講談社電子文庫
山田風太郎忍法帖3
伊賀忍法帖
[#地から2字上げ]山田風太郎
目 次
戦国のメフィストフェレス
淫石
伊賀めおと雛
忍法僧
無惨流れ星
死霊告知
一匹狼
行者頭巾
壊れ|甕《がめ》
大仏炎上
臈たき人
|漁火《いさりび》
月は東に日は西に
鐘が鳴るなり法隆寺
大仏供養
女郎蜘蛛
かくれ傘
茶
火の鳥
柳生城楚歌
果心火描図
戦国のメフィストフェレス
【一】
|生国《しょうごく》も知れぬ。生年も不明である。本名をなんといったかもわからない。
戦国時代に、|果《か》|心《しん》|居《こ》|士《じ》という人物があった。ただ南都の住人ということで、よく奈良|元《がん》|興《ごう》|寺《じ》の五重の塔の頂上に腰うちかけ、扇をつかいながら四方を眺望している姿を見たものがあるという。――|幻術師《げんじゅつし》である。
彼の幻術について、「|玉《たま》|箒《ほう》|木《き》」という一書に、こんな話をのせている。
ある日、果心居士が猿沢の池のほとりを通りかかると、数人の知人に逢って、幻術を見せてくれるようにたのまれた。そこで居士は、水際の|篠《しの》の葉をとって、池の水面にまきちらすと、篠の葉はことごとく魚となって銀鱗をひらめかしながら泳ぎはじめたという。
またある夜、南都の某家で酒宴をひらいたが、客の中に居士と懇意のものがあって、居士の幻術についていろいろと話してきかせた。それによると、彼は、瓜の種をまいて一息か二息するあいだに蔓をのばし、花を咲かせ、瓜をならせ、これを「生花の術」と称しているという。また、おのれのからだをみずから|手《しゅ》|刃《じん》してばらばらに解体し、あとでつなぎ合わせて|甦《よみがえ》るが、これを「|屠《と》|人《じん》|戮《りく》|馬《ば》の術」と称しているという。――すると、べつのひとりの客が、疑わしげな表情で、まさか左様なことがこの世にあろうとは思われぬ。もしまことならば、いちど見たいものだといった。それで話した客はうなずいて、ご覧にならぬうちはだれでもそう仰せられる。さいわい、居士は今宵このちかくの家に来ていられるはずだからぜひここに迎えて|御《ぎょ》|見《けん》に入れようといった。
やがて、呼びにいったその客につれられて、果心居士がやって来た。そして、しずかに座になおって、話は承った、おなぐさみにご所望にお応えしようといった。
さきの懐疑論者がすすみ出て、拙者は小知偏見のもので、まだ怪異不可思議のことを見たことがない、ねがわくはいま拙者の上に異変を起こして見られよといった。
果心居士はうすく笑って、|御《ご》|辺《へん》がご存じないからとて、世に神変のあることを疑いたもうな、といいながら、座にあった|楊《よう》|枝《じ》をとって、その男の歯を右から左へすうと撫でると、たちまちその歯はのこらずフラフラと浮き出し、いまにもぬけ落ちんばかりになった。男は仰天して悲鳴をあげると、居士は、これでおわかりか、といって、ふたたび楊枝でその歯を左から右へすうと撫でた。すると、浮いていた歯はヒシヒシとかたまって、もとのようになった。
一座のものはあっけにとられてこれを見ていたが、またひとりすすみ出て、これはおもしろい、さらば、いっそのこと、もう少し凄味のある幻術を見せてたまわれ、と所望した。居士は、お安い御用、とうなずいて、なにやら口の中で呪文をとなえながら、手にしていた扇で奥の方をさしまねいた。
すると、|屏風《びょうぶ》の向こうからひとすじの水がヒタヒタとながれてきたかと思うと、あっというまに川のようになり、天井から壁から滝のごとく水がふりそそぎはじめ、座敷じゅうの諸道具が浮き出した。人びとは総立ちになって逃げ出そうとしたが、奔流はその足をさらい、みるみる背丈よりも増して、その渦しぶきの中にみな|喪《そう》|神《しん》した。
呼ばれて気がつくと、座敷には水がない。諸道具はそのままで、どこにも濡れたあとがない。そして果心居士の姿も、すでにそこになかったという。
また、「|醍《だい》|醐《ご》|随《ずい》|筆《ひつ》」という書に、次のような話がのっている。
果心居士は、|松永弾正久秀《まつながだんじょうひさひで》と親交があった。ある月明の夜、弾正がたわむれに、わしはいくどか戦場を往来して、敵と白刃をまじえたこともあるが、べつに恐ろしいと思ったことがない。御辺、わしを恐れさすことができるか、と居士にきいた。
居士は、それでは|近習《きんじゅう》を遠ざけ、灯を消したまえといった。その通りにした。しばらく閑座していたのち、居士はしずかに身を起こして、広縁の方へあゆみ出した。いままで明るかった月光がいつしか|昏《くら》くなっているのに弾正が気がついたとき、庭には小雨さえそぼ降り出した。と、その陰暗たる広縁に、だれか|朦《もう》|朧《ろう》と座っているものがある。居士かと眼をすえてみると、髪をおすべらかしにした|蒼《あお》|白《じろ》い顔をしたひとりの|女《にょ》|人《にん》のようだ。だれか、ときくと、ほそぼそとした声で、お久しゅうござります、弾正どの、今宵はひとりそこにおわして、いかにもつれづれにおさびしげに見えまする、そこへ参って、抱いていただきとう存じまするが、おいやでござりましょうか、といった。さしあげたその顔が、前に死んだ何人めかの妻であることを知ると、あまりの|凄《すさま》じさに、さすがの弾正も立ちあがり、壁に背をつけて、果心居士|止《や》めよ、とのどをしぼった。
――と、暗い庭の雨がしだいに消え、みるみる明るく月光がさしてきて、そこの広縁に|寂然《じゃくねん》と笑んで座っている果心居士の姿が浮かび上がってきたという。
また、「|虚実雑談集《きょじつざつだんしゅう》」という書に、これに似た話がある。
あるとき太閤が果心居士を召して、なんぞ不思議の術を見せよ、といった。果心居士が、かしこまった、というと同時に、白昼はたちまち薄暮となり闇夜となった。
藤吉郎どの、と呼ぶものがあるので、ふりかえった太閤はぎょっとした。それはまさしく彼が藤吉郎時代にちぎって、その後捨てた女であった。その女がそこにあらわれて、めんめんとかきくどく。その|怨《えん》|言《げん》のなかに、女は、そのころのみじめな彼の生活を思い出させ、また立身のための|悪《あく》|辣《らつ》といっていい彼のかけひきをあばいた。
太閤のうめきに、女はかき消え、夜は昼にもどり、果心居士の笑顔があらわれたが、太閤の顔色はもとにもどらなかった。おのれのもっとも痛みとする秘密を、まざまざと知っているものがあるという不快のためであった。突如として彼は侍臣を呼び、寄ってたかって果心居士をとらえさせた。そして|四条磧《しじょうがわら》で|磔《はりつけ》にかけることを命じた。
四条磧で、刑吏が槍をつかんですすみ出たとき、磔にかけられた果心居士のからだはみるみる小さくなって、縄からぬけ出した。あっと立ちすくんだ刑吏たちの眼から|忽《こつ》|然《ねん》として居士の姿が消え、ただ一匹の鼠が磔柱の上へかけのぼるのが見えた。このとき空に羽ばたきの音が起こり、一羽の|鳶《とび》が舞い下りるとみるまに、鳶はその鼠を脚につかんで、雲のかなたへ飛び去ってしまったという。――
これを「虚実雑談集」の著者は、鳶の出現が果心居士にとっての意外事であったものとし、果心居士の最期と解釈しているが、しかし右のような|端《たん》|倪《げい》すべからざる幻術を行なう人間が、大空から鳶くらい呼ばないという法はない。彼は鳶に身を託して逃げ去ったとかんがえた方がつじつまが合う。――ともあれ、この事件を最後に、果心居士の消息は、それ以来ふっと日本から絶えてしまった。
さて、右のような数々の記述から、この奇怪な人物の性格を想像するのに、ひとつ思いあたることがある。
それは、この大幻法者が、なかなか人がわるく、皮肉屋で、そして途方もないいたずら好きな人間であったらしいということである。
【二】
|永《えい》|禄《ろく》五年春のことである。
|千宗易《せんのそうえき》は|大和《やまとの》|国《くに》|信《し》|貴《ぎ》|山《さん》にある松永弾正久秀の居城を訪れた。
永禄五年といえば、|桶《おけ》|狭《はざ》|間《ま》のたたかいから二年後のことで、信長は東海の一豪族として|美《み》|濃《の》の斎藤|龍《たつ》|興《おき》などと悪戦苦闘している時代で、まだ上洛にはほど遠く、世は|刈《かり》|菰《ごも》とみだれた戦国のまッただなかだ。
宗易はこのとし四十一であったが、堺の豪商、いわゆる|納屋衆《なやしゅう》としてよりも、茶道の大宗匠としてすでに名がきこえていた。
彼が信貴山城を訪れたのは、こんど弾正が城内に作った茶室びらきに招かれたのだが、同時に、以前から弾正の|垂《すい》|涎《ぜん》おくあたわなかった|平《ひら》|蜘蛛《ぐ も》の茶釜を贈るためもあった。むろんそのために、弾正の手から数十人の護衛兵が堺に派遣され宗易とこの名器をまもって信貴山に迎えたのである。
一行が到着したのは、城の天守閣に春の|朧月《おぼろづき》がのぼりかかっている時刻であった。出迎えた家来が、ただいま殿には、天守の|高《こう》|欄《らん》にて|賓客《まろうど》と月見の宴を張られておるが、平蜘蛛の釜は一刻も早う見たいと仰せられるゆえ、そちらにお越し願えまいか、といった。宗易は、小姓にみちびかれて、天守閣に上っていった。
彼はいままで何度かこの城に招かれて来たことがある。げんにこんどの数寄屋も、設計は彼の手になったくらいである。しかし、いくど来ても、この城の天守閣からの眺めは絶景だと思う。標高千五百尺の山の東側の中腹に築かれた城は、その昔、聖徳太子が創立された信貴山|歓《かん》|喜《ぎ》|院《いん》|朝護孫《ちょうごそん》|子《し》|寺《じ》の跡だというが、|金《こん》|剛《ごう》、二上、|葛城《かつらぎ》などの山々を|指《し》|呼《こ》のあいだにし、大和平野を一望のもとにして、聖徳太子がご覧になるにふさわしい平和な風景だ。
そこに松永弾正が城を築いた。数年前のことだ。いまの時点においては、まず天下第一の実力者たる人間の居城である。しかしまだ王城鎮護の象徴とはいえず、年にいくたびか、弾正は|羅《ら》|刹《せつ》のごとく大軍をひきいて出陣してゆく。城そのものにも血痕がまだらにしみついているようだ。眺望は美しいが、城は美しいとはいえない。城主が恐ろしいほどのしわん坊で、串柿の串はすてずに壁下地につかい、酒樽の樽もすてずに塀板とするといったふうだから、城はむしろ荒々しい、もの凄じい印象をあたえる。
その半面、築城術にかけては天才的ともいえるわけで、とくに天守閣というのは、日本はじまって以来、この松永弾正の独創だ。――そして、くりかえしていうが、そこからの風光は壮大であった。その高欄から見下ろせば、いま上ってきた信貴山の桜が、なるほど月光に地上の雲のようになびいているだろう。
「――はて賓客とはだれであろう」
宗易はくびをかしげながら、天守閣に上り、その高欄へみちびかれた。
弾正は、いかにも客と酒宴をひらいていた。客は九人あった。弾正は宗易に、まず相対している二人の客を紹介した。
「宗易、存じておるか。これはおなじ大和国|柳生《やぎゅう》の|庄《しょう》のあるじ、新左衛門じゃ」
柳生新左衛門は敬意にみちた微笑をうかべて目礼した。三十五、六の|沈《ちん》|毅《き》な風貌をした武士だが、宗易は知らない。
「こちらは、奈良の住人、果心居士」
「――ほ」
宗易は思わず息をのんで、その客を見まもった。
「お名前だけは承っておりまするが」
「いちど、お逢いしたいと思うておった」
と、果心居士も笑顔でうなずいた。
|鶯茶《うぐいすちゃ》の道服をきた老人だ。髪を総髪にしている。鶴のように痩せて、顔は恐ろしくながい。その口の両はしに、どじょうみたいな|髭《ひげ》が二本タラリと垂れている。相当な老齢だということはわかるが、髪は漆黒だし、いったい幾歳くらいの人物か、見当がつかない。
「あれは、わしの弟子ども」
と、居士は壁の方にならんだ七つの影にあごをしゃくった。それはことごとく墨染めの衣をまとった|僧形《そうぎょう》であったが、ふしぎなことに頭はこれまたことごとく山伏のような総髪であった。
「もと、|根《ね》|来《ごろ》|寺《じ》におったものどもでな」
と、居士はいった。
紀州根来寺といえば、|精《せい》|悍《かん》無比の僧兵を擁しているので有名な寺だから、おそらく僧兵あがりであろう。――宗易の名をきいても、これはべつになんの感動もないふうで、わずかに目礼しただけで、平然として侍女たちの酌を受けて|大《たい》|杯《はい》をかたむけている。中に、一匹の黒猫をひざに抱いて、子どもにあたえるように魚を食わせているやつもあった。
「ともあれ、釜を見せよ」
と弾正はせいた。
宗易が、持参した平蜘蛛の釜を出して見せると、
「おう、名器じゃ」
まず果心居士が長嘆のうめきをもらした。
それは、そうだろう。その平蜘蛛の釜は堺にある、宗易の蔵に充満しているおびただしい茶道具の中でも一、二の名器だ。ほんとうをいうと、宗易はこれを弾正に贈るのが、骨の一本をとられるほどの哀しみであった。それを、思いきって献上する決心をしたのは、弾正のいまの勢威と|餓《が》|狼《ろう》のような物欲を見てとって観念したためもあるが、しかしそれだけならば、なお抵抗する剛毅さを、この大茶人は持っている。ただそれ以外に、この|奸《かん》|雄《ゆう》ともいうべき大名に、一脈奇怪な芸術鑑賞力のあることを感得して、その点だけにこの|稀《き》|代《たい》の名器平蜘蛛の釜を託する気になったものであった。
しばらく、茶談にときがすぎた。宗易はこの果心居士が実に茶道の妙境に|悟入《ごにゅう》した人物であることを知って、いつしか彼が謎の幻術師であることも忘れていたほどであった。
それを思い出したのは、居士がふいに沈黙して、じっとじぶんを|凝視《ぎょうし》していることに気がついたときである。
「どうかなされたか」
「――しばらく、うごかれな」
と果心居士がいった。凍りつくような声で、やがてまたいった。
「宗易どのの星」
宗易はふりむいた。うしろに満天にむらがる蜜蜂に似た春の星座があった。
「わたしの星?」
「いま、あなたの星を占うた」
果心居士は、なぜかひどく興奮しているようであった。
「ほう、星占い、なんと出ました」
「申してよろしいか」
「ぜひ、ききたい」
「あなたなら、驚かれまい。あなたのお命は、あと三十年で燃えつきる。その星に剣気がある――」
「わたしに剣気? それはおかしい。わたしは一介の茶人です。それにしても、ほう、わたしはまだ三十年も生きますか」
「三十年後に命終わる人をそこに置いて、いまわしには、三十年後の星座が見える」
果心居士の眼は、もはや宗易を見ていなかった。深い無限の夜空に|妖《あや》しいばかりの|瞳《どう》|光《こう》をそそいでうわごとのようにいった。
「一、二年はちがうかもしれぬ。しかし、そのころ、宗匠を覆うおなじ大きな星の剣気が、海をわたって|大《だい》|明《みん》を襲う……。それがなにびとか、まだわしには知れぬ」
「居士、なにをぶつぶつと、わからぬことを申しておるのじゃ?」
と、弾正がいった。
果心居士はわれにかえった。しかし、弾正を見た眼には、依然としていま星座を観じていたときと同じ妖光があった。
「ところで、殿、先刻お話の右京太夫さまのことでござるがな」
なぜか弾正は、宗易をちらとみて大いに狼狽した。果心居士はいさいかまわずいった。
「あのおん方を、殿のものとする法がござる」
「なに、その法とは?」
弾正はせきこんだ。その一瞬に、宗易の存在も忘れたようだ。――宗易は、右京太夫とは、弾正の主君|三《み》|好《よし》|長《なが》|慶《よし》の子|義《よし》|興《おき》の妻で、絶世の美姫としてきこえた女人の名であることを知っていた。
【三】
いわゆる|叛《はん》|骨《こつ》を蔵するものは、それだけ権力に敏感なものである。千宗易は、大権力者を浮雲のごとくはかなく、むなしいものに見る一方で、動物的な嗅覚で時代の支配者をかぎつけ、ちかづくぬけめなさをも持っていた。堺商人としてのしたたかな才覚であろう。――それで、松永弾正にもこうしてちかづいているが、ほんとうのところは、この人物があまり好きでない。
もっとも、この世に、この人物を好くやつはあまりなかろう。
彼は素性も知れぬ出身だが、もと商人だったという噂もある。それが、いつのまにか|阿《あ》|波《わ》の豪族三好家にとり入って、家老にまで成りあがった。――|足《あし》|利《かが》が将軍の虚名のみを擁して、実権が|管《かん》|領《れい》細川に移ってからすでに年久しく、さらにその権勢は細川の被官三好氏に移った。そして、その当主三好長慶もこのごろ病みがちであって、いまやこの松永弾正が近畿一帯、すなわち天下の|覇《は》|者《しゃ》となっている。
商人あがりという風評にもかかわらず、彼のいくさぶりは|獰《どう》|猛《もう》であった。彼が兵法にも一見識をもっていたことは、日本城郭史に一新紀元を劃する天守閣を創造したことでも知れる。そして彼の獰猛さは、戦争そのものより、戦争のあとでいよいよ発揮された。その掠奪ぶりは|羅《ら》|刹《せつ》のごとく残忍であった。当時の|伴《ば》|天《て》|連《れん》の評語にも、「その性、酷悪、|奸《かん》|譎《けつ》にして強欲なり」とある。
物欲ばかりでなく、女に対する欲望も強烈で、変質的だ。
彼が|帷帳《いちょう》を下ろし、そのなかで数人の侍女と|淫《いん》|戯《ぎ》をほしいままにしながら、ことあれば家来を召して、帳外に顔だけ出して指図したという行状は有名である。傍若無人というより、人をくっているといった方が至当であろう。しかも、このように野卑厚顔なところがあるかと思うと、一方で美に対して凄味をおびた感性がある。それは天守閣の創案者であったことにあらわれているが、その孫に有名な|連《れん》|歌《が》|師《し》松永貞徳が出ていることでも、彼の血のなかに一種の奇怪な芸術家が|棲《す》んでいたことがわかる。
――宗易は、のちに信長という人間を知ったが、信長と弾正にぶきみなほどの共通点をおぼえることがしばしばであった。ただ信長にはみずから伴天連に「天の魔王」とうそぶくようなすばらしい|気《き》|稟《ひん》があったが、弾正はまさに地底から這いあがった魔将としかいいようのない男であった。
「居士よ、右京太夫さまをわがものにする法とは?」
いま、彼は眼に炎をもやし、うすむらさきの唇をなめていう。――蟹のような悪相だが、その皮膚は、五十三という年を思わせぬほどあぶらぎっている。
かたわらできく千宗易や柳生新左衛門という武士を意識しているともみえないのは、もちまえの傍若無人さや、あるいは恐れを知らぬ実権者としての自信からだろうが、またその女人に対する渇望のはげしさを物語るものであろう。
それでも、いった。
「かりにも、主君のご子息の|御《み》|台《だい》であるぞ」
「それは、おわかりか」
果心居士はうすく笑った。弾正は顔をしかめていう。
「しかも、義興さまは、お若いが、ひとすじ縄ではゆかぬお方じゃ。いまおれは、あのお方と争うことを好まぬ」
その妻を望む相談をもちかけながら、虫のいいことをいう。
「と申して、先刻もいったように、あの右京太夫さま恋しさに、このまま|鬱《うつ》|々《うつ》日を過ごせば、おれは悩乱してこの高欄から飛び下りるかもしれぬ」
「――この七|天《てん》|狗《ぐ》をお貸し申そう。お使いなされ」
「七天狗」
弾正は、酒をのんでいる七つの僧形をかえりみて、軽蔑したように唇をまげた。
「この戦国の世だ、平生でも数百数千の兵が守護しておる三好家に、わずかこの七人の坊主どもが、いかにすればとて」
「|風《ふう》|天《てん》|坊《ぼう》」
と、果心居士がまたあごをしゃくった。呼ばれて、いちばん左手の法師が身を起こした。左手に金剛杖をもっている。ヒョロリと背がたかいが、|鞭《むち》のようにしなやかな体躯だ。
「諸賢に、鎌がえしの忍法を見せい」
果心が命ずるよりはやく、その法師の右の袖から、銀の|閃《せん》|光《こう》が虚空にたばしった。
彼はなにかを高欄から一直線に空中に投げた。――それはブーンと大気を|灼《や》き切るような音響を発し、銀の糸をひいてはるか彼方へ消えたとみえたが、たちまちうなりをあげて舞いもどってきて、彼の手中におさまった。
「……おおっ」
うめきをあげたのは、柳生新左衛門という武士である。彼の眼はかっとむき出されて、風天坊の手ににぎられた一ふりの鎌を見ていた。
「……縄でもござるのか」
「なにも、ない」
と、果心居士は笑った。
「めざすものに、|中《あた》らなければ、また舞いもどる」
――オーストラリアの原住民の独創的な狩猟用の武器で、ブーメランというものがある。これを投げつけると、それは鋭いカーブをえがいて廻転しつつ飛んでいって|獲《え》|物《もの》を|斃《たお》し、命中しなければまた手もとにかえってくるという、三尺ほどのふしぎな棍棒だ。それを知るはずのないものの眼には――いや、たとえ知っていても、おのれの視覚を疑わずにはいられない恐るべき鎌であった。
「風天坊、鎌に鎖のついておらぬ|証《あか》しを|御《ぎょ》|見《けん》に入れよ」
「はっ」
それは応答というより、|凄《すさま》じい気合であった。同時に風天坊は、金剛杖をかいこんだまま、ながいからだを鎌みたいに折りまげて、高欄を蹴った。
「――ああっ」
侍女たちが、たまぎるような悲鳴をあげた。弾正も宗易もわれしらず立ちあがっていた。
風天坊は、高欄から底なしとみえる大空へ飛び出したのである。その墨染めの衣が|蝙蝠《こうもり》のつばさのようにひるがえった。――しかも、彼は下界に落ちない!
「忍法枯葉がえし!」
|怪鳥《けちょう》のような絶叫が虚空からまだ消えぬうち、この人間ブーメランは高欄にふたたびもどって、どんと音たかく金剛杖をついて仁王立ちになっていた。
「……ううむ」
柳生新左衛門はまたうめいた。
「柳生どの柳生どの」
からかうように、果心居士が声をかけた。
「貴公、柳生の庄で日夜剣法にご精進ときくが、どうじゃ、この|鴉《からす》天狗を相手にして勝つ自信がおありか」
「……いいや、とうてい」
と、柳生新左衛門は鉛色の顔色で長嘆した。
弾正がおよび腰になっていた。
「果心。……その七人の法師、いずれもいまの術を使うのか」
「いや、わしが仕込んだ術はそれぞれちがう。――ただ、弾正さまのおんためにお貸し申しあげる道具が、そこらの大道に売っておるしろものとはちがう、という証しにご覧に入れたまで。これ以上、ご披露には及びますまい」
「そ、その七人をみなおれに貸してくれるかや」
「いま申した通りでござる。……ただし、この七人、右京太夫さまをさらうことには使いますまい」
「――では?」
「いかに恋慕したとて、いや恋慕した女人であればこそ、むりにさらって|手《て》|籠《ごめ》にするは果心の趣味でござらぬよ」
そういって、この年もわからぬ老幻術師は、どじょうひげをなでて、きゅっと口をすぼめて笑った。
淫石
【一】
「弾正さま」
と、果心居士がいう。
「あなたさまの女人へのご執心ぶりはかねがね承っておりますが、噂によれば、茶道具へのご執心とちっとも変わられぬそうな。欲しがりなさるときは童子のように理も非もなく、あきれば|微《み》|塵《じん》にうちこわす。――女人は、道具ではござらぬぞ」
「果心、その方の説教だけはつとめてきくことにしておるが、おれはまだ茶道具をこわしたことはないぞ」
「では、こわすのは女人だけか、それでは道具以下のおあしらいじゃ。そもそも……」
「わかった、わかった」
弾正は、手をふった。むらとひたいに不快の針が刻まれかけたが、すぐに消えて、閉口の表情になった。この人物に対して、これほど、ずけずけとものをいう人間はほかにあるまいが、それでも弾正がおさえているのは、彼を自制させるなにかが、この老人にはあるとみえる。
「その方のいう通りじゃ。いかにも、いやがる女をむりに手籠にいたしとうはない。少なくとも、あの右京太夫さまだけは、しんそこからおれになびかせたい。それどころか、もしこの城にお越し下さるなれば、おれは香を|焚《た》いて|礼《らい》|拝《はい》したい――」
千宗易は、松永弾正が女に対してこのようなせりふを吐くのを、いままできいたことがない。蟹のような悪相には、このときむしろ|鬼《き》|気《き》をすらおぼえたが――むかいあってならんだ七羽の鴉天狗は、ニヤリと白い歯を見せた。
「しかしながら、あのお方は、無体なことをしかければ、舌をかんでお果てなさるかもしれぬ、そこでおれは苦慮しておるのじゃ」
弾正は、七人の僧の失笑などに気がつかない。――ただ、悪夢からはっと現実にもどった|体《てい》で、
「いや、そんなことより、まず右京太夫さまを手に入れることじゃ。そこの七人、人間業とも思えぬ術を持っておるというに――それをおれに使わせぬという。が、果心、ならばおれに、なぜいまのわざを見せた?」
「右京太夫さまをさらうことには使いますまい。しかし、お貸し申そうとはいっております」
「それに使わずして、なんに使う」
「ほかの女をさらうに使います」
「ほかの女? ほかの女は要らぬ。また右京太夫さま以外の女なら、その方の手を借りるまでもない」
「右京太夫さまのお心を手に入れるためにほかの女をさらうのでござる」
「――果心」
弾正は眼をすえ、おし殺したような声でいった。
「話をきこう」
果心居士は、淡々としていい出した。
「いまも申した通り、この七人の根来僧の術は、それぞれちがいます。ただみなひとしく持っておる術は――女を犯した際」
「ふむ」
「事後、その女人をして愛液を流さしめることでござる」
「愛液を」
「当人も、とめてとまらぬ流出は、まずそこの大杯を満たすくらいつづき申す」
「……女は、どうなる」
「そのあいだの快美恍惚のため、十人に五人は息絶えまする。生き残ったものも、まず狂人廃人同様と相成ります」
茫然としてきいていた松永弾正は、ふいにこのとき不安げな表情となった。そのような術を体得した一党を貸されては、なにが起こるかわからない、とあらためて恐慌をきたしたとみえる。
「――それで?」
「その愛液を、もっとも素性正しき釜にて煮つめるのでござる。むろん、大杯一杯の愛液も、煮つめれば、まず耳かきの半分くらいの白い|滓《かす》となりまするがの」
弾正の眼は、ふたたび好奇にひかり出した。
「これにまた新しい女の愛液を加えて煮つめます。くりかえし、くりかえしておるうちに、最初の滓を核として、次にこれが重なり、大きくなり、やがて|白《はく》|雲《うん》|母《も》の剥離の一片のようなものと相成る」
「ううむ。……」
「これを|淫《いん》|石《せき》と申す」
「淫石」
「女がたまきわる命のかぎりにもらした愛液の精でござるゆえ。……またもう一つ、この淫石をかいて茶を煮るときは、これを|喫《きっ》した女人は、最初に眼の合うた男に対して本心を失い、一匹の淫獣と化し果てまするゆえ」
松永弾正は、うめき声すらたてず、黙りこんでしまった。ようやく果心居士のいおうとしていることが、推察されてきたようだ。
居士がいま「右京太夫さまのお心を手に入れるために」といった意味が、宗易にもはじめて|腑《ふ》におちた。この幻術師は、右京太夫さまのお心をとろかす魔の茶の製法を教えているのだ。
女人の愛液の結晶――淫石。
そんなものが世にあり得るか、ふつうならもとより信じがたいが、ほんの先刻、彼の弟子僧の「枯葉がえし」と称する、まさに散った枯葉がふたたび枝にかえるような超絶の術を見たあとでは、この幻術師がいかなる奇想天外なことを口にしても一笑に付することができないような気がする。――それだけに、きいていて、いっそう吐き気をもよおしそうな気味悪さがある。
――と、気がつくと、例の柳生新左衛門という武士も、じっと腕組みをして弾正と果心との問答をきいているふうだが、その眼に名状しがたい不快の色がある。うながしたら、席を蹴たてて立つのではないか、と宗易には思われた。しかし、宗易は耐えた。ここの城主に対する遠慮以外に、嫌悪感以上の好奇心に彼はとらえられたのだ。|寂《せき》|寞《ばく》たる|佗《わび》の一大|乾《けん》|坤《こん》を創造したこの大宗匠には、一方で、清濁あわせのむ、そんなしたたかなところがあった。
「淫石の作りよう――またその効用については、これでおわかりと存ずるが」
果心居士はつづけた。
「これには二つの条件がござる」
「なんだ」
「第一にその愛液を流す女、この世のいかなる女にても間に合うというわけには参らぬ。元来、それほどの愛液をながす濃情の女人、またもとより美女でのうては、天狗どもの気にいらぬ。それは、このものどもの選ぶにまかせられたい」
それから、顔をむけていった。
「|羅《ら》|刹《せつ》|坊《ぼう》。|金《こん》|剛《ごう》|坊《ぼう》。……ここにござる女衆のなかに気にいったものがあるか」
七人ならんだ根来僧のなかで、こんどは右端の二人が、ジロリと見まわした。――そこに出て、酌をしていた十人あまりの侍女をである。
「されば」
羅刹坊は、黒ずんだ厚い唇をなめて、あごをしゃくった。
「まず、二人ばかり、――あれと、あの女人、金剛坊、どうじゃ?」
「その通り」
金剛坊と呼ばれた僧はうなずいた。その眼は、はや異様な妖光をはなって、名指されたふたりのきわだって美しい侍女を、そのまま金縛りにしてしまったようだ。
「|椿《つばき》と|千《ち》|鳥《どり》か」
弾正の顔に動揺がわたったところをみると、あるいはその二人は、彼の寵愛する女であったかもしれない。――弾正は、せきこんでいった。
「果心、もう一つは?」
「第二には――その茶を煮る釜が」
はじめて宗易の背に冷気がはしった。果心の眼が、平蜘蛛の釜にそそがれているのに気がついたからだ。果心はいった。
「安ものでは、まじりけのない淫石ができぬ。天下の名器であればあるほど、望ましい。……」
さすがの宗易も、われを忘れて立ちあがっていた。それ以上、この老幻術師の|大《だい》|破《は》|倫《りん》の言葉をききたくなかったからだ。
骨の一片をぬきとるような思いで持って来た平蜘蛛の釜で、女人の愛液を煮る! あまりのことに、頭が悩乱し、しばらく彼は大きく胸を起伏させていたが、やっといった。
「弾正さま、わたしは一刻も早うお茶屋を拝見いたしとうござる」
「拙者も、しばらくこの座をご遠慮申しあげたい。――いささか酔いすごしたようでござれば」
柳生新左衛門も身を起こした。
「お待ちあれ」
果心は顔をあげていった。両人の心を見すかしたように、くぼんだ眼が、いたずらッぽく笑っている。
「ただいま、この二人の美女を借りて、その愛液を流すところをご覧に入れる」
「なに――いまここで?」
弾正もぎょっとしたようだ、果心の笑う声が返った。
「一日も早う、右京太夫さまが欲しゅうはござらぬか」
「拙者は、左様なものを見とうはござらぬ」
ついに柳生新左衛門は憤然たる声をはなって、
「宗易どの、参ろう」
と、あるき出した。弾正はウロウロして小姓をかえりみて、
「ゆくか、おれもすぐゆくほどに。これ、松風の間に待たせておけ」
と命じただけで、べつに制止もしなかったのは、果心とその弟子がこれから展開して見せようという光景を、なお宗易と新左衛門に見とどけろとは、さすがにいいかねたものとみえる。
「ははん、おいやか。惜しいがやむを得まい。――さるにても、ちょっと柳生どのに見せたいものがあるな。羅刹坊、金剛坊」
果心は呼んだ。
「そのふたりの女人の足を見せい」
二羽の鴉天狗が飛び立った。先刻から気死したように立ちすくんでいた椿、千鳥という侍女は、紅雀みたいにむずと手をつかまれた。とみるまに――足を見せいと命じられたにちがいないが、あっというまにふたりとも、その裾を腹までまくりあげられたのである。
「両人の脚に、どこか相違するところはないか」
朧月の下に、|象《ぞう》|牙《げ》のようにひかる四本の足に、果心居士は、無遠慮な凝視をそそいだ。
「お、ある、ある。倖せなことにある。――こちらの女人のふとももに、花弁のような|痣《あざ》がある」
そして、あまりのことに茫然としてふりかえって口をあけている宗易と新左衛門を見あげて、老幻術師は|梟《ふくろう》みたいに笑ったのである。
「柳生どの、よっくこのことをおぼえておかれよ。では、また後刻」
小姓にみちびかれて、宗易と新左衛門は去った。
あと見送って、小首をかたむけて、果心はつぶやいた。
「弾正さま、大丈夫でござるかな」
「なにが」
「あの両人、叛骨がござるぞ」
「それは承知だ。それのあるくらいのやつでなければ、使い甲斐がないし、おもしろうもない」
弾正は、はじめて彼らしく、剛腹に一笑した。なるほど、そういえばこの松永弾正という人物が、叛骨の|化《け》|身《しん》のような男だ。
「その平蜘蛛の釜はの、かねてから三好家でも所望されておった名器じゃ。それをおれの方へ持ってきたというのは、宗易がいかに眼のある男かということよ。また柳生は、この大和にあって|猫額大《びょうがくだい》の地のあるじ、おれの心に|叛《そむ》けば、ただ一もみにもみつぶされることは、とくと承知しておるはず。さればこそ、おれに臣礼をとり、おれが呼べば、あのように参向いたす。両人、阿呆でなければ弾正を裏切るおそれはないわ」
「いや、老婆心より申したまで。――念のため、先刻風天坊のわざを以て|仰天《ぎょうてん》させ、またいま、そのふたりの女人を以て、さらに胆を冷やしておきますれば、まず以て、左様なおそれはござるまい。ふおっ、ふおっ、ふおっ」
果心居士は梟みたいにまた笑って、女をとらえたふたりの弟子僧をうながした。
「では、かかれ」
【二】
宗易が設計した茶亭ではないが、一層下のその松風の間も、やはり茶室になっていた。しかし、むろん茶をたてるどころではない。
宗易と柳生新左衛門は、そこに苦汁をのんだような顔で対座していた。
天下の名器を、あのようなたわけたことに使われるという|恥辱《ちじょく》もある。それをすら耐えていなければならぬくやしさもある――どうやら、理由がちがうにせよ、新左衛門の方も、恐ろしい気力でおのれをおさえつけている気配だ。
とにかく宗易は口をきろうと思ったが、なにをいっていいのかわからない。この柳生という武士の正体が、まだはっきりとつかめていないからだ。柳生の庄という地名は以前にもきいたことがある。どうやらそこの城主らしいが、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に城主といってよいのかどうか疑問に思われるほどの山の中の一小国ではないか。むろん、いまは松永弾正の支配下にあるだろう。弾正|麾《き》|下《か》の一部将ともいうべき人物に、めったな口はきかれない。
――すると、
「宗易どの、辛抱なされよ」
と向こうの方から声をかけてきた。自分をおさえきったとみえて、眼が笑っている。
「いまのところは、辛抱せねば、首があぶない。――しかし、天道は」
そこまでいって、口をとじた。宗易が、座敷の外に小姓の座っている唐紙の方をちらっと見やって、眼で制したからだ。
しかし、そこでふたりの口がほぐれた。
新左衛門がいう。――柳生家は平安の昔より、柳生谷の一豪族であったが、藤原、平家、源氏、北条と世が移るにしたがってあるいはこれにつき、あるいはあれにつき、ときには本領を失い、また帰り、つぶさに小国の悲運をなめつつ、生きながらえて来た。ちかくは、じぶんがまだ少年時の天文十三年、大和の豪族筒井氏のためにいちどは亡国の難におち入ったのを、二年前、ようやく松永弾正に属してこれを回復したものである。――
こういうことを、淡々としていった。しかし、先刻から気がついていたことだが、この新左衛門という男には、そんな興亡の|辛《しん》|酸《さん》をなめてきた小城主らしい卑屈な|翳《かげ》が|毫《ごう》もない。堂々とし、むしろ不敵な|面魂《つらだましい》すらほの見えて、ただ体験からきた思慮が、それに沈毅の相を加えている。
そう見ながら、宗易はまったくべつの想念に悩まされていた。それはさっきからきこえてくる階上からのある声であった。
この座敷を、松風の間というそうな。しかし、――|嫋々《じょうじょう》とながれてくるのは、松風ならで、むせび泣くような女の声だ。ひとりではない。たしかにふたりの女ののどをあえがす旋律がもつれあい、からまりあって、宗易の|耳《じ》|朶《だ》をかきむしる。
「あなたはお茶をなされまするか」
強いて、それに耳をふさいで、宗易はきいた。
「いや、拙者は剣しか知らぬ男です。茶はやらぬではないが、まったく野人の手すさび、宗易どのの前では、赤面いたす。それどころか、宗易どののご高名はつとに承っておるところ、これをご縁に、どうかご指南をたまわりたい」
階上の女の声は、次第に凄壮のひびきをおびてきた。高欄で、なにが行なわれているのか。――先刻の果心の言葉を思い出すまでもなく、想像するだけで、血が逆流するようだ。
「ほう、剣しか知らぬと仰せられる。武人として当然のお言葉ですが――しかし、あなたさまは、失礼ながら茶道の方でもなかなかのご境地に達せられたお方のようにお見受けいたします。それは、剣の方から至られたのか。――」
「とんでもない」
柳生新左衛門はくびを大きくふった。彼とても、あの声は耳にしているであろうに顔色もかえない。
彼は、こんなことを話し出した。こんど松永どのに呼ばれたのは別の用だが、じぶんがこの信貴山城にくるには、ひとつのたのしみがある。それは、|上泉伊勢守信綱《かみいずみいせのかみのぶつな》さまに再会できるのではないかという期待である。――
「おお、上泉伊勢守さま」
宗易はさけんだ。彼はまだいちども逢ったことはないが、ずいぶん以前から、諸国を漂泊しているこの一代の剣聖の名はきいている。二年ほど前、京の将軍の上覧を受け、「上泉兵法、古今比類なし」という感状をたまわったという噂も、そのころ耳にしていた。
いま、柳生新左衛門のいうところによると、そのとき伊勢守は、この信貴山城にもやってきた。たまたま居合わせた新左衛門が、武者ぶるいしてこれに試合を挑んだ。
伊勢守はまず門弟の|匹《ひき》|田《た》|小《こ》|伯《はく》を立ち合わせた。小伯は新左衛門の構えをみて、「それでは悪うござる」というや、ハタと打った。「いま一度」と新左衛門がさけんで構えると、「それも悪うござる」と、まるで新左衛門の木刀がないかのように打ちこんだ。三度立ち合って、彼は三度打たれた。
それでも強情我慢の彼が、あえて伊勢守自身に試合を所望すると、
「では、その太刀、取り申すぞ」
と、いうや否や、彼は|嬰児《あかご》のごとく信綱に木刀を奪い去られたという。
しかし、伊勢守は新左衛門の太刀すじに見どころがあると称し、ただその剛強をたしなめて、
「浮かまざる兵法ゆえに石舟の
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くちぬ浮き名やすえに残さむ」
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という一首をあたえ、また二、三年後、ふたたびこの信貴山城にかえってくるつもりだから、そのとき相まみえて、新左衛門の工夫によっては、一国一人の|新陰流印可状《しんかげりゅういんかじょう》を相伝すべしと約して、|飄然《ひょうぜん》と去ったというのであった。
この話をしているうちに、柳生新左衛門の眼はキラキラと光芒をはなちはじめ、彼がこの信貴山城に縛られているのは、柳生の庄を安泰に保たんがための|臥《が》|薪《しん》の心もさることながら、それよりその剣聖との再会を期するためではないかと、宗易には思われたほどであった。
「|爾《じ》|来《らい》、それがし、愚鈍なりに鍛錬をかさね、伊勢守さまにお目にかかる日をたのしみに――それを生きておるただ一つのよりどころとすら存じておったに――世は広い。先刻のあの根来僧のわざ、まことに恐るべし」
ふいに彼は長嘆した。
「あのように邪心にみちた幻術、それすら――拙者には、あれを破る工夫がつかぬ」
階上の声は、いまや獣のほえるようなものに変わっていた。しかも、たしかに女の声にまぎれもない。――ついに、がばと新左衛門は片ひざを浮かし、一刀をつかんだ。
「ええ。もはやがまんがならぬ」
冷静にみえて、彼もきいていたのだ。いや、きこえぬはずはない。それにしても、ほんの、いま、「辛抱されよ、辛抱せねば、首があぶない」とひとに忠告した当人が、まなじりを決して起とうとする袖を、宗易はとらえた。
「柳生さま、あの鴉天狗にはかなわぬと、いま申されたばかりではありませぬか」
「しかし、あのような無惨なふるまいを見すごしては」
「石の舟、石の舟」
と、宗易は息せききっていった。石の舟のごとく、沈んで耐えよといったのだ。
「あれは、われらとは無縁の――|修《しゅ》|羅《ら》の世界のできごとと思いなされ。そもそも果心居士は、人間ではござらぬ」
「あの老幻術師、噂にきいてはおったが、逢えたのははじめて、宗易どの、いったいなにものであろう?」
「――少なくとも、日本の人間ではござらぬ」
「なに?」
柳生新左衛門が愕然として見下ろすと、宗易はその袖からはなした腕をこまぬいて、眼をすえていた。
「わたくしも、あの老人の素性を知らぬことは同様でござります。が、先刻より、あの果心の言葉をきいているうち、申しておることの凄じさは別として、なにやら心にかかるものが二つござった。その一つが、あの|語《ご》|韻《いん》――あれは、堺に渡来する唐人の語韻と、どうやら似通うものがございます」
「果心居士は唐人であると?」
「これは、推量でござる。それに、もう一つ――これはいまだにわかりませぬが、果心が突如として、淫石などといい出したその機縁」
「おお、そういえば、果心は、あのとき――」
「この宗易を満天の星影に浮かして占い、三十年後の星座が見えるとさけんで、なにやらいたくおどろいたようすにござりました」
そのとき、ふいに階上の声がやんだ。そして、かえって耳がいたいほどの静寂がおちた。
名状しがたい恐怖にうたれて、さっき新左衛門をとめたはずの宗易が、ぎょっとして立ちあがった。こんどはその袖を新左衛門がとらえた。
「見まい、聞くまい」
彼は、眼をとじて、沈痛なうめきをもらした。
「それよりも、唐人の――唐人の疑いある果心が、なにゆえあのようなことを松永どのに、吹きこんだものであろう。かんがえよう。あのとき果心は――三十年後の星座、そのころ宗匠を覆うおなじ星の剣気が、海をわたって、大明を襲う――とか、申したな。宗易どの、おちついてかんがえよう」
しかし、宗易には返答できぬことだ。彼は、もはや一刻もはやくこの城から逃げ出したかった。
「ことと次第では、新左衛門、死力をふりしぼってあの幻術師を成敗せねばならぬ」
「およしなされ、柳生さま、あれは魔天の化け物でござる」
――静寂の中にかすかな音がひびいた。ピタピタと、だれかが階段を下りて、廊下をあるいてくる。ふいに、座敷の外で、小姓のただならぬさけびがきこえた。
柳生新左衛門は一刀をつかんで飛び立っていって、いっきに唐紙をひきあけた。
そこにふたりの女がフラリと立っていた。かっと眼をむいている小姓を尻目に、ふたりの女は漂うように座敷に入ってきた。いずれも一糸まとわぬ、全裸の姿だ。
髪はみだれて、まっしろな肩と乳房にねばりつき、あきらかに狂人のうつろな眼をしていたが、まぎれもなく、さっきの椿、千鳥という侍女だと見て、――あとずさりしながら、まじまじとそのからだを凝視していた宗易が、ふいに「お!」と、のどに鉄丸でもつまったような声をたてた。
「柳生さま!」
「なんだ」
「あ、足を見られい。――痣が、べつの女に移っております!」
いかにも、先刻、たしかに椿という侍女のふとももにあった花弁に似た痣はきれいに消え、代りに同じ痣が、千鳥のふとももに浮かんで見える。
「それが、どうした?」
と、いいかけて、柳生新左衛門も息をのんだ。それは、ふたりの侍女の|絖《ぬめ》のような胴に、赤い絹糸を巻いたような一条のすじを見出したからだ。
「ふおっ、ふおっ、ふおっ、気がつかれたか」
突然、廊下で、哄笑というにはあまりにも陰にこもった笑い声がきこえた。果心居士がそっくりかえって立っていた。
「おなぐさみまでにもう一つべつの術をご覧に入れた、――両人、胴から上下をとりかえたのじゃよ。ふおっ。ふおっ。ふおっ」
伊賀めおと雛
【一】
――その翌日、早々に信貴山城を去った千宗易は、その後に起こったことを知らない。
いや、それから三十年のあいだに――天地に吹きすさんだ戦乱の嵐の中に、三好家の滅亡や、右京太夫の運命や、松永弾正の末路や、柳生新左衛門の変転など――宗易はその耳にきいたし、まざまざとその眼に見たものがあるが、それはばらばらであり、きれぎれであって、このときの果心居士という怪幻術師の投じた一石からひろがった波の全貌は知らぬ。
それまでは、乱世にはかかる|梟雄《きょうゆう》も天下の支配者となり得るか、と判断して、あえてちかづいた宗易であったが、このときから「――所詮、その器にあらず」と見て、松永弾正から巧みに身をはなしたからである。
しかし、もって生まれた本性は、鉄片が磁石に吸い寄せられるように、彼を信長へ、さらに秀吉へちかづけた。そして彼を破滅の運命に追いこんだ。
千宗易――のちあらためて千利休が秀吉の|忌《き》|諱《い》にふれ、堺で切腹を命じられたのは天正十九年二月のことである。死の日の夜明前、端座黙想していた彼は、ふいにある声が耳によみがえるのをきいた。
「――あなたのお命は、あと三十年で燃えつきる。その星に剣気がある」
利休は蒼ざめた。そのとし天正十九年が、永禄五年からまさに三十年目であることに気がついたのだ。
「――三十年後に命終わる人を置いて、三十年後の星座が見える」
梟のような笑い声がまじった。
「――そのころ、宗匠を覆うおなじ星の剣気が、海をわたって大明を襲う。……」
利休の耳には、もうひとつの――これは現実のもの恐ろしい音響がきこえていた。それは堺の港で船大工たちが、おびただしい征明の船を造るのに夜を徹しているひびきであった。
あの老幻術師の星占いは|中《あた》った、と利休は心中にうめいた。そして、あのとき、果心は唐人ではないか? とじぶんが疑ったことを率然として思い出したのである。
やはり、果心居士は唐人であったのだ。では、彼はなんのために松永弾正にちかづいたのか。おそらく弾正が乱世の雄であると見たのみならず、弾正が生きているかぎり乱世がつづくと見たのではないか。果心は三十年後の星座を変えようとした。大明を襲う日本の統一者の出現を恐れた。そのために松永弾正という破倫の魔王に活を入れる必要がある。彼の最も欲しがっているものは、たとえ天上の|珠《たま》であろうと投げあたえてやる必要がある。……かくて、淫石製造の秘法が伝授されたのだ。
利休はこう解いた。そして、あのころから、ふっと果心居士の噂が絶えていることを思い出した。彼は海の彼方へ去ったのか。それとも、当時すでに相当の老人にみえたから、もうこの世を去ったのか。――いや、あの化け物は、そうあっさりとは死ぬまい。日本のどこかにまだいるのかもしれない。おお、いまきこえた梟のような声は幻聴ではなく、ほんものの果心の笑い声ではなかったか?
