講談社電子文庫
山田風太郎忍法帖6
魔界転生 上
[#地から2字上げ]山田風太郎 著
目 次
地獄篇第一歌
地獄篇第二歌
地獄篇第三歌
地獄篇第四歌
地獄篇第五歌
「敵」の編制
故山の剣侠
|黄泉国《よみのくに》
|黄泉坂《よみのさか》
やるか
ゲームのルール
|西《さい》|国《ごく》第一番|札《ふだ》|所《しょ》
岸打つ波
地獄篇第一歌
【一】
あちこちでおびただしい|篝火《かがりび》が燃えていたのは、月のない|朔《つい》|日《たち》の夜であったせいではない。
月はなかったが、三月である。どんよりと垂れこめた雲には、いぶし銀のようなひかりがあった。その下で、各陣営が大っぴらに篝火を燃やしていたのは、むろんいくさが終わったからである。
篝火のみか、輪をつくり、|酒《さか》|壺《つぼ》をまわし、酔いしれている武者たちの姿は、いたるところに見られた。海鳴りも消さんばかりな唄声をあげ、|大《た》|刀《ち》をぬいて乱舞している光景もあった。ときにはけたたましい女の笑い声や、殺されるような悲鳴のきこえる幕屋もあった。――
「いくさが終わると同時に、急に春になったようでござるな」
と、その陣屋のあいだを通ってゆく二つの影のうち、ひとりが相手に話しかけた。
「南の風が強い。――何か、妙に|匂《にお》いますな」
「城兵の|屍《し》|骸《がい》が腐っておるのだ」
と、相手はふきげんな声でこたえた。
「ほう、きのう落城して、もう屍骸が腐りますか」
「きょうのひるごろから、地面も見えぬほどおびただしい|蠅《はえ》が出て来たのを見たろう。……城の裏側にいってみろ、|崖《がけ》から海へかけて屍骸が|雪崩《なだれ》をなしておる。何しろ、三万七千、みな殺しじゃからな」
いままで、ふきげんな相手を意にも介せぬように愛想よく話しかけていた男は、さすがに眉をひそめて、ちょっと黙りこんだ。
寛永十五年三月一日の夜である――去年十月に突如としてこの島原に起こった百姓|一《いっ》|揆《き》は、たちまち変幻不屈の|切《キリ》|支《シ》|丹《タン》軍となって原の城に立て|籠《こも》り、十二万四千の幕府軍を以てしてもそれを陥れるのに足かけ五ヵ月を要するという大乱となった。
しかし、その原の城も、きのう未明についに落ち、賊将|天《あま》|草《くさ》|四《し》|郎《ろう》も討たれ、三万七千の城兵たちは、わずかに四人の降伏者を出したのみで、文字通り全滅した。――
もはや、ここ数日、日がおちるとかならず死物狂いに夜襲をかけてきた城兵たちが、ふたたび出現するおそれはない。城はくまなく捜索され、生き残っていた者は女子供をとわず、ことごとく|虐殺《ぎゃくさつ》されたのである。その|掃《そう》|蕩《とう》が、けさまでかかった。
この包囲軍に、豊前小倉十五万石小笠原右近太夫も六千の兵をひきいて参加していたが、この夜、その陣営をフラリと訪れた妙な男がある。
「|拙《せっ》|者《しゃ》は武芸修行のため廻国し、このたびの御征討ぶりも面白く見学いたしておった|由《ゆ》|比《い》|民《みん》|部《ぶ》|之《の》|介《すけ》と申す浪人者でござるが、こちらさまの御陣に、高名なる剣客新免|武蔵《むさし》どのが御軍監として参軍なされておると承りました。是非、武蔵どのにお目にかかりとうござりまする」
で、小笠原の侍のひとりが、こうして浪人を案内しているのであった。
案内しながら、小笠原の侍|内《ない》|藤《とう》|源《げん》|内《ない》がすこしきげんが悪かったのは、足かけ五ヵ月のいくさがやっと終わって、|朋《ほう》|輩《ばい》とともに勝利の盃をあげようとしたところを、面倒な風来坊のためにその盃をとりあげられたということもあるが、この相手がどこか気にくわないせいもある。
どこが気にくわないのか、じぶんでもよくわからない。
年は三十三四であろう。――いや、ひょっとしたら、もっと若いかもしれない。髪を総髪にし、色白で、態度は軍師のように荘重だが、眼は若者のようにかがやき、よくうごく。しゃべり出すと、意外に|愛嬌《あいきょう》がいい。
が、内藤源内がちょっと面白くなかったのは、浪人と名乗りながらこの男が、黒羽二重の衣服に|繻《しゅ》|子《す》の袴、こうもり羽織という、このまだ血と硝煙の匂いの残っている場所にふさわしくない、ふさわしくないどころか人をくったいでたちをしていることで、いま本人もぬけぬけといくさの見学にきたといったが、いったいこの天下の大乱をどう思っているのか、服装のみならずその|口《こう》|気《き》にも、愛嬌のいいわりに、どこか人をくっているところがある。――そんな点に反発をかんじていたのかもしれない。
それくらいなら、はじめからはねつけてしまえばいいものを、この由比民部之介という男には、二三語、押し問答をしているうちに、フラリと相手をじぶんの註文にのせてしまう奇妙な呼吸がある。――
で、内藤源内はつい彼の案内に立ちながら、仏頂面をして、
「かりにも軍監への面会者だからひき合わせるが」
と、いった。
「新免武蔵どのは、小笠原家に仕官なされておるひとではないぞ。いわば、臨時やといの軍監じゃ。そのつもりで逢った方がよろしかろう。――」
この浪人が、もしや新免武蔵を|手《て》|蔓《づる》にして、小笠原家に|禄《ろく》を得ようと志してもそれは無駄だ、と|釘《くぎ》をさしたのである。
「ほ、では客分でござるか」
と、由比民部之介は案外な顔をした。
「客分、というほどでもない。――武蔵どのはあのお年になって、いまだ諸国を|乞《こ》|食《じき》のようにさまよっておられるらしいが、小倉には数年にいちどのわりで現われなさる。それ、例の|佐《さ》|々《さ》|木《き》|小《こ》|次《じ》|郎《ろう》をたおした船島が当藩にあるからよ、当人も、小倉にくるのがいちばんなつかしく、また肩身がひろいらしい。――とはいえ、あれはもう二十数年も昔、また小倉も当時の細川の代からわが小笠原に変わって六七年になる。べつに、さしたるあしらいもせなんだところに、このたびの乱が起こった。――」
仏頂面をしていた源内は、新免武蔵のこととなると、急に|饒舌《じょうぜつ》になった。しゃべらずにはいられない対象であるらしいが、しかし好意の感じられない|語《ご》|韻《いん》であった。
「すると、武蔵どのが是非参陣したいとおしかけて申される。ほかのときではない、ともあれいちじは世にきこえた剣客、いくさならば使いようがあろうと、一応軍監の名目で加わってもらったが」
源内は肩をすくめた。
「何の役にも立たなんだな」
「そんなことはありますまい」
「貴公、このいくさを見ていたとあれば、寄手の難儀ぶりの一通りではなかったことは知っておろう。たかが百姓一揆、とたかをくくっていたが、どうしてどうして、きゃつら、殺しても殺しても、クルスとやらをささげ、魔軍のように刃向うてくる。たびたびの夜襲は神出鬼没、十二万余の寄手が顔色を失って逃げまどったことさえあった。もっとも、城に籠っておったのは百姓ばかりではない、敵にもなかなかの軍師がある。天草四郎という小わっぱの知恵ではあるまい、たしか森宗意軒とかいう豊臣方の遺臣が采配をふるっておるときいた。――」
海風がつよくなり、|吐《はき》|気《け》をもよおすような匂いがいよいよ濃くなった。
「とにかく、それを見ながら、武蔵どのは、何をするというでもない。あの音にきこえた二刀流とやらをふるって敵を|斬《き》りちらすどころかよ、まるで石ころのように座っているばかり」
「なんぞ、ふかいお考えでもあったのでござりましょうか」
「といって、べつに兵略軍法を進言するというわけでもない。なんのための軍監か、わけがわからん。……もっとも臨時やといの軍師にうごかされるわが小笠原藩でもないが。――ともあれ、いくさは終わった。武蔵どのも、まずこれでおはらい箱じゃな」
波の音がしだいに高くなった。原城の北方の島原湾沿いに布陣している小笠原軍であった。
「感心したのは、江戸から救援にこられた老中の松平伊豆守どのだ。あのお方は政務に練達のおひととはきいておったが、兵法の達者とはきいたことがない。しかるにそのお方が総大将となられるや、いままでてんでんばらばらであった諸大名が、まるで|織《は》|機《た》のようにうごき出した。――」
「知恵伊豆、と申される」
「それを、如実に見たぞ。要するに、もはや戦国時代の軍略兵法はあまり用をなさんな。ましてや古怪な剣法のごときをやだ。いわゆる剣豪、などというものは、これからさきは、いくさにおいても|案《か》|山《か》|子《し》同様だ、ということがわかった。……お、あそこだ、新免武蔵どのの幕屋は」
ふいに内藤源内は、声をひそめて、かなたを指さした。
長い攻撃戦であったので、寄手もそれにそなえて、たんなる野営ではない、本格的な陣屋をつらねていたが、そこの海ぎわにぽつんとひとつ離れて、小さなむしろ張りの小屋があった。海から吹く風にむしろがめくれて、粗末な燭台にあぶら皿の火がゆらめいている。
【二】
「わしはここで帰る。貴公、ひとりでゆけ」
と、源内はいった。冷淡といえばいえるが、それより妙にしりごみした気配であった。声をひそめて、
「ところで、いまわしがいった武蔵論、これは告げ口せんでくれよ」
逃げるようにひきかえしてゆく内藤源内を見送るのも忘れて、由比民部之介はむしろ張りの小屋をながめた。
五十なかばとみえる男がひとり、灯の下に座って、黙々と何やらけずっていた。ひざの上から、むしろにいっぱいの|木《き》|屑《くず》がちらばっている。
横顔が見えるだけだが、たかく飛び出したかん骨の下は、えぐりとられたように|頬《ほお》がこけて、それに|髯《ひげ》がまばらに生えて、渦をまいていた。あかちゃけた髯であったが、ところどころ白いものもひかっているようだ。髪はちぢれっ毛で、さかやきをぼうぼうとのばしていた。その頭をうつむけて、まるで内職でもするように、彼はいっしんに作業をつづけているのであった。
――何を作っているのか?
なぜということもなく、足音をしのばせてちかづきながら、由比民部之介はくびをのばしてのぞきこんだ。
――|櫂《かい》らしい。
と、民部之介は見た。
すぐそばの海辺からひろって来たものであろうか。たしかにながい一本の櫂を彼はけずっている。どうやらそれは木剣のかたちに変わりつつあるようだ。
卒然として民部之介は、その男がまだ若かったころ、豊前の船島で佐々木小次郎という名剣士と決闘したとき、舟の中で櫂をけずって木剣とし、これを武器としたという話を思い出した。
これはこの男のくせであろうか。それとも。――
海鳴りの音がきこえる。それとも――その潮の声にさそわれ、二十何年かむかしのあの劇的な試合を思い出すよすがとして、またもそんなことをはじめたものであろうか。
ふと、民部之介は、この人物にあわれみにちかい感情をおぼえ、
「先生」
と、呼んだ。
「新免先生」
男は、ふりかえりもしない。仕事に没入しているのか、放心状態なのか。それとも耳でも遠いのか。
遠くちかく、海鳴りと、それにまがう|波《は》|濤《とう》のような酒歌のかちどきをよそに、孤影、惨たり、「それから」の武蔵。
それでも、由比民部之介は、むしろ小屋の入口に手をつかえた。
「宮本武蔵どの、ここにおわすと承り、是非門人としていただきたく、はるばる江戸から浪人由比民部之介参上つかまつりました」
武蔵は手も休めず、ちらっとこちらをふりむいた。
一瞬、由比民部之介は、茶金色の|光《こう》|芒《ぼう》で面を射られたような感じがした。
が、はっとまばたきして見返したときは、いまの一べつは錯覚ではなかったかと思われるほど、武蔵は何事もないかのように櫂をけずりつづけている。
「先生」
と、民部之介はまた呼んだ。
「宮本先生がほとんどお弟子をとられぬことはうけたまわっておりまする。それは……おそらくなみの人間が先生の御|鉗《けん》|鎚《つい》に耐え得ぬからでござりましょう。さりながら、この由比民部之介はちがいます。およそ人間のなし得ることを、なし得る極限まで、あえてなしとげてみたいと、この年まで仕官もいたさず修行しておる者です。鈍骨ではござれど、われに七難八苦を与えたまえ、と、神仏に祈っておる者です。宮本先生、よっく拙者の顔をごらんくだされい」
顔をあげた。|白《はく》|皙《せき》のひたいに、自信の炎が燃えしきっている顔であった。決して鈍骨などといった眼つきではない。知恵と敏捷と好奇心と野心のひかりにキラキラとひかっている瞳だ。
武蔵は答えない、黙って木剣をけずっている。
「ただいま小笠原の家来から、先生のことをうけたまわりました。恐れながら、彼らは決して先生を買ってはおりません。いや、先生の使い方を知らないのです。あ、これは失礼、先生の御真価を知らぬのです。彼らは剣のみを以て武蔵先生を判断しようとしておる。しかし、拙者の見るところでは、先生はさらに大きなものをお望みでござる。民部之介のこの眼にまちがいはござりますまいが」
武蔵は、無表情というよりむしろ|沈《ちん》|鬱《うつ》な横顔をみせて、黙々と手をうごかしている。ただ白い木片がはねとんで、かすかな音をたてている。
いちど、むっとして、
「しかも、|郎君独寂漠《ろうくんひとりせきばく》。――」
と、気をとりなおした様子で、いっそう愛嬌にみちた笑みを片頬によどませた。
「それは、先生御自身にも責任がござりまするぞ。お見受けしたところ、先生はあまりに孤高|峻峭《しゅんしょう》、人をして容易に近づくをゆるさざる秋霜の気を発し――発しすぎておられるようです。孤掌鳴りがたし、天下になすあらんと望まれるならば、もうすこし御身辺に春風を漂わせられることが必要でござる」
こう臆面もなくずばりと切りこむのが彼の独壇場だ。どんなにかまえている人間でも、初対面から彼のこういうなれなれしいもののいい方に逢うと、ふっと虚をつかれたような表情になり、そして苦笑する。
「拙者、先生のために春風の役を相つとめましょう。きっと先生を売り出してごらんにいれる」
そのすきに、するりと彼は相手の腹中にすべりこむ。
「そもそも宮本武蔵どのともあろうお方が、たかが十五万石の小笠原藩などにちぢこまっておられるのがおかしい。いや、先生も御本心ではありますまい。拙者ですら――拙者はさきの征討使板倉内膳正どのの知遇を得て、かくのごとく陣中往来の鑑札をいただいているほどでござりまするが、それでも板倉家ごときに仕える気は毛頭ござらなんだ。拙者のねらっておるのは、ただちに幕府そのものです。とはいえ、無名若輩の拙者には、なかなか一足とびにこれはむずかしい。そこで、先生を旗としてかかげたいのです。十分先生は旗となり得るお方です。事実、先生は、そのようなお望みと自負を抱いておられたものと拙者は見ておる。いや、こう申せば先生を御利用するだけのことと思われましょうが、決してそうではない、先生を|劉邦《りゅうほう》|劉備《りゅうび》とするならば、拙者は|張良《ちょうりょう》|孔《こう》|明《めい》。――」
弁舌さわやか、長広舌である。最初のしおらしい弟子志願の口上などはどこへいったのか。
「お笑い下さるな、これでも拙者ひそかに、張孔堂、と号しておる者です。お笑いになりましょうが、先生、いちどだまされたと思うて、この民部之介をお手もとにお使いになって下されませぬか、少なくとも先生にないものが、この拙者にはある、そう御納得になるでござろう。――いや、お笑い下さるな」
武蔵はニコリともしない。黙って、ひざの上の櫂をにゅうと向こうへさしのばした。それはもはや、あきらかに木剣のかたちをしていた。
むしろの隅に、七八本の筒切りにした|孟《もう》|宗《そう》竹がころがっていた。この老剣士は、彫刻とか細工物の余技があるとみえて、それは花生けにでもしかけた案配であったが、その一本を、きれいな反りをみせたその木剣のはしでおさえた。
ぴしっ――という音がした。
由比民部之介の眼は、かっとむき出された。
かるくおさえたと見えただけなのに、そのふとい孟宗竹が木剣のさきで籠みたいにピシャリとひしゃげたのである。
はじめて武蔵は、こけた頬をつりあげて、きゅっと笑った。作りつつある木剣を、まずこれでよし、と見た会心の笑いであろう。いままでの民部之介の|饒舌《じょうぜつ》など、ほとんど耳にも入らなかったように思われた。
そして武蔵はその木剣を頭上にふりかぶり、真一文字にふりおろした。むろん、素振りだ。かつ、民部之介とは反対の方角にむかってふりおろしたのである。――が、それは空気を|灼《や》き切るような凄絶なうなりを発して、入口に座っていた民部之介が、見えない突風に吹かれたようにのけぞった。
「お師匠さま」
そのとき、外で少年の声がした。
ピタピタと草履をはねあげる音が走って来て、可愛らしい声がまた呼んだ。
「お師匠さま、城からだれか――ヘンな|爺《じじ》いと女がふたり、海へ逃げてくぜ」
むしろ張りの小屋のすきまを通す灯影の中に、ひとつ小さい影があらわれた。
見れば、十ばかりの少年だ。つんつるてんの着物をきて、かっぱみたいな髪をして、じぶんの背丈くらいもある木剣を腰にさしている。
それが、素足に大人の草履をはいて|駈《か》けてきて、
「お師匠さまっ、寝てるのかい」
といいながら、ヒョイと入口に座っている民部之介を見たが、べつに|挨《あい》|拶《さつ》をせず、
「なんだ、起きてるじゃないか。――たいへんだよ、落武者だよ、みんな追っかけてくよ」
と、息はずませていった。
「ほう、まだ城に生きていた者がおったか」
と、武蔵ははじめてこちらにむきなおった。
「しかし、追手が出たというなら、それでよかろう」
「それが、なんか敵の大将とかいったぜ」
「大将?」
武蔵はくびをかしげた。
「まさか、天草四郎ではあるまいが」
「おいらが城のうしろをあるいていて見つけたんだ。ヘンな爺いとふたりの女だよ。それでお侍衆を呼んできたら、しばらくして、だれかが――ありゃ森宗意だ、森宗意軒だ――って、しめ殺される鶏みたいな声を出したぜ」
「なに、森宗意軒?」
武蔵より、由比民部之介が、しめ殺されるような声を出した。
森宗意軒――それこそは敵の首脳のひとりだ。いったいこんどの乱の首謀者は、小西行長の遺臣たちであるといわれ、それらが作戦の指揮をとっていたことはあきらかだが、なかでも森宗意軒という名が寄手に|妖《よう》|異《い》のひびきをおびて知られていたのは、乱の起こるまえ、首領の天草四郎という少年が、さまざまの神秘的な――たとえば、キリシタンの|呪《じゅ》|文《もん》とともにみるみる暁に西の空を夕焼けとしたとか、天から鳩を呼び、掌上で卵を生ませ、卵の中からキリシタンの経文を出したとか――余人には容易に信じられないことだが、キリシタンでない一帯の百姓たちもたしかにそれを見たといい張ってやまないのだが、そんな行為をするとき、必ずそばに枯木のごとき老人が侍立していて、それが森宗意軒という人物であったといわれていたからであった。
しかし、その森宗意軒も、おとといたしかに討たれたはずだ。石火矢をかけられ、炎上した原城の断末魔であったから、顔もわからぬ焼死体も多かったが、とにかく|蟻《あり》の|這《は》い出るすきもない攻囲の中にあって、しかも徹底的な|掃《そう》|蕩《とう》|戦《せん》の結果、女子供をとわず三万七千の叛乱軍は一兵もあまさず|殺《さつ》|戮《りく》されたはずだ。
「はて」
武蔵もいった。
ぬうと起つと、六尺にあまる長身であった。その影が民部之介を無視して、つかつかと大股に小屋の外へ出ていって、
「伊太郎、案内せい」
そういったとき、少年はもう三間も先を走っていた。
【三】
夜風をついて|駈《か》ける少年を武蔵は追う。
それをまた由比民部之介は追いながら、ふとこの新免武蔵という人間が、壮年時から弟子らしい弟子をとらず、ただ時に童子を拾って、これをつれて歩いたという逸話を思い出した。……いまの少年もそれであろうが、ともかく一時あれほどの剣名をはせながら、一風変わった、へんくつですらある、民部之介などからみると判断に苦しむ武蔵のくせだといわなければならない。
夜風は生あたたかく、潮気をおびていた。……かつ、それに異様な匂いがまじる。
小笠原の陣は、原城の北方にあった。だいたい、この城は北をのぞいて三方が断崖と海で、その北方も一帯の潮田、沼田で、そのために幕府軍が難戦したのである。その海ぎわの道ともいえない道を、少年と武蔵は駈けていった。
いや、武蔵は大股に歩いているだけだが、五十なかばとは思われぬ足の速さである。やせてはいるが、骨太で、みるからに|強靭《きょうじん》だ。民部之介は息が切れた。
一帯の沼田には、刀、槍はもとより盾、竹束、材木、|土《ど》|嚢《のう》、旗差物、そしてまだ死体までが散乱して、これが道を作っている。そのかなたにもはや焼けつくしたであろうに、原城のあとが、ドンヨリと魚のはらわたに似た赤い火照りを夜空にあげていた。
左手に海が見えてきた。星はないのに、それは黒々とうすびかって、うねっていた。
南風がはげしくなるとともに、潮風にまじる異臭はいよいよ鼻をついた。もう護る兵もいないいくつかの焼けこげた木戸や|柵《さく》を通る。
もはや岩だらけの場所を通って、城の裏手にまわる。
武蔵と少年がそこに立ちどまっている。とみるまに、ピタと地に伏した。民部之介はやっと追いついた。
「どうしたのでござる」
「――しっ」
と、はじめて武蔵が彼を相手にひくい声を出した。武蔵は、じっと前方に眼をすえていた。
民部之介も、あわてて地に|這《は》いながら、眼をあげて――いま「しっ」と制されたのに、思わず「ああ」とうめき声をあげていた。
すぐうしろにそそり立っている城の断崖の下から海へかけて、死体の荒野だ。いや、ここにそんな荒野があったわけはないから、おそらく海――少なくとも荒磯だったところであろう。そこが死体で埋めつくされているのだ。
月もなく、もとより火影はないのに、一帯にただよっている蒼白い微光はなんであろう。……ここらの海で名高い|不知火《しらぬい》か、それとも――|冥《めい》|府《ふ》にもえるあの鬼火というものではあるまいか。
それで、気がつくと、首のない死体が多い。落城とともに前代未聞の大虐殺を受けた|一《いっ》|揆《き》軍は、すべて首をはねられて、城外に立てならべた青竹一本ずつにかけられたからだ。……その数三万七千。そして、あと首のない死体は、ことごとくこの断崖の下へ投げおとされたのだ。
三月一日の夜であったが、これはいまの暦でいえば四月のはじめである。それに春の早い九州の島原である。民部之介は、先刻小笠原の侍が「死体が腐っておるのだ」といった言葉を思い出した。吐気のするような匂いのもとはこれであった。ひるまから地肌もみえぬほどのおびただしい蠅の発生地はここであったのだ。
コ、コーン。
どこかで、木と木のふれる音がした。
|鬼哭啾々《きこくしゅうしゅう》[#電子文庫化時コメント 底本のルビは繰り返し記号=大返しを使用。以下同様]。――いや、その声すらもないこの死の世界に、あの物音は?
民部之介はぎょっと眼を凝らして、死体の荒野の果てに、小さくうごいている者をおぼろに見た。
三人だ。――たしかに少年が告げた通り、具足をつけた白髪の老人と、白いきものをきた女ふたりが、死体の尽きるところ、海のきわで働いている。
武蔵が、這ったまま、じりっ、じりっ、とうごき出した。
「どうした」
と、きいている。
はじめて民部之介は、すぐちかくに生きている人物がいることに気がついた。
「……恐ろしい奴だ」
と、あえぐような返事がした。
「九人、追いかけて、三人殺された」
「……あの老人にか?」
「あの老人に」
生きているのは、二人の侍だった。さっき少年が、落武者を追っていった侍たちがあるといったのはこれであろう。――見わたせば、いかにもほかにそれらしい影はない。
「生き残った者のうち、われわれを除いて、助けを求めに陣の方へかけもどっていった……」
侍がつづける。歯がカチカチと鳴っている。むろん、そばに来ているのが新免武蔵とは知らないらしい。
「あと、われわれが見張っておるのだが……」
コ、コーン、コーン、とまた木の音がきこえた。
「あれは何をしているのだ」
「落ちてきた木、流れついた木で、|筏《いかだ》を組んでいるらしい」
老人と、白衣のふたりの女は、必死にうごいていた。生きている者があろうとは思えない原の城から、忽然とあらわれた三人は、いまや筏を作って海峡のかなたへ逃げようとしているのであった。
「……あれが、森宗意軒?」
「知っておる奴があって、そういった。いった奴は殺された……」
「刀でか?」
「いや、|鎖《くさり》じゃ。鎖のただひとなぎで、三人がいちどに頭をたたきつぶされた……」
そのとき、背後から黒いつむじ風のようなものが駈けてきた。十数人の武装した一団であった。
「どこだ、落武者は?」
「もはや、逃げたか? ――いや、逃げられぬはずだ」
「その|妖《あや》しき|爺《じじい》と女はどこにおる?」
血相変えて、大声でわめく。
「あそこだ!」
と、見張っていた男が指さすと、追跡隊は武蔵などには気がつかないふうで、死体の海を踏んでその方へ駈けていった。
老人と女がふりむいて、立ちあがるのが見えた。
からだに具足だけはつけているが、それが重げにみえるほどやせこけた影であった。ただ漂う|燐《りん》|光《こう》に、頬からあごにかけて吹きなびく|髯《ひげ》が銀のようにひかって見えた。
左右をふりむいて、何かいったふうである。そして老人は一刀をぬきはらった。
いちど立ちあがった武蔵がそのままうごかなくなってしまったのは、そのときふたりの女が、思いがけぬ行動に出たからだ。――殺到してくる武者たちを迎え、ふたりの女は、きていた白いきものをみるみるぬぎ出したのである。
あきらかに若い――一糸まとわぬ雪のような|裸形《らぎょう》がそこに立った。
老人は刀をふるった。なんと、敵にではなく、そのひとりの女の胸から腹へかけて、縦に|刃《やいば》を走らせたのである。
まだ三四間の距離にあるのに、さすがの武者たちもたたらを踏んで立ちどまった。
女のぬめのような胸から腹へ、黒いすじが走った。血がにじみ出したのだ。とみるまに、そこから八方に、あきらかに血ではないひびみたいなものが入って、それが網の目のようにひろがった。
「あーっ」
悲鳴をあげたのは、女ではない。武者たちだ。
そこに彼らは、実におのれの眼を疑う光景を見た。女のからだが裂けたのである。割れたのである。はじけたのである。全身の網目から白い皮膚が卵の|殻《から》みたいに|剥《は》げおちて、その内部から、べつの人間がニューッと現われてきたのである。
むろん、はだかの人間だ。それが女のからだを押しわけるように現われて、なおふくれあがってきたところを見ると、男であった。髭すらはやし、筋骨たくましい壮年の男の裸身であった。……何が、どうなったのかわからない。彼を「|孵《ふ》|卵《らん》」した女は、皮膚の残骸に似たものを枯葉みたいにその足もとに積んだようだが、どこに消えたのかわからない。
もうひとりの女が、地におちていたかいどりと刀をひろって、彼にわたした。
老人が化鳥のような声で何かさけんだ。
その男は、肩からかいどりを羽織り、手に一刀をひっさげて、フラフラと夢遊病者みたいにこちらに歩いて来た。
「来い。――来い。――地獄へ来い」
と、彼はいった。地からわき出すような声であった。
……この世に起こり得ることではない。
追撃してきた武者たちは、武者人形の一隊と化して、そこに凝然とかたまっているだけであった。二三人、ズルズルと、死体の上に座ってしまった者もある。
「来い。――来い。――地獄へ来い」
「卵生」してきた男はまたいった。
すると、四五人の男が泳ぐようにすすみ出た。――これが、勇気をもって立ち向かっていったものでなく、魔につかれた行動であったことはすぐにわかった。
まるで吸いこまれるように近づいていった彼らが、その男の周囲をめぐり、もつれかかるように見えたが、たちまちひらめく白刃に|斬《き》りたおされたのである。刀の打ち合うひびきもない。大根でも切るような|殺《さつ》|戮《りく》であった。
が、血しぶきだけは飛んで、その「剣鬼」ともいうべき男の半顔を染めた。その男自身からも、ぼうと燐光が発していた。四十歳くらいの|沈《ちん》|毅《き》重厚な顔だちであったが、いま血をあび、燐光を放っている姿は、陰惨凄絶、あきらかにこの世の人間ではない。
「来い。――みんな、地獄へ来い」
それが、また地からしみ出るような声であった。
「|又《また》|右衛《え》|門《もん》」
と、うしろに寂然と立っていた老人がいった。
呼ばれて、彼はフラフラとその方へもどっていった。まるで夢遊病者みたいな足どりだが、老人のまえに立って首を垂れた姿は、犬のように従順に見えた。何か老人にいわれて、彼は海ぎわに歩いていった。
コ、コーン。コ、コーン。
彼はそこで|筏《いかだ》を作る仕事を受けついで、その作業にとりかかった。
気死したように立ちすくんでいる追跡隊を、老人はたたずんで、じっと見すえている。くぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくに、冷たく、あきらかに笑っている眼であった。
【四】
「……武蔵どの」
死体の中に|這《は》いつくばったまま、由比民部之介は、のどに鉄丸でもつまったような声を出した。
「……ありゃ、なんでござる?」
武蔵は答えない。……が、さすがにびんの毛がそそけ立っているのが夜目にも見える。
「武蔵どの。……あれは切支丹バテレンの術でござるか」
「――あれは」
と、武蔵はうわごとみたいにうめいた。
「たしかに荒木又右衛門。……」
「な、なんでござる。荒木。――」
由比民部之介はうなされるような眼つきで、幻影に似た白いしぶきの中に、筏を作っている影を見つめた。
荒木又右衛門。――その柳生流の名剣士の名は、彼も知っている。伊賀の上野、|鍵《かぎ》|屋《や》の辻で三十数人の大集団を相手に死闘し、みごとめざす敵を討ちとった話もきいている。寛永十一年初冬。いまから四年ばかりまえのことだ。
しかし、その又右衛門は、たしか去年死んだときいている。
いわゆる伊賀越えの|復讐《ふくしゅう》は、たんにやや規模の大きい|仇《あだ》|討《う》ちであったというだけではなく、実はその背景に大名対旗本の対立という重っ苦しい時代相をもった事件であって、又右衛門は首尾よく義弟の助太刀をして敵河合又五郎を討ったものの、又五郎の後盾となった旗本一派の再復讐を警戒してか、もとの主君大和郡山の松平家から、因州鳥取の池田家に籍を移した。
鳥取に移った又右衛門は、その仇討ちのときからわずか三年を経ずして、この世を去った。享年四十一歳という。
あれほどの剣名をとどろかせた壮士の最後にしては、あまりにも唐突でかつあっけなさすぎるので、旗本一派からの暗殺者に殺されたのだとか、或いはそれを怖れた池田藩の方で彼が死んだということにしたとか、いろいろと噂もながれたが、とにかく去年、寛永十四年八月二十四日、彼は死亡したということになっている。
その荒木又右衛門が生きていた!
いや、正確にいえば、|甦《よみがえ》った。つづけて生きていたとは信じられない。女体の中で胎児以外の人間があんなかたちで生きているなどということはあり得ない。――といって、眼前にその怪異言語に絶する光景を見ても、これまたあり得ることとは信じられないが、ともかく彼は再現した。いつ、どこで会ったのか知らないが、さしもの宮本武蔵が眼を張りさけんばかりに見ひらいてそううめいたのだから、あれが又右衛門であることにまちがいはあるまい。
剣豪荒木又右衛門はここに復活した。しかも切支丹の|妖術師《ようじゅつし》森宗意軒の弟子として。
いま彼は古代|奴《ど》|隷《れい》のごとく|筏《いかだ》作りに精を出している。
「お、お師匠さま。あいつ……女の皮をかぶっていたのかい?」
と、伊太郎がいった。
「まことにそう見える。わっぱにそう見えるのは、むりもない」
と、武蔵はいった。由比民部之介は声ふるわせて、
「な、なんたる妖術。……あ、あのようなことが、この世にあろうとは。……」
「待て」
と、武蔵はその口を封じた。
森宗意軒は追手を金縛りにしておいて、しずかにもうひとりの女をふりかえった。その白い裸身は、|凍《こお》りついたようにうごかない。
「又右衛門、できたか」
と、老人はしゃがれ声できいた。
「まず、大体は」
と、又右衛門はのぶとい声でこたえた。
うなずくと、老人はまた刀身をひらめかした。
白い女人の胸から腹へかけてまた|刀《とう》|痕《こん》が走り、八方にひびが入り、そして、卵の|殻《から》を破るようにして、またもやひとりの男が現われた。
やはり全裸であったが、十七八の前髪立ちの世にも美しい少年が、そこに夢みるように立っていたのである。
宗意軒は、やはりそこにおちていた女の|衣裳《いしょう》をわたして、彼にまとわせた。
「いざゆこう、四郎」
その美少年をうながして、海の方へ行く老人を――その方へ走ってゆくべつの黒い影には視点も合わせず、武蔵は|茫《ぼう》|乎《こ》とながめていた。
のどの奥でつぶやいた。
「……四郎、とは、天草四郎時貞のことか?」
|一《いっ》|揆《き》の首領に立てられた美童天草四郎もまたえたいの知れぬ人間であるが、ともかくも彼は落城の炎の中に討たれた。その首は、彼の母が見て証言したし、すでに塩漬けにして江戸へ向かって送り出されたはずである。
が、森宗意軒があのように親しげに、四郎と呼ぶほかの四郎が、この城にいるはずがない。また宗意軒が、かかる大幻術をもって島原から逃がそうとしている四郎が、天草時貞以外の人間であるはずがない。……
あれは、天草四郎だ。彼もまた|甦《よみがえ》った。
いや、これは甦ったというべきであろうか。ほんものの天草四郎はたしかに討たれ、首は江戸に送られ、首以外の死体は――ひょっとしたら、この死体の「埋立地」のどこかで腐れつつあるかもしれない。しかも彼とそっくりの顔と身体をもった人間は、いま女身を介してこの世に生まれ出て来たのである。あたかも父そっくりの子のごとく。死んだ父の年齢に達した子供のごとく。
「お師匠さま。……いまの男、逃げてったよ」
伊太郎が、武蔵の袖をひいていった。
それは武蔵も知っている。ほんのいま、じぶんのところから、|塹《ざん》|壕《ごう》を飛び出す兵士のように駈け出していった由比民部之介の黒い影は、彼も視界の隅に入れていた。
民部之介は、逃げていったわけではない。海ぎわの筏にのりかけていた森宗意軒のそばへ駈けていって――斬りつけるのではない、その足もとにひれ伏して、しきりにお辞儀をしている。
何をいっているのか、声はきこえないが、武蔵にはよくわかる。――先刻、じぶんに対してのべた言葉と、大同小異の言葉をのべているにちがいない。あの奇怪な幻術師の弟子たらんことを切願しているに相違ない。
……無限ともいうべき野心を抱き、あらゆることに好奇心をもち、自己のために利用し得るものは利用しようとし、目的のためには手段をえらばない、精力と才能にあふれかえっている男、由比民部之介。
――あれもまた一人物だ。
由比民部之介とはいかなる男か、さっきの彼の自己紹介と|一《いち》|瞥《べつ》以外に、武蔵は何も知らないが、それだけは認めざるを得ない。
――が、しょせん、おれの剣の弟子となり得る男ではない。
|一《いち》|瞥《べつ》で武蔵はそう見て、彼を黙殺した。
黙殺されて腹をたてたか、期待にはずれた|蕭条《しょうじょう》たる武蔵の存在ぶりに失望したか、それとも、おれの剣以上に恐るべき幻術をいま眼前に見て、その方に心を奪われたか?
森宗意軒は、じっと由比民部之介を見下ろしている。
森宗意軒はうなずいた。
民部之介の懇願をどうきいたか。――承知したようだ。
それから、海ぎわに歩いていって、もう筏の上に立っていた荒木又右衛門と天草四郎と二こと三こと何やら話を交わしていたが、やがてユラリとその上に乗った。民部之介があわてて追いかけて、それに飛び乗ると、槍を櫂とした又右衛門と四郎が、筏を「屍体の岸」からつき離した。
この原の城の南は約一里余をへだてて天草島をひかえ、そのあいだの早崎海峡――いわゆる瀬詰の瀬戸は、満干のとき、鳴門、赤間に匹敵する急潮を現出するのであった。いまその満潮のときなのだ。波は西の天草灘から東の有明湾へ、|滔《とう》|々《とう》の声をあげていた。
筏はもとより波にのって、東へ矢のようにながれ去った。
東へ――月はないのに、|渺茫《びょうぼう》、まるで|不知火《しらぬい》のもえているように|蒼《あお》白い有明の海の水平線のかなたへ、|妖《あや》しい四人の男を乗せたまま。――
彼らはどこへいったのか?
「――お、お師匠さま、……お師匠さまっ」
これまで、まるで|呪《じゅ》|縛《ばく》されたように身うごきをとめ、黙りこんでいた伊太郎が、ふいにまた武蔵の袖をゆさぶり、腕にとりすがった。
「いっちゃったよ。あいつら、いっちゃったよ。……あれア何だ?」
「伊太郎、さめたか」
と、武蔵がいった。
伊太郎はキョトンとして見あげ、キョロキョロとまわりを見まわし、また武蔵をにらみあげて、
「お師匠さまっ。……おれ、夢を見ていたんじゃあねえやい!」
とさけんだ。
武蔵は少年を吸引するような眼で見下ろして、
「夢じゃ。おまえはこわい夢を見たのじゃ。伊太郎、またこんなこわい夢を見たくないと思えば、いま見た夢の話を、だれにも口外するでないぞ」
と、いうと、まだその屍体の浜の一角に凝然と金縛りになっている武者たちを、ちらと見ただけで、風のようにもと来た方角へ帰っていった。
武者たちには、武蔵も、それを追う少年も、やはり悪夢の中の幻影のように思われた。
【五】
……さて、この夜の怪異の噂は、もとより寄手の陣にひろがった。
ともかく十人ちかくの人間が、声ふるわせて証言したのである。しかも、現実に四五人の追手が殺されたのである。……が、あまりにも、その目撃者の証言の内容が常識を絶し、且また叛乱軍の首領天草四郎、軍師の森宗意軒らがこの世に甦って海のかなたへのがれ去ったなどということは|荒《こう》|唐《とう》|無《む》|稽《けい》をきわめているから、全幅的に信ずる者は少なかった。
「切支丹の亡霊にたたられ、たぶらかされたのじゃ」
せいぜい、そう解釈してくれる者のあるのがまだしもであった。
――卵をわるがごとく女体から荒木又右衛門があらわれた、|蝉《せみ》のぬけがらをぬぐがごとく天草四郎が出現した、といっても、ではその女体の|殻《から》、ぬけがらはどこにある? ときかれて、翌朝、目撃者たちが、おそるおそる一帯をさがしにいったが、ふしぎなことに、そんなものはどこにも見えなかった。
もっとも、そこはいよいよもの凄じくなった|腐《ふ》|爛《らん》の泥海で、息もつまるばかりの悪臭と蠅のむれが渦まき、たちまよい、数分と現場にとどまっていられるものではない。
「武蔵どのにきいてくれ」
ついに、彼らはそういい出した。
「小笠原の軍監宮本武蔵どのも、たしかにそれを見たはずじゃ。うそだと思うなら、武蔵どのにただしてみるがよい」
ところが、その武蔵は、
「……一切、左様なことは存じ申さず」
と、答えただけであった。
「それは」
と、目撃者たちはいきまいた。
「あれを知らぬという。……そうまことにいったとあるなら、武蔵は恐れたのだ。いや、あの妖怪どもを、われわれのみに追撃させて、じぶんはただ手をつかねて見ているだけで逃げ去ったのを恥じて、頬かぶりですまそうとしておるのだ」
その勢いのはげしさに、その夜の怪異を信じないものたちまでが、武蔵の卑怯だけは|喋々《ちょうちょう》と口にした。
「武蔵は臆病風に吹かれたのだ」
「新免、老いたり」
はては、
「そもそも彼は、なんのつもりでこのたびの陣に参加していたのか」
という、それまでの無為無能ぶりまでが、あらためてむし返された。
そんな風評に小笠原家の方でも困惑して軍監の肩書を解いたのか、または本人自身がたえかねたのか、それともかねてからじぶんできめていた行動か、宮本武蔵が島原を去ったのはそれから数日ののちである。
まだたたかいのあと始末に|忙《ぼう》|殺《さつ》されている小笠原の侍たちで、ほとんど見送る者もなかったが、朱盆のごとき落日のかなたへ、童子ひとりをつれて消えていった老武蔵の姿は、いかにも|孤愁粛殺《こしゅうしゅくさつ》たるものがあったという。――
その後、彼はいちど筑前の黒田家に三千石で召しかかえられようとする機会があった。が、藩の幹部から異議が出て、このことは沙汰止みとなった。
さらにその後、寛永十七年、ついに武蔵は奉公口を得た。肥後の細川家、食禄はわずかに十七人扶持、現米三百石であった。
しかし、藩主の細川忠利は、武蔵へ渡される合力米をとくに堪忍分と呼ばせ、屋敷もあたえ、鷹野もゆるした。食禄に比しては特別待遇をしたのである。
しかるにこの細川忠利は、その翌年三月にこの世を去った。――
地獄篇第二歌
【一】
正保二年三月のある夕方のことである。
名古屋城下広井郷といえば、いまの中区中ノ町にあたるが、当時はいかめしい屋敷町で、しかも尾張藩の高禄の士の下屋敷が多かった。
堀川にちかいこの|一《いっ》|劃《かく》にかまえる尾張藩兵法師範|柳生《やぎゅう》家の下屋敷に、よろめくように入って来た若い武士がある。
「こちらに柳生|如《にょ》|雲《うん》|斎《さい》先生がおわすと承ってたずねて参ったものでござる」
と、彼はいった。
柳生家をたずねて柳生先生云々といったのは、ここに住むのが当主の|茂《も》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》|利《とし》|方《かた》ではなく、隠居をしているその父如雲斎|利《とし》|厳《よし》だからで、この訪問者が名古屋の人間でないことを示している。事実、彼は|埃《ほこり》にまみれた旅姿であった。
埃にまみれた旅姿――というより、取次に出た侍は、眼を見張った。のびた|月《さか》|代《やき》、のみでそいだような頬、透き通ってみえるほどの皮膚の色――よごれているのに、美しい。美しい|幽《ゆう》|鬼《き》のような男だったからである。年はまだ二十か、二十一であろう。
「先年、如雲斎先生にいちどお指南をねがい、おゆるしを得なんだものでござりまするが――」
みなまでいわせず、
「いや、お手合わせのことなら、いまも御無用にねがいたい。老師はもはや御隠居なされており、どちらにも左様なことは一切お断わりしておる。それに、あすあさってにも老師は旅にお出かけなさるとて、そのお支度にいそがしい――」
「それを望んでおたずねしたのではありませぬ。ただ二三日、お宿をかりたいと存じて――」
といって、武士は|咳《せ》いた。
その咳の音と、異様なばかりのやつれぶりを見くらべ、ききくらべて、
「――貴公、御病気か」
と、取次の侍はきいて、いやな顔をした。
相手はそれにこたえず、
「二三日、とは申しませぬ。今宵一夜、或いはきょうじゅうにも用は達せられるかも知れませぬゆえ――」
「用が達せる、とは?」
「実は、西国より拙者をたずねて、この名古屋の柳生さまのお屋敷にやってくる者があるのです。まことに勝手至極にて恐れ入った儀でござるが、いちど如雲斎先生にお目通り願ったものの御縁におすがりいたしたいと存じまして――」
まったくその通りだ。突然やって来て、二三日宿を貸せという、ここは尾張にきこえた柳生家の下屋敷だ。|旅籠《はたご》ではない――といいたいところなのに、それに加えて、相手はすでにそうひとりできめていて、どうやらここをだれかと待ち合わせの場所に指定しているらしい。
しかし、取次の侍は、それよりも相手の言葉にいぶかしさを抱いて、
「まえに、老師にお会いしたと? 貴公の御姓名は?」
「いいおくれました。拙者、|田《た》|宮《みや》|坊《ぼう》|太《た》|郎《ろう》と申しまする」
「なに、田宮坊太郎?」
と、取次の侍はさけび声をたて、まじまじと見まもって、
「ほう、あなたが、田宮坊太郎どのか。――」
と、もういちどうめいた。こんどは言葉があらたまっている。
「そういえば、数年前、田宮坊太郎どのが老師を訪ねられたとあとになってきいたことがある。あれは御本邸の方でござったな。いや、そのときは拙者存ぜなんだが、あとで貴公が四国の丸亀であの名高い大仇討をとげられたとき、ああ、それならば拙者もいちどお目にかかっておけばよかったとほぞをかんだが、いまはじめてかように御健在の――」
といいかけたが、幽鬼のような相手の姿に絶句して、
「いや、何はともあれ老師に申しあげて参る」
と、あわてふためいて、奥へ駈けこんでいった。
田宮坊太郎は、すでにひとりで立つのも耐え得ぬらしく、玄関の柱にもたれかかるようにして、のびた髪を風になぶらせつつ、ただ熱っぽい眼で、夕焼けの春光にみちた庭の方をながめている。ちる桜の花より、門の方を見ているようだ。待ち人、いまだ来らずや、と。
【二】
彼は|讃《さぬ》|岐《き》の丸亀に生まれた男であった。この丸亀の生駒藩に仕える田宮源八郎は、抜刀術の開祖として有名な田宮平兵衛重正の一族で、これまた田宮派の名手であったが、それをそねんだ藩の剣法指南堀源太左衛門に謀殺された。寛永元年八月のことである。たまたま臨月であった源八郎の妻は、変をきいて失神中に一子を生みおとした。これが坊太郎である。
|爾《じ》|来《らい》、彼は|復讐《ふくしゅう》の一念にもえ、|金《こん》|比《ぴ》|羅《ら》大権現に誓いをたて、江戸に出て柳生|但《たじ》|馬《まの》|守《かみ》の弟子となり、ついに寛永十八年、丸亀に帰って父の敵堀源太左衛門を|斃《たお》した。――さっき取次の侍が、「あの名高い大仇討」といったのはこれである。
それから四年。――彼は江戸にあって、若くして父の仇を討った名剣士として世にもてはやされているときいていたのに――思いきや、この名古屋に、病みおとろえて|凄《せい》|惨《さん》なばかりの姿をあらわしたのだ。
「おお、田宮どの」
先刻の取次の武士とともに、四五人の侍がどやどやとまた出て来た。
「老師がお逢いになると仰せられる。こちらへ、こちらへ」
彼らは抱きかかえんばかりにして、坊太郎を奥の一室に通した。
やがて、隠居の柳生如雲斎があらわれた。六十七歳、すでに尾張藩剣法指南のあとを一子茂左衛門にゆずっているが、大兵肥満、その皮膚は黒いあぶらをぬったようにつやつやとして、ぶきみなくらい精気にみちた老人であった。頭をつるつるに|剃《そ》ってはいるが、決して|悟《さと》りすました風貌ではない。その眼にはむしろ獣にちかいほど精悍なひかりがある。
田宮坊太郎は平伏した。
「四年ぶりじゃな。あのときは、おまえはまだ前髪立ちの十七八の美少年であったが。――」
と、如雲斎は会釈して、
「お、田宮、そちゃ病んでおるな」
何か答えようとして、またはげしく|咳《せ》きこむ坊太郎に、如雲斎は厚い|唇《くちびる》でつぶやいた。
「|労《ろう》|咳《がい》か。……そういえばおまえは、四年前、あのときから病んでおったのう。――」
労咳とは肺結核のことだ。
如雲斎は、四年前のこの坊太郎がまだ十七八の少年としてここを訪れてきたときのことを、思い出すようなまなざしをした。
そのとき坊太郎は、いよいよ敵を討つために江戸から四国へゆく途中、江戸の柳生道場で血のにじむような修行をつづけて来たのにまだ不安があるといって、如雲斎のところに立ちより、一手指南を請うたのである。
如雲斎は坊太郎を引見して、
「それには及ばず」
といっただけで立ち合わなかった。なお切願する坊太郎に、
「江戸柳生と尾張柳生はちがう。この土壇場になってわしの指南を受ければ、おまえの剣法にかえって迷いと乱れが生じるだろう」
と、如雲斎は答えた。
それに。――
「……病んではおったが、あのころ、敵の堀源太左衛門がどれほどの使い手であろうと、剣をとっておまえと互角な奴が、そう世にざらにあるとは思わなんだ」
と、いまも如雲斎はいった。
剣とは真剣のことだ。彼は、この病める少年が、病んでいるがゆえに、また少年であるがゆえに、かえって純粋無雑、澄みきり、冴えわたり、剣の化身となっていることを見ぬいたのであった。
「……案の定、おまえはめでたく敵を討ち……若年にしてそれほどの剣法を抱き、あれから四年……おまえは何をしておったか。ただ病んでおったのか、田宮。――」
「そのことについては、申しあげとうございませぬ」
と、坊太郎はいった。
ひとを訪ね、ひとに尋ねられて、こんなよそよそしい返答をする無礼をたしなめることをひかえさせるものが、わずかにあげた坊太郎の|惨《さん》|澹《たん》たる面貌にあった。
「拙者、まちがえました」
「何を」
「人生を」
「とは?」
「拙者、生まれ変わったら、剣を捨てまする」
そして坊太郎は、またはげしく咳いた。しばらく、じいっとそれを見つめていた如雲斎の眼がしだいにひかり出すと、声をおさえてきいた。
「田宮。……すりゃ、何ゆえ、ここに来たか」
「好きな女と|逢《あ》うためでござりまする」
「何と申す」
ここに至って、柳生如雲斎もついに高い声をあげた。
「左様な女がどこにおる?」
「ここにはおりませぬ。四国の丸亀から参るはずになっておりまする」
さすがに坊太郎の顔に、|羞恥《しゅうち》と恐縮の色が浮かんで、さてこんなことをいった。
四年前仇討をとげたあと、じぶんには丸亀で恋人ができた。恋人というより、じぶんを慕ってくれた娘であった。美しい、|可《か》|憐《れん》な娘で、その慕情をいとしいと思いつつ、じぶんはそれをふりすてて、江戸へ去った。剣の道のじゃまになると思ったし、江戸に|虹《にじ》のような望みをかけていたからである。
しかし、江戸につくと同時にじぶんは血を吐いた。それをまた意に介しないほど、じぶんは剣に心を奪われていた――その果てのいま。
「拙者はもはやあと七日と命はありますまい」
と、坊太郎はいった。
命の灯がゆらめきはじめたのをおぼえ出したとき、じぶんの胸にはあの娘の姿が去来した。――じぶんの短い人生は何であったか。ただ|復讐《ふくしゅう》と剣だけを思いつめた荒涼たる青春ではなかったか。じぶんは、誤った。せめて、仇討をとげたあと、剣を捨てて、じぶんを恋う娘と、おだやかでゆたかな生活を送るべきではなかったか。――
このとき、さる人が現われて、四国からその娘を呼んできてやろうといった。しかし、それにしても間に合わぬ。じぶんも、よろめき、よろめき、一歩でも西へゆこう。――
「まことに恐れ入ってござりまする。そこで思い出したは、江戸と丸亀のまんなかあたりにあるこの名古屋におわす柳生如雲斎さま、いちど御引見をたまわりましたる先生におすがりいたし、そのお屋敷を借りて待ち合わせようという約束をむすんだのでござります」
坊太郎はまたがばとひれ伏した。
「ここで逢うて、何とする」
「その女と、ちぎりまする。……」
「……ちぎる」
「実に以て勝手至極、厚かましきはからいにて、全身より汗のにじむのをおぼえるほどにござりまするが、田宮坊太郎、|生々世々《しょうじょうせぜ》[#電子文庫化時コメント 底本ルビ「せゞ」]までのお願い。――」
と、いいかけて、顔をあげて、
「御恩は、やがて拙者、ふたたびこの世に生まれ変わってから、改めてお返し申しあげますれば」
と、奇怪なことを口にした。
いままでの彼の述懐から、彼自身もみとめる独断の得手勝手さに、しだいに入道頭にみみずのような血管をうかべかけていた柳生如雲斎は、一瞬ふっと不快を制されて、けげんな表情で|瀕《ひん》|死《し》の若者を見た。
「なに、またこの世に生まれ変わってから?」
「|御《ぎょ》|意《い》」
坊太郎はじっと如雲斎を見返して、
「そのわけを、おきき下さりましょうか?」
「……きく」
「では、しばらくお人ばらいを願いまする」
そのとき、門弟のひとりが入って来て、
「ただいま四国より男女ふたりの旅人到着、こちらに田宮坊太郎どのがおいでではあるまいか、とたずねておりまするが」
と伝えた。
「おお、やはり来てくれた!」
と、坊太郎はさけんだ。眼をきらめかせて、
「ここで待ち合わせると約束はしていたが、江戸と四国から、ほとんど時を同じゅうして到着するとは、やはり魔道のなすところ。――」
と、いった。それから、ふたひざばかりにじり寄って、
「先生、お願いでござりまする。拙者がいうよりも、その御仁の話をきいて下さりませ」
「御仁?」
「江戸で拙者が師と仰いだお方、またいま四国より娘を伴って来てくれたおひと、由比民部之介と申す御仁でござる」
「……よし、通せ」
と、如雲斎は門弟にいった。
【三】
彼はもとより田宮坊太郎の口走ったことがよくわからない。こやつ、気がふれているのではあるまいか、と疑ったくらいである。しかし、それにしても、如雲斎の心をとらえる何か妖しい力が、田宮坊太郎の挙動にあった。
まもなく、二人の人間が、書院に通されて来た。ひとりは四十前後の総髪の男であり、ひとりは二十歳あまりの美しい武家風の娘であった。
坊太郎と娘はじっと見合わせた。
「よう来てくれた、お類どの」
かすれた声で、坊太郎がいった。――はじめ坊太郎のあまりにも病みやつれ、変わりはてた姿に、ぎょっとして息をのんでいたお類という娘は、たちまちまろぶように馳せ寄って、
「田宮さま!」
と、しがみついた。
坊太郎は頬ずりをして、
「では、由比先生のお言葉をきいてくれたのじゃな、お類どの、かたじけない。……いままで、そなたを捨てたままにしておったこの坊太郎のために」
「いいえ、坊太郎さま、あなたのためなら、お類は、何なりと」
と、娘は眼に涙をうかべて、身もだえした。
如雲斎はあごをしゃくった。門弟たちを去らせたのである。そして、じっともう一人の男に眼をやった。
「はじめて御意を得まする」
と、その総髪の男はものやわらかに、しかし学者の荘重な威儀を失わず、如雲斎に一礼して、
「拙者、江戸|牛込榎坂《うしごめえのきざか》に軍学の道場をひらきまする、張孔堂、由比民部之介正雪と申すものでござる」
「……ふむ、ここのところ十余年、江戸に出たことはないが」
と、如雲斎は会釈して、
「由比正雪、その名はちらと耳にしたことがある。……そなたか」
と、いった。
「で、この田宮のこと、いかがしたのじゃ」
「まだ田宮からお話し申しあげませぬか」
「きいたが、よくわからぬわい。……そなたにきけと申したが」
そのとき、くゎっと妙な音がした。ふりかえると、坊太郎に抱きしめられている娘の肩に鮮血が飛びちるのが見えた。
坊太郎の口は血にまみれていた。彼は血を吐いたのである。
「や」
さすがに|動《どう》|顛《てん》して立ちあがろうとする如雲斎を、
「しばらく」
と、正雪はとめた。
田宮坊太郎はお類をつきはなすようにし、たたみに|這《は》いつくばったまま、泡立った血を吐きつづける。お類は悲鳴をあげて立ちあがり、ウロウロして、泣きそうな顔をふりむけた。
「由比さま、由比さま、どうしたらよいのでござります?」
ゆったりとした容貌なのに、妙に冷たい眼でこれをながめていた正雪は、
「ふむ、これは、ことをいそがねばならぬな」
と、つぶやいて、娘に声をかけた。
「お類どの、では、田宮とちぎり、田宮の子を身ごもりなされ」
お類の満面はさっと赤くなり、それからみるみる|蒼《そう》|白《はく》になった。
正雪は如雲斎をかえりみて、片手をつかえた。
「先生、田宮の余命いくばくもありませぬ。で……まことに以て|唐《とう》|突《とつ》慮外なことを申しまするが、この若者と娘、即刻|合歓《ね む》のしとねをお設け下さりますまいか」
「なに?」
如雲斎は眼をむいた。
「合歓のしとね」
「お類に、田宮の子を|孕《はら》ませまする」
「左様に……たやすく孕めるか」
「まちがいなく孕みまする。……そして……」
「そして?」
「少なくとも一ト月を経ますれば以後、いつなりと、お類は田宮の子を生みまする」
「一ト月で? 死産してか」
「あいや、いまの田宮とおなじ大きさ、おなじ顔――寸分変わらぬ田宮を」
ついに沈黙してしまった如雲斎に、正雪はぬけぬけと、
「と申すより、病める肺はきれいに|癒《なお》った新生、再生した坊太郎そのものを」
「――ば、ばかっ」
と、如雲斎は|大《だい》|喝《かつ》した。
「うぬは正気か。……そういえば由比張孔堂、江戸で軍学とやらを講じておるが大山師という噂をきいたこともあるぞ、うぬはこの如雲斎を|嘲弄《ちょうろう》に来たか」
「山師という噂は、存ずるところあって、拙者がわざと立てさせたものでござる」
正雪は平然といった。
「いや、口で申してもお信じなされぬのが当然、何よりまず事実を|御《ぎょ》|見《けん》にいれてから御講評を承りとう存ずる」
田宮坊太郎と由比正雪と、江戸でどういう風に知り合ったのか知らないが、あの虚無悽惨の気をたたえた若者が、この正雪を見るときだけ、ひどく信じ切った瞳の色になったようだ。――たしかにこの由比張孔堂のきれながの眼には、ふしぎに人を魅する力がある。
それに吸いこまれたように如雲斎は、
「誰かある」
と、呼んだ。
廊下を小走りに駈けてくる軽い|跫《あし》|音《おと》がして、
「はい、御用でございましょうか」
と、女がひとり手をつかえた。
「加津か。……おまえでは」
如雲斎の顔にやや|狼《ろう》|狽《ばい》の色があらわれた。二十四五の、紅梅のように美しく、りんとした女であった。――それが、むろん、|喀《かっ》|血《けつ》した田宮を見て、はっと眼を見ひらいている。
「ま、よい、ほかの弟子には知られとうない」
と、如雲斎は思いなおしたようだ。
「加津、すまぬが、隣に夜具を敷いてやってくれい」
と、命ぜられて、おそらく病客のための|臥《ふし》|床《ど》と判断したのであろう、女はいそいで隣室に去った。――見送って、正雪がたずねた。
「ほ、世にも美しい女人、どなたさまでござります」
「|伜《せがれ》、茂左衛門の嫁じゃ。所用あって、きょうこの下屋敷に参っておる」
と、如雲斎は答えた。
やがて、嫁のお加津が、お支度ができました、と報告に来た。
「では、かねて申してあるように」
正雪に合図されて、田宮坊太郎とお類は、隣室に去った。このときはよろめいているのはお類であり、それを支えているのは血まみれの坊太郎であった。
それから十数分。――如雲斎らは、ただ音だけをきいた。
かすかに、かすかに。――しかし、たしかに男と女のあえぐ声が起こり、しだいにそれが高まっていった。
いていいものやら、去っていいものやら、迷い、けげんそうな表情をしていたお加津の顔が、ふいに赤く染まった。黙って、お辞儀して、ひき|退《さ》がろうとする。
「お待ちなされ」
と、正雪がとめた。
「御当主の奥方さまなら、知られてよいことです。しばらく、お待ちを」
甘く、熱いあえぎの声が、ふいにまたお類の悲鳴で断ち切られた。
「ああっ、坊太郎さま!」
それから、よよと泣き|崩《くず》れる声に変わった。
「――はて」
正雪はくびをかしげた。
「田宮、相果てたかもしれませぬな」
「相果てた?」
「あの病気のところへこの|昂《たか》ぶり、ひょっとしたら、このまま死んだかもしれませぬ。いや、たとえ生きておっても、もはや生ける|屍《しかばね》、|蝉《せみ》のぬけがら同然、そのいのちもまもなく灯の消えるがごとく消える運命でござりますれば、いっそいま、このまま死んだ方が世話要らずにてよいかもしれませぬ」
正雪は立って、隣室に入った。
それからさらに十数分。――隣で何をしていたか、やがて彼は出て来た。お類ひとりをつれている。
「案の定、田宮は絶命しておりました」
と、彼は何のこともなげにいった。
「その屍体でござるが……如雲斎さま、あとになって新しき田宮がまた出現したとき人騒がせになってはうるそうござるゆえ、どうぞ人知れぬよう、腹心の御家来を以て、どこかへ片づけさせていただきとう存じまする」
如雲斎は黙したまま、お類を見た。
お類の頬はややあからんで、眼は宙を見たまま、|恍《こう》|惚《こつ》とうるんでいるようだ。――この娘がいま何をしてきたかと思う。江戸と四国から、時を合わせて相逢うた恋の二つ星、話をきけばふつうでない娘としか思われないが、さっきちらと見た印象では、ただひたむきなだけの|初《うい》|々《うい》しい武家娘に見えた。それがいま――相手の星は落ちた。あからさまにいえば、彼女の肉体の中でくだけ散ったらしいのに、それももはや念頭にない様子で、彼女はウットリとして、むしろ妖気をたたえてしずまりかえっている。
この娘は変わった! なんとなく如雲斎はそう感覚して、ぞっとした。
「この女人は、まちがいなく田宮の子を孕んでおりまする。……その証拠を少なくともあと一ト月お待ちいただかねば、先生の御見に入れられぬのが残念至極」
正雪はいった。
「先生、一ト月お待ち下されませ」
「一ト月」
と、如雲斎はいった。すでになかば、正雪の奇怪な言葉に乗せられた調子である。
「わしは、あすあさってにも、旅に出ようと思っていたが」
「旅へ? 恐れながら、その御老体を以て、どこへ?」
「九州の熊本へ」
しばらく如雲斎を凝視していた正雪は、やがて、
「熊本――と仰せられると、もしやしたら宮本武蔵どののところではありませぬか?」
「どうして、知っておる」
「武蔵どのは、この冬ごろから病んでおられると承りましたゆえ」
「左様。で、見舞いにゆこうと思ってな」
「ふかく|御《ご》|昵《じっ》|懇《こん》でござりまするか」
「相知といえば相知。|迂《う》|遠《えん》といえば迂遠。――正雪、そなた武蔵どのを存じておるのか」
「はっ。……実は、七年ばかりまえに、ちょっと」
由比民部之介正雪は、ちょっとキナくさいような顔をした。七年ばかりまえ、すなわち寛永十五年三月、島原の一夜を思い出したのである。
「よし。一ト月待とう」
と、如雲斎はうなずいた。
「そなたの申すこと、田宮の件、何とも|解《げ》せぬところがある。そなたも、この娘御も一ト月ここにおれ」
「すりゃ、正雪の申すことお信じ下さる」
正雪は微笑した。
「如雲斎さま、このことはあなたさまだけ――少なくとも、あなたさまが秘せと命ぜられて秘するお方以外には絶対秘密のこととして下されませ。実はこの田宮坊太郎とお類のちぎる為にお邸をかりましたは、如雲斎先生も是非御覧ねがいたいと存じたからでござる」
【四】
……もう二十何年か前になるであろうか。
名古屋城の|濠《ほり》|端《ばた》を両方から歩いて来たふたりの武士が、三間ばかりの間隔をおいて、ピタリと釘づけになった。ひとりは尾張藩士らしい姿であったが、もうひとりは|垢《あか》じみた|牢《ろう》|人《にん》|風《ふう》の男であった。
ただふたりだけ、そこですれちがおうとしたのではない。ほかにも行人がいたし、その行人のだれもが、このふたりが立ちどまったことさえ、特に眼をとめた者はなかった。ましてや、両人のあいだに異様な空気がピーンと張りつめたことなど知るよしもない。
ややあって、牢人者が声をかけた。
「ひさびさに、生きた達人に逢うたものかな。もしやすると、あなたは柳生兵庫どのではありませぬか」
すると、武士もうなずいて、
「はじめてお目にかかるが、あなたは宮本武蔵どのではおわさぬか」
そして、ふたりはニヤリと笑った。
柳生兵庫は、如雲斎の本名である。――これが、この当代の二大剣人の最初の出会であった。
兵庫は武蔵を屋敷につれて来て、一夜兵法話を愉しんだ。
翌日、武蔵は、尾張藩の家老大導寺|玄《げん》|蕃《ば》の屋敷に移った。彼は大導寺を訪ねて名古屋へやって来たものであった。
大導寺玄蕃は、武蔵を、藩主徳川義直に兵法指南役として周旋する希望を持っていた。尾張藩にはすでに柳生兵庫という師範があるが、江戸の将軍家にも柳生但馬守と小野次郎右衛門という二人の師範があるように、尾張のごとき大藩では、充分武蔵を受け入れる余地があったからである。
しかし、この交渉は成功しなかった。
尾張藩では、武蔵を非常に愛惜したものの、旧来の柳生兵庫が五百石であるから、新任の武蔵をそれ以上の|禄《ろく》を以て召しかかえることはできないという方針を崩さなかったからだ。この内意をきいて、武蔵はしばらく沈思していたが、
「御縁なきものと諦めるよりほかはござるまい」
と、|昂《こう》|然《ぜん》と頭をあげていった。そして彼は孤影|飄然《ひょうぜん》と名古屋を去った。――いったい武蔵は、どれくらいの禄をみずからにふさわしいと思っていたのか、というと、どうやら少なくとも三千石は見ていたらしいという。
そういう話を、柳生兵庫はあとできいた。きいて武蔵を|傲《ごう》|岸《がん》とも、それをついに受け入れなかった藩の処置を痛快とも思わなかった。
「……江戸の柳生ですら一万石じゃからの」
と、兵庫は|憮《ぶ》|然《ぜん》としていった。
彼は、武蔵の自負を当然と理解した。そして、それをつらぬき通した武蔵に|羨《せん》|望《ぼう》をおぼえた。兵庫は、武蔵とじぶんと性格的に相通ずるものがあるのを感じていた。おのれをたのむことふかく、容易に妥協することがない。……ただ、それでも五百石に甘んじているじぶんよりも、はるかにそれは強烈である。
爾来、柳生兵庫――如雲斎は武蔵に|逢《あ》ったことがない。
武蔵はあれ以来二十数年、なお一剣を抱いて漂泊の旅をつづけていたらしい。如雲斎は武蔵という孤高の人間に、いよいよ敬意といたましさをおぼえた。
そして、この春、ふと、武蔵が熊本で病んでいるという話をきいたのである。それが再起できぬほどのものであるかどうかは知らず、年も年だ、出来るならもういちど逢うておきたいという望みにつきうごかされた。
さいわい彼は、あとを一子茂左衛門にゆずり、べつに三百石の隠居料をもらって下屋敷――というより隠居所に閑居している身分である。如雲斎は主君のゆるしを得て、明日にも九州へ旅立とうとしていた。
そこに突如として訪れた怪異である。
一ト月、彼は待った。
田宮坊太郎のなきがらはひそかに処置した。
正雪はこのあいだ、東と西へ、一、二度飛脚を出したようであった。東は江戸で彼が経営しているという軍学道場へであろうが、西へはどこへ飛脚を出したものであろう、そう疑問に思ったが、べつに如雲斎は何もきかなかった。
お類という娘は――変わったともいえるし、変わらなかったともいえる。
彼女は妊娠したようにも見えなかった。たとえ妊娠したとしても一ト月くらいで目立つ変化があるわけではないが、それにしても彼女の姿態は変わらなさすぎた。ただ皮膚が青味をおびて、半透明の気味をおびて来たくらいである。にもかかわらず、たしかに何かが変わって来た。それが、眼――ときに名状しがたい凄壮のひかりをはなつ眼にあることを如雲斎は気がついた。
それに――言語動作が、あくまで尋常であるにかかわらず、どこかふしぎに、夢の中に漂っているか、何かに|憑《つ》かれているようなところがあった。
【五】
一ト月たった。四月の末になった。
ふたたび如雲斎の旅支度を手伝うために、嫁のお加津が本邸からやって来た。
それを知って、正雪がいった。
「あまりお待たせするもいかがと存ずる。では例のもの、|御《ぎょ》|見《けん》に入れよう」
そして彼は、お類が一子を|分《ぶん》|娩《べん》するための一室を拝借したいといった。
「……お加津さまにも御覧ねがいたい。いや、お手伝い下されとは申さぬ」
その一室に、柳生如雲斎とお加津は待った。
やがて由比正雪は、お類の手をひいて入って来た。お加津があっとさけんだのは、そのお類が一糸まとわぬ姿となっていたからである。……しかし、腹部にはなんの異常もなかった。ただ彼女の顔は、恐怖ともみえる緊張のために能面のようになり、皮膚はいよいよ青味がかっていた。
「では。――」
というと、由比正雪は一刀をぬきはらい、そこに立っていたお類の頭上から真一文字に|斬《き》り下げた。
「この世に出でよ、田宮坊太郎!」
「――おおっ」
と、如雲斎はさけんだ。
正雪は女を|唐《から》|竹《たけ》|割《わ》りに斬ったのではない。――ただ、そのひたいから鼻ばしら、胸から腹へかけて、うすくすじを入れただけだ。
