって、彼にしがみついて来た。
「五百石にまけ[#「まけ」に傍点]る!」
鋤右衛門はわめいた。歓天喜地の至境に達しても、べつにこの前の条件を譲りもしなかったのは、大御所のしわん坊ぶりと一対である。
さて、これから鋤右衛門の鍛冶場で、夜となく昼となく、この世のものとは思われない肉欲の炉が燃えたぎった。
──むろん、|煩《ぼん》|悩《のう》の炎でこの鋤右衛門をとろかさんがためだ。
それは夫秋篠内記のゆるしを得たことであったが、もともとゆるしを受けるべきことでもなかった。服部のくノ一として、大御所さまの御下知は、いかなる道徳、思考、生命にすら先行する。──とはいえ、お眉のやつれかたが、彼女の苦しみぶりを何より物語っている。
お眉には自信があった。たんなる先天的な美貌とか、肉体的魅力以外に、忍者くノ一の術としての自信が。──本多佐渡自身、「くノ一ならばかえって好都合のことがあるかも知れぬ」といったゆえんだ。
ところが──鋤右衛門が相手では、すこし調子がちがった。
容易にとろけてくれないのである。
むろん、通常の愛撫ではない。鋤右衛門はたちまち地金の悪趣味を発揮しはじめた。例の女が屈辱感にもだえずにはいられない野卑醜悪な行為を強い出したのである。お眉はそれに耐えた。耐えるのみならず、彼の趣味に麹みたいにべとべとになってしまった女たち同様、いやそれ以上にけだもの化して見せて、鋤右衛門を恐悦させた。
どうしても本多佐渡守さまから示された条件に従うまで彼を軟化させなければならない。
しかも鋤右衛門はますます壮健に、いよいよあぶらぎって来るのだ。軟化するどころか──
「どうじゃ、どうじゃ。これがほんとうの男であろうが? おまえはおれという男に逢うて、倖せであろうが?」
と、あぐら鼻をうごめかし、そのうち、
「おまえを愉しませてやって、しかも例の件まけ[#「まけ」に傍点]るということは|算《そろ》|盤《ばん》に合わぬ。これからは、左様、おれのやる精汁を升で量ることにしよう。つまり、それだけ徳川の見つもるおれの値段が高くなるわけじゃ。うふふ、なに心配するな、百石分の精汁というと大変なことじゃ。もっとも、おれにはまだまだたっぷりあるから、そうそう気を使うには及ばない。安心してしぼりとってくれ。そうれ!」
などと、勝手な熱を吹き出し、さらに。──
「それはそうと、このこと、内記は知っておるかえ?」
とささやいた。夫は知らぬ、とお眉がいうと、
「知らせてやれ。……いや、見せてやるがいい」
と、とんでもないことをいい出した。──ただの外形的サディズムのみならず、例の精神的サディズムの衝動が彼をとらえはじめたのだ。
それには、このお眉を完全におのれのものとしたといううぬぼれ、またたとえ秋篠内記が知ったとしても、あの任務がある以上、絶体絶命、どうすることも出来ないはずだという見込みもあってのことにはちがいないが、何よりこの肉感的な女に加えるサディズムの快味の予測が、鋤右衛門を酔っぱらわせてしまったのだ。
そして、とうとう、或る日、お眉に秋篠内記をそれとなく自分の鍛冶場に呼んで来させて、隣の土間に待たせ、こちらの秘戯をかいま見せた。あの物凄じいまでの行為を。
二度、三度、それを試みたあげく、内記が「黙視」しているのに安心してか、それとも興が足りなくなってか、ついにはその場に内記を呼び込んだ。
「特別に見料をこちらから払う。一回十石」
にたにたと笑っていう。──秋篠内記はふるえながら、歯をくいしばってなお黙視していた。
しかし、伊賀者夫婦はみるみるやつれた。──二人は、二人だけになったとき、ただはらはらと落涙するばかりであった。
「あなた、わたしは死にとうございます。……いいえ、いま死んでしまえば、あのけだものも人間に帰ってくれるかも知れません。……」
「いや、すまぬのはわしだ。しかし、いま死んではすべてが水の泡となる。やられ損じゃ。……」
秋篠内記も、天然自然に勘定本能が伝染している。
「いかなる責苦も徳川家のために辛抱してくれい。……」
「でも、鋤右衛門の気力は一向に衰えるようすもありませぬ。……」
そしてお眉はついにいい出した。
「内記どの、もはや鋤右衛門を穴よろけに|堕《おと》すよりほかはないのではありますまいか」
「なに、穴よろけ?……しかし、そうすると鋤右衛門は当分、半廃人になるぞ。となると、きゃつの銃身製造というせっかくの貴重な技術が使えぬことになる」
「けれど、あの男は、大砲の方には直接関係がないようでございます。たとえ、ここ二タ月三月は廃人となっても、あとになればもとに戻ること、徳川家のものにしてから存分に使ってやればよいことでございましょう」
「では、やってみるか?」
「はい! けれど……わたしの狂態をどうぞおゆるしなされて」
忍法穴よろけ。──それは交合に於て、男をして常態の二倍三倍もの量を不可抗力的に射精させる術であった。
従って男女はそれに比例する強烈な快感を味わうことになるが、男の場合当然その消耗度は甚大で、みるみるうちに憔悴し、やがて肉体はよろけ、頭脳は半呆け状態となる。
お眉はこれを試みた。
わたしの狂態をゆるせ、と彼女はいったが、これまでの経験を超えて内記は、なお眼を覆わんばかりであった。女体そのものが意志を超えて一匹の女獣、どころか淫靡なる粥状物質となるかと見えたからであった。
しかし効果はやがて現われた。さしもの国友鋤右衛門のあぶらぎった顔もつやを失い、がに股の足もよろけ出した。
ところが──彼もおのれの肉体の異変に気づいたらしい。ふつうの男なら、気づいてもまさかそれが特別の忍法とは思わず、思ってもその魔魅の快楽の誘惑にどうすることも出来ないはずであったが、鋤右衛門は突如として妙なことをいい出したのである。
「おお、そうじゃ。いつか村にきた京のあぶれ公卿が教えてくれた──医心方房篇とやらの環精の術!」
それは、いったん放出したおのれの精をふたたび口にとることであった。のみならず──鋤右衛門は、思いついたその術に、自分の着想、勘定高い強欲な彼の頭脳でなければ決して湧いて来ない怪奇なるアイデアを加え、らんらんと眼をひからせて内記を見すえ、世にもうれしげに吼えたのである。
「おれが放出したあと、おまえもやれ。……いいか、主命のためだぞ。あとはおれが二人分吸う!」
──かくて、秋篠内記はいよいよやつれて、国友鋤右衛門はいよいよあぶらぎった。
七
国友鍋三郎。
色白で、ぼってりと肥った男である。新家衆四人男の中でいちばん若いが、どこか土左衛門みたいな感じがしないでもない。
これで国友鉄砲にはなくてはならない存在なのである。
というのは、筒の底をふさぐ|雄《お》|螺《ら》|旋《せん》、|雌《め》|螺《ら》|旋《せん》、すなわち|捻《ねじ》が、この男によってはじめて発明され、そしていまも彼の手を以てせねば満足な捻一本も作り得ないからであった。捻の発見ということは実に大変なことなのだが、この鍋三郎は男のくせに台所仕事が好きで、たまたま大根の皮をむいているときに、庖丁の先が欠けた。すると欠けた庖丁のかたちの通りに大根に痕がついたので、|豁《かつ》|然《ぜん》として捻のアイデアを生んだという、国友村のニュートン的天才である。そしてこの捻の製作法も、|鑢《やすり》で切ってまず雄螺旋を作り、これと同型の鋼鉄製の雄螺旋を鉄筒の末端におしこんで雌螺旋を製作するのだが、これがきわめて熟練した技巧を要する。
|洞《ほら》富雄氏の「種子島銃」によれば、「鉄砲の作り方はむかしから秘伝になっていたが、なかでも螺旋の製作法は極秘になっていたらしい。職人の腕をためすにはまずこれを試みさせたという」とある。それほど鉄砲製造中のポイントともいうべき技術なのだ。
さて、この国友村のニュートンも、徳川家からの誘いに甚だ腰が重かった。べつにその条件を秤にかけて考えこんだというわけではない。この男自身がもともときわめて煮え切らない性質だからであった。
優柔不断、あっちへふらふら、こっちへふらふら、まあプロヘ入ろうか大学へゆこうか実業野球を選ぼうかと、父兄や先輩の意見の風のまにまに、スカウトを悩ませる甲子園の高校生のようなものだが、実はそれ以上で、本人の意志というものがちっともない。
彼を支配している者がある。それはおくらという後家であった。
彼はその家に入りこんでいる。いや、そこに住まわせられている。──ふしぎなことは、鍋三郎自身はぶよぶよと肥っているとはいえ、決して醜い容貌ではないのに、このおくらというのが、鋤右衛門を女にしたような大|醜《しこ》|女《め》なのだ。これに支配されるどころか、奴隷状態になって、ときどきその家から悲しげな泣き声が流れてくるのを、だれかときけば鍋三郎の声だという。
観察していると、外部から来た伊賀者たちは、例の秘命の有無に関せず、この哀れなる天才を救出したいという人道的感情につき動かされるほどであった。
ただ、さらに観察していると、さらにふしぎなことに、往来を歩いている鍋三郎の表情が、それほど不幸そうでない。決して陽気な顔とはいえないが、さればとて悲劇的運命に泣いているという顔でもない。
「とにかく、きいてやれ」
と、川枯兵之介はお墨に命じた。
「何か、あの後家に握られている弱味があるのだ。──女のおまえがきいた方がよいだろう。それによって、あの男をこちらのものにするめど[#「めど」に傍点]がつくかも知れぬ」
最初、兵之介はお墨と兄妹だといったが、むろんそうではない。ほんとうは恋人同士だ。
或る日、姉川のほとりを一人歩いている鍋三郎を、偶然ゆき逢ったように見せかけて、お墨はつかまえた。そして、例の徳川加担のことをその後どうお考えかときいた。清麗なお墨がやさしい笑いを──というよりせいいっぱいの媚笑をたたえていたのはむろんだ。
「あれは、そのままだな」
と、鍋三郎はうすぼんやりと答えた。
「そのままとは?」
「このままにしておった方がいいということだな」
この捻作りの天才は、こうしていると頭の捻がゆるんだ男のように見える。
「何も石田加担の徳川加担の──と、そんな恐ろしいことを決めることはない。いままで通りに暮しておればいい──と、おくら後家はいうんだな」
お墨を見る鍋三郎の眼には恐怖のようなものがあった。はじめはこういう問答を怖れているのかと思ったが、やがてそうでないことがわかった。
ふいに鍋三郎は壁を塗るような手つきで両手をつき出し、しぼり出すようにさけび出したのだ。
「おれは女がこわい! こうしてたった二人で、女と向い合っているとこわくてたまらんのじゃ。いってくれ、早く、あっちへいってくれ!」
そして、自分の方から背をまるくして、土手の上を逃げていった。
「妙な男だな」
報告をきいて、兵之介はくびをひねった。
「おくらの嫉妬がこわいのか? よし、それではおれがきいて見よう」
数日後、川枯兵之介はやはり姉川の河原でひとり笛を吹いていた。土手の上を向うからやって来る国友鍋三郎を見ながらである。
鍋三郎は歩いて来て、土手からこちらを見下ろした。それから、にやっと笑った。どうやら愛想笑いらしい。──
お墨の報告をきいたとき、兵之介は「うすきみの悪いやつだな」とつけ加えようと思ったが、そういえば新家衆四人ことごとくあまりきみのよくないめんめんなので、ことさらに鍋三郎に対してそんな批評を加えることはやめた。しかし、実際うすきみの悪さという点では、外見比較的最もまっとうなこの鍋三郎が一番なのである。それがどういうわけか、よくわからないのだが、忍者としていかなる怪異にもたじろがずに対する兵之介が、この男を見ると背に何かがぬらっとながれるような感じがする。
が、この際、奮発一番、愛嬌笑いを浮かべてさしまねこうと思っていたのだが、向うで先に笑いかけて来たので、彼の方の笑いはとまってしまった。鍋三郎は意を決した風で河原に下りて来た。
「まことにいい音だな」
と、鍋三郎は近づいて来て、なおにたにた笑いながらいう。
「は、まことに河風が心地よく、きく人もないのを倖い、ややこ踊りのばかげた調べを。……」
「いや、もう少しわたしにきかせておくれ」
鍋三郎は、兵之介とならんで草の上に坐った。
どうにもきみが悪い。例の話をしなければ、と思いつつ、兵之介はともかくも気息をととのえるために横笛に唇をあて、|喨々《りょうりょう》と吹きはじめた。その横顔を、とろんとした眼で鍋三郎が見つめているのを感じつつ。──どうもきみがよくない。
「美しいなあ」
と、うっとりとつぶやいた。兵之介は笛をとめた。
「何が?」
「おまえがさ」
苦笑しつつ、兵之介はまた笛を口にあてた。
しかし、実際川枯兵之介は美男であった。まだ|廿《はた》|歳《ち》だから、美少年といっていい。河原を染めていた夕焼けがしだいに紫色に変ってくる中で、横笛を吹く彼の姿は、もともとややこ踊り一座の囃子方の衣裳をつけているし、一幅の絵のようだと形容しても、|陳《ちん》|腐《ぷ》ではあるが大袈裟ではない。
「おまえ……わたしと浮気をしないかな」
言葉よりも声の調子が変って聞えたので、兵之介はまた笛を離した。
「え? 何と申されました?」
「ね。……わたしを抱いておくれよ」
鍋三郎は赤い声を出して、兵之介の方へ身をもたせかけて来た。
「なんという美しい男であろ……最初にひと目見たときから、わたしはそう思っていたな。あのように美しい男にいちど抱かれて見たいと……それ以来、起きてはうつつ寝ては夢、思うはそなたのことばかり。……しかし、浮気をすればおくら後家が怒るであろうと案じて歯をくいしばってがまんしていたのじゃが、もうたまらん。……兵之介、わたしをぎゅっと抱きしめておくれ。……」
川枯兵之介はぎょっとして腰を浮かしかけて、からくも踏みとどまり、笛を放り出して鍋三郎のぶよぶよした肩を押えた。
「おう、美しい顔をして、この力の強さ! その手でぎゅっと。……」
兵之介は自分の腕を持てあました。押えている感触もたまらないが、さればとて離せばたいへんなことになりそうだ。──彼はこの男が、どうやら同性愛者らしいと、はじめて知ったのである。
「ひょ、兵之介」
鍋三郎は、ややこわい声を出した。眼つきも、女ならば|閨《けい》|怨《えん》とでもいった感じになるのであろうが、かつ本人もその心組みでにらんだらしいが、土左衛門みたいな顔だから可笑しい。──いや、兵之介は心底から戦慄した。
「あの話、わたしがうんといわぬと、とうてい物にならんでな」
「は」
「そのためには、おまえがさきにうんといってくれねばならぬ」
「う」
うん、という声は、どうしても出なかった。──ぼってりふとったからだをくねらせ、鍋三郎は、自分ではなまめかしいと聞える声を出して兵之介の袖をひく。
「さ、抱いておくれ、兵之介、遠慮は要らぬでな。……」
「げっ」
ついに兵之介は躍りあがった。躍りあがったが、逃げきれぬ。逃げては万事休す。──肩で息をつきながら、
「拙者、せっかくながら、|衆《しゅ》|道《どう》に不敏にして。……」
「だから、わたしが教えてやるでな」
鍋三郎は向うむきになり、裾をそろそろとまくり出した。輪廓だけは変に女らしい、むっくりとした|臀《でん》|部《ぶ》が出現しようとして。──
「し、しばらく、お待ちを!」
と、兵之介は声をふりしぼった。
「う、浮気をすればおくら後家どのがお怒りになりまするぞ!」
鍋三郎はどきっとしたように動かなくなり、裾を下ろした。そろそろとふりむいた。
「怒るかな? 怒るであろうな?」
──このとき川枯兵之介は卒然として怪奇きわまる疑問にとらえられた。
この国友鍋三郎が同性愛者であることはあきらかで、しかもどうやら受身の方らしい。しかし、同性愛者がどうして後家といっしょに暮しているのか? かつ受身の男が、女性といかなる応対をしているのか?
「つかぬことをおうかがいいたしますが」
と、兵之介はいった。
「あのおくら後家どのは……ほんとうに御|女性《にょしょう》で?」
「どうして?」
と、鍋三郎は妙な顔をした。
「女じゃよ。顔は蟇に似ておるが。……」
そして兵之介がいよいよ|晦《かい》|冥《めい》の思いをしていると、ふいにはっしと手を打った。
「おおそうじゃ。うん、衆道を知らぬおまえがわたしの願いを即座にきいてくれる気にならぬのもむりはない。心残りじゃが、それはひとまずとり下げるでな。そこでじゃ、おくら後家の相手をしてやってくれぬかな」
「おくら後家どのの相手?」
「その相手のしようにこつ[#「こつ」に傍点]があるでな。わたしはおくら後家に可愛がられておるが、その可愛がられかたをおまえにまず見せるでな。それをよく学んで、そっくりその通りにやってくれろ。……」
鍋三郎は眼をぎらぎらとひからせて、
「わたしはおまえになり代りたい! おまえのような美しい男に生れ変りたい! しかし、そういうわけにも参らぬでな。で、せめておまえのような美しい男が、おくら後家に可愛がられるのを、この眼で見たいのじゃよ。……」
そして、唖然としている兵之介の手をつかんだ。先刻兵之介の手の強さをほめたたえたが、それに劣らぬ恐ろしい力であった。
「兵之介、さっきいったように、わたしはおくら後家次第じゃでな。おくら後家が徳川に加担せいといったらする。加担するなといったらせぬでな。そこはようく胆に銘じておいてくれ。で、胆に銘じて、わたしのこの頼みをきいてくれる気になったら、おまえの方の頼みもきくでな。いや、おくら後家もきっときくことを請合うでな。きいてくれなければ、わたしはわたしの持っておる雄螺旋雌螺旋をぜんぶ姉川に放り込むでな。そうなったら、国友村にはもうそんな鉄砲も大砲も出来ぬでな。……」
鍋三郎は兵之介の手をひいた。
「さ、来やれ。……」
川枯兵之介は抵抗出来なかった。彼は蒼くなっていた。
村に帰ると、夜が来ていた。さて、そこで、兵之介はおくら後家の家の一室で待たせられ、板戸の穴の前に坐らせられ、見学を命ぜられた。
兵之介は恥じている。さっき鍋三郎の最初の願いから逃げかかったことを。
仲間のだれにも告白できないほどの恥辱である。恥辱は恥ずべき行為を強いられることでも実行することでもない。忍者の恥辱は、使命を忘れて恥辱にひるむことである。ましてやこのたびほどの大使命を受けつつ、婦女子のごとく恥辱的行為を恥じらって避けようとしたとは、それこそ何たる恥辱的行為であろうぞ。──反省し、みずからを鞭打ち、彼はこの夜いかなることにも甘んずる不動心をかためていた。
とは覚悟していたものの。──穴からのぞいて、兵之介は|動《どう》|顛《てん》せずにはいられなかった。
「あれえ!」
哀しげな声をあげて、逃げまどっているのは国友鍋三郎であった。
「おゆるし下さりませえ。あれえ」
壁を塗るような手つきをし、身をよじり、夜具にしがみつき、這いずりまわって、彼は逃げる。お芝居にしても喜劇以外の何ものでもないが、しかし鍋三郎の恐怖と哀願にわななく顔には、あきらかに陶酔の色があった。彼は本気で一つの世界に溺れているのだ。
「あの、それだけは、おゆるし下さりませえ」
これを追いまわし、髪をひっつかみ、鍋三郎のきものをはいでゆくのがおくら後家であった。
まさに国友鋤右衛門を女にしたような蟇面で、まあふためと見られぬ醜女だが、相争い、もつれ合うにつれて、次第に自分のきものも乱れてゆき、そこから現われた肉体は──まさに女性にはちがいない! ただし、乳房は俵のごとく、腰は臼のごとく。──
兵之介は、はじめて同性愛で女役を望む国友鍋三郎が女と同棲し、かつふだんけっこう幸福そうな表情をして歩いていたわけを知った。彼はこの世界に満足しているのだ。こういう立場に自分を置かなければ満足しないのだ。その相手をつとめる女も、ほかにざらには求められないだろうが、見方によってはそれがおくら後家のような獰悪な醜女であればあるほど効果的だともいえる。──
兵之介は笑わなかった。呆れ、怖れたというより、そこにくりひろげられた一個の愛欲の別天地に打たれたといっていい。
そして、鍋三郎はおくら後家に犯された。むろん同性愛的行為が成立するわけもないから、かたちとしては正常といっていいが、しかしどう見てもそれは、女に犯される男の図であった。
笑わず、むしろ打たれるものがあったとはいえ。──
「兵之介、こんどはおまえの番だ」
と呼ばれたときに、兵之介は身ぶるいせずにはいられなかった。
「さあ、わたしとそっくり同じに、おまえもおくら後家に可愛がられておくれ」
兵之介は逃げなかった。──曾て主命のため、彼は某大藩の怪物といわれた三人の忍者との決闘の場に乗りこんでいったことがある。そのときと同じ悽愴の顔色で彼のその部屋にすべりこんでいった。
「おう、美しい男よのう。……」
おくら後家は分厚い唇をまくりあげ、黄色い歯を出してけたけた笑い、牛のような舌で舌なめずりした。
「おうおう、よう来やった。あとで何でも願いはきいてやるぞえ。……」
彼女は蟇そっくりの構えで這い寄って来た。──南無八幡、忍びの神よ、われに鉄石の不動心を与えたまえ。……
「そんなこわい顔をしてちゃあだめだな。わたしと同じように、逃げまわるんだ。あれえといえ。それ、あれえ。……」
「あれえ。……」
あらゆるものをかなぐり捨て、川枯兵之介は忍び組の大義に殉じた。
それだけに、大醜女に追われ、逃げまどう美少年の姿はいっそう悲壮であり、無惨であり、迫真性があった。はじめ指導していた鍋三郎も次第に黙りこみ、眼をかがやかせ、はては中風みたいに涎さえたらたらと流し出した。彼は自分を美しい兵之介に転化し、おのれ自身の場合よりも強烈な法悦の波に|蕩《とう》|揺《よう》したのである。
川枯兵之介はおくら後家に犯された。
このとき、「わたしとそっくり」と命じた鍋三郎とはちがう新事態が生じた。その鍋三郎が酔っぱらったように這いずって、兵之介の背中にとりついたのである。それはこの美少年と一体化したいという鍋三郎の衝動の表現であった。
前後からの灼熱感の中に、川枯兵之介はほんとうに女のような悲鳴をあげていた。
「南無|頓生菩提《とんしょうぼだい》、忍びの仏よ、われに、テ、テ、鉄石の不動心を!」
八
国友鉄算。
痩せて、色が黒くて、鴉みたいな顔をしているが、またありありと頭脳の優秀さを人に感じさせる容貌でもある。新家衆四人の中でのリーダーであるばかりでなく、国友村の長老連にいちばん重きを置かれているのはこの人物であろう。
製鉄から鉄砲完成に至るまで、彼はほかの連中のようにたんなるかん[#「かん」に傍点]によらず、あくまですべて計算にもとづいて行う。従って、この男がいなければ国友鉄砲の技術に安定性がなく、進歩がなく、大量需要に応ずる生産計画も立たなかったろう。そしてまた出来上った鉄砲や大砲の照準、射角、射程、爆発力などの砲術知識にかけては、これはまったく鉄算の独壇場となる。
たんに鉄砲についての技術ばかりでなく、彼はそれを注文する諸大名の支払い能力すなわち経済力についても、その判断の適確なこと、長老といえどもその指示を仰がなければならないほどである。
「鉄砲職の者みだりに他国へ出候こと、かたく無用のこと」
というのは、領主三成の示達だが、彼は平気で弟子を諸国にやる。
「なに、あれは鉄砲職ではござらぬ。細工は何も教えてはおらぬ。あれは諸大名方のお台所の気配をのぞきに参るまでで、せっかく鉄砲を作っても御勘定のたまること、ままなきにしもあらず、ときには出来上った鉄砲を受取る気も力もないのに、ただ当家の御注文の邪魔をする下心で注文して参られたのではないか、との疑心を抱かしめる向きもあり──かくては国友村のみならず、お国の御損にも相成りますのでな。御懸念の点については注意して、鉄砲作りの細工そのものは知らせぬため、金は充分につかわす代りに、あまり長くは使わぬことにしております」
というのが彼の冷静なるいいわけで、事実その通り、しょっちゅう彼の弟子は入れ替っているように見える。鉄砲鍛冶の弟子というより、よくいえば国友村の商社員、悪くいえば国友村のスパイだろう。
七月二日、大御所江戸へ帰る。
七月十七日、三成、家康に天下私議をなじる詰問状を発す。
七月十九日、西軍ついに伏見城攻撃に向う。同日、江戸の家康、上杉景勝討伐のために会津へ向う。
八月一日、伏見城落つ。
八月四日、家康、会津出征より反転し、六日、江戸に帰る。
──むろん、まさか同日にではないが、こんな天下の風雲のあわただしさを最も早く村に伝えたのはこの鉄算だ。
「……道理で、見張りの網が少しゆるんだようじゃ。そうあってはならんことじゃが、治部少輔さまもことここに及んで国友村どころではござるまい」
などと、長老の前で彼はうす笑いした。
「しかし、まだ天下の形勢はわかりませぬぞ。かようなときこそ、こちらは糞落着きがかんじん。──」
──実際えらいのだろうが、いやみ氏ということにかけては、この鉄算あえてほかの三人にひけはとらない。少くとも、性格的に可愛げがないという点については一番である。
とにかく、こういう恐ろしく頭のいい人間によくあるタイプだが、冷たくって、計算ずくめで、高慢で、そしてもったいぶり屋だ。
そのくせ──お墨が近寄ると、決してきげんは悪くない、ということをお墨は発見した。とくに弟子たちに訓示するような場合、お墨がそばにいると、いっそうそっくり返る。
「──この男は、こんな顔をして、やっぱり女にもてたがっているのだわ」
と、お墨はやっと気がついた。
こういう点では最もとっつきにくい人柄みたいに見えたが、案外なものだ。もっとも、人間この道ばかりはだれだって変らないともいえる。むしろ国友村ではあんまりえら過ぎて、女たちが敬遠する気味があるから、たとえべつに下心あるにせよ、お墨のような美しい女が近づくと、不可抗力的に鉄算の心も昂揚すると見える。
というと、鉄算もどこか可愛げがあるようだが──しかし、いざとなるとそのお墨に対する反応がまことにいやらしい。
「ちょっとふいごの風力について研究したい」
或る日、鍛冶場の炉の前でいった。
「おまえの息をわしの口ヘ吹き込んで見てくれ」
三人の弟子が見ているので、ものものしくいって──お墨が頬あからめて、おずおずとそうしてやると、
「もう一吹き、もっと強く。──」
とろんとした眼つきになっていた。お墨は死人に接吻するほどの一大決心をふるい起して、わざと自分の口を鉄算の口におしつけた。そして反射的にくいしばろうとするおのれの歯をひらき、あえぎと舌を鉄算の口に送り込んだ。
弟子の一人が、うめくように声をかけた。
「師匠、それがなんでふいごの研究でござる」
「徳川の風の吹き具合の研究になる」
と、鉄算は口を離していった。お墨はぎょっとした。鉄算は別人のように冷たく笑った眼でお墨を眺めていた。
「この女、こうしてわしを誘おうとしておるのじゃが、あの大御所さまからの風の吹き具合では、ちょっと|靡《なび》けぬのう」
国友鎌太夫。
五十年輩の、眼はおちくぼみ、口をいつもへの字にひん曲げた頑固爺いである。
国友村では、鉄砲は大量生産しているが、大砲はときたましか作らない。いままで大砲を必要とするような戦争がなく、かつ砲手の用意がないからである。しかし、ときに注文があったとなると──いつぞや、「大砲製造については、口はばったいが、年寄衆もお口の出しようがない」と傲語したように、その第一人者はこの鎌太夫をおいてほかにない。
彼が、国友村の徳川加担をしぶる最大の理由は──ただ彼が天性のへそ曲がりだからであった。徹頭徹尾、何でも反対屋なのである。ああいえばこういう。右といえば左という。べつに彼の人生にそれほど不足があるようにも見えないが、どうも生まれる以前、胎の中にいるころから、満腔の不平を抱いてうずくまっていたように思われる。
つまり彼は、村の幹部の情勢判断が徳川優勢に一致しているのが気にくわないのだ。
「それならば、何も徳川に加担する必要はない。放っておいても勝つものに力を貸してやったとて、あとでありがたがられるわけはない」
と、いい、
「何、わからぬよ。国友の鉄砲はそう多量に徳川の手に回っておらぬ。まだゆくすえがこうと決められるかよ」
そっぽをむく。その叛骨は珍重したいところだが、
「ならば、石田方に力を打ち込んでは?」
と、打診してみると、
「恐れながら治部少輔さまのお立場、あまりに御悲壮であるところが気にいらぬ。これでもし天下の大勢を|覆《くつがえ》せば、話が出来すぎるところが面白くない」
と、またそっぽをむくのだから手がつけられない。
彼は世の、あらゆる美、善、壮、そのたぐいの物や行為にぐいと口をへの字にした。それだけに伊賀組の四人は、容易に彼に近づくことさえ出来なかった。
「おまえら、いい男であり過ぎ、いい女であり過ぎる。それが国友村へ来て、わしの気に入らねば果せぬ用件の使者となったのが、そもそものまちがいであったよ」
くぼんだ|眼《がん》|窩《か》の奥から、梟みたいな眼でにらんで鎌太夫がいったことがある。
「おまえらのこと、石田家に訴えぬのは、たった四人で敵中に乗り込んで来たところがちょっとわしを泣かせるからよ」
しかし、彼の眼は泣いてはいなかった。その眼はきみ悪く笑っていた。
「が、それで首尾よう用件果し、手柄をたてたとあっては、おまえらが決死であり過ぎ、美男美女であり過ぎるゆえ、話があんまりうまくゆき過ぎる。そうは鎌太夫という問屋が下ろさぬわい。よいか、わしは大砲なんぞ作ってはやらんぞ。そしてこの鎌太夫が乗り出さねば、国友村に大砲は出来ぬぞや。うひ、ひ、ひ、ひ」
九
「明朝寅の刻、鎌太夫の辻にわしの弟子の中三人の者をやる。これを殺してくれ」
と、国友鉄算がお墨に伝えたのは、九月五日の夜のことであった。
「むろん、おまえの仲間すべてに手伝ってもらってよい」
「あなたのお弟子を?」
お墨は息をのんだ。
「その三人は、石田方の忍びの者じゃ」
と、鉄算は冷たい声でいった。
「これより、例の大砲な、いよいよ製造にとりかかる。なに、すべて材料もそろえ、計算済みじゃ。すでに手をつけておるものもある。たとえ十五梃にしても、われら四人が汗をながして采配をふるえば、期限の九月半ばまで、十日以内には出来上るじゃろう。──ただし、あの鎌太夫だけがちと難物じゃが」
お墨はなぜ突如としてこの鉄算が、ついにこちらの依頼を受け入れたのかわからなかった。
鉄算はその日、九月一日に家康がついに江戸を発して西へ反転を開始したという至急報を入手したのである。
あらゆるものを秤にかけていた彼は、まさにいまいった通り、大砲製造の準備だけはぬけめなく完了していた。ただそれを徳川方へ渡すか、石田方へ売るか、まだ決定していなかった。そしてそれを餌に、わざと石田方の忍者三人をおのれの弟子に加え、彼らが伊賀者に直接行動に出ることを抑えつつ、石田方にそれを売った場合の相場をつりあげようとしていた。
いつぞや鍛冶場で、伊賀組の女とのいちゃつきを見せつけてやったのはまさにその三人で、あれは欲情もないではないが、それと同時に彼らを焦らせるデモンストレーションの一つに過ぎない。
美濃に於て、西軍と東軍の前哨戦はすでにはじまっている。このときにあたって、ついに大御所自身が西上して来たということで、鉄算はこの戦いの帰趨を見通した。いまにして国友村の誠意を見せずんば、大事ついに去る。
「作った大砲を東へ送り出すためにも、その三人を始末しなければどうにもならんのじゃよ」
九月六日。まだうす暗い午前四時ごろ。
その角に国友鎌太夫の鍛冶場があるから「鎌太夫の辻」と呼ばれている広場で、甲賀者三人と伊賀者四人の決闘が行なわれた。
三人の甲賀者は鉄算から、事に託して鎌太夫のところへでもやらされて来たらしく、はじめ反対側から近づいた四人の伊賀者にはべつに不審の眼をむけていないようであったが。──
突如、ピイインという鋼の音が暗闇に鳴った。三メートルの距離から秋篠内記が薙ぎつけた鋼条のひびきであった。右から旋回していった鋼の長鞭に、しかしただヒラヒラと三枚の布が巻きついただけであったのはさすがである。
同時に三本の|b[#「b」は「金(かねへん)」+「票」Unicode=#93E2 DFパブリ外字=#F762]《ひょう》が流星のように伊賀者に向って飛んでいる。b[#「b」は「金(かねへん)」+「票」Unicode=#93E2 DFパブリ外字=#F762]を投げて、三人の甲賀者は左へ逃れ出していた。
左から、ピイインとまた鋼の鳴る音が回って来た。川枯兵之介の薙ぎつけた鋼線は、あっとたたらを踏んだ三人の甲賀者の頸を二人まで切断し、三人めの頸に巻きつき、その鼻口からがぼっと黒血を|溢《あふ》れさせた。
