講談社電子文庫
山田風太郎忍法帖2
忍法忠臣蔵
[#地から2字上げ]山田風太郎 著
目 次
大奥の伊賀者
|死《しに》|花《ばな》献上
女と忠義のきらいな男
義士|堕《だ》|天《てん》|行《こう》
|蜘蛛《くも》の糸巻
|将監《しょうげん》崩れ
浮舟の|駕《か》|籠《ご》
源四郎崩れ
歓喜天
源五左崩れ
竹取物語
内蔵助崩れ
一ノ胴
郡兵衛崩れ
食虫花
貞四郎崩れ
修羅車
小平太崩れ
内蔵助・兵部参着
金剛網
無明・有明
大奥の伊賀者
【一】
江戸城|大《おお》|奥《おく》|御《お》|広《ひろ》|敷《しき》|伊《い》|賀《が》|者《もの》の|無明《むみょう》|綱《つな》|太《た》|郎《ろう》はヘンな奴であった。同僚がそう思うばかりでなく、綱太郎の伯父にあたる|添《そえ》|番《ばん》の無明|伝《でん》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》もそうみとめざるを得なかった。
|後宮《こうきゅう》の美女三千人といわれる大奥であるが、やむを得ない役目で勤務する男たちも|若干《じゃっかん》はある。表からの公用の取次をする役人、御用商人をさばく役人、お庭の手入れ、また警衛をする役人、台所役人など――ただし、彼らは大奥のなかでも御広敷という|一《いっ》|劃《かく》のみにつめていて、女ばかりの奥向きとは、ただ一ヵ所「|下《しも》の|御錠口《おじょうぐち》」という通路をのぞいて厳重に隔離されていた。御広敷伊賀者は、このうち御錠口を通る人または物の検査役で、添番はその監督官である。
伊賀者というのは、|天正《てんしょう》のむかし、伊賀の豪族|服部《はっとり》|半《はん》|蔵《ぞう》が徳川家に召しかかえられたとき、いっしょにつれてきた二百人の忍者の|末《まつ》|裔《えい》であったが、それから百年をこえる|泰《たい》|平《へい》を|経《へ》て、はたして忍法の素養のあるものがどれだけあったか。――とくに、この大奥御広敷に代々勤務する伊賀者は、後宮の警察官というより、みな一様に、いじけた、陰湿な|宦《かん》|官《がん》みたいな|蒼《あお》|白《じろ》い皮膚をしていた。
そのなかで、綱太郎は、まずその風貌から異彩をはなっている。浅黒い皮膚はなめし皮のようなつやをもち、眼は、このごろのいわゆる|元《げん》|禄《ろく》の泰平にふやけた旗本などにはめったにみられない野性の精気をおびている。それは最初から御広敷の諸役人の眼をひいて、
「あれは江戸育ちか」
と、伯父の無明伝左衛門にだれもがきいた。伝左衛門は|憮《ぶ》|然《ぜん》としてこたえた。
「江戸生まれにちがいないが、この五、六年、伊賀へいっておった」
「なに、伊賀へ?」
伊賀こそ彼らのふるさとだが、伊賀者がそのふるさとへかえらなくなってから、何十年になるであろう。
「伊賀のどこへ」
「|鍔《つば》|隠《がく》れという谷じゃ。十七の年、忍法修行のためと申して、勝手に|出奔《しゅっぽん》[#電子文庫化時コメント 底本ルビ「しつつぽん」を訂正]していった男じゃが」
「それで、綱太郎は忍法を修行して参ったのか」
「忍法を修行してきたかと申しても、にやにやしておるばかりで、はかばかしい返事もせぬが」
と、伝左衛門はにがりきっていった。少年の綱太郎が、いまの伊賀者にあきたらぬむねの置手紙をのこして家出をしたという話をきいた当時は、内心でかしたと思っていたが、こんど呼びもどした綱太郎が、伯父たるじぶんをどこか馬鹿にしているような気配があるのが気にいらないのである。
ただ、心中、ひとつ舌をまいていることがある。こんど伝左衛門の弟、つまり綱太郎の父親が死病にかかったとき、伝左衛門はあわてて伊賀へ人をやった。綱太郎を至急呼びもどすためである。綱太郎はかえってきた。そのかえってきたのが、いやに早い。「伊賀から江戸まで何日かかったか」ときくと、「三日かかりました」という返事であった。伝左衛門は|唖《あ》|然《ぜん》とした。伊賀から江戸までは百二十里はあるだろう。それを三日できたということは、一日に四十里走ったということになる。しかし、それから二十日以上たってからやっとかえってきた使いの男に、綱太郎の伊賀を|発《た》った日をきくと、綱太郎の返事がいつわりでないことが知れた。
さて、綱太郎は、亡父のあとをついで大奥御広敷に勤務するようになったが、やはり場ちがいといった感じがある。上役の伯父ばかりでなく、だれしもが馬鹿にされているように思った。江戸城の、しかも、もっとも作法のきびしい大奥で、彼はまったくコンパスがあわないのだ。はじめ馬鹿にされているように感じたのは思いすごしで、たんに野人と化した綱太郎の習性にすぎないとわかったのはまもなくであった。彼の|起《たち》|居《い》ふるまいは、まったく|傍《そば》|人《びと》をはらはらさせた。彼自身の危険をじゅうぶん予測させた。
伊賀の山から出てきた綱太郎は、大奥の女性たちに対して存外関心をいだかなかったらしいが、そのかわり食い物には大いに興味をもったようであった。
大奥の食膳は、すべて|御広敷御膳所《おひろしきおぜんどころ》で調理する。調理がととのうと、|御台所頭《おだいどころがしら》から、御広敷|番頭《ばんがしら》にそのむね報告する。御広敷番頭は|御《ご》|用《よう》|達《たし》|添《そえ》|番《ばん》をともなって御膳所に出張する。そこで、お|懸《かけ》|盤《ばん》なる容器へ料理した十人前の品をのこらず盛り、添番がまずこれを|一《ひと》|箸《はし》ずつ味わい、つぎに御広敷番頭が味わい、しりぞいて相対座し、しばらくにらみあってから、たがいに目礼していう。
「よろしゅうござろう」
かくて、九人前となった料理のうち、汁は|真鍮《しんちゅう》の鍋にいれ、煮物は|春慶塗《しゅんけいぬ》りの重箱に盛って、|御《お》|舟《ふね》と称する舟型の容器につみこんで、御膳所の小役人がこれを奉じて|御錠口《おじょうぐち》にはこぶ。いちどの食事に五舟も六舟もあるのを常とする。
御錠口で御舟をうけとった女中は、これを|奥御膳所《おくおぜんどころ》にはこび、ここでまた女官の毒味をうける。
「よいでありましょう」
かくて八人前となった料理のうち、一人前だけ、|葵《あおい》の紋、|金《きん》|蒔《まき》|絵《え》のお懸盤にのせ、「お|次《つぎ》」とよばれる女中控所にうつし、「お次」が御休息の間まではこぶと、|御中臈《おちゅうろう》がうけとって、ようやく将軍|乃《ない》|至《し》|御《み》|台《だい》さまの御前にはこぶ。
そして将軍乃至御台さまは、ふたりの|御小姓《おこしょう》、御年寄、|中年寄《ちゅうどしより》、御中臈などの熱心な注視のうちに食事をするのである。
お|肴《さかな》は一箸、他の品は二箸つければ、ただちに、
「おかわり」
と、御年寄がさけび、御中臈がすすみ出て、|目《め》八|分《ぶ》にささげた|三《さん》|方《ぽう》にそのお下がりをうけ、もとの座にかえると、うしろの|敷《しき》|居《い》|外《そと》にひかえた「お次」の者へ、
「何々のおかわり」
と、申しつける。「お次」はまたべつの女中に命じて、奥御膳所に待機させてあるのこり七人前の料理のうち、必要のものを運ばせるのである。
このものものしい大機構を知って、「上様はおきのどくだな。それに少々……」と、綱太郎がつぶやいたのはむりもない。
「少々」の次の「馬鹿げてもおる」というつぶやきをのんだのは、いくら綱太郎でもそれくらいの遠慮はあったとみえる。
さて、無明綱太郎が、ある日、のこのこと御広敷御膳所にあらわれた。
【二】
むろん所管外の場所で、本来彼のくるべきところではないが、そもそもこの御膳所は、|御膳奉行《おぜんぶぎょう》のもとに、御台所頭二人、組頭三人、|御賄《おまかない》調役三人、御賄吟味役三人、御台所人三十人、|御《お》|小《こ》|間《ま》役三人、御賄方四十人、六尺五十人、合計百三十余人が火事場のごとくはたらいているのだから、そのときだれにも気づかれなかったのである。
ついでにいうと、これとはべつに表御膳所の方でも、六、七百人の台所役人がはたらいていたというから、|以《もっ》て江戸城の規模を知るに足る。その材料たるや、魚は中程のみを切りとってあとはすて、鳥はささ身のみを用い、|鰹《かつお》ぶしは二、三度けずっただけで、味噌は|一《ひと》|鉢《はち》二貫目につき五百目ははねのけるといったぜいたくさであった。もともと魚にしても青物にしても、毎日役人が市場に出張して、欲するものを欲するだけ「御用」とさけんで召しあげる。それがただ同然の|価《あたい》であったから、公儀にとってはいたくもかゆくもないのである。――それでも後年明治になって、市場にゆき「幕政のころよりだいぶ楽になったであろう」ときいたところ、「なに、税のない昔の方がよほど楽でござんした」と異口同音にこたえたという。
十畳、二十畳、あるいは三十畳の各係役人の詰所にめぐらされた御膳所の中央には六つの大かまど[#「かまど」に傍点]がならび、かまど[#「かまど」に傍点]のうしろから左右にかけて、|銅《あか》を張った|檜《ひのき》の|火屏風《ひびょうぶ》がたてまわしてある。また長さ二間半、幅一間の石造りの|大《おお》|囲《い》|炉《ろ》|裏《り》のある四十坪ばかりの板の間の天井も|銅《あか》|張《ば》りで、井戸のある二百坪の板の間は、天井のかわりに金網張りだ。
湯気や煙やさけび声のなかに、粗末な|肩《かた》|衣《ぎぬ》をつけた百人ちかい御台所人や|賄方《まかないかた》が、あるいは野菜をきざみ、鳥を煮、菓子をならべているのは壮観だが、その隅っこで、やはり肩衣をつけた味噌すり役人が、直径三尺もある石のすり鉢に二貫目の味噌をいれ四尺五、六寸の|擂《すり》|粉《こ》|木《ぎ》おっとって、一心不乱にすりたてている光景はおかしかった。
「ああ、いけねえ」
|縦《たて》四尺、幅二尺五寸の|大俎《おおまないた》に鰹をならべて、|刺《さし》|身《み》をつくりにかかっていた賄方のうしろで、ひとりの老人が大声でさけんだ。肩衣をつけているのに、向こう鉢巻をしている。
「といだばかりの包丁をつかっちゃ、味がおちる。ひと晩水につけておくもんだ。きのうといだ包丁はねえのか」
「なぜだね」
と、ふいにその横で綱太郎がいった。
「なぜ、といだばかりの包丁をつかうと味がおちるんだ」
老人は、ちんまりしたまげ[#「まげ」に傍点]は真っ白だが、つやつやしたあから顔をむけて、すこし妙な表情をしたが、
「|金《かな》っ|気《け》がつくんでさあ」
と、こたえた。
「金気――なるほど、しかし、金気なら、三日まえといだ包丁でもやっぱりつくだろう」
「それあ、しかたがござんせん。木刀で刺身をつくるわけにもゆかねえ」
なんとなく、みなもったいぶった台所役人のなかで、この老人はいま|河岸《か し》からきたように伝法な言葉づかいであった。綱太郎はにやりと笑った。
「わしなら、紙で切れるな」
「へっ、紙で?」
綱太郎は、ふところから|懐《かい》|紙《し》をとり出した。その一枚をぬいて、三つに折った。
「どれ、みせろ」
と、賄方をおしのけて俎のまえにすわると、鰹の切身をおさえもせず、すっすっとその懐紙で切っていった。紙で魚肉を切るふしぎもさることながら、なんというみごとな手練だろう。そこにあらわれた厚みの寸分かわらぬ刺身の美しさに、ふたりはあっと息をのんだまま、眼をむいたきりであった。
「刺身をつくったのははじめてだが、どうだ、うまいだろう」
と、彼は鼻をうごめかして、ふと眼をあげて、向こうにつみあげられた|西《すい》|瓜《か》をながめた。
「西瓜にしても、包丁できれば、金気はつくだろう。あれをひとつもってきてごらん」
賄方は、まじまじと綱太郎の顔をみていたが、彼が何をしようとしているかを知ると、唇をゆがめて、そのひとつを運んできた。
綱太郎はそれを俎の上においた。まわりの賄方が「なんだなんだ、何をしようってんだ」と十数人寄ってきた。綱太郎はへいきでみなを見まわしながら、手の紙でかるく西瓜をなでた。まさに、なでたとしかみえぬうごきであったのに、彼がもう一方の指でとんとたたくと、西瓜は真っ赤な切り口をみせて、左右にぽっかりわれてころがったのである。
この変な包丁をくるくるとまるめて捨て、手をはたいて、笑いながらゆきかかる綱太郎をあわてて老人がつかまえたとき、やっと賄方たちの口から異様なうめき声があがった。
「だ、旦那」
と、老人は肩で息をしながらいった。
「あたしゃ、これでも魚料理にかけちゃお城第一、いいや、江戸一番とうぬぼれている男でさ。本音をはくと、|公《く》|方《ぼう》さまにほんとにうめえものを食わしてあげられっこのねえこんなお城づとめの料理人は気に染まねえが、|高《こう》|家《け》の|吉《き》|良《ら》さまのお引立てでひっぱられてきたんだが、いまの紙の包丁にゃあ、すっかりきもをつぶしました」
と、老人は声をふるわせて、
「旦那、その包丁さばきは、どこの板前の伝授で? 日本じゃありますめえ、|韓《から》か、|唐《とう》|人《じん》か――」
無明綱太郎は、けろりとしていった。
「これは、忍術じゃ」
「へっ、忍術?」
みながすっとんきょうな声をあげたとき、やっとこのさわぎに気のついた御台所頭が、眼をむいてかけつけてきた。
【三】
その無明綱太郎が恋をした。まったく女などには興味のなさそうだった綱太郎が、いつ、どんなはずみで、その女を|見《み》|染《そ》めたのかわからない。
彼は、ひところ、御膳所にいりびたりであった。料理よりも、あの台所人の老人、それでもお城につとめるとあれば|御《ご》|家《け》|人《にん》待遇で|苗字《みょうじ》がついて、ただしじぶんでかんがえたとみえて|俎銀兵衛《まないたぎんべえ》という爺さんと、ひどくうま[#「うま」に傍点]があったらしいのだ。伊賀者が御膳所に出入することはむろん違法だが、あの日鰹の刺身を召しあがった公方様と|御《み》|台《だい》さまが、「これほど美味な鰹をたべたことはないぞよ」とおほめの言葉があって、おふたりで五人前もおかわりを所望されたという事実があったので、それ以来、御台所頭たちも黙認するほかはなかったのである。
もっとも彼は、料理そのものにはだんだん興味をうしなって、ただ|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》にそこらのものをぱくぱくとつまみ食い――つまみ食いではない、つかみ食いで、しかも彼は魚でも野菜でも、|生《なま》のものが好物らしかった。鳥なども毛をむしったままのやつを、ばりばりと骨まで食ってしまうのである。――その食欲の満足のために出入りしている案配であったが、やがてそれにも|飽《あ》きてきたらしく、あまり御膳所にあらわれないようになった。そのため、こんどは好奇心が女にむけられたのか、あるいは女を思いつめるあまり、食欲が忘れられたのか、そこはどっちだかわからない。
相手が悪かった。それは「|下《しも》の|御錠口《おじょうぐち》」につとめるお使い番の女中であった。
将軍が出入りする「|上《かみ》の御錠口」につとめるいわゆる御錠口衆は高級の女中だが、それ以外の世間とのただひとつの通路たるこの「下の御錠口」に待機している使い番はお|目《め》|見《みえ》以下の下級の女中であった。杉戸一枚で、内側をこのお使い番がまもり、外側を|添《そえ》|番《ばん》と伊賀者がまもる。午前六時のお太鼓で杉戸をひらき、午後六時、|双《そう》|方《ほう》|提灯《ちょうちん》をそこへおき、一礼してしめる。夜はむろん交替で不寝番に立つ。この二間幅の黒塗り縁の大杉戸のまえには、「これより男入るべからず」とかいた札がかかげてあった。
この「男禁制」の外の番人の男が、内の番人の女に恋をしたのだ。しかも、無明綱太郎らしく、堂々と付け文をした。そして、よほどのぼせていたのであろうか、忍者にあるまじきへまをやったもので、たちまち現場をおさえられたのである。
天守閣の空に|鳶《とび》の舞っている秋のある午後、ちょうど、いちばん風紀にうるさい|滝《たき》|川《がわ》という御年寄が外出さきからもどってきて、奥へ入ろうとしていたときであった。「お通りあそばす」という声とともに、杉戸の内側にひれ伏していたお使い番の女中に、杉戸の外に|平《へい》|伏《ふく》している伊賀者の手がにゅっとのびて、何やら手紙らしいものを袖に入れたのを、五、六歩ゆきすぎた滝川が、ひょいとふりむいて見つけたのだ。
彼女はたちもどってきた。
「ゆう、それはなんじゃ」
「はい……」
ゆうという女中は、薄あかりのなかに耳たぶをそめて、顔をふせたままであった。そのふるえをみると、綱太郎もふるえてきた。滝川よりも、じぶんの失態よりも、彼女の恐怖を恐怖したのである。彼は娘が、きぬごし|豆《どう》|腐《ふ》みたいにふるえ|砕《くだ》けはすまいかと案じたほどであった。思いがけぬ恐怖の伝染に、実ははじめてこのとき、じぶんがどれほどこの娘を恋しているかを知って、彼は|愕《がく》|然《ぜん》としていた。
「いま、そこの伊賀者のわたした|文《ふみ》をみせや」
おゆうが、なおうつむいたままなので、滝川はかがみこんで、むりに娘のたもとからいま見たものをとりあげた。何も知らなかった添番の無明伝左衛門はきょとんとしている。滝川は、手紙をよんだ。
「おれは無明綱太郎。こんど宿下がりの節は、|四《よつ》|谷《や》伊賀町の組屋敷にきて下され」
無明伝左衛門は、あっとさけんだ。土気色になって、綱太郎をふりかえる。綱太郎は声もない。
「それは」
と、娘が顔をあげた。円顔で愛くるしく、|羽《は》|二《ぶた》|重《え》のように|繊《せん》|細《さい》な皮膚をした娘であった。
「父が綱太郎どのから是非包丁の秘伝をうけたいと申し、綱太郎どのがわたしを通じて伝授してやろうと|仰《おお》せられて、その日どりのうちあわせでございます」
「そなたの父というと?」
「御広敷御膳所に御奉公いたしまする御台所人|俎《まないた》銀兵衛と申すものでございます」
こんどは綱太郎が、口のなかであっとさけんでいた。付け文をするほど惚れていながら、|迂《う》|闊《かつ》にも彼は、おゆうがあの俎銀兵衛の娘だとは、いまのいままで知らなかったのである。
「無明綱太郎に、包丁の秘伝をうけたいと。……おお、あの伊賀者か」
滝川も、ようやく、かつての話を耳にしていて、思い出したらしい。綱太郎をふりかえって、微笑した。
「左様か。しかし、ここは大事な御錠口、お使い番と伊賀者が、わたくしごとの口をきいてはなりませぬぞえ。こんどのことは大目にみてつかわすが、以後気をつけや」
滝川は文をかえして、しずしずと奥へ去った。綱太郎は平伏したまま、伯父の伝左衛門がいやというほど|肘《ひじ》でわき腹をついたのにも、恐ろしい眼をしてにらみつけているのにも無神経でいる。
|死《しに》|花《ばな》献上
【一】
おゆうが、四谷伊賀町の組屋敷の綱太郎を、ほんとうにたずねてきたのは、それから数ヵ月をへた冬の日のことであった。綱太郎は|狼《ろう》|狽《ばい》し、また有頂天になってよろこんだ。
「こ、これはようおいでなされた。まるで夢のようじゃ。いつぞやは……」
と、彼らしくもなくまっかな顔をして、
「よういいぬけられたな。いや、あの折りはまったく冷汗三|斗《ど》の思いで」
「あれだけのお|文《ふみ》でよろしゅうございました。御年寄さまから読みあげていただかなければ、わたしもどう申してよいやらわからなかったに相違ございませぬ」
おゆうは|微笑《ほほえ》んだ。ちらと綱太郎と眼があうと、利発げな言葉に似あわず、ういういしく頬にはにかみの|薄《うす》|紅《べに》をちらした。その血のいろがやがてひくと、まじめな表情にもどって、
「きょうは、綱太郎さまにおねがいがあってうかがったのでございます。あのおり、御年寄さまに、とっさにいいのがれいたしましたことが、まことのことと相成りました」
「なに、わしにねがいとは?」
「包丁のことで、お救いいただきたいのでございます」
綱太郎はすこし失望したが、すぐに熱心な眼いろで、それを見まもった。
「綱太郎さま、あなたは、ちかく御前に|披《ひ》|露《ろう》いたしまする、表御膳所と御広敷御膳所の|生《いけ》|作《づく》り試合のことをお耳になすっていらっしゃいますね」
「いや、存ぜぬが」
おゆうの話したことは、こうである。
十日ばかりまえ、上様は表で鯉の生作りを召しあがって、いたく感心あそばした。上様が表で御食事をなさるときは、もとより表御膳所の調理によるものだ。
「これを調理したは、何と申す料理人か」
と、上様が侍臣をかえりみられると、侍臣たちはしばし私語したのち、
「それは|川《かわ》|澄《すみ》|助《すけ》|八《はち》と申すものでござります」
と、答えたあとで、
「その川澄助八は、そこな|浅《あさ》|野《の》|内匠《たくみの》|頭《かみ》どのの御推挙による包丁の名人の|由《よし》でござります」
といった。ちょうどその日には、|高家衆《こうけしゅう》と柳の間詰めの大名連が|陪食《ばいしょく》していたのである。末座にあった|播州《ばんしゅう》|赤穂《あこう》五万三千五百石の浅野内匠頭は、いたく面目をほどこした様子であった。
このとき、同座していた高家の吉良|上野《こうずけの》|介《すけ》が、大奥の御広敷御膳所にも、|俎《まないた》銀兵衛という包丁の名人が奉公いたしておるはずだといい出したのである。銀兵衛は、上野介の推挙した板前であった。
「銀兵衛の腕前の水際だっておることは、とてもこれしきのものではござりませぬ。ご存じないとあれば、いちど銀兵衛に生作りを調理いたさせて、御台さまともども、是非御試食願わしゅう存じまする」
この言葉から、はしなくも、表と奥の包丁さばき争いの|企《くわだ》てが生じたというのであった。
のんきな話とみるのは他人のことだ。当人にとってはいのちをかけた試合で、当人のみならず、浅野内匠頭と吉良上野介の名誉につながり、また表と奥の御膳所全体の面目にかかわるという雲ゆきとなってしまった。むろん銀兵衛は、自信満々としてこの話をうけた。ところが。――
「ところが……おとといの夜のことでございます。父は、ふいに|箸《はし》をとりおとしました。ひろいあげても、またころがりおちます。右腕がかすかにしびれていることに気がついたのは、そのあとでございます。知らせるひとがあって、わたしはあわてて宿下がりをとらせていただいて、家にかえりました。父は中風の気をおこしたらしいのでございます」
おゆうは、蒼ざめた顔色であった。銀兵衛はふいに軽い脳出血に襲われたのである。それはむろんこの際|狼《ろう》|狽《ばい》すべき突発事であったが、いっそうわるいことは、それが軽いということであった。他人の眼には、それほど支障があるとはみえないのである。だから、いまになってこの包丁争いにお断わりを申し出れば、臆病風にふかれたものとみられ、試合しないうちから試合にまけたことになる、と銀兵衛は身をもんで懊悩しているというのであった。
「そして、ふと、あなたさまのことを思い出し、おれの代わりに相手にひけをとらぬ生作りをつくれるのは、あの無明さまのほかにはない、といい出したのでございます」
綱太郎はいった。
「拙者でも、よろしいのか」
「それは、お|目《め》|見《みえ》以下の台所人が、上様や御台さまの御前に参ることはかないませぬ。また料理の御前試合など、表むきにごらんあそばすはずもございませぬ。ただ双方のつくった生作りをおん眼にかけるだけで、もともと父はこのごろじぶんでめったに包丁をとったこともございませんから、父の指図でつくったということになれば、おなじことなのでございます。……綱太郎さま、お武家さまに身のすくむようなもったいないおねがいでございますが、お助け下さいましょうか」
「武家といっても、台所のあぶら虫のような伊賀者です」
と、綱太郎は笑って、きいた。
「試合は、いつでござる」
「三日のちでございます」
三日のち、将軍のまえに、浅野内匠頭と吉良上野介が相対して坐り、さらにそのまえに、海の水をたたえた朱塗りの|盥《たらい》が、うやうやしくもち出された。
両側には、|側《そば》|用《よう》|人《にん》として権勢第一の|柳沢吉保《やなぎさわよしやす》をはじめとして、大老、老中、若年寄などが、かたずをのんで居ながれている。他愛のない|見《み》|世《せ》|物《もの》だから、みなわれもわれもと拝見を願い出たのだが、こう閣老級が総出になってみると、やはりただごとでないようなものものしい雰囲気が|醸《かも》し出される。
将軍さまのまえの御膳には、美しい魚肉をならべたお皿がおかれていた。「表御膳所の台所人川澄助八の包丁にかかるものでございまして、そのお刺身は、浅野内匠頭どののおんまえのお盥を泳いでおりまする|鯛《たい》のものでございます」と小姓が説明した。
将軍はのびあがって、盥をのぞいて、声ひくくうなった。盥の中には、頭と尾だけ、あとは骨ばかりの大きな縞鯛がくねり泳いでいたのである。
「いかが」
と、浅野内匠頭は吉良をみて、すこし鼻をうごめかした。吉良上野介はいささか狼狽した。将軍さまのまえのもうひとつの御膳にはやはり大皿があるが、魚の身らしいものは何もなかったからである。
「俎銀兵衛とやらの生作りはどうしたのじゃ」
と、将軍は不審そうにいった。
「そのお盥のなかにあるそうにござりまするが」
と、小姓はこたえたが、彼も先刻から妙な顔をしている。上野介も困惑した表情であった。盥のなかの水の底には大きな|伊《い》|勢《せ》|海老《え び》がうごいているが、それは海の中にいるものとおなじで、どこが生作りなのか判断がつかないのだ。
「あ、海老が……」
と、小姓がふいに叫んだ。
その海老が、盥のふちにひとりでよじのぼってきたのだ。とみるまに、それはたたみにすべりおち、ながい触角をふりふり、樹枝状の足をうごかして、がさがさと膳の方へ|這《は》ってきた。ぬれた栗色の|甲《こう》から、海の|匂《にお》いがした。そして将軍様の膳の下へくると、ひとはね大きくはねて、大皿にのったのである。
同時に、その甲が、|鎧《よろい》でもぬぐようにはねのけられた。みな、かっと眼をむいたまま、声も出なかった。みずから甲をはねのけた海老の内部は、四五|分《ぶ》の厚さにぶっきられた|透《す》きとおるような刺身となっていたからである。
【二】
無明綱太郎がおゆうを花嫁にもらうことを、やっと伯父の伝左衛門に承諾させたのは、その冬の終わりであった。むろん伝左衛門は、猛烈に反対した。伊賀者は軽輩ではあるが、何といっても天正の|服部《はっとり》以来|譜《ふ》|代《だい》の一門という誇りがある。それにくらべて、おゆうの父親は、名目こそ士分だが、しょせん素性は料理人だ。――
「くだらぬことを仰せある」
と、苦笑する綱太郎に伝左衛門はいよいよ立腹したが、綱太郎が、「ならば、わたくしは伊賀者の身分をすててもよろしゅうござる」といい出すにおよんで、ぎょっとした。この変な|甥《おい》には、そんなことを実際に敢行する野人性と、いや、それよりももっと恐ろしいこともやりかねぬ野獣性の匂いを、ようやくこのごろ伝左衛門もかぎとっていたのである。
春になったら、おゆうがおいとまをいただいて、婚礼をあげようという内輪の相談がまとまったとき、綱太郎は子供みたいにひっくりかえってよろこんで、伝左衛門を「このたわけめ」と呆れさせた。
おゆうが、非番でひとり組屋敷で春に遠い空模様をあおいでいた綱太郎をたずねたのは、早春の雪のふる日のことであった。
「おゆう。……もうおいとまをいただいたのか」
綱太郎の眼はかがやいた。おゆうの顔色は、日かげの雪より|蒼《あお》みがかってしずんでいた。
「綱太郎さま、たいへんなことになりました」
おゆうのいったことは、綱太郎をのけぞらした。
ふだんほとんど上様のお身まわりにちかづいたおぼえのない下級の女中のおゆうが、いつ、どこでお目にとまったものか、二、三日まえ、ふいに御年寄の滝川さまから、ちかくお庭|御《お》|目《め》|見《みえ》をいたすように、というお申しつけがあったというのである。お庭御目見というのは、将軍のそれとなくみている庭前を、島田振袖であゆむことで、これが|愛妾《あいしょう》登用の一儀式であることは綱太郎も承知している。
音もなく|牡《ぼ》|丹《たん》|雪《ゆき》のふりしきる軒先に、はや|薄《はく》|暮《ぼ》がせまりかかっているのに、灯もつけず、いつまでもおゆうはうなだれ、だまって綱太郎はそれを見ていた。
「ゆう。……どこかへにげようか」
と、ややあって綱太郎は|蝋《ろう》のような顔色でうめいた。
「おれは以前から、伊賀者のいまの仕事のくだらないのにあきれていたのだ。野心にもえて伊賀に走り、野心にもえて江戸にかえってはきたが、あまりばかげた大奥勤めの日常に、野心などは、春の|淡《あわ》|雪《ゆき》のように溶けてしまった。恋などしたのも、そのせいかもしれぬ。……」
彼は苦痛にみちた苦笑いを頬に|彫《ほ》った。おゆうは、ひくい、ふるえる声でいった。
「病気の父をのこして、わたしが逃げてゆくことはできませぬ。また、日本のどこへも、にげきれませぬ」
綱太郎はおゆうを見まもった。おゆうのいう通りだ。しかし、その言葉の内容よりも、|沁《し》みいるような声のひびきの方に、彼をぞっとさせるものがあった。
綱太郎はひんやりとかかる雲をふりはらうように頭をふり、ふいに猛然と手をのばしておゆうを抱きよせた。はじめて抱きしめる淡雪のようなおゆうのからだであった。彼はその乳房をおしつぶし、その頬に頬ずりし、いのちを吸いつくすようにその唇を吸った。
ほえるようにいった。
「このやわらかい胸、この黒い眼、このいとしい唇……これを余人にわたせるか。いいや、わたせぬ、おれはわたさぬ、たとえ相手が公方さまとても――」
おゆうは、男の力のなすがままにされていた。というより、力がなかった。浮き草のようにたゆとうそのからだに、綱太郎はいらだった。
「おゆう」
「ゆるして下さいまし」
「なに」
「大奥に奉公いたす者として、上様の|仰《おお》せにそむくことはなりませぬ。それは貴方さまにとってもご同様のことでございましょう」
綱太郎は、全身に水をあびたような思いがした。両腕をのばし、女のうすい肩も折れんばかりにつかみ、はたとにらんでいたが、やがて|切《せつ》|々《せつ》といった。
「おゆう、きけよ。いかにもおれは|譜《ふ》|代《だい》の|御《ご》|家《け》|人《にん》だ。|公《く》|方《ぼう》|様《さま》に死ねといわれたら、いつでも死なねばならぬ。しかし、いかに上様の仰せとて、女房は売れぬ。……いいや、上様に、|曾《かつ》て女房を売ったお方もあった。世のなんぴとにも知られてはならぬ大秘事じゃが、おなじ大奥に奉公するそなたなら、存じておろう。曾ての御側用人さま、牧野備後守さまはその奥方と御息女を献上なされたときく。いや、いま御大老よりも人のはばかる柳沢出羽守さまも、その奥方を上様に捧げなされたとやら。|左《さ》|様《よう》な方々ですらなされたことゆえ、われらもおなじ奉公をせねばならぬとは、そなたもいうまい。おれもいわぬ。おれのいいたいのは、そのような」
と、冷たい息をのんで、
「人の道をふみにじっても、|女色《にょしょく》を|漁《あさ》りなさる公方様に、義理をたてる必要はあるまいということだ」
おゆうは|端《たん》|然《ぜん》と坐ったまま、ゆっくりとくびをふった。
「上様の仰せには従わねばなりませぬ」
薄闇のなかに、その顔は能面のようにかたくひかってみえた。
「忠の一字はまもらねばなりませぬ。綱太郎さま、おゆうはそう思いきめて、おゆるしをいただきたく、きょう参ったのでございます」
「忠?」
綱太郎は一声さけんで、だまりこんだ。忠、いかに野性化しようと、それは百年にわたり、公方の犬として飼育されてきた血のえがく文字であった。
しかし、おゆうを見入った綱太郎の眼には、しだいに笑いに似たものが浮かんできた。おゆうのからだに氷のような冷気がながれたほど、それはぶきみな眼であった。
「忠か。――よく申した」
眼のひかりは頬に涙となってながれおち、|虚《うつ》ろとなった瞳孔に乾いた炎が凄惨にゆれた。そして、無明綱太郎はからからと笑ったのである。
「利口な女とは存じておったが、これほど利口だとは、いや見そこなっておったぞ。なるほど、これではおれの女房にはもったいないわ。はゝはゝはゝ」
【三】
江戸城大奥の御小座敷に、|白《しら》|鷺《さぎ》のような|総《そう》|白《しろ》|無《む》|垢《く》で、おゆうは坐っていた。
いつ、どこから散りこんだのであろうか、そのまわりに白い桜の花びらが、二片三片ちらばっている。生あたたかい夜気に、なまめかしい|美《うま》|酒《ざけ》のような匂いのこもっているのは、この大奥にねむる三千の女たちの|吐《と》|息《いき》のせいか、それとも深まった春のゆえか。
お庭御目見があって、半月ばかりののちである。
「|栄《え》|耀《よう》|栄《えい》|華《が》の門をひらくのは|今《こ》|宵《よい》でございますぞ。上様のお気に召すよう、しかとお勤めなされまし」
いままで、髪から薄化粧の世話までしてくれていた奥女中の|絵《え》|島《じま》はそういって、にっこりと笑って去った。
今宵はじめて上様に|処女《おとめ》をささげる。――その恐ろしさ、|羞《は》じらいよりも、おゆうの胸には、|黄金《き ん》いろの栄達の門がゆれていた。あのお庭御目見の上意をきくまでは、まったく思いもよらなかった望みであり、心であった。あの一瞬に、おゆうの人間は変わった。だれが彼女の変心を責めることができようか。三千人の女すべてが、あえぐばかりに望んでいる栄光の座だ。その三千人の女の中から、わたしはえらばれたのだ。今宵かぎり、お手付の御中臈に昇進するばかりではない。もし天が微笑むならば――まだ|御《ご》|世《せい》|子《し》のない上様のお|胤《たね》をつける、わたしが最初の女になるかもしれぬ。それからの運命を思うと、かしこいおゆうも、まるで眼がくらむようであった。
将軍はすでにとなりの寝所に入っている。金泥のうすびかるそのあいだの|豪《ごう》|奢《しゃ》な唐紙に眼をすえて、おゆうはすっと立とうとした。
その眼前に音もなく、巨大な|薄《うす》|羽《ば》|蜉蝣《かげろう》のように舞いおちてきたものがある。それは人のかたちとなった。おゆうは口をあけたが、息も出なかった。
いつ、そこに潜んでいたのか、天井に這っていた男は、これまた一語もなく、頭巾のかげからおゆうを冷やかにみて、にっと笑った。そして彼は、小わきにかかえていた油紙のようなものを、おゆうの足もとにはらりと敷いたのである。
御寝所で、将軍|綱《つな》|吉《よし》とお|添《そい》|寝《ね》の御中臈は、おじょう[#「おじょう」に傍点]畳の上にしいたお|納《なん》|戸《ど》|縮《ちり》|緬《めん》の夜具にうずもれていた。
綱吉は、きょうのひるま、京から参向した勅使柳原|前大納言《さきのだいなごん》、高野|前中納言《さきのちゅうなごん》、院使|清《せい》|閑《かん》|寺《じ》大納言らの|公卿《くぎょう》に|猿楽饗応《さるがくきょうおう》の儀式をすませたので、いささか疲労気味で、すこしいらだっていた。
「来ぬな」
と、彼はいった。お添寝の御中臈は、作法どおり背をむけたまま、
「|処女《おとめ》でございますゆえ」
と、こたえて、ひさしぶりに胸をどきどきさせていた。となりの御小座敷にじっとうなだれている新しい御中臈の可憐な姿を思いうかべたのである。
将軍が|寝《しん》につくとき、御用の女とお添寝の女と、ふたりが両側に|侍《はべ》るのが大奥の慣習だが、今宵御用の女が処女であることは、お添寝当番の彼女にもはじめての経験で、これから数刻のことをかんがえると、はやくも胸があえぎ、血がざわめく思いであった。
「ゆう、参れ」
と、綱吉はややかんばしった声をかけた。
唐紙が音もなくあいて、白鷺のような影がうかび出た。総白無垢に髪を|櫛《くし》|巻《ま》きにされた娘は、春灯[#電子文庫化時コメント 底本以外「燈」。以下同じ]のかげに立って、なお立ちよどんでいる。
それが、どうしたのか――しずかにその白無垢をぬぎすてて――一糸まとわぬ姿となった。将軍とお添寝の御中臈は、がばと身をおこした。はじめて御用の女に、裸となったものは曾てない。
が、娘のおぼろな顔は、なまめかしく|微笑《ほほえ》んでいる。それが不敵な全裸の姿態と混合して|醸《かも》し出した名状しがたい妖気に、ふたりが息をのんで何かを叫び出そうとしたとき、女の両腕の肉が、重い音をたててたたみにおちた。おちると同時に、それは血のしぶきをあげて、いくつかの|肉《にっ》|塊《かい》となった。つづいて、両足の筋肉が真綿をぬぐようにすべりおちていって、これまた血まみれの|腓腸筋《ひちょうきん》や|外《がい》|股《こ》|筋《きん》や|内《ない》|転《てん》|筋《きん》や|臀《でん》|筋《きん》の|堆《たい》|積《せき》となった。
この世のものならぬ悪夢をみる思いで、かっとむき出された将軍綱吉と御中臈の恐怖の眼に、|靄《もや》がかかった。
靄の中に、露出した骨だけの足で立った女の乳房や腹や腰の肉のかたまりが、まるで|万華鏡《まんげきょう》の花の破片が|崩《くず》れるように解体して――みるみるそれはうす暗い血の霧の底へ、女体の刺身と化してかさねられていった。
女と忠義のきらいな男
【一】
江戸城大手御門から|下乗橋《げじょうばし》にかけて、何千という|裃姿《かみしもすがた》の侍たちが群集していた。いななく馬と、それをとりしずめる声のほかは、|粛然《しゅくぜん》としていたが、どこか陽気でもあった。ひるちかい春の太陽が、|駕籠《か ご》や|挟箱《はさみばこ》や|長《なが》|柄《え》|傘《がさ》や供槍を美しくきらめかしている。登城した大名たちを待つ|供《とも》|揃《ぞろ》いの侍たちであった。
それぞれの屋敷からいかめしく出た登城大名の行列は、大手門から入り、下乗橋につくと、大名は駕籠からおりて、みな|徒歩《か ち》であるいてゆく。供侍たちはすべて下乗橋から大手門にかけてひかえ、主人の下城を待ちうけているが、きょうは特に、京から下向した勅使院使に将軍が|勅諚奉答《ちょくじょうほうとう》の日なので、大名総登城という事情もあり、供侍たちは大手門からなお外へあふれていた。
