[#表紙(表紙.jpg)]
忍法笑い陰陽師《おんみようじ》
山田風太郎
目 次
第一話 忍法棒|占《うらな》い
第二話 忍法玉占い
第三話 忍法花占い
第四話 忍法|紅《べに》占い
第五話 忍法|墨《すみ》占い
[#改ページ]
第一話 忍法棒|占《うらな》い
「ね、ここは場所が悪いんじゃないかしら」
「うむ、人通りはあるが」
「男ばかり――」
「男という奴《やつ》は、どうも占いなどを信用しないという不遜《ふそん》な傾向があるな」
「どうして、女のほうが占いなどに頼ったり、興味を持つことが多いのかしら」
「それはやはり、男は、自分の能力こそ問題だ、と自覚しているからだろう。その点、女は、幸不幸が、自分の頭のよしあしや美醜によらないことが、どうしても男より多いからね。相手次第、他人《ひと》次第、運命次第という気になるのも無理はない」
「でも、こうして見ていると、運は自分の実力次第、と信じている男のほうが、何かおちつきがないわね。不安らしいわね」
「そりゃ、その自分の実力に自信がないからさ。運は実力次第と信ずればこそ、自分の実力に不安を抱《いだ》かざるを得ん。それはべつにふしぎじゃないが、ふしぎなのは女のほうだよ。むろん例外はあるが、一般的に、女のほうが男より無能力というのが公平な見方だ。正直なところを言わせてもらうと、男なら、不安で不安でじっとしていられないほど女は無能力だと言っていい――」
「ひどいことを言うわね」
「いや、感心しているんだ。その女が、実におちついてる。みな、妖気《ようき》をはなつほど泰然自若《たいぜんじじやく》としているな」
「他人《ひと》まかせ、運まかせ、だからでしょ?」
「うん、するとまあ、いま言った理屈には合うわけだが、しかし考えてみると、そういう無能力の自覚からひらきなおった計算とか後天的な性質というより、先天的なものじゃないかしらんと思われるところもあるな。女というものはどうもぶきみだよ」
「男のほうがもっとぶきみよ」
「どこが?」
「そのおちつきがなくって、キョトキョトしてる男がさ、女の前に出ると、みんな自信があるような顔をして法螺《ほら》を吹くんだから」
「うふ。そう言えば、そういうところもある」
「だからほんとに自信があるのかないのか、ほんとに能力があるのかないのか、ばかな女にはわからないじゃないの。……あんただってそうよ。あたし――」
「うふ、だまされたか」
「そうも思わないけどさ。……まったくシケてるわね」
「おれの現状がか。うん、明日から河岸《かし》を変えてみよう。いや、忍術では生活ができんので占い商売をはじめたら、その占いがまた流行《はや》らんときておる」
「忍術なら、あんた、たいしたものだけれどねえ」
「おまえさんだってそうじゃないか。おたがいに、時代錯誤な、つまらんところに生まれたな。甲賀《こうが》、伊賀《いが》とは――」
「それにだいいち、あんたは怠け者よ」
「怠け者じゃないつもりだが……人生に対して懐疑的なんだ。おれは」
「時勢が悪かったのね、いまはみんな剣術ばかり。みんな木剣をかついで、ほらあんなにぞろぞろと」
二人は編笠《あみがさ》をあげて往来を眺《なが》めた。
いかにも、そこを三々五々と、しかし間断なく侍たちが通る。口角泡《こうかくあわ》をとばして談じ合っている者、呵々大笑《かかたいしよう》している者、黙々と思案にふけりつつ歩を運んでいる者。――共通しているのは、みんな木剣をぶら下げたり、かついだりしていることだ。
この辻《つじ》の向こうを曲がったところに、江戸で有名な新羅伝刀斎《しらぎでんとうさい》の道場があるので、いまそこから帰って行く弟子たちのむれであった。彼らのうち、一人として路傍の柳の木の下に見台を出して、深編笠と羊羹《ようかん》色の紋付きをならべている二人の大道易者などふりかえる者はない。
どっちもどっち、春《しゆん》 宵《しよう》 一刻《いつこく》なんとかと形容される季節と時刻にはふさわしくない景物《けいぶつ》であったが、それだけにまたいっそう美しい大江戸の黄昏《たそがれ》どきであった。
「だめよ、帰りましょう」
と、一方の深編笠が言った。同じような笠、紋付きだが、声はなまめかしい女の声である。
「待てよ」
と、もう一方の深編笠がちょっとゆれて、それから動かなくなった。じいっと往来のほうを見つめているようすだ。
「あれを呼ぼう」
「どれを?」
きくまでもない。いまちょっと人通りがとぎれて向こうからやって来るのは三人の武士であった。まんなかの大きな碁盤みたいな男はただ腕組みをしているだけだが、一歩遅れてその両側にくっついている二人は、それぞれ二、三本ずつの木剣をかついでいるから、やはり新羅道場帰りであることはまちがいない。
「呼んで、くるかしら?」
「なに、ちょいと忍法をかける」
「あら、客を呼ぶ忍法なんてあるの? それ知ってるなら、早く使えばいいのに」
「いや、向こうにあれくらいの気《け》がなくっちゃ効《き》かないんだ。あの三人、そうとう悩んでるところがあるぞ。見てろ」
言ったかと思うと、見台の上の筮竹《ぜいちく》を一つかみつかんで、左の人さし指をくるっと包んだ。筮竹の長い筒ができた。その端に唇《くちびる》をあてると、そこから細い、澄んだ笙《しよう》みたいな音が流れ出した。
三人の武士は立ちどまって、こちらを見た。うしろの二人がまずささやき合い、それから前の男に何か話しかけている。
「それご覧」
三人は歩いて来た。
「八卦見《はつけみ》」
と、弟|弟子《でし》と見える二人が、まず見台の前に立って言う。いまの妙な音はなんだ、ときく余裕もないらしい。
「占《うらの》うてくれ」
「はい。失《う》せ物、待ち人、走り人、男女相性、善悪の考え。――で、どのようなことを」
「勝負じゃ」
「勝負?」
「十日のちに、ある試合がある。それにどっちが勝つかじゃ」
「それは……強いほうが勝ちますな」
「あたりまえだ。そんなわかりきったことをききに、わざわざ八卦見のところへ来るか」
「しかし、いくら八卦見でも、それはあんまり雲をつかむようで。……少なくとも、どなたとどなたが試合をなさるのか、それくらいは存じあげませぬと。――あなたさま方、お二人でございますか」
「ちがう」
しかし、これは八卦見の言うとおりだと自認したらしい。一人がふりむいて、
「よかろうかな、ある程度は申しても」
と、うかがいを立てた。
背後に腕組みをして立っている男は、不機嫌《ふきげん》な顔をしていた。あまり気がすすまないらしいが、しかしともかく易者のところへひっぱって来られただけの屈託はあるようだ。歯ぎれわるく、うなずいた。
「一人は、この仁《じん》じゃ」
「ほほう」
易者は深編笠をすかして、改めてその男を見た。
年は三十前後であろう。背丈も大きいほうだが、それよりも横に広い。まるで特大の碁盤のようで、筋肉は隆々として、黒光りしている。そして、さらに、ほほう、と嘆声をあげたくなるのは、その面《つら》がまえであった。まだ三十前後と見えるのに、額《ひたい》は剃《そ》っているのではなくあきらかに禿《は》げあがっててらてらと光り、そのためにいよいよ男の精力を絶倫に見せる。眉《まゆ》は毛虫みたいだが、眼は蟇《がま》のように、これはまたばかに小さい。小さいが、やや赤味をおびて凄《すさ》まじい光をはなっている。低い鼻はあぐらをかき、唇は大なめくじのようにぬるりとして、常人の二倍は分厚い。額は禿げぎみなのに、もみあげの毛のそよぐあごは鉄の筐《はこ》みたいであった。要するに、醜男《ぶおとこ》というより凶悪と評してもいい相貌《そうぼう》だ。
ややあって易者は、嘆息とともに言った。
「お強そうではございませんか」
「それは、強い。真剣をとらせたら、老先生より強かろう」
「あ、これ――」
と、その男が制止しようとし、口走ったほうはちょっと狼狽《ろうばい》したが、すぐにひらきなおって、
「いや、かまうまい。この仁は、新羅道場の師範代で銭函将曹《ぜにばこしようそう》という」
「お名前も、お強そうですな。で、お相手はどちら?」
「その相手はここにはおらぬが、この仁を見ただけではわからんか。そこの筮竹をひねくりまわして、試合に勝つか負けるか、卦《け》が出ぬか」
「いや、わからぬことはありませんが、しかし、剣聖とお噂《うわさ》の高い新羅伝刀斎先生でさえどうかとおっしゃるお方と試合して、その勝ち負けがわからないほどのお方がござりまするのか」
「それが、あるからこまるのだ。えい、こちらの名をあかしたうえは、向こうの名も言ってしまおう。やはり新羅道場の師範代で、この将曹と並び称される神坂小次郎《みさかこじろう》という――」
「あ」
と、そのときどこかで声がきこえた。
女の声であったような気がして、その男がきょろきょろしているあいだに、もう一人の弟分が両拳《りようこぶし》をにぎりしめて、
「いや、負けはせぬ。九分九厘《くぶくりん》まで負けはせぬが、あと一厘が問題なのじゃ。一厘というが、負ければ新羅伝刀斎相伝の印可状はもとより、天下一の美女もパアじゃからな」
「その美女がまた、あっちに惚《ほ》れているからこまる」
「あ、これ――」
と、銭函将曹は先刻よりさらにきびしい、狼狽した声を出した。名のとおり千両箱みたいな顔が真っ赤になっている。が、すぐに二人をかきのけて、ずっと前へ出て来た。
「絶対に負けられぬ試合じゃ」
牛のうなるような声で言った。
「これ、うぬはいま、相手がいなくとも、勝敗の卦は出ぬことはないと言ったな。やってみてくれ。八卦見ごときものを平生《へいぜい》信ぜぬおれがついここに寄ったのも、絶体絶命勝たねばならんからじゃ。少しでも怪しい卦が出たら、なんとか必勝の工夫を凝《こ》らさねばならぬ。見てくれ、さあ見てくれ」
「ま、まあ、ちょっとお待ちくださいまし」
易者はかみつくような相手を押えて、笠の中からしげしげと見上げ、見おろした。
「おん腕前のほうはだいたい伯仲《はくちゆう》のところ――と承知いたしましたが、そのほかのことでその相手に対し、あなたさまが断然優越感をお持ちなさるようなことがございましょうか」
「優越感。――さての、重いものを持ちあげるとか、酒を飲む、などということは、おれのほうがぜんぜん強かろう。禄《ろく》はどっちも五百石の直参《じきさん》と――」
「男前は、向こうのほうがちいっと上かもしれんな」
と、一人が思わず口を出すと、将曹は火のような眼でぎらとにらんだ。
「それは、しゃっ面《つら》、上っ面《つら》のことだ。ひとたびこの将曹を知った女はことごとくふらふらになって、起きては倒れ、倒れてはまた起きる、というありさまになり果てる」
「ほう」
と、八卦見は言った。この男の「ほう」は、聞きようによっては、なんだかひとを小ばかにしたようなひびきもあるが、このときはたしかに一つの興味を抱いた「ほう」であった。
「それ、それ」
深編笠が、見台の上に乗り出した。ささやくように、
「ご立派でござりまするか」
「何が?」
「あれが」
しばらく黙って、
「うむ、こればかりは、きゃつはおろか、天下の男、だれにも負けぬ」
と、大まじめな調子で銭函将曹は答えた。
「ちょっと拝見」
「何を?」
「その、おん根相《こんそう》を。――そもそも男の勝負を占うにあたっては、人相よりも根相を見るにしかず――というのが、拙者《せつしや》の自得いたした易占法《えきせんぽう》でござりまして」
「根相とな。――ば、ばかめ」
「いや、それがあなたさまが相手にお勝ちになる秘鍵《ひけん》となるかもしれませぬぞ。孫子《そんし》に曰《いわ》く、いわゆる善《よ》く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なりと。呉子《ごし》に曰く、戦いを教うるの法は、短者は矛戟《ほうげき》を持ち、長者は弓弩《きゆうど》を持ち、強者は旌旗《せいき》を持ち、弱者は厮養《しよう》に給すと。また三略《さんりやく》に曰く、智を使い、勇を使い、貪《たん》を使い、愚を使う、これ軍の微権《びけん》なりと」
「なんのことだ、それは」
「いくさには、いくさの前にまず勝ちうる条件を作れ、またそのためには適材を適所に使え、ということでござります」
「ヘンな奴だな、おまえは」
江戸一番の大道場の師範代でありながら、孫呉も三略も知らないとは情けないが、しかしへんな八卦見であることはたしかだ。しかしこの場合、これを怪しむよりも、いとも荘重に言うその語韻《ごいん》のほうに銭函将曹は催眠術をかけられたようになった。
「なんだ、要するに、おれのあれを敵に勝つ鍵《かぎ》とすると言うのか。……よし、見せてやる」
さすがに、いちどあたりをうかがい、見台を回って、柳の木陰に――この易者の横に立ち、袴《はかま》のひもをとき出した。
「ちょっと暗くなりましたな。灯《ひ》をつけてくれ」
「はい」
という声に、銭函将曹はめんくらったようだ。
「や、あれは女か」
あわてて身をひこうとしたが、「根相」はすでに男の易者の手にとられている。
もう一人の深編笠は、見台の上の提灯《ちようちん》に灯を入れた。
「おん占い十六文・果心堂《かしんどう》」という文字が浮かび出た。それをとって、寄って来て、自分ものぞきこんだが、深編笠が邪魔になるとみえて、スルスルとこれを脱いだ。
「うん」
と、銭函将曹のみならず、あとの二人もうなり声をあげた。
髪は櫛巻《くしま》きにしているだけで、着ているのは羊羹色の紋付きだが、提灯の灯にぼうと浮かびあがったのは、眼は黒い花のようで、肉感的な唇が濡《ぬ》れて、美しいというより異様に迫力のある女の顔であった。
「女房でござります」
と、易者果心堂はけろりとして言った。それから、これも、うん、とうなった。
「一挙に二倍になりましたな」
銭函将曹は果心堂の言葉の意味もわからない表情で、女の顔に例の赤く光る眼を吸いつけられていたが、肉体のほうは正確に反応した。
「もともと常人の倍はあると拝見したものがまた倍になったのだから、つまり四倍というわけでござりますな。それに、小さな団子《だんご》ほどの疣々《いぼいぼ》がある。ううむ、これは凄い。怪獣的と申しあげてよろしい。怪獣ダンゴン、とでも申しましょうか……」
「何を言っておる」
「いえ、殿さま、これほどのおん根相をそなえられまして、なぜ勝敗に不安をお覚えなさるのでござります」
「こんなものがなんの役に立つ。相手は女ではないぞ。相手は男で、武器は剣じゃ」
「いえ、これが武器になりまする」
「なんだと? ダンゴン、いやこの男根が試合の武器になると?」
「いかにも。ああ、よいものを見せていただいた。商売不振でいささか気が滅入《めい》っておりましたが、はからずもかかる雄渾《ゆうこん》のおん根相を拝見いたし、実に今宵《こよい》は浩然《こうぜん》の気を養うことができてござります」
「おまえをうれしがらせるために見せたのではない。ささ、これがどうして勝負に勝つ武器となる?」
「それをお教えいたせば、見料十六文――いや十六両を頂戴《ちようだい》いたしたいが」
「十六両! そんな高い見料があるか」
と、弟分の侍がさけんだ。
易者は黙って、笠の中であごを撫《な》でているようすであった。
将曹が言った。
「十六両、払《はろ》うてやったら、たしかに勝つ法を教えてくれるか」
「その十六両は、お勝ちになったあとで頂戴いたします。十六両ただ取りということは、決していたしませぬ」
自信にみちた声だ。
「よし、勝ったら十六両、たしかに払うてやる。で、その法は?」
「それは――先刻、試合は十日後とおっしゃいましたね。では、三日後、もういちどここへお立ち寄りくださいますまいか」
「なんじゃ、いま教えてはくれぬのか」
「はい。法は幾つもありますが。――今夜と明夜、いま拝見いたしたおん根相をつらつら剣星壇《けんせいだん》に占うて、その中でもっともすぐれた法を案じて進ぜます」
あまりおごそかな声で言われたので、二人の弟分の男など、思わず、
「それはかたじけのうござる」
と言ってしまった。
「よし、ではきょうはこのまま行く。偽《いつわ》りを申すと、その分には捨ておかぬぞ」
銭函将曹だけが赤い眼でにらみつけて、そこを離れた。
「なお、このこと、余人にしゃべれば、たたっ斬るからそう思え」
と、二人の男もわれに返って釘《くぎ》を刺し、将曹のあとを追った。
往来をだいぶ行ってから、
「きゃつ、妙な八卦見じゃ。ただ占いだけに立ち寄ったら、おかしなことになりおった。……三日後、何を言うことか。どこかひとをからかっておるようなところもあるぞ。嘲弄《ちようろう》したことがあきらかとなれば、ぶった斬ってやるが」
「いや、何か妙案を授けてくれて、首尾よう神坂小次郎を斃《たお》したあとでもたたっ斬ってやればよい。十六両も助かる。――そもそも、そう思って、何もかも打ちあけたのだ」
「あの、易者の女房もか?」
と、話しているのをきいて、将曹がふりかえった。
「あの女房」
と言って、闇《やみ》をすかした。遠い柳の下に「果心堂」の提灯が、鬼灯《ほおずき》みたいに見えるばかりであった。
「あれも、変化《へんげ》のような美女であったな。三葉《みつば》どのも稀有《けう》の逸品じゃが、あれもまた捨てがたい。あの女は、殺すなよ」
つぶやいて、獰猛《どうもう》な分厚い唇でにたりと笑った。
「易者は始末いたしてもよいが」
「あんた、どういう気持ちなの?」
「うん、はじめは鴨《かも》にするつもりで、途中はからかってやるつもりで、最後はちょっと本気で知恵をかしてやるつもりになったな。だいいち、あの醜男ぶりだけでも肩を入れてやりたい気になったよ」
「凄いわね、何もかも」
「うふ、何もかも、ときたね。まったく前世紀のものだな、あれは。――人間のからだというものはこれ以上発達する余地のないほど進化の極に達しているという説をいつかきいたことがあるが、平生からおれはその説に首をかしげていたんだ。たとえばさ、男のものにしたって、完全な円錐《えんすい》形というわけでもなければ球形というわけでもなく、なんとなくまだ未完成といった外形をしてるじゃないか。女のものに至っては、太古、海から這《は》いあがって来た生物それ自身のようなところがある――」
「何を言ってるの、ばからしい――」
「だからさ、おん根相のほうも、かえって原始の昔に先祖返りしたほうがいいのじゃないか。いまの男のものは、たしかにそんな感じだったな。あれだけ重量感のあるものを所持していて、しかも試合に負けては、なんのために苦労してぶら下げてるのかわからん。男の存在価値、根源的意義のためにも勝たせてやりたくなった――それに、十六両は儲《もう》かるし」
「あの男が勝つ、ということは、相手が負けることになるのね」
「神坂小次郎、という名をきいて、おまえ、思わず声をたてたな」
「そうだったかしら?」
「いつも、往来を通るとき見とれていたからな。まったく、道場通いの面々の中では鶏群《けいぐん》の一鶴《いつかく》、堂々たる美丈夫だ。おまえさんが、まずその名を、神坂小次郎という名だけを憶《おぼ》えこんだのも無理はない」
「憶えただけよ。この町の女のひとたち、みんなその名は知ってるわ。ちょっとお澄ましやさんね」
「しょってるんだ。だからおれは、あの醜男のほうにひいきをしてやるんだ」
「ひいきしてやるって、どうするの」
「さてね。いまの銭函将曹という男、あれほどのしぶとい、強情我慢のたちと見える男が、ついふらふらと占いを見てもらう気になったのはよくよくのことだ。双方ともに師範代ということだが、いまのようすを見ると、まず危ないな――」
「放っときなさいよ、ね」
「ほら、そんなにおまえさんが眼の色を変えるから、おれはいっそう将曹のほうにひいきしてやりたくなる。だいいち、あれは国宝ものだ。国宝保存のためにも、ぜひ勝たしてやりたい――」
笑った声で、
「おまえさんだって、あれを見たら、どっちに勝たせてやりたいか、迷いが出たろうが」
「なに言ってるの。でも、はじめて見たわ」
「とにかく、約束はしてしまったし、三日のちまでに、なんとかしなくちゃならん」
「考えがあるの?」
「うん、あれを見ているうちに考えついた。そのためにね、どうしても相手の神坂小次郎師範代とひっかかりを持つ必要があるが」
「――あのひとじゃない?」
「え?」
いかにも、もう日はとっぷりと暮れ、まったく人通りの絶えた往来を、とぼとぼと一人の男がやって来る。――こちらの二人には、常人以上にそれがよく見えるのだ。
おそらく、だれも見ている者はないと思っているせいか腕をこまねいて、深々と首を垂れて。――均整のとれた、堂々たる体格だけに、いっそう不自然に見える思索の姿であった。
「噂をすれば影だな」
「いま、道場が退《ひ》けたのよ。……やはり試合のことを考えてるのじゃないかしら?」
「呼んでみよう」
果心堂は、例の筮竹の笙を吹いた。
神坂小次郎はふっと顔をあげてこちらを眺め、ふらふらと吸い寄せられ、いちど肩をゆすってひき返そうとするそぶりを見せたが、またふらふらと近づいて来た。
見台の前に立って、
「占うてくれ」
と言う。まだ自分の意志のはっきりしないような声であった。それっきり、まだ何も言わないうちに、筮竹をじゃらじゃら鳴らし、
「剣相でござりますか」
と、果心堂は言った。
はたせるかな、神坂小次郎はちょっと大きく眼を見ひらいた。――すると、もう一方の深編笠が提灯を前に出した。小次郎の顔をよく見るためらしい。
「わかるか」
「はい。――剣難の相が濃く出ております。近いうち、生き死にをかけた試合か、果たし合いをなされますな」
「だれかから、きいたか」
「いえ、めっそうな」
と、こんどは果心堂のほうがあわてた。
「ただ、あなたさまのご人相を拝見しただけでわかりますので」
こう言われても、神坂小次郎はなお思案しているふうで、あんがい驚かなかった。
それにしても、実に美男だ。白皙《はくせき》の額、きりりとつりあがった濃い眉、切れ長の眼、高く通った鼻、朱をひいたような唇、それに、スラリとのびた長身に、筋肉がきゅっとしまって、女ならだれでもふるいつきたくなるだろう。提灯を動かした深編笠のほうが恍惚《こうこつ》と見とれているのを知りつつ、果心堂も、これだけこの若者を近くで見るのははじめてだが、たんにいい男というばかりではなく、俊爽《しゆんそう》、凜々《りんりん》、まさに英雄児の相貌だ、と感にたえた。
相手が黙っているので、果心堂のほうが口を切った。
「試合の勝負のことでござりましょうがな」
「試合――」
と、小次郎は放心状態で言った。
「それは、わしが勝つにきまっておる」
「へえ――」
「そんなことは気にかけてはおらぬが――」
まるで、犬が東を向けば尾は西を向く、わかりきったことのように言う。恐ろしい自信に、果心堂も唖然《あぜん》とした。
「――では、なんの占いで?」
「わしが苦に病《や》んでおるのは、試合のあとのことなのじゃ」
「試合のあとのこと?」
「試合に勝ったあと、わしは祝言《しゆうげん》せねばならぬ」
「はあ」
「それがまことにこまるのじゃ」
男らしい額に苦悩の皺《しわ》が刻まれた。
「で、その祝言、あげていいものやら悪いものやら、それを占うてくれ」
「――と、おっしゃいますと、そのご祝言のお相手に、何かお気に入らぬところでもあるのでございますか」
「ない。この世にこれほど美しく、これほど清浄な女人はないのではないかと思うておるほどじゃ」
「では、失礼ながら、あちらさまがあなたさまを――」
「いや、あちらはわしを、死ぬほど恋いこがれておる」
「ほかに何か――」
「外部的な支障は、何もない」
断然として言う。――果心堂は笠の中で眼をぱちくりさせて、やがて、
「では、なぜそのご祝言をそれほど苦に病まれるのでございますか」
と、やや自棄《やけ》っぱちのように言った。相手は感じない。ただ煩悶《はんもん》だけに心をとらえられているようすで、
「試合には勝たねばならぬ。勝たねば、新羅無双流《しらぎむそうりゆう》相伝の印可状がもらえぬからじゃ。……試合には勝つ。それはまちがいない。……勝てば、その印可状とともに、師匠のご息女をもらわねばならぬ。相手もその父御《ちちご》もそう信じていて疑わぬ。……が、その娘御と祝言すると……」
と、独白のごとくつぶやいて、ふいに身をふるわせた。
「ああ、わしはあのひとを幸福にできるであろうか?」
「――とは?」
「わしは、女がこわいのじゃ……」
果心堂の深編笠が数十秒静止した。
「殿さま」
「――おお」
「そのご祝言の吉凶、占うて進ぜましょう」
「や、占うて、それがわかるか」
「ただ、殿さまのおん根相を拝見いたさねば――」
「おん根相?」
果心堂はその意味を説明した。結婚の吉凶は根相によって決まる。顔に美醜あるがごとく、根相にも優劣がある。そして人間の幸不幸が人相の美醜によって決しないように、結婚の成功不成功もあながち根相の外見的良否によって決しない。それは深遠なる根相学によるものであって、まったく別の問題である。そしてたとえ拝見したとしても、この職業上の秘密は絶対に遵守《じゆんしゆ》し、万一これが他に洩《も》らされたとわかったときはいかなる制裁にあうのもいたしかたないと覚悟している。――果心堂はこういうことを、じゅんじゅんとして述べた。
その論理よりも、語韻の荘重さに、神坂小次郎はしだいにこれまた催眠術にかけられたようになって来たらしい。――散大した眼で、じいっと深編笠を見つめていたが、
「左様ならば、ひとつ見てくれるか?」
と、細かくふるえる息づかいで言った。
見台を回って、柳の陰に立った。袴のひもをとき出した。提灯がまた移動した。
「ほう」
と、果心堂は嘆声をもらした。
「短小でございますな」
「やはり、短小か?」
小次郎は絶望の吐息を洩《も》らした。
「ほ、ほかの一般の男にくらべて、よほど短小か?」
「まず、五割方、短小でござりますな」
この堂々たる美丈夫の悩みはこれであったのか。――と果心堂は、事前にひょっとしたら? という予感は胸をよぎったものの、それにしても予想以上の悲劇にいささか暗然として、
「しかし、五割方短小のものは、膨張係数も五割方大きいと申しまして、なんとか、ひとつ……」
尽力してみた。
「や、ご覧なされ、望みなきにあらず、二割方は回復いたしましたぞ」
「あ――」
と、そのとき神坂小次郎がさけんだ。眼が大きくひろがっている。
「あれは、女ではないか……」
果心堂の肩のうしろから、笠をとった美しい女の顔が、熱心な眼色《めいろ》でのぞきこんでいたのである。
「女房でござりまするが。……いかん、またもとどおり……それ以下になってしまったではござりませぬか!」
果心堂は嗟嘆《さたん》の舌打ちをした。
神坂小次郎は頭をかかえて、しゃがみこんでしまった。やがて、ふるえる声で言った。
「いつのころであったろう。わしの少年時代であった。下女のものを見た。それは太古、海から這いあがった生物そのもののごとくであった……」
「ほ、わしと同意見の人があったぞ。は、はい、そのお気持ち、よくわかります」
「そのときの衝撃のあまり、わしは成長がとまってしまったように思われる。……八卦見、そんなことがありうるであろうか?」
「まず、そんなことはあまりありますまいな。しかし、原因は別として、現実に問題は残りましたな」
「わしは、女がこわい。……とくに今回のごとく、相手の娘御が容顔美麗、清浄潔白であればあるほど、あんな顔をしていて、あんな怪物を所持しているかと思うと、夜な夜な、悪夢にうなされるほどじゃ……」
神坂小次郎は、柳の下で、果心堂の足にとりすがるようにした。
「八卦見、わしの苦しみがわかったか。刻々迫るこの恐怖がわかってくれたか。それを思うと、いっそそのまえの試合に、みずから進んで敗れたほうがましだとさえ思うほどじゃ。しかし、相伝の印可状はぜひほしい。また、そのくせふしぎなことに相手の娘御も、あれを思えばこわいが、一方では決してきらいではないのじゃ。……こういう悩みを持つ男が、八卦見、祝言して相手を幸せにできるであろうか?」
「まずむずかしいでありましょうな。――これはどうも、根相以前の問題で」
果心堂は憮然《ぶぜん》として言ったが、すぐに何を思いついたか、笠の中で眼をきらと光らせて、
「殿さま、その相手のお嬢さまを決しておきらいではないと申されましたね」
「言った。人間は、まことに矛盾の動物じゃ」
「では、この女はどうでござりましょう?」
と、肩の上からのぞいていた女の顔にあごをしゃくった。
神坂小次郎は地上から上眼づかいをして、
「うむ、それもまたきらいではない……」
と、存外好色的な眼つきをした。――実に人間は矛盾の動物にちがいない。
果心堂は手を打った。
「それでは見込みがないでもありませぬ。この女房お狛《こま》をこれからお屋敷へつかわして、殿さまのお悩みを解消すべく相つとめさせましょう」
「えっ」
と、さけんだのは、女房のほうだ。小次郎も狼狽して手をふった。
「その女、決してきらいではない――美しい女だとは思うが、やっぱりこわいのじゃ。それでなくとも、わしの屋敷には女がなん人もへばりついて、わしを悩ましておる……」
「ほほう。……いえ、これは拙者の女房でござりまするから、めったなことはいたさせませぬし、いたされてもこまります。いや果心堂、長らくこういう商売をやっておりまするとな、占いのみか、だんだん人生相談、恋指南、縁談案内などにもあずかるようになりまして、ひとさまの悩みごとには知らぬ顔のできぬ性分《しようぶん》と相成りました。ともかくも女房をやって、首尾よう殿さまのご煩悶をお消しできれば、このうえの慶事はないではござりませぬか。もっともその節は、十六文の見料ではなく、謝礼として十六両頂戴いたしとうござりまするが」
「十六両、それはかまわぬが」
小次郎は立ちあがった。ひっかかったらしい。
「で、その女房、すぐに来るのか?」
「いえ、この姿ではなんでございますから、衣服を改めさせましてのちほどに。――してお住まいはどちらさまでございますか?」
「住まいは、小日向弁慶橋《こひなたべんけいばし》の神坂という屋敷じゃが……どうも、気がすすまぬなあ」
「では、このことご門番にでも仰せつけておいてくだされませ」
神坂小次郎は、狐に化《ば》かされたようなふらふらした足どりで去った。
あと見送って、
「ふうむ、人間はまったく見かけによらぬ。だれにも思いもよらぬ劣等感の根源があるものだとは承知してはおったが……」
「あんた、どうするの? あたし、知らないわよ」
「いや、待て、わしの案はこうじゃ」
果心堂は、女房お狛の紅貝《べにがい》みたいな耳たぶに何やらささやいた。
「――いま、屋敷に女がなん人もへばりついていると言ったな。どういう素性《すじよう》の女か知らんが、なんならそれを使ってもよろしいぞ」
「いったい、あんた、どっちに味方しているの? どっちの約束を果たそうとしているの?」
「どっちでもいい。どっちにしても十六両儲かる。どっちだっていいが……」
深編笠がかたむいて、
「しかし、わしは、面《つら》がまえは気にくわんが、やはり銭函将曹のほうに肩を入れてやりたいなあ。神坂小次郎は美男だが、美男なるがゆえに、女という女が惚れる。しかもその色情はまったく不毛のものじゃからな。そういう存在は、女にとってもかえって気の毒だし、ぜんぜんむだでもある。……おまえさんだって、あれじゃしようがないとがっくりしたろうが」
「そうでもないわ。……それどころか、あのひと、つんとしたお澄ましやさんかと思っていたら、あんがいそうでもなかったから、あたしちょっと同情しちまった」
「お、見捨てたものではないとおまえさんは思うか。それならありがたい。せいぜい同情をもって努力してみてくれ。さあ、十六両はともかくとして、ちょっとおもしろい遊びができたぞ」
ふっと提灯に息を吹きこむと、果心堂の文字が消え、あとは春の闇ばかりになった。
小日向弁慶橋にある五百石の旗本、神坂小次郎の屋敷で、八卦見の女房お狛は、思いがけない敵意の眼に迎えられた。
三人の娘である。たちまち、
「あの女は、何者ですか」
と、小次郎にきいたらしい。これに対して小次郎は、
「あれは大日坂《だいにちざか》の新羅道場の下女じゃ。ちょっと頼みごとがあって、二、三日、こちらに来てもらうことになった」
と答えた。昨夜のうちに来たお狛と相談のうえのことだ。
そうきくと、三人の娘はいよいよ色めきたった。
「え、新羅道場?」
――その新羅道場で何日か後、無双流相伝書とその娘を争う試合が行なわれるということはまだだれも知らなかったが、新羅道場の娘とこの神坂小次郎のあいだにふんわかとした靄《もや》があるということはかねてから噂できいていて、それこそ彼女たちの胸をもっともかきむしっていたことであったからだ。
三人の娘は、一人は神坂小次郎の上司二千石の旗本の息女、お淀《よど》。一人は小次郎と遠縁の娘、おはま。一人はすぐ隣りに住むやはり旗本の娘、お梁《りよう》といった。
神坂家では、小次郎の両親がおととしと去年、相ついで亡くなったので、いろいろの名目をつけて、かわるがわるほとんど毎日やって来るのだ。ときには同じ日に二人、三人ぶつかることもある。
いずれも美人であることはまちがいはないが、あらゆる女と同様、実質以上に自分を美人だと思っている。とくに他の二人よりは自分のほうが美しいとみんな確信している。
そこへ――さすがの彼女たちもたじろぐほどのお狛が現われたので、彼女たちは一大恐慌をきたした。
「新羅道場の下女が、どうしてここへ来たのですか」
「そなたらには関係のない神坂家の私事についてのことだ」
「神坂家の私事? では、も、もしかしたら小次郎どののご縁談のことではありませんか? いよいよお噂のある新羅道場の三葉さまと小次郎どののご婚儀の下準備に来たのではありませんか」
「けっ、思いたいように思え」
「それにしても、あの女も、下女にしては美しすぎます。……女ぎらいで通していらっしゃるあなたが、あんなにきれいな女を、しかもよその下女をお呼びになったのはただごとではありません。何かわけがあるでしょう。それを言ってくださらなければ、あたしたち、ここを動きません」
恥も外聞もなくつめよる娘たちを、じろっと刺すような眼で見て、神坂小次郎は口もきかず、ぷいと背を見せて立ってゆく。――
こういう光景を遠くで見ていて、お狛は失笑を禁じえない。――つんと澄ましたいい男、というのが以前の神坂小次郎の印象であったが、これはお澄ましやどころではない。女に対してけんもほろろ、冷酷無情をきわめている。
先夜の辻占いでの彼の悲痛な訴えと哀れな物体を思いだすと、失笑どころか、ふき出さざるをえない。これだから――「男は女の前に出ると、みんな自信があるような顔をして法螺《ほら》を吹くんだから、ほんとに自信があるのかないのか、ばかな女にはわからないじゃないの」と言いたくなるのだ。
小次郎は法螺を吹いているわけではないが、女のつきはなし方が、一種の――これ以上はない男の自信の現われと見えるのだ。ふだん、悠揚《ゆうよう》と見える美丈夫だから、この冷酷ぶり無情ぶりの異常さがことさら水際《みずぎわ》立って、かえって、おみごとと言いたくなるくらい魅力的に見える。
事実は、それが内面の恐怖の反比例的表現なのだが。――まさかそうとは知らぬが仏の三人の娘は、そんなあしらい方をされると、水もたまらず斬り捨てて「鞍馬天狗《くらまてんぐ》」か何かを謡《うた》いつつ立ち去ってゆくような、その格好のいいうしろ姿をウットリと見送り、いよいよのぼせあがった眼つきになり、さてその激情がこちらへ、お狛のほうへむかう。
わけもわからず彼女たちは、お狛に対して非常に侮辱的な眼を投げ、かつ口のきき方をした。
おそらくそれまでは、おたがいに軽蔑《けいべつ》と猜疑《さいぎ》と嫉妬《しつと》と憎悪《ぞうお》で牽制《けんせい》し合っていたのだろうが、ふいに共同戦線を張ったようであった。
「お狛とやら。――新羅道場は江戸一番とは言うけれど、伝刀斎とやらはもとは大道《だいどう》の剣術師だったそうではないか」
「そこの娘が、五百石の旗本の家へお嫁に来ようという野心を持っているそうな。三河《みかわ》以来、直参のお家のつき合いは、成上がり者にはほとほと骨が折れようと、帰ったら親切に言っておやり」
「それそれ、おまえのすわりよう、歩きようも、なんとのう、町ふうで淫《みだ》りがましいぞえ。道場作法は、この神坂家では願い下げじゃ」
お狛が、この高飛車な娘たちに、コンチクショウ、という気持ちを持ったのは当然のことだ。
もっともそんな感情を持たなくっても、彼女は予定の行動には移ったろう。それが、亭主《ていしゆ》の命令だから。――ただし、娘たちのこんな態度に、「――いま、屋敷になん人かの女たちがへばりついていると言ったな。なんならそれを使ってもよろしいぞ」という命令者の参考意見が、積極的に採用されることになったのは事実だ。
三日目の午後。
「お嬢さま方」
うまい具合に、ちょうど三人がやって来ていて、偶然三人いっしょにいるところへ、お狛はそっとまかり出た。
「ないしょで、だいじなお話がございます」
「おまえが、なんの話」
「わたしがこのお屋敷へ参ったわけをご存じでございますか」
「さ、それがわからぬ。問うても、雲をつかむようなご返事ばかり。とにかく、えたいの知れぬ泥棒《どろぼう》ネコみたいな女が這いこんで来たものと思うておる」
「ほんとうに、わたしは泥棒ネコでございます」
「え、なんと言いやる?」
「実は、ここの殿さまを盗み出しに」
「小次郎どのを盗み出しに? おまえが?――といっても、小次郎どのがおまえをつれて来られたのではないか」
「わたしが――というより、新羅のお嬢さまのために」
「何を言っているのかわからぬ。道場へは、きょうはなぜか休んでいらっしゃるけれど、小次郎どのは毎日いっていらっしゃるし、それに新羅の娘は小次郎どのともやもやと――おお、そうか、わかった! 新羅の娘がいかに誘っても、小次郎どのはそれをはねつけておいでなされるから――とでも言うのかえ。そう、そうであろうな?」
「いいえ、お二人は、おたがいに、身も細るばかりに恋いこがれていらっしゃるのですけれど」
「で、では、やっぱり噂どおりに――ああ、口惜《くちお》しや、ねたましや、それが――それを、どうしておまえが小次郎どのを盗み出しに来たのじゃえ?」
「それが、いろいろといま差しさわりがございまして、当分、ご婚礼のことがかないませぬ」
「そ、それはそうであろう」
「いつかはそうなることはまちがいございますまいが。――でも、お二人はもうお待ちきれになれないのでございます。とくに新羅のお嬢さまのほうが」
「…………」
「はっきり申せば、一日も早《はよ》う、一夜も早う、ここの殿さまに抱いていただきなされとうて、胸もうずき、腰もうずき……」
「…………」
「一方、ほんとうを申せば、こちらの殿さまも、新羅のお嬢さまを、一日も早う、一夜も早う抱きしめてさしあげとうて、これまた胸もうずき、腰もうずき……」
「む、むむう」
「つまり、婚前交渉というやつでございますね。けれど、道場のほうにも当お屋敷にも、なかなかうるさ型が多うございまして、それが思うように参らない。――そこで、わたしがここにその下準備役を仰せつけられまして、いろいろと慎重な連絡の結果、いよいよ今夜――」
「え、今夜、どこで?」
「やはりこの小日向ではございますが、さる無住の寺で」
「ふ、二人が、密会するというのかえ?」
「はい。――このことは、もちろん、秘密でございますけれど――こちらのお嬢さま方を拝見しておりますと、黙ってことを運びますのが、あまりにおいたましゅうて」
三人の娘は、ひきつけを起こしそうな顔になってさけび出した。
「ふ、ふしだらな!」
「神坂家の――いえ、旗本八万騎の名にかかわる――」
「即刻、ご公儀に訴えて出ねば!」
大げさだ。
お狛が言った。
「ああ、やっぱりお教えしていけなかったでしょうか? いまお騒ぎになれば、むろんこのことはとりやめになりまする。殿さまは、知らぬ存ぜぬでお通しになるでございましょう。けれど、そのご心中のお怒りはいかばかりか――」
――結局、三人の娘が、ともかくもその密会の現場を押えよう、その寺とやらへ、事前にそっと案内してたもれ、と言い出すのに手間はかからず、かつ三人がどこへ行くか、余人にはいっさい秘密にして出かけよう、という黙契が成立するのに時間もかからなかった。
夕刻、屋敷を退散すると見せかけて、雨もよいの空の下を、四|梃《ちよう》の駕籠《かご》が指定の場所へ急いでいった。
無住の寺。――それは関口水道《せきぐちすいどう》町の南西にあたる広い畑の中にあった。そんなところへ三人はいままで行ったことはないし、だいいち、むやみに駕籠をぐるぐるとあちこち引き回されたので、いったいどこをどう通って、どこへ着いたのかわからない。
駕籠から降ろされた。
「――ここはどこ?」
と、きくより、娘たちは、ぼうぼうと春の草のそよぐ中に、黒ずんで、半ば崩れた寺の影を眼前に見て立ちすくんだ。
「こんなところで、小次郎どのとその女が密会を?」
「はい。――道鏡寺《どうきようじ》と申しまする」
と、お狛はおちつきはらっている。
そのようすと、いちおう素性の知れた人間だという認識と、そして何より彼女が女であるという事実に釣《つ》られて、ふらふらと三人はそのあとについて、廃寺の中へはいっていった。
「ここでございます」
寺の中の、どの部分だかわからない。天井も屋根も裂けて、そこからどんよりした銀色の夕空がのぞいているが、気をつけないとつまずきそうな一室であった。三人の娘の袖《そで》や裾《すそ》は、蜘蛛《くも》の巣まみれだ。
「ここから、ちょっとのぞいてご覧なさいまし」
お狛は、一方の壁に近づいて、指さした。そこに小指ほどの穴があった。
「えっ、もうだれか来ているのかえ?」
「いえ、新羅のお嬢さまがおいでになるのは、もうちょっとあとでございますが――お支度だけはしてございます」
三人は、かわるがわるその穴に眼をあてて、また、
「む、むむう」
というような声を立てた。
その隣りの部屋には、あきらかにぼんやりと一つの行灯《あんどん》がともされて、そこに敷かれた緋《ひ》の夜具が幻影のごとく浮かびあがっていたのである。
ほんとうだ。――密会は、ほんとうのことだ!