いかに兵学者と称しているとはいえ、この男にこれだけの神技があろうとは思われぬ。如雲斎の眼には、はじめから対象の内部にすじが入っていて、ただ正雪の刃風を受けただけで、それがみずからはじけたように見えた。
一瞬、お類の顔からからだにかけて、赤い線が走った。そこから、顔にもからだにも八方に亀裂が散り、網の目を作ったかと思うと、その皮膚をおし破って、内部からべつの人間がニューと出現して来たのである。
声にならぬ悲鳴をあげて、お加津は如雲斎にしがみついた。
刀をつかんだ如雲斎をふりむいて――由比正雪は、片眼をつむって、にっと笑った。
お類は八方に破れた風袋みたいなえたいのしれぬものと化して、たたみの上にぬぎすてられた。中からあらわれたのは、二十歳すぎの美青年――スラリとしていながら、|鞭《むち》のように筋肉のしまった田宮坊太郎その人であった。
むろん、彼はまっぱだかだ。
はじめ、天地|晦《かい》|冥《めい》の中にあるように|茫《ぼう》|乎《こ》としてつっ立っていたが、ふいにその|双《そう》|眸《ぼう》がかっと見ひらかれて、じいっと一点にそそがれ、妖しいひかりをはなち出した。――お加津の方へ。
フラフラと彼は歩き出した。
「田宮」
と、正雪がさけんだ。
「ちがう、早すぎる。それは柳生さまの御妻女であるぞ」
田宮坊太郎はふいにがばと座り、両手をつかえた。それが如雲斎にはまるで主人のまえに前肢をそろえた犬みたいに見えた。
「……どうしたのじゃ、正雪。……」
と、如雲斎はかすれた声でいった。
「もはやお信じ下さりましょうが。……新しい田宮が生まれたのでござります。坊太郎が再生したのでござりまする」
そういいながら正雪は、いつのまにか用意していた衣服を坊太郎に投げあたえた。坊太郎はそれを身にまといはじめた。夢の中にいるか、何かに|憑《つ》かれたような動作だが、一方で妖炎のチロチロと燃えているような眼をお加津の方へ投げる。――
「こ、こりゃまことに|曾《かつ》ての田宮であるか」
なおお加津をひきつけたまま、如雲斎はきいた。
「同一人にして、また別人」
と、正雪は答えた。
「とは?」
「魔人の田宮坊太郎」
「魔人。――」
「剣技は以前の田宮と同一ながら、魂は魔物でござる。……こやつを飼い馴らすは拙者か、あるいはもうひとりのあるお方だけでござろう。正直なところ、拙者にもちと心もとないほどで」
「田宮は」
と、若い|狼《おおかみ》と相対した老虎のごとき眼でにらみすえながら、如雲斎はいった。
「生まれ変わったら、剣を捨てると申したが」
「それは、剣の天才よ、剣の孝子よともてはやされ、ガンジガラメとなり、ついに剣によって青春を失ったと悔いておる若者の嘆きの声にしかすぎませぬ。いま、新たに再生すれば話はまた別。むしろ、剣によって欲望をほしいままにすることができると知ったなら。――これ、まだ早いと申すに、焦るな」
と、正雪はまた坊太郎を叱った。これは獣の調教師のようなおもむきがある。
お加津に、ぶきみにひかる眼を吸いつけて、舌なめずりする坊太郎に不安を抱きつつ、大刀をひっつかんだまま、如雲斎はなおきく。
「正雪。……これは男なら、誰にも成ることか?」
「いや、それは成りませぬ」
「誰にも成らぬと?」
「左様、まずだいいちに、かかる再生をなすことのできるだけの比類なき体力の所有者でなければなりませぬ。次に、是が非でも再生したいという強烈無比の意志を持たねばなりませぬ」
「もういちど生まれ変わりたいという欲なら、この世に生を受けた者なら、誰でも持っておろうが」
「それが、かいなでの欲では|叶《かな》わぬのでござる。人間、ふだんは不足不満をのべたて、|愚《ぐ》|痴《ち》|溜《ため》|息《いき》を吐きちらしておるようでござるが、これで存外死するにあたって、ほぼ大過なき人生であったと|諦《てい》|観《かん》したり、或いは、この業苦にみちた命の終わるのをかえってよろこびとしたり、いやいや大半の人間は、ただただ気力も体力も喪失し、うつろな眼を見ひらいて死んでゆくばかりです。ましてや、いま申したような気力体力絶倫の人は、当然満足すべき生を送ってきたものでござれば――」
「満足すべき生――」
如雲斎の眉に、苦笑がにじんだ。それをじっと凝視して、
「されば、この再生を行ない得るものは、死期迫ってなお超絶の気力体力を持ちながら、おのれの人生に歯がみするほどの悔いと不満を抱いておる人物、もうひとつ別の人生を送りたかったと熱願しておる人物でなければならぬのでござる。……それほどの人は、存外この世に少ないものでござる」
「死期迫って――」
如雲斎は、ひとりごとのようにつぶやいた。
「わしはまだ死なぬぞ」
「そのように相見えまする」
正雪がけろりとしていうのを、如雲斎はわれにかえったようにながめかえして、
「なるほど、死期迫ってなお女と交合するほどの奴は、ただ者ではないかもしれぬ。――で、もしそれほどの人間ならば、相手の女は誰でもよいと申すのか」
「いや、その人間が、深く恋慕しておる女にかぎります」
「ふむ」
「さらに、その女に、あらかじめ術をかけておかねばなりませぬ」
「術」
「されば、はじめこそ子宮に宿し、やがてその子宮を溶かして腹腔に育て、ついにはその体内すべてを子宮と化して、卵を割る鳥のごとくに人を生む女体」
如雲斎は、たたみの上を見た。
さっき皮袋のごとくぬぎすてられたそれは、いつしか肉色の泥のようなものになり、さらに液体化しつつあった。いまの季節でもおそらく十数日はかかるであろう|屍《し》|体《たい》現象が、数分のあいだに起こりつつあるのだ。
ただ、当然これにともなうべき腐臭はない。いや、それも腐臭かもしれないが、人間ではなく地に散りたまった花の腐るような甘ずっぱい|匂《にお》いが、あたりいちめんに濃くただよっていた。――しかし、それも如雲斎は感覚しない。
「あの娘。……おのれがかくなることを知っておったのか」
「覚悟しておりました。|惚《ほ》れた男のためには、じぶんはどうなろうといとわぬ女心。哀れと申そうか、あっぱれと申そうか」
「田宮は、生まれ変わったら、好きな女とおだやかな暮らしをしたいと申していたが、生まれ変わったら、その女はこの世におらぬではないか。いや、その女が死ぬことによって生まれ変わるのではないか。両人、それも承知か」
「そういう理窟になりますな」
正雪はうす笑いした。
「そこが、それ、魔道に|憑《つ》かれ、忍法にとらえられた両人、死をかけて交合する虫のごとく、また死するを承知で産卵のため川をさかのぼる魚のごとく」
「忍法と申したな」
と、如雲斎はきっと正雪を見すえて、
「由比、その方は、かかる幻怪の忍法をいずれより習った」
「拙者、習いませぬ。拙者には及ばぬことです」
「何?」
「すべて拙者の師のなされたわざでござる」
「そなたにも……まだ師匠があるのか。そ、それは、何という――」
「ここで申しあげてようござりまするが、奇縁、奇縁、先生は熊本に参られるとか、熊本にゆかれて、そこでじかにお|逢《あ》いなされた方がよろしかろう」
「……その人物は、熊本に住む人か」
「いや、そうではござりませぬ。――四国にいって、いまのお類と申す娘に忍法をかけたのち、その足で熊本へ参られたのでござる」
「何のために」
「死期迫った宮本武蔵どのを、この田宮のごとく再生いたさせるために」
「な、な、なんと申す。……武蔵どのを?」
如雲斎は、彼自身が|瀕《ひん》|死《し》の人のごとき|喘《ぜん》|鳴《めい》をもらした。正雪の顔から、うす笑いが消えた。
「いま、先生の熊本ゆきを奇縁と申しました。またそのことを、拙者飛脚を以て師へお知らせしました。……が、師には、或いははじめから、柳生如雲斎さまが宮本武蔵どのの死に立ち会われることをお見通しであったかもしれませぬ。――」
「武蔵どのは……死なれるというのか」
「わが師がゆかれた以上、そうでござりましょう。あたかも、死の匂いをかぎつける大空の|烏《からす》のごとく」
正雪は笑いを消したのみならず、むしろ厳粛の気をおびた眼で、
「さて、如雲斎さま」
と、いった。
「田宮再生のこと、お加津さま、誰にも申してはおられますまいなあ」
「……いってはおらぬはずだ」
「茂左衛門さまにも?」
如雲斎はじろと嫁のお加津を見た。なかば喪神した、紙のような顔色で、お加津はわずかにうなずいた。――彼女はそのことを、正雪のみならず、|舅《しゅうと》の如雲斎からも命じられていたのである。
正雪は、そうお加津に念をおしただけで、平伏した。
「では、拙者ども、これにておいとま仕りまする。……ごらんのごとくこの田宮、やがて次第に心のかたちをととのえて参りますれど、いまのところまだ女人に対して獣同然にござりますれば、一刻も早う御当家を立ち去るにしかず――」
正雪は坊太郎をひっ立てるようにして身を起こした。
「御宿拝借、かたじけのうござった」
「待て、正雪」
と、如雲斎は呼びとめた。――むしろ、|沈《ちん》|鬱《うつ》な眼をあげて、
「おまえは、わしがこのことを余人の誰にもあかさぬと信じ切っておるように見える。いや、いつぞや、この田宮と女のちぎる場所を借りたは、たんに田宮とわしが旧知の縁であるというばかりでなく、このわしに見せたいからだと申したな。……これほどの怪異、わしに見せて、わしがおまえらをこのまま見のがすものと思うておるか?」
いま見のがすどころか、そもそも一ト月まえから、この柳生如雲斎が|唯《い》|々《い》[#電子文庫化時コメント 底本ルビ「いゝ」]としてこの奇怪な三人に宿を貸し、黙々としてその行状を見るだけで過ごすのみかお加津に口外することを禁じたのは、ふしぎなことだ。彼のはげしい性格からしても尾張藩士たる立ち場からしても、あり得ないことであり、あってはならないことである。事実、彼自身、じぶんの態度をふしぎに思っている。たんなる好奇心ばかりでなく、何やら夢魔のようなものが、如雲斎の魂をつかんでいるようであった。
正雪はあたりまえみたいな顔をして、うなずいた。
「左様に信じ申しあげておりまする」
「なぜ?」
「あなたさまもまた、ふたたび生まれ変わりたいと念じておられるお方でござれば」
「なに?」
「あなたさまも、おのれの人生に歯がみするほどの御不満を抱き、もうひとつ別の人生を送りたかったと熱願しておられるお方でござれば」
柳生如雲斎は、はっと瞳をぬかれたような顔をした。
【六】
……そもそも柳生如雲斎こそ、柳生家の正系なのであった。
というのは、彼の父柳生新次郎|厳《よし》|勝《かつ》が、太祖石舟斎の嫡男だったからだ。しかし、この新次郎は、祖領柳生の庄を戦国の嵐から守りぬくためのいくたびかのいくさのあいだに傷つき、若くして不具となった。
二男久斎、三男徳斎は出家し、四男五郎右衛門もまた討死し、石舟斎は五男又右衛門|宗《むね》|矩《のり》を徳川家康に仕えさせた。文禄三年、まだ秀吉の全盛時代であり、ときに又右衛門は二十四歳であった。
嫡孫、柳生兵庫はまだ十七歳で、石舟斎はこれを掌中の珠として手もとにとどめおいた。
剣聖石舟斎は、この孫こそおのれの刀法を伝えるに足る|天《てん》|稟《りん》をそなえたものとし、その性剛強無比、容易に人の下風に立たぬものと見て、二十六歳のときまで|膝《しっ》|下《か》で薫陶したが、このとし、慶長八年、加藤清正の懇望により、ついに加藤家に仕えさせた。二十六歳の若さを以て、三千石の高禄である。同年、彼とは七歳の年長たる叔父又右衛門は徳川家にあって、まだ二千石にしかすぎなかった。
このとき、石舟斎は清正にむかって、とくに、
「兵庫儀は、ことのほかなる一徹者でござれば、たとえいかようのことを仕出かし候とも、三度までは死罪を御免なされ候え」
と、願ったという。以て彼のただならぬ性格のはげしさを知るべきである。
慶長十一年、太祖石舟斎は七十八歳を以て柳生の庄に歿した。
それからまもなく、柳生兵庫は加藤家を辞して浪人した。祖父が案じたような衝突を主家とのあいだに起こしたというのではないが、やはり奉公を窮屈に思ったからであろう。彼は一剣をたずさえて、諸国を放浪した。
彼が尾張大納言義直に奉公したのは、それから十余年後の元和の時代に入ってからのことである。すでに四十歳ちかくになっていた。
このときの彼の受けた扶持は五百石であった。この事実が、時の移り変わりと、そして彼の心境の変化を物語っている。
兵庫が加藤家に仕えたことと、その後の浪人時代の空白は、徳川家に仕えた叔父の又右衛門宗矩とのあいだに、決定的な落差を作り出してしまった。そしてそれは、時のながれとともにいよいよひろがっていった。
叔父である。それを不服と思うわけではない。しかし兵庫が釈然たり得ないのは、江戸の柳生一門が、柳生新陰流の本流のごとき顔をしていることであった。
血統としては、兵庫の方が正系だ。のみならず。――
太祖石舟斎は、五男但馬守にさえゆるさなかった一国一人の新陰流の印可状を嫡孫の兵庫に相伝したのである。
「但馬、何ぞや。……彼は剣人にあらずして政治家ではないか」
「……江戸柳生何するものぞ」
この自負と|叛《はん》|骨《こつ》と|冷《れい》|蔑《べつ》は、兵庫、入道して如雲斎となったいまも、ついに彼の胸から去らなかった。いや、年とともにむしろ妄念と化して暗い炎をあげていた。
|曾《かつ》て田宮坊太郎が彼の教えを請うたとき、「江戸柳生と尾張柳生はちがう。いまわしの指南を受ければ、かえっておまえの剣法に迷いと乱れが生じるだろう」としりぞけたのは、それはそうにちがいないが、一方で、ひとたび江戸の但馬守の剣風の洗礼をあびた者に対する、大人気ないといえばいえる反撥もあったのである。
「……で、ござろうが」
いま由比正雪がうすら笑いをうかべ、上眼づかいにいうのに、とっさに柳生如雲斎は返答の言葉を失った。
「――と、わが師が申されたのでござる」
「正雪」
と如雲斎はしゃがれ声でいった。
「……おまえの師とは何者か?」
「九州へおゆき下さればわかるでござろう」
「……そも、何の目的あって、かかる怪異のわざをなす?」
「それも熊本にて、わが師におききなされませ」
正雪は一礼した。
「では、これにておいとまつかまつる」
そして、彼が田宮坊太郎をひっ立てるようにして出てゆく姿を、柳生如雲斎は悪夢にうなされたような眼で見送ったまま、それ以上これをとめる力を喪失していた。
――史書によれば、田宮坊太郎国宗の病歿したのは、正保二年三月二十三日と伝える。これはそれから一ト月たった四月二十四日の話である。
数日たって、柳生如雲斎は孤影|飄然《ひょうぜん》と西へ旅立った。
はじめの予定では、七八人の門弟を同伴することになっていたが、如雲斎はすべてこれを断わり、考えるところあってただひとりでゆくといい出したのである。
「それは、いかに何でも、六十七歳の御老体が」
と、子息の茂左衛門はおどろき、気づかったが、如雲斎は、
「ばかにするな、こう見えて、おまえより若いぞや」
と、一笑した。
事実この老人は元来大兵肥満、皮膚は黒いあぶらをぬったようにつやつやとして、ぶきみなくらい精気にみちていたが、このとき何かに|憑《つ》かれたように眼が異様なひかりをはなって、茂左衛門を沈黙させた。もともといい出したらきかない性分なのである。
如雲斎が熊本についたのは五月十九日のことであった。
熊本は彼にとってはじめての土地ではない。まえにものべたように、彼は若いころ、ここの領主が加藤家であったころ奉公していたからである。
地獄篇第三歌
【一】
そもそも最初、柳生如雲斎が武蔵を見舞おうという気を起こしたのも、熊本という土地に対する懐旧の念もいささかまじっていなかったとはいえない。
むろん、それから四十年ほどもたち、領主は細川家に変わっている。しかし旧知の家があって、その知人から如雲斎は、藩老長岡|監《けん》|物《もつ》に紹介された。もとよりそんな因縁がなくとも、柳生如雲斎の剣名はこの熊本にまで知られている。
監物はすぐに引見して、
「実は、武蔵は岩戸山の霊巌洞に|籠《こも》っている」
と、いった。
岩戸山なら、如雲斎も知っている。熊本の西にそびえる金峰山の中の一峰で、そこに雲巌寺という禅寺がある。その寺からまた一山越えた山裏の中腹に霊巌洞という岩窟があって、ここに石体四面の観世音が安置してあるが、めったに常人のゆくところではない。
「武蔵どのは、病んでおるのではありませなんだか」
「この二月のころより病んでおります。病むと同時にそこに上って、ひき籠ってしまったのでござる」
「ほう」
「もともと、武蔵はそこが気に入って、ここ数年しばしばその岩窟内で座禅し、また書き物などをしてはおったが」
長岡監物は、ふと何かを思い出したように手をたたいて小姓を呼び、何かを命じた。小姓が厚い書き物を持って来た。
「これは武蔵が先年より霊巌洞にて書きつづけ、藩中の弟子にさずけたものでござるが、如雲斎どのならばお見せしてもよかろう。御覧なされ」
監物はその書き物をさし出した。
如雲斎は受けとって、それをひらいた。
「五輪書」
という文字がまず眼を射た。
「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練のこと、はじめて書物にあらわさんと思い、時、寛永二十年十月上旬のころ、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかい、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信。年つもって六十」
そして十三の年より二十八九まで、六十余度の決闘を重ねてきたが、ついに一度も敗れたことはなかったとのべ、
「……それより以来はたずね入るべき道なくして光陰を送る。兵法の利にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事に於て我に師匠なし。いまこの書を作るといえども、仏法儒道の古語をもからず、軍法軍記の古きことをも用いず、この一流の見たて実の心をあらわすこと、天道と観世音を鏡として、十月十日の夜、|寅《とら》の一点に筆をとって書きはじめるもの也」
寛永二十年。――いまを去ること二年前である。
十月十日の夜寅の一点(午前四時)といえば、山上の夜いまだ明けず、寒天の星なお凍る時刻であろう。――以下、「地」「水」「火」「風」「空」の五巻にわけて、これは武蔵が一代のあいだに編み出し、到達した兵法の哲理を解き明かしたものであった。
一行また一行。
そこにかかれてある文字は、柳生如雲斎の胸奥に弦音のごとき共鳴りを発しないものはない。
いくたびもその文字に眼が吸いつけられ、めくってゆく指がうごかなくなるのをおぼえながら、如雲斎はむりにそれを卒読して、
「で、いま、武蔵どのは?」
と、監物を見あげた。
「霊巌洞で病んでおるらしい」
「だれもそばについておる者はないのでござるか」
「ただひとり、武蔵が以前から使っておる伊太郎という十七八の少年がついて世話をしております」
と、監物はいった。
「この三月の半ばごろまでは、当藩の門弟ども数名、なお世話をしておったが、そのころから伊太郎以外は身辺に近づくをゆるさず、ただ伊太郎が食物、水などをとりにくるのを麓で手わたすばかり。……そうそう、十日ばかりまえ、伊太郎が妙なものを注文しおった」
「何でござる」
「|甲冑《かっちゅう》一式。しかも侍大将の」
「ほう」
「きけば、武蔵はそれを身につけたまま死のうとしているらしい」
如雲斎はしばし沈黙してかんがえこんだ。それからこの剛毅の老人は、ふいにかすかに眼に涙をうかべた。
侍大将の|鎧《よろい》に身をかため、山上で下界を見わたしたまま死んでゆこうとしている老武蔵。それは彼の一代の夢想を死の瞬間にかなえようとする子供らしい欲望であるかもしれぬ。如雲斎は、その心を思いやって涙をおぼえたのだ。
「武蔵は石の上に座禅を組んでおるが、日に日に衰えてゆきつつあるらしい。……のみならず、そばについておる少年伊太郎もみるみるやつれ、このごろは人間の顔色をしてはおらぬという。あれやこれやで、熊本城下にもいろいろと風評がたち、なかには深夜、岩戸山を亡霊のごとき白い影が上がってゆくのを見たという者まであらわれ……武蔵をいたむ心はべつとして、実はわれらも少々困惑しております」
「亡霊のごとき影。――」
と、如雲斎はつぶやいた。
監物は眉をひそめて、
「それも、武蔵のあまりに常人とはなれた所業ゆえの流言でござろう。ともあれ、柳生如雲斎どのがおいでとあれば、いかな武蔵でもお逢いせぬということはござるまい。こちらよりお願い申す、如雲斎どの、是非いちど見舞うてやって下されい」
「では、これから」
と、如雲斎は身を起こした。
「これから? ……きょうは、もう日が暮れますぞ」
「いや、一日おくれてついに生きておる武蔵どのに逢えなんだとあっては、とりかえしがつきませぬ。即刻、参ろう。岩戸山は、拙者も存じておる」
【二】
五月十九日の太陽は西へかたむいていた。
熊本の西方一里――金峰山へむかって歩めば、落日を追うことになる。
長岡監物のつけてくれるという案内役を断わって、ひとり山へいそぎながら、如雲斎は、武蔵はあれだと思った。落日のことだ。
曾て武蔵という剣の太陽が中天にかがやいたことがあった。慶長九年に於ける吉岡一門との激闘、また慶長十七年に於ける佐々木小次郎との決闘がそれである。
が、それは武蔵自身がいっているように、彼が二十八九までのことであって、「それより以来はたずね入るべき道なくして光陰を送った」のである。世間的にいえば、彼はこの剣名高い期間に、出世の馬に乗りそこねたのである。
無為に光陰を送ったのではない。江戸に出て直接幕府に仕官しようとしたことがある。尾張藩に仕えようとこころみたこともある。筑前の黒田家に奉公の口がきまりかけたこともある。幕府そのものはもとより、他のいずれも大藩であって、彼の大志を見るべきである。小笠原の軍監などいう肩書を持ったこともあったが、おそらく彼ははじめから、たかが十五万石の小藩にじぶんを売りこむ気はなかったであろう。
要するに武蔵は、そのどれにも|頓《とん》|挫《ざ》した。あまりに高く吹っかけすぎたからだと世人は評した。
そして、とどのつまり、彼は、細川藩にわずか十七人扶持三百石で骨を埋める結果となった。しかも、最後に骨を拾ってくれた細川忠利も、その翌年にこの世を去ったのである。
挫折の生涯である。不遇の人生である。薄運の一生である。――表面的に見ればだ。
――しかし、如雲斎は、挫折、不遇、薄運の武蔵にひかれた。そういう武蔵であればこそひかれるといっていいほどであった。
なんとなれば、そんな運命がじぶんに似ていると思うからだ。じぶんも加藤家を辞してから、十余年浪人した。そして、ただ柳生一族というおのれの家名に屈して、ついにまた不本意な仕官をしてしまったが、その漂泊をほとんど生涯つらぬき通した宮本武蔵という人間は、じぶんよりもはるかに強いと思う。最後に彼が細川家に入ったのも、もはやただ墓に入るつもりの心境であったろう。
げんに、さっき読むことのできた武蔵の「遺書」ともいうべき文章の中に、なお如雲斎の胸に彫られている数行がある。
「|独行道《どくぎょうどう》」
と題するもので、
「一、身に、たのしみをたくまず。
一、われ、事に於て後悔せず。
一、いずれの道にも、別れを悲しまず。
一、恋慕の思いに、寄る心なし。
一、一生のあいだ、欲心思わず。」
など。……
世俗的には、まさに武蔵は無為に光陰を送ったが、心の上では、断じて無為に光陰を送ったのではないことを、如雲斎はみとめざるを得なかった。
如雲斎がこんどの旅を発心したのは、まさにそういう武蔵の心境に触れたいがためであった。入道してもなおたちきれぬ自分の妄執を、彼はいかに|解《げ》|脱《だつ》したか? と、武蔵によって吹きはらってもらう望みを抱いてのことであった。
果たせるかな、武蔵はここまで到達している。落日はただひとつ、荘厳な炎をあげて沈みつつある。
――その落日を追いながら、しかし如雲斎の心には、もうひとつ別の雲がわいていた。
いうまでもなく、
「死期迫った宮本武蔵を再生させるために、わが師が熊本へ参られておる。すべては九州におゆきになればわかるでござろう。そこにてわが師にきかれませ」
といった由比正雪の言葉から発した雲だ。
いまや如雲斎がここへ旅してきたのは、むしろこの言葉に憑かれてのことだといっていい。それ以上、如雲斎は正雪からきかなかった。彼ほどの人物が恐怖のために、それ以上きけなかったのだ。
熊本に来て、さらに彼は、長岡監物が奇怪なつぶやきをもらすのをきいた。
「深夜、岩戸山を亡霊のごとき白い影が上ってゆくのを見た者がある。――」
監物はどういうつもりでいったのかよくわからないが、如雲斎としては、心中にうめきをあげざるを得ない。
夕焼けの金峰山の山塊を、竹杖をついて如雲斎は上っていった。岩戸山はその一峰だ。
上ってゆくにつれて、東の空には遠く阿蘇の噴煙のたなびくのが見えた。また西の方、樹間をこえて有明の海の水光が見えてきた。いずれも朱色に染められている。
岩戸山の雲巌寺にたどりつくと、そこから七八人の武士が走り出て来た。
「待て。……どこにゆかれる」
これが細川の藩士で、武蔵の門弟たる面々であろう、と見ながら、如雲斎は答えた。
「武蔵どののお見舞いに名古屋から参ったものじゃ。……武蔵どのは、この奥の霊巌洞におわすな」
「名古屋から?」
さすがにおどろいたようである。
「名は何と申される」
「柳生如雲斎。……兵庫と名乗っておったころ、武蔵どのの知遇を得たものじゃ。左様にお伝え下されい」
「柳生兵庫……どの!」
およそ、剣法を修行する者で、その名を知らぬ者はあるまい。武士たちは驚きと敬意を浮かべた眼で、まじまじとこの入道頭の|魁《かい》|偉《い》な老人を見まもった。
すると、ゆくての雲巌寺の方から、またひとり飛鳥のように走り出て来た者がある。
「いけない! 何ぴとであろうと、ここは通してはならぬ!」
前髪立ちの十七八の少年であった。
「拙者以外には、この門弟の方々も、ここより奥へは入ってはならぬことになっておる。せっかくですが、おひきとり下さい!」
如雲斎は、じろと若衆を見た。そして、これが監物からきいた、ただひとり武蔵の身辺に侍しているという、たしか伊太郎という弟子であろうと思った。
その伊太郎がいまここにいるということは、他の弟子たちのところへ用あって来たか、物でもとりに来たのか。――
「藩の重役であっても、ここから帰っていただいておる。おひきとり願いたい」
と、伊太郎は大手をひろげてまたくりかえした。
美少年だが、話にきいていた通り、異様にやつれている。それが眼を血ばしらせて、必死の形相なのだ。
「武蔵どのは御存命でおわすな。ならば、ともかく柳生兵庫が来たと申してもらいたい」
「どなたさまであろうと、きょうはならぬ」
伊太郎は絶叫した。
「このわしでさえ、きょうはそばにいてはならぬとお師匠さまからいわれたのだ。お帰り下さい!」
「きょうは?」
如雲斎は、この若者の様子にただならぬものをおぼえた。何事かが、いま武蔵の身の上に起こりつつある、と感じた。武蔵はきょう死ぬのではないか。いまのいま、死につつあるのではないか、それとも、ひょっとしたら。――
黙って、如雲斎は足を踏み出した。
「ならぬと申すに!」
伊太郎は刀のつかに手をかけた。如雲斎は重い声でいった。
「どけ」
伊太郎の刀身がひらめくと、そのまま彼はからだをくの字なりにして、どうと地にたおされて|悶《もん》|絶《ぜつ》している。如雲斎は杖としていた青竹でその胴をなぎはらっただけであった。
「これは|狼《ろう》|藉《ぜき》!」
そこにいた七八人の武士は騒然とした。一瞬、抜きつれたのは、相手がだれかということを忘れたわけではあるまいが、武蔵の門弟としては当然な反射的行動だ。
夕焼けに|灼《やき》|金《がね》のごとくかがやいた乱刃は、しかし次の瞬間、|凄《すさま》じい音をたてて、その五本までがたたき折られて宙に飛んでいた。刀身を折ったのは、ただ青竹の|一《いっ》|閃《せん》であった。神技としかいいようがない。
そのままあともふりかえらず、如雲斎は奥の山道にかかった。そして、棒立ちになって立ちすくんでいる侍たちを、ここではじめてふりむいて、
「来てはならぬぞ」
と、まるでどちらが武蔵の守護者かわからないような言葉を、ニコリともせずに吐いて、スタスタと山道を上っていった。
霊巌洞は、雲巌寺の奥の院というかたちで、さらに一山越えたところにある。その途中の夕日もささぬ小暗い杉林の中の小道に、じっと笠をかぶった鼠色の影が二つ立っていた。
如雲斎がちかづいても、うごこうともしない。――かえって、向こうから、
「そこに参られたは柳生如雲斎どのか」
と、|錆《さび》をおびた声をかけて来た。
【三】
鼠木綿のきものに、やはり鼠色の|手《てっ》|甲《こう》|脚《きゃ》|絆《はん》、それにいわゆる|六《ろく》|部《ぶ》|笠《がさ》をかぶった――いうまでもなく、六十六部だ。
「どうもそのような虫の知らせがあって、ここまでお迎えに参った」
「――そなたらは?」
すでにあることを予感しながら、如雲斎はきいた。
「正雪からおききでござろうが」
こう、やや笑いをおびた声でいうのは、どうやら老人らしく、もうひとりの六部は、若い、というより十七八の少年に見えた。
「まず、間に合うてよかった。武蔵はまだ生きておる。間に合うたということは、やはり例のことを如雲斎どののお眼にかけようと、魔天の神もこころがけられたとみえる」
「何のこと?」
「などと、いまさらおとぼけあるな。あなたがひとりでここに来られたのが、それを見ようという思いに憑かれての何よりの証拠」
ひくく笑いながら、老六部は暗い杉木立を先に歩く。無礼な言い分である。ふだんの柳生如雲斎なら、決してただではおかぬところだ。にもかかわらず、如雲斎は、その老六部の|仏《ぶつ》|龕《がん》を背負った背を見つつ、|呪《じゅ》|縛《ばく》されたようであった。
「正雪が田宮坊太郎を以て|御《ぎょ》|見《けん》に入れたはず。……それを、これより宮本武蔵を以てふたたびお見せしようというのじゃ」
「武蔵どのが」
と、如雲斎は息をつめていった。
「女と交合して……再生するというのか」
「やはり、御存じじゃな」
「――ば、ばかな!」
「如雲斎どの、それが決して荒唐無稽のわざでないことは、田宮坊太郎を以てとくとお知りなされたはず」
「あの若者とはちがう。武蔵どのはことし六十二じゃ。しかも……修行のため、いまだいちどとして妻帯なされたことのない孤高の剣人じゃ。いや、哲人といってもよい。それが。――」
「身にたのしみをたくまず。――恋慕の思いに寄る心なし。――ふふ」
と、相手はまた笑った。例の「独行道」を知っているのだ。
「そのおのれの生涯を、武蔵は悔いているのでござる」
「なに?」
「あの武蔵ほどの超人的な体力を持っておる男が、一生女知らずに道を求め、悟りを求めて悪戦苦闘、六十二年の命の果てに何を得たか。あわれ、三百石の捨扶持のみ。――いや、禄のことをいうではない、彼もいまさらそれを不服には思うていまい。それ以上の――すべて、ひっくるめて、残ったのはただ|惨《さん》|澹《たん》たる|空《くう》の思いだけではなかったか?」
そして老六部は「空」そのもののような声でつぶやいた。
「われ、事に於て、後悔せず。――ふふ、ふふ」
「きのどくなことに、武蔵は、恋のみならず剣すらも捨てた」
杉木立の中の細道を歩きながら、六部はいう。
「実は、われらが武蔵に逢うたのは、こんどがはじめてではない。伊太郎なる弟子の話によれば、七年前、武蔵は島原でわれらを見たことがあるという。――わしが、落城した原の城外で天草四郎などを再生させるのを見たことがあるという。――」
「何という。天草四郎を――天草四郎といえば――」
「にもかかわらず、武蔵は黙して、それを見のがした。武蔵はすでに剣を捨てていたからじゃ。武蔵自身の語によれば、剣法を|一《いち》|分《ぶ》の兵法と呼び、大軍の指揮、政道むきの工夫を|大《だい》|分《ぶ》の兵法と呼ぶ。武蔵は三十にして一分の兵法を捨て、大分の兵法を志したのじゃ。三十以後、武蔵は剣をふるってはおらぬ。少なくとも、人を殺してはおらぬ」
「…………」
「が、思うてもみるがよい。三十以前六十余度に及ぶ決闘のあいだに、武蔵はどれほどの敵を作ったか。その敵が三十以後にどのようなかたちで武蔵のまえに現われたか。これに対して武蔵がついに剣をぬいたことがないということは、その|猛《たけ》|々《だけ》しい気性からして、どれほどの|克《こっ》|己《き》|堅《けん》|忍《にん》を要したか。察するにあまりある。つまり、武蔵はそれほどまでにして大いなる兵法を志したのじゃ。――いかんせん、世はそんな武蔵を求めなんだ」
老六部は冷たく笑う。
「|斬《き》りたかったであろう。武蔵は、さぞ斬りたかったであろう。……新免武蔵の本領はそこにある。豪剣をふるわざる武蔵というものは存在し得ないのだ。世の人の値ぶみは正しい」
糸のように細く、しかしぞっとするような声であった。
このあいだ、もう一方の六部は一語も発せず、ただわらじの音だけをヒタヒタと土にたてている。
「あのとき武蔵が挑んでくれば、ほかにも追手あり、われらとてどうなったかわからぬ。が、武蔵は見のがした。善因善果、見のがしたおかげで、きょうわれらから、文字通り再生の恩を受けようとはな」
「む、武蔵どのは、そのことを承知したのか」
「少なくとも、われらと逢い、言い分はきいた。そして、きょう弟子の伊太郎を遠ざけた。――おのれの死期を、きょうと悟ったからでござる」
「…………」
「|粛殺落莫《しゅくさつらくばく》たる武蔵の人生に、ただいちど、最後にいまや花ひらかんとする。――世の何ぴとも知るまいが、如雲斎どのだけには是非お目にかけたい。ようおいでなされた」
「花」
如雲斎はいった。
「女がいるか」
「われらがつれて参った」
「どこのいかなる女を」
「お通という女人を」
「お通。――」
「武蔵の生国播磨宮本村の娘で、いまから三十数年前、武蔵を愛し、武蔵もまたふかく愛したが、剣の修行のさまたげになるとついに思い切った女。――」
「その女か」
「いや、その女は捨てられて、嘆いて死んだ」
「では?」
「その女の姪じゃが、名もおなじお通。その母が若くして死んだ姉の名をとってつけたものであろうが、村人にきけば昔のお通にそっくりの娘じゃそうな。年は二十三、それを探して、つれて来た」
「正雪は」
と、如雲斎は記憶をよび起こしながらいった。
「その女は、当人がふかく恋着しておる女にかぎるといった。武蔵はその二十三の娘に恋着したのか」
「はじめは昔の女の姪と承知しておった。しかし……しだいに迷って来た。その娘と昔の女との見さかいがつかなくなって来た。まず見られい!」
突如、杉木立を出た。
一瞬、視界はふたたび朱色に変わった。それは先刻の赤さよりもっと赤い――血に染めつくされたようなひかりであった。
そこに如雲斎は、それまで想像していたよりもさらに|妖《よう》|異《い》|凄《せい》|絶《ぜつ》の光景を見たのだ。
彼らはちょうど横から出て来たことになるが、西に向かう岩戸山の中腹に、人の背丈にあまる|窟《いわや》が洞然と口をあけていた。霊巌洞である。
ふだんなら暗い穴であろうが、ちょうど前面に|俯《ふ》|瞰《かん》できる有明海に朱盆のような落日が沈みつつあるので、そのひかりにぬれて、巨大な獅子が真っ赤な口をひらいているように見える。岩肌から|雫《しずく》がおちているのが、それも血潮さながらに見えるのだ。
その赤い口の中に、ひとりの武者が端座していた。
【四】
文字通り、鎧武者だ。|甲冑《かっちゅう》というより、|剽悍《ひょうかん》無比の黒ずんだ当世具足の姿だが、それもまた|兜《かぶと》から鮮血をあびたようだ。ただ兜の下の|頬《ほお》|当《あて》のあたりだけが暗かった。ひかりの陰というより、死の|翳《かげ》りのようであった。
「……武蔵でござる」
老六部はつぶやいた。
「あの鎧姿も、女を魔性のものと見て、それから身を護らんとするあがきでござった」
さしてひくい声というわけでもないのに、武蔵にはきこえないらしい。耳をすますと、その鎧がカチャカチャと鳴っている。武蔵は、|瘧《おこり》のようにふるえているのであった。
柳生如雲斎も、立ちすくんだままふるえた。
洞窟のまえはやや広い空地となっていて、まわりは奇岩と石の五百|羅《ら》|漢《かん》にとりかこまれている。五百羅漢のうち十数個はその広場にたおれて、散乱していた。
その中に、石の羅漢とは見まがうべくもあらず、一枚のむしろがしかれ、そこに一糸まとわぬ若い女が雪白の裸身を横たえているのであった。
眼をとじた頭を西へむけて、両肢をひらいて――すなわちひらいた足を武蔵へむけて。
暗かった兜の下に、二つ燐光のようなものがひかり出した。――武蔵の眼だ。
おのれが愛し、しかも修行のためについにしりぞけた昔の女――いや、それにそっくりの娘がいま美しい裸身を夕焼けにぬらして横たわっているのを眼前にして、いままで武蔵の胸にいかなる思念が渦まいていたのか。
一瞬、青く燃えたその眼には、あきらかに苦悶がはためきすぎたようであった。いまや耳をすまさずとも、その鎧の音はいよいよはげしく鳴りさやいだ。
ふいに彼はぬうと立ちあがった。
あごの緒に手をかけて兜をぬいだ。腰におびた陣刀をはずした。頬当をとり、胴丸をぬぎ、膝当を去り――ことごとくこれを投げすてた。鎧を迅速につけ、またぬぐのはもののふの習練の一つだが、この場合、それはこがらしに巨木が枯葉をふり散らすように見えた。
そしてそこに、裸の武蔵が立った。
「……む、武蔵どの!」
如雲斎は両腕をさしのばしてうめいたが、うめいたことを意識しなかった。声にもならなかった。また声になったとしても、武蔵に聴感覚はないように思われた。
兜をとった武蔵の髪は灰色であった。くしけずったことのない|蓬《ほう》|々《ほう》[#電子文庫化時コメント 底本は濁点付き大返しであるが、参照したすべての版・大辞林は「ほうほう」]たる髪、渦をまいてまばらにのびている頬ひげ、はねあがった眉、高い鼻、えぐったようにこけた頬――それは昔見た通りの武蔵の相貌にまぎれもないが、あきらかに老いている。それ以上に、病みやつれている。
ただ裸になった六尺ゆたかの肉体は、ふとい骨格の上に筋肉を盛りあがらせて、一見壮年と変わらない。
曾て見た独特の茶金色の眼が、いまぶきみに青くひかっている。――如雲斎たちには視線もくれず、その眼は地上の女身に吸いつけられている。
武蔵は歩み出した。
そして柳生如雲斎は、この老武蔵が朱金の落日の中で女を犯すのを目撃したのである。愛撫というより、それは老いたる獅子の交合のごとく凄絶、むしろ荘厳の気をおびた光景であった。
――日が|昏《くら》くなった。朱盆のような太陽が不知火の海に落ちたのだ。
|仄《ほの》白い|裸形《らぎょう》に覆いかぶさった武蔵のからだは、いつしか黒ずんで、うごかなくなっていた。それは花にとまった巨大な黒い|蜘《く》|蛛《も》のように見えた。
「忍法魔界|転生《てんしょう》、ここに成る」
と、老六部がつぶやいた。
【五】
「四郎、武蔵はすでに女に入った。介抱してやれ」
もうひとりの六部がすすみ寄って、うごかぬ武蔵のからだを朽木でも移すようにひきおとし、女を助けて立たせ、そばにぬぎすてられたきものを手わたした。如雲斎は悪夢からさめたようにいった。
「武蔵どのは――死んだのでござるか?」
「いや、女の胎内で生きておる」
若い六部に手をひかれて、女が歩いて来た。いまの無惨の姿態は、あれは夢ではなかったかと思われるような、おぼろ月のような佳人であった。
むろん、はじめて見る顔だが、如雲斎はどこかで見たような気がした。――そして、あれはお類という娘であったと思い出した。田宮坊太郎を再生させた娘だ。もとより容貌はまったくちがう。それにもかかわらず、どこか非常によく似た感じなのだ。
半透明な、青味をおびた皮膚、美しい顔に似合わぬ凄壮なひかりをはなつ眼、しかも、どこか夢の中にいるような、何かに憑かれたような感じがそっくりなのであった。
「武蔵はこの女の胎内におります」
と、老六部はくりかえした。
「いや、こうしている間にも刻々と子宮から腹中にひろがりつつあります」
うすら笑いを浮かべて、ちょっとあたまを下げた。
「如雲斎どの、ではおさらばでござる」
「待て」
如雲斎は呼んだ。
「そなたは何者だ。名を名のれ」
「森宗意軒」
「何?」
「天草の乱、原の城で死んだといわれる森宗意軒は、ここにかくのごとく生きておる」
「森宗意。――」
かっと眼をむいて、銀のような白髪とひげに覆われた枯木みたいに痩せた長身の老六部を凝視したまま、柳生如雲斎の脳髄はしびれたようであった。
「おなじく、ここにおるは、天草四郎時貞」
六部笠の下で、十七八の少年は、にっと妖しく笑った。
天草四郎は七年前島原で死んだ。ときに十七歳か十八歳かであったという。それなのに、いま天草四郎と紹介されたその少年は、依然として十七八に見える。――とはいえ、如雲斎にはそんなことを怪しむ余裕はない。
「と申しても、常人ならば信じまいが、田宮の一件をごらんになった以上、如雲斎どのならばお信じいただけよう。では」
「ま、待て」
如雲斎は思わず手をさしのべた。
「な、ならば天下の逆賊、さなきだにこの怪事を見せて、やわかわしがこのまま見逃がすものと思うておるか?」
正雪に吐いたのと同じ言葉を、ふたたび如雲斎は吐かずにはいられなかった。
森宗意軒はおちつきはらってうなずいた。
「その通り」
うす笑いを消さずにいう。
「わしらを斬られれば、武蔵はもはやこの世にあらわれることはできぬ。……如雲斎どの、もういちどあの不幸不遇なる大剣士を、この地上に見とうはござらぬか?」
如雲斎は、息のつまったような顔をした。
――少なくともあと一ト月たてば、眼前にいるこの美しい娘のからだを押し破って、武蔵が再誕してくることが可能であることを、彼は知っていた。
「あなたならば、もういちど武蔵を|甦《よみがえ》らせたいはず。武蔵に――あくまで武蔵でありながら、別の人生を送らせてみたいとお思いのはず」
と、森宗意軒はいった。しずかな声であったが、それにきまっている、という絶大な自信のひびきがあった。
「とすると、この女人を逃がすよりほかはない。またわれらを見逃がすよりほかはない。――」
|髯《ひげ》の中で、きゅっと笑った。
「そう思って、お呼びしたのでござるよ。いや、そもそものはじめから、田宮の一件をわざわざお見せしたのでござるよ」
「宗意。……なぜ、わしに見せた? なぜ、このわしをえらんだ?」
如雲斎は恐怖の声を発した。恐ろしいのは、相手のふるう驚倒すべき忍法よりも、むしろそのことであった。
「正雪よりおききのことと存ずるが、……いずれあなたも魔界に|転生《てんしょう》していただこうと思うてな」
「――わしを」
「これで、魔界に転生するだけの力、望みを抱いておる人間は、ありそうで存外ない。わしは探しておる。先年来より探し、またこれからも探そうとしておる。あなたはその貴重なる人材のおひとりで」
「な、なんのために?」
「いずれそのことは、あなたが魔界へ転生されてから申しあげる」
「いつ? ……それは、いつのことじゃ?」
「さあて」
森宗意軒は、くぼんだ|眼《がん》|窩《か》の奥から、|梟《ふくろう》みたいな眼で如雲斎を見た。如雲斎の背に冷気がながれた。
「ふふ」
と、宗意軒はやがてふくみ笑いをした。
「それもいずれ。……あなたがこの世を去られるまえに、わしがお訪ねして申しあげる。万事は、その節」
そして老六部は、若い六部と女をうながした。
すでにまったく海の果ての残照も消えて、|蒼《そう》|茫《ぼう》たる山肌を、彼らは「亡霊のごとき白い影」として西へ下ってゆく。
彼らはどこへゆくのか?
それをきこうとして、如雲斎はきく気力すら失っていた。
世の人が知ったら|震《しん》|駭《がい》せざるを得ない人物、生きているはずのない七年前の天草の乱の首謀者、天草四郎と森宗意軒と名乗られながら、如雲斎は人も呼ばず、追いもせず、彼自身の方が死びとと化したかのように凝然と立ちすくんで見送っているばかりであった。
そして――柳生如雲斎は、やがて岩戸山を下り、熊本を去ったが、ついにこの怪異を他にもらすことがなかった。
――正保二年五月十九日、宮本武蔵死す。彼は岩戸山の洞で、具足をつけたまま|結《けっ》|跏《か》|趺《ふ》|坐《ざ》して死んだとも、まだ息のあるうちに門弟らが背負ってはこび、熊本の私邸で死んだとも世には伝える。
地獄篇第四歌
【一】
正保三年二月半ばのある午後のことである。
名古屋広井郷にある柳生家の下屋敷に、また奇妙な来訪者があった。また――というのは、取り次ぎに出た侍の頭を、ちょうど一年ばかりまえにやってきた幽鬼のような田宮坊太郎のことが、ちらとかすめたからだが、しかしこの屋敷の門を、風変わりな客がたたくのは、さほど珍しいことではない。主としてそれは兵法者である。
「如雲斎先生はおいででおわそうか」
「御用は?」
「一手御指南をたまわりたい」
「あいや、それならば名古屋三の丸にある御本邸の茂左衛門先生の方へお回りねがいたいが」
「それが、存ずるところあって、是非如雲斎先生とお手合わせねがいたいのでござる」
こういう問答は、例によって例のごとしだ。隠居したとはいえ、如雲斎の剣名の方が高いからである。
「如雲斎先生は、去年から京へゆかれてお留守でござるが」
「ほ、京のどこへ」
「一応、|洛《らく》|西《せい》妙心寺の中に|草《そう》|廬《ろ》を結ばれておるが、しかしいまもそこにおわすかどうか、しかとはわからぬ」
そう答えながら、侍はまじまじと訪問者を見つめていた。
風変わりな旅の兵法者は多いが僧とは珍しい。――玄関に立っているのは、雲水だったのである。しかも、槍を立てている。その上、美しい女をひとりつれている。――
年はもう五十をこえているであろう、背は五尺そこそこと見えるほどひくいが、横はばは異常にひろく、まるで碁盤みたいに頑丈なからだである。くりくりと|剃《そ》ったというより、|禿《は》げた大きな頭に、眼がギョロリとひかっていた。澄み切って|精《せい》|悍《かん》きわまるその眼は、日にやけて黒びかりしている頭に似ず若々しい。とにかく、ただ者でない眼光である。
「……御坊、槍をお使いなさるのか」
「されば。――」
と、いったまま、雲水は思案している。如雲斎不在ときいて失望したらしい。
「……やむを得ぬ。またいずれかの日、参るとしよう」
と、うなずいて、雲水はうしろの女をかえりみた。
「佐奈、ゆこう」
「あいや、念のため承っておきたい。御姓名は?」
槍をあやつる雲水とは――と、好奇心にかられて侍はきいた。
「愚僧、宝蔵院|胤舜《いんしゅん》と申す」
みじかく答えて、その老いたる金剛力士のような雲水は、|網《あ》|代《じろ》|笠《がさ》をかぶりなおし、長大な槍をかついだまま、スタスタと門の方へ出ていった。女がそのあとを追う。
あっ――と口の中でさけんだきり、侍は眼をむいてそのうしろ姿を見送った。
取り次ぎの侍は、田宮坊太郎が訪れてきたときよりも驚いた。
それはそうだろう。宝蔵院という名は、兵法の道に入った者なら誰でも知らぬ者はない。
奈良の宝蔵院は、興福寺四十余坊の一つで、春日明神の社務を担当しているものだが、戦国時代、その院主に|胤《いん》|栄《えい》なる者あり、僧にして刀槍の術を好み、柳生石舟斎などとともに剣法を上泉伊勢守に学び、やがて槍術を独創して宝蔵院流の名を世にとどろかせるに至った。この胤栄を初代とする。
爾来、この宝蔵院では、ここに勤める僧のうち、仏道ならず槍術に長ずる者を住持とする不文律をたて、これによって二代目をついだのが――いま、名乗った|胤舜《いんしゅん》だ。
「その槍法神に入る」
という噂はきいたことがある。
が、その胤舜も、もう十数年まえに院主の地位から去り、すでに宝蔵院は三代目胤清にゆずられたときいている。が、この胤清は先代ほどの達人ではないということも耳にしたことがある。――その達人胤舜が、|飄然《ひょうぜん》としてこの尾張柳生の如雲斎を訪ねてこようとは。――
かんがえてみれば、いままで訪ねてこなかった方がおかしい。
たったこれだけの挨拶で帰ってもらっていい人物ではない、と取り次ぎの侍は狼狽したが、しかし、どうすることもできなかった。さっき胤舜にのべた口上は、まさにその通りだったのである。去年の夏、九州からいちど帰った柳生如雲斎は、かねてから親交のあった妙心寺の霊峰禅師のもとへ参禅にゆくと称して、また京へ旅立ったのである。
【二】
――柳生の下屋敷を去った宝蔵院胤舜は、しかし京とは反対の方角へ――東へ歩いていった。如雲斎に逢うことはあきらめたとみえる。
碁盤のような雲水が、長い槍をかついでポクポクとゆく。たとえ槍に革鞘ははめてあろうと、人目をひかざるを得ない。その対照がむしろ珍なのに比して、これとならんで歩く女が、異様なばかりに美しい。美しいというより肉感的である。
年は二十七八であろうか、一見、武家風だが、身なりはそまつだ。それだけに、その肉感的な美貌がさらに異様に浮き立つ。あぶらののった白い肌、ぬれひかっているあかい唇。……しかも、この女は|白《はく》|痴《ち》のように無表情であった。
その女の美しさにひかれて、街道ではしばしば妙な男がのぞきにやって来た。そのたびに雲水はジロリと網代笠の中から眼をむける。それだけで、たいていな人間が身うごきできなくなるほどの眼光であった。
二月半ばといえば、いまの暦でいえば三月半ばだ。
すでに梅もちり、風は春の気をおびた東海道を、名古屋から岡崎へ、浜松から天竜川へ――日数をかさねてゆくうち、宝蔵院胤舜は、じぶんたちと前後して東へゆく三人の六部に気がついた。
二人は男だが、一人は女であった。
三人の六部のうち、ひとり長身の男は六部笠の下を白い|頭《ず》|巾《きん》でくるんで、眼ばかりのぞかせているから顔はよくわからないが、どうやら四十前後の年ばえらしい。あとの男女一組は若い。男はまだ十七八である。これがおぼろ月のような美少年であった。女ははたちあまりか、これまたふっくらとした美しい娘であった。
この若い一組が、顔に似合わず、実に放胆なまねをする。
路傍に座って、人目もはばからず抱き合って、口を吸い合ったりしているのだ。人目もはばからず――といっても、そのとき通りかかったのは胤舜たちだけだが、それにしても傍若無人である。だいいち、もうひとり年長らしい六部がいつも傍に座っている。もっとも彼は、うなだれたまま腕組みをしたり、向こうをむいて、頭巾を下ろして|煙管《きせる》をくわえたりしていた。
たしかこちらが通りぬけて前に出たはずなのに、彼らはいつのまにか|忽《こつ》|然《ぜん》と先に廻って、またこの抱擁の光景を見せるのだ。口を吸い合うばかりではない。少年が娘の|袖《そで》から手を入れているのがあからさまに見えたこともあるし、ときには|膝《ひざ》の上に横ずわりに抱いて、身をゆすっていたこともある。
「――きゃつら、わしに見せつけようとしておるな」
ついに胤舜は気がついた。
「――なんのためか? 雲水のわしが女をつれて歩いておるので、それをからかおうとしておるのか?」
それにしても、あの者どもも六部である。諸国の神仏を巡礼している行者のはずである。何とも奇怪な、人をくった奴ら。
そう思いながら、胤舜はそしらぬ顔をしてゆき過ぎた。彼は旅のあいだに、これと大同小異のいたずらに逢うことは、いままでいくども経験していたし、それにこんどの旅には、もっとほかに気をとられることがゆく先にあった。
が、それでも、胤舜たちが|旅籠《はたご》に泊まるとき、三夜に一夜は、その六部一行もわざわざ隣室に部屋をとって、そしてからかみ一重越しに、あからさまな愛撫の声をきかせるには閉口した。それは、あの声があの少年と娘かと疑われるほどあらわでけだものめいたあえぎ声であった。
それを五十六歳の槍術の達人宝蔵院胤舜は、じっと座禅して、鬱血しそうな顔色できいているのであった。
すぐまえには、お佐奈という同伴者が、すでに夜具に身をのべている。胤舜に対して、何のはばかるところもないのか、彼女はしどけない半裸といっていい姿だ。それは白い液体がトロリとよどんでいるような光景であった。
それを見ながら胤舜は身じろぎもせぬ。
そもそも宝蔵院の僧は、すべて肉食妻帯せぬ清僧ばかりである。胤舜もその通りだ。五十六歳になるいままで、この槍の達人僧は童貞であった。
じぶんにつきまとう三人の六部を「――何とも奇怪な奴」と宝蔵院胤舜はつぶやいたが、彼自身、それにおとらぬ奇怪な生活をつづけていることを、本人は自覚していたか、どうか。――
胤舜は、これを修行だと思っている。
――彼は五十六歳のいまでも、七日にいちどは夢精するほどの肉体の所有者であった。夢みて射精するのではない。はっきりと眼をあけていて、しかも猛烈な噴射を行なう。ただ、それは|空《くう》に向かってである。
いつのころからであったろう、もう七八年にもなろうか、彼はじぶんの槍術に苦錬し、しかも天下広大、上には上があるということを知って|悶《もだ》えていたころ――ふと、じぶんのこの精がたまり、濃縮化し、その限度に達したとき、異常な能力を発揮することに気がついた。そんな場合、槍をつかんで立てば、木にとまった小鳥すらも狙っただけでうごかなくなり、水を刺せば、十数秒のあいだ槍のあとをとどめているのである。
で、胤舜は、女をひとり召し抱えた。お佐奈というこの女は、もし彼が清僧の|掟《おきて》にとらわれない立ち場の人間であったら、もっとも官能をゆさぶられるたちの女であった。
事実彼は、官能をゆさぶられている。それだからこそ召し抱えたのだ。が、彼はお佐奈に対して、曾て破戒の所業に出たことはなかった。それはただ寺法の掟に縛られているからではなく、彼自身、腹の底からそれが修行だと信じているからであった。
胤舜の生活、あくまでも女を断つ。この戒律を破れば、おのれの槍術すべてがくだけちるような気がする。
槍のための女だ。女は槍術の神髄をふるわんがための|賦《ふ》|活《かつ》|剤《ざい》だ。
わざと命じて、女にしどけない、なまめかしい姿態をとらせながら、この老金剛童子は、三尺はなれてがっきと座禅をくみ、そして堂々と空にむかって射精した。
こういう風に、女は飼い馴らされた。――たんに金で傭われているばかりでなく、お佐奈という女は、この達人僧の眼光にとらえられて、とうてい逃げることもできなかった。
しかし、こんな奇怪な生活をつづけているうちに、女はどうなるか。
最初彼女はむしろ利発な快活な女であったのに、いつしか、まるで白痴のような女になってしまった。女というより、それはただ白いやわらかい匂いある物体に変質していた。
それを胤舜はふびんとも残酷とも思わない。彼の眼中にはただ槍だけがあった。
その槍を|足《あし》|蹴《げ》にしたものがある。
【三】
|遠江《とおとうみ》最後の宿場|金《かな》|谷《や》の旅籠を立とうとして、|胤舜《いんしゅん》とお佐奈がわらじをはいているときであった。まだ明けきらぬ早春の朝である。
いきなり、うしろからバタバタと駈けて来た女が、何をあわてていたのか、傍に立てかけてあった胤舜の槍を蹴たおした。――と、それを追っかけて来た男が、飛鳥のごとく土間にとびおりると、なんと、たおれてくる槍を、これまた足をあげてはねかえした。
槍はゆっくりとはねかえって、ヒョイともとの位置にもたれかかった。
立ちあがった胤舜を見て、男はニヤリと笑った。例の六部の美少年だ。女はいうまでもなくあの娘であった。むろん、いまは六部姿ではない。どちらもきものをまとっているともいえぬ姿であった。
「そなた、まだけさのつとめを果たさぬぞ。……いまさら何をいやがるのじゃ」
と、少年はおっとりした調子でいった。
そういって、娘のほそい胴に手をまわし、そのまま奥へひきかえしてゆこうとする。胤舜に対しては、一笑を見せただけで、それ以上の挨拶はない。
「待てっ」
と胤舜は、槍をひっつかんでさけんだ。黒い顔が、紫色に変わっていた。
声に、ふりむいた少年と娘は、じぶんの方にむけられている槍を見ると、|鞘《さや》がはめられているのに、まるで蛇に魅入られた小鳥みたいに身うごきもできなくなった。
「しばらく」
槍と、ふたりのあいだに、すっと大きな影が入った。これはすでに旅支度をして、六部笠までかぶっているが、依然として笠の下の顔は白い布につつまれている。
「御無礼、この娘、実は|唖《おし》でござりましてな。おわびも申せなんだのは、ひらに御容赦」
「なに、唖?」
唖にしては、夜毎の|嬌声《きょうせい》はばかにはでにもらす。――と思ったが、そういえば、いままでの道中、この娘が何か人語をしゃべったのをきいたことはない。
「娘はともかく、そこな若僧、わが槍を足蹴にして一言の挨拶もないは、これまた唖か」
「これは、口はきけまするが、口をきくのがひどく|億《おっ》|劫《くう》なたちで」
代わって白い頭巾がいう。これもあまりしゃべるのが得手なたちではないらしい、野ぶとい声だ。重々しい声で、人をくったことをいう。
「おまえはなんだ、その白いものをとってものをいえ」
「これをとれば、天刑病で」
「なんじゃと?」
ふっと頭巾のあいだの眼を見て――いまの言葉はあきらかに嘘だと看破した。天刑病とは、|癩《らい》のことだ。深沈たる眼が笑っている。――逆に、胤舜の眼が、そのままうごかなくなった。
もとより終始この男が顔を見せぬのは奇怪だ。が、いま胤舜の胸に、はてな? という疑惑を起こしたのは、その眼をたしかにどこかで見たことがある――という記憶であった。
それが誰だかわからない。
わからないが、はじめて思い知った。こやつら、たんにこちらを女づれの奇僧とみてからかっておるのか、と見ていたが、わしが何者であるかはっきりと知って、敢て|侮辱嘲弄《ぶじょくちょうろう》のふるまいに出ようとしておる!
宝蔵院胤舜は、槍をもとにもどした。が。――
「出い」
うめくようにいった声はひくく、しかし殺気にみちていた。
「うぬらにききたいことがある。外に出い」
「四郎、支度せい」
と、六部がいった。美少年は相変わらずおっとりとして、
「なんの支度」
「立ち合いの支度」
愕然としたのは、むしろ胤舜の方であった。――こやつら、わしを天下の宝蔵院と承知していて、その上で立ち合おうとしている。しかも――まだ童子の面影残る若衆の方に立ち合えといっている!
激怒から、むしろ好奇心に変わった。こやつら、そも何者か? よし、その面皮を――文字通り、きゃつの白い頭巾をはいでくれるぞ。
黙って、ギョロリとひとにらみくれて、宝蔵院はさきに旅籠の外に出た。若いふたりの六部は身支度のため奥へ消えたが、もうひとりの六部はあがりがまちに腰を下ろし、さきにわらじをはくのにかかっている。もとより逃げる気配はない。
夜明けの風に吹かれながら、胤舜は先刻の疑惑を追おうとした。あの六部を、わしはたしかに見たことがある。ここ五六年のことではない。もっと以前のことだ。或いは十年以上も昔のことであったかもしれぬ。しかも見たのは一度か二度だ。が、決して忘れてはならない眼だ。――にもかかわらず、彼はどうしても思い出すことができなかった。声には記憶がないのだ。
名状しがたいいらだたしさを、彼は殺気で断ち切った。いずれにせよ、この謎はいまわしが解く。――
「お待たせ」
と、三人の六部が出て来た。
まるで、これからいっしょに旅に出かけるようなものごしだ。若いふたりの六部は、先刻のばかげた痴話喧嘩などけろりと忘れたように、むしろたのしげに東の空にひろがり出した赤いひかりをながめていた。
東の地上にも、水光が漫々とうごいているのが見えている。――音にきこえた大井川であった。
「どこで?」
と年長の六部がきいた。
「あそこの河原がよかろう」
そういって歩きながら、胤舜はふりかえった。
「あの若僧を成敗したら、おまえ立ち合うか」
「成敗できますか」
「誰を」
「あの若僧を」
ついに胤舜は|大《だい》|喝《かつ》した。
「うぬら、わしを何者と知って勝負を挑んでおるのか、どうじゃ?」
返事は笑いをおびていた。
「存じておりまする。宝蔵院胤舜さま」
【四】
二月半ば――大井川の源たる赤石山脈の雪はまだ溶けぬ。名だたる大河の水は|汪《おう》|洋《よう》とながれているが、河原もまた広く、白い砂と石の上には、あちこちと枯れ草をなびかせていた。
怒り、驚き、疑い、不快――さしもの胤舜も、これらの感情が真っ黒に体内にふくれあがってのどをふさぐのをおぼえ、もはやものもいわず、その河原の枯れ草の中を、ひとり先に、ト、ト、ト、と走るように歩いた。
もう早立ちの旅人や川越人足たちが黒ぐろとうごいているのを遠くに見る地点をえらぶと、胤舜は立ちどまり、くるりとふりかえり、槍をとんとついた。
「ここでよかろう。……なお、いっておく。これでも|沙《しゃ》|門《もん》の身、よしなき殺生は好まぬゆえ、一応こらしめるだけのつもりであったが、ひょっとしたらいのちにかかわるかもしれぬ。|回《え》|向《こう》のために、名をきいておこう」
「荒木又右衛門と申す」
と、覆面した六部がさりげなくこたえた。
胤舜は、身うごきもしなくなった。じいっと相手の眼を凝視して――心の中を稲妻のごとくはためき過ぎるものをおぼえた。
荒木又右衛門、それならたしかに――江戸の柳生道場で逢ったことがある。
もう十数年もむかしのことだ。胤舜はそこで柳生但馬守と立ち合った。そのとき但馬守は、試合の様子をただひとりの弟子にだけ見分させた。その弟子は終始一語をも発しなかったが、道場の一隅に端座して試合の経過を見まもっている眼光は、容易ならぬ剣士であるという印象をじゅうぶんあたえるものであった。
それからまた何年かたって、胤舜は、そのときの但馬守の高弟荒木又右衛門なる者が、伊賀の上野で敵討をとげたときいて、さもあらん、とうなずいた。
その又右衛門がいま眼前に立っている。頭巾のあいだの眼は、たしかにあの又右衛門のものだ。先刻から、どこかで見た記憶があると思ったのも道理。――
げんに。――
「胤舜どの、お久しゅうござったな」
その六部笠の下の眼が笑って、そういった。
にもかかわらず、
「ば、ばかなっ」
と、胤舜はさけんでいた。さけばずにはいられなかった。
「荒木? 荒木又右衛門は、鳥取で死んだときいておる。たわけたことを申すな!」
「荒木はここにおり申す」
と、又右衛門はいった。
「御坊と立ち合うは、わしの弟子。名は申しあげるほどの奴ではござらぬ。天下の宝蔵院胤舜どのと立ち合って討たれれば、それだけで当人の本望でござろう。……ただ、立ち合うまえに、ひとつおねがいがござる。なにせ、御坊は無双の達人、この若者に少々支度をさせなければ、とうてい歯がたつものではござらぬ」
「荒木――その方が荒木として――なぜ、その方自身がわしと立ち合わぬ?」
「いや、その支度さえさせれば、この若者にてじゅうぶん間に合うでござろう」
「支度とは?」
「これなる弟子を、これなる女六部と、ここで交合させたいのでござる」
「な、な、なに?」
宝蔵院胤舜は絶句した。
「それが支度で。――それさえおゆるし下さらば、まず大丈夫」
頭巾の中の眼が、ひとを小馬鹿にしたように笑っている。
いちど、やや蒼ざめていた胤舜の顔色が、また黒ずむばかりにあからんだ。――しばらく、大きな口を、ヒク、ヒク、とひきつらせていたが、たちまち、
「又右衛門、うぬにはまだきくことがあるが、あとできく」
と、さけんだ。
「よいわ、勝手にさらせ! ただし、もはや胤舜、容赦はせぬぞ」
「おききとどけ下されて、かたじけない」
と、又右衛門はお|辞《じ》|儀《ぎ》した。
「四郎、よいそうじゃ。……おまえも支度せい」
と、女六部の方もさしまねいた。
女六部はユルユルと、若い六部の方へ歩み寄る。四郎と呼ばれた六部は、胤舜の方を見て、ニヤリと笑った。ふたりは、むかい合って、笠をとり、きものをぬぎ出した。……
暁のひかりは赤あかとして、いまや河原を染めつつある。水光を背に、赤くぬれた二つの裸形がすっくと立った。それはこの世のものとは思われぬ|妖《あや》しくも美しい影絵となった。
ふたつの影絵は相寄り、からみ合い、ゆるやかに草の中へたおれていった。
義眼のような眼でこれまでにらみつけていた胤舜は、このときたまりかねて、くるっとうしろをむいてしまった。
まともに立ち合うはおとなげなし――という自負から、思わず相手の条件をのんだのだが、いざその条件を実行に移されてみると、その人を馬鹿にした「支度」は、彼の血を逆流させずにはおかない。……背後で、なまめかしいあえぎが水音を縫いはじめ、それはひとつの甘美なせせらぎとなった。
――胤舜は、怒りの眼で反対側をにらんでいる。その方角に、お佐奈がボンヤリ立っている。彼女はこちらをむいている。胤舜を見ているようで、その実、草むらの中でくりひろげられている行為に眼を吸われている。……彼女は顔が紅潮してきた。
突如、胤舜ははっとした。
これは、|嘲弄《ちょうろう》だ。いや、決闘のまえに交合するなど、あきらかな嘲弄にきまっているが、ただそれだけではない。こやつら、わしが女人禁制を以て槍術の奥儀をふるう|秘《ひ》|鍵《けん》としていることを承知しての嘲弄に相違ない!
「ううぬ」
彼は憤怒にのぼせあがり、全身をふるわせた。
頭の一隅を、おのれの禁断の周期が終わって、きょうか今夜にもそれを噴出するはずになっているということがかすめた。いまやじぶんの能力は極限にちかづきつつある。いま立ち合えば、天下にほとんど敵はなかろう。――
いつのまにか、声のせせらぎはとまっていた。のみならず、衣服をつける音がきこえる。
きしり出すように胤舜はいった。
「――支度はすんだか」
「よろしゅうござる」
荒木の声であった。
胤舜はふりむいた。三間はなれて、若い六部が立っていた。|肘《ひじ》をまげ、両こぶしをまえにつき出しているが、何の武器も持っていない。腰の戒刀はそのままだ。あきれたことに、笠までかぶって、胤舜を見て、ニンマリと笑っている。――
「それでよいのか」
「よい」
と、少年はいった。
胤舜はかっとした。槍の革鞘が赤い|暁天《ぎょうてん》に飛んだ。うなりをたてて二尺の穂先がななめに落ちてくると、七尺の柄はピタリとかまえられた。
「……おおっ」
かすかにうめいたのは、荒木だ。
横に立っていた又右衛門すらが、四郎の方にむけられている槍の穂先の|閃《せん》|光《こう》に、おのれの心臓を射られたような|心《しん》|悸《き》の|急搏《きゅうはく》をおぼえた。ズングリムックリした雲水が、九尺の長槍を横たえて立つ。――それが滑稽どころか、人槍一体となってこの世で最も恐るべき武器そのもののかたちに見えた。
槍の鞘を飛ばせた|刹《せつ》|那《な》から、宝蔵院胤舜は、怒りも不快もともに空に捨てている。ただ彼は槍の化身となり、無念無想の境地に入った。
その槍の穂のゆくさきで、ゆるやかにうごいているものがある。ありきたりの兵法者なら、これだけですでに気死状態に陥るはずなのに。
それは四郎のふたつのこぶしであった。それが、春の日の水車のようにゆっくりと回っている。――はっとした胤舜の眼に、そのこぶしから何やらじぶんの方へ飛んでくるものがあるのが|映《うつ》った。
はじめて見えたのだ。それは眼にみえぬほど黒い細い|環《わ》であった。径三寸ばかりの無数の環――それが、手のうごきの緩徐なのに比して、まるで烈風に吹かれるような恐るべき速度で舞ってくる。――
「あっ」
その環が三つ四つ、槍の穂にはまり、手前にすべって来たと見て、本能的な危機をおぼえ、胤舜は相手を突くより、槍の穂を空にあげた。
怪しむべし、あとなお風に飛んで来た環は、それ自身生命あるかのごとくその穂先を追って、なお穂にはまって来る。――
「忍法|髪《かみ》|切《きり》|丸《まる》!」
四郎が絶叫したとたん、胤舜の槍の柄は、数ヵ所で切断されて、バラバラになって地におちた。あとには、胤舜の手もとに三尺ばかりの棒が残った。
彼がそれを投げつけるのと、四郎が鼠色の魔鳥のごとくおどりかかってくるのが同時であった。
|戞《かつ》!