そのなかを、|裃《かみしも》をつけぬ男が、腕ぐみをして、ひとりあるいていた。あたりを警衛している番士の一人のようであるが、|無精《ぶしょう》らしく|月代《さかやき》をのばしているのが、少々いぶかしい。それによほど思案することがあるとみえて、ときどき供侍たちの手や足にぶつかったりした。それも意識しないかのように、天守閣の彼方を見あげる眼は、まるで高熱患者のようであった。
そのとき、大手門の方からやってきた伊賀者が、ふとその男をみて立ちどまり、顔色をかえて下乗橋の方へかけ去っていったが、彼はそれにも気がつかない。――やがて、その伊賀者は、槍、鉄砲をかかえて血相かえた数十人の仲間をつれて走ってきた。
「綱太郎」
と、そのひとりがしゃがれた声で呼んでちかづいてきた。本来、こんな場所にあらわれるはずのない大奥御広敷|添《そえ》|番《ばん》の|無明《むみょう》伝左衛門であった。
「伯父御か」
と、無明綱太郎は腕ぐみをといた。
「これは、異なところで」
「異なところではない。昨夜からうぬを探して、四谷の組屋敷をはじめ、どれほどかけずりまわったか。――」
と、伝左衛門は白髪をふりたてた。
「綱太郎、うぬは|御中臈《おちゅうろう》おゆうの方さまに何をした。あのような奇怪無惨の所業をなすものはうぬのほかにないはず。おぼえがあるか」
「では、あの女、死にましたか」
綱太郎は暗い眼を|茫《ぼう》|乎《こ》とひらいてつぶやいた。
「して、公方様は何と申されたでござろうか。見境いもなく、女を|側《そば》|妾《め》にするは恐ろしいとでも」
「だまれっ。さてはやはりうぬの|仕《し》|業《わざ》だな。な、なんたる大逆人、まいれ、綱太郎、|縛《しば》り首|磔《はりつけ》にしてもあきたらぬ奴じゃが、伊賀者百年の御奉公に免じて、この伯父がせめて切腹を願ってくれる。来い」
「いやでござる」
と、綱太郎はいった。
「死ぬことはいやではないが、このたびのことで死ぬことはいやでござる」
「何?」
「伯父御はいま、無惨の所業と申されましたな。おれはあの女のからだを八つ裂きにしてくれたが、あの女はおれの心を八つ裂きにしました。あれが、まさかおれを裏切ろうとは! 裏切って、公方様の|妾《めかけ》になりたくて、可愛い口で、忠義と申した! この偽善、この裏切りには、あれくらいの|酬《むく》いは当然でござる。ふふん、おゆうのからだが四分五裂したは、上様御手付き以前でござろう、すなわちおれは、公方様のお妾としてでなく、おれの女房として成敗したつもりです。いまここまでやってきたのは、昨夜の|首《しゅ》|尾《び》、その後如何とうかがいに来たまでのこと、そうとわかれば、もはやおれはこのお城に用はない。――」
彼は背をみせた。にげる気配ともみえぬ、のそりとした様子で、もの想いにふけり、眼前周囲の人々も心にないかのようなうしろ姿であった。ひくくつぶやいた。
「別に生きたいとも思わず、どこへゆこうというあてもないが、ただあのような女のために、男一匹死ぬのはいやでござる。おさらば」
「しゃあっ、のがすな」
と、伝左衛門は狂的な声をあげた。
「|射《う》て、斬れ、血をみてはならぬきょうのお城ではあるが、やむを得ぬ。いずれにせよ、どうせ腹切るこの伝左衛門、責めはすべてこの身に受ける、いいや、ともにこのわしも射ち殺せ!」
伝左衛門はうしろから、|曾《そ》|我《がの》|五《ご》|郎《ろう》をつかまえた|御《ご》|所《しょ》|五《のご》|郎《ろ》|蔵《ぞう》みたいにむしゃぶりついた。数十人の伊賀者が、まわりを|長槍《ちょうそう》と鉄砲の輪でつつんだ。
そのとき、まわり一帯の武士たちがどよめいた。それが、この|椿《ちん》|事《じ》に対してではないと気がついたのは、その|叫喚《きょうかん》が下乗橋の方から海鳴りのようにわたってきたからだ。まるで地震にゆりあげられたような混乱に、伊賀者たちはいっせいにその方へのびあがった。
遠く、ひっ|裂《さ》くような声がながれていた。
「ただいま……ただいま松ノ御廊下に刃傷――仕手は播州赤穂浅野内匠頭どの、相手は高家吉良上野介どの……さりながら、両人とりおさえられ、事しずまってござれば、いずれにも騒ぐことなく、ひかえられよ。ただいま、松ノ御廊下にて刃傷。――」
時に、元禄十四年三月十四日。
騒ぐな、といっても、これは無理だ。大手門をめぐる広場は、ときならぬ人馬のさけびと砂けむりに|覆《おお》われた。諸門警衛の任にある伊賀者たちは|仰天《ぎょうてん》し、無明綱太郎の影など魂からとばして、まろぶようにかけ去った。
あとに無明伝左衛門だけがのこされた。からだの関節をすべてはずされ、砂けぶりの底に横たわったまま、だらんとたれたあごをうなぎみたいに緩慢にうごかせていた。綱太郎の姿はきえていた。
【二】
――来たな。
と、無明綱太郎は思った。
江戸から三十里、|宇《う》|都《つの》|宮《みや》にちかい松並木の中である。西の方には残照にぬれて、|屏風《びょうぶ》をたたんだような足尾山塊や日光火山群が望まれる。江戸は花ちる春の末であったが、ここらあたりの夕風はまだ冷たかった。
ずっとむこうを四、五人の行商人、すぐまえを|虚《こ》|無《む》|僧《そう》のふたりづれがあるいているほかは、東海道とちがって、人影もまばらな奥州街道であった。
その奥州街道の|雀《すずめ》の|宮《みや》あたりから、みえつかくれつしてあとを追ってきた七、八人の武士たちである。みな深編笠に面をかくしてはいるが、ひたひたとせまる殺気がある。彼らのめざすものが、じぶんをおいて誰であろうか。
綱太郎の心は、その名の通り|無明《むみょう》であった。どこへいって何をしようというつもりか、綱太郎はじぶんでも何のあてもなかった。ただ、伯父にも宣言したように、べつに生きていたくもないが、死にたくはないのだ。あんなやさしい、かしこい顔をした女が、もののみごとに裏切った。そんな女を成敗したからといって、それで死ぬくらいならば、なんのために伊賀の|鍔《つば》|隠《がく》れ|谷《だに》で忍法修行に骨肉を|削《けず》ったか。将軍から妾になれといわれたとき、おゆうがほかにどうしようもなかったとは、綱太郎は思わない。あのときおゆうが、死にましょうといったら、彼はよろこんで共に死んだろう。しかしまた、そういってくれたら、いのちのかぎり彼女の手をひいて逃げたろう。逃げる、生きぬく自信はある、彼のたけだけしい野性はそうかんがえる。いや、のがれる手段はないといったのは口実、忠という言葉を口にしたのも口実。あのときおゆうの眼は、栄達の門をのぞんだよろこびに夢みるようであった。――綱太郎をいま歩かせているのは、あのような女のために死ぬものかという、血まみれの|憤《ふん》|怒《ぬ》の感情だけであった。
むろん、公儀がおれをそのままにしてはおくまい。果たせるかな、あてもなく奥州街道へさまよい出したおれを、いちはやく追跡してきたのはさすがだが、公儀の|討《うっ》|手《て》ともあろう者が、何を犬のようにこそこそとしているのか。おれをこわがっているのだろうが、それにしても臆病な奴らだ。
綱太郎はふりむいた。その動作にはねあげられたように、深編笠の武士のむれは、砂塵をまいて殺到してきた。
「――来たな」
彼は往来のまんなかにつっ立った。その不敵さに気圧されたものか、武士たちはそのまえ二、三間で、たたらをふんで立ちどまる。綱太郎のふところから、黒い綱がほとばしり出て、その深編笠を|薙《な》いだ。そこから、ちぎれた笠と血しぶきがあがって、三、四人、どうと路上にのめった。黒い綱は髪を|綯《な》ったものであったが、それはまるで鋼線のような|凄《すさ》まじい切れ味を示したのである。
「あっ、こやつ――」
残りの武士たちは|驚愕《きょうがく》のどよめきをあげつつ、いっせいに抜刀した。その刀身めがけて、黒髪の綱はなおうねった。とみるまに、まるで蛇のように四、五本の刀身にからみつき、ひとたばにして|宙天《ちゅうてん》にまきあげたのである。
空に無刀の両腕をさしのばし、彼らは泳ぐような足どりで五、六歩あるいたが、たちまち名状しがたい恐怖のさけびをあげ、背をみせて、ころがるように逃げ出した。そこに倒れて虫みたいにもがいている仲間もそのままに。
黒い綱は、それ自身|生命《いのち》あるもののごとく宙で刀身の|束《たば》を解いて、地上にまきちらしつつ、するすると綱太郎のふところにもどっていった。
「あれで討手か」
彼はむしろ|憮《ぶ》|然《ぜん》としてつぶやいて、あともふりかえらず歩き出した。すると、ふいに声をかけられた。
「もし、見知らぬお方ながら、お助け下さいまして、ありがとうございます」
ふたりの虚無僧がそこに立っていた。綱太郎があっけにとられたのは、その言葉の内容よりも、その声だ。それは老女らしい声であった。
「わたしが助けた?」
「はい、あれはわたしどもを追ってきた上杉家の衆でございます」
「婆や」
もうひとつの|天《てん》|蓋《がい》の下で、鈴をふるような若い娘の声がした。老女を制止しようとしたのである。しかし、老女はいった。
「いいえ、お嬢さま、殿さまの御意にそむいてお国へ帰りますのに、追手をかけられたとあれば、いかに御家老さまの御息女とて、ただではすみますまい。殿さまもよほどお覚悟のことと存ぜられまする。まして、いまのような始末となりましては、いよいよ御立腹なさるは|必定《ひつじょう》、これから|米《よね》|沢《ざわ》まで四十五里、第二第三の追手をかけられることなくぶじ旅ができようとは思われませぬ。それより、この奇特な御武家に、わけをうちあけて、お助けいただいた方が利口でございます」
虚無僧の天蓋をぬいだ。果たせるかな、品のよい老女であった。
「もし、わたしは、上杉家の江戸屋敷、奥向きに仕える|卯《う》|月《づき》と申すものでございます。これは御国家老の|千坂兵部《ちざかひょうぶ》さま、御息女|織《おり》|江《え》さま」
もうひとりの虚無僧も天蓋をとった。夕日をあびた美しい顔をみて、無明綱太郎はかっと眼をむいた。
綱太郎の異様な表情に気がつかず、老女の卯月はしゃべり出した。いままでよほどおびえながら旅をつづけてきたものであろう、すがりつくような口調でいう。
いま在府中の藩主上杉|綱《つな》|憲《のり》様はことし三十九にならせられるが、生来御好色であらせられる。それで、この一年ばかり前から出府していたこの織江様にお眼をとめられ、是非|御《お》|側《そば》|妾《め》にというお申しつけがあった。|国《くに》|許《もと》の父に|伺《うかが》いましてからと申しあげても、兵部には余よりあとで承諾を命じておく、と仰せられるばかりである。しかし織江様はどうしても気がすすまず、進退きわまって、とうとうこの十二日、無断で江戸屋敷をにげ出した。父の兵部様は生来|剛《ごう》|毅《き》なお方で、たとえ殿様の仰せでも|是《ぜ》は是、|非《ひ》は非として恐れられぬお方だから、娘の織江様がそういう事情でにげかえっていっても、大手をひろげて受け入れられこそすれ、決してとがめたり|人《ひと》|身《み》|御《ご》|供《くう》に出したりするようなお方ではない。ただ、これから国許の米沢までまだ四十四、五里、追手のくるおそれは充分ある。どうやら御浪人とお見うけするが、もし出来るならば、その道中を守護しては下さるまいか。米沢へぶじかえったら、きっと兵部様からお望みのままの御礼をさしあげることにする。――
「女と知ったら――そんな顔の女と知ったら――助けるのではなかった」
と、綱太郎は吐き出すようにつぶやいた。その意味は、ふたりにはよくわからなかったが、綱太郎はまだ|心《しん》ノ|臓《ぞう》が波うつのを禁じ得なかったのである。
その織江という娘は、死んだおゆうにそっくりであった。しかし、――
「主人の妾になるのが、いやだと」
そして、この娘は、虚無僧にまで化けてにげ出したというではないか。
綱太郎は穴のあくほど織江の顔を見つめていた。実におゆうによく似ている。しかも、なるほどこれでは、いかに主人とはいえ、そのような要求を拒否するのも当然だと思われる、天女のようにういういしく清浄な織江であった。綱太郎はまたうめいた。
「それならば……やはり、助けてよかったかもしれぬ」
【三】
米沢についた日から、無明綱太郎がそのまま国家老の千坂兵部の屋敷の|食客《しょっかく》になったのは、織江のねがいもあったが、彼自身べつにゆきどころがなかったからであった。
父親の兵部は娘にいった。
「ようかえってきた。いかに殿の|仰《おお》せとて、いやなものを|御《お》|側《そば》|妾《め》になる要はない。殿にはあらためてお断わり申しあげる。安心して、ここにおれ」
それで、この国家老が、主君の命令であっても、それが不当なものであるかぎり、|毅《き》|然《ぜん》としてはねつけて一指もささせぬ存在であり、人間であることがわかって、綱太郎は好意をもった。千坂兵部は、しかし、痩せて、小柄な家老であった。ただ深沈とした眼にどこやらひらめく|叛《はん》|骨《こつ》の底びかりが、この人物のただものでないことを示していた。兵部は綱太郎にも礼をのべ、それからいった。
「ところでいまは、娘のさわぎどころではない。おそらく殿も左様な物好きもふきとんでしまうばかりの御心痛に沈んでおわそう。この三月十二日に江戸を逃げ出したという娘。それを追って出てきた江戸詰めのものどもは、十四日、柳営で起こった異変を知るわけはないが、それがちと当家にもかかわりのあることでの。しばらくおかまいもできぬが、そちらには縁のないこと、気にせずと、ゆるりとここで暮らしているがよい」
三月十四日の事件は、綱太郎も知っていたが、あの刃傷の相手吉良上野介の実子が、この上杉十五万石の当主綱憲だとはまったく知らなかった。すでに急使が事件の詳細を相ついで告げに来たらしいのである。
東に|奥《おう》|羽《う》|分《ぶん》|水《すい》嶺、西に|飯《いい》|豊《で》、|三《み》|国《くに》の連山、南に|吾《あ》|妻《ずま》の|峻嶺《しゅんれい》、北に|白《しら》|鷹《たか》|山《やま》をへだててはるかに朝日、|月《がつ》|山《さん》をのぞむ山国の城下町、その美しいしずかな米沢に、それからもしばしば深夜でも時ならぬ|蹄《ひづめ》がこだました。使者は江戸からくるのみならず、兵部もまた腹心の者を諸所へ送り出している気配であった。
あの刃傷の十四日、即日浅野内匠頭は切腹を命じられたという。
つづいて二十六日、吉良上野介は御役御免をねがい出て、隠居になったという。――
四月十八日、|播州赤穂《ばんしゅうあこう》の城は召しあげられ、浅野の家来はすべて離散したという。
九月二日、吉良上野介は、呉服橋門内から本所松坂町へその屋敷を移したという。――
春から夏へ、そして北国米沢に早い|爽涼《そうりょう》の秋風がながれはじめるころまで、無明綱太郎は|無《む》|為《い》に千坂兵部の屋敷に日を暮らしていた。彼は右のような話をそれとなくきいていたが、じぶんと関係のないことだから、興味もなかった。ただ、去年じぶんがはからずもまきこまれた|生《いけ》|作《づく》りの御前試合の影の対立者、吉良上野介と浅野内匠頭が、とうとうそのような破局的な運命を迎えたのかという|感《かん》|慨《がい》はうごいたが、それも|吐《はき》|気《け》のするような不快感を|伴《ともな》っていたのである。
むっつりと無愛想な顔をしている綱太郎を、主君さえも拒否した織江は、ふしぎにいやな顔もしないで、上杉家の|累《るい》|代《だい》の墓所のある|御廟山《ごびょうざん》や、善光寺|如《にょ》|来《らい》を祭った法恩寺や、|直《なお》|江《え》|山《やま》|城《しろ》の墓のある林泉寺などへつれ出して、その|無聊《ぶりょう》さをなぐさめようとした。それにはただ彼に助けられたという義理以上のものがみえて、老女の卯月の眉を|翳《かげ》らせた。が、それ以上に卯月の顔をくもらせたのは、綱太郎の無礼な態度だ。いやしくも国家老の息女のやさしい心づかいを、このどこの馬の骨ともしれぬ浪人者は、ふきげんな顔で、むしろ憎んでいるような眼であしらうのである。
しかし、綱太郎は運命の相呼ぶ声をきいていたのである。じぶんを裏切り、じぶんが殺した、美しい、恐ろしいおゆうに似た織江の顔が、彼の魂を四分五裂させつつ、この町に|膠着《こうちゃく》させていたのである。
それから、彼がこの屋敷から去ることが出来なかったのは、それ以外にこの夏のころから、なぜか千坂兵部が「いずれわしがよいというまで、この屋敷をはなれてはならぬ」とむしろ高飛車にいったからであった。綱太郎は、兵部の心事をはかりかねて、その興味でここに暮らしているといってよかった。綱太郎が兵部によばれたのは、軒さきに赤とんぼのむれが飛んでいる秋の一日であった。
「|無明《むみょう》」
と、兵部はうすい笑顔で呼んだ。
「わしがおまえを、この屋敷からはなれることをゆるさなんだわけを存じておるか」
綱太郎はだまって兵部をながめやった。
「御公儀の御尋ね者と知りながらの」
「べつにそれが恐ろしゅうて、ここに御厄介になっておったわけでもござりませぬが」
と、綱太郎は平然としていった。兵部は怒りもせずにうなずいた。
「それはわかっておる。おまえほどの忍者であれば|喃《のう》。……江戸城大奥でやってのけた途方もない所業もきいたぞ」
兵部はすべてを調べたらしい。知られたことは何でもないが、なぜ兵部がおれのことを調べたのだろうと、綱太郎はふしぎに思った。
「したが、無明、わしの名にかけて、これよりおまえを御公儀からかくまい通してつかわすであろう。ただ、そのまえに、おまえが或る危ない仕事をやってくれればじゃ」
兵部は綱太郎の眼をのぞきこんだ。
「無明、おまえは忠義を愛するか?」
綱太郎は兵部を見かえし、乾いたうす笑いをうかべた。
「拙者、忠義と女は大きらいでござる」
義士|堕《だ》|天《てん》|行《こう》
【一】
「忠義と女のきらいな男。……」
千坂兵部は苦笑した。が、すぐに苦笑を消して、軒越しに城の天守閣を見あげている。米沢城、またの名を、舞鶴城と呼ぶ。その鶴のつばさをひらいたかのような白い姿は、薄墨色の夕空に溶けこもうとしていた。
しかし兵部は城をながめているのではなく、この奇抜な言葉を吐いた伊賀者の、異常な性格と来歴に|想《おも》いをめぐらしていたようである。また微笑した。
「それは、いよいよ以て好都合だ。わが用を足してくれるためには、忠義が好きであってはならぬ。また女が好きであってはならぬ」
「拙者、御用を|承《うけたまわ》るとも何とも申しあげてはおりませぬ」
と、無明綱太郎はにべもなくいった。
「第一、拙者は当家におかくまいいただきたいとも願ってはおらんのです」
さすがの千坂兵部が、いささか狼狽した。ふいにこの上杉十五万石には過ぎたるものと噂される家老は手をついた。
「いや、わしの言葉がすぎた。そうではない、無明、わしはおまえを特に見込んで願い事があるのじゃ。どうぞ、わしを助けてくれい」
「どのような」
「わしは公儀の敵となる」
「上杉藩の御家老が――何として?」
「さればよ、わしは殿のおん父君、吉良上野介さまを、あくまで|赤穂《あこう》|浪《ろう》|士《し》どもからお|護《まも》り申しあげたいのじゃ」
「赤穂浪士? ああ、あの浅野の遺臣ども。彼らが上野介さまを狙っておるのですか。それにしても、それから護るのが、どうして公儀の敵となるのでござるか」
「公方様が、上野介さまを赤穂の浪人どもに討たせられるのを望んでござるからじゃ」
綱太郎はくびをかしげた。|解《げ》せぬ言葉だ。
「浅野内匠頭どのが死なれたは、上野介さまのせいではございますまい。内匠頭どのに切腹申しつけられたは、公方様ではございませぬか。承れば、あのあと、手傷を負われた上野介さまに、とくに神妙とのおんねぎらいのお言葉さえあったというではございませぬか」
「公方様には、御変心あそばしたのだ」
と兵部は沈痛な声音でいった。
「いかにも浅野刃傷の際、最も御立腹あったはたしかに公方様であった。そのおん怒りのため、内匠頭どのは切腹、家は|改《かい》|易《えき》。……もしあのとき、殿中での喧嘩は両成敗という|御定法《ごじょうほう》の通り、上野介さまにも一応のお|咎《とが》めを下されたならば、内匠頭どのはその短慮を|誹《そし》られるばかりであったろう。しかるに、この片手落ちのお|裁《さば》きのため、民の同情は|翕然《きゅうぜん》として赤穂一藩に集まった。内匠頭さまはお気の毒、赤穂の遺臣、吉良どの討つべし、亡君のうらみはらす日もあるべしと、いまは江戸の心なき|童《わらべ》、道中筋の|馬《うま》|方《かた》|船《せん》|頭《どう》まで待ちうけているときく。……移り気な公方様のお怒りは、これで|冷《さ》めはてた。刃傷後のお裁きについての、世間の評判を気になされ出した。公方様はお悔いなされ、浅野浪人どもをふびんに存ぜられ、民の口をお|怖《おそ》れあそばしはじめたのだ。……」
「いかにも、あの公方様なら、左様なこともありそうな。――」
「その証拠に、もし公方様があくまで上野介様をおかばい下さる御所存ならば、上野介さまが世間の風評に恐れ入られて御屋敷|替《が》えのことねがい出でられたとき、その儀に及ばずといままで通り|御《お》|曲《くる》|輪《わ》うちの呉服橋門内にとめおかれるはず。それを願いのままに、それそれと|辺《へん》|鄙《ぴ》な|本《ほん》|所《じょ》に移されたは、内匠頭家来に討てよと仰せられぬばかりのお心とみる。おいたわしや、上野介さまは、いまは天下のにくしみを御一身にあびて、本所の奥で哀れにおびえておりなさるのだ。……」
兵部の眼に、涙がひかった。
「よいか、上野介さまを、わしは上杉家の名にかけて、あくまでお護り申し上げたいのだ。これは公方様のお望みにさからうことになる。わしが公儀の敵となると申したのは、このことじゃ」
綱太郎はうなずいた。兵部の言葉がよくわかったというより、この上杉の家老の叛骨ぶりがひどく気に入ったのである。
「なるほど。しかし、それで拙者への御用命とは?」
「浅野の遺臣らの|志《こころざし》をさまたげてもらいたいのだ」
「彼ら、まことに上野介さまのおん首をお|狙《ねら》い申しあげているのでございましょうか」
兵部は|起《た》っていって、床の間の|棚《たな》から手文庫をとって、一巻の巻物をとり出した。
「浅野家の|分限牒《ぶげんちょう》にある家来三百有余、そのうち赤穂開城に際し、城を枕に討死しようと血盟を交わしたものども六十一人。その連判状の写しがこれじゃ」
綱太郎は手にとったまま、心中に、やるな、と思った。この家老は、北国のこの米沢に坐っていて、いつこんなものを手に入れたのだろうか。
「しかし、城は穏便に明け渡され、家来のひとりとして死んだという噂もききませぬが」
「さればよ、そこがくさい。ひとたび死ぬ覚悟で血書したものども、あとで臆病風にふかれる者が出ようと、二人三人は血書通り腹切る奴がありそうなものよ。しかるに、それが何の事もなく、ひとりのこらず離散したは、きゃつら、死ぬべき命を報復の|一《いっ》|挙《きょ》にささげたものとみる」
綱太郎は、連判状をひらいた。その|劈《へき》|頭《とう》に、まず|大《おお》|石《いし》|内蔵《くらの》|助《すけ》という名がみえた。
「大石内蔵助。……」
「浅野の城代家老じゃ」
と、兵部はいった。宵闇に見入るようなまなざしで、
「これがただものでない。事変前までは|昼《ひる》|行《あん》|灯《どん》という|綽《あだ》|名《な》で呼ばれた人物であったというが、城明け渡しの際、|藩《はん》|札《さつ》の始末、藩士への手当、御公儀へ引き渡す帳簿目録の整理など、実に水ぎわだったやりようを見るに、なかなか以て昼行灯と呼ばれる人間のふるまいではない。しかもその後、京にちかい|山《やま》|科《しな》に閑居し、伏見|撞木町《しゅもくちょう》にあらわれてだだら遊びに|耽《ふけ》っている行状をみるに、とうていひとすじ縄ではゆかぬ男じゃ。この城を枕に討死するとの血盟の連判状は、おそらく復讐の挙に加わる者どもをあら|選《え》りしたのではないかとわしは見る」
「三百余人中、主君に|殉《じゅん》じようとした者は、五分の一のわずか六十一人ということでございますな」
「わずかではない。この泰平の世に、一藩にそれだけ侍の|性根《しょうね》をもった奴がおったとは、むしろ内匠頭はよい家来をもたれたと、わしは感服しておるくらいじゃ。同様のことがこの上杉十五万石に起こったとして、はたして殿に追い腹きる者が五十人おるか、どうかじゃ」
兵部の唇が、皮肉にまがった。
「六十一人、多すぎる。いかに御公儀が内心、彼らの復讐を心待ちになされておるとはいえ、天下の大法は大法、きゃつらが上野介さまを討ち奉れば、斬罪|磔《はりつけ》はまぬがれぬ。それを思えば、脱落者はまだ出るぞ。おそらく、その中で一挙の先頭にたち、他をひきずりまわす鉄石の心を持つものは、さらにその五分の一の十数人であろう」
兵部の眼にはぶきみなうす笑いが浮かんでいた。
「その十数人を|見《み》|究《きわ》め、その志さえつぶせば、一挙はたちまち|瓦《が》|解《かい》するとわしは見る」
「その十数名を討てば、と仰せられますか」
「いや、そうでない。討ってはならぬのだ」
兵部はつよくかぶりをふった。綱太郎はまたわからなくなった。
「それどころか、討たせてはならぬのだ」
「誰に? なにゆえ?」
「いま申したとおり、公儀では浪士の復讐を望んでおわすのだ。そこに浅野の遺臣が次々に殺されるという事が起こってみよ、その手が何ぴとのものか、三歳の童児すら、吉良家または上杉家を指さすことであろう。かくて上野介さままた上杉家は、いよいよ救いがたい公儀と天下のにくしみをあびることとなる。左様に相なるは|掌《たなごころ》をさすがごとく明白なるに……愚かや、江戸の藩邸では、このたび能登組の忍者どもを、浅野浪人の暗殺行にさしむけた」
「能登組の忍者?」
【二】
「能登組の忍者?」
無明綱太郎は千坂兵部の顔を見まもった。はじめてきく奇怪な名だ。
「|不《ふ》|識《しき》|庵《あん》|謙《けん》|信《しん》さま以来、百五十年にわたり、代々上杉家にひそかに養われ来たった忍法者どもじゃ」
と、兵部はいった。暮れてきた座敷に灯も呼ばず、その顔はますます暗かった。
「殿の御発念ときく。御父子の情、殿が、上野介さまをつけ狙う赤穂浪人どもを討ち果たせば、とお|焦《あせ》りなされたは是非もないが、その事の及ぼす結果を、江戸におる老臣どものだれもが思いやらなんだとは、実に|嘆《たん》|息《そく》のほかはない。わしがお側におれば、決して左様なことはさせまいらせぬに。――暗殺行に立ったは十人、|瓜連兵三郎《うりつらひょうざぶろう》、|浪打丈之進《なみうちじょうのしん》、|鴉谷笑兵衛《からすやしょうべえ》、|万軍記《よろずぐんき》、|白糸錠閑《しらいとじょうかん》、|鍬形半之丞《くわがたはんのじょう》、|折《おり》|壁《かべ》|弁《べん》|之《の》|助《すけ》、|月《つき》ノ|輪《わ》|求馬《もとめ》、|女《めの》|坂《さか》|半《はん》|内《ない》、|穴目銭十郎《あなめせんじゅうろう》――いずれも、当藩秘蔵の能登流忍者、|錚《そう》|々《そう》の面々じゃ。いずれも左の耳たぶに黒いほくろ[#「ほくろ」に傍点]をつけておる」
兵部はうめいた。
「彼らに浅野浪人を討たせてはならぬ。まことに奇妙な話だが、それが吉良家と上杉家を安泰に置く道なのじゃ。さればとて、これは殿のなされたこと、かく相なってはいかなわしも公然とじゃま立てはできぬ。そのことをきいて、わしはお前にたのみ入るほかにないと思い立ったのだ。彼らの忍法をふせぐ者は、無明、おまえのほかにはない。――」
「しかし、御家老」
と、綱太郎は兵部を見つめていった。
「浅野浪人を護ることが、上野介さまをお救いすることになると仰せられる? わかりませぬ。浪人どもを生かしておけば、上野介さまを討たれるではございませぬか」
「だから、赤穂浪人の志をつぶすのだと申しておる」
「志をつぶす?」
「きゃつらの心を泥土に|堕《お》としてやるのだ、仇討ちに命をかけておる彼らに、それ以外のものに未練愛執の心を起こさせるのだ。生きてはおるが、武士ではないものに変えてやるのだ。たとえば、金、親への情、子への愛――その縄でからみつき、ひきたおす。その手は一応わしも考えた、とはいえ、それは彼らもすでに思い切ったことであろう、容易にそれには迷うまい。ただ、いかに思い切ったつもりでも、男であれば彼らがひきずりこまれずにはおられぬ|堕《だ》|地《じ》|獄《ごく》がある。色道、肉欲の|罠《わな》、女色の地獄」
「…………」
「それによって、彼らが内部崩壊を起こせば、上野介さまは御安泰、御公儀も|如何《いかん》ともなされ難かろう」
「その地獄へ、拙者が堕とすのでございますか」
「いや、彼らを堕とすものはほかにある。六人の女が」
「六人の女――どこに」
兵部は綱太郎をみて微笑した。
「ふむ、|木乃伊《ミ イ ラ》とりが木乃伊になっては役に立たぬな。無明、先刻そちは女がきらいと申したな。その言葉はうそではないの」
「されば――」
綱太郎はうなずいたが、けげんな顔色であった。この家老のいうことは、次々に意表に出て、何を企図しているのか、|端《たん》|倪《げい》すべからざるものがあった。
「いちど|験《ため》した方がよいかもしれぬ。では、参れ」
兵部はまた|起《た》って、庭先におりた。綱太郎はくびをかしげながら、それに従った。
もう闇に沈んだ庭をいくめぐりかすると、|蔵《くら》があった。その扉を兵部が|半《なか》ばひらくと、思いがけずその内部に灯がともっているのがみえた。
「この中に、六人の女がおる。ふだんわしのところで腰元として使っておるが、実はこれまた、能登の女忍者だ。名はお|琴《こと》、お|弓《ゆみ》、お|桐《きり》、お|梁《りょう》、お|杉《すぎ》、|鞆《とも》|絵《え》という。――」
兵部は綱太郎を蔵の中へおし入れた。
「一刻のあいだ、その女どもとともに過ごせ。女がおまえに何をしようと、殺してはならぬぞ。一刻のちにこの|土《つち》|戸《ど》をあける。そのとき――わしに、そちの男根をにぎらせろ。――それになお力があったら、おまえの高言はまことであったとしよう」
綱太郎の背後で、土戸がしまった。
真正面にたてられていた|屏風《びょうぶ》がたおれた。綱太郎は眼を見はった。屏風のむこうには、|雪洞《ぼんぼり》が三つ置かれ、|緋《ひ》の夜具がしきつめてあった。その上に、やはり緋の|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》をきた六人の女が、あるいは立ち、あるいは横ずわりになり、あるいは寝そべっているのである。長襦袢をまとっているとはいえ、肩や胸、ふとももはしどけなくあらわれて、|真《しん》|紅《く》の中にひかるような白さが浮いてみえた。
彼女たちは綱太郎をみて、にんまりと笑った。|媚笑《びしょう》のようでもあり、嘲笑のようでもある。
「……どうぞ、ここへおいでなされませ」
と、そのうちのひとりがいった。
綱太郎はうなずいて、つかつかとそこへ歩いてゆき、六つの赤い花弁のなかにあぐらをかいて坐った。女たちは、蛇のように綱太郎にまつわりはじめた。背に四つも六つも乳房がふれ、くびすじに花粉のような息が匂い、やわらかにぬれた唇と舌は、ひるのように彼のふとももを|這《は》い出した。
「いずれおとらぬ……美形だな」
感にたえたように綱太郎はいった。彼は女たちの左の耳たぶに、すべて黒いほくろがあるのを見とめた。なまめかしく、のどの奥で笑いながら、女の白い指が彼の男のしるしをつかんだ。
それは、冷やかにうなだれたままであった。――いつまでも。
【三】
一刻ののち、無明綱太郎は蔵から出て、千坂兵部と庭をあるいていた。兵部はくびをかしげている。
「無明、女の誘いにはついに応ぜなんだようだが……それは術か、それとも――」
彼の男根をたしかめるまでもなく、兵部は女たちから、彼が最後まで無反応であったことをきいたのである。兵部にしてみれば、綱太郎が、男の精根すべてを吸いとられて|空《うつ》|蝉《せみ》のようになって出てこなかったのがふしぎであった。
「片輪か」
遠い庭のむこうに、もといた座敷がみえた。|行《あん》|灯《どん》がともっている。その傍にふしんそうに兵部の娘の織江が坐っているのがみえた。
「御家老。……しばらく」
と、綱太郎はささやいて、じっとその姿をながめていた。やがて、兵部の手をとって、しずかにじぶんの男のしるしに持っていった。兵部は口をあけた。それは|隆々《りゅうりゅう》と|聳立《しょうりつ》していたからである。
「そちは……」
そうさけんだきり、千坂兵部はしばらく声もなかった。対象がじぶんの娘だと知っては、言葉もないのが当然であった。綱太郎は笑った。
「御安心下されい。片輪でないことの|証《あか》しのほかに、他念はござらぬ」
「やはり、わしの見込んだ通りであった」
と、兵部はようやくいった。
「いよいよ以て、あの女どもを使いこなす者はお前のほかにない。お前はしらず、どうじゃ、赤穂浪人ども、いかに鉄石の心を持とうと、あの女どもにかかった上は、色道の地獄に|堕《お》ちるとは思わぬか」
「おそらく」
と、綱太郎はうなずいた。兵部は泉水のそばに立ちどまった。小さな滝の水音が鳴っていた。
「されば、お前にたのみたいことは四つ。まず、あの連判状により、浅野浪士どものうち|真《しん》に報復の意志をもち、一味の陣頭に立っておる奴を探り出すこと、第二に、彼らを江戸屋敷より送られた刺客からまもってやること、第三に、その浪士とあの女どもを結びつけて、彼らを女地獄につきおとし、復讐の志を|消磨《しょうま》させること、第四に……」
兵部はしばらく声をのんだ。
「|万《ばん》|々《ばん》、左様なことはないと思うが……あれたちも女、もし――」
と、つぶやいたひくい声が、急に秋の霜のようにきびしい調子に変わった。
「もし、あの女どものうち、重代の御恩を忘れ、相手の浪士とまことの恋におちて、上杉家を裏切るおそれある奴が出たならば……その女を討ち果たすこと」
「いずれの|条々《じょうじょう》も、面白うござる」
と、綱太郎はいった。半年の|空《くう》|漠《ばく》ののち、彼はようやくこの世に生きる甲斐ある仕事を見つけ出したような血の躍動をおぼえていた。
「では、わしの用をきいてくれるか」
兵部は、闇の中に、綱太郎を見すえたようであった。
「よいか、われらは天下の|敵役《かたきやく》であるぞ。もし赤穂の浪人どもに忠魂義胆があるならば、こちらは彼らの忠心を溶かし、おしつぶす役回りとなる。まず外道のわざじゃな。それを承知で、わしはおまえにたのむのだ。無明、きいてくれるか」
綱太郎はこたえた。
「それが一番面白うござる。……忠、ときくと、拙者、吐き気をおぼえます」
ふたりはあるき出した。|母《おも》|屋《や》にちかづいてゆくと、|跫《あし》|音《おと》をきいて織江は顔をあげた。清純な眼があかるくかがやいて、
「さっきまで、たしかここにおいでのように思いましたのに、どこにいらしたのかとふしぎでございました。御密談と思い、わざと灯も御遠慮いたしておりましたが」
「織江」
と、兵部はいったが、さっきの綱太郎のからだの手ざわりを思い出すと、娘のういういしい顔もまともに見ることもできないような思いで、面をそむけてさりげなくいった。
「実は、腰元のうち、お琴、お弓、お桐、お|梁《りょう》、お杉、|鞆《とも》|絵《え》を京にやる。さる公卿のもとへつかわして、是非とも習わせたい行儀があるのだ」
無明綱太郎は無遠慮に、げらげらと笑った。その笑い声をおしつぶすように兵部はいった。
「さりながら、この|羽《う》|前《ぜん》から京まで、六人のおんな旅、その宰領として、この無明にいってもらうぞ」
織江の見ひらいた大きな眼に、|翳《かげ》りがかかった。
|蜘蛛《くも》の糸巻
【一】
黄葉した林の上を、もず[#「もず」に傍点]がするどい声で飛んでいった。
曾て|伏《ふし》|見《み》城がそびえていたころは、このあたりまで城下町として繁華をきわめたものであったが、さすがに京街道の筋には、ぽつぽつと町家がみえるとはいうものの、それ以外は、いまは一面の畠地でなければ、ただ|蓬《ほう》|々《ほう》たる草と森ばかりであった。
その林のなかで、ふたりの武士が話している。さっき、|山《やま》|科《しな》の方から|駕籠《か ご》でやってきた武士と、大坂の方からあるいてきた浪人風の侍が、地蔵堂の前でゆきあって、これは思いがけない|邂《かい》|逅《こう》であったらしく、しばらくそれらしい|挨《あい》|拶《さつ》をかわしていたが、駕籠の武士が、往来を通る旅人を気にして、浪人を林の奥へみちびいていったのである。駕籠は地蔵堂の横におかれて、駕籠かきは棒によりかかって、あくびをしていた。
「すりゃ、どうあっても拙者を仲間に入れぬと仰せられるか」
と、浪人は眼をひからせていった。浪人風、といったが、まさにそれを絵にかいたように見るかげもない|風《ふう》|体《てい》の男であった。六尺ちかい|大兵《だいひょう》で、ひげだらけで、背に|漆《うるし》のはげた|古鎧櫃《ふるよろいびつ》を背負い、これまたはげちょろけの朱槍をついていた。
「入れるも入れぬもないわ。いま申すとおり、おまえの考えているような仲間などはないのだ」
と、相手は切り株に腰をおろしたまま、そっぽをむいた。年は四十四、五であろうか、厳格な顔つきの、身分ありげな武士であった。
「だいいち、山科へいったところで、|太夫《たゆう》はお留守じゃ。たったいま、わしが訪ねたところ、昨日の夕方から伏見の|撞木町《しゅもくちょう》へ出かけたそうな。あの|仁《じん》が、撞木町やら島原|祇《ぎ》|園《おん》へ浮かれ出たら、二日や三日でかえってくることでない。わしも、これからその撞木町へゆこうと思っておるところで、|不《ふ》|破《わ》、おまえもつれていってやりたいが」