「まだお時間がちょっとありますが、いちどご覧になりますか?」
お狛は、壁の一方の板戸をあけた。音からして重く、厚そうな板戸であった。三人の娘はばかみたいにそこからはいって、眼前のなまめかしい夜具を、またひきつけを起こしそうな表情で眺め入った。
背後で、板戸のしまる音がした。
それにふりむくよりさきに、一人が――お淀がふいに、
「あれえ」
というようなさけびをあげた。
行灯とは対角の位置にある剥《は》げた金屏風《きんびようぶ》の背後から、何やら黒いものがむくむくと湧《わ》き出したのを見たのだ。
板戸の外で、かちんと栓《せん》を降ろし、お狛はニコニコと笑った。
「忍者は非情なり」
と、つぶやいた。それから風のように寺の外へ出て、待たせてあった駕籠のうちの一つに飛び乗った。
「大いそぎで弁慶橋に帰っておくれ」
四梃の駕籠は駆け出した。
ならんで走る空駕籠《からかご》の駕籠かきに、しかしお狛はのんきな顔で、このごろの景気のことなど話しかけている。これに対して駕籠かきの応答ぶりが、ばかにうやうやしい。
「伊賀へ帰って百姓したほうがいいかもしれないわねえ」
などと、お狛は言った。
「子どもが待ってるわよ」
大道占いの柳の下で、果心堂夫婦が、「おたがいに、時代錯誤な、つまらんところで生まれたな。甲賀、伊賀とは――」という会話を交わしたが、ひょっとすると、この駕籠かきたちも、江戸へ出稼《でかせ》ぎに来て、うらぶれはてた甲賀、伊賀の出身者かもしれない。そしてお狛は、これでも故郷に帰れば、そこの名家の娘なのであろうか。
弁慶橋の神坂家へとって返すと、お狛は、二梃の駕籠だけ門内に入れて、また家の中へはいっていった。
それから、こんどは小次郎のところへまかり出た。
小次郎は奥座敷の縁側にすわって、暗くなりかかった庭を見ていた。茫然《ぼうぜん》というより、悄然《しようぜん》としたうしろ姿である。何を見ているのかと、ヒョイとその方向へ眼をむけると、石灯籠《いしどうろう》だ。いまはじめて気がついたのだが、それは熊笹《くまざさ》の中に大地からにょっきり生えた大男根――そんなかたちをしているように思われる石灯籠であった。
「殿さま」
「おお」
彼はふりむいて、ちょっと赤い顔をした。
あの三人の娘たちと相対するときとは別人の観がある。弱点をにぎられているからだろうが、お狛はそれはそれとして、ちょいとこの美丈夫に対していじらしさをおぼえた。とくに、これから自分と夫の果心堂のやろうとしていることを考えると。――
「例のお約束を果たすときが参りました」
「例の約束――」
彼の眼にはあきらかに恐怖の色が浮かんだ。
「な、何をするのじゃ?」
「恐れ入りますが、黙ってわたしについて来てくださいまし」
「なにか、わしは気がすすまぬなあ」
自分でもいちおう承知したくせに、彼にはためらいの色がある。お狛がここ二、三日屋敷の中をウロウロしているのを見ていても、「例の約束」を督促《とくそく》するどころか、不安げな眼をついとそらすようにして来たのだ。
しかし、神坂小次郎はお狛について、屋敷を出た。二梃の駕籠はふたたび関口水道町の方角へ走った。
荒れ寺の崩れた山門はもうとっぷりと闇に沈んでいて、そこにぽつんと赤い提灯が浮かんで見えた。「おん占い十六文・果心堂」と書いてある。そのとき、どこかで、笙を吹くような音がきこえた。
「お待ち申しあげておりました」
深編笠が微笑した声で迎えた。果心堂である。
「ご短小、おん治癒《ちゆ》の場はこちらでございます」
三人は廃寺の中へはいっていった。
神坂小次郎は闇の一室に通された。別人のようにおごそかな果心堂の声がきこえた。
「必ず癒《なお》して進ぜる。ただし、いかなるものをご覧なさろうと、いかなる目におあいなさろうと、こちらの合図するまで決してお声をおたてくださりまするな。よろしゅうござりまするか?」
小次郎はそこで、立ったままお狛に袴を脱がされた。果心堂が手伝って、着物の裾を尻《しり》からげしてやった。そしてこのあまり英姿颯爽《えいしさつそう》とはいえない姿で、彼はそこの壁にあいた小指大の穴からのぞかされる羽目となったのである。
それより数刻まえのやはり夕方。
大日坂に近い辻の柳の下に出している見台の前に、三人の男が立った。
「果心堂」
道を隔てて、辻待ちしているらしい四梃の駕籠が気になるらしく、ちらちらとそっちのほうへ眼をやりながら、一人が言う。
「約束どおり来たぞ」
「――あん?」
まるで居眠りでもしていたように垂《た》れていた深編笠がややあがって、不透明な声を出した。
「これ、銭函将曹じゃ」
ちょっと憤然としたらしい声をあわててひそめて、
「きょうここへ来れば、例の試合に必勝する妙案を教えてくれると言った約束を忘れたか?」
「あん? ああ、あなたさま方で。――覚えております。忘れてどういたしましょうか、十六両の儲《もう》け口を」
ゆらりと立ちあがって、手をあげて何やらさしまねいた。
「お待ち申しあげておりました。ささ、あの駕籠でどうぞ」
すると、四梃の駕籠がこちらにやって来た。
「や、どこへ行くのだ」
「拙者がご案内いたします。その妙案は目的地へついてからご進講いたす。さあ、どうぞ」
釣られたように駕籠に身を入れながら、きょときょととして、別の一人がきく。
「これ、先夜の女房がおらぬが、どうした?」
「女房は、やはりこの件で、別動隊として活動中で」
「なに?」
「やがて、先で逢うことになりましょう。行ってくれ」
と、一番先の駕籠に乗りこんだ果心堂が言った。四梃の駕籠は走り出した。関口水道町の方角へ。
銭函将曹らが連れ込まれたのが、例の道鏡寺であったことはいうまでもない。けげんな顔で廃寺の中へはいっていった彼らは、やがてその一室に思いがけなくなまめかしい夜具や行灯や金屏風が用意されているのに眼を見張った。
「雰囲気《ふんいき》は満点でござりましょうが」
「果心堂、これはいったいどうしたのじゃ?」
「やがて、三人の女人がここへ参ります」
「女が、三人――」
「それを、遠慮なく犯しなされませ。……殿さま」
「……な、なんじゃ?」
「女三人、大丈夫でござりますかな?」
「そ、それは、女なら三人でも五人でも大丈夫じゃが、しかし、女を犯す――それと、例の試合となんの関係がある?」
「やがて、女房がこの隣りに神坂小次郎さまをご案内して参ります」
「えっ?」
「そして、あそこの壁の穴から、小次郎さまが、銭函将曹さま強淫《ごういん》の景をのぞかれることに相成ります」
ここに至って、三人は眼をむき出したまま、とみには声も出なくなってしまった。
「殿さま、どうぞ獅子奮迅《ししふんじん》、阿修羅《あしゆら》の働きをお見せなされてくださりませ。相手は三人、しかし日ごろ男こがれのぼつぼつと、火炎の燃えんばかりにはずみ切ったる女陰とやら、これに挑《いど》めば得たりや応《おう》、生まれて覚えぬご馳走《ちそう》と、胴ぶるいして立ち向かってくるに相違なし、されば陽にはいれば陰にひらき、丁々発止《ちようちようはつし》、丁発止《ちようはつし》、くいつき抱きつき、秘曲をつくし、鼻息の音震動し、百千のいかずちいちどに落つるがごとく、天地にひびくそのありさまを……」
「果心堂」
銭函将曹はわれに返った。
「わしには、まだおまえの意図がのみこめぬ。とにかく、ここに三人の女が来るというのじゃな。そもそもその女どもは何者じゃ」
「実は、日ごろ神坂家へ出入りし、神坂の殿さまにへばりついておられる女性《によしよう》たちでござります」
「なんだと? そ、それが、ここにわれらが待っておると承知でくるのか」
「いえ、こちらの孫呉《そんご》の計にあざむかれて」
「だまされてくると申すか。いや、大それたやつ。……それはそれとして、神坂はこのこと存じておるのか」
「これも六韜《りくとう》三略の計。……殿さま」
「なんじゃ」
「実は果心堂、銭函将曹さまおん根相《こんそう》の卦《け》はただならぬ凶相と出ました。七日後に、哀れ根運|三隣亡《さんりんぼう》に帰《き》すと。すなわち例の試合に、ご本体もまた消え失《う》せるというしるしでござりまする」
「ひえっ」
奇声を発したのは、二人の弟|弟子《でし》だ。
「この三隣亡の根運を回天させんには、三女を姦《かん》してその悪星を宙外に放下《ほうげ》せんにはしかず。――果心堂、夜を重ねて絞り出した秘占でござりまする」
なんのことだかよくわからないが、その荘重森厳な声調に、将曹たちは心気も脳髄ものまれてしまった。
「殿さま、あなたさまが神坂小次郎さまに断然まさるとご確信のお持てになれるのはただあなたさまのおん男根だけでござりましょうが。ああいや、卦がそのように出ております。その天運を捨ててなんで必死の試合に勝利を得られましょうや。いや、たんに易占|卜筮《ぼくぜい》の世界のことばかりではありませぬ。人間性から見ても然《しか》りです。ようござるか、ここであなたさまが例の驚くべきおん男根の勇武をふるい、荒れまわり、女人どもを、それ、起きては倒れ、倒れてはまた起きるというありさまにまでご蹂躙《じゆうりん》なさる。その雄渾《ゆうこん》の壮観を見て、動揺し、圧倒され、震慄《しんりつ》せざる男がありましょうか。ない。断じてない。それを見た神坂小次郎さまは心中舌を巻き、ああわれ、ついに銭函将曹に及ばず――と、試合のまえに萎靡《いび》のていにおちいられることは必定《ひつじよう》でござる。たたかわざるに、気、まず敵をのむ。これはべつに孫呉を待たずとも、古今を通じて誤らず、中外に施《ほどこ》してもとらざる兵法の要諦《ようてい》でござります。……おわかりか」
「……わかった!」
と、将曹は言った。実にこれは天来の妙策だ、という気がして来た。
「しかし」
と、一人の男が不安そうに言った。
「それを見て、神坂小次郎が怒り心頭に発してここに斬りこんで来たらどうするのじゃ。将曹は女にかかっておるし――」
「万一、そのような場合、それを防戦するために、あなた方お二人もここへお越し願ったのでござります」
「ひえっ」
「は、は、そんなことはまあ、万に一つもござりませぬ。そういう暴挙に出られぬように、神坂さまに呪《まじな》いをかけてある――」
「ど、どんな呪いを?」
「それには呪術学《じゆじゆつがく》上のむずかしい説明がいります。何より、その女性方や神坂さまが、ノコノコとこんなところへ出かけて来られるのが、果心堂の呪いの証拠ではござりませぬか。十六両も何もかも、ぶちこわしになることを承知で、わたしがわざわざこんな手数をかけ、夜具や灯《あか》りまで持ち込むはずがないではござりませぬか。――現実には、それ、あそこの戸にこっちから栓《せん》をして、神坂さまが向こうからはいって来られないようにいたしますが、それでもまだ怖《こお》うござりますか?」
「いや、怖《こわ》くない。怖くはないが……」
銭函将曹が分厚い唇をつき出した。
「そんなことはどうでもよい。ここで果たし合いとなるなら望むところじゃ。今夜勝てずして、どうして七日後に勝てようぞ。七日後に負ければ、もはや永遠に女は抱けぬのじゃ。しかれば、いまここで、やって、やって、やりまくるにしかず――」
自棄《やけ》っぱちに似ているが、理屈も通っている。武者ぶるいしはじめた将曹の形相は、元来の醜貌《しゆうぼう》に加え、さらに凄惨《せいさん》であった。
「おお、われらも及ばずながら」
「将曹の驥尾《きび》に付して――」
と、二人の弟弟子がはやり立つのを、果心堂が苦笑いして深編笠《ふかあみがさ》をゆらゆら振った。
「いえ、あなたさま方は関係ない。今夜はあくまでも銭函将曹さまおん主役の独演で、強《し》いて申せばあなたさま方はその引き立て役。もしどうあっても何かやりたいと仰せられまするなら、左様、その三人の女性、はじめは少しあばれることもありましょうから、その手足を押えたり、事後の処理を手伝うたり――」
「――ひえっ」
と、二人の男はまた奇声を発した。一人は小兵《こひよう》で、蟹《かに》みたいな顔をし、一人は痩《や》せて、胡瓜《きゆうり》みたいな顔をした男たちであった。
――さて、道鏡寺で、お淀、おはま、お梁の三人の前に、剥《は》げた金屏風の陰から現われ出《い》でたのはいうまでもなくこの三人であり、やや時をおいて神坂小次郎がのぞきこんだのは、三人の女を相手に銭函将曹が、まさに獅子奮迅、阿修羅のごとき働きを展開している光景なのであった。
――そのときまでに、三人の娘はすでにいちどずつ犯されている。そこに至るまでには、果心堂がいちおう注意したように、むろんひと騒動であった。阿鼻叫喚《あびきようかん》、と形容してもよろしい。悲鳴をあげる。懐剣をぬく、走る、ころぶ、蹴《け》る、かきむしる、かみつく、壁や戸にとりすがる。これを三人の男は、檻《おり》の中で鳥を牙《きば》にかけようとする熊《くま》か狼《おおかみ》みたいに追いまわした。
その結果、三人の娘は白い人魚みたいに横たわった。二千石の旗本の息女お淀のごときはまる裸にされてしまっているが、あとのおはま、お梁も、袖はちぎれ、裾は裂け、帯に着物がまつわりついている状態といっていい。
が、いまそれぞれに受けた衝撃があまりに徹底的なものであったので、三人とも自分の姿態への羞恥《しゆうち》感すら白痴《はくち》状態になっていた。犯されたのはむろんみんなはじめての体験だが、まるで杵《きね》でからだの中をぶちぬかれたごとく、内臓までが麹《こうじ》みたいにどろどろになってしまったような気がする。
そのあられもない光景を目撃しつつ、二人のアシスタント――和田安太夫《わだやすだゆう》と吉村宇平次《よしむらうへいじ》という男は、壁ぎわにへんに黙りこくってすわっていた。果心堂に指図されたように、たしかに事前に犠牲者の手足を押えるなどの助勢はしたが、とても事後処理を手伝うどころではない。実は彼らもどぎもをぬかれたのである。銭函将曹のおん根相を見るに及んで。――
それが偉大なものであることは友人として知ってはいたが、機動中の雄姿を見たのはこれもはじめてのことで、かんじんの敵どころか、彼らのほうがまず動揺し、圧倒され、震慄《しんりつ》し、気をのまれてしまったのだ。
銭函将曹はひと息入れて、次期攻撃のための武器手入れ中であった。
三人を相手に同時作戦を試みたのは、いくらなんでも彼も最初のことである。が、彼はぜんぜん疲れを覚えなかった。――実は彼が、「ひとたびこの将曹を知った女は、ことごとくふらふらになって、起きては倒れ、倒れてはまた起きるというありさまになり果てる」と豪語したのは、決して嘘《うそ》ではない。しかし、いかんながらその女は、たいてい醜女であった。美人は寄りついて来ないのだ。――それがいま、これは十指の指さすところ、あきらかに美女だ。
その美女がいま、自分の馬蹄《ばてい》に蹴ちらされ、踏みにじられ、黒髪をみだし、乳房を大きく起伏させ、半失神のありさまで手足を投げ出している姿を見ては、彼たるものふたたび勇気|凜々《りんりん》、はやりにはやる悍馬《かんば》を、「ドウ、ドウ、ドウ」と鎮《しず》めるのに苦労するのと同様の状態にならざるをえない。
しかし、将曹は耐えた。いまのは見物人のいない予行演習にすぎなかった。彼は臍下丹田《せいかたんでん》に力をこめ、歯をくいしばって、本番の開幕を待ち受けた。
遠くで笙《しよう》のような音がひびいた。これがファンファーレであった。
ぬっくと将曹は立ちあがった。
「用意!」
と、彼は吼《ほ》えた。
これからのスケジュールについては、あらかじめ事前に説明を受けている。反射的に和田安太夫と吉村宇平次ははね上がり、三人の女のところへ駆け寄り、作業を開始した。お梁の上に、逆の方向にあおむけにおはまを重ね、おはまの上に、また逆の方向にお淀を重ねたのである。
この上に、蜜柑《みかん》を一つ置きたい。――と、ちらっと和田安太夫の頭に、こんな考えがかすめたくらいであった。
ふしぎなものだ。女たちはこのとき、自分の体内にみちたどろどろの麹《こうじ》のようなものがしだいに発酵して、じーんと甘さが内側からしみわたってくるような感じになっていたのだが、この乱暴なブロックの建築には、さすがに改めて抵抗しようとする。それを、いやも応もなく、彼らは積みあげた。
で、左右上下に何本ずつの手、何本ずつの足が出たか。――この分類は読者のほうで考えてください。和田安太夫と吉村宇平次は、こんな「頭の体操」をやる余裕はない。とにかく彼らは、それらをひとまとめにして両足ではさみ、両手で押えこんだ。このスケジュールをきいたときには、ちょっとおもしろいとは思ったが、さすがにこの場になると、「おれたちもラクではない」と彼らも痛感せざるをえなかった。
「どうっ」
そんな声を発して、銭函将曹は、まずお淀の上に――といっても、結局三人ひとかための上になるが、どっかと打ちまたがった。さすがに大日坂の新羅道場の師範代を 承《うけたまわ》 るほどあって――といっても、これも事前に予告を受けていたからのことだが、このとき将曹は、例の壁の穴に、何者かの眼があてられたのを感覚している。
熱演は開始された。
この一戦が、七日後の、それこそ生死をかけた一戦につながるという認識もある。しかし、それより銭函将曹をいま吹いているふいご[#「ふいご」に傍点]は、これほどの美人を神坂小次郎がいとも冷淡に遇しているようだ、とここへ来てから果心堂からきいた記憶であった。実にぜいたくな、もったいないということを知らぬ、けしからぬ奴だと思う。それも新羅の三葉に眼移りがしているからだろうと考えると、いよいよ胸が煮えくりかえる。彼は、孫子の兵法的計算よりも、男としての正義の憤怒《ふんぬ》の炎に燃えたぎっていた。
それだけに、この奮戦ぶりは堂々として、むしろ凄愴《せいそう》をきわめた。
「一軍破る!」
咆哮《ほうこう》とともに、お淀がひきずりおとされる。いや、ころがりおちて、そのまま白い芋虫《いもむし》みたいに動かなくなってしまう。将曹のつるはしは、第二層のおはまに打ちこまれる。
方向をいろいろと変えたのは、おのれの威容と戦果を、あらゆる角度からくまなく「敵」に見せつけるためだが、その「敵」はともかく、安太夫と宇平次のほうがあっけにとられ、さらにガタガタと胴ぶるいをしはじめるほどの将曹のたけり狂いぶりであった。安太夫と宇平次は、つかまえていた手足を離してしまい、腰がぬけたようにへたりこんで、眼を節穴《ふしあな》みたいにひらいていた。彼らには、たった一つの行灯が、炎々たる真紅《しんく》の業火《ごうか》に変わったかと思われた。
もつれ合い、よじれ合う黒髪、引き裂かれ、ちぎれる白い肉、ほとばしる熱い雨のような汗、鞭打《むちう》つようなひびき、ぶるっと走る無数の痙攣《けいれん》、もう悲鳴でも喘《あえ》ぎでもない音波。――すべてがこの世のものならぬ幻影の乱舞のようであった。
将曹はのどをふりしぼった。
「第二陣、破りしぞ!」
――これを、例の穴から、神坂小次郎は観戦させられたわけである。
穴の向こうに、銭函将曹を見いだしたときの彼の驚き、そこに重ねられている三人の娘たちがだれであるかを知ったときの彼の驚きはいうまでもない。
愕然《がくぜん》として、彼は穴から飛び離れた。
果心堂が片手をあげた。
「おしずかに」
「な、なんだ、これは? あの娘どもがかようなところにおるとは――あの娘御たちをなんとする?」
「すべて、あなたさまのためでござりまする」
「なに?」
「どうせ、あのご女性《によしよう》たち、あなたさまにとっては要《い》らない方々ではござりませぬか。いえ、新羅道場のご息女とのご祝言にとっては、かえって邪魔になる方々ではござりませぬか」
「ばかめ、そ、それにしても――」
と、大刀の柄《つか》に手をかけるのを、
「殿、ご短小」
と、果心堂が制した。
「な、なにがご短慮」
「いえ、ご短小。――すべては、あなたさまのご短小おん治癒《ちゆ》のためでござりまする。これをおん治癒なさらなければ、新羅のお嬢さまとのご婚儀、おふた方の極楽のごときご生活など、砂上の楼閣《ろうかく》にひとしい――ということを思われませぬか。しばし、おん治癒のための薬じゃと思うて、いましばし、ご覧なされませ」
小次郎は、うなされたような眼を、また壁の穴におしつけられた。
しだいに彼のからだが熱くなり、硬直し、うめき声を発した。また壁から離れようとして、彼は自分が柔らかな、しっとりした手でとらえられているのをはじめて知った。
「三割方、回復してござりまする」
ひざまずいているお狛の声であった。
「三割のう。……元来が常人の五割だから、その三割ふえると、常人の幾割となる?」
「目算では、ふつうの六割大ですが」
「六割のう。……もうすこし、なんとかならぬか。努力してみい」
「はい……」
時間が経過した。小次郎の全身には痙攣さえ起こりはじめた。
とつぜん、お狛が悲痛な吐息をもらした。
「あっ、だめ……」
「どうした?」
「三割回復したのが、また四割は減ってしまったようで――」
「常人の六割にまで達していたのが、その四割を減じたとなると、常人の幾割になるか」
「目算では、ふつうの四割五分くらいですか」
ガイガー計数管を観測しているキュリー夫妻みたいな冷静な問答を交わしていた果心堂が、突如《とつじよ》われに返って叱咤《しつた》した。
「殿さま、いかがなされました!」
とたんに神坂小次郎は、へたへたと壁の下にすわりこんだ。
「あれがふつうか。……あれが常態か?」
果心堂は、代わって穴に眼をあてた。
穴の向こうでは、奇怪な光景に転換していた。だれがどうなったのやらよくわからないが、要するに、銭函将曹をめぐって、三人の女たちがしがみつき、からみついているのだ。醜悪きわまる男のからだに、彼女たちは夢遊病にかかった白い蛇《へび》みたいにまといつき、うねりまわっているのであった。
「ははあ……」
と、果心堂は、やや長嘆して、穴から眼を離した。
「あれがまあ……女の常態でございましょうな」
「いや、将曹のものは……あれが男の常態かときいておるのだ……」
「いえ、あれは特別製でございます。まさに男性中の巨人とも申すべく――」
神坂小次郎は足を投げ出したまま、両手で頭をかかえこんでいた。
「三葉どのは……あの将曹の妻となったほうが……幸福ではあるまいか?」
と、彼は細ぼそと――しかし深刻な声を洩らした。
果心堂はあわてた声を出した。
「あいや、左様なことを仰せられては、拙者どもの今宵の苦計が逆効果となります。殿さま、怒り心頭に発してくだされませ。ふるい立ってくだされませ。そ、そんな弱音をあげられるようでは、例の試合に勝つなどということも怪しゅうなるではござりませぬか?」
「試合にはわしは負けそうじゃ」
「何を仰せられます」
お狛が、小次郎をゆさぶった。
「で、では、いまここで、あの将曹さまにお立ち合いなされませ!」
「いまやっても、わしは負けそうじゃ。いや、わしは絶対、あの男に負ける!」
彼はもう死相に近い顔を宙にあげて、うつろな声でつぶやいた。
「ああ、われ、ついに銭函将曹に及ばず――」
――惨《さん》として、もはや声なし。
やがて、果心堂とお狛は、神坂小次郎を両わきからかかえるようにして、道鏡寺の山門まで出ていった。
ついに一語もなく、そこに待っていた駕籠の一つに身を投げこんで、神坂小次郎は去った。銭函将曹はおろか、この易者夫婦にもなんら文句をつける気力もない――完全に打ちのめされたようすであった。
あと見送って――
「こっちの十六両は、まず消えたな」
ぽつんと果心堂が言った。
「あんた、こちらにも見込みがあると思っていたの?」
「いや、こうなるだろうという見込みのほうが強かった。驚いたな、あの将曹のもの凄《すご》さは。――物のみならず、技術保存の価値もある。そうは思わないか?」
「あんなもの、技術じゃないわ」
果心堂は笑ったが、お狛は黙って考えこんでいた。
「あたし、あの小さいひとのほうに勝たせてやりたくなったわ」
「妙な奴だな、おまえさんは。あんな見てくれの男はいかん。男のまやかしものだ」
と、果心堂は言った。
「それに、いまの実験でもうだめだ。決定的になった」
「それをひっくり返したら、あんた怒らない?」
「怒りはしないが、おい、何を考えてるんだ」
「できるかできないかわからないから、いまはきかないで。――それより、あの三人のお嬢さま方、どうするの? 家に帰ってから大騒ぎにならないかしら?」
果心堂はちょっと首をひねっていたが、やがて言った。
「いや、騒げば身の破滅だから騒ぎはせんだろう。当分、思い出し笑い――どころじゃないが、いや、けっこう、ウットリして暮らすだろうと思うが、それより、将来、結婚してからが問題だな。さて、もうおやめおやめの合図をするか」
闇の山門に、笙の音が細く渡った。
五日目の夕刻。
例の辻《つじ》の柳の下で、細く澄んだ笙の音が流れた。
ちょうど前の往来を通りかかった二人の武士――蟹みたいな顔をした和田安太夫と胡瓜みたいな顔をした吉村宇平次が、びっくりしたようにふりむいて、
「や、きょうはおるではないか」
「きのうは姿が見えなんだが」
「はて、深編笠は一つじゃな」
「十六両の請求か?」
「いや、あれは試合のあとの約束じゃ」
そんなことを口早にしゃべり合うと、ばらばらと駆け寄って来た。
「果心堂」
「わたしでございます」
深編笠のふちに白くあぶらづいた春の葱《ねぎ》みたいな指がかかって、くらくらするほどなまめかしいあごと唇がちらっと見えた。唇はにっと笑《え》んでいた。
「おお、あ、あの女房どのか」
「先夜はどこにおった?」
二人は息をはずませた。
「亭主とは先夜、大成功大成功ということで握手して別れたが――」
「おぬしにもわれらの雄姿を見せたかったが、どこにも姿を見せなんだな」
深編笠が、くすっと笑った。
「いえ、おりました」
「なに、おった? どこに?」
「それはそうと、銭函の殿さまはどうなさいました」
「将曹は、例の試合にそなえて、目下、英気を養っておる」
「お疲れでございましたでしょう。拝見していた果心堂のほうが、あの夜から熱を出して、ただいまも寝込んでおります。あなたさま方はどうでございますか」
「わしたち?……わしたちもどっと熱を出して寝込みたいような、熱が出そうで、のどもとでひっこんだような」
「ホ、ホ、そうでございましょう。わたしも拝見していて、ほんとうにお気の毒でございました」
「見ていた? おぬしもあれを見ておったのか!」
「はい、――あの三人のお嬢さまをあそこにおつれしたのはわたしでございますもの」
二人は沈黙した。
「あの、つかぬことをお願い申しあげとうございますが」
「な、なんだ」
「その三人のお嬢さまからお頼みを受けたことなのですけれど――もういちど、あの寺へ行きたいと――お三人とも、ものに憑《つ》かれたようにおっしゃいます」
「あの女性《によしよう》たちが。――ほほう」
「よほど忘れがたいご経験だったとみえます。そうおっしゃるあいだにも、頬《ほお》あからめ、肩で息をなされて」
「あれが――あの将曹が、それほど気に入ったかのう。ふうむ……」
「けれど、考えてみますと、銭函の殿さまはもういけません。もういちどあのようなことがありますと、こんどは疲れが尾をひいて、例のお試合にきっと祟《たた》りが出ます。で――」
「――で?」
易者の女房の声に、とろけるような笑いがまじった。
「たいへん失礼でございますが、あなたさま方がお嬢さま方をお慰めしてあげてはくださいますまいか?」
「――ひえっ」
二人は奇声を発したが、そのまま顔を見合わせる。ごっくり、のどぼとけが動いた。
和田安太夫が、かすれた声で言った。
「で、いつ?」
「お嬢さま方が焦《こが》れ死になされそうなので、あさっての夜、あのときと同じ時刻はどうでござりましょう。ここにおいでくだされば、お駕籠《かご》を用意しておきますけれど」
吉村宇平次が、声をひそめて言った。
「将曹には、ないしょだぞ」
――その翌日の夕刻。
本郷菊坂《ほんごうきくざか》、二千石の旗本|島内内膳《しまうちないぜん》の屋敷の前に、一|梃《ちよう》の駕籠が降ろされて、一人の女がしとやかに降り立った。身分は低いと見られるが、きりりしゃんとして、たしかに武家に奉公する女のようであった。それが、門番にこう言った。
「小日向弁慶橋の渋谷勘解由《しぶやかげゆ》さまのお嬢さまからのお使いで、女中お狛と申すものが参りましたと、お淀さまにお伝えくださいまし」
すなわちここは、三人娘の一人、お淀の屋敷であった。渋谷勘解由とは、やはり三人娘の一人、神坂家の隣りに住むお梁の父親の名であった。
渋谷家のお狛。――
夕日さす春の庭を、高熱を病んでいるような眼で見まもっていたお淀は、この取り次ぎの言葉をきいて、どっきりとなった。
「通しておくれ。……そっと」
と、彼女は言った。
あのあと。――古寺からけだものみたいな男たちが去ったあと、おろおろと駆けこんで来たお狛から、泣かんばかりのわびごとをきいた。やはり神坂小次郎と三葉との密会をさまたげようとする男たちが、たまたま現われたお嬢さまたちがあまりにお美しいので、ふいにけだものになったらしい、と言い、けれどこうなった以上、騒がれてはお嬢さま方のお身の破滅、おたがいのお屋敷でかるた遊びなどをしてつい夜が更《ふ》けた、とお家にはおっしゃったほうがよいのではございますまいか、と知恵を授けてくれたのだ。衣類をつくろわれ、髪を結《ゆ》い直されつつ、三人とも、夢うつつの状態でそれをきいた。
で、その夜はまずそれですんだものの、夢うつつの状態はいつまでもつづいている。――
いま、あのお狛という女が、渋谷家の奉公人などと嘘をついて、大胆にもこの屋敷へ乗りこんで来た。――怒るよりも、彼女は恐怖にとらわれて、蒼白《そうはく》な顔でお狛を迎えた。
お狛は例のきりりとした姿ではいって来て、神坂家で見たときとは別人のような、武家の作法にかなったうやうやしいお辞儀をした。
「お嬢さま。お人払いを――」
「だれもおらぬ。……な、なんのために来やった?」
お狛は、にっと笑った。
「お嬢さま。……もういちど、あの寺へ行ってごらんになるお気はございませぬか」
「な、なんとえ?」
「あのお侍さまが……ぞっこんお嬢さまがお好きになられて、火のつくようにわたしをおせきたてになるのでございます。むろん、わたしを新羅家の奉公人と知っていらっしゃるのですから、あれでれっきとしたお旗本なのでございます。顔はあのようなこわい顔をしていらっしゃいますが、それだけに男の中の男ともいうべきお方。……それが、あの夜以来、起きてはうつつ、寝ては夢、庭の草を見ても花を見ても、みんなお嬢さまに見えると仰せられて……」
きいているうちにお淀の顔もぼうと染まった。――実はお淀も、あれ以来、庭の樹を見ても石を見ても、みんなあの男に見えるのだ。あの男の一部分に見えるのだ。
「あのお方はあのような武骨なお武家さまなので、あんなことをなさるとは夢にも思いませんでしたが、わたしなどは、あの分厚い唇、たくましい胸毛、瘤《こぶ》のかたまりみたいな筋肉、見ているだけで、まるで鉄の棒でえぐられるような気がして、思わず生唾《なまつば》をのみこんだものでございます……」
お淀の白いのどが、ごっくりと動いた。
「そのお方がお嬢さまのことを、あんな白いなめらかなからだを抱いたことはない。女の乳房というものが、あんなに吸いつくような柔らかいものとは知らなんだ。もういちど、このわしの髯面《ひげづら》で擦《こす》りあげ、擦りおろし、もみくちゃにしてやりたいと……」
「いつ?」
と、お淀がかすれた声で言った。
「あのお方が焦《こが》れ死になされそうなので、あすの夜、あのときと同時刻でどうでござりましょう。渋谷家からと申して、お迎えの駕籠をよこしますけれど」
島内家の門前に出ると、お狛は駕籠かきに言った。
「小日向弁慶橋の渋谷というお旗本のお屋敷へ――」
――その翌日の夕方。
これはもう十年も住みなれたような顔をして、神坂の屋敷にはいっていったお狛は、小次郎の居室に顔を出した。
「こんにちは、殿さま」
このとき神坂小次郎は、実に妙な格好をしていた。例の石灯籠《いしどうろう》のほうに尻をむけ、うつ伏して頭を両手でかかえこんでいるのである。
「先夜はどうも」
小次郎ははね起き、すわりなおし、恐怖の表情を浮かべた。
そのまま、じいっとお狛を見つめていたが、ふいにがばがばと這《は》い寄り、そのひざに顔を伏せて、わっと泣き出した。
「だめだ、もうだめだ。拙者《せつしや》は絶望その極に達した……」
とぎれとぎれに言う。小次郎の心理から言えば、これくらいの形容ではとても足りないが、事実としてはまあこれに尽きる。
しかし、これがほかの女には「けっ、思いたいように思え」とかなんとか、いとも冷然と、いとも颯爽《さつそう》とけんつくをくわせる男と同一人であろうか。――まるで喧嘩《けんか》に負けて泣いて来た子どもに対する母親みたいに、お狛はやさしくその背中を撫《な》でてやった。
「殿さま。……例のお約束を果たすときが参りました」
「例の約束?」
小次郎はきょとんと顔をあげた。くしゃくしゃっと、それがゆがむと、
「おまえたちの約束はもうたくさんだ!」
「いえ、先夜のあれは夫のお約束でございます。今夜はわたしのお約束」
「もういやだ。もうわかったよ! もう助けてくれ!」
彼はだだっ子みたいに手足をばたばたさせた。
「殿さま!」
お狛は叱咤した。
「剣法に修行はいらないものでございますか?」
小次郎はめんくらった表情をした。
「もし剣法が生まれながらの腕の太さや力だけによるものなら、だれもはじめから修行することはないではありませんか。いいえ、剣法という法が成り立つわけがないではありませんか? 剣法にかぎらず、人間のあらゆる教育、鍛練、技術というものはことごとく無用ということになります。それは人間の生きるということの意義を認めないことです。人間は現状によって、ただ満足し、ただ悲観してはなりません。人間の価値は、高い理想をかかげ、一歩また一歩、前進また前進の努力をかさねるところにあると思われませんか?」
厳粛きわまる声で言う。神坂小次郎はいつのまにか、きちんとすわりなおしていた。
「ま、まあ、わたしとしたことが、長屋のお師匠さま亀井勝一斎《かめいかついちさい》先生の口真似《くちまね》をしたりして、ごめんなさい」
お狛はにっこりした。
「殿さま、まあ黙ってわたしについて来てくださいまし」
小次郎は魅入《みい》られたようになった。茫乎《ぼうこ》として、
「どこへ?」
「あの寺へ」
「いつ?」
「きょう、これから」
――さて、一刻ののち、神坂小次郎は例の廃寺の崩れた山門をくぐっていた。そのときお狛は指笛を吹いた。細い笙《しよう》のような音である。
数分後、小次郎は、壁の穴にまた顔をおしあてていた。彼を案内したお狛は「こちらの合図するまで、声をおたてくださりまするな、よろしゅうございますか?」と言ったかと思うと、ふっとどこかへ消えてしまった。
そうは言われたが、壁の穴に眼をあてたとたん、小次郎はまたも「あっ」と声を出しそうになった。
それよりすこしまえ。
迎えの駕籠で道鏡寺に送られたお淀は、その夜は駕籠かきにみちびかれて奥へ通った。「おまえ、何かきいているのかえ?」少なからず不安になって駕籠かきに問いかけたが、駕籠かきは答えない。黙っているというよりまるで耳がないかのように、無意志無神経な顔であった。
それをとがめるまえに、例の部屋にはいった彼女は、そこに二人の女が――おはまとお梁が、同じように夢うつつの表情で佇《たたず》んでいるのを見て、そのほうに気を奪われてしまった。反射的に、はいった戸に手をかけてみたが、押しても引いてもひらかない。
あの女は――あの男が、まるで自分一人だけに悩殺されたようなことを言ったけれど、ほかの二人にも同じことをささやいたにちがいない。
怒りと恥ずかしさに、お淀は顔をそむけた。おはまもお梁も、間《ま》がわるそうに顔をそむけている。顔をそむけても、行灯《あんどん》が眼にはいり、なまめかしい夜具が眼にはいる。あの夜とおんなじだ。
いつしか、三人はならんですわって、隅《すみ》の剥《は》げた金屏風の方を見つめていた。
遠くで笙のような音が流れた。
「どうっ」
そんな声を発して、屏風のかげから黒いものが湧《わ》き出した。――二人である。蟹《かに》のような顔をした男と、胡瓜《きゆうり》のような顔をした男である。
三人の娘は、これを無視して、さらに出現してくる者を待った。
しかし、いつまでたっても、それは現われない。和田安太夫と吉村宇平次だけが、三人の娘の前に立った。
「ドウ、ドウ、ドウッ」
気合いをかけてみたが、娘たちはあっけにとられたように見上げている。
「今夜は、おれたちだぞ」
「用意!」
飛びかかられて、三人の娘はこんどは立ちあがった。猛烈な抵抗を開始したのである。これも先夜と同じだが、結果はちがっていた。和田安太夫と吉村宇平次は、かきむしられて鼻は苺《いちご》みたいになり、蹴とばされて向こうずねを押えてしゃがみこむという騒ぎである。
ことここに及んで、二人は逆上して、あるまじきことだが、ついに腰のものをひっこぬいた。
「言うことをきかぬと殺してしまうぞ!」
「命が惜しかったら言うことをきけ!」
言うことにも、芸がない。
――とにかく神坂小次郎が壁の穴をのぞきこんだとき目撃したのは、この二人の男が大刀をふりかぶって、三人の娘を紅雀《べにすずめ》みたいに追いまわしているところなのであった。
が。――
ひらめく二本の刀の前に、撩乱《りようらん》と花のように娘たちが散り割れたあと、そのうしろに、もう一人の女が忽然《こつねん》と立っているのを見て、ついに彼は「あっ」と声に出してさけんだ。
その声もきこえぬほど驚愕《きようがく》したのは、和田安太夫と吉村宇平次であったろう。――かっと眼をむいて、
「おまえは!」
と、さけんだ。
「これはいけません。女を相手に刃物|三昧《ざんまい》は」
お狛はにっと笑った。
「しかも、それで新羅道場にお通いになった腕ですか」
「な、なにい?」
「――こ、こやつ!」
それでなくてものぼせ切っていたところである。あきらかに嘲弄《ちようろう》的なお狛の言動に、それまでのいきさつを思い出す余裕もあらばこそ、和田と吉村は血迷った凶刃《きようじん》を薙《な》ぎつけた。
ぴしいっと肉を鞭打つような音がすると、二本の刀は宙天にはねあげられ、和田と吉村はその勢いで突進して、壁にいやというほど顔面をたたきつけていた。
狂気のようにふり返った二人は、空から落ちて来た刀を、お狛が両手で曲芸みたいに受けとめるのを見て、そのままそこに立ちすくんでしまった。
「見てあげましょう」
左右、二本の刀を二人につきつけたまま、お狛は言った。
「な、何を?」
「そんななまくらな腕を持った方のおん根相を」
「――ば、ばかな」
「見せなさい!」
のどぼとけに冷刃のきっさきが触れて、和田安太夫はとび出すような眼をして、わななく手で袴《はかま》のひもをとき出した。
お狛は刃《やいば》の一本をグサと床《ゆか》に刺し、近寄った。もう一本はななめにして、隣りの吉村宇平次にあてがったままである。両人とも、磔《はりつけ》になったようであった。
「これはひどいわ!」
と、お狛はさけんだ。
「これを、まあ、物の役に立てようなんて、なんという図々《ずうずう》しさ、厚顔無恥《こうがんむち》!」
和田安太夫は、しとっと暖かく濡れた羽二重《はぶたえ》のようなもので自分がとらえられたのを感覚した。それは柔らかくうごめき、こねまわした。何やら全身の髄液が脳天までつきあがり、そこから、ぽん、とはね出したような気がした。
「――ひえっ」
と、彼はさけんだ。からだの平衡を失うほど、非常に下半身が軽くなったようであった。
お狛は刀身を回転させて、こんどは安太夫にあてがい、宇平次に言った。
「あなたの番よ」
吉村宇平次は胡瓜みたいな顔をのびちぢみさせた。
「これもひどいわ! よくまあこれで、いままで神経衰弱にならなかったわね!」
彼もまた、なめされ、ふやかされ、ぐるぐるとねじまわされた。しかも、痛覚ではなく、形容しがたい快美感が脳天にかけのぼり、これまた、ぽん、と空中にかき消えた。
「――ひえっ」
「あとで返すわね」
二人とも、刀を足もとにつき立てて平気でお狛が離れて行くのを見ても、和田安太夫も吉村宇平次も、全身|金縛《かなしば》りになったようであった。むき出した眼が、お狛の白い両手に高々とにぎりしめられたものを見送っている。……じりじりとうつむいて、その眼を、おのれの下半身に移動させた。……そこには、何もなかった!
「お嬢さま方」
ひざまずいて、しとやかにお狛は言った。
「今宵、手ちがいにてお目あてのお方がご休演と相成りましたことを、まずもっておわび申しあげまする。あそこにひかえおりまする未熟な代役にては、とうていみなさまのご満足をいただきますることは思いもよらず、さればふつつかながらこのわたくしめが、できそこないの道具を借り受けまして、しばらくお嬢さま方のご機嫌をおうかがいいたしとう存じまする」
三人の娘は、張り裂けるような眼で、お狛が肩まであげた両拳ににぎったものを見つめている。お狛は、吸いこむような笑顔で言った。
「そのためには、恐れ入りますが、お嬢さま方、どうぞそこのおん閨《ねや》の上に、おみあしを中心に、三弁の花びらのかたちに御寝《ぎよしん》なされてくださいまし」
三人の娘は、まるで操《あやつ》り人形のように、その構成に横たわった。しかも、お狛の指示で、その二本ずつのふくらはぎが相重なって層をなすほどちかぢかと。――
お狛はその上にまたがるように立って、
「東西《とざい》、東西《とうざい》――」
と言った。ちょうどこのとき、彼女は壁の穴の方をむいていた。
そしてにっとうなずいてみせると、しゃがみこんで、くるっと一回転した。同時に緋《ひ》の波の逆巻《さかま》くように、三人の娘の着物の裾がひるがえった。
「使いまするは、はなはだ粗悪、言語に絶えたる不出来の撥《ばち》でござりますれど、これをもってこの三弦をかき鳴らしてご覧に入れまする。本来ならば、破れ障子ほどの音もたてさせぬこの撥が、わずか三すじのこの女人の琵琶《びわ》に、|※[#「口+曹」、unicode5608]々切々《そうそうせつせつ》、珠《たま》の玉盤に落つるがごとく、鶯《うぐいす》の花底に囀《さえず》るがごとく、千変万化、百花斉放《ひやつかせいほう》、やがてたちまち破れて水漿《すいしよう》ほとばしり、三弦の一声、首尾よう裂帛《れつぱく》の音をたてさせますれば、何とぞご喝采《かつさい》のほどを――」
そして彼女は、二本の撥《ばち》をにぎり、はじめゆるやかに、しだいに早くまわしはじめた。それは幾つかの独楽《こま》をあやつる独楽師のうごきに似ていたが、やがてそこからは独楽のうなりならぬ、まさに女人の琵琶が嫋々《じようじよう》と――さらに裂帛の音を奏《かな》ではじめた。……
それはいつぞやの声が、けもののそれとするならば、これはまさに天上の声であった。
例の大日坂に近い辻ではないが、やっぱり柳がゆれている大江戸のどこかの辻で。――
夜が更けた。その闇の中に、ぽつんと赤い提灯と、「おん占い十六文・果心堂」の文字が浮き出していた。
「どうも、ここも客がないな」
と、つぶやく声がした。
「客などはどうでもいい。それから、どうしやした?」
「うむ、それから二人は青草の上に、二間の距離に近づいた。銭函将曹の禿《は》げあがった額は火炎を立てんばかり。もみあげの毛はそよぎ、眼は赤光《しやつこう》をはなって、ちょうど正面で見ていた女たちの中には、それだけで顔を覆《おお》い、つっ伏してしまった者すらあった。しかも、ふりかぶったのは実に四尺にあまる大業物《おおわざもの》――」
見台で談じているのは、深編笠をかぶってはいるが、たしかに果心堂の声である。その前にしゃがんできいているのは、まだ初夏になったばかりというのに、下帯一本の四、五人の駕籠かきたちであった。
「ここで特筆せねばならんのは、銭函将曹の風体《ふうてい》じゃ。さてもその日、将曹のいでたちいかにと見てあれば――なんとこれが、おまえたちとおんなじじゃ」
「へっ、ふんどし一本で?」
「しかも、その下帯も、手ではねのけたのかなんではねのけたのか知らんが、横っちょにずれて――例の大ダンゴンが出陣しておる。それがあの場合、なお怒髪天《どはつてん》をついておったのは、さすが新羅道場の竜虎《りゆうこ》とうたわれた一人じゃと、見ていてわしは実に感服したな。――顔を覆った奴があったのはそのせいかもしらんが、あれは実に敵を威圧するな。あれは忍者の兵法としても参考になるぞ」
「で、相手は――」
「そこで相手の神坂小次郎じゃが、これは襷十字《たすきじゆうじ》にきりりとしめ――あれはどうも女のしごきのようであったが、新羅の娘の贈り物かもしれんな――青眼《せいがん》、ややこぶし上がりにひたと構えたのは、これは一尺にも足らぬ小太刀。しかもその一刀のきっさきは、ぴたりと将曹の股間《こかん》に向けられておった。――これにもわしは感服したな。そんなはずはないのだが、小次郎め、ぜんぜん恐れた様子もない。――その位置、その構えで、一刻、また一刻」
顔をあげて、
「どうも客がないな」
「早くそのつづきを話しておくんなさいよ」
「されば、この位置と構えで一刻また一刻。そのうち、しだいに銭函将曹の眼にいらだちの色が浮かんで来た。なぜかというと――小次郎の構えが変わっておったからじゃ。そも小次郎のは、なんの会得《えとく》するところあってかかる構えをなす? と、怪しむ表情であった。小次郎はひたすら将曹の股間をにらんでおる。本来ならば頭上からただ一打ちのはずじゃが、そのきっさきが、妙なふうに動く。ゆら、ゆら、と浮動しておるのじゃ。なんともぶきみなゆれかげんで、それが将曹を疑心暗鬼の迷いにおとしたらしい――」
「新羅無双流の秘伝じゃあござんせんか」
「いや、ちがうらしい。わしの見たところでは、小次郎は将曹のダンゴンのゆれかげんに脈波を合わせておったな」
「へえっ」
「それが実に神韻縹渺《しんいんひようびよう》たる妖剣《ようけん》となっておる。見ていてわしも舌を巻き、身ぶるいした。それに耐えかねて、ついに将曹が喝声《かつせい》一番、みじんになれと大刀を振りおろそうとした――その秒瞬のまえ、小次郎は左へ飛ぶ気配を見せた。――思うに、将曹の未発の動きをまずダンゴンで読んだな」
「へえっ」
「と見るや、間髪《かんはつ》を入れず将曹のからだもその方向へ回り、うなりをたてて大刀を打ちおろす。そこには小次郎の姿はなく、将曹の大刀はむなしく地を斬って、その腰骨のあたりから、空へ、ビューッと鮮血が噴きあがった……」
「腰骨を斬られて、血が空へ――」
「斬られたのは腰骨ではない。大ダンゴンじゃ」
「へえっ」
「つまり、将曹のからだは回転したが、遠心力のかげんでそのものだけがわずかに振り遅れたのだ。腰骨の外に残った部分を、飛燕《ひえん》のごとく反転した小次郎の小太刀はみごと斬り飛ばした……」
「へえっ、そのものが腰骨の外まで出ていましたか。信じられないな。嘘《うそ》みたいだな」
「だって、事実だからしかたがないよ。現実に鮮血は天空へ噴きあがり、銭函将曹はずでんどうとばかりあおむけに打ち倒れて、そのまま即死したのだから」
果心堂は長嘆した。
「あわれ醜男銭函将曹。――わしはたいていの物語で、最後に醜男のほうがきっと斬られることになっておるのがはなはだ気にくわん。そうなるとは、きまっておらんと懐疑しておるので、ぜひとも今回は将曹に勝たせたかったのじゃがな……」
どこまでがほんとうで、どこまでが与太《よた》だか知れたものではないが、とにかくどういう具合にしてかこの果心堂が、数日まえに行なわれた新羅道場の試合を見物して来たことはほんとうらしい。
本来ならむろん木剣の試合であるべきところ、この場合は、たとえ木剣で一方が敗れてもあとおめおめと生きている意志はないと両選手が誓ったので、武勇の復古をよろこぶ奉行が、特別に真剣の試合を許可したらしい。結果は、いまの話のとおり、神坂小次郎の勝ちであった。
「しかし、わからんのは、その小次郎の勝ちだ。勝つはずがないのだがな。そもそも、どうして小次郎があれの威容に萎靡《いび》せなんだのか。いや萎靡から立ちなおったのか。……お狛が、何かしたな。おい、お狛が何をしたか知らんかね?」
「いえ、あっしたちは、ただ駕籠で運んだばかりで――ところで、お狛さまはどこへ?」
「ふふん、今夜は新羅道場の祝言でな。ちょいとそれを見物してくると言って出かけたが、親類なら知らず、あかの他人がひとの祝言を、しかも美男美女の祝言を見てなんになるんだ。いったい女というものは、物好きな、おかしな傾向があるな……」
「では、あっしたちは」
「これが醜夫醜婦の祝言ならまだおもしろみもあるが、美男美女とは、平々凡々……」
よほどこの果心堂は美男美女が気にくわない男らしい。まだ何かぶつくさ言っている深編笠を、駕籠かきたちは放り出した。
「そろそろ引き揚げますぜ。どうやら今夜は通行人もねえようだ。あなたさまも、なるべく早くお帰りなせえまし」
「はい、ありがとうよ。では、お休み」
駕籠かきたちは去った。
あとの五月闇《さつきやみ》には、赤い提灯だけが残った。その提灯に柳の影がはらりとゆれると、
「や、お狛」
と、果心堂は深編笠をあげた。
柳の下に、お狛が立っていた。輪郭はまぼろしのようにぼうっとしているのに、眼はきらきらとかがやき、息はずませている。
「ただいま。……見て来たわ」
「祝言をか」
「そのあとも」
彼女は胸を大きく起伏させていた。
「ほんとうにきれいな花嫁さま。この世のものではないみたい。……見ていてわたし、やきもちをやきたくなったほど。それが……どんな女の琵琶よりもあえかに美しい音をたてて」
「なんのことだ?」
「うまくいったということ。何もかも」
果心堂はじっと見つめていたが、
「嘘つけ。そんなはずはない」
と言った。
が、お狛は果心堂の声も耳にはいらないかのように、うっとりと夢見心地の吐息をついた。
「そうよ。あれがほんとうだわ。女というものは、男をほんとうに愛していれば、みんなああなるんだわ。からだでも技巧でもなく、ただ魂だけであんなふうに天へ飛び去ってしまうんだわ……」
果心堂はその声の余韻が消えたあとも、しばらく黙っていたが、やがて深編笠をかすかにゆらゆらさせ、ひどく懐疑的なつぶやきをもらした。
「――そりゃ、ホントかね?」
[#改ページ]
第二話 忍法玉占い
「デセンズス・テスチス。……クリプトオルチスムス……か」
と、つぶやいて、しばらく思案ののち、
「これを訳せば、睾丸《こうがん》降下、睾丸潜伏、ということになるか」
それから、笑い出した。
「睾丸降下、睾丸潜伏、――ものものしくて、重厚荘重、いい言葉じゃな。いま江戸で流行《はや》っておる戯作者|松本張亭《まつもとちようてい》先生好みの用語じゃないか」
「何さ、コーガンコーカって? どなたかがご降嫁《こうか》になるの?」
「うん、おんたまがな。――いや、この世は神秘にみちみちておるが、なかんずく人間の肉体ほど不可思議なものはない。まあききなさい、男性には睾丸というものがある」
「そのコーガン。……あらいやだ」
「いやでもなんでも、これが二個ある。嚢《ふくろ》の中に鎮座しておる。この二個のたまが、元来、胎児のころは腹腔《ふつこう》中にあるものなんだ。これが出産時、またはその直前に、しずしずと嚢めがけて降下して来る。この現象を睾丸降下という。これがな、何かのはずみで降下恐怖症にかかって、どうしても降下せず、腹腔中にかじりついて動かない場合がある。これを睾丸潜伏という……」
「へへえ……」
「ともあれ、この二つのたまこそ、男性の原動力だ。いや、人間の原動力だ。これが人間のもとを作り出すのだからな。つまり、精虫を」
心から神秘感にみちた声であった。
「この本によると、一六七七年、すなわち、いまをさんぬること遠き延宝《えんぽう》五年、リューウェンホックというオランダ人が発見したとある。わが日本じゃあ、公方《くぼう》さまもまだご四代さまかご五代さま、そうだな、佐倉宗五郎《さくらそうごろう》のお化《ば》けが両手をだらんとぶら下げて、さかんに出没していたころか、情けないなあ。……しかし、考えてみれば精虫のほうが佐倉宗五郎なんかよりよっぽどこわいよ。とにかく頭もあり、尾もあり、ピンピンと泳ぎまわる独立した生物なんだぜ、これを睾丸がウジャウジャと作り出し、送り出す。……ても、こわいことだとは思わんかね?」
「こわいわねえ」
