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忍法|流水抄《りゆうすいしよう》
山田風太郎
目 次
叛の忍法帖
おちゃちゃ忍法腹
近衛忍法暦
羅妖の秀康
慶長大食漢
彦左衛門忍法盥
[#改ページ]
叛の忍法帖
一
「御産室に入るは拙者一人でござるがよろしいか」
と、その男にいわれたとき、産婦の父の光秀《みつひで》も、産婦の夫の忠興《ただおき》も顔見合わせた。
やって来た山伏は、衣服はもとより、袈裟《けさ》のすずかけ[#「すずかけ」に傍点]も安土《あづち》に来てから新しくしたものであろうか、金銀のぬいとりさえ見えるが、それに包まれた肉体は、二人が甲《こう》州から帰ってくる途中に見たと同様、依然として精悍《せいかん》な野性にみちみちたものであった。むさ苦しい、といっていい。皮膚の黒さはいくら洗っても落ちないと見える。
総髪にはしているが、ぬけ上ったひたい、針のように細い光を放つ眼、あぐら鼻、そしてぶ厚い大きな口。――それは二人も承知していたが、いま改めてこうしげしげと見ると、無恥と好色がギタギタとあぶらみたいに全身に浮き出している感じで、とくに若い夫の忠興が辟易《へきえき》した。
「それはこまる」
「では」
と、山伏は頭を下げた。辞退の表現であった。
「待て」
と、光秀がいった。彼は思い出したのだ。甲州陣でのこの男の医術を。
甲州陣で、どこからともなく現われた山伏であった。それが、織田《おだ》方、武田《たけだ》方の区別なく、その傷兵の手当をしてくれるのだが、止血、治癒、実にみごとな効き目を見せる。はじめ、怪しい奴――とも思ったが、この実績には何ぴとも眼をつむることができなかった。山伏姿をしてはいるが、名は阿波谷図書《あわだにずしよ》といい、また永田知足斎《ながたちそくさい》の弟子だともいった。
それをきいて、みな「ああ」とうなずいた。永田知足斎|徳本《とくほん》――またの名を、甲斐《かい》の徳本ともいう。甲斐で神医といわれた人物である。信玄の侍医となったこともあるが、必ずしも武田の庇護《ひご》を受けず、牛に乗って「一服十六銭」と呼び歩き、敵味方、貧富を問わず仁術の手をさしのばした奇医である。すでにこの年、七十歳になんなんとしていたが、数年前、甲斐を飄然《ひようぜん》と去っていまそのゆくえを知る者もない。
観念的には「神医の弟子」というにはふさわしくないが、甲斐の徳本そのひとも実際は豪放|不羈《ふき》、また相当にむさ苦しい方であったから、この阿波谷図書がそう名乗っても、べつに疑う者もなく、ともかくその外科のわざを見ると、だれもがさもあらんと肯定した。織田軍の甲斐からの凱旋《がいせん》に、この山伏はのこのことついて来たが、信長《のぶなが》もそれをとめるどころか、安土の城へ入れた。――ほんの十日ばかり前のことだ。
「図書」
と、光秀は呼んだ。
「かりにも産婦じゃ。あかごはもとより、血もながれよう。手助けする女なりと要ろうが」
「いや、女人こそ、もっとも同座しては相ならんのでござる」
「なぜ?」
「この図書の呪術《じゆじゆつ》に障りがござれば」
「呪術?」
忠興がきいた。
「おまえは医術ならぬ呪術でわが妻を出産させようというのか」
彼はもともと自分以外の男に妻の出産を見せるなどいうことは心外であった。そしていまこの男を眼前に迎えて、いよいよそれを忌避《きひ》したい気持になった。――上気した二十歳の夫の顔を見て、阿波谷図書はニタリと笑った。
「呪術なればこそ、拙者、奥方さまの玉のおん肌にこの指も触れず、御安産なし参らせるのでござる。……御安心なされ」
「なに、妻に手も触れず――?」
「拙者これより織田家に御|昵懇《じつこん》に願おうとする者、その織田家切ってのおん大将たる日向守《ひゆうがのかみ》さまの御息女に、なんとて悪《あ》しゅういたしましょうや。……もし万が一、悪い目が出たときは、この図書の首|刎《は》ねられて結構でござる」
「ふうむ」
光秀は、傍にいた重臣の明智左馬助《あけちさまのすけ》や斎藤《さいとう》内蔵助《くらのすけ》と顔見合わせたのち、婿の忠興をかえり見た。
「まず、やらして見よ、与一郎《よいちろう》」
「し――しかし、見るであろうが」
「さ、それは拝診いたさずには」
と、阿波谷図書は笑った。いうことは尤《もつと》もだが、その笑いが与一郎忠興には、がまんのならない好色的なものに見える。――
そのとき、廊下をあわただしく駈《か》けて来る跫音《あしおと》がして、美しい侍女が一人入って来た。
「あの、お医師はまだでござりましょうか。姫君さまが、姫さまが。――」
細面《ほそおもて》の白い顔が恐怖にあえぎ、胸の前の小さな銀の十字架がゆれていた。お霧《きり》という侍女だ。明智家の侍女だから姫君と呼んだが、むろん忠興の妻のことだ。
「い、いってくれ、山伏」
いちばんこだわっていた忠興が、いちばんさきに腰を浮かしてさけんだ。阿波谷図書も腰をあげた。
「わたしが御産室に御案内いたします」
と、やはり立ちあがったのは、そこにいたもう一人の侍女であった。彼女は忠興を見ていった。
「それからわたしがおかいぞえいたします」
「なに?」
阿波谷図書は、じろりとその女を見た。
「女はこまるといま申したが」
「なぜ女が拝見してはいけないのでございます。女が見ているくらいで障りのあるような術なら、見ていなくともどれほどのことができましょう」
凄艶《せいえん》と形容していい美貌《びぼう》で、ややふとめの声にも力がある。阿波谷図書は狼狽《ろうばい》した。
「いや、わしに障りがあるのではない。見ておる女に障りがあるのじゃ」
「と、おっしゃると?」
「それはいま、ここでは言えぬ」
「おまえさまはいま、姫さまに手も触れぬとおっしゃいましたね」
「申した」
「では、わたしは姫君だけを拝見いたしております。おまえさまの方には眼もむけませぬ。――わたしの心は姫さまの御安産をお祈り申しあげる気持でいっぱいで、たとえ何を見ようとわたしに障りなど起きるはずもなく、またたとえどんな障りがあろうとかまいませぬが、それでもおまえさまの方は見ませぬ。それでもいけないと申されるのですか」
「よし! 刈羽《かりは》、そなたいってやってくれ」
と、忠興はいった。せきこんだ、きっぱりとした口調であった。刈羽はすでに廊下に出ている。――
もはやこれ以上異議を申したてることはできない雰囲気で、山伏阿波谷図書は一礼してそのあとを追ったが、しかしこの場合にも、ニタリとうす笑いを浮かべたようであった。
二
産婦は光秀の娘|玉《たま》である。
丹後《たんご》の宮津《みやづ》城主|細川幽斎《ほそかわゆうさい》の子息与一郎忠興に嫁せしめた娘で、むろん本来ならそちらで出産すべきだ。事実、おととし長男の熊千代《くまちよ》は宮津城で生んだのだが、これが母子の生死にかかわるほどの難産であった。京の名医|曲直瀬道三《まなせどうさん》を急派してやっと難をまぬがれたほどで、そのときの道三の診断では、陣痛微弱ということであった。
で、この三月中旬、信長に従って甲州へ出陣するにあたって、光秀も忠興も最も憂えたのは、お玉が第二子を生むのがこの四月末か五月初めになるということであった。とりあえず、妊婦を安土にある明智屋敷にひきとったのは、両者相談の上のことである。甲州陣は思いのほか急速に終結し、二人の凱旋は間に合ったものの、その戦塵《せんじん》を洗ういとまもなく、またもや妊婦のこのまえ同様の難産に逢着《ほうちやく》してしまったのだ。頼みに思う曲直瀬道三も、名医もまた病むことがあるのか、それより七十五歳という老齢のためもあって、去年の暮から門を閉じているときく。――かくて、溺《おぼ》れる者は何とやらで、えたいの知れぬ甲州の山伏医者を呼んだのだが。
晩春の夕暮の庭に、大釜《おおがま》が三つ据えられて、ぐらぐらと煮えたぎっている。その一つは薬湯らしい。そのまわりに、水をたたえた大盥《おおだらい》や空桶《からおけ》がいくつかある。老女が四、五人働いていた。
ただ一枚だけ雨戸のあけられた広縁の上から、阿波谷図書と刈羽はそれを見た。すぐ左の障子の中にも、だれやら動いているらしい気配があった。
「わたし一人だけ拝見いたします」
と、刈羽はちらっと図書を見て、またいった。
それから彼女は先に産室に入って、中にいた二、三人の老女を追い出して来た。老女たちは蒼《あお》ざめて、おろおろしていた。
「どうぞ」
阿波谷図書は座敷に入った。
薄暗い産室に、細川家の若い奥方は横たわっていた。ここにも、まわりに盥が並べられ、白布が積みあげられていた。しかし、褥《しとね》のまわりはすでにおびただしい血まみれの布がちらばり、惨澹《さんたん》たるものであった。
枕頭には、小さな経机の上に金色の十字架が一つ置かれていた。
夜具の中から蝋色《ろういろ》の顔がこちらを見た。
「いやじゃ、刈羽」
かすれた、神経質な、必死の声が聞えた。
しかし、すぐにその声は弱々しいうめきに変った。
阿波谷図書は遠慮なくずかずかと歩いていって――しかし、奥方の顔のちょうど向いにあたる壁際にぬうと立った。
「必ずお助けして進ぜる」
野太い声でいい、その壁の下に大あぐらをかいた。
「お女中」
と、呼ぶ。
「そなた、わしの監視役としてついて来たようだが、心配するな、わしはここから動かぬ。従って、奥方さま御産のおんさまも、実はこの眼に入れぬ。あとで忠興さまに報告するがよい。……そなただけ、拝見せよ」
厳然としていった。
「いや、急ぎ、おん股間《こかん》に坐《すわ》れ。急がねばおん母子のおいのちにもかかわる」
かえって刈羽は狼狽した風であったが、しかし言われた通りにした。凜々《りり》しい美貌だが、性質は気丈らしいし、事実また急を告げる事態でもある。
彼女の坐った位置からはすべてが見える。奥方はすでに破水を終り、露《あらわ》になった下半身のあいだから、黒い嬰児《えいじ》の頭部をちょっぴりとのぞかせていた。……しかし、それ以上出ないのだ。
「そこにおれ」
と、図書はいった。
「やがて、わが術により、お子が出で給えば、そこの布を以て、おん会陰《えいん》部を――御陰部と御肛門のあいだの部分じゃ。俗に蟻《あり》の戸渡《とわた》りともいう――力のかぎり押えたてまつれ。押えておらねば、その部分がひき裂けることがある。おん糞《まり》をもらさせ給うかも知れぬが意に介すな。……してみると、女がいるとこまるとは申したが、やはり来てもらって好都合ではあったな。ただし、先刻いったように、そなたはわしを見てはならぬ。そのためにも、しかと奥方さまの御陰部のみに眼をそそいでおった方がよろしいぞ。――よいか?」
「はい!」
と刈羽はうなずいて、必死の眼でその通りにした。いつしか彼女は山伏医者の看護婦と化している。
それと、産婦を、阿波谷図書はじっと見ていた。
奥方の難産に対する曲直瀬道三の診断はすでにきいている。陣痛微弱だ。つまり、子宮の筋肉が弱いか、子宮神経の異常のために分娩《ぶんべん》が正常に行われないのだ。
「奥方さま、拙者をごらんなされ。いや、お女中は見てはならぬ。奥方さま。……いざ」
と、横の壁ぎわにあぐらをかいた阿波谷図書はいって、それから、ふところから妙なものをとり出した。薄い褐色の布きれのようなものであったが、それをひろげて頭からすっぽりかぶったのである。
かぶると、それは半透明の膜となった。あきらかに植物性の布ではない。動物質の薄い皮であった。ぬらりと濡《ぬ》れているような光沢をはなち、その中からいちどぼんやりと図書の顔が見えたが、みるみるうちにふくれて、長さ三十五、六センチもある巨大な卵のようなかたちを呈した。すると、かえって、最初の菲薄《ひはく》さが消滅して、外から見ても厚みのある、つきたての餅《もち》みたいな弾力さえ感じさせる物体――いや、肉塊となった。
それが、やがて――波うちはじめたのだ。ぎゅうっと縮んで、やや細長くなり、やがてゆるんでもとの通りにふくれあがり、一息ついてまた縮みはじめる。――その運動が次第に早くなった。
泣きさけぶようなうめき声が、それと波長を合わせた。それはたしかに奥方の口からもれる声でもあったが、その奇怪な袋の中からも低い牝牛《めうし》めいたうなりとして流れてくるようでもあった。――たちまち刈羽は、細い、しかしつん裂くようなべつの声をきいた。
「おぎゃあ」
あかん坊がこの外界に現われたのだ。
「生まれました。……お生まれ遊ばしました!」
気丈に見えた刈羽だが、動顛《どうてん》した。
「見てはならぬ。わしを見てはならぬ」
というくぐもった声が聞えた。
そのまま図書は壁にもたれて、なお肩で息をしていた。いつのまにか、厚みのある肉頭巾からもと通りに戻った薄い膜をやおらぬいだ。あぶら汗にぬらぬらと濡れひかり、あきらかに消耗した図書の顔が現われた。ぬいだものをいちど振ると、壁にピシャリと液体の散る音がした。折りたたんで、またふところに入れる。
「奥方さまには、この次のお子からはまともにお生みなされるであろう」
と、つぶやいた。あかん坊の産声はつづいている。
「もはやこのあとは、婆あ達にできるであろう。……老女衆を呼べ」
といった。
救われたように刈羽は立ってゆこうとした。
「待て」
と、図書はまた呼んだ。が、見てはならぬといわれたためか、刈羽は立ちどまったが、ふり返ろうともせぬ。
「もう見てもよろしい。……しかし、お女中、そなた、先刻、わしを見たな?」
刈羽ははじめてふり返り、くびをふっていった。
「めっそうな!」
阿波谷図書の充血した眼は、刈羽のむっちりとふくらんだ腰のあたりに粘りついていた。しかも、醜怪といっていい顔は、きゅっと苦笑を浮かべていた。
「まあよろしい。美女ゆえ、ゆるす。……老女衆を呼びなされ」
玉はのちの細川ガラシャである。
彼女がこのとき生んだ第二子は与五郎興秋《よごろうおきあき》といい、後年父の忠興の意に叛《そむ》いて――或《ある》いはその意を体して――大坂城にたてこもり、落城後、自決した。細川家をついだのは、これから四年後に生まれた第三子|忠利《ただとし》である。
三
初夏の夕映えに燃えていた黄金の甍《いらか》、黄金の壁の五層七重の大天守閣のかがやきはすでに消えていたが、代ってその櫓々《やぐらやぐら》にともった灯が、夢幻のごとく琵琶《びわ》湖にうつりはじめた。
それも、城のすぐ下にある大官の屋敷町から、さらに坂道を城下町の方へ下るこのあたりはかえって暗い。六年前、築城とともにこの一帯に運ばれた巨石の石垣は、大樹のかげにもう苔《こけ》むしはじめている。
「人間五十年
化天《けてん》のうちをくらぶれば
夢まぼろしのごとくなり。……」
だれか酔った声で唄《うた》いながら町の方へ下っていったあと、そこはもと通りの静寂に戻った。――甲州陣から帰ったあと、この界隈《かいわい》の屋敷からは連日連夜、きちがいじみた酒宴の声が聞えたものだが、それも十余日、さすがにこのごろは祝いくたびれたと見えて、この一日二日、あたりはそれ以前より静かなくらいであった。
すると、その道を上の方から、シトシトと下りて来た者がある。宵闇《よいやみ》の中にも、あきらかにそれは美しい腰元風の娘であった。
「刈羽どの」
ふいに、錆《さび》のある声がかかった。
一本の大木の蔭《かげ》に切株が二つ三つあり、その一つに山伏が腰をかけていた。
ずっとそこに坐っていたらしい気配だが、先刻の酔っぱらいならずとも、だれでもそこに人が坐っているとは気がつかなかったろう。それはたしかに山伏のかたちはしているのに、ふしぎに人間ではない。無生物の感を具えていたからだ。
が、明智家の侍女刈羽がふりむいたとき、それは人間どころか、人間ばなれした獰悪《どうあく》な精気をはなつ阿波谷図書の姿となった。
「いや、馳走《ちそう》の酒を頂戴《ちようだい》しすぎてな。――樹の間がくれの湖の暮色に見とれつつ、酔いを醒《さ》ましておった」
薄闇にも蛍のようにひかる眼をむけて、
「どこへゆかれる」
「ちょっと、御用あって、町へ。――」
「では、いっしょに参ろう」
刈羽に困惑のようすが現われた。べつに切株から腰をあげる風もなく図書はいう。
「酔いもあるが、思案もしていたのじゃ。――さきほど日向守さまからお話があってな。どのような褒美でもつかわすと仰せられる。いや、医は仁術、と申して御酒だけ頂戴して出て来たが、考えてみるとこの阿波谷図書、これより織田家に随身して長く医の門を張ろうと望んでおる。となると、やはり妻が欲しい。――」
にたっと例のきみわるい笑いを浮かべて、
「参上する前、明智家のお女中衆には美女が多いときいたが、見参してみてそれがいつわりでないことを知った。わしの見たうちでもその中で抜群のお女中が三人あったな。ひとりはそなた。ひとりはそれ、先刻、御産室から駈けて来た十字架の首飾りをつけたお腰元、それから、これはまだ名も知らぬが、廊下でゆき逢うたお女中じゃ。まずこれを花にたとえれば、白梅、百合、牡丹《ぼたん》とでも申そうか。――御息女をお助け申した日向守さまじゃ、せっかく御褒美下さるとの仰せ、お女中のひとりをこの図書が妻に所望すれば、決していなやは申されるまい。さて、どの女人を頂戴いたそうかな、とな。――で、いろいろ思案して、わしはそなたを選ぼうと思う」
笑いはいよいよ醜怪なものになった。
「いま、そなたを見てその気になったのではない。そう決めたところへ、そなたが来たのだ。これも天の配剤と申そうか。……ここへ来られい。まだ湖の暮光は残っておる。……ここでしばし喋《ちよう》 々《ちよう》 喃々《なんなん》と語り合おうではないか」
ぺたぺたと、傍の切株をたたいた。刈羽はそのままゆこうとした。
「待たれい。わしがそなたを選んだわけをききとうはないか。わけはむろんそなたの顔かたちに惚《ほ》れたことじゃが、それ以外に、そなたがただの女人ではないと見たからじゃ」
刈羽は立ちどまった。
「ただの女ではない?」
「左様。――先刻の御産のとき、そなた、拙者を見られたろう」
「み――いえ、見ませぬ。見るものですか。――」
「ふふ、ま、それはどうでもよい。ともあれ、わしという人間がただものではない。であるからして、妻もまたただものであっては勤まりかねる。――」
「わたしがただものでないとは?」
「それをいうてきかせる。まず、ここへ」
また切株をたたいた。刈羽はためらっていたが、その言葉がよほど気にかかったのか、おずおずと寄っていって、その切株にそっと腰を下ろした。
「では、語る。――しかし、語るまえにちょっと」
いきなり図書は、じぶんの裾《すそ》をまくりあげて――何をするかと思ったら、おのれのものをつかみ出した。
「いや、口で語るより、これに語らせた方がよい。百論一根にしかず」
「あれ」
顔をそむけ、立ちあがろうとする刈羽を、阿波谷図書は片手でとらえ、片手でふところから何やらとり出した。――例の膜頭巾だ。
「牝馬の子宮をなめしたものじゃ」
はたいて、また頭からかぶった。
「面《つら》が、うぶな女にはあまり好かれぬことはよく承知いたしておる。じゃによって、かくす。……ただし、下の方は自信があるぞ。いや、これほどの雄物は、わしの知るところ富士の見える国には一本もない。そなた、知っておるか? 夫婦《めおと》となって、女が男をまたなきものに思うは、しゃっ面《つら》でのうてこれにかぎるようになることを」
半透明の顔が、みるみる見えなくなった。膜が肥厚しはじめ、卵のかたちに大きくふくれ出したのだ。――分娩期に於《お》ける子宮そっくりのかたちに。
「わしもそなたが見えぬ。そなた、遠慮なく見や」
奇怪な肉頭巾は波うちはじめていた。その中から、くぐもった声が笑った。
「そなた、手にとって見てもよいぞや」
刈羽はあっけにとられたように眼を見張って、眼前に波うつ肉塊を眺め、ついで下の方に眼をやった。そこにも一筒の肉塊が波うっていた。それは上のものに劣らず奇怪なものであったろう。……はじめて見る女の眼には。
数秒の時が過ぎた。――それから刈羽はどうしたか。
相手が肉頭巾をかぶっているせいであろうか、気丈さのゆえであろうか、大家《たいけ》の奥に仕える腰元として、かえって強烈な好奇心に耐えかねたのであろうか、無邪気のためであろうか、それとも魔のような相手に魅入られて、すでに心の常態を失ったのであろうか。
――彼女はそうっと右腕をのばして、まさに手にとったのである。
それは肉頭巾と同じように伸展膨脹した。
「ただものでないな、そなたは」
肉頭巾の中で、喜悦にみちた笑い声がした。
「先刻、奥方さまの御出産、手伝わされてさぞ愉《たの》しかったであろう」
とたんに、きいいっ、というような音が発した。肉頭巾の中からと、彼の下腹部から。
阿波谷図書は、切株の上で弓なりに反っていた。
「な、何をいたすっ?」
飛び離れて、二メートルも向うに立った女の影を見ながら、阿波谷図書はばねのごとくこれも立ち上ろうとしたが、逆に上半身を前に倒して、いわゆるへっぴり腰の姿勢になっていた。
両手で下腹部をかきむしった。が――いままで女の手にとられて膨脹したものは、臍《へそ》のすぐ下からぴったり下腹部に膠着《こうちやく》して、いかにかきむしっても離れないのであった。まるで皮膚が融合したように。――
「おまえは何者か」
と、刈羽はいった。
「きいても、今はいうまい。わたしが何者かおまえにいう道理がないように。――」
いつのまにやら半透明にもどった膜を頭からかなぐり捨てた阿波谷図書は、ただ眼をかっとむき出して、闇にも清爽《せいそう》に浮きあがった相手の姿をねめつけて、肩で息をしているばかりだ。下腹部を垂直に、まるで糸で縫われたような痛みが走った。
「糸で縫ったのではない。おまえの陰毛で縫ったのじゃ」
冷然として刈羽はいう。
「それはおまえの手ではとれぬ。今の痛みはまもなく消えよう。しかし、やがてそのものがちぢみはじめたとき、それはひきつれてべつの痛みがはじまる。わたしに、おまえの正体を白状しに来ずにはおれないような。――またもし、おまえがわたしを殺したり、明智家にあらぬことを告げたりすれば、おまえの苦しみは永劫《えいごう》に消える日はないと知れ」
ちょっとくびをかしげて、
「そうか。――おまえのその肉頭巾は、女に陣痛を起させるものであったか。……」
と、つぶやいたが、すぐに氷片のふれ合うひびきのような声で笑った。
「いや、怪しき男であることはおたがいさまじゃ。従って、あばきたてるのは、おたがいの損でもある。……わたしは忙しい。では、御用にゆくぞえ。――」
「ま、待てっ」
と、阿波谷図書はさけんで歩み出そうとしたが、下腹部のあたりがひきつれて、まさに別種の激痛が走って、いっそうへっぴり腰になった。
その前を、明智家の侍女刈羽は、もうふり返りもせず、シトシトと優雅に、しかし風のような早さで、暗い坂を下っていった。
四
それから十日ばかりたって、光秀は信長から、家康《いえやす》接待役を命ぜられた。
甲州陣は織田|徳川《とくがわ》連合軍によるものであったが、なんといっても武田は徳川にとって当面の、かつ積年の敵であったし、その滅亡により駿河《するが》を徳川領にすることを信長から保証されたので、その謝礼のため家康が浜松《はままつ》から安土に来ることになったのだ。
こういう場合、せっかく壮大な安土城というものがあるのだから、客は安土城に泊めたらよさそうに思うのだが、「川角太閤記《かわすみたいこうき》」や「信長記《しんちようき》」によると、接待役の光秀の屋敷そのものがその宿にあてられたらしい。いかに友将とはいえ、公式の会見はともかく、軽々しく城へ泊めるものではないという習いだったのであろう。
従って、明智屋敷は、煮え返るような騒ぎとなる。たたみ、建具、調度の新調、料理、膳椀《ぜんわん》の支度、客は一人ではなくその護衛兵もいるし、そもそも主君信長もこの屋敷に臨むかも知れないのだ。――その騒ぎの中を、産後間もない息女は、その夫とあかん坊とともに、急ぎ送り出される。
丹後の宮津へゆくその一行を、安土の西郊に見送った少数の人々の中に、数人の黒衣黒帽の南蛮人がいた。安土|山麓《さんろく》にある聖堂の伴天連《バテレン》たちで、細川家の若い奥方が、このごろ切支丹に帰依していたからだ。
やがてひき返す彼らをさらに送って、明智家の侍女お霧は聖堂に立ち寄った。
安土の聖堂は八階建で、とくに信長の許可により、屋根は安土城と同じ瓦《かわら》――天守閣の黄金の甍《いらか》とはちがうが――で葺《ふ》かれた美しい建物だ。当時伴天連から「この異教徒の王は甚だ尊大で、まるで神に対するような尊敬を受け、信じられないほど怖れられており、諸人に対しては残酷な暴君である」と評された信長は、一方でいくたびかこの聖堂をふいに訪問し、その清潔と整頓を賞揚し、三階に上って具えつけのクラボ(ピアノの前身楽器)やヴィオラの奏楽を愉しむ人物でもあった。
入るときはまだ夕焼けの時刻で、門前に群れて伴天連たちにやかましくさけびたてたたくさんの乞食たちも、お霧がふたたび出て来たときは、もう暮色の中に汚らしい姿はまばらであった。
「もしっ。……」
溜息《ためいき》のような女の声がした。お霧はふりむいて、眉《まゆ》をひそめた。
女乞食である。まだ若い。――白痴美、というより、完全に白痴の顔だが、肉感的ですらある顔をしている。ややふとり肉《じし》で、それがほとんど半裸にちかい姿なのだ。門を入るときからお霧は、伴天連たちに対して羞恥《しゆうち》の思いを禁じ得なかった女乞食が、まだそこにいた。
しかし、そちらに歩み寄って、銅銭一枚を投げ与えた彼女は、それが地面にちゃりんという音をたてたにもかかわらず、
「もしっ。……」
と、また呼ぶ声をきき、それが男の声であることにはじめて気がついた。
女乞食のうしろにつっ伏していた山伏がしずかに顔をあげたとき、お霧はあっと口の中でさけんでいた。なんと――たしかに十日ばかり前、明智家を訪れたあの山伏なのである。
むろん彼は、あのときのきらびやかな袈裟などをつけてはいない。風雨にさらしぬかれた衣服をまとって、まさに野伏山伏の姿だ。そして――あげた顔も垢《あか》じみて、何やら病んでいるような、哀れなしかめっ面《つら》をしていた。
「お願い。……」
と、彼はかすれた声でいい、よろよろと立ちあがった。――と、女乞食も立ちあがる。
「申したきことあり。……」
あきらかにお霧に話しかけている。乞食でない。乞食であるはずがない。
背後の松林の方へ、へっぴり腰であとずさりという妙な姿態で遠ざかってゆく彼を、お霧がやや恐ろしげな眼色ながら追っていったのは、彼のこの奇妙な出現が何やら重大な意味を持っているらしいと感じとったからであった。
そのあいだも、たしか阿波谷図書という山伏の眼は、すぐ前方の女乞食の臀部《でんぶ》にそそぎつづけられている。まるで糸にひかれているように、同じ距離、同じ姿勢でついてくる女乞食の臀部は、気がついてみるとほとんどまる出しにちかく、夕闇の中にくっきりと、真っ白なみごとな曲線を浮きあがらせているのであった。
「なんですか?」
松林の入口まで歩いて来たお霧は立ちどまった。胸の銀の十字架がゆれた。
「これは、なんのまねですか?」
「こ、これを御覧なされ。……」
図書は裾をまくりあげた。――腹部に貼《は》りつけられた棒状のものが現われた。
「これが、このままのかたちで、離れぬのでござる。……」
彼はさらにへっぴり腰になり、女乞食の臀《しり》にいよいよ顔をくっつけた。
「このままのかたちならまだようござる。かたちが変れば、その痛苦いうべからず。されば同じかたちを保つべく、絶えずこのように女人のいかがわしきところを熟視し、みずから心悸昂揚《しんきこうよう》いたしおらねばならず。……拙者をかかる目にあわせたは、お屋敷のあの刈羽どの。……」
眼に入ったものも、耳に入ったものも、ただ不可解、といった表情であったお霧は、このときはじめて、
「え?」
と、さけんだ。
「刈羽さまが?」
「しいっ」
阿波谷図書はまわりを見まわし、その声はいよいよかすれた。
「拙者がかかることを打ち明けたと、あのお女中に知られては万事休すじゃ」
「刈羽さまが、どうしてそんなことを? なんのために?」
「あの女人、ただものではない。――」
といってから、図書の眼は妙なひかりをおびて、お霧の顔にすえられた。
「拙者、いま申した通り、このかたちを保つためにこの白痴女を使って来たが、それも鈍麻してこのところ刻々痛みが烈しゅうなってくるようでござる。ところが、いまあなたを見て、急速にその痛みが柔らいで来たようでござる」
裾は下ろしたが、彼の姿勢は徐々にまっすぐになって来ていた。
「お霧どの、これより拙者と親しゅうなっては下さるまいか?」
そういいながら、彼の手はふところに入り、例の膜頭巾をソロリとひき出した。――それもまた不可解の眼で見まもりながら、お霧はまずきいた。
「刈羽さまがただものでないとは、どういう意味ですか?」
「あれは、どういう縁で明智家のお腰元になった女人でござる?」
「細川さまからの御推挙によったのです。忠興さまの御親父、幽斎さまから」
「ふうむ。――」
「さ、刈羽さまがただものでないというわけをおっしゃい」
「刈羽。――ありゃ、男でござるわ」
「えっ?」
あまりの驚きのためであろうか、お霧は一メートルもあとずさり、帯のあいだからのぞいた懐剣のつかに手をかけた。――まるでそんなことをいった眼前の男を変化《へんげ》と感じたように。
それを追って、女乞食をおしのけ、阿波谷図書は前へ出た。
「そ、そんな。――」
わななくお霧の右手から、スルスルと何やら紐《ひも》のようなものが解けて垂れ下る。
「これはわしがいったと、あの男に申されてはこまる。あの男――明智家に、女に化けて奉公しておる奇怪な男、あれの素姓が何者か、お霧どのに探ってもらいたいのじゃ。わしと共同で。――」
膜頭巾をかぶろうとして、阿波谷図書の眼が、ふっとお霧の右手にとまった。解けているのは懐剣のつかの紐だ。その中からちらと見えた人間の皮みたいな色をしたものを、お霧はつかんで、はげしく上下に擦った。と、その掌の中のものが、にゅーっとのびて、あきらかに男性の肉体の一部と同じかたちを現出した。
「――や?」
眼をむいて、それが何かと見きわめる以前に、図書は自分の磔《はりつけ》になった例の部分に異様な熱さと脈波を感覚して、
「あっ……うぬは!」
さけんで、あわてて膜頭巾をかぶろうとしたが、それより早く白濁したものがビューッと噴出して、彼自身の顎《あご》の下から鼻孔にかけてしぶきを散らした。
「うふっ」
おのれの精汁にむせた阿波谷図書が、膜頭巾すら地にとりおとし、あわてて腰の刀に手をかけたときは、すでにお霧はあとずさりに、しかもながれるような早さで遠ざかっている。なおはげしく懐剣のつかを摩擦しながら。……
図書はなお噴出した。急速に磔になった肉体は縮小した。同時に、ひきつれの痛みが彼の腰をふたたび折り曲げた。
「き……きゃつもまた、怪しのやつ!」
からだを二つに折って苦悶《くもん》する阿波谷図書の腰に、そのときひしとしがみついたものがある。それは白痴の女乞食であった。彼女はひざをつき、彼の腰に両腕をまき、夢中になってすすっては舌なめずりし、歓喜の狂笑をあげるのであった。
五
五月十五日、徳川家康は安土に入った。
その日から十七日までの三日間、家康は明智屋敷に滞在するはずであった。しかるにこのことは急遽《きゆうきよ》中止され、家康の宿は大宝坊という宿坊に変更されている。
その理由について、その直前信長がその支度のようすを見に明智屋敷にやって来たところ、用意してあった魚がいたんで悪臭が鼻をついた。そこで、こんなありさまではとても家康の馳走はできないといって信長は腹をたて、右の処置を下したというのが古来の説になっている。
しかし、この説はよく考えてみるとおかしいところがある。信長が饗応《きようおう》の下見にやってくるほど大事な客だ。その大事な饗応役を命じられるほどの光秀だ。光秀がそのためにこの数日、京、堺《さかい》まで奔走して珍味を支度したことは信長も知っているはずだし、こんなことで急にその役を免ずるはずがない。名門|土岐《とき》の流れをくんで故実典礼にも詳しく、織田|麾下《きか》の部将の中で最も文化人的な教養のある光秀である。そんなぬかりのあろうはずはなく、またたとえ魚が腐ったにせよ、客が到来する時刻までにその始末をつけぬような光秀ではない。
しかし、饗応役が中止されたのは事実だ。
なぜか。――作者が思うには、それは客の家康から明智屋敷に宿をとることに異議が出たからではあるまいか。むろん主人役のもてなし方について公然と難色を示すようなことはあり得ず、またそんな家康ではないが、極めて婉曲《えんきよく》な方法ながら、宿はべつのところに希望するむね信長に伝えられたものではあるまいか。
つまり家康は、明智屋敷に泊ることに、或《あ》る危険を予感していたのではないか。――むろん、それは明確なものではないが。――その理由は、その前の甲州陣で光秀と軍を共にする機会があって、そのとき何かくさいものを家康が感じとっていたか、或いはこんどの安土入りに際し、どうにも不審な情報を入手していたからであろう。
家康から異議が出たために光秀が排されたのではないかと思われるのは、本能《ほんのう》寺の変の直後、堺にいた家康の恐怖ぶりがあまりに甚だしいからだ。沈着を最大の特性とする家康がこのときほどのあわてぶりを見せたのは、あとにもさきにも彼の生涯のうちで唯一のものと思われる。光秀が信長を殺した、と伝えられても、まだ情報は完全でなく、大坂や堺には四国出兵のための織田軍も集結していたことであるし、また必ずしも光秀が家康を敵にするかどうかわからない時点に於《おい》て家康は、おのれの胸に矢が立ったような狂乱的狼狽を示し、堺から伊賀《いが》を越えて浜松へ、こけつまろびつ逃れ去っている。
さて、家康への饗応役の代りに、光秀に下されたのは備中《びつちゆう》への出兵命令であった。備中|高松《たかまつ》にあった羽柴筑前《はしばちくぜん》から、毛利《もうり》の大軍を迎え、急遽信長自身の出馬を要請して来たのだ。信長はこれに応じたが、それに先立って、まず光秀の出動を命じたのであった。
光秀の城は二つある。本来の城は近江《おうみ》の坂本《さかもと》にあり、新付の城は丹波《たんば》の亀山《かめやま》にある。兵の大半はその二つの城に置いてあるから、備中へ出兵するならばまず坂本に寄って用意し、次に亀山に帰って整備しなければならぬ。
せっかく奔走した饗応の支度の始末、新しい軍務への準備。――たんなる物理的な変化ではない。心の嵐というものがある。明智屋敷はここ数日に倍加する混乱に明け暮れた。
だれよりも心に嵐の吹きすさんだのは、当の光秀であろう。彼はこのとき、安土の屋敷に詰めていた家来はもとより、老女、女中に至るまで坂本城への総引揚を命じている。
五月十七日の早朝。――
安土から琵琶湖西岸の坂本へ出発した一行は、その行程約十里をその日のうちに引き移る必要もあって、まるで落城の一族のような混乱であった。騎馬の武者や乗物の老女たちはべつとして、道具類をかついだ小者たちは次第に遅れ、足弱な女中たちはさらに遅れる。
それにしても、遅れすぎる。――
街道を横切る野洲《やす》川のほとりの庚申《こうしん》堂に、お霧は休んでいた。五月十七日といっても、いまの暦でいえば六月の半ば、そしてここ数日、このあたりは例の腐った魚の噂《うわさ》が出るくらいむし暑い日がつづいた。骨細の、みるからにかよわいお霧が、この強行軍の途中で疲れはててしまったのもむりはないかも知れない。
もうまひるちかい太陽は、厚い雲の上にどんよりと黄色い輪をひろげていた。
「……あ」
往来で、そんな声をあげた者がある。
刈羽だ。彼女はさらに遅れて、たった一人、しかも疲れたとも見えない早足でスタスタとそこを通り過ぎようとして、ふと庚申堂の縁に腰を下ろしているお霧に気がついたのであった。
「お霧さま。……どうなされましたえ?」
「もう歩けませぬ」
と、お霧はくびをふって弱々しく笑った。
「そんなことを仰せられて。……こんなところに休んでいては、夜までに坂本へゆけませぬ。わたしは御用が残って、こんなに遅れて気をもんでいたところでございます。さ、早く参りましょう」
「では、もう少し。……刈羽さま、あなたもちょっと休んでおいでなされませ」
そういわれて、刈羽はお霧を見捨ててゆくこともならず、首をかしげながら庚申堂に近づいて来て、ならんで坐った。
お霧はふだん愚痴などこぼしたことのない女であったが、細川家の奥方御出産以来の騒ぎに疲労し切ったせいか、こんどの右府《うふ》さまの気ままな御下知についていささか不平をのべ、そして主人の日向守さまへの同情を口にした。
「わたしたちの殿さまが、右府さまからこんな目にお逢いになるのははじめてです。何か明智家に悪い星がついたようです。……」
「――もっと悪いことが起りそうだ、とはお思いになりませぬか?」
と、刈羽がいった。お霧はその顔を見た。
「もっと悪いこととは? 備中へ御出陣なされた殿さまに?――」
「いいえ」
刈羽もお霧を見た。
「ここ数日、殿さまのお顔にもののけ[#「もののけ」に傍点]が憑《つ》いているようにお感じにはなりませぬか?」
「もののけ[#「もののけ」に傍点]?」
お霧に凝視されて、刈羽の方がどぎまぎしたようであった。それっきり黙ってしまった刈羽から、なお眼を放さずにお霧がいう。
「坂本へいって、それから殿さまはまた丹波の亀山へおゆき遊ばす。わたしたちはどうなるのでしょう?」
「わたしも亀山へ参ろうと思います」
「え? 殿からおゆるしがあったのですか?」
「いいえ、まだお願いしてはおりませぬが、なぜか刈羽は、殿さまを御出陣までお見送りせねば気のすまぬような思いにかられているのです」
