講談社電子文庫
山田風太郎忍法帖7
魔界転生 下
[#地から2字上げ]山田風太郎 著
目 次
海潮音
密使
|剣道成寺《つるぎどうじょうじ》
|西《さい》|国《ごく》第二番|札《ふだ》|所《しょ》
生死一眼
|西《さい》|国《ごく》第三番|札《ふだ》|所《しょ》
子をとろ子とろ
奉書試合
伊賀越え
|転生《てんしょう》のとき
魚歌水心
海潮音
【一】
「おうっ。……これは、絶景!」
十兵衛のボキャブラリイは単純である。
いたるところに絶景ありといいたい熊野路だが、ここに達して、この風景を見れば、しかし十兵衛ならずとも、だれしもこの嘆声をあげずにはいられない。
椿の湯から北へ二里ばかり。――湯崎七湯といえば、いわゆる|牟《む》|婁《ろ》の出湯として日本書紀にも天皇御幸のことがしるされているところだが、その南方は、海にむかってひろがった広漠たる巨岩の階段であった。土地の人はこれを|千畳敷《せんじょうじき》と呼んでいるそうだが千畳の十倍はたしかにある。この白褐色の砂岩の台と、そのかなたに打ちよせる青い波との対照は壮美をきわめている。
「やあ、すごい、すごいなあ!」
弥太郎は小鳥みたいに、小猿みたいに、|独楽《こ ま》のように、旋風のように岩から岩へ飛びはね駆けまわった。
「おじさあん、もういちど、このまえみたいにみんなつながってよ」
「何をする」
「もういちど、おちてごらん。この岩の階段。……おちガイがあるぜ」
「何をぬかす」
柳生衆たちは苦笑した。
「わあい、わあい」
そんなさけびをあげて、またどこかへ駆け出す弥太郎を、
「危い! どこへゆくの? 弥太郎、お待ち。――」
と、あわてておひろが追い、またそのあとをお|雛《ひな》とお|縫《ぬい》が追う。
「しようのない奴だ」
と、十兵衛は笑った。
眼のさめているかぎりじっとしていることのない弥太郎だから、こんな場所にくればわが独壇場といわんばかりにはねまわるのは、どうにもとめようがない。まったく手に負えないお荷物だが、しかしあのいたずら小僧のおかげで、どれくらいこの殺伐な旅が明るくなっているかわからない。それから。――
――それから、あの色っぽいきちがい娘からの|盾《たて》となってくれていることもある。
毎晩弥太郎を抱いて寝て、ときにはそのももなどをつねって、わーッと泣かせたこともある。そんな苦労を思い出すと、弥太郎のためにも冗談ではないという気がする。
あれから――それほどきわどい夜が幾夜かあったのだが、この話を柳生衆たちにもらしがたいので十兵衛はつくづくと往生し、またばかばかしくもある。その柳生衆たちは、ひるまは狂女の世話に入れあげて、いったい三人の娘の護衛に来たのか、狂女の護衛に来たのかわからないほどのありさまだ。
――もう一方のあの荷物の方は。
と、ふりかえると、お品は海を背に岸のはしちかく立って、ゆるやかな傾斜で陸の方へ這い上っている白い岩の階段を見あげていた。
秋の太陽がその顔を照らしてもそれは蝋細工みたいに無表情で、そして虚しい哀愁があった。――こういうときの哀しげな表情が、十兵衛に彼女を捨てさせることを断念させるのだ。
「先生、われわれもあっちへいってみようではありませんか」
「あっちに何かあるか」
「すぐそこに、|三《さん》|段《だん》|壁《ぺき》という絶壁の奇勝があるそうで」
「ふうむ」
そんな話をしながら、十兵衛はお品がながめている方を、何気なくふりむいた。すると、遠く|重畳《ちょうじょう》たる岩の彼方に、あくまでも蒼い秋の大空の下に、妙なものが見えた。
小さいが、男女ふたりの影だ。女の紅色の衣服が、狂女の視線を吸ったのかもしれない。しかし十兵衛の眼をまばたきさせたのは、もうひとりがたしかに|網《あ》|代《じろ》|笠《がさ》をかぶった雲水の姿に見えたことであった。
おや? と見たとき、ふたりの影は、|忽《こつ》|然《ぜん》と岩の向こうに沈んでしまった。
それを妙な、とちらと思ったのは、女と雲水というとり合わせがいささか珍しかっただけで、すぐに十兵衛は、
「先生、どうぞ三段壁の方へ」
と、小屋小三郎にうながされ、金丸|内匠《たくみ》や戸田五太夫や|三枝《さえぐさ》麻右衛門らにかこまれて、その方へ歩き出した。
そのうしろの方で。――
「お品どの、あっちへゆこう」
「おっと、あんよがあぶない」
「そうれ、おんぶ」
と、例によって、磯谷千八だの逸見瀬兵衛だの小栗丈馬だの|伊達《だ て》左十郎のめんめんが、奇声怪声をはなってさわぎたてている。――
「あれっ、どこへゆく」
「危いぞう」
きょうはどうしたのか、狂女はみなの手をふりはらって、十兵衛らよりもっと海沿いの岸のはしを、三段壁の方へ走り出す。柳生衆たちはあわてふためき、腰の鈴をやかましく鳴りたてさせながら、両手をさしのべてそれを追う。――怒濤を背に、壮快で、どこか滑稽なシルエットであった。
「あっ、あぶないっ」
反対の方角から、弥太郎少年が駆けていった。手にながい綱をひきずっている。
「きじるしの姉上、あぶないじゃないか!」
と、しんけんな顔で怒っている。彼はおひろだけはただ姉上と呼ぶが、あとはお雛の姉上、お縫の姉上、そしてきじるしの姉上と呼ぶ。
十兵衛はちかづいた。
「なんだ、その綱は」
「おれ、さがして来たんだ。そして、海まではかったんだ」
「ほう、どれほどあった」
「すごいぜ、先生、ふかい、ふかあい。――じごくの底に海があるよ!」
三人の娘が髪を海風に吹きそよがせている断崖の端までいって、さすがの十兵衛もうなった。
これが音にきこえた紀州|白《し》|良《ら》|浜《はま》の三段壁か。高さは十五丈前後もあろうか、眼もくらむばかりの絶壁の下に、沖からうねって来た蒼い波は、雪のようなしぶきをあげ、潮鳴りはそのあとでとどろいて来た。
「綱はこう見たところでも十間はあるでしょうか。それを投げおとしてみても、まだ半分にもとどかないように思います」
と、お雛も笑いながらいった。
「きじるしの姉上、あぶないなあ」
向こうでは、弥太郎が気をもんで、
「じゃ、こうしてやる」
と、その綱をお品の胴に巻きつけ、こっちの端をじぶんの腹に巻きつけて、
「これなら、あんしんだ」
と、鼻をうごめかした。
「そんなことをしたら、両方ともあぶない」
と、三枝麻右衛門がその綱のまんなかをつかまえてわらった。
いかにもこれでは、弥太郎が気をもむのもむりはない――と、十兵衛はうなずきながら、断崖に沿って歩く。
崖を回ると、そこは向こうの崖と幅三四間の深い切れ目を作っていた。奥ははるかかなたでつながっている。その亀裂にながれこむ怒濤は、まさしく弥太郎の形容通り、地獄の底からのような叫喚をこだまさせていた。
「なるほど、奇勝じゃ」
と、十兵衛は例の単純な讃嘆詞をはなって、こちらにもどって来ようとして――ふいにピタと立ちどまった。
いまじぶんたちのやって来た千畳敷の方角から、ひとりの男が歩いてくる。網代笠をかぶった雲水であった。背は五尺そこそこ、それが異常に横はばがひろく、まるで碁盤に笠をのっけたようだ。
先刻見た僧だ、と気がついたが、女の姿は傍にない。代わりにさっきは見えなかったものがある。槍だ。
彼は左手に槍をたて、それをついて、のっしのっしと歩いて来る。その槍の穂先は真っ赤であった。
十兵衛の様子に気づき、ふりむいて、凝然とその方を見まもっていた柳生衆の中から、ややあって、小栗丈馬がうめいた。
「あれは……あれは、何者じゃ?」
じいっと眼をすえていた十兵衛がひくくつぶやいた。
「あれは……おそらく、宝蔵院。……」
そのとき、十二三間の距離までちかづいた雲水は、こちらのささやきが耳に入ったはずはないのに、
「いかにもわしは宝蔵院じゃ」
怒濤のひびきの中に、ふしぎによく通る底力のある声であった。
「柳生十兵衛、その名をきくだに何やらなつかしいぞや。……きくだになつかしいと思いつつ、生前、かけちごうて、ふしぎにいちども逢えなんだ。それゆえに、なおいっそう、思いのとげられなんだ恋心のごときものがつのる。――おまえの剣に対するわしの槍の恋心が。――」
あとは、う、ふ、ふ、ふ、という名状しがたいふとい笑い声となった。
その陰惨で豪快な笑いがはたとやむと、彼は咆哮した。
「|約定《やくじょう》により、宝蔵院、余人をまじえず、ただ一人にて参ったり。十兵衛、それだけいえば、あとはものをいう必要はあるまい。――抜け!」
【二】
いまや彼の姿は、はっきりと見える。
彼は墨染めの衣の袖をくくり、背にはねまわしてかけていた。奈良の宝蔵院流独特の袖だすきであった。しかしその顔はよく見えない。網代笠をかぶっているのみならず、その下に柿色の|頭《ず》|巾《きん》のごときものをつけて、見えるのは眼ばかりだ。
いや、正確にいえば、笠のためにその眼もよく見えないはずなのだが、それにもかかわらず柳生衆たちは、何やらに射すくめられて、とっさに身うごきもできなかった。
――宝蔵院!
――奈良の宝蔵院!
金縛りになった彼らの胸では、うめきの波だけが渦まいている。
奈良の宝蔵院といえば、柳生の庄からわずかに二里、この音にきこえた槍の道場を知らない者はない。それどころか、彼らのうちのだれもが、数度ここを見学している。総檜作りの床、羽目板、一尺角の柱はまるで能舞台みたいにひかって、ただところどころ異様な雲のようにまだらなしみがえがかれている。|拭《ふ》いても消えぬほど重なった血潮のあとであった。それと、正面に飾られた|愛宕《あたご》の勝軍地蔵と、春日の赤童子の像が、奇怪な圧迫感をあたえる。上方一円、どれくらい剣法道場があるか知れないが、これほど森厳凄愴の雰囲気をもった道場は、決してほかには見られなかった。
もっとも彼らは、十数年前宝蔵院を出たこの二代|胤舜《いんしゅん》を見ていない。知っているのは、いまの三代胤清である。その胤清でさえ、さすがは――と|瞠《どう》|目《もく》すべき達人なのに、世の人の噂では、彼ついに遠く胤舜に及ばず――ということだ。
いま、彼らははじめて宝蔵院胤舜を見た。
胤舜と名乗る奴がいる、ということはすでに承知の上であった。また、先日現実に田宮坊太郎の出現を見ながら、しかも半信半疑のところもあった。
が、承知していても、いまこの相手を眼前にして、彼らはひどい衝撃をおぼえずにはいられなかった。また半信半疑の思いが吹きとぶのを感じた。
|磊《らい》|々《らい》層々たる白褐色の断崖の上に、衣の裾を風になぶらせ、槍を秋の烈日にひからせている雲水の姿は、魔神勝軍地蔵の再来か、怪奇な赤童子の変身したものかとも思われた。
その槍の穂先がすでに血光をはなっているのは、そもだれの血潮を塗られたものであろうか。
が――ながいようでも、怒濤が一つしぶきをあげ、二つめの波音をひびかせるまでのこと。
どっとどよめき立とうとする柳生衆を、
「うごくな」
と、十兵衛は制し、
「うぬら、あちらに下がって待て」
と、いった。それから会釈して、
「まことに御坊の仰せの通り、かけちごうていままでついにお目にかからなんだ恨み、またなつかしさは、十兵衛とて同じ思い。――」
秋の日が、ほとばしり出た十兵衛の刀身にひかった。
「しかしまた、仰せのごとく、はじめての|御《ぎょ》|見《けん》のあいさつは」
と、十兵衛はいって、すぐにつづけて、
「ひかえぬか、うぬら。――この相手は、亡父但馬守が|莫逆《ばくぎゃく》の友とされたおひとであるぞ。礼を守って、そこにひかえろ!」
と、また叱咤した。
|勁《けい》|烈《れつ》な声は、柳生衆たちを巌上に釘づけにした。
しかし十兵衛のあいさつは、まさに単なるあいさつではない。ほんとうのところだ。真実この胤舜といちどは立ち合いたいと望み、逆にまた父の親友として他人とは思えぬなつかしさを抱いていたことも事実であった。いいたいことはべつにある。ききたいことはむろんある。が。――
こちらの言葉をみなまできかず、そのとき胤舜は片手をあげて、ぷっ、と網代笠の緒を切った。笠は潮風にヒラと飛び、その下からあの――田宮坊太郎のつけていたものと同じ、吐き気のするほどぶきみな柿色をした頭巾があらわれて、三角形にピンと立ったのを見たとたん、あいさつはまず剣を以てするよりほかはないと断定した。
「よい心がけじゃ、十兵衛。さすがは但馬の伜。噂とはさかさまの孝行息子。――」
なお笑いをふくみ、空から回転して来てピタと横にかまえられた槍を見て――まだ十間の距離があるのに、十兵衛の全身の筋肉が、さあっとしまった。
宝蔵院胤舜の技倆については以前からきいている。一般の世評とはべつに、かつて彼が父の但馬守に再度敗れたことを知っている。その父が、あれは剣客というより政治家だというこれまた世評とはべつに、まことに恐るべき技術の所有者であることは承知していても、それでも父に敗れたということによって、胤舜の手並みのめどはおぼろげながらつけていた。
が――ちがう!
いま相対した宝蔵院胤舜は、まったく十兵衛の推察を絶したものであった。いちど五尺のその黒い姿が七尺にもふくれあがって見えたが、次の瞬間、それはスルスルと縮まり、槍の穂の向こうに消えてしまった。
十兵衛の眼前にあるのは、ただ槍の穂だけであった。それは一点、星のきらめくに似て、みるみる真赤な太陽のかがやきをおびた。
宝蔵院の槍は、ほんのいま、ひとりの女の血を吸ったばかりであった。和歌山の地底の部屋からつれ出して来た女をいけにえとしたのだ。
かつて彼は、禁欲によって槍術の極致に達した。五十代半ばをすぎ、七日にいちどは夢精するほどの肉体を持ちながら、しかも最も肉感的な女人をたえず同伴しながら、あえて欲望を断禁し、その精を充満させきった極点に於て槍の神技をふるった。
それをむなしく天草四郎の忍法に破られて魔界に|転生《てんしょう》したいま――柳生十兵衛との決闘にのぞまんとして、彼は女を犯し、そして殺害したのである。
意味は二つある。
ひとつは、いわゆる新陳代謝だ。
決闘直前の交合により、それまで体内にたまった古い、重い、血まじりの物質を、一しずくまで噴出しきってしまう。そして代わりに――若い女の生命力を、ポンプのごとく吸いあげるのだ。その結果、この短躯ながら頑丈きわまる碁盤のごとき肉体は、|鞠《まり》みたいにはずみ、猛鳥みたいに|飛翔《ひしょう》自在の軽捷と精悍を得る。――以前とはうらはらに、胤舜はそういう技術の奥儀を会得したのだ。
もうひとつは、いわゆる血祭だ。
血祭という言葉は陳腐だが、むかし中国で出陣のまえにいけにえを殺しその血を以て軍神を祭ったという。その通りの儀式を彼は行ない、しかもそういう古代人同様の純乎たる信念を以てした。じぶんに新しい活気と生命力を吹きこんでくれたうら若い女人の血を、彼は酔ったようにおのれの槍に塗ったのである。
もっとも、彼が女を直接殺害する以前に、その猛烈徹底した性技のために、女はすでに半死の域にあった。
この凄じい愛撫と壮厳なる殺戮の儀式は、秋の日が垂直におちる白い岩屏風のかげ、白い岩だたみの上で行なわれた。
――いま。
三段壁の巌頭に、宝蔵院胤舜と柳生十兵衛は相対した。
十間の距離をおき、槍と剣をかまえた二人の姿は、秋の大空の蒼みにはめこまれた鉄か銅の彫刻のように見えた。
――ひかえおれと十兵衛に命ぜられずとも、柳生衆たちは微動はおろか息すらつけず、周囲にどよもす海鳴りの声も聴覚から消えてしまったほどであった。
うごくとも見えなかった両者は、しかしいつのまにか五間の距離にちかづいていた。それすら意識に上らなかったくらいだから、このとき十兵衛のかまえが最初と一変していることに気づいた者があったかどうか。――それほど、その変化は|緩《かん》|徐《じょ》であった。
最初からそんなかまえをしたなら、だれしもその奇怪さに眼を見張ったはずである。十兵衛の眼と|鍔《つば》と剣尖はほぼ一直線であった。
このとき、胤舜はじぶんの三角頭巾を|呪《のろ》った。
「生前」のおのれの姿は紀州一帯でよく知られているおそれがあるから、念入りに頭巾でかくして来たのだが、いまやその巨大な入道頭からひたいにかけてにじみ出したあぶら汗が、頭巾のためにながれおちず、うちにこもり、眉から睫毛にしたたり、眼球そのものを熱い蒸気のごとくけぶらせてくるのをおぼえた。
汗のせいではない、と、しかし彼は舌をまいた。十兵衛の剣のせいだ。
「……さ、さすがは。……」
十兵衛の姿は、完全に鍔のかなたに消滅していた。
【三】
――そういうかまえをとるまで相手をゆるしていたのは、こちらの心にそこばくのゆるみがあったからである。この決闘のよろこびに全身の筋肉をどよめかしつつ、しかもこの相手をただ一槍一撃のもとに息の根をたつつもりはなかった。ただその一方の腕か足を刺すにとどめるつもりであった。
相手をなめすぎたといえる。それより、おのれの技倆に自負を抱きすぎたともいえる。
――こ、こやつ? 但馬の小せがれ。
その鍔がみるみる巨大な鉄の盾と化し、ぐうっとこちらに迫ってくるような錯覚を、宝蔵院胤舜は錯覚とは思わず、その瞬間、
「うおっ」
怒濤もつんざく咆哮をあげ、その鉄の盾をうち砕かんばかりの勢いで殺到していった。
鍔がちかづいて見えたのは錯覚ではなかった。その寸秒の直前に、事実十兵衛は胤舜めがけて足を踏み出していたのである。
彼は、おのれの一つの眼と鍔ときっさきと――そして赤い星のように一点きらめく相手の槍の尖端とを同じ直線の上に置いていた。従って彼のからだは、足も背も屈曲し、全身を低くして、疾走の姿勢にあった。いや、疾走せずにはいられない姿勢となっていたといえる。
槍は鍔を砕こうとして、わずかに狂い、鍔の上縁を|擦《す》り、そのままのびて、十兵衛の髪すれすれにかすめすぎた。文字通り一髪の差だ。
しかも両者はとまらない。そのままふたつの流れ星のようにすれちがった。
宝蔵院の槍を、相手の速度をも利用して鍔ではねのけた刹那、はじめて十兵衛の刀身は角度が変わってひらめいた。
「うわっ」
槍をつかんだまま胤舜は、断崖の方へ駆けてゆき、十兵衛は刀身を横へひいたまま、その反対の方向へ走りぬけた。
あとに血しぶきとともに、一本の足が横ざまに踊って、地に落ちた。すねから下を切断された宝蔵院の左足であった。
十兵衛が斬ったのは、計算ではない。反射的な無意識のわざだ。
――斬った! 宝蔵院胤舜を斬った!
その手応えを、みずから信じられない思いが、七歩駆けすぎて十兵衛を電光のごとくふりむかせた。
ふりむいて――胤舜の片足を斬ったことはまちがいないとたしかめつつ、なお信じられないべつの光景が眼に入って、十兵衛の顔色が変わった。
左足をすねからあとに残しつつ、宝蔵院胤舜は右の一本足で、ト、ト、ト、トとつんのめるように断崖の方へ走って、そのままなら海へとびこむ体勢にあったが、槍の方角がわずかにまわると、そこにつっ立っていた狂女のお品めがけて四角な|鞠《まり》みたいに突進していったのである。
十兵衛が見たのは、その刹那だ。――すでに及ばずと知って、
「麻右衛門!」
と、彼は絶叫した。狂女の左二間ばかりのところに三枝麻右衛門が立っているのを見たからだ。
……ほかの柳生衆とおなじく、三枝麻右衛門もこれまで、魅入られたようにそこに茫然と立っていたのである。
ただ、場所がちがった。柳生衆は十兵衛に命ぜられて後退してひかえていたが、彼だけは、お品と弥太郎をむすぶ綱をまんなかで握っていたため、崖の側に立って、十兵衛と宝蔵院の壮絶な一騎打ちを見物していたのだ。
血の|虹《にじ》をひきつつ、黄色の頭部と黒い翼を持った魔鳥が飛んでくる――と見つつ、麻右衛門はとっさに身動きもできなかったが、
「麻右衛門!」
十兵衛に叱咤されて、彼はわれにかえり、綱から手をはなした。一刀のつかにその手をかけようとしたのだ。
――ところが、走り出そうにも前の綱がじゃまをする、ということにそのとたん気がついたらしい。或いは、その性|朴《ぼく》|訥《とつ》|仁《じん》ちかい麻右衛門だが、十人衆中、反射神経がいちばんにぶいということもまた思いついたのか。――
いや、この際そのことを自覚したら、それも大したものだが、とにかく彼の顔は、一瞬泣くようにひきゆがみ、
「……よッしゃあっ」
そんな声をあげると、麻右衛門は綱のうしろに沿って、泳ぐように横に駆け出し、両腕をのばして狂女お品をつきとばしたのだ。
当然、お品のいた位置に、彼のからだは置かれた。無防備にあけられたその横ッ腹を串刺しに、宝蔵院の槍はつらぬいた。
この一刺しで、胤舜のからだはとまった。槍をぬいて三枝麻右衛門のからだをたたきおとし、崩れかかった一本足の姿勢を綱で支えた胤舜は、これまた電光のごとくふりむいた。
「……来るか?」
吼えた宝蔵院胤舜は――|頭《ず》|巾《きん》で覆われているのに、その悪鬼のような形相がまざまざと見えたかと思われるほどであった。
狂乱したように、柳生衆たちは動こうとしていたのである。
これに対し、「――来るか?」とさけんだとき胤舜は、地に立てた槍で均衡をとりながら、一方の腕で、ぐうっと片端の弥太郎をひきずり寄せていた。
地にたおれたお品とのあいだの綱は、余って地に這っていたが、本能的に反対方向へ逃げようとしていた弥太郎とのあいだの綱は、ピーンとのびていた。それをひかれて、七歳の子供の小さなからだは、まるで反動をつけられたようにひきもどされて、あっというまに胤舜のからだの傍にあった。
「待てっ」
と、十兵衛がさけんだとき、胤舜の左腕は、綱をつかんだまま、弥太郎の胴にも巻きついた。
「姉上っ」
ただ一声、たまぎるようなさけびをあげたっきり、弥太郎を沈黙させた胤舜の怪力、いや、とらえた者が七つの子供だから、怪力というほどのことでもあるまいが、それは十兵衛、三人の娘、八人の柳生衆をも、完全に声をのませてしまった。
【四】
そのまま胤舜は、どっかとそこに座る。
さすがにすねから斬られた左足の痛みにたえかねたようだ。槍はそのまま横たえられて、石突きはひざの上にのった。が、同時にそのひざは弥太郎を蛙のごとく押しつぶしている。
それを見て、またどっと寄ろうとする柳生衆を、
「寄るな!」
と、十兵衛は制した。
「その通りじゃ。寄ればこの小僧ひねりつぶすぞ」
頭巾のあいだから、血ばしった巨大な眼がらんとむき出されて、こちらをねめすえた。そういいながら、彼はそばにころがった三枝麻右衛門の腰から、その太刀をひっつかんで、すうとひきぬいた。
三枝麻右衛門はむろん死んでいる。彼は、狂女を救うためにおのれのいのちを捨てたのであった。――なんぞ知らん、その狂女が敵の一味であろうとは。
「宝蔵院、その子を殺せばそちらのいのちもないぞ」
「――左様かな?」
「いや、殺さずとも、そのまま捨ておかば、御坊のいのちはない。いまならば助けて進ぜる。手当して進ぜる。子供をはなしなさい」
「――そう参るかな?」
「|劈《へき》|頭《とう》、挨拶らしい挨拶もせずに立ち合い、やむを得ず御坊を斬る破目となったが……御坊は殺しとうない。御坊も、呼び名通りまさに|沙《しゃ》|門《もん》にまぎれもなし、これ以上の殺生はおやめなされ」
「――そうかんがえるかな?」
切願のためばかりでなく、十兵衛の語調はやや丁重なものに変わっていた。兵法の大先輩たる宝蔵院、また父の親友であった胤舜|権律師《ごんのりつし》と思えば、そうした態度にならざるを得ない。
これに対して、胤舜の応対は|嘲弄的《ちょうろうてき》であった。こんなもののいいかたは、以前の胤舜にはなかったことだ。それは憤怒と無念の思いからしぼり出されたどす黒い悪念の嘲語であった。
「かつて但馬に、真剣勝負ならおまえさんより伜の十兵衛の方が強いのじゃないか、といったことがあった。が、世の噂にはたがわぬ柳生十兵衛、ようわしを斬った。ほめてやる。えらい。えらいぞ、十兵衛。……」
そうからかうようにいいながら彼は麻右衛門の刀で、ぷっ、と、どこか綱を切った。
むこうで、のめったままもがいていたお品が、ぱっと立って駆け出して、くるっとふりむいてこちらを見た。
あえいではいたが、恐怖の表情はない。またじぶんのために死んだ三枝麻右衛門のために|悼《いた》む風情もみえない。狂女だから、あたりまえだ。――といいたいが、実は狂女ではないのだからこの事態になんらかの感慨がないはずはないのだが、それを顔にも姿にも見せず、一同は彼女に特別の注意をむけなかった。また注意をむける余裕もなかった。
「わしともあろう者が、ちとやりそこねたよ。……」
そう笑みをふくんでいいながら、胤舜は、切った綱の端を石突きにクルクルと巻いている。その行為すら、意味あるものとして注意する者はなかった。
ただ、そのひざがすこしうごくと、下の弥太郎が、ようやく、キュウ、というような声をたてて、
「く、くるしいよっ、姉上っ」
と、さけんだ。
「子供をはなさぬか、宝蔵院」
十兵衛は焦った。
「あがいても、しょせんは|無《む》|益《やく》だ。時がすぎれば御坊は流血のためいのちを失われよう。逃れようにもまえにはわれら、うしろは|崖《がけ》じゃ」
十兵衛を中心に、八人の柳生衆と三人の娘は刀のつかに手をかけて半円をえがいていた。
うしろは、たしかに大断崖であった。例の切れ目の部分で、波の音ははるか下界から吹きあがってくる。その向こうにえぐりこまれた絶壁は見えるが、こちら側よりやや高く、かつそのあいだの空間の距離は、二三間はたしかにある。
いかに宝蔵院胤舜が槍術の天才とはいえ、片足のひざから下を失って、前に進むこともうしろに飛ぶことも、絶対不可能事かと思われた。――げんにいま、頭巾のあいだからのぞく彼の皮膚は鉛色に変じつつある。……
「――左様かな? そう参るかな? そうかんがえるかな?」
しかも胤舜は、例の嘲弄的な|語《ご》|韻《いん》を変えなかった。
「わしはそうかんがえぬ」
がばと彼は立った。立ちながら、うしろなぐりに槍を投げた。背後の――向こう側の絶壁に向かって。
「あっ、いかん!」
十兵衛が猛然と駆け寄ろうとして、たたらを踏んだ。胤舜が右足とひざからない左足のあいだに、弥太郎少年をはさんだのを見たからだ。
むろん、胤舜は直立してはいない。直立できるわけがない。彼はうしろざまにのけぞるように怪鳥のごとく羽ばたき飛んでいる。――立ってからこのときまで、まさに一瞬のことだ。
「あーっ」
と、三人の娘と八人の柳生衆がさけんで駆け出した。
三人の娘がさけんだのは、両足のあいだに弥太郎をはさんだ宝蔵院が、そのまま海の空へ飛び去ったからであり、八人の柳生衆がさけんだのは、宝蔵院の投げた槍が、おどろくべし、対岸のふちから一尺ばかり下の岩壁に、穂のなかばも消えるばかりにメリこんでいるのを見たからであった。
胤舜が、綱を槍の石突きに巻きつけていたのは無意味ではなかった!
その槍を、岩に打ちこんだ釘として、彼は綱にすがったまま飛び去り、そして五間以上もの巨大な振り子となって、その下にぶら下がったのだ。
いちど岩に激突し、はねかえるように見えたが、不死身とも思われる肉体の弾力を、胤舜はいかんなく利用したに相違ない。その証拠に、彼はたちまち下から、じりっじりっとよじのぼりはじめた。
それをめがけて、二すじばかり白いひかりがすじをひいた。
「ば、ばかっ」
十兵衛は、ひっ裂けるようにさけんだ。
「うぬら、弥太郎を殺す気か!」
磯谷千八と逸見瀬兵衛が頭をかかえた。|小《こ》|柄《づか》を投げたのは彼らであった。
十兵衛が怒号したのは、胤舜がなお両足のあいだに少年をとらえているのを見たからだ。小柄は目標のはるか横の岩にはねて、海へおちていったからいいようなものの。――
「回れ、向こうへ。――」
金丸内匠がうめいて、手をふった。岩の大亀裂を回って、向こうの崖の上で待とうという判断だ。柳生衆はこちらの崖に沿って、どっと走り出そうとした。
すると、胤舜が、ふりむいて、吼えた。
「うごくなっ、うぬら、じたばたすると、この小僧を海へ斬りおとすぞ!」
怒濤のひびきも恐ろしい傷と流血も、ものともしない精悍な|大音声《だいおんじょう》であった。
「十兵衛、わしは再度の一騎打ちを望む! いまは、ちとやりそこねた。もういちど、うぬと、余人をまじえず立ち合いたい! それゆえに、しばらくここを立ち去るのだ。そのときを愉しみに待て。――」
そして彼は、刃を口にくわえ、弥太郎をはさんだまま、ふたたび、じりっ、じりっと綱をのぼりはじめた。
二息、三息、十兵衛は巌頭に立ちすくんでいる。
岩に穂先を沈めてつき刺した槍、あの重傷など存在しないかのような凄じい体力。それは魔界|転生《てんしょう》による超人的な力か、それとも血祭の女体の血のなせるわざか。――そうとは知らぬ十兵衛の胸を打ったのは、
――みごとなり宝蔵院!
という畏敬と感嘆の思いであった。
【五】
しかし、むろんむなしく舌をまいている場合ではない。手をつかねてこの大敵の逃れ走るのを見送っている事態ではない。とはいえ。――
「先生。……宝蔵院は弥太郎を結んだ綱は切っておりませんな」
と、そばにちかづいた平岡慶之助がいった。小手をかざして、むこうの岩壁を見下ろしている。
ふだんからひどくのんきな男だが、この場合、それがどうしたというのだ。
「弥太郎をまだ足にはさんでいるのは、たんにこちらの手裏剣の|盾《たて》とするつもりからと思いますが、いかがでしょう」
ものもいわぬ十兵衛から、平岡慶之助はフラフラとはなれ去った。
「十兵衛さま。……」
おひろが、両腕をねじり合わせてうめいた。
このとき十兵衛は、眼をあげて対岸の上をながめ、はっとしてふりむいた。
「おひろ。……五太夫」
と、呼んで、
「向こうの岩のかげに何やら見えぬか」
「えっ」
「崖のすぐ上ではない。ずっと向こうの岩のかげだが。――」
「いえ、何も見えませぬが。――」
と、戸田五太夫がいった。
「何者かが、おるのでござりますか、先生。――」
十兵衛は答えなかった。彼にも、しかとは見えない。が、はるか彼方の|磊《らい》|々《らい》たる石のかげに、何やら殺気のかげろうがゆらめいているような感覚がするのだ。しかも、一人二人ではない、複数の、おびただしいといっていい人間の。……それがはっきりと姿を見せないだけに、かえって彼に、そこに容易ならぬ「敵」の存在を想像させた。
つまりそれは、胤舜の|登《とう》|攀《はん》を座視しておれば、完全に彼は逃げのびる可能性があるということであった。或いはそれを見越して、胤舜は|乾《けん》|坤《こん》|一《いっ》|擲《てき》の跳躍をこころみたのであろうか。
「いやーあっ」
そのとき、傍で、途方もない絶叫がきこえた。
はっとしてふりかえった一同の眼に、遠く背後から何者かが駆けて来て、彼らのわきを走りぬけ、巌頭から海へ向かって飛び出すのが見えた。
「あっ」
だれかが、たまぎるような声をあげた。次の瞬間、その白い影は空を飛んで、対岸の岩にあった。
完全に足が接地したのではない。その突端にわずかに隆起した小さな岩角にからくもかじりついたのだ。グラリと落ちかけて、彼は死物狂いにもがいている。――
「平岡慶之助!」
十兵衛はさけんだ。
慶之助のからだからは、ひとすじの綱が空をわたって、こちらの崖にのびていた。ふりかえると、いままでひきずっていた狂女お品の綱がない。彼はそれを切って、じぶんの腰に結びつけ、海の上を飛んだのである。
慶之助がようやく完全に崖の上に立ったのを見て、はじめて十兵衛の全身に汗がふき出した。むちゃをやるものだ。しかも、あののんき坊主の平岡慶之助が。――
こちらの崖と向こうの崖のあいだの距離は五六メートルはある。ちなみにいえば、走幅跳びの世界記録は八メートル三十一、日本記録は七メートル九十八だが、もとよりそれはその道ひとすじの超人の記録だ。しかもこの場合、足場は悪く、向こう岸の方がこちら側よりやや高いのだ。――
「先生」
どこかのんきな慶之助の声がきこえた。額か鼻でもぶっつけたとみえて、その顔は血だらけであった。
「何とかなりませんか?」
――いったい慶之助はどういうつもりでこの冒険をあえてしたのか。
一瞬、十兵衛は彼の意図を疑った。向こう岸に飛んで、宝蔵院の綱を切ろうというつもりか。しかし、切れば弥太郎少年もまた海へ落ちる。――
そうではない。彼はみずから綱をひいて飛んだではないか。――彼はおのれを宝蔵院の槍と同様のものにしたのだ。じぶんの肉体を支点としたのだ。おれを――この柳生十兵衛を、胤舜とおなじ条件に置こうとしたのだ!
その証拠に、
「――何とかなりませんか、先生。――」
と、いうや否や、平岡慶之助は、十兵衛が、何もいわないうちに、くるっと背をむけて、その岩の隆起に抱きついてしまった。十兵衛先生、この綱にすがって飛びなされ、というように。――
その綱にすがって向こうに飛ぶ。宝蔵院と決闘する。もとより勝負は天にまかすとして、万一、こちらが宝蔵院を斬れば弥太郎がどうなるか。
弥太郎がただ胤舜の足にはさみつけられているだけならば、彼の転落はまぬかれないが、べつに綱に結ばれているならば、そのことはふせげるかもしれぬ。――平岡慶之助はそう見込んだのだ。だからこそさっき弥太郎の綱のことについてたしかめたのだ。
が――それは、ふせげるかもしれぬ、というだけで、胤舜を斬り、綱を切らぬということは、|蜘蛛《く も》の巣を切らずして蜘蛛を斬ると同様に極めて至難だ。胤舜自身がじぶんと弥太郎とのあいだの綱を切ればそれまでではないか。
さらに、十兵衛を迷わせたもう一つの疑いがあった。それは支点たる平岡慶之助が果たして安全かということであった。ほんのいま、対岸にかげろうのごとくゆらめいた殺気が、ふたたび十兵衛の胸をよぎったのだ。何者か、敵の一味が向こうにあらわれて、岩にしがみついた慶之助を襲ったらどうなるか。
しかし、平岡はおれを信じたのだ!
その綱にすがっておれが飛び、宝蔵院を斬り、弥太郎を助けてくれると全幅の信頼を以ていまの行為に出たのだ。
書けばながいが、十兵衛の迷いと決断は刹那的なものであった。
「心得た。平岡」
彼は、にやっと笑うと、こちら側の綱をとって横に走った。
その綱をじぶんの腰に巻きつけるいとまもなかった。宝蔵院がふりあおいで、頭上を横切る綱をはたとにらむのが見えた。きゃつに判断の時をあたえてはならぬ。いまや一瞬の遅延が致命的なものになることを十兵衛は直感した。
彼は左手で綱をひっつかみ、右手に愛刀をかざし、黒い鳥のように巌頭を|蹴《け》っていた。
十五丈も下に怒濤の|沸《わ》き立つ海の空へ。――
平岡慶之助の抱きついた岩は、宝蔵院の槍のつき刺さった地点のななめ上――約二間ばかり離れたところにあった。
真正面から飛べば、十兵衛の|刃《やいば》はついに宝蔵院に触れぬことになる。それだから彼は、横に走って地を蹴った。
綱は十兵衛を分銅としてななめに振りおとされていって――宝蔵院の横一間半ばかりの岩壁に彼をたたきつけた。
とみるや、彼のからだはほとんど真横になって、壁沿いに宝蔵院めがけて駆けていった。実は彼は壁に足をつけて、水平に走ったのである。ななめに飛んでいった角度と速度を利用したのだ。
このとき宝蔵院は。――
いや、その寸前、飛んでくる十兵衛の姿を見るや否や、宝蔵院の両足の下から弥太郎が離れた。弥太郎は落ちて、その脚下三尺ばかりのところで宙吊りになって、はげしくゆれた。腰を結んだ綱のおかげだ。
宝蔵院が弥太郎を離したのは、狼狽したのだ。のみならず、おのれと弥太郎とのあいだの綱を切るなどという分別も失っていた。
彼は、たしかにあわてた。頭上に張られた綱は見ていたが、十兵衛がそれによって、このような襲撃をしてくるものとは予想もしなかった。十兵衛の推測通り、彼は応接の判断を下す余裕を持たせられなかったのである。
が、弥太郎を離し、それだけ身の自由を得たとたん、もとより彼は黒い戦車のような迎撃の姿勢となった。
「十兵衛。――」
頭巾をおしさげ、あらわれた口は、ふいごみたいに炎を吐いた。もとよりその口にくわえられていた刀は右手ににぎられている。
「来たか?」
さしもの胤舜も、声になったのはそればかり、左手一本で綱にすがったまま、彼は横ざまに駆けてくる十兵衛めがけてその刀をふるった。
「宝蔵院、望み通り。――」
その刃の下を、十兵衛の声が吹きすぎた。
刀は十兵衛に触れなかった。宝蔵院の綱がまだはげしくくねってゆれていたからだ。
宝蔵院は|独楽《こ ま》みたいにからだを反転させて、このときじぶんの綱の触感が変化しているのに気がついた。彼の脚下にあった少年の姿はなかった!
見下ろすまでもない、少年のからだは十兵衛の方に移っていた。柳生十兵衛はいまのすれちがいで宝蔵院よりも宝蔵院の脚下の綱を切断して、おのれの両足のあいだにその小さなからだをはさみとっていたのである。
飛びすぎて――十兵衛と少年のむきも、くるっと変わった。
「再度の一騎打ちだ!」
絶叫とともに振りもどってくる十兵衛の刀身と宝蔵院の刀身は交錯した。一瞬、それは交錯したように見えた。
しかし、飛んだのは、刀身をにぎった宝蔵院の右腕であった。同時に、綱をにぎったその左腕も切断された。もとより彼の肉体そのものも、怒濤さかまく波の上へ、怪鳥のごとく舞いおちていった。
【六】
――槍あってこその宝蔵院|胤舜《いんしゅん》だ。刀を以てたたかえば、しょせん十兵衛の敵ではない。
とは、十兵衛は思わなかった。
――あの傷のせいだ。流血のせいだ。
常人ならば、最初に片足を斬られたときすでに|悶《もん》|絶《ぜつ》しているはずなのに、あの跳躍、いまの反撃、何よりもあの岩にメリこんだ槍の凄じさ。
十兵衛の足のはるか下で、海鳴りの声はどよもしている。それよりも、頭上をふりあおいでその槍を見て、眼のくらむ思いがした。
その槍から垂れ下がった綱は、いまや主を失って風にむなしくぶらぶらとゆれている。むなしく――いや、手だけが残っていた。|肘《ひじ》から斬りはなされ、なおがっきと綱をにぎっている胤舜の巨大な左のこぶしであった。胤舜めがけて|飛翔《ひしょう》したときより、十兵衛はいま戦慄をおぼえた。
宝蔵院胤舜の生存していたことは事実であった。それでは彼の死んだということが誤報だったのであろうか。そんなはずはない。父の但馬守が死去したとき、江戸屋敷からの報告は受けたが、そのとき同時に、宝蔵院が槍の穂でみずからのみぞおちをつらぬいて殉死したという事実もきかされている。それに――先刻、決闘のまえ、胤舜が妙なことをいった。
「――柳生十兵衛、その名をきくだに何やらなつかしい。……きくだになつかしいと思いつつ、生前、かけちごうていちども逢えなんだ。――」
生前とは何のことだ?
十兵衛は海を見下ろした。あの黒い怪鳥のような姿はどこにも見えぬ。彼はその海の底へ下りていって、胤舜を探し、死体をゆさぶってでも、その意味をききたいという衝動にとらえられた。あれほどの死闘を演じつつ、なおあの豪僧に対するなつかしさは消えていなかった。それだけに、いっそうぬらぬらとあぶら汗のにじみ出すような、えたいのしれぬぶきみさが下界から吹きあげてくる。――
「先生。――」
「大丈夫でござるか、十兵衛先生。――」
向こうの崖から柳生衆が呼んでいる。|茫《ぼう》|乎《こ》としていた十兵衛ははっとわれにかえって、うなずいてみせた。柳生衆たちは崖に沿って走り出した。
そうだ、それよりもあの平岡慶之助は。
じぶんたちはその慶之助によって支えられているのだが、綱が、宝蔵院の槍にも劣らぬ頑強さで、上から垂れていることにはじめて十兵衛は気がついた。
刀を口にくわえ、片腕で、股間にはさんだ弥太郎の腰に垂れている綱を、こちらの綱に結びつける。さしもわんぱくな少年も、失神していた。空中で、ながいあいだかかって、苦労してこの作業を終えたのち、十兵衛はまずじぶんだけ、綱をつたってよじのぼっていった。
平岡慶之助はまだ同じ姿勢で岩にしがみついていた。
十兵衛が傍に立っても、なお彼は岩を抱擁していた。
「ようつとめてくれた」
と、十兵衛はいったが、平岡慶之助は声もない。ふくれあがった血まみれの顔の、くいしばった口からまた新しい血がながれているのは、おそらく唇をかみちぎったものであろう。
ようやくこちら側の崖を走ってくる柳生衆の姿を見ると、十兵衛は顔をあげて前方を見わたした。それにしても。――
――さっきの姿なき殺気のかげろうはどうしたか?
それが現われて平岡慶之助を襲わなかったことだけはたしかである。そしていまそのかげろうのごときものが消え失せていることを十兵衛は看取した。まるで先刻のじぶんの疑惑が錯覚であったかのようであった。
――しかし、何者かがあそこにいた。しかも決して小人数ではない。
むろん、敵にきまっている。
――では、その敵が、みすみす味方の宝蔵院の討たれるのを見捨てて消え失せてしまったのはなぜか?
それが現われたらこちらは助からなんだ、とは承知しつつ、それが現われなかったことは、それはそれとして別のぶきみさであった。
「――紀州藩は手を出すな、という例の約定を守っておるのか?」
こちらから強制した約定ながらむろん絶対的にあてになるという根拠はない。紀州全藩、雲霞のごとくかかって来られてはひとたまりもないから、大法螺を吹いて釘をさしておいたが、その通り、いつまでも大納言がすくみこんでいようとは思われない。そのときはそのときだ、と十兵衛は放胆に覚悟していた。
ところが、敵が律義にあの約定を守っているとすると。――
別種の困惑が縛ってくるのを、彼は感じた。敵が約定を守るかぎり、いかなる秘密が紀州藩にあろうと公儀には訴えぬと彼は誓った。
が、隠密云々はでたらめとしても、最初半信半疑に想像していた以上に容易ならぬ怪異の妖煙がこの国に渦まいていることを彼は知った。
「先生」
柳生衆と三人の娘が息はずませて駆けつけて来た。
「身の毛もよだつ果たし合いでござりましたなあ」
「先生はお強い!」
十兵衛は眼で、まだ岩にしがみついている平岡慶之助をさした。
「強いのは、こいつだ。指を見ろ」
平岡慶之助の岩にくいこんだ十本の指のうち、六本までは生爪がはがれていた。
「石から離して、介抱してやれ。お雛、当分、石の代わりにおまえ抱かれてやるがいい。――いや、これは冗談だ。あ、これ、その綱を切ってはとりかえしがつかぬ。そのさきにはまだ弥太郎がぶら下がっておる。――」
密使
【一】
「大納言さまのお成りである」
ギ、ギ、ギ……と鎖のきしむ音と、戸のあくひびきに、殺気にみちた顔をふりむけていた五人の転生衆は、そこにあらわれた|牧野兵庫頭《まきのひょうごのかみ》のこの言葉をきき、さらにそのうしろにたたずんだ影を見て、さすがにいっせいに平伏した。
「宝蔵院の討たれたことはすでに存じておろうの」
と、頼宣はみずから口をきった。
「はっ、たしかに。――」
と、|天《あま》|草《くさ》|四《し》|郎《ろう》が答えた。
「あの胤舜ほどの男が討たれたとは実に奇怪至極、そのことにていま一同と談じ合っていたところでござりまする」
「第一番の田宮を以て、|柳生十兵衛《やぎゅうじゅうべえ》の耳を切るとか申した」
「――はっ」
「第二番の宝蔵院を以て、もう一方の耳か片腕を刺すとか申した」
「――はっ」
「その田宮と宝蔵院いまや亡く、柳生十兵衛は健在である」
「十兵衛めらは、その後また悠々と湯崎の湯に入っておるという。――」
と、牧野兵庫頭が言葉をそえた。
五人の魔剣士は、寂然としてうごかない。――ただ、あの白蝋のような天草四郎の顔だけが、かすかにあからんでいるだけだ。が、凄壮な殺気はその一団をめぐっていた。この殺気は、いま大納言の入来を待ってはじめて生じたものではない。それ以前からここにあったものだ。
「こんどはだれがゆく」
大納言の口吻は、あきらかに嘲弄的であった。
「|拙《せっ》|者《しゃ》が」
巨大な入道あたまがあがった。
「お。――如雲斎が」
さすがに頼宣の眼がひろがったが、すぐにもちまえの不敵な表情をとりもどして、
「ひとりで、大丈夫か?」
と、いった。
柳生如雲斎は答えない。ただ眼が異様なひかりをはなち、そしてまた深沈と平静にもどっただけである。
「まだこれからも最初の方針通り退屈しのぎの剣法遊びをつづけるつもりか?」
「江戸の宗意軒さまから格別のお指図のないかぎりは」
と、天草四郎がむしろ冷ややかな調子で答えた。
「左様か」
と、頼宣はうなずいて、
「しかし余はもはやうぬらの遊びにいつまでもつき合っておるわけにはゆかぬ」
「――と、仰せられると?」
「先刻、江戸より使者が来て、将軍家さきごろより病みたまい、しかもその御症状ただごとならずとのことじゃ。第二の使者の報告|如何《いかん》では、わしも江戸へゆかねばならぬ」
「――ほ」
五人の剣士は顔見合わせた。
「……では、そのときが到来したのではないか?」
しゃがれた声で、武蔵がいった。再誕しても口の重い、沈痛味を失わない武蔵の眼が、ぎらと金茶色のひかりをはなった。そのときとは、何のことか?
「いや、そのときではない」
と、天草四郎がかぶりをふった。
「師は、星占いによって、将軍家の御寿命はあと四五年と申された。この星占いに異変が起こったとすれば、江戸より何かの知らせがあるはず――」
「機会あらば、余がもういちど宗意に逢うてその所存をきこう」
「あいや」
と、天草四郎がしぶとくいった。
「御出府の要はござりますまい。宗意軒さまの指示なきかぎりは」
「たわけめ、余の動静にいちいちうぬらの指示は受けぬわ」
頼宣はかっとしてさけんだ。
「宗意は何と申そうと、現実に将軍家の病|篤《あつ》しという。十中八九まで余は出府することと相成ろうぞ。江戸に乗りこんで、事態の推移を見守らねばならぬのだ」
頼宣の眼には、焦りと、そして不敵な野心の炎があった。――森宗意軒は四五年待てといった。それまで、一朝事あるときかならずものの役に立つこの魔界転生のめんめんを飼うておれといった。しかし、いま現将軍が他界したならば、むろんいまがそのときだ。この政権交代のときに際し、みずから江戸にあってにらみをきかしているのと、遠くこの紀州で腕をこまねいているのとでは、政局に於けるおのれの存在の比重がちがう。そのことをはっきりと見越している眼の表情であった。
「さて、余がここに来たは」
頼宣はふいに冷淡な、先刻のあざけるような調子にもどった。
「うぬら、わしの留守中、まだ紀州で柳生十兵衛と剣の遊びをつづけておるか。それとも、わしの出府までになんらかのかたをつけるか。……勝手にさらせということだ」
頼宣は背を見せた。
「余の申すことはそれだけじゃ。兵庫、参れ。――」
そして、彼は背を見せた。おなじような嘲笑と、逆にまた|慰《い》|撫《ぶ》と、二つの思いが混乱した眼をちらと五人に投げたあと、牧野兵庫頭はそのあとを追った。
あとには、転生衆たちがとり残された。
「何しに来たのじゃ」
と、荒木又右衛門がいった。
「あれは、相談ではない。――」
「大納言さまは、じれてござるのだ」
と、柳生如雲斎がいった。そういう本人もいらいらとして、
「もっとも、十兵衛とのやりとりが、いままでのようではなあ、むりもないわ」
「大納言さまは、将軍御他界となれば、御三家の一つとしてあわよくば、御幼君家綱さまの御後見となり得る、くらいに思っておられるのではないか」
「ひょっとすると、あまりに家綱さまが幼くおわすゆえ、御自分が徳川家をつぐこともあり得る、と夢みておられるのかもしれぬ」
「――要するに、宗意軒やわれらの助力は無用、といわぬばかりであったの」
武蔵、又右衛門、如雲斎の会話である。
「それをわれらにきかせとうて、わざわざ御入来なされたのかしれぬ。……しかし、いま将軍家は死なぬぞ」
と、天草四郎はうす笑いしてくりかえす。但馬守が、ぼそりといった。
「たとえ御他界あったとしても、大納言さまのお望みはかなうまいな。そうは問屋がおろすまい。幕閣に松平伊豆のあるかぎりは。――へたにうごきなさると、かえって 藪蛇になるぞ」
「といって、いまの御様子では、われらが何をいおうとおきき入れはあるまい。――や! 宗意軒さまは、大納言さまの星も吉凶二つに割れているとか申されたな」
天草四郎はちょっと|吐《と》|胸《むね》をつかれたような顔をあげて、
「では――いよいよ以て一日もはやく、大納言さまの御忍体を支度しておく必要がある」
「忍体、といえば」
と、荒木がいった。
「あのクララお品は何をしておる? いったいいかなる所存なのか? 柳生が田宮を斬ってからもう一ト月以上にもなる。それで、まだ十兵衛を|堕《おと》せぬのか? われらがいままでひかえていたのは、クララが十兵衛を堕すという――でき得ればそれを待っていてやりたいと思う心があればこそだ。四郎、きゃつ、大丈夫なのか」
「人は見かけによらぬ」
と、天草四郎はみなの顔を見まわして笑った。
「十兵衛め、おぬしたちほど女好きではないとみえるな」
が、すぐにきびしい表情になって、
「どういう手順か、クララの心をきこうとして根来者と連絡させようとしているのだが、それがうまくゆかぬのだ。クララについては、わしもいささか不審な点がないでもない。宝蔵院が討たれたとき、それを知りつつ根来衆がついにひそみ通したのはこちらの厳命によるものとしても、クララほどの女がそばにいて、何らなすこともなく宝蔵院を見殺しにしたのは、いかにもふしぎ。――」
くびをかしげたが、すぐにうなずいた。
「いちど、あの女をこちらに召喚して、われらからききただした方がよいかもしれぬ。何にしても、いまの大納言さまの仰せのごとき事態となったとあれば、事はいそぐ。あまり遊んではおられぬ」
「わしがゆこうか」
と、但馬守が如雲斎をかえりみた。
「十兵衛の魔界転生の望みなどふっつり捨てて、わしがスッパリ斬って捨ててもよいぞや」
これが実の父親の言葉だから、まことに戦慄すべきものである。
「なんの」
と、柳生如雲斎はくびをふり、
「こんどのくじにあたったのはわしだ」
と、巨大なあごをつき出しながら、ゆたかに羽織った道服のひだのかげから何やらとり出した。
それを灯にかざす。一個の女の首だ。――彼はこんなものを道服の|裾《すそ》にかくして、紀伊大納言頼宣と話をしていたものと見える。
なまなましい、まだ唇に色の残っているような女の首は、しかしくいしばった美しい歯のあいだから、何やら外に垂らしているようであった。五本の毛だ。それが、門歯や犬歯のあいだから、一本一本かみ出している。
「但馬、しかし、わしは十兵衛を殺すまいよ」
と、如雲斎はその生首に顔をちかづけて、舌を出して一本の毛を吸いとり、おのれの歯でかみとりながらいう。
「はじめの方針通り、まず耳を斬ってやろう」
またべつの毛をくわえてひく。
「いや、田宮と宝蔵院が死んだ。このまえの勘定通りでは間に合うまい。もう一本、腕を斬ってやろう」
三本目の毛を唇にくわえた。
そもこの女の生首はどうしたのか。五本の毛が、まるでくじびきのくじみたいに出ているところを見ると、これは新形式の女くじではあるまいか。
「大納言どのがどう嘲弄なさろうと、それに対して四郎がどう思案しようと、わしは最初四郎がいい出した方針は変えぬ。柳生十兵衛の耳、手足を一つずつ斬ってゆく――最初四郎がいうのをきいたときはばかばかしいと思うたが、こうなれば、その方式に従ってやらねば、魔界転生衆の面目にかかわろうが」
四本目の毛を吸いとった。
「いいや、余人は知らず、この柳生如雲斎の意地が承知せぬ」
五本目の毛をくわえた。
「さればによって、柳生十兵衛の耳か手か、この柳生如雲斎は斬る。斬ってみせる。斬らずにはおくものか。……」
但馬守の方をふりむき、ぺっと五本の毛を吹いた。
「もっともな、面目や意地ばかりでなく、わしと十兵衛がまともに、まっこうから立ち合うことは、不公平であろうが。……わしは面白うないぞ。で、勝負を面白うするために、わしの方がむずかしい条件をつけるのじゃ」
つまりおのれの方にハンディキャップをつけるというのだ。田宮坊太郎、宝蔵院胤舜の討たれたことを知りながら、なんたる途方もない自信か。――まるで古い壺でも|愛《め》でるように女の生首をもてあそんでいる柳生如雲斎の黒いあぶらをぬったような入道頭には、しかしどこかうっとりとしたものがまつわりついていた。
その女の首をおいて、
「どうじゃな、但馬」
但馬守は、じぶんの顔にペタリとねばりついた二三本の毛をつるりと手でぬぐい、
「よかろう」
と、何のこともなげにいった。
【二】
まるで|蟹《かに》みたいに、あるいは|鯊《はぜ》みたいに、あるいは|蛸《たこ》みたいに、柳生衆は砂にへばりつき、水にひたり、岩に吸いついていた。
「……ううむ」
「なるほど」
「いかにも。――」
眼をひからせ、くびをふり、肩|肘《ひじ》張って、
「それ、そこだ」
「もう一息」
「いや、惜しいところ。――」
まるで柳生の庄の正木坂の道場で、だれかの試合を見ているようだが――彼らははだかの女人を見物しているのであった。
湯崎七湯。
そのむかし|牟《む》|婁《ろ》の出湯といわれ、有馬、道後とともに日本最古の温泉として名高いところだから、この時代には珍しく、そのための宿などもあった。とはいえ、むろんいまのような娯楽観光をかねての大温泉地ではなく、湯治場として近郷の百姓が主な客にすぎない。岩や砂や場所によっては海の中に湯の湧き放題といったところがいたるところにある。現代でも、七湯の一つ、崎ノ湯などは岩窟の中に湧き出しており、熊野灘の波音にまじって入浴するという原始の趣を残しているくらいである。
さすがに年輩の金丸内匠や戸田五太夫、それに少年といっていい小屋小三郎の姿は見えないようであったが、数えてみるとちょうど五人、あとの柳生衆全員がここに忍びよって拝観している。
そんな自然の岩の湯の一つに入っているのはお品であった。
例のおんぶはいわずもがな、ふだん、抱きつき、ひっくりかえり、媚態狂態をほしいままにしているお品だ。その裸身もいまさらのことのようだが、こればかりはいつ、なんど見るのも格別とみえる。
もっとも、全裸のお品を拝観するのははじめてだ。おまけに澄みきった月光の中である。さらにおまけに、背後は蒼々とうねりよせる波濤だ。
「……ううむ」
「なるほど」
「いかにも、――」
おなじ嘆声をくりかえし、しかもだんだんその鼻息があらくなり――たとえ姿はかくしていても、ふつうの女だったら気がつくだろうに、そこが狂女だから、お品は気がつかない。
月光と湯けむりの中に、彼女の白い裸身は蛇のようにぬれひかって、岩に寝そべる、腰かける、バチャバチャとしぶきをあげる、はてはだれかの方角には、惜しげもなく真正面から仁王立ちになる。――
入浴ではない、遊んでいるのだ。ながれる腰、はずむ乳房、くねる四肢、それは狂女の肉体というより、乱舞する幻の花のようであった。
――むろん、ほんとうのところは、お品は何もかも承知の上で、柳生衆に見せつけているのだ。
――とは知るよしもない柳生衆は、
「それ、そこだ」
「もう一息」
「いや、惜しいところ。――」
と、極端に思考中枢が単純になり、先日生爪をはがした平岡慶之助などは、興奮のあまり岩から浅瀬にころがりおちて盛大な水音をたてたが、お品はおろか、ほかの連中も気がつかない。――もっとも、波はたえず打ちよせてはいるけれど。
慶之助ははね起きようとして、そこにのっそり立っている影を見あげて、
「…………」
口をモガモガさせるばかりで、声が出なくなってしまった。柳生十兵衛がそこに立っている。
十兵衛は、むずかしい顔をして、あごをしゃくった。
平岡慶之助は赤面して、四つン這いになりそうな姿勢で、宿の方へ逃げていった。
そこからちょっと回ったところで、夢中になって眼だまを岩のすきまにこすりつけている小栗丈馬のくびねっこをつかんでひく。――何をするか! といわんばかりに血相かえてふりかえった丈馬は、この|妨《ぼう》|碍《がい》|者《しゃ》を見ると、これまたびっくり仰天してスタコラ逃げ出した。
次々に、あと三人、伊達左十郎、磯谷千八、逸見瀬兵衛をとっつかまえて追いはらった十兵衛は、自然の浴槽を作っている岩の上にのそりと立った。
いままで、にが虫をかみつぶしたような顔をしていたくせに、このときはニヤニヤして、岩の中を見下ろした。
お品は気がついて、十兵衛を見た。
ふいに、にこっと笑ったかと思うと、湯けむりをあげて湯壺の中を走り――沈んだのではない、そのまま十兵衛の方へ駆け上って来た。
実は、この湯崎の湯に逗留して以来、彼女は憑きものがおちたようにひっそりとおとなしくなっていた。いや、可哀そうなくらいおとなしく、みなについてくるのは以前からのことだが、それがいっそう甚だしくなって、狂女というより白痴のような感じに変わっていた。ところがいま、白いいるかみたいに駆け上って来た姿には、いのちの火を点じられたような精彩がある。――
「よし、よし」
とびついて来たお品を、十兵衛は遠慮なく受けとめた。
「ここはいかん。あっちへゆこう」
ぬれたままのからだを両手に抱いて、岩を下り、海ぞいに砂浜を歩き出した。お品はとろけるような笑顔になって、柔らかい腕を十兵衛のくびに巻きつけている。――
――と、そのあとの無人となった岩風呂へ、宿の方から五つの影が駆けて来た。
「どこにも、だれもいないじゃないの?」
と、はずむ息をおさえてきく声はおひろだ。
「――あんれ?」
立ちどまって、キョロキョロ見まわしている小さな影は弥太郎であった。
「おかしいなあ! ほんのいままで、ひげのおじちゃんたち、ほんとにこの岩にしがみついて、きじるしの姉上をのぞいてたんだぜ」
「――しっ」
「そんな大きな声を出してはだめですよ」
と、お縫とお雛が狼狽してにらんだが、弥太郎には通ぜず、
「ほんとだよ、みんなとびだすみたいなめだまをしてさ、なにみてるのかっておれものぞいてみたら、なあんだ、はだかのきじるしの姉上じゃないか。おれがひげのおじちゃんのそばにいっても気がつかない。おしりをつねっても気がつかない。――」
と、岩の上へピョンピョンと飛びはねていって、
「あっ、いる。――むこうに――おや、十兵衛先生といっしょだ。十兵衛先生がきじるしの姉上をだっこしてあるいてくる。――」
と、さけんだ。
「えっ、先生が?」
と、声を制するのも忘れて駆け上って来たのは、もう一人、小屋小三郎であった。これは偶然、ついいましがた弥太郎といっしょに駆け出してゆく三人の娘を見て、「――何事です?」と、わけもわからずついて来たものだ。
「おおっ」
と、小手をかざして、息はずませた。
小屋小三郎はくびをひねり、なおじいっと月光をすかしていたが、ふいに、
「これはいかん」
と、駆け出そうとした。
「お待ちなさい」
と、お雛がとめた。
「なぜでござる、先生が危ない。――」
「どこが、危ないのですか」
「あれを御覧にならぬのか。先生が女を抱いて、女が先生のおくびに腕を巻いて――」
「見えます。それがどうしたというのです」
「あっ、女はもう一本の腕を巻きつけて、ううむ、これはひどい。先生の堕落は眼前に迫った。いや、これはすでに先生の堕落だ。柳生流――いや、正木坂道場孤高の剣風は風前のともしび。――」
剣風が風前のともしび、というのだから、本人も何をいっているのかわからない。
うわごとのようにうめいて、またとび出そうとすると、その両腕を、お雛とお縫が両方から死物狂いにとらえて、
「やめて下さい!」
「そんなことは!」
ふりむいて、ふたりの娘の眼に涙がひかっているのを見て、小屋小三郎はめんくらった。この場合、どうしてこのふたりが泣くのか、全然その心事が了解できなかったからだ。
「ほうっておいて!」
まるで、じぶんのことみたいにいうと、おひろも岩の上に座って、くるっと背をむけてしまった。
お雛もお縫も手をはなすと、これまたヘタヘタと岩に腰を下ろして、
「かまわないで下さい!」
「わたしたちのことは!」
とさけんで、両頬をおさえてしまう。――
「……?」
小三郎はまじまじと三つの背をながめ、助けを求めるように弥太郎の顔を見た。七つの弥太郎はキョトンとしていたが、
「……きちがいが、うつったんだなあ」
と、深刻な思い入れを作っていった。
「しかし、先生を信じますが」
と、もういちど月光にかすむ|汀《みぎわ》の方に眼をやって、小三郎はいった。
「あのお品という女、あれはなんとか切り離した方がよいですぞ」
十兵衛先生の危機をなぜ座視するのか、よくわからないが、彼女たちが決してそれを歓迎しているのではないことはよく感じられたし、小三郎はここ半月ばかりのあいだにじぶんの胸中にきざしはじめた或る不安と信念をこの際に吐露して、彼女たちの意見をきかずにはいられなかった。
「はじめはたしかに拙者も同情した。いまでも、ふだんのときのあの哀れな姿や顔を見ると、いいたいことも口の中できえてしまうほどですが……やはり、いかん」
「…………」
「あの女を一行に加えてから、柳生衆の背骨がなんだかグニャグニャになって来たような気がする。三枝さんなどもあの女のために命を捨てられたようなものだが、かんがえてみるとこれはおかしい。われらはあんな女のために紀州に乗りこんで来たはずではない」
「…………」
「なんのためにあの女をつれて歩くのか。いったいこれから先、あの女をどうしようというつもりか。――あなた方のおかんがえを承わりたい。あなた方にも責任がありますぞ」
何かいいかけていた三人の娘は動揺した。
「責任とは?」
と、お雛とお縫が小さな声でいった。
「さっき先生を信じる、といいましたが、実のところこのごろ、先生も少々怪しいと拙者は見ております。右の意見、実は先日、先生に申しあげました。すると先生は――おれははじめから、あの女を捨てろといった。にもかかわらずお雛やお縫が物好きの強情を張ってきかなんだ。――」
「…………」
「途中で、もういちど、そのことをいった――と先生は申される。しかるにおひろなどは、きちがいであればこそ、捨て猫みたいに捨てていっては、人間の道にはずれる、とまでいって熱涙を以ておれをいさめた。おれは大いに恥じいった。――」
「…………」
「拾った古座、串本あたりまでならともかく、ここまでつれて来てはきちがいを放り出すわけにはゆかぬ。いまとなっては、情も移った――と申されるのです。ニタニタとして」
「…………」
「いったい、あなた方はどんなおつもりでそんなことをいわれたのです?」
なんといわれても、一言もない。まさに自縄自縛。――とはいえ、それを逆手にとる十兵衛先生は、ほんとうにどうしようもないほどにくらしい。
【三】
「――おお、よしよし」
小屋小三郎の形容通りのニタニタ笑いを浮かべて、柳生十兵衛は、お品を抱いたまま、波にくだける月影を踏んでゆく。
このあたりを、古来から|白《し》|良《ら》|浜《はま》といった。これはここの砂が石英砂だからで、まさにその名にそむかぬ白銀の浜辺であった。松までが墨絵さながらに美しい。
この清浄きわまる風光の中を、お品は抱かれたまま、両腕を十兵衛の首にまきつけ、微妙にからだをくねらせつづけていた。肌は汗ばみ、花粉のような匂いをはなち、あえぐ息は、息というよりもう快美の絶頂に達したような女の肉声の旋律であった。
「待て、待ってくれ」
さすがの十兵衛も息をきらして、
「あそこの舟まで」
浜辺にただ一艘だけあげられた舟がみえた。
――すると、そこにちかづくと、その蔭からのそりと二つの影が立ちあがった。
「十兵衛さま」
金丸内匠と戸田五太夫であった。十兵衛はおどろいた様子もない。そのはずだ、
「お呼びによって」
と、金丸内匠がいったところをみると、二人がそこに待っていることは十兵衛が承知の上であったのだ。彼はすまして、
「――おおよしよし、おまえはしばらくここで待っていてくれい」
と、お品を舟に板をわたして腰かけさせた。
これが正気の女人なら柳眉を逆立てたろうが――いや、狂女ならぬお品の眼が、一瞬、これは、と案に相違したひかりを発したが、それはいま打ちよせた波にくだける月光に似てすぐに消え、彼女はおとなしく――しかし姿態だけは依然としてなまめかしくあえぎながら、そこにベタリと横座りになった。
「話というのは」
と、金丸内匠がいった。十兵衛はまわりを見まわした。
「ほかに、だれもきいておる者はなかろうな」
「ばかなことを。――前は海、うしろはこの白銀のような浜」
と、金丸内匠がいえば、念入りに戸田五太夫もいう。
「そこな舟の中には、いままでわれらがおりました」
「左様か。ひとにきかれてはこまる大秘計でな」
「大秘計?」
「おまえら、おれたちがこの湯崎に逗留しておるあいだ、何者かがじっとこちらの動静を見張っておるのを知っておるか?」
「――は? 何者かが――と仰せられると、何者で?」
「というと、おまえら知らぬな。知らぬはずだ。おれも見たことはない。見たことはないが、見られておることはわかるのだ。しかも、決して一人や二人ではない。五人、十人、二十人――或いは、それ以上。――」
彼は片眼をあげて、はるかな三段壁の方をながめた。
「宝蔵院とやり合ったときから肌に感じていたことだ」
「おお。――あのとき、左様なことを仰せでありましたな」
と、戸田五太夫が思い出したようにいった。
「それは、いったい――」
「何者か、ということが問題だ。木村助九郎らを殺した例の怪剣客のむれ、それこそわれらの当面の敵じゃが、しかし彼らではない。彼らの殺気はもっと圧倒的なものだ。――」
と、十兵衛は、田宮坊太郎や宝蔵院胤舜との決闘のとき、また最初の――柳生の庄に於けるあの霧の夜の対決のときを記憶にまさぐるようなまなざしをして、
「ちとその正体に不審はあるが、見張っておる奴は、むろん紀州藩の奴らに相違ない」
「十兵衛さま」
「うむ」
「われらが監視されておる、ということはいまはじめて承わりましたが、しかしべつに驚くほどのことではないではありませぬか。あり得ることでござる。いや、むしろそう来なくてはならぬところでござる、紀州藩としては」
と、戸田五太夫がいうと、金丸内匠も枯れた、平然たる顔で、
「われらとしては最初から紀州全藩を敵として乗りこんで来たつもりでござる。それらの者どもが、いままで手を出さなんだことこそふしぎ。――」
「さあ、それがふしぎ千万でもあり、当惑千万でもある」
「――と、仰せられると?」
「どうやら、おれが紀州藩は手を出すな、と釘をさしにいったのがきいたらしい」
十兵衛は苦笑した。
「おれとしては、どこまで敵がこの条件を守るか、守らなくてもともと、守ってくれればめっけもの――くらいに思っていたのだが、そこまで律義に守ってくれるとなると、めっけものどころか、それがこちらを縛る縄となった。――」
「――と、仰せられると?」
「内匠、五太夫」
「はっ」
「このたびのこと、実に容易ならぬことだ」
「もとよりです。――しかし、何を、いまさら」
「おれもそう思う。そう思うがな。――実は最初、木村助九郎から、敵は宮本武蔵、荒木又右衛門、宝蔵院胤舜、田宮坊太郎――ときいたとき、おれはもとより半信半疑、むしろ、そんなばかなことが、とかんがえておった。のちに、木村、田宮、関口ほどのものを斬った以上、斬手がその名に匹敵する奴に相違ない、とは思い直したが、しかしまだにせものであろう、という考えを捨てきれなんだ」
「…………」
「だから、腕はともかく、その名はにせもののその怪剣士どもを斬ってゆけば、三人の娘の仇討ちにもなり、また助九郎に依頼されたごとく紀州藩を救うことにもなると、簡単に考えておった」
「…………」
「ところが、|青《せい》|岸《がん》|渡《と》|寺《じ》でも田宮坊太郎を見、三段壁で宝蔵院胤舜を見た。まさに、ほんものだ」
十兵衛の顔色も声も、むしろ厳粛なものに変わっていた。
「腕が同様なら、ほんものもにせものも同じようなものだが、事情は根本からちがってくる。してみると、あとにまだひかえておる荒木又右衛門と宮本武蔵も現実の人間とかんがえねばならぬ」
「…………」
「これは恐るべきことだ。現実に生きておる宮本や荒木が恐ろしいということ以上に、それを紀州藩が飼っておるということが恐ろしい」
「…………」
「思っても見よ、荒木又右衛門が死んだと伝えられたのは寛永十四年、九年前のことであるぞ。宮本武蔵が死んだと伝えられたのは、これは去年じゃが、これも細川藩でしかと見とどけて葬っておるはず。細川藩で葬ったはずの武蔵が、いかにして紀州藩に生きておるか、また九年も以前から紀州藩は何をかんがえて又右衛門を飼っておったか。……」
「…………」
「宝蔵院、田宮のことまたしかり。――容易ならぬ大陰謀を企んでおると見るしかない」
十兵衛は、これらの剣士の死にからくりがあった、正確にいえば彼らは死なずしてそのまま生きていたものとかんがえた。これは当然だ。常識として魔界転生のことなど、想像を絶している。
この十兵衛の推定はややまちがっていたが、結論としては紀州の陰謀をかぎつけたのは的中している。
「もとより、これもいまさら思いあたったことではない。青岸渡寺で田宮を見たときから胸に浮かんでいたことだ。それ以来、ではいかにすべきか、ということを、道中からこの湯崎にいたるまで思案しておった。ここにながながと逗留していたのも、ただ見張られているからばかりではない。――」
「…………」
「いかにすべきか、とは紀州藩をいかにすべきか、ということじゃ。木村助九郎の最後の願いはそれであった。現実に、武蔵、又右衛門らと立ち合い、討たれた助九郎は、あのときから紀州藩の危機を直感し、さればこそ死にあたって、くりかえしくりかえし、おれに依頼をしたにちがいない」
「…………」
「しかし、これはたんに紀州藩士木村助九郎や、一介の素浪人柳生十兵衛だけの約束ですませてよいことか。内々に処置しきれる事柄であろうか。おれの思案はこれであった」
「…………」
「三人の娘たちの仇討ち沙汰、木村ら三家族の安否、敵との約定、もはや左様なことは大事のまえの小事じゃ」
「…………」
「松平伊豆守さまに御相談申しあげよう。結論はそれだ」
「――や!」
はじめて金丸内匠と戸田五太夫は声をあげた。
「ひょうたんから駒だがな」
と、十兵衛はうすく笑った。
これは紀州藩を|牽《けん》|制《せい》するために投げつけた隠密云々のことが、ここでほんものになりそうな形勢になって来たことをいったのだ。
「さりながら大納言さまの御天性は、妖霧からお覚めなさればふたたび御名君におかえりあそばすものとおれは信じる。伊豆守さまとて、決して紀州家をおとりつぶしにはなさるまい。――そのことは、十兵衛よりも、しかと願うつもりだ」
「十兵衛さま」
と、金丸内匠はいった。
「江戸へおゆきなさるか」
「いや、おれは紀州に残る。三人の娘のこともある。まだ探らねばならぬことがあるのだ。このたびのことについては、まだまだ|腑《ふ》におちぬことがある。その根は深く、かつ奇怪千万だ」
「では?」
「密使を送る」
「だれを」
「あの女を」
金丸内匠と戸田五太夫は、口をあんぐりあけて、ふりかえった。
さっきまで何かに|炙《あぶ》られているように身もだえしていたお品は、いま舟の上で、火が消えたようにケロリとして、海の空にかかる月をながめている。無心といっていい横顔であった。
「あの狂女を」
と、金丸内匠はくりかえした。
「左様」
十兵衛は平然としている。
「そ、そんなことが。――」
「おまえがついてゆくのだ」
「せ、拙者が。――」
内匠はちょっとおどろいた顔をしたが、すぐに不審げに、
「それは、十兵衛さまのお申しつけなら、いかなる御用でも相果たしまするが、しかし拙者がゆくなら、何もあの女を密使とする必要はありますまいが」
「われわれは監視されておる、とさっき申したことを忘れたか。これを破って紀州の外に出るのは容易でないぞ。きゃつら、それをふせぐために見張っているのではないかと思われるふしがある」
「――は」
「だからこそ、おまえにたのむのだ」
「――は」
「内匠、おまえの腕と知恵のかぎりをしぼって――せめて女を柳生まで送ってくれ。柳生につけば、そちらで江戸へ手を打ってくれるように、わしが一筆書いておく」
「密書でござるか。したが、十兵衛さま、まだ内匠にはよくわかりませぬ。あの狂女と同行する意味が」
「おまえならばつかまることがあり得る。調べられたら万事休すだ」
「しかし――それは女とて同様でござろうが」
「密書は女のからだに書くのだ。つまり、人間密書じゃ」
「人間密書」
「五太夫、これに海の水をくんで来てくれ」
と、十兵衛は、ふところから妙なものをとり出した。三寸ばかりに切った細い竹筒だ。一方はふしになっており、一方には木の|栓《せん》がはめてある。
いよいよ出でていよいよ奇怪な十兵衛の行為に、戸田五太夫はめんくらいつつ、それを受けとって、波打際に走った。
十兵衛はそのまま、お品の方へ歩み寄った。狐につままれたような表情で金丸内匠があとを追う。
「内匠、お品が逃げないようにつかまえろ」
「――は?」
「つかまえて、この舟の中に|這《は》わせろ」
おごそかな顔で、十兵衛はいった。
金丸内匠はこの作業を開始した。これはまったく骨の折れる仕事であった。狂女は何かかんちがいしたとみえて、クネクネと内匠にからみつこうとする。これを裏返しにして、舟底におさえつけるのに、正木坂道場の古参兵たる金丸内匠は大汗をかき、
「十兵衛先生、ともかくも……かくのごとくつかまつりましたが」
といったときの声は、息も切れて、悲鳴にちかかった。
「御苦労」
例のニタニタ笑いを浮かべて、十兵衛は女の背中に馬乗りになった。
それから、ふところから一本の筆をとり出し、汀から駆けもどって来た戸田五太夫から竹筒を受けとった。
ふしぎなことに、このときお品は全然無抵抗になって、ぐったりと舟底にうつ伏せに這っていた。もっとも大の男に馬乗りになられては、おとなしくなってもふしぎではないかもしれない。
十兵衛はその姿勢で、竹筒の潮水に筆をとっぷりひたし、頭上の月をふりあおいで、
「ひとつ、歌が欲しいところじゃな」
と、ばかなことをいった。
それから、見おろして、
「あまり、よい図ではない」
と、またニタリとし、筆で女の背に何やら書きはじめた。
歌ではない。和歌にしてはながすぎる。行をかえては書き、行をかえては書く。何を書いているのかわからない。あたりまえだ、筆にふくんでいるのは潮水のはずだから。
「先生。……何をお書きになっているので」
「密書じゃ。これを柳生の留守居役が読めば、しかるべく江戸の松平伊豆守さまへとりついでくれよう」
「これを読めば――とおっしゃっても、何も見えませんが」
「ところがな、これがこの女が月のもののときになると、文字となって浮き出して来る」
「――ひえっ」
「この竹筒の奥に細工がしてあるのじゃ。もっとも、だれの肌に書いてもいいというわけではない。月のもののあるとき――というから女、しかも若い女のからだにかぎる。――」
十兵衛はその竹筒を蒼い月影にすかして、
「これは|肌《はだ》|矢《や》|立《たて》と申し、伊豆守さまより拝領した公儀隠密秘伝の道具じゃ」
と、うやうやしくいった。
金丸内匠と戸田五太夫は、茫乎としてそれをあおいでいる。
――十兵衛が松平伊豆守にいたく目をかけられていたということはきいている。また彼が若いころ諸国を放浪していたのは、その秘命による隠密としての任務に従っていたのではないか、という噂も耳にしたことはある。しかし十兵衛はそのことについて何も語らなかったし、きいても快笑しただけであったし、その人柄も、陰微な隠密とはおよそ縁遠いものであったから、ほとんど彼と隠密とは連想から除いていた。
こんど十兵衛が紀州藩に隠密云々というおどしをかけたことは承知していたが、これは彼自身がいったようにまったくのでたらめだとかんがえていたのである。
では、十兵衛さまが隠密であったということはまことだったのであろうか。
――それにしても、十兵衛さまがこんなものを持っておられたとは、いままでまったく知らなんだ。
「五太夫、お品を起こして、いたわってやれ」
といって、十兵衛はその奇怪な矢立をしまい、立ちあがり、舟から下りて来た。
「さて、内匠」
と、呼びかけられたが金丸内匠は、まだひどく神秘的な眼を舟の方へ投げている。
「これで、この女を使者とする、といった意味がわかったであろうが」
「――あ、相わかってござる」
「ただ、幸か不幸かお品は狂女、あれがわれらと無縁の女であることは敵ももはや知っておろう。その点はこちらのつけ目だが、またきちがいのことゆえ、綱を離せばどこへゆくかもわからぬ。――おまえは綱じゃ」
「――いま、相わかりましてござりまする」
「ところが、おまえがついてゆくとなると、こんどは例の見張りが容易には通すまい」
十兵衛は、ふいに深い眼で内匠を見入った。
「内匠、死んでもらわねばならぬかもしれぬ」
「なんの!」
と、金丸内匠は猛然と顔をあげて、それから声をたてて笑った。
「この女人の護送役とは、十兵衛さま、よい役を与えて下された。かたじけのう存じまする」
「おまえだから、この役を与えたのだ」
「――へ?」
「おまえが、いちばんじじいじゃからの」
舟の上の戸田五太夫がふりかえった。
「十兵衛さま、拙者の役目は?」
「右の次第だ。これから内匠とお品が消える。とくにお品がいなくなれば、みな大さわぎするだろう。それを、おまえ、とり鎮めてくれ。おれは面倒くさい。――ただ、先刻より申す通り、壁に耳ありといいたいほど見張られておるわれらだ、うまくやってくれ」
狂女を以て密使とし、その肌を以て密書とする。
その策たるや奇想天外に似ているが、十兵衛、いいのか、その女の正体を知っているのか――と、月に声があったらいったであろう。
【四】
湯崎を二里半、北へ歩めば田辺に入る。
いま、紀州藩の家老安藤|帯刀《たてわき》三万八千石の城下町だが、そのむかし源平時代にも、熊野水軍で名高い熊野別当|湛《たん》|増《ぞう》の本拠だったところだ。また熊野街道の|大《おお》|辺《へ》|路《ち》と|中《なか》|辺《へ》|路《ち》との分岐点でもある。
その田辺からさらに北上すれば、やがては和歌山に達するが――東へ三里、潮見坂。
|暁闇《ぎょうあん》の中であった。
「えっしょ、えっしょ、えっしょ」
潮見坂を、こんなかけ声をあげて、金丸内匠が駆けのぼってきた。肩に縄をかけて、うしろにだれかを曳いている。
「この坂をのぼればあとは山中、いましばらく辛抱してくれい、お品どの」
曳かれているのは狂女お品であった。三間ばかりうしろの彼女の腰には縄の端が巻きつけてあった。
金丸内匠は、みごとに監視線を突破した。十兵衛が陽動作戦をやってくれたおかげでもあろうが、内匠なりに苦心したつもりである。なにしろ、護送するのが気のちがった女なのだから。
十兵衛の陽動作戦――といっても、どういうことをしてくれたのか、内匠にはわからない。深夜、湯崎をひそかに出るときは十兵衛もいっしょであったが、「ちょっとおれが敵の眼をひきつける」といって田辺の手前で見えなくなってしまっただけだからだ。監視線といっても、眼には見えないのだから、突破したといってもこれまた確認はできないが、ここまでくれば大丈夫だろう。
「えっしょ、えっしょ」
金丸内匠がお品を縄で曳いているのは、むろん坂にかかって牽引ということそれ自体が目的だが、ほかに彼女の逃げるのをふせぐためもある。とにかく狂女なのだから、闇にまぎれてどこにとり落としてしまうかわからない。
それから、もう一つ。――彼女の肉体との接触をふせぐ意味もある。
実はいままでも、手に手をとって駆けてくる途中、ともすれば彼女がじぶんにからみついてこようとするのに、金丸内匠は往生した。ふだん気の毒なくらいおとなしい狂女なのに、何かのはずみで火がついたようにへんになるのは、父親が殺される直前、あの紀州藩の足軽たちによほど衝撃的なふるまいをされたのでもあろうか。
「……ふびんな女だ。それを、ますます気の毒な話じゃが、この際、たって骨折りを願わねばならぬ」
こういうところが、十兵衛がこの役を彼に託したゆえんだろう。
「おまえがいちばんじじいだ」と十兵衛はいったが、金丸内匠はまだ四十をすこし出たばかり、しかしどこか五十代の男みたいに枯れた顔をしていた。
むろん、潮見坂を越えても依然として紀州藩領、敵が気づけば、どこまでも追跡してくる可能性はあり、さればこそこの「人間密書」を携えて来たわけだが、少なくともこれで平地での追撃からは離脱したものと金丸内匠は判断した。
海沿いの大辺路に対して、これはいわゆる中辺路にあたる。
田辺から東へ出たこの街道は約三里でこの潮見坂にかかり、あと山中の道を八里ばかりで熊野本宮に達する。本宮から南して新宮や那智へ下るのが、中世期からの熊野詣での本道で、はなやかな殿上人や平家の|公《きん》|達《だち》がさんざめきつつかよったのはこの中辺路であった。
本宮から北すれば――熊野、吉野の山を越えて大和に入る。
金丸内匠がとろうとしたのはこの道で、本宮以北は、つまり彼らが熊野に入って来たのと逆のコースだ。
「もう一息。――」
ともかくも、内匠が駆ければ、狂女もついてこなければならぬ。くっつかれれば面倒なことになるから、内匠はまるでこっちが狂女から逃げ出すように、死物狂いに山坂を駆けのぼる。――
潮見坂というのは、逆に東から来た場合、ここにつくとはじめて西の海が望めるからだ。
坂の上に達し、ふりむいて金丸内匠は、その海がチカッと|蒼《あお》くひかるのを見た。夜明けだ。
彼は肩にかけた縄をはずし、下に声をかけた。
「えらい難儀をかけた。休もう」
「いや、休ませるわけにはゆかぬ」
と、反対側から、だれか男の声がいった。
はっとしてふりむいて、金丸内匠は眼をむいた。ほんのいままで何者の影もなかった坂の上に、忽然として三つの影が|湧《わ》き出していた。山伏姿だ。
――しまった!