と、|貧《ひん》|窶《る》をきわめた相手の姿をみて、苦笑した。
「その風体では、まさかつれてはゆけぬな。衣服はともかく、鎧櫃と槍はちとこまる」
「撞木町などへゆきとうはござらぬ!」
と、|不《ふ》|破《わ》という浪人はわめいたが、ふいに声をひそめて、
「|将監《しょうげん》さま、|数《かず》|右衛《え》|門《もん》をそれほどうつけ者にいたされな。あなたさまが撞木町へいって女遊びをなされると? いや、こりゃおかしい、|赤穂《あこう》におられたころは、太夫の|昼《ひる》|行《あん》|灯《どん》、奥野将監どのの|鉄《かな》|火《ひ》|鉢《ばち》とならび称されたあなたさまが、浪々の身となられてから急に|廓《くるわ》あそびをなさるとは、こりゃおかしい。――またもし、それがご本心ならば」
不破数右衛門は、とんと朱槍の石突きをついた。
「拙者、吉良の|皺《しわ》|首《くび》をもらいうけるまえに、この槍の穂先にあなたの首をかけねばならぬ。むろん、これより伏見へかけつけて、太夫の首も頂戴する」
その眼にもえあがった炎をみて、
「あ、待て」
と、思わず奥野将監は、手をあげた。
赤穂藩で、千五百石の大石につぎ、次席家老ともいうべき千石取りの奥野将監であったが、いまそこの街道でゆきあった浪人の不破数右衛門が、火の玉みたいな熱血児で、事と次第では、上役など意にも介さぬ短気者であることを知っていた。そもそも、浅野家で馬回り二百石を|頂戴《ちょうだい》していた数右衛門が、数年前に|禄《ろく》を失ったのも、彼の短気と主君の短気が衝突したのが原因である。
その数右衛門が、これから大石の閑居へ、仇討ちの一味に加えてもらいたいと談判にゆこうとしているのとゆきあったのだ。そして、将監がいかにそれを否定しても、彼は腕を|撫《ぶ》してきかないのであった。はるかに高禄を受けながら、主家滅亡とともにいずこへともなく退散した侍の多いなかに、喧嘩した主君を忘れずかけつけてきたとは、いかにもこの男らしい。
「そうまで申すなら、やむを得ぬ」
将監は嘆息してうなずいた。
「不破、わしはこれから撞木町へゆくつもりであった。しかし、それは太夫のお心をただすためであったよ」
「太夫をただす?」
「左様」
将監は、声をひそめた。声がひくくなったので安心したか、その肩に黒い秋の|蝶《ちょう》が一匹、ついと止まって、かすかに羽根をふるわせている。将監はそれにも気づかぬ風で、
「|復讐《ふくしゅう》のこと、それはまことじゃ。血盟の連判状もたしかに交わしておる。しかるに太夫は、このごろまるで正気を失われたような|廓通《くるわがよ》い、われらが心安からぬ眼でみれば、一笑して、あれはあれ、これはこれ、忘れはせぬぞと仰せられるが、吉良のうごき、同志のうごき、一々御報告いたそうと思っても、とんとご隠居所におられぬことが多く、さがしてみればたいてい遊女の中で泥のような酔態ぶりだ。同志の中では、そろそろ太夫のお心をうたがう奴すら出はじめて、いっそこの将監を|頭《かしら》に事をあげようと申す奴さえある。そこで、きょうこそは、太夫の真のご|性根《しょうね》を見とどけんと、これから伏見へいそぐところであったわ」
その肩の蝶は、依然として秋風に、ビビビビと黒い羽根をふるわせている。――その蝶の脚から、黒い髪の毛がひとすじ、将監の背におちて、その髪の毛が草むらを|這《は》い、十間以上もはなれた地蔵堂の中へ消えていることを、誰が知っていたろう。
地蔵堂のすぐまえで休んでいる駕籠かきすらも知らぬ。その石地蔵のうしろに、じっと片ひざついているひとりの六部があった。彼は一個の|栄螺《さざえ》を耳にあてていた。堂の板壁の割れ目から這いこんだ黒髪は、その栄螺につながっていた。
「ふむ、将監めは、やはりそうであったか」
と、六部はうなずいた。――ふつうなら絶対にきこえぬ距離で、彼は林の中の対話をはっきりときいているのだ。それは、黒い蝶の羽根がつたえる音波を、黒髪の震動がつたえて、|貝《かい》|殻《がら》がふたたび声として再現するのであった。
【二】
「――よし」
と、六部はうなずくと、ふところから懐紙の束をとり出した。懐紙ではあるが、それはなぜか真っ黒に染められていた。
それをビリビリとひきちぎって、空中になげあげる。――と、たちまちそれは、黒い蝶となった。してみれば、さっき奥野将監の肩にとまっていたのも、この紙の|変《へん》|化《げ》に相違ない。みるみる数十匹となった蝶は、ひらひらと舞い下りて、彼の六部笠や肩にとまる。
それから彼は、腰の|戒《かい》|刀《とう》をひきぬいて、地蔵堂の板をくるりと人型に切った。板も腐っていたにはちがいないが、それにしても恐ろしい切れ味だ。おのれのかぶっている笠のかたちまで、それは音もなくすっぽりと穴をあけた。彼はそこから堂の裏手へ、するりとぬけ出した。
六部は、秋草のなかを、林へむかってあるいてゆく。その笠にとまった無数の黒い蝶は、まるで黒い|陽炎《かげろう》がゆらめいているようにみえた。
「や、何者かが参る」
いちはやく奥野将監が遠くからこれをみて、立ちあがった。
「不破、存じよりの者か」
「いや」
ふしんげに見まもるふたりの彼方、二十歩ばかりの位置で、六部はたちどまった。
「浅野浪人」
しゃがれた声がながれてきた。ふたりははっとしていた。
「話はきいた。公儀のお裁きに|叛《そむ》き、上野介さまのおん首を狙うとは大それた奴ら、連判の|曲《くせ》|者《もの》どもの名もほぼわかっておるが、将監、うぬはその|頭分《かしらぶん》の一人じゃな。またそこな不破なにがしとやら、|面《つら》をみてもひとあばれしそうな奴、のちの|憂《うれ》いを断つために両人ともにここで成敗してくれる」
みなまできかず不破数右衛門の槍先から|雲母《きらら》のようにひかる秋の雲へ、びゅっと|鞘《さや》がとんでいた。
「さては|吉《き》|良《ら》の|刺《し》|客《かく》よな」
さけんで、これまた抜刀する奥野将監のまえを、はやくも不破数右衛門は六部めがけて殺到していた。
その眼前に、ぱっと黒い煙がひろがったようにみえたのだ。それは六部の笠や肩から舞いあがった数十匹の蝶であった。蝶は雲のようにながれてきた。
「やっ?」
さすがの数右衛門もこの奇怪な蝶の雲に、|愕《がく》|然《ぜん》として立ちどまり、次に稲妻のごとく槍をひらめかしてたたき伏せようとしたが、槍をもたせては赤穂藩で高田郡兵衛につぐ者といわれた数右衛門も、蝶が相手ではなすすべもなく、はっと息をのんだとたん、黒い煙はその顔を吹いてすぎた。
一、二分、彼は棒立ちになっていたが、ふいに槍をぐさと大地につきたてて、身をもたせようとしたが、それもおよばず、片手で顔を覆うと、その巨体は地ひびきたてて草の中にころがった。蝶の羽根から舞いおちた|鱗《りん》|粉《ぷん》が鼻口を吹いた|刹《せつ》|那《な》、彼はくらくらと|目《め》|眩《まい》がして神気がうすれたのである。それと見て、将監は、かけよるいとまも、逃げるいとまもなかった。このとき彼自身の満面も、この黒蝶に覆われていたからだ。
奥野将監がたおれるのを見すますと、六部は戒刀をひっさげたまま、草の中をちかづいてきた。見おろして、鼻で笑う。
「これで仇討ちとは、いやはや片腹いたい」
戒刀をとりなおしたのは、とどめを刺そうとしたのである。そのとき、何処やらで、女の声がした。
「|瓜連兵三郎《うりつらひょうざぶろう》。――」
六部は、はっと顔をふりあげた。どこにも、呼んだ|主《ぬし》の姿はない。
「ならぬ、殺してはならぬ。殺せば、吉良家と上杉家がかえって危ない。――」
六部は上を見あげた。実に数十尺の高い|樹《き》の枝に、ひとりの武士と美しい女が腰をかけて、足をぶらぶらさせて見おろしていた。
「能登のお琴。――」
と瓜連兵三郎はさけんだ。
「米沢から出てきたか」
「千坂さまのお申しつけで。――いまいったことは、|兵部《ひょうぶ》さまのお考えじゃ。なぜかというと――」
兵三郎は肩をゆすった。
「きかずともよい。浅野浪人を殺せば、吉良上杉のしわざじゃと世人から疑われるというのであろう。ふん、千坂どのらしい案じ過ぎじゃ、世間はすべて、浅野が狙い、上野介さまは、狙われておりなされると知っておる。疑われるのは覚悟の前じゃ。疑われることを恐れるよりも、討たれることを恐れる。狙われておることを知りつつ討たれるのは、いや討たせるのは、上杉の恥、世間の眼のまえで、片っぱしから浅野浪人を返り討ちしてゆくこそ謙信さま以来の上杉の|誉《ほま》れ。――やい」
と、彼はののしった。
「うぬも能登の忍者、かかる日のためにこそ、われらは越後上杉以来養われてきたものと思わぬか。これ、その男は能登者ではないらしいが、いったい何者だ」
「……そこまで覚悟の上は、もはやとめてもとまらぬな」
と、樹上の男はお琴にいった。
「お琴、おなじ能登の忍法者を伊賀の手並みにかけるがよいか?」
瓜連兵三郎は、一足とびに二間ばかりとびすさっていた。彼は奥野将監にとどめを刺すことを忘れた。まさにおなじ能登の忍者お琴のそばに見知らぬ男がなれなれしく坐り、人をくったような言葉を吐くのをきくと、忍法者にあるまじくかっとしたのである。
その手がふところに入ると、彼は黒い懐紙をとり出した。ひきちぎった。空にはなした。眠り薬をぬった紙は、毒粉をとばす蝶と変じて舞いあがった。蝶の数は、実に百匹をこえてみえた。
その黒い蝶の大群が樹上に達するまえに、それは中空にとまったのである。うごかなくなったのでもない。落ちてきたのでもない。それは|虚《こ》|空《くう》に|傘《かさ》のようにひろがった白い網にさえぎられて、それに粘着して、ばたばたともがきぬいているのであった。
白い網は|漏斗状《ろうとじょう》に、樹上の無明綱太郎の口に吸いこまれていた。いや、それは彼の口から、はじめ|唾《だ》|液《えき》の糸として吐き出され、まるで巨大な花のひらくようにぱあっと網となって空中にひろがり|漂《ただよ》ったのである。そして、その唾液の網は、ことごとく蝶をとらえたまま舞いさがって、|愕《がく》|然《ぜん》たる瓜連兵三郎に|覆《おお》いかぶさった。
あおのいて、戒刀をふるったが、それは斬れなかった。網は絹糸よりもほそく、きらきらと秋の日にひかりつつ、|凄《すさま》じい|粘着力《ねんちゃくりょく》をもっていた。忍者瓜連兵三郎は、満身からみつかれて、蝶のようにもがいた。のけぞったそののどぶえを、空中からまっすぐにとび来たった手裏剣がつらぬいた。
数十尺の樹上から、ふたりのからだを|蓑《みの》|虫《むし》みたいに|吊《つる》して、すうっと二すじの白い糸が下がってきた。
「無明さま」
お琴のきれながの|妖《よう》|艶《えん》な眼はひろがっていた。
「恐れ入ってございます。これは何という忍法でございますか」
「|蜘蛛《く も》の糸巻」
綱太郎はいいすてて、絶命している瓜連兵三郎を見下ろした。
「しかし、大器量人といわれる千坂どののご深謀、わかるようでもあるが、|所《しょ》|詮《せん》味方の忍者を|斃《たお》して敵を護らねばならぬとは、妙な話だな」
|憮《ぶ》|然《ぜん》としてあごをなでたが、すぐにお琴に眼をうつし、
「六部の|骸《むくろ》はおれが片づけておく。こやつらの始末は、おぬしの持ち分だぞ」
「心得てございます」
「正直なところ、おれには敵も味方もない。ただ兵部どのの仰せにしたがうまでだ。もしその仰せにたがうようなことがあれば、お琴、おぬしとてこの瓜連のあとを追わねばならぬこと、よく覚悟しておれよ」
お琴は身ぶるいした。その言葉より、いまみた忍法「蜘蛛の糸巻」より、この江戸からきた伊賀者の眼――女に対して氷のような眼に身ぶるいしたのだ。同時に、いかなる女の誘惑にも無反応なこの男に、ふしぎに切ない思いがこみあげて、じぶんがうごいているのは千坂兵部の命令ではなくて、この無情な男のためだという気がするのであった。
無明綱太郎はもう背を見せて、瓜連兵三郎よりも奥野将監のそばに歩みよっていた。かがみこんだとみると、将監のふところから何やらぬき出して、ひろげているのである。
「大事の連判状、いつも持ちあるいているとみえる。はて、あちこちに棒がひいてあるぞ。これは脱盟者か」
と、つぶやいた。
「残り、五十八人」
【三】
「あの、もし……」
ふいにうしろからきこえてきた細い声に、あくびしていたふたりの駕籠かきはとびあがった。
「助けて下さいまし。……」
その声が地蔵堂の中からきこえてくるのに気がついて、駕籠かきは顔を見あわせ、地蔵堂のなかにかけこんでいった。
「あっ、これは!」
と、ふたりは眼をむいて立ちすくんだ。そこに美しい女がひとり|縛《しば》られて、たおれていたのである。
「ど、どうしたんだ。こんなところに」
「さっきからおれたちはこのまえに休んでたのに、ちっとも気がつかなんだ。いつからここにいるんだ」
女は恐ろしそうに板壁の方に眼をやった。
「それより……それより、あの六部はそこらあたりにいるのではありませんか。はやく、はやく、この縄をきってにがして下さいまし」
「あの六部?」
むろん、女をこんな目にあわせた男がいるのだ、そのことに気づくと同時に、ふたりの駕籠かきは、そこの板壁にぽっかりとあいたぶきみな|人《ひと》|型《がた》の穴に、ぎょっとした。――逃げなかったのは、じぶんたちの乗せてきた武士と、その知人らしい浪人者が、すぐちかくにいるはずだ、という|後楯《うしろだて》のある意識をとりもどしたからであった。
「そういえば、あのお|侍《さむらい》たちはどうなすったんだ」
「話にしても、ちと長いがの」
ふたりは、おそるおそるその人型の穴から裏の草原をのぞいてみて、
「あっ、あんなところに槍が一本つっ立ったままだ!」
「ほかに人影もねえが、どうしたんだろ?」
と、さけんで、人型の穴からとび出して、夢中でかけていった。
つき立てられた槍の下に、|鬚《ひげ》の浪人は|鎧櫃《よろいびつ》を背負ったまま倒れていた。駕籠かきは、それよりもじぶんたちの乗せてきた奥野将監の方へはせよった。
けたたましく呼びたてられて、将監は意識づいた。放心したようにまわりを見まわす。吐き気がして、頭がわれるように痛かった。
「お武家さま、どうなすったんで?」
「……おれにもわからぬ」
「あそこに、あのご浪人もたおれていなさるが、果たし合いでもなすったんで?」
「……いや」
不得要領にこたえて立ちあがった将監は、まわりに散乱している無数の黒い紙片を見まわした。
「や?」
と眼を見張って二、三歩あるき、そのひとつをひろいあげようと身をかがませたとき、将監は愕然としていた。ふところにいれておいた連判状のないのに気がついたのである。
そのとき、駕籠かきがいった。
「あの地蔵堂の中にも、若い女がひとりたおれていますぜ」
「六部とかに縛られてつれこまれたとか――」
将監はまた棒をのんだように立ちどまり、水をあびたような顔色で周囲を見まわした。
「六部」
遠く、むかし伏見の城の|外《そと》|濠《ぼり》の石垣、また大黒寺という寺の|崩《くず》れた土塀がひかっている。
そこも、黄葉した林も草原も、ただ秋風がうごいているばかりで、六部はむろん、人影ひとつみえぬ山科の里であった。
|将監《しょうげん》崩れ
【一】
「六部?」
そのとき、うしろでうめく声がした。ふりかえると、草の中から、槍を|杖《つえ》によろよろと不破数右衛門が立ちあがろうとしている。
「六部はどこへいった? ううぬ、|妖《あや》しき蝶など使いおって、奇怪な奴。――」
血走った眼で周囲を見まわし、将監たちをながめて、
「将監さま、さっきの六部はどこへ消えたのでござる」
「知らぬ」
と、奥野将監は|蒼《あお》ざめて、くびをふった。
「ただ、そこの地蔵堂に、いまの六部にさらわれたという女がひとりおるそうな」
「えっ、女が?」
数右衛門はよろめきながら、走ってきた。彼らは、地蔵堂にちかづいた。その裏の板壁にくりぬかれた六部の姿そっくりの穴に、くびをかしげつつ、のぞきこんだ。
いかにも若い女が縛られて、ころがされている。その穴からおちる|黄金《き ん》色の秋の斜陽が、むき出しになった象牙のようなふとももに踊っていた。女がもがいていたが、たんにじぶんがもがいただけのせいではないとみえる不自然な|裾《すそ》のひらきようであった。
「駕籠屋、おまえたちは|往《おう》|来《らい》で待っておれ」
と、将監はいった。女に|糺《ただ》さねばならぬことを、駕籠屋にきかれたくなかったのだ。できれば不破をも遠ざけたいくらいであったが、その血相をみると、将監はあきらめて、穴から堂の中に入った。数右衛門もつづいて穴をくぐる。
さて、あらためてその女にきくと、意外にも、女は六部とはまったく無縁の人間であった。大津の町家の娘で、大坂へ旅をしている途中、このちかくの奈良街道でふいにひとりの六部に襲われて、気がついたら、この地蔵堂の中に横たえられていたという。そして、ここに別の六部がまたひとりあらわれて、「いま、将監が駕籠でやってくるぞ。――」といって、ふたりがにやりと笑うと、そのつぎに。――
そこまでいって、娘はじぶんの裾に眼をやって、顔を火のようにした。
「なに、ふたりの六部?」
と、数右衛門はさけんだ。
「将監さま、われわれのまえに現われたのは、ひとりでござったな」
将監は腕組みをしたまま、石のように硬直した表情で女を見下ろしていたが、やがてつぶやいた。
「それより、きゃつら、何のためにあのようなことをしたのか?」
「知れたことでござる。きゃつ、吉良の刺客ではござらぬか」
「それならば、なぜわしたちを殺さずに去ったのか」
将監にはひとつわかっていることがある。同志の連判状を奪うこと、それがあの六部の目的であったにちがいない。しかし、きゃつはたしかに「後の憂いを断つために、両人ともにここで成敗してくれる」といった。それなのに、気を失った自分と不破をそのままにして、どうして消えてしまったのか。……何事かが、じぶんたちの失神中に起こったのだ。
わからないことは、ほかに幾つもあった。六部の飛ばせた奇怪な蝶はその最大のものだが、それ以外にも、なぜこの女をさらってきたのか。もとより、世にも美しい娘だからであろうが、ちかいとはいっても、わざわざ奈良街道から森を越え林を越えてここまで運んできたのは何のためか。
「娘。……身を汚されたな」
娘は唇をかみしめ、身もだえした。
「将監の駕籠がやってくるぞ。――と、ひとりの六部が知らせたあとで犯されたのか」
娘は涙をうかべて、うなずいた。
「さて、それがわからぬ。それに何か意味があるのか」
将監は泣きじゃくる女の感情を無視して、問いつめた。
わかったことは、いよいよ奇怪であった。あとできた六部が、「これが忍びの|精《せい》を持つ女か」ときくと、女をさらってきた六部が、「見ろ、左の耳たぶにほくろがあろう。東海道を上ってくるあいだ、何百人かの女をみたが、左の耳たぶにほくろのある女はひとりもなかったに、ようやくいまこれを見つけたのは、天の配剤。――」とうなずいて、それからふたりで|凌辱《りょうじょく》したというのであった。
将監と数右衛門の眼は、女の左の耳たぶに吸いつけられた。
「なるほど、ほくろがある」
「しかし、何が天の配剤で」
「不破」
と、将監は腕ぐみをといた。
「六部は忍者であったな」
「忍者」
「あの奇怪な黒蝶が忍法でなくて何であろう。……その忍者がだ、思うに、左の耳たぶにほくろのある女を犯さねば、その術をふるうことができないのだ。いかなるゆえか、それは知らぬ」
不破数右衛門は、|茫《ぼう》とした表情であった。
「まことに信ぜられぬような話だが、信ぜられぬといえば、あの蝶も、もしわしらが眼前にまざまざと見なんだら、信ぜられなんだであろう。わしのこの判断にまちがいはないと思われる」
「――将監さま、それでこれから|如何《いかが》なさる」
「伏見には参るまい」
と、奥野将監は、ささやくような声でいった。
「ここを通るわしさえ待ちうけていた奴ら、|撞木町《しゅもくちょう》の|太夫《たゆう》を知らぬはずはあるまいが、さればとて、このまま敵を案内して伏見にゆくわけにもゆくまい。わしは京にかえる。――この女をつれて」
「この女をつれて?」
「不破、六部どもは、東海道何百人かの女に|逢《あ》ったが、耳にほくろのある女はこの女ひとりであったといったそうな。この女はきゃつらにとって、おいそれとかけがえのない女なのじゃ。これをつれかえれば、きゃつら、必ずまたわしのところへやってくる。少なくとも、このまま手放そうとは思われぬ。実に、同志にとって恐るべき忍者、そうと知ったからには、どうあってもわれらのもとへひきよせ、討ち果たさねばならぬ」
「しかし、太夫にこのことをお告げいたさねば、太夫もお危ないのではござらぬか」
「……敵がいのちを欲しがるほど、まっとうな太夫であればよいが」
と、奥野将監は吐き出すようにいった。それから鋭い眼で数右衛門を見つめた。
「不破、そちを同志に加えるかどうか、そちが先刻の刺客の首を同志への|引《ひき》|出《で》|物《もの》とできるかどうかによって決めるとしよう」
まさに、将監のいうとおりであった。あの恐るべき敵は、一刻もはやくこちらの手で始末せねば、容易ならぬ大事となる。さなきだに、生まれてこのかたあれほど|惨《みじ》めな敗北を|喫《きっ》したことがなく、逆上気味の熱血児不破数右衛門は、|朱《あか》|柄《え》の長槍を床もつらぬくばかりにたたきつけてうめいた。
「何、きゃつを討てば同志におむかえ下さるか。ありがたき|倖《しあわ》せ。……ううむ、こんどこそは|何条以《なんじょうもっ》て」
しかし、将監には、それ以上にやむにやまれぬ理由があったのだ。奪われた連判状をとりかえすこと、それである。いまはむしろ同志のあいだに|内蔵《くらの》|助《すけ》よりも重しと目されているじぶんが、相手もあろうに吉良方の刺客にやすやすと連判状を奪われたとあっては、みなに顔をむけられぬことであった。いや、このことを知られてもならぬことであった。
将監は、はじめていった。
「数右衛門、この女の縄をきってやって、駕籠を呼べ」
【二】
奥野将監の浪宅は、京の東山の|山《さん》|麓《ろく》妙法院の近くにあった。浪宅とはいうものの、曾ては千石取りの身分である。構えも庭も手びろく、若党も四、五人置いていたが、女ッ気はなかった。一挙の計がなるや、すぐに妻を離別して決意をかたくしたからである。しかし、床の間には|鎧《よろい》を飾り、|厩《うまや》には馬もおき、まるでまだ主持ちの武士のように武張って、家全体に|柔《やわ》らかさのかけらもない雰囲気は、女ッ気がないばかりではなく、厳格な主人の性格の反映であった。|山《やま》|科《しな》にある大石の閑居など、どこを見まわしても、武具らしい武具もなく、庭に花は咲き、壁にはぞろりと遊女の衣裳がかかって、|脂《し》|粉《ふん》の香をただよわしているのである。
その奥座敷の一つに、お琴という娘はおしこめられた。わざわざ座敷牢までつくった上に、日夜屋敷の内外を若党たちが|徘《はい》|徊《かい》し、格子の外には数右衛門が槍をひからせたまま立ち、坐り、|仮《か》|眠《みん》しているという警戒ぶりである。もっとも、敵の忍者がやってくるのを恐れているのではなく、それを待ち受けているのであった。
三日たち、四日たち、五日たった。或る夜、数右衛門は、ただならぬ物音にがばと仮眠の夢からさめて、若党たちが座敷牢の|錠《じょう》をあけようとしているのを発見した。
「何をする」
彼は、|呆《あき》れて、眼をこすった。すると、ひとりがひざまずいて、手をあわせた。
「旦那、一番にゆずります」
「何を」
「この女を、ままにさせて下せえ」
若党たちは眼をひからせて、舌を吐いて、みな|獣《けもの》のような顔をしていた。
「たわけ」
と、数右衛門が|叱《しっ》|咤《た》すると、おどろいたことに彼らは「やれ」とわめいて、いっせいに脇差をぬきつれ、殺到してきたのである。まったく狂犬としか思われぬ所業であった。数右衛門は、手を横にまわして、愕然とした。そこに立てかけてあった槍がないのだ。見ると、若党のひとりがそれをかまえて、じりじりと迫ってくる。あらかじめ、こんな場合にそなえて、盗みとっていたものにちがいない。
「不覚」
牢格子を背に数右衛門が歯がみをしたとき、うしろから、
「不破さま、これを」
と、お琴がかけよってきた。格子越しに|笄《こうがい》をわたした。それを受けとるのと、斬りこんできたひとりの刀身をかわすのが同時であった。数右衛門の手から笄がとんで、槍をもった若党の眼につき刺さった。悲鳴をあげてのけぞるそばへはせよって、朱槍をひったくる。
「うぬら、気でも狂ったか」
槍をとれば、若党ごとき虫けらにひとしい不破数右衛門である。すぐ前の二人を横なぐりにすると、骨の折れるひびきとともに二人とも地に這い、にげようとしたあとひとりの背から胸へ、槍の穂は白じらとつきぬけた。
物音をきいて、奥野将監が走り出てきた。思いがけぬ|修《しゅ》|羅《ら》|場《ば》にかっと眼をむいて、
「数右衛門、これはどうしたことじゃ」
「どうしたことか、拙者にもわかりませぬ」
と、数右衛門は説明して、「こやつら、ふいに|魔《ま》|魅《み》に|魅《み》|入《い》られ、狂気したものとしか思われませぬ」と大息をついてから、座敷牢の中のお琴をみて、
「将監さま。……この女を放ちやっては|如何《いかが》でござろう」
と、いった。
「なぜ?」
数右衛門はだまった。奥野将監はうめくようにいった。
「不破、やはり、敵が来たのじゃ。こやつら、京に来て新規に召し抱えたものどもでない。浅野家以来使ってきた奴らだ。それがこのようなふるまいに出たとは、敵に買われたに相違ない。よほど敵はこの女を欲しがっておるぞ。あくまで、ここから出してはならぬ」
そういう考え方もあるが、数右衛門はほかのことを考えていた。彼として、口には出せぬことだ。この若党たちは、敵の忍者とは関係なく、この女にさかりのついた|悍《かん》|馬《ば》のごとく色情を|煽《あお》られただけではないか? それは、この数日、数右衛門自身がそくそくとして身に感じていたことであった。
はじめ、可哀そうな女だと思っていた。耳にほくろがあるばかりに、|天《てん》|魔《ま》に魅入られたとしか思われない。そのために敵に犯され、こんどはその敵をひきよせる|囮《おとり》として、ここに監禁されるとは、何たる不運な娘――そう考えていたのだ。
だから数右衛門は、牢番をしながらも、しばしば、「お琴とやら、ふびんだが、しばらくゆるせ」とわびたり、彼女の用を何かと足してやったこともある。毎日、泣きくらしていた女も、数右衛門の武骨な親切はわかったとみえて、いまの危急に|笄《こうがい》をわたしたのも、たしかに彼を信頼する気になっていたからであろう。しかし、数右衛門は、同情とはべつに、この娘に吸引されるような肉欲をおぼえていた。あの地蔵堂での|姿《し》|態《たい》が|眼《がん》|華《か》のようにちらつく。「これが忍びの精をもつ女か」といったという敵の忍者の奇怪な言葉が耳に鳴る。「忍びの精」とは何だ? それが耳にあるほくろと何か縁があるのか? そう考えているうちに、あたまはもやもやと、なまめかしい|朱鷺《と き》いろの|靄《もや》につつまれてくるのだ。
女色など、ばかな! |故《こ》|殿《との》の恨みをはらす日までは、一切余念を断ったはずのおれが、何たるたわけた妄想を――そう切歯しながらも、豪快なこの男が、ふと何もかもふりすてて、この女をつれ出し、思うままになぐさんで|逐《ちく》|電《てん》したいという途方もない誘惑にとり|憑《つ》かれるのだ。
この女を逃がせ。――数右衛門がそう将監にすすめたのは、同情ではなく、本能的に心の危険をおぼえたからであった。しかし、将監に反対されては、将監によって浪人の身で|血《けつ》|盟《めい》に加わることの許しをねがっている数右衛門としては、それ以上如何ともしがたいことであった。
【三】
思いはおなじ奥野将監だ。
連判状をとりかえすため、また連判状を奪い去った|曲《くせ》|者《もの》を、何としてでも討ち果たすため――という目的で|囮《おとり》にしたつもりの女であったが、その女に、赤穂で大石の「昼行灯」、奥野の「|鉄《かな》|火《ひ》|鉢《ばち》」といわれたかたい人間が、一日にいくどか、座敷牢の前にいって、「数右衛門、あやしい気配はないか」ときくのもうわの空に、女の顔と姿をみるのが、何ともいえぬ快味となった。
これまたあの地蔵堂での姿態のみか、あの六部に犯されたという想像図までが、いまになって毒の花のように|瞼《まぶた》にうかぶ。ひょっとしたら、あの地蔵堂ですでにこの女の|蠱《こ》|惑《わく》の網にかかっていたのかもしれないが、むろん彼はそのことを意識しない。
「忍びの精とは何か?」
しだいに、連判状のことより、曲者のことより、そのことばかりうつらうつらと思いつめる。
「あの忍者はこの女を犯すことによって、はじめて術をふるう力を得るものとわしはにらんだが、それはまことか?」
はては、あの女を犯す、女を犯す、犯す、という言葉のみが、脳に|膠着《こうちゃく》してはなれぬようになった。そして将監はみずからをあやしみ、みずからをおそれた。
七日目の午後、将監は数右衛門を呼んだ。
「不破、さるところへ書状をとどけてもらいたい」
「どこへ?」
「|烏丸《からすま》|今《いま》|出《で》|川《がわ》に住む|進《しん》|藤《どう》|源《げん》|四《し》|郎《ろう》のもとへじゃ」
「おゝ、進藤どの」
進藤源四郎は、元四百石を|食《は》み、やはり同志のひとりである。大石の縁戚にあたるのだが、このごろ内蔵助の|遊《ゆう》|蕩《とう》をもっとも指弾してやまない人物であった。将監にとっては腹心ともいうべき武士で、将監は悩みのあまり彼にのみすべてをうちあけ、おのれの失敗と処置とを、彼に相談しようと決心したのであった。
先夜の思わぬ争闘で、若党のほとんどが落命し、またおいそれと新規に|素性《すじょう》のしれぬ者をやとい入れることのできない大望をもつ将監の家であった。数右衛門は将監の書状をうけとって、烏丸今出川に出かけた。
|煩《はん》|悶《もん》の末、将監が座敷牢へ吸いよせられたのは、夜に入ってからであった。
「お琴、人がいぬゆえ、わしが|灯《あかし》をもってきてやったぞ」
彼は牢の中に入って|行《あん》|灯《どん》をおいたが、それっきり外へ出ようとはしないで、|恍《こう》|惚《こつ》としてお琴に見とれた。
隅にいざりよって、おびえた眼でこちらをながめている娘の、なんという可愛らしさであろう。黒髪はみだれても鏡はなく、きものは裂けても針はなく、あの地蔵堂のときのままの姿だ。みているうちに、一層この娘をひどくいためつけてやりたいような、|妖《あや》しい美しさが、解けた髪や帯とともに、全身になよなよとからみついている。
「六部はこぬな」
と、将監はかすれた声でいった。
「おまえを犯しにやってくると思っておったが」
ほとんど、じぶんで何をいっているのかわからなかった。将監の眼はぎらぎらとかがやき、かわいた唇を舌でなめ、先夜襲ってきた若党たちとそっくりの表情になっていた。
「おまえを犯すと、ふしぎな力がつくと申すか?」
将監は、酔ったように|這《は》いよって、逃げ場所のない娘のおののく細い肩をつかんだ。
「わ、わしにも力をつけてくれ。忠をつらぬく力をつけてくれ、のう、お琴。……」
そして、曾て赤穂で次席家老といわれた奥野将監は、妻にすらみせたことのない、あさましい姿をむき出しにして、兇暴に娘をねじり伏せ、犯しはじめた。
将監はおのれのからだから何かが放出すると同時に、かえって何やらが|蜜《みつ》のようにながれこんでくるのをおぼえた。……やがて将監は、身をはなした。彼の男根は五分たっても、十分たっても|屹《きつ》|立《りつ》したままであった。ながれこんだ蜜のようなものは、そのまま熱い|蝋《ろう》のようにかたまって、そのかたちを崩さなかった。しかも、それから、たとえようもない甘美濃厚きわまる|痺《しび》れが、全身に脈うってくるのだ。
行灯にけぶって、これまたあさましい半裸の姿で横たわって乳房を起伏させている娘をみると、将監はまたとびかかった。
いくたびも、しずのおだまきのごとくくりかえしても、果てしがなかった。欲望は無限にもえあがり、将監は愛欲の機械となっていた。
江戸にある内匠頭の未亡人|瑶《よう》|泉《ぜい》|院《いん》が「大石がいかにあろうとも、将監さえついておれば|仔《し》|細《さい》はない」というまで信ぜられていた奥野将監は、このときから、同志神崎与五郎に、「将監はじめは義を|逞《たくま》しくし、祖の武功を|貴《とうと》ぶ。しかもその鉄心たちまち|鎔《とろ》け、しかしてむなしく不義泥水に入る者|也《なり》」と|筆誅《ひつちゅう》を加えられた不義士、いや|色《いろ》|餓《が》|鬼《き》に変じたのである。
浮舟の|駕《か》|籠《ご》
【一】
|烏丸《からすま》|今《いま》|出《で》|川《がわ》に住む進藤源四郎を訪ねたが、源四郎は大坂へいったとかで留守であった。今夜ごろおかえりのはずだと下男がいうので不破数右衛門は、奥野将監の書状をもって、待っていた。もはや同志のつもりの数右衛門は、将監の書状の内容は知らないが、めったな者にそれを託せないと判断したのである。が、夜になっても源四郎がかえってこないので、数右衛門はやむなく書状をいだいて、夜ふけの妙法院の将監の家にかえってきた。
そして、座敷牢のなかで、お琴をなお犯しつづける将監の姿を見出したのである。――数右衛門は眼を見はり、|茫《ぼう》|然《ぜん》と立ちすくんだ。
娘は半裸というより、からだにただ帯やちぎれたもののきれはしをまといつかせたような姿になって、白い泥みたいに横たわっている。それに将監はのしかかっては犯し、しばしぐったりと|覆《おお》いかぶさってはいるが、また腰にねじ[#「ねじ」に傍点]でもまかれたようにうごきはじめるのだ。すると娘も、失神したように眼をとじているのに、夢うつつにそれに|応《こた》える。ふたりとも、まるで何かに|憑《つ》かれたようであった。将監の肌は土気色をしていた。
あろうことか、あの鉄火鉢といわれた奥野将監様が――おれは悪い夢でもみているのではあるまいか、と数右衛門はおのれのこめかみをこぶしでたたいたが、夢ではない、と気づくと同時に、まろぶように座敷の中へかけこんだ。
「将監さま、気でもお狂いなされたか」
と、あらあらしく、将監のからだをつかんで、ふたりをひきはなす。数右衛門のあたまには怒りの火が|渦《うず》まいていた。それは、尊敬していた将監がこのような|醜態《しゅうたい》をさらしていることへの怒りではなく、彼がこの娘を犯したことへの逆上であった。
ひきはなされて、将監は、放心したようにうつろな眼で見あげた。
「不破か」
と、つぶやいた唇から、よだれがおちた。手足はだらりと|萎《な》えたようにたれ下がり、なげ出されている。
「あの六部めが、この女を必要としたわけが、わかったわ。ふしぎな力がわくぞ。……見ろ」
と、将監はおのれの|股《こ》|間《かん》に眼をおとした。数右衛門は将監の全身が枯葉のようにしなびてみえるのに、その精気が一個所に圧縮されて、なお噴出せんばかりの|形相《ぎょうそう》を示しているのをみた。――そして、彼はまた|醜怪《しゅうかい》な|蟹《かに》みたいに娘の方へいざりよろうとしている。
「な、ならぬ」
数右衛門はその肩をおさえて、娘をふりかえった。お琴はからだじゅう白い乳にぬれたようにひかって、眼をとじて、|微《かす》かなすすり泣きに似たあえぎをもらしつつ、緩慢にうごめきつづけている。みているうちに、数右衛門の脳中の火は、怒りよりも、えたいのしれない狂気じみたものになった。
「ふしぎな力――忍びの精でござるか」
と、うめいたのが、最後の理性だ。
「お、おれにもその力をあたえて下され。あやからせて下され」
数右衛門は、先刻の将監とおなじ、|獣《けだもの》のような顔つきにかわっていた。彼は、這い寄ろうとする将監をはねとばし、肩で息をしながら、お琴に襲いかかった。
もはや相手がだれかもわからないのか、娘はまるで自意識のない、反射だけの肉のかたまりのように数右衛門にまといついた。……肉がひとつのからだに|溶《と》けるのではないかと思われる時がすぎた。数右衛門はおのれの骨の髄までどろどろになって放出すると同時に、何やらが蜜のように逆流してくるのをおぼえた。
……やがて数右衛門は身をはなした。ながれこんだ蜜のようなものは、熱い|蝋《ろう》みたいにかたまって、股間からなお炎をたてんばかりであった。そこからたとえようもない快美な|痺《しび》れが全身に脈うって、彼は何かにつき出されたようにまた娘のからだにとびかかろうとした。
満身に死力をこめて、彼はふみとどまったのである。おかしい――これはただごとでない――その意識が、はじめて頭の一隅をかすめた。いくたびもいくたびも、水車小屋の|杵《きね》のごとく、この娘を犯したい、このもえたつような欲望は奇怪だ、そう気づきながら、体内にまわる肉欲の水車は彼の脳髄を旋回させ、それをとめようとする努力のために、彼の歯はかちかちと鳴り、四肢の指は折れかがまった。
「ど、どうじゃ、数右衛門、世にもまれなる女であろう。……このような女がおろうとは、わしは知らなんだぞ。待て、こんどはわしにゆずれ。……」
がさがさと、また将監が這いよってきた。その手足は糸みたいに細くなってみえる。――数右衛門の股間から、また欲望の熱湯がふきあげてきた。彼は将監に殺意すらおぼえた。
「いいや、ゆずらぬ」
そうさけんで、将監をつきたおす。はねあがった将監の足が、そこに投げ出された刀を|蹴《け》って、数右衛門の足もとにころがってきた。――その刀をつかんだのは、将監への殺意といってよかったが、抜いた|刹《せつ》|那《な》に――行灯にかがやいた刀身の冷たい光芒をみた瞬間に、彼のあたまに武士魂がよみがえったのである。
おれはこの女のために|侍《さむらい》でないものになろうとしている! いいや、すでに色欲の|畜生道《ちくしょうどう》に|墜《お》ちはてた!