「では、わたしもゆきましょう」
と、お霧は刈羽の顔を見つづけたままいった。
「あなたも? それは――」
「わたしは、刈羽さまのゆくところへゆく」
「なぜ?」
「わたしはあなたが好きなのです」
「わたしが好き?」
「まえから、どういうものかわたしは、刈羽さま、あなたが好きでした。もう一日もあなたと別れて暮すなどいうことはできない。それがいまわかったのです。……」
「わたしは女ですよ。……」
「女でもかまいません。刈羽さま、いちどわたしを抱いて。――」
しがみつこうとするお霧の両腕を、刈羽はじぶんの両腕でとらえた。二人の女の顔は数センチの近さで相対した。
見ひらかれたお霧の双眸《そうぼう》に、刈羽の眼が閉じられた。それがふたたびひらかれて、次第に夜光虫のような光をはなち出した。めくるめくように、こんどはお霧の方が眼をとじた。
刈羽の両腕がつと動いて、こんどはお霧の頬《ほお》を挟んだ。
自由になった腕で、お霧は刈羽の胸にしがみついた。それから右腕だけを帯のあいだの懐剣のつかにかけたとき、彼女は顔にふっと吹きつけられる刈羽の息を感じた。
「乳房のないことがわかったか?」
男の声だ。その刹那《せつな》にお霧はじぶんの内眥《ないじ》のあたりに、針より細いものがチクと刺さったような痛みを覚えた。
「おれの陰毛じゃ」
声とともに、ピーッと痛みが外眥《がいじ》にむけて走った。まるでファスナーを閉じるように、刈羽の両こぶしが動いてお霧の両眼を縫い閉じてしまったのだ。
「だれからきいた。……あの阿波谷図書からでも吹き込まれたか?」
さしものお霧も、驚愕《きようがく》のあまり、懐剣をつかんだ手がそのまま硬直してしまった。動かそうにも、次の瞬間、彼女は背骨も折れよとばかり、強烈な男の力で抱きしめられていたのだ。
「おれもおまえを美《よ》い女だと思うておった。明智家の侍女のうちで、このおれ――刈羽|陣四郎《じんしろう》が惚れた二人の女のうちの一人じゃ」
そしてお霧はその口をむさぼられた。いちど離して、刈羽陣四郎という男はいう。――
「舌をかんで見よ、この口も縫い閉じるぞ」
そしてふたたび吸われた口の中に、あきらかに男のたくましい舌が入って来て、じぶんの舌から歯の内側までしゃぶりつくすのをお霧は感覚した。……この場合に、恐怖をも忘れて、彼女は酩酊《めいてい》したような恍惚《こうこつ》に投げこまれた。
「は、は、は。……女というものは、可愛いものよ喃《のう》」
凄艶《せいえん》な女の姿で、刈羽陣四郎は笑う。それから、盲目のお霧をぐいと横抱きにして、往来の前後に人影がないのを見すますと、疾風のように走り出した。どこへゆくのか? と考えるいとまもない、あれよとさけぶひまもない行動であった。
彼は立ちどまった。足の下に水音が聞えた。
「可愛いが、しかしおれの正体、ここまで知られた上は、坂本までついてこられてはこまる喃」
からだが空に浮き、しぶきの中にお霧は、じぶんが野洲川の激流に投げこまれたのを知った。
六
五月十七日、坂本城に帰った光秀は、二十六日までの約十日間ここにあって、備中出動のための準備に忙殺された。
この間、彼のもとへは、次々に安土から情報が入っていた。
二十一日、家康は京見物のために少数の家来とともに安土を出発している。信長の長子|信忠《のぶただ》も、父の先駆として同日に京に入り、妙覚《みようかく》寺に宿っている。ついで二十九日には信長も手廻《てまわ》りの兵士のみをつれて、妙覚寺ちかくの本能寺に宿泊する予定だという報告も受けている。
二十六日、光秀は坂本城にあった兵をひきいて、丹波亀山に向った。このときすでに彼に謀叛《むほん》の意志があったかというと、確たるものはまだなかったろう。それでは全然なかったかというと、それはすでに黒雲のごとく彼の胸中をながれはじめていたろう。亀山につくやいなや、二十七日、すぐにその地の愛宕《あたご》山に詣でて参籠《さんろう》し、二度も三度も籤《くじ》をひいておのれの運命を占っているからである。
そして黒雲の核は、安土に於ける家康の饗応役罷免などという小事件から突発的に生じたものではなく、それ以前の甲州陣から――或いは彼が一部将として信長の身辺に侍して以来、みずからいくども打ち消し、抑制しつつも、次第に凝結していたものではないかと思われる。
二十七日の日がやや傾いた時刻であった。
京の五山の一つ東福《とうふく》寺、その南側の六波羅《ろくはら》門の外で、一人の僧と話している市女笠《いちめがさ》の女があった。やがて僧は寺に入り、女は京の町を西へ歩き出した。
女が、京の丹波口にさしかかったのはもう黄昏《たそがれ》どきであった。山陰道へ入る路だが、すでに西の残光にはけわしい山々が重なって見える。ゆくての老《おい》の坂は、むかしのいわゆる大江《おおえ》山だという。――彼女は、夜、ひとりでそこを越えてゆくつもりであろうか。
あたりにもう人影もない。――と思っていたら、
「お刑《のり》さま」
と、街道わきの松の蔭から呼ぶ声がした。
「亀山へおいでになるのでございましょう」
そして、これも市女笠をかぶり、杖《つえ》をついた一人の女が現われた。
「刈羽さま。――」
そういって眼を見張ったきり、明智家の侍女お刑は、しばらく口もきけない風であった。ややあっていった。
「どうしてあなたはここへ?」
「わたしも亀山へ参ろうと存じまして」
「いつ、坂本を出たのですか」
「けさ。……お刑さまのあとを追うように」
「わたしのあとを」
「あなたは殿のおゆるしをいただきましたか。わたしは無断です。それに、あなたが亀山へいらっしゃるのかどうか、それもわからず、声をかけようとしては迷い、そのうちにあの京の東福寺まで」
「えっ、東福寺まで。――」
「で、わたしがそんなことをしたと知られたらきっとあなたに叱《しか》られると思って、あわててここまで来たのですけれど、見ればあの西の山々。ついひるんで、ここに坐って眺めているところへ、あなたがおいでになったのです。ね、ごいっしょに参りましょう」
「――刈羽さま」
お刑はきっとなった。これは実に豊艶な顔だちの女で、この女がこういう表情になることは珍しい。
「いまあなたは、わたしに叱られるといいましたね。わたしが東福寺で何をしたか知っているのですか」
「お坊さまと立ち話をしていらっしゃいました」
「まさか、立ち聞きをしたのではないでしょうね」
「とんでもない。わたしはただ遠くに立っていたのです」
「東福寺は……わたしが明智家へ御奉公するのにお力ぞえして下すったお寺です。わたしは亀山へゆくついでに、ちょっと御|挨拶《あいさつ》に立ち寄っただけ。――」
と、お刑はいい、自分の言葉の弁解がましさに気がつき、さらに刈羽が妙な笑いを浮かべているのを見て、ふっとその声をとめた。
「あなたはなぜ笑っているのですか」
「わたしはあのお坊さまを知っているものですから」
「えっ?」
「安国寺恵俊《あんこくじえしゆん》さま。――いつか、宮津の幽斎さまのお歌の会でお逢いしたことがあります」
「そ、それがどうしたのですか」
「いま、備中で羽柴筑前さまと対陣している毛利に、安国寺|恵瓊《えけい》というえらい坊さまがいらっしゃるそうですね。その御一族の方だと幽斎さまからうかがいましたが」
「恵俊さまの御素姓はともあれ、いまは俗界を離れたお方です。いまあなたは幽斎さまのところでお逢いしたといいましたね。だからこそ幽斎さまも、織田家にお心おきなく恵俊さまをお近づけになったのではありませんか」
刈羽は依然としてうす笑いしてつぶやいた。
「その安国寺恵瓊は、毛利の陣僧でありながら、もう十年も前に、必ずそのうち筑前の世になると予言したほどの男。――どこで読んだのか、その書状の文句も覚えています。――信長の代、五年三年は持たせらるべく候。さ候てのち、高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎《とうきちろう》さりとてはの者に候。……」
「な、なぜ、あなたは、そんなことまで。――」
「いまにして、思い知った。明智家には怪しの者がウヨウヨとしている。怪しいのはわたしだけではない。――」
「か、刈羽さま!」
「たとえそうであったとしても、左伝《さでん》に曰《いわ》く人を謀れば人またおのれを謀る、なるべく事を荒立てとうはなかったが、しょせんわたしの素姓もかくし切れぬときが迫ったような気がする。何やら知らず、事態が急迫して来たような気がする。――しかし、そのときまで、やはりわたしの素姓は知られとうない。――」
刈羽は市女笠をぬぎながらお刑を見て、またにやっと笑った。いままでのうす笑いは、人間同士のからかいの心からに見えたが、このとき彼はまったく別種の生物に化して、人間の女を笑ったようであった。
「あなたには、日向守さまのあとをこれ以上追ってもらいとうはない」
両腕で、お刑の肩をつかんだ。女とは思えない力であった。
「いや、亀山にゆかれてはこまるのじゃ」
刈羽の唇の両はしからは、すでに二本の毛が垂れている。――これを口にふくんで吹けば、その尖端《せんたん》が相手の皮膚につき刺さる。引けば、肉体的な断裂はそのまま縫い閉じられる。刈羽はそのつもりであった。お刑の肉感的な唇を永遠に閉じてしまうつもりであった。
が、――そう決意してお刑の顔に見入ったとき――逆に刈羽の方が魅入られてしまったのだ。いや、この女の両肩をつかんだときから、刈羽は――刈羽陣四郎はすでに強烈な肉欲にとらえられている。彼がお霧に、明智家で惚れた女中のうちの一人、といったのはこのお刑であった。京都五山の一つからすすめられて奉公したらしく、ふだん典雅にとり澄ましてはいるが、その推挙者には似合わしからぬ豊艶の美女だ。眼が黒くうるんだようで、顔の輪郭はぼうっと白い靄《もや》にけぶっているようで、そしてやや厚目の唇は柔らかく閉じてはいても、なぜかいつも半びらきになっているような印象を与えた。
陣四郎としては、この女を処置する前に、と思ったのだ。事実、外見的には、彼はお刑の笠の下に顔を入れ、かぶりつくようにその椿《つばき》の花に似た唇を吸っている。しかし内面の事実は、彼の方が吸い寄せられたのであった。
陣四郎はとろっと濃くてなめらかな蜜の中へのめずりこんだ思いがした。舌を入れたのはみずからの意志ではなかった。ひとりでにそれが出たのだ。
何たること。――
立ったままの陣四郎に、お刑は両腕をそのくびに巻きつけ、両足をその腰にまわしたのだ。完全に体重を陣四郎にかけたわけで、しかも一見したところ、お刑の方がむしろ重げにさえ見えるゆたかな肉づきをしていたのに、陣四郎はそれを意識しなかった。相手がそんな姿態をとったとも気がつかなかった。彼はじぶんのからだの方が、濃い匂《にお》やかな蒸気の中に浮きあがったような気がした。
衣服はつけているのに、熱い肌と肌をぴったり密着させている感覚であった。とろとろと粘っこい肉が、彼の腰のまえで螺旋《らせん》をえがいた。反射的に彼もおのれの腰を蕩揺《とうよう》させている。――いつしか、お刑は陣四郎から離れていた。
そのことを陣四郎の眼は見た。にもかかわらず、顔にもからだにも白い粘膜が貼りついて残っているとしか思えなかった。それは厚みさえ持って、なお彼のからだをもてあそんでいるようであった。
彼は舌を出したままであった。舌ばかりではない。耳さえ立った。四肢の指も反った。肉体の突出部分はすべて硬直しぬいたままであった。――それが、女の顔と姿で。
「その顔と姿で亀山にゆかれまするか」
と、闇の中で白い靄につつまれて、しかも華麗な唇が笑った。
「わたしはゆきますぞえ」
そして、市女笠をかぶり直し、お刑は西の山の方へなまめかしい匂いを残して駈け去った。
七
「はて。……」
老の坂を越え、篠野《しのの》という桑畑の中を通る道。――ここをまっすぐに西へ走ればすぐに亀山だ。五月二十七日といえば、いまの暦で六月二十六日、雨こそふっていないが、梅雨どきの雲が垂れ、夜の地上は暗いはずなのだが、世界は水にひたされたような空気のためか、ぼうと淡墨でぼかしたような光があった。夜更け――というより、もう二十八日に入った時刻であったろう。
「あれは?」
そうと気がついたときから、お刑は跫音を消している。
むこうを歩いてゆくものがある。はじめ人間ではない奇怪な生物と見たのだが、すぐにそれは山伏だとわかった。一人の山伏が、からだを二つに折らんばかりにして、這《は》うように亀山の方へ動いているのだ。
病んでいるのか、と思ったが、近づくにつれて、それがいつか――細川の奥方の御産のとき、安土の明智屋敷に来た阿波谷図書という妙な山伏らしいと見て、お刑はいちど足をとめた。その気配に、かえって図書の方がふりむいて、
「――や?」
と、さけんだ。
「そこへおいでなされたは、明智家のお女中ではないか」
「――は、はい」
「この夜中、亀山へゆかれるのか」
「はい、急ぎの御用で」
「安土のお屋敷でお見かけしたな」
お刑はいよいよ怪しんだ。じぶんの方こそ幽暗の中にも山伏と認め、さらにあの魁偉《かいい》な山伏医者を思い出したが、向うの方から、改めて挨拶を交したこともないじぶんを明智家の侍女と記憶しているとは。――
「あなたは甲州からおいでになった山伏どのですね」
「左様。――」
「あなたこそどこへゆかれます」
「わしも急用あって亀山へ」
「どんな急用?」
阿波谷図書の声はしゃがれてはいたが、このとき曲がっていた腰が徐々にまっすぐになって来たようであった。――下腹部のひきつれが回復して来たのだ。
安土の明智屋敷でかいま見た侍女は何人あったか知らないが、その中で最も眼をひいた女の一人――彼が「牡丹」と形容した女は、まさにこのお刑であったのだ。図書はスタスタとこちらにひき返して来た。
「お女中、御|朋輩《ほうばい》の刈羽と申すお女中は御存じであろうな」
「はい」
「お霧――どのは?」
「むろん、存じております」
「その両人、いまどこにおる?」
「さ、それがお霧さまは、安土から坂本へひき移る際、どこかへ姿をかくしておしまいになられたので、みなも気づかってはおりましたが、この騒ぎの中でもあり、そのままになっておりますが。――」
「刈羽は?」
「それは、存じませぬ。坂本に残っているのではありますまいか」
「日向どのについて、亀山へいったのではあるまいな?」
「山伏どの、お霧さまや刈羽さまがどうかなされたのですか。どうしてあなたは、あのお二人を御存じなのですか」
「お霧どのは……調べてみると、父の代から明智家に奉公しておるからまずまちがいないとして、あの刈羽と申す女の方はただものでない――」
お刑はじっと図書の顔を眺めている。
「きゃつ、女ではない。――男であるぞ」
お刑に、ふしぎに衝動の色は見えなかった。しかし図書は、彼女が驚きのあまり身動きもできなかったものと見た。それに彼は、いま生じた或る考えに心を奪われていた。
「女に化けて明智家に入りこんでおる男。――いうまでもなく密偵じゃ」
「…………」
「どこから送られた密偵か。きけば丹後の細川家から御推挙になったそうな」
「…………」
「あの幽斎どのという御仁、歌うたいに似合わぬ古狸《ふるだぬき》とも思われるふしがあるが、ともかくも子息を明智家の婿どのにするくらいじゃから、細川家からの密偵ではあるまい。幽斎どのも知らずして利用されているものじゃろう」
「…………」
「そうまでして日向どのの動静をうかがっておる敵はだれか。明智をうかがうことは、織田の動静をうかがうことじゃから、まず毛利方という見方がある。北条《ほうじよう》、上杉《うえすぎ》、長曾我部《ちようそかべ》、また右府さまに追い出されて諸国をさまよっておる足利|公方《くぼう》の手の者とも考えられる。――」
「…………」
「しかし、明智の敵は、織田の内部にあるともいえる。柴田《しばた》、丹羽《にわ》、滝川《たきがわ》、みな競争相手じゃからの。――その中で、わしがいちばんくさいと見たは、あの羽柴筑前じゃ!」
そういいながら、阿波谷図書はふところから例の膜頭巾をとり出した。
これほど驚倒すべき事実をききながら、女はなお闇をすかすように図書を見ていた。
「あなたはいったいどういう方ですか」
と、きいた。
「どうしてそんなことを御探索なされたのですか」
これは当然だ、と図書も考える。こういうことをきかされて、これほどこの女が沈着に見えるのは意外でないこともなかったが、しかしまたこちらの言葉の内容以上にこちらの正体に疑惑を持つのは、明智家の侍女としてあり得ることだ。それは彼も覚悟していた。彼に先刻生じた想念とは、この女をじぶんの意志のままに使う、ということであった。あの白痴女を使ったように。
男が女を自由にあやつる最も原始的な武器はきまっている。しかし――彼はその原始的武器は使えないのだ。それは文字通り縛りつけられているのだ。ましてこの女は白痴ではない。――残る手段はただ一つ。
女の問いには答えず、彼はまたいった。
「従って、あの刈羽という女――いや男が、絶対にこれ以上日向守さまに近づくことは防がねばならぬ」
恐れげもなくお刑は山伏の方へ寄って来た。水底のような微光の中に、ぼうっと白い靄につつまれた顔が浮かびあがった。あらゆる男を肉欲の深淵《しんえん》にひきずりこまずにはおかない唇が、にっと媚笑《びしよう》さえ浮かべて。
しかし、それを図書は見ていない。――彼はこのとき膜頭巾をかぶっている。
妙なものをかぶった、と見たよりも、相手がこちらの顔から眼をふさいだ、という思いにはっとしたのであろう。お刑は一瞬立ちどまって、それを凝視した。
膜頭巾はふくれあがり、そして厚みを増した。が、なおどこか透明なところも残して、おぼろおぼろと山伏の顔が透いている。――それが、波うち出した。
また近づこうとして、お刑は下腹の内部に妙な痛みを覚えた。
「うっ」
たんなる痛みではない。何かぎゅっとしぼられるような――彼女のまだ経験したことのない、全生命的な痛みであった。お刑は下腹をおさえ、しゃがみこんだ。
「この程度にとどめておくから、その程度ですむ。もう少し烈しゅうすれば、おまえは――しぼり出す子のない以上、血を噴出し、さらに子宮《こつぼ》そのものまで生み落すようになるぞ」
幽暗凄絶の光の中に、そのものは水母《くらげ》のように浮遊した。
「おれのいうことをきくか」
図書はきものをまくりあげ、仁王立ちになった。
「来い。もっと寄れ」
――これは本来の彼の目的ではない。そのウォーミングアップだ。彼はこの機会に、たとえ縫いつけられていようとも、この彼が牡丹にたとえたほど豊艶な美女に、淫虐《いんぎやく》のかぎりをつくしてしばしそのものに愉楽を与えさせようと思い立ったのであった。
「おれのいうことをきけ。よいか。――きかねば――」
肉頭巾はなおだぶだぶと烈しく波うった。
――と、そのとき、
「はてな」
と、彼はふり返った。
西の野末から、地ひびきが伝わって来る。亀山の方からやって来る大集団の跫音だ。じっと眼をこらしているうちに、それは次第に姿をあきらかにして来た。騎馬武者、車さえ混えた軍兵のむれであった。
道は一本道だ。たちまち阿波谷図書は桑畑の中へ姿を没してしまった。通過してゆくのは、小荷駄隊(輸送部隊)であった。
それが通り過ぎていったあと、阿波谷図書はまた街道へ躍り出し、夜鴉《よがらす》みたいにそのあとを追っていったが、やや時を経て、くびをひねりながらひき返して来た。
「はて、三草《みくさ》越えをしていったが。……やはり備中へいったか?」
それから、ふいにあたりをキョロキョロと見まわした。あの明智家の侍女のことを思い出したのである。
しかし、いまにも雨を落しそうな雲はいまや満天にひくく垂れ、夜明前の闇は漆のように深まって、ただ桑畑が風にざわめいているばかりであった。――彼はふたたびへっぴり腰になっていた。
この二十七日の夜を愛宕山で明かした光秀は、二十八日、そこの西ノ坊で、連歌師|里村紹巴《さとむらしようは》らと連歌会を催して、
「時はいま天《あめ》が下しる五月《さつき》かな」
と、発句《ほつく》している。
すでに亀山城から発進を開始していた備中への小荷駄隊は、むろんそれ以前からの予定の通り、帷幄《いあく》の明智左馬助や斎藤内蔵助が命じたものだ。しかし、彼らはまだ知らない。――ただ光秀だけが、その備中への先発隊はカモフラージュであることを承知していた。彼はすでに前日から覚悟をきめていた。
本能寺、溝の深さは幾尺なるぞ。――
八
二十九日、信長は少数の侍臣侍女だけをつれ、安土を出て京四条|西洞院《にしのとういん》の本能寺に入った。同日、家康は京から堺へたち、豪商|松井友閑《まついゆうかん》のもとに滞在した。
三十日にそれらの報告をたしかめてから、光秀は翌六月一日(陰暦では五月は三十日)夜十時、一万三千の兵をひきいて亀山城を発した。将兵すべて備中への出動をまだ信じている。
ただ重臣明智左馬助ら四、五人には、亀山出発の直前、或いは出発直後、篠野に於てはじめてクーデターの決意を打ち明けたといわれる。いずれにしても、彼の通告も早急なら、参謀連の同意も短時間のうちであった。いったんはいさめた者もあったが、もはやかく相成っては及ぶべからず、とみな決心したというが、しかし、これほどの大事だ、その同意には、必ずやそれ以上の深い理由があったろう。主君光秀の発心は、彼らにとって青天に霹靂《へきれき》のものではなく、少なくとも暗天霹靂の程度であったろう。右府信長の性格と光秀の性格、これをふりかえったとき、このようなことはいつかは起り得ることだと、みずから肯定せざるを得なかったせいであろう。
亀山から備中へ出るには、途中三草越えをすべきである。それを光秀は、老の坂へ道をとった。「備中出陣にあたり、いちど京へ出て、明朝信長公の御閲兵を受けるためだ」と伝令に伝えさせた。遠征するのにわざわざ午後十時などという妙な時刻に出動するのをいぶかしんでいた兵たちも、それをきいて納得した。
そして老の坂を下り、桂川の河原に出てから、はじめて全軍に「敵は本能寺にあり」と布告したのである。そのときにあたっても、光秀の軍令は周到であった。
「天野源《あまのげん》右衛門《えもん》を呼び出し、これより先へ早々急がるべし。その仔細《しさい》は、味方勢より本能寺へのことを注進あるべき者もありなん。左様なる者をも見及び討ち捨てにせよとておん先へ遣わさる。源右衛門 畏《かしこま》って承り、急ぎお先へ参り、夏ゆえ東《とう》寺あたりの野に瓜《うり》を作る者ども武者を見つけ、方々へ逃げ散り候ところを追いまわし、二、三十人も斬《き》り殺し候。科《とが》なき者にて候えども、念のためかくのごとしと承り候」
真珠《しんじゆ》湾へ忍びよる南雲《なぐも》機動部隊が、途中無縁の商船にでも遭遇《そうぐう》すればただちに撃沈せよという命令を受けていたのと同様だ。いかに光秀が事前にこの奇襲の漏洩《ろうえい》することを怖れたかがわかる。
さて、その処置をしたのちに。――
「そこにこのお触れには、今日よりして天下さまにおん成りなされ候あいだ、下々《しもじも》草履取り以下にまで勇み悦び候え。侍どものかせぎ手柄、このたびの儀にあり、馬の沓《くつ》を切り捨て、徒歩《かち》立ちの者ども新しきわらじをはくべきなり。鉄砲の者どもは火縄一尺五寸に切り、その口々に火をわたし、五つずつの火先《ひさき》をさかさまに下げよとのお触れなり」
かくて明智全軍は、すでに六月二日に入った夜の桂《かつら》川を東へ押し渡りはじめた。――
天、墨のごとく、鞭《むち》を揚げて指させば天なお早し。
河原にあって床几《しようぎ》に腰うちかけ、その渡河状況を見まもっていた光秀のまわりで、ふいにどっとただならぬ叫喚が起った。その中で、たまぎるような叫びが聞えた。
「殿っ、殿さまっ」
「……やっ、お霧の声ではないか」
と、光秀はふりむいた。
「何事か。お霧を呼べ」
すぐに軍兵をかきわけ、たしかに侍女のお霧が駈けて来た。夜は暗いとはいえ、水明りもあるのに、彼女は二、三度河原の石につまずいてふしまろんだ。
「お霧、坂本へ移る騒ぎ以来、どこへいっておったか。光秀、案じておったぞ」
この場合に、このような言葉を一侍女に投げるとは、光秀はこの女によほど特別の眼をかけていたと見える。
「その姿はどうした? それに、や、おまえは盲になっておるではないか」
近づいて来たお霧の衣服は裂けて、腕もふともももむき出しになった惨澹《さんたん》たる姿であった。そして、水明りに――たしかにその両眼は閉じられている。
お霧は、その光秀の声よりも、川を渡ってゆく大軍のひびきに耳をすませている風であったが、ふいにさけんだ。
「殿。……軍をお返しなされませ……」
「な、なに? ば、ばかめ!」
「明智家には、早くより忍びの者がとりついておりまする。その者どもの正体を知ろうとして、お霧、いままでさまよっておりましたため、とうとう間に合わず。――」
「忍びの者? 何者からの。――」
「まだしかとわかりませぬ。けれど、あの刈羽さま、いえ、刈羽は男でござります。男の忍者でござります。わたしはそれに敗れました!」
「刈羽が。――」
「あれは、たしかにこのあたりをうろついて、殿さまのお動きを見張っているはずです。それから、いつか安土に参った阿波谷図書という山伏、あれもまたべつの向きから放たれた忍者に相違ありませぬ。――」
光秀は床几からがばと腰をあげ、じいっとお霧の顔を凝視していたが、
「何者がわしの心を探ろうとしても、今の今までわしの心が探れたものかは。……すべてわし一人、わしの意志だけで今動き出したことだ!」
と、うめくようにいった。自信というより、自らにいいきかせる強い声であった。
「いえ、今からでも遅うありませぬ。今、兵をお返し下されませ!」
「いかに光秀秘蔵の甲賀《こうが》者とはいえ、たかがくノ一、僭上《せんじよう》なことを申すな」
と、光秀は面色を藍《あい》のように染めて叱咤《しつた》した。
「今となってはもう遅い! いや天下の遅速そのものを、この光秀が司る!」
そして彼は、そのまま歩き出し、みずから、ザ、ザ、ザ、と桂川に入っていった。武者ぶるいして、明智左馬助や斎藤内蔵助がそれを追う。――
六月二日未明、本能寺を襲撃した光秀は、灰燼《かいじん》の中に信長を屠《ほふ》り、ついで鋒《ほこ》を転じて信忠にかかり、これも屠り去った。
完全な奇襲成功である。
しかるに光秀は、その直後からすべてのことが彼の意志通りに動かぬことを知らなければならなかった。天下の遅速が自分によって司られていないことを知らなければならなかった。
京で織田軍を掃蕩《そうとう》したのち、安土へ向ったのだが、途中|瀬田《せた》の橋を落されたため、安土の城を護る蒲生《がもう》父子が信長の一族を捧じて逃れ去ったこと。じぶんに相呼応してくると思った京周辺の諸大名、中川《なかがわ》、筒井《つつい》、高山《たかやま》らはもとより、女婿の父たる細川幽斎までが、火のつくような招請にも容易に腰をあげなかったこと。なかんずく、堺にあって袋の鼠《ねずみ》と思いこんでいた家康が、まるで魔法のように三河《みかわ》へ遁走《とんそう》したこと。――
家康のこのときの怪速ぶりは前にいった通りだ。まさか家康が光秀の謀叛を事前に知っていたわけはないが、それにしてもこの遁走ぶりは、外見的には鮮かであった。事件が起ってみれば、それならおれはこう逃げるといわぬばかりの伊賀越えのコースである。光秀が家康に対し何ら手を打たないはずはなし、事実家康と同行していた穴山梅雪《あなやまばいせつ》などはそれこそ穴におちた獣のごとく殺され、家康もまた途中危ういこともあったのだが、本多弥八郎正信《ほんだやはちろうまさのぶ》と伊賀の郷士によって救われたのだ。
この本多正信という人物の登場ぶりが奇怪である。彼は元来若いころ三河の一向|一揆《いつき》にくみして叛乱《はんらん》を起し、家康を苦しめぬき、それ以来三河を逐電してゆくえをくらましていた男だが、これが実に十九年目、家康生涯の大難のさなかに忽然《こつぜん》と出現し、木津《きづ》川のあたりに篝火《かがりび》の陣を張り、いかにも家康がここを通ってひきあげるように明智の兵に思わせ、そのすきに家康を、伊賀を経てつつがなく三河に帰らせたのだ。爾来《じらい》、この正信は本多|佐渡《さど》として、家康の分身と目されるほどの第一の側近として生涯を終っている。
これが事前に、なんの予測もしていない人間にできたことであろうか。また曾《かつ》て叛乱し、つづく十九年間まったく音信不通であったといわれる家来のしたことであり、またそういう経歴のある家臣がそのあとで受けてよい待遇であろうか。
これは作者の新説のつもりだが、どう考えても本多正信は、そのとき以前から家康と何らかの連絡を持っていて、しかも彼自身は或る万一の可能性に具えて動いていたものとしか思われない。――
それにしても、光秀の最大の誤算は、いうまでもなく備中陣に於ける羽柴筑前の反転であった。少なくとも数ヵ月は釘《くぎ》づけになっているであろうと思われた羽柴軍は、わずか一週間ののちには、彼自身の基地|姫路《ひめじ》から勇躍して京へ殺到して来たからである。天下の遅速を司るどころではない。
そしてまた筑前を釘づけにするどころか、たしかに光秀自身から相呼応して起つように飛脚を出したにもかかわらず、ただ黙々としてそれを見送った毛利の動きもそれに劣らぬ大誤算にちがいなかった。
一指頭を以て天下を動かしたつもりであった光秀の脳髄から狂熱の火が消えたとき、彼のがらんどうの頭蓋《ずがい》の中を吹いた風は何であったか。
それは、じぶんこそすべての人間の指のままに動いていた傀儡《かいらい》ではなかったかということであった。だれもかれも、以前からじぶんの叛心をじいっと凝視して、その動静を監視していたのではないか、ということであった。謀叛の計画にたちまち同意したじぶんの参謀たちまでも。
月明暗き小栗栖《おぐるす》の竹藪《たけやぶ》の中を落ちてゆきながら、光秀は、じぶんの謀叛を知らなかったのはただ信長一人だけであり、みなが知っていることを知らなかったのはじぶんただ一人であったような気がした。
九
……さて、明智の全軍が桂川を渡河し終ったあとの河原である。
それまでの地ひびき、水音、鎧《よろい》ずれ、刀槍《とうそう》の鞘鳴《さやな》り、一万三千の人間の叫喚と軍馬のいななき、など――地震《ない》のような音響が震撼《しんかん》していただけに、そのあとの天地にはかえってこの世ではないような寂寞《せきばく》が満ちた。
茫乎《ぼうこ》として、見えない眼を東の川の方へむけていたお霧が、ふいにくるっとふりむいた。
見えないお霧が、何者の姿を見たわけではない。にもかかわらず彼女は、このとき何とは知らず幻妖《げんよう》の気を感覚したのだ。同時に、背後の河原の草むらから、ぼんやりと三つの影が立ちあがった。立ちあがったきり、その三つの影はしばし何の声も発しない。
「こうしていてもきりがない。――」
右側の影がいった。
「われわれは大事をつかんだ。一刻も早く急報せねばならぬ任務がある。にもかかわらず、われらは相|牽制《けんせい》して、三すくみ――いや、四すくみになっておる」
影の腰は折れ曲がっていた。しゃがれた阿波谷図書の声であった。
「すでに日向守どのが能面かなぐり捨てられた上は、われらの能面は無用じゃ。それを捨てて、おたがいに勝負しよう。――まず名乗る。おれは徳川の――というより、徳川の家来、本多弥八郎正信の命を受けた伊賀の忍者阿波谷図書」
すると、お霧から見てまっすぐの遠い影がいった。
「わたしは毛利の忍びの者、お刑。――いかにも、弓矢八幡、この場よりわたしの命にかえても走らせとうない者が少なくとも一人ある」
次に、いちばん右に立った女の影が、へんに拡散した声でいった。
「わしは、羽柴、蜂須賀《はちすか》党の刈羽陣四郎じゃ」
知らない者には、何をいったか、よくききとれなかったろう。それはただ、ひゃ、ひゃ、といったように聞えた。舌を出した人間の声であった。
一瞬、名乗り合っても、四人はその位置から動かなかった。四人はちょうど四角形をなす地点に立っていた。
動けなかったのも道理だ。
明智の忍者お霧は、徳川の忍者阿波谷図書を破ったことがあるが、羽柴の忍者刈羽陣四郎には敗れた。
徳川の忍者阿波谷図書は、毛利の忍者お刑を破ったが、羽柴の忍者刈羽陣四郎と明智の忍者お霧には敗れた。
毛利の忍者お刑は、羽柴の忍者刈羽陣四郎を破ったが、徳川の忍者阿波谷図書には敗れた。
羽柴の忍者刈羽陣四郎は、徳川の忍者阿波谷図書と明智の忍者お霧を破ったが、毛利の忍者お刑には敗れた。
しかし、それはただいちど破り、敗れたことがあるというだけで、必ずしもふたたび破り、敗れるとはかぎらない。その勝敗の転機はただ一髪のタイミングの差にあったといってもさしつかえない。それに、そもそも彼らは、まず第一に、いまだれを敵に選ぼうとするのか。
空よりも地に微光がある。それは桂川の水明りであったが、それより彼らのはなつ妖光であったろう。少なくとも、彼らはおたがいの敵の姿をはっきりと見た。――盲目のお霧さえも。
彼らは動き出した。――当面の敵を狙《ねら》って。
当然といえる組がある。意外といえる組もある。いや、そもそもそれは組を成さなかった。
お霧は刈羽陣四郎めがけて歩いた。明智がまず羽柴を狙う。この場合は、羽柴筑前に急報する者を狙う。これは当然だ。
しかるに刈羽陣四郎はお刑の方へ近づいた。羽柴が毛利へ急報する者を狙う。これも当然だ。
しかし、そのお刑が阿波谷図書の方へ進んだのは意外であった。毛利はなんのために第一番に徳川を狙うのか。
そしてまた、阿波谷図書はお霧めがけて歩き出した。これも意外だ。徳川がどうして明智を狙うのか。
しかも最大の意外事は、それぞれが曾てじぶんを破った相手を敵として迫っていったことであった。曾てじぶんを破った者に駈け向う。これが彼らの忍者流であったか。
おのれ自身の復讐欲を揚棄するのがまことの忍者魂だ。彼らの第一歩は、もっと高次の信念ないし命令から踏み出されたものであったろう。――すぐに彼らは、じぶんを狙う者がだれであるかを知った。知ったが、もはや反転はできなかった。反転すれば、おのれの目的はとげることなく、いたずらに挟撃を受けるおそれがあった。まず第一に狙い、狙われる敵は敵として、大局的にはここに相対する四人の命令者が、戦国の大敵同士の群雄なのだ。
あたかも彼ら以外の大忍者が魔天に存在して彼らを動かしているごとく、彼らは四角形の一辺ずつを、時計の針とは反対に、同方向へ動いた。それらは次第に早くなり、四角形は円形となり、さらに小さくなった。――怪奇なる忍者の輪舞。
まるで蛇がおのれの尾をのむように、四人の忍者はほとんど一塊となった。
「勝負っ」
と、だれか叫んだ。四人同時の声のようでもあった。
「こちらを向け!」
その念力こめたさけびに、四人はいっせいにふりむいた。四人がいっせいにふりむけば、また同方向となっておたがいが顔見合わせることもない理屈になるが、すでにもつれ合うような環であったので、そこに反応が起った。
お霧の摩擦する懐剣のつかを見た刈羽陣四郎は、女装のまま射精した。たんなる射精ではなく、それは血しぶきを噴出した。
血を噴出しながら、舌を吐いたままの刈羽陣四郎はお刑の腰をとらえた。からみ合ってふしまろび、陣四郎の手がお刑の股間に入ると、ぴいいっというような微かな音がそこで鳴った。彼はお刑の陰唇を縫い閉じてしまったのだ。
まろびつつ、お刑もまた阿波谷図書にしがみついた。毛利の忍者が徳川の忍者をまず狙ったのは、安国寺恵俊を通じ、恵瓊からの命令によるものであった。すなわち、毛利にとって未来の大敵は羽柴にあらずして徳川であるという。――家康滅ぶ機あらば、いまのうちに滅ぼしめよ、という、それは毛利家を待たずとも安国寺恵瓊その人の易占いによるものであったろう。お刑にしがみつかれて、阿波谷図書の肉体の突起物はみな立った。彼の舌は吐かれ、指もまた反った。そして、すでにかぶって波うっている卵形の膜頭巾そのものも棒状にのびて、その中の首をしぼりあげた。
阿波谷図書の波うつ膜頭巾に、お霧は凄《すさま》じい陣痛を感覚していた。眼は見えないのに、その波うつ肉の音が、彼女に反応をひき起したのだ。図書がお霧を狙ったのは、むろんおのれが堺の家康のもとへ駈けつけるのを、最も妨害するのはお霧だと見たからであった。そして、その膜頭巾が棒状にのびて横に断裂した刹那、お霧の子宮筋膜もまた輪状に裂けた。
凄惨無比の死闘は終った。
折り重なって静止した一塊から、ややあって、一つの影がよろめきながら立ちあがった。
お刑だ。
彼女は背後へ走り出した。老の坂へのぼれば、摂津《せつつ》へ出る街道もある。そこから一路西の毛利へひた走るつもりであろう。
しかし、つづいてもう一つの影もよろめきつつ立ちあがった。
刈羽陣四郎だ。
彼もまた同じ方角へ駈け出した。お刑を追うというより、彼も西の羽柴へ急報にゆくつもりであったろう。
あとの明智と徳川の忍者は、もはや動く気配もない。そして。――
暗黒の地上をこけつまろびつ走る陰門閉鎖の忍者と、射精管全開の忍者が、ついに毛利と羽柴の陣営にたどりついたという記録は史書にない。
[#改ページ]
おちゃちゃ忍法腹
一
戦いの跡で惨澹としていない光景はないが、それにしてもこれは異様だ。
海を背に算を乱して横たわっている武者の数は数百と見えるが、血潮の色がまったくなく、それらしいうめき声も聞えない。
むろん、叫喚はある。駈けめぐる影もある。それは倒れている兵士たちを介抱する人々であった。いたるところ、火が燃やされ、黒煙が巻きあがり、その向うに荒れ狂う蒼黒《あおぐろ》い波濤《はとう》と岩に散乱する真っ白なしぶきがあった。
が、その海から来る北風が火と煙を吹き払ったあと、横たわった武者で動くものはほとんどなかった。