利休は、ぎょっとして茶室の中を見まわしたが、明り窓には、彼の眼には最後のものとなる暁のひかりが、蒼白くさしかかっているだけであった。……
千利休のこの推定がはたして中っていたかどうか、作者は知らない。それにしても、いろいろといぶかしい点がある。三十年後に死ぬべき運命の人間を媒体として、背後の星座で、三十年後の地上の相を占う。この星占いはまずあり得るものとして、豊太閤が征明の|役《えき》を起こしたのは、利休の死の翌年、文禄元年のことで、一年のちがいがある。しかし、ここまでの長期予報ともなると、それくらいの誤差は容認すべきかもしれない。
また、それほどの予言の怪力をもっているなら、なぜ信長や秀吉の出現そのものをとどめ得なかったのか。いや、ひょッとすると、本能寺へ鞭をあげた|明《あけ》|智《ち》|光《みつ》|秀《ひで》の背後に果心の梟のような笑い声がきこえたかもしれないが、それでは果心が|恬《てん》|然《ぜん》として秀吉に会って、女の亡霊を出してからかい、磔にかけられかかったというこの物語の|冒《ぼう》|頭《とう》に紹介した「虚実雑談集」の記述はどう解釈するのか。
そもそも虚実雑談集という名の通り、これは虚実おりまぜた|稗《はい》|史《し》のたぐいだから、まともに信をおくにはあたらないが、もし事実なら、それは利休死後のことで、かつ、さすがの幻術師も|虹《にじ》のような豊太閤の|壮《そう》|図《と》のまえには敵しがたく、あきらめて、せめてものことに|嘲弄《ちょうろう》の一矢をむくいたものであろう。
なににせよ、この果心居士という人物は、徹頭徹尾謎である。その生国、年齢、本名も謎だが、行状そのものに|端《たん》|倪《げい》すべからざるものがある。その奇怪な行状記に、一脈ながれているのは相当皮肉ないたずら精神だ。――あるいは、彼は、日本史上にあらわれたメフィストフェレスであったかもしれない。
ともあれ、千利休は知らない。――永禄五年春、大和国信貴山城で、この戦国のメフィストフェレスが投じた一石、その名も妖しき「淫石」からひろがっていった壮絶無惨の血の波の輪を。
【二】
「……向こうに見えるのが、柳生の庄だ」
と、若者は指をあげた。
「そこを過ぎると、やがて月ケ瀬。もう一ト月も早うかえってきたら、山をうずめる梅の絶景が見られたろうが。……」
「伊賀は?」
と、若い女がきいた。
「伊賀国は、月ケ瀬からほんの一ト足。もっとも|鍔《つば》|隠《がく》れの谷へは、まだだいぶあるが」
奈良から五里ちかく来たであろう。伊賀へゆく街道――いわゆる伊賀路を、もつれ合う二匹の蝶みたいにあるいてゆく一組の男女があった。
二匹の蝶のように――といったが、たしかにふたりの歩き方はおかしい。街道に人影がみえないと、ふたりは蟹みたいに横に歩くのだが、それが、歩くというより、ながれるように早い。かと思うと、ふいに|草鞋《わらじ》に|膠《にかわ》でもくっついているように重い足どりとなる。そんなときは、どちらかが深い思案顔だ。
この歩行の変化は、絶えず見張っている人間でもないかぎりだれしも気がつかないがときにふたりが路傍の草に腰を下ろして休んでいるとき、その前を通りかかった旅人は、たいてい瞳を吸いつけられてしまう。
|風《ふう》|体《てい》も異様だ。男はよもぎみたいな頭をして、きもの、たっつけ袴もぼろぼろだが、刀をさしているところをみると、これでも武士――郷士か|素《す》|牢《ろう》|人《にん》とでもいうべき姿だが、通りかかったものが女なら、思わず吐息をもらしてしまう。
バサと垂れさがった髪の下の瞳は、女にとって酔うような精悍な光芒を|燦《さん》とはなって、それにもかかわらず頬の線は少年みたいに純潔で、ういういしい。もっとも、年も|二十《はたち》をわずかに出たくらいのところであろう。一言でいえば、青春美の結晶だ。
女は、これまた塗りの|剥《は》げた|市《いち》|女《め》|笠《がさ》をかぶり、きているものも風雨に洗い|晒《さ》らされたようだが、その顔を一目みた男なら、これは口の中でうめいてしまう。
夢のように優雅な眉に比して、唇は野性と肉感にぬれている。そんな身なりなのに、身のこなしにふしぎな|妖《よう》|艶《えん》さがただよっているのだ。ただし、これは男より一つか二つ年上かもしれない。
「伊賀へゆくのは、やはりわたしは恐ろしゅうございます」
と女がいった。このとき、その足は鉛のように重くなっていた。
「そなたが恐ろしがることはない。こわいのは、おれの方だ。……さぞ、服部の|伯《お》|父《じ》|御《ご》に叱られるのだろう。叱られるだけではすむまいが。――」
男も、ふとしょげかかったが、すぐに例の精悍な眼をあげて、
「それでも、おれは伊賀へ帰りたい。いや、帰らねばならぬ」
そして、まっしろな歯を見せて、ひたと女の手をにぎりしめた。
「|篝火《かがりび》、いまさらなにをためらう。もとは遊女とて――遊女でありながら、一年吉野に籠って、むごたらしいまでの忍法の修行にたえたそなたではないか。もはやそなたも、鍔隠れの女として、だれに恥じることもない。その修行の話をきいただけで、鍔隠れの人々はみなおれたちをゆるし、そして|双《もろ》|手《て》をあげて迎えてくれるだろう」
――男は、|笛吹城太郎《ふえふきじょうたろう》という。
伊賀に鍔隠れという谷がある。平家の|末《まつ》|裔《えい》にして代々伊賀の一豪族たる服部家の支配下にある忍者の部落だ。彼はそこに生まれた忍者であった。
一年前、笛吹城太郎は、一族の首領服部半蔵に一つの用を命じられて堺へいった。そのとき彼はふと堺で名高い|傾《けい》|城《せい》町|乳《ち》|守《もり》の里に迷いこんで、そこで乳守第一とうたわれた遊女と相知ったのだ。
――女は、篝火という。
天下の貴人、豪商、風流人をあつめる堺の港町で、それらをふくめあらゆる男性を悩殺した傾城と、野生の精のような山岳の子と、そのあいだにどんな妖しい火花がとびちったのか。――とにかく、篝火太夫と笛吹城太郎は、手に手をとって駆け落ちした。
乳守の里から追手が出たが、ふたりはついに見つからなかった。見つからないのは当然、ふたりは吉野の里――人跡もまれな山中にひそんでいたのだ。
たんに追手の眼をくらますためばかりではない。城太郎が篝火の手をひいて吉野の奥へかくれたのにはべつにわけがあった。彼は篝火をつれて、すましてノコノコと伊賀へかえるわけにはゆかないのだ。第一に彼は首領に命じられた用件を捨てている。第二は、彼は一族の意向もはからず、勝手に――こともあろうに、遊女をつれて逃げている。
伊賀の忍者――とくに鍔隠れの谷の掟は鉄のように|勁《けい》|烈《れつ》なものであった。この掟には、一族のものすべてが血判をおして誓っている。これを「鍔隠れ連判」という。
その掟の条々の中に――
「鍔隠れの者、他国他郡の者をひきいれ、自他の跡望む|輩《やから》これあらば、親子兄弟によらず一族同心成敗|仕《つかまつ》り候こと」
という明文がある。他国者との自由結婚など、とんでもないことだ。
けれど、恋の炎は、ふたりの前からあらゆるものを燃やしつくした。吉野の花、青嵐、紅葉、雪に彩られたふたりの愛のすがたはというと一幅の絵になるが、少なくとも世のつねの絵にはならぬほど、それはむしろ凄壮をきわめたものであった。
女は、堺で、どんな男でも地獄におとすとうたわれたほどの嬌艶無双の篝火であった。男は、それまで童貞で、しかも、みずから知らずして、あらゆる女を狂わせるに足る魔力をもった若い忍者であった。むしろ、地獄におちたのは篝火の方であったろう。
しかし、吉野の山中で、ふたりはただ恋におぼれ、愛欲に身をこがしていたばかりではない。笛吹城太郎は、篝火に忍法を指南した。――
それは、いつの日か伊賀へ帰るための準備であった。彼は鍔隠れの谷を忘れてはいなかったのだ。彼女を一個の忍者にしたてあげたら、あるいは谷の一族も、篝火をけなげな花嫁として受け入れてくれるかもしれない。まだ子どもっぽいところのある城太郎のえがいた夢だ。
それに、篝火が服従した。無惨ともいうべき修行に、象牙の箸と銀の椀しか持ったことのないこのたおやかな傾城が耐えぬいた。忍者の妻たらんとする一念以外の何物でもない。
一年たって、吉野に花が咲いた。城太郎は伊賀へ帰ろうといい出した。篝火の忍法修行に満足したためではない。一族が受け入れてくれる確信があったわけではない。ただ、|童子《わらべ》のような、伊賀恋しさの望郷の炎に吹かれて思いたったのだ。
――そしていま、彼らは、吉野を下り、春たけなわの大和路を旅して、伊賀路をいそぎつつある。――
いや、いそいでは来たのだが、現実に伊賀へちかづいてみると、ともすればふたりの足はためらう。
無断|逐《ちく》|電《てん》の罪。自由結婚の罪。――鉄のような忍者一族の掟「鍔隠れ連判」。
それを思って、笛吹城太郎のひたいに|惑《まど》いの翳がさせば、篝火の瞳にも恐れのさざなみがゆれる。
「城太郎どの」
また、篝火がいった。
「わたしは心配でなりませぬ」
「なにを、いまさら」
「鍔隠れでは、ほんとうにわたしをあなたの妻としてゆるしてくれるでしょうか」
「どんなことをされても、ゆるしを請う。ゆるしてもらわずにはおかぬ」
「いいえ、わたしの忍者としての修行を」
そして彼女は、ちらと街道の一方を見あげた。
大和平野も、このあたりになると山が迫ってくる。もっとも、山というより、なだらかな丘陵の連続で、それに茶畑があり、ところどころ山桜が咲いている。|鄙《ひな》びてはいるが、雅味があり、気品がある風景であった。
「城太郎どの、おねがいです。もういちどここで指南して下さい」
「ここで?」
「伊賀へ入るまえに、もういちどわたしの教えられたことを、修練してみたいのです」
「その気はわかるが、もはや、ありのままの篝火を見てもらうしかあるまい」
「でも」
篝火は、丘の一つを覆う大竹藪へ、|風鳥《ふうちょう》のように駆けのぼっていった。やむを得ず、城太郎もあとを追う。
春光を|黄金《き ん》の|斑《ふ》のように浮動させている竹藪であった。その|端《はし》に篝火は立って、城太郎をふりかえって、にっと笑った。
経歴のみならず、事実においてもあねさま女房で、ふだんは城太郎の方が甘えかげんのところがあるが、忍法修行のときだけは、立場が逆になって、世にもいじらしく、可憐なものに思う。――城太郎は思わず返そうとした笑いをおさえて、厳然たる眼になった。
篝火は身がまえた。いや、その姿勢になんの異常もないのに、全身の肌が寒風に吹かれたようにそそけ立った。
「忍法、三日月剣」
祈るがごとくつぶやいて、そのまま彼女は歩み出した。小暗いまでに密生した大竹藪の中へ。
ふつうの人間なら、まっすぐに進むことはむろん、よけてもよけきれぬ竹林の中を篝火はスタスタと草原をゆくように歩む。ただ、風でも出たように、ザ、ザ、ザーッと上の方で竹藪がゆれはじめた。
きっと眼をすえてすすむ篝火の両腕はダラリと垂れているかにみえるが、しかし注意して視線をそそぐと、そのふたつの|掌《て》はピンと外側に反ってしかも断続的にそれが魚鱗のようにひらめくのに気がついたであろう。すると、その前にある竹がわずかにかたむき、彼女の一方の足がヒョイとその竹を煙みたいに通りぬけるのだ。そのあとで、地上三尺あまりのところで、竹が輪切りになってストンと地におちる。そして上方の藪が、波みたいにさわぎはじめる。
新月のように反った篝火の|繊《せん》|手《しゅ》のひらめくところ、竹はスッと切断される。もう一方の篝火の腕がそれをおしのける。三尺の高さに切り口をみせた竹の上を、彼女はまたいで通る。――事実の順序はこの通りだが、彼女の速度は常人と変わらないし、見ていると、まるで篝火の前の竹が、じぶんの方から身をよけて、この美女の|蓮《れん》|歩《ぽ》をよろこび迎えているかのようであった。
忍法「三日月剣」――白魚に似た篝火の掌は、一瞬、鋭利な手刀と変じる。が、十数本の竹を切ったとき、淡い紅色の虹が、霧みたいに吹き散った。血だ。
「――よしっ」
いまようやく、その背後で、切られた竹が左右からたおれかかり、交差しはじめた下を、むささびみたいに駆けぬけていった笛吹城太郎は、篝火に追いつくと、折れよとばかり抱きしめた。
「みごとだ。立派なものだ」
抱きあげて、もどりながら、頬ずりする。篝火は笑いながら、傷ついたじぶんの掌を、城太郎の口へもってゆく。城太郎は、それをしゃぶって、血をぬぐいとってやる。
そしてふたりは、血と火の匂いのする口づけをした。――それは、青い竹林を城太郎の足が出るまでつづいた。
藪を出て、明るい陽光が顔にさしたとき、城太郎の胸の中で、篝火は眼をひらいた。
「城太郎どの」
夢みるような声だ。
「伊賀へ帰って、もし――ほかの|女《おな》|子《ご》と祝言せよといわれたら、どうなさる」
「ば、ばか。そなた、そんなことをいままで考えていたのか」
「ね、答えて」
城太郎の純潔で、しかも女を吸引する眼がかがやいた。
「返答は一つしかない。おれにとって、女は未来永劫、世界じゅうにそなたひとりしかない」
「お誓いなさるかえ?」
篝火の眼もぬれたようなひかりをはなった。
「一生、笛吹城太郎は、篝火のほかに女を断つとお誓いなさるかえ?」
「誓う!」
城太郎は大きくさけんで、ほがらかに笑った。
「おれと、そなたと連判しようか。鍔隠れ連判よりも|厳《おごそ》かな、めおと連判!」
【三】
春風に二匹の蝶が舞うように、笛吹城太郎と篝火は、また街道へ下りていった。――こんどは、足どりもかるい。
――と、柳生の庄へ入ろうとしたとき、ゆくてから奇妙な一団があらわれた。
墨染めの衣をつけた七人の僧だが、その衣のあいだから腹巻きの鈍いひかりがこぼれ、大刀を帯しているものもあるし、|大《おお》|薙刀《なぎなた》をついているものもある。それから、なんのためか、たたんだ大きな傘を、ななめに背負っているやつもある。七人のうち五人までが|袈《け》|裟《さ》頭巾で|面《おもて》をつつんでいる。いうまでもなく僧兵だ。
当時、比叡山や興福寺や東大寺などはむろんのこと、ちょっとした寺はいずれも僧兵を擁していたから、これはべつに珍しい姿ではないが、それにしてもこの七人は少々変わっている。袈裟頭巾をつけていないものが二人ばかりあったが、それが山伏のごとく総髪にしているのだ。のみならず、七人とも、なんとなく凄惨な、|凶《まが》|々《まが》しい、獣的な殺気を全身からはなっている。――
彼らはちかづいて来た。城太郎と篝火は路傍にさけた。
七人の異形な法師はどやどやと前を通りかかって――ふと、その一人がピタリと立ちどまった。一歩おいて、あとの六人も足をとめた。
十四の眼が、篝火の顔に吸いつけられていた。
それから、うなずき合った。ひとりの僧が、野ぶとい声でいった。
「そこの女、来う」
ふたりがあっけにとられていると、ズカズカと寄って来て、篝火の手をとらえた。その腕を、城太郎がまたつかんで、
「なにをする」
「もらってゆく」
残りの六人が、グルリととりかこんで、
「うぬはなんだ? 亭主か、弟か」
「なんにしても、手向かいせぬ方が身のためだぞ」
「それにしても、かような美女を身内に持っておるとは|冥加《みょうが》なやつ。いや、これがどれほどの宝かは、うぬにはわかるまい」
「淫石、淫石」
「この女ひとりで、一個の淫石が作れるほどの珍しい女」
わけのわからない言葉を投げかわすと、のけぞるようにしてどっと笑った。笑いがやむと、また篝火を見た眼が、異様な炎に煮えたぎっている。
「おい、|空《くう》|摩《ま》|坊《ぼう》、さらってゆけ」
「よし来う」
城太郎の手をふりはらい、篝火をひきずり寄せようとした法師の腕が、このとき、グキリと鳴った。
「あっ、|痛《つ》う」
空摩坊は悲鳴をあげて、狂気のようにとびのいていた。その右腕が大きく空中に|弧《こ》をえがいたが、あきらかにそれは、関節を肩からはずされた意志のない旋回であった。
「――やっ?」
六人の僧兵はぱっと輪をひらいて、眼をむいて城太郎をにらんだが、
「こやつ――浮浪の若僧のくせに妙なわざを」
「めんどうだ。斬ってしまえ」
いっせいに薙刀をとりなおし、腰の|戒《かい》|刀《とう》をぬきつれた。
城太郎はふりむいた。
「まるできちがい|鴉《からす》のようなやつらだ。みんな羽根をもいでやろうか」
篝火はくびをふった。
「いいえ、要らぬことです。それよりも逃げましょう」
城太郎は素直にうなずくと、篝火の手をとった。
「では、逃げるぞ!」
さけぶと同時に、ふたりは大地を蹴った。とみるまに、その姿は二羽の風鳥のように七、八尺の高さを――僧兵たちの頭上をとびこえたのである。その刹那、虚空で|戞《かつ》|然《ぜん》たるひびきが発して、|氷柱《つらら》がくだけ散ったようであった。
「わっ」
さすがの僧兵たちが、どっと砂けむりをあげて混乱した。頭上をとぶ姿めがけて、ふたりの僧兵が閃光のごとく大薙刀をなぎあげたが、その二本とも刃のつけねを斬りとばされたのである。僧兵たちが狼狽したのは、空中からふってくるおのれの武器をからくも避けるためであった。
一刀をひっさげたまま地上にとびおりた笛吹城太郎は、篝火の手をひいて、あともふりかえらずに走った。
「待てっ」
怒号して、黒い奔流みたいに僧兵たちは駆け出したが、たちまちたたらをふんでとびずさった。ぶつかり合って、ころんだやつもある。逃げてゆくふたりのうしろに、無数の黒い小さい|鉄《てつ》|金《かな》|具《ぐ》が散乱している。ねじくれた|釘《くぎ》を八方に突出させたマキビシという武器を、城太郎がばらまいていったのである。
「きゃつ、忍者だ!」
総髪を逆立てたひとりが、歯をむき出して絶叫した。
「金剛坊、|天扇弓《てんせんきゅう》をとばせ!」
「おうっ」
と袈裟頭巾のひとりがうなずいた。この僧兵は、衣をむすぶ帯のあいだに、無数の扇子をさしつらねていたが、それを両掌にわしづかみにすると、ビューッと空へ投げあげたのである。
一つかみ五本、合わせて十本の扇子は、十本の黒い矢のように飛んでいって、逃げてゆく城太郎と篝火の前方で、いっせいにぱっとひらいた。
忍法僧
【一】
「あっ」
空を見あげて、笛吹城太郎はさけんだ。
ぱっとひらいた十本の扇の、その|要《かなめ》からは鋭い針が銀光をはなって――それが、ふたりのゆくてにいっせいに舞い落ちてきたのだ。
いや、いっせいならまだいい。キリキリと旋舞しつつ矢のごとく落下してくるものがあるかと思うと、なおふたりのうごきを待つかのように空中に浮動しているものがある。
たたらを踏んで立ちどまる空に、また鳥の羽ばたくような音をたてて、扇がひらいた。金剛坊がさらに腰の扇子を飛ばしたのだ。つづいて、第三の扇の花火が。――それでも、金剛坊のふとい腰をビッシリと巻いている扇の帯の半ばにすぎぬ。
いまや大空に散った無数の扇の矢は、たたみ針のような凄じい長針を下へむけて、|驟雨《しゅうう》のようにふりそそぎつつあった。
しかも、その速度の|緩《かん》|徐《じょ》は千差万別ながら、扇の回転によるものか、地におちたときの針の威力を見るがいい。それはいずれも、針も見えないほど、ぷすうっと土にふかくつき刺さってゆく。――
――たたたたと城太郎は|篝火《かがりび》の手をひいてもとの方へあとずさって、また棒立ちになった。おのれのまいたマキビシに道をふさがれたのだ。
「あはははははは」
「見たか、忍法天扇弓!」
「気づかなんだが、若僧、うぬも忍びの術の心得があるらしいの」
「伊賀か、甲賀か。――これはおもしろい!」
マキビシの向こうで、法師たちはどっと笑った。その笑いのまだ消えぬうちに、――
「忍者ならば、ひとつこれを受けて見ろ!」
ブーンと異様なひびきをあげて、閃光の水ぐるまが飛んで来て、城太郎を襲った。城太郎は、それを斬った。――いや、斬ったと思った。が、そのきっさきに一寸の距離をおいて、それは逆に向こうへはねかえっていって、法師の手ににぎられた一ふりの鎌となった。
「からかってみただけじゃ」
ヒョロリとしたその法師はあざ笑った。
――風天坊だ。
「うぬのそッ首、かき斬ろうと思えば斬れる。しかし、せっかくの忍者――殺すに惜しい。生け捕りにしたい、いや、それよりもまず、その女をわたせ」
立ちすくみ、笛吹城太郎は歯ぎしりした。眼は血ばしり、そのひたいからはあぶら汗がながれ出した。彼は、実に恐るべき一団に襲撃されたことをようやく知ったのだ。
――いったい、こやつら、なにものだ?
「城太郎どの」
篝火が蒼白な顔で、思いつめた眼をあげた。
「とにかく、争いはやめなされ。手むかえば、殺されます」
「ううむ」
「わたしをわたせと申します。わたしがゆきましょう」
「な、なにを、ばかな」
「あの法師たち、なにものかもしれませぬ。なんのために、わたしをくれというのかもわかりませぬ。それをきいてやりましょう」
篝火はゆきかけた。城太郎はあえいだ。
「篝火、しかし」
「かりにも、法師です。案ずることはありますまい」
城太郎はふりかえった。おどろくべきことに、先刻空に投げあげられた扇の矢は、なおヒラヒラと舞いおちつつある。首をかえせば、七人の法師は一団となってじっとこちらを凝視しているが、あの扇を投げた法師はさらに新しい扇をつかんでいるし、鎌を投げた法師はふたたびその鎌をふりかぶっている。
その方へ、篝火は、路上のマキビシをよけながら、はや四歩五歩進んでいる。城太郎は身もだえしてさけんだ。
「待て、篝火」
篝火は、必死の眼で城太郎をにらんだ。
「生きて、伊賀へかえらねばなりませぬ」
そして彼女は凄艶にほほえんだ。
「法師どのとて男。……わたしは|乳《ち》|守《もり》第一といわれた傾城でありますぞえ」
おそらく彼女は、どのような無法者だろうと、相手が男である以上、なだめ、とろかす遊女としての|手《て》|練《れん》|手《て》|管《くだ》に自負をもっていたのであろう。いや、その自信を死に物狂いに呼び起こそうとしたのであろう。――しかし、この自負がどれほどあやまっていたか――この相手が、いま見た以上に、いかに恐るべき怪物であったかは、彼女がさらに五、六歩あゆんだときにわかった。
本能的に恐怖にかられて、城太郎は追おうとした。
「篝火!」
その一瞬、さっき鎌をなげた法師が空を飛んだ。片手に鎌をもち、黒衣を翼のようにひろげた姿が鷲みたいに舞い下りると、もう一方の腕で篝火を横抱きにした。とみるや、その足は地にもつかず、また羽ばたくようにもとの路上へ飛びかえったのである。
「女は、もらった!」
とたんに、この三次元の力学を無視した魔僧は、
「むっ」
と、うめいて、身をねじった。その足もとに、ぱっと血がしぶいた。
空中をさらってゆかれながら、篝火が|懐《かい》|剣《けん》をひきぬいて、彼の|脇《わき》|腹《ばら》を刺そうとしたのだ。いまこの法師らを懐柔してみせるといったはずの篝火だが、突如として、こういう行動に出たのは、いまはこれまでと思いきったためか。それともあまりの破天のわざに狂乱したためか。
「こやつ――小癪なまねを」
篝火の手くびをつかんだまま、風天坊はにらみつけた。骨もくだける痛みにのけぞりかえった篝火の顔に顔をおしつけるようにした法師の眼に、ぎらっと青い殺気の炎がもえた。――篝火の一刺しは、たんに脇腹をかすめたにすぎなかったらしい。
「ま、待てっ」
絶叫して、城太郎はマキビシを踏んで走った。もとよりそれを避けることも、判断の外にある。
このとき七人の僧は、城太郎や篝火から眼をそらして、顔を反対の方向へむけていた。
西の――街道の彼方に、土けぶりとともに騎馬の一隊があらわれた。
「あれはなんだ」
「十数騎はおるな」
「厄介だ。――|水《すい》|呪《じゅ》|坊《ぼう》、片づけろ」
「心得た」
電光のような会話がかわされると同時に、総髪の法師がまたふりむいて、殺到してくる笛吹城太郎めがけて、びゅっとなにやら投げつけた。
それは、数個の赤いつぶてのように見えた。赤いつぶては、城太郎の眼前でぱっとひらいて、半紙大の紙となった。城太郎の一刀がきらめいて、それを切ったと思ったが、それは二つに折れて刀身にくるっと巻きついた。
「おおっ」
その一刀が空をきるまに、別の数枚が風をはらんで、べたっと城太郎の顔や胸に|貼《は》りついた。
城太郎はからだをくの字なりにした。一方の手で、顔に貼りついた奇怪な紙をむしりとろうとする。が、それは朱色の肉づきの面みたいに密着して、とりのぞくことはおろか、破れもしなかった。眼もみえず、息もつまり、城太郎はマキビシの中にふしまろんで苦悶した。
「生け捕ろうと思ったがそれもめんどう」
「女、あきらめろ」
抱きすくめる腕から、身をもんで篝火はのがれようとした。
「あっ、城太郎どの! あのひとを殺さないで! わたしを殺して!」
「そうはならぬ。……|虚《こ》|空《くう》|坊《ぼう》、しまってしまえ」
風天坊は、もう半町ばかりの距離にちかづいた騎馬の影を見ながら、あごをしゃくった。と、またべつの――背中に恐ろしく大きな傘をしょっていたのが、うなずくとその傘を肩ごしにぬきとって、ぱっとひらいた。
直径七尺にちかい巨大な傘であった。それにくらべて、柄は極端にみじかい。――もうピクリともうごかない城太郎へ、狂乱したように身もだえしていた篝火は、日輪が地におちたようなまばゆさに思わずふりかえってそのまま眼がくらんでしまった。傘の内側が、凄じいかがやきを発している。――その中に、半裸となったじぶんの姿があった。
鏡だ、と気がついたとき、その傘がフワと覆いかぶさってきて、彼女は失神した。
失われたのは彼女の意識ばかりではない。――
「忍法かくれ傘!」
笑うような声とともに、虚空坊はその傘をとじた。篝火の姿は、路上から消えていた――なんたる怪異、傘は篝火をとじこめたまま、ピタリともと通りの一本の長い筒となって、ヒョイと虚空坊の肩にかつがれてしまったのである。
【二】
騎馬の一隊は|蹄《ひづめ》を早めて疾駆して来た。
七人の僧は屏風のように路をさえぎっていたから、手前の光景は見えなかったろうが、それでも彼らの挙動がただならぬものに見えたことはむろんだし、それに――現実に地上に散乱しているマキビシと、たおれている城太郎と、さらにその彼方に、いまやまったく落ちつくし、地に植えたようにつき刺さっている奇怪な扇と――この異常事に気づかぬもののあるはずがない。
しかし、騎馬群の先頭に立った武士は、塗り笠の下で、一言も口をきかない。じろっと見下ろされて、かえって法師らの方が路をひらいた。
十数騎は、そのまま通った。重厚な、山国の気につつまれた一団だ。|鉄《てっ》|蹄《てい》にマキビシを蹴ちらしてすすみ、そしてたおれている笛吹城太郎のそばで手綱をひいた。
なんとなく、法師たちは間のわるい表情で、ソワソワと歩き出している。いま騎馬群がやってきた方角へ、十数歩遠ざかってから、
「なんだ、柳生ではないか」
「新左衛門であったな。いま、信貴山城から帰国してきたとみえる」
「われらを知らぬはずはないのに、|会釈《えしゃく》もしおらぬ」
「かえって、|破《は》|軍《ぐん》|坊《ぼう》など、ばかめ、こちらからペコリと頭をさげおったぞ」
「柳生といえば、弾正どのの一鞭で息の根もとまる小大名。――えっ、|業《ごう》|腹《はら》じゃ。ひきかえして、ひとつ胆をひしいでくれようか」
「待て待て、空摩坊と風天坊が傷ついてもおるし――柳生の庄はすぐそこだ。みずから求めて敵にまわすこともあるまい。きゃつら、なにをしておる?」
「死骸のまわりにたかっておる」
「いまさら、生きかえるものか」
「ええ、めんどうだ。ゆけゆけ」
そのまま、妖雲のながれるように、街道を駆け去ってゆく。
――一町も駆けてから、虚空坊が、肩にかついでいた傘をとりなおして、ぱっとひらいた。と、おどろくべし、その傘の上に花たばをかけたように、半裸の篝火の失神した姿があらわれて、どどっとずり落ちて来た。
「――よいしょっ」
ひとりがそれを受けとめ、小脇に抱きかかえ、その間、足なみもみださず、飛ぶがごとく西へ消えていった。
「――殿、奇怪なこともござる。これは面の皮を|剥《む》かれたものではござりませぬ」
ひざまずいていた家来のひとりが、愕然として顔をあげた。
「と、申すと?」
「顔に、血にひたした薄紙様のものを貼りつけたものらしゅうござるわ」
地に伏していて、いまあおむけに横たえられている人間の顔は、満面朱に塗りつぶされて、はじめまったく皮膚を全面ひんめくられたように見えた。
――ただ、それにしては眼も口もないのにいぶかしさをおぼえて、もういちどまじまじと見入っていた家来が、はじめて気がついたのである。
「なに、血にひたした薄紙?」
「このものの血かもしれませぬが――とにかく、恐ろしく血なまぐさい。――」
「とって見ろ」
と、柳生新左衛門がいったのは、むしろ好奇心だ。たおれている人間の脈がとまっていることはたしかめられていたから、助けるつもりなら|無《む》|益《やく》のことであった。
家来は、その朱色の紙を剥がすのにかかった。まるで糊か|膠《にかわ》で貼りつけたようだ。剥ぎとられた一片はまさに薄紙としか見えないのに、なんでつくったのか、絹地みたいな|強靭《きょうじん》さがあった。それに――戦国往来の武士のひとりとして、血の匂いは馴れているだろうに、途中でしばしばむせかえるほど甘ぐさい、妙な匂いが鼻孔をつく。
手にとって、柳生新左衛門はくびをひねったが、わからない。
「不可思議の術を使うやつらとは存じておったが。――」
と、つぶやいて、ふりかえった。もう街道に、七人の怪法師の影はない。
「それに、先刻ちらと遠眼ながら、たしかに女らしい影が見えたようであったが、近づいてみると、女などおらなんだの」
「拙者もそれを不審なことに存じておりました。しかし――この数日来、信貴山城にぞくぞくとさらわれてくる女人のことを思い合わせますると――」
と、そばの家来がいったとき、地上で作業をつづけていたひとりが、ふいに、
「お!」
と、さけんだ。
「殿。……このもの、心ノ臓がうちはじめたようでござる」
「ほう」
新左衛門はのぞきこんだ。
「お、見ればまだ若い男。気丈者らしい、よい顔をしておる。もし女がさらわれたのがまことならば、姉か、女房か。――それにしてもこやつ先刻たしかに息絶えておったな」
「御意」
「さすが、忍者だな」
「忍者――このものも、忍者と仰せでござりますか」
「さればよ、あの化け物ども七人を相手に、かくもたたかった跡を見るがよい。ひょっとすると、伊賀者か、甲賀者ではないか」
「殿。しだいに甦って参ります。柳生の庄へつれかえってやりましょうか」
「……いや、待て」
柳生新左衛門はしばしためらったのち、強い語気でいってくびをふった。
「そうすれば、松永家と伊賀一党との争いに、柳生がかかわり合い、深入りするおそれができてくる。それはまだ早い。柳生はまだ石の舟のごとく水にひそんでおらねばならぬ時世時節じゃ。それに、さらわれた女も信貴山城に入った上は、もはや魔神にささげられた|犠牲《に え》にひとしい。……無益じゃ、見すててゆこう」
それから、いそいで家来に矢立てと紙を用意させた。
「ただ、こやつ――この|面魂《つらだましい》、この生命力、ましてや、伊賀者だ。甦ったあとで、なにを思い立つか知れぬ。いま松永弾正に刃むかうは、まさに鉄壁に卵を投げるようなもの。あきらめさせておこう」
紙にスラスラとなにやら墨を走らせて、折りたたんで城太郎のふところに入れた。
「それでもなおかつ、こやつが何事かをなさんとする気があれば……それはこやつの勝手じゃ」
そしてつかつかと鞍のそばにもどり、ヒラリと馬上に身を浮かせると、
「ゆけ」
鞭をあげて、あともふりかえらず、柳生の庄の方へ駆け出した。つづく砂塵が、まだうごかぬ笛吹城太郎を覆った。
笛吹城太郎は甦った。
そして街道に人影もなく、ただ懐中に一枚の紙片のみが残されていることを知った。
「珠は、魔界の龍王の爪につかまれおわんぬ。もはや人力を以て奪い返すことあるべからず。とくに、|七《しち》|爪《そう》|牙《が》たるものは、幻術師果心居士直伝の|愛《まな》|弟《で》|子《し》たり。
風天坊。
空摩坊。
虚空坊。
羅刹坊。
金剛坊。
破軍坊。
水呪坊。
いずれも驚天の忍法者にして、これとたたかうは龍車にむかう|蟷《とう》|螂《ろう》の斧、ただ死あるのみと知るべし」
【三】
――曾て[#電子文庫化時コメント 底本「曽て」]、侍女数人との|痴《ち》|戯《ぎ》を見せながら、はばかるところもなく家来を呼んで指図したというほど傍若無人な松永弾正だが、しかしこの数日、信貴山城にくりかえされている光景には、この世のものならぬ悪魔を見る思いであった。
七人の法師は、毎日城を出ていっては、女をさらって来た。「……その愛液をながす女、この世のいかなる女にても間に合うというわけには参らぬ。元来、それほどの愛液をながす濃情の女人、またもとより美女でのうては、天狗どもの気にいらぬ。それは、このものどもの選ぶにまかせられたい」と果心はいったが、なるほど彼らがさらってくるのは、城下にこれほどの美女がいたのかと弾正が眼を見はるほどの女ばかりであった。
彼女たちは、いずれも天守閣下の石でたたんだ一室に投げこまれた。――弾正がそれを命じたのだ。
七人の根来僧の所業は、さしもの弾正が眼を覆い、耳をふさぎたいほどであった。はじめ弾正は、彼らのさらって来た女があまり美貌ぞろいなので、彼らにまずゆだねるのがもったいないような顔をしたが、
「まじりけのない淫石が、一日も早う欲しゅうはござらぬのか」
と、冷嘲するようにいわれて、ひとまず手をひいた。淫石もさることながら、いかなることをするか、それを見たいという好奇心もあったのだ。
さらって来た女の数も日によってまちまちなら、それを犯す彼らの数もまちまちであった。五人に六人かかることもあれば、三人に五人かかることもあった。あるいは一人に一人だけかかって、あとの六人はこれを腕こまぬいてただ見物していることもあった。
最初のうちは、常人と変わらない。あまりにも白く、あまりにも細い女体を抱きしめ、おさえつけた法師のからだが、あまりにも黒く、節くれだって、且つ毛だらけなのが対照の妙をきわめていると見えるだけで、泣きさけびながら抵抗し、あるいは恐怖のあまり半失神状態にある女たちをとりあつかうのに、むしろ彼らのやさしさはうすきみわるいほどであった。
八ツ手みたいな掌で、全裸に剥いた女の肌をなでさする。乳くびをいじりながら、耳たぶをかるくかんでなにやらささやく。やがて、大きな舌を出して、女のからだをなめはじめる。牛みたいに厚くて、ザラザラした舌だ。――これくらいのことは、弾正だってやることだが、ただこの時間が恐ろしくながい。しだいに女の皮膚があからみ、眼がぽっとうるんでくる。
酒をのめば意志とは無関係に人は酔う。同じように、女は酒に酔ってきたようであった。はずむ息を吐くためにひらいた口を法師は唇と舌でふたをしてしまう。息もできず女は身もだえし、やおら呼吸がゆるされると、それは、笛のようなひびきをおびる。このころ、女はすでに犯されつつある――。
法師の腰は、その巨大さに似げなく、まるで粘体みたいに柔軟であった。それは女の腰を波みたいに軽やかに|翻《ほん》|弄《ろう》した。それがどれほどの快美をあたえるのか、この段階ですぐにいくどかまた失神する女もあった。にもかかわらず、法師の腰は女をとらえて離さない。
はじめ、眼をギラギラさせて見物していた弾正も、しだいに吐気をもよおしてくるほど、それはながい時間であった。しかしこのころから、法師らの所業は獣の愛撫と変わる。その鋼鉄に似た腰は、鞭のような音をたて、摩擦される女の腹はすりむけて、血をにじませた。
「ああーっ、ああーっ」
女はさけんだ。痛苦の悲鳴とも、法悦の号泣ともつかぬ声であった。それでも、法師はゆるそうとはしない。
折れよとばかり抱きしめたまま、ゴロゴロと床をころがりまわる。立ちあがって、歩く。はては空中にとびあがって、いっしょに床にころがりおちる。床にはバラバラになった毛が散り、血さえしぶいた。
さすがの弾正が、いかに「淫石」の原料を採取するためとはいえ、ついに|辟《へき》|易《えき》してこの作業場を地底の石室に移したのは、このあまりにももの凄じい音響と光景にたまりかねたためだ。
――そのあいだの快美恍惚のために、十人に五人は息絶える。生き残ったものも、まず廃人同様となる、と果心はいったが、まさにその通りであった。ただそれがはたして快美恍惚のためであるか、どうかは大いに疑問だ。第一、法師たちは、はては完全に獣と化したかのごとく、女の舌をかみちぎり、乳くびをくいちぎり、四肢の骨さえへし折ってしまうことがあるからだ。
ただ生き残った女が、廃人――まさに廃人にはちがいないが、ふつうの乱心状態ではなく、色情狂、肉欲の|餓《が》|鬼《き》ともいうべき生き物に堕ちるところをみると、果心の言葉が一脈の真実をつたえていないとはいえない。――
さて、まるで獣人の|戯《たわむ》れか、あるいは虐殺といっていいこの作業において、法師たちがやはり一つの目的を忘れてはいないと思わせる光景が挿入された。
それは作業の途中のこともあったし、事後のこともあったが、突如としてこの凶行者が、
「|女是畜生《にょぜちくしょう》、|発《ほつ》|菩《ぼ》|提《だい》|心《しん》!」
と|吼《ほ》えて、とびずさる。
すると、それから一息おいて、女のからだから、ビューッとほそい一条の液体が噴きあがる。――それははじめ、あきらかに血をまじえた液体であったが、一息おいた二回目には雨のように|透《す》きとおったものとなる。さらに一息おいた三回目には――このとき、一個の壺をもって走り出たべつの法師が、ピタリとその口でふたをして、しずくももらさずその愛液を受け入れるのであった。
この間、彼らは別人のごとく厳粛な表情となっている。
いったい、女にはすべてこれほどの愛液がたくわえられているものか、その道では|蘊《うん》|奥《のう》をきわめたつもりの弾正も、ただ|瞠《どう》|目《もく》するばかりであったが、しかしこの忍法僧らには、彼らだけが知っている秘伝と鉄則があるらしい。そういえば、女の数と、それを犯す彼らの数とのあいだにも、たんに肉欲の狂奔にゆだねることなく、ある可能性を見込んでの関連があるらしい。この女には、これだけの量の愛液が埋蔵されているとか、何人で掘って、はじめて噴出するとか。――
そして、ある日、弾正のまえに、ひとりの女がひき出された。
法師たちが笑っていった。
「殿、ご覧なされい、この女を。――この女には、一人以ていままでの女たちすべてにかなうほどの愛液がござりまするぞ」
篝火であった。
無惨流れ星
【一】
|篝火《かがりび》は全裸であった。
丈なす黒髪は肩から、背、胸までみだれかかり、真っ白な肌のあちこちからは血さえにじんでいる。ほとんど立っているのが精いっぱいといったふうであった。――ここへつれ出されるまでの猛烈な抵抗のはての姿である。
柳生の庄にちかい伊賀路で、奇怪な忍法僧の一団と死闘し、そのすえに、いったいどういう経路でここへ運ばれてきたかわからない。笛吹城太郎から忍法の手ほどきを受けたはずのじぶんが、ほとんど|嬰《えい》|児《じ》にちかいほど無抵抗であったことはたしかである。
この城にさらわれてきて、はじめて失神からさめてのち、同じようにさらわれてきたほかの女から、ここが大和の信貴山城であることをきいた。天下に悪名たかい松永弾正の城だ。あの法師たちは、この魔王につかわれる|眷《けん》|属《ぞく》であったらしい。篝火は絶望を感じた。
それでも、篝火が舌をかんで死ななかったのは、城太郎を想えばこそだ。
城太郎は死んだ。奇怪な朱色の紙を顔に吹きつけられ、マキビシの中にふしまろんで苦悶していた城太郎の姿は、まだまざまざと網膜に残っている。「きゃつは、死んだ」。法師たちも、はっきりとそういった。九分九厘まで篝火はそう信じた。
しかし、一厘、信じきれないところがあった。妻としてのたんなる望みばかりではなく、笛吹城太郎という野性児に、常人でない野獣めいた生命力のあることを、彼女は感得していたからだ。
生きていて欲しい。生きているかもしれぬ。もしあのひとが生きているとするならば――彼女も生きたかった。どんなことがあっても、あのひとといっしょに伊賀へゆきたかった。こんなところで、わけもわからず死にたくはなかった。それは女として当然な、身もだえするほどの祈りであった。
そして、もしどうしても死なねばならぬのなら――もはやじぶんは遊女ではない、伊賀の郷士笛吹城太郎の妻である。そのじぶんの貞操にもし危険がおよぶようなら、もとよりわたしは死ぬつもりでいる。もし死なねばならぬのなら――わたしがそうやって死んだことと、敵の正体とを、ひとこと城太郎に告げてから死にたかった。
篝火がいままで生きていたのはこのためだ。――いま、しかし彼女は、眼前の魔王に、絶望的な、しかし異様な生命のひかりをはなった瞳を投げた。
「殿。……殿を例のところにご案内いたさず、こちらからここに参上つかまつったは、一刻も早うこの女をお見せいたしたく存じたからでござる」
虚空坊がまたいった。例のところとは、ふだん女たちの愛液を採取する石室のことだ。
ここは天守閣の上にある弾正の居室であった。このごろさしもの弾正も、法師たちの所業に辟易気味で、あまりそこにゆかないものだから、法師らの方で推参してきたものとみえるが、それにしても城のあるじがどっちかわからない、人もなげなるふるまいだ。弾正は、|漁火《いさりび》という第一の寵姫を擁して酒をのんでいたところであったから。
松永弾正は、じいっと、篝火を見すえている。
「どうでござる。――美女でござろうが」
鼻うごめかして空摩坊がいえば、風天坊もいう。
「そのうえ、たんにそこらのしゃッ|面《つら》が美しいだけの女ではない。いままでの女たちに匹敵する愛液を蔵する女」
「まことに天下にふたりとない女でござるわ」
と、羅刹坊がいった。
「いざ、それがまことなることを御見に入れよう」
あと四人の法師が、篝火をひきたてて歩き出そうとした。――
「――待て」
と、弾正はさけんだ。
そうさけんだきり、まだまじまじと篝火を見まもっている。決死の反抗の眼をむけている篝火が思わず視線をそらしたほど、それは異様な凝視であった。
「う、右京太夫さま」
つぶやいて、フラフラと彼は立ちあがった。
「なに、右京太夫さま?」
「これが……」
法師たちは妙な表情で、弾正から篝火に眼をうつしたが、すぐに、
「ははあ、それでは」
「この女が、右京太夫さまに似ておると仰せられるか」
「ちがう。ちがい申す。これは伊賀の忍者の女房。……どうやら、こやつも忍者のわざのはしくれくらいは心得ておるようす。|上臈《じょうろう》右京太夫さまなどとは、とんでもない」
そして、水呪坊が、
「女、そこに寝ろ」
と、大喝した。
「ま、待て」
弾正はまたうめいて、泳ぐようにこちらに出てきた。
「その女、うぬらのままにはさせぬ」
「――殿。これは右京太夫さまではありませぬぞ」
「わかっておる。それでもよい。……とにかく、その女は、おれがもらった」
「なるほど。しかし、殿、殿のおん手並みでは恐れながら、こちらの望むだけの愛液はとれませぬが、それでもよろしいか」
「――それでよい。それでもかまわぬ」
弾正はなお篝火に眼を吸いつけたまま、酔ったようにいった。
「ほう。……右京太夫さまとはあのような顔をした方か」
うしろで、声がきこえた。寵姫漁火である。
これももとより美しい。美しいが、淫美とも白痴美ともいっていい。――実はさっき風天坊が、「そこらのしゃッ面が美しいだけの女」とあてこすったのは、まさにこの漁火のことだ。もっとも彼らがほんとうにそうかんがえていて、そんな女に満足している弾正をあざ笑ったのか、それとも、彼らの凄じい肉欲の対象にはなっているのだが、いかになんでもこれには手がつけられないから、やっかんでいったのか、そこはわからない。――とにかく、いまのところは、弾正がもっとも|鍾愛《しょうあい》おかざる美女であった。
その漁火が、|嫉《しっ》|妬《と》に顔をゆがめてさけび出した。
「いいえ、なりませぬ、殿。……右京太夫さまのことは、わたしももうあきらめました。そこまでご執心ならしかたがない、と存じておりました。けれど、右京太夫さまがお手に入るまでは、わたしのほかの女はみななぐさみだ、と仰せられたではありませぬかえ。お約束がちがいます。その女は、右京太夫さまではありませぬ。……これ、法師どの、いつものようにその女をとらえて、はやく料理しやい。死のうとかまわぬ。狂おうとかまわぬ。存分にさいなんでやりゃ。きょうは、わたしも検分しよう」
「うるさい。だまってきいておれば――」
なお恍惚として篝火をながめていた弾正は、ふりむいて叱咤して、つかつかとこちらに寄ってきて、篝火の手をつかんだ。
「|喃《のう》、こちらへ参れ」
おさえようとした金剛坊と破軍坊の腕を、珍しく無遠慮に弾正は、ピシリとはねのけた。
「うぬら、|僭上《せんじょう》であろうぞ。うぬらは果心よりもらい受けた。果心が受け取りにくるまでは、うぬらのあるじはこのおれだ。すざりおれ。きょうはこのまま、下がりおれ」
松永弾正に、あのまがまがしい知恵と弟子をさずけた果心居士は、数日前に、いずこともなく飄然と信貴山城を去っていったのである。
弾正はほとんど野獣の眼つきになって、篝火の手をつかんで、歩き出そうとした。――
「危ない!」
突如、なにをみたか、金剛坊と破軍坊がふたたび躍りあがって篝火をとらえようとした。その勢いに思わず弾正が手をはなしたとたん、篝火は襲いかかってくるふたつの巨体の下をくぐりぬけて、トトトトと走り出した。
――あっというまもない。ふつうの女ではかんがえられない身のはやさである。とみるまに、篝火は向こうの障子をあけた。蒼い大空が見えた。
そこは高欄であった。高欄の彼方は無限の空間であった。篝火の足はたたらをふんだ。
が、背後から殺到してくる法師たちを見ると、彼女は高欄へとびあがり、床を蹴ってその空間に身をおどらせた。もはや、万事休す、と観念して、彼女はみずから死をえらんだのである。
「そうはさせぬ」
真っ先の風天坊がそのあとを追って、空中に飛んだ。とみるや、またもみせる破天の忍法枯葉がえし、落ちゆく篝火を風にさらい、この魔僧風天坊は、フワと高欄に、はねもどってきたのである。むろん、篝火を横抱きにして。
【二】
「どうでござる」
風天坊が座敷にかえってきて、鼻うごめかした。
「殿。……いますておかば、殿の腕の蝶つがいをはずされるところでござりましたぞ。腕ならばよいが、|頸《くび》か腰の骨をもはずされかねぬ。この女をさらうとき、同行した伊賀者のために、空摩坊すら痛い目に逢い申した。この女はその男の女房らしい。ただものではござらぬ」
そういったとたん、風天坊はいきなり横抱きにしていた篝火を放り出し、どうと片ひざをついた。そのふとももから、鮮血がほとばしった。
「や、やりおったな」
投げ出された篝火は、白い鞭みたいにはね起きると、またたたみを蹴った。高欄の方には金剛坊と破軍坊がつっ立っていたから、逆の方向へ――あと四人の法師らの頭上を飛んだのである。さすがの法師らも、武器はおろか一糸まとわぬこの女が、どうして風天坊のふとももから血をほとばしらせたのかわからなかった。わからないが、そうとみるより、四方へ散って篝火の退路をふさいだのは電光よりも迅速であった。
篝火は空で一回転して、立った。そこは大きな壁の前であった。
さらにその前面に散った四人の法師は、いっせいに抜刀したが、顔見合わせてニヤリとした。
「思わずも、刀をぬいたが、大人気ないな」
「しかし、やりおる」
「が、窮鼠だ。もはや、のがしはせぬ」
「さて、いかにしてつかまえるかじゃ。……たのしみでもあるぞ」
「だれがかかる?」
篝火は壁の下に立って、四本の戒刀をながめ、この問答をきいていた。白蝋のような無表情であった。
彼女はのがれようとは思っていない。彼女は、さっきあけはなした障子からみえる蒼い大空に眼をあげる。祈るような眼であった。――それから、じぶんの右手をしずかに上へあげていった。白い指を、新月のようにピンとそらせて。
篝火は口の中でなにやらつぶやいた。
「――あっ、いかん!」
猛然と、殺到する法師らの耳に、すきとおるような声がきこえた。
「忍法三日月剣!」
同時に、その|繊《せん》|手《しゅ》がみずからの頸を|薙《な》いだかと思うと、その首は黒髪と血しぶきの尾をひいてたたみにころがりおち、つづいて首のない白い胴がその血の中へ崩れおちた。
「…………」
さすが人間ばなれのした法師らが、この凄惨な破局には眼を見張ったきり立ちすくんだ。先刻からの死闘に息をのんでいた松永弾正と漁火が、この犠牲者の壮絶きわまる自決になかば喪神しかかったのは当然である。
一息か、二息。――
「いいや、そうはさせぬ」
羅刹坊の歯ぎしりがきこえたかと思うと、突如として彼は|蝙蝠《こうもり》みたいに舞いもどり――その戒刀が横薙ぎに|一《いっ》|閃《せん》した。
ばさ! という異様な音がして、またもそこに血けむりが立っている。もうひとつ、首がおちた。――なんと、そこに気死したように立っていた寵姫漁火の首が。
「……な、なにをいたす」
松永弾正は仰天した。
「うぬは、気でも狂ったか!」
「狂いはいたさぬ。忍法|壊《こわ》れ|甕《がめ》をお見せいたす」
「なに、壊れ甕?」
「と、名づけてはおり申すが、実は壊れ甕をつなぐにひとしい荒業、それ、いつか千鳥、椿とやらいうお女中ふたり、その胴の上下を入れかえてつなぎ合わせた忍法」
それから、羅刹坊は急にあわて出した。
「とはいえ、そこの女の首、じぶんの手をもって斬りおった。それがまるで刃物のように斬れたが、おれが斬ったものではないから、うまくゆくかどうか自信がない。いそげ、いそげ。えい、この殿はじゃまだ。細工がすむまで破軍坊、ちょっと隣までおはこびいたせ」
【三】
松永弾正は、あぶら汗をながしながら座っていた。
「まだか?」
「――いましばらく」
「両人とも生き返らぬのではないか?」
「――千鳥と椿のこと、お忘れではござりますまい」
「いかにも、おれは見たが」
と、弾正はいって、吐き気をおさえるように口に手をあてた。そうはいったが、実は弾正は見ていない。あの夜、千鳥と椿を横たえ、胴を切断して上下をとりかえるという凄惨言語に絶する忍法が行なわれたとき、まさに彼はおなじ高欄にいたが、ふたりの被術者と戒刀をふるう羅刹坊のまわりを、六人の根来僧が黒い|屏風《びょうぶ》のようにとりまいて、その手伝いをしていたし、二匹の白い魚のような腹に刃があてられるところまで見て、弾正は顔をそむけてもとの座にもどってしまったからだ。
「しかし、あのときよりもひまがかかる」
「――それは、羅刹坊が申したごとく、伊賀の女はみずから首をはねたものでござるから」
「もし、死んだらどうする?」
「――どちらがでござる」
「漁火がじゃ。生きておるものの首をわざと切って、もしあのままに果てたら、うぬらただではおかぬぞ」
破軍坊は、うすく笑った。
その笑いも気づかぬふうで、弾正は隣室の方を、うなされたような眼つきでながめている。漁火のことをいったが、しかし、ほんとうのことをいうと、あの伊賀の女を失うのは、それ以上にたえられない気がする。
しばらく、だまっていて、沈黙にたまりかねたようにまたいった。
「羅刹坊は、なにゆえあの伊賀の女の首を、おなじ女の胴につながなかったのじゃ。なぜ漁火の胴につごうとしたのじゃ」
「――さあて、とっさのことで、羅刹坊にきくひまもござらなんだ。うすうす察していることもありますが、ま、細工の首尾がうまくいってから、羅刹坊におききなされ」
「たとえ首尾よういったとして、千鳥と椿は、あれ以来、椿は色きちがい、千鳥は白痴、いずれも哀れな廃人となりおったぞ。伊賀の女、おれは所望はしたが、廃人となってはなすすべもない。ましてや漁火がさようなものとなり果てては。――」
「――いつも、あのようになるとはかぎりませぬ」
「どうなる」
「――あれは、千鳥、椿の愛液をしぼりつくしたあと、壊れ甕の術にとりかかりましたゆえ、両人ともあのようなことになったのでござる。このたびはそれ以前でござりますから、少なくとも一方は正気で生き返りましょう」
「どちらが」
「――おそらく生命力のつよい方が」
いままで、さも面倒くさげにこたえていた破軍坊がふいにみずから興味につきうごかされたように、
「おそらく、あの伊賀の女の首をもった方が」
と、くりかえした。弾正の眼がかがやいた。それをジロリと見あげて、
「しかし、殿、たとえそのようになったとしても、それはもはやもとの伊賀の女ではありませぬぞ」
「なんと?」
「いかにしても、両人の血はまじり合います。血がまじり合って、廃人でも狂人でもござらぬが、まったく別の気性をもった人間が生まれ申す」
「ううむ」
この忍法僧らの驚天のわざにはしだいに馴れてきているはずの弾正にも、ことはますます意表に出て、ほとんど|端《たん》|倪《げい》をゆるさない。
破軍坊はいった。
「いままで、壊れ甕の忍法をほどこした結果は、たいてい左様でござった。ただこのたび、伊賀の女が生きかえったとき――それがいかなる女になっておるか、ようなっておるか、悪うなっておるか、いまのところおれにも見当がつきませぬ」
そのとき、襖がひらかれた。
顔をあげて、弾正は眼をむいた。いまそれについて話をしていたことでありながら、それは身の毛をよだてずにはいられない光景であった。――ふたりの全裸の女がそこに立っていた。
見よ、伊賀の女はよみがえった。漁火もまたよみがえった。みずから首をはね、また凶刃に首をはねられたふたりの女は、あれは夢魔の景でなかったかと思われるほど、なんのこともなく、いまじぶんの足で立っている。ただ現実のそのくびに、あるかなきかの絹のような赤い輪をとどめているほかは。
「できたか」
と破軍坊すらうめくような声を出した。
「できた」
ふたりの女のうしろから、羅刹坊の笑った顔があらわれた。そのむこうで、五人の法師が衣のはしで手をふき、顔をぬぐっているのは、あれは汗か、血か。
「さて、殿、いずれをお望みでござる」
|茫《ぼう》|乎《こ》としていた弾正はわれにかえって、「篝火の首をもった女」一人のみに眼をそそいだ。
「――で、ござるか」
と、羅刹坊はまた笑った。
「さようであろうと推量はしておった。しかし、殿、おことわりしておきますが、首はまさに伊賀の女でござるが、首から下は漁火さまでござりまするぞ」
「――よいわ」
と、弾正はいって、それからぎょっとしたようにもう一方の「漁火の首」をもった女を見た。しかし、その女は仮面のように無表情であった。もともと白痴美ともいうべき容貌の持主であったが、うつろなその眼はたしかに正気ではない。――破軍坊のいったごとく、彼女は廃人となり果てたのだ。
「弾正さまとしてはさもあらん。首から下はちがう。首そのものも、まことの右京太夫さまではない。……それでも、ただ似ておるというだけでご満足なら、まことの右京太夫さまがお手に入るまで、それにて辛抱なされませ」
「いいや、わたしがそれでは辛抱できぬ」
と、「篝火の首」がいった。
その声は、しかし漁火の声であった。
弾正はあたまが混乱した。漁火の声は陰々といった。
「わたしは漁火じゃ。根来衆、ようあの伊賀の女を殺してくれやった。いえ、伊賀の女と顔をかえてくれやった。わたしは顔を捨てるのはくやしいが、殿のお気に召すのが、この――右京太夫さまに似た顔とあればやむを得ぬ。わたしはその顔の女となった。まことの右京太夫さまがおいでになれば、わたしは身をひくというお約束を殿としたけれど、もはやその約束はすてる」
七人の根来僧もぎょっとしたようすで、そういう「漁火」をながめている。これまた混乱した表情をしているところをみると、さっき破軍坊も自信のないつぶやきをもらした通り、壊れ甕の忍法の果てに、両人の血が、いかに混合し、いかに化合して、どんな魂をもつ女が生まれるか、そこまで計算はできなかったらしい。
「もはやわたしは殿からはなれぬ。弾正さまをはなさぬ」
漁火はニンマリ笑った。
眼は黒い炎のようにかがやいて弾正を見すえ、ぬれた唇は媚惑の花のように弾正に吐息をはきかけて、淫蕩、妖艶、邪悪の化身のような女がそこにいた。――しずかにちかづいて、弾正の胸にすがり、頬をピッタリとすりよせて、
「殿もまたこの顔をもつわたしなら、いよいよご満足のはず。――さ、殿、わたしを抱いて下さりませ。死ぬほど、わたしをよろこばせて下さりませ。……」
と、甘美きわまる声でいったが、すぐ、こわい眼でふりむいて、
「鴉ども、そこの襖をしめや」
と、いった。
七人の法師は、めんくらってピシャリと間の襖をしめたが、おたがいに顔見合わせて、めずらしく胆をつぶしたようなため息をついた。
「おどろいたな」
「あんな女に生まれ変わるとは」
「あの女……ひょっとすると、おれたちの手にもおいかねるぞ」
「これでは、ほんものの右京太夫さまはもう要らぬではないか」
「いや、ほんものの右京太夫さまが、あれほどの女かどうか、疑わしいほどじゃ」
「あれですむなら、果心居士さまの当面のお望みもそれですむわけじゃが」
「しかし、やはりそれではすむまい。果心さまがまたおいでなさるまで、われわれはやはり淫石作りに精を出さねばならぬ」
七人は、そこでまだ白い影のように立っている、「漁火の顔をもつ女」に眼をあつめた。
隣室では、ふたりのあいだになにが起こったか、とろけるような女の|喘《あえ》ぎがながれ出し、やがてふいごみたいな弾正のうめきがそれにからみはじめた。
七人は苦笑した。
「あの女は、しかし漁火のからだをもつ女」
「それで、弾正どののあの有頂天ぶりは……ちときのどくでもあるな」
「これこそ、伊賀の女のからだをもったやつ」
「さればこそ、ふたりの首と胴をとりかえたのじゃ」
七人の毛むくじゃらの腕が、白蝋のような女の胴にからみついた。ひとりが肉欲にひきつったような声で、
「おい、だれか愛液を受ける壺を持って来う」
と、いったが、十四本の腕は、どれもとっさに離れようとはしない。――
それでも、その女はのがれようともせず、十四本の毛むくじゃらの腕の愛撫にまかせるのみか、しだいにくねり、血潮の色さえさしてきて、その獣的な愛撫に応えようとしはじめるのであった。
女は、七人の法師に犯された。まだたたみにぬれ残っている自分の血潮の中で。
愛液をしぼりつくされた「漁火の顔をもつ女」すなわち、白痴と化した「この篝火のからだをもつ女」が、信貴山城から姿を消していることが発見されたのは、その翌朝のことであった。
死霊告知
【一】
こんなことは、はじめてだ。
前にもいったように、淫石製造のため、愛液をしぼりつくされた女は、たいてい狂人か廃人になるという。そうなった女は、地底の石室に|檻《おり》をつくって、動物みたいに飼い殺しにしておくが、とにかく気がふれているので、病気にかかる率も多く、やがてぼろきれのように死んでしまう。あるいは、|雑兵《ぞうひょう》などで望むものがあれば、手柄代りにくれてやるが、|餌《え》|食《じき》となった女が結局どうなるのか、弾正は知らない。
そんな目にあっても、べつにこの城を逃げようという判断力すら失った狂女が大半で、たとえ一人や二人、どこかへフラフラ消えてしまっても、意に介することもなかったのだが、こんどばかりは事情がちがった。「|漁火《いさりび》の顔」と「|篝火《かがりび》のからだ」を持つ女が、信貴山城から消えた。それは弾正にとってどうでもいいのだが、彼女とともに、平蜘蛛の釜が消えてしまったのだ。
「なに、平蜘蛛の釜が?」
報告を受けて、松永弾正はおどりあがった。
前に、七人の法師がひれ伏していた。――主人弾正をすらふだん不謹慎な眼で見ている彼らにしては珍しい恐縮ぶりだが、これは当然だ。
きのう、彼らは酒をのみつつ、その女を犯した。果たせるかな、「篝火のからだ」を持つ女はかぎりなく愛液を吹きあげた。獣の饗宴は夜にまでおよび、さしも絶倫の精力をほこる法師らが、酒に酔ったせいばかりでなく、彼らの方が蝉のぬけがらみたいになって、そこにうちたおれ、その果てもしらず眠りこけてしまったほどであった。
むろん、そのあいだ、例の平蜘蛛の釜をもち出して、採取した女の愛液を煮つめ淫石の製造をしていたのだ。
――ところが、朝になってみると、女はもとより平蜘蛛の釜も、いままでかかってやっと大豆くらいの大きさまで結晶した淫石も、忽然と消え失せてしまっていたというのであった。
破軍坊がいう。
「まさか、死びとのごとく横たわっておった女が、かような真似をいたすとは――」
「な、なんたるうつけもの。――」
弾正は、あと絶句した。うつけものなどという言葉では追いつかないほどの失態だ。
「きゃつ、まことに気がふれておったか? 正気ではなかったか?」
「それは、弓矢八幡、誓って」
と、金剛坊が妙なところに弓矢八幡をかけた。
「乱心というより、魂のない女になり果てたことに相違はござりませぬ」
ほかの法師らもいっせいにうなずいた。それはいままでのすべての経験からも、昨夜じぶんたちに犯されぬいたときの、とりとめもない女の様子からも断じてまちがいはない。その人間のぬけがらと化した女が、どうして釜と淫石をもち出したのか、まったく理解に苦しむが、狂女なればこそそんな無意味なことをしたにちがいないとも思う。
「されば、逃げ出したと申しても、城外さほど遠からざるところをウロウロしておるに相違ござらぬ。すぐさま追って、つかまえて参りますれば、ご|安《あん》|堵《ど》下されませい」
「割ったら、どうする」
「は?」
「平蜘蛛の釜を割ったらどうする。あれを失えば、もはや淫石は作れぬ。したがって、右京太夫さまを手に入れる法がなくなる」
「右京太夫さまなど、どうでもよいではありませぬかえ?」
そばで、|漁火《いさりび》がいった。
じぶんでは漁火と名乗っているけれど、顔は伊賀の女だ。しかし、あの伊賀の女のもっていた美貌と|気《き》|魄《はく》はそのままでありながら、別人のような淫蕩、邪悪の翳がそこにあった。
「わたしがここにおりまする」
「いや、なに」
弾正は狼狽した。実際彼は、昨夜からのこの世のものとは思われぬ淫楽で、この女さえあれば、右京太夫さまはもう要らぬとさえ思いはじめていたのだ。
「しかし、平蜘蛛の釜は惜しい。あれは千宗易の持ち物のうちでも天下に二つとない名器。あれだけはぶじにとりもどしたい」
「かならず、ぶじにとりもどして参る」
七人の法師はすっくと立った。
「どこへゆきゃる」
漁火が声をかけた。あざ笑うように、
「あてどもなく探しまわるつもりか」
「いや」
「伊賀へゆきゃれ」
「伊賀へ?」
根来僧らはけげんな顔をむけた。漁火はじいっと宙を見つめて、
「あの女は、夫を求めて伊賀の方へいった」
法師らは、そういう漁火が、顔のみならず完全にあの伊賀者の妻ではないかと疑った。
――しかし、ちがう。「あの女は、夫を求めて」という以上、これはやはりあの伊賀の女ではない。
「あの女、正気でござろうか?」
――たったいま、その女が乱心していることは太鼓判を押すといったくせに、急に自信のない声を金剛坊がもらしたのは、逆にあまりにも自信にみちた漁火の顔に|気《け》|押《お》されたのだ。
「いいや、狂っている。たしかに、魂は死んでいる。――が、その一念だけは生きている」
「しかし、夫は死んでおります」
「で、あろうか?」
水呪坊が、肩をゆすった。
「拙僧の忍法月水面で面をふさがれて、いまだ生き返ったものはござらぬ」
「で、あろうか?」
漁火は、またくりかえした。
「もし、生きていたら?」
ものにおどろかぬ七人の忍法僧が、全身に|悪《お》|寒《かん》のはしるような邪悪の花を漁火はひらいた。――ニンマリと笑ったのだ。
「殺してはならぬ。この城へつれて来や」
「どうなさる」
「わたしが、わたしの好きなように殺す」
法師らは、しばし声もなかった。前にものべたように、忍法「壊れ甕」という大移植手術によって、肉体の上下を交換されたふたりの女は一方は廃人となるが、他方は正気を保持している。どちらが正気かというと、生命力の強い方だが、しかしそれがもとのままの女かというと、そうはゆかない。血が化合して、まったく新しい性質をもった女が生まれ出る。
それは彼らもよく知っていることだが、しかしどんな性質をもった女が生まれ出るかというと、そこまでは彼らも計量することができない。みずから生む子の性質を、親もいかんともすべからざるのと同じことだ。
そして、一見外貌も性質もまったくちがうように見えながら、篝火と漁火と、どこかに相通うものがあったのであろうか、あたかも近親結婚で悪血と悪血が重なり合うように、篝火の明敏、漁火の淫蕩、両者ここに合して――七人の忍法僧をすら唖然たらしめるような大魔女が出現したことは、眼前の事実であった。
「まさか、きゃつが生きておるとは思えぬが」
「しかし、生きておったとしても、殺そうと生け捕りにしようとそれは思いのまま」
「では、しばらくお待ちを」
忍法僧らは一礼して、黒い奔流のように走り出ていった。
ここで彼ら根来僧とはそもそもいかなるものかを説明しておく。
|紀《き》|伊《いの》|国《国》|那賀郡《なかごおり》根来村――|葛城《かつらぎ》山脈の中腹にある新義真言宗の大本山であって、平安の末期にひらかれたものだが、このころ大いにさかえて、堂塔二千七百余坊をかぞえる|巨《きょ》|刹《さつ》となっていた。
おびただしい僧兵を擁していたのは、ほかの|延暦寺《えんりゃくじ》とか興福寺とか東大寺とか、当時の大寺院も同様であるが、とくにこの根来寺の僧兵には、どういうわけか鉄砲をあやつる名手が多いという特技があって、のちに織田信長に攻められてもついに屈せず、豊太閤の手によってはじめて滅亡するに至った。
このとき、離散した僧兵たちを召し抱えたのは徳川家康である。家康という人物は、信長と同盟し、秀吉に臣礼をとりながら、一方で信長、秀吉に討伐された一族を、そっとじぶんの手にかかえこんでしまうくせがあって、くせというより、これが家康のひとすじ縄でゆかないくせものたるゆえんだが、この根来僧も、伊賀者、甲賀者とまったく同様の使い方をした。
表むきには江戸城諸門の警衛、裏では忍びのものとして。
もとが僧兵なので、この「根来組」はことごとく|髷《まげ》をゆわず、総髪という異風のすがたであったが、根来流という忍法の一派をのちまでつたえている。
思うに、根来僧に、鉄砲はともかく、最初に忍法という種をまいたのは、戦国の大幻術師果心居士であったのではなかろうか。
【二】
真夜中であった。奈良|般《はん》|若《にゃ》|野《の》に雨がふっていた。
野とはいうものの、奈良のすぐ北方に起伏する丘陵で、まひるならば青草がふきなびき、空には|雲雀《ひばり》の声がきこえるのどかな――いや、そうではない、まひるでもこの一帯には、たとえ青草がふきなびき、雲雀が鳴いていようと、名状しがたい凄惨の感がある。――それはこの般若野が刑場となっていて、げんにあちこちと朽ちた|卒《そ》|都《と》|婆《ば》が林立しているのが見えるせいであった。
ましてや夜だ。雨がふっていた。古来、何千人という罪囚の血を吸ってきた大地は、こんな雨の夜にこそかえって甦るのであろうか、蛍光とも燐光ともつかない蒼白なひかりが息づくようにゆれている。
この雨と光の中を、ふたりの人間があるいている。――北へ。
まえをあるいているのは半裸の女であり、数間おいてあとをつけているのは、笛吹城太郎であった。彼はびっこをひいていた。
笛吹城太郎は甦った。しかし、まだふつうではなかった。少しあるくと、肺に裂けるような痛みがはしり、そしてじぶんのまいたマキビシに傷つけた足裏やふとももの穴は、まだ完全にふさがってはいなかった。「珠は、魔界の龍王の爪につかまれおわんぬ」云々の紙片はまだ懐中にある。が、城太郎にはよくわからない。魔界の龍王とは何者か判然しないし、それからこの紙片を懐中に残していったものはなんぴとかもわからない。
ただ彼は、あの伊賀街道のあたりを駆けまわった。
「篝火……篝火」
空にむかって、彼は血を吐くようなさけびをあげた。
「篝火はどこにいる? いるなら、答えろ! 城太郎が助けにゆくぞ」
西へむかって走り、篝火らしい女を見たおぼえはないか、と旅人にきく。東へむかって走り、七人の法師を見かけなんだか、と百姓にきく。
「篝火よう」
しだいに城太郎は童子のように泣きじゃくり、ついには大地に伏して髪をかきむしった。が、すぐに鞭みたいにはねあがり、また獣のようにあたりを駆けまわるのであった。そして狂乱のはてに、ようやく例の紙片の「七爪牙たるものは、幻術師果心居士直伝の愛弟子たり」という文句を思い出した。
果心居士という名は、以前ちらときいたことがある。
それから、その人物が奈良の住人だということも耳にしたおぼえがある。それで、彼は奈良へやって来た。そして二、三日、果心居士を求めて奈良の町じゅうを|馳《は》せめぐった。ところが町のだれもが果心居士の住みかを知らず、またここ数年、奈良で見かけたこともないという。――
また夜になった。城太郎はほとんど眠らなかった。雨がふり出した。それでも彼はさまよいあるいた。――そして、ふと、町の中をフラフラとあるいているひとりの女とゆき逢ったのである。
女はきものをまとっていたが、一方の乳房はむき出しになり、前ははだけて、帯の一端は地にひきずっているほどであった。そして、小脇に大事そうに|金《きん》|襴《らん》でくるんだものを抱えている。あきらかに狂女だ。いったいどこからあらわれたのであろう?