「というが、あまりこわそうな実感がないね。女というものはこういう原理、肉眼では見えない現象には、ぜんぜん恐怖感を持たんところがあるな。これもこの世の不可思議な現象の一つだが……」
「こわいと言えば、あんたの読んでる本のほうがよっぽどこわいわ。そんな――出島《でじま》のオランダのカピタンからもらって来た本、見つかったら、どうするの?」
「見つかったら一大事だが、しかし、おもしろいな。忍法学のために、有益でもある。わが甲賀に古来相伝された忍法の秘伝、これを紹介してやったらリューウェンホックも驚倒するほどのものもあるが、悲しいかな、体得者自身は自分の術の原理を知らん。それが、こういう本を読むと、ああそうであったか、こういう原理で、ああいう術が可能であったのか、と眼からうろこが落ちたように啓発される。……だいいち、ここにこうして、じっとすわっていても、客がなくて退屈をもてあますじゃないか」
深編笠《ふかあみがさ》の下にひらかれているのは、分厚い書物であった。これが、横文字である。
その傍《かたわ》らに、さも無用のものといったふうに筮竹《ぜいちく》が散乱しているのを、提灯《ちようちん》の灯《ひ》が照らしている。提灯には「おん占い十六文・果心堂」という文字が浮かび出している。
初夏の夜の柳の下の見台に、飄然《ひようぜん》とすわっている二つの深編笠。大道易者、果心堂夫婦。
「あんた。……だれか来たわよ。お客さまらしいわ」
果心堂は、はたりと書物を伏せて、それを包んであった袱紗《ふくさ》で覆《おお》った。
「どうやらご浪人のご夫婦のような」
大通りのほうからそろそろと寄って来た二つの影が、いちど立ちどまった。
「……けれど、そんなこと、占いに見てもらってわかるでしょうか?」
「……いかにも、大きくは治国平天下を志し、小さくは人間心理学を専攻しておるこのわしが、大道易者にものを問う心境になったとはなあ」
嘆くような声がきこえたが、すぐに思いきったように、
「しかし、この望み、見込みありや否《いな》や、こっちの心のメドとしてきいてみよう」
と、歩いて来た。
見台の前に立ったのは、三十年輩の、見まごうべくもない浪人ふうの人物であった。痩《や》せて、ぶしょうひげを生やして、つぎのあたった羊羹《ようかん》色の衣服をつけている。皮膚も垢《あか》じみているが、しかしどこか哲学者じみた気品があって、そして眼は、光は薄いが清らかに澄んでいた。
ならんでいるのはその妻女らしいが、これはよく見れば実にいい眼鼻だちをしているが、なにぶんやつれはてて、ちょっと見には、ほとんど人目をひかない、影のような女であった。
「へえい、失《う》せ物、待ち人、走り人、男女相性、善悪の考え――」
と、果心堂が声をかけた。
「なんなりと、占《うらの》うて進ぜます」
「捜し物じゃ」
と、浪人が言った。
「その捜し物じゃが、実にそれが妙な捜し物で、相手の望みを捜しておるのじゃ。つまり、ある人が何を望んでおるかという――」
「へへえ……」
「といっても、雲をつかむような話で、もう少しくわしく語らねばわかるまいの。実は本来のこちらの捜し物は別にある。しかし、それのありかは、ある人が持っておるとわかっておるのじゃ。それを、ぜひこちらにとり返したい。が、ただでは返してくれるわけがない。その代償――つまり、相手がもっともほしいものをこちらがさし出さねばならぬ。その相手のほしいものがわからぬのじゃ」
「まだよく腑《ふ》におちませぬが、そんなことなら、そのお相手におききなされたらよろしゅうござりましょうが」
「きくこともならぬ相手ではあるし、ただ、きいてもだめだ。よほど相手の核心をついた引き換えの条件を考えて持ってゆかねば、最初から話にならぬことはわかっておる。その――人間の核心をついた条件、というものを教えてもらいたいのじゃ」
「金、ではだめなものでござりまするか」
「金は当方にもないが、そもそも相手はいちおう大名じゃ、たとえこちらに金や地位を約束する力があっても通用はせぬ」
「へえ、大名――」
「力や健康、というと、相手は小大名とはいえ、世に剣豪大名とうたわれている人物」
「剣豪大名、すると――」
「知っておるか。名は知っていても、直接その人を見たことはあるまいが、年は四十半ばながら、身長は六尺五寸にあまり、その肉体は金剛力士のごとく、男前は、いわゆる美男とは言えぬかもしれぬが、凄味《すごみ》があって、一見しただけで何ぴとをも圧するばかり」
「ふうむ。そのお方は……剣以外に何かご趣味やご道楽といったものがござりまするか」
「その件については、いろいろきいたが、剣法のほかには、ただ、これ女らしい」
「女」
「女色《によしよく》じゃな。目下、十七人の側妾《そばめ》がいるが、これでも少し減ったほうで、いちじは二十余名を数えたこともあったほどじゃ。要するにこの道にかけては、なんら不足も苦労もないご身分じゃ」
「いかにも、きけばきくほど、世にほしいものがない、というお方のようでござりまするな。なるほど、世にはかかる男性も存在しうるか……」
「むろん、人間のことじゃから、つらつら内面に立ち入ってみれば不満があるかもしれぬ。あることを、わしは信じたい。しかし、外から調べたかぎりでは、兎《う》の毛でついたほどの不足がない。――こういう人物に対して要求するのに、何か代償がありうるか。考えあぐねてのことじゃがな。むしろ、ぜんぜん無関係の第三者のほうが、忽然《こつねん》として何か思いついてくれるかもしれんと思って、ふとここに立ち寄ってみた。占いでもいい、何か占うてくれ」
「これはむずかしい。……いや、占うて進ぜましょう」
傍らの深編笠が、何か口をさしはさもうとするようにゆれた。
「しかし、いま占うても、ちょっと卦《け》が立ちませぬ。今夜より三夜占いを立てて、左様、三日のちに、もういちどおいでくだされませ」
「なに、三日のち? 三日目に来て、何か見込みがあるか」
「ござります」
それまでのあいまいな受け答えとちがって、へんにきっぱりと言った。
「そのとき、見料十六文を頂戴《ちようだい》いたします。あ、ところでお武家さま、あなたさまがそのお大名から、とり返したいとおっしゃる品物、それはいったい、どのようなもので、また、どんな因縁《いんねん》のあるものか、それを 承《うけたまわ》 っておくと、卦を立てるうえに好都合でござりまするが」
「それが……わしにもよくわからん」
「へへえ?」
「いや、天竺《てんじく》から渡来した書物であることはわかっておるのじゃが、それがいかなる書物か、とり返してみなければ、わしにもわからぬのじゃ」
「ほほう?」
「実はな、このわし、すなわち山茶花貞蔵《さざんかていぞう》の数代まえまで、その書物は山茶花家の家宝であった。当時、向こうはいまだ大名ならず、こちら山茶花家も、さほど零落《れいらく》せず、まず同格の家であった。ところが、ふとしたことでその書物をあちらに渡すことになって以来、向こうは、めきめきと立身して、いまはともかく大名、こちらはすることなすこと、つきにつかず、わしに至っては見るがごときのていたらくじゃ」
「すると、その書物に、なにか出世する法でも書いてある――?」
「それが、そうでもないらしい。だいいち、中身は梵字《ぼんじ》で書いてあるというから、向こうにも読めぬはずじゃ」
「梵字――」
「だから向こうでも、ただ天竺渡来の書物を家宝の骨董品《こつとうひん》として所蔵しておるにすぎぬときいておる。それだけに、容易にこちらに戻《もど》してくれるわけもないがの。ただ、わしが亡父からきいたところでは――亡父も、そのような因縁や内容を先祖からきいただけじゃが――その書物には、ひいては治国平天下、直接には人間学について書いてあるという」
「人間学――」
「人間というものの神秘、人間性についての深奥《しんおう》の解明。――これがわかれば、なるほど治国平天下にもつながるであろう」
浪人、山茶花貞蔵の眼が、別人のようにかがやいて来た。
「いや、わしは何か俗物的な野心があってその書物がほしいのではないぞ。――その書物を失《うしの》うて以来、山茶花家は落魄《らくはく》した。できるならそれをとり戻してもらいたい――とは亡父から耳にしたが、長年、このことを忘れておったほどじゃ。しかるにこのごろ、つらつらと人間心理学、政治学など攻究するにつれ、いちどこの書を読んでみたい、という望みが火のごとく起こって、日夜思うは、そればかり。ついには梵字まで研究したが、さてかんじんのその書物が手にはいらぬ。かくてついに大道の占い師にまですがりついた次第じゃ」
「相わかりましてございます」
と、果心堂は大きくうなずいた。
「あなたさまのご心情、胸もいたむばかりに相わかります。はばかりながら、この果心堂三日三夜、心血をそそいで占い、かならずお望みの――そのお相手がその書物に代えてもほしがられるものを占い出して進ぜましょう」
実に荘重な調子であった。山茶花貞蔵が最初の逡巡《しゆんじゆん》に似ず、つい切々と訴え出したのは、いま自分も告白したように考えあぐねてのことにちがいないが、しかしまた、この大道易者の深編笠の下から洩《も》れるふしぎな力に、いつしか誘われてのことであったろう。
「……まことか?」
やや夢からさめたように、もとのとおりの半信半疑の顔になったが、
「では、三日のち」
と、改めて重々しく言い渡されて、狐《きつね》につままれたように、妻女をうながして、背を見せた。
「……あんた、大丈夫なの? あんなこと請《う》け合って」
もう一つの深編笠が、心配そうな女の声で言った。
「金も力もある色男が何を欲するか。欲するとは、それが欠けていることだ。欠けているとは弱点のあることだ。どこをつついても弱味のありそうにない人間の弱点を捜し出すというのはおもしろいな」
と、果心堂は言った。
「ところで、お狛《こま》、いまの話の剣豪大名とはだれか知っているか」
「知らないわ」
「おそらく上州|大胡《おおご》藩一万石、鐘巻武蔵守《かねまきむさしのかみ》さまのことじゃな。なるほどあのお方は、そのうち柳生《やぎゆう》さまに代わって将軍さまご指南役におなりなさるかもしれぬという噂《うわさ》をきいたことがある」
「そんなお方の弱点を捜し出そうなんて、いったいどうするの?」
「なに、まだ二日ある。そのあいだになんとか調査してみよう。いや、はじめはそんなおもしろさでつい引き受ける気になったのじゃがな。その天竺の書物の話をきいて、こちらも、ぜひともそれが読みたくなった――」
「梵字で書いてあると言ったわね。あんた、梵字なんて読めるの?」
「ああ読める。梵字だろうが、ラテン語だろうが、森羅万象《しんらばんしよう》、果心堂の通じないことはない。――それにもう一つ、わしをして起《た》たしめたものがある」
「何さ?」
「あの内儀《ないぎ》」
「へえ」
「目立たぬが、あれはなかなかの美女だぞ。それが、祈るようにご亭主《ていしゆ》を見やり、また訴えるようにわしのほうを眺《なが》めておった。あの眼つきに対しても、決然、果心堂は起たざるを得ん」
「あら? あんなひと、あんたのお好みなの?」
「男に、女の好みなんかない。長いのもいいし、まるいのもいい。濃厚なのもいいし、薄味もまた悪くない――」
「いけすかない、エッチ!」
「エッチ? とは、またどこの言語じゃ。ラテン語にはないようだな。いや、とにかくわしは、ああいう眼をした女性には弱いんだ。さ、今夜は早じまいして帰るとしよう。――おや? だれか、またお客が来たな」
ふらふらと提灯めがけて吸い寄せられるように近づいて来たのは、一人の若侍であった。
二メートルばかり向こうで立ちどまり、
「いや、かようなことを占うてもらっても、いたしかたあるまいな」
と、ひとりごとを言った。店じまいしようと言ったばかりの果心堂が、
「へえい、失せ物、買い物、捜し物――いかような迷いごとでも、ピタリとあたる」
と声をかけたのは、いま耳にしたひとりごとに対する職業的な反射行為であったにちがいない。
「ふうむ、捜し物が見つかるか」
つられて、寄って来た。
見台の前に立ったのは、前髪立ちの若衆であった。まさに水もしたたるような美しい男で、お狛の深編笠がぐらりと、いちどゆらいだほどである。が、凜《りん》とした感じではなく、大柄で、色白の肉がたっぷりついて、しかも冷たいほどの利口さがその顔に現われている。
「占うてくれ」
「はい、いかようなことを?」
「世に、まことに効《き》く強精の薬があるか?」
「強精」
「うむ、かぎりなく女を御《ぎよ》しても、いつまでも飽《あ》かず、くたびれぬ薬じゃ。そんなものが、あるか、ないか。あるとすれば、いずれにあるか」
「それは、両国《りようごく》の四つ目屋にでも――」
当時名高い淫具淫薬《いんぐいんやく》の専門店である。
「四つ目屋には行った。江戸じゅうのありとあらゆる左様な店も捜しまわった。しかし、効かぬ。ことごとく、いかさまじゃ。江戸には左様なものはないことは、もうわかっておる。が、諸国のうちにはそのような秘伝、六十余州の山中にはそのような秘薬もあろうかと思い、それをおまえに教えてもらいたいのじゃ。あるとわかれば、拙者《せつしや》、百里もいとわず飛んでゆく――」
「それは、それは」
と、果心堂は言ったが、べつにそれほど感服したようすでもない。
「しかし、それにしても左様なお薬の要《い》るお年でもなければ、また、それほどお弱そうにも見受けませんが」
「拙者ではない。殿にご必要なのじゃ」
と、首をふったが、ちょっと苦笑して、
「もっとも、わが殿も、それほどお弱いほうではないが、なにしろ世に剣豪大名と呼ばれるほどのお方ゆえ――」
――なに? とは声に出さなかったが、ほとんど、そうさけび出しそうなほど、果心堂の眼が光ったようだ。
「しかし、殿はこのうえさらに、いやがうえにもお強くおなりになりたいと、日ごろ口ぐせにしておわすのじゃ。ほかになんの道楽もない余が、ただただ心底より極楽と思うはこの道ばかり。それが一夜に二女を御すれば、三人目の美女が侍《はべ》っておるのにもう手が出せぬ。三女を御すれば、さすがに明夜にさしつかえる。意志があるのにからだが許さぬとはなんたる切《せつ》なきことぞ――と、歯ぎしりして口惜《くちお》しがられるのじゃ」
「これはまた、ずいぶんぜいたくなご煩悶《はんもん》でござりまするな。いや、しかしそのお気持ち、わかります」
「で、さきごろより、無限に精のつづく薬なり手だてなりを聞き知っておる者はないか、もしあれば、身分を問わず年齢を問わず、ただちに江戸家老にとりたててつかわす、と仰《おお》せられた。家中《かちゆう》が沸いたのは当然じゃ。かくて、西へ走って山椒魚《さんしよううお》の黒焼きやらゴキブリの煎《せん》じ汁《じる》やら九竜虫《クーロンちゆう》のまるのみなどが特効薬だとききこんで来た奴《やつ》あり、東へ走ってふぐりの氷罨法《ひようあんぽう》、男根のジグザグぶるぶる法、薬罐懸垂法《やかんけんすいほう》などの秘法を習って来た奴あり――いずれも、効かんな」
「だめでしたか」
「で、拙者もかくのごとく巷《ちまた》をさまよってこれを捜し求め、日夜|腐心《ふしん》しておるが、ただし拙者はほかの面々のような欲得ずくからではないぞ。殿のご煩悶、ご執心《しゆうしん》が、臣下として見るに見かねるからじゃ。じっさい、殿のお望みをかなえる法があるものならば、拙者この片腕を献上してもよいくらいに思っておる」
「ご忠節のほど、恐れ入ってござりまする」
「で、左様な法、左様な薬があるか、ないか、あればいずれにあるか、占うてくれ」
「いや、占いなど立てずとも、その法、わたしが心得ておりまする」
「な、なんだと? そのほうが、心得ておる?」
若衆は、すっ頓狂《とんきよう》な声をたてた。
「偶然、たいして期待もせずに立ち寄った大道易者が、たちどころに左様な法を知っておると答える、そんなうまい話があるか」
「しかし、事実としてわたし、その術を心得ているのでございますから、どうにもいたしかたがありませぬ」
「では、それを教えろ。さあ教えろ」
「いえ、いま、ここではご伝授できませぬ。三日ばかりお待ちくだされまし」
「三日のち? な、なぜじゃ、いまなぜ教えられぬのじゃ」
「その法、なかなか技術上むずかしゅうござりまして――いえ、施術者たるわたしのほうがちょっと家に帰って復習する必要がありましてな、とにかく、左様、三日目のいまの時刻、もういちど、ここへおいで願えませぬか」
「これ、易者、万一いいかげんなことを申すとそのままには捨ておかんぞ。拙者こう見えても剣豪大名とうたわれる、鐘――」
と、さすがに口にふたをしたが、
「はい、ようく承知いたしておりまする。鐘巻武蔵守さまのご家来さま」
と、易者に自若《じじやく》と指摘されて、ぱちぱちとまばたきをした。
「ついででござりまするから、あなたさまのお名前をうかがっておきましょうか」
と、つづいて聞かれて、
「うむ、拙者、小泉半九郎《こいずみはんくろう》と申す」
と答えたのは、完全にこの相手に心の手綱を握られたからに相違ない。
彼はなおしばらく、じっと深編笠を見つめていたが、ふいに、耳をぴくっと動かした感じで、そわそわとあわて出して、「では、三日のち」と言い捨てると、初夏の闇《やみ》へ消え去った。
と、その闇の中から――ただし、反対の方角から、ばたばたと駆けて来た足音がある。
「いま、ここに若いお侍がいたでしょ?」
息はずませているのは、美しい町娘であった。色白の丸顔に、やや唇《くちびる》のはしがまくれあがって、見るからに、おちゃっぴいといった印象の娘だ。
「嘘《うそ》ついてもだめよ。さっきまで、あたいとあそこの聖天《しようでん》さまの境内でお話ししてたんだから。――それなのに、ふいにどこかへ消えちまって」
こちらが何も答えないうちに、
「あっち? あっち?」
と、必死の顔で、半九郎の消えた方角を指さし、
「ひどい男! どうしてもきいてもらわなくちゃならないことがあるのに!」
と、裾《すそ》を威勢よくひらいて駆け出していった。
あと見送って――
「いまの娘、妊娠していやしないか?」
と、果心堂はつぶやいた。もう一方の深編笠は答えない。
「孕《はら》ました女に追っかけられながら、主君のために強精薬を求める。あの若衆もなかなか公私にわたって多端だな」
「いまの若い人の心は見当もつかないわね」
と、深編笠の下で、いかにもおとなびた声がつぶやいた。
「ふふ」
と、果心堂はおかしげにふりむいた。
「そういうせりふをな、古今東西の書物から収集して、わしはそのうち一つ著作をしてみようという気持ちを持っているんだ。そう言われた若い奴が、何十年かたつと、またぜんぜん同じせりふを吐くようになる。そのくせ、人間なんて、根本的には何百年変わりゃしないのさ。とはいえ、いまの小泉半九郎とやらは、なみの若い奴とはたしかにちがうな。あいつ主君のためなら片腕一本捧げてもいいとぬかしおった。むろん、忠義なんかじゃない。顔に軽薄の相がある。ただし、軽薄は軽薄だが、あいつ、相当の野心家ではあるな」
「そんなことより、あんた、いまあの若衆とへんな約束したわね」
「したね」
「あんなばかげたこと請け合って、大丈夫なの?」
「ま、なんとかなるさ、まだ二日もある」
「いったい、何を教えようというの?」
「甲賀時代、ちょっときいたことを思い出したんだが、やってみたことがないから、実行可能かどうかわからん。家に帰って、もいちど検討してみよう。……それより何より、縁というのはふしぎだなあ。鐘巻武蔵守さまのほしがっているものは何か、と聞きに来た奴のあとで、それを教えに来てくれた奴があったじゃないか」
「とにかく、もう帰りましょう。夜も更《ふ》けたようだし」
「いや、もう少し待て」
「なぜ?」
「二度あることは三度ある。わしの占いによれば、もう一人、何か言って来る奴がありそうな気がする。……ほら、だれかまた来たじゃないか」
「ね、あなた、よしなさいってば!」
「うむ……」
「もし、占い師が切れと言ったら、ほんとに切る気?」
「うむ……」
「切ってまで試合に勝って、どうしようというの?」
「うむ……」
「切らなくっても、あなたがこまるなら、あたしもう、いっしょに寝ないから、ね!」
「うむ……」
「切らないで! 切らないで」
聞くだに悲痛な声でしきりにかきくどく女に、重い調子でうなずきながら、しかし影は速度もゆるめず重戦車みたいに近づいて来る。
見台の前に現われたのは、これまた二人の男女であった。
あまり物に動じない果心堂も、深編笠の中でちょっと眼を見張った。男は、背は低いが、いかにも戦車のように頑丈《がんじよう》なからだをしている。高く張った頬骨《ほおぼね》の下はえぐられたようにこけているが、それを髯《ひげ》がカバーしている。くぼんだ眼は、ただものではない熱気にみちた光をはなっていた。しかし、果心堂が眼を見張ったのは、その風貌《ふうぼう》よりも、この男が、風雨に晒《さら》しつくされているとはいえ、とにかく野羽織《のばおり》に義経袴《よしつねばかま》、背にななめに網袋を背負って、片手に編笠、片手に鉄扇という、典型的な武者修行のいでたちをしていることであった。こういうスタイルは、このごろ江戸で見かけることは珍しい。
さらにそれより瞠目《どうもく》させたのは、この男といっしょに姿を見せた女の妖艶《ようえん》さであった。どうしてまたこんなきれいな女が、こんな武骨な男とつれ立っているのか、奇怪にたえないほど肉感的な女なのだ。コントラストがふしぎでもあり、おかしくもあるのだが、これがなんと芸者ふうである。もっとも髷《まげ》はくずれ、帯はずっこけ、どうやら眼のふちの染まりかげんから、いささか酒のはいっているあんばいでもあるが、とにかく半ばひらいたやや厚目の唇、うるんだような眼、胸と尻《しり》は、おそろしく発達しているのに、全身はくねくねと蛇《へび》のような感じで、まるで官能のかたまりのような女であった。
「切るべきか、切らざるべきか」
と、いきなり武者修行は言い出した。
「それが問題じゃ。占ってくれ。ただし面倒《めんどう》な手間はかけるには及ばない。筮竹の一本でも立てて、右にころんだら切る。左にころんだら切らぬ」
交互に二人を見くらべていた果心堂は、いよいよ、キョトンとした。
「いったい、何を切るのでございます?」
「わが魔羅《まら》を」
と、武者修行は言った。
「煩悩《ぼんのう》の根源を」
「へえっ?」
さすがの果心堂も胆《きも》をつぶしたようだ。
「それはまた、たいへんなことではございませんか」
「いかにもたいへんなことじゃ。しかし、それ以上の大事の前には小事にすぎぬ。近く、剣豪大名と試合せねばならぬ、この新免又《しんめんまた》右衛門《えもん》にとっては」
「へえっ! あの鐘巻武蔵守さまと――?」
果心堂は、さらに大きな奇声を発した。それから深編笠をふりむけて、その中で片眼をつむった。
「そうれごらん、やっぱり縁がある」
とたんに新免又右衛門は、ぱっと二メートルもうしろへはね飛んで、鉄扇を構えた。
「うぬは鐘巻武蔵守どのと有縁《うえん》の者か」
「いえ、わたしはただの大道易者で」
果心堂が苦笑の声を洩らすと、新免又右衛門のほうも苦笑したようだ。
「いささか、わしは神経衰弱気味になっておる。かような心胆をもって、あの武蔵守どのに勝てるわけがない」
また見台の前に戻って来たが、女のほうにあごをしゃくった。
「もはや占ってもらう必要はない。もういちど試合のまえに結跏趺坐《けつかふざ》して無念無想の修行をする必要がある。そのためには、やはり切らねば相成らぬ」
「もしもし、そうむやみに切り急ぎなさらずと……切ってとりかえしのつくものではありませぬ。……わたしにひとつ話をきかせてくださいまし」
と、果心堂はあわてて言った。
「いえ、仰せのとおり占いはどうでもよろしゅうございます。ただ、わたし、易者ではござりまするが、鐘巻武蔵守さまには平生《へいぜい》お目通り許されておる者に相違ござりませぬゆえ、いま試合|云々《うんぬん》とおっしゃったことが気にかかります」
「なに? やはり鐘巻武蔵守どの出入りの者か。しかし、大道易者が、なんの用で?」
「どういうわけでございますかな、剣占一如《けんせんいちによ》とか申されて、占術の機微《きび》は剣法の神秘と通ずるものがあるそうで、わたしごとき者の茶ばなしを好んでおききなされます」
「剣占一如。……よくわからんな。しかし、それはきき捨てならぬことをきいた。それはどういうことじゃ、教えてくれ」
新免又右衛門は、ふいに熱心な眼色になって身を乗り出した。
「いえ、この道について語れば、十日、二十日を費やしても語りつくせませぬ。それより、まず、あなたさまのお話をきかせてくださいまし」
又右衛門はふしぎなものを見るように、深編笠を凝視していたが、やがて何やら覚悟したらしく、
「奇妙な縁で、奇妙な易者に行きあったものじゃな。この話、語れば鐘巻家のほうへつつぬけになるかもしれぬが、なってもかまわぬ。武蔵守どのとの試合はこの又右衛門にとって一生の悲願であり、かつ日本剣法史上、どうあっても記録さるべき世紀の対決であるからじゃ」
と、歯をかみ鳴らしてしゃべり出した。
「わしはな、先般柳生家に推参し、その当主と試合をした。その結果、もしわしが鐘巻武蔵守どのを破ったときは、この新免又右衛門を将軍家指南役として推挙するであろうという約定書と、鐘巻家への紹介状を柳生から手に入れたことで、その試合の雲行きを察してくれい。その紹介状と約定書はここに懐中いたしておる」
「それは、それは」
「で、わしは近く武蔵守どのに試合を申し込む」
「それは、それは」
「実は数年まえ、鐘巻家の江戸屋敷にある道場に見学に参って、わしは立ち合わなんだが、武蔵守どののおん腕をひそかに拝見したことがあった。噂にたがわぬおそるべき剣客――とわしは見た。爾来《じらい》、わしは苦行に苦行を重ね、おおいに自得するところがあった。柳生との試合のごとき、やらずとも結果はわかっていたことじゃ。ただそれは鐘巻家への紹介状などを手に入れるために推参したにすぎない。わしはこの分ならば、武蔵守どのとも互角に立ち合えるという自負すら持っておった。しかるに――」
又右衛門の顔に惨《さん》とした波がわたった。
「ここ十余日、ふいにその自信が動揺しはじめた。武蔵守どのの剣が刀葉林《とうようりん》のごとく脳中にひろがって、夜もろくろく眠れぬのじゃ。悶々《もんもん》としておると……この女が抱きつく。ツイ、ひともみする。すると、かような淫戯愚行にふけっていて、はたしてあの武蔵守どのに勝てるであろうか、と不安がますますはなはだしゅうなり、苦しさに耐えかねて、ツイ、またやる。これがまた、好きでのう……」
と、傍らの芸者に眼をやった又右衛門の顔は、別人のようにゆるんでいる。が、すぐにはっとわれにかえって、音たてるばかりに筋肉をひきしめ、
「そもそもこの数年、わしの修行のもっともわずらいとなったのはこの女であった。この女の旺盛《おうせい》な色好みのために、どれほどわしが苦しんだことか……」
「あんなこと言ってさ。どっちが旺盛なんだかわかりゃしない」
と、芸者が言った。それにしても、この色っぽい芸者がどうしてこの苦行僧みたいな男とくっついたのか、いよいよもって解《げ》しかねる。
「ま、それはいずれにしても、わしが苦悩煩悶したことは事実じゃ。なんとかして、この女を斥《しりぞ》けよう、いや女そのものを断《た》とうと、もがきぬいたことはいくたびか――」
沈痛悲壮の嘆声を洩らし、さて、はったと芸者をにらんで、
「いまぞ、決意した。新免又右衛門、わが魔羅を断つ!」
と、宣言した。しばし、何ぴとの口答えをも許さぬ凄惨《せいさん》の相であった。
「もはや、何も申すな。ただ目睫《もくしよう》に迫った鐘巻武蔵守どのとの試合のさまたげになるばかりではない。道のためじゃ。いや、試合そのものが、わしにとって立身を超《こ》えた問題なのじゃ。ただ剣の奥義をきわめるという満足のため――」
彼は果心堂をふりむいた。
「きいたとおりじゃ。もはや占うてくれることは無用。古来、禅僧の中には羅切《らせつ》と称して魔羅を切った人も多いときく。わしも帰って魔羅を断つ」
「とめてよ、ね、とめてよ」
と、芸者が切なげにさけんだ。
「とめてとまらぬこの壮挙。女子の知るべきことならず。いや、見ておれ、羅切ののち、この新免又右衛門の人格がいかに崇高となり、その剣風が神韻《しんいん》を帯びるかを。――お、それより、八卦見《はつけみ》」
又右衛門は急に思い出したように、
「拙者の魔羅の件はそれで落着したとして、先刻の剣占一如の話、あれはどういうことか教えてくれい。鐘巻武蔵守どのほどのお方がそれほど興を持たれるその言葉、さぞ深遠の哲理をふくんだものであろう。朝《あした》に道をきかば、夕《ゆうべ》に死すとも可なり。それをきかせてくれれば、十六文、即刻支払う」
「武者修行さま」
果心堂はやや深編笠をあげた。
「剣占一如はさておき、あなたさまの魔羅についての件でござりますがな」
「おお――」
「それは切らずとも煩悩を断つ法を、わたし存じておりまするが」
「なに、この厄介棒《やつかいぼう》を切り捨てずに?」
「男の妄念《もうねん》の根源は棒にあらず、その奥にあり――」
「小人たまを抱《いだ》いて罪あり、とはこのことです」
おごそかに果心堂は言った。
「要するに、あなたさまの煩悩《ぼんのう》のもとを摘出すればよいのでござりましょうが」
「それが……切らずにできると申すのか?」
「できます」
そして果心堂はふりむいた。
「おい、さっき思いついたこと、やはりここでやってみることにした。こうまで縁が重なると、これはぜひ実験してみよという天のお告げだなあ」
「なに、思いつき? 実験?」
「いや、こちらのことでござる。それよりもこの手術、おつれのお方のご了承を得たうえでないと、あとで苦情を持ちこまれてもこまります。旦那《だんな》さまのご煩悩の根源を除去すること、お許しくださりましょうか?」
「なんだかよくわからないけれど、とにかく切らずにすむことなら、なんでもやってみてよ」
と、芸者はほんとになんだかよくわからないらしい。
「では、恐れ入りますが、武者修行さま、その袴をおとりくだされまして、この見台に腰かけてくださいまし。いえ、往来に背をむけて、こっちの柳のほうに向かって」
「何をするのじゃ?」
「ふぐりの中のたまを出すのでござる。これぞ煩悩妄想の根源、これを除けば、おそらくご悲願どおりの――風|碧落《へきらく》ヲ吹イテ浮雲尽キ、月|青山《せいざん》ニ上ッテ玉一団――という、つまり迷妄の雲去って、剣の月影のみ大空にかがやき出るようなご心境と相成られるは必定《ひつじよう》」
「おお、それそれ、その境地こそまさにわしの悲願じゃ……よし!」
新免又右衛門は勇躍して、袴をとり、見台の上にすわった。
「いや、ご両足はこうひらいて、こう降ろされて。……お狛、提灯をこちらへ。ううむ、なるほどこれは切るにはもったいない」
「こ、これ、何をするのじゃ」
又右衛門は狼狽《ろうばい》した声で言った。たったいま、剣法の至境に達するためには羅切も厭《いと》わぬと言ったくせに、
「痛いことをするのではあるまいな?」
と、不安そうな声を出したのは滑稽《こつけい》である。
「は――たまが出《い》でまするとき、女人出産時の陣痛程度の痛みはあるかもしれませぬが」
「なに、陣痛。――それは容易ならんことではないか。いったい、たまはどこから出るのじゃ?」
「これも女人と同じ原理、同じ機構。何はともあれ、羅切の痛苦にくらべれば、その軽きこと、酔っぱらいが背中をたたいてもらって小間物を出すにひとしい、と申してよろしいほどで」
そう言いながら、果心堂はしゃがみこんで、見台のふちからだらんと垂れた新免又右衛門の毛だらけの右足の親指をにぎって、ちょっとしめつけたり、ゆるめたりした。それから、次に左足の親指にも同様の点検を加えた。
「何をしておる」
「ちょっとばね[#「ばね」に傍点]の具合を調べております」
「なに、ばね?」
「実にこれが微妙なもので」
二人の女は眼を見張ってこれを眺めていたが、なかんずく不安そうなのは、深編笠の中の果心堂の女房の顔であったろう。
「よし、準備完了」
果心堂はうなずくと、又右衛門のふぐりを左の掌《て》に載《の》せ、右手の親指で、まず又右衛門の右足の親指をピーンとはじいた。指の腹と腹を合わせ、甲のほうへはじいたのである。
「チーン」
何か強烈な衝撃があったようで、又右衛門が妙に金属的なうめきを発して、ちょっとのけぞりかかった。つづいて果心堂が、こんどは又右衛門の左足の親指をはじいた。
「チーン」
又右衛門はまたそんな奇妙な音をたてて、こんどは、ぐっと前に上半身を折り曲げた。
「おお、甲賀に伝えられた秘伝はまことじゃ。見よ、見よ」
果心堂は自分でやったことなのに驚倒の声をあげた。
「あれ……あれ」
芸者が悲鳴をあげた。のぞきこんだ眼は張り裂けんばかりに見ひらかれ、さした指さきはわなわなとふるえている。
「あれは何? あれは何? 卵をのんだ青大将みたい――」
卵は二つだ。二個所つづいて丸くふくれあがり、それが徐々に口の方向へむかって動いている。――
新免又右衛門の苦しみぶりはたいへんなものであった。眼をつりあげ、泡《あわ》を吹き、あぶら汗を浮かべ、上半身をねじまわすのを、果心堂が片手で背を支え、虚空《こくう》をかきむしる両掌に、二本の筮竹をにぎらせた。
「産婦の場合は青竹をつかみ割ることがあると申しますが……ともかくもふつうの女人すらがまんする生みの苦しみでござりまするぞ。しかも女人の場合はあれだけの大きさを持った赤ん坊、それにくらべれば、たかの知れた小さなたまをしぼり出す苦しさごとき、なんでござる。……それしっかり、あとひと息、いましばらくのご辛抱!」
果心堂はおおいに鼓舞激励しつつ、横に深編笠をむけて、女房に話しかけた。
「第二次睾丸降下、ともいうべき転機だな。ところで、さきを行くたまはどっちのたま、あとを行くたまはどっちのたまかわかるか」
「どっちのたまって?」
「それ、さっき、男はふぐりの中に左右二個のたまを持っておると言ったろうが」
「あとさき、右左、そんなことがわかるものですか。眼もくらみそうだわ、見てるだけで切なくって……」
「わしはさきに右の足の親指をはじいたろう。しかるに先行したのは左のほうのたまだそうだ。あとで左足の親指をはじいたことによって後行しているのが右のたま。……そう、甲賀流では言い伝えられておる」
「どうしてまた足の指をはじくと、そんなものが出てくるの?」
「さあ、それがどうしてだかわからん。妙なところへ針を打つと、妙なところに効果が現われる鍼術《しんじゆつ》のいわゆる経絡《けいらく》と同じ原理であろうな。左右が逆に交差するのは、頭の左に中風を起こすと右手や右足が動かなくなるのと似たからくりだからだろうが。……とにかく、いまわしは左手でこの方のふぐりを支えていたのだが、右足の親指をはじいたとたん、たしかに左の睾丸が忽然《こつねん》とどこかへ消えた手応《てごた》えがあった。出て来たら、よく調べてみよう。――や!」
果心堂は注目した。
二つの連続した瘤々《こぶこぶ》を先端に近づけたものそれ自体は、陣痛の極点に達したとみえて、ぐるぐると回転運動すら起こしている。その開口部から、ダラダラと白濁した液体を吐いた。
「おっとっと。羊水《ようすい》か。いや男には羊水などあるはずがない。破水現象にはちがいないが、してみると、これは――」
と、首をひねった果心堂は、ふいにあわてて見台の上の扇子《せんす》をとって、ぱっとひらいてさし出した。
と、その扇の上に、一つの扁平《へんぺい》な楕円形のたまが――つづいて、もう一つのたまが、コロコロところがりおちた。長さは四、五センチ、幅と厚みはその半分くらいある。濡《ぬ》れてつやつやした薄白いたまであった。
「ううふっ」
鯨の潮吹きみたいな大きな溜息《ためいき》とともに、新免又右衛門はばったりうしろへ倒れ、両腕ひらいて失神してしまったようだ。
「やはり最初に出たほうが左のたまだ。あとのが右のたまだ」
「どうしてわかるの?」
「左のほうがやや大きい。オランダの医者によると、左が平均八・四五グラム、右が平均八・三九グラムとある」
「どうして左のほうが大きいの? それじゃつり合いがとれないじゃないの?」
「わしもなぜだかわからん。本にも、これはわけがわからんと書いてある。これがふぐりの中に吊《つ》り下がっているんだが、左のほうが重いせいか、いくぶんよけいに垂れ下がっているので、ふぐりまでがやや非対称形をなしておる。ともかく、男のからだはかくも神秘的にでき上がっておる」
果心堂はきわめて神秘的な顔をした。
「いや、男ながらわしもはじめて拝見したが、ううむ、これが煩悩の根源か!……つらつらと、よう見なされ」
と、扇子にのせたまま、芸者のほうへさし出した。
芸者は放心状態で受けとった。
果心堂は新免又右衛門の傍らに寄って、上半身を起こし、背に活《かつ》を入れた。ぐっというような声をたてて、又右衛門はうす目をあけた。
「終わりました。ご安産にござる」
「ふふーっ」
と、又右衛門はまた長い溜息をついて助けられながら自分から降り立ったが、どこか雲を踏んでいるような腰つきであった。
お狛がさし出す袴を黙々としてはく。
「ご気分、いかがでござりまするか」
「気分か。易者、さっきなんとか言ったな。月がどうしたとか――」
「風碧落ヲ吹イテ浮雲尽キ、月青山ニ上ッテ玉一団、でござりまするか」
「おおそれよ、まさに神韻《しんいん》 縹渺《ひようびよう》とはこの心地《ここち》か」
「それよりも、ご安産なされたものをご覧なされまし。いまあのお方が、扇子にのせておられるものでございますが」
「なに、あれが?」
又右衛門は寄ってしげしげとのぞきこんでいたが、やおらその一つをつまんで空中に放りあげた。白い雨に似た光が十文字に交錯したように見えたが、一瞬、鍔鳴《つばな》りとともにそれは消えた。
「果然、この至境に達した」
彼はニッコリと打ち笑った。凄絶《せいぜつ》と言っていい風貌であったのに、妙に神々《こうごう》しいものがその笑顔に現われていた。
そして彼は、芸者の存在など気がつかないもののごとく、神韻縹渺たる足どりで向こうへ歩き出した。芸者は狐につままれたような表情で、扇子に睾丸一個をのせたまま、そのあとを追ってゆく。
「十六文頂戴したい、などあさましいことはとうてい言い出せぬ神々しさであったな」
あと見送って果心堂はつぶやいた。
「しかし、陣痛の甲斐《かい》はあった。人間わざとも思われぬ太刀さばきであったな」
「いま、あのひと何をしたの?」
「虚空闇中の睾丸を十文字、眼にもとまらず四つに切って捨てた」
「へえ、じゃあ……」
「ただし、武蔵守さまとの試合まで、長つづきすればよいがな、あの境地が。――それはさておき、お狛、先刻の二組の客、山茶花貞蔵、小泉半九郎という方々との約束を果たすメドがこれでついたぞ」
「というと?」
「山茶花さまが鐘巻武蔵守さまに出す交換の物件、小泉さまが武蔵守さまに献上する品、それが存在することがわかった。うまくゆけば、これでわしもあの天竺の人間研究書とやらを読むことができる」
ややあって、笠の中でお狛はひとりごとのように言った。
「わたしは、よしたほうがいいと思うんだけど……」
三日のちの夜。
半信半疑の顔で、例の山茶花貞蔵夫婦、それから小泉半九郎がやって来た。
この両者に対して果心堂は、おちつき払って睾丸ゆずりのことを提案した。それは実験の結果可能性のあることを述べ、もし鐘巻武蔵守さまに献上すれば、武蔵守は無限の精力家になられることを保証すると言い、したがって武蔵守はどんな褒美《ほうび》、交換条件にも応ずることはまちがいないと力説した。
山茶花貞蔵と小泉半九郎は初対面であるが、このアイデアにはさすがに少なからず驚いたとみえて、改めておたがいの顔を見合わせた。
「その天竺伝来の書物、お読みになりとうはございませぬか?」
そう果心堂にうながされて、山茶花貞蔵は沈思し、やがてふりむいて、
「やってよかろうか……」
と、内儀のほうをふりかえった。内儀はやさしく、細ぼそと答えた。
「あなたさまがおよろしければ……そしてまたご学問のためとありますれば、秋はどのようなことにも否《いな》やは申しませぬ」
お秋という妻女らしい。従順貞節をきわめた声であった。
「江戸家老のご地位はほしゅうございませぬか? 小泉さま」
果心堂に煽《あお》られて、美しい若衆は、ついに眼を妖《あや》しくぎらりと光らせ、
「……ううむ、江戸家老になれば、なんでもできる!」
と、みずからに言いきかせるがごとくうめいて、
「よし、忠義にはかえられぬ。承知した」
と、言いきった。
果心堂は従容《しようよう》たる声で、
「では小泉さま、われら一同を武蔵守さまにお目通りお許し相成りたく、なにぶんよろしくお願い申しあげまする」
「今夜にもか?」
「いえ、明日でよろしゅうございましょう。左様、明日、八ツごろにでも、鐘巻家のご門前に参りますれば、それまでに武蔵守さまにご報告なされておいてくださいまし」
いちおう、そう約束して、三人が立ち去ったあと、
「あたしも行くの?」
と、お狛がきいた。
「見る気はないか」
「もうたくさん。けど、あんた」
「なんだ」
「武蔵守さまにご献上って、武蔵守さまはそれをどうなさるの?」
「さ、それにも甲賀の秘伝がある。それはじゃな。……いや、それを見るためにも、どうだ、おまえさんも行かないか」
「それはちょっと見たいような気がするわね。伊賀流とどうちがってるか、というところが」
「えっ、伊賀流にもこんな忍法があるのか。へへえ、おまえさん、いままで何も言わなかったじゃないか。そいつは知らなかった。どういうんだ、それは」
「ちょっと、子どものころきいただけ。でも、とてもあんたには言えないわ」
お狛はからだをくねらせた。深編笠の中で赤い顔をしたあんばいである。
「ま、よろしい。この道ばかりは夫婦といえども独立関係だからな」
果心堂は、提灯の下でまたオランダの医学書をひもといた。
「実にこの睾丸とかふぐりという奴は、学問的にもおかしいな。ほら。……陰嚢《いんのう》ハ思春期ニ至レバ色素ニ富ミ、暗黒色ヲ呈スルニ至リ、成人ニ於《おい》テハ粗毛ヲ生ズ。陰嚢ノ内腔《ないこう》ハ陰嚢中隔ニヨリ全ク分離セル左右ニ分カタレ、コノ中隔ノアルトコロハ、陰嚢ノ表面ニ陰嚢縫線ヲ作ル。……とある。縫い目のある奇抜な器官なんて、ちょっとほかにはないよ。……サテ、睾丸ハ……」
「いいかげんにしてよ。もうわかったわよ」
しかし、深編笠の中の声は、くつくつと笑っていた。
さて、その翌日、四人の男女が芝《しば》愛宕《あたご》下の鐘巻武蔵守の江戸屋敷の門前に参集した。お秋も、心配そうについて来た。
禄《ろく》は一万石だが、剣をもって大名にとりたてられた人物の屋敷らしく、その門は豪壮をきわめている。のみならず、邸内に大道場も設けてあるらしく、数十人の矢声かけ声が潮騒《しおさい》のように渡って来る。
「お目通りになる。こちらへ――」
待ち受けていた小泉半九郎がそう案内したところをみると、鐘巻武蔵守に彼が報告し、武蔵守が食指を動かしたことはたしかだが、さすがに半九郎の顔色はちょっと冴《さ》えなかった。
このとき果心堂は妙なことを申し込んだ。
「拙者、この手術を行ないまするためには、心気統一の必要があり、そのためにはこの編笠をもって外界からの刺激を絶つ必要があるのでござるが、編笠越しのお目通り、この無礼を武蔵守さまお許しくださりましょうや」
これには半九郎もとうぜん難色を示したが、「いちおううかがって参る」と主君の待つ書院にはいってゆき、やがて出て来て、
「殿はかまわぬと仰せある。例のことさえ首尾ようゆくならばだ。――では」
と、中へみちびいた。
書院の正面に、十余人の女人にかこまれて、鐘巻武蔵守は大座していた。
年は四十半ばか、すわっていても、にゅっと聳《そび》え立たんばかり、眼は炯々《けいけい》とかがやき、鼻高く、耳大きく、もみあげの毛ふさふさとして、襟《えり》のあいだからは胸毛が見える。山茶花貞蔵が「金剛力士のごとし」と評したのもさこそとうなずける。――大名らしい風格はあるが、また大名にはまれな精悍《せいかん》さを四方に放射している人物であった。
平伏している四人の男女を半九郎が紹介した。
「易者果心堂の女房は施術かいぞえのため、また山茶花貞蔵の内儀は、心配ゆえ、ぜひ夫のそばにつきそってやりたいと申しまするゆえ――」
「苦しゅうない、女ども面《おもて》をあげい」
と、武蔵守は言った。
「――ほ!」
舌なめずりし、眼が吸いつけられたのは、易者の女房、お狛の顔にである。黒い花のような眼、肉感的に濡れた唇、そこにいる側妾たちのうち、だれ一人も類型のない野性美にみちた鮮烈な顔であった。
眼が移って、こんどはお秋の顔にとまった。
「……これも悪うはない」
と、つぶやいた。
「山茶花めにこんな女房があるとは知らなんだ。過ぎる」
と言ったのは、前に山茶花貞蔵に逢ったことがあるからであろう。貞蔵がいくどか例の天竺渡来の書物の譲渡を交渉に来て、そのとき面会したものとみえる。
「山茶花」
と呼んだ。
「余に何やらくれるそうな」
「はっ」
数代まえまでは同格の家柄だったそうだが、さすがにいまは身分のちがい、貞蔵は畳に額《ひたい》をすりつける。
「そちが所望のもの、鐘巻家の家宝で、それをただで下げ渡すことなど思いもよらぬが、しかし、実のところちんぷんかんぷん、何が書いてあるやらわからぬ書物、そちのくれる強精の品にてわしが満足すれば、たしかにつかわしてもよいぞ」
「はっ。かたじけのうござる。なにぶん、よろしく――」
「果心堂とやら」
「へえい」
「よし、そのほうの売り込んできた一事、首尾ようゆけばもとより過分の褒美はつかわすが、余を愚弄《ぐろう》したとわかれば、そのほうの女房、とりあげるが、よいか!」
果心堂の深編笠がお辞儀した。
「よろしゅうございます」
果心堂の所望によって二つの床几《しようぎ》が運ばれ、山茶花貞蔵と小泉半九郎はそれに腰打ちかけさせられた。場所は広壮な大書院、ちょっと森厳《しんげん》な儀式でも行なわれるような雰囲気《ふんいき》であった。
さて、これから――まず、山茶花貞蔵に例の指はじきが施行され、彼が、
「チーン」
という声とともに、例の陣痛のうめきを発しはじめた経過は省略する。見ているうちに、お秋は脳貧血でも起こしたとみえて、畳につっ伏したまま動かなくなってしまった。が、たまはたしかに二つ排出され、朱塗りの高坏《たかつき》に受けられた。
「これは少々、ふつうより小さいようでござるな」
果心堂はいささか憮然《ぶぜん》として高坏の中のものを眺めた。
「では、次に小泉さま」
山茶花貞蔵の陣痛中、床几の上でしだいにおちつかない顔色になっていた小泉半九郎は、こううながされて思わず逃げ腰になったが、
「半九郎、そちは余に片腕まで捧げても悔いはないと申したな」
と、武蔵守に釘《くぎ》を刺されて、床几から動けなくなってしまった。果心堂から事前に説明は受けてはいたが、なんとなくたいしたことではないような口ぶりであったので、これほど大げさな痛みを伴うものとは予想していなかったのである。
が、いちおうお膳立《ぜんだ》てをととのえた世話役が彼、というかたちになっているので、もはやあとにひくにひかれず。――
「殿! 家老の儀、たしかでござりましょうな?」
と悲壮な声をふりしぼり、武蔵守が「言うにや及ぶ」とうなずくのを見ると、観念して眼をつぶった。やがて、
「チーン」
というへんに金属的な声が、彼ののどからほとばしった。自分の声のようではない。とめようとしてもとめることのできない声がつづいて出た。
「チーン」
そして彼もまた二つのたまを高坏に排出した。
「おお、これは栄養たっぷり、いかにも精のつきそうな品でござる」
果心堂は莞爾《かんじ》として、うやうやしく四個のたまをのせた朱塗りの高坏を武蔵守に捧げた。
「殿。そもそも男性の力は、無知蒙昧《むちもうまい》のやからの思うがごとく、いわゆる一物の長短形状の如何《いかん》によるものではござりませぬ。その根源は、ひとえにこれにあるのでござる。……世に、赤貧洗うがごとく、男前またさほどかんばしからざるに、奇妙に艶聞《えんぶん》のたえぬ男がござりまするが、その秘密はこのものの内蔵する魔力にあるのでござりまする」
「ほほう」
さすがに武蔵守は物珍しげに、しげしげと高坏の中をのぞきこんでいたが、やおら果心堂の深編笠に眼を投げて、
「食うのか、これを」
と、剣豪大名らしい猛烈なことを言う。
「いえ、咀嚼《そしやく》いたしましては、せっかくのこのものの機能が無益《むやく》と相成ります。いったい世のいわゆる強精薬なるものがほとんど有名無実なのは、そこのところを無知蒙昧のやからがかんちがいしているからでござります。この場合も、生きながらまるのみにしていただかねば相成りませぬ」
「生きておるのか、これは」
「は。ほんのしばらくではござりまするが、まだ機能は死んでおりませぬ。ところで、ふつうのまるのみでは、やはり胃腸におちて消化|排泄《はいせつ》の運命はまぬがれませぬ。そこで、どうしても胃腸以外の腹腔中に投入いたす必要がござりまするが」
「腹腔中――」
「元来このものは胎児のころは腹腔中にあり、それが出産とともにふぐりの中へ降下するのでござりますれば、必ずこれもその先天的習性に従って、本来おのれの在《あ》るべきところへ降下してゆくに相違ござりませぬ」
「えっ。……この四つが――」
「もともと殿ご所有のものと合わせて、合計六個」
「六個。……これ、そこにそのような余地はあるのか、余裕は」
「なんのなんの。そもそもふぐりは二つの個室に分かたれ、その中に一つずつ睾丸が遊弋《ゆうよく》しておりまするが、その余裕たっぷりなことは、懶《ものう》き夏の午後など、男ならだれも覚えのあることでござりましょうが。こやつめ、その広いところで、右から打てば左へのがれ、下からたたけば上へ浮き、ノラリクラリと暮らしておる横着物にござりますれば、たとえ四個や五個の仲間が同居いたせばとて、なかなかもって。――殿」
果心堂はひざをすすめた。
「常人は二個のたまを根源として女人に立ち向かうのでござりまするぞ。それを六個、一丸疲るれば次の二丸、三丸衰えれば他の三丸、入れ替え引き替え、つがえてはまた放し、つがえてはまた放す。その間、たまは次々に気力を回復いたしますれば、まさに矢玉は無尽蔵ともいうべく、殿ご待望のかぎりなきご悦楽はたしかに可能でござりまするぞ」
「ううむ、その理、相わかった。易者、何よりのものを捧げてくれたのう」
「ただし、いま申したとおり、これを腹腔中に投入する法でござりまするが」
「おお、ただまるのみにいたしただけではならぬと申したな?」
「されば。――ご免」
果心堂はさらにひざをすすめると、いきなり両手を武蔵守のあごにかけた。
「な、何をいたす」
声は最後までつづかなかった。ポン、ガクリ、という音とともに武蔵守の下あごははずされたのである。
「あわわわわ」
そんな声をたてて、大きくひらいた口の中へ、果心堂は高坏の中の四個の睾丸をぽん、ぽん、ぽんと遠慮会釈《えんりよえしやく》もなく投げ込んだ。
「恐れ入ってござりまする」
そのあとで、こうわびながら、果心堂はふたたびあごに両手をかけて、それをもとどおりに嵌《は》めこんだ。
「これにていささか咽喉《いんこう》部に隙間《すきま》を作り、それより腹腔中に投げ入れました。投げこまれたものはあまり時をおかず、本来あるべきところへ下向《げこう》いたす――と甲賀流秘伝書には――」
「なに、甲賀?」
と、武蔵守はやっと通常の声を出した。
「そちは甲賀流の忍法を心得おる者か」
と言ったとき、一人の家来があわただしくはいって来て、武蔵守の前に一通の書状をさし出した。
「……ほ、柳生どのからの紹介状」
ひらいて、読んだ鐘巻武蔵守の眼が、やがてぎらと凄《すさ》まじい光をはなちはじめると、
「よし、この者、道場のほうへ通せ!」
と、さけんだ。実に底力のある声であった。
――やはり、来たか。
鐘巻家に推参するとは言っていた。そのための最善のコンディションをととのえるべく、あのたまぬきの試練を受けたといっていいのだから、それは予想していたが、まさか、きょう、いま乗り込んで来るとは思わなかった。
ちょっと感慨にふけっている果心堂の前で、鐘巻武蔵守もこれまた何やら感慨にふけっている顔つきであった。
「通せ」と言っただけで、片手を深くたもとに入れて、悠然《ゆうぜん》とすわっている。
「……ある」