「もっと火を焚《た》け、どんどん焚け!」
「酒をのませろ、のまぬやつには、頭からぶちまけろ!」
「――だめだ、どうしても。――」
「さぞ、無念であったろう、いくさの前に凍え死んでは。――」
いたるところ、絶望のさけびが風に吹きちぎられる。
戦いの跡にはちがいないが、ここは戦場ではなかった。対馬《つしま》の北端|大浦《おおうら》の石ころだらけの海辺であった。
文禄《ぶんろく》元年十月上旬。――いまの暦でいえばもう十一月になる。玄海灘《げんかいなだ》を吹く風は、氷片でもまじっているように冷たく荒々しい。
この年四月、朝鮮へ遠征した二十数万の日本軍は、二十日にして京城《けいじよう》を占領し、さらに平壌《へいじよう》まで進出したが、秋はやくもその鉄蹄《てつてい》に息切れを見せはじめていた。その最大の理由は補給難で、それは玄海灘の制海権が完全に掌握出来ないことによった。
完全に掌握出来ないどころではない。――その間の数次にわたる海戦のほとんどは敗れたといっていい。朝鮮のネルソンともいうべき水軍統制使|李舜臣《りしゆんしん》のためであった。
さてこの十月、新たに数千の日本軍が増派されたが、またも海峡で朝鮮水軍のために撃破されたのである。いまこの遠征軍の最尖端の基地、対馬の大浦に引き揚げられたのは、漂流していた日本兵の屍体《したい》であった。
いや、残存の船に引き揚げられたときは、まだ生きていたのだ。息のあるやつだけを救いあげて、この大浦へ収容したつもりなのだ。が、濡れつくしたからだは、玄海灘の寒風に吹きさらされ、漂流中の衰弱もあって、ここへ引き揚げると同時に、ほとんど息をひきとっていた。まあ凍死といってよかろう。
「いくら火を焚いても、かような海辺に置いては凍え死ぬのがあたりまえ、なぜそこらの漁師の小屋にでも入れてやらぬ?」
まだ三十をちょっと越えたばかりかと見える一将が、白い額に青い筋を浮かべて、屍体のあいだを歩いていた。
「どの小屋も、もう足の踏み場のないほどいっぱいでござります」
と、あとについている老武者が吐き出すように答えた。
一将は軍監|石田治部少輔三成《いしだじぶしようゆうみつなり》である。――彼はふだん九州基地の名護屋《なごや》大本営に秀吉《ひでよし》とともにいて、主として遠征軍の軍需を司っているが、このごろとみに険悪化した補給作戦を視察するために、数日前から対馬の厳原《いずはら》へ、さらにこの大浦まで出張して来ていたのであった。みずから出かけて来たくらいだから、事態の容易でないことは承知の上だが、しかしいきなりこの悲劇にまざまざと直面して、冷徹な彼も少なからず衝撃を受けていた。
「――や、あれは?」
ふいに三成は足をとめて、海の方を見た。
しぶきのあがる大きな岩のかげに、じっと動かない仄白《ほのじろ》い一群があった。
「あれは高麗《こま》の女どもでござる」
と、うしろの侍が説明した。対馬藩|宗《そう》家の老臣|畑寺源左衛門《はたでらげんざえもん》である。――こんどの役以来、朝鮮で捕えて、日本で使役するために送られて来た朝鮮人の男女はおびただしい数に上っているが、その一部がここでも働かされていたのだ。
「いや、あれらがとり囲んでおるものよ。妙なことをいたしておるぞ」
「――はて?」
眼を凝らしていた宗家の侍たちは、やがて意外なものを発見したように、三成をおいてその方へ駈けていった。三成もそのあとを追った。
意外なもの、といっても白衣の盾にさえぎられ、実ははっきり見えなかったのだが、跫音にその朝鮮女たちがあわてて飛びのいたので、はじめてそこで何が行なわれていたかを知って、宗家の侍たちはあっとまた声をあげた。
岩かげの、しかししぶきのふせげない場所に、一人の男と七、八人の女がもつれ合っていた。それがいずれも一糸まとわぬ裸体なのだ。三人の女が仰向けにならんで横たわって、それを褥《しとね》として男が寝ている。そして、あと四、五人の女たちはその上にまた覆いかぶさるようにしてからだを重ねているのであった。
「何をしておる」
「畑寺さま」
と、ほとんど首だけのぞかせた男が弱々しい声でいった。
「お久しゅうござる」
のぞきこんでいた畑寺源左衛門が突如驚きの声をもらした。
「おう、おまえはたしか鴻天忠《こうてんちゆう》。……」
「なに、日本の侍ではないのか」
と、うしろから三成も意外らしい声をかけた。――朝鮮の女たちに抱かれていたのだから面妖とは見ていたが、ここに引き揚げられた男たちはみな日本の侍ばかりだと考えていたから、たしかに思いのほかであった。
「朝鮮の男か。――しかも、日本の言葉をしゃべる」
「は。釜山《ふざん》の漁夫頭とかで、このたびの役までは海産物を積んでしばしば厳原へ往来し――というより、対馬におった方が多かった男でござる」
「それが、どうしてここにこんな姿でおるのか。また何をしておるのか」
――あとになって、この男を救いあげた者を探してきいたところによると、何しろ漂流していた兵士は味方だけではなかったし、この男は乱髪でまっぱだかで、しかも日本語で助けを求めていたので、てっきり日本兵の一人だと信じて疑わなかったらしい。
しかし彼は何をしているのか。その男はぶつぶつと呟《つぶや》いていた。
「東方青帝青衣夫人童子神……西方白帝白衣夫人童子神……南方赤帝赤衣夫人童子神……北方黒帝黒衣夫人童子神。……」
むろんこれもあとで鴻天忠から漢字にして説明されたことで、このときは朝鮮語であった。朝鮮の巫覡《ふげき》――巫女《みこ》かんなぎ――に伝えられる童子経という経文であるという。
何をいっているかわからなかったが、呪文《じゆもん》であることはあきらかであった。しかも、彼の四方八方からぴったりと吸いつき、微妙にうごめく女たちは、その呪文に合わせて――というよりも、無意識的、他動的にうごいているらしいことも見てとれた。凄愴《せいそう》な荒海を背に、一人の男をめぐり蛇のように律動する女体のむれ、それはエロチシズムよりも、人間界のものでないような幻怪な儀式を感じさせた。
鬼気に打たれて、茫然《ぼうぜん》として見まもっていた三成たちの前に、さて鴻天忠は女たちをしりぞけ、むくりと身を起したのである。
そのまま、また海へ、いるか[#「いるか」に傍点]みたいに躍り込みそうな姿勢を見て、三成はさけんだ。
「逃すな」
われに返った侍たちが地を蹴ってそれをとり囲んだ。むろん、いっせいに抜刀している。畑寺源左衛門がふりかえった。
「成敗しますか」
「斬るな」
三成はいった。
「奇態なやつだ。そやつ、女の肌を以て凍死から蘇《よみがえ》ったようではないか?」
二
凍死しかかった人間を救うためには、ふつう乾いた布で全身を摩擦し、紅潮するに及んで室内に入れ、やや元気の恢復《かいふく》するのを待って少量の酒とか粥《かゆ》を与えるのが療法だが、むろんこの法ですべてが助かるというわけではない。げんに船から揚げられた兵士たちのほとんどは、そのまま落ちいってしまったのである。
ところが、その鴻天忠は蘇った。――騒ぎをきいて、この男を舟に救いあげた者が現われて証言したのだが、大浦についたときはもう完全に白ちゃけていたので、朝鮮人とは知らず、汀《みぎわ》に放り出したままであったという。――これが、どうしたのか、朝鮮の女たちの発見するところとなり、その人肌で生き返った。
「……なるほど、こういう法があるか」
と、三成は手を打った。――こういうと、間がぬけているようだが、あながち、そうでもない。
――第二次世界大戦で、冬の英仏海峡で撃墜されたドイツ飛行兵の救助に、ドイツの医学者が躍起となったことがある。ニュルンベルク裁判に於ける一医師の証言にいう。「海に落ちた飛行士は、凍え死んでしまう。たとえ救助されて、暖めて、薬をのませ、あらゆる手当を尽しても効果がないのです。それは一種の謎《なぞ》でした。彼らはみな意識を失い、硬直してはいましたが、まだ息があったのです。それにもかかわらず、彼らは死んでゆき、われわれにはその理由がわからなかった」
で、ドイツの医師たちはどうしたか。例の強制収容所で、囚人をわざと凍死状態にし、これを回復させるさまざまの実験の一つとして、淫売《いんばい》婦たちをその被験者にからませて、その人肌で暖めるという法を試みたのである。その結果、体温上昇の速度は、毛布に包んで暖める場合とほぼ等しい数値を示すが、体温が三十度に達したとき女に性行為をさせると、被験者の体温の上昇は温かい風呂につけた場合と匹敵し、かつその意識の回復は他のいかなる暖房方法よりも早いということが例証されたという。
「よし、いのちだけは助けてやる」
と、三成は鴻天忠にいった。
「いまの女どもに、そこらに死にかかっておるやつらを抱かせえ」
朝鮮の女たちは、鴻天忠の顔を見た。鴻天忠は朝鮮語で何かいった。どうやら、気のすすまぬ女たちに、三成の命令に従うように伝えたようだ。
さて、それから数人の垂死の日本兵たちに、裸体の朝鮮女たちがからみついてこれを蘇生《そせい》させたのだが、そのあいだにも、息をひきとってゆく兵士がほかに続々と出る。間に合わずと知って、畑寺源左衛門が、この大浦の漁夫の女房や娘を狩り集めて、同様の療法を強制した。ところが――この方は、ただ一人として効果がなかったのである。
鴻天忠は例の呪文を唱えていた。
それに応えて、日本兵にまといついた朝鮮女たちの動きが、日本の女のそれとは全然ちがう。ほとんど忘我の、他動的な――異次元の世界の蛇のような動きである。
はじめて三成は、この朝鮮の漁夫の療法がただの法ではないことを知った。
「うぬは何やら術を心得ておるか?」
と、三成はきいた。
「パクス」
と、鴻天忠は答えた。むろん三成にはわからない。
「朝鮮のかんなぎでござる」
と、天忠は説明した。憂鬱《ゆううつ》げではあったが、あきらかな日本語だ。
それで三成は了解した。このたびの役を起すにあたり、大本営参謀たる彼は、秀吉以上に事前に朝鮮の地理や政情や風俗などを調査したが、その風習の中に、朝鮮には巫覡が日本の比ではなく――農民漁夫がこのような祈祷《きとう》師をかねていてもふしぎではないほど――充ち満ちていることを知った。巫とは巫女のことであり、覡《げき》とは男のかんなぎのことだ。あちらの言葉で、巫《ムーダン》といい、覡《パクス》という。
彼らの巫行神事は、大別して悪魔払い、祈福、卜占《ぼくせん》の三つに分れるが、これが民衆の生活を支配し、ときには歴史すらも変えた事実がある。調べてみて三成は、これは愚昧《ぐまい》なる迷信であると判断し、むしろ征服者にとっては乗ずべき風習であると手を打ったことがある。
「これが覡《パクス》の術?」
朝鮮史を通じてしばしば現われる巫覡の、鬼神を呼ぶ術を、荒唐|無稽《むけい》の伝説と一笑していた三成も、現実にこの凍死者を蘇生させるわざを見ては、いささか認識を改めずにはいられなかった。
そしてまた、かかることならばあり得ることだ、と合理主義者の三成も肯定した。
さて現実には、この鴻天忠なる男が朝鮮女を使って命をとりとめた日本兵は、女の数と時間が間に合わず、わずか七、八人に過ぎなかったが、その結果、もはや用なしとして、三成は天忠を処分しなかった。
「天忠。……わしに使われる気はないか」
と、彼はきいた。
天忠は迷うようすもなく、手をつかえた。いやだといえば斬られるだろうし、斬られなくても捕虜として酷使されるにきまっているから、承知するほかはなかったろうが、そうとも見えぬいさぎよい態度であった。
三成がこの朝鮮の男を使う気になったわけは、大別して三つある。一つはむろん、いまのわざに心をひかれたからだが、しかし彼は天忠をこの大浦に置いて、次にまた起るかも知れない海難の救助人とするつもりはなかった。それよりも、天忠が日本語を解することを知って、大本営参謀としての自分の仕事に何かと好都合であろうと判断したことの方が大きかった。さらに、第三の理由は、この朝鮮の漁夫が、海の男らしい重厚な風貌《ふうぼう》を持ちながら、熱心に日本兵の救助にあたったのを見てもわかるように、いったん観念すると、日本人以上にいさぎよい性質をそなえているように思われたからであった。
三成は鴻天忠をつれて、対馬から九州肥前の名護屋に帰った。
明哲な彼にはあるまじき軽はずみであった。
三
名護屋は、一年前までは無人の入江、というより荒涼たる沼沢の地であった。そこに去年の十月、秀吉が九州の諸大名に命じて、大本営の設営を命じたのである。そして五ヵ月ばかりの突貫工事で、おびただしい犠牲者を出しながら、周囲五十キロを超える大基地が完成した。当時滞日していた伴天連《バテレン》ルイス・フロイスは書いている。
「ミヤコの聚楽《ジユラキ》の石垣のように巨大な石と、広くて深い濠《ほり》で、それぞれ二重にとりまかれた中に、関白の宮殿がある。それは甚だしく大きく豪華であり、金塗りの大きな部屋がいくつもある。宮殿のちかくにはおびただしい諸侯や侍たちの屋敷が設けられ、ひとつの美しく大きな町をなしていて、まっすぐでみごとな街路が通っている」
かかる基地でも発現せずにはいられない太閤の豪華趣味であった。
その「城」の奥ふかく秀吉がいる。
ここへ朝鮮の捕虜を縄目にもかけず――それどころか、人の目に立つことをきらって、彼に日本の侍の服装までさせて――三成がつれて来たのは、あとで思えば放胆なことであったが、三成にしてみれば、そのときはさしたることでもなかったのだ。すでにこの基地には数百人の朝鮮捕虜が働かされているし、そもそも秀吉のいるところが、朝鮮人はおろかふつうの日本人にも容易に近づくべからざる仕組みになっているのだから。
それに、完全な無警戒というわけではない。念のため、三成はおのれの所領にちかい甲賀から呼んだ忍びの者のうち、網干宗四郎《あぼしそうしろう》と木月白印《きづきびやくいん》という二人の男に、交替で絶えずそれとなく見張らせていたし、日本の侍姿とはいえ鴻天忠に刀はもとより武器一つ持たせなかった。
名護屋に帰ってから三成は、いくども天忠を呼んで、朝鮮の地図を前に、その町々や道、さらに向うの将官の人物などをきいたり、新しい捕虜の訊問《じんもん》の通訳に当らせたりした。天忠は素直にこれに応じ、三成は予期以上に得るところが多かった。半月もたたないうち、三成は二人の監視者を任務から解いてもいいのではないかと思いはじめたほどである。
しかるに、十月末ちかくなって、この基地に怪事が勃発した。
太閤|寵愛《ちようあい》の朝鮮の女が一人、変死をとげたのだ。――しかも、三成の陣所の中で。
――傍若無人なことけたはずれの秀吉は、そもそも朝鮮へ第一軍を送り出すときから、まず敵国の美女を日本へ送ることを命じていた。その通り、日本軍は釜山に上陸し占領するや否や、そこの城将|宋象賢《そうしようけん》の愛妾李春燕《あいしようりしゆんえん》をとらえ、ただちに名護屋へ送りとどけている。当の秀吉はまだそこの大本営へ西下しつつあり、到着したときにはすでにその美しき戦利品が待ち受けていたという手回しのよさであった。
爾来、半歳のあいだに十数人の朝鮮の美女が送られて来たが、自殺したり病んだり、或いは秀吉の気に入らなかったりして、いまもこの名護屋にいる該当者は三人だけだが、その中の一人|宋麗華《そうれいか》という女の屍体が発見されたのだ。
まず城廓《じようかく》の奥ぶかいところから、どうしてその女が外へ出たかが奇怪である。いまも述べたように、そのあいだには塀や濠、それに幾つかの門に哨兵《しようへい》が詰めているからだ。しかし、城には大勢の女も奉公していて、これは所用があれば内外往来しているから、それにまぎれて――とくに内から外へ出るのは不可能事ではない。
ふしぎなのは、彼女がどうして石田三成の陣所に来たかということであり、さらにどうしてそこで変死をとげたのかということであった。
発見されたのは炭小屋の中で、俵にもたれるようにして両足ひらいて坐った屍骸《しがい》は、わざわざ秀吉のために朝鮮から送られて来たほどの美貌で、場所が場所だけにかえって凄艶をきわめた。しかも。――
宋麗華は斬られたり突かれたりした傷は針ほどもなかった。毒をのまされたようすもなかった。なぜなら、彼女は笑って死んでいたからだ。笑顔というのは正確ではない。いちいち眼鼻口の描写はむずかしいが、とにかくそれは、男ならだれでも思いあたる、快美きわまる女の法悦の相であった。
「わからぬ。……まったく以て、一切不可解でござる」
三成は秀吉にそう報告するよりほかはなかった。
どう考えてよいかわからないのは秀吉も同じことで、三成はそれ以上何も訊《き》かれはしなかったが、ふたたびおのれの陣所に戻って来た彼の顔に、もとより安堵《あんど》の色はなかった。
彼は、忍びの者網干宗四郎を呼んで、
「昨夜、天忠に異常はなかったか」
と、きいた。昨夜の鴻天忠の見張り役が網干宗四郎であったことをたしかめての上のことである。
騒ぎの直後はさすがの彼も動顛していたが、いまにしてふっと三成の疑心をとらえるものがあったのだ。これに対して宗四郎は、昨夜はいささか酔うて、ふとまどろむこともあったが、天忠のようすはふだんと変らず少なくとも陣所の外に出るようなことは金輪際なかった、といい、
「天忠、このごろ、もはや心許してもよいのではないかとの仰せで、つい油断つかまつりましたが……きのうのあの変事は、やはりきゃつが?」
と、血相をかえた。
「いや」
三成はあいまいな表情をした。まさに宗四郎のいう通りで、彼を責めるわけにはゆかないし、だいいち鴻天忠への疑惑も何ら根拠のあるものではない。
「ともかく、白印にもよう申し、きゃつを見張っておれ」
と、三成は命じた。
十日ばかりたって、第二の惨劇が起った。
またも石田の陣所の、こんどは薪小屋と厠《かわや》のあいだの空地で、甲賀者木月白印が殺され、その薪小屋の中で朝鮮の秀吉第二妾|孫素秋《そんそしゆう》が恍惚の笑顔で死んでいるのが発見されたのだ。
こうなっては、三成といえども自分の陣所にいる鴻天忠にかかわりありと断定せざるを得ない。いや、たんなる推測どころか、心臓部に穴をあけられて死んでいる木月白印が、そばの大地におのれの血を指につけて書いたらしい文字を残していたのだ。
実に奇妙な文字であった。
「天忠しょうべん」
それはこう読めた。
「きゃつのしわざでござる!」
網干宗四郎はさけんだ。
「ふ、不敵なり、高麗の虜囚の身を以て、日本の忍びの者を殺害するとは!」
「宗四郎、天忠しょうべん、とは何の意味かわかるか」
「わからいで結構でござる。即刻首|刎《は》ねましょう」
「待て待て、首刎ねてしまっては、いよいよ一切が謎となる。白印の書き残した文字の意味のわからぬこともさることながら、そもそも白印ほどの者が、どうしてきゃつに討たれたのか。天忠は武器を持っておらぬはずであり、また容易にそれを持たせる白印とも思えぬが。――」
三成は宙を見て、首をひねった。
「いや。こちらが首ひねっても埒《らち》があかぬ。じかに天忠にきこう」
かえって彼は、もちまえの冷徹さをとり戻したように見えた。
しかし三成は決して冷静なのではなかった。孫素秋が召使いの女に化けて、被衣《かつぎ》をかぶって秀吉の本営を出たことはもうわかっていたが、いかにしてか彼女を呼び出し、また怪死をとげさせた下手人が鴻天忠であることがまことであるとすれば、それをわざわざこの名護屋につれて来た自分の責任は重大である。たとえ素姓は朝鮮の女であるにせよ、いまは太閤の愛姫を殺害する手引きをしたのはこの自分だということになるのだから。
「ここに天忠を呼べ」
三成はくり返した。
「さりげなく。――ただし、遠くより、甲賀者どもにとり囲ませろ」
四
やがて、鴻天忠が宗四郎に曳《ひ》かれるようにしてやって来て、夕暮の庭の寒い土の上にひざまずいた。髪は総髪にしているが、具足をぬいだ、日本の雑兵姿で、ただし刀はさしていない。
「天忠」
三成は縁側で呼んだ。
「なぜあのような大それたことをいたしたか」
「わかりましたか」
動揺もなく天忠はいった。重厚なその顔が、ふいにふてぶてしい感じに変った。
「御成敗はいさぎよく受けまする」
「そのまえにきくことがある。――いかにして朝鮮の御女性をここへ呼んだ。うぬはここより一歩も出いで。――また、いかにして木月白印を斃《たお》した。うぬの尿《いばり》とは何のことじゃ?」
「ほ、そんなことまで御存知でござりましたか」
彼も白印の血文字のことは知らなかったらしい。――しかし、天忠はうす笑いした。
「ま、そのようなことを申しても、もはや無用。お斬り下さい」
「よい覚悟じゃ。素ッ首のばせ」
そばの宗四郎が陣刀のつかに手をかけた。
鴻天忠は首をのばさず、ねじむけて宗四郎を見た。一瞬、まるで妖光に眼を射られたように宗四郎がひるんだ。天忠はゆっくりとまた首を三成の方へむけた。
「ただし、わしのいのちとともに、あなたさまの政治生命も終りますぞ」
「なに?」
「石田どのを憎む人は、この本営にもうんとござります。そこへ、拙者をつれて来たあなたさまの御失態があきらかになったとすれば」
三成が怖れていたことを、この捕虜は口にした。こやつは、そんな日本の大本営内部の人心までちゃんと知っているのだ。
さしもの三成も顔色を変えた。
「しゃっ、しゃらくさいことを。――うぬをここで成敗すれば、すべては雲霧の中に終る。宗四郎、斬れ!」
「待った。すべては雲霧の中に終らぬ。すべてを知っておる人が、太閤のそばにおる。――」
「なんじゃと? だれが!」
「李春燕」
朝鮮の女人の太閤第三妾、――いや、ほんとうはまっさきにこの名護屋へ送られて来た釜山城の城主宋象賢の寵姫だ。偶然か、その美貌もいちばん冠絶している。
「春燕のお方が……なぜ?」
三成もと胸をつかれたようだ。
「御覧なされ、それを」
鴻天忠は指さした。
三成ははじめて縁側に一匹の小さい蟹《かに》が這っているのを見た。はて? とのぞきこんで、その眼がひろがった。蟹は足の一本から、ひとすじの毛をひいていた。
「これは何じゃ?」
とらえようとすると、蟹は忽然として縁側からかき消えた。天忠が髪をひいて、蟹を地に落したのである。そのまま蟹はスルスルとその袖《そで》にかくれた。
「蟹は拙者のあやつる髪のままに、どこまでも這ってゆき申す。たとえ、半里、一里の道も――濠も塀もあらばこそ。そしてその甲羅に、筆の毛ひとすじで書いた文字がつらねてある。たとえつかまえても、日本の衆に諺文《おんもん》は読めますまい」
すべてこの蟹の文使いで連絡したといっているのだ。――おそらく宋麗華、孫素秋を呼び出したのもそれのしわざであったろう。
三成はもとより、網干宗四郎もしばし絶句したきりであった。
「治部少さま、取引きいたそう」
鴻天忠は笑った。これはむしろ爽《さわ》やかな笑顔であった。
「な、なんの取引きを」
「もういちど――その李春燕を呼ばせて下されい。それでわたしの目的は終る」
「また、殺すのか?」
「左様、さすれば、あなたさまのおっしゃる通り、すべては雲霧の中に消えます」
「しかし、なんのためにそう女を殺す?」
「朝鮮の女に、賊魁《ぞくかい》秀吉の子など生ませては万事休す」
いまや、鴻天忠の目的はあきらかとなった。――彼ははじめからその悲願のためにあえて日本の捕虜となったのだ。考えてみれば最初からいぶかしいふしがあり、そのいぶかしさにかえって心をとらえられたのだが、やすやすとこの男を名護屋につれて来たのは、三成にとって稀有《けう》の迂闊《うかつ》、いやかえすがえすも天魔に魅入られたというしかない。
賊魁秀吉、あえてそう呼び、かつその大それた目的を宣言されても、とっさに反撃出来ないほど三成は彼の凄絶の面《つら》だましいに圧倒されていた。天忠はいった。
「もしこれをお許し下さるならば、いかにして毒も刀も以てせず女を殺すか、治部少さまに御見《ぎよけん》に入れる」
五
月は天心にあるらしいが、淡墨をぼかしたような薄雲のために、魔界のような朦朧《もうろう》たる蒼味にみちた夜の中を、蟹の引く髪――数千本の毛を結びつらねた道しるべを辿《たど》って、秀吉の虜妾《りよしよう》李春燕は、三成の陣所に入って来た。
その髪の道しるべは見えないが、女の姿はよく見えた。ふしぎにそれは暗い蒼さの中に蛍みたいな光をはなって、すでにこの世のものではないように浮かびあがっていた。彼女は日本の女と同じ姿にされていた。
「…………」
庭に寂然と立っていた鴻天忠は、しずかに何やら呼びかけた。
「…………」
驚いたようすもなく、李春燕は何やら答えた。それから二人はしばし問答を交したが、むろん朝鮮語だから、縁側に坐っている三成と宗四郎には意味がわからない。
「全羅《ぜんら》水軍統制使李舜臣提督の命により、ふびんながら朝鮮の誇りのために処刑する、かように申し伝えたのでござる」
鴻天忠はふりむいて、自分で通訳した。
そこで二人の日本の武士が見ていることを、少なくともこのとき気づいたはずなのに、李春燕はうなだれたまま、ふりかえりもしない。何かほかの思いに沈んでいるようだ。たださえ、ふつうの日本の女とはどこか異質な美しさは、まるで精霊のように見えた。
天忠はその裲襠《かいどり》を手ずからとって、フワと大地にひろげた。
「ただし、その前に朝鮮の男の秘技を以て、日本の賊魁の腐臭を洗え――と、これも提督の仰せでござる」
彼は裲襠のみならず、李春燕を全裸に剥《む》きはじめた。
何やらうめいて、網干宗四郎が立とうとした。「――待て」と、ひびかぬ声だが、きびしい語気で三成がそれを抑えた。前夜から三成は、こんどのことに大いに異議のある宗四郎に、「黙って見ておれ」と、かたく命じておいたのである。
やがて鴻天忠は、深海の人魚のような全裸の春燕を地の裲襠の上に横たえた。そして、おのれも裸身になった。
何をするか、ほぼ見当をつけていた三成と宗四郎も次第に眼を大きく見ひらくような行為を見せはじめた。彼はただちに春燕を犯しはしなかった。手と口を以てする前戯を加え出したのだが、これが前戯であろうか。――いま女を深海の人魚と形容したけれど、まさにその人魚とたわむれる妖《あや》しの漁夫のごとく、二つのからだは地から浮いて見えるほど自在にゆらめき、もつれ合い、やがて女はむせび泣きというより歌声のような声をあげはじめた。三成と宗四郎はたんに眼を見張ったのみならず、彼らまでが胴ぶるいし出したほど凄絶な淫戯であった。
「……お」
三成がうめいた。
「炎が」
宗四郎も身を乗り出した。地上の二人をめぐって、まさか炎ではあるまいが、青い陽炎《かげろう》のごときものが、無数の糸のもつれるように見えたのだ。
「ふふ」
この場合にも聞えたとみえて、鴻天忠はふりむいた。
「さわって見て下され、この女のからだに」
「へ?」
宗四郎は三成の顔を見たが、あごをしゃくられて音もなく縁側から飛び下りて、二人の方に近づいて、この男らしくもなく、おずおずと手をさしのばした。そっと春燕の肩のあたりに触れて、
「熱。――」
と、さけんだ。
「では」
天忠がひくくいった。
そして、はじめて肉交の姿勢に入ったのが、例の青い陽炎にふちどられてありありと見えた。――とたんに、その陽炎が消え、春燕が弓のようにのけぞった。
そのまま、彼女は動かなくなった。まるで一瞬に氷結したような感じであった。実際そばにいた網干宗四郎は、この太閤さまの御愛姫が法悦の極みの表情のまま死固してしまったのをまざまざと見たのだ。
鴻天忠は身を離し、ゆっくりと立ちあがった。
「……な、何をしたのじゃ?」
宗四郎はきょとんとした。
天忠はその方に背をむけたまま、両足をひろげて立って、
「さて」
と、いった。いまの問いにとり合わないその言葉も人を小馬鹿にしている感じであったが、その次の動作がまるで放尿するように見えて、
「こやつ。――」
宗四郎はわれに返り、逆上した声をあげた。放尿するように――ではない。あきらかにその股間から一条の銀線がほとばしり出るのを見ると、
「無礼者、死ね!」
狂ったような宗四郎の抜き打ちの陣刀がその背を襲った。
――あっ、とさけんだのは三成だ。身をかがめて、鴻天忠はその刃をのがれた。三成が片膝浮かせたのは、その一瞬に天忠がおのれの尿《いばり》を握ったのを見たからであった。
尿を握る。そんなことが世にあり得るものか。
しかし、見よ、天忠はたしかにそれを握って数歩前のめりに駈けた。そして、ふりかえりざま、狼狽しつつ第二撃を送ろうとして陣刀を振りあげた網干宗四郎の左胸部へ、稲妻のごとくそれを投げつけたのである。
銀線はその胸につき刺さった。うめき声すらたてず宗四郎はのけぞり返っていた。
「氷でござる」
その方には眼もくれず、鴻天忠は三成にいった。
「拙者の魔羅《まら》は凍っております。対馬の大浦以来。……あのとき、魔羅のみは女の肌で暖めなんだゆえ」
近づいて来る鴻天忠を見つつ、三成は恐怖心すら失っていた。あれ以来凍ったままの男根などというものがあり得るか。たとえ凍っているとしてもそこから出る尿《いばり》がつらら[#「つらら」に傍点]となり得るか、などいう疑惑の生じる余裕はない。
三成ははじめて木月白印の討たれたわけ、彼が死ぬとき「天忠しょうべん」と血文字を残した理由、そしてまた三人の朝鮮の美女の怪死をとげたゆえんを知った。が、なお夢魔でも見るかのごとく茫乎として坐っている。
「この男だけは気にくわなんだゆえ、討ち果たしました」
と、鴻天忠はいった。
「いや、日本の男どもすべてその生体引っ裂いてやりたいほどでござるが――かくも私を信じて下された治部少輔さまに対しても、これ以上図に乗っては童子神の冥罰《みようばつ》を受けましょう。わが願い、達してござる。約束通り、いざ首刎ねられい」
三成は放心したように、いさぎよく大地に坐った相手を見ていたが、ふいに呻《うめ》き出した。
「天忠、取引きしよう」
六
ふいにひらめいた直感は、三成らしくもなく無我夢中に出たもので、どうしてそんな考えが湧《わ》いたのかあとで自分でもわからないほどであったが、同時にまた三成らしい身の毛もよだつほど凄味《すごみ》を帯びたものであった。
「いずれにせよ、うぬはもはや生きて無事に高麗へ帰れるとは思うておるまいが、それをあえて帰らせてやる。――わしの願いをきいてくれるならば」
それは相手にいうより、自分にいいきかせるような語調に聞えた。
「朝鮮国のために朝鮮の女を殺す。その心事は諒《りよう》とする。同じように、わしは日本国のために日本の女を殺す」
「日本の女を殺す?」
天忠ははっとしたように三成の顔を見た。
「されば……この名護屋におわすほかの太閤さま御寵愛の女人衆を失い参らせて欲しいのじゃ」
「えっ」
「日本の女性の御愛妾が、まだ四人おわす。そのうちの御三人を」
三成の声はうなされたようであったが、眼は凄じい光をはなって天忠を見下ろしていた。
「そもそもわしは、太閤殿下がおまえの国の女人を御寵愛遊ばすのに反対であった。しかればこのたびのうぬの所業、むしろ日本国のために多幸とする。それどころか、太閤さまがあまりに多くの日本の女人衆を御寵愛遊ばすことも、日本国のために不幸であると信じておるのじゃ」
「日本の御側妾が四人あると仰せられましたな」
「うむ。……」
「そのうちの三人を殺せと申されましたな」
「うむ。……山城《やましろ》の淀《よど》からおいでなされた御一人をのぞき」
淀のお方である。秀吉はその女人だけをつれてこの名護屋へやって来た。
ところが、ここへ来ると、たちまち例の女漁りの悪癖がはじまった。朝鮮の美女の件はもとより、この肥前《ひぜん》また筑紫《つくし》一円の女にも物好きな食指を動かして、いまのところその中から選びぬかれて伽《とぎ》に侍っている者が少なくとも三人ある。
三成は眉をひそめた。それどころか、大いに怖れた。むろん、道徳的な見地からではない。太閤の後継者の問題に関してである。
秀吉はことし五十六になるが、まだ世子がない。いや、いままでたった一人生まれたが、それは去年八月に夭折《ようせつ》した。生んだのは淀の方で、淀君党ともいうべき三成の落胆は甚だしかった。そこへこのたびの出陣である。九州の大本営へ、淀の方一人だけを同伴することを勧めたのは三成であった。もういちど淀の方によって後継者を作る絶好の機会だと思ったのである。しかるに右の次第で、秀吉の好色|放埒《ほうらつ》の所業は、決して三成の手に負えなかった。とくにこのごろは、太閤の閨《ねや》に侍るのは、淀のお方よりも、三人の九州の美姫の方が多いようだ。
で、三成は眉をひそめた。大いに怖れた。万が一、それら九州の女人のどなたかに豊家の世子が身籠《みごも》られるような事態が生じたなら? と考えると、夜半でもうなされる思いがした。朝鮮の捕虜でさえ指摘するように、若くして太閤随一の寵臣となった自分を嫉妬《しつと》する向きは周囲に渦巻いている。淀君以外に世子を生む女人が出現することは、まさに自分自身の失脚を意味する。――
この際、この機会に、その三人の九州の美女たちを葬り去る。
この恐ろしい着想は、右のような懊悩《おうのう》が意識の底にあったからこそとっさにひらめき出たものに相違なかった。
なに、日本のためなどではなく、自身のためなのだが、しかし三成はそうは考えない。あらゆる権力|憧憬《どうけい》者とひとしく、おのれが権力の地に立っていることが国のためだと信じている。三成の場合、少なくとも豊家のためだと自負している。その信念にゆらぎはなく、またその信念あればこその懊悩だが――さすがに彼といえども、その三人の寵妾を、毒や刃物を以て害するというほどの度胸は持ち合わさなかった。
ただ、いま見たような電撃的恍惚死なら? と思いついたのである。
しかし、すでに朝鮮の女人三人が、自分の陣所で怪死をとげている。もっとも公けになっているのはいまのところまだ最初の一人だけで、しかも自分が朝鮮人の捕虜を身近に使っていたことを知っている者は太閤くらいしかいないから、その死の原因を探し出し得る者はほとんどないが――しょせん、いつかは人の口に上ることになるだろう。
それだからこそ、と三成は思った。毒くわば皿まで、という心境にちかい。
なまじ人の口にのぼる以前に、やることはすべてやってしまう。そして、あとは淀の方を通して、それが豊家のためだという自分の衷情を太閤さまに訴える。太閤さまとて、まさかそれらの女人とこの三成をひきかえにはなさるまい。佐吉《さきち》め、やりおったか! と苦笑されて、或いは苦笑の程度にはすまないかも知れないが、とにかくそれで事は終るであろう。
「どうじゃ?」
と、三成は地を這うような姿勢と声でいった。
「うぬにとっても、やり甲斐《がい》のあることであろうが」
鴻天忠の眼はひかり、のどぼとけがごっくり動いた。
「で、いかにして?」
三成は眼をつぶり、さて鴻天忠を日本の座頭にして、三成手飼いの甲賀者を案内者として秀吉の本営に入れることを提案した。しかも、だれにも秘密|裡《り》にである。参謀たる三成なればこそ出来ることだ。
「ただし、いうまでもないが案内するところ以外は一歩も勝手に歩くことを許さぬぞ。つらら[#「つらら」に傍点]しょうべんはもう甲賀者には効かぬ、と知っておけ」
「は。――」
こんな奇怪な暗殺同盟が世にあるだろうか。しかし、おのれの発心にとり憑《つ》かれた三成は、熱病やみのうわごとのようにいった。
「とはいえ、ふしぎなものよの、わしはなぜかおまえを信ずるに足る男、という心がいまだに変らぬ」
「その御信頼に、二度とはそむきませぬ」
三成の望みの由来をどこまで悟ったかは知らず――朝鮮の呪術師は誠実無比の表情で答えた。
七
五日目に一人。
それから五日のちにもう一人。
さらに五日たってまた一人。――
九州の美姫《びき》は名護屋大本営の奥ふかく、つぎつぎに死んでいった。
朝鮮の暗殺者は実に誠実にその任務を遂行した。三成の期待以上のみごとさであった。
むろん、それには三成とその手飼いの甲賀者の助けがある。三成は鴻天忠の頭を剃《そ》り、京から来た座頭で按摩《あんま》の名手だと、それらしい服装をさせて、愛妾たちに紹介した。
一夜めはむろん按摩だけである。しかるに、それだけで天忠は、驚くほど彼女たちをとらえたらしかった。三夜めは、彼女たちは天忠を迎えただけで、とろけるような眼を見せるまでになった。
すでに二夜めから、秘密の往来である。これには甲賀者の助けがものをいった。同時にそれは天忠に対しての監視役でもあった。
そして、その監視のもとに、五夜めに天忠は彼女たちを犯した。
彼は手と舌を以て、文字通り女を燃えあがらせた。網干宗四郎は「熱――」といったが、たしかに高熱患者くらいの体温には上昇させたかも知れない。当人は灼熱《しやくねつ》の思いで悶《もだ》えている体内へ氷の棒が突入する。――そのとたんに彼女たちは恍惚のまま凍結してしまうのだ。一種のショック死であろう。
ただ、それは五日間隔であったから、あとの女はさきの女の怪死を知っているはずであったが、それについての恐怖はおろか、疑惑の言葉すら他にもらした形跡がなかったところをみると、すでに彼女たちの脳髄が混沌《こんとん》たる炎にあぶられ、ひたすらその座頭を待ちこがれるよりほかに余念はなかったのかも知れない。
ふしぎなのは太閤さまだ。
この怪異に、木から落ちた猿みたいにきょとんとした顔をしていたが、まったく判断を絶していたらしい。いつか朝鮮の愛妾が三成の陣所で死んだとき、「どうしたのかの?」と三成にきいたが、こんども同じ表情で同じ疑問の言葉をもらしただけである。あれとこれと結びつける推理力さえ失っているらしい。三成は今さらのように太閤のぼけ[#「ぼけ」に傍点]ぶりを痛感したが、それにしてもこの怪異を三成と結びつける推理力は、ほかのだれにもなかったかも知れない。ただ、三成をぎょっとさせたのは、思いがけない淀の方の登場であった。