と、思ったのは、おのれのことより、まずお品のことだ。
ここまでくればあとは山峡の一本道、お品をさきにやってじぶんはうしろで見張り、本宮へ、大和へと誘導してゆくつもりであった。むろん狂女とじぶんとは一見関係のない顔をして。
ところが、ほっとして声をかけたところを捕捉された。いや、じぶんとお品のあいだはひとすじの縄でつながれている。――
その縄をはなし、
「お品どの、逃げろ」
と、いうなり、金丸内匠は仕込み――を抜刀した。
「な、何奴だ、うぬらは」
「――知っておろうが」
ひとり、あざ笑うように答えた。
「見張られておると、十兵衛がいったろうが」
金丸内匠は愕然としていた。
これが敵であることは承知しているが、いまのせりふは――あの白良浜の十兵衛の言葉をどこできいていたのか? あれをきいていたとすると。――
追って来たのではない。追いぬかれたおぼえはない。こやつら、はじめから先回りしていたのだ。田辺から柳生へゆこうとすればこの中辺路が常道だと見て、ここに網を張って待ち伏せをしていたのだ、ということにやっと金丸内匠は思いあたった。
――さっと金丸内匠の背に戦慄が走った。敵がすべてを知って待ち受けていた、ということのみならず、その敵が。――
「み、宮本? あ、荒木?」
われしらず、あえいだ。
「ふ、ふ、ふ」
相手は、三人、みな笑った。その声の若さに、ちがう! と心にさけび、金丸内匠が猛然と足を踏み出すまで、最初の遭遇から一分足らず。――
そののどぶえめがけて、夜明けの大気を|灼《や》き切って三条の|光《こう》|芒《ぼう》がたばしり、一歩踏み出しただけで、金丸内匠は棒立ちになっていた。
三本の手裏剣が、三方からその首をつらぬいて、内匠のうなじで、キチンと切っ先をそろえていた。――とみるまに、彼は|崩《くず》|折《お》れた。むろん即死だ。
はかなしや、柳生流も正木坂道場もあらばこそ。――
地におちていた縄の端を山伏の一人がつかんだ。
「何をしておる」
「上ってこい」
微光はさしはじめていたが、坂の斜面はちょうど西側になっていて、|模《も》|糊《こ》として暗い。縄をつかんだ山伏がそれをひくと、手応えがあって、ツ、ツ、ツ――と人間の影が上って来た。
ぱっと三人の山伏はまたうしろにはねとんで、何かをつかんだ。
「それを投げると、死ぬのはこの女だぞ」
狂女をひっかかえている男の影を三人は見た。
「この女は、そっちの仲間だろう」
「だ、だれだっ」
「柳生十兵衛だが。――」
ひどくおちついた声は、むしろ二つのからだの跳躍よりあとから来た。
二つのからだ――といったのは、お品と、むろん十兵衛である。つきとばされたお品を受けて、一人があっととびずさり、踏みとどまるや否や、足もとにたおれたお品を躍りこえて十兵衛に立ちむかったとき、十兵衛はすでにくるりと反転して、彼ののどぶえに剣尖をつきつけていた。
十兵衛の背後で、このとき二人の山伏が左右にのけぞってゆくのが見えた。それがまるで風にたおれる朽木のようにゆっくりと見えたのは、こちらの十兵衛の動作が|迅《じん》|速《そく》をきわめたからの対照だ。
「宮本? 荒木? ――と、内匠の声がきこえたが」
と、十兵衛はいった。
「では、ないな?」
しぶく笑った。
「殺気にも風格というものがあってな」
剣尖があがって、山伏の鼻ばしらにあてられたが、山伏は身うごき一つできなかった。
「うぬら山伏――の風態はしておるが、正体はなんだ」
もはや手裏剣を投げ得る間隔ではない。いや、その意志すら失ったように、山伏はでくの坊みたいに立ちすくんでいる。
「ながいあいだ、見張り、御苦労であった。あとの奴らは一行を追っていったか。あとでその連中にも挨拶したいが、素性を知っておいた方が挨拶に好都合だ。教えてくれ」
「殺せ」
山伏はうめいた。
「ははあ、うぬの顔、見たことがあるぞ」
と、十兵衛はいった。
「いつぞや――那智へゆくとき、もどるとき、二度逢うたな。あの足軽の中に見えた|面《つら》だ。ふふん、三度もその面を見れば、いかに頭のわるいおれでも思いあたる。いままで二度おれを見て知らんふりをしておったとは、うぬらただの紀州侍ではないな」
「殺せ!」
「そうか」
というと、十兵衛の切っ先がキラと浮動した。と、山伏の鼻ばしらが松茸の柄を裂くように割れて、鮮血がながれ出した。
「穴は一つ[#電子文庫化時コメント 底本・ノベルス「二つ」、全集・角川文庫に従い訂正]にならぬ。鼻の隔ての壁をたてに裂いただけだ。ものは言えるはずだ。口をきいてみろ、素性を言え」
「ね、ね、ね」
「何だと? は? やはりおかしくなったか」
「|根《ね》|来《ごろ》。――」
恐怖の極致といった声であった。
十兵衛はなお刀身をその鼻の傷に擬したまま、じっと相手の凄じい形相を見ていたが、
「そうか、根来寺の奴か。きいたことがある、根来の忍法僧のことは」
と、さけんだ。
「紀州藩は根来者を使っておったか。それでいろいろと思いあたる。最初から腑におちぬ奴らであった。……」
つぶやくような調子とはべつに、剣尖がさっとはなれた。
「――約定違反だ。……」
とびのくいとまもあればこそ、声とともに山伏の首は血しぶきたてて地におちていた。
「約定違反。紀州藩は手を出さぬ、と誓約したにもかかわらず、紀州藩は根来坊主を使っておれの弟子を殺害した。……ここが大事じゃて」
山伏の死骸とはべつな路上に眼をやって、
「従って、紀州藩が手を出さぬかぎり、公儀には訴えぬ、といったおれの誓約もまた無効。――」
ひとりごとのような調子だ。
「なに、こちらが先に公儀に訴えようとしたではないか、と向こうではいうかもしれぬ。ところが、こちらは少なくともこれまでそんなことをしたおぼえがない。肌矢立で書いた人間密書、とか何とか、しかつめらしいことをいったが、あれはただの潮水、いつまでたっても文字など現われるわけはないからな。う、ふ、ふ、ふ」
失神したように地に伏していた狂女は、はじめてはっと顔をあげていた。
「お品、立て!」
ふいに十兵衛は|勁《けい》|烈《れつ》に叱咤した。
【五】
お品は立った。もとより狂女の顔ではない。|暁闇《ぎょうあん》というより、もはや|蒼《あお》い夜明けのひかりの中にふたりは向かい合った。
「つかぬことをきくが」
と、十兵衛は刀をダラリと下げたまま、妙な表情でいい出した。
「いまごろになって思い出し、心にひっかかっておることがある。この五月ごろのことだがな、柳生の庄にえたいのしれぬ女がひとりあらわれて、ひょんなはずみでみずから舌をかみ切って死んでしまったが、あれはおまえの仲間ではないか?」
「…………」
「あの女は何のためにおれのところへやって来たのだ?」
「…………」
「女忍者。――おまえも、女忍者か?」
「…………」
「そうであろう。そうでなければ、いままでまんまとこの十兵衛をあざむけるはずがない」
「…………」
「もっとも、女忍者とすると、おまえがわしの一行に加わって来た意味もよくわからぬが」
「…………」
「おまえもやはり根来の者か。いや、いかになんでも根来寺に女人のおるはずがない。おまえの素性はなんだ」
「…………」
「心配するな。おまえの美しい鼻は斬らぬ」
十兵衛は苦笑して、ふところから懐紙をとり出して血刀をぬぐい、鞘におさめた。
「それどころか、おまえは斬らぬよ。だらしのない根来の忍者とちがい、おまえならば斬られても白状せぬと見たが、こっちもおまえを斬ってもはじまらぬ。それどころか、是非生かしておきたいわけがあるのだ」
十兵衛はしゃがみこんで、足もとの山伏の首の総髪をふたつにたばねながらいう。
「一つは――それがおまえはきちがいではないのではないか、とおれの眉に唾をつけさせたそもそものはじまりだが――宝蔵院との果たし合いのあと、おまえは三枝麻右衛門の死骸を拝んだな。|崖《がけ》のこちらからうしろ姿を見ただけだが、おまえは麻右衛門の死骸のそばにうずくまって、たしかに拝んでいた。――むろん、麻右衛門はおまえのために死んだ。しかし、じぶんのために死んだ人間をふし拝むきちがいなどなかろう。それはそれとして、お品、おれは麻右衛門を拝んでくれたということのためにおまえをゆるす」
淡々たる声音だが、いっていることの内容は実に驚くべきものだ。お品は凝然と瞳をひろげて十兵衛を見下ろしていたが、しかし依然として無表情にちかかった。
ほとんど無防備といっていい十兵衛に対して殺気のかげもないのは、十兵衛の言動に胆をおしひしがれたためか。
「もう一つは、先刻おれがいったことを和歌山の化物どもに伝えてもらいたいためだ。つまり、例の約定をまず破ったのはそっちが先、それゆえ十兵衛も、もはや例の約定に拘束されぬとな」
十兵衛は、髪をむすんだ山伏の生首をつかんで、すっくと立った。
「この首が、紀伊家の破約の証拠となる。御苦労だが、これを持って和歌山へいってもらおう」
歩み寄って、輪にした山伏の髪をお品の首にかけた。首はお品の胸の前にぶら下がった。
「忍者ならば、辛抱できような」
やさしい声でいったが、何とも恐るべき首飾りだ。十兵衛は笑った。
「やはり、おまえの役は使者だ。ただし、用件と方角がちがったがの。――ゆこう」
といって、じぶんからスタスタと坂を下りはじめた。もとの田辺の方へ。
お品は、こんどは見えない縄に曳かれでもしているように、そのあとを追って歩く。しかし、無意識ではあろうが、生首ひとつ胸に下げてつんのめりもしないのは、やはり尋常ではない。
潮見坂を下った。
「ゆけ」
十兵衛はきびしい声でいった。
お品はうなだれたまま、五六歩いった。十兵衛が声をかけた。
「ことわっておくが、おれは巡礼のむれにもどる。また逢おう」
お品が十数歩いってから、十兵衛はふと思い出したように声を送った。
「また逢おうというより、お品、こんどの旅は愉しかったであろうが。柳生のめんめんを気に入ったか。気に入ったら――その使者の役目を果たしたらまたもどれ。よろこんで迎えてやるぞ」
まだ坂の影の黒ぐろと沈む闇の中へ、お品の姿は消え去った。忍者というより、幽霊のように。
それを見すまして、また時をおいて、十兵衛は頭上をふりあおいだ。
「もうよい、弥太郎、おりて来い」
すると、傍の楠の大木から、白い蝶々みたいなものがヒラヒラと舞いおちて来て、地面にとんと立とうとして、失敗してどすんと尻もちをついた。
「危ない、何をする」
さっき三人の根来者を斬って顔色も変じなかった十兵衛が、あわててかけ寄って助け起こし、隻眼をむいて叱りつけた。
「これ、怪我はないか」
「だって、先生もいつか三段壁を飛んだというじゃないか」
怪我どころか、|鞠《まり》みたいにはね起きて、ほっぺたをふくらませた小さな白い影は、巡礼姿の弥太郎であった。
「ずいぶん木の上にしゃがんでたから、足がしびれちゃったんだよ」
「怪我がなかったのなら、よい。――弥太、来い」
十兵衛が苦笑いしてまた坂の方へひき返すと、弥太郎はその先に立って兎みたいに飛んでゆく。
「わっ、ここにひとが死んでら!」
たちまち坂の上に起こった大声が、さすがに悲鳴に変わり、
「金丸のおじさんが――死んでるよ!」
十兵衛は追いついて、金丸内匠の死骸のそばに憮然として|佇《たたず》んだ。
「弥太郎、金丸はおまえが密使として紀伊を出るために死んでくれたのじゃ。わかるか?」
「わかんない。密使ってなあに?」
「あ、そうか。使者だ、使いだ」
「おれが柳生へゆくことでしょう?」
「そうだ、おまえ、ほんとうにひとりで柳生へゆけるか?」
「ゆけるさ、へっちゃらだい」
「道がわからなくなったら?」
「ひとにきく」
「路銀をおとしたら?」
「じゅんれいに、ごほうしゃ――とやればいいんでしょ?」
念のために旅の心得の復習をやっているうちに、たった一つの十兵衛の眼に、涙がうっすらにじんでくる。それをみずからおさえようとして、
「しかし、背中の密書だけはなくすなよ!」
と、きっとしていった。弥太郎は背から胸へななめにまわして、白い包みを背負っている。
これに対して、
「密書ってなあに?」
というあどけない返事がかえって来た。
七つの子だ。十兵衛はこの弥太郎を、はるばると中辺路をすぎ、熊野吉野の山を越えさせ、大和一国をよぎって、柳生の庄へやろうとしているのであった。
実に、密使はこの七つの弥太郎であったのだ。
むろん、ほんとうのところは、やはり足手まといになる弥太郎をここで離すという目的もある。紀州を離脱させることは、この少年の生命の安全をはかることになるという意味もある。しかし、このたびの紀伊家の大怪事を松平伊豆守へ告げるべく、その使者としてもっとも成功の可能性があるのは、じぶんでないかぎり、ほかの柳生衆のだれよりもこの密使という言葉すら知らない弥太郎だ、と十兵衛が信じたからであった。
「おまえの背負っておるわしの手紙だ。柳生城へとどければわかる」
と、十兵衛は小さな背をたたきながら、
「その手紙をとどければ、おまえの父のかたきも討て、姉のいのちも助かるのだ」
「あ、そうか。わかった」
「柳生へゆこうとするおまえをじゃましようとする奴を、この金丸内匠が斬って道をひらいてくれたのだが、じぶんも死んでしまったのだ」
「あ、そうか。金丸のおじちゃんは死んで悪者をたいじしたんだね?」
巡礼姿の弥太郎は一歩さがって小さな手をあわせ、
「ちちははの、
めぐみもふかき|粉《こ》|河《かわ》寺。――」
と、御詠歌をうたった。
うたい終わるのを待って、十兵衛は大喝した。
「よし、ゆけ!」
うたい終わったときは、しかし弥太郎はトトトトと、もう三四間も向こうへ――潮見坂を越えている。
|重畳《ちょうじょう》たる東の大山岳からふりそそぐ暁のひかりの中から、げんきのよい声だけがとびかえって来た。
「十兵衛先生、姉上をたのんだよ! よかったら、そのうちお嫁さんにしてやっとくれ!」
【六】
――かんがえたりな、柳生十兵衛。
狂女を使者とするとみせかけ、敵がその裏をかこうとするや、追撃の敵の動静と人数をとくとたしかめてこれを始末し、その裏の裏をかいて第二の真の密使を送ろうとは。
とくに、――これがなんと七歳の小児とは、実に意表外、放胆無比の思いつきだ。
そして、この十兵衛の「兵法」は、ただ密使を送り出す、このことだけが目的ではなかったらしい。敵に対する再度の宣戦布告に、その大義名分をつかむという目的をかねていたらしい。
すなわち。
「まず約定を破ったのは敵の方である」
「出すべからざる手を、さきに出したのは紀州藩の方である」
という。――それを通告するために、あえて敵の一人たる女忍者を放って敵のもとへ帰らせたのだ。
約定といい、出すべからざる手といっても、べつにたしかな外交文書をとりかわしたわけではなく、もともとが相当あてにならぬ相談で、かつよくかんがえてみれば、この敵の約定破りも、十兵衛の方がそういう風に追いこんだ形跡があるのだが、ともかくも彼はこの手順を踏んだ。
敵の約定破り――その結果が、金丸内匠の死骸だ。
このことまで十兵衛があらかじめ勘定に入れていたようだが、そうみることは少々ゆきすぎで、彼としてはあの際、じぶんが金丸を救うつもりであった。なんとなれば、敵が先に手を出したという現場をつかまえれば目的は達せられるからだ。しかし、内匠と根来者との決闘があまり迅速すぎて、さしもの十兵衛も一足おくれた。むろんそういう可能性もあるとみて、あえて内匠に、死んでもらわねばならぬかもしれぬ、とはいってあったのだが。――
これは人柱だ。尊い捨て石だ。
「内匠。……」
十兵衛は金丸内匠の死骸を抱きあげ、片手でふし拝んだ。
「おれのためによう死んでくれた。そんなつもりで弟子になったのではなかろうに」
そもそも十兵衛は、この内匠のみならず、北条主税、三枝麻右衛門なども、あのような敵との直接の決闘によって死なせるつもりで紀州入りを依頼したのではない。あくまで、ただ三人の娘の護衛、或いは状況によって必要になるかもしれぬ連絡行為などに従ってもらうつもりであったのだ。
それが、あれほど勇敢な、或いは有効な死にざまをとげてくれようとは。――
十兵衛は内匠ののどぶえにつき刺さった三本の手裏剣をぬきとり、内匠の髪をサクリと切った。懐紙につつんでそれをふところに入れると、
「いま埋めてやるひまさえない。おれはまた紀州に残ったものどものところへ帰らねばならぬ。……おまえの死はむだにはさせぬぞ」
立ちあがり、もういちど弥太郎のいった山の彼方を見やったが、こんどは疾風のはやさで、もういちど潮見峠を西へ、十兵衛は駆け下っていった。
――それにしても柳生十兵衛には、妙なくせというか、妙な好みというか、それがある。
そもそもこのたび紀州藩とやり合う|劈《へき》|頭《とう》に、大納言頼宣に面会を強要してまず釘をさしたのがその第一例で、本人にいわせれば至極重大な必要があったというかもしれないが、これが常人の思いも及ばぬ離れわざだ。
次に、こんどの宣戦再布告に際して十兵衛がとった処置がその第二例で、すでに田宮坊太郎をたおし、宝蔵院胤舜をたおし、味方も三人の柳生衆を殺されて、いまさら宣戦の再布告もないはずだが、当人はその必要があるとかんがえている。
なんとなれば、そうしなくては、じぶんの方から申し入れた例の約定を、じぶんの方から破ることになるからだ。
紀州藩に起こっている怪事は、柳生で想像していた以上に容易ならぬものであることを、いまにして十兵衛は再認識した。これはとうてい木村助九郎らの仇討ちなどという一種の私闘として処理し得る事態ではない。すくなくとも、すべてが暴露した場合、じぶんに紀州家を救う力はない、かくては助九郎の付託にもそむくことになる。江戸の松平伊豆守に相談した方が、大きな目で見てかえって紀州家を救うことになる――と、ようやく決心したものの、その十兵衛を|縛《しば》るのは、例の、
「紀州藩として手を出さぬ以上、公儀には訴えぬ」
といった誓言だ。じぶんがいったことだから甚だ都合がわるい。
敵はそれを護っている。思い起こせば、じぶんが那智へゆくときすでに足軽姿の根来者が追跡していたことはあきらかなのだが、少なくとも彼らはいままで直接に介入していない。あの宝蔵院が討たれるときにすら。――
宝蔵院といえば、胤舜といい、田宮といい、ともかくも一人で堂々と対決を挑んだ。もとより絶大の自負あればこそであろうが、思い出すと、その態度は壮絶ですらある。
その壮絶な行動に対して。――
こっちが公儀に訴えるという考えを出した以上、つまりあの約定を破棄することに決めた以上――まず敵にそれを破らせて、それを口実にあらためて堂々と宣戦を布告する必要がある。それが礼儀というものであり、筋を通すということだ。
十兵衛の論理は右のごとし。
どこが礼儀なのだか、筋を通すことになるのだか、少々あやしいところがある。だいいち当人がふだんあまり礼儀正しい方ではなく、全然筋が通らない男なのだからおかしい。
ただ、これらの例をつらぬく確実な共通点は、ともかくも彼が命知らずということだ。
彼はみずからさした釘をみずからぬいた。
最初の約定を破棄するということは、人質となっている木村助九郎ら三家族の安全を放棄したというにひとしい。また紀州五十五万石全藩をあげておのれに襲いかかって来てもやむを得ずというにひとしい。
いま柳生十兵衛は、紀州路をさきにいった柳生衆を、
――してやったり。
といった顔で暁の風をついて、颯爽と追ってゆくけれど。
|剣道成寺《つるぎどうじょうじ》
【一】
湯崎を真夜中に立った柳生衆と三人の娘であった。
柳生衆――といっても七人。十兵衛はいない。それはいいとして、あと金丸内匠と弥太郎少年と狂女お品もいない。
「お品どのはどうした?」
と、柳生衆がさわぎ出したのはむろんで、
「弥太郎は?」
と、おひろたちが不安げな眼をさまよわせたのは当然のことだ。
「それに金丸内匠はどうしたのだ?」
これに対して戸田五太夫は、
「実は先生の仰せには、お品はやはり以後の行動にさしつかえがあると判断せられて、古座に送り返すことにきめられた。ついでに弥太郎も、当人の安全のために、事の落着するまで、そのあたりにあずけておこうと申され、金丸が送っていったのだ。先生は途中までそれを見送り、あとひき返してこられるはずじゃ。われらはさきにゆき、|道成寺《どうじょうじ》で待っておれとのことだ」
と、いった。
そういわれればなるほどと思うしかない十兵衛の処置だが、なんとなく柳生衆にはわり切れない感じが残る。理屈よりも、あの面白い、なまめかしい狂女がいなくなったのが、なんといっても物足りない。弥太郎の処置をきいておひろがほっとしたことはいうまでもないが、それでも事前にじぶんに一言相談くらいして欲しかったと思う。もっとも、十兵衛のやりかたには、ふだんから独断専行のきらいがないでもない。
……しかし、十兵衛さまが突然そんなことを決められたのには、いま五太夫からきいた以外の何かの|仔《し》|細《さい》がありそうにも思う。
昨夜、何か起こったのではないか?
三人の娘の眼に、全裸の狂女を抱いて月光の|白《し》|良《ら》|浜《はま》を歩み去っていった十兵衛の姿がよみがえる。あれから何が起こったのか。
あれからしばらくして、十兵衛とお品はケロリとした顔で宿に帰って来た。そのとき金丸内匠と戸田五太夫もいっしょであったので、かえってほっと安堵したけれど、それから数刻を経て、戸田五太夫がみなをたたき起こし、これから和歌山へむかって出立するといい、そのときはもう十兵衛、内匠、弥太郎、お品はいなかった。――
小屋小三郎からきいた話では、十兵衛は「いまさらここまで来てあの狂女を捨てるわけにはゆかぬ」といったそうだ。それが数刻のうちに急変したのは、どういう事情があったのか。
何かあった、とは思うが、それが何か、三人の娘にはわからない。十兵衛への信頼と不安が交錯して、夜の熊野路――いやこのあたりはもはや紀州路と呼ぶべきであろう――紀州路を北上する彼女たちの顔は、物思わしげで、なやましげであった。
どういうわけか、出立に先立って、五太夫は鈴をみな布にくるませ、音の出ないようにして|笈《おい》にしまわせた。
ヒタヒタと歩む柳生衆たちも、鈴のみならず口をつぐみがちで、なんとなくあっけらかんとした表情であった。
まだ夜のうちに田辺を北へぬけ、約二里余にして|南《みな》|部《べ》。梅林の多いところだ。
このあたりから夜が明けて来た。左方には蒼い紀州灘がつづく。いわゆる|長汀曲浦《ちょうていきょくほ》、筆舌につくしがたい風景だ。
前後を見まわして人の気配もないことをたしかめ得たからか、あるいはみなの思案顔を見てとったからか、このころになって戸田五太夫は一同を浜辺の松林の中にいちど休ませ、
「さて、みなの衆、湯崎でわれら、ずっと何者かに見張られておったのを知っておるか」
と、いった。
金丸内匠についでの年輩者で、ひどくおちついていて、あまり感情をおもてに現わさない五太夫だが、みなの驚いた顔を見まわして、やや得意満面の表情だ。
「いや、例の田宮、宝蔵院の同類ではない。ほかの紀州侍と思われるが、とにかく十人や二十人ではない――と、十兵衛さまは仰せられる。それゆえ、お品、弥太郎をのがすにも密々の行動をとる必要があり、わざとみなの者にはいわぬ、ということであった。悪う思うな」
と、昨夜はじぶんが驚いたくせに、五太夫は十兵衛みたいな顔をして、
「で、そやつらはいまのいまもわれらを追い、どこかで見張っておるに相違ない。――」
と、いった。みな、いっせいにまわりを見まわしたが、秋の朝のひかりのなかに蒼々と海はうねり、白じろと砂浜がひろがっているばかりだ。
「ただ、十兵衛さまの仰せには、例の約定によって、いままでそやつらはわれらに直接に手を出さなんだ。しかしそれではかえって都合のわるいことが生じたゆえ、最初の約定はこっちで解く。従って、これからはそやつらが、いつ、どこで手を出してくるかもしれぬゆえ、そのつもりでゆけ――とのことであった」
恐れるかと思ったら、いままで何やら拍子ぬけしたようであった柳生衆たちは、まるで火を吹きこまれたように生気よみがえり、
「面白い!」
「それでこそ紀州五十五万石に乗りこんで来た甲斐がある。――」
と、お品も弥太郎も吹きとんでしまったような顔をした。小栗丈馬などは、だれの影も見えない松原のかなたに向かって、
「おうい、何十匹か知らぬが紀州の木ッ葉侍ども、がんくびをならべて出て来い。柳生流の代表小栗丈馬、死びとの山をつんでくれる!」
と、呼ばわった。
「これ、しいっ。……そんなにいばることはない」
五太夫は大あわてで、
「まずその元気で、何はともあれ道成寺へゆこう」
と、立ちあがった。
南部から北へ八里、|御《ご》|坊《ぼう》という村がある。道成寺はその御坊から、ちょっと東へそれたところにあった。
【二】
――根来忍法僧たちは、深夜湯崎を出て田辺から東へむかった金丸内匠とお品を見張りの網にとらえた。というより、お品から根来衆の一人にそう告げて来たのである。
たとえお品からの連絡がなくても、当然彼らは金丸内匠を捕捉したことと思われる。なまじお品からの報告があったために、かえって彼らはへまをやったといえる。なぜなら、一行から離れるのはその二人だけと思いこんで、わずか三人に追跡させ、そのあと柳生十兵衛もまた同じ路を出ていったのを完全に見のがしたからだ。
同時刻、七人の柳生衆と三人の娘もまた湯崎を立って北上しはじめた。深夜の出立といい、その様子のしのびやかさといい――そも彼らは何を思い立ったのか? と残り全員の根来衆はこれを追い、そのくせ夜明けまで、その一行の中に柳生十兵衛の姿がないことに気がつかなかったのだから、根来衆にしてはちょっと珍しいまぬけぶりであった。
もっとも、ふだんから、七つの弥太郎が鳥に気をちらし、波に気をちらし、わんわん泣き、小便をし、全然ほかの連中と歩調が合わないのに、十兵衛だけはこれに合わせて、いつまでも少年とつきあい、一行からずっと遅れる――などいうことはしょっちゅうであったから、こんな経験が根来衆をうっかりさせたといえる。
「……はてな、十兵衛がおらぬではないか」
「小僧も見えぬ」
そのことに気がついても、弥太郎もいないということが、まだ彼らの判断をあやまらせた。追撃する三人の根来衆を、七つの子供をつれてまた追っていったとは常識の外であった。
朝もだいぶあけはなれてから――その三人の仲間がまだこちらに追いついてこないことに、やっと一人がわけのわからない不安をおぼえ、
「念のため、わしがもういちど、探ってくる」
と、田辺へひき返し、さらにいわゆる|中《なか》|辺《へ》|路《ち》の方へ駆けていった。
この偵察行に於て、潮見坂で朋輩三人と金丸内匠の死骸を見出した根来僧の驚きはいかばかりか。しかも朋輩三人のうち、一人は首がない。彼は仰天して、またとって返した。
南部からでも、この往還は十里以上である。このあいだにも柳生衆とそれを追う根来僧のむれは北へうごいているから、彼がやっとこのことを仲間に報告することができたのは、その日ももう夕焼けの時刻、御坊の手前であった。
「なんだと? それはいったいどうしたのだ」
「金丸内匠とやらを殺した傷は、たしかに|切《きり》|目《め》|坊《ぼう》らの手裏剣であった」
と、偵察者は答えた。いまでは、柳生衆たちの名も知っている。
「しかし、切目坊らを斬ったのは、金丸ごときの手練ではない。だいいち、内匠を殺した手裏剣も、切目坊の首もない。持ち去った奴があるのだ」
「それは?」
「柳生十兵衛――のほかに、だれがある?」
みな、いっせいにごっくり、生唾をのんだ。
「――で、柳生十兵衛はどこへいったのだ?」
「それが、わからぬ」
「また、お品は?」
「……それも」
――だれも弥太郎のことなど問題にもしなかったのは当然だ。それよりも彼らの面上をはためきすぎたのは、いうまでもなく朋輩の死で、
「しかし、切目坊らが三人もおって、三人ともに討たれたとはなあ」
十兵衛の手並みはかねてからきき知っていたのみならず、すでにまざまざとこの眼でも見たが、切目坊らの手並みもまた信ずることが厚かったから、ただ彼らは茫然とするのみだ。
「これで、六人も死んだか?」
と、ひとりが歯ぎしりしてつぶやいた。
いままでに死んだ仲間の人数だ。そのうち一人は「味方」の天草四郎の示威の犠牲となり、一人はお品を敵の中に化けこませるための|反《はん》|間《かん》苦肉の計の祭壇にささげた。つまり、彼ら自身の手で斬ったのである。しかし、十兵衛のためにそのとき一人、そしてまたいま三人斬られて――残る者は二十四人。
これもまた根来寺|行人《ぎょうにん》衆を紀州藩忍び組にとりたててもらわんがための望みからだ。そのためには、こんど牧野兵庫に召し出されて来た三十人の半ばが命を落とそうとやむを得ぬとまで彼らは覚悟している。また、長いあいだひそかに保護してくれたその兵庫頭に対する義理もある。それから、いまや兵庫頭をすら無視して彼らをあごで使う天草四郎という人間に対する圧倒的な恐怖もある。
彼らはいまや紀州家に飼われている奇怪な剣士たちの名も知っていた。知って瞠目したのはむろんのことだが、かえって彼らは大納言頼宣に対して神的な畏怖感をおぼえた。それに、大納言さまが何と企みなさろうと、紀伊国那賀郡根来寺に生まれ、育った彼らとしては、紀州藩に絶対服従するより生きる道を知らないのである。むしろ、このたびの怪事にみずから参画して、根来忍法僧の真価を知らせるのは、絶好の機会だとかんがえたのであった。
ただ、しかし。――
命令に対して絶対服従するのが忍者の掟であり、とくにこの場合根来者の置かれた立場とはいえ――やはり|切《せっ》|歯《し》|扼《やく》|腕《わん》せざるを得ないのは、こう見えても彼らが人間であるかぎり当然のことだ。
彼らはその命令を護った。古座で仲間の一人はみずからすすんで十兵衛に斬られ、あとの面々も故意に退却した。三段壁では宝蔵院胤舜が十兵衛に討たれるのを知りながら、むなしく傍観した。
が、いま。
また新たに三人の仲間が討たれたときいて彼らは血ばしった眼をおたがいに見合わせた。
「……それでもわれらは、手を出してはならぬのか?」
「われらが手を出したら、どうなるというのだ」
「十兵衛一味が領外に走って紀州家の秘密を公儀に訴えるという。――」
「そんなばかなまねはさせぬ。……げんに金丸内匠は討ち果たしたではないか」
「が、十兵衛は?」
みな顔を見合わせた。十兵衛自身が領外に出たのではないか? というおそれが、さっと胸をよぎったのである。それが事実であったら、じぶんたちは牧野兵庫頭の依頼に、ついに応え得なかったことになる。
「……追うか」
「追っても、もう遅い」
「いったい、あのお品という女はどうしたのだ? あの女が悪いのだ」
「……ならば破れかぶれ」
「せめて、あの柳生衆どもを」
「……もしまた、十兵衛がまだ領内におるとしても、いま一行の中にはおらぬ」
「きゃつらみな殺しにして口をぬぐっておれば――みな殺しにしてしまえば、あと何者が怒ろうとどうすることもできまい」
「……やれっ」
二三人、殺気にのぼせあがったようなうめきをたてた。まさしく彼らは逆上したのである。
そのとき、街道の向こうから、ひとりの山伏が駆けて来てさけんだ。
「おいっ、柳生衆たちは御坊から道成寺へむかったぞ!」
一人だけ、柳生衆に接触して、その動きを偵察していた根来僧であった。むろん熟練した追跡法を用いているから、柳生衆は気がつかなかったろう。
これは道成寺が、紀州街道からちょっとそれているので報告に来たのだが、たんにその報告を受けるにとどまらず。――
「なに、道成寺?」
「それならば、ますます始末するのに好都合」
「よし、ゆけ!」
と、それまでのかげろうのようなむれから復讐の黒煙うずまく殺気の集団に一変して、忍法僧たちは駆け出した。
【三】
日高川河口の御坊から東へ約四十町。
道成寺はここにある。正確にいえば天音山|千《せん》|手《じゅ》|院《いん》道成寺。
寺伝によれば奈良朝のころ、文武天皇の|願《がん》により、|紀《きの》|道《みち》|成《なり》が|建立《こんりゅう》したというが、それより、例の安珍|清《きよ》|姫《ひめ》の伝説で有名だ。
すなわち、そのむかし奥州から上った美僧安珍が、熊野詣での途次、|牟《む》|婁《ろ》郡|真《ま》|砂《さご》の里の庄司の家に泊まったところ、そこの娘清姫に恋慕された。安珍は、ともかくも熊野に詣で灯明御幣を奉って帰るとき、ふたたび訪れてお志に従おうといって去ったが、帰路はべつの道を通って、清姫の家を避けた。それを知った清姫は狂乱して安珍を追いかけたが、日高川でさえぎられると、身を蛇体と変じて川を渡った。安珍は道成寺へ逃げこみ、救いを求めた。そこで僧たちがこれを鐘の中にかくすと、追って来た蛇身の清姫はこの鐘を巻き、鐘を灼熱させてついに安珍を焼き殺したという。――
この凄絶な伝説は、一般には謡曲「道成寺」として世に知られた。観世流の始祖いわゆる観阿弥の作という。
しかし、さらに人口に|膾《かい》|炙《しゃ》されたのは歌舞伎の所作事にとり入れられてからのことで、とくに例の、
「鐘に恨みはかずかずござる。……」
の長唄で知られた「京|鹿《かの》|子《こ》娘道成寺」が有名だ。
ただし、これはそれが作られた江戸中期以後のことで、紀伊頼宣や柳生十兵衛などが生きていたこの時代には、まだそれほどふつう庶民には知られていなかった。――
このころ紀州藩からあたえられていた寺領はわずかに五石、これをたとえば青岸渡寺の三百五十石などにくらべれば、むしろ荒れ寺といっていい。日高川にのぞむ丘の上に、そのむかしは、本堂、仁王門、三重塔、念仏堂をはじめ十数の堂舎がならんでいたという。その一部はいまも残っているが、荒れ寺というより、廃寺にちかい印象すらある。草の生えた境内には僧の影もない。
で、いま。
柳生衆たちが集まって見あげている鐘楼は、石垣は崩れ、屋根の瓦にも草がそよぎ、それでも図体だけは人間の二三人も入れそうな|梵鐘《ぼんしょう》がぶら下がっているのが、ふしぎなくらいだ。
「これが、清姫が巻いた鐘でしょうか」
と、お縫がいう。彼女は例の伝説を知っていた。
「……いや、ここの鐘は天正のころ、京軍が来て京へ持っていったとかきいたことがあるが。――たしか、妙満寺とか、きいたおぼえがあるが。――」
と、戸田五太夫が史学者みたいな顔でいった。
「持っていったのも、そのときの鐘ではあるまいな」
といったのは、小栗丈馬だ。
「そもそも、そのとき清姫が焼いた鐘が残っているわけはない」
科学的だが、殺風景な丈馬の意見である。
「でも、鐘が燃えつきたわけでもないのでしょう。ただ焼けただれただけでしょう。焼けただれた鐘をだれも持ってゆきはしないでしょう」
と、お雛がいった。これも理屈だが、どうしてもいま見ている鐘を清姫の鐘と見たい心理がうごいている。
「ごらんなさい。なんだか焼けただれたあとの鐘のように見えますわ」
「それはただ古ぼけて、手入れをしないからだ」
と、磯谷千八がいって、逸見瀬兵衛をしげしげとふりかえった。
「どうも、おまえに似た鐘だな。いぼいぼに苔が生えているところなど。……」
「な、なにをぬかす。おれなら、女のからだに巻かれたら、焼けただれるどころか、とろけてしまう」
お雛が鐘楼の石段を上っていった。
「何をなさる。|撞《つ》くと、危ないぞ。――いや、冗談ではない、どうやらこの寺でも久しく撞いたことがないとみえて、|撞《しゅ》|木《もく》の綱も切れかかっておる」
戸田五太夫は気をもんだ。
「や、鐘楼の柱も、あの一本など下の方は虫くいだらけではないか」
「いえ、撞きはしません。清姫の鐘がどんな音をたてるか、指でたたいてみるだけです」
と、鐘楼の上で、お雛がふりかえって、笑おうとして、その顔がひきしまった。
「あれは?」
庭の向こうに、六人あまりの山伏がならんでいた。みな、はっとして眼を移すと、左右にも五六人ずつ、またうしろにも六七人、つまり鐘楼をかこむ四方に、合計二十数人の山伏がまるで地から湧き出したように立っていた。
【四】
「……ううむ、きゃつらだな」
と、戸田五太夫はうめいた。逸見瀬兵衛がきく。
「きゃつらとは?」
彼としては、この山伏姿のむれを目撃したのははじめてだから、念のためにたしかめたのである。
「例の見張りの|案山子《か か し》どもじゃ」
この会話は、ふつうなら絶対にとどかない距離であったが、そのとき四方の山伏たちのあいだに、さあっと殺気の霧風が吹きわたったようであった。いや、事実。――
「……知っておったか?」
と、歯ぎしりとともにうめく声がきこえた。
どっと四方からうごこうとする山伏を、べつの声が制した。
「いや、まだ殺すな。そのまえに、きかねばならぬことがある」
それと、
「女に縄かけい!」
と、さけんだ第三の声が同時であった。
それとまた、四方から一本ずつの縄が飛来して来たのも間髪を入れない。それは縄というより槍でも投げたように直線的にのびて来た。
「あっ」
お縫とおひろが身をねじって仕込み杖をぬき、いきなりその縄を一本ずつ斬りはらったが、あと一本ずつはきりきりっとふたりの首に巻きついて、お縫は南へ、おひろは北へ、タタタタと五六歩泳いだ。同時に、北から飛んで来たもう一本の縄がお縫の刀をつかんだ手くびに、南から飛んで来たもう一本の縄がおひろの刀をつかんだ手くびにからみついて、それ以上の切断を封じてしまった。
「あとの奴らはうごくな」
と、しゃがれた笑い声がひびいた。
「うごくと、その女の首、骨までくびれるぞ」
縄の飛来をまざまざと見つつ、七人の柳生衆がほとんど身うごきもできなかったほどの迅速な出来事であった。
山伏の一人がいった。
「柳生十兵衛はどこへ、何しにいったか?」
柳生衆は衝撃的な自失からさめた。
「うぬら、女を――ひ、卑怯な!」
「十兵衛のゆくえを言え」
山伏はくりかえした。
自失からさめたが、柳生衆はただかっと眼をむいているばかりであった。十兵衛のゆくえを知ると知らぬとに関せず、敵にそういわれたからとて、一語の返事もすることはならぬ。
と、いって、――
「言え! 言わぬか?」
獣のような声とともに、お縫とおひろの首にかかった縄に矢のごとく波がひとつわたった。
それにどれほどのわざがこめられているか、ふたりは刀をつかんだ腕をうしろへひかれ、からだは前かがみになったまま、身もだえしている。首と手くびにからみついた縄が逆の方向なので、進むもしりぞくもならず、しかもその前後の縄がたがいに緩急の呼吸をはかっているようなのだ。
「き、紀州侍、うぬら、手を出すと。――」
と、小栗丈馬が、じぶんの首にも縄がかかったように地団駄ふんだ。
彼はまだこの相手を紀州侍としか認識していない。ほんのけさ、
「何十匹か知らぬが、紀州の木ッ葉侍ども、がんくびをならべて出て来い。死びとの山をつんでくれる!」
と壮語したばかりの小栗丈馬が、その木ッ葉侍の凄じい縄術に手も足も出せないで苦悶しているのであった。
「手は出さぬ、縄を出しただけじゃ」
と、山伏は笑った。
「これ、十兵衛はどこにおる?」
夕焼けの庭を三条の閃光がながれて、お縫とおひろの首と手くびをとらえている四本の縄のうち、三本までがふっと切れたのはその刹那であった。
「十兵衛はここにおる」
声とともに、山門側で最後の一本の縄をつかんでいた山伏が、血けむりたててのけぞり、そのうしろから、さして急ぎ足でもなく、ツ、ツ、ツ――と深編笠が出て来て、庭のまん中に立った。
「これは、うぬらの仲間の手裏剣じゃが。――」
いま三本の縄を切り、地におちた手裏剣を三本ともにひろう十兵衛の姿を、こんどは山伏たちが自失してながめていた。
「手裏剣なら、うぬらにひけはとらぬつもりだ」
十兵衛はふりむきもせず、ただうしろなぐりにその一本を投げた。
すると、その側で、ぱっと新しい縄をとり出した山伏ののどぶえに、それはみごとにつきささり、彼は崩折れた。
十兵衛の投げた手裏剣はいずれも潮見坂の根来僧の持物だったものである。
「こう遠慮なく手を出してくると承知しておったら、何もあれこれ七面倒な細工など要らなんだものを。――」
深編笠の中で苦笑した顔は、いまようやく道成寺について、石段を駆けのぼって来た人間とは思えなかった。
けさ、潮見坂からひき返した十兵衛は、途中駆けてくる一人の山伏に気づいて、これをやりすごし、彼が中辺路の方へ走り、やがてまた駆けもどってくるのを見とどけてから、きゃつ、いったいこれからどうする気か、とわざとそのあとをつけて来たものであった。
「西側、いちばん端の奴、死ぬか」
十兵衛からは見えないはずの位置にいた山伏が、突風に吹かれたようにうしろへはね飛んだ。
それっきり、山伏のむれはまるで木彫りの人形みたいに立ちすくんでいる。いま三本の手裏剣を同時に投げて――と彼らには思われた――異なる方角へのびた三本の縄を切った妙技を見ては身うごきもできない。
「もっとも、死ぬかといまさらきいて、いや死にとうはないと答えられてもこまる。おれはうぬらを、これから片っぱしから斬ることに決めたのだ。……全部で二十二人残っておるな」
いつのまにやら、四方の人数まで勘定している。むろんいまたおした二人もちゃんとひいている。
「といって、そうすくみこんでおる奴を、こっちから、東西南北、順々に斬って回るのも面倒じゃ。こぬか、こっちに来ぬか」
不精ッたらしいことをいっているが、なお山伏たちは毒気をぬかれたように立ちすくんでいる。
「ああいや、あくまで死にとうないなら、事と次第によっては相談に乗ってやらんでもない。事と次第とは、こっちの問うことに答えてくれることだがな。紀州家の秘密についてだが、まず順序として……紀州家に飼われておる例の化物どもの名だ」
そういいながら、このとき十兵衛は、ふっと或る方角から、火照りのような妖気が吹きつけてくるのを感覚した。
――彼がいま上って来た山門の方からではない。その反対の、なかば崩れた土塀の方からだ。
むろんそこにも五六人の山伏がならんでいるが、その熱気といおうか、圧倒的な凄じさは、とうてい彼らの比ではない。
「……田宮坊太郎は斬った。宝蔵院胤舜も斬った。――あと宮本武蔵、荒木又右衛門というたいへんな奴がおることも承知しておる。が、それ以外にもまだ二匹はおるはずだ。或いは二匹にとどまらんかもしれぬ。……その名を教えてもらいたい。……」
十兵衛の声がふっときれた。
いまや彼は、その方角にじいっと隻眼をすえている。あと三方にむかっては全身隙だらけといっていい姿であった。
そのことも彼は意識せず、黙っていると、こんどは息がかたまりとなってのどにつまってくるような感じがして来た。
それをかっと吐き出すように彼はさけんだ。
「来い、こぬか。……根来坊主ども!」
名を呼ばれて山伏たちは、さあっと水がわたったようであった。彼らはおのれの素性を指摘されて驚愕したというより、誇りにみちた根来忍法僧の自覚をとりもどしたのだ。
四方から彼らは、いっせいに行動を起こそうとした。同時に、七人の柳生衆も|軍鶏《しゃも》みたいに全身を逆立てた。――
すると、そのとき、
「待てっ」
と、呼んだ者がある。
低いが、ふとい、そして二十二人の山伏も七人の柳生衆も、そのうごきを一瞬に封じるに足る声であった。
土塀の向こうから柿色のものが浮かび、つづいて薄墨色のものが、フワと空に浮かびあがった。
「うぬら――手を出してはならぬといってあるのを忘れたか!」
声は、空中できこえた。
崩れているとはいいながら、四尺はたしかにある土塀を軽がると躍りこえて来て、こちらの地上に音もなく立ったのは――柿色の三角頭巾に薄墨色の道服をまとった人間であった。しかも、相当の巨体だ。
彼は手に黒びかりする革鞘をひっつかんでいた。
「但馬の伜よな」
頭巾の中の巨大な眼が、真っ赤に燃えたぎっているようだ。落日がうつっているのであった。そして落日のみならず、憎悪と|敵《てき》|愾《がい》にも燃えたぎっていた。剣をとって相対しながら、いまさら敵愾と憎悪というのもおかしいが、それは十兵衛もはじめて見るほどの悪念の|坩堝《るつぼ》のような瞳であった。
その眼で、十兵衛をぎらっと見すえて、
「噂にはたがわぬ。江戸の主膳とは兄弟とも思われぬ」
と、つぶやいた。
この人物がなお鞘のままの大刀をだらりとさげているのに、十兵衛はすでに血ぬられた刃をひっさげている。しかも、その刀があがらないのだ。あげることができないのだ。
未発に於て、山のごとくのしかかってくる豪壮の迫力――十兵衛は、いまだかつてこれほどの大敵に逢ったことのないことをはっきりと意識した。
……だれか? この人物はだれか?
武蔵? 又右衛門? ――ちがう。荒木又右衛門なら知っているし、宮本武蔵は、これはいまだ相まみえたことはないが、しかし神話的な噂によるその体形からしてちがう。
これは、はじめて逢う敵なのだ。――しかも十兵衛はこの人物を、いつか、どこかで見たことがあるような気がした。強いていえば、生前に相まみえたような。――
……但馬の伜よな。江戸の主膳とは兄弟とも思われぬ。――と、たしかにいった。弟の主膳宗冬を知っているとは何者だ?
この敵の圧倒的な迫力もさることながら、初対面にして、しかもかつて逢ったような気のする名状しがたい奇怪ないらだたしさが、しだいに十兵衛の四肢を縛りつけて来た。
【五】
……西の杉木立にかかった太陽が、いつかげったのか、十兵衛は知らなかった。ただこの敵に勝つには、おのれの方から|弦《つる》を切るよりほかはないということと、それは太陽が杉木立に没するまでのあいだであるということは承知していた。
あきらかに三角頭巾は落日を全身に浴びていたからだ。もとよりその眼は太陽に直面している。その眼の疲労度の微妙な差に、決定的な勝負の機を求めるしかない。――
そう承知しつつ、いつ太陽がかげって来たのか、十兵衛は知らなかった。彼はただ相手の眼に吸われ、そしてその眼には、いまでも太陽が煮えたぎっていたからだ。
それが、すっと消えた。
いままで、いちどもまばたきしなかった三角頭巾の眼が、はじめてまばたき――というより、細められたのである。相手は、笑ったのだ。
「……この日を待っておった。十数年――いや、数十年」
彼はつぶやいた。
「転生して来た甲斐があった」
三角頭巾の左手から右肩へ、ぼうと光芒がながれて立った。革鞘が地におちた。彼は抜いた。刀身を垂直にして、右肩に構えたのである。
これは閃光のごとき速さであったが、これに対して柳生十兵衛が同じく刀身を右肩に立てたのも同じ速度であった。ただし、これは無意識の動作だ。剣人としての本能が、ただ同様の構えをとることを十兵衛に教え、そして十兵衛にとってそれが精いっぱいの努力であった。
十兵衛が山門を入って来たとき、すでに太陽は西の杉木立の梢に燃え落ちようとしていたから、ましてや三角頭巾が十兵衛と相対した瞬間からこのときまで、それほど長い時間ではなかったであろう。或いは、残照の最後の余炎ともいうべき数十秒の間であったかもしれない。
二人のとった姿勢は、他流でいわゆる八双の構えといわれ、柳生流では「陰の太刀」と呼ばれるものだが、十兵衛はこれを八双の構えにあらずして陰の太刀であることを感得した。のみならず、これが江戸柳生ならざる柳生流であることを感得した。
――江戸柳生ならざる柳生流の使い手で、これほどの大敵はだれだ?
十兵衛の体中に、冷たい血とともに逆流する記憶があった。それは木村助九郎が落命するとき、「あと二人」といいつつ、ついにその名を明かさなかった敵のことだ。
心の深海から湧きのぼってくる水泡のような或る名前と、それを押しつぶそうとする心の水圧と。――
それらの潮騒を胸にたてているとは見えぬ静寂の姿と見えたが、しかし十兵衛はうごいている。およそ人間のなし得る動作のうち最もゆるやかな――その極限をすらすぎた最低の速度で彼はうごいている。いや、うごいているのは、大地にくいこむ足のつまさきの筋肉だけといってよかった。
同様に、相手もうごいている。ジリジリと、一寸きざみに、前へ。
いや、十兵衛の動作はただ敵の動作をうつしているにすぎないのだ。ありていにいえば、まねである。しかし、その剣気に近代的な精妙と戦国の野性をかね、この|豪《ごう》|宕《とう》、山のごとき大敵に対して、ほかの構え、異なる動きをしめすことは、彼自身の壊滅を呼ぶしかないことを、本能的に彼は直感した。
――尾張柳生。
いまや十兵衛は、はっきりと相手の剣脈を読んだ。
そしていま、柳生十兵衛によって代表される江戸柳生は、空にかかる月をうつす水の月影以上の何ものでもなかった。
……いうまでもなく、柳生如雲斎である。
十兵衛ら湯崎にあり――と思いこんで和歌山を出た柳生如雲斎は、はからずも南からやってくる巡礼のむれを御坊あたりで遠望した。さては、とばかり眼をこらし、すぐに彼は一行の中に柳生十兵衛のいないことを知った。
彼はまだ但馬守の伜たる十兵衛と相まみえたことはないが、巡礼のむれを一瞥しただけでそのことはわかる。きいていた人数ともややちがう。――が、その中に三人の女巡礼をまじえていることといい、これがいわゆる柳生衆であることは疑う余地がなかった。
うかがっていると、彼らは御坊から東へ、日高川に沿うてゆく。はてこやつらはどこへゆくのか。十兵衛がそちらに待っているとでもいうのか?
それで如雲斎は、すぐあとをつけて来た。道成寺について、やがて彼は、そこにも十兵衛がいないで、柳生衆がさきに来て待ち受けるつもりらしいことを知った。
さて、いっそこやつらをみな斬って、そのまま十兵衛を待つとしようか、それとも万一討ちもらした奴が逃げて、十兵衛に急を告げでもしたら、きゃつ姿をくらますかも知れぬ――などと思案しているうちに、根来僧たちが現われ、そして果たせるかな十兵衛が現われたのである。
柳生如雲斎と柳生十兵衛、いま剣をとって相対す。
かつては大宗石舟斎に一国相伝の印可をゆるされ、加藤清正に愛せられ、また宮本武蔵が同格の眼を以て遇したほどの――前名柳生兵庫と呼ばれた大剣士だ。剣もとらぬうちから柳生十兵衛が圧倒されたのもむべなるかな。
が。――
十兵衛が圧倒されたのと同時に、如雲斎もまた心中に舌をまいていた。
(ううむ。これは。……)
相手は、まさに月と月影のごとくじぶんに従ってうごいている。そしてまた月影をうつす水のように無心に見えるのだ。この相手が意識してじぶんをまねているのではなく、反射的にからだがそううごいていることは如雲斎にもわかったが。――
(……それだけに、恐るべき奴)
そのあいだにも両者の間隔は、三間ばかりのちかさにちぢまっている。
道成寺境内はひかりも青ずみ、風も鳥もその音を絶って、すでに死の世界のごとく静寂であった。
根来僧も柳生衆も生きてはいたが、息をつくのも忘れていた。手出し無用、という命令に制せられていたのでは決してない。彼らには、大気が蒼い氷と変わったかとも感じられた。
事実、あとになって思い出しても、そのとき日は沈んだとはいえ、まだ薄暮というべきほどではなかったのに、外界の一切は蒼々茫々とうすれて、ただこの二人の剣士の姿だけが燐光にふちどられた残像として印象されただけであった。
――二間の間隔にいたって、柳生如雲斎の眼がちらっとまたまばたいた。笑ったようでもあり、動揺したようでもあった。
彼はそれまで憎悪の黒炎にあぶられていた。生前果たすことのできなかった江戸柳生への敵愾のためだ。かつてその対象は但馬守|宗《むね》|矩《のり》であったが、生前の彼とはついに対決の機会がなく、そして転生後は文字通り同穴の種族としてたえずそばにありながら、友情とはいえないまでも、ふしぎに気のぬけた酒のような奇妙な感情しか相手に抱けなかった。そしてきょう但馬守の身代わりとして、その伜十兵衛に相対し、歓喜にちかい武者ぶるいをおぼえたのだが。――
いま十兵衛と剣を交えようとして――いりまじっていた憎悪と歓喜の分子の比率が逆転した。すなわち、これほどのつるぎの陶酔を与えてくれるこの相手に対して、一種の愛情すらおぼえたのである。魔人と化してあらゆる人間感情を失いながら、これだけは蒸発しきることのない、柳生如雲斎の剣に対する熱情のなせるところであった。
この不可思議な愛情は、もとより相手をゆるすといった人間的なものではない。こちらとともに剣に遊び、剣に生死の火花をちらすことに無上の歓喜をおぼえるというおそるべきものだ。彼が殺意の権化であったことにまちがいはない。
ただ。――そのとき、もうひとつの思念が如雲斎の巨大な入道頭をひらめきすぎた。
(――惜しい)
と、思うと同時に、いままでの全人的な没入状態に、
(――そうだ、やはり片腕を斬って、われらの仲間に加えるべきではないか?)
という条件が割りこんで脳裏によみがえったのである。
(こやつ、討ち果たすべきか。片腕だけを斬るべきか。討ち果たさずして片腕だけを斬るか?)