と言った。
「――は?」
「たしかに、三つずつあるぞ。うわははははは!」
突発的に、喜悦にたえないかのような大哄笑《だいこうしよう》をあげると、ぬうと立ちあがった。
座にいる者、すべて息をのんでいる。もともと精力絶倫の風貌を持った人物なのが、さらにその強度を濃化したようだ。皮膚がギタギタとあぶらぎって、眼が粘《ねば》っこく光って、鼻までぐーっと持ち上がったかのように見えた。
ぎらと傍らの側妾のむれを見る。易者の女房と浪人の妻に眼を移す。まるで視線にねっとりした糸でもひいているようだ。
「では、さっそく――」
と言ったが、すぐに、
「いや、まず、あっちが先決」
と、ひとりごとを言って、猛然と首をふって歩き出したところを見ると、さっそく云々《うんぬん》といった意志は別のところにあったに相違ない。
歩き出してから、ちょっと腰がぐらぐらしたようであった。自分でも首をひねったが、しかし、はやる猛気に煽られるように、のっし、のっしと、ただごとでない重量感のある足音をひびかせて歩み出ていった。
「……重いかな」
と、果心堂が見送って、指折り数えた。
「大小をとりまぜて、平均の合計……まず三十グラムばかりふえただけじゃが……しかし、あの新免又右衛門が相手じゃからな。剣聖と化した人物が相手じゃからな。……こりゃ、ひょっとすると危ないぞ」
それから深編笠をゆすった。
「われらも拝見しよう。ご道場のほうへ参ろう」
小泉半九郎に案内させた。半九郎のほうも、ぜんぜん印象はちがうが、これも足どりがふらふらしている。
邸内の道場に行くまでに庭があった。そこに稽古着《けいこぎ》をつけたむれが――あきらかに鐘巻家の家来とわかる連中が、だれかをとりかこんで騒いでいた。むろん、そのあたりに武蔵守の姿はすでにない。何者か、複数の女のようだ。
「おまえたち、女人《によにん》は相成らんっ」
「ここは天下にきこえた鐘巻大道場じゃ」
「あれほどお好きな殿が、ここだけは女人禁制となされておるところであるぞ!」
近づいた小泉半九郎が、
「どうしたのじゃ?」
と、声をかけたとき、人々をはね飛ばすようにして、一人の女が駆け出して来た。
「半さま、あたい、あんたに面会に来たのよ。あんたに話があるのよ! このまえ、なぜ逃げちまったの?」
半九郎はぎょっとした。
「生まれてくる赤ちゃんを、いったいどうするつもりなのさ!」
「左様な子、だれの子かわかったものではない……」
「なんだと? な、何を言やがる、こんちくしょう。ずるく逃げようったって、あたい承知しないから!」
美しい血相となって、いきなり半九郎を張り飛ばしたその女が、先夜の町娘であることを果心堂は認めた。
もう一人、向こうにいるのはこれまたあの武者修行にくっついていた芸者である。偶然そこらでいっしょになったものであろうか。
さて、横っ面《つら》を張り飛ばされた小泉半九郎は、グラリと反対方向へ三十度くらい傾いて、またゆっくりと身を立てなおし、
「無礼者」
と言った。しかし、その声にひどく力がない。
「斬り捨ててくれ」
と、門弟たちを見まわした。力のない声だが、その代わり冷淡無情、というより涸《か》れはてた感じがあって、それがいっそう凄味《すごみ》をおびてきこえて、門弟たちはおろか、町娘さえもキョトンとして彼を眺めた。
そのくせ半九郎は、やはり乾いてはいるが、こんどはひどく金属的なカン高い声を張りあげた。
「これ、わしは江戸家老であるぞ! 今日ただいまより、殿より仰せつけられたのじゃ。一同、江戸家老の命令をきかぬか。このような女、早く斬ってしまえ」
「ま、まあまあ」
と、果心堂が歩み寄った。
「そんなことより、殿のご試合拝観のほうが時間的に大事、われら一同、見物の儀もご聴許になったのでござりますから、きょうにかぎっては女人禁制とは殿も仰せられますまい。そこなお女中方も、ともども、何はともあれご試合を拝見いたそうではありませぬか?」
べつに武蔵守が許可したという記憶もないようだが、小泉半九郎は無気力にうなずいた。なんだかものを考えるのも懶げなあんばいであった。
一同、道場にはいった。
総檜《そうひのき》作りの床、羽目板、一尺角の柱は漆《うるし》を塗ったように光っているが、これはすべて人間のあぶらと血と汗の塗り重ねられたものであった。
摩利支天《まりしてん》の画像をかかげた正面に、片ひざ立てて、鐘巻武蔵守はすでに皮だすきをかけているところであったが、はいって来たむれを遠く見て、
「半九、その女どもは?」
と、まず眼が、半九郎のうしろの町娘と芸者にそそがれた。
女人禁制の道場にはいって来たのをとがめたのかと思ったら、ニタッとして、
「尤物《ゆうぶつ》じゃな。……素性《すじよう》はあとできく。何者であれ、あとでとどめておけよ。多々《たた》ますます弁ずじゃ」
と言った。
羽目板の下に門弟たちは居流れていたが、この主君の綽々《しやくしやく》たる余裕に、はじめて、「さすがは――」と、波のように肩で息をついた。
倨傲《きよごう》をもって知られた鐘巻家の家臣たちが、先刻から、武蔵守のはいって来るまで、へんにしーんとしていたのである。
はじめその浪人者、新免又右衛門が案内されてまずこの道場にはいって来たとき、それが柳生家からの紹介状を持って来たときいて、たちまち敵愾《てきがい》の眼を集中し、さらに、この垢《あか》じみた浪人者が雲を踏むような足つきで歩いて、ヒョロリと道場のまんなかにすわりこんだのを見ると、いっせいに失笑の声を浴びせたのだが、やがて又右衛門が、傍らにおちていた二本の木刀を手にとって妙なことをやり出したのを見るに及んで、こんどはいっせいにぎょっと息をひいてしまったのである。
道場に数匹の蠅《はえ》が飛んでいた。
武蔵守の到来を待つ間の所在なさに耐えかねたらしく、その浪人者は二、三度力のないあくびをしたのち、すわったままその二本の木刀を両手につかんで、空中に上げたり下げたりしていたが、ときどきその先端をゆっくりと音もなく打ち合わせる。――その木刀の先端で、飛んでいた蠅がはさまれて、つぶされて、次々に落ちるのを一人が気がついてから、眼ひき、袖《そで》ひき、ついに一同、しーんと黙りこんでしまったのだ。
この神技を、知るや知らずや。――
「素浪人!」
皮だすきをかけ終わった鐘巻武蔵守は、長大な木剣をとってにゅーっと立った。
「――落日の柳生ごときを相手にして、かんちがいしてのぼせ上がったか。武蔵守は柳生とはちがうぞ。まことに将軍家指南役たるべきものの剣法はいかなるものか、いま教えつかわす。立て」
と言ったが、腰が分銅《ふんどう》でもぶらさげているように、また、ぐらついた。が、彼は地ひびき立てて歩み出て来た。
ニッコと笑って、新免又右衛門も木剣とって立ちあがる。これも妙にふらついたが、ふらふらしているのに先刻の妙技を見せられた門弟たちは、だれ一人として笑わない。
「はてな」
と、果心堂が首をひねった。
「どうしたの?」
「あの武者修行どのの顔」
「神韻縹渺と笑ったわね」
「あの笑い顔、試合をする顔じゃないぜ。神韻縹渺――というより、実に円満具足、慈悲忍辱《じひにんにく》の笑い顔だ。あれはいかんよ」
「ちょっと」
お狛が、果心堂に自分の持っていた扇子を渡した。
鐘巻武蔵守と新免又右衛門は相対した。広壮な大道場に名状しがたい殺気――というより妖気がひろがり、そしてしーんと氷結した。
その氷結した空気を截《き》って、一条、何か銀鼠色《ぎんねずいろ》の筋が走った。同時に――
「うおおおうっ」
獅子の咆哮《ほうこう》ともまごう大喝《たいかつ》一声、鐘巻武蔵守の大木刀が、真っ向上段から打ちおろされ、新免又右衛門の脳天に、ぴしいっと奇妙な音がした。二つに割れておちたのは一本の扇子である。が、どうんとそのまま又右衛門はひっくり返った。
それっきりである。
みんな、あっけにとられた。
まるで、でくの棒をぶんなぐったようなものだ。柳生から希代《きたい》の剣士として紹介されて来たあの男は、いったいどうしたんだ? と門弟たちが拍子《ひようし》ぬけがしたのは一瞬のことである。すぐに彼らは、そんなものを意としない――問題にならんほどの主君の大力量を胆に銘じ、たちまち、わわわあ、と歓呼の声をどよめかした。
「だれがこの扇子を投げた?」
武蔵守はさけんだ。
新免又右衛門はひっくり返って気絶しているが、いま一撃を受ける前に、その扇子が脳天に水平に載って衝撃を和らげなかったら、とうてい気絶などですまず、脳骨はたたき割られたに相違ない。
「わたくしが」
と、果心堂が深編笠のままお辞儀した。
「うぬが?」
武蔵守は狐《きつね》につままれたような顔をした。果心堂は立ちあがり、歩み出した。
「殿さま、わたくしに免じて――ご褒美《ほうび》は賜わらずともよろしゅうござりますゆえ、そのご仁《じん》、このままわたくしにお下げ渡しくださりまするよう」
と、眼をまわした新免又右衛門を指さし、折れた二本の扇子を拾いあげた。又右衛門は気絶しているが、しかし、いぜんとしてニッコと笑っている。
「左様なぼろっきれはくれてやる。しかし、易者、代わりにうぬの女房は置いて行け」
と、とつぜん武蔵守はきわめて論理に合わないことを言い出した。何かふいに思い出したふうで、道場の隅《すみ》にならんだ女たちに妖光をはなつ眼を投げて、
「半九! そこにおる女ども、ことごとく即刻余が寝所へつれて行け」
と命じた。
「かしこまってござりまする」
と、小泉半九郎は例の力のない声で答えたが、
「しかし……殿、拙者の江戸家老の儀は……」
「うぬなどが江戸家老になる器量か。たわけも休み休み言え」
武蔵守は吼《ほ》えた。
「それから、山茶花。うぬもそこにおるか。これ、命が惜しかったら、うぬの女房は置いて行け。睾丸のない男が女房を持ってなんとする。余が女房を寵愛《ちようあい》してつかわす代わりに、あの天竺の書物はあきらめろ――」
ちょっと論理的な個所もあるが、おおむね非論理的である。むちゃくちゃである。が、はったと一同をにらみまわした鐘巻武蔵守の形相《ぎようそう》は、無限の欲望にふくれあがった一個の肉塊であった。
「ああ。――力は悪なり」
と、果心堂が嘆息を洩《も》らした。
そう言いながら、彼は妙なことをやった。折れた扇子を半ばひらいて十文字に組み合わせ、指さきでくるくる回しはじめたのである。それはまるで旋風のように回り出した。
「甲賀忍法|空羅《くうら》」
と言った。
と――鐘巻武蔵守の袴が一陣さっとひるがえり、いちど彼は木剣をふりかざして躍《おど》りかかろうとするかに見えたが、たちまち立ちすくみ片手を股間《こかん》にあて、さらに木剣を放り出し両手でおさえて眼をつりあげたのである。
「痛《つ》う。……こ、これ、無礼者、何をいたす。冷たい。苦しいっ」
「例の天竺書、ここに持たせられませ。それまで、風を送ることをやめませぬぞ。……物体ハ冷却スレバ縮ム、という原理をちょっと応用しただけでござるが、なるほど――殿、のちのちまでも冷えることだけはくれぐれもご用心なされませ。六つだまの弱点はこのことだけで――」
結局、果心堂は、要求するものだけは受け取って帰った。山茶花貞蔵夫婦と、例の天竺の書物と、気絶した新免又右衛門と。――どういうわけか、又右衛門の色女たる芸者と、半九郎の色女たる町娘は、鐘巻武蔵守の屋敷に残ることを承知したのだから、これはどうにもいたしかたがない。
山茶花貞蔵は、そのインドの香りのする古めかしい書物をおしいただいた。
「おかげで待望の書が手にはいり、学究として歓天喜地《かんてんきち》の思いがいたす。かたじけのうござる。いずれ改めてお礼にまかり出るが」
「いえいえ、大犠牲を払われたのはあなたさまのほうです。ただ……ご書見ののちは、わたくしもいちどそのご本を拝見いたしとうござりまするが」
「ほ、あなたも梵字がおわかりでござるか」
「なに、若いころ、易学上のことで、少々ききかじっただけのことで」
「これは思いがけず同学同好の士を発見してますます欣快至極《きんかいしごく》でござる。拙者に不明難読の個所あれば、ぜひご教導願いたい――」
こんな挨拶《あいさつ》ののち、山茶花夫婦はひきとっていったが、さて少々こまったのは剣聖新免又右衛門である。
どうやらそれまで芸者が養ってくれていたらしいが、その芸者が鐘巻家にいったきりになってしまったのだから、果心堂の長屋に置くよりほかはない。だいいち、本人が泰然自若《たいぜんじじやく》とすわったきり動かないのである。
「かたじけのうござる」
と、飯に礼拝し、
「日々感謝でござる」
と、茶に合掌《がつしよう》する。
その顔は本来の魁偉《かいい》性を失ってはいないのに、まさに円満具足、慈悲忍辱の仏相をもそなえて、とうてい追い出すことなど思いもよらない。みずから進んで働かないが、しかしお狛に頼まれると、唯々諾々《いいだくだく》と薪割《まきわ》りなどをやる。一刀ひらめくと一たばの薪ができるというほど腕は冴《さ》えているのに、ぜんぜん闘争心というものがない。――
「あんた。……やっぱり、よしたほうがよかったと思うわ」
「又さんのことか。こまるかね」
「あの芸者衆に帰ってもらわないと」
「しかし、帰っても、武蔵守さまの言いぐさじゃないが、睾丸がなくてはどうしようもあるまい。ま、そのうちなんとかなるさ。……それにあの芸者衆も、あっちのほうが気に入ったらしいぜ。道場にいたときから、肩で息をつき、舌なめずりして武蔵守さまに眼を吸いつけていたぜ。あの町娘もそうだったが。――本能的に感応するものがあったらしい。おまえさん、どうだった」
「ばかなこと言わないで。――又さんのこともなんだけど、山茶花さまのことも」
「へえ、山茶花さまがどうした」
「奥さまがきのういらっして、旦那さまがあれ以来、天竺の本を読んではのたうちまわり、のたうちまわっては本を読み、日毎夜毎《ひごとよごと》にやつれてゆくようだとおっしゃってたわ。あのご本、鐘巻の殿さまにお返ししたほうがいいんじゃないかしら?」
「へえっ、読んでのたうちまわる本、そりゃいよいよもって早く読みたいな」
「とにかく、あんたのしたこと、あまりよくなかったことだったようよ」
「そうか。よかったのは鐘巻武蔵守さまだけであったか。しかし、ああいう超男性を創り出すのも、女性にとって功徳《くどく》だろうと思ったんだが……」
――さて、作者が本編を着想したときに描こうと思ったのは、実は鐘巻武蔵守のような男性の悲劇であった。金も力もあり、そのうえ無尽蔵の精力を持った超男性の持つ悲しみであった。
ところが、これほど空想力に富んだ作者も、このような超男性の悲劇や悲しみが、ぜんぜん脳中に浮かんで来ないのである。知り合いの男性すべてにきいてまわっても、そんな男に悲劇があるもんかとひたすら羨望《せんぼう》にたえない眼つきをする。相当以上に女にモテる男にきいても、悲しみなどは思いあたらん、という顔をする。要するに、こういう男性はすべていいことだらけらしいのである。
じっさい、鐘巻武蔵守は幸福であった。
ほんとうを言うと、まったくさしさわりがないわけでもない。たった三十グラムの重量増加だが、微妙なもので、歩行するときちょっと平衡をとるのに努力を要すること。それとの相棒が屹立《きつりつ》のしつづけで、衣服との摩擦《まさつ》が少々|煩《わずら》わしいこと。数時間おきに放出欲を禁じえないこと。それからいかなる女性でも、極端に言えば老若美醜を問わず、実に好ましいものに見えて、審美眼が鈍麻《どんま》したように思われること、などがそうである。
しかし、いずれもさほど重大事ではない。懸垂物の重量感と屹立物の振動感の交錯は、慣れれば一種のダイナミックな快感をおぼえるほどであるし、放出したければその機会にも対象にも不足はないし、だいいち何を食ってもウマイという状態に不平のあろうはずがない。彼は悦楽のかぎりをつくした。
新参加の芸者も町娘も、彼の大淫楽の宇宙に舞い狂う花弁のひとひらになった。力あまって、しだいに彼は残酷性をおびて来たが、それによる彼女たちの悲鳴も歓喜のひびきをおびていた。
夜々、寝所から遠く洩れるその声を――しばしば町娘のとろけるような声もまじっているのに――小泉半九郎もきいて、これもとろけるような笑顔になった。性的にとろける笑顔ではない。
ただただ人のよろこびをおのれのよろこびとする、善意と幸福にみちた好人物の笑顔であった。
江戸家老の一件。――
あの直後、ちょっとそれにこだわったようすも見られたが、それは以前からの野心の余韻であって、すぐに彼はひどく恬淡《てんたん》とした顔になった。地位も金も権力もぜんぜん要《い》らない、といった無色透明の美青年に昇華した。
「毎夜、かの者をご寵愛くだされて、かたじけのう存じまする。ただ、まことに恐れ入った儀ながら、やがて生まれくる赤ん坊は拙者の子でござりますれば、無事出産ののちは拙者に養育させていただきたく――」
と、わざわざ主君の前にまかり出て、ぜんぜん翳《かげ》りのない表情でこう懇願したくらいである。
逆に、武蔵守の日常は悪逆の色彩を濃化して来た。「力は悪なり」と果心堂が喝破《かつぱ》したが、個人でも国家でもあまり強大な力をそなえると、それを天にふるい地にふるわずんばやまない欲求を禁じえないものとみえる。いわゆる横車というやつである。それを諫言《かんげん》した家来数人はベトナム人のように殺戮《さつりく》された。
「半九!」
と、武蔵守は命じた。
「女が足りぬ。巷へいって、狩って参れ」
「承知いたしました」
「余が感悦するほどの女をつれて参ったら、江戸家老の儀は――」
「あいや、拙者、左様に大それた望み、思うだに身の毛がよだちます。拙者ごとき者のことはいっさいご放念のほどを――」
その夜、小泉半九郎が恬淡と捜して来た女が、武蔵守の閨《ねや》に侍《はべ》った。
「おう、これは名作!」
と、まちがいなく感悦した武蔵守は、しかし首をかしげ、次にどんとひざをたたいた。
「そちゃ、いつぞやの易者の女房ではないか!」
――偶然か故意か、あえてこの屋敷につれて来られたお狛は、いま、なまめかしいうすぎぬにむっちりした雪白《せつぱく》の肌《はだ》を透《す》かせて艶然《えんぜん》と笑った。
「あれ以来、夢に見るのは男の中の男、鐘巻の殿さまのことばかり――」
「おお、さもあらん。愛《う》い奴、いざ参れ!」
「殿さま、あれ、そんなにお急ぎなさらずと、しばらくわたしに殿さまを好きなようにさせてくださいまし……」
そんなことを言った女ははじめてであったし、それにこのごろ武蔵守はただ力にまかせて、夜々のことがひたすら荒っぽく大味になったことを自覚していただけに、
「眼をとじて……」
と、腕の中でささやかれたとき、ニタニタ笑って眼をとじた。
繊《ほそ》い柔らかい手が、武蔵守のからだを這《は》いまわりはじめた。それは羽根で撫《な》でるような、蟻《あり》の這うような、微風に吹かれるような、蜜《みつ》の流れるような、微妙複雑をきわめる感覚を彼に与えた。こんなけしからぬ大快感を与えられたことは、あれ以来、というより生まれてはじめてといっていいほどで、武蔵守はあえぎ、うめき、吼え、のたうち、ついに羽化登仙《うかとうせん》の至境に上りつめてしまった。
剣豪大名鐘巻武蔵守は、女の繊手《せんしゆ》で、なんと気絶させられてしまったのである。
一〇
夜の灯のもとで、ひっそりと書見していた果心堂のうしろに、これまたひっそりとお狛がすわった。
「茶か」
と、ふりむいた果心堂は、盆に載せられたものを見て、眼を見張った。
「六つあるわ」
と、お狛は言った。
「おまえさんは、どこから、こんなものを」
「鐘巻武蔵守さまのところから。……三つは、どうぞ山茶花さまにさしあげて」
「おまえさん。……いつ出かけたのじゃ?」
「二つはどうぞ、又さんに」
さしもの果心堂も声がない。ややあって、低い声できいた。
「どうして盗《と》った?」
「伊賀に――年を経し糸の乱れの苦しさに衣《ころも》の経糸《たて》はほころびにけり――忍法|衣《ころも》の館《たて》というのがあるの」
と言いながら、お狛は恥ずかしげに傍らの座蒲団《ざぶとん》を春の葱《ねぎ》みたいなほっそりと白い二本の指でむしった。すると、そこがスーと糸が抜かれて二つに裂けた。指を逆にすべらせると、またスーと縫い合わされる。――
うるんだ眼をあげて、
「それ、いつものオランダじゃないようね。何を読んでるの?」
「例の天竺の書だ。……うふ、これはな、梵字で書いてあるが、アナンガランガ、という天竺の性愛の書であったよ。しかし、それより、おまえさんは――」
お狛はふいに赤らんだ顔を近づけ、匂《にお》うような息で果心堂の耳を撫でた。
「あと一つ余ってるわ。あんた。……三つになったら、おいや?」
[#改ページ]
第三話 忍法花占い
ええ、前回ご機嫌《きげん》をうかがいましたる「忍法玉占い」のあらすじを申しあげます。
芝《しば》愛宕《あたご》下に広大なる大道場をかまえ、世に剣豪大名とうたわれる鐘巻武蔵守どの、これがたいへんな女好きのお方で、夜空の星、浜の真砂《まさご》ほどの女人《によにん》を御《ぎよ》されてもいつまでもゲップも出ず、お日さまも黄色くならぬ秘法をお求めあそばす。それに応じましたる巷《ちまた》の大道易者果心堂なるもの、こやつすこぶるつきのいたずら者でございまして、甲賀|直伝《じきでん》の忍法をあやつり、二人の男から四個の睾丸《こうがん》をぬきとって武蔵守どのに献上いたしました。しかるにこれに異議ある果心堂の女房お狛《こま》、これがまた亭主《ていしゆ》に劣らぬいたずら者、女だてらに弁慶も立往生の伊賀忍法|衣《ころも》の館《たて》をふるい、四個の睾丸はおろか武蔵守どの本来ご所持に相成る二個をも頂戴《ちようだい》するという大いたずらをやってのけたのでございます。――これが「忍法玉占い」のあらすじ。
さて、青嵐《せいらん》が桜の花びらを武者窓に吹きつける鐘巻《かねまき》屋敷。
ここの大玄関に立った二人の男がある。一人は、年は三十七、八、身のたけは一メートル八十前後、野羽織《のばおり》に南蛮的の大刀のこじりをはねあげた武士だ。背も高いが、顔もばかに長い。普通人の一倍半以上――三十五センチはたしかにあるだろう。もう一人は、ズングリムックリしたからだつきで、それが三度笠《さんどがさ》をかぶったまま、茶色の半合羽《はんがつぱ》をとりもせす、博多《はかた》の帯に長脇差《ながどす》一本をぶちこんでのっそりと立っている。
「頼もう!」
式台に出て来た家来が、武士のほうを見て、海坊主が現われたような第一印象を受けた。
現代の人間なら、オットセイが化けて来たように感じたかもしれない。顔の長いところは馬に似ているが、なんとなくオットセイを彷彿《ほうふつ》させるところがある。額《ひたい》は禿《は》げあがって、総髪にした髪をわずかにうしろに垂らしている。まばらな口ひげのほかは、眉毛《まゆげ》も髯《ひげ》も全身に体毛というものがなくて、それが、ヌラリと黒光りしている。しかも、人間離れどころか、オットセイ離れもした野性と凶猛《きようもう》さがあった。
「兄者《あにじや》は在宅か」
長いあごをしゃくって言う。
「兄者?」
「武蔵守《むさしのかみ》じゃ」
「――では、あなたさまは?」
「上州|大胡《おおご》から、弟の一筒斎《いつとうさい》が出て来たと伝えてくれ」
「あっ」
これが鐘巻一筒斎の登場のはじまりであった。
主君武蔵守に一筒斎と名のる弟君があり、国元の上州大胡、というより近くの赤城《あかぎ》山に長く籠《こも》っているという話はきいていたが、その人物が江戸に姿を現わしたのはこれが最初であった。
中へ通る。妙な風体《ふうてい》の男は供《とも》らしい。
「――ほほう」
これが兄武蔵守に逢《あ》った一筒斎の第一声であった。
「兄者、病気か」
「いや――」
武蔵守はあごで蠅《はえ》を追うような力ない動作で首をふった。
「病気ではない?――なるほど、病気ではないようじゃが」
と、まわりをとりかこんだ十数人の女のむれ、あきらかに愛妾《あいしよう》たちと、武蔵守がべつに痩《や》せてもいず、それどころか皮膚のあちこちに、くびれのはいるほどボテボテと太っているのを見て首をかしげた。
「しかし、以前の兄貴のようではないの」
「一筒斎、何しに来た。出府を許した覚えはないが」
と、武蔵守は言ったが、べつに咎《とが》める語気でもない。弱々しい調子で、これも以前の武蔵守ならただではすまぬはずだ。
「兄上、柳生《やぎゆう》との試合はどうなされた」
「あれか」
「春になれば柳生との試合を江戸城|吹上《ふきあげ》のお庭で行なう。これに勝てば鐘巻家が将軍家ご指南の家がらになる――という話に首を長くして吉報を待っていたが、いつまでたってもウンともスンとも音沙汰《おとさた》がない。その件はいかが相成ったかと、たしかめに出府した次第」
「左様さな」
武蔵守の返答はさっぱり手応《てごた》えがない。うつろな眼を一筒斎のうしろに投げて、
「それより、その者は何者じゃ」
「ききっ」
と、一筒斎の背後にすわっていた例のズングリムックリした男が、奇声を発して、いきなり立ちあがった。さすがに笠も半合羽も長脇差もとってうしろに重ねていたが、大股《おおまた》に三足進み出て一足とまり、また三足歩いて、こんどは一歩|退《しりぞ》き、両ひざ折り曲げて及び腰になった。
この曲げた両ひざに、これまた折り曲げた両肘《りようひじ》をつき、右手の上に左手を重ねて交差させ、やや半身《はんみ》になって、
「これはご当家の上《うえ》さんでござんすか。さっそく自分より発します。おひけえ願います。ききっ」
と、また猿《さる》みたいな声を立てた。
武蔵守はあっけにとられた顔つきである。
「さっそくおひかえくだすってありがとうござんす。向かいまするご当家の親分さん、ならびにおアネエさん方とは、こんにちこうはじめて御意《ぎよい》得ます。したがいまして手前|生国《しようごく》は上州にござんす。上州といっても広うござんす。上州は佐位郡《さいごおり》にござんす。佐位郡といってもいささか広うござんす。佐位郡は国定《くにさだ》村にござんす。ききっ。縁持ちまして、親分は鐘巻一筒斎にござんす。名前の儀は、忠治《ちゆうじ》と発します。ききっ」
「赤城山中で、いささか刀の扱いようを教えてやった男でござる」
ニンガリともせず、一筒斎が言った。
「百姓で、少々足りない奴《やつ》でござるが、筋はよい。――いや、筋はよくないが、真剣の勝負となれば、そんじょそこらの侍《さむらい》には容易にひけはとるまい――とおれが見込んだ、天性ふしぎの人斬り剣法。拙者《せつしや》このたび出府するにつき、ぜひ江戸見物につれて行けと申すゆえ、供にして来たが、それよりも」
と、武蔵守を見すえて、
「柳生との試合の件、どう相成ったか」
「左様なことはどうでもよい」
「どうでもよくはござらぬ。相手はともあれ伝統のある将軍家ご指南の家がら、まかりまちがって兄上が敗れるようなことがあれば、乃公《だいこう》山を下らずんばあるべからずと、この春を待ち暮らしておった一筒斎でござるぞ」
「いや、わしは人と争うことは好まぬ。わしは平和を誠実に希求し、武力による威嚇《いかく》または武力の行使は、紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。交戦権は、これを認めない……」
「何を寝言を言っているのでござる。兄上、何があったのでござるな。以前の兄者のようでない。おれがはじめて江戸へ出て来る気になったのも、虫が知らせたのかもしれぬ、何があったのでござる?」
武蔵守は、なお空漠《くうばく》たる眼をポカンとあけている。
「何があったのじゃ?」
と、一筒斎はまわりの女のむれを見渡してかみつくように言ったが、彼女たちもシーンとしていた。
「親分」
と、うしろから忠治がささやいた。
「あのおアネエさん方も妙ですぜ……」
「妙?」
「あれア飢《う》えた女 狼《おおかみ》だ。あっしにゃわかる。ほら、親分とあっしを見つめてる眼つき、餓鬼地獄の女が食い物を見つけたような眼でさ」
「ほほう!」
「ご当家の親分さん、こいつア腎虚《じんきよ》だ」
よほどこの発見に興奮したらしく、忠治は最後のほうは思わず傍人にもきこえるような声で言って、またききっと例の奇声をたてた。
一筒斎は改めてまじまじと武蔵守を見て、
「兄者、腎虚の件はまことでござるか」
「腎虚どころではない。……わしのふぐりにはたまがない……」
「な、何? それはまた如何《いか》にして?」
で、武蔵守は自分が果心堂という巷《ちまた》の大道易者の女房に睾丸をとられたことを打ち明けた。それが、怒るでなく、恨むでなく、嘆くでなく、恥じるでなく、すこぶる恬淡《てんたん》としている。
「ううむ、そうきいてもまだわけがわからんが、とにかく奇っ怪至極な易者夫婦、よしっ、そやつを捜し出して、拙者、兄上の睾丸を奪い返してご覧に入れる!」
「それには及ばず、一筒斎」
と、武蔵守は淡々と言った。
「わしが現在の境地、神韻《しんいん》 縹渺《ひようびよう》として、この心地《ここち》をひろく人類にわかち与えたいほどじゃ……」
一筒斎は呆《あき》れたように、兄の円満具足とも虚脱状態ともつかぬ顔つきを眺《なが》めていたが、ふいにピシャリとひざをたたいて、
「おお、これは途方もない大事であるぞ!」
と、大声をはりあげた。
「兄上の身の上の怪事もさることながら、鐘巻家にとっても――鐘巻家にはまだあとつぎがないはず、そこに兄上の睾丸が消滅したとあれば、こりゃ鐘巻家は断絶のほかはないではないか!」
それから、もういちど愛妾のむれを見まわして、
「それにしても、なんのためにこの女人どもを置いておかれるのか。ぜんぜん無用の存在ではござらぬか?」
「そのことよ。わしもそう思うのじゃが、家来どもが、いまこの女どもにいとまをつかわせば、わしのふぐりにたまのないことを世間に伝え、かくては鐘巻家の破滅となると申し――恐ろしいことに、みんな始末してしまえと申す。で、わしがそれを堅くとめておるのじゃがな。出れば危ないからこの女ども、やむなくここにこうしておるが、はて、ゆくすえいかが相成るものやらん……」
「おアネエさん方の口をふさぐのはわけのねえことでさ」
と、忠治が言った。
「親分が、ご当家の親分にお代わりなすれア、それでいいじゃあござんせんか?」
鐘巻一筒斎は長いあごを武蔵守のほうへつき出し、精悍《せいかん》な眼をぎらっとそそいでいたが、
「よいかな、兄者?」
と言った。そして武蔵守が、いぜん放心状態で、いいとも悪いとも返事しないのに、
「よしっ、引き受けた。ひいては鐘巻家を守るため、進んでは将軍家ご指南の位置につくため、一筒斎、この刀にかけて、何もかも兄者のあとを引き継ぐぞ!」
と、野獣のうなるような声を投げつけた。
鐘巻武蔵守が腑抜《ふぬ》けみたいになっているので、この一筒斎の言動がばかにまともにきこえたが、ほんとうのところはおおいに変わっている。どう見ても常人とは思えない武蔵守がそう認め、かつ少なからず怖《おそ》れて、いままで江戸屋敷へくることも禁じていたくらいだから相当なものである。
「凶暴無惨な奴だ」
と、武蔵守はそう評していたが、現象としてはそう見えるところもあるが、本質的には偏執狂《へんしゆうきよう》の素質があるというべきであろう。
以前は、武蔵守が帰国するたびに、女好きな彼が苦《にが》り切るほど女好きの弟の行状であったのに、ここ数年は赤城山中に籠《こも》って、独《ひと》りで剣の修行をして、ぜんぜん女色を断《た》っていたあんばいなのも、とうてい豁然大悟《かつぜんたいご》したとは思われず、一事にとりかかったらそれに没入する偏執狂のあらわれであろう。もっとも、上州大胡というところが、そのむかし剣聖|上泉伊勢守《かみいずみいせのかみ》を生んだ土地でもある。
――さて、江戸屋敷に乗り込んだ鐘巻一筒斎、俄然《がぜん》、彼流の治政を布《し》きはじめた。
江戸詰めの家来に対しては徹底的な武断をもって臨《のぞ》む一方では、兄の睾丸を奪ったという奇怪な大道易者を捜索させる。他方では、鐘巻家にとってライバルである柳生家のようすを窺《うかが》わせる。その手足となって活躍するのが上州からつれて来た百姓上がりの忠治という男だから、鐘巻家の家来たちはしょっぱい顔をした。
なかんずく――
「よしっ、引き受けた。何もかも兄者のあとを引き継ぐぞ!」
と、一筒斎は宣言したが、そのとおり、兄が収集していた愛妾群をもことごとく引き受けてしまった。
これが、凄《すご》い。いちばん驚いたのは、それをすすめた忠治であったろう。赤城山中での一筒斎に、そんなそぶりはぜんぜん見えなかったからだ。
とにかく当時在籍の人員十七人の愛妾を、一人として、一日として欠かさない。しかも、その一人ずつが、ウンザリするほど長い。むずかしい言葉でいえば、「飢えたる人の大牢《たいろう》の珍味に臨むがごとし」とでも言おうか。それにしても、兄の武蔵守の場合は、必死に精力剤を求めたほどあって、どこか無理をしているところもないではなかったが、この人物は、体質的に人間離れがしているらしい。オットセイという動物は、雄《おす》一匹に雌《めす》九匹をひきいるのが常態で、その精の強いことは無双《むそう》であるという俗説があるが、これは十七人が相手だから、オットセイどころではない。そう言えば、皮をなめしたようにヌラリと黒光りした皮膚は、動物的なあぶらをしみ出させているのではないかと見える。
一日に十七人、これをタップリと相手にするのだから、一筒斎の立っている姿を見た者がない。すべての用件は帳中ですます。むかし、戦国時代の松永弾正《まつながだんじよう》は、たえず帷帳《いちよう》を降ろし、その中で数人の侍女《じじよ》と淫戯《いんぎ》をほしいままにしながら、ことあれば家来を召して、帳外に顔だけ出して指図したということだが、その弾正は、こういう人物ではなかったかと思われる。
「一筒斎さま、入江忠助《いりえちゆうすけ》参上いたしましてござりまする」
と、鐘巻家の家来の一人が、唐紙《からかみ》の外に手をつかえる。――ふっと彼は、唐紙の向こうが泥田《どろた》と化して、だれかそれを踏んでいるのではないかという錯覚にとらえられた。
やおら、一筒斎の声が――しかし空間的にひどく低い位置できこえる。
「例の果心堂という易者はまだ見つからぬか」
「……はっ、恐れは入ってござりまする」
「十日以内にその用果たせねば斬ってしまう」
そしてあとは、すすりあげ、むせかえり、はては泣くとも笑うともつかぬ女の声であった。しかも、それが決して一人の声ではない。大合唱だ。
またある日。
「一筒斎さま、末吉庄蔵《すえよししようぞう》参上つかまつってござる」
と、また別の家来の一人が、おちつかない表情で唐紙の外でお辞儀する。中では、息たえだえの、のどもかすれるような女のふるえ声がつづいている。
「柳生家の息女、お鷹《たか》どのにただいま縁談があるかどうか、つきとめたか」
「……はっ、それがいまだなんとも――」
「二十日以内にその用果たせねば斬ってしまう」
そしてあとはただ鼻息の嵐《あらし》であった。
べつに唐紙で家来の眼を隔てているわけではない。時には、自分の命じたことが思うにまかせないとかんしゃくを起こして、「そこあけい」と命じて平気である。
それどころか、例の忠治などは、しばしば呼び入れて、
「どうじゃ、一つ」
と、口をぬぐいながらすすめてやまない。
はじめ忠治は、胆《きも》をつぶした。一筒斎の精力絶倫ぶりにではない。一筒斎の体毛のないのを見てである。
どうも毛が少ないようだとは見ていたが、こうまで全身つるつるであろうとは思わなかった。まるでシナイ砂漠《さばく》の地対空のミサイルだ。砲身も顔に比例して常人の一倍半はたしかにあるが、それが全長なんの遮蔽物《しやへいぶつ》もないので、実にニューニュー然として、偉観でもあり、ぶきみ千万でもある。
しかもこの無毛症の剣豪は、恬然《てんぜん》として羞恥《しゆうち》の色もないのであった。もっとも考えてみれば、毛が何か有用なものであるとすれば、一方にだけあれば大過がないようでもある。
驚きはしたが、むろん忠治はありがたくご相伴《しようばん》にあずかった。最初からこれくらいのことはあるだろうという下心もあったから、べつに意外とは思わないし、遠慮はしない。
「では、ごめんなすって、おアネエさん方。――ききっ」
ところで、そのおアネエさん方だが、鐘巻武蔵守の秘密をしゃべる「口をふさぐのはわけもねえこと。親分さんがお代わりなすれア、それでいいじゃあござんせんか」と忠治が言ったのはどういうつもりであったのかわからないが、これはいちおう成功したように見えた。いちじは、女たちのあいだにたちこめていた、とげとげした陰気な空気がとろっと溶けたようである。――が、そのうちに女たちは、正真正銘の悲鳴をあげ出した。
事実、逃げ出そうとした女もある。
それを家来がつかまえて一筒斎のところへつれてくると、彼はそのときも空間的にひどく低い位置にいたが、そのままの姿勢で傍らの一刀をとり、放心状態で立っている女をたちどころに斬った。女は股から遂に脳天まで斬りあげられ、からだは完全に二つに裂かれたのである。
実に、この手並みも性格も人間離れがしている。
こういう所業をやりうる弟だからこそ、相当やりたいことをやる兄武蔵守もきょうの日まで遠ざけて、江戸へくることを厳禁していたのだろうが、いまそれが乗り込んで来て、こうまで傍若無人《ぼうじやくぶじん》というもおろか、自分の愛妾群を蹂躙《じゆうりん》し、成敗《せいばい》するのを見ても、武蔵守はキョトンとした眼つきで、
「はて、ゆくすえいかが相成りゆくものやらん」
と、泰然自若とつぶやいて、すわったきりだ。
春がすぎて、夏が来た。
国定村の忠治はすでに上州一円に、女のほうにかけてもAクラスのあばれ者だという評価を受けていた男であったが、さすがにだんだんくたびれて、みずから進んで例の大道易者の捜索を買って出て、屋敷にいないことが多かったが、時たま帰邸して、まだ一筒斎が唐紙の中から、
「ああ、快美骨に透《とお》り、身も萎《な》ゆるばかり、とはこのことじゃて……」
などつぶやいている声をきくと、
「ききっ、よくまあ飽《あ》きもくたびれもしねえもんだ」
と、ウンザリした顔をした。
しかし、鐘巻一筒斎がこんな嘆声を洩《も》らすということが、そもそも異変のはじまりであったのである。
ものみなすべてダラリと垂れたものうい夏の午後。
「……立たぬ! 立たぬ!」
唐紙の内側から、突如として驚愕《きようがく》と悲痛のひびきの籠ったさけびがあがった。
「こりゃどうしたことじゃ。こいつめが立たぬとは!」
ちょうど忠治はそのとき屋敷にいたが、このさけびをきいて首をかしげ、判断に苦しむ眼で宙を見つめていたが、やがてひざをたたいてニヤリとした。
「どうしたもこうしたもねえ。いくらなんでも、ものには限度ってものがあらアな。あれがいつまでもつづけア人間じゃねえと思っていたが、やっぱりあれでも人間だったんだなあ。ききっ、時が来たんだ」
しぼり出すような声はつづいた。
「だれか来う、支えに来う――」
駆けつける侍たちにまじって、忠治も行ってのぞいてみた。
半裸の人魚みたいな女たちの中に、鐘巻一筒斎はあぐらをかいてすわっていたが、恐ろしい狼狽《ろうばい》と苦悩の形相であった。りきもうとしているのだが、りきむ途中でフワ――と力が、空中に消滅するような、いらだたしい惑乱の表情なのだ。長い顔は赤くなったり蒼《あお》くなったりした。
「たたいてみろ、ものぐさをきめこんでおるのかもしれぬ」
「かまわぬ。打擲《ちようちやく》してみよ、どこか繊維が切れたのではないか」
「足を踏みかけて、ひっぱっても苦しゅうないぞ」
という騒ぎぶりである。そのうちに自分でまたかんしゃくを起こして、おろおろと撫《な》でさすっている家来の手を、「ええ、この甲斐性《かいしよう》なしめ」と、ぐわんと拳《こぶし》でなぐりつけると家来の手首から先は、いままで熱誠こめて介抱していたものと同様、グニャリとしてしまった。
要するに、いかに手をつくしても、甲斐性のなくなったものは甲斐性のなくなりじまいであることが判明した。
それでも一両日の休養期間を与えれば回復するだろうと忠治は観測していたのだが――驚いたことに、それから三日たっても十日たっても、半月たっても枕《まくら》があがらない。
「こいつア重体だ」
と、はじめて忠治もことの容易ならざる重大性を認識したが、女人のあらゆる器官と技巧をかり立てて――彼の思いつくかぎりの土俗的手段を試みても、なんの効験もないのだから、いかんともしかたがない。
この間の一筒斎のもがきぶりは言うもおろかなりである。逆上のあまり、この間に三人の侍と一人の女がぶった斬られたという事実から、その荒れようをご推量願いたい。しかも半狂乱の手討ちでも、この無毛症の魔剣士の技術は身の毛もよだつ鮮やかさであった。しかし、逆上がこの方向に発揮されてもなんにもならない。
かくて――
「やよ、このもの、ふるい立たせる奇法妙薬あらば、百里をいとわず千金を惜しまず、捜しあてて参れ」
という血を吐くような下知《げち》が鐘巻家一統に下されることになった。
かつて、これに似た命令を武蔵守も出したことがあるが、あれは隴《ろう》を得て蜀《しよく》を望むという心境であったのに対し、これはぜんぜん事態が急迫している。しかも、武蔵守が、あれはあれなりに大名らしい風格もあり、余裕もあったのにくらべ、一筒斎はきちがいじみた一匹の野獣だ。
おっとり刀で鐘巻家の侍たちは四方に散った。
この騒動を武蔵守もきいていたが、
「はてのう」
と、オットリと首をかたむけて、
「杜甫《とほ》に、懶性従来水竹居《らんせいじゆうらいすいちくきよ》、の句があるのを一筒斎は知らぬか。いや、無学なきゃつは知るまいのう。懶惰《らんだ》の中におのずからなる別天地あることは、とうていあれにはわかるまい。同じ兄弟でも、かくまで人格の差があるものか?」
と、高雅に言って、「おほほほほ」と笑っただけであった。睾丸を失うと、人間、教養も高くなるものらしい。――彼はその後、入道して鐘巻|呆伝《ぼけでん》と号していた。
例の大道易者夫婦の所在が判明したのは、鐘巻一筒斎がその下知を下してから三日目のことであった。
「――いたっ」
と、一人がさけんだ。
四人は、立ちどまって、向こうの辻《つじ》を眺めやった。江戸も北のはずれ、板橋宿《いたばしじゆく》のとある四つ辻である。辻というより、その一隅にある草ぼうぼうの空地に見台を置いて、二人の深編笠《ふかあみがさ》がすわっていたが、その見台にはたしかに「おん占い十六文・果心堂」と書いた提灯《ちようちん》が置いてあった。もっとも提灯にまだ灯ははいっていない。まだ明るい夕暮れで、二人のうしろには夕顔の花がいっぱいに咲いていた。
「たしかに果心堂」
「顔は見えぬが、姿はあの夫婦に相違ない」
と、鐘巻武蔵守の家来がつぶやいた。
夕風にそよぐ夕顔を背に、一方の深編笠は数人の男女の客を相手に何やらしゃべり、もう一人の深編笠のかげからは、ゆらゆらと煙草《たばこ》のけむりがなびいている。いかにも風流で、のんびりした風景だ。
「よしっ」
刀の柄《つか》をつかんで四人が歩み寄るあいだにも、入れ替わって、二、三人の客が見台の前に立つ。なかなかの繁盛《はんじよう》である。
「はてな、ちょっと待ってくだせえ」
と言ったのは、四人の中に、ひとり異色の渡世人《とせいにん》ふう、国定村の忠治であった。
「何やら妙なことをやってますぜ」
「もともと奇っ怪至極な八卦見《はつけみ》じゃ」
「いや、それにしても――サイコロをふってやがる、あの手ぎわのきれいなこと。しかも、壺《つぼ》の代わりに花を使うたア」
それがまず忠治の眼を好奇心で吸い寄せたらしい。すぐに彼はうなずいた。
「こうなりゃ、のがすことじゃあねえ。とにかく、何やってるか、しばらく見てやろうじゃあござんせんか」
四人は見台の前に近づいた。
三人の客が、手をふった、それぞれ、三つのサイコロがころころと見台の上をころがって、まだとまらないうちに、深編笠の易者の白い手が流れるように夕顔の花を伏せてゆく。
一つ目をあける。
「あなたさまのお捜しになっているお人は、もうお亡くなりになっております」
と言う。きれいな、色気のある女の声であった。
「けれど、ご安心なさいまし。それは極楽往生と申してよいお亡くなり方でございました」
サイコロには、いわゆるサイの目ならぬ「上」という字が出ていた。
二つ目をあける。
「あなたさまのご祝言《しゆうげん》なさるお相手は、失礼でございますが、お相性がお悪うございます」
サイコロの目には、「悪」とあった。
三つ目をあける。
「あなたさまのご心配になっているお金の件、それはご心配なさいますな。きっとお望みどおり、お手にはいりましょう」
サイコロの目には「富」とあった。
「ふうむ」
と、忠治はうなった。
「妙なサイだな。ちょっと見せてくんろ」
と、手をのばして、一つのサイコロをとりあげた。易者はべつに文句も言わない。
それは最初の客の投げたものであったが、六面には、
「東・西・南・北・上・下」と書いてある。
二つ目をとる。これには、「好・悪・喜・怒・哀・楽」とある。三つ目をとる。「生・死・貴・賤、貧・富」とある。
ついでに近くに置いてあったもう二つを手にとって見た。「父・母・兄・弟・妻・子」「夢・幻・泡・影・電・露」
どうやら、客の依頼する占いの内容に従って、それぞれのサイコロを客にふらせ、夕顔の花で伏せとめて、それによって占いを立てるらしい。――
サイコロ占いというべきか、夕顔占いというべきか。とにかくいままで見たことも聞いたこともない珍しい占い法にはちがいない。あたるかあたらないかはわからないが、なかなか繁盛しているように見えるのは、たしかにこの占いの方法の風流で、風変わりなせいもあるに相違ない。
「サイコロはこの五つだけかい?」
「いえ、もう一つございます。みんなで六つ」
と、深編笠がちょっとふりむいた。
もう一人の深編笠が、掌《て》の上でサイコロを一つ軽く投げ上げながらもてあそんでいた。煙管《きせる》をくわえているらしく、笠の下からゆらゆらとけむりが吹きなびいている。先刻から相棒――女房にちがいない一人に稼《かせ》がせて、こちらは他人《ひと》ごとみたいに煙草をくゆらせていたが、いま忠治にそう言われても知らん顔をしている。
占われていた三人の客は去った。
「……こりゃ、果心堂、ならびに女房」
と、鐘巻家の侍がつぶやいて、顔をつき出そうとする。
「――は?」
「殿のおんたまを返せ」
「――は?」
「われわれをだれだと思う。鐘巻家の者、うぬらをたずねたずねて二月《ふたつき》、三月《みつき》、やっとひらいた夕顔ならぬ優曇華《うどんげ》の――」
と、ばかに芝居がかったせりふを吐いて、三人の武士は刀の柄《つか》に手をかけた。
とたんに、女易者の手がひらめくと、見台の上の三輪の夕顔の花が、ヒラ、ヒラ、ヒラ――と舞って、三人の武士の顔にはたと貼《は》りついた。
「……うっ」
狼狽しつつ、片手をあげてむしりとろうとする。そもこれはどうしたことか、その花はピシャリと平面に吸いついて、しかもそれが鼻口の息をとめてしまったらしく、三人の武士は、刀の柄にかけた右手も顔へもっていってかきむしったが、とれればこそ。――
「や、野郎!」
ひとり離れて、まだサイコロをいじっていた忠治も、この怪事に仰天《ぎようてん》して、ぱっと飛びすさろうとしたが、このとき、別の方向から吹きつける一脈の魔風を感覚して、はっとそのほうへ顔をふりむけた。
果心堂の深編笠の下からは、いぜんとして煙草のけむりがなびいている。――しかし、忠治はいま、形容のできない妙な剣気をおぼえたのだ。これは鐘巻一筒斎から「天性ふしぎな人斬り剣法」と評された忠治だけの――あるいはこの点においては一筒斎以上の彼独特の感覚であったろう。
「あなたさまのゆくすえ、占うて進ぜようか」
と、深編笠の下から、錆《さび》のある声がした。
ころころと転がって来た一個のサイコロをつかんだが、忠治は茫乎《ぼうこ》として、果心堂のほうを眺めている。いま感じた剣気は嘘《うそ》のように消えていた。
背後で三人の侍は両腕でめちゃめちゃに顔や虚空《こくう》をかきむしっている。
「苫しい!」
「助けてくれ!」
そうさけんでいるようだが、まず何をわめいているのか見当もつかない。
「おいでなされませ」
と、女の占い師が言って、深編笠を見台の上にさし出した。
「それをとりのけて進ぜます」
一人が泳ぐように見台にかじりつくと、白い手がのびて来て、その上半身をひき寄せた。侍の顔が、深編笠の中へひきずりこまれた。すぐにその侍――伊沢平之丞《いざわへいのじよう》という男は、つき放されて、尻《しり》もちをついた。鼻口を覆《おお》った夕顔の花、もはや一枚の粘膜と化していたその薄い花びらはきれいにとれていた。
それを、女易者は横をむいて、ぷっと吐き捨てた。
「花を隔てての接吻《せつぷん》ならいいでしょ」
と、果心堂のほうをふりむいて、笑った声で言う。
接吻なんて、いま花びらを吸いとられた伊沢平之丞にも意味がわからなかったが、これはハイカラな果心堂がオランダ書の中のクッスという語を翻訳して教えたものであって、接吻という現代感覚からすれば少し古風な日本語を創造したのは、実にこの大道易者果心堂なのである。
「次――」
もがきながら這《は》い寄る古江門《ふるえもん》太夫《だゆう》、関梅之助《せきうめのすけ》という男たちの首も、次々に深編笠の中へひきずりこまれては、つきはなされて、尻もちをつく。
三人とも地べたに腰がぬけたようになり、首をつき出してふいご[#「ふいご」に傍点]みたいな息をしているのを見て、忠治は改めて自分の手の中のサイコロに眼を戻《もど》した。
六面にあるのは、
「禁」「追」「流」「斬《ざん》」「梟《きよう》」「磔《たく》」の六文字。
「ようし、占ってくれ! おいらのゆくすえを――」
ふいにぎらっと眼を光らせて、忠治はそのサイコロをころころっとふった。果心堂の手が、これまた流れるように動いて、どこに持っていたか、夕顔の花でフワと伏せた。
しずかに花をあける。
「磔」――大きな目だまをむき出し、じいっとそれをのぞきこんでいた忠治が、とつぜんピシャリとひざをたたいて、
「気に入ったぜ! この占い!」
と、さけんで、ききっと例の怪笑をたてた。
「おめえさんたちも、忠治、気に入った。――気に入ったどころじゃねえ、降参した。鐘巻一筒斎以上に、気に入って、降参した。サイをふる手つきなんざ、ふるいつきてえようだ。ヤットウの腕のほうだって――」
と、地上の三人をふりかえって、
「こいつア、どうだかわからねえ。少なくとも、このお三人衆なんぞは木っ葉だ。……おいっ、果心堂の親分、それからおアネエさん、きょうからおいらを子分にしておくんなせえ」
「子分? おまえさまはいったいどなたさまでござる。鐘巻家のご家中でもないようだが――」
忠治はいきなり、ぽーんと二メートルばかりとびすさり、やおら小股に三足進み出て一足とまり――という、例の仁義《じんぎ》を切りはじめた。
「おひけえ願います。手前生国は上州にござんす。上州といっても広うござんす。上州は佐位郡、国定村にござんす。名前の儀は忠治と発します。お見かけどおりのしがねえ者でござんす。ゆくすえ万端お引き立てを願います」
果心堂の深編笠はめんくらったようにしばらく動かなかったが、やがてそれが一つゆれると、澄ました声で言い出した。
「ごていねいなお言葉に従いましてのご挨拶《あいさつ》は失礼でござんす。お許しをこうむります。手前こそは、生国は甲賀にござんす。甲賀といっても広うござんす。甲賀の国は卍《まんじ》谷――」
「およしなさいよ、ばかばかしい」
と、女房のお狛が呆《あき》れたように言った。
「ばかばかしいか。そうとも思わんが、じゃ、よすか」
と、果心堂は言って、忠治にかまわず、
「鐘巻さまのご家中、殿さまのおんたまでござると?――せっかくだが、あの事件はもう時効にかかってしまった。たまとあざむく美女の珠盗《たまと》りに、抜けばたま散る鐘巻流、たま磨かざれば光なしと申し、もはや鮮度もおちたいまと相成っては、たまとなって砕けるよりも瓦《かわら》となって全《まつと》うしたほうがご泰平でござりましょうと武蔵守さまにお伝えくださりませ。……おわかりか」
なんのことだかさっぱりわからない。
「要するに、ないということか」
と、古江門太夫が悲劇的な声で言った。
「ま、そういうことです」
「それはこまる。われわれは殺される!」