「あっ……内記どの!」
お眉が悲痛な声をはりあげて、地上に伏しまろんだ。彼女はそこに転がった夫秋篠内記にしがみついた。
内記ののどにはb[#「b」は「金(かねへん)」+「票」Unicode=#93E2 DFパブリ外字=#F762]の一本が突き刺さっていた。
「……なんじゃ?」
戸のあく音がして、向うから現われたのは国友鎌太夫である。
倒れた甲賀組の背後から、しとしとと国友鉄算が歩いて来た。
「鎌太夫、やはり大砲を作ることになったよ」
と、彼は珍しくなれなれしい声でいった。
「諸般の情勢からそうせねばならぬ」
鎌太夫はじいっと鉄算をのぞきこんでいたが、やがて梟みたいな眼を三人の伊賀者の方へ移し、
「やっぱり、おまえたちが勝ったか」
と、にが虫をかみつぶしたような顔になり、
「おれはいやだぞ」
と、口をへの字にした。
「まあ、そういわないで、わしの話をきいてくれ。おぬしの力をどうしても借りねばならぬ」
「いやだ。そこにおる美しい伊賀者、こうして手柄をたてて帰参し、祝言でもあげてめでたしめでたしとなるのだろうが、それが気にくわぬ」
鉄算が苦笑して近づき、|縷《る》|々《る》としておのれの得た情報を分析し、その国友村に及ぼす影響を説明していると、そのうしろから、
「あう!」
「ううむ!」
という悲鳴が聞えた。鎌太夫の鍛冶場の中からであった。
二人は仰天してそこへ飛び込んだ。燃えている炉の前に、二人の人間が焼けただれた顔をこちらに見せていた。
「川枯兵之介とお墨です」
と、背後からお眉がふるえる声でいった。
焼けただれた二つの顔が、にいっと白い歯を見せたので、それが笑ったのだとわかった。兵之介の声が聞えた。
「鎌太夫どの、これなら御満足でござりましょうか?」
十
慶長五年九月十三日の日が暮れてから、国友村から十台の車が動き出した。
車の上には、一貫目玉鋳銅砲五梃、八〇〇目玉鋳銅砲十梃が、前者は一門ずつ、後者は二門ずつ乗せられていた。
たとえ国友鉄算の周到緻密な準備があり、鎌太夫らの手練の技術があったとはいえ、驚くべき突貫作業であり、にもかかわらずみごとな出来栄えであった。
これを曳いているのは数十人の国友衆だが、護っているのは新家四人衆であり、また川枯兵之介、お眉、お墨の三人の伊賀者である。
彼らは通常の北国街道に出て湖畔を南下する道をとらず、夜を越えて姉川沿いに|遡《さかのぼ》り、北国脇街道へ入って、東へ、伊吹山めがけて急いでゆく。
みごとな脱出であったため、はじめ監視の網も気づかなかったらしいが──ちょうど夜が明けて、伊吹山西麓の春照村という部落にかかったころ、
「待て、国友衆」
「大それたやつら、何を運び、どこへゆこうとするか?」
背後から土けむりをあげて追跡して来た七人の騎馬侍がある。それを甲賀者とは知らず、まなじりを決して迎えようとする川枯兵之介を、
「お待ちなされ」
と、国友鉄算がとめた。
「そのおからだでの、お働きは恐れ多うござる」
言葉づかいからして打って変っている。そういって鉄算はふりむき、あごをしゃくった。
国友衆が車の上に積んであった鉄砲をいっせいにとって、車を盾に狙いを定めた。十数梃の銃口が同時に火を噴くと、甲賀者たちは馬上からことごとくもんどり打って地上に転がり落ちた。──それっきりである。
「それ急げ!」
鉄算はさけんだ。
「春照村の向うにはかねてからの打合わせ通り、徳川家の成瀬隼人正どの、服部半蔵どのがひそかに出張って来ておられるはずじゃ。それゆけ!」
悪路をがたがたと疾走する十台の車の大砲にうちまたがって、鉄算はもとより、鋤右衛門、鍋三郎がげらげら笑っていた。鎌太夫までがしぶい笑いを、にんがりと浮かべている。
九月十五日。
その日天下分目の戦いが終り、敵味方の屍体はなお野を埋め、沛然たる豪雨がそれをうちたたいたあと、やや小降りになったばかりか、赤い太陽さえぼんやりとさしはじめた夕、関ヶ原天満山の西南、藤川台に本陣をすえている大御所のもとに服部半蔵は伺候した。
大砲はぶじ成瀬隼人正が受取った。この際だから、国友村のことについてはいまわざわざ報告に参らずとも、と考えていた半蔵であったが、その数刻前、思いがけぬ事件が起ったのでそのための報告と、そしてついでに国友衆たちにお目通りさせておきたいと、彼らをつれて参上したのである。
思いがけぬ事件というのは、生き残って帰った三人の伊賀者が、わが任務ここに終り、せめてもの御褒美はただ死を賜わらんのみ、という書置きを残して、みな自決したことである。焼けただれた顔となった川枯兵之介とお墨は刺しちがえて死に、お眉は夫秋篠内記を刺したb[#「b」は「金(かねへん)」+「票」Unicode=#93E2 DFパブリ外字=#F762]で、おなじくのどを刺して死んでいた。
半蔵が国友村へやった十人の伊賀者は、これでことごとく主命に|斃《たお》れたということになる。──
さしも惨事に馴れた半蔵も|嗚《お》|咽《えつ》を禁じ得ず、どうしてもこのことだけは大御所さまのお耳に入れておかなければ気がすまなかった。
「なに、国友衆が参ったと?」
まず半蔵が、伊吹山から大砲を運ぶ際、車にへんぽんとひるがえした葵の荷旗を一応返上し、次に国友衆を紹介すると、大御所は満面を笑みに崩してさしまねいた。
「おう、なんじらが音に聞えた鉄砲作りの名人──新家四人衆のめんめんよな。近う近う」
鉄算、鋤右衛門、鍋三郎が笑顔でまかり出、鎌太夫すらもはじめて見る大御所の威に打たれて、そのうしろにうやうやしく平伏した。
「不運や雨のため、きょうのいくさになんじらの大砲は使うことがなかったとはいえ、これからはあるぞ、大いに使わねばならぬときがきっとある。──これからのいくさは、槍、刀の時代ではない。わしはな、古くからある、徳川家の忍び組なるものを廃して、鉄砲組に変えようと、かねがね本多佐渡と相談しておるくらいじゃ」
服部半蔵はあっとばかり洞穴みたいに口をあけたが、大御所は彼の存在すらもう眼中にないようであった。
「国友鉄砲こそは、これからの新しい時代、忍び組などにまさるわしの守護神となってくれるであろう。──おおそうじゃ、かねてよりの恩賞の約定、家康、相違なく履んでつかわすぞや」
そして大御所は、膝の上の葵の旗をぱっとひらいて、四人の国友鉄砲衆の頭上に投げた。
「天下御免の旗、それを末長く国友衆の誉れの旗とせい。もとより国友村の繁栄を保証する旗でもあるぞ。受取れ、鉄砲の者!」
「慶長五年権現さま上意を以て|唐《から》|銅《かね》おん筒一貫目玉五梃八百目玉十梃急ぎ御用仰せつけられ吹き立て候ところ石田三成ら妨害をなし狼藉に及び候あいだ一幅の木綿へ御紋付おん荷印おし立て鉄砲にて打払い御陣所へ持ち運び候。──国友村御紋付御荷印由来之事」
忍法天草灘
一
行列は舟津町の聖ジョアン・バウチスタ寺を出た。
先頭に、柄のついた大きな杉板を男たちが数人がかりでかついでゆく。杉板には「天の門をひらき給うたすかりのいけにえ、敵軍はわれらを責めるがゆえにおん力をそえ給え。|三《さん》|位《み》まします御一体のおんあるじ、何とぞ天国においてわれらに終りなき命を与え給え。あめん」という文字がかいてある。
その次に、黄金の|鍍《メッ》|金《キ》をした銅製の十字架が進んで来る。これまた二三人がかりの大きなものである。
つづいて少年少女の聖歌隊が来る。その数、五十人あまり、ヴィオラやラベイカをかき鳴らし、天使のような声をはりあげて|連祷《ラダイニヤ》を歌っている。実際彼らは花に身を飾って小天使の服装をしていた。
そのあとにアブラハムがイサクを犠牲にしようとする絵をかいた紫の絹の大聖旗が来る。さらに真昼というのに灯をともした燭台がつづく。
次に八本の棒で支えられた美しい天蓋をさしかけられ、黄金の函をのせた台が、紅毛碧眼の八人の|伴《バ》|天《テ》|連《レン》に捧げられて来る。函には聖体が安置してある。
それから……いや、いちいち述べていてはきりがない。あとから、あとから行進して来る人間のなんというおびただしさだろう。そしてその人々の何という|異形《いぎょう》ぶりだろう。
行列は立山のサンタ・マリア寺にゆき、次に|炉《ろ》|粕《かす》町のサンタ・クルス寺にいった。それから勝山町のサンタ・ドミンゴ寺、桜町のサン・フランシスコ寺へ回る。さらに本博多町のミゼリコルディア、つまり慈善院へ。──
人々は、みなはだし[#「はだし」に傍点]で、手には十字架や蝋燭や数珠を持っていた。白いかたびらを着ている者が多かった。女たちは黒いヴェールを頭からかぶっていた。
それはいいのだが、そのほかに、茨の冠をつけている者、頭から灰をかぶり、|首《くび》|枷《かせ》をはめている者、鎖を全身に巻きつけている者、からだを俵に入れてその外側からさらに縄をかけている者、両腕を背にくくりあげ、上半身裸の者。──男も女も、老いも若きも、ほとんど例外がない。なかでもひどいのは、大石を背負い、首にも石をぶら下げている人間に、裸の背中をうしろから鞭で連打されながら歩いている人間であった。
行列のあとに、花びらと血潮が点々とつづく。その路上の所々には、緋の|毛《もう》|氈《せん》が敷きつめてある場所もある。
彼らはみな恍惚としていた。恍惚として|祈《オラ》|祷《ショ》を合唱していた。路の両側には見物の人々がどよめいていたが、いつしかこれも|祈《オラ》|祷《ショ》の合唱に変っていた。そして、この人々の顔もみな恍惚としていた。
長崎に建つ十一の|教会《エケレシア》をめぐる、いわゆる切支丹行列。
切支丹暦の祝祭日に宗教的行列を行うのは西欧の行事だが、この年の初夏からはじまった長崎の切支丹行列ほど、頻繁に、かつ熱烈に行われたものはない。記録によると五月九日から二十日までの十二日間に九回行われている。
それは天のかなたにぶきみな形相で雲が湧き出したのを見て、それが雨となるか風となるかは知らず、本能的に人々が酔い痴れようとした最後の祭典であったのかも知れない。
それにしても、何という行列の長さだろう。いつ果てるともなく、中にまじっている神父たちでも、少くとも四五十人はいるのではないかと思われる。長崎の空は、聖歌と祈祷の交響にゆれ、蒼い透明な波となってうねっているようであった。
「見られたか」
本博多町の奉行所の門から、屋敷の方へ石だたみの道を戻りながら、奉行はにがい顔をしていった。
「大御所さまに、わしが御注進申しあげた内容が、決して誇大でないこと相わかったであろうが、半蔵どの」
あとにつづいていた十数人の男女のむれのうち、旅装の者が三人あった。その中で、みるからに重厚な、きびしい容貌をもった武士がうなずいた。
「拙者、数えましたところ、いままでに三千七百人ばかり」
「ほ、貴公、人数まで勘定しておられたのか」
奉行はちょっと眼をまるくした。
「気のふれておるのは、あの行列のやつらばかりではない。沿道の町民どもことごとく正気ではないといっていい。行列の道すじに毛氈など敷いたのも町民どもじゃ」
「ほんとうに長崎の町衆、みんな気がちがっているのではありませぬか」
女の声がした。これもいま長い旅ののちたどりついたといった装束で、まだ若い美しい女であった。
「まあ、あんなに自分のからだを打ったり叩いたりして苦しめて、あれではそのうち死びとも出ましょうに」
「あれで、この行列が終れば、けろりとして生業にはげみおる」
と、奉行はいったが、自分でもふしぎそうにくびをひねった。すると、その女とならんで歩いていたもう一人の旅姿の若い侍が、これも不可解にたえない表情をあげてきいた。
「いったい、あの狂態は何のためでござりまする。伴天連たちがああせよと申しつけたのでござりまするか」
「何でもジシビリナ──鞭の|勤行《ごんぎょう》とか申し、切支丹の開祖が|磔《はりつけ》になったときの苦しみにあやかり、またあのようにおのれを責めることでおのれの罪が消えるという狂信を抱いておるそうな。──伴天連どもは、ああまでせずともと、むしろ止めておるとは申すが、左様に教えるものがのうて、だれがあのたわけた苦行をするものかは」
奉行は吐き出すようにいった。
「伴天連どもがそそのかしておるにきまっておる。この長崎、火の海にせよと伴天連が命じたなら、あの信者ども、ためらいもなく火をつけるであろう。要するにいまの長崎は伴天連の支配する町じゃ。──と、大御所さまにも御報告申し上げたつもりじゃが、やはりあれ見ぬお方には、まだ事態の容易ならぬことがしかとおわかりにならぬのかも知れぬ。──その対策としてただ伊賀者三人のみを寄越されるとは」
奉行、長谷川左兵衛は立ちどまり、まるでけさ来たばかりの三人が危険人物であるかのようににらみつけた。
「いま見た通りじゃ、服部どの、あの狂信者ども──いやこの長崎の町をいかがなさるおつもりか」
二
レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」に、腐敗した血を持った不徳漢、ときめつけられているこの第三代長崎奉行長谷川左兵衛藤広が、大御所家康に具陳した意見は、同書によれば、次のようなものであったらしい。
「異国人が、日本の諸神の像を|顛《てん》|覆《ぷく》し、尊ぶべき古人の遺産である国家的宗教を禁止する権力を持って然るべきでありましょうか。ヨーロッパの宗教に改宗した日本人が、いまやその財産、名誉、生命さえも異国の主のために盲目的に犠牲にすることを敢て辞さない状態になっているのは明らかであります。曾て仏徒ですら宗教的叛乱を起し、太閤や信長公をも大いに苦しめました。まして日本の制度に対して敬意もなく、伝統も知らない異国人の支配下では、長崎にふたたびそんなことの起る可能性は大いにあるのではございますまいか」
この意見に対して江戸から送られて来たのが、行政的責任のある高官なら知らず、たった三人の伊賀者とは。──
「それでござる」
伊賀組の頭領服部半蔵は重々しく答えた。
「大御所さまの仰せには、左兵衛の憂慮もわかるが、いましばし様子を見よう。──」
「それだけの返事を伝えに、おぬし、長崎へ来られたのか」
長谷川左兵衛は不満げにいった。
「わしが大御所さまに御注進申しあげたのは、よくよくのことじゃ。そのこと、おぬしもいまの切支丹行列を見て得心なされたであろうが」
「いや、まことにききしにまさる。──」
と、半蔵はうなずいた。
「長崎の町、まさに集団発狂の状態にあると申しても過言ではござらぬな。──さりながら、あの大御所さまが、いま徳川家の大事をひかえ、この地に波瀾を起しとうない──とおぼしめさるわけも、長谷川どのなら、御推量下さるでござろうな」
左兵衛は黙りこんだ。──すぐその意味を了解した。
いま徳川家の大事をひかえ、云々と半蔵がいったのは、思うに大坂のことだ。京の方広寺の鐘が鋳られたのは、実にこの四月のことである。その鐘から何が起るかは、徳川家の|帷《い》|幄《あく》にある者はみな予測している。
その方の幕がいま上ろうとするときにあたって、この九州の地に要らざる|騒擾《そうじょう》を起したくない。──ただ、そればかりではない、やがて起るであろう一大事件に、得べくんば切支丹につながる異国の武器や科学をわが陣営にひきとめておきたい。──大御所の思案を、左兵衛はそこまで|忖《そん》|度《たく》した。
長崎が完全に徳川の天領になったのは、大坂役後のことである。この慶長十九年の時点に於ては、徳川家からの奉行が派遣されてはいるものの、名目上はまだ豊臣家の御料所に相違ない土地なのであった。──しかも、南蛮船との交易地という特殊性から、太閤のころからさえ、実質上は町民の自治にゆだねられて来た歴史を持つ港町なのだ。
「おわかりか」
半蔵はしずかにいった。
たかが伊賀者──と、最初はちらっと長谷川左兵衛はそう思ったが、なかなかそれどころではない。卒然として左兵衛は、この服部党は──先代のころから、徳川家の枢要な政務には必ず影のごとく出没しているという事実を思い出した。
「とはいえ、このままでは放置しがたいという御見解には、半蔵もとくと同感でござる。よろしい、一つ手を打って見ましょう」
「手を打つ?」
「されば。──この町民どもの先頭に立っておるのはだれでござる」
「この長崎はの、貴公も知られぬはずはないと思うが、よそとちがって町年寄というものが実際上の市政をつかさどっておるのじゃ。その数は、昔から九人。──」
「いや、市政ではなく、あの狂信者どもの。──過去の一向一揆、本願寺一揆などに徴しても、その規模はたとえ何万人であろうと、それらをひきいる指導者はせいぜい数人にとどまるもの。そのような人間はござらぬか。その連中の名を御存じでないか」
「あ、それか。──」
左兵衛はひざをたたいて、ふりかえった。
「それは調べてある。これよ、|邪宗風聞書《じゃしゅうふうもんしょ》を持っておるか」
「は」
与力らしい男が、懐中から一つの帳面をとり出して手渡した。左兵衛はそれをめくって、
「この朱墨で十字のしるしをつけたやつらじゃな?」
「は」
「ふむ」
と、左兵衛は半蔵の方にむきなおって、
「いや、町年寄もござる。船坂貞蔵と申す男、次に|天《あま》|川《かわ》屋銀七という更紗問屋、それから道円という坊主。……」
「ほ、坊主が切支丹。……」
「以前は、ということでござるが。それに山国瀬兵衛という牢人者、もう一人|仏頂寺《ぶっちょうじ》孫助と申す御朱印船の船頭。……以上、五人の男と、べつに女が。──」
「女もおりますか」
「|玻《は》|璃《り》細工師の女房お浜、町医の娘にてお市という女、最後に|漢《かん》|南《なみ》屋という店のお|弦《つる》と申す後家。──合わせて八人に十字の朱じるしがついておる。すなわちこの八人が、長崎の切支丹きちがいの中の火だねと申してよいやつらで。──」
半蔵はふりむいて、
「憶えておけ」
と、いった。
若い男女の伊賀者はうなずいた。
「──で、どうしようといわれるのか、服部どの?」
と、長谷川左兵衛はまたいった。眼はその二人にそそがれている。
──けさ、この服部一行が奉行所に到着したときから、半蔵よりも左兵衛の眼をひいていた二人であった。左兵衛のみならず、側近の者たちもみな同様であったが、それはこの二人があまりに美しかったからだ。男は水もたれるほど凄艶で、女は春の日光のように豊麗で。
まさかこれが忍びの一族ではあるまい、おそらく半蔵個人の召使いであろうと思っていた。で、さっき、この二人が切支丹行列を見て、おのれにかかわりあるごとく意見をのべたのも、むしろ意外に感じたくらいである。──それをいま、半蔵はこの両人に何やら期待するものあるがごとくかえりみた。
その眼を奉行にもどして、半蔵はいう。
「ここにおられる面々は、めったなことは口外なさるまいな?」
「腹心の者どもでござる」
「では、改めておひき合わせしよう。拙者、秘蔵の忍者、|斑《いか》|鳩《るが》と鶯です」
「斑鳩と鶯。──」
「妙な名と思われようが、まず左様にお覚え下さればよい。──この両人を働かせましょう」
「いまの八人を殺害させるおつもりかな」
左兵衛は蔑むような表情を作った。
「まだ貴公にも切支丹というものがよくおわかりでないと見える。きゃつら、宗門のために殺されることを|殉《マル》|教《チリ》と称し、むしろ歓びとも誇りともいたしおる。またほかの宗徒どもも、それ見ればますます血ぶるいして、その八つの屍骸を花で飾り、また行列作ってねり歩きかねぬ。──そのことも大御所さまに申しあげておいたはずじゃが」
「さればこそ大御所さまがわれらをお送りなされたのでござる」
「──え?」
「斑鳩、鶯」
呼ばれて、若衆と女は歩み出た。──奉行の近臣の方へ。
十人ばかりの側近のうち、腰元風の女性が三人いた。自然と侍たちとわかれてかたまっていたが、斑鳩と名乗る若侍はその前に立ったのである。
三
最初から、まあ何という色若衆だろうとは見ていた。それで、いま門のところで切支丹行列を見物しているあいだも、その行列をもう何日も見飽きていることもあって、交響にまぎれ、三人の侍女たちは、たわむれにその品定めをささやき合ったほどなのである。
「女も恥ずかしいような美少年。──」
とはひとしく認め、
「いったいあれが伊賀者であろうか?」
「何者であろう?」
と疑い、つらつら眺めているうち、向うも気がついたとみえて、ちらっちらっとこちらを見る。容姿はまさに女みたいにたおやかなのに、それが全然愛嬌のない眼だが、ふしぎに彼女たちの脳髄をふらりとさせる。やっとわれに帰り、この奇妙な若者に対してのみならず、自分たちの混迷にも腹を立てて、
「しかし、男としてはあまりになよなよして、頼りなげな。──」
と、一人がつぶやき、あとの二人も強いて意志をふるい起して、「ほんにその通り」とうなずいたばかりなのであった。
さて、斑鳩は三人の侍女の前に立った。眼までが、水もしたたるような愛嬌をたたえている。まるで人が変ったようであった。
人が変ったよう。──まさに、彼は人が変った。|繊《ほそ》い、白い右手をあげて、その顔を上から下へ撫でると──なんと、その顔が別人になったのである。彼女たちは、たしかにこの若者の皮膚が膜みたいに剥かれて、その内部から別の顔がすうと現われるのを見た。
女たちは息をのんだ。それは、苦味走った、りりしい男の顔であった。それがこちらを見て、にっといたずらっぽい片えくぼを彫ると、彼女たちの胸に不可抗的な熱い波が立った。その肉体までが、ぬうと背丈がのびて、たくましい筋肉を具えたように思われた。
微笑したまま、彼は右手の指さきにつまんだ薄い膜みたいなものをまるめて左手に移すと、また顔を撫でた。すると、また一枚皮膚が剥かれて、第三の顔が現われた。
これは、鼻の高い、頬のこけた、青銅色の──しかも「男」というものを骨で造形したような凄味のある顔であった。氷みたいな眼で凝視されたとたんに、女たちはしびれてしまった。決して恐怖ではなく、名状しがたい男の迫力に、からだじゅうが呪縛された。
「わたしといっしょにゆかれるか」
男の唇が、動くともなく動いた。笑うように。──
「わたしは日に変る。夜に変る。──どの男が好きでござったかな? どの男に可愛がってもらいとうござるかな? お気に召さねば、お気のすむまで、無数の男の顔に変って御覧に入れるが」
侍女たちは惑乱していた。それがこの男の万華鏡的変貌のせいばかりではなかったことを彼女たちは知らない。
彼女たちは、斑鳩がささやくようにしゃべるたびに吹きつけられて来る男の香りを、強烈な精臭だと判別することは出来なかった。
まるで幾重にもつつんだ包装紙を剥くようにちがうデザインの顔を現わす。──斑鳩のやっていることは、うしろの長谷川左兵衛には見えなかったし、ささやきも聞えなかったかも知れないが、傍にかたまっていた奉行所の役人たちには充分見聞き出来るはずであったのに、彼らもまた別の方角に魂を奪われていた。
役人たちの前に立った鶯という女だ。
彼女がやって来たとき、何をするのか? という疑いよりも、その豊艶な美貌に侍たちはまず見とれてしまったのだが、たちまち、見るというより、その眼に吸われてしまった。はじめそれは、ふしぎに碧い湖みたいに見えた。やがてすうと日が翳ったようになった。それが彼女のそり返ったまつげが──まつげだけが伏さって瞳にふたをしたのだとまで見きわめた男が何人あったか、同時に彼らは、ただ自分たちの視界も雲がかかったように暗くなったのを感覚しただけである。しかも第三者から見ると、彼らはいっせいに、まるで|眩《まぶ》しいものでも見るように眼を細めているか、または馬のごとく立眠りしているように見えた。
侍たちは、前に立った女の裸身を見ていたのであった。きものが濡れたようにぴったりと吸いつくと同時に、女のくびれた胴や、豊かな腰が浮きあがり、それから──ふっとその衣服が溶けたように透明になって、むっちりと隆起した乳房から神秘にけぶるくぼみのあたりまでが、まざまざと見えて来たのだ。
そんなはずはない──などと疑う正常な判断力を彼らは失っている。たんなる女体ではない、それは男の脳髄にとろけかかった、白い、かぐわしい粘液のような裸形であった。
「わたしのゆくところへおいでかえ?」
女の唇が、動くともなく動いた。
「たとえ、わたしが切支丹だとしても?」
「……参りまする! 参りまする! どこへでも!」
いっせいにさけび出したのは、女たちだ。彼女たちは酔っぱらったような眼つきで、肩で息をしながら斑鳩を眺めていた。そちらでも同様の問いを投げかけられたと見える。
同時に、
「……参る! 参る! 切支丹の国へでも!」
と、侍たちが、灼けつくような眼で鶯を見ながらうめき出した。
「かような伊賀者でござる」
服部半蔵が長谷川左兵衛をふりむいて、にんまりしたのはこのときだ。
長い時間ではない、半蔵が若い二人の配下にあごをしゃくってから、ほんの二三分のことである。その二人の背を見ていた左兵衛には、何が起ったのかまったくわからなかった。ただ、厳格な奉行所に勤仕する連中が、あっというまに酔い痴れた獣のようになったことを確認したばかりである。しかもいったいあり得べきことか、切支丹云々とさえ口走ったようだ。
「伊賀の国|鍔《つば》|隠《がく》れ谷から、五年の修行を経て帰参したばかりのあの斑鳩」
と、半蔵はつぶやいた。
「また同じく甲賀の国|卍谷《まんじだに》より、五年の修行を終えて帰って来たあの鶯。──いかなる男女でも、あの両人にかかって破戒の地獄へ堕ちぬ人間はござるまい。──」
「──や? し、しからば」
「いかにも御推量のように、あの二人を長崎に潜入させ、いま承った八人の狂信者に近づかせ、その堕天ぶりを生きながらほかの切支丹どもに見せる。──長谷川どのの御心痛の事態を解決するのに、これ以上の法はないと存ずるがいかが?」
「い、いかにも。──」
「斑鳩、鶯、もうよかろう」
と、半蔵は顔をもとに戻して呼んで、ふっと息をとめた。斑鳩と鶯は、いつのまにかおたがいに向き合っていたのである。
斑鳩は、もうもとの顔にかえっていた。どうしたかというと、侍女たちは白日夢でも見るような思いがしたのだが、左手に握った皮膚の一塊を顔におしあて、すうと撫であげると、第二次の苦味走った男の顔になり、さらにもう一塊を撫でつけると、最初の通りの美少年に戻っていたのである。ただ、例の精臭だけは鶯に吹きつけていた。そして鶯はというと、これはまつげを伏せたままの眼を、じいっと斑鳩に向けている。──
二人のあいだに交流している奇妙な風を、肉欲と敵愾の混合だと看破したのは、ただ服部半蔵一人であったろう。
「よせ、味方同士ではないか」
ややあわてた顔で彼は叫んだ。
斑鳩のからだから異臭が消え、鶯はぱっちりと眼をあけた。
斑鳩が美しい顔に苦笑を浮かべて半蔵の方に向きなおった。
「お頭、御意向のほどはよくわかりましたが、拙者の担当はだれで?」
「担当。──左様さな、切支丹きちがいのうち、女は三人であったな」
「すると、甲賀の方は五人」
「いかにも、男が五人。それに女の鶯が向うことになる。その方が順当であろう」
「それで、みな|堕《おと》せば、拙者の負けということになりませぬか」
「左様さな、しかし、必ずしも数のみが問題ではあるまい。必ず相手によって難易がある。また破戒させたとしても、その破戒ぶりに程度があろう。その切支丹の|張本《ちょうほん》ども、転んだあげく公儀の犬にでもなればそれ以上のことはないが……とにかく、結果はわしが見て、判定しよう。必ず両者のあいだに優劣をつける」
この斑鳩と半蔵の問答と、いまの斑鳩と鶯のようすから、左兵衛はくびかしげつつ、口を出した。
「服部どの。……その両人、競争でござるか」
「されば、まことに奇妙な競争で」
と、半蔵も苦笑した。
「斑鳩が勝てば鶯が斑鳩のところへ嫁に来る。鶯が勝てば斑鳩が鶯のところへ婿にゆくという争いで。──」
「争い? よくわからぬが、同じことではござらぬか」
「それが、そうではない。困ったことに、伊賀と甲賀の名にかかわる必死の争いでもある」
服部半蔵は、むしろ暗然といっていい表情で、若い二人を眺めやった。
「それにしても、つくづくとうぬら可笑しな恋仲同士ではある|喃《のう》。……しかし、この争い、やらねば決着つくまい。決着つけなければ、両人いつまでも祝言出来ぬことになる。うぬら一日一刻も早うおたがいに抱き合いたかろうが」
むしろ厳粛といっていい眼になっていう。
「そのためもあって、わしは二人をここへつれて来たのじゃ。それは承知の上のことであろう」
脳中ただこれ切支丹のことのみであった長谷川左兵衛も、ようやくこの二人の若者にただならぬ好奇心をそそられて、なお何か尋ねようとしたが、このとき、ふとまわりのようすに気がついて、
「あ、これ、おまえら何をしておる?」
と、かん高い声をたてた。
石だたみの上の白い五月の|陽《かげ》|炎《ろう》の中に、侍女と家臣たちはあえぎつつ相寄り、女の中には異様な鼻声をもらし、男の中にはその肩に手をまわしている者さえあるのを見たのである。
ふりかえりもせず、服部半蔵はいった。
「やって見い」
斑鳩と鶯はうなずいた。
「かしこまってござりまする」
四
長崎の貿易商人たちは「|憑六《ひょうろく》しゃん」と呼んでいるが、当時名の知られた明人の通辞である。その憑六しゃんが、さきごろ|上《かみ》|方《がた》へ上った帰り、泉州の堺から同伴して来たお砂という娘があった。
堺の|唐《とう》|桟《ざん》屋の遠縁の娘で、そこで養われていたが、どうしても長崎の織物問屋に奉公したいという望みでつれて来たという。──その娘が、花島町の天川屋に来たとき、店ではちょっとしたどよめきが起った。
お砂があまりに美しかったからだ。むろん、長崎には稀な美人というわけではないが、とにかく華麗だ。抜けるような色の白い、ちょっと碧いような瞳、やや大きめの唇──という容貌もさることながら、その表情動作、声の嬌媚さが、人々をうっとりさせた。長崎に特別の誇りを持つ人々が、「さすがは堺の娘──」と、異国相手では先輩格のその町に改めて敬意をおぼえたほどである。中には、あれは|混《あい》|血《の》|児《こ》ではないか、とささやく者さえあった。
むろん、お砂は鶯だ。
唐通辞へは奉行所から手を回してもらったのだが、彼女はいかなる地方のいかなる家業の女にでも化ける。そして──驚くべきことには、彼女は奉行所で見せた顔とはべつの女のようだ。奇妙な同志の斑鳩は顔の皮膚をぬいだりきたりしたが、鶯も同様の術を心得ているのか。それとも甲賀独特の化粧のゆえか。
ともあれ、天川屋で働きつつ、また人々を悩殺しつつ、鶯は観察した。──その若い主人の天川屋銀七を。
天川屋は長崎でも一二を争う輸入織物の問屋であった。商品の多寡から南蛮更紗屋と呼ばれているが、むろんそのほかにもポルトガルのカッパや羅紗やカルサンや、イスパニアのメリヤスや、支那の|繻《しゅ》|子《す》|緞《どん》|子《す》、印度の桟留縞なども扱っている。青い潮の香のする店には、それよりももっと強い染料の色彩と匂いがあふれ、何十人かの奉公人の立ち働く姿に活気があった。
その中で、いちばん忙しいのは主人の銀七だ。
これがまことに美男である。しかも「油壺から出たような」という形容にふさわしいいい男である。やさしいというより弱々しげに、それが髪ふりみだして働くさまはむしろいたいたしかった。
──これが長崎の切支丹八元凶の一人だとは?
はじめ鶯は、奉行所の情報のまちがいではないかと疑ったくらいである。
その上、彼はこの天川屋の入婿であることもすぐに知った。道理で──と、その働きぶりに改めて同情をおぼえたほどである。
しかし、荒い声ひとつたてず、高麗鼠みたいに働くこの弱々しい婿は、存外奉公人たちから敬愛されていた。その勤勉なこと、やさしいこと、美しいこと──これは奉公人の中の女たちに特に効用があると見えたが──またその婿という立場への同情、などがその敬愛のもとになっているらしかったが、なかんずく、それはやはり信仰に由来することが最も大きいと思われた。
天川屋銀七が熱烈な切支丹であることに相違はなかった。十字を切る回数は算盤をはじく回数に劣らぬほどだし、例の切支丹行列には欠かさず参加するし、ときどきズニガという伴天連がやって来るのだが、そのときはまるで罪人のごとく地にひれ伏して迎える。そして彼はセバスチャンという洗礼名までもらっていた。
──けれど?
陽気に働きながら、鶯は心中にくびをかしげた。
──あの甲斐々々しさはほんものだろうか? あの信心も?