数右衛門はおのれをうごかす魔のような力が、おのれの奇怪な男根から発するのに気がついていた。うぬ、おのれ、そう歯がみしてうめくと、彼はその刀身を横にして、そのにくむべき獣欲の源泉を根もとからぶつりと|斬《き》りおとしてしまった。
「あっ。……」
うめいたのは、数右衛門ではなく、お琴であった。彼女は半身を起こして、眼をいっぱいにみひらいて、数右衛門を見つめた。
不破数右衛門は、血刃をひっさげたまま、うしろへよろめいていって、格子にどんと背をあてた。斬りおとされたものは、血ではなく、奇怪にも白い灯心のようなものを切断面から吐いていた。恐ろしい下腹部の苦痛よりも、彼のあたまをひき裂くものがあった。
まるで|靄《もや》がはれたように事態が判明したのである。それは今夜にはかぎらない、あの山科の地蔵堂以来、じぶんは|妖《あや》しい靄につつまれていたのだということであった。
「……うぬは|吉《き》|良《ら》の忍者の一味だな」
と、いった。
お琴はじっと、たたみにおちたものと、凄絶な数右衛門の姿を見くらべていたが、やがてその眼に、恐怖にちかい感動のさざ波がひろがった。
「|敗《やぶ》れたり……能登忍法おんな灯心。……」
と、つぶやいたのは、男と|交《まじ》わったとたん、逆に色欲の精を灯心のごとく刺しこんで、男の体内に炎をあげさせる秘法の意味か。
「やはり、そうであったか、よくも」
と、数右衛門はあゆみ出しかけて、どうと片ひざついた。お琴はかけよってきて、数右衛門に抱きついた。
「まず血をとめねば」
そういうと、彼女は数右衛門の切り口に口をあてて、舌でふたをした、ねっとりとした|唾《つば》は、うすい|蝋《ろう》みたいに切断面に張って、出血をとめた。
「な、何を――」
うめきながら、数右衛門は、刀をとりなおそうとしたが、この敵の忍法は破ったはずなのに、また手が|萎《な》えてくる感覚をおぼえたのは、貧血のゆえであったろうか。次の瞬間、彼は、女がその刀をうばいとることを予想した。
「殺せ」
「いいえ、敗れたのはわたしです。……それに数右衛門さま、わたしはあなたが好きになりかかっておりました。とうてい、あなたを殺せませぬ」
と、お琴はくびをよこにふって、ささやいた。それから、じっと思案していたが、まわりを見まわし、彼の耳に口をつけていった。
「ご用心なさいませ。わたしのほかに、五人の――」
そのとき、数右衛門に覆いかぶさるようにしていたお琴のからだが、半裸のまますうっと|宙《ちゅう》に浮かびあがった。数右衛門はふりあおいで、女がのけぞりながら、天井にひきあげられてゆくのをみた。
「――おおっ」
と絶叫したが、その判断を絶する|妖《あや》しさに、しばらく息をのむばかりだ。女のからだに白い糸のようなものが無数にねばりつき、その糸が天井のふし穴から吹き出していることに気がついて、数右衛門が苦痛もわすれてがばとはね起きたとき、
「お琴、|掟《おきて》のとおり」
同じふし穴から、銀の針が吹き出して、のけぞったお琴の白いのどぶえにふかぶかとつき刺さった。
二度三度、きりきりと身もだえしたお琴は、がっくりと首をふせた。そののどから乳房のあいだをつたわった血潮がしたたりおちてきた瞬間、数右衛門は最後の力をふりしぼって、はっしと刀を投げあげたが、それが天井につき刺さったのをみたばかりで、ふたたびどうと膝をついた。|喪《そう》|神《しん》してゆく意識に、死微笑をうかべてうなだれた女の顔だけが、白い花のように咲いていた。
どれほどの時がたったか、われにかえった不破数右衛門が見たのは、ふたたびたたみに下ろされたお琴の|屍骸《しかばね》を、なお永久運動のごとく犯しつづける奥野将監の姿であった。これを斬ろうとして、数右衛門がやめたのは、将監が発狂していることを知ったからである。
夜の京を、不破数右衛門は|古鎧櫃《ふるよろいびつ》を背負い、朱槍を抱いて山科へはしり出したが、白い花はいつまでもその脳裡に明滅して、彼も次第に発狂してきそうな気がしてきた。
【二】
ふるような秋の銀河の下を、一|挺《ちょう》の|駕籠《か ご》がはしってきた。左は|桂川《かつらがわ》、右は|横《よこ》|大《おお》|路《じ》|池《いけ》、|秀《ひで》|吉《よし》が|巨椋《おぐらの》|池《いけ》を埋めたててつくった大坂街道である。
「え、ほ、え、ほ」
その駕籠かきの声をききながら、進藤源四郎はうとうととゆられている。大坂の同志、小山源五左衛門とともに|憤《いきどお》り、ともにあおった酒は、なお彼の体内にもえていた。
彼はもと赤穂藩で四百石の知行を享け、先手の鉄砲頭であった。のみならず、大石内蔵助の|従弟《いとこ》にあたった。
この数日訪れて泊まっていた小山源五左衛門も内蔵助の伯父である。それでこの秋のはじめまで源五左衛門は|伏《ふし》|見《み》に住み、源四郎はおなじ山科に住んで、義挙の|帷《い》|幄《あく》に加わっていたのだが、そのうち内蔵助のきちがいじみただだら遊びに|呆《あき》れはて、親戚だけに同志に顔むけもできないような恥ずかしさに責められ、はては堕落した内蔵助の姿を見るのも腹立たしくなって、ついに源五左衛門は大坂へ引っ越し、源四郎は京の烏丸今出川に居を移したものであった。
「あの、もしっ」
息をきらした女の声に、源四郎は眼をひらいた。
「おねがいがございます。お助け下さいませ」
「なんだ?」
と、駕籠のたれをはねあげて、外をのぞいて、源四郎はちょっと息をのんだ。駕籠のまえに、武家娘らしい|旅装束《たびしょうぞく》の女がひざまずいてあえいでいるのだが、それが月明かりにも|玻《は》|璃《り》|灯《どう》|籠《ろう》のように|玲《れい》|瓏《ろう》たる美女だったからだ。
「|娘御《むすめご》、いかがなされた」
「あの……まことに慮外なお願いながら、その駕籠にわたしをのせて下さりませ」
「この駕籠に? 急病にでもなられたか?」
「いいえ、恐ろしい人間に追われているのでございます」
「恐ろしい人間、とは何者じゃ。盗賊か」
「忍者でございます。……いいえ、こう申しているあいだにも、そやつは追って参ります」
そして娘は、いきなり駕籠のなかに身をなげこんできた。ひとり乗っていても狭苦しい駕籠である。源四郎は|狼《ろう》|狽《ばい》して、自分は降り立とうとした。このあいだ、むろん駕籠は宙に浮いたままだ。
駕籠かきが、とんきょうな声をあげた。
「あれ? ちっとも重くならねえ」
「――幽霊じゃあねえか?」
娘は身もだえしてさけんだ。
「いいえ、甲賀の忍法でございます。このままやって下さりませ」
娘の重さのふしぎさもさることながら、進藤源四郎は|唖《あ》|然《ぜん》としていた。いまもいったように、ひとりでも狭い空間に、くねくねと娘はからだをくねらせて、すっぽりはまりこんだのだ。
「忍者、甲賀の忍法、ちかごろ珍しい言葉をきく」
「わたくし、甲賀の|卍谷《まんじだに》と申す谷の忍法の宗家の娘なのでございます。……|浮《うき》|舟《ふね》の法をいささかたしなんでおります」
源四郎は娘の吐く息のかんばしさに、ふたたび酔いがぶりかえすのをおぼえながら、
「浮舟――駕籠屋、重うはないか?」
「おかしい。旦那さまおひとりとおなじことでございます」
「それならばよい。娘御、このまま京へもどればよいのじゃな」
「はい、そうして下さりませ」
駕籠は走りつづける。源四郎はきいた。
「名は何といわれる」
「お弓と申します」
「追うているのは何者じゃ」
「|敵《かたき》でございます。いま申したとおり、わたしの家は甲賀の忍者の宗家、それが、二年ばかりまえ、高弟のひとり|浪打丈之進《なみうちじょうのしん》なるもののために父が殺され、相伝の秘巻を奪われました。逃げた敵を追って、わたしとやはり弟子のひとり、|鍬形半之丞《くわがたはんのじょう》がさがし求めた結果――わたしはとうとう、京にいた丈之進を見つけましたが、秘巻をとりもどしただけで、丈之進に見つけられ、追われていたのでございます」
源四郎の耳に、お弓の声は遠くきこえた。それよりも、胸、腰、足にふれる娘の胸、腰、足の感覚のみが|灼《や》けつくようであった。しかも、これが忍法浮舟というのか、なんという軽さ、柔らかさであろう。まるで|匂《にお》う雲につつまれて飛んでいるようだ。
「無念ながら、わたしひとりでは、とうてい丈之進にかなわないのでございます。つれの鍬形半之丞は大坂へいったあとでした。……それで、大坂の方角へにげて参りましたが、このままではかならず途中で追いつかれると存じ、おたすけをねがったわけでございます。……もし、あなたさまが駕籠をお降りあそばしたなら、丈之進はきっと駕籠の中をあやしいとみて、中を見ようとするにちがいございませぬ。それほど疑いぶかい奴でございます。ですから、それらしい男に逢ったら、どうぞお声だけでゆだんさせて、そのままお通り下さいまし」
なるほど、そういう意図でこの娘は相乗りをしたのか。……源四郎は、ふくいくたる香気のなかで、|夢《ゆめ》|見《み》|心《ごこ》|地《ち》にうなずいた。
「待て、その駕籠」
はたせるかな、一、二町走って、しゃがれた声がかかった。
「おい、その駕籠に乗っている奴は何者だ。ちとみたいことがあるのだ。|垂《た》れをあげろ」
進藤源四郎は夢からさめた。|大《だい》|喝《かつ》した。
「無礼者、おれはもと浅野藩の進藤源四郎、いまは浪人をしておるが、見知らぬ奴に|面《つら》をあらためられるような所業はしておらぬ。駕籠屋、息杖でたたきのめして通れ」
「赤穂浪人、進藤源四郎」
男の声は意外にも、当然のごとくうなずいた気配であった。
「うぬをいままで待っていたのだ。駕籠を出い」
【三】
|愕《がく》|然《ぜん》として進藤源四郎は、しばし駕籠の中でからだをこわばらせていた。相手は何者か? と混乱におちいったのである。
――その耳に、お弓がささやいた。
「あなたは浅野のご浪人さま。……そうでした、丈之進は、いま吉良家にやとわれているとか申しておりました。それに、丈之進は、両腕のない男でございます」
「吉良」
源四郎は完全に正気にもどった。吉良、その言葉は彼の満身を剣気でふくれあがらせた。
彼は、内蔵助とともに|讃《さぬ》|岐《き》の高松で|元《げん》|禄《ろく》の名剣士といわれた|東軍流《とうぐんりゅう》|奥《おく》|村《むら》|無《む》|我《が》から免許皆伝を受けた男であった。大刀をひっつかんで駕籠を出る。男の声とは逆のむきから出たのは、むろん相手の襲撃をふせぐ目的もあるが、お弓をかばうためでもあった。
「吉良の|刺《し》|客《かく》」
と、源四郎はいった。月光のなかにたたずんだ細長い影は、浪人風の着流しに、刀に手もかけずふところ手をしている。よほど自信があると思われたが、つづいて、
「浪打丈之進と申すか」
と、源四郎がいったのに、かっと白い眼をむき出していた。
「さすがは、一味のうちの硬派進藤源四郎、|狙《ねら》われておることは知っておったとみえる。が……おれの名をだれからきいた」
源四郎は笑ったまま、その問いには答えなかった。
「これ、|冥《めい》|途《ど》へいったら、|三《さん》|途《ず》の川で待っておれよ、やがて|上野《こうずけの》|介《すけ》の|皺《しわ》|首《くび》も流れてゆくからの」
|一《いつ》|閃《せん》、月光を水のごとくはねて、刀身が|鞘《さや》|走《ばし》った。そのまま、つつと駕籠の前にまわる。
相手の浪打丈之進は、一間ばかり、すうと下がった。が、依然としてふところ手のまま、じっと源四郎をながめている。路はひとすじ、両側は|渺茫《びょうぼう》たる川と沼で、どこか風に泥の匂いがする。そのなかで、くうう、くううと、水の果てまでつづいて、かすかに鳴きしきっていた水鳥の声が、異様な剣気を感じたか、このときはたと絶えた。
そうだ、こやつは両腕のない男であった。と、源四郎の耳にお弓の声がよみがえり、彼はにやりと白い歯をみせた。両腕のない男をなにゆえ、あの娘はあれほど恐れたのか?
|剣《けん》|尖《さき》に凄烈の殺気|凝集《ぎょうしゅう》し、一歩二歩、源四郎がすすみ出ようとした刹那、彼は異様なものをみた。月を真正面にうけた相手の浪人の口から、一筋、二筋、白い|紐《ひも》のようなものが流れ出して、あごから胸へ、ぶらんぶらんとゆれはじめたのを。
源四郎崩れ
【一】
何かを口にくわえたのではない。その白い|紐《ひも》|様《よう》のものは、たしかに浪打丈之進の口から外へ吐き出された。あまりに奇怪な現象に、
「……何だ?」
と、進藤源四郎が、星月夜に眼を|凝《こ》らしたとき、相手の口にゆれていたその紐のようなものが、びゅっと飛んできて、源四郎の刀身にくるくるっと巻きついた。
紐ではなかった。それは|生《いき》|物《もの》の――長い虫であった。刀身に巻きついたその虫は、切れもせず、かまくびをもたげ、うねうねと|鍔《つば》の方へ這ってきたのである。
「おのれ」
源四郎は、背に水のながれる思いをしつつ、そのまま敵へおどりかかった。一刀はうなりをたてて相手の|脳《のう》|天《てん》から斬りさげたとみえたが、まさに一髪の差で、丈之進はすういと背後へ――しかも、二間もとびずさったのである。顔と顔とが三尺の距離にちかづいた瞬間、源四郎は相手の口から、白い虫が|蕎麦《そ ば》のようにあふれ出しているのをはっきりと見た。
地にその虫を吐きおとし、とびさがった浪打丈之進の口からは、なおだらだらと虫がながれ出している。依然として両腕のない|袂《たもと》をぶらぶらさせながら、源四郎を見すえた丈之進の眼は笑っていた。
「忍法|血虫陣《けつちゅうじん》。……」
と、彼はいった。
源四郎は、じぶんと相手のあいだの往来に、無数の虫がさざ波のごとく散ってうごめいているのをみた。あまりのぶきみさに、たたとさがろうとすれば、うしろにも、さっき浪人の吐きおとした虫がぞろぞろと這いまわっている。しかも、相手が、「|陣《じん》」といったのも|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》ではない。虫のむれは、いまや二重、三重の|環《わ》をつくりながら、源四郎の足もとに這いよってくる。
人の体内には、虫が寄生することがある。|胆《たん》|管《かん》に|棲《す》む|肝吸虫《かんきゅうちゅう》、肺に宿る肺吸虫、門脈にひそむ日本住血吸虫、それに横川吸虫、異生吸虫、肥大吸虫、槍形吸虫、猫吸虫、また|広節条虫《こうせつじょうちゅう》、|無《む》|鉤《こう》条虫、|有《ゆう》|鉤《こう》条虫、|瓜《うり》|実《ざね》条虫、さらに、|蛔虫《かいちゅう》や十二指腸虫や|蟯虫《ぎょうちゅう》はだれでも知っているが、そのほかにも、|線虫《せんちゅう》、|鞭虫《べんちゅう》、糸状虫、|糞線虫《ふんせんちゅう》、|旋毛虫《せんもうちゅう》とかぎりもない。そのうち蛔虫などは長いもので四十センチくらいにとどまるが、無鉤条虫にいたっては、ふつう八メートル、ときには実に四十メートルにおよぶものすらある。
能登の忍者浪打丈之進は、まさしく体内に虫を|飼《か》っていた。寄生虫といったようなものではなく、蛇使いが蛇をつかい、鳥使いが鳥をつかうがごとく、彼の意志にしたがう特殊の虫を体内に養っていたのである。
「あっ、|痛《つ》う」
と、進藤源四郎は、刀をにぎった右手を左手でおさえてよろめいた。虫は|鍔《つば》をこえて、彼のこぶしに吸いついていた。同時に、その白い虫は、すうと黒く変わった。月明かりに黒く変わってみえたが、太陽の下なら、それが真っ赤に変色したことがみとめられたであろう。虫は|蛭《ひる》のごとく彼の皮膚から血を吸いあげたのである。
痛みに源四郎は片足立ちになり、きりきりと回った。地上の虫が足から這いあがって、|袴《はかま》の|裾《すそ》から彼のふくらはぎに吸いついたからであった。それも一瞬、どうとたおれた源四郎の腕、くびすじ、顔に、虫はぺたぺたと吸着した。|血虫《けつちゅう》と敵が名づけたのもむべなるかな、たちまち満身虫に|覆《おお》われ、毛穴という毛穴から鮮血がほとばしり出るような激痛に襲われて、源四郎はのたうちまわり、|悶《もん》|絶《ぜつ》した。
ふところ手のまま、薄笑いしてこれをみていた浪打丈之進が、やおら源四郎のそばへあゆみ寄ろうとしたときだ。――両側の川と沼で、突如、|凄《すさま》じい風がまきおこったような音がした。はっとして、丈之進が左右をみる。川と沼から舞い立ったのは、何百羽ともしれぬ水鳥であった。それが、いったい何におどろいたのか、月明の夜空にいっせいに舞いあがったとみるまに、|螺《ら》|旋《せん》をえがいて――丈之進と源四郎のあいだの往来に舞いおりてきたのだ。
「これは」
忍者浪打丈之進も、かっと眼をむいて立ちすくんだ。彼をめぐって、狂気のごとくとびめぐる鳥のむれは|吹雪《ふぶき》のごとく、しばし眼もあけられぬ。――吹雪のごとく――まさに、そこには何千何万ともしれぬ羽毛が|渦《うず》まいていた。水鳥のつばさ、からだからは、ひとりでに羽毛がぬけおちて、それが|旋《せん》|風《ぷう》のようにふりそそぎ、舞い狂い、丈之進の鼻口をふさぎ、息もつまらせるのであった。
浪打丈之進は、片足あげたままであった。その足は、一瞬のちに、進藤源四郎ののどくびに踏みおろされるはずであった。が、その姿勢の丈之進ののどには、このとき逆に何者かの腕がまきつけられたのである。
その腕をむしりとろうにも、丈之進自身には腕がなかった。ほとんどうめき声ひとつたてず、丈之進は絞め殺されていた。
|蒼《そう》|々《そう》たる月光に、なお羽毛の雪片は舞っている。――が、鳥のむれが沼の果てへとび去るにつれて、その羽毛の雪はしだいにうすれてきた。そして、地上に|崩《くず》|折《お》れた丈之進の上に、寂然と立っている黒い影がおぼろに浮かんできた。
彼は雪を踏むように、羽毛の上をあるいて、進藤源四郎のそばにちかづき、かがみこんで、吸いついた虫を指でつまんで、羽毛の中にすてた。何十匹ともしれぬ血虫は、羽毛にまみれ、羽毛にしずみ、からだをまるくしてはうごかなくなった。
「まず、これでよかろう」
と、つぶやいて、立ちあがる。そして|駕籠《か ご》の方をみた。
「あとは、たのんだぞ」
「|無明《むみょう》さま、いまの忍法は?」
と駕籠から出て、もたれかかるようにしていた娘は、茫然と眼をひろげて問いかけた。
「伊賀忍法、|鵞《が》|毛《もう》落とし――」
男はつまらなさそうにこたえて、道から沼のなかへおりた。そこに浮かぶ|枯《かれ》|蓮《はす》の上に平然と足をかけたのである。そのまま、蓮から蓮をふみ、まるで重量のない人間のようにあゆみ去りながら、いちどふりむいて、彼は笑った。
「能登の忍法では、これを|浮《うき》|舟《ふね》というか。伊賀では|浮《うき》|寝《ね》|鳥《どり》という。――」
月光に|霞《かす》む沼の果てへ、|悠《ゆう》|々《ゆう》と去って消えてゆくその姿を、娘はじっと見送っている。
「ば、|化《ばけ》|物《もの》じゃ。あれは――」
と、いちど四、五間もにげ去っていた駕籠かきが、かすれたような声をあげた。娘はふりむいていった。
「あの、そこの|赤穂《あこう》のご浪人をのせて、はやく京へいってたもれ」
【二】
まるで香ばしい雲に乗って、|宙《ちゅう》をとんでいるようだ。雲は濡れて、肌のすみずみまで、しっとりと這いまわり、吸いつくような快感をあたえる。と、その快感が、総身の毛穴から血を吸いとられるような激しい痛みに変わり、のたうちまわって|悶《もん》|絶《ぜつ》する。すると、ふたたび、香気ふくいくたる雲につつまれて、ふわふわと空中を|漂《ただよ》うのだ。いくどか、こんな感覚の波をくりかえしたのち、進藤源四郎は意識づいた。
「う。……」
からだじゅうの痛みにうめくと、
「しっ……どうぞ、このまま」
彼の顔に濡れるような息がかかって、こういった。源四郎は、じぶんが香ばしい雲につつまれて、なお宙をとんでいるのに気がついて、夢か現実かわからなくなった。――息はささやく。
「おかげさまにて、浪打丈之進は死にました。――けれど、|鍬形半之丞《くわがたはんのじょう》がわたしたちに眼をつけているのではないかと思われます」
はじめて源四郎は、はっきりと意識を回復した。彼は、大坂街道で助けを求められた娘と、「あの時」までとおなじように一つ駕籠にのって走っていることを知った。
あれは悪夢であったのか。いや、夢ではない。いま娘は浪打丈之進|云々《うんぬん》といった。
「あ、あの両腕のない浪人はどうしたのか?」
「死んだようでございます」
「死んだ?」
「はい、駕籠の中にかくれておりましたゆえ、はっきりとはたしかめませぬが、たしかに鍬形半之丞のために討たれたようでございます」
源四郎は、丈之進の口から吐き出された奇怪な虫と、それ以後のじぶんの醜態を思い出して、駕籠の中で恥辱に真っ赤になった。
「きゃつが、何者かに討たれたと? だれが、どのようにして討ったのか」
「浪打丈之進が血虫をつかって、あなたさまをお苦しめしておるとき、急に沼の水鳥が何百羽となく飛んできて、その羽根をちらし、虫を羽根でまぶしてうごけなくし、丈之進を殺したのでございます。あれはたしかに半之丞の甲賀忍法鵞毛落とし――」
娘の息は、恐ろしげにふるえた。源四郎も無念さにわなないた。
「あれが甲賀忍法、それを破ったのも甲賀忍法。……東軍流|奥《おう》|儀《ぎ》も、忍法のまえには子供だましか?」
「いいえ、そうではございませぬ。あなたさまが、あのときまで相手をしていて下さらねば、わたしは見つけ出されたに相違ありませぬ。それに、あなたさまを相手に、丈之進が血虫を吐きつくしたあとなればこそ、半之丞がそれを封じることができたのでございます」
せまい空間に、男と女、からみあうようにしてゆられているのだ。娘の唇は、源四郎の唇にふれんばかりであった。その匂やかさに脳髄までじんとしびれて、源四郎は娘の言葉を単純に理解するのにも、駕籠かきが一、二町はしる時間がかかった。しかし、そもそもこの甲賀の娘は、なんのためにまだ駕籠にいっしょにのっているのだ。恐るべき敵の浪打丈之進は殺されたというではないか。
「娘御、その鍬形半之丞がきて丈之進を討ったと申されたな。半之丞とやらは、そなたと力をあわせて、敵の丈之進をさがしていた弟子だといわれたようだが……その半之丞はどこへいったのか」
「大坂の方から走ってきて、京へかけ去ってゆきました。おそらく、わたしのことを案じてでございましょう。むろん、この駕籠にわたしが乗っていようとは、夢にも知らなかったのです。浪打丈之進が吉良家の犬になっているということは半之丞も知っておりましたから、あなたさまを浅野さまのご浪人とみて、それを襲っただけのものと判断したようでございます」
「よくわからぬ、そなたは半之丞になぜ声をかけなんだのだ」
「……わたしは、鍬形半之丞がこわいのでございます」
「なに」
「半之丞がきらいなのでございます。ほんとうをいうと、甲賀|卍谷《まんじだに》にいたころから、丈之進より半之丞の方がきらいなくらいでございました。ただ丈之進が父を|殺《あや》め、相伝の秘巻を盗んで逃げたために、丈之進とならぶ高弟の半之丞といっしょに敵討ちの旅に出なければならなくなったのでございます。しかも、一族の老人たちの申しつけで、もし鍬形半之丞が丈之進を討ち果たせば、わたしは半之丞と|祝言《しゅうげん》をあげることになっているのでございます。さっき、丈之進が討たれたとき、わたしのあたまにひらめいたのはそのことでございました。わたしは、とうとう半之丞に声をかけませんでした。……ご浪人さま、どうぞわたしをお救い下さいまし。わたしを|獣《けだもの》のような半之丞から、しばらくかくまって下さいまし」
それでなくてさえ密着したからだなのに、娘はいよいよ必死にしがみつく。源四郎の胸に乳房がおしつけられ、ひざにふとももがふれた。熱い餅のようなものが、とろとろとながれかかる感覚に、源四郎はふとまた忘我におちいった。
「それは、|窮鳥《きゅうちょう》ふところに入れば、猟師もこれを殺さずと申すくらいだから、願いはきいてやるが」
源四郎の胸には、あの恐ろしい浪打丈之進をすら、やすやすと|斃《たお》したというもうひとりの忍者のぶきみな影がかすめた。
「その鍬形半之丞とやらは、どんな奴だ?」
「顔の右半分に大きな|赤《あか》|痣《あざ》があり、左耳がなく、ひょろりと|物《もの》|干《ほし》|竿《ざお》のようにやせこけて、それはきみわるい、|醜《みにく》い男でございます。半之丞は、丈之進のふところをさぐっていたようでした。秘巻をさがしていたのです。それはわたしがすでにとってありますから、ふところにあるわけはございませぬ。京へかえってわたしのいないことを知ると、半之丞は狂気のようになってわたしをさがしまわることでございましょう。……いま、わたしがこの駕籠にいたことを感づかなかったのもふしぎなくらい、殺された丈之進におとらず、疑いぶかい男でございます。しかと両人の勝負を見とどける|余《よ》|裕《ゆう》もなく、あの場をのがれ、恥ずかしや、お駕籠にこのように相乗りさせていただいておりますのも、ただ半之丞恐ろしさの一念からのこと、どうぞおゆるし下さいまし。それも、半之丞はすぐあとで気がついて、いまにも、立ちかえってくるのではないかと、わたしはそれが気にかかってなりませぬ。……」
「恐れるな、わしがついておる、わしが|護《まも》ってやる」
進藤源四郎は夢中になってうめき、娘を抱きしめた。
「殺された浪打丈之進は、吉良に飼われていた奴であったと? それも、そなたとわしにただならぬ縁のあった証拠、また、おなじく敵討ちの……」
と、いいかけて、源四郎は、からくも口をつぐんだ。そして、急に大声をあげた。
「駕籠屋、ここはどこだ?」
さっき、失神したのをかつぎこんだ源四郎が、ふいに大声はりあげたので、駕籠屋はびっくりしたとみえて、とみには返事も出ないようすであった。
「きこえぬか、これ、もはや京に入ったかときいておるのだ。駕籠屋」
「へ、さっき|東《とう》|寺《じ》のそばを通り、ここはもう六条の松原でございます」
「そうか、それなら烏丸今出川はもうひと息だ。とばせ、とばせ! あとでうんと|酒《さか》|手《て》をはずむぞ」
なんといわれても、駕籠かきたちはうれしくなかった。なんというきみのわるい大坂街道だったろう。虫を吐く武士、夜空からふる羽毛の吹雪、水の上をあゆみ去った影。――それに重さのない娘が、げんにこの駕籠にのっているのだ。駕籠かきが、京の烏丸通りを北へとばしてゆくのは、ただ雲をふむような恐怖からであった。進藤源四郎は、いつまでもどこまでも、この駕籠にゆられてゆきたかった。
【三】
烏丸今出川の浪宅にかえると、留守中、ふたりの文使いがきたことを下男の吉兵衛が報告した。ひとりはきのう訪れた同志の|矢《や》|頭《とう》|右衛《え》|門《も》|七《しち》で、彼がとどけてきたのは、来る十月十五日、山科の太夫の隠居所に参集されたいという|原《はら》|惣《そう》|右衛《え》|門《もん》からの連絡である。もうひとりは、|不《ふ》|破《わ》数右衛門で、妙法院の奥野|将監《しょうげん》からの使いで文をとどけてきたといったが、源四郎が不在だと知ると、夜ふけまで待っていて、書状も置かずにかえっていったという。――
「不破?」
と、進藤源四郎は、妙な表情をした。不破数右衛門はたしかに元浅野藩士だが、数年前に浪々の身となったはずだ。その男がどうして将監の使いできたのかわからない。
すこし気にかかったが、源四郎は将監のところへかけつけてみる意志をもたなかった。それよりも、わしはこの娘を護ってやらなければならぬ。この娘から眼をはなしてはならぬ。源四郎は、三日ばかりのあいだ、まだあの駕籠の中のなやましい感覚にゆられつづけて、まるで|美《うま》|酒《ざけ》に酔い|呆《ほう》けているようなきもちであった。そのお弓という甲賀の娘が、げんにじぶんの家にいるのに、あらためて欲情をおぼえないほどその陶酔の想い出は濃艶に彼の肌にまつわりついていたくらいである。そのお弓が、顔色をかえて源四郎の居間に入ってきたのは、十四日の|夕《ゆうべ》のことであった。
「源四郎さま、半之丞はとうとうここをかぎつけたようでございます」
「なんだと」
「吉兵衛さんにおききなされて下されまし。きょうの夕方、門から中をじろじろのぞきこんでいる|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》の侍があり、とがめても返事をせぬ無礼さに、吉兵衛さんが腹をたててその笠をひきあげたら、顔半分がまっかな|痣《あざ》なので、びっくりして手をひっこめたすきに、その男はぶらぶらと立ち去ったと申します」
源四郎は、息をひいてお弓を見つめた。
「ついに来たか?」
と、うめいて、ふいにあることを思い出し、彼は唇をかんで腕をくんだ。
「こまったことになったの。わしは明日、ちょいとこの家を留守にせねばならぬ」
「えっ、お出かけあそばす」
お弓はわなわなとふるえ出し、源四郎のひざにいざり寄った。
「源四郎さま、どうしてもそれはおやめ下さるわけには参りませぬか」
「うむ、十五日はなあ。……」
「それでは、お弓をあの半之丞の|餌《え》|食《じき》にくれてやるご所存でございますか」
彼のひざにあの悩ましい肉感がまざまざとよみがえった。ちかぢかと見あげた涙の眼をみると、源四郎はわれをわすれて、娘を抱きしめた。
「お弓、源四郎はこれほど困惑したことはない。余人にはゆめ|洩《も》らしてはならぬことじゃが、そなたがあの丈之進を吉良の犬とやら申した口ぶりでは、わしが何を志しておるか、うすうす察しておろう。また、これを申さねば、わしが鍬形半之丞をおそれて、この家をにげるととられぬでもない。それゆえ、そなただけにいうが、明十五日、山科にて、われら同志のもの、重大な会議があるのだ。それに、そうだ、吉良の方で忍者をつかっておることも、是非、報告しなければならぬ。……」
「いや、いや、お弓をお見捨てになっては、いや」
お弓はふいに大胆な言葉をつかい、大胆なしぐさで――必死のためであろうが、白い腕を源四郎のくびにまきつけて泣きじゃくった。
「源四郎さま、どうぞ|明日《あした》はここにいて――半之丞からわたしをかくまって!」
――この娘にかくまですがりつかれながら、それを見すててこの家を出かけることは、赤穂藩でさるものありときこえた進藤源四郎の名折れではあるまいか。相見たことはないが、敵が恐るべき奴と知ればなおさらのことだ。
「よし、お弓、わしは明日出かけまい」
源四郎は、ついに崩れた。
歓喜天
【一】
山科に参集する用件は、江戸からきた|堀《ほり》|部《べ》|安《やす》|兵《べ》|衛《え》の書状をめぐっての重大な会議をひらくためだが、討ち入りそのものではないのだ。あとで同志に誠意を示し、また会議の内容を知らせてもらったら、それでいいのだ。だれがおれの誠意を疑うだろう?
おそらく安兵衛の書状は決行を|督《とく》|促《そく》するものであり、それに応じて同志が太夫の|緩《かん》|怠《たい》ぶりを責める破目となり、もしじぶんがゆけば、じぶんがその|急先鋒《きゅうせんぽう》となるだろうが、しかしほかにも、|武林唯七《たけばやしただしち》もおれば奥野将監もいる、|小野寺十内《おのでらじゅうない》もくるだろうし、小山源五左衛門もくるはずだ。硬派中の硬派に人は|欠《か》かぬ。おれに代わって、充分太夫を|叱《しっ》|咤《た》してくれるだろう。
そもそも、もしたったいまおれが急病になったとしたら、いかに参集の意志はあっても、参集できぬわけだ、と進藤源四郎のあたまに、そんな考えが明滅した。人はおのれの義務をすてる理屈にことは欠かぬものである。
「お弓、わしは当分この家から出かけぬぞ」
ひざのうえに、お弓を抱きあげたまま、|囈語《うわごと》のように源四郎はいう。
「鍬形半之丞めがいつ押しかけてこようとも、源四郎はたしかに|護《まも》ってやる」
泣きじゃくるたびに身をゆすり、源四郎にくらくらするような|快《こころよ》さをあたえていたお弓のうごきがふとやんだ。
「どうかしたのか」
「半之丞は、恐ろしい忍者でございます」
「わかっておる。先夜は浪打丈之進の忍法を見くびっておったために不覚をとったが、この次には、かならず東軍流の真髄をみせてくれる」
「それは、源四郎さまをお信じ申すればこそ、こうしておすがりしたのでございますけれど」
お弓は、じっと宙に眼をすえて考えこんでいたが、ふいに、
「そうだ」
と、息をもらした。
「何か思いついたことでもあるのか」
「源四郎さま、何度も申しますように、鍬形半之丞は恐ろしい男です。ただあの男からのがれるのに、ひとつの方法を思いつきました」
「それは」
「源四郎さまとわたしが入れ変わること」
「わたしとそなたが入れ変わる?」
「わたしがあなたさまになり、あなたさまがわたしになる。……そうすれば、わたしは|卍谷《まんじだに》へかえれます」
「そなた、甲賀卍谷にかえるつもりなのか」
「いいえ、わたしは卍谷にかえるのがいやになりました。もうずっと京にいたい。……それなればこそ、いちど甲賀へかえらなければなりませぬ。浪打丈之進からとりかえした秘巻を父の墓に供えねばなりませぬし、わたしが卍谷を去ったあとの始末についても、古老たちと相談しなくてはなりませぬ。わたしは、この三日間、そのことばかり案じつづけていたのでございます。けれど、わたしがここにいることを半之丞にかぎつかれた以上、わたしがこの家を出れば、あいつはきっと追いかけて参ります。それをふせぐにはどうしたらいいのか、それはわたしがあなたさまのお姿になることです」
「…………」
「そして、あなたさまが、わたしの姿になって、きっとまたやってくるにちがいない鍬形半之丞とお逢いになる。半之丞が安心しているすきを狙って東軍流をおふるいになれば、いかに半之丞とて」
「お弓、わしにはよくわからぬ。ふたりが入れ変わるとは、変装するという意味か。たとえどのように変装したとて、わしがそなたに化けられようとは思われぬが」
進藤源四郎は|昏《こん》|迷《めい》した声を出した。
「忍法|歓《かん》|喜《ぎ》|天《てん》。――」
「なに」
「それをつかえば、あなたさまはわたしに、わたしはあなたさまになる」
お弓の顔はさくら色に染まり、眼も唇もぬれてきたようであった。恥じらいにたえがたいように身をくねらせながらささやく。
「ほかのおひとに、この忍法をつかう気にはなりませぬが――」
「お弓、忍法歓喜天とは」
「あなたさまとわたしと交わるのでございます」
「ま、交わる」
「好きでもない男と交わったとて、なんの変わりもございませぬが、ほんとうにふたりの血と肉と溶けあっても悔いのないほどいとしく思った仲ならば」
「ふたりが、相変わると申すのか」
と、源四郎はいった。欲情と好奇心が彼の全身に波うってきた。
進藤源四郎が、お弓の忍法「歓喜天」を知ったのはその数分後であった。まさに、血と肉と溶けあうような|恍《こう》|惚《こつ》の極致で、源四郎は夢中でお弓の唇を吸いながら眼をとじていたが、ふとあごに、相手に|髯《ひげ》のそりあとのような感触をおぼえて眼をひらき、じぶんが口を吸っていた相手が男であることを知った。――それは、実に彼自身であった!