と、伊沢平之丞が金切り声を張りあげた。
「殺される? そんなことはありますまいが。――武蔵守さまは、たまを失われた代わり、ご全体が玲瓏《れいろう》たまのごときお人柄におなりあそばしたはずですが」
「武蔵守さまではない。――もっと凄ーいのが、ご逗留《とうりゆう》中で――」
「なに? もっと凄いのが? はて、それはどなたさまで?」
三人の侍は顔見合わせたが、傍らから忠治が口を出して説明しはじめた。
鐘巻一筒斎なる人物のこと、出府以来の行状のこと。――そしてついに、突如としてふたたび立つ能《あた》わざるの損傷《ダメージ》を受けたこと。――
「ははあ……」
「どうしたわけでござんしょう? 当人はどこか筋がおかしくなったんじゃあるめえか、とお言いなさるが、おれの思うにゃ、水源が涸《か》れたにちげえねえ……」
「それには神経系統、内分泌腺《ないぶんぴせん》、その他|糖尿病《とうにようびよう》とか脂肪過多症などの全身性疾患によるもの、精神異常によるもの、心理的障害によるもの、などいろいろと原因があるが、さて、その症例はのう……」
深編笠がかたむいて、ちらっと三人の侍を見たようだ。
「一つ、わしが治療して進ぜようかな」
「およしなさいよ、ばかばかしい。いまのひとのお話きいてると、因果応報じゃないの」
と、お狛がまたとめた。
「ばかばかしいか。そうとも思わんが、じゃ、よそうか」
「あいや! よさないでくだされ!」
と、古江門太夫があわててまた見台にすがりついた。
「貴公らを草の根分けても捜し出せとのご厳命、それをやっと捜し出したのに無為にして帰邸したとあっては、いまや大荒れの一筒斎さま、たちまちバッサリは必定《ひつじよう》のこと――」
「しかし、私たちが参上すれば、こっちもバッサリではござりませぬか」
「いや、そうともかぎらぬ。果心堂捜索のことは、一筒斎さまご出府直後のことで、それは兄君のため、その後、ご自分に右の大事が起こって、いまはそれどころではござらぬ」
「なんだか、風向きがあいまいだな」
「いや、ただいまのご自分のおん病いが癒《い》えるとあれば、いかなるお方でも神医のごとく感涙をながしてお迎えなさるでござろう。承《うけたまわ》 れば果心堂どのには、このまえ別人の睾丸をとってわが殿に――」
と、言いかけて、伊沢平之丞は絶句した。別人の睾丸、と言って、ある予感が水のように背すじを流れたのである。
「やってみようかな?」
と、果心堂がまた言った。
「あんた、ぶしょうなようで、おせっかいも好きな人ね。またあんなことをやってみるつもりなの?」
「いや、あれはやらない。同じ手を二度と使わんというのがわしの忍法のミソでな。ちょっと新しいところを思い出したので、ひとつうまくいくかどうか験《ため》してみたい。――ともかくも、武蔵守さまから睾丸を一つぶん、このわしが頂戴《ちようだい》していることでもあるし、ひいてはおまえさんも恩義を感じてよかろうが」
後半のほうはぶつぶつと小さな声でつぶやいたが、むろん果心堂の本心は前半の実験意欲にあるに相違ない。
「どんなことをするの?」
お狛のふしぎそうな問いには答えず、
「やってよろしかろうか?」
と、果心堂は三人の侍のほうに深編笠をさし出した。
「せ、拙者どもがお願いしていることでござる。いまさら拙者どもにだめを押される必要はなかろうと存ずるが――しかし、そう仰《おお》せられるところをみると――も、もしや?」
「いや、あなた方のご睾丸は使用いたしません」
と、果心堂は首をふった。
「この実験は生命に別状などないのみならず、手術にあたっては痛くも痒《かゆ》くもない。むしろ、天国に昇るがごときいい気持ちがするはずで――ただし、当分、あなた方のほうが立たなくなるが」
「へ?」
と、三人の武士の眼はまん丸くなった。
「どうですな、一筒斎さまのため、ひいては鐘巻家のために、決然ふるい立つ――ことをやめられては?」
しばらく返答がなかった。
忠治が口を出した。ニヤニヤしていたが、これも好奇心に眼をぎらぎらさせている。
「これも忠義だ。一つやってみなせえ。断わると、おいら一筒斎先生に言いつけますぜ」
「おまえはやらぬのか」
「おいらア親分を変えちまったさ。ききっ」
「……よろしい。承知つかまつってござる」
まずまっさきに、沈痛悲壮の声調で言い出したのは、いままで一言もものを言わなかった青瓢箪《あおびようたん》みたいな侍、関梅之助であった。
「まことに主家のため、忠義のためじゃ。あえてこの壮途《そうと》に上ろうではござらぬか。のう、古江門太夫どの!」
「うむ……」
「どうもお気が進まぬようじゃな。これは心得ぬ。平生《へいぜい》、われわれに切々と忠を説き、義を説いてやまれざる門太夫どのではなかったか」
「貴公らはまだ独身じゃからよいが……いや、わしはよいが、女房がな……」
「これはしたり! 古江どののご内儀《ないぎ》は女にも珍しいご貞女じゃと、これまた平生、自分でぶって、おおいにわれわれを羨《うらや》ましがらせた門太夫どのではないか。夫が主君に忠義をつくすのに、たった一本の男根くらいが立たぬとて、それで異議をとなえる貞女がどこにある?」
「たった一本と申すが、二本あったら貞女ではない。貞女は二本にまみえずと申し……」
とつぜん、伊沢平之丞が立ちあがった。みるからに哲学青年ふうの若者であったが、これが脳天から出るような声で演説をはじめた。
「しかり、つらつらおもんみるに、そもそもこれが立つことが、吾人にとってなんの必要がある? 少なくとも人格的に、教養的に、なんの裨益《ひえき》するところがある? 立っただけではなんらの快感すらない。立たないでこまるということは何もない。ましてや天下国家のために――」
「もうよろしい。何がはじまったかと、人が来ます」
と、果心堂が苦笑いして言った。
「いやご両人の悠久《ゆうきゆう》の大義に生きんとなさるご精神には感銘いたしました。それで、古江さん、ですか。あなたさまはご棄権?」
「いや、やる。やります。ぜひ、義盟の同志に加えていただこう!」
古江門太夫はべそをかきつつ、歯をくいしばってりきんで言った。
果心堂が、四人といっしょに鐘巻家に乗りこんだのはその夜のことであった。お狛はやっぱり見たくないと言って、遠慮してしまったが、親分を変えたと称する忠治はいっしょについて来た。
一足先に、三人の家来から、例の大道易者を見つけてつれて来たという報告をきいても、一筒斎は、
「……占い師? 占い師では立たん!」
と、わめき、それが兄の一件に関係した占い師だとはとっさに思い出しもしないふうであったが、
「それが立つと申すのでござりまする」
という返答をきいて、がばと立ちあがった。このほうは立つ。伊沢平之丞は「立たないでこまるということは何もない!」という自分の見解を再確認した。
大書院に待たせてある、ということで、一筒斎は大刀をつかんで出ていった。
大書院には、その男と忠治がいた。十数本の銀燭《ぎんしよく》が立てつらねられてあるのは、忠治の仕事に相違ない。その男は寂然《じやくねん》とすわっていたが、深編笠をかぶったままである。
一筒斎を見ると、その深編笠がお辞儀をした。
「はじめて御意《ぎよい》を得まする。武蔵守さまにごひいきを願いましたる大道占い師果心堂にござりまする。このたびは、また……」
「兄の睾丸奪い去ったる曲者《くせもの》はうぬか」
「いえ、私は武蔵守さまにそれを献上したほうで、ご無礼を働きましたのは私の女房でござりまするが、しかし女房の罪は夫の罪、さればこのたび拙者、いささかその罪をつぐなわんと恐れながら参上つかまつったる次第」
「罪をつぐのう? た、立たせるか?」
「御意」
「なに、立たせる? そりゃまことか。い、いかにして立たせる?」
「されば、殿さま、それからそこのご三人さま、恐れ入ったる儀にはござりまするが、なにとぞおん裸体とおなりくだされたく――」
「裸になれと?」
「左様、一糸まとわず」
「こりゃ果心堂、うぬはひとを裸にして、うぬは笠もとらぬのか、先刻より見ておれば無礼至極《ぶれいしごく》な奴」
「これをとれば、気が散って、あとの入神のわざがかないませぬが」
「ううぬ。さるにても妖《あや》しき奴、刀は持っていてよいであろうな」
「それはお気のままでござりまする」
仁王立ちになったまま、じいっと果心堂をにらみつけていた鐘巻一筒斎は、たちまち丁《ちよう》と凄《すさ》まじい鍔鳴《つばな》りの音を一つ立て、どんとこじりを畳について、
「よしっ、立たずんば、斬る」
と言って、大刀を鞘《さや》のまま横ぐわえにして、衣服を脱ぎ出した。脱ぐと、
「うぬらも裸になれえ」
やがて、銀燭の中に、四人の裸の男が立った。三人の男は、両手で前を覆って、さすがに消えも入りたげな風情《ふぜい》に見えたが、一筒斎のみは堂々として、オットセイのごとき無毛症の巨体を屹立《きつりつ》させた。屹立していないのはその一部分だけである。
「なるほど」
と、深編笠はしげしげと見まもっている気配で、やがてうなずいた。
「ご重症でござりまするな。ご大器でおわすだけに、いっそうお悩み深げに拝察いたされまする」
「早くいたせ! これからどうするのじゃ?」
これから果心堂が従容《しようよう》として指令したことは、実に抱腹絶倒すべき運動であった。
「まずお三人さまはあれへ――乾《いぬい》の位におつきくだされい。乾は八卦《はつけ》の一つ、陽、天をかたどりまする」
と言って、三人の侍を大書院の北西隅に立たせる。
「次に一筒斎さまはあれへ――巽《たつみ》の位におつきくだされませ。巽は八卦の一つ、一陰二陽、従順卑下をかたどりまする」
と言って、一筒斎は大書院の南東隅に立たせる。
そして果心堂も北西隅に寄って、三人の尻に指さきで何やらえがき出した。どうやら左の臀部《でんぶ》に※[#八卦記号「− − −」、unicode2630]というような記号、右の臀部に※[#八卦記号「− -- --」、unicode2636]というような記号をえがいたようであった。すると、どういう刺激か、その中の二人がしだいに屹立しはじめた。
「はてな?」
と、果心堂は前に首をのばしてのぞきこみ、
「これは故障か。作動しないが、おかしいな」
と言った。
関梅之助であった。
「こんなはずはないが……」
梅之助は、両側の二人を見て、青い瓢箪みたいに首をふった。
「拙者、はばかりながら、生まれて以来、いちどとしてまだ立ったことがござらぬ……」
「な、なんじゃと?」
と、横の古江門太夫が眼をむいた。
「忠義のために、たった一本が立たぬとて、文句を言う奴がどこにあるとかなんとか高慢なことを申しおって、本人ははじめから立たんではないか! あのここな、図々しい奴めが!」
「忠治」
と、果心堂が言った。
「おまえ、代われ」
「ひえっ」
「おまえ、わしの子分になるとか申したのう。渡世の道で親分子分のちぎりを結んだうえは、白いものを黒いと言われても、はいと言わなければならぬときく。それはまことであろうのう……」
忠治は大きな目だまをむき出していたが、たちまち、
「心得やした! 親分のお申しつけとあればたとえ火の中、水の中、矢玉の中へでも飛びこむのが子分の道、合点でござんす!」
とさけんで、くるくるっと三尺帯を解き、着物を脱いでまる裸になり、関梅之助をつきとばしてその位置についた。
「おお、これは本体に合わせてズングリムックリ……」
と果心堂は苦笑のつぶやきを洩らしたが、すぐに忠治の尻に例の変な記号を指でえがき出し、
「さて、一筒斎さま、お三人さま、これより拙者が、どどん、と声をかけましたなら、同時にあのほうへ――」
と、北西隅を指さして、
「乾の方角へお歩きを願います。そこで一度目はすれちがい、逆の方角へそれぞれご書院をご一周くだされ、二度目もまたすれちがってくだされ。この間、みなさま、おからだをぐるぐると回転させながら、お歩きを願いたいのでござる。そして三度目――三度目に乾の位置でゆき合われた際、こんどはすれちがうことなく、古江門太夫どのは左から、伊沢平之丞どのは右から、両手を使わずして、一筒斎さまのご病体を持ちあげてくだされ。これにて枕《まくら》あがれば、そのとき拙者が掛け声をかけまするゆえ、忠治が頭をもって頭にあてがうのでござる」
「頭?」
と、忠治が頭に手をやった。
「その頭ではない――」
と言って、果心堂はおごそかにつぶやき出した。
「よいかな。はじめますぞ。十秒前……九秒前……八秒前……七秒前……六秒前……五秒前……四秒前……三秒前……二秒前……一秒前」
そして、のどをふくらませて、
「どどん」
と、さけんだ。
つきとばされたように四人は進行を開始した。ぐるぐるとからだを回転させながら、逆回りに書院を一周し、二周し――そして、三周目、南西隅、坤《ひつじさる》 の位置で遭遇するや、古江門太夫と伊沢平之丞は両側から、鐘巻一筒斎を掘り起こした。両人ともつまさき立ちになり、弓なりに反《そ》って、満面朱をそそぐ力わざであった。
「よいか、忠治――」
と、果心堂が声をかけた。
「伊賀忍法、独筋具《どつきんぐ》!」
国定忠治は磔《はりつけ》 柱《ばしら》に上がったような表情で頭と頭を接触させた。
「そのまま、そのまま……そのままの組み合わせで、四人とも動かれまするな――」
まったく磔柱の人間に三本の槍《やり》がつき刺さったような構図であった。――が、磔柱の屍体《したい》とは反対に、まんなかの肉体はこのときしだいに甦《よみがえ》って来、逆に三方の槍は徐々にグッタリとしていった。
忠治がうめいた。これがいちばんオクターブが高かったが、あとの二人が洩らしたのもたしかに法悦の声であった。
「実験成功……無事完了つかまつりました」
と、果心堂が言った。
鐘巻一筒斎はのぞきこんで、
「おお!」
と、歓喜のさけびをあげた。
「立った、立った! 立ったわやい!」
二、三度、猛獣のようにはねあがったが、いぜんとしてそれが健在であるのを確認すると、両腕をひろげ、果心堂を抱擁するようなポーズで歩いて来た。果心堂は珍しくあわてて、これまた両手をつき出して制止する姿勢をとりながら、
「三人の男性の起揚電力を、ご一人に蓄電なされたのでござりまする。おめでとう存じまする。……これにて私の女房の罪、お目こぼしくだされましょうな」
「許す、許すぞ!」
と、一筒斎はもういちどゆさぶってみて、それから首をひねった。
「しかし、かような悩みを持つ男は世にわんさといように、なんでまたこの――なんとか申したな、いまの術を使わぬのか?」
「忍法独筋具、だれも知らぬからでござりまする」
深編笠の中で、声がおかしそうに笑った。
「いや、知らぬも道理、拙者も忍法古書にはあれど、いささかぶきみで、かつあまりにばかばかしい所業ゆえ、試みたのは今夜をもって初めてのことといたしまするが、これがかくも成功裏に終わることを確かめたうえは、ひろく同憂の士に勧奨いたしましてもよいと存じまする」
大書院の一隅で、一つにかたまって茫乎としておのれをのぞきこんでいた三人のうち、このとき忠治が悲しげな声をふりしぼった。
「おいらたちゃ、どうなるんで?」
「……しかし、なんだな、女のからだは神秘だ神秘だという。それに異論はないが、男のからだはそれ以上に神秘だな」
涼風《すずかぜ》のたちはじめた夕闇《ゆうやみ》に、大きな百日紅《さるすべり》の樹の下に見台を出して、灯のはいった提灯におぼろに照らされながら、果心堂が言う。
「立つか、立たぬか、これほど重大なことが持ち主の意志によって左右できんということは奇っ怪である。それじゃアぜんぜん意志とは関係ないかというと、時と場合によっては意志をもってふるい立てることもできる。かと思うといかに意志をもってしても立たぬこともある。さらに、ぜんぜんその意志はないのに、不必要なときに無意味に立ちあがってみたりする。随意筋なんだか不随意筋なんだか、さっぱりわからん。持ち主の権威をおびやかすことこれよりはなはだしい器官はない……」
声は痛嘆のひびきをおびているようだが、深編笠の下からたちのぼるけむりは、やや風に吹きなびいているだけで、静かなものであった。
「どうじゃ、こんなにあいまいな――よくいえば神秘な器官が女にあるかね?」
お狛は、これも深編笠の下でくつくつと笑い声を立てたが、返事はしなかった。しばらくしてから言った。
「あんた、ほんとに妙なひとね」
「わしはまともだよ」
「でも、いつも敵役《かたきやく》みたいな男のひとにひいきするくせがあるのね」
「そう言われればそうだな。しかし敵役みたいな男は、まずたいてい男の中の男と言っていい男だからな」
「そんな男なら、そのうえ何もリキをつけてやることはないじゃないの」
「いや、そんな男にますますリキをつけてやるのが、地上の女性のためでもあるんだ。だいたい女の不幸は、したがって家庭の、ひいては社会のすべての悲劇のもとは、体力も生活力もない男がなまじ一人前の結婚生活をしようなんて、分際《ぶんざい》をわきまえない欲気を起こすところからはじまっていると断言してよろしい」
「だって、そりゃあんまりな――おや?」
お狛が、深編笠をあげた。
「忠治だな。また来たか」
「あの三人の侍衆もつれて来たらしいわ」
忠治を先頭にして、なるほど三人の侍が、宵闇《よいやみ》の中をトボトボと近づいて来た。
「親分」
「あいよ」
「おいらじゃねえんです。おいらはおっしゃるように、当分このままブラブラしてゆく覚悟をきめましたがね。このひとたちとついそこでばったり会ったら、なんとかこのブラブラがとまるわけにはゆかねえだろうかと、ぜひとも親分にお願いしてみてくれと泣きくどかれやしてね。……どうでがしょう、親分?」
「そんなうまいことを言って、立てる法があれア手前《てめえ》も立ててえと思って、軍勢ひきつれて来やがったな」
知識人の趣《おもむ》きもある果心堂が、忠治に対しては、ばかに伝法《でんぽう》な口をきく。
「手前、おれの子分になりてえというのが本気なら、立ってちゃ許さねえ。こいつアなんども釘《くぎ》を刺したじゃあねえか」
「その男など、どうでもよろしゅうござる」
と、古江門太夫がうしろからやつれはてた顔を出した。
「何とぞ、もとに返れるものなら、拙者をもとに返していただきたいと、切に切にお願いつかまつるのじゃが……このままでは生命のほども案じられて」
「ほ、おからだにご異常でも」
「いや、あれを除いてはべつにどうということもござらぬが、なにぶん、女房が神経衰弱はおろか、とみに狂暴と相成って……」
「女房のない拙者などは、拙者自身が神経衰弱の気味になってござる」
と、そのうしろから顔を出したのは哲学青年、伊沢平之丞だ。
「いや、不勉強にして、小便をするだけの具ではないことをはじめて知り申した。それもいかなるわけでござろう。小便と申せば、その作用が自覚不能と相成って、まことに赤面汗顔《せきめんかんがん》の至りながら、現在もオムツをあてておる次第でござるが……」
「お願い申す、果心堂どの!」
と、そのまたうしろから青瓢箪みたいな顔をつき出したのは関梅之助である。
「南無八幡《なむはちまん》、なにとぞ拙者をふるい立たせてくださりませ」
「ふるい立つといって、あなたははじめから立たんではござらぬか」
「いや、かかる天来の好機に遭遇し、これを利して立たずんば、いつの日にか立つあらんと思いたち……」
「へんな人がまじりこんで来たな。……とにかくみんなだめでござろうな」
と、果心堂は煙草を吹かした。
「とにかくあなたさま方の起揚力は、みんな一筒斎さまに蓄電されてしまったのだから、それをとり戻すには一筒斎さまからお返し願うよりほかはないが、そのためには先日の忍法独筋具を位置を変えてもういちどやり直すよりほかはない。もういちどやり直すお気持ちがおありか?」
みんな、しーんとして顔見合わせた。
「いや、一筒斎さまがご承引《しよういん》くだされようか?」
「――ぶるる、さ、左様なこと、言い出しただけでも身首を異《こと》にすることでござろう」
と、伊沢平之丞は蒼《あお》ざめて言った。
果心堂はきいた。
「一筒斎先生はご健在でござるかな」
「ご健在もご健在、数日まえ、ご縁談の儀に吉報を得られて、ますますご大悦でござる」
「――ほ? ご縁談。花嫁はどちらさまから?」
「柳生――」
「へへえ」
「さきごろより、この近くの木挽《こびき》町の柳生家へご息女お鷹《たか》どのを妻に申し受けたいと談じこまれていたところ、ようやく数日まえ、よい知らせが参ったのでござる」
「へへえ、柳生がねえ?」
と、奇声を発したのは国定忠治だ。
「おいら、あそこの娘さんにゃいい男がついてるってきいたが、その後、風向きが変わったかい?」
「とにかく、そのようなお話では」
と、果心堂が言った。
「独筋具の逆行など、いよいよもって論外でござろう。おあきらめなされ」
そして、煙草のけむりを輪に吐いた。
万事休す。四人はトボトボと宵闇の中へ去っていった。
あと見送って――
「お気の毒なこと」
と、お狛がつぶやいた。
「あんた、やっぱり罪なことをしたものね」
「いや、あれでいいんだ。忠治は別だが、あとの連中、希薄な起揚力は合して、本来素質のある男性に与えたほうが有効である。それに、事実として、いま言ったとおり、一筒斎さまからお返し願わねばどうにもならないのだから、どうにもならないよ」
「それにしても、残酷だわ。あたし――おや?」
お狛がまた薄闇をすかした。
「ちょっと、あのお侍、迷ってるわ。腕組みをして、ゆきつもどりつして……呼んでよ」
果心堂が筮竹《ぜいちく》をとりあげて、口にあてがった。澄んだ笙《しよう》みたいな音が流れた。
「……かようなこと、大道の易者にきくも不甲斐ないが」
見台に近づいて、腕組みをとき、沈痛な顔をあげたのは、若い美しい侍であった。
「いや、そなたらをあなどって申すのではない。おのれが恥ずかしいのじゃ」
たんに美男というだけでなく、頬《ほお》のあたりに自堕落といっていい凄艶《せいえん》な線があり、そのくせ、痩《や》せているように見えて存外骨格はたくましい。
「いま、わしに何やら不吉な星がかかっておるのではあるまいか?」
「どうなされました」
「凶事が起こったのじゃが、それが自分自身から発したことで、しかもそれが自分自身にも信じられない異変なのじゃ。わしの知らない凶星が、あの夜の空にかかっていたとしか思われぬ……」
「と、仰せられますと?」
若侍は黙った。眼は易者にではなく、あらぬかたを見つめて、それが激情に光ったかと思うと、絶望にすーと暗くかげる。
「仰せられにくいことのようでござりまするな」
と、果心堂がやさしく声をかけた。
「ちょっとこのサイコロを二つ、お投げになってみてくださいませ。――同時に」
と、前にころがっていた六個のサイコロの中の二つを手渡す。それから自分は――見台の隅《すみ》に盛りあげてあった朱色の百日紅の花を、両掌《りようて》につかんだ。
「何をいたす?」
若侍はけげんな表情になったが、
「こうか?」
と言って二つのサイコロをいっしょに投げた。
見台の上にころころところがった二つのサイコロを、果心堂ははたと両掌で伏せた。サイコロを埋めた花をふっと吹く。二つのサイコロに二つの文字が現われた。
「妻」
「泡」
深編笠があがった。
「お悩みのもとは、奥方さまか――それに準ずるお方にかかわることではござりませぬか。しかも、それが泡とあるのは――ご離別か、あるいはご縁談がむずかしゅう相成ったか、さあてのう、もっとはかない……」
「あたったぞ」
若侍の眼が大きく見ひらかれた。
「奇態な八卦見じゃな」
「果心堂、長らくこういう商売をやっておりますると、占いもさることながら、お若いお方の恋指南、縁談案内、人生万般の悩みごと相談などにもあずかるように相成りました。……殿さま、ご遠慮なく仰せられてくだされませ」
と、果心堂は荘重に言った。
「よし、言おう」
若侍は決心したらしい。
「わしがな、さる女人《によにん》と相愛の仲になったと思え。この女人が、世にもまれなる美しさ、ただ美しいばかりでなく、その才、その気力、いずれも双絶、まさに神女のごときお方であると思え」
「ほほう。……してみると、それはあなたさまより、失礼ながらご身分高いお方でござりまするな」
「そういうことになる。その身分のちがいが、最初の悩みを生んだ。つまり、こちらがモタついておるあいだに、さる大名の一族から、そのご息女に縁談の申し込みがあったのじゃな」
「なるほど」
「大名の一族ながら、これが四十近く、髪の毛はうすいどころか、妙につるつるした海坊主のような男、しかもきくところによると、女をもてあそぶこと、人を斬ること土芥《どかい》のごとき凶悪無残の人物じゃ」
深編笠が、じっと動かなくなったのを知るや、知らずや。――
「ご息女はもとより反対じゃ。拙者という者がいなくとも、いやと仰せられたであろう。しかるに、親御さまのほうでは、それを無下《むげ》にお断わりになれぬ事情があったと思え。断われば、家そのものに大危難が見舞うという。――さような災厄《さいやく》を起こしかねない相手であり、事実、それをほのめかして脅しをかけて来たのじゃ」
「…………」
「これを見て、ご息女も迷われた。さしもご利発、ご気丈なお方も、ご利発でご気丈なだけに、いかにすべきかもだえられた。――そして、一夜ひそかに――わしのところを訪れて、わしにその去就《きよしゆう》を決してくれとお泣きなされた――」
「…………」
「わしも泣いた。泣いて、泣いて、炎と燃え、ついに両人、ひしと抱き合ったと思え。わたしをつれて、どこか地の果てへ逃げてくれと仰せられる。はては、それがならぬものならば、どうせ海坊主のいけにえ[#「いけにえ」に傍点]になるにしても、そのまえにおまえにすべてをつかわす、と仰せられた。つまり、処女をやると申されるのじゃな」
「…………」
「情炎きわまるところ、わしもその気になった。ここで第二の大難事が出来《しゆつたい》したと思え。つまり、わしがどうにもならなんだのじゃな。意志はあるのに、からだが意志のままにならぬのじゃ。断わっておくが、わしは片輪ではない。ご息女を愛する以前は、剣のみならず北郭《ほつかく》で鳴らした男じゃ。それが、かくも恋し、かくも崇《あが》めた女人をひしと抱きしめて、あわや寸前というところまでゆきながら……こはそもいかに」
「…………」
「ご息女は去られた。見送って、惨《さん》として声なし。心なしか――いや、あきらかにご息女も、わしを見る眼に大軽蔑の色があらわれた。いま思い出しても、情けなさにからだにふるえがくるようじゃ。わし自身信ぜられぬ異変というのはこのこと、こはそもいかに?」
「…………」
「近き日、ご息女は、そこへ輿入《こしい》れなされる。『妻』が『泡』とはよう卦に出た。それを知りつつ、わしにはもはや泣く元気もない。ただあの夜以来、わしの空に悪い星がかかっていたのではないかと思うばかりじゃ。なんとなれば、あの夜以来、いかに手入れしてみても、たしかめてみても……立たんからじゃ」
「…………」
「占うてくれ、わしの星を」
「占うてもようござりまするが」
一つ、長嘆息して果心堂が言った。
「それはしかし、見ようによってはお幸せなことでもござりました。あのお方がお相手なら、しょせん血を見ずばおさまらぬなりゆきとなっておりましょうから」
「あのお相手? そちゃ、存じておるのか!」
「あの毛のない海坊主のごときお方、めったに例があるものではござりませぬ。鐘巻武蔵守さまの弟君、鐘巻一筒斎さま――」
「やっ?」
「柳生家のご息女をお請《こ》いなされ、それをいやだと仰せられるなら、ご老体の柳生さまと試合なされたい、とおどされるのでござりましょう。天下のご指南役たる柳生さまが一目《いちもく》おかれた鐘巻武蔵守さま、その武蔵守さまさえ怖気《おぞけ》をふるわれる一筒斎さまでござります。そのご息女によって、あなたさまとつながりかけたご悪縁、はからずも切れて結構なことでござりました」
ぱっと若侍は腰の刀に手をかけた。
「この占い、他言はいたしませぬが、あなたさまの星は吉でござりまする」
深編笠の声は、自若《じじやく》として言った。
「なあに、地上に女人は、その星の数ほどもござりまする。男を萎《な》えさせるほど才色双絶、尊きかぎりの女人などはお避けあそばしたほうが、のちのちのために無難」
「ああ」
刀の柄《つか》に手をかけたまま、若侍はもだえた。
「斬れぬ。こはそもいかに、木挽町の道場で第一をうたわれたこの下《さが》り葉左内《はさない》の手が動かぬ。ああ、わしの全身、萎えつくしたか」
お狛が果心堂の横腹をつついた。
「あんた」
「なんじゃね?」
「どうにかしてあげられないの?」
「何を、どうする」
「一筒斎さまとやらに、なんとかしてあげたでしょう」
「うん、しかしこの場合は、いまのわしの意見につきる」
「なにが恋指南よ。冷淡。無責任」
お狛はむきなおった。
「お侍さま」
易者の一人が女であるとはじめて知って、下り葉左内は意表をつかれたかのように、眼を見ひらいてこれを見まもる。
「あなたさま。――その、あの――あれがお立ちあそばせば――どうなされます?」
「立てば、おお、立てば、こんどこそは決然立ってお鷹どのを取り返す!」
「そのためには、どのような犠牲でもお忍びになりますか?」
「犠牲とは?」
「たとえば、その代わり、からだのほかの部分が萎えるというような――」
果心堂の深編笠が不安そうにゆらいだ。
「これ、おまえさん、何を思いついたのじゃ?」
左内がさけんだ。
「おお、あのものが立ちさえすれば、拙者、どこが萎えようと否《いな》やは言わぬわ!」
「では――」
お狛の声が消えも入りたげに小さくなった。
「こちらへおいでなされませ」
「何をいたす?」
左内は狐《きつね》につままれたような表情で、うしろの百日紅の大木の小暗い陰にみちびかれた。
「あの、お侍さま、きっとお望みどおりのおからだにお返し申してさしあげまするゆえ、どのようなことでも、黙ってわたしのするがままにおまかせくだされませ」
さすがの果心堂もおちつかなくなって、もちまえの泰然たる腰を浮かせ、のぞきにいった。そこで、彼は何を見たか。――
お狛は左内に、まさしく哀れに萎えはてたものを右手で握らせ、握った手の甲に、唾《つば》で※[#八卦記号「− -- --」、unicode2636]のかたちをかき、腕のつけねに※[#八卦記号「− − −」、unicode2630]のかたちをかいた。前者が艮《こん》すなわち陰を意味し、後者が乾《けん》すなわち陽を意味することは果心堂も知っているが、さてそれからお狛が、まるで陰を陽に送るがごとく、左内の腕を手首から肩のほうへしごきはじめたのがわからない。
七度、お狛はゆっくりとその動作をした。
「……伊賀忍法、進行性筋萎縮」
と、彼女はつぶやいた。
そして果心堂は先日、自分がすこぶる大規模に鐘巻一筒斎に試みた実験よりも、もっと簡単に、すなわち同一人の肉体をもって同様の結果を招来したのを見たのである。忍法進行性筋萎縮とはばかに語呂《ごろ》が悪いな、とからかおうとした笑いはとまった。萎縮していたものは、にぎっていた手もはち切れんばかり、若々しく、颯爽《さつそう》と立ちあがって来たのだ。
「おお!」
と、下り葉左内は歓喜のさけびをあげた。
「立った、立った! 立ったわやい!」
百日紅の樹の下で、二、三度、猛獣のようにはね上がったが、いぜんとしてそれが健在であることを確認すると、お狛を抱擁するように両腕をひろげようとし、その右腕がだらんと垂れたままであるのに気がついたようだが、しかし左内はそれは意に介さず、
「か、かたじけない! 後刻、必ず礼に参る。一刻も早くお鷹どのにこれをご覧に入れねば!」
と、嵐のごとく袴《はかま》をつけ、つむじ風のごとく駆け去った。
「……えらい術を知っておるの」
果心堂はまた見台に戻ったが、憮然《ぶぜん》たる声であった。
「自家発電よ」
「それにしても、おまえさん、いい男には、ばかに親切じゃな」
「あたし、恋のためには、ほかのどんな犠牲をもがまんする、という心根に打たれただけよ。ヤキモチ、やかないで」
「いや、少々やける。……しかしだ、あのお侍、有頂天《うちようてん》になって飛んで帰ってしまったが、ことはそう簡単にはすまないぜ。先刻の話じゃあ、柳生家と鐘巻家の縁談の話はそうとう進行しているのだろう。いやがらせを言うわけじゃないが、何しろ相手が一筒斎じゃ。下り葉左内――とか言ったね、あれが人並みに立ったからって、そうやすやすと収まるまいよ」
「そうかしら?……あ!」
と、お狛がふりむいてさけんだ。
見台の前に、提灯に照らされて、四つの首がならんでいた。
「……いま、立った立ったという声がきこえ申したが」
「……あのご仁、狂喜乱舞して駆けてゆき申したが」
「……もしかしたら、立つ方法を指南されたのではござるまいか?」
例の三人の侍と忠治だ。まだそこらにいて遠くからようすをうかがっていたと見える。
「それならば、何とぞ拙者どもにも一つ――」
果心堂が、吐き出すように言った。
「お狛、やりかけたことだ、やってやれ」
煙管を編笠の下に入れて、火をつけて、けむりを吹いて、
「ただし、忠治だけはならねえ。もし、忠治がおいらの子分になりてえなら――」
「お、親分!」
と、忠治は仰天し、悲しげな声をふりしぼった。
「な、なぜ、おいらだけはいけねえんで?」
「おめえだけは、立たせると危ねえ奴だからよ」
それから三日目。――
「あんた、どこへいってたの?」
夕焼けの往来を、暑くもなさそうにぶらぶらと深編笠をゆらめかしつつ帰ってきた果心堂に、百日紅の樹陰《こかげ》でお狛が言った。
「両国」
「両国へ何をしに?」
「四つ目屋」
「四つ目屋に何しに?」
「何か新発明の淫具《いんぐ》でも出ていやしないかと――」
「ばかなひと。それどころじゃないわよ。あんた、たいへんよ」
「何が起きた」
「たったいま、下り葉左内さまが来ていらしたの。いいしらせかもしれないわね。柳生さまのお姫《ひい》さまのお嫁入り、なんとかとめられるかもしれないんだから」
「どうして?」
「左内さまが必死に柳生の殿さまをかきくどいて、とにかく輿入れのまえに相手の鐘巻一筒斎さまのおん腕前を試すために、柳生一門で一番の使い手、つまり下り葉左内さまと、鐘巻屋敷で試合をすることになったんですって。――一筒斎さまはカンラカラカラと笑って承知なすったそうだけど、その一筒斎さまがもし負けたら、恥ずかしくって、柳生さまのお姫さまをあくまでくれなんて言えなくなるでしょ?」
「そりゃいかんな」
「何が?」
「おまえさん、いまたいへんだと言ったが、まったくたいへんだ」
「だ、だから、何が?」
「下り葉さまの右腕はぶらんぶらんだぜ」
「――あ!」
「左利きとも見えなかったし――」
お狛の顔色は変わっていた。
「だから、ぶらんぶらんを手に移さなかったほうが泰平だったんだ」
「あたし、いままで気がつかなかったわ。だって、ご本人も何も言わないんだもの。石にかじりついても一筒斎を破ってみせる、と言ってたけど、どういうつもりなのかしら?」
「ことをこう運んだだけで、もう無我夢中なんだろう」
「あたし、ほんとにたいへんなことをしちまったわ。剣術使いの右手を筋萎縮にするなんて――」
「しかし、再考するのにあの場合、手よりほかに手がないってことも事実だね。首なんぞが筋萎縮になっちまったらそれこそたいへんだ」
「冗談じゃないわよ。ああ、どうしたらいいかしら?」
「右手のぶらぶらをもとに戻すわけにはゆかないのか」
「あんた、木挽町へいって、もういちど下り葉さまを呼んで来て!」
「いや、だめだ。これまた再考するに、そこまで張り切った原動力を、どうしてもういちどヘナヘナにすることを承知するものか。――だいたい、手がもとに戻って、五体ピンピンしていたって、下り葉さまじゃ、あの鐘巻一筒斎さまに互角に立ち合えるとは思われん。いや、下り葉さまの腕前はよく知らんが、わしの見たところじゃ、一筒斎さま、あれに匹敵する使い手が、天下にそうざらにあろうとは思われん魔剣士だ。試合の申し込みを受けて、カンラカラカラと笑ったというのは客観的に見て十分理由があるよ」
「――ね、あんた、お願いだから、一筒斎さまのほうをどうにかして。――あんた、一筒斎さまのこわれたところを直したんだから、なんとかして、もういちどこわすことができるでしょ?」
「五体ピンピン、どこも故障のないあのご仁が、再度の忍法独筋具に応ずるわけがないな。だいいち、あそこが故障したって、こんどの勝負にそれほどの影響はなかろう」
お狛は、果心堂を見つめた。
深編笠越しの凝視であったが、それが無限の恨みをふくんでいるのが、玻璃《はり》を通すように刺して来て、果心堂はやや動揺した。
やおらお狛がつぶやいたのは、夫への恨み言ではなかったが、それはさらに果心堂の心を刺した。
「あのひとを負けさせちゃあ、果心堂の女房とは言えないわ」
お狛は、ふいに夫の胸にとびついて、しがみついて、ゆさぶった。
「あんた……伊賀忍法|笛谺《ふえこだま》の合奏をして!」
「なに、笛谺の合奏?」
――さらに三日目。
それは柳生家から一筒斎の腕だめしにその高弟が乗り込んでくるという当日のことであったが、その予定時間のほんの少しまえ、小人数だがいわくありげな一|梃《ちよう》の乗り物と一団の武士が鐘巻家を訪れた。乗り物には二蓋笠《にがいがさ》の定紋が鈍く光っていた。
「――なんだと? 柳生からお鷹どのが来たと?」
さすがに一筒斎は驚いて長大な顔を四十五度に傾けたが、やがてはたとひざをたたいた。
「きょう来る剣士は、お鷹どのにぞっこん惚《ほ》れた色男だという情報を受けておる。なに、人払いさせて会いたいと申しておると? ふむ、いのち乞《ご》いに来たか?……そうは問屋がおろさぬ。よし、ともあれ通せ」
密行らしく、姫君はお高祖頭巾《こそずきん》で顔を包んでいたが、やがて一筒斎の待つ座敷にはいってくると、頭巾をしずかにとった。
「柳生のお鷹です。はじめまして」
いちおう凜《りん》としてそう挨拶《あいさつ》し、手をつかえてぽっと頬を赤らめたのを見て、さしもの一筒斎がとっさに応答の声も出なかった。美人だとはきいていたが、これほどの清純さとなまめかしさをかねそなえた美女であろうとは、予期も想像も超えていたのだ。
ごっくりと生唾《なまつば》をのみ舌なめずりすると、やっともちまえの不敵な笑いがにじんだ。
「祝言まえのあいびきとは、大名の家がら同士では珍しいことでござるな」
お鷹は顔をあげ、一筒斎がまぶしくなるような瞳《ひとみ》をむけて、
「……あの、きょうの試合にはぜひとも勝ってくださいませ。鷹はそれをお願いに参りました」
と、実に意外なことを言った。
「願い? そ、それはあなたに願われるまでもなく――」
しかし、それから鷹姫さまが言い出したことは、実に一筒斎をも驚倒させる内容のものであった。
きょうの柳生の選手は、腕前を鼻にかけ、美男であることを鼻にかけ、そして弟子の分際で柳生家そのものを乗っ取ろうという野心に胸を燃やしているふらち者である。それをぜひふせぎたいという意味から、一筒斎どののこのたびの縁談申し込みは柳生家にとって天来の福音であった。
しかし、そのものは一筒斎に殺意を抱いて乗りこんでくる。ついては、柳生家のために、柳生家に太祖|石舟斎《せきしゆうさい》以来伝えられている出陣の儀式を、ぜひ一筒斎どのにも踏んでいただきたい。――
「なに、柳生出陣の古来の儀式?」
「はい。柳生家の妻たるものが、主人に捧げまするこの花輪――」
と言って、鷹姫は真っ赤になって、小さな花輪をとり出した。
それは百日紅の花をつらねた直径二、三センチの、花輪ともいえないほどの小輪であった。
鷹姫が真っ赤になったのも道理、その次に彼女が言い出したのは、それを受ける夫は、この花輪をおのれの男根の根もとにはめて勇躍出陣してゆくことになっているということであった。
「――ほ、花をつらねているのは毛ではないか」
一筒斎は、巨大な掌の上にのせた。
「髪の毛のようでもない――」
鷹姫はうす紅《べに》のさした白蝋《はくろう》のような指で顔を覆った。
「そ、それを手ずからお捧げいたすのが、柳生の妻のつとめなのだそうでござりまする……」
一筒斎の満面も紫色に近いほどそまっていた。
これは羞恥《しゆうち》でも感激のためでもない。肉欲のためである。
彼は、できうればきょうの試合を延期したいほどであった。
「一筒斎さま」
しかし、唐紙の外で声がした。
「柳生どののご門弟下り葉左内どの、ご到着でござる」
「よし、道場に通せ!」
一筒斎は吼えてから、鷹姫の手をつかんでひきずり寄せ、その掌に、この世で最小にして最大の美しい花輪をおしつけた。
「さ、はめてくれ、わが妻よ」
そして、水からあがった海坊主みたいに身ぶるいをして言った。
「出陣じゃ! 木剣の試合など、ことおかしや。必ずきゃつ、この道場で寸断してくれるが、よいな? わが妻よ――」
鐘巻一筒斎が大刀をつかんで立ちあがり、カンラカラカラと大笑して出ていってから数分後、じいっとそこにうなだれている鷹姫さまの傍らに、深編笠の影がすうとすわった。
「お狛」
どこから風のように流れこんで来たか、果心堂であった。
「伊賀忍法笛谺とやらいうやつを、一つ手伝ってみてやろうよ」
鷹姫さまは、お狛であった。彼女をものものしく護衛して来たのは、むろん偽物の柳生侍――伊賀から江戸へ出稼《でかせ》ぎに来ている連中であった。
二人はここで、天地に恥じぬ夫婦の営みをはじめた。
ただ、場所が悪い。
――果心堂は、こんなことははじめてであったが、彼自身、異様な快美と恐ろしい苦痛の交錯のためにうめき声がのどからあふれようとするのに往生した。
彼もまた装填《そうてん》した小さな花輪のせいだ、と思った。
それはほとばしろうとするものを、しめつけ、またゆるめ、柔媚《にゆうび》きわまるお狛の肉の襞《ひだ》と脈波を合わせ、十数秒ごとに彼の肉体を数倍化し、また数分の一に縮小することを反覆させるのであった。
「うぬか! 下り葉左内という奴は!」
地ひびき立てて大道場にあらわれた鐘巻一筒斎は、仁王立ちになってさけんだ。
「柳生で一番の使い手、うぬがこの花婿《はなむこ》一筒斎の腕をためさんとする――という申し込みを受けたときもわしは笑ったが」
じっさい、カンラカラカラという笑い声を天井と羽目板にどよめかしたが、それがピタリととまると、
「しかし、もはや笑わぬ。うぬは鷹姫どのに懸想《けそう》しておるそうな――」
相手の顔に狼狽の色が浮かんだのを見ると、一筒斎は憤怒のために満面朱をそそいだ。
「そうと知っては、うぬは生かして帰さぬ。あのここな身のほど知らずの痴《し》れ者め、一筒斎がこの場を去らせずぶった斬ってくれる。木剣など、ことおかしや、真剣をとれ、下り葉左内!」
そう言うと一筒斎は、鍔鳴《つばな》りさせて大豪刀を抜きはらった。
さすがに左内は仰天して、片ひざ立てたまま硬直していたが、
「ううむ、それこそわしの望むところだ!」
と言って、右側に置いた刀を右手でとろうとして、あわてて左手でとり、次に右手で抜こうとして、また狼狽のていを見せた。どうしたわけか左手で柄をつかみ、鞘《さや》をゆさぶるようにして、うしろにふるい落とす。――この場合、ひどくぶざまで、モタモタした動作であった。
「こりゃ、真剣となって、手がふるえるか」
かかっ、と一筒斎は笑った。
左内は道場のまんなかに走り出た。これを迎えて鐘巻一筒斎は大刀を大上段にふりかぶり、ねめすえたが、そのオットセイに似た顔が殺気と笑いにぬらっと黒光りした。左内の構えに、これがはたして柳生一門の代表か、と憫笑《びんしよう》させるものがあったからだ。
「参るぞーっ」
引っ裂けるような大喝《だいかつ》とともに足を踏み出そうとする。その刹那《せつな》、彼は「うひゃ」というような妙な声を発し、巨大な腰を前後左右にくねらせはじめた。
「こ、こりゃまた――」
その腰に、裂帛《れつぱく》の気合いとともに下り葉左内の一刀が流れて来た。気合いの声は凄《すさ》まじかったが、その刀はどこかグニャリとして緩慢《かんまん》であった。
「痛《い》たっ」
一筒斎はさけんだ。まさに斬られて血は飛んだが、しかしそうさけぶ程度の損傷であった。眼が激怒に血ばしり、大刀をとり直そうとしたが、また腰がうねる。うねらせずにはいられない、花輪をはめたものから送られてくる快美の脈波のためだ。それは十数秒ごとに彼の肉体を数倍化し、また数分の一に縮小した。
「うひゃ、うひゃ!」
左内の一刀がまたグニャグニャと曲線を描きつつ流れて来た。受けは受けたが、一筒斎の肩にぱっと血しぶきが飛ぶ。――
「痛たっ、痛た痛たっ、うひゃ!」
まるで二匹の章魚《たこ》の格闘みたいなしまりのない真剣勝負の進行につれて、鐘巻一筒斎の全身がしだいに朱《あけ》に染まっていった。
二蓋笠の定紋をつけた乗り物から立ちあらわれたのは、お狛である。町女房の着物に戻ったうえにお高祖頭巾をとっているので、髪を櫛《くし》巻きにした美玉のような顔がむき出しになっている。
柳生家からだいぶ離れた往来であった。護衛の侍たちは空駕籠《からかご》を包んで、風のようにどこかへ駆け去った。
ただ一人、残った果心堂が、大江戸の真っ赤な夕焼けの下を、お狛とならんで歩き出す。
「……み、見たぜ――おアネエさん!」
ほかに人影もないかに見えた、往来のどこかから、ズングリムックリした影が駆けて来た。
「おっそろしい美しい女だな、おアネエさん、おいら、胆をつぶしちまった。おおそうだ、おアネエさんのそばにくっついてりゃ、あれが直るにちげえねえ。……親分! どうか子分にしておくんなさい!」
「だから手前《てめえ》は危ない野郎だってんだ」
果心堂は、深編笠の中から、見すえて言った。
「が、まあついて来な。そいつが立った日が破門する日だぜ、国定の――」
そして、大道易者夫婦は、肩をならべて夕日の向こうへ歩いていった。
あとを、ききっと猿みたいな声をあげながら、ズングリムックリした影が追っかけてゆく。――
[#改ページ]
第四話 忍法|紅《べに》占い
長い夏の日の昼下がり、侍《さむらい》 長屋《ながや》の二階で、寝そべって何やら本をめくっていた若い侍が、くすくす笑って、声に出して読んだ。
「歌の師匠のところに、一人の娘があった。弟子の中に美しき男ありて、たがいに相惚《あいほ》れ、親さいわいのこととよろこび、その弟子を婿《むこ》にとり、婚礼の杯《さかずき》すんで色直しから、床杯までめでたく納める。新枕《にいまくら》に娘いうよう、おまえと添いたい添いたいと年月思いましたに、今宵《こよい》ぞ千代の初めでござんす。私が上の句を致しましょ。おまえ下の句をお付けなされませ。男いう、おお、それはよかろ、さあさっしゃい」
ちらと顔をあげて、
「娘いう、マミムメモ今宵はじめてサシスセソ」
それから笑いながら、
「男いう、これはめでたい、ふたりが初めて相通ずる心で、五音相通《ごいんそうつう》で下の句を付けましょう、ラリルレロこそタチツテトかな」
柱にもたれかかってすわっていたもう一人の男は、ニコリともしない。蟇《がま》みたいな武骨な顔をしているが、何か虚脱状態である。長屋の外の往来を、虫売りか金魚売りか、何か物売りの声がものうげに遠ざかってゆく。
寝そべっていた男はきいた。
「おい、きいているか」
「うん」
「おかしくないか」
「おかしくも悲しくもない。そのようなばかばかしい本、読んでなんになる?」
「なに、こんな小話《こばなし》でも読み方によってはなかなか学問になるぞ。いいか、もう一つきくがいい」
ページをめくって、若い侍はまた読んだ。
「なじみの女郎に小袖《こそで》をやろうと思うが、なんぞよい趣向があるまいか。あるともあるとも、腰から下へ歌がるたを散らしに染めたら類があるまい。これは至極《しごく》、と早々に頼む。紙付もできあがって来る。いそぎ仕立てて見たところが――」
また自分で笑って、
「ちょうど尻《しり》のところに、はなぞ昔の香《か》に匂《にお》いける。また上前《うわまえ》の帯の下に、人こそ知らねかわくまもなし。これはあんまりだ」
柱の男を見て、
「おい、色川《いろかわ》、花ぞ昔の香に匂いける、のほんとうの上の句を知っているか」
「そんなもの知らん」
「紀貫之《きのつらゆき》の歌で、人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂いける、だ。だからこういう笑い話でも、勉強する気になれば学問のたねになる。じゃあ、人こそ知らねかわくまもなし、の上の句は?」
「知らん」
「わが袖は汐干《しおひ》に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし、となる。作者は二条院讃岐《にじよういんのさぬき》だ」
「ふふん」
「いや、無学な奴《やつ》だな。考えてみると、おまえがついぞ本を読んでいるのを見たことがない。その無教養なこと、折助中間《おりすけちゆうげん》に劣る。それで三十石は僭上《せんじよう》の沙汰《さた》だ」
少し言いすぎたかと思ったが、相手は意外にも怒色を見せず、
「侍は腕が立てばよろし」
と、はじめて身動きして、ふしくれだった右腕をさすった。放心状態からはさめたようだ。じろっと寝そべっている男に眼を移して、
「大熊《おおくま》、おまえの三十石はこれこそ禄盗人《ろくぬすつと》と言っていいぞ。その細腕では刀を三回も振ったら腰がふらふらするだろうが」
と言った。
かりにも武士に対して最大の雑言《ぞうごん》だが、寝ていた男は蛙《かえる》の面《つら》に水と言ったていでニヤニヤしている。
「刀を振って、いくら腰なんかふらついても差しつかえない。あのほうで、腰がふらつかなければ。――色川、おまえ、腰骨のあたり、グニャグニャになったような気配じゃないか」
色川は四角なあごを撫《な》でた。
「されば、昨晩、モテすぎてな。六番たてつづけになんとか果たしたが、ついとろとろとしたところを、またゆり起こされて、せびられたのには、いかなわしも正直なところ、がっくり来た」
「なに言ってやがる。知らぬ奴はほんとにするぞ」
「わしがでたらめを言っているとでもいうのか」
「色川、おまえの敵娼《あいかた》のあの手古鶴《てこづる》な、あれはわしのまあ茶飲み友だちといっていいほどの仲じゃが、あれがけさ郭《くるわ》を出るとき、わしにこぼしたぞ。おまえのお友だちのあのお顎《あご》さまはありゃ何ざます。鼻息だけは百貫目の鉄棒をふりまわしたようで、それも一振りであっというまに腰が萎《な》えて、あとは死人みたいに寝ているばかり、その寝顔がまたきびが悪いが、起きていれば、なお悪い――」
「な、なんだと?」
色川は大きな歯をむき出した。
「わしが弱いと? これはきき捨てならん。これほど武芸で鍛えたこのわしが弱ければ、おまえのようなつるりのっぺり、へなへな侍はどうじゃというのじゃ」
「あれの腰と武芸の腰とはまたちがう。力ではない、わざじゃ。この道のわざもまた深遠――のぬふ、ふちすり、うしろ取り。毛雪駄《けせつた》、笠伏《かさふ》せ、金たたき。奥七口四、九浅一深。――これら秘術の名を、色川、おまえなど耳にしたこともなかろう」
「何をぬかす、知らぬ奴はほんとにするぞ。大熊、おまえが秩父《ちちぶ》に残して来た女房のおねやな、あれはわしの家の隣家の娘で、わしを兄同様にして育った女じゃが、おまえと祝言《しゆうげん》ののち半年もたって、わしのおふくろのところへ来て泣いて相談したのを、わしも傍らできいたことがあるぞ。女房になって半年になるが、亭主はいちどもまともに自分のほうをむいて寝てくれたことがない。こっちのほうが寝勝手じゃと、いつも反対向きに寝てしまう。いちどそちら側に寝てみたら青くなって、おれは箪笥《たんす》を見て寝なけりゃ寝られない習慣になっているんだから、そこのいてくれと泣き出したと。いちど忠告しようと思っているうち、なんとか静かになってしまったので、まあどうやらなんとかなったらしいと、わしとおふくろが胸なでおろしたことを知らんか」
色川はにくにくしげにあごをつき出した。
「江戸詰めとなって一年、ちょっと郭通いした数がわしより多いからといって、何をえらそうに通《つう》ぶる。おまえみたいな女|怖《こわ》がりが、たとえ吉原《よしわら》に千度通ったとて、生まれながらの弱蔵《よわぞう》がどうなるものかい」
「こいつ、きき捨てならぬことをぬかしおったな」
つい今しがたまで、顔のひもをといて笑い話の本を読んでいた大熊は、真っ青な顔になって傍らにころがしてあった細身の大刀をひっつかみ、がばと起きなおった。
「弱蔵かどうか、目にもの見せてくれるぞ」