しかし、いま深夜の町でゆき逢うものが、天女であろうと鬼女であろうと、ほとんどかえりみるいとまのない笛吹城太郎が、ふりかえって、ふと眼をすえて、ぎょっと息をのんだ。
「……篝火」
彼は、のどのおくで絶叫した。彼の眼に、闇の中へ消えてゆく恋妻のすがたがたしかに見えたのだ。
城太郎ははせもどり女の前にまわった。篝火ではない。世にも美しい顔をしているが、どこか気品のない、うつろな眼をしたその女は、城太郎など知らないもののようにあるいている。
大きな吐息をついて路をよけ、あと見送って城太郎の瞳がまたひろがる。篝火だ。篝火としか思えない。
まるで磁石に鉄片が吸いつけられるように、彼は女のあとを追い出した。そして奈良の町をはなれ、般若野までやって来た。
「篝火だ。……いや、そんなはずはない。……しかし篝火だ」
もはや城太郎の方が錯乱しているようであった。篝火を求めるあまりの幻覚かと、じぶんでも眼をこすってみるのだが、しかし前をあるいてゆく女のうしろ姿には、断じて他人の空似ではないものがある。それは何百回となくそのからだを抱きしめ、愛撫した男だけのもつ本能的な直感であった。
ついに、城太郎は追いすがり、ふたたびその前に立ちふさがった。
「おまえはだれだ」
「…………」
「名はなんという」
「…………」
「どこから来た」
「…………」
「どこへゆこうとしているのだ」
「…………」
「――篝火という女を知らないか?」
女はこたえない。城太郎などまったく無視したようにあるきつづける。城太郎はあとずさりして話しかけながら、いまさらのように奇妙な恐怖が胸にたちこめてくるのをおぼえた。それは、これは死んだ女ではないかという知覚であった。あるいているのだからそんなはずはないが、しかしたしかに死びととしか思えない異様な感じがある。
恐怖すべきことに向かいあうと、しかし逃げるより、とびかかってゆくのが笛吹城太郎の気性だ。
「生きておるのか。いったいこいつ――」
彼は立ちどまった。女は空をふむようにすすんできて、城太郎と相ふれた。
その刹那、ふたりのからだに異様な反応が起こった。城太郎は、相手のからだが冷たい――雨にうたれたせいではなく、死びとそのものの冷たさをもっているのにぎょっとして飛びのこうとしたのだが、その城太郎に、女はひしとしがみついて来たのだ。しかし彼女は生きて燃えている女よりもなまめかしく腰を吸いつけ、波うたせた。
「――城太郎どの」
はじめて、女がいった。
これをつきのけようとしていた城太郎の全身が硬直した。たしかに篝火の声だ。
「――逢えてうれしかった。ようやく逢えましたね」
吐息のような――いや、遠い空からきこえてくる風にも似た篝火の声であった。見知らぬ女の唇がかすかにうごいているのを見ながら、
「篝火、おまえはどこにいる?」
と、城太郎は暗い天をあおいでさけんだ。
「――わたしは死んでおりまする」
【三】
雨ふりしきる夜の般若野に、風のようなさびしい声はつづく。
「――城太郎どの、篝火は死にました」
いまは、城太郎の方が死びとと化したようであった。
「――篝火は、あなたの妻であるからだを守って、信貴山城でみずから死にました」
「な、なに、信貴山城で? すりゃ、松永弾正のところか?」
「――わたしをさらったのは、松永弾正と、それに使われる七人の根来法師でございます」
見知らぬ女は、白痴のような無表情のまま、篝火の声でしゃべる。しゃべるというより、無心の唇のあいだから、内部の――いや、いずことも知れぬ虚空からの声がながれ出しているようだ。
「篝火、で、では、この女はだれだ?」
「――顔は漁火という弾正の妾でございます。けれど、からだは篝火のもの。……」
「なんだと?」
女は、腰を波うたせつづけている。氷のように冷たい感触にもかかわらず、このとき城太郎はあきらかに篝火を感覚して、思わず女を抱きしめようとした。
「――いけませぬ、城太郎どの。からだは篝火のものですけれど、篝火のからだは犯されました。死んだあとで、七人の法師に犯されたのでございます。けがれはてたそのからだに、城太郎どの、もはや触れないで下さいまし」
そういいながら、女はなおなまめかしく腰をすりつけ、微妙にくねらせるのであった。
「わからぬ。篝火、おれはわからぬ」
「――根来僧の忍法のわざでございます。死骸の首とからだをとりかえられ、ふたりは甦りましたけれど、その女の魂は死んでおります。いいえ、|空洞《うつろ》となっております。わたしは、あなたに告げたい一念からその空洞な女に宿って、ここまでやって来たのです。でも、もはや、わたしはその女からはなれかかっておりまする。底なしの魔天へ落ちかかっておりまする。……」
「篝火! 篝火!」
「――あなたに告げたいことは、その七人の根来僧が人間とも思われぬ恐ろしい忍者であるということ、それから――信貴山城にいるわたしの顔をした女は、もはや篝火ではないということ、それから――ここに持って来た平蜘蛛の釜と中にある白い石は、それで茶を煮れば、のんだ女の心をとろかすという弾正の宝であるということでございます」
言葉は判断を絶し、城太郎は声もない。
――と、彼にまつわりついていた女の腰のうごきが、いつのまにか止んでいた。
「――生きている篝火は、伊賀忍者笛吹城太郎の妻の誇りにかけて、死にました。死んだ篝火を、七人の根来僧は犯しました」
声はかなしくふるえながら、かすかになってゆく。
「――城太郎どの、篝火の|敵《かたき》を討って下さいまし」
「討つ、必ず討つ!」
城太郎は女のからだをゆさぶった。女のからだに抵抗はなかった。
「――もう一つ」
うつろな眼を、闇にみひらいたまま、唇がうごいた。
「いつかの約束――笛吹城太郎は、篝火のほかに女を断つという誓いを忘れないで。――」
声がしみ入るように消えていって、そして女は彼の腕の中で崩れおちた。
「篝火! 篝火! 篝火!」
城太郎は絶叫した。しかし、女は彼の腕に冷たい花のように垂れたまま、もはや永遠に沈黙していた。
「篝火! いや、この女でいい。かえってくれ、もういちど、この女のからだに帰ってきてくれ、篝火!」
城太郎のさけびは、曠野にこだまする一匹狼の吠え声のようであった。
このとき彼は、死せる狂女が、死んだ腕になお金襴のつつみをかかえてはなさないことにはじめて気がついたのである。
それを片手にとり、片手になお女を抱きかかえたまま、
「篝火よう、篝火よう」
彼は|慟《どう》|哭《こく》した。
狂乱状態にある城太郎は、まったく気がつかなかったのである。このとき般若野の北の方から、七つの黒い影が風のように走って来て、数間の距離でピタリと立ちどまり、じいっとこちらをうかがっているのを。
それは、七人の忍法僧であった。
彼らは、平蜘蛛の釜を抱いて逃げた狂女を追って信貴山城をとび出した。最初、それをとらえるのは飼犬を呼び返すよりまだたやすいことだとたかをくくっていたのである。ところが、信貴山を下り、いわゆる|斑鳩《いかるが》の里あたり一帯を捜索しても、その女の影もない。奈良へ入って終日探してもなんの消息もない。彼らは狼狽し、ようやく漁火の「あの女は伊賀へいった」という言葉を思い出して、先刻、この般若野を北へ、伊賀街道へむかって駆け去ったところであったのだ。
それにしても、半裸の狂女、しかも金襴の包みをかかえた美しい女が、それまでなんぴとの眼にもふれなかったのはふしぎだ。狂いつつも、なお逃れ去ろうとする本能の知恵で、彼女は動物のようにたくみに物陰をひろいつつ歩いて来たものであろうか。――いや、それよりも、あの七人の魔僧に犯された女は、十人に五人は息絶えるというが、そもそも城を出たときから彼女は死びとだったのであるまいか。死んだ肉体にかすかに篝火の魂が宿り、笛吹城太郎と触れ合うまで、夢幻の中を漂ってきたが、ふつうの人間には、すでに死の世界にいるこの女の姿は見えなかったのではあるまいか。そうとしかかんがえられない奇怪な放浪であった。
般若野をゆきすぎて――そして彼らは、はるかうしろから渡ってくる狼の吠え声をきいた。
「――篝火! 篝火」
それは|腸《はらわた》のちぎれるような、彼らにはききおぼえのある若者の声であった。
――七人の忍者僧は顔見合わせ、次の瞬間、いっせいに墨染めの衣をひるがえして、黒いつむじ風みたいに丘と野をはせもどって来た。
「きゃつだ!」
「生きていたな!」
「ううむ、女もおるぞ。たおれておる」
「あの金襴の包みは?」
「あれが平蜘蛛の釜ではないか」
「それは好都合」
「さて、どの手でゆこう」
|地霊《じりょう》の対話のように、どよめく声であった。
彼らの眼には夜も雨もないとみえる。実際に、十四の眼は豹のように闇にひかった。――すでに半円形につつんだその十四の眼が徐々にちかづいて来た。
ふりしぶく雨の中に、金襴の包みを片腕にかかえて、笛吹城太郎はすっくと立った。
一匹狼
【一】
いうまでもなく、笛吹城太郎は忍者であった。
しかも、|逐《ちく》|電《てん》以前、伊賀にいたころは、頭領服部半蔵にもっとも眼をかけられ、愛された|天《てん》|稟《ぴん》の所有者であった。しかし、なんといってもまだ二十一の若さだ。――彼は伊賀で、人間を超えた、あるいは物理学を超えているのではないかと思われるほどの幾多の先輩を見ている。が、彼自身はまだ、あくまで人間のうちであった。走る、飛ぶ、投げる、見る、聴く、触れる、嗅ぐ、それらの能力は一見超人的ではあるが、しかし人間としての能力の極限中のものにしか過ぎない。
それにくらべて、この七人の忍法僧は、まさしく超人であった。伊賀街道で見たあの体技、忍法――大空から獲物をめがけてとびかかる扇の矢、糸もないのに空中からはねかえる大鎌、さらに、見てさえ信じられないことであるが空中から逆転する人間そのもの。またながれ飛んできて、切っても切れず、ひとたび顔に貼りつくと息の根をとめる真紅の紙――それらは、伊賀の先輩にも見たことのない恐るべき武術であり、武器であった。それを彼は身をもって知っている。
しかし、城太郎は逃げようとはしない。逃げようとも思わない。彼の耳には、まだあの暗い風のような哀しい声が鳴っている。
「――|篝火《かがりび》は、伊賀忍者笛吹城太郎の妻の誇りにかけて、死にました。……死んだ篝火を、七人の根来僧は犯しました。……城太郎どの、篝火の敵を討って下さいまし。……」
城太郎の眼は血ばしって、炎のように燃えていた。
これに対し、黒豹のごとく金色にひかる眼をそそいで、徐々にちかづいて来た七人の忍者僧の輪が、ふととまった。
城太郎に警戒したのではない。彼の|気《き》|魄《はく》に押されたのでもない。忍者僧たちは、相手そのものより、彼のかかえている茶釜に眼をとめ、それから彼自身をいかに料理するか、という思案にとらえられたのだ。
|平《ひら》|蜘蛛《ぐ も》の釜をぶじにとりもどせ。――これは松永弾正の命令だ。
あの伊賀の若者を、殺さないで城へつれて来や。――これは漁火の命令だ。
「しばらく、気を失わせるには、水呪坊の月水面が適当じゃが」
と、虚空坊が空をあおいでいう。
「しかし、雨がふっておるなあ」
月水面とは、あの赤い濡れ紙のことだ。風にひらいて舞いとぶ紙の忍法は、雨がふっていてはうまくゆかないと見える。
「なにを――さまで心をなやます相手か」
吐き出すようにいうと同時に、草を蹴ったのは風天坊だ。
「やあっ」
雨の中を、銀光が輪をえがいて走った。大地を蹴る寸前に、鎌返しの鎌を投げつけたのである。同時に彼の姿は、魔鳥のごとく大空を飛んでいた。
城太郎のからだがうごいた。――おそらく|刃《やいば》をぬくであろう。そして鎌返しの鎌を斬りはらう。しかし、一瞬鎌ははね返り、城太郎のからだが空を泳ぐ。それを頭上から――その片腕でも斬っておとせばよい、片腕なしでも、生きて信貴山城へつれてゆくという約束にはたがうまい、これが風天坊の計算であった。
しかるに、城太郎は刀をぬかず、逆に鎌の方へ飛び出した。風天坊の下を。しかし空中で鎌と相ふれたとみるまに、なんたる妙技、回転する鎌の柄を右腕につかんで、風天坊の蹴った地点にとんと立ったのである。
空中から斬りつけようとした刹那、地上に人影のないのを見たとたん、風天坊は狼狽した。
「――あっ」
一瞬、そこで静止して、また空中をはねかえる。反射的なみごとな枯葉返しの忍法であったが、同時にこれが|謬《あや》まれる反射運動であったのは、狼狽のせいだ。
はねもどった風天坊のゆくてに、城太郎が立っていた。跳躍した地点とおなじところに帰るという、風天坊のみずからもいかんともすべからざる力学的な弱点をついて、彼はそこに待っていたのである。
とはいえ、城太郎もまた、なおそこに飛んだ姿勢のままだ。つづいて飛び返る風天坊の気配を背中に受けて、うしろなぐりに鎌をなげる。
「くわっ」
風天坊は|怪鳥《けちょう》のような声をたてた。彼はみずからの鎌で左腕を肩のつけねから薙ぎおとされて、垂直に、もんどりうって地上にころがりおちたのである。
はじめて城太郎は抜刀した。
これが、もとより一息つくほどのあいだの出来事なら、残りの六人が城太郎めがけて大薙刀や戒刀を舞わせて来たのも一瞬ののちであった。
「こやつ。――」
「ちょこざいな!」
死闘の旋風から、蒼白い火花が闇に散った。一本の戒刀がたたき折られ、一本の薙刀が宙に斬りとばされた。――驚愕と憤怒のあまり、根来僧らもとっさにおのれの忍法を忘れ、ただ逆上した凶猛な獣の一団と化している。
たたたたと笛吹城太郎はもとの方向へ駆け出していた。こめかみから血がながれおち、斬り裂かれた左肩から血がほとばしり、そしてびっこをひいていた。――ただし、このちんばは、先日のマキビシによる負傷以来のものだ。
「待てっ」
追おうとした根来僧らが、いっせいに一足たたらをふんだ。
「風天坊を助けろ。羅刹坊。――壊れ甕の忍法を!」
ひとり残った風天坊は、草の中をのたうちまわっている。
のこりの五人が、黒い奔流のように城太郎を追う。
城太郎は、般若野を奈良の方へ走った。このとき彼は、はじめて逃げる気になっていた。
いまの乱闘におそれをなしたわけではないが、彼はそれ以前から篝火の捜索につかれはてていた。それから――この|期《ご》におよんで、彼はなお左腕に例の金襴の包みをかかえていた。いまの死闘に数ヵ所斬られたのは、このハンディキャップもある。あのままたたかいつづければ、所詮、なますのごとく斬り伏せられるのはわかっている。
以前の彼なら、それも承知であばれまわるところだ。しかし。――
――一人斃した!
彼は闇にさけんだ。
あと六人、必ず斬らねばならぬ!
――七つの首、さらに松永弾正の首をも魔天にささげねば、|非《ひ》|業《ごう》の命を終えた篝火に申しわけがたたぬ、そのもえたぎるような意志が、いま笛吹城太郎に、ひとまずこの場を斬りぬけるという意志を呼び起こしたのだ。
「金剛坊」
背後で、歯がみする声が風を裂いた。
「天扇弓を飛ばせ!」
同時に、城太郎のゆくての夜空に、ざあっと鳥の|羽《は》|撃《ばた》くような物音が起こった。
城太郎は天を仰いで、そこに例の針をつけた無数の扇が、奇怪な雲のごとくただよい、舞いおちはじめたのを見た。一見、緩徐にみえながら、大地にめりこむほどの|穿《せん》|孔《こう》力をもった扇の矢だ。ましてやそれが、いま雨よりはやい速度でふりそそいでいる。
横に走れば、彼らに追いすがられるであろう。
城太郎は左腕にかかえた包みを見た。金襴は裂けて、釜のにぶいひかりが眼を射た。彼は金襴をときすてた。そして、中にある白い結晶をふところにねじこむと、釜を片手にささげたまま、天扇弓の雨の下へ走りこんだ。
かん!
かん!
かん!
天扇弓は、釜に凄じい音をたてた。しかしさすがに鉄の釜をつらぬきはしない。とはいえ、雨のような扇の針を、一矢もからだにふれさせないで、はらいのけてゆくのは、忍者笛吹城太郎なればこそだ。
「――しまった」
「うううぬ、きゃつ――」
五人の法師は、地団駄ふんだ。
城太郎の駆けぬけたあと、天扇弓はなおふりつづいている。しかも、盾をもたぬ彼らは、じぶんの放った奇怪な武器のためにかえって足を封じられてしまったのであった。
――奈良へ最後の丘を駆けのぼっていった笛吹城太郎は、しかし丘の頂上で、向こうから上って来た騎馬の集団と、はたとぶつかった。横へ飛んで、道を避けた城太郎のそばを、騎馬のむれは雨にうたれつつ、黙々と通りすぎていったが、そのまんなかあたりから、ふと声がかかった。
「――そこにおるのは、城太郎ではないか?」
【二】
騎馬群がとまった。十三騎であった。
それが、どの馬も漆黒なら、鞍も手綱も黒く、乗り手の羽織、袴、刀の鞘もことごとく真っ黒だ。ただ猟師のかぶるようなからむし[#「からむし」に傍点]で作った頭巾で頭をつつんでいるが、まるで闇から湧き出したような一隊であった。
「――|伯《お》|父《じ》|御《ご》!」
城太郎は絶叫してはせ寄り、その馬の脚にすがりつかんばかりにした。
「おなつかしや、伯父御、かようなところでお逢いしようとは。――」
「と、ききたいのはおれの方だ。うぬこそ、こんなところでなにをしておる?」
と、馬上の影は野ぶとい声でいった。
「しかも、どうやら、怪我をしておるようではないか」
伊賀の首領、服部半蔵であった。
服部家はふるくは平氏の一門で、源平時代から伊賀国服部郷を領する豪族であった。代々、しだいに勢力をひろげ、いまでは伊賀一円、北の甲賀までの谷々を|統《す》べる一族となっている。この半蔵は、城太郎の伯父にあたり、このころ三十半ばの壮年であった。のちに彼は徳川家康に仕え、いわゆる服部党の頭領として、八千石の服部|石《いわ》|見《みの》|守《かみ》となる人物であるが、このころは家康もまた東海の一大名にすぎず、服部もまたさらに小さな伊賀一国をひそと護る一豪族でしかなかった。それでいて、ときの権力者、細川家とか三好家とか、あるいは松永弾正らの完全な支配からわずかにまぬがれていたのは、錯雑した山脈にかこまれているという地の利のほかに、この一門に古来伝わる忍法の秘技と、鉄のごとき団結以外のなにものでもない。
「伯父上、城太郎をお救い下され」
「どうした」
笛吹城太郎は、地べたに這いつくばってしゃべり出した。ときどき、子どものようなすすり泣きをまじえながら。
堺の傾城町|乳《ち》|守《もり》の里の遊女篝火と恋したこと、彼女と手に手をとって駆け落ちしたこと、彼女を忍者の妻にふさわしい女にするために、吉野の山中へつれていって、じぶんの力の及ぶかぎりきびしい忍法の修行をさせたこと、ようやくこれならばという段階に達して、伊賀へかえろうとしたこと、しかるに、はからずも奇怪な七人の根来僧に篝火を奪われたこと、篝火の死霊の知らせにより、彼女が松永弾正の|信貴山城《しぎさんじょう》で殺され、辱しめられたことが判明したこと、七人の根来僧は弾正の家来で、音にきこえた幻術師果心居士直伝の弟子らしく、超人的な忍法の体得者であること、その七人の忍者僧と、たったいまそこの般若野でたたかって、ひとりは斃したものの、あと六人に追われてここまで逃げて来たこと。――
「はからずも、服部一党にここでめぐり逢ったことこそ天の配剤、もはや城太郎は千人の味方を得たも同様です」
城太郎の眼はきらきらとかがやいた。
「みなの衆、いってあの根来僧どもを討ち果たして下され、こういっているあいだにも、きゃつら追ってくるでしょう。ここでとりつつんでみな殺しにし、おれの女房、篝火の敵を討って下され!」
「おれの女房、とは誰のゆるしを得たか?」
冷たい声がふって来た。はっとして見あげると、からむし[#「からむし」に傍点]頭巾の中から、寒夜の星のような眼がひかって、彼を見すえている。
かつて城太郎が見たことのない伯父半蔵の眼であった。いや、彼は知らぬことはない。服部党で掟を破った人間が出た際、断罪の座に出たときに見た厳格きわまる首領の眼だ。
「一年前、おれの用件で堺へやったうぬは、そのまま帰らなんだ。それすらゆるせぬ過怠であるぞ。そのうえ、傾城町の売女と逐電したなどと――ようも、ぬけぬけとおれのまえで申した」
城太郎は蒼白になっていった。それこそ、伊賀へ帰る途中、彼の胸をふるわせていた恐れだ。そのことを、篝火を殺された哀しみのあまり、また伯父に対する甘えのあまり、いま彼はうっかりと忘れはてていたのであった。
からだも心も硬直して、大地に伏した城太郎は、このとき騎馬のうち、二人が音もなく馬からとび降り、左右にわかれて前方へ駆け去ったのを見なかった。
「あまっさえ、うぬの勝手に女房とした女が殺されたからとて、松永家の家来を討ってくれだと? いま、松永家と争えば、服部一族をどのような運命が見舞うと思うか。うぬのような小せがれ一匹のために、伊賀一国を犠牲にするわけにはゆかぬ。それくらいのことがわからぬか、この大たわけめ」
声の鞭は、雨とともに城太郎を打ちつづけた。
「掟に叛いた馬鹿者、成敗してくれる」
そのとき、丘の中腹あたりで、獣のような凄じい絶叫が起こった。――服部半蔵はそれに耳のないもののようにつづける。
「とは思うたが――さような目に逢うてなお一党にすがりつくうろたえもの、みれんものには、成敗の刃もけがれる。小せがれ、うぬひとり、勝手にさらせ」
馬上にあった服部一党が、このとき闇夜になにを見たか、丘の下を見下ろして、いっせいに「おおっ」とうめいた。
半蔵がふりむいた。
「なんだ」
「ひとつ、丘の中腹から、傘が飛びました」
「傘が?」
「それが、傘の上に、血みどろの人間の|屍《かばね》をのせたまま、クルクルと丘の下へ舞いおちていってござる」
先刻、駆け去ったふたりの伊賀者が、息をきらせて駆けもどって来た。
「お頭、|風閂《かざかんぬき》を張ったところ、法師らしきものがかかって、先頭のひとり、たしかに両断されましたが」
「うむ」
「別のひとりが忍び寄り、その屍体をひらいた傘にのせ、屍体もろとも傘をとばして、丘の下へ逃げ下りていってござる」
服部半蔵はしばし沈黙した。
風閂――とは、伊賀に伝わる秘法の一つだ。ただひとすじ、ながい髪の毛を張るのだが、これに触れた人間は、|鋼《はがね》にかかった魚のごとく切断される。根来僧が追ってくる、ときいて、しばしの問答に邪魔が入ることをいやがった半蔵が、眼の合図をもって、配下の二人にその死の哨戒線を張らせたのであった。――闇夜に張られたひとすじの髪、ようやくそこまで追ってきた法師らも、さすがにこれには気がつかなかったとみえて、たちまちその一人が血祭りにあげられたものと思われる。
しかし、その屍骸を仲間が傘にのせて運び去ったとは?
「果心居士の弟子だと申したな」
夜目にも蒼いものがすうと面上を吹きすぎたが、すぐに厳然たるまなざしを地にもどして、
「城太」
と、呼んだ。
「その法師ら、ことごとく、うぬ一人の手で討ったら、伊賀へかえるをゆるしてやろう」
「は、はいっ」
「服部一党は、指一本、貸さぬぞ」
「はいっ」
大地に這いつくばった笛吹城太郎ひとりを残して、黒衣の騎馬隊は、粛々としてうごき出し、やがて一陣の黒いつむじ風のように丘を駆け下っていった。――伊賀へかえるのだ。
――それにしても、服部一党は、いまごろどこへ旅しての帰途であろう? そんな疑問は、城太郎の胸に思い浮かばなかった。――そんなことは、彼にとってなんのかかわりもないのだ。
笛吹城太郎は、ただひとり雨の丘に残された。
【三】
般若野を十三の騎馬の影が東へ駆けてゆく。それをはるかな草のかげで見送って、歯のきしる音をまじえながらの会話であった。
「追おうか」
「いや、待て、きゃつら――伊賀者どもだ」
「あの――破軍坊が突如二つになって斬られたのは、きゃつらのわざか」
「に、相違ない。いや、あれにはおどろいた」
「若僧め、うまいところで――いや、わるいところで、伊賀の仲間にゆき逢ったものだ」
「などと感服しておって、このまま見のがすのか。けっ、伊賀者がなんだ。ひとつ、果心直伝の根来忍法の荒技を見せてくれよう」
「待て、向こうは十三騎、味方は四人」
「四人?」
「風天坊の足もとがまださだかでない。破軍坊はこの通りだ、いま甕をつがねば、手遅れになってしまう。そこでかくいう羅刹坊もこの場からはなれられぬ」
そういったきり、羅刹坊は草の中にまた沈んだ。その眼が妖しくすわり、ひたいからは、たしかに雨でないあぶら汗がながれおちている。口になにやらキラとひかる針のようなものをくわえ、ちらと見えた両手は、泥にひたったように血まみれだ。
馬乗りの姿でふんばった彼の両足のあいだには、一個の人間が横たわっていた。まっぱだかに|剥《む》かれた破軍坊だ。――先刻、城太郎を追って、丘を駆けのぼり、突如、見えないなにかに胴斬りになった破軍坊だ。からくもそれを虚空坊の「かくれ傘」にのせて収容したものの――いま、その屍骸は生きていたときと同様に上下くっつけられているが、さてしかし、ひとたび両断された彼を、いったいどうしようというのだろう。
見ていると、羅刹坊は針を横にして、いくども破軍坊の胴を撫でる。ゆきつ、もどりつ、それは稲妻のような早さであった。針には糸がついているようにみえた。
忍法「壊れ甕」の大手術を、いまや彼は行なっているのだ。
その玄妙さは、仲間にとっていまさら感服するほどのことではない。かつて羅刹坊は椿と千鳥という侍女の胴の上下を入れかえ、また篝火と漁火の首をとりかえた。いや、げんに――そばにキョトンとして、風天坊が座っている。
さっき、笛吹城太郎の投げた鎌で、左腕を肩のつけねから斬りおとされた風天坊だ。流血のため、蒼ざめて、まだ眼はうつろで口もきかないが、しかし彼は右腕でしきりにじぶんの左の肩を撫でている。その肩からは、たしかに左腕が|生《は》えていた。いや、みごとにつながっていた!
ふりかえりもせず、あとの虚空坊、水呪坊、金剛坊、空摩坊の対話はつづく。
「しかし、平蜘蛛の釜はどうする。伊賀にもってゆかれると、ちと面倒だぞ」
「弾正さまに申しあげて、いっそ伊賀一国を踏みにじってもらおう」
「ばかな! さようなことは相ならぬ。根来流の名にかけて!」
「同感だ。おめおめ、このまま信貴山城には帰れぬ」
「何日かかろうと、いかなる手段をもってしても、伊賀からあの釜をとりもどさねば面がたたぬ」
羅刹坊が立ちあがった。立ちあがるとき、ひとたばにしてむしりとった草で手をふきながら、じいっと地上をながめている。
「はてな」
と、虚空坊がいった。
「なんだ」
「あの若僧。――いまの十三騎の中におったか?」
「なに――? なるほど、そういえば十三頭の馬に十三人しか乗っておらなんだな」
「そんなに好都合に、一頭の替馬を用意していたわけであるまい。十三頭の馬に十三人乗って来たにきまっておる。それが、二人乗りしておる様子もなければ、馬の歩みから、人間ひとりべつにぶら下がっておる気配も見えなんだ!」
「――する――と」
「きゃつ、なぜか、まだ丘に残っておるのではないか?」
「なぜか? なんのために?」
「あの十三人の伊賀者はよほど大事の用でもあって国へ帰った。しかし、きゃつは、敵を討ちとうて、ひとり残った。――」
「ちょこざいな!」
そのとき、草がざわめいた。ふりかえった四人の眼に、死んだはずの破軍坊の両腕が、徐々に徐々にうごき出し――それから、おのれの腹のあたりを|痒《かゆ》いようにかきはじめた。……
「きゃつ。――」
と、羅刹坊がうす笑いした。
「もし、また逢えば、こちら七人、みな五体そろっておるので|仰天《ぎょうてん》するだろう」
般若野の夜の丘に、笛吹城太郎はただひとり残っていた。
うちのめされた惨たる表情が、雨に洗われたようにしだいに消えてゆき、代わってもちまえの、若い、精悍な、凄絶きわまる面だましいが浮かび出してくると、彼は身を起こした。
「うぬ一人で討てと仰せられた」
と、|沁《し》み入るようにつぶやき、すっくと立ちあがった。
「おれひとりで討つ。そうだ、それでなくては、篝火の魂が浮かばれぬ。篝火! 見ておれ、おれひとりで、きっとあの七人の法師は討ち捨ててくれるぞ」
闇の大空に顔をあげてうめいて、それから足もとの平蜘蛛の釜に眼をおとした。
「あの女は、これを持ってきた。篝火の魂が、後生大事にこれを持たせてきた。――」
眼がしだいに思案の翳に沈んでいった。
「あれは、こういった。――ここに持ってきた平蜘蛛の釜と中にある白い石は、それで茶を煮れば、のんだ女の心をとろかすという松永弾正の宝だと。――」
行者頭巾
【一】
奈良若草山を初夏の青い風が吹いている。
このころ――七堂伽藍こそ昔ながらだが、それは荒れはて|蕭殺《しょうさつ》の気をはらんで、奈良はすでに仏都の面影を失っていた。その七堂伽藍に棲むものも、僧というより僧兵である。その僧兵も、じつをいうと|昔《せき》|日《じつ》の威を失って、ただ戦国の世にめまぐるしく移り変わる時代の覇者に恐怖と|猜《さい》|疑《ぎ》の眼をひからせているばかりであった。
で、東大寺のすぐ東側にある若草山だが――むろん、現代のように行楽客が群れているわけではない。しかし、みるからに温雅な丘で、しかも毎年春には草を焼く習いで、あとみどりの芝生が生えているばかりだから、ときどき|遊《ゆ》|山《さん》の人々もあるとみえて、麓には酒や菓子を売る茶店も二、三ならんでいた。
その茶店の一軒で、七人の法師が酒をのんでいた。
「ええ、いくらこの陽気でも、ねぐらなしで飛びまわっておっては疲れるわ」
「かといって、信貴山城には帰れぬし」
「いっそ、根来寺へ帰ろうか」
「と、あとで果心さまに知れてみろ。ここで一同腹かっさばいた方がましという|劫《ごう》|罰《ばつ》を受けるであろう」
例の面々だが、彼ららしくもない恐怖に顔色を蒼くした。
むせかえるような若葉の匂いの中に、まっぴるまから酒をあおっているのに、あかい顔をしているものはひとりもない。
「――やはり、きゃつ、伊賀へ帰ったのではないか?」
「いや、たしかにきゃつらしい男が、あの翌朝、この奈良の裏町を歩いていたときいたではないか」
「それにしても、おれたちはこの通り堂々と大手をふって歩いておるというのに、ついぞきゃつの影も見ぬ」
「ついぞ見ぬといえば……ついぞ、われわれもいい目を見ぬな」
七人の法師の目は、ドンヨリと赤く濁っていた。むろん、ここしばらく女を抱かぬという意味だ。もっとも、|篝火《かがりび》の屍体を犯して信貴山城を出てから、まだ七、八日にしかならないのだが、彼らはもう鼻口からほとばしりそうな獣欲の|鬱《うっ》|血《けつ》に苦しんでいた。
「女ども、さらったとて、釜はなし」
「そもそも、弾正さまにあの女がくっついているかぎり、もはや淫石の必要もないようにみえるし」
「とにかく、えらいものにかかわり合ったものよ。魔につかれたとしか思われぬ」
――伊賀の女に目をつけたばかりに、彼らにとってもじつに予想外の苦労を味わわなければならぬ羽目になったことに愚痴をこぼしているのだが、しかし、えらいものにかかわり合い、魔につかれたのは相手の方だということには反省が及ばないのだから、いい気なものだ。――だから、たちまちみな舌なめずりして、
「あれは、よかったの」
と、獣的なうすら笑いを浮かべた。……雨もふらぬに大唐傘をななめに背負った虚空坊が、うめくようにいう。
「あのような女はおらぬか。べつに信貴山へつれてゆかずともよい」
「それよりも――月水面がかわいた」
と、水呪坊がいった。
ふところに片手をつっこむと、いきなりびゅっとなにか店の外へ投げつけた。小さな黒い|礫《つぶて》が往来の上でぱっとひらいてどす黒く変色をした紙片となり、向こうの椎の木の幹へひたと貼りつこうとして――そのまま、ヒラヒラとおちていった。
「これでは、もしいまきゃつに逢ったとしても、ものの役にはたたぬ。新しく月水を手に入れねば――」
そのとき、彼らはいっせいに眼をあげて、向こうの若草山を見た。なだらかな青い山肌を、十ばかりのはなやかな影が上ってゆく。
「あれはなんだ」
「あれは|木《き》|辻《つじ》の女郎衆でございましょうが」
木辻とは奈良の町の南にある傾城町だ。いまを盛りの堺の|乳《ち》|守《もり》の|廓《くるわ》などにくらべれば、春の花と秋の花ほどのちがいはあるが、それでも千年来の町だから、とにかく廓はある。
「女郎どもが、なにしに若草山へ上るのだ」
「ただの|遊《ゆ》|山《さん》でござりましょう。酒をのんで唄をうたって、それだけでござりまするが、毎年いまごろようおいでになります」
茶店の老婆は、眼をほそめてつぶやいた。
「ふふん、木辻では|閑《かん》|古《こ》|鳥《どり》が鳴いて、茶をひいているとみえる」
見ていると、遊女たちは丘の中腹に半円になって座り、|瓢《ひさご》や重箱などをとり出した。よほどひまをもてあましているとみえる、といま悪口をいったが、やがて手拍子とともにうたい出した唄は、――
「いまもなお――妻やこもれる春日野の――若草山に――うぐいすの鳴く――」
とか、
「むさし野に――きょうは――な焼きそ若草の――つまも籠れり――われも籠れり――」
とか、たしかにそんなふうにきこえる。さすがに古都の傾城たちらしく、心ものびるように優雅な行楽であった。
じっとそれを仰いでいた七人の法師の眼がしだいにひかりはじめ、うなずき合うと、杯を投げ、いっせいにぬっと立ちあがった。
水呪坊が醜怪に鼻をうごめかした。
「風が、月水の匂いを吹き送ってくる。――」
まもなく、左右に遠くはなれて若草山の両端を、一方に四人、一方に三人、はなればなれになって上ってゆく法師たちの姿が見られた。
優にやさしい行楽に酔いしれた遊女たちは気がつかない。
が、おなじ山の中腹で、ちょうど三人の法師が上っていったあとから、むくと身を起こしたものがある。これは法師の方も気がつかなかった。それは全身青草に覆われて――というより、ほんのうすく草をかぶっているだけだが、それが法師のあとを追ってやはり山の頂上の方へうごいてゆくのは、まるで青い風が吹いてゆくとしか見えなかった。
【二】
……やや日がかたむいた。
若草山は奈良の町の東にある。したがって、日がかたむけば、その斜面にあかあかと日があたる。
むろん、遊女たちは町を見下ろすようにして、半円をえがいて草の上に座っていたのだが――ふと、その太陽が山の方へ移ったような気がして、みなひょいとうしろをふりむいて、
「…………」
一瞬に身うごきもできなくなった。
そこに忽然とべつの傾城たちの一団が遊んでいた。……いや、じぶんがそこにいる。彼女たちは、それぞれもうひとりのじぶんと、見ひらいた眼を見合わせた。だれがそれを、まんまるい巨大な鏡と思うだろうか。
遊女たちはじぶんがそこに吸いこまれたのかと思った。こちらにいたじぶんが消え失せたかと思った。そのとたんに、みな声もなくすうと気を失った。
これは一種の強烈な催眠術であろうが、その鏡が消えると、一本の大きな傘をぶら下げたひとりの法師があらわれ、そしてふたたびぱっと傘をひろげると、その遊女たちの中からふたりだけ、ほんとうに消滅していたのは、決して催眠術的な幻想の世界のできごとではない。
とみるや、その傘を背負って、法師は風のように山を駆けのぼりはじめた。傘の上にはふたりの遊女が失神して乗せられていた。
数分ののち、若草山からさらに奥山へ――そのふたりの遊女を、まるで|神《み》|輿《こし》みたいにかついで駆けてゆく七人の法師の姿があった。
その山中の杉木立につつまれたまるい草原まで駆けてくると、彼らは遊女をそこに投げ出した。毛むくじゃらの十四本の腕に空中でもみしだかれて、彼女たちはすでに裂けたきものを四肢にまつわりつかせただけの半裸にちかい。
「水呪坊、まちがいないな」
かくれ傘で、女をさらって来た虚空坊がいう。彼はすでに傘を一本にたたんで背負っている。
「上から見て、半円にならんでいるうち左から四人めの女が、いま月のものじゃといったが」
「まちがいなし」
と、水呪坊は横たわった女ひとりを見下ろして、舌なめずりした。
「では、それは水呪坊用。ついで一方の用に、そばにいる女もさらってきたが」
と、いって、虚空坊はもうひとりの女をのぞきこんで、
「これはしまった。……だいぶおちる」
と憮然たる顔つきになったのは、容貌のことをいったのである。べつに|醜《しこ》|女《め》というわけではないが、いかにもいま月水のときにあるという遊女にくらべれば、いささか見おとりがする。――
「――また壊れ甕の忍法とゆくか」
羅刹坊がいった。六人の法師は手をたたいた。
「なるほど、それは妙案!」
それから約一刻ちかく、鹿の遠音もきこえる美しいこの山の中でくりひろげられた、文字通り血と肉の祭典こそ、この世のものならぬ凄じい光景であった。
水呪坊は、月のさわりにある遊女から経血を採った。薄紙にひたし、まるめて血の|礫《つぶて》とした。いくつも、いくつも、何十回となく。
空になげれば風にのって真紅の花のごとくひらき、ひとたび相手に貼りつければ肉仮面さながら吸着し、その息の根をとめる忍法月水面。――そのじつは、その名のごとく女人の経血をもって作るのであった。かつて、これを嗅いだ柳生の武士が血の匂いには馴れているだろうに、その甘ぐささにむせかえったのもむべなるかな。
さて、それが終わると、羅刹坊が壊れ甕の手術にとりかかる。すなわち、月水のときにある美しい遊女の上半身を、もうひとりの遊女の下半身につなぎ、七人、代るがわるに犯しはじめたのである。
もう一組の下半身と上半身は、これはもう用がないから、青草の上に切断されたままだ。
「――やっ?」
法師のひとりが、ふいに首をねじむけて、ぎらっと空を見あげた。敏感な忍者の耳に、なにかのかすかな音をききつけたのである。
が、まわりの杉木立から、そのときぱっと凄じい羽ばたきの音をたてて飛び立ったのは、この|酸《さん》|鼻《ぴ》な光景を見るにたえなかったか、無数の山鳥のむれだけであった。
その杉の木の高い梢で、笛吹城太郎はこの夢幻の地獄図を見下ろしていた。
常人ならば法師たちに見つかったに相違ない。が、忍者たる城太郎すら、地上の光景のあまりな無惨さに、いちどわれを失って、「ううむ」とうめいた。――その杉の木へよじのぼるときさえ、一羽も飛び立たなかった鳥のむれが呪縛をとかれたようにいっせいに大空へ舞いあがったのはそのときである。
――彼は知った。
伊賀街道で苦しめられた水呪坊の月水面の秘密を。
また、雨の般若野で篝火の死霊が告げた怪異な言葉の意味を。
城太郎はすでに奈良の町で七人の法師を見つけ出して、それを見張っていた。もとより彼は、じぶんが斬ったはずの法師の片腕がもと通りにつながり、また服部党の|風閂《かざかんぬき》にかけられて胴斬りになったはずの法師が、いま七人の一人として横行しているのを見て驚愕した。
――こやつらは、殺しても死なぬ魔界の化け物どもではないか?
その恐ろしい疑惑にとらえられ、彼はただむなしく彼らのあとを追っていたのだ、まことにその通りならば、篝火の|敵《かたき》を討つすべもないといわねばならぬ。
いま、彼は魔僧らの忍法を知った。知ったが、彼はかえって昏迷におち入った。この常人ならざる秘技をもつ忍法僧らをいかにして討つか。
彼の鼓膜に、いつかの――ふところに入っていた紙片の言葉が、何者ともしれぬ声となってきこえた。
「これとたたかうは龍車にむかう|蟷《とう》|螂《ろう》の斧、ただ死あるのみと知るべし」
――気がつくと、地上に七人の法師は消えていた。あとにひきちぎられた女の肉の花弁を散乱させたまま。
笛吹城太郎は、数丈もある杉の梢から、音もなく飛び下りた。地に足がついたとたん、その全身を覆っていた青い草や枝が散りおちた。
彼は黒い行者頭巾をかぶり、いらたかの|数《じゅ》|珠《ず》をかけ、金剛杖をもった山伏姿に変わっていた。
【三】
茶店の老婆は、若草山でふたりの遊女がさらわれる光景を見てはいなかった。そのとき老婆は、かまどに火を|焚《た》きつけていた。もっとも、見ていたところで、山の上からひとつの大きな傘が遊女たちのところへ舞ってきて、また舞いあがってゆくのを眼にしただけで、あれは遊女たちのもってきた日よけ傘かと思い、山を吹く風のいたずらとしか思わなかったに相違ない。
よほどたってから店先へ出て、何気なくひょいと若草山の方を見あげて、女たちがたおれているのに気がついて、くびをかしげた。お女郎衆は、酔いつぶれたのだろうか、と思ったが、どうも様子がおかしい。
それで老婆は、トコトコと山へのぼっていった。
やはり遊女たちは眠っていた。いや、気を失っていた。――が、ゆり起こすと、彼女たちはつぎつぎにぼんやりと身を起こした。みんなふぬけになったように、うつろな眼でおたがいを見合っている。喪神するまえの記憶を失っているのだ。
彼女たちがようやくおのれをとりもどしたのは、老婆といっしょにフラフラと山を下りて、その茶店の縁台に座ってからしばらくののちのことであった。
「あっ、|誰《たが》|袖《そで》さまは?」
「小紫さまも見えぬ。――」
やっとふたり足りないことに気がついたのである。同時に、気を失うまえに、山上で見た妖しい幻影のようなものを思い出した。じぶんたちとおなじ遊女のむれがいたことを。――いや、あれはじぶんたち自身ではなかったか? 必死にあの怪異の記憶をたどろうとするのだが、それ以上脳髄のまとまりがつかない。
「どうしたのかしら?」
「ふたりだけ、先にかえったのかしら?」
彼女たちは若草山の山頂をぬらす夕焼けの色をみて、急にえたいのしれぬ恐ろしさに襲われて身ぶるいをした。彼女たちは九人いた。
「ああ、もう日がくれる」
「わたしたちもはやくかえらねば、おやじさまに叱られる。――」
みな、そわそわと立ちかけたとき、外からひとりの若い山伏がすっと入って来た。
黒い行者頭巾をつけているが、その顔をひと目見て、女郎たちは眼を吸いつけられてしまった。少年のようにういういしい頬、朱をひいたような唇、精悍きわまる光芒をはなつ瞳、それらが|醸《かも》し出す野性的な青春美に、思わず彼女たちは酔ったのだ。
それが、店に入ると、
「|婆《ばば》、茶をのませてくれ」
といってそれから、
「いや、|立願《りゅうがん》のことがあって、茶はわしの所持する釜で煮てもらいたい」
と、妙な依頼をして、さて背に負った|笈《おい》から、金襴にくるんだ包みを出し、その金襴をといて、中から一個の茶釜をとり出した。
ふつうのものより、やや平たい釜だ。ふたが蜘蛛のかたちをして、その黒い地肌に蜘蛛の長い足が這いまわっている。――まるで生きているような彫刻であったが、それをぶきみと思うより、その釜のはなつ|神《しん》|韻《いん》に女郎たちはまた眼を吸われた。
山伏はみずから釜に水を入れ、火にかけた。――その美貌、奇妙な依頼、どんなに幼稚な人間でも魂をうたれるような釜の風韻。――いちど立ちかけた腰をまた縁台におとして、ぼうとして見とれている女郎たちに、ふいにその山伏がふりむいて、
「そなたらにも一服進ぜようか」
と、いった。
「はい」
と、彼女たちは声をそろえていった。ほんとうにのどが渇いてからからになっていることを、いまになって意識したのだ。
釜はうやうやしげに金襴でつつみ、|笈《おい》で運んだものなのに、茶の葉そのものと茶碗は無造作にこの店のものを借りたが、女郎たちの中に、それを不審に思うものもなかった。
彼女たちは|服《の》んだ。若い山伏のたててくれた茶を。――淫石を沈めた茶を。
遊女たちは茶をすすって、眼をあげた。山伏は、じぶんは服まず、じっと彼女たちをながめている。眼と眼が合った。
笛吹城太郎は、はっきりと知らない。これからどうなるか。――ただ、あの雨ふりしきる般若野の呪文をとなえるような声をきいているだけだ。「――ここに持ってきた平蜘蛛の釜と中にある白い石は、それで茶を煮れば、のんだ女の心をとろかすという弾正の宝であるということでございます……」
彼は敵を討つために、この女たちをつかうことを思いついただけであった。
――成るか、成らぬか。
おれの意図するままに、手足のごとく女たちにうごいてもらうためには、女たちの心をとらえるのがいちばんの早道だ。くわしくいきさつを説いているひまもないし、説けばかえって女たちは恐れるであろう。
――茶を服む遊女たちを、祈るように凝視しつつ、なお笛吹城太郎は半信半疑であったが、しだいに女たちの眼がうっとりじぶんにそそがれたままになり、頬に血がのぼり、小鼻があえぎはじめたのを見ると、急におちつかぬ気持ちになった。
効く。たしかに篝火の死霊の告げた通りだ。――しかし、これはかえって面倒なことになるぞ。
そんな予感がして、彼は急に釜をしまうのにかかった。水で冷やし、金襴につつみ、もと通りに笈に入れると、
「いや、世話をかけた。茶代を、ここへ置くぞ」
と、いって、店を出た。――すると、女たちもみなふらりと立ちあがった。
「わたしたちも」
しばらくののち、笛吹城太郎はじぶんのうしろに、どこまでもついてくる遊女たちに、じぶんがしかけたことでありながら、心中狼狽をしていた。
「山伏どの」
代るがわる、女たちは媚情にむせぶような声を投げかける。夕焼けはいつしか消えて、路上には薄闇がただよい出していた。
「今宵、木辻の廓においでなさらぬかえ?」
「――そんな気はない」
ふりむいて、拒否的な眼をむけると、女たちは立ちどまるが、彼が歩き出すと、またそろそろと追ってくる。
「山伏どの。……今夜廓に来てたもれば……わたしが死ぬほど可愛がってあげるほどに……|喃《のう》、来てたもらぬか?」
城太郎は、じぶんの歩いてるのが、二月堂の方へゆく道であることに気がついた。――そして、突如、それまでとちがう戦慄のそよぎをみせて、はたと足を地に膠着させた。
さっき茶店に入るまえに、あたりを駆けめぐって――彼は、一匹の鹿の死骸を肩にかけた七人の法師が二月堂の方へあるいていったことをきいていた。ゆくては山でふつうならひきかえしてくるはずだが、獣のような彼らのことだ。常人通りの道をえらぶという保証はない。しかし。――
城太郎は仁王立ちになったまま、あともふりむかないでいった。
「そなたら、おれのいうことをきいてくれるか?」
根来法師たちは、山で一匹の鹿をとらえてなぐり殺し、代るがわる肩にかけ、二月堂にゆくと、そこの堂守をおどして火を焚かせ、|般《はん》|若《にゃ》|湯《とう》を出させ、ひき裂いた鹿の肉をあぶって食った。
いかに乱世の僧兵とはいえ、いかに荒れ果てた古都とはいえ、法師にあるまじき、また仏徒にあるまじき所業だ。
二月堂から三月堂までの僧たちがとび出して来て、遠まきにしてさわぎたてる中で、ゆうゆうと肉をくらい、般若湯をのんで、さてすこし正気の眼になると、
「うるさい。これでは寝もできぬ」
両腕を天につきあげて大あくびすると、それでもノソノソと退散にかかった。
二月堂から東大寺の方へひきかえす。そのあいだはもう暗々とした林の中の路だが、ところどころ細ぼそと、灯を入れた石灯籠が立っている。
そのかげから、ふいに、――
「もうし」
女の声で呼ばれた。みると、そこにひとりの女が立って、|灯《ほ》|影《かげ》に妖しく笑みかけている。
「法師どの、わたしと寝てたもれ、――」
「なんだ、辻君か」
法師たちは笑った。
「辻君がこんなところまで出張っておるのか」
「肉を食うが破戒のなんのとさわぎおって――ここの坊主、|売《ばい》|女《た》にうつつをぬかしておるのではないか」
「いや、それにしても奈良も堕ちたものよの」
虚空坊がいった。
「ところで、女、遊んでやってもよいが、こちらは見る通り七人おるが、よいか?」
ほんの数刻まえ、凄じい欲望をみたしたくせに、もう七人ともに舌なめずりしている。
そのけものめいた体臭に、辻君はぎょっとしたようで、
「いえ、そのようにがつがつせずとも――わたしの仲間はまだ七人、八人、この道に立っているはず――あとの衆は、そちらにいってやって下され」
いったかと思うと、虚空坊のそばへはたはたとかけ寄ってきて、いきなり首ったまにしがみつき、ぶら下がり、両足を法師の腰へ巻きつけた。
「のう、わたしはあなたが気に入った。あなただけ、たっぷり可愛がってあげるぞえ」
「おい、みんな」
と、虚空坊は牛みたいな舌でもう女の唇をしゃぶりながら、血ののぼったような声でいった。
「さきへゆけ、そっちにまだおるという辻君を買え」
――この七、八日、伊賀の忍者探しに血まなこになって、不本意ながら禁欲していたので、さっきの凶行でかえって火がつけられたとみえる。
もう鼻息をあらくして、眼をひからせて駆け出す六人の仲間のあとから、思い出したような、あわてた虚空坊の声が追って来た。
「一刻のちに、猿沢の池のほとりで逢おう」
壊れ|甕《がめ》
【一】
――背に長大な傘を背負い、八本の手足をうねらせながら歩いている影を見たら、人はなんと思うだろう。
まず蜘蛛の妖怪としか判断のしようがないが、ちかづいて見れば人間だ。人間であるが、妖怪にちがいない。女を抱きあげ、これを犯しながら歩いている虚空坊であった。
さっき闇からとび出した辻君にしがみつかれ、抱きあげて愛撫しているうちに、突然この体位が大いに気に入ったとみえて、そのまま足を運び出したのだ。さすがに女は身をもがいた。はては彼の頬をうち、からだをのけぞらしてのがれようとした。しかし、まるで鷲につかまれた子雀であった。虚空坊は頬をうたれるにまかせ、ゲラゲラ笑い、女の顔をなめまわし、そして女を犯しながら行進を開始したのである。この間、一足も女を地に降ろさない。――
「おうい」
前にむかって呼んだ。
「辻君はおったか。おれは女を抱いたまま猿沢の池まで歩いてゆくぞ。これはおもしろい。みな、ためして見るがよい。だれとだれとが、猿沢の池まで保つか。――」
「心得た。やわか虚空坊に負けはせぬぞ。――」
遠くで、陰々たる返事がきこえてくる。と、さらに、遠くから、
「猿沢どころか、こととしだいでは信貴山まで歩いてもよいぞ。――」
という笑い声がこだまして来た。
……女たちは、木辻の遊女であった。いうまでもなく城太郎の依頼で、彼女たちは根来僧の誘惑にかかったのだ。たとえ相手が悪魔であろうと、城太郎のためにはどんなことでもしてやらずにはいられないという気にならせたのは、もとより平蜘蛛の釜の茶の魔力であった。しかし相手は――悪魔以上であった。
さしもの遊女たちが、恐怖し、のたうちまわり、はては嘔吐さえもよおしはじめたのにも、この妖僧たちは、女の苦悶にいよいよその快味をかきたてられるらしく、二月堂からの夜の森がどよめくような笑い声をあげ、犯し、犯し、犯し、はなさない。かくて、約一町間隔で、淫靡凄惨な十四人「七体」の行進はつづく。
森の梢で、笛吹城太郎は、惨としてこの光景を見下ろしていた。
城太郎としては、ただ七人の法師を各個に分離させるために、遊女たちに頼んだことだ。それが――彼女たちが、かくも無惨な目に逢おうとは思いのほかであった。
――ゆるせ。と、胸でうめく。それから強いて冷たい心をふるい起こした。
――敵討ちのためだ。……おれの敵討ちのためだけではない。そなたらの朋輩――若草山の奥で、この法師らになぶり殺しに逢ったふたりの遊女の敵討ちのためだ。
と、いいきかせた。それは彼自身への弁解であったが、この光景をながめ、篝火の非業の死に想いをはせると、いちど血はわきたち、つぎに冷えわたり、いかなる鉄血の男になろうと、この悪魔どもを殺さねばならぬと思う。
ところで、彼は、べつの意味でも動揺していた。法師たちは分離した。たしかに分離した。が、それがこのようなかたちをとろうとは。――
つけ狙う根来僧たちは、遊女と一体と化したまま移動しているのだ。
たちまち、城太郎は樹に上り、梢から梢をわたってそれを追った。城太郎が彼らに発見されなかったのは、暗い夜や深い森や吹きわたる風のせいではなく、ただ彼らが歩行のたびに波うつ奇怪な快楽に全感覚をうばわれていたからであったろう。
どの組が、だれか?