美男ではあるが、あまりに柔弱薄手なその容貌が、何としてもそぐわないのだ。それに。──
天川屋の老母と内儀の存在がある。老母は恐ろしい気丈者であった。内儀はもとより家つき娘で、これが銀七を見染めて、そのころまだ生きていた先代に頼んで、強引に婿にしたという話だが、これも勝気で、そして醜かった。そのくせ二人とも、きちがいじみた切支丹の信者なのだ。いうまでもなく天川屋の奉公人ぜんぶが切支丹であった。
──みんな、そのせいだ。銀七はあの二人のあやつり人形だ。
そう見ぬいて、鶯は銀七の誘惑にとりかかった。
南国の花のような眼で、じいっと銀七を眺める。すれちがうとき、その手や腕にふれる。──数日のうちに、銀七はそれに気がついたらしい。なんとこの主人は、おどおどと眼をそらし、頬をぼうと赤く染めるようになったのだ。
銀七にかぎらず、およそ鶯が投げかける|蠱《こ》|惑《わく》の糸にかからない男はいない。彼女は、見えない女郎蜘蛛の糸にからまれてもがきぬく蝶のような銀七の姿を見た。長崎の町を彩る明るい|樟《くす》若葉が濃い碧緑に変るより早く、そのはかない抵抗が完全に弱まったと彼女は認めた。
「旦那さまを、わたし好き」
土蔵のかげで、鶯はついに大胆にこんなことをいった。それどころか、その細いくびすじに蛇のように手さえからみつかせた。
「旦那さまのように美しい男は、堺はおろか、京大坂にもありませぬ。……」
大袈裟な甘言が、その鮮麗な唇から出ると、ちっとも大袈裟に聞えない。天川屋銀七は、|鬢《びん》のほつれも悩ましげに、とろんとした眼つきになった。
「お可哀そうな旦那さま、どんなにあのお|内《か》|儀《み》さまに苦しめられていらっしゃるか、わたし、よく知っています。旦那さまほど美しい方が、ほんとうにお気の毒だと、わたし見ていて涙が出るよう。……」
「女房のことはいってくれるな」
きっとしてたしなめたのかと思ったら、これが涙ぐんでいるような声だ。──鶯は身もだえして、濡れた熱い芳香を放つ唇をすれすれに寄せた。
「旦那さま、わたし旦那さまといっしょに堺へゆきたい。……」
銀七の表情が動揺した。気弱のせいというより、あきらかに酩酊したような顔色に、鶯はあと一息と思った。
そのとき、とろけかかっていた銀七のからだが狼狽した。彼は鶯をふり払おうとした。それが母屋の方から近づいて来る数人の|跫《あし》|音《おと》のせいだということを鶯は知った。そうと知れば、いっそう強くからみつくつもりであった鶯が、ふいにぱっと土蔵の土戸の前に離れたのは、話し声の中に一つ気にかかるアクセントの声をききつけたからだ。
「旦那さま、どうぞ」
土戸をあけながら、ふりかえった彼女の動作は、奉公人としての勤め以外のどんな気配も感じられない、呆れるほど落着いたものであった。
建物の向うから四つ五つの影が現われた。
「いくら呼んでもいないと思っていたら、おまえさまはこんなところにいたのですか」
まず声をかけたのは、内儀であった。出目金みたいな眼が、じろっとこちらに注がれている。銀七は赤くなり、また青くなった。
「いえ、蔵置きのモールを調べようと思うてな。……あ、|伴天連《パ ー デ レ》さま!」
「伴天連さまは、あさっての|聖体《サクラメント》の祝い日の行事についておまえさまにいっておきたいことがおありなそうです。すぐにサンタ・ドミンゴ寺へおゆきなされねばならぬとのこと、お急ぎのおいでなのに」
いいかたが、いつもよりにくにくしく、眼のひかりがただごとでないところを見ると、さすがは女房ほどあって、このごろ或る疑いを持っていたのかも知れない。
それをみなまできかず、銀七はその方へ駈け寄った。四五人の男たちの中に、ひときわ背の高い、紅毛の、おちくぼんだ眼窩の中に碧い眼のある伴天連がいた。ズニガという神父であった。
足もとにひれ伏した銀七の上に腰をかがめ、おだやかに彼は二三語話しかけていたが、ふいに顔をあげて鶯の方を見た。さすがの鶯が、心臓も冷たくなったような凝視であった。
「サタン」
伴天連はつぶやいた。それから、しばらく考えこんでからいった。
「今夜──夜になってから、あの女、サンタ・ドミンゴ寺、つれて来て下さい」
そして彼は背を見せた。
内儀はそのうしろ姿を見送り、また鶯をにらみつけていたが、まわりの男たちに、
「逃げるといけない。縛って、夜まであの蔵の中に入れてお置き」
と、命じた。
──その日、暮れて間もなくであった。夕刻から雨になった。縛られて南蛮更紗の中に埋もれていた鶯は、蔵の土戸がそろそろとあいて来たのに顔をあげ、そこに浮かんだ影を見て、闇の中に、にいっと笑った。
「お砂。……」
這い寄って来たのは銀七であった。雨に、びしょぬれだ。
「苦しかったろう。縄を切ってやる。逃げておくれ」
「旦那さま、わたしはどうしてこんな目に会わされたのでしょう」
「わからない。けれど、何にしてもあのズニガさまの前へひき出されたら、恐ろしいことになるような気がしてならない。お咎めはわたしが受ける。とにかく、逃げておくれ」
「旦那さまといっしょに?」
包丁で縄を一本切っただけで、銀七の手がとまった。──が、一息ののち聞えて来たのは、鶯にとって実に思いがけないふるえ声であった。
「わたしは……女房を裏切るわけにはゆかない。……」
「そ、それでは、旦那さまは何のためにわたしを助けに来てくれたのです?」
「それは、ただおまえを助けるためだけだ。……」
「ほんとうにそれだけ?」
そういいながら、鶯は眼をとじた。──まつげだけで、眼にふたをした。
闇に女の顔だけ、ほの白く浮かんでいたが、銀七にはまさか相手のそんな奇妙な「瞑目」までは見えぬ。
またそれが見えたとしても、このときその闇の中に、みるみる女の姿が白日のごとくまざまざと浮かびあがって来たことを、女の「眼術」のせいだとは、どうして銀七に理解できたろうか。
白日のごとく、とは形容したけれど、浮かびあがったのは、女のからだだけであった。たしか、きものは着ているはずなのに、一糸まとわぬ裸身が蝋みたいにひかって、しかも乳房にも腹にも幾重にも縄がくびれこんでいた。それが息づき、くねり、あえいでいるのは、まるで蛇淫の精のようであった。
それを奇怪だと見る能力をすでに銀七が失っていることは、彼もまた鶯と同様、まつげだけで半眼をふさいでいるのでわかる。──たんに視覚の蠱惑を超えて、このとき男の脳髄が魔界の媚酒に酔い痴れていることを鶯は知っていた。
「ゆきましょう、旦那さま、堺へ」
鶯は立ちあがった。一本切られた縄は、するすると解け落ちた。
「堺で、わたしを可愛がって!」
彼女は、肉欲に歯をカチカチ鳴らしているこの色男のかぼそい手をひいて、土蔵の入口ヘ出ていった。
母屋の方から跫音が聞えて来た。自分を切支丹寺へつれてゆく連中であることはあきらかだ。
「早く」
先へ出て、さすがに鶯はあわててふりかえり、銀七をうながした。その眼の前に土戸が閉じられてゆくのが見えた。
「ありがとう、お砂、しかし。……」
狭まってゆく暗がりから、泣くような声が流れて来た。
「わたしは第六番の|掟 《マンダメント》にそむくことは出来ない。――」
そして、内側からかけがねをかける音がした。
長崎に入って来る異国の船が目印にするというサンタ・マリア教会は高台にあるので、「山のサンタ・マリア」と呼ばれる。その尖塔を燃やすようにかがやいていた夕日が西の海へ沈んでも、港の中は湖のように、いつまでも紫紺の夕光にけぶっていた。
港には二隻の南蛮船、三隻の|明《みん》船、一隻の御朱印船、それにおびただしい和船に支那ジャンクまで、しずかに浮かんでいた。南蛮船や明船のまわりには、木の葉みたいに小舟が寄って、叫び声や笑い声や唄声を投げかけている。船の異国人を対象にした物売りや芸人の小舟であった。
「あ、あいつ、渡海丸の方へゆくぞ」
「渡海丸の衆は、みんな|陸《おか》に上ってることを知らねえのか」
「はてな? 乗ってるのは女一人じゃねえか?」
「もぐりの船饅頭だ!」
船饅頭とは下等の売女のことだ。
こんな話声ののち、その方へいっさんに舟を|漕《こ》ぎ出したのは、港の地回り──この場合、異国船相手の物売りたちからショバ代を取上げている五六人のならず者たちであった。
ただ一|艘《そう》、離れて浮かんでいる御朱印船の方へ近づいてゆく小舟には、その通り女が一人|櫂《かい》をあやつっているが、桶や樽や瓜なども積んでいるところから見て、水売りないし果物売りとも思われるが、またばかにきらびやかな服装をしているところからすると、港の売女であるかも知れない。
「船饅頭にしては美しか?」
「なぐさんでやれ」
女の小舟は、帆を下ろした三本|檣《マスト》の|朱《あか》い御朱印船の高い|艫《とも》のすぐ下まで近づいていたが、追って来る舟に気がついて、櫂を休めてふりむいた。
とたんに、海面をびょうびょうと犬の吠え声が渡り出した。
「あっ、犬を舟に乗せていやがる」
「二匹も。──」
ならず者たちは眼をまるくして、ひるんだ。が、すぐに。──
「犬をつれて来るたあ、いよいよへんな小女郎だ」
「犬がこわくて、しっぽを巻いたとあっちゃあ、人間さまの名折れだぞ」
「やれ」
彼らは猛然と舟をつきかけて来た。おどしのためか、刀をひっこぬいているやつさえあった。──すると、高い空から声がふって来た。
「おい、よすがいいぞ。女一人を相手に」
ふり仰ぐと、渡海丸の艫の手すりに頬杖ついて、大きな夕空を背に笑っている顔があった。三十四五の、ひげの剃りあとも蒼い、いかにも男らしい顔だ。
ならず者たちはまたひるんだが、二つの小舟が接触したこともあって、
「いや、こいつあ、港のもぐりでござんす!」
一人が仰のいてさけぶあいだに、どやどやと二三人、女の小舟に乗り移っている。
「待て、もぐりといっても、おれが承知すればよかろう。渡海丸の|按《あん》|針《じん》仏頂寺孫助がいうことだ。……おい、女、売りたいのは、水か瓜か?」
「あ! 仏頂寺さま!」
のぼせあがっていたならず者たちの中で、はじめてその声のぬしを知ったらしく、棒立ちになった者もあった。
按針とは航海士のことで、船長につぐ大役だ。当時御朱印船にしても、按針は紅毛人、少くとも支那人を傭っていることが多く、日本人は珍しかったが、この渡海丸の按針仏頂寺孫助は、小西家の遺臣とかいうことで、それよりもその颯爽として闊達な性行と、ヨハネ孫助と呼ばれる熱心な切支丹であることで知られていた。ほんのきのうも、例の切支丹行列の先頭に立って大々的に大十字架をかついで歩いているのを見たのに、きょうは何の用か、碇泊中の船に帰っていたと見える。──
そうと知っても、地回りたちはもう騎虎の勢いであった。それに、近ぢかと見た小舟の女の美しさが彼らに火をつけていた。
「いいや、だれが何といったって、もぐりを見逃しちゃ、しめしがつかねえ!」
舟のはしに、二頭の犬の頭を両わきにかかえてうずくまっている女の方へ殺到しようとして、なお狂ったように吠えつづける犬に、二足三足、たたらを踏んだ男たちの鼻さきを、鉄と潮の匂いがぷんとかすめた。
「わっ」
飛びのいたはずみに、水けむりをあげて一人海に落ちた。
錨だ。渡海丸の控えのものであろうが、小さいながら、ともかくも物凄いかたちをした錨が、長いマニラ麻の綱にくくられて、ならず者たちの顔の前を振られて過ぎたのだ。
「な、なんだ!」
文字通り仰天した彼らの眼に、なおゆれてぶら下がる綱をつたい、スルスルと海面へ滑り下りて来る男の姿がうつった。と見るや、錨を足場に、その姿は波の上を二三メートルも跳躍して、こちらの舟に飛び移って来たのである。
「いけねえ!」
この離れわざに胆をつぶして、ならず者たちはまたもとの舟へ逃げ戻る。その混乱のさなかに、また一人海へ落ちた。
「帰れ」
と、仏頂寺孫助はそちらに爽やかな白い歯を見せたが、すぐに女の方へ向き直った。
「いいところを見せたくて、こんなまねをしたわけではない。おまえに用があって下りて来たのさ」
なお犬をかかえたまま、女は孫助を見あげて──にいっと笑った。夕の海風に髪吹きみだし、まるで夜光虫みたいな濃艶な顔に、たしかにそれは妖しいまでの媚笑であった。
「だめだ。女は買わん。おれはこれでも切支丹だからな」
孫助はくびをふった。
「それより、おまえ、先刻から見ているとつくづく妙な女だな。ただの船饅頭ではないな。ちょいと正体を知りたくなって、下りて見る気になったのだが」
そういって、彼は女の方へちかづいた。
そのとき女の手にきらっとひかったものを見て、さすがの仏頂寺孫助ふと立ちどまったが、彼をさらにぎょっとさせたことはその次に起った。
女が、いきなり一方の犬のくびにその|匕《あい》|首《くち》をあてたのである。恐ろしい切れ味であった。きぇーん、と一声、牙をむき出したままの犬の首が斬り落されると、その切り口からビューッと血の噴水が孫助に──孫助のみならず、その背後に河童みたいにもみ合っていたならず者たちにも吹きかけられた。
あまりのことに男たちは、血の霧に染まったまま立ちすくみ、舟幽霊のごとくただ舟に揺られていたが、たちまち、
「な、何をする」
孫助が躍りかかろうとした。
その前に、女はもう一頭の犬を海へつき落し、仰むけに横たわった。もすそをかきひらき、両脚立てて、描写し得ない淫らな姿態で。
──と、仏頂寺孫助はかっきと踏みとどまった。彼は眼を天にあげ、十字を切った。
が、たちまち眼は、海にひらいた妖花に吸いもどされ、全身の骨も鳴るばかりにふるえ出した。背後の舟では、地回りたちが猿みたいにわめき出し、またもやこちらの舟になだれ込んで来ようとしている。
「主よ、第六番の掟を守らしめ給え!」
と、孫助はさけんだ。瀕死の獣のおたけびにも似た悲壮な声であった。
獣──いかにも彼らは獣になったのだ。船饅頭は、鶯であった。首を斬った犬は牡犬だ。海へ落した犬は牝犬だ。牝犬はさかりの最中であった。それに発情して、狂乱状態になっている牡犬の血を浴びせることによって、人間の男をその犬同様の状態におとす。彼らの持つ生涯分の肉欲がこの一瞬に圧縮されてほとばしり出ようとするのだ。それを抑圧し得る男はないはずであった。
しかし、仏頂寺孫助は、逆に地回りの舟へ飛び移った。放り出されていた櫂をひっつかむと、その舟はもとより女の舟でおし合っているならず者たちを、ただ一薙ぎでみな海へ薙ぎ落した。
そして、自分は櫂を放り出し、また波の上を飛んで、もとの錨にぶら下がった。
「女、帰れ! 帰ってくれ!」
と、カチカチと歯を鳴らしつつ彼は絶叫し、脇差しをぬくと、錨のすぐ上の綱にあてた。
「ゆかぬと、おれはこの錨を抱いたまま海へ沈まねばならぬ!」
長い夕凪の時刻が過ぎて、やっと涼風の立ちはじめた石だたみのどろどろ坂を、船坂貞蔵はひとり下りて来た。
どろどろ坂とは、長崎言葉で、ゆるやかな坂道をいう。両側の石垣を覆う青深いいたびかずら[#「いたびかずら」に傍点]や、赤や白の夾竹桃のしげみももう闇に沈んでいたが、たとえ真昼でも貞蔵の眼に入らなかったかも知れない。
船坂貞蔵は町年寄の一人であった。町年寄とは役の名であって、べつに老人のことではない。長崎はその昔から市民の特別自治制であった。その首長が九人の町年寄であって、後年あれほど幕府の威権が確立しても、「御老中でも手が出せないは、大奥・長崎・金銀座」と俗謡に唄われたくらいである。貞蔵もまだ四十を一つ二つ越えたばかりだが、ゆったりと肥って、温厚な容貌とからだつきは、いかにもそれらしい風格と貫禄をそなえていた。
貞蔵の眼には、今夜、サンタ・クルス寺でズニガ神父から見せられた聖画がまだ浮かんでいた。また耳には、ズニガの厳かな声が聞えていた。
「……見よ、十二年|血《ち》|漏《ろう》を患いたる女、イエスのうしろに来りて御衣の|総《ふさ》にさわる。そは御衣にだにさわらば救われんと心の中に言えるなり。イエスふりかえり、女を見ていいたまう、娘よ、心安かれ、汝の信仰なんじを救えり」
絵は、このときのキリストと女を描いた油絵であった。この町の|切《コ》|支《レ》丹|学《ジ》|校《オ》に学ぶ日本人の学生が最近描いたものだという。──船坂貞蔵はたんに町年寄であるばかりでなく、ミカエルという教名を持つ信徒の重鎮でもあった。
ミカエル貞蔵は、夢見心地で、坂を下り、やがて円い石橋にかかった。
──と、橋の欄干に腰を下ろしている一人の女の影を見て、貞蔵は足をとどめ、くびをひねった。
空に細い三日月があったが、それよりも水明りに浮かんでいる女のようすがどうもおかしい。背に垂れるべき長い黒髪を肩から乳房の前へ二つに分けて、寂然とうなだれている。そして口の中で、何やら小さく、ぶつぶつとつぶやいているのであった。
──狂女か?
と、疑いつつ、貞蔵は近づいた。
「もし、どうなされた?」
女は顔をあげた。水の精かと思った。長崎の町の人間みな知っているといっていい貞蔵が、はじめて見る顔だ。
「冷たい。……冷たい」
女はそうつぶやいたようだ。細面のためいっそう大きな、うつろな眼は、貞蔵を見ているとも思えなかった。──その言葉のせいばかりでなく、おちついた男だったが、さすがにぞっとした。
「これ、どこから来た娘御じゃ?」
「天草から」
溜息のようにそう答えたかと思うと、次にきいた。
「あの、慈悲屋はどこ?」
慈悲屋また慈悲院ともいう。ポルトガル語のミゼリコルディアのことで、救貧、救癩、医療、貧死者の埋葬などを仕事としている切支丹の施設だ。
「ミゼリコルディアなら本博多町じゃが……おまえさん、病気かな」
「冷たい。……冷たい」
娘はまたつぶやいた。狂人ではないらしい、と思いながら、貞蔵はなおぶきみさを禁じ得なかった。
「寒いのか?」
「いいえ、手だけが冷たいの」
「手だけが?」
貞蔵は思わず娘の左手をとって、はっと自分の手をひっこめた。
まさに冷たい。──死人のような冷たさ、どころではない。まるで氷のようだ。しかも、ぬらっと濡れている感じであった。たしかにただごとではないが、こんな病気はきいたこともない。娘はワナワナとふるえていた。
「手が、いまにも切れて落ちそう。……助けて下さい。暖めて下さい」
「暖める? ゆこう、火のあるところへ」
「いいえ、火ではだめなの。人肌でなくては。……あの、足のあいだに挟んで下さい」
「足のあいだに。──」
「腿のあいだに。──すると、一息はつけるのです。どうぞ、御慈悲を。──」
市民のどんな訴えでもおだやかにきいてやって、また適切な処置を下す有徳有能の人物であったが、この願いには貞蔵も戸惑った。
が、すぐに彼の頭によみがえって来たのは、血漏の女を触れさせて微笑しているイエスの画像であった。またいつかズニガ神父からきいた、癩人にすら口づけさせたというキリストの話であった。
「よかろう。それでその苦しみが休まるものならば、さあ」
裾をひろげ、欄干に坐った娘の前に立ったこの町年寄は、彼を敬愛する町の人々には想像もつかぬ奇態な姿勢であったが、貞蔵自身はこの時はもう慈悲の炎に燃え立っていた。
「こ、こうかえ?」
貞蔵は、娘の両掌をぴったりと腿ではさんだ。やはり、氷のように冷たい、ぬらっと濡れている掌であった。
「少しはあったまったかえ?」
「は、はい、ありがとうございます。……」
言葉が尋常になったと思ったら、娘の冷たい手が、腿にはさまれたまま上へうごめき出した。貞蔵は狼狽して、いちど絞めつけかけたが、掌が異様なぬめりを以てゆるやかに滑るのをふせぐことは出来なかった。
触れられた自分の皮膚が冷たくなったので移動するのであろうと思い、また娘の表情があまりと真剣で、かつこころよげなので、抵抗をやめ、そのなすがままにまかせていた貞蔵は、ふいに彼もまた思いがけぬ快感に、ずうんと脳がしびれるのを感じた。
貞蔵はひたと握りしめられたのであった。
冷たい掌はさざなみのような痙攣を送った。
「……あっ」
突如としてわれにかえり、ミカエル貞蔵は飛びのいた。飛びのいて、何ともいえない眼で娘を見た。娘はなお欄干に腰を下ろして、足をぶらぶらさせている。そして、にんまりと笑った。
「こういう|天《ハラ》|国《イソ》を御存じ? 町年寄さま」
貞蔵は、腰をうねらせた。離れているのに、何かに握りしめられた感触は消えないのだ。それがさざなみのような痙攣を送りつづけて来るのだ。
「まだ? ハライソはまだ?」
ミカエル貞蔵は体内に溢れるものが波打って来るのをおぼえた。ならぬ、ならぬ、この快美に|魂《アニマ》をまかせてはならぬ。──
彼はその快美の根源を見下ろした。すると三日月に、それがまるで|蝸牛《かたつむり》の這ったあとのように銀色の皮膜につつまれているのを見た。その皮膜が、さざなみのようにうごめきつづけているのだ!
「おまえは、何者じゃ!」
貞蔵は声をしぼった。笑い声が返った。
「|天《アン》|使《ジョ》。──|地獄《インヘルノ》の」
このとき貞蔵が身もだえしつつ脇差をぬいたのを見ても、女は欄干から下り立とうともしない。──鶯であった。彼女は、自分の術にかけた男が──精を流しつつ斬りかかる、などということは不可能なことを知っていた。
「ゆきましょう、船坂貞蔵さま、わたしといっしょにインヘルノのハライソに」
この有徳の町年寄は、数分前とは別人のような凄惨な面貌で刀を握ったまま立ちすくんでいたが、
「ミカエルよ。──第六番、なんじ姦淫するなかれ!」
と、うめくと、その脇差を横にして、すぱっと邪念の根源を切り落し、しかもみずからのけぞっていって、反対側の欄干から川の中へ落ちていった。
五
長崎の町家は、路地の奥がたいてい石だたみのちょっとした広場になっていて、そのまんなかに共同井戸がある。女房たちが集まっておしゃべりしたり、子供たちが遊んだりする庶民の社交場だ。
|黄《たそ》|昏《がれ》。──それもちょっと過ぎたころ、玻璃細工師の女房お浜は、手桶を持って、そんな井戸へ来た。
さっきまでこのあたりでしていた子供の唄声はもう聞えない。そのわらべ唄も、長崎では賛美歌であった。ちょうど|夕《ゆう》|餉《げ》の時刻であろうか、あるいはいま「アンジェラスの時間」なので、ひまのある人々は近くの|教会《エケレシア》へいって祈りをささげているのであろうか。
その子供たちの唄声を思い出したのか、それとも教会へゆけなかったわびの心からか、お浜は柳の枝の向うにひかる星に眼をあげて、小さく口ずさんだ。
「アヴェ、海の星
デウスの|聖《たっと》きおん母
かついつも|童《ビル》|貞《ゼン》
果報いみじき天の門」
お浜はいまの自分を不倖せとは思ってはいなかったが、しかしこのマリアヘの讃歌を口ずさむと、夕闇の中にも胸に星がともるような気がした。彼女が自分を不倖せと思っているかいないかはべつとして、その頬はやつれ、身なりは貧しかった。しかし、いかにも貞潔な顔をしていた。
もともとお浜は大きな玻璃細工屋の一人娘なのである。それが職人の頼助と恋をした。そして、親戚一統の反対にあって、とうとう伯父がそのあとをひき受けることになって、彼女は家を出て頼助といっしょになったのだ。夫は腕はよかったが、からだの弱い男であった。すぐに病気になって、いまではこの路地の奥で寝たり起きたりしながら、ビードロで|笄《こうがい》や|簪《かんざし》をほそぼそと作っている。──
しかし、これはお浜の愚かさというより、彼女の意志の強さを物語る話かも知れない。顔かたちのやさしさに似ず、いまお浜がこの町内で最も熱烈な奉教人であることも、不倖せのためというより、その熱情的な天性のためであったかも知れない。彼女はマグダレナお浜と呼ばれていた。
「あ……」
つるべに手をかけて、お浜はふとふりかえった。
何者かの気配を眼や耳に感じたのではなく、ふしぎな匂いにはじめて気がついたのだ。
「もうし。……」
声がした。男の声だ。柳の下の暗がりに、たしかに何者かが横たわっていた。
「水を。……」
お浜はおそるおそる近づいた。すると何かにつまずいて、石だたみにピイインときれいな絃の音がひびいた。琵琶であった。
横たわっているのは、頭巾をかぶっているが、たしかに琵琶法師らしい。しかも、若い。──のぞきこんで、彼女は息をとめた。眼はとじているものの、それがあまりにもあえかな、美しい若者であることを知ったからだ。
「まあ、こんなところに。……」
お浜は手をさしのばした。
「病気なの? 井戸はそこにあるのに、つるべを汲む力もないの? どこが悪いの?」
そしてまた彼女は息をとめた。若者の体からまきちらされる異様な匂いのためであった。
いったいこれはどういう病気なのであろう。芳香とはいえないが、決して不快な匂いではない。お浜はどこかでおぼえがあるが、どうしてもそれがわからなかった。ただ栗の花の花粉にうずもれたような感覚におちいり、頭がくらくらした。
「水? そう、水を。──」
お浜は頭をふり、同時に昏迷の霧をふりはらって立ちあがり、井戸のところへ戻った。
が、まだ霧につつまれたような思いで、つるべをひきあげたとき、その手がとまった。いまの匂いが何か、やっと気がついたのだ。彼女にしてみれば、遠い弱々しい思い出の匂い、といってもいいほどであったが、それはたしかに男の精臭であった!
お浜の頬が赤くなった。想念のせいではなく、生理的反応であった。このとき、彼女をつつむ匂いの霧がむっと濃くなったのだ。
「水。……水」
精臭を放つ声が頬をなでると、ふいにうしろから抱きしめられた。
琵琶法師が、いつのまにか這い寄って、立ちあがって、しがみついて来たのだ。──はっとして、反射的にふりほどこうとしたが、それはしがみつくとはいえない。蔓みたいに強靭な抱擁であった。
「おかみさま。……諸国を旅して来ましたが、あなたのように美しいおひとを見たのははじめてでござります。……」
このささやきを異常だと思い、無礼だと怒る力は、すでに精臭の霧にひたされた女にはないはずだ。──いつか奉行所の侍女たちに見たように。
法師は、斑鳩であった。彼は唇をお浜の頬にすべらせ、むせかえるような魔香を吐きかけながら笑い声でささやいた。
「まず、水をのませて下され。おかみさまの美しい口移しに。……それで、わたしの病気もてきめんになおる。なおってから、わたしの御恩返しを受けて下さるか、それはまず水をのませてもらってから。……」
斑鳩にしてみれば、金輪際あり得ないことで、ほとんど超人的な反応であったが、このときお浜が星空に白いくびをあげ、あえぐようにつぶやいた。
「かなしみのおん母、第六の掟を守らせ給え!」
「え?」
思わずゆるんだ手をふりはなし、お浜は井戸の上に泳ぎ出した。あっ──と、斑鳩が棒立ちになったとたん、女の姿は幻花のように眼前から消え、はるか底で水の音がした。
それは、この妖しの琵琶法師からのがれるためというより、みずからの心を燃やしかけた或る情念を恐怖しての行動だったかも知れない。それほどそれは突発的な行為であった。
「なんじゃ?」
背後で声がした。石だたみの向うで手桶を抱えた女の影が二つ、怪しむようにこちらをうかがっていた。──斑鳩の眼はむろんひらかれていて、きゅっと苦笑を浮かべた。
「殺しては、使命が達せぬ。出直しじゃ。……おうい、つるべ縄を下ろすゆえ、それにつかまってお待ちなされ。いま人が助けに来るほどに」
そして後は石だたみの上の琵琶をひろいあげ、闇を舞う白い妖蛾のごとく駈け去った。
壁から離れ、たたみの一帖分の間隔をおいて、どっかと坐り、
「ふうむ」
と、筆をひざにななめにすえて、みずから感にたえたようにうめいた。黒頭巾、黒装束に身をかためているが、斑鳩であった。
眺めているのは、白い壁である。
ほかには、だれもいない。六帖ほどの広さだが、銀の十字架、イスパニア風の置時計、ポルトガル風の燭台、支那|簾《すだれ》、など異風な調度が見える。しかし長崎の家庭としてはそれほど珍しいものでもなく、どちらかといえば簡素で清潔な部屋であった。ただ皮表紙に錆びた金箔の西洋文字を押した書物が、経机に二三冊重ねてあるのだけは、たしかに異彩であった。それに、どことなく、優雅な女の匂いがしていた。
さて、その壁の一面である。そこだけは何もない白壁をためつすがめつして見て、斑鳩は、
「……われながら、よう書けた」
と、つぶやいて、にやりとした。
「おれはともかく、鶯が」
そして、腕をのばして、前に置いてあった小さな壺をとり、筆の滴を切った。筆の先からは白い乳のようなものが壺の中に落ちた。彼は何やら壁にも書いたらしいが、常人の眼にはただの白壁である。筆を矢立にしまう。壺にふたをして、紐でしばって腰にぶらさげる。立ちあがると彼は、風のようにその部屋を出ていった。夕凪の宵である。
これは長崎島原町の町医者|生《いけ》|月《づき》|玄《げん》|甫《ぽ》の家、その娘のお市の部屋であった。このところ玄甫は毎日午後からは本博多町のミゼリコルディアに患者を治療にゆき、父のみならずお市もそれを手伝いに通っていた。
夜になって、いつものように玄甫とお市は帰って来た。お市はじぶんの部屋にひきとって、燭台に灯を入れた。彼女は何も気がつかない。──
灯の下で、お市は本を読みはじめた。本は机の上にあったもので、使徒や聖女の|殉《マル》|教《チリ》の物語であった。各頁、左面にローマ字で、右面はラテン文で印刷されたもので、彼女はその左面を日本文同様に読むことが出来た。
「……そのとき|童《ビル》|貞《ゼン》アナスタジアいいたまいしは、わが大切に存ずるおん|夫《つま》はすなわちおんあるじゼズスなり。このおんまえにては、金銀珠玉も灰ほこりのごとし。ただひとえにこの君ばかりを望みたてまつるなり。……」
ふっとお市は、自分をだれか見ているような気がした。ふりかえったが、むろんだれの姿もない。
「われを美麗なりとの言もみな以てお迷いなり。花をあざむき月をねたむ粧いとても、あだなる夢の浮世ぞかし。……」
彼女はじぶんの心がみだれているのを感じた。なぜみだれているのかわからない。なんの理由もない。
「……、帝王これをききて大いに怒りをなし、裸になって恥をさせよと下知をなす。アナスタジアききたまいて、いまわれを裸になさるることさらに恥辱にあらず。これ罪科のけがれをぬぎすて|殉《マル》|教《チリ》の清き衣をきせられたればなりとのたまう。……」
読むたびにいつも透明な炎のような歓喜に満たされる心に、この夜妄想が浮かんでいるのをお市は感じた。何のおぼえもないのに、甘美で恐ろしい妄想が。──
「帝王、腹をすえかねて、おん衣裳をぬがせたてまつり、牛の皮肉のあいだよりぬき出して乾しかためたる筋を集めて、それにて、打擲させらるれば、おん|色《しき》|身《しん》を血にて洗いたてまつるなり。……」
この文章とはまったくかかわりもなく、このとき彼女の頭にくねっていたのは、なんと男女交合の秘図であった。
洗礼名をクララと呼ばれ、その清浄な美貌と熱烈な奉仕生活から、「ミゼリコルディアの聖女」といわれるお市の頭に。──
この夜から、彼女の苦しみがはじまった。
お市の脳髄に煩悩が渦巻き出したのだが、なぜそんなことになったのか、彼女にはわからなかった。夜を重ね、日を経るにつれて、その秘戯画は鮮やかになって来た。見たことのない男と女の顔までが。
男は骨で造形されたように凄味のある顔をしていた。そのくせ、鋼鉄の機械のような「男」の迫力があった。女は春の花のように豊麗であった。それが男におしひしがれ、手足をねじまげられ、およそ奇怪とも淫靡のきわみとも形容しがたい姿態でからみ合っている。あえいでいる口の中からのぞいている舌、わななく乳房、痙攣する指から濡れそぼつ体毛のひとすじひとすじまでまざまざと見えた。
お市はこのことを父に訴えることさえ出来なかった。ただ、日とともにやつれて来た。
夏の終り、灯もともさずに自分の部屋に坐って歯をくいしばっていたクララお市の耳に、思いがけず男の声がささやいた。
「……その通り、して見とうはござらぬかな?」
だれもいないはずの闇のかなたに、そんな男の声が聞えたのを、驚きもせず、当然と感じたほど、彼女の心はしびれていた。声は笑いをおびていた。
「あの女になり代りとうはござらぬかな?」
突然、お市は経机の上にあった懐剣をつかんだ。抜きはらうなり、おのれの乳房の下をつき刺そうとしたのは、恐怖ではなく、自分の妄想を何者かに見通されていたと知った恥のためであった。その何者かがたとえ変化妖怪であろうとも。
「待った! 死なれてはこまる」
その懐剣に何かがぶつかり、懐剣は落ちた。
「思いつめるにはまだ早い。いや、こちらの顔を出すのがちと早すぎたか。──いましばし、そちらが耐えかねるときを待とう!」
闇の中で、斑鳩は、壺に筆をひたして、壁いちめんに塗りたくっていた。いや、塗りつぶしていた。白壁におのれの精汁を以てえがいた彼自身と鶯の|春宮図《しゅんきゅうず》を。
|不《しら》|知《ぬ》|火《い》の海を渡って来る風は、もう秋風といってよかった。実際、海の果てにながれる鰯雲は毎年の秋の知らせであった。
その浜辺に白くひかって立っているものがある。遠くから見ても巨大な十字架であった。
伴天連ルイス・フロイスなどの報告書によると、これは|手洗《ちょうず》鉢のようにくぼみのある巨石の上に立てられ、高さ三ブラサ、腕木が一ブラサ半、木の太さ一パルモ半、すなわち高さ六メートル、腕木が三メートル、太さ三十三センチという大十字架で、これが長崎の町々、丘陵に無数につらなり、口ノ津や横瀬浦、そのほかの島々では、出入する船の遠くからの目標になったといわれる。
大黒町の螺鈿細工で知られた漢南屋の後家お弦は、朝の砂浜をひとりぶらぶらと歩いていった。ちかくにある十字架に祈りを捧げにゆくのは、彼女の毎朝の日課であった。
後家といっても、まだ三十代だ。はたちのころは傾城屋で暮し、いちじは南蛮人の妾にまでなったという女で、その美貌を買われて螺鈿屋の後妻にもらわれたのだが、それも数年、いまは富商の未亡人らしく、昔の面影もない。その代り、たっぷりしたものごしには鷹揚な気品すらある。それにしても、彼女がいまはフランチェスカと呼ばれ、長崎の女人切支丹の指導者とまで目されるほどの信仰をいだいたのには、どんな機縁があったのであろう。
十字架近くまでいって、ふとお弦は足をとめた。海際にひとかたまり、たしかに大小と男の衣服がぬぎすててあったのだ。それはなかば潮にひたっていた。
彼女は眼を海へ向けた。すると、もう初秋といっていい海を、浜へ向って泳いで来る者があった。みるみるその男は、みごとな抜手を切って近づき、ザ、ザ、ザ、と銀のしぶきをまきちらしつつ渚にあがってきた。お弦のすぐ前方にである。
彼はぬぎすてた衣服をとりあげたが、それが濡れているのに気がついたらしく、当惑したようにお弦を見て、それからにっと白い歯を見せた。
「お早うござります、漢南屋のお弦さま」
なれなれしく挨拶をしたが、お弦はこの男を見たことがない。
どうやら牢人者らしい──と判断しても、しばらく彼女が黙って見ていたのは、その男の裸身のすばらしさであった。色は浅黒いが、スラリとしているのに筋肉の瘤が盛りあがり、全身ぬれひかって、まるで青銅の彫刻のようだ。
黙って眺めているお弦に、かえって男の方が急に恥じらったように眼をそらした。
「どなたでござりましょう」
と、やっとお弦はきいた。
「は、高麗町の長屋に住む牢人の馬ノ目鉄心と申すもので」
「どうしてわたしを知っているのです」
「は、高麗町のとある傾城屋の亭主に、高麗町はじまって以来の傾城の権化ともいうべき女人は、ただ一人、いまは町家の後家になっておる女人であったらしい──という話をきいて以来、よそながら、それとなく」
こんどは、お弦が眼をそらした。この牢人のいった言葉の意味はよくわかった。彼女は若いとき高麗町の遊女であった。
「なぜ、海で泳いでいたのです。水は冷たかろうに」
彼女は話をそらした。牢人馬ノ目鉄心の顔に、ふと苦悶にちかい翳が浮かんだ。
「それが、煩悩消滅のためにと」
「煩悩?」
「さればです。何せ住んでおるところが傾城屋のある町、煩悩の起るはあたりまえにて、また起ったところで苦しむことは万々ないのでござるが、右の話をきき、またときに往来、その女人のお姿をかいま見るにつけ、煩悩と女人が合体し。──」
思いがけないことを耳にする。──ひょっとしたらこの牢人者は、ここで自分を待ち受けていたのではあるまいか?