「やるか! へなちょこ」
同時に、柱の男も大刀をつかんで、立ちあがった。
この地ひびきに、下でひるねをしていたやはり非番の朋輩《ほうばい》二、三人がびっくり仰天《ぎようてん》して、階段を駆けあがって来て、
「なんだ。色川、大熊――」
「仲のいい二人が、いったいどうしたのだっ?」
と、あわててむしゃぶりついた。
背後から抱きとめられた色川と大熊は、なお眼をつりあげ、口から泡《あわ》を吹き、
「ううぬ、離せ、離してくれ。武士に対してあるまじき恥辱を与えたきゃつ、もはや倶《とも》に天を戴《いただ》かぬ仇敵《きゆうてき》と言いつべし」
「きゃつ討ち果たさねば、わが先祖代々の霊に合わせるかんばせがない。これ、武士の情けじゃ、そこ離せ」
と、身もだえしてわめきつづけていた。――
ひとり、狼狽《ろうばい》して階段をまた駆けおりた奴が、
「刃傷《にんじよう》でござる。みなお出合いなされ、刃傷でござる!」
と、脳天から出るような絶叫をあげて、侍長屋に沿うて走っていった。……
青梅《おうめ》藩一万一千石、青梅秩父守《おうめちちぶのかみ》の上屋敷。小規模ではあるが、やはり本邸をとりまいてぐるりと二階建てのお長屋がある。ものみなすべて午睡しているようなその一角で、突如|勃発《ぼつぱつ》した騒動であった。
騒動の張本人二人は、定府《じようふ》ではなく一年交替の勤番侍、色川|京八《きようはち》と大熊|玄蕃《げんば》という。――
「ははあ、それはおもしろうござりますな」
と、深編笠《ふかあみがさ》の果心堂が言った。
夕風が椎《しい》の葉をそよがせている江戸のとある辻《つじ》。そこに「おん占い十六文・果心堂」の提灯《ちようちん》を置いた見台を出して、むろん女房のお狛《こま》も同じような深編笠をならべていた。
「おもしろくない、はなはだこまる」
と、深刻な顔をしてつぶやいたのは、いかにもまじめ青年といった印象の武士だ。
「あれほど仲のよかった両人が、どうあっても果たし合いしてこの恥辱《ちじよく》はらさねば、と歯がみして、毎日、双方をとめるのにみな汗だくになっておるが、それももはやとめかねる段階に達しておる。刃傷|沙汰《ざた》となれば、青梅藩にとって、あたら忠節有為の武士を失うおそれがあるのみか、万一このような騒ぎがご重役のお耳にはいれば、このごろ諸事倹約のお達しで、ともすれば諸士ご整理のご方針と 承《うけたまわ》 っておる際じゃ。来月はいよいよ帰国できるというのに、それを眼前にしてひょっとすると、両人、永《なが》のおいとまをたまわるということにもなりかねぬ」
「失礼いたしました。いや、私がおもしろいというのは」
と、果心堂が言う。
「ご一方が、お相手をばか呼ばわりをなさる。ご一方が、お相手を腰ぬけ呼ばわりをなさる。それでもエヘラエヘラ笑っていたお人が、あのほうが強くない、という侮辱《ぶじよく》だけには、俄然《がぜん》、勃然《ぼつぜん》、頭から湯気の出るほど怒り出されたという点でござりまするよ」
やはり、ちょっと笑った。
「よく考えてみると、男というものすべて、ばかといわれようが、臆病《おくびよう》といわれようが、醜男《ぶおとこ》といわれようが、悪党といわれようが、必ずしも腹を立てるとはかぎらない。ところが、あのほうが弱い、と言われると、まず例外なく憤然とするようですな。たとえ怒色は押えても、心中、最大の屈辱《くつじよく》として万斛《ばんこく》の恨みをのむこと、これにまさるものはない。どうやらこの一件は、男性の存在意義の根幹にかかわることらしく、それも当然。――ご両人のご遺恨は、もっとも千万のことで」
「もっとも千万と感服されてはこまる」
と、相手の武士は憮然《ぶぜん》とした。
「それでは、わしがおまえのところに相談に来た甲斐《かい》がないではないか。なんとかうまい解決法はなかろうか」
これは青梅藩の志賀寛之助《しがかんのすけ》という侍であった。いつぞやふと迷うことがあって、はからずもこの果心堂の占い、というよりその問題に対する絶妙の示唆《しさ》を受け、この大道易者が実に頼りになる人生相談の相手となることを知って、いま友情から発する悩みに考えあぐねて、この辻へやって来たものであった。
「解決法といっても、おふた方が暴言を謝罪せられて、おたがいに水に流されるよりほかはありますまいが」
「それが、左様なことは鼻から小便をしても相成らぬ。どうあっても果たし合いして決着をつけねばこの深讐《しんしゆう》は消えぬといきまいておる」
「しかし、それじゃア、たとえ負けて斬られてもやっぱりあのほうも向こうが強かった、と納得して眼をつぶるってえわけには参りますまいが」
「さ、われわれもそう申して両人をいさめるのじゃが、きかぬのだ」
「おお左様」
と、果心堂はひざをたたいた。
「はたしてあの道、どっちがお強いか、そのものずばりで果たし合いなされてはいかが」
「というと?」
「そのご両人、一夜、女人をお抱きなされてそのお強さをくらべられる。――その結果によって判定すれば、この問題に関するかぎり、お負けになったほうも、うんと降参なさるよりほかはござりますまい」
「それはげんに両人、前夜吉原に行っておる。その戦果をそれぞれ誇大に吹きたてるから、こんどの喧嘩《けんか》となったのだ。本人以外にその真相がわからん」
「だから、それを朋輩方が立ち会われて――」
「ばかを申せ、あの二人の痴態を、一晩じゅう、友人一同が横から腕組みをして観戦しておられるか」
「なるほど、言われてみれば、いかにも左様――」
考えこんだ深編笠の胴を、横の深編笠がつついた。
「――あんた、また妙なこと思いつかないで」
「うん、しかしこれは人命にかかわる問題だぞ」
と、果心堂は言って、まだ思案している。何やら胸中に一つのアイデアがきざしている気配である。やがて深編笠をあげた。
「実は、それを実際に見ないでも、あとで測定する法がござる」
「えっ、その――なんと申すか、性力の強弱をか?」
「というより、回数を、――実は、わが家に代々伝えられた秘伝でござりまするが」
「ほう、これは油断のならぬ話。いや、それはいかにして?」
「まず男性のほうに現われる信号でござるが、あれ一回につき、あとで毛が十三本抜けると申します」
「どこの毛が」
「わが家の伝書には、髪の毛の数だけ挙げてござりますが」
「髪の毛が十三本」
「そもそも男性の髪の毛は、十万六五九本あるそうでござる」
「へへえ。存外多いようでもあり、少ないようでもあるな。そう言われても、ちょっと見当がつかんが」
――これはでたらめではない。作者が念のため、二村領次郎《ふたむらりようじろう》・森於莵《もりおと》・平光吾一《ひらみつごいち》共著による『近世解剖学』によってたしかめてみたが、男性の頭髪は最大十一万五八三〇本、最小は八万一七二本で、調査の平均値はまさに十万六五九本であった。果心堂の言う伝書が甲賀流をさすものなら、古き昔、忍者がていねいに一本一本勘定したものであろうが、かくのごとく甲賀流といえどもなかなかもってばかにできたものではないのである。
「で、一回につきこれが十三本ずつ抜けてゆくと、七七四三回でつんつるてんとなる計算と相成ります」
「や、では世の禿《は》げ頭は、七七四三回|完遂《かんすい》したご仁《じん》か、偉いものじゃのう」
「いえ、それは毛の抜けるのはほかの原因にもよりましょうし、必ずしもあの回数と禿げの進行度は比例いたしますまいが、まずだいたいはその見当で」
「では、何か、事後を捜査し、現場に遺棄してある毛髪を検証するのか」
「それが、いま申したごとく、脱毛現象はほかの原因にもよりますし、また――その色川、大熊、おふた方さまはどうかは存じませぬが、世には若禿げのご仁もあり、また時至って丸薬罐《まるやかん》と相成っても、なおあのほうは矍鑠《かくしやく》たるお人もあり、まず男性をもってこの回数を測定することは一般に不適当と思われます」
「しかし、色川、大熊は禿げてはおらんぞ」
「いえ、それよりも相手の女性をもって測定する法のほうが、もっと簡単でもあり、かつ浪漫《ろうまん》的でござる」
「女のほうで――女にも何か現われるのか」
「はい、忍法|爪紅《つまべに》と申します」
「忍法爪紅」
「そのむかし、支那《しな》の夏殷周《かいんしゆう》三代のころに戒指《かいし》という制がござりました。女人が月華の際、指に指輪をはめる習いでござります。また別に面的《めんてき》の制というのもござりました。同じく月のものの際、頬紅《ほおべに》をつける習いでござります。これは交合禁忌《こうごうきんき》の告示であったのが、のちに崩れて、ただいまのごとく、いつでも頬紅をつける習いになったものだときいております」
「果心堂、えらい博学じゃの」
「なに、それほどでもござりませぬ。それを合した爪紅の法」
「ふむ」
「つまり、女人はあの際、手足の指がかがまるとか――みながみな、そんな手つき足つきになるかどうかは別といたしまして、ともあれ、あそこに気が――物理的現象としては血が寄るに相違ござりませぬ。で、爪が薄紅《うすべに》で染めたような色つやと相成る。これを翌日まで残す法でござります」
「ほほう」
「しかもそれを一本に集めて。――それゆえ、その指一本は、濃紅《こいべに》を塗ったように相成ります」
「ううむ」
「一回一本、二回で二本」
お狛が深編笠の下で、そっと自分の指を見た。
「ただし、それには事前に私がその女人《によにん》の指に、ある処置をいたしておく必要がありますが」
と、果心堂は顧《かえり》みて、声が微苦笑した。
「で、その大熊、色川、おふた方さまにそれぞれ一夜ずつ、女人を抱いていただく。翌朝、その女人の爪紅をもって判定いたします」
「な、なるほど。これはいかにも浪漫的じゃ。で、その女はどこから?」
「されば、ご独身のご勤番、やはり郭から求められねば相成りますまいなあ」
果心堂はまた思案した。
「ただし千客|枕《まくら》を重ね、万客|朱唇《しゆしん》をなめる郭にあっては、一夜たりともこの実験は不適当でござる。左様、どこか別にその実験場を設ける必要があり、どこか茶屋を借りなければなりますまいな。それから、郭から一夜遊女を借り出すのもちょっと骨折りですが」
「いや、もともと懐中豊かならざる勤番侍が買う安|女郎《じよろう》じゃ。それに、武士の生命の問題でもある。それらの費用は、われら友人の共同募金でなんとか工面《くめん》いたそう」
志賀寛之助は手を打った。
「ああ、まことに浪漫的な解決法じゃ。やはり、おまえに相談に来た甲斐があった。……ところで、果心堂、十本の指の爪で足りなかったらどうするな?」
「足の指も十本ござります。まさか、二十本でもなお足りない、などいうおひとはござりますまいが」
「いや、なるほど。――よし、では両人を説得し、場所人員の支度ができたらまた来る。……ここにおるな?」
志賀寛之助はおおいにハッスルして駆け出した。
「あんた、またへんな相談に乗ったわね」
「うん、しかし、事情はいまきいたとおり、侍二人が生きるか死ぬかの問題じゃ。見捨ててはおけん」
「いったい、事前の処理って、女の人の指にどうするの?」
「さ、実のところわしもその秘伝書を験《ため》したことがないが、なんでも肥後《ひご》ずいきを輪にしてな、男の髪でむすんで女の指の根もとにはめればよいとある。――しかし、これがうまくいったなら、おおいに世にひろめてもいいと思うな」
「そんな、ばかばかしいこと」
「いや、決してばかげたことじゃない。男というものはな、とくに初対面のときなど、犬がくんくん嗅《か》ぎ合うように、おたがいの器量を嗅ぎ合うものだ。こいつとおれと、どっちが偉いのかな、とね。それが正直なところ、よくわからんことが多い。頭はばかでも、なぐりっこでは強い奴があるし、なぐりっこでは強くても女には弱い奴もある。人間の才能力量は千変万化だからな。――そこで、おれはあいつよりえらい、いやこいつにはかなわんと片腹痛い天狗《てんぐ》になったり、見当ちがいの悲観をしたりして、乱麻のごとき男の修羅場《しゆらば》がくりひろげられる。そこでだ、どんな男にも共通したあのほうの力をもって測定したら、そこがスッキリするだろう。いちばんあのほうの強い奴が、猿《さる》の大将がしっぽを高々とあげるように、それを高々とあげて世に布告するがいい」
「だって、それが強くってもばかという人があるって、いまあんた言ったじゃないの?」
「珍種という奴はどこの分野にもあるからこれは例外だ。例外はだれの眼にもわかるから問題とするに及ばない。しかしな、一般に男の器量は、あのほうの力量に正比例する、という根本的原理をわしは認めたいな。世に何かをなす人物は、たいていあのほうの力が――少なくとも潜在力が豊かだと見てるよ。英雄色を好む、というじゃないか。一見、色を好まない英雄天才は、そのほうの潜在力を変形昇華しているんだ。逆に、またたとえ剣術が強くっても、あのほうがだめな奴は、実戦となったらまず役には立つまい。潜在力も外発力も、どっちもだめな奴はこりゃ救いようがないが、これが世の男の大半でもある」
「なんだか、ひどく独断的な見解だと思うわ」
「と言われると、うふ、これはあのほうに弱い男の悪夢的哲学かもしれんな」
「……ちっとも弱くないじゃないのさ」
「そうか、弱くないなら、それが、わしが昇華ができなくって、かくて巷《ちまた》の大道易者となっているゆえんだ」
深編笠をゆすって、一笑した。
「ともあれ、この爪紅の法が世にひろまったとするとな。すると、――ちょうど月経の信号であった頬紅がいまの世にたんなる女の化粧と変化したように、これも回数の表示である起源が忘れられて、後世、女の化粧の一つとなるかもしれないよ」
数日たって、また志賀寛之助がやって来た。いっしょに二人の男をもつれて来た。
「承知してくれた、紹介する」
と言って、
「あれが色川京八」
と、色の黒い、あごの四角な、蟇《がま》みたいな顔をした大男をさした。
「これが大熊玄蕃」
と、油壼《あぶらつぼ》から出て来たようなシナシナとした男をあごでさす。
二人は三メートルも離れて立ち、たがいにそっぽをむいている。
果心堂は、深編笠の中で眼をぱちくりさせた。
「へえ、お名前が逆じゃないんで?」
「逆? いや、いま申したとおりだ、あれが色川、これが大熊」
「どうも混乱するな」
果心堂は笑い出した。
「なるほど、いや失礼つかまつりました。どうも世の物語などでは、強そうな奴が強そうな名を、やさしそうな人がやさしそうな名をつけてござるが、考えてみればそんなうまい具合にゆくはずがない。姓は先祖伝来のものであるし、名は親がつけたときには、大人《おとな》になって強くなるかわかりっこないのですからな。どうも物語の作者は実にご都合主義です。――で、場所とほかの人員は?」
「いや、郭《くるわ》との交渉が郭法とやらでゆきなやんで実に往生したが、まずなんとかなった。準備完了じゃ」
郭法よりも、おいらんのほうが浮かぬ顔をしたのだろうと果心堂はおかしくなった。
江戸に一年勤番の田舎《いなか》 侍《ざむらい》は、独身生活を強《し》いられているから、女と見れば親の仇でも討つように目だまがすわる。財嚢《ざいのう》は軽いのに野暮《やぼ》でしつこいから、ふつう色町では鼻つまみで、からかいの的《まと》となっている。勤番侍の羽織の裏が多く浅黄木綿《あさぎもめん》となっているから、世にこれを浅黄裏と呼んだ。
武士たるものを背中にてあいしらい
まだ後《あ》トにこりゃと四五両浅黄見せ
くいついてくれろと頼む浅黄裏
人は武士なぜ傾城《けいせい》にいやがられ
眼中血ばしりいや身共《みども》帰るじゃて
「それはご造作をおかけしましたな。これお狛、では両国の四つ目屋に行って、さっそく、肥後ずいきを買って来てくれ」
「いやよ、四つ目屋なんて」
果心堂はふとうしろをふりかえり、そこにつくねんと立っているズングリムックリした影を見ると、
「おい忠治」
と呼んだ。
「きいたか」
「へ? なんだか、わけのわかったのは肥後ずいきを四つ目屋に買いに行くってことだけで」
「それだけわかってりゃいい。おまえ、行ってくれ」
「親分がおアネエさんにお使いになるんで? それを忠治に買いにやらせるってのは、そりゃむげえ」
「うるせえ、手前《てめえ》いやなら、お狛に行かせらあ」
「おっとっと! この暑い日盛りを、そんなものを買いにおアネエさんをやるのはいよいよむげえ。ようし、合点でござんす!」
懐中からとり出した鳥目《ちようもく》を、果心堂がポーンと投げるのを受け取って、国定忠治は、たちまち鞠《まり》のごとく土煙をあげて駆け去った。
当時のものの本に、「ひごずいき。はす芋の茎の皮をむきて、紐《ひも》としたるものにて、その色白くすべすべとしてやわらかく、至って美しくさらしたるものなり。まき方はかしらよりかけ、なわをとりてねもとにてとめる。中にてふやけ、きみよきこと甚《はなは》だし」とある。
ただし、果心堂は、おいらんの指のねもとに巻いた。
忍法爪紅は成功裏に終了した。
容貌魁偉《ようぼうかいい》な色川京八君も、ナヨナヨとした大熊玄蕃君も、武士の面目《めんぼく》このときにありと奮励努力したことは歴然として、それぞれ一夜にして眼はおちくぼみ、顔色|憔悴《しようすい》した。
――にもかかわらず。
大熊玄蕃のほうのおいらんは左手の小指と薬指の爪がほんのり赤くなったのに対し、色川京八のほうのおいらんは右手の親指の爪一枚だけであったが、これは倍も濃度が強い。――ただし、たったこれだけ。
正直なものだ。
死力をふりしぼれば石ならもう一つ持ちあげられるということもあるが、こればかりはね。
それはさておき。――
「こりゃ、どういう意味じゃ?」
と、けげんそうな眼をむける志賀寛之助に、
「味の薄いのが二本と、味の濃いのが一本、まず相討ちというところでござりましょうな」
と、果心堂は答えた。
実ははじめてのことで、しかも詳細な分析表など秘伝書になかったから、さあ彼にも、右の親指とか左の小指薬指などの差の意味がわからない。わからないが、この測定法はなんとなく非常に鋭敏なような感じがして、彼は心中舌を巻いた。
ずっと後世のマニキュアなどを待たずしてふた月ばかりのちに、もう一大反響が現われた。
江戸に白い初秋の風が吹きはじめた一日、また志賀寛之助が一人の武士をつれてやって来た。四十四、五歳の眼のギョロリとしたやや出っ歯の、しかし見るからに冷静にして強靭《きようじん》な意志の持ち主らしい武士であった。
これが、いずれも旅装束《たびしようぞく》である。しかもこれから旅に出かけるのではなく、どうやら旅をして来たといった気配だ。
「先《せん》だっては、いろいろと尽力かたじけない。実はあれからまもなく、江戸詰めのご奉公が終わって、殿に従って青梅へ帰っていたのじゃが、このたびわざわざ出府して来たのはほかでもない。おまえに頼みたいことがあってのことじゃ」
と、志賀寛之助は言った。なぜか、どこか憂鬱《ゆううつ》げな顔色であった。
「ご用と仰せあるのはこのお方――わが青梅藩の国家老《くにがろう》のお一人、岸大蔵《きしおおくら》さまである」
「――は?」
さすがに深編笠が、めんくらったゆれ方をした。
「ご家老さまが、易者のわたしにご用?」
「忍びの出府じゃ。人には言うな」
と、岸大蔵は言った。重厚で、金属的な声であった。
「ふとしたことから、そのほうの奇妙な占い――占いと申すか、検査法と申すか、そのことを耳にして、おまえに願いのことあって、わざわざ江戸へ出て来た」
それから大蔵は深い思案顔で言い出した。
「その昔、宮本《みやもと》武蔵《むさし》がな、細川忠利《ほそかわただとし》公に向かって、名は存ぜぬがご家中《かちゆう》に、器量抜群の士を一人見受け申した、と言ったそうな。で、その者を捜して召し出してみると、べつに武芸もすぐれず、平生凡庸《へいぜいぼんよう》としか見えぬ都甲《とこう》某という侍であったという。この男のどこを見込んだか、と武蔵にきいても、武蔵は笑って答えなかったが、後年この都甲某は、主家のためにご公儀の獄に投ぜられる羽目に陥ったとき、言語に絶する拷問《ごうもん》に屈せず、ついに口を割らず主家の難を救ったという。――細川公には及びもないが、不肖《ふしよう》岸大蔵も、武蔵がどこを見込んだか、多年、このことについて深く思索するところがあった――」
「なるほど」
「と申すは、わが青梅藩、打ち明けて申せば諸事手づまりにて、一歩を誤ればぬきさしならぬ悲境におちいりかねぬ危うさを内包しておる。これを打開するには、何とぞ清新敢為《せいしんかんい》の人材を抜擢《ばつてき》したい――と、一藩をあずかる家老の席に列する不肖大蔵、日夜腐心しておるからじゃ。申すまでもなく、藩の危機を救う者は武芸の上手《じようず》なんぞではない。べらべら弁口のたつ才子でもない。胆《きも》のすわったまことの武士じゃ。それはどやつであろうか、と武蔵の故事をも思い合わせ、つらつら一藩を見わたしてみたが、不肖大蔵、ついにわからぬ」
「なるほど!」
「ところが一夜、ふと、人間の器量は性力の多少によってきまるのではなかろうか、という発想を得た」
「な、な、なアるほど!」
果心堂は筮竹《ぜいちく》をたばにして、見台をピシリとたたいた。
「時なるかな時なるかな、そのとき、おまえの爪紅の法とやらをきいたのじゃ。これによって家中の者の性力を調べ、これを基準としてまことの侍を抜擢しては如何《いかん》と」
「へ? 一藩のお武家さますべてに? こいつア――」
「ならぬか。いや色川、大熊の両人になったことが、余人にならぬはずはない」
と、岸大蔵はギョロリと眼をむいて言った。
「果心堂とやら、青梅藩建て直しのために心肝をしぼっておるわしの苦衷《くちゆう》を買ってくれい」
「しかし――ご家中のお侍さまが何百人あるかは存じませぬが――その奥さま方の指全部に肥後ずいきの輪をはめるってのは――だいいち、手数が――」
「いや、手数はこちらでかける。で、その法の伝授を受けるために大蔵自身が、かくわざわざ出府して来た次第じゃ」
岸大蔵はふいに顔をつき出し、猫《ねこ》なで声で言った。
「易者、過分の礼はつかわすぞ」
「……あんた、よしなさいよ、ね」
と、お狛が脇腹《わきばら》をつついた。
「青梅藩の奥さまみんなのお爪を赤くするなんて……そんなこと、とんでもない話だわ」
「否《いな》とよ、女子と小人の知ることならず」
と、果心堂がおごそかな声を出した。
「ようござります。伝授いたしましょう」
「や、きいてくれるか。礼はするぞ」
「いや、お礼はともかくといたしまして、人間の器量はあのほうの回数に正比例するのではないか、というわたしの学説と同意見のお方が忽然《こつねん》と出現なされたのがまずうれしい。次にその学説を大々的に実験する機会を得たことがさらにうれしい。しかもそれが一国の政治に原理として適用されるとは――忍法もついに政治に登用されるように相成ったか――と思うと、甲賀に生を享《う》けた者として、本懐、光栄、これにすぎたるものはない……」
「おお、そのとおりじゃ。この原理による人事が首尾ようゆけば、青梅藩はそのほうを聘《へい》して魯《ろ》における孔子《こうし》のごとく遇するにやぶさかではない。で、用意として、ここに肥後ずいきを少々持参いたしたが――」
岸大蔵にあごをしゃくられて、志賀寛之助はやおら懐中から、白くさらしたはす芋の皮をとり出したが、いぜんとしてどこか浮かぬ顔であった。
数日後、果心堂は忠治に肥後ずいきを入れたつづらを背負わせて、青梅へ出立させた。さきに帰国した岸大蔵から斡旋を頼まれたものだ。
「え、親分、お忘れかもしれませんがね、あっしゃ忍法|独筋具《どつきんぐ》とやらに中《あ》てられて、その、立たねえんですぜ……」
「知っておる。そんなもの立たなくったって、荷運びにさしつかえはないよ」
「その荷が肥後ずいきとは……立たねえ男が、四つ目屋の貯《たくわ》えがからになるほどの肥後ずいきをしょってゆくたア……」
国定忠治はべそをかいた。
「赤城の山の鴉《からす》が見たら泣きやすぜ……」
「忠治」
と、お狛がきっとして言った。
「おまえ、親分のおっしゃることがきけないのかえ? おまえがゆかなきゃ、あたしが代わってしょってゆくから、そのつづらそこに置いといて」
「おアネエさんが肥後ずいきをしょって……ト、ト、とんでもねえ、そんなことをしたら赤城山どころか関八州《かんはつしゆう》の鴉が泣きさわぎまさあ。ゆきます、ゆきます。おアネエさんのお言いつけとありゃあ、たとえ火の中水の中……」
「ただ荷送りばかりの用じゃあねえ。おめえに頼みてえこともあるのさ」
と、果心堂が言った。
「忠治、青梅の岸大蔵さまのお屋敷についたらな、そこに三月逗留《みつきとうりゆう》して、青梅藩でどんなことが起こったかよく見物していてくれ。こいつア肥後ずいきの減り具合からあとの仕入れの都合を見るためだからと、ご家老にもよく話してある。……おめえにゃ眼の法楽となる見世物だよ。ひょっとしたら、おめえの独筋具が解けるかもしれねえ」
「えっ、そりゃほんとでやすか?」
「ただし、きょうから三月目にはきっと帰って来いよ。そして帰って来たら藩のようすを話してくれ。愉《たの》しみに待ってるよ」
「へ?」
あいまいな顔で一つお辞儀し、やがて大つづらをしょいあげて、西へトボトボ三度笠《さんどがさ》の影を消してゆく忠治を見送ってから、お狛がつぶやいた。
「――とは、言ったけれど、あたし、あんまり乗り気じゃないわ。いまでもよせばよかったと思うわ、あんなばかなこと。――家老をつれていらした志賀さまも、なんだか浮かない顔していらしたじゃない。あたりまえだわ」
「しかし、あの回数で有能の士を見つけ出すというのは、あんがい理に合ってるとわしは思うよ」
「でも、あのご家老さまの顔、なんだか気にくわないわ……」
「それそれ、女はそう皮相だからいかん。いかにもあのご家老、外見はちょっとまあ冷酷奸悪《れいこくかんあく》の相がないでもない。しかし人相と人柄を単純に結びつけるのは、くだらねえ大道易者と物語作者と女くらいなもんだ」
何か思いついたとみえる笠の振り方をして、
「とくに女の人相と人柄は、これはまず一致せんと見たほうがよろしい。わしの見解では、悪女の相のある女に存外お人よしで世話女房となる型が多くって、天女のようなかわいらしい顔をしていて、これで思いのほか意地悪で強情なのが多い――」
「あら? あたしはどちら?」
「おまえさんはどっちかな? それはこんどおまえさんの寝顔を見ながらゆっくり考えることにして、いまの岸大蔵さまの話だがな。よしやあのご家老さまが奸物《かんぶつ》としてもだ。わしの見解では、政治家はむしろ奸物のほうがよろしい。奸物くらいでないと、奸物だらけの我利我利《がりがり》どもをあやなしてゆけるものじゃない。古今東西の歴史を見ても、一国の黄金時代を作ったり守ったりする政治家はたいてい大悪党で、反対に善人が支配者となったときほど国をあやまり、民の苦しむ時代はない……」
「ちょいと、えらそうなことを言って、そんなに自信があるのなら、なぜあんたが青梅へゆかないの?」
「それがな、ご家老さまが、ふと気になることを言ったよ。うまくいったら、このわしを魯の国の孔子さまみたいにすると言ったろう。いくらなんでも果心堂、孔子さま扱いは敬遠したい」
「ホ、ホ。あんたが孔子さま。――あんた、青梅で何が起こるか、自分の眼で見るのがちょっとおっかないんでしょ。忠治さんに物見を言いつけたのは、そのためでしょ?」
「占い師の女房はこわいな。うふ、本音を吐くと、そういうこともあるのさ」
――三月《みつき》目、忠治の報告。
いや、江戸は寒うござんすねえ。考えてみりゃ秩父颪《ちちぶおろし》がもろに吹きつける青梅の山町なんざ、江戸よりもっと寒いはずなんだが、いつ寒くなりゃがったかちっとも気がつかなかった。
というのも、あんまりあの町で起こったことが大笑いだったからにちげえねえ。実は親方から三月目に帰《けえ》れってきびしいお達しだから、ひとまずけえっては来たものの、まったくのところこれからおあとはどうなってゆくものやら、もちっと見物して来とうござんしたよ。
え、痩《や》せた? ゲッソリ、痩せた?
そうかもしれねえ、ものの三月、腹をかかえて笑いどおしに笑っちゃアいたが、それじゃ愉《たの》しかったかというと、いやこんなに辛《つれ》え見世物はなかった。親分は眼の法楽なんておっしゃったが、あいつア眼の地獄だったかもしれねえ。毎日、笑いこけながら、のたうちまわって苦しんでるなんておかしなことア、国定忠治、へその緒《お》切ってはじめてだ。
肥後ずいきはたしかにおいらが届けやしたが、あれをあんなふうに使おうたア、こいつも忠治はじめて見たことでござんした。へえ、親分のなさろうとしたことが、おいらにもだんだんわかって来やしたよ。
とにかくねえ、あれからご家老と殿さまが談合して、「おずいき組」ってえのを作りやした。あそこの藩には女小姓ってえ奴がありやしてね、十二、三のおちゃっぴいどもだが、こいつがご家老からずいきを輪にする法やらそれを髪の毛でむすぶむすび方やらを伝授されやしてね、お侍衆の奥さま方にはめて回る。そして殿さまのお名前《なめえ》で家中一統にお触《ふ》れを出した。おいらにゃ読めねえが、なんでも「いざかまくらってえときに、殿さまのお役に立つさむれえかどうかは、あのほうの元気者か弱蔵かによってきまる。よってこれから、かくかくの制法により女房に現われる爪紅の数と色によって、将来《しようれえ》のお取り立ての参考にするであろう。左様心得て、野郎どもふんぱつしやがれ」ってえ意味のお触れなんだってねえ。
そして毎朝「おずいき組」がさむれえの家を回って、その赤い爪の按配《あんべえ》を調べ、帳面につけて歩く。その帳面を「忠士ずいき帳」ってんだそうだ。
さあ大変《てえへん》だ。
だいたいね、青梅って町ア、木綿縞《もめんじま》と漆《うるし》と炭が名産なんだそうだが、うらぶれた山ン中の町だ。しかも見たところ、織物も漆も炭もこいつア上州とおんなじだが、年貢《ねんぐ》や冥加金《みようがきん》のお取り立てがきびしくって、ひょっとすると上州よりもっとひでえかもしれねえ。あの岸大蔵っておひとはもともと下《した》っ端《ぱ》侍から成り上がったおひとらしいが、これがご家老でも財方《ざいかた》のご家老になって、それ以来《いれえ》めっきりお取り立てぶりがあこぎになったというんだがねえ。
ともかくも、滅入ったようなのア町方ばかりじゃアねえ。侍衆みんながいつお払い箱になるかと首をすくめてびくついてるような按配《あんべえ》でね、出世はおろかご加増なんざ途方もねえ夢だ。そこにこんどのお触れでがしょう。
うだつの上がらねえ奴が、すわや出世の時至るってえわけで、やけにはり切るのア、いわずと知れたこと、そんな山ッ気のねえ奴だって、これがもとで扶持《ふち》離れでもしたら眼もあてられねえから、うかうかしちゃアいられねえ。ききやしたぜ、朝の往来なんぞで、ひそひそと、
「貴公、昨夜は何枚おできでござる」
「どうやら三枚にこぎつけ申した」
「それは羨《うらや》ましゅうござる。拙者、熱汗しぼり歯がみをすれど、昨夜は二枚にも参らず……」
「ほほう、それはなんともお気の毒」
「かえりみれば今月はぜんぶでまだ七枚。前途を思えば眼の先が暗くなるようでござる」
なんぞと、まるで貧乏人が内職して、その内職のはかどり具合か駄賃《だちん》の話でもしているようだが、しかしこれが出世につながるとありゃ、まったく爪一枚が小判一枚にあたるかもしれねえ。
あの爪が赤くなるってえのは、どういうからくりから来るんでござんすかねえ。その赤さが、ありやなしや、ホンノリ湯上がりくれえなのから、中には爪ぎわだけ、または先っぽだけが半分真っ赤になってるなんてえのが現われて、こいつを一枚と見てやるか、それとも半枚とするか、あっちこっちでちょっともめたらしいが、岸ご家老のお触れで、まるまる一枚、しかも「おずいき組」がいいとみとめる濃さでなきゃ、半枚なんて勘定はしねえということになったようで、このおちゃっぴいどもの検査がまたばかにきびしいんだなあ。それはともかく、爪半分だけが赤くなるなんてのア、ありゃ、新造は中折れがして持てあまし、ってやつかねえ。
ききやしたぜ、夜の侍《さむらい》 小路《こうじ》なんぞで、うなるように、「これ、いま一番がまんしてくりゃれ。出世はともかく、何の何某、きゃつにおくれてはなんとも無念至極、いま一番、わしの武士を立てさせてくれい」
と言ってる声がきこえるかと思うと、とんだフガフガ声で、
「年齢のことはご斟酌《しんしやく》に相成るということじゃが、かりにも忠士ずいき帳にその名を録せられざるは、老骨六十有余年の名折れ、まった、殿へも申しわけなし。婆《ばば》よ、頼むわしを忠士にしてくれろ」
と、かきくどいている声をきいてふき出したこともありやす。
しかし、物見だか、盗みぎきだかしらねえが、あとになって考えてみりゃ、いちばんよくきいたのは女の声で、しかも日とともにそれがだんだんカン高くなって来たようだ。
「あなた、ご出世のためでございます。しっかりあそばせ!」
「気はしっかりしてるんだが……」
「まあ、虫のような声をお出しなされて、男ではござりませぬか!」
「男だからだめなんだ……」
「そのようなことで、万一いくさの際、ものの役に立ちますか。ああ、ほんとうに、侍の侍たるゆえんはこのことにあるとのお触れは、さすがに殿さま、真実の仰せであった。ええ、理を説いてきかせてもせんない、さっ、お覚悟!」
「あっ、やるか! しかたがない。……では、二、三度|尻《しり》でもたたいてみてくれ……」
「では、まじないに、それ、出世! 出世! 出世!」
何やら音がしたが、たたいた音なんだか、屁《へ》の音なんだか、なんの音だかわからねえ。
しきりに奥さま方が旦那《だんな》の尻をたたいて出世出世出世と責めぬいているのをききやしたが、いや女の欲張りはおっかねえ。――とはいうが、ありゃほんとに旦那の出世を願う欲ッ気だけかねえ?
野郎の器量とあのほうの元気との照らし合い、ってのア親分のご意見でござんすかい。いやまったく恐れべ、忠治も同感でござんす。
青梅でもね、はじめのうちは、
「左様な学説、寡聞《かぶん》にしてきいたことがござらぬ」
「人間、それほど単純なものではござらぬ」
「このたびのご制法は恐れ多い批判ながら、ちとむちゃではござるまいか」
なんぞと、モゾモゾこぼしてる青瓢箪《あおびようたん》侍もいくらかあったようだが、そのうち、
「いや、思いあたることもござるて。持筒頭《もちづつかしら》の高谷惣兵衛《たかやそうべえ》どの、どうやら忠士ずいき帳の成績があまりかんばしゅうないが、そう言えばあのご仁《じん》、持筒頭になったのが怪人事、と思われるくらい無能ではないか」
「長柄《ながえ》奉行の戸村丹左衛門《とむらたんざえもん》どの、あれも成績不良ということじゃが、なるほど平生ぱっとせぬご仁じゃな。思い合わせて顔を見れば、何やら頭も愚鈍に見える。ウーム、なるほどこのたびのごずいき調べ、あたっておるわ!」
てな噂ばなしをきくようになりやしたよ。
だからおいらもあの爪紅占いのまっとうなことは信心するんだが、しかし親分、こいつア、あっちがだめだだめだ、と言われると、こっちの何もかも、人間、自信ってえやつをなくしてくるんじゃあござんせんかい? おいら、骨身にしみることがあるんで。
とんだ飛び火でひと騒ぎ起こった家もある。
あんまり「ずいき帳」で女房に尻をたたかれ、朋輩《ほうばい》にあなどられるものだから、たまりかねてほかにも女のあることを白状したおひともありやすしね。また奥さま相手の成績をあげようってんで、つい手が回らなくなっちまったもんだから、こんどは妾《めかけ》のほうで怒り出して、どなりこまれたおひともありやす。
もっとも「忠士」を見つけ出すのが狙《ねら》いだから、妾のある奴ア遠慮なくどんどん名のり出て、妾にもずいきを巻かせろってえことになって、あの岸ご家老、顔に似合わずいきなお方ではござんすねえ。
いや、あれが忠士、あのことが出世と、こうぴったりくっつきやすとね、あたりめえの筋書きだが、むろんいかさまをやる奴が出て来る。
二、三人、ほんとの紅《べに》を女房の爪に塗った奴もありやしたがね。ずいきのからくりの紅色とア、つや[#「つや」に傍点]の深みがちがってたちまち露見、なんとこれ、そのままバッサリになりやした。みせしめってえこともあるだろうが、ご家老、こんどの一件はまったく本気だ。
見破られねえいかさまをやった奴もある。ご家老はご承知かどうかしらねえが、噂はきいたし、きいたのみならず、忠治、じかに知ってることがあるんでさ。
というのア、間男《まおとこ》を知らねえのは亭主ばかりのはずだが、この場合は亭主ばかりが知ってる間男なんで、つまり、亭主が承知で女房に因果をふくめて、そして赤い爪を一本でもふやそうってえ修羅の魂胆なんだなあ。
どうやら力のあまってるらしい友だちの家へいって頼む。で、むずかしい顔をして、
「いや、事情をきけばもっともじゃ。月にたった五枚そこそこでは、おぬしの面目にかかわる。おぬしはともかくとして、青梅でゆいしょある名家に傷がつかぬともかぎらぬ。では、友情のために一つ」
なんてえのは、本気かどうか、まあ心がけのいいほうで、なかには、
「その分だけ、身どもの妻の爪紅が一枚へることになるが、謝礼はいかほどか」
なんぞと切り出す奴もあったと言いやす。
あったというどころか、なんでもそのうち相場が七両二分まで上がったそうで、けっ、こいつア間男の相場にはちげえねえが、間男のほうが亭主に出す代金ですぜ。
噂だけじゃあねえ、おいらも町の暗い裏通りで、品のいいお高祖頭巾《こそずきん》の女に呼びとめられて、どうしても月末《つきずえ》のやりくりがならぬ、見知らぬお方に恥を言うようであれど、どうぞ取りいそぎ二、三枚助けてたもれ、五両まではあげるからと、そりゃすごい眼で、さしせまった息づかいでしがみつかれたこともありやす。……いっそ、日本じゅうに、青梅藩みてえなお触れを出したらどういうもんでござんしょうね。
ああいちど岸大蔵さまを、天下のご大老にしてみてえなあ。
だから「出世の素《もと》」をたいせつにすることア大変《てえへん》なもんだ。往来で友だちと、刀剣の手入れの話なんぞをしていて、ふいに一方の眼があらぬかたにすわると、
「急用を思い出してござる。失礼じゃが、ご免!」
と、またぐらをかかえて駆け出すってえありさまで、なに思い出したのは女房のことさ。こいつアもよおしたときになんとかしておかねえと、梅雨《つゆ》どきの日ざしみてえなもんだ。また、まるで茶碗《ちやわん》に盛った朝鮮|人参《にんじん》の煎《せん》じ汁《じる》同様、一しずくもむだにできねえ貴重品ってえわけでござんしょうね。
ところが、そのうちへんな奴が出て来やした。みんながみんなじゃあねえが、たとえば、いつかここでお見かけしたあの大熊玄蕃さまに色川京八さま、あれも殿さまについてお帰りでござんして、おいら、まあ顔見知りだけに、ちょいちょいご両人のとこへ物見に出かけやしたがね。帰国当座は、ご両人、ばかに張り合って、しかもそいつが忠臣表彰のたねになるというんだからとめどがねえ、双方りきみかえって「ずいき帳」の点数をふやすのに精根しぼっていやしたが、そのうち――だんだん陰気になって来た。
「大熊がの、また箪笥《たんす》に抱きついて寝るようになったと申すぞ」
と耳うちしてニタニタしていたあの蟇《がま》みてえな顔をして丸太ん棒みてえにたくましい色川さままでが、やがて、
「女の話か。よせ、よしてくれ!」
と、ゲップみてえな声を出すようになりやした。
どうも四六時中、あのことばかりかんげえてると、愉しいどころかなんだか胸がつかえるようになったということだが、そのうち女の影をちらっと見ただけで、狂犬病みてえにふるえ出すって始末でさあ。
こりゃ、ここ半月ばかりの話だが、そう言われてみると、はじめから変わったお人もある。それが、これもここでお見かけした志賀さまでね。このお人は、おいらお目にかかって眼がさめたほどの美しい奥さまをお持ちでござんす。祝言あげてすぐ江戸詰めになって、ようやく一年たってお帰《けえ》りのところ、そうでなくったってふるいつきてえほどの奥さまなのに、これがどういうわけか例の「ずいき帳」はまったくの白紙。例のおずいき組が向かって来ても、こわい顔で、
「おれには無用の沙汰《さた》じゃ。勝手に書け」
って、けんもほろろにあごをしゃくるだけだそうで。ご家老を親分のところへつれて来た手がらの張本人だというのに、こりゃどういうつもりでござんしょうねえ。
もっとも志賀さまは、ご家老からとくに別扱いの格の衆にはいっているのかもしれねえ。というのは、青梅藩のうち、殿さまと殿さま一族はもちろん、それから家老、番頭《ばんがしら》、物頭《ものがしら》以上は、この「忠士ずいき帳」からご免になってるんでさ。こいつア身分を取り立てる必要がねえからってえことですが、しかしひとなみに調べて「ずいき帳」の末席に書きあげられるなんてえことになったら、とんだ恥ッさらしでござんすからねえ。
ま、青梅の物見の次第《しでえ》、あらあらよってくだんのごとしでござんす。
「忠治」
「へ」
「立ったか」
「へ」
「女にむしゃぶりつかれたこともあったと言ったろうが」
「それが、親分、立たねえ」
「ほう、だめだったかい」
「おいらの頬のこけ具合を見ておくんなせえ。地獄だったと言ったじゃあござんせんか?」
「うふ、まあよかろう。なんとかなるかとも思ったんだが、天の神さまがまだおめえに立てとおっしゃらなかったんだ。これ、泣くな、泣くな。そのほうがおめえにとってよかったかもしれねえ。それが立つようになると、おめえが磔《はりつけ》に上がる運命がきまる」
「磔になったっていいから、ヨ、親分。――おいら、女の爪七本は、血をふくほどに染めやすぜ!」
「だからいけねえってんだ。ま、しばらくおれの思案がきまるまで待っていな」
お狛が言った。
「あんた、どうする気?」
「忠治のことかい」
「いえ、青梅藩のこと」
「さあ、どうするかな。いや、どうなるのかな。わしにもぜんぜん見当がつかんが」
と、果心堂はすこぶる無責任なことを言って、深編笠の下で、煙管《きせる》をくゆらせている。
「あれを、忠節孝義の美談同様に、大っぴらに勧奨する。その成績|如何《いかん》によって抜擢する、という政治の方針は、根本的には進歩的だと思ってるんだが……」
「殿、いかがでござりましょう?」
壁に畳一畳分くらいの大きな図表が数枚|貼《は》りつけてある。それをくい入るように眺めていた青梅秩父守は、家老の岸大蔵にうながされて、かすかにうなずいたが、なお図表に眼をそそいだまま、
「やるものじゃのう……」
と、つぶやいた。
これは家中一統の回数表なのである。一枚は全員の成績表であり、一枚は身分別の統計であり、一枚は時間的経過による変化のグラフである。
「このごろ、全体として急速に落ちているではないか」
「されば、そのあたりからの成績はやや異常と見られ、これは正常なる考慮の外に置いてもよいと存ぜられまする。その最盛時における個々の数値は、いま殿のお手もとにさしあげたるものでござりまする」
「ふむ」
秩父守は眼前の分厚な帳面に眼を移した。表に「忠士ずいき帳」と書いてあったが、これは「おずいき組」の少女たちが持っていた帳面を整理し、総編集したものであった。
「下士ほどさかんではないか」
「御意、貧乏人の子だくさん、という諺《ことわざ》どおりでござります。きゃつら、食うものも食わずして――と申しとうござるが、しかしこの分で見ると、なおそうとう、体力に余裕があるものと判断してさしつかえござりますまい」
「下士平均は、月に四十三回。……ううぬ、食うものも食わずして、かくも夜毎《よごと》に愉しんでおるか!」
そのとき、背後の唐紙《からかみ》がそっとひらいて、
「殿さま、まだでござりますかえ?」
と、三つの美しい顔がのぞいた。秩父守の愛妾《あいしよう》たちだ。一人が今夜の当番で、あと二人はかいぞえだが、これは夜毎に交替することになっている。
「はいるなっ」
と、秩父守はカン高い、狼狽した声を投げつけた。妾たちはびっくりして唐紙をしめてしまった。
「ウーヌ、家中の者ども、かほどタップリ味わっておるか、あのようなよい目を――」
秩父守はまたうなった。あきらかに不機嫌な顔つきであった。
青梅秩父守はまだ三十まえの若い殿さまである。みるからに神経質な胡瓜《きゆうり》みたいな顔をしている。国元にいわゆるお国御前《くにごぜん》は十人以上もいるが、この若さで消耗したか、それとも元来|蒲柳《ほりゆう》のたちなのか、毎夜三人を侍《はべ》らしては寝につくが、実行は十日に一度がいいところ。
十日に一度でも秩父守は、自分の味わうあの快感は、家来や百姓町人の同行為による感覚とは絹と木綿《もめん》の差のごとくかけ離れたものであろうと思っていた。――実は、ひょっとすると同様のものではないかという疑いもあるのだが、無理にこれを別のものだと思おうとしていた。が、このグラフによってみるに、これほど下民一同が熱中するうえは、やはり同じ快楽かもしれないと認めないわけにはゆかなかった。
虫ケラにひとしい彼らもまたあのような天上の法悦境に遊ぶのであろうか、実に世にあるまじきことだ、と彼は思った。大ショックである。秩父守は手もとの帳面をめくった。
最盛時の最高記録は一夜に爪紅九枚を生産した奴二人を筆頭に、あと八枚七人、七枚十三人、六枚十九人、五枚二十九人、四枚五十七人、三枚百九十九人……といった状況だ。
ちなみに紹介しておくと、アンドレ・モロアの『ビクトル・ユゴー』によれば、ユゴーの新婚初夜の記録は九回であったという。
われ知らず非常に不合理な嘆声が出た。
「ウーヌ、主を主とも思わぬ奴ら……」
「いえ、忠志の者どもでござりまする」
と、岸大蔵はうすら笑いして言った。
「こやつら、これだけご奉公の力を持っているということでござりまする」
「たわけめ、こやつら奉公すべき力をかかる私事に消耗しておるというべきではないか。……じっさい、あれはなかなか消耗するものであるぞ……」
秩父守はついにだだッ子じみた声をはりあげた。
「大蔵、こやつら――ええと、どやつか――色川京八と大熊玄蕃めか、つまり三回以上の奴ら、ことごとく放逐《ほうちく》せい!」
――それでも色川君と大熊君は帰国後腕をあげて、おおいに奮闘して、このクラスの末座に名をとどめていたとみえる。――岸大蔵は首をふった。
「それ以上の者どもことごとく永《なが》のおいとま申しつけるとなると、当藩の六割三分までは無人となります。まさか左様なことも相成りますまい。それよりも、この者どもの力をもってご奉公いたさせるもっとよい法がござります」
「あん?」
「この忠士ずいき帳を調査台帳といたし、爾今《じこん》、この者どもより、平均回数一回につき扶持《ふち》の十分の一をお家に返上いたさせまする」
「な、なに?」
興奮していた秩父守は頭から冷水をぶっかけられたような顔をした。
岸大蔵が、男の器量は性的エネルギーによって決定するという学説を仕入れて来たとき、秩父守は内心決してその説に同感はしなかったが、ただ大蔵の進言した藩士の性力調査とその方法があまりに奇抜であったので、好奇心にかられて「ずいき帳」一件を許可した。
いま秩父守が驚いたのは、大蔵の言った扶持返上云々もさることながら、例の「ずいき帳」一件が、実はこれをやるための基礎調査であったのかと、その途方もない深謀をはじめて知ってぎょっとしたのだ。
「殿」
大蔵はひざをすすめた。
「ありていに申しあげますれば、当藩の財政状態は累卵《るいらん》の危うきにあるのでござりまする。しかも、明後年に迫っておりまする日光《につこう》ご普請《ふしん》お手伝いの儀をまぬがれるためには、それ以前にご公儀のしかるべきところにご進物の要あり、この費《ついえ》を捻出《ねんしゆつ》するためには、いまのうちにご収納の画期的改善をはかっておかねばなりませぬ。しかるに先年来より江戸国元いずれもご経済拡大し、これを維持するために、もはや百姓町人どもより召し上げようと存じても、これ以上は鼻血も出ぬありさまにござります。……ご財政を 承《うけたまわ》 る不肖大蔵、かくて藩士どもよりご扶持返上のことを案出いたしましたなれど、彼らもまたさほど安楽とは申しかねるありさまにござりますゆえ、その名目を立てるに腐心《ふしん》し、このたびのこと思いつきましたる次第。……いかがにござりましょうや?」
大蔵の顔には、新財源となる課税対象を発見した大蔵省の秀才官僚につながる会心のうす笑いがあった。
「一回につき一割か」
「平均でござりまする。……かほど念を入れたる実績調査、いまになって過少なる申告をしようとしても、そうは問屋がおろしませぬ」
「平均としても、三回の奴は三割扶持減らしとなるぞ」
「あいや、平均一夜に三回などいう奴は、まことに仰せのごとく主を主とも思わぬどころか、天道をも怖《おそ》れぬやから。これほど私の快楽《けらく》にふける徒輩めらは、三割どころか返上率を累進して、四割五割といたしてやってもよかろうか、とまで大蔵は思案しておりまする。たとえ最高潮時の記録とは申せ、九回なんぞというたわけた奴は、これはもう、ならして平均をとる変動所得扱いなどしてやる要もなく、そのまま九割返上を申しつけて然《しか》るべし、と大蔵はかように考慮いたしておりまする」
青梅秩父守は壁のグラフに眼をやり、またひざの上の調査台帳に眺め入っていたが、
「よし。……その案件、裁可するであろう。それから大蔵、この案件の実施が成功裏に終わったあかつきは、そのほうを正式の国家老に取り立ててつかわすであろうぞ!」
と、さけんだ。
岸大蔵は面目をほどこして、いったん日の暮れた城外に駕籠《かご》で出て、多摩川のほとりに見越しの松、黒板塀をめぐらした妾宅《しようたく》へ立ち寄った。この存在を知っているのは、腹心の家来だけである。やや時を経て、彼は城内の一角にある自分の屋敷に帰った。
「ま、どこでお酒を召しあがったのでござりますか」
と、微醺《びくん》をおびた彼の顔を、鋭く妻が見とがめた。ふだん酒をのまない大蔵だが、さすがに今宵は満足のため、妾宅でチクと一杯やって来たのである。
「実は殿よりお褒《ほ》めの杯を頂戴《ちようだい》しての」
と、大蔵は言って、例の卓抜なる減俸案の内容について詳細に語った。
彼は妻にいつも自分の財政案について説明する。彼女は、彼を平《ひら》 侍《ざむらい》からいまの地位にまでひきたててくれた某老家老の娘であった。
そして、いつも――
「ああ、国政に倦《う》んで、いこう疲れたわい」
とかなんとか言って、一人で寝てしまう。
大蔵はやや出っ歯の気味があり、妻はやや杓子《しやくし》の気味がある。しっくり合いそうなものだが、実際はめったにしっくり合ったことがない。結婚以来の平均回数はコンマの下にいくつゼロがならぶかしれないほどだが、たとえその痕跡《こんせき》のあった夜、またたとえ、ずいきの輪をはめても、翌朝妻の爪はなんのへんてつもなかったろう。
「え、あなたが国家老に――」
それでも妻はくぼんだ眼をかがやかせたが、そのかがやきがみるみる婦人代議士のそれのごとく、ある執念と妖気《ようき》をおびたものに変わった。
「その……あれによるそれは、まことに名案でございますね。あなたのいままでに案出されたご収納案のうち、いちばんスジが通っていると思います。それによってどのような反対が起ころうと、鉄人のごとくきびしく、断固としてご推進なされませ!」
「ぜひ勇断をもって前向きに対処したい」
と、岸大蔵は大きくうなずいて、ふだんギョロリとした眼をショボつかせた。
「明日から尽瘁《じんすい》する体力を蓄積するために、今宵は安らかに眠らせてくれい」
『――諸士が忠士のほどを見せた「ずいき帳」一連は、殿、親しくご覧なされ、ご満足あそばされた。
そもそもかの一件は、そのときも布告したごとく、国に一旦緩急《いつたんかんきゆう》の際の諸士の勇力を知らんがためであった。諸士の勇力のほどは、これにて詳細正確につかむことを得た。
ついてはその忠士と勇力をいまこそ顕《あら》わしてもらいたい。一旦緩急のときはいまである。現時点において憂《うれ》うべきは、いくさではなく、経済である。しかりしこうして諸士の忠志と勇力の具体的表現は、ご扶持のいくばくかを殿にご返上いたす以外にない。
よって、このたびの「忠士ずいき帳」を厳正なる基礎資料と認定し、それによる諸士の平均回数から各自のご扶持返上率を決定し、それぞれ通告する。以上』