一番目水呪坊。二番目羅刹坊。三番目空摩坊。四番目風天坊。五番目金剛坊。六番目破軍坊。七番目虚空坊。
奈良の町でつけ狙っているあいだ、彼らの会話から、城太郎はすでに彼らの名を知っていた。が、名を知っていたとて、いまなんの役にもたたないが――城太郎が第一番に討ちたいのは羅刹坊であった。
それは二番目をあるいている。
城太郎は梢を|翔《か》けた。ときには、その羅刹坊がすぐ足の下を通ったこともあった。が、歩きながら女のきものをかみすて、ちぎりすて、いまや白い蛇をまといつかせたような羅刹坊を――女をぶじのまま討ち果たすことは不可能にみえた。鉄血の男になると誓ったくせに、城太郎にはまだそうなりきれぬところがあって、それが彼を一瞬ためらわせた。というまに、羅刹坊はゆきすぎた。
森の中の道がつきようとする。向こうに水のようにひろがる月のひかりを見たとき、城太郎は愕然とした。
森の外は野だ。そこまでゆかせては、各個撃破にならぬ。遊女たちに今夜のことを頼んだ甲斐がない。
枝から枝へ、|猿《ましら》のごとく飛んで、彼は森の入口にちかい梢で待った。一番目の水呪坊をやりすごし、二番目の羅刹坊の通過するのを待つつもりであった。そのとき、野で声がきこえた。
「行者どの。――」
「まだでありますかえ、行者どの。――」
笈をあずけ、野の草の中に待たせてあった別の遊女だ。法師たちを誘惑する役のほかに、まだふたりあまっていたのを、決して声をたてないようにといましめてあったのに、城太郎のためにいそいそと森へ消えた朋輩たちがどんな目に逢っているかは知らず、心ぼそさというよりむしろ|嫉《しっ》|妬《と》からふたりはたえかねて呼びはじめたのであった。
「――しまった」
城太郎がつぶやいたとき、彼の梢の下で第一番目の水呪坊がピタリと立ちどまった。もはや相手をえらんでいる余裕はない。
城太郎は枝を蹴った。刃をさかさまにしながらおちる刹那、
「おおっ」
吠えて、水呪坊が腰をはねた。交合していた女の白い裸身が鞭のように法師の頭上を回転した。――一瞬、城太郎がそれを避けて、刃をクルリともとにもどしてしまったのは、嘆ずべきか、責むべきか。
しかし、刃をさかさまにしていたなら、彼の刀身は女をつらぬき、大地を刺していたろう。女と重なって地におちた城太郎は、まるで女身の弾力を利用したかのようにはねあがり、とんと立った。
「忘れはすまい、伊賀の城太郎だ」
さけんで、斬りつけるまで、水呪坊は一瞬、放心状態にあった。
なにしろそれまで恍惚境にあったのだから、とっさに正気にもどらなかったとみえる。にもかかわらず、いま女をはねて盾としたのは、判断もなにもない根来忍法僧としての反射運動であったろう。
眼前の閃光をみると、その反射で水呪坊はふたたびうしろにとびずさり、そして――この男らしくもなく、バタバタと逃げ出した。
「おういっ……出たぞ! きゃつだっ」
森の中で、獣のうなるようなどよめきがきこえた。
城太郎の左手があがった。マキビシを投げたのである。それが水呪坊の背に|霰《さん》|弾《だん》のごとくくいこむのを見ると、彼は身をひるがえした。そこまでが精一杯であった。
笛吹城太郎は野の方へ逃げた。襲撃が失敗したことはわかったが、これ以上ふみとどまって、七人の法師すべてを相手にすることは、そもそも本願の敵討ちそのものを|放《ほう》|擲《てき》することにほかならなかった。
十歩宙をとんで、彼はたちまちうしろに地ひびきの音をきいた。
水呪坊が追ってくる。
【二】
いま背に|霰《あられ》のごとくマキビシをたたきこまれた水呪坊が追ってくる。
じつは、これで彼の正気は回復したのだ。いやに鈍感な動物のようだが、交合歩行のまっさいちゅう、頭上から突如としてむささびのごとく襲撃してくるもののあることを直感してからこのときまで、ほとんど一分ぐらいのことであったからむりもない。
とはいえ、背中にそれだけのものを打ちこまれて、常人ならば地に這って七転八倒するところを、これで猛然と憤怒して、逆に襲撃者を追跡にかかったところは、やはり不死身の魔僧というよりほかはない。
「待て」
背から血しぶきをひきながら、水呪坊は追った。
「あ、行者どのっ」
野の草の中から、ふたりの遊女が立ちあがった。ばかなことに、かくれていればいいものを、逃げてくる行者姿の城太郎と、それを追う蝙蝠みたいな妖しい姿に胆をつぶして、きぬを裂くような声を、はりあげたのだ。
いちど舌うちして、
「――逃げろ!」
と、城太郎はさけんだ。とっさに、彼女たちのそばに平蜘蛛の釜がある、そこから彼女たちをはなさなければならぬ、と判断したのだ。しかも。――
「――こっちへ来い。……こっちへ逃げてこい!」
と彼はいった。野には、いくつかのかすかな塔影を背に、三日月がのぼりかかっている。月光ともいえない暗い野であったが、忍者同士にはものみな真昼のように見えることを彼は知っていた。彼はある細工をすることを思いついた。女たちを呼んだのは、その細工を敵から看破されることをふせぐ盾とするためであった。
「待てっ、若僧!」
嵐のように追ってくる水呪坊をふりかえりつつ、城太郎はいちど路に立ちどまって草の中から逃げてくる遊女たちを待った。そしてまた駆け出した。
走りながら、ひっさげた一刀を左腕にあてて、みずから皮と肉を斬る。ふところから懐紙を出してそれをあてる。
この動作と遊女たちのもつれる足にもかかわらず、水呪坊がなお追いつくことができなかったのは、やはり背にうけた傷と出血のせいであったろう。
「もうだめです」
「もう走れませぬ!」
悲鳴のあえぎをあげるふたりの遊女を、城太郎は叱った。
「あそこに堂がある。あそこまでだ!」
ゆくてに数本の杉にかこまれた堂があった。路はそれを回って東大寺の方へゆく。もういちどふりかえると、水呪坊は十間ばかりの背後にせまり、さらにいま通ってきた森から、黒衣の僧がもうひとり湧き出すのがみえた。これは遊女をふりおとしてきた羅刹坊にちがいない。左腕にあてた紙に、血はにじみひろがっていた。
「忍法月水面!」
うしろで|怪鳥《けちょう》のような絶叫がきこえた。
おそらく、その距離まで迫ってはじめて、射程距離に入った忍法月水面であったのだろう。同時に水呪坊の手から、ビューッといくつかの黒いつぶてが宙に投げられた。それは城太郎たちの走ってゆくさらに前方の路上まで|抛《ほう》|物《ぶつ》|線《せん》をえがいて、そこでぱっと花のようにひらいた。
暗い月光だからそれは黒く見えたが、真昼ならば真っ赤な花と見えたはずである。女人の経血にひたして作られた水呪坊の忍法月水面。
それは風に吹きもどされて、走る城太郎たちの面上に吸いよせられて来た。城太郎は刀をあげて、それを斬った。もとより奇怪な濡れ紙は切れず、べたっと刃に貼りついてしまう。のこりの紙は城太郎はもとより女たちの肩や胸に吸いついた。
「その堂のかげで待っておれ!」
回る路に、よろめく彼女たちをつきとばすようにし、城太郎はこんどは彼女たちのあとから路を回った。顔におのれの血を吸った紙をおしあてながら。
堂と杉の木にはさまれた路上に遊女たちはつっ伏したまま、背と腰を波うたせているばかりであった。そのなかへ、城太郎もつんのめって、それからそばの杉の木へ、もたれかかるようにして足を投げ出した。
女たちの|喘《あえ》ぎは笛のようであった。たんなる喘ぎではない。彼女たちはからだに貼りついたものから、その部分から巨大な|蛭《ひる》に吸血されるような激痛に、声も出せずのたうっていたのだ。
水呪坊は路を回り、はたと立ちどまり、こちらをすかし見た。城太郎たちのたおれているところは三本の杉と堂にはさまれて、墨のごとく暗い。が、水呪坊の眼はそこになにを見たか。――
「ふむ、手をやかせおった。……」
会心の吐息をもらしたのは、こちらの光景をしかと見てとったのだ。
が、つぎの瞬間、城太郎にとって恐怖すべきことが起こった。水呪坊はそのままそこにどっかと座ってしまったのである。
おそらく、してやったり、という|安《あん》|堵《ど》|感《かん》とともに、背からのおびただしい流血のゆえであったろう。それにもはや|獲《え》|物《もの》はしとめたとみて、うしろからくる仲間の根来僧にあとをゆだねるつもりもあったかもしれない。
【三】
「ううむ。……」
城太郎はうなり声をたてた。水呪坊はこちらを見た。
城太郎はなお苦しげにうめきながら、わななく手に刀身をかきさぐるようにつかみ徐々に刃をおのれのくびにあげていった。
「や! 生きておったか!」
と、水呪坊はさけび、よろよろと立ちあがった。
「そうだ、こやつはいつかおれの月水面をかぶりながら、|執《しゅう》ねくも生き返ってきたやつであった。生きているとあれば……殺せぬ」
彼はちかづいて来た。その背後から、さらに|跫《あし》|音《おと》が地を鳴らしてくる。
「生きて信貴山城に|曳《ひ》いてこい――とは、|漁火《いさりび》さまの仰せであったが、いまはおれたちも同意じゃ。らくらくとは死なさぬ。ようもわしの背をこれほどいためたな、信貴山城で、十日かかってうぬのからだにマキビシをうちこみ、この世ながらの地獄を味わわしてくれる」
水呪坊は一間の距離にちかづいて――それから、なにを感じたか、ぱっと大鴉みたいにうしろへとびずさろうとした。
ひとかかえはありそうな杉の木立の下に両足投げ出していた笛吹城太郎が、その片ひざを立てるのと、片手で顔の朱面をむしりとるのと、全身が前へおよぎ出したのとが同時であった。
とびずさろうとしたが、水呪坊の一方の足が残っていた。城太郎の刀はそれを|薙《な》いだ。その左足一本を、ひざの下から路上にのこし、水呪坊は四十五度の角度でうしろへのけぞっていった。
なお追い討ちをかけようとして、城太郎はまたはねもどった。跫音が回ってくるのをきいたからだ。
羅刹坊があらわれたとき、笛吹城太郎の姿はそこにはなかった。彼は杉の木の背にまわり、しかもその六尺の高さにいた。刃をくわえ、手と足が杉の皮にふれると、まるでそこに吸盤があるかのごとく吸いついていたのだ。
「――やっ、水呪坊!」
羅刹坊はさけんだ。
「やられた。きゃつ、おるぞ、そこらにおるはず――逃がすな!」
羅刹坊はそのまま疾駆して、杉と堂のあいだを数間駆けぬけたが、すぐに反転して来て、
「おらぬぞ!」
とわめいた。
「おらぬはずはない。そこの堂にでも逃げこんだのではないか」
と、水呪坊が血ばしった眼をさまよわせたのは、いかな彼もいまのけぞってゆくあいだに、笛吹城太郎のゆくえをつきとめることはできなかったとみえる。
羅刹坊はぎらっと、眼をむけたが、
「よしよし、逃がしはせぬ」
と、うなずいていきなり彼をひっかついでしまった。
「羅刹坊、なにをする。早くきゃつを討たぬのか!」
「いま、あとの面々がくる。それより、おぬしを手当てせねば」
「たわけ、そんなことをしていて、もしきゃつを逃がしたら、おれは浮かばれぬぞ」
「浮かばれぬ――そんなことのないように、手当てをするといっておるのだ。壊れ|甕《がめ》を行なう」
「くそっ、足の一本ぐらいがなんだ」
「きゃつの命より、おぬしの足一本の方が大事だ。きゃつはいつでも討てるが、おぬしの足はいま壊れ甕の忍法をほどこさねば死んでしまう。おぬし、顔色からみて、あまり血がないぞ、ふだんの場合とちがう――」
そういいながら、羅刹坊は血みどろの水呪坊をかつぎ、斬られた一本足をぶらさげて、スルスルともと来た道へひきかえしてゆく。……さすがに堂にひそんでいるかもしれぬ敵にそなえて、安全地帯に退却したのだ。
堂から七、八間もはなれて――見はらしのいい路上に水呪坊を置いたとき、三人目の空摩坊が走って来た。
「きゃつだ。その堂界隈におるぞ。逃がすな」
注意して、彼はふところから針と糸をとり出した。この針は彼独特の技術で人骨を削ったもので、糸は女の陰毛であった。
つづいて、風天坊、金剛坊、破軍坊、虚空坊と宙をとんで駆けつけて来たとき、羅刹坊は、もうものもいわず、水呪坊の足をつなぎ合わせる手術にとりかかっている。
残り五人の僧がジリジリと古い堂をめがけてちかづいているころ――高い高い杉の木の上に、笛吹城太郎はのぼりきっていた。|颯《さっ》と夜風に杉の梢がざわめいた。影は二間もはなれたとなりの杉に飛び移った。風のそよぎとともに、さらに二間となりの杉の木へ、黒い影が翔けた。
「む、無念だ。せっかく追いつめながら……」
路上で「壊れ甕」の手術を受けながら、水呪坊はうめきつづけた。
「最後に、うかと油断をしたばかりに――」
「りきむな水呪坊、りきむと血がまたながれる」
「まだなんの合図もないところをみると、きゃつ逃げたのではないか」
「逃げてもよい。あの伊賀の忍者め、伊賀へかえらんで、やはりおれたちをつけ狙っておったことがわかっただけでも、このたびの奈良捜索の甲斐があったといえる」
「しかし、いま見たところでは平蜘蛛の釜は持っていなかったようだが……いったいきゃつはどこへ――?」
といいかけて、水呪坊の眼がかっとひろがった。
むろん彼は路上にあおむけに寝て夜の大空を見ていたのだが、ほそい三日月しかないはずのその空になにを見たか。――とっさに声も出ない驚愕の数秒を、もとより夢想の境地にある羅刹坊が知る由もなく、
「水呪坊いましばらく、雑念は捨てろ」
といったとき、ふいにまだ完全に足のつながっていない水呪坊が狂気のごとく彼をつきとばした。被術者からそんな待遇を受けるとは、羅刹坊にとってまったく思いがけぬことだ。
「な、なにする」
忍法僧らしくもなく、針と糸を持ったままあおむけにひっくりかえったとき、その上から――まさに天空から|隕《いん》|石《せき》のごとくふってきた物体が手にした一刀を垂直にその腹へつき立てた。
なんたる凄じさ、それは羅刹坊の腹をつきたて、鍔まで入った。刀身のほとんどすべては地中にまでめりこんだのである。そして、その物体は、刀身と土、鍔と羅刹坊の肉体の弾力を利用して、鞠のごとく宙にはねもどり、また路上に立った。
笛吹城太郎であった。
彼は天空を飛んで来た。
彼は杉の大木の頂上にちかい枝に忍者道具たる麻綱をむすびつけ、それをひいて、離れた杉の木へ移動し、そこから巨大な人間振子と化して大空に舞いあがった。綱の長さに、振って来た反動の飛翔力が加わった。しかし綱から手をはなすときに、常人では及びもつかぬ忍法の体術が加わった。
いちど森の中ではしくじったが、こんど二度目は成功した。
笛吹城太郎はみごとに羅刹坊を大地に縫いとめたのである。――とみるや、血まみれになってまろび逃げる水呪坊には眼もくれず、ふたたび羅刹坊のところに馳せ寄り、この魔僧自身の戒刀をぬきとって、刺傷よりも打撃のために即死しているその首を斬った。
「……一人!」
こんどこそ、ほんとうに一人だ! まさか、いかに死びとをつなぐ幻妖の忍法僧といえども、おのれ自身はつなぐわけにはゆくまい。だいいち、念のために、この首はおれがもらってゆく。
しかも、まずこの羅刹坊を斃せば、もはやあとのやつら、いままでのように幽霊のようにふたたびこの世に甦ってはこまい。――城太郎が、まずこの羅刹坊を斬りたいと望んだのはこのためであった。
「……おういっ、来たっ、きゃつ天から降って来たぞっ」
半分つながった足をひきずって、尺取虫みたいに逃げてゆく水呪坊を追おうとして笛吹城太郎はニヤリと笑い、身をひるがえして草の中へその行者頭巾を沈めていった。羅刹坊の首を抱いたまま。
狂気のごとく殺到して来た五人の忍法僧は、口もきけず水呪坊がただ指さす空をあおいだが、そこにはただ細い三日月があるばかりであった。
ちょうど三日のちである。
信貴山城にある松永弾正は、おびただしい行列をととのえ城を出ようとして大手門の|甍《いらか》の上に恐ろしいものがのせられているのを見た。
根来僧羅刹坊の首であった。
弾正の眼に驚きの色がひろがったが、すぐにもちまえのむっとした顔で「けがらわしきもの、とり捨てい」といって、その門の下を馬にゆられていった。あれほどのものが、だれにどうして討たれたのだろう、という疑問はもったが、討たれてふびんに思うやつではない。
山を下る弾正の眼には、彼らしくもない夢みるようなひかりがあった。
京にある主君三好長慶の嫡子義興さまとその|御《み》|台《だい》右京太夫さまが、このたび奈良の大仏に御参詣あそばすについて、その案内を命じられて、彼はこれから奈良へゆこうとしているのであった。
大仏炎上
【一】
さて、松永弾正が信貴山城を下っていってから、約半刻ほどのちである。
城の方から一隊の行列が下りてきた。一隊といっても、ほんの小人数――十数人の侍だ。その中に一挺の|輿《こし》を護っていた。
「待ちゃ」
輿の|御《み》|簾《す》がひらいて、美しい顔が大手門の屋根の上をあおいだ。――弾正の寵妾|漁火《いさりび》である。
武士たちはどよめいた。城門の上の生首に気がついたからだ。しかし漁火はそれほど驚いたようすもなく、じっとそれを凝視していたが、
「あれを持って来や」
と、命じた。
武士たちはその首がなにものかはすでに知っていたので、この命令をべつに異とはしなかったが、やがて取ってきたその生首を、漁火の方が抱きかかえ、輿の|簾《すだれ》をバサと下ろしてしまったのには胆をつぶした。
輿の御簾の中で、漁火は羅刹坊の首を胸に抱いた。さもいとしげに。――
さもいとしげに――にはちがいないが、人間が人間に対するもののようにではない。動物、おもちゃ、いやそれ以外、それ以下のものに対するような、ちょっと形容の言葉もない愛撫の相であった。
彼女の顔は|篝火《かがりび》の顔だ。首から下はもとのままの漁火だ。彼女は篝火にして漁火であり、また篝火でもなければ漁火でもなかった。
あらたに生まれ出た別の女であった。
しかも、肉体的には以前の淫蕩な漁火のわだちがくびれ残り、脳髄には以前の篝火の聡明なはたらきの余波がある。――いやもとの漁火のころ心をなやましていた右京太夫さまへの嫉妬や、伊賀の笛吹城太郎への執念の記憶も残っている。しかし、それらのものすべてをドロドロに溶かし、彼女を燃やしているのは、ただ凄じい肉欲だけであった。そして、肉欲と反するすべてのものに対する奇怪な、悪魔的な憎悪だけであった。
いま漁火は、羅刹坊の首を抱いている。それは愛情ではなく、篝火として犯されたときの憎悪の記憶からだ。しかも、それが漁火特有の肉欲に溶けて、なんとも形容すべからざる愛撫のかたちをとる。
輿の簾の中で、ゆるやかに身をゆられながら、漁火は醜悪な羅刹坊の首を抱き、そのむき出した眼球をなめ、鼻に歯をあて、はや腐臭をはなちはじめている厚い唇をすすった。彼女のからだの深淵からふつふつと湧きのぼってくるのは、しびれるような陶酔の感覚であった。
この奇怪な遊戯にふけりつつ、漁火は、これからじぶんのゆこうとしている奈良に想いを馳せている。
弾正は奈良へいった。主家の若殿夫妻の大仏参詣の案内をするためだ。
しかし、まことは奥方の右京太夫さまの顔を見るためであった。漁火は、それを知っている。
じぶんはあの伊賀の女の顔を得た。それは右京太夫さまそっくりの顔であるそうな。――それなら、右京太夫を恋う弾正に、なんの不満もなかろうではないか。むしろ、じぶんの淫技をもってすれば、弾正がほかの女に心をむける余地のあろうはずはない。――そう漁火は自負していた。
事実弾正はじぶんに溺れ切っているように見えた。そう思って、すっかり安心していたのに、こんど突然京の三好家から使者が来て、大仏参詣の案内をせよという口上をのべたとたん――急に弾正がソワソワとおちつかなくなったのだ。
そして彼は、じぶんの感情を知っているはずなのに、知らない顔をして、いそいそと奈良へ出かけていった。いや、あの有頂天のようすをみると、知らない顔どころか、まったくじぶんの感情など思いやってくれていないかもしれない。
弾正が奈良へいってなにをしようとしているのか、漁火は知らない。たんに若殿夫妻の案内だけではすまないような予感があるが、しかしなにが起こるのか、彼女は知らない。それでも彼女は追ってゆく。――そのことを、弾正もまた知らぬはずだ。
「なんにしても」
と、漁火は、生首になまめかしい唇を這わせながら、妖しく眼をひからせてつぶやいた。
「思い通りにさせてはあげぬ」
【二】
室町幕府の実権者といわれる三好長慶は、ここ数年病んでいた。
もともと|管《かん》|領《れい》細川氏の被官であったのが、しだいに声望を得て、一時は天下の第一人者となったところ、彼もまた乱世の雄にちがいない。
かつて彼は、俳人|紹巴《じょうは》らと|連《れん》|歌《が》の会をひらいていた。その席で「すすきに交る葦のひとむら」という句が出て、衆みな|付《つけ》|句《く》に苦しんだ。そのとき長慶のうしろに家来がやって来て、なにかささやいた。彼はただうなずいただけで顔色変わらず、やがて微笑して付句ができたといって披露した。「古沼の浅き方より野となりて」それから決然と起っていった。「ただいま弟|実休《じっきゅう》討ち死せりとの報を得た。われこれより戦いに赴かん」と。
これほど豪胆な長慶も病いにはかちがたく、嫡男の義興夫妻に、奈良の大仏に平癒祈願の参詣を命ずるほど気力がおとろえていた。
奈良へゆく義興に彼は注意した。
「まさかとは思うが、弾正には気をつけいよ」
彼は病んでから、おのれのつかんでいた権力が、しだいに信貴山城にある家老の松永弾正に移りつつあるのを、ひしひしと感得していたのである。一子義興はおのれの子に恥じぬ胆力の持主だが、なにぶん、まだ二十歳をこえたばかりの若さである。それに父に似ぬ明朗さがあって、その明るいところが、この敵も味方もわからない端倪すべからざる戦国の世にはかえって不安だ。とくに老獪松永弾正にそういう点で太刀打ちできるとは思われない。
そんな危惧を抱きつつ、いまのところ弾正が三好家にとって忠実な顔を変えていないので、彼をどうするというわけにもゆかないのだ。
「心得ておりまする」
義興は平気でこたえて、さてじつに意表に出た使者を信貴山城へ送った。じぶんの奈良にあるあいだ、弾正に案内せよと伝えたのである。
なにをするかわからないところのある松永弾正に、公然、おのれの護衛を命ずる。――濶達な義興らしい逆手であった。
不敵な逆手ではあるが、しかしこのときまさか弾正に叛心があろうとは思いもかけなかったからこその処置だ。いわんや彼が、じぶんの妻の右京太夫に年甲斐もなく、不義の恋慕を燃やしていたとは、ゆめにも義興は悟ってはいなかった。
じつは弾正自身、右京太夫を見るまでは、おのれの叛心を自覚してはいなかった。
ほんとうをいえば、三好義興の使者を受けるまで、それによってじぶんの心にいかなる変化が起こるか予測もしていなかったのである。彼は|変形新生《へんぎょうしんせい》した漁火に満足しきっているつもりであった。ところが――奈良へこんど右京太夫がやってくる、ときいた瞬間から、彼は夢見心地になってしまった。
このごろ弾正は、あまり京の三好家にもゆかぬ。主君の長慶がじぶんにそそいでいる疑惑にみちた眼がこそばゆかったからである。いっても、もとよりほしいままに右京太夫に拝顔するというわけにはゆかない。――
その右京太夫を、ひさしぶりに奈良の宿舎でひと目見たとたん、弾正の心はまったく一変してしまったのだ。
ちがう。漁火とはちがう。
はじめてあの伊賀の女を見たとき、右京太夫そっくりだと思った。その顔を、いま漁火が持っているのだが――、いつのまにか漁火は、最初見たときの伊賀の女の顔とすら、しだいに変わってきたようだ。そんなはずはないし、事実やはり右京太夫と酷似しているにちがいないのだが、にもかかわらず、似ても似つかぬ印象がある。
あれはニセモノだ、弾正はそう痛感し、断定せざるを得なかった。漁火を地獄の花とするならば、右京太夫は天上の月輪であった。
しかも、清純高貴、|玲《れい》|瓏《ろう》たる右京太夫に、あの漁火の夜々の痴態が重なるのだ。――この右京太夫に、あのようなあさましい姿態をさせたなら? その妄想は、弾正をほとんど狂人に変えてしまった。
しかし、なんといってもいまや実質的に群雄を操縦し、支配している男だ。理性と計算が歯どめをかけた。それは、現在の時点においては、京の三好家に公然叛旗をひるがえすのに、いろいろの事情からまだ時期尚早であるということであった。だいいち、数百騎はひきいてきたものの、そのつもりで信貴山城を出て来たのではない。三好義興のつれて来た供侍はそれにややまさる人数であり、ここでことを起こすには自信がないし、第一それなら同時に京の三好長慶をも襲撃せねばならぬところだがむろんそんな手は打ってない。
といって、右京太夫が、じぶんの勢力下にある奈良へやって来たということは、天からあたえられて、またとめぐり逢えそうにない絶好の機会にはちがいない。一日彼女を奪うことが遅れれば、一日じぶんの人生が短くなることだとすら思う。
弾正は迷った。
その弾正の狂念の歯どめをはずしたのは、六人の根来法師であった。
義興夫妻の宿舎に伺候して、じぶんの宿舎にかえってきた弾正のまえに、忽然と例の忍法僧があらわれたのである。
「うぬら、平蜘蛛の釜はとりもどしたか」
弾正はいった。声が陰々としていたのは、釜よりも右京太夫に対する執念に胸がふさがれていたゆえであった。
「……いま、しばし」
六人の法師はうめいた。彼らは暗い庭に、それこそ平蜘蛛のようにひれ伏していた。
「羅刹坊が討たれたな、討ったのは、あの伊賀の女の夫であろうが」
「……きゃつ、かならず逃がしはいたさぬ」
だれともしれず、復讐に|嗄《しわが》れた声がいった。
「羅刹坊を討たれ、伊賀者は討ちもせず、平蜘蛛の釜は失ったまま……それで、なにしにおれの前へ出たか」
卒然として弾正は、そうだ、今宵あの釜と淫石があったならば、と思い出した。あれさえあれば、なにくわぬ顔をして右京太夫さまに魔の茶を服ませることができるのだ。……せっかくその機を得ながら、こやつらの大不覚のために、みすみす手をつかねて、このように悶々としておらねばならぬ、とかんがえると、腹立たしさに歯ぎしりしたい思いであった。
「伊賀者は討ちまする。これは、われわれ自身のこと」
と、風天坊が昂然といった。つづいて空摩坊が、
「平蜘蛛の釜も、かならずとりもどしまする」
「さりながら……いったんきゃつを捕捉しながら、無念やとり逃がし、以来、きゃつ笛吹城太郎と申すやつ、天に消えたか地にもぐったか、いずこにも姿をあらわしませぬ。……あいや、殿、しばらく」
と、虚空坊が手をあげると、金剛坊がひきとって、
「殿、殿が平蜘蛛の釜をとりもどせ、と仰せらるるは、しょせん、右京太夫さまをおん手に入れられんがためでござりましょうが」
「その右京太夫さまを得られる工夫がつきましたるゆえ、われら、殿が奈良へおいでなされたと承り、恥をしのんで|罷《まか》り出た次第でござる」
と、破軍坊がいった。
「なに、右京太夫さまを手に入れる工夫があると?」
と、弾正は声をはずませた。
「されば、ちと手荒うござるが。……」
「手荒いこととは、三好家とことをかまえても、ということか。それが成るものならば、うぬらには頼まぬ」
「あいや、三好家と弓矢をまじえるというわけではござらぬ」
「では?」
「明日、三好義興さま、奥方さま、大仏へご参詣でござりましょう。そのとき大仏殿に火をかけまする」
「…………」
「大仏殿のみならず、東大寺すべてを|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎につつみまする。阿鼻叫喚のさわぎとなるは|必定《ひつじょう》、その混雑にまぎれて、われら右京太夫さまをさらい、ひそかに信貴山城にお移し申しあげまする」
「…………」
「火をかけたは松永家のものとは思わせませぬ。近来、東大寺と興福寺の仲悪しゅう、いくたびか法師どもがたがいに争いおるは世上だれも知るところ、されば、これは興福寺の陰謀による放火と、われらあとより|巷《ちまた》へ流言をはなてば、それですむこと」
「…………」
「ひとたび右京太夫さまを信貴山城におはこび申しあげたあとは、その秘密をしかとお包み下さるならば、殿の大願それにてご成就と申すものでござりましょうが」
「…………」
「われらが師匠、果心居士さまは、われらをもって直接右京太夫さまをさらうことには反対でござったが、ここまで度はずれた奇策をこらせば、天性のあのおいたずら好きゆえ、かならずやにっと笑んで、それもよかろうと、うなずかれるに相違ござらぬ」
まさに、度はずれた奇策だ。いや、天人ともにゆるさざる大暴挙だ。
たった一人の女人を手に入れるために、|天平《てんぴょう》以来一千年、音にきこえた奈良の大仏、いや|華《け》|厳《ごん》宗の大本山、東大寺すべてを炎上させるとは。――
さしもの松永弾正が、凝然と息をのんだまま、しばし声もない。
しかも、この六人の根来僧は、まったく痛みも恐れもない眼をあげて、|恬《てん》|然《ぜん》と弾正を見あげているのであった。
【三】
天平以来一千年、といったが、正確にいえば、大仏の原型および東大寺の建築そのものは天平時代のものではない。
東大寺をひらき、最初の大仏を安置したのはまさに|聖武《しょうむ》天皇だが、のち四百三十年ばかりを経た治承四年、南都僧兵の叛乱に怒った平家がこれを攻めて、興福寺とともに焼いたのである。
その後、源頼朝の手によって復興再建され、建久六年頼朝以下鎌倉武者が参列して、|落《らっ》|慶《けい》供養が行なわれた。
しかし、それからでもなお三百七十年ばかりたつ。
大仏殿の規模そのものは天平時代のものと変わらないし、南大門、西大門、東西七重塔、大講堂、戒壇院など、その後の南北朝の兵乱や|応《おう》|仁《にん》の乱などの戦火をくぐり、天変と時代の風霜にたえて、堂塔伽藍は|巍《ぎ》|々《ぎ》として空にそびえ立っている。
三好義興は、妻右京太夫とともに、東大寺の僧にみちびかれてその大仏殿に上がり、石座、銅座、仏体合わせて七丈一尺五寸とつたえられる|金《こん》|銅《どう》の|大《だい》|毘《び》|盧《る》|遮《しゃ》|那《な》|仏《ぶつ》に合掌した。
|森《しん》|厳《げん》な微光に、やがて顔をあおのけた右京太夫は、素直に感嘆の吐息をもらした。彼女ははじめて大仏を見るのであった。
「まあ、なんというご立派な。……」
「しかし、ちょっと、首の座りがわるいようだ」
父の平癒祈願に来たくせに、義興はこんな遠慮のない批評をした。
「大地震でもあれば、あれは落ちるぞ」
「そんなことおっしゃると、罰があたりますよ」
いかにもむつまじく、こんな対話を交しているふたりを――いや、薄明に浮かぶ右京太夫の夢幻のような横顔だけを、朱塗りの大円柱のかげにうやうやしく立って、しかし妙にひかる眼でじっと見つめていた松永弾正久秀のそばへ、ひとりの家来がちかづいて、なにやらささやいた。
「なに、興福寺の僧が。……」
あとで、そばにいた東大寺の僧は、弾正がこんなことをつぶやいたのを思い出した。いや、そのときも、仲のわるい興福寺という声をきいて、そこの僧がどうしたのだと気にはかかったのだが、その声は小さかったし、弾正がスルスルと大殿堂の外へ出てゆく姿にも、それほどあわてたそぶりは見えなかったので、それ以上心にかけず、そこで合掌していた。
火が起こったのは、その直後だ。
炎は東大寺の数ヵ所から、突如巻きあがった。
むろんこのとき、寺の境内には、千人を越える三好、松永の兵がいたのである。三好の兵はもとより、松永の兵たちも、まさか弾正の「奇策」は知らされてはいなかったから、ひたすらいかめしい顔つきで詰めていたのだがふしぎなことに、無数といっていい彼らの眼は、なぜこの火が起こったのか、どの眼も目撃することができなかった。放火にはちがいないのだが、怪しい影など、誰ひとりとして見たものはなかったのである。
彼らは仰天し、うろたえ、走り出し、ぶつかり、渦まき、絶叫した。
「殿!」
「殿――っ!」
三好の軍兵も松永の軍兵も、次の瞬間、どちらもそれぞれの主を思い出し、大仏殿の方へ殺到しようとした。そのゆくての建物や回廊にまた炎が燃えあがった。彼らはとびずさり、通路をさがし、おたがいと衝突し、ついにあちこちで逆上して白刃さえひらめかしはじめた。
火と争闘と、まるで蜂の巣をつついたごとく、蜘蛛の子をちらしたごとく、東大寺内外は収拾すべからざる騒擾におちいった。
混乱が起こったのは、大仏殿も同様だ。
はじめ大仏殿の入口から、中門の方にあがった火光と叫喚を見聞きしたときは、数人、「すわなにごとか」といった|体《てい》でその方へ駆けていったにすぎなかったが、その瞬間,この大仏殿そのものも、異様な風音につつまれたのである。
それは大仏殿の東西の外壁に走った炎の音であった。
だれも見ていたものはなかったが、そこに火の|瀑《ばく》|布《ふ》がたばしりながれたのは、最初からそこに油でもひいてあったとしか思われなかった。
人々は入口に殺到し、だれかつまずいて倒れると、それにつんのめり、折り重なり、もみあい、へし合い、つかみ合って逃がれようとした。
「おちつけ」
三好義興はおどろきながらも、沈着な声でさけんだ。
「境内はひろい、おちついて出ろ」
しかし、彼の周囲も人々がぶつかり合い、三歩とつづいて走れなかった。ほんの眼前の入口とのあいだには、一瞬に鉄の壁がふさがったようであった。
義興はいちど身をひるがえし、妻の手をつかんだが、両側の壁にぶきみな音響がとどろき出したのをきき、事態容易ならずと知るや、
「どけ、斬るぞ」
と、さけび、妻の手をはなし、|佩《はい》|刀《とう》の鞘をはらった。
武士や僧はあわててとびのいた。とびのかなかったものは、ほんとうに義興の一刀で斬られてのめり伏し、外へのがれたものは回廊から石段の下へまろびおちた。
ようやく突破口をひらいて、いっきにその石段の下まではせおりた三好義興は、そこからまたはねもどって、ひきかえそうとした。
石段の上の回廊に、五、六人の僧が乱舞しているのに気がついたのはそのときであった。
最初、狂乱した東大寺の僧かと思った。しかし、狂っているにしても、それはあまりに途方もない行為であった。
二、三人が|大瓢箪《おおびょうたん》をふる。なにやら液体がぱあっとあたりいちめん壁や柱や扉にしぶき散る。すると、ほかの二、三人が、手にした|松明《たいまつ》をそれにたたきつけるのだ。どうっとそこから火がふきはじめる。
「うぬらだな、曲者は!」
義興はかっと眼を見ひらいた。
その奇怪な法師のむれは、いずれも袈裟頭巾で面をつつんでいたが、彼らの所業をはっきりと見たものは、このとき石段界隈にのこっていた十数人にすぎなかったろう。
三好の家来も松永の侍も、つぎの刹那猛然と刃を舞わせて彼らにとびかかった。
「きえーっ」
人間の声とも、金属のうなりともしれぬ異様なひびきとともに大薙刀が一閃し、その一閃だけで、とびかかった七、八人すべてが血けむりたてて石段の下へ斬りおとされた。
「曲者、うごくな」
義興は絶叫して、石段をはせのぼった。彼の脳中にあったのは、このときまだ大仏殿の中に残っている妻だけであった。
法師たちは炎の彼方へ蝙蝠のようにはばたいて消えた。追おうとした義興の面を、両側の扉から炎が吹きつけ、彼は顔を覆ってとびずさった。
「うまくいった!」
「ところで、右京太夫は、たしかに外へは出られぬな?」
「まちがいない。それだけは、よく見張っておった」
もはや、殿内に人影はない。あるものは、踏みつぶされたか斬られたか、あるいは気を失って伏している武士や僧ばかりだ。
その中に、ただひとり巨大な大仏だけが、|慈《じ》|悲《ひ》|忍《にん》|辱《にく》の相で、しかもいまや|赤熱《しゃくねつ》のかがやきをはなって鎮座していた。
「南無、毘盧遮那仏」
「|寂滅為楽《じゃくめついらく》」
と、ふざけた声で唱えかけて、この破戒無惨の法師らはふいにぎょっと息をのんだ。
「右京太夫はおられぬぞ」
「そんなはずは――」
「しかし、女人の影はない!」
彼らは,灼熱した大仏のまわりを、こんどはほんとうに狂ったように駆けめぐった。すでに大仏殿は、熔鉱炉の中さながらだ。
しかし、燃えたぎる炎に照らしぬかれた大仏殿の中には、絶対にここから逃がれたはずのない女人の姿は、そのあでやかな袖の一片すらもとどめていないのであった。
「右京太夫さまはどこへ?」
臈たき人
【一】
――笛吹城太郎は、右京太夫を両腕に抱いて走っていた。
右京太夫は、城太郎の一方の腕からながい黒髪を、他の一方の腕からみだれた裾を地にひいて、気を失っていた。がくりと天にむけた白いあご――その顔をのぞいたら、だれしもこれは地上の女人かと疑うだろう。いや、それよりも、たとえ女体とはいえ花たばのように軽がると両腕にかかえ、しかも群衆の流れに逆行して、風のごとく走る山伏のふしぎさに――だれひとりとして気づかなかったのは、なんといってもその背景に、東大寺炎上という驚天の壮観があったからだ。
「――ああっ、焼けおちる。……」
「――おうっ、大仏さまが……」
群衆はさけんだ。さけびというより、うなりの波濤であった。
奈良の町は血いろにやけただれている。梅雨に入りかけた雨もよいの日であったが、まだ|夕《ゆうべ》にはときがあるのに、町の空は黒煙のために墨色の雲にふたをされたようになって、しかも下界は夕焼けのごとくぶきみな赤さに染められているのであった。
城太郎はふりむいた。足が|釘《くぎ》づけになり、息をのんだ。
東大寺は|坩堝《るつぼ》と化している。そのなかで最も巨大な炎をあげているのは、いうまでもなく大仏殿であった。すでにだいぶはなれているのに、それは眼前のものに見えた。
天空にそそり立つ百五十尺の大仏殿は、いまや炎の大伽藍であった。とみるまに、その四周の壁や|甍《いらか》が轟然たる地鳴りをあげてなだれおち、大仏殿はただ大空にえがき出された壮大な幾何図形となった。その中に、七十一尺五寸の大毘盧遮那仏が端然として座っているのがあらわに浮かびあがった。|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎にあぶられて、慈悲忍辱の相は、このときかえってこの世のものならぬ怪奇な大魔神のようであった。
その大仏の全容が見えたのも一瞬であった。空にかかった虹のように|梁《はり》がかたむくと、それは炎の旗をひきながらおちていって、そこから奈良じゅうの人間の耳も魂も聾するような音響が巻きあがり、凄惨とも壮絶とも形容を絶する火の粉の大龍巻が舞いあがった。
「……ああ」
思わず、城太郎もうめいた。
火の粉の大渦巻がうすれたあとに、大仏の首が消滅しているのを見たからである。さなきだに、力学的に危い均衡を保ってのせられていた大仏頭は、焼けおちる梁に打たれて折れ、石座をくだいてから炎の海へころがったのだ。
そのあと一瞬、名状すべからざる静寂がおちて、奈良は冥府と化したかのようであった。それから、ただ、音の世界を占めるものは万丈の炎のひびきだけであった。
――なんたるやつらか!
と、城太郎は身の毛をよだてた。例の根来僧のことだ。あまり文化的な観念のない城太郎といえども、恬然として東大寺を焼きはらった彼らの大暴挙には、心から戦慄せざるを得ない。
城太郎は信貴山城に羅刹坊の首を投げたあと、松永弾正が城を出て奈良へ来たのを追った。もとより弾正は復讐の相手の元凶である。数百の軍兵に護られてさえいなければ、彼にむかって、破邪の刃をふるったところだ。
弾正を追って、城太郎は、はからずもひとりの女人を見た。――右京太夫だ。
東大寺が炎上したとき、城太郎は大仏殿の大円柱の上に、蜘蛛のようにとまっていた。もとより下界からの眼にふれるような忍者笛吹城太郎ではないが、ただ忘我のために、じぶんから落ちかけた。右京太夫が大仏を仰いだときだ。
敵への憎しみと、その女人を見たときの忘我と――心の波が渦まいたとき、突如として火が起こり、そして彼は、火を放ったのはあの根来僧であり、それは三好義興の妻右京太夫を奪うためであることを知った。
彼らが炎の中を狂奔しているとき、城太郎は失神している右京太夫を抱いて、大仏殿背面の格子窓を破って逃がれ出したが、しかし根来僧らの目的を知らずとも、彼は右京太夫を抱いて逃げ出したであろう。たとえ、その炎の中こそ、法師らの一人でも二人でも斃す機会であると承知していても。
城太郎は、ちらと腕の中の女人を見た。そしてまた走り出した。
彼がやっととまったのは、興福寺の南側の崩れた土塀のかげであった。
奈良に住むあらゆる人間の眼は炎上する東大寺へむけられていたが、しかし彼はあたりを見まわし、崩れた土塀のあいだから中に入り、そこに右京太夫を横たえた。
城太郎はあらためて、その女人の顔に眼をそそいだ。遠雷のような叫喚は彼の耳から消え、彼はふたたび忘我におちいった。
「……|篝火《かがりび》」
なんたる女人がこの世にいたものであろう。彼は最初この女人を見たとき、篝火がふたたび現われたかと思った。――いまでは、もとより彼女の名も素性も知っている。理性では知っているのだが、こうしてふたりだけになると、またしても彼は幻覚の世界にさまよいこんでしまう。
いったい、ここはこの世であろうか。死後の世界ではなかろうか。うなされたように顔をあげると、興福寺の五重塔や三重塔は真紅に染まって、どうしてもこの世のものとは思われなかった。――女人の顔も薔薇色に染まっている。しかし彼女は眼をとじたまま、沈黙している。
「……篝火! 篝火!」
と、城太郎は絶叫して、右京太夫をゆさぶった。
彼は幻覚しつつ、からくも現実にひきもどされた。
ともかくも、彼女を甦らせなければならぬ。水が欲しい。――彼は、すぐちかくに猿沢の池があることを思い出した。
城太郎はふいに背の|笈《おい》を下ろし、中から平蜘蛛の釜をとり出し、猿沢の池に走った。釜に水を汲んで、彼は馳せもどった。それから、しばらくかんがえこんでいたのち、この釜の水を口にふくんで、失神している女人の唇に、口うつしにそそぎこんだ。それよりほかになすすべはなかった。
冷たい水がのどを通って、右京太夫は眼を見ひらいた。
そして、彼女は笛吹城太郎を見た。右京太夫は、はじめて笛吹城太郎を見たのだ。驚愕し、恐怖して身を起こしてしかるべきであった。しかし彼女は、まだ夢みるように彼の顔をながめているだけであった。
「……わたしはどうしたのでしょう?」
ようやく彼女はそうつぶやいた。
「……あなたは、だれですか?」
城太郎は声も出ない。ひらいた右京太夫の眼も篝火そっくりなら、その声もまた篝火とおなじであった。
ぶきみなほど黙りこんでいる異風の若者におびえもせず、右京太夫はまだウットリと見まもっている。彼女は先刻の炎の衝撃といまの失神から、完全には醒めないのであろうか。
城太郎にとっては、時の観念のない時が過ぎた。
ふいに彼の耳がかすかにうごいた。それはこの場合、なお無意識に生きている忍者としての耳であった。彼はちかづいてくる一人ではない|跫《あし》|音《おと》をきいた。それから遠く、ききおぼえのある「――あっちだ」とさけぶ声をきいた。
「……出なさるな」
と、はじめて彼はいった。
「ここにおりなされ。出てはなりませぬぞ」
彼は立ちあがった。
「おれのもどるまで、ここにいて、その釜を護っていて下され。おれの宝です」
そういうと、彼は戒刀の柄をおさえ、崩れた土塀のあいだから外へ出ていった。
血色に染まった路上に出ると、彼は東の――東大寺の方角から鴉の飛ぶように駆けてくる六人の法師の影を見た。
「――いたっ、あそこだ!」
ひッ裂けるような恐ろしい絶叫があった。
【二】
これよりやや先、猿沢の池から釜に水を汲んで走る笛吹城太郎の姿を――やはりこのあたりにも群れてはいたが、しかしみんな燃える東大寺のみをふりあおいでいる人々の中で、ちらりと見て、かすかなうめき声をたてたものがある。
金剛杖をついている一人の法師だ。彼は左足が、ひざの下からなかった。一本足であった。
それは水呪坊であった。過ぐる日、笛吹城太郎に斬られ、羅刹坊の忍法壊れ甕で接合されかかったものの、羅刹坊の死によって、その手術は未完成に終わりついにその足を失ってしまった水呪坊だ。
それだけの重傷を受けながら、数日にして金剛杖をただ一本ついて|徘《はい》|徊《かい》しているのは、やはり不死身にちかい魔僧にはちがいないが、なんといっても行動の不自由さはまぬがれ得ないから、きょう東大寺の放火には、彼ひとりは加わらなかった。東大寺から仲間が右京太夫をさらってくるのを、猿沢の池のほとりで待っていたのだ。
それでも、さすがに大仏炎上の凄じい景観に眼をうばわれて、右京太夫を抱いて逃げてきた笛吹城太郎には気がつかなかった。もっとも、城太郎の走ってきた路が、猿沢の池のほとりにたたずんでいる彼の眼にはふれない方角からであった。しかし、その池から水を汲んで駆け去る山伏姿はたしかに目撃したのである。
金剛杖をふりふりあとを追ったが、片側が土塀の路までくると忽然と城太郎の姿は消えていた。さらに探索しようとして、ふいにひき返したのは、もとより不具となりはてたじぶんに自信がもてなかったからだ。彼は身をひるがえし、いっさんに東大寺の方へ駆けた。
そして、大仏殿の背面に、やっと切り破った格子窓を見つけ出し、そこから飛び出して狂奔している五人の仲間にめぐりあい、急を告げて、みちびいて来たものであった。
城太郎がきいた「――あっちだ」という声は、もとより水呪坊の声である。
城太郎は、じぶんが追われ、つきとめられたことを知った。右京太夫の居場所を知られてはならぬ。それで彼はみずからそこをおどり出て、南の猿沢の池の方へ走った。
城太郎は、いまここで法師らとたたかう意志はなかった。法師らすべてを相手に死闘して不利なことは、胆に銘じて承知している。さればこそ、苦しんでいるのだ。――それに、いまはただ、右京太夫から法師らの眼をそらせるだけが目的であった。
しかし彼はたちまちその追跡の|飄風《つむじかぜ》からのがれることの不可能を知った。
包囲されることをおそれて、池を背にまなじりを決して立ちどまった城太郎に、四人の法師がせまり、何思ったか、一人は池を回って反対側へ駆けた。
ただならぬ殺気の風に吹かれて、火事見物の人々は、蜘蛛の子をちらすように逃げた。
「笛吹城太郎、ついに見つけた」
「よくも先夜は羅刹坊を討ち果たしたな」
「生け捕りにしようと思うたゆえ、いままで手心を加えたのだ。もはや容赦はない。ここで|膾《なます》にしてくれる」
ちかづく法師らの眼が血色にかがやいているのは、炎の|火《ほ》|照《て》りのゆえばかりではない。
びゅっと左からうなりをたてて斬りこんだ虚空坊の戒刀を避けて、城太郎が飛んだ右側から、|灼《やき》|金《がね》のようなひかりをひいて空摩坊の大薙刀が走る。
城太郎は池畔の柳を盾としたのだが、大薙刀はその柳の幹をも|麻《お》|幹《がら》のごとく切って、片ひざついた城太郎の行者頭巾の上を走りすぎた。
間髪を入れず、風天坊の金剛杖が正面からふり下ろされ、横に薙ぎはらいながら城太郎はうしろへ飛んで立ったが、きびすはあやうく池に落ちようとする。つづいて左から殺到してくる破軍坊に、一間の距離で城太郎は、足をあげて柳の幹を蹴った。
いま空摩坊に切られた柳は、まだ徐々に池にむかって倒れつつあったが、その残りの幹一尺あまりが、|戞《かつ》と音して宙にとび、襲いかかる破軍坊の顔面を打った。横に薙いだ城太郎の一刀で、残りの幹からさらに|切《せつ》|断《だん》されたやつを、城太郎は蹴はなしたのだ。
「わっ」
吹きあがる鼻血をおさえてのけぞる破軍坊のまえで、柳は水けぶりをあげて池に倒れた。
「ま、待て」
と、水呪坊が声を出した。
破軍坊の醜態にもかかわらず、しょせん敵は袋のねずみと見たか、一本足の水呪坊は|汀《みぎわ》の石に腰うちかけて、うす笑いして観戦をきめこんでいる。
「こやつ、平蜘蛛の釜を持っておらぬぞ。そのゆくえをただしておかねば、殺してからではかなうまい」
それから、ギラリと眼をひからせて、
「ひょっとすると、右京太夫をさらったのもこやつではないか。おお、そういえばさっき釜で水を汲んで駆けていったが、あれは右京太夫に運んだものではないか。――若僧、白状しろ。白状すれば、あるいは命だけは助けてやらぬでもない。――」
「おい、要らざる忠言して息をつかすな」
と、破軍坊が鼻血をぬぐって、血に染まった歯をむいた。
「右京太夫をこやつがつれ出して、釜で水を運んだというのがまことなら、右京太夫はこのちかくにおるに相違ない。平蜘蛛の釜もそこにあるにちがいない。こやつを片づけてから、あたりを六人で探せば見つかるにきまっておる。――」
城太郎はおのれ自身の恐怖ではなく、髪も逆立つ思いがした。彼は一瞬うしろの池をふりかえった。できれば水の上を飛んで、右京太夫のところへ馳せもどりたかった。あの場所に、とどまるなかれ、いまのうちに逃げよというために。
その一瞬のすきを見のがさず、また二本の乱刃がたたき下ろされた。
城太郎はとびずさり、池になかばつかった柳の木に|鶺《せき》|鴒《れい》みたいにとまった。
「あとがないぞ」
水呪坊が冷然と笑った。
「水にとびこんでもだめだ。左様なこともあらんかと、金剛坊が向こうにまわって、|天扇弓《てんせんきゅう》の用意をしておる。――水の中は、うぬにとっては血の池地獄」
そして、彼自身も衣の袖へ手を入れた。いうまでもなく、月水面の|紙礫《かみつぶて》をとり出したのだ。
「おうっ」
獣のさけびをあげ、風天坊が空におどりあがった。
たわみ、ゆれる柳の木にとまった城太郎の頭上から、まっさか落としに金剛杖をふり下ろす忍法「枯葉返し」。――かわすというより、城太郎はうしろざまに水の上にとんだ。これは万やむを得ぬ絶体絶命の逃避であったが、水けぶりとともにそのからだから一条の鎖がほとばしり出て、水際にいた水呪坊のくびにからみついた。
水呪坊はこのとき一本足で立ちあがっていた。それは池の向こうからわたってきた、ただならぬ金剛坊の絶叫をきいたからであった。
「――おういっ、敵に助太刀があらわれたぞ!」
一本足で立ち、ふせぎもかなわず池におちた水呪坊をふりかえるいとまもなく、こちらのあと四人の法師らもがばと水際に身を伏せた。
バシャバシャと水面に波をたてたものがある。柳の枝にぴしいっとつき立ったものがある。それは十幾すじかの矢であった。
「あっ」
泥の中から血ばしった眼をあげると、池に沿う路を|疾風《はやて》のように走りぬける七、八騎の影が見えた。
「な、何者だっ」
まったく予想もしない敵の援軍だけに愕然となり、つぎの瞬間、憤怒して立ちあがろうとした四人の法師の前へ、いちどゆきすぎた騎馬隊はまた馬を返して来た。
みな黒い頭巾で|面《おもて》をつつんでいたが、手にはいずれも半弓をひきしぼっている。そして、いっせいにまた雨のように矢をとばして来た。
さしもの忍法僧らが、地に伏したまま身うごきもできなかったのは、決して矢を恐れたのではなく、あまりにも意外な敵の出現に動顛して、とっさに行動の判断力を失ってしまったからであった。
この不敵な往復をいくたびか、ようやく奇怪な騎馬群が去ってかえらぬと見きわめて四人の忍法僧は猛然と立った。
「きゃ、きゃつは? ――水呪坊は?」
気がついて、ふりむくと、猿沢の池はまだ遠い東大寺の炎を映して朱色に染まり、水の上を|煤《すす》をふくんだ黒い|業《ごう》|風《ふう》が吹いて、まさに血の池さながらだが、同時に地底のごとく|寂《じゃく》としずまりかえって、笛吹城太郎や水呪坊の影もない。
数分凝視していたが、何者も浮かびあがってはこない。
「おういっ」
池をめぐり、金剛坊が血相かえて駆けて来た。
「こちらにも来たか。……いまの騎馬の黒頭巾は何者だ?」
「――伊賀?」
と、風天坊がさけんだ。
「ありゃ、伊賀者ではないか?」
彼らの頭を、いつかの雨夜の|般《はん》|若《にゃ》|野《の》を伊賀の方角へ去った十三騎がかすめたのは当然だ。あの連中がまたひそかに奈良へひきかえして来たのではないか?