一瞬の迷いが頭にひらめいたとき、両者は七尺の距離にあった。
この相手よりもおのれの迷いに恐怖して、柳生如雲斎は一歩ふみ出し、八双にかまえた尾張柳生陰の太刀を十兵衛めがけてふり下ろした。同時に月影のごとく、柳生十兵衛も一歩ふみ出し、八双にかまえた江戸柳生陰の太刀を如雲斎めがけてふり下ろした。
「あーっ」
どこかで、声、声というより、のどが破れて息がもれたような音がきこえた。
柳生如雲斎の頭が、ぱっと裂けるのを見たからだ。しかも如雲斎は、そのまま、戦車のごとく走りぬけて、鐘楼の下で凄じい回転速度でふりむいた。
裂けたのは、如雲斎の頭ではなかった。ただ例の三角頭巾だけであった。それは一見、唐竹割りになったかとみえたほど、真一文字に斬り裂かれ、二つになって地に舞いおちた。あとには巨大な入道頭が、にゅっとむき出しになっていた。
「……おおっ」
と、十兵衛の唇から、名状しがたいうめきがもれた。
「尾張の入道ではござらぬか?」
そういったとき、彼の右眼から|頬《ほお》にかけて、はじめて血が糸をひき出した。
「……た、但馬の小せがれ」
如雲斎もうめいた。十兵衛の声に驚愕のひびきが強かったのに対し、これは憎悪のみにひきつったうめきであった。
そういったとたん、これまた如雲斎の右眼からタラタラと血がながれ出した。
如雲斎の剣尖が十兵衛の右眼のまぶたを斬ったと同様、十兵衛の剣尖も如雲斎の右眼のまぶたを斬り裂いたのだ。まるで月と、水にうつる月影のように。
斬り裂かれた血まみれの眼を、痛みも忘れて如雲斎はかっとむき出していた。ほんの一息ほどのあいだのことであったが、このとき彼をとらえていたのは、狂憤と、それを通りこして自失の感であったといっていい。
狂憤とは敵よりもおのれに対してである。発機のときを早まったこと、その剣尖の誤ったこと――それは十兵衛がおのれをうつす月影のごとくうごくのにいらだったこと、さらに彼を、彼の右腕だけを斬り落とそうという大それた妄念が湧いたことから生じた狂いであるが、それはふだんのじぶんには決して起こり得ないことであった。
(……ううぬ、よくも如雲斎を)
猛然と如雲斎は、ふたたび一刀をあげようとして、思わず片手をあげて眼をおさえた。はじめて右眼のただならぬ痛みを感覚したのである。
十兵衛の一眼がひかった。異様なひかりを放ったかのように見えた。
ふいに如雲斎は怖れをおぼえた。いまの「相討ち」を怖れたのではなく、これ以後の勝負に危険のあることを、彼の剣に於ける六感が教えたのだ。
この六感は正しかった。如雲斎の斬ったのは、もともとつぶれている十兵衛の右眼だ。一眼に馴れた男と、いまふいに一眼となった人間との精妙な決闘の|帰《き》|趨《すう》は、ふたたび刃を交えずしてあきらかである。――
如雲斎はぱっと身をひるがえすと、黒い奔流が|逆《さか》ながれするがごとく、鐘楼の石段を駆けのぼった。
【六】
これまで、いまの一刹那の接触に際し、
「あーっ」
と、声にならぬ声をもらしたきり、ほとんど茫乎としてこの決闘を見まもっていた柳生衆が、
「危ない、お雛どのっ」
「逃げろっ」
と絶叫したのはこのときであった。鐘楼の上に立っているお雛の姿に気がついたからだ。
お雛は、根来組が現われる以前から鐘楼にのぼったきりであった。もはや道成寺の鐘見物どころではないが、そのときから息もつがせずつぎつぎにくりひろげられる庭の光景に、身うごきもならず立ちすくんだままであったのだ。
石段を馳せのぼって来た入道頭の怪老人を見て――鐘楼の上から飛んで逃げれば逃げられたろうが、彼女はそうはしなかった。いきなり、ぱっと手にしていた仕込み杖を抜いたのだ。
十兵衛にしこまれた腕におぼえがあったのか、それとも、三人の娘のうちでも最も気丈で活発な性質のなせるわざか。――しかし、それにしても、あまりに無謀だ。
「……よさぬか、お雛!」
このときまで、なぜかもとの位置から身じろぎ一つしなかった十兵衛が、愕然としてさけんだが、もう遅かった。――
そこに娘がいると知ってか、知らずにか、鐘楼の上に駆けのぼった柳生如雲斎は、その娘が一刀をぬいて迎えたのを見ると、一瞬おどろいた顔になり、すぐに、にやっと笑った。笑顔にはなりそうもない筋肉が笑って、しかも半顔血に染まり、それは形容しがたいぶきみな表情になった。
「ほう」
と、息をもらして、ちらと十兵衛の方に顔をむけ、そのまま、いまの一刀をずいとお雛の方へむけた。
「例の娘だな、十兵衛」
と、いったときには、すでに呼吸のみだれはない。
無謀といわば人はいえ、お雛にとっては決して無謀のわざではない。この人物が何者であろうと、これが祖父田宮平兵衛を殺した魔人の一人であることは承知している。じぶんはその仇を討つために紀州に入って来たのではないか。――
それはまさにその通りにちがいないが、しかし客観的に見て無謀であることにもまちがいはなかった。何しろ、相手は柳生如雲斎だ。
「大納言さまのおめがねにかなった娘。――ふうむ」
如雲斎は十兵衛の方に顔をむけたまま、ひとりごとのようにいう。
にもかかわらず、如雲斎からすれば横に、いとも無造作にさしつけられた剣尖に、必死に一刀をむけたまま、お雛は凍りついたようになってしまった。
いのちはすでに捨てている。しかも、そんな覚悟とはまったく別に、磐石のごとくおしひしぎ、魔の沼のように吸いこんでしまう柳生如雲斎の一剣であった。
「……さて、どうしようかのう」
如雲斎はつぶやいた。
左手を右眼にあててはいるが、左眼ははたと十兵衛を見おろしている。右眼が、まぶたのみならず眼球まで十兵衛の刃にかすめられてもはや失明していることを知って、その左眼もまた血がほとばしらんばかりに赤くひかっていた。
「……先生!」
「十兵衛先生!」
柳生衆は肩で息をしてさけび合った。
「お雛、うごくなよ。――」
わずかにそういったまま、十兵衛はじいっと鐘楼の上を見あげている。
如雲斎がまったくお雛を見ないでいて、しかもお雛がみだりにうごけば、その豪刀はたちまち稲妻のごとく彼女を両断することを、十兵衛は見ぬいていた。彼の両足は、地にゆわえつけられたようであった。
しかし彼を地に釘づけにしたのは、お雛に対する如雲斎の剣ばかりではない。いま如雲斎が背をむけて逃げ上るのを見つつ、すでにそのときから十兵衛の動作には彼らしくもない躊躇が見られた。
相手の正体が、彼を衝撃したのだ。
――頭巾をはいで、はじめて相手の正体を知ったといったら嘘になる。すでに先刻の息もつまる対決のさなか、相手の剣脈を尾張柳生と読み、しかも生まれてはじめての圧倒的な大敵と知って、十兵衛の胸に水泡のように湧きあがってくる恐るべき或る人物の名があった。
――そんなはずはない。
と、必死にうち消し、そしていま、
――尾張の入道、柳生如雲斎。
と、はっきり知っても、なお心の衝撃は去らなかった。
もとよりその頭巾をとりはらっても、眼前に見る顔におぼえはない。彼がこの人物に逢うのははじめてだからだ。しかし、父但馬守からきいていた如雲斎の風貌にそれは一髪のまちがいもなかった。そして父とは一見、正反対とさえみえる顔と体躯を持ちながら、どこかふしぎに似通う感じがあった。或いは十兵衛自身と似ているところもあったかもしれない。――
頭巾にかくされていたときから初対面にしてしかもかつて逢ったような――生前に相まみえたような奇怪な感じに打たれたのもむべなるかな、それは同じ柳生の血が呼んで応える山彦の感覚であったのだ。
「――来るなっ」
ふいに如雲斎が叱咤した。
声は、すぐそばにぶら下がっている梵鐘にわあああんと反響した。
それは、このときようやくふたたび|蠢動《しゅんどう》しようとした周囲の根来衆にさけんだものであったが、まるでその声に一鞭くらったようにすぐちかくから、タタタタと駆け出した二つの影がある。
小栗丈馬と小屋小三郎であった。
――その寸前の幾十秒か、鐘楼の上のお雛の危機を見、十兵衛のふしぎなためらいを見たのは、柳生衆ひとしくそうであったが、なかでも若い丈馬と小三郎は血ばしった眼を見合わせた。
「……お雛どのをのがさねば」
「……どうする」
鐘楼の石垣は人の背丈ほどもあった。そこにのぼる石段は彼らとは反対の位置にあった。そちらに回ってゆくいとまもないほどの切迫をおぼえ、あせって、ふたりの足の指が地にめりこんだとき、
「――来るなっ」
という如雲斎の叱咤に鼓膜をたたかれ、それをおのれにいわれたものと受けとって、逆にふたりは盲滅法に駆け出したのだ。
が、この場合、反射的に抜刀して走りながら、
「小三郎、柱を斬れっ」
と、小栗丈馬がさけんだのは、短気で単純な彼らしくもない知恵であった。
「――おおっ」
小屋小三郎は目をかがやかし、
「お雛どの、逃げろっ」
と絶叫しながら、お雛の位置とは対角線にある鐘楼の柱めがけて躍りあがって、右|薙《な》ぎに斬りつけた。同時に小栗丈馬も、おなじ柱に、これは左薙ぎに斬りつけた。――
これは、実に妙案だ。四本の柱だけで立っている鐘楼は、その一本を切られればたちどころに屋根もろともに崩壊する。ただし、彼らの腕を以てして、数百貫の鐘を支えている頑丈な柱がみごとに切れるならばだ。
それが、切れた。彼らの腕か。必死の一念のゆえか。――いや、そうではない、まえにもいった通り、鐘を支えているのがやっとと思える虫くいだらけの柱のせいであったろう。
切れるというより、左右から斬りつけられた傷の個所から、柱の一本がポッキリ折れて――鐘楼が傾いた。
一瞬に、二人の意図を知った柳生衆は、
「逃げろっ」
「飛べっ」
と、その柱とは反対の方角にいたお雛にむかってさけんだが――声は凄じい音響にかき消された。
鐘楼は傾き、崩壊した。たんに屋根が落ちたばかりではない。数百貫の梵鐘も同時に落ちて、それが石と相打ち、土にめりこんだのだ。鐘のひびき、石のうなり、木のくだける音、それは人々の耳をしばらくつんぼにし、人々は阿呆みたいにそこにあがった砂けぶりを見ているばかりであった。
鐘楼の石垣からお雛の飛んだ姿はない。
そのことに気づき、総身に水をあびた思いがした一同が、われを忘れて駆け寄ろうとして、たちまち、
「ううむ」
と、うめいて立ちすくみ、かっと眼をむいた。
【七】
もとから瓦も崩れおち、それに草が生えているといったありさまの屋根だ。それは鐘にかぶさり、それにふたをする力も失っていたとみえて、まさに木ッ葉みじんにくだけて――その土けぶりがうすれて来たあとに、鐘がにゅっと浮かびあがった。
鎮座しているのは、ただその梵鐘一つ。
あとには何者の影もない。――如雲斎も、お雛も。
「どこへ?」
「お雛どのはどこへ?」
むろん、いま倒壊した屋根の下に押しつぶされたものと思ったのである。
「しまった」
柱を斬った小栗丈馬が、狂気のように石段の方に回って、鐘楼の上に駆けのぼっていった。
「待て。――丈馬」
十兵衛も駆け寄りながらさけんだ。
「お雛は鐘の中にいる。――あの入道もろとも」
「えっ」
鐘楼の上の丈馬はもとより、柳生衆たちもあっけにとられて、いまは寂としずまりかえっている鐘を見まもった。
いかにも入ろうと思えば、人間ふたりは入り得るかもしれぬ大梵鐘だ。が、この中にいまの怪老人とお雛が入ったと?
むざんやなかぶとの下のきりぎりす――これは後世の芭蕉の句だが、入道はともかく、お雛がその鐘のふちに押しつぶされたのではないかと恐怖して、小栗丈馬は倒壊した木片や瓦の上にとびあがり、鐘のまわりを一回駆けめぐった。
――それらしい気配はない。完全にふたりは鐘の中に入ってしまったのだ。
しかし、いつのまにそんなことができたのだろう。お雛がすすんでそんなことをやるわけはないから、あの入道がお雛をかっさらい、落ちてくる鐘の下に入ったにちがいないが、崩れおちる屋根にまぎれてその姿は見えなかったし、ふたりの位置からみて常識ではかんがえられないわざだ。
が、現実にふたりは梵鐘の中にいる。
「お雛どの、お雛どのっ」
小栗丈馬は、鐘をこぶしでなぐって連呼した。
「生きておるか、お雛どのっ」
その方へ、まず十兵衛が石段を上りかけて、ふいにふりむいた。
「来るか、根来坊主ども!」
庭の周囲にいた根来衆たちは、いま鐘楼をとりかこんだ環を、いっせいにちぢめようとする態勢にあった。
そのとき、凄じい声が鐘のそばで起こった。
柳生衆たちは、鐘にしがみつかんばかりにしていた小栗丈馬の背に刃のきっさきが真っ赤にぬれてつきぬけているのを見た。
声は丈馬ののどからもれたのだ。――いや、そうではない、その直前にもうひとつのさけびが、鐘の中から発したのだ。それは鐘そのものの咆哮であった。
「いやーっ」
丈馬の背のきっさきが消え、丈馬が崩折れると、鐘はいった。
「柳生流正統、秘伝|鎧《よろい》通し。――」
そして、鐘はどよめくように笑った。
「柳生流正統は尾張にこそ伝わる。江戸柳生に、このわざはあるまい?」
丈馬の崩折れたあとに――その鐘になおつき出しているきっさきを見て、柳生衆は全身氷結した思いになった。
なんたること、柳生如雲斎は鐘の内部から絶叫一声、刀身を以て厚い鉄をつらぬいて、小栗丈馬を刺し殺したのである。
……十兵衛だけが、夕闇の中に、その鐘にひびの入っているのを見た。いつの世からあるともしれぬその梵鐘は、いま墜落したはずみにひび割れたものとみえる。――しかし、もとより絶対に刃の通るような亀裂ではない。その亀裂からつき出している刀のきっさきが戦慄すべきわざによるものであることは、余人以上に十兵衛には感得できた。
「根来者ども」
笑いを消すと、如雲斎はいった。鐘にこもって、怪声といってしかるべきぶきみな声だ。
「見る通りじゃ。わしを案ずるには及ばぬ。ひかえておれ」
刀が、鐘から消えた。歯ぎしりしたようないやな金属の摩擦音が空中に残って、あとはしいんとした沈黙がひろがった。
鐘の中に、柳生如雲斎はたしかにいる。しかし、同時にお雛もいる。
十兵衛と柳生衆はそれをとりまいているが、しかし同時に根来組にとりまかれてもいる。
奇怪なたたかいの構図の上に、ただ風のみが蒼く染まって、夕闇の色を濃くしていく。
いったい柳生如雲斎は、鐘の中で何をしているのか。またお雛はどうなっているのか?
しだいにじれて来た柳生衆の眼に、これまた奇怪にすら見えるほどもの思わしげな表情で佇んでいた十兵衛が、やっときいた。
「尾張の入道」
ややあって、眠りからさめたような如雲斎の声がきこえた。
「……お」
「これから、どうなさる」
「……さて、どうしようかのう」
先刻、お雛に剣尖を擬していたときと同じ調子だ。
「もういちど勝負いたそうか」
「……したいな」
「まず、娘をお出しなされ。鐘は、あけて進ぜる。ここにおる者ども力を合わせて」
「……待て」
と、如雲斎はいった。
「十兵衛、再度の勝負について、さっきからわしは思案しておる。いわれるまでもなく、うぬともういちど勝負をしたい。うふ、わしともあろう者が、いまはちとやりそこねたわ。……再度の勝負、せずにおこうか。しかし、きょうはいかぬ。また後日。――」
「後日?」
十兵衛は決然として、
「何はともあれ、娘を出されい」
「どうあっても、いま勝負を望むなら、この娘、ここでひねり殺してから出るが、それでもよいか?」
十兵衛は一息沈黙した。
鐘もまた沈黙している。鐘の中でお雛がどうなっているかとかんがえると、吐気のするようなぶきみな沈黙であった。
「なぜだ、入道」
柳生如雲斎ともあろう者が、娘を人質にして勝負は後日など、なぜいうか、という意味だ。なぜ、いま堂々とふたたび剣を交えぬか、といったのだ。
しかし、如雲斎はなお黙っていた。
事実は如雲斎は、恥じていたのだ。鐘の中に清姫の蛇体に巻かれた安珍さながら、如雲斎は恥に全身の内側をやきただらしていたのだ。
いま、十兵衛と相討ちの勝負となったこともさることながら、ふたたびたたかって、まず勝ち目はないという判断からくる無念の思いであった。
眼だ。
両眼視していた者がふいに一眼となれば、視野は|狭《せば》まり目測がちがう。はじめから一眼に馴れた人間との勝負にそれがハンディキャップとなるのはいうまでもない。いわんや相手が十兵衛とあっては、ただこの微妙な狂いが致命的なものとなることを、如雲斎はいまの決闘で思い知ったのだ。
勝負は後日。――おのれが一眼に馴れるときまで。
無念を押えて、如雲斎はこう方針をきめた。内心の恥は知らず、鐘の中の入道の面がまえは、海坊主のごとく|老《ろう》|獪《かい》でふてぶてしいものであった。
「娘はどうしておる?」
如雲斎のみならず、お雛の声もないのに十兵衛は恐怖してきいた。
「娘? ふふ、気絶しておるわ」
ややあって、如雲斎は答えた。
「で……勝負は後日と申したら、その娘をどうするのだ」
「つれてゆく」
「どこへ?」
「……左様さな、和歌山城のほかはあるまいな」
「和歌山城に」
「大納言さまのおめがねにかなった娘じゃ。大納言さまに献上しよう」
「ば、ばかなことを」
「それとも、ここで死なせた方がましだと申すか」
「卑怯だろう、尾張の柳生如雲斎ともあろう人が」
「娘をいま死なせとうなかったら、いうことをきけ、十兵衛。娘をつれてゆけば、うぬはふたたびわしのまえに現われずにはいられまいが。――その保証にわしは娘をつれてゆく」
おのれの行為に強引に大義名分を見出して、如雲斎の声は鐘の共鳴をひき起こすほど大きくなった。
「十兵衛、去れ。十兵衛一味がこの場をひくのを見とどけたら、根来衆寄れ。あと、一切の問答は無用」
そして鐘はまた黙りこんだ。
じいっと鐘をにらみつけていた十兵衛が、ふいにうごき出した。
柳生衆がはっとすると、彼は刀身を鞘におさめたのである。それから、かがんで、手をのばし、そこに死んでいる小栗丈馬を肩に背負うと、石段を下りて来た。
「先生!」
と、小屋小三郎がさけんだ。
「退却するのですか、丈馬を殺されて」
戸田五太夫が、丈馬の死骸を十兵衛から受けとり、肩にかついで、
「お雛どのの命を思えば、やむを得まい」
とつぶやいたが、これも声に無念のふるえは覆い得ぬ。逸見瀬兵衛が歯がみした。
「しかし、お雛どのが和歌山へさらわれていったら、同じことではないか。むしろ、事態はもっと悪くなる」
闇はもうだいぶ濃くなっていたが、十兵衛の顔色はその闇よりも暗かった。右眼を切られた血は頬にこびりつき、惨澹たる表情だ。
まさに小屋小三郎や逸見瀬兵衛のいう通りだ。そもそも――鐘の中の柳生如雲斎がいまここで再度果たし合って勝目がないと判断したと同様に――和歌山城にいって、たとえまた如雲斎だけと再度の決闘をしようと、勝てるという自信は十兵衛にない。
しかし、いま十兵衛の心を縛りあげているのはそんなことではなかった。べつのことであった。
紀州家に飼われている怪物の一人が、柳生如雲斎であったということだ。江戸柳生、尾張柳生の確執はともあれ、敵中に柳生一族の者がいたということが、十兵衛の心を打撃している。先刻から十兵衛の動作を鈍いものにさせていたのはそのことであった。
「十兵衛」
うしろから鐘がいった。
「忘れておった。この世にふたたび再生して大納言さまのおんために働いておる柳生の人間はわしだけではないぞ。ほかにもおる」
「なに?」
十兵衛は石段の下ではたと立ちどまり、きっとふりむいた。
「何者だ、それは?」
「それは。――」
鐘は黙り、それから、うふふ、ときみわるく笑った。
「十兵衛、ききたいか」
「入道、柳生一族で、再生した者があると? 再生とは、なんのことだ。それはだれだ?」
「ききたいか、十兵衛」
十兵衛の背に、わけは知らず、|悪《お》|寒《かん》のようなものが走った。
「いや、いまわしの口から申すのは、やめておこう。やがて、うぬ自身の眼で見ることになろう。その日をたのしみに待っておれ。――」
「入道!」
さけんで十兵衛は、もういちど馳せかえろうとした。
まるでそれを見ていたように、鐘はいった。
「来たとていわぬ。十兵衛、きかせぬがわしの慈悲じゃ」
「慈悲?」
「おなじ祖父石舟斎の血を受けたものの慈悲じゃ。いや、その人間と相まみえるまえに、わしがうぬを――き、斬ってくれるわ」
そして、先刻の勝負をまた思い出したらしく、歯ぎしりの音がきこえて、
「こんどこそは容赦せぬ」
と、うめいた。
「十兵衛、いま呼びとめてかようなことをいったは、うぬがわしの名を知って、紀州藩に柳生如雲斎ありと余人にあかすのをふせぎたいからだ。それを他にもらせば、柳生家もつぶれるぞ。江戸柳生もかならずつぶれるぞ。――そのことは、はっきり申しておく。ここで釘をさしておく」
そして鐘は撞木で打たれたかのごとく、どよめき笑った。
「用はそれだけじゃ、ゆけ、十兵衛! わははははは!」
ほとんど恐怖にちかい表情を――十兵衛にはじめて見る異様な表情を、このとき柳生衆は見た。
十兵衛は、足をもとの方角へむけ、|鬱《うつ》|々《うつ》と歩いて来た。
「先生!」
「十兵衛さま!」
鐘の中にお雛を残す苦悩すら忘れて、お縫とおひろが駆け寄るのを、十兵衛はうなされたような眼でちらと見て、
「しばらく、おれにかんがえさせてくれ!」
と、いった。
いまの決闘は勝ったか負けたかそれは知らず、あきらかにその足どりは敗者のそれであった。うろうろしながら、お縫、おひろ、柳生衆もそれを追う。
闇の中に、山伏姿の根来組は、じっとこれを見送っていたが、彼らもこの事態のなりゆきに判断を失った眼光であった。
黙々と十兵衛たちは道成寺の石段を下りていった。
日高川のほとりまで来たとき、十兵衛が小さくさけんだ。
「しまった」
「ど、どうなされました、先生!」
「弥太郎は、どこらあたりまでいったであろうか?」
彼は顔をあげて、東の方を見た。
彼の耳にはいまの如雲斎の、「紀州藩の秘事を他にもらせば、柳生家はかならずつぶれるぞ。――」といった声がよみがえったのだ。いや、そのぶきみな言葉が、弥太郎少年と結びついたのだ。弥太郎はその紀州藩の秘事を告げる密使として、いまも東へ歩きつづけているだろう。
「いや、子供の足だ、まだ、時があろうが。……」
十兵衛はみずからにいいきかせるがごとく、しかし焦燥の気をありありと語尾にあらわして、またうめいた。
「これから、どうするか。しばらくかんがえさせてくれ!」
|西《さい》|国《ごく》第二番|札《ふだ》|所《しょ》
【一】
「クララ」
と、天草四郎は呼んだ。
牧野屋敷の地底の秘室である。
厚い板戸の向こうでは、例によって息も切れるような女たちのうめき、あえぎ、悲鳴を裂いて、だれの声か見当もつかぬ男のばか笑いがひびいていたが、入り口ちかいこの一室に座っているのは、四郎とそしてクララお品だけであった。
「何か、おまえ、かくしていることはないか?」
壁に背をもたせて座っていたお品は、しずかに顔をあげた。
「かくしている? 何を?」
いままで鬱々と沈んでいた表情が、きりっとひきしまった。むろん、もう狂女の顔ではないが、どんな表情になろうと男を酔わせずにはおかないなまめかしさは同様だ。
「わたしはみんなかくすところなくいったではありませんか。熊野路の道中、どうしてもあの男を誘いこめなかったいきさつや」
「…………」
「潮見坂で、あの男が根来衆を斬り、わたしにいったことや、わたしにしたことや」
「…………」
「恥をしのんで、わたしが帰って来て報告したのは、あの男がどんな男か、あらためてみなの衆に知らせたかったからです。四郎どの、あなたはまだ柳生十兵衛という男をよく御存じではないのです」
「いや、わしはよく知っておる」
と、天草四郎はうす笑いしていって、じいっとお品を見つめた。
「十兵衛がしたこと、いったことはおまえの報告通りだろう。しかし、おまえの胸のうちはきかぬ。クララ、帰って来て以来、何やら思案に沈んでいる。おまえ、何をかんがえておる?」
「わたしの胸のうち?」
お品の蝋みたいな頬に、ぽうと血がのぼった。
「クララ。……まさか裏切りはすまいな」
と、四郎はいった。
「いや、裏切りの心を抱いてはいまいな」
「わたしには、おまえのいっていることの意味すらわからぬ。恥をしのんでわたしが帰って来たのも、何とぞして宗意軒さまのお望みをかなえたいと思えばこそです。もし十兵衛を殺すのがわたしの役目なら、その機会はあった。しかしわたしの役目はそうではない。……思案していたのは、十兵衛を肉の罠におとす工夫をしていたのじゃ」
「そうかな?」
天草四郎のうす笑いと凝視は変わらぬ。ぼうっとけぶっているような美貌と、この表情はなんとも不つり合いで、一種異様なぶきみさがかもし出される。
「クララ」
と、彼はねっとりといった。
「ほかの連中とはちがう。わしは森宗意軒の半身ともいうべき秘蔵弟子だと自任している人間であるぞ」
「それがどうしたのじゃ」
と、お品はきっとなった。
「わたしはおまえよりもっと古い……宗意軒さまがお若いころ仕えなされていた小西家の遺臣の娘じゃ。たとえ、魔界転生の衆がみな宗意軒さまを裏切ろうと、わたしが裏切るなどいうことがあり得ようか」
「江戸におったころはな。いや、おまえが熊野路へ立つときまではな」
と、四郎は冷やかにいう。
「熊野路の十兵衛のところへいってからのおまえの無能ぶりはおかしいが、一応十兵衛がおまえの手に余ったとしておこう。おかしいのは、帰って来てからのおまえの様子だ。いや、あれからのおまえを、じっと見ていて、逆に道中のおまえの無能ぶりがおかしいとさえわしは思いはじめた。……」
「なんといいたいのじゃ、四郎どの」
「クララ、おまえ、十兵衛に惚れたのではないか?」
「た、たわけたことを。――」
「お品、乳房を見せろ」
「えっ」
「おまえが十兵衛に惚れているかどうか見てやる。乳房を見ればわしにはわかるのだ」
お品はしばらくあっけにとられたように天草四郎の顔をながめていたが、やがて――この怪少年の不可思議な能力を信じたのか、或いはそんなばかなことがあるものかと思ったのかは知らず――ぐいとじぶんの襟をくつろげた。
まるい、むっちりとした乳房がふたつあらわれた。まっしろな、|絖《ぬめ》みたいにひかる乳房であった。
「眼をつぶれ」
「――こうかえ?」
「しばらく、その眼をひらいてはならぬぞ」
このときお品は、じぶんの乳房を――乳くびを、虫の薄い羽根がくすぐるような感触をおぼえた。
「眼をあけるなよ」
天草四郎の声は遠い。
「とじたままで、十兵衛を思え。……十兵衛が、おまえの乳房をすぐそばでながめていると思え」
微妙な感触は、乳くびにまつわり、うごめき、いじりまわした。いままでさほど気にとめなかった板戸の向こうの女のあえぎが、妙に耳にからみついて来た。
乳くびを這いまわっていたものは、依然としてその感覚を残したまま、一方で胸から腹の方へすべりおちてゆく。お品はかすかに腰をくねらせた。息がはずみ出した。
――わたしともあろうものが。
と、その息を唇でかみしめようとする。
――眼をあけてなるものか。
意地になって、眼をとじて歯をくいしばると、肩が大きくあえいでくる。
「そうれ、乳くびがピンと立って来たぞ」
四郎のあざ笑うような声がひびいて来た。
「十兵衛を思うと……クララ、乳房がうずこうが」
「毛じゃな」
と、お品はいった。
じぶんの乳くびにまといつき、また胸から腹へすべりおちていったものが数本の毛であることにやっと気がついたのだ。交合中の女から切りとった髪を生きもののようにあやつる天草四郎のいわゆる忍法|髪《かみ》|切《きり》|丸《まる》。さっき奥から出て来たとき、四郎はすでにその髪の毛を用意していたに相違ない。
乳くびが勃起したのは、その髪の数本がやんわりとその根本にからみつき、風のようになぶっているからだと知って、
「わるさはおやめなされ、四郎どの」
と、お品は眼をひらいた。乳房を這っているのは、まさに髪の毛であった。それをむしりとろうとしたが、とれない。
「クララ、白状しろ」
天草四郎の口は笑っていたが、眼は笑わず、異様なひかりをはなっていた。
「柳生十兵衛に惚れたか、どうか、言え」
乳くびにからみついた髪の毛は、徐々に、きりっとしまって来た。疼痛が胸にひろがった。一方、下腹部にすべっていった毛は、そのあたりをやわらかにくすぐっている。――奇妙な、恐るべき拷問だ。
「刀すら断つ髪切丸だ。ほうっておけば、乳くびはおちる」
「おとしてみるがよい」
快美と苦悶に全身をうねらせながら、お品は顔を紅潮させてうめいた。
「たとえ、首がおちようと、おまえにはもはや口はきかぬ。が、わたしを殺したら、宗意軒さまがどうおっしゃるか。――」
天草四郎の表情がややひるんだとき、背後で鎖の音が鳴った。
ギ、ギ、ギ……と扉がひらいて、そこに十人ちかい人影が浮かびあがった。山伏のむれの中に、大入道が立っている。腕に失神したままの娘を抱いていた。
【二】
「や、如雲斎」
と、四郎はさけんだ。
「帰って来たか」
柳生如雲斎と根来組のめんめんであった。――四郎の忍法が解けたとみえて、このとき同時にお品の乳房を縛っていた髪の毛も解けおちた。
「その女は?」
「例の娘の一人だ」
「例の娘。――おう、田宮平兵衛の孫娘、お雛と申す娘だな。で、十兵衛はどうした?」
如雲斎は黙って入って来て、お雛のからだをお品のまえにどさりと投げ出し、それからずかと大あぐらをかいた。手をあげて、右眼にあてる。――
「眼――如雲斎、眼をどうした?」
如雲斎の肉の厚い頬に、にぶい苦笑がけいれんした。四郎がたたみかけた。
「十兵衛にやられたか、如雲斎。――まず十兵衛の耳か片腕を斬るといって出かけたおぬしが、片眼を失って帰って来たとは――十兵衛はどうした?」
如雲斎は答えた。
「きゃつ、やがてこちらに来るはずだ」
「十兵衛が、ここに来ると?」
「来るはずだ。そのための|囮《おとり》として、こやつをとらえて来た」
如雲斎の苦笑はこわばって、たんなる筋肉のひきつれとなっている。
「や、如雲斎の声ではないか」
板戸の向こうで荒木又右衛門らしい声がすると、女のあえぎの波がしだいに|凪《な》いでいって、やがて板戸がひらき、たしかに又右衛門と、そのうしろから柳生但馬守、宮本武蔵がのそりとあらわれた。何か食べてでもいたように、みな手の甲で口のあたりをぬぐっている。
「負けたか、入道」
但馬守は、けらけらと笑った。
「入道がのう。ふうむ、いや、いまの十兵衛なら、おぬしの手にあまるかもしれぬ。子を見るには父にしかず、きゃつを斬るのは、わししかあるまいのう」
むっとにがり切っている如雲斎を、たずねてもとみには答えぬと見て、又右衛門が根来衆にきいた。
「どういうわけだ。話せ」
山伏のひとりが、如雲斎の方をおびえたような横眼で見つつ、口ごもりながら道成寺のいきさつについて述べた。
「で、それからの十兵衛一味の行動は?」
「根来組の半数を以て監視しておりまするが、きゃつらもまた道成寺から和歌山へ近づきつつあることはたしかでござる」
「和歌山へ――この屋敷に、たしかに来るか?」
又右衛門の眼が、ぎらとひかった。
「来る奴じゃ。左様な女を囮になどせんでも」
と、但馬守がいった。
「むちゃくちゃな奴じゃからの」
「女といえば、その娘をどうする」
と、四郎がいった。
お雛はこのとき意識を回復して、眼をひらいていた。ただし、お品の腕の中で。
半身を起こした彼女は、うしろからお品に抱きかかえられていたが、肩とわきの下にかかったお品の腕は柔らかいのに鎖みたいに強靭であった。気がついたとき、彼女は声をたてようとしたが、そのとたんに一本の指でみぞおちを押えられると、また息がとまったほどであった。
「大納言さまに献上のためにとらえて来た」
と、ぶつりと如雲斎がいった。
実はあのとき、十兵衛からしばらく身をふせぐ盾としてこの娘をかかえこんだのだが、囮云々という口実をいま但馬守に一笑されたので、もうそのことは口にしなかった。
「数百人の中から、えらび出された大納言さまの貴重な御忍体ではないか?」
「しかし、大納言さまは」
と、天草四郎は不快そうにくびをかしげた。
「あれ以来、魔界転生のことも御念頭になく、ひたすら御出府のときをお待ちかねのていにお見受けするぞ。――それよりも」
と、うす笑いしながら、胸のまえでこぶしをくるりとひねった。
灯にかげろうみたいなものが、ふっとながれたようだ。――みだれたお雛のえりもとへ。
「われらが愉しんだ方がよいかもしれぬて」
お品は、天草四郎がさっきじぶんに試みた忍法をお雛にしかけたことを知った。
「うごきやるな」
うしろからピタとお雛をとらえた女忍者の顔には、名状しがたい邪悪な笑いのかげがひろがった。――
お雛は、道成寺の鐘楼が崩れかかって来たときから記憶を失っている。気がついて、あたりの光景を見まわして、それが敵のまっただなかであることを知った。のみならず、おそらくはここが祖父たちからきいていた和歌山の牧野屋敷の地底の部屋であることも推察した。
わたしはあれからどうしたのか、道成寺で十兵衛さまはどうなされたのか?
さけび声をあげようとしたとき、彼女は乳房にきりっと巻きついたものと、胸から腹へすべってゆく虫の羽根のような感覚に襲われていた。
「お雛。……おまえはまだ処女か」
天草四郎は笑顔で彼女をながめている。
「処女でなくてはこまる。大納言さまの御忍体たるべきおまえだからな」
お雛は歯をくいしばった。眼前の妖しい美少年の嘲りの言葉よりも、からだの二個所からひろがって来た異様な感覚に耐えるためであった。
「お品からきいたところによると、おまえがまだ処女であることにまちがいはないらしいが……十兵衛に惚れているらしくもあるな。十兵衛が好きか」
背中に眼はなかったが、お雛はじぶんをとらえている女がだれであるかを知った。――あの狂女は、狂女ではなかった。十兵衛さまが狂女を密使として送ったときいて、何かおかしいとは感じていたが、狂女ではなく敵の一味だとすると、その女がここにいるのはふしぎではない。――
が、お雛が驚愕したことはいうまでもない。彼女は身をもがこうとしたが、お品の腕は粘っこい鎖みたいに縛りつけて離さなかった。
「いつぞやは、大納言さまを張りとばしたそうな。うふふ、可愛らしい顔をして、勇ましい奴だ。徳川御三家の一つ、南海の竜とうたわれるお方をひっぱたいたとは……徳川家はじまって以来、おまえが最初にして最後だろうな。大納言さまはきらいか」
天草四郎は、お雛の苦悶の表情を愉しんでいるようだ。
「いやなら、|強《し》いぬぞ。われわれはどうじゃ。わしはいやか」
ひざは床についたまま、四郎はながれるように寄って来た。顔をすりつけるほどちかぢかと寄せて、
「そうれ、息があらくなって来た。ふうむ、甘い息をしておる」
あえぎつつお雛は、むせ返るようであった。四郎そのものが、腐った果物のような匂いを発散していた。
「いまにうぬは、相手が大納言さまであろうが、わしであろうが――そこにござるうすきみのわるい魔性のめんめんであろうが、男ならだれでも抱きしめて欲しいきもちになるぞ」
そのとき、入り口の方で鎖がまた鳴って、板戸がひらいた。そして二人のべつの山伏がひざをついた。
「如雲斎どの」
「おう」
十兵衛たちを見張らせていた根来組の僧であった。
「十兵衛一味は紀三井寺に入りました。そこから、うごきませぬ」
「ほ、紀三井寺に」
「西国第二番の札所でござる。この和歌山へは、まだ一里半のところ。――」
実は、如雲斎たちが道成寺を立ち去ったのは十兵衛らよりだいぶあとだが、本来の紀州路は通らず、このあたり一帯の地理に通じた根来組にまもられて、山間の道を駆けもどって来た。むろん、そのあいだ根来組の半数は十兵衛たちから眼をはなさず、糸をひくように刻々とその動静を耳に入れていたから、さきに出た十兵衛一味は、こちらよりずっと遅れて和歌山へちかづきつつあることはわかっていた。
道成寺から、和歌山までほぼ十五里。
従って道成寺から紀三井寺までは約十三里半ということになろうか。
「十兵衛一味はそこから、うごかぬと?」
「はっ、きゃつら、しおらしい声で巡礼歌をとなえつつ紀三井寺に入り、数刻のあいだそこの宿坊で休んでおりましたが。――」
「そういえばきゃつら、巡礼のなりをしておったな。それにしても、この場になって、まだそのようなまねをしておるとは、あくまでも人をくった奴ら」
「のみならず、寺側といかなる話をつけおったか、やがて山門下の空地に幕を張り、そこに大きな看板をかかげました」
「看板を」
「柳生十兵衛指南、正木坂道場出張所と。――」
さすがの魔剣士のむれも、しばらく言葉を失っていた。この和歌山に、宮本武蔵、荒木又右衛門、また柳生如雲斎がいると充分承知しているくせに、あまりといえば不敵な所業ではないか。――
「寺側にそれとなくたずねたところ、十兵衛は、南竜公のお求めによってわざわざ柳生から出張して来たものだといい、この件についてはもとより藩のゆるしは受けてある。念のため、奉行所にでも何でも伺いを出してみろと笑っていった由で。――」
「ああ。……」
と、お雛が胸を抱きしめてつぶやいた。
「十兵衛さま。……」
彼の健在を知って、この地底に囚人として囲まれながら、思わずお雛は微笑んだ。もとより天草四郎の忍法は解けている。
根来僧の報告も、お雛のあえぎもうわの空に、五人の魔剣士はなお顔を見合わせているばかりであった。
武蔵がやっと重々しくつぶやいた。
「きゃつ……何を企みおるか?」
【三】
道成寺をたったのは日の暮れ。
日高川のほとりに小栗丈馬のなきがらを土葬し、その遺髪を切りとると、夜を通して歩きつづけ、紀三井寺についたのがあくる日のひるすぎのこと。
べつに紀三井寺を意識してめざしたわけではない。むしろ、その夜どこかに宿をとる余裕をすら失っていたというのがほんとうのところで、ただ、
「さらわれたお雛さまをどうなさるおつもりですか?」
というお縫やおひろの声に柳生衆は背を吹かれ、
「そうだ、どんなことがあってもお雛どのは救い出さねばならぬ!」
という柳生衆の声にお縫やおひろは鞭打たれて、疲れも忘れて歩いて来たのだ。
このあいだ柳生十兵衛は、腕ぐみをして黙々と足をはこんで来たが、さすがに和歌山に入る一歩手前の紀三井寺のまえに通りかかると、ふっと足をとどめた。
「待て、ここで休んでゆくとしよう」
「休んで……どうします」
「……しばらく、おれにかんがえさせてくれ」
十兵衛は依然として同じことをいう。が、ふと彼らしい渋い笑いをとりもどして、
「紀三井寺。|西《さい》|国《ごく》第二番の|札《ふだ》|所《しょ》じゃな。ちょっと寺に話したいことがある。みな御詠歌を唱えつつ乗りこんでくれ」
と、いった。
で。――
「ふるさとをはるばるここに
紀三井寺
花の都もちかくなるらん。――」
鈴をうちふりうちふり、石段から山門に上ってゆく御詠歌の声はしおらしく、かつこの一夜二夜ほとんど眠っていない連中の声とも思われないほど音吐朗々としていたが、やがて寺から宝印を受け、納札をすませ、請うて宿坊に通されると、さすがにみな泥のような眠りにおちてしまった。
それから数刻。――
「起きてくれ」
十兵衛に起こされた柳生衆は、彼から思いがけない命令をきいた。
彼らが眠っているあいだに、寺側とどういう交渉をしたのか、山門下に道場を仮設するゆるしを得たから、その仕事にとりかかれと命じられたのだ。
紀三井寺。正しくは金剛宝寺といい、宝亀元年唐の|為《い》|光《こう》上人の建立にかかるという。古義真言宗に属し、西国第二番の霊場となっている。名草山という山の中腹にあり、六万余坪といわれる境内の絵馬堂からは、和歌浦の風光から淡路島まで一望のうちにおさめることができる。
「|葷《クン》|酒《シュ》山門ニ入ルヲ許サズ」
と書かれた石碑のある山門の石段の下からは、ずっと門前町がひろがっているが、その中にこの夏失火で焼けたあとの空地があり、ここに急に|幔《まん》|幕《まく》が張りめぐらされた。
そして、焼けこげた|欅《けやき》の大木に大看板が打ちつけられ、秋の日に、墨痕りんりと、
「柳生十兵衛指南、正木坂道場出張所」
と。――
紀三井寺に対して十兵衛は、あとで根来組が探ったような、
「実は当藩の侍どもが泰平になれて腕がなまくらになっておることを憂えられた南竜公が、ひそかに拙者に御下命になったのでござる。柳生道場を当藩内にひらき、なまくら藩士どもを手きびしくしつけ直してもらいたいとな」
というようなことを申し込んだのである。それにつけ加えて、
「ただし、あまり表立って拙者が御城下にのりこんで左様なまねをしては、藩の剣法師範衆も面目を失うし、また家中のめんめんも殺気立つおそれがある。で、わざわざ巡礼の姿に身をやつし、回国の途次しばし立ち寄ったものとし、和歌山の入り口で、門前町の大道芸人といったかたちで仮道場をひらく。――これは拙者の方から南竜公に進言したことでござるが」
と、もっともらしい顔でいったものだ。
むろん、紀三井寺の方では和歌山へ使いの僧を走らせて奉行に伺いをたてたのだが、
「追って沙汰いたす」
という回答があっただけで、それっきり連絡がない。
それよりも何よりも、寺側に不審を抱かせなかったのは、まさか和歌山の入り口で、そんな大それたうそっぱちをぬけぬけという人間があろうとは思わなかったことと、それから、こんな口上をのべたてる柳生十兵衛のおちつきはらった態度であった。謹直という感じにはほど遠いが、なんとなく人を信頼させる、男らしい、悠々たる人間性があるのだ。
で、その日のうちに、門前町に仮設の柳生正木坂道場出張所がひらかれた。
「なんや、寺の前に道場とは。――」
「見世物か」
「いや、柳生とある。柳生が剣術の見世物はやるまい」
「柳生十兵衛、片眼の名剣士、その名はきいたことがありまっせ」
「のぞいて見い」
「いるか。――いる、いる。あれやろ。が、両眼つぶれてるぜ」
「阿呆、あれは寝てるのや」
名にしおう紀三井寺の門前町である。たちまちまわりは黒山の人だかりとなった。
早速、飛びこんで来た武者修行風の侍も二三ある。この相手に柳生衆が立った。巡礼の白衣に木剣を持つという|異形《いぎょう》の姿ながら彼らは軽く申し込み者をあしらった。
その向こうの|銀杏《いちょう》の樹の下に縁台を一つ置き、柳生十兵衛は肘まくらで高いびきをかいて眠っている。
夕風に銀杏の葉が吹かれて顔にとまると、彼は眼をさました。
「日が暮れたか。きょうはこれでおしまい」
そういって、彼は柳生衆をつれて、さっさと紀三井寺の宿坊にひきあげた。宿坊では、この騒ぎもしらず、お縫とおひろは、まだこんこんと眠っていた。
一夜があけると、紀三井寺の門前で、また柳生道場の店びらき。――
この日は十数人の試合申し込み人があった。
「なに、柳生十兵衛。――にせものではないか」
「ほんものなら、たいしたものだが。――」
大看板の前で、そんな立ち話をしている旅姿の侍のまえに、上半身はだかの磯谷千八なり逸見瀬兵衛なりがあらわれて、「ほんものか、にせものか、立ち合って見ればわかる。立願のことあって、とくに|束脩《そくしゅう》はとらん。ただで、十兵衛先生が手ずから御教授なされる」
「もっとも、われわれの下調べを受けてからのことだが。――」
「四五日うちにも次の巡業地に回るぞ。さあ、早いところ、来られい、来られい」
などと煽りたてる。
ただなら、指南を受けた方がとくとかんがえたか、あるいは柳生十兵衛の名にひかれたか、あるいはあまりに人をくったこの道場をつらにくく思ったか。――試合を申しこんだ十数人のうちに、たしかに紀州藩士と推定される者があった。それと知られぬため、旅の武芸者風によそおってはいたが、日にやけ具合、わらじのいたみかげんからわかる。――
これらを、柳生衆たちは、公平に打ちのめした。とくに紀州侍とおぼしき奴はこっぴどくいためつけ、中には手足の骨をぶち砕かれた者もあった。
「いや、とてもそれでは十兵衛先生のお手をわずらわすわけにはゆかんな。次っ」
と、吼える柳生衆の声は、どこかいらいらして殺気立っている。十兵衛は例のごとく縁台に寝ころんで、頬杖ついて、|煙管《きせる》をくゆらしている。――彼らが殺気立っているのは、試合の相手ではなく、むしろそんな十兵衛に対してであった。
いったい、十兵衛さまはどうなさる御所存か?
こんなことをしているあいだにも、お雛の身の上にいかなることが起こっているかわからないではないか?
もっとも彼らにしても、どうしたらお雛を救えるのか、おさきまっくらではある。このまま和歌山に真一文字につきこんだにしても、どうにもならぬことは充分わかっている。
十兵衛が、敵の城下の一歩前で踏みとどまった理由はのみこめないではない。またここでこのような途方もない大道剣術屋を開業したわけも、なるほどとうなずかれるふしがある。
これだけはでに、大っぴらに、柳生一門ここにありと宣伝したら、場所は西国巡礼路第二番の紀三井寺だ。ゆきかう人々は諸国にまたがっていようし、紀州大納言いかなる権威があろうと、大挙して討手をさしむけるわけにもゆくまいし、またいわんや夜討ちだまし討ちなど、その面目にかけてできるわけがない。こうぬけぬけとひらきなおることは、こっそりと和歌山に入るより、むしろ安全なことなのだ。いかにも十兵衛先生らしいやりくちである。
ひょっとしたら、十兵衛先生は、こうして宮本武蔵なり、荒木又右衛門なりが出現するのを待っていなさるのではないか。――
柳生衆は目を皿のようにして、試合を申し込んでくる男たちをねめすえたが、しかしついにそれらしい人間は見えなかった。そうはうまく問屋がおろさない。
もっとも、武蔵や又右衛門がほんとうに出現することが、はたしてうまく問屋がおろすことになるかどうか大いに疑問だが、十兵衛がそれを待っており、彼らが現われないとすると、お雛はどうなるのだ?
また銀杏を夕風が吹きはじめたが、十兵衛は依然として煙管をくゆらしている。――
実をいうと、十兵衛もまたおさきまっくらなのであった。
お雛を気づかう焦りは柳生衆たちにゆめ劣らないが、しかしそれよりも彼は、まだ柳生如雲斎の出現という事実から受けた衝撃から立ちなおれないのだ。それと、
「――この世にふたたび再生して、大納言さまのおんために働いておる柳生の人間はわしだけではないぞ。ほかにもおる」
「――いまわしの口から申すのはやめておこう。やがてうぬ自身の目で見ることになろう。いや、おなじ祖父石舟斎の血を受けたものの慈悲じゃ、その人間と相まみえるまえに、わしがうぬを斬ってくれるわ」
「――それを他にもらせば、柳生家もつぶれるぞ。江戸柳生もかならずつぶれるぞ」
という如雲斎のぶきみな声がなお彼の耳にねばりついているのだ。
それはだれだ?
この世に再生して大納言のために働いている柳生家の人間とはだれだ?
――すでに故人となった柳生家の人間のあれこれをかんがえる。しかし、彼らの死そのものに疑問を抱くべきものはない。――にもかかわらず、十兵衛は、心の底から暗い水のようにふるえのぼってくる恐怖の念を禁じ得ないのだ。
人は必ず死ぬ。そのこと以上に重大で確実なことはこの世にないことを知りながら、ふつう人は死について真正面から思考することは不可能である。恐怖の深淵が思考力を断裂させるのだ。それと同じように十兵衛は、如雲斎の言葉にうなされたような恐怖を抱きつつ、それ以上思考をおし進めることができないのであった。
道成寺でみすみす柳生如雲斎を――お雛をさらわせたまま見のがせば、いよいよ事態が悪くなると承知しつつ――見のがしたのはこのためだ。そしてまた和歌山の入り口で彼がためらい、ついに金縛りになってしまったのもこのためだ。
かんがえさせてくれ。……かんがえさせてくれ……。
うわごとのようにそういいながら、彼の思考力もそれ以上に金縛りになっているのであった。
一片の義心により、徳川御三家の一つ五十五万五千石の大死地に乗りこんで来た彼。敵の顔ぶれに宝蔵院胤舜、荒木又右衛門、宮本武蔵ら|曠《こう》|世《せい》の大剣士ありと承知しつつ、あえてその本拠へむかって北上の足をとめなかった彼。
その柳生十兵衛が、敵のメンバーに柳生一族がいると知って大いに周章|狼《ろう》|狽《ばい》し、敵のなすがままに|拱手《きょうしゅ》傍観し、さらには立ち往生の状態になってしまった。
これが常人ならさもあるべきところだが、柳生十兵衛にしてはおかしい。十兵衛らしくもない。
一見そう思われるが、実はそこが十兵衛らしいところだ。むしろこの場合、父の但馬守なら、ただちに明快な判断を下し、冷徹な処置をとったであろう。――その但馬守が十兵衛を評して「むちゃくちゃな奴だ」という。ところが十兵衛からみると、こんな場合に明快冷徹な処断を下す官僚的な父の方が、よっぽど人間ばなれがしているのだ。この親子がどこかしっくりゆかなかったいきさつの大きな原因の一つは、こんなところにあるといっていいくらいだ。
とはいえ、彼、柳生十兵衛は決して優柔不断な男ではない。それどころか第三者からみれば、「むちゃくちゃな奴だ」という父の評語のあたっているふしがたしかにある。
だいいち、彼自身、ほかの柳生衆にもまして、いつまでもこうしてはいられない事情があるのだ。
捕われたお雛の運命もさることながら、それよりも弥太郎のことだ。
十兵衛は紀三井寺に来る途中、弥太郎をほんとうは柳生へ旅させたことを白状した。姉のおひろは、びっくりを通りすぎて呆れ返ったが、その方が弥太郎にとって安全だといわれ、また弥太郎がみごとに潮見坂を脱出して東へ駆けていったときき、さらに弟が紀州の大秘事を注進する小さな密使の使命を受け、かついまのところ弥太郎以外にこの任務を果たせる者はいないのだといわれれば、沈黙し、ただその成功を天に祈るよりほかはなかった。
それはそれとして十兵衛にとって、いまとなってはその小さな使者の成功がこまるのだ。
弥太郎がぶじに柳生にたどりつく。十兵衛自筆の密書によって、留守居の者が紀州の秘密を江戸の松平伊豆守に急報する。――その結果が、双刃の剣となって柳生家にたたる――おそれが生じたのだ。
とにかくあの弥太郎を追って途中で制止しなければならぬ。
しかし、柳生衆に追わせることは不可能であった。それができるくらいなら、はじめから少年を使者とはせぬ。十兵衛は鬱々悶々としているようで、依然としてじぶんたちのまわりに根来組の目がひかっているのを知っていた。紀州をぬけて弥太郎を追うのは、この十兵衛自身がうごかねばならぬ。が、そうするためには、何よりお雛を救い出すのが先決問題なのだ。
いまとなっては、使者が七つの子供の足なのがせめてもの頼りだが、それにしてもいつまでもこうしてはいられない。
寝そべった縁台は、十兵衛にとって実は焦熱地獄だが、しかもうごくにすべなきをいかんせん。
【四】
紀三井寺下に辻道場をひらいたのは、たしかに敵の奇襲を牽制するためだとはいえ、その実立ち往生しているのだとは知らず。――
あまりにも人をくった柳生十兵衛のやりくちに、しばしのあいだは魔界転生の剣士たちも疑心暗鬼にとらわれてしまった。
「……きゃつ、何を考えておるか?」
「次にいかなる手を打とうとしているのか?」
その十兵衛の動静への危惧もさることながら、彼らにとって気がかりなことがもうひとつべつにある。
それは、十兵衛がこんな傍若無人なまねをやっているのに、紀州藩の方では何の手も打たないことだ。すでに紀三井寺の方で伺いを立てたことも明白なのに、藩の方ではまだ拱手傍観している。
むろん、頼宣の意思にちがいない。それが懸念のたねとなる。
もっとも頼宣が、はっきりと意識して十兵衛を放置しているかというと、それも疑問の点がある。頼宣はほかのもっと重大な問題に心をうばわれているふしがあるからだ。――江戸の将軍の病状の件である。
そのあたりのことをききだそうにも――きくのにもっとも適当な牧野兵庫頭が、この数日、まったく彼らの前に姿を見せないのだ。屋敷にもほとんどいないらしい。どうやらたいてい城につめていて、頼宣とともに江戸からの知らせを待っているらしい。
「ふふん、われらの力をかりずとも、天然自然と熟柿のように、天下が手におちてくるものとお考えか」
と、天草四郎があざ笑った。手に一本のかんざしをもてあそんでいる。
「そうはならぬ。宗意軒さまがそうと仰せにならぬかぎりはまだそのときでない」
「しかし、それはともかく、十兵衛はいつまでも捨ておけぬぞ」
と、荒木又右衛門がいった。
「大納言さまが黙っておられるとはいえ、十兵衛に手を出してはならぬとわれらに仰せられたわけではない。――わしが紀三井寺にゆこうか」
「四郎、十兵衛を斬り捨ててよいのか」
と、但馬守がふりむいた。
「斬り捨ててよいなら知らず、あくまでも耳とか腕とかを斬るにとどめたいならば、又右衛門の腕ではむずかしいな。まずわしか、この武蔵。――」
武蔵は壁にもたれて、渦をまいてまばらにのびている頬髯をなでていたが、重く、うすく笑った。
「待て」
と、鉄槌を打つような声がした。
「わしがゆく。いや、わしにゆかせろ」
柳生如雲斎だ。右眼は刀痕でふさがれているが、左眼はぎらとあぶらのようにひかって、
「わしが帰って来たのは、もういちど十兵衛と立ち合って、きゃつを斬るためだ。――四郎、それはなんだ」
と、一間ばかり離れたところに座っている天草四郎にあごをしゃくった。
「お雛のさしておったかんざしだが。――」
貝で作ったかんざしである。
それを膝でもてあそんでいた天草四郎は、ちらと板戸の向こうを見てから、手をあげて、灯にかざした。貝とはいえ、半透明で、足が二本あるとは眼をちかづけなければわからないほど細いかんざしであった。
「それを投げろ」
「え?」
「わしをめがけて、投げてくれ」
けげんな顔をして、四郎はそれを、ぽうんと如雲斎の方へほうった。
「こうか?」
きらっと一条の光芒が走った。と、空中でパチンと微かな音がして、銀色のきらめきが左右に散って舞いおちた。
かんざしは、二本の足を切りはなされて床にころがっていた。
光芒は円をえがいて、如雲斎の左のこぶしに吸いこまれている。彼は例の黒びかりする革鞘をつかんでいた。膝もうごかさず気合もかけず、彼は居合抜きにかんざしを切りおとしたのである。――かげろうのように空中に舞う繊細な半透明のそのかんざしを。
柳生如雲斎は、両断されたかんざしをじいっと見入って、にんまりと笑っていた。見ていた人間に対する得意の笑顔ではない。おのれ自身納得がいった会心の笑いである。
「これでよし」
とうなずいて、
「眼が合うた」
と、つぶやいた。――いうまでもなく、片眼だけの目測で、正常な両眼視にひとしい機能をとりもどしたという意味だ。
それから、一同を見回して、
「よいか、わしを紀三井寺にゆかしてくれい。わかってくれるな。わしに十兵衛ともういちど立ち合わさせてくれい」
と、しゃがれた、何か酔ったような声でいった。
「……よかろう」
と、但馬守がうなずいた。これも、わが意を得たりというように笑っている。
がばと、別人のごとくはげしい動作で柳生如雲斎は勇躍して立とうとした。
そのとき、また鎖のふれ合うひびきがして、入り口の方の板戸がひらきはじめた。
立っている二人の人間を見て、五人の魔剣士はうごかなくなった。あきらかにおどろきの表情をうかべている。
入って来たのは、一人は牧野兵庫頭であったが、もう一人は若い美しい女であった。
「……ベアトリス」
と、天草四郎がさけんだ。
旅姿の女は、江戸の牛込榎坂、張孔堂の地底に森宗意軒とともにいた女の一人だ。ベアトリスお銭という。――
「たまたま今夜、わしが在宅しておるところへ江戸から来た」
と、牧野兵庫頭はいった。
「宗意軒からの使者じゃという。――まず、話をきけ」
「クララ」
と、四郎がふりかえって呼んだ。
「ベアトリスが江戸から来たぞ。出てこい」
反対側の板戸がひらいて、お品が出て来た。クララお品ばかりではない。お雛もいっしょだ。むしろお雛がさきに、うしろにお品がついている。
お雛の巡礼の白衣はみだれ、一方の肩はむき出しになって、黒髪がねばりついていた。気丈なはずの彼女が放心状態になって、どこか人形みたいな感じになっている。べつに縛られているともみえないが、お品にとらえられ、監視されていたことはあきらかであった。
「そこにお座り」
と、お品は冷ややかにあごをしゃくった。
いわれるままに部屋の一隅に座るお雛の眼に――柳生如雲斎の一剣と相対したときすら見せなかった名状しがたい恐怖の色がある。
「クララ、その指は?」
と、お銭が見とがめた。お品の左手は白い布で巻かれていた。お品は苦笑の片えくぼを彫って、
「ちょっとゆだんしたあいだに、この娘に小指をかみちぎられたのじゃ。罰に、三日二夜、この娘のあごをはずしてやったわ」
そして、眼をあげて、
「ベアトリス、宗意軒さまの使いの趣きは?」
ときいた。
このなんの情趣もない問答が、半年以上も経て再会した血盟の女忍者同士の挨拶であった。
「おお、そうじゃ。いま牧野どのにも申しあげたことじゃが」
と、お銭は口を切った。
「宗意軒さまの仰せには、このたび将軍家御大病にあたり、大納言さま御出府の由なれど、これは大納言さまのおんためにあらず、魔界転生衆、口をそろえてかたくおとどめいたすように――とのこと」
「言わぬことか」
と、天草四郎がちらっと兵庫頭を見てさけんだ。
「いや、そのことについては、われらよりすでに口をすっぱくして御忠告申しあげてある。が、きかぬのじゃ。それどころか、このところその件についてわれらに何の御連絡もない。いや、故意にわれらを避けんとなされておるふしすら見える。――」
「不世出の英君南竜公さまの仰せ出されたことだ」
と、兵庫頭がさえぎった。
「仰せ出されなされたことは、もはやきかれぬ。江戸屋敷からの知らせ如何によるが、まず十中八九御出府の御意に御変更はあるまい。もはや、兵庫の力の及ぶところではない。――ただ。……」
と、ベアトリスお銭をふりかえり、
「殿、御出府と相成らば、殿のおん身に大難が及ぶと?」
「いかにも、宗意軒の星占いには」
と、お銭は答えた。
「あの宗意がのう」
と、牧野兵庫頭は宙を見た。
似たようなことを天草四郎にいわれたときより、兵庫頭がさらに深刻な動揺を見せて、その顔色も蒼ざめて見えるのは、いうまでもなく以前から森宗意軒という人物の魔力を信ずることがあついからだ。
「いそぎ、大納言さまにお目通り願わねばならぬ。……」
四郎はあわてたようにいい、兵庫頭をひかる眼で見すえた。
「宗意軒さまの仰せじゃ。牧野どの、大納言さまにお会い仕りたい」
「殿は」
と、兵庫頭は困惑の表情になって、
「いまのところ、ここに成らせられるお気持はない」
「いや、われわれがゆく。われらが城に推参いたそう。至急、左様におとりはからいなされ」
「待て」
重い声で武蔵がいった。お銭をかえりみて、
「われらが大納言さまに拝謁いたす。……それで、万一、なお大納言さまがきかれなんだら?」
「いかにしても大納言さま御出府なさるとあれば」
と、お銭は無表情につづけた。
「転生衆もお供して、大納言さまをお護り申しあげて、ともに江戸に下れとのことです」
「ふうむ」
「なお、大納言さま、ことと次第ではそのお命も危ないほどの星が――宗意軒さまの星占いによれば、以前には二つに割れていた大納言さまの星、その一つは四五年後のおん死相の星でございましたが、それが眼前にまで迫って来たとのこと――それゆえ、是非とも例の御忍体たる女をおそばに侍らすよう、そのことだけはしかとみなの衆に頼みおくとのことです」
「忍体」
といって、五人の魔剣士はぎらといっせいにお雛に眼をそそいだ。
「せめて、この娘のみをとらえてあったがめっけものじゃな」
と、如雲斎がいう。むろんじぶんがとらえて来たのだから、どうだ、といった顔色だ。
「四郎、やはり手をつけなんでよかったの」
と、荒木又右衛門がいった。天草四郎は苦笑して、そっぽをむいた。
「あれは冗談じゃ」
それから、きっとしてお品をふりかえって、
「クララ、その娘をいそぎ支度させろ」
「支度?」
「いっしょに城へつれてゆく。大納言さまに献上いたすに、まさかその巡礼姿では相成らぬ。そこらの女どもの衣服をはいでも、しかるべく支度させい。……いや、おまえ、少しいためつけすぎたな」
「――紀三井寺の十兵衛はどうする」
と、但馬守がいった。
「捨てておくのか」
天草四郎はやや混乱した眼をしたが、すぐにそれを鋭い、おし太い眼光に集中させて、牧野兵庫頭を見すえた。
「いや、いまは十兵衛よりも大納言さまのことが先決じゃ。一刻をも争って大納言さまにお会いいたさねばならぬ。牧野どの、すぐさまわれら登城の御配慮を願う!」
【五】
ふしぎな空だ。黒い乱雲が渦まきながれているのに、ときどき金色の日光がさす。そのたびに大空に、三層の大天守閣が墨色に浮かびあがり、また金色にきらめいた。
和歌山の中央にある虎伏山にそびえる和歌山城であった。
元来は天正十三年、太閤秀吉がこの地をえらび、みずから縄張りして築城し、羽柴秀長にあたえたものだが、のち慶長五年浅野幸長が入り、さらに元和五年、徳川頼宣がこの城主となった。入るや否や頼宣はただちに改築をはじめたが、それがあまりに大工事であったために幕府の嫌疑を受け、重臣安藤帯刀の|弁《べん》|疏《そ》によってようやく事なきを得たといわれる。すでにこのころから頼宣の大気は幕府をはばからせていたのである。
幕府をはばからせたほどのその巨城の、層々たる石垣や塀や門を縫って、ふしぎな一団が奥へすすんでいった。
城侍たちが眼を見張ったのは、その一団がみな柿色の三角頭巾で顔を覆っていたからだ。男が五人、同じく頭巾はかぶっているが、あきらかに女が三人。――もし彼らをつれているのが重臣牧野兵庫頭でなかったら、もとより通行はならぬ異形な風体だ。
覆面とはいえ、はじめて公然とうちそろって、白日の下に姿をあらわした魔界の剣士連であった。女はもとより忍者お品とお銭、それにこれは、ただひとりの|虜《とりこ》たるお雛である。
いまだ御出府のときにあらず、そう進言してもきかれず、いま改めて江戸の首領の星占いによる指示を受けて、たまりかねて牧野兵庫頭を説伏し、こうして和歌山城へ乗りこんで来た転生衆であったが、彼らの心配と焦燥はあたっていたといえる。
城深く、豪壮な書院に通されてまもなく、遠くで馬のいななく声がした。それから、騒然とした物音がひびいて来た。
「はてな」
と、牧野兵庫頭が首をかしげた。
「江戸よりの使者か?」
そして彼は、一同しばらくここで待っているように、といって、あわただしく出ていった。
兵庫頭が大納言頼宣とともにその書院に姿を現わしたのは、半刻もすぎてからであった。
頼宣は正面にずかと座ると、彼らの挨拶をも待たず、
「宗意軒の星占いには、わしがいま江戸へ下ると大難が見舞うと出たと?」
と、いった。
「御意」
と、ベアトリスお銭があたまをさげた。
「いかなる大難じゃ」
「ただ宗意軒は左様に申しただけでござります」
「宗意の星占いか」
頼宣は一笑した。嘲笑というほどではないが、かすかにあなどりのひびきが感じられた。
「かつて宗意軒の星占いには、将軍家の御寿命はあと四五年と出た……とか申したな。四五年どころか、ただいま江戸から来た急使の知らせには、将軍家のお命はきょう明日をもはかりがたいとある。――わしは明日、江戸へ立つぞ」
はっとした魔剣士たちを、ぎろと見すえて、
「わしを見舞う大難――わしに難儀をふりかからせるものといえば、公儀のほかはあるまいが、将軍家はおん死病の床におわす、御幼君はまだ六歳。神君たる父家康公の第十子たるわしに、だれが何を申そうぞ。何ができようぞ」
と、頼宣はいった。圧倒的な自信だが、客観的にみてもその通りである。
「それよりも、もし将軍家に万一のことがあれば、徳川家のことにつき、その指図をなす者がわしをおいてほかにあるか。……一刻をも争い、わしは江戸へゆかねばならぬ」
「それが、そのときでない――と宗意軒は申すのでござります」
と、天草四郎がひざをにじり出させていった。
「いかにも宗意は、四五年待てといった。そのときに到来する好機に、うぬらが役に立つ、それまで手もとに飼うておけといった。――」
頼宣は笑った。あきらかに嘲笑だ。
「それが……十兵衛一人、いまだにもて余しておるではないか。時いたるとき、うぬらがこの頼宣のうしろ盾となるといった宗意の保証はちとあてにならぬ」
「あいや」
と、如雲斎が猛然とさけび出した。
「それは十兵衛を、得べくんばわれらの仲間に加えんと望めばこそでござりまする。討ち果たす所存ならば、明日をも待たず。――」
「田宮平兵衛、関口柔心、木村助九郎らを討ち果たしたときと同様、みな総がかりにか?」
と、頼宣はいった。いまになって、彼らに対する哀惜の念がその語韻にある。――彼らの遺族になお追討の手を下さぬのは、おそらくその感情からであろう。――
「ばかな!」
柳生如雲斎は、思わず|措《そ》|辞《じ》を失った。
「お望みならば、拙者一人にて、きゃつの首をはねてごらんにいれる。いまも左様に申しておったところでござる」
「見たいの」
「では、即刻、拙者、紀三井寺にかけ向かいまするが。――」
「わしにもそこへ見物にゆけと申すか。そのいとまがないわ」
頼宣はぬっと立ちあがった。
「うぬら、好きなように、十兵衛と遊んでおれ。いや、十兵衛に遊ばれておれ。なるほど、きゃつの方がうぬらより、もっと頼りになる男かもしれぬ。あれを殺しとうないという宗意の言葉が思いあたるのう」
「しばらく」
と、天草四郎が頼宣のそばに這い寄った。そのはかまの裾をつかまんばかりにして、
「仰せのごとく、十兵衛を斬りまする。いや、この柳生如雲斎一人を以て、おん目のまえで、御出立までに十兵衛を斬らせてごらんにいれまする」
「なに、出立までにわしの眼前で十兵衛を斬る?」
さすがに頼宣は足をとどめた。
「いかにして?」
「十兵衛をこの城にさそいよせて」
「――いかにして?」
「それはわれらにおまかせ下されませ。それよりも、殿」
天草四郎はきっとして、
「殿、御出府の儀につき――もはやおとめは仕りませぬ。おゆきなされませ。ただ、われらもお供仕りまする」
「うぬらも、来る?」
「いかにも、殿、かならず思いあたらせ給う大難の日のために」
なおこの言葉を平然とくりかえし、何かいおうとする頼宣より早く、
「また、その日のために、例の御忍体、一つだけ用意いたしましたなれば、何とぞ御道中にお加え下されい」
と、四郎はいって、じろとお雛の方を見やった。
「や、田宮平兵衛の孫娘じゃな」
「いつぞや、殿のおん頬を打ったという――お雛めでござる」
天草四郎のうす笑いした顔を見て、大納言頼宣の頬が、いま打たれたようにかっと赤くなり、それからぎらりとひかる眼でお雛を見すえた。
お雛はまるで魂のない人形みたいにそこに座っている。
「よかろう、供させい!」
たたきつけるようにいうと、頼宣はひとりつかつかと書院を出ていった。
「いかがするのじゃ」
と、牧野兵庫頭がむきなおった。
「十兵衛をこの城へおびき寄せるとは」
「そのことでござる」
天草四郎はお品を見つめて、
「クララ、おまえの仕事じゃな」
と、いった。
「おまえ、十兵衛をここへ呼べ」
「わたしが――」
「十兵衛をおまえの肉の罠にかけて堕すかどうかはこの次とする。まず、何よりもおまえ、ここに十兵衛をさそい寄せろ」
「わたしが――」
お品はくりかえし、上眼づかいに四郎を見た。
「裏切るおそれはないのかえ?」
「あれは冗談じゃ」
「ほほ、おまえはこまるとみな冗談にする」
「宗意軒さまの手塩にかけて育てられたおまえが、宗意軒さまのお企てを裏切るはずがない。いや、その証しをたてるためにも十兵衛をみごとここに呼んで見せろ。呼びさえしたら。――」
「わしが十兵衛の片腕斬って、おまえにくれてやるわ」
と、如雲斎がいった。但馬守が口をさしはさんだ。
「いや、片腕などといっておったら、おぬし、もう一方の眼くらいつぶされるぞ。すっぱりと一思いに討ち果たした方がよいぞ」
如雲斎はうなずいた。
「そうなるかもしれぬな」
【六】
「さあ、いらはい、いらはい」
「天下の柳生正木坂道場、あそこにもある、ここにもあるというへっぽこ道場とはわけがちがう」
「こういう機会はめったにない。いや、当地の興行は二度とないぞ」
「さあ、いらはい、いらはい」
焼けた欅の大看板の前に、六人の柳生衆が入れ替わり立ち替わりあらわれては呼びかける。
二三日は好奇心もあって、試合の申込者も相当数あったが、とにかく手足の骨もたたき折られるという荒っぽさなので、きょうはだれも遠巻きに見ているだけだ。もっとも、まだ朝だ。
客の呼び込みにしてもずいぶん乱暴なものだが、そのけんまくがまた殺気横溢している。
「客えらびするわけではないが、せっかく当地に巡業に来たのじゃから、地酒がよろしい。当地で剣人として人に知られたやつ[#「やつ」に傍点]が望ましいな」
「和歌山に侍はいないのか」
「柳生ときいて足がすくんだか」
「かくては、なまくら藩士どもをしつけ直してくれ――と仰せられた南竜公さまの御意にそむくことになるぞ。またそのお言葉をうらがきすることになるぞ!」
とてもこれでは、「あまり表立って御城下にのりこんで左様なまねをしては、藩の剣法師範衆も面目を失うし、また家中のめんめんも殺気立つおそれがあるから」ここでそっと仮道場をひらく、云々と紀三井寺に申し込んだ十兵衛のしおらしい挨拶には縁遠い。――
柳生衆の猛烈な鼻息が、彼らの居ても立ってもいられない焦燥の表現だということを知りながら、例の銀杏の木の下の縁台に寝そべって、黙然と眼をとじていた柳生十兵衛は、ふいにふっと一眼をひらいた。
向こうの幔幕をじっと見つめ、ゆっくりと首をまわして、反対側の幔幕を見つめる。
――来たか。
彼は幕の向こう側に、ただならぬ妖気を感覚したのだ。
その妖気は、柳生衆たちが吼えている欅の側の幕からもながれてくる。しかも、彼らはまだ気がつかないようすだ。
――きゃつらだな。
十兵衛は、その妖気の根源のおびただしさ、またそれを柳生衆に感づかせないみごとな技術から、すぐに正体を看破して、落胆した。
――来たのは、根来組か。
「十兵衛さま」
ふいにきれいな女の声が、彼の耳を打った。
十兵衛は縁台の上にがばと起き直り、頭上をきっと見あげた。周囲の妖気に注意を奪われていて、さすがの彼もそばの銀杏にだれかひそんでいるのに気がつかなかった。虚をつかれて、正直なところ彼はおどろいた。
「お品です」
声は銀杏の大樹からふってくる。
同時に黄色い扇に似た葉が、ひとしきりまたはらはらと雨のように散った。
「お品か。――なつかしいな。数日会わなんだだけなのに、千日も会わん気がするぞ」
この場合に、十兵衛は冗談をいう。
「何しに来た。――潮見坂で別れるとき、こっちが気にいったらまた帰って来いといったが、うふ、やはりその気になったか」
銀杏の大木は、もうあちこちと枝もあらわになって、だれかそこにひそんでいるなら見えないはずはないのに、何者の姿も見えず、ただ声だけがひそやかにふって来た。
「それどころではありません。お雛どのが一大事です」
声はお品のものだが、むろん先日までの偽狂女の口調ではない。
「お雛は、どうしておる」
「いままで、牧野屋敷にとらわれていましたが。――」
「おお、まだ生きていてくれたか。――あの娘、身に危急が迫れば舌をかんでも死ぬ奴だと、むしろそれを案じておったが」
「死のうとしても、死なせはいたしませぬ。げんにあの娘は、それまであごも手足の骨もはずされておりました」
十兵衛の顔色は変わらざるを得ない。
「けれど、きょういよいよお城へ送られることになりました」
「城へ」
「大納言さまへ献上のために」
「や」
「お雛どのを、きよいからだのまま救い出すのは、きょうのうちです」
「待て、お品、おまえ、なぜ姿を見せぬ」
「根来組が見張っているからです」
「おまえは――どういうつもりでおれにこんなことを伝えに来たのだ。おまえは向こうの一味の忍者ではないか」
銀杏の木は、しばし黙った。ただ遠くで柳生衆の吼える声がきこえてくるばかりだ。
「十兵衛さま」
しばらくして、お品はいった。
「いつかあなたが――こんどの旅は愉しかったであろうが。柳生のめんめんを気に入ったか――とおっしゃいましたが、その通りです。お品は生まれてから、あんな愉しい旅をしたことがありません。あんないい方たちといっしょに暮らしたことはありません。それはわたしが生きて来た支えや、わたしが受けた命令をゆすって、わたしをただ夢をみているようなただの女に変えてしまいました。……その上。――」
かつてのお品を偽狂女と看破していたが、それにしてもこの女がこのような調子でものをいおうとは想像もしなかった切々たる声だ。
「あなたの同志、三枝麻右衛門どのは、三段壁でわたしを助けるために死なれました」
「…………」
「さらに潮見峠で、あなたはわたしを斬らずに逃がしてくれました」
「…………」
「わかりましたか、十兵衛さま、お品がここへ来たわけが」
十兵衛は黙って銀杏の木を見あげている。そこからは、金の扇のような葉が散るばかり。――
「こっちが気にいったら、また帰って来いとおっしゃった。その通り、お品は来たのです」
「…………」
「なぜ、いままで来なかったか、それはいままでわたしが迷っていたからでした。それがなぜいま来たか、というと、お雛どのの身の危険がいよいよ眼前に迫ったからです。けさ、お雛どのは城へ送られる。――もう送られたかもしれませぬ。大納言さまは、きょうのまひる、|午《うま》の刻お城をお立ちなされて、江戸へおゆきあそばします」
「なに、大納言さまが、江戸へ?」
「将軍さまが御大病でおわすゆえ、それをお見舞いという名目で」
熊野路にあった十兵衛にとって、これは初耳である。
「紀州藩の方で、こちらをかえりみるいとまもなかったのは、その御道中の支度のため。そして。――」
お品は、なぜかふくみ笑いをした。
「大納言さまは御出立まえにお雛どのをわがものとなされ、そのまま江戸へ、お部屋さまとしておつれあそばすとか。――」
「な、な、なぜ、わざわざ御道中のまえに。――」
「それこそ、このたび紀州家に起こった怪事の眼目、秘事の大切な儀式。――その意味は、いまのわたしにも申せませぬ」
「――お、おいっ、お品、ばかにもったいぶるではないか。いかにも紀州家のこのたびの秘事、怪事、それについてもう一つききたいことがある。その秘事怪事にかかわり合う者の中に、柳生如雲斎以外に、だれか柳生の者がおるか」
「それも、わたしには申せませぬ。わたしは先日の御恩返しまでに、お雛どのの危険を知らせてあげに来ただけです。それからもうひとつ、お望みならば」
お品の声が秋霜の気をおびた。
「もし、午の刻までにあなたがお城へ入られるならば、わたしが手引きをしてさしあげます。|巳《み》の刻までにお城の|追回《おいまわし》門の外、|濠《ほり》のはたまでそっとおいでなされませ。わたしが待っておりまする。十兵衛さま、いかが?」
「ゆこう」
と、十兵衛はいった。
あまりに無造作な返答なので、一息か二息、銀杏の声は黙りこんだ。十兵衛は手にしていた煙管を腰にしまった。
「ただ、条件がある」
「条件。――」
「おれが、城へいってお雛を救い出すあいだに、柳生衆をさきにやって待たしておきたいのだがな。左様さな、そうだ、西国第三番札所の|粉《こ》|河《かわ》寺。そこらあたりが、話の辻つまが合ってよかろう。それをおれが粉河寺で追いつくまで、根来組に追わせぬ。だれにも追わせぬという条件なら、おれがひとりで城へゆく」
「――ひとりで!」
――十兵衛は実に妙なことをいう。
お雛を救うために城にゆくつもりがあるなら、わたしが手引きして城に入れてやろう――と、お品はいった。その動機は、柳生一行に好意を持つようになり、また恩義を感じているからだという。一応もっともらしいが、それでは完全にお品が敵方を裏切ったのかというと、その|口《こう》|吻《ふん》にどこか吹っきれない、あいまいな感じがある。
しかし、それにしてもいま十兵衛がそれに応じて城にゆくといった以上、それはお品の心と言葉を全面的に信じてのことでなければあり得ない行動だ。彼女がじぶんの味方になって手引きしてくれるのでなければ、まるで獅子の口へとびこむにひとしい暴挙だ。
ところが彼は、
「根来組及び紀州侍が柳生衆を追わぬという条件なら、おれはひとりで城へゆく」
と、お品にいった。
それは、お品がなお紀州方や根来組と同腹でなければできぬことではないか。そうでなくて、現在この幔幕を見張っている根来組の眼を、和歌山へ「潜入」する十兵衛と、逆に和歌山から東の粉河寺へ「脱出」しようとする柳生衆、いずれからも離させるなどということができるか、どうか、常識的にかんがえてもわかる。
にもかかわらず十兵衛は、
「できるか、お品」
|恬《てん》|然《ぜん》としていう。
「――そ、それは」
「できねば、城ゆきはやめる。ふびんだが、お雛には大納言さまのいけにえになってもらおう。……かたきを討つために、それくらいの犠牲はしかたがないとあきらめてもらおう」
ややあって、
「――で、できるといったら?」
「だから、おれひとりで、ちょっと城をのぞきにゆくよ。せっかくおまえが骨折ってくれるというのじゃからな」
「――むずかしいけれど、やってみましょう。根来組に柳生衆は追わせますまい」
と、重い声でお品はいった。
「そうか、では」
十兵衛はかるくうなずいて立ちあがり、
「和歌山城、|追回《おいまわし》門外、濠のはたといったな。そこで待っておれ。おれは支度して、すぐに出かける」
と、あいびきの打ち合わせでもするような調子でいって、スタスタと歩き出した。
すぐに十兵衛は、向こうで「おうい、みんな集まれ」と、大声で呼んでいる。
そして、けげんな顔でやって来た六人の柳生衆と二人の娘に、
「これでここの興行はきりあげ、即刻粉河寺に立ち、そこで待っているように」
といった。
「何事が起こったのです」
「先生は、どこにお出かけで?」
柳生衆たちがあっけにとられ、不安そうに口々にきいたことはいうまでもない。
「なに、お雛がここへ来るというのだ」
「――えっ、お雛どのが!」
お縫とおひろが、眼をかがやかしてさけんだ。
「そういう約定を紀州側と交したのだが、それにつけてもおまえらがここにおるのはまずいわけがあってな、おれ一人ここに残るということになったのだ」
さりげなくいう十兵衛を、八人はじいっと見つめている。なんだか、わけがわからないし、それに縁台に寝てばかりいた十兵衛先生が、いつそんなことを紀州藩とかけ合ったのか。――信じられないことだ。
「事は一刻も急ぐ。すぐに出立してくれ」
淡々といったかと思うと、不審げな一同をじろとにらんだ。
「約定を破ると、お雛はもとより、おれの命もないぞ」
と、叱咤した。それから、お縫とおひろの方をむいて、
「まあ、十兵衛を信じるのだな」
と、いった。
催眠術にかかったように、一同は出立の用意にかかった。数人が、すぐ上の紀三井寺の宿坊に笈をとりに走る。二十分もたたないうちに、彼らは勢ぞろいした。
「では、先生。――」
万感迫る顔顔顔に、十兵衛はにことしてうなずいただけだが、彼らが十歩ばかりゆくと、ふとまた呼びとめた。
「ああ、忘れておったが、思い出した。日の暮れるまでにおれが|粉《こ》|河《かわ》寺にゆかなんだら、おまえら、お縫とおひろを護り、どんなことがあっても紀州をぬけて柳生へ逃げろ。それからな、もう一つ、途中で弥太郎をつかまえて、あの子の持っている密書を破りすててから、柳生へつれていってくれ。頼んだぞ。おれはあとで帰る。ゆけ」
そして、彼らがきき返すよりまえに、背をむけて、ひとり紀三井寺の石段をスタスタと上っていった。
――十兵衛はもとより先刻のお品の言葉を罠だと承知している。あの問答を、根来組がきいていたことも承知している。罠といえば、お品があまりにもへたな罠をかけて来たのがふしぎなくらいだ。
彼はただ点火を待っていただけであった。
ここで黙然と腕こまねいていられぬことは自明の理だ。事実、座りこんでいる一刻ごとに事態は悪くなっている。にもかかわらず、座りこんでいたのは、うごくにも法がないということより、例の柳生云々という如雲斎の呪文に封じられていたのだ。それをふり切るためには、十兵衛にとってやむを得ぬ時間の足ぶみであったといってよかろう。
いまや、敵の使者は来て、へたな手つきで火をつけた。
点火の上手下手は問わず、待ち受けていたもののごとく彼は燃えあがった。
和歌山城に何が待っているか。お雛をいかにして救うのか、敵中にある武蔵、又右衛門、如雲斎――いや、少なくとも千人以上の紀州侍の剣陣にいかにして立ち向かうのか。さらに、もうひとりいるという柳生の人間とはだれなのか?