お弦は黙って十字架の方へ歩き出した。すると、馬ノ目鉄心も、大小ときものを小脇にかかえたまま、下帯一つの姿でトボトボとついて来た。そして、いう。──
「ここに拙者の苦しみがまたふえてござる。このごろパオロ瀬兵衛と申すお方よりすすめられ、切支丹の教えを耳にいたし、信心のこころ湧きましたれど」
十字架に十字を切ってから、
「え?」
と、お弦はふりかえった。
「右の煩悩が壁となり、いかにしても宗門に入れませぬ」
首をたれていた鉄心は、眼をあげてお弦を凝視した。苦味走った顔に似合わぬ、哀れな、すがりつくような、それだけに年増の女から見ると抱きしめてやりたいような男の眼であった。
「その女人があなたさまでござる」
鉄心はついにいった。それから、あえぐように、
「お弦さま、あの……まことに恐れ入った儀ではござるが……いちど拙者を抱いて下さるまいか? それにて拙者、煩悩の霧うちはらい、涼しき心頭にて奉教人になりまするが……いちど、たったいちどだけ!」
「そ、それはなりませぬ」
あわててお弦はくびをふり、しいておちつきを取戻そうとして、十字架を立てた巨石のふちに腰を下ろした。
「おまえさまのお心はありがたく思いますけれど……そんなことをしては、わたしにとって第六番のおん掟にそむくことになります」
「第六番のおん掟?」
お弦は眼をとじた。濡れたようなまつげが、朝の光に、豊麗な頬に翳をおとした。彼女はふるえ声で誦しはじめた。
「おんあるじは申されました。……姦淫するなかれ、といえることあるを汝らきけり。されどわれ汝らに告ぐ。すべて色情をいだきて女を見る者は、すでに心のうちに姦淫したるなり。もしなんじをつまずかせば、右の目|抉《くじ》り出して棄てよ。……」
お弦は眼をあけた。
「これからは、わたしを見ないで下さい!」
馬ノ目鉄心は首も折れるほどうなだれて立っていたが、その下帯を盛りあがらせているのは、ぎょっとするほど大きな、たくましいかたまりであった。お弦の眼は吸いつけられて、離れなくなった。白い浜辺の白い風が、乳のようによどんだ感じであった。それは栗の花みたいな濃い匂いに満たされた。時のわからない魔睡のような時が過ぎた。
「おん母、フランチェスカの罪をゆるし給え!」
ふいにお弦はそんなさけびをあげると、立ちあがり、駈け出した。
突然のことで、馬ノ目鉄心は茫然として、こけつまろびつ、砂をちらして逃げてゆく美しい後家の姿を見送っているばかりであったが、ふと眼を戻し、お弦が坐っていた石の下の砂が小さく濡れているのに気がついた。
鉄心は──いや、斑鳩は舌打ちした。
「もう一息であったのに──惜しい!」
六
長崎奉行、長谷川左兵衛と伊賀の服部半蔵は、前にならんで坐った斑鳩と鶯を見つめていた。左兵衛がいった。
「大御所さまより御下知があった」
しばし、思案して、苦い顔で、
「秋になった。八人の切支丹の|張本《ちょうほん》ども、健在にていよいよ伝道にのぼせておるが」
「みずから転ばせるを最上といたすゆえ、手をやいておるのでござる」
と、半蔵はとりなしたが、これもむずかしい表情であった。
「……まことにしたたかなやつら」
「……おそろしい宗門でござりまする」
と、斑鳩と鶯は長嘆した。おのれのわざを信じる者の、それがこと志に反した事実への、心からなる嘆声であった。
「大御所さまの御掟には」
と、長谷川左兵衛は面を改めていった。
「長崎のありさま、もはや何としても捨ておけぬ。いよいよこの十月を以て、切支丹寺を破却し、その元凶どもを仕置にかけいとのことじゃ」
声を沈めて半蔵がいう。
「さりながら、そのような荒療治は、かえって切支丹どもに逆効果を起しかねぬ。またこの五月より長崎にあって、なお所期の目的を達し得ぬわれらの面目にもかかわる。──」
「いや、あくまでもきゃつら、転ばせてごらんに入れまする」
斑鳩と鶯は声をそろえ、昂然としていった。その二人を半蔵はつくづくと眺めやり、
「いまさらのことではないが、両人、奇妙な恋仲同士じゃ|喃《のう》」
と、またいった。
実にこの二人は、五年前──まだ少年少女といっていい年ごろから、人の目につく純愛の仲なのであった。それが服部組の掟によって、五年間、それぞれの故郷伊賀鍔隠れ谷と甲賀谷へいって修行して帰ったのち、まさに奇妙な恋人と変った。伊賀へ嫁にくるか、甲賀へ婿にゆくか、同じようなものだが、決して同じではない、伊賀甲賀の面目にかかわる争いがからんで来たのだ。その試験台はこの長崎に於ける切支丹の処理であるという。そして、それぞれ妖艶の秘技を修行して来ながら、おたがいにそれを交すことは許されぬという。──このたびの試験が終るまでは。
「うぬら、一日も早う、はれて交合したかろうが」
半蔵はいま伊賀者らしい明晰さでこういい、さらにきびしい調子で、
「それに、右の大御所さまの御下知である。八人の元凶のうち、すでに試みた六人はひとまず置いて、ともかくも残った二人に手をつけて見い。一穴ひらけば、壁はすべて崩れるもの。──その二人は、パオロ瀬兵衛、アウグスチノ道円と申す。いずれも男であるが」
と、ひざをすすめた。
「斑鳩、鶯。──二人にてその二人、それぞれ転ばせい」
「──は!」
「いずれか、早う転ばせた方を勝ちとする。彼らを殉教させるに於いては、われらの負けじゃ。事は迫っておるぞ」
「──はいっ」
斑鳩と鶯は、眼と眼を見交した。燃えるような肉欲と敵愾の眼を。
七
落日に稲の穂波が|黄《き》|金《ん》色に染まっていた。その向うに、「山のサンタ・マリア」教会の尖塔のシルエットが浮かんでいる。まるで南蛮渡りの|極彩色幻燈絵《ファンタス・マゴリヤ》のような風景であった。
そこから、夕の鐘の音が鳴りわたりはじめた。すると、野に働く農夫たちも、いたるところで十字を切ったり、両掌をくんで首を垂れたりして|祈《オラ》|祷《ショ》をとなえるのであった。
そんな風景を、山国瀬兵衛は重厚な、が、あたたかい微笑の眼で見まわしながら、坂道を上ってゆく。ときどき、百姓たちとよろこばしげな声で夕の挨拶をかわす。
こういうときには、彼が曾ては豊後の大友家でも聞えた豪傑であったという来歴や、いまでも敵ならば千万人でも立ちむかうといいきるときの面だましいとは別人のようだ。
パオロ瀬兵衛が突然奇怪な魔に襲われたのは、しかしこの平和で美しい秋の夕のことであった。
坂に向って、畑のない、ただ両側に薄の穂のなびいている道をちょっといったところで、ふいに何やら眼にひかるものを覚え、ヒョイと路傍の樟の木の方を見た。すると、彼の背ほどの高さの枝に、手鏡が一つひかっているのが見えた。
「はて、何の|呪《まじな》いか?」
近寄って、見上げたとたん──その鏡が赤くぎらっと眼を射た。
それが西日の照り返しだと気がついたのはあとになってからのことである。いや、何者かが、西日をべつの鏡で受けて、その赤い光をその鏡に投射したのだと知ったのものちのことだ。それよりも、その刹那、燃える赤い炎の中に、彼は実に思いがけないものを見た。──
男女合歓の光景である。黄ばんだ草をしとねに、もつれ合い、からみ合っている若い二つの裸身である。
一瞬、その世界は消えた。きらめき飛ぶ光の破片とともに。
路上に散った鏡の中に、ねじくれた釘の一塊を見て、山国瀬兵衛はふりむき、坂道を横の山へ逃げこむ女の影を見た。
「待て」
猛然と地を蹴った瀬兵衛の凄じさは、さすがに彼の過去を思わせた。
「なにやつだ。何のためのいたずらか」
いま見た奇怪な秘戯の光景も、どこからか鏡で投影されたものではなかったか、と気がついたのはそのときである。そういうことが可能であるかどうか、疑うよりさきに、まずそんないたずらをした人間への疑惑に、彼の足は砂ぼこりを巻いた。
女だ。しかも、遠目ながら若い。──それが、まるで女獣のような早さで山の稜線を駈けてゆく。
それを十数メートルの近くまで追いつめたのは、山国瀬兵衛なればこそであったろう。が、さすがの彼も息を切らして、走りながら大刀の小柄をぬいた。殺す気はない。足でも打って、捕えるつもりであった。それだけのわざの主であった。
しかるに。──
「……おう!」
彼は惑乱した声をあげた。
山の稜線を逃げてゆく女の影は見える。しかし、見えない。──その女の影の手前に、もう一つ何やらの影があるのだ。影というより、光のかたまりが。
はじめて気づいたことではない。駈けながらも、それがチラチラと見えていて、心中怪しんでいたのだが、いま燃え立つ赤い夕雲を背に、彼はそれが何であるかを見た。
それは男女合歓の光景であった。もつれ合い、からみ合う若い二つの裸身であった。
「あ、あれは?」
まるで遠い幻影でも見るようにさけんだが、瀬兵衛はおのれの眼をおさえ、こすりたてた。その光の描線とかたまりが、残像のごとき自覚もあったからである。
「こ、これは?」
もはや小柄を投げるどころではない。女の姿も山へ消えてしまった。──穂すすきの中にどっかと坐って、パオロ瀬兵衛は|抉《えぐ》り出しそうに眼をかきむしっていた。
彼は先刻、赤光の中の秘戯を見たとたん、それがピシリとおのれの眼球に灼きつけられて、いまも──いや、永劫にとれぬことを知った。
ちょうど山国瀬兵衛がその鏡をのぞいたのと同じ時刻である。
|修道士《イ ル マ ン》道円は、「山のサンタ・マリア」から坂道を下りてきた。
イルマンとは次席の司祭ともいうべき地位にあるが、彼はほかの司祭やイルマンのごとく|顱頂《ろちょう》部だけを剃らないで、日本の僧のように丸坊主にしていた。事実彼は以前に薩摩の禅僧であったのだが、切支丹になっても、どういうわけかこの全剃髪の慣習だけはやめなかった。それは仏教へのみれんではなく、彼の頑固な精神の象徴であった。
禅僧であったころ、伴天連ズニガは彼と問答を交したことがある。
石像のごとく坐禅を組んでいる彼を見て、ズニガはきいた。
「あなたは何をしているのか」
「女と悦楽のことを考えておる」
と、道円は答えた。やがて、青年と老年はいずれが幸福かという問答になった。道円はいった。
「そりゃ、若いに越したことはござらぬ。若いときは、何を欲しようと、自由にとげられますから|喃《のう》」
「しかし、大海の真っただ中にある船と、静かな港に近づいた船と。──」
道円は手をふった。
「いや、あなたのおっしゃろうとすることはよくわかっております、伴天連どの」
──が、これほどズニガに手をやかせた禅僧道円も、いまはアウグスチノと呼ばれ、十字架を胸にかけ、|念《ロザ》|珠《リオ》を腰に垂れ、ズニガの最も信頼するイルマンであった。そしてまたズニガの信じるところによれば、彼は禅僧のころから、女や悦楽のことを考えたこともない、青春のよろこびに酔ったこともいちどもあるまいと思われる厳格な男であった。
その道円が、稲の穂波のあいだの道から、山桜の木一本だけが立っているちょっとした草原の傍へ出たとき、彼はそこに思いがけないものを見たのである。
草の中で交合している若い男女であった。
道円はそれが見知り越しの百姓の若者と娘であることを認めた。二人がいいなずけであることも知っていた。が、それにしても秋の夕方、こんなところで全裸でたわむれ合うとは。──
「これ、風邪をひくぞ」
道円は、しかし、それだけいった。
獣のように交わり合った二人には、道円の声も聞えないらしかった。それに、風邪をひくどころか、落日をあびて、二人はまるで赤光の中に燃えあがっているように見えた。
道円はそのまま通り過ぎた。彼は自分が心を動かされたとは思わなかった。彼は何物をも見なかったような無表情な顔で山道を下っていった。
しかるに。──
この夕以来、彼の眼に妖しい現象が生じたのである。
何たることか。──|教会《エケレシア》で、十字架を背景とする聖像や聖画を見るたびに、それが男女の組合せであるかぎり、像や絵が動き出し、交合する幻覚に襲われ出したのだ。もろもろの聖徒の|行伝《ぎょうでん》、聖女の殉教を描いた絵や、清らかな天使の像、最後の審判に於ける男女の群像はもとより、恐ろしいことに、死せるキリストを抱く慈母マリアのいわゆるピエタの図までが。──
「おう!」
アウグスチノ道円は、おのれの両眼をこすり、かきむしった。
彼はいつぞやの農夫農婦の合歓のしとねとなった草に、伊賀の忍者斑鳩が精汁を以てあらかじめ巨大な十字架を描いておいたことをもとより知らなかった。──その光景を、頭上の山桜の枝のしげみにかけた鏡でとらえて、遠くの山国瀬兵衛に見せたのは甲賀の鶯である。そもそも若い農民を獣に|堕《おと》したのが、両人のわざの合体であった。
伊賀、甲賀、いずれが勝つか。
パオロ瀬兵衛とアウグスチノ道円のいずれが早く邪淫の地獄に堕ちるか。
──九月の末、パオロとアウグスチノは「山のサンタ・マリア」の二つの入口から、よろめきながら入って来た。二人はおたがいの姿にも気がつかないようであった。
パオロ瀬兵衛は進んで、ステンドグラスを通す暗紫紅色のひかりの中の大十字架の前に立った。アウグスチノ道円は歩いて、金の星をちりばめた祭壇の上の聖母とキリストの像を仰いだ。
しばらくして、パオロ瀬兵衛は小柄をぬき、アウグスチノ道円は針を出して、おのれの両眼をぷつりと刺した。
──闇の中のどこかで、べつの四つの眼が、絶望的にとじられた。
八
切支丹にコンヒサンということがある。すなわち|懺《ざん》|悔《げ》である。
「……さてまた寺の模様を伝え承わるに、“秘密の間”とて、デウスの姿を物すさまじげに、作り、磔にかけたるところを見する。その奥の間は“対面の間”とて、サンタ・マルヤという女房、デウスを生み出して、二歳ばかりの子を抱きたる姿を見する。
その奥の間は、“懺悔の間”と申して、伴天連、イルマン、宗門の者ども車座に坐って、その真ん中にて、おのれの犯せし悪事の懺悔をなし、わびごとをして、したたかに恥じしめられてのち、ペンテイシャと申して、蝿打ちのようなる物に赤銅の針を植えたるを、伴天連手ずから打ちて血を垂らす。
かようの行を勤むれば、デウス守護したまうあいだ、身命は露塵ほども惜しむべからず。真に仏になるぞと思い定めて、火|炙《あぶ》りになるも、牛裂き、車裂き、|逆《さか》さ磔、かようの難に遭うが、望みのかなう|成仏《じょうぶつ》と心得て、命をいとい、悲しむ者なきと見えたり」──(吉利支丹物語)
十月のはじめ、長崎五万の切支丹の中で最も信仰の篤い者として知られた八人の男女が、「山のサンタ・マリア」で、伴天連ズニガを中心に坐った。その中の一人、町年寄のミカエル貞蔵を通して、奉行所から或る内示があったからである。
「悲しや、十一の|教会《エケレシア》みんなうち砕かれるとは」
三人の女は泣いていた。
「それどころか、長崎の切支丹ことごとく、いやそれのみか伴天連どのたちまでみな殺しにすると申される。──」
と、貞蔵は沈んだ声でいった。
「ただ、われら八人が磔にかかるならば、ほかの奉教人は助けてつかわそうとのことじゃ。いわんや、伴天連どのたちはどんなことがあってもお助け申さねばならぬ。長崎に御教えの火を絶やさぬために。──」
「望むところでござりまする!」
と、ヨハネ孫助とセバスチャン銀七がうれしげにさけんだ。
沈黙して、涙をながしつつ彼らを見ている伴天連ズニガの方へ、きっと顔をむけて、パオロ瀬兵衛とアウグスチノ道円が深い声でいった。彼らの眼はつぶれていた。
「では、|殉《マル》|教《チリ》の前に|懺悔《コンヒサン》を。──」
このときの八人の奉教人の告白が、寛永九年(一六三二年)、ローマで法王庁許可の印のもとで刊行された。「懺悔録」という。全文ローマ字とラテン文を併記してあるが、このローマ字が、──現在のわれわれでさえ知ることが難しい当時の日本の口語をそのままに表わしており、かつ驚倒すべき内容をふくんでいるので、|稀《け》|有《う》の文献として知られている。まことにショッキングな表現ではあるが、これも偽りのない人間図の一つとして、ここにあえてこれをほぼ原文通りに紹介することにする。
セバスチャン天川屋銀七の告白。
「……わたし、女に|叶《かの》うた男と見知らるるために、念をかけた女の前で、一夜に七八度ずつと身が強さを高言し、誘いまらした。
また、だまして女房にとろうと甘言して|靡《なび》きまらして、ついに犯してから、いいかえて捨てまらした。
また、或るとき、にわかに人のないところで一人の女につき合うて、地上に倒れ伏し、その着るものをはぎとり、犯そうとしたれども、なろうずるところにわめかれたるによって犯しまらし|得《え》いで、そのまえのきわのほとりに漏らしまらした。なれども、いろいろの約束を以てたばかって、ついに落しまらしてから、何も約束をとげまらせなんだ。|空《から》|誓《ぜい》|文《もん》をいたし、同心させて捨てた女の数はおぼえまらせぬ。……」
ヨハネ仏頂寺孫助の告白。
「……われは若いころより、畜生のように色道に迷いたれども、女に望みがござらぬ。生得、女はきらいでござるによって、妄念に犯さるるときは、いつも手ずから身を揉み扱うて淫を流しまらした。
また美しい男とたがいにはじ[#「はじ」に傍点](性器)を持たせて漏らしまらすること日毎にござった。……」
ミカエル船坂貞蔵の告白。
「……それがし、女房を持ちながら、夫ある女に近づきまらした。夫ある女を犯しまらするほどのよろこびはおざらぬ。
女のおびえ、いやがるをなだめ、また同心せずんばその夫の|商《あき》|売《ない》をとむるとおどし、しだいにその五体に手をかけ、口を吸い、さら[#「さら」に傍点](性器)を探って、ついに思うままにしまらする。
もはやさしおけといくたびも心定めたれど、このたのしみに弱いものなれば、重ね重ね落ちまらした。
或る女房は、その夫長らく留守でござるによって、もし懐妊すれば夫帰ってより殺されようと気づかいして、とかく子だねが内に入り止まらぬようからくりをいたしまらした。
また、わたし夫婦のちぎりの時分にも、女房のことは思わで、ひとの女房に念をかけて、その顔思い出して淫を漏らしまらすること平生のことでござった。……」
マグダレナお浜の告白。
「……わたし、男よりみめかたちのよい美しい女と|褒《ほ》めらるるときはいさみよろこび、また気に合い、|美《よ》い男とつき合うときは、真実から寝たかったこともたびたびでござった。
そのうえ、わたしが夏の暑さで夜着をかぶりかねて身の上に何もなく寝ておるところへ、人がそろそろと近づいて、夜中の時分にその寝所が暗うござれども、かねてからその覚悟で忍んで来たとみえ、にわかにわが胸に手をかけて探り、何もいわずに上に乗られたれば、とり外そうと働いたれども、|騒《ぞぞ》めいたら打殺そうとおどされまらした。なれど、なかば怖れ、なかば叱って、ついにはその男を口でかみ、手でさしあげ、自由にはさせまらせいで、|否《いな》しえまらした。これはいまの夫ではござらぬ。
その後まいちど、同じ者が来て抱きすくめられたれば、はじめは身が気に合わずあったれど、みめかたちを褒められ、口など吸われておるうち心が自然傾き寄って、ついにはゆるしまらした。……」
クララお市の告白。
「……わたし|不《ふ》|犯《ぼん》の願いのものでござるをみなの衆に知られ、縁談の沙汰もござらいで、|邪《よこ》|淫《しま》の念あまりに|強《きつ》う犯されるときには、防ぎ得いで身をかきさぐり、あの方に指をさし入れ、男と寝ておるふりをいたして、四、五、六度、その淫楽をとげ果すように身を動きまらした。
またわが願いを知りたる男、せめて肌を見しようとて久しくすすめられたれば、はじめはよもよもと申して|否《いな》みたれども、都合いいつめられて、それにまかせまらした。そのとき男、わたしの肌を見て、とりかかって倒されたれば、肌と肌を合わせたところで、もはや火が燃えて何事なりと仕果そうと思いたれども、さら[#「さら」に傍点]打ち割ったらば身籠って、外聞を失おうと存じて、ほんにはいたさせいでござった。
とにかくさら[#「さら」に傍点]はうち割らいで、ただ少し損じて残ったが、それよりほかは両人のほしいままにいたしまらした。……」
フランチェスカお弦の告白。
「……わたしが|童《わら》|女《べ》でふた親を失うて孤児になりまらした。そうあったれば世を過すようがござらいで、十七の年より南蛮人よりその|伽《とぎ》にとられて、一年のあいだ女房のようにおりまらした。それから色の道おぼえて、そのまま傾城になって女郎町にまかりいて、わが身を好む男に売りものとして、ここに七年間おりまらした。
そのうちに、きれいさのためと、また子のわずらいに遭わぬために、男と寝まらしたあとは、くっと内まで|拭《のご》いさらい、また|尿《いばり》などして、とかく腹中に男のものが何も残らぬようにいたしまらした。
そのうえ、夫死にたるあと、若い男を忍ばせて、こちらから|臀《しり》よりすれば身籠る気づかいがないとすすめて、|若道《にゃくどう》のようにたびたび寝まらしてござる。……」
パオロ山国瀬兵衛の告白。
「……それがし、生得、女のまえ、怖ろしゅうござれば、いつも臀よりいたしまらせた。その数七八十度はござろうまで。
いちどは、あまりにいやがったれども、あまりすすめたによって身をまかせたれども、つかまつるところに引き動かされたによって、臀のうち裂けまらした。
また女の美しい臀を思うたびに、その名残り惜しさで泣き、手ずから漏らすことたびたびでござる。……」
アウグスチノ道円の告白。
「……われ僧体のころ、|年《とし》|端《は》もゆかぬ若僧に淫道を教うること、世にないたのしみでござった。
また、はばかりながら獣と三度深い|罪《とが》に堕ちまらした。また若僧どもと獣どもと交わらせ、それをおたがいに見まらする。それも平生のことでござった。
三、四、五度、在家の女房と通じたれど、子をもうけぬために、身持ちになってから腹を捻ってその子を堕しまらした。いちどは産のまえに踏み殺して、腹中から死んで生まれたと申しまらしてござる。……」
そして彼らは神々の前へひれ伏した。|恍《こう》|惚《こつ》としていっせいにいった。
「われらは大悪人でござるによって、さだめて見知らぬ、身におぼえぬ|罪《とが》は多うござろうずれど、もっとも恥とする分を申し|顕《あらわ》いだまででござる。デウスの御名代、こちらの罪の償い、おんゆるし、いざペンテイシャを!」
闇の中のどこかで、べつの四つの眼が、恐怖にひらいて見交されていた。──やがて、深い感動のためにとじられた。
九
慶長十九年十月五日、長崎の西坂に八本の磔柱が立った。
海に落ちる血のような夕焼けが、それぞれの殉教者を染め、泣きむせぶ大群衆が刑吏に追われて山を下ったあと、薄闇のただよい出した八本の十字架の下へ歩いていった服部半蔵は、そこに死んでいる斑鳩と鶯を見て驚愕の眼をひらいた。
奇怪にたえなかったのは、いかなる法で死んだかは知らず、二人は八本の柱の両端の下に伏し、それぞれ切支丹の鞭を握りしめ、その鞭でみずからを打ったらしい血まみれの痕に覆われていたことである。
「……未熟者、不首尾の責めをとったか。伊賀、甲賀なら、さもあるべきこと。──」
近づいて来た奉行に、半蔵は苦汁をのんだような顔で話しかけたが、眼はいつまでも、二人の若い配下のふしぎな死微笑に吸いつけられていた。
忍法甲州路
一
白い雪の上の一滴の赤い血液。
──ちがう。血ではない。一匹の|轡虫《くつわむし》だ。
それにしても、いよいよ以てこれは世にあり得べきことではない。冬に轡虫などが生きているはずがない。いや、冬でなくっても、あんなに真っ赤な赤い轡虫が存在し得ようか。
それが、みるみる鼠ほどになり、猫ほどにふくれあがって来た。
──息をのんで見ていると、その轡虫がぱっと羽根をひろげた。まるで赤い紗の|団《うち》|扇《わ》をひらいたように。
「──あっ」
その二枚の紗の羽根に、痩せた細長い男の顔がぼんやりと浮かんでいた。──同じ顔のようでもあり、似てはいるが、ちがう人間のようでもある。──
「む|夢《む》|竿《かん》……|睡《すい》|竿《かん》……」
赤倉才兵衛はうめき声をたて、その自分の声にぽっかりと眼を醒ました。
夢であった。すぐに夢であったと気づいたが、才兵衛はまだ放心したように天井を眺めている。冬だというのに、全身びっしょりと汗をかき、心臓がまだ波を打っているのを、みずから笑う気になれなかった。
頭を動かして横を見る。女が寝ていた。
これも冬というのに、半裸のからだをのり出し気味にして、むろん枕をはずし、口をあけて眠っている。いまたしかにこちらはうなり声をたてたはずなのに、ピクリとも動かない。──才兵衛は、改めてここが吉原の遊女屋であることを知った。
……遊女屋に来てまでも、きゃつらにうなされておる。
はじめて、赤倉才兵衛は苦笑して、ぼんやりと女の寝顔を見ていた。
小銀という遊女である。この女が実によく寝る遊女であることは、いまはじめて知ったわけではない。──熟睡し切って、|弛《し》|緩《かん》しぬいた表情であったが、しかし実になまめかしい寝顔であった。
うす暗い小さな燭台のけぶるような灯のせいかも知れない。夜明前で、障子にうつる雪あかりのせいかも知れない。しかし、この女は寝顔の方がたしかに魅力があった。閉じたまつげの|翳《かげ》、半びらきの厚目の唇からちらっとのぞいている|仄《ほの》赤い舌、むっちりとしたあごからのどへかけての白い脂肪の息づき。──ことごとく淫猥をきわめ、しかも眠っているためにあどけない幼女のように見えるところもある。──
才兵衛は次第にまたむらむらとして来た。
「おい」
と、呼んだが、返答はない。
「小銀」
片腕をのばして胴に巻いた。ぐいとひきよせたが、遊女のまつげは微風に吹かれたほども動かない。
「……いや、よく寝るやつだ、こいつ。──ようし、起してやるぞ」
才兵衛は本格的にのしかかった。
そして、次第に夢中になった。──女は風に漂う柔かい雲のようであった。事実彼は、雲の上にフワフワと乗っている心地がした。決して無反応なのではない。口を吸われれば舌を動かす。腰は彼の腰に応じる。──しかも、依然として女は眠っているのだ。文字通り、「夢中」にいるのは女の方なのだ。……
「あう、あう、あう」
才兵衛は奇声の韻律を発した。彼がこんな声を出すのは、女が目醒めて相手をしているときにはいちどもない。──それでも女は眠りつづけている。
いつのまにか、才兵衛も眼をとじていた。快美のためでもあったが、それ以上に、女の|蕩《とう》|漾《よう》たる夢の世界と波長を合わせていたのだ。こんなに眠りこけている女と交合したのははじめてであったが、それは曾て経験したことのない微妙で妖美な、夢幻的な恍惚の境であった。
「……これだっ」
ふいに彼の眼はかっと見ひらかれ、そして全身がぴいんと硬直した。──やっと遊女小銀は眼を醒ました。
「まっ、どうしたのでありんす?」
彼女がそんな地上の──いや、廓の女の声を出したとき、赤倉才兵衛はもうダランと彼女のからだの上にのびている。眼もとじていた。
「びっくりするじゃありんせんか? もしっ、どうおしなんしたえ?」
いちじ、客が絶息したのではないかと思い、ぎょっとしてゆり落そうとする前に、才兵衛のからだがながれるように横に動いた。
ほとんど水平のまま宙に浮いた感じで、そのまま彼はスウと立った。まるまっちい、しかしズッシリと充実した肉体がそろそろと歩き出すと、まるで雲を踏むような軽さに見えた。
「ぬしさん。……寝ぼけなんしたかえ?」
彼は眼をつむり、まったく夢遊病者としか見えなかった。──が、彼がしゃがみこんで、そこにあった刀をつかむのを見て、遊女小銀は悲鳴をあげようとし、その声ものどでとまった。
スウと刀の鞘を払った男の姿に、見る者の息さえとめる物凄い妖気があったからだ。──しかし彼は刀を向うへむけて構えたまま、スルスルと前へ歩み、スルスルと後へ退った。依然として眠れるがごとく眼をとじたまま。──
才兵衛は眠ろうとしているのであった。或いは半睡半醒の状態で剣をあやつろうとしているのであった。
ほんのいま。
……これだ! とさけんだ刹那、彼はおのれの剣法に、稲妻のような霊感を得たように思ったのである。眠りつつ、客と交合する遊女。その半睡と半醒の間から|醸《かも》し出されるある微妙、妖美、夢幻的な恍惚は、決して覚醒している肉体から生み出すことのできないものであった。
剣の極意は無の境地にあるという。無念無想であれという。剣を以て就職したといっていい赤倉才兵衛もその通りだと思い、人にも口にするけれど、いうは易く行うは難い。彼自身がその境地に入れることはめったにない。少くとも意識して、そうなれたことがない。意識したとたんに無念無想ではいられないからだ。
いま、それに至る法を、或いはそれと近似した状態になり得る法を彼は発見したのであった。すなわち、半睡半醒で剣をふるうわざを。
そんなことが出来るか。──出来る。少くとも、観念的な無想の境よりも、修行によっては可能な状態だ。げんにいま、この寝ぼけ女郎がみごとやってのけたではないか。起きているにあらず、寝ているにあらず、しかも充分自分も快感を味わい、それよりそもそも、相手のおれを、いまだ曾て経験したことのないほどの微妙甘美の極楽に|飛翔《ひしょう》させたではないか。──
閉じたまぶたにぼうと明るみがさす。才兵衛はありありと燭台に燃える蝋燭を見た。
──眠竿!
気合もかけず、一閃、水平に薙いだ。
「……!」
声ではない、息の音をたてたのは、ただ遊女小銀だけである。
灯が風になびきつつ一メートルも右へ動き、静止した。彼の一刀のきっさきには二つに切れた短い蝋燭が乗り、なびいた炎はすぐにまっすぐに立ちのぼり出した。
眼をつむり、その姿のまま赤倉才兵衛はなお茫と立っていたが、やがてニヤリと会心の笑みをまるい頬に滲ませて来た。
赤倉才兵衛が、|麻《ま》|耶《や》藩の江戸家老|石《いし》|来《き》|監《けん》|物《もつ》のもとへ伺候したのはそれから数日の後であった。
「三竿討ちの儀、いつなりと才兵衛承知つかまつってござる」
「おう、目算ついたか!」
監物は、いかにも愁眉をひらいた、という感じで眼をかがやかした。
「して、どのような工夫をつけた」
「半睡浮遊剣と申す」
「半睡……浮遊……剣?」
「されば。──」
赤倉才兵衛は、半分眠りつつ刀をあやつる奥義を体得したことをのべたが、それは半睡の遊女との交合から大悟したものだとはさすがに告白しなかった。
「半分眠りつつ……人が斬れるのか」
「それ以外にあの三竿は討てませぬ」
「そもそも、そんなに自在に半分眠れるのか」
「それは修行次第でござりましょうなあ。実は、半分眠りつつ斬る、ということより、自在に半分眠る、ということの方が難しく、この点については拙者なお修行の必要がござりまする。ただし、これまでの、いかにして三竿の眠りの術を破るべきや、まったく手がかりなしといったありさまとはこと変り、これは目算のある修行でござる。拙者にあと十日間の時を下されば、必ずこの境に入ってごらんに入れる。まず、三竿討ちの儀は、この赤倉才兵衛におまかせ下されい」
「三竿、すべて一度に討てるか」
才兵衛の顔にやや動揺のさざ波がわたった。
「一人ずつ、誘い出して討ちまする」
「そううまく問屋がおろすか」
石来監物は、才兵衛以上に不安げな表情になった。
「きゃつらが一人ずつ誘い出されて来るかどうか、それは保証できぬ。……やはり、|黄《き》|瀬《せ》|川《がわ》|黄《こう》|白《はく》、|漆沢魚五郎《うるしざわうおごろう》の力も借りねばなるまい。──」
「黄瀬川、漆沢らでは歯がたちませぬ」
「いや、あれたちも三竿破りの工夫については日夜心血をしぼっておるときく。……三竿いまだ現われず、彼らが現われたという報告あるまでしばらく待て」
「それは待ちまするが。……」
と、赤倉才兵衛はうなずいて、何やら考えているらしい眼をしていたが、やがてその眼が変に粘っこい光を帯びて来た。
「監物さま、もし拙者が三竿すべてを仕止めたなら……お|婉《えん》どのは頂戴いたしてもよろしゅうござりましょうな」
「よい。もっとも、お婉を消すのがそもそもの狙いじゃが、消すまえにお婉を、おまえがどうしようが勝手じゃ」
才兵衛はうす笑いして独語した。
「拙者、あの娘御を半睡半醒のうちに犯し、半睡半醒のうちに殺して見とうござる」
二
──こういうわけだ。
麻耶藩三万石。
藩主|主膳正《しゅぜんのしょう》は七十にちかい老体だが、若殿が一人あって、大三郎という。ちょうど年ごろで、二年ばかり前縁談があった。某藩一万石の姫君である。それを大三郎が拒否した。
理由は、その相手が、某藩の姫君とはいうが実は養女で、しかもなんと江戸の下屋敷にある父主膳正の愛妾お櫛の方の妹だからであった。老体の主膳正の死後をおもんぱかったお櫛の方と野心家の江戸家老石来監物のたくらみだが、しかし陰謀ではない。主膳正自身もそれを望んでいたからだ。主膳正が承知の上だからこそ、その娘を一万石の大名が養女とするというお膳立てをしてくれたのだ。ともあれ、姉を自分の愛妾とし、妹を子息の奥方とするなどという、いささか人倫にはずれた関係をかたちづくろうとしたのも、もうろくしかかった主膳正が、まだ若くて妖艶なお櫛の方のいいなり放題になったからであろう。
麻耶大三郎はそれをはねつけた。
孝心ふかい大三郎が、父の意向にそむいてまではねつけた理由は、しかしそれだけではない、とお櫛の方と石来監物は考えた。大三郎にはべつに意中の女人があり、そのせいだと見た。
国元にあるいわゆる国家老和佐右太夫の娘お婉。
そして和佐右太夫は、江戸に於ける若殿の縁談には強硬に反対して来た。
自分たちの望みが思い通りにゆかない憤りから、お櫛の方や石来監物は、若殿の恋愛を純なものと見ず、右太夫の反対を忠心からとも見ず、すべて和佐親娘の野心からの支障だと判断した。疑心暗鬼というやつだ。
和佐親娘を消せ。
ついに焦慮のあまり、お櫛の方と監物はこううなずき合ったが、まさか藩士のだれかにこれを命ずることはできない。
で、石来監物は秘密裡に、彼の私兵として七人の浪人を傭った。泰平の時代で禄にあぶれてはいるが、麻耶藩のうちでも相手になる者はないのではないか、と思われる剣客たちであった。これをひそかに国元に送り込んだのである。──一年前のことだ。
その結果。──
或る雪の一夜、彼らは和佐右太夫を暗殺した。しかし──お婉はとり逃した。しかも彼らのうち四人は命を失ったのである。
右太夫に返り討ちになったのではない。彼らははじめて思い知らされたのだが、麻耶藩に存在していた|雨《あま》|師《し》夢竿、雨師眠竿、雨師睡竿という三人の男のために討たれたのである。
この暗殺隊ばかりではない。江戸家老の石来監物でさえその存在を忘れていたのだが、彼らは遠い昔から麻耶藩に仕える忍者の子孫であった。三人は、兄弟である。むろん身分の低い者で、三人とも和佐家に|僕《しもべ》のごとく奉公していた。これが、四人の剣客を斬った。
生き残ったのは、黄瀬川黄白、漆沢魚五郎、そしてこの赤倉才兵衛の三人で、和佐右太夫を討ち果したのは彼らである。で、彼らは右太夫にかかっていて、ほかの四人が雨師夢竿らに斬られたありさまを見ることができなかったのだが、あとでまだ断末魔の息をふるわせていたやつが二人あって、これが、
「……眠うなる。……きゃつ、ひとを眠らせる。……」
また、
「赤い轡虫。……」
という奇怪な言葉を残してこと切れたのである。
まるで大根でも斬るように無造作にしてかつ凄じいその斬り口を見て、才兵衛たちは舌を巻いた。その四人の剣客が自分たちと匹敵する──中の一人のごときは、はるかに上と思われる使い手であることは、三人とも認めていたからだ。
才兵衛たちが、和佐右太夫を殺害しただけで、かんじんのお婉には手をつけず、|蒼《そう》|惶《こう》として引き揚げたのは、この戦慄の衝撃のためであった。
四人の仲間が斬られた光景を見ないにもかかわらず、斬り手がだれかということがわかったのは、その前何カ月か和佐家を偵察しているとき、中の一人が──一番の使い手だとみなが認めていた男が、
「あの三人の男、ひょっとしたらゆだんできぬ奴らだぞ」
と、ささやき、それでその三人の男の、いずれも相似た細長い顔を記憶にとどめていたことと、それからこの騒ぎのあと、その三人がお婉を擁していずこかへ姿をくらましてしまったことから逆に知れたのである。
雨師夢竿、眠竿、睡竿、それが麻耶藩の忍者であることは、江戸へ帰って石来監物に復命したときにはじめてきいた。もっとも監物も、彼らの術がいかなるものであるか、よく知らなかったようだ。
「そうか。右太夫めはきゃつらを使うておったか?」
と、歯をかんで、
「しまった」
とはつぶやいたが。──
さて、不可思議なる忍びの三兄弟は、お婉を護って姿をくらました。国家老の家来にして、暗殺の衝撃を受けながらそれ以後逃げたのは、この襲撃の背後に容易ならぬもののあることを感知したからであろう。それっきり、彼らは姿を現わさない──。
「きゃつら、しかし必ずまた現われる。……永遠に消える奴らではない」
と、監物はおちつかぬ表情でいった。
その一方で、監物とお櫛の方は、例の縁談を推進した。主膳正に、「わしは孫を見なければ、安心して眼をつぶれぬ」といわせた。実際このころから、主膳正はいよいよもうろくして、床につく日が多くなったのである。彼は国元の大事件を知っているのに、この方には眼をつぶるほど、理性も意志も衰えはてていた。そして──ついに大三郎はうなずいたのだ。
大三郎もむろん事件については知っている。証拠がないので如何ともしがたいが、黒幕はわかっている。はらわたも煮える思いとはこのことだ。にもかかわらず、彼が監物らの手に乗りかけたのは、やはりその衰えはてた父への孝心のためだ。彼はもはや死んだつもりで一応父の意向にそい、自分が名実ともに麻耶家のあるじになったあかつき、監物らを粛清しようと覚悟をきめたのであった。
ともかくも、父自体が意識的無意識的にその陰謀の一味であるという事実は、彼の抵抗をほとんど無益なものとした。
ただ彼は、
「一年たてば」
ということだけを条件とした。
国元の事件の背後関係については彼は看破していたが、事件そのものについての知識ははっきりしないところがあった。お婉が姿をくらましたということはきいたが、そういう風にとりつくろってあるので、実はやはり殺害されたのだ、という情報も耳に入っていたからだ。それは監物らが故意にはなったデマであった。
もしお婉が生きているなら、必ず彼女は自分の前に現われるだろう、と大三郎は考えたのだ。彼女にとって、それは実に危険なことだが、噂によれば雨師ら三人の忍びの者がついているともいう。もしそれがまことならば、一年のうちに、何らかの機会をつかみ、何らかの方法で少くとも自分に連絡してくるだろう。……
お婉の生死もわからず、事実上、江戸屋敷で監物一派に囲まれている大三郎にとっては、一年待てというのは、ただ一つの抵抗であり、期待であり、賭であった。
「お婉はどこへ?」
それを大三郎に劣らず気にかけていたのは、むろん石来監物だ。
あれ以来、彼は手をつくして四方を捜索させた。しかし、|杳《よう》としてその行方はわからない。国元にもいる同腹の者にも情報をとらせた。──すると、そのうち、
「雨師たちはお婉に仇討ちのための剣法を山中で修行させている」
という噂が耳に入った。
しかし、彼らがどこにいるか、依然としてはっきりしない。──しかし、あり得ることだ。
監物は恐怖した。お婉はべつに恐ろしくはないが、雨師という三人の忍者兄弟がこわいのである。それは赤倉才兵衛たちの恐怖が逆に伝染したせいもある。
彼は国元に、古来から雨師一族という忍びの者が奉公していることを知らなかったわけではない。そういえば、その一族の伝説的武勇譚をきいたおぼえがある。しかしそれは遠い遠い昔の話であって、彼が麻耶藩に生を|享《う》けてからは、その子孫たちの功名噺など耳にしたことがない。だいいち、忍者が功名をたてるような風雲などあり得ない泰平の時代だったのだ。ただ、いま奉公している雨師三兄弟が奇妙な術を心得ているという噂はちらときいた記憶もあるが、何しろ監物は江戸家老であるし、それ以上、詳細な興味を抱くという気にもなれない程度の存在であったのだ。
その存在が、俄然、強烈に浮き上って来た。彼らは四人の剣客を斬ったという。のみならず、残った三人が、その話が出ただけで、その後も実に自信の動揺した態度を見せる。──
斬られためんめんの力量と、その斬られっぷりから、よくよく心根に徹したらしい。
「夢竿ら、きっと出て来るぞ」
と、監物はいった。
「きゃつらを江戸に入れてはならぬ。どのようなことがあっても防げ」
これに対して、赤倉才兵衛たちは、その三人の忍者と刀を交えることに甚だ苦慮しているようであった。
この防衛戦に成功すれば、彼らを高禄を以て大っぴらに麻耶藩に召し抱えるという約束も与えた。むろん三人の剣客ははじめからそのつもりで傭われたのだが、さらに彼らを鼓舞するものがあった。
それは国元でいくどかかいまみたお婉という娘の美しさだ。なるほどあれでは麻耶藩の若殿が、ほかの女人との婚儀を拒否し、またいまもなお未練がたちきれぬようすなのもむりはない──と認めざるを得ない、まさに絶世の美女であった。
三人の忍者を討ち果たしたあとはこのお婉をやるという。
あとで始末しなければならないのはいうまでもないとして、その前にこの美女をいかになぶりつくし、けがしつくしても異議はないという。
この条件が彼らをふるい立たせた。それまで三人が協同関係にあったのに、この条件が加わってからは、むしろ彼らは殺伐な競争の心理にかりたてられたようだ。
夢竿、眠竿、睡竿。──これを合わせてこちらでは三竿と呼んだ。
三竿討ちの工夫如何?