最後の女が死んだとき――深夜の城の奥の廊下をしとしとと戻って来た鴻天忠と甲賀者が、なんと途中で淀の方とゆき逢ったという。その時刻、だれもそのあたりは通らないことをたしかめての密行であったのに、思いもよらず淀の方が通りかかったという。そのとき淀君はただ一人の侍女をつれただけであったが、立ちどまり、じっとこちらを眺め、それから黙って通り過ぎていったが、むしろ彼女の方が幻の人のように見えたという。――甲賀者の報告である。
――それから甲賀者は、声をひそめて三成にささやいた。
「……そのとき天忠め、なんと眼をあけてお方さまのうしろ姿を見送っておりましたが、向うさまがふりかえられなかったからよかったようなものの、何たる危ない、たわけたやつかと。――」
しかし、それっきり彼女が、事件について何らかの意見をもらしたというふしはなかった。
が、五日たって、一夜、三成は淀の方に呼ばれたのである。
「治部」
彼女は物思わしげにいった。
「九州の女どもを殺したのは、そなたの手のものじゃな」
やはり来た、と思った。もと秀吉の主家の姫君であった彼女は、ほかの妾《めかけ》に対してはこんな呼び方をした。
しかし三成はあわてなかった。しょせんこのたびの秘事は、このお方だけには打ち明けずばなるまい、いや打ち明けてその共感を求めなければならないというのは、最初からの予定であった。
「それについて、治部、密々におききとり願いたきことがござりまする」
じゅんじゅんとして、彼は物語りはじめた。
実に驚倒すべきその物語を、淀君は眼を見ひらきもせず、けだるげにきいていた。彼女はまだ二十六にしかならない。あのようなことを思い立つほど三成はこの女人に打ち込みながら、この爛熟《らんじゆく》した絶世の美姫は、その靄につつまれたような感じの肉体とともに、その心理状態に於いて、さしもの三成にもよくわからないところがある。よくわからないときがある。
きいているのか、きいていないのか。――そんな風にさえ見えた淀の方は、
「ほ、ほ」
と、途中でふくみ笑いした。
「太閤さまの女狂い、そなたほど気に病むことはないわいの。あれはもうお爺《じい》さまじゃもの」
「――は?」
「萎《な》えてもういうことをきかぬ」
「は?」
狐《きつね》につままれたような顔をした三成に、淀君はひとりごとのようにつぶやいた。
「わたしは、あの女たちの死顔を見た。どうして死んだかはもとより知らなんだ。けれど、どういうきもちで死んだかはようわかった」
彼女は三成をはじめて注視した。燃えあがる黒い炎のような眼に、三成は眩《めくるめ》く思いがした。
「治部、……わたしにもその座頭を呼んでたもらぬかえ?」
三成はぎょっと息をひき、唖然《あぜん》として相手を見ていたが、やがて身ぶるいし、悲鳴のようにさけんだ。
「な、なりませぬ。な、なんたることを――さ、左様なことをいたされては、何もかもが水の泡となるではござりませぬか!」
八
海鳴りの聞える一夜。
石田三成は玄海灘をめぐる一葉の地図を案じていた。朝鮮の呪術師鴻天忠をひそかに送り返す小舟のみちすじを決めるためであった。すると、その地図の上に、かすかな音とともに這いあがって来たものがあった。
それは一匹の蟹であった。甲羅に小さい文字がある。――
「きてたもれ、よど」
三成は絶叫した。
「天忠はおるか、鴻天忠を呼べ」
そして、駈けて来た甲賀者があわてて探しにゆき、さらに驚くべきことを報告した。陣所にいるときはもはや監視していなかったが、鴻天忠は昨夜からいないという。
この蟹は、天忠の文使いだ。しかし、これがとどけて来たのは、たしかに淀の方からのふみ[#「ふみ」に傍点]であった。どうしてかかることがあり得るか。――考えをめぐらすいとまもなく、三成は城に駈けつけて、淀君の寝所に急行した。
「殿下はいまおひきとりなされた。これより軍事について思案する、と仰せられて、勇気りんりんと。――珍しいこともあるもの」
深紅の褥の上に、半裸とも見える姿態を寝そべらせた淀君は笑った。
「珍しいといえば、三成、殿下はお萎えなされなんだぞえ。……」
「…………?」
「心地よう冷とうしてくれたそなたに礼をいう」
「…………?」
「いや、ほんとうはあの高麗の座頭に礼をいうべきであろうが、あの男はもうこの世におらぬゆえ。――」
「えっ」
三成はのけぞった。
「日本の女は、高麗の忍者に勝ったぞや」
淀君はこの世のものならぬ妖艶な笑顔を、隅の紫の房のついた葛籠《つづら》にむけた。
「高麗の座頭はきのうの夜ここへ来た。そして――熱、というなり、落ち入ってしもうた。屍骸はあそこに入れてある。海へなど流してもらおうと、そなたを呼んだのじゃ。治部、たのむぞえ。――」
白い波が氷片とも見える十一月の玄海灘に、座頭あたまの男の屍骸が流れていた。悽惨な波と風の中に、その死顔はしかし恍惚たる笑いを刻んでいた。
文禄二年八月に誕生した秀頼《ひでより》が、その前年、太閤がまだ名護屋の本営にいた十一月ごろに懐胎されたものであることは明白な事実である。
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近衛忍法暦
一
「富田《とみた》君、ぬらりひょん、というものを知ってるかね」
と、近衛文麿《このえふみまろ》がふときいた。
「ぬらりひょん? いえ、存じませんが」
と、富田書記官長はけげんな表情をした。
「そりゃ何です」
「瓢箪《ひようたん》なまずのようにつかまえどころのない化物の名で……僕も調べて見たんだが、宝暦《ほうれき》から天明《てんめい》にかけて鳥山石燕《とりやませきえん》という絵師があった。歌麿《うたまろ》の師匠にあたる人だが、この石燕が妖怪の絵の名人で、絵本百鬼夜行というものを書いた。その中に出て来る化物だ。もっとも、ぬらりひょんという名は、名だけは室町時代以前からあったらしいが。……」
富田書記官長はいよいよふしぎそうな眼で相手をながめた。近衛文麿はまじめな――というより、想念に沈んだ顔で、
「僕の知っているぬらりひょんは、名は同じでも、それとはちょっとニュアンスのちがう化物だが。……」
といって、やっとわれに返ったようだ。富田はくびをかしげた。
「可笑《おか》しな名の化物ですな。しかし、それがどうかしましたか」
「いや」
近衛はくびをふって、きっと前方を見つめた。ニコリともしない、ふだんの能面じみた無表情のままである。
昭和十六年四月二十二日の午後一時過ぎである。二人は、訪欧の旅から帰って来る松岡《まつおか》外相を迎えるために立川《たちかわ》飛行場へ急ぐ車の中であった。むろん、その前後には、大橋《おおはし》外務次官その他の政府関係者、新聞社、それに警視庁などの車がつながっている。
富田書記官長は、この場合に近衛首相がこんな突拍子もないことをふいに口にした心事を疑った。
ことし一月、アメリカに野村《のむら》大使を派遣して以来、報告を受けるたびに一喜一憂、両腕をもみねじるような必死の日米交渉をくりかえし、またべつに元ニューヨーク駐在大蔵省財務官井川忠雄、陸軍省軍事課長|岩畔豪雄《いわくろたけお》大佐を送ってひそかに打診させ、その結果、アメリカ側から「日米了解案」なるものが提示されて来たのは、四日前の十八日のことであった。それによると。――
日本が中国に対して非併合、非賠償、軍撤退、またドイツがアメリカから攻撃されないかぎり日本は参戦しないという条件を認める代り、アメリカも日本に対し、汪《おう》政権と蒋《しよう》政権の合体、満州《まんしゆう》国の承認、金クレジットの提供、及び石油、ゴム、錫《すず》、ニッケルの自由なる入手を認める、という内容のものであった。そして。――
「日米両国代表の会談は、ホノルルに於て、ルーズベルト大統領、近衛首相により開催せらるべし」
ということになっている。
「これは」
と、その報告を受けたとき、近衛首相はさけんだ。
「わが方の目的を九〇パーセントまで達成したと同じことだ!」
対米強硬派の東条《とうじよう》陸相、永野《ながの》軍令部総長らさえ、子供のようなはしゃぎぶりで、即刻「オッケー」の返電を打ってはどうかという提議さえ出たくらいである。
これに対して首相が、
「もう二、三日で松岡外相が帰って来るのだから、その意見を一度聞いてからにしようじゃないか」
といったのは、外相に対する遠慮もさることながら、一同のあまりの手ばなしのよろこびように、一応首相としてブレーキをかけておく義務をおぼえたからだ。自分自身の有頂天を自戒するという意図もあった。――そういう首相の心理は、富田書記官長にも手にとるようにわかった。
「では、全閣僚、外相を出迎えにゆこうか」
という提案に、
「いや、それではあまりに大袈裟《おおげさ》だ。内閣としては書記官長一人でよろしかろう」
と、首相がいったのも同じ心からであろうが、そのくせあとで書記官長を呼んで、
「僕は考えたんだが、とにかく松岡君がああいう性格だからね。外相の留守のあいだにまとまった交渉だから、話の持ち出しようで、おれは知らんと松岡君がへそを曲げないともかぎらない。僕も立川へ出迎えにいって、帰りの車で話してみよう」
と、いったのは、やはり松岡外相に相当に気を使っている証拠であった。
で、この立川への車の中でも、
「スタンドプレイの好きな松岡君がどういう反応を示すかね」
と、まだ気にしながらも、
「まさか、いくら松岡君でもこれほどの国家の大事に自分の感情をさしはさむことはないと思うが」
と、書記官長のみならず自分にもいいきかせるようにうなずき、さらに能面のような冷たい表情の中にも覆い得ない深い感慨を見せて、
「ついに僕も支那事変の責任を果たしたようだね。国民や出征兵士、とくにその父母や妻子の歓喜はどんなものだろうか」
と、つぶやき、さらにホノルルに於けるルーズベルト大統領との会見の日のことまで、ぽつりぽつりと語るのであった。――いずれにしても、ぬらりひょん、などいう妙な言葉が飛び出して来る場合ではない。
「支那事変は、その勃発も拡大も僕の意志に反したことばかりだった」
――ぬらりひょん以後、しばらく黙っていた首相がまたいった。
「拡大は軍部のむちゃくちゃな増上慢によるのはいうまでもないが、その勃発の原因は――それも軍の増上慢のせいにはちがいないが、しかし満州事変などとちがって、軍の計画したことではないらしい。その真因を、やっとこのごろ僕も知ったんだがね」
「蘆溝橋《ろこうきよう》でどっちが先に一発を撃ったかということですか」
「いや、一発はともかく、そのとき演習中の日本軍の兵隊が一人行方不明になったというのが大事のもととなったのだが、あとになってその兵士は脱糞《だつぷん》のため、呼集に間に合わなかったことがわかった。そういう事実を僕も最近やっと知らされたんだ。すなわち過去四年間にわたる大陸の戦役の原因は一塊の糞だったというわけだ」
「へへえ!」
「つまり、ぬらりひょんさ」
近衛文麿はむしろ厳粛な声でいった。
「歴史には実にくだらない原因がぬらりひょんと生まれて来て、何百万かの人間が死ぬという大戦争が起ることがある。そういうことは物語としては知っていたが、僕が首相となってから始まった事変の原因がそうだったとは僕も知らなかった。……だからこそ、こんな泥沼のような戦争はもう切りあげなければいかん」
「…………」
「ただ、これで事変が解決するとして、僕はその先に、もひとつ心配なことがある。これくらいの経験で、いまの増上慢の軍が果たしてこれっきりおとなしくなるかね。それが問題だが。……」
近衛は嘆息した。
「ひょっとすると、陛下をお悩ませしているのは、支那よりもアメリカよりも日本の軍部かも知れん。……」
富田書記官長はわかったようなわからないような顔をした。
首相のいった支那事変の原因――少なくとも一原因――は初耳であったし、またそこから帰納された一つの歴史観も理解できないではなかったが、そのあいだに挟まるぬらりひょんなる妖怪のことはよくわからなかった。
しかし近衛文麿は、二、三ヵ月前、ふと近衛家の蔵の中から探し出して来た「ぬらりひょん坊覚書」という古い書き物のことをひょいと思い出して口走ったのである。
あまりに荒唐無稽な内容なので、さすがにこの場合、そのまま書記官長にしゃべる気もしなかったが、書いた人は実在していた人物である。天正《てんしよう》年間|太政《だいじよう》大臣の職にあった近衛|前久《さきひさ》というれっきとした彼の先祖の一人である。
車の行列は流れるように立川に近づいていた。
二
――天正十三年夏、前《さきの》関白太政大臣近衛前久は懊悩していた。その七月、羽柴秀吉が関白になって以来のことだ。
もっともそれ以前から、彼はこの新しい大権力者に心おだやかではなかった。それが彼が例の本能寺の変の際、二条《にじよう》城にたてこもる織田信忠軍に対し、明智勢がその隣りにあった近衛家の屋根から攻撃したという、こちらとしてはどうしようもないいいがかりをつけられて、強引に秀吉に関白をやめさせられたからだ。
――あの猿面が!
五摂家以外、関白の職についた者のあるのは空前のことだ。しかも、せめて源氏の氏《うじ》でもあればまだしも、その素姓もわからぬ成り上り者だ。
それがどういう口実で関白になろうとしたかというと、その母が曾て持萩《もちはぎ》中納言なる架空の公卿《くげ》に仕え、ふとした機会に当時の後奈良《ごなら》天皇に近づきたてまつったその夜、夢に幾千万かの御祓箱《おはらいばこ》が伊勢《いせ》から天上へ飛び上るのを見て懐胎したのがこの秀吉だ、という抱腹すべき作り話を持ち出し、さてそこで――何とこの自分近衛前久の養子ということにしてたまわるまいか、と申し込んで来たのだ。
兵権を以て威圧する、というより、その人をくった図々しさには抵抗できないぶきみさがあった。で、秀吉はとくとくとして関白になったけれど。――
さて、近衛前久をそれ以来懊悩させはじめたのは、
「かくて人臣の位を極めた秀吉が、この次には何を望むか?」
ということであった。
――天皇位。
突然そのことに思いあたって以来、前久は夢魔のごとき恐怖にとらえられたのだ。
氏素姓もないやつが、まさか? と思いたいけれど、秀吉の行状を見ていると一笑に付せないものがあるのだ。げんに関白になったのが前代未聞で、そのやりくちが非常識だ。
それにまた、あれが作りつつある大坂の城を見るがいい。一つだけでも数千人の人足を要するほどの大石を以て石垣を作り、天守閣の甍は黄金で覆い、内部には、柱、壁、天井、障子から諸道具に至るまで、これまた黄金製の部屋を作ったという。――まさに天を怖れぬ破天荒の覇王《はおう》ぶりである。
――あの男が次に望むのは皇位だ!
考えれば考えるほど、その結論は動かないものになった。そして近衛前久は、秀吉のこの野望を未然に防ぐことこそ近衛の血を享《う》けたものの最大の義務だと覚悟をかためた。
しかし、例の関白の件に於けると同様、突如としてむちゃくちゃな大望を露《あらわ》にして来る秀吉に、無力ないまの自分に何の打つ手もないようであった。
苦悶のはてに彼はふと天文博士|安倍晴親《あべのはるちか》のことを思い浮かべた。平安朝華やかなりしころ陰陽道《おんようどう》を以て聞えた安倍|晴明《せいめい》の裔《すえ》である。
実は安倍晴親なる人物も、なんどか御所で見たことはあるが、ずいぶん以前のことで、彼がどれほど先祖の法を伝えているかは知らない。朝廷の儀式行事などろくにやれない時代が長すぎたのだ。しかしこのとき前久は、晴明が天文を見て花山《かざん》天皇の死の近きを知ったとか、その五代の孫の安倍|泰親《やすちか》が鳥羽《とば》天皇を悩ます金毛九尾の狐を退治したとかいう話を、溺れる者が藁《わら》をつかむように思い出したのであった。
――あの家に伝えられている方術を以てすれば、秀吉の逆心を探り、かつ防ぐことが出来るかも知れぬ。
前久は安倍晴親を呼びにゆかせた。すると、驚いたことにその天文博士はもう十何年も前に甲賀の某所に隠栖《いんせい》しているという。
それで甲賀まで使いをやった。
安倍晴親はやって来た。前久の知っているころから老人であったが、十余年ぶりに見ると、まるで人間の皮で作った巾着《きんちやく》みたいである。それでも、ぼろぼろの葛巾《かつきん》、道服をつけ、一人の従者をつれていた。のっぺりと馬みたいに長い顔をした若者であった。
「晴親、陰陽道を知っておるか?」
と、きいても、
「へ?」
キョトンとしているのを見て前久は心ぼそくなったが、せっかく甲賀から呼んだのだからと思い直し、
「皇位にかかわる大事じゃ。是非そなたの力を借りたいことがあるが、引き受けてくれるであろう喃《のう》」
ささやくと晴親は、くぼんだ眼窩《がんか》の奥から眼を蛍みたいにぴかりとひからせた。
「皇位にかかわる大事? とは?」
「――いや、これはわしの疑心暗鬼かも知れぬが」
前久はやや言葉をつつしんだ。
「わしの疑心暗鬼によれば、このごろ天日に妖雲がかかっておるような気がしてならんのじゃ。そなたに占ってもらいたいのは、それがまことであるか。まことであるとすれば、それは何者かということなのじゃ」
「そ、それはまこと天下の一大事、いったい、何者が、左様な。――」
「それをそなたに占ってくれと申しておるではないか」
前久はこの老陰陽師を呼んだことを悔いたが、しかし安倍晴親は残り少ない歯をカチカチ鳴らして昂奮《こうふん》していた。
「よろし、いかにも占って進ぜよう。安倍家のこの世にあるはまさにかかる日のため。――百助《ひやくすけ》、支度せい!」
その夜、近衛前久は安倍晴親の占法を見た。――
月も星も風もないむし暑い深夜であった。近衛家の奥庭の一角で安倍晴親は、乾《いぬい》と巽《たつみ》の方角に楓《かえで》の枝を刺し、 坤《ひつじさる》 と艮《うしとら》の方角に棗《なつめ》の木の枝を刺し、そのあいだを注連縄《しめなわ》でつらね、自分はまんなかに新しい莚《むしろ》を敷かせて坐った。そして、筮竹《ぜいちく》をおしもみながら、何やら怪声を発した。そのたびに例の従者が土器《かわらけ》にのせた蝋燭《ろうそく》を彼のまわりに立てつらねてゆく。これが、ふしぎなことに血のように赤いのだ。
「十二辰仙|正対《しようたい》、化霊天真坤元尊神!」
晴親は天を仰いで祈る。
「秘授伝来霊符列仙真人守護諸神!」
地に伏して祈る。
怪声のあいだに、歯をカチカチと鳴らしている。彼はこれで「式神《しきがみ》」を呼ぶのだといった。式神とは陰陽師の命令で変幻自在、ふしぎなわざをなすという神だ。――彼はこの祈りを二時間も三時間もつづけた。
はじめこの老陰陽師を呼んだときは少し頼りないように思っていた前久も、この祈りの一心不乱ぶりにはしだいに引き込まれ、陰陽道というものはまことに力あるものではないか、と再認識した。
が、それにしてもやや前久もうんざりして来たとき――燃えしきっていた蝋燭の赤い炎が、風もないのにいっせいにビラビラとそよぎはじめ、その色が暗赤色に変った。――どす黒い煙をあげ出したのだ。
「式神降臨! 式神降臨!」
晴親はさけんだ。そして。――
「われなんじに告げん。……」
前久はぎょっとした。声はたしかに安倍晴親のものなのに、それが空から聞えて来たような気がしたからだ。
「皇位をうかがう者は、関白秀吉。――」
陰陽師はばったり前に倒れ伏した。まるで気を失ったようだ。――従者が、べつにあわてた風もなく、桶から水を汲《く》んだ柄杓《ひしやく》を持って近づいた。
するとこのとき、安倍晴親は、見えない糸にでもひかれるように、すうとふたたび身を起した。同時に、暗赤色の蝋燭の炎がいっせいに消えて、あたりは黒闇々《こくあんあん》と変った。
「近衛さん、近衛さん」
声が変った。闇の中ではあったが、たしかにまた空から。
「式神に代り、御盾《みたて》ぬらりひょん降臨」
先刻までとちがう、へんにへらへらした声であった。
「おれのことを知ってるかね?」
「…………」
「御先祖からきいたことはねえかね?」
「…………」
「御盾ぬらりひょん坊の名を」
「みたて……ぬらり……何でござると?」
やっと近衛前久は声を出した。自分に対してこんな口をきくやつが出現したのははじめてだが、しかしこれは魔天からの声らしい。しかもどうやら、陰陽師安倍晴親の呼んだ神ではないようだ。
「知らざあいって聞かせやしょう。天皇の御盾ぬらりひょん。皇位に暗雲かかるとき、必ず現われてその御盾となる。ただし、天皇の御位を狙うほどのやつだ。ひとすじ縄ではゆかない。そこでおれが知恵をかしてやるのさ、立場上、近衛家の大将などに教えてやることがいちばん多かったんだがなあ。きいたことがないかえ? こんどは、おまえさん、ちょっと書き残しておくがいい」
「…………」
「その昔、道鏡《どうきよう》が出たとき和気清麻呂《わけのきよまろ》が防いだってことになってるが、清麻呂のうしろ盾となったのは藤原百川《ふじわらのももかわ》、すなわちおまえさんの御先祖さ。また足利義満《あしかがよしみつ》が上皇になろうとしたときこれを止めたのは管領|斯波義持《しばよしもち》だが、斯波にそうさせたのもそのころのおまえさんの御先祖さ。日本国はじまってから千五、六百年、そのあいだ天皇になりたがった連中が、たったこの二人だけなんてことはねえ。ほかにもチョイチョイあったことは、常識で考えたってわかる。しかも、それくらいの望みを起すやつらだ。人間もただものじゃあなく、その時の勢いはあたるべからざるものがある。それを防ぐのはなみたいていの力じゃ追っつかねえ。まともにぶつかっちゃ歯が立たねえ。それをうまく消しちまったのは、つまりヒョイとした知恵だがね。そんな知恵が、おまえさんの御先祖に浮かぶわけはねえから、みんなおれが貸してやったのさ」
「…………」
「さて、こんどの秀吉だ。いま式神がいったように、秀吉はたしかに天皇になりたがってるよ。まだ東に北条、北に伊達《だて》なんぞが残ってるし、それに一応は抑えたものの徳川家康ってのが、何とも剣呑《けんのん》だ。だから、まだはっきりしてるわけじゃあねえが、秀吉の心中には、ちらっちらっと、天皇位に対してたしかに色気があるな。しかも、こいつが道鏡や義満などより倍も三倍も非常識なやつさ。欲しくなると、何やり出すかわからねえ。いままで野心を起したやつのうちで、いちばん大がかりな厄介な男だな」
「…………」
「せっかくのお前さんのお祈りだ。しかも事が事だ。乃公《だいこう》起たずんばあるべからず、と式神をおしのけて出て来たが、正直なところ、あの秀吉にゃこのぬらりひょん坊も、どう手を打っていいか、思案投首というところさ」
へらへらした声だが、たしかにふうと嘆息した。
「教養も信心もないやつだから、理屈で諫言《かんげん》したって、神話なんぞでおどしたって効目《ききめ》はねえ。とにかく、ヒョイとした知恵の方が効くんだが、さしあたってその知恵がいまのおれに出ねえ。おれも困るんだが、しかしまあ、ここ二、三年まだどうということはねえと思う。それまでおれもとっくり考えてやるが、心配でいても立ってもいられねえなら、おまえさんの方で手を打ってみな。案外それで収まるかも知れねえよ」
「どう……手を打つのでござる?」
かすれた声で、近衛前久はいった。
「そこの安倍晴親の弟子にききな」
「えっ」
「牛《うし》ノ目《め》百助という男だがね。甲賀者だ。つまり、忍びの術を心得ておる。師匠の晴親の方はまだその値打ちを知らんが、そいつに相談してみな。いまおれの貸してやれる知恵はそれだけだ」
「牛ノ目百助。――」
「では、きょうのところは、これでおさらば」
声が夜空に遠ざかっていった。同時に、消えていた蝋燭にいっせいに火がついて、それがめらめらとどす黒い煙をあげはじめた。
近衛前久は散大した眼で、柄杓を持って安倍晴親に近づいてゆく例の従者の姿を見た。――何のこともないかのような動作で、師匠の顔に水をかけようとする。
「あ、待て。――」
と、前久は呼んだ。
「これ、なんじはいま闇となったことを奇怪に思わなんだか? 闇の中で、おまえは何をしておったのじゃ?」
「闇?」
甲賀の若者は馬みたいに長い顔をキョトンとふりむけた。
「何のことでごぜえます? おれは水を運んでるだけでごぜえますが」
この刹那に近衛前久は、いまの闇天からの声という怪事が、空間的にも時間的にも、その従者にとってまったく存在しなかったことを知ったのだ。
「牛ノ目百助と申すか」
ややあって、動悸《どうき》のしずまるのを待ち、しかし押し殺されたような声で前久はいった。
「晴親のことはまずよい。……ここへ来て、わしの話をきいてくれい」
百助はけげんな表情で近づいて来た。
なおしばし苦しげな思案ののち、前久は――おずおずと、遠まわしに関白秀吉の朝廷に対する危険性から話を持ち出した。みなまできかず、この馬面の若者はぼそりといった。
「秀吉さまをやっつけてえなら、徳川さまとかみ合わせるにかぎります」
前久が黙りこんでしげしげと相手を見まもったのは、この愚鈍にさえ見える甲賀の若者が、こちらの暗示に打てばひびくような――まるで、その問題については以前から研究ずみだといわんばかりの答えを返したからであったが、牛ノ目百助はさらに低い声でいう。
去年|小牧長久手《こまきながくて》の戦いで、家康は秀吉に苦杯を喫せしめた。その後秀吉は政治的に家康を押えこみ、家康もわざと押えこまれたかに見えるが、ともかくも秀吉を牽制する力量のあるもの、家康をおいてほかにない。もしかりに両者のあいだにふたたび破綻《はたん》を来してみよ、こんどは家康は背後の北条とも同盟して東軍を作り、秀吉の西軍に対して果てしなき泥沼戦争に持ち込むであろう。この竜虎《りゆうこ》を相搏《あいう》たせることこそ、秀吉の大野心を消磨させる唯一の法である。――
「――しかし、いったん収まっておる両人に、どうしてふたたび火をつける?」
この驚くべき大戦略を、ぼそぼそと述べた馬面の忍者は、ちらっとまだ失神している師匠の方に眼をやって、
「それはこのおれにおまかせを。――とにかくお師匠さまを正気に戻らせんでは」
と、歩き出した。
三
翌天正十四年四月、家康は秀吉の妹|旭姫《あさひひめ》を妻に迎えた。
旭姫という名だけはすばらしいが――何しろ秀吉の妹である。兄の猿面を膨脹させたような異相で、年は四十四歳である。しかも、これはもう秀吉の家来の佐治《さじ》日向守の妻であったものを、わざと離縁させて家康におしつけたのだ。
家康をしっかと取り込めたいという秀吉の苦肉の策だが、これを家康は従容として受けた。
――もしやしたら? と、ひそかに期待していた近衛前久は失望した。一方で秀吉は、大坂城がまだ完全には出来上らないというのに、京にも十万坪にわたる聚楽第《じゆらくだい》という大宮殿の建築にとりかかっている。いよいよ以て、この男は常人ではない。前久は不安にたえず、また牛ノ目百助を呼ぼうとしたが、彼は京からも甲賀からも姿を消していた。
さて、家康は浜松に異相の老花嫁を迎え、円満な笑顔で婚儀をあげたが――それっきりである。閨をともにするなどいうことは、いかな彼でも、義理にも我慢にも出来なかったと見える。
そして旭姫の方でも、そんなことはあきらめているようであった。こういう身分になってもまだ農婦の匂いがとれず、しかも前夫に対してはその無教養と粗野ぶりで君臨していた彼女も、こんどばかりはこの「政略結婚」の意味を心魂に徹して思い知ったらしく、名だけの妻の境遇に忍従し切っているようであった。
ところで家康は、このころ六人の妾を持っていた。小督《こごう》の局《つぼね》、西郷《さいごう》の局、阿茶《あちや》の局、下山《しもやま》の局、お竹《たけ》の方《かた》、お牟須《むす》の方で、このうち三人は後家である。だいたいこの世で処女が尊重される風習は男性の自信欠如から胚胎《はいたい》していると見られるふしがあるが、処女を手に入れることなど、自由であるはずの家康が妾の半ばを後家を以てしたとは、いかに彼がその道に於て自信家であったかを思わせる。
その閨房《けいぼう》は、精力絶倫というより執拗《しつよう》で、執拗というより恥知らずでさえあった。いちどに二人、ときには三人の妾を同衾《どうきん》させることさえある。そういうことを知っているのは当の妾たちだけで、表へ出れば何くわぬ顔をした重厚篤実の大人家康であった。
旭姫に対するのもこの態度である。たとえ旭姫が心中に不満を抱いたとしても、それをぶつけようもない悠揚たる夫だ。表面的には波風もたたぬ浜松城であった。
――が、三、四ヵ月たって旭姫は怪異を経験した。
ひとり寝の朝が来る。眼をあける。それでも彼女は夢みている。夢を見ているとしか思えない。――
見えるのは天井や壁や屏風ではなく、家康と愛妾――ときには複数の女体との凄じいまでの痴態図であった。それが夢とひとしく、声もなく動いているのだ。のけぞった女の股《また》ぐらのあいだから首をつき出し、舌なめずりしたりニタリと笑ったりする家康の顔は、当の女も知らないぶきみ千万なものであった。
それが夢ではないことは、最初の日からわかった。
数分にして眼がはげしく痛み出し、やがて旭姫の眼からぽろりと落ちたものがある。彎曲《わんきよく》したギヤマンの一片のようなものであった。同時に彼女の眼はふだんの自分の寝室を映し出した。
「これは何じゃ?」
ひろいあげて見たが、透明な薄いギヤマンの断片ようの物質としかいいようがない。
この怪事と、それによって見せられた内容の妖艶さ、或いは醜悪美に、さしもの粗野な旭姫も口外することをはばかった。
そして、怪異はつづいた。
何者かが、夜中にこのギヤマンを自分の眼に嵌《は》めるらしい、とやがて彼女は気がついた。恐ろしさに眠れない。すると、さすがにその朝は何の異変もない。しかし、三夜四夜と眠らずにいることは出来ない。そこで眠ると、待っていたようにこの怪異が起る。
調べてみると、その幻影の実体は同夜同刻のものでなく、前夜に行われたことらしい。たとえば家康が阿茶の局を侍らせると、その翌夜にそれがまざまざと旭姫に見えるのだ。どうやら前夜に「撮影」したものを、次の夜彼女の観覧に供するらしい。
この悪戯《いたずら》をする者は何者か。悪戯というにはあまりにも恐ろしいことではないか。その恐ろしい悪戯を、何者が、何のためにするのか。
そんなことに考えをめぐらすより前に、旭姫はのたうち回った。前夫との間にも曾て知らないこの夜な夜なの濃厚な秘戯図に、四十四歳のこの老花嫁は震撼した。いまだいちども関係を結んだことのない「夫」に対してたえがたい嫉妬をおぼえた彼女の心理こそふしぎというべきか、当然というべきか。
旭姫の家康を見る眼は次第に険悪になり、はては狂的なものになった。
「佐渡よ、こまった雲ゆきになったぞ」
家康も気がついて、謀臣の本多佐渡守にいった。
「牝猿《めすざる》のきげんが悪い。秋にはわしは上洛して秀吉に会わねばならぬというに、ここであの女を怒らせては」
「奥方がお怒りなさるのも、或いは当然でござりましょうが」
「それはわかっておるが、いかなわしでもあの青んぶくれの牝猿は喃《のう》」
夏の終り、とうとう旭姫は、青んぶくれと評されたのが別人のようにやつれはてて、猿の骨格に皮を張ったような顔をひきつらせ、ぶきみなニタニタ笑いを浮かべて家康にいった。
「昨晩は小督とお愉しみなされて……お味はどうでござりましたえ?」
「味?」
それから旭姫がしゃべり出したことは家康を仰天させた。前夜小督の局を寵愛したことをかくすつもりはないが、その寵愛ぶりについての旭姫の描写が微に入り細をうがって、しかも事実そのままであったからだ。
さすがの家康もほうほうのていで退却して、首をすくめてまた佐渡に相談した。
「佐渡よ、牝猿めは、夜、わしの閨をのぞきに来ておるのではないか。……そんなはずはないが。……」
「殿、奥方さまには、たしかに妖しの者がとり憑いておりまする」
「何と申す」
「先般来より、服部半蔵《はつとりはんぞう》に見張らせておりまするが。……いつぞや仰せられたごとく、ただいまのところは殿と奥方さまのお仲に風雲ただならぬはまさに徳川破滅のもと。このたびのこと、何とぞしてつつがなく凌《しの》がねば相成りませぬぞ」
家康が上洛の途につく十日前、家康ははじめて旭姫を抱いた。彼から申し出たのである。これは彼にとって小牧長久手以上、決死の行為であった。
その夜、その寝室の屋根で、闇の中でふしぎな決闘が行われた。下の家康夫妻の耳にも入らなかったほどの音なしの決闘であったが、徳川の忍者服部半蔵はたしかに曲者を斬ったが、とり逃がした。あとには曲者の左腕だけが残った。握りしめたそのこぶしをひらかせると、中からギヤマンの剥片《はくへん》が現われた。
秋、家康は上洛し、秀吉に改めて臣礼をとった。これによって秀吉は完全に家康を薬籠《やくろう》中のものにしたことを確認したし、同時に徳川家の安泰も保証されたのである。
同じ夜、同じ京の近衛家で、
「……ききしにまさる大狸」
前久の前にうなだれて坐った牛ノ目百助がいった。
「竜虎をかみ合わせるという狙いはみごとはずれ申した。それにしても、家康、あの旭姫をいちどなりとも抱こうとは。……」
彼の左腕は肩のつけねからなかった。
四
天正十八年三月初め。
落城ちかい小田原《おだわら》を攻囲している箱根《はこね》の秀吉のもとへ奥州《おうしゆう》からやって来た伊達|政宗《まさむね》が降伏の意を表した夜。
「佐渡、これで伊達、やがて北条の始末もつく」
同じ箱根の陣営の幕屋《ばくや》の中で、家康がいった。
「日本はすべてこれで片づいた。次に来るのは何かということじゃ」
「それでござる」
本多佐渡守は沈痛な顔をかたむけた。
「荒ごなしにしたあとの地固めよりほかはござらぬが。……」
未来を洞察すること常人を超えたこの君臣は、懊悩の顔色をじっと見交して、しばし沈黙した。
秀吉が日本の地固めをする。すでにおのれの食膳にある諸大名のうち、のどにつかえそうなおそれのあるものを、順次、かみくだいてゆく。――それしか考えられなかった。
そして秀吉にとっていちばん歯ごたえのありそうなのは、依然としてこの徳川家であることはどうしようもない事実であった。げんにこの小田原陣の最中にも、徳川どの御謀叛――家康が北条と相呼応して秀吉の背後から兵をあげるのではないか――という流言が執拗にながれているほどなのだ。
「危ないな」
と、家康はつぶやく。徳川家のことだ。
「わしは、しょせんはかかる運命になりはせぬかと案じていたのじゃが」
先年家康が秀吉に妹をおしつけられて、なお半年以上も東海の虎のごとくうずくまって上洛しようともしなかったのは、その警戒のためであったのだ。旭姫を受け入れることも、上洛することも、徳川家のためだとあえてすすめたのは本多佐渡であったが、しかし家康としては、それによってあがなえる安泰はいっときのものではないか、という疑惑を払拭《ふつしよく》し得なかったのだ。そしていま、改めて近い未来を凝視すると、その見込みは的中しているようであった。
「北条が片づいたとして、あとじっとしておる御仁《ごじん》ではない」
「されば。――」
と、いったきり、佐渡守は深沈と思案にふけっている。たやすく家来を責める家康ではないが、右のいきさつもあり、少なからずいら立った。
「徳川と豊臣をかみ合わせようと、しつこく狙っておるやつがおるぞ。……佐渡、いつぞやの片腕残して逃げた浜松の曲者の正体、ついにわからなんだのか」
外の闇に立って、幕屋に忍び寄っていた影が、このときはっと身を伏せた。
が、さしもの家康と佐渡も、憂いが深刻すぎてその気配も感づかなかった。そもそも、その周囲に眼をひからせていたはずの哨兵たちも、まったく気づかなかったくらいだからむりもない。
「いえ」
と、佐渡守はいった。
「徳川と豊臣をともぐいさせようとする筋は一つや二つではござらねば、あの曲者の正体を探ったとて、べつにこちらが助かるというわけにも参りますまい。……それよりも、殿」
「何だ」
「ここ数年、ひそかに石川伯耆《いしかわほうき》に伝えてあることでござるが」
石川伯耆守|数正《かずまさ》、それはもと本多佐渡守とならぶ徳川家の重臣だが、秀吉の大禄《たいろく》の好餌《こうじ》に釣られて豊臣家に走り、いまは秀吉の側近になっている人物だ。
「関白さまの御精力を徳川家からそらす唯一の法は――兵を外へむけること」
「外へ?」
「海外へ」
「なに?」
「もともと関白さまは、日本の秀吉の名を東西古今に残さんという御野心がござる。まだそれは火だねでござるが、それを煽《あお》り、ほんものの大火事を起すよう――伯耆にいいふくめてござるが、さてその件その後、いかが相成っておるや、いそぎ伯耆に問い合わせましょうず」
さすがは稀代《きたい》の大策士本多正信だ。やはり手を打っていたのだ。――それにしても、徳川家を裏切って豊臣家のふところへ飛び込んだと見られている石川数正の行動は、どうやらこの両人の或る承認のもとに行われたらしい。――
ぶるっと、幕屋の外の影が身ぶるいしたのは、箱根の夜風のせいではないようだ。身ぶるいすると、彼は音もなく闇の中へ駆け去った。
その年の秋。
京の聚楽第に凱旋して間もない秀吉のもとへ、一枚の大地図を持って石川伯耆守がまかり出た。それは朝鮮の精細な地図で、彼は対馬の某士を介して入手したものだといった。
「殿下、おやりなされ」
と、彼はいった。
いうまでもない、大陸遠征のことだ。どこまで本心か、それまでときどき、夜話にその虹《にじ》のような夢を秀吉はいくどか語ったことがあるのだ。
「拙者の見込みでは、二十日ないし三十日で朝鮮の都は乗っ取れ申そう。小田原攻めより軽うござる」
「…………」
「釜山より、この三道より相並んで進撃すれば。――」
「…………」
――ちと時が悪かったか、と数正は悔いた。しかし、会うというからいまこの座へ出て来たのだ。