すべて、空。
ただ死の一路。
やがて、紀三井寺の石段に、深編笠の姿を現わした柳生十兵衛は、腰の愛刀三池典太のつかを、かろく一つ、とんとたたくと、たたたた、と石段を風のように駆け下りていった。
生死一眼
【一】
和歌山城をめぐる五ヵ所の門のうちの|追回《おいまわし》門外、|濠《ほり》ばたに沿うて、ふところ手をしてやって来た深編笠は、ななめにちらと空を仰いだ。
濠をこえて幾重にも波うつ塀のかなたに、遠く天守閣がそびえていた。屋根は三層であるが、徳川御三家の威を具現して、よそにある五層の天守閣などよりはるかに巨大感を持っている。これがあまりに雄大なので、幕府から嫌疑をかけられたとき、頼宣は大笑して家老の安藤直次に、「……余に異図あらば、進んで大坂城に拠るべし。なんぞ|区《く》|々《く》たる和歌山城を保守せんや」と、いいぬけさせたという。――その大天守閣なのである。
しかし、彼がふり仰いだのは、その天守閣ではなく、きのうにつづいて、黒い乱雲が渦まいているのに、ときどき日光がさすふしぎな空であったが、その金色の太陽であった。
「――|巳《み》の刻と申したな」
と、つぶやいたとき、濠のふちから声がした。
「やはり、来ましたか、十兵衛さま」
細い声だが、きこえてくる方角は濠だ。――いや、水面を覆う蓮からつき出している一本の青い竹を十兵衛は見た。
「そのままゆっくりと歩いて――そう、南の方へ歩いていって下さい。南に|不開《あかずの》門という門があります。その門があくようにしておきました。濠には小舟も用意してあります。|閂《かんぬき》に絵図面と柿色の頭巾がはさんでありますから、それを見て、それをかぶって御天守に入って下さい。――」
竹筒はうごきながらいう。
「よし、心得た。しかし、このあたり、妙にひっそりとしておるな。お品、この側からも忍びこめそうではないか」
「いいえ、だめです。|午《うま》の刻御出立に相成る大納言さまを大手門にお待ち申しあげ、お見送りするために、家中多くの衆がそちらに集まっているので、このあたり珍しく無人にみえますけれど、さればとてここから御天守に入るなど思いもよりませぬ。それができるくらいなら、わたしがこんな苦労はいたしませぬ」
――ほんとか? と、十兵衛はいいたくなった。
「十兵衛さま、おいそぎなされませ。御天守でお雛どのが大納言さまに捧げられる時刻は迫っています。――わたしのいうことをおききなされませ。――」
みなまできかず、十兵衛は南の方へ走り出した。
――手数をかけるな、お品。
走りながら、十兵衛の片頬を、凄愴な苦笑が彫っている。
この手数は、お品がじぶんでも口にした彼女の苦労のことではない。十兵衛自身の手数のことだ。
どうせこちらを城に入れるつもりなら、なるべく真一文字、いやこの際まさに一刻も時を争うのに、わざわざもっともらしい手順を踏もうとする敵の小細工は失笑のほかはない。――が、罠は承知で、それに乗ってやらなければ、この場合城に入ることのできない十兵衛であった。
その昔は、この城のすぐ西南まで海であったそうだ。数千年の星霜のあいだに海は遠ざかったが、低湿地で、まだあちこちと沼が多い。若者のことを弱年者というように、弱は若に通じる。それではじめは|弱《わか》|山《やま》と呼んだのを、のちに和歌山と改めたのだという。――
とにかく、西南に紀ノ川と海をひかえているせいで、この城は東北の構えは厳しくて、濠も二重になっているが、こちら側は一重で、もともと防備が薄い。
枯れかかった芦のかげに、小舟が|一《いっ》|艘《そう》あった。
十兵衛はこれをあやつって、南の不開門にすべり寄った。これまでだれに見とがめられることもなかったのを、彼は意外とは思っていない。敵はじぶんをさそい寄せるつもりだからだ。
が。――
その不開門を押す。門はひらいた。内側には、はずされた閂のあいだに、なるほど一個の柿色の頭巾と、小さな絵図面があった。その絵図面を見、それによって城の中へ入ってゆきながら、ふと十兵衛は、
「これは、ほんとうにお品だけのはからいではないか?」
と、敵総がかりの罠という確信に動揺をきたしたくらいであった。
その絵図面が、和歌山城の死命を制するに足るあまりにも重大なものであることがすぐにわかったからだ。
これは城内の間道である。迂回してゆくと、天守閣の立つ丘陵の西腹に達する。これをつたい、水の手|櫓《やぐら》を通ると、本丸の北側に出る。そこの|埋門《うずみもん》をくぐると、実に天守閣の一角にある|多《た》|聞《もん》櫓の台所に出るのだ。
十兵衛はもとより和歌山城の縄張りについては知るところがないが、これが城の重大な秘密であることは一見してわかる。つまりこれは、この城の万一の際、天守閣から南の海へ脱出する秘路に相違ない。――
十兵衛は、この秘路を天守閣へ走った。
遠く北の大手門の方角でどよめきがきこえるのは、大納言の出府に従う侍たち、それを見送ろうとする侍たちがそちらに雲集しているからにちがいない。しかし、彼の通る路は、間道のせいもあって、きみがわるいくらい|人《ひと》|気《け》がなかった。
それでも、天守閣につくまでに、あちこちで十数人の城侍の影は見た。向こうでも彼をみとめたようだ。が、侍たちは遠くで一礼して、すっと姿をかくしてしまう。
――この柿色頭巾のせいか。
とは十兵衛は思わない。そうこちらに思わせるための頭巾だろうが、そうは問屋がおろさない。
と、いいたいところだが、事実として彼は、敵のもっともらしい細工のままに、その頭巾をかぶって、水の手櫓から埋門を通り、一路天守閣へちかづいてゆく。
――この頭巾のかぶりごこち、悪くはないな。
この余裕は、彼の心の|空《くう》から来ている。斬る。相手が如雲斎であろうが、武蔵であろうが斬る。いや、彼らに斬られるなら、それもまたこの世に剣士として生まれたものの本懐。
心はそう思い、行動は|豹《ひょう》のように軽快でも、もとより髪は逆立ち、全身の毛穴は死の風を呼吸しているようだ。
やがて彼は、人の背丈ほどの|隧《ずい》|道《どう》に入った。前方に、ぽっと赤いひかりが降っている。ゆきつくと、そこはゆきどまりになっていて、天井があいている。石でたたまれた深い穴になっているようだ。その石の壁にはながい縄梯子がかかっていた。
ためらうことなく十兵衛はそれを上った。
上りきって、にゅっと顔を出す。
井戸であった。しかも、広い台所の中の井戸であった。厚い木のふたがはねのけられ、そばに|篝火《かがりび》が一つ燃えている。先刻の赤い炎は、これが井戸の底までさしたものであったのだ。井戸はもう二つ、べつにある。おそらくそれはほんものの井戸で、十兵衛が上って来たのは、井戸の影武者ともいうべきものであったろう。
「これが天守の多聞か」
十兵衛は出て、地上に立った。
【二】
天守閣の第一層は、十間四方もあるらしい。見わたしたところ、篝火が一つ燃えているだけで、何者の影もなかった。
――お雛はどこに?
午の刻、大納言が城を出る。それにさきだって、大納言がお雛をいけにえにする儀式がこの天守閣で行われる――と、お品はいった。それが罠だと十兵衛は知っているが、罠であるだけに、お雛がこの天守閣の中のどこかにいるだろうと十兵衛は判断した。この判断が|空《そら》望みであるにせよ、とにかく、出たとこ勝負、敵の出方を見て、それによってみずから入った虎穴から虎児をつかむよりほかはない。
黒ずんだ階段を、二層にのぼる。
ここもまた篝火が一つ燃えて、階段を照らしているだけだ。いざ、ここをのぼれ、というように。――が、何者の影もない。午の刻にはまだ少し時があるが、お品の言葉を一応額面通りに受けとるならば、この時刻大納言はここにいるはずだ。しかし、そんな気配はない。ここでそんな儀式が行われそうな雰囲気はない。
べつにだまされたとは思わなかった。お品のあの言葉がすべて嘘であったとしても、いまさら腹をたてるべき筋合いではない。――
だれもいないのに――そのとき十兵衛は、どこからか、ふうっと吹きつけてくる殺気を肌に感じた。
殺気は階段から――三層目から吹き下ろしてくる。
彼は、ツ、ツ、ツ――と、三層目にのぼった。
一層、二層は窓をとじきってあったのに、篝火の代わりに、ここは北側の窓一つだけがあいていた。そこから渦巻く雲と金色の日光がすぐちかくに見えた。
そのひかりもとどかぬ反対側の一段高くなった一角に、美しい|御《み》|簾《す》がかかっていた。そして――御簾の中には、たしかに何者かがいた。
ひかりはとどかないが、ともかくも十兵衛の背後にある。それだから、御簾のかなたはいっそう見えにくい。――
が、隻眼の十兵衛は、その中におぼろげながら見た。豪奢な闇に横たわり、蛍光を放っているような女身と、その傍に座っている貴人らしい入道の姿を。
女は、頭に頭巾を――例の柿色の三角頭巾をつけているらしい。いや、かぶせられているらしい。それ以外は一糸まとわぬふくよかな胸に、入道の腕がにゅっとのびている。何をしているのかわからないが、女身は声もたてず、かすかにうねっているようだ。どこからか、香の匂いが漂ってくる。――
むろん十兵衛は、それが大納言とお雛であることを直感した。これこそ、このたびの紀州家の怪事の眼目、秘事の大切な儀式――とお品からきいたとき、彼はくびをかしげたが、いまこの大天守閣を無人とし、ただ二人だけ残って、何やらものものしげに行おうとしている奇怪な様相を見ては、いよいよくびをかしげざるを得ない。
つかつかと歩み寄ろうとして、十兵衛はまたぴたととまった。御簾の中から吹きつけてくる異様な剣気に|面《おもて》を吹かれたのだ。先刻から感じていた殺気の根源はここであったのだ。
「――ふむ」
と、十兵衛は声を出した。
「もうよかろう。十兵衛は、そちらの細工通りにただ一人でここに来た。もう芝居は無用であろう、柳生如雲斎!」
同時に、その|御《み》|簾《す》が、ばさ! と垂直に切り裂かれ、左右二つになって床に落ちた。
切ったのは、向こうだ。柳生如雲斎は、片腕に白い女身を抱きあげ、もう一方の手に大刀ひっさげて、ぬっくと立っていた。
「よう来た、十兵衛。いかにもただ一人で乗りこんで来たとは、敵ながらあっぱれ、まことにここで討ち果たすには惜しい奴。それに、同じ柳生一門というよしみもある。――思い直して最後の勧告をしてやる。十兵衛、わしのいうことをきけ」
「何を」
「ここで、この女と交われ」
「――ばかな! 尾張の入道ともあろう者が、何をたわけたことを。――如雲斎がいま生きておることを奇怪に思っていたが、はたせるかなだ。そこにおるのは、まことの柳生如雲斎か。まことの柳生如雲斎ならば、ただ尋常におれと立ち合え。それをこそ望んで、十兵衛はここに推参したのだ」
「だから、うぬとはここでたしかに勝負する。そして、斬る。……そのまえに、最後の法楽を味わわせてやるというのだ。それが、たとえうぬが死のうと、ふたたびこの世に生まれ変わってくるよすがとなる。――」
十兵衛はちらと如雲斎の腕にたわわな白花のごとく垂れている女身を見た。気絶していないことはたしかだが、どうされているのかお雛は、声もたてず、ただ全身で息づいている。
「入道のいうことがわからぬ。またいま、左様なことをきく気はない。その女を離せ、柳生如雲斎!」
「やはり、きかぬか。……」
如雲斎の眼が凄絶の光芒を発し出した。ただ一眼が。――
「では。――」
そういうと、彼は依然として女を抱いたまま、落とした御簾を踏んで、ずかと出て来た。とみるや、スルスルと壁の下を横歩きに、窓の方へうごいていった。
「如雲斎」
と、十兵衛はさけんだ。すでに、呼び捨てだ。
「女を離せ、また道成寺の奸策をつかうつもりか。人まぜさせずに勝負しようと、おれがわざわざ来たというのに、卑怯だろう」
如雲斎は窓のそばで、顔を横にして十兵衛をじろりと見、ニヤリとすると、そのまま、まるで見えない空中の力にひきあげられたように軽く浮いて、するりと窓の外に出て消えた。声だけが残った。
「来い、十兵衛。尾張柳生と江戸柳生の果たし合い、狭い無人の天守閣でやるのは惜しい見ものじゃ。広い天の下で、大納言さまの御見に入れよう」
「何、大納言さま?」
はじめて十兵衛は、その窓の外に|勾《こう》|欄《らん》がついているのを見た。おそらくそれは天守閣の三層をとりまいているに相違ないが、その勾欄のどこかに大納言頼宣がいるとでもいうのであろうか。
唖然としたのは一瞬である。とらえられたお雛は救わねばならぬ。それに、ただ一人でこの城に乗りこんで来た以上、敵がどんな奇手に出ようと、いまさら何をためらうことがあるか。
十兵衛は窓のところへ馳せ寄り、これまたすうと浮きあがるように勾欄にはねあがった。
このとき如雲斎が十兵衛を斬るつもりであったら、或いは容易に斬れたかもしれぬ。が、窓の外に待ち伏せの剣はなかった。如雲斎は三間も離れた位置に、やはり女身を抱き、大刀をひっさげた姿で、悠然と立っていた。
「見よ」
と、彼はあごをしゃくった。
「大納言さまはあそこにおわす」
三層の天守閣の勾欄からは、本丸はもとより、小天守、二の丸、三の丸、それをめぐる無数の櫓、居館、櫓塀、門、石垣、濠、橋などが下界にひろがっているのが見わたせる。
その大手門ちかい広場に、下界の雲のようにひろがっている人間のむれが見えた。すでに乗り物、馬、|挟箱《はさみばこ》、|具《ぐ》|足《そく》|櫃《びつ》、長持のたぐいまで用意をととのえて、それを飾る金や彩色が美しく散乱している。
その中に、一つ大きな円陣があり、中に|床几《しょうぎ》に腰うちかけてこちらを仰いでいるのは、たしかに大納言頼宣だ。
「十兵衛、大納言さまのおそばに、女用の駕籠があるのが見えるか」
と、如雲斎はいった。
「あの駕籠の中にお雛がおる」
「――や?」
はじめて十兵衛が愕然としたとき、柳生如雲斎は片手の女をびゅーっと十兵衛めがけて投げつけた。
高い空の上である。おのれのことより、投げつけられた女身を思って、さしもの十兵衛がさあっと髪も逆立つ思いがしたが、次の刹那、
「そうか!」
と、心にさけんでいた。
投げつけられた女が、如雲斎の手を離れる瞬間、その足でかろく如雲斎の肩を蹴って宙を飛ぶのを見たからだ。彼はその女の正体を知った。
「――おおっ」
稲妻のごとく十兵衛の腕から白光が噴出したが、頭上を飛ぶ女を斬ることはできなかった。眼前の如雲斎が、ぐぐっと進み寄ってくるように見えたからである。
女は、まさに十兵衛の頭上を、白い流星のごとく飛んで、一回転すると、とんと彼の背後の勾欄に下り立った。それを十兵衛は見たわけではない。ふりむくいとまはない。が。――
「だましたな、お品」
と、十兵衛はいった。たとえ頭巾をつけていようと、いま空を飛んだ体術から、それがあの女忍者以外の女であろうはずがない。
「いや、罠は承知で乗りこんで来たおれだが、そこまで念入りにうぬが細工しようとは思わなんだ」
その通り、最初からお品の言葉を信じていなかったくせに、どこか一点、彼はお品に対して信じるところがあった。ふしぎな心理だが、事実だ。少なくとも――まさかお品が、濠ばたで十兵衛に間道を教え、じぶんはこの天守閣に先回りして、いまのようなあくどい芝居を見せようとは思わなかった。
「だから、先刻、如雲斎さまのおすすめをきけばよかったのじゃ」
背後の声は、まさしくお品だ。
「なんだと?」
「わたしと、寝ること」
「ばかめ!」
「そのためのせっかくのわたしの苦労を買ってくれぬ十兵衛どの、死ぬはじぶんから求めた道と思い知るがよい」
お品の声は、冷たい笑いをすらおびている。
吐気のするような相手の悪辣さに、さすがの十兵衛も、かっと頬に血がのぼるのをおぼえた。
「怒ったか、十兵衛」
如雲斎も笑った。
「わしほどの者と刃をまじえるに、心の波立ちはたちまち身の破滅となるくらいのことは知っておろうが」
たっぷりと、自信と余裕にみちた声だ。
「心を鎮めよ、十兵衛、うぬを安心させるためにいっておく。お品は背後から手を出さぬ。うぬがそこの窓から天守閣へ逃げこもうとせぬかぎりは。――相手はこの如雲斎ただ一人、いざ、心を澄ませてかかって来い!」
日は中天にあった。
まっすぐに降る秋の日光は柳生如雲斎の剣尖におちて、そこにまた小日輪が存在するかのごとく、クルクルと真っ白な炎を回した。
――背後からお品は手を出さぬ、とはいうものの、すでに、奸計、背信、だまし討ち、|反《はん》|間《かん》苦肉のかぎりをつくし、たんげいすべからざる女忍者だ。十兵衛としては、背中の神経をまったくめくらにするわけにはゆかない。
彼は勾欄を背に――右腕だけの一刀をのばして如雲斎と対峙した。
「右眼がつぶれておるのが、つらいの、十兵衛。こちらが見えるか」
如雲斎は嘲笑した。
「このまえは、わしのこの右眼をつぶされたのがこちらの弱みとなったが、もはや、わしは左眼だけの方が、両眼あいていたころよりよう見える。……十兵衛、こちらをむけ!」
大刀が、ぐいとのびた。
その剣尖からまだ五尺の距離はあるのに、見えぬ一刀にたたかれたように、十兵衛は正面にむきなおり、如雲斎と相対した。背は完全に無防備だ。
「その右眼をつぶされたのも、何とぞしてうぬを生捕りたいというわしの慈悲がたたったのじゃ。もはや、きょうは左様な妄想は持たぬ。ひと思いに、すっぱりうぬを二つにしてくれる」
如雲斎は|刃《やいば》をあげて八双にかまえた。
この前の道成寺のときと同じ構えだ。あのとき十兵衛は、まるで月と水月のごとく如雲斎と同じ刀法を踏んだ。――しかも、いま、十兵衛の刃はあがらぬ。
かつて鉄の大梵鐘をつらぬき、またかげろうのように繊細な貝かんざしを切った柳生如雲斎の剣、それを知ると知らぬとに関せず、その豪と妖をかねた刀は、白日の下に炎のごとく燃えあがって、十兵衛を巻きつつむかと思われた。先日の対決のときにすら彼は舌をまいた。それがいまや一変している。いや、柳生如雲斎は本来の、不世出の大剣士たるの面目をとりもどしている。――
白日。――
それは消えた。黒い乱雲が覆ったのだ。
しかし、十兵衛の眼には、雲がなくとも日輪が消えたかもしれぬ。
満面蒼白となり、ほとんど透明となり――しかも、十兵衛は笑った。彼の頭脳からはお雛のことも消えた。紀州家の怪異のことも消えた。ただ彼は、この勝負をするためにこの城に来たと思った。いや、この日のためにきょうまで生きて来たと思った。そして彼は勝負そのものすらも忘れた。
笑いは童子のごとく自然なものであった。
「本懐でござる」
十兵衛の微笑を見て、如雲斎の眼に、一瞬、不審のひかりがゆれた。
その動揺をみずから粉砕するもののごとく。――
「おウおっ」
雲をゆるがす大喝とともに、八双にかまえた如雲斎の大刀は、眼にもとまらずびゅっと空を切って、十兵衛の脳天にふりおろされていた。
鉄壁も裂くその豪刀を、十兵衛は受けとめた。受けとめることができたのは十兵衛なればこそか。または如雲斎の一瞬の動揺が尾をひいたものであったか。――
蒼白い火花が散って、二本の刀身はがっきとかみ合った。
中天からまっすぐにふりそそぐ日光が、そこに凝集して、一本のひかりの噴水と化したかとも見えた。
雲はゆく。雲はながれる。万物流転のこの天地に、これだけは異次元の世界から湧き出して来たもののように、二人の決闘者はうごかなかった。
|永《えい》|劫《ごう》のながさとも思われたが、しかしそれは数十秒のことであった。目に見えぬ速度で、ひかりの噴水はうごきはじめた。
十兵衛の方へ。――
力の差ではない。技倆のちがいでもない。それよりもっと根源的な巨大な力量の格差に、押されながら十兵衛は、むしろ忘我の境におちいっている。
ズズ、ズズ、ズズ……と、さがる速度が次第に速くなった。
視界のはしに、柿色のものが映った。お品だ。背後にいたお品が、壁にぴったり背をつけて、うごいてゆく二人を見迎え、見送ろうとしている。
ちょうど柿色の頭巾が、二人の顔の中間に来たとき、彼女はぐいと頭巾をひき下ろした。口をむすんだまま、女忍者はこのときニンマリとここちよげに笑ったようであった。
【三】
紀州大納言頼宣は、庭の|床几《しょうぎ》に腰うちかけてふり仰いでいた。そばに、牧野兵庫頭がひかえている。
前に、戸を閉じたままの美しい駕籠が置かれ、そのまわりを四つの柿色の三角頭巾がとりかこんで、膝をつき、これまた空を眺めている。武蔵、但馬守、又右衛門、天草四郎である。
すべては彼らのたくらんだことだ。
「柳生如雲斎一人を以て、おん目のまえで、御出立までに十兵衛を斬らせてごらんに入れまする」
そう誓った通りのことを彼らはした。
お品を以て十兵衛をさそい寄せ、天守閣にあげるという手数も、ただ「柳生如雲斎一人を以て、おん目のまえで御出立までに十兵衛を斬る」という言葉をまざまざと実現してみせんがための舞台装置だ。
まわりに群がる紀州藩士たちは、少数のものをのぞき、大半は何のことかわからない。
いま眼前の地上に粛とうずくまっている四人の柿色頭巾の正体も不明なら、ましてや天守閣の上でくりひろげられている光景も、これはそもこの城にあり得ることか、と|茫《ぼう》|乎《こ》として見あげているばかりであった。
三層の|勾《こう》|欄《らん》にあらわれた道服の入道と女。しかもその女はやはり柿色頭巾をかぶって、それ以外は全裸だから女だとわかるばかりだ。それに、やはり柿色頭巾をつけ、黒羽二重の着ながしの浪人風の男。――
どよめこうとして、声をのんだのは、ただ主君南竜公がすべて承知の顔で、じいっとそれをふり仰いでいるのを見たからであった。
城の中でも一段高い丘陵の上にそそり立つ天守閣、その三層の勾欄に相対した人間は、異風の武者人形みたいに小さい。
が、そこから吹き下ろしてくる凄絶の剣気は、何も知らぬ紀州侍たちの魂をすぐに凍りつかせてしまった。……
それが、がっきと刀身をかみ合わせて数秒。
「――大事ないか?」
かすれた声で、頼宣がきく。
「大事ござりませぬ」
おちつきはらって、天草四郎が答える。
「十兵衛を斬れるか?」
「斬れます」
そして、四郎が、
「わざと天守閣から人払いさせ、われらをも遠ざけてただ見物役に回らせた柳生如雲斎をお信じ下されい」
と、白い笑顔をむけたとき、
「――あっ」
と、大納言頼宣が、何か破れたような声をあげて眼をかっと見ひらいていた。
天草四郎はふりかえって、目撃した。
鍔ぜり合いとなり、押していった如雲斎が、ふいに片手を柄から離し、顔をおさえた。とみるや、ひっぱずされて、トトトトとひとり前へのめってゆき、いちど踏みとどまって猛然と反転し、電光のごとく大刀を|薙《な》いだ。
それは空を切った。空を切ってまたぶざまによろめくところへ、十兵衛が跳躍するのが見えた。
「……おウおっ」
大空から如雲斎の咆哮がここまでわたって来たようであった。
いや、声だけではない。同時に巨大な入道は、こうもりのごとく道服をひらめかしながら、勾欄から二層の|唐《から》|破《は》|風《ふ》の上へ、さらに一層の屋根の千鳥破風の横へ、あきらかに血しぶきをひきつつ舞い落ちていって――天守閣の石垣の下へ姿を消してしまった。
数秒、柳生十兵衛はヨロリと勾欄の手すりに身をもたせて、下をのぞきこんでいたようであったが、すぐにこちらを見下ろし、くるりと身をひるがえすと、そこに茫然と立っている裸身のお品へ刀をつきつけ、彼女を追うようにして三層の窓から中へ、これも姿を消してしまった。
「……ううむ」
四人の三角頭巾はばねみたいに立ちあがっていたが、これも一息か二息、うなされたかのように佇んだままだ。が、たちまち。――
「しまった。きゃつをのがすな」
絶叫して地を蹴った天草四郎につづき、紀州侍たちは黒い雲みたいにどっと天守閣の方へ駆け出した。
あと三人の柿色頭巾も、二三歩これを追いかけようとしたが、すぐに踏みとどまり、歩みをもどして、最初のごとく粛と頼宣のまわりにうずくまった。
「……ふっ」
この場合に、重い吐息のように笑った頭巾は、どうやら宮本武蔵らしい。――
「……如雲斎老、何やらめくらになったような案配であったな」
と、荒木又右衛門がとなりの頭巾にささやきかけた。
「……そのような感じじゃな」
と、柳生但馬守がしごく冷静に答えた。
【四】
「御天守へ詰めろ」
走りながら、天草四郎はさけび、
「多聞櫓をかためろ。また、だれか――水の手櫓の方へゆけっ、一人では危ない、十人あまり――いまの柿色頭巾の男を見つけたら、大声をあげて知らせるのだっ」
と、命じた。
そういう本人も同じ色の頭巾をかぶり、紀州侍には何者ともわからない。正体は不明だが、先刻から主君のそばに新しい近侍のごとくはべっていた様子、またずっと昔からこの城の者であるかのように配置を命じた厳然たる声から、ひとりも否やをとなえる余裕もなく、その通りに行動した。
――よほどもっともらしい手段を用いなければ、柳生十兵衛をいますぐに城へおびきよせることはできぬ、と思案したときに、ふと例の城の秘路のことをもらしたのは牧野兵庫頭であった。むろん、それを十兵衛に知られた上は、それだけでも十兵衛を生きて城からのがすわけにはゆかぬといったのはもとよりである。これに対してお品が賛成し、わたしが立派にそこへ十兵衛をさそいこんでみせる代りに、彼を魔界転生におとす最後の機会をじぶんに与えてくれるように請い、また如雲斎は、そのお品の願いが不調に終ったときは、相違なく、ただおのれ一人で十兵衛を討ち果たしてみせる、と誓言した。たんなる強がりではない。きいていた武蔵らが異議なくうなずいたほど圧倒的な自信にみちた確約であった。
その柳生如雲斎が十兵衛に敗れた!
「天草。――十兵衛をのがすな」
うしろから駆けて来た牧野兵庫頭が、息をひきつらせてさけんだ。恐怖のために全身鳥肌になっている。
「まだ三層から駆け下りてくるいとまはござらぬ。また間道へ逃げるいとまはないはず。――」
これは息もきらさず四郎がいった。余裕をみせたせいもあるが、事実そのはずだ。
「なお、念のため、水の手櫓の方へも人を回しておきました」
「逃がすなよ、十兵衛を逃がすなよ」
兵庫頭はうわごとのように、
「それにしても――如雲斎が斬られたな。あの広言に似ず、如雲斎は十兵衛に斬りおとされたな」
「――や」
と、天草四郎はわれにかえったような声を発し、兵庫頭を無視して、横っ走りに――いま如雲斎が転落していった天守閣の石垣の下の方へ駆けていった。
柳生如雲斎は死んでいた。かつて前名柳生兵庫として剣名を天下にとどろかせた人物は、大地に|柘榴《ざくろ》みたいなむざんなかばねをさらしていた。
落ちるときに、二層一層の屋根、石垣、地上に激突した傷もさることながら、その左肩から乳の下まで斬りこまれた凄じい傷が、天草四郎の眼をひいた。むろん十兵衛のわざだ。
それと――もうひとつ、彼の視線をとらえたものがある。
死んでもかっとむき出している如雲斎の左の一眼であった。
一見、死者の眼、それ以外になんの異常も認められないその眼に、
「――はてな?」
しゃがんで、その眼に眼をくっつけるようにして天草四郎がのぞきこんだとき、天守閣の方から、ただならぬ絶叫がきこえた。
「一大事でござるっ、いまの柿色頭巾の姿は見えず、奇怪なものが見えまするっ」
如雲斎の|死《し》|骸《がい》を捨てて、四郎はふたたび天守閣の方へ馳せもどっていった。
「なんだ、何が見えるというのだ?」
入り口から一層にかけて、海みたいに騒いでいる紀州侍の向こう――二層へ上る階段のあたりから、
「御天守の中には何者の姿もなく、三層の西の勾欄から濠まで、十数丈の布が垂れ下がっておるばかりでござる!」
と、さけぶ声があった。
「なに、布が三層から西の濠へ。――」
四郎がまた駆け出すと、判断力を失って混乱していた紀州侍たちも、|雪崩《なだれ》をうって天守閣の西側へ走った。
そして人々は、いまきいたばかりの、信じられないような怪事を現実に見たのである。
いつそんなものを垂らしたのか、天守閣の三層の例の勾欄に上端を結びつけられた幅一尺あまりの布が、二層、一層の屋根の|甍《いらか》の端をかすめて、石垣の下へながれおち、下端は水にいたって、風にフンワリとたわみなびいているのが見えた。
布とはいうものの、薄絹だ。色もさだかではない。一見しただけでは気がつかないほど透明な布だ。
「……あれをにぎって、いっきにすべり落ちれば、一本の綱となって濠へおりられるな」
うしろで牧野兵庫頭がうめいて、天草四郎の腕をつかんだ。
「十兵衛は逃げた。どうするのじゃ?」
「いや、まだ逃げ失せるいとまはない」
四郎はあらあらしく兵庫頭の手をふりはらった。
「たとえいっきに下まですべり落ちたにせよ、常人ならば、まだ泳いでこの濠を逃げきれるはずがない。みな手をわけて探せ!」
彼は、まるでおのれの配下に対するもののごとくそう命令し、狂気のごとく石垣から濠へおりる道を探している紀州侍をよそに、血ばしった眼をひろい水面から対岸の石垣や塀にさまよわせていたが、ふとまたあの薄絹に眼がとまると、
「あれは。――」
と、そのまま視線がうごかなくなった。
「お品はどうしたのじゃ、天草」
うしろで、このときになって気がついたもののごとく、兵庫頭が声ふるわせていう。
「お品もいないとなると、お品は十兵衛にさらわれたのではないか」
「…………」
「してみると、十兵衛がお品を抱きかかえてあの布をすべっておりたにちがいないが、二人いっしょにつかまってもあれはちぎれぬのか。あのようなものまで十兵衛は用意していたのか」
「――いや、あれはお品の持ち物、忍者の忍び綱。――」
【五】
――大納言頼宣をめぐって、その一角だけに異様な沈黙があった。
だから、頼宣と、そばに座っていた三人の魔剣士だけがきいたのである。
「……見たかったかえ?」
「いいえ」
「……十兵衛は討たれたぞえ」
「うそです」
「……なぜ?」
「十兵衛さまが負けるはずはありませぬ」
ひくいが、二人の女の声だ。それは前に置かれている駕籠の中からきこえた。――一挺の駕籠の中に、どんな姿勢になっているのか、たしかに二人の女がいる。
頼宣はじろと三剣士の方を見た。眼には皮肉なひかりがある。これに対して、柿色頭巾のあいだから頼宣を見返している六つの眼は、平然、というより全然無情緒なものであった。
まわりにひかえている紀州侍たちは、すでに旅装束のものが多かったが、天守閣の方の叫喚に心を奪われて、この問答を耳にした者はなかった。主君の頼宣がうごかないので、彼らもそこを離れることができないのだ。しかし、一挺の駕籠に二人の女の乗っていることは知っている。それといい、柿色頭巾のむれといい、天守閣の決闘といい、大納言さま御出府にあたって、なんともいぶかしい怪事の続出だが、そのすべてが大納言さまの意思から出ているようにも思われて、騒いでいいのかわるいのかわからないのだ。
血相かえて牧野兵庫頭が駆けもどって来たのは数分ののちであった。
「……十兵衛め、逃げ失せてござる」
そして、天守閣から垂れ下がった忍び綱のことを、あえぎあえぎ説明しているあいだ、頼宣は三人の剣士の方ばかり眺めていた。
話なかばに、
「但馬。……さて、十兵衛めは、これからどうするであろうのう」
と、いった。
「……きゃつ、逃げますまい」
と、但馬守は頭巾をかたむけて答えた。
「いや、この城からではござらぬ。――われらのゆくてから。いつぞや、きゃつは申しました。大守にとりついておる妖怪どもを|誅戮《ちゅうりく》することこそ、非業の死をとげた木村、田宮、関口らが成仏する道と。――この言葉をあくまでかなえずば、おいそれとはわれらから離れぬ奴でござる」
「うぬらのゆくてから。――」
「すなわち、江戸への道中」
「殿」
と、牧野兵庫頭が、頼宣の足へとりすがらんばかりにしていった。
「御出府の儀はなにとぞいましばらく御延期下されませい」
「たわけ」
と、頼宣は叱咤した。
「柳生十兵衛を怖れて、紀州五十五万石がみずから足どめしてよいか。いやさ、かかる小事にさえぎられて、天下の大事に参ぜんとする頼宣に、その機を捨てよと申すか、この大たわけめ」
「……はっ」
|雷《らい》に打たれたように兵庫頭はひれ伏したが、また散大した瞳を三剣士の方へむけて、
「おぬしら、おぬしらがお供せぬと、十兵衛もついてゆかぬか?」
と、きいた。
三人の剣士は黙っている。兵庫頭はまたいった。
「おぬしらは、紀州にとどまってくれ」
「江戸へ参る」
にべもなく、荒木又右衛門がいった。おしぶとく、
「それが大納言さまのおんためでござる」
「道中、十兵衛が現われたら、斬るか?」
と、頼宣がしずかにきいた。
「斬りまする」
「如雲斎もそういった」
三人はまた沈黙した。しかし、決して言葉につまり、当惑した表情ではない。まったく無関係な話をきいているような、反応のない眼の色であった。
「さるにても十兵衛は……よう一人で来たの。この城に」
さすがに頼宣は舌をまいたようにいい、三人を見やって、
「もし、また十兵衛が現われたら、三人、力を合わせて立ちむかっても苦しゅうないぞ」
「誓って、一人で斬りまする」
と、荒木又右衛門がいった。
「一人で?」
「大納言さま、ここにひかえておりまするは、宮本武蔵、柳生但馬守、それにかくいう荒木又右衛門でござりまするぞ」
地を這うような笑いをおびた声で又右衛門がいったとき、駕籠の中から女の声がきこえた。
「四郎どのは?」
「天草は、ふいに何やら思いついたように、あわててどこかへ駆け去ったが。――」
と、牧野兵庫頭は答えた。ややあって、
「……はて。――」
と、つぶやく声がきこえると、駕籠の戸があいて、すうっとひとりの女が姿を現わした。女とはいうものの、やはり三角の柿色頭巾をかぶっている。
「少し、気にかかることができました。わたしは四郎どのを探して来ます」
「なんだ」
と、又右衛門がきいた。
「指のことです」
頭巾の女――ベアトリスお銭はそういっているあいだも気がせくらしく、また一方駕籠の中にも心をひかれる様子で、
「どなたか、この娘、よう見張っていて下され」
と、見まわした。
「……わたしは死にはしませぬ」
と、駕籠の中でお雛の声がした。お銭はその危険を監視するために相乗りしていたとみえる。
「十兵衛さまは、きっとわたしを助けに来て下さいます。わたしは死にはしませぬ。――ただ、からだがきれいであるかぎり」
祈るような声のながれる駕籠を、ぎろりとにらんでいた大納言頼宣は、やおら牧野兵庫頭に眼を移して、あごをしゃくった。
「兵庫、午の刻ではないか。いざ、立つぞ、江戸へ。――」
|西《さい》|国《ごく》第三番|札《ふだ》|所《しょ》
【一】
和歌山から紀ノ川に沿うて東へ四里。その紀ノ川の北岸に、|岩《いわ》|出《で》という村がある。
その北側の小さな丘の竹林の中に、山伏たちがむらがっていた。ここからみれば、紀ノ川とならんで、東西に紀伊国を切る街道を見下ろすことができる。
根来忍法僧たちであった。
彼らの本拠根来寺は、この村から二里、すぐ北へ入ったところにある。しかし、いまその方をふりかえる者はいない。
彼らは南の街道を見下ろしている。だれかを待っているようにもみえるが、また街道の西をふりかえったり、東を望んだりして、何となくいらいらとおちつきがない。
「雨になるな」
と、ひとりが空を仰いでつぶやいた。
きのうから太陽と乱雲の争闘図をみせていたおかしな空は、きょうのひるをすぎるとようやく完全に雲が太陽をとじこめて、ほとんど空一面を墨色に塗りつぶしつつあった。
「十兵衛はどうしたか」
「いくらなんでも、もう斬られたろう」
「あれさえいなければ、粉河寺にいる柳生衆たちをみな殺しにしても、どこからも文句は出まいと思うが」
「いや、それどころか、あの連中を紀州領内で始末しておかねばあとで面倒なことになるぞ」
「必ず城から討手が来るはずじゃ」
「討手が来るくらいなら、われらにまかせてもらいたいな。われわれとても、すでに八人の犠牲を払っておるのだ」
――紀三井寺から城へゆく柳生十兵衛を黙送するのはいいとして、紀三井寺から東へ、粉河寺へ出立する柳生衆にもまた手を出すことを、彼らはお品から禁じられた。
十兵衛必殺のことはもはや疑う余地はないが、それになんら直接貢献できぬ自分たちのいまの立ち場が少なからず恨めしい。で、それが確実になったときは、せめて残りの柳生衆を――と彼らは、禁じられていた送り狼の役目を捨てかねて、みれんがましくここまで追って来て、東の方の粉河寺と、西の方の和歌山を交互に見くらべているのであった。粉河寺は、ここから二里ばかりの東にある。
「――や、来たっ」
と、西を見ていたひとりがさけんだ。
「お品どのだ」
雨雲の下の街道を、いかにもお品が走ってくるのが見えた。ひとりである。
山伏たちは、狼群のごとく丘を|馳《は》せ下りていって、お品のまえに姿をあらわした。
「そなたら、こんなところに。――」
お品はやや意外な顔をしていたがすぐに、
「一大事じゃ。如雲斎さまが十兵衛に討たれなされた」
「えっ」
「しかも、十兵衛は城で姿をくらましてしまい、いまお城は煮えくり返るような騒ぎじゃ。はやくいって下され」
「……われわれが?」
ひとりが東をふりかえって、
「しかし、粉河寺にも柳生衆が」
「それは、わたしがいって、うまくだまして、あの男どもも和歌山へおびき寄せる。そなたらは一刻も早く和歌山へ」
「……われわれがいってもよいのでござるか」
「あの広大なお城のどこへかくれたか、お侍衆が血まなこになって探しても十兵衛の姿が見つからぬ。ああ、かような捜索には根来衆こそうってつけ、いまあの者どもがおってくれたら――と、牧野兵庫頭さまも地だんだ踏んでおられた。ここでわたしがそなたらに逢うたは天のみちびき、早ういって下され!」
二十二人の根来衆は、いっせいに眼をぎらとひからせ、手にぷっと唾を吐き、土けぶりたてて西へ駆け去った。根来組の面目を、公然あらわす時や至れりと勇躍したのである。
それを見送りもせず、お品はひとり東へ走った。
【二】
粉河寺。
西国第三番札所。ただし。――
この寺は奈良朝時代の創建で、開基の年代からいえば、高野山よりもっと古い。平安朝から室町時代にいたっては、堂塔すべて五百有余年をかぞえたという。が、みずから持つ威厳のためにかえって豊太閤に抵抗して、天正十三年、全山焼き払われた。
その後、ふたたびほそぼそと再建にとりかかり、頼宣が入国してからは多少の援助があったとはいうものの、なおこの当時、|風猛《かさらき》|山《やま》の麓、一万五千余坪の境内は、ただ茫々と吹きなびく秋草の野といってもいい状態であった。
むろん、それでも古来からの西国三十三ヵ所観音の第三番の霊場だから、巡礼は来る。
「雨になったな」
ここでも、不安げに空を仰いでいるのは、柳生衆とお縫、おひろたちであった。
荒れはてた粉河寺とはいえ、巡礼がくる以上、一応の休み所は設けてある。が、彼らはそこにじっとしていることができないで、いつしか境内の草原の一角に五六本ならんだ杉の木立の下に立って、山門の方をながめていたのだ。
不安や焦燥は、もとより空模様にかかわることではない。十兵衛のことだ。
突発的に十兵衛が思いがけないことを命令し、あれよあれよというまにじぶんたちはさきにこの粉河寺に追いやられてしまう破目となったが、ここでよくよくかんがえてみれば、実に納得のゆかない、気がかり千万のことだ。
敵側がお雛をつれて、紀三井寺にくるという。
そこで、何のこともなく、お雛を十兵衛先生に返してくれるというのか?
そんなことは、常識的にあり得ない。
「わからん」
「十兵衛先生は何を思いつかれたのか」
「それとも、われわれの知らぬあいだに、何か起こっていたのか?」
口々につぶやく中から、小屋小三郎が、
「戸田老、わたしがもういちど紀三井寺にひき返してみましょうか」
といったとき、小三郎の頭上の杉の木に、うなりをたてて、ぴしっと何やら打ちこまれた。
いっせいにふりむいて、
「やっ、手裏剣だ!」
と、みな眼をむき出したが、よく見ればそれは手裏剣ではなかった。十センチあまりの、千枚通しに似た|錐《きり》であった。
「何やつが、かようなものを、どこから?」
愕然として草原の向こうを見わたす面々とはべつに、戸田五太夫が、その千枚通しの|柄《つか》に巻きつけてある白い紙に気がついた。
あわててこれをひらいてみると。――
「おれを待たずして、いそぎ柳生へ立て。十兵衛」
と、ある。
「何やつが投げたか?」
「姿が見えぬ!」
さけびつつ、二三人駆け出そうとするのを、五太夫は、
「待て、これを見ろ」
と、呼びとめた。
境内の方を気にしながら、柳生衆は集まって、その紙片をのぞきこんだ。
「なんだ、これは。――」
「十兵衛先生のお手ではないな」
「罠ではないか」
「かようなものを投げてくる奴があるとは、いよいよ以て十兵衛先生のことが気にかかる」
「おお、粉河寺でぼんやり日の暮れるのを待っておるわけにはゆかぬ!」
みな、騒然となるのを、
「待て」
と、戸田五太夫がまた制した。
「罠にしてもおかしい。罠ならば、柳生へゆけというはずがない」
「それは和歌山へゆかれた十兵衛さまからわれらを遠ざける手段だ」
「ならば、いまわざわざここにかようなものを投げて、われらに疑心を抱かせる必要はないではないか」
「そういわれれば、そうだが。――」
「わしは、この文字は、十兵衛さまのお手ではないが、十兵衛さまのお心を体したものと見る。そうでなければ、かような文句が書けるはずがない」
「では」
「ともかくも、この投げ文通りにこの寺を立とう。お縫とおひろを護れ、弥太郎をつかまえろという十兵衛さまから命じられた役目もある。すぐゆこう」
「しかし戸田老」
「……とみせかけて」
と、五太夫は声をおとして、
「ひとり、だれかひき返し、このあたりにひそんで様子を見ていろ。いったい何者がかような投げ文をしたのか。――それをたしかめる必要もある」
すぐに柳生衆は、草の中を一団となって山門の方へ駆け出し、街道の東の方へ消えてしまった。
無人となった境内を、やがて、ぽつ、ぽつとふとい雨すじがたたき出した。――枯れ草の中からすうとひとつの影が浮かびあがった。お品だ。
【三】
たちまち雨は、|沛《はい》|然《ぜん》と音をたててあたり一帯をつつんだ。草がそよぐ。樹々がゆれる。山門も水けぶりに霞んでいる。――
その雨も気がつかないかのように、お品はじっとそこに|佇《たたず》んでいたが、やがて山門の方へ歩いていった。
石段の下の往来の西の方を見る。すべてははげしい雨にけぶって人影は見えぬ。雲こそあったが、豪快できらびやかな感じさえしたひるまでの天候とは、同じ日とは、思われないような荒涼|蕭殺《しょうさつ》[#電子文庫化時コメント 底本ルビ「しゆく‐さつ」。ノベルス・全集ルビなし、角川文庫版に倣う:粛殺(しゆく‐蕭殺(しようさつさつ)/蕭殺(しよう‐さつ)]たるながめであった。
彼女はながいあいだ山門の下に立っていたが、ふいに夢からさめたようにびくっと顔をあげた。何かを肌で感じたらしく、トトトトともとの境内の方へ五六歩もどりかけた。
「女ごころと秋の空、か」
声がした。いまお品の立っていた山門の屋根の上からだ。
「そっちへいってもむだじゃ、お品。二十二人の根来衆がとりかこんでおる。――といって、この門から逃げようとしても、そうはさせぬがな」
いつそこに上ったのか、天草四郎の声であった。お品は立ちすくみ、山門の|甍《いらか》の上を見あげた。たしかに、雨けぶりの中に、おぼろおぼろと影が一つゆれている。
「おお、四郎どの」
と、一息ついてお品はさけんだ。
「よう来て下された。城で十兵衛をとりにがし、せめて柳生衆や残りの娘二人を捕えようと来てみれば、みな逃げ去ったとみえてどこにもおらぬ。これから追って探そうとしていたところじゃ」
「ふふん、逃がしたのは、おまえだろう」
「四郎どの、何をいいやる」
「根来組をいつわって、和歌山へ追い返そうとしたな。わしが途中でゆき逢ったからいいようなものの。――」
「根来組をいつわった? わたしが、どういつわった? わたしはありのままを告げただけじゃ」
「では、ありのまま、みんないってもらおうか」
「みんなとは、何を」
「城に十兵衛が入ってからのことを。いや、十兵衛が天守閣に上ってからのことを」
「それは、おまえさまが下で見ていた通りではないか」
「あの濠へ投げおとした忍び綱はなんだ」
「あれは十兵衛におどされたのじゃ。あの綱を出させられて、当身をくらって気がついたら、わたしは南の|不開《あかずの》門の内の濠に浮かんでいた。しかも、城の騒ぎをきけば、十兵衛はどこへいったかわからぬ様子。だから何よりも前にきいていたこの粉河寺に来てみるのが、わたしの恥をそそぐただ一つの道じゃと思って、駆けつけて来たのです。すると柳生衆もおらぬ。十兵衛がさきに来て、つれ去ったのにちがいない。四郎どの、妙なことをいわずに、いっしょに追って下され」
「柳生衆ごときはどこでもつかまえられる。それよりお品、うぬは十兵衛に助勢したな。如雲斎との決闘に」
「わたしが――助勢」
「あの勾欄の鍔ぜり合い、あれは如雲斎の勝ちであった。それが、敗れた。もののみごとに十兵衛にひっぱずされたが、柳生如雲斎ともあろう者が、あのようなぶざまな負け方をするわけがない。――」
「それが私の知ったことか!」
と、お品はたまりかねたようにさけんだが、すぐに声を殺して、
「四郎どの、おまえはあのときそばにいなかったからわからぬのじゃ。わたしは息もつまり、声もたてられずに、ただ二人の勝負を見ているよりほかはなかった。――」
「いや、うぬは針を吹いた」
「えっ」
そのとたんに、お品の背後からびゅっと三本の縄が飛来して、彼女の両腕と胴に巻きついた。
針を吹いた――といいながら、四郎が手をあげて合図したのである。根来組秘伝の投げ縄である。
かつて道成寺でお縫とおひろをみごとに捕捉したやつだが、しかしふだんのお品であったら、或いはこれをかわしたかもしれぬ。しかし、いま彼女が棒みたいにやすやすと縄にとらえられてしまったのは、何といっても天草四郎の指摘による驚愕のせいであった。
「鍔ぜり合いのまんなかで、横からうぬは吹針を吹いた」
と、四郎はくりかえした。
「時も時だ。柳生如雲斎とて、なんでたまろう。――ただ一つの眼をつぶされたのじゃもの」
「な、何を証拠に。――」
「一瞬、まぶたをとじたとたんにぬけたのかもしれぬ。或いは天守閣から落ちるさいにぬけたのかもしれぬ。が――如雲斎のかばねの、かっとむき出した左眼には、たしかに針の穴のあとがあった!」
「四郎どの」
蜘蛛の網にかかった蝶みたいに身をもがきながら、お品はさけんだ。
「そ、そんなことをするくらいなら――十兵衛を助けるくらいなら、なぜはじめから十兵衛を、わざわざ、わたしがお城へおびき寄せたのじゃ。ばかなことを――」
「さあ、それがわしにもよくわからぬ。きょうの空と同じ女ごころ。――」
「クララお品が、森宗意軒さまに叛いて敵を助けると思うのか、四郎どの」
「さあ、それじゃ。それで、わからぬこともない。おまえは迷っていたのじゃ。宗意軒さまのおん企てにそうて、このたびの大事にまことをつくすか。それとも、はからずも惚れた柳生十兵衛を助けるか。――おまえは、熊野路の旅から帰って来たときから迷うておった。わしの眼力に狂いなし。掟と恋、迷い、迷いつつ、おまえは十兵衛を城に入れ、最後の関頭に至って十兵衛を助け、味方の如雲斎に針を吹いた。――」
雨中の問答はしばし止んだ。お品が沈黙したのだ。
「どうじゃ、お品、わしのこの推量にまちがいはあるまいが」
天草四郎はケタケタと笑った。氷片のさゆらぎに似た笑い声であった。
「あの忍び綱をつたっておりたのはうぬだ。あれだけの捜索に、なお濠の中にひそみ切れる者は、うぬのほかはない。そして濠の底をくぐり、どこかの門にたどりつき、かねてから置いてあった衣服をつけて、うぬは逃げて来た」
「…………」
「いまにして思えば、わしが城を飛び出して来た際、十兵衛はまだ天守閣のどこかにいたな。あの忍び綱がまたこちらの眼をくらます道具ともなった。――が、十兵衛はやがてここへ来るな。うぬは、それを待つために先に来たのだな。お品、どうじゃ。おうい、その縄を一本こちらによこせ」
ひとすじの縄が、雨空を山門の屋根へ、|蛇《へび》みたいにくねって飛んだ。同時に。――
ぷつ! という音とともに、お品の両腕をとらえていた二本の縄が切れた。はるかかなたで、人間のころがるような音がしたのは、ふいをつかれてのけぞった根来衆であろう。
「そうはさせぬ!」
絶叫とともに、お品のからだが横なりに宙に浮きあがった。
投げつけられた縄をつかんで、四郎がひきずりあげたのだ。それは彼女の胴にからんでいた縄であった。
途中、その縄も切れたようだが、間一髪の縄のさばきに、根来衆などの及ばぬ絶妙の秘法がこもっていたとみえて、お品はそのまま空にくるくるとはねあげられて、屋根の上に落ちた。
横ざまに落ちつつ、|甍《いらか》を鳴らし、みずからまた飛んで逃げようとするその足を、天草四郎はとらえて、ひきずりあげた。
「相手がちがう」
白い足くびをつかむと同時に、かるくねじると、ぶきみな音をたててそれは脱臼した。
「相手は四郎だ。改めていう、森宗意軒の分身、天草四郎時貞じゃ。お品、うぬにもはや、森宗意軒さまの秘蔵弟子だといわせはせぬぞ」
もがく腕をつかんでまたねじる。これもまた脱臼する音がきこえた。
「おまえがあの娘にしたことだ。恨むことはない」
雨はふる。雨は山門の屋根にしぶきを散らしている。だれがこの西国第三番の霊地の山門の上で、このような淫惨とも形容すべき光景がくりひろげられていると思おう。
この死闘のあいだにお品は半裸となった。
「裏切者、江戸の宗意軒さまに代わって成敗してくれる」
半裸になったお品に天草四郎は馬乗りになった。
「が、ただの成敗はせぬ。うぬにあくまで魔界転生の一味としての奉公をつとめさせてくれる。といって、十兵衛に対する忍体は、もはやうぬにはゆだねぬ。ベアトリスに頼む。うぬは、わしの――忍法髪切丸の媒体となれ」
そして彼は、お品を犯しはじめた。
「|父《ちち》|母《はは》の恵みもふかき粉河寺」
なんと四郎は、女を犯しながら、御詠歌をうたい出したのだ。
「仏の誓い
たのもしの身や。――」
「|冒《ぼう》|涜《とく》」のきわみともいうべく、彼は、ふふっと笑った。が、その笑い声の意味は。――
「かつて天草で神童といわれ、サンタマリアに祈り、ゼウスの御名のもとにたたかったこの四郎時貞が、日本の御詠歌をうたうとは。――」
つまり、失笑であったらしい。
「その神童天草四郎時貞の寵を受けるとは、お品、光栄と思え。いや、キリシタンたるおまえには本望であろうが」
冷雨ふりしぶく山門の上、女を犯しつつのびあがる美童天草四郎の姿には、一見して妖艶、再見して邪悪、雨しぶきとともにこの世のものならぬ神秘の霧をけぶらせている。
「これほどなあ、快、快美な肉を持つものを忍体として使わぬとは、さりとは十兵衛も愚かな奴。――お、忍体といえば、ベアトリスを以後の忍体として使うといったが、かんがえてみると、それはだめだな。柳生十兵衛はここで死ぬ」
そして彼は、いたずらッ子みたいな笑い声をもらした。
「人触るれば人を斬り、馬触るれば馬を斬り……鉄触るれば鉄を斬る、忍法髪切丸。――」
これほど傍若無人の所業と「|饒舌《じょうぜつ》」の下で、忍者お品ともあろうものが、ほとんどなすすべもなく全身をくねらせ、はてはたえきれぬ声さえあげはじめたのは、天草四郎の行為によほど超絶の術がこめられているのであろうか。
「父母の
恵みもふかき粉河寺
仏の誓い
たのもしの身や。――」
四郎はまたうたった。
「あ、は、は、は。この節まわしがな、この所業の拍子にこれほど合うとははじめて知ったぞ」
と、笑ったとき、彼のうごきがピタととまった。
「来たらしいな。――果たせるかな」
山門の上でまたのびあがり、雨をすかし、じいっと西の方を見やって、
「武蔵、又右衛門、ゆるせ。城でみすみす如雲斎を斬らせたは、眉に唾をつけつつもこの女をうかと信じたおれの罪、その罪ほろぼしに天草四郎時貞、ここで柳生十兵衛を討ち果たす」
と、つぶやくと、ふりむいて空から声を送った。
「根来の者ども、身をかくせ、手を出すな。よいか、ただ眼を見張って、おれと十兵衛との立ち合いを見ておれよ」
そして、キリキリと歯ぎしりの音をたてた。
「よし! クララ、髪をもらうぞ。いましばし、恍惚の夢におちよ。……よいか!」
雨の音が高くなった。風が、一吹き、二吹き。――
「はてな。……やっ」
と、山門の屋根の上で、ひくい驚愕のさけびがきこえた。
【四】
雨の中を、柳生十兵衛が走って来た。
もとの通りの深編笠だ。
――たしかに彼は、城侍が天守閣に乱入して来たとき、まだその中にいた。しかも一層の、入口にいちばんちかい太い柱のかげに、にゅっと立っていたのである。城侍たちは二層三層に駆けのぼり、さらに「天守閣から|濠《ほり》へ、奇怪な布が垂れ下がっている」というさけび声に、また雪崩をうって駆け下りて来て、あわてて濠の方へ殺到していったのだ。
間一髪の真空状態を利用して、彼はもとの多聞櫓の井戸から縄梯子をつたって、例の間道から南の|不開《あかずの》|門《もん》へ走った。門の内側に捨てておいた編笠をひろってかぶった。そして、濠を舟でわたって、一路この粉河寺へ駆けて来たのである。
とはいえ、城へ乗りこむときとはちがい、間道を走りつつも、人影をみれば身を伏せ、濠をわたるときも十数分様子をうかがっていたから、彼が城を飛び出したのは、大納言頼宣の大行列が、ちょうど反対側にあたる大手門を、まだ出きらぬ時刻であったろう。
それに、粉河寺へひた走りつつも、ときどき彼の足を、しらずしらず地上に釘づけにしたほど、彼をとらえたさまざまな思念がある。
柳生如雲斎を討った!
その感慨もさることながら、如雲斎を討つに際し、いきなり横から如雲斎の一眼に吹きつけられて来た針のこと。またそのわけもきかぬうちに、じぶんに城から逃げるすべを教えて天守閣の三層に残ったお品のこと。
また、かんじんのお雛をついに救うことができなかったこと。
――ともあれ、十兵衛は雨の街道を東へ走って――そして、かねて柳生衆に待機を命じておいた粉河寺の山門の石段を、たたたたと駆けのぼっていった。
「十兵衛さまっ」
空から声がきこえたのは、山門を境内へ走りぬけようとしたときだ。
同時に、その内側の軒をかすめて、どっとひとつの白い肉塊がおちて来た。一瞬、上を仰いで、それを受けとめる。
「お品ではないか」
和歌山城の天守閣の三層にひとり残ったお品が、どうしてこんなところから落ちて来たのかわからない。――変幻自在の女忍者の出没におどろくよりも、
「きゃつ。――」
切歯の声とともに、同じく山門の上から境内へ――三四間もかなたへ、ぽうんと飛び下りたもう一つの影に、柳生十兵衛はきっと隻眼をむけていた。
「お品、あれは何者だ」
全裸にちかいクララお品は、十兵衛の腕の中で、虫の息みたいに答えた。
「天草四郎時貞」
「な、な、なんだと?」
思わず、十兵衛の腕からお品が地上へずり落ちた。それすらも意識しないように、十兵衛は深編笠ごしに、|茫《ぼう》|然《ぜん》と雨の中をすかしている。
ふりしぶく雨の向うに、美少年は立っていた。水中花のごとく美しく、しかもまがまがしい妖気と殺気を青白い炎のようにふちどらせて。
十兵衛は、おのれの脳膜にも幻怪な霧しぶきがかかったような思いがした。
敵中に宮本武蔵、荒木又右衛門、宝蔵院|胤舜《いんしゅん》などがいる、ときいたときも驚倒したが、これはまた想像を絶する名だ。天草四郎時貞といえば、いまを去ること九年前の島原の乱の|首《しゅ》|魁《かい》だ。そのときに於てすら、同じ地上の出来事や人物とは思われない、妖炎につつまれたような大乱であり、首魁であった。
しかし、原城はおち、天草四郎は|誅戮《ちゅうりく》された。これは事実だ。世の何びともが知っている事実だ。
それが生きている。生きていることすら奇怪なのに、ましてや紀州家に飼われていたとあっては、これは武蔵、又右衛門、胤舜、如雲斎などとは全然性質のちがう身の毛もよだつ事実である。
いや――彼は死んだとき、たしか十七八歳であったときく。そしていま眼前にけぶるように立っているのも、やはり十七八歳の美少年ではないか?
すでに信じられぬほどの怪奇を見せつけられている十兵衛も思わず、
――ば、ばかな!
と、心中にうめき出さざるを得なかった。
「いかにも、天草四郎時貞だ」
と、相手はニンマリとしていった。十兵衛の心を見通したかのごとく。――
「世に公になれば、いかに御三家とはいえ、紀州家の断絶は必至だな。もっとも、そうなれば紀州藩の方では、おれをにせものというかも知れぬ。世もそう思うかも知れぬ。が、十兵衛、おまえならば、信ずるだろう。武蔵、又右衛門らの実在を信ずるならばだ」
――十兵衛は信じた。
「……いままで知らなんだ。新顔だな」
と、いった。
「おまえはわしを見るのがはじめてかもしれぬが、わしは最初からおまえを知っておる。おまえが柳生城にいるときから。――」
天草四郎は、ふくみ声をたてて笑った。なんという美しい、冷たい笑い声だろう。
「いままで、おまえのいのちがあったのは、わしが出来るだけおまえを殺さぬように、殺さぬようにみなにいいきかせて来たおかげだと思え。が、それがたたった。とりかえしのつかぬ結果をもたらした。で、わしがおまえを殺す。――みずから天草四郎時貞と名乗ったのは、もはやおまえを生かしてこの粉河寺を出さぬときめたからじゃ」
しゅうっと音たてて、雨がこちらに吹きつけて来たのは、風が回ったのか。
ぱっと十兵衛は抜刀している。が、たしかに風のみならず殺気に吹かれたおぼえがしたのに、天草四郎は依然として同じ距離に同じ姿勢で立っている。
天草四郎時貞、たしかに妖童の伝説は耳にしたが、剣士としてはさほどの話をきいたことがない。にもかかわらず、柳生十兵衛を眼前にして、腰の刀に手もかけず、彼はフンワリと優雅な立ち姿のままであった。
十兵衛は一歩出て、ためらった。
敵の無芸に、何かある、と見たからではない。いかに見ても、彼の剣心に触れるものはない。
「ふむ」
ツツとまた出る十兵衛を、
「危ない。――」
と、背後の声がとめた。お品の声であった。
このとき十兵衛は、天草四郎の手がはじめてうごくのを見た。雨を受けて、ふたつのこぶしが、クルクルと水ぐるまのように。――
ふっと飛んで来たものがある。それは十兵衛の剣尖に、細い環となってはまった。
「クララ」
天草四郎はうめいた。別人のような凄絶な声だ。
口はなお笑っているのに、眼は怒りに燃えていた。先刻、山門の屋根から襲撃しようとするじぶんの機先を制して、下の十兵衛に危急を告げ、みずから|甍《いらか》をずりおちていったお品に――かくまで裏切った味方の女忍者に、あらためて憤怒がにえたぎったのだ。さっき「きゃつ。――」と切歯したのは、お品に対する呪いのうめきであった。
「十兵衛は殺すが、うぬは殺さぬ。生きながらこの世の地獄を味わわしてくれる。その手はじめに、まず十兵衛の最期を見ておれよ」
そういっているあいだも、十兵衛の刀身には疾風の速度で黒い環がはまってくる。
――十兵衛はあっけにとられた。
――天草四郎の顔に驚愕の波がひろがった。
いきなり彼は七八尺も飛びずさった。はじめて手に白刃がひらめいた。その距離だけ十兵衛は飛んだ。唐竹割りに斬りおろす三池典太の下で、|戞《かつ》|然《ぜん》と天草四郎の刃が二つに折れて落ち、十兵衛の剣尖は――四郎のひたいからあごにかけて走った。
天草四郎は|茫《ぼう》|然《ぜん》として立っていた。鼻が裂け、鮮血が|緋《ひ》|牡《ぼ》|丹《たん》のように飛びちっている。
そのひたいからあごにかけて、赤黒いすじがふくれあがってくるのを、十兵衛は見ている。斬ったのではない。刃は四郎の顔面をかすめただけである。承知して、十兵衛のしたことだ。斬るつもりはなかった。彼は刀身を返して、峰の方で相手の顔を|擦《す》りおろしたのだ。
いずれにせよ、きっさきだ。|凄《すさま》じい一撃であろう。恐ろしい痛みであろう。
その痛みすら意識しないかのように、天草四郎はかっと眼をむいたままであった。
――斬人斬馬、触るれば鉄さえも斬る。かつて大井川の河原で宝蔵院|胤舜《いんしゅん》と立ち合い、その槍をバラバラに切断した忍法髪切丸が。――
「なんだ、これは?」
柳生十兵衛は三池典太を横にふるった。からみついた髪の環は、ハラハラとぬけてかげろうみたいに消えた。
なぜ髪切丸の忍法が通じなかったか。十兵衛の力のせいではない。――お品のせいだ。
「ちいっ」
美しい悪鬼のような形相になって、フラリと四郎がお品の方へ歩き出そうとしたとき、十兵衛が飛鳥のように飛んで、
「うぬにききたいことがある」
と、片手で胸ぐらをつかんだ。
四郎はのどをあげて絶叫した。
「根来衆、やれっ」
裂けた声であった。事実、彼の唇は裂けている。
同時に、天草四郎ほどの者が、みずから禁じた他からの救援を求めたということは、彼の心の破綻をも示すものであった。
ものもいわず、四郎のむなぐらをひっつかんだまま、十兵衛はくるっと回っている。
形容しがたい肉の音とともに、連続的に天草四郎は|痙《けい》|攣《れん》している。境内の一角から飛び来たった数本の手裏剣が、その背につき刺さったせいであることを十兵衛は知っていた。
「ばか、味方を殺すか」
声をのこし、四郎をとらえたまま十兵衛のからだは、うしろずさりにスルスルと、山門のかげにすべりこんだ。
すると、そのとき山門のかげで大声が起った。
「おういっ、早く来てくれ。――柳生衆っ」
十兵衛はそこに息を切らして立っている小屋小三郎を見た。その足もとに半死の天草四郎を投げ出すと、素早く編笠をとって、小三郎の頭にかぶせた。
「小三郎、そこの柱のかげにしゃがんで、こいつを見張っておれ」
いうと、山門に沿って横に走った。
雨の境内を山伏のむれが半円をえがき、山門にじりじりと迫っていた。無数の銀のひもをたらしたような雨のかなたに、山門の屋根の下は|模《も》|糊《こ》として暗い。
「早くやれ、柳生衆がくるというぞ!」
「柳生衆ごとき、もののかずではないが」
「きゃつ、十兵衛こそ。――」
柱のかげにちらと見えた深編笠に、また数条の手裏剣が走ったが、その数本が円柱につき刺さっただけであった。
「天草どのが気にかかる。――」
「えい、ゆけ」
猛然と殺到しようとした根来組のうちから、突如としてけものみたいな悲鳴があがった。
円陣の弧を弦のごとく何者かが駆けぬけたあと、その弧の部分の五人が、ばたばたときれいに地にたおされて、しかもそのままピクともうごかなくなっていた。
「わっ」
根来衆は混乱しつつ、その反対の方角へもつれながらはね飛んで、そこに立っている影を見ると、
「十兵衛だ!」
ひと声、だれかさけぶと、根来衆ともあろう者が、しかもいまのいままでその十兵衛を狙って這い寄っていた者が、理性を失ったかのごとく境内のかなたへ雪崩を打って逃げ出したのは、ふいをくらったのと、いまの凄じいまでの鮮やかな斬られ具合に、びっくり仰天したという以外に説明がつかない。
十兵衛はちらとそれを見送っただけで、刀身をぬぐって鞘におさめ、根来組の五つの死体からながれ出る血が、みるみる雨にとけてゆく地上を大きく飛んで、もとの山門の下に馳せもどった。
東の往来から、柳生衆たちが駆けてくるのが見えた。
「な、なんだ、小三郎」
「おおっ、先生! 十兵衛先生だっ」
口ぐちにわめいて山門に駆けのぼってくる柳生衆に、小三郎は、
「根来組だ。追え」
と、さけんだ。
柱の下にたおれている見も知らぬ少年の素性はもとより知らず、その柱につき刺さっている手裏剣に、さてこそ、と彼らは小屋小三郎を先頭に、境内へ駈けこんでいった。
「天草……四郎」
十兵衛は、四郎を抱きあげた。
その名を呼ぶことすら戦慄をおぼえるが、天草四郎は先刻見たまぼろしのような美貌が一変して、――いや、美貌であっただけに、それが縦にふたつに裂けて、いっそう無惨な顔で、そのからだもすでに冷たくなりかかっていた。ただ、眼だけが、異様な、苦笑にちかい笑いをさえたたえて、じっと十兵衛を見つめている。
顔の傷と、背に刺さっている数本の手裏剣を思うと、まだ生きているのがふしぎなくらいだ。
ききたいことは無限にあった。
それなればこそ十兵衛は、わざと一撃のもとにたおさず、そのいのちを助けようとしたのだ。――もっとも、助けようとしたにしては、やりかたが手荒いが。
が、そもそもこの男は何を思っておれに立ちむかったのか。まさか大根のように斬られるために現われたのではあるまいが。――そういえば、何やら妙な髪の毛の環のようなものを飛ばして来たが、いったいあれがどうしたというのだ? 十兵衛は狐につままれたようだ。
それを手はじめに、この天草四郎生存の秘密、紀州藩の陰謀の輪郭、すべて混沌として疑惑の雲が漠々と全身をつつんでくる思いだが、何よりもこの人間のからだが冷たくなりかかっていることに焦って、
「おいっ。……紀州藩にはおまえのほかにまだ化物がいるのか」
と、十兵衛は、ともかくもさけんだ。
「宮本武蔵、荒木又右衛門がおることは知っている。そのほかにまだだれかおるのか」
と、ゆさぶった。
「だれか……柳生の者がおるときいたが。――」
「おる」
裂けた唇がうごいた。
「なに? 柳生のだれか?」
ちかづけた顔を、突如として十兵衛はそむけた。天草四郎は、声もなく笑ったのである。その笑いが――実にこの世のものとは思えない、邪魔、|呪《じゅ》|咀《そ》、悪念の腫瘍がはじけたかのような凄じいものであったのだ。
「但馬守|宗《むね》|矩《のり》」
ペチャペチャと、裂けた声で、一語そういって、天草四郎は醜怪な笑顔のまま、がくりと十兵衛の腕の中でおちこんだ。
【五】
いや、いや相手がおちこむより早く、まるで腐爛しきった死体そのものを抱いていたかのごとく、柳生十兵衛は反射的に立ちあがっていた。
そのとき、ひと足おくれて、お縫とおひろが、雨の往来から石段を駆けのぼって来た。
「先生!」
「どうなされたのでございます!」
そう呼びかけられても十兵衛は、山門の円柱にもたれかかったまま、もののけにうなされたような表情で、足もとの死骸を見下ろしている。
見下ろしているというより、ただ一つの眼がうつろだ。――死骸よりもその形相に恐怖して、ふたりの娘がとりすがって何かさけんでも、その声も耳に入らぬ様子であった。
そのとき境内の方でもただならぬさけびがきこえ、すぐに柳生衆たちがドヤドヤとひき返して来た。柳生衆ばかりでなく、磯谷千八と逸見瀬兵衛が、両側からひとりの女をかかえて運んで来た。
「先生。……根来衆は逃げ去ったようでござる」
「いかに探してもきゃつらの姿は見えませぬが、その代わり……このお品どのが思いがけずあそこにたおれておりました」
「それが、先生のところへつれてゆけと申します」
「ふしぎなことに、気がちがっておるようでもありませぬが」
戸田五太夫や伊達左十郎も口々にいってくびをかしげている。この中で、ただ小屋小三郎だけが何やら彼らに説明しかけたが、これまた十兵衛の異様な気配に気がついた風で、声をのんでこちらを見まもった。
「その男の。……」
と、お品が風のような声でいった。眼が天草四郎のむくろを見ていた。
「ふところをさぐって。……」
「お品」
と、柳生十兵衛はやっとわれにかえった。
お品という女の正体については、まだ十兵衛が横着をきめこんで、はっきり柳生衆にうちあけていないので、いま彼女をこんなところで発見して彼らが驚くのは当然だが、十兵衛とて、きょうの彼女の行動についてぴんからきりまで|解《げ》しかねるのは同じことだ。
それより、いま彼女は瀕死の相を見せているが、そも何をしようとする?