赤倉才兵衛たちは、実のところ、三竿とまだ直接相対したことはない。斬られた四人の仲間のどれが、三竿のだれに、いかにして斬られたかを知らない。にもかかわらず、彼ら三人ともこの道には少なからぬ自負を持つ男たちだけに、相手の物凄さがぞっとするほどよくわかるのだ。
その屍体を見るや否や、とるものもとりあえず引き揚げた行動を、彼らは恥じはしない。あとになって思い出せば思い出すほど、あれは当然なカンであったと、みずから胸なで下ろしたくらいである。
「……眠くなる。……きゃつ、人を眠らせる。……」
また、
「赤い轡虫、……」
殺された男のこの言葉がなんども甦る。三人は、ひたいを集めて凝議した。
とにかく見ていないのだから「赤い轡虫」という意味はわからない、しかし「眠くなって」斬られたことだけはたしかだ。彼らほどの連中が大根のように斬られた傷を見ても、それは明らかだ。
睡魔を以て襲う忍者に対抗する工夫如何?
文字通り、寝ても醒めても脳裡から離れないのはそのことであった。──赤倉才兵衛が吉原の遊女屋で悪夢に襲われたのもこういうわけからである。悪夢の中の轡虫の羽根の、痩せた男の顔は、三竿のうちのだれであったかはよくわからない。
そしてまた赤倉才兵衛が、|豁《かつ》|然《ぜん》として自ら称する「半睡浮遊剣」を発明したのも、右のような苦心の下敷きがあったればこそだ。
眠りの術を以て来る剣法には、眠りつつ勝つ刀法を以てするよりほかはない。──
赤倉才兵衛は、半睡の剣法に関しては、極めて自信を持った。もし、お婉たちの所在が判明すれば、自分一人でも駈け向ってもいいと思うほどに。
ただ、自在に半睡の状態に入れるかどうかという点と、またもし三竿すべてをいちどに相手にしなければならぬ場合に、いささか問題がある。
このことについては、なお一段の研究の要がある。──それに、三竿たちの所在はまだわからない。
赤倉才兵衛は右の次第を報告だけして、石来監物の前をひきとったが、その歩みぶりは妖々として、すでに半睡半醒の境界を浮遊しているかのようであった。
三
「黄白、なんの機縁で才兵衛が突如自信を持つに至ったかわかるか」
「──いや、わからぬ」
漆沢魚五郎にきかれて、黄瀬川黄白はくびを横にふった。
石来監物から、赤倉才兵衛の報告を伝えられ、両人のいっそうの発奮を期待するむね鞭撻を受けてしりぞいて来た二人は、雪晴れの路を歩きながら、まだショックのおさまらぬ顔を見合わせていた。
「しかし、三竿が現われたらどうする。それに対して才兵衛だけが立ち向い、万が一首尾よく仕止めたらわれらの面目はどうなる」
「面目はともかく、お婉を才兵衛のなぶるがままにさせるのが残念じゃわい」
と、黄瀬川黄白は下唇をつき出した。名は黄白だが、岩のように黒くて、背は低いががっしりと幅広いからだの持主だ。彼もまた、魚五郎と同じうめきをもらした。
「才兵衛め、いかなる機縁で、何やら悟ったようなことをいうか」
「たしか、御家老は半睡にして人を斬る法とか申されたな」
「半分眠りつつ斬る。──そんなことが出来るか」
ふしぎなもので、そうきいても二人には、ひざをたたいてああそうか、というわけにはゆかない。自得するにはそのきっかけに感動を要し、その感動は自得した本人以外には味わえない微妙なものがあるからだ。
「そういえばきゃつ、さる朝から妙に明るい顔色になっておったが、その前に何かあったな」
ふと、黄白が立ちどまった。
「前夜だ。夜の間に何かがあった。──」
「前夜はたしか吉原に泊ったはずじゃ」
と、漆沢魚五郎がいった。これは金剛力士みたいな感じの男である。
「例の小銀のところへ。──」
「ふうむ」
と、黄白はくびをひねったまま、なおつっ立っていたが、やがて厚い肩をゆすって苦笑した。
「まさか、女郎から剣法の奥義を伝授されたわけでもあるまい。……ともあれ、われらもわれらなりに工夫せねば、才兵衛めにしてやられる。せいぜい、努めようではないか魚五郎」
──しかし、黄瀬川黄白はその夜吉原の小銀のところへいった。
漆沢魚五郎の前で一笑したが、彼はその話を交わしたとき、突如として何やら触発されるものがあったのだ。「……まさか女郎から剣法の奥義を伝授されたわけでもあるまい」といったのは、ライバルたる魚五郎に対して煙幕を張ったので、その刹那彼は、赤倉才兵衛が遊女から何かを会得したに相違ない、ということを確信したのであった。
それは黄白も、小銀の馴染であって、この女が寝くたれ女郎として名高いことをよく知っていたからだ。たんによく寝るばかりではない、寝ぼけたまま|厠《かわや》へいったりする姿を、彼もいくどか見て笑ったこともある。
半分眠りつつ斬るという「半睡浮遊剣」──その極意を、才兵衛はこの寝くたれ女郎からつかんだのだ!
恒例のごとく一交し、時をおいてまた一交し、さらに夜更けてまた一交した。
二交目あたりから、小銀はすでに寝ぼけ声を出していた。半分眠ったその顔、そのからだを、黄瀬川黄白は満腔の熱誠こめて観察し、また研究する。
半睡の交合。──半睡の剣法。
なるほど、浮遊とはよくいった。その感じはわからないでもない。
「……が?」
黄瀬川黄白、なんにも霊感のひらめくものがない。
赤倉才兵衛と同様の体験をしているわけだが、さきに述べたようにその機縁は微妙なものであり、また当人の素質のちがいということもあるだろうし、さらに、よしここで悟りを開こうと構えた自意識がかえってじゃまをして、黄白はいつまでたってもあいまいな顔をかしげているばかりであった。何でもないときの快感すら味わえないようだ。
──しかし、才兵衛はたしかに何かをつかんだのだ!
覚醒しているとき小銀にきいたのだが、先夜才兵衛は眼をつむったまま燭台の蝋燭を斬り、刃にその蝋燭を乗せてその火も消さなかったという。いよいよ案の通りだ。
この一夜、なんの収穫もなく吉原を去ればついに才兵衛におくれをとることは決定的だと思い、黄白はあせった。
「こ、これ、いまいちど!」
呼びかけて、あわてて声を制した。小銀はもはや白い泥のように眠りこけている。その眼をさまさせてはならぬのだ。──
それをそのままに、黄白は四交目にとりかかった。さすがの彼も、年齢は四十を越えているし、これはただ念力だけの苦行であった。
その念力が通じたか。──小銀は、ぴくぴくっと動いた。ぴくぴくっ……ぴくぴくっ……全身が、ではない。ただ一局部だけが。
彼女は眠っていた。口を半びらきにし、瞼すら動きはしない。腕も足も、ダラリと投げ出したままである。彼女はあきらかに眠りこけていた。にもかかわらず、黄白必死の運動と脈波を合わせ、ぴくぴくっ、ぴくぴくっと名状しがたい微妙な痙攣が、黄白の一局部に応えるのだ。
はじめて、快感の噴水が脊髄から脳天まで伝わろうとし、
「……これだっ」
ふいに彼の眼はかっと見ひらかれ、そして全身がぴいんと硬直した。──
「まっ、どうしたのでありんす?」
このとき黄瀬川黄白の岩のようなからだは、ダラリと柔らかくなっていた。ただ一部分だけに硬直を残して。
むろん、意識してそれをやったのだ。一部分だけ目覚めていて、あとの部分は眠っている。──できないことではない。げんにこの遊女がやって見せたではないか?
眠ろう。一部分を残して、あとは眠ろう。いちど眼をあけて、ふしぎそうな声を出した遊女小銀は、すぐにまた眠り出した。黄瀬川黄白は腰のあたりだけを目覚めさせて、あとは全身を弛緩させている。眠らせようとしている。……もとより、完全にそんな器用なことが出来はしない。しかし、からだじゅうの魂を一つところに寄せると、あとはからっぽになって麻痺して来たような感じがたしかにした。
ぐう。……
かすかな小銀の寝息に、彼も寝息を合わせた。
ぐう。……
そして、有意識的に一部分だけを運動させている男と、無意識的に一部分だけ反応させている女は、いつまでも寝息の合奏をつづけているのであった。
黄瀬川黄白が石来監物のところへ伺候したのは、それから数日の後であった。
「三竿討ちの儀、いつなりと黄白承知つかまつってござる」
「おお、目算ついたか。して、どのような工夫をつけた」
「仮睡自在剣と申す」
黄白は、一部分だけ目覚めていて、あとは自在に仮睡する奥義を体得したことをまずのべた。
監物はいぶかしげな表情をした。
「待て、全身起きていてすら、その方自身恐怖していた相手であるぞ。それが一部分だけ目覚めていて、どうしようというのか。どこの一部分を目覚めさせているのじゃ」
「いえ、それより発して拙者、その後、一部分だけ仮睡して、あとは起きているという工夫を凝らしてござる」
「一部分だけ仮睡する。──しかし、それにしてもそれは、それだけおまえの弱味になるではないか」
「まず御覧下されい」
黄瀬川黄白はスルスルと膝ですすみ、監物のそばの唐金の大火鉢の炭火に鉄火箸をつっこんだ。それから、端座したまま、二三分首を垂れた。まるで居眠りでもしているように。
すぐに彼は右手にその火箸をとって、赤く|灼《や》けたそれを、ピタと左腕に押しつけた。ぽうと白い蒸気と肉の焼ける匂いが立ちのぼった。
黄白の眉がふっとしかめられた。──ただそれだけである。
「いかぬな」
と、彼はつぶやいた。
「|若干《じゃっかん》、感じるところをみると、まだ左腕は完全に熟睡してはおらぬ。そもそも、その前に眠りに入る準備行動をせねばならぬようでは、未熟、未熟。──ただし、そのうちわが欲する肉体の部分を、わが欲するときに、瞬間的にかつ完全に仮睡させることが、かならず出来るようになるでござろう」
しかしこれは、実に身の毛もよだつ工夫だ。これを黄白が吉原で機縁をつかんでからわずか数日間で達したのは、やはりそれ以前の苦心惨憺がいちどに花ひらいたものと見るべきであろう。
石来監物の方が顔色を変えていた。
「黄白。……しかしそれが何になる?」
「仮睡、と申すが、まことは麻痺でござるな。局部麻痺。──」
と、火箸を灰につき立てて、黄白はいった。
「敵の眠りの術を、われとわがからだの一カ所に凝集させて、そこだけ眠らせるのでござる。ほかは自在でござるから、敵の刀で以てわざとその部分を斬らせることもできるでござりましょう。一カ所斬られて全身が破れるは、ただその痛苦のゆえでござる。痛みなければ斬られざるにひとし。かくて、斬ったと思いこんだ敵の隙をついて、こちらから斬る。──」
黄白の笑顔はすでに満腔の自信に溢れていた。
「すなわちこれ、仮睡自在剣」
監物はうなった。──ややあっていった。
「三竿、いちどに斬れるか」
「いや、それは、……いましばし、時をお貸し下されい」
黄瀬川黄白はややうろたえたが、すぐにその眼が異様に粘っこい光を帯びて来て、
「とはいえ、三竿すべてを|斃《たお》し得るは、しょせんは拙者以外にないと信じ申す。そのあかつきは、例のお婉どの、ままにいたしてようござりましょうな」
四
漆沢魚五郎が石来監物に呼ばれて、黄瀬川黄白もまた三竿討ちの秘法を発見したらしいと伝えられ、うっと鉄丸でものんだような表情をしたとき、監物のところヘ一通の書状がとどけられた。
──南無三、才兵衛のみならず黄白にもおくれたか?
強気な男だけにかっと来て、さらにいま自分を責めるような監物の口吻に対し、そもいかなる返答をすべきや、ワクワクして相手を見まもった魚五郎は、監物の顔色が変っているのを見た。
「いそぎ赤倉才兵衛と黄瀬川黄白を呼べ」
と、監物は書状をとどけた家来に、ただならぬ声でさけんだ。
「御家老、なんでござる?」
「お婉と三竿がいよいよ出て参る」
「えっ?」
魚五郎はからだにピーンと冷たく鋼線が通ったような気がした。
「い、いつ? どこから?」
監物は書状になお眼をそそぎ、心も空にひとりごとのようにつぶやいた。
「案の定だ。そういえば若殿が御|約定《やくじょう》の一年がやがて来る。少くともそれまでにきゃつら現われると思っておったが、果せるかなじゃ」
それっきり、深刻な顔になって、漆沢魚五郎が何をきいてもろくに答えない。──魚五郎はすでに自分が員数外に目されているように思い、いても立ってもいられない憤懣をおぼえた。
やがてあわただしく、赤倉才兵衛と黄瀬川黄白がやって来た。石来監物は書状を手にしたままいった。
「いよいよ、その方らの奥義をふるう時が到来した」
「や、すりゃ。──」
「国元におる腹心の者より知らせがあった。この三月一日、三竿はお婉をつれてあちらを立ち、江戸へ向ったとのことじゃ。雨師一族の留守宅にひそかにそういう連絡があったという。──」
さすがは石来監物だ。あれ以来、国元から監視の眼は離さなかったと見える。三竿たちが必ず江戸へ出て来るという予想もそのあたりからたてたのであろう。
「若殿の近ぢかの御婚儀のことも、きゃつら知って、それをじゃまするためもあろう。若殿はこのごろようやくお婉のこともあきらめかかっておわすに、今あの女に出府されては、すべてが水の泡となる。いや、それどころか。──」
監物はこくんとのどぼとけを動かせた。
「きゃつらの出府、わしの命をも狙ってのことに相違ない。──」
「参りましょうぞ」
と、赤倉才兵衛がいった。おちつきはらった声調であった。
「それこそわれらの待ち受けておった事態でござる」
と、これも武者ぶるいして黄瀬川黄白がいった。
「三月一日、向うを立ちましたと? では、甲州街道をもはやどれくらい来ておるか? さて万が一ゆきちがうとこと[#「こと」に傍点]じゃて」
「それじゃ」
と、監物はうなずいた。
「それを先刻、わしも思案しておったのじゃ。で、念のためおまえら三人が、三日ずつ日をおいて西へ立てばよもや見逃すことはあるまいが、さてそうなると、たとえ捕捉したとしても、こちらが一人ずつでは|喃《のう》。……」
「いや、その御懸念は御無用でござる」
「拙者の剣法、その後ますます堂に入り、われながら不思議と思うほどの域に達してござりまする」
赤倉才兵衛と黄瀬川黄白は同時にいって、うす笑いしたが、いい合わせたようにその笑いをはっきりと軽侮憐愍の色に変えて、漆沢魚五郎をジロリと見た。
「ただ三人と仰せられるが、漆沢のみはゆく必要はござるまい」
「な、なぜだ?」
と、魚五郎は悲鳴のようにさけんだ。
「ならば、おぬし、三竿をどう討つか」
「われらの前で虚勢は無用じゃ」
才兵衛と黄白は露骨に嘲笑した。──魚五郎は、うっと絶句した。
「よし、漆沢はともかくもわしの傍におれ。万一の際、何ほどかの役には立つであろう」
と石来監物はいよいよ魚五郎の自信を傷つけるようなことをいったが、監物自身はそれを意識する余裕もない。
「赤倉と黄瀬川はすぐに立て。女と三竿、断じて江戸へ入れるなよ」
早春の日ざしの下を、漆沢魚五郎は眼を血走らせて歩いていた。無念である。嘲笑されたことよりも、その嘲笑が事実であることが無念である。
あの両人は、たんなる悪意で嘲笑したのではない。専門家の正確な眼で判断を下したのだ。実際魚五郎は、いかに考えてもあの三竿を討つ工夫がつかなかった。
しかし、石来監物は「おまえはわしの傍におれ」といったが、彼はむろん江戸にいる気はなかった。意地でもあの三竿にかけ向わねばならなかった。それにお婉という娘のこともある。あの名花を、でぶでぶ肥った赤倉才兵衛や碁盤みたいな黄瀬川黄白にまず散らさせてなるものか。──
それにしても才兵衛や黄白は、いかにして三竿に対抗する新剣法を編み出したのか。その新剣法はきいてはいるが、半睡状態で人を斬る、などいうことはよくわからないし、からだの一部分だけを麻痺させる、などいうことはどう考えても自分には不可能だ。
いったい彼らは何から触発されたのか。彼らはそれをかくしてはいるが、そもそも何から?
──ふっと、漆沢魚五郎は眼を宙にとめた。赤倉と黄瀬川がそれをかくしている、という事実から、ピカリと頭にひらめいたものがあったのだ。
ただたんに、わざ惜しみの秘法だと思っていたが、しかしそのわざそのものの内容は彼らはかくそうとはしていない。その機縁をかくしているだけだ。
魚五郎の頭に、いつか雪晴れの日、同病相憐れみつつ黄瀬川黄白とこの道を歩いていたときの問答がよみがえった。
「……前夜だ。夜の間に何かがあった──」
「……前夜はたしか吉原に泊ったはずじゃ。例の小銀のところへ。──」
「……ふうむ」
といったあとの黄白の表情までまざまざと思い出した。すぐにそのあと黄白は、
「……まさか女郎から剣法の奥義を伝授されたわけではあるまい」
と一笑したが、その直前の顔色はたしかにただごとでないものがあった。
魚五郎の眼がひかり出した。才兵衛といい黄白といい、きゃつら小銀のところで何かを会得したな。──
彼はその足で吉原へ駈けつけた。そして小銀を買った。
彼にとって深刻重大、しかも焦眉の感がある女郎買いである。はじめに、ここに来た赤倉才兵衛と黄瀬川黄白のようすをかみつくように訊問した。この小銀という遊女がもともと起きていてもぼうっとしたところがあって、そんな大まじめな話よりも、早くことをすませて眠りたいというたちなので、きいてもよくわからない。……いや、赤倉、黄瀬川がここで何やら会得したことはいよいよ確実になったが、さてそうと知っても、いままでの予想になんら加えるものがない。
しかし、そう匙を投げてはいられない。あきらめてはいられない。──
「頼む、いまいちど!」
歯をくいしばって交合しながら、
「おのれ、半睡浮遊剣!」
と、うめく。
すると、きょうひるま武者ぶるいして甲州街道をいったであろう赤倉才兵衛の姿が眼に浮かび、頭がクラクラとする。
「や、いかん。……もう一回!」
あぶら汗を浮かべて交合しながら、
「おのれ、仮睡自在剣!」
と、うめく。
すると、三日おいてから勇躍して西へ立ってゆくであろう黄瀬川黄白の姿が瞼に浮かび、心気がぼうとする。
遊女小銀は、こんなに気ぜわしい、しかも心ここにない、こんなに殺気にみち、しかも放心状態になるという変な客に逢ったことがない。鈍といっていい資質の彼女だが、たんに肉体ばかりでなく、ふつうの客の倍も三倍も精神的に疲れた。──そして、眠った。
「い、いま一本!」
その凄絶といっていい声を、遠い歌声のようにききながら。……
漆沢魚五郎は、遊女が半睡にして反応するのを知った。また全身熟睡しつつ、一局部だけぴくぴくをやるのも味わった。しかも依然として何ら得るところがない!
彼にしても、こんな精神分裂的交合はしたことがない。まるで熱い湯と冷たい水の混り合ったような感覚の沼の中をもがいているうち──ふっと彼は妙な快感をおぼえた。
この夜はじめての快感だ。──それがあまり突然であったので、はっとそれに精神を集中させたとたん、快感はピューと噴きあがり、ダクダクと拡がり、そしていままでのわけのわからない感覚の沼を沸騰させはじめた。
こんな凄じい快美の世界ははじめてだ。それまで不本意ながら出すべきものは出していて、もはや出すべきものがないといった感じであったのに、まだこれほど出すべきものがあったかと自分でもあきれるほどであった。しかも、それが無限につづくのだ。意志とは無関係に、彼の腰は上下した。それと合わせて、遊女小銀も半裸にちかいからだをあげさげしている。
その小銀の姿が見える。眼をとじてあえいでいる横顔、大きく起伏する乳房、白い二匹の蛇のようによじれる足。──言語に絶する淫蕩の姿態であった。
──はてな?
と、からだを動かしながら、魚五郎の脳髄に不審の雲がかかった。
──おれは小銀の全身を横から見ている。どうしておれにあの姿が見えるのだ?
とたんに雲がみるみる|霽《は》れて来て、彼の肉眼ははじめてはっきりと実態を見た。まさに小銀は、掛夜具をはねのけて、あらわな痴態を展開続行している。しかし、一人だ。
──きゃつ、寝ぼけておる!
笑おうとして、その笑いがとまった。魚五郎は、自分がその夜具から数メートルも離れたところの座蒲団にかぶさっていることに気がついたのだ。がばと起き直ると、その座蒲団に洪水のような夢精のあとがあった。
──おれもまた寝ぼけていたのだ!
と、彼は心中に愕然としてさけんだ。
いつ、自分が蒲団を這いずり出してここまで来たのか、まったくおぼえがない。幼時は知らず、こんなばかげた経験はないが、これはこの夜、あまりに思うこと多く、また肉体を苛烈に使用しすぎたために、はからずもうなされたのであろうか。
──うなされる?
うなされたにしては、しかしなんという強烈な、なまなましい快美の世界であったろう。あれは現実そのものであった。いや、現実以上のものであった。このおびただしい夢精のあとを見るがいい。
「……これだっ」
ふいに彼の眼はかっと見ひらかれ、そして全身がぴいんと硬直した。──やっと小銀の夢中遊行的痴態が停止した。
「まっ、どうしたのでありんす?」
その声も聞えないかのように、漆沢魚五郎は、いまの形相と姿勢を凝固させている。
人は夢を見たといって笑う。寝ぼけている人間を見て笑う。しかし、夢みている人間にとっては、夢の中の世界が現実なのだ。現実が夢の世界といっていいのだ。
もし自分が三竿に眠らされるとする。その状態を自分にとって現実とすればいいのだ。そのときは眠りの術をかけている三竿こそ夢の中の人物といっていい。両者は対等に剣を交えることになる。──
つまり、自分は夢遊の剣をふるう。しかし、それが客観的に現実に通用するであろうか?──通用する!
げんにいまの自分と小銀の行為は夢遊交合ではないか。あれは小銀の夢遊的行為が自分に伝染したのか、それとも自分の夢遊的行為が小銀に放射したものか。──平生のくせから見ると前者といいたいが、しかし今夜にかぎっては、彼は後者と思いたかった。
いずれにせよ、夢遊の行為でも、現実の人間を翻弄し得るのだ。いや、自分はその境地に達せねばならぬ。また自分にその能力のあることをはじめて発見した。
ただ、みずから夢遊状態に入るにはいささかの修行をせねばならぬが、それだけの時日があるか。
漆沢魚五郎は指を折った。
三日後、二番手の黄瀬川黄白が出発し、さらに自分がゆくまでに三日ある。また甲州街道をいってからも、敵とゆき合うまでには幾夜かがあるであろう。──出来る!
その翌日、漆沢魚五郎は石来監物のところへまかり出て、自分の大悟した新剣法を報告し、かつ自分もまた三番手として出動したいむねを述べた。
「なに? 寝ぼけて敵と勝負する?」
監物は眼をむいた。
「そんな、ばかな。──」
「その幻妙の気合は口を以て説き難うござるが、ただ御家老さま、夢中遊行の人間が、ときとして、醒めておる者には及びもつかぬ危ない場所を走ったり飛んだりすることのあることをお知り下されい」
「なるほど、そういうこともあるな。しかし、果し合いとなるとどうか? ……ま、よい、先に赤倉、黄瀬川という者どもがいっておるゆえ、三番手ならよかろう」
「赤倉、黄瀬川の徒輩では到底あの三竿を討てますまい」
漆沢魚五郎は、きのうとは別人のごとく堂々といい切った。
「お婉を頂戴するのは拙者だ。拙者の剣よりほかにない。──と拙者は確信しております。すなわち、夢界生動剣。──」
五
信濃から甲斐に入ったあたり。
江戸の雪はとっくに消えたが、このあたりは遠い連嶺がまだ真っ白に雪をかぶっているのはもとより、そこらの山あいの谷間、林の奥にもいたるところ白いものがひかって、ひょうと頬を吹く風は薙刀みたいに冷たい。
ただ空だけは真っ蒼で、その蒼い光に黄色く浮いた柏の枯葉や白樺の枝が鮮やかに美しかった。
その下の峠の茶屋で、
「──さ」
と、熱い茶の残りを地に捨てて、一人の雲水が立ちあがり、杖を腹に立てかけ、網代笠をかぶり出した。
「参ろうではござりませぬか」
うながしたが、縁台に坐った三つの影は動かない。というより、まんなかの若い女を、両側に坐ったやはり二人の雲水が、じっと不安そうに見まもっているのだ。
立った雲水は苦笑した。
「まだおためらいか」
「──ほんとうに江戸へいっていいでしょうか」
と、娘は顔をあげて、おずおずといった。
日かげの中に、あきらかに化粧もしていないのに、その肌の白さ、眼と唇の鮮やかさが、ひかるように浮いている。先刻、茶屋の婆さえ、数分間、人間ではないものが入って来たように茫と見とれていたほどの美しさだ。
「まだ左様なことをおっしゃるか」
「──若殿は、やはり向うのお方と御祝言なさるのがおふさわしいのではあるまいか。向うはお大名のご息女、わたしは家老の娘。──それが、江戸へおしかけるなど。……」
麻耶藩国家老和佐右太夫の娘お婉であった。
立っていた雲水、雨師兄弟の末弟睡竿は、墨染めの衣の痩せた肩をゆすった。
「向うは大名の息女といっても、|女狐《めぎつね》お櫛の妹ではござらぬか。しかも女狐の方は、あれはあれなりに大殿をとろかすほどのつらを持っているが、この妹の方は、大名の息女といったら、いやはや狸が笑うほどのつらときく」
「でも、その大殿さまが。……」
「大殿は、睡竿のいうように女狐に化かされておいでなさるのでござります」
と、右側の|仲兄《ちゅうけい》眠竿がいった。実に睡竿とよく似た細長い顔をしているが、年はそれより二、三歳上の三十七八であろう。
「それに、石来一味は、お父上の敵でござりまするぞ!」
眠竿はかるく、しかしいらだたしげに縁台をたたいた。
「拙者ら、なんのためにあなたさまに剣を御修行させ申したか。ひとえにあなたさまがお父上の敵を討たせられるように──またあなたさまがあの修行にお耐えなされたのも、ただそのためではござりませなんだか」
「それはわかっている。わたしもそのつもりでした。……」
お婉はこっくりしたが、しかしなお立とうとはしなかった。
「わたしはあの夜の怒り、悲しみに燃えて、お父上を殺した人々ののどぶえにくいついても敵を討ちたいと思いました。けれど……いま、そんなことをして、ほんとうに若殿がおよろこびになるでしょうか? 若殿は、このまま石来どのらのお膳立て通りにお暮しなされた方がお倖せではあるまいか?」
「そうは参らぬ。それは|天《てん》|道《どう》が許しませぬ」
と、眠竿はくびをふった。
「お父上が強く御反対なされたのも、ひとえに天道のためでござった。天道にそむいた道をゆかれても、結局若殿がお倖せになれる道理がござらぬ。……それに、情報によって若殿の御心中を推量申しあげるに、たしかに若殿はこの春にあちらと御祝言なさるお気持になっておわすようでござるが、それはいっときのがれのおつもりでござろう。若殿としては敵の手に乗ると見せかけて、あとで敵の一味を清掃なさるお心らしゅうござりまするが、奸悪なる石来や女狐が、そうは問屋におろすものか。いよいよ若殿を閨の縄でがんじがらめに縛りあげ、麻耶一藩を心のままにしようと計るに相違ござらぬ」
睡竿も網代笠の下で眼を血走らせてうなずいた。
「それは、恐れながらお心やさしき若殿のお気の迷いでござる。将来、とりかえしのつかぬ禍根となる。忌憚なく申せば、その女狐の妹におん子でも生まれ給えば、若殿のおいのちすらお危い。──」
「このときにあたって、あなたさまが江戸に参られ、若殿にお逢いなされば、若殿の御迷夢は豁然と|霽《は》れたまい、正義の太陽は|燦《さん》として麻耶藩のためにかがやくは必定。──」
左側の雲水がはじめてしずかに口をひらいた。
「若殿は、あなたさまをお恋いなされておるのでござる」
恋、などいう言葉を混えるのがおかしいような重々しい口調だ。やはり、眠竿睡竿によく似ているが、年は四十くらいであろう。痩せて細長い顔をしているのに、重厚の気がみなぎっている。それにこの人物、左眼がつぶれて、糸のように閉じられている。──長兄の雨師夢竿であった。
「ひょっとしたら若殿は、あなたさまがどこぞに生きておられる。必ず自分の前に現われると信じて、待っておわすかも知れませぬ。……いや、それにちがいない!」
「ゆきましょう」
彼女は眼をかがやかし、杖をとって立ち上ろうとした。
「ちょっとお待ちなされ」
と、片眼の夢竿は、いま激励したくせに、手をあげて制した。
「しかし、お婉さまがおためらいなされ、かくのごとく道がはかどらぬのも、われらにとっては必要なことでもある。つまり江戸へ出たとて、われらがいきなりお屋敷へ推参することはならぬ。──その前に、石来監物を始末しておかねばならぬ」
ひとりごとのようにいう。──
「やむを得ずんば、われらの御家老さまがえたいの知れぬやつらに殺害の悲運にあわれたごとく、眼には眼、歯には歯、きゃつ監物の屋敷に押し込んで斬らねばならぬが、このことお婉さまにはお勧めしがたく、出来るならばそれは避けたい。──」
なぜか彼は、往来の方を見ている。明るい山道を、しきりに南へ北へ旅人が通る。
「で、監物に、こちらに出て来て欲しいのじゃが、さて望み通りに監物が出て来るか。是非出て来させたい。この街道の途中で監物に天誅を下したいのじゃ。──監物としても、お婉さまが御出府になるのは一大恐慌事であろう。されば、それをとどめに刺客を送ってくるであろう。その刺客をかたっぱしから討ち果してゆけば、きゃつ、いても立ってもいられなくなって、ついに本人がふらふらと出向いて来るであろう。──そう思って、われらはわざとわれらの出府が監物の耳に入るようにしておいた。──」
「その通り」
「しかし、兄者、前からおれはそのことを気にしておるが、そううまくゆくか」
と、眠竿睡竿がいう。
「いった」
夢竿はぎゅっと唇をつりあげて笑った。
「いや、監物自身の出馬はともあれ、想定通り、刺客の第一陣が来た」
「なに?」
「ど、どこへ?」
どよめきたつ眠竿睡竿に、自若として夢竿は答える。
「監物とて、大っぴらに麻耶藩士は使えぬことじゃ。お婉さまを知らぬ藩士はないからの。で、必ず私の暗殺隊を使う。この前のやつらと同様に。──いや、この前、たしかに生き残ったやつが三人あった。少くとも、きゃつらを混えた剣客を使うであろう──と思うておったら、果せるかなじゃ。その一人が、いまそこの往来を北へ通っていったぞや」
と、夢竿はあごをしゃくった。
「深編笠をかぶってはおったが、たしかにあの中の一人じゃ、ちらっとこちらを見て通り過ぎていったが、きゃつ、必ずまた戻ってくる。──」
「……ううむ」
「よし!」
二人の雲水は往来に駈け出そうとした。
「待て」
「なぜ?」
「わしもくびをひねっているのじゃが、敵が一人というのが面妖じゃ。罠かも知れぬ。罠でのうて、まずただ一人出向いて来たならあっぱれじゃ。いや、あの三人、この前から相当なものじゃと見ておった。きゃつらなら、雨師の眠法の相手にして遊んでやっても面白かろう。……二人、ゆく必要はあるまい。一人でゆけ」
「あ、なるほど。──」
「睡竿ゆけ」
と、長兄夢竿はおちつきはらっていった。
「わしたちはそろそろと先へゆこう。うぬはきゃつと立ち合い、監物が何を考えておるか絞めあげてから始末して、われらを追うて来い」
葉の落ちた白樺の林の中の街道を、タッタと歩いていってから、くるっと赤倉才兵衛は反転した。
さすがに胸が高鳴っている。──きゃつらだ! ついにきゃつらを捕えた!
三人の雲水を一目でそうだと見破ったのではなく、茶屋の中に光の精のごとく浮かんだ娘の姿が、ぴしいっと胸に|鐫《え》りこまれたのであった。
ただ、予想はしていたが、あの雨師三兄弟いっしょというのがちとこまる。絶対に自信がないというわけでなく、やむを得なければ同時に相手にするよりほかはあるまいが、出来るなら、一人ずつ、離れたところを襲いたい。──これは当然な兵法だ。
さて、どうして彼らを分離させるか? 才兵衛の足はやや歩みなずんだ。
思案をしたが、むろんとっさにうまい智慧が出るわけがない。といって、思案をしていればきりがない。それよりも、いまちらっと見たお婉の|艶姿《あですがた》が、この一年、妄想にえがきつづけていたよりも数倍の魅惑を以て彼の足を鞭打った。
よし、ともかくもあとをつけて、機会を狙う。
タッタとまた早足に歩き出した赤倉才兵衛が、はたと立ちどまった。──林のはずれの道の上に、一人の雲水が杖をついてヒョロリと立っている。
雲水はじいっとこちらを眺めていたが、やがてゆっくりと歩いて来た。
「……石来からの刺客か」
と、しゃがれた声をかけて来た。雨師睡竿である。
それには答えず、才兵衛は深編笠をゆすった。
「僧形じゃが、雨師とやらいう下郎じゃな。──一人か。あとのやつらはどうした」
「うぬが一人なら、こちらも一人でよいわ」
──すっと赤倉才兵衛の腰から一刀が鞘走った。待ち受けていた事態は、敵の方で作ってくれたのだ。
同時に、雨師睡竿の杖から水のような光がほとばしっている。──仕込み杖であった。
それを睡竿は水平にあげた。才兵衛も同様だ。
睡竿の網代笠が、ややかしげられた。──腰から一刀をぬく、構える、この動作のあいだ、相手の深編笠が風ほどもゆらがないのに容易ならぬ自信を読んで、彼の方がふしぎに思ったのだ。
たんなる自信ではない。──「あれは相当のもの、雨師の眠法の相手にしても面白い」と兄夢竿はいったが──それ以上の剣客であることを、はじめて睡竿は感得した。深編笠をとらぬとは不敵なやつだが、それだけに相手の眼の動きが見えぬので、いささか始末が悪い。──
墨染めの袖から、しかしこのとき赤い小さなものが、ふっと湧き出した。
それは一匹の轡虫であったが──しかし、正確にそう呼ぶのは憚られる。たしかにかたちは轡虫だが、羽根の真っ赤な轡虫など世にあるものではない。だいいち、この肌寒い早春の山風の中に轡虫が現われるはずがない。
にもかかわらず、現実にその赤い轡虫はここにいる。早春どころではない。曾て和佐右太夫を襲った雪の一夜ですら、それは出現したらしい。──雨師睡竿はおのれの肌の暖かみでそれを飼っているのであろうか。
奇怪な昆虫はしかし羽根をひろげず、スルスルと睡竿の刀身のみねをわたって、その剣尖にとまった。
「赤い轡虫。……」
いま赤倉才兵衛は、曾ての朋輩の断末魔の声を思い出したはずだ。いや、それどころか、いつぞや吉原で見た悪夢をここにまざまざと見たはずだ──が、その深編笠は動かない。
──と、轡虫は、このとき鳴き出した。微かに、微かに。
それが轡虫本来のガチャガチャという鳴声ではない。薄い羽根と羽根とをすり合わせ、ふるえつつ流れ出してくる音は、消え入るように細く、水晶のように澄んではいるが、なんと──たしかに女の声であった。むせぶような女のあえぎ声そっくりのひびきなのであった。
何ぴとも、ふっとその美しくも奇怪な音源に耳を吸わせない者があろうか。その刹那から、彼は聴覚のみならず、全感覚、全脳髄を吸いこまれる。──
このとき、彼は強烈な睡魔に襲われる。──
催眠術とは、それをかけられる者の意識を或る単一な観念に集中させることから始まり、そこに大脳の禁止作用が起り、あらゆる思念が一斉に休止し、かくて彼はこんこんと眠りはじめる。その精神集中を起させるには種々の方法があるが、これはその中で聴覚刺激法というべきものであったろう。実験の際、耳に時計の音や、滴水の音などを聞かせるのと同じ原理だ。
いま、肌寒い早春の山風といったが、白樺の林はからあんとむなしいばかりに明るく、梢は細い枝の先まで動かない。その中に江戸からの刺客は、深編笠と刀身の影を寂と地に落したまま、これまた微動だもしない。
雨師睡竿はそれを眠りにおちたものと見てにやっと笑い、ヒタヒタと前へすすみ寄った。大根でも斬るように、無造作に一刀をふりかぶった。
赤倉才兵衛はたしかに眠っていた。しかしそれは睡竿の聴覚催眠に眠らされたのではなく、自己催眠をかけてみずから眠ったのであった。半分。──
眠りは半ばだから、虫の鳴声は微かに遠く聞えている。しかしまた半ば眠っているのだから、それによる観念集中ということはあり得なかった。半分眠った脳髄に、術は反応を起さなかった。──
無念無想ではない。半念半想の心眼に、一刀ふりかぶった黒衣の影がうつった瞬間、泳ぐように才兵衛は動いている。──
「やっ?」
網代笠の下の眼が驚愕と狼狽にかっと|剥《む》き出され、頭上の剣が波打ちながらふり下ろされるより早く──赤倉才兵衛の一刀は、水平にながれた。いつか蝋燭を切ったときよりもっとなめらかに。
雨師睡竿は、刀をななめ空中につき出した姿勢のまま、しばし凝然とつっ立っていたが、たちまちその墨染めの衣から鮮血をぶちまけながら、文字通り二つに分れて、どうと地上に崩折れた。
睡竿の刀尖からぱっと飛び立った赤い轡虫を、流れるように返った才兵衛の刀がこれまた二つに切って落す。
それを半無意識の|朦《もう》|朧《ろう》たる声で、赤倉才兵衛はつぶやいた。
「半睡浮遊剣」
六
甲州猿橋。
甲府から東へ五十キロ。
山中湖から流れ出した桂川にかかる橋で、長さ三十三メートル、高さ三十数メートル。見下ろせば眼もくらむような谷底に、富士の雪溶けの渓流が真っ白な泡をかんでいる。
桂川という名は|葛《かずら》から来たといわれているように橋の手すりは葛の|蔓《つた》を編んだものだ。当時のものの本に。──
「橋の上より見下ろせば、岸のなかばから生え出でたる木どもそそり立ち、いと暗う茂りたる中より、ひとすじの滝津瀬、響きもさやに轟き落つるが、これも五六丈はあらん。岸より少し降りて、橋の裏を見るところあり。ここより仰ぎみるに、橋柱立つべきところならねば、両岸より巨きなる材を雁のならびゆくらんように次々にさし出して、橋のけたを受けて、その上に板を伏せたり」と、ある。
その猿橋の上を、西へ──甲府の方へ、タッタと渡ってゆく一人の深編笠の影があった。
「おいよ、黄白」
どこからか声が吹きあがって来て、ばかに背のひくいその影は、橋上に立ちどまり、キョロキョロした。黄瀬川黄白だ。
「おれだ、赤倉。──」
「……やっ、才兵衛か」
黄白は、橋のはるかに下に、川につき出した岩の上に、やはり深編笠が立ってこちらをふり仰いでいるのを見出した。岩にも樹々が茂っていて、最初から注意していない者には気がつかない。
「ど、どうしたのじゃ、赤倉。──おれより三日前に江戸を出たおぬしがまだこんなところにおるとは」
と、黄白は葛の蔓をつかんで身をのり出した。
「三竿どもはどうした? まだ見つからぬか」
「二竿はやがてここへ来る」
「な、なんだと?」
黄白は眼をむいた。
「それを知っておって、おぬしは──さては三竿に臆して、おれの来るのをここで待ち合わせておったか」
「いま、おれが二竿といったのが聞えなんだか」
「なに?」
「一竿は斬った。たしかにいちばん弟の睡竿というやつじゃ。きゃつは、甲斐に入ったあたりの山中でわしが斬った」
「ふうむ」
「あと二竿が残っておる。わしが斬ろうといえば易しいがの」
才兵衛は笑った。
「しかし、いろいろ考えて、あとはおぬしに譲ることにした。江戸を立つときおぬしとあれほど先陣争いをしたいきさつからものう。──一竿でよい。まずものはためし、一人を斬って見い」
橋の上から見下ろしている黄白の眼には猜疑の光があった。猜疑は、赤倉才兵衛が一竿をほんとうに斬ったか、ということと、事実としてもいまの才兵衛の妙な勧誘の真意は何か、ということだ。
すぐに後者の方は了解した。
江戸を立つとき、こんなことがあった。赤倉才兵衛が出発する時点に於て、すでに黄白も三竿を斃し得るという剣法を開発したつもりであったから、どちらが先に立つか、ということで二人は論争した。三竿を斃せば、斃した者がまずお婉を犯すことができるからである。
しかし、まず旗をかかげたのはおれだ、と赤倉才兵衛は先取権を主張し、黄白はついにそれを了承した。──理に服したのではない、才兵衛に三竿が討てるわけがない、きゃつが返り討ちになれば、あとお婉を手に入れるのに、かえってこちらの面倒がかからぬ、と黄白は計算したのだ。
案に相違して、才兵衛はまだ生きている。しかも、睡竿は斬ったという。──事実ならば、黄白たるもの、失望を禁じ得ない。
そしていま、ここに待ち受けてそんなことをいう才兵衛に、黄白は自分が才兵衛に対して抱いたと同様の悪意を看破した。きゃつめ、敵の手によっておれをここで片づけさせるつもりでおるな?