「あ。……」
恐怖にうたれて、たちあがろうとする。そのからだを、もうひとりの進藤源四郎はぐいとかかえこんで、逆に彼をねじ伏せた。そのときに彼は、じぶんの胸にまっしろな乳房が盛りあがり、胴がくびれ、皮膚がすべすべとやわらかくなって、まったく女体に変じていることに気がついたのである。
じぶんに重なった源四郎は、さっきまでのじぶんとおなじ行為を、あらあらしくつづけていた。この怪異に愕然とするより、彼は――いや、女と変わったのだから彼女は、やがて体内の泉がふきあげるような快美にもだえ、足を相手の腰にまきつけ、指を相手の背にたてて、そして思わず陶酔のすすり泣きをあげた。それはまさに女の声であった。
白熱忘我の一瞬はすぎた。女・源四郎は半裸のまま、たたみにぐったりと手足をなげ出していたが、|傍《かたわら》に相手がもどってきて、のぞきこんでいる様子にうすく眼をあけた。
全裸の男・お弓が笑いながら、手鏡をさし出した。
「ごらんなされ、歓喜天のわざを」
鏡の中には、眼を春の星のようにうるませ、半びらきの唇から舌をのぞかせてあえいでいるお弓の顔があった。
「髪と衣服をかえねばなりませぬ」
と、男・お弓はいった。男のふとい――まさしく、源四郎の声である。手をとってひきたてられるとき、女・源四郎はよろめいて、なよなよとまた相手にからみついた。それを力強く抱きとめて、
「これでわたしは甲賀へかえることができまする」
「お弓」
そうさけんだ源四郎の声は、先刻までのお弓とおなじ声であった。あらためて彼は、恐怖に|悩《のう》|乱《らん》しそうになった。
「このままの姿ではこまる。おれは赤穂浪人進藤源四郎として|仇《あだ》|討《う》ちができぬ」
「ここから甲賀まで、|往《おう》|還《かん》二日あれば、すぐにかえって参ります。そうしたら、もういちど歓喜天の忍法をつかって、おたがいにもとの姿にもどりましょう」
と、源四郎の姿になったお弓は、お弓の姿になった源四郎の衣服をはぎとりながら笑った。源四郎はおのれのなまめかしい裸体をみると、思わず両手で乳房と下腹部をおさえ、身をくねらせてかがみこんでしまった。
【二】
十月十五日、山科西ノ山村にある大石|内蔵《くらの》|助《すけ》の浪宅に集まったのは、京大坂その他|上《かみ》|方《がた》に住む同志二十数名であった。
街道からすこしはなれ、東には山科盆地がひらけ、うしろに|稲荷《いなり》|山《やま》を負う日当たりのいい|丘《おか》の上である。付近には|藪《やぶ》が多く、明るい晩秋の日ざしの中に、その葉がきらきらとひかっている。庭はうら枯れていたが、丹精をつくした|牡《ぼ》|丹《たん》そのほかの花畑で、そのむこうに、新築中の離れもみえた。
さすがにきょうは大工職人の出入りをとめたとみえて|槌《つち》|音《おと》はきこえないが、木口にぜいをつくした|普《ふ》|請《しん》をみて、みな一様にふきげんな顔になる。大事をひかえて、この念の入った普請にかかるとは、いったい太夫はいかなるご所存か、とその心事を疑わずにはいられないのだ。
大石内蔵助は床柱のまえに、ゆったりと坐っていた。笑顔で原惣右衛門と話しているのは、冬の花園の手入れのことらしい。晩秋というのに襟をゆるくくつろげて、ふとった血色のいい肌がのぞいてみえるのは、|寛《かん》|闊《かつ》というより自堕落を思わせる。事実、伏見の色里からけさかえってきたということで、そのちかくにいた人間は、かすかな酒の匂いすらかいだ。
一同に茶や菓子をはこぶ小女たちも、身のこなしに、あきらかに遊里からひろってきたらしいだらけた感じがある。……いつまでたっても座がひきしまらないので、気のみじかい武林唯七が、
「それでは」
と、|咳《せき》ばらいして声をあげたとき、内蔵助が顔をこちらにむけて、
「お、まだ数右衛門のことをみなに話しておらなんだの」
と、いった。
不破数右衛門は末座に|悄然《しょうぜん》として坐っていた。みな気づいていたが、数年前に藩を退転した彼がどうしてこの席に? という不審と、彼の純粋一徹な性格から、おそらく、という期待がまじりあって、みなつかずはなれずのみじかい|挨《あい》|拶《さつ》や目礼をかわすだけだったのである。もともと、人を人くさいとも思わぬ豪快な不破数右衛門が、ひどく影うすくみえるのは、彼の立場がみなとすこしちがう、という遠慮もあったろうが、とにかくおそろしく貧しげな|風《ふう》|体《てい》であり、それに病気でもわずらっているのではないかと、思われるほどのやつれかたのせいであった。
「何から話そうか、数右衛門めは、男根を|土産《みやげ》に推参いたしたが。……」
内蔵助の言葉に、一同はめんくらった。内蔵助は、数右衛門からきいたことをしゃべった。山科街道の地蔵堂のことから、奥野将監を色餓鬼たらしめた女のことなど。――みな|狐《きつね》につままれたような顔できいていたが、やがて、内蔵助が、
「じゃによって、将監はこぬ」
と、いい、
「それゆえ、あわてて下男を京の将監宅に走らせてみたところ、将監は死んだ女にかぶさって、枯木のようになって死んでおった」
と、むすんだとき、はじめて背すじに水のつたわる思いで、内蔵助のとなりにあいた席を見まもった。
|副棟梁《ふくとうりょう》ともいうべき奥野将監の姿がみえないのを、はてな、と思う者もあったが、やがて、まもなくあらわれるであろうとかんがえて、それ以上にうたがう者はだれもいなかったのである。
「しまった」
と、だれかつぶやいた。一同は、それが奥野将監ともっとも親密であった進藤源四郎であることをみとめた。
「大坂からかえった夜、不破が将監の使いできたことをきいたが、疲れもあり、どうせきょうはここで奥野どのと逢えるものと思って、いってみなんだのが残念だ。――しかし」
と、源四郎は数右衛門をみて、
「拙者には信ぜられぬ」
「と申しても、将監はいまいったようなざまで死んでおったのは事実だ」
と、内蔵助はいった。赤らんでいた顔がやや|蒼《あお》ざめている。
「とにかく、そういうわけで、数右衛門はわれらの連判状のことも知っておるし、かくしたところで無駄と思って、本人の望むままに一味に加えることにした」
内蔵助の言葉は、いかにもなげやりで、歯ぎれのわるいものであった。
「ただ、あの連判状の目的をつらぬくかどうかは別じゃが」
「太夫、何と申されます」
と、武林唯七がさけんだ。内蔵助はむしろ得意げに一同を見まわした。
「|故《こ》|殿《との》のご|舎《しゃ》|弟《てい》|大《だい》|学《がく》さまを以て浅野家再興の儀を御公儀の諸々[#「々」は底本では「二の字点」DFパブリW5D外字=#F05A「Z]しかるべき筋へはたらきかけておるが、それがどうやら|叶《かな》えられるらしい見込みがほの見えてきたのじゃ」
「ば、ばかな!」
澄んだ声でたたきつけるようにさけんだのは、矢頭右衛門七であった。|内匠《たくみの》|頭《かみ》の|児小姓《こごしょう》で、当年わずか十六歳の美少年は、満面紅潮させて、おそれげもなく内蔵助をにらみすえていた。
「われわれの血盟は、大学さまお取り立てのためではございませぬ。あくまで吉良の|皺《しわ》|首《くび》をもらいうけるためでござる」
「そのつもりではあったがの、右衛門七、しかしせっかく浅野家再興の見込みがあるというのに、そのまえに吉良どのにしかけては、もとよりご再興のことはぶちこわしと|相《あい》|成《な》る。これは、臣子の分としていかがなものかな」
内蔵助の笑顔は、|老《ろう》|獪《かい》なものをよどませてさえいた。
「太夫さま、しかし殿さまが江戸田村|邸《てい》の庭でお腹を召されるとき、そのご胸中にあったのは、浅野家のなりゆきよりも、ただ吉良にくや、上野介の首ほしやのご一念のみでおわしたのではございませなんだか。そのご遺恨をおはらし申しあげることこそ、われら家来たるべきものの第一の願いではございませぬか」
「さればよ、あの殿のご気性ではさもあろう。……そのご短慮のため家来一同、思いもよらぬ苦労をすることになったぞ。考えてみればだ、殿のお恨みはさることながら、殿のお|命《いのち》をうばったのは御公儀であって、吉良どのではない。何と申しても殿は天下の御大法に|叛《そむ》かれたのじゃ。したがって、家来たるもの、よくつつしんでお|上《かみ》のお慈悲をこい、ふたたびお家を|興《おこ》すのが、殿とはいわず、浅野家代々のご先祖さまにおこたえする道であるともいえる」
内蔵助のもっともらしい理屈に、右衛門七は唇をわななかせながら、しばし反論の言葉を失ったが、顔はありありと不満と怒りにもえたぎっていた。
「江戸からの堀部の手紙、あとで|披《ひ》|露《ろう》するが、実はそれでいささか困惑しておる。江戸の堀部、高田、|毛《もう》|利《り》ら、血気にはやりおる奴ら、上方がいつまでものほほんとしておるならば、われらのみにても吉良邸に斬りこむと申してきておるのだ。あの文面の様子では、これはわし自らいちど江戸へ下って、彼らによくゆうてきかせ、とりしずめてこずばなるまい。……いらざる世話をかけるものどもだ」
内蔵助は、だるそうに嘆息した。
「太夫が江戸へお下りなる。――」
あまり突然の話にいささか毒気をぬかれて右衛門七はつぶやいたが、すぐに、
「太夫さま、しかし、もしその大学さまお取り立てのことが|止《や》んだら、そのあとはいかがあそばすご所存ですか」
「それは、そのときのことよ、が、とにかくわしはそればかりを考えておるのに、吉良家の方では、忍者とやらをつかって、われらを|殺《あや》め、狂人にしようとしておるとは、見当ちがいも極まれりだ。こわやの、こわやの。数右衛門の話をきいて思いついたことじゃが、わしは江戸へ下ったらの、吉良家か上杉家をおとずれて、わしの存念を申しのべ、左様な恐ろしい刺客はご無用と願い、また浅野家再興のことについて、向こうさまからもご尽力ねがいたいとたのんでこようと思うておる」
みな|唖《あ》|然《ぜん》として、言葉もなかった。身をふるわせて右衛門七が、そばの進藤源四郎にささやいた。
「進藤さま、わたしはすぐに江戸に下ります」
「……なんの用あって」
「江戸の堀部どのに逢って、太夫のたわけたご存念を話し、その|罠《わな》におちぬように|戒《かい》|心《しん》いたさせ……それよりも、こちらで大学さまお取り立てのことをぶちこわすか、いっそ吉良邸へ斬りこもうかと存じます。あなたさまもごいっしょにゆかれませぬか」
「ゆかぬ」
意外にも、源四郎はくびを横にふり、そして|仁《に》|王《おう》|立《だ》ちになってさけんだ。
「源四郎、思うところあって、きょうかぎり脱盟いたす」
【三】
同志で硬派中の硬派進藤源四郎である。当然、理のみあって義のない内蔵助の論に怒って立ったものと、同じ怒りに眼を血ばしらせていた人びとも、ふりむいて|肯《うなず》いた。
「源四郎、何を思いついたか」
と、内蔵助はおだやかな眼をむけた。源四郎は内蔵助の|従弟《いとこ》である。
「太夫、失礼ながら、わたしは太夫を知ることに|於《おい》て、同志中第一の人間であると思っております」
「左様かな、では、わしの申すことに同感だろう」
「いや、大学さまのことは、太夫もほんとうに信じてはおられぬ。これはまた一同の心底をためす太夫特有のおたくらみと心得ます。これで喜色をあらわす者があれば、それはかならずのちに裏切り者となる。――太夫がご尽力にならなくとも、すでにこの中には、はじめから同じことを期待して入っておる奴があるかもしれぬ。そこの|不《ふ》|破《わ》が長年浪々の身を以て、いま忠義|面《づら》してはせ参じてきたのも、おそらくその風評をきいたからでござろう――」
「な、な、なんだと?」
不破数右衛門はおどりあがったが、股間に激痛をおぼえたとみえて、顔を充血させてうずくまった。
「だいたい、不破の話というのがあいまいだ。拙者はなお信じられぬ、もとよりこれから京にかえったのち、あらためて将監さまのご死因をしらべるつもりではおるが、さっききいたところでは、将監さまを狂人とかえた女は吉良の忍者らしいということですが、その忍者は、またべつの忍者に成敗されたという。成敗した忍者は、だれが何のために動かしておるのか、何のことやら、とんと|解《げ》せぬ」
「そ、それは拙者にもわからぬ事なのだ。しかし、わしが帰参を望んできたとは――」
数右衛門は肉体と心の苦悶にあえぎ、それ以上絶句してしまった。
「あやしげな男根を持参したとて、おそらく|蝋燭病《ろうそくびょう》かわるい病気でおちた男根だろう」
と、不破を冷笑して源四郎は、実に意外な演説をはじめたものである。
「ご一同、太夫の手にのってはなりませぬぞ。太夫は依然として|復讐《ふくしゅう》のことを|放《ほう》|擲《てき》なされてはおらぬ。……だが、それと承知の上で、源四郎は血盟から去りたいのだ。そのわけを、これからいう」
源五左崩れ
【一】
「おのおの方もご存じのように、拙者はこのたびの一挙の|遂《すい》|行《こう》に、もっともはげしい熱情をそそいでいた人間であった。……しかし、いまでは、その熱情がほとほといやになった」
と、進藤源四郎はいい出した。
「拙者の熱に水をかけられたのは太夫だ」
と、内蔵助をじろりとみて、
「|赤穂《あこう》の|昼《ひる》|行《あん》|灯《どん》――これは口さがない奴らの悪口だが、しかしこの太夫への評語には好意がある。あたたか味、人間味がある。――しかし、太夫は実に冷たい。ぞっとするほど冷たい。太夫の従弟であり、|且《かつ》もっとも太夫を尊敬していた拙者だが、そのことがいまにいたってやっとわかったのだ」
「わしのどこが冷たい」
と、内蔵助がいった。あたたかいというより、ねむいような声だ。それにたぶらかされはせぬぞ、といわんばかりに源四郎は眼をひからせてねめつけて、
「いまもいうように、太夫は決して復讐のことを忘却してはおられぬ。そのくせ、同志をまったく信じてはおられぬのだ。上野介を討つ機会はいくどもあった。また、このようにしてのんべんだらりと時をすごしておれば、何せ上野は六十の老体、いつなんどき万一のことあるやもはかりがたい。そのゆえに、われらが歯がみして太夫に事を急がれるよう進言しても、のれんに腕押し、太夫のご態度はおのおの方ご存じのとおりだ。そのわけについて、太夫はいろいろと|遁《とん》|辞《じ》を|弄《ろう》される。いままでその口実にうかうかと耳をかしていたが、そのまことの理由について、はじめて拙者は思いあたった。それは、太夫は、時のふるいにかけて落伍者の出つくすのを待っておられるということだ」
「時たてばとて、一味から落ちてゆくような奴ら、所詮われらの同志ではないではないか」
と、不破数右衛門はさけんだ。
「そうであろうか?」
源四郎の唇は皮肉にまがった。
「人間とはそんなものであろうか。人は時により善良にもなれば悪人にもなる。時によって強気にもなれば気弱くもなる。それはおのおの方、めいめいのお心をかえりみられたらよかろう。赤穂開城のとき、亡君に|殉《じゅん》じて死のうとした者六十一人、これに江戸|詰《づ》めの同志を加えれば、まず忠義の|侍《さむらい》と申してよい者は百二十五人にのぼった。それが、いまやわずかに六十人足らず。――脱落した奴らを|嗤《わら》うはたやすい。拙者もまた最も彼らをさげすんだ一人であった。しかし、いまかんがえるに、むしろ彼らをふびんに思う。太夫のふるいにかけられてこぼれおちていった奴らを哀れに思う。いちばん極端な例は、歯ぎしりしつつ、このあいだに病死した人々だ。彼らは、もしいままでに事を挙げておれば、立派に忠節の武士として名をのこすことができたのだ」
一同はいつしか、しんとしてだまりこんでしまった。沈痛にうなずく顔もあった。
「大体の人柄でよいのだ。適当な時でよいのだ。それを、太夫はむごすぎる。底意地がお悪すぎる。太夫はわれらを信じてはおられぬ。人を疑われるにもほどがある――」
源四郎の声は、いよいよ激烈の気をおびた。
「むろん、どのような風雪にも|磨《ま》|滅《めつ》せぬ鉄石の者どもを最後にえらび出すという太夫のご方針はわからぬではない。拙者もまたどこまでも耐えるつもりでおった。しかし、耐えられぬのは、太夫のわれらに対する不信のお心だ。これほど疑りぶかいふるいにかけられてまで、われらは辛抱しておらねばならぬのか。――そう思ったとき、拙者はつくづくといやになったのだ」
源四郎の声は沈んだ。それから一座の人々の心をひんやりとさせる底なしの虚無の眼で見まわして、しずかにいった。
「これほどわれらを信ぜられぬおひとを|頭《かしら》にして、死ぬまで行をともにする。――左様に愚かな、|惨《みじ》めな、|哀《かな》しいことは、もはやごめんだ。さればによって、源四郎、きょうをかぎりに脱盟いたす。もとより、脱盟の理由はいま申したとおりだから、盟約のことは、決して余人にはあかさぬ。ご安心あれ」
「安心できぬなあ」
と、内蔵助が笑うた。からかうような|諧謔味《かいぎゃくみ》をおびた眼で、
「それほど疑りぶかいわしに、そのことだけは信じろといってもむりだ」
進藤源四郎は内蔵助をにらみつけて、もはや問答無用、とでもいいたげにくるりと背をみせて、座敷を出ていった。
あとにはしばらく沈黙がおちた。じいっと考えにふけるもの、爆発しそうな感情をおさえている者――沈黙はやがて裂けて、一座は騒然たる混乱におちた。いまの進藤源四郎の演説について、蜂の巣をつついたような険悪な論議が渦巻きはじめた中に、かんじんの内蔵助だけは床柱にもたれて、ひとごとのような|茫《ぼう》|洋《よう》たる顔で庭の枯れた|牡《ぼ》|丹《たん》の木をみていた。口がうごいたかと思うと、生あくびである。
座敷から、矢頭右衛門七と小山源五左衛門の姿がきえていることに一座の人々が気がついたのは、やがて原惣右衛門が江戸の堀部からの手紙を|披《ひ》|露《ろう》するといってみなを制止して、この混乱がややおさまってからのことであった。
【二】
「進藤、待て」
大石の浪宅から山科街道におりる道――両側を、|藪《やぶ》と杉林にはさまれた坂の途中で、進藤源四郎はふりかえった。
坂の上から飛鳥のようにかけおりてきた前髪の美少年をみると、源四郎はくびをかしげて立ちどまった。
「右衛門七か」
「おお、さっきのおまえの論議について話がある」
矢頭右衛門七は息せききっていった。|双《そう》|眸《ぼう》が|燦《さん》|々《さん》とかがやいている。源四郎のふしんげな表情が微笑に変わった。
「同感だろう。おまえなどは太夫のもってまわったやりかたに、一番腹をたてていた方ではないか」
「いや、腹をたてたのは、おまえの言葉に対してだ。おまえの論議には毒があった」
源四郎は、こわい眼で右衛門七をにらんだ。
「右衛門七、言葉がすぎるぞ。それに、拙者に対しておまえ呼ばわりは無礼ではないか」
そう源四郎がいい、また最初からふしんげな表情をしていたのは、彼が大石の縁戚で、四百石の|知行取《ちぎょうどり》であったのに対し、右衛門七はわずか二十石五人|扶《ぶ》|持《ち》という軽輩の|伜《せがれ》で、殿の児小姓という身分にすぎなかったからだろう。父親の矢頭長助も|殉忠《じゅんちゅう》|一《いち》|途《ず》の男ながら、きょうの参集に姿をみせなかったのは、いま大坂の|陋《ろう》|宅《たく》に|病《や》んでいるゆえだときいた。
右衛門七は憤然とさけんだ。
「裏切り者――裏切りをすすめる裏切り者以上の奴に、礼をつくす必要はない」
「なんだと?」
「おまえの言葉は、同志の人々の心に石をなげて、いらざる波紋を起こした。いや、波紋を起こすための邪説ときいた」
「同志にいらざる迷い、苦しみをあたえているのは太夫だ。おれはそれを|剔《てつ》|抉《けつ》したのだ」
「いいや、太夫さまにご思慮はあるが、邪念はない。われらはひたすら太夫さまを信じ、太夫さまの断を下される日を待てばよい。しかし、おまえの言葉には|濁《にご》りがある。わしはさっきから、おまえの眼、顔色をみておった。いままでの進藤源四郎どのとはちがう、そう感じた。源四郎、きょうあのような説を弄したのは、おのれの脱盟を|糊《こ》|塗《と》するもっともらしい|屁《へ》|理《り》|屈《くつ》か、それとも誰かに買われて同志の心に毒をまいたのか。いずれにせよ、源四郎、変心いたしたな、いや、人が変わったな」
源四郎は呆れたように右衛門七の顔を見つめていた。これが、十六歳の小伜の言葉か、としばし耳をうたがう表情であった。
しかし、これはまさに十六歳の少年ならではの言葉だ。その透明純潔な魂をもえたたせた怒りが、炎となってほとばしり出るところ――実に右衛門七は、彼自身も気づかぬ恐るべき事実を指摘したのである。
進藤源四郎はじいっと矢頭右衛門七を見つめていた。日がうごいて、ざわめく|藪《やぶ》が彼の顔を|昏《くら》くした。ゆれる|翳《かげ》のなかに眼だけ白くひかり、それがにやりと笑った。
「もし、おれが裏切り者で、またみなにそれとなく裏切りをすすめたのであったら、なんとする?」
「なに」
「と、そう怒った顔は美しいの、右衛門七、あらためてしげしげとこう見るが、美少年だな。よい若衆になった。まるで燃える|牡《ぼ》|丹《たん》をみるような」
矢頭右衛門七の逆上したような一閃は|空《くう》を|薙《な》いだ。源四郎はふわとその刀身の上をとんだのである。松葉のごとくはねかえる|銀《ぎん》|蛇《だ》を、源四郎はまるで幻影のように避けた。このあいだ、ぶきみにひかる眼はまばたきもせずじいっと少年の姿にそそがれて、
「ふむ、生かしておけばこういうのがいちばんこわい一途な奴――さればとて、殺すに惜しい美少年。――」
と、つぶやいた。同時に、ちらと坂の上にその眼をやって、
「だれか、来たな。――よし」
うなずくと、逆に猛然と右衛門七の手もとにとびこんで、|拳《こぶし》を稲妻のように|脾《ひ》|腹《ばら》にあてている。うめき声すらたてず|悶《もん》|絶《ぜつ》する少年をかいこむと、源四郎は大地を蹴った。と、おどろくべし、彼の姿は少年を抱いたまま、地上数十尺の杉の枝へ舞いあがっていったのである。跳躍というより重力を失ったような|浮翔《ふしょう》の姿であった。
一瞬に人影をけした路上を、まもなく大石の伯父小山源五左衛門が、にげるように背をまるくしてせかせかと下りていった。
義士神崎与五郎の「|憤《ふん》|論《ろん》」に、「ともに忠義をいだき、金石のごとし」とたたえられた小山源五左衛門が、「節にのぞみ、これを忘る。あたかも|雪《せつ》|霜《そう》の|旭光《きょっこう》にむかうがごとく、|蜉蝣《かげろう》|薄《はく》|暮《ぼ》をおそれるのたぐい|也《なり》」と|筆誅《ひつちゅう》されたように、それが彼の同志をすてる最後の日の姿であったとはのちに知れた。
【三】
「気がついたか」
駕籠からひきずり出されたとき眼をあけた矢頭右衛門七は、のぞきこんでいる進藤源四郎の顔をながめ、はねおきて、そこが彼もいくたびか連絡にきたことのある烏丸今出川の進藤の家の門の中であることを知ったが、それ以上抵抗しようとはしなかった。|茫《ぼう》|乎《こ》として、美しい瞳をひろげたきりだ。
「あばれてみてもむだなことは、先刻の手並みでわかったろう。うむ、よい児だ。おとなしゅう、おれについてこい」
源四郎は右衛門七の腕をとらえていた。右衛門七の脳裡に、|山《やま》|科《しな》でのじぶんの惨めな敗北がよみがえったのは一瞬のことだ。それより、この源四郎の変わりようがいまさらのごとく奇怪に思われて、そのよって来たるゆえんをつきとめてやりたいという欲望が、彼を表面的な従順さにかえた。
怪事は、しかし、右衛門七の想像を絶した。玄関を入るやいなやかけ出してきた、お|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》をかぶった美しい女の口ばしった言葉が、まず彼を驚倒させたのである。
「や、これは矢頭右衛門七ではないか。どこでひろってきたのだ」
「甲賀|卍谷《まんじだに》へゆく途中山科街道で逢うたところ、わたしを源四郎さまと思うてよびかけられたのがはじめでございます。そうでございますね、右衛門七さま?」
と、源四郎はふりかえって、笑った。
源四郎の言葉の調子の一変したのにも息をのんだがその美しい女がじぶんを知っていることをありありとしめす声、眼つきに右衛門七はおどろかされた。彼はこんな女をいままでいちども見たことはなかったのだ。
「それで、卍谷へなぜゆかなんだのだ」
「右衛門七さまが、|歓《かん》|喜《ぎ》|天《てん》の忍法を是非みたいと仰せられて。――男と男では、歓喜天はつくれませぬからなあ」
ようやく右衛門七は、このとき、この進藤源四郎が源四郎ではないのではないか、という驚くべき疑いに心をとらえられていた。そんなことが信じられようか、理性では信じられないが、しかし彼の直感は彼の肌を|粟《あわ》立たせ、思わずさけび声をたてようとしたとき、怪しの源四郎の袖からするりと一条の|紐《ひも》がすべり出して、彼のくびにからんだ。
「うっ」
紐に手をかけたが、それは蛇のようにくい入り、悶える右衛門七の手がうしろにきりきりとしめあげられたとき、くびの紐はするりととけた。源四郎は右衛門七を柱にしばりつけながら、女を見あげて笑った。
「たとえご本人のお望みであろうと、ごらんのとおりの若衆ゆえ、これから歓喜天の尊像をみせたら、わたしどもを|化《ばけ》|物《もの》と思うて、何をなさるかもしれませぬ。それゆえ、しばらく」
「これから、歓喜天をみせる?」
女はややたじろいだ様子であった。
「源四郎さま」と、源四郎ははじめて相手の名を呼んだ。薄笑いして、「あなたは歓喜天がおきらいでございますか」
「きらいではないが」
「おきらいならば、ほほ、いつまでもこのままの姿でおりましょうか」
しかし、このとき女はあらあらしく男に抱きすくめられていた。男は女を源四郎とよんだが、しかし男と女の力のちがいはすぐにあきらかになった。女はたたみにねじふせられ、|繚乱《りょうらん》ときものを乱して男に|凌辱《りょうじょく》されはじめたのである。
それだけでも十六歳の矢頭右衛門七には、眼に星がちるような光景だ。幼くして母を失い、姉も妹もなく、ただ|清《せい》|廉《れん》で剛毅な父に育てられた少年であった。彼は男と女がこういう姿態でからみあうことがあるなど、|曾《かつ》て夢想もしたことはなかったのだ。
右衛門七は茫然として眼前にくりひろげられた|秘《ひ》|戯《ぎ》をながめていたが、やがて女が観念したか、それとも無我の境におち入ったか、息もあらあらしくすすり泣きに似たあえぎをもらし、男の背に爪をたて、じぶんから白い|蔓《つる》みたいに足をからんで腰を波うたせはじめたのをみるにいたって、眼をとじ、身をふるわせてうつむいてしまった。
「右衛門七さま、ごらんあそばせ、歓喜天とはこれ。――」
そうさけんだ女の声がきこえて、右衛門七は眼をあけた。そしてふたたびとじることを忘れたのみか、かっと大きく見ひらいてしまった。
いまさけんだ声は、女にのしかかった進藤源四郎の唇から、たしかに出た。しかしそれはいままでとちがって、きれいな女の肉声であった。のみならず、源四郎の顔色はみるみる白くなり、腰が細くやわらかくなり胸がふくれあがってゆく。同時に下のお高祖頭巾のからだが黒く、たくましく、あらあらしいものに変わっていった。――ふたりが快美のきわみのもだえをしめしながら、くるりと上下逆転したとき、顔もまったくいれ変わった。
もしふたりの衣服、一方の|侍髷《さむらいまげ》と一方のお高祖頭巾がなかったら、それは信じられない光景であった。いや、現にそれをみていながら、右衛門七はなお悪夢をみる思いでいる。
「右衛門七さま」
と、やがて女は横ずわりになって、頬にねばりついたびん[#「びん」に傍点]の毛をかきあげながら笑いかけた。侍髷のままで、|黒《くろ》|紋《もん》|服《ぷく》をしどけなくまとった女の姿には、異様ななまめかしさがあった。
「じぶんも歓喜天になってみたいとは思われませぬかえ」
「ばかな」
と、さけんだのは進藤源四郎だ。驚愕と同時に、嫉妬が墨汁のように顔にひろがった。女は不敵な笑顔をむけた。
「女は、あなたのような男らしい|殿《との》|御《ご》も好きでございますが、このようにういういしい若衆も好ましいのでございます」
「おまえは――」
露にぬれてひらいた花のようなお弓の唇をみながら、源四郎は彼女がそれを正気でいっていることを知り、あの歓喜天の忍法もさることながら、この女はそれ以上に恐ろしい|淫《いん》|婦《ぷ》であるかもしれないと思った。それでも彼は、もはやどんなことがあってもこの女をじぶんからはなす気にはなれなかった。
「源四郎さま」
と、女はいった。
「わたしはこの若衆が好きでなりませぬ。山科からつれてきたのはそのためでございます。いま歓喜天をみせてやったのもそのためでございます。それゆえ……これから三人、いっしょにここで暮らしていってはいけないでございましょうか。わたしが右衛門七さまになったり、源四郎さまがわたしになったり、三人、もつれもつれて歓喜天の|愉《たの》しみをあじわいつくすことをかんがえると、もうからだじゅうがしびれそうでございます。それに、もしあの恐ろしい鍬形半之丞がおしかけてこようと、三人で力をあわせれば、きっと追返せましょう。あなただけでは、やはりすこし心ぼそうございます」
この侮辱も、大坂街道での醜態を思い出すと、進藤源四郎には一言もなかった。
「もし、おゆるし下さらないなら、わたしは右衛門七さまといっしょに卍谷へかえります」
「あ、それは」
源四郎が狼狽の声をあげたとき、もうお弓は柱に縛りつけられた少年のそばにいざりよって、彼にやんわりとからみついていた。
「寄るな、寄るな」
武道の上でのいかなる強敵をみたときよりも恐怖して身もだえる矢頭右衛門七の|袴《はかま》のひもをお弓の白い手がといてゆく。
「ほほ、見たではありませぬか。あれだけのことです。殺しはせぬゆえ、左様にこわがることはありますまい」
女の指は、微妙に、無惨に美少年をもてあそびはじめた。紅潮し、涙をつたわらせる右衛門七のまるい頬に、お弓はひたと頬ずりをして、
「わたしがいま、あなたを男にしてあげます」
頬がまわっていって、右衛門七の唇は、熱い、かぐわしい、ねっとりしたものにふさがれた。
「いいえ、わたしはいま、あなたを女にしてあげますよ」
お弓は、柱にしばられた右衛門七のひざの上に馬のりになっていた。
その姿勢で、苦悶する美少年を犯しはじめた美女の、|妖《よう》|艶《えん》|凄《せい》|絶《ぜつ》きわまる光景を、進藤源四郎は夢魔のようにながめやった。ただれたあたまを、お弓の「三人、もつれもつれて歓喜天の愉しみをあじわいつくすことをかんがえると――」という言葉がかすめ、それもわるくはないな、とどんよりと思った。
たとえ姿はもとにもどっても、敵討ちのことはかすかにしか脳髄に|痕《あと》をとどめていなかった。そのかすかな|痕《こん》|跡《せき》がこうつぶやいた。ふむ、敵討ちに加わらぬとすれば、あの矢頭をおれと共犯にしておいた方が、いろいろと好都合かもしれない。
竹取物語
【一】
美少年を|臼《うす》ひくように、からだで輪をえがきながら上下する美女の姿に、もはや|嫉《しつ》|妬《と》も恐怖も忘れ、幻影でもみるようにながめていた進藤源四郎の耳に、魂をしぼるような女のうめきがひびいて、はっと彼はわれにかえった。
いまの声は、たしかに女の声であった。しかしそれはあきらかに少年の唇から出た。――これこそ忍法「歓喜天」のきわまるところとは知りながら、やはり眼を見はらずにはいられない。矢頭右衛門七は、お弓の姿に変わっていた。
坐位にある少年に馬乗りになって女が犯す。この体位から、いかにして男女が交替したのか。むろん源四郎にたしかめる余裕はない。気がついたとき、お弓はゆらりと立ちあがり、仁王立ちになって、薄笑いの眼を右衛門七になげていた。
「これが、歓喜天」
そういった声は、まごうかたなき右衛門七の声だ。|髷《まげ》と黒紋服はもとの源四郎で、顔は矢頭右衛門七――そのものであった。それを見あげた右衛門七の――お弓としか思われぬ眼も口も、|茫《ぼう》|然《ぜん》としてひらいたままであった。が、たちまち彼はおのれの胸にもりあがったふたつの乳房をみて、上気した顔が|蝋《ろう》のように変わった。
「こ、これは、どうしたのだ?」
「あなたは、女になったのです」
右衛門七は、柱にしばりつけられたからだを|悶《もだ》え、狂乱したようにさけび出した。
「もとの姿にもどせ。おれの姿にかえせ。これでは、|敵《かたき》が討てぬ!」
双頬に涙をちらし、両足をばたばたさせると、女体の恥部がむき出しになる。それを恥ずかしがる余裕は、十六歳の少年にない。
「た、たのむ、男にかえしてくれ!」
「男である冥利は、たったいま存分に味わわれたでござんしょうが。――いかが?」
右衛門七姿のお弓は平気で笑う。
「けれど、右衛門七さま、女であることのうれしさもまた別の味――わたしのおぼえによると、女の愉しみの方がふかいようですよ」
そして彼女は、阿呆みたいにそこに坐っている進藤源四郎をかえりみた。
「源四郎さま、右衛門七さまに女の愉しみを知らせておやりなされませ」
源四郎は右衛門七を見た。前髪ふりみだし、身もだえしているのは女だ。その凄惨な、異様な美しさに眼が|灼《や》きつけられると、彼の体内にも奇怪な欲情がもえあがってきた。
そろりとたちあがって、ちかよる。
「ならぬ、進藤さま」
右衛門七は必死に絶叫した。
「あなたは同志を何となさるおつもりか。もし無礼をなされば、もはや同志ではない、吉良以上の敵となりますぞ!」
「右衛門七、おれは仇討ちはやめた」
と、源四郎はいった。山科会議で脱盟を宣言したのは|偽《にせ》の源四郎であったと右衛門七は知っている。しかし、いまほんものの進藤源四郎も赤く濁った眼で、泥酔したような口調でそういうのであった。
「仇討ちなどは、この底しれぬ愉しみを知らぬ以前のことだ。それよりも、いまこの女のいったように、右衛門七、おまえも、これから三人、もつれもつれて歓喜天の悦楽を味わおうぞ、のう」
そして、先刻のお弓のように右衛門七のひざに馬乗りになろうとして、急に彼は困惑した表情になった。|女《にょ》|体《たい》の右衛門七に対して、この体位でどうすればよいのかわからなくなったのである。
「縄をおほどきなされませ。……相手は女、こわがることはありませぬ」
と、お弓は笑った。そして、足もとにころがっていた刀をひろって、彼になげた。
源四郎は、右衛門七をしばっていた紐を切った。それから|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に女体の胴に手をまわそうとした。これが右衛門七と知りながら、彼は眼にうつるままに、相手を女だと思っていた。それが不覚であった。あっというまに、右衛門七はその刀をひろいあげ、立ちあがったのである。
「手向うか」
仰天してとびのいた源四郎に代わり、お弓はすうとすべり出て、右衛門七のまえに立った。
「右衛門七さま、斬るならわたしをお斬りなされ。ただし、それであなたの姿はこの世から消えますよ」
と、お弓は笑顔でいった。右衛門七の腕はうごかなくなった。彼女を斬ることは、おのれの姿を斬ることであった。
「それよりも、あきらめて源四郎さまのお情けをお受けなされませ」
右衛門七の眼は、じいっとすわっていた。だれをみるというより、絶望そのものをみているようなまなざしであった。が、その眼ににくしみのひかりがもどって、おのれの奇怪な女体にそそがれると、
「女、死ね」
歯ぎしりして、刀身を袖でつつみ、|逆《さか》|手《て》ににぎるや否や、われとわが|女《にょ》|陰《いん》に刺しこんだのである。あっとさけんでお弓がとびかかり、その刀をうばいとると同時に、血の噴出したたたみのうえに右衛門七はうつ伏せていた。
「こ、これ、何たることを――」
進藤源四郎はわれにかえって|狼《ろう》|狽《ばい》した。お弓が斬られることは右衛門七の肉体が殺傷されることであったが、同様に、いま右衛門七が死ぬことはお弓の肉体が地上から消滅することだ、という事実に気がついたのである。
「お弓、なんとかせぬか、おまえの美しいからだが死ぬぞ」
たたみに|爪《つめ》をたてて苦悶する右衛門七を、お弓はじっと見下ろしていた。
「それほどまでに――」
と、ふかい感動の声でつぶやいた。死んでもじぶんの誘惑に抵抗しようとする少年の気魄にうたれたのである。
「いかにも、わたしが」
うなずくと、お弓は右衛門七にとびかかり、あおむけにし、何たることかふたたびこれを犯しはじめた。こんどは女を犯す男のすがたであったが、右衛門七の女陰はいうまでもなく血まみれであった。いや、ふたりの全身が血みどろであった。源四郎は両こぶしをにぎりしめて立ちすくんだ。
激痛に右衛門七はのたうちまわった。その苦悶のうめきが、一声、|法《ほう》|悦《えつ》のさけびに変わったとき、両者のからだは逆転した。――相手からとびはなれ、よろめき立った矢頭右衛門七はもとの姿にもどっていた。そして、その足もとに女陰から血をながしてたおれているのはお弓であった。
「右衛門七さま、わたしは」
と、お弓はわななく唇でいった。その唇にもう血の気はなかったが、眼は微笑して少年の顔にそそがれた。
「ほんとうは上杉の」
そういいかけたとき、右衛門七と源四郎の顔のまえを、ビラビラビラ……と黄色いものが吹いてすぎた。無数の菊の花びらだと気がついたのは、それが吸いつけられるようにお弓の顔におち、|竪《たて》|横《よこ》十文字、みるみるその満面を覆うのをみたあとだ。同時に、それがぽうともえあがった。
「あっ」
ふたりが顔を覆ったのは、皮膚のやける異臭よりも、その|酸《さん》|鼻《び》さのためだ。
「お弓、|掟《おきて》のとおり」
その声にはっとしてふりかえったふたりは、庭に咲く菊の花のむこうにのそりと立った|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》の武士をみた。進藤源四郎は絶叫した。
「鍬形半之丞!」
男は編笠をあげた。その半顔が真っ赤な|痣《あざ》に染められているのをみて、ふたりは息をのんだ。男は、にやりと笑った。――とみるまに、その姿はふわと音もなく土塀におどりあがり、消えてしまった。
「どうもいかぬな」
今出川通りを御所の方へ、風のように歩きながら、男は編笠の下でつるりと顔をなでた。半顔を覆っていた赤い薄衣を|剥《は》ぎとって道にすてたのである。もとよりこれは無明綱太郎の、ちょっと哀愁をおびた顔であった。
【二】