空で三尺の槍の柄はこれまた二つになった。はじめて|白《はく》|刃《じん》をひらめかした四郎がこれを|斬《き》ったのである。
そのまま飛び下りてくる四郎の足の下から、碁盤のようなからだをまろくして、宝蔵院胤舜はころがって逃げた。胤舜にしては、生まれてはじめてといっていいぶざまな姿であった。
そのまえにまた四郎は飛んだ。
「それまで」
と、声がかかった。荒木又右衛門が歩いて来た。
胤舜は蒼白な顔を草の中からあげてうめいた。
「斬れ」
「と、仰せられるほどまじめな勝負ではござらぬよ、胤舜どの。これは冗談でござる」
それはいっそうこの上もない侮辱だから、胤舜は激情のために口もきけなくなった。
「お腹を立てられな。――と申しても、宝蔵院どのともあろうお方が、かかる青二才にかかる目に逢うて、ただ平気でおりなされといっても通じますまい」
又右衛門はちらと四郎を横目で見た。
「胤舜どの、あなたがいま立ち合った若者は、実はこの世のものではない。――」
「なに?」
四郎はニンマリとして戒刀を鞘におさめている。
「と申して、亡霊、|変《へん》|化《げ》のたぐいでもない。――いちど死んで、また甦って来た男でござる。――といっても、まだ正確ではない。――」
この奇怪な言葉に、胤舜は激情を凍結させて、相手を見あげた。
荒木又右衛門はこういいながら、六部笠をとり、白い頭巾をぬいでゆく。――薄笑いした顔があらわれた。
【五】
まごうかたなき又右衛門である。十数年前、江戸の柳生道場で見たときよりやや老けてはいるが、しかし当時から印象に残った沈毅重厚な顔だちがそこにあった。どこかあのときとは別人のような妖気がある。薄笑いした眼も、からかうというにはあまりに陰惨だ。
「この少年は、いちど死んだ。死のときにあたり、ふたたびこの世に生まれ変わって、同じおのれにして|且《かつ》別のおのれとして生きたい。――かく念力を凝らしつつ、ひとりの女と交合した。そして、その女は|身《み》|籠《ごも》り、再誕生したのがこの少年でござる。しかも|嬰児《みどりご》として誕生したのではない。女のからだを押し破って、死んだときの姿そのままで出て来たのでござる」
「…………」
「お疑いか、胤舜どの。実はこの荒木も、先刻仰せのごとく、たしかに因州鳥取で病死いたしたものに相違ありませぬ」
彼の声は、陰々たる冥府からのつぶやきのようだ。
「おきき及びでもござろうが、拙者の上野の敵討ちも、ただ義弟の助太刀をしただけではありませぬ。大名対旗本の積年の争いが、ああいうかたちとなってあらわれたものです。――河合又五郎なる者が、備前岡山池田侯の家来渡辺源太夫を斬殺し、追手をのがれて江戸の旗本にかけこみ、救いを求めた。旗本一派は奇貨おくべしとなし、池田家からの又五郎ひき渡しの要求をはねつけた。池田家はひくにひかれぬ立場となり、大名方は池田家に味方し、又五郎をめぐって両陣営はぬきさしならぬ対立状態に陥った。……」
又右衛門は話し出した。
「旗本八万騎の三百諸侯に対する|鬱《うっ》|憤《ぷん》ばらしの|恰《かっ》|好《こう》な道具が河合又五郎なら、それを渡辺源太夫の兄数馬とともにつけ|狙《ねら》った|拙《せっ》|者《しゃ》は、まず大名陣の選手というべきものでござった。その又五郎を、伊賀鍵屋の辻で、われらはみごとに仕止めたのです。……これにて大名方の面目は立ったわけでござる」
彼一代の壮挙を語るのに、淡々――というより、むしろ風のように暗いひびきをおびた声であった。
「大名方としては、ここでこの争いをとめたかった。あと、これ以上、又右衛門をはれがましゅう世に出しては、あらためてまた旗本方を挑発するものと思案した。かるがゆえに、又右衛門を|僻《へき》|遠《えん》の鳥取に送りこみ、ふたたび世に出るを制した。されば、その扱いは一見旗本方の復讐から保護するに似て、その実配流幽閉にちかいものでござった。……又右衛門が、敵討ち後わずか三年を経ずして病死したは、この意外なる待遇に対する憂悶のためでござる。……」
まるで他人の運命でも語るように、彼はいった。が、その冷やかな語調には、名状しがたい深刻の感がある。
胤舜は凝然とその言葉に耳を吸われている。その姿に眼を吸われている。信じがたいが、相手の声と姿には、理非を超えて信じさせずにはおかない|妖《あや》しい力があった。
「死するにあたって、拙者は或る女人と交合した。そして約半年後……九州島原で、ふたたび世に出で、かくのごとくここに生きております」
又右衛門はまた笑いをとりもどした。
「この若い六部もその通り。……宝蔵院どのが敗れられたからと申して、さして異とするにはあたらぬというは、かような次第だからです」
又右衛門はきっと相手を見すえて、
「さて胤舜どの、もはや御推察であろうが、われらは最初からあなたを追い、あなたを挑発した。そのわけはいろいろとあるが、まず第一に」
「なんじゃ?」
といったが、胤舜は、おのれの声も悪夢の中の声のように感じた。
「御坊に、御坊のようなばかげた女人禁制の戒律は、相手によっては、勝負の世界には何の役にもたたぬということを思い知っていただかんがためでござる」
「…………」
「ごらんなされ、本来ならばきょうあたり、御坊のわざはその奥儀を極めるのでござろうが」
「…………」
「にもかかわらず、ここのところ連日連夜乱倫をほしいままにし、またその直前たわけたふるまいをしてのけた若僧に、かかる惨敗を喫せられたはこはいかに」
「…………」
「|無《む》|駄《だ》、無駄、無駄でござるよ、胤舜どの、御坊の女人禁制は鰯のあたまにひとしいものでござる」
なんといわれても、宝蔵院胤舜には一句の|反《はん》|駁《ばく》もできない。……相手の言い分にうちのめされたというより、おなじことだが、彼自身内部からの衝撃に、すべてが崩壊してゆく感覚に魂をさらわれているのだ。
「もっともいまの若者が事前に交合してみせたのは、ただ御坊をからかって落胆させるためだけではござらぬ。交合中の女人の髪が必要だったからで。――」
「髪。――」
胤舜はうめいた。さっき、槍の穂に次から次へとはまって来た黒い細い|環《わ》を、坊主あたまによみがえらせたのだ。
「あれは髪か。舞って来たのは髪の環か」
「交合中の女の髪を環にしたものでござる。それが御坊の槍の|樫《かし》の柄を、|蝋《ろう》のごとく切断した。……」
「ううむ。……」
「忍法髪切丸、という声をきかれたろう」
「忍法。――」
「源氏の名刀髭切丸にならったものでござるが、あれは首とともに髭まで切った名刀、これは名刀すら切りはなす髪ゆえに名づけた忍法髪切丸」
「あれは、忍者か、又右衛門」
「忍者というより、それ、先刻申したごとく魔界に生きておる男」
「名は? あの若者の名は何という?」
又右衛門はこれには答えず、しばらく黙っていたが、やおら腰をかがめ、顔をつき出し、
「胤舜どの、御坊の槍術、あの忍法の域にまで達したいものとは思われぬか?」
と、ささやくようにいった。
「なれるか」
「御坊は、そのおとしであれほどの精を蔵するお方、常人ではおわさぬ。なれます。しかも、不自然な禁欲をなさる必要はない。むしろ、あれは槍術開眼のために害がある。安んじて、女と交わりなさるがよい。――」
「な、なれるか」
「なれるお方と見込んだゆえ、御坊を追うて、かくからんで来たものでござる。いまの試合もまったくそのため。――」
「なれるか、又右衛門」
胤舜の声は|嗄《か》れ、眼はギラギラとかがやき、憑かれた男のようであった。そうなるためには何をしなければならぬか、そうなっていったいどうしようというのか、すでに冷静な理性を失っている人間の形相であった。
「又右衛門、わしは不自然な禁欲をしてきたわけではない。宝蔵院の僧はすべて清僧たるべき戒律に縛られておるのだ。しかし――槍のためなら――槍の奥儀に達するためなら――わしは何でもやる。戒律を破るのも恐れはせぬ。いや、宝蔵院胤舜は、いま槍を打ち折られると同時に死んだのじゃ」
と、胤舜はあえぎながらいった。
「そ、それで、わしはどうすればよいと?」
「つまり、魔界に|転生《てんしょう》なさればよろしい」
と又右衛門はいった。いいながら、頭巾をつけるのにかかっている。
「御坊の最も好ましいと思われる女人と交合なされば、少なくとも一ト月たてば御坊はその女人の腹をおし破り、まったく新しい生命力、いや魔力を持った宝蔵院胤舜としてこの世に再生なさることになる。――」
胤舜は、ちらっと向こうに立っているお佐奈を見た。
「ただし、もとよりそれは条件がござる」
「条件とは?」
「新宝蔵院が生まれ出るまえに、旧宝蔵院は死んでおられる必要があるのです。というより、その交合は、御坊の死期迫ってからのもの――いまや死なんとして、あくまでも再生したいという最後の念力をこめたものでなくてはなりませぬ」
「わしの死ぬとき。――」
「きょうはそのときではない」
又右衛門は六部笠をかぶりながらいった。
「御坊は、きょうお死にになるわけではない。――が、いつの日にせよ、このこと、宝蔵院転生のこと、御承知でござるな? ――御承知ならば、相手の女人にあらかじめ術をかけておかねば相ならぬ。術をかけずして、その体内に御坊御自身を養うことなどはならぬ。――あの女人に術をかけてゆくことを、お望みになるか、どうじゃ」
「……術とは?」
「――この者がかけます」
と、又右衛門は、そばでうす笑いしている若い六部を顧みた。
「それは、あなたはお知りになる必要はない。御存じない方がよろしい」
胤舜は、不安と迷いの交錯した|梟《ふくろう》みたいな眼で、若い六部の方を見た。その少年六部の先日来の所業が、ありありと頭をかすめたようだ。
「おいやなら、よします。世にこの魔界転生をなし得る人物はめったにござらぬ。またあったとしても、こちらが望まぬ。御坊は、われらが見込んだその貴重なるおひとりでござるが、そちらでいやと申されるならいたしかたがない。拙者ども、このままお別れいたす」
「…………」
「なお、欲せられるなら、われらのこと、公儀へなりと誰なりと、訴えられても結構。ただし、誰も信じはいたすまいが。は、は、は」
又右衛門は六部笠をゆすって、ゆきかけた。
「ま、待て」
胤舜はヨロヨロと歩み出て、
「ま、又右衛門、やってくれ!」
と、肩で息をしながらさけんだ。
「ほ、では御承知か」
又右衛門はふりかえって、ニヤリとした。
「案の定――いや、手数をかけた甲斐があったというものでござる。……宝蔵院どの、ではしばし――まず四半刻ばかり、ここで待っていて下され。うごかれてはなりませぬぞ」
「おぬしら、ど、どこへゆく」
「されば――あそこの枯れ芦のひとむらのところまで」
と又右衛門は、そこから三十間ばかり離れた水ぎわちかい、ひときわ高い黄色い枯れ芦のあたりを指さした。
「四半刻ほどたったら、おいでを願う。……おつれのお方は、ぶじにお返し申す」
そういわれても、胤舜はさすがに不安を禁じ得ず、またいまさらその不安を表明できないので、
「もういちどきく、又右衛門」
と、ほかのことをいった。
「わしは、いつ死ぬか?」
「御坊が死なれるときは、われら必ず参上いたし、宝蔵院新生の産婆となってさしあげる。たとえ御坊がどこにおわそうと」
若い男女の六部をうながし、あともふりかえらずお佐奈の方へ遠ざかる荒木又右衛門の笠の中から、声だけ返って来た。
彼らはお佐奈のそばに寄って、何やら話しかけている。お佐奈がびっくりしたようにこちらを見た。胤舜は何ともいえないむずかしい|皺《しわ》を口辺にきざんで、「ゆけ」というようにあごをしゃくった。
いままでも肉の人形のように、ほとんど胤舜の命令にさからったことのない――そのようにしつけられたお佐奈である。けげんな表情ながら、彼女は三人の六部とともに枯れ芦の方へ歩き出した。
日はすでに地平から高くあがっている。明るい朝のひかりのみなぎった反対側の渡し場のあたりには、すでに旅人が雲集し、もう肩車や|輦《れん》|台《だい》にのせられて河を渡ってゆく風景も見られる。
冷たい早春の風がサワサワと草を鳴らした。宝蔵院胤舜は、歯をくいしばり、こぶしをにぎりしめて、そこに待っていた。のびあがって見ても、背のひくい彼には、遠い枯れ芦の中で何が行なわれているかまったく見えなかった。
四半刻たった。いや、四半刻も待ちかねて、胤舜はそこへ走った。
お佐奈は一糸まとわぬ裸体とされて、大の字になってそこに横たわっていた。乳房が大きく息づいているところを見ると、生きているにちがいない。……それどころか、何をされたのか、全身の肌は汗ばんで、ぬめのようにぬれひかっている。
又右衛門と若い六部の姿は、忽然と消えていた。ただ、若い女の六部だけが、|叢《くさむら》の上にきちんと座って、けぶっているような表情で、お佐奈をじっと見まもっているだけであった。――胤舜はさけんだ。
「仲間はどうした?」
娘六部はだまって河の方を指さし、笠を二三度横に、ユラユラと振っただけであった。
「――|唖《おし》か?」
地獄篇第五歌
【一】
チラ、ホラ――と枯枝に降って、すぐに止んでしまった雪のようだ。
わずかに咲き出したところで、三月はじめとは思われないここ数日の寒さに、そのまま凍りついてしまった桜であった。
冷気と夕闇は、庭からしずかに座敷にはいあがってくる。
その冷たさも暗さも意識せぬかのように、その老人は白衣をきたまま|褥《しとね》の上に端座し、すぐ横に置いてある経机の上の書類にじっと眼をそそいでいた。
その姿勢のまま、もう一刻もたつ。
ぽつりと、
「……十兵衛がいたら。……」
と、ひとりごとをいった。
江戸霞ケ関にあるこの屋敷のあるじ柳生但馬守|宗《むね》|矩《のり》である。――曾ては将軍家に剣法を指南した但馬守も、このとし七十五歳、それに、去年の暮れのころから病んで、寝たり起きたりしていた。
いまつぶやいたじぶんの声に、ふとわれにかえったように、
「これよ」
と、彼はいって、机の上の鈴を鳴らした。
呼ばれるまで来てはならぬ――と命じられているので、暮れて来た外光を気にしつつ、一室おいた座敷に座っていた小姓のひとりが、滑るようにやって来て、手をつかえた。
「|灯《あかり》をもて」
「かしこまってござりまする」
「あ、それから、|主《しゅ》|膳《ぜん》を」
と、但馬守は命じた。
まもなく、灯が来た。それから――間もおかず、子息の主膳宗冬が来た。
「父上、御機嫌は」
と、いいながら、顔をあげて、眉をひそめた。父がいままで横にもならず、机にむかって何やら見ていた様子を悟ったからだ。
もっとも主膳は、父のこのような行動に、きょうはじめて気づいたわけではない。病んで床に|臥《ふ》してからも、しょっちゅう何やら調べものをしている。深夜何者かがひそかに、しきりにその部屋に入って報告しているらしい気配も感づいている。
元来但馬守は、幕府の大目付であった。大目付とは大名に対する監察の任にあたる。いまでいえば、検事総長である。
従って、そういう父の動静はいまさらのことではないが、しかし病んでから、かえってそれが切迫したようだ。何か重大なことが起っているらしい。
――と、主膳はおぼろげに察してはいるが、むろんそれがどんなことか知らない。将軍家剣法師範の役目はもうだいぶ以前から主膳にゆだねてはいるが、大目付の職務の内容は、その息子にもあかしたことのない但馬守宗矩であった。
「父上。……左様におつとめなされては」
と、おそるおそるいう主膳に、但馬守は彼のやって来たのも気づかぬのではないかと思われるほどうごかぬ姿勢でいたが、やおら、
「主膳、大事がある」
と、いった。
「|牛込榎坂《うしごめえのきざか》の由比張孔堂の」
と、但馬守は口を切った。
「あれが、何やらたくらんでおるということじゃ」
由比張孔堂。――その名をいま江戸で知らぬ者はない。榎坂の大道場に、
「軍学兵法|六《りく》|芸《げい》十能医陰両道其外一切指南・張孔堂由比民部之介橘正雪」
という、人をくった、長ったらしい大看板をかかげている人物で、その門弟三千と称されている。
むろんそれくらいだから、その軍学は楠、真田に匹敵し、剣術一つをとっても、いまや将軍家師範たる柳生の一門中にも、当主の但馬守はもはや老いているし、正雪にあたる者はないのではないか――という評判すら|巷《こう》|間《かん》にある。
またきくところによると、彼が|大《たい》|身《しん》の訪客に会うときは、机の間に、楠正成、正行、正澄の三幅をかけ、机に香を|焚《た》き、金の軍配と采配を飾り、髪を総髪にして、浅黄の小袖に紺地の長絹をまとって相対するという。――
「きゃつのことでござりまするか」
と、主膳は苦笑をまじえた声でききかえした。
父が、このごろ何やら憂悶のていをみせ、いまかくも深刻な顔つきをしている対象は、あの男のことであったか。――と、ちょっと、拍子ぬけがしたのである。
「あれは、まともな人間の相手にすべからざる大山師。――」
「――と、わしも思うておった。ところが」
と、但馬守はいった。
「その大山師、と見せかけておるのが、あの男のかくれ|蓑《みの》ではないか?」
主膳は、はっとして父の顔を見た。
父の表情はまじめであった。病気にならぬ壮年のころから、どちらかといえば、小柄で、痩せぎみの但馬守である。知らぬ者が一見しただけなら、誰もこれを柳生の剣名を一世にとどろかせた人とは思うまい。いかにもさりげなく、地味で、質実で、剣をとるよりは筆をとって終日事務に精励しているのにふさわしいと見える風貌であった。
「何と仰せられまする」
「そのような評判があれば、いかに人を雲集させようと、御公儀も疑われぬ。――大山師、とは、正雪みずからが、わざと世に立てさせた人物評ではないか。わしは、きゃつ、それほどたかをくくってよい男とは思わぬ。いや、そのことが、このごろようやくわかったのじゃ」
「何か、ござりましたか、父上。――」
「このごろ、夜中、しばしば榎坂に出入りされる容易ならぬ身分のお方がある。――」
「それは」
しばし但馬守はまた黙りこんで、
「伊賀者の報告によれば、どうやらそれは、紀州大納言|頼《より》|宣《のぶ》卿。――」
と、いった。
「紀伊大納言さまが!」
そうさけんで、息を吐いたきり、主膳は次の言葉を失っていた。
紀州大納言――徳川頼宣、いうまでもなく御三家の一つ、五十五万五千石の大守であるのみならず、現三代将軍家光の叔父にあたる。すなわち神君家康の第十子であり、二代将軍秀忠の弟である。その性|豪《ごう》|邁《まい》不屈、ひと呼んで南海の竜と称し、みずからも南竜入道と号している人物であった。
「まさか、大納言さまが……あの山師ごときに!」
と、主膳はくりかえした。
由比張孔堂、門弟三千と称するなかに、むろん大名旗本もふくまれているが、調べてみると、たいていとるに足らぬ物好きで酔狂な連中ばかりで、心あるものはすぐに遠ざかる。――と、きいていたからだ。しかし、紀州大納言頼宣が「夜中、しばしば」榎坂の由比屋敷の門を出入りするとなると、これはまことにききずてならぬことであり、笑殺できぬことである。
「伊賀者は、そう申した」
と、但馬守はくりかえした。
「そりゃまことでござるか」
「伊賀者が二人、ここに来てそう告げた。……しかし、その両人とも、恐ろしい傷を受けてもどって来て、報告の言葉もまだ終わらぬうちに落命した」
「伊賀者が――斬られましたと?」
ことはいよいよ重大である。
ただじっと眼を見張っている主膳の眼前で、但馬守はひたいに手をあてた。
「しかし、それが果たして紀伊大納言さまであるか、どうか、伊賀者もたしかでない風であった。というのは、その両人ともに、いまだ大納言さまをじかに拝見したことがないからじゃ。では、なぜそれを大納言さまと思うたか、と問うたのに、はかばかしい返事もせぬうちに、両人ともにこときれた。……」
但馬守は顔をこちらにむけて、
「事は容易ならぬ。伊賀者が死んだはふびんでもあり、恐ろしいことでもあるが、かかる風評がひろがらぬうちに彼らが死んだのは、徳川家のためにはかえってよかったかもしれぬ。……」
父の眼が、しだいにひかって来た。
「主膳、そちは城中で大納言さまを存じておるの」
「はっ。……」
「この秘事、余人にまかせられぬ。……そちが探れ」
病んでいるとは思われぬ父の眼であった。いや、ここ十数年、しずかに老いつつあった父の、久しぶりに見る|凄《すさま》じいまでの眼光であった。
「大目付柳生但馬守として、この御用、柳生主膳に命じるぞ」
「はっ」
両手をつかえた主膳を、じっと但馬守は見つめている。
のちに飛騨守宗冬と呼ばれた三男坊だ。決して不肖の息子ではない。それゆえに、父はこの秘命を下した。にもかかわらず。――
但馬守は、また胸の奥でつぶやいた。
「……十兵衛がおってくれたら。……」
【二】
柳生家に妙な訪問者があったのは、その翌日であった。
「宝蔵院が来たと但馬どのに申してくりゃれ」
と、その客は玄関でいった。
取次の武士は、眼をまろくした。碁盤に墨染めの衣をまとわせ、|網《あ》|代《じろ》|笠《がさ》をのせたような雲水なのである。それはいいとして、うしろに従えているのが、実にはっと眼を見張るような美女なのだ。――しかも、ふたりも。
宝蔵院? と主人はおどろき、|胤舜《いんしゅん》坊なら通せ、と命じた。
「や、御病気か」
座敷の入り口で、胤舜は立ちすくんだ。
褥の上で、但馬守は座ってこれを迎えたが、このときなぜか、彼自身もひどく驚愕したように、全身がしばらくうごかなくなった。
老いたり但馬守。――その感慨よりも、夜具をのべているその状態と、病みやつれて眼のまわりに|隈《くま》のあるその姿に、胤舜は、と|胸《むね》をつかれたらしい。――逆に、但馬守の方がはやくわれにかえり、微笑した。
「去年の暮れより、この始末じゃ。ほかの人間なら通さぬところじゃが、胤舜ゆえ、かかるありさまで失礼する。――まず、そちらも、座ったらどうじゃ」
「や、これはでくのぼうのように突っ立って」
胤舜はあわてて座った。そして、あごをしゃくられて、うしろについていたふたりの女も、そっとそこに座った。
「これは、とんだところへ推参したものじゃ。いや。――御病気とあれば、来てよかった。いちどひき返そうとして、やはり江戸に来たのは、虫が知らせたのかもしれぬ。あらためて、但馬どの、お見舞いを申しあげる」
「胤舜坊、どこから来たか」
「どこといって、例によってあてどなき漂泊の雲水じゃが。――こんどは東海道を下って来た」
ふっと思い出したように、
「但馬どの、おぬしには悪いが、名古屋を通る途中、ちょっと尾張柳生を訪ねて来たぞ。……どうあっても、ちかごろ工夫した槍を、如雲斎相手にためしとうなっての」
「悪い? ……何も、悪くはない」
「江戸柳生は、尾張柳生の息のかかった者をきらうであろうが」
「何を――向こうは知らず――」
と、但馬守はこともなげに笑いすてて、
「で、どうであった」
「如雲斎どのは留守であった。京の寺へ参られたそうじゃ」
「ほう」
と、いったが、但馬守は尾張柳生の主人公の動静にはそれ以上の興味はないらしく、
「それで胤舜坊、こんどはここへ試合に来たか」
と、笑顔できいた。
「ううむ。そのつもりではあったが。――」
「それはきのどく。わしは、もはやふたたび起てぬ死病にかかっておる」
「死病」
胤舜ははっとした。
「それはまことか、但馬どの」
「この腹をなでるに、シコリがある。俗にかめ腹という奴。――」
かめ腹とは、いまでいう腹部の内臓|癌《がん》のことである。胤舜は、むろんその恐ろしさを知らない。
「かめ腹? なんであろうと、柳生但馬守ともあろう者が、そうやすやすと死んでたまるか。わしと立ち合えば、そんなもの、吹きとんでしまうのではないか」
「そうはゆかぬ。いままで、この病いにかかって|癒《い》えた奴を、わしはまだ知らぬのじゃ。……立ち合いたい、胤舜坊となら、もういちど立ち合ってみたいと、御坊のくるのをずっと待っておったのじゃが、人間の命は思うようにならぬ。はは、わしはともかく、せっかく来てくれた御坊の方にきのどくじゃて」
自若として、但馬守は笑った。
「それで、何か悟るところがあったか。御坊がまたここにやって来たとあれば、必ず何か工夫があったのであろうが」
「うむ。……」
と、いったまま、宝蔵院胤舜はむずかしい顔をした。
そもそも彼が、こんど江戸に旅して来たのは、この柳生但馬守と試合するためであったのだ。
胤舜は、奈良で宝蔵院の二代目をついだあと、すぐちかい柳生谷の人々と親交があった。このころ柳生兵庫はすでに加藤家に仕えて九州に去り、さらにそこを致仕したあとも漂泊していたから、胤舜は兵庫を知らない。胤舜が知ったのは、この但馬守宗矩の方であった。というのは、石舟斎歿後、柳生の庄は徳川家から、兵庫にではなく但馬守に与えられたために、但馬守はしばしば柳生に帰ったことがあるからだ。
年は二十ちかくもちがうが、但馬守はこの槍にすぐれた若い僧を愛した。豪快な胤舜は、年長の、しかも大名となった宗矩を、但馬どの但馬どのと友達あつかいにしたが、謹直な宗矩は、かえってそれをよろこんでいる風であった。
しかし、胤舜の槍は、ついに但馬守の剣に及ばなかった。
槍に関してだけは決して|洒《しゃ》|落《らく》ではない胤舜は、しだいに深刻になり、まだそれほどの年でもないのに、彼が宝蔵院を三代胤清にゆずって放浪の旅に出たのは、主としてこのためであったといってよい。
そして胤舜は、ついに江戸のこの柳生道場にあらわれた。――もう十数年前のことだ。
彼は一工夫を案じたから、是非お手合わせを願いたいと請うた。すでにこのころ、柳生流は将軍家指南のお|止流《とめりゅう》――他流のものとは試合をしない――ということになっていたが、但馬守はとくに胤舜と立ち合った。荒木又右衛門が見分したのはこのときであり、また但馬守が荒木ひとりに見分させたのはこのためである。
そして胤舜は、またも但馬守の一撃に敗れ去った。――
「もういちど参る」
胤舜は悲痛な顔をしていった。
「こんどくるときは、必ず但馬どのを破ってみせる」
そういって去った彼は、十数年を経て、ふたたび但馬守の前に出現したのである。
いま。――
「工夫はした。……このたびこそは、さしもの但馬どのを負かしてみせるという工夫を案じて来たつもりであったが。――」
と、いって、胤舜は、お佐奈をふりかえった。
「細工のたねは、あの女じゃ」
「あの女人?」
胤舜は、ぽつりぽつりと、例の――禁欲によって精を貯め、そのぎりぎりの前日乃至前夜にたたかえばほとんど超人的なわざを発揮できるという能力――を発見したことを語った。
こんなことを語るのに、胤舜は実にむずかしい顔をしていたが、但馬守が破顔したのは当然である。しかし彼は、
「なるほど」
と、うなずいただけであった。
「御坊が、女人をつれているのはおかしいと思ったが、そのためであったか」
「それが。――」
と、胤舜は苦痛にみちた眼を但馬守にむけて、
「その工夫も、怪しゅうなった。落胆のあまり、いちどはここへくるのもやめようとした心境にまで立ち至った。但馬守どのと立ち合う以前に、わしはべつの人間に敗れたのじゃ」
「べつの人間? ……御坊にまともに立ち合える人間が、ざらにこの世にあろうとも思えぬが。……すでにあのとき――この数十年、但馬が真に冷汗をかいたは、このまえ御坊と立ち合ったときばかりじゃ。――」
「但馬どの」
と、ふいに胤舜はさけぶようにいった。
「荒木又右衛門が生きておることを御承知か」
「荒木。――」
但馬守はけげんな表情で、
「あれは、惜しいことに少壮にしてこの世を去った。もう十年にもなろうか」
「その又右衛門が生きておるのだ。わしは江戸へくる途中、大井川でたしかに見たのだ」
「御坊、眼がどうかしたのではないか」
一笑する但馬守をにらみ、胤舜はうめくようにそのときのことを語り出した。
東海道で三人の六部にからまれたことを――大井川の河原で、その若い方の六部の奇怪な術のために、じぶんがいままで味わったことのない無惨な敗北を喫したことを――年長の六部が、みずから荒木又右衛門だと正体をあきらかにし、それにまちがいなかったことを――そして、彼の語った忍法「魔界転生」のことを。
「その三人の六部のうちのひとりが、この娘じゃが」
と、胤舜は、ちらっともうひとりの女の方を見やった。
「……この話、お笑いなさるか、但馬どの」
但馬守は笑わなかった。
彼は胤舜より、その女の方をじっと見つめていた。――そういえば、これまでの問答のあいだ、彼はふしんそうに、その女の方にしばしば視線をむけていたようだ。
「そうか。その女人は、はじめからの御坊のつれではないのか」
「左様、大井川で又右衛門らが姿を消したあと、この女だけ残っていたのじゃ。……やむを得ぬから、いっしょにつれて来たが。――」
「ふうむ。……」
但馬守はなお女に眼をそそいだまま、
「そなたは月ケ瀬の女ではないか?」
「や!」
と胤舜は大声をあげた。
「但馬どのは、この女を御存じなのか?」
「いいや、知らぬ」
「なら、月ケ瀬の女とは?」
月ケ瀬は柳生の庄からほんの一足、東にある村で、古来梅の名所としてきこえたところだ。――但馬の頬が、この年にして、ややあからんだようであった。
「わしは、実は最初その女がここへ入って来たとき、はっとした。わしの知っておる或る女人に生写しであったからじゃ。月ケ瀬の娘で、名はおりくといった。……が、それはわしが柳生を出て徳川家に出仕したころじゃから、もう五十年も昔のことじゃ。そのときわしの知っておった女が、いまここにあらわれてくるわけはない。……と、すぐに気がついたが」
彼は苦笑した。
「しかし、いかにもよう似ておる。そのおりくと血縁つづきの女に相違ない。のう、そうであろうがな?」
「但馬どの、きいてもむだじゃ」
と、胤舜も苦笑をうかべてくびをふった。
「その娘は唖じゃよ」
「何、唖?」
「されば、わしも荒木らのことをもう少しきこうと思ったが、どうにもならぬ。狐につままれたようなきもちでつれ歩いておる」
この問答を、ふたりの女はほとんど無表情にきいていた。
無表情といっても、仮面のような感じではなく、胤舜の|賦《ふ》|活《かつ》|剤《ざい》たる女は、たえず全身を微動させ、あかい唇を舌でなめて、白いのどのあたりをヒクヒクうごかせ、どこか肉欲に憑かれたような姿態をみせているし、唖娘の方は、ぼうっと|春霞《はるがすみ》につつまれているようだった。ただ、但馬守と胤舜の問答は耳にしているはずなのに、それに対して全然無反応なのである。
「胤舜坊、で……御坊がその佐奈と申す女人と交わると、そなた転生いたすというのか」
「荒木はそう申した」
「もうひとりの女人は?」
「これはどうかわからぬ。この女に、しんそこ惚れた男が交われば、この女からその男が生まれるかもしれぬ」
但馬守は黙って、またその美しい娘を、褐色に|隈《くま》どられた眼で凝視した。
「で、但馬どの、信じてくれるか」
「いや、信ぜぬ」
と、但馬守はいった。
「わしの申したこと……夢物語と思われるかや」
「いかにも、わしは左様な怪力乱神を信じない。御坊の逢ったその荒木と名乗る男は、よう似た顔をたねに御坊をたぶらかし、からかったものであろう」
但馬守の眼は、剣法の名人というより、現実的な政治家の眼であった。
「なんのために?」
「目的は知らぬ。が」
と、但馬守は冷静に、
「それがまことに又右衛門なら、又右衛門はまずわしのまえにあらわれるはずじゃ。だいいち、わしが死にかけておる。御坊、死にかけた男が、惚れた女と交合すれば転生すると申したな?」
このひとらしくもなく、|諧謔《かいぎゃく》のまなざしで、
「それとも、荒木め、もはやわしに交合する力はないと見くびりおったか? は、は、は」
と、笑った。
「そうか。但馬どのはとうてい信じまい、とは思うたが、いや、わしの申すことを但馬どのならば信じてくれるかもしれぬ、とかんがえて、但馬どのだけに打ち明けたが。……」
胤舜はさびしげに笑い、しばらく黙りこんだ。
ふたりのあいだに、どことなく所在なげな、ぎごちないものがながれた。――胤舜はふと顔をあげ、
「御子息は? 御|挨《あい》|拶《さつ》したいが」
「|主《しゅ》|膳《ぜん》か。あれは折り悪しく、所用あってこのごろ他出しておる」
但馬守はくびをふった。
「あれは、どうやらこうやら上様御指南を相つとめはおるが、とうてい御坊の御相手にはならぬよ」
「いや、試合のことではない。ほう、主膳宗冬どのは、たしか御三男であったな。将軍家御指南となられた、ときいて、もうそうなられたか、とおどろき、且よろこんでおった。――御長子は?」
「十兵衛か」
但馬守はにがい顔をした。
「あれは、柳生谷にかえしておる。いや、放逐といってよい。三年前、ばかげた所業をいたしてな」
「何、柳生へ」
「御坊、御存じなかったのか」
「いや、わしはここのところ四五年、奈良へ帰ったこともないで。……そうとは知らなんだ」
胤舜はふいに張りをとりもどして、
「柳生十兵衛。……このまえわしがここに来たときも、どこへいったか行方不明ということで、ふしぎにまだかけちがって逢うたこともないが……剣名はきいておる。ひょっとしたら、おやじどのたる但馬どのより腕は上かもしれぬ、という噂をきいたことがあるぞ」
「ばかな」
「わしはな、但馬どの、こんど江戸にくるとき――いま話した大井川の一件ある前は――但馬どのとともに、その十兵衛どのがおわしたら、これとも是非試合をしてみたい――と、こう思っておったくらいじゃ。なに、ばかげた所業をやって放逐したと? いったい、十兵衛どのが何をしたのじゃ?」
「上様に御指南申しあげて、上様が御気絶なさるほど打ちすえた」
「ほ、ほう」
胤舜はぽかんと口をあけ、まじまじと但馬守を見ていたが、いきなりピシャリとひざをたたいた。
「噂にたがわぬ痛快な息子どのではないか。兵法の修行はさもあるべきもの。――」
「そうはゆかぬ。相手が上様じゃ」
「しかし、但馬どのは――十兵衛どのがまだ二十前後のころ――息子どのを教えていて、その片眼をつぶしてしまったというではないか」
但馬守は沈黙した。
その通りだ。しかしそれは、兵法修行のきびしさを教えるというよりも、その試合のとき、但馬守自身が危険をおぼえて、思わず本気の剣をふるった結果でもあった。わが息子ながら、恐るべき奴と思う。……が、その危険な嫡男が、このごろこの上もなく頼もしく思い出されるのは、どうしたことであろう?
「息子どのの所業の悪口はいえぬ。……たとえ相手が何者であれ、剣法は踊りの修行ではないはず。それで将軍家から、おとがめがあったのか」
「ない。ないが、わしが放逐した」
胤舜はじっと但馬守を見つめて、その眼にやや軽蔑のひかりを浮かべた。
「……ははあ、一万二千五百石に縛られておると、人間、つらいものよのう」
「そうではない」
と、但馬守はくびをふった。
「十兵衛がそれを望んだからじゃ。……あるいは、それを望まなかったからじゃ」
「――と、いうと?」
「わしも、七十をこえた。で、もはや将軍家御指南の役を、しかとだれかにゆずっておきたいと、たまたま十兵衛が旅から帰っておったのを機会に、きゃつをつれて御前に出た。すると、いま申した通りの始末となった。兵法修行のきびしさを上様にお教え申しあげる……それほど殊勝な、まともな考えをもつ男ではない。きゃつは、将軍家御指南という役がいやでいやで、それをわしに思い知らせるために、左様なまねをしてただ一撃でわしの意志をぶちこわしてしまったのだ」
「ふうむ。……いや、わかるぞ」
「きゃつは、とうてい左様な役、一万二千五百石で安閑としている奴ではない。いや、もっと大それたことを望んでおるというより、無頼奔放、常人の行儀作法にたえられぬ奴じゃ。それを当人が承知しておる。それどころか、きゃつの剣は、いわば殺人剣、柳生家をつげば、かならず柳生家をつぶしてしまうであろう。……」
「――すると、但馬どの、柳生家のあとは? あの主膳どのになさるおつもりか」
「まだ、よくきめてはおらぬ」
但馬守は重い声でいった。
嫡男は十兵衛だが、次男の刑部|友《とも》|矩《のり》は若くして死んだので、あとに残るのは三男主膳宗冬だ。重い声となったのは、この主膳が、剣法に於てはいささか兄たちに見劣りすることを思い出したからであった。
「そうか、主膳どのが御指南役になったのは、そういう事情であったか。……しかし、但馬どの、さっき死病にかかったと仰せられたな。そのことを、十兵衛どのには知らせてあるのか。……」
「いや、まだ知らせてはおらぬが。……」
但馬守の声は、いよいよ重い。
「なぜ、知らされぬ。それでは……万一の際、死に目にも会えぬことになるではないか」
「いや、知らすまい。……きゃつに知らせる要はない」
――重い声は、そういいながら、但馬守自身まだ迷っているところがあったからだ。
じぶんが死ぬとき、嫡男の十兵衛がそばにおれば、たとえ彼がそれを望んでおらぬことは明らかだとしても、父として、彼をおいて家督を三男の主膳にゆずることはできぬ。しかし、十兵衛にあとをつがせれば、あれは必ず柳生家を滅ぼすにきまっている。主膳ならば、おだやかに柳生家をついでいってくれるであろう。……但馬守が、おのれの死期を十兵衛に秘しているのは、ひとえにそのためであった。
しかし、いま胤舜に、一万二千五百石に縛られていると笑われて、そうでない、とかぶりをふったが、かんがえてみればその通りだと思う。……但馬守は心ひそかに赤面せざるを得ない。おのれの操志の衰えたことをかなしまずにはいられない。主膳が柳生家をつぐ。いま胤舜に、柳生家のあとはまだきめてはおらぬ、といったが、結局そういうことになる。それで柳生家は安泰であろうが、しかし新陰流の|淵《えん》|叢《そう》たるべき伝統は?
いや、それより以前に、いま死期せまったじぶんが、はからずも探知したある容易ならぬ事件に、やむなく主膳を起用したものの、すでに何とも名状しがたい心もとなさをおぼえているのだ。
ああ、かかるとき、十兵衛がいてくれたら、と、切にそれが思われる。
――何やら、憂わしげに沈思している但馬守に、胤舜はあたまをさげた。
「では」
「御坊、ゆくのか」
「御病中、あまりに話しこんでは悪かろう。きょうのところは」
「胤舜坊、わしはまもなく死ぬぞ。坊主でありながら、わしに引導をわたしてはくれぬのか」
「いや、それは。……」
「まあ待て、胤舜坊、ここにいてくれ。あまりながいことではない。いま御坊の来たのは|一《いち》|期《ご》の縁じゃ。ともかくも――しばらくこの屋敷に泊まっていってくれい。それらの女人ともどもでよい」
この人にはじめて見るすがりつくような眼であった。
「せめて、主膳が帰邸いたすまで」
――そうまでいわれて、胤舜は辞しかねた。
彼ら一行は、そのまま柳生屋敷に滞在した。
泊まって、しかし、胤舜はよかったと思った。よかったといっては語弊があるが、その日以来、急速に但馬守の病状が悪化していったからである。にもかかわらず、主膳宗冬は姿をあらわさぬ。「主膳どのは?」と但馬守にきいても、語をにごしているし、家人のだれもが、それについて胤舜以上に気をもんでいる様子はあきらかなのに、だれもそのゆくえを知らないようだ。
「――はて?」
胤舜は、彼自身ここに来た目的、あるいは但馬守の病気のことはさておいて、この屋敷にはまったく別の何かただならぬ事件が進行中であることを|漠《ばく》と悟った。
「何かある。……何が起こっておるのか?」
春はみるみる深くなってゆく。花は咲き、そして散った。三月も末にちかづいた。
【三】
三月二十五日の夜だ。というより、もう二十六日の|子《ね》の下刻(午前一時)にちかかった。
「慶安太平記」によると、由比正雪の道場は、建坪だけでも千五百七十坪あったという。これはちと|法《ほ》|螺《ら》くさいが、そう後代に法螺を吹かれるほど広大な榎坂の由比道場の裏門が、ぎいとひらいた。
雨がふっていた。
裏門から|一挺《いっちょう》の駕籠が出て来た。なんのへんてつもない町駕籠だが、それを四五人の男がとりかこんでいる。そのまま、ピタピタと|矢《や》|来《らい》|下《した》の方へ歩いてゆく。
「……?」
やや離れて、それをひとりの武士が見送って、しばし迷っている風であったが、すぐに意を決して、それを追い出した。黒い|頭《ず》|巾《きん》をつけてはいるが、羽織袴の様子から、いかにも大身の武士らしい。
これは柳生主膳宗冬であった。
紀伊大納言頼宣卿が由比道場にしばしば出入りしている疑いがある。その実否を、なんじ、ひとりでひそかにたしかめよ。――という父の命令で、この十数日、外桜田の紀州邸やこの牛込榎坂かいわいを、ひとしれず探っていた柳生主膳である。
幸か不幸か、この間、紀伊頼宣は外桜田の屋敷から、一足も外へ出ないようであった。
そして今夜――夜に入ってから、ついに――ようやくその屋敷から出た一挺の乗物が、十数人の武士に護られて、この牛込の由比道場に入ってゆくのを彼は見たのだ。しかも、その裏門に。
いま、数刻を経て、その裏門からまた一団の影があらわれた。
さっきのような貴人用の乗物ではない。またそれをとりかこむ人数もちがう。――しかし、彼らはみな武士だ、と主膳は判断した。
一見さりげない一団だが、それをつつむ雰囲気は粛然たるものがある。闇夜ながら、それはわかる。
あれが紀伊頼宣卿? まさか?
いや、あれはたしかにただ者ではない。そもそもこの夜中、あかりもなく出てゆくのがいぶかしい。大納言だ。十中八九まで紀州大納言だ。
頼宣卿ならお顔は知っておるが、なんとかあの駕籠から出す工夫はないものか?
主膳は気をもんだ。焦慮した。しかも、じぶんの顔をむこうに知られてはならぬのである。
右は酒井家のなまこ塀、左は御先手組の組屋敷の土塀にはさまれた矢来下まで来たときであった。主膳ははっとあることに気がついた、もしこれが紀州頼宣卿に相違ないならば、それがくるときと帰るときと、乗物、人数まで変えているということは――追跡者があるということを知っているのではないか?
そのとき、三四間も先をいっていた行列が、ピタリととまった。
「ここらでよかろう」
だれか、いった。同時に、そこから何やらビューッと飛んで来た。
「……あっ」
主膳は立ちすくんだ。
飛来したものは、いままで彼が見たこともきいたこともないものであった。それは一つではなかった。小さな|蝋《ろう》|燭《そく》を十文字につらぬいた鉄串のようなもので、それが旋回しつつ飛来してくると、主膳とは反対側の土塀の壁に、音たててつき刺さり、四つ五つ羅列したのである。衝撃と同時に、なんたるからくりか、雨の中に蝋燭はいっせいに燃えあがった。
くゎっと主膳は照らし出された。
「はてな?」
向こうで声がかかった。
「これは、いつものように伊賀者ではないな?」
「武士だ」
「これはいよいよ生かしては帰せぬ」
そして、駕籠わきに、ただひとりだけを残し、あとの四人がいっせいに抜刀して馳せ寄って来た。
主膳がおどろき、狼狽したのは、その奇怪な蝋燭を見た刹那だけである。――よし、とむしろ彼はうなずいた。いかにして駕籠の中の人物を出すか、ということに苦慮していたところだ。これは向こうで、その機会をあたえてくれたものといっていい。
壁蝋燭に照らされて、銀線のような雨の中に、白刃がきらめいた。二度三度刃がかみ合うと、四つの影は地にはった。灯影に血しぶきがとんだようにも見えなかった。
「狼藉だろう」
はじめて主膳は声をかけた。刀身は血ぬられていない。彼はすべてみね打ちで襲撃者をたおしたのである。
頭巾も乱さず、駕籠にむかっていった。
「どなたさまか、御挨拶なされ」
二歩三歩、寄って、柳生主膳は、駕籠わきに残っていたひとりの男が、妖しい姿勢をとるのを見た。手には何の武器を持っているとも見えないのに、両腕をのばして頭上で組み合わせたのである。
――忍者だな。
主膳の頭を、先刻の奇怪な蝋燭がかすめた。彼はピタと静止した。
「殺すな」
そのとき、駕籠の中から、しゃがれた声がかかった。
「あれを殺してはならぬ」
そして、みずから駕籠の垂れをあげて、ニューッと外に出て来た者がある。
|十《じっ》|徳《とく》を着て、杖をついて、どっしりとした巨大な姿であった。しかも、入道頭だ。……主膳の頭を、殿中で見た南竜公頼宣の風貌がはためき、覚悟はしていたが、本能的にひざをつこうとした。
――が、次の刹那、
――ちがう!
と、心中にさけび、愕然と眼を見張っていた。
体格の大きさ、入道頭こそ似てはいるが、顔はまったくちがう。だいいち大納言頼宣卿はまだ四十の半ばのはずだが、眼前に立ってこちらを見すえているのは、もう七十にちかい老人であった。ただ、しかし、その全身からは名状すべからざる精気が発していた。
「ふむ、わしが挨拶してやろう」
と、入道頭の老人はしずかにいった。
――しまった、と思うと同時に、主膳は、これ以上かかわり合えば事面倒、と判断した。
「いや、お顔さえ拝見すれば、それ以上の御挨拶は御無用。失礼いたす」
背を返して、歩み去ろうとしたのである。
「待て、江戸柳生」
声は、主膳の足を釘づけにした。
「しかも……いまの手並からみると……おそらく柳生の御曹子、主膳宗冬と見たはひがめか。頭巾をとって、顔を見せい」
笑みをふくんだ声をきくと、主膳はくるっと姿勢をかえした。ただ柳生と看破したならわかる。しかし、わざわざ「江戸柳生」と呼んだこの老人は何者か?
なんにしても、柳生主膳宗冬と見ぬかれて、もはやこのまま背は見せられぬ。いや、それよりも、この老人をとらえて、頼宣卿ならずとも、その正体を明らかにしてやろう。
いちど鞘におさめかけていた刀身をあげて、主膳はかまえた。
「名乗れ」
老人はまだ杖をついたまま、ぶきみな笑顔で、じいっとこちらをながめている。
ふたりのあいだに、雨はしずかに降っていた。
主膳の背に戦慄が走った。相手はただ杖をついただけで立っている。それだけで、全身の筋肉がみるみる硬直してくるような感覚に縛られて来たのだ。
ものもいわず、主膳は殺到していた。
「|推《すい》|参《さん》なり、小せがれ」
その声をきいただけで、主膳は棒のようにぬかるみにたおされて、そのままうごかなくなっていた。
【四】
――その夜明方。
雨ふりしきる霞ケ関の柳生屋敷、その門の扉に、ひとりの男がもたれかかるように座っている姿が見つけ出された。
すぐに失神しているだけだということはわかったが、同時にこれがこの屋敷の御曹子、主膳宗冬だということもわかって、人々を驚愕させた。
……主膳は意識をとりもどした。はじめ暗い空に銀の雨がふっている幻覚があり、その雨の向うに、じいっとひかっている恐ろしい二つの瞳がよみがえってきたとたん――「うぬ」と主膳はとび起きようとして、右の脇腹と背の腰の部分に激痛をおぼえた。
「主膳」
と、呼ぶ声がした。
父の但馬守と、ひとりの僧がのぞきこんでいた。主膳はここが父の病室であることに気がついた。
――どうして、わしは?
「おまえは、けさこの屋敷の門前に、雨にうたれて気を失っておった。いかがいたしたのじゃ」
但馬守がきいた。
主膳はすべてを思い出した。……思わずさけんだ。
「あ……あの入道は何者か?」
「入道とは?」
主膳は起きなおろうとして、脇腹と背の痛みにまたがばと伏し、歯をくいしばりつつ、けさの矢来下の事件を語った。
「……駕籠から立ちあらわれましたるときは、てっきり南竜公さまと思いましたが、よく見ればちがっておりました。おそらく拙者の追跡を知り、替玉を以てたぶらかそう――すなわちはじめ由比屋敷に入ったのは大納言さまではない――と思わせようとしたものと存じまするが」
「それが、そちを、江戸柳生、と呼んで挑んできたというのじゃな」
「されば。……うぬ」
と、主膳は立ちかけて、また苦痛のうめきをあげた。
「年はいくつくらいか」
「かれこれ七十に近うござろうか。あたまをまるめた大兵の老人でござった。……拙者、もういちど由比屋敷へゆき、あの老人と立ち合わねば気がはれませぬ」
「それが、そちを、主膳宗冬と見ぬき、柳生の小せがれ、と呼んだというのじゃな」
但馬守の声は乾いていた。
「相手の武器は、棒か、|杖《じょう》か」
「杖――のように見えましたが、父上はなんで御承知で」
「そちの脇腹に打たれた跡がある。凄じい手練。……軽く打ったようで、主膳、そちはあと半年は刀もとれぬぞ」
主膳は脇腹をおさえた。じぶんの刃は相手に触れもせず、ただ疾風のような一撃を胴に感じたことを思い出した。
「なお、そちの背――腰の上にも傷がある。それは|小《こ》|柄《づか》で刻んだあとじゃ。おそらく気絶したそちを、いちど裸にして、そのような細工をしたと見える」
「あ。――」
こんどは主膳は腰に手をやった。
「小柄で刻んだ、と仰せられると?」
「尾という一字。しっぽの尾の字が」
但馬守は、醜怪とみえるまで顔をしかめた。氷のような声で、
「同時にそれは、尾張の尾の字でもある」
「――尾張?」
けげんそうな眼をむけたのは、宝蔵院|胤舜《いんしゅん》であった。
「尾張柳生。――」
但馬守はうめいた。
「主膳、そちの相手になった老人は何者と思うか。いまそちは、もういちど、と申したが、そちごとき未熟者では、千たび立ち合うとも歯がたつまい。あれは、尾張の柳生如雲斎。――」
「やっ」
胤舜は大声をあげた。
「但馬どの、それが柳生如雲斎どのじゃと? 如雲斎どのが江戸におると? あの御仁は、京の妙心寺にいっておるはずではなかったか?」
「その如雲斎がなぜ江戸におるか、わしも知らぬ。御坊が名古屋でそうきいてきたのがいつわりであったか、如雲斎の家人もまたあざむかれていたのか、わしは知らぬ。ただ由比屋敷におるその老人が、柳生如雲斎であることにまちがいはない」
但馬守は、息を刻んで、
「その入道頭、年ばえ、彼の申した言葉のはしばし、さらに主膳の腰に彫りつけたその文字。――何よりも、その手練から、それは如雲斎以外の人間ではない」
胤舜も、主膳もしばらく沈黙していた。驚愕のため、口がきけないのだ。――ややあって、胤舜はじっと但馬守を凝視して、
「柳生如雲斎が……何のために張孔堂に?」
「それは知らぬと申しておる。ともあれ、それにて由比正雪なる男が、いよいよ容易ならぬ人物であることを知るばかりじゃ。……ただ、如雲斎が、主膳と知ってこれに挑み、これに恥辱を加えた理由はわかる」
但馬守はきしり出るような声でいった。
「あれは江戸柳生に対する挑戦、いや、このわしに対する如雲斎積年の鬱憤ばらしじゃ」
「ううむ。……」
「もう二十年以上もの昔、あれがまだ兵庫と名乗っておったころ、いちど江戸に来て、わしに試合を挑んだことがある。その面魂には殺気があった。わしの心はうごいたが、しかし断わった。わが江戸柳生はお止流でもあるし、おなじ柳生一門が争って、どちらが勝ったにしろよい結果は残さぬと思うたからじゃ。彼は黙って、冷笑して去った。――」
「如雲斎どのが、江戸柳生に対してよい気持をもっておらぬことは、わしも承知しておる。しかし――さればといって、いま主膳どのに――将軍家指南役にかかる恥辱を加えて、あの御仁はぶじにすむものと思うておるのか?」
「将軍家指南役がかかる恥辱を加えられたことを、世にあからさまにできると思うか、胤舜坊」
胤舜は、|面《おもて》をたたかれたような顔をした。
「ううむ、いかにも。――」
「江戸の柳生家のあとつぎが、尾張の柳生如雲斎に一合も合わせず地にはわされて、尻の上に尾の字を彫られたと世に知られたら。――」
但馬守はキリキリと歯ぎしりした。
「知られてはならぬ。このことは、|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》、世に知られてはならぬ、主膳の尻の上の尾の字は、永遠の秘密としておかねばならぬ。それどころか――主膳、いままでわしが探索してきた張孔堂一件のこと、それまでもすべて忘れてしまわねばならぬ。わしがおまえに用を頼んだのはまちがいであった。……」
蒼白になって這いつくばっている三男坊を、怒りにみちた眼でにらみつけ、但馬守はまた心中にうめいた。
――ああ、十兵衛がおってくれたら。……
――しかし、あれはあれで、柳生家を滅ぼす。……
「如雲斎はそれを見通して、あのような所業をしてのけたものとわしは見る。きゃつの狙いは、わしじゃ。腹が立ったら、但馬よ、出てこいと申しておる。……」
「わしが」
と、胤舜はさけんだ。
「如雲斎に恨みはないが、世におのれを知る者は但馬どのおひとりとまで思うておる胤舜じゃ。わしが江戸柳生に代って、如雲斎どのと立ち合い、この恨みをはらしてくれる」
「御坊では、何にもならぬ。それに……御坊では……如雲斎に及ぶまい」
「何を。――」
「……天下に、いま生ける者のうち」
と、但馬守はしみ入るようにつぶやいた。
「柳生如雲斎の相手に立ち得る者は、この|宗《むね》|矩《のり》くらいであろうか。――」
すでに死相といっていい暗灰色の顔、苦病に枯れ朽ちんとしている小柄な肉体――それからいまめらっと燃えあがるような絶大の自信と、そして凄じい闘志に、宝蔵院胤舜は、次になお言い返そうとした声をのまれた。
「しかし――この但馬守は死なんとしておる。おそらく、きょう一日のいのちであろう。……」
「た、但馬どの! 何をいわれる」
「いや、わしにはわかるのじゃ。わしの命脈はまずきょうかぎりと計っておった。その朝、わが伜がかかる醜態をさらして帰ってくるとは……運命じゃな」
そして但馬は、きっとして主膳を見た。
「ゆけ、主膳」
「は?」
「|退《さが》りませい!」
いま死なんとしているという人にしては、|鉄《てつ》|鞭《べん》のように強烈な声であった。主膳は傷の痛みも忘れ、這うように座敷を去った。
見送った感情のない眼をもとにもどし、
「胤舜坊、あの唖娘を呼んでくれ」
但馬守は黒くひからびた唇をひきつらせていった。
「わしは、あの娘を以て、魔界に|転生《てんしょう》いたしたい。――」
宝蔵院胤舜は息をひき、眼をかっとむいて相手を見まもった。
「但馬どの」
と、さけんだ。
「あなたは……あれを、魔界転生のことを、信ぜぬということではなかったか?」
「御坊は信じるか」
「わしは……いまだに信じておる。恐ろしいことだが、信ぜずにはおれぬ」
「では、いま、わしも信じる。御坊がいつわりをいうまい。……」
但馬守は肩で息をしながらいった。あえぎながら、きみのわるい笑いを、口辺に皺としてにじみ出させている。……「変身」せざるに、はやくも但馬守が変身したような恐怖をおぼえ、胤舜は手足が金縛りになったような感じがした。
「ふいに寝返ったようだが、まず、胤舜坊、きけ」
但馬守は笑いを消していい出した。
「そもそもわしは、わしの人生を悔いておった。ひとつは、御坊もさげすんでいたであろう一万二千五百石の荷物じゃ。他愛もない将軍家指南役、しかつめらしい公儀大目付。……これを大過なく、いや後生大事に相勤めて、いま宗矩は七十六年の生を終わる。――しかし、それが出世であったか、柳生石舟斎の伜として会心の事であったか、わしはかようなことをするためにこの世に生まれて来たか? と思うと、病む以前から、わしは骨をかむような疑い、|空《くう》の思いにさいなまれる夜々を持った。……」
「但馬どのが。……」
「わしは第一歩から過っておったのではないか、そもそも柳生を出て、徳川家に仕えたのがまちがいのもとではないか。……それにつけても思い出すのは、もう一つ、若いころ、柳生のとなり村、月ケ瀬の庄の娘、おりくのことじゃ。わしはその娘と契りを交わしながら、出世のためにそれを捨てて、柳生を出た。……」
「……但馬どのが……」
胤舜はくりかえした。この謹直無比の官吏の典型のような宗矩が、そのような虚無に心を吹かれ、そのようなあえかな追憶を持っていようとは思いのほかであった。
「胤舜坊、荒木は生きておるぞ」
「え。――」
「荒木がまことに再誕したものならば、まずわしのまえに現われるはずじゃとわしはいった。荒木は、じぶんの代わりに、あの唖娘をよこしたのじゃ。おりくそっくりのあの娘を」
但馬守の眼はぎらぎらとひかり出していた。
「わしは又右衛門におりくの話をしたおぼえはない。しかし、又右衛門は月ケ瀬にちかい生まれじゃ。村の古老からきけば、知らぬ話ではあるまい。いや、知ればこそ、あの娘をよこした。いま、それがわしにわかった。大井川にあの娘を捨てて御坊にまかせたのは、あれをこの宗矩に送りとどけんがためだ。わしの死期のちかいことを知り、わしを転生させるために!」
「――おお!」
胤舜の瞳は散大せざるを得ない。いまそうきいて、あのときのことを想起しつつ、二重三重に妖しい糸を投げかけられ、しだいに「魔界」へひきずりこまれてゆく思いであった。
「御坊。……まことにこの世に再誕したいと願い、まことに恋着した女と交合すれば、たしかに転生すると申したな?」
「荒木は、そう申した。……」
「では、わしは、ふたたびこの世に生まれ変わりたいと願う。変わるのではない。生涯かぶりつづけた老実な官吏、精励なる武官の仮面をぬぎすてて本来の柳生宗矩にもどりたいのじゃ。その昔、兵庫が試合を挑んで来たとき、どれほどわしはその仮面をぬぎたいと思うたかしれぬ。いまそれをぬいで……いいや、転生して、兵庫、柳生如雲斎に、まことの但馬守の恐ろしさを見せてくれるわ」
もはや、人間の声ではない。|喘《ぜん》|鳴《めい》だ。この木彫の置き物に似て端然たる威儀を崩さなかった老人がいまや満面、憎悪と|敵《てき》|愾《がい》に黒ずみわたり、泡さえ噛み出しているのを、胤舜は凍りつく思いでながめた。
いまや但馬守は、それまでにのべた「理論」によって魔界転生のことを信じたのではない。この憎悪と敵愾によって理性を失い、曾てきいたあの荒唐無稽の奇跡によりすがって立ちあがろうとしているのだ、ということを胤舜も認めた。
「胤舜。……おりく――いや、あの唖娘を呼べ」
柳生但馬守は絶叫した。
「わしはあの女に恋着した。いそぐ、いそぐぞ、胤舜坊、わしをあの娘と交合させよ!」
宝蔵院胤舜はふるえ出した。それは恐怖からではなかった。この尊敬すべき老剣聖が、すべての誇り、自己抑制をかなぐりすてたその姿から、嫌悪どころか荘厳の鬼気を吹きつけられるのをおぼえたからだ。
一息。二息。――
「……承ってござる」
胤舜はうなずいて去った。このとき彼はすでに|従容《しょうよう》たる態度をとりもどしていた。
【五】
すぐに彼は女をつれて来た。あの唖娘のみならず、じぶんの同伴者、あのお佐奈までも。
「これ、おまえは又右衛門に何といわれ、何と思うてわしについて来たか、宝蔵院が|今生《こんじょう》の願いじゃ。あの但馬守どのの最後の寵を受けてくれ」
彼は、唖娘を押しやった。
唖娘はヨロヨロと泳いで、但馬守の|閨《ねや》にふしまろんだ。――が、ほんとうに彼女は又右衛門たちに何を命じられ、何をかんがえて、いままでこの柳生邸で過ごしてきたのか、逃げもせず――逃げるどころか、そのまま、やさしく瀕死の老但馬守のひざによりすがったのだ。しかも、例のほのぼのとした、春霞のようにけぶった顔で。
――荒木が、あの唖娘をよこしたのじゃ。わしを転生させるために!
そういった但馬守の言葉が決して誤りでなかったことを、身ぶるいとともに肯定しつつ、胤舜は、片手にお佐奈の手をとらえ、片手で、同時に持って入った細長い包みを解き出した。
白布からあらわれたのは、一本の槍の穂先であった。大井川で、あの少年六部から切りとばされたものの残片であろうか。
それをつかみ、なかば布で巻いたまま、彼は――ぷつりとじぶんのみぞおちにつき立てた。
「……宝蔵院、何をいたす」
このさいにも、但馬守は驚愕してさけんだ。
「殉死じゃ」
「ば、ばかなことを」
胤舜は苦痛に顔をひきゆがめつつ、笑った。
「死に殉ず――というより、但馬どの再誕のお供をいたす、といった方がよかろうか。剣と槍、相照らす武道の旅の道づれになりたい、といおうか。わしは、|転生《てんしょう》した但馬どのと、もういちど立ち合いたいのじゃ。転生すれば、そのわざ、さらに鬼神の妙を加える、と荒木はいった。但馬どの、おたがいにふたたびこの世に生まれ変わって、もういちどやろう。そのときは、かならず勝つぞ!」
槍の穂をひきぬくと、血潮がビューッと噴出した。
「佐奈、胤舜五十六年にわたる童貞の戒律をいまぞ破る。よろこべ!」
胤舜は、片手でつかんだお佐奈をひざのまえにねじ伏せた。
そのとき――唐紙の向こうから、小走りにちかづいてくる足音がきこえ、呼ぶ声がした。
「宝蔵院さま。……ただいま、宝蔵院さまの知り人じゃと申して、二人の六部どのが訪れてござりまするが」
何も知らないらしい小姓の声であった。
「なに、二人の六部?」
胤舜はふりあげた顔を凝固させたが、やがて、
「御坊が死なれるとき、われら必ず参上いたし、宝蔵院新生の産婆となって進ぜる、と申したが――そうか、やはり来おったか?」
「は?」
「いや、こっちのことだ」
胤舜は平静な声にもどって、
「恐れ入るが、こちらにお通し申して下され」
と、いった。
「ただし、その六部だけを通して下されよ」
――十分後、二人の六部だけが、その座敷に入って来た。もとより|笠《かさ》はぬいでいたが、ひとりだけは白い|頭《ず》|巾《きん》をかぶっている。
しかし、但馬守と胤舜は、もうこときれていた。但馬守は閨の中にあおむけになって、うつろにひらいた眼を天井にむけ――唖娘は、そのそばに端然と座って、春霞のような顔でそれを見まもっていた。
宝蔵院胤舜の碁盤みたいなからだの下には、全裸とされたお佐奈がおしひしがれて、|凄《すさま》じい鮮血と精液にまみれて|悶《もん》|絶《ぜつ》していた。
唖娘はこちらを見あげ、十字を切って――
「……聖オーギュスタン行長さまのおん霊に祈りたてまつる。おん|呪《のろ》いを世にあらわさんがため、わが罪をゆるしたまえ。――」
と、いまだ人語を発したことのない唇でつぶやいて、微笑した。
――ほかにきく者があったら、驚倒したろう。たんに唖娘がしゃべったという事実だけではない、いまつぶやいた言葉そのものだ。
オーギュスタン行長――といえば、もとより切支丹大名といわれた小西摂津守行長のことに相違ない。
豊家の武将、キリシタン、二重の意味で徳川家にとって不吉きわまる名だが、しかしその行長は、四十数年前、関ケ原の役に敗れて|斬《き》られた。――してみると、この娘は、小西の遺臣の血をうけた者でもあろうか。
これに対して、若い方の――それは例の四郎と呼ばれている六部であったが、彼だけが胸に十字を切って、彼女に応えてみせただけである。
白い|頭《ず》|巾《きん》で眼ばかりのぞかせた六部は、胤舜のからだを抱き起こし、お佐奈をひきずり出して活を入れた。
唖でない唖娘と若い六部が、彼女にきものをまとわせているあいだに、頭巾をつけた六部の方は、胤舜を血の海の中に座ったままでつっ伏した姿勢に変え、落ちていた槍の穂を右のこぶしににぎらせた。
そして彼は、この剣と槍との大達人の二つの屍体を見下ろして、
「……一ト月のちに、また拝顔つかまつる」
と、つぶやいて、二人のつれをうながした。
二人にささえられたお佐奈は――目ざめて見たこの恐ろしい光景に魂を奪われて、完全にあやつり人形と化したかのようであった。
もとの座敷に待っていた小姓は、二人の女を伴って出て来た二人の六部を迎えたが、彼らが一言の口もきかず、粛々として玄関まで出てゆくのを、これまた茫然と見送っただけである。
が、玄関で、白頭巾の六部が笠をかぶりながら、
「但馬守さま御逝去のことおくやみ申す。なお……宝蔵院さまも御殉死のていに見えまするが……このことは御公儀に秘された方が、御当家の御ためでござりましょう」
と、ものしずかにいわれ、あっとさけんで駈けもどっていった。
すぐに但馬守の病室に於ける大異変が発見され、柳生家は混乱におちいり、あわててまた六部たちの行方を探し求めたが、彼らの姿はもうどこにも見えなかった。
「……父上御他界のことだけを届け出い」
苦痛にうめきつつ、|主《しゅ》|膳《ぜん》宗冬はそう命じた。彼にとって衝撃と混沌たる思いは、むろん他の誰よりもはなはだしかったが、父の死以外のすべてを秘密にしなければ、柳生家に傷がつくという自覚だけははっきりとしていた。
「――柳生谷の十兵衛さまには?」
と、家来のひとりがきいた。長男の十兵衛へ、但馬守の死を告げるべきか、否か、ときいたのである。
主膳は眼をとじて、蒼い唇でつぶやいた。
「お知らせせずばなるまい。誰かやれ。……ただし、父上の御遺言により、御帰邸のことはかたく御無用とな」
正保三年三月二十六日、柳生但馬守宗矩死す。七十六歳。
同年同月同日、宝蔵院胤舜死す。五十六歳。
「敵」の編制
【一】
柳生如雲斎は、|闇《やみ》の中に座っていた。
じっと座っていても、腹部上辺から|心《しん》|窩《か》|部《ぶ》に鈍痛がする。しかし、これはまだいい方で、ときに常人なら耐えがたいほどの発作的な激痛が間欠的に波打ってくることがある。闇の中だから見えないが、如雲斎はよごれた黄色い皮膚の色をしていた。一見肥満しているようだが、如雲斎のつき出した腹の中には、いわゆる腹水なるものがたまっているのであり、下肢はむくんでいるのであった。
彼は不治の肝硬変をわずらっていた。
むろん、彼はそんな病名を知らない。ただ、じぶんがわずらっていることだけは知っている。
そのことを、彼は去年の秋ごろから気がついた。九州から名古屋に帰り、魔性の気を払おうとして京の妙心寺へゆき、そこで座禅をくんでいるうち、からだの異常を感づいたのだ。
魔性の気を払おうとして西へいったのに、かえって彼は魔性の根元たる東へ――江戸の由比道場に来た。むろん、名古屋の自邸において、魔界転生の妖しきわざを見せた由比民部之介正雪にひかれて来たのだ。それは鉄片が磁石に吸引されるような、おのれもどうすることもできない行為であった。
正雪は彼を歓迎した。そして、客分として遇した。
「当分、ここにお住まいなされ」
と、彼はいった。
「そのうち、また面白いものをお目にかける」
それだけである。
正雪は、武蔵のことをいわなかった。森宗意軒のこともいわなかった。田宮坊太郎の姿もどこにも見えないようであった。
如雲斎は何もきかなかった。きくのが恐ろしかったからだ。門弟三千、ききしにまさるはなやかな道場のたたずまいに、眼を見張りつつ、そこでむしろ上ッ調子に快笑している正雪をながめつつ――その裏に、別の正雪が鋭い顔で何やら容易ならぬことを計画しているのを感じつつ――如雲斎は黙々として由比道場の奥ふかく座っていた。
何かが起こる。
はじめに正雪にそう予言されたせいばかりでなく、本能的にそれを予感して、如雲斎は恐れながら、それを待っていた。
一ト月まえ――彼は、この道場にひそかに出入りしている紀州大納言を探索するために何者かが道場の裏門で見張っているということを、ふときいた。ふと――ではない。
「それがどうやら、大目付柳生但馬守の息子どのらしゅうござる」
うす笑いして、正雪が如雲斎にささやいたのである。
それ以上、正雪は何もいわなかったのに、それまで半年ちかく、まるで|山椒魚《さんしょううお》みたいにうごかなかった如雲斎が起った。彼はみずから紀州大納言に代わって主膳をさそいよせ、これに恥辱を与えたのである。
それから、約一ト月。――
――あの夜のあけた日に、但馬守がこの世を去ったことを、数日後、如雲斎は知った。
但馬守が病床に臥していたことはきいていたから、それは偶然であったかもしれない。しかし子息主膳の受けた恥辱が重大な衝撃となったであろうことは疑えない。
但馬守は、主膳を恥ずかしめたものがこの如雲斎であったことを悟ったか、どうか? あれはあのときの突然の思いつきであって、如雲斎はそのことをあとで正雪に直接報告していない。そして正雪はもう知っているはずだが、彼もまた何もいわない。
すべては自主的な行動のつもりであったが、いまにして思えば、最初から見えない糸にあやつられた|傀《かい》|儡《らい》のふるまいであったような気がする。――
そして。――
何かが起こる。そういう期待で半年由比道場に暮らしてきたのにあの夜以来約一ト月、如雲斎はむしろそもそもの目的を失ったように、空漠たる胸を抱いていた。但馬守が死んだということ、それである。柳生の傍流でありながら、宗家のような顔をしている但馬守に、如雲斎は|満《まん》|腔《こう》の不快をむけていたが、しかし、あのような隠微なシッペ返しは、彼の本意ではなかった。彼は、いちど但馬守自身と立ち合い、これを破りたかったのだ。――
その如雲斎に、
「かねてのお約束通り、今夜先生に面白いものをお目にかけます」
そう正雪が告げたのである。
それで、いま如雲斎は、導かれるままにある一室に座って、|闇《やみ》の中に待っている。
――面白いもの? 但馬守この世になく、こちらも老い、かつ病んでいるわしに、どのような面白いことがあるというのか?
と、如雲斎は、眼前の暗い唐紙に、ふっと青いひかりのすじが浮かびあがり、それが徐々にふとくなってゆくのに気がついた。
唐紙がひらいてゆくのだ。
そこに女が二人、立っていた。しかも、一糸まとわぬ|裸形《らぎょう》が――両側に置かれた燭台の灯を受けて、まるで夜光虫がとまっているように、青くふちどられている。……いずれも息をのむほど美しい。
【二】
柳生如雲斎は、思わず片ひざをたてていた。それはこの光景におどろいたというより、その二人がじぶんの知らない女であるにもかかわらず、どこか見おぼえのある――あの田宮坊太郎、宮本武蔵を生み出した娘たちとそっくりの凄壮な眼を、かっと見張っていたからだ。
「先生、新しい魔界転生を|御《ぎょ》|見《けん》に入れます」
うしろで、声がした。
ふりかえると、いつのまにかそこに由比正雪が端然と座っていた。
「正――正雪」
と、如雲斎はさけんだ。
「だれが生まれるのか?」
「四郎、坊太郎」
と、それに答えず正雪は声をかけた。
如雲斎は、二人の女の足もとにひれ伏すようにしていた二つの影が、このときむくと身を起こすのを見た。
「――この世に出でよ、宝蔵院胤舜!」
|裂《れっ》|帛《ぱく》の声がした。
声と同時に、右側の女の顔から下腹にかけて垂直にひかりの糸が――同時に赤い線がながれた。その赤い線から皮膚の八方に亀裂が入って、そこからべつの人間が女体をおしわけ、みるみるふくれあがってあらわれた。
――曾て如雲斎が目撃した田宮坊太郎の出現と同様の光景である。そして、いま女体を斬った者は、実にその再生した坊太郎なのであった。
あらわれたのは、背こそ五尺そこそこだが、横はばは異常にひろい、まるで碁盤のような男だ。しかも、頭はつるつるに|剃《そ》っている。……裸だが、あきらかに法師だ。
……なに、宝蔵院胤舜?
いまきいた声――以前からきいてはいるが、幸か不幸かまだ相見たことのない槍の達人僧の名に、如雲斎が|爛《らん》たる眼をすえてその入道を見つめるまもなく、もう一方の影が、これまた、一閃の光芒をたばしらせて、左側のもう一人の女を斬った。
その斬った若者らしい影が――去年五月、熊本岩戸山で逢った若い六部らしい、と如雲斎が気がついたとき、女体はまるでえたいのしれぬ白い皮袋のようなものに変じて、いま出現した人物の足もとにぬぎすてられている。
「……あっ……」
柳生如雲斎は、彼自身の肉体にひびが入ったようなさけびをもらしていた。
二番目に出現した人間――それは小柄のやせた老人であったが、如雲斎の眼に、どうしてそれを見まがうことがあろう、たとえその人物に最後に逢ったのが、二十年ちかい昔であろうとも。
「や、や、柳生――宗矩!」
一語一語、刻むようにうめいて見まもる如雲斎の眼前で、坊太郎は胤舜に、四郎は但馬守に、それぞれ白い衣服をかいどりのごとくその肩に投げかけている。
いうまでもなく、宝蔵院胤舜を再生させたのはお佐奈であり、柳生但馬守を再誕させたのは、あの切支丹の|唖《おし》娘であった。
いや、正確にいえば、唖ではない。彼女は口をきいた。オーギュスタン行長の魔霊に祈りの言葉をささげた。――ある意味で変質的ともいえる宝蔵院胤舜の道具とされ、一種の性的|白《はく》|痴《ち》と化したお佐奈は、魔界転生の忍法のいけにえとなっても、ほとんどその自覚はなかったかも知れないが、この切支丹娘の方は、あきらかに自己の義務を承知してこの夜の運命を甘受した。
おそらく彼女にとって満足すべき|殉《マル》|教《チリ》であったろう。そしてまたおそらくは、曾て荒木又右衛門、天草四郎らを転生させた女たちも、同様の恐るべき殉教者であったろう。
それはともかく。――
いま女体から|孵《ふ》|化《か》した但馬守は、まるで盲人のような足どりでこちらに歩み出して来た。事実、彼は眼をとじたままである。それなのに、なんのためか、天草四郎は但馬守に、そばの燭台を手わたした。――
――但馬守は、燃える燭台を片手にささげて、ソロリソロリとちかづいてくる。
「……た、但馬どの。……」
さしもの柳生如雲斎が立ちあがり、二三歩あとずさり、かっと眼をむいてそれを迎えた。
但馬守はまだ眼をつむっている。異様に青い、|陰《いん》|火《か》のような燭台の火が、その半顔を照らしている。
それは如雲斎が曾て田宮坊太郎の転生の際に見たときと同様、天地|晦《かい》|冥《めい》の中にいるような相貌であったが、いま如雲斎は、あのとき正雪が田宮をとらえて「……やがて次第に心のかたちをととのえて参りますれど、いまのところ」云々といったたぐいの言葉を忘れている。
いや、たとえいま但馬守が無意識の状態にあろうと、如雲斎の方は激烈な反応に襲われざるを得ない。積年、一種の宿敵と目していた宗矩だ。さらに先夜、その伜に恥をかかせて、そのために死を早めたのではないかと見ていた但馬守だ。
――但馬守はちかづいて来た。一間の距離にせまって、とじていた眼がほそくひかり、三日月のような青いひかりをはなった。
「但馬っ」
絶叫すると、如雲斎はわれを忘れ、逆に一歩踏み出した。片手につかんだ一刀から|一《いっ》|閃《せん》の剣光が走った。
天下に敵なし――敢て自負する如雲斎の抜き討ちであった。だれが想像していたろうか、その一刀が|空《くう》を打とうとは。
如雲斎の眼に、ただ青い火が燃えつつ|弧《こ》をえがいた。その|刹《せつ》|那《な》、彼は胴に凄じい衝撃をおぼえて、どうと巨体をたたみにはわせていた。――ちょうど一ト月まえ、彼が柳生主膳を地にはわせた姿とそっくりに。
それっきり、彼は闇に沈んだ。
【三】
どれほどのときがたったか。――
柳生如雲斎は、胴と背にはげしい痛みをおぼえて失神からさめた。
彼が見たのは、一本の燭台をはさんで、端然と座っている由比正雪ともうひとりの若者――あの若い六部であった。
如雲斎は身を起こし、まわりを見まわし、すべてを思い出した。じぶんは但馬守のふるった燭台で、大根のように胴をなぎはらわれて|悶《もん》|絶《ぜつ》させられたのだ!