そうはゆかぬ! 負けてなるか、三竿はおろか、才兵衛めにも。
黄瀬川黄白の眼が、ぎらぎらとひかり出した。
「で、雨師兄弟二人がやがてここへ来ると?」
「左様」
「お婉もか?」
「もちろん」
「おぬし、一竿だけを斬ったといったな。いかにして一竿だけを離した」
「一竿だけ離すのも兵法のうちだ」
才兵衛は冷然と笑った。
実は才兵衛があれ以来手をつかねて、ここまで雨師一行の送り狼となって来たのは、夢竿と眠竿を分離し|難《がた》かったからだ。やはり万全を期するには各個撃破にしくものはないから、機をうかがいつつ追って来て、ふっと──自分より三日おいて江戸を立ったはずの黄瀬川黄白のことを思い出した。
……きゃつ、もうこちらへ現われるころだ!
そう思ったとたんに、黄白が推量したような悪意が胸にむらっと浮かんだのである。もっとも黄白も同様の皮算用を抱いたことは看破しているから、べつにこちらだけの悪意とは思わない。
よし、黄白と雨師兄弟をかみ合わせてやろう。どうせ黄白は討ち果されるであろうが、夢竿眠竿の術を偵察するだけでも参考になる。万一黄白がその一人を傷つけでもしたら、めっけものだ。──
そう思って才兵衛は、大月でお婉一行が昼食をとっているのを見すまし、裏道を駈けぬけてここまで来て、果然、桂川の向うの山道を橋の方へ廻ってくる深編笠を黄白と知るや、いかにも図星だ! とみずからの計算に感服し、もっともよい観戦の席を探してここに待ち受けていたものであった。
「……才兵衛、おぬしの望み通りにはゆくまいよ」
黄瀬川黄白は、しかしにやっと笑った。
「よしっ、二竿残っておるならば、二竿ともいっしょに討ってくれる。その代り、二竿を斬ったおれの方に、お婉をままにする権利があるぞ」
そして、大刀のこじりをぐいと野羽織の裾からあげて、橋の上を西へ歩き出そうとして、彼はふいにぴたりと足をとめた。
その西の方から、シトシトと雲水がやって来た。一人であった。
雲水は、雨師兄弟のうち仲兄にあたる雨師眠竿である。
彼ら三人は、猿橋の手前までやって来て、遠く橋の上の深編笠を見、それが谷川の方へ向って何やらわめているのを見た。──問答をきくより先に、
「きゃつらの、一人じゃな」
と、夢竿がいった。
「睡竿を討ったやつではないが、例の剣客の一人じゃ」
「ふうむ」
と、眠竿はじっと前方をうかがっていたが、やがてうなずいた。
「兄者、わしがゆこう」
「眠竿」
と、お婉が菅笠の下から不安げな声を出した。すでに彼女は、雨師睡竿が討れたことを知っている。夢竿も沈痛な眼を向けた。
「きゃつら、この一年に何やらつかんだな。……わしもゆこうか」
「いや、橋の上におるのは一人じゃ。こちらも一人で立ち向わねば雨師の眠法の面目にかかわる。──」
「そんなことをいっている場合ではない。われわれの任務は敵の刺客を討ち果すこと。それにお婉さまを江戸へとどけることじゃ」
「それだからこそ、わし一人でゆく。橋の上の敵は一人じゃが、べつにまだ何人かおることは明らかなのだ。それらに対して、兄者、お婉さまをお護り申しあげてくれ」
眠竿は笑った。
「なんの、あのような野良犬侍。兄者、見ておれ」
そして雨師眠竿は、杖をついてシトシトと歩き出したのである。
数百歩平静に歩いて──しかし眠竿は、橋のたもとから四、五メートル離れた路上に立ちどまった。
杖をついたまま、両足ひらいて凝然と立つ。
これまた橋の上に佇立していた黄瀬川黄白は、数十秒、これを深編笠の中からうかがっていたが、やがてタタタタと、碁盤みたいなからだに似合わぬ軽い音を橋板にたてて、その方へ駈け向った。
路に出たところで抜刀し、
「おたがいに名乗る必要はなかろうが、ちょっときく。いま、ちらっと向うに見えたのはうぬの兄か弟か」
と、いいながら、実に無造作に、おのれの背丈よりまだ長いような刀身を垂直に立てた。両こぶしを右肩にひきつけ、いわゆる八双の構えをとったのである。しかも、左肘を水平に張って、前に突き出すようにして。
「ま、いずれでもよい。あとかさきか、一足ちがいで冥土へゆくだけのこと」
と、いったが、彼の八双の剣はなお空中に動かない。相手の構えに疑惑を抱いたのか、それとも何かに呪縛されたのか。──
眠竿が突いている杖は仕込杖だ。が、それを両手に握って地についたまま敵を迎えるとは実に大胆な構えだが、彼はこれで敵のいかなる第一撃でもその柄をあげて受けとめ、はねのける修行をつんだ。それよりも。──
仁王立ちになった眠竿の両足のつまさきが、トーン、トーン、と音もなく地を叩いていることに、これまで彼の相手になった敵で気がついた者があったか、どうか。──
その軽いつまさきの|叩《こう》|打《だ》が地に伝わり、相手の足の裏にひびく。するとそこから名状しがたい快美の感覚が神経を走って脳髄に送られるのだ。それは軽度で断続的だが、その快さにウットリとなり、瞬間瞬間に於て絶頂の失神を人は味わう。そして数十秒のうちにそれがつながって、彼は立ちながら完全な失神状態におちいってしまう。──いわば、催眠術の実験で被験者の皮膚を軽く撫でさする触覚刺戟法と同じ原理だ。
ぴくっ、ぴくっ、ぴくっ。……
いま、そのたびに大地から、黄白の全身に痙攣の波がわたり、そしてみるみるそのいかつい肩もダラリと垂れて来た。眠りはじめたのだ。──と眠竿は見た。ただ水平に張ったままの左肘に小きざみな痙攣が残っていたが、やがてそれも徐々に下がって来た。
間一髪、ニヤリとして眠竿がすすみ出た。仕込杖の鞘だけ股のあいだに残して、その刀身が下から回転しつつ銀光を描いていった。走り寄りつつ眠竿は、その仕込竿を逆手に握ったまま下からはねあげるという稀有な刀法で、まずもっとも前方に突き出した黄白の左肘を|薙《な》ぎあげたのである。
ばすっ!
それが離断されたのを見たのは眠竿の正確な視覚であったが、当然その姿がよろめいたと見たのは錯覚であった。
本来ならば、薙ぎあげられた眠竿の剣は、よろめいた敵の頭上から、燕返しに振り下ろされる。八幡、これがとどめの|唐《から》|竹《たけ》割りとなるのが通例だ。しかるに。──
黄白はよろめいたのではなかった。右八双に構えた長剣は、左腕を肘から落されながらそのまま、接近して来た雨師眠竿の真っ向から一閃して、こちらをこそ唐竹割りにしてしまったのだ。
──きゃつ、眠ってはおらなんだ!
その驚愕は、顔の半ばまで敵の刀を受け入れたときの、眠竿の最後の知覚である。しかし、恐るべし、彼はなお突撃して、予定通りの第二撃を振り下ろしたが、そこに黄瀬川黄白の姿はなかった。碁盤のようなからだは、飛燕のごとくこれをかわしたのである。
雨師眠竿は、誰もいない橋の上までつんのめっていって、なお無意識的に刀身をうしろなぐりに払ったが、もとよりそれも空を斬り、そのはずみに彼自身が橋の葛の蔓にぶつかって、はじめてからだを輪のようにして、渓流の底へ落ちていった。高い谷に血の滝津瀬をひきながら。──
黄瀬川黄白はふりかえりもしなかった。いまの一撃で充分手応えをたしかめていたからだ。彼は眠ってはいなかった。機能も知覚も健在であった。
彼は地に落ちたおのれの左腕をながめた。惜しい、とは思う。しかしこれくらいの犠牲を払わなければ到底討てぬ敵であったと思う。──
最初大地から伝わって来た敵の眠術は、抵抗できぬ微妙さと強烈さを持つものであった。しかし、その眠りを彼は、ただ左腕だけに集めたのだ。まどろんでいたのは、彼の左腕だけであったのだ!
「仮睡自在剣。……」
地上のおのれの片腕を見つつ、会心の笑みを浮かべて黄瀬川黄白はつぶやいた。
が、すぐにわれに返り、ぎらっと前方に眼をあげ、血刀をひっさげたまま彼はそちらへ駈け出した。
いない。先刻、ちらっともう一人の雲水と女の影を見たように思ったが、|山《やま》|峡《かい》の道にはだれもいない。
「逃げおったか?」
そこへ、ばたばたとうしろから駈けて来る跫音がした。
「黄白」
珍しく、息を切らしている赤倉才兵衛だ。眼に驚愕と失望と──怒りにちかい光がある。
「これで同条件じゃな」
と、機先を制するようにさけんだ。
「あと一人、一竿を斃したやつがお婉をとる、ということになるぞ。よいか、黄白。──」
七
日野から東はすぐに多摩川。
信濃境に雪を見た春も、ここらあたりは河原にたんぽぽが咲き、雲雀が飛びたち、蝶が舞う。──ただし、それらの姿はまだ見えぬ暁闇の白い霧であった。
「──こちらでござる」
霧の中で声がした。道ではない河原の草を、河へ向ってななめに分けてゆく音がする。
「舟の来る音がいたす。急ぎ申そう」
雨師夢竿の声だ。霧の中を、多摩川の渡し場へちかづいてゆくのは夢竿とお婉であった。
彼らはここまで来た。敵の刺客を──少くとも二人の刺客を避けつつ、ようやくこの江戸の口までやって来た。雨師夢竿にしてみれば、最初の想定とは、だいぶ事態がちがっている。最初の想定では、あり得べき敵の迎撃を途中ですべて粉砕し、めざす石来監物を誘い出すつもりであったが、弟の眠竿睡竿が意外にも討ち果された結果となっては、むしろ一日も早くぶじに潜入し、お婉を然るべき安全なところに置き、さてその後の行動を考えるべきだという心に変っている。
敵の刺客が、二人とも実に恐るべき存在に成長したことを知ったいまでは、街道の途中では、どうしてもお婉が足手まといになるからだ。まして、第三の刺客につづいて他の増援も加わって、それらが連繋作戦を張る可能性は充分予想されるにおいてをやだ。
むろん、夢竿は、あの二人の刺客を必ずしも恐れはしない。眠竿睡竿を討たれて、これは、と瞠目したことは事実だが、自分は弟たちとは数段ちがうという自信は失われていない。あの敵が眼前に現われれば、もとよりたたかうにやぶさかではない。それどころか、弟たちの復讐のためにも、しょせんは絶対に討ち果さねばならぬと決意している。
しかし、少くとも今は、こちらから探して彼らを討つつもりはない。──それだけ夢竿の心境は変化していた。そして、猿橋以来、どうしたことかあの二人は現われなかった。
「ちょっとお待ちなされ」
夢竿はささやいて、渡し場をうかがった。
そして、そこに群れて待っている早朝の旅人たちの中に、例の二人がいないことを確認すると、改めてお婉をいざなって、渡し場へ歩いていった。
霧の中を、水音がちかづいて来た。対岸の柴崎村の渡し場からまずこちらにやって来る舟の|水《み》|棹《さお》の音であった。やがて舟の影が見えはじめ、こちらの渡し場につき、これまた七八人の客が上って来た。
「……やっ?」
突然、大声がして、雨師夢竿はふりむいた。
まことに迂闊なことだが、彼はなおこのとき、背後からの追跡者を気にして、日野の宿場の方をふりかえっていたのだ。事実、霧の河原をあわただしく走ってくる複数の跫音が聞えていた。
網代笠をまわして、夢竿は、反射的にお婉を背にかばい、そして棒立ちになった。
春の朝霧はあがりつつあったが、なおたちまよい、一帯は朦朧としていたが、その中に──いま江戸方面から来た客の中に、彼は深編笠の二人が、これも棒立ちになってこちらに眼をそそいでいるのを見出した。
「お婉じゃな」
といった深編笠の声は──思いきや、というべきか、最初の想定によれば案の定、というべきか、麻耶藩の江戸家老石来監物のものであった。
「ううむ。うぬら、ここまで推参したところを見ると、赤倉、黄瀬川を討ち果しおったな。──」
うめくと、いま乗って来た舟にもういちど飛び乗らんばかりの逃げ腰となり、
「魚五郎、やれ!」
と、悲鳴のようにさけんだ。
もう一人の深編笠が、その監物をこれもかばうように立ちふさがった。もとより、第三の刺客、漆沢魚五郎である。
魚五郎がこの舟に乗って来たのは予定通りの発足だが、石来監物がそれについて来たのは、突然の思いたちである。彼は、赤倉才兵衛、黄瀬川黄白らに対し、その出発にあたって、首尾よく雨師たちを討ちとめたら、全速力で江戸に馳せもどってそのむね報告するように命じてあった。その報告がいまに至るまでないので、坐して待つに耐えない恐怖と焦慮にかられたのであった。雨師たちの出府が或る時点まで隠密行たらざるを得ないように、監物の方も、このいきさつを大っぴらに藩士たちに知られたくない弱点がある。すべてを秘密裡に処置したい、という願望から、彼は発作的に最後の刺客漆沢魚五郎についてみずから偵察に出かけて来たものであった。
雨師夢竿はしずかに網代笠をぬいだ。剃った細長い顔の左眼は、糸のように閉じられている。
監物自身はふいの発心のつもりでも、夢竿からすれば監物がここに出て来たことはかねてからの想定通りにすぎない。ただそれは途中の討手をすべて粉砕したら、という想定で、それがかなえられなかったから、実は夢竿はいま監物が現われたのを見て意外には思ったが、しかし何はともあれ、これこそ彼が狙っていた最高の設定ではあった。
「監物よな」
と、いって、彼はきゅっと唇を耳まで吊って笑った。仕込杖から、刀身がすべり出した。──
が、彼はその方向に顔だけむけたまま、からだはお婉を背に、横なりに両足を踏んばった。いま彼は、背後から駈けて来た二つの深編笠を見たのである。
「やあ、魚五郎、おお、御家老さままで!」
「しなしたり、漆沢が出て来るまで、ついに阿呆のように手をつかねておったとは!」
と二人はさけんだ。赤倉才兵衛と黄瀬川黄白の無念げな声であった。
彼らは夢竿とお婉から眼を離してはいなかった。──にもかかわらず、ここまでたんなる送り狼となってついて来ただけであったのは、雨師夢竿を恐れたからではない。睡竿眠竿を斃した彼らは、もはや絶対の自信を持っている。手をつかねたのは、実は自信を持ちすぎて、どちらが先に夢竿を討つか、まことにばかげたことだが、いままで二人同士で相牽制し、獲物争いをして来た結果であったのだ。
いまここに第三陣の漆沢魚五郎を迎えて、二人のさけびには、しまった、という舌打ちの音がつづいた。が。──次の瞬間、彼らは深編笠越しに顔を見合わせ、うなずき合った。以心伝心というやつである。
「おれは雨師睡竿を討った」
と、赤倉才兵衛がいった。
「おれは雨師眠竿を斬った」
と、黄瀬川黄白がいった。それから、声をそろえた。
「夢竿はおまえに譲る。魚五郎、この雨師夢竿を一人で討って見い!」
友情ではない。獲物争いの味方を一人でも消すのが彼らの真意だ。さてそのあとは、そのときのことだ。というのは、不敵な自信に裏打ちされたおちつきだ。
要するに、いま夢竿はにやっと笑ったものの、事実としてここに恐るべき敵三人を腹背に迎えてしまったわけである。
「心得たりっ」
漆沢魚五郎は絶叫し、抜刀した。
雨師夢竿は動かない。べつに動揺の気配もない。──彼はもとの位置、もとの姿勢のまま、寂然と魚五郎を眺めやった。魚五郎ばかりではなく、その背後に立ちすくんでいる石来監物や、旅人たちや船頭を眺めた。
それから、数十秒をおいて、|頭《こうべ》をめぐらして反対側の赤倉才兵衛と黄瀬川黄白を見た。
雨師夢竿の、あいていた右眼は閉じられていた。その代り、閉じられていた左眼はあいていた。しかし、それは眼ではなかった。少くともふつうの生きている眼球ではなかった。義眼──というより、銀のようにひかる物体であった。
ひとたびこの銀光にふれた以上、何ぴとも数十秒眼を閉じることができない。吸引されてしまうのだ。眼ばかりでなく、魂までも。──そして、やがて彼は眼を閉じる。眠ってしまうのである。どのように抵抗しても、眠らずにはいられない魔光の力であった。催眠術において、しばしば水晶球や鏡を用いるが、それと同じ「視覚刺戟法」の原理だ。
河原に暁の風が吹き、草や花がなびき伏した。しかしそこにいた人間すべて──雨師夢竿とお婉をのぞき──動くものはなかった。
「ふふっ」
と、夢竿はくぐもった笑い声をたてた。
仕込杖の刀身をひっさげたまま墨染めの衣をひるがえして、飄々としてまず石来監物のそばに寄っていった。
──そのとき、お婉がさけんだ。
「夢竿!」
ふりむいた夢竿の眼前に一閃の光がきらめきながれた。
まったく思いがけないことであったので、雨師夢竿はまるで大根のように、左肩から右脇腹にかけて、いかんなく斬り下げられた。
ななめに血の紐をたばしらせながら、夢竿の眼は──いま、動いて自分を斬った者は何者かとたしかめるように、左の眼を閉じ、右の眼をあけていた。斬りつけたのは漆沢魚五郎であった。彼は夢竿をかえり見もせず、そのまま妖々としてお婉の方へ歩み寄ってゆく。
それを見て、雨師夢竿は一歩踏み出そうとしたが、しかしすぐにその上体が大きくゆれはじめた。かっとむき出された右眼の驚愕は、すでに名状しがたい悲哀の色に変った。この場合に、彼はひとすじの涙を頬にたらしたのである。──
しかし彼は、そのままどうと河原にうち伏した。夢竿の無敵の眠術にかからなかったその男の最初の動きに気がついたのはお婉だが、夢竿が一撃のもとに斃されたのを見ても、なお信じられないようにそこに立ちすくんでいる。──だれが想到するであろう、その男がたしかに眠っていたことを。
夢中遊行のままふるう漆沢魚五郎の「夢界生動剣」。
雨師夢竿が断末魔の一眼で|哭《な》いたのも、次に起るべきお婉の運命を思ったからであったろう。一年、必死の修行をさせたとはいえ、たおやかなお婉の刀術の限界を知っている者は、教えた彼自身であったからだ。なみの武士を相手にするなら知らず、眠竿睡竿、そしてこの夢竿まで破った三人の剣客を。──
そこまで思わず、ただ雲を踏んでいるような漆沢魚五郎の歩みぶりの妖気に打たれて、お婉はわれ知らず、トトトトとあとずさった。その背後から、しかしこれまた眠っていない赤倉才兵衛と黄瀬川黄白がゆっくりとこちらに動き出した。
立ちすくみ、お婉は決然として、突いていた仕込杖の鞘を払った。
八
さて、これからあと、春の暁闇、霧たちまよい青草吹きなびく多摩河原にくりひろげられた決闘の光景は、ただ一人をのぞいてはだれも見ていた者はない。
その一人は、お婉である。
のちに、彼女は麻耶大三郎にこう語った。──
「自分でも信じられません。それはまるで夢でも見ているようでございました」
多摩河原で、彼女はまず自分に向って来た、まるまると肥った男を右袈裟に斬った。
「それが……その男はふらふらとして、まるで半分寝ているようでした。……」
次に、その向うに仁王立ちになって、歯のあいだから泡をかみ出している碁盤のような男を左袈裟に斬った。
「それは、左腕がなく、右腕だけの男で、その腕を刀の柄に手をかけようともがいているようでしたが、ダランと垂れたままどうしてもそれが動かず、つまり両腕なしと同じありさまでしたから、わたしの手でも討てたのでございます」
──黄瀬川黄白が、雨師夢竿の魔眼を見たとたん、うかとその眠りを右腕だけに集めてしまったことは神のみぞ知る。
お婉は二人を斬って、血に酔った。そして向うへふらふらと歩いてゆくもう一人の男の背中を見た。彼女の眼に逡巡の光がゆれた。が、足もとに伏した夢竿のかばねを見下ろすと、意を決したように追いすがり、その男の背中から仕込杖をつき通した。
「夢竿を殺したその男は、まるで寝ぼけて歩いているようでございました。──要するにみなふつうではありませんでした。わたしでなくても、子供でさえ討てたにちがいございません。なぜあの男たちに、睡竿眠竿夢竿が討たれたのか、わけがわからないのです」
そして彼女はくびをかしげてつけ加えたのである。
「ほんとうに、どうしたのでございましょう。そんな半分寝ているか、からだのどこかが麻痺しているか、またはただ寝ぼけて動いているようでしたが、夢竿の眠術がきいていたのでしょうか。でも、夢竿の眠術をかけられて、動ける人間はないはずです。……それとも、あのひとたちは雨師たちの術を破るほどの術を心得ていても、相手が未熟なわたしであったために、かえって念力の集め方が足りず、術が中途半ぱとなったのでしょうか。……いいえ、あれはきっと、悪事に加担した男たちに、天が冥罰を下したに相違ございません」
──血の香をまじえた河原の風の中に、お婉は茫としばし立ちつくし、あたりを見まわした。渡し場あたりに立っている影──旅人たちは、ことごとくふらりと立ったまま動かない。そんなその姿勢のまま、眠っているのだ。
その中に、石来監物の姿を見ると、お婉は近づいた。ただうつろな眼をあけている江戸家老を見ると、お婉の顔にまた恐怖とためらいの波がわたった。が、彼女はもういちど雨師夢竿の屍骸をふりかえり、そして遠く西の方──信濃や甲斐の空を見た。さらに、過ぎ去った日をかえりみるまなざしになった。
「おゆるしなされませ、監物さま。あなたさまは、わたしの父に手をかけられました」
いちど片手をあげて拝んだが、ふたたび決然とした表情になり、
「それから、お家のため、天道のためでございます」
そして彼女は、棒のように立っている石来監物を斬り伏せた。
このみな殺しの光景を、ぽかんと空しい眼で見ている旅人たちに気がつくと、それがみな眠っているのだと承知はしていても、お婉はのがれるように舟のそばに走り寄った。──船頭もまた眠っている。
お婉は江戸の空を見た。その美しい顔に、また気弱な恥じらいの翳がたゆたった。
「……わたし、ほんとうに、若殿さまのとこへいっていいのかしら?」
と、つぶやいた。
が、暁の光がそのひたいにさしたとき、お婉は三たび決然とした顔で舟にのり、みずから水棹をとって、早春の冷たいせせらぎを砕いている多摩の流れを、東へむかって漕ぎ出していった。……
忍法小塚ッ原
一
小塚ッ原。
江戸浅草の北方に千住大橋がある。橋の南を|下宿《しもじゅく》といい、ここから山谷にかけての一面の原野をいう。ここに高さ三メートルばかり、周囲六メートルほどの塚があり、上に獅子の鼻に似た石を囲んで三本の榎が生えているが、この塚からこの地名が生まれたらしい。
有名な処刑場であり、また刑屍の埋葬場である。
江戸時代には、ここと品川の南にある鈴ヶ森が二大刑場であって、鈴ヶ森が東海道方面の犯罪者、この小塚ッ原が中仙道、奥州街道方面の犯罪者を処理したという。
そしてまた、首を斬る処刑にも二種類あって、一つは「斬首」、これは一般庶民の場合で|伝馬町《てんまちょう》牢屋敷で斬り、べつべつになった首と胴を、四斗桶または空俵に入れてこれらの場所へ運んで埋葬する。もう一つは「死罪」、士分以上の者で、これは直接刑場で斬られる。磔とか火あぶりなどはもとより、|梟首《きょうしゅ》も刑場の分担だ。
もっとも江戸時代すべての法規がそうであるが、これらの分類分担はすこぶるあいまいでいいかげんなところがあって、安政六年十月に処刑された吉田松陰などは長州出身で、むろん士分であるのに牢屋敷で斬られ、しかも屍体はこの小塚ッ原に運ばれている。
小塚ッ原に於けるこの松陰の屍体についての悽惨な記録がある。
松陰の処刑をきいた桂小五郎、伊藤俊輔(博文)ら四人の弟子が小塚ッ原に至ったところ。──
「幕吏もまた至り、回向院の西北方なる刀剣試験場そばの藁小屋より、一つの四斗桶を取り来りて曰く、これ吉田氏の屍なりと。四人環立して蓋をひらけば、顔色なお生けるがごとく、髪みだれて面にかぶり、血ながれて|淋《りん》|漓《り》たり。かつ体は寸衣なし。四人その惨状を見て憤恨禁ずべからず。髪をつかね、水をそそぎて血を洗い、また|杓柄《ひしゃく》を取りて首体を接せんとしたるに、吏これを制して曰く、重刑人の屍は他日検視あらんも測られず、接首のこと発覚せば余ら罪軽からず、さいわいに推察を請うと」
杓柄を以て接せんとしたとは、そこにあった柄杓の柄だけを切りとって、首を胴に刺しこんで接ごうとしたというのであろう。
松陰以外にこの小塚ッ原で処刑されたり埋葬されたりしたことが判明している有名な連中には、八百屋お七、|直侍《なおざむらい》、鼠小僧、相馬大作、橋本左内、|頼《らい》|三《み》|樹《き》|三《さぶ》|郎《ろう》、桜田の変の浪士たち、高橋お伝、夜嵐お絹などがある。
鈴ヶ森の方は知らず、江戸時代ここで受けつけられた刑屍だけでも実に二十余万人に上るという。年平均千四、五百人処理されたという。江戸時代というのは世界でも類のない長年月の泰平期だが、しかし裏面でそれを支えるかかる恐るべき事実があったのだ。
二
安政のころ、ここに奇怪な首斬り役の男がいた。名を|鉈《なた》|打《うち》天兵衛という。
奇怪なというのは、首斬り役ではあるが、この男が果して役人か、ということになると、だれも首をかしげるからだ。
もっともこういう人物は、伝馬町の牢屋敷の方にもいた。有名な山田浅右衛門だ。一人ではない。代々首斬りを職業としたが、これが幕府の役人ではない。本来は市井の浪人である。ただ首斬りなどいう仕事は役人もいやだと見えて、いつのころからか、この浪人がその役を承ることになった。しかも浅右衛門の方から役人へ謝礼の金一封を出していたというから奇妙な習慣だが、これは彼が大名や旗本から新刀の試し斬りを依頼されていたからで、その礼金の一部をさいてそうしていたのである。ほかにまた屍体の|胆《きも》などを干して薬として売っていたともいう。
この鉈打天兵衛も、小塚ッ原の首斬り浅右衛門にあたる者か。事実、右の松陰死屍の記録にあるようにここにも刀剣試験場があって、彼がそこの主みたいな存在であったことはたしかだ。しかし彼は浪人ではなかった。さればとて奉行所や牢屋敷から派遣された役人でもないらしい。──
むろん奉行所や牢屋敷の首脳部は、彼の素性を知っていたであろう。しかし小塚ッ原に勤務する下級役人たちは知らなかった。ただ天兵衛が何十年も前からこの役をやっているということを承知しているだけだ。
そしてこの仕事に於ける彼の熟練ぶりと見ると、その素性などは何でもよく、それどころかただこの仕事をするために生まれて来た人物ではないかと思う。生まれながらの首斬り男ではないかと思う。
斬罪では、囚人の顔を二つ折りにした半紙で覆って、落ちないように細い藁縄で頸を結わえ、うしろで結ぶ。目かくしだ。|喉《のど》には縄をかけてある。これを斬り場に敷いた|筵《むしろ》ないし空俵の上に坐らせる。すぐ前には血溜めの大穴が掘ってある。
さて、そこで着物の襟をひき下げ、両肩ぬがせ、前かがみに首を穴の上につき出させる。喉縄をはずすと同時に、首斬り役の刀身一閃して首を穴に斬り落す。そのあと、斬り口から血が出つくすまで屍体の足を押えている。血は約一升五合流れ出るという。
さてそのあと屍体を四斗桶或いは空俵へつめるのだが、このとき首は屍体の腕に抱いて持たせる。恐ろしいポーズだが、何やら滑稽の感がないでもない。そして理葬場に運ぶ。これが浅い穴に、ただ薄く土をかけただけというあしらいで、とくに夏など一帯に腐臭ただよい、銀蝿が飛び交い、またしばしば野鼠野犬がむらがって|凄《すさま》じい牙音をたてていたという。
小塚ッ原に於ける死罪も同様で、ここでは罪囚に眼かくしさせず、また屍体運搬の距離も短い、というよりそこが埋葬場なのだからいっそう簡単だ。
そして、何より簡単なのは、首斬り役の妙技であった。鉈打天兵衛の手練であった。
年ははっきりしないが、四十半ばだろうか、馬のように長い、間のびした顔をしている。いつも居眠りしているようにまぶたが垂れ下がり、唇はいつもだらんとあけている。ただし、馬鹿には見えない。何だか虚無的な哲学者みたいに見える。
伝馬町の山田浅右衛門でさえも、ときに斬りそこね、二刀、三刀でやっと首を斬り落すことがあるという。囚人がもがいたり、あばれたりするからである。しかるにこの鉈打天兵衛の場合はいつもただ一太刀であった。
ふしぎなことがある。彼に斬られる囚人は全然騒がないのだ。死の座にすえられる前に、彼は長い顔をななめにかしげて囚人を眺めているが、このときから囚人はぴたっとしずかになってしまう。まるで死神に魅入られたようだといおうか。それからさらにふしぎなことは、彼のふるう刀が人間の首を切断するときに、ほとんどそれらしい音をたてないのだ。人の首が斬られるときは濡手拭いをはたくような音がするが、彼の刀は豆腐でも切るように通りぬける。囚人の頸椎が軟骨化したのではないかと思われる感じである。
処刑の日、雨がふっていたことがある。しばらく待っていたが、だんだんひどくなるばかりだ。雨がふるからといって、処刑を明日にのばすというわけにはゆかない。
「やろう」
と、天兵衛は重々しくいった。雨の中に罪人がひき出された。小屋の中でそれを見ていた天兵衛は、煙管をしまい、傘をさして出ていった。
「お持ちしやしょう」
と、下人が寄って来た。傘のことだ。
「いや、よろしい」
と、天兵衛はいって、左手に傘の柄をもったまま、囚人のうしろに立った。傘のふちから銀の|簾《すだれ》を張ったように雨がながれ落ちている。
水の紗を破って刀身がひらめき、囚人の首は落ちた。片手斬りだが、このとき人々は彼のさした傘からながれ落ちる水の糸が、微風に吹かれるほども動かなかったのを見たという。──またそのあとで、天兵衛の腕も袖も一滴の雨にも濡れていないのを知ったという。
また、ある日。
そのときの囚人は女であった。三十ばかりだが、こういう刑を受けるような罪を犯したのが信じられない、美しい、やさしい顔をしていた。彼女はしきりに念仏を唱えていたが、例の穴のふちの筵に坐らせられたとき、
「お願いでござります。西の方をむいて死にとうございます」
といった。
穴は彼女の東側に掘られていた。だからといって断罪の座を反対側に移すなどいうことは許されなかった。しかし天兵衛はうなずいた。
「よろしい」
そして、女の首を押えていた下人にその手をはずすように命じた。女は首を穴の上にさし出さず、まっすぐに立てた。その刹那、光流が走った。女の白い頸に赤い絹糸みたいなものが浮かび出た。
「西方を誦せ」
と、天兵衛がいった。
すると女はゆっくりとうしろをふり返った。見ていた人間があっと眼をむいたのは、その女の首が赤い絹糸の上から完全に反対側に回転したからである。のみならず、その唇がうごいた。念仏を唱えたようである。唇がとじられると同時に首は西側に落ち、首のない胴は東の穴の方へばったりと伏した。絹糸のあった部分が真っ赤な切口になって、そこから血を吐きつつ。
この断頭の術、まさに人間のわざではない。──
鉈打天兵衛は何者か。その素性を知ったただ一人の人間がある。それは天兵衛の弟子で、|香《こう》|月《づき》平馬という若者であった。
三
一年半ばかり前、遊女を殺した浪人が、天兵衛の手で斬られた。その屍骸を受取りに来たのが友人と称するこの若者で、彼はその首の斬り口をじいっと見ていたが、
「凄いものだ、この斬り手は」
と、うめいて、天兵衛に弟子入りを申し込んだのであった。
その場に天兵衛は居合わせていたわけではなかったが、それをきいて、「ふむ、斬り口を見てか」と彼はつぶやき、「逢うてやろう」といったのみならず、逢って、その首斬り役志願の若者をじいっと見つめていたが、やがて「よろしい、弟子にしてやろう」とうなずいたのである。
「おまえには、見込みがある」
と、彼はいった。
自分で志願したくせに、平馬はめんくらった顔をした。
「何を見て、見込みがあると申される」
「剣気」
きいていた役人たちがまばたきをした。平馬は、女にもまがう──美少年といっていいあえかな姿を持っていたからである。香月平馬も妙な表情になって首をひねっただけであった。
天兵衛は眠たげにつぶやいた。
「何の変ったこともないのに、ふだん人を殺せる気を包んでいるという人間は、世にないではないが、貴重な素質である」
ともかくも、平馬は天兵衛の弟子となった。こういうことが出来たのも、天兵衛が正式の奉行所の役人ではなく、かつこんな役の志望者が将来ともめったにありそうにないという理由からであったろう。
実際このごろばかに仕事がふえて、例の大獄の余波で、江戸市中から狩りたてた有象無象の不逞の浪人どもを斬るのに、直径何メートルかの大穴を掘って、いっぺんに処刑をするといった日がしばしばあり、いかな熟練工でも鉈打天兵衛一人では間に合わず、いやいやながらほかの役人も手伝わねばならぬといった場合があったのだ。
そういうわけだから、新参にかかわらず、香月平馬もわりに早く実務につかせてもらったが、首の座にすえられた人間を斬るということが、想像を超えてうまくゆかない。往生際の悪いやつは悪いやつで、また虚脱状態になっているやつはまたそれなりに、かえってこちらの気がひるみ、なかなか仕事がきれいにゆかない。──いわんや、鉈打天兵衛の域に達するに於てをやだ。
或るときなど、香月平馬は、半分頸を切った老婆が、いきなりふりむいて血だらけになったまましがみついて来て、数人の下人にやっとひっぺがしてもらうという醜態を演じたこともある。
そういう平馬を見ながら、天兵衛は何もいわなかった。手をとって教えるということもない。
平馬が刀さばきの教えを請うと、
「剣術は教えることが出来るかも知れんが、その方はおまえの方が上だろう」
と、例の眠たげなまぶたをわずかにあげてつらつら眺め、
「首斬りの方は、ただ数をこなすよりほかはないな」
と、いって、あとはだらんと口をあけたきりであった。
そして、眠たげに、口をだらんとあけて罪人の首を斬る。夜毎、日毎、斬る。──数カ月たって、平馬はまたきいたことがある。
「私、お弟子にしていただきながら、かようなことをおたずねするのはどうかと思いますが、お師匠さまはいったいどういうおつもりで毎日こんなことをやっておられるので?」
「おまえは、どういうつもりで志願した」
天兵衛がそんなことをきいたのもはじめてだ。
彼は平馬の動機はおろか、その過去についてもいままで何もたずねたことがない。とくに意識してきかないというより、そんなことはどうでもいい、全然興味がないといったようすであった。
「は。──私はやはり、その、悪を|誅戮《ちゅうりく》する、という業務に参加し、いくぶんでもそのお手助けになればと存じまして」
「わしもその通りじゃよ」
その通りかも知れないが、この天兵衛という人間を見ていると、ただその通りだけではないように見える。もっと何か深遠な理由があるように思われる。だから平馬はきいたのだ。
「けれど、私は」
と、平馬はいった。
「実際にやって見まして、中にはやはりかかる惨刑を与えるのはちと酷ではないか、と思われるやつもなきにしもあらず。──」
「そんなことはない」
天兵衛はくびをふった。
「人助けじゃよ。みんな」
「人助け?」
「当人のためにも、他人のためにも」
「よくわかりませぬが」
「生きるに甲斐ある人生を持っている人間というものは、そんなにない」
「はあ?」
「その証拠に、人にして、それまでの人生をそっくりそのままもう一度繰返せといわれたら、身の毛をよだてて、それだけはお許しをと願わぬやつがあろうか。もしあるとすれば、そやつは阿呆だけじゃ」
「しかし、ともかくも人間は生きたがっております」
「また当人は生きたがっても、人に迷惑にならぬやつは一人もない。どんな人間が死のうと、他人にとっては痛くも|痒《かゆ》くもない。ふん、そうか、というだけじゃ。それどころか一人が死ぬと、かりに五人泣く者があるとすれば、少くもその十倍の五十人はせいせいするやつがおる。それは人間、一生に何かよいことをしたとすると、必ずその十倍は罪深いことをしておるせいでもある。──」
ちょっと長い顔をかしげていった。
「ただ、この世に存在する値打ちのある者がないでもない。それは若い美しい女じゃ」
この人物にしてこの言辞があるか、と感ぜざるを得ない。
「しかし、その美もいいところ十年で消え失せる。あとはこの地上に於て最も醜悪なる、若くない女という動物がいつまでも長生きして他人を悩ますばかりじゃ」
奇怪にたえぬかのようにつぶやいた。
「実際、人は、なぜこう生きたがるか|喃《のう》。……」
笑うべきことではないにもかかわらず、この恐ろしい首斬り哲学者の表情には、ふしぎにユーモラスなものがあった。
「先生、生きるに甲斐ある人生を持っている人間はそんなにない、と仰せられましたな」
と、平馬はいった。
「では、先生はどうです」
「わしにはない」
「はあ?」
「わしも実は何のために生きておるかわからぬよ」
笑いもせずにいった。こんどは逆に、こちらが笑おうとしても声がのどの奥で凍りついてしまうような厳粛なものが、靄のようにこの首斬り名人の姿にからみついているのを平馬は感じた。
そして鉈打天兵衛は、まるで機械みたいに人の首を斬る。
四
人間は不可解なものだ。まもなく平馬は、天兵衛のとんでもない趣味を発見した。──発見したのではない。天兵衛の方から平馬にそれを告白したのである。
「平馬、おまえ、吉原を知っておろうが」
ふと、或る日、天兵衛がいい出した。
「いつぞや、おまえの友人が吉原の女郎を殺してわしの刃にかかった。おまえも、廓は知らぬことはあるまい。──」
「それは、知らぬでもありませぬが」
「そうだろう。知らぬどころではない。おまえに恋着して夢中の遊女がたんとおったに相違ない。──」
「それが……どうかいたしましたか」
「つれて来られぬか」
「廓の女郎を、小塚ッ原へ?」
「もし心当りの女がおるなら、廓の亭主にはわしから話す。むろん、|揚《あげ》|代《だい》もつかわそう」
遊女はめったに廓から外へ出られぬことになっている。しかし小塚ッ原から指示すれば、それを拒否する女郎屋はまずなかろう。距離もほんの一足でもある。もっとも、首を斬らぬという保証あってのことだが。
平馬はしかし狐につままれたような顔をした。
「つれて来て、何をするのです」
「交合してくれい」
「へ?」
「わしは、それを見る。……なるべく若く、なるべく美しい遊女がいいな」
この人は、こんな趣味を持っていたのか──はじめて知ったというのはこのことだが、まじまじと相手を見たまま、平馬はしばし声もなかった。天兵衛はニコリともせず、まじめな顔をしている。
しかし、驚くべきことを知ったのはその次であった。
「そんなものを御覧なされて、何をなさるのでござる」
という平馬の問いに、
「まず見ろ」
天兵衛は小屋の棚から一本の徳利をとり出した。その徳利に栓がしてあるのを、はじめて平馬は見た。
天兵衛はそれを口にあてた。──酒ではないらしい。しかも極めて少量らしく、それが垂れて口のところまで来るのになかなか時間がかかり、天兵衛はしきりに頬をくぼませた。やがて、それは何とか口中に入ったらしい。唇のはしににじみ出したのは、ねっとりとした半透明の粘液のようなものであった。
彼は脇差をぬいた。刀身をかざし、それをめがけて口をすぼめた。すると──何であろう、白い蜘蛛の糸みたいなものが、ビラビラビラ……と噴き出された。彼はまんべんなくそれを、刀身の鍔もとからきっさきまで、両面に噴きつけた。
それから──平馬は、あっとさけんだ。
天兵衛が床におのれの左手の掌をひらいてつき、その刀を振り下ろして、親指をまんなかからぷつりと切断したのを見たからだ。
「見ろ」
天兵衛はもういちどいって、切り離された指を平馬につきつけた。
それはまるで粘土を切ったようになめらかで、骨を中心に切断面を見せていたが、血は流れていなかった。それどころか、その切断面はうす白いものに覆われている。平馬はそれが無数の粘糸をなすりつけたようなものであることを知った。白い──と見えたのは一瞬で、みるみるそれは真っ赤に染まった。
「この小塚ッ原で|解《ふ》|剖《わけ》なるものが行われたのは明和八年というから、かれこれ八、九十年も昔のことになるが」
と、彼はつぶやいた。
「いまもちょいちょい蘭学者が来てやっておるが、血の通る管には動脈と静脈と、それをつなぐ毛細管なるものがあるそうな。これは、その毛細管の役目をしておる。つまり、切られた動脈の血が、これをつたって静脈に移るのじゃ」
平馬にはよくわからない。──掌に残った親指の切断面にも同様の現象が起っているのを、眼を見張って見つめているばかりである。
「従って、切られた指は死なぬ」
天兵衛は落ちた指を拾いあげて、二つの切断面をぴったりくっつけ、じっと握りしめること数十秒。──押えていた手を離した。
指はつながっていた!