「伊賀者らが、正面きって喧嘩を買って出たというのか」
「――おもしろい」
空摩坊と破軍坊がさけんだ。|怪鳥《けちょう》のようにカン高い声にふるえをおびていたのは、武者ぶるいか、ほんとうの戦慄かわからない。
「まだ蹄の音がきこえる。――」
「追え!」
「そして松永衆に知らせろ!」
彼らはいっせいに駆け出した。
いつしか五人、五つの方角にわかれて走っていることに気がついたのは、その鉄蹄のひびきも四方八方に散って消えてゆくことを知ったのと同時であった。水呪坊のことは忘れていた。
【三】
水呪坊の生首をかかえて、笛吹城太郎は猿沢の池に浮かびあがった。
――水におちながら、一本足の水呪坊を鎖でひきずり落としたのは、ひとまず彼を人質にして、いまの窮地をのがれようという意図以外の何物でもなかった。
鎖は水呪坊の|頸《けい》|椎《つい》を折れんばかりに絞めあげたにちがいないのに、水呪坊はひきずり寄せられながら、すっくと水中から立った。ふたりのあいだに、ピーンと死の鎖が張った。水呪坊は赤い紙礫を投げつけた。それは水にぬれて大半礫のままにとどまったが、それでも四、五枚ぱっとひらいて、城太郎の顔に吹きつけた。城太郎は水の中に沈んだ。そして死力をしぼって鎖をひいた。
一本足の水呪坊は水中にたおれ、城太郎にひきずり寄せられた。それまでは一分か二分の音なき決闘であったが、水底の死闘は数分にわたってつづいた。
そしてようやく水呪坊の首をかき斬ってからも、城太郎はなお数分水底にあって、波もたてずに移動した。忍者ならでは――そしておそらくこれだけは、根来僧らも及ばないであろう伊賀忍法「無息の術」であった。
まったく思いがけぬ池の西側のふちに浮かびあがり、根来僧らの姿があたりにないことを見すますと、彼はあらためて小脇にかかえた水呪坊の首を赤いひかりにすかした。
「――これで二人!」
と、つぶやいた。それからざぶっと波をたてて岸にはねあがった。
先刻の奇怪な騎馬群はちらと彼も見ている。しかし彼にも、その正体がよくわからなかった。
伊賀の服部伯父が助けにきてくれたのか? と一応は思ったが、しかしあの般若野の|勁《けい》|烈《れつ》な叱咤を思い出すと、とうていそんなことはあり得ないように思われる。
ともあれ、そんなことを探索しているひまも、思案しているひまもなかった。
城太郎は走って、さっきの土塀のかげにつくと、壁の崩れから中に入った。|流石《さすが》に全身綿のように疲れ果て、両足がおののいてもはや立ってはいられないほどであった。
――いられるか?
――それとも、逃げられたか?
からだよりも、城太郎の心をおののかせていたのは、その疑問であった。
しかし、右京太夫はそこにいた。城太郎に命ぜられた通り――さっきのままの姿でウットリと横たわっていた。
「もどりました」
「……どこへいっていたのです」
といって、眼をこちらにむけた右京太夫は、さすがに驚きの表情になった。
人間の生首をひっさげた城太郎は、血と泥にぬれつくし、地獄から這い出して来た山伏のような姿であったからだ。
「それは何者ですか。あなたはなにをして来たのですか」
まさに城太郎は地獄からもどって来たのだ。しかし彼はそのことは右京太夫にはいうまいと思った。ただ首のことだけはかくせないから、
「これは、おれの女房を殺した敵の首です」
と、だけいった。
右京太夫は恐怖したのか半身を起こしてなにもいわずに城太郎を凝視したままであった。
見つめられると、城太郎の胸からはまたもや「篝火! 篝火!」という声がほとばしり出そうであった。歯をくいしばって耐えると、こんどは篝火のかなしげな声が耳に鳴った。
「――笛吹城太郎は、篝火のほかに女を断つという誓いを忘れないで!」
――篝火に似ているが、むろん、このひとは篝火ではない。と身ぶるいして、彼は心につぶやいた。
「右京太夫さま」
と、彼はひくい声でいった。
「殿さまのもとへ帰られませ。殿さまは案じて、お探しでござりましょう」
|漁火《いさりび》
【一】
「いいえ、わたしは帰らぬ」
と、右京太夫はいった。そして、なおじっと城太郎を見つめている。
城太郎はぎょっとした。右京太夫はまたいった。
「わたしは京へ帰りとうはない。そなたといっしょにどこかへゆきたい」
城太郎の脳髄を硬直させたのは、まず理由のない歓喜の衝撃であった。いや、理由はある。それは、ふたたび襲った、これは|篝火《かがりび》ではないかという錯覚であった。すぐにその錯覚ははらいのけたが、つぎに彼をとらえた恐怖にちかい思念は、あの平蜘蛛の釜の魔力であった。右京太夫が突然こんなことをいい出したのは、あの茶を服んだせいではないか?
いや、じぶんはこの女人に茶を服ませたおぼえはない。飲ませたのは水だ。それに例の白い石は、べつにじぶんの懐中にある。
「か、釜は?」
と、城太郎は右京太夫の言葉をそらそうとし、眼をあらぬ方にそらした。
「釜はここにあります」
右京太夫はちらとじぶんのうしろを見た。平蜘蛛の釜はいつのまにか、きらびやかな|裲襠《うちかけ》につつまれてそこにあった。
「それより、ほんとうにわたしを、おまえといっしょにどこかへつれていっておくれではないか?」
右京太夫は、城太郎を、あなたと呼び、そなたと呼び、そしていまおまえと呼んで、そしてひしとしがみついてきた。さっきまでの右京太夫とは思われないような、なまめかしいはげしい眼であり、動作であった。
しがみついて、城太郎をふりあおいだ眼が、むしろ|淫《みだ》らにちかい妖しい炎にもえている。城太郎は、彼女がひとが変わったかと思った。――篝火のかなしげな声が耳を吹きすぎた。
「篝火のほかの女は断って。――」
「いいえ、なりませぬ」
城太郎は必死に彼女から身をはなした。
「あなたさまは、三好義興さまの|御《み》|台《だい》さまです。お帰りにならねばなりませぬ」
そして、土塀のところまですざって、崩れた穴から外をのぞき、
「お、どうやら東大寺の火事も盛りがすぎたようです。逃げてきた武者がこの界隈までウロウロしはじめた姿が見えまする。あ、身をかくされませ。松永の兵に見つかっては一大事」
「なぜ?」
右京太夫は、じぶんをさらおうとしたものが、弾正|麾《き》|下《か》の根来僧であることをまだ知らないのだ、ということにはじめて城太郎は気がついた。
そのことはおぼろげに――いや、ほとんど確実に城太郎は知っているが、弾正の恋情をよく知らない城太郎には、まだよくわからないふしもある。で、そのわけをいま簡単に説明することはむずかしい。
「とにかく、三好の衆ならようござるが――もし、三好の衆が通られたら、お呼びなされ。往来からは見えぬように、こちらから見張っておって下され」
土塀の外を、いかにも武者のむれが三々伍々通り出した。あわただしく駆けて通るのは、ひょっとしたらまだ所在のわからぬ松永弾正や三好義興を求める武者であったかもしれないし、手負いのものをかついでゆくのは、|火傷《やけど》でもしたのを収容してゆく武者であろう。
「あ……あれは」
数十人の武者が通過してゆくのを、土塀の中からそっとうかがっていた右京太夫が、やっとさけんだ。
「あれは、三好のものどもじゃ」
「おお、では」
城太郎は右京太夫の手をひいて往来に走り出した。
「もしっ、右京太夫さまはご無事でここにおわしまするぞ。どうぞ義興さまへおとどけ下され」
そして、手から手に見えない糸がひき、その糸を断つ思いで、
「右京太夫さま、では、おさらばでござる」
と、彼女を軍兵におしやった。
手は、はなれなかった。彼女は城太郎から手をはなさなかった。
そして、ふいにさけんだ。
「ものども、この男を捕えや」
城太郎は、あっけにとられた。
軍兵が黒い津波みたいに彼をつつんだ。――右京太夫はようやく手をはなした。
「これが平蜘蛛の釜を盗んで逃げた女の夫じゃ。――いや、平蜘蛛の釜を、さっきまでこの男が持っておった。――」
両腕をとらえられても、城太郎にはまだわけがわからない。
すでに軍兵の波の向こうへ消えつつ、女はふりむいて笑った。
「いまは、釜は持ってはおらぬ。あそこに裲襠で包んであるのは、あれはおまえが殺した羅刹坊の首、これは松永の兵、そしてわたしは――」
その笑顔が、右京太夫とは似ても似つかぬ邪悪な花に見えたのはその刹那であった。
「右京太夫ではない。――」
「――あっ」
城太郎がさけんだとき数十人の松永の軍兵は、彼の上に折り重なった。さすがの城太郎も、刀も忍法もふるいようのない一瞬のできごとであった。
【二】
東大寺の炎は下火になったが、その代り、黒煙が濃くなった。その煙か、雲か、ひくくたれこめた空から、煤のようなものがふってくる。その墨色の雨にうたれつつ、|飛鳥《あすか》|野《の》に馬をとどめた松永弾正は、まるで黒い魔神のような形相であった。それは心に吹きたける焦り、|悶《もだ》え、恐れ、怒りなどの黒い感情が、あぶら汗とともに外面ににじみ出してきたせいでもあった。
――右京太夫さまはどうなさったか?
――三好義興はどうしたか?
その疑問に応じて、兵が駆け出し、また馳せもどって報告する。
三好義興さまは景清門のあたりまで立ちのかれているが、それより一歩も去らず、なお右京太夫さまをお探しなされている。ほとんど狂乱状態である。きょうの火事がいかにして起こったか、まだお知りなさらぬようである。右京太夫を喪われた懊悩のあまり、それどころではないように見える。――
弾正の知りたいのは、もとより義興の動静ではなく、右京太夫のゆくえだ。
報告を受けつつ、弾正はきょうの火事が興福寺の僧の放火にあるらしい、という流言をはなつ一方、また右京太夫を求める兵を八方に出した。義興よりも、弾正の方が懊悩狂乱の度が|甚《はなは》だしいように見えた。まだ|余《よ》|燼《じん》消えやらぬ大仏殿に、捜索の兵を突入させようとすらしたのである。
――きゃつら!
と、切歯する。
例の根来僧どものことだ。彼らはあれっきり弾正のまえにあらわれ出ない。
きゃつら、大それたことを仕出かしおって――右京太夫さまをさらうどころか、万が一、大仏とともに焼き殺して見よ、もはや、ただではおかぬ、きゃつらもまた生きながら火あぶりにしてくれる。
じぶんがあの大暴挙に賛成したことは忘れ、悔いるよりも、ただ怒り悶えている松永弾正であった。
その弾正のまえに、根来僧たちが現われた。
「おおっ、殿」
「ここにおわしましたか!」
弾正がまだ一語も吐かぬうちに、
「無念です」
と、風天坊が絶叫した。
「かねてのもくろみ通り、大仏殿より右京太夫さまをお移し申しあげようとする寸前、例の伊賀の忍者笛吹城太郎めにさらわれ、これを猿沢の池まで追いつめましたるところ――」
「突如、黒衣の一隊が弓矢をもって襲いかかり、右京太夫さま城太郎をとりにがしたのみか――」
「水呪坊まで討たれました!」
――先刻、その黒衣の騎馬隊を追って走り、それが八方に散ったのを知って、ようやく敵の|攪《かく》|乱《らん》戦術にかかったと感づいて、あわてて猿沢の池に駆けもどった彼らは、そこに浮かんでいる首なしの水呪坊の死骸だけを発見したのであった。
いかにも彼らは五人に減じている。弾正は怒るのも忘れた。
「なに、黒衣の一隊? そりゃ何者だ。三好の手のものか」
「三好勢がなんの要あって覆面いたしましょうや――われらほどのものを相手に、あれほど水際だった駆け引き――思うに――」
と、虚空坊が歯ぎしりして絶句すると、金剛坊がうめいた。
「伊賀のものどもに相違ござらぬ!」
「伊賀者とや?」
「されば、笛吹城太郎を援助する、おそらくは服部一党のものども、殿! いそぎ軍兵を奈良の北へむけ、きゃつらの退路をおふさぎ願わしゅう存ずる」
そのとき、まわりにむらがる兵のうしろから、
「なにを大げさな悲鳴をあげているのじゃ、頼み甲斐なき男ども。笛吹城太郎はこのわたしがとらえたわ」
と、いう女の声がした。
ふりむいて、弾正は眼をむいた。右京太夫がそこに現われたのかと思ったのだ。
「殿、|漁火《いさりび》でござります」
にっとした笑顔の妖しさから、それが信貴山城に残してきた愛妾漁火にまぎれもないことをたしかめて、弾正はいよいよ口がきけなくなった。
五人の忍法僧もかっと眼を見ひらいている。彼らを仰天させたのは、漁火の出現よりも、そこに高手小手にくくられた笛吹城太郎の山伏姿であった。
「う、右京太夫は?」
と、弾正があえいだ。
「殿、なによりもまず、それをおききになりとうございますか」
「い、いや、ことの次第を知りたいと思うただけのことじゃ」
弾正は狼狽して、
「そもそもおれには、なぜそなたが奈良に現われたのかもわからぬ。ましてや、そのそなたが、どうしてこの曲者をとらえたか、まるで魔法のようじゃ」
「――わたしはそのとき興福寺におりました。そして東大寺の火事を見ておりました」
と、漁火はいい出した。
「そして、火事の美しさにひかれ、ひとり興福寺を出ようと――とある土塀の崩れたところへあるいてゆきますと、この山伏が、右京太夫さまを背負うて入ってきたのでございます。それが右京太夫さまだということはすぐにわかりました。なぜなら、わたしそっくりでございましたから」
漁火は声もなく笑った。
「右京太夫さまは気を失うておられました。この若者は平蜘蛛の釜で猿沢の池の水をくんできて、口うつしに飲ませたりして介抱しておりました。それもわかります。右京太夫さまは、この男の死んだ妻にそっくりでございますから」
「しかし、右京太夫さまだ。こやつ、よくも下郎の|分《ぶん》|際《ざい》で、右京太夫さまに口うつしに――」
おのれを制することを忘れ、馬上で歯がみする弾正を、漁火は皮肉な眼で見て、しいて抑揚のない声でつづける。
「すると、そこのまぬけ法師どもが探しつつ追ってくる跫音をきいて、城太郎は外に出てゆきました。城太郎は右京太夫さまに、そこをうごかぬようにいい置いて出てゆきましたけれど、ややあって――わたしが右京太夫さまにどう声をかけよう、としばし思案しているあいだに、右京太夫さまは――おそらく義興さまのところへおゆきになるおつもりでございましょう、ふらふらと塀の外へ出てゆかれたのでございます」
城太郎は眼をとじてきいている。
右京太夫が三好義興のもとへかえるのを漁火は願っていたのではないか、と弾正は思った。
「わたしがそれを追って塀の崩れまで駆けつけたとき――外の往来を走ってきた黒頭巾の一騎が、いきなり右京太夫さまをさらいあげて、風のように駆け去ってゆきました」
「騎馬の黒頭巾、そりゃ何者だ」
「それはわたしも存じませぬ」
「笛吹城太郎、うぬは知っておろう?」
弾正は馬をすすめて来た。
「うぬの一族、伊賀者であろうが? 言え!」
鞭がうなって、城太郎の顔をななめに、ぴしいっと打った。城太郎は身うごきもせず、眼をとじ、口をとじている。
「知りますまい」
城太郎の面にみるみるななめに浮きあがってきた赤いすじを、うす笑いして見つめていた漁火は、弾正がまた鞭をふりあげたのをみると、こういった。
「やがて血と水にびしょぬれになって、土塀のところにもどってきたこの男は、右京太夫さまとわたしをまちがえたくらいでございますから、なにも知らないはずでございます」
城太郎は、ここへ曵かれてくる以前からじぶんをあざむいたこの女が何者であるか、ようやく知っていた。彼は、雨の般若野で篝火の死霊が告げた声を思い出していたのだ。
あの篝火の死霊をやどした女は、じぶんを、
「――顔は漁火という弾正の妾でございます。けれど、からだは篝火のもの。……」
といった。すなわち、この女は、その逆だ。
「――屍骸の首とからだはとりかえられ、ふたりは甦りました。……信貴山城にいるわたしの顔をした女は、もはや篝火ではないということ。――」
これは漁火という弾正の妾にはちがいないが、しかし顔は篝火のものだ、似ているというにはまだ足りない。いま冷やかにじぶんを見つめる眼、恐ろしい言葉を口にする唇、これはまったくかつての篝火そのものであったのだ!
城太郎がこの女に戦意を喪失したのは、なによりもまずその想いであった。
「ううむ」
と、弾正はうなって、
「漁火、ところで、平蜘蛛の釜は?」
「右京太夫さまにかかえられたまま、その黒衣の騎馬とともに。――」
「そこなふたりの足軽にもたせてあるのは?」
「一つは信貴山城にあった羅刹坊の首、一つは猿沢の池で討たれた水呪坊の首でございます」
いままで、憎悪に凍りついたように立っていた五人の法師が、いっせいに大薙刀をとりなおし、戒刀をぬきはらった。
「殿」
殺気にしゃがれた声で、
「ここで、こやつのそっ首、斬りとばしてようござるな?」
そのとき、軍兵の向こうになにを見たか、弾正がふいに瞳をひらいて、
「やあ、これは」
と、さけんだ。
【三】
軍兵たちをかきわけ、ちかづいてきたのは三人の武士で、二人は供侍らしいが、先頭に立っている沈毅で篤実な顔は――柳生の庄のあるじ、柳生新左衛門だ。
「松永どの」
「新左衛門、おぬしは……まだ奈良におったのか」
と、弾正がいったのは、柳生新左衛門が信貴山城を去ったのはほんのこのあいだのことだからだ。まだ――とは、もとより新左衛門が奈良にいたことを知っていたからの問いではなく、柳生の庄へかえる途中、そのまま奈良に滞在していたのかと思ったのである。
「いや、いちどは柳生に帰ったのでござるが、ふと|上泉《かみいずみ》伊勢守さまが、奈良の某所に来ておいでなさるときいて、いそぎまた出かけて来たわけで――来てみれば、大変なことでござるな、大仏さまが焼けるとは」
そのことについては弾正は話すのも胸がいたむから、
「それで、伊勢守には逢うたのか」
と、ほかのことをきいた。
「いや、誤報でござった。――それよりも」
柳生新左衛門はただならぬ顔色で、
「いま、景清門の方できいたことでござるが、あそこにおる三好どのの軍兵が、なにやら殺気立って、松永にさらわれた右京太夫さまが帰られた。右京太夫さまをさらったのは松永じゃ、といいかわし、陣を組みはじめておりましたが」
「なに、右京太夫が帰られた?」
「三好、松永は主従の縁、そのあいだに不穏の気がみなぎっておるのは、大仏を焼いた炎にのぼせあがったか、それとも天魔に魅入られたか、新左衛門には判断もつきませぬが、万一不測のことでも起こればこの火事よりも一大事と、いそぎ報告に来た次第でござる」
松永弾正の顔にさっと|一《ひと》|刷《は》|毛《け》蒼いものがながれたが、すぐにむらっと満面に血をのぼらせて、叛骨と闘志の権化のような形相に変わった。すねに傷もつ弾正だ。右京太夫が義興のもとへ帰ったのがまことならば、新左衛門の急報したような事態は十分起こり得ることと覚悟せざるを得ない。
いま柳生新左衛門は、三好、松永を主従といった。それはそうにちがいないが、現在実質上の権力を掌握しているのは京にある三好家ではなく、大和を|睥《へい》|睨《げい》している松永であること、小国柳生がからくも存在を保っているのは、三好のおかげではなくひとえにこの弾正のおかげであることは、新左衛門はとくと承知しているはずだから、彼がこんな注進をしてきたのは当然といえる。
「……そうか、ではやはりあれは三好の手のものであったか。――よし、毒食わば、皿までじゃ」
うなずいて、そばの近習たちに|怪鳥《けちょう》のように口早に指図した。たちまち近習たちは四方に散って、これまたこちらも陣形を組みはじめる。物見が景清門の方へ飛んでゆく。――
みるみる飛鳥野一帯にみなぎりはじめた戦気に、しばしあっけにとられていた様子の根来法師らは、やっとわれにかえって、
「殿、こやつ、いくさの血祭りといたしましょうか」
「そなたら、信貴山城へつれてゆきゃ」
と、漁火がいった。
「いまはそのような若僧にかまっておるときでない。――それに、その男、いちどにあっさり殺すには惜しい。わたしに思うことがあれば、さきに信貴山城に曵いていって、わたしたちが帰るまで生かしておきゃ」
「漁火、そなたも信貴山城へ帰れ」
と、弾正がいった。漁火はぶきみに顔をひきつらせて笑った。
「いいえ、わたしは殿を見すてて、この場をはなれる気にはなれませぬ。もし三好家とのあいだにことが起こればどうなるか、――殿が首尾よう右京太夫さまをお手にお入れあそばすか、それを見きわめずには漁火はかえれませぬ」
素直にきける漁火の言葉でないことはわかっているが、こういわれると弾正には|反《はん》|駁《ばく》できない。――漁火は委細かまわず顔を横にむけて、
「根来衆なにをしていやる」
「しかし」
「城へかえったら、石牢に入れや、……地底のあの石牢へ」
あの石牢といったのは、あきらかに信貴山城の地底の石室に作った檻を指している。そこには、あの淫石製造のために肉欲の狂人となりはてた女たちが、動物のように投げこまれていた。
「あそこへ、こやつを」
と、法師たちはうめいた。
「わたしの前身たる女が愛した男、それがそこでどのように苦しむか、わたしは見たいのじゃ」
漁火はぞっとするほど|淫《いん》|猥《わい》で残酷な笑くぼを唇のはしに彫った。
「苦しめて、苦しめて、そのあげくになぶり殺しにしても遅くはあるまいが」
「かしこまってござる!」
はじめて根来僧たちは、本性をとりもどしたように、眼をひからせて立ちあがった。
なお小姓たちになにやら怒号して命令していた弾正は、やがて五人の法師が、はだか馬にくくりつけられた笛吹城太郎とともに、魔風のごとく西へ駆け去るのをちらと見たが、それには声もかけず、
「待て新左衛門」
と、立ち去ろうとするべつの影に呼びかけた。
「なんでござる、弾正どの」
「伊賀はその方の隣国じゃの」
「されば」
「服部一党を存じておるの」
「存じておりまするが、隣の他人で」
新左衛門がこういったのにはわけがある。大和国の東部から伊賀にかけては、もともと豪族筒井氏の勢力範囲で、いちじ柳生衆もこの筒井氏のために亡国の憂き目をみたことがある。その筒井氏もいまは松永弾正に圧迫されて|逼《ひっ》|塞《そく》しているが、元来服部もこの筒井氏に属する一族であったからだ。べつに柳生と服部が直接たたかったという歴史はないが、よそよそしい仲であることはたしかだ。
「いまのところ、おたがいの領国を通過するとき、挨拶をかわすだけの縁でござる」
「では、服部半蔵が、いま奈良へ来ておることは知っておるか」
「いや、存じませぬ、半蔵は先般、堺から帰国したとき柳生を通りましたが、それ以来、こちらに出た形跡はござらぬ」
「それが――来ておるふしがある」
「そんなはずはござらぬ」
断乎としていう柳生新左衛門に、弾正の表情は動揺した。彼はまだ右京太夫をさらった覆面の騎馬隊が三好の手のものであるということに一抹の疑惑をぬぐい得ない。ひょっとすると、三好と伊賀者が組んでおるのかもしれぬ、その可能性はないとはいえない――とかんがえたのだが、柳生新左衛門が信頼できる人間だけに、新たな混沌が黒雲のごとく脳裡に渦巻かざるを得ない。
彼は新左衛門の知らせを受けるまでは、みずから馬を馳せてそのにくむべき覆面の騎馬隊を伊賀街道に追おうかと決心したほどであったから、いま新左衛門の言葉をきいてまた迷ったが、すぐに一思案を胸に浮かべた。
「柳生、頼みがある」
「なんでござろう」
「おぬし、もう奈良に用はなかろう。すぐに柳生にかえれ。……そして、伊賀との境をよくかためて、西から帰る伊賀者があれば通らすな。また一歩たりとも西へ出すな」
「はっ?」
けげんな顔の柳生新左衛門に、弾正はいった。
「ことと次第では、伊賀一円を弾正踏みつぶしてくれるわ。そのあかつきは、伊賀はおぬしにくれてやる」
念のため、手をうっておく気になったのだ。
「すぐ、ゆけ」
月は東に日は西に
【一】
――右京太夫は、夫のもとへもどっていた。
彼女にとっては、すべてが悪夢の中のできごとのようであった。大仏殿で、炎につつまれて喪神し、気がつけば、どこともしれぬ土塀のかげに横たえられて、若い山伏が心配げにのぞきこんでいた。そして、まだ夢見心地のうちに彼はそこを去った。去るときに彼は、「ここを出てはなりませぬぞ」と念をおしたが、しかし彼女はフラフラとあとを追って出た。
彼のあとを追ったというわけではない。彼女はむろん夫のもとへかえろうとしたのである。
が、往来に出るや否や、疾風のごとく駆けてきた騎馬の男にさらいあげられたのであった。
「ご心配あるな、あなたさまを義興さまのおんもとへおつれしようというのです」
と、男はいった。
その通り彼は、右京太夫を鞍の前に軽々と抱きあげ、やさしく支えたまま馬をさばいてゆくのだ。ただ彼は、右京太夫の頭から|被衣《かつぎ》をかぶせ、できるだけ人影の少ない路を走らせていった。もっとも、東大寺炎上をめぐる騒ぎで、怪我をしたり気を失ったりした女はままあったから、この二人乗りの馬を見ても、ことさら奇怪に思うものもなかった。
「あなたはだれですか」
ようやくその男を害意のないものと感じとって、右京太夫はきいた。
「ゆえあって、名乗れませぬが、あなたさまの敵ではありませぬ」
錆をおびた声がこたえた。
鞍のまえにいる右京太夫はふりむくこともできなかったが、彼は覆面しているようであった。走りながら、
「あなたさまを大仏殿の炎の中からお救い申しあげたのは、若い山伏でござりましょうが」
と、こんどは向こうからきいてきた。
「あの山伏がわたしを炎の中から? ……あれはなにものですか」
「もはやお逢いなさることもありますまいが、名だけはおぼえておいてやって下され。伊賀の忍者、笛吹城太郎と申す男です」
「……伊賀の忍者が、どうしてわたしを?」
「あの男は、妻を奪われ、殺されました。その妻が、あなたさまそっくりであったからでござりましょう」
「妻を? だれに妻を奪われたのです」
「右京太夫さま」
覆面の男は、その問いにはこたえず、手綱をひいて馬をとめた。
「あそこに義興さまがおわす。ゆかれませ。……あの男のことは忘れ、きょうの炎も忘れ、京でおしずかに、お倖せにお暮らし遊ばせ」
そういうと、彼はそっと右京太夫を馬から抱き下ろした。右京太夫が向こうの景清門の下にひしめく軍兵の一隊を見やったとき、鉄蹄の音がはなれ、ふりむくと、覆面の男は、ついに顔もみせず、そのまま南へ疾風のごとく駆け去っていった。
こうして、右京太夫は夫義興のもとへ帰った。
妻を炎の中に見失って悩乱し、絶望していた義興は狂喜した。
いかにして妻が帰ってきたか、せきこんできいたが、よくわからない。こたえる右京太夫すらよくわからないのだから、狐につままれたような思いがしたのは当然だ。しかし、義興は、なんであろうと、妻が帰ってきたことだけで歓喜した。
「これ、だれかある、興福寺へいって、きょうの放火の下手人はたしかに興福寺の僧か、しかと調べてまいれ」
と、義興はいった。また――
「弾正のゆくえを探し、探しあてたら、義興これにありと伝えてまいれ」
とも、命じた。ようやくおのれをとりもどしたのである。
しかし彼は、この|期《ご》に及んで、その放火の下手人が松永弾正だとはまだ知らなかった。まさかおのれの妻を奪うために、弾正が東大寺を焼くとは想像を絶しているし、弾正がゆだんのならぬ男だとは知ってはいるが、もしじぶんに叛意があるならば、その機会はあったものを、じぶんには手を出した様子もなかったから、義興が弾正に疑いをもたなかったのも当然だ。
燃える大仏殿のまえで乱舞する奇怪な法師はたしかに見たが、その|凶刃《きょうじん》は三好、松永双方の侍にむけられて、ことさらじぶんめがけて敵対したものとは見えなかった。――この景清門のところまで避難してきたあとでも、刻々入る情報は、どうやら興福寺の僧の放火らしい、という噂ばかりであったから、義興は興福寺へ糾明の使者をむけたのである。
大仏殿はすべて焼けおち、炎の広野と化した東大寺跡に、いま頭を失った大仏は、黒い大魔像のごとくそそり立っていた。
それを見ると、三好義興は、弾正の叛心を知らなかったにもかかわらず、あらためて不吉な熱風に吹かれる思いがした。
「よし、興福寺は追って調べる。弾正には逢わずともよい。――京へひきあげるぞ!」
しかし、このとき弾正を探しあてた侍臣がはせもどってきて、
「松永どのは、飛鳥野にぶじにおわしました。殿のお申しつけを伝えましたところ、やがてまいるが、しばしお待ちを――との仰せでござった」
と、報告した。そして――
「殿、きょうの放火の下手人を見てござります」
と、いった。
「なに?」
「|拙《せっ》|者《しゃ》、松永どのを求めて西の方から飛鳥野へいったのでございますが、途中、馬上にひっくくられて西へ走る囚人様の男とすれちがい、町のものにききましたところ、どうやらそれが放火の下手人にて、松永の手のものにとらえられ、信貴山城へ送られるらしい、ということでござった」
「それは法師か」
「いえ、山伏姿で。――拙者の見たところでは、その囚人を護っているものが法師のむれでござりましたが」
――ときいて、義興はくびをかしげたが、なんともそれ以上判断がつかない。ただ、山伏、ときいて、ふと右京太夫をふりむいて、
「奥、そなたを助けたは、山伏と申したな」
「はい」
「信貴山城に曵かれていったのは、その男ではないか?」
「……さあ」
「面妖な話じゃ。それを護送したのは法師とは――火をつけておったのは、たしかに法師どもであったが」
義興はかんがえこんだ。見たことと聞いたことが逆だ。世に山伏も法師も一人や二人ではないから、なんともいいようがないが、義興はなにやら胸さわぎがした。ここにながくとどまることについて、本能的な不安をおぼえたのだ。文字通り、キナくさい感じ、とはこのことであろう。
三好勢の先駆は、すでに北へうごき出している。
「輿をもて」
と、彼はいった。妻をのせるための輿だ。彼は弾正の挨拶をまたず、いそぎ京へひきあげる決心をしたのである。輿が来た。
輿へ乗ろうとする右京太夫を見て、
「あ、奥。……それはなんだ」
と、義興がきいた。右京太夫が、後生大事にかかえている金襴の包みに眼をとめたのである。
「釜でござります」
「釜?」
「わたしを助けてくれたその山伏からあずかった茶釜でござります」
右京太夫は放心状態でいって、輿に身をかくした。
輿はあがり、北へうごきはじめた。
しかし、簾の中で、右京太夫は愕然としていた。彼女は義興にいわれて、はじめてじぶんがこの釜を――あの覆面の武士に馬上にさらわれながらも――しっかとかかえて放さなかったことに気がついたのである。
持ってきたことはおぼえている。あの男は「おれのもどるまで、ここにいて、その釜を護っていて下され、おれの宝です」といった。そう依頼されたものを持ってゆくことは気がとがめて、途中で彼に逢ったらわたすつもりで、その釜を、そばにあった金襴につつんで持って来た。愕然としたのは、それにしてもその釜を、これほど大事にじぶんが抱いていたということであった。
いや、彼女は、ほんのいま山伏が囚人として信貴山城に曵かれていったときいたとき、じぶんの心が受けた衝撃を、あらためておどろきをもって思いかえしている。
その山伏がじぶんを助けた山伏だ。彼女はそう直感した。
あの山伏が東大寺に火をつけた? ちがう。彼女はそれを本能的に否定した。
あの男は、なんのためにわたしを助けたのか。覆面の武士はいった。「あの男は、妻を奪われ、殺されました。その妻が、あなたさまそっくりであったからでござりましょう。――」
よくわからぬ。しかし、わかるようでもある。ほんのみじかい、ほとんど言葉らしい言葉もかわさないひとときであったが、じぶんを見つめていたあの男の眼は、なんともいえないきよらかな愛情にもえているようであった。――その眼が、いま右京太夫の胸に、恐ろしい光芒をはなってよみがえって来た。
いかにしてじぶんが救われたか、右京太夫は知らないが、気を失う直前にじぶんを包んだ炎の海はおぼえている。あの男は、あの炎の中からじぶんを救ってくれたのだ。――そして彼は、幻のように去った。
名も覆面の武士からきいた。伊賀の忍者、笛吹城太郎。
「なに? 松永が追って来たと?」
輿のそばの馬上で、義興の声がした。
「そして、松永勢はいくさ仕立の陣を組んでおると申すか」
義興はさけんだ。
「よし、輿はさきにやれ、小人数で護って、さきにいそげ。おれは松永の陣くばりを見てやろう」
十人あまりの兵に護られて、右京太夫の輿は、奈良の北――般若野へ走った。
しかし、護衛兵たちはあとのなりゆきが気にかかり、般若野の夏草に輿を下ろして、奈良の方へのびあがった。
そして、ややあって気をとりなおし、かくてはならじとふたたび輿をあげたとき、彼らは輿の中に茶釜一つ残されて、右京太夫さまの姿が忽然と消えていることを発見したのである。
般若野の夏草の中をくぐって、右京太夫は走っていた。迂回しつつ、西へ。――
彼女は、じぶんを救ってくれた若い山伏の安否をうかがい、信貴山城へいってみずにはいられなくなったのだ。もとよりこんな大それたことは、護衛の侍たちや義興にいえることではない。
しかし、まさになにびとも想像し得ないはぐれ鳥の羽ばたきだ。決して彼女を救ってくれた人間への心づくしといっただけでは説明がつかない。それが彼女の胸に残るふたつの瞳の魔力だといったら、彼女はどうこたえたろうか。
【二】
柳生新左衛門から、三好勢に、じぶんに対する不穏な気配がみえる、ときいた弾正は、破れかぶれ、ここで謀叛もやむを得ぬという決意をかためた。
もともとそんなつもりで信貴山城を出たわけでなく、東大寺に火をつけたあとでも、まだそんなことはかんがえていなかったから、これはまったく不本意な行動である。兵の数からいっても、必ずしも勝てる自信はないが――その三好勢が急遽京へひきあげはじめたときいて、一瞬安堵し、つぎに義興を京へ帰せば、あとでいっそうぬきさしならぬ絶体絶命の立場に追いこまれると思いなおした。それで三好勢を追ってきたのだが、極力さりげないように見せたものの、さすがに義興はそれを看破したとみえる。般若坂に待ちうける三好勢にただならぬ戦意を見て、いまはこれまで、と弾正は観念のほぞをかためた。
山雨到らんとして風楼に満つ。――
と、そのとき三好勢に突如として混乱の雲が渦まいたのを彼は見てとったのである。
「だれかある、三好方になにが起こったか物見して来い」
と、彼は命じた。
たちまち物見の兵が草の中を狼のごとく身を沈めて走り去り、ややあって駆けもどってきて、その異変のゆえんを報告した。般若野で右京太夫が消え失せて、どうしても見つからないというのだ。
「右京太夫さまが?」
さすがの弾正にも、これはなんとも判断を絶した。
――ふりかえって、
「わかるか」
と、きく。
そこに被衣をかぶって、漁火がいた。
「……わかりませぬ」
と、彼女はくびをふった。彼女にも、ほんとうにわからない。ふっと、先刻の覆面の騎馬の武士が脳裡をかすめたが、彼、または彼らの正体が不明である以上、いまそれを、どう結びつけていいのか見当がつかない。
「しかし、あの三好勢のあわてぶりは、罠ではないぞ」
弾正がつぶやいたとき、漁火は声をかけた。
「殿」
「なんじゃ」
「殿のお望みをいよいよ果たせるときが来たと思われませぬか」
「おれの望み」
「右京太夫さまではありませぬぞえ」
被衣のなかで、声が笑った。
「天下をとるお望み」
「いま義興さまを討てと申すか」
「いまいくさを挑んでも、勝てるとはかぎりますまいが。……まして京にはまだ長慶さまもおわしまします」
「……ううむ、実はそれで迷っておる」
「兵をおひきなされまし。あとはこの漁火にまかせて」
「なにを申す」
「わたしが義興さまのところへまいります」
「な、なにをしようというのじゃ、そちは」
「右京太夫さまに化けて、三好のふところの中へ、わたしが入ろうというのです」
弾正は、眼をむいた。が、美しい被衣にさえぎられて、漁火がどんな表情でいっているのかわからない。彼女は、冷静にいう。
「殿、右京太夫さまがいちどでも義興さまのところへお帰りになったうえは、十中八九までは殿のおんたくらみは向こうに知れたに相違ござりませぬ。三好勢が山あらしのように毛をたてたのは、そのためでありましょう。といって、いま義興さまとたたかってもあぶない、京の三好家に公然叛旗をひるがえすのはいよいよ時期尚早です。これは殿もよくご存じでございましょう。そんな見込みのあるものならば、きょうをまたずしてそうせずにはおられぬ殿でしょうものを」
漁火は弾正の心事をたなごころを指すがごとくいう。――以前のただ白痴美のかたまりのような漁火とはまさに別人であることを、弾正はあらためて思い知らされずにはいられない。
「わたしが右京太夫さまとして義興さまのふところに入れば、三好方の松永への疑心暗鬼を解くことができましょう。そのあいだに、殿――ご用意をととのえられませ」
「右京太夫さまとして、と申して、漁火、いかにもそなたは右京太夫さまそっくりではあるが、果たして義興さまが――」
「見破られるような漁火ではありませぬ」
自信にみちた漁火の声だ。
「もし、ほんとうの右京太夫さまが見つかったら?」
「むこうをにせものとして追いはらいます」
弾正は、唖然とした。漁火はまた笑った。
「たとえ見破られたとしても、そのときはもう義興さまはわたしの手中にあるといってようございましょう。あの方を色餓鬼にしようと――あるいは一服盛ろうと、わたしの思うがまま」
弾正の眼が、ぎらっとひかった。
「なに、一服盛ると?」
このときの弾正の思考ははなはだ複雑であった。
三好義興に一服盛る。父親の長慶が重病の床にあるだけに、それは三好家の崩壊を意味する。夢想の花がひらいた思いであった。
しかし、それが漁火にできるかと思う。いや、右京太夫に化けられるかと思う。右京太夫に化けるということは、彼女が義興に抱かれるということだ。それがたえがたいほどねたましく、また一方で彼女がじぶんのそばから消えることに、吐息のでるほどほっとした感じにもなった。とくに右京太夫がまたいなくなったときいたいまではなおさらのことだ。こととしだいでは、右京太夫をいまじぶんの手にとらえる機会があるのではないか?
いったい、右京太夫はどこへ消えたのか? グルグルとまわる思考の火花をじっとおさえて、弾正は故意につくった悩ましげな表情でいった。
「漁火、いってくれるか?」
「はい。――右京太夫さまが見つかってはこの妙案も水の泡、ではいそいで」
「いつかえる?」
「わかりませぬが、遠からぬうち――義興さまのおん首とともに」
漁火は被衣をとり、皮肉で|妖《よう》|艶《えん》きわまる笑顔をみせた。
「けれど、殿がほかの女を、漁火にもましてご寵愛ときいたら、すぐに信貴山城に帰りますぞえ」
――漁火が草の波に消えてから、弾正は松永勢に数町退くように命じた。ややあって、三好勢の混乱も|終熄《しゅうそく》し、隊伍をととのえ、北へうごきはじめた。宇治を通る奈良街道へ向かい出したのである。
漁火はぶじ三好のふところへ入った。――途中まで漁火を送っていった兵がそう報告した。
弾正はなんとも形容しがたいぶきみな笑顔でうなずいていたが、やおら命じた。
「草の根わけても右京太夫さまを探せ」
さて、この日の三好と松永の駆け引き――一方が戦意を抱けば一方が乱れ、一方が追えば一方がひくという微妙なくいちがいがあったが、双方の意図を、双方ともにつかみかねて、一触即発の気をはらみながら、ついに何事も起こらなかった。
なによりもまず最初に、景清門にある三好勢が、松永に対して不穏のうごきを示している――という情報が誤っていたのだが、その誤報の提供者たる柳生新左衛門は、なんのつもりであのようなことをいったものであろうか。
【三】
笛吹城太郎は、信貴山城の石牢に投げこまれた。
現在信貴山にある|歓《かん》|喜《ぎ》|院《いん》|朝護孫《ちょうごそん》|子《し》|寺《じ》は、いにしえの聖徳太子が創立されたそのものではなく、これがいちど滅び失せ、そのあとに松永弾正が信貴山城を築き、さらにこれが滅び失せたあと、豊臣秀頼が再建したものであるが、ここを訪れる人はふかい山中に忽然としてあらわれる龍宮[#電子文庫化時コメント 底本「竜宮」、S47を参照、字体統一]のような大寺院に眼を見張り、かつ|断《だん》|崖《がい》と奇岩と巨石をつらねる大伽藍の大奇観におどろかざるを得ない。
ましてや、これは城だ。
地底にある石室とは、ことさら石を運んできてたたんだものではなく、最初から存在する巨石をうがったものであった。それだけに、人間の建造物でない、もの凄じい威圧感がある。
ここに投げこまれて、城太郎は戦慄した。
それは石牢そのものよりも、そこにあるべつのさらに恐るべきものにつつまれたからであった。
女だ。
女だ。
女、女、女、女、女、女、女。……
それが、きものをまとっているというものの、ズタズタにひきさかれて、ほとんど半裸だ。いや、完全に一糸まとわぬものが半分はある。これが壁を塗りつくし、格子にまつわりつくし、|床《ゆか》をうずめつくして、けだるげにうごめいている。
けだるげに――そうではない。城太郎がそこに投げこまれるや否や、それがいっせいに眼がさめたように波うちはじめた。
「男」
「男」
「男、男、男、男、男、男、男。……」
吐息とも叫喚ともつかないどよめきであった。しかしこの場合、無数の口はそう|喘《あえ》いでいるのに、男は笛吹城太郎ただひとりであった。
「寄るな」
城太郎は絶叫した。
「おれにちかづくと、腕でも足でもへし折るぞ」
事実彼は、じぶんの足や腰にまといついた腕を――折りはしなかったが、骨の関節をはずした。彼の手のはしるところ、女の腕はことごとく|脱臼《だっきゅう》させられて、白い蛇のようにぶきみにのたうった。
それでも、逃げるからだはない。とびのく足はない。恐怖の声はない。
――みな、狂女なのだ!
そうと知って、城太郎は眼をかっと見ひらいた。どこを見まわしても、からす蛇のごとくみだれる黒髪、欲情にうるむ眼、ひらかれた赤い唇、あえぐ舌、ながれる|涎《よだれ》、波うつ乳房、くねる腰、のたうつ胴、そして、われとひろげる足、足、足。……
ここにいるのは、破戒無惨の根来法師らの「淫石製造」のいけにえとなって、ただ肉欲本能のかたまり、色情狂と化した女ばかりであった。
「あ、は、は、は」
「どうじゃ、伊賀者」
「その女どもを相手に、どんな忍法をつかう」
「音にきこえた伊賀忍法とやらを見せてくれ」
ふとい石の格子の外で、五人の忍法僧はのどぼとけが見えるほど、そっくりかえって哄笑した。哄笑は、わあああん、と石にこだまし、こだまして、はるかな地上へ消えてゆく。――
鐘が鳴るなり法隆寺
【一】
――しかし、その夜は根来法師らはそのままひきあげて、どこかへいってしまった。
じつは、さすがの彼らも人間なみにくたびれたのである。東大寺に火をつけて、猿沢の池で血みどろの死闘をして、奈良から笛吹城太郎を曳いていっきに信貴山城へ駆けもどって、そのうえに――いや、それ以前から、城太郎を捜索して奈良界隈を駆けまわっていたのだから、ともかくめざす城太郎をつかまえて一段落ついたと思い、信貴山城に帰ったとなると、ここでどっと疲れが出たとみえて、城中の一室で酒をあおり、そのまま泥みたいにねむってしまったのだ。
が、笛吹城太郎はねむるどころではなかった。
いまは彼も、この女たちがいかなる女たちであったか知っている。あの根来僧らが伊賀街道でいきなり理不尽に襲いかかって|篝火《かがりび》を奪っていったことといい、奈良若草山で遊女たちを犯したことといい、また東大寺で右京太夫さまをさらおうとしたことといい――これは、松永弾正の淫欲の祭壇にささげられるために、根来法師らの恐るべき忍法にかけられたいけにえのなれの果てなのだ。
哀れと思う。無惨と思う。
とくにこれから恋妻篝火の死の様相を類推すれば、髪も逆立ち、血も逆流するのをおぼえる。
しかし、涙をそそぐべく――相手は狂女なのだ。しかも、肉欲の牝獣なのだ。
すでに人間としての会話はない。ただ、あえぎ、うめき、吹きつける欲望の熱風。――城太郎にとっては、いままでのいかなる死闘もこれほどではないといっても誇張ではない、恐ろしい一夜であった。
彼女たちが犠牲者であると知って――
「ゆるせ」
そういいながら、まつわりつく無数の腕、足の関節をはずし、当て身をくわせたのもいっとき――やがて、彼は、無言で女たちとたたかいはじめた。
彼の足もとに、白い魚みたいに女たちが横たわり、つみ重ねられる。彼はそれを避けて逃げた。仲間がどういう目に会おうが、狂える女たちに反応はない。無言なのは城太郎だけで、女たちのあえぎはますますたかまり、四肢の関節をはずされてうごめきながら、なお狂笑しているものもあった。さなきだに石室にみちみちていた女たちであった。それが算をみだして横たわっては、ついに城太郎は足をおくところもなくなった。
城太郎とて、疲労|困《こん》|憊《ぱい》している。それは根来僧よりはるかにはなはだしかったかもしれない。彼の網膜にはただ白い乱舞がねばりつき、彼の肌には熱い粘液がヌルヌルとまといついて、しだいに城太郎はその感覚に埋没してゆくような気がした。
もとより彼は、ここで死のうとは思ってはいない。なんとかして逃げ出し、かならずあの法師らをみなごろしにせずにはおかぬ覚悟だ。篝火を思えば――
「……篝火」
その復讐の意志と脱走の工夫をふるい起こすために、そう呼んだ声は、
「おれを助けてくれ!」
しだいに、ただ女たちをふせぐためだけの、悲鳴のような呪文と変わった。
ほとんど半睡半醒のうちの妖しい死闘の一夜がすぎて――地底のこの石牢にも、どこからともなく蒼白い暁のひかりがさしてきた。なお夢中で女たちとたたかっている笛吹城太郎の頬は、まるでのみ[#「のみ」に傍点]で|削《そ》いだように変わっていた。
【二】
その暁の信貴山城の大手門にひとりの女が立った。
「漁火です」
と、彼女はいった。――門番はあわてて門をひらいた。
右京太夫であった。
彼女は、なにも知らない。三好義興の妻ではあるが、まったく深窓の花のような彼女は、家老松永弾正のひそかなる叛心や大それたじぶんへの|恋《れん》|慕《ぼ》など、なにも知らない。
ただ、漠然と、弾正という男が恐ろしい人物であることは感づきはじめている。また夫義興の話から、東大寺に放火したのは奇怪な法師らで、その法師らを使っているのが弾正らしいとは気がついている。
しかし、それらの関係や、意図を、彼女は正確に読みとることができなかった。
知らないから、彼女はひとり信貴山城へやって来た。――じぶんを救ってくれた笛吹城太郎という山伏を救うために。
彼が東大寺放火の下手人であるという嫌疑でとらえられ、信貴山城に送られたときいて、それはまちがいだと信じ、その誤解を訂正するために彼女はやって来た。三好家の家老たる松永の城に、じぶんがのりこんでゆけば、ただちにその誤解はとけるだろうと彼女は無邪気に思ったのだ。知らないということは、恐ろしい。
右京太夫は、漁火という名すら知らなかった。彼女が何者たるかも知らなかった。
それを知ったのは――信貴山下の外廓の門で、番兵の方から、
「……おお、漁火さま、お帰りなされませ」
と、呼ばれて、うやうやしくおじぎをされたからだ。
「おひとりで?」
「…………」
「殿は、どうなされました?」
「…………」
右京太夫は、返事のしようがない。黙って、しずかに門を入り、山をのぼってゆく。
ようやく漁火とは、弾正の妾らしい、と感づいた。その女は、弾正とともにいま奈良へいっているらしい。――それからその女は、ほかの誰がみても見まちがえるほど、じぶんによく似た女らしい。
そうと知っても、右京太夫は、この方の誤解はあえて解こうとはしなかった。それは松永弾正に対する漠たる恐れからきた本能的な知恵であり、またじぶんがここへやってきたという行為の無鉄砲さはよく承知していたから――ほんとうは彼女は、その無鉄砲さの身の毛もよだつばかりの意味を知らなかったのであるが――得べくんは、三好義興の妻がひとり信貴山城へやってきたということを、まずだれよりもあとで夫に知られたくなかったからだ。それで通るなら、それでいい。
――事実彼女は、それで門を通った。
「漁火さま」
おどろいて迎える顔に、
「そう」
うなずいて通る。山の下から大手門までのあいだに、彼女は悠揚たるおちつきすら身につけていた。
これでなんのこともなかったのはわけがある。第一に、だれがこの世にこれほどよく似た女人がいると思うだろうか。城兵たちはそれまで右京太夫さまの顔を見たことがなかったのだ。第二に、その京の三好家の若殿の|御《み》|台《だい》さまが、たったひとり飄然と信貴山城にやってくるとは、だれが想像するだろうか。第三に――そもそも漁火という主君の寵姫が、奔放無比といおうか、人もなげなるふるまいといおうか、そのゆくところ妖気の風を曳き、このほうこそただひとり城に帰ってきて、門々をかろく会釈して通っていっても、だれもことさらふしぎとは思わないようなところがあったのだ。
「漁火じゃ」
本丸に入ると、右京太夫はあわてて出迎えた四、五人の侍にいった。
「奈良からとらえてきた山伏はどこじゃ」
まったく素直にこうきいたのだが、その侍たちは、五人の根来僧から、「漁火さまがお帰りになるまで、こやつは天守閣下の石牢に入れておく」ときいていたのである。
「例の石牢に入れてありまするが……法師どのらはまだ眠っておられまする。起こして参りましょうか」
「いや、よい。それよりまず見たい。案内しや」
そして、右京太夫は武士たちといっしょにその地底の石牢へ下りていった。
入ってきたいくつかの影に、格子の彼方で笛吹城太郎は、ねばりつくようなまぶたをあけて、さすがに眼を見ひらいた。
右京太夫はじっと彼をながめた。心中、この石牢の景観の妖しさにおどろき、さらにたった一夜で別人のようにやつれはてた山伏の顔に息をのんでいる。
……さて、彼をどうして城からつれ出したらよかろうか。入るには入ってきたが、この男をつれてまたひとり城から出たら、こんどはだれしも怪しく思うであろう。
「あの男を縛って、牢の外に出してたも」
彼女はいった。
武士たちは槍をかまえて入り、城太郎を縛りあげて格子の外に出した。
地上へ出る石段と、天守閣の内部へ上る石段と、ふたつにわかれたところへくると、
「わたしは、この男にちとききたいことがある。そなたたちは退っていや。法師らは、わたしが呼ぶ」
と、右京太夫はいった。
そして、茫然と見送っている侍たちの眼を、背に灼けつくように感じながら、彼女は城太郎の縄をひいて、天守閣への石段を上がっていった。侍たちの姿が見えなくなると、彼女はふりむいた。
「笛吹城太郎」
城太郎は血ばしった眼で睨んだ。
「東大寺で救われた三好義興の妻です」
ほとんど判断力を失ったような城太郎の顔に、しだいにひろがってきた亀裂のような驚愕であった。
「あなたを救いにきました」
「――右京太夫さま!」
「くわしく話しているひまがありませぬ。一刻も早うこの城を出ねばならぬが、ふたりで出ていったら、怪しまれてすぐに追手がかかりましょう。どうしたらよかろうか」
「上へ」
と、城太郎はいった。
――泥のような眠りからさめた五人の根来法師が、この怪事の報告をきいたのは、約一刻ののちであった。
やがて、天守閣の最上層の高欄から、眼もくらむような断崖の下へ、ながいながい一条の綱がたれ下がっていることが発見された。
この報告をきき、この綱をみても、とっさに根来僧らにも判断がつかなかった。
しかし、ともかく石牢から――いや、信貴山城から笛吹城太郎が消滅したことだけはたしかだ。
彼らは足を空に、信貴山城をとび出した。
【三】
信貴山をはせ下れば|斑鳩《いかるが》の里だ。
もうまったく日ののぼった平野の道を、疾風のごとく夢中で駆けて――五人の法師が|郡山《こおりやま》に入ったとき、奈良の方からやってきた松永弾正の行列とゆき逢った。
きのう一日一夜、右京太夫をもとめて奈良一帯をさがしぬいた松永弾正はついに獲物を得ず、ひとまず信貴山城へひきあげるべく、朝早く奈良を出たものであった。
右京太夫の失踪については、そのゆくえのみならず、その理由についても、彼はまったく見当がつきかねた。恐ろしく気にはかかるが、京へかえった三好義興の事後の行動も|端《たん》|倪《げい》をゆるさないし、とくにその内部に漁火を送りこんだ以上、遠からず向こうからか、こちらからか、なにか事を起こさなければすまない予感があるから、なによりもまず城にかえって、いろいろと準備する必要がある。
郡山で五人の根来僧に逢って、弾正は信貴山城に起こった怪異をきいた。
「――右京太夫じゃ!」
笛吹城太郎をのがしたことを怒るよりも、電光のごとくひらめいたこの考えに、弾正は衝撃された。
「伊賀の忍者を助けて逃げたその女は、右京太夫じゃ!」
「えっ、では、あれは漁火さまでは――」
「漁火は、京へいったわ」
根来僧はそのことをはじめてきいた。
「う、う、右京太夫さまが……ひとりで……信貴山城へ……笛吹城太郎を助けに……」
とぎれとぎれにいったが、それらの言葉がとっさに頭の中で結びつかない。彼らは阿呆みたいに口をアングリとあけたままであった。
「右京太夫は三好勢から消えた。それをおれはいままで探しておったのじゃ。ううむ、さては笛吹を救いに信貴山城へ走ったのじゃな。な、な、なんたる不敵な。――」
「なぜ、右京太夫さまが、きゃつを救いに――?」
「そんなことは、おれの知ったことか?」
弾正は吼えた。が、彼の脳裡でこのとき漁火がいった――「あの若者は平蜘蛛の釜で猿沢の池の水をくんできて、右京太夫さまに口うつしに飲ませておりました」――という言葉がかすめ、ぎょっとした。
漁火は猿沢の水といったが、きゃつ、右京太夫さまに淫石の茶を服ませたのではないか?
「ふたりをつかまえろ、その両人が信貴山城から逃げた時刻からみるに、笛吹はともあれ右京太夫の足で、かようなところまできておるはずはない。――かならずまだ斑鳩の里のいずれかにひそんでおる。ひきかえして、捜せ!」
五人の法師はもとより、弾正麾下の兵たちは狂奔しはじめた。
法隆寺の五重の塔の屋根に、笛吹城太郎はヒタと伏して、ゆるやかに|相《そう》|輪《りん》をまわりながら、下界の四方を見まわしていた。
薄暮であった。
その頬の凄壮さはもとより信貴山城をのがれ出したときと変わらないが、わずか数刻のあいだに眼が異様な精気とかがやきをとりもどしているところをみると、どこかで食をとったものであろう。あるいは、ほんの数時間にせよまどろんだのかもしれぬ。
「ははあ」
と、彼は微笑した。
「あんなところを走ってゆきおる」
眼のかがやきに愉しげなものさえみえるのは、右往左往する敵をおもしろがっているのか、精気を回復したせいか。――いや、それは奈良をめぐるいくたびかの死闘のあいだには見られなかったものだから、べつに理由のあることかもしれぬ。右京太夫はどこにひそんでいるのか、むろんそんなところにいるはずがない。
偵察したところ、松永の兵たちは斑鳩の里一帯をしらみつぶしに捜索しているが、それは同時に四分五裂しているということでもあった。
「や、……」
城太郎の眼がぴかとひかった。
中門をくぐって、ひとりの法師が、追いすがる二人の僧をはらいのけはらいのけ、境内に入ってきたのだ。制止しようとしているのは、もとより法隆寺の僧である。
ヒョロリと背がたかいその法師を見て、
「風天坊だな」
と、城太郎はつぶやいた。
風天坊は右手に金剛杖、左手に鎌をにぎっていた。鎌のひかりよりも、それをにぎっている左手に、城太郎は心中うならざるを得ない。それはかつて城太郎に切りおとされたものであるからだ。
ふいになにやら|怪鳥《けちょう》のような声で風天坊がさけんだ。
その左手から鎌がとび、五重塔と相対する|金《こん》|堂《どう》の扉にぐさっと立ちかけて――そのまま空中から、はねかえって、ブーンと音たててもと通り左手におさまった。
二人の僧はこの幻妙の術にぎょっとしたように眼をむき、それからころがるように中門から外へ逃げていった。
僧を追いはらった風天坊は、うす笑いしてまた金堂の方へちかづきかけた。その中には、当寺|根《こん》|本《ぽん》の本尊たる|金《こん》|銅《どう》|薬《やく》|師《し》|像《ぞう》と|金《こん》|剛《ごう》|釈《しゃ》|迦《か》|三《さん》|尊《ぞん》と、|弥《み》|陀《だ》三尊が安置してあり、また有名な|玉《たま》|虫《むし》|厨《のず》|子《し》がおさめてある。
扉に手をかけたとき、
「風天坊」
空から声がふってきた。
風天坊は|基《き》|壇《だん》の上から稲妻のようにふりむき、徐々に五重の塔の上に視線をうつしていって、
「――おおっ」
と、さけんだ。四、五歩、中門の方へ走りかけて――空から、
「ふふん、仲間を呼んでくるか。では、おれはゆくぞ」
という声をきくと、またそこに釘づけになり、もういちど天空をふりあおいだ眼が、しだいに凄じい殺気に血光をはなって来た。
「城太郎、|相《あい》|対《たい》の勝負を望んでそういうか。……おもしろい、おれひとりで勝負してやろう」
両手に金剛杖と鎌を翼のごとくひろげると、
「よいか。――ゆくぞ!」
さけぶと、墨染めの袖をひるがえし、|鴉《からす》みたいに空をとんで、五重の塔の一重めの屋根におどりあがった。とみるや、ぱっとまた空中にはね出して二重めの屋根に立ち、更に風の中を回転して三重めに達し、息つぐひまなく四重めの屋根におどりあがった。
彼の誇る忍法枯葉返し。――あえて笛吹城太郎の挑戦に応じた自信も道理、その肉体はみえないばね[#「ばね」に傍点]と鎖につながれているようで、まさに地上の物理学をもってしては律することのできぬ超人的なわざだ。
「伊賀者」
四重めの屋根に立ち、最上層の屋根の軒をあおいで、風天坊はニヤリとした。
敵にとっては逃げるところのない五重めの屋根の上に、じぶんにとっては無限の空間を背後にもった決闘だ。さらにこの杖、この鎌に、投げて当たれば敵ははるか下界の大地へ転落するし、当たらなければまたじぶんの掌中にはねもどる。
――きゃつ、なにを血迷うてこの屋根に上がったか? いや、おれを呼んだか?