秀吉は聚楽第にまで呼んであった愛妾淀の方をひきつけ、その耳に何やらささやいたり、鼻をつまんでみたりしては、傍若無人のいちゃつきぶりを見せているのだ。うしろに坐っている乳母は、去年生れたばかりの一子お棄《すて》を抱いている。
数正はしかし気をとり直し、声を張った。――いや、張ろうとする声を沈めて、いまなお戦国の猛気を残す百万の将兵を大陸へむけること、また大明《たいみん》征服のあかつきは天皇を北京《ペキン》に移すことは、いずれの意味に於ても豊臣家のためであるという論策をじゅんじゅんと説いた。
秀吉は聞いているのか、聞いていないのかわからない。――そのうちむずかり出した棄君を自分の腕に抱きとって、いないいないばあをやったり、接吻《せつぷん》したりしている。
「伯耆よ」
しかし、やっとふりむいていった。
「そらしたいのはこの秀吉の猛気か。その手はくわぬ――と徳川どのに言え」
数正は頭から水をかぶった思いがした。自分がなお家康とつながっているなどいうことを知っている者は、八幡、二人と本多以外には存在しないはずだからだ。
「秀吉ももはや五十四、しかもこれまでまったく戦塵《せんじん》を浴びて明け暮れた。ここにおる淀の者はまだ二十四、たった一人の子は二つ。……ここらで秀吉も愉しみたいわい。まだまだ子を作りたいわい」
久しぶりにその淀君や愛児に逢ったせいか、秀吉はこの世の何もかもが愉しくてたまらないような上機嫌であった。笑いながら彼は、しかし数正にとって――すなわち徳川家にとって恐るべきことをいった。
「大明征伐はともかくもな。その前にわしはまだ、この日本でやらねばならぬことがある。……」
五
「――なに、関白が笑って、まだ日本でやらねばならぬことがあると申したと?」
報告をきいて、近衛前久は、これまた水を浴びたような顔色になった。
「徳川退治でござりましょう」
と、片腕の甲賀者牛ノ目百助はいった。
「左様にしむけるべく、拙者、家康と伯耆との関係を聚楽第に投げ文いたしたのでござりまするが」
「ならば関白が笑っていうわけはないではないか」
前久ははげしく首をふった。
「秀吉はもはや徳川など問題にしておらぬ。……それは、天皇になることじゃ!」
「えっ?」
「やはり、その日が来た。――去年、聚楽第で秀吉が天を怖れぬ金配りをやった際、諸大名とともにわれら公卿はおろか、皇弟六の宮さままで呼び出して、手ずから金銀を渡し、一同に礼拝させたあの行状。――いまや秀吉が膝下《しつか》にひれ伏させんとしておる者は、天皇を除いてだれがある?」
近衛前久は両腕を縄のごとくねじり合わせ、天井をふり仰いでさけんだ。
「御盾ぬらりひょん坊、これをどうするぞ?」
明確に意識して叫んだのではなかった。それは悶えのあまりの囈言《うわごと》であった。
しかるに――それと同時に燭台の火がすうと血色に変り、みるみるどす黒い煙をあげはじめ、そして四界は闇黒になった。
久しぶりに、例のへらへらした声が聞えた。
「いかにも甲賀者苦心の策、また家康苦心の策、いずれもしくじったらしいなあ。……しかし、やってみたことはむだじゃあなかったよ。豊臣徳川をともぐいさせるために、家康の色道を以てするという思いつき、秀吉の猛気をそらすために兵を外にむけるという思いつき、どっちも参考になったわえ」
「…………」
「すなわち両者の知恵を合体し、秀吉が天皇になるのを防ぐ法は、海の外でいくさを起させるよりほかはねえ。そしていまやらくちんをきめこみかけている秀吉をその気にならせるのは色道のほかはねえ、と思う。――」
「海外出兵と色道――それがどうして結びつく?」
「ぬらりひょん、と出て来た知恵さ」
闇の中で、声が笑った。
「百助」
「へえっ?」
こんどは牛ノ目百助にも聞えたらしい。
「おまえの忍法、例の録眼《ろくがん》を使いな。録眼するのは、秀吉の甥《おい》の秀次《ひでつぐ》だ」
「そ、それを。――」
「いや、こんどは相手が秀吉だ、録眼したものを、そうさな、この近衛家の大屋根の巽の鬼瓦《おにがわら》のところへでも置いておけ。あとはおれがやるからよ」
声が笑いながら天井より遠い天空へ遠ざかっていった。
「近衛さん、こんどはうまくゆきますぜ。大船に乗った気で、これから先のことをよっく見ていておくんなさいよ。――」
数日後の聚楽第の朝、まだ夜は白まず。――
関白秀吉は、朦朧たる重い眼をひらいた。下半身を這うものの感覚に目ざめたのである。それがだれのしわざか、いうまでもない、淀君だ。
――ここらで、秀吉も愉しみたいわい。
と彼は人にもいい、また真実自分でもそう思っているのだが、ほんとうは愉しむことの出来ない秀吉であった。十七歳のとき手籠《てごめ》同様に妾にした茶々は、いまや豊艶きわまる妖花のごとき女性に変形している。そして彼女はまだ二十四歳なのであった。
百万の兵をも一鞭で動かす彼も、夜の淀君の前では、気息|奄々《えんえん》たる老人に過ぎなかった。若い、かぐわしい精気にみちた女体は、満たされぬ悶えにのたうち、そして稀《まれ》に弱々しい愛撫《あいぶ》を受け、たいていはあきらめて眠りに入るが、夜明け方、いつもふたたびからまりついて、秀吉に挑むのだ。――彼にとっては、苦しいような、苦しくないような、うめき声をたてずにはいられない時刻であった。下半身を這うものが、濡れた軟体動物のような感覚に変った。
「……む、む、む」
秀吉はうめいた。しかし、いつもの悲しげなうめき声とはちがった。
ふだんの朝と異なり、彼は異様なものを見たのだ。――それはもつれ合った無数の白い蛇であった。
無数の白い蛇と見えて、その実それが三人の女の裸形《らぎよう》だということはすぐにわかったが、そのくねる四肢、痙攣《けいれん》する胴、波打つ腰から顔に眼を移して――いや、天然自然と、赤い唇をひらいてあえぐ三つの顔が回って来て、秀吉はあっとさけんだ。その中に、彼がいちど所望してことわられた菊亭晴季《きくていはるすえ》卿の息女の顔が見えたからである。
たちまち彼女たちをあやなしている人間の正体がわかった。それはこの聚楽第をめぐる大名屋敷の一つに住まわせてある彼の甥の秀次であった。
もとより現実のものを見ているとは思わない。しかし、そのなまなましい迫真力は、決して夢ではないと思わせるものがあった。
ああ、二十三歳の若さの何というすばらしさ。伯父とちがって颯爽《さつそう》たる美青年たる秀次は、三人の女を腰で打撃し、手でひきずりまわし、足で蹂躙《じゆうりん》した。見るがいい、菊亭晴季の姫君、年からいえば彼女は秀次より年長のはずなのに、かつて秀吉を拒否し、秀吉もどうすることも出来なかったあの深窓の窈窕《ようちよう》さはどこへやら、声は聞えないが、まるで獣のように恥知らずに、しかも恍惚としてのたうちまわっている。
「ああ、どうしてもだめ!」
怒りにみちた淀君の声とともに、秀吉はがばと起きなおった。
その両眼から、ぽろりとギヤマンのようなかけらが落ちた奇怪さもさることながら、そのままじいっと眼を宙にすえてしまった秀吉の形相の悽惨さに淀君は息をのんだ。
秀吉もまた、いまの幻覚の怪事よりも、嵐のような想念につつまれていたのだ。
――人は自分を見て栄光の一代という。しかしふりかえるに血風惨雨、なんたる無惨の半生であったか。いや、半生どころか、自分が女色の愉しみにありつけたのは、五十になんなんとする年ごろからではなかったか。
そうして自分は、いまの一見の栄華の城を築きあげた。が、真にそれのおかげで愉しんでいるやつらは何者か。ろくに戦塵の苦を味わわぬ秀次らのやつばらではないか。秀次にかぎらず、諸大名の伜ども、まだ家をつぐかつがないかに、はやくもどこの公卿の姫君を妻にしたとか、どこの豪商の娘を妾にしたとか騒ぎたてておる。――
そもそも、ほかに何の能もなく、何の苦労の経験もないやつらが、女という世にまたとない快楽の泉だけは一人前に飲むことが出来るというのが、あるべからざる不当である。いったいわしの超人的能力、悲絶壮絶の労苦は何のためであったか。――
「追い出してくれるぞ」
肩で息をして、秀吉はうめいた。歯ぎしりをまじえた恐ろしい声であった。
「唐天竺《からてんじく》の果てまでも。――きゃつら百万の血を流そうと!」
六
――午後二時過ぎ、立川飛行場に着陸した陸軍大臣専用機から松岡外相は降り立った。タラップを下りるときから、外相はどこか酔っぱらっているような足どりであった。
近衛首相は近づいて、まず握手した。短い挨拶ののち、
「松岡君、日米了解案のことについては知っているね?」
と、ささやいた。知っているどころではない。外相がソ連から大連《だいれん》についたとき、首相はわざわざ電話をかけてざっと話をしたのだ。
「さあ、知りませんな」
松岡外相は急にかたい表情になって横をむいた。
ああ、やっぱりこの男は、外相たる自分とは無関係にそんな交渉が成立しかかっているのにつむじをまげているのだ、と首相は舌打ちしたいような気持で、しかしこの外相の態度から、自分がきょうここへ迎えに来たことはつくづくとよかったと考えた。
しかしそのとき、まわりからわっと新聞記者やカメラマンが集まって来たので、それ以上の話は出来ず、首相はしばらく身を離した。
記者団に囲まれて、外相はもちまえの大袈裟なゼスチュアで何やらさけんでいた。「ヒトラーさん」とか「スターリンさん」という声が何度も聞えた。ヒトラーさんやスターリンさんと乾杯した酔いがまだ残っているなと近衛は考えた。
放送局のマイクに外相が早速の長広舌をふるいはじめるのを、首相はぽつねんと離れてよそごとのように冷たい顔できいていた。
そこへ富田書記官長がやって来た。
「総理、外相はこれからまず二重《にじゆう》橋へいって、宮城を拝みたいとおっしゃっておられますが」
「え?」
近衛文麿は思わずさけび、それからみるみる苦い顔をした。
自分が外相と同乗して二重橋へいけば、外相の拝むのを自分は傍観しているわけにはゆかない。やむなく自分もばかげた演技のおつき合いをしなければならない。それをニュース映画のカメラマンが延々と撮影する。――
そんなお芝居は、近衛は生理的に世の中でいちばん嫌悪するものであった。
「僕はいやだね」
と、彼はいった。いったあとで、しまった、という声が耳の奥で聞えた。そんな好ききらいをいっている場合ではないではないか――と思いつつも、彼の口からはその意志に反する言葉がぬらりひょんとまた飛び出した。
「それでは外相とはべつに、僕は一人で帰るから」
――大事は去った、とりかえしのつかない機会は逃れつつある、と心につぶやきつつ、近衛文麿は、外務次官に案内されてべつの車へ、そっくり返って歩いてゆく外相の姿を放心したように眺めていた。
春風の中に、どこかでへらへらした笑い声が聞えたようであった。
[#改ページ]
羅妖の秀康
一
三河黄門秀康、悪瘡《あくそう》をわずらいたまいて鼻のそこねければ、そのころ細工に名を得たるものをして人色に鼻をこしらえしめ、付鼻《つけはな》を用いられける。
[#地付き]――「山鹿《やまが》語類」――
秀康は悲劇の武将であった。
そもそも出生からして不運である。母はお万《まん》といって家康の正妻|築山《つきやま》御前の侍女であったものを、家康が風呂場で手をつけて孕《はら》ませた。そのために夫人の怒りを買って、臨月近いからだを全裸にむかれて庭の立木に縛られていたのを、家来の本多|作左衛門《さくざえもん》に救い出されたとも、本人が気の強い女で家康と喧嘩《けんか》して勝手に浜松城から逃げ出したともいわれる。
三歳にして、はじめて父の許へつれ出されたが、
「ふむ、ギギに似ておる」
と、家康はあまりうれしくない顔をして、以後ほとんど顧みるところがなかった。ギギというのは谷川などに棲《す》む鯰《なまず》に似た怪魚だ。それで名まで於義伊《おぎい》、正式には於義丸《おぎまる》と名づけられた。
十一歳にして、事実上の長男であるにもかかわらず秀吉の養子にやられ、秀康と命名された。ていのいい人質だ。だからその後秀吉が家康に上洛《じようらく》せよと命じたのに家康が容易に従わなかったとき、では秀康の命は保証せぬぞと威嚇《いかく》したことがある。ところが家康は冷然として、
「秀康はすでに羽柴のものであって、徳川家の人間ではない。それを殺せば秀吉の無道なことを天下に知らせるだけで、わしは、痛くも痒《かゆ》くもない」
と、いい捨てた。
秀康に人質の価値がないと知って、秀吉はこんどはこれを下総《しもうさ》の名門結城の養子に横流しにしてしまった。彼の十七歳のときである。以来結城中納言秀康となる。
関ケ原のときは、彼は二十七歳であったが、父家康の命令で、下野にあって上杉の大軍を牽制している。そして翌年、越前|北《きた》ノ庄《しよう》七十五万石に封ぜられた。
これがなぜ悲劇の武将かというと、弟の秀忠の方が将軍となったからだ。そして武勇にかけては秀康の方がはるかに上であったからだ。
かつて少年時。――伏見の馬場で馬を乗り回していたところ、秀吉の厩《うまや》の馭士《ぎよし》が馬を並べて走らせた。と見るや十六歳の秀康は、「無礼者」と絶叫してこれを馬上から斬り落したという。
またそれより後、慶長九年夏の或る日の話だが、伏見にある自分の屋敷で角力《すもう》の興行をやったところ、見物熱狂しておさまりがつかなくなった。このとき秀康がひとりぬうと立ちあがり、黙って見まわしたところ、庭上は水を打ったように鎮まってしまった。これを見ていた家康が、あとで「いや、わが伜《せがれ》ながら恐ろしいやつだ」と人に語ったという。
関ケ原の役においても、下野小山にあって、西に石田、兵を起すという報を聞くや、「三河守どの(秀康)はにこにこと笑み給う。この一乱のついでに面白きことありて、天下を取ることもあらんと思召《おぼしめ》す体《てい》」であったという。それなのに、父家康が軍を返す際、秀康はその地にとめ置かれた。憤然とする彼に家康は、いま東にわれと対陣する上杉を相手になし得る者はなんじのほかにないとこんこんと説き、その通り彼は関ケ原で父が西軍を破るまで、ついに上杉を抑えこんでびくともさせなかった。家康が秀康の豪勇に深く恃《たの》んでいたことはたしかだが、またなかばは怖れて、天下分け目のいくさには加えまいという配慮をもうかがうに足る。
なぜ家康が秀康を憚《はば》かったかというと、むろんいささか凶暴味を帯びたその豪勇を怖れただけでなく、すでにこの伜の履歴に豊臣の一族として名をつらねたことがあり、かつ秀康自身、その縁によっていつまでも豊臣に一脈心を通わせているふしが見られたからだ。しかも、それというのも、実はそれ以前からこの父子の間には異常なものがたちこめていたせいであろう。そもそも最初の一瞥《いちべつ》のときから、父に愛されなかった秀康であった。
いずれが因か、いずれが果か。秀康の方も決して従順とはいえなかった。それどころか、彼は幕法を無視して決して江戸に屋敷を置かなかった。江戸の不快な眼をしりめに、徳川の危険視する牢人《ろうにん》などを故意に召し抱えた。関所なども、槍《やり》鉄砲をつらねて平気で踏み破って通過した。とくに最後の件など、関吏が江戸に急報したのに対し、家康はさすがにむらっと怒気をみなぎらせたが、やおら憮然《ぶぜん》として、
「うぬら、秀康に打ち殺されなんだのをまだしもと思え」
と、つぶやいたという。
のみならず、秀康には、鼻がなかった。
梅毒のためである。しかもこれはすでに第三期以降の徴《しるし》で、常識的には感染後少なくとも七、八年を経たということで、事ここに至るまでにはその他の症状|惨澹《さんたん》たるものであったろう。大御所が、彼を後継者とするのに、この点だけでも辟易《へきえき》したのもむりはない。
この身分にしてこういう病気になるとは、いくら医学の発達しない当時でも――他にも梅毒に罹《かか》ったといわれる有名な武将も二、三ないことはないけれど――やはり欲望の前には相手を選ばなかったという証拠で、事実彼は甚だ好色というより、荒淫者であった。
……さて、この結城秀康が、家来の一人の肉体に妙なことを発見した。
忍びの者の一人で、伊坂《いさか》修理という。それが片耳を失って、或る用件で潜入していた某大藩から帰還して来た。逃げるとき敵のために右耳を斬り落されたという。それが、数ヵ月のち、ふと秀康がその男を見ると、耳がちゃんとついている。
「はて?」
彼は伊坂修理をそばへ呼び寄せて、その耳をつまんだ。あきらかに肉そのものである。ただその耳が首にくっついているところにつぎめのようなものが見えるが、むろん何気なく一見したところではわからない。彼はきいた。
「これは、どうしたことじゃ?」
「鍋掛善九郎《なべかけぜんくろう》のわざでござりまする」
修理は答えた。
「彼が長らく工夫しておりました筋肉移植の法――忍法|接木《つぎき》肉づき、ついに手術可能と相成り、そのおかげを以てかくのごとく拙者失いましたる耳を、ふたたび得た次第でござりまする」
「ほう、忍法接木肉づき。……だれぞ、ほかの人間から耳をもらったのか」
「いえ、それではその人間が耳を失うことになり有難味がござりませぬ。……拙者の尻《しり》の肉からとりましたもので」
慶長十一年春、越前北ノ庄の城での話である。
二
結城秀康は、むろんほかの諸大名とひとしく一団の忍びの者を持っていた。ただふつうの譜代や外様《とざま》のそれとちがうところは、その中心が江戸の本家の伊賀組から分けられた連中であるということである。何しろ秀康を初代とする新藩七十五万石だからやむを得ない。
その中に、鍋掛善九郎という者があった。はじめ、これが江戸の服部一党につながる忍者ときいても、秀康が首をかしげたくらいである。なぜなら、見たところ何ともユーモラスな顔をした、そのくせ気弱げな若い男で、剽悍無比の忍者どころか、一般の家臣にくらべてさえ侍らしくなかったからだ。――その男が、人体の欠損をつぐなう術を完成したと?
秀康は善九郎を呼んで、その術を説明させた。
「いえ、まだまだ未熟で」
善九郎は、謙遜《けんそん》が口さきだけではないことを物語るように、頭をかき、まんまるい頬《ほお》に少年みたいに血をのぼして、それでも聞かれるままに答えた。
それを簡単に述べると、術の目的は、忍者の使命遂行の途上、肉体の一部をえぐられたり、切り落されたりして帰還して来る者が少なからず、それだけで全体が使いものにならなくなるのは甚だ効率が悪い。それをつぐなうためにはじめた研究だが、まだ残念ながら機能まで完全に復活させる域には達していない。いまはただ形態上の補充にとどまるが、それはそれなりに役に立つ点もあるかと思う。たとえば耳のない男が耳をそなえて再出動すれば、敵の眼をくらます効用があるからだ。――
で、その欠損した部分に代えるに何を以てするかというと、それは原則として、同一個体の同種の筋肉や組織が最も成功の可能性が高く、生物学的に類縁の遠い異種体の異種の筋肉や組織が最も困難である、と彼はいった。――これは近代の移植手術にも通じる原理である。――だから、たとえば、伊坂修理の場合は、右の耳がなければ彼の左の耳を持って来てくっつけるのがいちばん容易だが、むろんそれでは無意味で、かつほかの人間の耳をとるのも同様に憚かりがあり、やむを得ず同一個体たる伊坂の臀筋《でんきん》を採取して、新しく耳を製造した。それは耳殻というものが、ただ音をとらえるためにひろがっていればよいという最も機能無用の筋であったから可能であったのである。――
「それを、どうして作るのじゃ?」
と、秀康はきいた。
「それが大苦心を要するところでござりまする。――あえて大ざっぱに申しあげますれば、採った肉をすりばちにいれて、種々の薬を加えつつこねて、それらしきかたちを整えるのでございまするが」
「ほほう。……耳でないときはどうする?」
「たとえば、手の指を失えば足の指を使いまする。それから……拙者の見込みによりますれば」
可笑《おか》しげな男と見えたのに、このときその顔に妖《あや》しい笑いが浮かんだように見えたのは、或る分野における天才の自己陶酔というべきものであったろうか。
「男の鼻と陰茎《いんきよう》、女の唇と大陰唇など、何やら相関関係があるようであり、これも工夫いたせば相互に移植出来るような気がしております」
「なに、鼻と陰茎。――」
秀康はうめいた。――その声に、はじめて善九郎は気づいたように、鼻のない主君の顔を見あげて黙り込んでしまった。
「……しかし、わしの魔羅《まら》をとるわけには参らぬ」
やおら、彼はいった。
「といって、うぬの鼻は喃《のう》。……」
じろっと凝視されて、善九郎は動揺の表情になった。うぬの鼻は、といわれた善九郎の鼻は、いわゆる典型的な団子鼻で、それこそ彼の顔をユーモラスなものにしている根源であった。
しかし、いま鼻と陰茎云々と述べられて、秀康はちょっと驚いたようだが、考えて見ると最初から何やら下心があって、秀康はこの移植術の新開発者たる忍者を呼んだようだ。
その通り、いうまでもなく鼻のないことは秀康の悩みの最大なものであった。もともと父の家康さえ辟易させたほどの魁偉《かいい》なる――遠慮なくいえば醜相といっていい容貌の持ち主である。が、それはそれなりにまた人を圧する迫力を具《そな》えていたのは、彼の気稟《きひん》と、そして何びとよりも高い鼻以外の何物のせいでもなかった。――その鼻が、いまやないのである。彼が伊坂修理の話をきいて、ひょっとしたら、と溺《おぼ》れる者が藁《わら》でもつかむような心で鍋掛善九郎を呼びつけたことはあきらかだ。
それに対して善九郎は、自己陶酔のためにうかと鼻の移植の可能性について口走ってしまった。――もっとも、彼自身の鼻はいまいったように、藁にひとしい団子鼻だが。
「善九、うぬの魔羅を見せい。――」
突然、秀康はいった。
善九郎は、唇をふるわせて何かいおうとしたが、まるで大蛇に見込まれた蛙《かえる》みたいに、わななきながらこの恐ろしい主君の命令に従った。袴をといた股間《こかん》から現われたものをのぞきこんで、秀康は妙な表情をした。
「はて、うぬはいま鼻と男根には相似の縁がある――と申した。それは古来から申す、その大きさの話じゃと思うておったが……うぬは存外、どころか、鼻に似ても似つかぬ雄偉なものを持っておるではないか」
その眼がぎらぎらとひかり出すと、
「よし、その魔羅を以ておれの鼻を作れ」
と、いった。
「あ。――」
鍋掛善九郎は水を浴びたような顔色になり、
「殿、実は拙者。……」
と、金魚みたいに口をぱくぱく動かせるのをみなまで聞かず、秀康は善九郎の前に、がっぱと丸太ン棒のような両腕をついた。
「頼む。……善九! この秀康を救うてくれい!」
身分いやしき忍びの者に向って、こんな姿を見せた大名があるであろうか。ましてやこれは秀康だ。大御所さまに向ってさえ人くさしと思っていないかに見える結城中納言だ。
鍋掛善九郎は男根をさらけ出したまま、水母《くらげ》の化物みたいにワナワナとふるえていたが、たちまちその両眼からはらはらと涙をふり落し、
「承、承知つかまつってござる、殿! もったいなや、お手をおあげ下されませ、鍋掛善九郎、男根はおろか、この全智をあげ――いいや全身をあげて殿に捧げたてまつりまする!」
と、さけんだ。
――結城中納言秀康の顔に鼻がくっついたのは、それから三ヵ月後の夏のことである。
それから数日おいて、秀康は鍋掛善九郎が首を吊《つ》って死んだことを知った。それから、善九郎のところへ、かねてからの約束のあった江戸の服部一族の某女がこの秋嫁入りして来ることになっていたという話をきいた。そこで、いつぞや自分の要求に対して、「殿、実は拙者……」といいかけたのはそのことについてであったか、さらにその首吊りもそれに関わることであったか――などと、回想したり、気にかけたりするような秀康ではない。
鼻を獲得して、彼は有頂天であった。
三
人色に鼻をこしらえしめ――と「山鹿語類」にある。すなわち皮膚の色そっくりに、という意味だが、やはりやや赤黒くて、鈍い光沢がある。
それに、しげしげとよく見れば、鼻翼の周囲などにあきらかによそから附着させたような切れ目が入っている。それどころか、その鼻孔たるや――ただ一つなのだ。すりばちですって、こねて造形するのだから何とでも出来そうなものだが、やはりその管《くだ》を二本つけることには何か困難があったものと思われる。
しかし、遠目にはわからない。いや、立派な髭《ひげ》をはやした秀康だから、傍に寄っても、孔が一つであること及びその他の異常は、知らない者にははっきりと見てとれない。顔の皮膚そのものが常人より赤黒くてつやつやしているから、色調の変化も目立たないし、何よりも高くて大きな鼻は、以前のギギ的面貌の秀康とは別人のような壮美さをすら与えた。
彼は満足し、意気あがり、そしてその行状はいよいよ奔放無比なものとなった。
漁色がますます盛大なものになったことはいうまでもないが、そのことで彼は実に思いがけない怪事にめぐり逢い、かつその結果に甚だ大悦することになった。
女人を愛撫するに際し、鼻が顔から剥がされそうな痛みを感じたのがその最初のうちの現象で――それを繰り返すうち、ついに或る日、たしかにメリメリという音がしたと思うと、それはにゅっと顔から離れて持ちあがったのである。
「きゃあ」
寵姫《ちようき》は悲鳴をあげた。
彼も驚いた。――そして、自分の鼻が元来他の男の男根であったことを改めて思い知らされた。狼狽はしたが、さてもはや如何《いかん》ともしがたい。
「余人にこのようなこと申しては相ならぬぞ」
彼は女に厳命した。どの女も、ふるえながらうなずいた。女たちは以前から、この主君の意にそむいた女はたちまち斬り殺されたことは幾度も見ていたし、それによく考えてみれば、鼻がないという、見ようによってはいまよりもっと怪奇な恐ろしい主人のいけにえになることに、すでに耐えて来ていたのだ。
そのうちに秀康は、その鼻を女たちに撫でさせたり、いじらせたり、さらにしゃぶらせたりすると、何ともいいがたい快味のあることを知った。――或るときなど、
「む。……むっ」
と、口からふいごみたいな息を吐いて、
「な、何だと思うておる? おまえのくわえておるのは鼻であるぞ。おれの息がつけぬではないか?」
と、叱りつけたことが一度ならずあったほどである。
その快美さは、彼本来の所有物を以てするときの数倍のものに感じられた。で、その快楽探究のきわまるところ、秋の或る一夜、彼はおのれの鼻で女を愛して見た。まあ天狗が小さな壺《つぼ》の蜜を吸いあげようと努力しているようなものだ。いや、吸いあげるどころか――顔面をつつむ蜜のような粘体と異臭に加えて、その鼻で搗《つ》く餅《もち》の触感は魔界の快楽《けらく》そのものであり、そのあげく彼は――ただ一本の鼻孔を何やらほとばしるもののある感とともに、「あ、あ!」と解脱の嘆声を吐いていたのである。――
驚くべきことはそれにとどまらなかった。肩で大息つきつつ秀康は、そのときおのれの股間から嵐のように風が吹き出しているのを知ったのだ。――何たること、この玄妙|混沌《こんとん》の瞬間、彼の鼻と男根は、それぞれ別の機能を発揮していたのであった。
面妖とはまさにこのことだが、羅妖《らよう》という言葉はないはずだ。が、これを羅妖といわずして何といおう?
心が平静に戻ると、鼻はまたおとなしくぶら下って、一見したところでは、だいたい通常の鼻と変らない。――
妖将結城中納言秀康は、この摩訶《まか》不思議な女色の世界に耽溺《たんでき》する一方で、それと息づかいを合わせるように、男の世界でもいよいよ傍若無人ぶりを見せはじめている。
すなわち、公然――としか、江戸には見えない――親豊臣の行動を露骨にし出したのだ。つまり大坂城の少年秀頼に莫大な北国の名産を贈る。関ケ原以後もなお豊臣家に心を寄せる諸大名に親しく挨拶の使者を送る。――
秋の終り、ついに家康は沈鬱凄壮《ちんうつせいそう》の顔色で忍び組の服部半蔵を呼んだ。
「半蔵、越前黄門を討って取れ」
黄門とは中納言の唐名、いうまでもなく結城秀康のことだが、黄門というと現代ではだれでも後年の水戸黄門を思うが、この越前黄門はこのとしまだ三十三歳、血気まさに剛なる壮年中の壮年である。
「あれが、大坂はおろか、かりに加賀の前田《まえだ》と組んで見よ、天下の勢いはすべて逆となる。いまにして誅戮《ちゆうりく》しておかねば、秀忠など一蹴りに蹴り殺されてしまうぞよ」
大御所の顔は堰《せき》を切った怒りのために暗灰色に変っていた。
「きゃつ参府せよと命じたとて何処《どこ》吹く風といった面《つら》をいたしおるはその方も知る通り、さればとてこちらから大軍を以て押しかければ、父子骨肉の争いを天下に晒《さら》し、もはや徳川家も何もあったものではない。――この際、服部組の力をかりるよりほかはない」
「さ、さりながら。――」
いきさつはすでに知っているが、半蔵は戦慄した。
「大御所さま。そ、その骨肉の――おん曹子を」
「えい、前々よりわしはきゃつを伜と思うておらぬ。きゃつも、しょせんは徳川に叛血を抱く宿命の子と覚悟しておるであろう。――遠慮すな。いや、それどころかへたに遠慮してやりそこねては、相手が人間離れしたあばれ者じゃ、かえってとり返しのつかぬことになるおそれがある。ただ、一撃で斃《たお》せ」
「身の毛もよだつ所行ながら、御|諚《じよう》もだしがたく。――」
ぴたと片腕つきながら、服部半蔵は何やら思案しているようであった。
「かかる運命の来るとは知らず、御存知のごとく北ノ庄には、わが服部の分家ともいうべき忍びの者どもが守っておりまするが。――」
と、つぶやいたが、すぐに決然とうなずいた。
「よろしゅうござる。服部組でも指を折って三本目には入らぬ大豪の者を両人つかわしましょう」
「念を押すようじゃが、相手は秀康じゃぞ。どのようなやつをやる?」
「忍びのわざはいわずもがな。――一名は蟹坂兵太夫《かにさかへいだゆう》と申し、投縄《なげなわ》を以てすれば、牛馬はおろか飛ぶ鳥すらとらえ、もう一人は沼《ぬま》ノ目空印《めくういん》と申し、槍を取ってはおそらく柳生《やぎゆう》一門にもまともに防ぎ得る者はあるまいと思われる男どもでござりまする」
四
いうまでもなく北ノ庄は、いまの福井である。かつてここに柴田|勝家《かついえ》があって、妻のお市《いち》の方《かた》とともに秀吉のために滅ぼされた。秀康がまだ十歳のころの話で、その翌年、彼は秀吉のもとへ養子にやられたのである。
彼にとってまったく無縁の戦国悲歌ではない。そのとき落城の炎の中から救い出された三人の遺児――お市の方の娘たち――のうち、長女がいまも大坂城にあって彼にとってなお思慕の念をふくむ複雑な感情の対象淀君となり、次女がいまは江戸城にある弟、将軍秀忠の御台《みだい》となる。戦国の炎と血が地上に残すからみ合いの影の妖しさよ。
ただし、秀康がいつまでもそんな歴史的感傷にふけるたちとは思われない、だいいちそのときの北ノ庄城は煙とともに虚空に消え失せて、いまはその旧|城趾《じようし》の北に、彼自身がそれとは比較を絶する壮大な新、北ノ庄城を築いている。五層の大天守閣、百一の座敷をつつむ本丸、十の櫓《やぐら》、四十三の門、当時その規模において日本でも屈指のもので、むろん江戸の方では苦い眼で見ているのを、平気でやってのけたのだ。
薄墨色の北国の空の下に、その巨城はまるで冥府《めいふ》の城のように見えた。――
その北ノ庄から北へ約七里、音に聞えた東尋坊《とうじんぼう》の絶景の中に秀康は立っていた。
雪の来る前にいまいちど、と千人近い供をつれて北方の九頭竜《くずりゆう》川平野へ鷹狩《たかが》りに出たのだが、むろんそれだけですむ王侯ではない。狩りくらのあとは、三国《みくに》の宿駅に泊る。三国は古来北陸道で聞えた港町だが、それよりも三国遊女で名高い。古来名高いというより、秀康がそれを大|傾城《けいせい》町にしたてあげたのだ。その大傾城町をむろん全部占領して不夜城の歓をつくし、さてその翌日、三国から約一里のこの東尋坊へやって来たものであった。
人も知るように、ここは海蝕《かいしよく》によって数十メートルの高さの無数の岩の柱が絶壁を作り、見下ろせば一直線の真下に碧潭怒濤《へきたんどとう》、眼もくらむばかりだ。断崖《だんがい》の上は千畳敷と呼ばれる岩の台地があって、そこで秀康は日本海を見わたしていた。
いかに奇勝でも、時は晩秋というよりもう初冬、海は暗澹荒涼として、風は肌をつん裂くようだ。
家来たちは辟易して、あるいは岩かげに、あるいは秀康のまわりに自然とひとかたまりずつになっていたが、秀康はいつまでも飽きる風もない。彼は豪奢を愉《たの》しむ一方で、またこういう凄壮の景をそれにもまして快とする性格であった。
そのとき、異変が起った。
風に無数の鳥影が羽ばたいたと見えて、そこの台上にいた越前家の家臣たちはみないっせいに驚愕の叫喚をあげ、しかもかたまったまま動けなくなってしまったのだ。
いや、もがいてはいるが、その集団を解いて散ることが出来ない。――
そのとき秀康のまわりに家来たちは七つのかたまりとなって坐っていたが、彼らは自分たちが奇怪な黒い縄に縛られていることを知った。
その七つの環から一本ずつ黒い縄がのびて――まるで鵜匠《うじよう》のように一人の黒装束の男の手に集まっていた。彼らは、岩の柱の一つの上に、その男がすっくと立っているのにはじめて気がついた。
「やあ、曲者!」
「一大事だっ」
絶叫して、ひしめくからだは互いに相搏《あいう》つばかり。それどころか、一瞬、縄はぎゅうっと凄じい力でひきしぼられて、彼らは息も出来なくなってしまった。事実、肉に鋼線のごとく食いこんだその縄のために、血しぶきさえ岩に散った。が、それはたしかに人の――女の黒髪を綯《な》ったものであった。
曲者は魔鳥のごとく岩から飛び下りた。
岩かげにひそんでいたその男は、妖しき縄の七個の環をいっせいに風に投げて、秀康を半円形に守っていた侍臣たちを、いっぺんにひっくくってしまったのだ。
いや、七個だけではない――。彼は走りながら、また無数の縄の環をそこら一帯に撒《ま》いた。むろん、この混乱で、岬の根もとの方からは、家来たちが殺到して来る。それが、その縄の環にはまると、五人、七人、一団となってひっくくられて転倒する。その縄の環の配置と、それをたぐる曲者の手さばきはまさに神変のわざとしかいいようがなかった。
これがほとんど数瞬のことだが、もとより秀康はそれと見て佩刀《はいとう》を抜き払って、つかつかと歩み寄っている。恐れ気《げ》もなく、曲者の方へ。
「推参なり、いずれからの刺客か、名乗れ!」
岬の根の方へ向いたまま、秀康に対しては大胆にも背を見せてあとずさって来た曲者は、その距離が、五、六メートルになったとき、くるっとふりむいた。
「恐れながら、黄門さま」
低い、錆《さ》びた声であった。
「この縄、受けられまするやっ」
その黒い手甲《てつこう》をつけた腕から、また黒い環が――こんどはやや太目の縄がビューッとたぐり出された。
秀康の豪刀がそれに向って走った。縄は切れず、その部分だけくの字になった。しかも縄はたわみつつ、環は正確に秀康の頭上にかかって、奇怪なことにいちど空中で静止したように見えたが、次の瞬間、ぱっと生あるもののごとく秀康の頸《くび》に落ちてはまった。
「むっ」
秀康の満面が朱に染まって、鞠《まり》みたいにふくれあがった。
この豪勇を以て天下に聞えた魁偉なる貴公子の最期を、縄の端をつかんだまま曲者は、悼《いた》むがごとく愉しむがごとくしばし手くびをしゃくらせていたが、
「秘命もだしがたし、いざおん首|頂戴《ちようだい》つかまつる」
もう一方の手に一刀抜きはなち、スルスルと近づいた。わが事成れりといった姿であった。
その距離二メートルに達し、秀康の大刀は真っ向からうなりをたてて落ちて、曲者は唐竹割りになった。事実、こちらの家来たちは、秀康の刃《やいば》が曲者の背の半ばまでくいこむのをたしかに見た。
が、曲者はその打撃を受けながら、三メートルばかり飛びずさっている。そこで彼は棒立ちになった。苦鳴をあげなかったが、その全身に――こんなはずはない! という驚愕が凍りついていた。
たちまち彼は横に泳ぐように移動し、むろん手から縄も刀も離していたが、それだけの深傷《ふかで》を負った人間としてはまさに超人的としかいいようがない跳躍力を見せて、数十メートル下の海中へ、石のように落ちていった。
「殿っ……中納言さまっ」
こけつまろびつ十数人が岬の根の方から駈けて来た。凄絶無比の決闘でみごと相手を仕止めたものの、そのことがまだ信じられないように茫乎《ぼうこ》として立っていた秀康は、その家来のむれの中に伊坂修理の顔を見ると、
「ただのやつではない。……忍者じゃ」
と、うめいた。
伊坂修理は蒼然《そうぜん》たる顔色で、あたりに散らばった黒髪の縄を見まわし、
「御意《ぎよい》、――そして、おそらくは」
と、あとは声をのんだ。
死顔をみずから海中に消した曲者を、服部党の蟹坂兵太夫とまで、そのとき秀康は知らなかった。しかし、死んだ兵太夫の方が、もっと驚倒していたであろう。なぜおのれの縄に首を絞められて越前黄門が健在であったのか。――
彼は、秀康が男根で息をしていたとは知らなかった。
五
修業の効率上、一人一芸を旨とする服部忍び組は、江戸の一党内でさえそれぞれの術を知らないことがある。その全貌を掌握しているのは、首領の半蔵だけだ。ましてや、いかにもとは服部組から分けられたとはいえ、それも十年近い昔となっては――いまだに首領の服部家とは若干の交流があるとはいえ――もう江戸方の術はおろか若年のため顔さえ知らぬ者がふえている越前家の忍び組であった。
しかし、――「おそらくは」といったきり、伊坂修理は声をのんだが、
――江戸方だ!