「……ふところに」
と、平岡慶之助が天草四郎をさぐって、何やらとり出した。
「こんなものがあるが。……」
べっこう色の一本の竹筒であった。
「それを」
お品は竹筒を受けとった。
いったいこの粉河寺をめぐって、どのような事態が起こったのか、|一《いっ》|切《さい》五里霧中といっていい柳生衆だが、その次に見た光景は、そもそも果たして現実のことかどうか、彼らをしてじぶんたちの眼を疑わせるに足るものであった。
お品はおののく手で、べっこう色の竹筒から一本のひからびた指をこぼし、そしてそれをじぶんの口に入れると、そのままのみこんでしまったのである。
「十、十兵衛さま」
石だたみの上からお品は|蒼《そう》|白《はく》な顔をあげた。
「お品。……いまのは何だ。どうしたことだ」
十兵衛は|膝《ひざ》をついて、お品を抱きあげた。そのとたんにお品の背中に何かが触れ、ぬれた石だたみの上に、また新しい血がながれおちてひろがった。
「お」
十兵衛はそれをお品の背から抜きとった。千枚通しのような|錐《きり》であった。それは|柄《つか》までふかぶかと背につき刺さっていたのである。
「――や、それは」
と、これまで口をぽかんとあけて立ちすくんでいた柳生衆が眼を見張った。戸田五太夫がさけんだ。
「それは先刻、わたしたちに柳生へゆけと知らせた紙を巻いて飛ばして来たものと同じではないか」
「お品」
それを抜いたことにより、お品の|頬《ほお》の色が蒼白というより半透明になって、みるみる死の|翳《かげ》をみせて来たのに十兵衛はいまさらのごとく|狼《ろう》|狽《ばい》して、
「教えてくれ、おまえはどうしたのだ?」
と、ゆさぶった。
「十兵衛さま」
糸のように細くふるえる声であった。
「紀三井寺でお品がいったこと。……」
「ふむ」
「根来の者がきいていることをかんがえに入れなければならなかったけれど……あれはほんとうでした」
「おお」
「あのとき、わたしに出来たことは、あれがせいいっぱい。……」
お品はいちど十兵衛にしがみつこうとしたが、散大しかかった瞳がおひろとお縫にとまると、片頬に淡い笑みがかすめ、
「あのひとのところへ」
と、その眼を天草四郎の死骸に移した。
「同じ外道のキリシタンとして、いっしょに|地獄《インヘルノ》へ」
そしてお品は、これまたがくりと十兵衛の腕の中でうごかなくなっていた。
【六】
やや小降りにはなったが、秋の雨は|蕭々《しょうしょう》とふりつづいている。山門の下は、もう薄暮のようであった。
「十兵衛さま」
「どうしたことでございます?」
お縫とおひろがきいた。十兵衛はお品を抱いてひざまずいたまま、
「おれにもわからぬ。……」
と、ぼんやりとくびをふった。
「拙者、きいたことがあります」
ふいに小屋小三郎がいい出した。
実は彼は、戸田五太夫の命令で、いちどこの粉河寺を立ち去った柳生衆の中から、ひとり馳せ帰って、山門の横の杉の大木のかげにそっと立ったのである。いまから思うと、そのあいだに根来衆たちが寺にやって来て、布陣していたらしい。
そして彼は、お品と妖しき若衆の問答をきいた。――小三郎はそれをいう。
柳生衆に急を告げて逃がしたのはお品、和歌山城で十兵衛に助勢したのもお品。――と若衆が指摘し、お品を山門の屋根へひきずりあげたことを。
山門の屋根で、さらに若衆の奇怪な行為と言葉がつづき、どうやら十兵衛がここにくるらしいと小三郎は知り、さきにいった仲間の柳生衆を、あわててふたたび呼びもどしにいったものであった。
「……なに、忍法髪切丸? こやつ、忍者であったというのか?」
十兵衛は天草四郎の死骸に眼をやったが、いよいよわけがわからない。
小屋小三郎も知らなかった。交合中の女人の髪を環にすれば斬人斬馬、鉄をも断つ忍法髪切丸、換言すれば、鉄をも断つ忍法を具現するためには、いのちの火花が肉体のすみずみまで散るばかり、交合の法悦にわなないている女人の髪を必要とする。それを、そうみせかけて、お品はそのあいだじぶんのいのちをよそに流出させていたのだ。すなわち、ひそかに持っていたもう一本の武器を、とうてい天草四郎を相手にふるうことは不可能と知り、みずからの手を背にまわして、おのれの背にふかぶかとつき刺したのだ。
――はてな。……やっ。
と、あのとき屋根の上で四郎が驚愕のさけびをあげたのは、それを知ったためであろうが、それでもその髪を以て十兵衛に立ちむかったのは、一抹の不安を抱きつつも、なお信ずるところがあったにちがいないし、それと相対した柳生十兵衛を、
――危ない。――
と、お品が制したのは、じぶんが死をかけて封じようとした天草四郎の忍法に、なお恐怖を禁じ得なかったからであろう。
小三郎も知らぬこのいきさつを、きかぬ十兵衛がいよいよ知りようがない。しかし、たとえきいても、まだわからなかったかもしれぬ。それよりも、さらに大きな疑問、なぜそうまでして女忍者お品が敵を裏切ったのか、これは小三郎の話をきいても、きけばきくほど、いよいよ十兵衛を混沌の霧でつつむばかりであった。
彼はぶきみな竹筒を見やって、
「……妙な奴らだな」
とつぶやいたが、それでもお品の髪を愛撫するかのごとくなでた。
十兵衛の理性はついに解することができなかったが、しかし彼の情念は理解していた。あの天守閣にのりこんでゆくとき、一点お品を信じる心があったのは、決して錯覚ではなかったことを。
「それより」
と、彼は立ちあがった。
「弥太郎は、どこらあたりまでいったであろうか?」
「――さあ」
「いよいよ以て、あの子を一刻も早くつかまえなければならぬこととなった」
――彼の顔色は蒼然たるものがある。むろんその頭を占めているのは、先刻きいた天草四郎の断末魔の声、「但馬守宗矩」という一語であった。
そんなことがあり得るか。公儀大目付たる柳生但馬守が死去して、その葬儀もすませ、子の主膳宗冬が飛騨守としてすでに家督も相続しているというのに、但馬守は紀州家に魔性のものとして生存しているなどということがあり得るか。いや、あの謹厳実直な父に、そんなばかげたことがあり得るか。
――ない!
そういいきれる自信を、十兵衛はもはや失っている。
いまにして思い出すのは、半死の木村助九郎が柳生城へ駆けつけて来たあの霧の夜――紀州家にとり|憑《つ》いている魔物は、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜、荒木又右衛門、宮本武蔵、そしてまだ二人いる、と彼がいったことだ。
その二人は柳生如雲斎と天草四郎であったのか。一人はそうであろうが、一人はちがう。助九郎は、あきらかにその名を告げることをこばんだ。天草四郎時貞、その名はまことに恐るべきものだが、すでに武蔵や又右衛門という信ずべからざる名を口にして、いまさら天草四郎をかくすことはない。
それは柳生如雲斎と柳生但馬守であったのだ。どういう事情かわからないが、あのとき助九郎たちを追撃し、助九郎たちがその名を知った六騎の中に、天草四郎はいなかったのだ。
あきらかに木村助九郎は恐怖していた。その名を告白することを恐怖していた。柳生但馬守と柳生如雲斎、それならば彼の恐怖は当然である。あのときの、断末魔の、ただごとでない黙秘がよく納得できる。――
たんに助九郎のことばかりではない。忘れることのできぬ如雲斎の言葉がある。
「大納言さまのおんために働いておる柳生の人間はわしだけではないぞ。ほかにもおる。……やがてうぬ自身の眼で見ることになろう。その日をたのしみに待っておれ。……いまきかせぬがわしの慈悲じゃ。それを他にもらせば、柳生家はつぶれるぞ。江戸柳生もかならずつぶれるぞ。わはははは……」
――父は生きている。いかにしてか、但馬守宗矩は生きている。そして、敵の魔剣士の一員として存在している!
極限までのなつかしさと恐怖、それが十兵衛の胸に逆巻いて、彼は|吐《はき》|気《け》のようなものをおぼえていた。
「弥太郎は」
と、五太夫がいった。
「子供の足でござる。潮見坂から熊野本宮まではほぼ十里でござるが、なにせ|峨《が》|々《が》たる山路、まだ本宮までついたか、どうか。ましてやそれから十津川に沿うて大和へ越える道は、われらとても来るときほとほと難渋したほどの険路。――」
「いや、あれは小わっぱながら、ただの奴ではない。おれのみるところでは、あれの足は、おまえなどより速い。――ひょっとすると、弥太郎、|猿《ましら》のごとく、もうかれこれ大和に入っておるかもしれぬぞ」
十兵衛はあきらかに焦燥し、あわてていた。
弥太郎のことについては、如雲斎のときから気にかかっていたことである。
最初木村助九郎の悲願により、紀州家の秘密を探り出したとしてもそれには眼をつぶっておくつもりであったのが、その秘密がじぶんの手にあまる容易ならぬものであることを知るに及んで、急を松平伊豆守に告げる気になった。
あのときはそれがじぶんのとるべき最善の道だと思ってそうしたのだが、すぐそのあとで、敵中に柳生如雲斎ありと知って彼は愕然とし、じぶんの早まった処置を悔いた。|甚《はなは》だ身勝手なようだが、事実だからしかたがない。
弥太郎を柳生へやってはならぬ。弥太郎に持たせたじぶんの密書を江戸へ送らせてはならぬ。
そうは思っていたが、まだ弥太郎が柳生へつくまでには時がある。それまでに何とかこちらの目鼻をつけて、とかんがえていた。何よりも和歌山にさらわれたお|雛《ひな》のことがせかれたのだ。
いま、敵中に父の柳生但馬守がいるときいて、その衝撃もさることながら、改めて弥太郎を途中でとめることがいよいよ以て焦眉の急となった。こうなると、なんといっても七歳の小わっぱ、例の密書をどこかに落としたり、放り出されでもしたら一大事、とそんなことまで気にかかってくる。
「おいっ、だれか、弥太郎を追ってくれ!」
と、十兵衛はいい出した。
「二人ばかり――そうだ、千八と小三郎、おまえら、すぐいってくれ。いや、ここからまた田辺にひき返し、中辺路を追っていてはまに合わぬ。この街道をこのまま紀ノ川沿いに大和へ入り、先回りして弥太郎をつかまえるのだ」
「はっ、かしこまってござりまする。両人、ただちに参ります」
「おい、そう気らくな返事をするな。おまえたちがそう簡単に紀州を出られるものなら、最初から出している。出るならば、おれもいっしょにとかんがえていたのだが、それができぬ。おれはどうしても、江戸へゆくという紀州侯の行列についていなければならぬ。……」
正確にいえば、紀州侯の行列に加わっているであろう父但馬守に、である。それをどうしようというのか、まだ心に確たるものはないが、ともかくもそれを捨てて離れることは絶対にできぬ。
「いま、例の根来組は逃げたといったが、きゃつら、その素性から推してなかなかあきらめる奴らではないと思われる。おまえらが紀州をさきに出るとすれば、きゃつらが追ってくることは充分かんがえられるぞ」
「はっ、承知いたしております。ほかに何か?」
「ほかには、何もない。ただ弥太郎をつかまえたら、持たせてある密書をとりあげ、ぶじに柳生に送りとどけてくれればよい」
「それから、どうします」
「そうだな。弥太郎は置いて、来たければおれを探して、また来い。――おれは大納言さまの行列にくっついているはずだ」
「大納言さまの行列は、どこを?」
「紀州家御出府の道は、恒例によればこの紀ノ川沿いに大和に入り、五条、吉野、|鷲《わし》|家《か》を経て伊勢に入られるはず。してみると、吉野を越えてくる弥太郎とは、五条あたりで十文字にすれちがうことになるが、行列の足なみ、弥太郎の駆けようによって、どちらが早うなるか、おれにも見当がつかぬ。――」
それよりも、紀州家の行列にくっついてゆくじぶんはいったいどうなるのか。どうしようというのか。千八や小三郎がふたたび参加してこようとするとき、果たしてじぶんはどこにいるのか、そもそもこの世に生きているのか、その方が十兵衛には見当がつかなかった。
敵中に父但馬守宗矩がいるということを、柳生衆に告げるべきか否か。
彼はいままで柳生衆にいちいちすべてを相談して来たわけではないが、それはかえって彼らを信じているからだ。或いは彼のぶしょう、横着のせいだ。これまではそのぶしょう、横着をきめこんでもそれで通ることであった。しかし、こんどばかりは。――
打ちあけずにはすむことでない。と思うにもかかわらず、同時にこればかりは、いまどうしても口にすることさえ恐ろしい事実であった。
「……先生、われわれはこれから?」
磯谷千八、小屋小三郎のみならず、あとの柳生衆や二人の娘も、もの問いたげに十兵衛を見上げたが、なぜか惨憺として鳥肌立っているような十兵衛の顔色に、思わず息をのんだ。
いちど小降りになった雨が、またはげしくなった。
ひとしきり雨けぶりが山門をつつんで――そして、それがややうすれたとき、磯谷、小屋はもとより、十兵衛以下の柳生衆たちもどこへいったか、山門から姿を消していた。
【七】
それからさらに十数分。――
粉河寺の門前を、西から東へ、魔の一族みたいに山伏のむれが通りぬけようとして、
「あれはどうする」
と、ひとりが山門の方をあごでさすと、みな立ちどまった。
「一印坊たちのむくろは」
「それに天草どのらの死骸もある」
「いや、捨てておけ」
「こうなっては、柳生十兵衛らを逃がさずに討ちとることこそ、何よりの朋輩への|手《た》|向《む》け、また紀州家への面目」
「ともかくも、おめおめと柳生衆たちを紀州領内から出してはならぬ」
いうまでもなく根来組だ。
先刻十兵衛から|面《おもて》もむけられぬ疾風の一撃をくらって、おぼえずも平常心を失って|潰《かい》|乱《らん》し、西の方へいちどは逃げたが、こうなってもさすがに踏みとどまって柳生衆のうごきを遠くから見張っていた一人から、彼らが東の方へ去ったことをきくと、ようやくわれにかえってとって返したものであった。
一印坊たちのむくろは、といったのは、十兵衛に一薙ぎでたおされた五人の仲間のことだ。
「ゆけ」
まなじりを決してまた駆け出そうとしたとき、
「待ちや、根来の衆」
と、山門の下から呼んだ者があった。
山門の屋根からすだれみたいにおちる雨の向こうに、ひとりの女が――しかも、三角の柿色頭巾をつけた影が立っていた。
「や」
一瞬、根来衆はぎょっとした。お品かと思ったのだ。
彼らのうちには牧野兵庫頭の屋敷に連絡のためしばしば交互に往来している者が少なくなかったから、そこでお品が、ほかの魔剣士と同じくそんな頭巾をかぶっているのを見たことがあったからだ。
「お品どの……?」
「と、一体の者でした」
と、女は過去形でいった。
すぐに彼らは、それがきのう江戸から来たもう一人の女だということを知った。すでにそんな情報も入っていたのだ。そうとは知らずとも。――
「そなたら、弥太郎という子供を知っていますか?」
という問いをきけば、その女をお品と「一体の者」と察せざるを得ない。
いや、その問いをきいたとき、
「弥太郎?」
だれかひとり、すっとんきょうな声をあげたが、同時にみな愕然としていた。
「おお、そういえば。――」
「あの餓鬼、いったい、いつ消えたのだ?」
甚だ|迂《う》|闊《かつ》なようだが、あんまりその対象が小さすぎて、それが消失していても、とんと彼らの念頭に奇異の思いが浮かばなかったのは事実であった。
「その弥太郎という子供が、十兵衛の密書を持って柳生へ走っているということを知らぬかえ?」
「――あっ」
泥濘の往来から、文字通りいっせいに彼らは飛びあがった。
――そういえば、きゃつ、いつ消えた? 熊野路を、湯崎まではたしかにいた。それから。――
「その子供は熊野本宮から吉野を越えて大和に入っている」
柿色頭巾の女はいった。
「十兵衛の密書とは、おそらく紀州家の秘事についてのものでありましょう。それが、柳生へ運ばれるか、もしくは途中でほかの何者の眼にふれてもとりかえしのつかぬ一大事となる。そのことはわかっていますね?」
根来組は、みな声もなくがくがくと|叩《こう》|頭《とう》した。女はくりかえした。
「そなたら、その子を知っていますか?」
ものもいわず、七八人、駆け出そうとした。
「待ちや、その通り、何としてでも先回りしてその子を斬ってもらわなければならぬ。――けれど、みながみな、ゆくこともあるまい。残って、こちらの用をしてもらわねばならぬ者もある。何人いる? ……十七人。では、そのうちの五人でよかろう」
ベアトリスお銭は命じた。
「ただし、弥太郎を――護るために、柳生衆が二人ばかり、これまた先に大和へ入ったことも承知しておくように。むろん、これも柳生へゆかせず斬らねばならぬ。音にきいた根来衆が五人もおれば、それはたやすいことのはず。――」
夜に入ってようやく雨があがり、その雨にさらされたような秋の月の出た粉河の宿駅に、ぬれつくした人馬の一隊が入って来た。
いうまでもなく出府しようとする紀伊大納言の大行列である。
江戸時代参勤交代の人数は、二十万石にしてすでに騎馬の武士十五騎から二十騎、|徒士《か ち》百二十人から百三十人、|中間《ちゅうげん》足軽二百五十人から三百人、すなわち多きは四百五十人に上ったという。いわんやこれは徳川御三家の一つ、五十五万五千石の行列だ。供侍は千人にちかかった。
これだけの人数が、雨がふったからといって、臨時にどこかへ泊まるわけにはゆかない。どうしても予定してある宿場にまでたどりつかなければならない。紀州侯の行列の第一夜の泊まりはこの粉河ということになっていた。
雨にぬれそぼち、ここまで一行がひた押しに進んで来たのは、しかしこんな都合ばかりではない。大納言の意志でもある。
江戸へ。――
将軍死床にある江戸へ。
いったい大名は、本人のほしいままに江戸へ参勤し、また国へ交代できるものではない。外様は四月、譜代は六月ときまっており、特別の場合は幕府の許可を要する。紀伊頼宣は、この六月に帰国したばかりだ。それがこの秋、はやくもふたたび出府する。むろん幕府のゆるしは得ていない。
御三家なればこそ通ることだ、と家来たちは信じた。
この場合だからこそ通る、と頼宣自身は信じている。
無断で出府することは一つの冒険だから、将軍の病状についてはよくよく念を入れて江戸屋敷からの報告を待っていた。それが、いよいよ将軍の死はまぬがれがたし、という急報に、待つや久し、とばかり腰をあげて、和歌山をあとにして来たのだ。おそらくこの道中、将軍の死の報告を受け、出府したときはまだ幕府は混乱のさなかにあるであろうと彼は見ている。そのときにあたって、じぶんの無断出府のごとき、|咎《とが》める力のあるものが柳営にあるか。――あるはずがない。
しかも大納言頼宣は、示威の意味をかねて、千に及ぶ人数に、おびただしい鉄砲隊、槍組を加え、雨にぬれそぼっているとはいえ、この行列にはむしろ戦気ともいうべきものが、月光に銀粉のごとく尾をひいていた。
――この大集団が宿泊する騒動がおさまったその夜ふけてのこと。
粉河寺の山門の下に、一群の影がわだかまっていた。
「……ということで、柳生一味の行方こそ見失いましたが、それは心配ござりませぬ。十兵衛は決して御行列を離れず、当分あとをうかがってくるに相違ござりませぬゆえ、この十二人の根来組を以て探らせれば、数日のうちにもその所在は判明するものと存じまする」
頭巾をかぶってはいるが、声は女だ。ベアトリスお銭である。
牧野兵庫頭は不安と不快の表情をあらわにして、石段に座っている十二の山伏の影を見下ろした。
「七つの子を密使としたか。――」
と、べつの三角頭巾がいった。武蔵の声である。
「兵法の妙じゃな」
「それにしても十兵衛は、なぜみずから密書を託したその子供を、あわててとらえようとしておるのか」
と、第二の頭巾の男がいう。荒木又右衛門だ。――ややあって、
「……ひょっとすると、わしのことを感づいたのではないか。お品めが申したのかもしれぬ」
と、第三の頭巾の男がいった。柳生宗矩である。
「わたしがこの山門のちかくへ来て、十兵衛と柳生衆の問答をきいたのは、もはやクララも四郎どのも落命したあとでしたから、それはわかりませぬが」
と、お銭がいった。
「目的こそちがえ、二人の柳生衆と五人の根来組が探して追いまわせば、その子供の件はいずれにせよ心配はございますまい」
「それよりもベアトリス、なにゆえおまえはいちはやくここへ来たのか」
と、又右衛門がきいた。
「兵庫頭さまから忍び綱のことをきいたとき、わたしはお品の裏切りを直感したのです。そのまえ、わたしが江戸から来たときから、お品の様子が何やら以前とはちがっているのに、わたしは不審の思いがしておりました。で、四郎どのが二人を追っていったときいて、もし万一、四郎どのが返り討ちにでもなったら、指の件が気にかかると。――」
「指?」
と、兵庫頭がきいた。
「宗意軒さまからいただいて来た、女を魔界転生の忍体と変える指。それは四郎どのがあずかっていると、四郎どのからききました」
「おう、それがどうなった」
「二人の死骸を探したところ、案の定どこにもありませぬ。わたしの見るところでは、お品が始末したに相違ございませぬ。あくまで十兵衛に味方するために。――あの中指がのうては、女を忍体と変えるわけには参りませぬ」
「……で、では、せっかくお雛をとらえて大納言さまに献上しても、なんの役にもたたぬではないか」
「仰せの通りです。ただ……江戸にはまだ二本の指が残っておりまする」
「江戸に」
「宗意軒さまの人差し指と親指が一本ずつ」
「ううむ」
「ただしその親指は、宗意軒さま御自身の御転生のため。ですから残るは人差し指一本だけでございます。それを大納言さまに使うか十兵衛に使うか。……もとより大納言さまの方が大事、もはやこうとなっては柳生十兵衛転生の儀はすっぱりあきらめ、あの男を斬るよりほかはないと宗意軒さまもお覚悟なさるとは存じまするが」
と、ベアトリスお銭は凄然といった。
「いずれにせよ、御下知を承り、またその一本の指を頂戴するために、わたしはいそぎ江戸へ飛び、すぐにひき返して参りまする」
子をとろ子とろ
【一】
紀州田辺東方の潮見坂から|中《なか》|辺《へ》|路《ち》を東へ約十里で熊野本宮。
熊野から北へ三里、その名も荒涼たる|果《はて》|無《なし》山を越えて吉野に入る。
吉野を、十津川に沿うて北へ、約十五里で天の辻。
書けばこれだけだが、事実歩けばたいへんだ。これは昔から山岳宗教の山伏くらいしか通らない道である。文字通り深山幽谷とはこの順路のことをいうのだろう。
柳生衆はこれを逆に南へたどって熊野に入ったのだが、彼らですらヘトヘトになった。正木坂道場の荒修行もこの苦労には遠く及ばない――と、口には出さないが、だれしも心中に痛嘆したほどであった。
その山路を、七つの弥太郎は歩いた。
子供の足である。ふつうなら一日にせいぜい三里も歩けば、あくる日はへたばっている嶮峻悪路だ。しかも、彼は遊ぶ。手にした小さな仕込杖で、渓流の魚をついてみたり、梢にとまった鳥をびっくりさせてみたり、紅葉の一枝を切って肩にかついでみたりする。
熊野吉野の山々は、もの|凄《すご》いほど美しい紅葉であった。
その中を、小っちゃな巡礼姿が、白い小鳥みたいに飛んでゆく。
はやいのだ。――十兵衛がいったように、この七つの少年の足が、柳生衆のあらくれ男よりも、はかがゆくのだ。
腹がへれば、山中の百姓の家や木こりの小屋に寄って、「巡礼に御報謝」とやる。何もないところでは、柿をもいでくう。木の実をくう。くたびれれば、昼であろうが、夜であろうが、草の中、岩の上にごろんと大の字になって、スヤスヤと寝てしまう。この子は、疲れも恐れも知らないかのようであった。
関口弥太郎。
むかしの講談では、父の関口柔心より、この弥太郎の方が有名であった。すなわち、寛永十一年に行なわれたという、いわゆる「寛永御前試合」に彼が出場して、おなじく柔術の名人渋川伴五郎と試合したということになっている。しかし関口弥太郎は寛永十七年の生まれだから、これはあきらかに嘘である。
ただ「祖公外記」という書に、こんなことがのっている。
「関口柔心弥太郎を召され、その武術を御覧あそばさるとて、池の端へ木枕をすえ、その上に踏み立たせられ、そのころ剛力の名を得候根来法師の山本|丹《に》|生《う》|谷《こく》なる者に弥太郎を突きたおし候よう仰せつけらる。丹生谷は走りかかりて突くに、弥太郎びくとも動かず、三度突くに少しも危うからず、これによりていまいちど突き候ようにと仰せつけられ、また突きかかり候えば、弥太郎は木枕の上にて身ひらき、丹生谷は勢いあまりて池へ飛びこみ候。云々」
父の名を恥ずかしめなかった名人であったことはまちがいない。
――それにしても、これを見ると、のちのちまでも弥太郎は、根来法師とやり合っていたとみえる。
まさか、そこまで予想もしなかったろうが、さすがは柳生十兵衛、この弥太郎の素質を、ただの子供ではない、と幼童のころから見ぬいたようだ。さればこそ、大事を密書につつんでこの少年に託したのだが。――
で、弥太郎は、熊野から吉野へ、鳥のごとく羽ばたいて、天の辻村までやって来た。
このあたり、その昔元弘の変に大塔宮|護《もり》|良《なが》親王が潜伏せられたところ。またずっと後年の幕末に、いわゆる天誅組がたてこもり、十津川の郷士を集め、幕軍と血戦したところ。――
急な山の斜面に、わずかな耕地があるばかり、あとは物凄じいばかりに|亭《てい》|々《てい》とそびえ立つ杉、いわゆる吉野杉の屏風にはさまれたような村に、ただ点々と柿の色が、染まるばかりの碧空に浮いて美しかった。
「おんや?」
村を出ようとして、弥太郎は立ちどまった。
「ドン助はどこにいった?」
きょろきょろとまわりを見まわして、
「ハヤ助、さがして呼んでこい!」
といった。
人間ではない。あとになりさきになりしてついて来ていた二匹の犬のうち一匹が、まるで人間みたいにうなずいて、うしろにひきかえしてゆく。犬というより、狼のようにやせこけて、物凄い顔をした犬だ。三匹の犬を、弥太郎は熊野の山中からつれて来た。つれて来たというより、いつのまにか勝手について来たのだが、これはひょっとすると、動物学的には狼であったかもしれない。
彼はこれに、ハヤ助、タ助、ドン助という名をつけた。和歌山にいるともだちの名だ。
「おなかがすいたな、タ助」
じぶんのあたまより大きい犬のあたまをたたくと、タ助は眼をほそめて、少年にあごをあげる。
「……あ、柿をとってら」
と、弥太郎はふと前の方の空を見あげた。
風雨にさらしぬかれて黒ずんだ板屋根の向こうに、杉の大木にも匹敵するような大きな柿の木があって、柿が鈴なりになり、そこに四五人の子供がのぼっている。
「あれ、もらってこよう」
駆け出すと、タ助もついて走って来た。
いってみると、柿の木の下にも、ざるやかごを抱えた村の子供たちが群れていて、上から投げおとす柿を受けて、しくじったり、ころんだりして、わいわいと大さわぎをしている。
「じゅんれいに、ごほうしゃ」
と、弥太郎はいいながらちかよった。
子供たちはキョトンとして、小さな巡礼姿を見まもった。
「わかんないか。おれにも柿くれよ」
「やだ」
と、ひとりの子供がくびをふり、
「おめえ、なんだ」
「どこの子だ」
「親のない子だろ?」
と、鼻じるを頬っぺたにぐいとこすって、子供たちがまわりをとりかこんだとき、足もとでタ助が、わわわう、と吠えた。向こうから、ハヤ助とドン助が走って来た。
「これ、オオカミだぜ」
と、弥太郎がまるい鼻をうごめかすと、
「こわい!」
二三人いた女の子がとびさがった。それでも柿の入ったざるは背中に回すのを見て、弥太郎はニコニコ笑いながら、
「それくれとはいわないよ。くれるなら、木にのぼってとるよ」
といった。
「いいかい?」
そういったときには、その白い姿は六尺も高い枝へ飛び、くるっとまわると、また高い枝へ飛び――あれよあれよというまに、柿の実と、もいでいる連中がぶらさがっている梢の方へ上っていった。
しかも、片手に仕込杖を持ったままである。
「いいね?」
にっと白い歯を見せたかと思うと、もう赤く熟れた一つをもいで、がぶっとかぶりついて、
「うまいや!」
と、さけんだ。
それまで毒気をぬかれたように、この傍若無人な小さな旅人を見ていた餓鬼大将たちが、やっとわれに返って、おそるおそるきいた。
「おまえ……どこからきた」
「熊野から」
「熊野?」
みんな、顔を見合わせた。
「からすか?」
「権現さまのからすじゃないか?」
「熊野のからすさまは白いのか?」
などと、ひそひそと話している。熊野権現の使いは鴉だと信じられ、そのころの起請文にはかならず鴉のかたちをしたいわゆる「熊野|牛《ご》|王《おう》」の印をついたことから、彼らはこんな疑惑を抱いたのだ。
そんなことは、弥太郎は知らない。ただ、
「からす? ……おれがからす?」
それだけが面白かったらしく、
「そうだよ、おれは弥太郎がらすってんだよ」
といって、また夢中で柿をくうのにかかったが――ふっとそのとき、往来の向うを見て、
「――おんや?」
と、また眼をまるくした。
【二】
北の方から村に入って来た五人の山伏がある。
「……ここはどこだ」
「たしか、天の辻だ」
ちらっと路傍の柿の木の下に群がっている子供たちを見たが、ひとりが指おり数え、
「子供の足だ。湯崎で最後に見た日から数えても、いくらなんでもまだここまでは来ていまい。――」
と、精悍な足どりで、ヒタヒタと通りすぎてゆこうとした。
そのひとりの後頭部に何か飛んで来て、ぐしゃっとくだけた。
「わっ」
ふりむいて、路上にころがった柿を見て、
「わっぱども、何をする!」
柿の木の下をにらみつけたのは、てっきりいたずら者はその子供たちだと思ったからだが、大人げもなく歯をむき出して、とって返そうとしたその一人の顔面へ、また柿の実が飛んで来て、ぐしゃっとくだけ散った。
はじめて、空を見て、
「……いたっ」
まるで猛獣の子でも発見した猟師みたいに大げさなさけびをあげたのは、むろん根来組だ。――熊野から吉野に入ったはずの弥太郎を探して始末せよ、というベアトリスお銭の命令に、紀ノ川から五条へ抜け、逆に北から眼をひからせて探し探し入って来た彼らであった。
「へんなとこへ出てきたなあ、からす天狗」
と、高い木の上で弥太郎はくびをひねっていた。
「おれは熊野の弥太郎がらすだ。どっちがつよいか、やって見ようか」
そしてまた柿を投げつけた。
いったい、どこでこの連中の顔をおぼえていたのか。彼らが山伏姿に化けているのをどこでおぼえたのか、七つの子供にしては珍らしいが。また七つの子供なればこそ、相手が何に化けようと、いつか――熊野路で人数を勘定したときの記憶が、ピシリと柔かい脳髄に刻まれていたのかもしれない。ともあれ。――
――知らない顔をしていれば、向うも気づかずゆきすぎてしまうものを、そこが子供だ、しごく無邪気に、じぶんのいのちを狙う連中をわざわざひっぱり寄せてしまった。
「こいつ!」
「おとなしく、降りて来い!」
五人の根来衆は木の下に駆け寄って、あおのいて口をひっ裂いて、木をゆさぶった。
「おまえ、カニににてるな。これをやろう、そらっ」
ケラケラ笑いながら、上からまた柿を降らしてくる。
「タ助、ハヤ助、ドン助! とびかかれっ」
わわわわうっ、と凄じい吼え声とともに、三匹の犬が五人の山伏に躍りかかった。狂ったように五本の金剛杖が一閃したが、犬はみごとに空中で回転して逃げた。逃げたが、すぐに姿勢をひくくして、ぶきみにうなりながらまた這い寄ってくる。
「わあああん」
「わあああん」
これは人間の子供の泣き声だ。木の上、木の下、子供たちがこの|椿《ちん》|事《じ》にびっくり仰天して、いっせいに泣き声の一大合唱をはじめたのだ。
あっちこっちの家々から、大人が顔を出し、さらに飛び出して来た。
「ううぬ、もはや容赦ならぬ」
いまさら、もはや、もないが、ひとりが殺気をむき出しにした形相になり、手にしていた金剛杖をかまえると、大空めがけて投げあげた。
びゅっと風を切ってその杖は、狙いあやまたず高い梢の弥太郎のからだへ飛んでゆき、そして小さな子供のからだが、折れた枝とともに、もんどりうって地上へころがり落ちて来た。
――いかんながら、弥太郎ではない。
弥太郎のすぐ下の枝につかまっていた餓鬼大将のひとりが、耳もとをうなりすぎた杖に胆をつぶして、枝を踏み折って落ちて来たのだ。
「きゅう」
|蛙《かえる》みたいに地べたにへたばった子供をかえりみるいとまもなく、
「あっ、きゃつ。――」
五人の山伏は、口をあけて大空に眼を泳がせていた。
金剛杖が飛んでくる寸前、弥太郎のからだは鳥みたいに空を|翔《か》けて、そこから一丈以上もある一軒の草屋根の上へ飛び移っていた。
その草に、ぽつ、ぽつ、と横なぐりの|雹《ひょう》みたいな穴があいた。狼狽しつつ根来衆が投げたマキビシのあとであった。
が、小さな影は、屋根の向うに消えてしまった。消えるとき、ちらっとふりむいて、「アカンベー」をしたようだ。
「た、た、たわけっ」
|罵《ののし》ったのが、じぶんたち自身に対するもののようで、彼らは怒りに逆上して、どっとその方へ駆け出した。
すると、
「何さらすっ」
「この乞食山伏っ」
もう十数人となった百姓や女房たちが、|鍬《くわ》や鎌や|斧《おの》を持って走って来た。泣きわめいている子供、地面にたおれている子供、そこから駆け出して来たのがいずれ劣らぬ人相の悪い山伏たちだから、これは誤解されるのがあたりまえだ。
「うるさいっ、どけ!」
うしろなぐりにふるう金剛杖に、二三人の百姓が顔を血に染めてころがったが、あとの百姓たちは逃げればこそ。
「みんな来うっ」
「子供殺しの偽山伏があらわれたぞ!」
のちの天誅組の御先祖さまたちである。いやこの当時すら、たとえ痩地を耕し、深山の|木樵《きこり》をしようと南朝の末孫であると誇っている十津川沿いの農民である。
「いのしし狩りの弓を持って来い」
「楠木流[#電子文庫化時コメント 底本・ノベルス「楠流」、S46全集・角川文庫「楠木流」に従う]ののろしをあげろやいっ」
鍋をたたくひびきにまじって、法螺貝の音さえきこえ出した。
「これはいかん」
さしもの根来衆が、狼狽その極に達したが、あわてたはずみに忍者らしくもなく、つんのめってころんだ奴もある。たちまち背や尻にふり下ろされる棒や鍬の乱打から、
「こなくそっ」
わめいてまた四五人の百姓をはねとばし、死物狂いに仲間を追って逃げ出したが、脳天から朱を浴びたように血に染まった姿であった。
とはいえ、さすがに根来組だ。山道に馴れた村人たちをみるみるうしろにひき離すほど逃げ足は速かったが、その彼らよりももっと猛速力で、執拗に彼らを悩ませたものがある。
しきりに足もとに飛びついてくる三匹の山犬であった。
「……畜生」
「しっ、しっ」
畜生といったって、その通り畜生なのだから、全然こたえない。
この犬には、まったく弱った。いかに|剽悍《ひょうかん》な山犬にしろ、根来衆がその気になれば始末はできたろうが、一方で彼らは弥太郎を追わなければならないのだ。
さて、その弥太郎だが。――
【三】
この場合、もういちど南へ逃げたら、根来組とのあいだを村人にへだてられ、うまくゆくえをくらますことができたかもしれないが、彼にそんな気はない。
弥太郎は柳生へ――従って、断じて北の方角へゆくつもりだ。いま来た道をひき返すなどいう心はさらにない。だから、やっぱり北へ逃げた。
それで、これを追う根来衆も、その点だけは助かった。
屋根から屋根へ、木から木へ飛ぶ弥太郎の影を、ちらっちらっと見たことで、彼の逃げた方向だけはわかった。わかったが、追跡に馴れた根来衆でさえ、あっというまに見失ってしまう小ささであり、かつ敏捷さであった。
しかし、いったい彼は、ほんとうに逃げるつもりでいるのか。
血相かえて山道を駆けてゆく五人のうしろから、
「ばあ!」
という声がきこえたかと思うと、路傍に積んである藁の束から、四つン這いになって可愛い顔をつき出してみせる。
かと思うと、両側の深い杉木立ちの中から、
「ここまでおいで。鬼さんこちら、手のなる方へ。――」
パチパチと手をたたく音がきこえて来たりする。
まるで遊んでいるとしか思えない。この少年は、五人の山伏との死の鬼ごっこをいい気になって面白がっているようだ。
「わ、わっぱ、どこへいった?」
「おお、犬があっちで吼えておる。あっちだ!」
谷を飛び、渓流をわたる。それが、さしもの根来衆にも冷汗三斗の難所だ。
このあたりの谷は、あっちこっちの谷に蔓を張り、「野猿」という籠を吊るしてある。おっかなびっくりそれをわたり、岩頭でさもそこに親しい人間がいるかのように尾をふっている一匹の犬を遠くからとりかこみ、ジリジリとつめ寄ってゆくと――これはしたり、谷の反対の方角から、びょうびょうとべつの犬の吼え声と明るい子供の笑い声がこだましてくる。――犬までが少年と一心同体となって、彼らをからかっているようだ。
まったく子供一人を追っているとは見られないありさまだ。惨澹たるものだ。
ひとりの山伏のごときは、百姓たちの袋だたきにあった傷が痛み出して、仲間の肩にかつがれんばかり。
「……いたっ」
その昔、後村上院が|行《あん》|宮《ぐう》を作られたという|賀《あ》|名《の》|生《う》の里から|丹《に》|生《う》川に沿って、ヨロヨロと北へ歩いていた三人の山伏の前方から、二人が駆けもどって来た。
「わっぱがいたぞ、ふとい奴、のんきそうに、犬といっしょに飯をくっておる」
「どこに?」
「宇智村の酒屋の裏庭だ」
「なぜたたッ斬らぬ?」
「酒屋の|杜《とう》|氏《じ》たちが、おこわを与えて、面白がってきいておるのだ」
よほどさっきの騒動にこりたとみえる。それはともかく、じぶんたちが空腹で、ヘトヘトになっていただけに、彼らは満面朱色に染まった。
「逃すな」
負傷していた山伏までが、朋輩の手をふりはらって走り出した。
「酒屋はどこだ?」
「こっちだ」
宇智村に入ると、彼らは息せき切って、その裏庭へ駆けこんだ。
「そこの樽へチョコナンと腰かけておったのだが――はてな?」
「だれもおらぬではないか」
広い裏庭には、大小無数の酒樽や桶が伏せてあるばかりだ。
向こうに二つ三つならんだ蔵では、米を|搗《つ》いているのか蒸しているのか、酒男たちの哀調のあるのんびりした唄声がきこえる。
しかし、見わたしたところ、裏庭には、弥太郎はむろん、男たちの姿は一人も見えなかった。
「逃げたか?」
「や。腰をかがめろ!」
「いたか!」
「犬だ。あそこを見ろ、例の犬が二匹、あそこに座っておる。気づかれてはならぬ」
「いかにも。では、わっぱもまだこのちかくにいるのだ」
「ひょっとすると、あっちの酒蔵で、酒造りを見物しておるのかもしれぬぞ。……」
ものものしげな会話を交わしつつ、五人は桶のあいだをばらばらに分かれて、酒蔵の方へちかづいていった。
――と、どこかで、
「あはははは」
という子供の笑い声がきこえた。あきらかに、作り笑いだ。
「桶の中だ!」
「ば、ばかな。――ひとをあくまでもばかにしくさって!」
憤然として、左右前後にひかる眼を回した。秋の日ざしに、酒と吉野杉の木の香が匂う大きな樽のむれが鎮座している。
「……や?」
ひとりが、その中の一つに耳をかたむけた。
「ここだ。……この中におるぞ!」
たしかに桶の中で、何者かが呼吸し、しのびやかにうごいている気配がする。
こちらはぎらと眼をひからせ、してやったり、とニヤリと笑い、忍法僧独特の怪奇な構えでソロリソロリとちかづくと、いきなりぱっとその桶をひっくり返した。とたんに。――
「わわわわわうっ」
凄じい咆哮とともに躍りあがって来た一匹の山犬が、がぶっと彼ののどぶえにかみついた。
それに劣らぬけものじみた悲鳴をあげてふりはらおうとしたが、犬はのどぶえから離れない。山伏は犬のくびに両手をかけたままころがった。
「あっ、戒岳坊っ」
ほかの四人が猛然と駆け集まったが、しばらくは手も出せぬほどの、人と犬の区別のつかぬ死闘であった。
……ようやく戒岳坊は、犬を絞め殺して立ちあがろうとしたが、すぐにまたがくと四つン這いになってしまった。
「ううぬ、子供の分際で。――」
やがて、戒岳坊はふたたび起きあがって、のどを押えながらうめいたが、おびただしい流血ばかりか、どこやらそのあたりから息さえもれているようだ。
犬がひとりで桶をあけて入りこみ、また伏せてしまうという細工をやるわけはないから、どうしても人間の知恵だが、七つの子供のやることにしては念が入りすぎている。
「まさか、逃げたのではあるまいな」
「いや、さっき笑い声のしたのは事実だ」
五人、文字通り、血まなこになって桶のあいだを縫って歩き出した。さっき笑い声のきこえた方角は見当がついているので、そのあたりの桶を、片っぱしから、へっぴり腰で金剛杖をさしのばし、ずずっと押してずらしてみる。……
「むっ」
と、やがてひとりがひくくうなった。
「……おる」
みんな駆け集まった。いま犬にくいつかれた奴が、
「待て」と割れた風笛みたいな声をもらし、
「また、犬ではないか?」
「ちがう。犬は……一匹殺し、あと二匹は先刻、外をうろついておるのを見たではないか」
「おお、そうだ。――では!」
五人、色めき立った。二人ばかり、地べたにピタリと耳をつけた奴もある。……その桶の中に、何者かがいることはまちがいなかった。何者か――もはや弥太郎にきまっているが、それが七つの子供であることに気づくと、さすがに彼らもじぶんたちの仰々しさがばかばかしくなったとみえて、
「わっぱ! 出い!」
三人ばかり飛びかかって、いっせいにその大きな桶をはね返した。
「ぎゃっ」
「うふっ」
一瞬、ふたりがつんのめり、のけぞり返った。
つんのめったのは、踏み出した右足をひざから切断されたからであり、のけぞり返ったのは、その胴から逆袈裟に斬りあげられたのだ。……この相違は、桶がはね返されてひらいていった時間的、空間的な差から来た。
「――おウおっ」
残りの三人の山伏は飛びさがり、立ちすくんだ。彼らは、ひっくり返った桶の中から、にゅっと立ちあがった人間を見た。
弥太郎ではなかった。同じ巡礼姿だが、髯だらけの大男であった。
「柳生十人衆の磯谷千八だ! 正木坂道場の腕前を見たかっ」
一刹那に二人の根来僧をたおし、意気昂然とさけんで躍り出そうとした磯谷千八ののどぶえに、ぶさと一本の手裏剣がつき刺さった。
思いがけぬ人間の出現に、驚愕して立ちすくんだのも一息、三人の山伏のうち一人が転瞬に手裏剣をはなったのは、さすがに根来者らしいわざをはじめて発揮した凄じい反射的行為であった。
【四】
「おうい、待て」
宇智村から五条へ駆けながら、小屋小三郎はあわてた声をはりあげていた。遠く、二匹の犬と、弥太郎がすっ飛んでゆく。
犬はともかく、弥太郎のなんという速さ。若い小三郎が息せき切って追っかけても、二三度うしろをふりかえっていたりすると、いまにも見失いそうだ。
――弥太郎を探し探し、五条から宇智村へ入って来て、酒好きの磯谷千八が造り酒屋へふと色気を出して立ち寄ったことから、偶然めざす弥太郎がそこにいるのを見つけ出した。そして、とりとめのない彼の話から、弥太郎が現在五人の山伏に追っかけられていることを知った。――あきらかに、根来組に相違ない。
とこうしているうちに、はやくも、
「酒屋はどこだ?」
「こっちだ」
というそれらしいさけびをきいた。
酒樽の待ち伏せ、という兵法を思いついたのは磯谷千八である。むろんそのあいだに小屋小三郎に弥太郎をつれて逃げのびさせるためだ。
ところが――かんじんの弥太郎が、桶の中に入った磯谷千八を面白がって、羨ましがって、なかなか逃げ出してくれないのには手を焼いた。
それをようやくつれ出して、さきに五条へ走ったものの、さすがにあとに残して来た磯谷千八が気にかかる。なあに、たかが根来のからす天狗、正木坂道場荒修行の腕を以てすれば、五人はおろか、七八人でも朝飯前だ、と千八は豪語したが、はたして大丈夫であろうか。
弥太郎さえいなければ、むろんじぶんも残って彼らとたたかうところだ。いまはともかくもあの少年を敵の追跡からひき離さねば――と、弥太郎の手をつかんで走りに走ったのだが、それでもあとのことが気にかかって、二度三度ふりかえり、のびあがっていると、こんどはまた駆け出した弥太郎の速いこと。
「待て、待ってくれ、おうい」
こっちも逃がしたらたいへんだ。十兵衛先生に頼まれたかんじんの用事はまだ果たしていない。
「これ待て、おれから逃げることはない」
五条の町に入り、その広い辻で、やっとつかまえて、
「弥太郎、おれたちが来たのはな」
と、あえぎながらいった。
「おまえ、十兵衛さまから大事なものをあずかって来たろう。それをもらいにやって来たのだ。さ、わたしてくれ」
すると、弥太郎は、じろっと見あげて、
「いやだい!」
と、さけんだ。
「いや?」
思いがけない拒否に、あっけにとられて顔を見ていると、
「おまえもあのからす天狗のなかまか。あばよ!」
と、また一目散に逃げ出した。
「あっ、これ、待ってくれ!」
小三郎は仰天して追っかけ、少年の腕をとらえ、若いから容赦もなくその小さな腕も折れんばかりにつかんで、
「だますのではない。おれがおまえをだましてどうするのか。ほんとうのことだ。まったく十兵衛さまから、おまえの持っている密書を破り捨ててくれと頼まれて来たのだ。……」
「おれも先生からたのまれたんだ」
と、弥太郎はいった。
たんなるききわけのなさではない。子供ながら頑とした面だましいだ。
「このてがみを柳生へとどければ、父上のかたきうちになるってきいたんだ」
「それが……そうでなくなったのだ」
と、いったが、小三郎も実は苦しい。苦しいというより、彼自身よくわけがわからない。
弥太郎のあずかっている密書が、紀州家の秘密にかかわるものであろうことは見当がつくが、それを至急、どんなことがあってもとりあげて破り捨てろといった十兵衛の命令がよく理解できないのだ。理解できないが、あの十兵衛の顔色はただごとではないし、そうでなくても十兵衛の命令は彼にとって絶対的である。――
「さ、いい子だから、おとなしく渡して。――それを渡さないと、父上は――いや、姉上のいのちも危いということになったんだ」
「それ、ほんと?」
「ほんとだったら!」
「じゃ、十兵衛先生にきいてくる」
小三郎の手をふりはらい、いま来た道の方へ走りかけるのを、またつかまえた。
「そっちへいったって、十兵衛先生はおられない。――」
そして小三郎は、はじめてここが五条の町の広い辻であることに気がついた。ぐるっと見まわして。――
「やっ、あれは」
はじめて気がついた。辻の一角に本陣らしい建物があって、その門に|葵《あおい》の紋を染めた白麻の幕が張られ、一丈くらいもある柱を立てて、その上に、
「紀州大納言様御泊」
という大きな木札があがっている。――
いちどぎょっとしたが、すぐにそのあたりの様子から、紀州一行がまだそこに泊まっているわけではないと判断した。時間的にも紀伊の行列がこの五条に入ってくるには早すぎる。この木札を関札というが、関札は前以て本陣のまえにかかげるものだから、これは予告に相違ない。
小三郎は四つ辻の西の方を見た。紀州の行列はそちらから来るはずだ。そして。――
「十兵衛先生の来られるのはあっちだ。そ、そうだ、きょうの夕方までにも、先生はこの五条へ入って来られるだろうが。――」
と、うなずきつつ、ふりかえると、弥太郎がいない。
「おれ、やっぱり、柳生へゆくよっ」
と、北へゆく街道で、彼は顔だけこっちへねじむけてさけんでいた。
「先生からたのまれた用、やらなきゃさむらいの子のはじになるよ。――タ助、ドン助、おっかけてくるやつ、だれでもいいからみんなかんじゃえ、そらっ」
足もとにもつれ合っていた二匹の山犬が、猛然と馳せかえって来て、小三郎めがけて吼えかかった。
その凄じさに、思わず小三郎は仕込杖に手をかけたが、その手を離したのはまさか愛刀を犬の血でけがしたくないという誇りからだ。
「待ってくれ!」
と、とびさがり、その手をふって、
「ち、ちがう。おれは敵ではない。あの子の味方だ。それ、おなじ巡礼の姿をしておるではないか。わかってくれ!」
と、山犬を相手にひどく論理的なことを述べたが、これはむりだ。一匹の犬は彼のうしろにまわって、頭を地につけて狙い寄ってくる。狼狽して、からだをそっちへねじむけた小三郎は、このときちらっと南の――宇智村の方から駆けてくる四人の山伏を見た。
「あれだ! あいつが敵だ!」
指さすと、山犬は――まさか彼の言葉がわかったわけではあるまいが、事実としてそちらへ頭をむけ、いきなりその方向へいよいよ猛然と駆け出した。
「……おお、あれだ」
「うぬ、また犬めが。――」
「うるさい奴! ここで始末してしまえ」
そんな声がきこえると、そこでたちまち山伏と犬との格闘がはじまった。
覚悟してたちむかえば、そんなはずはないのだが、四人の根来組が二匹の犬を結構もてあましたのは、その四人のうち、一人は天の辻村で百姓たちに袋だたきになり、一人は宇智村で犬にのどをかみ裂かれ、首に巻いた布からまだ血をしたたらせている状態で、一人は磯谷千八のために右足のひざから|斬《き》りおとされて、ここまで仲間の肩をかり、三人五脚といった組合わせで駆けつけて来た。――五体満足なのは、たった一人だけという惨状だったからだ。
「……千八は?」
小屋小三郎は、その背後に眼をさまよわせた。
宇智村から気にかかっていたことだ――しかし、磯谷千八の姿はない。彼は討たれたと見るよりほかはない。
「ううぬ」
思わず小三郎はその方へ駆けもどりかけた。
が、それよりも十兵衛先生から命じられた用こそ大事。と心をとりなおしてふりむくと、弥太郎はまるで韋駄天童子みたいにまろくなってはるかかなたへ飛んでゆく。
「おういっ、待てっ」
あわてて駆け出すうしろから、
「逃げるぞ。……あれを逃がすな」
と、四人の山伏は金剛杖をふりまわしながら一塊となり、さらに二匹の犬ともつれ合いつつ、これまた死物狂いに追っかけてゆく。
すでにこのあたり大和の野に入っている。日は沈みかかり、薄むらさきの夕靄がなびきはじめていた。彼らが駆けている方角は、むろん北方のいわゆる大和街道、ゆくては奈良へむかい、さらに柳生へつながる道であった。
【五】
夜に入って、五条の町へ、紀伊の一行が入って来た。
きのうの|午《うま》の刻、和歌山をたって六里の粉河へ。けさ粉河をたって八里半のこの五条へ。
これだけの装備をした大行列にしては、相当の強行軍である。むろん、頼宣がそう決めたことだ。
五条の本陣の前には、えんえんと|篝火《かがりび》が燃え、そこに詰めた侍たちの槍が赤く映えていた。火花のとどかない闇の中にも、鉄砲組が火縄をつかんで配置されている。参勤とは思えない警戒ぶりであった。これは重臣牧野兵庫頭の命じたことである。
その兵庫頭は、本陣の門の前に出て、じいっと西の方に眼をむけていたが、やがて何を見たか、
「来るには及ばぬぞ」
と、まわりの武士にいいすてて、つかつかと往来へ出ていった。
すぐちかい紀ノ川の――いや、大和に入ったこのあたりはすでに吉野川というが――橋のたもとに、三人の山伏がうずくまっていた。
「十兵衛はどうした」
「おりまする」
「どこに?」
「|真《ま》|土《つち》峠のふもとに、阿西坊と可心坊が、一刀のもとに殺されておりました」
「――やっ? そ、それで?」
「残りのものども、ただいま必死に真土山一帯を捜索しておりまするが、以上、とりあえず御報告に参った次第でござる」
根来僧の声は沈痛であった。
真土山とは、紀伊国からこの大和へ越える紀ノ川北岸の山だ。げんに夕刻、行列はそこを通って来た。
柳生十兵衛らは決して行列から離れることなく、あとをうかがってくるに相違ない――というベアトリスお銭の言葉におびえて、この根来衆に彼らの所在を探索哨戒させて来たのだが、いまその中の二人が死体となって発見されたといえば、おそらくその二人は彼らを|捕《ほ》|捉《そく》したとたんに討ち果たされたものであろう。
「兵庫頭さま、われら三十人の根来行人衆、大和へいった五人を除けば、残るは十人でござりまする」
「うむ」
「柳生十兵衛にわれらが手を出してはならぬ、としばしば承った御下知でござりまするが、もはや手を出してもよろしゅうござりましょうな」
「うむ、やむを得まい。いや、それどころか、一刻も早う討ち果たしてくれい」
「討てば、われら根来衆を紀州藩にお取り立て下さるという御約定はたしかでござりましょうな」
「いわでものことだ。兵庫、たしかにひきうけたぞ」
「それさえたしかならば、このたび召されたるわれら三十人、一人のこらずいのちを捨てましょうとも」
「おお、働いて見せい!」
「では」
三人の山伏は一礼して、また闇の中へ駆け去った。
たとえ三十人が三分の一となっても、なお恐怖に総崩れになることなく敵にかけ向かう。――もとより根来一党が世に出るための執念とはいえ、その忍者らしい執念と面だましいはあっぱれでもありまた哀れでもある。
兵庫頭が本陣にもどると、探していたらしい侍のひとりがいった。
「殿がお召しでござりまする」
「はて、殿はまだ|御《ぎょ》|寝《しん》なされておらぬのか」
彼は小走りに奥へ入っていった。
頼宣の寝所には、異様な光景がくりひろげられていた。
|閨《ねや》の上に、頼宣とお|雛《ひな》がむかい合って座っている。――お雛は白い肩がひとつむき出しになったのを片手でおさえて、|白《はく》|蝋《ろう》のような顔色で頼宣を見すえていた。
二人だけではない。入口の唐紙はあけはなしになり、そこに柿色頭巾をかぶった影が三つならんで座っている。
「兵庫か」
と、頼宣はふきげんな顔をこちらにむけた。
「今宵、この娘に|伽《とぎ》を申しつけたところ、この三人がじゃまをしおる。|僭上《せんじょう》にも、ならぬと申す」
「なぜじゃ?」
と、兵庫頭はいった。
「指がござらねば」
と、荒木又右衛門がおちつきはらっていった。
「ベアトリスが江戸の張孔堂よりまだ指をもって帰らぬ以上、この娘を犯しなさることはお待ちなされるようお願い申しあげておる」
「宗意軒の指がなければ、魔界転生はならぬ――それは承知しておる」
と、兵庫頭はいった。
「しかし、何もいま殿が御転生あそばさずとも、ただなぐさみにこの娘を御寵愛なされるになんの不都合があるか」
「女は、いやでも|孕《はら》むことがあるのでな」
と、柳生但馬守がいった。
「なぐさみに寵愛なされてこの娘が|身《み》|籠《ごも》っても、そのお|胤《たね》は殿御転生のおすがたではない。――いざ、魔界転生の必要あるとき、女の腹に先客があれば無効と相成る。それがこまる」
「ならば、なにゆえお雛をこのたびの御道中に加えたのか」
「殿、御転生のおんときが、この御道中にかならず来るからでござる」
「但馬」
と、頼宣はさけんだ。
「余はもはや転生などしたくはない。いや、その必要はない。いまのまま、このままの頼宣で――」
天下をとる、とは口にしなかったが、三人をにらみつける頼宣の眼は、すでに堂々たる天下人の光芒をはなっていた。
「それが、そうは参らぬ」
うっそりと武蔵がいった。重い、断定的な口調で、それっきり何もいわないのを、又右衛門がつづけた。
「このたびの御参府、拙者どもは反対でござったが、その後再考してみるに、これは殿御転生の機を得るためにかえってもっけの|倖《さいわ》い、と思うように相成りました。なされてはならぬ御参府のために、その機が来ると申してもよろしゅうござる。殿……かならず参りまするぞ。ふたたびこの世に生まれ変わりたいと、こぶしをつかんで殿がもだえさせられるおんときが」
「いつ? 何が起こるのじゃ」
と、兵庫頭がきいた。
「それはわかりませぬ。しかし、宗意軒さまの星占いにそむいた罰はきっと来申す」
「それまでにお銭が指をもって来ねば、その娘、なんの役にもたたぬではないか」
「昼夜兼行にて、一日四十里走るお銭でござる。和歌山より江戸まで往還ざっと三百里とみて七八日、余裕をみてもまず十日。しかもわれらは江戸へ向いつつあるのです。おそらくわれらが桑名から宮へ渡り、東海道に入るか入らぬころにベアトリスと再会できるものと見ておりまする」
「つまり、それ以後に、わしに大難がくる、とおまえらはいうのじゃな」
と、頼宣はいった。
「いや、それ以後とは申しませぬ。いつそれがくるか、拙者どもにはわかりませぬ」
「それまで十兵衛を生かしておく気か」
「は?」
「われらが尾張に入るまで、おまえらは十兵衛を討てぬのか」
「あいや」
と、但馬守がいった。彼は苦笑を浮かべていた。
「われらが殿の御大難と申しまするのは十兵衛のことではござりませぬ。十兵衛ごときは大難のうちに入りませぬ。きゃつ、現われれば、この但馬の手でいつでも討ち果たしまする」
「いつでも討ち果たすと申して」
たったいま、その十兵衛を捜索にいって死体となったという根来衆のことを思い出し、牧野兵庫頭は、焦燥と腹立たしさにもえる眼をむけた。
「おぬしら、泰然としてうごかず、十兵衛を探し求めようともせぬではないか」
「御一行にわれらありと知って、わざわざ追ってくる十兵衛でござる」
と、但馬守はいった。
「捨ておいても、かならずきゃつの方から現われて参る」
「御大難のときまで、その娘は大事にとっておくとして」
と、又右衛門がくびをかしげて口をさしはさんだ。
「兵庫どのが気をおもみのようじゃ。十兵衛をさそい寄せるため、その娘を|囮《おとり》として――それを見せつける工夫を案じた方が早うかたがつくかも知れぬな」
「兵庫」
と、頼宣が呼んだ。
「そちを呼んだのはこのことではない。江戸へゆく道を変えたいのじゃ」
「と、仰せられると?」
「柳生を通りたい」
だれよりも、お雛がはっと顔をあげていた。頼宣はくりかえした。
「いちど、わしは柳生を見たいのじゃ」
紀州家参勤の行列は、ふつうこの五条からそのまま東へ、吉野、|鷲《わし》|家《か》を経て伊勢に入る。これを川俣街道という。まえにもいったように、この沿道はすべて紀伊藩の藩領で、伊勢に入っても、松坂、田丸、白子と藩領がつづく。つまり和歌山から伊勢の海へ出るまで――やはり御三家の一つである尾張藩に入るまで、他領の土を踏まないためだ。
それをいま頼宣は、柳生を通りたいという。
つまりこの五条から北へ、大和街道をいって、奈良、柳生を通り、伊賀街道を経て桑名へ出たいというのであろう。頼宣にとってはじめて通る道程だ。むろんたんなる物好きであるはずがない。
「但馬、そちはそういうが」
と、頼宣は皮肉な眼でいった。
「わしはそう容易に十兵衛のかたはつかぬと見る。えい、黙りおれ」
と、制して、
「きゃつ、傍若無人に紀伊を押し通って回りおった。で、こちらも傍若無人に柳生を押し通って参る。そのとき、きゃつはどう出るか。――それより、但馬、おまえはどうするか、それが見たいの」
といって、あごをしゃくった。
「左様に道中の支度をさせい。――この娘もひきとらせい」
「はっ」
まず、兵庫頭が平伏して、いそぎ退がった。軽く頼宣はそう道程の変更を命じたが、ゆくさきざきの街道筋、本陣への手配は大変だ。
つづいてお雛は、三人の柿色頭巾にかこまれて、じぶんの寝所ときめられた部屋にひきとった。
一難去った。意図とはべつに結果として、救った者がこの恐ろしい三人の剣士とは皮肉だが、ともかく今宵の危機はまぬがれた。しかし彼女は、胸なで下ろして安らかに眠るわけにはゆかなかった。
昨夜、粉河の本陣でもそうであったが、眠っているお雛のまわりには、いつも寂然とこの三人が座っているのだ。みな柱や壁にもたれかかり、あぐらをかいて、じいっと彼女の方を見つめている。恐ろしく無礼で、淫らな眼つきであった。夜中、三人とも首をたれているので、彼女がそうっとうごきかけると、その方向の一人が首をあげて、ニヤリと笑う。――
今夜もそうにちがいない。――この一夜、いやこれからの道中の夜々をかんがえると、吐気をもよおしそうだ。なんとかして彼らの手をのがれなければならない。
じぶんのためではない。十兵衛さまに知らせることがある。
江戸の張孔堂というところに、森宗意軒という怪人物がいるらしい。ふしぎな魔剣士たちは、その人物の意に従ってうごいているらしい。魔剣士たちは、女の腹を介して生まれ変って来たらしい。そのためには、その宗意軒という人間の指が要るらしい。――
お雛は、ほとんどじぶんを無視してしゃべり合う彼らの会話から、いままでにきれぎれながら右のようなことを知った。まだわからないことはたくさんある。きいたことだけでも、信じられないほどの大怪事だが、ともかくもこのことは十兵衛さまにお知らせしなければならぬ。――
冷たい|閨《ねや》に横たわり、寝たふりをしていたお雛はそうっと眼をひらいた。
「無益なことを思うなよ、娘」
たれていた柿色頭巾があがって、荒木又右衛門の眼が陰気に笑った。
奉書試合
【一】
みわたすかぎり稲穂がゆれている。あちこちもう刈りとられて水を張った田に、塔影がうつっている。古塔にかかる雲は、奈良朝のむかしと同じ悠久なものであった。
あくまでも古雅で平和な、まほろばの|大和《やまと》|国《くに》|原《はら》。
だれがこの小春日和の桃源郷で、恐ろしい追撃戦がくりひろげられていると思おう。
いや、小三郎にしてみれば、追っかけているにはちがいないが、むろん全然害意はない。それなのに、めざす弥太郎は、|雲雀《ひばり》みたいに逃げまわる。
それも、ほんとうに小三郎に敵意をもって逃げてくれるなら、まだとらえようがある。七つの子供の心理は見当もつかないが、どうやら少年は、子をとろ子とろ遊びを心から|愉《たの》しんでいるらしい。それがかえってこまるのだ。
なぜなら。――
いちど小三郎がゆきすぎたあと、うしろでけらっけらっと笑う声がするのでふりむくと、小山みたいな|藁《わら》|塚《づか》の上ではねまわって踊っている。それとばかりすっ飛んでゆくと、彼は藁の山へもぐりこんで、どこに沈んでしまったかわからない。――と、遠い藁塚の方で、わんわん犬の吼える声がするので、いつあっちへ逃げたのかと、また駆けてゆくと、もとの藁塚から飛び出した弥太郎が、まるくなって逃げてゆく。
また。――
たったったっと早足で、農家のまえを通りすぎる。
ここらあたりの農家は、門があって、納屋や牛小屋などをめぐらした広い中庭があって、そこで女たちがむしろに収穫物をひろげて働いていたり、子供たちが輪になって遊んでいたりする。何気なくゆきすぎて、だいぶいってからふと心にひっかかることがあってひき返してみると、弥太郎はその子供たちといっしょになって遊んでいる。
「そら、来たっ」
笑いながらさけぶと、そのまま奥の牛小屋か何かをつっ切って一目散だ。
だから、いっそう始末におえない。小三郎は、ただ先へ先へと一直線に走ってさがせばいいというわけにはゆかないからだ。もういわゆる大和国原に入っていて、ここから奈良まで一本路というわけではなく、どこをどう通ってもゆける道がいくすじかあるし、こちらが迷っているあいだに、もしあの四人の根来組にでも弥太郎がつかまったら一大事だ。
「おういっ」
小三郎は駆けながら、泣き声にちかい声をはりあげていた。
一夜、やむなく野の地蔵堂で明かしたものの、おちおちと眠ってもおれず、きょうも終日ゆきつもどりつ、それでも次第に奈良の方角へむかって捜索しながら――さっき、ちらっと弥太郎と二匹の犬を見たような気がしたのだが、ふっとまた見失って、
「もうかんべんしてくれ。助けてくれっ」
と、悲鳴をあげた。
「坊主っ、どうかつかまってくれろ!」
すると。――
「ふうん」
そんなもっともらしい鼻声が、どこかできこえて、
「なんだか、かわいそうだなあ。じゃ、つかまってやろうか。タ助、ドン助、どう思う?」
小三郎は、キョロキョロした。
たしかいまの声はうしろの方からきこえたが、その方の路上には明るい秋の日がさして、白い蕎麦の花がこぼれているばかり。――それから、三つの小さな野仏。
「……やっ」
相手が子供と犬だと承知していたものの、その野仏があんまり小さすぎて、やっぱり見のがした。――が、五六歩あともどりすると、その三つの石地蔵のうしろにチョコナンとしゃがんで会話をしている少年と二匹の犬の姿が見えて、
「こいつ! こんなところにいたか!」
注意していたのに、思わず知らず物凄い形相になり、砂けぶりたてて躍りかかっていったのは是非もない。
「やっぱりやめよう。にげようっと」
声とともに、石地蔵のうしろから弥太郎がとび出した。
「そら、にげろ、タ助、ドン助!」
そして逆の方向へ、犬といっしょに駆け出した。
「もはや、逃がさぬ」
いま通って来た村の入口に達したとき、弥太郎との距離はもう十数間に迫っていた。寺か|社《やしろ》か、崩れた土塀が片側につづき、そして一方に折れている。
当然、そこをまがると思っていた弥太郎の影が、その手前で|忽《こつ》|然《ぜん》と路上から消失した。勢いあまって小三郎は、そのままタタタタと駆けすぎて――塀の曲り角で、どんと何者かにぶつかった。
両方、眼から火の出るほど鉢合わせして、小屋小三郎はうしろに転倒したが、たちまち、
「あっ」
絶叫して、夢中ではね起きていた。
「うぬか!」
向うも吠えた。四人の根来衆であった。そのうちの一人、これも頭に手をあててひっくり返っていたが、猛然として立って、
「柳生衆の青二才、もはや逃がさぬぞ!」
と、たったいま小三郎が弥太郎にいったのと同じせりふを吐いた。いっせいに戒刀をぬきつれている。――同時に、小三郎も仕込杖を抜刀した。
頭にひらめいたのは、じぶんのことより、弥太郎のことだ。
いま、勢いあまって走りぬけたものの、彼の眼は一瞬に、土塀の下にあいていた、大人でもくぐれば結構ぬけられそうなほどの穴を見ていた。まさに脱兎のごとく弥太郎はその穴から向うへ逃げこんだのだ。
「ここまでおいで」
よせばいいのに、その穴から顔を出した弥太郎は、さすがに、
「あら、たいへんだ!」
と、大声をはりあげていた。
【二】
「ばかっ、弥太郎、出るなっ」
小三郎はうしろざまに地を蹴って飛びずさり、その塀の不規則な穴の前に立ちふさがった。
「こいつらはおれがやる。逃げろ」
「こいつはおれたちがやる。鉄心坊、追え!」
山伏のひとりが、小三郎の声に重ねてわめいた。そのまま、彼が戒刀をかまえて真正面に駆け寄ったのと、もうひとりが土塀の上を躍り越えようとしたのが同時だ。
「いやあっ」
眼前の敵は無視して、小三郎は空中の敵をななめに薙ぎあげた。
「くわっ」
だれの声かわからない。うめきは空と土塀の両方からともに出た。
土塀を躍り越えようとしたのは、天の辻村で袋だたきになった山伏であった。そのためにまだ体力が弱っていたのか――いや、塀が崩れていてそれほど高く飛ぶ必要のなかったのが、かえってたたったのであろうか。それとも、まさかじぶんの方にかかってくるとは予想していなかったのか、空にはねあがったその左足の方を、足くびから切断されて、|化鳥《けちょう》のような悲鳴とともに地上にころがりおちる。
同時に、真正面からは――これはただひとり五体健全な山伏が襲いかかったものであったが、両脇あけっぴろげに半身ねじった姿勢となった小屋小三郎の、左脇腹から|胸腔《きょうこう》へ、真一文字にふとい戒刀がつらぬき通った。
「こ、こやつ!」
憎悪をこめてひとえぐりし、ひきぬくと小三郎はヨロヨロと三、四歩泳ぎ出て、
「弥太郎。逃げろ。……」
もういちどのどをしぼると、どうと前へ崩折れた。
「戒岳坊、水炎坊、わっぱを追え」
小三郎を制した山伏はさけんで、背を見せた。足くびを斬りはなされて、地上でこまみたいに回転している鉄心坊の方へ駆け寄ろうとしたのだ。
その腰の蝶つがいへ、うしろから赤い光流がくいこんだ。
「うわっ」
胴の半ばまで斬りこまれて、その山伏はのけぞり返る。地につっ伏して、もはや立つことができぬと思われていた小屋小三郎が、断末魔の死力をしぼって血まみれの一刀を送ったものであった。
「先生。……師命果たさず、おゆるし。……」
小三郎は身をふるわせてそうつぶやくと、そのままがくりとうごかなくなっていた。
「おのれっ」
残りの二人の山伏はわめいたが、一瞬、二瞬、あわてふためいてウロウロした。
これは宇智村で、山犬のハヤ助にのどをかみ裂かれた山伏と、磯谷千八に右足を斬られた山伏だ。だから、手をつかねて観戦に回っていたわけではない。――見たところ、十七八の青二才、小屋小三郎のために味方が二人までも殺傷されようとは思いのほかであったからだ。
「ともかくも、わっぱだ!」
片足のない水炎坊が、さきにその片足だけで地を蹴って、土塀の穴から向こうへもぐりこもうとした。
その顔の前へ、山犬の顔がにゅっとあらわれたかと思うと、がぶっともろにかみついた。
「ひ、ひ、ひいっ」
風笛に似た声をあげたのは、むろん水炎坊ではない。彼は声すら出ない。うしろで、地団駄ふんでいた戒岳坊だ。怒りのあまりうめいたのだが、このまえかみ裂かれたのどから、そんな声がもれたのであった。
「ひっ」
金剛杖を車輪のごとく回すと、悪鬼のような形相になって、猛然と塀を躍り越えた。
中は、廃寺にちかい小さな寺の境内であった。それだけに美しい。――狭い庭いちめんに紅葉と古瓦が散り敷いている。白い菊のひとむらまで咲いている。
が、それだけだ。少年と犬の姿はない。
「どこへ失せた?」
狂気のごとく奥の方へ駆け出したうしろから――塀の外から、
「こっちだ。戒岳坊っ」
言語甚だ不明瞭だが、たしかに水炎坊のわめき声がした。戒岳坊はふりむいて、土塀の穴を見た。そしてその穴から――わっぱと犬が、こんどは外へ逃げ出したことを悟った。
「ううぬ、ひとをばかにしくさって。――」
あわてて、その穴から這い出そうとしたとたんに、くわっと眼前に赤い口と白い牙が見えたかと思うと、これまたがぶっとかみつかれた。
両腕は穴のこちら側にあり、かつ金剛杖をにぎっているので、それがつかえて出られない。うめきつつ、からくもその杖をとりなおして、穴の外へつき出すと、
「きゃーん」
悲鳴とともに、やっと犬の口が離れた。
死物狂いに土をかいて、外に出る。
――と、もうはるかかなたを、北の方へ、巡礼姿の小さい姿が飛んでゆく。とみるや、いま棒で突かれた犬も、それまで水炎坊の顔にかみついていた犬も、身をひるがえしてそのあとを追ってゆく。
「待てっ」
追おうとすると、うしろからあえぎ声がかかった。
「戒岳坊、おれたちもつれていってくれ!」
地べたを這いまわっている水炎坊と鉄心坊であった。ところで、水炎坊の方は右足のひざの下から、鉄心坊の方は左足の足くびから先がない。
「よ、よしっ、こうなったら地獄の鬼となってもあのわっぱを!」
戒岳坊はのどから例の風笛みたいな声をもらしながら、くびのうしろに金剛杖を横なりにし、それに水炎坊と鉄心坊をつかまらせて駆け出した。
七つの子供を追いかけるのに大げさな口上だが、その姿はまさに地獄の魔天を飛ぶ|妖鳥《ようちょう》さながらだ。
一人の山伏だけは完全に絶命してうごかない。――そして、小屋小三郎も。
「師命果たさずおゆるしを」と彼は十兵衛にわびたが、しかし音にきこえた根来衆に、磯谷千八とともにこれほど|潰《かい》|滅《めつ》的な打撃を与えたとは、その点では実力以上、あっぱれなものだ。
その小三郎の死顔に、ひともとの白い菊が投げてあった。あんな場合に、弥太郎のしわざであった。
【三】
はじめ弥太郎は、なんのためにその山伏たちがじぶんを追っかけているか、その認識もおぼつかなく、次に、どうやらそれは十兵衛先生からあずかってきた密書をとりあげるためらしい、とようやく悟ってからも、それほど彼らに強烈な敵意を持ったかどうか疑わしい。で、逃げながらも、遊びに重点をおいたようだ。
が、小屋小三郎が殺されてからは。――
その小三郎からも逃げたくせに、じぶんを救ってくれるために凄じい死に方をした小三郎を見てからは、はっきり山伏たちをじぶんの敵と確信したようだ。
奈良の南の野を走っているとき――両側に二匹の山犬を従え、えらそうに腕組みをして立って待ちかまえているのを見て、
「小僧、あきらめたか」
と、はずむ息をおさえて、三人の根来組がその方へちかづいてゆくと、いきなり彼らは大地が沈むのをおぼえた。
三人いっしょに落ちたのは、|野《の》|溜《だめ》の中であった。いっぱいになったその水面に、上手に枯草がまいてあったのだ。いとも盛大に|糞汁《ふんじゅう》のしぶきをはねあげ、三人もつれ合い、もがきまわって、やっと這いあがったとき、ほんのいま、どこかで、
「あっはっはっ」
という世にもうれしそうな声がきこえて来たというのに、もう少年も犬の姿もない。
また、ようやく奈良を越えて、柳生へゆく伊賀街道に入ったとき――ゆくてからおとなのあたまくらいの石が、三つ四つころがって来たことがある。
ちょうど三人、例のやっこ凧みたいな編隊で進行中であった。まさか市中、そんな恰好では歩けず、そこで片足のない二人も、金剛杖を頼りに一本足で飛んで歩いていたのだが、山道にかかったので、やむを得なかったのだ。それだけに、いきなりゆくての坂からそんな石塊がころがってくるのを見ても、いかに身の軽い彼らでも、とっさに飛びのくことができなかった。
「危ないっ」
「逃げろ、戒岳坊!」
さけんだ水炎坊と鉄心坊が、両側からその戒岳坊につかまっているのだから始末がわるい。
跳ねて来た石をもろに膝に受けて、戒岳坊がひっくり返ると、横の水炎坊と鉄心坊も――鉄心坊のごときは、片側の山の斜面にはね飛ばされて、ザザザザところがりおちてゆき、横倒しになった杉材に衝突してやっととまったが、ごていねいにこんどは片腕を骨折するというていたらくだ。
「もはや、わっぱと見くびるな」
「こうなったら、殺してもあきたらぬ奴」
「魂魄となってもとり殺さずにはおかぬぞ」
いやもうたいへんなけんまくになったが、彼らは大げさとも感じない。
追ってゆくのが伊賀街道の一本道であったのが、せめてものことに彼らに倖いした。血と汚物に干しかためられたような三人の山伏が、怪奇な死神みたいに夕風を切って、弥太郎の背後十数間に迫ったのは、ちょうど奈良から一里、東へ走った地点であった。
子供だ。
結果としてこれほど根来衆を翻弄しているのに、明確に彼らをやりすごすとか迷わせるとかいうような手くだを使う気はなく、奈良の町で、「――柳生はどこ?」ときいて、教えられた通りに駆けて来た。
「わっ、たいへんだ」
ここに至って、やっと弥太郎もあわてふためいた。
ふりかえると、夕闇の中を追ってくる三人の山伏の姿が、つばさをひろげた一羽の怪鳥のようだ。
「もういけないか。こまったな」
しょげると同時に、足がもつれて、彼はころがった。
「しめた!」
「小僧、覚悟せい!」
ころがった弥太郎のさきを二匹の山犬が走っていたが、小さな主人がころび、背後の夕空から舞い下りてくるような三人の山伏を見ると――どう判断したものか、くるりとふりむき、いきなりその方向へ馳せかえっていった。
「うおっ、また犬か!」
「うおおおうっ」
どっちが犬だかわからないような咆哮をあげて、薄暮の山道で、飛びちがい、格闘をはじめた影を弥太郎ははね起きてへっぴり腰になり、
「それ、そこだ。……タ助、がんばれ!」
などと、こぶしをふりまわし、足ずりしていたが、そのときうしろから、
「なんじゃ、あれは?」
と、あやしむような声を耳にしてふりかえった。
五人ばかりの郷士風の武士が、あっけにとられたようにそこに立っていた。弥太郎はそこに駆け寄った。
「おじさん、じゅんれいにごほうしゃ」
「……や、妙なところに小さな巡礼がおるな。どうしたというのだ」
「わからないか。たすけてくれってんだよ」
「おおよし、けしからぬ犬だな。あのような犬、どこから来たか。――」
二三人、刀のつかに手をかけて走り出そうとするのを、やや老いた一人が、
「待て、犬を相手に柳生流でもあるまい。刀はぬくなよ」
と、注意した。
「ち、ちがう! 犬じゃない。犬はみかただよ。あの山伏のほうがわるいやつなんだよ。――」
弥太郎はふりたてた手を突然空中でとめて、
「あっ、おじさん、いまなんていった? 柳生流――って、言いやしなかったかい?」
「わたしたちは、柳生の者だが、それがどうした?」
「わっ」
弥太郎は弾丸のように飛びつき、その武士の胸にむしゃぶりついた。
「おれ、そこへゆくんだ。おれ、十兵衛先生からのてがみ、あずかってきたんだよ!」
「な、なに、十兵衛さまの手紙?」
いちど、犬と山伏の方へ走りかけていた武士たちもはっと足を返して来た。
「お、おまえどこから来た」
「紀州から」
はじめて弥太郎の眼に涙がとびちった。
「紀州から。――ううむ、おまえ、どこの子だ。なんという名だ」
「おれ、関口弥太郎ってんだ」
「関口。――」
みな顔見合わせて、
「関口といえば――おひろ、あの関口柔心どのの娘、おひろどのの弟ではないか」
「あっ、姉上を知ってるかい? うん、姉上はまえに柳生にいたもんね。そうだ、そんなら、柳生にまちがいないや。――」
弥太郎はうなずいて、ふところの奥からクチャクチャになった書状をとり出した。
「これだよ。十兵衛先生からあずかってきたのは。――」
老武士が受けとって、そそくさとそれをひろげ、夕闇にすかして読んでいったが、
「やっ。……これは天下の一大事」
と、ただならぬ声をあげた。
一同、顔をあつめ、くい入るように眼をそそいで――そのあいだ、路の向うで、依然犬と山伏のたたかいがつづいていることも、またそのとき奈良の方から馬の蹄の音がちかづいて来たのも、感覚の外にあるかのようであった。
「で、あの山伏どもは?」
さすがに、ひとりがわれにかえって、ふりむいた。
「おれを追っかけてきたやつだよ。とちゅうであいつらに、小屋のおじさん、ころされちゃったよ。それから――磯谷のおじさんも、ひょっとすると。――」
みなまできかず、老武士をのぞいて、彼らはそちらに殺到していった。
――根来僧にとっては、実に不本意ななりゆきであり、結果となった。あくまでも彼らの身体が不自由なものであったことが原因だが、いかに剽悍無比にせよ、たかが二匹の山犬に悩まされ、そこで数分足どめされているうちに、新鋭の柳生衆を迎えることになってしまったのである。
一本足が二人。しかもその一人は片腕も折れて、金剛杖をふるえばひっくり返る。残った一人は両足こそあるが、ひっくり返った朋輩ののどぶえにのしかかっている犬を見れば、それを捨てて駆け出すわけにはゆかぬ。だいいち彼自身が、のどの傷からふいごみたいな息をもらしている。――
「殺すな」
と、老武士がうしろからまた注意した。
「ただ、腕をうちおとせ。事情をそやつからも詳しくきかねばならぬ」
「心得た」
新鋭の柳生衆――といっても、十兵衛が紀州へつれてゆかなかったくらいだから、第二軍的存在であったろうが、本来の根来衆というものを知らない彼らには、それだけの余裕があり、そしてこわさ知らずの刀をぬきつれて、その通り三人の山伏の金剛杖をにぎった腕を斬りとばしてしまうのに、さして時はかからなかった。
【四】
「……おんや?」
弥太郎がつぶやいた。
この凄まじい乱闘に胆をつぶしたか、それとも手紙をわたした安心感からか、ペタンと地上にお尻をおとしていたが、ふとその乱闘の向うをすかして、このとき何やら見たのである。
老武士も、はじめて気がついた。奈良の方から駆けて来た馬が、十数間向うでとまると、それから下り立った影が、馬の手綱をにぎったままちかづいて来る。こちらの騒ぎを眼に入れているはずなのに、蹄の音もたてさせないほどしずかな歩みぶりであった。
その影は編笠をかぶっていたが、夕闇が濃くなり、かつ路上にもつれ合っているのが七八人の人間と二匹の犬という組合わせなので、事態がはっきり見えなかったのか、編笠をはずした。
「……あっ」
弥太郎はさけんだ。
編笠の下からあらわれたのは、三角形の|頭《ず》|巾《きん》であった。
弥太郎は熊野の|青《せい》|岸《がん》|渡《と》|寺《じ》で、同じ頭巾をかぶった田宮坊太郎と十兵衛の決闘を見ている。また紀州三段壁で、やはり同じ頭巾をつけた宝蔵院胤舜と十兵衛との死闘を見ている。その名についての知識はともかく、このぶきみな頭巾が、じぶんたちの恐るべき敵であるということだけは胆に銘じている。――
「あいつ……敵だ!」
弥太郎は、はねあがって指さした。
「あいつ、おっかないやつだ!」
しかし、こちらの騒ぎを、どこか冷然とした感じでながめているその影を、へんな奴だとは思いながら、またその無関心とも見える態度にとっさに手が出せず、柳生侍たちがキョトンとしているので、
「タ助! ドン助! あいつもやっつけちゃえ!」
と、弥太郎は手をふった。
山犬はいまの山伏との格闘で、一匹はちんばをひき、一匹は胴に一本の手裏剣を打たれていた。しかし小さな主人の命令に、ただ狂乱したようにその影の方へ走りかかり、躍りかかった。
一閃。
何か闇をながれた。
悲鳴もあげず、二匹の山犬は四つになって、血潮とともに地上にぶちまかれている。
「……やっ?」
はじめて柳生侍たちは愕然として、その相手に眼をそそいだ。
たんに二匹の犬を斬った――それだけのことではない。名状しがたい鮮かさ、物凄さを、さすが剣を学んだ連中だけあって、一瞬全身で感覚したのである。
彼らは刃をつらねて、その方へ殺到した。
「ふ」
相手はかすかに笑ったような息をもらした。
一歩もうごかず、左手をあげて、頭巾を下ろした。
「……あっ」
こちらで、老人がさけんだ。殺到する柳生衆の背を打撃するほどの驚愕の声であった。
「と、殿!」
同時に、見えない|玻《は》|璃《り》の壁にぶちあたったように、四人の柳生侍は、棒立ちになっていた。彼らも見たのだ。じぶんたちの主君の顔を。
それが、この春死んだ亡君の顔だということを思い出して、恐怖するまでの余裕があったか、どうか。――
間髪を入れず、この驚倒すべき敵の刀身はまた一閃して、まえにならんで直立した四人の男、おのれの家来の首を、ただ一薙ぎで斬り落としていた。背の高低があるから、顔のなかばを、西瓜みたいに輪切りにされた奴もある。まさに西瓜のごとく、それは四つともきれいに斬れた。
「……主に刃むかうとは、無礼なやつ」
はじめて、つぶやいた。といって、怒った語気ではない、全然抑揚のない声だ。
「――と、殿!」
老武士は、かっと眼をむいて、ふたたび恐怖そのもののようなうめきをあげた。それは眼前に惨劇を見たからばかりではない。――
「殿っ……殿は御存生でおわしたのかっ。どうして? どうして、いまここに?」
――彼は柳生城の留守居役たる狭川源左衛門という者であった。主君の但馬守は生前ほとんど江戸にあり、あまり国元に帰ったことはないが、むろん水魚の間柄であったし、だいいち彼は、十兵衛に代わってこの春、江戸の但馬守の葬儀に列している。……その亡君がここにいる!