「た、但馬。……」
彼はかすれた声を発した。但馬守はもとより、あとの連中の姿はどこにも見えなかった。
「先生、お腰がお痛みでござりましょうが」
うす笑いして、正雪がいった。
「背に――お腰の上に、江、と彫ってありまする」
だれが彫ったとは、彼はいわなかった。それをきく余裕を、如雲斎は失っていた。江――いうまでもなく、江戸柳生の意味である。
「お怒りなされまするな。お悲しみなされまするな。……相手は、魔界に|転生《てんしょう》なされたおひとでござりまする」
如雲斎は何かさけぼうとして、このとき胴でも背でもなく、内部の腹腔からつきあげて来た激痛にうっと息をつめた。
「先生。……どうやら、そのときが、とうとうちかづいたようでござりまするな」
「――そのときが?」
「魔界転生のとき」
「…………」
「魔界に転生なされませ。転生なされねば、あなたさまは、ついに但馬守どのに及ばれますまい」
如雲斎は獣のようなあえぎをもらした。
「だ、だれを以て?」
「お加津さまはいかが」
「…………」
「御子息茂左衛門さまの嫁女。如雲斎先生はあの女人を、心からいとしいと思うてでござりましょうが」
「…………」
「先生、名古屋へお帰りなされませ。この四郎をお供仕らせまする。忍法魔界転生のかいぞえとして」
「…………」
「ただし、名古屋のお邸でこのわざをなすは、茂左衛門さまの手前、ちとはばかりがござりまするな。京へお加津さまをおさそい出しなされた方がよろしゅうござりましょう。御病気の御看護とでも、名目は何とでもたてられましょう。京の妙心寺の|草《そう》|廬《ろ》が適当と正雪は存ずる」
「…………」
なんと勝手なことをいわれても、如雲斎は黙って、ただ瞳孔をひろげて正雪を見まもっているばかりだ。彼は、調教師たる正雪の意のままにうごく病める老虎のような表情になっていた。
が、徐々に、彼のうつろな眼にぎらぎらとした炎が燃えて来た。
「お加津を以て、わしを生ませる。……」
「忍体、と申しまする」
「いかにすれば、お加津がわしを再誕させる忍体となるか」
「そのために、この四郎をつかわすのでござる。四郎、あれを御覧に入れい」
四郎はしずかにふところから、小さな紙包みをとり出した。紙をひらくと、べっこう色の細い竹筒があらわれた。紙をたたみにひろげて、竹筒をたてにする。――と、そこからポロリとこぼれたものがある。
「…………」
如雲斎は眼を見張った。
それは一本の切断された指であった。朽木を折りとったようなひからびた指だ。
「これを以て、お加津さまをもてあそび――いや、お手当申しますれば。……」
「それは、何者の指か? ……それで手当するとは、いかようにして。……」
「まず、いまのところは、これ以上おきき下さる要はござりますまい。四郎にまかせられませ」
正雪は冷やかに如雲斎をじっと見返して、
「それより、こちらでおうかがいしたいのは、先生、先生にまことに魔界転生の御意志ありやいなや、ということでござりまする」
如雲斎は息をつめ、ややあって、ふいごのようにそれを吐いて、
「――ある!」
といった。
【四】
――由比道場の裏門から、編笠をかぶり、|杖《つえ》をついた旅姿の柳生如雲斎が出て来たのは、それから数刻ののちであった。
数歩あるいて、彼は立ちどまり、道をよけた。闇の中を粛々たる小行列がすすんでくるのを見たからだ。
――紀州大納言だな。
と、如雲斎はうなずいた。見おぼえのある一挺の乗物をつつんだ黒い行列は、|冥《めい》|府《ふ》に吸いこまれるように由比道場の裏門に入ってゆく。
「如雲斎先生、お早く」
声がした。われにかえると、もう先に、六部姿の四郎が立って、彼をうながしているのであった。
――由比張孔堂正雪、そも何をたくらんでいるか? 実に容易ならぬ奴、とあらためてまた思うよりも、如雲斎は、もはや西に待つおのれ自身の運命に心を奪われている。
そもそも田宮坊太郎の再誕を見、宮本武蔵の復活を見たときから、彼の心は「魔界|転生《てんしょう》」にとらえられていたといってよい。それにしても、なお彼をためらわせていた障壁は、この夜に至って決定的な一撃でとりはらわれた。
あれほど切望し、かつ自信を抱いていた柳生但馬守相手の「決闘」に、あれほどもろく、はかなく敗れ去ろうとは。――如雲斎を転生に踏み切らせたのは、まさにそれに対する雪辱の一念だけであった。
――が、たとえそこでみごとに転生しようとも、そのあとは?
転生してもなおかつ彼は、但馬守に対する「前世」の遺恨を保持し得るであろうか。「同一人にしてまた別人。剣技は以前と同一ながら、魂は魔物でござる」とは、すでに坊太郎転生の際正雪が喝破したことで、それを如雲斎はきいているではないか。
しかし、いまやそれを想起する余裕さえ失って、柳生如雲斎は西へゆく。魔道に憑かれ、死をかけて交合する虫のごとく、また死するを承知で産卵のため川をさかのぼる魚のごとく。
由比屋敷に入った紀伊大納言一行の供侍たちは、みな供侍部屋に待たされた。これはいつものことである。
そのあと大納言頼宣は、ただ腹心の牧野|兵庫頭《ひょうごのかみ》だけをつれて、正雪と会う。――盛名世を|覆《おお》うとはいえ、一介の|巷《ちまた》の軍学者たる正雪と、御三家の一たる徳川頼宣とが会って、いったい何を話しているのか、家来たちは知らぬ。また知ろうとも思わない。
「南海の竜」とうたわれる主君に全幅の信頼を抱いて、疑うということを知らない紀伊の家来たちであった。ただ主君が由比道場にしばしば密行することだけは他言を禁じられていて、彼らはそれをかたく守っている。
この夜、正雪は大納言を、いつもとはちがうある場所にみちびいた。
ひろい庭をよぎっていって、築山の下にあるあずまやであった。
あずまやとはいうまでもなく庭園の休息所で、四本の柱だけで壁がなく、四方吹き通しであるのを常とする。
それが、このあずまやは八本柱であった。朝鮮の建物みたいに、八角形であった。しかも、八方吹きぬけになっていない。うしろの築山によりそうように建てられていて、その背の部分にあたる一面だけが壁になっている。まんなかに、まるい石の卓子があった。
「牧野どの、あなただけはしばらくここでお待ち下されい」
と、正雪はいった。
頼宣はふしんそうに声をかけた。
「張孔堂、ここから……どこへゆくぞ」
正雪は黙って、会釈して、その石の卓子に手をかけた。そしてしずかにそれをまわしはじめた。
頼宣と牧野兵庫頭は息をのんだ。石の卓子がまわると同時に、八角のあずまやそのものがまわり出したのである。壁面が庭の方へ、吹きぬけの部分が築山の方へ。――
そして、もと壁であったところが、暗々たる四角な空洞を生み出した。
「いざ、大納言さま」
正雪は手燭をかかげて、さきに立った。
「あ、殿。――」
と、牧野兵庫頭は、あわてて声をかけた。剛毅を以てきこえた紀伊頼宣も、さすがに一瞬ひるんで、そこに足を釘づけにしている。が。――
「いや、かまわぬ。余はゆくぞ」
小山のゆるぐように、彼は歩み出した。
「兵庫、そちはここにおれ」
そして頼宣は、正雪につづいて、その空洞の中へ入っていった。
空洞に入って数歩あゆむと、すぐ階段が下へつづいていた。階段は七八段おりたところで、板から土に変わった。気がつくと、両側の壁も土になっている。壁はしだいに湿っぽくなり、ところどころ水滴をひからせ出した。――築山の下にトンネルが掘りぬかれてあったのだ。いや、築山そのものが、掘り出した土で築かれたものであったのだ。
この由比正雪という人物がただの人間ではないことをすでに承知している頼宣であったが、江戸のまんなかに、いつ彼が、なんのためにこんな地中の大工事をやってのけていたのかと思うと、さしもの頼宣も肌が粟立つ思いがしてきた。
やがて、土の階段を下りつくした。頼宣は|茫《ぼう》|然《ぜん》としてたたずんだ。ここは地底数十尺にあたるのであろうか。灯は正雪の持つ手燭ひとつながら、天井が人の背の三倍はあり、ひろさは二十畳ぐらいあることがわかる。まるで巨大な土の|筐《はこ》のような空間であった。三方は土の壁になっていて、真正面だけ四枚の板戸がならんでいる。
正雪は手燭を土に置いて、板戸のはしに天井からつり下がっている数条の鎖をひいた。
すると――ギ、ギ、ギ……と重々しいきしみをあげて、その板戸がひらき出した。まんなかの二枚が左右にうごいて、そこに灯の柱がひろがっていった。
【五】
紀伊大納言は、かっと眼をむいていた。
板戸のむこうは、豪奢な座敷になっていた。青々としたたたみ、いくつかの|雪《ぼん》|洞《ぼり》、山水をえがいた|屏風《びょうぶ》、また|金《きん》|泥《でい》の|唐《から》|紙《かみ》などが眼を射た。
その中に、ひとりの老人と三人の女がひれ伏していた。
「大納言さま、いざ、あれへ」
正雪がいった。
頼宣はなお一息立ちすくんでいたが、やがて意を決した表情で中に入り、正雪のさした上座の円座の上にむずと座った。
正雪がふたたび板戸をとじているあいだ、老人と女たちは平伏したままである。
「正雪、その方が、是非逢わせたいと申したのはその老人か」
「御意」
「何者だ」
正雪は従容として、
「森宗意軒と申しまする」
「――森――森宗意。――」
老人はしずかに顔をあげた。
「もと小西摂津守の遺臣、加うるに、八年前、島原にて一揆の軍師として御公儀に敵対つかまつった者でござりまする」
加うるに、といったのは、徳川家にとって二重の叛逆者という意味である。
が――あまりのことに、かえってこの言葉が、とっさにはふにおちず、それより頼宣は、相手の相貌に眼を吸われた。
銀光をはなつ白髪にふちどられたしゃりこうべのような顔は、年のほども知れぬどころか、この世のものとも思えない。――にもかかわらず、その枯木に似た姿から、何とも名状しがたい凄じい精気をはらんだ妖風が吹きつけてくる。
頼宣はわれしらず呪縛されるような感じに襲われかかって、からくもわれにかえった。
「森宗意。――存じておる。その名は、頼宣しかとおぼえておるぞ」
「――ありがたきしあわせ」
「しかし、宗意軒なる者は、島原の役にて|誅戮《ちゅうりく》されたときいた」
「――それが、かようにここに生きております」
頼宣はしばし口をつぐんだ。もとより頼宣は、これまで森宗意軒に逢ったことはないが、眼前にそう名乗る男を、にせ者とも狂人とも思わなかった。そう思わせないものが、理非を絶してこの老人にあった。
「正雪」
頼宣は全身をわななかせてさけんだ。
「なんじの逢えと申したは森宗意か。宗意軒がいかなればここに生きておるかは知らず、世に知られればなんぴとも驚死せざるを得ぬ大謀叛人。……いや、この頼宣自身、いかになんじを見込んでおるとはいえ、やわか黙して見逃そうと思うておるか」
「御公儀におとりつぎ遊ばすならば、なされませ」
正雪は蒼ずんだ顔色でいった。
「それを覚悟せずして、なんで今宵正雪が大納言さまをここへおつれ申しましょうや」
いわゆる、切れる、という言葉を人間にしたような由比正雪だが、たんなる山師では断じてない、ということはすでに承知していた紀伊頼宣であったが、彼がこの地底にかくまっていた人物の正体を知らされ、しかも平然、てこでもうごかぬ決死のつらだましいをむけられて、さしもの頼宣も背すじに冷気をおぼえざるを得なかった。
「で。――」
ややあって、のどに|痰《たん》をからませて、
「なんじは……いま余に、森宗意と逢わせて何とする?」
「例の件の」
正雪はいった。
「うしろ盾には、かくのごとき者がついておりまする、ということを大納言さまにお知らせ申しあげたいからでござりまする」
「例の件」
頼宣は、こんどはかすれた声でいって、それっきり沈黙して、追いつめられた獣のように眼をひからせた。
例の件。――と正雪は、あたかもそれを頼宣とおのれと、とっくの昔からいくたびも打ち合わせ、約定ずみのことであるかのごとき|口《こう》|吻《ふん》をもらした。しかし頼宣は、そのことについて、正雪と声に発して相語ったことはいちどもない。
しかし、知らぬ、といったら完全に嘘になる。「例の件」が「そのこと」をさすのは、頼宣は百も承知だ。
ずばりといえば、それは頼宣のクーデターであった。
実にこれは|戦《せん》|慄《りつ》すべき野望であった。しかし――男としてその器量を持ち、志を持てば、何ぴともその胸にきざさずにはおられぬ野心であった。天下をとる、この一事がいかに男にとって凄じい魅惑であるかは、古今東西の歴史の|修《しゅ》|羅《ら》相、いや現代ただいまの政界をみても、何ぴとも納得するであろう。
頼宣自身、慶長七年に生をうけた男である。決して飼い馴らされた猫のような後代の大名ではない。関ケ原の物語は童児のころ子守唄のごとくきかされているし、大坂の役には父家康から、兄の忠輝、義直のあたえられた五本の戦旗にまさる、将軍たる秀忠同様の七本の戦旗を拝領して参加している。また現将軍家光とその弟忠長の、徳川の家督を争う地獄図絵もしかとその眼で見て来たことだ。
他人のことではない――|曾《かつ》て頼宣は、駿河百万石を受けるべき約束であった。それがのちに、紀州五十五万石と変えられたのは、駿河という位置と百万石という封禄が彼と結びついたとき、危険千万なものとなる――と目されたせいであることを彼は承知している。
人呼んで「南海の竜」――紀伊頼宣はこのとし四十五歳、壮年の権力欲が、ともすれば理性すら覆いがちな、血気まさに剛なる年齢であった。
下地はある。
それを看破したのが、ただひとり、この|巷《ちまた》の軍学者由比張孔堂だ。
――天下をおとりなされ。
――とり得るか。
――とれます。
――いかにして?
「そのこと」について、一語も互いに発したことはないのに、ふたりは胸と胸で語り合っていた。つまり、肝胆相照らしたのだ。頼宣が、しばしばこの榎坂の由比道場にやって来たのは、この言わず語らずの問答を愉しむ以外の目的はない。
実に危険なる「愉しみ」――
いまそのことを――「例の件」という一語で、ずばりと正雪に切り出されて、頼宣は、まるで|匕《あい》|首《くち》を胸につきつけられたように色蒼ざめた。
いかに剛毅な頼宣といえども、事が事柄、肌も粟立ってくるのを禁じ得ない。
「……しからば、正雪、なんじは……この頼宣にキリシタンの世を招来させんとするか。それなれば、余は……」
うめくがごとくいったのは、一種の逃げ口上である。
「あいや」
森宗意軒が口を切った。
「その思いは、拙者、すでに捨てました。そもそもこの正雪がキリシタンではござりませぬ」
「では、なんのために、うぬが――」
「とはいえ、天草島原において、三万七千の百姓どもを、女子供にいたるまでみな殺しになされた当将軍家……そのお方に一矢むくい参らせたい、いやその御子孫までにたたりたい、というのが、この余命少なき宗意軒の修羅の執念でござる」
「余命少なき――」
「あと、この宗意の寿命は、ながくて数年でござりましょう、大納言さま、天下をおとりあそばさば、もはや御仕置は大納言さまの御勝手」
「正雪」
と、頼宣はふりかえった。
「ではこの者が、例の件のうしろ盾になるとはいかなる意味か。その一挙の軍師とでもなろうというのか」
「いや、その知恵ならば、この正雪にて充分でござる」
正雪は不敵にいった。
「では、なぜおまえ自身が天下をとらぬ?」
「いかになんでも、正雪それほど思いあがった大たわけではござりませぬ。天下をとるには天下をとるだけの生まれ、育ち、万人の認める器量というものが必要でござりまする。正雪にそれのそなわっておらぬことは、みずからよう存じておりまする。大納言さまには、それがござる。当将軍家よりも、はるかにそなえておわします。正雪は大納言さまをおん旗として進む旗かつぎにしかすぎませぬ。――」
三つ子の魂百までとか。或いは己れを知るものというべきか。――正雪は、曾て彼が島原で新免武蔵にいった言葉とおなじせりふをいま吐いている。
ただし、あれから八年の星霜をけみして、その規模ははるかに大きい。――
「では、宗意軒がうしろ盾となると申したは?」
「拙者というより」
と、宗意軒はひくくいった。
「拙者の弟子」
そして彼は、三人の女の方にあごをしゃくった。
二人の女がしずかに立って、うしろの金泥の唐紙を左右にひきあけた。
そこには、また別の部屋があった。灯影はなく、背後は土の壁をむき出しにしているようだ。……こちら側の|雪《ぼん》|洞《ぼり》が、そこにひれ伏している五人の男を幽暗に浮かびあがらせた。
「御覧なされませ」
といって、宗意軒はあごをしゃくった。
「その方ら、御挨拶いたせ」
いちばん右側の男が、ゆっくりと身を起した。
「|播州《ばんしゅう》宮本村の住人、新免武蔵にござる」
次の影が陰々といった。
「大和月ケ瀬の出身、荒木又右衛門でござりまする」
三人目がいった。
「讃州丸亀の住人、田宮坊太郎で。――」
四番目が巨大なまるい頭をあげた。
「大和奈良の住人、宝蔵院胤舜でござる」
そして、五番目が、頼宣をみて、うす笑いしていった。
「ひさびさに御顔を拝し、恐悦至極に存じまする。……柳生但馬守|宗《むね》|矩《のり》にござりまする」
……以後数十秒、地底のこの密室には、ただ灯のあぶらのもえる音だけであった。
やがて、自若として森宗意軒がいった。
「この者どもが、あなたさまのうしろ盾となると申すのでござります」
時を数えれば、これは――柳生如雲斎が、柳生但馬守、宝蔵院胤舜の再誕を目撃してから、わずか数刻のちのことだ。そこにみるこの両人に、紀伊頼宣が、この世のものならぬ凄惨の鬼気を感じたのは当然である。
いや、たとえそのような鬼気を感ぜずとも。――
「た、但馬……柳生宗矩はこの世を失せた。一ト月ばかりまえに。――こ、これは、幽霊ではないか?」
「幽霊でないことは、これから大納言さま、この者どもをお使いなされて、とくとお見とどけなされましょう」
「……このわしが、この者どもを使う?」
「実に、わが弟子ながら、いずれも万夫不当の大剣士。大納言さまがいかなることをお企てあそばそうと、この者どもをお使いなさる上は、これにあたる者が世にあろうとは存じませぬが。……いかが」
まさに、その通りだ。――この面々が現実の人間であるならば。
そして紀伊頼宣は、これがまごうかたなき現実の人間であることを、凝然たる眼に、しだいに認めないわけにはゆかなかった。彼はこの中の一人、少なくとも柳生宗矩だけにはほんの数ヵ月前にも江戸城内で逢ったことがあるのである。
「これより大納言さまに、忍法魔界転生のことを申しあげようと存ずる」
【六】
森宗意軒は、「魔界転生」のことを語り出し、語り終えた。――
またまたこんどは数分にわたって、そこにはただ灯の燃えるかすかなひびきだけがあった。
「なおべつに転生したる者、これから転生せんとする者が二人ござります」
「何と申す奴か」
「天草四郎時貞、柳生如雲斎|利《とし》|厳《よし》」
「…………」
その驚倒すべき名をきいても、頼宣はもはや驚愕のうめきをあげる力を失っている。
「合わせて七人。大納言さま、紀州へ御帰国の日が迫っておると承っておりまする。是非、この五人をおつれなされ。べつに両人には、追っつけ紀伊にはせ参ずるよう申しつけてござる」
「その者どもを紀州へつれ帰って、さしあたって余に何をせいというのか?」
「当分、何もあそばす必要はござりませぬ。ただ飼うておきなされ。前世は知らず、こやつらは、もしこの宗意軒が命ずるならば――大納言さまの御|下《げ》|知《ち》に従えと命じ、大納言さまが御下知を下されるならば――一年黙せといわれれば一年黙し、十人の女を犯せと命ぜられるならば十人の女を犯し、百人を殺せと仰せられるならば、百人を殺すでござりましょう」
ジロリと宗意軒にながし眼で見られても、五人の大剣士は一語の|反《はん》|駁《ばく》もこころみず、うす笑いして、頼宣を見まもっている。――あの老実謹慎な柳生但馬守までが!
頼宣の背に、あらためてぞっと冷気が走った。
「いずれにしても、あまりよいことは好みますまいな」
森宗意軒も声なく笑った。
「前世において、おのれを押え、おのれを制し、おのれを縛って、最後の時にいたってふたたび転生の日あらば、けもののごとくおのれの欲望を満たさんという一念に燃え、その祈りに燃えつきた奴ばらでござれば」
「ううむ」
「ただし、いま申す通り、拙者の綱にとらえてあるかぎり、大納言さまのお申しつけにはそむきませぬ。それまで、飼うておきなされ。……もっとも、余人にはあまり知られぬ場所がようござりましょうな」
「それまで、飼うておけと? それまでとは?」
「――左様――」
宗意軒は頼宣の眼に見いった。
「拙者の星占いによりますれば、当上様の御寿命は、あと……四五年でござりましょうか」
「な、何? 家光どのが?」
これには頼宣もわれしらず声をたてた。
現将軍は――彼の甥にあたるが、年齢はわずか二歳の差があるばかりで、ことし四十三歳である。むろん、壮健である。
「しかも、御幼君はただひとりおわすのみ。ことしわずかにおん年六歳、その上、生来御病弱と承っておりまするが」
頼宣はまた沈黙した。
正雪がいった。
「そのときの天下の騒動、不安、動揺が眼にみえるようでござりまするな。……そのときにいたって、江戸、京、大坂を火の海と化し、紀伊大納言さま天下人とおなりあそばすむねの旗をかかげれば」
「なんと申す」
「いや、これはまだ夢想、幻想。……大納言さまにはただ泰山のごとくおかまえなされて、正雪の計成るをお待ち下されば、それにてよろしいのでござりまする」
「正雪――宗意軒」
頼宣はあえいだ。
「実に途方もない大陰謀をたくらみおる奴ら、もし――もし――もし、それまでに事が発覚するようなことがあれば、余をいかにしようと考えておるか」
「もとより御自害のほかはござりますまい。左様におすすめ申しあげまする」
宗意軒は冷然といって、きゅっと笑い、
「ただし、そのときは、大納言さまも魔界に|転生《てんしょう》なされませ」
「わしが――魔界に転生」
「それをなし得る者は、世にはざらにありませぬ。ここ十年あまりのあいだに、拙者の求め得た人材が、わずかに七八人、ということでも、お察し願えましょう。この正雪すら、その力はないのでござる。しかるに、大納言さまには――現世に深刻なる御不満をお抱きなされ、かつ、再誕するに足る絶大の御気力をお持ちあそばす。――めったにないこの条件を、大納言さまは珍しくもおそなえあそばします。また、それゆえに、われらが大納言さまをお力としたのでござりまするが」
頼宣は肩で息をしていった。
「わしが、いかなる女人によって再誕するか」
「殿。……惚れられた女人はござりませぬか?」
「なに?」
「腹の底から、いとし、可愛ゆし、是非ともこの女人と交合して再誕したいと思うておられる――そのような女人はござりませぬか?」
頼宣は黙りこんだ。
もとより彼には御台がある。これは加藤清正の娘で、元和三年、彼が十六歳、御台が十七歳のときに婚礼したもので、むろん典型的な政略結婚である。そのうえ、御台には幼いころわずらった|疱《ほう》|瘡《そう》のあとが、うすいあばたとなって残っていた。
「大納言さまの星を占いまするに――おん星が二つに割れております。ひとつは御長命の相、いまひとつは、やはり四五年後におけるおん死相。これは万一、事が破れたときの星でござろうか」
「…………」
「もし、大納言さまに――ただいま、それほどにおぼしめす女人おわしませねば、大納言さま、是非それまでにお探しなされませ。これは宗意軒よりも強くお願い申しあげまする」
「…………」
「左様なことのために、宗意、指を三本、まだ残しておりまする」
「指?」
「ごらんなされ」
森宗意軒は、枯木のような両手を前につき出した。
十本の指のうち、左掌の指は一本もなく、右掌の指が三本だけ、――中指、人さし指、親指だけが残っていた。
あとはぜんぶ、ねもとから切断されて七つの黒ずんだ切口を見せているばかりだ。――いや、その中の一つだけは、この老人にこれだけ赤い肉があるかと奇怪に思われるような新しい切断面を露出しているが、ではおととい切ったか、数刻まえに切ったかというと、見わけのつかないぶきみな肉芽組織をひからせている。
「これほどの忍法を心得ながら、主人小西摂津在世のころから、なにゆえ使わなんだと御不審におぼしめされましょうが、拙者、日本古来の忍法は若きころよりいささか修行いたしましたなれど、この魔界転生のわざは存じませなんだ。左様なものは存在しなかったのでござりまする。しかるに、十年ばかりまえ――天草にひそみあるころ――はからずも一キリシタンの蔵の中より、西洋の|祈《き》|祷《とう》書、|卜《ぼく》|筮《ぜい》書、魔術書のたぐいを発見したのでござる。ギリシャ、イタリアなど申す国々に古くから伝わる『転身譜』『悪行要論』『妖術師論』『魔神崇拝論』『錬金術』『占星術』など――どうやら、バテレンのひそかに持参したるものを、そのむかし島原|加《か》|津《づ》|佐《さ》のコレジョ(切支丹大学)にて和訳印刷したものらしゅうござったが――拙者、これを読み、日本の忍法と熔合して、ついに魔界転生の秘技を独創いたしましたるは、実に島原の役の直前のことであったのでござりまする」
「……宗意、その指は?」
「すなわち、拙者が一念をこめたる一指を以て一女を御せば、たとえその指を切ろうとも、その女は、男一人、転生さすべき忍体と変りまする」
「指を以て、女を御すとは?」
「これは、おききなされても御無用のこと。それに、このわざをなすは、拙者をのぞいては、ただ天草四郎一人あるのみ。――四郎だけがその奥儀を体得しているからでござる」
天草四郎とは、その素性ははっきりしないが、ともかく曾てはこの宗意軒が盟主と仰いだ人間である。しかもいま宗意軒は、それを弟子か下僕かのごとく呼びすてにしている。
「かくて、われわれは、いままで、七人の男を転生せしめました」
「…………」
「転生させ得る者は十人、すなわち、十本の指を以て算することのできる人数のみ。一指を断つ、一転生をなさしめる、そのたびに拙者のいのちは十分の一ずつ消磨いたし、この指すべて失せるときは、すなわちこの宗意の息絶えるときでござりまする」
「…………」
「その数少なきに似たれど、転生をなし得る男、転生させたき男は世にはさらに少なく、ただいまのところ、先刻申せしごとく、すでに転生せる男はわずかに七人」
森宗意軒は陰々と語りつづける。
「さて、あとに残ったこの三本の指。……そのうち一本は、もうひとり転生さすべき男がこの世にござる」
「それは?」
宗意軒はちらっと五人の男の方に眼をやった。
「それは――いかになんでも――いまこの座においては申さぬ方がよいようでござりまする」
なぜか彼は、このとき実に皮肉なうす笑いをもらした。
「それにその男、是非とも転生させたき人物なれど――転生の条件のうちの一つ、この世における不平不満がその男の全身をやきただらしておるか否か――一見そのように見えて、果たして如何、という点になるといささかおぼつかなきところあり――これより、こちらからそれを探り、ためし、誘うべく渾身の力をそそいでみる所存でござりまするが。――」
つぶやきながら、残った指のうち、まず中指を折った。
「もう一本は、大納言さまのおんために」
上眼づかいに見て、
「殿、女人を求められませ」
とまたいって、人さし指を折った。
「最後に残ったもう一本は、もとより拙者自身のため」
といって、指をすべて折り終えて、この年のほどもしれぬ老人は、妖しくひかる眼を、かたわらの美しい三人の女にジロリと投げたが、すぐにその眼を頼宣にもどして、
「大納言さま、例の件、たとえ未然に発覚いたしましょうとも、この宗意軒一人生きてあらんかぎりは、――いや、宗意いちど相果てましょうとも――魔界に転生して、これを発覚せしめたる人間にたたりますれば。――」
といった。
その声が闇にしみ入るようにひくく消えていったのが、かえってぶきみな余韻を残した。あきらかに脅迫である。釘をさしたのだ、と承知しつつ、紀伊大納言頼宣は、そこに全身を凍りつかせたままであった。
なんたる恐るべき老人か。また、なんたる恐るべきその弟子どもか。
「とはいえ、この宗意の出馬を待たずとも、わが弟子どもだけで……よし何事をなされましょうとも、大船に乗ったようにおぼしめせ」
宗意軒はいって、正雪にあごをしゃくった。
「張孔堂」
「はっ」
「大納言さまを地上におかえし申せ」
「はっ」
「それからの、この五人の者ども、紀州へ御帰国の際、おん供できるように相はからえ」
「牧野兵庫にはからいまする。あれは、まことに紀伊藩におけるこの正雪のごとき御仁、話せば通じる人物でござれば」
正雪は笑った。森宗意軒は最初のときのように、うやうやしく|平《ひら》|蜘《ぐ》|蛛《も》のごとく平伏した。
「では、大納言さま、しばらく、お別れ申しあげまする。おん旅、御機嫌うるわしゅう。……」
【七】
紀伊頼宣と正雪と、そして五人の男が去ったあと――地底には森宗意軒と三人の女だけが残った。
女の一人がいった。
「宗意軒さま」
「うむ。……」
「このたびのお企て、成るか成らぬか、星占いにははっきりと出ぬのでござりまするか」
「八卦見の八卦知らず」
と、宗意軒は苦笑した。
「あるいは医者が、おのれの病のみたてはしかとつかぬと同様であろうか。わしのいのちにかかわることゆえ、それが|分明《ぶんみょう》せぬ。……しかし、星占いとはべつに、おそらく事は破れような」
「それは」
「正雪はそれを知らぬ。きゃつは、大納言さえひきずりこめば事は成ると思いこんでおる。……ふ、ふ、ふ。が、わしにとっては、事が成ろうが成るまいが、いずれでもよいことなのじゃ」
彼はおちくぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくから、陰鬱な眼で三人の女を見やった。
「家光も死ね。頼宣も死ね。家康の血をうけた奴ら、骨肉|相《あい》|食《は》め。ただ徳川家にたたれば……われら小西の亡臣どもは、それを以て満足せねばならぬ。いや、それを無上のよろこびとし、そのためにこそわしは生き、そなたらも生きておるのではないか」
「はい!」
と、三人の女たちは、うたうように答えた。
――してみると、この三人の女は、柳生但馬守を|転生《てんしょう》させた|唖《おし》娘と同様、亡家――もとよりその年齢から判断して、彼女たちが生まれるはるか以前に滅んだ小西家の――|呪《じゅ》|詛《そ》のみに生きている。そのように飼育された女たちであろうか。
「やがて、四郎から、如雲斎転生の報告がくるであろう。それをきいたら、そなたらのうち、ひとり、かねて申しつけてあるところへゆけ」
「はい!」
「その男を誘い、|堕《おと》すのだ」
「はい!」
「それが、この宗意軒にも実にえたいのしれぬ奴、|放《ほう》|蕩《とう》無頼、女が好きかと思えば、三十なかばになってまだいちども心そこ惚れた女を持ったことのないような男、一万二千五百石をみずから棒にふって、何か世を白眼視しておるかと思えば、のほほんとして、うれしげに空の雲ばかり見ているような男。……」
「ただし、きゃつの|定命《じょうみょう》も遠からず尽きんとしておる。星占いには、そう出ておる。もとよりきゃつは、それを知らぬ」
「…………」
「いずれにせよ、きゃつを魔界に転生させようとすれば、こちらもいそぐのじゃ。……きゃつの剣、きゃつの気性、魔人と変ずれば充分世を悩ますに足る資格充分じゃ。是非、きゃつを他の七人の仲間に加えたい。――」
「|天帝《ゼウス》に誓って!」
と、三人の女はいった。
「その男を魔界に堕します。いいえ、魔界に転生いたさせまする」
天帝がきいたら、おどろくであろう。しかし、三人の女の美しい瞳には、むしろ厳粛といっていい炎が燃えていた。あるいは彼女たちの教えられた天帝は、もとのかたちからはるかに変質した奇怪な神であったのかもしれぬ。
「クララ」
「わたしが参りまする」
「ベアトリス」
「わたしが参りまする」
「フランチェスカ」
「わたしが参りまする」
もとより、いずれも洗礼名であろう。――眼を燃やしている三人の女を見わたして、宗意軒は苦笑した。
「みなゆく必要はない。わしのために、一人は残ってもらわねばならぬ。ゆくは、一人でよかろう。では、|籤《くじ》をひいてもらおうか」
「籤とは?」
「わしがいま、ここに残った三本の指のうち、一つの指をきめた。……それはどの指か、信じる指を、一人ずつ吸え」
枯れ木のようにつき出された老人の指を、三人の女はじっと見つめ、やがて一人ずつ、それぞれ肉感的な口をちかづけていった。……
「人さし指じゃ」
と、宗意軒はぬれた指を一本だけ立てていった。
「フランチェスカゆけ」
「はい!」
「ゆくときに、中指を切ってわたす。きゃつを堕したら……その指を四郎にわたせ。おまえが魔界転生の忍体に変わるのじゃ」
「はい!」
――フランチェスカなる女は、どこへいって、だれを魔界転生させようとするのか。
よし、それがだれであろうと、すでに魔界転生した七人の大剣士にこれ以上何者を加える必要があろうか。
思え。――
荒木又右衛門。
天草四郎。
田宮坊太郎。
宮本武蔵。
宝蔵院胤舜。
柳生但馬守。
柳生如雲斎。
加うるに、もし紀伊大納言頼宣が、好むと好まざるとに関せず、この陰謀に身を投ずるならば、もとより紀州五十五万石はその背景となる。
しかも、そのうしろには妖人森宗意軒がいる。その参謀ともいうべき|才《さい》|物《ぶつ》由比正雪がいる。さらに修羅に生きる三人のなまめかしい「忍体」がひかえている。
さて、作者がいままで|縷《る》|々《る》[#電子文庫化時コメント 底本ルビ「るゝ」]として叙しきたったのは、「敵」の顔ぶれなのである。――いまやこの敵は編制を整え終わった。彼らを「敵」とするものに|呪《のろ》いあれ。この恐るべき超絶の集団を敵として、万に一つもいのちある者が、この世にあろうとは思えない。――
故山の剣侠
【一】
梅の木が多い。竹林が多い。茶畑が多い。
あくまで日本的な風景だが、|綸《りん》|子《ず》頭巾をかぶり、羽扇をもち、|驢《ろ》|馬《ば》にのった蜀の軍師が通っていってもおかしくないような雅味がある。
伊賀から越えて奈良の方へゆく、いわゆる伊賀街道。
が、いまそこを歩いてゆくのは、むろんそんな南画めいた人物ではなく、木剣を二三本ずつ肩にかついだ四五人の若侍たちであった。侍といっても、粗野で、豪快で――中には袴もはかず、尻っからげして、毛ずねを出したままの奴もある。
「……いかにかんがえても無念だの」
「ふしぎでもある。柳生十人衆たるわれわれが太刀討ちできぬとは」
「柳生十人衆――というのは、こっちの自称だ」
自嘲の声に、だれかが、
「自称ではないっ、この柳生谷界隈でだれしもが認めておったことだ。去年までは」
「つまり、あの娘御たちが来てからだ。やはり、おかしいなあ、あんなはたちになるやならずの娘たちに、われわれが子供あしらいされるとは」
「紀州藩切っての名剣士、木村助九郎、田宮平兵衛、関口柔心どのらの娘御ではあるが、――」
「では、剣法は、修行よりも血か。となると、われわれは絶望的にならざるを得んな」
「そもそも。……」
と、ひとりが深刻に、
「あの娘御たちには――ひょっとすると、十兵衛先生もかなわぬのじゃあるまいか?」
どっと笑った中に、
「いや、冗談ではない。あり得ることだ」
と、まじめにつぶやいた奴もある。
「しかし、十兵衛先生とて、但馬守さまの御子息じゃないか」
「御子息ではあるが、その但馬守さまがお亡くなりなされても、へいきでこの柳生谷からうごかず、毎日鼻毛をぬいているような御仁だぞ」
「それはわれわれにとってかえってありがたい――と思っておったが、そういわれてみると、ああノラクラと昼寝ばかりしておられては、腕の方もどうにかなりはせんか。とにかくわれわれをろくに指南して下さらんのだから」
嘆く声も、笑う声も、無念がる声も、懐疑する声も、いずれもしかし陽気である。二三人、すぐに元気を回復して、
「よしっ、きょうこそは」
と、大きくうなずいて、みないっせいに足をはやめて、砂ぼこりをあげながら――街道を左に折れる。柳生谷に入る道であった。
と、そこをさきにトボトボと歩いていたひとりの武家風の娘が、うしろから来たこの郷士たちを、いちどは道をよけて通したが、すぐに二三歩小走りに追って、
「もしっ」
と、呼んだ。
郷士たちはふりかえって、眼を見張った。
菅笠も|脚《きゃ》|絆《はん》もほこりで真っ白になっているが、それでも若者たちの眼を射ずにはおかない美貌である。ただ疲れているのか、病んでいるのか、凄艶といったかげがある。
「……なんでござる?」
ひとり、ごっくりと生唾をのんできいた。
「あの、柳生城へいらっしゃるお方でございましょうか」
「左様ですが」
「では……わたしなどが参りましても、柳生十兵衛さまにお逢いできましょうか? いいえ、おねがいでございます。わたしを十兵衛さまのお弟子にして下さいますよう、みなさまからお頼み申しあげて下さいまし!」
「ほう、あなたが、十兵衛先生のお弟子に。――」
「女人の身で、それはまたどうして?」
口々にきくのに、女は思いつめたようなまなざしを宙にあげて、
「敵討ちでございます」
と、いった。
「なに、敵討ち?」
郷士たちは顔見合わせ、がやがやと騒ぎ合った。
「それなら、十兵衛先生もいやとは申されまい」
「だいいち、顔だけはむっつりしていて、女にはばかに甘いからな」
「ちゃんと前例がある。――」
ふと、ひとりが気がついて、急に心配そうに、
「ところで、あなたはいままでに剣法を修行なされたことがおありか」
「いいえ、修行などという大それたことはとても……その修行をさせていただくためにこの柳生をお訪ねして参ったのでございます」
「なるほど、いや、女剣士はちと懲りたことがござるでな」
と、|安《あん》|堵《ど》したような、憮然としたような表情をする男に、
「あの、どなたか女で御修行をなすっていらっしゃる方がおありなのですか」
「ある、三人もな。おおそうだ、十兵衛先生より、その三人に手ほどきしてもらった方がよかろう。あれは、われわれよりも。――」
と、いいかけて、
「ちと劣るとはいえ、女人を指南するにはちょうど適当だろう」
うなずいて、
「ござれ」
みな、先に立った。
柳生谷に入ると、ふいに山国を歩いているような感じがする。五月の半ばすぎ――というと、いまの暦で六月中旬になるが、あちらこちらで鶯が鳴いている。しかし両側にせまる山や森などの風物よりも、ゆきかう領民たちの素朴で野趣をおびた顔や風俗が、いっそうそう思わせるのであった。
柳生城が見えて来た。――城とはいうものの、むろん天守閣などいうしゃれたものはなく、吉野朝時代の|砦《とりで》をそのまま居館としたような|一《いっ》|郭《かく》であった。
【二】
柳生の庄は、平安の昔、奈良春日大社の社領であって、いわゆる柳生家の祖は、代々この地の奉行をしていたという。その後、この地を失ったりまた得たりしながらも、柳生家がほぼ柳生に定着したのは吉野朝の時代といわれる。
しかしこれを名実ともに柳生谷の柳生として世に認めさせたのは、なんといっても戦国時代から徳川初期にかけて、三好、松永、織田、筒井、豊臣と、四辺の群雄からしっかとこの小国を守りつづけて来た石舟斎|宗《むね》|厳《よし》であって、柳生家でこの石舟斎を以って太祖とするのもむべなるかなである。
石舟斎が五男宗矩を徳川家に、嫡孫兵庫を豊臣方の加藤家に託したというのも、彼のなみなみならぬ苦心と|炯《けい》|眼《がん》のあらわれであろう。
そのもくろみは図にあたり、いまやこの柳生領は、幕府大目付、柳生但馬守の本領として、但馬守はほとんど帰国しなくても――いや、この三月の末、江戸で没したとつたえられても、ふかい青葉と鶯の声につつまれて、小高い丘の上に立つその居館を、不安げに仰ぐ領民はひとりもいなかった。
それでも、一応は城門のかたちをした門に立つと、奥の方からいさましい無数の掛声がひびいて来た。しかも、それは透きとおるような少年の声であった。
門番なんかいない。内部に入れば、あっちこっち塀の壁はおち、夏草はおいしげって、なんとなくここのあるじの無精な性格を思わせる。――
旅の女は、郷士たちのあとにくっついて、奥へ入っていった。
とある土塀のくぐり戸をあけて入って、彼女は眼を見張った。
そこの庭で――三百坪ばかりの庭で、百人か、それ以上か、まるで小合戦みたいに乱れ合い、木刀で打ち合っている。
それが大半は少年だ。中には七つ八つの幼児も、じぶんの背たけくらいの木刀をふりまわして、可憐なのどをしぼっている。それにまじって。――
「参ったっ」
「いま一本っ」
ひときわ濁った胴間声はあきらかに大人だが、これが存外真剣である。
娘をつれて来た郷士たちも、たちまちそこで、たすき鉢巻という身支度をして、
「おおおりゃあっ」
大袈裟な声を発し、木剣をふるってその中へ駈けこんでいったが、ひとりだけは責任上、庭のふちを回って、母屋の縁の方へちかづいていった。
その庭に面した縁には、猫が一匹座っていた。
「こちらへ」
と、つれて上ると、横の縁にひとり寝そべっている人間があった。
頬杖ついて、向こうむきになって――塀ごしに青い山と白雲を見ている。|煙管《きせる》をくわえているとみえて、煙がゆらゆら立ちのぼっている。
「先生」
と、郷士はうしろでひざをついた。
「十兵衛先生」
「――あん?」
「お客人をおつれしました」
「だれだ」
「敵討ち志願のお方です」
「ふん」
「きいてみますると、藤堂藩のお方でござるが、この五月、父御を闇討ちにして伊勢の津を|逐《ちく》|電《てん》した者が相当な使い手、この敵を討つためには、石にかじりついても剣法を修行いたしたいと願っておりまするところに、たまたま音にきこえた柳生十兵衛先生がこの柳生谷に御滞在と承って、訪ねて参られたそうでござります」
「よしたがいい」
「は?」
「人間を闇討ちにしたというなら、よくよくの事情があるのだろう。それを敵討ちすれば、また向こうの恨みを買うことになる。きりのない話だ。よした方がいい」
「しかし、女人のことでもあり――」
「なに? 女?」
はじめて、顔をこちらにむけた。
年は三十なかばか、もうすこし越えているか。さかやきは蓬々とのびて、まるで素浪人のようだ。とうていこれが一万二千五百石幕府大目付の子息とは思えない。――いや、そういわれてみれば、彫刻的な顔の輪郭にそれらしい気品もないではないが、とにかくあまりにも無精ったらしい。同時に、それだけに男の匂いがむんむんとする。――柳生十兵衛であった。
|隻《せき》|眼《がん》だ。右眼は糸のようにほそくとじられたままである。
そのあいていた方の左の眼も、ほそくなった。笑ったのである。
「ほう。なかなか美人ではないか。……なぜいちばんさきにそれをいわん」
「はて、申しませなんだか」
「これほどの美女が敵討ち……どうも、そぐわんな。敵討ちとは合わん顔だな」
旅の女の|蝋《ろう》のような頬に、さっと|一《ひと》|刷《は》|毛《け》血がのぼり、ひとひざにじり寄って、
「先生、お願いでござります。ふつつか者にはございますが、どうぞ。……」
「そのさしせまった息づかいもまたよろしい。なんの用であったかな。おお、敵討ち、敵討ちの指南と申したな。いや、心得た」
「え、先生、お引き受け下されまするか」
こういったのは弟子の方だ。
「拙者どもは、わざわざ先生をわずらわせるまでもなく、拙者どもが――あるいはあの女人の三剣士、お縫、おひろ、お|雛《ひな》どのでも、手ほどきを――」
「鼻の下のながい奴らだ。――おれが仕込んでやろう」
どっちが鼻の下がながいかわからない、と弟子はほっぺたをふくらませた。じぶんなどは、まだ手ずから十兵衛先生の伝授を受けたことがない。
「よし、わかった。おまえはあっちへゆけ。しっ」
十兵衛は弟子を追っぱらって、やさしい声で、
「名は何と申される」
もっとも、ふいに意気ごんだようで――からだだけは、最初の通り、ごろんと寝そべったままだから、横着なものである。
「藤堂藩士倉知伝右衛門の娘、お蝶と申しまする」
「まあ、こっちへ来られい」
お蝶はややためらったが、願いのこともあるのであろうか、おずおずと傍へすり寄って来た。背後では、例の百数十人の大人子供たちのさかんな矢声掛声がどよもしている。
十兵衛はもう向こうむきになって頬杖をついたまま、依然として煙管をくわえている。それっきりだまっているので、
「ほんとうに、わたくし、ここに来てようございました。これほどお手びろく剣法を指南していらっしゃろうとは。……」
「おれが一ことも口を出したことはないのだよ」
と、十兵衛は憮然としていった。
「いつのまにやら、子供たちが集まって来て勝手にやり出したのがもとだ」
「まあ。……では、十兵衛さまはいちども御指南なされたことがないのでございますか」
「ときどき、女だけは見てやることもあるが」
また笑ったようだ。
「おれは、男を教えるより女を仕込む方がうまい」
「女と申されますと……あそこには見えぬようでござりまするが」
「なに、知り合いの紀州藩士の娘たちだが」
と、ちょっと首をうしろにねじむけて、
「なるほど、いないようだな。飯のしたくでもしておるのだろう」
煙草をくゆらせて、
「これが、なかなかばかにならん。存外、すじがいい。すじがいいのは、おやじ連がみなえら物だからあたりまえで――いまおれは女を仕込むのがうまいといったが、ひょっとしたら、おれもかなわんかもしれぬ――と、男の弟子どもはいっておるようだな。うふん」
と、けむりを輪に吹いた。
「男弟子の中でな、柳生十人衆と自称しておる連中がある。みんな、その三人の女剣士の弟子だよ」
「……左様でございますか。では、わたしは――」
「おれが仕込んでやるといったが、よくかんがえてみると、剣法に関するかぎり、その女どもを師匠とした方が上達がはやいかもしれん。そもそも、おれはこのごろむやみに肩が凝ってな」
「お肩が凝る。――何か、なされたのでございますか」
「何もせんので肩が凝る」
「――は?」
「三四年、寝ころがっておってごらん。だれでも肩や腰が凝る」
ちらっとこちらをむいた。まじめな顔である。
この十兵衛は冗談ともまじめともつかぬことを、顔だけはしごくまじめにいう男らしい。
「お蝶どの――であったかな」
「はい」
「おれに弟子入りしたかったら、|束脩《そくしゅう》がいるよ」
「それは、|些少《さしょう》ではございますが、用意して参りましたが。……」
「いや、銭はいらん」
「――と、仰せられますと」
「おまえさんのからだをつかって礼をしてもらいたい。……十兵衛のところへ弟子入りする女人には、みなそうしてもらうことになっておる」
お蝶はだまりこんで、このとんでもない授業料を要求する新しい師匠を見つめた。十兵衛はまたたくましい背を見せている。
お蝶の眼がしずかにひかり出した。無理難題を強いられてやむを得ず決心したというより、もっと内部から咲き出した花のようになまめかしいひかりであった。
彼女はさらにいざり寄った。
「腰をもんでくれ」
と、十兵衛は眠たげにいった。
「――は?」
「そういうことだ」
お蝶の表情に波が立った。――十兵衛がからだをつかって礼をしろといったのは、そんな意味であったのか。そうと知ったとき、お蝶の顔に立った波は、笑いよりも怒りであった。
「こうでございますか」
しかし、彼女は従順に、十兵衛の腰をもみはじめた。
「うむ。うむ。そこだ」
十兵衛はきもちよさそうにうなる。
「そなた、思いのほかに上手ではないか。剣法より、|按《あん》|摩《ま》をやった方がいいのではないか」
「父の……腰をよくもませられましたから」
「あ、そうか、敵討ちの用もあったな。……」
と、いったが、それっきりである。いつしか煙管のけむりは消えて、十兵衛はうとうととしているらしい。
五月のなかばすぎといえば、もう夏にちかいが、この山国の柳生谷では――この城の中でも、鶯が鳴いている。いい季節だ。
お蝶の手は、十兵衛の腰のあたりを白い蛇のようにはった。向こうむきの十兵衛を例の妖しくひかる眼で見すえて、ときどき美しい唇をすぼめて、ほっ――と吐息を吹きおくる。息には|甘《うま》|酒《ざけ》のような匂いがあった。
突如として、お蝶は横にはねとんだ。
背後からそのあとに、一本の木剣がびゅっと飛来して、横たわった十兵衛のからだすれすれに庭へ飛びすぎようとする。――それが、空中で、がっきととまった。
向こうむきのままの十兵衛が左手をあげてそれをひっつかんだのである。
お蝶はすっくと壁ぎわに立っていた。
座敷の中にいつのまにかならんで座った三人の娘が、眼をみはって、これを見た。
【三】
木剣を投げたのはだれか。――その角度からみて、その三人の娘のうちのだれかに相違ない。三人、どれも花のように美しいのに、|肘《ひじ》までの|襦《じゅ》|袢《ばん》をきて、男みたいに|袴《はかま》をはいていた。
しかも、その瞬間、もっとも驚愕したのは彼女たちであったろう。
頬杖ついてうとうととまどろんでいる柳生十兵衛、その腰を、これまた何やら恍惚状態におちいってまさぐっている女。――その女の背めがけて投げつけた木剣は、みごとに女にかわされ、十兵衛の手につかまれたのだ。
壁ぎわに身をひるがえして立った女を見て三人、はっとして立とうとする。
「待て」
と、十兵衛がいった。
「なんで、そんなまねをした」
三人の娘はだまりこんでいたが一息おいて、ひとりがいった。
「伊勢の津から来たという仇討志願の女人のこと、いま磯谷千八どのから承りました。この柳生谷へ修行にくるほどのおひと、どれほどの覚悟か、ちょっとためしてみたのです」
「うそをつけ、お|雛《ひな》」
べつのひとりがいった。
「いまここで見ておりますと、その女人のそぶり、とうていそのような覚悟で来たおひとの所作とは思えませぬ。それで、ちょっと戒めのためにお雛どのが」
「うそをつけ、おひろ」
十兵衛は、つかんだ木剣を抱いたまま、ゆっくりこちらをむいた。
「やきもちだろう」
「まあ!」
と、もうひとりの娘が頬を染めてさけんだ。
「うぬぼれていらっしゃいます、十兵衛先生」
「そうかな、お縫」
十兵衛は笑って、それから眼を旅の女に移した。
「何も修行する必要はないじゃないか」
いま、木剣をかわした一刹那の早わざのことをいったのだ。
壁ぎわの女――藤堂藩士の娘お蝶と名乗った女は、もともと白蝋のような顔だったのが、さらに蒼白になっている。
彼女はしくじったのだ。ふいに飛んで来た木剣をかわしたことでしくじったのだ。それはほとんど本能的な反射行為であっただけに、彼女自身どうすることもできない自己暴露であった。
「正体は何だ」
と、起きなおって、十兵衛がいう。笑ってはいるが、のがれることのできない目であった。
「いったい何しに来た?」
そして、ついに声をたてて笑った。
「おれに惚れたか。――お縫、おまえさん、おれをしょってるといったが、この女、さっきからしきりにおれを誘惑しておったぜ。もっともおれも、女の誘いにはすぐ眼じりを下げる方だが。――」
「…………」
「それにしても、男と女、おたがいにいいきもちでウットリとしておるところへ、ふいに木剣を投げるとは、どうも殺風景な娘どもだな」
十兵衛がちらと三人の娘の方を見てそういい、これに対して三人の娘が何かいいかけて――その六つの眼が、またはっと大きく見ひらかれた。
旅の女が、ヨロヨロとその前にあゆみ出して来たのである。
そのまま、十兵衛と三人の娘を無視したように、両者のまんなかを通って、例の百数十人の少年たちが野試合をしている庭の方へ下りてゆこうとする。野試合をしている連中は、この座敷の異変に全然気がついていないらしかった。
「お待ち」
思わず気をのまれて、見送っていた三人の娘が、はっとわれにかえって立ち、お雛とおひろが追いすがって、その娘の両袖をとらえた。
とたんに、その女はたたみの上に、ばさと|崩《くず》|折《お》れてしまったのである。――ただ、一塊の衣服と化して。
「あつ」
足もとに横たわっているのは、ただきものだけで、人の姿はなかった。
「女はこっちだ」
十兵衛のさけぶ声がした。
三人の娘は、十兵衛が木剣をにぎったまま、おどり立って壁の前に立つのを見た。
壁の前には、何者の影もなかった。――しかし、十兵衛はその寸前に見たのだ。あの女がいつのまにか一糸まとわぬ白蝋の裸体となり、その裸身が透きとおったかと思うと、すうと壁に消えこむのを。
それは一種の保護色ででもあったろうか。いや、そうではない。それ以上であった。
「忍者だな」
そうさけびながら、十兵衛は木剣でその壁に、直径人の背たけほどもある円をえがいた。木剣のさきは、まるで|鉄《てっ》|尖《せん》で彫ったような|条痕《じょうこん》を壁に残した。
――と、何もないその壁から――円の中央、ややその上部から、タラタラと血がながれ出し、二条三条にわかれて下につたいおちた。
それっきりだ。
十兵衛と三人の娘は、凝然としてその壁をにらんでいたが、この奇怪な血をしたたらせたまま、壁は寂としてしずまりかえっていた。
「……ううむ」
と、ややあって十兵衛がうめいた。
「奇怪な奴だ。……壁に消えてしまった!」
これまた、それっきり四人は、|茫《ぼう》|乎《こ》として壁の前につっ立ったきりだ。……庭の矢声も別世界の|潮《しお》|騒《さい》のようにきこえる。座敷を吹きわたっていた南風も、このときとろんと息をとめたかと思われた。
「……これは、どうしたことでございます?」
と、お雛がのどのつまったような声でいった。
「忍者だな。のがれられぬと知って、舌をかみ切って死んだとみえる」
「いえ、このような女が、どうしてここへ来たのでございます」
「だからよ、敵討ちのための剣法修行に。……」
といいかけて、この際に十兵衛はにやっと笑った。
「というのは嘘だな。おれもはじめから、眉に唾をつけて見ておった。……で、腰をもませてみると、どうも様子がおかしい。まったくおれに惚れて、誘いに来たかと思った」
肩をすくめて、
「それがこれほどのわざを心得た忍者だとは、想像もせなんだぞ。いや、おどろいたものだな」
「このような忍者……とやらに、先生はつけ狙われるお覚えがあるのですか」
と、お雛はさらに切りこむ。
「そんな覚えはあるものか。……とはいうものの」
十兵衛は首をかしげて、つぶやくように、
「不徳のいたり、いままでずいぶん要らざる殺生を重ねたおぼえはあるから、この首狙う者があってもおどろくには足りんが、しかし女忍者に狙われるとはなあ。いや待てよ、狙われるといっても、いまの女に、殺気はなかったぞ」
また、にやりと笑った。
「やっぱり、おれに気があったのだよ。女忍者とて、惚れッ|気《け》はあろうが」
「それでは、のがれられぬと知って、なぜ……女が自害したのでございます?」
「や、そういわれると」
十兵衛は頬をかいた。
「なるほど面妖だな。つかまえられて白状させられることを怖れた――とでもかんがえるか。すると、いまの女の背後に、何か容易ならぬことがひそんでいそうにも思われる。といっても、正直なところ……いま、おれには思いあたるところがない。わからん。だいいち、いまの女、はたして死んだものやら逃げ去ったものやら、それもはっきりせん。まったくこりゃ、狐につままれたような事件だぞ。いまの女、ありゃ、白狐の化けたものではなかったか?」
【四】
……遠い柳生城の崩れた石垣の外に、ひとりの六部がもたれかかり、両足投げ出して座っていた。まるで南風の中に居ねむりでもしているようだ。
しかし彼は、耳に一個の|法《ほ》|螺《ら》貝をあてていた。
ちょうど、城内で、壁から血がながれおちたのと同じ時刻である。その法螺貝がささやく声を、彼だけがきいた。
「……フランチェスカお蝶、ここに|殉教《マルチリ》をとげまする」
それっきりだ。
六部は顔をあげて、しばらく凝然として、ひかりのみちた空をにらんでいた。これはたしかに、あの天草四郎であった。
「死んだか」
と、つぶやいた。吐き出すように、
「ばかな奴だ。いったい、どうしたんだ?」
フランチェスカお蝶。――そういえば、江戸の由比屋敷の地の底で、森宗意軒から、「そなたらのうち、ひとりかねて申しつけてあるところへゆけ。――その男を誘い、|堕《おと》すのだ」と命じられた女の切支丹名を、たしかフランチェスカといった。
してみれば、かねて申しつけてあるところとはこの柳生谷で、その男とは柳生十兵衛であったとみえる。森宗意軒の八本目の指でさし示した犠牲者、いや「魔界転生」することを望まれた八番目の剣鬼は彼であったとみえる。
かくてフランチェスカお蝶は柳生谷にやって来た。そして柳生城に入って、実に一刻もたたぬうちに。――
「死んだか。……いったい、どうしたんだ?」
と、介添え役の天草四郎が|嗟《さ》|嘆《たん》したほどあっけなく、はかなく落命した。
彼女はいったん壁中に逃げかくれようとしたものの、ついにのがれられぬと知って、秘密を保つために、断末魔の声を四郎に送って死んだのである。四郎の持つ法螺貝は、常人にはきくことのできぬ音波をきくことのできるものらしい。――
これは、完全にフランチェスカお蝶のいさみ足であった。
彼女としてはまず十兵衛を誘惑するのが第一の目的で、それがそうたやすく事が運ぶものとは予想していなかったろう。それなのに、十兵衛があまりにもだらしなく、彼女を見るやいなやたちまちよだれもたらさんばかりの状態になったから、思わず知らず、その好機に乗じようとした。――
それはいいとして、このときまったく思いがけなくほかから投げつけられた木剣を反射的にかわしたことで、彼女はみずから死地におちてしまったのだ。
そこまでは、天草四郎にもわからない。――
「……ううむ、案の定、ひとすじ縄ではゆかぬ奴」
と、宙をにらんで、きりっと歯ぎしりの音をたてたのは、むろん柳生十兵衛に対してだが、これは買いかぶりか。――それとも、この日以後の大死闘をはやくも見ぬいた本能的な恐るべき予感であったか。
彼は立った。
|錫杖《しゃくじょう》をついて歩き出した姿には――その凄艶な若い顔には、妖しい殺気さえ浮かんでいる。いや、その殺気につきうごかされて、じぶんでもどうすることもできないような足どりで、彼は城門の方へ回っていった。
――と、門ちかくの樹蔭で、彼は立ちどまった。
【五】
四五人の武士がそこに立っていた。ひとり六十をこえたとみえる|痩《そう》|身《しん》の侍をかこんで、あとはその|中間《ちゅうげん》か若党らしい。
「おねがい申す」
若党たちが口々にさけんでも、中から応答はない。門番などはいず、門もあけたままなのに、ひどく礼儀正しい人物とみえて、老武士はついにじぶんで声をはりあげた。
「紀州の木村助九郎参ってござる。――十兵衛さまはおわしますやっ」
――それでもだれかききつけたとみえて、やがて駈けて来た数人の侍が、
「やっ、これは木村さま!」
と、おどろきと敬意を顔じゅうにあらわして、
「いざいざ、さあ御遠慮なく。ここはあなたさまのお里ではありませぬか」
と、歯がゆそうにいって、彼らをみちびいた。
木村助九郎と名乗った老武士は、苦虫をかみつぶしたような表情になって、
「このお城は無人か」
「いえ、お留守居の狭川さまはいまお出かけでござりますが、十兵衛さまはいらっしゃりまする。それに、おききのようにあの盛大な矢声。……それにまぎれて、ついお声をききもらし、失礼つかまつりました」
「そんなことではない」
と、助九郎老人は叱りつけて、
「この壁のおちよう、草の生えよう、だれひとりとしてつくろう者、草をむしる者はおらんのか。ああ、太祖石舟斎先生が御存世でおわしたら、この城の荒れようを見て|哭《な》かれずにはおられまい。……」
と、長嘆した。
侍たちは、頭をかいて、一句もない。
この老人が叱りつけ、長嘆し、それに対して侍たちが頭もあがらないのは当然だ。この人物は柳生石舟斎の愛弟子であった。
剣聖柳生石舟斎に四高弟と呼ばれた人々があった。庄田喜左衛門、出淵平兵衛、村田与三、木村助九郎。――すなわちこの人である。彼はその後紀州藩につかえて六百石の禄を受けていまに至っている。――この六百石がいかに高禄であるかは、尾張藩につかえた柳生兵庫が五百石、細川藩につかえた宮本武蔵が三百石であったというのに|徴《ちょう》してもだいたいの想像がつくであろう。
「まことに申しわけありませぬ。十兵衛先生がよいよいと申されて。……」
「たわけっ、いかに主人が横着者とはいえ、家来までがそのまねをする奴があるか。……これだから、長男のくせに江戸の本家もつげぬのじゃ」
木村老人の怒りのとばっちりは、まだ逢わぬ十兵衛にまで放物線をえがく。
「男ばかりではない、女もおるはず。――お縫などは何をしておる?」
――むろん、侍のひとりがさきに走って、木村助九郎の来城を告げにいっている。
彼らが通されたのは、あの野試合に面した座敷ではなく、もっと奥のべつの書院であった。
「……あっ、おじいさま!」
出迎えた三人の娘のうち、ひとりが走り出して老人にとびつこうとした。
「ひかえおれ!」
木村助九郎は一喝して、書院に入った。
「やあ、爺、相変わらずだな」
十兵衛が隻眼を笑わせて迎えた。こっちも相変わらず横になって、例の頬杖をついて、煙管をくわえている。
「はっ、十兵衛さまには御機嫌うるわしゅう……恐悦しごくに存じたてまつります。その後……」
「よせよせ」
十兵衛は煙に顔をしかめて、
「爺、何で来た」
「はっ、昨年よりいろいろとお教えいただきましたる孫のお縫をはじめ、あとふたりの娘御、三人とも、このたび紀州にひきとらせていただきたく、そのために参上いたしました」
「ふん」
と、十兵衛が煙管を口からはなしたとき、
「――いやですっ」
三人の娘が同時にさけんだ。
木村助九郎はじろと、あらためて彼女たちを見た。
ふくよかな胸には、さらしでも巻いているのだろうが、粗末な襦袢はおさえきれずにむっちりと盛りあがって、みじかい袖からは匂うような腕がつき出している。肌はみんなさくら色であった。
そのさくら色の頬が、いっせいにぱっと濃い紅をちらした。――いまの声は、三人、じぶんでも思いがけなくのどからとび出して来たのだ。
いちばん右に座っているのが、木村助九郎の孫娘、お縫。みるからにあどけなく、ういういしく、可憐な顔だちをしている。
まんなかがお雛。紀州藩で助九郎とならんで剣法を指南している田宮平兵衛のこれも孫娘で、いかにも利口そうで、活発で、りりしい容貌であった。
いちばん左が、やはり紀州藩で柔術を教えている関口柔心の娘おひろで、これはみるからにやさしく|優《ゆう》|婉《えん》な姿態をしていた。
柳生城へ出入りする郷士たちが「剣法は修行よりも血か」と嘆き、十兵衛が「すじがいいのは、おやじ連がみなえら物だからあたりまえだ」といったことがあるのは、こういう娘たちだからだ。
彼女たちがこの柳生城へ来たのは、去年の四月のころであった。ちょうど四十年前の慶長十一年四月にこの世を去った太祖石舟斎の命日に、恩師を忘れぬ木村助九郎が、孫娘をつれて墓参に来て、そのときなに思ったか――おそらく、ここにつくねんとしている十兵衛の周囲があまりにも殺風景で、見るに見かねたからだろうが――お縫を置いていったのだ。
お縫には、十兵衛さまのお身のまわりのお世話をせよと命じ、十兵衛には、孫娘ながら一応手ほどきしたところ存外すじはいいと見きわめ申した、おそばに置いて、ときどきお教え下されいと依頼したのである。
お縫はひとりでは心ぼそかったとみえて、すぐに紀州和歌山から、いちばん仲のいいふたりのともだちを呼びよせた。お雛とおひろだが、それぞれの祖父や父、田宮平兵衛と関口柔心がこれをゆるしたのも、木村助九郎同様のきもちがあったせいであろう。
それから一年。――
お縫たちはこの美しい、のどかな、素朴な、そして殺伐な山国ですごした。
そして、彼女たちには、柳生十兵衛という片眼の風来坊的人物がいまだによくわからない。
はじめはだいぶ年長でもあるし、助九郎老人のもとの主家の御嫡男でもあるし、それに腕のほどはきいているから、大いに尊敬の眼で見ていたのだが――どう見ても、一万二千五百石のあととりとはみえない。尻から根が生えたように、いつもじっと日向ぼッこしているのに、いまにもどこかへ飛んでいってしまいそうな風来坊といった不安がとれない。
ひどく親切かと思うと、ひどく冷淡だ。その冷淡さも、非情というわけではなく無関心といった感じで、それがかえって彼女たちの胸を刺す場合が多い。
三十なかばすぎて、妙に子供っぽいところがあって彼女たちの微笑をさそうかと思うと、いやになるほどじじむさいところがある。
あくまで明朗|濶《かっ》|達《たつ》、|諧謔《かいぎゃく》ばかりとばしている人間のようで、ときどき空を見あげている横顔に、しみ入るような孤独のかげが浮かんでいることがある。
きけばこの十兵衛先生は、いい年をして、江戸の但馬守さまのお怒りを買って、この柳生谷に謹慎を命じられているのだそうだ。きのどくでもあり、可笑しくもあった。
この四月はじめ、江戸から急便があって、その但馬守さまの御逝去をつたえた。すぐに十兵衛先生も江戸へおかえりになるのかと思ったら、そのままこの城に寝っころがっている。どうやら、あとできくと、帰府帰邸に及ばずという御遺言があったらしい。彼女たちは、それはひどい、と大いに憤慨するとともに、なぜかほっとした感じもいだいた。
要するに、三人の娘にとって、この十兵衛先生は、えらいのかえらくないのか、頼もしいおひとかあてにならぬおひとか、さっぱりわからないのだ。
それなのに。――いま、木村助九郎からじぶんたちが紀州へひきあげることを告げられて、
「――いやですっ」
と、われしらずさけんでしまい、おたがいを意識して、ぱっと頬を染めてしまったのであった。
「なぜじゃ」
と、老人がいった。
「それは……」
とっさに三人は、返事ができなかった。なぜそうさけんだのか、じぶんたちでもわからないからだ。ややあって、お雛がいった。
「木村のおじいさま、十兵衛さまが妙な女に狙われておいでになるのです。……」
さっきの事件を思い出して、これを口実につかうという知恵を出した。
その事件のことをきいて、木村助九郎は狐につままれたような表情をした。――彼女たちだって、いまだにそんなきもちなのだから、見ていない人間にはいよいよあたりまえの話である。
妙な顔をして、黙って十兵衛の方を見る。
十兵衛がけろりとしていった。
「ふん、そんなことがあったが……さればといって、この娘たちがいてもいなくても、べつに関係はないことのようだな」
こういうところが、かきむしってやりたいほどの十兵衛先生の冷淡さである。が、十兵衛がほとんどそれを意識していないことは、みずからの半生を思い出すようなまなざしになって、
「おれはいままで、ずいぶんいろいろな妙な奴に逢ったよ。……」
と、ひとりごとをつぶやいたときの顔つきからわかった。
その眼をあげて、
「それはそうと、助九郎、なぜ娘たちを呼びに来た?」
「藩命でござる」
「藩命。――」
「されば、このたび紀州藩士の娘にして、十七歳より二十三歳にいたる者は、ことごとく南竜公さまにお目見えいたすように――ということで」
「なんのためだ、それは?」
「なんのゆえか、相知れませぬ」
木村助九郎は憮然たる表情をしていた。