矢頭右衛門七の|注進《ちゅうしん》をきいても、同志の人々はだれも信じなかった。右衛門七は人々をつれて烏丸今出川の進藤源四郎宅へはせもどった。
源四郎はいなかった。下男の吉兵衛にきくと、源四郎は女の|屍《し》|骸《がい》を|駕籠《か ご》にのせ、どこかへ出ていったきりかえらないという。顔はやけただれ、全身血まみれの女の屍骸をなでさすっていた様子からみて旦那さまは発狂なされたにちがいない、と吉兵衛はおろおろしていうのであった。それで右衛門七のいうことも、必ずしも|荒《こう》|唐《とう》|無《む》|稽《けい》な話ではないとわかったが、不破数右衛門をのぞいて、人々はなお半信半疑であった。
「源四郎はたしかに気がふれたのじゃ。不覚者が、いまごろは狐に化かされた男そっくりに、どこか野末の果てで、|骸《むくろ》を相手に|痴《ち》|話《わ》|狂《ぐる》っておろう。すておけすておけ」
と、内蔵助はいった。淡々とした調子であったが、これまでの脱落者のときとちがって、心なしか|眉《まゆ》にちらと暗いかげがさしてみえたのは、ちょうどそのとき|手《て》|許《もと》に大坂の小山源五左衛門からも脱盟の縁切り状が送られてきたところで、これはおそらく山科会議における|偽《にせ》の進藤源四郎の演説に動揺した結果と思われるが、源四郎、源五左衛門、いずれも内蔵助の親族であったがゆえの|羞恥《しゅうち》からであったろう。――要するに、源四郎は、ふたたび同志のまえに姿をあらわさなかった。
人々の騒ぎをよそに、内蔵助は江戸へ旅立った。
「|左《さ》|様《よう》な化物より、江戸の火の玉の方が気にかかるて」
江戸の火の玉とは、堀部安兵衛、高田|郡《ぐん》|兵《べ》|衛《え》、|毛《もう》|利《り》|小《こ》|平《へい》|太《た》など、単独行動で|吉《き》|良《ら》へ斬り込みを敢行しかねまじき熱血児たちである。浅野家再興のめどがあるうちは、断じて|軽《けい》|挙《きょ》|妄《もう》|動《どう》してはならぬというのが内蔵助のうごかぬ方針らしく、まだそんなことにとらわれている太夫の方がよほど化物くさい、と吐き出すように評する同志もあった。
江戸へ下る内蔵助の供をしたのは、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門の両人で、気の荒い江戸派をなだめるのに最も格好な者として内蔵助がえらび出したのだが、この両人がのち|背《はい》|盟《めい》の|徒《と》となることまでも、内蔵助が見ぬいていたかどうかはわからない。
|元《げん》|禄《ろく》十四年十月二十日、|山《やま》|科《しな》をたち、東海道を下ってゆく内蔵助一行と、つかずはなれず半里ほどおくれて、ひたひたと追う八人の山伏があった。
これを上杉江戸藩邸から送られた|能《の》|登《と》|組《ぐみ》忍者、|鴉谷笑兵衛《からすやしょうべえ》、|万軍記《よろずぐんき》、|白糸錠閑《しらいとじょうかん》、鍬形半之丞、|折《おり》|壁《かべ》|弁《べん》|之《の》|助《すけ》、月ノ輪|求馬《もとめ》、|女《めの》|坂《さか》|半《はん》|内《ない》、穴目|銭十郎《せんじゅうろう》とは街道のだれもが知るよしもなく、ただの|修《しゅ》|験《げん》|者《じゃ》のむれとみて人目もひかなかったが、それからさらに一里おくれて東へゆく五|挺《ちょう》の駕籠が、宿場宿場でのりかえるとき、|宰領《さいりょう》らしいひとりの男はべつとして、あと四人の女の異様なばかりの美しさが、人足たちの口をあんぐりとあけさせた。そのつきそいの男が何となくぶきみなので、|野《や》|鄙《ひ》な雲助たちもその美女たちにわるさもしかけなかったが、これが上杉の家老千坂兵部から送られた能登組忍者、お桐、お|梁《りょう》、お杉、|鞆《とも》|絵《え》と知らなかったからこそ、彼らはとんだ目にあわされることから免れたのである。|新《あら》|井《い》の|関《せき》、箱根の関で、男は、上杉藩家来|有《あり》|明《あけ》綱之助、侍女四人を|伴《ともな》って大坂の蔵屋敷から江戸屋敷へまかり下ると名乗った。
十一月二日、大石は江戸についた。
彼はまず泉岳寺の亡君の墓に|詣《もう》で、つぎに赤坂今井谷にある後室|瑶《よう》|泉《ぜい》|院《いん》の機嫌をうかがった。この日程がすむと、彼は幕府のそれぞれの向きや、宗家同族の浅野数家を歴訪しはじめた。大学|取《とり》|立《たて》、御家再興の依頼であり、哀願のためである。
じりじりとして、江戸の過激派はこれをみていた。上方の同志からの報告では、太夫は吉良家や上杉家をおとずれてまで、浅野家再興のことをたのみたいといっていたそうであるが、ほんとうにそれをやりかねぬと不安になるくらい、悠長で|丁《てい》|寧《ねい》な内蔵助の運動ぶりである。
彼らが、大石の宿でようやく内蔵助をつかまえ、復讐のことについて談合することができたのは、内蔵助が上方へかえる日もまぢかな|二十日《は つ か》すぎのことであった。
【三】
内蔵助が宿としたのは、浅野家が盛んであったころのお出入りであった三田松本町の|日用取頭《ひようとりがしら》前川忠太夫の家であった。
日用取りというのは、いまの言葉でいえば自由労働者だが、旗本はもちろんいかに大々名とて分限にかぎりがある以上、平日、おびただしい足軽、人足、|陸尺《ろくしゃく》などをかかえておくのは無用の|費《ついえ》だから、適時にこれをやとったのだが、江戸にはその元締たるべきものが数軒あって、前川忠太夫もそのひとりであった。日用取頭といっても、|苗字《みょうじ》|帯《たい》|刀《とう》ともに幕府公許の家柄で、屋敷もなまじな商家におとらぬくらい大きなものである。
この前川忠太夫は、内蔵助が宿とするくらいだから、しっかりとした|侠気肌《きょうきはだ》の男であったが、来てみると、彼がすっかり堀部たちのますらおぶりに染まり、むしろ忠太夫の方から彼らをたきつけている気配すらあることに、内蔵助は内心へきえきした。
会合の場所は、ひろい庭の離れであった。わざと|田舎《いなか》|家《や》風にしつらえた造りも、かえって元禄の世の|爛熟《らんじゅく》を思わせ、また七年ほどまえに死んだ|芭蕉《ばしょう》という|宗匠《そうしょう》の心が、江戸のこんな家にもしみとおってきたかという感想も抱かせる。――
「酒はいらぬ」
と、その離れへ膳をはこぶ下女たちに、庭で|大《だい》|喝《かつ》している男があった。
原惣右衛門、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門などをしたがえてあるいていった内蔵助は、その男をみて笑った。若いころ、高田馬場で仇討ちをするまえに|升《ます》で酒をのんだといわれている堀部安兵衛であった。
「堀部、わしがたのんだのだ。……ひさしぶりに逢う顔だ。まあよいではないか」
「太夫、酒などのんで話しあうことではござらぬ」
「おまえがいやならすすめはせぬ。わしは飲むぞ」
安兵衛はむっとふくれかえってだまりこんだ。そのいちずな顔を、内蔵助は心の中でうれしい奴とかんがえる。
ちかづくと、縁の下から|蜘蛛《く も》の巣だらけになって這い出してきた男がある。みるとこれは、一党中美男という点では指折りの毛利小平太であった。
「何をしておる」
「太夫、いらせられませ。……大事の会合ゆえ、万一|縁《えん》の下に曲者でもひそんでおりはせぬかと、いまたしかめておったのでござります」
「ほ、ばかに用心するの」
「上方の不破からの書状によれば、敵は忍者までつかい、しかもその忍者のうちにはどうやら蝶をつかって立聴きする奴まであるらしいと申すではござりませぬか。……会合は一心同体の堀部どのに|委《まか》せました。堀部どのの申すことが、すなわちわれらのいい分でござります。拙者はもとより、高田郡兵衛、田中貞四郎の三人、これよりこの離れをめぐってあるきまわり、万一の曲者にそなえます。何とぞご安心下されい」
と、毛利小平太は刀の|柄《つか》をたたいた。そういわれて秋草のむこうをみると、長槍二本をたてつらねた高田と田中が、にっと白い歯をみせて目礼した。
離れ屋の中は三部屋あり、まんなかの座敷には|炉《ろ》をきってあって、|天井《てんじょう》はなかった。|煤《すす》けた屋根裏がむき出しになっていた。曲者が天井裏にひそむという可能性もないわけである。床柱は直径五寸もあろうかと思われる竹で、枯れていい色をしていた。
集まっているのは、内蔵助といっしょにきた三人、外を警戒している三人をのぞいて十五人、そのなかには、|潮田又之丞《うしおだまたのじょう》、奥田孫太夫、中村勘助、大高源吾、武林唯七、勝田新左衛門ら、過激派中の過激派の、いまにもかみつかんばかりの顔がみえる。
酒などのんで話しあうことではない、と安兵衛がいったが、それどころか、膳のものも口にはこべぬ激論がすぐにはじまった。
はやりにはやる彼らを、内蔵助はおさえた。
「上野介どのの御首頂戴せねばわれら武士としての一存が立たぬと申すが、われらの武士としての一存のために、せっかく再興の見込みある御家をまったくつぶす気か。もし大学さまお取り立てに相成り、御家のご運がひらければ、その後われらは腹切って亡君のあとを追おうと、|沙《しゃ》|門《もん》になろうとそれは第二義的なことだ。臣としての義務は、どこまでも浅野家再興にある」
というのが内蔵助の説得であった。これに対して安兵衛たちは猛然とこたえた。
「御家御家と仰せられるが、亡君が吉良に刃傷あそばしたとき、殿はすでに浅野家をすてておいであそばす。ご遺志はただ無念残念、その最後のお|恨《うら》みをはらしたてまつるより、家来たるべきものの道はない」
そして、上方でもいくどもくりかえされた|水《みず》|掛《かけ》|論《ろん》ののち、
「太夫は大学さまお取り立てのことは必ず成ると保証なさるか。またそれまでに吉良の老体が|命長《いのちなが》らえておると保証なさるか」
とつめよられて、内蔵助はついに答えざるを得なかった。
「……それでは明年三月期限といたそう」
「三月!」
急進派は歓呼し、熱狂した。
熱情派の反面、用心ぶかい安兵衛は、内蔵助のまたひきのばしを警戒して、|誓《せい》|文《もん》血判のことを申し出た。苦笑して内蔵助がうなずくと、彼はただちに|筆《ひつ》|硯《けん》をはこばせ、紙に墨をはしらせてよみあげた。
「御亡君、御父祖代々の御家、天下にもかえさせられがたき御命まですてられ、ご|鬱《うつ》|憤《ぷん》を散ぜんとせられ|候《そうろう》ところ、ご本望をとげさせられず候段、ご残念のいたり、臣たるもの、うちすてがたく存じたてまつり候。しかる上はたとえ同志のうちに、ほかに量見これあり、延引いたされ候とも、来たる三月――」
「待て」
と、そのとき内蔵助がいった。ぼんやりと|宙《ちゅう》をみている。――次の刹那、横においた|佩《はい》|刀《とう》をひっつかみ、この|昼《ひる》|行《あん》|灯《どん》どのも東軍流の達人であったことを眼に火花のちるように思い出させる|凄《すざま》じい抜討ちで、背後の床柱に斬りつけた。
直径五寸の床柱の中に何がある? ――それは|空《から》|竹《だけ》でない、内部に何か詰まっている|鈍《にぶ》い物音をたてた。
「――竹の中のかぐや姫は光をはなち、竹の中の忍者は血をながす」
内蔵助の声と同時に、おどろくべし、その五寸の竹の柱の切り口から、ぴゅーっと鮮血がふき出して、一間もはなれた壁にしぶきをちらしたのである。
内蔵助崩れ
【一】
枯れて、|寂《さ》びた色をした|孟《もう》|宗《そう》|竹《ちく》の床柱、そこから噴出したものが血だとは、とっさに一座の者には想像もつかなかった。数秒沈黙ののち、大刀をかかえて跳躍してきたのは堀部安兵衛である。
「|太夫《たゆう》――忍者とは?」
絶叫と同時に抜刀して、竹のまえに立つ。内蔵助は血刃をひいたまま、じいっと床柱を|凝視《ぎょうし》している。
――と、その床柱が、内蔵助の切断した個所の二尺ばかり上部で、ぱくっと口をあけた。いままで眼にもみえなかったが、その竹はその高さで|節《ふし》と節のあいだが輪切りになっていて、その部分の竹片が内部からの圧力で割れおちたのである。
「…………」
さすがの安兵衛が、息をひいたまま、声もなかった。その竹の中から、人間の顔がひとつのぞいていたのである。|皺《しわ》だらけの老人の、苦悶にねじれた死相であった。――が、その顔よりも、その下にあるものに想到したとき、人々は|慄《りつ》|然《ぜん》とした。直径五寸の空竹の中に入りこんでいる肉体を。
それが実在する証拠には、内蔵助の一刀はたしかに彼の肉体を斬った。ようやく内蔵助が唇をひらいた。
「忍者であろうが、みごとな|技《わざ》。……|供《く》|養《よう》のため、名をきいておこう」
「|白糸錠閑《しらいとじょうかん》」
「吉良か、上杉か」
老人は答えず、にやりと笑うと同時に、がくりとその顔がまえにおちた。
安兵衛がおどりかかって、床柱を|縦《たて》に斬った。同時にそのなかから、棒をたおすように座敷にころがり出た者がある。すでにこの怪異を目撃していた人々も、眼前にみる信ずべからざる物体には、あっとさけんで飛びのかざるを得なかった。
第一に、まろび出てきたのは上半身だけであったが、その肉体の異常な細さだ。五寸の竹に入っていたのだから当然といえるが、しかし現実にみる蛇のような肉体は、|悪《お》|寒《かん》をもよおすような見物であった。第二に、そのからだが、次の刹那、まるでしごかれていた傘がひろげられたように、ぶきみな骨の音をたててふくれあがってきたことだ。それはみるみる|常態《じょうたい》にかえってゆく。――第三に、人々が水をあびたような恐怖にうたれたのは、その回復機能によって、彼がまだ生きている、と気がついた瞬間であった。彼は内蔵助の一刀により両断された。下半身はまだ竹の中に残っているのだ。それにもかかわらず、彼の上半身はなおうごめき、ふくらみ――いいや、先刻たしかに口をきいた。おのれの姓名を名乗った!
「上杉か、吉良か」
安兵衛がその怪奇な忍者白糸錠閑の上半身をゆさぶったが、さすがに蛇そのもののような彼の生命力もそれまでであったとみえて、切断された胴から|樽《たる》のごとく血を吐きながら、錠閑の顔は|蝋《ろう》|色《いろ》になり、こときれた。
人々は凝然としてだまりこんだままであった。
「耳に骨があるか、ないか、知っておるか」
ややあって、内蔵助がつぶやいた。あまりに突飛な問いなので、返事をする者もなかった。
「耳には骨がある。|水母《くらげ》のように|軟《やわらか》い骨だがの。……こやつは、からだじゅうが、その|軟《なん》|骨《こつ》から出来ておるか、或はからだじゅうの骨を軟骨にかえる忍者であったのだな。まだこの離れが無人であった時刻に忍びこみ、床柱を切って、その中に蛇のようにからだをのばして入っていたものであろう。竹の中の節を切りはなしつつの」
と、内蔵助は首をひねりながらいった。
「それにしても、敵は恐ろしいものを使いおる。仇討ちも、らくではないぞ」
まじめともからかいともつかぬ眼で見まわされて、人々はなお声もない。敵が忍者をつかうとは|上《かみ》|方《がた》からの情報で知ってはいたが、現実にこの忍者をみるまでは、これほど妖怪じみたものとは思わなかったのである。
が、すぐに|昴《こう》|然《ぜん》と安兵衛が顔をあげた。
「なんの、こんな化物――いや、太夫さま、さればこそ、敵討ちを一日もはやくいそがねばならんのでござる。ところで、この化物の始末をどうします」
「忠太夫には知らせぬがよいな。庭なり床下なりに埋めて、とにかくここの家人にはみせぬがよい。みせれば、かならず評判が立つ。ひいてはわれらの会合のことも噂となる」
「では」
と、立ちあがろうとする安兵衛を内蔵助は制した。
「堀部、それよりいまの|誓《せい》|文《もん》をどうしたか。|屍《し》|骸《がい》よりもそちらを片づけろ」
内蔵助をみあげて、安兵衛は微笑した。|茫《ぼう》|洋《よう》として、頼りないようなこの首領が、存外に慎重な思慮と一貫した意志をもっているのに|安《あん》|堵《ど》したのだ。ふたたび、おのれのかいた誓文をとりあげる。
「――来たる三月、ご一周忌の前後、同志の|輩《やから》、義のためかの宅において討死つかまつるべきこと、忠道たるべしと存じきわめ候。右の月日すぎざるように、心をつくし候ほど志をつくし、|鬱《うつ》|憤《ぷん》を散ずべきものなり。かくのごとく申しかわし候うえは相違あるべからず候。もし|違《い》|背《はい》これある者においては、ご亡君のおん罰のがれざるものなり。よって一紙くだんのごとし。――」
内蔵助はうなずいて、まずその誓文に血判をおした。つぎつぎに、人々はこれに血判をつらねる。
「死骸は、高田や毛利に始末させい。はゝは、おれたちが番をするから安心しろと高言を吐きおって、まんまと曲者を忍び入らせ、まだ気づかんで|案山子《か か し》のごとく外に立っておる罰じゃ」
と、内蔵助は笑って立ちあがった。
「さて、これですんだ。ところで、化物退治の口直しに、わしはこれから吉原へゆこうと思うが、安兵衛、唯七、孫太夫、供をせぬか」
みんな、|唖《あ》|然《ぜん》とした。なかんずく、名指された、同志の中でいちばん爆発的な堀部安兵衛と武林唯七と奥田孫太夫は顔を朱色にそめた。
「太夫」
「それ、そのような血相を、雪の|肌《はだ》でつつんでもらうのじゃ。さなくば、忍者ならずとも敵に感づかれるぞ。仇討ちは三月といまきめたではないか」
やや顔色をもとにもどした三人の頭上を、春風のように内蔵助の声がのどかになでる。
「江戸にきて、|北《ほつ》|廓《かく》にあそんだはもう二十年もむかしになるか。京伏見とはちがう江戸女の張り、なつかしゅうて、心が浮き浮きするぞ」
【二】
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「ふけて|廓《くるわ》のよそおいみれば
|宵《よい》のともしびうちそむき寝の――」
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|幇間《たいこ》が三味線にあわせて首をふり出すと、何十人かの遊女たちは華麗な蝶のようにおどり出した。内蔵助も眼をほそめて、口をうごかしている。不夜の灯をつらねた大座敷は、まるで|虹《にじ》の世界のようであった。
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「夢の花さえ
ちらす嵐のさそいきて
|閨《ねや》をつれ出すつれびと男――」
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彼自身が作った小唄なのだ。祇園や|撞木町《しゅもくちょう》でもなかなか好評で、この唄の終わりの文句から、彼に「うきさま」という|廓名《くるわな》をつけさせたのがこれであった。
ねむたげに口ずさみつつ、内蔵助の手は決してねむそうではなく、すこぶる達者なもので、片手に|盃《さかずき》、片手は、たわわな|大《たい》|輪《りん》の花にも似てもたれかかっている|扇屋《おうぎや》第一の|薄《うす》|墨《ずみ》|太夫《だゆう》の袖ぐちから、雪のような胸もとにさしいれて、ふとい指の快楽をたのしんでいるらしい。まるで|富《ふ》|家《か》の町人のように肉のあつい、たっぷりした顔は、およそゆるむだけゆるみ、ぎらぎらとあぶらぎって、典型的な大好色漢の相だった。
末座に三つの石ぼとけみたいにならんでいるのは、堀部安兵衛、武林唯七、奥田孫太夫だ。みなそれぞれ|凜《りん》|然《ぜん》とした男ぶりなので、はじめ遊女たちが|蛾《が》のようにたかってきたが、「寄るな、|売女《ばいた》」と|一《いっ》|喝《かつ》されて、おどろいてはなれてしまった。「人は武士なぜ|傾《けい》|城《せい》にいやがられ」という|川柳《せんりゅう》もあるように、|廓《くるわ》で武士は通用せぬ。登楼するとき、一刀さえもとりあげられるくらいだ。本来なら放り出されて塩をまかれるところだが、彼らがそんな目にあわずにすんだのは、ただ彼らをつれてきた「うきさま」のあまりな|洒《しゃ》|脱《だつ》、あそび上手、そして最初にわたした過分な|揚《あげ》|代《だい》のせいであった。
彼らとて、ねっからの|木強漢《ぼつきょうかん》ではない。とくに堀部などは、若いころは、飲む、打つ、買う、三|拍子《びょうし》そろって鳴らしたものだ。……ただ、今夜ばかりはあきれはてて、この太夫の常人とは思われない|耽《たん》|溺《でき》ぶりに、とうてい調子をあわせる余裕がないのであった。
もとから明るいお人柄ではあったが、こうまで破目をはずせる人とは想像もつかなかった。上方からの同志の手紙でその|放《ほう》|蕩《とう》ぶりは知らされていたが、話にきいた以上である。豪興をすぎて、きちがいじみてすらいる。
さわぎはしだいに、この江戸町ぜんたいに鳴りかえるばかりになった。ふらふらとたちあがった内蔵助が眼かくしされて、鬼あそびをはじめたのである。
「|浮《うき》さま、こちら」
「手の鳴るほうへ」
「鬼ぬけ、まぬけ、太鼓しょってにげろ」
もう吉原の遊女たちも、「浮さま」と呼んでいる。
そのうち、わっと正気とは思えない喚声がもつれあったのをみると、|浮《うき》|大《だい》|尽《じん》は、座敷じゅうヒョロヒョロしながら、ふところから小判を出して、ばらまいているのであった。
こうなっては、鬼も蛇もない。女たちがふしまろんで、たたみのうえをはいまわるのに、浮大尽はまたその上へドサリとふとったからだをなげこんでいる。そして、両腕にふれたふたりの遊女をそのまま抱きかかえて|黄《こ》|金《がね》のうえをころがってうごいた。
「やるぞ、やるぞ、このからだの下の小判は、みなこのふたりにやるぞ」
すると、ほかの女たちも、欲と|脂《し》|粉《ふん》にむれたからだを、わっと浮大尽ひとりになげ重ねた。浮大尽の恐悦した笑い声は、たちまち豚のような悲鳴にかわった。
「重い、苦しい。仇討ちせねばならぬだいじなからだ、おまえらつぶしてくれる気か」
三人が顔色をかえたとき、内蔵助は妙なうなり声とともに、急にしずかになった。遊女たちがおどろいてたちあがると、彼はみぐるしくよだれをたらして、寝入りこんでいるのである。
薄墨太夫がたちあがって、|七《しつ》|宝《ぽう》だんだら[#「だんだら」に傍点]のかいどりをフワとかけて、手をふった。|跫《あし》|音《おと》しのばせ、女たちが出てゆくと、まるで大嵐のあとのようであった。|杯《はい》|盤《ばん》|狼《ろう》|藉《ぜき》をきわめた座敷の隅に、依然三人は肩をいからせて坐っている。
「ぬしさんたちは、どうなさんすえ」
と、薄墨太夫がきいた。
三人の武士は返事もせず、つらぬくような眼を眠っている人になげたままであった。いま太夫は「仇討ちせねばならぬだいじなからだ」といった。どこまで正気でいった言葉か、なんの成心あるとはみえない、豚のように幸福な寝顔であった。太夫は、しんそこから、この放蕩をたのしみぬいているとしか見えなかった。
三人には、この首領が、怪奇な人にすら思われてきた。そして、この怪奇な首領に指導されているじぶんたちの盟約さえ、だんだん怪奇的なものに思われてきた。
「もし、太夫」
安兵衛は、眼をひからせて、にじりよった。相手はなかなか|醒《さ》めない。
「太夫」
手ひどくゆすぶられて、浮大尽はものうげな声をたてた。
「なんじゃあ? ……安兵衛か」
「そろそろ、ひきあげようではござりませぬか」
「ひきあげる? ……|敵《かたき》はまだ討たぬぞ」
「なんと仰せられる」
「二十年前、わしはここにきて、手ひどくふられたことがあったわ。江戸の|花魁《おいらん》への積年の恨み、やわか今宵はらさでおくべきかよ。……これ、薄墨、ほかの女どもはどうした。この男らに|敵娼《あいかた》をみつけてやらぬか」
「でも。……」
「拙者はかえる」
憤然として、武林唯七が立とうとする|袴《はかま》を、安兵衛がつかまえた。耳に口をあててささやく。
「いや、太夫から眼ははなせぬ。危ない」
剛毅なこの男の眼に熱鉄のような涙がうかんでいた。このような太夫を、なお案じなければならぬのは、太夫を信ずるよりほかはないからだ。――そして、薄墨太夫にいった。
「捨てておいてくれ。わしたちは、朝までここにおる」
「お好きなようになされたがようありんしょう」
薄墨はこの三人をもてあましていた。というより、|廓《くるわ》にきて、この頑固な不粋さをおしとおすのに腹をたてていた。その不快さを逆に浮さまへの|濃《のう》|厚《こう》な媚態にかえてしなだれかかり、
「では、浮さま、あちらへ」
眠いのか、うれしいのか、内蔵助はよだれをたらりとひとすじこぼして、ヒョロヒョロとたちあがり、薄墨にからみついてあるき出した。三人の存在など、もう眼中にないというより、忘れはてた様子であった。
三人の耳に、千鳥足で遠ざかってゆく内蔵助の、ものうげな声がきこえた。
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「とけてほどけてねみだれ髪の
つげの|小《お》|櫛《ぐし》も
さすが涙のばらばら雨に
こぼれて袖に
露のよすがのうきつとめ……」
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【三】
薄墨にもたれかかって、網のかかった|雪洞《ぼんぼり》をつらねた扇屋の廊下をあるいてゆく途中、内蔵助はふかい酔いに襲われた。眼のまえが霧のかかったように|昏《くら》くなるとともに、彼は正気をうしなったのである。
気がついたとき、内蔵助は、すべすべした|羽《は》|二《ぶた》|重《え》のようなものにくるまれていた。|豪《ごう》|奢《しゃ》な夜具ではない。――それは律動的に、微妙に、なまめかしくうごきつづけている。彼に|覆《おお》いかぶさっているのは、熱い女体であった。
「薄墨。……」
とよぶ。
「あい。……」
と、女はこたえたが、やわらかなうごきをやめない。
「わしとしたことが、酔うたものよ。いつここに寝かされたかの」
女はふくみ笑いをした。
「いつまでたっても起きなんせんゆえ、こうしてお眼をさましてあげんす。浮さま、江戸の|花魁《おいらん》の味はどうでありんすえ?」
内蔵助は返事ができなかった。香ばしい女の舌が口の中に入ってきたからだ。しかし、さすがは祇園や撞木町で、京おんなにきたえぬかれた内蔵助だ。そのまま、こちらから、四十男の厚かましさと|逞《たくま》しさで、堂々とそれに応じはじめた。……が、あまりの快美に、内蔵助はふたたび|潮《うしお》のなかへひきこまれるような|喪《そう》|神《しん》をおぼえた。
波がひくと、内蔵助はぼんやりとした声でいった。
「うむ、京おんななど、はるかに及ばぬ。……」
「ほゝ、それで江戸の遊女の顔がたったというもの。けれど、浮さま、吉原の女の手並はこれから――」
「これから?」
内蔵助は、かすかに妙なことに気がついていた。あたまの|芯《しん》をひきぬかれたような感じがする。ふつうなら、男はもはや虚脱と不快をおぼえているところだ。しかるにこの女は、これがみずから誇る吉原の遊女の秘術であろうか、一点だけはなお夢幻のごとき快さに脈うちつづけて、それがその一点以外の全身にとろかすような|萎《な》えの感覚の輪をひろげてくるのであった。
「薄墨、いつまでも」
と、内蔵助は嘆息をもらした。
「こうしていたいの」
「いつまでも、こうしておられんすにえ」
「なに」
内蔵助ははじめて薄眼をあけて、女の顔をみた。女は薄墨ではなかった。薄墨よりもっと美しい若い女の顔であった。
内蔵助は身をはなそうとした。からだがはなれなかった。
「薄墨太夫は、いまも|蒲《ふ》|団《とん》部屋でお眠りでありんすよ。当分、わたしがお相手をいたしんす」
「当分。――」
「来年、三月まで」
さすがの内蔵助が狼狽のあまり身をもがいたが、依然ふたりははなれなかった。しかも、それがなんらの痛みをともなわず、肩から腕が抜けないのと同様にはなれないのだ。
「血の|管《くだ》が、ふたりつながっているのでありんすよ」
女はからだをくねらして笑った。わざとまだ|花魁《おいらん》|言《こと》|葉《ば》をつかっているのは、あきらかに|嘲弄《ちょうろう》であった。
「そなた、吉良の忍者か」
内蔵助は抵抗を無益と知って、かすれた声でいった。
「いいえ、上杉の」
「上杉――上杉の手のものが、何のためにかようなことをする」
「あなたを不義士に|堕《おと》すために」
内蔵助はしばらくだまっていたが、やがていった。
「千坂の知恵だな」
「兵部さまをご承知でありんしたか。なるほど、まさに|風《ふう》|月《げつ》|相《そう》|知《ち》。――」
「女、しかし、ほんとうに来年三月までこうしておる気か」
「殺されぬかぎりは」
女はまた笑った。
「ただし、いまも申したように、あなたとわたしは血の管がつながっておりんすにえ、わたしが殺されたら、同時にあなたも死ぬでありんしょう」
「……安兵衛、孫太夫なら、これを知れば両人ともに|串《くし》|刺《ざ》しにするだろう」
「一党の頭領たる内蔵助どのが、上杉の女と交合の姿のまま殺されたとしたら、あとなんぴとがまじめに敵討ちを|志《こころざ》すでありんしょうか」
美女と交わったまま、内蔵助ははじめて戦慄した。
一ノ胴
【一】
男根はいかなる転機で勃起するか。それは男根を構成する海綿体が血液を以て充満されるからだ。海綿体にそそぐ動脈は拡張して多量の血液を送りこみ、加うるに|静脈《じょうみゃく》は縮小して血液の搬去をさまたげる。つまり長い風船に空気をふきこんだのと同様の現象があらわれる。
極端にいえば、ゆきどまり状態になった動脈の尖端が、女の子宮口の血管とつながってしまったのだ。そのことを知って、|驚愕《きょうがく》した時間はみじかかった。この怪事にともなう変化はすでに起こった。もっとも、それは薄墨太夫に化けた女と交わったときから、内蔵助をとらえていた感覚だ。いつまでたっても、そしてこの女を敵の忍者と知っても去りやらぬ快美さと、そして反対に気力の喪失であった。ちょうど|美《うま》|酒《ざけ》に酔ったような感じなのだ。
「内蔵助さま」
「おいよ」
けだるいような返事である。上杉家能登組の忍者お桐は、甘美きわまる薄笑いの顔でのぞきこんだ。
「あなたはほんとうに敵討ちをなさるご所存ですか」
「それが、じぶんでもまだわからぬ」
「わからぬ?」
内蔵助は笑顔をとりもどしていた。それも、れいの|涎《よだれ》のたれそうな、にたにた笑いだ。
お桐の眼に、ちらと疑惑の|翳《かげ》がよぎった。この赤穂の元城代家老の煮ても焼いてもくえない男であることは、千坂兵部からとくといいふくめられていたばかりでなく、|今《こ》|宵《よい》この扇屋に登楼してからの底ぬけの遊びぶりでよく察しられていたのだ。――しかし、内蔵助の感覚は一点のみに吸いつけられていて、あとは|半痴呆状態《はんちほうじょうたい》にあることはたしかであった。お桐の忍法「|魔《ま》|羅《ら》|蝋《ろう》」――これにかけられて、なお|隠《いん》|蔽《ぺい》、策略などの精神的抵抗をしめし得る男はないはずだ。内蔵助の笑いも、完全に|弛《し》|緩《かん》した表情以外の何ものでもないとお桐はみた。
「さればよ、わしは何とかして|故《こ》|殿《との》の弟君大学さまを以て浅野家再興のおゆるしを得たいと奔走しておる。それさえ|叶《かな》えば、敵討ちはとりさげにしたい。だいいち、そこまで御公儀の御寛大を願いながら、一方ではあくまで吉良どののおん首を|頂戴《ちょうだい》するなどいう勝手なことがゆるされるものではないわ」
「しかし、それで一味の衆はひきさがりますか。どうあっても|内匠《たくみの》|頭《かみ》さまのお恨みをはらしたいと、意地をはる者はございませぬか」
「その殿のお恨みじゃが、正直なところを申せば……恐れ多いが、一国の|主《あるじ》たるお方のお怒りとしては、ちと御短慮ではなかったかと思う。御無念のほどはおいたわしいが、三百余の侍、数万の百姓の歎きとひきかえになさるには、あまりにも軽はずみのご所業ではなかったかと、当方が恨めしゅう、残念に存じあげることもある。――」
「しかし、あなたは三月期限で敵を討つと仰せられた」
お桐はいつしか|花魁《おいらん》ことばを忘れている。その宣言をきいた忍者白糸錠閑はたしかに斬ったはずなのに、この女はどうしてそれを知っているのか、という疑問も内蔵助は起こす思考力を失っているようだ。
「あれは、その場かぎりよ」
と、内蔵助はふわ[#「ふわ」に傍点]とした声でつぶやく。
「わしのみるところでは、ひとたび取り潰した大名の家をまた取り立てるなどということが、たとえ特別のおはからいによろうと、来年三月や五月で目鼻がつこうとも思われぬが、あのときは、ひとまずああでもいわねば、江戸派の奴らにわしが殺されかねぬわ」
その頼りなげな言葉は、決してお桐にとって不利なものではなく、またそのけだるげな調子は、お桐の忍法「|魔《ま》|羅《ら》|蝋《ろう》」のせいだと承知しているのに、お桐はいらいらしてきた。
「とどのつまり、浅野家再興の見込みが|潰《つい》えたら?」
内蔵助の背、足にまいた|四《し》|肢《し》に、じいっと力をこめてお桐はといかけた。
「さて|喃《のう》。……」
内蔵助が依然として、あいまいな声でこたえたとき、どどっと廊下を走ってくる|跫《あし》|音《おと》がきこえた。
「なんだと? 薄墨が|蒲《ふ》|団《とん》部屋で見つかったと?」
「それでは太夫といっしょにいる女はだれだ?」
堀部安兵衛、奥田孫太夫らの声だ。内蔵助は仰天した。
「これ、きゃつらがくる。はなせ」
お桐はしかし、逆にいよいよひしと内蔵助にからだを密着させた。――|唐《から》|紙《かみ》の外で不安げな声がした。
「太夫」
内蔵助が口をもがもがさせるばかりで返事をしないのに、外では、さてこそ異変、と|動《どう》|顛《てん》したらしく、からりと唐紙があいた。
「御免」
「安兵衛、孫太夫。……敵の忍者の穴におちた」
そういってから、内蔵助は何が|可笑《お か》しいのか、ふいにげらげら笑い出した。堀部たちは顔色を七面鳥みたいにかえている。華麗な夜具はむくむくとうごくばかりで、中でどんなことが行なわれているかうかがうすべもないが、内蔵助が女に|覆《おお》いかぶさったままらしいのは、いかになんでも厚顔無恥であるし、さらに衆人環視の中にあってげらげら笑っているにいたっては、何と評していいかわからない。
「ち……ちがう」
さけんだのは、|床《とこ》|回《まわ》しの女郎屋者であった。ほんのいましがた蒲団部屋で失神している薄墨太夫を見つけ出したのは彼である。
「見たことのねえ女だ。……おめえはだれだ」
そういわれて、安兵衛はわれにかえった。
「敵の忍者といわれたな」
「そうらしい」
こたえたのは内蔵助だ。夜具のかたちは変わらない。
「で、敵の忍者と申されて……太夫、何をなされておる」
「見るとおり、交合しておる」
「ば、ばかな! 起きられぬか、太夫!」
「それが、はなれぬのじゃ。――来年三月まで」
三人はぽかんと口をあけていたが、すぐに猛然と孫太夫が身をかがめた。
「たわけたことを|仰《おお》せられな。犬ではあるまいし」
「わしとこの女と、血の|管《くだ》がつながっておるという。――」
「待て、奥田」
安兵衛があわてて制したのは、|閨《ねや》のなかでにんまりと微笑している女の顔に、ただごとでない妖気をおぼえ、内蔵助の言葉が悪ふざけでないと知って、閨のなかの光景を人にみせることも、おのれがみることも恐怖したからであった。――かすれた声でいった。
「太夫、そりゃまことでござるか」
「いくらわしでも、これほど恥さらしな芝居ができるかよ。……安兵衛、斬るか?」
安兵衛の|面《おもて》に、|蒼《あお》い殺気がすうとながれるのをみて内蔵助はいった。――女がはじめていった。
「わたしを斬れば、内蔵助さまも御落命なさるが、それをご承知か」
「いや、安兵衛はそなたよりも、わしを斬りたがっておるようだ」
と、内蔵助はいった。平然たる声だ。
「女、いま放せば、おまえの命ごいだけはしてやるが」
「死ぬは覚悟のまえの役目でございます」
女は冷ややかに三人を見あげて、また薄笑いをした。安兵衛と孫太夫と唯七は蒼白になっていた。いまや三人は、事態の重大性を思い知ったのだ。眼前の首領の姿が喜劇性をおびればおびるほど、彼らの立場は悲劇的であった。
三人は、わなわなとふるえ出した。――何かさけび出そうとする孫太夫の危険な口、何かのうごきに出ようとする唯七の殺気にみちた手の、|先《せん》を制して安兵衛がうめいた。
「ともかく、かえろう」
「太夫をどうするのだ!」
安兵衛はちらと内蔵助の方を見下ろしたが、同時に眼をつむった。が、やがてひらいた眼に、この|呆《あき》れはてた首領への、どうすることもできない愛情がゆれているのを、奥田と武林はみとめた。
「このまま、|駕籠《か ご》に。――善後策は、それからのことだ」
ふたりはうなずいた。しばらくののち、扇屋の店先に一挺の駕籠が横づけになった。三人の浪人が赤い|毛《もう》|氈《せん》でかこいつつかつぎこんだものをみて、単なる急病人と思いこんでいた駕籠かきは、眼をまるくした。
ひと足大門を入れば、医者をのぞいては大名といえども|廓《くるわ》の中を駕籠でゆくことはならぬ。この吉原の|不《ふ》|文《ぶん》|律《りつ》をやぶって、女と相乗りで大門を駕籠で出ていったのは、この夜の浮大尽がはじめてだろう。
【二】
生かすもならぬ、殺すもならぬ。――いったい太夫をどうすればよいのだ? 見返り柳にかかった寒月も眼に入らぬ。|衣《え》|紋《もん》|坂《ざか》を上がって|日本堤《にほんづつみ》にかかったとき、どうっと|山《さん》|谷《や》|堀《ぼり》からふきあげてくる寒風も肌に感じない。三人の義士のあたまは、それとは別に熱くなったり、冷たくなったりした。
彼らは、内蔵助が文字通り女の肉の|虜《とりこ》となったことを知った。この醜態を、世間はおろか、ほかの同志の何ぴとにも知られてはならぬ。知れば、世間は|哄笑《こうしょう》し、哄笑のうちに同志の意気は|萎《な》え、たとえ数人が本願をとげたとしても、この|滑《こつ》|稽《けい》な首領の印象はどこまでもついてまわって、一挙そのものを戯画化せずにはおかないだろう。この醜態は、いまのうちにこの世から消しておかなければならぬ。女を殺せば太夫も死ぬということはまことかどうかを疑うよりも、両人ともに|串《くし》|刺《ざ》しにしたいような怒りが、三人の心をどよめかしていた。――それなのに、なぜ三人は、生きたままの内蔵助をつれて逃げてきた?