狭川源左衛門がきょう柳生からこちらへ出かけて来たのは、こういうわけだ。
けさ、紀州藩の騎馬の使者が来て、このたび大納言さま御出府につき、奈良、柳生、伊賀を経て伊勢に出られることになった。ついては御領内を通過することになるが、なにぶんの御了解をねがう、と挨拶して、彼はさきに伊賀の方へ駆け去ったのである。大藩の行列が通行するのだから、こんな前触れはむろん当然のことである。
紀州侯の柳生通過というかつてない事態にもめんくらったが、しかしそれより狭川源左衛門がと|胸《むね》をつかれたのは、紀州へゆかれた十兵衛さまのことだ。どこか十兵衛自身わからないことがあるようだが、とにかく木村助九郎の遺志をくんで、彼が紀州へ決死の潜入をしていったいきさつはきかされていて、それ以後この老人は、ずっとそのことばかり案じつづけていた。
そこへ紀州侯の柳生通行だ。――いったい十兵衛さまはどうなされたのか、いや、紀州の行列の柳生通過ということが、それと何か関係があるのではないか。
狭川源左衛門がこういう不安にとらえられたのは当然で、まだ大納言の行列がくるには一両日の余裕があるが、座して待つのにたえかねて、ともかくも家来四人をつれて、柳生から偵察に出て来たものであった。
はからずも彼は柳生を出て、半里来たか来ないかのところで、十兵衛の使者という怪少年とめぐり逢い、ついで、死んだはずの主君但馬守と相まみえることになった。――
――いま源左衛門は十兵衛の密書を読んで、その内容の奇怪さ重大さに驚愕したが、しかしその中に、但馬守存生のことは書いてなかった。十兵衛がその書状をしたためたのは、彼はそのことはもとより、柳生如雲斎生存のこともまだ知らないうちのことであったからだ。
いや、たとえ書いてあったとしても、現実にその人を眼前に見れば、狭川源左衛門たるもの、おのれの眼をうたがい、脳髄もしびれ、全身が金しばりになってしまうことに変わりはなかったであろう。
「殿。……どうあそばしたか」
ようやく言葉に意思が通った。
「いま御成敗なされたのは、柳生の者どもでござりまするぞ。いや、それはともかく、御事情を承りたい。柳生へ――柳生へおかえり下されい、まず、まず、まず……」
但馬守はゆるゆるとちかづいて来た。
「おお、おいで下されまするか。……殿!」
すぐ前に立った主君を、怪異となつかしさのいりまじった眼でふりあおいだ狭川源左衛門の顔が、ふいにひきしまった。
「あなたさまは。……」
みなまでいわせず、三たび刀身が一閃して、但馬守はこの無抵抗な老臣を脳天から斬り下げた。
はり裂けるほど目を見張ってこのなりゆきをながめていた弥太郎は、ただそうしているだけで、逃げようにも手足がしびれている。――そして、すぐそばで両断された老人の血しぶきを全身にあびて、そのとたんに眼をまわしてしまった。
但馬守は、源左衛門がにぎりしめていた書状をとりあげた。
じっとそれに眼を走らせたのち、こんどは血まみれの刀身をひっさげて、弥太郎のそばに立った。
その刀が、四たびあがりかけた。が。――
「いや」
何をかんがえたか、その刀をおろし、ぐるっとまわりを見まわした。背後でうめき声が断続してきこえたからである。三人の根来組が地上でなお死にきれず、虫のようなうなり声をもらしていた。但馬守は歩いていって、まるで大根でも切るようにその首をみな|刎《は》ねて、この世を静粛にした。
それからまたもどって来ながら、読みすてた書状を懐紙として刀身の血をぬぐい、鞘におさめた。
片腕をのばし、気絶している少年のえりがみつかんでぐいとぶら下げ、馬の方へひき返してゆく。歩きながら、血に染まった書状を口にくわえてはひきちぎっている。――
弥太郎が雲煙百里、根来組の猛追撃をくぐりぬけてはるばる運んで来た密書は――それをのちに十兵衛が制止しようとしたことはべつとして――かんじんの柳生城をへだてることわずか半里にして、いや、みすみすその柳生の留守居役の手に入りながら、いまむなしく但馬守の手でひき裂かれ、破り捨てられたのである。
そして、一瞬といっていい時間に、実に八人の人間と二匹の犬の生命を絶ったこの「剣聖」は、眼を覆う大殺戮のあともふりかえらず、馬腹に少年のからだを結びつけると、夕風をついて奈良の方へ、軽やかな蹄の音を返してゆくのであった。
【五】
五条をたった紀州の行列を追おうとして、十兵衛たちはふとそのすぐ南の宇智村の酒屋の裏庭で、ひとりの巡礼とひとりの山伏が斬り合って、相討ちになったらしく、ふたりとも無惨な死体となっていたという噂をきいた。
さっそく急行した平岡慶之助が、磯谷千八の死をたしかめて、その遺髪まで手に入れて来た。――
果たせるかな、根来衆は千八や小三郎を追っていたのである。いや、十兵衛は、紀州の行列の前後に、じぶんたちを求めて狂奔している根来組の人数から、先行した根来衆が五人であるとまで割り出している。
その五人のうちのあと四人と、小屋小三郎はどうなったかわからない。弥太郎もどこにいるのかわからない。
五条をたった紀州の行列は、六里北へすすんでその夜は高田に泊る。
……はて、これは恒例の道とちがうが、大納言はどこを通って江戸へゆこうとするのか?
高田から奈良へむかう途中、十兵衛たちはきのうこの街道の或る廃寺の外で、またもひとりの巡礼と山伏が斬り合って死んでいたという話をきいた。――小屋小三郎にちがいない。――
「先生!」
「…………」
「十兵衛さま」
「…………」
呼びかけられても、十兵衛は答えない。
いったい何をかんがえているのかわからないが、その暗澹たる顔色を見ては、四人の柳生衆も二人の娘も、次に問うべき言葉を失った。四人の柳生衆――実に、最初十人の柳生衆は、いまは戸田五太夫、逸見瀬兵衛、伊達左十郎、平岡慶之助の四人となっているのであった。
十兵衛のめざしているのは、行列の中の一つの駕籠――その中にゆられているお雛を救うことだ。またそれ以上に、その駕籠を三方からとりかこんで馬をすすめている三人の三角頭巾を討ち果たすことだ。
とはいえ、それが実に容易ならざる難事――というより、まったく歯も爪も立てようのない不可能事ではないか、という絶望にちかい思いは、一見しただけで柳生衆の胸にのしかからざるを得ない。
千に及ぶ人数を構成しているおびただしい鉄砲隊、槍組のむれ。
――実はこれは必ずしも一柳生十兵衛を警戒してではなく、大納言頼宣の出府目的から来た示威のための編成で、十兵衛そのものに対しては――ただ三人の魔剣士、しかも彼らはその面目にかけて、「誓って一人で十兵衛を斬ってみせる」と頼宣のまえで公言したのだが、それは十兵衛の知らないことである。また三人の剣士がそう誓約したとはいえ、こっちから無謀に行列に斬りこんだりなどすれば、むろん千人の供侍が拱手傍観しているはずがない。
しかし、十兵衛がこの行列の前後に送り狼のごとくつきまといつつ、しかも手をつかねているのは、決してその物々しい備えにひるんだのではなく、べつの――例の苦悶からであった。
すなわち、敵中の父、但馬守宗矩。
五人の根来衆のうち、二人は討ち果したものの磯谷千八、小屋小三郎もまたいのちを捨てた。そのことについての断腸の思いはいうまでもない。
しかも、あと三人の根来衆は残っているのだ。彼らは弥太郎の存在を悟っているのか。悟ったとすれば弥太郎はどうしたか。
何もいわないが、一行中のおひろのここ数日の顔色など、見るにしのびないほどだ。弥太郎の運命は気にかかるが、さればとて、弥太郎がぶじに柳生へ駆けこんだとしても、それはそれでまたこまったことになる。――
思い千々にみだれつつ、しかも十兵衛がこの行列から離れることのできないのは、いうまでもなく、理屈ぬきに父但馬守の存在であった。そんな荒唐無稽なことがあり得ようか、という疑いはいまや彼は捨てている。
行列の中に馬をすすめている三人の深編笠、それが何かの都合でぬげると、三角形の柿色頭巾があらわれる。これは絶対にぬげることはない。しかし、その中のいちばん小柄な影が、いまやまぎれもなく父であるとは、遠望ながら十兵衛には、まるで妖怪に手をふれた思いで感ずることができる。――
……それほど彼の心を|膠着《こうちゃく》させていた但馬守が、高田を出た行列の中から――しかし、その日のひるすぎになるまで――その中からふっと消えているのを知るまで、いつ消えたのか気がつかなかったのは矛盾しているようだが、これはむろん大っぴらに行列に接触しているわけではないから、やむを得ないことであった。だいいち、根来組の捜索から――彼らを恐れるものではないにしろ――一応眼をくらます必要もある。
いまや紀伊大納言の道順はあきらかになった。奈良を通り、そして柳生を通って東行しようとしているのだ。
そして、父但馬守はどこへいったか?
そのあいだも行列はすすんでいる。大和街道に砂塵をまきあげ、大強行軍といっていい。高田から、ひといきに奈良までのばすつもりらしい。――
はたせるかな、その夜大納言の行列は奈良に宿泊した。
猿沢の池にちかい本陣。例によって篝火が焚かれはじめたが、しかし月も昇った。
宿泊の混乱がひとしきりおさまった本陣に、その月明の道を、北の方から駆けて来た騎馬がある。
遠くものかげでうかがっていた十兵衛らの中から、
「……あ!」
と、おひろが悲痛なさけびをあげた。
「や、や、弥太郎。――」
十兵衛も愕然とした。騎馬の深編笠が、鞍に結びつけた小さな白い物体――たしかに人間――をほどいて、本陣へかつぎこんでゆくのが篝火に見えた。小さな白い人間、巡礼姿の、失神した弥太郎にまぎれもない。
それを姉のおひろがまず見ぬいたと同様いまの騎馬の深編笠をだれかとまず知って、全身に水のながれる思いがしたのは十兵衛であった。
――本陣の門の中から、少年の御詠歌の声がきこえはじめたのは、それからまもなくのことである。
【六】
「ふだらくや岸うつ波は
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三熊野の
那智のお山にひびくたきつせ。――」
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いうまでもなく弥太郎だ。
大集団を宿泊させているため、なんとなくざわざわしていた本陣が、その直前にふしぎにしずまりかえったのは、だれかあらかじめそういう命令を下したのであろうか、それにしても、せいいっぱいはりあげている子供の声は、決してちかい距離にいるのではない十兵衛たちの耳にもよく通った。
「な、何を思って、あんな御詠歌を。――」
「弥太郎は、何をされているのでございましょう?」
お縫とおひろは、不安そうに十兵衛を見あげた。
御詠歌はつづく。
「ふるさとを
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はるばるここに紀三井寺
花の都もちかくなるらん。――」
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むろん、弥太郎はうたわせられているのだ。どこか、やけのやんぱちといった大声である。
「父母の恵みもふかき
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粉河寺
仏の誓いたのもしの身や。――」
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元気よくても、どこか哀調のある七つの子供の唄声であった。
本陣はしずまりかえり、ただこの巡礼歌だけがながれる。おそらく道ゆく人も「……はて?」と首をかしげるであろう。紀州大納言さま御宿泊の御本陣からきこえてくる子供の御詠歌、いかにもこれは異様なものだが、しかしただ「はて」と首をかしげるにとどまり、それ以上なんの判断も浮かばないにちがいない。
……が、十兵衛たちの顔色がしだいに変って来たのは、それから半刻もかからなかった。弥太郎は西国巡礼歌三十三番の御詠歌をすべてうたわされたのである。もとより、そばにだれかいて教えているに相違ない。いや、強制しているに相違ない。
「いままでは
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親と頼みし|笈《おい》|摺《ずる》を
ぬぎて納むる美濃の|谷《たに》|汲《ぐみ》。――」
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三十三番の巡礼歌をすべてうたい終ると――また第一番にもどった。
声はかれていた。さすがに泣き声がまじった。が、しばしの静寂ののち、また弥太郎はまけぬ気をいっぱいにあらわした声でうたいはじめた。
「……おひろどの」
平岡慶之助がさけんだ。
「どこへゆく」
おひろが、フラフラと歩き出そうとしたのを、あわててその手をつかんでとめたのだ。――戸田五太夫が重々しく、
「門の内側には、鉄砲隊が待ち受けておる。――」
しかし、そういった五太夫が、十兵衛をふりあおいで、
「十兵衛さま、斬りこみましょう」
十兵衛は、腕をくんでうごかない。
唄声はつづいている。
「春の日は
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南円堂にかがやきて
三笠の山にはるるうす雲。――」
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第九番、奈良興福寺南円堂。その興福寺の五重の塔は、いま猿沢の池の、春の日ならぬ秋の月影に、美しい影をゆらめかしている。いや、春の日どころか、うす雲どころか。――
少年の強制された御詠歌は、いまや十兵衛にとって地獄の呼び声であった。あきらかにそれは、彼を呼んでいるのだ。必殺の地獄へ。
なんたる無惨、なんたる卑怯、と怒りと恐怖に全身の骨が鳴り出すのを禁じ得ない。平安の昔から伝えられた、ゆうにやさしき宗教歌、それを唄う可憐な少年の声、それがかくも効果的な拷問の道具になろうとは。――
「夜もすがら
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月を|三《み》|室《むろ》|戸《と》わけゆけば
宇治の川瀬に立つは白波。――」
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おそらく十兵衛があらわれるまで、のどが裂け、血を吐いてもうたわせられるに相違ない。――といって、出てゆけば、文字通りこれは必殺の陣。
「重くとも
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五つの罪はよもあらじ
六波羅堂へまいる身なれば。――」
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だれか、ううっと泣き出した。いうまでもなく、泣き男の伊達左十郎だ。
「もうたまらぬ」
逸見瀬兵衛が、身ぶるいして立ちあがった。
「お待ち下さいまし」
こんどは逆に、おひろがとめた。
「あなたがゆけば、殺されます」
しかし、彼女はあきらかに冷静な顔ではなかった。蒼白になり、からだがけいれんして、極限まで思いつめて、気も狂う一歩前の表情で、
「わたしがゆけば、まさか即座に殺しはしますまい。……どんなことをしてでも、あの唄をやめさせなければ!」
そして、おひろは十兵衛のまえに、地をかむようにひれ伏した。
「十兵衛さま、ゆかせて下さいまし!」
「わたしもゆきます。お願いでございます。十兵衛さま!」
お縫もすがりついた。
「ここまでして下されば、わたしたちも本望でございます。わたしたちを、どうぞあそこへやって下さいまし!」
十兵衛は月を仰いでいた。
子供の声とは思われない、しゃがれた唄声はつづいている。
「かかる世に
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生まれ合う身のあな憂やと
思わでたのめ十声一声。――」
[#ここで字下げ終わり]
十兵衛がいった。
「おひろ、ゆくか?」
「な、な、なんでござると?」
瀬兵衛が眼をむいた。
「お、女を敵中へやって、われらは口をあけてそれを見送れと仰せられるのでござるか、十兵衛先生!」
「いま斬りこめば、死ぬだけじゃ」
「さ、さればと申して」
「いかにも、さればといってこのまま座視することは、おひろにたえきれまい。捨ておけば、とりみだすであろう。望み通り、ゆかせてやれ」
「おひろどのをやれば」
「おひろのいう通り、まさか女をその場で殺しはすまい。おひろひとりでは心細かろう。お縫もやれ」
いっていることは自暴自棄にちかいが、十兵衛の声は沈痛をきわめている。
「だれか、|矢《や》|立《たて》を持っておらぬか。わしが手紙をかく」
「手紙? なんのお手紙?」
「…………」
「だれへ?」
「…………」
答えぬ十兵衛に、それでも戸田五太夫が腰から矢立をとって、さし出した。
十兵衛はやがて月光にすかして、手紙をかき出した。左封じをして、おひろにわたす。
「紀州侍にとらえられたら、これを三角頭巾の西の江どのへ、といって渡してくれ」
「西の江どの?」
これははじめてきく名で、だれにもわからなかった。
「ゆけ」
十兵衛はあごをしゃくった。
おひろとお縫はじっと封書を見ていたが、このあいだもつづいている弥太郎の御詠歌に胸を刺され、
「では、十兵衛さま、あとはよろしゅう。――」
もういちど地にひたいをつけて、そんなことをいうと、その封書を抱いて、ふたりははたはたと駆け出した。
池をまわり、本陣の篝火の中にふたりの娘が燃える鳥みたいに飛びこんでゆくと、はたせるかな、どっとどよめきがあがった。
数分して、弥太郎の唄声がやんだ。
「よし」
十兵衛は立ちあがった。
「おれはこれからちょっと出かける。あの本陣ではない」
「……えっ、先生、どこへ?」
「それはいえぬ。ついて来てもならぬ」
十兵衛は刀のつかをとんとたたき、二、三歩あるいてふりかえり、
「これは賭じゃ。必ずそうなるとはきまっておらぬが、おれの見込みでは、或いは望みでは、これからしばらくたって、あの本陣から一団の者が出てくるはずだ。しかし、おまえたちはそれを追ってはならぬ」
隻眼が、月光にきらとひかった。眼のみならず、びんの毛もそそけ立ち、十兵衛の顔は凄絶な鬼気ともいうべきものにふちどられていた。
「おまえら、くればすべてが破れるぞ。よいか、おまえらは奈良のどこかに宿をとり、明朝柳生へ来い。――」
そして彼は、風のごとく駆け去った。
茫然と見送っていた四人の柳生衆のうち、戸田五太夫がつぶやいた。
「西の江どの? わからぬ。しかし、見たか、いまの封書は、左封じであったぞ」
左封じは果たし状。
【七】
奈良から柳生まで約二里。
これをそのまま東へゆくと伊賀へ通じるから、伊賀街道という。――月明の、その伊賀街道を、一騎と三挺の駕籠が東へ駆けていった。
騎馬の人は、深編笠をかぶっていたが、これは柳生但馬守であった。笠の中の顔は、相変わらずの無表情だが、しかしどこか心の波が、笠の編目をもれる月光とともにゆれている。
この街道は、きょうの夕刻、いちどひき返した道であった。
大納言の行列が柳生を通る、という先触れを受けて、柳生のものどもがどういう反応を見せているか。――知らぬ土地ではない、知らぬどころか、じぶんの領地であっただけに、ほかのところとちがって、さすがに少々気になった。
いわんや、さきに柳生へむかって走ったという密使の少年のこともある。その少年を五人の根来衆が追っているときいたが、但馬守もまたそのうちの二人がすでに死んだことを知った。もし、少年が柳生へ入ったら、いかがすべき。
で、高田から奈良へ向かう途中、彼はさきにひとり馬を飛ばせて奈良を通りすぎ、柳生方面へ偵察に来て、そして例の光景を目撃し、すべてを始末してひき返したのである。十兵衛の密書は奪って破りすて、それを読んだ狭川源左衛門をはじめかつての家来どもはみんな討ち果たし、彼らのようすから、十兵衛はまだ柳生へ帰ってはいないらしいことを察した。――
その但馬守が、また柳生へ乗りこんでゆく。
例の死体は、だれが始末したか、もうなかった。ただ路上のおびただしい流血のあとだけは黒ぐろと残って、そこから、蒼い月へ、酸鼻な匂いがうすうすと立ちのぼっていた。
さすがに柳生の庄の入口で、杉の木に馬をつなぎ、駕籠だけをかつがせ、足音しのばせて、彼はおのれの領内へ入っていった。
柳生一万二千五百石――とはいうものの、それは他国でも与えられている所領の合計であって、この柳生そのものは二千石内外の小さな谷にすぎない。それがいま、月明の下にひっそりと眠っている。
狭川源左衛門らの死骸を収容したのは柳生のものどもにちがいないと思われるが、明日にも紀州大納言のお入りをひかえ、それで騒ぎたてるのはかえって柳生のためにならぬと判断したせいであろうか、それとも留守居役の惨死という何が何やらわからぬ悪夢のような凶変に胆をつぶし、息をひそめているのであろうか。
陣屋ともいうべき小さな城と、谷川をへだてて山がある。法徳寺山という。勝手知ったる但馬守は、駕籠のさきに立って、その山道を上っていった。
【八】
法徳寺山というのは、そこに柳生家の菩提寺たる法徳寺があるからだ。
彼らはその寺の裏に回った。
裏は墓地になっていて、代々の石塔がある。まんなかにいちばん大きなのが、但馬守が建立した父石舟斎のものであった。
それとならんで、新しい石塔がある。その前の香華をいける石に何者か腰をかけていた。それ自身、石像のようにうごかない。
墓地の入り口に駕籠はとまった。その前に、月を背に但馬はたたずんだ。
「……西の江どのか」
と、待っていた男は呼んだ。
「西江院殿大通宗活居士か。――」
それこそは、この春に死んだ柳生但馬守の戒名であった。
但馬守は深編笠の影を月光に染めつけたきり、微動だにしなかった。
「ここにその石塔がある。拙者の留守のあいだに、狭川源左衛門が江戸からお墓をいただいて、これをお建てしたと見える。――」
十兵衛であった。
但馬守は江戸の下谷広徳寺に葬られた。その墓を分けてもらったことをいったのである。
これまで源左衛門はずっとそのことで気をもんで江戸へかけ合っていたが、勘当同様の十兵衛がここにいるのが障害になって、江戸屋敷の方では言を左右にして延引していたのだ。だから、戸田五太夫たちも、西江院殿大通宗活居士という先君の戒名は耳にしてはいたが、ただ西の江どのときいても、とっさに脳裡にその両者が連結できなかったのもむりはない。
「よ、呼ばれてやって来た西江院殿大通宗活居士。――ま、まさか、あなたさまは、このお墓のぬしではござるまいな?」
「果たし状に呼ばれて来た」
と、但馬守はしずかに答えて、編笠をとった。
十兵衛の隻眼がひろがり、がばっと立った。
「おおっ、父上!」
さけんで、理性を忘れた顔で駈け寄ろうとする。
「わしは、うぬの果たし状に応じてここへやって来た」
くりかえした但馬守の腰から、きらっと水のように刀身がすべり出し、横の駕籠につきつけられた。
「これ、垂れをあげよ」
おそらく紀州藩の足軽か何かであろう、駕籠かきが、三挺の駕籠の垂れをあげた。中の、まるで一体のように縛りあげられたおひろと弥太郎、またお縫とお雛の姿が月光に浮かびあがった。四人とも、失神している。
二三歩まえに出た十兵衛はピタと足を釘づけにしたが、なお父但馬守を凝視した眼に敵意はなく、胸のおくそこからうめき出すように、
「父上。……どうしたことでござる? 父上が生きて――紀州の化物の中の一人と化しておわそうとは?」
「それを承知で、うぬはわしに果たし状をくれたのではなかったか」
と、但馬守は冷然といった。
「人質の娘と子供をみんなつれて、わし一人で来い。――柳生法徳寺で、十兵衛と勝負せい。十兵衛もまた一人で出向く。十兵衛が勝ったらその人質はもらう。十兵衛が負けたら、太祖石舟斎の残した月見の伝なる相伝書をゆずる。――と、書いて来た奴はだれだ」
ふいにその声にかつえたようなあえぎがまじった。
「十兵衛、石舟斎さまの相伝書は、ど、どこにある?」
十兵衛はわずかに首をうごかして、背後の石舟斎の石塔に眼を送った。
石塔の前に三宝が置かれ、うやうやしく奉書が立てられていた。
奉書とは、幕府とか大名とかが下達する文書で、特別の紙を用いる。|楮《こうぞ》の樹皮から製したもので、厚手で白く、皺がよらない。で、この紙を奉書紙といい、奉書以外にも、神文とか起請文とか目録とか印可状とかによく使われるけれど。――
「それが、父の相伝書?」
但馬守は泳ぐように二三歩前へ出たが、これまたピタと立ちどまり、
「うぬと果たし合って勝てば、という|約定《やくじょう》であったな。しかし。――」
と、ややくびをかたむけた。
三角頭巾のあいだから、小さな眼が白くひかってこちらを見すえている。月を背にしていても、愛情どころか人間の感情というものの片鱗もうかがわせない眼であった。
「左様なものが、この柳生のどこにあった。およそ柳生の庄に残されてあった父の遺筆にして、わしの知らざるものはないはず。――」
「それが、この法徳寺に残っておりました。さりげなく、あのかたちのまま、|須《しゅ》|弥《み》|壇《だん》の片隅に」
「なに、この法徳寺に」
但馬守は意外といった感じで、また飢えたような眼つきをした。
「十兵衛、まさかいつわりは申すまいな。それはにせものではあるまいな?」
太祖柳生石舟斎はおのれの到達した剣法奥儀の口伝書を、江戸にあって立身した五男の|宗《むね》|矩《のり》に授けず、それにくらべては不遇の嫡孫兵庫、のちの如雲斎に授けた。
生前、一見そのことにこだわらぬ顔をしていた但馬守も、心中最大の無念事としていたことはいうまでもない。魔界転生してその如雲斎と同じ|蓮《はちす》に乗ってから、しばしば友のごとく剣法について語り合ったが、そうなっても如雲斎は、石舟斎相伝の――どうやら「|没《もつ》|慈《じ》|味《み》手段口伝書」と名づけられたものらしい――秘奥については、ついに但馬守にあかそうとはしなかった。
それだけに、生前と転生後をとわず、但馬守がこの世で一万二千五百石はおろか、全身の血をささげても、それとひきかえに渇望したのは石舟斎の相伝書であったろう。
それがあるという。十兵衛がそれを柳生で見つけたという。――この果たし合いの場に但馬守がひとりでやって来たのも、来る途中、心を波立たせていたのも、ゆくてに待ちかまえる伜との決闘ではなく、その相伝書への疑惑と欲望であった。
あごをつき出し、背をまるくしてこちらをうかがっている猫のような疑惑の眼。かすかに歯をカチカチ鳴らし、両腕をくねらせている野獣のような欲望の姿。――
それを、じいっと十兵衛はながめていた。
――ややあって、
「にせものではござらぬ」
と、しゃがれた声でいって、腕をのばしてその奉書をとり、ひろげた。
月光にすかし、
「新陰月見の伝」
と、彼は読み出した。
「文禄三年五月さることありて君の御前を退きて山に帰りぬれば、おのずから世をのがると人はいうめれど、物憂き山の柴の|庵《いおり》の風のみ荒れて、|懸《かけ》|樋《ひ》ならではつゆ訪のうものもなし。……」
「文禄三年五月。――」
但馬守はうめいた。
それはもう五十余年もむかし、父石舟斎がじぶんをつれて、当時伏見にあった神君家康公に召されたときである。そのとき父は、神君お取立の御意を辞し、代りに伜のじぶんをさし出して、父自身は飄然と柳生の故山へ帰っていったのであった。
「つれづれと兵法の道をたずね、先師の相伝、わが得たる自由自在の事理、一々ここに書きとめ寄する也。師が以心伝心の秘術、本分の慈味、ことごとくここに尽きたり。……」
先師とは、上泉伊勢守信綱のことだ。
但馬守は心臓も破裂せんばかりであった。このような文書ははじめて見る。いや、はじめて聴く。――が、あり得ることであり、あり得る文書であった。
「たずねゆく道のあるじや夜の|杖《つえ》つくにぞ要らね月の出ずれば」
十兵衛は読んだ。
「よってこの書を月見の伝と名づく。――」
彼は奉書から眼をあげて、但馬守を見た。
「いかが? これ以上は読みあげられませぬ」
「十兵衛、そ、それをよこせ。……」
但馬守は肩で息をした。
「父上、父上があの人質をおわたし下され、かつ、いかにして、またなんのために、ひとたびは世を去られた父上がここにおわすことに相なったか、その秘密を打ちあけて下されるならば、この月見の伝をお捧げいたしてよろしい」
「抜け、十兵衛」
但馬守は絶叫し、刀を青眼にかまえた。
「うぬの相伝書、わしのつれて来た人質、この勝負に勝った方がとるという果たし状の条件じゃ。わしはうぬを斬って、それをとるためにここに来た」
「やはり……左様に仰せられるか」
歎くがごとく十兵衛はつぶやいた。
――この場合、この地上の人の子であるかぎり、だれが歎かずにおれようか。いま、白刃をかまえて対決しようとしているのは肉親の父である。かつてその父から勘当を受けた、いかな無頼の十兵衛といえども、全身の血も凍り、骨肉すべてが石のようにかたくならざるを得ない。
月明、水のごとき柳生谷法徳寺山。
十兵衛はなお奉書をひろげたまま、石像のように立っている。
恐れていたときはついに来た。従兄にあたる如雲斎との決闘すら、あれほどためらいにためらった十兵衛である。粉河寺で天草四郎から敵中に父ありと聞いて以来、柳生衆たちがしばしば怪しんだ眼で見まもったほど懊悩した挙動をみせ、悪夢のなかをさまよう心地でここまでやって来たが――ここ柳生の庄、しかも父祖の霊ねむる墓地でついに悪夢はさめることなく、最悪無惨のかたちで終幕を告げようとしている。
もしほかの場合であったら、彼の隻眼から血涙がしたたりおちたかもしれぬ。――父が魔人と化した父でなかったならば。
「それとも――十兵衛、人質の返還は無用、ただその相伝書を手渡すというか」
スルスルと但馬守が前へ出て来た。
「が、うぬがそのつもりでも、わしはうぬを斬る」
頭巾の中の眼が、十兵衛のもっとも恐れていたこのときを――柳生父子のいのちをかけた勝敗のこの刹那を――愉しむように笑って、しかしすぐにその笑いが消えた。
「十兵衛、その相伝書をとらぬか」
十兵衛は、まるで勧進帳を読む弁慶みたいに奉書をひろげて立っていた。
――この柳生石舟斎の相伝書なるものが、実は全然うそっぱちなのである。
これは彼自身が書いたものであった。柳生流奥儀書「月見の伝」は、柳生十兵衛の著わすところで、これは現代でも残っている。もっともいま読みあげたところは彼が少々読み変えたが、実はここ数年、柳生谷でごろごろしているあいだに、それこそつれづれなるままに書きしるしたものなのであった。
それを太祖石舟斎の相伝書といつわったのは実に人をくっているが、彼としては、追いつめられて、ギリギリにしぼり出した知恵だ。
――父但馬守を呼び出すために。
――しかも、父一人を呼び出すために。
あの場合、弥太郎と三人の娘をともない、父但馬守をひとりでこちらの指定する場所へ来させるものとしては、「石舟斎相伝書」以外にはない、と彼は考えたのだ。
むろん、それは保証できない。だから彼は賭だといった。
しかし、但馬守は来た。条件通りに来た。その相伝書を欲すればこそだ。それとひきかえに、弥太郎と三人の娘をもらう。――それはできない。相伝書を但馬守がその眼で見れば、一目で十兵衛の筆だとわかるからだ。
いや、それ以前に。――
「十兵衛、胴斬りしてよいか?」
殺気に陶酔したような但馬守の声が、もはや二間の距離で送られて来た。すでにその神秘的な剣気は、十兵衛を逃げも避けもならぬ決闘の風圏と化して彼をつつんでいる。――
「――おおっ」
十兵衛はさけんだ。
同時に、手にしていた奉書を中天にほうりあげ、抜刀したのである。――「や?」というように、ちらっと但馬守の眼が空に走り、一瞬もとにもどったとき、十兵衛の青眼にかまえた刀身は、すでに但馬守の剣尖三尺の間にあった。
数秒のあいだに、十兵衛の脳裡を、父との過去がすべてながれた。人は死ぬとき、一瞬におのれの一生を想起するという。――
彼が父一人を呼び、場所に柳生法徳寺をえらんだのは、この果たし合いばかりは余人に見せたくないという思いからであった。その数秒のあいだに、魂から吐気がつきあげて、十兵衛の一つの眼に霞がかかった。
しかし、但馬守の眼は、ただ殺意の妖炎にもえて。――ぴいっと|鶺《せき》|鴒《れい》の尾みたいに剣尖があがった。
「父に討たれるを本望と思え」
蒼い中天から、奉書がヒラヒラと白鳥のように舞いおちて来たのは、そのときであった。
「……ううふっ」
気合ともうめきともつかない声であった。いずれの口から発せられたのかわからない。
月光に二本の刀身がきらめいたあと、二人は二間の距離にふたたび飛びはなれている。飛びずさったのは十兵衛だ。高くあげたままの愛刀三池典太に白い紙片がからみついていた。
但馬守もまた刀を空中に止めた姿勢で、これはもとの位置に棒のように立ちすくんでいる。
その刀は、そこで止まったのだ。
なぜか?
十兵衛の刀より早くそこの空間をかすめ落ちようとした但馬守の刀のまえに、そのとき奉書が舞ったのであった。彼の信ずる「石舟斎相伝書」が。
一瞬、その|刃《やいば》がとまったのは――その刃をとめ得たのは、むしろ但馬守なればこそだ。が、その刹那、十兵衛の刀身は、父に合わせて反射的に、しかもそれをにせものと承知しているがゆえに、なんのためらいもなくかすめ過ぎたのであった。
父を討てるか。
その魂の苦悶とはべつに、父に果し状をつきつけた上は、父を討たねばならぬ、討たねばならぬ破目になるかもしれぬという決意は、むろん十兵衛にあった。
父の生存はいまや疑うべからざるものとしても、その父が、じぶんの知っている父とは別人となっている。人間ではない怪物に変わっている――そういう認識はあった。木村助九郎の死にざまを思う。また可憐な少年に対する、おとなげないどころか、人の心を持ったものとは思えない仕打ちを思う。――
が、のっぴきならぬ万一の場合、はたして父を討てるか。――わざの上でだ。
その自信は、十兵衛になかった。あの小柄で、地味で、温厚篤実の風貌を持った父が、どれだけ凄じい剣技の体得者であるか、世のだれよりもじぶんがよく知っているからだ。
空に投げた奉書は、その父の魔剣を迷わす道具であった。ふたりのあいだに落ちてくる「石舟斎相伝書」、それが落ちてくる速度と時間を彼は計算していたのだ。――この点、柳生十兵衛、当人が思っている以上に、やっぱりふといといわざるを得ない。
しかし、事実として間一髪、人間の気力と技術の極限をつくした策はあたった。一瞬、但馬守の刀身はためらい――そして十兵衛の刀身は、そのまま但馬守の頸部の肉を|刎《は》ねた。
とびずさった十兵衛の愛刀にからみついた奉書は、はね返したその刀のみねが、逆に下からすくいあげたものであった。
奉書はヒラヒラと地上に舞いおちた。
斬る気はない。――すくなくとも、父のいのちを奪う気はない。
そのつもりではあったが、その刹那にそれほどの余裕があれば、むろんそんな計略をめぐらす必要はない。何よりも父の一閃の速度に触発された十兵衛の一閃は、たんに父の頸部の皮膚を切る程度にはとどまらず――水をあびたような形相で見まもっている十兵衛の眼前で、
「……父上」
細い眼でにらみ返し、つぶやいて、但馬守はニヤリと笑った。
ひょっとしたら老但馬守は、そのとき眼前に伜の十兵衛ではなく、父の石舟斎の姿を見ていたのかもしれない――と思いあたったのは、あとのことだ。次の瞬間、但馬守はその頸動脈から、ビューッと黒血を噴いて、どうと地上にうち伏した。
――西江院殿大通宗活居士、と彫ったじぶんの墓の前で。
【九】
「父上!」
絶叫して十兵衛が駆け寄ったとき、
「……先生!」
「十兵衛さま!」
そんな声とともに、墓地の入口でさわぎが起った。
柳生衆がだれかともみ合っている。相手は、駕籠をかついで来た駕籠かきだ。――六人の駕籠かきは、あらかじめ手出し無用と但馬守からいいふくめられていたのか、それともいまの凄絶な果たし合いに息もつまっていたのか、そこに棒立ちになっていたのだが、このときあわてて逃げ出そうとし、ちょうど山を駆けのぼって来た柳生衆と衝突したのであった。
「逃げるな」
「うぬらにききたいことがある」
「もとの場所にもどれ」
と追いかえして来る。
このとき、山の下の柳生谷で法螺貝の音がひびき出し、同時に何やら騒ぎ出す声がきこえはじめた。
「……何だ?」
父の死骸に覆いかぶさるようにしていた十兵衛は顔をあげ、そのまま何を見たか、凝然とうごかなくなった。
柳生衆は気がつかない。彼らは三人いたが、そのうち平岡慶之助だけを駕籠かきの監視にのこし、逸見瀬兵衛と伊達左十郎が歯をむき出して、
「戸田老がみなをたたき起こし、呼び集めておるのでござる。十兵衛先生の一大事と。――」
「いま、みなの衆もここへおしかけてくるでござろうが。――やっ、勝負はつきましたか。それは、何者でござる?」
と、駆け寄って来ようとした。
来るなといった。この柳生法徳寺へ彼らがくることを、十兵衛は禁じた。にもかかわらず、彼らはたまりかねて、三角頭巾におもてをつつんだ但馬守と三挺の駕籠が、奈良の本陣を出るのを追跡して来たとみえる。
が、それを叱るよりも十兵衛は、片膝ついたまま、駕籠の方を凝視していた。
駕籠のうしろに、もう一つの三角頭巾が|朦《もう》|朧《ろう》と立っていた。
と見る。――左右に五つずつ、合わせて十人の山伏の影も浮かびあがった。
「柳生十兵衛」
と、頭巾が|錆《さび》をふくんだ声でいった。
「うぬ自身が書いた果たし状の約定を破ったな。助けを呼ばず、人を交えず勝負をしたいという。――」
やはり駕籠のそばに立って、こちらを見ていた平岡慶之助は、はじめて気がついて、
「……あっ」
ふりむいて、そんな声をあげたが、身をねじったきり、どうしたか、がばと駕籠の上に身を伏せてしまった。
「やるか、十兵衛。……古今無道の親不孝者、父親殺し」
重厚な笑いをふくんだ声であった。
「わしにとっては、師匠のかたきとなる」
だれの声か、十兵衛にはわかる。
――かつて江戸の柳生道場で、励まし合い、笑い合った兄弟子の声だ。同時に相手からみれば、じぶんは師匠の子息にあたる。むろんそのころの相手は、こちらに対してそれだけの礼を払った言葉づかいをした。
それが、いま、呼びすてだ。
「どうする、十兵衛」
十兵衛は、おのれのいま討ち果たした父の死骸のそばに、凍りついたようにうごかない。
地に片膝つき、立てたもう一つの片膝に刀身を横たえて、じいっとそちらを見あげている。
蒼い月光に、それは八方破れ、「無」そのものの姿であった。……寄りかけて、何を感じたのか三角頭巾は、
「…………」
名状しがたいうめきを発した。何やら動揺したようである。或いは、父を斬った十兵衛の惨たる姿から何か発するか。――さしもの三角頭巾も、いや彼なればこそ未発の妖気に打たれ、それに制せられたのかもしれない。
――逆に、それまで気死したように立ちすくんでいた逸見瀬兵衛と伊達左十郎が、やっとわれに返って、ぱっとうごきかけた。
「うぬらか」
三角頭巾は軽蔑的な眼で見やって、足をあげて、駕籠にもたれかかったままの平岡慶之助の腰をはたと蹴った。
同時に慶之助は腰から上下、二つになって、血潮の環をまきながら地上に散乱した。
「荒木どの」
「もうようござろうな?」
十人の山伏が、ヒタヒタと半円形をちぢめた。
「待て」
三角頭巾は制して、もういちど十兵衛に見入り、それから山の下を見下ろした。樹間に、下から駆けのぼってくる無数の|松明《たいまつ》が見えた。
「十兵衛」
ふりかえって、
「望むなら、この法徳寺山を死びとの山と変えてくれる。が……これでもわしにはなつかしい聖地でな。得べくんば、これ以上ここを血でけがしとうないわ。同意するなら、わしは一応ひきあげる。ただし、そこな人質はもう一度もらってゆく」
と、いった。
「つれてゆけ。面倒になれば小僧を刺し殺せ」
十人の根来組が、ひとかたまりになって三挺の駕籠をかついで駆け出したのが、疾風の速さであった。
「うぬら、一足、前へ出れば、首がおちるぞ」
と、三角頭巾は、前に刃をならべた逸見瀬兵衛と伊達左十郎にいった。
その言葉に怖れをなしたわけではないが、二人はそのまま作りつけの人形みたいにうごかない。うごこうにも、盤石におさえつけられたようにうごけないのだ。
おびただしい松明とさけび声は、すぐ下を馳せのぼって来た。三挺の駕籠をかついだ根来組は、それとは反対の、道もない山の斜面を、風に乗ったように逃げ下りてゆく。駕籠かきが、あわてて、こけつまろびつそれを追う。
「十兵衛、また逢おう。……今夜は邪魔が入る」
スルスルと荒木又右衛門は横歩きに遠ざかった。
「心おきなく勝負したいな。愉しみじゃ」
眼は不敵に笑っていたが、感嘆の色は|覆《おお》えなかった。それに、すべてとらえた「忍体」をぶじに逃がすためには、駆けつけた柳生谷の人数とこれ以上かかわり合っては事面倒と判断したに相違なかった。
たちまち彼は、駕籠を追って、黒い魔風のように消えてしまった。
「……十兵衛さまっ」
|呪《じゅ》|縛《ばく》をとかれたように、逸見瀬兵衛と伊達左十郎が絶叫した。
十兵衛は、なお地上の死骸のそばに同じ姿勢でいる。眼前に平岡慶之助が一刀両断され、弥太郎と三人の娘が再びさらわれてゆくのを見つつ、|茫《ぼう》|乎《こ》とひらいた眼はうつろであった。
――古今無道の親不孝者、父親殺し。
その罵りはたしかに彼の心を打撃した。いや、それ以前から――父を斬った刹那から、彼は虚脱状態におちいっている。いま荒木にかかって来られたら、疑いもなく彼は大根のように斬られたろう。
――もっとも、その「虚」そのものの姿勢に、荒木は逆に一種の戦慄に吹かれたようだが、これは考えすぎだ。
「十兵衛さま、そこにおわすか、十兵衛さまっ」
戸田五太夫の声をきいたとき、はじめて十兵衛は水をあびた鳥みたいに顔をあげた。
「瀬兵衛」
と、彼はさけんだ。
「とめろ。来てはならぬと言え。みなを追い返せ」
そして、父の頭巾を下ろして眼をかくし、それでもなお足りずその上に身を伏せるようにして、
「左十、寺へいって鍬をとって来い。埋めるのだ、この方を……これを、あの墓の傍に埋めるのだ。それまで、何者も一人たりとも近よらすな!」
と、歯をカチカチと鳴らしながら、絶叫した。
伊賀越え
【一】
紀州大納言の行列が柳生の庄に入って来たのは、その翌日のことであった。
昨夜は月明であったが、きょうもすばらしい秋晴れだ。柳生谷一帯、日光の氷が張りつめているようだ。狭い谷だけに、千人あまりの行列の足音は、まるで数万の大部隊の行進する物音のように仰々しく山にこだました。
――まさに空谷の足音。
そのことに気がついたのは、柳生谷に入ってまもなくのことだ。
「はて」
頼宣はくびをかしげた。
「だれもおらぬではないか。兵庫、柳生の庄は無人と見えるではないか」
牧野兵庫頭も不審と不安の眼を、ぎらとこの山国の小さな城下町にむけていたが、やがてじっとしていられないように駆け去り、また駆けもどって来た。そして、全然無人というわけではないが、この柳生谷には、ほとんど老人と子供しか残っていないらしいことを報告した。
「……十兵衛め、何を思うて。――」
と、頼宣はにがい顔をした。
柳生藩、といってもここはわずか二千石内外の領地で、人口も|寥々《りょうりょう》たるものだが、それでもここに住む郷士たちは剣をとっては柳生の名に恥じぬものどもばかりだときいている。それが、御三家の一つたるじぶんを迎えてどういう態度に出るか。いや、御三家の一つたる紀州藩を|蹂躪《じゅうりん》した十兵衛が、彼らにどういう態度をとらせるか。
頼宣は、柳生を蹂躪するつもりでいる。少なくとも、それにちかいしっぺ返しをするつもりでいる。それを見て――魔界に転生した但馬守がどんな反応を見せるか。
すべてが強烈な好奇心のまとであった。――昨夜まではだ。
昨夜で、条件が変わった。但馬守が殺されたのだ。……実に十兵衛は、父たる但馬守|宗《むね》|矩《のり》を討ち果たしたのだ! その報告を荒木又右衛門から受けて、さしもの頼宣も、しばし声もなかった。
ともあれ、十兵衛もこちらの敵意は充分承知しているはずである。彼十兵衛、ならびに昨夜|松明《たいまつ》をかかげて騒いだという柳生侍たちがいかなる挙に出ようとするか。
条件はやや変わったが、好奇心は変わらない。むしろ、いよいよ強烈になったくらいのものである。
いったい、奈良から伊賀へ出てゆくのに、柳生谷そのものに足を踏み入れる必要はないのである。柳生谷は、伊賀街道からちょっと南へ入っているからだ。
それでも頼宣は入るといった。
「柳生の城を見てやろうぞ」
と、彼はいった。
で、紀州の行列は入った。行列の供侍は、すべてこれまでのいきさつを知っているわけではない。正確には何も知らないといっていい。が、この道中の尋常でないことは感づいているし、とくに柳生入りを前にして、重臣牧野兵庫頭から「――御身辺厳戒を要す」という触れを出されて、彼らはその刀槍や鉄砲を、巨大なはりねずみの針みたいに立てて、柳生の庄へ入っていった。
しかるに、柳生谷は空っぽにひとしいという。――
「残っておるのは、爺いと婆あ、それに子供ばかり。――何をきいても、みんな雲をつかむような答えを返すのみでござりますが、ほかの住民は、昨夜のうちにどこかへ姿を消したようでござりまする」
「どこへいったと申すのじゃ」
「北へいったという奴があり、東へいったという奴があり、南へいったという奴もござる。深夜のことにて、事実、彼らにもさっぱりわけがわからないらしゅうござる。北へいったなら、笠置を越えて山城へ、東へいったなら伊賀へ、南へいったならさらに山中へ。……とにかく、殿、いかなるたくらみがあるやもはかられませぬぞ」
気色ばんだ牧野兵庫頭に、頼宣もおちつかぬ表情になったが、
「……いかに十兵衛、無謀なりとはいえ、余にむかって何をするぞ」
と、剛腹に一笑した。
「あいや、和歌山のお城にすら乗りこんで参った十兵衛でござる。げんに、殿御入来と知りつつ、住民の総たちのきという応対を以てお迎えしたのではござりませぬか。……殿、柳生はこのまま御通過なされて、ただちに伊賀へ向かわせられませ。その方が。――」
「たわけ! 柳生無人と化して頼宣を走らすと世に伝えられてよいか」
と、頼宣は叱咤した。
「兵庫、余は今宵、柳生の城に泊まるぞ。こうなったら、柳生のものども、どこの穴からか、ゾロゾロと這い出してくるまで柳生からうごかぬ」
「――あ」
兵庫頭は仰天した。
――が、頼宣の思いつきそうなことであり、かつ言い出したらきかず、さらに思いつき言い出したら、断じて通さぬことのない気性と威勢の持主であった。
「わしよりも、例の女どもを用心せよ」
と、頼宣はいった。
「十兵衛、まさかわしに手を出すまいが、女どもは奪い返そうとして狙っておるに相違ない」
「心得てござりまする」
兵庫頭はふりかえった。
行列のなかばあたりに、三挺の駕籠がつらなっている。姉弟のおひろと弥太郎は一つ駕籠に、あと二挺にそれぞれお雛とお縫がのせられて、駕籠の両側には、二人の三角頭巾が馬を打たせている。武蔵と又右衛門であった。さらにそのまわりを、いまはじかに護衛を命ぜられた十人の根来組がとりかこんで歩いていた。
行列は殺気をはらんで、柳生城へ入った。
「これが城か」
紀州侍たちは笑い出した。
例の瓦もおちた城門に、あっけにとられたのだ。城というより陣屋といった方がふさわしい建物であった。
城に残っているのは、まさしく爺いと婆あばかり。――とくに、応対に出た老人は袴をつけ、うやうやしく平伏したが、完全なつんぼで、何をきいても、また今宵大納言さまが当城に御宿泊になるむねを伝えても、了解したのか、しないのか、さっぱり要領を得ない。
大納言さまを空家同然にして迎えるとは、奇怪なり柳生の庄。しからばこちらも少々手荒らに宿をかりていってやってよろしい。
ただし、いかなる異変にも即刻応ずる態勢は忘れるなよ。――
そういう達しを受けて、紀州侍は眼をひからせ、大刀をひねりまわして、柳生城および城下をねり歩き出した。
「女はおらぬか」
「酒はないか」
酒はともかく、女はいない。婆あはいるが、婆あは女ではない。若い女は完全にいない。
酒をのんで、酔ってくると、若い女がいないということが、いっそう心を荒だててくる。心が荒だってくると、いっそう酒をあおる。――
「女ッ気がないと、いくら酒を飲んでも秋の夜は寒いわ!」
「火を燃やせ」
「手荒らに泊まってやれとの下知じゃ。かまわぬ、壊せ!」
女を探してうろついていたむれが、城下の往来で、そこの塀や垣や、家の一部までぶっこわして、あっちこっちに盛大な焚火をやりはじめた。それをかこんで、無人の家や、ひどい奴は老人子供を蹴とばして掠奪して来た酒をあおり、食い物をかじる。――
すると、あちこちで、そんな声とはべつな奇声があがり出した。
「や、や、や、あれはなんだ?」
「いつのまに、何者が?」
狼藉の集団のすぐちかくの塀の巨壁に、墨痕がまだ月光にぬれて、
「紀州様おん泥棒」
と書かれているのに気がついたのだ。
騒ぎのうちに夜がふけて。――
【二】
「兵庫」
と、柳生城の奥ふかく、これも盃をかたむけていた頼宣がさけんだ。
「例の女ども、つれて参れ」
「――はっ、しかし」
「例の武蔵と又右衛門の口上か。あの娘ども、|孕《はら》ませてはいざというときに役に立たぬという。――しかし、三人もおればよかろうが」
「おお、そう仰せらるれば」
「武蔵らが面倒なことを申すなら、一人はとっておけ。あと二人、つれて参れ。そのために又右衛門がさらって来たのではないか」
それほど酔っているとは見えないが、大納言頼宣の眼は血ばしっている。紀州以来、常識はずれの十兵衛の挑戦に触発されて、ついついこちらも常軌を逸したふるまいをする羽目になったのが、じぶんでもにがにがしく、それがまた憤怒の炎をかきたてて来たのかもしれない。
「十兵衛の城で、あの娘どもを犯してつかわす。そうしてやらなければ腹が癒えぬ。……兵庫、ひきずって参れ!」
急ぎ足で去った牧野兵庫頭が、やがて帰って来た。
「殿。……武蔵と又右衛門、承諾仕りましたが、今宵はひとりで御辛抱なされと申しまする」
うしろに、両側から二人の山伏に腕をとられて立っているのはお縫であった。彼女はすでに、一糸まとわぬ姿とされていた。
「万一、刃物のごときものを、どこぞにかくしておっては、一大事と存じ。――」
と、兵庫頭が弁解した。
頼宣は酔眼で、娘を見つめている。秋の灯が、その椀を伏せたような乳房や、くびれた胴や、むっちりとした腰や、のびきった二本の足を、真正面から照らし出していた。それがすべて、大理石みたいにかたくなっているだけに、灯影がうつり、すべり、頼宣の酔眼には炎の花がゆらゆらとゆれて、娘の裸身を|彩《いろど》っているように見えた。
事実、お縫の全身の肉は、硬直する一方で、細胞の一個一個がわなないている。木村助九郎の娘だが、三人の娘の中でいちばんおとなしい性質のお縫であった。羞恥と恐怖、それにまさる反抗と死の意志。――しかも、さらに恐ろしい苦痛が、彼女の皮膚、肉、感覚を痙攣させているのであった。つかまれた二本の腕くびから。――
「殿、いかがつかまつりましょう」
「武器をかくしてはおらぬかと、調べるまでに一汗かきました。顔に似合わぬきかぬ気の娘でござる」
「いっそ、手足の骨の蝶つがいをはずしておいた方が、お危のうないかもしれませぬぞ」
歯をむき出していいながらも、つかんだ手首に指をたてて、お縫の息の根もとまるばかりの痛みを送ってくるのは、それまでの抵抗に対する業腹が癒えぬのか、それともこれほど美しい娘を餌食にしようとする大納言への嫉妬の裏返しか。――或いは、もっと単純で、乾燥していて、それだけにもっと恐ろしいことだが、今宵、はじめて公然と大納言さまのおんまえにまかり出て、根来組の忠勤ぶりをお目にかけられる感激にのぼせあがっていたのかもしれない。
「念のため、根来行人衆、このお座敷のまわりに伏せて、かたく見張っておりますれば、何とぞ御放念下されませい」
「されば、この娘、呼べどさけべど、怪しき奴らのちかづくことはありませぬが」
「なお、御懸念ならば、ここでこの娘、生きておれど声の出ぬよう、みぞおちに一あてこぶしをあてておきましょうか」
「いや、声が出ぬでは面白うない。――」
こんなことを、お追従のつもりで、かつすこぶる野卑な調子で語りかけ、また語り合う二人の根来者に、頼宣はふいにむらっと怒りの眼をむけた。
「兵庫っ」
と、さけんだ。
「なにゆえ、左様な下賤な虫けらどもをここに寄せつけたか。無礼者、さがりおれ!」
「――はっ」
牧野兵庫頭が狼狽してふりかえるより早く、二人の根来衆は名状しがたい威風に吹かれて、こうもりみたいにうしろにとび離れている。
「兵庫もゆけ、大事ない!」
と、頼宣は叱咤した。牧野兵庫頭もあわてて立ち去った。
それでもお縫はうごけない。眼前にあるのは、主君大納言頼宣さまである。それが今宵、酒と何やら激するもののためにあきらかに理性を失って、それだけにいっそうたけだけしい、物凄じい迫力を放射している。
それよりも。――
お縫は先刻裸身にむかれたときから、いっそじぶんがここで犠牲となって、他の二人と弥太郎の盾となろうか、という決意とあきらめの鎖で、じぶんを縛ろうとしていた。
「来て、酌をせい」
と、頼宣がいった。
お縫はふらふらと吸い寄せられるように歩き出した。――が、四五歩あるいて、足がそれ自身意思を持つもののごとく止まってしまう。
「来て、その姿で酌をせい」
と、頼宣はもういちどいって、たまりかねたように立ちあがり、ずかと歩み寄って、お縫の白いあごに片掌をあてた。あおのかせて、カチカチと鳴るお縫の細かい歯にじいっと見入って、
「ふむ。……|愛《う》い奴」
にたりと笑うと、無遠慮に厚手の唇をちかづけた。……
――そのとき、何をきいたか、頼宣はぎらと眼をよそにそらした。遠くでただならぬ声がながれたようだ。このとき頼宣は、さっと柳生十兵衛の影と、そしてさっき黙殺したくせに、この座敷のまわりを根来組が護衛している――という山伏の言葉を脳裡によぎらせたほどであった。
「殿。……殿!」
廊下を走って来る足音がした。
「こちらへ。――殿は、こちらでござる」
牧野兵庫頭の声だ。彼は、何者かをここへ案内してくるらしい。
やがて入口にあらわれたいくつかの影を見て、さしもの頼宣もあっと息をひいた。どこで出迎えたか、武蔵と又右衛門もいっしょにやって来ている。それから、女――それは、粉河寺で江戸へ去ったお銭であった。それもまたいいとして。――
「宗意軒」
と、やっと頼宣はさけんだ。
彼らのうしろに飄然と立っているのは、なんと江戸の張孔堂で別れて以来の森宗意軒であった。
【三】
片手に笠をかかえて、旅姿だが、久しぶりに頼宣を見て、声をかけられてもニコリともせず、例の銀光をはなつ白髪にふちどられたしゃりこうべみたいな顔の、くぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくから見すえている二つの眼は、むしろとがめるように鋭く冷たい。
「妙なところにおわすな。――柳生とは」
と、宗意軒はいった。
「城下で御藩士の狼藉ぶりをただいま見て参ったが、紀州家とも思われぬはしたなき軽はずみな所業をなさる。――」
「宗意軒」
何しに来た。――といいかけて、頼宣の頭に或ることがひらめいて、彼は眼をかがやかせてさけんだ。
「将軍家には御他界あそばしたか。――例の件、その方の申した、余の起つべきときがついに到来したと知らせに来たか!」
「だれが左様なことを申しましたか」
と、宗意軒はいった。しずかに座った。
「宗意は、いちどとして左様なことを大納言さまに御報告いたしたことはござらぬ」
「江戸のことを、いちいちそちの指図は受けぬ。江戸屋敷というものもあれば、江戸家老というものもある」
頼宣はむっとしていったが、その顔に惑乱の波がわたった。
「宗意、将軍家はまだ御存生であると申すのか」
「御存生どころか、将軍家には御重病でさえござらぬ」
「な、な、何と申す」
頼宣は、まさに驚倒した。判断力を失った表情で、しばし声もなかったが、やがて満面に朱をそそいでいった。
「そらごとを申すな、宗意。そちはこの頼宣を嘲弄に来たか」
「そらごとではござりませぬ。江戸にそのような噂はありませぬ」
「江戸にそのような噂があってたまるかわ。時と場合では、たとえ将軍家が御他界なされても、しばらくは喪を秘すことすらある。それが柳営というものだ。江戸家老は、市井の噂によって紀州に報告して来たものではない。しかるべき筋をたどって、それが真実であることをたしかめた上で知らせて来たのだ。これほどの大事を、いいかげんに注進する、それほどのうつけ[#「うつけ」に傍点]は江戸屋敷にはおらぬ」
「そのように仕組まれたのでござる」
宗意軒は長嘆息した。長嘆息はしたが、眼は皮肉に笑っている。その眼をちらとうごかして、
「その女は?」
と、きいた。
「例の娘の一人か」
お縫のことだ。宗意軒は江戸でかつては天草四郎から、また道中でベアトリスお銭から、報告は受けていたとみえる。
「ほう、いかにも転生の忍体たるにうってつけの美女。……しかし、いましばし、女沙汰ではあるまい。つれてゆけ」
「又右衛門、ほかの女はどうしたか」
と、牧野兵庫頭がはじめて気がついたようにきいた。
「根来者が見張っております」
荒木又右衛門はそういったきり、うやうやしく森宗意軒を見つめている。――やむなく、兵庫頭がお縫をひったてるようにして立ち去った。
大納言頼宣も、たしかに女どころではない。驚愕と猜疑にぎらぎらとひかる眼で、宗意軒を見すえて、
「し、仕組まれた? ――それは、どういう意味じゃ、宗意! 早う話せ」
と|焦《じ》れた。
「これは拙者の想像でござる。しかし、万まちがいのない想像と存ずる。――いま拙者は、将軍家は重病にあらずというはそらごとではない、と申しましたが、火のないところには煙はたたぬ、おそらく将軍家が軽きおん病にかかられたことくらいはまことでござろう。が、それを手品のたねにして、将軍家の御他界を夢みておる向きには、さも重病らしく、しかもその重病を秘しておるらしく、左様に思わせるように仕組んだ奴がござる。――」
宗意軒は、おちつきはらっていい出した。
「紀州の江戸家老、ないしお留守居役が、この情報をまに受けて、大納言さまに刻々とお知らせしたのも、或いはむりはござりませぬ。秘してはおれど、将軍家のお命は|旦《たん》|夕《せき》に迫っておると、いかにもそれが真実らしゅう、もっともらしい情報をわざと流しておるのでござれば。――実は、この宗意すら、そのことをきいたときは、もしやしたら、と思ったくらいでござる」
「…………」
「しかし、拙者の星占いには、まだ将軍家御他界の卦は出ておりませぬ。あと四五年の御寿命はおわすと、これは大納言さまにも申しあげたはず」
じろと頼宣を見る。
頼宣はうめいた。まだ相手のいうことが、信じられなかった。
「なんのためだ。――いかな目的あって、そのような、たわけた――途方もない企みをするのじゃ」
「拙者、思いまするに、将軍家、ただいまはまずお命にかかわらぬとしても、側近のうちの|炯《けい》|眼《がん》なる者には、近い将来何やら不安をおぼえる御徴候が看取されたのではござりますまいか。拙者の星占いにも出ておるくらいでござるから、それはあり得ることでござる。しからば、そのことが事実となった場合、御三代さま以来、おとりつぶしになった大名は数しれず、諸藩は不安にみち、天下は浪人にみちております。加うるに御継嗣はまだ御幼君。――何事が起こるか、はかりがたいものがある」
「…………」
「ここに於て、いまそれとなく煙をたてて、天下の形勢を見る。いわば政変の予防演習、幕閣に知恵何とやらの異名をとるお人がある以上、それくらいのことはやりかねぬ。――」
「や!」
頼宣はがんと脳天に衝撃を受けた表情になった。宗意軒は平然と――うすら笑いすら浮かべてつづける。
「さすれば、胸に一物ある大名がいかなるうごきを見せるか。中にはとんだひょうきん者があらわれて、大兵をひきいて江戸に乗り出すなどという茶番が見られるかもしれぬ。――」
「ううむ。……」
「いや、或いは、そのむきではそのことを予測して、もしくは待ち受けて、いまのうちにこれをたたいておくという罠かもしれませぬぞ。しれませぬ、ではない、あきらかにそれが向こうの狙いでござる。なんとなれば――」
「なんとなれば?」
「大納言さま、殿はいつ和歌山をお立ちに相成りましたか」
宗意軒はべつのことをいい出した。
「されば、きょうで、五日になるか、六日目になるか。――」
いつのまにか座にもどった牧野兵庫頭が答えた。彼もまた顔面蒼白になっている。
「しかし、御出立のお支度をはじめられたのは、ずっと以前からでござりましょうが」
「それは、江戸の知らせ次第で、いつでもたてるようにと。――」
「それで相わかった。大納言さま、いまだ和歌山をたたせられぬうち、すでに幕閣の人間は、それをとどめに江戸を発してこちらに向っておりまするぞ」
愕然として、頼宣と兵庫頭は顔見合わせた。
「正直なところ、将軍家の御病気の件も半信半疑なら、それがいま申したようなからくりあるものとも、拙者もとより、最初のうちは推量できませなんだ。そのことに思いあたったのは、ふとした筋より、公儀の一人物がひそかに江戸を発し、西へむかったということを知ったときでござる」
「何者じゃ。その公儀の人物とは?」
「それを厳重に秘しておりまする。拙者にもどうしてもつきとめられませぬ。すべて世上に知られぬように事をはこぶための行動と存ずる。さればこそこの宗意が知ったのも十数日あとのこと、――ただ容易ならざる匂いを感じ、拙者もまた江戸を発してそれを追いましたるに。――」
「正雪はどうした」
「正雪は江戸を出られませぬ。大納言さま、どうやら正雪は公儀より眼をつけられたらしゅうござるわ」
「なに?」
と、頼宣は不安げに宗意軒を見まもって、
「……しからば、やはり十兵衛が知らせたのか。きゃつ、まことに公儀の隠密であったのか?」
「あいや、あながちそうでもござりますまい。十兵衛はいまのところ、江戸の由比正雪のことまでは知りますまい。公儀には無数の隠密あり、すでに大目付として転生以前の但馬守すらかぎつけておったではございませぬか。されば、いま正雪が江戸を離れれば、その留守にいかなる探索の手が入るやもしれず、正雪は目下例の地底の穴蔵を埋めるのに大わらわのはずでござりまする。――正雪の件はそれとして」
宗意軒は頼宣を見かえした。
「拙者、西へ上って参りましたるに、道中、あれは浜名湖の舞坂あたりでござったか、はからずもこのベアトリスにゆきあい、話をきいてござりまする。それより両人うちつれて尾張へ入ったところ、尾州藩六十二万石、ひそやかながら、しきりと戦備をととのえておる様子。――」
「戦備?」
「だれに対して?」
頼宣と兵庫頭は同時にさけんだ。
「すでに尾張に入った公儀の人物が命じたに相違ござらぬ。十中八九まで、それは紀州大納言、あなたさまに対してでござりまする」
と、宗意軒はいった。依然として、冷やかに笑っている。――
「まず、おききなされ、それより七里の渡しを渡って桑名へつきましたるところ、桑名の御本陣に紀州大納言さまお泊りの関札をいまや立てんとするところでござった。先駆の侍の命じたことでござろう。大納言さまはいつおつきか、と本陣にききに立ち寄って、はからずも大納言さま御一行が、奈良を経て、伊賀街道を通って伊勢に入られることを知った次第――一足ずれれば、拙者らは川俣街道をとって紀州へ向うところでござったわ」
これで、森宗意軒とベアトリスお銭が忽然として柳生に現われたいきさつはわかった。
が、宗意、何しに来た、と最初頼宣がきこうとした疑問は依然として解けない。しかし、頼宣はただ息をつめて、まじまじとこの怪老人を見まもるばかりだ。