「藩の御重役、牧野兵庫頭どのより内密にお触れがあって、殿の|御諚《ごじょう》と申されます」
「ふうむ、十七歳から二十三歳まで。――」
十兵衛がくびをひねって、
「妾にするつもりか?」
と、つぶやくと、また三人の娘が、
「――いやですっ」
と、さけんだ。こんどはいっせいに満面蒼白になっていた。お縫がくびをふって、
「おじいさま、そんな御用なら、わたし和歌山に帰りませぬ!」
「君命である!」
と、老人は一喝した。娘たちはぴたとしずかになった。
たんに一喝されたせいばかりでなく、言葉そのものが娘たちに磐石の重みをあたえたのを、柳生十兵衛は見てとった。――おだやかに、
「|爺《じい》、南竜公は、お好きな方かえ?」
「何がでござる」
「……まあ、女の方さ」
木村助九郎は口をつぐんだ。答えることを拒否したというより、じぶんで何やら思案に沈んだ気配である。
むろん、みるからに絶倫の精力を持つ大納言頼宣さまが、その方面に|恬《てん》|淡《たん》なはずがない。げんに和歌山のお城には、十人ちかい御国御前がある。しかし助九郎の見るところでは、頼宣卿は女よりも、さらに政治とか兵法とかに強い興味を抱いているお方にみえた。さればこそ、近世の名君と家来たちからたたえられ、公儀からも「南海の竜」として、一目も二目もおかれているのだ。
ただ――この五月、江戸から御帰国になって以来の頼宣卿には、以前には感じられなかった奇妙な変化がある。――
それは、一口にはいいあらわしがたい変化だ。
一見、主君には何の異常もない。依然として、この名君は朝夕重臣を呼んで政務をきき、兵法に練達の士を集めてその武辺ばなしに夜をすごす。――このまえ帰国なされたときと、ちっとも変らない。
だれも気がついてはいないかもしれない。にもかかわらず、主君の眼にえたいの知れぬ苦悶のかげりと、その肌に一種いいがたい妖しい精気をおぼえる――のは、わしだけかもしれない、と木村助九郎は感じていた。
あまりつかみどころのない感じだから、彼はだれにもこのことを打ちあけなかった。
こんど。――
「家中の者どもの娘を集めよ」
そういう秘命が下ったことに、はてな、とくびをかしげた者は助九郎以外にもあったはずだが、だれもそれについて懐疑の念をもらした人間はない。
たとえそれが主君の新しい愛妾を選抜するための命令であると思っても、これに異論をとなえる者はなかったろう。出世の機会が到来した、などとあさましくよろこばないにしても、この御主君ならばたとえ命を召されたとて、と心から信頼し、光栄に思うものが大半であったろう。
助九郎にしても、この触れをきいて、眉をひそめたのは、娘の運命よりも、むしろ頼宣卿のことについての不安からであった。ひそかに漠と看取していた主君の変化が、果然、ひとつの具体的なかたちをとってあらわれたように思われたからである。
いま。――柳生十兵衛に、
「南竜公は女が好きな方か」
と、もちまえの調子でズバリときかれても、木村助九郎はついに何も答えなかった。
主君に対するそんなあいまいな疑惑を、はしたなくもらすような老人ではない。忠節一途、剛直無比の老剣客だ。
十兵衛にはとりあわず、
「では、すぐに支度いたせ」
と、娘たちにいう。
「――いま?」
と、なおためらいの姿態に抵抗をみせる娘たちに、
「君命じゃ!」
と、助九郎はまた|大《だい》|喝《かつ》した。
十兵衛がにが笑いしていった。
「君命はわかったよ。|爺《じい》。……しかし、せっかく和歌山から柳生谷までやって来て、一晩くらい泊っていっても礼儀にはそむくまいが」
「はっ」
木村助九郎老人は、がっぱと両手をついた。
「それにつきましては、これより改めて十兵衛さまにお礼を申しあげる所存でござりました。ふつつかの者をよう御教導下され、まことに以て助九郎、感涙のほかは……」
「わっ、よしてくれ!」
はじめて十兵衛は起きなおった。あわてて手をふって、
「おれが礼儀などいい出したのがまちがいだった! 礼はかんべんしてくれ、爺。……」
助九郎も破顔した。
「いや、仰せの通りでござる。……あなたさまにはともかく、柳生に参って石舟斎先生の御墓前にも詣でぬとは、まことに罰あたりの礼知らず」
まるでその柳生石舟斎の再来を見るごとく、敬意と愛情のこもった眼で十兵衛を見て、
「十兵衛さま、相変わらずでございますな」
「相変わらずはそっちだ」
さっきまで泣き顔をしていた三人の娘も笑い出した。眼に涙をためているが、これは笑い涙というやつだ。実にこの十兵衛先生というひとは可笑しい。
【六】
翌る日、出発に先立って、一同うちそろって柳生谷の向かいの山にある法徳寺に詣でた。ここは柳生の遠祖以来の菩提寺である。
「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳大居士」
これが石舟斎の法号である。
その石塔のまえにうやうやしくぬかずいていた老高弟は、やがて立ちあがって、ふと、
「但馬守さまのおん霊もここに祭りとうござるが……その後、江戸からは何も申してよこされませぬか?」
と、きいた。
「来ん」
と、十兵衛はあごをなでながら答えた。
平気な顔だが、木村助九郎ははっとわれにかえった。柳生但馬守の嫡男でありながら、相続はおろか、その葬儀にもあずかることをゆるされぬこの柳生十兵衛。――
助九郎の眼からみても、そう遺言したという但馬守の心はわからないではないが、しかし一面、この頑固な老人はこの無頼奔放な十兵衛に、これ以上はないという好もしさと信頼を抱いているのであった。またそれほどの信頼なくして、娘たちをこの人物に託して修行させるわけがない。
ただし、この件については何ともきのどくで、いちどはっと口をつぐんだが、その狼狽をけどられまいとして、また、
「ところで、尾張の柳生如雲斎さまがお亡くなりになったことを御存じでござるか」
と、あらぬことを口走った。
「ほう。知らぬ。いつ。――」
「なんでも、この四月の末ごろと申すことでござる。京の妙心寺の草廬に於て」
と、助九郎はいった。
彼もそういう風評をきいただけである。柳生但馬守一門と尾張の如雲斎とは、おなじ柳生一門でありながら、一切交わりはなかった。
だから――助九郎も知らなかった。その妙心寺に病む如雲斎の世話をするために京に呼ばれていた嫁のお加津という女人が、如雲斎の死の直前から、忽然とこれまたこの地上から姿を消してしまったという事実を。
「おやじが死んだで、尾張の入道も気落ちがしたか?」
と、十兵衛はいった。彼もまたこの二巨星の妄執にちかい確執をよく知っていたのである。彼からみると、実にばかげたこだわりであった。
「尾張の入道が死んだとあれば……残念であったな、おれともあろう者が小心な父に縛られて」
十兵衛は憮然として、
「生前、あの入道にいちどもお手合わせ願えなんだことが」
と、つぶやいたが、ふと|隻《せき》|眼《がん》を助九郎にむけて、
「おまえは、この柳生谷におられたころの如雲斎どのを存じておるの」
「それは拙者がごく若年のころのこと。――いや、その後――まだ柳生兵庫と名乗られて諸国を放浪なされていたころ、紀州にお越しなされたときの如雲斎先生も存じあげておりまする」
「や、それははじめてきいた。で、おまえ立ち合ったか」
「いえ。……やはり、江戸の御意向をはばかって、他人とのお立ち合いを拝見したばかりでござるが」
「おやじとどっちが強いとみた?」
「さあ?」
ニヤリとして、
「おれとはどうだ」
「さあ?」
木村助九郎はくびをかしげて、
「ただ、拙者などはるかに及ばぬことだけはまちがいござらぬ」
「なら、おれより強いではないか」
と、十兵衛は苦笑した。
「爺はおれよりだいぶ上だからな」
この問答でもわかるように、まったく|洒《しゃ》|々《しゃ》|落《らく》|々《らく》、ものにこだわらない十兵衛だが、このときばかりは――柳生如雲斎の死ということにはよほど思いが残ったとみえて、
「とはいうものの、この道ばかりは真剣でないとわからん。なお生きておわすとしてもかなわぬことではあったろうが、何とぞして、いちどあの入道に真剣でお教えをいただきたかったような気がするぞ」
と、雲に眼をあげた。まぶしい夏雲にその隻眼が夢みるようにひかっている。――助九郎は、われしらずぞっとした。
これがこのおひとのただひとつのぶきみな性向だ。いかにもこの十兵衛さまは、木剣ならば如雲斎さまや但馬守さまはおろか、この助九郎にでも一歩をゆずるかもしれぬ。しかし、ひとたび真剣をとれば、どうなるかわからない。
――そんなうすきみのわるいところが、たしかにある。
「さ、では、そろそろおいとまつかまつろうか」
と、老人はうしろに|佇《たたず》む三人の娘をうながした。さらにうしろには、自称柳生十人衆の若者や子供たちがぞろぞろとくっついている。
一同は山を下り、城へゆく道と伊賀街道へゆく道との分かれ路に来た。
「おれは、ここで帰る。あとはみんな送っていってやれ」
と、十兵衛は立ちどまった。淡々たる表情である。
「では、十兵衛さまっ」
声をそろえてさけんだきり、お縫もおひろもお雛も、顔に手をあててさめざめと泣き出した。
ふところ手のこぶしを襟から出して、ぶしょうひげをつまぐりながら、こまったような顔でこれを見ていた十兵衛は、ふいに、
「君命である!」
と、大喝した。
三人の娘は顔から手をはなし、直立不動の姿勢になった。
「と、助九郎爺はいうがな」
と、十兵衛は笑って、
「あまりに理不尽と思うことがあったら、柳生谷に帰ってこいよ。忠義、君命、ひとさまざまで、それをどう受けとめようがひとの自由だが、おれはあまり好きでないな。とくにそれを女に強いることは。――これ、爺、そう眼をひからすな。まあ、娘を三人、嫁にやる親のきもちだと思え」
そういって、十兵衛はくるりと背をむけると、あともふりかえらず、ひとりぶらぶらと城の方へ帰ってゆく。
ふところ手のたもとを青嵐が吹き、燕がかすめるのを、いつまでも三人の娘は見送っていた。これではどっちが旅人で、どっちが見送り人なのかわからない。
が、やがて老人にうながされ、あきらめて北へ三人が歩き出し、門弟たちがあとを追って――そのかるい土ぼこりが消えたころ、無人の往来に忽然と灰色の六部姿が立った。
「さて、どっちへゆこうか」
と、つぶやいて、ふところからべっこう色の竹筒をとり出し、片手に一本の指をこぼした。
「十兵衛を|堕《おと》すまであずかってくれ――とフランチェスカからわたされたこの指が、むだなことになったなあ。……いや、貴重な指だ。むだにしてはならぬ。江戸に報告して、また次の忍体に来てもらうよりほかはあるまい。フランチェスカの敵を討ちたいが、しかしあれは敵ではなく、味方にせねばならぬ男だ。魔界転生の仲間に加えなければならぬ男だ。となると、わしひとりでは成らぬ。ひとまず、わしも和歌山へひきあげるとするか?」
ぶつぶつと天草四郎はつぶやいた。
指を竹筒にしまい、これまた北へ歩き出す。歩きながら、なおきみのわるいひとりごとをいっていた。
「とはいえ……あの十兵衛と但馬守。この親子がいのちをかけて斬り合うのをいちど見たい気もするて」
――城へ帰って、柳生十兵衛はまた書院に大の字に寝ころんだ。
「さて……」
と、いったが、煙管をとって火をつけただけだ。
しかし、風に吹かれて消えてゆく青いけむりのあとを追う隻眼には、本人の意識せぬ哀愁のひかりがある。
もっともそれがここを去った三人の娘たちに対する惜別の想いかというと、大いに疑問である。……案外、ひたすらたいくつをもてあます男の眼であったかもしれない。
ふと、その眼のひかりが宙の一点にとまった。おのれの過去をまさぐるもののごとく。――
「……はて、あの女忍者は何やつだろう?」
ややあって、つまらなさそうにつぶやいた。
「何も、ない」
|黄泉国《よみのくに》
【一】
もう七月に入っていたが、妙にうそ寒い日であった。そのうち雨になりそうな空模様である。
紀州和歌山で、六千石の大禄を受ける重臣牧野兵庫頭の屋敷の奥ふかく、奇妙な行事が行なわれていた。
一室に十数人の若い女がひとかたまりになって、みな緊張に蒼ざめている。次の間に数人の老女が座っていて、時間をおいて、ひとりずつその名を呼びあげる。そのたびに、呼ばれた女は立って次の間に入る。あとに唐紙がしまる。
彼女はそこで、老女たちの手によって全裸体になることを命じられた。それからべつのきものを着せられたが、それは光線のかげんによっては――とくに暗い方から明るい方を透かしてみれば――ほとんど裸とみえる|紗《しゃ》のうすものであった。むしろ、そういうきものをまつわらせていることによって、女ははるかに異様ななまめかしさをたたえた姿態となった。
この作業のあいだ、彼女にためらいはおろか、|含羞《がんしゅう》のしぐさをもゆるさないほどの厳粛な表情をした老女たちは、
「あなたに天地のお言葉をたまわりますように」
と奇怪な言葉を投げ、
「おゆきなされませ」
と、送り出す。
女は庭に沿う長い長い縁側を歩いていった。――片側に白じろと障子をたてきったいくつかの座敷の中からはもとより、庭の方からもだれも見ているとは思われないしずけさだが、しかし藩風のきびしいことで知られた紀州藩の藩士の娘、しかも処女だ。――半透明のきものをまとわせられて、その乳房も胴も四肢も、恥じらいのため、異様なふるえ、あるいは硬直、あるいはくねりを示さざるを得ない。
一つ、障子のあけはなたれた座敷のまえを通りかかる。――
彼女はそこにどういう人がいるのか、ながし眼で見る余裕はなかった。ただ。――
「|人《じん》」
または、その娘によって、
「|地《ち》」
という重々しい、恐ろしい宣告の声が鼓膜を打つのをきいたばかりである。
その声がどういうことを意味したかは、彼女がその縁側をその端までゆきついたところで知った。そこにある小部屋に、またべつの老女たちが待っていて、「人」と宣告された娘は、べつの部屋で休息ののち帰宅をゆるされたが、「地」と宣告された娘は。――
「おう、およろこびなされ、おまえさまは御意にかないましたぞ」
そういう老女の言葉とともに、そこにとどめられたからだ。
最初の十数人すべての品評が終わると、「地」に選抜された娘は、ふたたびいま来た縁側を通ってもとの座敷に帰ることを命ぜられた。
そして、例の座敷の前にさしかかると、こんどは意外なことが起こった。
娘が通りかかると、その座敷のすぐ内側にめぐらされた屏風のかげから、流星のようにひとすじの槍が突き出されたのだ。
あとで思えば、その槍の穂は、娘たちの胴すれすれにピタリととまるか、或いは腹をかすめてながれるか、呼吸をはかって突き出されたのだが、しかしその瞬間には、彼女たちは、はっと|驚愕《きょうがく》せざるを得ない。
息をのんで立ちすくむ者、つんのめって四つン|這《ば》いになる者、横っとびに逃げはしたものの、縁側から白い二本の足を空にむけてまろびおちる者。――まさに落花|狼《ろう》|藉《ぜき》の惨。それが「地」にえらびぬかれた女、すなわちあきらかに容色すぐれたと認められた女たちだけに、それはいっそう眼を|覆《おお》いたいような光景をえがきだした。
座敷の中からは、笑声一つ起らない。
「――ゆけ」
ただそういう|勁《けい》|烈《れつ》な声がかかったばかりである。
娘たちは這うようにして廊下を逃げていった。いかなる御用か知らず、「しくじった」という恥じの思いだけが、彼女らのからだじゅうの皮膚をあかく染めていた。
しかし、彼女らは「人」と品定めされた娘たちとちがって、親元に返されなかった。親たちは、娘が南竜公の御意にかなったものとかんがえた。事実、あとで牧野兵庫頭から、娘御にはこれより大奥でおそばちかく御奉公の儀と相成りましたゆえ御懸念あるまじく、と鄭重な|挨《あい》|拶《さつ》の使いがあったのだ。
それは十人に三人くらいの割合であったろう。その点でも親たちはむしろ光栄に思ったのである。
事実はほとんどがこの惨状を呈した地組の女たちの中で、珍しい例外があった。
その第一の女は、稲妻のような槍の穂先がのびて来たとたん、そのからだはフワと宙をとんでその向うに立ち、いちどきっとした眼でふりかえったが、そのまま何事もなかったかのように、シトシトと向うへ歩いていった。
「……|天《てん》」
だれかうめいたあとで、座敷の中で、問答がきこえた。
「あれは何という娘じゃ」
「木村助九郎の孫、お縫と申しまする」
「なるほど、さもあらん。――」
その第二の女は、槍が胸もとをかすめると同時に、帯にたばさんでいた懐剣を宙に|薙《な》ぎあげた。大刀を以てしても容易に|斬《き》れぬ千段巻きをただ|一《いっ》|閃《せん》で斬りとばした娘は、一間も向うへ宙を蹴って、くるりとむきなおって懐剣を逆手にかまえたが、柄だけになった槍が屏風に吸いこまれると、これまたスルスルとそのまま遠ざかっていった。
また声がきこえた。
「……天」
「あれは何者の娘であるか」
「あれは関口柔心の娘おひろと申しまする」
「いかにも、道理。――」
その第三の女は、槍をひっつかんだ。ひっつかむと同時に、逆に相手の方へ押した。つかまれて、反射的にひこうとしていた槍手は、あわててこれを押しもどそうとする。とたんにこんどはひったくられて、それほどの剛力であるはずもない女なのに、このつかむ、押す、ひくの三つの行動がほとんど一瞬のことで、思わず槍手は屏風をおしたおして、大きなからだを廊下へつんのめらせ、勢いあまって縁の下へころがりおちた。
ちらと片頬に皮肉の笑みさえたたえて、娘がスタスタといってしまったあと、三たび会話がきこえた。
「……天でござりまするな」
「あれは?」
「田宮平兵衛の孫、お雛と申しまする」
「ううむ、いかにも、|喃《のう》。――」
――数日おきながら、一ト月以上にもわたって召し出された藩士の娘、藩士の娘のみならず、紀州藩に関係ある人々の娘やその縁故者にまで、出頭の内命があったから、それはすべてで数百人にものぼったであろう。
その中で「天」に選ばれたのは、ただこの三人。
【二】
夕刻から雨になった。
遠雷すらもきこえた。その音はおどろおどろと遠く鈍かったが、夜とともに蒼白い稲妻がひらめいた。稲妻とともに、雨が銀色にひかって見えた。
その雨ふりしきる闇の庭に、ひとつ忽然と立つ姿が稲妻に浮かんで消えた。彼は袴のももだちをとりあげただけのはだしであったが、顔は黒い頭巾でつつんでいた。
稲妻をふかい樹立ちに避けながら、彼は庭をうごいていったが、突然ピタと立ちどまった。……彼はすぐ向こうに、おなじような黒い頭巾をかぶった影をみとめたのだ。同時に向こうでもこちらをみとめたらしかった。
次の稲妻がひらめいたとき、おたがいの影はもう見えなかった。にもかかわらず、闇の中に、おたがいだけが知る殺気の風が吹きつけ合い、からまり合った。
「……柔心ではないか」
「……平兵衛か」
そんな声が同時にして、ふたりはふたたび姿をあらわした。
双方から歩み寄り、手をにぎり合い、苦笑の眼を見合わせる。
「思いはおなじか」
「やはり、娘の身を案じて」
「それもあるが……そればかりではない。娘の一身、もし殿がお望みあそばすならば、八つ裂きになろうといといはせぬが」
「同感だ。わしもその覚悟でおったが……このたびのこと、かんがえればかんがえるほどいぶかしいふしがある」
「女を召されるならば、なぜ堂々とお城においてなされず、この牧野の屋敷でお目見え申しつけられるのか?」
これは紀伊藩でそれぞれ剣法と柔術の師範を承る田宮平兵衛と関口柔心であった。
「しかも、殿には今宵、なぜかまだお城に御還御に相成らず、この屋敷におとどまりなされておるらしい」
「が、不審なのは、殿よりも、牧野兵庫頭じゃ。――」
ふたりは語り合った。言葉はちがうが、|語《ご》|韻《いん》に山彦のように相応ずるものがある。
「それに、この庭。――」
「兵庫頭が、殿について帰国するや否や、早々に庭に何やら大工事をはじめたときいてはいたが」
ふたりは稲妻に浮かびあがる広大な庭を見まわした。雨はすこし小降りになっている。
「見れば、あの築山が出来ているだけではないか」
「それがおかしい。なぜそれほどいそいで築山などを作る必要があるのか」
ふたりはその方へ、そろそろとちかづいていった。
すると――二三十歩ゆくと、
「平兵衛、柔心」
と、横の樹立ちの中から、声を殺して呼びかけた者がある。はっとふたりが足を|釘《くぎ》づけにしたとたん、
「木村助九郎じゃ」
と、闇の中の声はささやいた。
「今宵両人がここへ来たわけは、助九郎存じておる。――同じ思いで、わしも夕刻からここにひそんでおる。――」
「――す、助九郎」
「しっ。……」
と、声は制した。
「だれかくる。――見つかったか」
やや小降りになった雨の中を、たしかに十数人の人影が近づいて来た。
全身をこわばらせて凝視している三人の――しかしはるか彼方で、その一団は方向をかえて、築山の方へ歩いてゆく。稲妻のひかりで見ると、彼らは両腕に重箱をつみ重ねたようなものをかかえている気配だ。
彼らは築山の下のあずまやについた。
「ここでよし」
そういう声がした。
一団の影は、運んだものをそこにおき、そのままもと来た方へひきかえしてゆく。あずまやには、三人ばかり居残ったようだ。
それから――木村助九郎と田宮平兵衛と関口柔心の見ているまえで、彼らは実に驚くべき光景を展開しはじめた。ひとりがあずまやの中央にあるまるい石の卓子に手をかけてまわすと、あずまやそのものが回転しはじめ、築山にむかった一面の壁がうごいて、そこにぽっかりと暗い穴をあけた。そして三人は、あずまやに置かれた重箱のようなものをかかえて、その穴の中に入っていった。――
「ううむ。……何たる奇怪な。――」
「兵庫頭が帰国以来、昼夜兼行で工事させたのは、かかるものを作るためであったか。――」
「そも、何のために?」
知る人ぞ知る。これは江戸の張孔堂の庭に作ってあったものとまったく同様のからくりであった。そうとは知らぬ以上、木村助九郎たちは驚きのあまり茫然と顔見合わせざるを得ない。
藩中の娘、ことごとく御主君にお目見えさせよ。――という内命が下ったとき、助九郎たちは、|唯《い》|々《い》[#電子文庫化時コメント 底本ルビ「いゝ」]としてこれに服した。
そのために助九郎などは、大和国柳生谷にやってあったじぶんの孫娘お縫をはじめ、田宮平兵衛の孫娘お|雛《ひな》、関口柔心の娘おひろを、わざわざ呼びもどしにいったくらいである。
ただ。――
もとより決して望むところではないが、たとえ娘を主君の妾にと命ぜられても、或いは命そのものを所望されたとしても、おそらく黙々と服従したであろう忠心一途のこの三人の祖父また老父が、最後の土壇場、すなわちお縫、お雛、おひろたちが――それは偶然同日のきょうであったが――牧野兵庫頭の屋敷に呼び出されて帰らぬこの夜、いてもたってもいられなくなり、ついに期せずしてここに忍びこんで様子をうかがおうとしたのは、むろんそれぞれの父性愛もあるが、またどうにも晴れぬ兵庫頭個人に対する不審の念からであった。
それからもうひとつ、彼らだけの理由があった。それはこの木村助九郎、田宮平兵衛、関口柔心という三人の老人が、それぞれ世にきこえた名剣士であるとともに、それだけになみなみならぬ武士魂の所有者であったということだ。
三人は詳しくおたがいの胸中をうちあけている余裕を持たなかった。
「――あの穴の中に何があるのか?」
「あの築山の下に何が作られているのか?」
「いま、牧野の家来たちが運んでいったのは食物と見たが、実におびただしい量」
三人の老人は、頭巾のあいだから異様にひかる眼を見合わせ、それ以上口もきかずにあずまやの方へ忍び寄った。あずまやの中には、まだ酒樽や重箱のたぐいがだいぶ積み残されている。
娘たちの運命も気にかかるが、それはそれ、これはこれとして、もはやこのまま見すごしはならぬといった思いであった。
洞然たる穴のところに立ったとき、稲妻がひらめいて、下へつづいている土の階段らしいものを一瞬浮かびあがらせた。
「お待ちなされ」
と、関口柔心がいった。
「実にこれは容易ならぬ規模のものだ。この下に何があるか。……まずわしが物見してくる。御両所はここで待って、見張っていていただきたい」
「それは」
「半刻待ってわしがもどってこなければ、御両人のうち、いずれかがまた入って探るか、それとも危険と思って、また改めて出なおすようひきあげるか、いずれとも判断にまかす」
「しかし」
「いや、これほど奇怪なからくりを作っておることじゃ。三人入って三人に万一のことがあったら、いまだ運命のほども知れぬ娘たちのこともある。それに、お家のこともある。――」
「ううむ」
「御両所はどう思っておるか、きいたこともないが、実はわしは牧野兵庫頭というおひとに対して、以前から心ゆるせぬものを抱いておった。――」
「それは同感じゃ」
「わしの申す通りになされ。――この中では、これでもわしがいちばん若いのでござるぞ。若い者に働かせなされ」
そして関口柔心は、眼だけでニコリとして、そのまま背を穴に消した。
【三】
――柔心は、土の階段を一歩一歩下りていった。壁も天井も掘りぬかれたままのむき出しの土で、ふれるとぬるっと水にすべるばかりだ。
ゆくてから、ピタピタと足音がもどって来た。先刻入っていった侍たちがひき返して来たらしい。と知ると、関口柔心は|蝙《こう》|蝠《もり》みたいに身をひるがえして、土の天井と壁に四肢をかけて吸いついた。
五十をすぎてはいるが、鳥のような身の軽さだ。――たんに紀州一藩の柔術の指南番たるにとどまらない。柔心は、後世までもいわゆる関口流の名をのこした柔術の達人であった。
たしかに三人の足音が階段を上ってゆくのを見すますと、柔心はまた音もなく飛び下りた。――そして、次第に下へ、奥へ入っていって、ついにゆくてに灯影を見た。
地底に燃える灯。灯のみならず、どよめくような笑い声。
関口柔心のおどろきはいかばかりか。――しかし、彼がおどろくのはまだ早かった。
彼がからだを吸着させているのは、巨大な土の|筐《はこ》の天井であったが、向うに厚い木の板戸がならんでいた。おそらく食物を運び入れるためであろう、そのまんなかの二枚が左右にひらかれていて、灯影と哄笑はそこから溢れていた。
そして男の笑い声のみならず、たしかに女の嬌笑。あえぎ、すすり泣き、悲鳴。――いや、この世の女人のものとは思われぬ、身の毛もよだつうめき声が。――
柔心の位置からは、声のほかは何者の姿も見えない。その板戸の向うに、どれほどの空間があるかも知ることができない。
が、その奥からながれてくる声の恐ろしさもさることながら、柔心はこのとき、板戸の外の土の上に、何か異様なものが置かれているのに気がついた。灯影の端がその一部にさし、かつ熟視していると、その全体をおぼろに浮かびあがらせてくる。――
女だ。二人の女だ。
しかも、一糸まとわぬ裸の女体が、死魚のごとくそこに投げ出されているのであった。
死魚のごとく――柔心は、彼女たちがあきらかに死体であることを認めた。かっと眼をむいて見つめていて、彼は胃の|腑《ふ》のあたりから何やらつきあげてくるもののあるのをおぼえた。
黒髪は顔から胸に海藻のごとくみだれかかっているが、どうやら二人は血を|吐《は》いているらしい。いや、ひとりは唇までかみちぎられて歯ぐきまでむき出しになり、またひとりは乳房に|物《もの》|凄《すご》い歯型が印されているのみならず、乳くびの一つはくいちぎられているらしい。手足はねじられたか、折られたか、自然にはあり得べくもないかたちで投げ出され、下腹部からふとももにかけては|牡《ぼ》|丹《たん》をたたきつけたような血潮に|彩《いろど》られている。――その血の香も|匂《にお》うような、まだなまなましい死体だ。
なんたる無惨さ。――いや、その死体の無惨さもさることながら、それがそんな姿になるまでの経過を思いやると、柔心の頭髪は逆立つ思いがした。
そのうえ、じいっと見入っているうちに、彼はその二人の女の顔に見おぼえがあると思い出した。おなじ家中の娘だ。しかも――この一ト月以上にもわたり、牧野屋敷に呼び出された女たちのうち、ついに帰ってこなかった組の娘だ。その名も知っている。
「ううぬ、何やつなればかかる鬼畜のわざを。――」
娘のおひろの顔があたまをかすめるとクラクラとなり、われをわすれて柔心は土の天井から下に舞い下りようとした。
そのとき、板戸のあいだにだれかあらわれた。――なんと、墨染めの衣をきた坊主だ。それが両腕にやはり裸の女をかかえている。女は首と足をダラリとたれて、これも死んでいるらしかった。
背がひくく碁盤みたいなからだで、大きな頭を持った坊主であった。
一目見て、柔心は息をのんだ。――彼はその僧を知っていた。昔、奈良に遊んだとき、こちらから訪ねていって見たことがあるのだ。
「……宝蔵院|胤舜《いんしゅん》!」
天下にきこえた槍術の達人宝蔵院胤舜が、この紀州の牧野兵庫頭の屋敷の地底にいる。それさえおどろくべきことなのに、さらに次の瞬間、柔心は背すじに水のながれるような思いがしていた。
宝蔵院胤舜は、この三月、江戸で死んだ、という話をきいたことがある。それを思い出したのである。ついでに思い出せば、この高名な槍術の達人は、女人を断った清僧としても知られていた。――
その胤舜が、いま裸の女を両腕に抱いて、
「荒木」
と、うしろをふりむいて呼んだ。
「おい、又右衛門。この女の舌をもどしておいてやれ」
だれか何か答えたようだが、柔心にはよくきこえなかった。
――胤舜はニタニタとして、
「何を口の中でしゃぶっておる? や、女の舌か」
ふくみ笑いとともに、胤舜のそばの板戸のかげから一本の男の手がのびて、がっくりと頭をのけぞらして死んでいる女の、ぽっかりとあけた口に何やら押しこんだ。
舌らしかった。
手はひっこんだ。
その男は、いままで、死んだ女の舌をしゃぶっていたらしい。――いや、舌をかみちぎって女を死に至らしめたと見た方が正しいであろう。――その男の姿は見えない。
宝蔵院胤舜は、しおれた花束でも捨てるように、女の死体をそこにあった二人の女の死体の上に投げだして、これまた奥へ姿を消してしまった。
柔心は天井に|凍《こお》りついたようになっている。
むろん、いまきいた胤舜の言葉に|脳《のう》|髄《ずい》がしびれてしまったからだ。いま、胤舜はなんといった? 荒木又右衛門と呼んだようだが、あれはききちがいであったのか?
荒木又右衛門の名はもとより知っている。同時に彼がもう十年ちかいむかしの寛永十四年に死去したことも知っている。――そんなことがあり得るはずはない、と思っても、げんにいま眼前にいた宝蔵院胤舜はどう判断するのか?
そのとき、外の階段の方から、またピタピタと足音が入って来た。例の侍たちが残りの重箱や酒樽を運んで来たのである。彼らはそれを両手にかかえたまま、板戸の奥へ入っていった。
――まことだ。
ついに柔心はそう考えた。
――この地底に、死んだはずの宝蔵院胤舜や荒木又右衛門が棲息しているのはまことのことだ。そうでなくては、牧野兵庫頭がこれほど大がかりな秘密の場所を作るはずがない。――
関口柔心のからだじゅうの毛はそそけ立つようであった。
ともかくこれは木村助九郎と田宮平兵衛に一刻も早く知らせなければならぬ。
柔心は土の天井を這って、灯影のみえぬところまで退却すると、下にとびおり、まろぶように階段を駈けのぼり、あずまやへ飛び出した。
「助九郎、平兵衛」
と、呼ぶ。
残りの食糧を運ぶ侍たちの眼をのがれるため、一応、樹立ちに姿をひそませていた二人はすぐに出て来た。雨はふたたびはげしく降り出している。
「そちらへゆく、一大事じゃ」
柔心はひきつったような声でいって、もういちど二人を樹蔭にひきずりこみ、そこでいま見た驚天動地の怪異について物語った。
「わしも、じぶんの眼と耳が信じられぬくらいじゃが、おぬしら、わしのいうことを信ぜぬかや?」
木村助九郎、田宮平兵衛の両人も、この話をきいてしばし声もない。
ふつうならばもとより笑殺すべきことだが、この場合、それを告げた者が関口柔心だ。その眼や耳に狂いのあるはずもなく、断じて冗談をいう男でもない。だいいち、このおちついた人物が、稲妻の中にはじめて見せる恐怖の眼が、いま彼の目撃して来たことの迫真性をまざまざと思わせる。――
「しかし」
と、助九郎は|嗄《か》れた声でいった。
「やはり信ぜられぬ」
そして、刻むように、
「荒木又右衛門や宝蔵院が生きてこの地底におる、そういう柔心が信じられぬというのではない。荒木や宝蔵院が死んだというのが何かのまちがい、誤伝であったとしよう。しかし、あの人々が生きているというなら、彼らがそのような所業をするはずがない。なんじゃと? 当家中の、先日来召し出された娘たちをなぶり殺しにしておるらしいと?」
「助九郎」
田宮平兵衛の声もおののいている。
「それがまことなら、たとえ荒木、宝蔵院云々のことがまちがいとしても実に恐ろしいことではないか」
「されば。――」
三人の老人の頭には、このときもとよりそれぞれの娘や孫娘の姿が浮かんでいる。
「とにかく、牧野兵庫頭がこの地底に妖しきものを飼っておることは事実だ。しかも、いま運びこんだおびただしい食物からみても、ここに棲んでおるのは、その宝蔵院、荒木と名乗る奴ら以外にも何人かおることと思われる。……これは何より、紀州家にとって容易ならぬ一大事じゃ」
「よし、わしがもういちど見てこよう」
木村助九郎が決然といって立ちあがったとき、
「待て」
と、関口柔心がささやいた。
「だれか、くるぞ」
雨の中を、また母屋の方から一団の影がちかづいて来た。こんどは|松明《たいまつ》をもやしているものがあるのでよく見える。先にその松明をかかげた侍が立ち、つづいて|傘《かさ》をさしかけられた武士が歩いてくる。
「……牧野だ」
と、三人の老人はうめいて、それから、そのあとに数人の侍にかこまれた三人の娘の姿を見て、はっと息をひいていた。
いうまでもなくそれは、お|雛《ひな》、お縫、おひろであった。
彼らはあずまやに入った。ぽっかりとあいたままの例の穴を見て、牧野兵庫頭は舌うちをした。
「いかなる場合にも一人は外にあってここを閉じておけと申してあるに、不用心な奴が」
そして、ふりむいて、あごをしゃくった。
「入れ」
【四】
それより半刻ほど前のことである。
「天」に選ばれた三人の娘は、広い一室に待たされて座っていた。
彼女たちは、なぜじぶんが「天」に選ばれたのかよくわからない。――きょうの恥ずかしい行事の目的はおぼろげながらわかっている。木村助九郎が柳生に迎えに来たとき、話をきいて柳生十兵衛が「――妾にするつもりか?」とつぶやいた声が、ぶきみに鼓膜によみがえってくるのだ。ただ、なぜじぶんたちだけが三人、とくにここに呼び出されたのかがのみこめないのだ。
彼女たちが、じぶんの美しさを自覚していなかったといったらむろん嘘になる。しかし、男性に結びつけての美しさということになると、それは意識していなかった。いわんやそれによる立身などいう望みは毛ほどもなかった。それほど純潔で|初《うい》|々《うい》しい娘たちであった。
――にもかかわらず。
今宵いかなる御用を命じられようと、それには服従しようと思う。それは家を出るとき、それぞれの父母や祖父母からこんこんといいふくめられていたことであった。
柳生城でそういう可能性もあることをきかされたとき、
「――いやですっ」
と、思わずさけんでしまったのは瞬間的な反応だが、木村助九郎はそれを途方もないわがままであると叱った。
のみならず、彼は三人の娘たちが柳生に一年いて、実に自由奔放な性格に変わっていることを知った。実はそれにちかい――活気、勇壮、濶達などの――教育を期待して十兵衛にあずけたのだが、それがやや度をすぎている。羽目をはずす程度にまで達している、と彼は認めた。
とくに、このたびのような下命に接してみればなおさらのことだ。この際、娘たちの自由意志は断じてゆるされない。木村助九郎はそう判断したし、ほかのふたりの老人も同意見であった。
三人の娘はそれぞれの家での教えを思い出し、その忠節の倫理を冷たい鎖としてみずから身をしばり、寂としてうなだれて座っていた。まわりを、さらに雨の音がつつんでいた。
「――しいっ」
どこかで、|警《けい》|蹕《ひつ》の声がながれると、正面の唐紙があいた。
入って来たのは南竜公頼宣みずからと、牧野兵庫頭だけであった。三人の娘は、はっと平伏した。
頼宣は正面の座にすわると、
「こっちへ来い、娘ども、こっちへ来い」
と、いった。
もとより三人の娘が主君に面とむかってお目見えするのははじめてのことである。思いがけず気軽な、やさしい声であったが、それでも|畏《い》|怖《ふ》のためにひれ伏したままなのを、
「お召しでござる。前に進まれよ」
と、牧野兵庫頭もにこやかにいった。
紀伊頼宣は少し浮かれていた。重厚な彼としては珍しいことだ。
悪魔にうなされたような思いで紀州に帰り、国入りしたときは家臣もおどろくほど陰鬱な顔色をしていたのに。
|煩《はん》|悶《もん》のすえに、彼はかえって陽気になったのだ。自暴自棄といってもよい。わしはどうなるのか? その恐怖が、悪魔的な好奇心に変化したといってもよい。だから、牧野兵庫頭が、
「殿。……ひとまず例の忍体をおえらびになっておかれてはいかが」
と、すすめたとき、なるようになれ、いや、いかにも「わしを生む」女はいかなる奴か、一刻もはやく見ておきたい――という気を起こしたのだ。
ときに頼宣、四十五歳、壮年の血は満身に脈打っている。もとより国元には数人の愛妾があり、また数人の子女もある。しかし、こんどはちがう。
わし自身が女を介して生まれ出るとは!
この大奇怪事を現実のこととして思いつめ、それについての恐怖と煩悶がきわまると、彼はゲラゲラ笑い出したい衝動にすら襲われた。
むろん、さしあたっていまのいま、「忍体」を必要とするというわけではない。森宗意軒は「腹の底からいとし可愛ゆし、是非ともこの女人と交合して再誕したいと思う女を探しておけ」といっただけである。
しかしそれがあの|戦《せん》|慄《りつ》すべき魔界転生の「忍体」であると思えば、彼がゆるゆるとその出現を待つにたえない心理になったのもむりはない。
寵臣牧野兵庫頭が帰国早々にこのことを持ち出したのは、主君の鬱悶を一刻も早く吹きはらう意味もあるが、彼自身も同様の焦燥にかられたためであったろう。あるいは、江戸で由比正雪から何かいいふくめられてきたのかもしれない。
その忍体の対象を家中の娘からえらぼうとした。それは事柄が事柄だけに、その相手を他の大名とか公卿の息女などに求めがたかったということもあるが、また頼宣自身、このたびのことにかぎって、ふしぎにそういう上流階級の娘に食欲を感じなかった。彼自身が名門でかつ|豪《ごう》|邁《まい》の気性であるだけに、そんな深窓の女性には、以前から或る失望をおぼえていたのだ。こんどのことは、たんに閨閥を編むための妻えらびとか、子孫を残すための妾えらびとはまったくちがう。
わし自身が、その女の腹を破って再誕するのだ!
「来い。来い。――」
と、頼宣は、おずおずといざり寄って来た三人の娘のうち、まずお縫をさしまねき、みずから腕をさしのばして、その手くびをつかんでひきずり寄せた。
「兵庫、燭台を。――」
と、いって、もう一方の手をお縫のあごにかけて、ぐいと仰のかせた。
「先ほどは遠目であったが」
と、頼宣はいって、お縫の顔にちかぢかと顔を寄せ、
「なるほど、天に選んだだけのことはある」
畏怖のためにかたく眼をとじている娘の顔の白い肉、赤い唇の微妙なおののきをなめるように見入りつついう。
「兵庫、若い女というものは、しかし美しいものじゃの。……」
字にすれば平凡陳腐だが、しかし凄じいまでになまなましい実感にあふれた声だ。
おのれを再誕させるための女体えらび、この夜の儀式の|牲《にえ》に、では頼宣が厳粛敬虔の念を抱いていたかというと、まったくちがう。それにしては事があまりにも恐ろしくて、また滑稽でありすぎる。
いま娘を点検する頼宣の眼は、名馬の|牡《おす》と|牝《めす》をかけ合わせる獣医の眼であり――かつ、その|牡《ぼ》|馬《ば》の眼そのものであった。女がきらいな頼宣ではないが、こんな眼で女を見るのははじめてだ。いままでは、どうしても五十五万石の大守としての自制があった。その自制を去って、いやそんなものをかえりみる余裕を失って、いま純粋に原始的な、動物的な眼でみれば、なんと今宵選び出した処女の顔が新鮮芳烈な美しさに匂いたって見えることか。――
「気に入ったぞ」
お縫のあごから手をはなし、次におひろを仰のかせる。
これまたかたく眼をとじているのを、
「笑え」
と、彼はいった。
おひろは笑わない。
牧野兵庫が叱咤した。
「君命であるぞ。笑え」
おひろは、眼をとじたまま笑った。むろん、唇をけいれんさせて、白い歯をみせたのだ。その珠をならべたような歯のあいだに、頼宣は指を入れた。何やらその感触を探るがごとく、愉しむがごとく。――
三人の娘のうちではいちばんおとなしいおひろであった。とじたまつげのあいだから、思わず真珠色の涙がながれおちた。
「きれいな歯をしておる」
といって、頼宣は笑った。
彼は浮かれていた。彼がこんなに陽気になっているのははじめてのことである。頭のどこかを、じぶんが名君とうたわれ、南海の竜と呼ばれているという事実がかすめすぎた。それは前世のことのようであった。彼はもうじぶんが魔界に転生したような気がした。その笑い声は荒々しく、ぶきみで、血まみれの笑いであった。
「これも気に入った」
おひろのあごと口から手をはなすと、彼女は軽い脳貧血を起して、ゆらりと前へつっ伏してしまった。
頼宣は次の娘に移った。
こんどの娘は、大きな|双《そう》|眸《ぼう》を見張って、ひたと頼宣を見つめている。お雛であった。
異様なにらみッこである。
牧野兵庫は叱りつけようとしたが、とっさに声が出なかった。
しかし、お雛の凝視は、不敵というより、必死の眼であった。ほ。――というように、しばしそれを見返していた頼宣は、ついにこの必死の眼に負けて、まばたきし、苦笑した。
「気に入ったぞ!」
大声でさけんだのである。
「|愛《う》い奴」
豪快な南竜公は、このとき突如としてこの娘にはげしい肉欲をおぼえた。傍若無人に相手の肩をつかんで、ぐいとひきずり寄せようとする。
「これ、妾にしてとらす。過分に思え」
「お縫さま……おひろさまは?」
と、不敵な凝視に似ず、お雛は弱々しくいった。頼宣はちらっとあと二人の娘を見て、
「三人、ともにじゃ」
と、いった。
同時に、お雛の繊手があがった。白い|鞭《むち》のように|反《そ》るとぴしいっという音が高らかに鳴った。頼宣は頬をおさえ、あっけにとられたようにぽかんと口をあけた。
奇妙な沈黙が凍りついた。すべての者がしばし判断力を失った。
徳川御三家の一つ、紀州の大守を張りとばした、という認識がじわじわとよみがえったのは十数秒ののちである。
「――ぶ、ぶ、無礼者!」
ひきつるような声で絶叫したのは牧野兵庫頭だ。
「こ、こやつ――何たることを!」
そういったきり、あともつづかず、身もだえしてぬっくと立った。
「は、|磔《はりつけ》にしてもあきたらぬ奴。殿……ただちに拙者成敗をつかまつる!」
「……いや、面白い奴だ」
と、頼宣はいった。しかし、さすがに|洒《しゃ》|落《らく》な表情ではない。怒気をねじ伏せた、うめくようなつぶやきだ。
「これ、わしがいやか? わしの妾になるのがいやか?」
お雛は沈黙していた。
実は彼女自身も、じぶんのいましたことに驚愕していたのだ。彼女はほんの直前まで、主君の妾になることも歯をくいしばって覚悟していた。ただ、三人いっしょに――仲のいいお縫、おひろもともに妾にするといわれて――処女の潔癖、いや人間的な怒りから、反射的にあの行動に出てしまったのだ。しかし、いま、あらためて、「妾になるのはいやか」ときかれては、「それはいやです!」と返答せざるを得ない。
そうはいえないから、彼女は蝋細工の人形みたいに黙っていた。それがいまの所行と思い合わせて、いよいよもってゆるすべからざるふてぶてしいものにみえた。
「……殺すまい」
と、頼宣はいったが、逆にこのときむらむらと憤怒が瞳によみがえった。
「兵庫。こやつにいちどあれを見せてやれ。いや、ついでにあとの娘二人にも、いっしょにあの地獄を見せてやれ。わしの妾になることがどれほどの極楽か、思い知るであろう」
そういうと、紀州大納言頼宣は席を蹴たてて、ツ、ツ、ツ――と奥へ入ってしまった。
【五】
牧野兵庫頭は、一瞬放心的なまなざしで主君を見送った。紀伊藩きってのきれ者といわれる彼も、今宵のことは成功したのか不首尾であったのか見当がつかない。……が、すぐに彼は、物凄い眼で娘たちを見すえた。
あれを見せてやれ、と仰せられた。あれとはいうまでもなく、江戸からひそかにつれ帰り、じぶんが全責任を以て飼育している例の魔人の|棲《すみ》|家《か》であり、行状である。あれを見せた以上、いずれにしてもこの三人の娘は、ぶじにふたたび帰すわけにはゆかないということだ。
「わしについて来い」
と、兵庫頭はきしるような声でいって、先に歩き出した。
ついでに書いておくが、この牧野兵庫頭という人物がもとよりただ者ではない。「南紀徳川史」にこうある。
「南竜院さまおとりたてありし牧野兵庫頭、出は猿楽役者の子といい、また公家出ともいう説あり。仔細ありて紀州熊野新宮の社人方に寓居しありけるが、あるとき頼宣卿御|放《ほう》|鷹《よう》の節立ち寄らせたまい、金弥(兵庫頭幼名)が容色すぐれたるを御覧ありて召し出され、御小姓に召しつかわる」
また、
「頼宣卿御不予のことありしに、四十日ほど昼夜一睡もせず相勤めたるを以てますます御意にかない、御加恩日を追って重し。あるとき紀ノ川洪水にて切れたるとき、兵庫頭年十七、仰せつけられてその地に至り、在家をこぼちその木を以て難なく大河を築きとめたり。公その大気なるを御感ありて、十八歳のときに大番頭とせられけるに、武士の名聞ありがたく存じ奉り候とて御辞退も申しあげず、いよいよ器量あるものと御褒美あり」
かくてその出生もあいまいなこの男は、一代にして六千石の寵臣となる。
「兵庫頭こと面相いかにも柔和にて、心根あくまで剛強なり。|強《ごう》|力《りき》にして|唐《から》|銅《かね》の大火鉢を片手にて持ち扱いたるとなり」
そしてまた次のような人物評がある。
「治世の|奸《かん》|雄《ゆう》、乱世の豪傑ともいうべきものか」
――かつて江戸の由比正雪が彼を「紀州の正雪」と形容したのは、さすがにあたっている。
その牧野兵庫頭が、いまそのもちまえの柔和の相をまったくぬぐい去って奸雄の凶相をあらわし、三人の娘を|曳《ひ》くようにして雨の庭をよぎり、あずまやについた。
「入れ。――」
と、兵庫頭にあごをしゃくられて、洞然たる穴を見つめ――三人の娘は、本能的にただならぬ危険を予感したものか、いっせいに、
「いやですっ」
と、さけんだ。
「なに、いや?」
と、牧野兵庫頭はじろと三人の娘を見たが、すぐに、
「いやと申しても、手をとり足をとっても入らせずにはおかぬ。これ。――」
と、ついて来た家来たちをふりむいた。
が、兵庫頭はふと何やら思い出したらしい。急に滑稽なばかりにきびしい表情になって、
「君命であるぞ!」
と、一喝した。実はひるま見たこの娘たちの、ひとすじ縄ではゆかぬ武芸の妙技を思い出したのである。――その声は、やはり三人の娘を縛った。
「先刻、殿が仰せられたお言葉を忘れたか? ……ゆけ」
「やらぬ」
すぐちかくの闇の中で声がきこえた。
兵庫頭は|愕《がく》|然《ぜん》として庭を見すかして、
「な、何奴だ!」
と、さけんだ。
「木村助九郎じゃ」
「関口柔心」
|疾風《はやて》のように覆面した二つの影があずまやにはせのぼってくると、いきなり白刃がひらめいて、ばたばたと家来たちがたおされた。|松明《たいまつ》が雨中にとんで、じゅんと音たてて消えた。
「安心しろ、みねうちだ」
「しかし、娘はつれてゆく」
さしもの牧野兵庫頭も、この二老人の音にきこえた腕を思い出し、うめき声をあげただけで立ちすくんでいたが、やがて、
「殿の御意にそむく気か?」
と、たたきつけるようにさけんだ。
「この際、ひとまずは――やむを得ぬ」
「殿にはあとで|諫《かん》|言《げん》いたす。殿は天魔に魅入られなさったのじゃ、といいたいが、魅入ったのは兵庫頭どの、あなただろう」
そのとき、庭の向こうで|蹄《ひづめ》の音がきこえた。闇の中であったが、兵庫頭はそれが味方ではなく、この二老人の仲間がまだほかにいて、|厩《うまや》から数頭の馬を曳き出して来たものと看破し、狼狽した。
「うぬら……娘可愛さに血まよったか!」
「娘も可愛いが、紀州藩はなお可愛い」
そういった関口柔心の声はむしろ沈痛であった。
「見たぞ、兵庫どの……いや、兵庫、なんじは地底にあのような地獄を作って何のためにせんとするか、それが紀州藩にとって亡国の大難をすら呼びかねぬ悪逆であることを察せぬか?」
「いま娘をつれもどすは、娘可愛さではない。紀州家のためだ。……なお探索したいことがあるゆえ、しばらく逃げる」
蹄の音をききつけたか、母屋の方で騒ぎ出す声をきいて、木村助九郎はつかつかと寄って来て、牧野兵庫頭の胸にピタリと白刃をつきつけた。
「それでも藩の御重役、刃をあてるは忍びがたい。入りなされ」
「どこへ?」
「その穴の中へ」
見られた! あの地底の大秘密を見られた!
頭髪も逆立つばかりの恐怖にうたれ、もはや絶対にこの老人たちを生かして帰すわけにはゆかぬと歯がみしつつ、牧野兵庫頭は木村助九郎の刀身に追われて穴の中に入った。
唐銅の大火鉢を片手でもちあげるほどの兵庫頭だが、剣をもたせてはしょせんこの老人に遠く及ばぬことを知っていたからだ。
「殿とわしは一心同体であるぞ!」
「殿に|憑《つ》いておる魔性の貴公をはらいおとすのがわれらのつとめじゃ。……柔心、まわせ!」
関口柔心が石の卓子に手をかけた。知っているのだ。このからくりまで知っているのだ。
あずまやがまわり出した。
「木村、関口。……うぬら、家族一同をひきいて和歌山を逐電する気か? 逃げられると思うか?」
牧野兵庫頭は絶叫した。
あずまやの回転が、静止した。そういわれて、さすがに一瞬関口柔心がひるんだのである。いかにも老人たちの家族は、むろんそこにいる娘たちばかりではない。――
「兵庫、もし――そこまで毒手をのばすならば」
と、木村助九郎はあぶら汗をにじませていった。
「この地底のこと――われら、大忠のため、御公儀に訴えて出るぞ。柔心、まわせ!」
あずまやはふたたび回り、一面だけの土の壁が穴をふさいだ。
「助九郎、柔心。……はやくいたせ」
あずまやの外で、だれかあえいでいた。
「おじいさま!」
お|雛《ひな》がさけんで|駈《か》けよった。田宮平兵衛である。馬が六頭そこに|曳《ひ》かれて来ていた。
「|鞍《くら》は三つよりつけてこれなんだ。娘ども乗れ」
平兵衛に叱咤されて、三人の娘は三頭の馬に乗る。馴れた手綱さばきである。つづいて三人の老人も残り三頭の裸馬にとびのった。
「……あとの家族も気にかかるが、いまはともあれ一刻も早う和歌山をのがれるよりほかはない。――来い」
と、木村助九郎はまっさきに馬を走らせ出した。片手になお白刃をひっさげているのは、ゆくてを邪魔する牧野の家来を斬りすてるつもりからだ。
「どこへ?」
「頼るべきおひとが、この空の下にただひとりある」
老人は闇の空を見つめてつぶやいた。
「大和の柳生だ!」
「――おう、十兵衛さま!」
三人の娘が声をそろえて絶叫し、その顔が夜目にもぱっとかがやいた。
六頭の馬は、雨と稲妻をついて、広い庭を駈け出した。
――その庭へ殺到して来た人々が、裏門のあたりで凄じい悲鳴をきき、あわててその方へ走っていったが、すでに|馬《ば》|蹄《てい》のひびきが遠く和歌山の町を東へ遠ざかってゆくのをきいたばかりであった。
が、そのとき、例の穴をふさいだあずまやの土の壁に、凄じい亀裂が入りはじめていた。
何者かが、内側からそれを押し破ろうとしているのだ。……それはあたかも地底の魔霊が棺を破って甦ってくるのを見るような物凄い眺めであった。
|黄泉坂《よみのさか》
【一】
和歌山から紀ノ川沿いに、東へ。――
闇と嵐をついて六騎はひた走る。雨に紀ノ川はふくれあがり、銀色に泡立つ流れはあふれて、ときに六騎のひづめを洗った。
和歌山から約十里、大和国に入ったのはまだ真夜中であった。
そのあいだ馬は一刻の休みもなく、馬術でいわゆる伸長駆足という最高の速度で駆けた。この闇と嵐の中を、これほどみごとな手綱さばきをみせる者は、紀州藩士三千五百人の侍の中にもそう多くはあるまい。
乗り手が木村助九郎、関口柔心、田宮平兵衛だからそれも当然といえるが、しかしこの老剣士につづいて三人の娘たちがピッタリくっついているのは、実にあっぱれなものであった。
「お雛どの、水があるぞ」
とか、
「紀州を出るのはもうひといきじゃ、おひろどの」
とか、
「寒うはないか、お縫どの」
とか、それぞれ他家の娘たちをはげまし、いたわりつつ、三人の老人たちは、眼に涙を浮かばせていた。心の底から、この娘たちをいけにえに捧げなくてよかったと思ったのである。
寒くはないか、ときいたのは、むろん夏とはいえ、吹きしぶく夜の雨を気づかっていったので、おそらくうすものをまとっただけの三人の娘は、そのうすものがぴったり肌に貼りついて、裸身さながらになっていることであろう。
紀伊国を出ても、なお紀州藩から離脱したとはいえなかった。
大和国を横に切って、吉野、鷲家を経て伊勢に入る道、これを川俣街道というが、この沿道はすべて紀伊藩の藩領で、伊勢に入っても、なお松坂領、田丸領、白子領と十八万石分の藩領がある。つまり和歌山から四日市まで、まったく他領をふまずに参勤交代の往来をしたいという――徳川御三家の威光のうちだ。
しかし、六騎は大和国に入り、五条をすぎると、馬首を北へ――奈良へむけて駆けつづけた。
「遠乗秘伝」なる書にいう。――
「急の遠乗りはその道程三十六里を以て限りとす。術にあらざれば乗ることあたわず」
一日三十六里、馬で乗り切ることはこの通り不可能ではあるまいが、そのためには馬をえらび、かつその道中のかいばの準備はもとより、数日前からそのつもりで馬を調教しておかなくてはならぬ。
この場合、人よりもまず馬が疲れてきた。
休ませつつ、休ませつつ、しかも速度は伸長駆足のなかばのいわゆる速歩となったのはやむを得ぬ。
吉野山地を越えて奈良盆地がみえて来たころに夜があけて来た。雨はあがったが、じっとりとした霧が人馬をつつんでいる。
「もう大丈夫だろう」
と、木村助九郎が声をかけた。
「平兵衛を待とう。馬に水でもくれてやれ」
――牧野兵庫頭が、あのままむなしく手をつかねて見のがすはずがない、そう思ったからこそ、必死の逃走をこころみたのだが、意外にもそのことはなかったようだ。
あの妙なからくりのあずまやに兵庫頭をとじこめたから、それで追撃の処置がおくれたか、それともあの闇と嵐の中だから、こちらのゆくえを見失ったか、――どちらも、あり得ることだ。
いずれにせよ、この離脱は成功した。――そう思ってみれば、みな雨と泥と疲労に惨憺たる姿だ。とくに娘たちの肌にはりついたきもの、それもあちこちと裂けてあらわになった姿は見るにしのびない。
で、ほんのいま、田宮平兵衛がひとりおくれて、街道から少し入った豪農らしい家に立ち寄って、食糧、女たちのきもの、それにできれば替え馬を入手にいったところであった。あのような危急の際だからそれらを手に入れるだけの所持金のないのが不安だが、しかしともかくも追手のおそれはない――助九郎たちはこう見ていたのである。
娘たちは、路傍の河で馬に水をのませながら、じぶんたちの裂けたきものをかきつくろおうと一心になっていた。
「お、来たぞ」
と、関口柔心がいった。
いかにも霧の中をうしろから馬を飛ばして来たのは田宮平兵衛であった。
替え馬どころか、食糧らしいものを何も馬に付けていない。馬も先刻までの裸馬だ。みるみる大きくなってくる姿は、ただならぬ様相を見せていた。
「乗れ、乗れ」
彼はそうさけんでいた。
「追手が来たぞ!」
娘たちはあわてて馬に飛びのった。
ふたたび奔流のように駆け出した馬群に追いすがってまじった田宮平兵衛を、木村助九郎はふりむいて、
「平兵衛、追手は多勢か」
「六騎だ」
「なに、六騎?」
それならば、といった顔を助九郎はした。その倍の人数が追って来たとしても、われら三人を以てすれば、と思ったのである。
「その六騎じゃが」
と、平兵衛はいった。容易ならぬ驚愕と恐怖の相であった。
「まずきけ。……百姓家でわしは馬貸せとかけ合っておった。代金はあとで支払うといっても、なかなからちがあかぬ。ところへ、うしろから|蹄《ひづめ》の音じゃ。さてはと思うて、わしは裏へ逃げた。馬から下りて、入って来たのは妙なかたちをした柿色の袖頭巾をかぶった六人の男、なかにひとり、たしかに槍をもち墨染めの衣を着た僧がおった。あれが柔心のいった宝蔵院であろうか、とひそかにうかがっておると、きゃつらもまた馬貸せと申しておる。そのうち二人が、頭巾をとって、前の小川で顔を洗い出した。その顔を見ると――」
田宮平兵衛は声おののかせて、
「ひとりは田宮坊太郎。それから、もうひとりは、宮本武蔵どの。……」
「な、なに? 宮本武蔵?」
助九郎の口がひきゆがんだ。笑おうとしたらしかったが、そのまま表情は凍りついた。馬をならべてきいていた関口柔心はもとより、木村助九郎の頭にも、昨夜和歌山の牧野屋敷の地底で柔心が見たという、生きている宝蔵院胤舜と荒木又右衛門のことがかすめすぎたのだ。
しかし、それにしても。――
「む、武蔵どの?」
助九郎はどもりつつくりかえした。この際にも、その名には尊称をつけずにはいられない。
宮本武蔵といえば、一くせも二くせもあるその性格はともかく、その剣技に於ては、同時代人といっていい彼らにとっても、武蔵が在世のころからすでに伝説的な大剣士であった。いわんや。――
「宮本どのは、去年、熊本で――?」
「いや、あれはたしかに武蔵どのだ。――おぬしらはついに武蔵どのにめぐり逢う機を得なんだと無念がっておったが、わしはいちど京の禅寺で相まみえたことがあるのだ。あれから二十余年、いま見た武蔵どのはもとより|老《ふ》けてはいるが、しかし武蔵どのにまぎれはない。――」
「…………」
「それよりも、もうひとりの田宮坊太郎だ。あれの父親田宮源八郎はわしの一族で、わしが手に手をとって教えたもの。その源八郎が讃岐で非業の死をとげたのち、坊太郎が成長して仇討ち修行のためわしを頼ってきたことがある。ゆえあって源八郎が田宮一族から義絶したものであったから、心ならずもわしはそれをきいてやれなんだ。坊太郎は憤然として江戸へ去り、柳生家の弟子となり、首尾よく本懐を達したことはみな知っていようが、その坊太郎もまた去年の春死んだときいておる。それが……いま生きて、あそこにおった!」
「…………」
「あやうく坊太郎、いや、武蔵どの! と呼びかけようとして、わしは背に水をあびせられた思いになり、百姓家の裏からまろび出して馬にとびのり、かくは駆けつけて来たのだ」
「荒木、宝蔵院……宮本武蔵、田宮坊太郎が牧野家の地底に」
「そして、われらを追って来た。――」
木村助九郎と関口柔心はつぶやいた。
このあいだも六頭の馬は、泥濘をはねあげて走りつづけているが、乗っている者はじぶんたちがさながら幽界を飛んでいるような思いがした。
にせものか。にせものとしても驚くべき奇怪事だが、事実、本物を目撃した関口柔心や田宮平兵衛が、彼らをにせものと断定する自信をもたないのだ。そして、ほんものとすれば――彼らの死の噂が誤伝であったとするならば、これは実に夢魔的な、恐るべき追撃隊であった。
「来た」
と、平兵衛がうしろをふりむいていった。
「追って来たぞ!」
【二】
そこは小さな坂の上であった。南の吉野|山《さん》|塊《かい》が、起伏しつつ奈良盆地に下がってゆく地形の一つ。――一帯にうすい霧がたちこめている。朝霧というより夜を通した雨が、こんどは蒸気となってたちのぼり出した感じで、それがもうむっと暑い。風もなく、夏というのに樹々の葉が妙な黄銅色を呈して、何か世界が病んでいるようなうすきみわるく、不快な天象であった。
逃げのびるには、その霧をむしろありがたいと思っていたのだが。――
地を覆う蒸気を通して、背後から坂を駆けのぼってくる六騎が見えてきた。いずれも頭巾をつけているが、その頭巾の柿色が、ほかのものはおぼろとしているのに、妙にはっきりと見えた。
なんとなくこの世のものならぬぶきみな風に、こちらの六人の背が吹きつけられたようだ。
しばし、馬をとめて、凝然とそれを見ていた田宮平兵衛が、
「おぬしら、さきにいってくれ」
と、ふいにいった。
「えっ、平兵衛は?」
「わしはひとり残る」
「残って、何とする」
「なんとも|解《げ》せぬが……ともあれ、坊太郎ともういちど、しかと相まみえて、わけをきこう」
「それならば、われわれも残ろうではないか」
「いや、それはならぬ。きゃつら、何ともいぶかしい魔性の匂いがする。――」
「わしもそう思う。さればこそ、いよいよ以ておぬしひとりを置いてはゆけぬ」
「娘どもをどうするか?」
と、平兵衛はいって、じっと孫のお雛の顔を見た。勝気なお雛がさけんだ。
「お祖父さま、わたしも残りまする」
「ばかな!」
平兵衛は、助九郎、柔心に眼をうつして、
「万一のことがあったら。――」
と、うめいた。助九郎、柔心の頭を、あの牧野屋敷の地底の地獄がかすめすぎた。吐気をもよおすような恐怖が、ぬらっと三人の父や祖父を襲う。
「話がついたら、わしはすぐにあとを追う」
「話がつかなんだら?」
と、関口柔心がしめつけられるような声でいった。
「そのときは……ひとつ田宮抜刀流の腕を見せてやろうよ」
この場合に、平兵衛はにっと笑ったが、すぐに手をふって、
「ゆけ、ゆけ、……きゃつら、そこまで来た。お雛、おまえのためだけではない。いまは一同逃げるのがお家のためなのじゃ。お家のために逃げるのじゃ。はやくゆけ!」
叱咤されて、それ以上の判断力を失い、お雛は馬腹を蹴った。ほかの四人も、ともかくそれを追って、坂を駆け下る。――
田宮平兵衛は、ひとり坂の上に残った。
居合い、また抜刀術という。
慶長年代、奥州の人、林崎甚助重信が創始したもので、居ながらにして電光のごとく抜刀し、一瞬に敵をたおす刀法である。
田宮平兵衛は若いころこの林崎甚助にまなび、のちさらに工夫を加え、いまもその名をのこす田宮流抜刀術を編み出した。この刀法のみを以て八百石という|禄《ろく》を紀州藩から受けていたというから、いかに彼のわざが精妙であったか知るべきであろう。
一書にいう。
田宮平兵衛が或るとき紀州藩の家老安藤|帯《たて》|刀《わき》の屋敷にいったとき、帯刀がひとふりの古刀をとり出して、これはこのごろ手に入れたものだが、その切れ味を知りたい、さいわい死罪の者が一人あるから、これを以てためし斬りをしてもらいたいといった。平兵衛はその刀を見て、あいや、これはためし斬りするにも及びますまい。拝見しただけで二つ胴はたしかに落ちまする、といった。そのためかえって彼はためし斬りをしなければならぬ始末に立ち至った。
やがてその罪人が、|中間《ちゅうげん》にひかれて庭に来た。帯刀はその中間を見て、「あれはどうじゃ」とささやいた。二つ胴とは、人間の胴を二つ重ねていちどに斬りはなすためし斬りのことである。ふいにとらえられた中間は、事の意外におどろいて泣きさけんだ。
平兵衛はしずかに歩み寄り、中間の耳に口をあて、
「なんじは元来罪なき者なれば斬るべからず。罪人を上に置き、なんじを下において、上の罪人ばかりを斬るべし。それはわが手のうちにあり気づかうべからず」
といった。
平兵衛の神技をきき知っている中間は、安心して罪人の下になって横たわった。平兵衛はこれをためしたところ、両人は四つになって下の台まできれいに斬り離した。
平兵衛はのちのちまで、「われふと一刀を以て二つ胴を斬らるべしといいたるゆえに、一人無罪の者を殺したり。一言つつしむべし。わが誤りなり」とふかく悔いて、その中間の供養をおこたらなかったという。
また一書にいう。
かつてその居合い抜きを見た頼宣が、そのわざの目にもとまらぬのを見て、いかにもこれでははじめより抜刀して立ちむかう者といえども及ぶまいと感嘆し、小姓を以て平兵衛の帯を見させたところ、帯かたくして|錐《きり》も入らなかったという。
また一書にいう。
「田宮平兵衛試合の節は、からだは沈みたる方にて真鍮眼となり、からだひりひりうごき、心気みちみちて、猫の鼠を狙い、尾をうごかしてとびかかる勢いありき」と。
――いま、田宮平兵衛は、馬からとびおり、坂の上に立った。
六十にちかい老体だが、その動作は若者のようにしなやかで、かつなんの殺気も感じられないやわらかな姿勢である。
追跡の六騎は、ながれるように坂を駆けのぼって来た。
六人とも、当時はやった袖頭巾のように眼ばかりのぞかせているが、ただその柿色の頭のさきが、三角帽子みたいにとんがっているのがぶきみであった。
坂の上にひとりつっ立っている平兵衛を見ると、六騎はその手前四五間あまりのところで、いっせいに立ちどまった。
「坊太郎。……」
と、田宮平兵衛は呼んだ。
「そこに田宮坊太郎がおるな、いや、いかに頭巾で|面《おもて》をつつもうと、この平兵衛にはわかる。坊太郎、ここへ来い。……」
やっと坊太郎らしい姿を捜しあて、それにひたと眼をそそいで、
「これは何としたことじゃ、ききたいことがある。教えてくれ。……」
あきらかに田宮坊太郎に相違ない影は、馬上の頭巾のあいだから、一族の長老たる平兵衛を見まもっていたが、無感動な眼であった。
「おまえが生きておったとは実に驚くべきことじゃが、それには仔細があろう。きかせてくれい。いかなるわけがあろうと、おなじ一族の者としてよろこびこれに過ぎたるはない。……」
そういいながら、平兵衛はくいいるようにほかの五人を見つめた。
田宮坊太郎の出現もさることながら、それより奇怪なのは宮本武蔵だ。平兵衛は、いまそれらしい三角形の茶金色の眼をふたたび見た。僧衣に槍をかいこんでいるのは、あれは宝蔵院胤舜か。荒木又右衛門はどれだ。それからまた他の二人は何者だ?
しかし、何をきいても、彼らは一言の声も発しない。
ぼうと霧が地上から舞いあがって、一瞬六体の人馬をおぼろに霞ませたが、そこから吹きつけてくる、殺気というより|瘴気《しょうき》ともいうべきものを平兵衛は感覚した。
ききたいことがある、知りたいことがあるというのは決してこの追手をなだめ、たぶらかすつもりではなく、腹の底からの彼の本心だが、いま、理屈ぬきに問答はすべて無用であることを彼は肌で知った。またこの追撃隊の面々の正体がだれであれ、ほとんど人間以外の魔人ともいうべき存在であることを本能的に知った。
霧がぼうとながれすぎた。
「ゆこうぞ」
だれか、いった。田宮平兵衛をまったく無視したような声であった。
この坂は、馬を三頭とならべては通れない。――で、まず二騎がゆるゆるとちかづいて来た。
一騎は田宮坊太郎だが、もう一騎は、槍をかかえた僧形の男である。――宝蔵院胤舜だ!