あざ笑いつつ、風天坊はもういちどいった。
「覚悟はよいか!」
声はすでに空中にあった。
大鴉のごとく羽ばたいたからだが、五重めの屋根の空へ舞いあがって――いや、舞いあがろうとしたとたん、上からも大鴉が舞い下りて来た。もとより風天坊はそれまで空中にはね出すたびに、大空からのマキビシ、手裏剣にそなえて、杖と鎌をかまえていた。げんにいまもそれをかまえて舞いあがったのだが――襲いかかったのは、敵の全身そのものであった!
なんたる無謀、笛吹城太郎は百五十尺の大空へ、風天坊同様に飛び出したのである。
|戞《かつ》|然《ぜん》! 音たてて城太郎の刀と風天坊の鎌がかみ合い、鎌は空中に飛ばされた。しかし鎌よりも、人間のおちる方が早かった。
「わあっ」
風天坊は絶叫した。
彼の腰は、城太郎の両足に巻きつかれていた。さしもの忍法枯葉返しも二人ぶんの重力ではきかず、ふたりはからみ合ったまま、風を切って、大地へおちていった。
それが――大地におちなかった。
第一層と第二層の中間でとまった。とまった刹那に、城太郎は風天坊の首をかき切った。
血まみれの刃を口にくわえて、右手で綱をひっつかむ。彼の右の足くびには綱がむすばれて、五重の塔のてっぺんの|相《そう》|輪《りん》につながっていたのである。
足をはなすと、首のない風天坊の屍骸は、これだけ大地へおちていった。なお、しっかと右手に金剛杖をにぎったまま。――
生首の総髪をひとつかみにして帯にはさむと、城太郎は綱をつたって、もういちど|猿《ましら》のごとく五重の塔の上へのぼっていった。
――最初、大地を蹴って風天坊が舞いあがってからこのときまで、一分たつかたたないかのことであったろうが、斑鳩一帯を血眼で捜索していながら、夕空のこの死闘に気づいたものは、松永の兵でひとりもなかった。法隆寺の僧が、五重の塔の|水《すい》|煙《えん》に一つの生首がぶら下がっていることに気づいたのは、その翌朝である。
その夜明け前、法隆寺からそっと忍び出て、奈良へ走っていった二つの影があった。
「右京太夫さま、お背負いいたしましょうか」
「いいえ、大丈夫です」
「お背負い申しあげた方が早いのです」
城太郎は四方を見まわしていった。
「まだ松永のものがこのあたりをウロウロしておりますので」
「――では」
右京太夫は、はじらいながら城太郎の背にかぶさった。彼の力をもってすれば、蝉の羽かとも思われるほど軽い右京太夫のからだであった。
その肩から、|暁闇《ぎょうあん》にもキラリと金緑色にひかるものが地におちた。
「おや」
「まあ、玉虫の羽根です。……玉虫のおん厨子から、いつおちたのかしら」
城太郎の肩の上からのぞきこんだ右京太夫が驚いていうと、匂やかな息が城太郎の頬にふれた。彼は、自分の背負ったものが、あえかな玉虫の精であるような気がした。
城太郎は右京太夫を背負ったまま疾駆した。まだ夜明け方の奈良の町へ入ると、人目のないのをさいわいに、ふたりは東大寺の焼け跡へいってみた。たんなる好奇心ではない。――あの炎のなかの記憶をたしかめるために、ふたりの足はそこに吸い寄せられたのだ。
凄じい|灰《かい》|燼《じん》のあとであった。焼けた木や金物の黒い広野といってよかった。風が吹くたびにあの世のように白い灰が立っていた。
――その果てに、大仏はそそり立っていた。
蒼味がかった|黎《れい》|明《めい》の空にそそり立ってはいるが、その大仏には首がなかった。首のない大仏は、劫火に煮えたぎったあとを腫物みたいにぶつぶつとした泡にとどめて、なんとも名状しがたいもの凄じい怪物と化していた。
「……あっ」
身ぶるいをし、また茫然としてそれを仰いでいる右京太夫を、いきなり城太郎は横抱きにして、その首なし大仏のうしろの方へ回った。
遠くから四つの法師の影が走って来た。
「はてな、いまここに二つの影が立ってみえたが」
「風に立つ灰がえがいた幻ではないか。――」
「いや、そんなはずはない。――ひょっとしたら、きゃつらではないか?」
「あの伊賀者が、いまごろまで斑鳩あたりをウロついておるはずはないのだ」
その声を、大仏の肩のあたりで、城太郎と右京太夫はきいていた。
風天坊の首なしの屍骸はかくしたから、まだ昨夜のうちにはだれにも気づかれなかったが、それでも次第に法隆寺界隈に不審をおぼえ出したものとみえ、松永の兵士たちが夜じゅうあたりを|徘《はい》|徊《かい》して、夜明けちかくなるまでそこを離れられなかったのだが――はやくもこの奈良の町へ先行して来ていたとは、カンがいいのか、考えすぎか、とにかく執念ぶかいやつらにはちがいない。
いうまでもなく、それは四人の忍法僧であった。虚空坊、空摩坊、破軍坊、金剛坊。
大仏供養
【一】
人も知るように、奈良の大仏は数度焼けたり、崩れたりした。
天平の|御《み》|代《よ》、聖武天皇によって|建立《こんりゅう》されてから約百年後、地震によって大仏頭がおち、ふたたび|鋳《い》て|開《かい》|眼《げん》の式を行なったが、さらに三百余年を経た治承四年、平家の南都攻めでまた炎上し、鎌倉時代に三度めの開眼供養をした。
それがこの永禄の世、松永弾正の暴挙によってまたも大仏殿は焼失し、大仏頭は砕けおち、大仏が再興されたのは元禄四年であり、大仏殿が再建されたのは宝永六年である。
つまり、現代われわれが見る奈良の大仏頭は江戸時代のものであり、尊体は鎌倉時代のものであり、奈良時代のものは腰部以下の|蓮《れん》|弁《べん》にすぎないのである。
すなわち、永禄から元禄まで百二十余年、大仏さまは首がなく、しかも大空の下に、雨に打たれ、風に吹かれるままという世にもいたましい姿で鎮座していたのであった。
首のない大仏さま。
もとより礼拝するものもない。それどころか、ちかづくにつれて、その焼けただれた金銅の肌のむごたらしさに、みな足をとどめ、それから顔をそむけて逃げ去ってしまう。
ただ、蒼天から舞い下り、首のない穴から嬉々として入り、また嬉々として飛び立ってゆくのは燕のむれだけであった。
人々にはそう見えた。しかし、燕は中に入って、そこに思いがけなく人がいるのにびっくりして逃げ出してゆくのであった。
大仏の腹の中に、笛吹城太郎と右京太夫が住んでいた。
なにしろ首をのぞいても、五丈三尺五寸という座高をもつ大仏さまだ。その胎内には無数の|※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]材《きょうざい》が縦横に組まれて、支柱をかたちづくっていた。いちばん下には雨水がたまって、古鏡のようにうすびかっている。雨はいくどかふったが、焼けただれた金銅の亀裂からながれ出して、その残りが底にたたえられているのだ。
その水にちかい巨大な横の※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]材の上に、寝床をつくり、右京太夫は横になっていた。この大仏が燃えたときの衝撃と、そのあとの信貴山城への往還の疲労から、深窓の花のようにたおやかな右京太夫は、病んで、数日ここに横たわっているのであった。
むろん、四人の根来僧と松永弾正の家来たちの捜索の眼をのがれるためだ。根来僧たちはいちど夜明けの薄明に城太郎と右京太夫を発見したように思い、そのときはそれを錯覚として立ち去ったが、どうしても奈良のどこかにひそんでいるものとみた推定をすてず、あれ以来奈良から四方に出る路をすべて絶ち、執拗に町じゅうの捜索をつづけているのであった。
寝具も食物も、夜になってから城太郎だけが外に出て、手に入れて来た。
病んだ右京太夫のからだを案じつつ、城太郎は右京太夫の恢復を恐れた。病気というほどではない。疲労がすぎたというていどだ。
ふたりは語り合い、すべてのいきさつを知った。
しかし、飽きずにまた語り合った。右京太夫は、ふしぎに大仏殿炎上のときの恐怖や、信貴山城の石牢で見た光景などを語りたがらず、いちばん|篝火《かがりび》のことをききたがった。
「おまえの妻はなにが好きでしたか」
とか、
「篝火はどんな唄をうたいましたか」
とか、
「篝火と、よくどんな話をしましたか」
とか。――
まるで現在のじぶんの境遇も忘れたかのような問いを、飽きもせず、いくども城太郎に投げかけた。それにこたえながら、城太郎は楽しかった。苦しい中にも楽しかった。
苦しいのは、篝火のことを思うからだ。篝火の死霊の切々たる訴えは、なお|耳《じ》|朶《だ》にこびりついている。
「いつかの約束――笛吹城太郎は、篝火のほかに女を断つという誓いを忘れないで。――」いわんや彼は、その篝火の敵を討つために、これからもなおいくたびか死地に赴く運命を抱いているのだ。
女を断つ。……
おれは右京太夫さまを恋しているのか?
恋してはいない。恋などするには、あまりにもったいない。篝火のような|傾《けい》|城《せい》とはちがう。右京太夫さまは、第二の将軍ともいうべき三好家の若殿さまの御台さまなのだ。身分ばかりでなく、その玲瓏たる姿、心、それはまさに天上の女人であった。そしてなによりおそろしいのは、右京太夫さまに夫義興さまがあるということであった。妻を奪われた夫の哀しみを、おれほど知っているものはない。――
にもかかわらず、この否定や自制や悶えの中にこもるふしぎな甘美さはなんだろう?
薄暗い大仏の胎内の底で、水あかりに笑む右京太夫の無邪気な顔から、城太郎はいくども眼をそらそうとした。しかも、そらそうとすればするほど、眼はいつしか恍惚とその笑顔に吸いつけられているのであった。
――それまで城太郎は、例の「淫石」を懐中にひそめていたが、右京太夫を見ているうちに、その物質が突如として恐ろしく、けがらわしいものに意識されて、ひそかに焼跡の灰の中にすててしまった。
無邪気な笑顔で城太郎を見つつ、右京太夫も悩んでいた。
この男は何者か、と思う。素性もしれぬ伊賀の郷士ではないか。彼を救ったのは、じぶんが救われたからだ。ここにとどまっているのは、自分が病気だからだ。それだけのことだ。いまの疲れさえなおれば、じぶんはすぐにも京へ帰らねばならぬ。
そう思っているのに、右京太夫はなぜかいつまでもこの奇怪な棲家の中に病んでいたかった。甲斐甲斐しく看病する城太郎の一心不乱の顔をみていると、京へ帰った夫義興の面影さえうすれた。いや、それは大仏の胎内でこの伊賀の忍者といっしょに住み出してからのことではない。あの、この世ともあの世ともしれぬ塀のかげで、炎の遠明りを受けて幻のようなこの男の顔を、最初に見たときからのことだ。
最初に見た? ――彼女は、ずっと以前から城太郎を知っていたような気がした。あれは運命がひきよせた前世からの魂同士の再会ではなかったろうか。じぶんはあの篝火とやらの生まれかわりではあるまいか。それならば、この男とともに、山と雲のみの伊賀国へいっても当然のことだ。
右京太夫は戦慄した。そして城太郎をおそれ、にくもうとした。にもかかわらず、彼をみると、彼女はとろけるような笑顔にならずにはいられなかった。苦しんでいる城太郎はよくわかり、わかると彼女は、生まれてはじめてといっていい悪魔的な心になって笑わずにはいられないのだ。しかも気がついてみるとそんな戦慄や皮肉を忘れはてて、ただ春風に吹かれる花のように無心に笑んでいるのであった。
朝が来、|夕《ゆうべ》が来た。
昼は灼熱の太陽が光の瀑布となって大仏の首の穴から降った。しかし、それ以外は厚い金銅とふとい※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木にさえぎられ、底の水に熱を吸われて、空気はヒンヤリと涼しかった。そこには、ほんとうの雨の滝さえおちなかった。夜は高いまるい首の穴に、その部分だけ月輪が通り、銀河がかかった。
ふたりの眼には、この怪奇壮大な大仏の胎内が、幻の城のように見えて来た。
この世に生きているものは、ふたり以外に存在しない幻の城。――いや、燕だけがやって来た。はじめおどろいて逃げていった燕は、そのうちに馴れて安心したのか、へいきでそんな下まで訪れるようになっていた。そして、ふたりそのものが、いまや二羽の燕のようであった。
【二】
……七日たったろうか。十日たったろうか。
月が西に沈みかかった夜明け前のことであった。いつものように城太郎は、ある民家からむすびを仕入れて大仏に帰って来た。
仏頭がおちたあとの突起に綱をひっかけ、音もなくスルスルと彼は胎内の底へ下りて来た。
例の巣に、右京太夫はまだ眠っている。闇黒の中であったが、闇にも見える忍者城太郎の眼のせいばかりでなく、夜光虫のように|仄《ほの》びかって浮かんでいる右京太夫の美しい寝顔であった。
彼の巣は、右京太夫の寝床より一段下の※[#「※」は「木+共」Unicode=#6831]木の上に作ってあった。右京太夫を目覚めさせないように、そこにいちど横たわった城太郎は、ふと大仏の首の穴からのぞく蒼い夜明け前の空から、ヒラヒラと白い一枚の紙が舞いおちて来たのを見て、がばと身を起こした。
|猿《ましら》のように|跫《あし》|音《おと》もたてず、※[#「※」は「木+共」Unicode=#6831]材をそっとわたって、彼はその紙片を受けた。
「なんじ空摩坊に|尾《つ》けられたり。
空摩坊はなんじのゆくえをつきとめ、馳せかえりぬ。三人の|眷《けん》|属《ぞく》を呼ぶためならん。おそらくは右京太夫さまを伴いて脱出するのいとまなからん。
われ、なんじの身代りとなりて彼らの眼をそらすべし。なんじの行者衣装をこの綱に結べ。いそげ」
城太郎は、はっとして空を仰いだ。高い首の穴に何者の影もない。
敵のたくらみか、といちど思った。が、ふたたび紙片に眼をおとした彼は、思わず心中にうめいた。見おぼえのある文字だ。それは篝火を奪われたあと、伊賀街道で失神からさめたじぶんの懐にあったふしぎな紙片とおなじ筆蹟であった。
あれはなにびとか、といまでもときどき彼は思い出すことがある。わからない。そしてまた、先日猿沢の池で根来僧らと激闘したとき、法師らを四散させた黒衣の騎馬隊を思い出す。あの紙片を残したものは、その黒衣の騎馬隊とつながりがあるのではないか? また右京太夫からきいたところによると、その一人が右京太夫を三好義興のところへ送りとどけたという。
猿沢の池でのときは、ふと服部一党のことを思ったが、右京太夫の一件をきけば、服部一党がそんなことをするわけもなく、ましてやあの伊賀街道の忠告書をかんがえると、あのとき伯父の半蔵が弾正の|爪《そう》|牙《が》たる根来僧のことを知っているわけはないのだから、この疑いはいよいよ否定される。
といって、ほかに思いあたる人間はこの世にないが――少なくともそれはじぶんに悪意のある人間ではないらしい、城太郎は漠然と感じていた。
城太郎は、いまこれらの思いを、刹那に脳裡によぎらせた。一瞬、彼は迷い、つぎの一瞬彼は決意した。
この突然の警告には従うべきである。ここにいるのは、じぶんだけではない。迷うことは、ぬきさしならぬ危地に陥ることだ。ことは遅延をゆるさない。
彼は、クルクルと下帯ひとつになり、きものを垂れ下がった綱にむすびつけた。信貴山城を逃げるとき盗んできた刀だけは※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木上においた。
なんの声もなく、綱は頭上にひきあげられていった。
すぐに、きものの消えた綱だけがふたたび垂れ下がってきた。それから、また一枚の紙片が。――「隙を盗んで、大仏を逃げよ」
夜明け前の奈良をあるいていた空摩坊は行者姿の笛吹城太郎の姿を発見し、襲撃しようとして右京太夫のことを思い出した。それで彼を尾けた。
城太郎が首なし大仏の中に消えたのを、さすがに彼はアングリと口をあけて見あげていたが、一息ほどの思案ののち、疾風のように馳せ去った。三人の仲間を呼ぶためだ。
ようやく根来僧も、あの伊賀の若い忍者が最初に思ったほど手軽いやつではないと観念をあらためていた。味方ながら無双の魔人とゆるしていた羅刹坊、水呪坊、風天坊らが、着々と討ち果たされたことを思えば、それも当然だ。
たちまち空摩坊は、金剛坊、虚空坊、破軍坊をつれて大仏の前に駆けもどってきた。
いかにも――空摩坊が城太郎の巣をさがしあてたことを知った人間がたとえ同時に城太郎に、脱出を忠告しても、すくなくともたおやかな右京太夫を伴っているかぎり、両人ともに逃げることは不可能であったにちがいないほどわずかな時間であった。
「……うーむ」
大仏を仰いで、四人の忍法僧はうなった。彼らは大仏の右肩に座っている白い行者姿を発見したのである。その上に腰を下ろし、立てた片膝に頬杖ついている姿は、下界の惨たる灰燼のあとをながめて、|修《しゅ》|羅《ら》の世をなげくあまり忘我の境にあるとも思えたが、ちかづく四人に気がついたふうもなくそのままの姿勢でうごかなかったのは、彼らを小馬鹿にしているようにも見えた。
「金剛坊!」
と、破軍坊がいった。
「きゃつをあそこから追い落とせ!」
「また首の穴に逃げこむかもしれぬぞ」
「ならばいよいよ袋の鼠だ」
「よし!」
さけぶと、金剛坊は腰の帯にさしつらねた天扇弓をひとつかみして、ビュッと大空へ投げた。それは大仏の右肩の空でパッとひらくと、例の針を下へむけて、雨のごとくふりそそぎはじめた。
行者は立ちあがった。それはふいに根来僧に気がついたようなあわてたそぶりであった。あわてたそぶりで、彼は大仏の右肩から右腕をつたい、タタタタと右掌まで駆け下った。
「きゃつ!」
四人がさけんだのは、大断崖に似た金銅の壁をすべりもせず、足に吸盤のあるように駆け下りたその体術と、右掌のかげにかくれて姿を消したその|狡《こう》|猾《かつ》さに思わず心で地団駄ふんだうめきであった。
大仏の右掌は垂直にちかく立てられている。――
「乗れ」
と、虚空坊がいって、背中からぬきとった長大な傘をぱっとひらいた。
その上に、金剛坊、空摩坊、破軍坊が軽々ととび乗った。みじかい傘の柄が虚空坊の両手のあいだでキリキリとおしもまれると、傘はフワと空に舞いあがってななめ上に――大仏の左掌に向かってながれ飛ぶ。
左掌の上に達すると傘は自然とたたまれて、その掌の上に三人をこぼし、あと大仏の右袖に軽くぶつかってそのまま台座へすべりおちてゆく。
「笛吹城太郎」
「きょうこそこの大仏とおなじく首なしにしてくれるぞ」
左掌の上に三人の忍法僧は、ならんで立ってわめいた。大仏の左掌は水平で、そのひろさは、たたみ四畳半くらいであった。
そこに立てば、右掌のかげにすっくと立っている行者の姿はまる見えだ。――とはいえ、そのあいだの距離は、なおちょっとした峡谷ほどあって、それに行者頭巾の布をまわして眼ばかりのぞかせた笛吹城太郎がどんな表情をしているのかはよく見えぬ。
破軍坊の腰から一条の鎖がほとばしり出た。それが横に旋回したかと思うと、たちまち二丈ちかい鋼鉄の棒のように空中へ上がっていって、そのままいっきに右掌のかげの城太郎めがけてたたき落とされた。
行者は飛んで避けた。
五本の指が壁のようにさえぎって前へはすすめぬ。うしろへ飛んだ彼をめがけて、その頭上に無数の天扇弓がながれ飛んだ。――と、ふいに、
「おおっ」
と、空摩坊がさけんでよろめいた。その右肩に天扇弓ならぬ一本の矢がつき立っている。――
とみるまに、そのあたり一帯――巨大な金銅の肌に、|霰《あられ》のような音をたてて矢があたり、折れ飛ぶのが見えた。
「黒衣の騎馬隊だっ」
下界で絶叫がきこえた。虚空坊の声だ。
左掌の上の三人は、大仏の前――|黎《れい》|明《めい》の灰燼の中に十騎あまりの黒衣の影がまっ黒な馬にのって、なお弓に矢をつがえているのを見た。
「きゃつら――また現われたか?」
うめいたとき、右掌のかげの行者頭巾は白鷺みたいにいっきに大仏の右膝にとびおり、さらに台座へと跳躍した。天扇弓を斬りはらったため、彼はすでに抜刀している。
「待てっ」
台座の下にいた虚空坊は、すべりおちて来た彼の武器「かくれ傘」をまだ拾ってはいなかった。
発狂したようなわめき声をあげ、台座から羽ばたきおりる行者めがけて大薙刀で斬りつけた虚空坊は――相手の姿勢からたしかに胴斬りにしたと思ったのに――ただ軽くなった薙刀の柄を空振りして、みずからキリキリ舞いをしただけである。
大薙刀を千段巻きから斬っておとした山伏は、そのまま灰燼のあとをななめに逃げてゆく。――その向こうには、なお矢をつがえた黒衣の騎馬隊が、にくらしいほどおちついて、輪乗りしながら待ち受けていた。
「きゃつら」
「のがすな」
大仏の左掌から肩の矢をひきぬいた空魔坊と破軍坊もまろびおちた。
逃げていった行者を馬の一頭にひきずりあげ、相乗りさせると、黒衣の騎馬隊は悠々とひきあげにかかっている。
まだうずたかく残る灰を黒煙のごとく蹴ちらして、虚空坊、破軍坊、空摩坊は追っかけた。いまは彼らは、笛吹城太郎そのものよりも、この黒衣の騎馬隊のたとえひとりでもひっとらえて正体をあきらかにせねば腹の癒えぬ思いであった。
【三】
――大仏の首の穴ちかい※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木の上に這って耳をすませていた裸の笛吹城太郎は、外からひびいていた争闘の物音が消えたことを知った。そして、
「――隙を盗んで、大仏を逃げよ」
という先刻の忠告状を思い出した。
遠く鉄蹄の音が遠ざかってゆく。外の事態はよくわからないが――いまだ。
彼は綱をつたい、下におりた。
「奥方さま」
と、彼はいった。むろん右京太夫は目覚めて、身支度はしていたが、
「どこへ、城太郎」
と、哀しげにいった。
「どこへ?」
城太郎は、右京太夫に優しく笑いかけた。
「どこへでも」
そして彼女の胴に手をまわした。彼女をかかえて、綱をよじのぼろうとしたのである。そのとき彼は、ふいに右京太夫をつきとばすようにして※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木のかげにともに身を伏せた。
「見えたぞ」
空から声が降ってきた。
「いや、見えてござるぞ、右京太夫さま。おかくれなされてもむだだ」
おぼえがある。金剛坊の声であった。
そして、大仏の首の穴に、総髪の青黒い顔がのぞいた。とみるまに、その全身があらわれて、綱をつたわって下りてきた。綱をつかんだまま、一番高い横なりの※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木の上に立ち、下をのぞきこんでまたいう。
「笛吹城太郎は逃げた。いや、逃がしはせぬが――ともかくもこの大仏からは逃げ去った。しかし、あと右京太夫さまが残っておわすことは、金剛坊、存じておるのだ」
その通りであった。さっき大仏の左掌の上で、ほかの二人とともに駆けおりて、逃げゆく行者頭巾を追おうとし、ふいに彼は、この大仏の胎内に右京太夫だけは残っていることを思い出したのだ。
はたせるかな、大仏の底に、たしかにチラとはなやかな色どりが見えた。――
「おいでなされ、右京太夫さま、おとなしゅうなされば、当方も手荒なことはいたさぬ」
また綱を伝って、一段下の※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木に下りる。
城太郎は音もなく、※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木のかげからかげにうごいた。いま、一瞬に全身に浮かんだ冷たい汗のために、不覚にも吸いついた手足がすべりそうであった。
冷汗は、発見されたという恐怖のためばかりではなかった。すぐに彼は、金剛坊が見つけたのは右京太夫さまだけであることを知った。金剛坊は、行者の衣装をつけた「あの人物」をじぶんだとばかり思って、ここにいるじぶんを眼に入れなかったのだ。いまならば――この刃を投げれば、きゃつを討てる! いちどそうかんがえて、刀の柄に手をかけ――待て、きゃつひとりを討っても、あとにまだ三人の根来僧がおるのではないか、と思いなおした。汗は、この殺気の衝動をねじふせた渾身の努力のためににじみ出したものであった。
「右京太夫さま、いちど信貴山城にゆかれましたそうな」
金剛坊はまた下りてきて、※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木にとまってのぞきこむ、眼はじいっと下の右京太夫にそそがれている。しかし徐々に※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木のかげからかげを離れ去った笛吹城太郎には気がつかなかったらしい。が、実に用心ぶかいやつだ、一方の手を腰にたばさんだ天扇弓からはなそうとはしない。
「どうでございました。なかなかよい城でござろうがな」
綱をつたって下りる金剛坊と、※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木のかげを這いのぼる城太郎は、空間的に上下入れちがった。
「もういちどおいでなされ、このたびこそは弾正さまねんごろにおもてなしなされましょう」
すでに右京太夫と一間の距離に迫って、頭上からにやっと、口を耳まで裂いた金剛坊が、このときなにを感づいたか、鞭みたいに※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木の上にはねかえって、
「だれだっ」
吼えると、その手から、まさに「扇」のごとく天扇弓を放射した。
が、その大半は無数に入りくんだ※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木につき刺さり、さえぎられ、そして彼は、その一本をつたわって馳せよってくる裸体の若者の姿を見とめた。
「あっ、笛吹っ」
恐怖の眼をむいて、もういちど腰の天扇弓をなげようとする。――すでに眼前の頭上に迫った笛吹城太郎は、
「四人目だ!」
絶叫して、その総髪の頭から、真一文字に斬り下げた。
――しばらくののち、首のない大仏の左掌にのせられた法師の首が、唐竹割りの傷から血の|網《あみ》を張って、夏の朝のひかりに照らされていた。
奈良街道の方へ向かって、右京太夫の手をひいて走る裸の笛吹城太郎は、うしろから駆けてくる鉄蹄のひびきに、はっとしてふりむいた。
馬は二頭、鞍に人影は見えなかった。
城太郎はその一頭の鞍に、じぶんの行者衣装がひとたばにして、結えられているのを見た。それをとらえて衣装をほどくと、一枚の紙片が地に舞いおちた。
「京へゆけ。三好義興さまに魔性の女人とり|憑《つ》けり。右京太夫さまを返さざるは、義興さまのみならず右京太夫さまをも地獄に堕すことなり。|臈《ろう》たき女人を修羅の世界にさそうなかれ。
京へゆけ、笛吹城太郎」
女郎蜘蛛
【一】
……三好義興は|閨《ねや》に横たわり、大きく胸をあえがせていた。
深夜だ。|絹《きぬ》|雪洞《ぼんぼり》の灯が、天井に大きな輪をえがいている。その灯の輪がグルグル回り出した。それが虹みたいに七彩の色に変わった。――義興の全身が、大きく|痙《けい》|攣《れん》した。
彼の股間から、女が顔をあげた。コクリコクリと、白いのどがうごいた。
いちど義興の眼に、天井の虹の輪はすうっと消えたが、その代りに唇をぬれひからせた|妖《よう》|艶《えん》な花のような顔が、ちかぢかとさしのぞいた。
「おいしい。……」
笑った唇から、栗の花粉のような匂いのする吐息が吹きつけられる。すべっこく、ねばねばした女の肉は、たわわに重く、もう義興の肌に重ねられていた。
「ねむらせてくれ。ねむい。……」
と、義興はいった。
ねむいよりも、彼は後頭部がいたんで、吐き気さえもよおしている。この刹那は、ほんとうにこの恋する妻がいとわしかった。
「いいえ、ねむらせない。わたしたちはまだ若いのですもの。若い日の夜は、そんなに長くはありませんもの」
そむける義興の唇に、ぬれた唇がなまめかしく吸いつき、舌を微妙にはたらかせながら、たおやかな四肢はもとより、熱い乳房も、なめらかな腹も、からだじゅうの筋肉を淫らにすりつけ、波うたせ、まといつかせる。
いったい妻はどうしたのだろうか、京に帰ってから、いくたびとなく義興の頭を去来するのはこのおどろきであった。まるで人が変わったとしか思われない。あのつつましやかで愛くるしかった妻が、奈良からもどってから、じつに恐るべき淫婦と化した。
あの大仏炎上の衝動が、彼女の細胞を染めかえたのか。あの|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎が、彼女の脳髄を変質させてしまったのか。そうとでも解釈するほかはない。
|般《はん》|若《にゃ》|野《の》でいちじ彼女が行方不明になった。あとできけば、|輿《こし》にのっていると、急に輿が燃えあがったような恐怖にうたれて、夢中でのがれ出し、あてどもなくフラフラと野をさまよっていたのだという。――それも、大仏殿の炎の恐怖からきた後遺症のあらわれだったのだと義興は解釈した。
京の二条のこの屋敷に帰ってからもそうだ。当然彼女が知っていなければならぬ記憶を喪失していることがある。そんなとき、彼女は美しい瞳を茫とひらいて、放心状態になる。そんな妻を見ると、義興はたえがたいいとしさといじらしさをおぼえるのであった。
しかし、変質した夜の妻は恐ろしかった。はじめおどろき、つぎによろこび、夜のくるのを待ちかねた義興も、しだいに夜が憂鬱になってきた。しかも憂鬱な義興をしだいに酔わせ、はては忘我の世界にひき入れてしまうほど、彼女の|蠱《こ》|惑《わく》は凄じかった。
が、ついに。――
「奥」
たまりかねて、義興はさけんだ。
「わしはまえのそなたの方が好きであった。どうしたのか、だんだんきらいになるぞ」
かつてはゆめにも吐いたことのない無情な言葉を吐いて、彼は妻のからだをはねのけ、むこうをむいてしまった。
さすがに鼻白んで、右京太夫はゆりおとされたまま、じっと夫の背中を見ていたが、やがてその顔に、名状しがたい軽蔑のうす笑いがにじみひろがった。
義興が、妻は人が変わったのではないかと思ったのもむべなるかな。まさに、人は変わった。|漁火《いさりび》だ。
漁火は、右京太夫に化けて、三好義興のふところに入った。
――般若野で彼女は弾正にいった。「松永が叛心をもち、右京太夫を誘拐しようとしたことはすでに三好義興に知れた。義興の怒りをなだめるには、いまじぶんが義興のもとへいって、そのことをいいつくろい、彼の心をやわらげるよりほかはない」また「こととしだいでは、機会をみて義興に一服盛ることも可能である。そうすれば、弾正さまの長年の野心がかなえられるではないか?」
しかし、それより彼女の心をとらえたのは、弾正をあれほど恋させる右京太夫という女を妻にした三好義興への興味であった。興味というより、邪魔なライバル意識であった。わたしが義興に抱かれたら、彼はどういう反応を起こすだろうか。――わたしは負けない。決して右京太夫などの魅力に負けはしない。きっと義興を無限の肉の深淵にひきずりこんでみせる!
その通り、漁火は義興を愛欲の網にからんだ。
若い。まだ二十をこえたばかりの若さだ。義興を愛欲の網にからめながら、漁火自身がときにおのれを失った。若い義興の肉体は、五十をすぎた弾正とはまったくくらべものにならない新鮮な泉をもっている。漁火は、弾正との約束も、いや弾正そのものさえ忘れることがあった。
――いっそこのまま、と、彼女は不敵な笑みすらもらした。
なにもあの老いた弾正のところへまたかえる必要はないではないか。このまま義興の妻として化け通し、義興に天下をとらせてもいいではないか。むろん、そのためには――弾正を討つ、そんなことをかんがえて皮肉な笑いを浮かべた漁火を見たら松永弾正は腰をぬかしたろう。
しかし、漁火はすぐに醒めた。
しょせん、義興は弾正の敵ではない。
敵ではないという意味は、戦って負けるということではない。いまのところは、なお三好の軍勢の方がややまさり、そして義興の武勇は弾正も恐れている通りだ。しかし弾正の|老《ろう》|獪《かい》、執拗、悪念の深さにくらべて、義興は竹を割ったように単純で、あっさりしすぎている。
――女を相手にしてもその通りだ、と漁火はせせら笑った。二十すぎの義興にくらべ、五十を越えた弾正の|好色《こうしょく》ぶりのあぶらぎった執拗さを思い出したのだ。わたしには、やっぱりあの男の方が肌に合う。――
義興に天下をとらせようか。とかんがえたのは、義興を愛したからではなかった。この世の覇者の妻として、じぶんも地上に君臨したいからであった。そして、およそじぶんの望むかぎりの悦楽、背徳の魔界をこの空の下に現出させたいからであった。
その目的のためには、義興は不適だ。それはやはり松永弾正をおいてほかにかなえてくれるものはない。
理屈で秩序立てたかんがえではない。しょせん、彼女は義興と肌が合わなかったのであろう。そのことを漁火は思い知って来た。おなじく義興も、まさか妻が以前の妻ではないとは知らぬままに、漠としてなにやら異質なものをおぼえはじめて来たらしい。
「わしは、まえのそなたの方が好きであった」
彼はそういった。いみじくも、にくらしくも。――
一服盛ろうか。魔軍をひきいた弾正を呼ぼうか。いつ弾正と打ち合わせようか。
疲れはてスヤスヤと寝息をたてている三好義興の背中をじっと見つめている漁火の眼には憎悪だけがあった。
【二】
一歩、一歩。京の二条の三好屋敷にちかづいてゆく笛吹城太郎と右京太夫の足は、鉛でもむすびつけたように重かった。
城太郎の頭を、伊賀へちかづくにつれて歩みなずんだじぶんと|篝火《かがりび》のあの日のことがふっとかすめた。あれとおなじことだ。いや、あれ以上の苦しさだ。
あのときは、一族に無断で妻とした女を故郷へつれかえる気おくれだけであった。ゆるされるか、ゆるされぬか、その不安は半々であった。しかし、こんどは――右京太夫さまをかえすのだ。右京太夫さまが三好の屋敷に一歩足を踏み入れられたら、それが永遠の別れなのであった。
――ば、ばかな!
と、じぶんの心に鞭をふる。
――篝火とはちがう。右京太夫さまは、おれの女房ではない。
そうかんがえればこそ、彼らは京に帰ってきた。それなのに、こうして三好邸へあゆんでいきながら、またしても心みだれ、おなじ苦しみが、しずのおだまきのごとく城太郎の胸を回る。
「臈たき女人を修羅の世界にさそうなかれ」
あの謎の紙片が魂を刺す。
あれを書いたものが誰か、その謎を追うよりも、この一句が城太郎を縛ってしまった。まったくその通りだ。
その痛切な思いのゆえに、彼はあの言葉のつぎに書かれていた「三好義興さまに魔性の女人とり憑けり」という一行の意味をさぐることさえ、あまり念頭になかった。
三好義興の屋敷は、城ではないが城にひとしい濠をめぐらしていた。そこへゆきつくまでには、しだいに番兵の網が濃くなってゆくのがわかった。戦国の世である。
「――では、ここらで」
と、ついに城太郎はとある辻で立ちどまった。
「右京太夫さま、おわかれいたします。お帰りなされまし」
右京太夫は|被衣《かつぎ》をあげて、じっと城太郎を見つめた。なにもいわないが、無限の思いをたたえた瞳であった。
「ご機嫌よろしゅう。……」
城太郎は頭を下げると、身をひるがえし、もと来た方角へ走った。
数十歩駆けて、ふりむくと、右京太夫は被衣をかかげたまま、おなじところに寂然と立ってこちらを見送っている。城太郎はまたおじぎをすると、こんどはあともふりかえらず疾風のように走り去った。
奈良へ。――
首のない大仏からじぶんたちが逃げたことは、三人の根来僧はまだ知らぬはずだ。しかも、その大仏の掌にのせた金剛坊の首はすでに発見されたであろう。三人の魔僧がまだ奈良界隈を狂奔していることは、十分かんがえられる。
おお、あと三人!
あと三人の根来坊主の首、きっと討ってみせるぞ。――いかにもおれの眼の前にはその修羅の世界だけがある。おれの耳の中にはあの篝火の死霊の声のみがある。
彼は、うしろへながれ去る風に、右京太夫さまの幻をはらいおとした。
……ながいあいだ辻に立っていて、右京太夫はやっと歩き出した。
悄然とした足どりであったが、しかしおちついた態度であったから、諸所に|堵《と》|列《れつ》した番兵も見とがめるものはなかった。
おちついているはずだ。彼女はじぶんの屋敷に帰るのだから。――しかし番兵たちは、まさかそれが主君の|御《み》|台《だい》だとはゆめにも思わず、所用あって屋敷から出た侍女の帰るところであろうと見たのである。
――と、京の町の方から、小さな行列が帰って来た。まんなかにかつがれているのは、おんな用の輿である。
「……待ちゃ」
輿の中から声がかかった。それから、
「下ろしてたも。わたしはここから歩く」
と、いって、ひとりの女が下り立った。漁火である。
漁火は、路傍に立って、ボンヤリとこちらを見ている被衣の女の方へ、シトシトと歩いていった。これまたおちついた足どりであったが、眼は異様なひかりをはなっていた。彼女は輿のすだれ越しに、思いがけぬ人の影を見て愕然としたのである。
その人のうつつの姿を、彼女はまだいちども見たことはない。しかし、一目ふと見て、さっと胸に蒼白い稲妻が走るのをおぼえたのは、彼女の魔性の本能であろうか。
ちかづいて、漁火はささやいた。
「……右京太夫さまでございますね」
右京太夫の眼がひらかれた。彼女はそこに、じぶんにあまりにもよく似た――まるで鏡に映ったじぶんを見るような、しかしえたいのしれない笑みをうかべた女の顔を見たのである。
これほどじぶんに似た女というと。――
「松永弾正に仕える漁火というものでございます」
漁火は名乗った。三好邸に来てから誰にもきかせたことのない名乗りであった。
彼女は、般若野で「ほんとうに右京太夫が義興のもとへかえってきたら、向こうをにせものとして追いはらう」と弾正に高言したが、いまその方針を変更した。
「奥方さま、弾正があなたさまに抱いている邪心をご存じでございましょうか」
「弾正の邪心?」
右京太夫は小首をかしげたが、いまはわからぬことではない。
「それについて、わたしは義興さまにご注進に参ったのでございますが、奥方さま、義興さまにお逢いになりますまえに、ちょっとわたしの話をきいていただけましょうか? それにいま、殿さまはお留守でございます」
「どこへ参られた」
「夕刻までにはお帰りになりましょう。父君の長慶さまのおんもとでございます」
「……そなたの話、ききましょう」
右京太夫はうなずいた。彼女はまだ、この漁火の恐るべきことをほんとうに知らない。漁火はふりかえり、手をあげてさしまねいた。空の輿のそばから、三人の若党が走ってきた。
漁火はその方へ歩いていって、右京太夫にはきこえないようにささやいた。
「……あの女について、たのみがある」
「あれは……奥方さまではござりませぬか?」
三人の若党の眼が、驚愕にひろがっている。平太と|半入《はんにゅう》と助十郎という。しかしこの三人は、はやくも漁火の蠱惑と金の虜となり、それぞれいちどはひそかに信貴山城へいって弾正に連絡したこともある男たちであった。
「平太、半入」
と、漁火は顔色もかえずにいった。
「おまえたちは、右京太夫さまをはじめわたしの部屋にお通し申しあげ、あとなんとかいいくるめて、香炉のお蔵にお入れするように、――義興さまがご帰邸あそばしても知られぬように」
「いつまででござります?」
「信貴山城から松永弾正どのが上洛なされるまで」
「弾正さまがおいでになるのでござりますか」
「助十郎はすぐ信貴山城に走りゃ。京の三好屋敷に、右京太夫さまと平蜘蛛の釜たしかにございます。弾正どのには、いそぎ上洛なされますようにと。なお、平蜘蛛の釜はあれど、淫石はありませぬゆえ、これは新しゅう作るよりほかはありませぬ。そのため例の根来法師らを是非おつれ下されますようにとな」
助十郎はそのまま駆け去った。
「殿さまに知れぬように、奥方さまを香炉のお蔵にお入れせよと申されて」
と、半入がいった。
「奥方さまが出ようとなされたらどうします」
漁火は半入の耳に冷たく甘い息を吐きかけた。
「ためらいなく、|殺《あや》めたてまつれ」
【三】
「……ふーむ」
般若野を越え、一方は北の京へ、一方は東の伊賀へと路のわかれるあたりで、背中に大きな傘を背負った虚空坊は草の中から身を起こし、なにやらひろいあげたものをのぞきこんでうなった。
城太郎の想像通り、三人の忍法僧はまだ奈良にいた。笛吹城太郎と右京太夫が大仏の中に住んでいたことがわかった以上、彼らをのがしたとはいえ、どうしても奈良から離れられなかったのだ。それであれ以来松永の兵を|督《とく》|励《れい》し、草の根わけて捜索をつづけていたのだ。
文字通り、草の根わけて。
そして虚空坊はまさに草の根から探索の手がかりを見つけ出した。
夕闇の中に、にぶくひかる一個のマキビシであった。
彼らが血眼になってそのゆくえを追っていたものに、笛吹のほかに例の黒衣の騎馬隊があった。あれの正体をつきとめれば、城太郎の所在もわかると思う。
あのとき、半狂乱に追跡する彼らから、黒衣の騎馬隊は例のごとく八方に逃げ散ったが――追いつつ、虚空坊は、その数騎にむかってマキビシを投げつけた。
むろん、このあたりまで追って来たわけではない。大仏の界隈で投げつけたマキビシが――見おぼえのある彼自身のマキビシが、ここ般若野の北にある。
「馬の尻につき刺さったやつがここで落ちたとみえる」
|袈《け》|裟《さ》頭巾の中で鼻うごめかしたが、残念なことに、このとき相棒の破軍坊も空摩坊もいなかった。みんな手分けをして探しまわっているのだ。
「ここから、どっちへいった?」
つぶやいたが、|躊躇《ちゅうちょ》なく東へ――伊賀街道の方へ歩き出した。
十数歩いって、また砂ぼこりの中からもう一個のマキビシをひろいあげた。
「伊賀だ。なるほど」
案の|定《じょう》、といった顔になったのは、そもそもはじめから、あの黒衣の騎馬隊は伊賀の一党ではないか、という疑いがあったからだ。
「伊賀者か。しかし――」
と、またひとりごとをいって、小首をかしげた。
「弾正さまにそれを申しあげたら、伊賀者は柳生に見張らせてあると申されたが」
しかし、彼はそのまま、とっとと伊賀街道を歩き出した。
「ともかく、おれの手でつきとめてくれる。伊賀一党が手出しをしておることが判明したら、松永の兵をあげて踏みにじってくれるぞ」
しだいにその足が、人間のものではないように速くなった。たったひとりであることなど、意に介しない様子である。
そこから、一町ほどはなれて――草の中を、灰色の鳥のように|這《は》い出した影がある。
一陣の風ともみえる虚空坊を追って、その距離をひろげもせねばちぢめもせず、さらに忍者たる虚空坊にその追跡を感づかせないその影は、あきらかに行者頭巾をつけていた。
般若野を出たとき、すでに夕闇がただよっていたのに、まだ日のくれぬうち、虚空坊は五里はなれた柳生の庄ちかくに姿をあらわしていた。
ここのあるじ柳生新左衛門のところへ立ち寄って、伊賀者の動静をきこうか、それとも伊賀へ直行しようか、と歩きながらちょっと迷っていた虚空坊は、このときふとうしろからやってくる|戞《かつ》|々《かつ》たるひづめの音をきいた。見ると、三人の武士である。
いずれも、いかにも山国の武士らしい豪快な風貌であった。
「ほう、伊勢守さまが?」
「|太《ふと》の御所までおいであそばしたと?」
「快事、快事」
なにやら楽しげに談笑しつつ、樹かげに身をひそめた虚空坊など気づかぬふうで、鞍をならべて駆けすぎ、右に折れて柳生谷に入ってゆく。柳生家の家来とみえる。
虚空坊は、凝然と立っていた。
彼の眼は、その武士の一人の鞍にかたくくいこんだ一個のマキビシを見てとったのだ。
柳生の庄は、どこか風趣と雅味があるが、豪毅質朴な屋根をならべた細い谷の中の|市《まち》であった。
その中に、やや高く石垣を築いて、領主の柳生の居館がある。断じて城というべきほどのものではない。せいぜい館と呼んでしかるべきものだ。
その柳生家の館の一劃に、突如ただならぬさけびがあがったのは、その翌朝の夜のあけかかった時刻であった。
「曲者っ」
「出会え、曲者でござるぞ!」
声と同時に、あちこちから数十人の武士が刀をつかんで駆け出した。その迅速さはしかしどんな大きな大名の城にも見られないほどのものであった。
「さわぐな、さわぐな」
|厩《うまや》のまえで、ひとりの法師が手をふってわめいていた。
すでに侍たちの半円の包囲陣の中にあって――手をふってはいるが、どこか人をくった身のこなしである、横着な声であった。
「べつに害意あって入ったものではない。当家の馬を調べに来たのだ」
「うぬは――法師の分際をもって、なんのために馬を調べる」
「それがただの法師ではない」
じぶんでいって、そりかえった。
「信貴山城の松永弾正どのの手飼いの法師でな」
「なにっ」
といったが柳生家の武士たちは、さすが一瞬ぎょっとしたようだ。すぐに数人が、
「たわけっ、口から出まかせもいいかげんにしろ!」
「たとえ松永どのといかような縁があろうが、無断で一国の城に忍び入ったやつ、そのままでは帰せぬ。神妙にせよ」
「手向かいいたせば、この場で成敗いたすぞ!」
と、さけんだ。
法師は袈裟頭巾の中から深沈たる眼で見まわしていたが、やがてつかつかと歩き出した。
「ふふん、うぬらの手に合うおれかよ。おれがいったあとであるじの新左衛門に、推参したのは松永家の虚空坊と申す法師であったとつたえておけ、手に合わずとも、責めはすまい」
あまりに平然とし、しかも人間ばなれした妖気に、なまじ武芸のたしなみがあるだけに、本能的にただならぬものを看取して、柳生家の武士たちは思わずしらず、路をひらいた。
大きな傘をななめに背負った虚空坊は、一直線に歩いてゆく。そのゆくては数丈の崖であった。
「虚空坊」
と、うしろから誰か呼んだ。
虚空坊はふりむいた。
「ほう新左衛門どのか。……お早いお目覚めでござるな」
「おぬし、なんのためにわしのところの馬を見に来た」
柳生新左衛門はきいた。声はしずかだが眼は|烱《けい》|々《けい》たるひかりをはなって、
「いわねば、帰さぬ」
虚空坊は、しばらくじっと新左衛門の顔を凝視していたが、ふいにニヤリとした。
「厩にならべてかけられた鞍の二つにおれのマキビシが残っていた」
「なに?」
「三頭の馬の尻に、マキビシの刺さった傷痕があった。――奈良の大仏ちかくで、おれが投げたマキビシじゃ」
突如として、虚空坊は吼えた。
「黒衣の騎馬隊! 伊賀一党の監視役たる柳生が、なんのために伊賀に味方をしたか。ききたいのはおれの方だ。――いずれ、弾正さまじきじきのおたずねを待とうと思ってゆきかけたが、しいてきくなら、いう。いや、おれの方がきいて、弾正さまに申しあげよう。柳生新左衛門、返答せよ!」
かくれ傘
【一】
柳生新左衛門は、しばらく黙っていた。
「いえまい、新左衛門」
虚空坊は、あざ笑った。
「ひょっとしたらこの城に、あの右京太夫さまと笛吹城太郎をかくまっておるな? いいや、そうにちがいない。弾正さまにお伝えしよう。やがて松永の大軍をこの|眇《びょう》たる小城にむかえるか、それともその運命を待つまえに右京太夫さまと城太郎――ついでに泣き面かいたうぬ自身の首をさし出すか。――」
|断《だん》|崖《がい》を背後に、虚空坊は立ってののしった。
新左衛門は重い口をひらいた。
「武士の心は、うぬごとき|外《げ》|道《どう》の天狗には申してもわからぬ」
それから決然として、
「いずれにせよ、うぬは信貴山には帰さぬ」
一閃のひかりが、その腰からほとばしった。
同時に、崖の上で、ぱっと異様な音がした。虚空坊の傘がひらいたのだ。その背に背負った六尺あまりの唐傘を肩ごしにぬきとるのと、それをひらいたのは一瞬の早わざであった。
「――あっ」
柳生家の武士たちは、いっせいにさけんだ。
彼らはそこに凄じいかがやきを発する巨大な球体を見たのだ。それは朝の太陽を受けた鏡であった。虚空坊の傘の内側は、いちめん鏡となっていた。――しかし、その正体まで見とどけたものが、柳生の侍たちのうちに何人いたろうか。
彼らは、そこに歯をむいている一団の武士の姿をみた。それがじぶんたちだと気がついた刹那、いっせいに彼らは、じぶんを失い、その中に吸いこまれるような気がした。――事実、彼らは抜刀したままフラフラとそっちに吸い寄せられた。
催眠術には、しばしば水晶球を用いる。光輝あるこの球を凝視しているうちに、観念は一点に集中し、大脳の禁止作用が起こり、人は催眠状態におちいる。――虚空坊の傘は、この水晶球の巨大なものであった。したがってその作用は強烈きわまるものであった。すべてが腕におぼえのある武士たちであったろうに、彼らはフラフラと吸い寄せられると、傘の中の映像に溶けこんでしまう。消えてしまう。
チカ、チカ、チカッと鏡は無数のひかりの破片のごとくきらめいた。そのたびに、柳生の武士たちの姿が、三人、また四人と消滅した。事実は、彼らは傘のうしろへ泳ぎ出し、そして木の葉みたいに断崖から落ちてゆくのであった。
「新左衛門!」
ひっ裂けるように虚空坊はさけんだ。
「やるか! 相手になるか!」
念力の凝集のために、その眼は血光をはなち、すでに凱歌の笑いを笑っていた。
そのまえに柳生新左衛門は立ちすくんでいる。立ちすくんでいるというより、満身の金剛力をこめて両足をふんばっている。両足をふんばっているのは彼なればこそだ。しかしそれが精一杯であった。かつて剣聖上泉伊勢守に「その太刀すじに見どころあり」といわれた新左衛門が、ほとんどなすところなく、ただ虚空坊をにらんだきり、あぶら汗をしたたらせて棒立ちになっている。
「世に噂の高いうぬの剣法とは、いちど手合わせしてみたいと思っていたのだ。笑止や! |案山子《か か し》と化したか柳生新左衛門、果心直伝の根来流の忍法を見たか!」
ついに糸がきれたように柳生新左衛門はよろめき出そうとした。
突如として、鏡が消え、血けむりがあがった。
脳天から血しぶきをあげて、虚空坊は傘をひっかつぎ、二間も断崖のふちを飛んで立った。
彼のいた場所に、|忽《こつ》|然《ねん》としてひとりの行者が現われた。手にひっさげた戒刀は血あぶらにぬれていた。
「虚空坊!」
と彼はさけんだ。
「その傘をこちらにむけて、おれをうつせ。笛吹城太郎だ!」
――さすがの虚空坊も、傘のうしろから襲ってくるものがあろうとは予想もしていなかった。ただ眼前の柳生新左衛門たちと向かいあい、これを嘲弄しているあいだに、いつのまにか背後の断崖をのぼってきた笛吹城太郎が、いきなり傘もろともに、虚空坊の袈裟頭巾を切り裂いたのである。
傘は一閃の刃に裂けただけであったが、かくれ傘の忍法は破れた。
「うーむ、ふ、ふ、笛吹。――」
うめく虚空坊の口のあたりから、血泡が袈裟頭巾を染める。
「おれは死なぬ、生きて弾正さまに告げる。ま、ま、待っておれよ。――」
うなずくと、傘をさした虚空坊のからだが足からはねあがった。なんと、彼はおのれのさした傘の上に、ばさと乗ったのである。
「あっ、こやつ――」
笛吹城太郎と柳生新左衛門が一刀ひっさげたまま殺到したとき、虚空坊をのせた傘は、そのまますうと断崖の空間にながれ出した。
「待て、逃がさぬ」
城太郎の刀身が投げあげられて、空に走った。刀はななめ下から傘をつらぬき、虚空坊をつらぬいた。虚空坊は傘の上でまたひとはねし、ずるずるっとすべりかけて、両足を傘のふちからたらしたが、必死にしがみついて落ちない。――
いや、傘が下界に舞いおちないことこそ奇怪だ。なんたる幻妖、それはまるで谷の底から吹く風に吹きあげられたように、虚空坊をのせたまま、キリキリと回って空を飛んでゆく。
「――おお」
「――落ちた!」
崖のふちに立って、ふたりは絶叫した。
ついに力つきたか、高く舞いあがった傘から血の糸をひいて、法師の姿が谷底へ石のようにおちてゆくのが見えたのだ。が、その重量を捨てた怪異の傘は、そこからいっそう高く吹きあげられて、みるみる西の空へ消えてゆく。――
「恐るべきやつ」
と、柳生新左衛門はうめいたが、すぐに重厚な微笑を城太郎にむけて、
「何人目じゃ」
と、きいた。
「五人目です」
と、笛吹城太郎は答えた。
【二】
それが初対面であった。
正確にいえば、どちらも正気で、どちらも覆面をぬいで、おたがい一尺のちかさで向かい合ったのは最初であった。
城太郎はじぶんをしばしば助けてくれた覆面の騎馬隊の首領が柳生新左衛門であることをはじめて知った。
伊賀の隣国の城主、柳生新左衛門の名は城太郎も知っている。しかし、伊賀は豪族筒井氏の恩恵を受けているし、柳生はその筒井氏を圧迫している松永弾正の庇護下にある一族だし、少なくとも城太郎の知るかぎり、伊賀と柳生が親しく交わりをかわしたことはない。逢うのも、むろんはじめてだ。
いや、そうではない。おれとこのひとは、いままでなんども逢っている。そもそも、篝火を奪われた伊賀街道で、このひとはおれのふところに忠告状を残していってくれたのだ。
しかし、なんのために?