岸大蔵の名をもって、こんな意味の新布告が出されたから、さあたいへんだ。青梅藩士一同はびっくり仰天である。
「……やられた!」
という悲鳴に近い絶叫が、例の台帳に名をつらねた面々すべての口から洩れたことはいうまでもないが、九回の男に至っては声も出なかった。
とにかく「忠士ずいき帳」とれいれいしく称する帳面に、やあやあ遠からん者は音にもきけ、近くばよって眼にも見よとばかり火花を散らして競《せ》り合い、成績優秀な奴は成績不良の奴を大軽蔑したのだから、いまとなっては引っ込みがつかない。……思えば、青梅近世の才物といわれた岸大蔵の案出した変形増税ほどあって、実に巧妙なものであった。
税という問題は、納税者すべてにとって、悪夢のごとき悩みなのに、同一条件にあるグループは別として、ふしぎに全体としての抵抗運動が結集しない。義務観念や奴隷意識よりも、それぞれ条件が千差万別のために、笑止な仲間割れ現象を起こすのである。この場合も――
一割減俸の通知を受けた者は、二割返上組を、
「平均二回も愉しみおって、二割減俸くらいあたりまえだ」
いい気味だ、と言わんばかりの眼で眺め、その二割返上組は、三割組に、
「平均三回とは超人的といってよろしい。超人ならば三割どころか、七割返上しても食えるのではないか」
と、いかにも無情な断定を下す。
そして三割組四割組は、あたかも高額所得者のごとく満腔《まんこう》の悲哀を抱きつつ、よく考えてみれば「……やはり、チトやりすぎたかもしれん」と内心じくじたるものあるを禁じえず、鉄丸をのんだように沈黙してしまう。
ただ、この例において、下級の武士ほど熱烈に励んだおかげで、その返上率が高くなったのはやはり問題であった。
彼らのうちのある者は一団を作って、一日、外出中の岸大蔵をつかまえて難詰《なんきつ》した。自分たちの返上率のことではない。それは表立っては苦情をのべられない。ただ番頭、物頭以上の身分の人に対してはこの沙汰《さた》がないことを質問したのである。
「この人々については、例の基礎台帳が整備しておらぬので、率の出しようがない」
駕籠の垂れをあけさせたまま、大蔵は平然と答えた。
「それが面妖《めんよう》なのでござる。なぜあの方々は例のことをお調べにならなんだのでござる」
「例の調べというも、目的は当人の忠志と勇力を知らんがためで、さらにその如何によってお取り立ての参考とするためである。いまの話の方々は、少数でもあり、忠志と勇力のほどもわかっており、かつ、いまさらお取り立ての必要もないから、したがって調査の必要もなかったのじゃ」
「それでは、あの方々はこのたびのご布告からまるまるご免除に相成るのでござるか」
「左様なことはない。みな、それぞれの身分と禄《ろく》に応じてご奉公の誠をささげられるはずじゃ」
「はずでは不明瞭《ふめいりよう》でござる。はっきり率を申していただきたい!」
「それは各自の良識による。かりにも一藩中選ばれた人々じゃ。その良識は信じたい」
ギロリと眼を一同に這わせて、
「そのほうら、このたびのご奉公に不服かな」
「いや、そうではござらぬが――」
「殿は、そのほうらの忠志と勇力の抜群なるをずいき帳でご覧なされて、ああ、思うておったとおりじゃ、青梅藩の力の根源はやはりこれら下々の侍どもにある。彼らこそ青梅藩を支える大地じゃ、と、ずいきの涙をこぼされたぞや」
下士たちは黙りこんでしまった。
彼らがずいき帳に異常なばかり奮闘したのは、たんに出世欲ばかりからではなく、それより、じっさい自分たちの忠志と勇力を殿さまにご覧願いたいという素朴《そぼく》な熱情のほうが強かったせいであったから、大蔵の一言は感動のあまり彼らの声をつまらせてしまったのである。
「そのほうらの苦しいところはよくわかっておる。あのずいき帳の成績と今後のご奉公ぶりは、両者勘案して、必ず遠き将来、お取り立ての参考にするであろうぞ」
大蔵はあごをしゃくり、地べたに平伏している下士のむれから、すっと駕籠をあげさせて行ってしまった。みごとなヌラリクラリ答弁であり、水際《みずぎわ》立った各個撃破であった。
二割返上組に査定された大熊玄蕃と色川京八は、それぞれの家庭でたがいに責任をなすりつけ合う陰に籠《こも》った夫婦喧嘩《ふうふげんか》のすえ、ウナされたような顔で雪のチラチラ降る外へ飛び出し、偶然ばったり両者出会って、同病|相憐《あいあわ》れんで急に親近感を回復した。そしてかんしゃくを別の同一の対象へむけて、その男の家へどなりこんだ。
「これ貴公、何割返上のご通知が来た?」
「…………」
「いっこう噂に上らぬところを見ると、まるっきりご免除か?」
「…………」
「そんなことが世にあっていいものか。新婚早々といっていい貴公たちだ。根太《ねだ》もおちるほど励んだろう。うんにゃ、かくしてもだめじゃ。貴公、空濠《からぼり》になったような顔をしておるではないか。実際の平均回数はいかほどじゃ! あん?」
「…………」
「それがけろっと大きな顔して無申告、はて面妖なと思っていたが、さてははじめからご家老とツーカーのグルであったのだな?」
「…………」
「知らぬが仏。われらは、ついに二割返上の悲報に接した。いまとなっては、あっちこっち七両二分ずつ、血の出るような工面をして、テメエの減俸の工夫をしたこっちのまともな忠志ぶりが胸も煮えくり返るほどじゃが、これ、なぜせめて江戸以来の友だち甲斐《がい》に、ああすりゃこうなると、ないしょで耳打ちしてくれなんだ? これなんとか言え、頬かぶりして通す気か、この図々《ずうずう》しい奴めが!」
なんと痛罵《つうば》されようと、なんとかきくどかれようと、端座瞑目《たんざめいもく》して答えず。――志賀寛之助だ。
無反応に焦《じ》れてこんどはそれから三メートルも離れてひっそりすわっている初々《ういうい》しい女房に、かみつくような眼をむけた大熊と色川は、その名状しがたい哀艶《あいえん》さに声をのみ、やがて、
「ああ、正直者は損をする!」
「一将功成り万骨枯る!」
と、はらわたをしぼるような声を投げつけ、にくにくしげに立ち去った。
シーンとした静寂だけが残り、やがて軒に粉雪の吹くひびきがしたとき、銀鈴をふるような哀《かな》しみにみちた声で、新妻が言った。
「あなた、なぜ、みなさまご同様、ご通知が来ないのでしょう?……いえ、なぜいちどもお咎《とが》めがないのでございましょう?」
「それだ」
志賀寛之助はほっと重い嘆息をついた。
「あれらがわしを疑うのも無理はない。恐ろしいことだが、あれらの疑うとおり、ご家老のほうではわしにご褒美《ほうび》を与えておられるおつもりかもしれぬ。ご家老を江戸のあの易者のところへつれてゆき、今回のこの前代未聞《ぜんだいみもん》の苛斂《かれん》 誅《ちゆう》 求《きゆう》のご計画を手伝うことになったのはまさにこのわしじゃからな」
「…………」
「心中これはと驚愕《きようがく》し、煩悶《はんもん》したがもはや及ばず――お咎めあらばあれとあのお調べには抵抗してみたがのれんに腕押し――事実、あのたわけたお調べ以来、そなたとふっつり夫婦《めおと》の道を断《た》ってはみたが、これまた水に石を投げこむがごとし」
「…………」
「いかに諸士にわびてもわび足りぬこの寛之助、せめてご家老に死諫《しかん》して――ともいくたびか思うたが、かえりみてこのわしがご家老と事実上の共犯者であったことを思えば、このからだは鉄の鎖で縛られたようじゃ」
「…………」
「待ってくれ、いましばし待ってくれ、諸士よ! この志賀寛之助、必ずそのうちになんぞ脳漿《のうしよう》をしぼって、このたびの暴政を打ち止めにしてみせる!」
藩中の騒動が、まえのずいき帳一件のときのそれに数倍するものであったことはいうまでもない。例の回数の問題だけに話をかぎれば、むろんこれにも一大変化が起こった。まずそれが激減したのである。――
もっとも基礎台帳は、もうできちゃっているのだから、それ以来、忠士ずいき帳の巡回はない。したがって以後の統計はないのだが、激減したことは事実で、いかに藩士のショックが大きかったか想像にあまりある。
ところが、ここがおもしろいのだが、もし爾後《じご》の調査もつづけられていたとしたら、その激減期は一ヵ月あまりで、それがまた急カーブで上昇したことが判明したであろう。
ご扶持返上のこと決定以後、回数の件は税率に無関係だからと安心して再開した奴もあったかもしれない。あるいは思い出すたびに腹を立てて、ヤケクソになった奴もあったかもしれない。しかし、善良なる大半の藩士は、なおこのことについては条件反射的な恐怖が払拭《ふつしよく》しえず、にもかかわらず、事実は急上昇したのである。にもかかわらず、というより正確には、だからこそ、というべきであったかもしれない。彼らがたがいに告白したところによると、夫婦たがいにマジマジと恐怖の眼を見かわしているうちに、ムラムラと妙な気が起こって来て制止しえないようになるのが奇っ怪千万ということであった。
麻雀《マージヤン》で、勝てば有頂天《うちようてん》になっていよいよやりたくなり、負ければ熱くなってますますやりたくなるようなものか。いや、人間、この道ばかりは、事情のいかんに関せず、要するにやりたい、やらずにはおれんものとみえる。
かかる悪夢的怪現象を孕《はら》みつつ、青梅の町から雪が去り、西の秩父連嶺もしだいに下界から蒼みがかって来た早春のこと。
「……かかる次第じゃ。助けてくれ、果心堂」
と、志賀寛之助は言った。軽い土埃《つちぼこり》に紅梅の花びらのまじる、やはり早春の江戸の辻。
「なんたるわしの愚鈍さか。いまようやくおまえのことを思い出したとは!」
旅装束の寛之助は、埃まみれのおのれの頭をうちたたき、血走った眼でかきくどいた。
「岸ご家老の暴挙の因をなしたこの寛之助、ご家老を非難するは鍋《なべ》が釜《かま》を黒いというたぐい、自縄自縛《じじようじばく》でもだえておるよりほかはなかったのじゃ。このときになって、豁然《かつぜん》、天啓のごとくおまえのことを思い出した。あれほど奇想天外な術と知恵を持つ果心堂、必ずや青梅藩士一同の大難を救ってくれるにちがいないと――」
深編笠の下から紫のけむりが流れている。
お狛が光る眼でちらっと見たが、果心堂は黙っている。
「で、無断出府ながらわしは韋駄天《いだてん》のごとく江戸へ出て来た。なんとかならぬか、果心堂」
「なんとか言ったらどう? あんた!」
と、たまりかねてお狛が言った。
「そういう事態に相成りましたか、ほほう」
やっと感服したようにつぶやいたのはこれだけである。そばで忠治が牛みたいなうなり声をあげた。
「いや、悪い奴だねえ。ふうん、そんな下心であんなことをしたとア知らなんだ。な、なにが忠士ずいき帳だ。ひとをくった野郎じゃあねえか。どうもあいつの面《つら》が気にくわねえとは思ってたんだが……」
岸家老をいちど天下の大老にしてみたいなど言ったことはきれいさっぱり忘れている。
お狛もくやしそうに言った。
「よくもまあ、うまくいったらおまえさんを青梅に呼んで、孔子さま扱いにするなんて言ったわねえ。ちょいと、マのわるい孔子さん、なんとか音《ね》をあげたらどう?」
「それがな」
と、果心堂は重々しく言った。
「同罪といえば私は志賀さま以上にご家老と同じ穴のむじなということになるはずでな」
「しかし親分、親分もまさかこんなことをやるたア思いのほかだったんでござんしょう。いうなれば、親分もいっぺえくわされたんじゃあねえか?」
「しかもじゃ。忍法のことはすでにそのずいき帳とやらで役目を終わり、あとはもう政治上の問題となっている。そこまでいったら、もう私の手には及ばない。それになんです。あのほうのおさかんな方が、力量に合わせてたくさん税金を納められるってのア、なかなかもって理にかなった税法じゃござりますまいか?」
「だめか。……死なせねばならぬか……」
よろめいて、うなだれて、志賀寛之助はうめいた。
「いや、このたびの出府の目的かなえられずんば、江戸の大道の辻で腹を切るとは覚悟して出て来たが、七日にして帰らずんば里に帰れと女房に申した。すると女房は、七日でお帰りがなければ、こちらでわたしも死にますると言ったが、思えば祝言以来二年足らず、ろくにかわいがってもやらぬうちにかかる次第と相成ったのも前世の悪縁……」
「忠治!」
裂帛《れつぱく》の声がかかった。
国定忠治はびっくり仰天した。呼びすてにしたのはお狛である。
「両国の四つ目屋へ行って、肥後ずいき買っといで!」
「へ?」
「な、何するのじゃ?」
と、果心堂もめんくらったようである。
「あたしが青梅へ行くんです」
「えっ――おまえが青梅へ行って、何をしようというんだ」
「伊賀忍法|棒紅《ぼうべに》を使う」
「忍法棒紅。……ってのア、いったいどういうんだ?」
「青梅へ行かない無責任な青梅の孔子などの知ることならず」
と、お狛は胸をそらせて、次にお辞儀して、
「ただ、志賀さま。――ご安心くださいまし、果心堂の女房が、亭主に代わってきっといたずらのつぐないをいたしますゆえ――忠治、行って来ておくれ」
と言った。
忠治はまだ眼を丸くして棒立ちになっていたが、急にニタニタして、
「へっ、おアネエさんのために肥後ずいきを――忠治、へその緒《お》切って、こんなに胸のトキめく買い物をしたこたアねえ。ご存じかもしれませんが、元来は親分みてえに女の指なんかに巻くものじゃあなく、そもそもまっとうな使い方は――」
「ばか、早く行かないか」
「へっ」
駆け出そうとする忠治を、
「待ちな」
と、果心堂が呼びとめた。お狛のほうへ深編笠をゆすって、
「こいつ、言い出したら、妙にきかねえときがある。青梅へ行くことになるだろう」
「親分は?」
「うふ、孔子さまが乗り出すほどのことじゃない。それに、行けば人を斬ることになるかもしれんが、わしは人を斬るのはきらいだからな」
「えっ、人を斬る?」
「おめえ、ついていってやれ」
「おいらが、おアネエさんと――たった二人で、あの旅を――かっちけねえ! おいら、化けて出たっておアネエさんをお守りいたしやすぜ!」
ズングリムックリしたからだが、二、三度路上で宙返りを打った。どんと短い足で仁王立ちになると、長脇差《ながどす》の柄《つか》を丁《ちよう》とたたいて、
「親分、はばかりながらこの刀、なんて刀か知ってますかい?」
「知らねえ」
「鐘巻一筒斎相伝の小松五郎義兼《こまつごろうよしかね》――」
果心室は苦笑して、
「ひょっとすると、再度の青梅ゆき、忠治、こんどは、立つかもしれねえよ」
――川千鳥の声が耳の奥にしみて、岸大蔵はふっと眼をさました。冷え切っているのは鼓膜だけではない。からだの下半身も妙に寒い。――それなのに、妙にけだるく、ぼんやり眼をあけて、そちらの多摩川に面した障子が細くひらいているのを見ると、岸大蔵はガバと身を起こした。ここが妾宅であったのを思い出したのだ。妻がうるさく、まだ外泊したことはいちどもない自分であったのに、どうしたのだろう、妾と寝て、一儀にも及ばないうち、ふいに視界も意識も混沌《こんとん》と暗くなってしまって、それっきりだ。
「これ、どうしたことじゃ?」
反対側に寝ている愛妾をゆり起こそうとし、こちらに見せた背に両手がくくられているのに気がついてはっとなり、次に寒い自分の股間《こかん》に眼を移して、岸大蔵はぎょっとした。
女の指に巻いたごとく、ずいきが巻かれて、髪の毛でとめてある。――
「買わんか買わんか、ずいきの新案」
男の声がした。
「そして、新発売、江戸の化粧問屋・果心堂の棒紅」
女の声がした。
岸大蔵は、いつのまにやら障子とは反対側に移動した屏風《びようぶ》の下に、深編笠と三度笠の影が二つ並んですわっているのを見て、のどもひきつり、とっさに声も出なくなってしまった。
「起きるのを待ってたのよ、化粧のことを説明しなくちゃいけないからね」
深編笠が立って来て笑いながら言う。
「ずいきは同じ四つ目屋製だけれど、髪は女の髪の毛だ。ただね――それは、放っといたら、未来永劫《みらいえいごう》、決してとれない。江戸へ来て、大道の辻で、あたしに三度土下座をしなくっちゃ」
枕《まくら》もとにしゃがみこんで、甘ったるい声で言う。
「とれないばかりじゃない。何もしなけりゃ、巻かれたものは一日ごとにぐみ[#「ぐみ」に傍点]みたいに熟して、赤くなってくる。真っ赤に、真っ赤に――そこだけ真っ赤だったら、おかしいよ、ねえ?」
深編笠があごをしゃくった。
すると三度笠もぬうと寄って来て、キラリとばかに太めのやつをひっこ抜いたので、岸大蔵はこんどは息もとまってしまった。しかし刀は、愛妾をくくったしごきだけを切ったようだ。
「それを防ぐにはねえ、女の肉でモミ洗いしてもらうこと。……ホラ、ふつうよりはもうだいぶ赤くなってるでしょ? さあ、それがとれるかどうか、いまここで洗ってもらってごらんな」
「かかれ」
と、三度笠がわめいた。別室に腹心の侍が十人近くも侍《はべ》っているはずだが、それにはばからぬ大喝《だいかつ》であった。女の尻《しり》を刀身でペタペタとたたいたが、さすがに妾は身動きもしない。――
「洗ってもらわないのかえ? じゃあね、殿さまのほうも今すませて来たから、毎日、二人、お城で染まりかげんをくらべっこしてみな」
「な、なにっ」
大蔵もこれには仰天、われ知らず絶叫した。
「出会え、曲者《くせもの》じゃ、大それた曲者じゃぞ!」
呼びたてるまでもなく、いまの三度笠の大声に、侍部屋の方からどどっと足音が起こって、騒然たる声が殺到して来た。
これを迎えて、三度笠は立ちふさがった。ズングリムックリしたからだは、まるで黒い颶風《ぐふう》のごとく荒れ回って、そこに血しぶきをぶちまけ出した。刀で斬るばかりではない。峰《みね》のほうでもたたき割るのである。
「今宵の小松五郎は、よく斬れるなあ……」
そんな声がしたかと思うと、まだ侍は三人、刃を向けているのに、首をかしげて何やら懐疑しているていであったが、ふいに、
「立った! 立った!」
と、脳天から出るようなさけびをあげた。とみるまに、そのからだが黒豹《くろひよう》の肥満児みたいにおどって、あとの三人を凄《すさ》まじい乱撃のもとにたたっ斬ってしまった。
「おアネエさん、まったく胆をつぶしやしたな。いや、やるもんだねえ……」
三度笠をかたむけ、長嘆して言う。
「しかしだ、あの忍法棒紅とやら、女となんとかしなけりゃ、だんだん赤くなるってえのは奇抜だねえ。あの枕絵の殿さまと草双紙《くさぞうし》の悪家老、どっちも弱蔵《よわぞう》としか見えねえが、こりゃこれからの毎日毎夜、大難儀ですぜ……」
「お黙り」
と、深編笠が叱《しか》った。
「お侍さまの奥さまとごいっしょなんだから、気をつけてものをお言い」
お狛とならんで青梅街道を東へ歩いているのは、志賀寛之助の妻であった。もう夜が明けたのだからだいぶ離れたはずなのに、それでも青梅が気にかかるらしく、まだなんどもうしろをふりかえるのを、
「大丈夫ですわ、殿さまもご家老さまも、江戸のあたしのところへ来て謝《あやま》らなくっちゃ、天下の一大事になるんですから」
と、お狛は姉のようにやさしく言った。
「江戸には寛之助さまがいらっしゃいます。これから江戸でいっしょにお暮らしなさいね。長屋住まいも悪くないものですよ」
「……別の女みてえだなあ」
と、忠治は呆《あき》れて首をひねった。昨夜のあの凄艶《せいえん》きわまる啖呵《たんか》と行状は、あれは妖《あや》しい夢であったかと思われる。――
「……親分、相すまねえが、これが立たずにいられるかってんだ」
と、つぶやいて、ふいに忠治はぎょっとして立ちどまった。両手をふところに入れたまま、棒をのんだようにつっ立っている。
夜明けの風にわずかにのびた青麦がそよぐ早春の街道を、江戸のほうへ歩いてゆく二人の女のうしろ姿を、口あんぐりと見送っていた忠治は、ふいに狼《おおかみ》がしめ殺されるような怪声を発した。
「はてな? おりゃ、人を斬ってるあいだだけ立つようになったんじゃあねえか?」
[#改ページ]
第五話 忍法|墨《すみ》占い
漱石《そうせき》は俳句に興味がなければ、「ホトトギス」という雑誌に「吾輩《わがはい》は猫《ねこ》である」を書くようなことはなかったろう。漱石は大学時代、子規《しき》とつき合わなければ俳句に眼をひらかれなかったろう。そして漱石が子規と親交を結んだのは、どちらも寄席《よせ》が好きで、そこで二人|肝胆相照《かんたんあいて》らしたからである。つまり寄席というものがなかったら、文豪|夏目《なつめ》漱石はこの世に出現しなかったのである。
人間、学問にしろ芸術にしろ、その他どんな仕事にしろ道楽にしろ、何が機縁で触発されるかわかったものではない。
青梅秩父守《おうめちちぶのかみ》の場合がそうだ。
晩春の一日、江戸からやって来た板舐玄馬軒《いたなめげんまけん》という武芸者に拝謁《はいえつ》申しつけたあと、家来たちが、
「いかにも強そうなご仁《じん》ではあるな」
「見られたか、あの鼻――」
「おお、あの鼻の大きさから判断するに、強いのは剣のほうばかりではあるまい」
「きっと、あれも偉大でござるぞ」
と、ざわめいているのを、ふとききとがめた。
「これ、何が偉大なのじゃ」
「はっ」
「あれとは、なんじゃ」
「はっ」
顔見合わせていた家来たちの中の一人が、やや頬《ほお》赤らめて答えた。
「実は、あのご仁の、その、男根のことでござりまする」
「――ふうむ」
「鼻の大きな男は、あれも大きいと申しまする」
また別の家来が言った。
「女人の場合は、あれの大小は口の大小に比例すると申しますが」
「――ほほう」
秩父守は自分の細い鼻を撫《な》でて、じっと宙を眺《なが》めていた。何やら思索のていであったが、
「それは証拠のある事実かの?」
「いえ、調べたこともなく、調べることも相成らぬ儀でござりまするが、古来、よく言われることで――何やらそう言えば思い当たるふしもござりまする」
と、家来は答えたが、むろん一場の冗談のつもりであった。
しかるに数日後、たいへんなことが出来《しゆつたい》したのである。
奥に使っている腰元の一人にお稲《いね》という娘がいた。一日、その腰元の顔をじっと見つめていた秩父守が、急に途方もないことを言い出したのだ。
「稲、小さい、かわいい口をしておるの。あれを見せい」
数分ののち、あれ[#「あれ」に傍点]というのがあれのことであると判明して、お稲は顔どころか全身の肌《はだ》を染め、むろん拒否した。すると秩父守は言った。
「稲、そなたを側妾《そばめ》にしてやるぞ。ならばよかろうが」
お稲はこんどは蒼白《そうはく》になった。
「いや、そなたのあれを見たいばかりではない。腰元の中でも抜群の美しい娘、いずれ側妾にしようとは、余は以前から思うていたことじゃ」
お稲はふるえながら、きっぱりと言った。
「あの、殿さまの仰《おお》せにはござりまするが……わたくしには塩《しお》ノ谷判四郎《やはんしろう》と申す許婚者《いいなずけ》がござりまする。その儀ばかりはお許しなされてくださりませ」
「なに、あの判四郎が? ふうむ」
秩父守は鼻白《はなじろ》んだ。塩ノ谷判四郎は近習《きんじゆう》の若《わか》 侍《ざむらい》であった。――そのまま、へんに考えこんでしまった殿《との》さまに、お稲はいよいよ恐怖した。果然、秩父守はさけんだ。
「だれかある、判四郎を呼べ!」
塩ノ谷判四郎がやって来た。みるからに凜々《りり》しく純潔な青年であった。
「判四郎、このお稲な、余が側妾を申しつけようと思ったが」
と、秩父守はまず言って、判四郎を驚愕《きようがく》させたのち、
「そのほう、お稲と夫婦《めおと》になる約束をしておるそうな。それゆえ、その儀はさし許す。……ただし、ある条件をそのほうが果たせばじゃ」
と言った。
そして、ひとまずほっと吐息をついた塩ノ谷判四郎に秩父守は、さらに仰天《ぎようてん》すべき命令を下したのである。
「そのほう……、家来どもの鼻の長さと男根の長さ、その女房のかくしどころの大きさと口の大きさを、全部とり調べて余に提出せい」
しばらく、判四郎には、主君の命令の意味さえわからなかったくらいであった。
秩父守は、先日家来からきいた例の二つの器官の相関関係をあげ、
「余はこの事実にいたく学問的興味を持ったのじゃ。ぜひともこの相関係数を明らかにしたい――」
と言った。
判四郎はぞっとした。その言葉の内容より、このときの主君のものに憑《つ》かれたような、むしろ厳粛といっていい眼つきに名状しがたいぶきみさを覚えたのだ。
その判四郎の表情をどうとったか、
「これは余のたんなる思いつきではないぞ、判四郎――実はな、余は江戸にあって、上さまと座談の際、ほかの諸侯にくらべて話題の乏しいのにいつも悩んでおる。で、このことを学術的に明らかにし、資料をそろえてご説明申しあげたら、ご学問好きの上さまのお覚えもさぞめでたかろうと思うのじゃ。うまくゆけば明年に迫った日光ご普請《ふしん》お手伝いの儀もまぬがれるかもしれぬ……」
と、秩父守は言った。
しかし、これは常識的弁解であって、ほんとうのところ秩父守の本心は、前者の学問的興味にあったといっても決して偽りではない。はじめに、人間、何が機縁で触発されてその道にはいるかわからないと言ったのはここのところだ。
つまり、前回の「忍法紅占い」、この事件で青梅藩の国家老《くにがろう》岸大蔵が、藩士の性交回数による税率決定という新案をひねり出した。この計画は江戸から舞い下がって来た奇怪なアベックのために一大|痛棒《つうぼう》をくらってめちゃめちゃになり、爾来《じらい》岸大蔵も気力喪失して逼塞《ひつそく》してしまったが、そのときに大蔵が披露《ひろう》した藩士一同の性交回数の身分別の統計表や、時間的経過による変化のグラフなどで、秩父守の学問的興味が俄然《がぜん》開眼したのである。
しかし秩父守も、そういう高遠なる興味は、凡庸《ぼんよう》なる家臣にはとうてい通じまいという悲しみがあって、さればこそ通じるように江戸の将軍を持ち出したのだが、右のことをいったん口走ると、もうすっかり夢中になり、
「その調査じゃがな」
と、眼を熱っぽく光らせてひざを乗り出した。
「そのほうに調査を命じても、ただ侍どもの自発的報告にまかせたのでは不正確となるおそれがある。げんにこのまえのずいき帳にも、ずいぶん不正申告をした奴《やつ》が見られた。といって、余自身が藩士ことごとく、とくに女人《によにん》の寸法をいちいち測定するわけにもゆくまい。だいいち女人の場合、どこからどこまで測っていいものやら、当人にもよくわかるまい。――これをいかがすべき――と、先日来、日夜思案を重ねての」
と言ったところから、判四郎は主君のこの思いつきが意外に根の深いことをはじめて知った。
「突如、霊感によって一大妙案を思いついた」
「――は?」
「例の拓本というものがある。碑《いしぶみ》などに濡《ぬ》れた紙をあてがい、上から墨《すみ》をしめしたタンポでたたいて、その文字を写しとるやつじゃ。あの法を使え。つまり、鼻及び口と男根及び女陰の拓本をとるのじゃな」
魚拓というものがある。釣《つ》った魚を記念するための拓本である。
拓本というものが中国から伝来したために、魚拓もやはり中国から伝来したのだろうと思っている人が多いであろうが、魚拓は中国にはいっさいない。あれは純然たる日本人の発明であって、その日本人の元祖はすなわちこの青梅秩父守である。彼がこのときに試みた人体の拓本が伝えられて、のちに釣り人に魚拓というものを触発したのである。してみれば、青梅秩父守の功もまた少なしとせず、しかもこれが彼の醇乎《じゆんこ》たる学術的興味から霊感的にひねり出されたとあっては、いよいよもって敬意を表すべきかもしれない。
「その拓本をとり、とりそろえて余に提出せい。この資料によって余みずから研究する。やがて研究の成果のみならず、その資料をも上さまのご覧に供したら、いかに上さまはおよろこびであろうぞ」
と、青梅秩父守は眼をかがやかして言ったが、茫然《ぼうぜん》と自分を眺めている塩ノ谷判四郎とお稲を見ると、声をはげまし、のしかかるように言った。
「そのほう、もしこの申しつけに否《いな》やをとなえ、またできぬとあれば、お稲を余が側妾とし、余みずからお稲をこの調査の皮切りとするであろうぞ。もしまたそのほう、首尾ようこの命を果たせば、その功によって、そのほうとお稲自身の調査だけはさし許す」
さあ、またたいへんなことになった。
こんなことを藩士一同が承諾するかどうか、それに疑問をおぼえる以前に、塩ノ谷判四郎自身が参ってしまった。
しかし、拒否することはできない。これを拒否すれば恋人が殿さまの妾《めかけ》に捧げられてしまうという破滅状態を招くのみならず、このことによって江戸の将軍さまに対する殿さまのお覚えがめでたくなるとあっては――少なくとも殿さまのお口からその言葉をきいた以上は――臣下として決して辞退はできない。
「君、君たらずといえども、臣、臣たらざるべからず」
塩ノ谷判四郎はついに決意した。
そして、重い心で、この難行にとりかかった。
藩士一同が仰天したことはいうまでもない。しかし、結局彼らが承服せざるをえない心理的過程をたどったのは、塩ノ谷判四郎と同様である。むろん、容易に肯《がえ》んじない者もいた。とくに女たちはそうであった。これに対して判四郎は、切々として、声涙ともにくだって説いた。女たちは泣く泣くこれを受け入れた。
かくて、魚拓、いや根拓ないし陰拓事業がはじまった。
拓本と同様に、現物に濡れた和紙をあてがい、上から墨をしめしたタンポでたたいて写しとる。鼻、口はいいとしても、もう一方のほうは、さすがに、判四郎も立ち合わなかった。当人が一室に閉じこもって自身の拓本をとるのを、その部屋の外で待っているのだが、これは立ち合わなくとも、ごまかしようがないし、ほかの物をもって代用のしようがない。そして、一人二枚としてそれぞれの拓本をとり、つづり合わせて姓名を書き入れる。
拓本は続々|出来《しゆつたい》した。
はたせるかな、秩父守は恐悦した。
ただ例の学術的興味が満足されたのみならず、これは思いがけぬ新しい発見であったが、魚拓が一種の美術品となるように、これがそれぞれ千種万様の芸術美をそなえていることに恐悦したのである。
「ううむ、これは雄渾無双《ゆうこんむそう》、いつぞや江戸で見た北斎《ほくさい》の男根図に劣らぬぞや」
「これは抽象美の極致じゃな。人間のあたまでは考えられぬ構図となっておる」
「ふむ、これは枯淡美と申してよいが、姓名は古屋武左衛門《ふるやぶざえもん》か、なるほどなるほど」
「いや、これは古怪美! お杉婆《すぎばば》か。いかにもいかにも!」
一枚一枚めくっては、秩父守は嘆賞おくあたわなかった。そして、
「それにしても、余は、すばらしいことを思いついたものじゃのう。われながら、天才じゃな、これは。――判四郎、そうは思わぬか?」
と、ウットリとしてふりむくのであった。このよろこびようを見ると、塩ノ谷判四郎も、自分は実に有益な学問的ないし芸術的事業に参画したのではないか、とつい信じたくなったくらいである。
この事業は九分九厘まで進行して、最後に至ってやはり一大困難に直面した。
どうしても承諾しない者が現われたのである。
男が三人、女が三人。
男の一人目は、例の武芸者板舐玄馬軒であった。彼は――いつぞや青梅にのりこんで来た曲者《くせもの》のために秩父守自身えらい目にあわされた事件から――江戸屋敷からとくに委嘱《いしよく》されて青梅に派遣されてきた江戸でも有名な剣客であった。これが大兵肥満のからだをそっくりかえらせて、この根拓を笑殺したのである。
「おれがものは、いわゆる雁高紫色《がんこうししき》、天然色の拓本ででもなければその偉容が表現できぬ。それにまた八寸胴返《はつすんどうがえ》しともいうべき空間的力動感は、とうてい一枚の紙に躍動すべくもない。不正確な拓本を残しては、後世、板舐玄馬軒の人間像を誤らせるから、断固、断わる」
男の二人目は、これは|芹ケ野加兵衛《せりがのかへえ》という藩の剣法指南役で、痩《や》せてはいるか、岩に皮を張ったようなその顔貌《がんぼう》でもわかるように、きわめてまじめ、まじめというより厳格無比の人物で、これまた左様なたわけたこと、腹を切っても相成らぬ、とけんもほろろに判四郎を撃退した。
「いや、腹を切るより、判四郎、わしを斬れ、斬ってから拓本をとれ、ただし、斬れるものなら斬ってみよ」
とさえ言ったのである。芹ケ野加兵衛は、むろん塩ノ谷判四郎の剣術の師匠であった。
三人目は――これは判四郎も、青梅藩にこんなものがいたのかと久々に存在を再確認したのだが――甲猿心《かぶとえんしん》という藩の忍びの者であった。これが、
「忍者たるもの、指の跡とか足の裏とか、ともかくおのれの肉体的特徴を証拠として残すようなまねは、たとえ殿のご命令といえども断じてせぬ。いわんや男根をや」
と、歯をむき出してがんばるのであった。
女の一人目は、芹ケ野加兵衛の内儀《ないぎ》であった。加兵衛に命じられもしたろうが、このお篤《とく》という内儀自身、あのような骨張った男にどうしてこんなやさしい女がお嫁に来たのだろうとふしぎに思われるほど、貞節の化身《けしん》のような女人であった。
女の二人目は、これの素性は本人が、「わたしは忍者甲猿心の女房で、いささか忍びの術をも心得ております」と言ったとおりで、すなわちこの言葉が判四郎の依頼に対する解答でもあった。
女の三人目は、旗《はた》奉行の娘でお真知《まち》という。おそらく美人という点では藩中第一であろう。あまり美人すぎて誇りが高く、かえって本人のお嫁入りをさまたげていると思われている女人だが、これも断然拒否した。判四郎には、
「あなた、男なら、そんなばかなお役はおやめなさい」
と言い、蒼《あお》くなってくどく父親の旗奉行にも、
「たとえ父上がお腹を召されても、わたしはお断わりいたします」
と言い、しかも冷然たる軽蔑《けいべつ》の笑いを浮かべているのであった。
さて、例外はこの六人だけだが、その一蹴《いつしゆう》の弁はいちいちもっとも千万である。判四郎も、もし自分がそういう督促《とくそく》を受けたら、ひょっとしたら同じ言葉を発したのではないかと考えたほどである。
で、彼はこれを主君に告げた。
秩父守は怒った。とうぜん、ともいえるが、それをある程度予想していた判四郎もあっけにとられたほどの激昂《げつこう》ぶりであった。
実は秩父守は、たんに家来が自分の命令を拒絶したという不満もさることながら、それより、例の学問的興味から、彼らの不協力に怒りを発したのだ。べつにこの六人が資料を提供しなかったからといって大局に影響はないのだが、こうなると一種の完全主義の収集狂になり果てていて、自分の予想していたデータが揃《そろ》わないと、もののがまんというものができなくて地だんだをふむ子ども同様の心理になっていたのである。
「それを許しては、余の学問的良心にそむく」
と、秩父守は額《ひたい》に青筋を立てて、カン高い声でさけんだ。
「その六人の拓本、そのほうの責任において断じてとれ。きょうより十日以内にとれ。とらぬとあらば、余みすがらお稲の拓本をとり、これを十倍に拡大して大手門にかかげるぞ。ゆけ、判四郎」
塩ノ谷判四郎は蒼白になって駆け出した。
この主君をむちゃだとは思うが、それにそむく心は彼にない。まして腰元お稲は、人質として主君の傍らに置かれている。
十日間。十日間!
そのあいだに二人の剣客と一人の忍者の根拓をとりうるか。それは至難であったが、あの三人の女の陰拓をとることはそれ以上、いやまったく不可能事と思われた。
塩ノ谷判四郎は両手で頭をかきむしった。その頭にふっと浮かんだのは志賀寛之助である。寛之助はこの春さき、青梅藩を脱藩して江戸へいった男だが、判四郎が兄事して、その後もひそかに便りを交わしている人であった。
「そうだ」
江戸へ。――
青嵐《あおあらし》吹きわたる江戸の、とある辻《つじ》。
そのコーナーの一つが空き地になっていて、大きな柳が三本さわやかに、幾百条かの緑の糸をなびかせていた。三本の柳の下に、一つずつ見台がならんで、それぞれ二つずつの深編笠《ふかあみがさ》がすわっていた。
「さあ、いらはいいらはい。失《う》せ物、待ち人、走り人、男女相性、善悪の考え、その他もろもろの恋指南、商売案内、人生相談――」
片手で裾《すそ》をまくりあげ、片手の三度笠《さんどがさ》でしきりに往来の人々をさしまねいているズングリムックリの若い男は――国定忠治だ。
「悩みごとで、手前《てめえ》がじれったくって、手前のほっぺたをひっぱたきてえくれえのお方は、あの一番目の占いのところへゆきなせえ」
と、一番目の柳の下の見台を笠であおぐ。
「悩みごとでイライラして、どいつかよそのやつの頬げたをぶんなぐりてえくれえのお方は、あの二番目の占いのところへゆきなせえ」
と、二番目の柳の下の見台をあおぐ。
「悩みごとで、だれか一匹ぶち殺してえほどに思ってるお方は、あの三番目の占いのところへゆきなせえ」
と、三番目の柳の下をあおぐ。
「ただし、ほんとにだれかたたっ斬るご用なら、そいつアおいらだ」
ニヤリと笑った白い歯をまた青嵐が吹く。
この口上と顔つきがおもしろいので、子どもたちまで集まって来て、いつまでも見物している。占いのほうも、どの見台にもたえず二、三組の客がつめかけてなかなか繁盛《はんじよう》しているようだが、中には何も占いを立ててもらわないのに、あたりをウロウロしている若い男たちもいる。ときどき何かのはずみで占い師たちが深編笠をとることがあるのを待っているのだ。正しく言えば、その中の三つの深編笠が脱がれるのを。
三人は、いずれも黒い紋服を着て深編笠をつけているが、みな女人であることを彼らは知っていた。
「どの見台がいちばん美人かな?」
「おりゃ、まんなかだ」
「一番目のあだっぽさも捨てがてえぜ」
「いや、断然、三番目の女易者だい」
「手相を見てもらうふりをして手を握ってやったら、あの亭主《ていしゆ》易者たちどうするかな?」
「それより、あの呼びこみの野郎、笑っちゃいるが、なんだか少しおっかねえ奴だぜ」
「あいつが怒るか、怒ったらどうするか、占いを立ててもらおうか」
こんなささやきを知るや知らずや、国定忠治は満面これ愛嬌《あいきよう》といった精一杯の笑顔になって、大声をはりあげる。
「お江戸広しといえども、こう四段階に陣を構えた辻占いはまたとない。さあいらはいいらはい、失せ物待ち人走り人――」
そこへ来かかった一人の旅姿の若侍が、三組の易者を見て、「あ、これだ」といった表情になり、つかつかと一番目の柳のほうへ歩いていったが、ふとそのとき、そこの易者が深編笠を脱いだのを見て、
「や、ちがう――」
と、つぶやいた。
塩ノ谷判四郎であった。青梅から駆けつけた彼は、かねてきいていた住所からある町の長屋を訪ね、そこからさらにきいてこの辻へやって来たのである。そして、彼は知らないが、いま一番目の柳の下で深編笠を脱いだ男は、やはり同じ長屋に住んでいる新免又右衛門であった。してみると、いっしょにいる深編笠の女は、又右衛門に惚《ほ》れている元芸者であろうか。
「塩ノ谷ではないか」
二番目の見台から驚いたような声がした。向こうのほうから彼の姿を認めたのだ。そして、そこにすわっていた二人の易者が急いで深編笠を脱いだ。
「おう、志賀どの!」
なつかしい志賀寛之助夫婦であった。
――志賀夫婦はもう占い師として辻へ出勤している。しかも二番目に悩みの深い人間の相談に乗っているところをみると、よほど易学の進歩も早かったにちがいない。もっとも一番目の新免又右衛門は剣術以外はとんと無器用な、というより、からっきし何もできない人物のようだが。
見台の前の客を早々に片づけて、判四郎を迎え、
「どうして江戸へ?」
ときく志賀寛之助に、判四郎はあたりに眼をくばり、声をひそめて青梅藩の新しい椿事《ちんじ》を語った。志賀夫婦は顔見合わせ、唖然茫然《あぜんぼうぜん》としたようであった。
「おお、またあの殿がそのような途方もないことを始められたか?」
これはもう暗然とした声であった。
「志賀どの、ご覧なされ、かような次第じゃ」
と、塩ノ谷判四郎は背に負うた風呂敷《ふろしき》包みから一本の太い竹筒をとり出し、中に巻きこんだ十数枚の紙をぬき出した。参考のために持って来た、まだ主君へ未提出の例の拓本であった。
寛之助はそれを見て、いま暗然としたくせに感にたえ、女房のほうは、いま話をきいたくせにこれを見てはじめ何やらわからず、やがて、みるみる顔を真っ赤にした。
「いかにも、かようなもの、あの芹ケ野先生やお真知どのが承諾されるわけがない――」
「そのほかも、実に難物だ。それを十日のうちに承諾させろと殿のきつい仰せじゃ。これ果たさねばお稲が末代までの恥辱《ちじよく》をこうむるのみならず、そもそも君命もだしがたし――」
塩ノ谷判四郎は身もだえした。
「志賀どの、ああ、わしはどうしたらよい? いい知恵を貸してくれ、それを頼りにわしは江戸へ走って来たのだ――」
「……同様に、進退きわまって、まえにわしが助けを求めに来たお人はあの方じゃが」
と、志賀寛之助は三番目の柳の下をふりかえって、「おや?」といった顔をした。そこにすわっていたはずの二つの深編笠がいつのまにかふっと消えていたからだ。
「ああ、みごと――」
すぐうしろで声がした。同時に深編笠が一つ、志賀夫婦の肩と肩とのあいだからにゅっと出て、見台の上の拓本をしげしげとのぞきこんだ。
「近来にない眼の保養。これは北斎も及ばぬ芸術じゃな、ちっと忠治の教養も高めてやろう。おうい、忠治、来て拝見するがいい」
と、果心堂は遠慮なく忠治を呼んだ。忠治が飛んで来た。
「親分、なんでやす?」
「見るがいい、男根ならびに女陰の拓本らしい」
「拓本?」
「あれを墨で写しとったものだ。どうだ、この墨のかすれ具合、にじみ具合、えもいわれぬ味が出てるじゃないか」
「へえ、親分、毛まで一本一本まざまざと浮き出してますぜ」
「ううむ、これが男のほうか。『女《おんな》 大楽《だいがく》 宝《たから》 開《びらき》』という書に、一|麩《ふ》、二雁、三反、四傘、五 赤銅《しやくどう》、六白、七木、八太、九長、十すぼけとあるが、その見本はたいていここにあるようだぜ」
二人はもとの会話者をおしのけて、気楽な対話をはじめた。
「へえ、なんのこってす?」
「すぼけとは別名|干《ほ》し大根、おめえのようなやつだ。こいつが最下等。それからつづいて品位の悪いのが、下から、長いの、太いの、次に木のごとくでたらめに堅いの――」
「それ、下等でやすか? 驚いたな、その三つが揃《そろ》や、三冠王だと思ってたんだがな――」
「いやいや、この道はそう単純なものじゃない。神秘深遠きわまること易占のごときものだ。それらの条件はさして問題じゃないということだな。次が、下から、白いの、赤銅色の、それから、さきのひろがり、反《そ》り具合、くびれ具合、そして最高級品が、麩《ふ》だ」
「麩? 麩みたいに柔らかいやつが?」
「柔らかくして、中にはいれば無限にふくれるやつ」
「あ! なるほど。いや、恐れ入りやした。――や、こっちが女衆でげすね? こいつア凄《すげ》え、まるでわらじ虫やモモンガーみてえなのがある。こ、こっちは反対にお茶碗《ちやわん》だ。こりゃア饅頭《まんじゆう》で、こいつア桟俵《さんだわら》らしい」
「饅頭に桟俵とはなんだ」
「親分、親分は男のほうだけ詳《くわ》しいんだね。饅頭は土堤《どて》の高いやつで、桟俵は皺《しわ》だらけの婆あ。――いや、これを見ていると、こちとらもなんとかなりそうだが」
と、顔を金時《きんとき》みたいに真っ赤にしてりきんだが、
「やっぱりだめだ!」
と、忠治は悲しげな声をふりしぼった。
「ばか、こういう芸術品に対して妙な気を起こそうなんてばちがあたるぞ」
と、果心堂は苦笑して、やっと深編笠をうしろへずらせた。
「ところでかかる大芸術を創造された天才はどなたでござる?」
「ああ、やはり天才と申されますか。ご本人も左様に誇っておわしたが」
と、塩ノ谷判四郎は長嘆した。
改めて志賀寛之助が紹介し、かつまたこの拓本が出現するに至ったいきさつを説明した。
「つまり殿には、男性における鼻と性器、女性における口と性器の相関関係を研究したいと思い出されたのが、この騒ぎの発端《ほつたん》でござる」
と、判四郎が補足した。
「――けっ、あの枕絵《まくらえ》の殿さまが、ひとの寸法を測ろうとア、な、な、なんたる身のほど知らずなまねを――あの野郎、まだしょうこりもなく――」
と、忠治がうなり出すのを、
「黙りやがれ」
と、果心堂が叱咤《しつた》した。
「燕雀《えんじやく》いずくんぞ鴻鵠《こうこく》の志を知らんやだ」
忠治にはその意味もわからなかったが、とにかく果心堂にしては珍しく厳格な調子であったので、胆《きも》をつぶして首をすくめた。
果心堂は寛之助と判四郎を見くらべて、
「その両器官の相関関係、迷信と思われますかな」
「よくは存じませぬが、おそらく迷信だろうと心得ます」
「実は私もそう思いますが、そう思うところが日本人の悪いくせ、チョコザイなところで、よくは知らないがと言いつつも俗説はすぐに迷信と笑い、ちょっと考えてできそうにないことはぜんぜん不可能だと簡単に匙《さじ》を投げてしまう。あちらの本からうかがうと、紅毛人はちがいますな。俗説は、根拠のないことを証明しなければ迷信とはきめこまない。一見できそうにないことでも、もし必要とするなら、それが可能となるまで心血をしぼりますな。わたし予想するのに、いまに紅毛人は空を飛び、江戸を一発で消してしまう大砲を作り出すかもしれん。その知恵のもとは、チョコザイでない証明欲、執念《しゆうねん》ぶかい調査欲、ウンザリするほどの研究欲にあるのでござる」
果心堂の声はなぜか痛嘆のひびきをおびている。ひびきはあるがその痛嘆が、いまの焦眉《しようび》の問題となんの関係があるのかわからない。
「その見地からすると、青梅秩父守さまは偉い。日本人には珍しい――というより日本人ばなれした大天才でござりますな。その両器官の相関関係を単純に信じたり、あるいは俗説迷信と笑い捨てることなく、事実をもって探究あそばすとは――いや、恐れ入ってござりまする。秩父守さまがそのご研究に参じない方々にご不満を覚えられるは当然のこと、かくあるべきことでござる」
深編笠が二度、三度大きくゆれてうなずいた。
「よろしい。わたしが協力いたしましょう」
「えっ」
うしろから女房のお狛《こま》が驚いてその袖《そで》をひいた。
「またはじまった! あんたはひとに力を貸してやらなくちゃいけないときには知らん顔して、おせっかいしなくてもいいときに乗り出すへんなくせがあるわ。そんなばかなこと――よしなさいよ、ね」
「よしなさい? じゃ、このお侍のお困りを知らん顔していろというのか」
「いえ、そうじゃなくって――あたしだったら、そこにあるそんな人間|侮辱《ぶじよく》のばかげた紙、みんな破いちまって、ただ青梅に人質になってるこの方の許婚者《いいなずけ》の方をお救いして江戸へつれてくるわ。この志賀さまたちと同じように」
「ふふん、それは人類の一匹、二匹を救う小事にすぎん。学問は人類全体のためのものだ。わしはなんといっても秩父守さまのご研究に協力申し上げるぞ」
珍しく果心堂はおおいに張り切り出した。
「塩ノ谷さま、わたし、ごいっしょに青梅へ参りましょう。その六人の学問の敵を、いやでも学問の祭壇に捧げてやりましょう」
「……音が高い」
と、果心堂が言った。
塩ノ谷判四郎はあわてて手の桶《おけ》を低くして、たらいにそそぎ入れる水の音を消した。たらいの水面はすぐに静まって、蒼《あお》い初夏の夕空を映《うつ》した。
「あなたのほうも、たらいに水を張りましたな」
「は」
果心堂はふりかえった。やや低くなった侍屋敷の裏庭に面した一角から、白いけむりが一筋まっすぐに立ちのぼっているのが見えた。
――青梅藩旗奉行の屋敷の裏山である。裏山というより、小高い丘の雑木林の中の草原《くさはら》といっていい。
そこに、遠く離して、たらいを二つ置いた。あとで判四郎が考えると、二つのたらいとけむりの立ちのぼっている地点とは、三個所、同じ距離を置いていた。その二つのたらいに、果心堂は、裏山から湧《わ》く清水を桶で判四郎に運ばせたのである。
「いま、風呂におはいりなのは、お真知さまとやらにまちがいござりますまいな」
「は、たしかに。――婆に、もっと水をうめて、と言う真知どのの声をききました」
と、判四郎は先刻、裏庭の樹立《こだ》ちまで忍び寄ってきいた声を思い出しながら答えた。
入浴中の女人の声がきこえるまで這《は》い寄るなどいう所業は、ほんのこのあいだまでの自分には考えられないことだが、いまは判四郎も必死だ。それに、先ごろからの根拓陰拓の収集で、彼もいささか図々《ずうずう》しくなっている。
「では、ご自分のたらいのところへ行って、のぞいていなされ」
「は?」
「ただ、くれぐれも申すように、思いをよそに散らさぬように、ただ一心不乱に水ばかりをご覧なされてな。……それからあと、それ、ぽんぽんぽん、という私の声がきこえたら、そのとき例のことをなさるように」
「承知つかまつってござる。……しかし果心堂どの、拙者にはまだよくわかりませんが、いったいこれはいかなることで」
「ふふ、甲賀忍法|虚空鏡《こくうかがみ》というやつで」
「虚空鏡」
「代は見てのお帰り。さあ」
うながされて、塩ノ谷判四郎は、雑木林をくぐりぬけて、自分の位置に走った。
そこも草原になっていて、たらいが一つ、水に蒼い夕空を映していた。判四郎はそのそばにあぐらをかき、ふちに両手をかけて、果心堂に言われたように、念力こめて水面をのぞきこんだ。
以下、三個所で起こった光景は、時間的には同時であるが、活字の上ではやむをえず順次に述べる。
さて、第一のたらい。――
果心堂はその傍らに立ち、じいっとその水を見おろした。蒼空が見える。やがて彼は、手にした二枚の紙片をその水面におとした。紙はヒラヒラと舞いおちた。――よそから見れば、ただそれだけのことである。ただ水に映るその紙片は、無限の蒼空から舞い上がってくるように見えた。
第二のたらい。――
水に映る夕空を、いぜんとして誠心誠意をこめて判四郎は眺《なが》めていた。それは現実の空よりもはるかに寂寞《じやくまく》として広いものに見えた。むろん自分の顔も映っている。それが水面からほんとうの自分の顔までの距離よりもはるかに遠く、地上と、水に映る蒼空の中間あたりに――つまり、虚空に浮かんでいるように見えた。
――と、その水面の蒼空に、何やら白い小さなものが、ぽっと二つ現われた。それはユックリユックリと漂《ただよ》い上がってくる。彼はそれに眼を凝《こ》らした。非常に長い時間に思われたが、意識がそれのみに集中していたので、正確にはわからなかった。白いものは二枚の紙片であることが明らかになった。それはひるがえりつつ、水底の蒼空から水面へ舞い上がってくる。
「陰拓用意――」
声がきこえた。たしかに果心堂の声であったが、ふしぎにそれは水の底からきこえて来たような気がした。判四郎ははっとした。その声がしたら、かねてたらいのそばに揃《そろ》えてあるタンポに墨をふくませるように、果心堂から命じられていたからだ。二片の紙片はついに水面に浮かんだ。
「それ、ぽんぽんぽん」
彼は夢中で、その二枚の紙片をタンポでたたいた。すると、驚くべし、その紙面に、まるであぶり出しのように何やら浮かんで来た。一枚はたしかに唇《くちびる》のかたちをしていたが、もう一枚のほうにはなんとも奇怪な――が、判四郎にはたしかに類推できる抽象的造形が現われた。
第三のたらい。――
いや、これはたらいではない。風呂桶である。
旗奉行の娘、お真知は風呂にはいっていた。さっきまで火の燃える音がしていたのに、ふいにあたりがしーんとしたような気がして、彼女はふっと立ちあがった。その水音もきこえなかったのに、ぎょっとした彼女は湯を見おろした。すると、なんとしたことであろう。水の色は蒼空のように蒼く染まっていたのである。その蒼空に自分の立った二本の足が、真っ白な円柱のように交差していた。そのかなたにつき出した二つの乳房が円球のように見え、さらにそのあいだから遠く自分の顔が見えた。この奇怪な構図に彼女は思わず眼を吸われてしまった。
「美しい」
声がした。
それは水の底からきこえて来た。
「なんという美しさ、よく、じいっと見てごらん」
最初は男の声のようであった。が、次にそう言ったのは自分自身の声に似ていた。