それを迎えて、田宮平兵衛は一歩もひかず――といいたいが、このとき正確に一歩だけひいた。左足をうしろにずらし、すうとからだをひくくしたのである。手をかろく、刀の|柄《つか》にあてた。
|窮鼠《きゅうそ》ではない、まさに鼠を狙い、とびかかる老猫のような姿であった。
このとき平兵衛は、さきに逃がした味方のためにここで防戦しようという意識を捨てている。この大敵に対する恐怖も忘れている。
いや、それはかすかにないではないが、それよりも平兵衛の四肢のすみずみまでみなぎっているのは、ただおのれの刀法をひさびさにふるう歓びであった。
「――おおっ、待て、田宮!」
牡牛の|吼《ほ》えるような声がした。墨染めの衣をまとった男が横をむいてさけんだのだ。
これが、じぶんに呼びかけたのではない、ということは田宮平兵衛にもわかった。宝蔵院胤舜と目される男は、横の田宮坊太郎を――いまや彼は明確に田宮と呼んだ――制したのである。それはむしろ歓喜に血ぶるいするような声であった。
それまで、なだらかな坂をゆるゆるとのぼってきた宝蔵院は、田宮平兵衛のかまえを見ると、この敵わしにまかせろ、といわぬばかりに、いきなり槍の柄で馬腹をたたいて、いっきに躍りかかって来た。
騎士と徒士との決闘はいずれが有利か。それは互角ならば騎士の方だとされている。
まともに前におれば蹄にかけられるから、徒士は横に走って、すれちがいざまに騎士を襲おうとする。しかしこの場合、下から斬りあげるより馬上から斬り下ろす方が、速度、打撃力ともに効果が大きいから、心得ある徒士は、騎士の力の及ばぬ角度から馬の尻の方へ馳せより、その後肢を斬って騎士を落馬させようとする。しかし、このとき、これまた心得のある騎士なら、みずから横っ飛びに鞍から飛んで、地上の徒士に襲いかかるのだ。
とくに騎士が槍を持っている場合は、攻撃防御の範囲がひろいから、さらに有利だ。
宝蔵院胤舜はまっしぐらに馬を跳躍させた。
しかるに、田宮平兵衛は、これを避けなかった。例のからだを沈めた姿勢のまま、むしろ、うしろにずらした左足のひざを地にすりつけんばかりにひくくした。
「えやあっ」
電光が地からひらめいた。
眼にもとまらず薙ぎあげた田宮流抜刀術の妙技、馬の両脚はみごとにそのすねから斬りとばされた。
斬られた馬の足が地におちるよりはやく、馬そのものががくと前につんのめっている。
当然、馬上の男は、大きく前にはねおとされた。
疾走する馬から横に飛んで地に立つことは、あぶみの蹴りよう、からだの|煽《あお》りようなど、修練の結果できないことではないが、前のめりになる馬からふりおとされて、まっさかさまに転落しないことは、力学的にほとんど不可能なこととされている。――
二本の馬足をひと太刀で斬った田宮平兵衛は、その|刹《せつ》|那《な》、はじめて横に飛んでいた。崩れかかる馬身を避けて飛びながら、同時に彼は身をひるがえしていた。大地にたたきつけられている宝蔵院をそのまま起こしもやらず斬り伏せるためにである。
宝蔵院は槍をかまえて、そこにすっくと立っていた。
常人ならば力学的にできないことを胤舜はしてのけた。
いかに胤舜とても、槍を持っていなければ、それは不可能であったにちがいない。空中に大きくはね出された彼は、まっさかさまの姿勢になりながら、なおはなさなかった槍を地にむけて、そのままぐさと大地につき立てたのである。
宙をふっとぶ速度のために、当然槍は四十五度の角度で大地につき刺さった。つき刺さった瞬間、彼はこぶしをすべらせ、その槍をつたって地上にすっくと立ったのである。
おどろくべきことはそれだけでなく、この場合に彼が槍の穂先の方ではなく、石突きの方を地に刺したということであった。ななめに刺しこまれた槍をぬくと、そのまま穂先はピタと田宮平兵衛にむけられていた。
たとえ宝蔵院胤舜であろうと、「魔界転生」以前の彼ならば、これほどのはなれわざが出来たか、どうか。――
のみならず。――
さしむけられた槍は、間髪を入れず、ビューッと田宮平兵衛の胸をめがけてのびて来た。
一瞬の居合抜きで馬の前肢を斬られ、宙に放り出された刹那には、宝蔵院の方がおどろいたろう。これに対して、最初の襲撃に成功し横にはねとんだときの平兵衛は、すでに勝った! という神速な成算を持ったにちがいない。
しかるに胤舜は空中で反撃のかまえをとり、反転してこれを見たときの平兵衛は愕然とした。一瞬にして、体勢よりもその心理に於て攻守は逆転した。
流星のようにのびて来た槍は、田宮平兵衛の右胸をつらぬいた。
このとき平兵衛が、ただ大根のように刺しとめられたかというと、ちがう。完全には避けられなかったとしてもいま少し槍からからだをずらせることはできたろう。しかし平兵衛は刹那の判断でみずから槍を受けた。
すでにこの大敵からのがれ得ずと見た彼は、肉を斬らせて骨を斬る、みずからの肉体をつらぬかせて、音にきこえた宝蔵院と相討ちになることを狙ったのである。
くり出された槍にじぶんの方から右胸をむけていった田宮平兵衛は、おのれの力を加えて槍を刺し通しつつ、うごかぬ敵、当然、槍をつかんでうごかぬ胤舜めがけて刀を投げつけた。
「わっ」
はじめて宝蔵院の眼が恐怖にかっとむき出された。
が、刀は空中でかっと音して二つに折れて地に落ちた。横から飛鳥のように躍って来た影が、|刃《やいば》をふるって刀身をたたき折ったのである。
「坊太郎!」
平兵衛は絶叫した。
田宮坊太郎は、そのままするすると寄って来て、|串《くし》刺しになったまま仁王立ちになっている「一族の長老」を無造作に脳天から斬り下げた。
【三】
――あとでかんがえると、それはもう真昼をまわったころであったろうか。
柳生へ往来したときにかつて通った道だが、お縫にもお雛にもおひろにも、どこらあたりを走っているのか、まったくわからなかった。ただ、
「奈良まではもう何里じゃ」
「十里もあるまいが」
「では――柳生へは、まだ十里以上はあるな」
という、しゃがれた関口柔心と木村助九郎の問答をきいたばかりである。
ふだんなら青あおと見えたであろう|畝《うね》|傍《び》山、|耳《みみ》|成《なし》山、|天香具《あまのかぐ》山などいわゆる大和三山も見えなかった。恐ろしい疲労のため眼もかすみ、見る余裕もなかったが、それより、ひどい霧のせいであった。実に|妖《あや》しい日で、真夏の真昼というのに、四界は漠々とした熱い霧にみちて、黄色い太陽がボンヤリと中天にかかっていた。ときどき、大和らしい古い塔影が、幻のようにうしろにかすめすぎた。
細雨にふられているように人馬はぬれつくした。
ただならぬ五騎の姿、とくに娘たちの半裸にちかい異様な騎馬姿を、だれも怪しんで見る者がなかったのは、その霧のせいであったかもしれないが、あとで思い出しても、大和に入ってからこのときまでほとんどほかに人の影を見た記憶がないことが奇怪なのだ。まるで大和一国が冥府と化したかのような感じであった。
その中で。――
「おじいさま。……おじいさまっ」
はじめは狂乱したように、ついには夢遊病者のように、いくどかお雛は馬を返そうとした。
「いま、来る」
「霧でわれらを見失ったかもしれぬ」
「あの平兵衛が、やわか、むざむざと――」
そのたびにこういってお雛をはげましていた木村助九郎と関口柔心が、やがて、
「それにしてもおかしい。この街道はわかっているはず」
「ひょっとすると――?」
と、不安な顔を見合わせ出して、そして――奈良へ十里になんなんとするところまで、ともかくも走って来た。その地点で、
「おおっ、|蹄《ひづめ》の音がきこえますっ」
お雛がさけんだ。
背後の霧の中から、遠く鉄蹄のひびきがつたわって来た。
「……一騎ではない」
「五騎か六騎。――」
二人の老人は、慄然としてうめいた。それはあきらかに追ってくるむれの正体を物語っていた。
「こっちへ来い。……こっちだ!」
突如われにかえって、木村助九郎が馬首を横にした。道を変えたのである。
が、十数分走って、おのれの馬蹄のひびきのあいだに耳をすますと――追跡の蹄は、むしろさっきよりちかくなって背後から迫ってくる。――
眼よりも、ふしぎな嗅覚をもつもののごとく。
「助九郎」
と、関口柔心がさけんだ。
「おれがふせぐ。さきにゆけ」
「ばかな、おぬしひとりを残して何とする」
「いまは娘たちを逃がすのが何より大事じゃ。そういった田宮平兵衛の言葉を忘れたか?」
「柔心、おぬしが柳生にゆけ、わしが残る」
「十兵衛どのと縁のふかいのはおぬしじゃ。ええ、こう問答しておるまにも敵はちかづく。いってくれ、助九郎、娘たちはたのんだぞ!」
そういって、柔心は馬からとび下りた。
「お父さま! わたしはゆきませぬ!」
つづいて、決死の顔で下馬しようとするおひろを、
「ばかっ、おまえのためにわしは残るのではない!」
と柔心は、さっきお雛を叱った田宮平兵衛と同様の一喝とともに、平手でぴしいっとおひろの馬の尻をたたいた。
まるで刀で斬られでもしたように狂奔してゆく馬影を見送って、柔心はさけんだ。
「――おひろ! 弥太郎のことはおまえに頼んだぞ!」
さすがに悲痛な声であった。弥太郎とは和歌山に残して来たまだ七歳の彼の一子、おひろの弟のことである。
きっと助九郎を見あげて、
「和歌山の家族も、ぶじではすむまい。そのためにも、おぬし、逃げてくれ」
「ううむ」
「ただし、助九郎、わしもやわかむざむざと討たれはせぬぞ。討たれるどころか、よし敵が何者であろうと、ことごとく追い返してみせる自信がある。法もある。わしは関口柔心じゃ」
昂然としていった。
「では、ゆくぞ」
木村助九郎もようやく思い切った顔色で、
「娘どもは、きっと柳生にとどける」
そういうと、お縫、お雛をうながしてその場を駆け出した。
あともふりかえらず、柔心は一刀をひきぬき、おのれの馬の首をもと来た方角へねじむけると、その尻を刀のみねでたたいた。
馬はこれまた狂ったようにその方角へ走っていった。道は一間にも足らぬはばであった。これを追撃してくる馬群に突入させ、混乱させて、一刻でも敵の足を封ずるためだ。
そのまま関口柔心は道の片がわにある竹林に駆けこんだ。
身をひそめるためではない、彼はいきなりその竹を縦横無尽に斬りはじめたのだ。
刀が|一《いっ》|閃《せん》するたびに直径三寸以上はある竹は|麻幹《おがら》みたいに切れた。二十本ちかく切るのに、五分も要しなかった。ざざっと葉を鳴らしてたおれる竹の尖端を切り、ただ幹ばかりになった部分を、彼はさらに二つ三つに切り離した。
そして、いよいよちかづいてくる鉄蹄のひびきをききすましつつ、その数十本になった竹をかたっぱしから往来に投げ出したのである。
路上三間ばかりにわたって、散乱して投げ出された青竹、なるほどこれでは馬も歩みにくかろうが、さればとてこれが追手の足をとめるのに、どれほどのききめがあるか。
しかもこの作業をしてのけた関口柔心は、何思ったか、おのれの腰の双刀をぬいて、|藪《やぶ》の中にほうった。彼は無腰の手ぶらになったのである。
むざむざと討たれはせぬ、敵をここで追い返す自信もあれば法もある、と彼はいった。彼は手ぶらでいかにして敵に立ち向おうとするのであろうか。
――日本の柔道が古来からつたわる柔術を発展させたものであることはだれでも知っていることだが、この柔術の一大独創家が関口柔心である。日本の柔術の起源についてはいろいろの説があるが、戦国時代以前からの組み討ちに工夫を加え、これを一つの術として完成したのは――少なくともその有力な一人が、この柔心であることは疑いない。
柔心、本名は関口弥左衛門。
素性は今川義元の妹婿であった関口刑部少輔の孫である。徳川家康の妻となった築山殿は彼の叔母にあたるから非常な名門である。
一書にいう。
「関口柔心は漂泊して武芸修行し、工夫練磨して|柔《やわら》の妙を得たり。そのころ童謡に、
[#ここから2字下げ]
向うへくるは弥左衛門
あれにさわるな弥左衛門
よけて通せや弥左衛門
[#ここで字下げ終わり]
と唄いしとぞ」
また一書にいう。
「弥左衛門、或るとき徒然として庭をながめていたるに、向うの屋根に猫一匹眠りていたりしが、あまりに寝入りてころころとおちたるに、中にてひらりとはね返り四足を立て地に落着いたり。弥左衛門つらつらこれを見てより受身を工夫し、さて屋根に上りて下へ落ちることを稽古す。次第次第に落ちざま巧者になりて、のちには高き屋根よりさかさまに落ちれども中にて返り落ちける」
また一書にいう。
「関口柔心、はじめて南竜院さまに|仕《つか》うるとき、何かたしなみありやとおたずねありけるに、拙者儀は馬の|沓《くつ》を作りおぼえ候と答う。いやそのことにてはなし、武芸のこと問いしなりとの仰せに、平然として武芸は何にてもつかまつるべく候と答え奉りしとなり」
彼は若いころ長崎に遊んで、たまたま明から来朝していた少林寺拳法の名人|陳《ちん》|元《げん》|贇《びん》からその秘術を伝授されたという。
また彼の一子にして――先刻訣別にあたって娘のおひろに託した七歳の童児こそ、のちに関口弥太郎となった少年である。
――が、いかに柔術の達人とはいえ、そもそも徒手空拳を以て、猛追する六騎、しかも彼こそまだその全貌を知らないが、魔界の鬼神ともいうべき六人の大剣士に、果たして対決し得るや否や。
しかも柔心は、彼らを追い返す法あり、自信ありという。――
たちまち霧を破り、六騎が殺到して来た。
「――おっ」
先頭の一騎が、ひづめを地にくいこませてとまると、あとの五騎もとまる。路上の青竹に気がついたのだ。
彼らは例の柿色の三角頭巾のあいだから、道のまんなかに立つ関口柔心を見た。
二人の三角頭巾が、ばらばらと馬からとび下りた。
ひとりが、まるで当然のことのように抜刀し、足もとの竹を軽く越しながら、つかつかとあゆみ寄ってくる。――それを、もうひとりが、うしろから注意した。
「又右衛門、相手は、無手だぞ」
無手だから安心せよといったのではない。無手だからフェア・プレイでこちらも刀を捨てよといったのではない。無手を用心せよという意味であったことは、その冷厳な語韻でわかった。
抜刀した三角頭巾はちょっと立ちどまったが、すぐにもと通りの速度と身のこなしでスルスルとちかづいて来た。
――又右衛門? これが、荒木又右衛門! さっと全身を吹きすぎた戦慄は、両腕をダラリとたれ、一見|案《か》|山《か》|子《し》のごとく|飄然《ひょうぜん》と立っている関口柔心の姿から他人にはうかがえない。事実、このとき柔心は、戦慄とともに、兵法に生涯をかけた人間のみが知る陶酔にも沈んでいる。
「きえーっ」
又右衛門の大刀は、大気に日光の|亀《き》|裂《れつ》を袈裟がけに走らせた。
柔心はその秒瞬の直前まで棒立ちになっていた。常人ならば、又右衛門の眼に魅入られて、すでに気死しているはずである。しかし柔心は身をひるがえした。身をひるがえすなんらの力感も見せず、わずか左に身を避けたのだ。
なんで又右衛門の一撃がそれを許そう。かわしきれず、宙にあがった柔心の右腕――|下《か》|膊《はく》のまんなかあたりを、その豪刀は切断した。
――と見えた、が、かっとそこから火花が散った。
はがねとはがねの相打つ音がして、又右衛門の一刀はそこでとまった。たんに柔心の腕で受けとめられたばかりではない。荒木又右衛門の刀身はそこに|膠着《こうちゃく》してしまったのだ。
柔心の腕は鋼鉄と化したのか。
そんなはずはない。――彼は十手を|逆《さか》|手《て》に持っていたのだ。逆手ににぎった支那渡来の鉄の十手を、下膊の内側にピタリと吸いつかせていたのだ。
長さは一尺ばかり、握りの方は切子球のように太くなっていて、尖端は|錐《きり》のようにとがっている。そして握りのすぐ上から、左右に牛の角みたいに|鉤《かぎ》が出ている。――この十手の使用法は、中国拳法に於ける|釵《さい》と同様であって、柔心はこれを陳元贇から学んだのであった。
又右衛門の一刀が柔心の十手で受けとめられたのは一瞬である。
それは十手の鉤にかけられて、ねじられると、ポキッと二つに折れて、きっさきの方はきらめきつつ大きく霧の中にはねとばされていた。
荒木又右衛門はうしろにとびずさりつつ、残った刀を投げつけた。
折れた刀は、はっしと柔心の面前でたたきおとされた。
逆手に持っていた十手は、柔心の親指が鉤にかかると回転しながら振り出されて、一瞬のまに並手に持ち直されていたのである。
つき出せば錐のような尖端で刺す。逆手に使えば握りの切子球で敵を悶絶させる。千変万化の恐るべき武器であった。
しかも――義眼のようにむき出された又右衛門の眼が、この十手に吸いつけられた瞬間、思わぬ襲撃は下から来た。関口柔心の右足が凄じい勢いで又右衛門のみぞおちめがけて蹴りあげられたのである。
一撃、鉄甲にすら穴をうがつ少林寺拳法の足技であった。
これを又右衛門はのがれた。又右衛門なればこそのがれたのだ。彼はのけぞって、柔心の足に空を打たせたのである。が――さしもの彼も、このとき足下の青竹は避け得なかった。思わず青竹を踏むと、彼はどうとあおむけにたおれた。
「……あっ」
はじめて彼の口から、ひびの入ったような声がもれた。
ここまではすべて関口柔心の兵法通りであった。
青竹をまきちらしたのはこのためである。いや、敵に包囲される足場をあたえないためもある。さらに得べくんば馬をとめ、敵を|徒《か》|歩《ち》で迎えたい、彼はこう計画した。わざと双刀を捨てたのは、敵をやすやすとちかづけるためである。おのれの柔術の及ぶ圏内にひきずりよせるためである。かくて柔心は、敵のひとりを悶絶させ、|虜《とりこ》としようとかんがえた。それを人質にして、あと五人の敵と対するのだ。
敵のすべてを追い返す法あり、自信あり――と、あえて高言したのは、かかる思案があったからであった。そして敵はことごとくこの思案に乗った!
あおむけにたおれた又右衛門に、ふたたび十手を逆手にもち、握りの切子球をむけて柔心は躍りかかろうとした。
その眼前に、さっと別の一刀が割って入った。
「おおっ」
|鏘然《しょうぜん》とまた青い火花がちって、あやうく彼はその大刀を|鉤《かぎ》で受けた。
大刀と鉤、それは一瞬、一体の奇怪な武器ででもあるかのように、がっきと空中でかみあったままうごかなくなった。
柔心は三尺のちかさで、第二の敵と相対した。
受けはしたものの、凄じい敵の力であった。ジンワリと静止しているのに、振り下ろされた刹那と同様の加速度が、柔心の腕に麻痺的な衝撃をつたえてくる。それよりも。――
三角頭巾のあいだから彼を見ている敵の金茶色の眼の、なんたる魔力であろう。
引けど、押せど、敵の豪刀は柔心の十手に|膠《にかわ》のごとく吸いついている。いまや敵の|刃《やいば》をとらえているのは彼の十手ではなく、敵の刃が彼の十手をとらえているのであった。
十手のみならず、彼の精根、全存在そのものが、相手の眼に吸いこまれそうだ。
……誰だろう?
生まれて以来、かつて相まみえたことのない大敵、という実感に圧倒されつつ、関口柔心はあえぐように思った。ふつうならば、かかる場合に柔心の足が飛ぶ。その足が、ひざも、くるぶしも、磐石の重みにひしがれたように動かないのだ。
……この人物は、何者か?
霞んできた彼の眼は、このとき敵がすうと右のこぶしをはなすのを見た。相手は、左手だけで|鍔《つば》ぜり合いの大刀をささえたのである。空いた右手が、ソロソロと腰の小刀にすべってゆくのを見つつ、柔心はどうすることもできなかった。
「関口弥左衛門、|一《いち》|期《ご》のねがい」
絞めつけられたように柔心はいった。実は彼は、この相手の正体をもう推察していたのだ。この場合に、絶大の敬意を以て、
「お名前を」
「武蔵」
声とともに、関口柔心は胴を両断されて地に崩れおちた。
――この凄絶きわまる死闘と名剣士の最期を、残り四騎の面々は、霧に馬影をけぶらせつつ、黙然として、しかも津々たる興味の眼を以て見物していた。
ややあって。――
「どこの方角へ逃げた」
「奈良の方じゃ」
「いそげ」
ふたたび馬上の人となった武蔵と又右衛門を加え、六騎はまた魔風のごとく駆け出した。
【四】
――きくならく、古事記のむかし。
いざなぎのみことは、死せる恋妻いざなみのみことを慕って|黄泉《よみの》|国《くに》にたずねた。黄泉国の戸越しに、妻を誘ういざなぎのみことに、「|黄泉《よみの》|神《かみ》にゆるしをこうあいだ、わたしをごらんになってはなりませぬ」と、いざなみのみことは答えた。
にもかかわらず、いざなぎのみことは、待つにたえかねて、戸をあけてのぞき見た。彼が見たのは、|蛆《うじ》に覆われた妻の死体であった。
ふるえあがって逃げ出す夫を、
「見ましたね、わたしの恥ずかしい姿を見ましたね」
そういうと、いざなみのみことは起きあがり、魔神のむれをひきいて追いかけてきた。
いざなぎのみことが髪飾りをとって投げると、それは|葡《ぶ》|萄《どう》になった。敵がそれを食べているあいだに、彼は逃げた。追ってくる敵に、こんどは櫛をぬいて投げると、それは筍になった。敵がそれを食べているあいだに彼は逃げた。
――この忍法幻談に於て、田宮平兵衛と関口柔心は、はからずもこの髪飾りと櫛の役割をはたしたものというべきである。
逃げるいざなぎのみことを、髪ふきなびかせつつ、いざなみのみことはなお追いかけた。
危いところでいざなぎのみことは黄泉国の入口からのがれ出し、そのあいだに千人もかかってひくほどの大石を引いて来てこれをふさいだ。これを|黄泉《よみの》|坂《さか》という。――
三人の娘をつれて逃げる木村助九郎の黄泉坂はいずれか。
大和一国が黄泉国と化したかのような、夏というのに蒸風呂のようにたちこめた霧がしだいに薄暗くなり、そして夜となった。夜に入ると、かえって霧は白じろと妖しいひかりを四辺に満たした。
四騎は奈良の町を走りぬけた。
「ここは般若野」
と、木村助九郎はさけんだ。
般若野は奈良北方に起伏するなだらかな丘だ。この丘の道を北へたどれば、やがて伊賀街道に出る。柳生は奈良から、この伊賀街道を通って約二里半であった。
遠乗りの行程は一日最大三十六里という。当時の道のりとして、和歌山から柳生まで、ほぼそれにちかかろうか。
さしもの木村助九郎も、全身綿のごとく疲れはてた。ましてや、娘たちはもはや半失神の状態にあるだろう。馬が駆けているのがふしぎなくらいだ。
ここは般若野、そうさけんだのは、もとより娘たちをはげます心からだが、おのれ自身にも鞭をくれるためであった。
しかし、助九郎は、霧にまぎれ、ついに敵から逃がれ得たと思った。いかな敵にしろ、ここまで執念ぶかく追跡してはこまい。――
ところが彼は、伊賀街道を東へなかば来たとき、またもや背後に、例の数騎の馬蹄のひびきをきいたのだ。
いったんは霧で見失ったものの、ついにまた獲物のゆくえをかぎあてたのか。――しかも、そのひづめの音は、刻一刻ちかく、力強く迫ってくる。
助九郎は歯ぎしりの音をもらした。
「ううむ、あと一息のところを。――」
娘たちにはきこえないようにうめき、やがて眼をぎらっとひからせて、
「柳生まで、あと一里じゃ!」
さけぶと、手綱をさばいて、娘たちの乗馬の尻を交互に鞭でたたき、そしてじぶんだけはよろりと馬から飛び下りたのである。
娘たちの馬は死物狂いに駆け走り、あとを一頭の裸馬が追った。疲労と霧のため、娘たちは、その馬に助九郎の姿がないことを気がつかなかったらしい。
伊賀街道に、木村助九郎のみがひとり仁王立ちになって残った。
そして、やがて霧の奥から、ぶきみにこれだけは鮮やかな柿色をした六つの三角頭巾が湧き出して来た。
彼らはとまった。
馬上の三角頭巾がちょっとうなずき合うと、その中から二人だけがとび下りて、ヒタヒタと歩いて来た。
木村助九郎。
「南紀徳川史」に「木村助九郎は柳生|宗《むね》|厳《よし》(石舟斎)の相伝|允《いん》|可《か》の弟子にして新陰流の達人なり」とある。
彼にはかくべつ奇異な逸話がない。
ただ、頼宣に従って江戸に出たとき、しばしば柳生但馬守と同道して登城し、将軍家光を指南したことが述べられている。強いてあげれば――寛永十六年、彼が五十六歳のとき、将軍の下命で、そのころ旗本きっての使い手といわれた大久保兵部少輔と三回、阿部式部少輔と三回、鵜殿惣十郎と四回試合し、ことごとく彼らを破り、家光から「噂にはきいていたが、年柄もあり、かくまでのわざをなすとは思わなんだぞ」と嘆賞の言葉をたまわったという記述が残っている。
珍しい逸話のないことが、彼の現実的で、オーソドックスで、それだけにすきというものがない、強靭な剣風をしのばせる。――
「おぬしらはいったい何者か」
彼は刀の|柄《つか》に手をかけたまま、声をしぼった。
「きき知ったことはあるが、わしはまだ信じられぬ。化物乃至にせものならば、いまのうちに退散した方が身のためであるぞ」
ほんのいままでの疲労ぶりは、露ほどもあらわさぬ、岩のように剛毅な姿であった。
二人の三角頭巾は寄ってくる。ひとりはどっしりした巨体、ひとりは小柄だが、いずれもどこか風にでも吹かれているような歩みぶりだ。その小柄な影を見たときに、なぜともしれず助九郎の背すじにぞーっと冷たいものがながれた。
おのれ自身の恐怖を恐怖し、彼は絶叫した。
「名乗らぬか。将軍家を御指南申しあげたほどの新陰流の木村助九郎が相手であるぞ。礼として名を名乗れ」
これ以上、敵が一歩でも踏みこめば、斬る。鞘走ればかわすに法なき木村助九郎の抜討ちであり、かつ敵にそれをふせぐ動作も見えなかった。
敵はうごいた。眼と眼を見かわしたのである。それから手をあげて、頭巾をぬぐのにかかった。
からだの大きい方が頭巾をといた。入道あたまであった。
「……あっ、柳生兵庫さま!」
柳生如雲斎であった。
小柄な方のもうひとりも、ゆるゆると頭巾をといた。
「……た、た、た」
そうさけんだきり、あと声は言葉にならぬ。
「|宗《むね》|矩《のり》じゃ」
柳生但馬守は「生前」通りの無表情でいった。ただ眼だけにかすかに――しかし異様な悪意にみちた歓喜の炎がチロチロともえている。
「助九郎、相手になるか?」
但馬守と如雲斎の手が、同時に刀の柄にかかった。
――かっと眼をむき、口を洞窟みたいにあけて、そのまま助九郎は凍結してしまったようであった。
肉体のみならず、脳髄まで凍結しなかったのがふしぎなくらいだ。――彼の驚愕はいかばかりか。荒木、宮本、宝蔵院、これらの大剣士が生きて眼前にあることさえ悪夢を見ているような気がするのに、死せる柳生如雲斎、いや如雲斎ならばまだよい、人もあろうに、死せる柳生但馬守が、昨日から今夜にかけて執拗きわまる追撃をかけてきた魔群の中にいようとは!
柳生但馬守はこの三月に死んだ。
じぶんは紀伊藩に仕える身であったから、江戸の葬儀にも列することはできなかったが、もとより公儀に死去の届けを出した以上、それがいつわりであるはずがない。何よりも、但馬守は大名の死亡相続などをとりあつかう公儀の大目付だ。だいいち、但馬守の人柄として、そんな途方もないいたずらをするわけがない。――
にもかかわらず、但馬守はここにいる。
助九郎は混乱した。
「……木村、こう顔を見せたうえは」
但馬守は、めずらしく口のはしをつりあげて、きゅっと笑った。
「と、殿」
助九郎はようやく声を発した。
「こ、これはどうしたことでござる。木村にお教え下され。いかなる仔細があろうと、助九郎、殿のおんためにはからいます。これはどういうわけでござる。但馬守さまっ」
その狂乱したようなあえぎにも、耳がないかのごとく、
「生かしてはおけぬなあ」
と、但馬守はいった。
ふらふらと助九郎はあゆみ出た。両手をひろげ、但馬守にすがりつくように。
ぱっとその面上を流星がきらめき走った。助九郎はうしろへ飛んだ。
いきなり抜き討ちにしたのは、柳生如雲斎であった。助九郎のひたいに絹糸みたいな血が走った。
しかし、一間もとびずさって、助九郎はふたたび刀の|柄《つか》に手をかけている。とびずさったのも、刀の柄に手をかけたのも、名剣士としての無意識な反射行為であった。
「さすがじゃ」
柳生如雲斎は苦笑した。いまの一刀は、助九郎の面上をかすめただけでかわされたのである。――そのまま、つかつかと出ようとするのを、
「待て」
と、但馬守はとどめ、じぶんが助九郎の正面に立って、
「抜け、助九郎」
と、いった。
――かつて、何ぴとが想像したであろうか。積年の恨み、それに対する冷蔑で相離間した尾張柳生、江戸柳生のあるじ同士が、このような協同作戦を張ろうとは。
待てと但馬守がいったのは、助九郎を討つなという意味ではない。じぶんが代わるという意味だ。
「助九郎とわしは兄弟弟子。なんじと真剣を以て立ち合うは、わしの夢であったわい」
と、但馬守はいった。
兄弟弟子とは、剣聖石舟斎を師としての言葉だ。しかし、それは元来、柳生如雲斎に対していうべき言葉ではなかったか? それを但馬守は、かつては大いに敬重し合った木村助九郎に対していった。しかも、その眼はぶきみな血光をほとばしらせている。
「参るぞ、助九郎!」
声よりはやく、但馬守の眼前に閃光がながれた。
木村助九郎が抜いたのだ。同時に但馬守が抜き合わせた。――が、次の瞬間、よろめいたのは但馬守の方であった。
助九郎が空を打たせたのではない。空を打たせたことにまちがいはないが、彼は逃げ出したのである。抜刀はしたが、彼は身をひるがえし、背を見せて、まろぶように逃げ出したのだ。
木村助九郎ともあろう者が、背を見せて逃げる、これは彼がどんなわざを使うよりも意表外のことであったとみえて、さすがの但馬守も一二歩およいだ。
が、一瞬ののち、
「待てっ」
但馬守と如雲斎は、宙を飛んで追った。
木村助九郎は、刃をひっさげたまま逃げてゆく。
これは兵法ではない。熟慮の結果ではない。彼ともあろう者が、ただひたすらなる恐怖のためであった。
じぶんの相手になる者が、天下に名だたる但馬守と如雲斎、その戦慄もあったろう。またこの両人が、じぶんの旧主にして恩師たる石舟斎の子と孫にあたり、世のいかなる人間と手合わせしようとも、このふたりに真剣を以て立ちむかうことなど思いもよらぬ、という|畏《い》|怖《ふ》もあったろう。それらが混合した――いや、それらを超越した、理性ぬきの恐怖に彼は吹きくるまれていた。
霧の中に馬影が見えた。肉眼というより、心眼で見えたのだ。
先刻、柳生へむかってはなした彼の馬であった。それが、どこまでいって気が変ったか、あるいはほとんどまる一昼夜、おのれの背にのせた人間を慕ってか、またこちらにひき返して来たのだ。
「八幡、神仏の助け」
とびつき、馬首をたてなおし、彼はそれにとびのり、刀身を以てその尻をなぐりつけた。
同時に、彼の右腕と左足は血しぶきをたてて地におちていた。
魔神のごとく馳せつけた但馬守が、躍りあがって、刀を持ったままの助九郎の右腕を、如雲斎が彼の左足を斬りおとしたのだ。
しかも。――
片手片足となった木村助九郎は落馬せず、そのまま|奔《ほん》|馳《ち》した。血の滝をほとばしらせながら。――
「……あっ」
但馬守と如雲斎のみならず、ほかの四騎がしばし立ちすくんだまま動けなかったほど、その人馬の疾駆は超現実的なものに見えた。
やるか
【一】
「いやな日だな」
「妙な夜だ」
昨夜ほとんど夜を徹した雨は、朝になってあがったものの、大地の釜からたちのぼる蒸気のような霧となって、ここ柳生谷にもたちこめていた。しかも、それが終日、いや、夜に入っても乳色にけぶっている。むし暑い、息もつまるような不快な霧であった。
半分くらい瓦のおちた城門にも、夜なので門番がいた。
その門番が三人、提灯をさげて、こんな問答をかわしながら門をとじようとしたとき、彼らはふと霧のかなたから、馬のひづめの乱れる音をきいたのである。
馬は駆けて来た。三頭であった。そしてその馬のたてがみにしがみついて来た三人の人間が、崩れるように門のまえで地におちた。
「……十兵衛さまに。――」
「はやく。――」
「おねがいでございますっ」
きれぎれにそういって、両腕を地についたきり、ぐったりと首をたれてしまった。
闇と霧のため、提灯はあっても、その惨澹たる姿は幻影のようにしか見えなかったが、霧のないまひるでも、それはこの世のものならぬ幻影とみえたかもしれぬ。――それも当然だ。彼女たちは、まさに|黄泉《よみの》|国《くに》から逃がれてきたのだから。
しかしその声を、門番たちは、この五月にこの城から去っていったあの娘たちだとすぐにききわけた。
「やっ、紀伊のお嬢さまたちではございませんか!」
「どうなされました?」
息をのんで眼を見張り、すぐにひとりが、
「殿さまを呼んでくる」
と、駆け去った。
やがて十兵衛がやって来た。
「……何か、|変《へん》|化《げ》でも出て来そうな晩だと思っておった。おまえら、狐にでも化かされたのではないか」
そんなことを門番にいいながら大股に歩いて来た十兵衛は、さすがに|隻《せき》|眼《がん》を大きく見ひらいて、彼女たちのそばに|佇《ちょ》|立《りつ》した。
「変化ではないらしいな。変化がこんなにくたびれておるはずがない」
まだ、そんなことをいっている。
「ううむ。……紀州から乗りづめで来たか」
門番をふりむいて、
「水を持って来い。……それから、だれか|粥《かゆ》をつくってやれ」
また門番たちが駆け出していって、そのうちのひとりが桶に水をくんで来たのを、十兵衛は|柄杓《ひしゃく》で娘たちの口に順にそそぎこんだ。
半失神状態になっていた三人の娘は、われにかえった。なお散大した瞳が、のぞきこんでいる一つの顔に凝集すると、
「あっ、十兵衛さまっ」
「お救い下さいまし。――」
「おじいさまを!」
足にしがみつき、また狂乱したようにさけび出した。
「なんだと? ……おじいだと?」
「おじいとは……助九郎のことか」
さすがの十兵衛も愕然としていた。
紀州へ帰ったはずの三人の娘が、三十数里はなれた柳生谷へ、おそらくは馬を乗り通して、半死半生で駆けてもどって来た。――ただごとではないと思っていたが、
「助九郎を救えとは――爺はどうしたのか!」
娘たちは裂けた風笛のような声をたてた。
「木村のおじいさまも御一緒においでになったのでございます。そこまで。――」
「それが、見えなくなった、と柳生谷ちかくで気がついたのですけれど、ひき返すより十兵衛さまにお救いを願おうと。――」
「恐ろしい追手に追われているのでございます!」
ものもいわずに、十兵衛は門の外へ走り出た。
――と、霧を破って、またひづめの音がきこえて来た。十兵衛はその馬が、人間ではない一つの物体を乗せているのをおぼろに見た。
大手をひろげて前に立ち、
「どう……どうどう!」
と、その首にとびつくようにして止めた。
「おお、爺!」
彼はその馬に乗っているのがたしかに人間で、木村助九郎で、しかもその片腕と片足がないことを見出したのである。
「爺、だれがおまえをこんな目にあわせたのか!」
思わずゆさぶって、そのからだが氷のように冷たいのに気づき、十兵衛もまたさっと全身凍りつく思いで、しかし、馬から離れて、霧のかなたへ駆け出そうとした。
「ゆかれてはなりませぬ」
と、死びととしか思われぬ馬上の老人が声を出した。
「十兵衛さま、いま、ゆかれてはなりませぬ」
「な、な、なぜだ、爺、追手とは何奴だ?」
「まず、まず――城へ」
馬はふたたびあゆみ出した。片手片足となった木村助九郎は、それでも落ちない。馬に乗っているというより、ねばりついているようであった。
「……あっ、おじいさま!」
三人の娘がよろめきつつ立ちあがって駆け寄るのを、
「ひかえおれ!」
――いつかのように、しかしもっと凄じい声で|一《いっ》|喝《かつ》して、助九郎は門の中に入り、そこに茫然とつっ立っている門番をみると、
「門をとじよ。……いや、それよりまえに侍を呼んで、門を護れ。……護ったとて、隆車をふせぐ|蟷《とう》|螂《ろう》のむれじゃが。……」
と、気息えんえんとしていった。
門番は駆け去り、やがて十数人の侍をつれて走り出して来た。侍たちが、ともかくもこの城に異変が迫っていると判断して、おっとり刀で門の外へ駆け出そうとするのを、
「ゆくな。門の内にて、門のみを護れ。門をとじよ」
と、木村助九郎は、恐怖の|喘《ぜん》|鳴《めい》ともいうべき声でとめた。
――この混乱のあいだに、十兵衛は、助九郎を馬から抱きおろし、地に横たえていた。
もとより追手も気にかかるが、それより捨ててはおけぬ助九郎の無惨な姿だ。
「十、十兵衛さま、爺が今生のねがい」
助九郎は十兵衛にすがりついた。
「紀州藩をお救い下され。……」
「紀州藩? 紀州藩がどうしたか?」
「大納言さまは、魔性のものに憑かれておわす、捨ておかば、五十五万石が潰れ申す。……」
「魔性のものとは。――」
「いま、くわしく申しあげておるいとまがござらぬ。爺はすぐに死にまする。また助九郎にも、まだよくわからぬのでござる。……」
捨ててはおけぬ、と思いつつも、すでに生きているのがふしぎなほどの木村助九郎であった。切断された片腕と片足から、血はもはやことごとくその肉体から流出したとしか思われぬ。
「ことここに至った次第は、娘どもよりおきき下され。……逃げてくる途中、田宮平兵衛、関口柔心も斬られ申した。……あの敵の顔ぶれよりして、平兵衛も柔心も討たれたに相違ござらぬ。……」
お雛とおひろが、心臓がつぶれたような声をあげた。
「田宮平兵衛と関口柔心が!」
十兵衛も息をのんでいた。それはたんにお雛、おひろの祖父や父として承知しているのみならず、むろん当代に比類のない大武芸者として敬愛している人たちであった。
「田宮、関口……そしておまえまで斬ったのは誰だ。それが魔性の者というのか」
「されば。――」
と、助九郎は、左腕の指を一本折り、
「田宮坊太郎。……」
「何を申す。田宮なら、わしも江戸の道場で知っておる。いかにも、あれは若いが、天才であった。しかし、田宮は死んだ」
助九郎はふるえる指をまた一本折って、
「宝蔵院|胤舜《いんしゅん》。……」
「ばかな!」
三本目の指を折った。
「荒木又右衛門。……」
「これ、助九郎、そちは気でも狂ったのか」
「宮本武蔵どの。……」
――ここに至って、柳生十兵衛は沈黙してしまった。ただ、まじまじと木村助九郎のおののく口をながめている。この老人は瀕死の幻覚に襲われていると判断したのだ。
「それだけか、助九郎」
急にやさしく問いかけた十兵衛の隻眼にその心を読んで、助九郎は白髪の頭をふりたてた。
「ま、まことでござるぞ。十兵衛さま。……まだ、二人、ござる」
「だれだ?」
木村助九郎の眼に恐怖のひかりがともった。たんにおのれらを斬った者に対する恐怖ではない――それよりもっと超絶的な恐怖であった。
ふいに十兵衛も、恐怖にちかい感情にとらえられた。
よしやいま助九郎のあげた名が断末魔の妄想であろうと、田宮、関口、そしてこの木村助九郎を|屠《ほふ》り去ったものの存在は妄想ではない――と気がついたのだ。
「だれだ、爺、おまえを斬ったのはだれだ」
助九郎は答えなかった。ただ例の名状しがたい恐怖の眼で十兵衛をながめているだけであった。
突如として十兵衛は立ちあがっていた。ほとんど人間の味わう恐怖の極致といった木村助九郎の眼につきあげられたばかりでなく、このとき彼は、門の外に――何か殺気のようなものを感じたのである。それはたとえば雷鳥が、山岳の空に雪雲の迫るのを敏感に肌で知るのと同様の感覚であった。
彼は門の方へ走り出した。
「どけ」
そこに凝然とひとかたまりになっている侍たちをおしのけ、門をあけた。
じっとりとした霧は、依然として濃くたちこめている。それが、ぬるい風に、ゆっくりといくつかの渦をまいているようだ。……その向こうに、何者かがいる、と十兵衛は感じた。
一歩、踏み出しかけて、十兵衛は金縛りになった。その刹那に、霧の奥から吹きつけてくる異様な鬼気といおうか、妖気といおうか、ちょっと形容もできない何かに衝撃されたのだ。
「……むっ」
うめいて隻眼をひからせ、十兵衛は立ちすくんだ。それっきり、息もつけない。一歩も踏み出せない――それはいまだかつて彼が経験したことのない、圧倒的な凄じい殺気の風であった。
銀灰色の霧は、おなじようにうずまいている。
……と、十兵衛を金縛りにしていた殺気の風が、徐々にうすれていった。ひとりではない、何者かの集団だ、それが足音もなく去ってゆく。ほんの五六間のあいだまで迫りながら|退《ひ》いてゆく。――そう脳髄では知りながら、十兵衛はなお身うごきもできなかった。
全身をヌラヌラとぬらすものに十兵衛は気がついた。それは霧ではなく、あぶら汗であった。
消えたものの影を、もはや追っても及ばぬことを知ると、十兵衛はとって返した。
「助九郎」
三人の娘にすがりつかれた助九郎のところへ|馳《は》せもどると、彼は先刻までとは一変した声でさけんだ。
「きゃつら何者だ?」
助九郎の白い膜のかかった眼に、かすかなひかりがともった。
「十兵衛さま、それは――」
けくっ、とのどが鳴った。
断末魔の|喘《ぜん》|鳴《めい》と知って、十兵衛は絶叫した。
「あと、二人というのはだれだ。教えてくれ。……」
「それは」
木村助九郎の唇は、二度三度うごいたが、声はきこえなかった。
「だれだ、え、だれだ?」
顔をちかづけ、ゆさぶる十兵衛に、ふいに助九郎は恐ろしい力でしがみつき、
「十兵衛さま、紀州家と大納言さまをお救い。……」
「わかった。敵はだれだというのだ?」
「十、十兵衛さま、それだけを、助九郎、お頼み。……」
「心得た。安心しろ。しかし……やっ、爺、言え、死ぬまえに、敵の名を言え!」
しかし、木村助九郎は、十兵衛の腕の中で、がくりとうごかなくなっていた。
この老人は、ついに残りの「誰か」の名をいわずに絶命してしまったのである。いうには、あまりに恐ろしかったのであろうか。十兵衛にその名を告げるには、彼として忍び得なかったのであろうか。
十兵衛はしかし、じぶんの腕の中で、老人の顔が恐怖に凝固してはいるものの、最後にちらと微笑したのを思い出している。助九郎は、十兵衛が、心得た、安心しろ、といったとき、反射的に笑ったのである。
十兵衛はふりむいた。
「おまえたち、敵の名をみんな知っておるのか」
三人の娘は、幽霊のようにくびをふった。
「いいえ」
彼女たちも知らないのだ。四人までの名は、老人たちの途中の対話からきいているが、残りの二人は知らないのだ。それはあとに残った助九郎だけが知って驚愕し、そしてついに黙したまま死んだのであった。
十兵衛はそのままの姿勢で、凝然とかんがえる。
木村助九郎を、惨殺というより恐怖死させた者は誰か。なぜ彼はそれを口にすることをはばかったのか。
――さすがの十兵衛も、その名が柳生如雲斎また父の但馬守とまでは想像を絶した。
とはいえ、彼がきいたほかの四人、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜、荒木又右衛門、宮本武蔵という名もとうてい信じがたい。
ただ。――
事実として、田宮平兵衛、関口柔心、木村助九郎ほどの名剣士をたおしたものがある以上、それは右の面々に匹敵する恐るべき敵に相違ない。……十兵衛は、先刻の霧の中の対峙を思い出した。あのときと同様の冷気が、ふたたび彼の全身をしめつけた。
彼はもういちどふりむいた。
三人の娘は依然としてそこに幽霊のように座っている。眼前に祖父の死を見つつ、お縫も身うごきひとつしない。六つの眼を宙に見張り、彼女たちはじっと何かを思いつめているようにみえた。
「話をきこう」
十兵衛はようやくしずかに木村助九郎のむくろを地上に横たえた。
それから、はじめて笑った。
「いや、それよりも、まず休め。こわかったろう。……十兵衛が抱いて寝てやろうか?」
このとき留守居役の狭川源左衛門が、やっと駈けつけて来た。
【二】
――六騎の死神はなぜ退却していったのか。
それは、こういうわけだ。
もはや人間のかたちをとどめず逃げる木村助九郎を、あっけにとられたように見送ったのもしばし、たちまち六騎は猛然として追撃にかかった。そして柳生谷のちかくになって、いちどはその背に腕がとどくばかりになったのである。
――すると。
路傍の樹立ちからむくと身を起こした二人の六部が、さきに駆けぬけた一騎を――木村助九郎の馬をおどろいたように見送ったが、次に|疾《しっ》|駆《く》してくる六騎の馬蹄の音をきくと、なに思ったか、その一人が手にしていた|錫杖《しゃくじょう》を横にして、ツ、ツ、と街道のまん中に立った。
「待て。――」
常人には見えぬ霧の中に、彼には柿色の三角頭巾が見えたようだ。
「|転生衆《てんしょうしゅう》ではないか、どこへゆく」
蹄を地にくいいらせてとまった六騎に、
「四郎じゃ」
と、いった。馬上では歯がみして、
「どけ、のがしてはならぬ男だ」
「事情は知れぬが、柳生に手を出してはならぬぞ。江戸の宗意軒さまの仰せじゃ」
頭巾のあいだからゆくてをすかして、
「ちええ、もはや及ばぬ」
と舌打ちしたのは田宮坊太郎らしく、そのまま馬からとび下りて、
「四郎、江戸からいつ来た」
「きょうのひるじゃ。で、こうして柳生城のまわりをうろついて、お品を城に入れる工夫を案じておった」
「では、あれが?」
と、もうひとりの六部をふりかえった。天草四郎はうなずいて、
「坊太郎、これはどうしたことだ」
田宮坊太郎は手みじかに、昨夜来のことを語った。
「ふうむ。……」
これは天草四郎にも意想外のことであったらしい。やや鼻白んで、
「わしはまた、例のフランチェスカの件に端を発し、その後何か事が起こって、おぬしらが柳生へあばれこんだものかと思った」
とつぶやいたが、すぐにかぶりをふって、
「いや、しかし、やはりいま十兵衛と事をあらだてることは禁制じゃ」
と、いった。坊太郎がきき返す。
「宗意軒さまの仰せだと?」
「さればよ、江戸に帰ってフランチェスカお蝶が十兵衛に討たれたことを報告したら、しばらく思案しておられたが、やはり十兵衛は敵にまわすには惜しい奴、何とぞして魔界転生の仲間にひきずりこめ、と申された。――」
「しかし――いまや木村助九郎は柳生へ逃げこんだ。助九郎が十兵衛に告げて、われらの方から手を出さずとも、十兵衛の方からわれらに手むかいはじめたら何とする」
天草四郎はしばし沈黙していたが、やがて、
「宗意軒さまはなあ」
と、うす笑いをうかべた声でいった。
「お頭は語を強めて、柳生十兵衛は是非とも味方にいたしたい、たとえ味方の転生衆のうち二三人はきゃつのために殺されても、それとひきかえになろうとも味方に欲しい奴――と仰せられたぞ」
「ばかをぬかせ」
|牡《お》|牛《うし》のように宝蔵院がひくく|吼《ほ》えた。
「二三人とは、だれのことだ?」
「だれのことか、わしも知らん。……少なくとも、わしではないなあ」
と、天草四郎はまた声もなく笑った。
「わしならば、十兵衛を討つつもりなら、そもそもお蝶が殺されたときに討ってみせたのだ。……しかし、宗意軒さまの御意は、きゃつを仲間にひき入れることにあって、討つことにない、と思い返したのだ。そうであろうが?」
六騎は黙りこんだ。黙りこんだのみならず、粛然として神意でもきくようにあたまをちょっとさげた。
「では、これからどうするぞ」
と、荒木又右衛門がいった。憮然として、
「われら魔界転生の秘密を、世に知られては大事の破綻となる、是が非でも木村助九郎らを討ってとれと申された牧野兵庫頭どのの依頼に応え得なんだことになるが」
「柳生十兵衛も、ともにか?」
「いや、木村らが柳生へ走ったことは、まだ牧野どのはお知りなさるまい」
「では、それが柳生十兵衛であったとすると、話はべつだ」
胤舜と坊太郎は、暗くひかる眼で天草四郎を見た。
「木村の告げた相手が柳生十兵衛であったとすると、いよいよ以て面倒なことになるではないか」
「十兵衛が……御公儀に訴えて出たらどうするつもりじゃ」
天草四郎はくびをかしげ、しばらくしてニヤリと笑った。
「わしの見たかぎりでは、きゃつ公儀には訴えまい」
「そんな保証はない」
「たとえ訴えたとしても、だれがそんなことを信ずるか」
「――なるほど」
「かかわりあっているのは御三家の一つであるぞ。また十兵衛そのものが、おやじから廃嫡されかかった奴ではないか」
「――なるほど」
いっせいにこういった六人の中に、そのおやじたる柳生但馬守自身がいたのは、ユーモアといってもぶきみなユーモアであった。
「但馬」
それに気づいたらしく、苦笑してふりむいたのは柳生如雲斎であった。彼は叔父にあたる宗矩を、面とむかって但馬と呼び捨てにした。
いかにも彼は「生前」但馬守と不仲であった。しかしいま呼び捨てにした語韻にはそういう感じはない。同類としての親愛感がこもったひびきがあった。
「おぬし、いかが思う?」
「やむを得ぬ。四郎の言葉に従おう」
だれが、ほんの先刻、おのれを故主としたう木村助九郎に襲いかかり、その腕を斬りおとした魔人と思おうか。
但馬守の声調は、以前の通り温厚で、質実であった。如雲斎がきいた。
「やむを得ぬ、とは?」
「出来れば。……」
但馬守はしみ入るようにいった。
「十兵衛と勝負して、斬りたいのう。……」
「斬れるか?」
これは、わざのことをいったのか、心情のことをいったのかわからない。但馬守はちょっとくびをかしげて、
「まず。……」
と、答えた。これもどちらの意味でそう答えたのかわからないが、いずれにしても戦慄すべきつぶやきである。のみならず、頭巾のうちで微笑すらもらしたような気配であった。
「ゆくか」
と、その但馬守を見やって、天草四郎がきいた。胤舜がうなるように、
「柳生へか」
「左様」
「十兵衛を斬りにか」
「いや。――十兵衛は未来の同志じゃ。いま申した通り、今夜はこのまま紀州へひきあげて、牧野どのに宗意軒さまの御意向を伝え、善後策を講じた方がよい。またそうせねば、わしがわざわざ江戸からお品をつれて来た甲斐がない。――しかし、せっかく但馬と如雲斎が柳生谷の入り口まで来たことじゃ。一応のぞいて見たかろうと思ってきいたまでだ」
「……見たい」
「……見たいのう」
と、但馬守と如雲斎はうなずき合った。
で、七人は――いや、女六部をもまじえて八人は、馬を路傍の樹立ちにつなぎ、そろそろと柳生に入って来たのである。
この中で、但馬守と如雲斎が、頭巾をかぶっているのに、両手で顔を覆っているのが何やら|滑《こっ》|稽《けい》で、かつぶきみであった。それでも、知人に顔を見られるのが恐ろしいのか、恥ずかしいのか、先刻木村助九郎を襲った所業を思うとそんなことはあるまいに、とにかくこの小柄な老人と大兵の老人は、子供のように、また女のように両手をひろげて顔にあてている。
この両人の心事は、常人にはとんとわからない。
両人のみならず、この七人の対話をきけばふつうの人間と変わらないようだが、その実彼らは酔っぱらっているのだ。
恐ろしく酒に強い人間があって、これがおびただしい魔酒をのんだとする。一見、ひとからみれば酔っているとは思えない。じぶんでも酔っているとは思わない。――いや、酔っていると承知はしていても、おのれの行動や判断力は狂っていないと確信している。それなりの小世界にあって、それなりの原理に従っているものと確信している。
しかも、あきらかに脳髄のどこかが崩れているのだ。一点出血して、膿んでいるのだ。
彼らが酔っているのは、むろん酒ではなかった。血だ。殺意だ。――死の風だ。
七人の魔剣士は、霧の中で、柳生十兵衛と対決した。
「――惜しい」
音もなく駆け去るとき、こうつぶやいたのは武蔵であった。
惜しいとは、討つに惜しいという意味であったか。それとも味方にするのが惜しいという意味であったか。
とにかく、脳髄の崩れた人間のいうことだから、どうだかよくわからない。
【三】
――柳生十兵衛は、三人の娘の枕頭に、黙然と腕をくんで座っていた。
まさか三人を抱いて寝たわけではないが、娘たちはそこに十兵衛がいるだけで、嵐をついて巣に飛び帰った雛鳥のように眠った。
すべての気力、体力を消磨しつくした泥のような眠りであったが、それでも三人は、なお悪夢の中にもがいているとみえて、ときどき恐怖のさけびをあげたり、すすり泣いたりした。そのじぶんの声に目ざめ、ぽっかりと眼をあいて、そこに十兵衛の顔をみると、泣くとも笑うともつかぬ表情になって、そしてまたこんこんと泥のような眠りにおちるのであった。
――よくぞ帰って来た。
心から十兵衛はそう思う。あまりに理不尽と思うことがあったら、柳生谷に帰ってこいよ、そういったときには、それほど深い意味を持ってではなかったが――いま、まる一昼夜、三十余里、精根のかぎりをつくして逃げもどって来た三人の娘を見て、冗談ではなく、ひしと抱きしめてやりたいほどに思う。
理不尽といえば。――
彼女たちが遭逢した事態ほど、理不尽、無法、奇怪至極なものはまたとあるまい。
そのいきさつは、眠るまえの彼女たちから、とぎれとぎれにきいた。木村助九郎の無惨な死をこの眼で見て、それがいつわりでないことを知りつつ、まだ十兵衛には信じられないのだ。
なかんずく。――
田宮坊太郎、宝蔵院胤舜、荒木又右衛門、宮本武蔵たちが生きて紀州家に飼われている。――信じられないのはそのことであった。
ただ、それらの人物が生きていると同様の恐るべき剣士が実在していることはまちがいないのだ。名をきいた以外にも、まだ何人かがいる。木村助九郎を斬り、さらに恐怖にのどもつまらせたほどのそやつらは何者か?
彼らが紀州家にとり憑いているという。娘たちの話によると、紀州家に寵臣牧野兵庫頭なる者あり、これがどうやら奸物らしい。その兵庫頭をもふくめて、魔性のものどもが、紀伊大納言にとり憑いているらしい。――
「爺はわしに、紀州家と大納言さまを救えといった」
十兵衛は肩をそびやかして、苦笑した。
――頼みが大きすぎるよ、爺。
――この娘たちをかばえというなら、まだわかるがな。
そう心中につぶやいて、娘たちの寝顔を見て、十兵衛ははっとした。
助九郎が最後まで、娘たちのことについて一言も依頼の言葉をもらさなかったことを思い出したのである。同時に、断末魔の一瞬、爺の顔に浮かんだ微笑を思い出したのである。
あれは信じきった眼であった。
娘についてひとこともいわなかったところは、いかにも助九郎らしい。しかし瀕死の脳裡にその影もなかったかというと、決してそんなことのあるはずがない。そもそも彼はもとより、田宮、関口ほどの老剣客が、おのれの身を捨ててまで、娘たちだけは逃したのである。
そして、その娘たちは? これから?