それがわからない。――城太郎は新左衛門の顔を見た。
「――なんのために? と、申すか、伊賀の若者」
城太郎の心を見すかしたように、柳生新左衛門はいった。
「なんのためか、わしにもよくわからぬ」
重厚な顔には、淡い苦笑の|翳《かげ》があった。
そして彼は語りはじめた。――信貴山城で松永弾正の右京太夫さまへの非望をきき、そのために七人の忍法僧が使われるのを知ったこと、その七人の根来法師らのこの世のものとも思われぬ忍法を見せつけられたこと、暗い気持ちで柳生へ帰国する途中、はからずも彼らに襲われた城太郎を見、しかも、いかんともするあたわず、ただ忠告の一書のみを残して立ち去ったこと。――
「まことに、そのときはそう思った。きゃつらとたたかうは、まさに龍車[#電子文庫化時コメント 底本「竜車」、S47を参照、字体統一]にむかう|蟷《とう》|螂《ろう》の斧じゃとな。それに――」
苦笑の|翳《かげ》が、かなしみの翳に変わった。
「そればかりではない。――笑え、笛吹。わが柳生は松永の庇護下にある。弾正どのは、実に恐るべき大悪の人、と申してもよいおひとじゃが、いかんせん、なんといっても現在ただいま天下を|慴伏《しょうふく》させておる第一人者じゃ。あれに面とむかって|刃《は》むこうては、柳生こそまさに龍車に対する蟷螂の運命をまぬかれ得ない。わしは、かようなことで柳生家を滅ぼすほどの勇気はない。――」
当然である。しかし、それではなぜ、その柳生新左衛門が覆面の騎馬隊をひきいて、じぶんの危急を救い、弾正や七人の法師をなやませたのだろうか。
「それで、わしはいちど柳生へ帰った。――がここに座ってさてつくづくと思えば、あの弾正どのの悪行を見のがしておっては柳生の武士の一分が立たぬ。これを黙視していて、なんの柳生ぞや、と思い出しての――それから人をやって信貴山、奈良界隈からいろいろと噂をあつめ、力の及ぶかぎりおぬしのあとを追わせ、はてはわし自身とうとう乗り出したのじゃ」
……いつしか城太郎は、べたと大地に両腕をついていた。
「いや、それほどありがたがってもらうほどではない。わし自身の血が承知せんで勝手にのり出したことじゃ。いわば新左衛門の道楽」
「それにしても、あの法師どもを相手にされては、いくたびか危ない目にお会いなされましたろうに、それをおかして」
「いや、お節介をやりながら、そのくせ一方、松永に見つかっては一大事と思うて、あの黒衣覆面じゃ。わしもなかなかひとがわるい」
はじめて、しぶく、ニコと破顔した。
「ところで笛吹、右京太夫さまは京へ返したか」
「……おつれ申してござりまする」
……頬あからめて、ひくくいう城太郎を新左衛門はじっと見下ろしていた。
が、やがてつぶやいた。
「それはよかった。三好義興さまと右京太夫さまは天下の|鴛《えん》|鴦《おう》といわれるほどお仲のよいご夫妻ときいておる。右京太夫さまを返さざるは、義興さまのみならず、右京太夫さまも地獄に堕すことなり……じゃ」
「はい! ようわかっておりまする」
「それに右京太夫さまをつれて歩いておっては、おぬしの足手まといとなろうが。おぬしには、少なくともあと二人、討ち果たすべき魔僧が残っておるはず」
「仰せの通りでござる」
城太郎がきっとして西の空を見ると、柳生新左衛門もおなじ方角へ眼をむけていたが、
「いささか気にかかることがある」
と、つぶやいた。
「なにがでござります」
「あの傘よ」
「根来法師の傘」
「いかにも、あれが落ちずに、生命あるもののごとく西へ飛び去った」
「――しかし、それを使う虚空坊めはおちました。あの谷底へ転落しては、いかな忍法僧でもいのちはありますまい。傘のみ、どこへ飛んでゆこうと、案ずることはありますまい」
「そうであろうな。いや、きゃつらのような化けものを相手にしておっては、わしも臆病になったものよ。ははははは」
新左衛門は一笑したが、すぐにまた城太郎に眼をもどし、
「ところで、笛吹、右京太夫さまを三好家にお返しして、三好家では、大さわぎになったであろうな」
「――は?」
「いや、御台のご帰邸による歓呼ばかりではない。あそこに化けておる|女狐《めぎつね》めが追い出されるさわぎよ」
「――女狐」
「三好家には、漁火という弾正の愛妾が右京太夫さまに化けて入りこんでおるはず。どうやらあまりよからぬことをたくらんでおると思われるが――わしは、いまのところ松永家の滅ぶことを欲せぬが、三好家が弾正のために|亡《ぼう》|家《け》となることを欲せぬ。ただ、ときのくるのを待っておる。――そのためにもその女狐を三好家から追い出そうと、それで右京太夫さまをお返しすることをすすめたのじゃが。……」
はじめて城太郎は、奈良街道の空馬の鞍につけられていた紙片のうちの「三好義興さまに魔性の女人とり憑けり」という一句の意味を了解した。
「では、あの女が!」
と、さけんだのは、興福寺の築地のかげでみごとじぶんをたぶらかしたあの女、そしてあとでじぶんを死地の罠におとしたあの女を思い出したのだ。おお、篝火の首を持つ女、右京太夫さまそっくりの顔を持つ女、あれが右京太夫さまの帰っていった三好家に待っていたというのか?
「右京太夫さまに化けるほどよく似た女、しかしあれには容易ならぬ魔性がある。悪の翳がある。右京太夫さまさえおわさなんだら誰しもたぶらかされるであろうが、ふたり見くらべてみれば、いずれが月か日輪か、|一《いち》|瞥《べつ》しただけであきらかじゃ。三好家に一騒動起こるにきまっておる。――」
「柳生さま」
城太郎はふいとさけんだ。
「それは拙者、気にかかりまする」
「なにか、あったか」
「いや、なにも存じませぬ。拙者はただ――三好家の手前はるかで、右京太夫さまとお別れしただけでござります。それ以上、あとお見送りもせず、ただお別れするのが哀しゅうて」
と、思わず正直に口走ったが、すぐにぎょっとした様子で片ひざをたて、
「あの女がいるとすれば、なにやら、拙者胸さわぎがいたしまする」
唇をかみしめて、不安そうに北の方を見やった。やおら、おそるおそる柳生新左衛門の顔をふりあおいで、
「拙者、もういちど京へ馳せかえって様子をうかがって参りとうござるが……悪うござりましょうか?」
その思いつめた少年のような表情に柳生新左衛門はうたれたようであった。
しばらく黙然としてその顔をながめていたが、ふいに、
「いや、悪いどころではない、是非、見て来てもらわねばならぬ」
と、いった。
「柳生さま、お礼はいずれ、もういちど拙者ここに立ちかえって申しあげまする」
「おお、もし……右京太夫さまが難儀にあわれ、もういちどおぬしが救わねばならぬようなことが起こったとしたら……笛吹、右京太夫さまをここへおつれ申せ。事のすむまで柳生新左衛門、ひそかにおかくまいしよう」
城太郎はおじぎして、背を見せて、もう十歩も走っていた。
「あ、待て」
と新左衛門は呼んだ。
「そなたの行者姿は、あまりにも松永一党に知られすぎておる。きゃつらの手は、奈良界隈はおろか、もはや京へも及んでおるかもしれぬ。衣装を変えた方がよいぞ」
「――どのような」
城太郎は立ちどまり、ふりむいた。
柳生新左衛門は一息思案していたが、ふいに笑った。
「いっそ、法師に化けろ。それが松永一党の眼をくらまし――大手をふって歩ける魔法の衣かもしれぬ」
「おお、あの根来法師に」
「しかも、いまの法師に化けるのじゃ、虚空坊の死んだことはまだ向こうに知れてはおらぬ。顔はこれほどちがう顔も世にあるまいと思われるほどじゃが、背丈、格好はおぬし、虚空坊とそっくりじゃ。袈裟頭巾をかぶり、傘を背負えば、松永一党、知らぬものもない根来の虚空坊だと思うだろう。傘は――あのように大きな傘はないが、そこはまあいいかげんにごまかしておけ。いちばん大きな傘を貸してやる」
【三】
――漁火は、香炉の蔵の戸に手をかけた。
これは、三好義興の父の長慶がむかしから香炉に趣味をもち、金と権力にまかせて蒐集した天下の名器を入れた土蔵だが、彼が病んで以来、ほとんどだれも入るものもなく、そこの棚にならべられた無数の香炉は、いまはむなしく埃をかぶっているだけであった。
――そこに、この数日、人が入った。いかなる香炉の名器にもおとらぬ女人の香炉、右京太夫さまであった。そのことは、見張りの男たちをのぞいては、ただ漁火だけが知っている。
右京太夫を義興に逢わせてはならぬ、これは彼女にとって絶対の命題だ。その命題をかなえるいちばん簡単で恐るべき方法は右京太夫をこの世から消してしまうことだが。――
しかし、漁火はそうしなかった。それどころか、彼女は生きている右京太夫を義興に見せようと思っているのだ。ただ、右京太夫を特別の状態において。
漁火は右京太夫に名状しがたい憎悪をおぼえていた。かつて弾正は、じぶんというものがありながら、どうしても右京太夫への憧憬をすてなかった。右京太夫が大仏へ参詣するときくや、魂を中天にとばして奈良へかけつけてゆき、大仏炎上という破天の暴挙をやってのけてまで、それを手中のものにしようとした。一方、三好義興は、いまのところじぶんを右京太夫だと信じて疑わないのに、「まえのそなたの方が好きであった」という。――
いまは、たんに弾正、義興に対する嫉妬ではない、そんなものをこえた、女が女に対する全存在的な憎悪だ。それは大魔女が天女に対していだく|不《ふ》|倶《ぐ》|戴《たい》|天《てん》の|深《しん》|怨《えん》であった。
そうあっさりとは殺さぬ。右京太夫を|堕《だ》|天《てん》|女《にょ》としてくれる。あの女を、この世のどんなあさましい女も及ばぬほどのけだものに変えてやるのだ、そして、その姿を義興と弾正に見せつけてやるのだ。
そのために漁火は、助十郎という男を信貴山城に走らせて、弾正と根来法師らを呼びよせようとした。
平蜘蛛の釜と右京太夫は手中にある。平蜘蛛の釜で茶を煮て、右京太夫に服ませよう、そして弾正を恋う牝獣としよう。――そう解釈できる伝言を、助十郎に託した。ただし、もうひとつ必要な淫石はない。それを作らせるために、根来法師を同行させよと。
しかし、漁火のかんがえたのは、弾正ではなく、根来法師を恋う右京太夫であった。果心居士はいった。
「――これを喫した女人は、最初に眼の合うた男に対して本心を失い、一匹の淫獣と化し果てまする」
その通りだ。それは信貴山城でのおびただしい実験で、しかと見てきたことだ。
なんらかの工夫をもって、淫石の茶を服んだ右京太夫の「最初に眼の合うた男」を、あの根来法師たらしめる。――
虚空坊でもよい。空摩坊でもよい。破軍坊でもよい。いずれ劣らず、地上に同類のない化け物だ。この残忍醜怪の面貌といい、また凶暴凄絶の性質といい――その化けものたちに心をうばわれ、牝犬のように追いまわし、あえぎもだえるあさましい右京太夫を、あの義興と弾正の眼に見せる。まざまざと、眼前の姿として見せてやる。
それが漁火のたくらんだことであった。
信貴山城に走った助十郎がかえってきて弾正の返事を復命した。わかった。とりあえず根来法師を呼びかえしてすぐに京へやる。そこで淫石を作らせて待っておれ。おっつけおれも支度をととのえて上洛するであろう。――
その返答の通り、まず空摩坊と破軍坊がやって来た。それではじめて漁火は、法隆寺で風天坊が討たれ、大仏で金剛坊が討たれたことを知った。生きのこっているのはほかに虚空坊がいるはずだが、これはどうしたのか、奈良界隈を捜索中にはぐれて、まだ連絡がないという。――
そしてまた数日おいて、いよいよ弾正が上洛してくるという通報があった。主君の三好長慶の病気見舞という名目である。
京における空摩坊と破軍坊のはたらきで、小さいながら「淫石」の白い結晶はできていた。
「――きょうこそは」
香炉の蔵のまえに立って戸に手をかけた漁火の頬に、うす笑いが蒼い炎のようにゆらめく。
彼女は|土《つち》|戸《ど》をあけて、中に入った。
蔵の四囲の壁にとりつけられた棚には、おびただしい香炉が、寂然とにぶくひかっていた。その中に、人がいるとも見えなかったが、三人の人間がいた。
大きな|葛籠《つづら》の前に、端然と座っている右京太夫さまである。
その両側にあぐらをかいて、刀をつきつけている半入と平太である。
右京太夫はうなだれて――そして、刀をつきつけた若党半入と平太は、そういうじぶんの姿勢と義務をわすれたような忘我の顔で、恍惚として右京太夫の横顔に見とれているのであった。
遠く風の音がきこえた。朝からぶきみな雲が走って、風のつよい日の夕方であった。
茶
【一】
「右京太夫さま」
漁火は呼んだ。
右京太夫はうなだれたままだ。たんに|悄然《しょうぜん》としてうなだれているというより、その姿には、なぜか枯れた花のような衰えがある。魂と同時に、なにか生理的な苦痛にたえているような感じがあった。
「ながいあいだ、お気の毒でございました」
漁火はまえに座ったが、右京太夫は顔をあげようともしない。
「でも、それは義興さまのお申しつけでございますから、わたしにもどうしようもなかったのでございます。奥方さまご帰邸のことを申しあげると――いまごろまで、どこをうろついておったのか、とお怒りなされ、またすでに、奥方さまが信貴山城にあの野ぐさい伊賀の忍者を助けにゆかれたこと、そのあとやつと、ずっとごいっしょにお暮らしなされたことをご承知で、いかにわたしからおわびを申しあげても、奥方さまをここにお閉じこめなされたきり、お呼びなさろうとはいたしませぬ」
なんども、この漁火という女からきいたせりふだ。右京太夫は、漁火のこの言葉に本能的に虚偽をおぼえる。
いったい、この女は、この屋敷でどんな位置をしめているのか?
じぶんはただこの香炉の蔵におしこめられているだけで、様子はまったくわからないが、なぜかこの女がじぶんに代って、この屋敷で女主人のようにふるまっている雰囲気が感じられる。
が、右京太夫がこれにあえて抵抗せず、ここに監禁されたままになって、夫義興を呼ぼうともしなかったのは、若党半入と、平太の無礼な見張りのせいではなく、漁火の言葉に――じぶんの行動に関するかぎり――事実のうらづけがあるからだ。それが彼女の心を刺しとめたからだ。彼女には、たしかに夫を裏切ったという心の痛みがあった。
しかも――苦しみつつ、夫にわびたいという衝動をおぼえつつ、一方では夫に逢いたくない、このまま、ここで死んでしまいたいというきもちもある。
「でも、きょうこそは」
と、漁火はいった。
「殿さまにお逢いなされることができましょう」
「…………」
「ほどなく――いえ、もういまにも、松永弾正どのが当お屋敷に参りましょう。義興さまとご和解が成ったのでございます。弾正どのは、さきに父君長慶さまのお見舞いに参られて、そこからこちらへ回ってくるとのことでございます」
「…………」
「そのご和解を縁として、奥方さまもおゆるしなされ、その御宴にお出まし下さりまするようにと、義興さまの仰せでござります。おめでたいことに存じます」
「…………」
「それから――おお、では花に水をやろう、奥に水を飲ませてやってくれと申されて」
右京太夫は顔をあげた。
なにをいわれても、よろこびの色もなかった右京太夫の顔に、はじめて戦慄にちかい異様なふるえが走ったのだ。
この三日間彼女は一滴の水もあたえられてはいなかった。食事は出されたが、汁も湯もなかった。それは彼女の行為に怒った義興が、罰として思いついて、そう命じたのだという。――そんなことをする義興とは信じられなかったが、右京太夫はこの罰を甘んじて受けた。受けはしたが、しかしそれは恐るべき罰であった。
心ではいかにみずからを罰しても、肉体は全細胞をあげて水を渇し求める。――水ときいて、彼女の頬に反射的なふるえが走ったのは当然だ。
「茶を進ぜましょう」
かすかな、しかし悪魔的な笑みをたたえて漁火はいった。
「わたしもうれしゅうございます」
それからそばを見ていった。
「半入、平太、もうよい。……破軍と、空摩に茶道具をもって来や、とつたえて参れ」
ふたりの若党は去った。
そのとき遠くの方で「松永弾正どのお入りーいっ」とさけぶ声がして、たしかに数十人以上の人間が邸内に入ってくる跫音の地ひびきがきこえて来た。――漁火が時をはかっていた通りにことはすすむ。
やがて蔵の戸があいて、ふたりの法師が入ってきた。ひとり袈裟頭巾をつけた法師は釜をささげ、もうひとり総髪の法師は点茶道具一式をのせた台をささげている。
右京太夫は眼を見張った。それはこの法師らが――見おぼえこそないが、あきらかに松永弾正麾下のあの魔僧たちであると直感したためであり、またそのひとりがささげているのが、かつてじぶんが抱いて走った平蜘蛛の釜であり、かつその釜がかすかに湯気をたてているのを見たからであった。それを法師は、まるで冷えた茶釜でも持つように素手でささげている。
ふたりの法師は、しかしもったいぶった顔で、この釜と茶道具を、右京太夫と漁火のあいだにおき、入口にさがって、うやうやしく平伏した。
「……いずれ茶事は、あちらでありましょうゆえ」
と、漁火はいった。
「ここでは、ただ奥方さまのお口をしめすだけのことでござります」
作法通りに茶をたてるなどという面倒なことはまったく不必要である。要するに、この淫石を煮た茶を右京太夫に服ませればよいのだ。
それを右京太夫が服むか、服まぬか。――
平蜘蛛の釜のことを右京太夫がどこまで知っているか、後生大事に抱いて逃げたことがあるところから判断して、まったく知らないとは断定できないふしもあり、さればこそ三日間、一滴の水もあたえなかったのだ。もっとも、あくまで拒否すれば、おさえつけて、口を割ってでも飲ませればよいと漁火はかんがえている。
ひとたび女がこの茶を飲んで、男をひと目見てからはまったく人間が変わり、淫獣と化するのだから、あとのことは案ずるには及ばない。――
そんな無惨なことをかんがえているとは想像もつかないきれいな笑顔で、漁火は茶を入れた茶碗を右京太夫のまえに置いた。
「召しあがりませ、右京太夫さま」
右京太夫はじっと茶碗に眼をおとした。
右京太夫はしかし淫石のことは知らなかった。このことばかりは、城太郎が口にのぼして、彼女に語りがたいことであったからだ。淫石のことは知らなかったが、しかし右京太夫はこの茶がただの茶でないことは悟った。
ただの茶でないと悟ったことが、右京太夫にかえってこの茶を服ませる決意をさせた。彼女は、ひょっとしたらこれは毒が入っているのではないかと思ったのである。
たとえ毒茶であろうともそれを服まずにはいられないほど、彼女のからだはかわいていた。そして、それをおさえるはずの理性は、かえって「毒茶なら、それでもよい」という暗い自己破滅の覚悟をうながした。右京太夫の魂は、肉体と同様に、この数日のあいだに――いや、笛吹城太郎と別れて以来、ひびわれていたのである。
彼女はしずかに茶碗に手をさし出した。渇きにふるえる手をおさえるのが、せめてもの彼女の|克《こっ》|己《き》であった。茶碗をとりあげた。――
漁火はひかる眼で、それを見すえている。音もなくひざから白い掌がすべった。床をかるくたたく用意であった。
――淫石の茶を服んだ右京太夫が、空摩坊を見るか、破軍坊を見るか。ふたりのいずれかを見るにちがいないが、最初に眼が合うのがどっちか、これが問題だ。それでふたりの法師のあいだに争いが起こった。そこで不公平のないように、ふたりはあらかじめ平伏していて、漁火の合図と同時に顔をあげるという約束になっていたのだ。
右京太夫を凝視している漁火も、入口に平伏している空摩坊と、破軍坊も、全神経は一点にそそがれた。
右京太夫は顔を伏せ、唇に茶碗をあてがった。――
「待った!」
声と同時に、鞭のごとく身を起こそうとした空摩坊と破軍坊は、そのまま床に巨大な昆虫のように刺しとめられた。平蜘蛛のように伏したままの背を、一方は|薙刀《なぎなた》、一方は|戒《かい》|刀《とう》でみごとに床まで刺しつらぬかれたのだ。
入口にひとりの法師が立っていた。
茶をのんだか、のまなかったのか、右京太夫はその法師の眼を見た。
漁火はふりかえってさけんだ。
「虚空坊!」
【二】
袈裟頭巾につつんで眼ばかりのぞかせた顔、墨染めの衣、その背に背負った大きな傘。だれが見たって虚空坊だ。
その虚空坊がそこへやってくるまでだれも気がつかなかったのは、右京太夫が淫石の茶をのむか、のまぬか、そのことばかりに満身の注意をあつめていたせいに相違ないが、それにしても空摩坊、破軍坊ほどの忍法僧が、まるで虫ケラみたいに串刺しになるまで平伏していたのは不覚ともなんともいいようがない。
いや、虚空坊が、同僚の破軍坊、空摩坊をいきなり串刺しにするなどということがあり得るか。あり得るかといっても、げんに眼前では、ふたりの法師は串刺しになって、声もたてずにのたうちまわっている。これが現実のことである以上、あれは、あれは。――
驚愕と恐怖にさざなみのごとくゆれる眼を見張っている漁火のまえに、その法師は空摩坊、破軍坊の上をおどりこえて、すっくと立った。
「奥方さま」
と、彼はいった。
「笛吹城太郎です」
「――ああ!」
右京太夫は、ひざのまえに茶碗をおいていたが、身うごきもしなかった。あまりのおどろきに、全身がしびれてしまったのだ。彼女は一目見たときから、それが城太郎であることを知った。おどろきは、彼がここへ帰ってきたということを知ったためであった。
いかに虚空坊に身をやつしていたとはいえ、城太郎がだれにも見とがめられずに――この蔵に通じている回廊の端には、半入、平太というふたりの番人が置いてあったにもかかわらず――ここまで入ってくることができたのにはわけがある。
奈良で笛吹城太郎を捜索していた空摩坊と破軍坊は、松永弾正の命令で至急呼びかえされたが、ひとり離れていた虚空坊だけには連絡がつかなかった。
ひょっとしたら笛吹城太郎にしてやられたのではないか、という疑いも胸をかすめないではなかったが、さて空摩坊、破軍坊が京へきて漁火にきいてみると、虚空坊がひとりはなれたころ、城太郎と右京太夫はすでに京に来ていたらしい。で、虚空坊が健在である以上、あとで松永|麾《き》|下《か》の兵から話をきけば、きっと京へやってくるだろうと、じつは心待ちしていたのだ。
だから、三好邸の門番にも、それから半入や平太にも、傘を背負った法師がやってきたら、それは虚空坊という仲間だから、見とがめずに漁火のところへ通すように、とわざわざつたえてあったのだ。
城太郎は無人の境をゆくがごとく邸内を通ってきて、この香炉の蔵の入口についた。|土《つち》|戸《ど》はあけはなされたままであった。彼は中をのぞきこんで、ひと目で事態を知った。
「待った!」
さけびつつ、一瞬に空摩坊、破軍坊を刺し止めたのは、右京太夫を制止するためであり、かつ、彼女がこのふたりの法師と眼を合わせることをふせぐためであった。
「漁火」
と、城太郎はさけんで、右京太夫のまえに置かれた茶碗をとりあげた。
「うぬは右京太夫さまになにをしようとした?」
「……おまえは……」
漁火はあえぐように口を半びらきにし、城太郎の顔をふりあおいでいたが、その眼にみるみるもちまえの底知れぬ|蠱《こ》|惑《わく》の炎がゆらめいて、
「なつかしや」
と、にっと笑った。――東大寺炎上の夜のことをいったのか、それとも。――
笛吹城太郎の殺気にもえた目がふと動揺した。彼は|篝火《かがりび》を思い出したのだ。
そこにあるのは篝火の顔そのものであった。
城太郎の眼から殺気が消えたのを敏感に見てとって、漁火はなまめかしくからだをくねらせた。
「まあ、こわい眼をして。――右京太夫さまに茶を進ぜようとしていただけではありませんか」
城太郎から殺気が消えたことは、漁火にとってかえって危険をもたらした。なに思ったか、彼は黙って、右京太夫のまえの茶碗をとりあげた。けげんな眼でその動作を見ていて、ふいに漁火がぎょっとしたとき、城太郎は、手をのばして漁火の髪をつかみ、ぐいとあおのけた。
「なにをしやる」
「茶を進ぜよう」
と、彼はいった。
それから、右手に茶碗、左手に漁火の髪を巻きつけたまま、ふたりの法師の方へあゆみ寄った。
「ふ、ふ、笛吹っ」
「よ、よ、よくもおれを――」
空摩坊と破軍坊はまだ生きていた。生きているどころか、苦悶に痙攣していた気管にようやく息が通ったとみえて、
「だ、弾正さまっ」
「笛吹城太郎推参してござるぞ。――」
と、ひっ裂けるような咆哮をはりあげた。
遠く、だだっと床を踏み鳴らす音がした。回廊の端に座っていたふたりの若党らしいと、知ったが、城太郎はそのまま漁火の口に茶碗をあてがった。
「そなたの|悪業《あくぎょう》は知ったが」
彼はいった。どこか哀しげな声であった。
「殺すまい」
彼は、わななく漁火の唇から茶をながしこんだ。
「せめてこやつらの|菩《ぼ》|提《だい》を弔う善女となれ」
そして、ひきゆがんだふたりの法師の顔のまえに、漁火の顔をつきつけた。
「よく見たか?」
ひきはなし、つきのけられて、漁火はどうとあおのけにたおれたが、そのまま、両掌で顔を覆って、胸で大きく息をしている。
「六人目、七人目!」
と、城太郎はさけんだ。
もとよりこれはこの世から消し去った篝火の仇の数であった。空摩坊と破軍坊はまだ生きていたが、当然ここで討ち果たすつもりで、漁火に菩提を弔えといったのである。篝火に似た漁火はどうしても殺せなかった。それならこの醜怪きわまる魔僧を恋させ、しかもその死を見せつけてやることが、せめてもの復讐だと彼はかんがえたのだ。城太郎は、空摩坊を刺しとめた戒刀の柄に手をのばした。
「おおりゃっ」
その刹那、ふたりの法師はのけぞるようにはねあがった。いままでもがいていて、このとき空摩坊と破軍坊は、おどろくべし、背からつらぬき通った戒刀と薙刀を床からぬきとったのである。
タタタタとふたりは、そのまま入口から外へのけぞっていって――いちど立ちどまり血ばしった眼ではたと城太郎を見すえたが、
「弾正さま……松永の衆!」
「笛吹でござるぞ。のがされな!」
もういちど絶叫して、ばたばたと逃げ去っていった。背から腹へ、巨大な目刺しみたいに戒刀と薙刀を刺しわたしたまま。
――と、漁火ががばと身を起こした。黒髪はみだれ、じいっと眼をすえて蔵の入口の方をながめている。ふつうでも妖艶きわまる顔をしていたのに、このとき漁火は、眼はうるみ、唇を半びらきにしてかすかに舌をのぞかせ、肩で息をして、肉欲の極致にあるような表情に変わっていた。
「待って! 空摩坊」
あえいで、唇から白いあごに唾液がつたいおちた。
「破軍坊、わたしを抱いて――」
そして泳ぐような姿態でふらふらと蔵から外へ出ていった。
淫石の茶のききめは承知の上で、あえて漁火にのませて、あのふたりの法師と対面させた笛吹城太郎であったが、唖然とせざるを得ない変貌ぶりであった。
「あれは……」
と、右京太夫がいった。
「いまの茶をのんだせいですか」
「そうです。……それを漁火はあなたさまにのませようとしたのです。人を呪わば、穴ふたつ」
城太郎はきっとしていった。
「右京太夫さま、おゆきなされまし」
「どこへ?」
「義興さまのところへ」
「城太郎は?」
「人が来るようでござる。拙者は一応逃げまする。いまの法師ら、なお命があったらまた帰ってきましょうが」
「おまえの妻を殺した張本人の松永弾正は?」
「おお、弾正」
「弾正はいま義興どのと和解の対面をしている様子」
笛吹城太郎は一息か二息のあいだ、じっと眼をすえていたが、やがて決然と、
「右京太夫さま、弾正がおるとあっては、しばらくここにひそんでおいでなされませ。弾正がご当家を訪れたのは、かならずなにかのたくらみあってのことと存じまする。拙者が弾正を片づけるまで、ここで待っていてくだされませ」
いって、つかつかと歩みかけた。
蔵の外へ出て、ふりかえった。右京太夫がすぐあとについてくる。
「おいでなさってはなりませぬ。右京太夫さま」
右京太夫はじっと城太郎を見つめていった。
「わたしはあの茶をのみました」
笛吹城太郎は愕然としていた。
【三】
長慶さまおん見舞いに上洛仕ったついでに、ぜひ若殿のご機嫌をうかがいとうござる。そういう名目でなかば強引に訪れてきた松永弾正であった。
三好義興は弾正に対してなにやらえたいの知れぬ疑惑をいだいている。とくにあの奈良の東大寺炎上前後の彼の行動は不審がある。
といって、あれ以来ひそかに信貴山に|細《さい》|作《さく》(諜者)を派してさぐらせてみても、彼が謀叛をたくらんでいるというはっきりした徴候はないし、きょう上洛して来た軍勢も、軍勢と呼ぶにはあたらないほどの小人数である。
もしこのさい弾正をのぞくつもりなら、いまが好機だろう。――と義興はかんがえた。が、そうかんがえると、かえって彼は、じぶんの屋敷に入ってきた弾正に手を出しかねた。若い潔癖さが、じぶんでじぶんをゆるさないのである。
「いつぞやは、途方もないさわぎにまぎれ、ご挨拶もいたさぬままにお別れいたし」
いま書院に相対座した弾正は、澄まして義興にいっている。澄ましてといっても決して義興を馬鹿にしている様子ではなく、いんぎんで、おだやかで、そのくせつかみどころのない分厚い顔つきであった。
「一日も早うおわびに参上仕らねば、と思いつつ、あの騒ぎで不覚にも足をくじきましてな。いや、年でござる。ようよう身のうごきがままと相成って、とるものもとりあえず伺候|仕《つかまつ》ったしだいにて」
ゆったりといいながら、じつは弾正はじれている。
要するにここへ来た目的は、右京太夫さまに例の茶をのませ、そしてのんだあとでこの弾正を見させることだけだ。
その手順はうまくやってのけるし、それからあとのこともじぶんの才覚を信じなされ、という漁火の連絡で、それできょうやってきたのだが、さて右京太夫さまはむろん、漁火もなかなか姿をあらわさない。
なんとなく物騒な表情で、あまり返答もせぬ三好義興を相手に、弾正もしだいに気ぶッせいになってきた。おれが来たというのに、漁火はどこにいる?
もっとも、漁火を右京太夫と義興はまだ信じているらしいから、両人ともに姿をあらわすということはあり得まい。その夫も見分けのつかないほどの相似性を利用して、あの漁火のことだから舌をまくような細工をするものと思われるが、それはいったいどんな細工か、弾正は知らない。ひそかに前もって漁火に逢った空摩坊や破軍坊を通じて、そこのところをいくどもきき合わせ、たしかめようとしたのだが、漁火はただ「わたしの才覚を信じて」と答えるばかりであったという。
義興は、以前とは見ちがえるほど蒼白くやつれている。じぶんが妖怪の元凶のような人間であるくせに、しだいに弾正は、この屋敷にそくそくと妖気がたちこめてくるような気がした。
「殿」
たまりかねて、おそるおそる|啄木鳥《きつつき》のようにたたいてみた。
「奥方さまはご健勝にておわしまするか」
遠く、異様なさけびがきこえてきたのはそのときであった。
「弾正さまっ……松永の衆! ……笛吹城太郎が推参してござるぞ!」
三好義興のまえであることも忘れて、弾正は、がばとひざをたてた。
「なに、笛吹城太郎」
たちまち、その書院の庭に、空摩坊と破軍坊が駆けこんできた。
背から腹へ、薙刀と戒刀をさしわたした人間とは思われぬ凄惨無比の姿で。
火の鳥
【一】
「おう、空摩坊に破軍坊!」
思わず、弾正は絶叫して、立ちすくみ、ふたりの法師のあまりな凄じい姿に、とっさにつぎの言葉も行動も忘れた。
「……やっ、あれは?」
三好義興も、眼を見張ってさけんだ。
義興が驚愕したのは、たんにこの巨大な針に刺しとめられた二匹の昆虫みたいな姿を見たせいばかりではない。いま、それを見た刹那、彼の脳髄に、炎とともによみがえるものがあったのだ。あれは、大仏炎上のとき乱舞していた法師らの一味ではないか?
彼は、ここ数日、ふたりの法師がひそかに、しかし悠々とこの屋敷に出入して、じぶんの妻の右京太夫と――じつは漁火としめし合わせていたことなど、なにも知らなかった。
「弾正、あれは何者だ」
弾正はつまった。
「あれを、そちは知っておるのか?」
しかし、三好義興は、それ以上松永弾正を問いつめることができなかった。
なぜなら、ふたりの法師につづいて、書院の庭にもうひとり女が駆けこんできたからだ。
「あっ、――奥!」
「――漁火!」
同時にふたりはさけんだが、おたがいのさけびはきこえない。いや、きこえたとしても、少なくとも三好義興にとっては、弾正のさけびの意味は判断を絶している。
漁火の帯はひきずられ、かいどりはぬげて、肩がむき出しになっていた。いや、それどころか、彼女はみずからのこりの衣服をぬぎすててゆくのだ。
「奥、なんとした?」
縁側まで走り出た義興をふりかえりもせず、
「破軍坊……空摩坊」
と、彼女はあえいで、身もだえした。
「その刀をとって! その薙刀をとって!」
そのからだから、きもののすべてがズリおちた。そして、全裸のまま、犬のように舌を出し、はては空摩坊と破軍坊をつらぬいた戒刀と薙刀も見えないかのように駆け寄ろうとする。――
「そして、わたしを抱いておくれ!」
このとき、先刻、悪魔のように駆けこんできた空摩坊と破軍坊は、どうしたのかはたと沈黙して、まるで氷の彫像と化したかのごとく凝然とつっ立っていたが、ふいに――破軍坊が声もなく、凄惨と形容するほかのない笑いを笑った。
「空摩坊」
「おいよ」
「いかになんでも、もう助かるまいな。伊賀の小冠者にしてやられたわ」
「しかし、きゃつ、逃がしはせぬ」
「われら、死んではじめて成る果心直伝、|怨《おん》|敵《てき》必殺の忍法」
「それにしても、破軍坊、ことはいそぐぞ」
「では、この世の見納め、いや抱き納めに、この女を抱くか?」
「おおっ。――」
うなずくと、空摩坊と破軍坊はツツと寄り、|卍《まんじ》のかたちに一回転した。おたがいの胸をつらぬく戒刀と薙刀の柄をつかんで、ぐいとひきぬいたのである。そして、ふたりは離れた。
七歩、十三歩、十五歩。――それぞれぬきとった戒刀と薙刀をつかんだこぶしで胸の傷をおさえ、もう一方の腕をうしろにまわして背の傷をおさえ、ふたりは庭の上に、約三十歩の間隔をおいて立った。
このとき、先刻の絶叫で、三好家の侍、松永の武士たちがわらわらと駆けあつまってきて、庭の周囲までおしかけていたが、彼らはもとより、三好義興も松永弾正も、いや、肉欲の牝獣と化したかのような漁火さえも、このふたりの法師のぶきみな「儀式」に眼を吸われている。――
陰暗たる空であった。風が|飄《ひょう》と虚空にうなった。
「では、やるぞ」
「心得た」
ふたりの法師は、とんと刀と薙刀を地につき立てた。そして歩き出した。
空摩坊は南へ七歩、それから西へ十四歩、さらに南へ七歩。
破軍坊は西へ七歩、それから北へ十四歩、さらに西へ七歩。
むろん通常なら、ふたりがどう歩いたのか見当もつかないところだが、ふたりが薙刀と刀を地につき立てた瞬間から、どうっと血潮がおちはじめて、それが彼らの歩いた|行《こう》|跡《せき》を朱色でえがいていったのである。
|卍《まんじ》。――人々は、そこに巨大な卍の朱文字を見た。
ふたりの法師は卍の朱文字をえがき終わると、|怪鳥《けちょう》のようにさけんだ。
「燃えろ。――忍法火まんじ!」
すると、卍の中心の、両者の血の交わった地点からメラメラと青い炎が立ちのぼった。
とみるや、その炎がぽっと飛んだ。そこにあった血のあとが、また燃えあがったのである。息つくひまもなく炎はまた飛ぶ。――それが、彼らが駆けて来たあとに滴々とこぼしてきた血潮に従っている――と気がついたものがどれだけあったか。
あっというまに、それは庭から出て、どこかへ一すじの|不知火《しらぬい》の糸となった。
「…………」
その炎の奇怪さもさることながら、なお一同を金縛りにしてしまったのは、炎が燃えあがった瞬間、ふたりの法師が見せた、奇怪という言葉すら絶する行為であった。
「女――来う」
卍の朱文字の端に寝ころんだ空摩坊が|咆《ほ》えた。
たちまち、黒い食虫花に吸いつけられる白い蝶のように漁火が飛んでゆき、彼に覆いかぶさった。そして――何十人という衆人の環視の中で瀕死の空摩坊と狂女のような漁火は、凄じいまでの痴態をさらけ出したのだ。
それは痴態というより死闘にちかい性の景観であった。
「破軍坊、やるぞ」
空摩坊がさけぶと、漁火は宙を飛んだ。その白いからだは、やはり卍の血文字の端にあおむけになった破軍坊の上におちた。
「わははははは、火まんじよ、燃えろ、敵を追いかけろ」
地獄の釜でも鳴るような空摩坊の笑い声が突如消えると、それっきり彼が眼をむいて息絶えてしまったことは誰もしらない。
人々は、こんど破軍坊と漁火の|酸《さん》|鼻《び》ともいうべき痴戯に眼をうばわれた。――ようやく、われにかえったのは、三好義興である。われにかえっても、なお彼は悪夢を見ているような思いであった。
「奥!」
絶叫して、庭へ馳せおりた。
「わはははは、火まんじよ、燃えろ、伊賀の小冠者を焼きつくせ!」
破軍坊が哄笑し、哄笑が絶え、彼は血と粘液にまみれた傍若無人の屍体となった。その屍骸になお全裸の漁火はむしゃぶりついて、
「死なないで、破軍坊! もういちど、もういちど!」
白いからだが蛇のように波うったが、背後に馳せ寄る|跫《あし》|音《おと》に、さすがにがばと身を起こす。
ふりむいて、漁火は瞬間的だが、じつにぶきみな笑顔をつくった。媚笑とも嘲笑ともつかぬ――それはこの世のものならぬ魔女の笑いであった。
義興の一刀がその首を薙いだ。
漁火の首は、魔女の笑いを刻んだまま地におちた。
三好義興にとっては、外界のすべてが悪夢としか思われないうえに、じぶん自身までが悪夢のなかの人間みたいに感じられていたが、さらに信じられない光景は、つづいてその眼前に、くりひろげられたのである。
「あれ、あれ」
「屋根の上に」
人々がどよめいた。
義興は血刀をひっさげたまま、うなされたように高い屋根の上を見て――全身凍りついたようになっていた。
屋根の棟に青い火が走った。その火に追われるがごとく駆けるふたつの影、一人は袈裟頭巾をかぶり、大きな傘を背負った法師だが、もうひとり、それにすがりつくようにしている女は。――
三好義興は、かっと眼をむいて、絶叫した。
「奥!」
【二】
笛吹城太郎は右京太夫を従えて、香炉の蔵から出ていた。
従えたわけではない。右京太夫が――ついてきたのだ。彼女は淫石の茶を服んだといった。彼女は淫石の茶を服んで、まず城太郎を見た。――
彼は、右京太夫をどうしてよいかわからない。
弾正を討たんか、彼女をつれたまま、まさか弾正を討ちにはゆけまい。ひとまずこの屋敷を逃げんか、三好義興という夫があるのに彼女をつれて逃げるわけにはゆくまい。――といって、もとよりいつまでも香炉の蔵に座しているわけにはゆかぬ。
心みだれつつ城太郎は蔵を出た。そして不思議なことに気がついたのである。
さっき破軍坊と空摩坊が、「弾正さまっ、松永の衆! 笛吹城太郎が推参してござるぞ!」とさけんで、逃げていった。おなじ声は、彼らが逃げていった奥で、またきこえた。
それなのに、誰もこの香炉の蔵の方へ駆けてくるものがない。さっきまで蔵に通じる回廊の端には、ふたりの若党が座っていたはずだが、彼らまでがどこへすっ飛んだか影もない。
いや、邸内には騒然たる物音が巻きあがりはじめた。人々は駆けてゆく。その姿さえ、城太郎には見える。しかし、だれも彼の方をふりかえろうとはしない。
「――はて、なにが起こったのか?」
いかにも伊賀者らしい不敵さと、城太郎らしい無鉄砲さで、彼はツ、ツ、ツと、人々の駆けてゆく方向にあるいた。
と、突如として、そのゆくてから、
「燃えろ、忍法火まんじ!」
という怪鳥のような声がきこえたかと思うと、彼をめがけて、ひとすじの青い炎の帯がながれてきたのだ。
「あっ!」
城太郎は立ちすくみ、右京太夫を抱いたまま大きくうしろへはね飛んだ。
青い炎は追ってきた。タタタタと、彼はうしろへ逃げた。炎は追ってきた。
最初、おのれのながした血のあとをたどって、ぽっぽっと点線状に燃えあがっていた破軍坊と空摩坊の忍法火は、いまや蛇のごとく――生ける炎の蛇のごとく城太郎を追ってきた。
「うっ」
さしもの城太郎が悲鳴をあげた。
ふしぎな炎であった。それはめらめらとひとすじ燃えつつ、そのひとすじ以外に炎をひろげようとしない。しかも、ふれれば肌を焼くのだ。いや肌も焼けはしない。なんら火傷は起こさないのに、しかも、ふれた人間には火傷にひとしい熱さをあたえるのであった。
「はなれなされ、右京太夫さま、はなれなされ!」
炎に追われ、走りながら城太郎は、さけんだ。
「いいえ、笛吹、わたしは、はなれぬ」
右京太夫は、彼にとりすがるようにしてこたえた。――城太郎は、ついにまた彼女を片腕に抱いた。
「ようござりまするか。では、しかと拙者につかまっておりなされ」
彼女を抱いたまま、彼は回廊の柱のひとつを這いのぼり、手が軒にかかると、風鳥のように屋根に舞いあがった。
舞いあがって愕然とした。
青い炎は柱を這い軒をまわり屋根の|甍《いらか》を這って追ってくる。それは彼の刺したふたりの忍法僧の執念の炎のようであった。
屋根から屋根へのぼる。
三好義興の屋敷は、城ではなかったが、濠をめぐらし、屋根をかさね、ひくい京の町並みにあっては、ほとんど城に見えるほどの威容をもっていた。
笛吹城太郎はその高い屋根の棟を駆けた。炎に追われ、彼はじぶんの逃げる場所をえらぶ余裕を失っていた。――彼と右京太夫を追って、軒を青い炎が走り、めらめらと風にふきなびいた。
――三好義興がふりあおいで見たのは、このふたりの姿である。
「奥!」
彼は絶叫し、しばし判断力を喪失した。
ふいに彼の混乱した脳髄に|一《いっ》|閃《せん》の脈絡が走った。いまふたりの法師と狂態をさらし、じぶんの手で成敗した女は、妻ではなかった。いや、京に帰って以来じぶんの妻と思っていた女は、右京太夫ではなかった。あれは弾正の手から放たれた魔性の女であった。
なお脈絡のとぎれたところはあるが、これだけのことを直感して、
「弾正!」
義興はいちどふりむいて、
「はかったな?」
といったが、すぐに足ずりして、
「あれを追え、屋根に上がれ、あの奇怪な法師から奥をとりもどせ!」
とさけんだ。
そして、ギラギラする眼を屋根の上にすえていたが、ふいに、
「誰かある。弓をもて!」
と、のどをしぼった。
墨色の乱雲は矢のように京の空を走っていた。その下に、笛吹城太郎は右京太夫を抱いて、すっくと立って、町の方を見下ろした。
濠の向こうに、このとき彼は思いがけないものを見たのだ。それは十二、三騎の馬であった。乗り手はいずれも笠をかぶっているが、衣服は黒い。――黒衣の騎馬隊は、ゆるやかに三好邸をめぐっている。いや屋根の上に立つ城太郎に気がついたとみえて急に鞭をあげてこちらに走ってくるようだ。
――柳生さまだ。
と、城太郎の眼はかがやいた。
――柳生さまだ。京へきたおれを心配して、例のごとくあの姿で、ひそかに追って来て下すったのだ!
しかし、そのあいだには濠があった。城の濠ほどの幅はないが、しかし鳥でなければ飛び越えられぬ距離であり、また高さであった。このあいだにも、青い炎はついに彼に追いつき、彼の足から衣へめらめらと燃えあがっている。足も衣も燃えてはいないが、しかし、じっと立ってはいられぬ焦熱地獄であった。
笛吹城太郎の頭に、稲妻のようにある着想がひらめいた。
できるか? おれにはできぬ。……いやできる。あの虚空坊にできたことがおれにできぬわけはない? 迷いと決断が、一瞬のことであった。いや、彼が屋根に舞いのぼってからこのときまで、ものの二分とたってはいなかったろう。
ただ、この冒険に右京太夫さまを道づれにすべきか否か?
この期に及んでなおためらい、ふりむいて庭を見下ろす城太郎の頬をかすめ、びゅっとなにやらうなりすぎた。
城太郎は、庭でひきしぼった矢をはなち、なお小姓からつぎの矢を受けとっている三好義興の姿を見た。
つづいて、第二の矢が、こんどは右京太夫の肩をかすめすぎる。
――やんぬるかな!
城太郎の心はさだまった。彼は背に負うた大傘を肩ごしにぬきとった。
「右京太夫さま」
と、彼はいった。
「成るか、成らぬか、拙者にもわかりませぬ。この傘に風をはらませて、濠の向こうにとびまする。しかと、拙者につかまっておりなされ!」
ぱっと傘をひらくと、それに烈風をはらませた。同時に、彼は大屋根の甍を蹴った。
成るか成らぬか――それまでならば、いかに伊賀の忍者笛吹城太郎とて絶対不可能視せざるを得ないはなれわざであった。あの驚天の魔僧虚空坊なればこそできたことだ。しかも傘は虚空坊独自の忍法傘ではなく、柳生城からの借り傘である。が――、きゃつ根来の忍法僧にできたことが、伊賀の忍者にできぬという法があろうか。
この負けじ魂と、そして絶体絶命の必死の念力が、城太郎を大空へ羽ばたかせた。すばらしい跳躍力であった。おどろくべき浮揚力であった。
が――|甍《いらか》を蹴った刹那、彼は右手にしかと抱いた右京太夫のからだがぴくんと一つ痙攣するのを感じた。
同時に風にのって、ひとつの遠い声をきいた。
「城太郎どの、わたしはあなたをゆるします」
城太郎と右京太夫をぶら下げた傘は、大空を翔けた。――といいたいが、虚空坊のかくれ傘とはちがう。それはななめに大地へむかってながれおちた。
足の下に、みるみる濠の水がせまって来た。
舞い下りながら、城太郎は、その恐怖より、たったいまきこえたふしぎな声に脳髄を占められていた。あれは誰の声であったか? 篝火だ! 篝火の声だ。篝火が告げたのだ。
「わたしはあなたをゆるします」
なにをゆるすのか。篝火は――じぶんが右京太夫をつれて逃げることを、愛することをゆるすといったのではないか?
城太郎の足は大地についた。濠をわずかに越えた位置で、凄じい衝撃からゆらりと右京太夫をささえたのは、超人的な彼の体術、彼の足のばねであった。
「笛吹」
馳せ寄ってくる鉄蹄の音をききつつ、城太郎は右京太夫を地に下ろした。
「右京太夫さま、助かったようでござります」
その刹那、彼は棒立ちになった。
右京太夫の背中には、一本の矢がふかぶかとつき刺さっていた。
【三】
矢を射たのは、三好義興であった。彼はむろん妻をかどわかそうとする袈裟頭巾の怪法師めがけて|弦《つる》を切ったつもりであった。
その矢がはずれたのは、その刹那、彼の背中に|匕《あい》|首《くち》が突き立てられたからだ。匕首を突き立てたのは松永弾正であった。
それまで座敷の縁側まで出て、じいっと庭に展開される光景を見ていた弾正は、最初の驚愕、狼狽の波がすぎると、みるみる古沼のように沈んだ物凄い顔色に変わっていたのである。
縁のちかくにボンヤリと立っていた侍たちのなかに、漁火からの秘密の伝令となった三好家の若党助十郎を見ると、彼は音もなくさしまねき、耳に口をあててなにやらささやいた。
そして、みずから縁を下りて、庭を歩いてきて、三好義興のそばへ寄ったのである。
義興は三本目の矢を弓につがえていた。彼の全神経はもとより屋根の上へそそがれていた。その矢を射ようとした瞬間、弾正は義興の背を刺した。
「あっ」
義興はどうとうちたおれ、血ばしった眼で弾正をにらんだ。
「弾正――うぬは、主を刺したな。おのれ逆臣」
起きあがろうとする腕の一つを蹴り、弾正はむずとその上に足をのせた。
「いま刺さずんば、おれが刺される」
と、彼はいった。
どっと庭の周囲で混乱が起こった。むろん、三好家の侍たちが、この光景に仰天したのである。それをはねとばすようにして一団の武士が、戦車みたいに槍をつらねて突入して来た。
「義興どの、弾正はいまあきらかに叛旗をかかげる。三好家に対する叛旗は、すなわち天下に対する弾正の|覇《は》|旗《き》だ」
突入してきた武士たちは、もとより弾正の旗本だ。先刻よりのなりゆきから、もはやただですむ事態ではない。しょせん無事にこの屋敷を出て、信貴山城へ帰ることもかなうまい、と度胸をすえた弾正は、毒をくらわば皿まで、一挙にここで三好義興を|弑《しい》し、現在のみならず将来の|禍《か》|根《こん》を絶とうと恐るべき行動に出たのであった。
が――さすがに主君の若殿の首に手はかけ難かったとみえて、
「いざ。――おん首頂戴|仕《つかまつ》れ」
歯の|軋《きし》るような声でいうと、うしろの犠牲者に折り重なる数人の旗本をふりかえりもせず、|鉄《てっ》|桶《とう》のような護衛につつまれたまま庭から出ていった。
あまりの大凶変に胆おしひしがれた三好家の家来たちは、主君義興の首をかき切った松永の旗本たちが、つづいて黒い風のように弾正を追って走り出るのを、夢魔のように見送ったままであった。
助十郎によって配下の松永勢を呼び集め、みるみる陣伍をととのえて、弾正が三好邸をひきはらっていったのは、あっというまのことである。
いかなる異常事態があっても、たちまち蛇のような冷たさと粘っこさをとりもどして、危地を脱し、形勢を逆転させ、思う壺にはめさせるのが、松永弾正の凄腕だが、とくにこの際、香炉の蔵にあった平蜘蛛の釜まで忘れずに探し出し、ゆきがけの駄賃にうばっていったのは、まさに|奸《かん》|雄《ゆう》弾正なればこそだ。
三好邸を去りつつ、
「――笛吹城太郎と右京太夫はどうした?」
むろん、そのことは念頭を去らず、彼らの飛び去った濠の彼方を捜索させたが、ふたりの行方はしれず、ただ南へ向かって黒衣の騎馬隊が駆け去ったという目撃者を得たばかりであった。
――ところで、義興が右京太夫の背に矢を射ちこんだ刹那、義興のそばの地上につくねんところがっていた漁火の首が、かすかに唇をうごかしたのを誰も知らない。
「――城太郎どの、わたしはあなたをゆるします」
そして、その唇はニンマリと笑んだままうごかなくなった。それは淡いが、かなしげな、恐ろしい笑いであった。
いったいそれは篝火の|死霊《しりょう》がもどってきての呼び声であったのか、それとも漁火の皮肉な嘲笑であったのか。――首が笑ったのを見たこともない人々は、誰も知らない。
松永弾正は信貴山城にかえった。
そして、その城の天守閣に一個の傘がひっかかっているのに気がついた。天守閣の屋根の|鯱《しゃち》が、かっとむいた歯のあいだに、大きな破れ傘の柄をくわえていたのである。
傘には、血文字でこうかいてあった。
「黒衣の騎馬隊は柳生なり」
柳生城楚歌
【一】
「右京太夫さま」
「…………」
「右京太夫さまっ」
声が、山風にながれた。
風は、雨気をはらんで、暗い。
もう|醍《だい》|醐《ご》のあたりであろうか、かなり高い山の道であった。はげしい南風をついて、その山道を黒い奔流のように駆けのぼってきた十数騎のうち、いちばんうしろの一騎がみるみるおくれ出したのである。
よく見れば、その一騎だけ変わっていた。ほかの騎馬はことごとく黒衣の姿に笠をつけているのに、それだけ法師姿で、しかもひとりの女を抱いているのである。彼は鞍の上で女を両腕に抱きかかえ、手綱は口にくわえているのであった。
「右京太夫さま、お気をたしかに!」
ついに馬をとめて絶叫する笛吹城太郎に気がついて、ほかの馬もとまり、ひき返して来た。城太郎は、右京太夫を抱いたまま、鞍から下りて、竹林のかげの地に横たえた。
「……もう少し」
「せめて宇治まで」
馬をひきかえしたが、黒衣の武士たちは、京の方をふりかえり、焦っているふうであった。
「――待て」
配下を叱りつけるようにいって、馬から下り立ったのは、覆面をしているが柳生新左衛門だ。
京の二条の三好邸からのがれ出した城太郎を救ったとき、城太郎が右京太夫を抱いているのを見て、新左衛門はちらと眉をひそめた。またしても――と思ったらしい。
しかし、いかにして城太郎が右京太夫を伴って逃げて来たか、それを問ういとまはなかった、三好、松永の急追をのがれるためには、秒瞬を争ってその場を離脱する必要があったし、かつ――その右京太夫は、背に深い矢傷を負うていたからだ。
その矢傷を手当する余裕もない。用意してきた空馬に城太郎と右京太夫をのせると一行はしゃにむに、京を南へ、醍醐まで逃げのびて来た。
そしていま、柳生新左衛門は、黙然また暗然として、右京太夫を見下ろした。
「右京太夫さま。……右京太夫さまっ」
じぶんの置かれている立場など、まったく忘れはてたように、笛吹城太郎は狂乱した声をあげて、右京太夫をひざの上にまた抱きあげてゆさぶった。そのひざから土へ、また新しく血がこぼれ、ひろがってゆく、――右京太夫はがっくりと白いあごをあげて、ゆられるがままになっている。
「ああ!」
と、城太郎は身もだえした。
「おれが悪かった。おれが京へいったのが、かえって悪かった。おれがつれ出しさえせなんだら、矢に射たれることもなかったのだ!」
そして彼は、柳生新左衛門に少年みたいな泣き顔をふりあげた。
「仰せの通りでござった。おれは右京太夫さまを修羅の世界にさそい、とうとう――」
「いいえ、それはわたしが望んでしたことです」
城太郎は愕然として腕の中の女人に眼をおとした。右京太夫はいつのまにか眼をひらいて、じっと彼をながめていた。その瞳には、瀕死の女とは思われない夢みるようなひかりがあった。
「これでいいの。わたしが義興どのの矢に射られて死ぬことも、わたしの望んでいたことでした。わたしは夫を裏切ったのですから」
それがなにを意味するか、城太郎にはわかった。そして、戦慄した。
三好義興さまの|御《み》|台《だい》右京太夫さまは、あきらかにじぶんへの愛を告げている。それは彼を身ぶるいさせたが、さらにその愛がなにによってきざしたか、それを思うと心臓がねじれるようであった。淫石の茶。――右京太夫さまは、あの茶を服まれた。そのせいだ。
この女人の愛を感謝すべきか、恐れるべきか。いずれにしても、右京太夫さまはいまここで死んでゆこうとしている。さっき馬上で、いちど右京太夫の呼吸が絶えたのを知って、彼は愕然として馬から飛び下りたのだ。――そしてまた、いま恐ろしい言葉を吐いたあと、右京太夫はふたたび城太郎の腕の中でがくりと眼をとじた。
「右京太夫さま。……右京太夫さま!」
彼は、いのちのかぎり抱きしめた。そのさけびは、大竹藪のそよぎに、しだいに消えていった。
――と、完全にこときれたと思った右京太夫の唇が、またかすかにうごいた。
「城太郎」
と彼女はいって、うっとりと微笑んだ。そして、城太郎にとって、彼女の死よりも恐ろしいとすら思われた最後の言葉を彼女はもらした。
「わたしはあの茶は服みませんでした。……でも……」
ポツリ――と、新左衛門のひたいを雨つぶがうった。
しかし、彼はそのことに気がつかない。右京太夫の言葉の意味は知らず、なんとも名状しがたい鬼気に吹かれ、彼のみならず柳生の侍すべてが、つづいてみるみる地上の城太郎と右京太夫を真っ白なしぶきにつつんでしまった山雨すら意識せず、凝然と藪のかげに馬をならべていたが、ふと高い虚空の風の|悲叫《ひきょう》の中に、女の笑い声のようなものをきいて、ぎょっとして顔をふりあげていた。
【二】
松永弾正は信貴山城に帰るや否や、猛然と戦備をととのえた。
京であれほどのことをやってのけた以上、当然三好長慶が叛臣誅罰のために全軍をあげて来襲するものと予想したのである。
ところが――このことはなかった。
ながらく病んでいた三好長慶は、嫡子義興の|非《ひ》|業《ごう》の死で致命的な衝撃を受けて、復讐の意志を行動に移すこともできないほどの廃人と化してしまったのだ。主を失った三好一党は、ただ自失し、右往左往するのみであった。もともと、近畿一帯の実権はすでに弾正の手に移っていたことは、誰しもみとめていたのである。三好方にとって唯一の希望の星は若い義興であったが、その星がおちてみると、原因はなんであれ、冷厳な事実として、つぎの覇者が誰であるか、なんぴとの眼にもあきらかであった。
三好方の軍兵は、弔い合戦を企てるよりも、続々として弾正のもとへ走った。そしてまもなく三好長慶も灯の消えるように死んだ。三好家は自潰といっていい状態で滅亡した。
悪さかんなれば天に勝つという。
このことが、松永弾正という人間の上にあらわれたほど適切な例は、歴史上でも|稀《け》|有《う》である。その猛悪な性格と、それにもかかわらず――といいたいその成功ぶりについては作者も甚だ興味があるが、それは本編の主題ではない。
とにかく、その悪の炎の燃えさかるところ――彼はついにときの将軍|足《あし》|利《かが》|義《よし》|輝《てる》をすら|弑《しい》した。三年後の永禄八年|五月雨《さみだれ》のふる日のことである。あれどもなきがごとき存在の足利|公《く》|方《ぼう》ではあったが、ともかくも天下の将軍を公然と襲撃して殺害し、さらに彼は、そのうら若い御台までも捜索して、京都郊外にこれを斬殺した。
かくて、それより十余年にわたって、名実ともに弾正の天下となる。これは厳たる歴史的事実であるから、いたしかたがない。
その|剽悍《ひょうかん》、その奸悪。ほとんど大悪魔も三舎を避けんばかりの松永弾正の猛威に歯止めをかけ、さらにこれを地上から消し去るには、彼と一脈似たタイプで、さらに巨大で猛烈な織田信長という人物の登場を待たねばならなかった。
やがてときのくるまが回り、信長が|颯《さっ》|爽《そう》として歴史の中央舞台に登場してきたとき――さしもの弾正も、その悪の本能から、しょせんこの比倫を絶する英雄児に敵しがたいことを看破したのであろう。賢明にも信長のまえに伏し、とり入り、その|鉄《てつ》|鞭《べん》をたくみに避けようとした。その計画が破れたのは、信長の信長らしい、いかにも傍若無人な、破天荒な|悪謔《あくぎゃく》からであった。
天正五年の晩夏の一日、弾正が|安土城《あづちじょう》で信長に謁したとき、徳川家康に紹介された。その紹介のしかたが、実に|辛《しん》|辣《らつ》であった。信長はこういったのである。
「家康どの、この老人はな、人のなし難いことを三つしてのけた男じゃ。第一にこの男は南都大仏殿を焼いた。第二に主家三好家を滅ぼした。第三に足利公方を弑した。どれ一つでも常人のなし難いことを三つまでしてのけたこの男の面をよく見られよ」
さすがの弾正も満面血を吹かんばかりに赤面し、ついに信長に対して叛旗をひるがえすほぞをかためたという。
叛旗はひるがえしたが、こんどは相手が悪かった。彼は信貴山城に立籠ったが、たちまち信長の猛襲を受け、炎の中にその大魔身を消し去ったのである。
――これは、この物語の永禄五年から十五年後の天正五年の話。
――さて、三好義興を殺害して信貴山城に馳せもどった松永弾正は、案ずるより産むが易し、三好衆の反撃なく、周囲の形勢は望外にじぶんに有利に展開しはじめたことを知った。もとより座して、ただ眼をひからせているばかりの弾正ではない。いわゆる三好三人衆と呼ばれる三好家の重臣、足利公方、近隣の諸豪族などを、あるいは利を以てさそい、あるいは脅迫し、|万《ばん》|遺《い》|漏《ろう》なく手を打ち終わり、まず事態安全という見込みをつけると――さて、その眼はただならぬ凶相をおびて東の方へふりむけられた。
この春以来の平蜘蛛の釜をめぐる修羅の渦の中に、思いがけなく容易に三好家を沈め去ったが、そのことを以て望外の満足とするほど淡白な弾正ではない。――思えばその渦の中に、果心居士から託された七人の根来忍法僧を失い、妖艶たぐいない愛妾漁火を失い、残ったのは平蜘蛛の釜ばかりである。あやうく三好家から拾っては来たものの、平蜘蛛の釜はもともとじぶんが千宗易から贈られたものだから、これをとりかえしたといってそれだけでよろこんではいられない。
なによりも、かんじんの右京太夫を手に入れることができなんだ!