彼らはみな、それを直感した。
よくいえば天衣無縫、悪く見ればめちゃくちゃな行状をほしいままにする秀康には、敵が多い。それぞれの判断から、彼の命を狙《ねら》いかねない向きは、東にも西にもある。が。――
「あのような忍者、服部の手の者をおいてほかにない!」
そう確信して、彼らは粛然とした。主家と将軍家、おのれらと服部組――という二重の意味においてである。ついに、江戸を敵としたか?
いや、こちらを敵としたのが江戸である。そして、どちらが先にせよ、自分たちが秀康卿を主君といただいていることにまちがいはない。――彼らは改めて主君に自分たちの想定を述べ、以後昼夜をおかず厳しく御身辺を守ることを申し出た。
「ふふん」
秀康は鼻で笑った。彼が鼻で笑うと、ぶぶんというような、うなりを発する。
笑ったのは、江戸が自分に刺客を向けたことに対してであったらしい。忍び組に対しては、手ぬかりすな、ときびしい眼でいった。江戸の意志についての嘲侮《ちようぶ》はともかく、いつぞやの刺客そのものにはさしもの彼も肝をつぶしたようだ。
やがて北ノ庄は深い雪につつまれた。そして慶長十二年となる。
雪の上に、また終日小止みない雪がつもって、やっと降り止んだ深夜。――秀康は寝所から厠《かわや》へ立った。
隣室に坐っていた二人の小姓が、それでも短檠《たんけい》を持って、そのあとに従う。秀康はふだんの通り、下帯までとった金剛力士のような裸身に、白い長い寝衣を肩から羽織っただけの姿であった。雪の夜だが、彼の股間からは白い蒸気が立ってうしろへ尾をひいている。時にはそれが鼻から流れていることもあるが、むろんそれまでの寝所での炎の名残りだ。
このとき秀康の頭には、刺客のことはなかった。――油断していたわけではないが、あれっきり何事もないし、またこの時刻にも、彼の忍び組はこの寝所をめぐってあらゆる建物、門など死角のない監視の網を張っているはずであった。事実、その夜も、地上や屋根を覆う深い雪、またそれを照らす寒月は、そこに猫一匹動いても、真昼よりもよく見分けられるほどであった。それから、そもそも彼に従っている二人の小姓が、正体はやはり忍び組の精鋭なのである。
背後一メートルで、灯が消えたのと、うっという悲鳴があがったのが一瞬のことであった。一息おいて。――
「殿!」
ひくいさけびとともに、ふりかえった秀康めがけて、鞘のままの刀が差し出され、それからどうと一人ではない人間のもつれ合いつつ崩れ落ちる音がした。
あとでわかったことだが、曲者は蜘蛛《くも》のように廊下の天井に貼《は》りついていたのである。それが秀康をやり過して舞い落ちるや、刀を持った小姓の肩にまたがり、同時に短檠を持った隣りの小姓の頸を刃物でかき切ったのであった。ついでにまた、あとで判明したことをいま述べておくと、この本丸の一劃に近づくまでの銀世界、地上であると屋根であるとを問わず、その深い雪の底に一すじの巨大なもぐらの通ったような孔がつらぬいていたという。
さて、燭をかかげていた小姓が即死したのはもとより、御刀小姓の方もいっきに曲者の両足で絞め殺された。が、その一瞬に、この若者が、「殿!」とさけんでからくも秀康に刀を渡して、それから崩折れたのは、何といってもこれが忍び組であったればこそ。
秀康はその刀をつかんで抜いた。
同時に、いちど二人の犠牲者とともに廊下に崩れ落ちた曲者は、鞠みたいに向うへころがっていって、すっくと立った。
と、見るや――その手から蛇が殻を抜けるような音がして、二メートルばかりの槍がのびて来て、ピタリと据えられた。
それまで曲者は、そんな長い武器を持ってはいなかった。これまたあとでわかったところによると、それは三十センチほどの竹筒に、同寸の穂先をとりつけたもので、短檠の小姓を殺したのはその武器であったが、その筒からさらに何倍かの長さの竹筒が次から次へと出て、あっというまにそれだけの長さの、しかも竹の柄《え》とは思われない精巧強靭な一本の槍と変ったのだ。
そのからくり秀康にはわからなかった。ただ、その距離の向うで黒い頭巾をかぶった曲者の眼が、にやっと笑ったのは見えたような気がした。
灯は消されたが、闇黒《あんこく》ではなかった。廊下の諸所につけられた小さい明り障子から、蒼《あお》い月光がけぶっていたからだ――とはいえ、その咄嗟《とつさ》の間に、まだ視力の馴《な》れぬ秀康がそれを見たというのは、あとになっての幻覚であろう。
「東尋坊に推参つかまつった者が、ただ一人《いちにん》でよいと言い張り、籤《くじ》まで引いた末、きゃつ失策いたしたるため、いや、あとでこちらがえらい苦労いたすことに相成りました」
と、曲者はいった。声はあきらかに苦笑をふくんでいた。
おそらく彼は、秀康の護衛がきびしくなり、身辺に近づきにくくなったことをいったものであろう。そしてまた、いま秀康をまず襲撃せず、先に二人の侍臣を斃したのは、これが忍びの者であるとまで看破しての行動であったと思われる。――いまや、その手強《てごわ》い護衛者は始末した。
「いくたびか戦場で武名をとどろかせられたる黄門さまのおん剣《つるぎ》、この手作りの忍び槍をどう扱われるか、それが愉しみ。――」
槍が――槍というより、長い柳の葉のような奇怪な双刃《もろは》の光芒《こうぼう》が、秀康の瞳孔に入って来た。上杉はおろか韓《から》にまで、まさに武名をとどろかせた結城中納言秀康が、その剣はもとより、遠い家臣を呼ぶのも封じられたほどの凄じさであった。それが、秀康にもわかった。
「いざ、お手並み見参!」
その刹那《せつな》、秀康の顔から銀光がほとばしり出て、その双刃の穂にしぶきをちらし、あまりの意外事に仰天した曲者の顔にまで飛んでいる。
それは秀康の鼻から噴出した尿《いばり》であった!
波動した槍をはねのけて、彼は地ひびきたてて突撃した。そしてなお鼻からほとばしる小便を曲者の顔面にちらしつつ、その手許に入るやこれを大袈裟《おおげさ》に斬り下げた。
「くわっ」
曲者は、それでも数メートル飛びずさった。手になお槍をつかんではいたが、致命傷を受けたことはたしかであった。彼はもういちど進み出ようとして、どうと片膝ついた。――それから実に奇妙なことをやった。
槍が、グ、グ、グと短くなると、双刃の穂を両掌に握り、頭巾ごめにさっとおのれの面を上から下へ殺《そ》ぎ落したのである。まるで、おのれの――沼ノ目空印の顔の肉仮面を剃《そ》るがごとく。――
が、あとに残ったのは、むろん眼も鼻も口もない切断面だ。それだけに蒼い月光にちらっと見えて、そのまま廊下につっ伏してしまった曲者を眺めつつ、恐怖や凱歌《がいか》よりまず何より、秀康はたまっていたのをすべて吐きおえた快感に酔って、ぼうとして佇《たたず》んでいた。
六
万事休す。――
秀康が暴発する前に、雪溶けとともに大軍を催して越前に向けるよりほかはない、とまで覚悟をかためた大御所の前に、服部半蔵は一人の女をつれてまかり出た。そして、いまいちどこの女を刺客として送ることを許してくれるように哀願した。三月半ばのことである。
「まだ服部を信ぜよと申すのか」
と家康は吐き出すようにいった。
「お怒り御|尤《もつと》もでござりまするが」
半蔵は戦慄しつつ、必死にいった。
「さ、さればこそもういちど、わが服部組の名にかけて!」
なお叱咤しようとした大御所は、半蔵のつれて来た女に眼を移して、六十六歳のその眼がふっと大きくなった。――それから、痰《たん》のからんだような声でいった。
「その女に、秀康を討たせようというのか」
「御意。……当人の志願いたしたことでござりまする」
「蟹坂兵太夫、沼ノ目空印さえもみごと返り討ちにした秀康を」
「さればこそ、もはや女の手を以てせねば到底|叶《かな》い参らせぬ黄門さまと、半蔵も覚悟つかまつりました」
「……いかにもそのくノ一、このわしもはじめて見るほどの美女じゃが」
と、大御所はまばたきし、舌なめずりした。美しい女はいままで無数に見た。が、その黒い花のような眼といい、雨にぬれた椿《つばき》の花弁にまがう唇といい、真っ白な絖《ぬめ》に似た肌といい――それよりも、つつましやかに両手をつかえている全身をながれる曲線、そしてたちのぼる花粉のような匂いのなまめかしさは何としたことであろう。これほど妖艶な女はたしかにいままで見たこともない。
「何ぞ、術を心得ておるか」
「いえ、ただ天然の女体《によたい》を以て、黄門さまを」
「ううむ」
家康はひとうなりして、
「秀康に近づくのに、いかがいたす。きゃつもこのごろは、たとえ女であれ新しゅう召し抱える者に油断はすまいが」
「当人は、さすらいのややこ[#「ややこ」に傍点]踊りの一座に入って北ノ庄に参ると申しておりまするが、さていかにして黄門さまに近づきたてまつるか、その才覚はこの登世《とよ》にまかせられませ」
ややこ[#「ややこ」に傍点]の踊りとは、以前|出雲《いずも》の阿国《おくに》がはじめたかぶき踊りのことで、その流れをくむ一座が、あちこち諸国を漂泊していることは家康も知っている。秀康はその大愛好者で、いちどはその阿国さえも寵愛したことがあるとか、ないとかいう噂はきいたことがあるから、これほど美しい踊り子が城下に来たことを知ったら、近づく可能性はないことはあるまいが。――
「先に死んだ蟹坂、沼ノ目――まさか服部の者だという証拠は残さなんだことと信じておりまするが、しかし向うにもわが服部の分派たる忍びの者あり、こちらのことを感づいておることにまちがいはないと存ぜられまする。その点からも、女をやるよりほかはござりませぬ」
半蔵はちょっと考えて、またいった。
「実は、越前忍び組に鍋掛善九郎なる者がおりました。甚だすぐれた忍者にて、拙者これにこの登世を嫁につかわすつもりでござりました。もとより越前家とのことがかような破局にたち至るとは思いもかけぬころの話で――その上、この花嫁、ゆくまでは向うはその顔も知らぬという縁談でござりました。その後、いかなる仔細《しさい》でか、善九郎はしばしば中納言さまにお呼ばれを受けたのち自殺したことがわかりましたが、かんぐれば中納言さま、すでに江戸の服部の者が入るのを憎まれて、かくて善九郎が死ぬ破目と相成ったものとも思われ――この登世、いまだ嫁《か》せざるに、おそれながら黄門さまを夫の敵《かたき》と心に刻んでおりまする」
「ほ。……」
家康は、やや感動したようにその女をもういちど見やったが、やおら――すでにその前途に暗雲を見通すようなまなざしになって、珍しく悲壮味を帯びた声でいった。
「ではやれ。……ただし、あの秀康、女にかけても人間離れした大豪の男であるぞ。それを承知の上で参れ。……」
閏《うるう》四月、京の方から北ノ庄に入ったややこ[#「ややこ」に傍点]踊り一座のうち、人々の眼を奪った美女がたちまち城中に呼ばれ、秀康の閨房《けいぼう》に入れられた。
残りの一座は、大金をもらって加賀《かが》の方へ去った。
女が入れられてから、三日、二人はそこから出なかった。まわりに宿直《とのい》する忍びの者たちのうち頭がおかしくなったやつが、二、三人出たほどの――快楽の声だけがそこから流れ出した。
四日めの四月八日、いつのまにかその寝所が静寂に帰しているのに、しびれはてた頭の近臣たちがふと気がついて、十数度連呼したのちそこに入って、眼をかっと剥《む》き出して立ちすくんだ。
まっぱだかのまま大の字になった結城黄門は天をむいて動かなかった。いや天をむいているのか、最初の一瞥ではわからなかった。その顔の上に女がまたがるようにしていたからである。女は逆に黄門の上に伏してこれまた動かなかったが、口は黄門の男根をくわえて、にいっと笑んだ唇のあいだから、血まじりの乳のようなものがしたたり落ちていた。二人は死んでいた。
結城中納言秀康の死を、「唐瘡煩《とうそうわずら》い、そのうえ虚なり」と、「当代記」にある。腎《じん》がからっぽになっていたというのだが、直接の死因は窒息であった。
死微笑浮かべてこときれていた女の死因については何の記録も残っていない。
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慶長大食漢
一
家康は人から叱られたことのない人間であった。
不覇奔放の信長は老臣|平手監物《ひらてけんもつ》から叱られた。天衣無縫の秀吉はその信長から叱られた。しかし若くして老成の風あり、その性格にほとんど弱点というものを持たない家康を、かつて叱りつけた者はない。
その家康を叱咤した者がある。しかも、大御所として六十五歳のときにである。
慶長十一年。――
このとし四月から伏見城にあった家康は、七月下旬京の二条城に入ったが、その二十七日、珍しいところを訪れた。京新町《きようしんまち》にある商人|茶屋四郎次郎《ちややしろじろう》の屋敷である。
珍しいどころか、いかに訪問先が豪商とはいえ、大御所としては空前絶後のことといっていいが。――
そのわけをいうには、家康と茶屋の縁を説明しなければならない。
初代茶屋四郎次郎はもと徳川家の譜代の臣で、戦陣に出ること五十三回といわれた。それが途中で武士を捨て、京にあって呉服商を専らとするようになった。それはたんなる個人的欲望からではなく、その後のいきさつから見て、徳川の資金源の一つとなるために家康と黙約の上の変身であったろうと思われる。
その証拠の一つとして、天正十年五月、家康が信長に招かれて京見物に上洛したとき、彼はこの茶屋四郎次郎の屋敷に十日ばかり滞在し、そのあと堺に向ったが、そこで六月二日の本能寺の変をきいた。これを急報したのは四郎次郎である。のみならず彼は、難を逃れて伊賀から伊勢へ落ちのびる家康と行を共にし、土民たちに銀をばらまいてその襲撃から家康を護ったといわれるが、これほどの忠実ぶりは、それ以前からなお徳川家とのつながりがなくては示せるものではない。
この初代四郎次郎は慶長元年七月二十七日この世を去り、その長子が二代目をついだが、これまた慶長八年に死んだ。子がなかったので、長崎奉行|長谷川左兵衛藤広《はせがわさへえふじひろ》に養子にいっていたその弟がさらにあとをついだ。
現在茶屋家は、徳川家呉服御|用達《ようたし》であると同時に、京都の商人また御朱印船の総元締めという地位にある。
この慶長十一年、家康を招いたのは、三代目茶屋四郎次郎であった。そして家康が特別例外を以てこれを受け入れたのは、この七月二十七日が初代四郎次郎の命日にあたるからであった。
思い起せば、二十五年前。
眼前に迫る大危機も知らぬが仏の京見物、その宿としたのが、この屋敷であったと思えば、ひとしずくの女性的心情もない家康も、なみなみならぬ感慨を抱かざるを得ない。また、あの自分生涯の大難を、もし茶屋四郎次郎なかりせばおそらく逃れ得ず、従って現在の自分もあり得なかったろうと思えば、彼とて無量の念を以てその人を偲《しの》ばざるを得ない。
当時、この屋敷にあった者どもが次々にまかり出て、懐旧談をやる。そこへ、しばしば茶屋家の番頭にあたる老人が現われて、家康に願った。――食事のために別の座敷へ御動座をと。
家康はとり合わず、故老たちと話していた。むしろ彼の方から昔ばなしを促した。
温顔に変りはなかったが、彼はいささか不機嫌になっていたのである。
第一は、この屋敷の変りようだ。ほとんど初代のころの原型をとどめないといっていい。いまその昔を懐しんだといったが、ほんとうのところは昔を偲ぶよすがもないほどなのである。あれから二十五年もたったのだから当然だといえる。きいてみると、ここ一、二年の様変りだという。しかもその変りぶりが、異様な南蛮の臭気に充ち満ちていて家康の趣味と合わない。
第二は、この屋敷の主人の応対ぶりだ。むしろ最初現われて、家康をあちこちと案内したり、また話したりはしたのだが、そのうちどこかへ消えてしまって、あとは家人にまかせたきりである。むろん放り出しているわけではなく、それどころかどこかでみずから歓迎の支度に大童《おおわらわ》であるらしいことは雰囲気でわかるのだが、それにしてもこういうあしらいは家康にとって場ちがいの感を与える。だいいち支度なら自分の来るまえに整えておくべきではないか。考えてみれば、きょう自分を招いた三代目茶屋四郎次郎は、家康にとって何とも違和感を与える男ではあった。その男が三年前茶屋家をついでから、幾度かこの京や、あるいは江戸で挨拶にまかり出ているので、逢うのははじめてではないが、最初から異風な男という感じはしていた。
むしろ、初代の次男だし、かつまたその忠誠に疑いのあるはずはないし――それどころか、人間としては初代などよりもっと善良性をすら認める――さらに、自分が朱印を与える貿易船の総元締めとして幕府の重大な金主であることはまちがいないのだが、本音をいうと、家康があまり好きでないタイプである。きょうここへ訪れたのは、ただ家臣ながら自分のいのちの恩人でもある初代の回向のためにほかならない。
食事の知らせがあって、半刻。
三度目の督促の使いが来た。
「大御所さま」
と、侍臣の本多佐渡守がいった。彼も少々腹がへって来たのだ。
しかし、家康は、四郎次郎が姿を見せないのが気にいらなかった。きゃつ、気をもんでおることはたしかだが、何をしておるのだ?
もう一刻ちかく。――
家康も正直なところ空腹をおぼえていた。そのとき、どこからともなく強烈な匂いが流れて来た。何の匂いか、いまだかつて知らない匂いだが、恐ろしく食欲をそそる匂いであった。
「あれは何じゃ?」
ちょうど五度目の使いが来ていた。その男は鼻をぴくつかせ、困惑した表情になった。
「なるほど、匂いまするな。風向きのせいで、恐れいります。実は主人が、先刻溝へ捨てましたる料理や汁の匂いでございましょう」
「なに、四郎次郎が料理を捨てた? 何のために?」
「御食事の時遅れ、もはや役に立たずと。――」
「なんじゃと?」
家康の顔色が変った。
――いま述べた二十五年前の本能寺の変の直前、家康の接待役を急に免ぜられた光秀は、用意した料理をもはや無用のものになったと安土の濠《ほり》に投げ込んだ。折悪しく南風が吹いて、それの腐った匂いが城へ流れ、信長を激怒させ、これも両者|破綻《はたん》の因となった。これはそんな悪臭ではなく、それどころかえもいわれぬ美味《うま》そうな匂いであったが、しかし家康の頭には、はからずも二十五年前のその事件が掠《かす》めたにちがいない。
事実、家康は怒った。
「四郎次郎め、わしにあてつけおるか」
それはいいとして、次に出たのは大御所さまにふさわしからぬせりふであった。
「では、わしに飯は食わせぬつもりか」
「いえ、いえ」
使いの者は手をふった。
「それはまた新しゅう作りなおしておりますれば、左様なおそれはござりませぬ。実は、先刻から同じものを三度作りなおしておりますので」
「ほう?」
さすがの家康も毒気をぬかれた顔をした。それから、ウロウロと佐渡守をかえりみた。
「では、参ろうか」
で、やっと座を起《た》って、食事を用意してあるという座敷に赴いたのだが。――長い長い回廊を歩きながら、家康はまた平静心を失って来た。――この屋敷の様相にである。むろん日本の建物に相違なく、とくに外観は京風にまぎれもないが、内部にはむっとするような異国の香がたちこめている。敷きつめてある真紅の絨毯《じゆうたん》、壁のいたるところにかかっている象牙《ぞうげ》や珊瑚《さんご》やギヤマンの装飾品、南蛮製の時計、鏡、絵画――初代のころとは様相が一変しているというのはここのところだ。朱印船の総元締めだから或る程度は当然であり、かつ家康とておびただしい献上品は受納しているのだが、彼の眼からすれば、それにしてもこれは程度を過ぎている。それらの献上品を家康は大事にしまっておくのだが、ここはいかにも無造作に投げ出され、それどころか満ち溢《あふ》れているという感じなのだ。それから――来たときから気づいていることだが、この屋敷には実に女が多い。しかもことごとく若く、美しく、それも主人の好みで統一してあるらしく、いずれも恐ろしく官能的で豊艶な美貌と姿態を持つ女ばかりであった。
この傍若無人な美とぜいたくさが、家康の頭を逆なでしていた。徳川の家風に合わぬ、と彼は感じていた。もっとも茶屋家は今は純然たる徳川の家臣ではないけれど、しかし、かくまで家康を無視しているとは。――
それにもう一つ、彼の平静を失わせていることがある。それはいまきいた「四郎次郎が、二度か三度料理を捨てた」という事実であった。なんたる勿体《もつたい》ないことを!
実にばかげたことだが、そのことが、この実質上の天下のあるじ、偉大なる大御所さまの心をかき乱していたのである。かつて家臣のうち若い者どもが江戸城の城内で相撲をとっているのを見て、「相撲をとるなら畳を裏返しにしてとれ」と叱りつけたこともある家康であった。
――よし、この際、四郎次郎めをとっちめてくれよう。
次第につのる立腹とともに、家康は決心した。
――それが初代への回向じゃ。捨ておけば、この家とり潰《つぶ》す破目になるやも知れぬ。
家康と側近たちはめざす座敷に案内されて、一歩入って、「あ!」と口の中でさけんで立ちすくんだ。
そこは日本風の座敷ではなかった。並べられているのは漆塗りの膳《ぜん》ではなかった。真っ白な布を敷いた大きな卓であり、椅子《いす》であり、卓の上には花と白い陶器や銀の皿がかがやいていた。大半の皿の上には、何もなかった。
「大御所さま、おいで下されました!」
一人が、その食堂の一端の扉をあけて、あわてて呼びにいった。数分おいて、真っ赤な顔で茶屋四郎次郎が現われた。それが白い合羽のようなものをからだに羽織り、ねじり鉢巻をし、片手に柄のついた鍋《なべ》を持っている。彼のひたいからは文字通り湯気が立ちのぼっていた。
そして、唖然としている家康たちに――いや、たったいままで御機嫌ななめであった大御所さまに、頭ごなしに怒鳴りつけたのである。
「馳走の時に遅れるは、戦場で合戦の時に間に合わぬよりも大罪でござるぞ!」
二
すぐに茶屋四郎次郎はわれに返って、水を浴びたような顔色になった。
「あ! 恐れいり、タ、タ、たてまつる。……私としたことが、厨《くりや》の熱さにのぼせあがり、大御所さまに、ナ、ナ、なんたることを。――」
家康はしばらく黙って立っていた。
ふしぎなことに、いまの叱咤に激怒することを忘れていた。依然、この部屋のありさまにあっけにとられていたせいもあるが、四郎次郎の逆上ぶりに圧倒されたせいもある。大御所さまは、近年自分に対してこれほど真っ向|微塵《みじん》に癇癪玉を落して来た人間を見たことがない。
茫然《ぼうぜん》と立っているうちに、家康はこんどはほかの感覚にとらえられて来た。
それは、いまあけはなたれた扉の向うから流れて来る匂いであった。先刻と同じ、まだ嗅《か》いだことはないが、たしかに食物の匂いだ。この屋敷はまことに変っていて、宏大なくせに、ものを食べる部屋のすぐ隣りが厨房《ちゆうぼう》となっているらしい。が、なんと鼻腔《びこう》にかおり、唾液《だえき》を湧かし、胃袋をかきむしる匂いだろう。
「四郎次郎」
と、家康はいった。
「わしはどこに坐るのじゃ」
「あ!」
四郎次郎は、鍋を持ったまま飛んできた。
この、あ! という声が、からだに似合わず女のようにかん高い奇声である。ふだんはむしろ普通の男性よりもふとめの、いかにも音楽的な声なのに、感動したときだけ彼はこんな鳥みたいな声を出す。
三代目茶屋四郎次郎は、背は常人なみだが、恐ろしくふとった男であった。その皮膚は白く、つやつやとしていた。眼は細いがキラキラとかがやき、鼻は団子鼻で、唇は厚くて、もう四十二、三になる男というのに、女みたいに赤かった。その口からむっちりしたあごにかけて、男が見ても変な気になるほど肉感的であった。そして筆でかいたような細い口髭を生やしていて、決して美男とはいえず、どこか滑稽《こつけい》味があるのに、何となく異国的なしゃれた印象があった。
――どうして、こんなやつが、初代の子に生まれたか。
と、家康は、商人にはなったものの豪毅な武士の風貌を失わなかった初代を回想して、ふしぎに思う。兄であった二代目も、父の面影をとどめていた。こやつは、茶屋をつぐまで長崎にいて紅毛人とつき合っていたからこういう男に変ったのかも知れない。
彼は一同を席につかせると、また厨にひっこんだ。驚いたことに、彼は食事の支度を指揮しているのみならず、いまの鍋を見てもわかるように、みずから料理に手を下しているらしい。
あれほど督促し、また遅れたといってあれほど怒ったのに、こんどはその料理がすぐには出て来なかった。きいてみると、いま新しく作っているものがあるという。――扉をしめて、何やら肉を焼く匂いや、油や調味料の香りが濃くたちこめて来て、さしも我慢強い家康も、途中で、いくども、
「まだか?」
とあえぐような声を投げたくらいであった。
やがて――その料理が、官能的な女たちによって次々に運ばれてきた。ギヤマンの瓶に入った赤い異国の酒とともに。
それは一同が見たことも、聞いたこともないような食物であり、料理法であった。南蛮料理ばかりではない。支那料理もまじり、むしろその方が大部分を占めていたかも知れない。
当時、人々はどんなものを食べていたか。
秀吉が関白となってはじめて参内したときの献立は「塩引、焼鳥、ふくめ煮、からすみ、たこ、くらげ、かまぼこ、すし、鯛汁《たいじる》」などで、すしといっても、むろん後代の江戸前のすしではなかろう。こう文字として並べるといろいろあるようだが、関白殿下一世一代の晴れの参内の御馳走としてはあまりに貧弱で、江戸時代になってからこの献立を見た人の評に、「豊太閤は壮観をよろこび給い、美麗を好まれしときくに、これを見れば飲食に心を用いられざりけるや」とあるくらいだが、べつに秀吉が食い物に無関心だったせいではなく、これが当時最高の膳部であったのだ。
また、これよりちょっとあとになるが、寛永《かんえい》のころに生まれた兵学者|大道寺友山《だいどうじゆうざん》の「駿河土産」によると、秀忠の世に備前少将|池田光政《いけだみつまさ》がはじめて江戸城に上ったときの食事が「蕪汁《かぶじる》におろし大根の鱠《なます》、あらめの煮物、干魚の焼物にてこれあり候」とあり、さらに同じ著者の「落穂集」に「われら若きころまでは、町方において犬と申すものは稀《まれ》にて見当り申さざることに候。武家町家ともに、しもじもの食物には犬にまさりたるものはこれなしとて、見合い次第打殺し、賞翫《しようがん》いたすについての儀なり」とある。この物語の慶長よりもさらに後年にして、なお犬を大御馳走として食ったというくらいだから、ましてや戦国の風のいまだ終熄《しゆうそく》したとはいえないこの時代の一般の食生活は察するに足る。
さて、ここに現われた料理は、材料は肉、魚、野菜などであったにちがいないが、これを油であげたり、卵をかけたり、葛《くず》のようなものをまぶしたりしてあったので、何の肉、何の魚、何の野菜であるかわからない。いや、そんなことをたしかめるいとまもないほど、それは美味かった。だいいち、きいても一同にはわからなかったろう。たとえばその野菜の中に、南瓜《かぼちや》や玉蜀黍《とうもろこし》があったが、それすら当時の日本の自然にはないものであったからである。巧みにきかせてあった唐辛子《とうがらし》さえ、その名が物語るごとく、そのころ外から渡来したものであったからである。
もっとも、みな空腹でもあった。彼らは、がつがつとむさぼり、のみ下し、皿に残る汁までしゃぶった。口の中からからだじゅうに濃厚な活力がしみこみ、拡《ひろ》がってゆく感じであった。
……はじめに箸《はし》をおいたのは家康である。
満腹したせいではない。彼は壮者に劣らぬ健啖《けんたん》家であった。むしろ彼は、あまりに美味過ぎて、それに気がついてみずから手綱をかけたのである。
見ると、小食家の本多佐渡守まで夢中になって皿に顔をつっ込んでいる。
「佐渡」
家康は苦笑した。
「珍しいの」
「は」
老獪|苛烈《かれつ》の策士たる本多佐渡守はわれに返り、それこそいまだかつて彼が他人に見せたこともない、照れくさげな表情を作った。
「この味が、ようおまえの口に合うものじゃ」
「いえいえ」
遠くから声がかかった。
「それは私が精根こめて日本風に味つけしたものでござりますれば、たとえ禅僧なりともその口に合う自信がござりまする」
いつのまにか茶屋四郎次郎が卓の末席に――正面の家康と向い合う位置に坐っていた。その前にも同じ珍味が並べられ、彼自身美味そうに口に運んでいる。
「これは何というものじゃ」
と、佐渡守は一|椀《わん》を指さした。
「どこやらおぼえのある味のようで、しかも日本にはないが」
「それは飛龍子《ひりようず》と申し、牛蒡《ごぼう》やきくらげを豆腐と山芋で包んで揚げたもので――実はイスパニア料理でござる。あちらの言葉でフイロスとか申しまする。――」
「ほほう!」
すなわち後年、関東では雁《がん》もどきと呼ぶ食物を、このときはじめて大御所さまはイスパニア料理として食ったわけである。
「四郎次郎」
と、家康は呼んだ。
「どうやら、おまえみずからこれらの物を調製したらしいが、武士たる者が――いや、おまえは武士ではないが、孟子《もうし》も君子は庖厨《ほうちゆう》に遠ざかると申しておる。朱印船の総大将たる茶屋のあるじが庖丁をとるとは、少し道楽が過ぎるではないか」
「いえ、これぞまったく将に将たる者の道楽であると存じまする」
「なにゆえじゃ?」
佐渡守がとがめるような声を出した。それは四郎次郎の言葉の意味がわからないというより、大御所さまに対して言い返すとは、さりとは不遜な、という感情のためであった。
「いえ、これはあるポルトガルの船長の申したことでござりまするが、肉を食わず、米や野菜ばかりを常食とする国民は勇気を失い、だれの命令にも犬のようにおとなしく従うようになる。すなわち、文字通り他国に食われてしまう。一国の興亡は、その民の食物の如何による――と。私はまことに至言と存じまするが」
「犬のように従順な民、まことに結構ではないか」
と、家康はいった。
「かくてこそ、天下の静謐は保たれる。それがかえって民の安穏のもととなる」
「それは一国の内だけのことで、他国とつき合い、時によっては争わねばならぬ場合は、――」
「日本は海に囲まれておる。その海を介しての交わりを断てば大事ない」
家康は、うっかりと容易ならぬことをいった。つまり彼の脳中にきざしかけている未来の国策をヒョイと漏らしてしまったのだが、それもこの四郎次郎の思いがけない抗議にちょっと狼狽したせいであった。
鎖国――それは茶屋四郎次郎にとって重大以上の大変事のはずだが、ふしぎなことにこのとき彼は、それがよくわからなかったらしい。それより、ほかの観念にとらわれていたようだ。いや、かねてから抱懐している意見を、この際大御所さまに披瀝《ひれき》したいという欲望でいっぱいだったようである。
「静謐、安穏――大御所さま、しかし民は静謐で安穏で、さて何をするのでござりましょうか」
「それ以上、何を望むことがあるのか」
四郎次郎はまるで南蛮人のように両手をひろげた。
「民の望むことは、要するに美味いものをたらふく食い、美しい女を心ゆくまで愛することで。――」
「ばかめ」
とんでもないことをいうやつだ、というような声で佐渡守がいった。
「いえ、それを叶えられずして何の静謐、安穏ぞや。この民の欲を能うかぎり叶えさせてやることこそが、天下人の夢であらねばなりますまい」
四郎次郎は笑った。
「私なぞは、美味いものを食うためには大金を投じても惜しいとは思いませぬ。これぞと思う女と交合して、交合しつくして、たとえ死んでもいのちが惜しいとは思いませぬ」
大御所と本多佐渡守の前で、実に大胆不敵なせりふである。
特筆すべきは、茶屋四郎次郎は、こんなことをしゃべりつつ、決してかみついている調子ではなく、あくまでにこやかで、かつ眼前の料理を食べつづけているのである。しゃべりながら食い、食いつつしゃべる、という紅毛人の食卓作法は知らなかったが、しかし家康にも佐渡守にも、四郎次郎がこちらをからかっているとは決して見えなかった。彼がおのれの持論の開陳に熱中していることはあきらかであった。
「私はみずから庖丁をとります。油や酢や塩の分量をいろいろと工夫いたします。そして、何か美味い料理法はないかと日夜腐心しております。私の意見を以てすれば、新しい料理法の発見は、御朱印船の新しい航路の発見にも匹敵すると思われるほどで。――」
このあいだも、美しい女たちは、次々と――こんどは菓子類を運んでくる。
「これは胡麻《ごま》餅、それは胡麻牛皮と申しまする」
四郎次郎は解説する。そして、みずから食う。ちっとも急がず、悠々としてしゃべり、かつ笑いながら、片っぱしからたいらげ、それが涎《よだれ》だらけの唇の中に吸いこまれてゆくのが、いかにも美味そうで、もう満腹のほかの家来たちも――ひとたびは大御所さまと四郎次郎の問答を、手に汗にぎってきいていたのに――つい吊りこまれてその手を出し、絶佳の風味に胃袋も裂けよと食いつづけずにはいられない。
「次なるはカステイラと申す南蛮菓子で」
たっぷりとした砂糖の甘味《かんみ》は、一同の腸《はらわた》をとろかした。砂糖は貴重な輸入品で、家康などは献上されたものを、だれにも舐《な》めさせずにみんな蔵にしまいこんでいるくらいである。
「女も食い物も、あまりに美味いのは危険じゃ」
それを見つつ、家康はうわごとみたいにいった。彼が、おのれを制するのにこれほど動揺を感じたのは珍しい。――
「かつて、織田内府にな、こんな話がある」
と、彼はいい出した。
「内府が天下をとられたのち、滅んだ三好《みよし》家で名人と聞えた庖丁人|坪内《つぼうち》なにがしに料理させられたことがある。ところが出された料理が、あまりに水くさいので、内府は立腹なされて、その料理人はわれを愚弄《ぐろう》いたしおるか、ただちに首刎ねよと申された。しかるに、いまいちど料理させてたまわれ、それにてお心に叶わずば腹切らんという坪内に、再度の膳を許されたところ、このたびは甚だ美味にして、坪内には禄を与えられたほどであった。あとで坪内めがひそかにいったという。最初のものこそ公方《くぼう》衆の第一等の料理なり。お気に召したる次なる料理は、第三番、四番、野鄙《やひ》なる田舎料理の味なりと。――人、語って、その料理人はみごとに信長公に恥かかせたりと膝を叩いたというが、わしの思うところでは、信長公はさすがじゃ、公方家の料理こそまずいと断じ、あくまで田舎料理をよしとせられたる根性こそ、信長公が公方や三好らを倒して天下をとられたゆえん。――」
このせっかくの大御所好みの教訓的逸話も、陪食者たちの喚声にかき消された。そこへ大きく半月形に切られた西瓜《すいか》が銀盆にのせられて運び出されてきたからだ。西瓜というものも、このころまだ日本に渡ってまもなく、少なくともこれほどみごとな西瓜を見た者はこの座になかった。
眼前に置かれたみずみずしい真っ赤な果肉に、反射的に瞳孔が散大するのをおぼえつつ、家康はいった。
「わしは信長公にあやかろうと念じている。そもそも食物など、何でもよい。空腹こそ最大の美味というべきじゃ」
「満腹しておっても、なおかつ食いとうなる美味いものを作り出す。これこそ文明というものでござりまする。腹のへったときにまずいものなし、というのは文化の終りでござりまする」
そういってのけると、茶屋四郎次郎は盛大に西瓜にかぶりついた。繰り返していうようだが、彼の様子には大御所さまに異を唱えて快とするといった大それた調子は全然なく、強いていえば、この持論だけはだれにも譲らぬといった風に見えるが、何より目下の口腹の愉楽にみずから陶酔し、おしゃべりはその伴奏としている感があった。
……やがて、美酒に悪酔いしたような顔つきと足どりで、一同は茶屋を立ち出でた。おびただしいお土産の絹織物、緞子《どんす》、伽羅《きやら》、砂糖などの輿に囲まれながら、乗物にゆられていた家康は、
「佐渡よ」
と呼んだ。
そばを歩いていた本多佐渡守が寄った。
「茶屋も、長くはないの」
と、家康はいった。狸の中《ちゆう》ッ腹《ぱら》といった面相であった。
三
改めていうのも可笑しいようだが、家康のような英雄は、古今東西に珍しい。疾風迅雷の信長型、天空海闊《てんくうかいかつ》の秀吉型のような英雄はほかに例がある。近代でいえばヒトラーは前者であり、ルーズヴェルトは後者だ。が、家康みたいな徹底したしぶちんにして、かつ大英雄であることにまちがいはないタイプは、ちょっと頭に浮かばない。強いていえば粘強無比のチャーチルだろうが、チャーチルはしぶいけれど、決してしぶちんではない。
女に対しても。――
そもそも家康に、女に興味を持つ心があったことさえふしぎに思われるが、これだけは別と見えて、七十五年の生涯に、名のわかっているだけでも二妻十五妾がある。もっとも身分が身分であるから、妾を持つことに現代のわれわれのような経済上の個人的努力は要らないわけだが、それにしてなおかつ、彼はしぶちんである。数の問題ではなく、その女に対する態度において。
彼は秀吉のように貴顕の息女を決して妾にはしなかった。そのほとんどすべては、身分低い家臣ないし牢人の娘であった。とくに世帯を持った経験のある後家が好きであった。家来に向っても、「女房には木綿を織る女を迎えよ」といった。働く能力のある女を妻とせよといったのである。彼にとって女は、ただ性欲を満足させる対象にしか過ぎず、その用を果たしたあとの女には、労働と節倹を要求した。彼は妾たちに金貸しを勧めたほどである。
そして彼は、性欲すらもみずから統御した。
彼の唯一の趣味といえば、ただ鷹狩りという、しかも後代の将軍のような大がかりなセレモニーではなく――まったく個人的なスポーツであったが、それについてさえ、