敵は彼女たちがこの柳生へ逃げこんだことをつきとめて去ったのだ。あきらめて、しっぽをまいて退散したものとは思われぬ。そんな敵ではない。――十兵衛の眼がしだいにひかり出した。娘たちがこれから無事ですもうとは断じて思われない。
――お頼み申す。娘たちはお頼み申す、十兵衛さま。
助九郎は、言わずしてそう依頼したのだ。
――あなたさまは、かならず爺の頼みにお応え下さるお方でござる。
以て|六《りく》|尺《せき》の|孤《こ》を託すべし、十兵衛は論語の一句を思い出した。年若い孤児をまかすに足る男、という意味である。彼の隻眼が、にっと笑み出した。
がらにもなく論語など思い出したから笑ったのではない。また孤児と国を託せられて、それに応え得る自信あって笑ったのでもない。
十兵衛は敵の――これからあの霧の中のむれを敵とした場合――その恐るべきことを充分予想して笑ったのだ。また依頼された事柄の大きさを思って笑ったのだ。
「――さて」
と、いって、彼は煙管に火をつけた。
どこからか風が吹く。煙は青くながれて消えてゆく。それを追う隻眼に、例の妙な哀愁のひかりはなかった。
彼は恐ろしく不精な男であった。同時に何かを待つ男であった。その待つ対象が、彼の満足できるものでないと、金輪際彼はうごかない。その対象があらわれぬ以上、その隻眼には哀愁というより飢えに似たひかりが宿らざるを得ない。
いまやその眼に飢えは消えた。
「……やるか?」
煙管をおいて、彼は立った。――いつしか障子に暁の影がある。霧ははれたらしく、水のように涼しいひかりがさしはじめていた。
障子をあけて、
「だれぞおるか」
と、呼んだ。
「へえい」
声がして、ひとりの若侍が縁側を走って来て手をつかえた。
「千八か。たのみがある」
自称柳生十人衆の一人、磯谷千八であった。
十兵衛は庭へ下りた。
ふところ手をしたまま、ぶらぶらとあるく。磯谷千八はけげんな顔で、しかし黙ってうしろからついてくる。けげんな顔――といっても、むろん昨夜の凶変は知っているから、眼だけは緊張にかがやいている。
朝風に、のびた|月《さか》|代《やき》の毛をそよがせながら、十兵衛は思案の表情であったが、やがて、
「千八、いそぎ和歌山へいってもらいたい」
と、いった。
「和歌山へいって、木村、田宮、関口三家の家族がどうなっているか、それを調べてすぐに帰ってきてくれ」
「――はっ、かしこまってござりまする」
磯谷千八はすぐに庭を駆け去った。
十兵衛は庭からひき返して縁に上ったが、ふと何かの気配を感じたらしく、さっきまで座っていた座敷の障子をひきあけた。
三人の娘は目ざめていた。のみならず、身づくろいして、いまにもどこかへ出かけそうな顔色をしていた。
「もう起きたのか。もっと寝ているがいい」
「和歌山へ帰りまする」
「なぜだ」
「あとに残ったものどもが気にかかります」
「家族のことは、いま磯谷千八に見にやらせた。しばらく待て」
三人の娘は顔見合わせた。が、ややあってお雛が決然として、
「でも、やはり帰りまする」
「なぜだ」
「お祖父さまたちのかたきを討たねばなりませぬ」
「かたきを討つまえに、おまえたちが殺される」
「殺されても、かたきは討たずにはおきませぬ」
「助九郎はなあ」
と、十兵衛はいった。
「かたきを討ってくれとはいわなんだ。紀州家と大納言さまを救ってくれといって死んだ。平兵衛、柔心もおなじ心であったろう」
三人の娘は、と|胸《むね》をつかれた表情になった。十兵衛は座って、また煙管に火をつけて、
「もとより、かたきを討つことが紀州家を救うことになる――かも知れぬ。いや、おそらくそうであろう。しかし、事はそう簡単にはゆかぬ。助九郎らを殺した奴らを討つことが簡単にゆかぬと同様、それ以上にきゃつらと大納言さまの関係を、そう簡単にかんがえていいか、どうか。――おまえたちから話はきいたが、まだおれには納得がゆかぬ。不審なことが雲ほどあるのだ。……」
ゆっくりとくゆらせる煙の中から、隻眼をにっと笑わせて娘たちを見て、
「十兵衛が軍師となる。十兵衛を信じろ」
と、いった。
三人の娘はふいに顔に手をあててはげしく泣きじゃくりながら、いっせいにこっくりした。――信じまする、十兵衛さまを信じまする! という全身の表現を見ながら、十兵衛は腹のなかでつぶやいた。
――と、えらそうにいってはみたものの、あの敵はなあ。霧の中の、あの敵はなあ。……
【四】
七日ばかりたって、磯谷千八が帰って来て、木村、田宮、関口三家の家族はすべて牧野兵庫頭の屋敷に移されたということを報告した。仕置を受けたというような兆候はないが、監禁されていることはまちがいないらしい。
「……ああ、弥太郎……弥太郎!」
と、おひろがうめくようにいった。七つになる彼女の弟だ。
「よし、わかった」
と、十兵衛はうなずいて、千八に、
「おい、仲間を呼んで来てくれ」
と、いった。
「仲間?」
「柳生十人衆――と称している奴らをだ。十兵衛から力をかりたいことがある」
磯谷千八はぽかんと口をあけていたが、急にケケケと奇妙な笑い声を発し、いま旅からもどったばかりの疲れも忘れたかのように駆け去った。
「おい、ゆくぞ」
と、十兵衛は三人の娘の方へむきなおった。
「どこへ?」
「和歌山へ。……もっとも、支度があるから出立は明朝としような」
娘たちの顔色はぱっとかがやいた。
「十兵衛さまが。……」
「和歌山へいって下さる」
「……弟たちが救えますか?」
同時にさけぶのに、
「捨ててはおけぬ。が……即座に救えるかどうかはまだわからぬ」
「……どうなさるおつもりでございます?」
「大納言さまに談じこむ」
「えっ――殿さまに?」
「御名君の噂のたかい大納言さまだ。このたびのこと、おれにはどうも|腑《ふ》におちぬ。が、腑におちぬおちぬとくびをかしげて、こちらでひとりごとをいっておってもらちがあかぬ。――女えらびの件、牧野屋敷に於ける奇怪なからくりの件、紀州の三忠臣殺害の件、またその殺し手の正体の件など――不審の条々、まず以て、直接に大納言さまにおただし申しあげる。何しろ御三家の一つ、五十五万石を相手の仕事、この手順を踏んでおくが礼だろう」
ぽっかりとあがる煙の輪を一つ眼で追いつつ、
「で、おれはゆく」
その眼を娘たちにもどして、
「そこで、おまえたちの処置だが……この柳生にかくれておるという手もある。どこかへ逃がすという手もある。が、おれの眼からはなすと危ないなあ」
「わたしたちは逃げませぬ」
と、お縫が妙にかれた声でいった。
「わたしたちは、かたきを討たねばなりませぬ」
「だから、いっしょにつれてゆく」
「おお、十兵衛さまとごいっしょに!」
「しかし――かくれても危ない、逃げても危ないというのに、こっちから敵の方へ乗りこんでゆくのだぞ。おれの眼からはなすと危ないなどといったが、おれがくっついておっても、実はまったく自信がない」
そこへ、磯谷千八以下のいわゆる柳生十人衆がどやどやとまかり出た。
「先生、お召しにより柳生十人衆参上」
得意満面――といった|髯《ひげ》づらは、|逸《へん》|見《み》瀬兵衛という男だ。
十兵衛は昨夜来のことをざっと説明して、それから。――
「敵のうち、いままで名のわかっているのは、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜、荒木又右衛門、宮本武蔵。――と、名乗っておる奴だ」
この場合に、みな笑い出した。
「が。――」
十兵衛のまじめというより、きびしい表情は、十人衆の笑いを硬直させた。
「その真偽はともあれ、ほんものにひとしい奴だ。なぜなら、きゃつらは、わしなど遠く及ばぬ田宮平兵衛、関口柔心、木村助九郎などの大剣人を討ち果たした。――わしは、おまえらにいのちをくれ、といまいっておきたい」
十兵衛はじいっと見まわして、
「わしにいのちをくれるか」
と、くりかえした。
みんな、しいんと黙っている。中でひとり、ハラハラと涙をこぼした奴を十兵衛は見とがめて、
「左十郎、いやか。いやなら、いまのうちにそう申せ。十兵衛はとがめぬ」
「あいや、そのお言葉はお情けない」
伊達左十郎という、これは平生から天然自然にべそをかいたような顔をしている男だが、こぶしでぐいと涙をおしぬぐって、
「拙者がいま落涙したのは感激の涙でござる」
「なにを感激した」
「先生が、われら自称柳生十人衆をおみとめ下さったのみか、それほどまでにお頼み下さるとは。――」
「われら一同、同じ思いでござる。よくぞ仰せ下された!」
感激屋の十人のうち、最右翼の北条|主税《ちから》がまっかにふくれあがっていうと、みなひざをのり出し、いっせいに興奮してさけび出した。
「心得てござる」
「われらにおまかせ下され」
「男児の|然《ぜん》|諾《だく》、金鉄のごとし」
「思いは晴るる、身は晴るる」
「われら柳生郷に一剣をみがいて来たは、この日あるを期してのこと」
そんな言葉がきれぎれにきこえただけで、何をいっているのかわからないが、その中で、
「先生、御安心下さい、もはや大船に乗られたも同然」
と胸をたたいていった小栗丈馬という精悍無比な容貌をした男の声が、その声量といい内容といい、一同を制圧した。
「で、先生」
戸田五太夫という、三十すぎの男が、
「その荒木又右衛門や宮本武蔵を斬ればよいのでござるな?」
と、いった。これはおちつきはらっているくせに、妙にひょうげた男だ。
「いや、それには及ばない」
十兵衛はニンガリともせず、
「おまえらに頼みたいのは、この三人の娘を護ってもらいたいことだ」
「この三人。――」
|三枝《さえぐさ》麻右衛門という、これも三十男だがたいへん|朴《ぼく》|訥《とつ》な人物が、
「これなら、拙者どもより強い。――」
「ばかっ、何をいう」
と、逸見瀬兵衛がその尻をつねって、
「それはお安い御用でござる。先生、それしきのことなら、われら十人も|要《い》りますまい。それは護衛役として一人に一人ずつ付き、あとは宮本武蔵や荒木又右衛門に一戦をいどめば、これこそ剣を学ぶ者の本懐ともいうべく。――」
「まことに申しわけないが、敵を討つより、十人衆はまずこの娘たちを護ることに全力をあげてもらいたい。十兵衛の頼みはそれだ」
「護ります。死んでも護りまする!」
と、こぶしをにぎってさけび出したのは、まだ少年の面影をとどめている小屋小三郎という若者であった。
「相わかりました。で、先生、これから?」
と、いちばん年輩の――十兵衛より年上の金丸|内匠《たくみ》が枯れた顔をむけた。
「いまもいったように、和歌山へいって大納言さまにじかにきく。が――大納言さまは容易ならぬ魔物にとり憑かれておわすらしい。風来坊にひとしい十兵衛が乗りこんで、口を出して、それで紀州の暗雲一掃というわけには参るまい。また大納言さまが覚められたとて、助九郎らを討った奴らはかならず討たねばならぬ。当面、紀伊五十五万石を敵にまわすおそれがあるぞ。が――いや、それならば、われらはいっそう――紀州に入って、紀州から逃げてはならぬ」
軒で風鈴が鳴っていた。ちらと見て、十兵衛の眼がひかった。
「少なくとも、紀州のまわりをうろついておる必要がある。敵からのがれつつ、敵にからむには――まさか、娘三人をまじえ、肩肘いからせ、毛ずねを出して一同押し回るのは気がきかぬ、と思案していたのじゃが」
また風鈴が鳴った。
「鈴で思い出した。一同、巡礼の姿になってくれ」
「おお、そういえば、西国巡礼三十三ヵ所の霊場第一番は紀州那智山の|青《せい》|岸《がん》|渡《と》|寺《じ》」
と、平岡慶之助という男がひざをたたくと、
「第二番は、和歌山の紀三井寺」
「第三番も紀州の|粉《こ》|河《かわ》寺」
と、あとの連中がそれぞれ指を折った。
「巡礼。ふむ、よいことを思いついた。助九郎らの亡魂の供養にもなる」
と、柳生十兵衛はじっと三人の娘を見つめてから、にっと面白げに隻眼を笑わせて、
「それで、万一紀州五十五万石を敵にまわした場合、ちょっと相手も手を出せぬ細工ができる。――では、やるか?」
ゲームのルール
【一】
日ぐれに紀伊大納言頼宣は、また牧野兵庫頭の屋敷を訪れた。
暑い太陽が西の海にかたむいても、じっとりとした|夕《ゆう》|凪《なぎ》が人々をけだるくさせて、和歌山の町は死んだようにしずかであった。
だれも、牧野屋敷に入った駕籠を、領主の頼宣卿と気づいた者はない。駕籠はふつうの|大《たい》|身《しん》の武家用のものであったし、供侍もわずかに数人で――そもそも、彼が城を出たことさえ、城で知っている者はごく小人数であったのだ。
さすがに事前にこの訪れは知らせてあったが、それでも牧野兵庫頭は狼狽した顔で迎えた。
「例の件はどうなったか」
奥の書院に座をかまえると、頼宣はふきげんな表情できいた。
「いつまで待ってもらちがあかぬ。捨ておいて大事ないか。気にかかるわ」
「恐れ入ってござりまする」
兵庫頭も困惑のていであった。
「あの者ども、何をしておる」
「……例によって、女どもを餌食に、日もこれ足らずといったありさまで。――」
例の件とは、柳生のことだ。
三人の娘が、彼女たちの父や祖父に護られて紀州を逃げた。田宮平兵衛、関口柔心らは追撃して討ち果たしたが、木村助九郎と娘たちはからくも柳生城へ逃げこんだ。その報告をきいてからもう二十日以上もたつ。
そうか、紀州から三十数里のところに柳生があったか。
きいて、いまさらのように木村助九郎の出身が柳生であったことを思い出したほどである。頼宣は助九郎はもはや完全に紀伊の人間であると思いこんでいた。この頼宣のためにすべてをささげて悔いぬ家臣であると信じきっていた。それがじぶんの意にそむいて娘をつれて柳生へ逃げこんだ、ときいたとき、頼宣はむらと不快な顔をした。
――彼ほどの名君にして助九郎の|苦衷《くちゅう》を思いやる余裕を失っていたとは、やはり魔に憑かれていたとしかいいようがない。
助九郎はどこまでこのたびの秘事を知っていたか。
――彼は柳生へたどりつきはしたものの、その直前に片手片足を斬られ、ほとんど死びと同然と化していたであろうという報告だ。娘たちはただあの夜の女えらびのことしか知っていないであろうという見込みだ。
そうときいても、やはりおちつかない気持ちになることはふせげなかった。
で。――
「捨ておいて大事ないか」
と、きく。この二十日間、牧野兵庫頭に矢の催促でおなじことをきいてきたのだ。
「大事ござらぬ。おまかせ下され。いましばらくお待ちを」
山彦のようにかえってくるのは、これは牧野の返答ではない。地底に飼っている例の魔界転生の面々の言葉だという。――
いろいろきいても、なにしろ兵庫頭を介してのことだから、|隔《かっ》|靴《か》|掻《そう》|痒《よう》のいらだたしさがある。
しかし、まさかあの面々をじかに登城させることは、まださすがに頼宣にははばかられた。三角頭巾のまま召すのも異なものだが、彼らの面貌を白日にさらすなどということは絶対にできない。
さればとて、それ以前には、たとえ女えらびの儀式にせよ、大っぴらに来た重臣牧野兵庫頭の屋敷は、或ることから城下の注目をあびているので、おいそれと来にくい事情があったのだ。
が、頼宣はたまりかねて、ついにきょう忍びでやって来た。――
「まことに、あの者ども、人間外の人間にて、その心事、拙者にもはかりかねておりまする」
と、牧野兵庫頭も苦汁をのんだような顔でいう。
さすがの|才《さい》|物《ぶつ》も、みずから加担している秘密なのに、やや扱いかねた様子であった。思いは頼宣とて同様だ。えらいものを飼ってしまったという悔いは禁じ得ない。
しかし、あの魔人どもと秘密を、このまま地中に葬り去る気はさらになかった。恐ろしいだけに、魅惑もまた強烈であった。むしろ、怒りをほかにむけて発して、その恐怖をそらそうとした。
「柳生。……五十五万石を以てすれば、ひとひねりじゃが」
と、ぎらと眼をひからせたが、
「戦国の世ならねば……それもならぬな」
と、うめいた。まったくその通りである。
「柳生十兵衛。……」
「殿は御存じと承わりましたな」
「うむ、江戸で一二度逢うたことがある。妙な奴じゃ。但馬ももてあましておるときいた」
ふと兵庫頭を見守って、
「但馬は何と申しておる?」
「十兵衛の処置はひとまず天草四郎の意に従う――と、あかの他人のごとくよそよそしく申しております。何をかんがえておるか、その顔色からはとんと判じかねまする。……まさか、死せる但馬を柳生へ使者としてやるわけにはゆかず。――」
非常に滑稽な混迷を口にしているのだが、兵庫頭は笑う余裕をもたない。
「四郎は?」
「四郎は何やら江戸の宗意軒から意を受けておるらしく、いましばらくお待ち下されと答えるのみでござる」
「江戸、――江戸の公儀へ、十兵衛が告げたら何とする?」
大納言頼宣はかたひざをたてた。
「余がきこう。兵庫、例のところへ案内せよ」
「もとよりそのつもりでござりました。殿おんみずからお|糺《ただ》しに相なれば、彼らも意中をあかすでござりましょう」
やがて主従は、日のおちた庭に下り立って歩き出した。
頼宣は、江戸の張孔堂の庭を思い出した。ゆくさきも同じからくりのあずまやだ。じぶんの行動も、あのときと同様忍び駕籠でやって来て、ひそかにそこへ導かれてゆく。――しかし、ここは紀伊だ。じぶんの領地、しかも|寵臣《ちょうしん》の屋敷なのだ。
だれを恐れ、何をはばかってかようにコソコソと――と思うと、頼宣はまたむらむらとふきげんな顔色になった。
「――や、兵庫、あれはなんだ」
ふいに彼は、樹立ちのむこうに黒ずんだ高い|柵《さく》に眼をとめた。
「あれは、例の――木村らの家のものどもで」
「ふむ」
と、頼宣はいっそう不快な表情になった。――柵の向こうに、木村、関口、田宮の家族を閉じこめてあることを理解したのだ。
三人の老人が三人の娘をつれて柳生へ逃亡した、という報告を受けたとき、ただちにその三家族をとらえて牧野屋敷に監禁するという挙に出ることをすすめたのは兵庫頭であった。
藩に対してそれぞれの家長や娘に不忠のことあり、という名目でひったてたのである。家族たちが騒ぎ出すのを未然にふせぐ意味もあるが、むろん逃げおおせた三人の娘に対する|威《い》|嚇《かく》もある。――頼宣は茫然としてこれをゆるした。
あの夜のことを知らぬ城下の人々も、この三家の逮捕と収容には眼を見はり、虚実おりまぜてさまざまな噂がながれた。牧野の屋敷が城下の注目をあびているといったのはこのことだ。
「……が、手荒らなことはすなよ」
頼宣はゆるしたが、そのときそう戒めておいた。彼にしてみれば、これにおそれて娘たちが帰ってくればそれで目的は達する。
――いまも、彼は気むずかしい表情で念をおした。
「兵庫、牢住まいさせてあるのではなかろうな」
「御案じなされますな。みな長屋に入れて、ただ見張っておるばかりでござりまする」
「三家のものども、どうしておる」
「まだ事情がよくわからぬ風にて、ただただ恐れ入って謹慎しておりまする。それにつけても、かくまでお気づかいなされる殿に対して叛くとは、あの逃げ失せたものども、いよいよ以て是非の見さかいのない奴ら。――」
そのとき、どこかで声がした。
「やい、姉上をかえせ!」
「――やっ」
兵庫頭はきょろきょろしてまわりを見まわした。
「父上をかえせ!」
よく舌のまわらぬ、しかし怒った子供の声であった。兵庫頭は柵の方へ馳せよった。たしかその方角からきこえてきたのに、その向こう側には何者の姿も見えない。――
「ここから出せ!」
声は空からきこえた。
ふいに牧野兵庫頭は腰から扇子をぬきとって、閉じたまま手裏剣のごとく、びゅっと頭上に投げあげた。
柵の内側に一間ばかりはなれて、|欅《けやき》の大木があった。その高い枝のしげみで、ざざっという葉ずれの音がして、一息おいて、
「飛道具はひきょうだぞ。ケンカするなら、上がってこい」
可愛らしい声がまたさけんだ。
「兵庫、何者じゃ」
と、頼宣がちかづいてきいた。
「はっ、関口柔心の小せがれで、弥太郎と申す奴でござります」
「いくつじゃ」
「七つ、とかで。――」
「七つ、ほう」
「それが七つとも思われぬへらず口をたたく奴、いや達者なのは口ばかりか、手のつけられぬ乱暴者にて、屋根やら樹の枝やら小猿のごとく駆けまわり、二三度は柵をのりこえて逃げ出そうとしたこともあり、番人どもももてあましておる小わっぱでござりまする」
「家族はみないっしょにおるのにか」
「何でも、とらえた翌日、仲間と遊ぶ約束があったそうで、それでカンをたてておるらしゅうござる」
「……父親の血を受けたとみえるな。ふむ、捨ておけ、かまうな」
頼宣は一笑して、背をかえした。こういうところは、さすがに大気なものだ。もっとも相手が七つでは、どうしようもない。
牧野兵庫頭も、いまのじぶんの所業がおとなげないと思ったらしく、苦笑いして頼宣のあとを追おうとした。その後頭部に、かっと音して何やら地におちた。
「痛たっ」
地におちたものが、さっきじぶんの投げた扇子だと気がつくと、兵庫頭は満面を朱にそめてまた空をふりあおいだ。
「こ、小僧に似げなきふるまい――もはや、容赦ならぬ」
そのとき、柵の向こうから二三人、息せききって走って来た。
「あっ、どこかで声がきこえると思っていたら、あんなところにいやがった!」
あわてた声は、見張り役の小者たちであった。やっといまごろ気がついたらしい。
「たわけっ、何をぼんやりしておる!」
兵庫頭はさけんだ。柵の向こう側にいる人間がだれかということを知って、小者たちは仰天して立ちすくんだ。
「その小僧、あとで|糺明《きゅうめい》することがある。とらえて、ひっくくっておけ!」
兵庫頭は一喝して、すでにさきにいっている頼宣のあとを追った。
そのあとで――「あっ、小便をひっかけやがった!」「蝉小僧め、もうかんべんならねえ!」とさわぐ声に、ききっという少年の笑い声がまじってきこえた。
二人は苦虫をかみつぶしたような顔で、あずまやから地下の階段へ下りていった。
【二】
――ギ、ギ、ギ。……
天井からつり下がっている数条の鎖を兵庫頭がひくと、重々しいきしみをあげて、地底の板戸がひらき、ふたりの網膜に灯影がさした。
「ほう」
そんな声がきこえた。
ふたりはその隅に――板戸のすぐ内側に座って顔をあげた田宮坊太郎を見た。坊太郎は頼宣を見たが、お辞儀もしない。
「暫時、お待ちを」
と、いって、それまでやっていたらしい作業のつづきをはじめた。
座っている彼の向こう側に、女がひとり仰むけに横たわっていた。腰のあたりは見えないが、全裸と見える。その女の顔――鼻のあたりに、坊太郎は白い手をあてている。そしてじぶんもからだを横に伏せて、顔に顔を重ねた。
「……く、く、くっ」
女の声――いや、人間の声とも思われぬ凄惨なうめきがあがり、白い二本の足がくねった。弱々しい、しかしあきらかに断末魔を直感させる|痙《けい》|攣《れん》だ。その下から床にひろがっている血潮をふたりは見た。
坊太郎の手はなお女の顔を覆っている。それは柔らかい海綿みたいにピタと鼻腔に吸着しているらしい。そして彼の口は女の口に、これまた|蛭《ひる》のように吸いついているらしかった。
「けくっ」
耳を覆いたいうめきとともに、女の四肢はバタリと床におち、そしてうごかなくなった。それでもなお数分、坊太郎は女の口からじぶんの口を離さなかった。
やがて、しずかに顔をあげる。眼をとじて――何か、肺で消化でもしているような表情だ。
息をのんでこの恐るべき儀式を見ていた兵庫頭が、けくっといまの女のような声をもらして、
「田宮、何をしておる?」
と、きいた。
坊太郎は眼をあけた。それからはじめて平伏した。
「ようおいでなされました。大納言さま。……」
「田宮。……女を殺したのか?」
と、頼宣もかすれた声でいった。
「殺したのは、拙者ではござりませぬ。死にかかった女の最後の息を、拙者が吸いとってやっただけでござりまする」
坊太郎は|恬《てん》|然《ぜん》としていった。
「死にかかった女の唇の最後のうごめき、はじめ熱く、やがて冷たくなってゆく息の変わりよう、このごろ知ったことでござるが、実にえもいわれぬ快味でござりまするぞ。これを味わえば、ここ数日一食をとらずとも大軍に駆けむかえそうな活気が体内にみちあふれます。兵庫頭さま、あなたさまもいちどためしに味わってごらんなされ。……」
「それには及ばぬ」
と、兵庫頭は、滅相もない、といった表情で、
「ほかの面々は?」
「奥におりまする。いざ、お通りを。――」
「いや、ここに呼べ」
と、頼宣はかぶりをふった。
「ここでは恐れ多うござります。何とぞあれへ」
「ここでよい。ここにみなを呼べ。話がある」
「左様でござりまするか。では――おうい、|転生衆《てんしょうしゅう》、出てござれ。大納言さまが成らせられたぞ」
と、坊太郎は奥へ呼びかけた。
この部屋の奥に、また板戸がある。その奥にもまだ三つ四つの部屋があるはずだ。江戸の由比屋敷のそれにもまさる大がかりな地底の|棲《すみ》|家《か》であった。
その奥から――先刻から異様な女のうめき声や男の笑い声が、あるいは陰々と、あるいは傍若無人にながれてくるのを、いやでも頼宣たちは耳にしていた。
女たちは、さきごろの品定めで「地」の組にえらばれた娘たちであった。その数は三十数人にも上ろうか。それを頼宣はすべてこの地底の魔人たちにくれてやった。……じぶんで加担したことなのに、その結果に彼は戦慄せざるを得ない。
「生前」にやれなかったことをしてみたい、そのためにこそわれらは転生したのだ。――というのがこの魔剣士たちの最初の要求であった。その渇望していたことが、たんに荒淫をほしいままにすることばかりでなく、殺人淫楽ともいうべきものであったことを、まもなく頼宣は知った。彼らはいったそうだ。これがわれらのいのちのもとだと。斬りたい、人を斬りたい、そのかつえるような欲望を、いまほしいままにすることをゆるされぬなら、せめてこれをゆるされよ。さなくば、われら、とうてい地底で生きてゆくことに耐えられぬでござろう。――
そして、数日おきに、数人ずつの無惨な死体が製造された。まるでこの魔人たちの食物の排泄物のように。
――いま、その魔の饗宴の物音をきいて、頼宣は耳を覆いたかった。そして、田宮坊太郎が呼びかけて、ちょっとその音が止んだところをみると、声はきこえたはずなのに、すぐにまた恐ろしい、なまめかしい、ぞっとするような物音が平気でつづいている。――
「大納言さま、おんみずから参られたのだ。出てこぬか、みなの衆」
坊太郎は立ちあがって、二三歩あるき出した。あとに残された女は、あきらかにこときれていたが、そのからだの下からひろがる血潮は、どこからながれ出しているのかわからない。
奥の板戸が左右にひらいた。
そして六人の男と――一人の女があらわれた。その女が、さきに天草四郎が江戸からつれてきた女、張孔堂の地底で森宗意軒のそばに侍していた女のひとりであることは、兵庫頭からきいて頼宣は知っていた。
彼らはうやうやしく平伏した。
やがて顔をあげた面々のうち、柳生但馬守の――あの地味で篤実な但馬守の口のはしに、あきらかに彼自身のものではない血が小さく付着しているのを見て、頼宣はしばらくものを問う勇気を失った。
「ひさびさにうるわしき御尊顔を拝したてまつり。……」
いい出したのは、天草四郎だ。兵庫頭がさえぎった。
「御挨拶はよい。きょう、殿、おんみずからここに成らせられたは例の柳生の件じゃ」
「あれは心得ておりまする」
と、四郎はいった。何かあとにつづくのかと待っていると、それっきり白い陶器みたいにだまっている。おちつきはらっているというより、人を小馬鹿にしているように見える。兵庫頭はかっとした。
「これ、わしはそなたらに木村らをひとり残らず討ってとれと頼んだのであるぞ。にもかかわらず、そなたらはきゃつを逃がした。……それで左様にけろりとした顔ですむと思うか」
「恐れ入ってござりまする」
魔剣士たちはひれ伏した。口さきだけではなく、しんから恥じ入ったような姿に、かえって兵庫頭の方が次の言葉を失った。一息ついて、
「もっとも、田宮平兵衛、関口柔心ほどの者をみごとに討ち果たしたは、そなたらなればこそだ。それに、きけば柳生へ逃げこんだ木村助九郎もほぼ死びとにちかいありさまであったという。――助九郎は何を口にするいとまもなく落命したものともかんがえられる。娘たちも当方の秘事、くわしくは知るまい」
と、かえってなだめて、
「が、それにしても、柳生十兵衛がいかなる挙に出るか、その点を殿にはいたく不安におぼしめされておる。きゃつが公儀に報告するおそれはないか?」
「それは、左様なことはありますまい――と、但馬守は申しておりまする」
頼宣と兵庫頭は但馬守を見やった。但馬守はだまっている。まるでよそごとの問答をきいているような表情だ。
「どうじゃ、但馬」
と、頼宣はうながした。
「父として、そなたはそれを保証できるか」
「保証はできませぬ」
と、但馬守はしぶく答えた。
「あれは、拙者の伜ながら、何をかんがえておるか、何をやり出すか、見当のつかぬ男でござりまする。人間の常軌というものを逸したところのある奴で」
ちろっと褐色の舌を出して、唇のはしの血をなめて、
「ただ――ほかのことは知らず、御公儀に訴えて出る、左様なことだけは、あれの気性としてまずありそうにない――拙者にはそう思われまする」
兵庫頭が口をさしはさんだ。
「ありそうにない、と思われる――とは、心もとないことじゃ。もし、由比正雪の件、そなたらの転生の件が御公儀、あるいは松平伊豆守どののお耳に入ったら、紀州五十五万石とてただではすまぬぞ」
「――や、松平伊豆守どの」
と、但馬守はやや虚をつかれたようだ。
「十兵衛の気性としては、御公儀には訴えまい、と思うておりましたが、伊豆守どのと承わると……はて」
「なんじゃ」
頼宣は不安の表情になった。
「――御承知かどうか存じませぬが、十兵衛はその性放蕩無頼、柳生家の家風には合わぬ奴と拙者はさじを投げておりましたが、その十兵衛のどこが気に入ったか、昔から松平伊豆守どのだけはいたく眼にかけられて」
「ふうむ」
「以前より十兵衛めは風来坊のごとく諸国を放浪しておりましたが、帰宅いたしても父たる拙者には何も申しませぬ。拙者も別にきいたこともありませぬが、ただ、しばしば伊豆守どのが召されて、十兵衛と一夕を過されたことがあったようで」
「但馬どの」
兵庫頭はひざをにじり出した。
「松平伊豆どのは天下の老中、すなわち御公儀そのものではないか」
「拙者は、伊豆守どのの物好き、さほど十兵衛と深いつながりはないと見ておりましたが。……」
「いや、そうときいてはいよいよ十兵衛をこのまま捨ておけぬ。――あの夜、そなたら、なぜ柳生からむなしくひき返して来たか」
「それは、拙者がとめたのです」
と、天草四郎がしずかにいった。
「なぜ?」
「たとえ十兵衛が御公儀に訴えたとて、だれが信じよう、と思ったからでござる」
「いや、しかし相手が松平伊豆守どのなら――そして十兵衛が伊豆守どのに愛されておるなら、いかなる結果になるかわからぬぞ」
兵庫頭は焦った。
「危い。十兵衛を――もし間に合うなら、やはりいまのうちに十兵衛を処置した方がよいのではないか?」
彼は、ちらと但馬守を見た。
「但馬どの、いやだと申されるか」
「いやではありませぬ」
と、但馬守は淡々といった。
「拙者は十兵衛を斬りたいのでござる」
うすら笑いを浮かべて、
「このたびの秘密云々のことに関せず、ただ剣をとる者として」
この面々の、何かふつうの人間とはちがう、異次元の心理ともいうべきものにぶきみさをおぼえているのはいまさらのことではないが、頼宣も兵庫頭も、それを切望しているにもかかわらず、この恐るべき「父」の言葉の語韻にはぞっと肌寒いものをおぼえた。
兵庫頭がしゃっくりのような声でいった。
「では、なぜ?」
「あれは敵ではない、味方でござる」
と、天草四郎が答えた。
「味方?」
「魔界転生さすべき八人目の男でござる」
「――や?」
「大納言さま、かつて江戸で、わが師宗意軒が、もうひとり転生さすべき男がこの世にある、と申したことをお憶えでござりましょうや」
頼宣は思い出した。同時に、あのとき森宗意軒が、ちらと魔剣士のむれの方に眼をやったことを思い出した。
あれは、その中の柳生但馬守を見たのではなかったか? のちにきいたところによると、但馬守はあの数刻前に魔界に転生したばかりであったという。さすがの宗意軒も、あの段階ではまだ八人目の男の名を口にするのを、但馬守のまえでは遠慮したものと見える。
「それが、柳生十兵衛であったと申すか」
「御意。――」
「な、なぜそれを早く申さぬ?」
頼宣は眼をひからせた。
「あれなら、よかろう。但馬も本望であろう。なぜ早く十兵衛を一味に加えぬ?」
「このことは、いずれ大納言さまに申しあげようと存じておりましたが、ちとしくじったことがござりまして」
「しくじったとは?」
「仰せのごとく十兵衛を一味に加えるべく、さきごろ宗意軒の命を受けた女一人――あの折、われらとともに大納言さまに|拝《はい》|謁《えつ》したる三人の女のうちの一人が、十兵衛を魔界に誘うべく柳生に入り――そして十兵衛の一撃のもとに相果てました」
「なに。……では、では十兵衛は、もはや何もかも知っておるのか?」
「いえ、それは知りますまい。何かの手ちがいにてその女、落命いたしたようでござるが、たとえ殺されても左様なことを白状する女ではありませぬ。その手ちがいと申すは――あのとき宗意軒も申したごとく、十兵衛は是非とも転生させたき男なれど、転生の条件のうちの一つ、この世における不平不満がきゃつの全身をやきただらしておるか否か――という点になるといささかおぼつかなきところあり――そこらあたりの誤算から生じたもののようでござりまする」
「…………」
「ともあれ十兵衛を転生させるには、忍体たる女人と交合させねばなりませぬ。そのためにはまずきゃつを愛欲の罠に|堕《おと》さねばなりませぬ。が、要するにその女は、忍体となる以前に十兵衛のために討ち果たされました」
「…………」
「その仇討つべきや、いちど拙者もそう思いましたが、いや待てしばし、ともあれ師の意向をきかねばと江戸に帰りました。すると、案の定宗意軒は、こうとなってはいよいよ以て十兵衛を魔界転生させねばならぬと、かえって執念の炎をもやしたのでござる。十兵衛の魔剣、加うるに、宗意軒の星占いを以てすれば、十兵衛の定命もほど遠からずして尽きんとしている由。――」
「――ほ」
頼宣と兵庫頭は四郎を見まもった。
「病死か、剣難か、それは星占いでもわからぬそうでござるが。――」
天草四郎の白い能面のような顔を見つつ、あらためて頼宣は、いまさらのように魔界転生の奇怪な作用に魅入られた。
転生そのものの神秘さもさることながら、この美少年がいつまでも美少年であることにうめかざるを得ないのだ。
魔界転生によって再生した者は不老の人ともなるものか。――それはほかの面々も同様だが、この天草四郎がもっとも若いだけに、ひときわこのことが目立つのだ。寛永十五年、原城で彼が死んだとき十七八歳であったと伝えられたが、それから八年を経て彼はいまだにそのときの面貌を保っている。――七人の転生衆のうち、世に知られて最も驚倒されるのはこの四郎であろうが、しかしまた世に出して最も疑われないのも彼であろう。まさか天草四郎が、あの年齢のままでいまも生存していようとは、地上のだれもが信じ得ないからだ。だから森宗意軒が彼を江戸と紀伊の連絡役に使っているのも、たんに秘蔵の弟子と見込んでいるせいばかりではなく、また決して無謀なやりかたとはいえない。――
「で、あくまでも十兵衛の転生を望む宗意軒の執心により――拙者ふたたび二人めの忍体たる女をつれて江戸から柳生へひき返したのが――あの日でござる。このことは兵庫頭さまに報告いたしましたな?」
四郎は女を見て、頼宣を見た。
「あらためておひき合わせ申しあげまする。お品と申す宗意軒の弟子でござりまする」
頼宣は知らないが、宗意軒にクララと呼ばれていた女であった。
「何とぞして、これを柳生城に入れる工夫もがな――と思案しておったところに、この面々が助九郎らを追って参りました。あの騒ぎのあとすぐにお品を城に入れては、まるで飛んで火に入る夏の虫でござりましょうが」
「ううむ」
「あの夜、一応柳生からひきあげたは、右のような次第からです。お叱りを受けるまでもなく、もとより一同は不本意でござった。この拙者すらも、実はあの十兵衛と刃を交えたいのでござる。さりながら、江戸の指令はいま申しあげたごとくです」
四郎は、きりっと歯を鳴らした。
「で、ようやくこの女を十兵衛と結びつける工夫が成った――その思案が成ってはじめて兵庫頭さまに申しあげようと存じておりましたところに、はからずもただいま大納言さままで御入来とは」
「この女を十兵衛と結びつける工夫とは――四郎、いかにして?」
「それは」
といいかけたとき、外から――この地底の秘室の階段の方から、ピタピタとあわただしい足音がきこえた。
「もしっ」
ぎょっとしてふりかえった兵庫頭は、その息をひそめた声を、あずまやのからくりを知らせてある少数の腹心の家来の声と知って、
「何じゃ」
と、それでも鋭い声でいった。
「はっ、ただいま柳生十兵衛なる者、玄関に推参|仕《つかまつ》り――」
【三】
たったひとり、紀州藩の寵臣牧野兵庫頭の屋敷の玄関に立った影であった。
――お忍びながら、大納言さまが成らせられた、ということはだれも知っているから、それ相応の警戒はしていたはずなのに、いつその男が門から玄関まで入って来ていたのか――みんな、瞳をぬかれたような思いがした。
「柳生より参った柳生十兵衛|三《みつ》|厳《よし》と申す者でござる。大納言さまに御意を得たきことがあってまかり越した」
と、ものしずかにいう。
それが|月《さか》|代《やき》をのばし、黒羽二重の着ながし、素足に雪駄ばきという姿だ。右眼が糸のようにとじられている。
「大納言さまなどは当家におわさぬ」
と、一応否定したが、
「いや、先刻お忍びのお駕籠をそこでお見かけいたした」
と、とり合わない。いやにおちつきはらって、みなが何を騒ごうと耳のないような顔で、はては式台に腰を下ろして、自若として煙管をとり出すという始末である。気をのまれた一人が、
「それにしても貴公、その姿で大納言さまに拝謁なさる御所存か」
と、へどもどしていうと、
「風態を改めるいとまもないほどの紀州家にとって緊急の大事でござる。左様にお伝え下され」
と、いかにも沈痛な返事がかえって来た。
――先夜、木村助九郎らが柳生に逃げこんだという事件や、その事柄の重大性を知っていた兵庫頭側近の者があり、またその隻眼の一見浪人風の風貌を、たしかに本人の名乗っている通りの人間に相違ない、と知っていた者があって――で、とにかくこのことが、地底の大納言頼宣に伝えられたのだ。
――頼宣たちはもとよりはっとしていた。
「な、なに、十兵衛がわしに?」
実はこういうこともあり得るとは予想していないでもなかった。それどころか、それを期待して、木村、田宮、関口の家族をとらえたのだ。しかしそれは何らかの仲介を経てのことであって、いま、頼宣自身を名ざして、和歌山城にではなく、この牧野屋敷に十兵衛自身が単刀直入に乗りこんでこようとは、やはり思いがけないことであった。――大納言がこの屋敷に入るのを、どこかで見張っていたものとしか思われぬ。
「……謝罪、命ごいに参ったものとみえまする」
つぶやいたのは牧野兵庫頭だ。ふりかえったまま、
「娘たちもいっしょにおるか」
「いえ、ひとりのようでござる」
「ひとり?」
兵庫頭はくびをかしげ、あわてて立って、
「よし。……桐の間に通しておけ。まず話をきこう」
「兵庫、わしが逢ってやろうぞ」
凄じい顔色で頼宣がいった。
――そのとき、また外で第二の足音がきこえた。
「……殿、柳生十兵衛殿が、いずれかに姿を消されてござりまする」
「なに、逃げた?」
天草四郎とクララお品をのぞき、六人の魔剣士がすっと立った。――但馬守がくびをかしげてつぶやく声がきこえた。
「逃げたのではござるまい。――ふむ、十兵衛めのやりそうなことだ」
「十兵衛が、どうしたというのだ」
「いや、じかに大納言さまをお名ざししてここに乗りこんで来たことでござる」
――いちど現われて、また姿を消したということでいっそうの疑惑にとらえられ、但馬守らと問答している余裕を失って、牧野兵庫頭は走るようにそこを出た。あわてて注進に来た二人の家来が追い、あとに大納言がつづく。
土の階段を駆けのぼって、兵庫頭はあずまやに出た。
|夕《ゆうべ》のひかりを背に、例の石の卓子の傍にひとつの黒い影が浮かんでいた。
このあずまやのからくりを動かすには、外から石の卓子を回さねばならぬ。だから、だれかが中に入って壁をとじれば、だれかが外に待っていてあけてやらねばならぬ。――先夜、木村助九郎に閉じこめられた兵庫頭が、転生衆の怪力をかりてやっと出ることができたのはそのためだ。で、彼は一瞬、その影を家来の一人と思った。――
「ふうむ」
と、影はいった。
「これが、あれか」
石の卓子に両腕ついて、感心したようにくびをふり、はてはちょっと回そうとする気配すらみせる。――
暮れんとして暮れなずむ夏の|黄昏《たそがれ》、しかも白い泥のような夕凪の大気を背に、蓬々たる髪、飄々たる着流しの姿。
気がつくと、石の卓子の下には、長ながとだれかが横たわっている。見張りの家来にちがいない。
「……あっ!」
兵庫頭が絶叫したっきり、あとは声も出ずそこに立ちすくんだとき、つづいて大納言頼宣があらわれた。
影は石の卓子から五六歩はなれ、一礼した。
「大納言さまでござりまするな。一二度、江戸のお城でお目通りたまわったこともござりまするが、お憶えでござりましょうや。……故柳生但馬の伜、十兵衛めにござりまする」
とっさに頼宣も声を失っていたが、やがてもちまえの剛腹な頬がぴくっと痙攣し、眼が爛とひかり出して、
「存じておる」
と、うめいた。
「その柳生十兵衛が、何しにここに推参いたした?」
「松平伊豆守さまの御用命によって……公儀隠密御用のお力ぞえをたまわりたいと」
「な、なに、松平伊豆守!」
「公儀隠密?」
頼宣と兵庫頭は笛のようなさけびをあげていた。これはまったくこの二人の意表に出た言葉であった。
「――ま、松平伊豆守どのの御用命、う、うそをつけ」
猛然として兵庫頭はさけんだ。十兵衛はじろとこれを見て、
「お手前はどなたでござる」
「拙者は、牧野兵庫頭。――」
「ほ。――そういう名の奸物が紀州藩にあって大納言さまをたぶらかしておるとか。――」
「なにっ?」
「と、これは伊豆守さまが仰せなされていたことで、拙者の言葉ではござらぬが」
「十兵衛」
と、頼宣が大喝した。
「うぬは余を嘲弄しておるか。まじめに返答せよ、松平伊豆が公儀隠密の件について、うぬを以て余にたのみたいことがあると?」
「まじめな話でござります。御意の通りで」
「それはいかなる意味じゃ」
「これはちと他聞をはばかる公儀の秘事で」
十兵衛の様子のものものしさに頼宣はやや鼻白んだが、
「この兵庫は余と一体のものじゃ。仔細ない、申せ」
と、厳然といった。じいっと見つめている十兵衛の顔色に、やや失望の色が浮かんだようだ。
「それでは申しあげまする。実はさる大藩に奇怪なる魔性のものどもがとり憑き、容易ならぬ陰謀をたくらんでおりまする。捨ておかばその一国の運命にかかわるほどの……いやいや、現在ただいま、その藩の忠臣にしてかつては将軍家を御指南申しあげたほどの人間を討ち果たすという乱心沙汰、これだけでも天下のために見のがしがたし。――」
「ううぬ」
「と、これも伊豆守さまのお言葉、さらに仰せなさるには――とはいえ、その藩は徳川家にとってただならぬ御由緒あるおん家柄、何とぞして救い参らせたい、いまにしてその大守がお覚めなされ、奸臣を誅し、魔性のものどもを白日のもとに出だして公儀のお裁きにゆだねられるなら、その藩のみならず徳川家のため、これにまさるよろこびはなく、また非業の死をとげた者も草葉のかげで満足して成仏するであろう――と、これも伊豆守さまの御意向でござる」
十兵衛のたった一つの眼が、頼宣の眼を射るようだ。その声は、もし常人の心を持つ者がきくならば、肺腑にくい入るようであった。
彼は打診しているのだ。いや、必死の|諫《かん》|言《げん》をしているのだ。――何かいおう、それよりこの男にこれ以上口をきかすまいと焦りに焦る牧野兵庫が、唇を|鞭《むち》うたれたようにふるわせているばかりの凄絶な迫力だ。
「十兵衛」
と、頼宣はしかし口をひらいた。
「それが紀州藩と何の関係がある?」
柳生十兵衛は沈黙した。
みじかいが、夏の黄昏が凍りつくような沈黙であった。――十兵衛の顔は惨としたものに満ちた。
そもそも彼が和歌山に乗りこみ、非常手段を以て大納言頼宣に相まみえたのは――雲のごときさまざまな謎のうちの最大なもの、すなわちそれらの謎に大納言が直接関係しているのか、あの南海の竜といわれる名君頼宣が、そもそも何もかも知ってやっていることか、という疑惑をたしかめんがためであったのだ。
大納言はすべて承知だ。
十兵衛はそうと知った。万事休す。
同時に大納言が知ってのことならば――なぜ大納言が突如として若い娘たちをあのような大がかりな品定めにかけたのか、なぜ牧野屋敷にこのようなからくりを設けたか、なぜあの木村助九郎らを執拗に柳生まで追撃して殺害したか、なぜ妖しき魔性の剣士たちを飼っているか、彼らの正体は何者か、さらにそもそも大納言が何をたくらんでいるか――それらのことをいまきいても、一切むだだと判断した。
十兵衛の判断は電光石火であった。が――
「……左様でござるか。……」
声は絶望的な風のひびきに似ていた。それを、さらに嘲弄的に受けとった怒りの形相で、
「十兵衛、松平伊豆や公儀隠密が、紀州にとって何だと申すのだ?」
頼宣は|叱《しっ》|咤《た》した。ひらき直ったという感じである。
「お。――その話でござりましたな」
この場合に十兵衛は、にやっと白い歯を見せた。
「いましばらく拙者の話をおきき下され。で、伊豆守さまの仰せには、何とぞしてその藩はつぶしとうない、いや徳川家のためにつぶしてならぬ。ただその大守にとり|憑《つ》いておる妖怪どもを|誅戮《ちゅうりく》すればよいということで」
大納言を自暴自棄におとしてはならぬ、これはこの屋敷にとらえられている木村らの家族の安全のために、十兵衛にとって至上命令であった。
「お手前がその役か」
やっと兵庫頭がいった。のみならず、すっとうす笑いさえ面上をよぎったのは、もとより地底の魔剣士たちの顔ぶれを思い出したからに相違ない。
「いや、まだその御用は拙者受けませぬが……受けたら大役でござろうな」
「…………」
「何しろ、相手は、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜。……」
「荒木又右衛門、宮本武蔵。……」
「まだござるな、口にするのも信ぜられぬほどの妖怪が」
実は十兵衛は知らないのだ。――いや、いま口にした顔ぶれの正体でさえ、ほんとうに信じてはいないのだ。
彼は二人をのぞきこんだ。
「いったい、ほんとうですか?」
彼があえてこの屋敷にのりこんで来たのも、実のところ、それを信じていないからだ――ということが、ちょっとある。
しかし、頼宣と兵庫頭の満面は蒼白であった。いちど茶化したような笑顔となった十兵衛の顔が、水をあびたように緊張して、
「あまりのことに伊豆守さまも、よもやと仰せなされ」
と、ものものしい調子にもどった。
「その実否をたしかめんがための隠密でござるが、さてそれがなかなかむずかしい。いろいろと御思案ののち、彼らを西国巡礼の姿にやつして探索させようという工夫をお出しなされた」
「西国巡礼」
「御存知のごとく西国巡礼は、三十三ヵ所のお札所をめぐるたびに、その|笈《おい》|摺《ずる》にお手版をいただき、また御宝印を受けて巡礼のしるしといたす。これを携えてその藩にのりこめば、それだけ疑いを受けることも少のうござりましょうが。……しかるに、この紀伊国こそ西国巡礼の第一番、第二番、第三番のありどころ。で――すでに公儀隠密の秘密を受けた者どもは、そのお手版をいただくため、すでに十津川沿いに熊野を越えて那智へむかっておりまする」
「――やっ?」
「その数十三人」
「十三人? 公儀隠密とは――うぬではないのか?」
と、頼宣はうめいた。
「柳生の庄に廃嫡同様の身分にて|懶《らん》|惰《だ》無頼の日を過ごしておったこの十兵衛に、なんでそのような御用を命じられましょうや。ただ、拙者、その昔伊豆守さまとちと妙な御縁がありまして――その十三人の隠密修行の旅の宰領を申しつけられた次第で」
「隠密修行?」
「されば、みなこれを以てはじめて公儀隠密の御用を承わる新米ばかりでござる。中にはまだうら若い女人も三人おりまする」
頼宣と兵庫頭は思わず顔を見合わせた。
頼宣がさけんだ。
「……十兵衛、それでうぬは、余に何を望むのか。何をせいというのか」
「このことすでに某藩の知るところとなり、いま申した通りのたわけた、大それた名を名乗る|妖《あや》しの剣士どもを以て、彼らを討たんとしておるらしいのでござる。斬られれば隠密御用の役にたたざる未熟者――とはいうものの、それは新米ゆえいささかふびん、さればによって伊豆守さま、この柳生十兵衛めに彼らの守護を申しつけられました」
「ううむ」
「とはいうものの、拙者もまたそれほど頼りになる男ならず――」
十兵衛はうっすらと笑った。
「で――彼らが紀州を巡礼中、何かと大納言さまのお力ぞえをたまわりたく、そのお願いに参上つかまつった次第。何分内密のことでござれば、かかるぶしつけなる推参ぶりをなにとぞおゆるし下されい。大納言さま、おききとどけ下さりましょうや」
そういったとたんに十兵衛は、ふいに何か突風に面を吹かれたように二三歩とびずさり、じっと頼宣を見つめた。
頼宣ではない――その背後にひらいた例の穴だ。何者かがそこにいる、というより、眼に見えぬ何かに彼は全身をたたかれた。
同時に牧野兵庫頭がさけんだ。
「左様なことはきけぬ、左様なことは請合えぬ、それどころか――」
次の瞬間、彼はその穴の中から魔風の吹き出すことを予想してみずから横に身をさけた。しかし、だれも現われなかった。――ただ声だけがきこえた。
「引き受けた。せいぜい力をそえてやろう、と仰せなされませ、兵庫頭さま」
若々しい声であった。
|黄昏《たそがれ》に、穴の中は暗い。その姿は|朦《もう》|朧《ろう》とけぶり、その声を何者と知らずとも、十兵衛はいつか柳生城外の霧の中で吹きつけて来た恐るべき衝撃と同じものを感覚した。
「が、柳生十兵衛、おまえが紀州藩に頼みごとをし、紀州藩が引き受ける以上、当方もいま少しはっきりときいておきたいことがある」
と、闇の中の声はいった。
天草四郎である。
「おまえが宰領するのが御公儀の隠密、それを狙って紀州に入った刺客の放ち手も徳川家に御縁ふかきおん家柄とやら。――紀州藩としてはまず板ばさみといってよい立ち場になるが」
十兵衛は答えず、闇の中を凝視している。――あれは何者か?
彼のきいている魔剣士の顔ぶれの中に、あのような若い声を出す者はいない。いや、田宮坊太郎がいる。坊太郎なら彼も知っているが、いましゃべっているのは田宮の声ではない。――
「紀州藩に力ぞえを頼むとは、紀州藩の力を以てそれらの刺客を討ってくれということか?」
「左様なことは望まぬ」
と、十兵衛は対等の言葉づかいをした。
「紀州藩のおん立ち場は了解しておる。されば――これより御領内に於ていささか血なまぐさいつむじ風が立つやもしれぬが、右の事情ゆえ、大目に傍観視していただきたいとのことだ。それが唯一の、そして何よりのお力ぞえ。――」
十兵衛は、彼のいわゆる「公儀隠密」に紀州藩そのものが手を出すな、と要求したのである。
「さもなくて、もし御介入なされてこのつむじ風に巻きこまれるようなことがあれば、何のはずみでそのおん家のみならず、紀州藩にもいかなる災難が及ぶかはかりがたい――という老婆心からお願いに参上したのだ」
一息おいていった。
「それどころか、いま申した通り伊豆守さまの御内意では、何とぞして当の大藩にも傷のつかぬようにいたしたい――実は、その藩に、忠義の者どもの一族がとらえられておるが」
十兵衛は、じろと大納言と兵庫頭に眼をやって、
「その罪なき人質に対し、卑怯にして理不尽な仕置などひかえるならば、まだ人心地あるものとして、それに免じて公儀よりのおとがめはさしゆるそう――とまで申されておる」
「伝えておこう」
闇の中の声は妖しく笑ったようだ。
「もしその刺客どもに逢うことがあるならばだ。――ただし、おまえの望む通り、紀州藩としては、その者どもに手は出さぬぞ」
「それで結構」
「たとえ、彼らがその公儀隠密を片っぱしから斬りすててゆこうと」
「……やむを得ぬ」
「たとえ――その中にまじっておるという三人の女を討たれてもか?」
きいていた大納言と兵庫頭が背に冷たい汗のにじむのをおぼえたほど、凄絶きわまるやりとりであった。
ひと息沈黙した十兵衛は、やおら重々しく答えた。
「承知だ」
「よし。――その刺客どもに伝える機会があれば伝えておこう。念のため、もういちど条件をたしかめる」
闇の中の天草四郎は、ふだんのほのぼのとした調子とは別人としかきこえぬ氷を刻むような声でいった。
「よいか。――その刺客たちが、公儀隠密ことごとくを討ち果たそうと、人質の一族とやらを仕置にかけぬ以上、公儀に於てはその大藩を不問に付す。もとよりおまえをふくめた公儀隠密が、それら刺客どもを討つのは勝手じゃ。そう解釈してよいな? そして、この決闘を紀州藩におかれては、手を出すことなく傍観しておる。――」
十兵衛は、この相手にはだまってうなずき、大納言の方を見て、
「――よろしゅうござるな?」
と、いった。
それから、軽く一礼して背を見せて、スタスタとあずまやから庭へ下りていった。最初にみせたあの気迫はどこへやら、拍子ぬけするほどの無造作な態度だ。
「待て、柳生十兵衛」
と、闇の中の声がかん走った。が、すぐに、
「いや、右の条件、しかと承知ならもはや何もいうことはない。――ゆけ」
と、いった。
これに対して十兵衛は、
「では、また、いずれ」
と――あとになってかんがえると、戦慄すべき挑戦の言葉を――みじかく、何気なく返して、飄々ともう薄墨色に沈んだ庭の方へ歩み去っていった。
――と、その影がこちらの眼にも沈みかかったとき、
「先生、十兵衛先生。――」
可愛らしい声が、そのあたりでひびいた。
「いま、柳生十兵衛ってきこえたけど、柳生十兵衛のおじちゃんだね? 姉上からきいて知ってるよ。――」
「――や、おまえはだれだ」
「おれ、関口弥太郎ってんだ」
十兵衛の声はきこえない。しげしげと相手を見まもっているようだ。
「……あ、あの小僧」
と、牧野兵庫頭がはっとして、
「|柵《さく》をぬけて、あんなところまで出ておる。――」
駆け出そうとするのを、
「ゆかれぬ方がよろしかろう」
と、天草四郎がとめた。
「命が惜しくば。……とうていあなたの手におえる男ではない、捨ておきなされ」
庭ではあどけない、しかし心配げな子供の声が、
「十兵衛のおじちゃん。……姉上を知らないか? 父上を知らないか?」
ややあって、十兵衛の声がした。
「弥太郎、ゆこう」
【四】
それっきり、庭は静寂にもどった。……われにかえり、兵庫頭がいった。
「……きゃつ、ききしにまさる人をくった奴、いいたい放題のことをいった上に、柔心の伜までつれていったぞ。なぜ黙って見のがしたか」
「たかが七つの小わっぱ。十兵衛の足手まといになるばかりでござろう」
「――そも、きゃつのいう公儀隠密云々のことはまことか」
「九分までは、うそでござろうな」
天草四郎はけろりと答えて、穴の中でふりかえった。
「但馬、おぬしはどう思う?」
「九分までは、うそでござろうな」
しゃがれた声が、天草四郎と同じことを、もったいぶった調子でいった。兵庫頭はあっけにとられて、
「あと一分は?」
「まことかもしれませぬ、まことになるかもしれませぬ。……先刻申したごとく、きゃつ、父たる拙者にもわからぬところがありまする。とくに松平伊豆どのとの関係については」
「――十兵衛、それを以ておどしをかけましたな」
と、天草四郎は笑った。
「公儀隠密云々がでたらめと知られることは百も承知。あれは当方が、十兵衛の出した条件を破れば、そのときは松平伊豆守どのに訴えるかもしれぬぞ――と釘をさしたのでござる。公儀隠密云々のことが九分まではうそと申したはそのことで」
「条件?」
「すなわち、あの木村らの家族に手を出すな、またわれらときゃつとの決闘に、紀州が全藩をあげて介入するな。――十兵衛め、それをいいに来て、それをたしかめてひきあげていったのです。つまり、きゃつは、われら|転生衆《てんしょうしゅう》を――魔界転生の秘密をどこまで知っておるかはべつとして――少なくとも、武蔵、又右衛門、|胤舜《いんしゅん》などを知って、あえて挑戦して参ったのだ! もとよりそれはこちらの望むところ。――」
「四郎」
穴の中でだれか呼んだ。天草四郎は答えずつづける。
「その代わり、十兵衛もまた、われらだけが立ちむかう以上、彼らすべてを斬ってもよいといった。彼らすべてを――女まで――いや、女は斬るまい、女はとらえて、もういちど大納言さまに献上しよう。要らぬと仰せられるなら、遠慮なくわれらがいただく。――よいなあ。みなの衆。……」
「四郎、十兵衛も斬ってよいのじゃな」
闇の中の声がいった。荒木又右衛門の声らしかった。
「さればよ。――まあ、よかろう」
「ならば、なぜいま斬らぬ?」
と、兵庫頭がかみつくようにいった。
「妙な話だが――こういうことです」
四郎は平然として、むしろ面白げにいう。
「さっき申したごとく、柳生十兵衛は、なにとぞしてわれら転生衆にひき入れたい未来の仲間、これは江戸の宗意軒さまのお望みじゃが、いまきゃつの面だましいを見ておっていよいよ拙者もその意をふかめました。得べくんば、そうしたい――そのためには、江戸から来たこのクララお品を十兵衛にちかづける。――や」
と、ふいにうしろをふりむいて、
「お品、事態が変わった。おまえはもはや柳生城にゆく必要はない。では、どうして十兵衛にちかづくか、その策についてはあとでまた」
顔を兵庫頭たちの方にもどし、
「で、お品を以て十兵衛を|堕《おと》す。――一方で、われら、一人ずつ、十兵衛と立ち合おうと存ずる」
「一人ずつ?」
「七人がかりでは、この遊び、面白うない。――」
「遊び?」
「そもそもわれらはなんのために和歌山に来たか。江戸の張孔堂どのが一旗あげられるまで、ここに待機しておれとのことでござりましょうが、待つ、それだけのことでは退屈して――そのあげく女の血にももうげっぷの出るほど飽きかげんなのは、ここにおる転生衆の顔を見ればわかります。十兵衛相手のこの剣法遊びは、これは退屈しのぎの絶好の遊びで」
「――退屈しのぎの遊びになるかの」
と、くびをかしげたような但馬守の声がした。さすがに父は子を知っている。
「雨か、風か」
天草四郎はひとごとのように、
「どうじゃ、みなの衆。――この案は」
「一人ずつとは、どうしてその順番をえらぶ?」
「くじをひこう。――女のからだで、くじをひこう」
女体のくじ、その奇妙な言葉よりも兵庫頭は、ほかの疑惑に心せかれた。
「四郎、こちらのその一人が――もし十兵衛に討たれたらどうするのか?」
「二人目が立ちます」
「二人目が討たれたら?」
「三人目が。――そのためのくじでござる」
「三人目が討たれたら?」
「――ばかめ!」
穴の中から押し殺したような――そのくせ鼓膜をつんざくような叱咤を投げたのは、どうやら柳生如雲斎らしい。
どぎもをぬかれて黙りこんだ兵庫頭に代わって、頼宣が口をひらいた。
「ならば、転生衆二人目、三人目を要せずして十兵衛を斬れるというか」
「一人目で充分でござろう」
「では、なぜくじをひく?」
「くりかえすように、十兵衛は仲間といたしとうござる。で、一人目はただきゃつの耳を切ります」
「ふむ」
「二人目、三人目は、もう一つの耳と片腕を」
「ふむ」
「四人目は――十兵衛が手なしになっては面白うありませぬゆえ――足を一本」
「ふむ」
「五人目は眼を――片眼を斬れば、きゃつはまったくのめくら」
「ううむ」
「六人目、七人目は――ははは、もう申す必要もござるまい。そこまでゆけばいかに強情我慢の十兵衛とて、かならず心|萎《な》え、意気衰えます。そのあいだお品が誘い、魔界転生の秘儀を告げれば、きゃつ堕ちずにはおりますまい。しかも、転生すれば、失った眼、手、足もふたたびもと通りになるときけばなおさらのこと」
はじめて頼宣はかすかに笑った。この美少年の残酷でユーモラスな着想よりも、彼のあまりに自信にみちた|口《こう》|吻《ふん》に、つりこまれて、安堵して笑ったのである。
「しかし――くどいようだが」
と、牧野兵庫頭は、四郎のまるで子供が木でも彫るような軽がるとしたいいぐさに、かえって不安をいだいたらしく、
「勝負は時の運という。万が一――何かのはずみで、一人二人斬られても、まだそのような悠長ないたずら遊びをするつもりか」
「宗意軒さまの仰せには、転生衆の二人三人が斬られても――転生衆の二人三人を斬るほどの奴ならば――いよいよ以て、十兵衛を転生衆に加えたい、とのことでござった。そうときいて一同は苦りきりましたが、本音を吐けば、みないまのところ、きゃつを仲間にするよりも、きゃつを斬りたいでござろう。この案ならば、転生衆の渇望にもこたえ、また宗意軒さまの御意向にもかなうことになる。江戸にこの旨報告すれば、宗意軒さまとてニヤリと笑ってうなずかれるでござろう」
天草四郎はかえりみた。
「どうじゃ、この遊び」
「まさに妙案! ようかんがえた!」
「片腹いたくも十兵衛め、あの娘どもを以て敵討ちをたくらんでおるらしい。同行しておるという自称隠密どもは、その護衛役であろう。これらを大根のように斬ってすてるのはもとより自由じゃ。やるか?」
「おおっ――では、くじをひこうぞ、四郎、こい」
「待て待て。――クララ」
と、四郎はいった。
「きいた通りじゃ。転生衆は十兵衛の耳や手足を一つずつ斬ってゆく。……おまえの役は、その十兵衛を誘惑し、肉の罠にかけることだ。これは転生衆たちとおまえとのべつのせりあいともいえる。十兵衛の片耳がなくなったときに堕せるか、片腕がなくなったときに堕せるか。……愉しみに見ていようぞ」
「十兵衛が五体そなわっているあいだに堕しましょう」
笑いをふくんだ女の声であった。天草四郎も笑った。
「では、大納言さま、これよりしばらく大納言さまもお愉しみに御覧なされませ。――」
穴の中で、潮でもながれおちてゆくような音がきこえて、それっきりしずかになった。
【五】
紀伊頼宣と牧野兵庫頭は茫然とあずまやに|佇《たたず》んでいた。
「――大納言さまが御下知を下されるならば――一年黙せといわれれば一年黙し、十人の女を犯せと命ぜられるならば十人の女を犯し、百人を殺せと仰せられるならば、百人を殺すでござりましょう」
かつて江戸の森宗意軒はそういったが、その言葉に反し、この恐るべき人形たちはいまやそれ自身の意思で踊り出し、おのれの欲するままの遊びにふけり出したようだ。
しかし、さればとて柳生十兵衛をいかに処置すればよいか。またこの魔剣士たちをいかにとりあつかえばよいか。――
十兵衛の挑戦も常軌を逸しているし、魔剣士たちの応戦も常軌を逸している。紀州藩の権威も頼宣たちの怖れもまったく度外においた、奇妙なルールから成り立ったゲームが、いまや南海道にくりひろげられようとしているのだ。
「殿」
判断力を失って兵庫頭が呼ぶと、
「えい、化物ども、勝手にさせておけ」
と頼宣は牛のうなるような声とともに、つかつかとあずまやから出ていった。その化物どもに完全に毒気をぬかれたじぶん自身に腹をたてたふきげんな足どりであった。
もうとっぷりと暮れた夜の中を、庭の中ほどまでゆくと――
「兵庫頭さま」
と、地上から呼んだ者がある。ぎょっとして闇の中を見すかしたが、何も見えない。ただそこの地上に、決して数人とはいえない集団がうずくまっているようだ。
「だ、だれじゃ」
「|根《ね》|来《ごろ》|寺《じ》のものどもでござる。お召しにより、ただいま参着いたしました」
そのとき、また二三人足音が走ってきて、
「殿……殿っ」
と、かん高い声をはりあげた。兵庫頭がふりむいて「ここにおる」というと、あわててこちらに駆けて来て、
「先刻の柳生十兵衛どのがまた御玄関さきに現われました! しかも関口の小伜をつれて。――」
「大納言さまにはすでに拝謁をたまわり、おゆるしを得てつれてゆくと称し――悠々と門を出てゆきましたが、それに相違ござりませぬか!」
いまごろそんなことを報告に来たとんまぶりに、
「ば、ばかめ!」
と、兵庫頭は一喝し、
「根来衆――追え。いま当家を出ていった子供づれの片眼の男をだ!」
と、さけんだが、すぐに、
「いや、待て。――」
と、とめた。
――十兵衛が、ほしいままに紀州藩から手を出すな、と釘をさしたのを思い出したのである。その約束を破れば、紀州藩の怪異を松平信綱に訴えるかもしれぬという。それは九分九厘まででたらめのおどしだと思うが、あと一厘が気にかかる。――
「兵庫、根来の坊主どもを呼んだのは?」
と、頼宣がきいた。兵庫頭はこたえた。
「はっ、実は、例の面々があまりにけろりとしておりまするゆえ、拙者も座して待つにたえがたく、ともかくも柳生城を探らせんと思い、先日ひそかに根来寺のえりすぐり二三十人の忍法僧に参るよう、使いを出したのでござりまする」
「おお、忍法僧。――」
と、大納言はさけんだ。
紀州藩の那賀郡根来村――|葛城《かつらぎ》山脈の中腹に、|新《しん》|義《ぎ》真言宗の本山で根来寺という寺がある。平安朝の末期にひらかれたものだが、このころ大いに栄えて、いちじは堂塔二千七百余坊をかぞえる大寺院となっていた。この根来寺は、源平、鎌倉、室町の時代に至ってもなおおびただしい僧兵を擁していたが、とくに戦国時代になると、いついかにして編み出したか、忍法という奇怪な特殊技能を以て世に知られるようになった。そして織田信長にすら抵抗してついに屈せず、豊太閤の全山焼き討ちによってはじめて滅亡するに至った。天正十三年のことである。
その滅亡した根来寺を、元和九年、紀伊の新領主となった頼宣が再建をゆるしたのである。もっともこれは新義真言宗の復興という名君頼宣の治政の一つであって、べつにそのような武芸の再興を意図したわけではない。――
いまそういわれて、頼宣ははじめて根来僧と伝説的に結びついた妖しき武術を思い出したほどである。
兵庫頭がふと気がついた風できいた。
「うぬら、そこでその男に逢わなんだか」
「いや、われらは――秘密に参れとの仰せゆえ――裏門の方から推参いたしてござるが」
「裏門? 裏門とて、見張りのものどもはおったであろうが」
「ふ、ふ、ふ、われらになみの見張りが何の役に立ちましょうや」
闇の底の声がひくく、どよめきつつ笑った。
じいっとそれを見おろしていた牧野兵庫頭の眼がふいにひかり出した。彼は声を殺していった。
「左様か。よう来てくれた。寄れ、話がある」
黒くわだかまっていたむれが、水のように音もなくすり寄った。
「うぬら、柳生十兵衛なる者を知っておるか」
「……名は存じておりまする」
頼宣が声をかけた。
「兵庫、そのものどもに話してよいのか」
頼宣は、紀州藩は手を出すな――という十兵衛の言葉を思い出したのである。
「このものどもなら大事ござりませぬ。きゃつら――あまりに傍若無人、紀州藩に人なしと見ておる様子ではござりませぬか」
きゃつら、と複数で呼んだのは、あきらかに十兵衛のみならず、転生衆たちをもさしている。
これには頼宣も同感であった。同感どころか、先刻までのふきげんさは、いかにも兵庫頭がいう通り、紀州藩が領主も武士もいない無人の荒野であるかのような、彼らの勝手な|約定《やくじょう》に発するものだ。
兵庫頭は話し出した。
闇に眼が|馴《な》れてくると、根来寺から来た僧たちは、むろん僧衣を着ているが、頭はいずれも髪をのばしている。肩のあたりで切った、いわゆる総髪だ。
「ううむ。……」
きいて、忍法僧たちはうめいた。
むろん兵庫頭は、魔界転生のことなどしゃべったのではない。転生衆の名さえもらしはしない。ただ柳生十兵衛が十人の配下をひきいて紀州内に入ったのを、藩中の七人の剣士がひそかにこれを討ち果たさねばならなくなったが、これをかげながら援助し、かつその状況をいちいちこちらに連絡せよと命じたのだ。
「かげながら?」
と、ひとりがいぶかしげに問い返した。
「左様な御用ならば、われらにおまかせ下されても」
「それが、そうはならぬのだ」
と、兵庫頭はいらだたしげに、
「ただ――十兵衛一味のうち、だれか領外に走ろうとする者があれば必ずひっとらえろ」
これは、ルール違反だ。
ルールに違反せぬかぎり公儀には訴えぬ、と十兵衛はいった。そもそもその言葉じたいが九分まではたんなるおどしとは思うのだが、あとの一分が気にかかる。今宵大納言が訪れたのも、実はそれにつらなる不安からであったのだ。
その不安は、ただ柳生十兵衛を斬ればよいというものではあるまい。もしその一分がまことであるならば、きゃつの口ぶりからして、こちらがルール違反をしたときはこうと何らかの手をうっているだろう。すなわち、紀伊領内に入った彼ら一味を、一人たりとも外へ出してはならぬ。――
ルール違反をしたときの敵のしっぺ返しをふせぐためにルール違反をする――というのは矛盾しているが、要するに兵庫頭は、十兵衛の提出した約定を、おのれの心に照らして信じきれないのであった。もし転生衆が、彼らの宣言したようなゲームを実現してゆくならば、いくら十兵衛とて、悩乱のあまりいかなる行動に出るか知れたものではない。
そしてまた兵庫頭は、みずから飼っている転生衆にさえ不信の念をぬぐい得ないのだ。おのれの手をかむとまでは思わないが、ともかく常人でないだけに、何をするか、こちらの縄ではかりきれぬところがある。少なくとも、紀州藩の安否よりは、彼ら自身の剣法ゲームに心奪われ、酔いしれているところがある。
彼が|根《ね》|来《ごろ》僧を使おうとしたのは、この不安をはらいのけ、じぶんの手綱のままになる人間をしっかりとつかまえておきたかったのだ。
「のみならず、うぬらは、十兵衛を狙う七人の剣士に助勢しておるものと――十兵衛に知られてはこまるのだ」
忍法僧たちは沈黙した。
「あくまで影の伏兵として働け。……それこそ忍者の本領であろうが」
「はっ」
「ひとたび滅んだ根来寺の再興をゆるされた大納言さまの御慈悲に酬いるはこのときであるぞ」
「はっ」
「そればかりか、この事変こちらの思い通りに落着したるときは、かねてうぬらが望んでおったように、根来寺|行人衆《ぎょうにんしゅう》を武士に|還《げん》|俗《ぞく》させ、紀州藩の忍び組にとりたててつかわそうぞ。……殿、この儀、おゆるし下さりましょうな」
と、兵庫頭はふりむいた。
「御公儀にも根来組がござりまする。このものどもを以て紀州藩に根来組を作っても悪うはない――いや、さきざき、必ずお役に立つものと兵庫愚考いたしまする」
――十七世紀のフランスの日本史家ジャン・クラッセの「日本西教史」に、根来寺の僧兵について次のように記述されている。
「根来の宗派三部に分る。第一部は仏陀の祭祀をつかさどり、最も小なり。第二部は武芸を講じ、第三部は兵器を作るを業となす」
この第一部を衆徒といい、第二部を行人といい、第三部を預り衆といった。かんじんの仏を祭る第一部の規模がいちばん小さいとあるところなど、根来寺の面目躍如たるものがある。
根来寺が秀吉によって滅ぼされたとき、逃げのびた残党のうち、家康はその行人衆の一部を拾って召しかかえた。行人衆すなわち武芸を専らとする僧兵のうち、とくに特殊技能の所有者たる忍法僧をえらび出し、これを甲賀、伊賀とならぶ幕府の忍者隊根来組として編成したのである。
そのことは頼宣も知っていたが、再興した根来寺になおそれに類する者もまた復活し、さらに寵臣牧野兵庫頭が、いままでひそかに手なずけていたらしいことははじめて知った。
「いずれ何らかの手柄をたてさせ、殿に言上いたそうと存じておりましたが、いまそのときが参ったようでござりまする」
と、兵庫頭はいった。
頼宣は、転生衆のみならず、この愛臣すらもじぶんの手綱の外にあるような気がし、いつからこのような事態になったのだろうと心が波立つのを禁じ得なかった。
「――何人おる?」
と、彼はしゃがれた声でいった。
「とくにえらんで、三十人参上|仕《つかまつ》ってござる」
暗い地上で、眼が無数の|蛍《ほたる》のようにひかった。これを以て紀伊藩に召し抱えられる――と、すでに信じきった眼のかがやきであった。
「いま、その七人の剣士にひき合わせるが」
と、兵庫頭もじぶんが呼んだ連中だけにひどく乗り気になって、
「その剣士たちにはときどきうぬらの手練を見せてやってもよいぞ。――」
といいながら、あずまやの方へとって返そうとした。と、遠いそのあずまやの中で、
「見せてもらおうか」
と、天草四郎の声がきこえた。
兵庫頭はぎょっとして立ちどまり、その方向をのぞきこんで、二三度まばたきをした。もっとも彼にはあずまやの下の光景がはっきり見えたわけではない。が、そこでうごめいている白いものが、|朦《もう》|朧《ろう》とは見えた。――
「……やっ」
と、根来衆のひとりがひくいさけびをあげた。
「大納言さまのおんまえで。――」
「な、何が見える」
と、兵庫頭はいった。
「まるい石の台に|裸形《らぎょう》の女ひとりをあおむけにのせて。――」
そこから、むせぶような女の声がながれて来た。男の魂をかきむしるなまめかしいあえぎであった。
「――た、た、たわけたふるまいを!」
三四人の根来衆が思わず立って、つかつかとその方へ歩き出した。
「うぬらの忍法、見せてもらうまえに、こちらの忍法をまず見せてやろう」
天草四郎の笑うような声とともに、根来僧たちが一人を残して、ふいにぱっととびずさった。
残った一人が、そのまま棒立ちになっている。――と見るや、いったいどうしたことか、その総髪の首が胴から離れて西瓜みたいにころがりおち、|奔《ほん》|騰《とう》する血の雨の下に首のない墨染めの衣をきたからだがどうと崩れおちた。
「忍法|髪《かみ》|切《きり》|丸《まる》。――」
と、天草四郎はうたうようにいった。
「御覧のごとしだ。根来坊主ども、せっかくだが、助勢は無用じゃ」
頼宣、兵庫頭はもとより、三十人の――いや二十九人の根来衆も、夢魔にうなされたように立ちすくんでいる。
「といいたいが、わざわざ根来寺から来たことだ。それに兵庫頭どののお心入れもある。――使えるだけは使ってやろう。ただし、わしたちの申す通りにうごかねば、いま首を失った坊主の二の舞いを演ずることになるぞ。いかな根来衆でも、首なしでは紀州藩忍び組とはなれまいが」
天草四郎の笑い声は、事務的な口調にもどった。
「女くじをひいた結果、第一番は田宮坊太郎ときまってござりまする。では、大納言さま、お心しずかに熊野路の刀の舞いを御見物のほどを。――」
|西《さい》|国《ごく》第一番|札《ふだ》|所《しょ》
【一】
「あ、鳥だ」
明るい声が空中を駆ける。
「先生、鳥が海の魚つかんでいったよ」
「そうか、弥太郎」
「あれ、なんて鳥?」
「知らんな、海の鳥の名は」
あまり動植物の知識のない柳生十兵衛だ。それに南紀の旅ははじめてであった。
山国の柳生谷などとちがって、太陽のひかりまで真っ白に思われる。右側にはたえず網膜も染まりそうな|碧《あお》い海があらわれては消える。華麗で、しかも|寂寥《せきりょう》のひかりと風にみちた熊野路であった。
十兵衛は弥太郎少年を背中につかまらせたまま馬を走らせている。
「先生、泳いでかない?」
「暑いか、弥太郎」
「暑い。でも、風くるから涼しい。でも、海はおもしろいもの。――」
「待て待て、那智へゆくまで。――おひろが待っているぞ」
「あっ、そうだ、姉上が待ってるんだ」
|鞠《まり》みたいにはずんだ声がぷつんと切れると、しばらくしんとしていて、
「先生、父上は?」
十兵衛はだまって、|鞭《むち》をあげて|蒼《あお》い空をさした。
「ああ、そうか、父上は死んじゃったんだね?」
――十兵衛は、きのうのうちにこのことを弥太郎に告げた。それを弥太郎は忘れてしまったらしい。いや、死ぬということが、まだ身にしみてよくわからないらしい。父の死を現実に見ていない七つの少年としては当然なことである。
和歌山から那智まで約五十里。さっき串本を駆けぬけたから、そのうち四十里は来たろうか。それにつけても、和歌山から柳生まで三十数里、一昼夜でつっ走ったおひろたち三人の苦闘には舌をまかずにいられない。
十兵衛はおとといの夕刻和歌山を出て、二日めの――いま日がやや西へかたむきかかったころ、このあたりを駆けている。もっともこれは弥太郎という子供をつれているから、休ませる必要もあったのだ。
夏であったので、助かった。一夜は路傍の地蔵堂に寝て、一夜は浜辺の舟の中に寝た。しかし、眠りつつ十兵衛の知覚はたえず街道にむけられていた。追ってくる奴があるかと。――いまのところ、それはない。
熊野路は山と海とのあいだのただ一本の道であった。さすがに十兵衛の顔に、やや疲労の色がある。それは背中の弥太郎のせいでもあった。
むろん、最初十兵衛はこの子供を背中にくくりつけた。が、すぐにとうていじっと背負われているような少年ではないことを知った。
十兵衛のうしろから、帯につかまってチョコナンと座る。前にまわって、風を面に受けてケラケラ笑う。十兵衛の首ったまにかじりつき、肩ぐるまに乗り、はては十兵衛の両肩に軽業みたいに立つという始末だ。
「……さすがは関口柔心の|伜《せがれ》」
――牧野兵庫頭の屋敷にとじこめられてあばれちらしていたせいか、きものは腰のまわりにまとわりついてはいるものの、ほとんどまるはだかだ。髪は|雀《すずめ》の巣みたいになって、まるで|河童《かっぱ》の子であった。
「ようしっ、おれ、父上のかたきを討つぞ! 姉上といっしょに!」
と、真っ黒な頬をまんまるくふくらませてりきむかと思うと、
「先生、強い?」
と、何をかんがえたか、心配そうにきく。
「ああ、強いぞ」
「……一つ眼で、だいじょうぶかな?」
それからうしろをふりかえっていう。
「先生、ハヤ助、タ助、ドン助を呼んでこようか?」
どうやら、わんぱく仲間の子供の名前らしい。
「うむ。負けそうになったら手伝ってもらうかもしれん。もういちど、和歌山へひき返すのだから、そのとき助太刀をたのんでくれ」
悩まされながらも十兵衛は笑わざるを得ない。またほろりとせずにはいられない。
が。――
和歌山へもういちどひき返す。子供にいった言葉ながら、十兵衛の表情はぴしいっと音たてるばかりにひきしまった。
和歌山へいちど乗りこんだ目的は達した。第一は、大納言さまがまちがいなくこんどの奇怪事を承知なされておるとたしかめたことである。第二は、木村助九郎らの一族の安全の保証をとりつけたことである。第三は、こちらが討つべき人間を指定し、それにはっきりと挑戦したことである。第四は、それ以外の人間の介入を|牽《けん》|制《せい》したことである。
きゃつら、挑戦に応ずるか。
敵は応じた。むしろこちらの条件をさきまわりしてのみこんでくれた――と感じられたほどのものわかりのいい奴であった。あの闇の中の声は何者か?
いずれにせよ、那智からもういちどひき返す熊野路は、恐るべき修羅の旅であることが予想される。予想されるどころではない。敵よ、堂々と出てこい――とこちらで誘い、そして敵はその誘いに応じることを約定したのだ。
弥太郎という少年を救い出したことは、こちらの手足に一つ|枷《かせ》をはめたことになるが、やむを得ぬ。もはやふりすてることはできぬ。その修羅相を見せたくはないが、見ることになるのもこれまたやむを得ぬ。いや、見るなといっても、見ずにはいない小わっぱだろう。
「先生」
と、弥太郎が呼んだ。
「おしっこ」
十兵衛は馬をとめた。いちどこの少年は走る馬の上からこいつをやって閉口させたことがある。向こうに漁師町らしい集落のみえる山沿いの道であった。
すると、ふいに弥太郎がさけんだ。
「先生、うしろからだれかくるよ。――」
「だれかくる」
「うんとむこうだけど、お侍がたくさん。――」
「弥太郎、しょうべんをちょっと待て」
十兵衛はそのまま馬をすすめて漁師町の手前の|山《やま》|間《あい》に乗り入れた。大勢の武士がやってくるとは、この際ただごとではない。真青に繁った樹立ちをわけて少し入りこみ、馬をつなぐと、
「弥太郎、ここでやれ」
といいおいて、道の方へとってかえし、樹を盾にしてのぞきこんだ。
やがて砂けむりをあげて、一団の武士がやって来た。武士といっても、大半は陣笠をかぶり、槍をかついだ足軽風で、その指揮者らしい四五人が深編笠をつけている。――あきらかに紀伊藩の武士たちだ。
紀州侍がなぜここへ?
ゆくてには那智がある。――とかんがえて、十兵衛ははっとした。
紀州藩は手を出すな、と釘はさしておいた。その釘よりも、なぜか十兵衛は、この事態になっても大納言頼宣という大人物に――あのお方ならば、決して卑怯な違約はなされぬ――という奇妙な信頼を抱いていたが、もとより絶対的にあてになるか、というと、そんな保証はない。
「一つ、二つ。……」
突然、頭上で声がきこえた。十兵衛は水をあびた思いがした。
「五つ、六つ、七つ。……」
いつのまにか、ちかくの大木の梢に弥太郎がよじのぼって、枝にまたがって大声をはりあげているのだ。
「十三、十四、十五。……」
大得意で、街道を通りすぎる足軽たちを勘定している。
足軽のむれはいっせいにこちらの大木を見あげた。――が、たんにこのちかくの村の少年とでも思ったらしい。何も気がつかず、そのまま歩き去ってゆく。
和歌山から追跡して来た連中なら、弥太郎という子供のことをきいていないはずはない。それがちらと一瞥しただけで通りすぎてゆくとは――いや、それより何より和歌山から四十里以上も離れたこのあたりに、二夜をこえただけで|徒《か》|歩《ち》で到着するはずがない、と、やっと十兵衛は判断した。
はて、通って来たこのちかくに紀州藩の郡代屋敷でもあって、そこの武士たちででもあろうか。
「いっちゃった、先生、三十一いたよ。――」
「もういい、弥太郎、下りてこい」
十兵衛は苦笑して、馬をひいてひっそりかんとした夕日の街道にふたたび出た。
うしろにながくひく馬と大小二つの影をふりかえって、
「那智まではもう五、六里だろう。おひろたちはもう来ておるはずじゃ。弥太、日のくれるまでにゆこうぞ」
と、十兵衛はまた馬にのった。あぶみのどこかに手がかかると、弥太郎少年も小猿みたいに飛びあがって、しっかと十兵衛先生にかじりつく。
ちかづくと、わりに大きな漁師町であった。|古《こ》|座《ざ》という。――十兵衛はこの沖のあたりで鯨がとれるという話をいつかきいたのを思い出した。
――紀州の鯨か。
ふっと大納言頼宣を思う。
村に入る。まんなかに橋があった。河がすぐ右手の海にながれこんでいる。その橋の向こうから、さっきの足軽たちがひき返してくるのが見えた。
はて、なんのために?
和歌山から追って来たものではない――とさっき判断したくせに、やはりあまりきもちのいいものではない。しかし、いまさら道をよけることもできなかった。
「これ、しっかと背につかまっておれよ。だまっているのだぞ」
弥太郎にそういって、十兵衛は馬をすすませる。
橋の上で、足軽の行列とすれちがう。汗にひかる顔をあげて、十兵衛たちを見たが、しかし、案の定、べつになんのこともない。
古座の集落を出た。やはり美しい海沿いの道だ。|怒《ど》|濤《とう》が雪のように岩にくだけている。
あらかじめ調べた十兵衛の知識によると、ここから五里足らずで|天《て》|満《ま》という宿場に達する。|青《せい》|岸《がん》|渡《と》|寺《じ》はそこから一里ほど北方の山に入ったところにあった。
十兵衛が和歌山に入るに先立って、三人の娘とそれを護る柳生十人衆は、高野山からいわゆる高野街道、つまり吉野熊野の山岳を越えて、|十《と》|津《つ》|川《かわ》沿いに|本《ほん》|宮《ぐう》に出る道をとり、そこから雲取越え、古来からいう熊野の|中《なか》|辺《へ》|路《ち》を通って那智にむかっているはずであった。
那智の青岸渡寺は|西《さい》|国《ごく》巡礼第一番の|札《ふだ》|所《しょ》である。すべては、そこからはじまる。
「弥太郎、那智へはもう一走りじゃ。暮れるまでには姉に逢える」
「先生」
と、弥太郎が呼んだ。なにか、かんがえていたような声だ。
「いまの足軽、二十九いたよ」
「ふん」
「三十一から二つへったよ」
「――ほう、おまえ、利口な子じゃな。よく勘定した」
しばらく馬を歩ませて、ふっと十兵衛は首をかしげた。べつに深い仔細はない。足軽の人数が二人へっていたと? あの足軽ども、なんのためにこのあたりを|徘《はい》|徊《かい》していたか知らないが、村に入れば所用のために二人三人ははぐれることもあるだろうし、たとえあれが半分の人数になっていたとしても何の意味があるか。
しかし――無心にものを数えたがる七つの少年の言葉は、なぜか十兵衛の心にひっかかった。
「弥太郎、いそぐぞ」
卒然と面をあげ、十兵衛はぴしいっと馬に|鞭《むち》をくれた。
【二】
那智山|青《せい》|岸《がん》|渡《と》|寺《じ》。
那智山の麓から、四町にわたる長い石段を上ってゆくと、その中腹に那智神社とならんでこの寺がある。
寺伝によれば、仁徳天皇のころ熊野浦に漂着した|天《てん》|竺《じく》の沙門|裸形《らぎょう》上人がこの山にのぼり、那智の|滝《たき》|壺《つぼ》から八寸の如意輪観音像を得てここに草庵を結んだ。のち推古朝のころ、時の天子がここに一丈の観音像をつくって、さきの八寸の仏をその胎内におさめ、さらに一大|伽《が》|藍《らん》を建立した。
これが青岸渡寺のはじまりで、隣にいわゆる熊野三社の一つ那智神社があるが、実権はこの青岸渡寺の仏僧の手にあった。のち織田信長の兵火にかかったが、豊臣秀吉の手によって十三間四方の本堂をはじめ鐘楼、宝蔵などが再建された。
日は山陰に沈み、天をつく杉と|檜《ひのき》にかこまれて、風物すべて青味がかったその境内で、いま美しい鈴音が波のようにきこえる。――
「ふだらくや岸うつ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝つ瀬。――」
御詠歌が朗々とひびきわたって、
「どうじゃ、この微妙の妙音、ふだらく山の岸を打つ波の音にも劣るまいが」
「いや、わしには謡いのようにきこえるぞ。そう武張った声では御詠歌らしくない。――」
どっと笑いがわく。
境内に|白《しら》|鷺《さぎ》がおりているようだ。――その数十三羽。
彼らは杉の木の下に足を投げ出して休んだり、小手をかざしてすぐ向こうの山に|薙《なぎ》|刀《なた》のようにひかっている那智の滝や、また頭をめぐらせば眼下一帯にひろがる勝浦の海の絶景をながめたりした。
いうまでもなく巡礼姿のお縫、お雛、おひろの三人と、十人の柳生衆であった。
みな白衣の上に|笈《おい》|摺《ずる》をつけたおきまりの巡礼姿だ。この笈摺は、両親のある者は左右を赤く染め、片親のある者はまんなかを赤く染め、両親ともいない者はすべて白いままにするということだが――彼らはひとりのこらず真っ白な笈摺を着ていた。笈や|菅《すげ》|笠《がさ》は地面のあちこちにおろしてある。
この青岸渡寺が西国三十三ヵ所の霊場の第一番ときめられたのは、平安朝のむかし第六十五代花山天皇がみずから巡礼の旅に出られて、ここを最初に詣でられたときからだという。それは|功《く》|徳《どく》をつみ、また死者の精霊の冥福を祈るためである。
巡礼は霊場をめぐるたびに、その笈摺に寺々の宝印を受け、また首にかけた三十三枚の木の札を一枚ずつ納めてゆく。一面に「南無大慈大悲観世音菩薩」とかき、一面におのれの生国と名前をしるした細い小さな木札で、これを納札という。
彼らはすでに納札をすませた。祈願もした。あたりの風光も見つくした。
「……まだか、十兵衛先生は」
彼らは熊野の|中《なか》|辺《へ》|路《ち》を通って、きょうのひるすぎこの青岸渡寺についたところであった。
むろん、だいたいの日どりはうち合わせてあったが、和歌山から海沿いにくる十兵衛と、吉野熊野の山を越してやってくる十人衆と、そんなにうまく同じ日にここで再会できるはずがない。
だいいち、和歌山へいった十兵衛が、そうやすやすと大納言頼宣に会えるものとは思われず、たとえ会ったとしても、その会見の結果が雨と出るか、風と出るか、容易に予断をゆるさないものがある。――そのことは、あらかじめ十兵衛もいっていた。
それは承知しているのだが。――
ここまでくれば気がはやる。心が勇む。燃える真夏の天にちかく熊野の大山岳を踏破してきて、いま彼らは足の疲れなど、どこかへ吹っとんでしまったような気がしている。
その山脈を越えるワンダーフォーゲルを、美しい三人の娘と行を共にして――道中、いたわり、はげますのはいいが、その度を越して、ばかに親切な連中があったのはむろんだ。
「お縫どの、そうれ、おれの手につかまれ」
「背負ってやろうか、おひろどの」
そんなことをもっとも頻繁に口にしたのは、らいらくな磯谷千八とか、ひげをはやした豪傑風の逸見瀬兵衛などで、こういう声をきくと、いつもまっさきに飛んでくるのは精悍な小栗丈馬や少年の小屋小三郎だ。
「これ、いまから甘やかしてはならん!」
「前途にひかえる苦難の幾山河はこんなものではないぞ!」
と、血相かえてどなりつけるのだが、そうどなりつけて撃退した当人たちが、しばらくゆくと、
「……水が欲しゅうはないか、お雛どの、谷の底に水音がきこえるが」
「いや、拙者がくんでくる。待っていやれ」
と、なんともいえない浪漫的な声を出す。――
三人の娘たちは、なんども涙ぐんだ。むろん、からだの苦痛のためではなく、この十人衆の男気に感動したからであった。みんな親もあり、兄弟もあり、妻のある人もある。とくに年輩の金丸|内匠《たくみ》や戸田五太夫などには何人かの愛児がいるときいている。その彼らが、たんに同門というだけのじぶんたちのために、どうしてこのように炎天の下を汗をながして同行してくれるのか。
仇討ちの護衛者、はじめはそれを要らぬこととかんがえたが、いまはそうは思わなかった。
彼らは、柳生十兵衛さまの依頼に対し、快然、みずから吐いた|然《ぜん》|諾《だく》の一語を重んじて乗り出してくれたのだ。また彼らはさむらいとして、侠の一字を踏んで、ことと次第では紀州という徳川御三家の一つ五十五万五千石という大藩と全面衝突ともなりかねぬ決死のたたかいに、勇躍してたってくれたのだ。――お縫たちは、ただ彼らにむかって両手を合わせたかった。
――このひとたちのためにも、わたしたちはみごと敵を討たねばならぬ。――たとえどんなに恐ろしい敵であろうと!