「桑名より東海道を|加《か》|太《ぶと》越えしてこの伊賀路へ入って参りましたゆえ、|阿《あ》|濃《の》|津《つ》には寄りませなんだが、伊賀の上野――ここもまたただならぬ気配がござった。拙者のみるところでは、公儀の人物は、すでに伊賀上野まで到着しておりまする」
阿濃津は藤堂三十二万三千九百石の城下町だが、伊賀上野にもその支城がある。
藩祖高虎はすでに歿して、いまは二代高次だが、徳川家にもっとも信寵せられた家柄として、御三家などの親藩をのぞけば、前田、島津、伊達などの辺境の大大名につぐ大藩であった。
「将軍死病の虚報をはなって天下の形勢を見る――と申したが、この念の入った手際のよさ、いまやその狙いは一つ、公儀にとってさきざきもっとも危険なお人に、ここで鉄槌を下すたくらみであることが判明いたした」
宗意軒はいった。
「大納言さま、柳生に一日足踏みなされてようござりましたな。伊賀へ越えられたら、ただではすまぬところでござりましたぞ」
例の皮肉なうすら笑いにひかる眼を、じいっと頼宣にそそいで、
「いかがあそばす」
と、あごをしゃくった。
深夜の柳生城に風絶えて、一座は凍りつくような沈黙におちた。牧野兵庫頭は蒼白になってあぶら汗をしたたらし、頼宣の満面は充血して、いまにも耳たぶから血でも噴きそうに見える。――
彼らは、孤剣柳生十兵衛の恐怖どころではない――もっと圧倒的な、紀州全藩がはまるほどの巨大な罠に、いつのまにかひきずりこまれていることを、はじめて知ったのだ。
「陰謀というものは、下が上にたくらむとはかぎらぬ。むしろ上が下に――公儀が民にむかってたくらむことが多いものでござってな」
宗意軒は哲学者みたいにつぶやいたが、それだけにひとごとのようでもある。
救いを求めるように、兵庫頭は又右衛門の方をちらと見た。
「いまは御出府のときではない――と、われらはくりかえし、申した」
と、又右衛門はひくくいった。
兵庫頭は武蔵を見た。武蔵は壁にもたれ、ばさとした白髪まじりの蓬髪をひたいにたらしたまま、
「御大難の時やきたる、か」
と、ひとりごとみたいにいった。――剣豪というより、闇の中の大剣怪といった感じの男である。
「そもそも宗意は何しに来た」
頼宣が凄じい眼でにらんでいった。
「いやさ、そちはわしの出府をとどめに来たのか」
「べつにおとめはつかまつりませぬ。ここでおひき返しなされたとて、和歌山から柳生までおいでなされた御道中の跡が消えるものではありませぬしなあ。とくにこの柳生の庄など、御狼藉の跡たるや惨憺」
ここに至っても、なお笑いを消さぬ森宗意軒の眼は、大納言頼宣をためすように見まもっていた。
「おすすみなさるか、お退きあそばすか、御意次第。宗意はただ拝見つかまつる」
「余は退かぬぞ」
と、頼宣はさけんだ。勃然として、
「ひとたび江戸へゆこうとした頼宣が、途中で公儀の見えぬ影に立ちはだかられ、恐れをなしてスゴスゴと、尾を巻いて逃げもどったときこえては、天下の笑いものじゃ。これ以上の頼宣の恥はあるか。――それを見せつけて、一指も加えず余の頭をおさえようとする、それこそ公儀のたくらんだ罠ではないか」
「そういう見方もござりましょうな」
「してまた頼宣が江戸へゆくに、これをとどめるなんの理由があるか。権現さまの第十子、当代将軍家の叔父にあたる余の出府を、いかなる罪状で制止しようとするのか。まさか千人内外の人数で江戸へ攻め上るものとは、だれしも思うまい。それに対し、大仰に尾州、藤堂などに戦備をととのえさせて防ごうとする公儀の仕打ちこそ奇怪ではないか」
「そういう見方もござりましょうな」
「そもそも宗意の申すことが奇怪だ。公儀のたくらみというのはまことか。尾州、藤堂の戦備というのは、そちのかんぐり、思いすぎではないか。――それとも富士川の水鳥の故事にならい、余をおどして、あくまで出府をとどめようとするそちのたくらみではないか。余がいま出府しては、そちの陰謀にさわりがあるのではないか」
「ははあ、そういう見方もござりましょうな」
宗意軒はくびをかたむけて苦笑した。
「左様なことを仰せられるかとも思い、さればこそ、しいておとめはつかまつらぬと申しあげたのでござる。では、おゆきなされ、伊賀へ。――」
「おおさ、ゆかいでか、兵庫っ」
と、頼宣はふりかえった。
「明朝、伊賀へ立つぞ。万一のこともある。念のため、槍、鉄砲の手入れを怠るなとみなのものに申しつたえろ」
「まず、まず、まず。――」
兵庫頭は狼狽して、べたべたと頼宣の方へ這い寄った。
「殿、しばらくここにおとどまり下され。まことに藤堂藩にそのようなうごきがあるか、その実否を探るが先決と存じまする。御出立のまえに、こちらより物見をお出しなされてはいかが」
さすがは、ものの役に立つと頼宣に見込まれてその寵臣となった牧野兵庫頭だ。何やら天来の妙案を思いついたらしく、眼をきらきらとかがやかせて、
「荒木又右衛門という、伊賀上野については恰好の物見役がおるではござりませぬか?」
「――や」
はじめてそのことに思いあたったらしく、頼宣もはっとして又右衛門の方を見た。
荒木又右衛門と伊賀の上野。――
いままでその両者を連結しなかったのが、ふしぎなくらいですらある。
寛永十一年十一月六日、いまを去ること十二年前、又右衛門はその上野の鍵屋の辻ではなばなしい仇討ちをしたのち、藤堂藩に四年有余も特別待遇を以て預けられていたのであった。いや、そもそもが又右衛門は、この柳生から伊賀へ越える途中の月ケ瀬ちかくの生まれである。この一帯の地理にはもっとも明るいはずだ。
「……それは妙策」
何をかんがえているのか、宗意軒はけろりとしていった。
「ただ藤堂藩には、他藩に見られぬ役目の者がおるぞ。御存じかどうかは知らぬが、伊賀は古来名うての忍者の本場、藤堂家ではその一党を召しかかえて、無足人という組織を作っておる。それは承知しておいた方がいい」
「又右衛門、根来者をもつれてゆけ」
と、兵庫頭がひざをたたいていった。
又右衛門はもちまえの重厚な顔をむけて、
「宗意軒さま、いった方がよろしかろうか」
「ああ、ゆけ。その物見の結果次第で、改めて大納言さまの御進退をきめていただこう」
「……藤堂藩の件はともかく、拙者、どこぞで例の十兵衛とゆき逢うような気がいたしまするが」
「斬れ」
「よろしいか」
「あの男の転生の件は、いかなわしももはやすっぱりあきらめた。斬ってよろしい」
又右衛門は、ニヤリと笑った。
「それからの、江戸から来た公儀の人物を、何者かつきとめろ」
「宗意軒さまのお申しつけとあれば」
立ちあがり、なんの昂奮もない厚い背を見せてゆきかかる荒木を、森宗意軒は呼びとめた。
「あ、待て。又右衛門。おまえは藤堂藩のことをよく知っておる便もあるが、逆にまた向こうに知られておる不便もある。顔は見せるな」
「は」
又右衛門は苦笑して、ふところから例の柿色頭巾をかぶって、座敷を出ていった。
――このなりゆきをどうすべきか、さすがに判断しかねたとみえて、大納言頼宣はむっと息をつめたような表情であとを見送ったままだ。
「……さて」
と、宮本武蔵がいった。
その手もとにピカとひかったものがあるので、兵庫頭がはっとして見ると、彼は小刀をぬいて何やらけずっているのであった。さっきから、娘たちを見張っているあいだの仕事のつづきらしい。気がつくと、一本のふとい木刀をひざにかかえていて、それを、コツ、コツ――と、しあげにかかっている。いまこの座敷で交わされた問答、またこの柳生をめぐる風雲、そんなものには一切関心のないような、うごく石像みたいな姿であった。
――夜はふけ、夜はあけた。
そして、一日たっても、伊賀へ出ていった荒木又右衛門は柳生へ帰ってこなかった。――
【四】
……ゆくもならぬ、ひき返すもならぬ。ゆけば、嘘かまことか、藤堂藩が力を以て妨げるであろうといい、それときいてひき返すことは紀州の意地がゆるさぬ。
終日、凄じい形相で懊悩していた頼宣は、一日のうちに憔悴した。
「宗意どの」
見るに見かね、かつみずからも苦悶して牧野兵庫頭は、この窮境をどこ吹く風といった顔の森宗意軒のまえのたたみをたたいた。
「又右衛門はどうしたのじゃ」
「さあて、わからぬ」
「なに? ……魔界転生衆などと仰々しいことを申して、わしの屋敷ではいばりちらし、したい放題、|羅《ら》|刹《せつ》の欲望をみたしながら、思えば何もかも役に立たぬ奴」
苦悶のあまり、怒りすらおぼえて歯ぎしりする兵庫頭を、宗意軒はじろと見た。
「兵庫どの、あなたは大納言さまのお役に立つお人のつもりか」
「も、もとよりじゃ」
「では、なぜ大納言さまのこのたびの御出府をあくまでおとどめなされなんだか」
「それは。――」
と、兵庫頭は、ちらっと向うの頼宣の方を見た。そんなことをいったところで、あの御主君がいい出されたことを止めるなどということは金輪際むりだ、といいたかったのだが、それは口にできないから、顔面が充血した。
「大納言さまのおんふところ刀として、衆人だれしも認めるあなたの責めは重大でござるぞ」
「……で、この|期《ご》に及んで、拙者にどうせいと申されるのじゃ」
「いや、これはよいことをおきき下された」
宗意軒はニヤリと笑った。
「わしは、兵庫どのが大納言さまに対したてまつり必死の御忠節をつくされるのはこのときにあると思う。そのときが来たことを、兵庫どの、およろこびなされや」
「拙者が、殿に忠義を――何を、いまさら。宗意どの、それはどういう意味じゃ」
「されば、捨ておけば殿はこのまま伊賀へ入られる。が、宗意はいま大納言さまを御公儀の罠におとしまいらせとうはない。あと四五年、わしが合図をする日まで御健在でおわして欲しい。さればとて、さきにも申した通り、このまま紀州へひき返されても、ここまでおいでなされた御行跡は消えぬ。で――拙者は、あなたが大納言さまに代って伊賀へ入られることをすすめたい」
「な、なんじゃと?」
遠くでこちらをにらんでいた頼宣の方がさけび声をたてた。
「藤堂藩が戦備をととのえているというのはまことか、わしのいったことは嘘か、殿にはまだお疑いのようじゃ。事実、わしの申したことは、万まちがいのないことといいたいが、想像はあくまでも想像、それゆえ、嘘かまことか、あなたが身を以てためされるのじゃ」
「拙者が、大納言さまのお身代わりに」
「――江戸でな、張孔堂の一味に丸橋忠弥という男がおって、江戸城の濠の深さを測るに、石を投げこめばわかるというておった。兵庫どの、その石になりなされ。――実のところ、わしも、このまま御行列が伊賀に入ればどういうことになるか、この眼で見たいということもある」
宗意軒は面白そうに笑った。
「もとより、御行列の大半をひきい、兵庫どのは大納言さまのお乗り物に乗られての。何事もなく、上野を通過できればいままでわしのいったことはまさにかんぐり、おわびまでに宗意軒、身命を賭して大納言さまをお護りいたし、あらためて御行列に追いつくであろう」
「もし、何か起こったら?」
「死ぬことじゃな」
「えっ、死ぬ?」
「それ以外になかろうが。そして大納言さまはここからひそかに紀州へ御退陣あそばす。公儀には、重臣牧野兵庫頭なるもの発狂いたし、大納言さまのおん名をかたり、知らぬまに行列を催して伊賀まで道中したむねのお届けを出される。するとこれまでの御道中はすべて説明がつくわけじゃ」
「――あ!」
「大納言さまの御愛臣、知恵袋の牧野兵庫頭どの、これを以て前途を測り、また後図を万全ならしめる捨て石となる。これほどの大忠をつくされる日は、望んだとてまたとあるものではござらぬぞ」
牧野兵庫頭は蒼白になっていた。進退両難の立ち場におちいったことは承知していたが、じぶんが――じぶんだけがいまのっぴきならぬ犠牲の祭壇にささげられようとは、思いのほかであったのだ。
大納言はこの問答をきいていたが、何もいわなかった。一つの妙策、というよりこれよりいまの事態を打開する法はないとまで思われる天来の妙案にはちがいない。
「牧野どの、さぞ御本懐、また御感奮のことと存ずるが、いかが?」
頼宣が|嗄《か》れた声でいった。
「兵庫、いってくれるか?」
牧野兵庫頭はむしろ憎悪にみちた白い眼を宗意軒から頼宣にうつし、
「――か、かしこまってござりまする!」
といって、手をつかえた。
「さて、御行列のことじゃがな。その大半をつれてゆくことはいま申した通りとして。――」
と、宗意軒はいとも事務的な調子でまたいい出した。
「気になるのは、藤堂藩のほかに、例の十兵衛のことがある。いや、むしろこっちからすすんで――忠義ついでにこの際、きゃつをひき寄せて討ち果たすべきじゃ。あれと公儀と連絡つけさせては一大事。で、その|囮《おとり》として、こっちにとらえておる例の人質、左様、あのおひろ、弥太郎の姉弟だけをつれてゆかれい。わざと駕籠をあけて、よく見えるようにするのじゃ。そして、鉄砲の火縄の支度にぬかりなく、槍ぶすまでつつんでおきなされ」
「あとの二人の娘はどうする」
頼宣がきいた。宗意軒は答えた。
「それは大納言さま御入用のときが必ずあろうと存じまする」
【五】
柳生から、梅のない秋の月ケ瀬。
伊賀国に入って島河原。
山道だ。両側は杉林だが、風が吹くと、もう雨のように枯葉がちる。――その下を、長蛇の行列が越えてゆく。
――柳生についたときの約三分の二に減っているのだが、それでも六百人以上、この伊賀街道を、これほどの大行列が通ったことはあるまい。しかも先箱の金紋は|葵《あおい》。――ちらほらとゆきかう旅人もあったが、この紋を見るよりさきに、なんとなく殺気をはらんだ大行列に胆をつぶして、みんなベタベタと路傍に平伏してしまう。
まさに紀州の威風、伊賀路をはらうともいうべき光景であった。
殺気といったが、紀州侍の大半は事態をよく知っているわけではない。いや、少数の者をのぞいては、中心の乗物には主君の大納言がゆられていると思いこんでいる。ただ、これまでの道中がいままでの参勤とはだいぶようすがちがっているのを知っていたし、なんとなく気がたけだけしくなっているのだ。たとえ何事が起ろうと、御三家の御威勢のまえに何かあらんとそっくりかえって歩いている。
それにしても、彼らにもふしぎなことがある。
「主君」のお乗物のすぐ前を一挺の駕籠が動いているのだが、その方はなかばひらかれて、中に娘と少年の乗っているのが見える。それが関口柔心の娘と息子だということは、もうだれも知っている。
その前後の足軽たちは、槍を立てず、行列の進行方向に沿うて、横にして歩いていた。駕籠のうしろの足軽たちの槍の穂は前をむいているが、駕籠の前の足軽たちの槍の穂はうしろをむいている。まるでいったん事あれば、いっせいにその駕籠の中へ突き刺せる用意のためのようであった。
駕籠の中の姉弟は、ぴったりと抱き合っているらしかった。いや、姉の方が弟の口をふさぎ、手足を封じているらしい。
関口一族が何か殿の御不興をかって監禁状態になっていたことはみな知っているから、それと関係のあることだとは思うが、しかしこの道中のこのありさまはいかなる理由にもとづくものか、行列の侍たちの大半にはわからない。わからないが。――
「大納言さまのなさることだ」
「南海の竜の御行状にまちがいのあるはずがない」
彼らはそう信じて、肩をそびやかして行軍している。
伊賀に入っても、何事もなかった。制止する藤堂藩の武士など一人もあらわれなかった。――そして、乗物の中の牧野兵庫頭も、前後に力づよくひびく波のような足音をきいているうち、柳生を出たときの悲壮な気持ちがしだいにうすれ、
「まさか? いかに藤堂にしろ、外様の身を以て紀州藩に。――」
と、森宗意軒のおどしが世にあり得ない妄想のように思われはじめ、
「もしぶじにここを通過できれば、この決死の先駆に対してどれほどの御褒美があろうか」
と、そんなことまで夢み出した。……
柳生から、五里も山道を越えて来たろうか。乗物の戸越しに外が平野に変わって来たのがわかる。――
「これよ、上野はまだか」
と、兵庫頭はきいた。
つきそっていた武士は、主君用の乗物からくる錯覚か、まるで頼宣そのひとに対するもののようにうやうやしく答えた。
「やがて、鍵屋の辻にさしかかりまする」
「鍵屋の辻。――」
鍵屋の辻は、奈良方面から上野へ入る入口にある。この街道はそこから二つの坂に分かれて、右へ上るのを|塔《とう》|世《せ》|坂《ざか》、左へ上るのを北谷道といい、塔世坂の角に万屋、北谷口の角に鍵屋という茶店があった。
むろん、兵庫頭はそんなことまでは知らない。が、鍵屋の辻ときいて、当然彼の胸には特別の思念が波を立てた。ここは有名な荒木又右衛門の仇討ちの場所だ。しかも、それがたんなる歴史的な興味にとどまらない。――おととい、柳生から伊賀へ潜入したはずのその又右衛門はどこにいる?
「これ、戸をあけよ」
と、彼はいった。
戸をあけて、外を見る。道の両側は、ひろい松林となっている。又右衛門はもとより、藤堂藩の侍らしい影も全然見えなかった。美しい松林にしいんと秋の日がしずまりかえっているのが、かえってぶきみである。
ただずっと遠くで、|童《わらべ》たちの可憐な唄声がきこえた。――
「伊賀の水月、鍵屋の辻は、
[#ここから2字下げ]
義理のしがらみ、乗りかけお馬、
荒木武勇で名がひびく。――」
[#ここで字下げ終わり]
――と、そのとき、行列の前方がどっとどよめいた。|鉄《てつ》|蹄《てい》の音がきこえ、兵庫頭の髪の毛が逆立った。――すわ、藤堂勢か、と色めき立ったのだが、次の瞬間、彼は塔世坂を駆け下りてくる四騎の姿を見、さらに例の囮の駕籠にむかって足軽たちが槍をとりなおしたのを見て、
「ま、待て」
と、あわてて叫んだ。
「敵ではない。――あれは味方だ!」
騎馬の先頭は柿色の三角頭巾だ。あとにつづく三騎はいずれも山伏姿であった。
「……おお、荒木!」
息をのんで、何事が起こったか、と見まもる兵庫頭の耳に、
「御用心めされ、ただいまここに柳生十兵衛が推参いたしまするぞ!」
「その姉弟、そこに置いてはあやうい」
「殺してはならぬ。拙者どもにおまかせ下され!」
ひっさけるようなさけびがちかづき、四騎は嵐のように鍵屋の辻に駆け下りてくると、その先頭の三角頭巾が、おひろと弥太郎の駕籠の傍に飛び下りた。よほど急を告げているわけがあるらしく、おひろと弥太郎をひきずり出し、一人ずつ、うしろから駆けて来た山伏たちのうち、二頭の鞍に放りあげる。――
「こやつら、十兵衛に奪われてはならぬ」
「一刻も早く、柳生へ。――」
と、三角頭巾が鞭でその二頭の馬の尻をぴしっとなぐった。二人の山伏に抱かれて、おひろと弥太郎を乗せた馬は、砂塵をあげて西の方へ駆け去った。
あれよあれよというあいだのことだ。何の思考をめぐらすいとまもない。
「な、なんだと? 十兵衛一味が。――」
牧野兵庫頭はがばがばと駕籠から這い出した。三角頭巾は四五歩前に出て、背を見せて、つまりゆくての北谷口の方をきっと見て、一言の口もきかない。代わって、ただひとり残った根来山伏が、
「されば、きゃつ藤堂藩の無足人組とわたりをつけ、いまここに馳せつけて参る。――」
「無足人組。――」
そういう名の藤堂藩の忍び組の存在は、宗意軒からもきいたことがある。
「みなの衆、鉄砲の支度。――」
|剽悍《ひょうかん》無比の面がまえをした根来山伏は呼ばわった。
「やがてあそこの北谷口から駆け下りてくる深編笠の武士、われらと同様山伏姿に身をやつした十人あまりの無足人組を、坂を下ろさず射ちとめろ。――」
「十兵衛はよいとして。――」
と、兵庫頭は仰天した。
「藤堂藩にこっちから手を出すのか」
「やむを得ませぬ。まず、これで機先を制しておいて、あといそぎ伊賀を離脱撤退するのでござります。柳生へ。――」
と、根来山伏がいった。
「なんとなれば、十兵衛一味のあとから、藤堂勢数千、|甲冑《かっちゅう》に身をかためて押し進んで参りまする。あれを御覧なされ。あれをおききなされ」
北谷坂の上の空に――はるかにそびえる上野城の天守閣のあたりに、砂塵があがっていた。いや、たしかにその方角から、ただならぬ地ひびきの音すらきこえる。
「兵庫頭さま、いけませぬ。おひきあげになるよりほかはござりませぬ。が、それにしても、十兵衛らの追撃を避けるにはもはや間に合わず、まずきゃつらを打ち払わねば、とうていこの場は退転できませぬぞ!」
鉄砲組の火縄からはすでにブスブスと硝煙があがりはじめていた。その中で、ちらっちらっと、さすがに不安げな表情をこちらにむける者もあったが、兵庫頭は何もいわない。
黙認したのではない。判断力を失っているのだ。
――藤堂藩が大挙出動しようとしている。それは宗意軒からきいてはいたが、彼としては偵察のつもりであった。ほんとうに藤堂は、大納言さまのお通りを、力を以てしてでもはばもうとしているのか? もしそれがまことなら、兵庫身代わりに死ね、と宗意軒はいった。おのれの生死もさることながら、事態がかくまで重大化したことに彼は身の毛がよだつ思いがした。
山雨至らんとして風楼に満つ。――
「来た」
と、前方の荒木がさけんだ。
はたせるかな。――ゆくての北谷坂から、深編笠の武士と十人あまりの山伏が、狼群みたいに|馳《は》せ下りてくるのが見えた。
【六】
「……やっ」
「……おおいっ」
こちらにとまっている行列、さらに火縄のくすぶる匂いまでかいだのかもしれない。彼らはいちどどっと立ちどまったが、次の瞬間そんなさけびをあげて、ふたたび猛然と駆け出した。その声までが狼の咆哮のようにきこえて、
「撃てっ」
と、牧野兵庫頭は絶叫した。
――大納言さまのお身代わりに死ぬことは辞さぬ。しかしひき返してこれほどの大事を報告することもまた大忠、とやっと思いめぐらしたのは――実は才人兵庫頭らしい、おのれに対するいいのがれだ。
轟然と銃声があがり、黒煙があたりをつつんだ。
下の平地から坂は恰好の目標であった。馳せ下りようとしていた狼群はいっせいにもんどり打ってころがった。あの深編笠の十兵衛も――おお、十兵衛をしとめた! せめてこれを大納言さまへのお土産に。――
「よし、いそぎ、ひきあげい!」
さけんで、兵庫頭は、そのとき坂にころがった十兵衛らしい影の編笠が飛んで、その下から柿色の三角頭巾がのぞいたのを見て、息をのんだ。
同時に、その野羽織をきた姿に見おぼえがあり、かつ、眼前に立っている荒木又右衛門も同じような野羽織をきていることにはじめて気がついて、ぎょっとして改めて見まもった。
荒木又右衛門はふりむいた。
三角頭巾のあいだからのぞいた右眼は糸のようにとじられている。
「藤堂家の大軍が出てくるぞ。はやく伊賀を逃げろ!」
はっきりとこんどは柳生十兵衛の声でいって、彼はスルスルと牧野兵庫頭のところへ馳せもどって来て、
「ただし、うぬはのがさぬ。うぬの用は終わった!」
刀身がひらめくと、兵庫頭の左肩から血しぶきがあがった。
乗り物にどんと背をぶつけ、いちど立ちすくんだ牧野兵庫頭の眼は、おのれの斬られたことよりも、相手の正体に驚愕して、かっと眼球をむき出している。
――いまにしてかんがえればおかしい。
荒木のつれていった根来衆は十人だし、先刻人質をつれ去りにやってきた山伏は三人だ。
また藤堂藩の無足人組とやらが、山伏姿をしているというのも妙だ。いかに三角頭巾に面をつつんでいたとはいえ、その眼に注意しなかったのもうかつであったし、そもそも根来組の残党の顔をいちいちよくおぼえていなかったのも大不覚だ。――
とはいえ、この場合、柳生十兵衛と柳生衆が、荒木又右衛門と根来組に化けて、ぬけぬけとあんな現われ方をするとはだれが想像したろうか。
――と、思ったか、どうか。たとえ思ったとしても時すでに遅し。
紀州家の寵臣、大納言頼宣のふところ刀、牧野兵庫頭は眼を義眼みたいにむいたまま、どうと乗り物のまえに崩折れた。
柳生十兵衛は血刃をひっさげてふりむいた。
それを見つつ――紀州家の供侍たちはこれにむかって反撃をこころみるどころか、その周囲を、雪崩を打って潰走していた。牧野兵庫頭の斬り伏せられるのを見て仰天したせいもあるが、それより彼らを恐怖させたのは、
「藤堂勢数千、甲冑に身をかためて押し進んで参る。――」
というさっきの警告と、その警告にいつわりのない証拠に、いまや北谷口のかなたにとどろく地ひびきであった。
何が何だかわからず、無我夢中で鉄砲を撃ったものの、それがかえって恐怖の反動をひき起こして、彼らはその鉄砲も槍も投げすてて、一人走れば十人走る、十人走れば百人走るといったていたらくで、もと来た島河原の方へ――柳生の方角へ逃げ走った。
柳生十兵衛はそれらをかえりみもせず、三角頭巾をぬいだ。この頭巾は曾てお品からもらって、和歌山城に乗りこんだとき着用したものだ。
しかし、彼の着ている野羽織や、三人の柳生衆に着せた山伏の装束、また彼らの髷をといて総髪としたのは、あきらかに荒木又右衛門や根来衆が伊賀に潜入したのを見張っていて、上野の町で仕入れてこれに扮したものであった。むろん、人質のおひろたちをぶじに救い出すための知恵だ。
そして彼らは、きわどいところで機をつかみ、実にひとをくったやりかたでおひろたちをまず逃がすことに成功した。
あまつさえ、ほんものの荒木や根来衆の行動の先手を打って先回りし、彼らそのものを、紀州の鉄砲組によってもののみごとに掃討した。――
見よ、北谷口の坂に、荒木又右衛門と根来衆は算をみだして伏している。――いや、虫のようにうごめき出した者が三四人ある。根来組だ。
彼らはよろめきつつ立ちあがった。
そして――金剛杖をたよりに坂を下りはじめた。
あきらかに鉄砲傷を受けて、いずれも血まみれであった。それが、十兵衛たちの姿を見つつ坂を下りて来たのは、坂の上にしだいに迫ってくる大集団の足音に追われて、それからのがれようとする本能的なあがきであったかもしれないが、しかしさすがにしたたかな生命力ではあった。
「片づけて参る」
と、十兵衛のそばに立ってこれを見ていた山伏姿の逸見瀬兵衛がいって、猛然とその方へ駆け出した。
十兵衛は、うごき出した根来衆より、坂のうごかぬ影をじいっと凝視している。
荒木又右衛門。
――すでに父宗矩さえ討った十兵衛だ。又右衛門もまた父とひとしく、すでに現実の存在であるはずはなく、いかにしてかこの世に再誕した化物に相違ない。また藤堂勢の接近を前にして、彼とたたかうのに時をかけている余裕はなく、いま奇計を以てたおしたことにためらいはないが。――
しかし、しょせんそれは思念の盾の一面にすぎない。
父を討ったときに十兵衛をとらえた苦悩ほどではないにしても、しめあげられるような悲愁の思いは彼の心をとらえて離さない。
兄弟子であった。剣はいずれが兄か弟か。その勝負は腕によらず、もののはずみできまったかとみえた。ともかくも十兵衛は、時に奇剣を弄し、たとえ勝っても又右衛門の|豪《ごう》|宕《とう》きわまる正剣に圧倒感をおぼえたが、それよりもこの人物の沈毅重厚の性格に、完全に兄弟子としての敬意をささげていた。
その又右衛門をいまや討った。しかも奇計を以て。
そのような討ち方をも辞させぬ魔人に、又右衛門よ、どうしてなった?
痛烈にひしめく思いを一眼に凝らせて、じいっと坂の方をながめている十兵衛のかなたで、逸見瀬兵衛は根来組の中に駆けこんでいる。
「うぬら――懲りずに、よくあらわれたな」
仕込杖をぬきはなち、右にばっさり一人を斬り、
「いまこそ柳生新陰の斬れ味を知れ」
左にばっさり一人を斬る。
朋輩七人討たれた怒りをこの対象に転化させて、そこまで迷い出て来た四人の根来組を景気よく斬りちらした。なに、その四人とも鉄砲傷で半死半生のありさまだからこうまでたやすくできたことだが、もともと気が荒くてのぼせ性の瀬兵衛はいよいよ血ぶるいして、
「三角頭巾の化物。――」
と、なお馳せぬけて、坂へ突進した。
「……あっ」
そのとき、何を見たか、十兵衛がただならぬ声を発して、
「待て、瀬兵衛。――」
地を蹴ってこれも走り出したが、遅かった。――
「うぬだけは、その首もらってゆく」
十兵衛の声もきこえず、坂の中腹に伏している三角頭巾のそばへ駆け寄った逸見瀬兵衛の――下半身だけが、そのまま坂を四五歩駆けのぼった。
その場に上半身が崩れおち、奔騰した血の雨がふりそそぐ真下に、荒木又右衛門は片ひざをついて起きなおり、一刀をうしろに|薙《な》ぎはらったまま、がっしと地上にすえられた石の魔像のような姿であった。
彼はぬうと立った。
十兵衛は静止した。
【七】
又右衛門は頭巾のあいだからそれをにらみすえたまま、一歩、一歩、坂をあゆみ下りてくる。その足どりは力強く、どこに傷をしているとも見えなかった。――弾丸は彼からはずれたのだ。いや、銃声をきく以前に、みずからがばと地に伏してそれをのがれたのだ。――荒木ほどの者なら、やりそうなことだ!
「十兵衛」
と、彼は呼んだ。
「先夜、柳生法徳寺で、愉しみをあとにとって見のがしたのは、うぬを買いかぶりすぎたというべきだな」
それはききおぼえのある又右衛門の声であったが、法徳寺でも感じたように別人のように陰惨なひびきをおびた声でもあった。
「こうまでせねば、おれが討てぬか」
又右衛門はちかづいてくる。眼が嘲弄にひかっていた。
十兵衛は一刀を青眼にかまえたまま、寂として立っていた。……が、心は決して平静ではない。たんなる嘲笑に心をみだす彼ではないが、いまの又右衛門の吹きつける言葉の吹針は、まさにこちらのいささか痛いところに音たててつき刺さる感がある。――
「ふふふふ」
ふくみ笑いしつつ、又右衛門の足がしだいに速くなった。
日は中天にあった。松林の松の枝以外に、この鍵屋の辻の大地におちるものの影はなかった。荒木の影も、十兵衛の影も。――そしてこの両者の本体すらも、もし見ている者があったら、しだいに黒い炎と変じて来たように見えたかもしれぬ。
いかにもここは、伊賀の上野の鍵屋の辻。いまを去る十二年前、その又右衛門自身が三十数人の大集団を相手に四時間にわたる血戦をくりひろげ、みごと敵の河合又五郎を討ちとめた場所だ。
彼にとってはかがやける記念の戦場。
いま又右衛門はその栄光の戦跡を進む。あの遠い日の数十人入りみだれての激闘の光景と異り、この日、対決するのはただ二人。うごいているのは蒼い秋のまひるの日輪ばかり。
いや、死の匂いはすでにある。もはや絶命した十人の根来組、牧野兵庫頭、逸見瀬兵衛たちのかばねからたちのぼる血の匂いが、かげろうのように大地を這っている。
又右衛門はピタリと立ちどまった。十兵衛の眼前、三間の位置であった。
「鍵屋の辻じゃ。知っておるか、十兵衛。――ここでおれと刃を交えるを誉れと思え」
彼自身、昂然と、まるで全能の呪文をとなえるがごとくにいうと、そのまま――眼中に十兵衛などないかのごとく、ふたたび地を蹴って進み寄って来た。
――柳生十兵衛の満面は血の気をひいていた。
すでにその以前から彼は、又右衛門が昔日の又右衛門とは一変していることを感得している。曾ての荒木の剣は|豪《ごう》|宕《とう》正確、それだけに規格外の奇剣にまどう隙があった。いま――豪宕の迫力は昔ながらに、それに凄絶の妖気がからみついて、そんな微かな隙をも塗りつぶしている。――
なぜ変ったか? どこからこの力を又右衛門は得たか?
強烈なその思いは、そもそも死んだ又右衛門がなぜここに現われたか、という例の疑問を十兵衛の脳裡によみがえらせた。父にもからまるこの大秘密をきき出すのは、この男以外にない。――
殺さぬ。又右衛門は生かして、その口からきく。
――この不敵な望みが、すでに圧倒されていた十兵衛の心を一瞬に染めかえるあやうい転機となった。剣を交える以前の気力の死闘は、いずれ劣らぬしぶきを蒼空高くあげた。
|相《あい》|搏《う》つは、同門同血の柳生新陰流。――
「えやあっ」
大気をひっ裂く声を同時に発し、かつ同時にふたりのからだもその大気の中へ躍りあがっていた。
一秒の数十分の一のちがいであったろう。又右衛門の方が早かった。
その差だけ上から斬りおろしてくるその大刀を、柳生十兵衛は受けるかたちになった。受けるかたちになったが、大岩石をもうち砕く相手の豪力をはっきりと意識して、
――われ敗れたり!
心にさけぶと、十兵衛は受けた愛刀三池典太とともに、おのれの頭から血しぶきあがることさえ直感した。
|戞《かつ》|然《ぜん》!
空中で氷片のように飛んだものがある。
からくも受けた十兵衛の刀に斬りおろした荒木又右衛門の刀の方が、ポッキリ二つに折れたのだ。
からくも受け得たのは、勝負の寸前に十兵衛のからだに湧きあがった気力のゆえであったろう。――が、それにしても、攻勢の又右衛門の刀の方が折れようとは!
「……あっ」
声ではなく、かっとむき出された又右衛門の眼がそうさけんだ。
ほとんど激突せんばかりにして、空中から二人のからだは地上に落ちている。その数秒のあいだに、相手の刀を折った十兵衛の刀は、燕返しに反転して、又右衛門の胴を薙いでいた。
これは反射行為であるが、十兵衛の気力の余波でもある。――おどろくべし、この転瞬の間に、彼は刀身をひるがえして、又右衛門の右の胴をみねうちにしていたのである。
殺さぬ、この男は生かして、その口からきく。この際に、あくまでその意志を通したのは、しかし十兵衛以外の何者がやれたろう。――落ちた地を蹴って、十兵衛は刀身を高々とあげたまま、うしろへはね飛んでいた。
みねうちながら、凄じい打撃であった。大地に立つこともならず、又右衛門は崩れおちるはずであった。
が、荒木又右衛門はたおれない。折れた刀身をなおにぎったまま、がっきと仁王立ちになっている。頭巾のあいだから十兵衛をにらみすえている眼には冷たい笑いすらひかって――十兵衛がはっとして、
「荒木。――」
戦慄と感嘆のさけびをあげたとき、又右衛門の左の胴から、はじめて鮮血の噴水が数間も噴き出して、それも一息、身をねじって彼はがばと地上に崩れおちた。
柳生十兵衛は夢みる思いで立ちつくし、それをながめていた。
彼自身にもわけがわからない。――彼がみねうちにしたのは、又右衛門の右胴であったからだ。それなのに、いま血を噴いたのは又右衛門の左の胴からであった!
【八】
――ひょっとしたら?
と、思いあたったのは、この鍵屋の辻を駆け去る途中のことであった。
――荒木は、先刻の鉄砲を避け得たのではなく、あのとき左の胴から弾をうちこまれていたのではないか。そして伏しているあいだに、その傷を|縛《しば》ってふさぐという作業をしていたのではないか?
そしてまた荒木の刀の折れたことも、弾が鞘のその部分をかすめたせいではなかったか?
……すべては、想像にすぎない。なぜなら十兵衛は、それらのことをたしかめるいとまもなく、その場を立ち去ったからだ。
彼はちらっと坂の上に眼を上げた。――最初十兵衛たちが馬で駆けつけてからこのときまで、十分とたっていない。しかし、そのあいだ城の方から足音は、いまの銃声をきいたせいか、いよいよ急速調にちかづき、そしてその先頭はようやく北谷口の上にあらわれていた。
十兵衛はいちど坂の中腹の逸見瀬兵衛の屍骸にも眼を移したが、むろんそれを収容しているいとまはない。――
そのまま横に駆けて、松林のはずれに遊んでいる馬、じぶんと瀬兵衛が乗って来た馬の一頭にとびのると、彼は鍵屋の辻から柳生へむかってまっしぐらに馳せ去った。
――ついでにいえば、荒木又右衛門は、十二年前の鍵屋の辻の血戦のときも、おのれの愛刀|来《らい》伊賀守金道をはばき[#「はばき」に傍点]もとから五寸のところで打ち折られている。もし十兵衛の想像があたっていたなら、これも恐るべき因縁であろう。
城からくる北谷道に、しだいに行列があらわれて来た。行列――というより、完全に武装した軍兵だ。
彼らはむろん坂の中腹から下の鍵屋の辻一帯にひろがる大殺戮のあとを見た。またそのとき松林から駆け去ってゆく馬上の影を見た。
「……あっ、これは!」
と、いっせいにどよめきたち、
「曲者だ、あれのがすな」
と、数人、砂けむりをあげて坂を駆け下り、それを追おうとしたが、逃げ去ってゆく馬影はすでに遠く、かつは一帯のあまりな惨状に胆をつぶしたようすで、あたりを見まわして立ちすくむ。
藤堂勢は熔岩みたいに坂を下りて来た。
どよめきをきいて、まんなかの乗物から一人の人物が立ちあらわれた。周囲ことごとく具足をつけているのに、|裃《かみしも》をつけた五十年輩の聡明さと気品をかねそなえた、ゆったりとした風采の人物であった。
彼は歩いて、そこに置きざりにされている葵の金紋を打った乗り物と、そばにたおれている一つの屍骸を見下ろした。
「牧野兵庫頭。……江戸城中で見たおぼえがある」
と、ひとりごとをいったとき、陣羽織をきた武将がいそいで馬をちかづけて来た。
「これらの屍体。……紀州藩士とも見えぬが、いったい何者でござろう。――伊豆どの」
この国の領主、藤堂和泉守高次であった。
――伊豆どの、と呼ばれた人物は、和泉守を見あげ、しばらく思案のていであったが、それには答えずにいった。
「和泉守どの、軍勢ゆるゆると進められ、万一にそなえて国境をかためておかれい。信綱はやはり、信綱だけ、さきに柳生へ乗りこんでみようと存ずる」
|転生《てんしょう》のとき
【一】
……いまにして思えば。
伊賀の上野へ潜入した荒木又右衛門がそれっきり帰ってこなかったのは、事がふかく秘されていたこともあろうが、それにもかかわらずその重大性を彼がかぎつけたせいではあるまいか。なまじ彼が藤堂藩について知るところがあっただけに、かえってそれを探り出す可能性にひきずりこまれたともいえる。
――そして、あのとき、牧野兵庫頭の行列が上野へ入ろうとする直前にいたって、ようやく彼はその真相を探りあてて、柳生へひき返そうとした。――そのとたんに鍵屋の辻で紀州家の行列とゆきあい、北谷坂の上で何やらさけんだのは、兵庫頭にはよくききとれなかったが、じぶんの探り出した事実と事態の急を、あわてて告げようとしたのではあるまいか。
もっとも鍵屋の辻のいきさつは、そこまで大納言の知るところではない。
雪崩をうって、柳生へ逃げもどって来た行列に牧野兵庫頭の姿はなく、のぼせあがった侍たちから、兵庫頭が「柿色の三角頭巾」をつけた男に殺されたこと、こちらから「柿色の三角頭巾」をつけた男を銃撃して殺したこと。藤堂藩の軍兵が大挙出動してくること。――などを、とぎれとぎれにきき、まさに事態の容易ならざる重大化は胆にずんとひびいたが、なおよくわからない点もあり、ひたすら動揺してまだ処置を決しかねているうち――柳生城の城門から|駆《か》けつけて来た侍から、さらに思いがけない報告を受けたのである。
「ただいま江戸より老中松平伊豆守信綱さま御参着。いそぎ大納言さまにお目通り願いたてまつるとの御口上で。――」
頼宣は驚倒した。
「なに、松平伊豆が!」
まさにのけぞりかえってしばし絶句し、このとき森宗意軒が「幕閣の何者かが、あなたさまの御出府を制止するため、江戸を発してすでに藤堂藩まで到着している」といった言葉を思い出し、
「して、藤堂の軍兵どもをひきつれてか」
と、眼をむいてさけんだ。
注進に来た侍はくびをふった。
「いえ、わずか十人あまりの平服の侍のみをおつれなされて御参着でござりまする」
頼宣はいよいよ判断に苦しんだ顔で、宗意軒をかえりみた。
「――ほ、伊豆守どのがのう」
と、宗意軒もさすがに眼をひからせて、
「幕閣の重要人物が出張したとまでは探り出したが、まさか御老中、しかも筆頭人の信綱どのみずからが御出馬になろうとは。――」
と長嘆したが、すぐにもちまえの古沼のような平静さにもどって、
「どう出るか、何を申すか。――まずお逢いなされ」
と、うすら笑いを浮かべていった。
頼宣は蒼ざめた顔色で、
「宗意、うぬはつらを出してはならぬぞ。――よし、通せ」
と侍に命じて、きっと胸をそらせた。
【二】
松平伊豆守信綱。
彼はこのとし五十歳であったが、すでに十四年前から幕府老中の職にある。政務に於けるその抜群の手腕は早くから世に知恵伊豆の称を受けていたが、さらに例の天草の乱に際しては、勇将の名の高かった板倉内膳正すら敗死した島原の城を、みずから指揮して攻め落とし、叛乱軍三万七千をことごとく|屠《ほふ》り去った。――|爾《じ》|来《らい》、その地位はいよいよ重きを加え、現在、信綱はすなわち幕府そのものといっていい存在であった。
いまや伊豆守は、柳生城に姿を現わした。
まさか、出馬して来たのが信綱自身であろうとは――と、頼宣はもとより森宗意軒すら|愕《がく》|然《ぜん》とさせたほどの大きな存在を、ただひとり、頼宣たちのまえに登場させて来た。
しかも、いかにも老中然とした裃すがたで。――
老中らしいにはちがいないが、しかしその背後に、尾張六十二万石、藤堂三十二万石に動員を指令して来たというのが事実なら、これはいかにも人をくった、人を小馬鹿にしたような身ごしらえではある。
頼宣の胸を去来するさまざまな疑心暗鬼を、まったくどこ吹く風といった顔で、うやうやしく伊豆守は平伏した。
「これは大納言さまには、いつに変わらぬ御機嫌と拝察つかまつり伊豆、恐悦しごくに存じたてまつりまする」
頼宣は黙って、にらみつけている。居ながれているのは数人の近臣だが、むろん宗意軒や武蔵の姿はない。――
伊豆守は何くわぬ顔であたりを見まわして、
「伊豆、いちど当地に参り、お城拝観つかまつりたいとは存じおりましたがなかなかその機を得ず、このたび御用あって上洛いたしましたるついでに、ふとこの和歌山へまで足をのばす心となり、積年の望みをかなえられて、欣快この上もござりませぬ」
と、いった。
「――わ、和歌山」
「さすがは大納言さまのおん縄張り、見るからにこの剛毅素朴のおんたたずまい、伊豆拝見つかまつってことごとく感服いたしてござりまする」
「伊豆」
と、頼宣は吐き出すようにいった。
「ここは大和の柳生、余はこの柳生までまかり出ておる。相手は徳川頼宣であるぞ。いらざる猿芝居はよしにいたせ」
「これはしたり」
と、伊豆守はいった。
「ここは紀州和歌山でござる。信綱は和歌山にこそ参上いたしたつもりでござる。ここが柳生などとは――大納言さま、御乱心あそばされましたか」
「まだそのようなそらぞらしきことを。伊豆! ここが柳生であったとしたら何とする!」
「大納言さまが、いまごろ柳生におわすはずは金輪際ござりませぬ」
「余は柳生におる。余は出府いたさんとして、いまその途上、この柳生の庄におる」
と、頼宣はさけんだ。
「江戸の将軍家には病みたもうときいた。よしそれが風聞にすぎぬとしても、左様な風聞を耳にした以上、御三家の一つとして、いや将軍家の叔父、東照大権現の第十子としてこの頼宣、何はともあれ御見舞いのため参府せねばならぬ。それが徳川一族の長老たるものの人情じゃ、義務じゃ。いかに伊豆、その方が老中としても、この頼宣の行動に異議はとなえられまい。文句があれば、申せ、伊豆!」
腹心の側近たちも、手に汗をにぎった。
その通りだ。かく信ずればこそ、みな主君に従って出府の途についていたのだ。これに対して横槍の出るはずは断じてない。――
「信綱も左様に存じまする」
伊豆守はしずかにいった。
「さりながら、その大権現さまが異をとなえられるのでござりまする」
「なに、権現さまが?」
「権現さまのお定めあそばされた武家諸法度が」
「――ぶ、武家諸法度。――」
「大名参勤交代のことは、公儀のおゆるしなくば、一日たりとも一歩たりともほしいままには相成りませぬ。いわんや参勤作法に、百万石より二十万石までは二十騎に過ぐべからず、とある以上、多数の兵士をひきいて自由に往来することなど思いもよりませぬ」
「そ、それは外様の大名に対してのことだ。余は御三家のあるじであるぞ」
「法度にそむかれたおん方は、曾て将軍家のおん弟君駿河大納言忠長卿すら|御誅戮《ごちゅうりく》の御運をお迎えあそばされました」
伊豆守は無表情にいった。
「天下の掟でござる。天下の掟にそむいたものは、たとえ何ぴとであれ、断じて誅戮いたさねば相成らぬ。信綱個人の情はいかにもあれ、御上意の執行者たる老中として松平伊豆守、もし……もし……公儀のゆるしなくして多人数をひきつれ往来する者があれば、この眼の黒いうちはそのままには捨ておきませぬ。――という信綱の覚悟、御三家の御長老たる大納言さまならば、かならずおん|愛《め》で下さりましょうな」
しずしずと、声もあらげずにいうこの人物の姿から、どうしてこれだけの凄じい迫力が放射されるのか、頼宣はじめ家臣たちは身の毛もよだち、のどもふさがる思いがした。
伊豆守は、にこと笑った。
「お、そう申せば、大納言さま、――このたび伊豆が上洛の途次、伊賀へ立ち寄りましたるところ、かの地に何たるうつけか、大納言さまのおん名をいつわる曲者が出現いたしましたなれど、その場を去らせず成敗したと、藤堂和泉が笑って申しておりましたが、まずまともにとりあげる要もない乱心者に相違ござりませぬゆえ、大納言さまも何とぞ御一笑、お見のがしのほどを願いあげまする」
そして信綱はすっと立って、もういちどあたりをしげしげと見まわした。
「いや、かえすがえすも、見れば見るほど好もしき和歌山のお城でござりまするなあ。これだけ拝見いたせば、信綱もはや思い残すこともありませぬ。江戸へのよい土産が出来申した。――ではとりいそぐようではござりまするが、これにておいとまつかまつりまする」
袴をひっさばき、松平伊豆守信綱はスルスルと書院を出ていった。
【三】
だれひとりとして見送る者もない。――しーんとして一座は、死のごとき静寂の氷を張ったままであった。
まさに紀州一国に致命的な鉄槌をくった思いである。
致命的な――しかし、伊豆守は、紀州をとりつぶすつもりで乗りこんで来たものではない。あきらかにそれを救うためにやって来た。
しかし。――
大納言頼宣の眼はうつろなままに座っている。
そもそも伊豆が鉄槌を加えに来たこのたびの出府は何から発したか。すべて伊豆守がたくらんだことではないか。じぶんで誘い出しておいて、じぶんで彼は一撃を与えに来た。
なんのためか?
この頼宣に一撃を与えること、それ自体が目的だ。
いかにして探知したのか、何をどこまでさぐったのか。信綱はこの頼宣に天下をうかがう不敵な心があるのを察知して、事前にこれをたたきつけて置こうとしたのだ。
鉄槌を加えておいて、さりげなく彼は去った。彼は、このたびのじぶんの出府を、牧野兵庫の乱心とすりかえて処理するつもりであろう。おそらく紀州藩は安泰であろう。しかし、事実は少なくとも藤堂藩が知っている。また尾張藩が知っている。いや、やがてはすべての諸侯が眼ひき袖ひきし、天下の笑いものとなることにまちがいはない。
さらに、この一撃で、将来に於けるじぶんの動きは、完全に封じられたことになる。たとえ、まことに将軍が他界するときが来ようとも、じぶんは金縛りにあったように紀州に居すくんでいるほかはない。――由比正雪、森宗意軒、また彼らがその日のために待機させておいた魔界転生衆、それらすべてが健在で、じぶんを護り、じぶんを援けてくれたとて、もはやすべて幻影のごとき存在に過ぎない。
いや、それよりも。――
頼宣のからだじゅうの血管をしだいに燃やして来たのは、ひたすらに凄じい恥の観念であった。――いままでにこの頼宣が、これほど|虚《こ》|仮《け》のように扱われ、これほどいかんなく辱しめられたことがあろうか。
かかる大恥辱を受けて、すごすごと紀州には帰れぬ。――いや、もはやおめおめと生きてはおられぬ。
血ばしった眼で宙をにらみつけている頼宣の顔は、生きながらすでに死相を呈していた。
「大納言さま」
いつのまにか、先刻伊豆守がいた場所に、忽然と森宗意軒が座っていた。
「伊豆の広言、承ってござる」
と、彼はいった。
「牧野兵庫頭どののこと。――知恵あるものの思慮は同じか、かくあるべしという拙者の願いを、そのままその通りに伊豆が受ける。まるで符節を合わせたようでござるな」
きゅっと笑って、
「とはいえ、拙者が兵庫どのを伊賀へやったは、ただ大納言さまのおん|退《の》き口を作るためばかりではありませぬ。あの御仁にこの際死んでもらおうと思ってのことでござった」
まるで伊豆守としめし合わせたようなやりくちといい、この言葉といい、一瞬頼宣は、この老人が幕府の回し者ではないかという途方もない恐怖にさえとらえられた。
「あの御仁は役立たず。――というより、将来一挙のときに足手まといになるのみか、かえって破綻のもととなるべきお人と見ぬいて、いまのうちに掃除をしておきたかったからでござりまする。拙者の真意は」
「将来の一挙?」
頼宣はかすれた声をもらした。
「されば」
と、宗意軒は平然として、
「かねてよりのわれらの心づもりは、くりかえすようでござるがあと四五年」
まるで軌道をゆく鉄輪のような調子でいったが、またうす笑いして、
「とはいうものの、大納言さま、このままにては紀州におひきあげにはなれますまいが」
と、上眼づかいに頼宣を見た。
またも甦る恥辱感に、熱病やみのようなうめき声を発する頼宣に、
「殿、お死になされ」
と、宗意軒は笑顔でいった。
「わ、わしに死ねと?」
「ここにおわす大納言さまは紀州へ御退却なさることも耐えきれぬほどの小心なお方でござる。またたとえ紀州へおひきあげなされたとて、将来なんのなすところなき生ける屍同然のおんからだ。――ただ――ここに|於《おい》て大納言さまがお生まれ変わりあそばすなら――再誕せる南竜公とおなりあそばすなら、話は別」
「――や!」
「殿、ようやく魔界御転生のおんときが到来したようでござるな」
頼宣は、電撃されたように宗意軒を凝視した。
「元来はこの世に再誕するだけの稀有な生命力の持ち主、しかも現世に深刻なる不満を抱く人物――という魔界転生の条件にあてはまる大納言さまに、いまやかんじんの――拙者待望の、死にとうて、死なんとして、しかも生き返りたい、なすあらんと熱望することをなすために、あくまでもふたたびこの世に生まれ変わりたいという悲願にもだえさせたまうおんときが」
宗意軒はすうと浮かぶようにひざをすすめてきた。
「魔界転生されたる大納言さまこそ、真にわれらが大首領として待ちかまえていたおん方。――殿、みじめなる現在の大納言さま、いまここでお死になされ!」
おちくぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくから、じいっと見入る森宗意軒の眼は、すでに魔界の古沼のようで、頼宣はその深淵にひきずりこまれる思いがした。
「殿。いまは御自身が哀れで、うとましゅうて、みずから砕いてこの地上からお姿を消し去りたいほどに思うておいであそばしましょうが」
「…………」
「御遠慮なくみずからをお砕きなされ。この地上からお姿をお消しなされ。なんなら宗意軒、御介錯つかまつる」
「…………」
「ただ、その前に忍体と交合なされば――いまの大納言さまなら、かならず御再誕あそばす」
「…………」
「魔界転生のこと、あの宮本や荒木や、柳生をげんに御覧あそばした上は、まさかお疑いではござりますまいな」
戦慄すべき勧告であった。そして、この場合――実に甘美な誘惑であった。いまの、自己破壊欲と、松平伊豆守への憤怒と、崩壊した野望への執念に全身やけただれている大納言頼宣にとっては。
「ただいまをおいて、殿御転生の機はござりませぬぞ。大納言さま! お覚悟はいかがでござる」
「覚悟はきまった!」
歯をカチカチ鳴らしながら頼宣はいった。血ばしった眼でにらみすえて、
「いかにも頼宣、別の頼宣と生まれ変わろうぞ!」
と、牡牛の吠えるようにさけんだ。これまた転生するに先立って、すでに冥府の魔王のごとき形相であった。
「宗意軒、支度せい!」
「おお、お覚悟はきまりましたか。それでこそ宗意が、わざわざ江戸から来た甲斐がござる。いや――江戸の張孔堂にて拝謁して以来、大納言さまにお心入れした甲斐がござる」
宗意軒の眼も、歓喜にぎらぎらと赤い炎をあげているようだ。
「われらの支度はすでに成る。――いや、もうかれこれ、ベアトリスが例の二人の忍体をつれてここへ参るころでござろう。――お、来たようでござる」
廊下の方からしとしとと足音がちかづいて来た。宗意軒は、家臣たちにあごをしゃくった。
「まことに殿と紀州藩を起死回生さすべき秘儀が、いまここで行なわれようとする。疑うな。考えるな。――ただ従え。おしとねをとれ」
そして彼は、ニヤリとして、両掌をあげて障子にかざした。
左掌には一本の指もなく、右掌に、ただ親指と人さし指だけが残っている枯木のような腕を。
縁側に、まずベアトリスお銭があらわれた。うしろにお雛とお縫が立っている。歯をくいしばり、大苦痛に耐えている表情だ。ふたりの両腕はうしろにくくりあげられ、そして胸は双の乳房があらわになるまで襟をひろげられていた。
「宗意軒さま」
と、まずお銭がいった。
「武蔵どのが妙です。どうやら、この城を立ち去られる気配です」
「武蔵が?」
宗意軒は、けげんな顔をした。
「そんなはずはない。武蔵こそはいまやただひとり残った魔界の男、これ以後ずっと大納言さまについて、一挙のときの柱ともなるべき存在じゃ。あれもそのことは、しかと承知しておるはず。――」
といったが、何やら気がかりらしく、宗意軒にも似げないそわそわした表情となって、
「よし、わしがいってみよう。……ベアトリス、わしの指を斬れ」
といった。
お銭は書院に入って来た。つづいて、お雛とお縫もよろめきつつ入って来る。――まるで見えない糸にひかれるように。
見えない糸? お銭が宗意軒のそばにひざまずいて、何やら口にくわえた動作を見て、はじめて頼宣は、彼女と二人の娘の乳房をつないでいる四条の長い髪の毛に気がついた。髪の毛は、二人の珠のような乳房の――うすもも色の乳くびにくいいるばかりに結ばれているのであった。
その髪の毛を口にくわえ、ベアトリスお銭はじぶんの左掌に宗意軒の右掌をのせ、懐剣をとり出すと、おのれの掌をまないたとして、老人の人さし指をぷつりとかき斬った。
「わしに代わり、この指を以てあの二人を御しておけ。……早う法悦の極に達し、昂ぶりのたかい方を、まず大納言さまの御忍体となし参らせるのじゃ」
と、宗意軒はいって立ちあがり、頼宣をふりむいた。
「拙者、ただちに、ひき返して参りまする。そのときは、この二人の娘、美しい獣のように肉欲の虜となっておりましょう」
頼宣は、お銭の白蝋のような掌にベッタリ残った一片の血の緋牡丹と、黒いぶきみな一本の指を凝視している。……
【四】
気がせくらしく、あともふりかえらず、森宗意軒は書院を出て、長い廊下をいそぎ足で歩いていって、一つの座敷に来た。さっきまで二人の娘が監禁され、お銭に見張られていた座敷であった。
武蔵はいた。
垢じみた黒紋付に袴もはかず、そのくせ|白《しら》|髪《が》まじりの蓬髪を柿色頭巾でつつんで、彼はふとい木刀を杖にして――いかにもいまやこれから出かけようとする体であった。
「武蔵どこへゆく」
と、宗意軒は声をかけた。
武蔵はふりむいた。頭巾のあいだの三角形の眼は金茶色であった。
「されば松平伊豆守どののところへ」
「なに? 伊豆のところへ?」
宗意軒ははっとして、
「何のために?」
武蔵は、うっそりと答えた。
「徳川家に――紀州徳川家ではない。江戸の徳川本家に仕官のことを依頼するために」
宗意軒はしばし言葉を失って、ただ、まじまじと相手を見つめていたが、やがてやっといった。
「武蔵。……おまえは気でも狂ったか」
――狂った眼ではない。うろたえた眼でもない。先天的に常人とはちがう色彩と光芒を持ってはいるが、おちつきはらった、むしろ沈鬱なまなざしで、武蔵は宗意軒をながめている。
忍法魔界転生。
これによって生まれ変わるのは、もとより本人の超絶の素質や執念によることが絶対条件ではあるが、しかし根元の力は宗意軒の指にある。この指すべてを失うときは、宗意軒自身のいのちも失われるほど一念こめた指にある。すなわち宗意軒そのものの生命力にある。
転生した人間にとっては、彼こそが主人だ。「生前」と同じ外貌技能を持ちながら、まったく別人のごとく性向一変し、ほとんどこの世のあらゆる道徳に背反して|恬《てん》|然《ぜん》としている|不《ふ》|羇《き》|奔《ほん》|放《ぽう》の魔人と化した転生衆を、規制する唯一の人間は彼森宗意軒である。
かつて、彼はいった。――
「前世は知らず、こやつらは、もしこの宗意軒が命ずるならば――大納言さまの御下知に従えと命じ、大納言さまが御下知を下されるならば――一年黙せといわれれば一年黙し、十人の女を犯せと命ぜられるならば、十人の女を犯し、百人を殺せと仰せられるならば、百人を殺すでござりましょう」
その通り、彼は転生衆にとって絶対命令者であった。
それほどの宗意軒だが――ただひとり、転生衆の中のこの武蔵だけは少々うすきみがわるい。
武蔵は|寡《か》|黙《もく》であった。「生前」の武蔵と同じことであった。その沈黙にも余人とはちがう何やらぶきみの感があり、金茶色の眼にもどこやら不可解のひかりがある。この男に対して絶対的な自信は失わぬものの、宗意軒は武蔵に対してはたしかに一目おいていた。
いま。――
「徳川本家へ仕官するために、松平伊豆守を追ってゆく」
と、武蔵はいった。――すでにこれが宗意軒の意表外に出た言葉だ。気が狂ったかときき返して、宗意軒はいちど、じぶんのききちがいかとおのれの耳を疑った。
「正気でござる」
と、武蔵は重々しくいった。
「徳川本家――幕府そのものに仕えるは、拙者の本願でござった」
しずかに歩みを返して、宗意軒の前に立ち、
「――ほ、指が一本となりましたな」
と、しげしげと見入った。そういえば彼は、宗意軒自体より、さっきからその指ばかりに眼をそそいでいたようだ。
「いま、一本を大納言さまに献じた。――」
と、宗意軒は親指だけ残った右手をさしのべて、武蔵に見せた。さすがに、どこかうやうやしげな様子を見せて、武蔵はそれをおのれの手にとった。
「大納言さまには、いよいよおまえと同じ魔界の人とおなりあそばすぞ」
と、宗意軒は眼をかがやかせて武蔵にいった。
「にもかかわらず、武蔵、おまえは大納言さまを捨ててどこへゆく?」
|白《しら》|髪《が》すらまじえた巨躯の老武蔵に対し、宗意軒は子供をみるような微笑を投げて、
「幕府へ仕官すると? ――かつて、いかにもおまえはそれを熱望して、運動した。しかも、あの当時に於てすら、おまえの願いはかなえられなんだ。いま、ふたたび同じことを望んで、それがかなえられることと思うておるのか?」
「条件によっては、と思ったのでござる」
老武蔵はつぶやいた。どこか、叱られて、もそもそと弁解しているような趣きがあった。
「条件? 条件はいよいよわるい。――そもそも、いちどは死んだ武蔵がふたたびこの世に現われておる。それをなんと説明するつもりじゃ?」
「魔界転生のことを」
と、武蔵はいった。
宗意軒はぎょっとして手をひこうとしたが、それは武蔵から離れなかった。
「紀州藩の大秘事を」
と、武蔵はくりかえした。
ゆっくりとそういいながら、彼の指のあいだで、宗意軒の親指が、びしりと枯木みたいにおしつぶされた。おしつぶしつつ、武蔵はそれをねじった。
「その物語を土産といたせば、いかな松平伊豆守どのとて、むげに拙者を追い払われることはござるまい。――」
森宗意軒は、指の痛苦よりも、心の衝撃のためにのけぞり返っていた。
彼はとび離れた。指はねじ切られて、武蔵の手に残った。
「――う、裏切ったな!」
――古来からの修羅の人間世界で、このような叫びを発した者は幾万人あるか知らないが、この場合の森宗意軒の声ほど驚愕のひびきをひいた者はまたとあるまい。さけんで、みずからの声がなお信じられぬもののごとく、
「む、武蔵。――裏切るか、この宗意軒を――うぬは裏切るのか?」
と、またいった。
武蔵は、手に残った指をちらと見て、無造作に捨てて、動揺のない陰鬱な眼で、じいっと宗意軒を見まもっている。これから起こるはずの変化を待っているおちつきはらった視線であった。
「さ、左様なことを伊豆に告げたとて、伊豆がうぬを近づけるか。武蔵、大それた野心を起こして、あとで悔いるな。――」
「われ、事に於て後悔せず」
と、武蔵は呪文をとなえるようにひくくいった。
森宗意軒はかっと眼をむいて、その岩のようにうごかぬ姿を見つめている。彼は完全に武蔵が、おのれの意志以外の世界へ、あやつりの鎖を断ち切って躍り出たことを知った。武蔵はまさに、真の「魔界」の人間と化したのである。
「伊豆がきかずば」
と、武蔵はこともなげにいった。
「伊豆を殺すまでじゃ」
ほとんど感情をうかがわせない三角形の|琥《こ》|珀《はく》の膜みたいな眼が、珍しく遠い過去を思い出す内部の色をうつして、
「もともと伊豆は――わしの幕府への仕官をとめた張本人の一人であった。この際、きゃつを討ち果たすもまた本懐」
と、つぶやいた。
「伊豆のみか――伊豆を血祭りとして、かつてわしの志をむげに黙殺した尾張、黒田などの大守、いや、わしほどの者を、わずか十七人扶持で拾った細川の当主などを――片っぱしから打ち殺して歩いたら、さぞ面白いであろうのう。……少なくとも、紀州家の飼い犬などになっておるよりは」
無表情な声と眼だが、それにもかかわらず、血ぶるいするような怨恨と歓喜の交錯した波紋が、その全身から輪をひろげている。
こやつ、ほんとうに、この空の下を屍山血河に――この地上を地獄に変相させるつもりかもしれぬ。生前それを夢みつつ、後半生まったく封じた剣をこころゆくまでふるって、地の果てまでを一大|殺《さつ》|戮《りく》場とする快楽に魂をどよめかしているのかもしれぬ。
が、そんなことをされては、すべてはぶちこわしだ。すべては――いや、げんにおのれ自身の生命も。
「た、た、たわけ。――」
森宗意軒の歯のあいだに血の泡がにじみ出した。凄じい歯ぎしりのあまりであった。
「な、なんたる無謀な。――この狂人、裏切り者。血に飢えた悪鬼。――」
この人物にはかつてない|動《どう》|顛《てん》ぶりを、武蔵は黙然と観察していた。
壁ぎわに背をもたせた森宗意軒の顔からのど、手足の色まで、いまや土気色を通りすぎて草色を呈していた。
「ううぬ。……」
何やら動作をしようと試みるのだが、しだいにそのひざからがくと崩れおちようとする気配だ。
彼の両手にはすべて指がない。ものを投げることはおろか、つかむことすらできない。が、あの恐るべき魔界転生の忍法を創造したほどの人物、凄絶きわまる七人の魔剣士を生みだした父親というべき森宗意軒だ。その生命力が健全ならば、たとえ四肢を断たれようと、この場合、人智を絶する術を使って子たる武蔵に|膺懲《ようちょう》の一撃を加えたに相違ない。
如何せんすべて失われた指は彼の生命力を奪った。
「指……」
宗意軒はかつえたようなうめき声をもらした。
うすくなりかかった目はいまは武蔵にではなく、その足もとにころがった一本の指にそそがれていた。骨ごめにねじきられた自分の親指に。
「ベアトリス」
と、彼は怪鳥のごとくさけんだ。
「来い。――来て――わしのために忍体となってくれ。――わしを魔界転生させてくれ!」
万一の際彼自身のためにとってあった指と女であった。が、今やそのベアトリスお銭もこの場にいないのを如何せん。
指なき両腕をわずかに肩まであげて、宙をかきむしると森宗意軒はどうと壁の下にうち伏した。
崩れおちたかと思うと、宗意軒は、しかしうごめき出した。
「指。……」
突端のふくれあがった棒みたいな二本の腕でたたみをたたき、彼は武蔵の足もとに這い寄ってくる。奇怪な尺取虫みたいな姿だが、身の毛のよだつ執念の姿であった。
生きたい。もういちど魔界へ転生したい。
――この宗意軒の思いは、いままでの転生衆が転生以前にとらえられたその|灼《や》けつくような欲望の数倍の強さであったろう。思いきや、九年前の天草の乱以来、いや、それどころか四十数年前、関ケ原に敗れた主君小西行長が京の三条|磧《かわら》で斬られて以来、魔天にえがきつづけた深讐の大計画が、そのための道具として作りあげた転生衆の一人に、いまここで葬り去られようとは。――なんたる皮肉、おのれの意志のままになると信じ、かつ最も頼りになると信じていた宮本武蔵に生命を奪われようとは!