「およそ鷹狩りは遊娯のためにあらず、朝|疾《と》く起き出でれば宿食《しゆくじき》を消化して朝飯の味もひとしお心よく覚え、夜中ともなれば終日の疲れにより快寝するゆえ、閨房にもおのずから遠ざかるなり。これぞ第一の摂生にして、なまなまの持薬を用いたらんよりははるかにまされり」
という近代の医者でもいいそうな訓言を残している。
ただし、食物に対しては――さすがにいまのような栄養学には通じていない。駿府城の漬物が辛過ぎるという妾たちの悲鳴をきいて、台所役人に、女たちが何をいおうと改める必要はないぞと注意しているほどである。
もっとも医者が、当時の知識で、何が悪い、かにが悪いというと、その食物は、いかに好んでも、これを廃した。まだ若いころ、信玄から時季はずれの桃を贈られたが、珍しいものよの、と鑑賞しただけで手にとろうともしなかった話は有名である。そして大いなる克己心を以て、有害と思われる食物を廃した分だけ、量は健啖に食った。
これほどしぶちん、よくいえば克己心を以て、女と食物に対した家康である。
この両者に対して、八方破れの人間に好意の持てるはずがない。本能的にも理性的にも反感を禁じ得ないのは自然のなりゆきである。いわんや、それが家来筋の、しかも町人であるにおいてをや。さらにその人間が、「美味いものを食うためには大金を投じても惜しからず、これぞと思う女となら交合のあげく死んでもよい」など、たわけたことを広言するにおいてをや。
今や、大御所は言った。
「茶屋も、長くはないの」
と。――
たんに腹心本多佐渡守にもらしたつぶやきに過ぎないが、口にした人が人である。聞いた者が者である。茶屋四郎次郎の運命はここに極まったものと宣言されたにひとしかった。
しかるに――それがなかなかそうはゆかなかった。
四
それには理由がある。
一つには、その人物、その人生観、その生活がいかに徳川の家風とは正反対とはいえ、べつに眼の上の瘤《こぶ》というほど大きな邪魔物ではなく、それどころかもっと気にかかる、徳川の運命に直接かかわる大坂城という存在を控え、その大坂に対する戦争のための軍資金の捻出《ねんしゆつ》源の一つとして、この茶屋四郎次郎がまだまだ家康にとって必要であったからだが――。
しかし、それよりも大きな理由は、そのうちこの茶屋四郎次郎が、
「おや?」
と、家康が眼をしばたたくようなことをやってのけたからであった。
慶長十三年春。――
茶屋四郎次郎は駿府に伺候した。朱印船その他|上方《かみがた》の経済状勢の報告のために彼が江戸や駿府に往来するのは恒例となっている。
四郎次郎は、家康の心など全然知らぬが仏であった。彼はいつも、女さえも混えた一団を率いて、柳営や大御所はもとより幕府の大官、諸大名に気前よく進物を配ってまわり、思いがけないところまで顔を出して、にぎやかな笑い声をひびきわたらせていた。
そして、この春、たまたま駿府に来ていた柳生|又《また》右衛門《えもん》が憂色につつまれているのを見た。ついで四郎次郎は山田浮月斎《やまだふげつさい》なる剣客が、柳生に決闘を申し込んでいることを知った。
山田浮月斎とは何者か。
柳生又右衛門は、いうまでもなく剣聖|上泉伊勢守《かみいずみいせのかみ》に師礼をとった柳生|石舟斎《せきしゆうさい》の子であるが、やはり伊勢守の高弟に疋田小伯《ひつたしようはく》という名剣士があった。かつて家康が彼を見て、「疋田の剣はあまりに荒くしてかつ一騎討ちの剣なり、将に将たる者の師にあらず」と斥けて、ために小伯は関白秀次の剣士となったという。山田浮月斎は小伯の弟子であった。
「柳生では、このごろ高慢にも祖師上泉どのを無視して、その剣を柳生|新陰《しんかげ》流とか唱えられておるときく。それにならって、当方も疋田陰《ひつたかげ》流を天下に拡めたいと念じておる。同じく伊勢守どのの道統をひく剣法、いずれがまされりや、孫弟子同士で試合をいたしてみたい」
と、彼は、つれてきた七人の弟子たちをかえりみて言ったという。
「ただし、柳生はもはや将軍家の御師範、そのような試合はせぬとお拒みなさるなら――いや、又右衛門どののことゆえ、必ず左様な遁辞《とんじ》を設けられるであろう――又右衛門どのと拙者が立ち合わずともよろしい。そちらも七人、弟子をお出しなされ、こちらの弟子と試合いたさせよう。むろん又右衛門どのお望みならば、浮月斎よろこんでお相手つかまつる」
謹直な又右衛門は、試合の許可を大御所に願い出た。
「おまえはそれに応じてはならぬ」
と、家康は制した。
「向うの願い通り、弟子にやらせい。本来ならばそれも好ましゅうないが、上方におるわが服部の手の者の調べによれば、山田浮月斎なるものの背後には大坂がある」
「――や?」
「うまくゆけばお前を討ち果たし、そうは事が運ばず柳生の弟子どもを破ったとしても、徳川の士気をおしひしぐ。少なくとも徳川の剣法の手並みの吟味はできる道理じゃ。むろん、きゃつはそのあとで大坂城に入るつもりでおる」
家康はちょっと意地悪い笑顔でいった。
「そのほうの弟子を以て、きゃつらの望みを打ち砕いて見せよ」
で、帰って来て、浮かぬ顔をしている柳生又右衛門のところへ四郎次郎が来合わせて、右の次第を知ったというわけであった。
「御心配か、柳生どの。あなたさま、お勝てになれそうもありませぬかな」
と、彼は又右衛門を盗み見た。
「なんの。――大御所さまは御不安のようじゃが、わしが浮月斎と立ち合うなら勝てる。が、弟子ども同士となれば喃《のう》。つれてきた浮月斎の弟子ども、ちらっと見たが、みな痩《や》せこけて山犬のようなつらをしおって、いずれもただものではない。――」
「いけませぬか、全然」
「いや、六分四分であろうが。――向うが六分じゃ」
「試合をやるなら、いつのことでござりまする?」
「浮月斎の申し込みは十日以内じゃ」
四郎次郎はしばらく思案していたが、やがていった。
「その件、私にお委せ願えませぬかな」
「なに、おぬしが?」
又右衛門は驚いた顔をし、すぐに苦笑した。
「いかにもおぬしの父御《ててご》は豪傑であった。が、おぬしはいまは町人ではないか」
「それが、ちと長崎で切支丹伴天連の妖術を習いましたので」
「なんじゃと?」
「いや、これは冗談。ただし、その試合、私がお助け申したいということは冗談ではござらぬ。徳川家のおんためでござる」
――柳生又右衛門が山田浮月斎に弟子七人ずつを以ての試合を了承したと返事をしたのは、その翌日のことであった。ただし、条件があった。
「七人、一人ずつの試合はだらだらと長びいて煩わしい。かつ剣法は実戦的であることをむねとする。しかれば、七人、同時に乱れたたかい、敵の最後の一人まで仕止めるかたちでよければ承知いたす。面倒をふせぐために真剣の方が望ましい。場所は安倍《あべ》川の河原約千坪を以て果し合いの場とする」
という恐るべきものであった。
山田浮月斎方は暫時協議ののち、この真剣による集団戦を諾した。
さて、その日がきた。安倍川の河原に、たしかに千坪ばかりを区切って竹矢来がめぐらされ、その外に見物人が雲集した。約束の刻限至って、双方の剣士合わせて十四人がその中に入った。
そして、まるで古代|羅馬《ローマ》の剣奴《けんど》の試合のごとき壮絶な死闘が開始されたのだが――はじめ、見物人は事の意外に眼をまるくした。
出場した柳生方の剣士七人はいずれもまるまると肥った体格のいい連中ばかりであった。これが敵に向わず、それぞれ一目散に逃げ出したのだ。見物人のみならず、山田浮月斎の方の剣士も唖然として――やがて、猛然とこれを追い出した。
「卑怯っ、卑怯っ、敵にうしろを見せるか、柳生っ」
「教えてやる。これがすなわち戦場の駈引じゃ。――」
そのへらず口の通りに、柳生方は竹矢来の外には出なかった。その内部を駈けめぐるのだが、何しろ一千坪の広さである。右から来れば左へ、南から来れば北へ、自由自在に逃げまわった。たんに逃げるばかりではない。敵が立ちどまっていると、尻を叩き、あかんべえをし、はてはすぐ近くまでやって来て大袈裟に挑戦する。見物人がどっと笑い、そして山田方の剣士は憤然としてまた駈け出した。
なんと、追いも追ったり、逃げも逃げたり、これが約一刻――二時間近くかかったのである。
山田方はついにくたびれて、みな坐りこんだ。柳生方はそれを遠巻きにして、――
「なんじゃ、もう弱りおったのか」
「ばかばかしくなったのだ」
「では、試合放棄か。負けたといえ」
「どっちが負けたか、見物人が見ておるわい」
「見物人のための勝負ではない。――戦場の勝負はこれじゃ」
たちまち柳生の七人は猛然と疾駆して斬り込んできた。
山田方はあわてて起《た》って、改めて格闘が起った。と見るや、柳生方はまた逃げ散る。これを追ってばらばらになった山田方七人のうち一人が斬られ、また一人がつんのめった。
形勢は逆転した。これからあとは、疲れ果て、足もよろめき、喘息《ぜんそく》病みのような喘《あえ》ぎをあげて逃げまわる浮月斎方の剣士たちを、なお躍々たる精気を残す柳生方が、まるで猫の鼠を追いつめるがごとくみな殺しにしてしまったのである。
――この経過をきいた家康が、又右衛門にきいた。
「どうしたのじゃ、あれは?」
「茶屋四郎次郎の入れ智恵でござりまする」
又右衛門は苦笑していた。
「逃げまわって相手を疲れさせることがか」
「されば、その兵法もござるが、それまでの――食法」
「食法」
「試合までの十日間ばかり、四郎次郎め、私方の七人を預って、あれの料理人に腕をふるわせ、大御馳走を食わせつづけたとのことで――実に油濃き料理にて、その点ではいささか辟易したと申しておりましたが、私が見てもみな別人かと思われるばかりにあぶらぎり、一里走っても三里走ってもなお、一里三里は走れるという精力を蓄えたことこそ不思議」
「ほほう。……」
「一方、向うは痩せた野良犬のごとき男ばかりでござります。短時間の勝負なら知らず、一刻も駈けまわると、もはや腰もぬけて這いずりまわるほどのていたらく」
柳生|宗矩《むねのり》は苦笑を消し、首をかたむけていった。
「拙者、武士たるもの粗食に耐えることこそ本領とは存じておりましたが、きょうのことを見ると、ちと考えねばならぬと虚をつかれた思いでござりまする。……」
家康は宙を見ていた。彼はいつか茶屋四郎次郎のいった言葉を思い出そうとしていたのである。
――一国の興亡は、その民の食物の如何による。
五
――とはいえ、これで家康の栄養観が改まったという徴候はない。七十年ちかい風雪を粗食でしのいで来て、現在のおのれの堅忍力と徳川家の強固さはむしろこの克己にあると信じている人物が、そう簡単に変るわけがない。
ただ作者が思うのに、この家康の食生活に対する信念がいかに徳川三百年を規制し、さらに日本の近代にまで影響を及ぼし、いかに日本人に災害をもたらしたかを考えると、痛恨に耐えないものがある。
――「甲子《かつし》夜話」にこんな話がある。
駿河にあった大御所が鷹狩りの帰途ふだん碁《ご》の相手に呼んでいる滝善《たきぜん》右衛門《えもん》という一町人の家の前を通ったとき、ふとその一家がそろって白い飯を食っているのを見て不機嫌になった。のちの或る日、その町人が来たとき、家康はいやみをいった。
「汝は後々家の相続おぼつかなし。汝らが身分にて白米の飯を喫する心得にては中々相続すべきものにあらず」
善右衛門は驚愕して、
「あれは白米ではござりませぬ。豆腐|粕《かす》の飯でござります」
といい逃れた。
が、その後彼は恐怖して、一家必ず飯におからを混ぜて食ったという。
「甲子夜話」は文化文政《ぶんかぶんせい》のころの大名|松浦肥前守《まつらひぜんのかみ》の随筆だが、こういう話が一大教訓として書かれているところが、家康が徳川時代を規制していたというあらわれである。
依然として茶屋四郎次郎は、家康にとって目障りな男であり、気にくわない存在であった。その後も彼がいよいよ肥満し、京の寺などに詣《まい》るときちょっとした石段でもあると、うしろからあと押ししてもらわなければ上れないなどという話をきいて、
「又右衛門」
と、たまたまそばにいた宗矩をかえりみていった。
「本尊がそのざまでは美食もやはり考えものじゃぞ」
そのふとっちょが、近来また四、五人もの京の美女を新しく妾とし、五日に一度は豪商たちと珍しい料理を食べる、愚留満講《ぐるまんこう》という――何の意味やら余人にはわからぬ――会を催し、そこへ、京に滞在する大名――徳川方も大坂方さえも――ときどき招いているという話をきいて、彼は不機嫌なときの癖の爪をかんだ。これは甚だ天下人らしくない貧乏たらしい家康の癖であった。
どうやら四郎次郎は、食道楽ならたとえ悪魔でも歓迎するらしかった。が、これで四郎次郎に鉄槌《てつつい》を下すきっかけはようやくつかめたわけであったが。――
慶長十五年秋。――
上方にあった服部組の首領服部半蔵が、徳川にとって手に汗を握るような誤報をもたらした。大坂の淀君から加賀百万石の前田中納言|利長《としなが》へ秘状がつかわされたというのだ。実に、どうしてつかんだか、その文面さえも判明した。
「……太閤の御厚恩、さだめて忘れ申されまじく候。一度お頼みあるべきの間左様に相心得らるべく候。……」
すなわち、前田家に豊臣への忠誠登録を請求したものだ。
ところでこの時点において、なお徳川か豊臣か旗幟《きし》鮮明でない大名がまだ多数あった。加藤とか福島《ふくしま》とかいう荒大名たちも、関ケ原で東軍についたのも真の眼目は豊臣家安泰のためにあると言い張っているくらいで、さしもの家康が大坂に手を出せない理由の最大のものとなっている。その太閤恩顧の大名中の領袖《りようしゆう》はいうまでもなく前田家であった。
先代前田大納言|利家《としいえ》が太閤亡きあと秀頼を抱いて悠然と立つ姿には、家康すら圧倒されるものがあった。その子、中納言利長、これまた深沈茫洋として、その心中容易に外よりうかがい知れないものがある。彼の去就があきらかになれば、首鼠《しゆそ》両端の諸大名もそれになびかざるを得ない。
伏見屋敷にあったその利長が、ときあたかも何くわぬ顔をして、なんと京の茶屋四郎次郎の愚留満講へ出るときいて、指令が服部半蔵に飛んだ。
半蔵はひそかに四郎次郎を訪れた。
「……かかる次第でござる。その会を利して、なんぞ中納言さまの御心底探るてだてがあるまいか?」
半蔵の顔を、いまは象のように細くなった眼で見た四郎次郎はいった。
「中納言さまをこちらの虜にすればよいのでござろうが」
「虜に? そんなことが出来まするか」
「あのお方ならば……ひょっとすると」
その日、前田中納言利長は茶屋家にやってきた。
利長このとし四十九歳、若いころは利家に従って転戦し、父の名を恥ずかしめぬ驍将《ぎようしよう》といわれた人だが、いまは力士のごとく重げにふとっている。彼は大食家あるいは美食家で聞えていた。それで京へ来ると、しばしば四郎次郎を屋敷へ呼んで食道楽のはなしを交すことを愉しみとし、あげくのはては、この会へ出向いてくる次第とはなったのだ。
精根こめた四郎次郎の和洋華混合の料理の美味と珍しさに、利長はいうまでもなく大悦びした。そして、その日出席した食通町人らの三倍はたいらげて、一同を驚かせた。
「ああああ、わしはいつまでも京におって、毎日茶屋の料理が食いたいものよの」
と、彼は涎をふいて長嘆した。
「しかし、わしは近くまた、加賀へ帰らねばならぬ。――」
「中納言さま、お望みならば」
と、四郎次郎はささやいた。
「私の料理人どもを献上いたしましょうか?」
「なに、この料理を作った者どもをか?」
「左様。ただし、いずれも徳川家に縁のある者どもでござりますれば、江戸のお許しを乞わねばなりませぬが」
逆にいえば、徳川家につながる連中を、たとえ料理人とはいえ、いまの時点で前田家に抱え入れることは相当に覚悟の要ることであった。
しかし、利長はあえてそれを受け入れた。むしろ望外の獲物に狂喜したようであった。
利長が淀君からの秘状の内容を駿府に通報したのは、それからまもなくであった。相対立する勢力の一方の秘密を他方に打ち明けることは、彼の或る決定を物語る。それどころか。――
彼は茶屋から贈られた料理人一同をつれて加賀へ帰ると、あとは十七歳の若い弟|利常《としつね》に譲って、自分は能登《のと》に隠居してしまった。
「ど、どうしたのでござる?」
と、服部半蔵はきいた。茶屋四郎次郎にである。
「中納言さまは、もう修羅の浮世に煩わされるのがいやになられて、ただひたすら美味い料理を食って長生きせられとうなったのでござるよ」
と、四郎次郎は笑った。
「まさか? と思われるか。大御所さまもお信じ下さるまい。しかし、私だけは、あの中納言さまならあり得る。必ずこうなるはずじゃと信じておりましたわさ。いや、わしの料理人は切支丹伴天連以上。――わはははは」
そして、四郎次郎こそ切支丹伴天連以上の妖術使いであった。彼は自分の料理人の全部を前田家に譲ったわけではなかった。というより、茶屋家に抱えられている料理人が豊富過ぎたのである。そして、その残りの料理人を以て、またも――ひょっとしたら、歴史を左右したかも知れぬと思われるほどの出来事に加わらせたのである。
慶長十六年春。――
家康は、秀頼と二条城において会見することを強制した。それは大坂城の奥ふかく成長して今や十九歳になった秀頼を、彼自身の眼で偵察したいという願望にとりつかれたためであった。が、徳川の異心についてそれ以上に気をまわして万一のことを恐れ、淀君は猛烈に反対した。
この応接のあいだ――二条城に交渉に来た大坂方の大蔵卿の局《つぼね》をはじめとする女官たちは、出された食事のただならぬ美味さに驚倒した。口のおごった女官たちで、しかも大坂城の命運にかかわるという大事な談判のさなかに、彼女たちの夜ばなしはこれに終始したといっても過言ではないほどのありさまであった。
料理人はだれか。――茶屋四郎次郎の料理人ときいて、
「ああ、あの音に聞えた――」
と、二、三人がさけんだのは、かねてからの噂を耳にしていたものであろう。
このことをきいて、四郎次郎は改めて昼餐《ちゆうさん》の一席を申し出た。彼女たちは一議もなくこれに応じた。例によっての和漢洋の珍味に彼女たちは陶然とした。
四郎次郎は微笑していった。
「秀頼さまは京へおいでになりますのか」
「それはわからぬ」
「若し、御上洛相成りまするときは、茶屋四郎次郎、一世一代の御料理を作って進ぜましょうず」
「これよりも、もっとおいしい?」
「十倍も美味い!」
「――おう、それならば!」
と、女官の一人がさけんで、
「ま、はしたない。――」
と、大蔵卿の局にたしなめられたが、そうたしなめた大蔵卿の局も、それから四郎次郎が音楽的な声でしゃべりはじめたかずかずの美味い料理や、珍しい料理法の話をきいているうちに、次第にうっとりと夢みるような表情になってゆくのを禁じ得ない風であった。
女たちは大坂へ帰った。ゆきなやんでいた秀頼上洛のことが一挙に解決したのはその直後である。
三月二十八日、家康と秀頼は二条城で会見した。
両者の会見そのものは、実にあっけないものであった。ちょうど昼にかかり、「膳部かれこれ美麗に出来けれども、かえって隔心あるべきかとて、ただ吸物までなり」とある。すなわち秀頼は吸物だけのんで、その日の午後にはもう大坂へ帰ってしまったのである。
この膳部は、茶屋四郎次郎の作ったものではなかった。彼はそれを申し出たのだが、家康がとり合わなかったのである。
「……ああ残念な。もし私に大午餐会をお委せ願えたならば、これぞ徳川豊臣和楽の未曾有《みぞう》の宴《うたげ》となったものを」
だいぶあとになってから、四郎次郎がそう嗟嘆したということを家康はきいて苦笑した。
しかし、それを報告した服部半蔵は、また大坂城の女たちがそのことについて甚だしく残念がり、また空約束で徳川にはかられたと恨んでいたことも事実であると告げ、
「いつぞやの前田中納言さまのこともござりまする。大坂城のおんな衆が茶屋の料理にひかれて秀頼さまの御上洛をすすめたということも、あながち荒唐|無稽《むけい》のことでもないのではござりますまいか?」
と、首をかしげていった。
家康は苦笑を消した。彼はいちど食べただけなのに、なお舌に残るあの絶佳の味がよみがえるのを感じたのである。
もし、そういうことがあるならば、茶屋四郎次郎の料理は天下の運命にすらかかわりを持ったことになる。――たとえ、会見当日には出なかったとはいえ、その会見を実現するのにあずかって力があったものと見なければならないからだ。そして自分はその会見で、秀頼の人物打診という目的は達成したからだ。
――ばかなことを。
しかし、ふたたび家康は肩をゆすった。
現実的な家康は、「――まさか、食い物が天下のことを」と笑殺したけれど、やがて彼は冗談ではなくそんなことがあり得るのではないか、と認めなければならない事態を見ることになる。
慶長十九年夏。――
果然、大仏鐘銘事件が勃発した。果然、というのは家康から見れば、大坂を始末するきっかけを狙っていたその機会がついに到来したということで、すなわち豊臣家が鋳た方広《ほうこう》寺大仏殿の鐘の銘の中に、
「国家安康、君臣豊楽」
という八字があったのに対し、これは家康を調伏する不吉な文字だと難癖をつけたのだ。
この銘文を作ったのは、当代切っての名文家|清韓《せいかん》という学僧であって、彼になんら意図のないことは家康もちゃんと知っていた。しかし、どうあってもこの際これを手品のたねにして、大坂城に難題を持ちかけねばならぬ必要に迫られたのだ。従って、その難題を、世にはいかにももっともらしい屁理屈《へりくつ》で鎧《よろ》わなければならなかった。
京都に密行した本多佐渡守は、服部半蔵に命じた。
「服部、五山衆とひそかに逢いたいが、なんぞよい機会と場所があるまいか」
半蔵は思案して、うなずいていった。
「左様、茶屋四郎次郎のところがよろしゅうござりましょう」
それは徳川の大策士と五山の長老たちが京で非公式に逢う場所として――と、ただ場所という見地だけから思いついたことであったかも知れない。
しかし、これははからざる別の効果を現わす場所となった。
本多佐渡守と五山の長老は、茶屋で三度ばかり会見し、その結果。――
「国家安康と、家康のおん名を二つに切ったのは不都合である。君臣豊楽とは、豊臣を君として楽しむと読む下心である」
などと、理屈にもならぬ理屈に、仰々しい和漢の古例をならべた弾劾案を出し、「曲学阿世」の醜名を千歳《せんざい》に流すことになったのだが。――
服部半蔵の見るところでは、彼らも充分そのことは承知のこの会合に、彼らが三度も出てきたのは茶屋の料理ではなかったかと思われるふしがあった。
はじめ、出された料理を見て、
「や?」
僧たちは、これはしたり、といった表情をした。四郎次郎は手をもんでいった。
「御安心下さりませ。お召し上りになればわかりまするが、肉も魚も一切使用してはござりませぬ。まこと精進料理でござりまする」
食べて見て。――
「うむう。……」
みな、うなった。四郎次郎がいちいち説明した。
「麻腐《まふ》」と称する胡麻豆腐、山芋やゆりね[#「ゆりね」に傍点]や筍《たけのこ》や蕗《ふき》などを煮た「笋羹《しゆんかん》」、それらの野菜を葛《くず》でかためた「雲万《うんぺん》」、銀杏《ぎんなん》や蓮根《れんこん》や餅などの揚げ物。――それらすべてに昆布だしと、いい油が絶妙に使われていた。朱塗りの雅《みやび》な容器を見てもわかるように、これは支那伝来の精進料理に、四郎次郎が長崎でおぼえた「しっぽく」料理の手法を加え、後年普茶料理ともてはやされたものがこれであった。
坊主はまずいものを食うのをむねとする。五山の長老といえどもこれは避けられない。そこにあくまで精進の淡白を持ちながら濃厚の油を加えたこの料理は、これらもったいぶった老僧たちの心腸をとろかした。食い終ったとき、彼らがまるで美女と心ゆくまで交合したあとの飽満感に似た顔つきになっているのを、陪席していた半蔵は認めた。
「こりゃ、この会合に来いといったら、この坊主ども百度でも来るかも知れぬて。……」
駿府へいったとき、半蔵がふとこの見解を座興に述べたら、家康は恐ろしく不機嫌な顔をした。
「半蔵、坊主の悪口をいうと、三代くらい祟るぞ」
さすがの家康も、おのれの強引な策謀の中に、食い物に魂を売った坊主たちを加えるのは甚だ不愉快であったと見える。
しかし、この坊主どもの協力によって宣戦布告の口実をつかんだ家康は、その翌年|元和《げんな》元年五月、大坂城を火と煙の中に滅ぼし去った。
六
元和二年一月二十一日、駿府にあった大御所家康は近郊に鷹狩りに出かけた。そして、快く疲れて帰城して見ると、茶屋四郎次郎が挨拶に来ていた。
家康は、大坂城を始末して駿府に凱旋してから、ちょうど半年目であった。が、大坂城攻囲のため上方にあったあいだ、兵馬|倥偬《こうそう》、さすがにこの茶屋四郎次郎に逢う機を得なかった。
それで、御戦勝のお祝いに京から参りました、と四郎次郎はいった。むろん、おびただしい進物を持参してである。
帰城したとき上機嫌であった家康は、また難しい顔になっていた。依然として四郎次郎が気にくわぬ上に、この男が両側に二人の美女を従えているのを見たからである。
「その女は何者じゃ」
と、彼はきいた。
「これは、私めの介添えでござりまして」
と、四郎次郎はべそかいたようにいった。
「何しろ、起居、何をいたすについても、わたしのからだを動かしてくれる者がありませぬでは勤まらぬ始末と相成りました。もしや転びでもして――転んだら、もう一人では起き上れませぬ――醜態をさらしましてはかえって御無礼と存じ、かようなものを付けておりまする段、ひらにお許しを」
最初見たときから、実は家康は驚いていたのである。まるでそこに小山が鎮座しているかと思われた。もともと肥満している四郎次郎であったが、さてこの男を最後に見てから何年になるだろう、それほどの時はたっていないはずだが、今や首は胴にめりこまんばかり、眼鼻口は顔に埋没せんばかり――坐っている腿《もも》など、常人の胴くらいあるのではないかと思われる。
「あまりに喰《くら》うからじゃ」
と、家康は呆《あき》れ返って苦笑した。
四郎次郎が哀れに笑うと、からだじゅうの筋肉がだぶだぶと波動して、駿府城までが震動を起しそうだ。
左様、こやつをとっちめてくれようと考えたこともあった、と家康は思い出した。それが、ひょんなことで知らず知らず長生きさせてしまったが、今見れば、いつぞやわしに向って桁《けた》はずれの議論を吹っかけた気迫などどこへやら、十日浮かんでおる春の日の土左衛門のごときていたらく。――いや、こやつ、これ以上長生きするであろうか。到底そうは思われない。もう長くはないな、と見ないわけにはゆかない。捨ておいても、あと、二、三年ではないか。食い物を食い過ぎて命を失うとは、いおうようなき大たわけ。これは摂生したわしの方がはるかに長生きするぞ。
――家康は少し機嫌がよくなった。
そこへ、榊原内記《さかきばらないき》という家臣が登場して、大鯛五本、甘鯛七本を献上した。
――と、きいた茶屋四郎次郎の目がかがやき出した。
「あ!」
例の女みたいな奇声を発して、
「それ、それそれ」
「なんじゃ」
「このごろ南蛮人よりききましたる新しい料理法でござりまする。これをよい油であげて、大蒜《おおひる》で食う。――二、三度試みましたるなれど、えもいわれぬ美味でござる。いかが、お召し上りになりまするか。大御所さまきこしめすとあらば、私、久々にてみずから庖丁をふるってみとう存じまするが」
「おまえ、からだは動くのか」
「それが、食う物の料理となれば、奇態に動くのでござりまする」
家康は笑った。相変らずだ、といつぞやのことを思い出した。あのとき京の茶屋家で食べた味の濃美さが舌にとろりとよみがえった。鷹狩りのあとで、彼は健康的な空腹をおぼえていた。
「では、やってみい」
――数刻ののち、夕食に、見事に調理されたその鯛が出た。特別料理というので、たまたま駿府に来ていた本多佐渡守も、榊原内記も相伴した。これを料理した茶屋四郎次郎はもちろんのことである。
油で揚げられた新鮮な鯛、それに、磨ったにんにくがかけられた。その美味さに、家康はわれを忘れた。口の中でまじり合った油とにんにくと唾液が、溶けて、溢れて、全身の精気となる感じであった。
大鯛五本、甘鯛七本というのは、しかし相当な量である。
「大御所さま、お食が過ぎましては。……」
と、からくもわれに返った佐渡守が注意した。
家康も、こんなに食ったのはここ何十年ぶりだろう、と苦笑した。顔をあげると、向うで茶屋四郎次郎も食っている。それが可笑しい。箸で鯛の身を挟んだものの、自分の腕が自由に曲がらず、左右の女二人に、自分の腕を一々折り曲げてもらって食っているのである。それでもこの席で、あかん坊みたいに口をあけて食わせてもらうことは憚っているのであろうが。――珍しく、家康は腹をかかえて笑った。哄笑《こうしよう》すると、まだ胃袋に入る余地が生まれたような気がした。
「きゃつめ、食うわ、食うわ。……」
実に、そんな食い方をしているくせに、四郎次郎の前の大皿の鯛は、魔法のように消えてゆく。それを食う音が、何ぴとも猛烈な食欲を誘われずにはいられない音であった。
家康はまた食い出した。
「よいわ。……大坂も片づいたことじゃ」
と、彼はいった。
家康にしては、はしたないせりふであったが、実は彼は、もっとはしたないことを考えて、それをごまかすために危うくこの述懐に変えたのである。ほんとうは、彼は、片っぱしから四郎次郎にたいらげられてゆく大鯛が惜しくなったのであった。
本多佐渡守は口をとじた。左様、大坂は滅んだ。思えば七十五年、万世の太平をひらくためにひたすらおのれを制しておいでなされた大御所さま、せめてこの一夜くらい、たらふく美味いものをお召しあがりになって、なんで天道に背こう。――佐渡守はしゃべる口はとじたが、すぐに彼も熱心に、油揚げの鯛のために口をひらきはじめた。……
大御所家康は、その夜二時ごろから凄じい腹痛と嘔吐《おうと》と下痢に襲われた。本多佐渡守もまた同時刻腹中の異変を覚えたが、それを除いては他のだれも、大御所の十倍も食った茶屋四郎次郎にも何の異常も起らなかったのに、あの大食は七十五歳の家康には意外なほどの害をもたらしたのである。
「私も食ってござる! 私も食ってござる!」
茶屋四郎次郎は動顛《どうてん》して、かん高い声をあげつづけた。おそらくそれは、自分の罪ではないという必死の弁解であったのであろう。が、そのうち彼は、悲嘆のあまり狂乱状態となって、
「……私が悪い! 私の罪じゃ! 煮るなり、焼くなり、この四郎次郎をどうにでも料理して下され!」
と、さけび出した。その悲鳴に家康の嘔吐と下痢の音が混った。死床《ししよう》をめぐる医者や家臣たちの颶風《ぐふう》の圏外に――部屋の隅で号泣する茶屋四郎次郎の両腕を、二人の介添えの美女は機械的に眼に運んでやっていた。……
鳥のような声はつづいていた。
「私が食ったのでござる。……私が食ったのでござる!……大御所さまを、私が食ってしまったのでござる!」
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彦左衛門忍法盥
一
人呼んで「旗本奴《はたもとやつこ》」という存在が、異風、大手をふって大道せましと闊歩《かつぽ》しはじめたのは、この話より十何年かあとの明暦ごろのことだが。――
その原型ないし元祖ともいうべきものは、もうこの寛永期の末のころから現われた。最後の戦争大坂の役が終ってからでも、もう二十年以上になる。久しい泰平にエネルギーを持てあまし、そのくせ金がないのと体制が確立してしまっているのとで不平満々、そこで八つ当りにあばれたり、人をくった奇行を以て鬱をはらしたりする若い旗本集団である。
その集団の名も、明暦のころになると、「白柄《しらつか》組」とか「鶺鴒《せきれい》組」とかややあかぬけがし、異装といっても、びろうど[#「びろうど」に傍点]襟の衣服に立髪、無反《むぞり》の長刀をかんぬきにさすとか、帯も袖口も白く、大刀の柄《つか》、下緒《さげお》また白一色とか、花のお江戸にそれなりに合う華美《はで》なものになったが、この旗本奴草創時代は、風態もむさくるしく、組の名もどこか泥くさい、というより余人には何の意味やらよくわからないたぐいのものが多かった。
たとえば、「大草履《おおぞうり》組」「小草履組」などはまだいいとして、「下馬《げば》衆組」「下馬坊組」、或いは「呑々《のんのん》組」「呑堀《のんぽり》組」、それから「放屁《ほうひ》組」、さらに「飛屁《ひつぴ》組」に至っては、その由来も不明である。
これらの集団の行状がいかに変ったものであったかという例をあげると。――
まず「飛屁組」
これは髷《まげ》もゆわず、ざんばら髪で、素足に草履をひっかけて、まるで乞食だ。さすがに旗本そのものはなく、その次男坊三男坊が多い。神社や寺の境内にかたまって、うすぼんやりと日だまりに脛《すね》をかかえている。
どうして食っているのかふしぎに思われるが、これで町の人がためしに店の看板や広告《ひきふだ》など書かせると、思いのほかにうまいやつがある。大道芸人一座で病人が出たりして、代って居合抜きとか蟇《がま》のあぶら売りの口上など頼むと、本職はだしのやつがある。
ただし、こんな労働に手を出すやつは珍しく、大半は、新入りの若者が家から持ち出した金品を共同でつかい、または実家に出入りの商人などが気の毒がって、ときどき何ほどか置いてゆくのにまたみんなでたかって、それで糊口《ここう》をしのいでいるらしい。
いったい、どういう動機でそんなまねをやっているのだ、ときくと、
「あんな安扶持で、あれほど剣術行儀にぎゅうぎゅうしごかれてはわりに合わんよ」
と、せせら笑ったり、
「あの鳥を見よ」
と、天を仰いで、他人にはとんと不可解な返事をして、それっきり黙って肩をそびやかしたりするのはまだいい方で、たいていはただにやにや笑ったり、そっぽをむいたり、それからこれはほとんど例外なく大きなおならをして、それ以上の小うるさい問いを吹き飛ばしてしまう。
それにしてもあまりらくな生活ではないだろうに、いまいったように存外新加入の者があとをたたず、それから忘れたが、どういうわけか思いのほかに町の娘たちに人気があって、この方からの差入れがばかにならない。
はじめそんな行為を知って叱りつけた親に、
「心配御無用。あの方たちはそんな方じゃあないわ」
と、つんとしたり、
「ふふ、あれで案外気が弱いのよ」
と、けらけら笑ったりする娘が多かったが、それで親がそっと物蔭《ものかげ》でのぞいていると、娘たちから金品をもらう飛屁組は、男に対するときの反抗的、嘲笑的、無感動的な態度とは打って変って、頬あからめたりして、びっくりするほど初々しい。屁をひるどころではない。
むろん公儀がこれを黙っているわけはなく、大目付の方からきびしく親元に収容を命じたのだが、すでに親の方では匙《さじ》を投げて勘当にしたものが大半であった。
次に「下馬坊組」
これこそ、のちの旗本奴の最も純粋な原型で、また同時代のいくつかある集団の中核的存在だ。「下馬衆組」とならび乱暴をやる点では双璧《そうへき》だが、しかし下馬衆組とちがう――いや、ほかの組とはまったく異彩をはなつ特殊な信条を持っているのでこれを紹介するのだが。
なんとこの連中は、剣を否定し、兵法を否定するのだ。
「神君、万世のために太平をひらき給う。太平の世になんの剣、なんの兵法」
と呼号し、これに反論する者を、どこにこの太平を乱す謀叛者があるかと駁《ばく》し、それがない以上、剣は無益有害であると断じ、武を以て天下を統べんとするは邪道であると論破する。恐ろしく口の達者な連中であった。
むろん当時の支配者の思想の根幹をゆるがすことだから、これを鎮圧しようとした大官は数多くあった。そこへ逆に彼らから押しかけて右の論を吹っかけ、理論的に一歩もひかないのだ。
しかも、奇々怪々なことは、この剣と兵法を否定する若者の集団がそこへ推参するとき、必ず兜《かぶと》をかぶり、覆面をする。ただし、さすがに鎧はつけず、ただ棒だけを持つ。
「武を否定するやつが兜をかぶり、棒を持つとはおかしいではないか」
と、笑うと、
「剣を持つ相手と理論闘争をする最小限の防禦《ぼうぎよ》用だ」
と、答えるけれど、防禦用にしては棒の使い方が甚だ荒っぽい。
しかし、一人一人では珍妙なこの姿が、集団となると一種の迫力をかもし出し、かつ、ともかくも剣を捨てているところに、文字通り「無鉄砲」な悲壮味があって、なみのあばれん坊の「下馬衆組」などよりよほど人気があった。
とはいえ、武家政治そのものの脅威となりかねないこの集団の論理が、しょせん許されるはずはないのだが、ともかくもいままでのところふしぎに存在し得たのは、論理とは逆に、その捨身の勇猛ぶりのせいかも知れなかった。
あとの組は、以上あげた二つほどの特異性はないから割愛するが、ただ一つ紹介に値するものがある。「呑堀組」である。
これは家出もせず、あばれもせず、まったく尋常である。
徒党をなしてのし歩くということもないから、一見べつに組を作る必要もないようなものだが――しかし、よく見れば、これはこれで奇妙なところのある集団であった。
一つは――直参《じきさん》の子弟が学問や武芸に励むのは、将来公儀のしかるべき役職について大いになすあらんと志すためだが、この連中にそういう欲望がほとんどないように見える。外部に対しては、遅れず出過ぎず、ただ要領よく――一方で、未来の家庭をひたすら愉しいものにすることだけ念頭にあるかに見える。そしてその基本となるものは、温良で美しい妻と経済だと、ぴたり狙いをきめているかに見える。――