ただ、よく見れば、そのまわりに赤い絹糸みたいなすじがある。──しかし指は、ヒラヒラと動いた。天兵衛はにたっと笑った。
「どうじゃ?」
平馬は瞳孔を拡大させたままである。
「斬った刃にしかけがあったことはいま見た通り。もっとも、斬り手がわしでないと出来んことじゃが」
「そ、その……刃に塗られたのは何でござる?」
「淫水」
「へ?」
「女陰中から採取したもので、男の精汁と女の愛液の混合物」
平馬はまた絶句した。──もと通りのまじめな顔に戻って天兵衛はいう。
「うそではないぞ。げんに見た通りじゃ。精汁愛液、ともに──これも蘭学者からきいたことじゃが、──いずれも無機物ではない。それは生きておる液じゃ。とくに精汁の方には、女の愛液に賦活されて一滴の中にも何万匹かの虫がうじゃうじゃとうごめいておるはず。──血くらい運んでなんのふしぎがあろうか」
「し、しかし」
と平馬はあえいだ。
「せ、先生は。──」
「おまえじゃから、知らせておこう。べつに特にかくしておることでもないが」
天兵衛はしずかにいった。
「わしは伊賀者じゃ」
「はあ?」
伊賀者の名は知っている。それは江戸城諸門の警衛にあたる卑賤の職である。が、記憶の水底から気泡がたち昇って来るように、これが元来は忍びの術を心得ていたいわゆる忍法者の後裔であることを思い出すまでには数十秒の時間を要した。時は安政のころの話なのである。
「わしは生甲斐はないといった。しかし、まあ、あるとすればこれじゃな。……この人間接木の術をもうすこし研究してみたい。そのためにはもっと大量にその接着剤、すなわち淫水が、しかも出来るかぎり生命力の強い若々しいやつが欲しい。すなわちおまえに依頼するゆえんじゃ。わかったか」
のちになって、平馬はくびをかしげたことがある。それはこのとき、つまり最初に使用して見せた徳利の内容を、いったい天兵衛はどこから採取したものであろうか、ということである。が、その疑問はもとより。──
「では、では──先生が私を弟子にして下されたのは、そんな目的からでござるか」
という問いに、
「まず、そんなところだ」
と天兵衛が|恬《てん》|然《ぜん》として答えたのにも、むっとするどころか、そんな理性や感情はすべてかなぐり捨てて、
「作りましょう、そのもの[#「もの」に傍点]を」
と、平馬はさけんでいた。全身を燃えあがらせる驚異と好奇心であった。
「やってくれるか。わしの見込んだ通りであるな」
「心得てござりまする。しかし、先生、そのもの[#「もの」に傍点]を大量に得て、どういう風に研究なさるのでござる」
「首をつないで見ようと思う」
「──ひえっ」
「人間なるものに、わしは以前からふしぎに思っておることが二つある。いや、それは数々あるが、当面問題にしたいのは次の二つじゃ。一つは、いつかもいったように──当人もさして幸福に思わず、どう見てもさして値打ちがあるとは見えぬ人間が──つまり、二度と同じ人生を送りたくないと考えておるにふさわしい人間が、なぜああもむやみやたらに生きたがるかということじゃ」
「そ、そんなことは当り前で──いかに値打ちがなくても不幸でも、自分のいのちは一つでござるから。──」
「もう一つはじゃ。もしかりに生まれ変ることが出来るとするならばだれに生まれ変りたいか、というと、その不幸で値打ちのない人間がじゃな、空想ではともかく現実では、それならあの人に生まれ変りたいという具体的人物像が、まあそこらには存在しない、ということじゃ。つまり、どこまでも自分にこだわるところがわけがわからん」
「そ、そんなことは当り前で──他人に生まれ変ったところで、それは他人でござるから。──」
「とにかく、後者の矛盾した願望を止揚するのに、前者のこれまた矛盾してはおるがどうしても生きたいという執念を利用したい」
と、この首斬り哲学者は荘重にいった。
「すなわち、斬った首を他人の胴につないでやるといったら、そやつはどうするか」
「──えっ」
「それならば、他人に生まれ変っても、自分は自分」
平馬は何度めかの|唖《おし》になったが、ややあっておずおずといった。
「先生」
「なんだ」
「他人に生まれ変っても自分は自分、とおっしゃいましたが……たしかにその通りにちがいありませんが、その生まれ変ったのは胴体の方で? それとも首の方で? つまり、主体性はどちらにあるのでござりましょう?」
「さあそれじゃ。世にへそから下は人格がないという言葉がある。つまりその方の責任は持てないということで、してみると、首の方に主体性がありそうじゃが、果してそうかな? つらつらわしの考えたところによると、必ずしもそうではないな。からだの都合で頭の方が変るということがたしかにある。頭と胴体と、強い方が相手を制するのではないかと思われるふしがある。──」
──こんなところで作者が顔を出して恐縮ですが、この鉈打天兵衛の思想には一考に値するものがあるように思われます。
たとえば人相のごとき、これは位置的には首に属するけれど、脳髄と肉体とに分類すれば、あきらかに肉体に属する。すなわち骨格と筋肉の組合せに過ぎない。しかし、この外面がいかに内面に影響するか。たとえば保守党と革新党の代議士の顔は、そのレッテルを見ないうちからはっきりわかるほどだが、あれをそれぞれの思想がそれぞれの容貌を作ったと見るより──どう見てもそれほど強烈な作用を持つ思想の持主とは思われない──それぞれの容貌がそれぞれの思想を作ったと考えた方がむしろ|中《あた》っているように思われる。むろん例外ということは何にでもあるけれど、大体に於て、ああいう顔をしたやつはああいう思想を抱くものだと見た方が無理でないように思われる。思想は一夜にして変るが、容貌はおいそれとは変らない。この方が重い。四十になったら顔の責任は自分で持てといわれるけれど、四十までの顔がその思想を決定するのではなかろうか。肉体が思想を支配する好例は、いまの学生騒ぎである。試みにいま保守党代議士と全学連をタイムマシーンに乗せて江戸の小塚ッ原へ運び、鉈打天兵衛の刀光一閃、その身首をかえて──それが可能であったとして──そしてまたふたたび現代の東京へつれ帰ったとしたら、代議士の胴体を持った学生の顔は必ず酢をなめたようにニガニガしげに舌打ちをし、代議士の首をのせた学生の胴体の方はきっとゲバ棒ひっかかえて駈け出すことを、作者は信じて疑わない。
「ふむ、それも面白い研究の主題じゃな。同一個体ではどちらが影響したか不明確なことも、べつべつに交換してみると、その点がはっきりと把握出来るであろう」
と、処刑場の哲学者はうなずいた。
「ともあれ、首と胴をとりかえる、という再生の法によるなら、人間はたとえなかば他人になっても生まれ変ることを欲するか。──」
「そ、それならば、だれしも生まれ変ってもよいと思うでござろう。──少くとも、死ぬよりは」
「そのためには、それ、例の淫水が要る」
と、鉈打天兵衛は論をもとに戻した。
「平馬、それをわしにたっぷり供給してくれるか」
「いたします。いたします」
と、平馬はこぶしを握りしめてさけんだ。
「一升なりと、一斗なりと。──」
五
雨の夜など、ときどき青白い燐火が燃える小塚ッ原。
ちょうどそんな夜、鉈打天兵衛のものときめられている詰所で、問題の接着剤或いは動脈静脈結合糸の採取が行われた。
採取用の生体はむろん近くの吉原からつれて来られた遊女であったが、たとえ小塚ッ原からの命令があったとしても、つれ出したのが香月平馬でなかったら、決して承知しなかったにちがいない。ここのところさっぱり姿を見せなかったが、平馬はひととき吉原の女たちすべての胸を躍らせたもので、とにかくその平馬と一夜契りを結ぶのが条件だときいた上、たっぷり謝礼が出るとあっては、小塚ッ原だろうがどこだろうが志願者のむれがどよめきたったのは当然で、ただ一人選抜されたその遊女に対して、みな羨望の吐息を吹き送ったほどである。
だから、むろん若くて美しい遊女であった。
遊女ではあるが、場所が場所だ。それに、そばにもう一人、見物の男がいるのには|辟《へき》|易《えき》しないわけにはゆかない。これがまた馬みたいに長い顔で、口をだらんとあけて、しかも何やらうす気味のわるい男とあっては、辟易どころではない。──ただ、その彼女を、ともかくも抱かれる気にさせたのは、抱いてくれるのが憧れのまとであった美しい香月平馬だからであった。
それにまた平馬が、廓へいったときの倍の努力をした。何しろ、男の力の及ぶかぎり多量の精汁を注入し、女のからだの許すかぎりの愛液を湧出させ、両者相合して極力盛大に淫水を製造しようというのが目的なのだから。
その念力に巻きつつまれ、遊女はついに場所も忘れた。そばに坐っている男も忘れた。そしてついに「失神」状態におちいった。
遊女の意識を吸い戻したのは、その後の痛烈な感覚である。痛烈ではあるが、先刻の平馬との交合の三倍くらいの快感であった。女にして、彼女は放出した。いや、吸いあげられた。肉はおろか、骨の髄まで。
先刻の平馬?──さっきべつの男が坐っていたところに平馬が坐って、腕組みをして、あっけにとられた顔で眺めていることに気がついたのはそのときである。気がついたが、醒眼朦朧といったありさまの彼女はどうすることも出来なかった。では、わたしをこんな気持にさせてくれているのはだれだろう、という疑問を抱く能力さえ彼女は失っていた。
平馬は、遊女が先刻の五倍くらいの長さで笛みたいな声の尾をひくのに、茫乎として鼓膜をしびれさせていた。
「頼んだ甲斐があった」
鉈打天兵衛は壺に何やら吐きながらいった。
実験室の化学者みたいな手つきで、慎重にそれを徳利に移す。
「かたじけない。これで当分はつとまる」
六
神田鍋町の薬種問屋叶屋銀兵衛、御家人赤瀬源次郎。
これが小塚ッ原で同罪で斬首されることになったのは実に面妖なきっかけからであった。
銀兵衛は六十を越えているのに、金にものをいわせて妾を五人も囲っていた。ただし、この五人を別々にではなく、同じ一軒に置いていたのは、金にものをいわせて、というけれど、町人らしい算盤からか、それとも相当な悪趣味からか。ともかく、肥ってはいるけれど、背ひくく、水ぶくれしたようにだぶだぶした老人であった。
これが御家人の赤瀬を、妾たちの用人棒に傭った。赤瀬はまだ若いのに、家族を十余人かかえ、赤貧洗うがごとくで、そのためともかくも徳川の禄を|食《は》む者が、内職ながら町人の妾の用人棒になるという情けない破目になった。
女のための用人棒というのは、わりとその選定が難しい。用人棒だから或る程度強くないと困るが、一方ではひとの妾の用人棒になるようなやつにろくな男がいるわけはないから、うっかりすると飼犬に手をかまれる──守るべき義務のある女に牙をかけるということにもなりかねないからだ。
その点、この赤瀬源次郎は甚だ適性であった。若くていいからだをしているが、二三代前から叶屋に借銭があって、絶対に頭があがらない。とにかく、先祖から叶屋に頭の下げ通しなのでもうそれが遺伝になって、一町さきからゆき逢っても、いや姿が見えないうちから本能で嗅ぎつけて、反射的にお辞儀をするほどである。これなら決して裏切る心配がない。
それでも銀兵衛は、彼を決して妾の家には入れなかった。ただ日夜、その家のまわりをパトロールさせるだけであった。そして事件が起ったのだ。
銀兵衛が用人棒を傭ったのは、虫の知らせ──というより、何やら気にかかることがあったからで、その予感は的中した。
或る夜その家に忍び込んで、忍び出た男が殺された。殺したのは赤瀬源次郎である。彼は、盗賊だと思い、捕えようとしたら抵抗したのでやむを得ず斬り殺したと申したてた。しかし調べて見ると、殺された男は浅草の絵双紙屋の息子で、決して泥棒に入るような人間ではないことが明らかになったので、きびしく追及したところ、男は叶屋の妾の一人のもとの恋人で、その女に招かれて忍び込んだものであり、源次郎は叶屋の用人棒としてその義務を果したものであることが判明した。そして、その殺人の動機はともあれ、御家人にしてそんな内職をしていたということの方が罪が重く、源次郎は斬首の刑に処せられることになったのだ。
叶屋は御家人を傭ったということで、「|急度叱《きっとしかり》」というお咎めを受けただけであった。──事件はそれで落着したように見えた。
「それが妙なことになった」
身首交換実験第一号について説明したとき、鉈打天兵衛が平馬にいうのである。
彼は伝馬町牢屋敷へいって、収獄中の赤瀬源次郎を見た。近く小塚ッ原へ送られて来る人間の下見をしたのである。それから、何思ったか、鍋町の叶屋を訪ねた。
天兵衛はもともと叶屋と知り合いであったのだ。首斬り人と薬種問屋がどうして知人であったのか、天兵衛は平馬に説明しなかったが、例の研究途上止血剤でも探しにいったのか、ひょっとしたら山田浅右衛門のごとく刑罪人の|肝《きも》でも売る取引先の一つであったかも知れない。
叶屋の「急度叱」のお咎めはもう解けていた。そこで天兵衛が、「このたびはどうも」と挨拶したのか、「ばかなことをしたものだ」と|苦《にが》い顔をしていったのかわからないが、とにかく、
「赤瀬を生かしてやりたいが。──」
と、相談したのである。
いったん刑の決った者をそんなことが出来るのか、と眼をきつくした銀兵衛に、天兵衛は例の人体接着のことを打ち明けた。そしてまたも自分の指を斬って、ふたたびくっつけて見せてやった。それから、この件について特別の許可は、内密ながら必ず奉行所からとれるはずだといった。
「これを赤瀬に試みて──しかも別の人間の首ととりかえて見たいと思う」
と、天兵衛はいった。
「ただ首となると、相当に当人の念力が関係して来ると思う。もっと生きたい、死にたくないという意志が旺盛でないとうまくゆかぬと思う。それはだれでも生きたい、死にたくないと思うだろうが、案外判決を受けたとたんもう半分死んだ人間のようになってしまう手合が多い。ところで、きょう赤瀬を見ると、牢の中でひたすら泣いておる。泣いておる罪人も少くないが、赤瀬の泣き方が少し異常なのでよくきいてみると、女を知らぬ自分が、ひとさまのお妾を守るために死ぬのが残念至極、という。──」
「わたしを恨んでおりましたか。この事件で、わしはあの男の家への貸金をぜんぶ棒引きにしてやりましたが」
「いや、それはありがたがっておった。何もおぬし個人を恨んでおるわけではない。あれは自分の役目としてあたりまえのことだといまでも悔いてはいない。悔いは、おぬしのことなど超えた自分の運命にある、といったが、その気持はわからんでもない」
天兵衛はこのとき妙な笑いをにじませた。
「おぬし、妾宅で五人も相手にして何をしておった。赤瀬は夜な夜な女の声に耳をすませておったらしいのだ。貧しいので嫁の来手もなく、女も買いにゆけなかったあの若者は、その声をきき、その習いが性となって──御覧なされ、と見せた」
「何を?」
「立っておった」
「何が?」
「牢に入っても、斬罪の宣告を受けても、立ち通し、ということじゃ。それが常態となったらしい」
「ほほう」
銀兵衛にもわかったらしい。
「それを見て、あれをその実験の対象にしてやりたいと思い立ったのじゃ」
「……しかし、首のとりかえっこというと、もう一人の人間が要りましょうが」
「さ、その相棒はこれから探す。それだけの執念の持主を見つけるのはちと骨じゃが。……とにかく赤瀬の一件については、おぬしの了承を得ておきたいと思ってやって来た次第」
銀兵衛は質問しはじめた。眼がぎらぎらとひかり、その好奇心はただならぬものがあった。彼もまた、もしそれがうまくいった場合、新しく組み合わされた人間を支配するのは首か胴か、ということを疑問の対象にした。それは、強い方が支配するだろう、と天兵衛は答えた。やがて銀兵衛は、
「その交換の相手をわしにして下さるまいか?」
と、意外なことをいい出したのである。
──結論からいえば、彼は若返りたい熱望にとり|憑《つ》かれたのであった。自分はこのごろ耳鳴りがしたり、眼がくらんだり、息切れがしたりするが、少くとも若い赤瀬源次郎の胴体を得たなら、それだけ長生きの可能性があるというのであった。もしそれが出来るなら、財産の半分はあの赤瀬に与えてもいいとまで彼はいった。
「しかし、今の指斬りを見てもわかるように、その接着は早いにかぎる。むしろ即刻でないと予後が保証出来ぬ。が、おぬしを小塚ッ原で斬るわけにはゆかんじゃろうが」
と、天兵衛がくびをかしげるのに、銀兵衛は膝を乗り出した。
「いや、例の赤瀬の事件には、わしはもっと深い関係があるので」
「とは?」
「偶然、赤瀬が間男を見つけ出したのではなく、ほかの妾の密訴でわしが知って、赤瀬に教えて待伏せて殺させたので。──赤瀬は、借銭棒引きであとの家族が助かると思って、それはお上に申しあげなんだのでござりますが」
「それが事実であるか、どうかは知らぬ。──」
と、これは鉈打天兵衛が平馬にいったのである。
「とにかくこれで叶屋銀兵衛も改めてつかまって斬罪申しつけられたのじゃが――黙っておれば|叱《しかり》だけですんだことを、これはいわば斬首の志願者。これだけの熱意があれば、きっとうまくゆくであろうと思う」
実験用の二罪人の入手の顛末だ。
「むろん、赤瀬は承諾した。しかも、万止むを得ず承諾したのではない。え、わたしに叶屋のお金を半分下さると? それなら胴のみならず首もさしあげてかまわぬほどでござる、といったが、それでは財産をもらっても何にもならぬではないかと申したら、あ、それはいかにも、と頭をかいておったが──ともかくも、これで人間なるものは、必ずしも全部が自分でなくても、事と次第では半分他人に変ってもいいと考えるものであることを発見した。つまりそれほど自分を貴重なものに値踏みしておらんわけで、この自己評定は正しい。事と次第では──むろんそれによって、その方が倖せになると思うてのことじゃろうが──さて倖せになれるか|喃《のう》」
この天兵衛がひとごとみたいにいうのは少々無責任のきらいなしとしない。
さて天兵衛が平馬にこんな話をしてから数日ののち、小塚ッ原にこの二人の罪人がひき出された。公示もなく、数人の役人以外は見る者もない夕暮のことであった。
「赤瀬さん」
妙な再会の挨拶ののち、銀兵衛は相手をにらみつけていった。
「わ、わしは三代前からおまえさんの家の面倒を見ている人間ですぜ」
「は。──わかっております」
赤瀬源次郎は直立不動の姿勢になっていった。それまでの収獄生活で髯はのび、垢だらけになっているのにもかかわらず、凶悪とは見えず、愚直さがありありと浮き出した若者であった。同時に、それ以前からの大貧乏というものもあるはずなのに、実にいい体格をしている。垢でひかっているのまでが、内からにじみ出た肉のあぶらそのもののように見える。
「金輪際、わしに弓をひいちゃあいけねえ」
「はっ」
この期に及んで何を威張って恩を売るのだろうと平馬がくびをかしげていると、天兵衛がいった。
「叶屋、いまあまりおどして、この若いのの気勢をそいじゃあ、あとでさしさわりがあるかも知れないよ」
ああ、そうか、と思いあたった。叶屋銀兵衛はいまから源次郎の胴体を制圧して置こうとしているのだ。──叶屋は狼狽した。
「ちょっと、おまえさん、見せておくれ」
「は?」
「鉈打さまからきいたが、おまえさんは、その、どうなっても気勢ってやつをあげてるそうだね」
まだ何のことかわからないらしかったが、天兵衛に耳打ちされて源次郎は垢だらけの顔をあからめ、やがて、出した。平馬は眼をまるくした。いかにもそれは斬首場に来ても意気屈していない。
叶屋銀兵衛は飛びつくような眼をし、さらにそれを細くした。
「安心した。おまえさん、それをいつまでもつづけていてくれたら、叶屋の金、たしかに半分さしあげますぜ。そのつもりでな、しょげちゃいけねえ」
自分の支配できる肉体でなければこまるが、さればとてあまりに卑屈な肉体でもこまる。かねあいの難しいところだ。
「さ、鉈打さま、では早いところやってもらいましょうか!」
鉈打天兵衛は、二人を草の上の筵に坐らせた。
しずかに一刀を抜きはらう。平馬がさし出す例の徳利を口にあてて中身をふくむ。口をとがらすと、ビラビラビラ……と白い蜘蛛の糸みたいなものが噴きつけられる。たしか口にふくんだのは粘液のはずなのに、これが糸に変るところは、まるで蚕みたいな忍法としかいいようがない。
キラ、キラ、と閃光が二度走った。
同時に筵の上の二刑囚はそれぞれかすかに痙攣したが──それっきりだ。べつに何の異常もない。
……いや、やがてその頭のまわりにいずれも赤い絹糸のような赤いすじが浮かんで来た。やはり、斬られたのだ。それなのに、首が落ちないどころか、胴が倒れもしないのだ。実に驚くべき手練であった。
「交換」
と、天兵衛がいった。そして刀をおいて、叶屋銀兵衛の首を両掌ではさんだ。
平馬もがくがくする掌で、これは赤瀬源次郎の首をはさんだ。首は常人よりもむしろ熱いように感じられた。
「よっこらしょ!」
天兵衛の声もろとも、二人は首を持ちあげ、あとに真っ赤な──しかしこまかい血の泡が沸騰しているだけの切り口ヘ──たがいに別の胴へ、大急ぎでのせた。背の高低はひどくちがうが、銀兵衛が肥満しているため切断面の直径がぴったり同じであったことは甚だ好都合であった。
「角度を狂わせるな」
その点については、事前にもよく注意されていた。いつもななめを向いている人間ではこまる。
平馬は天兵衛と同じ手つきで、赤瀬の首を銀兵衛の胴体につないだまま、うしろから絹糸の部分に沿って、しっかりと掌をあてがっていた。
──約十三分。
「もうよかろう」
その天兵衛の声をきく前に、平馬は、自分の押えている頸が、ピク、ピク、と脈を打ちはじめ、それどころか、頸がいまにもうしろをにゅーっとふりむきそうな手応えを、生々しく感じて、さけび出しそうであった。
これまでの経過はもとより、やがてその首を交換した二刑囚が何か|水《くら》|母《げ》が水面に浮かぶような感じで立ちあがるまで、一語もなく、うなされたように見ていた数人の役人と下人が、はじめて声を発したのは、若々しい大きなからだに乗った叶屋銀兵衛の首と、ぶよぶよしたふとみじかい胴に乗った赤瀬源次郎の首が、たがいに顔見合わせ、
「うひひひひひ」
「けけけけけ。……」
うれしくってたまらん、という風に笑い出したときである。
どういうわけか役人や下人たちは、いっせいにしゃっくりのごとき音をのどの奥から発しはじめたのだ。
──さて、かくのごとくみごとに首の交換に成功した二人が、町へ帰っていって、どういう事件が起ったか。平馬はよく知らない。むろん強烈な好奇心があって、刑場勤務の休みをもらって追跡調査にゆこうと思っているうち──わずか三日目に、叶屋銀兵衛が死んだということをきいたのである。
「卒中を起したらしい」
と、天兵衛はいった。声は沈痛であったが、やがて苦笑がにじみ出た。
「あれ以来、叶屋は夜昼交合のし通しであったということじゃ。老人の首を持っておらんでも、だれだって卒中くらいは起すじゃろう。叶屋にも似合わぬばかなまねをしたものだ」
翌日、赤瀬源次郎が小塚ッ原に現われた。歩いて来る足もとに、ふところから美しいひびきをたてて小判を落しながら。
「お役人。……もういちどやって下されえ」
と、彼はいった。
「いえ、首を斬るのではござらぬ。首だけ残して胴を斬り離して下され。この胴はもう死んでおります。……」
「──えっ」
平馬の方がぎょっとした。源次郎は風みたいな声でいう。
「いえ、きけばこの胴はずっと以前から死んでおったそうで……妾は五人あれど、何の役にもたたぬ胴体で……女たちの声は、ただ丸太ン棒みたいな胴体を持てあました歎きの声だったそうで……ああ、拙者は金さえあれば世の中の悩み悲しみ苦しみは九分九厘までなくなると、日ごろより信じ切っておりました。あとの一厘は何か、よくもわからずただ何となくそう申したのでしたが、金があっても何にもならぬその一厘が、やっと氷解出来申した! 叶屋は日ごろより、人間金が出来たときはもう終り、とうなっておったそうでござるが、あの老人の……いいや、あの老いぼれのその言葉、いま胆に銘じて相わかった。お、お願いでござる。あの胴体を返して下されえ」
「おぬし、まだ知らぬのか。叶屋はきのう死んだという。──」
と、天兵衛は憮然としていった。
「従って、もうあの胴も死んでしまったろう」
黙ってこちらを見ていた赤瀬源次郎の顔が、このときすうと白ちゃけた。たんに蒼ざめたという程度ではない。
平馬が息をのんだのは、それが源次郎の顔はそのまま、みるみる、だぶだぶと皺ばんで、水死人みたいに変って来たからだ。──次の瞬間、彼はごろんとそれこそ丸太ン棒みたいにころがった。
「先生」
と、駈け寄って、その鼻孔に手をあてた平馬は顔をふりあげた。
「死んでしまいましたよ。──」
「胴の方の老いぼれた心臓がとまったのじゃな」
天兵衛はいった。べつに驚いたふうでもなく、じいっと屍体に眼を落したまま思索的な表情をしている。
「やはり、人間は、若い胴に若い頭、老いぼれたからだに老いぼれた頭を持つべきか|喃《のう》。……」
あたりまえだが、この人物がつぶやくと、ひどく深遠な意味を持っているかのように聞える。──
「この男には気の毒なことになったが、しかしいま死んでくれてかえってよかったかも知れぬ。世の中には、老いぼれた胴体に頭だけはばかに若がる爺いがおって、これこそ天下を悩ます根源となっておるのが多いのじゃから。……」
──歎くがごとき述懐であったので、もうやめたのかと思っていたら、鉈打天兵衛はまたやった。
七
西国某藩士の|板《いた》|津《つ》|玄《げん》|心《しん》と同藩浪人の|芦《あし》|立《たて》蝋之介。
この二人が実験の第二号であった。
両人、同じ斬首となったのは悪縁だ。──それはいわゆる敵討ちの敵味方同士なのであった。ふつうの敵討ちはあまりはやらなくなった時勢ではあったが、その代り|妻敵《めがたき》討ちというやつがふえた。これはその例だ。
妻敵討ちというのは、妻が姦通したとき、その妻と間男を成敗するということだが、この両人の関係は少からず変っている。芦立蝋之介が同藩なにがしの妻と密通して、手に手をとってかけおちしたのは事実だが、夫がそれを恥じたのか、人生に絶望したのか、ともかく首を吊って死んでしまった。そこでその妹のお|左《さ》|衣《え》なるものが、兄に代って敵討ちに出た。といって女一人では心もとないので、兄の友人であった板津玄心がその助ッ人として同行したというケースである。
甚だ悲壮また義侠の仇討行だが──そのはずなのだが、それが妙な結果になった。数年にわたる苦難の旅ののち、やっと江戸に潜伏していた姦夫姦婦をお左衣が見つけ出し、さて相手を或る寺の境内に呼び出して、晴れの敵討ちとなったのだが。──
やって来たのは、この姦夫姦婦だけではなかった。ほかにも七、八人の女がくっついて来た。それが泣きさけんで、芦立蝋之介をかばうのだ。しかもいったい、どういうことになっていたのか、その女の中にかんじんのお左衣までが加わっていたというのだから、わけがわからない。
板津玄心は大いに怒った。
そして怒りの大刀をふるって斬り倒したのが三人の女で、その中には姦婦がいたのはいいとして、お左衣がまじっていたのが悲劇である。これでは何のための敵討ちかわからない。しかも、当の敵の芦立蝋之介はまんまととり逃がしてしまった。──蝋之介の方はすぐに奉行所につかまったのだが、もはや敵討ちの筋が立たぬということになって、彼は斬罪を仰せつけられた。それは当然の処置であるが、さて玄心の方も甚だ不覚の至りなりとして、これまた首をはねられるということになったのである。
「それは、芦立の方はよろしいとして、板津玄心はちと気の毒ではありませぬかなあ?」
「わしもそう思ったが、きいて見るに玄心は……そのとき当の芦立よりも、女の方を専心追いまわしておったということじゃ」
「ほほう。その芦立をかばった女どもというのは何者でござります。またお左衣なる女は、何ゆえに敵の芦立を。――」
「女どもは芸者やら町娘やらじゃが……そしてお左衣が見つけ出してから敵討ちの段取りに至るまでに半年ほどの日があったというから、そのあいだに何かあったのではないか? とにかく、そのわけは、蝋之介を見ればわかる」
天兵衛と平馬との問答である。
さて、小塚ッ原にまた二刑囚がひき出された。──
芦立蝋之介をひと目見て、香月平馬は眼を見張った。天兵衛が、見ればわかるといった意味を了解した。つまり蝋之介はそれほどいい男であったのだ。平馬だって女にまがう美男だが、しかしこんな職場を志願するだけあって、よく見れば、天兵衛が評した剣気ともいうべきものが、たしかにどこやらに漂っている。しかし蝋之介は徹底的になよなよとして、女の方が抱きしめてやりたくなるような弱々しさがある。これでは、敵討ちの場で、自分の代りに斬られる女を捨てて、一目散に逃げ去ったというのもむりからぬことと同情される。
──それがいま、雨に打たれる梨の花のようにふるえている。むろん、この場に臨んでふるえない罪囚はめったにないが、それにしてもふるえ方がひどすぎる。
「……おまえさん、それでももとはお侍さまだったんで?」
と、下人までが妙な顔をしてきいたほどだ。
しかし、むりもない、と平馬は少し理解した。やはり縄でくくられた板津玄心がそばに曳かれて来るのを見たときにである。これは蝋之介を討とうとして討ちそこねた男だ。
むろん、玄心は歯がみしていた。
「ううぬ、天道、是か非か。げえっ」
──ひと目見て、これまた平馬は眼を見張ったのだが、何という顔をした男だろう。これほど|醜男《ぶおとこ》というのも世にあまり類がない。からだだけは堂々たる豪傑だが、眼小さく、口大きく、鼻の穴ひらき、黒い皮膚にぶつぶつがあり、まるで人間のいぼ[#「いぼ」に傍点]蛙だ。──それが、しぼり出すようにうめいて、にらみつけた。
「人の|運《さだ》|命《め》はさまざまとはいえ、げえっ、うぬと同じ断罪の場に坐らせられようとは!」
天兵衛がいい出した。
「おお、そのことについて、ちと話がある。……この件については、お奉行所より特別のおゆるしを願うてあることじゃが。……」
「あの。……」
突然、蝋之介が身もだえして、かぼそい声でいい出した。
「お願いがござります。わたしの耳に栓をして下されませぬか?」
「なに、わしのいうことをききたくないというのか」
「いえ、めっそうな、お役人さまのことではありませぬ。その板津の──げえっ、という声がいやなのでござります。お左衣がそう申しておりましたが、いえ、昔、藩におったころから、私もいやでいやでたまりませんでしたが……それをききながら死にとうありませぬ。それだけが最後のお願いでござります。……」
そういえば先刻から、板津玄心はげえっという妙な声をもらしているようだが、それはこの刑場にひき出されてからのことではなく、以前からのこの男のくせであったのか。
「太平楽を申すな!」
と、さすがに天兵衛は一喝した。
「ここをどこと心得ておる?」
場所柄をわきまえぬわがまま、といった顔色ではなかったが、さすがに芦立蝋之介は沈黙して、ただ身ぶるいした。弱々しいと同時に、病的な神経の所有者でもあるらしい。──
「あと、十も数えぬうちに、うぬの首はそこの血溜めの穴に転がり落ちるのだぞ!」
「──げえっ」
と、板津玄心がまた妙な声を出した。しかしそれが驚きや恐怖のためではなく、この男のくせであることはいま判明した。
「というはずであったが──いま申した通り、特別のおゆるしを以て、両人のいのち相助ける」
「──ひえっ」
これは芦立蝋之介の方の声である。
「信じたくなければ信ぜずともよいが──両人の首を交換してもよいというなら、死んでもいのちがあるようにはからってやる。小塚ッ原でこのごろ新しく開発した断頭の法じゃ」
天兵衛はいった。ふつうなら冗談としか聞えない言葉だが、この首斬り役の男の語韻には決して冗談には聞えない深沈として厳粛なひびきがあった。
「ただし、そのあとまた敵の仇のとの争いを起さぬことが条件じゃ」
「首の交換? 新断頭法? あの、拙者の首が、蝋之介の首に変るのでござるか」
「その通り」
玄心は蝋之介の顔を見て、また、げえっといった。
「いやか」