それは、そういい出した堀部安兵衛にもわからなかった。ただひとつ、はっきりしていることは、この太夫をとうてい殺せないということだ。殺意をおぼえてはじめて知ったことである。この|昼《ひる》|行《あん》|灯《どん》どのをふき消せば、同志すべてちりぢりばらばらに闇中をよろめき出すような予感があり、だいいち、そのような予感はさておいて、この|茫《ぼう》|洋《よう》として、明るくて、可笑しげなおひとに、断じて|刃《やいば》はあてられぬ、その思いだけは、しだいにつよく、彼らの心をとらえてきているのであった。
彼らの苦悶をよそに、八|丁《ちょう》の土手を走る駕籠の中では、断続的にしまりのない内蔵助の喜悦の笑いがもれる。それがなお心におだやかならぬ波をあげて、彼らはほとんど前方をみてもいなかった。いや、大引け過ぎの日本堤に、もはや遊客の影のあるはずもないが、それなのに、
「だ、だれだっ?」
と、ふいに駕籠かきがさけんで、彼らははっとたちどまった。
寒月の下に、頭が青く、つるりとひかった。|杖《つえ》をついた座頭とみて、ぎょっとした駕籠かきは元気づいてわめいた。
「なんだ、|按《あん》|摩《ま》か。いままで影もかたちもみえなかったのに、急にあらわれやがって、びっくりさせやがる」
「そういえば影のうすい野郎だ。やいやい、|廓《くるわ》ちかくで道のまんなかをあるいてると、|四手駕《よ つ で》につきたおされるぜ」
そういわれても、|座《ざ》|頭《とう》はつんぼ[#「つんぼ」に傍点]でもあるらしく、そこにぼんやりと立っている。口に笛をくわえた。ぴいいい……と哀愁をおびた|音《ね》が蒼空をながれると、
「あんまあ、かみしもう、三百もうん……」
と、かなしげな声をはりあげたのである。
「おい、ゆけ」
と安兵衛があごをしゃくりかけて、はたと氷結したのは次の瞬間であった。按摩がにやりと|欠《か》けた歯をみせて、こうつぶやいたのである。
「廓でぬけたおみあし、お腰を、ひとつどうでござります。|赤穂《あこう》の御浪人衆。……」
「やっ? うぬは!」
はっとしたのは、この按摩がじぶんたちの素性を知っていたことばかりでなく、むろん、敵の忍者ということがあたまをかすめたからだ。あきらかに、ただものではない。反射的に堀部と奥田は抜刀していた。
月光の下に、二本の刀身よりひかるのは、座頭の眼であった。死魚みたいな眼を白くむいたまま、また唇を笑わせたのである。
「按摩ばかりでなく、刀の|鑑定《めきき》もいたしまするで。どうぞ、見せて下されや」
武林唯七が地を蹴った。気のみじかいことでは、不破と|双《そう》|璧《へき》といわれた唯七である。地をとびつつ|鞘《さや》ばしった刀は、そのまま座頭の胴を|横《よこ》|薙《な》ぎにしていた。名状しがたいにぶい音がしたのである。刀はたしか按摩の右の脇腹に三寸も斬りこまれた。――それにもかかわらず、按摩はうっそりと立っている。
「あっ」
刀から手をはなしたのは唯七だ。いまの音が、人間の肉を断つひびきではなかったと知るよりはやく、彼の腕はまるで鉛か粘土でも斬ったような、重い|靭《つよ》いしびれをおぼえたのだ。按摩はぶよぶよと水ぶくれしたような男であった。それが胴に三寸も刀をくいこませたまま、また、ぴいいい……と笛を吹いて、平然とつぶやいたのである。
「忍法、一ノ胴」
血は一滴もながれなかった。唯七はとびのこうとした。刀は相手からはなれなかった。座頭は笑った。
「斬れぬ。|赤鰯《あかいわし》でございますな」
「どけっ、唯七!」
狂気のごとく、安兵衛と孫太夫がおどりかかってきた。唯七が横にすっとんで避けたあと、まるで|据《すえ》|物《もの》|斬《ぎ》りをうける死人のごとく無防備な座頭の両の肩から、ななめに|交《こう》|叉《さ》して安兵衛と孫太夫の豪刀が斬り下ろされた。
同時に、左右にふしまろんだのは、その両人であった。V字形に斬りこまれた二条の刀が、V字の下端、みぞおちに合した刹那、ピーンとうごかなくなって、逆にからだをぶっつけあった安兵衛と孫太夫は、横にはねころがったのである。当時江戸で剣名をうたわれた堀内源太左衛門の高弟たる両名とも思われぬ不覚というより、|刃《やいば》をふるった一瞬、だれがこのように意外な|手《て》|応《ごた》えを予測し得たろうか。この座頭は、実に鉛のような肉体の所有者なのであった。
ぴいいい……と、座頭の口から、また笛の哀音がながれた。
「|摺《すり》|付《つけ》……|毛《け》|無《なし》……いずれも赤鰯」
と、彼はくびをひねった。摺付、毛無、一ノ胴――それがいずれも|試斬《ためしぎ》りの用語であることに気がついたのは、そのときであった。
【三】
いくさのない|泰《たい》|平《へい》の世として、しかも万一の場合は一身の生死にもかかわる武士として、刀の利鈍をためすには、死人を試斬りにするよりほかはない。これは主として死刑囚の|屍《し》|体《たい》を以て行なわれた。摺付、毛無、一ノ胴などは、そのとき刃をあてる屍体の個所の名称である。按摩は三本の刀身に串刺しにされたようであった。しかも、平然として、とぼとぼと駕籠の方へあゆみ寄る。
「あっ、やるな!」
安兵衛がさけび、孫太夫と唯七がはね起きて、走りよろうとして立ちすくんだ。彼らの刀は、針をたてた|針鼠《はりねずみ》のごとく、いまや座頭の身をまもる武器となっていることに気づいたのだ。胸と胴、前後にかけて、きらりとつき出した三条の刀身は、おどりかかることも、組みつくことも不可能としていたのである。
ぴいいい……たたらをふむ彼らをみかえりもせず、按摩はまた笛をふいて、
「どりゃ、こんどは駕籠の|御《ご》|仁《じん》のお刀を拝見」
と、つぶやいたとき、駕籠の中で声がきこえた。
「|無明《むみょう》さま」
按摩がたちどまったのは、それが女の声であったばかりでなく、土手に|沿《そ》う山谷堀に、そのとき一|艘《そう》の|猪《ちょ》|牙《き》|舟《ぶね》が入ってきたのを見たからだ。
「お桐か」
月光と|枯《かれ》|葦《あし》に|霞《かす》み、そよいで、舟の上はさだかでないが、そこからたしかに男の声がながれてきた。
「上杉能登組、穴目銭十郎でございます。からだを鉛にかえる忍法一ノ胴――刀も槍も役にはたちませぬ」
刀も槍も役にはたたぬ、というより、水の上と土手には少し距離がありすぎた。そうとみきわめて、座頭はふたたび駕籠の方にむきなおった。
「その声は、米沢のお桐だな」
そうさけんだとき、|蒼《あお》い|堤《つつみ》の上が、|真《しん》|紅《く》に染まった。夜空を、|炎《ほのお》の雲が|翔《か》けた。――それを燃える|投《と》|網《あみ》と知って、按摩は一瞬の|狼《ろう》|狽《ばい》ののち、五、六歩横に走って、土手の反対側に身をふせた。
恐怖のさけびのあがったのは、数秒ののちであった。猪牙舟から夜空になげあげられた網は、もえつつ飛んで、正確に座頭の避けた位置で、ぱあっとひときわ大きくひろがりながら落ちていったのである。
「お桐、裏切ったな」
座頭はうめきつつ、火の網のなかに立って、また笛をくわえたようであった。が、こんどは笛は鳴らず、そこから銀線を曳いて何やら駕籠へとんだのである。
駕籠の中で悲鳴のあがったのと、火の中で座頭が崩折れたのが同時であった。駕籠から、だれかころがり出した。まだ堤の斜面で炎がもえているので、その|裲襠《うちかけ》の背につき立っているひとすじの針がよくみえた。
「太夫から、女がはなれた!」
と、唯七が絶叫してかけよろうとするのを、「待て」と、安兵衛がおさえた。彼はじっと月光をすかして、山谷堀の方を見下ろしている。
「綱太郎様、お桐は死にまする。ただ、大石は来年三月をすぎても敵討ちをする心はありませぬ。わたしの忍法にかけて、それだけはまちがいありませぬ。……」
そういうと、|花魁《おいらん》姿の女は、がくりと堤に伏した。
|猪《ちょ》|牙《き》|舟《ぶね》の上で、返事はなかった。ややあって、溜め息のような声がきこえたようであったが、すぐに冷たい水音がもときた方へ遠ざかっていった。
えたいのしれぬ忍法の死闘に|胆《きも》をうばわれるより、いまの断末魔の女の予言に|愕《がく》|然《ぜん》として、三人の義士はたちすくみ、その舟のゆくえを追うのも忘れている。
「この女、わしをかぼうて、救うてくれた。……」
いつのまにか、駕籠から内蔵助が這い出していた。女を抱きあげて、腰がぬけたようにべったり坐って、つぶやいた。
「惜しい。わしは来年三月まで、このまましっくり交合したままでおりたかったに。……」
郡兵衛崩れ
【一】
本所林町の堀部安兵衛の浪宅から出てきた高田郡兵衛は、夢遊病者のように往来をあるいていた。
ものうい春風が、砂まじりに花びらを吹きつけているが、彼はまばたきするのも忘れたように、かっと眼をむいたままだ。その顔の|凄《せい》|愴《そう》さに、ゆきかう人々はむろん、例の|殺生禁断令《せつしょうきんだんれい》により、人を人とも思わぬ犬たちまで、本能的に道を避けた。
郡兵衛は、たったいま堀部の家で、上方からやってきた吉田忠左衛門と近松勘六から、思いがけぬ報告と説得をきいたばかりであった。すなわち、またも仇討ちの延期。
――なんたることだ!
去年十一月二十三日、大石内蔵助は江戸を去った。内蔵助の江戸滞在中に吉原で|遭《そう》|遇《ぐう》した奇怪な事件はきいているし、その後も何か魂の|芯《しん》をひきぬかれたように|茫《ぼう》とした顔の内蔵助に、心もとない感じはしていたが、「|太夫《たゆう》、例の|誓《せい》|文《もん》のことはお忘れなく」と念をおしたのに、「心得ておる」という返事であったので、いま、約束の三月がきたとき、またもぬけぬけと延期を申し出られようとは思わなかった。
「――来たる三月、ご一周忌の前後、同志の|輩《やから》、義のためかの宅において討死つかまつるべきこと、忠道たるべしと存じきわめ候。もし違背これある者においては、ご亡君のおん罰のがれざるものなり」
はっきりそうかいた誓文に、まっさきに血判をおしたのは太夫ではなかったか。
その三月は来た。そしてまたも|山《やま》|科《しな》に上方の同志をあつめて、悠長な会議がひらかれて、その結果は、なんと、もう一年待とう、ということであったという。
吉田忠左衛門のいうところによれば、内蔵助はあくまで亡君の弟君大学様による浅野家再興の望みをすてていないというのであった。いままで、そのためにあらゆる努力をしてきただけにあきらめきれないらしい。
現在大学は、兄の罪により閉門中であるが、閉門のとかれるのは三年をこえることがないのが慣例であるから、明年三月までには、かならず閉門がとかれ、同時に浅野家の新当主に任ぜられる見込みは大いにあるという。――
そのようにのんべんだらりと日をのばして、万一高齢の|上野《こうずけの》|介《すけ》が病死でもしたらどうするのか、という例の泣きどころをつかれたとき、内蔵助は平然として、そのときは上野介の一子|左兵衛《さひょうえ》を討ち果たせばよかろう、と答えたという。――
吉良左兵衛といえば、同志にとって、新しい不安事が生じていた。それは|旧臘《きゅうろう》上野介の隠居願いがききとどけられて、|嫡男《ちゃくなん》の左兵衛が|跡《あと》|目《め》を相続したということだ。それは上野介がたとえ江戸から姿をかくしても、なんのお構いもないということであった。すなわち、上杉家の方で米沢にひきとる可能性は大いにあるのである。この恐れに対して、内蔵助はけろりとして、ならば米沢城へ斬りこむまでのことよ、といったという。――
ああいえばこういう。のれんに腕おし、まったくのへらず口としか思われない。いったい太夫は正気でいっているのか。いや、上方の同志はそれを正気できいていたのか。
「|故《こ》|殿《との》のお恨みは上野介一身にある。その子を討って何になるのか。いいや、正しく申せば左兵衛は上野介の実子ですらない。上杉家から迎えた養子ではないか。また元亀天正のむかしならしらず、米沢城に攻めかかるなど、左様にたわけたことが成るか、成らぬか、忠左衛門どのほどのお方がそばにいて、どんな顔してきいておられたのか」
と、郡兵衛は吉田忠左衛門にくってかかった。忠左衛門は六十二歳、その老熟した性格から、内蔵助がだれよりも信頼している相談役であった。忠左衛門は白い小さな|髷《まげ》に手をやって、苦笑した。
「それがふしぎじゃ。あの太夫にそういわれると、むきになってやりこめる元気が出ぬ。要するに、太夫には|叛《そむ》けぬ、とどのつまり、これが一同の思案でござったわ」
それは、去年の冬、内蔵助が江戸にきたとき、郡兵衛たちも経験したことだ。ころりとやられた、そう思い出すと、いままた忠左衛門の報告をぽかんときいている江戸の同志たちに、地団駄ふみたいような腹立たしさをおぼえるのであった。郡兵衛はたちあがり、みなを見まわしてさけんだ。
「もはや、太夫はたのむまい。来年になれば、また御家再興、大学さましかじかとくるは|必定《ひつじょう》――待てぬ、われわれのみにて無断決行のほかはない、そう思い決した方々は、拙者とともにお立ちあれ」
二人立った。田中貞四郎と毛利小平太であった。しかし、ふたりのあいだに坐った堀部安兵衛は、腕をこまぬいただけであった。
忠左衛門がいった。
「太夫はの、へたな大工ほど仕事をいそぐものだと仰せられたわ」
そこまできいて、郡兵衛はたたみを蹴ってその座敷を出た。うしろで騒然としたどよめきの中で、「毛利、田中、待て、しばらく待て、いま少し忠左衛門どのの話をきこう」と|叱《しっ》|咤《た》する堀部の声がきこえた。
(上方、上方――なかばぜい六の血のまじった奴らに何ができる?)
往来をあるきながら郡兵衛は歯ぎしりする。彼はもと、江戸の旗本の次男坊であった。
|気性《きしょう》の激しい男だが、たんにそればかりではない。堀部が|莫逆《ばくぎゃく》の友としているだけのことはある。また内蔵助が「江戸の三人男」と呼んで、堀部、奥田とともにもっともあつかいかねているのも、口さきだけの理屈ではまるめこめぬ骨をもっているからだ。それに彼は、江戸でも知られた槍術の達人であった。そこを見込まれて、浅野家に二百石で召しかかえられたのである。やはり江戸でながく浪人をしていて、剣法を以て二百石で召しかかえられた堀部とともに、「槍の郡兵衛」「剣の安兵衛」といえば、赤穂藩の名物男であった。
仕えてみて、きもちのいい藩だ、そう思っていただけに、郡兵衛はこんどというこんどは、つくづくと上方出身の多い同志たちに愛想がつきた。しかも、もっとも信頼していた安兵衛までが、いまさら、これ以上、あの昼行灯のたわごとの何をきこうとしているのか。――
「お、高田だ」
「郡兵衛が通る」
路傍で、そんな声がきこえる。茶店で茶などをのんでいる旗本や|定府侍《じょうふざむらい》たちの敬意にみちたささやきである。江戸に知り合いが多いのだ。
浪人しようと、まったくいじけたところがなく、それどころか、いまに見ておれ、という自らをたのむ|誇《ほこり》のために、昴然とあげてあるいていたあたまを、いま郡兵衛はそむけている。他の同志とちがって、わざと伊達をかざった元禄風の小袖がひるがえるのも、いまとなっては春風に恥じたい郡兵衛であった。
【二】
高田郡兵衛が、貧しげな身なりの多いほかの同志とちがって、|寛《かん》|闊《かつ》な姿をしていたのは、彼の気性もあるが、もともと旗本の家に生まれたからでもある。
つまり、彼の兄の弥五兵衛は、六百石の直参なのだ。浅野家|瓦《が》|解《かい》以来、|小《こ》|日向《びなた》の兄の家に帰居しているのであった。
弥五兵衛も彼をたんなる出戻りの弟とはかんがえていない。彼は例の血盟のことを、兄にはひそかにうちあけていたからだ。
小日向の屋敷にかえったのは、もう夕暮れであった。すると、待ちかねていたらしい兄がとび出してきて、思いがけぬことを彼につたえた。
「郡兵衛、こまったことが|出来《しゅったい》したぞ」
「なんですか」
「きょう、神楽坂の伯父御がこられての、例の件だ」
「それで?」
「何しろ、去年の三月以来の話であろう。断わるに断わりかねて、つい、郡兵衛はかくかくの大望を抱く男ゆえ、せっかくの仰せきけではござれど、お望みには応じかねまする、とついにもらしたのがわるかった。伯父御の顔色がかわった。途方もないこと、万一それがまことなら、公儀に訴えて出ると仰せられた。――」
郡兵衛の顔色も変わった。
神楽坂の伯父と呼んでいるが、遠縁にあたる内田三郎右衛門は、千石取りの旗本であった。お|千《せん》という娘がひとりある。幼いころからゆききして、郡兵衛はにくからず思っていた。
実は、|闊《かつ》|達《たつ》な彼は、三郎右衛門の眼をぬすんで、ひそかにお千に恋をささやいたこともある。おとなしいお千は、顔をまっかにして身をちぢめるばかりであった。彼はじりじりとした。彼が急に浅野家に仕官することになったのも、|冷《ひや》|飯《めし》|食《く》いには容易に得られぬ機会であったからであるが、少々はこの夕顔のようにうなだれたままの娘に、ごうをにやしたからでもある。
が、わずか数年にして、郡兵衛はふたたび|無《む》|禄《ろく》自由の身となった。お千はまだ父の家にひっそりと暮らしていた。
そして、はじめて三郎右衛門から、あらためて郡兵衛を|婿《むこ》にくれという申し込みがあったのである。
「いや、母のない娘ゆえ、|迂《う》|闊《かつ》にもきいてやらなんだ。どんな婿をさがしてやっても、いやじゃ、いやじゃと首をふる。ようやくきいたら、お千はむかしから郡兵衛に惚れていたとよ。夫とする男は、郡兵衛以外にはないと思いこんでいたとよ。いや、そうはじめてきかされたとて、もし郡兵衛が浅野家の家来のままならば、お千は内田のあとをつがねばならぬ一人娘、嫁にやるわけにはゆかぬが、なんたる倖せ、といえばそちらにきのどくじゃが、郡兵衛は浪人となりおった。これなら内田の家にきてもらっても、だれにもさしつかえはあるまい。わしともあろうものが、すぐ身内に日本一の婿どのがいようとは気づかなんだのがおかしいが、さすがはわしの娘、槍の郡兵衛とはようえらんだものよ。――」
それが、去年三月の浅野家断絶後、まもない話であった。
郡兵衛は断わった。お千の心をはじめて知り、|可《か》|憐《れん》にもありがたいことにも思ったが、正直なところ、それどころではなかった。いかに浪人したとはいえ、ご亡君が非業の|御《ご》|最《さい》|期《ご》をとげられてまだ日もたたぬに、他家に婿にゆくのははばかりがある、というのが、真実でもあり、口実でもあった。
内田三郎右衛門はひきさがった。あとでこまることになったのは、その口上に、いよいよ三郎右衛門が感服してひきさがったことだ。夏になり、秋になり、冬になるにつれて、もうよかろう、わしも老体ゆえ、いついかなることになろうかもしれぬ、と、その哀願と|督《とく》|促《そく》はいよいよはげしくなった。
たんに身内の長老というばかりでなく、いろいろと恩義もあるので、断わりを一手にひきうけていた兄の弥五兵衛が、ついに|遁《とん》|辞《じ》に|窮《きゅう》して弟の秘密をうちあけたのは、むりからぬ点があった。が。――
「赤穂浪人が|吉《き》|良《ら》どのを狙っておる、ということは、江戸のだれもが存じておること、いや待ちうけておること、伯父御もうすうす感じられてもよいではないか、とついうちあける気になったのは、わしの短慮でもあったが、そう申せば伯父御も了承してくれるものと、あの人を信じていたからでもあった。それが――」
「何と仰せられるのでござる」
「それはまた筋ちがいのたくらみ、内匠頭どのは公儀からおん|仕《し》|置《おき》を仰せつけられ、天下の大法に服せられたのではないか。しかるに郡兵衛らが徒党をむすび、|復讐沙汰《ふくしゅうざた》に出るとあっては、まさしくお|上《かみ》に|仇《あだ》するものといわねばならぬ。われら公儀の|直《じき》|参《さん》たるもの、きかぬまえなら話はべつ、ひとたびきいた上はききずてにはならぬ、すぐさま|奉行所《ぶぎょうしょ》に訴えて出ようと――」
弥五兵衛はあたまをかかえ、おろおろというのであった。
「お千は、どうやら|鬱《うつ》|々《うつ》案じすぎてわずらっておる様子、そのため伯父御もいささか逆上のていには見受けられたが」
「訴人なされたくば、なされて結構」
郡兵衛は憤然としていった。弥五兵衛は手をふった。
「おまえまでが|癇癪《かんしゃく》を起こしては、事は穏便にすまぬ。奉行も世上の風聞は知っておろうが、さればとて千石取りの旗本から訴人をうけてはすておけまい。万一の大事となったらとりかえしがつかぬ。わしの責めはさておいて、郡兵衛、即刻、神楽坂へいって、実はあの話は兄の|邪《じゃ》|推《すい》にて根も葉もないことと、伯父御をとめてきてくれい。馬だ、|厩《うまや》から馬をひき出してゆけ」
馬にとびのって、春夜の風をうしろにひきながら、郡兵衛は憤怒していた。婿にまで望んだ男の秘密を訴人するという伯父の心事にも腹がたったし、訴人されるに|値《あたい》しない同志の現状にはなお腹がたった。
しかも、万一の場合、事の|破《は》|綻《たん》した責任がじぶんにかかるとあっては、まさに兄のいうごとくすてておくこともならず、孤独でもがいている自分がいちばん腹立たしかった。
【三】
むかいあうと、郡兵衛はいった。
「先刻、おいでの節、兄が何やらよまいごとをのべた|由《よし》でござるが、あれは兄が世上の風聞にまどわされたまでのこと、拙者はそれほどの忠義者ではござらぬゆえ、一応おことわりに参りました」
こんないい方を、郡兵衛が内田三郎右衛門にしたことはない。ぶっきらぼうというより、殺気にみちた|口《こう》|吻《ふん》であり、態度であった。
ふしぎなことに、三郎右衛門は、むしろおびえたように眼をそらして、この|挨《あい》|拶《さつ》をきいた。
やがていった。
「ああ申せば、そなたがかけつけてくるであろうと思うての」
そして、その老いた眼に涙をうかべた。
「郡兵衛、さすがはわしの|眼鏡《めがね》にかのうた奴、存分に武士をたてて死ね。……したがのう、何年もそなたを恋い、そなた恋しさにいまわずろうておる奴、ふびんで、わしの口からはいえぬ。そなたから、さむらいの道をとくといいきかせてやってくれい。そなたからきけば、お千も、得心するであろう」
憤怒した頭上から、水をあびたような思いであった。郡兵衛は、ことさらに伯父の推量を否定する心も、その依頼を拒否する心もうしなった。
しばらくののち、|閨《ねや》に伏して泣きむせぶお千の枕頭に、郡兵衛は腕をこまぬいて坐っていた。
「わかりました。わたしをおきらいでなかったと知って、お千はうれしゅうございます。……」
やがて、顔をあげて、お千はきっぱりといった。
「郡兵衛さま、|祝言《しゅうげん》こそあげませねど、わたしはあなたさまの妻だと思うてゆきまする。お千に、そう思わせて下さりませ。……」
あやうく郡兵衛は、ひしとお千を抱きしめるところであった。
あの夕顔の花のようなお千が、このように|凜《りん》|然《ぜん》とした言葉を吐こうとは――熱情がそういわせるのであろう、それに、二十三という年齢がそういわせるのであろう。もとから美しい娘ではあったが、数年ぶりでみるお千は、|病《や》んでいることでもあり、夕闇に咲いている感じは変わらぬままに、豊熟した|白《はく》|牡《ぼ》|丹《たん》のような|艶《えん》|麗《れい》さであった。
「きかれい、お千どの」
と、郡兵衛はいった。
「わしの親友に堀部と申す男がある。七、八年前、高田馬場の仇討ちで評判になった快男児、あれが赤穂藩の堀部家に養子にきたのです。ただ、さきの娘がことし十七になったばかり、いよいよ去年の春祝言をあげようとして、そのとき主家の凶変が|出来《しゅったい》しました。そのため堀部は養子の身ながらついに娘を|処女《おとめ》のままにおき、大望をはたすまでは|女断《おんなだ》ちをしております。そして、大望をはたすときは、すなわちおのれの命を断つときでござる。……」
それは事実であり、それに打たれた郡兵衛もまた女を|断《た》った。浪人して以来、いかに三郎右衛門に招かれても、ついにこの家の|閾《しきい》をふまなかったのも、その心意気からであった。
「安兵衛はかならずしも、じぶんの死後、その娘の再縁のことを考えてそうしているわけではないのです。娘は大願成就のあとは、すぐに髪をおろして|尼《あま》になる決心をたてております。それはひとえに、亡君への誓いからでござる。されば、……」
郡兵衛の声は感動にふるえてきた。堀部への感動もさることながら、じぶん自身の行為への、悲壮な、|戒律的《ストイツク》な、おののくような感動でもあった。
「このまま、このまま。拙者を女しらずの男として死なせて下されい」
「郡兵衛さま、わたしも尼になりまする。……」
ふたりが、透明な|炎《ほのお》のような言葉をかわしたとき、障子の外で、ひくいふくみ笑いの声がした。
ぎょっとなりながら、しばらく郡兵衛が起とうともしなかったのは、それが若い女の声だったからだ。
「女を断つ、それはまことかや? 郡兵衛、むりはせぬがよいぞ。……」
猛然として、郡兵衛は|長押《なげし》の槍にとびついていた。一振りして|鞘《さや》をふりはらって、さすがにあわてる風もなく、沈着な声にもどったのは、槍をもたせては江戸|無《む》|双《そう》の自信からだ。
「何やつだ」
障子があいた。外はおぼろ月なのに、障子に影がうつらなかった奇怪さを、郡兵衛もお千もとっさに気がつかなかった。というより、そこにそのおぼろ月をあびてすっくと立つ白い影に、はっと息をのんでしまったからであった。
それは黒髪をながくたらしたままの全裸の美女であった。
「女ぎらい……食わずぎらいは一生の損」
にっと笑った女の顔が、次の瞬間、音なくしずんだ。さすがの郡兵衛が眼をつむり、あたまをふった。首のみならず、女の手足までその胴に沈みこんでゆくのをみたからだ。――一瞬ののち、そこにまっしろな胴ばかりの|肉《にっ》|塊《かい》が|朦《もう》|朧《ろう》ところがっていた。ただ、両側に黒髪をふりみだしたまま。
その白い肉塊に|翳《かげ》が生まれ、くびれが入っていった。――悲鳴をあげて、お千は顔をふせていた。
縁側にあるのは、人間の大きさだけの女の顔であった。それが、声もなく笑ったのだ。黒い魚のような眼をかがやかし、炎のような|真《しん》|紅《く》の唇をひらいて笑ったのだ。例えようもなく美しいだけに、それは|凄《すさま》じいものであった。
「妖怪!」
絶叫とともに、郡兵衛の長槍はその巨大な女の顔に走った。
槍は白い大理石のような歯に、はっしと食いとめられた。そして、その歯のあいだから、ふうっとむせかえるような息がふき出されて、郡兵衛の全身をつつんだのである。
食虫花
【一】
高田郡兵衛は槍から手をはなした。|撥《ばち》の曲芸師が撥をあやつるよりもっと自在に槍をあやつる「槍の郡兵衛」が、一瞬、神気が|靄《もや》につつまれたように槍をはなしたのである。
女の首の吐きかけた息は、強烈な花粉の匂いがした。何千ともしれぬ|百合《ゆ り》の花につつまれたような匂いであった。事実、彼はおのれのまわりに甘い花粉の霧がうずまき、全身がべたべたとぬれる感覚をおぼえた。花粉の霧のかなたに、黒いふたつの太陽みたいに巨大な眼がかがやいている。そして、女の首はまた笑った。
「子供になれ……郡兵衛……|嬰《あか》|児《ご》になれ。……」
なまぬるい風に似た声が耳をかすめたとき、郡兵衛のあたまを|混《こん》|沌《とん》たる雲がながれた。
このときの彼の|脳《のう》|髄《ずい》の状態を説明することはむずかしい。彼は先刻「妖怪」と呼んだ。頭の一隅を「吉良の忍者」ということはちらとかすめたが、眼前の|変《へん》|化《げ》が恐ろしいものであることはまちがいなかった。それなのに、このとき彼の心から恐怖感情がどろどろに溶解してしまったのである。吹きかけられた息の魔香のせいもあったろう。しかし、そればかりではなかった。
そもそも精子を受け入れた卵子は、やがてくびれて二個の|分剖球《ぶんぼうきゅう》となる。それはさらに分裂をくりかえし、まるで桑の|実《み》のようなものになる。さらに両極に二つの穴が生じて口と肛門となり、それをつらねる腸管が通じ、頭部と|躯《く》|幹《かん》にわかれ、四肢がはえ、しだいに|胎《たい》|児《じ》のかたちをととのえてゆく。――もとより郡兵衛はそんなことを知らぬ。いや、なんぴとといえども、生きながら|胎《たい》|生《せい》発育の状態を見たものはない。しかし、それは、すべての人が、おのれ自身経過したことなのだ。
女のからだから四肢が消え、頭がしずんで、一個の|肉《にっ》|塊《かい》となる。それは胎児形成のフィルムを、逆転させるような|観《み》|物《もの》であった。そしてその肉塊に|眼《め》|鼻《はな》|口《くち》が生じてきたのは、胎内九ヵ月の変貌を、一呼吸のうちにみるような眺めであった。銀灰色のおぼろ月の下に、それは恐怖よりももっと模糊として心根に徹する衝撃を、郡兵衛の脳髄にあたえた。
彼はじぶんのからだがみるみる小さくなってゆくような感じがした。同時に、女の首がいままでの倍も三倍もにふくれあがったような気がした。
「|胎《はら》|児《ご》になれ……郡兵衛……胎児になれ」
風に似た声と、銀灰色の蒸気が全身をつつむ。
郡兵衛の眼前に、|薔薇《ば ら》色の花が咲いたようであった。もっとも、郡兵衛はいままでそんな巨大な花をみたことはない。それはあたかも熱帯の妖花ラフレシアのようなものだといおうか。それがうねうねとゆれて、
「わが|胎《はら》に入れ、郡兵衛。……」
と、またいったとき、郡兵衛は|食虫花《しょくちゅうか》に吸われる虫みたいにひきよせられた。槍がどうなったのか、お千がどうしたのか、彼の意識は人外境にとんでいる。
郡兵衛は巨大な|薔薇《ば ら》色の花にのみこまれるのを感じた。足すれすれに、うしろで真っ白な石――歯が上下にとじられた。彼がもがいているのは、熱い、やわらかい、|爬虫《はちゅう》のような肉の上だ。もがくまいとしても、その肉はうねり、うごめき、ころがし、もてあそび、彼の全身をぬるぬるの液体でまぶしてしまった。
ふいにその一方が巻きあがると、郡兵衛は奥へすべり出した。頭上に、ぶあつい、真っ赤な|鍾乳石《しょうにゅうせき》みたいなものが垂れさがった下を、彼は恐ろしい勢いでおちていった。
郡兵衛は、ぬかるみの中に、しぶきをちらしておちた。夢中ではねおきたが、満面|泥《どろ》にまみれたような感覚があった。|鼻《び》|腔《こう》に|酸臭《さんしゅう》が満ちた。が、頭上のひくい|穹窿《きゅうりゅう》をふりあおいで、彼はその怪奇な美しさに眼を見はった。うす赤い隆起が網のように這いまわり、それにかこまれた無数のくぼみから、透明な液体が滴々としたたりおちる。とみるまに、その全体が大きく波うちはじめ、彼の足をさらった。ふたたびぬかるみの中にふしまろんだ彼の鼻口を液汁が覆い、もがきぬくうちに彼は|混《こん》|沌《とん》たる|喪《そう》|神《しん》に襲われた。
――何がどうなったのかわからない。しばらくののち郡兵衛は、ふいに香ばしい空気を吸って意識をとりもどした。彼はからだじゅうぬめぬめした|粘《ねん》|膜《まく》にぴったりつつまれて、首だけ外界に出ていることに気がついた。あおむけに出た彼の首のすぐ上に、うすもも色の|円《えん》|錐《すい》形の隆起がぬれひかり、そのむこうに黒い|草《くさ》|叢《むら》のようなものがみえた。と、彼の全身をうずめたあたたかいものが、|柔《やわ》らかくうごめき出して、無数のひだの輪で彼の胴をしめつけたりゆるめたりするたびに、彼は魂をしごきぬかれるような快美にあえいだ。
郡兵衛は舌をたらし、|獣《けもの》のようなうめきをあげた。その声に、女のうめき声がまじり、しかもそれがお千の声だ、と気がついたとき、
「何をしておる」
突然、かんだかい老人の叫びが|鼓《こ》|膜《まく》をうった。
郡兵衛はわれにかえって、唐紙のあいだに口をぽかんとあけて棒立ちになっている内田三郎右衛門の姿を見とめた。それから、くびを亀みたいに左右にうごかして、じぶんがいかなる状態にあるかを知って自失した。
彼は|閨《ねや》のうえにあおむけに横たわり、そのくびをお千の両肢のあいだにさしいれていたのである。まっしろなふとももで、ぴったりと郡兵衛の顔をはさみつけたお千は、まだ父の声にも気づかぬ風で、|恍《こう》|惚《こつ》と眼をとじ、とろけるようなあえぎをあげながら、夢中に身をもみつづけているのであった。
庭むきのひらいた|障子《しょうじ》の外の縁側に女の首はなかった。そこの柱にぐさと突きたてられた槍に、きらりと月光がはねかえっているばかりであった。
【二】
「――なるほどわしは、お千をそなたの嫁にしてもらいたいと望んでおったには相違ない。しかし、ふたりを逢わせたら、あのようなたわけた所業をいたすとは思わなんだ。――お千めも、気でも狂ったのか」
と、内田三郎右衛門は|苦《にが》りきったような、|呆《あき》れかえったような嘆息をもらした。
別室にひき出されてきた高田郡兵衛は、耳たぶから血もしたたりそうに赤面して、うつむいている。
敵の忍法にかけられた、と思う。しかし、自分の経験をこの老人に話しても信じてもらえそうにない。だいいち、自分でも、どうしてあんなことになったのか、泥酔からさめたように、わけがわからないのだ。
弁解することのできないのは、そればかりではなかった。あれほど自分の武士魂に感動してくれたこの伯父に、その娘との言語に絶する行為をみられたという恥ずかしさが全身をぬらし、もはや二度と大きな顔はできないという|自《じ》|棄《き》|感《かん》が、彼の口を無気力に|麻《ま》|痺《ひ》させてしまったのだ。
「……ともあれ」
ながいあいだたってから、三郎右衛門がしゃがれ声でいった。
「かかるなりゆきと相成っては、お千を女房にしてくれるよりほかはあるまい」
その語尾にかくせぬ軽蔑的なひびきがあるのを耳に感じながら、郡兵衛は腹をたてなかった。彼はじぶん自身を軽蔑していた。
もはや、何を要求されても、はねかえすべき精神的な骨は郡兵衛になかった。彼はお千にも絶望を感じていた。あのひっそりとしてしとやかな娘のあられもない狂態を思い出すと、それが彼女の罪ではないと理性では承知しながら、地獄的な幻滅をいだかざるを得ないのだ。そのくせ、お千を妻にすることが決して幸福をもたらさないだろうというはっきりした予感があるのに、彼女に対してどろどろの魅惑をおぼえていることも事実なのであった。
「ただ」
と、彼の|堕《お》ちかかった心を、弱々しい一本の糸がひきとめた。
「同志との|誓《ちか》いが」
「わしが先刻打った芝居をつかうのだな」
「芝居?」