もう一つ、彼らの特徴は、牛込榎《うしごめえのき》坂にある軍学者|由比正雪《ゆいしようせつ》の私立兵法大学|張孔堂《ちようこうどう》にゆくことだ。いや、いい忘れたが、これはほかの異風の旗本集団も同様でその共通点はふしぎなのだが、このグループがいちばん長つづきがしているようだ。が、彼らの特徴というのは、張孔堂で何を習っているのか、仲間だけ集まって熱心に研究しているのをきくと、社交法と利殖の法の話らしかった。
社交の法は、能狂言、俳諧《はいかい》茶の湯、碁将棋くらいはまあいいとして、小唄三絃《こうたさんげん》の道から気のきいたお色気ばなしとなると、前代の侍にはまったく見られなかったことだ。
利殖の道は、所領の米の増産、生活の合理的節倹など、これは彼らほど熱心ではないとしてもそれぞれの父兄も念頭にないではないが、鳥飼いから植木、さらに右の社交上の芸を人に教えて束脩《そくしゆう》をもらうという智慧《ちえ》に至っては、断然新しい。
「呑堀組か」
と、吐き出すようにいった老人がある。
「あれは飛屁組とやら下馬組とやらより、うす気味が悪い」
同感の年配者が多かった。大目付などがしばしばこれらの弾圧に出ようとしたことは前にいった通りだ。が、結局いまのところ、彼らの存在が大目に見られていたのは、当局の背後に――いや、当局の枢要にある人自身が、かえってそれらの取締りに出ることを制していたからであった。
老中|松平伊豆守信綱《まつだいらいずのかみのぶつな》。
「いましばらくようすを見よう」
と、彼は側近にいった。
「若僧たちより、若僧たちをおだてておるやつを見張っておれ」
「……牛込榎坂でござるか」
と、側近がきいた。伊豆守はうなずいた。
「いや、張孔堂より、そこに長らく客分として滞在しておる森宗意軒《もりそういけん》という人物」
しばし、考えて、首をかしげた。
「きゃつ、老体のくせに、毎日、牛の肉一枚ずつ喰《くら》うというぞ。何とも奇態なやつ」
……が、こういうことは知らず、がまんなりかねて伊豆守のところへしきりに談じこむ一人の老旗本があった。大目付に気合を入れたのもこの老人である。が、それがあまり効果がないので、こんどはじかに伊豆守にねじ[#「ねじ」に傍点]を巻きに来たが、これまた煮え切らず、それどころか、悠然として、
「いや、人間、若いときはいつまでもつづくものではござらぬよ。見ておりなされ、そのうち、熱病はさめます」
――いかに相手が高齢者にせよ、二千石の旗本に向い、老中ともある人が例外的な鄭重《ていちよう》な調子であったが、しかし、からかうような笑顔でいう。
「御老人のお若いころなど、その烈しさ、あんなものではござらなんだろうが」
「あんなものではない。――その通りじゃ。根性の置きどころがちがう」
老人は満面を朱に染めていった。
「伊豆どの、あなたも戦さというものは知られなんだな。戦さに於てはな、左様な優柔不断こそ、はじめの小火《ぼや》が、あとになってとり返しのつかぬ総崩れの大もとになるのでござるぞ。ああ、苦労知らずのやつらが大きなつらして傍若無人の猿騒ぎ、それを取り締るやつが、これまたぬるま湯育ちときておる。こりゃ危のうて危のうて、見ておる方がいてもたってもおれぬわい」
彼は武者ぶるいして、憤然と立ち去った。
大久保彦左衛門忠教《おおくぼひこざえもんただたか》。――この寛永十四年春、七十八歳。
二
四、五年前からここに、「軍学兵法十能六芸師範」の大看板をかかげた由比正雪の軍学道場が出来た。張良孔明《ちようりようこうめい》にちなんで張孔堂と称する。
その張孔堂の門からぞろぞろ出て来た二十人ほどの若侍の一団が、みな何やらいっしんに考えている表情であったが、そのうちの一人が、
「おい、いまの坊主の論について、われわれだけでもう少し討論しようじゃないか」
というと、みないっせいにうなずいた。この一群が、こんなに昂奮することは珍しい。呑堀組の連中である。
張孔堂のすぐちかくに火除《ひよけ》地があり、六、七本の榎の大木が春の夕空を摩している。武蔵野《むさしの》のころからあったもので、榎町の名の起ったゆえんだ。その下に、輪になって、彼らはがやがやと論じ合った。
きょう張孔堂に京から妙な僧がやって来た。師の正雪とどんな縁があるのかわからない。妙心《みようしん》寺の僧だと紹介されはしたが、髪をのばしかかり、山崎闇斎《やまざきあんさい》、など名乗ったところを見ると、還俗《げんぞく》の意志があるらしい。年は、張孔堂の大半の弟子と同じく二十《はたち》前後である。さて、この文字通りの若僧が、一つ問題を提起した。
「もし中国が孔子を大将とし、孟子を副将とし、数万の精兵をひきいて侵略して来たらどうするか」
これは大変難しい問題で、百家争鳴、ついに結論は出なかった。微笑しつつ弟子たちの論争をきいていた正雪は、これは宿題とするといった。
それほど宿題に熱心な方ではないが、このテーマはなかなか知的好奇心をそそるものがあると見えて、ふだん師の講義を無反応に聴講しているこの呑堀組も、もう少しこの問題について論じたいという気をそそられたと見える。
で、その火除地の中で、彼らにしては珍しく昂奮した雰囲気のうちに論争いっとき、ようやく、
「かかる事態にあたっては書経必謹、心地よく孔孟に服すべきである」
という穏当な意見が大勢を制するかに見えはじめたとき――一人が、「しいっ」といって、火除地のわきを通る往来にあごをしゃくった。
榎並木の向うに馬をとめて、一人の老人がこちらをむいていた。どうやら先刻から議論をきこうとしていたらしく、耳に片手をあてている。
こちらが一瞬に静かになったので、老人は若党に何かいって、それに助けられて下馬し、歩いて来た。馬に乗っていたのがふしぎなほど、腰が折れまがっている。
「何をぬかす」
いきなり、ひっ裂けるようにわめいた。
「孔孟日本を攻むれば孔孟を撃滅せよ。それこそ孔孟の道に叶う!」
一見、棺桶《かんおけ》に半分足を入れているような老人とは見えない大音声であった。
のっけから雷を落されて、さすがの若者たちもしーんとしている。これは旗本の家に生を享《う》けた者なら泣く子も黙る大久保彦左衛門であった。
「うぬらの評判はきいておる。あっちを見、こっちを見、トクな方へくっついて、どうすれば一生安楽に暮せるかと、そのことばかり考えておるそうな。ほかの組の若僧たちより気持が悪うて、吐き気がするわ。若いころからそのざまでどうするかよ?」
依然としてみな黙っているが、べつにむっとした気配もない。のっぺりとした無表情の顔ばかりが眺め返していたが、つづいて彦左衛門が、
「おれなんぞ、そもそも十六歳の初陣は、鳶《とび》の巣文殊《すもんじゆ》山。……」
と、やり出すと、さすがにたまりかねて、すぐ前の一人が、
「そのお手柄話は、耳にたこ[#「たこ」に傍点]の出来るほど承っております」
と、悲鳴のようにさけんだ。
「では、おれの話はやめよう。しかしながらきけ、おれではないが、いまの徳川家を作りあげたうぬらの祖父《じい》らの話を。――たとえば、御神君のお若いころ、家来どもはいつも三河の野良で泥まみれになって働いておった。或るとき殿がお鷹狩りの途中これを御覧なされて、おう百姓かと見まちがえたぞ。わしの領地が少ないために、なんじらが気楽に過せるだけのあてがいが出来ぬと仰せられた。これをきいた譜代どもは地に這いつくばり、この君のおんためならば死すとも悔いじと声をあげて泣いた。その通り、いくさあるごとに、みな鍬《くわ》を捨て、野良から馬に乗って駈け出し、その一槍ごとに一寸刻みに徳川の領土をひろげていったのじゃ。……」
彦左衛門の声はうるんだ。
「おれの話と思うな。われらは若いころ、だれも米の飯など食わなんだ。一日に二度、粟《あわ》か稗《ひえ》の粥《かゆ》、汁は糠《ぬか》みその汁であった。たまに干鰯《ほしいわし》でも入ると、一族を集めてこれを汁にし、汁講をひらいたほどであった。うぬら糠みそ汁を食ったことがあるか。……」
「ありません、しかし」
「しかし、何だ」
「そのころ、それらの衆が日々夢みておられたのは、ただいまのような暮しをすることではなかったのですか。御隠居などが、いまのわたしたちに苦い顔をなさるのは、御自分がお若いころ、こんな暮しが出来なかったというやきもちのためではありませんか。そんなやきもちは、われわれにはどうすることも出来ない。……」
「だまれっ」
彦左衛門は満面を朱に染めた。
「そのような貧乏も、ただの貧乏ではない。それというのも、槍一本でも多く求めようとしたからじゃ。わが腹をへらしても、馬だけには不足のないほど食わせてやりたかったからじゃ」
「…………」
「また、きけ。そのころ戦場で、決死の夜襲に出かける際、斬込み隊は、持ち合わせの銭はもとより、兵糧さえも残していった。死ぬ身に銭も飯も要らぬからじゃ。……」
若い旗本たちの反論に対する説明とはすじが一すじちがっているようだが、しかしあらゆるいちゃもんなど、頭から粉砕せずにはおかない悲壮ないくさのむかし話にちがいなかった。
「おお、うぬら、美しい妻を持つのが今生《こんじよう》最大の望みであったな。けっ。……いかにその昔、うぬらの先代、先々代が滅私の魂を持っておったか。もう一つ話を思い出した。そのころ、三河一といわれた美女と祝言をあげた男があったと思え。前々から惚《ほ》れて惚れて惚れぬいておった女じゃ。おれはもう死んでも悔いはない、と、そやつは申した。というのは、その祝言から十日めに、われらは決死の――左様、あれはたしか姉川《あねがわ》の合戦へ出陣せねばならぬことになっておったから出たせりふじゃ。その通り、その男は姉川で死んだ。しかるに。――」
「…………」
「そのあと、その花嫁はまだ手つかずであったことがわかった。死する身が、あたら若い美しい女を傷ものにしてゆく罪はつくりとうない、と遺言して出陣していったという。――」
それまで、ときどき微弱な抵抗はこころみるものの、全体としては冷淡な顔をならべていた呑堀組に、はじめて一つの反応が風のようにわたった。
この話だけは彼らを打ったのか、それとも追憶に涙|滂沱《ぼうだ》として、しゃがれ声をしぼり出す七十八歳の老人の形相に、ようやく鈍いながらも或る感情がゆり動かされて来たのかも知れない。……
三
夏のはじめ。――
上野東叡《うえのとうえい》山|寛永《かんえい》寺の一劃、法華《ほつけ》堂ちかくの広い境内に屯《たむろ》している旗本の一団があった。
それが、実に異様な装束をした連中で、頭にはさまざまな兜をかぶっているが、からだは襷《たすき》をかけ、袴のももだちとっただけで、手にはみんな棒をひっかかえている。これが旗本だとわかるのは、いうまでもなく例の「下馬坊組」――目下江戸の話題ではいちばん有名な若い集団だからであった。
「お。――」
門の方から駆けて来る同じ兜と棒の若者を見て、地べたにあぐらをかいていた連中も、いっせいに立ち上った。
「来たぞっ」
「来たか、紀《き》州大納言が。――」
「ちがうっ」
と、物見の若者はさけんだ。
「紀伊《きい》公ではない。――大久保彦左衛門老だ!」
たちこめていた闘志が、ふいに鼻白んだようであった。
この日、下馬坊組がここで集会を開いていたのには次のようなわけがある。
彼らもそれほど詳しい知識があるわけではないが、このごろはどうやら隣邦支那の明廷《みんてい》がゆらいでいるらしい。北方に勃興した清《しん》のためである。そこで、もと日本にしばしば往来していた明の貿易商人で、いまは都督の地位にある鄭芝竜《ていしりゆう》なるものが、日本に明を助ける意志ありや否やと、最近ひそかに打診して来た。はっきり言えば日本兵を傭兵《ようへい》としたいというのである。
この途方もない希望に、極めて強力な反応を示した向きがある。現将軍の叔父、神君の第九子、南海の竜と呼ばれる紀州大納言|頼宣《よりのぶ》だ。
「窮鳥ふところに入れば猟師もこれを殺さずという。義を見てせざるは勇なきなり」
と、彼はいい、
「日本軍の武勇を唐天竺にまで売り込むのに絶好の天機ではないか」
と、廟堂《びようどう》でうそぶいたという。
すべて噂だが、この人ならばいいそうなせりふであり、かつ立場が右にいったような立場の人だけに、この単純な武侠論がどんな火となってひろがるか、逆睹《ぎやくと》しがたいものがあった。
で、ここに下馬坊組は集まった。――この寛永寺の法華堂は紀州公の寄進したものであり、その日、頼宣|卿《きよう》がそこへ参詣に来るという報が伝えられたからであった。
ところが、どうしたのか、紀州公ならぬ大久保彦左衛門がここへ乗り込んで来るという。――べつに代参ではなく、時間から見てその前に来ることになったのであろうが、それにしてもこの知らせは下馬坊組にちょっとした動揺を与えた。
すぐに老人はやって来た。やはり兜をかぶり、棒を小脇《こわき》にかかえ、たくましい馬に打ち乗って。
「うぬら、なんでここに軍勢を催しておるか」
軍勢と来た。旗本たちは顔見合わせて、やがて二、三人がいった。
「われらのお待ち申しあげているのは大納言さまです」
「あなたに用はない」
「無関係」
この大老人にこんな口をきけるのは、この連中だけだろう。が、馬上の彦左衛門の眼は――笑ってはいなかったが、どこか惚れ惚れするようなひかりをたたえて、棒の波を見わたしていった。
果たせるかな。
「例の日本兵派遣のことか」
と、いった声に怒りはなかった。
それから、えっこらしょ、と馬から下りた。若党が手助けをしようとしたのを、棒で追い払い、その棒を頼りに地上に下り立つ。よく見れば棒ではなく、穂先のない、槍の柄であった。棒だけの若者たちに対して、穂先のない槍を持って来たのは、老人にすれば何かの意味があるのであろうか。
「うぬら、あれに反対か」
のぞきこむように、腰をかがめていう。もっとも、もともとがその槍にすがって立っているような老体ではある。――いっせいに、声があがった。
「むろん!」
「なぜじゃい?」
「異境に追い出されて死ぬのは、われら若い者だけではないか」
それにつづいて、無意味、好戦、野心、侵略などという単語がきれぎれに入った声の嵐が巻き起った。
その中に、ひときわ高くまじった声がある。
「征韓の役の悲劇を忘れられたか! 敵味方、十数万の人命を失い、残ったのは敵の国民《くにたみ》の恨みのみ。――」
「老いぼれたちがいちど懲りた暴挙に、われらをふたたび追いこむつもりか」
「われら死すとも、大納言に反対する!」
彦左衛門は手をあげた。
「わかったわかった。あのいくさには、御神君もくびをかしげておられたわさ。うぬらの言い分ようわかるぞ。おれよりもよく大納言さまに申しあげておこう」
下馬坊組はどよめいた。しかし、安堵《あんど》したどよめきではなく、何やら拍子ぬけしたようで、中で「ちぇっ、要らざることを」と舌打ちした声もあった。
「さりながら、うぬらが頭からあのいくさの悪口をいうのなら、おれにも言い分がある」
と、彦左衛門はいった。
「いまの明の話じゃが、明が日本の侍を傭《やと》いとうなったのは清のためばかりではないぞな。このごろ、オランダ、イスパニアなどいう南蛮が、南の方の国々をとりまくり、ついに台湾《たいわん》にまで手をかけたゆえじゃということをきいた。――それほど劫掠《ごうりやく》至らざるなき南蛮どもが、いまだに日本に一指もかけられぬわけは、あの征韓の大あばれにあると、おれは見ておるぞ。あたかも小牧長久手に於て御神君の捨身のおん一撃をくらった太閤が、それっきり徳川家にちぢんだごとし」
と彦左衛門は声はりあげた。
「この際、御隠居の御武功話、ききとうはござらぬ!」
だれか、悲鳴のようにさけんだ。
「おお、ではおれの話はやめよう。しかし、朝鮮役に出ていった若い者ども――うぬらと同じ年ばえじゃ、それらの者どもの面影はなおおれの瞼《まぶた》にあり、その声はこの耳にある。とくに同じ朝鮮役でも、第二次出兵のとき――」
この老人がいくさ話をはじめたら、将軍さまが止めても止らない。しかし若い旗本たちが、ちょっとがやがやしただけで、ともかくもこの相手にしゃべらせたのは、槍にすがって立つこの老人の満面を彩る哀切の影のせいではなかったろうか。
「二度めのときは、こりゃ助からん、到底勝てるいくさではないとだれしも思うた。それでも若い衆は、海を越えてまた出かけていった。一度めのあとの敵の講和ばなしでは、到底がまんなりかねたからじゃ。それから、まだ朝鮮に残って対陣しておる兵もあったからじゃ。それを助けるため、またいちど敵に一泡吹かせて日本の名誉を守るため、若い衆は死ぬを承知で海を渡って、死にあばれした。蔚山《うるさん》の籠城《ろうじよう》で、壁を食い尿《いばり》を飲んで、ついに二十倍の敵の大軍を撃退した話は知っておろう。――」
渋紙色の頬に涙がしたたり出した。
「そしてまた撤兵前の最後の戦闘、すなわち洒川《しせん》のいくさでは、五千の島津《しまづ》軍が五万の明韓軍をたたき破った。そのとき敵は、虎蹲砲《こそんほう》とやら旋回砲とやら仏狼機《ふらんき》など申す恐ろしい武器を持っておったというが、これに対して薩摩《さつま》兵どもは、腹に焔硝《えんしよう》を抱き、火をつけてみずから燃えながら敵に突進していったというぞ。――」
そのあたりから、彦左衛門はよく口もきけなくなり、
「……とにかく、うぬらいま太平楽な口たたけるは、それら死んだ昔の若い衆のおかげと思え!」
と、そんな意味のことをわめいたようであった。言葉はただ吼《ほ》えるような泣き声と変った。
「……わかった。もう泣くのはおやめなさい」
持てあまして、数人の若者が寄って来て、老人を抱くようにして馬に乗せた。
若党が手綱をひくと、彦左衛門がばかにおとなしくそのまま馬にゆられて去っていったのは、いささか拍子ぬけの感があったが、どうやら彦左衛門はいくさの想い出話の感動にみずから酔っぱらい、若者たちのことも自分が何をしにやって来たかも忘れ果てたようであった。
「あれでは、何をいってもだめじゃ」
と、若い旗本が見送って、憮然としていった。
「断絶もきわまる。勝手に子守唄をうたわせておけ」
――それからまた、夏の終り。
浅草《せんそう》寺の境内、五重の塔の下に屯しているざんばら髪、素足に草履をひっかけた若者たちのところへ、この彦左衛門が現われた。
そのとき旗本飛屁組の連中は、石だたみの上にひざっ小僧を抱いたり、或いは寝そべったりして、うすぼんやりと参詣人のゆきかいを眺めていた。みな、晩夏の暑熱に匂うような汚さだが、ふしぎなことにこれと喋《ちよう》 々《ちよう》 喃々《なんなん》とやっている町の娘や大道芸人の娘が何人かある。傍若無人、といいたいが、参詣《さんけい》人が鳩にやった豆を、平気で拾って口に入れてぽりぽりやっているところなど、傍若無人の程度を超えているだろう。
「このばかもん!」
ふいに雷が落ちて来た。
彦左衛門である。――さすがの彼もこの連中だけにははじめから匙を投げて、これはわざわざ出張して来たものではなく、偶然浅草寺へ来ての瞥見《べつけん》だが、あまりの痴態醜態にたまりかねたのだ。
「うぬは。――」
と、女といちゃついていたざんばら髪の若者の胸ぐらをひっつかんで、
「この女と交合したか!」
「いえ、まだ」
さすがの飛屁組もキョトンとしている。老人はべつの一組をつかまえて、これにもかみつく。
「うぬは?」
「や、やりました」
「何度」
「三度」
「一夜寝てか」
「いえ、十晩ほど寝て」
「このへなへなめ」
「へ?」
「衆人の眼の前ではそれほどこれ見よがしにいちゃつきながら、十日寝てたった三度とは、不甲斐ないとも何とも、いうに言葉もない。これ、耳かっぽじいて承われ、昔の若いやつはな、明日はいくさというとき女が手に入れば、一夜に五回六回、それでなおかつ明日にその数だけ敵のかぶと首をあげねば、軍功帳に届け出ぬという約束を交したものであるぞ。されば、その前夜、おたがいの度数を仲間でしかと見とどけてから出撃したものであるぞ。またいくさのあと――うぬら大坂の役のあと、大坂城三万の女で腰の立つものがなかったという話はききおろう」
「ああ、あの大坂城の大虐殺。……」
「その理非はともあれ、昔の若いやつは、それくらい根性があった! 根性とは、男根の性根《しようね》のことじゃ。うぬら武道学問の修行がいやなら、せめて専心その方の根性を鍛えろ。おおそうじゃ、ここでやれ、大久保彦左、ここでしっかと拝見いたす。さっ、やれ、みな、いっせいにここでやって見ろ!」
「何さ、この爺《じじい》の色きちがい!」
女の子にいきなりつき飛ばされて、彦左衛門はあおのけにひっくり返ろうとし、あとを追って来た若党に危うく抱きとめられた。そしてなお歯がみして怒り狂うのを、若党が必死になだめながら、雷門の方へ抱いていった。
飛屁組はたいして昂奮もせず、そのあとをうすぼんやりと見送り、それからいっせいに屁をはなった。
四
「あの若い旗本連な」
と、森宗意軒がいった。しゃれこうべに白髪を生やしたような老人である。
「このごろ、ちと変って来た」
牛込榎坂の由比軍学道場の奥深くである。――もと小西の遺臣といわれているが、はっきりしたことはだれにもわからない。ただ人を人くさいとも思わぬ態《てい》のあるじの正雪が、これだけは蔭の大師匠のごとく仕えている由比家の老食客であった。
「そうでもありますまいが」
と、正雪はくびをかしげた。
「どの組にも、然るべき細胞を送り込んで、そこにぬかりはないはずでござるが」
「大久保彦左のせいじゃ」
「まさか? あのような骨董《こつとう》物が、なんの、いまごろの若い者に」
「それが、そうともいえぬ雲ゆきをわしは感じる」
宗意軒は、しばし沈思している風であった。やおら正雪を見ていう。
「あれを何とかしておかねば、わしは安んじて天草《あまくさ》へたつ気になれぬ」
「旗本どもをもとへひき戻そうと仰せられるか。拙者は御心配になることはないと存ずるが、宗意どのがそれほど仰せられるなら、もういちど各細胞を呼んで気合を入れさせましょう」
「いや、わしがやろう」
「は? 宗意さまが?」
「いや、そこのベアトリスお品《しな》に手伝ってもろうて」
森宗意軒は、横に坐っていた一人の女に白い髯《ひげ》をゆすった。
宗意軒の弟子――とは承知していても、正雪すらが、見ているうちに全身の血がざわめいて来るのを禁じ得ないような美女である。そのくせ、見ているうちに、すうと日の光が闇へ消え薄れてゆきそうな妖しさがある。
「ベアトリス」
「はい」
「久しぶりに、忍法精卵|逆《さか》のぼりを使う」
正雪は狐《きつね》につままれたような顔をしていたが、すぐに膝を乗り出した。
「精卵逆のぼりとは?」
「相手が大久保彦左だけに面白い。――正雪、男というものはの、或る年になれば精がとまる。精を作る機能が徐々に老いて弱るのじゃ」
「はあ?」
「とはいえ、その器官そのものが死滅したわけではない。人間が生きている上は。――それを賦活するのじゃ。よみがえらすのじゃ」
「はあ?」
「そのやりようによって、その男の十年前、三十年前、或いは五十年前の組織を復活し、そのときの精虫を再現し、とり出すことが出来る」
「えっ」
「そこまでは原理的にもわしはわかっておるが、さてそのあと起る驚天動地の或る現象が、この忍法を独創開発したわしにもよくわからんのじゃが」
「…………」
「ともあれ、人間が出す精液一滴の中にも数十万の精虫の軍兵がひしめいておるという。その極微世界の精虫が――しかも数十年前の精虫が、ふたたび生きて広い魔天に泳ぎ出したとき、いかなる世界を描き出すか。まさに魔天の地獄図というしかないが、それをベアトリスお品は体得しておるのじゃ。開発者はわしじゃが、実行者はお品のほかにない。お品にまかせい。
――張孔堂、そなたは、例の旗本連を、左様、この張孔堂の庭に集めてくれい」
「いつ?」
「お品がよいと知らせて来た日に。よいな? ベアトリス」
女は笑顔で手をつかえた。その笑顔のいたずらっぽい、しかもこの世のものとは思われぬなまめかしさに、由比正雪はわけもわからず胴ぶるいした。
五
いったいどうしてこういうことになったのか。
大久保彦左衛門が戸板にのせられて、由比道場に運びこまれて来た。が、戸板のそばにくっついている若党が、不安そうに、その反対側を歩いている女にいう。
「お品さま、たしかにここに来ると、御隠居さまを直しておくんなさるというのかね?」
「その通りです」
お品はおちつきはらって答えた。
この女が駿河台《するがだい》の大久保家に奉公したいきさつは省略する。どういうきっかけ、手順で入り込んだか、大久保家の若党さえ忘れてしまった。それから四、五日もたたないうちに起った一大珍事が、彼のみならず家じゅうの人間の思考力を奪ってしまったからだ。
それも当然事、彦左衛門が倒れ、口から泡をふき、雷《らい》のごとき鼾声《かんせい》をあげて人事不省におちいったから、はじめみなてっきり卒中かと思った。医者もそう診断したが、ただ、眼をぎょろっとあけているのと、その男根のみが隆々と天をついているのが、だれの眼にも奇怪に見えた。
「どうなされたのでござる?」
口々にきいても、眼はぎょろりとあいているのに、反応がない。まったく意識はないらしい。にもかかわらず、男根のみが、まるで主人に呼ばれた犬の尻尾《しつぽ》のように、そのたびごとに動くのである。
実に驚くべき男根であった。
さすがに天下の御意見番といわれる御老人、鳶の巣文殊山の広言はだてではなかった――とみな舌をまいたが、ほんとうのところは毎日風呂で背中を流していた若党も、そんな彦左衛門のそれを見たことがない。血色といい、つやといい、その精悍きわまる形相といい――壮者をしのぐどころか、あぶらぎって、いまにも雄たけびしそうに見えた。
とにかく捨ててはおけない。――そこへ、新しく奉公したばかりの腰元お品が、
「こういう御病人なら、榎坂の由比道場なればなおります」といい出したのだ。
その道場については世上とかくの噂はあるが、いまさらそんなことにかまってはいられない。――で、かくのごとく、とるものもとりあえず、えっちらおっちら運び込んだのだが。
「あなたはここでお待ちになっていて下さいまし」
お品にそういわれて、若党は門のすぐ内側で待たされ、戸板だけが幾つかの木戸を通って、奥庭の方へかつがれてゆき、そして最後の木戸でこんどは戸板の運び手も門へ追い帰されたのであった。
代って戸板を受け取った四人の弟子が、それを庭へ運んだ。道場のすぐ前の宏大な奥庭へ。
壮観だ。
一見、ふつうの旗本の子弟の一団、兜に棒を立てた一団、長髪|垢面《くめん》、素足の一団――合わせて何百人かが、大円陣を作ってそこにざわめいていた。いうまでもなく、呑堀組、下馬坊組、飛屁組の連中である。
そのまんなかに大盥《おおだらい》がならべてあった。中心ちかくから一方の端へかけて、その数は七個、ずらっと一列に。――どの盥にも、まんまんと水がたたえられている。
ともかくも籍をおいているこの由比道場に呼びつけられ、ここに集められた彼らは、何のことやらわけがわからず、ただ騒然としているだけであったが、やがて運び込まれた戸板と、その上にひっくり返った老人を見て、いっせいに眼をまるくしてしまった。
――大久保彦左衛門老!
その戸板は、弟子によって円陣の中央に、盥の列に向って、縦に立てられた。紐《ひも》でくくられて、老人はまるで磔《はりつけ》になったように立たされている。
この老人が、黙ってそんなことをされているはずがない!
と、そのぎょろっとむいた眼を見て怪しんだ旗本たちは、すぐに彦左衛門が鼾《いびき》をかき、しかも、やがてかきひらかれた股間から、実に驚くべき勇壮さで一物が聳立《しようりつ》しているのを見て、どよめきをあげていいのか、息をのんでいいのかわからない状態になってしまった。
「何が起っても、しばらく黙って見ておるように」
縁側で、正雪がいった。総髪のこの高名なる軍学者は、悠然としてそこに坐っている。森宗意軒の姿はなかった。もっともこの道場に住んでいる人間でも、そんな存在を知らない者の方が多い。
しかし、すぐに戸板から、それについて庭に入って来た腰元風の女に眼を移して、旗本たちは彦左衛門を見たときよりも息をのみ、眼をまるくした。――その地上のものではないような妖しい美しさにだ。
その女は、旗本たちの円陣には眼もくれず、正雪に一礼すると、戸板とは反対方向の盥のふちに立った。――そして、しんと黙りこんでいた旗本たちがいっせいにどよめきをあげたような行為をはじめたのである。
つまり、そこで裸になってしまったのだ。
ちょうど初秋の蒼空、日は中天にある時刻であった。その下に一糸まとわぬ雪白の姿になったその美女は――数百の若い獣のような眼のまっただ中で、腰で螺旋《らせん》をえがきはじめたのだ。それはなまめかしいとも何とも、形容を絶する動きであった。
そこにいた若い旗本すべて、みな変になってしまったといえる。兜と長髪が波打ち、棒のむれがゆれ、あっちこっちで「ううふっ」というような奇妙なうめき声がもれた。――
しかし、その女はこの妖態をだれに見せるつもりか。若者たちに誇示するつもりなのか。
いや、彼女は、やや距離はあるが、まっすぐに戸板の大久保彦左衛門の方にむいている。そして彦左衛門は、眼をあけているけれど、果たしてそれが見えるのか。
見えたにちがいない。――屹立《きつりつ》していたものが、このときぶるぶるっと震動を開始したから。
「逆のぼれ、逆のぼれ。暗模糊裡《あんもこり》、天動き地動き、逆回りして水天いまだ分れず宇宙万有混沌に帰れ。十年……二十年……三十年……四十年……五十年……」
こんなことをその女はつぶやいたようだ。
「起きよ、直細精管。起きよ、睾丸《こうがん》小葉。起きよ、曲細精管。起きよ、精祖細胞、精母細胞、精娘《せいじよう》細胞、減数分裂して精系に出でよ!」
とたんに、彦左衛門の一物から、ビューッと白濁した虹がかかった。――盥の上に。
それが七つならんだ盥のすべてにバシャバシャとしぶきをあげて落ちたから、大変な量である。
同時に、彦左衛門の瞼がおち、鼾声がやみ、男根もがくんと首を垂れた。
旗本たちは、彦左衛門に気をとられているいとまがなかった。その女がさらに驚くべきことをやってのけたからだ。
「七つの盥には、一つに一つずつ、わたしの卵子が入っております」
女はいった。どうやら正雪に説明しているらしい。――果然、ただの水ではなかったのだ。
「彦左衛門からいちばん遠い盥には現在ただいまの精、いちばん近い盥にはだいたい六十年前の精、そのあいだ順次六十年間にわたる各時期の精が入りました。一つの盥に数十万ずつの精が、一つの卵子をめぐり、日輪をめぐる星雲のように、いま修羅の相をえがいておりまする。……」
何のことかわからない。――
旗本たちが驚いたのは、次にその女がやってのけたことであった。まんなかあたりの盥に寄って彼女はひざまずき、指一本さし入れると、はじめ徐々に、次第に早くかき回し出した。と――水の中央がくぼんで来たかと思うと、盥のふちから水の紗《しや》が外へ――旗本たちの円陣の空へ音もなく張りはじめたのだ。
空に、しぐれのわたるような音が渡ったと意識したのは最初の数分のことだ。女がまた別の盥へ移って同じことを、さらに三番目の盥にも同じことを試みたのを見ていたのも、旗本たちのごく小部分に過ぎなかったろう。
蒼天には、三つの巨大な水の漏斗《じようご》が立ち、揺れ、交錯した。いや、もう蒼天とはいえない。中天にあった日は消え、そこには――まさに暗模糊裡に動く天と地があるだけであった。
六
どうしてそういう現象が起ったのか。その水の雲の中には、女のいうのがまことなら、数十万の精子が渦まいているにちがいなかった。そしてまたそれは、彦左衛門の古い――三個の盥だから三世代にわたる精子であるに相違なかった。しかし、それにしても、数十年前にこの世に出るべきであった精子がいま出現したとして、その結果どういうわけでそんな世界がえがき出されたのか。
まさに忍法としかいいようがないが、発明者の森宗意軒さえわけがわからないといっているのだから、作者にわかろう道理がない。
……とにかく、彼らは見たのである。数十年前の世界を。
見た者は、そこにいた数百人のすべてであったが、位置と角度により、見た世界はだいたい三つに分れていたようだ。数十年前の世界といっても、それは無数無限のはずだが、それが三種に限られたというのは、その精子が生きていた当日当夜、彦左衛門の周囲に起った光景であろうか。
……第一景。
「ゆけっ、突撃せよ!」
面頬《めんぼお》をつけた武者が叱咤していた。その前に、数十人の若い武者がうなだれている。
「相手は真田の山侍ではないか。それにかくも痛めつけられ、このまま敗れて上方のいくさに間に合わんでは、なんのかんばせあって大御所さまにまみえようぞ!」
――どうやらあとで考えると、それは慶長五年、関ケ原の役に参加しようとした秀忠軍が、信州上田の真田のために封殺されたときの光景であったらしい。
「死ね! ここで死なずとも、しょせん大御所さまの御|誅罰《ちゆうばつ》はまぬかれぬぞ!」
咆哮《ほうこう》と烈しい銃声が覆った。武士たちはいっせいに噛《か》みつくように地に這《は》った。吼《ほ》えていた侍大将までが、むっくり尻だけ持ちあげて。
みな顔色は土気色だ。鎧が音たててふるえている。そして、だれがやったか、かすかに糞臭《ふんしゆう》までが漂い出して来たところを見ると、恐怖のあまりもらしてしまったやつがあったにちがいない。……
「突撃! 突撃!」
遠くで、脳天から出るような絶叫が聞えた。しかし、大地の草の根にしがみついたきり、そこから動く者はだれもなかった。
……それからまた第二景。
うなだれた武者の行列がゆく。あとから、あとから、限りもなく。――が、みな足もよろめき、声もなく、まるで亡霊の軍隊のようだ。ときどき背に「八幡大菩薩」と書いた旗をさしている者もあるが、その旗も力なくだらりと垂れて、
「ああ、この衆もみんな」
「韓の土になりなさるか」
「いとおしやのう。せめて日本で死ぬというのなら。――」
「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏」
それを見送る沿道の群衆が見える。歎きの声が暗く低く波打っている。――どうやら、朝鮮へ出征してゆく部隊の光景らしい。
その群衆の中から、若い武士が四、五人、ヒョイと頭を出し、顔見合わせてニヤリと笑った。
「みんなゆけゆけ、みんな死ね」
「あいつら、たくさん死ねば死ぬほど徳川の天下じゃ」
「こっちの知ったいくさではない」
「若いやつらが死ねば死ぬほど、残った日本の女えらびがらくにゆくというものじゃて。あははははは!」
ふてぶてしく笑った顔の一つが、若いので確認は出来ないが、どうやら大久保彦左衛門そっくりの顔であったことこそ奇怪である。
……それからまた第三景。
これはいつごろの、どこの光景であったか不明である。いろいろと判断して、どうやらそれは駿河と甲斐の国境近い城の一つで、徳川と武田がそのあたりで生存をかけた死闘をくり返していたころであったらしい。
石も壁も、土砂と黒煙にけぶっていた。炎の影すら見えた。天井も落ち、柱もななめにかたむいて、城の中か外かわからないところに、若い半裸の女の一団がもつれ、そのまわりに血だらけの若い武者たちが、肩で息をしてひしめいていた。
「やれ!」
「やり殺せ!」
「このためのいくさじゃ!」
歯をむき出して吼えたが、だれも進み出る者はない。ひきつった顔を見合わせ、息を吸い、さて、
「まず、うぬがやれ、やって見い!」
と、だれか一人つき飛ばされた。
つき飛ばされた男は、カチャカチャと小刻みなひびきをたてて鎧をぬぎ、女にのしかかったが、たちまち、
「おれはいかん……だめだ!」
と、へなへなと尻もちをついてしまった。
すると、それをきっかけに、うごめいていた女たちがわっといっせいに立ちあがった。それが、女たちも混乱逆上していて、
「助けて! 命ばかりは!」
と、残っていた衣服もかなぐり捨ててしがみついていった女があるかと思うと、
「殺せ! さあ殺せ!」
と、懐剣ふりかざして飛びかかっていった女もある。
何にしても凄じい迫力で、それに胆をつぶしたか、若武者たちは女たちの喚声に劣らぬ悲鳴をあげて、黒煙の中へ、みな算を乱して逃げ出した。……
「観劇」は時空を超え、すべての音響は耳の中の蜂《はち》のうなりのように聞えた。――そのとき、はっきり、耳の外で、現実の声がひびいた。
「戦中派の、真相はこうだ!」
正雪の声であった。
数日たって森宗意軒は西へ旅立った。別れるとき、うす笑いして正雪にいった。
「まず、あれでよかろう。……では、島原《しまばら》での首尾をたのしみに待て」
七
島原の大乱が勃発したのは、その年の十月二十五日のことである。
叛乱軍は意外の猛威を発揮し、地元の大名島原藩、唐津《からつ》藩の兵を破り、かつ鎮圧に出動した政府軍をも苦戦におとし、司令官の板倉重昌《いたくらしげまさ》までが戦死するという大事に至った。
幕府はショックを受け、改めて松平伊豆守信綱をして大軍をひきいて西下させた。
――幕府、鼎《かなえ》の軽重《けいちよう》を問わるる秋《とき》到る!
徳川家の侍たちはふるい立った。そして、争ってみずから出征に馳《は》せ参ずる者も少なくなかった。
続々と出動する部隊を、莞爾《かんじ》として見送っていた大久保彦左衛門は、あっとばかり眼をむいた。
「おう……下馬坊組がおるではないか。棒を槍に変え、鎧を着こんで。や……呑堀組も。なに、みな昂奮して、血書の志願をしたと?」
老人の眼からは感動の涙がながれた。
「さすがは旗本八万騎、時到ればあのころと同じ面だましいじゃ。いや、根は、やはり好きじゃて、ちゃんちゃんばらばらが。――な、なんたることじゃ、おる、おるぞ、ひえっ、あの飛屁組までが!」
沿道をけぶらす勇壮な砂塵の中に、由比正雪のあっけにとられた顔が、浮かんで、消えた。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『忍法流水抄』昭和58年1月10日初版発行
昭和58年3月30日再版発行