あぐらをかいた鼻ふくらませ、黒い顔を充血させて板津玄心は沈黙した。煩悶の表情になったのも当然だろう。自分がつけ狙った怨敵の首に変るというのだから。
しかし、数秒ののち、玄心の発した言葉はいささか思いがけないものであった。
「拙者の首がきゃつに変るとなると……変った人間はそりゃだれでござる? 芦立でござらぬか?」
「その代り、おぬしの首はあちらの胴に乗る」
「おれの首が、あのかぼそい胴体に? そ、それならおことわり申す!」
「おぬしがおぬしとして、蝋之介の顔に変るならよいのか」
「……それなら、まあ」
と、玄心はいった。──生きのびる可能性があるなら、という単なる譲歩ではなく、彼は、まんざらでもない、といった顔をした。
「そういうこともあり得る」
「あり得る? とは?」
「つまり胴体の方の生命力が、首のそれより強いならば、その主体性は胴体が持つことになる」
「へえ?」
玄心は考えこんで、
「何にしても、拙者の顔がきゃつの顔に変るなら」
と、いった。よくわからなかったらしいが、ともかくもこの点についてはよほど執心であるということはこれで明らかになった。
天兵衛はにやりとした。
「そんなに自分の顔に懲りたか」
「懲りたわけでもござらぬが。……」
と、一応は痩我慢を張ったが、
「しかし、何はともあれ拙者の肉体にきゃつの首が乗れば、女に対して天下無敵。──」
これは他人への表白よりもおのれにいいきかせる痛切のつぶやきに聞えた。……おそらく、助太刀の旅に出てさえ女に袖にされた悲運から醸された述懐であったろう。
「そちらはどうじゃな?」
と、天兵衛はかえりみる。
「おぬしの首が、こちらの胴体に乗る件。──」
「おお、それこそ私の望むところ。──」
と、意外にも、芦立蝋之介も眼をかがやかせた。
「拙者はあのような肉体の所有者になれたら、と、そればかりを夢みておりました。……」
「しかし、おぬしはそのからだで、結構女にもてたのではなかったか。いや、結構もてた、どころではない。同輩の妻とはかけおちする、それどころか、敵討ちに来た女さえふらふらにしてしまったというのじゃから」
「いや、それはいずれも、向うから追いかけまわされたので。……私が、いやだいやだと申しても、寄ってたかって押えつけて、私を自由にしてしまう。あまり好ましからぬ女にも左様な目に逢わされるのは、決してラクなものではござらぬ。しかも、それに|抗《あらが》うすべもない私の体力の情けなさ。もしここにいやな女どもははね飛ばし、踏みにじる肉体さえあればと、いくど歯ぎしりしたことか。……」
「羨ましいのう」
と、板津玄心は敵同士であることも失念したような表情で、よだれをたらさんばかりに相手の顔を見ていたが、
「ちょっと待て、はてな」
くびをかしげて、
「や、うぬはおれの胴体を乗っ取る所存であるか!」
と、さけんだ。
──平馬も変だと思っていたのだ。言い分をきいていると、両人ともに蝋之介の首と玄心の肉体を希望していることになる。哀れなるかな、といいたいのは蝋之介の肉体と玄心の首だが。──彼も天兵衛にきいた。
「こりゃ、どうなるのでござる?」
「さればよ、それはいま申した通り、首と胴の念力の強い方が勝つ」
と、天兵衛はいった。
「それなら、おれが勝つ! うぬごときへらへら男に、この胴体乗っ取られてたまるかや」
「いや、その胴欲しい。この念力にかけて!」
二刑囚はもと通りの仇敵に立ち戻ってにらみ合った。
鉈打天兵衛が、すっと立ちあがった。
「いずれが勝つか。いま、しかと見とどけてくれる。いざっ」
──数十秒ののち、快刀一閃して両人は斬首されたのだが、しかしその前に天兵衛は平馬にも手伝わせて、この前の実験ではやらなかった手数をかけた。それは例の徳利の中の液体を掌にこぼし、二人の頸のまわりに塗りつける作業であった。
さて、斬首して、交換した。
そのときに平馬は、なぜ天兵衛が右のごとき手数をかけたのかそのわけを知ったのだが、両人の頸の太さがちがう、玄心の大きな首は蝋之介の細い頸に乗ることになり、蝋之介の小さな首は玄心の太い頸につながることになる。当然そこにくいちがいが生ずる。ところが──例の血のにじみが、塗られた液に溶け込むと、そのあたりの筋肉と皮膚がとろとろと蝋みたいに柔らかくなって、とにかくも二つの首はぶじに接合したのである。ただし、少々段になってくるのはやむを得ない。
十三分経過した。
二刑囚は立ちあがった。ふらりとよろめきながら。
が、どちらにどちらの魂が入っているのか、わからない。──平馬が点呼をとった。
「芦立蝋之介!」
「──はっ」
蝋之介の首が、蝋之介の声で、しかし颯爽として答えた。あたりまえの話のようだが、その体格は、首が小さいだけに壮大といっていいほどに見えた。いちどふらついた足はしっかりと大地を踏まえている。
「板津玄心!」
「──ほっ」
これは吐息であった。板津玄心の醜い巨大な首は細いからだの上に乗って、悲哀そのもののようにわなないていた。
──平馬はそのあと、声も出なかった。慰めの声が。
時と場合では胴の方が頭を支配することもある、と天兵衛はいったけれど、やっぱり玄心の胴体は蝋之介の首を制圧し得なかったのだ。蝋之介の「玄心のような肉体が欲しい」という念力もただならぬものがあったせいだろう。
「勝ったぞ!」
蝋之介が咆哮した。
「げえっ、どうだこの肉体!」
そして筋肉隆々たる両腕を折り曲げ、さらに天空へつき上げるのを見て、板津玄心はその肉体をとり戻そうとでもするように、二三歩歩み出たが、頭が重すぎてよろめいた。
「やるかっ」
蝋之介は猛鳥のごとく身構えた。
「やるなら、やろう、げえっ、返り討ちだ!」
いや、もう、手がつけられない。
天兵衛がにがにがしげにいった。
「もはやそのような争いはせぬと誓約したのを忘れたか。あまり有頂天になると、またひっくくって仕置にかけるぞ」
「ヘっ」
と、芦立蝋之介は軽蔑したような息を洩らしたが、すぐに、
「いや、あのへなちょこさえ手を出さねば、こちらは喧嘩しようとは思わぬ。金持喧嘩せずで。──げえっ」
と、いった。──いかにもそういう諺を持ち出したくなるような結果になったが、それにしても芦立蝋之介がときどきもらす、げえっという言葉は何だろう? あれは板津玄心のくせではなかったのか。
「よし、約定によっておぬしら両人を解き放す。これよりいずこへいってもよいが、左様、五日目ごとにめいめいの近状を飛脚を以て、小塚ッ原鉈打天兵衛あてに届けよ。それがおぬしら両人がおたがいに刃傷|沙《ざ》|汰《た》に及ばず無事であるという証明にもなる」
と、天兵衛はいった。
「ゆきなさい」
五日目の芦立蝋之介の手紙の要約。
「──ああ、この美貌にこの隆々たる肉体! 女どもは虫けらのごとく集まって参ります。それは昔の通りですが、しかし昔とちがうところはこちらに選択する力があることであります。で、片っぱしから虫けらのごとくつまんでは捨てております。望月の欠けたるものもない人間にしていただいたことを厚く感謝いたします。……」
同じく板津玄心の手紙の要約。
「──西国へ向ってひとり旅をしております。まったくの孤独の旅であります。以前はそれでもお左衣どのの眼を盗んで茶屋の女の手を握ったりしたものですが、こんどは女が全然寄りついて来ないはおろか、まちがって女とぶつかっても往来でころんでしまうような旅であります。……」
十日目の芦立蝋之介の手紙。
「――少しふしぎなことがあります。一つは心理的なことで、何だかもの足りないのです。世の中すべてひどくつまらないような気がするのですが、とくに女がもの足りない。こちらがもの足りないのみならず、まわりの女ことごとくが、だれ一人ほんとうには私を愛してはいないような気がするのです。……まあ、それはいいのですが、もう一つ肉体的なことでひどく気にかかることがあります。それはしきりにげえっという妙な声が出て、それがどうしてもとまらないのです。この玄心の肉体が持って来た嫌悪すべき癖の一つにちがいありませんが、この自分でもどうすることも出来ない声が、少なからず私を苦しめます。……」
同じく板津玄心の手紙。
「──幾山河越え去りゆく孤独の旅の味わいがようやくわかって来ました。寄りついて来ない人々すべてなつかしく、また永遠に相寄るすべもない、いまは亡き人々のありがたさのみ|偲《しの》ばれます。とくにお左衣どのなど、私との旅で、つっけんどんながら、それでもときにいかに女らしいしぐさを見せたか、私のような男に対して、と思うと、ただただ涙がこぼれるばかりであります。私は芭蕉翁の心境がだんだんわかって来たような気がします。……」
十五日目の蝋之介の手紙。
「──人生ただ虚。あるはただ、げえっ、のみにてはあまりに荒涼たり。突然ですが、私自殺をいたします」
同じく玄心の手紙。
「──ふしぎなことが|出来《しゅったい》いたしました。旅で知った巡礼ですが、一人の女人が私を好きになってくれたのです。私は孤独こそ愉しく、いまのところただうなだれて、トボトボと歩いておりますが、そのひとは黙って、しかしどこまでも私を追って参ります。寂しい中にも私の心は何やらほのぼのと明るいのでございます。……」
平馬がきいた。
「いったい、この両人、どうしたのですかなあ?」
黙然として二人の手紙を見くらべていた天兵衛がつぶやいた。
「人間、首も胴体もあまり劣等感がなさすぎるとかえって不幸になるということか。そして、その逆もまた真なりということか|喃《のう》。……」
八
そのあいだにもその後にも、平馬はふつうの罪人の首を斬りつづけている。
その方はだいぶ上達したが、次第に鉈打天兵衛の至芸に|倣《なら》わんとして、一足飛びに首交換とまではゆかずとも、せめて同一の個体でいちど斬った首をまたつなぐことは出来まいかという野心を起し、いちど詰所から例の徳利を盗み出したが──半ばはわが物にちがいないが、日を経たせいか、何とも形容すべからざる異臭がして、辟易してこれはあきらめた。
あらためて新しく製造するにしても、その採取の手順を思い、次にまたそれを刀身に噴きつける技術を思うと、それだけでげんなりとせざるを得ない。
そして、それらの技術の裏付けとなる鉈打天兵衛の人生観となると──そもそも何らかの恐るべき人生観がなくてあんな術の開発を思いつくはずがない──まだ平馬にはよくわからないけれど、何となく星のない夜の無限の空を仰ぐような戦慄を禁じ得ないのだ。たんなるわざ[#「わざ」に傍点]の研究ではないにちがいない。事実彼は、人間なるものを研究するためだといっているが、すでに二回、四人の人体実験を経て、その人間観はどれほど凄味を加えたであろうか。
さて、そのうちに第三の実験対象が現われた。つづいて第四の対象も現われた。そして、この二つの実験はやがて合体して第五、第六の実験へ発展してゆくことになる。
いきさつはこれから順次述べるが、合体というよりその混合ぶりは、最後には平馬も何が何だかわからなくなったほどである。
こんどは罪人ではなかった。罪人でない人間が、みずから志願して小塚ッ原へやって来たのだ。|如《にょ》|来《らい》|寺《じ》|隼《はや》|人《と》という旗本であった。
旗本といっても三十俵二人扶持の小十人組という最下級に属する者で、
「傘をとどける用で浅草まで来たついでに、ひょいと思いたちまして」
と、ここへ来たわけを説明したところを見ると、内職に傘張りでもしているのであろう。しかし、むろんそれだけが見知らぬ鉈打天兵衛を訪れた理由ではない。
「つかぬことをうかがうが、こちらで首の取り換えを扱っておられるそうで」
と、思い決したようにいい出したのである。
「それがまことなら……ひとつ、拙者に試みては下さるまいか?」
さすがに鉈打天兵衛もややぎょっとして相手を見まもった。むろん奉行所の許可を得てのことだが、そうだれにも知られてよいことではない。
「だれからきかれた?」
「は。──親戚の者から。では、やはりまことのことでござったか」
「御親戚?」
「|従《い》|兄《と》|弟《こ》にあたる御家人でござる。これはたしか赤瀬と申すやはり御家人の男からふときいたと申しておりましたが……もっとも本人もあまり本気にはしておらぬような話でしたが、拙者先般来ほとほと思いあまることあり、もしそれがまことのことならばと、かくは御相談に参った次第です」
貧しげだが、しかし誠実で沈着で、どこか勇壮の趣きすらある容貌を持った男であった。|訥《とつ》|々《とつ》としていう。──
「やむを得ずとは申せ、そちらさまのいわば御内密のことをこの口から申しあげた上は、こちらもまだお上の方から内聞にというお達しを申さねばなるまい。というのは、近く御公儀では旗本の一部を以て京洛機動隊なるものを新たに編成して、その名の通り京へ上らせられるお手筈になっております」
「京洛機動隊」
「もとより相手は京に蠢動いたすいわゆる志士と称する餓狼ども。──これの鎮圧でござるが、どうやら相当手強い御用らしい」
「ふうむ、それで?」
「従って、お上の方でも旗本連のうち、たとえ身分は軽くても、さきざきの見込みある者ばかりとくに選ばれた由」
「と、御内示を受けられた上は、貴公もその御一員ですか」
「ま、はばかりながらそのようで。──尤も、たとえ選ばれずとも、血書してもみずから志願いたしたい御用でござるが」
武者ぶるいして、男らしい白い歯を見せた。
「ところで、それに加わるにはちと困惑することがあるのです。恥ずかしながら、留守中の暮しと妻のこと」
「御支度金は出ないのですかな」
「とうてい、これまでの借銭を皆済にするというにも遠く──何しろ一家一族、みな貧乏人ばかりで、つまり働く拙者というものがおらぬと、たちまちみな干乾しになるといったありさまなのでござる」
「それはそれは。──で、奥さまはどういわれております」
「これは京へなどいってくれるな、とただ泣くばかりなのです。しかし、拙者とすれば、是非ゆきたい。せっかくのお選びに入ったことでもあり、はじめての登竜の機会でもあり──要するに、拙者のからだが二つ欲しいというところなのでござる」
「なるほど、出征する兵士の御心境じゃな。──で、ここへ来られたのは?」
「実は、せめて腕なりと女房と取り換え、女房に内職させようと──いや、お笑い下さるな、傘張りにも相当の技術を要し、それにまた女房を見ていただくとわかるが、これがまたぜんぜんだめな女なのでござる。まことにたわけた望みながら、せっぱつまった拙者の苦衷何とぞお察し下されい──」
「相わかった!」
と、天兵衛はさけんだ。
「それは出来る」
「え? 出来ますか、そんなことが」
「ただし腕だけというのはこまる。腕は腕だけで勝手に動いておるものではないからの。いっそ胴を奥さまと取換えられい。つまりあなたは奥さまの胴体にあなたの首を乗せて京へゆかれる。あなたの胴体は奥さまの首を乗せてこちらで内職をやる。──」
その言葉よりも、重いまぶたをおしあげて、ぎらぎらひかり出した眼が隼人をとらえた。ひとたび或る意志を発したとき、理を超えて相手を縛ってしまう鉈打天兵衛の魔力の眼であった。
「京にゆく奥さまのからだは貴公の頭で訓練なされい。それにまた、江戸に残る貴公の胴体も、おそらく奥さまを支配出来る。貴公ならば──それほど壮烈な御意志を持っておられる烈士の貴公ならば!」
あとで平馬はきいたのだが、実は天兵衛をとらえたのは、この胴体を以て頭を制するという──天兵衛の確信によれば必ずそういうこともあり得るはずなのに、いままでうまくゆかなかったこの命題を、もういちど試みる恰好な実験対象が現われたという昂奮なのであった。
まあ、それが何とかうまくいったとしたら、江戸に残る組合せはいいとして、京へいった妻女の胴体は果して京洛機動隊として活躍出来るだろうか?──その点は保証する、と天兵衛は力説したけれど、その弁論以前に如来寺隼人は天兵衛に呪縛されてしまったようであった。
数日後、妻をつれてもういちど小塚ッ原へ来ることを約して、隼人は去った。
ところが、その日がまだ来ないうちに、はからずも第四の実験対象が現われたのである。しかもそれが女であった。
やはり小十人組の安旗本桑取半助の妻お秋という。──貧しさは|覆《おお》えなかったが、しかしどこか|凛《りん》|然《ぜん》たる趣きのある美しい女であった。これが、
「つかぬことをうかがいまするが、こちらで首の取り換えを扱っていらっしゃいますそうで」
といったのには、天兵衛と平馬は顔を見合わせた。
「だれからきかれた?」
「赤瀬と申す方から、夫がきいたそうでございますが」
天兵衛は平馬に眼くばせをした。果然、先日、如来寺隼人をここへ来させたもとはこっちだ。
さて、このお秋なる女がいう。もしそんなことが出来るなら、わたしと夫と、首と胴を取り換えては下さるまいか? 大変なお願いではあるけれど、よくよく考えあぐねての思いつきだから、何とかきいていただきたい。──
「どうして……また、そんなことを?」
という問いに、お秋は|堰《せき》を切ったようにしゃべり出した。
わが夫ながら桑取半助は、ほんとうにもうどうしようもない無能力者である。武芸の心得はおろか、酒屋の小僧より文字を知らない。内職をさせてもすぐに飽きて、ひるねばかりしている。起きあがると、どこかへふらふら遊びに出かけて、だれにたかったのか物乞いしたのか、酒だけは常人以上にくらって帰って来る。これまで自分が髪ふりみだして内職をし、親戚じゅう走り回って借金をして、何とか暮しを立てて来た。──
「それがこのごろ、いちばんよく迷惑をかけた夫の従兄弟の家では、こんど御主人が京へ上ることになったということをききました。もうお金も借りにゆけません」
と、お秋はいった。あれだな、と二人は眼顔でうなずく。
それは、そうとしてどういう御用かは知らないけれど、こんど京へ上る方々は特別にお上のお眼鏡にかなった人々で、帰府のあとの出世は約束されているという。然るに夫には何の沙汰もない。従って、いつまでたってもうだつ[#「うだつ」に傍点]のあがる見込みはない。
彼女はじりじりした。
「あたりまえです。でも本人がけろりとして、眼をつけられなくて助かったよ、なまじ軽々しく京へいって苦労するより、ここでこうして寝そべっている方がらくちんだよ、としゃあしゃあとしているのを見ては」
彼女はきりきりと歯の音をたてた。相当に気丈な、男まさりの女らしい。
「如来寺の──それが従兄弟の名なんです──爪の垢でも煎じてのみなさい。いままでだってあのひとは、貧乏しても必死に働いて、一家はおろか親戚じゅうの面倒を見ているじゃあありませんか。そんなところを、お上はちゃんと見ていらっしゃるんです。というと、おまえ、ほんとうは如来寺へお嫁にゆきたかったんだろ。おまえもあてがはずれたろうが、おかげでおれまでとんだ飛ばっちりをくうことになっちまった。おまえを女房にする破目になったことがよ、とうす笑いしている始末です」
あなたは最低の男だ、というと、男の最低が女の最高とちょうど釣り合うってよ、とぬけぬけという。うちもその通りでよかったわね、というと、そんな皮肉は通じないで、
「ところがな、最高の男ってえのは、えてして最低の女をえらぶんだから可笑しいやなあ。また最低の女ってえのがたまらなくいいんだから」
と、へんな思い出し笑いみたいな笑いを浮かべる。──とにかく、もうがまんの緒が切れはてた。それに、このままでは八方ふさがりで、自滅のほかはない。しかも、どんなに忠告しても、半助には馬の耳に念仏である。
「そこで、ふと思いついたんです。こちらの話を。──もしそんなことが出来るなら──わたしと夫が入れ替ったらどうか知ら? と。口はばったいようですが、わたしは夫よりもずっと学問を心得ているつもりです。武芸さえもわたしの方が上かも知れません。もっと若いころから、どうしてわたしは男に生まれなかったのだろうと、残念で残念で夜眠れない思いをしたこともあったくらいですから」
「で、もし御亭主と首と胴を入れ換えたら、全般的にどういうことになるとお考えで?」
「さあ」
と、彼女はやや困惑の表情になった。
「わたしが夫の顔を持つ男であったら、わたしならもっと働くのに。もっと出世をしてみせるのに! と考えただけで、それ以外どうなるか、まだ詳しく考えたことはありませんが。……」
本人は才媛を自負しているらしいが、あまり緻密とはいえないようだ。しかし鉈打天兵衛の眼がまたぎらぎらひかり出したのを平馬は見た。
「よろしい。よくここを訪ねておいでなされた。たしかにその御亭主、そのような人間改造を試みねば何ともならんぐうたららしい。御亭主さえつれておいでになれば、拙者たしかに首を取り換えて進ぜよう。御貞女のために!」
数日後、小塚ッ原に如来寺隼人が妻をつれてまたやって来た。
隼人はいいとして、果してその妻女がこんなところへ現われるだろうか、と平馬は疑問に思っていたが、お郁というその妻女を見たとたん、彼女が唯々諾々と夫について来たことも、また隼人が妻はぜんぜんだめな女でござる、といった意味も了解した。ぽってりとふとって、支えてやる者がないとだらりと白く溶けてしまいそうな、ばかに肉感的な妻で、どうやら頭にも霞のかかっているようなところがある。しかし隼人はこの妻に、子供でも見るような不安と愛情の眼をそそいでいるようであった。
しかし、いよいよ以てこの女性の胴体で京洛機動隊とは?
鉈打天兵衛は、そんなことはかまっちゃあおれん、といった顔で、いとも無造作に二人をならべて斬った、ただ、斬る前に彼は隼人にささやいた。──あとで拙者が指でつついたら、右眼をつぶって下されよ、と。
さて、斬って両者の首を交換する。
そのあとで平馬はあっと思ったのだが、鉈打天兵衛は、お郁の首の乗った隼人の胴体をチョイと指でついた。すると、お郁の首は、にいっと媚笑ともいうべき笑いを浮かべて右眼をつぶって見せたのである。
断頭直前にそれをきいた隼人の首はお郁の胴に乗って、そのとき向うで、草の中から一本の錆び刀を拾わせて、びゅっ、びゅっと打ち振っていた、つまり天兵衛の指の合図など全然見てはいなかったのだ。
しかし、こちらのお郁の首が隼人の胴に対する合図に応じたということは何を意味するか。
それは隼人の胴体がお郁の首を制したということではないか。天兵衛の理論はここに実証されたのだ!
「では、御妻女の脳髄はどこへいったのでござる?」
と、平馬はささやいた。
「どこかにあるじゃろ」
と、天兵衛は恬然として答えた。少々無責任でもあるようだ。
その翌日のことであったが、こんどはお秋夫婦がやって来た。夫の桑取半助は爪楊子をくわえて、ふところ手をして、そのぶらぶらの袖をひっぱるようにしてお秋がつれて来た。話にきいたような横着者が、これまたよく小塚ッ原へ来たものだ、と思うけれど、見ていると、なるほど横着者にはちがいないけれど、お秋に叱られるたびに、へいへいと頭を下げているところ、どうやらふだんからそんな|慣《なら》いになっているらしい。
「え? 小塚ッ原の役人が金を貸してくれるって? どうせおれみたいなやつは先ゆきここでお陀仏になるから、先に首代をもらっておけというわけか。何でもいい、金を貸してくれる人間がありさえすりゃあ。……」
彼はにたにたと笑っていた。脳も半分崩れたような|相《そう》|好《ごう》で、以前この男が首の交換のことをきき込んだ最初の人間らしいのに、いまはそんなことをまったく忘れているようだ。
さすがにしかしこの場合は、二人ならべて斬るわけにはゆかず、かねてからの手筈の通り、平馬が半助をひざまずかせて金をやるようにことを運んで、その瞬間、うしろから天兵衛が斬った。
このときお秋もならんで坐っている。──これまた斬られて、首が取り換えられるあいだ、半助が両手を出して金を受取ったままの姿勢であったのは、例によって例のごとしとはいいながら、鬼気迫る鉈打天兵衛の手練である。
さて、このあとで。──半助の首の乗っているお秋の胴をチョイとつついて、
「お秋」
と、天兵衛が呼ぶと、半助の首がにいっと笑った。──これまたお秋の胴が半助の首を制圧したのである!
平馬がつぶやいた。
「半助が消えちまいましたな」
天兵衛が答えた。
「ぐうたらが一人消えたのは、ま、世のためじゃろ」
これで、この二組の実験は成功したわけだ。
同時に、これをみずから志願した如来寺隼人とお秋の目的もどうやら果されたことになる。
と、思っていたら。
事はこれですまなかった。――数日たって、この四人がまた駆け込んで来たのだ。
以下に書く名前の人間は、上が首、下が胴体であると思っていただきたいが、お郁・隼人は隼人・お郁の手をとらえ、半助・お秋はお秋・半助の手をとらえて。──
「な、何が起ったのでござる?」
鉈打天兵衛はややめんくらった顔でこれを迎えた。彼ら二組には、別の他の組のことはいずれも知らせていないはずだが。
「み、密通しているのがわかったのさ」
と半助・お秋がいった。
「だれが?」
「お郁と半助が」
と、答えたのは、お郁・隼人だ。
「しかも、相当以前から」
「それが、どうしてわかったのでござる?」
「胴と胴とが求め合って」
あっと平馬は思った。つまり、そのときはわかったような気がしたのだが、さてあとになって考えてみると、どの胴とどの胴が相求めたのかよくわからない。ともあれ、二組の夫と妻が半々にくっついていれば、それぞれの密通は何らかのかたちでたちどころに曝露されるにはちがいない。
ましてやこの場合、主体性はそれぞれの組とも、隼人とお秋にあるらしいから──もっとも主体性が隼人とお秋にあるらしいのに、半助とお郁が密通しようとしたというのがまたわからないが。
「もういちどやって下されい」
と、お郁・隼人がいった。
「何を?」
「首の取り換えっこ」
「もとの通りにでござるか?」
「いや、お郁と半助が、二度と左様な真似をいたさぬように」
天兵衛は数字の難問題を解くような顔になって考えこみ、ややあっていった。
「というと、顔はお郁どの胴体は半助どの、もう一つ、顔は半助どの胴体はお郁どの、というやつを作ればよいことになるか|喃《のう》。……」
「それそれ」
と、お郁・隼人がいった。
「それならば、同じ人間の頭と胴体が姦通出来まい。それをやってもらおうか」
平馬はくびをひねった。何だか天兵衛の解答はおかしいような気がするが、しかし彼もまた頭が混乱して、さればとてどれとどれを組合せたらいいか、とっさに判断がつきかねた。
四人、ならべて斬った。
そして、新しく、お郁・半助と、半助・お郁が誕生した。
これは自動的に、べつに隼人・お秋とお秋・隼人が誕生したことを意味する。
さてここで平馬はやっとそれまでの錯覚に気がついたのである。お郁・半助と半助・お郁は、なるほど同一個体で半分ずつになっているが、その両個体相互が姦通しようとすれば自由自在ではないか。
天兵衛もそこではじめて自分の失敗に気がついたらしく、
「これは」
と、困惑したようにこの両個体を眺めやった。
「まちがったなあ」
と、お郁・半助が自分で頭をかいた。その声の調子に天兵衛はいよいよぎょっとしたようにきいた。
「ところで、あなたはいったいどなたで?」
「わしは、如来寺隼人」
と、お郁・半助がいった。
「おれにも、だれがだれやらわからねえっと」
と、つぶやいたのは桑取半助の声だが、なんとその姿はお秋・隼人なのであった。
──しかし、半助が半助としての意見を述べたところを見ると、いちど存在の怪しくなっていた彼の脳髄が、斬ったり取り換えたりしているあいだに、またぞろそこへ出現して来たらしい。──
驚くべきことがわかった。
如来寺隼人の首にお秋の胴、これを支配している魂はお郁。
お秋の首に隼人の胴。これを支配しているのは桑取半助。
お郁の首に半助の胴。これを支配しているのは隼人。
半助の首にお郁の胴。これを支配しているのはお秋。
いちど隼人やお秋の胴体が、お郁や半助の首を制圧したことから起った混乱らしい。
彼らのみならず、鉈打天兵衛も香月平馬も、天地晦冥の顔をおたがいに見合せた。……
この混乱した組合せがさらに一大悲喜劇を生んだことが明らかになったのは数日後のことである。
如来寺隼人にいよいよ京洛機動隊としての出動命令が下ったのだ。
江戸から京へ押し上ってゆく、だんだら染め、揃いの羽織を着た精悍な隊士たちに混っている隼人は、顔こそ隼人だが、胴体はお秋で、ほんとうはやや精薄的なお郁なのであった。
このころから、桑取家には借金取りの攻勢がいちじるしくなった。
その矢面に立ってばったのようにお辞儀しているのはお秋のほかになかったが、顔はお秋でも、胴体は隼人で、ほんとうはぐうたらの半助なのであった。
泣き顔をして出陣していく如来寺隼人──その実お郁を見送っているお郁は、からだは半助で、ほんとうは烈士隼人自身なのであった。
悲鳴をあげてお辞儀しているお秋──その実半助を、寝ころんでひとごとみたいに眺めている半助は、からだはお郁で、ほんとうは貞女お秋自身なのであった。
隼人とお秋はそれぞれ胸の中でつぶやいた。
「はじめて知った境涯だが、なるほどこの方がらくちんだ」
この感慨をきいた鉈打天兵衛は、また深遠な哲学を平馬に披露した。
それはちょうど、安政七年三月に入ったばかり、小塚ッ原にも時ならぬ雪がチラチラ舞いはじめた夜のことであった。
「平馬よ、人は何のために強く、賢く、美しくなろうとあくせくするのか。いかに求めても美しさはすぐ消える。弱い人間をだれしも嵐の中へひきずり出そうとする者はない。そして賢い人間はいつの世も、馬鹿どもをひきずって、営々と働くばかりではないか。人間というものは、弱く、醜く、馬鹿であるほど長生きをし、幸福でさえあるのではないか?」
九
「その通りです」
と、香月平馬はいった。
「それでも、人間は、どうしても美しく、賢く、強くなろうとします。たとえそのためにどんな嵐を受けようと。──私もそうありたいと念じておるのです」
「ばかなやつだ。平馬、なんのためにおまえはわしのところへ弟子入りをし、いままで何を見て来たのか」
「首を斬る修行をするために」
「それはわかっておる。覚えたのはそれだけか」
「それだけで結構です。私の場合は」
平馬はいった。
「さるお方の首を斬るために。──先生、その時が到来したようです」
「なに?」
平馬は立ちあがった。
「と打ち明けたことを怖れはしませぬが、その|方《かた》のおん首頂戴したあと、私や私の同志が万一捕われてこの小塚ッ原で斬られるようなことにでもなった際、先生の恐ろしいわざでまた首を他人のものと取り換えられては一大事。されば──」
刀の柄に手をかけた。
「一見、忘恩に似たれどお許しあれ、大義のために先生のおん首頂戴つかまつる!」
「た、た、助けてくれ!」
鉈打天兵衛は驚愕して小屋の入口ヘ飛びのいて、戸に背をすりつけ、両腕さしのばした。
あの眠たげな相貌はどこへやら、恐怖に眼も飛び出すようなその形相を見て、平馬の方が一瞬あっけにとられた顔をした。
「お抜きなされ、鉈打先生! 先生ともあろうお方が、そのざまは。──」
「いや、わしは抜かぬ。斬るのも斬られるのもいやだ。た、助けてくれ、これ、いのちばかりは!」
そのひきつるような声をきくに忍びぬ、といったように顔をふり平馬は片ひざつき、一刀を横に薙ぎ払った。斬頭の名人は大根のように無造作に、戸とともに首と胴ばらばらに外へ倒れ出した。
「……はて?」
平馬はふしぎそうにその傍にしゃがみ、無意識的に片手をのばし、ヒョイとその首と胴をくっつけようとしたが、
「いや、もはや香月平馬の仮名と修行は捨てたのだ」
とつぶやくと、血笑ともいうべき笑顔で立ちあがり、刀身を雪でぬぐって鞘におさめ、なお|霏《ひ》|々《ひ》と雪ふりしきる小塚ッ原を江戸の方へ駈けていった。
安政七年、この月十八日改元して万延となる。すなわち万延元年三月二日雪の夜の話。
〈底 本〉文春文庫 平成元年九月十日刊
(C) Keiko Yamada 2002
単行本
昭和四十五年一月文藝春秋刊
文春ウェブ文庫版
忍法関ヶ原
二〇〇二年九月二十日 第一版
著 者 山田風太郎
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
http://www.bunshunplaza.com
(C) Keiko Yamada 2002
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