いま、杉の大木の青い蔭に座って、十人衆をじっと見あげる三人の娘の眼は、祈りにちかいひかりをたたえていた。
悲壮な娘たちの眼を知るや、知らずや、十人衆はあくまでも陽気だ。
「まだか、十兵衛先生は」
「おれがゆくまで青岸渡寺で待っておれ、と申されたが、かんがえてみれば、何もここで待っている必要はないではないか。こちらから押し出してゆけば、途中で先生に逢えるだろう。――」
「この娘三人をまじえた巡礼姿で紀州領内を押し回しておれば、いやでも敵は気づく。……」
「それこそ、こちらの望むところだ!」
「宮本武蔵、荒木又右衛門、宝蔵院|胤舜《いんしゅん》……相手にとって不足なし、といいたいところだが、むろんにせものにきまっておるから大いに物足りぬ。十兵衛先生がどうしてあんなに恐れられるか、理解がゆかんくらいじゃ」
「いっそ、十兵衛先生がいない方が面白いではないか」
「同感! その方がわれわれも存分に腕がふるえるし」
「脇役は少々分がわるいと思っておったが――あわよくば、三人の娘衆にもよいところを見せられるし。――」
「わっはっはっはっ!」
大はしゃぎにはしゃいでいるのに、泣き上戸の伊達左十郎が珍しく大喝した。
「ばかっ、わいらはそんなつもりでこんどの役を買って出たか!」
「いや。そんな。――」
「十兵衛先生がいない方がいい――など縁起でもないことをいった奴はだれだ。先生はひょっとすると、もはやここへおいでにならんかもしれんぞ。おれはそれを案じておるのだ」
「えっ、そりゃまたなぜだ、左十」
「和歌山城へのりこんで――三人の娘に敵を討たせる所存じゃが、立ちむかう者はその敵だけにしろだの、娘たちの家族には手を出すなだの――だいたい先生の要求が虫がよすぎる。図々しすぎる。大納言さまが怒って、首を横にふればそれまでではないか。城侍数千、よってたかって斬ってかかれば、いかな十兵衛先生とて袋の中の鼠ではないか。鼠――いやまったく、猫の首に鈴をつけにいった鼠にひとしい。――」
「そういったのだが、先生がきかずにゆかれたのだから、その件に関するかぎりどうにもいたしかたがない」
「十兵衛先生の運命やいかに。ああ。……」
伊達左十郎は天を仰ぎ、腕を眼にあてた。やっぱり泣き上戸だ。多感な北条|主税《ちから》が顔をしかめて、
「おい、泣くな、左十郎、門出にあたって、おまえの泣き声の方がよっぽど縁起がわるい。――」
といったとき、山門の下に立っていた小屋小三郎が、
「……あっ、ありゃ先生ではないか!」
と、絶叫した。
「なに、十兵衛先生が。――」
みな、いっせいに山門の下へかけ集まった。
【三】
那智山の麓から約四町、石段と石だたみを重ねつつ、つづら折りに上って来た山道は、この青岸渡寺の楼門風の山門へ、最後の石段となって終わる。
その数十段下の、やや広い石だたみを踏んで、いま深編笠に華麗な|蝙《こう》|蝠《もり》羽織を着た武士がひとり、しずかに石段をこちらへ上ってこようとしていたが――十人衆がどよめいてのぞきこんだのはむろんそれではない。
もっと下の石段を、子供を背負ったまま、黒い飛鳥のように駆けのぼってくる影だ。――
「――おおっ、十兵衛さまだ!」
「先生が生きて、ここにおいでになった!」
いまやあきらかにその人の顔をみとめて彼らは狂喜乱舞したが、ふとそのひとり|三枝《さえぐさ》麻右衛門が、
「それにしても、あの背負っている子供は?」
と、いった。
三人の娘は激情のためにかえって白い紙みたいな無表情になって立ちすくんでいたが、ふいにおひろが、
「弥太郎!」
と、絶叫の尾をひいた。その狂的な声は、すぐ下の石段をまんなかあたりまで上って来ていた深編笠の武士を、そのまま途中で釘づけにしたほどであった。
「弥太郎――弥太郎!」
おひろはまろぶように石段を駆けおりるのにかかった。
ちょうどそのとき下の広い石だたみまで達した十兵衛が、このとき口を裂いて何かさけんだようだ。
――来るな!
そう耳にきいたとき、おひろはもう深編笠とすれちがう石段のなかばまで駆けおりている。その白鷺のような巡礼姿が、ふいにぱっと羽ばたいた。「――あっ」と十人衆が、総身の血をひいたとき、彼女は深編笠の侍にその右腕をつかまれていたのである。
おひろの持っていた金剛杖だけが空中に飛び、カラカラカラと音たてて石段をすべりおちていって、十兵衛の足もとで、その一部からキラ――と寒いひかりをのぞかせた。仕込み杖であった。
それよりも。――
「お、おうっ」
「きゃつ、な、何者だ?」
十人衆は驚愕した。
腕くびをつかまれたおひろは、深編笠にひきずり寄せられ、からだをくの字に折りまげてもがいている。石段の途中で、ふつうならふたりひとかたまりとなってころげおちるはずなのだが、武士はまるでそれとは無関係な存在のように、悠然とそこに佇んだままだ。
彼は上の十人衆も無視し、下の十兵衛を見おろして、
「柳生十兵衛、約定の通り。――」
と、声をかけた。
「江戸の隠密を追って、刺客たる拙者ここに余人をまじえずただ一人参ったぞ」
十兵衛の背から、弥太郎がずり落ちた。
それすらも意識しないように、十兵衛は石だたみの上に両足ふんばって、きっと隻眼で頭上の相手を見あげているだけであった。
彼はいま、すぐじぶんのさきをシトシトと石段を上ってゆくその深編笠のうしろ姿を見ただけで、それがただの剣士でないことと、妖しい剣気をけむりのごとく|曳《ひ》いていることを感得した。で――
――来るな!
本能的にそう制止したのだが、時すでにおそくおひろが駆け下りて来て、そして捕えられてしまったのだ。彼女が捕えられたということは、十兵衛もまた捕えられたということであった。
見るがいい、おひろがからだをくの字なりにしているのは、逃げようとしてもがいているのではない。手くびをつかまれただけなのに、まるで鉄の|環《わ》にしめつけられたような苦悶ののたうちなのだ。あの、なみの男なら太刀討ちできぬまでに仕込んだおひろが。
「約定の通り――といっても、じかにおまえと約定をかわしたわけではない。きいたのだよ、或る筋から。――」
笑う声は若い。若い声が、柳生十兵衛を相手にして、そらぞらしくからかっているのだ。
「その約定にまちがいはあるまいが」
――牧野屋敷の闇の中できいた声ではない。別人だが――十兵衛の顔色がしだいに変わって来た。この声には、たしかにききおぼえがある。きゃつ、だれだ? おぼえがあるのに、それがだれだか思い出せない。脳髄をかきむしられるようないらだたしさであった。
――何者であろうと、こいつ和歌山から追って来た奴にちがいないが、はて、いつおれたちを追いぬいて先回りしたのだろう?
「おれはまさに、うぬらの狙っておる男だ。そのおれがこう堂々と来た上は、こやつ、この女、煮て食おうが焼いて食おうが文句はいわぬ、という約定であったな?」
「笠をとれ」
と、十兵衛はさけんだ。
「堂々と――と申すなら、|面《めん》|体《てい》を見せろ」
「この女を始末してから顔を見せてやろう」
石段の上と下、当然不利だと承知しつつ、その一語に十兵衛はわれを忘れて石段に足をかけた。
「十兵衛、追いつかぬ。この女、おれのひとひねりで冥土へ飛ぶぞ」
「姉上!」
と、弥太郎がさけんだ。いままであっけにとられ、眼をパチクリさせていたのだが、ようやく姉がいまこの世のものならぬ地獄の責苦にあえいでいることがわかったらしい。
走りのぼろうとして十兵衛は、深編笠よりさらに上の十人衆のうごきに眼をやって、もういちど、
「――来るな!」
と、絶叫した。
このとき、それまで金縛りになっていた十人衆のうちからもっとも熱血児の北条主税が、一閃、仕込み杖をぬきはなつと、真っ逆おとしに石段を馳せ下って来た。
来るなと十兵衛がさけんだときは、すでに北条主税は金時みたいなまっかな顔をして、深編笠の頭上から襲いかかっている。
十兵衛の方を見おろしていた深編笠は、しかしおひろを離さず、二三歩すういと横にながれるようにうごいた。主税の仕込み杖はただその編笠をかすめたばかり――|空《くう》をくらって、ドドドドと駆けおりる主税とならんで、深編笠はおひろをとらえたまま、これまた同じ速度で二三段駆けおりた。
凄じい血しぶきが石段のまんなかあたりに立った。
十兵衛のわずかに避けた足もとを、北条主税だけがころがり落ちて来た。――ただし、三つの肉塊に分けられて。
石だたみの上にたたきつけられたのは、首と、胴と、腰から下の両足であった。
――つづいて殺到しようとした柳生十人衆、いや九人衆は、あやうく山門にからみついて、眼下の光景を見おろして、みな信じられない眼つきをしていた。なんたる神技、深編笠はならんで五六段駆けおりるあいだに、北条主税の首を|刎《は》ね、|燕返《つばめがえ》しにその胴を切断していたのである。
――剣の遊びだ。曲斬りだ。
夢魔でも見るような眼をその|殺《さつ》|戮《りく》|者《しゃ》に返して、彼らは、
「――おう」
と、思わずどよめいた。
北条主税の刀がどこをかすめたか、その武士の深編笠はちぎれとんで、やっといまごろハタハタと石段をまろび落ちてゆく。
しかし、顔はあらわれなかった。あらわれたのは柿色の頭巾であった。その頭巾の尖端がゆっくりと自然にもちあがって来てピンと立ち、異様にとんがった三角形をかたちづくった。
「ふふん。――」
だらりと下げた刀身のさきから、ぽとっ、ぽとっ、と鮮血のしずくをおとしながら、三角頭巾の中のきれながの眼が、にんがりと苦笑した。
いちど北条主税の無惨なかばねを見やった十兵衛は、その眼を頭上の三角頭巾にあげて、
「――やっ、うぬは。……」
彼らしくもない、ただならぬうめきの声を放っていた。そうはうめいたものの、あと息をひいて、こんどは十兵衛もまた信じられない眼となっている。
「田宮坊太郎。――」
「はて、それが敵の中におることは、うぬはとっくに承知ではなかったのか?」
と、三角頭巾はなお笑みをふくんだ声でいった。
「いや、柳生十兵衛、久しぶりだな、なつかしいぞ」
これがもう何年かの昔。――江戸の柳生道場で、十兵衛みずから手をとって教えたこともある田宮坊太郎のせりふであった。
「知らぬ仲ではない。――と知られた上は、十兵衛、ちょっと話がある。――」
【四】
敵中に田宮坊太郎ありということは木村助九郎からきき、彼もたしかに口にはした。
しかし、頭巾のあいだからのぞく眼ではっと気づき、相手みずからもそう名乗るのをきいて――十兵衛の驚愕はいかばかりか。
田宮坊太郎は現実に生きている。しかも。――
かつて十兵衛は坊太郎を教えた。例によって漂泊の旅に出ていた十兵衛が、ぶらりと江戸に帰ったとき、そこにいるたくさんの門人中に鶏群の一鶴ともいうべき少年を見た。十兵衛がみずから弟子に指南するということは、本人の例の不精からあまりないことであったが、その少年が父の仇討ちのために入門した孤児であるときいて、珍しく稽古をつけてやった。ごく短い期間のことで、師というべきほどの立ち場ではなかったかもしれないが、のちにその少年がみごと剛敵をたおして首尾よく本懐をとげたということを、旅できいた彼は会心の笑みを浮かべたし、その若者が病死したという風聞を柳生の庄で耳にしたときは、「――惜しいかな」と哀傷の念を禁じ得なかったのだ。
たんに敵討ちという事件を起こしたせいばかりではなく、忘れることのできない白面の一剣士ではあった。その天才的な素質に於て、またひたむきな剣法への情熱に於て、また可憐なばかりの礼儀正しさに於て。
それが。――いま。
「十兵衛」
と、横柄に呼び、そして、ふふっと笑った。
「怒るな、呼びすてに呼ぶのは、心やすだてからだ。つまり、おまえを敵とは思うておらぬからだ。……どうじゃ、十兵衛、われらの仲間にならぬか?」
猫なで声というより、若いだけに、甘美ともいうべき声だ。
「話というのはそれだが、仲間になるというなら、あとをつづける。……」
「仲間になろう」
「――や、なってくれるか」
「うぬら化物が、おれとまともに立ち合える奴らと認めたならばだ」
「――ほう」
「田宮、あれからどれほど上達したか、師匠の十兵衛が見てやろう」
見あげている十兵衛の隻眼がニヤリと笑った。
「まず片腕でもたたっ斬って、話はそれからきく。……女を離せ」
「――片腕を」
と、田宮坊太郎はつぶやいた。
これは偶然の一語であったが、坊太郎には、たんなる挑戦の言葉以上の刺激を喚起したらしい。
「田宮、その娘を離せ」
「片腕を、なあ。……」
三角頭巾の中の眼が、これまたニヤリと笑うと、
「いや、要らざる用談をもちかけた。やはり、おまえもそれを望むか、柳生十兵衛」
そしてその眼が、凄絶無比の妖光をおびて、
「そこどけ、十兵衛」
と、あごをしゃくった。
「来るか、田宮。――」
といって、十兵衛はふいに、
「来てはならぬと申すに!」
と、夕風に叱咤した。――これは、山門の上にむらがる弟子たちにふたたびみなぎり出した殺意を見てとったからだ。きゃつら、性懲りもなく。――
「来れば、北条主税の二の舞いを演ずるだけだぞ!」
相手がわるい。田宮坊太郎よりも上にいるということは、この場合、柳生十人衆にとって決して有利ではない。石段という足場の悪さは、田宮の妖刀に各個撃破の恰好の舞台となるだけだろう。
「その通りだ」
ふりかえりもせず坊太郎は一歩下りて、
「こちらからゆく。……十兵衛、ちょっとわきへどいてくれ」
「――ばかめ!」
「いや、勝負は一刻待て。そのまえに、わしは少々山の下へ用がある。――」
田宮坊太郎は、実にひとをくった、妙なことをいい出した。
「逃げるわけではないぞ、一刻待てばきっと帰ってくる。あらためて、十兵衛、勝負をしよう。おまえがわしの腕を斬るか、わしがおまえの耳を斬るか。――」
この意味は十兵衛にはわからないが、わからないなりにぞっとするようなつぶやきだ。が、それより十兵衛は先刻からのおひろの苦悶を見るにたえかねて、三度声をしぼった。
「好きなようにしろ、田宮、しかしその娘の手を離せ」
「そうは参らぬ」
「なに?」
「これはもらってゆく」
「ひ、卑怯だろう、田宮。――」
「卑怯ではない。江戸の隠密、女をふくめて煮て食おうが焼いて食おうがこっちの勝手だ、という約束であったな。だから、もらってゆくというのだ。うふふ、殺しはせぬよ、山の下で然るべく処置して、わしはまた戻ってくる。女は女、うぬはうぬだ。女は斬らぬと申すのを、せめてもの慈悲と思え」
坊太郎はまた石段を一歩下りた。
「十兵衛、そのあいだ、おまえこそここを逃げるなよ。……その保証に、もうひとつ条件をつける。十兵衛、その小わっぱを残し、うぬはそこを十歩横に離れろ。わしは小わっぱとともに麓に下りる。いや、女はもらうが、そんな河童みたいな餓鬼は要らぬ。餓鬼は人質よ。わしといっしょにまたひきかえし、欲しくばかならずもどしてやる。うぬがここに待っておればだ」
いいたい放題のことをいう。しかも、
「この条件、いやというならそれでもよい。ここでこの娘に血へどを吐かせ、単刀直入、うぬとここで立ち合ってもよい。わしは一向かまわぬが――十兵衛、その方がよいか」
さしもの十兵衛が、満面を朱に染めたまま、声もない。――
「あと三段、わしが下りるあいだに、十兵衛どくか、女を死なすか?」
「殺して!」
おひろが絶叫した。
真一文字に斬り落された一人の男の酸鼻さと、それにつづく三角頭巾と十兵衛とのやりとりの|凄《せい》|愴《そう》さに気圧されたか、しばしまたポカンと口をあけていた弥太郎が、姉の皮膚のどこかが裂けたようなさけびに、
「姉上!」
と、狂ったようにさけんで、トトトトとまた石段を駆けのぼり出した。
つかつかと十兵衛は大股にその前に出た。少年をかばうように、しかしいとも無造作に石段を上って、しかし、田宮坊太郎とあと十段ほどの間隔でピタリととまった。
坊太郎も下りてくる足を静止させた。「三段下りるまで」と彼はいった。しかし彼は、二段下りただけで、あと一歩が踏み出せなくなった。
坊太郎は片手におひろをとらえたまま、片手に血刀をひっさげている。十兵衛は刀のつかに手をかけただけである。
上と下。
もとより、上が有利だ。しかも。――
先刻、田宮の凄じい手練を見たものの、なお十兵衛はかつて彼を教えた者という意識があったが、いま彼と相対して、あの少年が別人ともいうべき剣鬼と成長していることを知った。……あと数歩ちかづき、こちらの刀が|鞘《さや》|走《ばし》ったとき、じぶんは脳天から唐竹割りになっているだろう。
一方、田宮の方は。
下かららんとにらみあげている柳生十兵衛の隻眼を見ているうちに、ふっと目まいがして、そうしているだけでじぶんが石段の下にまろび落ちそうな感覚に襲われて来た。
さなきだに青味がかっていた薄暮の青岸渡寺の山門|界《かい》|隈《わい》は、夏というのにいま蒼々と氷にとざされた風景に化したかと思われる。――
「十兵衛」
わずかに坊太郎は、彼とは思われぬ|喘《ぜん》|鳴《めい》を発した。一触即発の十兵衛の剣気を感じたのだ。
「この娘を斬るぞ」
十兵衛の剣気が氷結し、動揺した。
「刀を捨てろ」
「卑怯」
相手の動揺を見てとって、坊太郎の顔がかすかにゆがんだ。美しい、醜怪な笑いがにじんだ。
「十兵衛、この女を殺してよいか。……」
この数十秒のあいだ、さしもの二人も、彼ら以外の世界に何が起こっているのか、視界にうつす余裕はなかった。
【五】
これよりまえ。
石段の光景を見下ろして、歯をくいしばり一語も発せず、しかも眼と眼を見かわして飛び出そうとするお縫とお雛を、十人衆中の年輩者金丸内匠と戸田五太夫がおさえた。
それから二人は石段の上にながながと寝た。金丸内匠は戸田五太夫の両足にしっかとかじりついて。――
「みんな寝ろ」
「わしの足をこうして抱け」
内匠と五太夫は仲間にささやいた。
「つながって、一本の棒になれ」
「いや、そんなに長くなる必要はない。二本の棒になれ」
不審な眼と抵抗するような眼を、二人はこれまた眼で叱って、
「いそげ、仕込み杖は捨てろ」
と、いった。
五人と四人、相つながった長い二本の人間の棒が、石段の上に横たわった。仕込み杖は地に置いて、音もなく。――
「では、柳生流、ひよどり越えの――」
「逆おとし!」
小さな声だが、五太夫と内匠はにやっと笑ったようだ。
そして、いきなりこの人間の二本の棒は、相ついで横ざまにごろごろと数十段の石段をころげおち出したのである。
石と肉の相打つ、ドドドド……という異様な地ひびきに、田宮坊太郎がふりむいてはっとしたときは、この巻かれた奇怪な人間|絨緞《じゅうたん》はすぐ背後にあった。
これが立って忍び寄った敵なら、それに対する彼の反応は剣士としての秩序を持ったものであったろう。しかし、これはあまりにも意表をついた、ばかばかしいともいえる――それだけに処置のない襲撃であった。
さすがの坊太郎も|狼《ろう》|狽《ばい》した。はじめて彼はおひろの手を離した。
二本の人間の|鎖《くさり》は回転しつつ石段を落ちていった。
石段の途中に立っていた三人は、当然これに巻きこまれて、ともに落ちていったか。――いや!
三人の反応は三様であった。
手を離されたおひろは泳ぎつつ、人間の棒の上をすれすれに|擦《す》って、垂直に石段に|這《は》った。――無意識、必死の体術ながら、魔の手から解き放たれて、はじめて父関口柔心の教えと柳生城での鍛練がよみがえったのである。
田宮坊太郎と柳生十兵衛は、大きく宙に飛んでいた。両人の足の下を、十人衆の鎖は通り過ぎた。
たんに跳躍したのではなく、その|刹《せつ》|那《な》、坊太郎は十兵衛の頭上から大刀をふるって襲いかかっていたのである。――もとより十兵衛を斬ったあとおのれがどうなるか、計算外の捨て身の行動だ。
柳生十兵衛も同時に石段を蹴っていた。同時に、ではない、文字通り、一瞬、彼の方が行動を起こすのが早かった。それは十兵衛の方が、当然、石段の上から落ちてくる人間群を発見するのが早かったから。
ぱあっと空中で血の花火がひらいた。
魔界転生の剣鬼田宮坊太郎は股から腹へかけて逆に斬り裂かれ、跳躍したおのれ自身の速度を加えて、もんどり打って石段をころげおちていった。空に散った血しぶきは、雨となってそのあとを追った。
十兵衛は石段の上に飛びおりている。
さすがにグラリと姿勢が崩れかかったが、みごとな反射作用で足をたてなおすと、|鞭《むち》のように反転し、ふりかえった。
彼の顔から血の気がひいたのは、はるか石段の真下の石だたみにたたきつけられた田宮坊太郎が、もはやピクリともうごかないのを見おろしてからであった。
|蒼《あお》ざめたのは、いまの決闘の勝敗が一髪の差で決したことを思ったからだ。
……きゃつ、人間とは思われなんだ。化物か?
「おひろさまーっ」
そのときようやくのどから声が出たとみえて、山門の上からお雛とお縫が駆けおりて来て、石段につっ伏したままのおひろにすがりついた。
なかば失神していたおひろがかすかに顔をあげたのを見て、十兵衛は血刀をぬぐって|鞘《さや》におさめ、スタスタと石だたみの方へおりていった。
【六】
石だたみの上はたいへんだ。
さきに三つになって散乱している北条主税の死骸、次に斬りおとされた田宮坊太郎の死骸。石段からかけてあたりいちめん、那智の滝ならぬ血の滝と化した石だたみの上に――さすがに二本の人間の鎖はあちこちと分断したものの、まだ強情につながっている奴がある。
「ううむ」
「|痛《つ》う」
「なにくそ!」
数十段の石段をころがりおちた打撲はもちろんひどいものだろうし、骨折や脱臼をした者もあるに相違ない。
「ざ、残念だ!」
とうめいた声は|精《せい》|悍《かん》な小栗丈馬で、
「なにが残念」
ときいたのは|朴《ぼく》|訥《とつ》な三枝麻右衛門だ。
「や、柳生十人衆ともあろう者が、敵を前にして刀を捨て、丸太ン棒のごとくただ石段をころがりおちるとは不本意千万だ。……戸田老、ひどいことをかんがえる」
「みろ、しかし十兵衛さまは、みごとあの三角頭巾を討たれたぞ!」
と、戸田五太夫がいえば、金丸内匠が十兵衛をみて、地上からニヤリと笑った。
「先生の方がさきにわれらに気づかれるであろう――そこを狙ったこの兵法、いかがでござる?」
――その通りだ、と十兵衛はうなずき、さらにそのとき、
「十兵衛のおじちゃん」
呼ぶ声にふりむいて、弥太郎がくびねっことおしりをつかまえられて、仰むけになったひとりの男にそのまま宙にさしあげられているのを見て、
――負けた!
と、思った。
石段の下の方に立っていた少年弥太郎を、ころがりおちながらつかまえて空中にささえているのは、まだ十七歳の小屋小三郎であった。
「先生、たすけてくれ、このおじちゃん、おれをはなさないんだよ!」
「どうした」
「手がうごかないんです」
と、小屋小三郎はいった。
十兵衛はちかづき、弥太郎を抱きとり、その帯をつかんだ小三郎の指が折れまがったまま硬直しているのを一本一本離した。くびを支えていた腕はなおしばし空中につっ立っていたが、やがて奇妙な骨の音をたてて、バタリと地にたおれた。
「|痛《つ》う」
顔ひきゆがめる小三郎の肩にふれて、
「骨がはずれておるぞ」
と、十兵衛はいって、舌を巻いた。
石だたみの上に落ちる直前、小屋小三郎は人間の|鎖《くさり》を解いて縦になりながら、そこに立っていた少年をひっつかんで支え、頭からさかさまに石段をズリ落ちたらしいが、その猛烈な力学的変化で、みずからの肩の骨を脱臼したのである。しかも彼は宙に支えた弥太郎を離さなかった。――
上から三人の娘が駆け下りて来た。
「弥太郎!」
「姉上!」
相擁する姉弟をちらと見つつ、十兵衛は田宮坊太郎の傍に歩み寄って、柿色の三角|頭《ず》|巾《きん》をむしりとった。
――彼の知っていた少年坊太郎は青年に変化していたが、|凄《すさま》じい死相はあきらかに田宮坊太郎そのひとにまぎれもなかった。
「先生。……田宮坊太郎、に相違ござりませぬか?」
石だたみを這って来ながら、磯谷千八がきいた。
「相違ない。死んだときいていた奴が生きておった。化物だ。――化物でも、死ぬと見える」
はじめて十兵衛は、彼らしい|諧謔《かいぎゃく》をとばした。
「いや、まだわからぬぞ。……お雛、お縫、おひろ、|敵《かたき》の一人だ。とどめを刺しておけ」
――化物退治第一番、と胸でつぶやいたとき、十兵衛の頬からは笑いが消えていた。田宮坊太郎は生きていた。すると、あと、木村助九郎からきいていた妖しい名の剣士連も。――
想像を超える奇怪事ながら、それが決して荒唐無稽のことではなく、現実そのものであることが、いまあらためて彼の胸をしめつけはじめたのである。たとえ偽者にしても、その名の本人に匹敵する恐るべき敵、とは覚悟していたが、偽者と本人とはまったくちがう。本人ということが世にあり得べからざることだから、いっそう恐怖的なのだ。
――これは天下の一大事だ。
大袈裟ではなく、十兵衛はそううめいて戦慄した。
しかも彼はこのとき、敵がルールをまもるかぎり、紀州藩の秘密を公儀に告げぬ、と誓った自分の約束を思い出したのである。
――いずれにしても、あとにはひけぬ。
迫りくる夕闇の中に、惨たる北条主税のかばねに片手をあげて弔いながら、十兵衛はつぶやいた。
「いいや、ひけといってもおれはひかぬ。……」
岸うつ波
【一】
「ふだらくや岸うつ波は」
「三熊野の」
「那智のお山にひびく滝つ瀬。――」
声は|銅《ど》|鑼《ら》声だが、鈴の音は澄んでいる。那智山を下りて海沿いの熊野路まで出ると、南国の太陽はまだ夏の白光をふりそそいでいるが、海の色にはどこか初秋の|冴《さ》えがあった。
霊場第一番、青岸渡寺を出て、西国巡礼の途に立った柳生衆のむれである。それに三人の娘、弥太郎少年、さらにむろん柳生十兵衛が加わっているから、白い渡り鳥のむれを見るような光景だ。――もっとも十兵衛だけは、例の黒い着ながしのままだが。
実はあれから十余日、彼らは青岸渡寺の宿坊に泊まっていた。泊まっていたというより、治療していたといった方が正確だ。柳生衆全員、数十段の石段をころがりおちたのだから、全治に十余日かかったのは当然だし、むしろそれくらいの日数ですんだのは、ふだん鍛練に余念もなかった彼らなればこそといえる。
「いそぐ旅ではない。あまり早く第二番札所の紀三井寺にいってはかえってこまる」
と、十兵衛はおちついたものであった。
もとより、その間、紀州藩ないし魔剣士たちの襲撃には警戒した。あの凄じい決闘のあとは青岸渡寺の坊さまも見て胆をつぶしたから、むろんそれについての届けは出したろうし、だいいちまずここに来るということはあらかじめ十兵衛が宣言しているのだから、田宮以外の敵も知らないはずはないのだが――その間ついに何事もない。
――敵ながらあっぱれ、一応約定は守っておるようだな。
ただひとり乗りこんで来たかに見えた田宮坊太郎を思い出し、十兵衛はうなずいたが、あれっきり粛としずまりかえっている敵には、やはりいささかぶきみの感なきを得ない。
さまざまの思いを、|不精《ぶしょう》ッたらしい表情につつんで、小猫みたいにじゃれかかる弥太郎の相手になりながら、自若として|煙管《きせる》からけむりの輪を吐いている十兵衛にくらべて、むしろはやりにはやるのは九人の柳生衆であった。
「……先生、来ませぬな」
「まず田宮坊太郎を血まつりにあげられて、敵の胆もちぢみあがったとみえます」
「こうなれば、こっちから押し出してゆかねばらち[#「らち」に傍点]があきますまい」
「ゆきましょう、先生!」
――で、いま、ようやく青岸渡寺に別れを告げた。
そろいの菅笠には、まんなかから四方に、
「本来無東西
何処有南北
迷故三界城
悟故十方空」
すなわち「本来東西なく、いずくにか南北あらん、迷うがゆえに三界は城なり、悟れば十方これ空」という意味の文字を書きながし、それに「奉巡礼西国霊場」という文字と、「同行十六人」という文字を|挟《はさ》んで書いてある。
この十六人の中には、死んだ北条主税と少年弥太郎も入っていた。
青岸渡寺に逗留しているあいだに、弥太郎は三人の娘に、愛らしい白衣や|笈《おい》|摺《ずる》、手甲脚絆まで縫ってもらい、柳生衆にやはり七歳然とした金剛杖を作ってもらい、チリン、チリン……と面白そうに小さな鈴をふり鳴らして、
「ふらふらや――ふらくだや――」
「ふだらくだ」
と、逸見瀬兵衛に訂正されて、
「ふだらくって、なんのこと? ひげのおじちゃん」
「や、そうきかれると、おれにも何のことかわからん、先生、どういう意味でござる」
「おれもよく知らんが、観音が住んでおるという天竺の山の名ではないか」
十兵衛も少々あいまいな顔をしている。
「じだらくや――とくると、これは先生のお住まいになる山となりますな」
「けだらけや――となると、これはおまえだ」
あくまでも蒼く明るい南紀の空に、どっと哄笑が湧く。
三人の娘たちまで思わず笑い出した。――笑うべからざる旅なのに。
笑うどころか、これはいのちを賭けた壮絶な敵討ちの旅だ。しかも五十五万石の敵地のまっただ中に入り、妖気ただよう魔剣士のむれを当面の敵として。
その一人、田宮坊太郎を斬るには斬ったが、それがいかに恐るべき敵であったかはまざまざと思い知らされている。犠牲者が北条主税ひとりであったのはむしろ僥倖だ。
で、柳生衆九人と、十兵衛、弥太郎、娘三人の、正確にいえば同行十四人。
これに、たとえ死者の北条主税の魂までつれてゆくとしても十五人のはずなのに、「同行十六人」と笠にかいたのは、もうひとり観音さまを仲間に数えるのがこの巡礼道の慣習であるからだ。
観世音菩薩が見そなわすには、あまりにももの凄じい旅だ。それを、表情はともかく、はっきりと明察しているのは柳生十兵衛だけで、三人の娘もどれだけ見通しているか、どうか。
柳生十人衆の面々にいたっては、まず|劈《へき》|頭《とう》に強敵の一人を|屠《ほふ》り去ったことで心|驕《おご》り、あのときの痛さをケロリと忘れた様子で、いたずらにはしゃぎにはしゃいでいるとしか思われない。――
――こわさ知らずは、しかしこやつらの大した取柄だ。
十兵衛は彼らをふりむいて微笑する。またなぜか、眼にフワと涙がにじんでくるのを禁じ得ない。
さて、十兵衛は深編笠に日ざしをさえぎり、あと大小十三の菅笠をつらねて熊野路を南から踏み出した十四人。右手につく金剛杖は、にぎりの上部を角塔婆のように刻んであるが、これも悪魔降伏を祈る巡礼独特の杖で、しかもこの一行にかぎって、なかみは、はや秋の気を吸った三尺の刀身となっている。
左手に振る鈴は、チリン、チリン……と、いとも信心ぶかげな、美しい音をたててゆくけれど。――
【二】
|天《て》|満《ま》。
|太《たい》|地《ち》。
下里。
熊野路を西へ。――いずれも、いわゆる熊野灘に面する、明るく、荒々しく、ものさびた漁村だ。
この海沿いの熊野街道を、古来|大《おお》|辺《へ》|路《ち》ともいう。
「熊野年代記」に、孝徳天皇の大化五年熊野参詣人道を作るとある。いわゆる大化の改新の時代だから、いかにこの熊野詣での官道が古来に作られたか知るべきであろう。
それどころか、「日本書紀」によれば、いざなみのみことを葬ったのはこのあたりだともいう。――してみれば、いざなぎのみことが、いざなみのみことに追われて逃げた例の|黄泉《よみの》|坂《さか》は、この街道のどこかにあったのかもしれない。
その伝説的というより神話的な熊野路をゆく十三人の巡礼と深編笠の柳生十兵衛。この道程にいまも黄泉坂がないとは、だれが保証しよう。いや、その名は知らずとも、これが死山血河の旅であることは、とくと承知している。むしろ、それを目的としている。――
が、一見、これは実に平和的な風物詩だ。
さきをゆく九人の柳生衆は声高に談笑し、また例の|銅《ど》|鑼《ら》声で御詠歌を朗唱し、ややおくれて三人の娘巡礼が鈴を振り鳴らし、またややおくれて、巡礼のこびと然とした弥太郎少年と十兵衛がゆく。実はこれで、三人の娘たちを護衛しているつもりなのである。
街道は海に沿う。いたるところで、怒濤が彼らにちりかかる。そんなところにくると弥太郎は、しぶきとたわむれ、波をからかって、ちょっとやそっとで離れようとはしない。それをまた十兵衛は叱りもせず、せきもせず、いつまでも微笑して待っている。
彼がいったように、これは急ぐ旅ではない。紀州の大地を|遊《ゆう》|弋《よく》すること、それ自体が目的なのだ。まるで、熊野灘の鯨のように。
二里歩いて半日休息し、三里歩いて一夜泊まる。
青岸渡寺からわずか六里足らずの古座の村にちかづいたのは、その翌日の夕焼けのころ。
この間、何事もなかったが、異変はこの村で起こった。
この古座には、ちょっと気にかかる記憶がある。青岸渡寺へゆく途中、このあたりに紀州藩の足軽どもが右往左往していたことだ。それからまた三十一人いたその足軽が、二十九人にへっていたことだ。で、ひょいと虫が知らせて十兵衛は青岸渡寺へ急行したのだが、足軽がへっていたということに関しては、彼はもうなかば忘れている。
二人へったというのは弥太郎の勘定だし、そのときその二人がどこかへ所用で姿を消していたのかもしれないし、だいいちあのときの足軽どもの様子からみて、直接こちらに関係したむれであったとは思われない。――
しかし、やっぱりいささか気にかかる。――と、あのときの記憶を|反《はん》|芻《すう》しつつ歩いている十兵衛の前方で、どっと柳生衆がどよめいた。
――きたか!
と、きっとしてながめやった十兵衛の眼に、乱れ立った柳生衆のあいだから、まろぶように駆け寄ってくるひとりの女の姿が見えた。それが――一方の袖はちぎれ、ひとつの乳房もあらわになった半裸の姿だ。
そして、その向こうに、もうひとり駆けてくる白衣に白い袴をはいた男が見え、さらに砂塵をあげて追ってくる足軽のむれが見えた。
――そも、何が起こったのか。
十兵衛もめんくらったが、柳生衆たちはそれ以上にめんくらった。思わず、どっと道をひらいて、女を通す。柳生衆を割って、こちらへ逃げて来た女は、十兵衛の深編笠姿を武士と見て、
「お助け下さいまし!」
と、しがみついた。
そのとき、柳生衆がまたいっせいに何かさけんだ。
十兵衛にその光景は見えなかったが、柳生衆のすぐ眼前で、もうひとりの男に追いすがった足軽のひとりが、いきなりうしろから槍で串刺しにしたのである。
たまぎるようなさけびをあげ、その男は虚空をつかんでたおれた。
「あっ、お父さま!」
その絶叫をきいて、十兵衛にすがりついていた娘は、狂ったように駆けもどろうとした。
「待て」
と、十兵衛がとめるよりはやく、前方で柳生衆が足軽たちと相対した。
「な、なんだ、うぬらは?」
「そこどけ、巡礼」
足軽たちが、眼をつりあげてわめいた。
「そちらこそ、何をした」
「あまりといえば、無残な所業。――」
と、小栗丈馬と逸見瀬兵衛がこれに応ずる。
「なにっ、当国内、とくべつのおぼしめしを以て通行さしゆるされておる西国巡礼の身を以て、紀州藩に向かって身のほど知らずなまねをするか」
「われらは、藩命を以て行動しておるものだぞ」
「あの女、この男、親子そろって藩命に従わぬから|誅戮《ちゅうりく》を加えたのだ」
「無用なじゃまだてすると、うぬらもこの場で串刺しにするぞ!」
三枝麻右衛門が、このときとんきょうな声を出した。
「藩命? ……ははあ、あのことか?」
「大納言の女狩り。――」
と、いいかけた磯谷千八を、そばの戸田五太夫が、「しいっ」と制したが、遅かった。
足軽のひとりが血相かえて、
「うぬ、いま何といった?」
「ああ、いや、御領内でただいま美女えらび――いや、御奉公の女どもをお召しになっていることは、うすうすながら噂に承っておりましたが、なるほどこれはわたしども巡礼にとってはかかわりのないこと。――」
と、五太夫は陳弁したが、眼が前方の死体にむけられると、
「それにしても、これはひどい。――」
と、やっぱり本音を吐いた。
彼らはもとより、お縫たちから例のいきさつをきいている。いっせいに、思いあたった。怒りが顔にあらわれ、思わず知らず態度が硬化したのは是非もない。
「ええ、うるさい、どけ、どかぬと。――」
と、数人の足軽がまた槍をとりなおしたとき、これまで娘をおさえたまま、じいっとこの問答をきいていた十兵衛が、ツ、ツ、ツ――と前へ出ると、いきなり真っ正面の足軽を袈裟がけに斬った。
白日の下にあがった血けむりに、わっと足軽たちはとびずさった。
不意討ちではない、充分身構え、殺気|横《おう》|溢《いつ》していた奴を、まるで大根でも斬るように無造作に斬った。
「……大和の柳生十兵衛じゃ」
と、編笠の下で、十兵衛はいった。
「文句があればおれに言え。いや、そう大納言さまに告げろ」
――足軽たちに声なきどよめきがもれ、それから金縛りになったように立ちすくんでいる。
十兵衛は、しかし、妙な気持ちだ。
足軽たちの行為も乱暴だが、十兵衛のしたこともそれに劣らぬずいぶん乱暴な手段だ。が、彼としてはたんなる正義感でやったことではない。――いま見ていると、精悍な小栗丈馬と少年小屋小三郎の仕込み杖が、キラと|鞘《さや》|走《ばし》りそうで、とっさにそれをふせぐためもあったのだ。
では、こちらの一行と紀州藩の足軽たちとの全面衝突を回避したいという心情からであったのかというと、あながちそうでもない。だいいち、じぶんが斬っては回避にならない。
何か――十兵衛は、この足軽たちに妙なものを感じた。それが、どういうものかはじぶんにも判然としない。一種の本能だ。――で、彼らしいやりかただが、いきなり向こうの横っ面をひっぱたく、いやひっぱたくどころではない、一人バッサリたたっ斬るという方法で、向こうの反応を見ようとした。
足軽たちはぼんやりと立ちすくんでいる。ちらとおたがいに顔見合わせると、動揺が起こって、みなものもいわずに、どっと逃げかえっていった。
「……柳生十兵衛、という名は、紀州の足軽たちもきき知っていたと見えますな」
「その名をきいて、雲を霞と逃げ去ったのもあたりまえ。――」
寄って来て、眼をかがやかせる磯谷千八や平岡慶之助に、しかし十兵衛は、どうにも煮え切らない表情をしていた。
「……要らざる殺生をしたか?」
先刻の娘が走りよって、路上にたおれた白衣の男にしがみつき、狂乱したように泣き出した。
「――お父さま。……お父さまっ」
――きいたおぼえのある声だ。かつて木村助九郎のむくろにむかって投げたお縫とおなじ、はらわたのちぎれるような悲痛な娘の声であった。
「おなじことです」
「わたしたちと」
眼を見張ってこれまでのなりゆきを見ていたお縫とお雛が、きっとなっていった。むろん彼女たちもあのときのかなしみを思い出して、身につまされずにはいられなかったのであろう。
――よくぞ、斬って下された!
というような、感謝の心すらこもった眼で彼女たちが見あげれば、枯れた人柄の金丸内匠までが、
「よう、おやりなされた」
と、これは口に出していい、声をひそめて、
「紀州藩のことがお気がかりかな?」
と、いった。
「何事が起ころうと、いかなる事態と相なろうと、拙者ども覚悟の上で乗りこんで来ておりまするが。……」
「そんなことではない」
と、十兵衛はいったが、しかしまだどこか釈然としないところがある。
いまの足軽たちだ。何かおかしな感じがして、手荒い一撃を加えてみたが、彼らはなすところなく逃げ去った。それが、いまの奴、なぜかみずから故意に、大根みたいに斬られた――ような気がしたのだ。まさか、そんなばかなことはあり得ないのに。
実に説明しがたい|漠《ばく》たる疑惑だから、そういったきり十兵衛は、路上の父の死骸にとりすがって泣きくずれている娘の傍へちかよった。
「娘御」
と、あらためてきく。
「あの足軽どもは、そなたをさらいに来たのか。さらおうとしたのか」
娘はむせびつつ、うなずいた。十兵衛は、背から胸へ、槍でつらぬかれて即死している男の血に染まった白い衣服を見て、
「お父上は、神職の方か」
娘はまたうなずいた。
「どこの神社」
「|産《うぶ》|土《すな》神社」
と、答えながら、娘ははじめて顔をあげて十兵衛を見た。
さすがの十兵衛が、このとき思わず眼をそらした。乱れぬいた黒髪、片腕と一方の乳房がむき出しになったきもの、それにも父の血潮が点々とにじんで――しかも、ぞっとするほどの美貌なのだ。泣きはれた眼、わななく唇、あえぐ胸、それが照りつける初秋の日光の下に、凄艶というより、なぜかこの場合、淫猥とすらいっていい印象を吹きつけた。なるほどこれでは、紀州藩の侍たちの女狩りの対象になるのもむりはない。――
「きのどくだが、がまんするよりほかはないな」
わざと、冷淡な調子でいって、
「村へいって、だれかに迎えにくるようにいっておく。ここで待っておるがよかろう」
と、十兵衛はいい、
「ゆこう」
と、柳生衆たちをうながした。
【三】
「だ、大丈夫でござるか?」
と、伊達左十郎が、こくりと生唾をのみ、娘をふりかえった。捨ておいていいのか、という意味だ。みんな同じ思いの表情であった。
「村へいって、あの足軽どもまだウロウロしておったら、ひっつかまえて、念のため釘をさしておこう。おれから少々ききたいこともある」
そういって十兵衛は、さきにスタスタ歩き出した。
父親を惨殺された娘は悲惨のきわみだが、さればとていまの場合、これにかかずらっていても、これ以上どうしてやるということもできないし、また十兵衛にそういわれれば、そうだ、あの足軽たちをしめあげれば、敵の内情の一端でもつかめるかもしれぬ、と思いなおして、柳生衆たちもそのあとを追った。
「先生」
と、弥太郎が十兵衛の袖をひいた。
「ついてくるよ」
みんな、ふりむいた。
いまの娘が歩いてくる。父親の死骸と離れて、血まみれの半裸の姿のまま、フラフラとついてくる。
顔つきが、異様だ。父親のあのような死を眼前に見て、すこし精神障害を起こしたのかもしれない。ついてくるのが村の方角だから、とめることもできない。
「捨ておけ」
と、十兵衛はいったが、お縫たちがひきかえしていった。
その娘をとりかこんで、彼女たちが何か問いかけたり、きもののみだれをなおしてやったりしながら、少しおくれてついてくる。
古座村に入った。
白日の下に、村の貧しげな家々は、どこも戸をしめきって、猫の子一匹見えなかった。が、気がつくと、あっちこっちのすきまから、不安げな眼がのぞいて、こちらから見返すと、さっと消えてしまう。さっき娘が産土神社といったが、おそらくこの村の鎮守の神社なのであろう。あのようなことがあっては、村中おびえきっているのもむりはない。
やっと、ひとり、漁師の女房らしい女をつかまえた。
「足軽たちはどうした」
と、きくと、
「あっち、あっち」
と、西の方を指さす。
すこし頭の弱いらしい女で、はっきりしないところもあったが、足軽たちはいま大あわてでこの村を通過して、西の方へ逃げていってしまったらしい。
とりにがしたのはちょっと惜しいが、それはまあいいとして――十兵衛は、その足軽たちをこの前この村で見かけたのは、もう十余日も前のことになると思い出した。そのあいだ彼らはこの村にずっと滞在していたのか、ときくと、そうではないらしい。
何でもこの古座から、もっと西の|周《す》|参《さ》|見《み》という村へかけて、山沿いにもう一本の街道が通っているらしい。海と山とに挟まれた熊野路には、珍しい一種のバイパスだ。足軽たちはずっとその脇街道を山の方へ入っていて、きょうふたたび現われて来たという。
では、その山間部の村々で、目ぼしい美しい女を探していたのであろうか。そのあたりの事情はよくわからない。
「産土神社はどこだ」
と、十兵衛はきいた。女はぼんやりとしている。
「そこの神主が殺されて、あそこの道にむくろがある。それから、あの娘をつれていってやれ」
漁師の女房は、意味もわからないようにくびをふった。
そのとき、お雛がそばに寄って来た。
「お品さんが見えませぬ」
「お品? とはだれだ」
「いまの娘です。名だけはききました。……いままでいっしょにいましたのに、ふと気がつくと、どこへ消えたのか。――」
「では、じぶんの家に駆けもどっていったのではないか」
ともかくも、この件はこのまま捨ておくよりほかはない。
古座村を出た。このあいだ、弥太郎が足軽の人数を数えた林の傍を通る。十兵衛はまだ足軽のことをかんがえている。
一人を斬られてなすすべもなく彼らが逃げ去ったのは、柳生十兵衛の名をきいてのことか。それを磯谷千八や平岡慶之助のいうように、じぶんの「剣名」のためだとは、まさか十兵衛は思わぬ。いかに足軽とはいえ、御三家の一つたる紀州家に奉公する者が、朋輩の一人を討たれて逃げかえったのは――この前は十兵衛のことを知らなかったが、その後の十余日のあいだに、和歌山から何らかの指令を受けたのであろうか。
「先生」
また弥太郎が十兵衛の袖をひいた。
「ついてくるよ」
みんな、ふりかえった。
先刻の娘がついてくる。見えなくなった、とお雛がいったあの娘が、いちどつくろってもらったきものをまた乱して、半裸の姿のまま、フラフラとついてくる。
みな、さっきよりも、心をうそ寒いものに襲われた。娘の顔つきが、異様だ。それはさっきも気がついて、父の死を目撃した一時的な錯乱かと思ったのだが、いまやあきらかに気の狂った人間の表情であった。
じいっと大きく見ひらいた眼をこちらにむけて――しかも、だれを見ている風でもなく、はだしの足で、空を踏むように歩いてくる。
「はてな」
十兵衛はくびをかしげて、
「古座へつれもどしてやれ」
と、柳生衆に命じた。
で、三枝麻右衛門と小屋小三郎が足を返して、その娘の手をとろうとすると、彼女はそれをふりはらって、ペタリと土の上に座ってしまった。
十兵衛は苦笑して、
「もういい、かまわずとゆけ」
と、いいすてて、歩き出した。
しばらくすると、弥太郎が袖をひいて、
「先生、またついてくるよ」
ほんとうだ。ふりむくと――いや、なんどふりかえってみても、もとの路上に座っているので、もうよかろうと安心して置いて来た狂女が――またフラフラとこちらに歩いてくる。
磯谷千八と伊達左十郎がもどりかけると、ペタリと路上に座ってしまう。
歩き出すと、またついてくる。
「こまったの」
十兵衛はあごに手をあて、ほんとうに困惑した表情になった。
「十兵衛さま」
お縫が、意を決したようにいい出した。
「つれていっておやりになったら、いかがでしょうか」
「ばかな! 気の狂った女を、この道中の道づれにしてどうするか」
「でも、あまり可哀そうで。――気が狂ったといっても、もとからそうであったおひととは思えませぬ。さっきのことで気がふれたのです。しばらくつれていってやったら、もとにかえるのではありますまいか」
「わたしたちと同じことです、十兵衛さま」
と、お雛もいった。
「わたしたちも気が狂わなかったのがふしぎなほどでした。あのひとがああなったのもよくわかります。先生、つれていってやって下さいまし!」
「それにしても、なぜ、こちらのあとについてくるのかな」
「さっき救ってもらったので、ありがたい、と心からそう思ったきもちだけが残って、あのようにすがりついてくるのではないでしょうか」
「あのおねえちゃん、泣いてるよ。――」
と、弥太郎がさけんだ。
いかにも、狂女は泣いていた。歩きながら、声もたてず、いっぱいに見ひらいた瞳から、涙がしずかに頬にひいている。――
「十兵衛さま、あのひとの世話はわたしたちが見ます。決してみなさまに御面倒をかけませぬゆえ――」
と、たまりかねたようにおひろがいうと、ひげの逸見瀬兵衛までが、
「先生、よろしいではござらぬか。どうせこの人数で紀州一国を敵として乗りこんで来たわれら、千辛万苦はもとより覚悟のうえでござる!」
と、うめくようにいい、
「いや、女衆ばかりに苦労はかけぬ。このわしも、とくと面倒を見る」
と、泣き上戸の伊達左十郎がもらい泣きしながらいった。
やんぬるかな。――と十兵衛がわずかにうなずいて、そのまま歩き出すと、三人の娘はうれしげに、ハタハタと狂女の方へ駆けもどっていった。
【四】
……おとなしい、実にあわれなほどおとなしい狂女だ。
さっきのようにじぶんを追い返すためではなく、迎えに来たのだということは、それでも本能的にわかったのであろう、涙をふき、きげんをなおした顔でついてくるが、それでもどこか哀しげで、いたいたしい。
三人の娘が何くれとなくいたわってやったのはむろんのことだが、あとの柳生衆の面々もじっとしてはいない。――三人の娘たちをおしのけんばかりに、
「おいっ、お品どのははだしではないか。だれか、草履をさがして来てやれ」
「次の村までゆかねば、そんなものはない。おれのわらじを貸そう。おれははだしでいい」
「ばか、そんな馬の|沓《くつ》みたいに大きなわらじがはけるか」
もとより同情はある、たいくつまぎれということもあるが、ただそればかりではなく、男にとってそのまま放置してはおけないような、いじらしさがその狂女にある。
「ちょっと大事な用を思い出した。小栗、これをあずかってくれ」
と、逸見瀬兵衛がじぶんの|笈《おい》をそそくさと下ろして、そばの小栗丈馬におしつけると、
「どうれ、串本までおれがおぶっていってやろう」
お品をまえに大きな背をむけて、しゃがみこんだ。
「さあ、おんぶ」
お品は頬もあからめず、その肩に両手をかけた。
逸見瀬兵衛は、得意満面で、のっしのっしと歩き出す。――してやられたと知った小栗丈馬が、瀬兵衛の笈をかかえたまま、ぷうっとふくれっつらをした。
それを見ていた弥太郎が、急に羨望の眼つきをして、そばの磯谷千八に、
「おじちゃん、おれもおんぶ」
と、甘えた。
「ね、おんぶってば!」
「うるさいっ」
と、それまで、これまたぽかんと逸見瀬兵衛の方を見ていた千八がどなったが、すぐにわれにかえって、
「いや、うるさいといったのは波の音だ。よしよしわかった。そうれ、おいで、坊主」
と、背をむけかかると、おひろが叱った。
「いけません、弥太郎、たったこれだけ歩いてもうおんぶとは、侍の子供がなんです。さきは、もっとずっとあるのに――どこまでゆくか、果てしのないほどの旅なのに――いけません!」
弥太郎はべそをかいた。
古座から串本まで二里たらず。――
その十分の一もゆくかゆかないうちに、柳生衆の中でも剛力という点では自他ともにゆるした逸見瀬兵衛が、しだいに肩で息をつきはじめ、ヨタヨタとあやしげな足どりになって来て、とうとう、
「……おいっ、丈馬、か、代わってくれっ」
と、息を切らしていった。
瀬兵衛らしくもない悲鳴に、みんな妙な顔をして、
「ど、どうしたのだ、逸見。――重いのか」
と、声をかけると、瀬兵衛はあえぎながらも、照れくさそうにニタニタ笑って、
「重いどころか、実にその、女人を背負っておるというより、背負っておるおれのほうが羽化登仙しそうじゃ。丈馬、代わってやる」
「な、何、羽化登仙? ――いや、さもあらん」
待つや久し――といった表情で、小栗丈馬が代わって背をむけると、お品という狂女はなんの恥じらいも疑いもない幼女のような――いや、天女のような顔で、丈馬の背に乗り移る。
その小栗丈馬が、数町歩くと、しだいにむずがゆいような顔をし、眼がとろんとなり、それから、重い車をひく馬みたいにまたあえぎ出した。
重いわけではない。いや、重いのか、軽いのかわからない。柔らかい、匂いのある雲につつまれているようで、しばらくすると、その雲に乗っている――つまり、羽化登仙したようなきもちになる。
べつに狂女が何をするというわけでもなかった。ただ、背中で二つの乳房が微妙にうごめき、手にふとももがトロトロととろけるようで、しかもくびすじにかかる息が頬にまつわると、まるで香りたかい果実みたいに、神気をぼうっとくるんでしまうのだ。
百歩あるくごとに、小栗丈馬はいくども快美の頂点に達して、ついにふらふらとなり、
「……おいっ、千八っ、か、代わってくれっ」
と、かすれた声でさけび出した。
心得たり――と、いわぬばかりに、磯谷千八が代わったが、数町ゆくと、これまた、
「……こ、こ、交替たのむ、これ左十!」
と、悲鳴をあげた。
むろん、みんなゲラゲラ笑っている。しかし、伊達左十郎は、お品を背負ってゆくうちに、泣き出した。感きわまったといった感じのすすり泣きである。それをきいて、みなゲラゲラとまた笑う。
わるいきもちではない。彼らはこの狂女の異様な魅力にとり憑かれていたが、それはこの女が狂女だからだと思っている。彼らは三人の娘にもただならぬ好意を持ってはいたが、もとよりこれには義侠の心もふくまれていた。そういう道徳心は、それだけ彼らを縛った。ところが、この女は、いわば天衣無縫の狂女なのだ。
とはいえ、彼女の気が狂った原因を思い出すと、彼らといえどもいささか粛然たらざるを得ない。事実――いや、この女人をこんな風におもちゃにしてはいかん――という反省を、ちらと心に甦らせた者もあるのだが、無心の花束といってもいい美しいその姿を見、淫らといっていいその肉感を味わうと、そういう反省はおろか、いまじぶんたちの歩いてゆく目的さえも、どこかへ羽化登仙してしまうのであった。
「姉上」
と、眼をまんまるくしていた弥太郎がいう。
この少年は、ふだん市井のわんぱくばかりとつき合っていたそうで、相当口の行儀もよくないが、こういう呼称だけは侍の子らしいところがある。
「あのおじちゃんたちも気がヘンになったんじゃない?」
「あんなもの、見るのじゃありません!」
と、おひろは叱った。そして、反対の海のほうを見て、
「それより、ごらん、あのおもしろい岩を――まるで橋の|杭《くい》がならんでるようでしょ?」
と、指さした。
いかにも海の中に、高いもので十余丈、低いものでも三四丈の巨岩のむれが、或いは|筍《たけのこ》のごとく、或いは剣のごとく、或いは魚のごとく、或いは獣のごとく立ち、わだかまり、連列している。名高い橋杭岩の奇観だ。その向こうに大島が横たわり、空はいつしか、くれないが紫に変わった夕焼けであった。
柳生衆たちの狂態をちらちらと見つつ、ただ黙って歩いていた十兵衛が、このとき、
「これ、串本はもうすぐじゃ。もう、おんぶはよかろう」
と、いった。柳生衆たちは、狐つきがおちたようにキョトンとした。
その夜は、串本に泊まる。この熊野路には、むろん東海道のようにととのった宿場はないが、それでも村々には西国巡礼を泊める家がある。
潮の香のするそのわびしい宿に、弥太郎といっしょに寝た十兵衛は、深夜ふうっと眼を見ひらいた。
剣気――ではない。肌を、なまめかしい香気が――いや妖気がすうと這うのをおぼえたのだ。
【五】
破れた襖がすこしひらいて、そこにお品が座っていた。灯はないが、|煤《すす》けた障子を通して、蒼あおと夏の月がさしこんでいた。お品は座っていたが、肩で息をして、あとずさりにこちらに這い出して来た。
「……?」
声をかけようとして、女の様子があまりにも異様なので、十兵衛は傍の愛刀をそろりとつかんだ。が――すぐにまた、その部屋には、お縫、お雛、おひろの三人が眠っていることを思い出した。
「お品」
声をかけたが、彼女は答えず、ジリジリとこちらの方へ、うしろざまにすべり寄ってくる。月光にむき出しになったふとももが、妖しい|隈《くま》をえがいてくねくねとうごき、一方、その横顔はあきらかに恐怖の相を浮かべていた。
「お品、どうしたのじゃ」
十兵衛はその方へにじり出し、それから刀をつかんだまま立とうとした。
そのとたん、お品のからだは、どうと彼の胸の中へたおれかかった。
「こわい。……こわい。……」
「だれか、おるのか」
「槍をもった男が――」
「なに?」
「足軽が」
このときはもう十兵衛は、このお品の奇怪な行動が、夢にうなされたか、狂女の幻想によるものであることに気がついていた。そんなものが|闖入《ちんにゅう》して、あのお雛たちが声もたてないということはあり得ない。
にもかかわらず。――
「よし、見てやろう、待っておれ」
と、彼が身を起こそうとしたのは、お品のしがみつきようにいささか狼狽するものがあったからだ。
「どけ、お品」
「お助け下さいまし。こわい。……」
からだを横ねじりにし、お品の白い腕は十兵衛のくびにまつわりついている。そんな姿勢のために、両足はつけねまであらわになり、乳房は十兵衛の胸にはげしく息づきながら吸いついた。
「だ、だから見てやろうというのだ。これ」
十兵衛はいよいよ動顛して、お品の顔をのぞきこんだ。
「離せ、離してくれ」
声はひくい。そばに弥太郎が眠っていると思うからだ。
しかし、お品は離れなかった。のけぞるようにあごをあげたお品の顔は、十兵衛のすぐ下にあった。|瞳《どう》|孔《こう》は恐怖に散大し、視点もさだまらずぼやけているのに、異様なうるみをおびている。半びらきにしてあえぐ赤い唇の中に、ぬれた舌からのどまでが見えた。そこから吐き出される息が、熱く匂って、霧のように十兵衛の鼻腔をぬらした。
「こわい、助けて。……」
十兵衛は一方の手で、くびにからみついた女の腕をつかみ、一方の手を女の胴にまわして、必死におしのけようとした。
十兵衛とて木石ではない。それどころか、みずから放蕩無頼と認める男だ。たとえ|木強漢《ぼっきょうかん》にしても眼がくらまざるを得ない、圧倒的な狂女の狂態であった。これは十兵衛にとって、一個の剣士を相手にするのと変わらないほどの、ちょっとしたたたかいであった。
片腕を胴にまわすと、お品は逆にいよいよからだをすりよせ、名状すべからざる淫らな姿態となった。――そのとき、十兵衛は、あいたままの襖のあいだから、だれかがそっとこちらをのぞきこんでいるのに気がついた。
黒ぐろとひかる六つの眼。――お縫たちだ。
十兵衛はお品の胴にこぶしをあてた。
お品はくねくねと崩れおち、白い蛇のような姿を横たえた。
それを抱きあげて隣室にちかづくと、六つの眼はふっと消えた。気絶した女のからだを、襖のあいだからそろりと押し入れて、ちらと部屋の中を見る。三人の娘は、ならんだふとんの中に、何くわぬ顔をして、きちんと寝ているようだ。
十兵衛はそっと襖をしめ、何もしらずに大の字にふんぞりかえっている弥太郎を移して、じぶんは壁ぎわの方に替わり、もういちど寝た。
【六】
あくる日。
串本を去りながら、
「のう」
と、思案顔で十兵衛はいった。三人の娘に。――
「あのお品、何とぞして、あとに置いてゆきたいが。――」
むろん、狂女にはきこえないようにである。彼女は昨夜のことなど夢にも知らない顔で、ケロリとした――しかも例の哀しげな顔を海へむけながら、すこしあとから歩いていた。
みなまでいわせず、意外にも、
「いやでございます」
と、お雛がきっとしていった。するとお縫も、
「そんな十兵衛さま、お心にもないことを。……」
と、彼女らしくもない皮肉な調子でつぶやいて、つんと顔をそむけた。
「心にもない? いや、まったくの本心だ」
「いけませぬ。つれていってあげると約束したことではございませぬか?」
「なに、相手はきちがいだ」
「きちがいであればこそ、捨て猫みたいに捨てていっては、人間の道にはずれます」
と、おひろもいった。彼女が十兵衛の言葉に反抗するなど、珍しいことの上に、言辞が少々大げさだ。
三人とも、妙に意地を張った顔つきであった。
「しかし――」
十兵衛がなおいいかけると、すぐうしろから平岡慶之助や小栗丈馬などが首をつっこんで来て、
「何でござる? あの娘を置いてきぼりになさると?」
「ここまでつれて来て、それはあまりにふびん、――まあ、よいではござりませぬか、十兵衛先生」
と、これまたひどく熱心に抗議した。彼らも何かにこだわっているらしい表情だ。
むこうでは、伊達左十郎が泣き笑いみたいな顔をつくって、
「お品どの、きょうはおんぶはいかがでござる?」
と、おうかがいをたてている。
十兵衛は、黙って深編笠をかぶって、歩きながら緒をしめた。――妙なものにひっかかった、と思う。これからのことが思いやられる。
とはいえ。――
さすがの十兵衛も、まさかあの狂女が敵の一味だとは、このとき想像もしなかった。その狂女ぶりが、十兵衛の眼をもあざむくほどみごとな演技だったということもある。しかし、そもそもは、彼女が父を眼前で惨殺された娘だということを、まざまざと目撃したことからこちらの眼も曇った。父と思わせたその男が、それを勘定に入れ、すべてを承知で仲間に惨殺された人間だとは、だれが想像し得ようか。
殺された神主も、殺した足軽も、みんな根来の忍法僧であった。
青岸渡寺へいそぐ途中、古座の|宿《しゅく》の前後で追いぬかれたとき――そこまで馬で駆けて来た十兵衛は、和歌山から来た足軽が、とうていじぶんたちを追いぬくはずがない、従って、彼らがじぶんのことを知っているはずはないと判断したが、一昼夜に四十里も走る忍者なら充分可能なことだ。また十兵衛を知っていて、何くわぬ顔をしているくらいはさらに朝飯前のことだ。
僧が足軽に化ける。――この場合に、彼らが元来有髪であったことがさいわいした。
のみならず。――
その中に、田宮坊太郎とクララお品もまじっていたのである。もっともこの二人は、深編笠をつけて、指揮者らしい紀州侍に化けていた。
なぜこんな細工をしたかというと、十兵衛を出しぬいて坊太郎がさきに青岸渡寺へゆき、ともかくも三人の娘をさらうためだが、お品の場合も、いつまでも男姿でいるのも無駄だから、追いぬくとすぐにもとの姿にもどった。
三十人の根来僧が、そのうち一人、天草四郎の示威的な殺生のためにへって二十九人。これに坊太郎とお品を加えて三十一人。それがあとでこの二人を減じて二十九人。
だから。――
「三十一から、二つへってたよ。――」
と、弥太郎が足軽の人数を勘定したのは、まったく無意味でもなかったのである。
何となく不審の気を起こして十兵衛は青岸渡寺へいそいだものの、まさかこんなからくりの意味をつぶさに知ろうはずがない。
もっとも敵側にとっても、青岸渡寺で起こったことは案外であった。十兵衛と勝負したいという田宮坊太郎の欲望、十兵衛を肉の罠におとして魔界転生の一員に加えなければならぬというクララお品の任務がさきを争い、一応は坊太郎が制してともかくも三人の娘をさきにさらうという名目で青岸渡寺へひとり上っていったのだが、その彼があのようにもろく――と、お品には見えた――十兵衛に討たれようとは思いのほかであった。
で、柳生衆たちがそのあと青岸渡寺で治療に専念しているとみるや、お品は根来衆のひとりを和歌山へ走らせて、天草四郎の指図を仰いだ。
神主一件の知恵は、四郎の再度の指揮によるものだ。あくまで十兵衛を魔界転生の一員に加えよ、という彼の方針――ひいては江戸の森宗意軒の方針は、依然として変わらなかったのだ。
それにしても、柳生十兵衛をあざむくために、神官に化けて味方に惨殺されるとは――恐るべき忍法|髪《かみ》|切《きり》|丸《まる》をあやつる天草四郎の命令とはいえ、またこのたびの働き如何では紀州藩忍び組にとりたてられるという望みのためとはいえ――やはり忍者ならでは不可能の心理であり、行為であるといわなければなるまい。
【七】
「十兵衛一味は、いよいよ草堂寺を立つというぞ」
山伏風の男をひとりつれた牧野兵庫頭が、足早に入って来ていった。
「きゃつら、やっと旅立ちの用意をはじめたらしい」
地底の部屋に輪を作って、何やら――常人のごとき夜ばなしを語り合っていた六人の魔界転生衆のうち、天草四郎がじろと山伏を見て、
「お品は何か申したか」
と、いった。兵庫頭が答えた。
「何もいわぬという。それどころか、めったに姿も見せぬそうじゃ」
「殺されたのではあるまいな?」
「いや、生きておることはたしかでござる」
と、こんどは山伏が答えた。山伏の姿はしているが、これは根来忍法僧のひとりであった。
「ふうむ」
天草四郎は不審そうにくびをかしげた。
串本を立った柳生衆一行は、その後十一二里西へ悠々閑々たる足どりで歩いて、熊野路がようやく北へ向かう|市《いち》|江《え》の崎というところまでくると、それっきりまたそこに足をとどめてしまった。
市江の崎には草堂寺という寺がある。ここに寺湯が湧いている。海に面し、うしろに丘を背負ったひっそりと美しい寺で、椿が多い。で、近郷の百姓たちもこれを椿の湯と呼んで、よく湯治にゆくという寺だ。
ここに十兵衛たちは、まるで湯治客みたいに泊まりこんで、すでに十余日たった。海の色はもう完全に秋であった。――こういうことを、根来僧たちはどこかにひそんで見張っていて、いちいちこの和歌山に報告していたのである。
「一日を争う急ぎの用でないことはおたがいさまだが。……」
と、四郎はつぶやいて、まだかんがえこんでいる。
「しかし、御領内に入って、あまりといえば人をくった奴らじゃ。それに、いよいよ椿の湯を立つとあれば……それだけこの和歌山にちかづいてくることになる」
と、牧野兵庫頭はいらいらとしていった。
「そもそも、田宮坊太郎が殺されたというのに、おぬしらはいったい何をかんがえておるのか。柳生十兵衛を恐れているのか?」
「恐れていなさるのは、あなたの方で」
と、四郎は白い鼻のさきで笑った。
「実は、待っていたのです。お品の知らせを。……どうしても、じぶんが十兵衛を独力で魔界におとすゆえ、しばらく待ってくれというゆえに。それに、根来坊主二人、そのために犠牲にしたほどのたくらみ、せっかく十兵衛一行に入りこんだというのにもったいない、といわれればなるほどと思われ。――」
「しかし、わしも少々待ちくたびれたわ」
と、宝蔵院|胤舜《いんしゅん》が、厚い唇で吐き出すようにいった。
「焦るな、焦るな。わし、ならびにこの荒木が魔界に転生してから足かけ九年、そのあいだに転生をゆるされた者わずかに七人。それに加えようとする柳生十兵衛は、またと得がたい大事な人材じゃ。あの田宮を討ったといえば、いよいよ以て、ただ討ち捨てにし、むだ死にさせるのは惜しい。――」
天草四郎は長嘆したが、
「とはいえ。……きょうまでクララのらち[#「らち」に傍点]があかぬとは。やはり当方で手つだう必要があるかもしれぬな」
「耳、手足を順々に斬って、きゃつの心気をなえさす手か」
「左様。――」
「……わしがゆこうか」
と、荒木又右衛門がいった。すると、柳生如雲斎、柳生但馬守、宮本武蔵の眼も、ぎろりとひかった。
「くじをひこう」
と、宝蔵院胤舜がさけんだ。四郎は苦笑して、
「女くじか?」
「いや、あの女くじはこの際ちと面倒じゃ。やはり、女くじにはちがいないが、いまわしがもっと手っとり早い、面白いくじを思いついた」
彼は立ちあがって、土壁に立てかけてあった槍をとった。
「みんな、刀をあの戸の前にならべてくれ」
「それでも、女くじ? 何をするのだ」
「まあ、いいから、黙ってやれ。左の方の板戸のまえに、おなじ間隔でならべるのじゃ」
胤舜の意図はわからぬなりに、天草四郎が面白げに、転生衆の刀をあずかり、じぶんの一刀をも加えて、鞘のまま、奥をへだてる巨大な板戸の前に五本をならべた。
「おうい、そこにだれかおるか」
槍の鞘をはらい、胤舜は牛みたいに吼えた。
「おれいがおりまする」
板戸の向こうで若い女の声がきこえた。おびえきった、弱々しい声であった。
「血がな、したたって刀にかかれば、そやつが十兵衛に向かう二番手じゃ」
「ほう。……刀と刀のあいだにながれおちたら?」
「わしだ」
こういったとき、板戸の向こうの見えない女の姿をはっきりと見たように、宝蔵院胤舜の眼が、らんとひかった。
槍は流星のように板戸に走った。厚い樫の板戸は、まるで泥みたいにつらぬかれた。
胤舜は槍をひきぬいた。穴から鮮血が粘っこくあふれ出し――そして下に、ひとすじのひもとなってながれおちた。柳生如雲斎と天草四郎の刀のあいだに。
「おれだ」
胤舜は大きな歯をむき出して笑った。
「おれが出かける。案内しろ」
と、このもの凄じいくじびきを、眼をかっとむいてながめている山伏をふりかえり、
「しかし、うぬら、手を出すな。十兵衛との約定だ。どこかで鴉みたいに木にでもとまって、宝蔵院の槍を見物しろ」
[#地から2字上げ](魔界転生上 了)
おことわり
本作品中には、(講談社文庫版の)七七頁以下二六頁にわたり、不具、白痴、唖、天刑病、癩、狂人、めくら、狂女、きちがいなど心身の障害に関する、今日では差別表現として好ましくない用語が使用されています。
しかし、江戸時代を背景にしている時代小説であることを考え、これらの「ことば」の改変は致しませんでした。読者の皆様のご賢察をお願いします。
山田風太郎(やまだ・ふうたろう)
一九二二年、兵庫県生まれ。東京医科大在学中の一九四七年、探偵小説誌「宝石」の第一回懸賞募集に「達磨峠の事件」が入選。一九四九年に「眼中の悪魔」「虚像淫楽」の二篇で日本探偵作家クラブ賞を受賞。一九五八年から始めた「忍法帖」シリーズでは『甲賀忍法帖』『魔界転生』(本書)等の作品があり、奔放な空想力と緻密な構成力が見事に融合し、爆発的なブームを呼んだ。その後、『警視庁草紙』等の明治もの、『室町お伽草紙』等の室町ものを発表。『人間臨終図巻』等の著書もある。二〇〇一年七月二八日、逝去。
|魔界転生《まかいてんしょう》 |上《じょう》 山田風太郎忍法帖6
講談社電子文庫版PC
山田風太郎 著
Keiko Yamada 1964
二〇〇二年一二月一三日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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