このことに関するかぎり、天下の覇者たるおれも、伊賀の一忍者にしてやられたといっていい。――きゃつはどこにいる?
それも、もとはといえば、きゃつをしばしば救った謎の黒衣の騎馬隊のためだ。いや、それはもう謎ではない。柳生新左衛門であることは明白だ。忍法僧虚空坊が、かくれ傘の血文字を以てそのことを告げたのである。
柳生といえば、この戦国の世に、すんでのことで滅亡に瀕していたのを、おれの庇護によってあやうく命脈をとりとめてやった山中の小大名ではないか。しかも、要らざるちょッかいを出して伊賀の小冠者の後盾となり、なにくわぬ顔をしてこの弾正を悩ませたとは、不逞、|僭上《せんじょう》、忘恩――そんな言葉ではまだ足りぬ。とにかく気でも狂ったとしかかんがえようがない。
たとえ、柳生の気が狂ったとしても、もはやただではおけぬ。――|況《いわ》んや、例の笛吹城太郎と右京太夫は、その柳生の庄にひそんでいるかもしれぬではないか。いや、十中九までは、いまそこにかくまわれているに相違ない。
松永弾正が、数千の兵を駆り、みずから陣頭に立って柳生の庄へおしよせたのは、十月十日の夕方のことであった。むろん、柳生の方では愕然としたらしい。……蒼白になった柳生侍が数人、松永勢にやってきて、「これは何事でござる」と、|詰《きつ》|問《もん》した。
柳生谷の入口に本陣をおいた弾正はこれを迎えて、
「新左衛門にこれを見せい」
と、一つの破れ傘を放り出した。例の――「黒衣の騎馬隊は柳生なり」と書いた血がドス黒く変色した傘である。
「これを見せれば、新左衛門も二言とはあるまい。いや、逃口上はゆるさぬ、と釘をさしておくぞ」
顔色変じて、その傘をひろい、柳生侍たちが立ち去りかけると、
「ま、待て」
と、弾正は眼にめらめらと炎を燃やして呼びとめた。
「柳生城に、伊賀者笛吹城太郎なるものと三好家の御台右京太夫さまがおわそう。いや、かくしても、こちらにはよくわかっておるのだ。それを当方にさし出せば、新左衛門の一命、あるいは思案してやらぬでもないぞ。あと一刻待つ。覚悟をすえて、いかようなりとも返答せい!」
|倉《そう》|皇《こう》として駆け去る柳生侍たちのきびすを追って、数千の松永勢は、柳生谷に氾濫していった。
空は血をながしたような凄愴な夕焼けであった。そして、その下の柳生谷も、また炎にあふれた。まだ夕焼けの時刻なのに、なんのためか、弾正麾下の兵は、すべて火をつけた|松明《たいまつ》を持ったのだ。
――一刻ののち、柳生城の城門がひらくと、柳生新左衛門と笛吹城太郎の姿があらわれた。
【三】
城太郎は、夏以来、柳生城にいた。
彼は病んでいた。肉体の病気というより、魂が病んでいたのだ。
彼はただ一室に座して、凝然と壁に眼をすえていた。そこに見ていたのは、二人の女人の幻であった。二人の女――いや、ただ一人の、|篝火《かがりび》と右京太夫、それはいまや一人の女人であった。
その二人の女はもういない。そして――二人の女の魂は、おそらく地獄へいったであろう。|万《ばん》|斛《こく》の恨みをのんで死んだ篝火のみならず、別の意味で、微笑んで死んだ右京太夫さまもまた――。
城太郎は、じぶんも同じ地獄へいって、彼女たちを抱きしめてやりたかった。彼が死ななかったのは、ただそういうじぶんを黙々と、しかも兄のような慈眼でじっと見つめている柳生新左衛門のためと、もうひとつ、ある意志のためであった。
それは、松永弾正への復讐だ。
いちじ、その炎は消えかけた。あまりに闇が深かったからだ。新左衛門もいった。
「城太郎、きもちはわかるが、七人の法師を討ち果たしたことで、もはや復讐の望みはとげたといってよかろう。気が休まったら、伊賀へ帰れ。わしが服部半蔵――に、まだ逢うたことはないが――逢うて、とりなしてやろう」
しかし、城太郎は伊賀へ帰る気はなかった。
秋風が吹き、病んだ肉体と魂が、伊賀の忍者特有の鋼鉄の|勁《つよ》さと冷たさをとりもどすとともに、その炎はふたたび燃えあがった。
明日にも彼は、この柳生の庄を辞して信貴山城へ駆け向かおうと思っていたのだ。
そこへ――天なり命なり、弾正の方で、この柳生へ襲来した。しかも、あきらかに城太郎の存在を知り、その首を狙って。
これは、城太郎にとって、思いがけないことであった。思いがけないことではあったが、おどろきはしなかった。――もし、柳生新左衛門というものがないならば。
松永の陣から馳せ帰った家臣の報告をきき、例の破れ傘を見て、柳生新左衛門は腕こまぬいてかんがえこんだ。例の、ものに動ぜぬ沈毅な姿勢であったが、心中愕然としたことはあきらかであった。いくら城太郎でも、それはわかる。
当然である。柳生一族、いかにも日夜剣法に鍛錬を重ねるとはいえ、天下の覇者たる松永の大軍をひき受けて、しょせん敵すべくもない。――柳生は、おれ一人を救うために滅びるのだ。
笛吹城太郎の決意は単純|直截《ちょくせつ》であった。
おれ一人のために、柳生家を滅ぼすわけにはゆかぬ。――おれがゆけばよい。おれみずから仇敵弾正のまえに身を投げて、首の座に直ればよい。
「笛吹、どこへゆく」
決然と――また粛然と出てゆこうとする城太郎を、柳生新左衛門は呼びとめた。
「松永の陣へゆくか」
「されば、――」
「そなたがあれほど首を欲しがっていた弾正に、おのれから首をささげにゆくか」
「拙者のために、お家を滅ぼすことはできませぬ」
「そなたが首をささげて、柳生が助かるという保証があるか」
新左衛門は重く笑った。覚悟をきめた男らしい笑顔であった。
「うふふ、わしもちと、いたずらが過ぎたよ。弾正も驚いたろう。あの覆面の騎馬隊がこの柳生だとはな」
「申しわけござりませぬ」
「いや、そなたがわびることはない。わしの要らざる物好きだ。とはいえ、弾正、怒ったろうな。そなたの首を出したところで、やわか柳生をぶじにはおくまい」
「と、申して」
「いや、やぶれかぶれになるのはまだ早い。小国柳生にとって、かようなことは、いままで幾たびとなくあったことじゃ。そのたびに、わしの|祖父《じ い》、おやじ、そしてわしもまた死中に活をつかみ、なんとか切りぬけて来た。もっとも、このたびの松永のようなしたたかな人物を相手にして、かかる破目におちたのははじめてじゃが。……とにかく、わしもいっしょにゆこうよ」
「いっしょにいって、なにをなされます」
「ちかづいて、弾正をいけどりとする」
「えっ」
「弾正を人質として松永勢と談判しよう」
新左衛門は、自若としていった。城太郎は眼をかがやかせてさけんだ。
「新左衛門さまと拙者が力を合わせれば、それはできます。そして、柳生さま、弾正に代わって天下の主とならせられませ」
「ばかな」
新左衛門は苦笑した。
「それほど天下取りは容易なものではない。それがたやすくできるならば、この暑い夏、わざわざわしが覆面などして鼠のように駆けまわるものかよ。――松永弾正、稀代の悪人とはいえ、また大魔王じゃ。わしの見るところでは、あの人物の君臨するは、少なくともここ十年は動かぬとみる。やがてまことの天下取りが東海のあたりから出てくるまでは」
「東海の――だれでござりまする」
「織田」
眼を半眼にしてつぶやいた。
「それから、徳川か。……」
「では、弾正を討ってはならぬのでござりまするか。いや、いけどりにして、討たぬおつもりでござりまするか」
「わしの思案としては、弾正をいけどりとして当城にしばらくとどめ、そのあいだにじゅんじゅんとして、もののふの道を説き聞かしたい。――しかし、城太郎、そなたはまだ弾正への恨みを捨て得ぬか」
「恨みは」
城太郎は、歯をくいしばってこたえた。
「捨てませぬが、しかし……新左衛門さまの御意のままに従いまする」
「もとより事の成り行き次第では、弾正の首を刎ねるようなことになるかもしれぬ。が……また、そなたとわしの首が、先におちるかもしれぬ。おそらく、後者であろうな、その方の可能性が多いぞ」
新左衛門は笑った眼で、城太郎をじっと見つめた。
「とにかく、城太郎、いっしょに弾正の陣へ参ろう」
それから一刻ちかく、新左衛門は、柳生衆の重臣を呼んで打ち合わせた。もし、弾正をみごとにいけどりにした場合、また新左衛門自身が討たれた場合の城兵の措置についての指図であった。
――そして、柳生新左衛門と笛吹城太郎は、柳生城の城門を出たのである。
空の夕焼けは、妖麗な紫に変わっていた。石段の上に立ち、谷間の城下の狭い屋並みを見下ろして、新左衛門はちょっと眉をひそめた。
往来はもとより、家々の軒下、屋根の上まで、無数の松永の兵があふれている。おそらく領民はそれぞれの家へ追いこまれ、閉じこめられているのであろう。ほかの大名ならここまで侵入をゆるすはずもないが、相手が松永だから、不本意ながらこうなるまで見逃がさざるを得なかったのである。
が、新左衛門が眉をひそめたのは、たんなるそれだけの光景ではなく、その松永の兵が、ことごとく燃える松明を持っていることであった。
「――はて、弾正め、なにをしようというつもりか?」
心中にふとくびをかしげ、それから新左衛門は城太郎をうながし、おちつきはらった足どりで、石段を下りはじめた。
くりかえしていうが、正確には城というべきほどの構えではない。居館は高い台地にあるが、城門を出て石段を下りれば、すぐに城外となるほどの規模である。
――と、石段の下の広場に、向こうからまるで巨大な鉄の亀のようなものが進んで来た。それはいくつかの環を重ね、真っ黒に見えるほど密集した鉄甲の武者の大集団であった。それが、石段の下からはるか彼方にとまると、その環の中から恐ろしい声がながれて来た。
「柳生。――右京太夫さまはどうしたか」
「おお、弾正どの――右京太夫さまは、さんぬる夏、京よりこの柳生へお越しの途中、醍醐にてお果てなされてござる」
「なにっ、いつわりを申せ」
「――いつわりではござらぬ。それについて――」
「待て、新左衛門、それにて止まれ」
一瞬沈黙して、すぐに声がつづいた。
「右京太夫さまのことはしばらくおく。それにて止まって、そこな伊賀者を討ち果たせ」
「――あいや、それについていささか申しあげたい儀がござる。しばらくおきき下されませ」
「待て、そこうごくなと申すに」
遠い鉄甲の集団の中から、弾正の声だけがした。
「まず、伊賀者笛吹城太郎の首を斬れ。それをここへ持参してから話をきこう」
すると、その黒い円陣のうしろから、十人あまりの|雑兵《ぞうひょう》がばらばらと出て来て、その前に一列横隊に折敷いて、肩に黒い筒をあてた。筒のどこからか、うす蒼い煙が立ちのぼりはじめた。
それがこのごろぽつぽつと噂にきく南蛮渡来の鉄砲という飛道具であることを、柳生新左衛門も知っている。新左衛門と城太郎は石段の中途で釘づけになった。
刻々と空の紫は蒼みがかり、星影すらもきらめき出した。その下に――柳生谷は、いまや無数の松明の火に充満していた。
「|遁《とん》|辞《じ》はゆるさぬ。寸刻の猶予もゆるさぬ。即座に伊賀者を斬らねば、この鉄砲を射ちはなし、また松明を投げて、柳生谷すべて炎と変えてくれるぞ」
弾正の声は、無慈悲に、|勁《けい》|烈《れつ》にながれわたった。
「新左衛門、なにをひるんでおるか!」
果心火描図
【一】
「……さすがは、弾正」
と、柳生新左衛門はうめいた。
言葉は感服に似ているが、これはいかにも新左衛門らしいいい方で、そうつぶやいた声は歯ぎしりの音をまじえた。顔は松明の遠明りをあびて、しかも鉛色に変わっていた。
「新左衛門、笛吹を斬れ」
広場では弾正がまた|吼《ほ》えた。切迫した声であった。
「柳生さま、拙者をお斬りなされ」
城太郎がいった。
「さもなければ、柳生の庄の住民ことごとくが焼き殺されまする。城太郎は、もはや生きて甲斐なき男でござる」
「そなたを斬ったとて、しょせんは同じだ」
柳生新左衛門は決然と眉をあげた。
「ゆくぞ、城太郎、弾正がなにをいおうと耳のない顔をして、ユルユルと歩いてゆくのだ。もしわれらが討たれ、敵が焼き打ちにかかれば、柳生の侍ども、面もふらず斬って出ることになっておる」
そして、二歩、三歩、なんのこともなかったような顔をして、シトシトと石段を下りかけた。
一瞬、広場や屋根屋根に燃える松明の炎が、赤い氷となって凍りついたようであった。なにくわぬ顔で石段を下り出したふたりから放射される凄じい殺気に、思わず武者たちの全身が金縛りになったのだ。
かくそうとしてもかくせぬ殺気は、しかし、むしろ新左衛門にとって、とりかえしのつかぬ事態を呼ぼうとした。――かっと眼をむいて凝視していた松永弾正は、ふいに身をふるわせて絶叫した。
「鉄砲を撃て、火を投げろ」
遠い背後で、異様などよめきがあがったのは、その声の余韻の消えぬうちである。
「待て」
と、弾正はさけんで、ふりむいた。
どよめきの波は、しだいにちかづいてくる。弾正が待てとさけんだのは、そのどよめきが、じつに奇妙なものにきこえたからだ。決してそれは味方が思わぬ奇襲を受けたといったようなものではなく、ごく小範囲の混乱で、しかもその混乱が、樹々を吹きわたる一陣の風のごとく、すぐそのあとでしんとしずまりかえるのが感じられたからであった。
――はて、何事か?
弾正のみならず、柳生新左衛門もまた眼を凝らした。すると――
「おお、上泉伊勢守どの」
「信綱どのが参られた」
そんなざわめきが耳を打った。
「なに、上泉が?」
さすがの弾正も愕然と面をあらためた。
上泉伊勢守といえば、当代一の剣聖だ。彼は以前から諸国をめぐり、群雄の城におのれの編み出した|新陰流《しんかげりゅう》の種子を|蒔《ま》いていった。遠く甲斐の武田信玄とも|肝《かん》|胆《たん》相照らした仲だときいているし、いまの将軍足利義輝も、彼に手をとって教えられている。――いや、げんに二、三年前、伊勢守は弾正の信貴山城にもやってきて、そのとき弾正が師礼をとったほどの人物だ。
「――あっ、伊勢守さまっ」
いままで、鉄砲隊から銃口をむけられても|従容《しょうよう》としていた柳生新左衛門が、このとき、まるで石段からころげおちんばかりに駆け下りて、広場を走ってきた。
「撃つな、待て」
と、弾正はあわてて鉄砲隊を制した。むろん、伊勢守をはばかったのである。
上泉伊勢守は、すでに広場にあらわれていた。笠の下から白い髯が見えるだけだが、自然木の杖をついた姿は、いつか信貴山城を訪れたときと同じである。またそのときと同様に、二人の弟子をつれていた。あきらかにそれが、|神《しん》|後《ご》|伊《い》|豆《ず》、匹田小伯という名剣士の顔だとわかる。
「伊勢守さま、お久しゅうござる」
新左衛門は、そのまえにひれ伏して、ひたいを地にすりつけた。
「なつかしいな、新左衛門」
弾正の方をふりかえりもせず、伊勢守はうなずいた。
「早う柳生の庄へ来ようと思いつつも、太の御所でとめられての。ようやく|北畠《きたばたけ》どのの手をふりきって、やっとここへついたわ」
太の御所とは、伊勢の大名北畠|具《とも》|教《のり》の居館で、この北畠具教も早くから剣の道に志があり、伊勢守に厚く師礼をとっている人物であった。
「ところで、弾正どの、お久しや」
と、笠をぬぎながら、こちらに向きなおった。
「この騒ぎはなんでござる」
二、三年ぶりに逢ったというのに、天下の覇者にあらたまっての挨拶もせず、いままでの話のつづきのようなもののいい方をする。笠の下からあらわれた白髪|白《はく》|髯《ぜん》の顔は、鶴みたいに清雅で、しかしその眼は童子のようにこだわりなく澄んでいた。
理由もなく松永弾正は眼をそらして、
「伊勢守!」
と、無意味なうめきをあげた。
上泉伊勢守に師礼をとったといっても、弾正は北畠や柳生のように、ことさら剣法に志があるというわけではない。しかし弾正が伊勢守に一目も二目もおいていることは、北畠や柳生に劣らない。――いったいに松永弾正は、例えば果心居士とか、千宗易とかに対したときでも同様だが、一芸に達した人間には、存外弱いところがある。いや、それは彼の弱点というより、唯一の長所とでもいうべきであろう。顔貌にも劣らぬほど醜怪な性状を持つ弾正が、ともかくいっとき天下に|覇《は》をとなえ得たのは、あるいはこの特性によったのかもしれない。そのことによって、あるていど有能の士を麾下に集めることができたからだ。
が、たちまち彼は獅子のごとく首をふりたてて、
「いかに伊勢守がわびればとて、柳生はゆるさぬぞ」
と、吼えた。
「柳生は、この弾正に逆意を抱いたからじゃ。伊勢守、しばらくそこをどいてくれ。いま新左衛門を成敗いたす」
「わびはいたさぬ」
伊勢守は、しずかにいった。
「勝手に討たれい」
白髯の中で、微笑した。
「ただ、そのまえに、信綱よりお願いがひとつござる」
「なんじゃ」
「いつぞや、信貴山のお城で、この新左衛門と|約定《やくじょう》したことがござる。すなわち、この新左衛門は一見鈍骨にみえて、じつは当代まれなる剣法の|天《てん》|稟《ぴん》あるもの。ふたたび相まみえたるとき、この伊勢守みずから立ちあって、その刀法に工夫のあとあれば、一国一人の新陰流|印可状《いんかじょう》を相伝しよう――かく約定つかまつったことを、いま果たしたいのでござる」
「いま、死ぬべき奴にか?」
「|朝《あした》に道をきけば、|夕《ゆうべ》に死すとも可なり、これは剣の道でも同じでござるわ。――|喃《のう》、新左衛門、そうであろうが」
「老師、仰せの通りでござりまする」
新左衛門は大きくうなずいた。魂の底から出るような声であった。
「弾正どの、おききとどけ下さるか!」
じっと凝視した伊勢守の眉雪の下の眼に、なぜか弾正は抵抗できないものをおぼえ、顔をひきゆがめて、
「半刻待つ」
と、うめくようにいった。
「では」
と、伊勢守は手の杖を投げた。
「新左衛門、起て」
【二】
赤い波のごとくざわめき出していた無数の松明が、また氷結した。
上泉伊勢守と柳生新左衛門は、三間の距離をへだてて相対した。
伊勢守は|寂《じゃく》として一刀を青眼にかまえた。この老師がみずから白刃をとるなど、ここ数年見たことのない弟子の神後伊豆と匹田小伯は端座したまま眼を見張った。が、その微動だもしない一本の刀身からひろがって来た冷気は、一息か二息つくうちに万象を霜で覆いそうに思われた。少なくとも弟子たる伊豆と小伯は凍結してしまった。
これに対して柳生新左衛門は。――
おお、新左衛門はまだ一刀の柄に手をかけていない。この一代の大剣聖に対して、無刀のまま、これまた氷の彫像のごとく立っている。やはり端座した笛吹城太郎は、新左衛門が、城のことも、弾正のことも、その念頭から滅却していることを直感した。はじめその眼には、ひたすら純粋な歓喜が炎のようにもえているように見えたが、これまた一息か二息つくあいだに、その全身が無想の鉄人と化しているのを悟った。城太郎は、このときほど柳生新左衛門という人物を恐ろしいと思ったことはない。それは伊賀忍法も歯のたたぬような、圧倒的な恐ろしさであった。
弾正も、それをかこむ鉄甲の一団も、まるで|磐石《ばんじゃく》におしひしがれたように無意志な眼を見ひらいて、これを見まもっている。一瞬が数刻と思われる時が過ぎた。
「柳生」
伊勢守がいった。
「無刀取りの考案が成ったか?」
しみ入るような声であった。
「極意は?」
地からわき出るように、新左衛門はこたえた。
「|空《くう》|手《しゅ》にして、|鋤《じょ》|頭《とう》を|把《と》り
歩行して水牛に|騎《の》る
人、橋上を過ぐれば
橋流れて水流れず」
伊勢守の手から、白刃がおちた。
「出かした!」
そのとたんに、柳生新左衛門は、まるで朽木のように大地に崩折れてしまった。べたと座り、両腕をついた新左衛門のそばへしずかに歩み寄って、伊勢守は慈眼をおとした。
「われ、ついに及ばず。――新左衛門、一国一人の印可を相伝するであろうぞ」
「はっ。……かたじけのう存じまする」
新左衛門は顔もあげず、嗚咽の肩をふるわせた。伊勢守は苦笑して、
「しかし、そちは、わしのあたえた――浮かまざる兵法ゆえに石舟のくちぬ浮名やすえに残さむ――という歌の心にはそむいたようじゃな」
「恐れ入ってござります。いまだ、心術いたらず――」
「もし、この歌の心を体したら、そちに、|石舟斎《せきしゅうさい》、という名をやろうと思っておったに……おまえはここで死なねばならぬか」
「柳生石舟斎」
新左衛門は、みずからにいいきかせるがごとくつぶやいて、ニコと笑い、
「それはまたよい名、ありがたく頂戴仕りまする。新左衛門、いよいよもってもはや心残りはありませぬ」
「死ね」
「はっ」
「印可状のことは、小伯を残しておく。わしはゆくぞや」
伊勢守は背を見せた。――挨拶もせず、飄然とゆきかかる伊勢守を、弾正の方であわてて呼びとめた。
「伊勢守。――新左衛門を討ってよいか」
「お気のままになされ」
ふりむいて、髯の中で、きゅっと笑った。
「|菩《ぼ》|提《だい》は、新陰流一国一人の印可を受けた諸国の剣士どもが、やがて亡国柳生に来り集うて弔ってくれ申そう」
弾正は、口を洞窟のようにあけたままであった。伊勢守の言葉のなにやら予言めいたぶきみさに、全身を寒風に吹かれる思いがしたのである。
「ま、待て、伊勢守」
と、思わずさけんだとき、――なんたる幻妖、それまで地上の夕焼けのごとく燃えしきっていた無数の松明が、一陣の風に吹かれたごとく、みるみる消えてしまった。
一瞬、視界は暗黒となった。たんに、それまでのあまりな明るさが消えたので、そう感じられたのではない。事実、弾正の眼前には、ぼやっとした黒い雲のようなものがひろがったのである。
地上の黒雲を透して、やがて、キラ、キラ、キラ――とひかるものが空に見えはじめた。それが満天の星だと気がついて、ふたたび大地へ眼をもどした人々は、そこに思いがけぬものを見出して、口の中であっとさけんだ。いつのまに現われたのか、そこには一人の老人が座っていたのである。
髪を総髪にして、鶴のように痩せて、顔は恐ろしくながい、その口の両はしに、どじょうみたいな髭が二本、タラリと垂れている。鶯茶の道服を着ていた。
「か、か、果心居士!」
と、弾正はさけんだ。
果心は地上に座ったまま、
「いや、空から見れば、|筑《つく》|紫《し》の|不知火《しらぬい》にもまがう大和の松明のおびただしさ。しかも、それにただならぬ妖気が見てとられた」
「果心、そなた、どこから来た――」
「|明《みん》」
と、こたえたが、弾正には、なんのことやら、意味も知れなかった。
「果心、その方があずけた根来の七天狗、ことごとくそこな伊賀者笛吹城太郎なるものに討たれ、右京太夫はこの世を去り、その方の企てすべて水の泡となったぞ! あまっさえ弾正、飼い犬に手をかまれ、そこの柳生に叛かれた。柳生新左衛門を存じておろう?」
果心居士は、ちらと柳生新左衛門と笛吹城太郎を見た。凄じい殺気にひかった新左衛門と城太郎の眼が、ふいにみずから虚ろとなって気力が消散するのを覚えたほど、それはふしぎな瞳力をもった眼であった。
ただ一瞬である。果心の眼は、まるで彼らなど度外においた早さで、もう一方にむけられた。果心からみれば、ちょうど弾正と並んだ位置にいる上泉伊勢守にである。
地上の雲は消えた。――とみえたが、よく見れば、果心居士だけは|朦《もう》|朧《ろう》たる霧のようなものにつつまれている。その中で、声がきこえた。
「なんじ知らずや、このごろの世の乱れはわがなすことなり。魔道に志をかたむけて天の下に大乱を起こさしめ、この国に|祟《たた》りをなさん。――と念じ来ったこの果心の心火を、いま不可思議の風で吹き消さんとする力がある。それは、そこから吹いてくる」
雨のそぼふるような果心の声であった。
「弾正どの、そこにおらるるご老人はどなたか」
「これは、上泉伊勢守と申す兵法者――」
「――おおっ、では」
果心は珍しいさけび声を発し、それっきり沈黙した。
伊勢守は一言も発しなかった。彼もまた大地に座って、じっと果心をながめていた。
剣聖対大幻術者のあいだになにが起こったか。
なにも起こらなかった。ふたりは、いつまでも、|寂然《じゃくねん》と相対して座しているだけであった。
しかし、そこにいた他の人間には、外界のすべてが消え失せ、さらにじぶんそのものも消え失せた。ただ、眼でない知覚が、そこに蒼白い巨大な光流が渦まいてはしぶくのを見ていただけであった。一刹那とも永劫とも形容しがたい時がながれた。
遠くで――この世の果てのような遠くで|怪鳥《けちょう》に似た声がきこえた。
「果心――敗れたり」
【三】
それは果心居士みずからの声であった。
同時に人々は、果心にまつわりついていた墨色の霧がすうっとはれたのを見た。それはまるで妖異な衣を剥ぎとられたようであった。そして人々は、むき出しになった果心を見た。
痩せおとろえ、くぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくから恐怖の眼をひからせ、歯をカタカタと鳴らしているひとりの醜い老人の姿を。
「わが幻術……。はじめて、通ぜなんだな……」
あえぎあえぎ果心は、つぶやいた。
「松永どの、柳生。――」
伊勢守は、しずかに立った。
「おさらば」
「ま、待て、お待ちなされ、伊勢守どの」
果心は細い片腕をのばしてさけんだ。ふいにその全身が硬直したようにうごかなくなった。あまりの異様な変化に、伊勢守すら、はたとそのまま足をとどめてしまったくらいであった。
伊勢守は微笑していった。
「果心とやら、いかがいたしたか」
「――しばらく、うごかれな」
と、果心居士はいった。
「伊勢守どのの星」
ちらとくぼんだ眼をうごかして、凍りつくような声で、またいった。
「弾正どのの星」
伊勢守と弾正は、ふりむいた。うしろに満天にちりばめられた銀河のような秋の星座があった。
弾正がいった。
「おれの星?」
「いま、おふたりの星を占うた」
果心居士は、いまの虚脱からぬけ出して、なぜかひどく興奮しているようであった。伊勢守がいった。
「ほう、星占い、なんと出た」
「申してよろしいか」
「ぜひ、ききたい」
「あなたさまなら驚かれまい。あなたさまのお命は、あと十五年で燃えつきる。しかも星の下に浮かび上がる地上の相によって占うに、あそこに見える柳生城――あの柳生城で、伊勢守どのは大往生をとげられる」
果心居士の眼は、もはや伊勢守を見てはいなかった。深い無限の空に妖しいばかりの瞳光をそそいで、うわごとのようにいった。
「しかも、なんたる奇縁か。十五年後の同じ年、弾正どのの命もまた燃えつきる。おそらくそれは、きょうとおなじ十月十日。――十五年後に命終わるご両人をそこに置いて、いまわしには十五年後の星座が見える」
「――果心、十五年後、あるいは両人死ぬかもしれぬ。年も年じゃ」
と、伊勢守はいった。
「しかし、わしは左様な星占いは信ぜぬ」
「剣法幻術の争いに敗れた果心じゃ。伊勢守どののご一笑受けても、それはやむを得ぬ」
このとき果心は実に不可思議な、皮肉とも自嘲ともつかぬ笑いを浮かべていた。
「じゃが、伊勢守どのをのぞき――他の人々、果心の幻術の笑うべからざることを、よっく見られよ――」
果心の声がこがらしのごとく鳴りわたると同時に、このとき、いちど消えていた無数の松明が、また一斉に炎々と燃えあがった。
と、みるまに、その松明は武者たちの手から、地上から、ひとりでにはなれ、浮かびあがり、星の夜空を|火《ひ》|矢《や》のごとくながれ飛んだ。そのゆくてに柳生城があった。
「――あっ、城が燃える!」
さすがの柳生新左衛門も、愕然として腰を浮かした。が、すぐにそれは、――
「おおっ、信貴山城!」
「信貴山城が燃えている!」
という人々の、たまぎるようなどよめきにかき消された。
人々は、そこにあるべからざるものを見た。柳生の庄の空に燃えしきっているのは信貴山城の天守閣であった。炎はひろがりせまり、燃える天守閣はみるみる迫ってきて、人々をその中に包みこんだ。
「誰かある。誰かある。――」
火炎のなかで、弾正は絶叫した。
人々はすぐ眼前に、ズタズタに斬り裂かれた鎧を着、黒煙にいぶされて逃げまどう弾正の姿を見ながら、身うごきもできなかった。と、その炎をついて、ひとりの武者があらわれた。彼は刃をひっさげて、弾正を追った。弾正はふりむいて、これを迎え討った。炎の中の地獄のような死闘であった。その武者の刃が、ついに弾正を袈裟がけに斬ったとき、武者のかぶとが飛んでその顔があらわれた。火光に彩られたその顔は、両眼をかがやかせ、口いっぱいにひらいて絶叫していた。
弾正、おぼえたか。笛吹城太郎、十五年前なんじのために殺され、苦しめられたふたりの女の敵をいま討つぞ。――
――この光景を――じぶん自身の姿を、笛吹城太郎と松永弾正は、冷たい地上に座って、凝然と見つめていたのである。
そのことに気がついたのは、やがてある笑い声とともに、その炎も幻影もしだいに消え失せていってからのことだ。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
すべてが消え失せたあとに、肩をゆすって笑っている果心居士であった。
われにかえった松永弾正は、恐怖のあぶら汗をしたたらせて、すっくと立った。
「果心、十五年後を座して待たぬ」
と、さけんだ。
「笛吹城太郎と申すやつ、いまここで討ち果たすぞ」
「星座のえがいた運命は鉄でござる」
と、果心はこたえた。
弾正は全身がしびれてしまった。
「いかにあがこうと、弾正どの、いま見られた未来相は変わらぬ。あえて変えんとするときは、果心、申しておく、弾正どのは、ただいま即刻、ここで落命されるほかはない。――」
果心の声は虚空からふって来た。
気がつくと、その姿は眼前から消えていた。そしてさらに見わたせば、笛吹城太郎の姿も|忽《こつ》|然《ねん》と消え失せていたのである。ただ、メフィストフェレスじみた例の笑い声のみが星座の彼方から降ってきた。
「その証拠に、笛吹城太郎はいまわしがつれてゆく。|愛《まな》|弟《で》|子《し》七人の忍法僧を、みごと討ってのけたこの伊賀の若者、にくいよりも可愛いわ。わしがつれていってもうひとつ仕込んでやろうぞい。――ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
十五年後、天正五年、上泉伊勢守信綱は柳生城で大往生をとげた。
おなじ年の十月十日、織田の大軍に包囲された松永弾正は、信貴山城の天守閣で、炎とともに消え失せた。
このとき――攻め寄せた織田の一武将が、かねがね弾正の秘蔵する平蜘蛛の釜は天下の名器、せめてこれだけは後世のために城外へ出されてから腹切られよ、と申し入れたのに対し、弾正は天守閣の高欄に出て悪鬼のごとく打ち笑い、たわけ、後世も来世もあるものか。おれが首と平蜘蛛の釜、この二つはあくまで信長の目にはかけぬわ。よく見ておけ、とさけんで、寄手の眼前で平蜘蛛の釜をみじんにたたき割り、身をひるがえして炎の中へ消え去ったという。
笛吹城太郎が待ち受けていたとするならば、その炎の中であったろう。
しかし、真の怨敵ともいうべき大幻術師果心居士とともに柳生城から消え去った笛吹城太郎、いのちのかぎり愛したふたりの女人を失ったこの伊賀の忍者が、それまでの十五年間、どこでいかに暮らしていたか。信貴山城滅亡後、どこでいかなる生涯を終えたか、だれも知らぬ。知っているものは、ただ戦国のメフィストフェレス果心居士のみであったろう。
[#地から2字上げ](伊賀忍法帖 了)
忍者という妖怪の誕生
[#地から2字上げ]京極 夏彦
忍者という言葉を広辞苑第二版補訂版(岩波書店一九七六年発行)で引いてみる。
当然載っている。ローマ字でNINJAと書いて外人に通じもするし、漫画のタイトルは元より、アイドルタレントのグループ名にもなる程だから、載っていない訳がない。
にん‐じゃ忍者[#「忍者」に傍点]忍びの者。忍術使い。隠密(おんみつ)。
短い。これなら説明しない方がいいのではないか、というような説明である。ちなみに、同じ広辞苑でも第四版(一九九一年発行)になると、更に簡潔になる。
にん‐じゃ忍者[#「忍者」に傍点]忍びの者。忍術使い。
これだけである。
隠密という説明まで削除されている。これは第二版補訂版が出版されてから第四版が出版されるまでの十五年の間に「そうか、忍者っていうのはあの隠密のことなのか――」というリアクションが望めなくなってしまった所為なのだろう。隠密の方が言葉としてはマイナーになってしまったのだ。「隠密同心のオンミツって何?」と問われて「忍者みたいなものなんじゃない」という回答で通じる時代になったのである。隠密は凋落し、忍者は普及したのである。そこで、その「隠密」を第四版で引いてみることにする。
おん‐みつ隠密[#「隠密」に傍点]=隠してひそかに事をすること。日葡「ヲンミッニモノヲイウ」。「――に事を運ぶ」=密偵。忍びの者。間者。南北朝時代からあり、武士ではあるが身分は低かった。伊賀者・甲賀者として、江戸時代にもこの伝統がある。隠し目付。忍び目付。庭番。
隠密に関していうなら第四版に「――に事を運ぶ」という用例が追加されているだけで第二版補訂版も内容はほとんど同じである。ただ、どこにも「忍者」とは書いていない。しかし、忍者の項の説明との共通項として「忍びの者」という言葉を見出すことが出来る。
隠密も忍者も「忍びの者」だと広辞苑はいうのだ。そこで「忍びの者」を引いてみる。ところが忍びの者という独立した項目はない。ただ「忍び」という項はやたらに長くて、その中に「忍びの者」の説明は含まれている。関連事項のみ抜き出してみよう。
先が第二版補訂版、続いて第四版である。
しのび忍び[#「忍び」に傍点]〜略〜 =ひそかにすること。 =身を隠して敵陣または城・人家などに入り込む術。忍びの術。忍術。 =忍の者の略。日葡「シノビガイ(入)ッタ」〜略〜 ――の‐じゅつ忍の術[#「忍の術」に傍点]=にんじゅつ。――の‐もの忍の者[#「忍の者」に傍点]ひそかに敵陣や人家に入り込んで事情をさぐる人。しのび。間者。
しのび忍び[#「忍び」に傍点]〜略〜 =ひそかにすること。=身を隠して敵陣または城・人家などに入り込む術。忍びの術。忍術。=「忍びの者」の略。太平記二〇「或夜の雨風の紛れに、逸物の――を八幡山へ入れて」〜略〜 ――の‐じゅつ忍びの術[#「忍びの術」に傍点]敵情視察・暗殺などの目的で、ひそかに敵陣や人家に入り込む術。にんじゅつ。――の‐もの忍びの者[#「忍びの者」に傍点]忍の術を使う者。間者。しのび。
微妙に違うが、いずれにも忍者という言葉はない。「忍術」という言葉が気になる。
にん‐じゅつ忍術[#「忍術」に傍点]密偵術の一種。武家時代に、間諜・暗殺などの目的で、忍者が変装・隠形(おんぎよう)・詭計などを利用し、人の虚につけこんで大胆・機敏に行動した術策。隠形の術に金遁・木遁・水遁・火遁・土遁の五道があり、甲賀流・伊賀流などが最も有名。遁形の術。忍びの術。
なる程――という感じである。忍術に関していえば、版が変わっても記述に変化はない。
では、本書のタイトルにある「忍法」はどうか。これも両版とも記述は同一だった。
にん‐ぽう忍法[#「忍法」に傍点]忍者の術。忍術の法。
再び簡単になってしまった。さて、何だか無駄な作業を繰り返しているようだが、これらの記述から、次のような言葉の関係性が類推できる。
忍び=忍びの者、忍びの術=忍術=忍者=忍法。
言葉の出来た順である。
これまたちなみに、一九三六年に発行された、七十二万項目を収める大辞典(平凡社)に「忍者」の項はない。「忍法」の項はあるが、「忍位」のことと説明されている。忍位というのは仏教用語で、忍者とはまるで関係のない言葉である。しかし「忍術」の項はあって、こちらは「忍びの術」のこととされている。
シノビノジュツ 忍の術 姿を隠し敵の陣中などに密かに入込む術。忍術。
シノビ 忍 〜略〜 =忍の術の略。忍術。〜略〜 =忍の者の略。
その昔、忍者という言葉はなかった[#「なかった」に傍点]のだ。
隠密を始めとして、すっぱ、乱破、かまり、間諜など、流派によって呼び名も様々で、それら特殊工作員達を総じて忍びの者、彼らの使う策術の類を総じて忍びの術と呼称していただけなのである。辞典辞書の説明にある通り、彼らは決して摩訶不思議な超能力を持った魔人妖人ではない。鍛錬を積んだ下級武士であり、スパイでしかない。彼らの使う術もまた、決して理解の及ばぬ超常な術ではない。本書に登場する術の如く人間業を遥かに凌駕した「物凄い」術は、その昔魔術や妖術と呼ばれていた筈である。
とはいえ、本書に登場するような、怪物的な「物凄い忍者」が、山田風太郎という稀代の戯作者の手で突然変異的に生み出されたものなのかというと――それはちょっと違うといわざるを得ない。史実現実とは違っていても、少なくともそれは現在民意を得ている訳だし、それが民意を得るだけの土壌は以前から厳然としてあったのである。
印を結んで|蝦《が》|蟇《ま》に化けたり姿を消したりする変幻自在の「忍者」像は、山田風太郎登場以前から、一般にはある程度浸透していたのだ。例えば山田作品に登場する「物凄い忍者」のルーツは、立川文庫や講談、更に|遡《さかのぼ》るなら江戸期の黄表紙などに求めることが出来るだろう。そこで活躍する術者達――猿飛佐助や霧隠才蔵などは(忍者ではなく忍術名人、あるいは忍術使いと呼ばれていたのだが)やはり人知を越えた物凄い技能を持っているのだ。いずれにしても現在一般に浸透している「物凄い忍者」像は、こうした創作物を通じて比較的近世に形成されたものと考えていいだろう。
しかし、そうした所謂「忍者」像もまた、無根拠に形成された訳ではない。
「忍びの者」には、前述の伊賀・甲賀の他にも、上杉、真田、楠、武田、白雲、羽黒、本書にも登場する根来等々、多くの流派があったことが伝えられる。本書で語られる伊賀忍者にしても、有名な服部家以外に百地、藤林という名家がある。それら多くの末端を根源に向けて辿って行くなら、必ず幾つかのキーワードを通過することになる。
まず、兵法である。そして陰陽道である。修験道である。その先には密教、更には道教が透視できる。同時に、芸能としての放下僧や幻戯師も視野に入るだろう。
人に直してみよう。諸葛孔明、阿倍晴明、|役小角《えんのおずぬ》、弘法大師、諸々の仙人、そして本書劈頭をも飾る果心居士――なんとまあいかがわしい顔触れ(!)であろうか。忍びの系譜を丹念に遡ると、恰も本邦のマジカルヒストリーを|繙《ひもと》くような結果になってしまうのである。
当然、それは上辺のことである。並べただけでも判る通り、それは信仰――宗教の歴史でもある。その背後には技術と、技術者と、それを巡る政治的な抗争がある。民衆のレヴェルから望むならば、それはまた、異人を巡る畏怖と排斥の民俗の歴史でもある。
怪異と神秘はそうした隠された精神活動によってリアリティを獲得するのだ。
その末端に、忍びの者――所謂「忍者」は位置していることになる。
そして、同じ材料を使って、同じ経過を経て生成された、もうひとつの末端を我々は知っている。それは――妖怪である。
所謂「忍者」と妖怪は、いうなれば味噌と豆腐のような関係なのだ。元を辿れば一緒なのである。しかし決定的に違うところもある。妖怪は現世に実体を持たない。忍者は勿論実在する。一方、現世に実体を持たないくせに、妖怪は普及した個体名を持ち一般的に個体識別ができる形質を獲得している。所謂「忍者」の方には長い間それがなかったのである。
簡単にいおう。キャラが立って[#「キャラが立って」に傍点]いなかったのだ。
忍者の場合はキャラクターが確立していなかったのである(作りたくても本物が存在しているのだから作りようがなかった訳である)。時が経ち、忍者自体が滅び去り、現世に実体を持たなくなって|漸《ようや》く、忍者はキャラクター化し始めた。それが読み本であり、講談であり、立川文庫なのだ。しかし――それは不完全なものだった。何故なら、剣豪、忠臣、名将――そうしたライヴァル達との明確な差別化に成功していなかったからである。
剣豪・宮本武蔵、忠臣・楠木正成、名将・武田信玄――忍術名人・猿飛佐助。
並べてみると如何にもキャッチーさに欠けるではないか。これでは駄目である。
しかし。
忍者・猿飛佐助。
決まっている。忍者といい切ってしまう潔さが決め手である。
序でに、
忍法・〇〇の術。
こうでなくてはいけないだろう。野暮ったさが消えて、神秘性は増している。長年の|紆《う》|余《よ》曲折の果てに、忍者・忍法という呼称を得て、所謂「忍者」像は漸く完成したのだ。
その名を与えたのは――どうやら山田風太郎なのである。
それに就いては異説を称える者もいる。そもそも、忍者という言葉自体は、忍びの者の音読みなのであるから造語ではない(忍法の方はあきらかに「新たな意味を付加し、本来の語義を払拭した」という意味で新語と考えても良いだろう)。それに加えて、同時多発的に漫画――白土三平や横山光輝――がヒットしているし、小説も、例えば柴田錬三郎などが前後して忍者ものを物している。映画や演劇もあっただろうから、名命者・普及者の正確な考証は難しい。
しかしその中でも「忍者」の異形の歴史を意識的無意識的に色濃く反映している創作物といえば、何といっても風太郎忍法帖だといえるだろう。
どうであれ山田風太郎がニンジャといい切り、ニンポーといい切ったことは事実である。
そして、いい切って通用させてしまった――通用してしまったことも確かなのである。
山田風太郎がいい切って、結局みんながそれに乗ってしまった訳である。
勿論ここまで一般的になったのには、そうしたモノを欲する無意識な時代の要請というのはあったのだろう。先行してイメージは確立していた訳だし、長年に亘って培われて来た、所謂「忍者」像に、ぴたりと|嵌《はま》る言葉を文化の方が欲していたのかもしれない。
そして「忍者」も「忍法」も辞書に載るまでになったのである。
海外でも通用するようになった。誰もが使う言葉になった。
「NINJA」の五文字に歴史の闇を畳み込んで――。
名づけられることで、忍者という妖怪がここに誕生したのだ。= 漠然とした不安や認知できない状況に一定の形式――名前と像を与えると、妖怪が完成する。妖怪は世界認識の方法であり、怪異の最終形態でもある。怪異は妖怪となったその時、意味を獲得する。意味を持った時、怪異は死ぬ。妖怪は怪異の幽霊である。
同じように、忍びの者という不可解な異形どもに名前と像を与えて「忍者」を完成させた山田風太郎は、また「忍者」の歴史に終止符を打った男でもある――ということになる。その複雑怪奇なディテールは忍者という名に象徴され、連綿と続く暗黒の系譜もまたその名に|収斂《しゅうれん》してしまうのである。だからある意味で、風太郎忍法帖は本邦の「歴史の闇」の、死亡証明書としても機能する。山岳仏教も|百済《くだら》の技術者も吉野山の行者も、サンカも産鉄民もなにもかも――忍法帖は呑み込んでしまうのである。そしてそこから始まる。
|恠《あや》しむな、娯しめ――。
なる程娯しいではないか。
畏るべし、風太郎忍法帖。
忍法帖雑学講座3
忍法帖のヒーロー
[#地から2字上げ]日下 三蔵
本書『伊賀忍法帖』は、風太郎忍法帖の第十一作である。実業之日本社の雑誌「週刊漫画サンデー」に、64年4月1日号から8月26日号まで連載され、64年10月に東都書房から新書判「忍法小説全集」の第9巻として刊行された。
64年といえば、前年10月から、やはり新書判で刊行が開始された講談社の「山田風太郎忍法全集」のおかげで、世に忍法ブームが巻きおこった年に当たる。この全集は、第九作『風来忍法帖』までを、全十巻にまとめたシリーズだったが、増刷に次ぐ増刷のため、急遽、第十作『柳生忍法帖』上・中・下に短篇集二冊を加えて、全十五巻に延長されるほどの大ヒットとなった。それを受けた「忍法小説全集」は、柴田錬三郎『赤い影法師』、司馬遼太郎『|梟《ふくろう》の城』、池波正太郎『夜の戦士』、角田喜久雄『悪霊の城』、村山知義『忍びの者』、白石一郎『鷹ノ羽の城』といった忍者小説の傑作・名作を収録した全集だが、ブームの立て役者山田風太郎の新作長篇である本書が、一つの目玉だったことは間違いないだろう。
掲載誌「週刊漫画サンデー」では、連載に先立って、前号(3月25日号)に「作者の言葉」が掲載されているので、ご紹介しておこう。
「忍術では甲賀流、伊賀流が有名ですが、戦国時代から江戸時代初期にかけて、べつに根来流という一派がありました。紀州根来寺を本拠とする恐るべき忍法僧の一団です。
この物語では、この根来流忍法僧と伊賀の忍者との凄絶きわまる死闘を描いてみたいと思います。ご愛読をお願いいたします」
根来流の忍者は、後の『忍びの卍』でも、甲賀者、伊賀者と三つ巴の死闘をくりひろげることになるが、本書では、彼らに忍法を仕込んだのは、戦国のメフィストフェレス・果心居士だった、ということになっている。忍法帖ワールドに妖人・魔人多しといえども、この希代の幻術師に対抗しうるのは、剣聖とうたわれた上泉伊勢守をおいて他にない。本書のラストで、両者は初めて相まみえるが、本格的な対決は、『忍法剣士伝』まで持ち越されている。
戦国の|梟雄《きょうゆう》といわれた|獰《どう》|悪《あく》な武将・松永弾正久秀は、ときの将軍・足利義輝を殺したことで悪名を今に残す人物だが、本書のストーリーは、この弾正が、こともあろうに主君である三好家の夫人・右京太夫に恋慕したことから始まる。弾正の邪まな願いをかなえるために、果心居士が貸し与えた根来忍法僧七天狗は、女人の愛液を煮詰めて作る万能の媚薬「淫石」を精製すべく、城下のめぼしい美女を片っ端からさらい始めるのだ。運悪く、彼らの網にひっかかってしまったのが、若き伊賀忍者・笛吹城太郎と、その妻・|篝《かが》|火《りび》であった。最愛の妻を奪われた城太郎は、悪魔のような技を身につけた根来七天狗に、単身戦いを挑んでいく――。
チーム対チームのトーナメント方式を基本とする忍法帖だが、本書のように、一人のヒーロー対多数の敵、という例外的なパターンの作品も、いくつか存在する。将軍家のご落胤である葵悠太郎が、甲賀七人衆と対決する『江戸忍法帖』、飛騨忍者・乗鞍丞馬が、主君の仇の五人の侍と戦う『軍艦忍法帖』、佐渡金山奉行・大久保石見守の息子おげ丸が、忍法を使わずに甲賀五人衆と戦う『忍法封印いま破る』、そして山田風太郎がもっとも気に入っているという剣豪・柳生十兵衛が活躍する二大巨篇『柳生忍法帖』と『魔界転生』などがこれにあたるが、中でも本書の主人公・笛吹城太郎は、異色のキャラクターといえるのではないだろうか。
なにしろ彼は、風太郎忍法帖に登場する忍者には珍しく、これといった必殺技を持っていないのだ。もちろん、伊賀者であるから、体術や剣技には優れている。というか、人並み以上に超人的なところがあるのだが、それはあくまでも人間の能力の限界内での話。一方、根来七天狗たちの駆使する忍法は、およそ人間業とも思えないような奇怪なものばかりだ。ブーメランのように大鎌を飛ばし、自らも空中から飛び返る風天坊の〈忍法枯葉がえし〉、鉄の扇から止めどなく針が降り注いでくる金剛坊の〈忍法天扇弓〉、巨大な傘の内部に鏡を張って何でも吸引してしまう虚空坊の〈忍法かくれ傘〉、いずれも物理学の法則を無視した超絶の技である。羅刹坊にいたっては、切断された人体を〈忍法壊れ甕〉でつぎはぎしてしまうのだから、一度は|斃《たお》したと思った敵がふたたび五体満足で現れて、城太郎を驚かせることになるのだ。
笛吹城太郎がいかなる手段・方策で根来の忍法僧たちを斃していくか、を興味の一方とすれば、松永弾正の野望が次々と予想外の方向へ展開していく面白さが、本書のもう一つの核といえるだろう。後に柳生新陰流の開祖・石舟斎となる柳生新左衛門や、後の利休・千宗易といった実在の人物、あるいは名器・平蜘蛛の釜の一件や、奈良の大仏焼失事件のような史実を、巧みにストーリーに取りこんでいく手際は、見事としかいいようがない。ここに、弾正の愛妾・漁火と右京太夫、同じ顔を持ちながら聖邪それぞれ対照的な二人のヒロインの思惑がからんで、物語は錯綜を極めていくのである。
とにかく構成が巧みで、読み始めたらやめることができない。山田風太郎一流のストーリーテリングを、じっくりと味わっていただきたいと思う。
なお、本書は、82年に角川春樹事務所と東映の共同製作によって映画化されている。真田広之が笛吹城太郎、渡辺典子が篝火と右京太夫の二役をそれぞれ演じており、当時の角川文庫のカバーには、映画のスチールが使われたバージョンがいくつかある(巻末の〈忍法帖ギャラリー〉参照)。この映画は、現在ビデオで見ることができるので、興味のある方はご覧になってみてはいかがだろう。ちなみに、根来七天狗の一人、金剛坊役で出演した元プロレスラーのストロング小林は、この役がいたく気に入り、芸名をストロング金剛に変えたという、山田風太郎ファンにとってはなんとも痛快なエピソードを残している。
〈登場忍者一覧〉
◎根来七天狗
風天坊 〈忍法枯葉がえし〉
羅刹坊 〈忍法壊れ甕〉
金剛坊 〈忍法天扇弓〉
水呪坊 〈忍法月水面〉
虚空坊 〈忍法かくれ傘〉
空摩坊 〈忍法火まんじ〉
破軍坊
◎笛吹城太郎
おことわり
本作品中には、(講談社文庫版の)三十頁に始まり全二十一頁にわたり、びっこ、ちんば、不具など身体障害に関する、狂人、きちがい、白痴、狂女など精神的障害に関する、今日では差別表現として好ましくない用語が使用されています。
しかし、江戸時代を背景にしている時代小説であることを考え、これらの「ことば」の改変は致しませんでした。読者の皆様のご賢察をお願いします。
〔初出〕
「週刊漫画サンデー」一九六四年四月一日号〜八月二六日号連載
〔出版〕
「忍法小説全集」第九巻 東都書房刊(一九六四年)に収載。
[#ここから1字下げ]
後、「風太郎忍法帖」第四巻(一九六九年・小社刊)・講談社ロマンブックス版(一九六九年)・角川文庫版(一九七四年)・富士見時代小説文庫版(一九九〇年・富士見書房刊)・「山田風太郎傑作忍法帖」第二巻(一九九四年・小社刊)など
[#ここで字下げ終わり]
〔底本〕
講談社文庫『山田風太郎忍法帖3 伊賀忍法帖』(一九九九年)
山田風太郎(やまだ・ふうたろう)
一九二二年、兵庫県生まれ。東京医科大在学中の一九四七年、探偵小説誌「宝石」の第一回懸賞募集に「達磨峠の事件」が入選。一九四九年に「眼中の悪魔」「虚像淫楽」の二篇で日本探偵作家クラブ賞を受賞。一九五八年から始めた「忍法帖」シリーズでは『甲賀忍法帖』『魔界転生』等の作品があり、奔放な空想力と緻密な構成力が見事に融合し、爆発的なブームを呼んだ。その後、『警視庁草紙』等の明治もの、『室町お伽草紙』等の室町ものを発表。『人間臨終図巻』等の著書もある。二〇〇一年七月二八日、逝去。
伊賀忍法帖 山田風太郎忍法帖3
講談社電子文庫版PC
山田風太郎 著
(C) Keiko Yamada 1964
二〇〇二年一〇月一一日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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