いずれにせよ、世にあるまじき怪事として、悲鳴をあげて飛び出すべき事態なのに、彼女はそこに塑像《そぞう》のごとく立ちあがったままの姿勢でいる。その声と、蒼空に浮いて水に映る影像には、彼女自身を魅殺してしまう甘美な魔力があった。
「それ、ぽんぽんぽん」
これははっきりと男の声ときこえた。同時にお真知は、自分の唇と下腹部が、タンポのようなものでかるく打ちつづけられるのを感覚した。しかも、その叩打《こうだ》の快感は、彼女をしびれさせて、なお仁王立《におうだ》ちにさせたままであった。……
「先生、拙者とお立ち合いください」
青梅藩剣法指南役芹ケ野加兵衛の屋敷を訪れた塩ノ谷判四郎はいきなりそう言った。
「おぬしが、わしと立ち合う?」
加兵衛は首をかしげた。
「立ち合いとは、まず互角の者同士のやることだ。おぬしとわしとでは立ち合うことにはならぬ。稽古《けいこ》をつけてもらう、というなら話はわかるが」
「いえ、私は先生と堂々と勝負したいのです」
加兵衛はもういちど判四郎を眺め、そばにすわっている深編笠の男を眺めた。
判四郎の遠縁の者だということだが、なんのために同道してやってきたのかわからない。いささか子細《しさい》あって面体《めんてい》はひとさまにご覧に入れぬことにしている、とのことだが、それにしても、どんな子細があるのか知らないが、ひとの家を訪問してかぶりものもとらぬとは無礼|至極《しごく》な奴だ、と、ふだんでも苦虫をかみつぶしたような芹ケ野加兵衛の顔は、いっそう不機嫌《ふきげん》であった。
「おぬし、とつぜん、何を思い立ったのじゃ。気でもふれたのではないか」
「いえ、正気です。先生はいつか、わしに勝ったら例の拓本をとらしてやるとおっしゃいましたね」
「あ、あのことか。なるほど――」
と、加兵衛はニコリともせずに言った。
「いかにもわしは、あのようなたわけた拓本、とるならわしを斬ってからとれと言った」
「つまり、私が先生とお立ち合いして、木剣にしろもし先生に勝てば拓本をとらしてくださるものと解釈したのです」
「そういうことになる。しかし、おぬしがわしに勝てる道理がない」
判四郎は深編笠をかえりみた。
「例の件について、いかがすれば芹ケ野先生のご承諾がいただけるだろうか、と考えあぐねて、この果心庵に相談したところ、剣法師範の先生がそうおっしゃる以上、乾坤一擲《けんこんいつてき》、お立ち合いして先生をお負かしするよりほかはなかろうと申し――」
「塩ノ谷、言っておくが、そのような意味の立ち合いなら、たとえ木剣とて容赦《ようしや》はせぬ。打ち殺されぬまでも軽くない怪我《けが》をするおそれもあるが、それは覚悟か」
「は、実はそのためにこの果心庵にも同道してもらった次第。果心庵は医者でござります」
「整形外科が専門でござる」
ぼそっと深編笠がはじめて自己紹介をした。ろくに挨拶《あいさつ》もしないで、へんな医者ではある。
「整形外科?」
「左様、もっぱら運動器系統の機能障害と形状変化を治療するのが専門で」
「よしっ、医者つきとは見上げた覚悟じゃ。立ち合《お》うてやる。来い!」
と、加兵衛はぬうと立ちあがったが、
「おお、思い出したが、道場は、梅雨《つゆ》にそなえて修繕中だ。庭に参れ」
「かしこまってござる!」
と言ったが、塩ノ谷判四郎はさすがに蒼味《あおみ》をおびた顔になっていた。
曇り空の下の、樹々《きぎ》の色も湿潤な庭に、木剣を二本ぶら下げて出て、芹ケ野加兵衛もその顔色に気がついた。
「塩ノ谷、顔色が悪いぞ」
「いえ。――空模様のせいではござりませぬか」
「やめたい、と思えば、いまのうちに言え」
「やります。……が、暫時《ざんじ》お待ちを」
「なんだ」
「ちょっと、小用を」
加兵衛はむっとした顔をして、黙ってあごをしゃくった。判四郎は庭を走って、姿を消した。やがて――
「失礼つかまつりました」
と、駆け戻《もど》って来た判四郎は、加兵衛から投げられた一本の木刀をおしいただいたが、また、
「まことに申しかねまするが、暫時お待ちを」
と、いよいよ蒼い顔で言った。
「また小便か」
「なんともはや面目《めんぼく》ござりませぬが、真実、もよおして耐えがたく――」
「人間、こわいと排尿《はいによう》が近くなる。行けっ」
「はっ」
行って戻って来た判四郎は、「失礼つかまつった」とわびて、ふたたび木剣をとった。「いざっ」とさけんで、その木剣を構えたが、たちまち泣くがごとき表情になって、
「先生――」
「また小便か」
加兵衛はウンザリしたというより怒色を満面に浮かべて、
「そこでやれ」
と、すぐ近くの地点にあごを猛烈にふった。
「それはあまりに失礼――」
「いらざる時をくわせるほうがよほど失礼じゃ。かまわぬ、そこでやれ。――塩ノ谷、まさか宮本武蔵の故知を学ぼうとしたのではあるまいな。芹ケ野加兵衛はその手はくわぬ。出るか、出ぬか、とっくり検分してつかわす。やれっ」
「はっ」
塩ノ谷判四郎はキリキリ舞いして、すぐ近くの切り株のほうへ歩いたが、隣りの切り株に黙然《もくねん》として深編笠の果心庵が腰うちかけているのに気がつくと、その反対側をむいて排尿しはじめた。
加兵衛が宮本武蔵の故知|云々《うんぬん》と言ったのは、こちらをじらせ、怒らせるための笑止《しようし》な塩ノ谷の作戦かという疑いが頭を走ったためだが、しかし判四郎を鋭い眼で見ていると、うしろからだが、三度目とはとうてい思われぬ多量の液体が、二本の足のあいだに見えた。
「失礼つかまつってござる」
彼はひき返して来て、木剣をとった。
「塩ノ谷」
小便はいつわりではないと認めたが、加兵衛は声のカン走るのを抑えることができなかった。
「もはや用を足すこと相成らぬぞ」
「恐れ入ってござりまする」
「いやしくも武士が剣法の試合をしようとするまえに、実にふらち千万。またもし、どうしても用を足すとすれば、行為中といえどもわしは容赦なく打ち込むからそう思え」
「承、承知つかまつってござる」
「いざっ」
二人はついに木剣をあげて向かい合った。
めったに笑わない芹ケ野加兵衛の眼に、あぶらのように笑いがにじんで来た。あきらかに嘲笑《ちようしよう》である。
――と、その木剣がしだいに垂直になり、徐々に右肩にひきつけられてゆく。同時に左足が地から離れ、ひざから下が内側に折り曲げられてゆく。――この構えがどういう根拠があるのか、この加兵衛の、ただし本気になったときの独特のくせで、見る者によっては泥《どろ》くさくもあり、踊りを踊っているようにおかしくもあるから、加兵衛ほどの実力のある剣客が一青梅藩の師範として田舎にくすぶっているのは、あのへんな構えが原因だと評する者もあって、おそらくそれは事実であろうが、しかしほんとうの眼を持っている者からすれば、これはなりふりかまわぬ野性とぶきみな迫力をそなえて、名状しがたい恐怖感を与えるものであった。
この左足がひざで直角に折り曲げられて、足裏が右のひざに触れた瞬間に剣が飛ぶ。その剣を受けうる者は天下にざらにはあるまいと、加兵衛自身がそう確信している。
怪我は覚悟しておれ、と宣告したが、先刻からの塩ノ谷の無礼な挙動と、傍らに来てすわって見ていながらいっさい知らん顔をしているその縁戚《えんせき》の医者とやらのふるまいに、もともと厳格苛烈《げんかくかれつ》な性格の加兵衛は、うぬ、打ちようによっては生命にかかわっても自業自得だと思えと、凄《すさ》まじい殺気に燃えていた。
地から離れた足が、四十五度の角度まで曲がったとき――しかし、加兵衛の岩に皮を張ったような顔に、異様な表情が浮かんだ。
「ま、待て」
「――は?」
加兵衛の左足が地に戻《もど》った。木剣をひいてけげんそうな判四郎を見つめ、加兵衛の口がパクパクと動いたが、何やら言葉に出しかねたとみえて声にはならぬ。が、たちまちまた切迫した表情になって、
「小便じゃ」
「――へ?」
「わしが小便したくなったのじゃ」
と言うなり、相手の同意も待ちかねるように、加兵衛は木剣を放り出し、キリキリ舞いし、さっき判四郎が用を足した地点に駆けつけた。
用をすませてひき返す。間《ま》が悪いのか、恐ろしい仏頂面《ぶつちようづら》である。――それを、声が追った。
「芹ケ野先生」
果心庵であった。この男は先刻から一言の口もきかずに、そこの切り株に腰をおろして見物していたのである。しかも、見れば片手をふところ手にして。
「こんどまた用を足す者があったら、それを打ち込んでもよろしゅうござりましょうな」
加兵衛はかっとして、猛然とさけんだ。
「言うにや及ぶ。――いざっ」
そしてまた数十秒。芹ケ野加兵衛の左足が地から離れ、角度が四十五度から六十度あたりにかかろうとして、
「ま、待てっ」
と、加兵衛はまた声をしぼった。
なんたること、彼はまた激烈な尿意《にようい》を覚えたのだ。むろん驚いて、みずから抑制しようとした。が、膀胱《ぼうこう》は見えない手でぎゅーっとしごかれたようで、内容はツーと外尿道口まで走り出し、いま一歩で噴出しそうな感覚があった。
「ショ、ショ、ショ――」
加兵衛はわけのわからぬ声を発して、木剣を放り出し、さっきの場所へ駆けつけた。
ところが――何も出ない! 出ないのが、当然である。たったいまやったばかりなのだから。――にもかかわらず、いぜんとして、膀胱をぎゅっとしぼられるようなあの感覚は、熱い脈波となって下腹部を打ってくるのだ。
「うーむ! うーむ!」
彼はあぶら汗をかいて、腰を前後にゆり動かした。
「先生――」
深編笠がうしろから寄って来た。前に向かって、のぞきこまれても、それを叱《しか》る余裕は加兵衛にない。
「負けたとでもなんとでも思え。うーむ」
「はてな」
果心庵はつぶやいた。それから杖《つえ》を出して、濡《ぬ》れた地面をほじくった。杖ではない、いま加兵衛が放り出した木剣であったが、それはあとになって思い出したことだ。
「えい、拓本でもなんでもとらしてやる。それより、出るべきものを出してくれ。うーむ!」
「先生、原因がわかりました」
「な、なんじゃ」
「これです」
木剣が地に掘った小さな穴をさした。そこには幾十匹かわからないほどのみみずの一塊がうごめいていた。
「みみずに小便をかけると子どもが腫《は》れるといいますな。あれはみみずのはなつ電気というものが、小便を逆さに流れて柔らかな局部に伝わるからで」
「ば、ばかめ、それは小児のことだ。大の男にそんな話はきいたことがない。うーむ!」
「しかし、みみずもあれだけ集まりますとな。だいいち、事実、先生がおかしくなられたではありませぬか。どれどれ」
と、撫《な》でられて、その刺激でまた噴出しそうになり、しかも何も噴出しないのに、芹ヶ野加兵衛はのけぞり返ったり、腰をねじまわしたりした。
「や、これはたいへん、たしかに突端が赤《あこ》う腫れ、しかも横なりにくの字型に曲がって来た――」
芹ケ野加兵衛はかっと眼をむいて、果心庵の言うことが嘘《うそ》ではないことを知った。もはや試合どころの騒ぎでない。――
「塩ノ谷はどうした? あれには異常はないか」
「判四郎? あれの小便の位置はちょっとちがうようでございます。あそこでございます。いや先生、これはたいへんでござる。明日になったらもっと腫脹《しゆちよう》いたしましょう。これは今夜、お屋敷に泊めていただかねばならぬ」
「い、いますぐに癒《なお》らぬかや?」
「薬を調合するのに一晩かかります。今夜一夜だけがまんなされませ。明朝になってその薬を塗布すればスッキリと、もとの姿と相成ります。――しかし、運動器系統の機能障害と形状変化を治癒《ちゆ》する整形外科医の拙者《せつしや》がきょうここへ参ったのは、思えばこれこそほんとに虫が知らせたと申すべきでござりましょうなあ」
――試合を中止したほうを負けとする。負けたら根拓をとるというのが約束だが、それを果心庵は持ち出さない。いま持ち出さないことを、芹ケ野加兵衛もべつにふしぎには思わない。そんな余裕はない。
それより、判四郎のほうがそれをふしぎに思った。彼がなんども小用に庭をぬけ出したのは果心庵――いや、果心堂に命じられたことで、最後に庭でその位置まで指定されてやったとき以外は、べつに何も排泄《はいせつ》しなかったが、それも加兵衛先生の根拓をとるための作戦だときかされていたからだ。それからあと、加兵衛の身に起こった異変は彼自身にもわけがわからないが、拓本のことを果心堂が言い出さないことは、もっとわけがわからない。
「もし。――あの件は?」
家の中へはいりながら、判四郎は果心堂の背をつついた。
「いや、わかっておる。しかし、加兵衛先生お一人とったってしかたがありますまい」
と、果心堂はおちつきはらった低い声で答えた。
「ご夫婦、いっぺんにいけどりにしたいと思うてな」
――その夜だ。芹ケ野加兵衛はいよいよ強烈となった。出したいが出すものがない、というへんな苦しみに牡牛《おうし》みたいなうなり声を発していた。内儀のお篤はおろおろした。夫の苦しみは不可解だが、ただ、まるで巨人に一撃をくった砲身のようにくの字型に折れ曲がり、先端が常態の二倍はたしかに、かつ赤々と肥大した肉体的異変を見ただけで、胸もつぶれんばかりになった。
妻に介抱してもらっているうちに、突如加兵衛は昏迷《こんめい》した頭で、妙なことを思いついた。この排泄欲をとげる法があるではないかと、考えたのだ。排泄したいものが何かわからなくなってしまった。というより、とにかくなんでもいいから排泄しなければ死んでしまう、という恐怖にかられて来たのである。
「お篤、ここへ来《こ》う」
と、加兵衛はうめいた。
それから数十分たった。
彼の、出すものがないのに出したい、出したいのに出すものがない、という例の欲望はなお解消されなかった。肉体的異変はいよいよ進行していた。
――もともと修行修養のために月に一回というストイックな戒律をみずからに課していた剣法指南役である。
剣法指南役の妻にふさわしく、見るからに貞潔で凜《りん》としたお篤が、彼女にしてははじめての声をあげた。苦痛の声ではなく、あきらかに快美のかぎりの声であった。
その余韻《よいん》がいつのまにか消えたのに気がつくと、彼女は失神していた。
加兵衛のさけびをきいて、果心堂と判四郎が駆けつけて来た。判四郎は墨と紙とタンポを抱えていた。
現場に踏みこんで、あられもない内儀の姿を見おろして、果心堂がつぶやいた。
「こうすれば、こうなる、これ天の理じゃ。あの折れ曲がった先ぶくれの大砲にこねまわされては、気を失わない女があるものではない。――それ、ぽんぽん」
初夏の草の中に一個の鉢《はち》が置いてあった。
「このみみずが手品のたねでな」
と、果心堂が深編笠をあげて、東の野末《のずえ》のほうを見て言う。その野末から人影が一つやってくる。
「みみずを占い師どのが芹ケ野家の庭のあそこに埋めておかれたことはわかりましたが――あの、みみずが電気とやらを伝えるというのは、ほんとうですか?」
と、塩ノ谷判四郎が、同じ方向に眼をそそぎながらきく。果心堂は首をふった。
「先日、俗説捨てるべからず、と申しましたが、やはりこれは俗説でしょうな」
「しかし、子どもの腫れるのはよく見ますが」
「みみずに尿《いばり》をかけると腫れるということをきかせたために、暗示でそうなるものと私は思う。そこが子どもで」
「暗示――」
「暗示でそうなるということ自体が、電気よりももっとふしぎで」
「芹ケ野先生があんなことになられたのも、やはり暗示ですか」
「いや、それはちがいましょう。暗示など効《き》く先生じゃない。あれは先生が異常を訴えられたとき、どれどれ、と触診したわたしの掌《て》に、あんなふうに腫れる薬が塗ってあったので。少々タチが悪いが、この際やむをえん」
「へ? しかし、そもそもその最初の異常が――先生がとつぜん小便したくなられたのは、ありゃどういうわけでござる。もしほんとに試合することになったらどうしようと、拙者、生きた心地もなかったでござるぞ」
「あれのしかけは、これです」
果心堂は片手をふところに入れて、一個の物体をとり出した。まるい皮袋のような――えたいの知れぬものであった。
「牛の膀胱ですがね」
「へへえ。……これが、なんのしかけで?」
「ここにある小さい穴を尿管口というのですが、これをめざす人に向けてね、ふところの中で私がぎゅっとにぎりしめると、あっちの人の膀胱もぎゅっとしまって、突如猛烈に小便がしたくなる――」
判四郎は眼をパチクリさせて、この奇怪な物体を眺めいった。
「そりゃ、どういう理屈でござる」
「さあ、それがわたしにもわけがわからんのです」
果心堂は無責任なことを言う。
「不可解なこと、不明確なことは徹底して研究しろというのがわたしの持論ですが、甲賀流忍法だけは、いくら理屈を考えてもわからん。ただ相伝の術を使うと、相伝の怪事が起こることだけはたしかで、こりゃ紅毛人にいくら研究してもらっても永遠にわからんのじゃないか。わたしにはそういう気がしますな」
と、神韻《しんいん》 縹《ひよう》 渺《びよう》たる声を切って、
「来たようですな、根拓反対同盟の大物が」
と、また野を見た。
板舐玄馬軒である。
彼はいま、江戸から来た客を青梅郊外のこの野まで送っての帰るさであった。
実は彼は江戸で借金だらけになって、そこへ青梅藩に来てくれぬかという話があり、それで先般乗り込んで来たのだが、来てみると藩主は少々頭におかしいところがあり、それはいいがまだ客分待遇、正式に召し抱えてくれるものやらくれぬものやらあいまいで、彼も業《ごう》をにやしていたところへ、きのう江戸からの客であった。流人島《るにんとう》の八丈《はちじよう》島へ凶悪犯取り締まりのため用心棒にゆかないかという話なのである。それじゃ自分も島流しになったも同然で、本来なら一議に及ばずはねつけるのだが、その話を持って来た客が、彼の借金の最大の債権者で、元来この青梅藩への口を斡旋《あつせん》したのもこの浅草《あさくさ》の蔵前《くらまえ》なのであった。金が返せぬなら八丈島へゆけという強談判《こわだんぱん》に、ともかくも数日中になんとかたしかな返答をするからと言ってひとまず帰ってもらったのだが、かくて彼も、この分では今明日中にも青梅秩父守のところへ再会見を求めて就職の件を確定してもらわなくてはと覚悟をきめた。男根の長さを測る云々《うんぬん》などということは論外で、きけば藩の指南役芹ヶ野加兵衛も拒絶したというが、その手前も、こちらだけ応じるわけにはゆかないが、そうだ、それよりその芹ヶ野加兵衛と試合して、田舎剣法に対する江戸前の腕を藩中に披露《ひろう》して瞠目《どうもく》させるという手もある。――
――よし、この案を一つ申し込もう。これ以外に手はない。
と、腕組みしつつ、野を来かかったところへ、
「板舐玄馬軒どの」
と、呼びかけられた。
見ると、藩士の塩ノ谷判四郎だ。例の男根採集に来た青年だ。それにもう一人、深編笠の男が、草の中の石に腰をかけている。さらにそのそばに、なんのまじないか鉢みたいなものが一つ置いてある。
「おう、塩ノ谷うじか。なんじゃな」
「ちょっとお願いがござる」
「お願い? だからなんじゃと申すのだ」
「この鉢にご小用を足していただきたいのでござる」
「――――?」
さすがに狐《きつね》につままれたような顔で、大きな鼻を鉢の上にさしのぞかせて、玄馬軒も驚いた。
鉢の中には、みみずがウジャウジャとかたまっている。しかも――それが全体として、なんとも奇妙な形態をかたち作っているようだ。
「どうです、女陰のかたちに見えませんか」
「ふうむ、そう申せば」
「このご仁《じん》が御岳《みたけ》山で発見採集して来たものでしてね。いくらほどいても、ふしぎなことに、たちまちこういうかたちを作る――」
「ほほう」
「ためしに、どやつか小便をひっかけてみたら、たちまち一物が腫れあがった――」
「ほほう」
「で、先日、殿にご覧をたまわったところ、殿もいたく興をもよおされ、それ例のご学問好きでござりましょう、家来の数人にさっそく小用を試みさせられたところが、これまた腫大《しゆだい》」
「ほほう」
「それをきいて、乗り出されたのがあの芹ケ野加兵衛先生です。かかる地中陰湿の虫ケラの、かかるたわけたわざに、男たるものが敗北いたすとは、まったくふとどきな妄想《もうそう》のせいで、その修行道念の未熟|嗤《わろ》うべし、と大言されて、憤然粛然、小便をひっかけられたところ――」
「なに、あの芹ケ野が――して、どうなった?」
「やはり、だめでござった。いや、その結果は余人にまさる、眼もあてられぬ大惨状」
「へへえ?」
「そこで――実はいまお願いいたしたように、板舐玄馬軒どの、あなたにも一つ試していただきたいのでござる。いや、これは拙者個人のお願いではない。殿からの仰せで、これはぜひ玄馬軒にもやらせろと。――あの男ならば、見るからに気力充実の英雄の相貌《そうぼう》、必ずやこのみみずどもの魔性《ましよう》に敗れることなく、その妖気《ようき》をはねかえし、慴伏《しようふく》させるであろう――とのお言葉でござりましたぞ」
板舐玄馬軒は黙って、むずかしい顔で、またまじまじと鉢の中のみみずを見おろした。
あの芹ケ野が敗れたと? これはおおいに食指が動くな。それより、殿がそれほど仰せられるなら、この一事によって例の一件を解決してもよいかもしれぬ。実にばかげたことではあるが。
みみずの大群は、ウジャウジャとうごめきつつ、なるほど奇態にあのもののかたちを崩さない。ぬめぬめと桃色に濡れひかって、波打っているのを見ていると、しかし玄馬軒のあたまにも、ふっと妙な幻想の膜がかかって来た。わしは大丈夫かな?
ちらと、別の疑惑もかすめた。ひょっとすると――
「し、塩ノ谷うじ」
「は?」
「板舐玄馬軒、かような虫ケラに負けるとは思わぬが、それより貴公、いつぞやわしの男根の拓本をとるとか言って来られたな」
「は」
「まさか、わしをぺてんにかけて、それを手に入れる企《たくら》みではあるまいな」
「いえ、現時点に関するかぎり、そんな計画はありません。だいいち、このことをおきき入れくださるならば、拙者ら、玄馬軒どのがご用を足されているあいだ、うしろにひかえて静粛にすわっていますから」
壮志とためらい、野心とうたがい――それらを一挙に解決する事態が生じた。
突如、玄馬軒は小便したくなったのである。なぜいま、とつぜん小便したくなったか――ということに疑惑を起こす余地もないほどの、それははげしい尿意であった。
「よし、やるぞ!」
わめくも遅しと彼は袴《はかま》をまくりあげた。
「両人、退《さが》りおれ!」
泳ぐように二人が後退するや否や、板舐玄馬軒は、実に一メートル半の距離から鉢へ向かって放尿した。べつにいま威力を両人に誇示するつもりでもなければ、いわんやみみずの魔力を怖《おそ》れたわけでもない。それ以上接近するいとまがなかったのだ。
うしろに並んですわった判四郎は、その驚くべく太い小便の虹《にじ》に呆《あき》れていたが、このとき、そばの果心堂が、
「……忍法いばり!」
と、口の中で、しかしたしかにそう聞こえる小さな声を発するのをきいた。
同時に彼は、玄馬軒が仁王立《におうだ》ちになって、息張ったまま、妙にそのうしろ姿が固定した感じになったのを見た。
いや、玄馬軒の姿ばかりではない。ただ固定した感じだけではない。その放出された尿そのものが、ピタリと白い金属の半円みたいに動かなくなっているのを彼は見て、眼を見張っていた。
「……甲賀流相伝書には異針《いばり》と書くが」
と、果心堂がつぶやいて立ちあがった。
前にまわったが、玄馬軒はいぜんもとの姿勢のままである。口がパクパク動いているところを見ると、からだじゅう金縛《かなしば》りになったわけでもあるまいが、驚愕のため動けなくなってしまったらしいのだ。
「こ、こりゃどうしたことじゃ」
「やはり、御岳山のみみずの神力にはお負けなされたと見えますな」
と言って、果心堂はポキリとつららみたいな音をたてて小便を折った。
板舐玄馬軒は足の位置を正常に戻そうとして、フラリと前へよろめいた。なお袴の端から突出させたままである。フラリとよろめくのも無理はない。袴にしまいかねるのも当然である。判四郎は、いま果心堂が小便を折った怪事もさることながら、それより玄馬軒が展覧にまかせているもの自体に舌を巻いた。
雁高紫色、八寸胴返しとかつて当人も誇ったが、実にその高言にそむかぬ大威容であった。これだけでも重量一貫目はたしかにあろうとさえ思われる。――
「こういう症例は珍しいが、絶無ではござりません。二、三人ござりましたが、手で、なめし、ほごそうと努めましたところ、もの全体が折れてしまいました。元来骨なしの器官に、小便が骨となって通っているとみえます」
深編笠の男が言う。かかる事態に、ばかに冷静な、へんな奴だ、と思ったが玄馬軒にはそれをとがめる余裕もあらばこそ。――ためしにはげしく左右に振ってみたが、たちまちその遠心力にグラリグラリとまたひょろついた。
「お痛くはありませんか」
「い、痛くはないが」
「そこが、かえってぶきみでございますな」
そう言われると、いかにもぶきみだが、それよりも袴の裾《すそ》がひっかかったままなのが困る。だいいち、無理に収納しても、こうつっぱったままでは、芹ケ野加兵衛との試合はおろか、青梅秩父守との謁見《えつけん》もなりがたいだろう。
「こ、これ、なんとかいたせ、なんとか、その、溶かしてくれ!」
「わたくし、まえの症例によって、やっと発見した治療法でございますが」
と、果心堂が言った。
「上等の和紙で静かに包み、これをタンポ様《よう》のもので叩《たた》きつづけていると、なんとかもとに返るようでござります」
夜半、雨が晴れて、月が出た。
土塀《どべい》と土塀とのあいだの、だいぶぬかるんでいる路地を音もなく歩いて来た小柄な黒い影が、そのまんなかあたりにぴたりと立ちどまった。
一方の高い塀を見あげている。それから、前後左右を見まわした。
影はその塀の下にそって立った。高い下駄《げた》の一方から片足をぬいて、塀にその足裏をあてる。はだしだ。二度三度、足裏の筋肉をうごめかしているようであったが、うなずいて、いちどしゃがみこんだ。下駄をいじっているようだ。
やがて、影はふたたび立ちあがった。と、見るや――驚くべし、彼ははだしの二枚の足裏を塀につけて、ほとんどからだを水平にして、ト、ト、ト、と二メートルちかい塀の上まで駆け上がったのである。二つの下駄は、紐《ひも》でつながれてそのあとを追った。
してみると、いま彼がしゃがんで何かしていたのは、下駄に紐を結ぶためであったろう。――前後左右を見まわしたのは、ほかに人影のないのを見さだめるためもあろうが、塀と塀とのあいだの路《みち》が狭くて跳躍するための前走ができないことや、塀の上にさし出す適当な枝のないことをたしかめるつもりもあったのかもしれない。
肩にまわして二個の下駄を背にひっかけたまま、彼はじいっと屋敷の中をのぞきこんでいたが、たちまちその姿を内側に音もなく消し去った。三分ほどたって、その路地をまた三つの影が歩いて来た。
「見られたでしょう」
「見ました」
きいたのは男の声で、答えたのは女の声だ。――してみると、いまの黒影はあたりを見まわしてようすをうかがったけれど、やはり見ている人間があったのだ。
「たしかに、夫、甲猿心です」
「下駄をぬいで、この塀を横なりに、はだしで駆け上がったようですな」
と、塀を撫でたのは深編笠をかぶった男であった。
「しかし、はだしとはいえ、このぬかるみの中を歩いて来て、足に泥もついているだろうに、この月明かりにすかしてみても、なんの跡もない――えらいものだ」
「夫は、青梅藩代々の忍びの者の血を伝える男です」
「世間は広い。――青梅藩にこれほどの忍者が棲息《せいそく》していようとは、果心堂、ご当地に参るまで寡聞《かぶん》にして知らなんだ」
果心堂である。してみれば、もう一つの男の影は塩ノ谷判四郎にちがいない。
「しかし」
と、果心堂の声が苦笑した。
「青梅藩秘蔵の忍者が、その特技を、夜這《よば》いに使うとは――」
「……知らなんだ知らなんだ。わたしは、夫はご用のために夜勤めをしているとばかり思っていました。それにしても、このごろ急に夜のご用がふえたのをおかしいとは思っていたけれど。……けれど、どうしてここへ?」
これは青梅でも五指の中に入る漆《うるし》問屋の家であった。
「さ、それじゃ、この三、四日、猿心どのの夜歩きのあとをつけてみたが、忍び込む家がみなちがう。はなはだ失礼な申し分だが、大家からべつに千両箱を背負って出てくるようすもなければ、とんと貧しい家に這い込むこともない。さてこの目的はなんだろう、とこの塩ノ谷さんと首をひねったあげく、やっとその家にみな美しい年ごろの娘御がいることをさぐりあてた――」
忍者甲猿心の女房、おたずの眼がきらっと月光に光った。
「しかもな、この塩ノ谷さんのご苦労なされた例の拓本によって調べたところ、その娘御たち――いずれも口が小さい――」
最後のほうは笑いをふくんだひとりごとのようなつぶやきであったが、おたずの歯はキリキリと鳴った。
「ええ、こうと知ったら、あの毛なし猿――」
「これ、声が高い、しいっ」
と、果心堂はあわてて制して耳をすませ、
「あっぱれなものだ。家の中でコトとの音もせぬ。いや、今夜にかぎらず、いままで忍び込まれた家の娘、この三、四日間にてらしても、もっとほかにたくさんあるだろうに、べつに騒ぎを起こしたという話もきかないのは、さすがは忍者、惜しい」
「惜しくはない、呼んでやりましょう、家の人を。――もしっ」
「あ、これ、いまみつかると、猿心どの、無事ではすみませぬぞ。――しいっ」
「あんな毛なし猿、火あぶりにでもなるがいい。――もしっ」
「ま、待て、お待ちなされ。そんなことをされるために、あなたに知らせてここへつれて来たわけではない。夜這いの行状はともあれ、まことに惜しいあのわざじゃ。めったなことをすると、青梅藩のためにあたら人材を失うことになる。――しいっ」
果心堂は声を殺してかきくどいた。
「それに、いまきけば、ご亭主の夜歩きはこのごろのことじゃと言われたな。ひょっとするとその誘因は、あの拓本にあるかもしれぬ。いや、これは絶対秘密事項じゃが、殿さまがよく、あそこのだれは大きい、ここのかれは小さいと、近習にご機嫌《きげん》うるわしく語られるそうじゃから、つい噂《うわさ》は噂を呼んで、ひとつ、そんなに小さいなら、おれがためしてみようと――」
「そんなばかな」
「いや、男というものは、ひょっとそんなむほん気を起こすもの、してみれば、この塩ノ谷さんの責任も多少ないとはいえぬ。いや、本人がそう言ってじくじとしておる。だから、塩ノ谷さんに免じて、ここのところは一つ――」
なんだか論理が合わないが、たとえ論理が合っても女房が納得するわけがない。なお歯がみして、
「それじゃ、ひとさまの手はかけず、わたしの手で」
と、大柄のからだを武者ぶるいさせる女房を、必死に果心堂はひきとめた。
「ご内儀、あのご亭主が二度と夜這いせぬようにしたらよろしかろうが」
「えっ、二度とできぬようにですって?」
「左様」
果心堂は判四郎をふりむいた。
「塩ノ谷さん、人間の子どもはどうしてできるかご存じですかな」
「は、それは、男女相会し」
「いや、そのあとのことよ。それはね、男性の精子はね、女性の体内で卵子にめぐり合う。めぐり合ったとたん、精子は卵子に虜《とりこ》になってしまう。とにかく卵子は精子の一万倍の大きさがあるんだから、甲さんご夫婦の比ではない。かよわき精子が抵抗できるわけがない。そして精子は卵子の中で――溶かされちまう。男が女にとろかされてしまう運命は、生物学的にきまっているんだ」
果心堂は、ふところから一本の小さな徳利をとり出した。
「ご内儀、これをご亭主にお使いなさい」
「飲ませると、夜這いがとまるんですか」
「飲ませるんじゃない。夜、いっしょにお休みになるときに、これをご亭主の下腹あたりいちめんに塗るんです」
「なに、これ?」
「卵子酒」
甲猿心の女房のみならず、判四郎もポカンと徳利を見つめた。
「これを塗ると、塗られた男は溶けてしまう。効くのは男性にかぎるが」
「溶けて、なくなるんですか?」
「なくなっちまったらたいへんだ。とにかくこの卵子には精子を溶かす力はあるが、卵子酒はそれほど強力でなく、ただ男性の皮膚だけ泥みたいにとろとろに溶かす作用があるのです。なに、痛くも痒《かゆ》くもない。翌朝になれば、乾いた泥みたいにそのままかたまってしまう」
「もしっ……とろとろに溶けるって……うちの人のなにが溶けちまったら……いくら浮気はとまっても……なんにもならないのじゃないのさ」
果心堂はニヤニヤ笑い出した。
「そのとおり。だから、そのまわりだけ。そのもの自身に塗ることはかたく禁じてくださいよ。これだけはまちがいないように」
「まわりだけ塗ると、ほんとに夫の浮気はとまりますか」
「とまります。とまらなかったら、私の首をあげる。深編笠の中のこの首をな。――まず今夜は眼をつぶってやんなさい。さあ、ひきあげるとしよう」
蒼い月光の中に深編笠がゆれて、果心堂は、さきに立ってぶらぶら歩き出した。
「わたしはもう三日間、この塩ノ谷さんのおうちに泊まっています。わたしの言ったことが嘘とわかったら、首をとりにおいでなさい。またもしそのほか変わったことがあったら、遠慮なくご相談――」
三日目の夜。
「果心堂どの、明日は殿とのお約束の十日目、城へ参らねばならぬが」
「そうなりますか」
「必要な六人分の拓本のうち、揃ったのはまだ四人分」
「いかにも――」
「あの甲夫婦のやつが手にはいらぬが――」
焦燥に蒼ざめた塩ノ谷判四郎を自若《じじやく》と見て、果心堂は言った。
「それ、だれか訪う声が聞こえるが、あれはたしか男の声。――ひょっとしたら、猿心ではござるまいか?」
判四郎は飛び立った。やって来たのは、いかにも甲猿心であった。猿心だけであった。
「女房より 承《うけたまわ》 った」
平蜘蛛《ひらぐも》みたいにひれ伏してから、猿心は顔をあげた。体格も小兵《こひよう》で軽捷《けいしよう》だが、どこか猿に似たその顔は、ここ二、三日のあいだにつけられたらしい痣《あざ》とひっかき傷に惨澹《さんたん》たるものであった。
「恐れ入ってござる。何はともあれ――何ぴとにも、足あと、指あと、その他からだの特徴をあとに残さぬつもりのこの猿心、かかるからだに相成っては、将来何かと都合が悪い。殿の秘命を承る忍びの者としての役目にもさしつかえが起こるは必定《ひつじよう》。まった、いつの日か忍者としての天命つきて腹切らねばならぬときに、わがむくろの恥――」
声は悲痛をきわめた。
「お願い申す塩ノ谷どの、いつぞやお断わりした例の拓本、仰せのままに従いまするほどに、何とぞもとどおりのからだに戻したまわるよう、お願いいたします。またこのお方にお頼み申してくだされ!」
判四郎はさっと満面に喜色を走らせたが、すぐに痛みを眼に走らせて、
「女房のほうは?」
と、果心堂にきいた。
「お初にお目にかかる。青梅藩の忍者どの」
と、果心堂はそれにはとりあわず、
「拙者は甲賀をふるさととする者です。この道は相身たがい――お顔をあげられい。それから腹を見せられい、拝見しよう」
と、丁重に言った。
この道は相身たがい――なんて、何がこのようにこの青梅の忍者を打ちのめしたのか判四郎にはまだわからないが、とにかくそのもとを自分が作ったくせに、うまいことを言う。
しかし、ふり仰いだ甲猿心の眼は、不服よりも最高の敬意にかがやいた。
「おお、甲賀のお方とな――」
と、感激にたえない思い入れがあったが、たちまち、
「それでは、ご免――」
と、衣服を脱ぎ出した。
「ご内儀にやられましたな。塗られた個所をさあどうぞ」
「無理に押えつけられ、塗られ、手籠《てご》めにされ――」
と、猿心は憮然《ぶぜん》たる表情になったが、すぐに照れたような苦笑を浮かべた。
「むろん、平生《へいぜい》ならば、あの女房ごとき屁《へ》のかっぱでござるが、なにぶん、こちらに弱味あり、じっと隠忍したところ――」
見せた。
判四郎はのぞきこんだ。猿心は毛のない男であった。そう言えば女房がしきりに「毛なし猿」と罵《ののし》ったようだが、まったくの無毛症というわけではないけれど、それに近いほど毛が薄かった。その男根のまわりに、しかし妙な陰翳《いんえい》がある。子どもがいたずらに粘土をこねたような造形に、大人が手を加えたような精緻《せいち》な細工。
「大きいな」
と、果心堂が嘆声をあげた。
はじめ判四郎は、果心堂の言葉の意味がわからなかった。猿心の男根は、干《ほ》しとうがらしみたいに小さなものであったからだ。果心堂の言っているのが、どうやらそのまわりの瘢痕的肉襞《はんこんてきにくひだ》らしいとわかっても、なおそのものの正体は判断の外にあった。「卵子酒、ありゃほんとですか?」と、あとで判四郎がきいたとき、果心堂は、「うふ」とへんな笑いを洩《も》らしたけれど、とにかく猿心の下腹部の皮膚がそのためにとろとろに柔らかくなったことはたしからしい。そこに何かが押しつけられたのだ。あの陰翳はそのあとらしい。――
「なるほど、貴公が小味なものに憧《あこが》れられたお心、ようわかる」
「おお、おわかりくださるか。ひとには言えぬわが悲しみをご了察くだされたのは貴殿ばかり――しかもそれが甲賀のお方とあっては、わが男根も以《もつ》て瞑《めい》すべし」
「ところで、それではそろそろ修復にとりかかるとしよう。塩ノ谷さん、墨とタンポと、それから紙を三枚。――ここまでくれば、あと一枚、ご内儀のお口はあとで測らせていただけるだろう」
「三枚?」
もういちどのぞきこんで、塩ノ谷判四郎はあっとさけんだ。彼はやっと忍者甲猿心の肉体に刻印されたものの正体を知ったのである。
「それで六人分」
と、果心堂が静かに言った。
「お稲どのは助かりますぞ。あなたの卵子は助かりましたぞ。やがてとろける精子どの」
まず、大団円というところである。
卵子酒による皮膚のケロイドを治癒してもらった甲猿心は辞去し、あとは明日を待つばかりだ。――と、何思ったか、果心堂は、
「はてな?」
とつぶやき、窓のそばに寄った。障子をあける。明るい月の中に、窓のすぐ外に紫の木蓮《もくれん》の花が匂《にお》っていた。それを二つちぎって、彼はもとの座に帰った。
「…………?」
狐につままれたように判四郎が見まもっていると、果心堂はふところから二つのサイコロをとり出し、ころころと投げて、二つの木蓮の花でぱっと伏せた。それをあげると――
「妻」
「怒」
という文字が、それぞれのサイコロの上に見えた。それをじいっと見つめていて、
「ひょっとすると……」
と、果心堂はつぶやいて、ふりかえった。
「塩ノ谷さま、行きましょう」
「ど、どこへ?」
「お城へ」
果心堂は立ちあがった。
「ひょっとすると、お城でおかしなことが起こっているかもしれませぬ」
二人は月明の往来へ出た。
急ぎ足で城のほうへ近づくと、果たせるかなその方向に乱れ騒ぐ声がする。剣の打ち合うひびきさえするようだ。二人は宙を飛んで大手門のほうへ近づいた。
――と、大手門の前で、一団の黒い影がもつれ合っている。白刃《はくじん》がひらめき、二人ばかり地に倒れた。
「……あっ、曲者《くせもの》――」
さけぼうとする判四郎の口を、果心堂が押えた。
「あれは、あなたの許婚者《いいなずけ》の方ではありませぬか?」
判四郎はすかし見て、仰天した。もつれ合っている黒い影の中の二つは、女だ。しかもその一つはたしかにお稲だ。それが一心不乱に紙を破っては捨てている。――
「これはいかん。あらもったいなや。あれはどうやらあなたが心血をしぼり、殿さまに献上なされた拓本らしいですぞ」
果心堂に言われて、判四郎は仰天どころか大地もひっくり返るような思いがした。彼女のために、まさに心血をそそいで収集したものを、彼女自身がああ盛大に破り捨てようとは。――
「お、お稲は、き、気が狂ったのではないか。と、殿のお知りあそばすところとなったら、もはやこの世の破滅――」
また駆け出そうとする判四郎を果心堂は押えた。
「お待ちなさい。あれにはあれなりの子細《しさい》があるのかもしれぬ。それにあの付人がついている以上、何が起ころうと大丈夫。しばらく、しばらくご見物を」
もう一人の女は、大手門の石垣《いしがき》から壁に這い上った。常人ならそうやすやすとよじ上れるはずはないのだが、まるで女郎蜘蛛《じよろうぐも》みたいにスルスルと這い上った。そして、高い門の軒下の白壁にペタリと一枚の紙を貼《は》りつけた。
「どうも例の拓本らしいが」
と、果心堂がつぶやいて、ふき出した。
「ばかに細い男根だなあ。痩畑《やせばたけ》の大根のしっぽのようだ」
遠目の月明かりでは、判四郎にはかいもくわからないが、果心堂には深編笠越しにありありと見えるらしい。
「おや、そのそばに何か字が書いてあるぞ。――ぼうふらも虫の中《うち》、これはこれ青梅秩父守の根拓なり――と。うふ、やっぱり、やったか」
大手門の下では、さらに妙なことが起こっていた。
こういうことをやっている女二人めがけて、なおも、七、八人の武士が狂乱したように殺到しようとするのを、前に立ちふさがった、ズングリムックリ、三度笠の影が、
「ききっ……ききっ……立った! 立った!」
というような怪声をあげて、たたっ斬る。
「ああ、べつに斬らなくてもよいものを――」
と果心堂は嘆声を洩らした。嘆声を洩らしたが、当人は自若として動こうともしない。
「こまった奴だ。……わたしの子分と称する国定忠治って野郎です」
みるみる忠治は、城《しろ》 侍《ざむらい》たちをみな斬り倒してしまった。いまでは判四郎も、江戸で逢《あ》った果心堂の女房と子分が青梅城に乗り込み、主君秩父守の根拓をとり、お稲を救い出して来たらしいということはわかる。それにしてはこれに気がついた城侍たちが少ないようだが。――あとになってわかったところによると、主君がそんな目にあっているのをだれも知らず、城からのがれ去ろうとする寸前、忠治が大きなくしゃみをしたのを、大手門の門番たちがやっとききつけて、追いすがって来たものらしい。――そして、さらに応援を求める余裕も気力も粉砕するような忠治の猛烈な迎撃ぶりであった。
さて、妙なことというのは、追手をぜんぶ斬り倒してしまった忠治が――
「立った。立った!」
と、なお奇声を発してそこにウットリと立っていたが、たちまち、
「おお、立ったなら、ここでひとつ――」
と、つぶやいて、いきなり刀を放り出し、近くで拓本を破り捨てていたお稲のところへ駆け寄り、抱きついたのである。はじめ判四郎は、忠治が何をしようとしているのかわからなかったが、お稲が悲鳴をあげ、その帯がくるくると解けて地を這い出したのに、何度目かのびっくり仰天をした。
「か、果心堂どの!」
「大丈夫、大丈夫」
と、果心堂はおちつきはらっている。それより何かほかのことに気をとられているようだ。
その忠治の頭上に、月明を切って一羽のこうもりが飛んだ。こうもりと見えたが、大手門にいま拓本を貼《は》り終えた女が空から舞いおりたのであった。その足が忠治の脳天を蹴《け》ると、忠治はあおむけにひっくり返って――そのまま地上で眼をまわしてしまったようだ。女はひらと地に降り立って、お稲のほうへ駆け寄っている。
「どうもサイコロがしきりに夜泣きするようじゃな」
ちらっとその光景を見ながら、果心堂がふところからまた、サイコロを二つとり出した。おまけに、ここまでまだ持って来ていたのか、あの二つの木蓮の花までとり出した。
地面にころころっと投げて、ぱっと伏せる。――
花をあけたのを、判四郎も見た。
「弟」
「磔」
と、サイの目に出ている。――
「弟とは忠治のことかな?」
果心堂はユラリと立って、はじめてぶらぶら歩き出した。われに返って判四郎もそのあとを追う。――
「……あっ、あんた!」
お稲を抱きしめていた影が、こちらを見て、駆けて来た。いうまでもなくお狛だ。五歩ばかり向こうだ。月光にも頬が染まって子どものようにしょげた。
「あの、あんたには悪いけどねえ。やっぱりがまんできなかったわ。たとえいま塩ノ谷さまがご用をお果たしになっても、あんな馬鹿殿さま、あとになったらまた何をやり出すかわかりゃしないと出かけて来たら、案《あん》の定《じよう》。――塩ノ谷さま! お稲さまは今夜すんでのところで、殿さまに例の拓本をとられるところだったのですよ!」
お稲はころがるように駆けて来て、判四郎に飛びつき、これまた子どもみたいに泣きじゃくりはじめた。
「とにかく」
と、果心堂がそこに倒れている忠治と青梅侍たちを見まわして言った。
「ここまでやったら、お二人、やっぱり江戸へ逃げ出す手よりありますまいなあ」
「忠治がくしゃみしてめつかったのだけれど、忠治、わざとくしゃみをしたようだわ」
「こいつ、斬りたいんだ」
と、果心堂は憮然とした。
「こまったクセがついたものだ」
「みんな、親分のせいですぜ……」
と、忠治が言った。ひっくり返ったまま、薄目をあけていたようだ。むくりと身を起こして、
「人を斬ると、それが、立つからねえ」
「立ったからって、ものの見さかいがつかなくなるって法があるか」
「立ちくらみ、とはこのことで……」
「ばか野郎、実にどうも危ねえ奴だ」
と、果心堂は一喝《いつかつ》したが、ふとそのとき耳をすませたようだ。城の内部で混乱した声が起こった。大手門前の騒ぎには気がつかないのに、どうやら失神でもさせられていた主君を宿直《とのい》の侍たちがいまごろ発見したらしい。
「行こう、長居は無用だ」
と、果心堂が深編笠をゆすった。
みなが青梅を離れ、月明の野道にかかったとき、ふとまた果心堂がつぶやいた。
「しかし、さっきのサイの目は、今度のことじゃないらしいが、ありゃなんの意味かな?」
思いがけないことが起こっているのがわかったのは、江戸の長屋に帰ってからのことである。
実に、驚いたことに、長屋に待っていたのは、志賀寛之助夫婦、新免又右衛門夫婦のみならず、なんと鐘巻武蔵守《かねまきむさしのかみ》が飄然《ひようぜん》とすわり、さらに神坂小次郎、下り葉左内までがそこにつめかけていたのである。
「しばらくぶりじゃな、呆伝《ぼけでん》じゃ」
と、武蔵守改め呆伝は言った。又右衛門が言う。
「きのう武蔵守どの、この長屋を訪《おとな》いくだされてな……一夜、杯《さかずき》を交わしつつ語り明かしたに、話は剣談のみならず、茶、禅に及び、まことに神仙境にある思い。……たまたま、この神坂どの、下り葉どのが来合わせられたのは、まさに虎《とら》うそぶいて谷風《こくふう》至るの例と申そうか……」
「へえ! 武蔵守さまが?」
と、さすがの果心堂もめんくらったが、次に彼は鐘巻呆伝のすぐうしろに、右の面々のみならず、哀れっぽい百姓ふうの男が三人すわっているのを見て、いよいよけげんな表情をした。
その一人が、頓狂《とんきよう》な声をたてた。
「ちゅう、忠治どんはいねえでやすか?」
「忠治はいま井戸で足を洗っています。すぐに来るでしょうが、忠治に何かご用で?」
「このご仁たち、上州から忠治を頼って、わが屋敷を訪れられたのじゃ。なんでも上州国定村一円は、去年より大旱魃《だいかんばつ》にて百姓方|飢《う》えに苦しみ、それに加えて代官|松田軍兵衛《まつだぐんべえ》なるもの、年貢《ねんぐ》を責めはたくのみならず、哀訴する百姓を水牢にいれ、娘を人質にとって、夜伽《よと》ぎをさせ……」
と言っているうちに、呆伝ははらはらと落涙した。
「そこで、百姓方途方にくれ果て、ともかくも村で一番の男伊達《おとこだて》と称していたこの忠治を頼らんとして、わが屋敷を訪われたのじゃが――」
「なるほど、忠治ははじめ鐘巻さまのお屋敷にわらじを脱ぎましたからな」
と、果心堂は納得したが、それにしても鐘巻武蔵守ともあろう大名が、百姓たちをつれてわざわざこの陋巷《ろうこう》の長屋へやって来たとは恐縮のほかはない。
そのとき、忠治がわらじを肩にひっかけてはいって来た。
「あっ、忠治どん!」
三人の百姓はそれにすがりついて、いま武蔵守が説明したようなことを、涙とともに訴え出した。
「代官の使う役人、手さきどもは数千人、一揆《いつき》を起こそうにも息が出ねえありさまだ。その火をつけ、采配《さいはい》をとってくれるのはおまえさまよりほかにはないと、村方一同の願いじゃ。どうか、忠治どん。上州へ帰ってくんろ!」
きいているうちに、忠治は満身|金時《きんとき》みたいに赤らんで、りきんで来た。
「た……」
「え?」
「立ちそうだ」
「え?」
「これが立たずにいられるかってんだ。忠治は立つ。うん、行くぜ、上州へ――」
彼はそのまま、またわらじをはき出した。果心堂が声をかけた。
「行くか、忠治」
「へい、親分にはいろいろお世話になりやした。おききのとおりの始末で、どうやら忠治、上州へ帰りゃ、立って立って立ちまくりそうなあんばいでござんす。すっぱり快癒《かいゆ》したら、また江戸へ来て、そのときご恩は――」
「おめえ、もう江戸へは帰れねえかもしれねえぜ」
と、果心堂が言った。
「ははあ、このことだったんだな。実は、サイコロがな……」
と言いかけて、彼は口をつぐんだ。
ぼそぼそとしたそのつぶやきは耳にはいらなかったらしく、忠治はわらじをしめ、三度笠をかぶり、
「みなさん、おやかましゅう。……仁義《じんぎ》を切ってるいとまもござんせん。ご無礼お許しを願いやす。では、小松五郎、頼んだぜ!」
丁《ちよう》と腰の長脇差《ながどす》をたたいたが、ふいにうつむいて、
「おアネエさん……」
と妙な声を出し、あげた笠の下の眼は涙でいっぱいであった。
「おさらばでござんす」
一礼して、ぱっと駆け出した。あとを、三人の百姓が追う。
すると――鐘巻呆伝がフラリと立ちあがった。
「わしも行こう。同じ上州に国持つよしみじゃ。ちょっと助けてやろう」
「武蔵守さま」
果心堂が驚いて声をかけた。
「あ、あなたさまは、あの、ふつうのおからだではない――」
鐘巻呆伝は高潔に枯れた笑顔で見おろした。
「それがな、その後わしはな、重心の軽いことを利用した呆伝無丸流《ぼけでんむがんりゆう》なる秘剣を工夫した。慈悲忍辱《じひにんにく》のためならば、幾千人なりとも空気のごとく斬る奥義《おうぎ》、ちょっとそれをためして来よう」
「そうと承れば、この新免又右衛門も起《た》たねばならぬ」
と、又右衛門が刀をついて立ちあがれば、
「武蔵守さま、又右衛門どのがお立ちになったとあれば、剣を学ぶわれらとて」
「おお、いかにもその呆伝無丸流、拝見せずして何が剣人ぞや」
と、神坂小次郎、下り葉左内も立ちあがる。
「いまの話、きいてわれらともふところ手はできぬ」
「われらも参るぞ――」
志賀寛之助と塩ノ谷判四郎も立った。
二人はそこにすわったままの果心堂を見たが、鐘巻武蔵守、新免又右衛門につづいて、神坂、下り葉の両人も、タタと駆け出していったのを見ると、意を決してそのあとを追った。
茫然《ぼうぜん》とそれを見送っていたそれぞれの女房たちは、顔見合わせた。と思うと、たちまち一団の花の咲き散るように、これまたハタハタと駆け出した。――
「あんた」
と、お狛が言った。
「どうするつもり?」
「うむ」
「あたしも行ってみるわ」
「やっぱり行くか」
「あんたは?」
「言っておくが、行けば大事になるぞ。とにかく相手は公儀の代官じゃ。関八州《かんはつしゆう》を敵にまわすことになるかもしれぬ。わしが行って、なりゆき次第で……この深編笠を脱がねばならぬようなことになると――」
お狛は動揺して、しばしじっと佇《たたず》んでいたが、やがてこれまた唇をきっとかみしめ、土間に降り立ち、夫にお辞儀して走り出した。
果心堂は寂然《じやくねん》とすわっていたが、やがて二つのサイコロをとり出し、ふりかえって、三尺の床の間の壼《つぼ》に活《い》けてあった牡丹《ぼたん》の花をすっと抜いた。
たたみに、ころころっとサイを振って、牡丹の花でハタと伏せて、あける。
「生」
「幻」
と、あった。
「ふふ」
と、果心堂は笑って、立った。
床の間に立てかけてあった大刀をとって、腰にさした。特筆するに足りるが、この果心堂という辻の八卦見《はつけみ》は、この物語中、まだこの大刀をとったことがないのである。――
それから、深編笠の緒《お》をしめなおし、ユラリと出ていった。もうだれの姿もない江戸の巷《ちまた》へ。
青嵐《あおあらし》にふところ手の袖《そで》をなぶらせながら、北へ向かって歩き出した。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『忍法笑い陰陽師』昭和53年8月30日初版発行