「指。……」
武蔵はちょっとくびをかしげて、この陰惨醜怪な老人のあがきぶりを見ていた。
――こんなはずはないが? 指をすべて失えば、この老人も息絶えるときいていたが? それにしても往生ぎわのわるい奴。――といった表情であった。
宗意軒は指に顔をおしあてた。
「こ、来い、ベアトリス。――」
そのとき、武蔵の木剣がぶんとあがった。
ふりおろされた木剣の下で、白髪にふちどられたしゃりこうべのような頭蓋骨が、砂利みたいな音をたてた。
鮮血がとびちったのに、宗意軒はそれにも気がつかないもののように、指の上に顔をくっつけたまま、
「指。……」
と、またいった。
武蔵は、こんどは木剣をぐいと突き出した。割れた頭蓋骨の裂け目から、いっきにそれを突っこんだのである。
宗意軒は、指を口にくわえ、いちど顔をふりあげ、かっと眼をむいて武蔵をにらんだが、それも一瞬、四肢をぶるぶるとふるわせ、武蔵が木剣をひきぬくと同時に、がばとつっ伏した。
「こうせねば、わしを離しはすまい」
と、武蔵はいった。
そして、木剣のさきにまみれついた|脳漿《のうしょう》をじっと見ていたが、それをびゅっと振った。壁にぴしゃりと何やらはねかかった音がした。
「よう出来た」
と、会心のていでうなずいたのは、じぶんの作ったたくましい木剣の絶妙な反りに対してらしい。
そのまま彼は、座敷の縁側から庭におり立ったが、ふいに猛禽みたいに三角頭巾を一方にふりむけた。
【五】
向こうの樹立ちのあいだを逃げてゆく二人の山伏姿が見えた。いちどこちらをふりむき、すぐにそばの土塀の下に跳んで、
「戸田老、見つかった」
と、ひとりがさけんだ。
「一大事じゃ、左十、逃げろ」
と、もうひとりが抜刀して、
「わしが、武蔵と。――」
と、こちらに馳せ返って来ようとしたのは、いまのこの座敷の森宗意軒と宮本武蔵とのいきさつをうかがっていたに相違ないが、しかし、これは無謀というべきであろう。
柳生衆生き残り、最後の二人、戸田五太夫と伊達左十郎であった。鍵屋の辻で、まっさきにおひろと弥太郎をさらって逃げたのは、いうまでもなくこの両人だ。それから、彼らはどうしたか。――ともかくも二人は、そのときの山伏姿のまま、この柳生城にもぐりこんでいたとみえる。勝手知ったじぶんたちの城だから、とくに根来組が消滅した以上、潜入にはさして苦労もなかったろうが、しかし、ここに至ってついに武蔵に見つかってしまった。――
武蔵はその方へ歩き出した。大股ではあるが、走っているとは見えないのに、ながれるような速度であった。
「いかん、戸田老」
と、伊達左十郎は狼狽して戸田五太夫の腕をひっつかんでひきもどし、
「逃げろ、おれの肩にのって」
と、塀の下にしゃがみこんだ。
戸田五太夫を両肩にのせると、伊達左十郎は立ちあがった。立ちあがりつつ抜刀し、かつ庭の方をむいていたのは、近づいてくる武蔵を迎撃するためであった。
まだ数間の距離があるのに、武蔵はいちど立ちどまった。木剣を投げ捨てた。
「かーっ」
武蔵はそんな声を発した。
決して高くはなく、塀の外にいる者にはきこえなかったのではないかと思われる気合であったが、しかし塀ぎわの二人は、何やら全身を刺しつらぬかれたような衝撃を受けた。少なくとも、いまや塀を乗り越えようとしていた戸田五太夫が、ぴしいっと空中に|磔《はりつけ》になったように金縛りになってしまったのである。
同時に武蔵は躍って来た。数間をひととびと見えた跳躍であった。
空中に二条の剣光が十文字に|交《こう》|錯《さく》した。その一本は伊達左十郎のものでも戸田五太夫のものでもない。双刀ともに武蔵のものであった。
大刀を水平に薙ぎつけ、小刀を垂直に斬りつける。これを武蔵は同時にやった。
柳生十兵衛に選抜されて、少なくとも柳生十人衆ともいわれた二人が、まるで据え物みたいに無抵抗に――上の戸田五太夫の足は両ももからふっ飛び、下の伊達左十郎は脳天から鼻ばしらまで割りつけられて、血しぶきの中にもつれ合って崩れおちている。
獅子は小兎たりともその全力をあげてこれを撃つという。
それを思わせる武蔵の凄じい襲撃ぶりであった。
彼は、解体した――と形容していい二人の犠牲者の方に眼もくれず、両刀を空にかざしてじっと見入り、
「これも、よう斬れる」
と、つぶやくと、垢じみたきものの裾で血をぬぐい、鞘におさめ、背を返して先刻の木剣をひろうと、同じながれるような大股で、庭の反対の木戸から外へ出ていった。
【六】
「――それを、ふたつに巻いて、そこへならべてたもれ」
と、ベアトリスお銭はいった。
紀州家の家来たちが運んで来た夜具を見て、そう命じたのである。ふだん使っているとも見えない、蔵かどこかから探して来たらしい真紅な豪奢な夜のものであった。
お銭が白いあごをしゃくっていろいろと命じるのを、主君の頼宣が正面に座っていて何もいわないので、家来たちは命じられるままに、その夜具を巻いて、二抱えはありそうな、ふとい二本の筒にしてくくった。
このあいだ、お銭は、お雛とお縫にちらっちらっと眼をくばっている。うしろ手にくくりあげられた二人の娘は、ひざまずいて、がっくりとくびをたれていた。
ひろげられた胸の乳房から、四本のながい髪の毛が、お銭の手につながっていた。
かつて、お銭の朋輩お品が、これに似た忍法で天草四郎に悩まされたことがある。四郎の場合は、完全に手から離れた髪の毛を、それ自身いのちのあるもののようにあやつったが、さすがにお銭のわざはそれほど絶妙ではない。――彼女は、その一端をじぶんの手ににぎっている。
しかし、いかにもがいても、それは絶対に切れなかった。お縫やお雛が逃げようとしたり、抵抗しようとしたりすれば、その髪の毛はキリキリと柔かい乳くびにくいこんだ。――
――江戸にいるころから、三人の女忍者のうち、お銭は天草四郎といちばんうまがよく合った。この髪の毛を鵜匠の縄のようにさばくわざを、彼女は宗意軒にではなく、天草四郎に伝授されたのであった。
――しかし、いったいお銭はこれから何をしようというのか?
それのみならず、お縫とお雛には一切がわからない。奈良で別れて以来、十兵衛の消息ははっきりせず、紀州侍たちの私語をきけば、紀州の行列が柳生に入るに先立って、いちどつれてゆかれた法徳寺に十兵衛が出現したらしいが、それもじぶんたちは失神させられていて何も知らず、またその後、おひろと弥太郎だけどこかへ運び去られたが、ふたりの運命もどうなったかわからない。
ながいあいだの精神的な極度の疲労のために、お縫のほうはもうヘトヘトになり、ともすれば絶望に虚脱しかけていたが、これを、
「お縫さま、しっかりして」
となぐさめるのは、比較的気丈なお雛だ。
「十兵衛さまを信じて」
護符のごとく彼女はそうささやく。
「十兵衛さまは、きっとわたしたちを助けに来て下さいます」
しかし、それは彼女自身へかける祈りの護符のようでもあった。
いまその柳生城そのものが紀州勢に占領され、|蹂躪《じゅうりん》されている気配だ。これに対して孤剣十兵衛がどうしようというのか。来れば、彼自身の死を招来するばかりだとしか思われない。
それくらいなら――何が起きようと、じぶんたちがどんな目に逢おうと、ここで大納言さまのお望みに服従して、十兵衛さまの危険を未然にふせいだ方がいいのではなかろうか?
実のところは、お縫のみならず、お雛もそんな殉教的なきもちにおちかかっていた。――
「その夜のものに、この二人を縛りつけて下され」
と、ベアトリスお銭は命じた。
「上に背をあて、からだを輪にして、右手と右足、左手と左足を、下で結んでたも。――つまり、その夜具をこの二人の娘のからだで、それぞれ巻いてたもれ。――」
二人は、顔をあげた。
冷たくひかる眼に、笑いをたたえてお銭はいった。
「大納言さまへのつらあてに舌でもかんでみよ。そのままの姿を、柳生城の門前でさらしものにしてやろうぞ」
家来たちが寄って来た。
数分ののち、お雛とお縫は豪奢な夜具に巻きつけられた。まっしろな乳房もあらわになったまま、くびはがっくりとさかさまに垂れ下がり、反りかえった腹部を越えて、四肢は夜具の下で結び合わされた。
怪奇凄惨な白花の花環。
――というより、それをただ息をのむばかりに艶麗な構図と見て、眼をぎらぎらさせている家来たちに、
「紀州の運命を救うべき大事の秘儀です。みな、おさがりなされ。この場に近づいてはなりませぬぞ」
と、お銭はおごそかにいって、彼らを追いはらった。
二人の娘にこの姿勢をとらせたのは、これから彼女が行おうとする行為にいちばん好都合なようにするためもあるが、またその次に予定されている大納言の行為に――頼宣が最も昂奮するようにたくらんだためもある。魔界転生の忍法は、それにたずさわる男の心が、はやくも人外の魔界にあるがごとく、異常なものになっていればいるほど、効果が確実になるからであった。森宗意軒とはかって決めたことだ。
さすがにお銭は、手の中の髪を捨てた。
そして彼女は、縁側の方へ――二人の娘の足の方へ回り、その裾をかきひらいた。
わざと、いちど四五歩あとにさがり、ふところから例の宗意軒の人差し指をとり出して、うやうやしく捧げ、
「この指を以て、これよりこの二人の娘を|御《ぎょ》しまする。間ものう、二人とも、その顔面うす紅に染まり、乳房が大きく起伏し、息はずませ、たえきれぬようなあえぎをもらしはじめましょう。どちらが強く昂ぶり、どちらが早く法悦の境に入るか。――大納言さま、そこにてよく御覧下されますよう」
といって、頼宣を見て、にっと笑った。
すでに転生のことは承諾し、覚悟はしたものの、さしもの大納言頼宣も、いま眼前にくりひろげられた光景には、いささか動揺を禁じ得ない顔色であったが、しかし一語の言葉もなく、ただかっと眼を見張ってそこに座っている。――
しかし、すぐに頼宣のその眼は、あぶらをながしたようなひかりをおびて来た。
正面に座っている彼の眼前に――二人の娘のさかさまになった顔があった。あらわになったまっしろな乳房があった。反りかえった腹部から向うは見えないが――なんたる無惨で、怪奇で、しかも艶麗な姿であろう。
指を以て御すとはいかなることをするのか?
ベアトリスお銭がまだ「一指」をも加えないうちから、はやくも二人の娘は恐怖と恥辱のために乳房を大きく起伏させ、反りかえった腰を波打たせ、くくられた腕をくねらせている。――そして、それを見ただけで、もう頼宣は生唾をのむほど昂ぶって来た。
「では」
と、お銭は、まずお雛の両足のあいだにちかづいた。
そのお銭にへだてられていたためと、手前にながく横たえられた夜具の筒、そして二人の娘の姿に視線を吸いつけられていたため、それまで頼宣はまったく気がつかなかった。
お銭がうごいたとたん、はじめて見たのである。いつのまにか縁側に、柿色の三角頭巾をかぶった男がひとり座っているのを。
彼はその頭巾をややうつむきがちにして、寂然と端座していた。
【七】
頼宣の眼の変化に気がついて、ベアトリスお銭もふりかえった。
「あ」
と、彼女はさけんだ。
「荒木どの。――」
思わず、そういって二三歩近づきかけたのは、その頭巾のみならず、背恰好から野羽織の模様まで、そっくり伊賀へ先行した荒木又右衛門そのままであったからだ。その又右衛門がどうなったか、逃げ帰って来た紀州侍から何やらきいたが、まだ真相がはっきりわからないままであったので、とっさに彼が帰って来たものとかんがえたのはむりもない。
が、二三歩近づいて、ふいに彼女は躍りあがった。
同時に縁側の柿色頭巾が、前にばたりとつっ伏し、その背の上をうなりをたてて飛んだ手裏剣が、ななめに庭の土に突き刺さった。
手裏剣はお銭がなげたものだ。それをかわされたと見たよりも、ほとんど流動的な動作で、彼女は懐剣を逆手ににぎって、つっ伏した男の背に空中から襲いかかっている。――その下に、白光の水ぐるまが廻った。
前に伏しつつ、その男の抜き討ちにした一刀が、垂直に|薙《な》ぎおとされたのだ。
ベアトリスお銭の股は裂けた。たたみから縁側へかけて、血しぶきをまきつつ、お銭のからだは宙に飛んで庭先へ落ち、その姿は二度と縁からあらわれなかった。
血の雨をかいくぐり、柿色頭巾は座敷に入って来た。
すでに身を起し、|膝《しっ》|行《こう》の姿となり、しかも血刃をそのひざに横たえて。
頭巾の顔をあげたが、どういうわけか、その男は両眼をとじていた。
それを見つつ、いまの凄じい不可解な、一瞬の決闘に胆を奪われて、頼宣はまだ気がつかなかった。――
ひいていた息を、吐くようにしてさけんだのである。
「……ど、どうしたのじゃ、荒木。――」
男は、答えず、二人の娘のそばへ寄ってその四肢を縛っていた縄を切り、刀身の血を懐紙でぬぐいながら、眼をあけた。一眼だけを。
「柳生。――」
鞭打たれたように、頼宣は立ちあがっていた。
「十兵衛さまっ」
「……十兵衛さまっ」
縄を切りほどかれたお雛とお縫は、じぶんたちを救った者がだれかを知ると、両側から狂気のごとくしがみついた。|嗚《お》|咽《えつ》の声がのどのおくからあふれ、じぶんたちの恥ずかしい姿をかえりみるいとまもないほどわれを忘れていた。
「……待て」
と、十兵衛は声ひくく、しかし強く叱った。
「身づくろいいたせ。大納言さまのおんまえではないか。――御三家の一つ、しかも南海の竜とうたわれ、一世の師表たるべきおん方の」
ぎらと一眼を頼宣にむけたまま、
「それに、敵はまだおるのだ。宮本武蔵……と名乗る人物が」
といって、ちょっと耳をすますような表情をしたが、しかし、しずかに頭巾をとり、一礼した。
「大納言さま、お久しゅうござりまする。しかも、はからずも大納言さまを当城にお迎えしたてまつり、柳生十兵衛、光栄至極に存じたてまつりまする」
頼宣は声もたてなかった。声をたてて、武蔵か家来たちを呼ぼうとしたが、相手の一眼に射すくめられたようで、とっさに身うごきもできなかった。
「ところで、さきほど松平伊豆守さまがお越しなされましたな」
と、十兵衛はいった。
「伊豆守さまが大納言さまにいかなることを申しあげられたか、拙者は存じませぬが……伊豆守さまが紀州家をおとりつぶしになるような御意志はないものと判断いたしまする。あのお方が、そのようなことをお思いたちになるはずがありませぬ。――紀州家にうごめく例の化物どものことを御存じでないかぎり」
「…………」
「伊豆守さまは、まだそこまでは御存じではないはずでござる。拙者も申しあげたことはありませぬ」
――いつか十兵衛が和歌山の牧野兵庫頭の屋敷で頼宣と逢ったとき、すべて伊豆守は承知で、じぶんたちを隠密として、紀州領へ送りこんだ、という意味をほのめかして宣言したことを彼は忘れているようだ。
――いや、彼は忘れてはいない。その証拠に、
「いつぞや拙者が隠密云々といったのは、もとよりあの際の方便でござる」
と、いまはっきりといって、十兵衛はひざをすすめ、
「もはや、あのときのごとく、|要《い》らざるかけひきをしておるいとまがない。またそんな心もありませぬ。――大納言さま、すべての悪夢をこの柳生城へお捨て下され、このまま何事もなく紀州へおひきとりあそばされて下さりませぬか?」
と、魂の底から出るような声でいった。
「正直に申しあげて、この夏以来の大納言さまのなされよう、拙者にはまだ腑におちぬことだらけでござる。まさに天魔に魅入られておいであそばすとしか思われませぬ。……この柳生十兵衛、すでに魔界の剣士たち、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜、柳生如雲斎、天草四郎、柳生但馬守、荒木又右衛門ら六人まで討ち果たしました。それというのも、ただ紀州家をお救い申しあげたい一念からのことでござる。木村助九郎最後の願いによって」
誇る顔色ではない。切々としたまなざしをあげて、
「爺が|今生《こんじょう》のねがい、紀州藩をお救い下され、大納言さまは、魔性のものに|憑《つ》かれておわす。紀州家と大納言さまをお救い下され。……それだけが、木村助九郎の断末魔の言葉でござった」
頼宣の眼に、さすがに苦悶と動揺のさざなみがゆれた。が、なお強情我慢のひかりは消えず、唇をへの字にむすんで、はたと十兵衛をにらみすえたままである。
「伊豆守さまが何を仰せられたかは知らず」
十兵衛の眼も決死の色をたたえてきた。
「いまだなお、大納言さまには、天魔の御所業をおつづけなされようとする」
ひたひたと膝をすすめて、
「もしお改めなきときは、助九郎の願いは願い、いや、紀州五十五万石を救うため、恐れながら大納言さまの御命頂戴いたす。……しかるのち、拙者、ここにて腹切りまする。あの世へいって、爺、うまくゆかなんだと詫びることにいたしたい」
頼宣は思わずさがった。
「大納言さま、いかが?」
頼宣は背を壁につけて、
「む、武蔵っ」
と、ふといのどをあげてさけんだ。
――そのとき、ひしと抱き合って、凝然とすくんでいたお雛とお縫が、突然異様な声をあげた。
ぱっと|精《せい》|悍《かん》な獣みたいに十兵衛はふりむいて、しばし息をのみ、
「……おおっ」
と、うめいた。
【八】
庭の向こうに、異様なものがあらわれた。まるで、朱泥でかためた肉塊というより真っ赤な怪物が、ゆっくりこちらに歩いてくる。
「五太夫。……」
十兵衛は立ちあがった。
「左十郎!」
縁先まで走り出したが、そこで彼はまた足を|釘《くぎ》づけにされてしまった。
歩いて来たのは、まさにその二人だ。伊達左十郎が戸田五太夫を背負っているのだ。が、背負われている五太夫には足がない。ふとももから先がない。彼は両腕だけで、左十郎の肩にしがみついている。そして伊達左十郎は脳天から鼻ばしらまで割られて、傷口がざくろみたいにはじけているのである。
……あまりの酸鼻さに、さすがの十兵衛が立ちすくんでしまったのもむりはない。二人が生きているのが信じられないほどであった。
伊達左十郎の足がとまった。
「じゅう。……」
と、戸田五太夫がそんな声を出した。
「十兵衛さま。……」
「おお。――だ、だれに斬られた?」
十兵衛はわれにかえった。
「――む、武蔵か?」
「武蔵は逃げました。……」
「なに? 武蔵が? どこへ?」
「伊豆守さまを追って。――き、紀州家の秘密を土産に仕官するといって、それを止めようとした老人を殺し。――」
「なんと申す。紀州家の秘密を――」
頼宣が、ただならぬ声を発した。彼もまた縁の方へよろめき出している。
「もし……もし……それが成らずば……伊豆守さまを|殺《あや》めたてまつると申し。――」
戸田五太夫の報告の意外さ重大さもさることながら、十兵衛は、五太夫を背負ったままに仁王立ちになっている伊達左十郎の顔に眼を吸いつけられていた。
仁王立ち――ではない。彼の足は、フラリフラリとうごいている。まるで雲を踏むような足つきで、しかも彼は必死に五太夫を支えつづけているのだ。必死――脳天を唐竹割りにされて、この男はまだ生きているのか?
生きている。左十郎の、おたがいに遠く離れたかに見える両眼から、涙が頬にしたたりおちている。以前から泣き男といわれたほどよく泣く男であった。が、泣きながら、その口は、あきらかに笑おうとしていた。なつかしげに、また誇るように。
「左十」
と、十兵衛はさけんだ。
「……ようやった!」
縁側から駆け下りようとしたとたん、伊達左十郎はついに大地にひしゃげた。同時に、むろん背中の戸田五太夫もその上に折り重なって、両人、からだに残っていた最後の血潮をぶちまけながら、そのまま二度と口をきかず、二度と動こうとはしなかった。
――戸田五太夫は、口はきけるが、足がない。伊達左十郎は、足があるが、口がきけない。かくて二人は、両人合作でここへ来て、十兵衛に注進したのだ。その生命力も、二人合わせてからくも一人前という状態で。
そうまでして告げに来たことは何か。――まさに紀州家にとって、一刻の猶予もゆるさぬ大事でなくてなんであろう。
武蔵が鎖をふりちぎった!
――紀州家の大秘事暴露を見返りとして、幕府そのものに仕官しようとしている。
――そのことが志に反したときは、松平伊豆守を殺害すると宣言して、この城を出ていったという。
壮絶無比の最期をとげた二人の弟子――柳生十人衆最後の二人のそばに駆け寄るのも忘れて、十兵衛はふりむいた。
大納言頼宣はこぶしをつかみ、恐怖そのものの眼を宙にすえていた。
「……やる。きゃつなら、やりかねぬ」
うわごとのようにつぶやいた。
――ほんのいま十兵衛は、頼宣にして改心しなければ、松平伊豆守に報告することも辞さぬといった。いや、頼宣自身を斬るとまでいった。それはかならずしも脅迫ばかりではなく、また頼宣もその言葉にいつわりのないことを感得したはずだが――いま、武蔵がそれと同じようなことをやるときいて、その衝動ぶりは格段にちがった。それは十兵衛と武蔵との人間的迫力の相違から来たものであったろう。
「――ば、ばかな!」
と、十兵衛はうめいた。
「狂、狂気の沙汰だ。伊豆守さまが、左様なことで武蔵をお召し抱えになるというようなことがござろうや」
彼自身、狼狽その極に達している。やるといったことは似ていても、意図は根本からちがうからだ。
「……大納言さま。……まこと武蔵は伊豆守さまを殺めたてまつりまするぞ」
「やる。きゃつなら、やりかねぬ」
と、頼宣は全身土気色になって、もういちどうわごとのようにくりかえした。
魔界転生のこと、天草の乱の軍師森宗意軒のこと。江戸の由比正雪の陰謀のこと。――それをことごとく暴露されたときの恐怖すべき結果はいわずもがな。
それよりも、松平伊豆守が帰府の途中殺されたなら――いまの時点に於て、じぶんがのっぴきならぬ絶望的立ち場に追いこまれることは、大地に槌を打つがごとし。もはや何者が紀州藩を救おうとしても金輪際不可能である。
「大納言さま」
と、十兵衛は決然と顔をふりあげた。
「拙者、武蔵を追って……これを斬り捨てて参りまする」
十兵衛を見た頼宣の眼に、ぽっとひかりがさしたが、すぐにまた弱々しく虚ろなものに変わっていった。先刻までの頼宣とは別人のようであった。
「大納言さまには何事もないかのごとく、このまま和歌山へおひきあげ下されい。|吉《きっ》|左《そ》|右《う》は、やがてこの木村助九郎、田宮平兵衛の孫娘たちを以てお知らせ申しあげまする。また関口柔心の娘、伜どもも、やがて和歌山へ帰ったあかつきは、昔通り……いや、たぐいまれなる忠士の遺児としておとり立て下されたく。――」
「十兵衛さま!」
と、お雛とお縫がさけんだ。
「そんなことではありませぬ。それよりも、相手は、み、み、宮本。――」
「武蔵か」
と、十兵衛はうっすらと蒼味をおびた微笑を浮かべた。
「おれはおれ、柳生十兵衛だ」
魚歌水心
【一】
……ほんの七八日前、意気天をついて和歌山を出た行列が――いや、この柳生の庄に入って来たときは、殺気あたりをはらうどころか、実際に城下を|蹂躪《じゅうりん》した紀州の行列が、いま、その数も半ばとなって、|悄然《しょうぜん》として柳生谷を出てゆく。
まさに落武者の一隊である。
戦国時代なら、土民に襲われるところだ。
――この数日、どこへともなく姿をかくしていた柳生の住民たちは、まるで山や谷から湧き出すようにあらわれた。が、彼らはみな路傍にひたひたとならんで、土下座して、去りゆく紀州家の行列を見送っている。――
これをふしぎと思う心も、感嘆する余裕も、紀州侍たちは失っていた。
柳生谷を出て、伊賀街道に出た。むろん、行列は西へ廻ってゆく。和歌山へ帰るのだ。
大納言頼宣の乗物がそこへ出たとき、侍臣がそれに何かささやいた。
乗物の戸があいて、頼宣の顔がのぞいた。
そこの石の道標のかげに、柳生十兵衛と三人の娘と一人の少年が座っていた。
「…………」
頼宣は一言の口もきかない。うちのめされ、沈み、しかもなお不安と苦悩におびえた顔色であった。すがりつくような眼で、十兵衛を見た。
「…………」
十兵衛も、一語も発せず、ただにっと笑ってみせた。
――頼んだぞ。
――引き受けました。
眼の会話はそれだ。いまはただそれしかない。
乗物の戸がしまり、すすみ出した行列が西へ消えるのも待たず、柳生十兵衛は立ちあがって、東へ歩き出した。例によっての黒紋付の着流しに深編笠をかかえた姿だ。
あとを、お雛、お縫、おひろ、そして弥太郎が追ってゆく。
梅ならぬ紅葉のちる月ケ瀬の渓流五月川に沿う街道まで来た。十兵衛は大股だ。むしろ飛ぶように歩いて、息せき切って追う四人など眼中にないかのごとく――いや、ときどき、ちらっちらっとふりかえっては見るものの、なんの言葉もかけずに来たが、ここではじめて立ちどまった。
「もうよかろう」
「――は?」
と、三人の娘はびっくりしたように顔をむけた。
「見送りはここあたりでよい。帰ってくれ」
「わたしたちは、どこまでもお供します」
と、お雛がいうと、
「武蔵との果たし合いの始末を大納言さまへ御報告申しあげるのは、わたしたちの役目だと十兵衛さまはおっしゃったではありませぬか?」
と、お縫もいった。
「なに、そんなことを、おれはいったか?」
十兵衛は隻眼を見ひらいたが、
「いや、やはり帰ってくれ。おれが斬られるのを、おまえたちに見られとうはない」
|憮《ぶ》|然《ぜん》としていった。
「十兵衛さまが――お斬られになる!」
と、三人の娘はさけんだ。
「そ、そんなことは!」
「相手は武蔵じゃ。新免武蔵。――おまえたちも名だたる剣客の娘、この|曠《こう》|世《せい》の大剣士について知らぬことはあるまいが。――まちがいなく、おれは斬られる。それだから、ここまでおまえたちが送ってくれるのを、名残りを惜しんで、いままでついてくるのにまかせたのだ」
「でも、あなたは、十兵衛は十兵衛だ、とおっしゃったではありませぬか」
「あれは、あのとき、ああいうよりほかはないではないか。大納言さまのおんまえでは」
「いいえ、十兵衛さまは、十兵衛さまです。いままで、六人、世にも恐ろしい剣士たちをみな斬っておいでになったではありませんか。たとえ相手が武蔵であろうと、十兵衛さまがお負けになるはずはありません!」
「いかにも、おれは武蔵を斬る」
と、十兵衛はいった。
「斬らねばならぬ」
昂ぶった声ではなく、むしろ沈痛な調子であった。
「紀州家を救うため――紀州家を救ってくれと依頼して死んだそなたらの父に応えるため――大納言さまと松平伊豆守さまのおんいのちを救うため――」
みずからの心に鉄のくさびを打ちこむように、
「おまえたちに代わって仇を討つため――いや、そればかりか、このたびのことで、ことごとく二つとない命を捨ててくれた柳生十人衆の仇を討つため――武蔵は斬らねばならぬ」
と、くりかえしたが、
「しかし、おれもまた斬られるだろう」
と、三人の顔を見た。
「斬られなければ、武蔵は討てぬ。斬られても、武蔵は討てぬかも知れぬ、とはおれはいわぬ。斬られても、武蔵はきっと討つ」
そのときはまだ来ないのに、三人の娘は蒼ざめた。魂の底から鳥肌立ってくるような十兵衛の顔色であった。
「いままで、例の六人とやり合うとき、おれはいつも死を覚悟はしていたが、しかし心のどこかで愉しんでもいた。この大剣士たちと果たし合って、おれが討たれるならまた本望、と思うておった。しかし、このたびだけは――武蔵だけは、おれの方が、たとえ死びととなっても討たねばならぬ。――天下のためだ」
十兵衛は微笑した。
「だから、勝負はおまえたちに見とどけてもらわぬでもよい。かならずおれは武蔵を討ち、かならず十兵衛は相果てる」
三人の娘の眼から、涙があふれ出した。
彼女たちは――この道中の柳生城にとらえられているとき、あの魔剣士たちやベアトリスお銭や森宗意軒が、十兵衛のことについて語り合っていたとき、なんどかきいた「――きゃつの|定命《じょうみょう》は遠からず尽きんとしておる。星占いにはそう出ておる。――」というぶきみな会話を思い出したのだ。彼女たちはそれがあまりに恐ろしくて十兵衛にはもとより、おたがいにも口にのぼしたことはなかった。
……この星占いとやらはまことか。十兵衛さまの御定命が尽きるというのは、こんどの武蔵との決闘のことであったのか?
「十兵衛のおじちゃん」
と、ふいに弥太郎が呼んだ。
その姿がまた可笑しい。柳生城で育った但馬守か、或いは如雲斎の幼いころの衣服ででもあろうか、蔵からとり出して十兵衛が着せてやった黒紋付をきて、これが十兵衛のまねをして袴もはかず、ちっちゃな編笠まで小わきにかかえこんでいる。
「ゆこうよ。宮本武蔵とのしあいに」
と、いった。
いままでの十兵衛と姉たちとの問答がよくわからなかったとみえる。十兵衛が、おれは斬られる、といったり、しかし武蔵はかならず討つ、などいったりしたので、あたまがこんがらがったのかもしれない。――
「しあいのまえに泣いたりしたら、先生がまけちゃうじゃないか!」
と、怒った眼で、姉たちをにらんだ。
「さっ、先生ゆこう、おれ、かせいしてやるよ」
と、腰にさした刀のつかを、とんと小さなこぶしでたたいた。
十兵衛は笑い出した。笑いながら、弥太郎を見た。まさか、この姿は、どこまでもじぶんについてくるためのものと思わなかったが。――
ふと、うなずいていった。
「うむ、弥太郎だけには来てもらおうか」
そして、思案顔になって、
「武蔵との果たし合い。――これを余人のだれにも知られてはならぬのだ。まさか、伊豆守さまもそこまでは御存じではあるまい。それを御存じならば、いかになんでも紀州家があのままですむはずがない。またひいては、柳生家もぶじでおかれるはずがない。――おれひとり、武蔵と立ち合い、これを始末せねばならぬ」
と、つぶやいた。
「そのために――武蔵を然るべき場所に誘い寄せるために――弥太郎の助けをかりる必要があるかもしれぬ」
弥太郎に笑みかけた。
「坊主、来てくれるか」
「ゆくともさ、はじめっからそのつもりで、ここにきてるじゃないか」
十兵衛はもういちど、三人の娘たちに眼をやった。
「となると、弥太郎のことも心配だろう。やはり、おまえたちもくるか」
「参りまする!」
「来て――どこか、まだ場所はわからぬが――十兵衛の死にざまをよっく見ろ」
といって、笑顔を深編笠につつんだ。弥太郎も大あわてで、そのまねをして、髪だけはまだ|河童《かっぱ》みたいな頭に編笠をのせる。
「では、ゆこう」
大股に、またスタスタと歩み出す十兵衛を、小さな十兵衛とも形容すべき小型の深編笠が追う。それから、三人の娘が蒼ざめて追う。さらに、蒼空から舞って来た紅と金の落葉が追う。
ふたたび、伊賀へ。東へ。――
【二】
かつて仕官しようとして拒まれた幕府にふたたび望みをかける。
それが、いちど死んだ人間だから、森宗意軒や十兵衛がいったごとく、まさに狂気の沙汰だ。
以前、幕府に難色があるときいたときに、彼を推薦した一有力者の屋敷で待っていた武蔵は「曠野旭日の図」一幅をえがいて去ったという。その従容たる心はどこへいったか。――いま、木剣を杖ついて、伊賀から伊勢へ越えてゆく武蔵の柿色頭巾のあいだの眼は、浅ましい、なまなましい、どこか狂的な欲望と執念に、異様なひかりをおびている。
が、三角形の、金茶色の眼は知らず、頭巾の中の表情は、あくまでも沈鬱で、荘重ですらあった。むろん彼はじぶんが狂っているとは思わない。じぶんがふたたび世にあらわれて、幕府に仕えるという望みを出したことを、妙だとは全然かんがえない。
事実として、じぶんは生まれ変わったのだ。この大剣士がこの世に再誕したのだ。
熊本の岩戸山でじぶんが死んだあとで「ああ惜しい」「あれほどの剣人を遇する道を知らなんだのは諸大名の恥ではないか」「ふびんなり武蔵」そんな声が世にかまびすしかったこともちゃんと知っている。その武蔵がこの地上に再び帰って来たのを、|双《もろ》|手《て》をあげてよろこばない者がどこにあろう。
よしやじぶんの再生に妖しき術がからんでいようと、その妖しき術をなす謀叛人森宗意軒はこの手で|誅戮《ちゅうりく》した。
いわんやじぶんは幕府にたいして、途方もない土産を持っているのだ。紀州家の大陰謀という。――
松平伊豆守が、じぶんを容易ならざる客として迎えないはずはない。それ相応に迎えなければ、斬る。
とはいえ。――武蔵はさすがに、たやすくは松平伊豆守にちかづきかねた。
信綱一行は伊賀上野にひきあげると、一夜をそこに過ごしたのち、|大《だい》|岡《こう》|寺《じ》峠をすぎ、|加《か》|太《ぶと》越えして東海道の坂ノ下へ出た。それから、関、庄野、石薬師と、東海道を順当に東下してゆく。
むろん、密行だ。だれもこれが天下第一の実力者松平伊豆守とは知らない。まず|大《たい》|身《しん》の旗本の一行くらいに見ているらしい。
しかし、護っている三十名ほどの侍たちは、ことごとく一流の使い手であった。武蔵だけがそれを見ぬいた。江戸から伊豆守がつれて来た武士か。それとも藤堂藩からそれに加わったのか。――また、それはたんなる老中密行の護衛か、それとも、ひょっとしたら、このたびの使命が使命、紀州藩のくやしまぎれの逆恨みを警戒してのことか。――
むろん、そんなものは武蔵の怖れるところではない。
ただ、事実として、正体もあきらかにせずちかづいても、絶対に伊豆守に逢えないことだけはたしかであった。また、のっけからじぶんの正体を名乗って出れば、いよいよ以て目通りなど思いもよらぬこともたしかであった。
「……はて、いかにして?」
三角頭巾の中の琥珀色の眼が、雲の多い秋の日光のようにひかったり、沈んだりしつつ、武蔵はそれを追ってゆく。
石薬師から四日市へ、四日市から桑名へ。
【三】
桑名の城。
徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝の築いた城だ。|櫓《やぐら》数九十七という巨大なもので、東方の大河を利用し、水は四辺をめぐり、濠に囲まれているというより、水城ともいうべき城であった。
ただし、本多家はその後、忠勝の孫|忠《ただ》|刻《とき》が例の千姫を拝領するとともに姫路城に移り、あとを徳川の一族松平越中守がついでいる。
城頭に立って東の方を見わたせば、|汪《おう》|洋《よう》たる大河の中に大小無数のひくい島がつらなり、すぐ南には蒼い海がひろがっている。木曾川、|揖《い》|斐《び》川、長良川がここに合して伊勢湾に出るところ――いわゆる沖積デルタが形成され、その最も大きなものは長島だが、そのほかにも点々と、いくつかの島が――島というより、満潮のときにはかくれるほどのひくい砂洲がちらばっていた。そして、そのあいだを上り下りするおびただしい船が見える。――
七里の渡し。
尾張の宮とのあいだの海上七里、東海道は舟渡しとなる。
万治版の「東海道名所記」に、
「むかしはいつにも船を出しけれども、ちかきころ由比正雪が事よりこのかた、昼七ツ(午後四時)過ぎぬれば、船を出さず」
と、ある。あやしき男どもが、夜のあいだにこの海上を往来するのをふせごうとしたのでもあろうか。
「……伊豆は、微行とはいえ、やはり船一艘借り切るであろうな」
桑名城の大手橋を遠くにのぞむ夕暮れの辻に立って、武蔵はかんがえこんでいた。
伊豆守が帰府してしまったらちと面倒だが、江戸までの道中なら、何かの機会でちかづくこともできよう、と、べつに焦りもしなかったのだが、思いのほかの厳重な護衛ぶりに――そうだ、桑名から宮へ越える七里の渡しで――と、ひざをたたいたのだ。
警戒厳重とはいえ、老中という身分をかくしての密行だから、ひょっとしたら、ふつうの船に、それとなく乗船するかも知れない。そうすれば一船の乗客にまじってこちらも乗りこめば、しょせん狭い船中だ、ひそかに|謁《えっ》|見《けん》する機もあろう、と思っていたのだが、今宵伊豆守が桑名の城に泊まったところを見ると、桑名藩の方で船を一艘仕立てることの可能性の方が強い。――
「はて、いかにして?」
と、柿色頭巾をかたむけていた武蔵の眼に、このときへんなものがうつった。
夕暮れの広場を、大手橋の方へむかって、奇妙なものがちかづいてゆく。深編笠に着ながしの浪人風の人物だが――これがひどく小型なのだ。まず、ふつうの人間の半分足らずとも見える。――
さすがの武蔵も、じぶんの眼がどうかしたのではないかと、ちょっとまばたきをした。
見ていると、そのミニアチュアの浪人は、大手橋のたもとに六尺棒をついた番人たちと何か話し、それから一通の白い書状のようなものをわたした。
「あっ、おまえたちはよんじゃいけない!」
潮の香をふくんだ夕風の中を、そんなさけびがながれて来た。――むろん、少年の声だ。
「それは伊豆守さまによませるだいじなてがみだってば!」
相手が子供だ。いや、大人のなりをした奇妙な子供だ。その手からわたされた書状を、たとえそんなことをいわれたにしろ、門番たちが怪しんで、ひらいて読むのはきまっている。
それをひろげて、首をあつめて読んでいるのを、小さな浪人は深編笠をゆさぶって地だんだ踏んでいたが、いきなり飛びあがると、その手紙をひったくった。
「こいつ!」
手紙は裂けたが、半分ちかくは子供の手に移ったようだ。少年はそれを夕風にひるがえしつつ、こっちに一目散に駆けて来た。
「待て」
「奇怪ななりをしおって――」
「あやしき小僧」
いまさらのようにそんな声をあげ、四五人の番人は、六尺棒をかかえてそれを追って来た。
が、その小さな浪人は、あきらかに幼童なのに、びっくりするような足の速さだ。みるみる広場を駆けぬけ、武家町の小路に飛びこんで来たが――さすがに、やっと番人たちに追いつかれた。
うしろからえりがみをつかんで、
「なに、柳生十兵衛からの使いだと?」
「もういちど、その手紙をわたせ」
と、ひとりが少年のきき腕をねじって、その手紙を奪い返したが、いきなり獣めいたうめきをあげてひっくり返った。
もう薄闇の路地に、また妙な影が立っていた。やはり、あせた黒紋付の着ながしだが、三角形の柿色頭巾をかぶって、これは完全な大人だ。しかも、頭巾が三角にとがっているせいか、六尺をはるかに越える巨漢だ。――手にしていた木剣の先から、血のしずくがたれた。
番人たちは飛びはなれ、立ちすくんだが、この三角頭巾の全身から発する名状しがたい|凄《せい》|惨《さん》の気に打たれたのであろう。救いを求めるつもりか、それに対して六尺棒で打ちかかってくることもせず、
「曲者だ!」
「一大事だ!」
そうさけぶと、ころがるように城の方へ逃げ帰っていった。
それを追おうともせず――というより、いま|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》を粉砕した番人の手から、例の書状をとるためにしゃがみこんだ三角頭巾は、立ちあがって、いちどまわりを見まわし、番人たちはおろか、いまの小さな浪人の姿もかき消えていることを知ったが、さして気にとめる様子もなく、薄暮のひかりに、そのちぎれた書状を読み出した。
「……明ひる七ツどき桑名をおたちと承り候。まことに右申す通り天下の大事、他聞をはばかる儀に候えば、十兵衛、右の船島と申す海ちかき島にておん待ちいたし、小舟を以ておん船にこぎ寄せ候とき、恐れながら御疑念なく、|密《みつ》|々《みつ》のお目通りのほど願いあげたてまつり候。恐惶謹言。
松平伊豆守信綱様
[#地から2字上げ]柳生十兵衛|三《みつ》|厳《よし》」
【四】
海鳴りの音がきこえる。――
潮ひびきの中に、武蔵はふと甘美な回想の陶酔に沈んだ。
なおその音をよくきくために頭巾をぬいで、ふところに入れた武蔵の髪の毛を、海から吹く秋風がそよがせる。
季節はちがう。あれは春四月のことで、いまは秋天の下。
場所もちがう。あれは豊前の海峡で、これは伊勢の海に流れこむ木曾川の河口。
そして何よりちがうのは、おのれの年だ。あの慶長十七年。二十九歳の若さから、このとし正保三年まで、三十四年の星霜をけみしている。彼の年が去年九州の岩戸山で死んだときのまま停止しているとしても、六十二歳だ。
けれど、似ている。潮の匂いのする水の中の小さな島、しかも砂の多い低い島。――そこで彼は、巌流佐々木小次郎と歴史的な決闘をしたのであった。
あのとき彼は、わざと一刻も時を遅らせてその島へついた。舟の中では樫の|櫂《かい》をけずって、小次郎の長剣「物干竿」に劣らぬ四尺七八寸という長大な木剣を作った。そして、待ちかねていらいらしている小次郎にむかって、「小次郎、負けたり!」と嘲笑をあびせかけて、さらに相手を動揺させた。……勝負は一瞬であった。小次郎の「物干竿」のきっさきは、武蔵のひたいをかすめてその柿色の鉢巻を切り裂いたが、それより長い武蔵の木刀は、小次郎の頭蓋骨を粉砕したのである。
……季節がちがい、場所はちがい、そしてそれから幾十年の星霜をけみしても、彼は海鳴りの音をきいただけでも、四肢の細胞が波うち、全身の血管が甘くたけだけしい血に満たされるのをおぼえる。
――ふっと、武蔵は眼をあけた。空の太陽を見た。
「……八ツ半か」
午後三時である。
武蔵は、きのう読んだ手紙を思い出した。
「……七ツどき桑名をおたちと承り候。まことに右申す通り天下の大事、他聞をはばかる儀に候えば、十兵衛、右の船島と申す海ちかき島にておん待ちいたし、小舟を以ておん船にこぎ寄せ候とき、恐れながら御疑念なく、|密《みつ》|々《みつ》のお目通りのほど願いあげたてまつり候。……」
いかにして松平伊豆守に密々にちかづくか、ということに腐心していた武蔵にとって、これは天来の好機であった。
この手紙はじぶんが半分奪いとったが、あの足軽の番人たちが一応読んだのは目撃している。その報告を受けて、たとえあのような事件があったにしろ、――おそらく伊豆守という人物の性格からして、桑名の出船もその時刻もたがえるとは思われない。
また――これを書いた十兵衛が、じぶんが読んだことを知るや知らずや、やはりこの島に来て伊豆守を待ち受けるであろうことは、これまたその性格、事態の重大性から推してまちがいはない。武蔵自身の腐心ぶりからかんがえても、内密に伊豆守にちかづこうとすれば、この七里の渡しこそ、なるほど逃すべからざる絶好の機会だからだ。
伊豆守が七ツ、午後四時に桑名を船出するとすれば、十兵衛はもはやこの島に来ていそうなものだが。――
「舟はまだ見えぬか」
と、武蔵はきいた。
遠くの波打際にぽつんと待っている船頭にである。彼が乗って来た小舟はそのそばにゆれていた。
「乗合船ではないぞ。……こちらと同じ小舟のはずだ」
「見えましねえ」
と、船頭は答えて、
「ほんとうに、この島へ来るのでござりますか?」
と、そのことは前にきいたことなのに、ふしんそうに顔をふりむけた。
「来るはずだ」
「しかし……潮が――」
「どうした」
「|満《みち》|潮《しお》の|刻《とき》が迫っております。このあたり満潮となれば、河のながれもゆるくなり、さればこそ桑名へゆく船がこの時刻出るので……満潮となれば、この島は波の底に沈みます」
と、船頭はいった。
「はて?」
武蔵はくびをかしげた。
ふっと――昨日のあの手紙は、じぶんをからかうための罠ではないか、という考えが、ちらと頭をかすめた。それくらいのことはやりかねぬ柳生十兵衛だ、ということは、これまでの経過からもわかっている。しかし――この場合、おれをからかってどうするのか?
松平伊豆守と逢うまえに、柳生十兵衛を斬り捨てる、武蔵はそのつもりでいた。
予想されるその決闘だが――かつて赤間ケ関の船島に於けるそれとこんどと、もっともちがうのは、相手が佐々木小次郎から柳生十兵衛と変わったことだ。
――柳生十兵衛は、実に六人の魔界転生衆をたおした。これは武蔵にとって意外なことではあった。その手並のほどはよくわかった。にもかかわらず。――
結論からいえば、十兵衛が小次郎にまさるとは思えない。
それは小次郎を破った武蔵の実感から来る推定だ。小次郎を破ったのは、まさに紙一重の差、というより、文字通り時の運ともいうべき結果で、あれほど凄じい剣をあやつる者が、そうざらにこの世に誕生して来ようとは思われないからだ。
いかに考えても、新陰流と富田勢源流と剣脈はちがうが、まず十兵衛は佐々木小次郎と同程度であろう。
さて、その十兵衛は。――
いままでのゆきがかり上、必ずこの武蔵をも狙わずにはおかぬ。そうでなければ、このたびのきゃつの仕事は完成したとはいわれない。従って、たとえあの手紙が罠としても、こちらとしては驚くにはあたらない。
罠といっても、松平伊豆守のための船を桑名藩がきょう七ツに出すべく用意していることは、その後の探索ではっきりしている。
それはむしろ充分予想されることだ。こちらが伊豆守に逢う前に、きゃつを倒しておかねばこちらの望みの妨げになるのと同様に、きゃつもいまのうちおれを倒して伊豆守にちかづくことをふせいでおかねばならぬはずだ。
とはいえ。――
見わたせば、伊勢の海は蒼く漫々とふくれあがり――そして、砂地に立っていた武蔵の足もともヒタヒタと洗おうとしている。いかにもこれでは程経ぬうち、この平洲の島は潮の下にかくれてしまうであろう。
やはり、これはおれをなぶる罠であったのか?
武蔵の胸にも、しだいに焦燥と怒りの波が立って来た。
「み、見えましたっ」
船頭がさけんだのは、それからなお四半刻もたってからのことであった。島は――はじめはそれでも豊前の船島の三倍くらいはあったが、いまは水にひたって、その半ばに小さくなっていた。
「小舟が。――」
武蔵は顔をあげて、きっと見た。
海からのぼる潮のために、ゆるやかになった河口を、西北の桑名の方から、一隻の小舟がちかづいてくる。
まさに深編笠の男が乗っていた。が、彼一人ではない。数人の女や子供の影もみえる。――例の「忍体」の娘たちだ。
まだ遠く――しかし、武蔵の金茶色の眼は、その深編笠が、なにかこよりのようなものをより合わせて、一本の|紐《ひも》とする作業をしているのを見た。編笠をあげてこちらを見ようともせず、彼はせっせとその仕事をつづけている。――
武蔵のとがった頬に血がのぼった。それはこよりだすきであった。かつて武蔵が船島に|赴《おもむ》いたとき、彼はやった。精神統一のための工夫である。
……きゃつ、それを承知してのことだな。
頬がゆがんで、苦笑となった。
……その手には乗らぬ。
武蔵はふところから、柿色頭巾を出した。それを裂いて、ゆっくりと結び、これもたすきとした。あまった布を蓬髪に巻いて、鉢巻とした。
ちらっと、腰の刀に眼をやった。大小いずれも赤銅ごしらえの|伯《ほう》|耆《き》安綱であった、が、彼はニヤリとして、例の長大な木刀をついて、ニューッと立ちあがった。あの日の船島の勝利を思い出したにちがいない。これだけの重量のある木刀を|麻幹《おがら》のごとくあやつれるのは、青竹をにぎってふるえばみな折れたという武蔵にしてはじめてできることで、なみの刀などはるかに及ばぬ超絶の武器となるにちがいない。
船島。――
偶然であろう、木曾川河口にちらばる無数の三角洲は、いちばん大きな長島をはじめとして、波島だの、鳥島だの、家島だの、そのながめ、かたちから、さまざまに土地の名前がつけられている。
が、名も同様の船島に、いま柿色の鉢巻をしめ、たかい頬骨にまばらな髯をそよがせ、つりあがった眉、琥珀色の三角形の眼、そして五尺九寸という高い骨太のからだは、三十四年前の豊前の船島の武蔵がここに再現したかと思われた。
波打際に沿って、彼は歩き出した。
【五】
「み、見えましたっ」
と、お雛がさけんだ。
――いま、はじめて見えたわけではない。河口ちかくまで舟を出して、船頭から、あれが船島、と指さされ、白い細い洲の影を見たときから、その洲の上にとまった不吉な鴉みたいな姿は網膜に焼きついている。
あれが武蔵。
あれが新免武蔵。
と、思っただけで、彼女たちの方がもう毛穴まで死の呼吸をしているような肌の色になって、それまでのどもふさがっていたのが、その武蔵が柿色の布を裂いてたすきとし、鉢巻としはじめたのを見て、はじめて声が出たのであった。
「む、武蔵が。――」
十兵衛は答えない。深編笠をあげようともしない。よった無数のこよりを、せっせとひとすじの紐にない合わせている。おちついて、そのことに没頭した姿であった。
なんでさわぐことがあろう。ここまでは筋書通りだ。
弥太郎に持たせた手紙は、むろん武蔵に読ませるためだ。桑名城の足軽たちが、まともに受けとらぬことを計算の上であった。そのために、わざと幼い弥太郎を使いとした。騒動が起こって、あの手紙が半分にちぎられることまでは考えてはいなかったが、武蔵は読んだにちがいない。また万一伊豆守が報告を受けたとしても、むろん、「紀州家の秘事」など、どこにも書いてはいない。
「武蔵が……波打際まで」
あえぐようにお縫がさけんだ。
十兵衛は、はじめて顔をあげて、島の方をちらっと見、また|舷《ふなばた》から水をのぞいた。島まではまだ十数間あるが、おそらくさきほどまでは島の一部であったかもしれぬ、蒼い流紋の下には白い砂が、手もとどきそうに見えた。
十兵衛は編笠をぬいだ。紙こよりを、たすきとした。
「船頭」と、呼んだ。
「ここでよい、舟をとめろ」
「――こんなところで?」
と、船頭がけげんな顔をした。
「これ以上、ちかづくと危ない。――この娘たちがだ」
と、ふりかえって、
「よいか、勝負を見とどけたら、すぐにひきあげいよ。……桑名まで、柳生まで――いいや、和歌山まで」
「……十兵衛さま」
と、おひろが身もだえして絶叫した。
「勝負を見とどけたら――と申されて、十兵衛さまがお討たれになったら、わたしたちもこのまま島へ上ります。かたきを討ちます。武蔵を討ちまする。――」
「ふふん。――」
「いいえ、十兵衛さまのためばかりではありませぬ。父のためにも、またあの柳生の十人の方たちのためにも。――武蔵に討たれた方が本望でござります!」
「……心配するな、十兵衛は勝つ」
と、十兵衛はニンマリとした。
言葉よりも、その笑顔に、娘たちの眼はかがやいた。
「といっても、おれも斬られるが。いや待て、おれが斬られても、武蔵を斬ることができれば、十兵衛の勝ちだ――と思うてくれい」
十兵衛は、もういちど島の方をふりむいた。
「正直なところ、そこまでゆく見込みもなかったぞ。あの武蔵が二刀を使うかぎりは。――しかし、きゃつ、木剣を使うらしい。――きゃつが木剣を下げて歩いているのを見てから出た知恵だ。あれを以て、おれと立ち合うようにさせることはできぬか? そう思ったとき、ふと、この河口に船島という島があるときいたことこそ天の助け、船島で勝負すれば、きゃつ九分九厘まで木剣を使うのではないか――と、おれは考えた」
隻眼が、ここ数日のことより、もっとはるかな過去をたどるようなまなざしとなって、
「ただし、ただの木剣ではない、見たところ四尺七八寸、武蔵の腕の長さを加えれば、ゆうに七尺以上となる。あれで、その昔、佐々木小次郎という天才も一撃のもとに脳骨をうち砕かれたのだ。……さて」
と、立ちあがり、愛刀三池典太を腰にさすと、くるっと裾をまくって尻からげをした。
その足もとにすがりつくようにして、
「か、勝って下さい」
「勝って、柳生へ帰って下さいまし」
「いいえ、いっしょに帰りましょう、十兵衛さま!」
美しくぬれた三尾の魚のようにあえぐ娘たちを見おろして、十兵衛はふいにきびしい眼つきをした。
「柳生へは帰らぬ。たとえ命があっても、少なくとも当分おれは柳生谷へは帰らぬ。おれは……あの法徳寺山を見るのが恐ろしいのだ」
「……先生、島がしずんじゃうよ!」
と、舷に小さいこぶしをくいこませていた弥太郎がさけんだ。
十兵衛を見あげ、また武蔵の方を見ていた弥太郎の眼にも、ようやく満潮のもたらす変化がわかったらしい。いや、子供なればこそ、潮のひびきに、その平洲全部がいまにも沈んでしまうように見えたらしい。――海鳴りは、潮の満ちてくるひびきであった。
「おお」
十兵衛はうなずいた。
「では」
彼は身をおどらせた。蒼い波に、ざっとしぶきがあがった。水は|脛《すね》まであった。
「先生。……ほねはひろって、おれがじゅんれいになって、お札所におさめてやるよ!」
弥太郎のさけびに、いちどふりむいて十兵衛はニコと白い歯を見せたが、そのまま、ザ、ザ、ザ、と水を切って岸の方へ一直線に――武蔵の方へ向かって歩き出した顔に、もはや笑いはなかった。
まなじりを決しているのではない。かつての決闘のいくつかのときのごとく、死を賭けた決闘そのものを愉しんでいる風はむろんない。むしろ十兵衛は、水のような――いま、おのれの蹴っている波ではなく、深い海底のごとく沈んだ、それだけに|悽《せい》|愴《そう》きわまる顔色であった。
【六】
「――十兵衛」
「…………」
「十兵衛っ」
二度いった。
|汀《みぎわ》まで、あと十歩のところで、騒ぐ波に足くびまで洗わせながら、柳生十兵衛は立ちどまった。
「武蔵よな」
十兵衛はしずかに答えた。
「待ちかねたか、武蔵。――」
「というところをみると、武蔵をこの島におびき出したつもりだな。いや、舟で紙だすきを作っていたところからも、最初から武蔵とここで果し合いする覚悟をきめて来たと見える。――|僭上《せんじょう》なり十兵衛、この新免武蔵と一騎討ちを志すとは。――」
「島が波の下に消えかけて、あせったか、武蔵」
「ばかなことを。――わざと遅れて、この武蔵をあせらせようとしても、その手はくわぬ。うぬこそ、武蔵を松平伊豆守に逢わせれば、とりかえしのつかぬ一大事とあわてふためいたであろうが」
「正気か、武蔵、地獄から這いもどって来たうぬを、伊豆守さまが御引見なされ、お召し抱えになるものと思うか」
「その地獄から這いもどって来た男たちの中に、柳生但馬守宗矩もまじっておったと伊豆守に知られたら、うぬこそあわてずにはいられまいが」
波音も消す笑い声に、十兵衛の方がかっとなったように、その位置で、腰から光芒を噴出させた。
ひかりは秋の日と波に銀のすじをひいて、武蔵ののどをめがけて飛んでいった。十兵衛が抜いたのは小刀であった。彼はそれを投げつけたのである。
金属と金属が|相《あい》|搏《う》ったとしか思われないひびきをたてて、武蔵は木刀でそれを横なぐりに払っている。小刀は二つに折れて、水へ落ちた。
「……十兵衛、負けたり!」
武蔵がさけんだとき、十兵衛はすでに、ザザザザと波を蹴って、右ななめに汀へ駆けあがっている。三池典太はもとよりその右手にあった。
武蔵は波打際を横に跳躍した。
しかし、――彼は、依然として波を背にした十兵衛を見た。
武蔵から見て、十兵衛の右側に満潮がくびれこんでいたからだ。そういう地形を十兵衛はえらんだのだ。
「……ううむ」
武蔵はうめいた。
「但馬の伜。……さすがじゃ」
どうしても武蔵にとっては、柳生但馬守が判断の基準になると見える。しかし、その眼には、むしろ歓喜にちかい笑いのひかりが、波をうつしてゆれた。
「どこまでも、豊前の船島の故智を学んで来たと見える」
波を背にしてたたかう。――それこそ、三十四年前に彼武蔵が、一念こめた兵法であった。
あの日、約定の辰の刻をすぎること約一刻、巳の刻(午前十時)太陽のきらめく海を背に佐々木小次郎と相対し、数分のうちに小次郎の眼を疲労さすべく彼は周到に計算したのであった。
いま。――
七ツ。午後四時。
西へかたむいた太陽は、十兵衛のかなたにある。
きらめく波を背にしているだけに、十兵衛の影は黒く見える。十兵衛の影が黒く見えるだけに、うしろにひろがる満潮の波波波は、おびただしい星のかけらが旋舞しているようにきらめいて見えた。――
豊前の船島には、草木があった。おなじ平洲でも、丘らしいところもあり、松や笹が生えているところもあった。
しかし、この伊勢の船島には、何もない。ただ河の中に、白く平たい砂の楕円が浮かんでいるだけだ。いや、河というより、いまは海であった。蒼あおとふくれあがる満潮につつまれて、それはいまにも沈み去る幻影の島のように見えた。
ただ、蒼い海と白い土。
水と砂。
あくまでも、むなしいほど明るいのに、それはなぜか、惨として物凄まじい死の風景を思わせた。
ただし、柳生十兵衛は、そうと感じる余裕はない。その風光を見てさえもいない。――寂として波打際に三池典太を青眼にかまえた彼自身、すでに死の世界にはめこまれた影のようであった。
「その昔、小次郎は」
と、武蔵はいった。
「その場所から武蔵をうごかすのに全力をあげた。それに精根をつかい果たして、ようやく場所を変えたときには、もはやおれの一撃をふせぐ余力を持たなんだ。――しかし、武蔵は」
そういう武蔵の口からは、火炎が噴き出しているように見える。ややかたむいた秋の日輪を全身にあびたその姿は、炎にふちどられた不動明王さながらで――彼は次に十兵衛にとって、戦慄すべき「助言」をした。
「この木剣を捨てて、両刀を使う。|鋏《はさみ》としてな。――両腕ひろげて、鶏を追うようなものじゃ。そうなると、十兵衛、そこの足場は悪かろうが」
まことに、その通りだ。――十兵衛のくるぶしのうしろは海、左側もまた騒ぐ波。――うごけるのは右側だけだ。
その場合、武蔵に両刀を以て襲われたらどうなるか。十兵衛の一見有利と見えた立ち場は、一瞬にして逆転した。
――何よりも、武蔵に二刀を持たれたら?
武蔵の言葉につきうごかされたように、ツツツと十兵衛は右へ移動した。
間髪を入れず、武蔵が前へすすみ出て来た。
たんに汀を逃げるのみならず、長大な木剣に追われて、十兵衛は思わず砂に円をえがき、あっというまに武蔵とその位置が入れ替わった。
「いま申したように、こうなるに、小次郎はもっと苦労をした」
武蔵は嘲笑した。いや、あまりにやすやすとおのれの意のままになった柳生十兵衛に、むしろ|憫笑《びんしょう》を投げた。
「両刀をつかうまでもない。木剣を以て相手をしてくれる」
そして彼は、こんどは「講義」した。
「が、十兵衛、同時に真っ向から斬りこめば、うぬの刀身のはるかにとどかぬところで、うぬの脳天は打ち砕かれる。さればとて、刀[#電子文庫化時コメント 底本・ノベルス「木刀」、全集・角川文庫に従い訂正]を横に払えば――たとえ武蔵とうぬとが同力量としても、垂直に振りおろす木刀よりも、その刀を横に|薙《な》ぐ方が時間がかかる。つまり、間に合わぬのだ。――この剣理、わかるか?」
すでに十兵衛は、呪縛されたようにうごかない。
「いずれにせよ、いまのいま、うぬはこの場に相果てることになるのだが――しかし、それにしても、よう来た。いやさ、ようも第二の船島を設けて、老いたる武蔵を愉しませてくれた。せめて伊豆に逢うたとき、柳生十兵衛なるものは、佐々木小次郎とまず同力量の剣士であったと褒めておいてやろうぞ」
武蔵の木剣が、徐々にあがり出した。八双の構えに。――
同時に、十兵衛の刀も、八双の構えにあがり出した。
いまや彼は、やや赤味をおびた白日を満身に浴びている。――その一眼が、ピタととじられているのを武蔵は見た。
いかにもその位置からは、ななめにおちてくる太陽を真っ向から受けることになり、数分と眼をあけてはいられまい。
それにしても、武蔵を前に何たる不敵な瞑目か。――
「……うむ!」
声なき一喝を送って、わざと一息――
四尺七八寸の木剣を宙天にあげ、自身の背丈とも加えて、実に一丈の高さを一個の大魔剣そのものと変えた武蔵は、スルスルと音もなく砂をすべって、なおこの相手の刀のとどかぬ六尺の距離のある地点で、微塵になれと振り下ろした。
電光の一撃であった。
その下を、柳生十兵衛は三歩踏み出した。
すでに最初の位置で頭蓋骨を粉砕されているはずなのに、彼は幻のごとく進み寄った。
武蔵のあごから胸にかけて、朱色のすじがたばしって、|臍《へそ》のあたりで十兵衛の刀身は止まっている。きっさきは、かすかに武蔵の背につき出していた。
柳生十兵衛は武蔵の前に、そのままの姿勢で、祈るように片膝折って地についていた。
武蔵は仁王立ちになったまま、かっとむいた眼で十兵衛を見下ろしている。
彼の木剣はどうしたか。
木剣はきっさきから|柄《つか》まで、垂直に斬られて左右に裂けていた。
――頭上に落ちてくる木剣を、十兵衛は見ていなかった。ただ太陽を一眼のまぶたに受けて、まぶたの上にさす一点の鳥影のごとき木刀の影によって、その角度と速度をはかって、前へ進んだのであった。
十兵衛の刀身は、木剣を縦に斬り、そのまま武蔵を縦に斬った。この離れわざ以外に、この場合に、武蔵をたおす法はなかった。――とはいえ、それは彼が斬ったというより、武蔵自身が、おのれの木剣とからだの速度で斬られたといっていい。――
武蔵の血泡のにじみ出た唇が、ぶつぶつとうごいた。
「……われ若年のむかしより、兵法の道に心をかけ……天下の兵法者にあい、数度の勝負を決すといえども、勝利を得ざることなし。……諸流の兵法者にゆきあい、六十余度まで勝負すといえども、一度もその利を失わず。……」
武蔵の手が、木剣の柄を離れた。
同時に、十兵衛は片膝ついた姿のまま、背後へ大きくとびのいた。尻からげがとけて、ひるがえったきものの裾を、左右から二条の|光《こう》|芒《ぼう》が|薙《な》いだ。が、つばくろの尾のように斬り落とされたのは、裾の先端だけであった。
むなしくながれた大小の刀を両手につかんだまま、武蔵はがばと砂の中にのめり伏し、そのからだの下から、血が白い砂を染めてひろがっていった。
しんかんとした秋の午後である。
すべてこの世に、事もなし。――といった風な。
――いや、海鳴りの音のみ、ますます高い。それがいよいよこの海の上の静寂を深めているような錯覚にうたれていたのは、船の上の三人の娘と船頭ばかりで、ただ少年弥太郎だけが、
「先生。……島がしずんじゃうよ!」
と、このときさけんだ。
十兵衛は沈痛な横顔を見せて、凝然と、砂の上に伏してうごかぬ|曠《こう》|世《せい》の大剣士新免武蔵の姿をながめていたが、その声にはじめてわれにかえったように、刀身を鞘におさめた。
――やがて、島は沈み、満潮がこの大剣士のかばねを運び去ってくれるだろう。海原の果てこそ、この武蔵どのの墳墓の地にふさわしい。
片手をあげて礼拝すると、たすきをとり、そのまま歩き出した。――武蔵の乗って来た小舟の方へ。
彼が船頭をうながしてその舟に乗り、何やらいうと、船頭はその舟をこぎ出した。それまで娘たちは、なおこの世のものならぬ幻怪な白日夢でも見ているように、身うごきもならず、声をたてることもできなかった。
弥太郎が、泣き声でさけんだ。
「……先生、どこへゆく」
十兵衛は、いちどふりむいて、かすかに白い歯を見せて、うなずいてみせたが、しかし彼を乗せた小舟は、|渺茫《びょうぼう》たるうねりを送る蒼い波濤を、そのままいずこともなく漕ぎ去っていった。彼自身も東の方へ。満潮のかなたへ。
ひどく|虚《むな》しい顔をして。――
柳生十兵衛はどこへゆく。
[#地から2字上げ](魔界転生 了)
おことわり
本作品中には、(講談社文庫版の)一〇一頁以下十一頁にわたり、きちがい、狂女、きじるし、白痴、|盲《めくら》、つんぼ、ちんば、狂人など心身の障害に関する、今日では差別表現として好ましくない用語が使用されています。
しかし、江戸時代を背景にしている時代小説であることを考え、これらの「ことば」の改変は致しませんでした。読者の皆様のご賢察をお願いします。
〔初出〕
「大坂新聞」ほか 一九六四年一二月一八日〜六六年二月二四日『おぼろ忍法帖』として連載
〔出版〕
『おぼろ忍法帖』〈風太郎忍法帖一〜三巻〉(一九六七年・小社刊)
後、講談社ロマン・ブックス版『おぼろ忍法帖』(一九六九年)、「山田風太郎全集1」(一九七一年・小社刊)、『忍法魔界転生』と改題(角川文庫・一九七八年)、さらに『魔界転生』と改題(一九八一年)、富士見時代小説文庫版(一九九一年・富士見書房)・単行本『魔界転生』(一九九二年・毎日新聞社)、「山田風太郎傑作忍法帖」(一九九四年・小社刊)など
〔底本〕
講談社文庫『魔界転生 山田風太郎忍法帖6・7』(一九九九年)
山田風太郎(やまだ・ふうたろう)
一九二二年、兵庫県生まれ。東京医科大在学中の一九四七年、探偵小説誌「宝石」の第一回懸賞募集に「達磨峠の事件」が入選。一九四九年に「眼中の悪魔」「虚像淫楽」の二篇で日本探偵作家クラブ賞を受賞。一九五八年から始めた「忍法帖」シリーズでは『甲賀忍法帖』『魔界転生』(本書)等の作品があり、奔放な空想力と緻密な構成力が見事に融合し、爆発的なブームを呼んだ。その後、『警視庁草紙』等の明治もの、『室町お伽草紙』等の室町ものを発表。『人間臨終図巻』等の著書もある。二〇〇一年七月二八日、逝去。
|魔界転生《まかいてんしょう》 下 山田風太郎忍法帖7
講談社電子文庫版PC
|山《やま》|田《だ》|風《ふう》|太《た》|郎《ろう》 著
(C) Keiko Yamada 1967
二〇〇三年一月一七日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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