「あれはそなたをここへひき出すためだけの方便であったが――|婿《むこ》になれと責められて、苦しまぎれに敵討ちのことをうちあけたら、わしが|奉行所《ぶぎょうしょ》に訴えるといい出し、進退きわまったと頭をかかえてみせるのじゃ」
|行《あん》|灯《どん》の灯まで暗くなり、郡兵衛の視界には、ただ伯父のくぼんだ眼ばかりひかってみえた。
それは、|老《ろう》|獪《かい》な狸のような――しかも、あきらかに、彼を共犯者と見くびった眼であった。
【三】
虚脱したような|堕《だ》|落《らく》|劇《げき》が、内田家で推移しているあいだ、その外のおぼろ月の下で、異様な忍法の死闘が行なわれているのを、だれも知らなかった。
内田家の|土《ど》|塀《べい》のかげの暗がりから、すうとはなれて歩み出た黒い影がある。二間ばかりおいて、やはり旗本の屋敷の土塀がつづく裏通りであった。そちら側には月光が一面にあたっているので、|黒《くろ》|頭《ず》|巾《きん》、|黒装束《くろしょうぞく》の姿が|夜鴉《よがらす》のようにくっきりと浮かびあがった。塀の上から、|木《もく》|蓮《れん》の花がさし出していた。
影はその塀の下にかがみこんだ。ほかに物音ひとつせぬ屋敷町の、木蓮の花ひとひらもゆれぬ春の夜である。ただ、耳をすませると、かすかな水の音がする。ふだんならきこえぬほどのせせらぎは、塀の|裾《すそ》を這うほそい水のながれであった。影はまるでその|溝《みぞ》川で顔でも洗っているようにみえた。
が、事実は、影はふところからとり出した五寸に足りぬ小さな人形の足を水にひたしたのである。――と、その人形はみるみるふくれあがりはじめた。二寸、三寸……一尺、二尺、あたかも|墨汁《ぼくじゅう》のにじみひろがるように大きくなって、数分ののち、そこに影とそっくりの黒頭巾、黒装束の姿がにゅーっと仁王立ちになったのである。
内田家の土塀の|瓦《かわら》が、猫でもあるくようにことりと鳴ったとき、そこにはただ一つの黒影しか残っていなかった。
塀の上に、白い影がふんわりと立った。片手にきものや帯をつかんだ全裸の若い女だ。いちど、庭の方をふりかえり、にんまりと片えくぼを彫ったが、すぐにそのきものを身にまとうのにかかった。――そのとき、
「お杉よ」
と、ひくい声で呼ばれた。
女は手をとめて、じっと路上を見下ろした。向かいの土塀におちる木蓮の花影の中に、ひときわ黒ぐろと立った影を見すかして、
「その声は、|鴉谷笑兵衛《からすやしょうべえ》どのじゃな」
といって、にこりと美しい笑顔をみせた。
「これは、珍しいところで」
「お杉、いつ江戸へ出てきたか」
「ほんの三日ばかりまえ」
「何をしておるのか」
「そなたこそ、なぜこんなところにいやる」
「この屋敷に、赤穂浪士のひとり、高田郡兵衛が入ったであろう」
「お、それを承知か」
「と、そなたも知っている以上、高田が浪人のうちでいちばん凶悪な奴であることも存じておるだろう。……郡兵衛を殺してきたか」
「いや」
「なぜ」
お杉はしばらくだまっていたが、やがていった。
「殺すより、もっとむごいことをしてきた。あの男から、侍の魂をひきずりおとしてやったのじゃ。笑兵衛どの、そなたは郡兵衛を殺しにきたのか」
「左様、討ち果たさねば安心ならぬ奴と見きわめをつけた」
「それはならぬ、赤穂浪人を闇討ちすれば、吉良、上杉に傷がつく」
「ふむ、それは千坂兵部さまのご思案であろう」
返事をせぬお杉に、笑兵衛はにたりと笑ったようであった。
「|策《さく》を弄するものは、策に倒れる。兵部さまのお考えになりそうなことじゃ。まわりくどく|搦手《からめて》搦手から浪人どもの|尻《しり》をかぎまわっておるうちに、きゃつらに一撃のもとに吉良家を踏みつぶされるであろう。郡兵衛など、ぬけがけして一人でも斬りこみかねまじき奴だ」
土塀の上の女の白い|輪《りん》|廓《かく》が、このときぼうっとけぶりはじめた。
「と、申しても、そなたはおれのいうことに納得すまい。はじめから、そなたのいったことはみな嘘だ」
「…………」
「江戸へ三日ばかりまえにきたとは、ようぬけぬけといいおった。お杉、うぬら、去年の秋から上方へいっておったな。|瓜連兵三郎《うりつらひょうざぶろう》、|浪打丈之進《なみうちじょうのしん》が京でゆくえを断ち、白糸錠閑、穴目銭十郎が江戸で消息を断った。あれらほどのものが、やわか赤穂の|痩《やせ》浪人に討たれるはずがない。このごろ、ようやくうぬらの|仕《し》|業《わざ》だと気がついたのだ」
「…………」
「うぬらは国家老の兵部さまのためにうごき、われらは御主君たる|弾正大弼《だんじょうだいひつ》さまのためにうごく。いずれが重いか、あの月よりも明らかなことだ。兵部さまほどのお方が、それをご覚悟の上で主君にお手向かいなされるとあれば、うぬにいま何と申してもききいれぬことは百も承知だ」
「…………」
「おなじ能登組の家に生まれた間、ましてや女とあれば、ふびんもつのるが、四人も|朋《ほう》|輩《ばい》を討たれたうえは、もはや|不《ふ》|倶《ぐ》|戴《たい》|天《てん》の悪縁、お杉。――」
せせら笑ってそう呼びかけたまま、鴉谷笑兵衛はだまりこんだ。
塀の上から、白い|靄《もや》のかたまりのようなものが|漂《ただよ》いおちた。それは|凝《こ》って、一個の巨大な女の首となった。
「|嬰《あか》|児《ご》になれ……笑兵衛……|胎《はら》|児《ご》になれ。……」
風に似た声が、春の夜にながれた。
このとき、相手の感覚にいかなる異変が起こるか、お杉は知っている。――数分ののち、お杉の白いからだは、路上にたおれた|黒《こく》|衣《い》の影にまきついていた。彼女のむっちりとした足は、相手のくびにまといつき、しめつけていた。彼女は、おのれの両足のあいだにはさみこまれた鴉谷笑兵衛が、|女《にょ》|陰《いん》にはさみこまれた幻覚に、快美と苦悶のまじりあったあえぎをもらすのをきいたように思った。彼女のふくらはぎは、|縄《なわ》のようによじれた。――その足くびに、ふいに激痛をおぼえたのである。
「うっ」
お杉の足は、一本の|※[#「※」は「金」+「票」Unicode=#93E2 DFパブリ外字=#F762「b」]《ひょう》に|縫《ぬ》われていた。
苦痛に満面をひきゆがめつつ、さすがは能登組の忍者、とうなずく心もあったのである。彼女は両足を|鞭《むち》のようにしぼった。もがく鴉谷笑兵衛をそのまま足で絞め殺そうとしたのである。
そのしめつけた男が、人間ではない、と気がついたのは次の瞬間であった。
「しまった」
お杉は鴉谷笑兵衛の忍法「|偕《かい》|老《ろう》|同《どう》|穴《けつ》」を知っているつもりであった。偕老同穴とは、海に|棲《す》む海綿動物の一種である。彼は海綿でつくった人形をあやつる。五寸に足りぬその小人形は、水を吸うことによって巨大化し、彼自身そっくりにみえることを知っていた。知っていながら、まんまとかかったのは、彼女の不覚でもあるが、笑兵衛の妙術でもある。
彼女のとびおりた内田家の土塀のすぐ下から、黒装束の影が音もなくすべり出した。
「先刻のつづきだが、どこまで申したかの。左様、もはや不倶戴天の悪縁。――女を討つは本意ではないが、これもたがいに忍者の家に生まれた業と思え」
実体の鴉谷笑兵衛は腕ぐみをして立ったまま、路上にのたうつ女忍者を見下ろした。
いまや、自分自身の足を|鉄《てつ》|鎖《さ》にかえて、縛りつけられているのはお杉であった。|両肢《りょうし》のあいだに|黒《こく》|衣《い》の人形をはさんで、その足くびは|※[#「※」は「金」+「票」Unicode=#93E2 DFパブリ外字=#F762「b」]《ひょう》に|縫《ぬ》われていた。そして、その黒衣の人形はみるみる|膨《ぼう》|大《だい》|化《か》してきたのである。人形は片足を溝につけ、刻々と水を吸いあげているのであった。頭部は桶のごとく、躯幹は|俵《たわら》のごとく、無限に、無限に。――
「む、無明さま」
ついにお杉は苦悶の絶叫をあげた。
「いらせられますか。いらせられるなら、お救い下さいまし」
「な、なに、だれかいるのか」
愕然として鴉谷笑兵衛はあたりを見まわしたが、彼ほどの|忍《にん》|者《じゃ》|眼《がん》、|忍《にん》|者《じゃ》|耳《みみ》にも知覚される人の気配はなかった。それにもかかわらず、すぐ頭上で声がきこえたのである。
「おる。――能登の忍法争い、面白いぞ」
「無明さま、はやく、この人形をどけて――」
「お杉、忍者は死のうと、人に助けは呼ばぬものじゃ。それに、おれはそなたらの裏切りの監視役ではあるが、そなたの|助《すけ》|人《びと》ではない。兵部さまからのお申しつけは、それだけだ」
冷ややかな笑い声が、木蓮の花から降ってくるときいて、鴉谷笑兵衛の手から、鉄のマキビシが月明りにきらめきつつ投げあげられた。――木蓮の花は桜のように空を覆っているものではない。枝を重ね、花を重ねても、その一|枝《し》ずつ、その一輪ずつはくっきりと浮いて、あきらかに夜空を|透《す》かしている。そこに、何者の影もみえなかった。
しかも、何者の影もみえないのに、次の瞬間、花は吹雪のごとく散ってきた。散りおちながら、それは火の花となった。
「あっ」
さすがの鴉谷笑兵衛が仰天して、宙をとんで十数歩にげた。その背に、幾百片の花は火つむじとなって吹きつけて、彼もまた火の|一《いつ》|塊《かい》としてしまった。
このとき、路上の女忍者も、その女陰からアマリリスの花弁のごとくたてに裂けた。いま、空の声の一鞭をうけて以来、彼女はひたと沈黙し、そして股間にふくれあがる黒衣の人形のためにからだを裂かれても、ついに一声の悲鳴もあげなかった。
「あれは|弾正大弼《だんじょうだいひつ》のため、これは千坂兵部のため……」
花の一輪もない木蓮のほそい枝のうえに、いまはっきりと姿をあらわした無明綱太郎は、おぼろ月をふりあおいで、|憮《ぶ》|然《ぜん》としてつぶやいた。
「忠義のために死ぬ奴は、赤穂浪人をふくめて好きでないな」
貞四郎崩れ
【一】
田中貞四郎と毛利小平太が、京の旅からかえってきたのは、七月の半ばであった。
この春、もう一年待つ、すくなくとも大学様の処置のきまるまでは待つ、という内蔵助の決定に、いやいやながら承服した江戸派であったが、その後京からきこえてくるのは、|臥薪嘗胆《がしんしょうたん》、というには程遠い内蔵助のだだら遊びの噂ばかりである。江戸派は|銷沈[#電子文庫化時コメント 底本誤植を訂正。S37「悄沈」、S39・S42・S47・H06「銷沈」、'98「鎖沈」]《しょうちん》し、会合の|度《ど》は|減《げん》じ、そして、その会合の席にあらわれるべき顔も、ぽつり、ぽつりと欠けていった。
去年の秋、内蔵助と同行して出府し、そのまま江戸にとどまり、|仔《し》|細《さい》らしい顔をして強硬派をなだめる役を買っていた河村伝兵衛、岡本次郎左衛門。
小野寺|十内《じゅうない》の妻の兄、|灰《はい》|方《かた》藤兵衛。大石瀬左衛門の兄、大石孫四郎。
凶変の際、|内匠《たくみの》|頭《かみ》の近習として、まっさきに主君の切腹に|殉死《じゅんし》しようとした中村清右衛門。浅野藩でも堀部弥兵衛とならぶ|剛《ごう》|毅《き》一徹の老人|小《お》|山《やま》|田《だ》|一《いつ》|閑《かん》の子、小山田庄左衛門。等、等。
たまりかねて、田中貞四郎と毛利小平太が京へいったのは、江戸のこのありさまを報告して、内蔵助の反省をうながすためであったが、ふたりはまるで狐か狸に|化《ば》かされたような顔をしてかえってきた。内蔵助の方針はうごかず、落ちるものは落とせといい、そして貞四郎にも小平太にも、|所《しょ》|詮《せん》残りすくないいのち、いまのうちに酒をのめ、女を買えとすすめて笑っている。――
それが、ふしぎに、そういわれているときはもっともらしく、まるで春風にむかってこぶしをふりあげるように腕が|萎《な》えるのだ。両人の眼前で、|祇《ぎ》|園《おん》や|撞木町《しゅもくちょう》の遊女たちに、|面《おもて》をそむけるような好色な|悪戯《いたずら》をへいきでやり、いったいこのおひとは本心敵をうつ気なのか、と疑わせる一方、すでに脱落した江戸家老の藤井又左衛門や安井彦右衛門や城代の大野九郎兵衛などとはちがう、どこか|茫《ぼう》|洋《よう》として何もかも包みこんでしまう春の海のような内蔵助であった。器量のちがいで、若い貞四郎や小平太はついに歯がたたなかった。
本所林町の堀部安兵衛の家で待ち受けていた同志たちに、ふたりはあいまいな顔で報告した。結局、いままでこちらから連絡にいったり、あちらから|慰《い》|撫《ぶ》にきたりした連中の言い分とおなじことなのである。ただ、同志のうちでも最も血気にはやる両人だけに、それが本人もくやしく、いまになってだんだん腹をたててきて、しかも、その立腹のむけどころがないのにふたりは苦しんだ。それが可笑しかったとみえ、微笑している安兵衛に、ふたりはむっとした。立腹のむけどころを見つけて、貞四郎がかみつくようにいった。
「|太夫《たゆう》はだめだ! 敵は討つ、きっと討つと仰せられる。それに相違はあるまいが、おれたちには待てぬ。おれたちだけでやろう。人数不足のため、万一失敗したなら、そのとき二番手として太夫に望みを託せばよい。たとえ吉良邸の門前で|屍《かばね》をさらそうと、われら志あるものだけでも斬りこもう。――そう、小平太と話して、われわれは帰府した次第だ。堀部、賛成してくれるな?」
「おれは太夫を待つことに決めておる」
と、安兵衛はおちついていった。ぶあつい笑顔のまま、
「この春以来、おれはもはや五年でも十年でも待つ、こうなったら太夫と根くらべだと観念しているのだよ。実は田中や毛利の旅は、いって甲斐なき|京詣《きょうまい》りだとはじめから承知していたのだ」
貞四郎と小平太の血相をみてとって、杉野十平次が未発のうちにふたりの|鋭《えい》|鋒《ほう》をそらした。
「待て、いまの田中の口上で思い出したが、その説は|曾《かつ》て高田郡兵衛もとなえてやまなんだことがあった。このごろ、あれはとんと姿をみせぬが、堀部、郡兵衛はどうしたのか存ぜぬか?」
しかし、それはいま突然杉野だけが思い出したことではなく、この一、二ヵ月、同志の人々の胸に暗雲のようにわいていた疑惑であった。ただ、高田郡兵衛が堀部とならんで江戸派の中心的存在であっただけに、その疑惑を口にすることが恐ろしかったのだ。五月ごろまで、郡兵衛は会合には出てきた。が、めだって口数が少なくなり、|沈《ちん》|鬱《うつ》になり、そしてこのごろは、まったく姿をあらわさないようになった。――
「なに、会合にも出てこぬと? そういえば、きょうも見えぬな」
しばらく京へいっていた田中貞四郎と毛利小平太は、|吐《と》|胸《むね》をつかれたように一座を見まわした。
「堀部、お手前はあれと親友だ。わけがあるなら存じておろう」
安兵衛は腕をくみ、ながいあいだうつむいていた。やがて、顔をあげていった。
「やはり、いつかは申さねばならぬこととは思っておった。……郡兵衛は、盟約から去った」
「高田が!」
恐れていた疑惑ながら、|愕《がく》|然《ぜん》たるさけびが走った。|凄《すさ》まじい視線の集中をあびて、安兵衛は微笑したが、その笑顔には哀しさがあふれた。
「高田がおれのところに相談にきたのは、|二《ふ》タ月ばかりまえの夜であった。高田の伯父に内田三郎右衛門という旗本があるが、先ごろから郡兵衛を|婿《むこ》にもらいたいといってきかぬ。断わりかねて、郡兵衛の兄が、そこつにも盟約のことをうちあけたところ、内田は|驚愕《きょうがく》して、|訴《そ》|人《にん》するといい出しおった。……婿をことわれば大事の発覚となり、婿となれば一分の忠義がすたる。進退ここにきわまった。この上は一同の面前で腹切るよりほかはない、こういってきたのだ。これが高田のいい分だ」
安兵衛の悲痛な微笑のかげに、かくしきれぬ怒りがゆらめいた。
「そのいい分もさることながら、おれはじっと郡兵衛の顔をみておった。そして、もはや何と説こうと、郡兵衛が同志に戻ってこぬことを|看《かん》|破《ぱ》した。それで、おれはいった。事すでにそこまで至れば、いまさら腹切ったところで|詮《せん》なきこと、かえって先方に疑念と|妄《もう》|動《どう》を呼ぶばかりのことだから、おぬしだけは忍び、先方の望みに従うのもまた忠義のひとつである。小忍ばざれば|大《たい》|謀《ぼう》を乱る、せめて秘密だけはまもってくれといって帰した。――」
「きゃつが!」
毛利小平太が歯がみして、かたわらの刀をつかんだ。かたかたと|鍔《つば》が鳴った。そのまえに、堀部安兵衛は、がくりとふとい両腕をついた。
「太夫の申されるとおりじゃ。落ちるものは落とせ。――ただ、腹がたてば、郡兵衛にかぎり、罰はおれが受ける。小平太、貞四郎、心のすむまでおれを打ってくれい」
【二】
――斬る。
歯をくいしばって、田中貞四郎は雨の中をあるいている。暗い|夜《よ》|雨《さめ》の中を、傘もささずに彼はあるいてゆく。ゆくては、|神楽《かぐら》|坂《ざか》にあるという内田三郎右衛門の屋敷だ。
「――堀部がうちあけたなら申すが」と、|寡《か》|言《げん》な|早《はや》|水《み》|藤《とう》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》がいい出したことだ。それによると、郡兵衛はもはや|小《こ》|日向《びなた》の兄の家におらず、だいぶまえから神楽坂に移って、そこの内田家の娘と夫婦同然の暮らしをしているらしいという。
生あたたかい夏の夜の雨にうたれつつ、田中貞四郎は同志の沢井五兵衛の妹、お|通《つう》の顔を思いうかべた。沢井五兵衛は貞四郎とおなじく二百石の|中小姓《ちゅうごしょう》であったが、もう一年ちかく胸を病んで、市谷の浪宅に寝ていた。妹のお通と貞四郎はいいなずけの仲であった。今夜も、ほんとうは堀部の家からまっすぐにそちらにゆくつもりだったのだ。……ただし、いいなずけとはいえ、彼とお通は事変以来、手もふれてはいない。おなじような縁にあって、やはり身をつつしんでいる堀部にならって、というより、貞四郎お通自身、そうしなければ主君に相すまぬ、という感情からそうしているのであった。それなのに、きゃつ――郡兵衛め、女にひかされて裏切ったか。
斬ってはならぬ、あれを斬ればその伯父とやらがさわぎたて、かならず大事の|破《は》|綻《たん》となる、捨てておけ、見のがしてやってくれ。――そういった安兵衛の声は耳にのこっている。そう安兵衛にいわせるのが郡兵衛の狙いなのだ。おれが高田であったら、そんなことを堀部に相談にはこぬ。その伯父を斬り、娘を斬り、|屠《と》|腹《ふく》するまでだ。
田中貞四郎はいつしか|濠《ほり》に沿うて、小石川御門のあたりをあるいていた。片側の崖の底に、お茶の水のながれが、|蕭々《しょうしょう》と雨の音をたてている。
斬る、貞四郎がそういう衝動であるいているのは、たんに郡兵衛が裏切ったことへの怒りのみではなかった。何か凶暴なことをやらなければおさまりのつかない、おのれ自身への怒りからであった。
「……殺気」
ふと、うしろでつぶやいた妙な声がきこえた。貞四郎はふりむいた。常夜灯の下に、ひとりの|願《がん》|人《にん》|坊《ぼう》|主《ず》が立っていた。
白いきれで頭をつつみ、素肌に白い羽織を羽おって、腰には|注連《し め》|縄《なわ》みたいな|藁《わら》をさげ、一本の|錫杖《しゃくじょう》と扇を手にもっていた。代参、|代《だい》|垢離《ご り》を事とする|乞《こ》|食《じき》坊主だ。いまきこえた言葉の意味がわからず、それよりそれまで錫杖の|環《かん》の音がきこえなかったのを、まず貞四郎はあやしんだ。
「何やつだ」
「やはり、殺気の|消磨《しょうま》せぬ浅野の浪人がおる」
と、願人坊主はひとりごとのようにいった。乞食のくせに無礼きわまる眼で貞四郎をしげしげと見あげ、見おろして、
「このごろ浅野浪人どもから、そのような|剣《けん》|呑《のん》な気力が消えたようなので、敵討ちはあきらめたのかと思っておったが。……」
「うぬは――」
貞四郎は、はっとしていた。|吉《き》|良《ら》の刺客、あるいは上杉の忍びの者のことは、彼も知っていた。
「吉良か、上杉のものだな」
「いかにも、おれは上杉家に奉公する|万軍記《よろずぐんき》」
と、願人坊主は名乗った。相手の殺気を|云《うん》|々《ぬん》したくせに、本人の全身から異様な気流が吹き出した感じであった。
「と、正体をうちあけた以上、うぬを生かしてこの場を去らせはせぬぞ。赤穂浪人のうち、何か事を起こしそうな奴の|芽《め》は、いまから|摘《つ》みとっておくのが吉良家のためだ」
貞四郎は抜刀した。恐れるよりも、怒りのはけ口を見つけたうれしさに、|鍔《つば》|鳴《な》りとともに、彼の歯のあいだからは笑い声すらもれたのだ。
万軍記は錫杖を右手につきたてたまま、平然と身うごきもしなかった。雨のなかにひとり|刃《やいば》をむけて、田中貞四郎の笑った顔がひきゆがんだ。
みごとな抜刀術の妙をしめしながら、一瞬、彼は手に奇怪な感覚をおぼえていたのである。おのれの手で抜くというより、刀自身がひとりでに飛び去ってゆくような感覚なのだ。かまえても、手は自由にうごかなかった。
歯をむき出して笑ったのは願人坊主の方であった。彼は錫杖を大地につきたてたまま、するすると右へ二|間《けん》もはなれた。しかも、貞四郎の刀は、あとにのこった一本の錫杖の方へむいたまま、白い影を追うことができぬ。
「能登忍法、|南北杖《なんぼくじょう》」
と、軍記はつぶやいた。それは凄まじい磁力をおびた錫杖であった。
田中貞四郎は大刀をすてた。南北杖の意味はしらず、大刀がむしろ自分をとらえていることを知ったからだ。次の行動に移ろうとして、彼がはっと立ちすくんだのは、手をはなれた大刀が宙をとんでいって、ぴたと垂直にその錫杖に吸いつけられたのをみたからであった。
万軍記はこのとき|右《みぎ》|掌《て》をひろげ、左手にひらいた扇の骨のあいだに張った紙を、いっきにばさと|裂《さ》いた。常夜灯の赤い灯に、扇の骨がすべて先のとがった武器であることに気がついたのはその|刹《せつ》|那《な》であった。
してやったり、と軍記がまた笑ったのと、その笑った顔がたてに|唐《から》|竹《たけ》|割《わ》りになったのは一瞬であったが、その刹那の間に、左右にはぜわれた軍記の眼は、右につきたてた南北杖が|忽《こつ》|然《ぜん》と消え去ったのをみた。それは黒い縄に巻きあげられて、夜雨の空へとび、暗い|濠《ほり》の谷底へおちていった。
おなじ刹那に、田中貞四郎もふいに身が自由になったのを感じている。小刀を抜き討ちに、願人坊主を斬りさげたものの、彼の方は錫杖のゆくえもしらず、斬ったあとでみずから|茫《ぼう》とした。
「お|梁《りょう》か」
願人坊主はなお立ったまま、裂けた顔をねじむけてうめいた。はじめて貞四郎は、坊主のうしろに立っている武家風の娘を見た。
「とめてもきかぬ軍記どのであろう。……わけは、先に死んだ笑兵衛どのたちにきけ」
縄をすて、女はちかづいてきた。願人坊主の顔に、このとき朱墨のように血潮がひろがった。がくと路上に崩折れつつ、彼は彼女にむかって何やら投げつけたのである。
軍記の|南北杖《なんぼくじょう》を、女は知っていた。知っていたればこそ、遠くから、縄をなげて、その魔杖をはらいのけたのであろう。しかし、彼の扇までが凶器であることを知っていたか、どうか。あるいは知っていても、|梨《なし》|割《わ》りにされたその|形相《ぎょうそう》から、もはや大事ない、と見きわめたのであろう。――が、この判断はあやまりであった。
十数本の扇の骨は、ことごとく毒をぬった|火《ひ》|箸《ばし》であった。それは|扇形《おうぎがた》に、女の胸にふかぶかとつき刺さった。
おのれが刺されても悲鳴をあげぬ田中貞四郎が悲鳴をあげたのである。女は叫び声をあげなかった。立ちすくんだ顔に、さすがに|驚愕《きょうがく》の表情がひろがったが、軍記から貞四郎に眼をうつし、それからにやりと笑ったのである。口が苦笑するようにすぼまったかと思うと、そこから銀いろの光がほとばしり出た。
|雨《あま》|脚《あし》が|渦《うず》をまいて吹きつけてきた感じであった。思わず貞四郎は眼をとじた。しかし、何のこともなかった。何の痛みもなかった。彼は眼をひらいた。
女は前方に、うつ伏せにたおれている。走りよろうとして貞四郎は、雨のたたく路上に、常夜灯に照らされてきらきらと数本の銀光のちらばっているのを見た。
それは三寸あまりの針であった。
【三】
高田郡兵衛を|成《せい》|敗《ばい》するという気力を喪失し、田中貞四郎は|悪《お》|寒《かん》に吹かれるような思いで市谷の沢井五兵衛の家にやってきた。崖の下の小さなあばら家であった。
「傘ももたずにやってきたのか」
きものをとって、|土《ど》|間《ま》でしぼっている貞四郎をみて、病床の五兵衛はいった。
「|倖《さいわ》い、夏だ。遠慮なくはだかになれ」
「では、失礼する」
裸で見舞っても礼など失わぬ間柄であった。衣服をぬいでそのまま上がりこんだ貞四郎が、それでもあたりを見まわして、
「お|通《つう》さんは」
と、きいたのに五兵衛はこたえず、いきなり病床で笑いかけたのである。
「田中、よろこんでくれ」
貞四郎はあっけにとられた。しばらく見ないあいだに、五兵衛はいっそう衰えはてていた。|髯《ひげ》はのび、眼はおちくぼみ、生きているしゃれこうべそっくりの顔で、
「いつ京からかえってきたのか。なに、きのう? それでまずやってきてくれたのもやはりお通の一念が呼んだのだな」
「お通さんは?」
と、貞四郎はもういちどきいた。
「となりにおる。いままで新しいきものをひろげて見ておったようだ。――お通、お通、田中がきたぞ」
「はい、ただいま」
破れた唐紙のむこうで、おろおろとあわてた声につづいて、何やらきものでもたたむような|衣《きぬ》ずれの音がきこえた。
「いったい、どうしたのだ?」
と、貞四郎はせきこんだ。五兵衛はうなずいて、
「まず、それよりも京の|太夫《たゆう》のご様子をきこう。どうであった」
貞四郎は内蔵助の行状と意見をつたえた。ふしぎなことに、京へゆくまえに、だれよりも一挙の促進を熱願してやまなかった沢井五兵衛が、貞四郎の話をきいても、存外おちついていたのである。ききおわっていった。
「左様か。また延期と仰せられたか。……しかし、それがたとえ十日さきにちぢめられたとしても、わしはもはや役にはたつまい。歩くことさえ思うにまかせぬおれが、|打《うち》|物《もの》とって斬りこむなど、もはや夢だ」
「五兵衛、おぬしらしくもなく、何を気弱なことをいう。|上野《こうずけの》|介《すけ》の首を思えば、念力だけでも足はうごこう」
「いやいや、おれはだめだ。おれはあきらめた。……おれはあと一ト月ももつまい」
「五兵衛」
「あわれんでくれるな、貞四郎、おれはおれの代わりにお通に忠義をつくしてもらうことにきめた」
「お通さんに? 忠義を?」
「まさか、あれに討ち入りはできぬ。実はな貞四郎、おぬしが京へいっているあいだに、いろいろかんがえた末、お通を深川の|四方庵宗匠《しほうあんそうしょう》に女中奉公させたのだ。四方庵宗匠が上野介と茶道の友で、ときどき上野介も四方庵へくることがあると知ってのことだ」
「そ、それで――」
「過日、吉良の子息|左兵衛《さひょうえ》がきた。年まだ十九のこの青二才めが、お通に惚れた」
「な、なに?」
「よろこんでくれといったのはこのことだ、貞四郎、お通は二、三日のうちに吉良邸に奉公にあがる。しばしこの家にかえってきたのも、その支度のためだ」
田中貞四郎は顔色をかえていた。五兵衛は病人らしくもなく、声をはげました。
「貞四郎、同志数十人、そのなかで吉良邸の|間《ま》どりを知っている者があるか、どれほどの防備をしておるか知っている者があるか。吉良がいつ在邸して、いつどこへ出かけるか知っている者があるか。いやいや、上野介の顔を見た者がひとりでもあるか? それをさぐるだけでも、半死のおれが同志のあとを|這《は》ってゆくより、どれほど大きな手柄になることか。――」
それから五兵衛は、ふいに声をひそめた。
「しかしのう。……名目は女中奉公じゃが、四方庵宗匠がお通にひそかにいいふくめたには、ひょっとするとお通に左兵衛の手がつくかもしれぬという。……貞四郎、お通と祝言してくれ、いや、この家には三宝も盃もない。せめて、いいなずけであった貞四郎、お通を左兵衛にけがされぬまえに、あれを女にしてやってくれ!」
田中貞四郎の胸を、|雪崩《なだれ》のように鳴らしてゆく感情があった。
修羅車
【一】
あろうことか、|敵討《かたきう》ちの悲願に、たがいに純潔の誓いをたてた恋人が、敵の息子の|寵《ちょう》をうけるという。それを恋人の兄は眼をかがやかせ、「よろこべ、何事にもまさる手柄だ」という。――
しかしまた沢井五兵衛は、死病にやつれた手で貞四郎の手をつかんで、切々とうったえるのであった。
「この決心をするまでの、おれの苦しみはいうまい。ただこれを天来の好機と手をうったといおう。そして、お通に恥ずかしゅうないきものをととのえてやるために、よろこんで有金をはたいたといおう。しかし、お通の哀しみだけは、どうぞ|汲《く》んでやってくれい。せめて、おぬしが京からかえってくるまでは、吉良の屋敷にあがりとうはないと、あいつは泣いた。それを大事のまえの小事と、あえておれは叱っていった。あとできいても、貞四郎は怒るまい、貞四郎が本懐をとげたとき、吉良父子の屍のそばで自害して、それで貞四郎にわびろとな」
「おれも、やがて死ぬのだ」
と、貞四郎はうめいた。彼はようやく衝撃からさめた。まことに沢井兄妹の企図は悲壮をきわめ、それに異議をとなえることは|毫《ごう》もなかった。それどころか、敵の内部から探るという、男にとっては絶対不可能な緊要事をなしとげてくれるものとして、彼もまた双手をあげてよろこぶべきことなのだ。
「左様、われわれは血の一滴までもすでに亡君にささげておる。いのちにみれんはないが、それにしても、|処女《おとめ》にとって|操《みさお》は|喃《のう》。はやく、はやく、京からおかえりを、と必死に祈っておったお通の心を察してやってくれい」
五兵衛は声をひそめて、貞四郎の手をにぎり、ゆさぶった。
「天道、|女《にょ》|心《しん》を見すてたまわず、吉良邸へゆく前夜、おぬしはかえってきたではないか。おぬしは雨の中をかけつけてきてくれたではないか。……貞四郎、今宵、お通を女房にせい、ふたりの誓いは知っておるが、どうせふたりともに遠からず死ぬ身、いちどだけ誓いをやぶっても天はゆるされよう。兄たるわしがゆるす。いや、手をついてたのむ。これからお通を女にしてやってくれ!」
貞四郎の眼に|肯《こう》|定《てい》と|惑《まど》いの|翳《かげ》がゆれるのをみると、五兵衛は大声をあげた。
「お通、お通、貞四郎は雨にぬれてはだかじゃ。おれの|換《か》え着があったらきせてやってくれい。いや、おなじことだ。貞四郎、おぬしがいって、お通にきせてもらえ」
そして、眼で|叱《しっ》|咤《た》した。|起《た》って、ゆけ。――泳ぐように貞四郎が立つと、彼は微笑した。
「兄が隣におると遠慮すな。三々九度の|盃《さかずき》もかわさぬ|祝言《しゅうげん》、そのかわりどのようににぎやかであろうと、おれはよろこんできいておるわ」
雨の音が、あばら家の板屋根を鳴らしてすぎた。
田中貞四郎は、お通を見おろした。おそらく、それまでひろげていた「哀しき|晴衣裳《はれいしょう》」をたたもうとして、じっとすくんでしまったものであろう、色あざやかな元禄模様をひざにみだして、お通の顔は白じろとうかんでみえた。その頬にみるみる血潮がのぼった。
兄の話を、彼がいかに声をひそめようと、唐紙一枚をへだてて、お通がすべてきいていたことはあきらかであった。眼と眼が、無限の語らいをした。
貞四郎は、下帯ひとつの裸であった。彼は坐った。すると、同時にお通はひしとしがみついてきた。
「貞四郎さま、お通は」
「お通さん」
貞四郎の唇は、涙にぬれたお通の|頬《ほお》をすべっていって、お通の唇とぴったり合った。処女の|息《い》|吹《ぶき》を吸いこんだ|刹《せつ》|那《な》に、彼は隣室の五兵衛のことを忘れた。曾てのお通との誓いも忘れた。だれがこの「破戒」を責めることができるであろう。兄の五兵衛も「天もゆるす」と祝福した。女にひかれて盟約からにげた高田郡兵衛とはちがう。密偵の使命を秘めて敵の祭壇に身をささげようとする恋人の|蕾《つぼみ》をおしひらき、花とちらせるのは、そのことじたい、復讐行為の一つといってもよかった。
やぶれだたみに敷かれた元禄模様だけが、この悲痛な祝言のしとねとなった。その上の若いふたりの肉は溶け、魂も溶けた。――お通の唇からただならぬさけびがもれたのは、そのいのちの|炎《ほのお》のさなかであった。その全身に|痙《けい》|攣《れん》のはしったのを、いちど貞四郎は力をこめて抱きすくめ、つぎにふたりの肌と肌とのあいだにぬるりと熱いものがながれたのに、はじめてぎょっとしてからだを離した。
お通の肌は鮮血にまみれていた。のけぞったのど、むき出しになったまるい乳房、つややかなふともも――その他、身にまとったうすものすべて、朱をあびたように血にぬれて、彼女は声もなく|輾《てん》|転《てん》しているのであった。
「……ど、どうしたのだ?」
かっと見はった貞四郎の眼に、まっかなお通の裸身にきらきらと浮いてひかるものがうつった。針! と気がついたとき、それは生けるもののごとく、すうっと肌に吸いこまれていった。
「針が――どこから?」
思わずおのれのからだを見まわして、はっとした。彼の肌にも、あちこちに銀いろの針が刺さっている。全身はこれまた血まみれだ。しかも、なんら痛みはない。――その針が、刺さっているのではなく、自分の体内から湧き出していることに気がついたのは、次の瞬間であった。
血はお通の返り血だ。お通を刺し殺したのは、彼のからだから出た針であった。その針は、つぎからつぎへ、彼の体内から湧いては、きらきらとたたみにおちてゆく。――
三寸あまりあろうか、恐ろしく細く、長い針であった。針というより、|鍼《はり》というべきものであったろう。ただその鍼は、両端ともに三|稜《りょう》にとぎすまされていた。|鍼術《しんじゅつ》では全身三百六十五ヵ所の|経穴《つ ぼ》に長い鍼を刺しこむが、ほとんど痛覚をおぼえないし、出血もしない、貞四郎はいつのまにか、その経穴に鍼を吹きこまれていたのであった。いつのまにか――いや、それは先刻、小石川御門で、えたいのしれぬ女に吹きこまれたのだ。貞四郎はあのとき、じぶんの足もとにおちていた数本の針を思い出した。あれだ! あれだ!
「お通」
全身にあびた返り血の下で、田中貞四郎は蒼白になり、ふしまろんで抱きあげた。その腕のなかで、お通はもういちど身ぶるいして息絶えた。
「貞四郎」
いつのまにかうしろの唐紙があいて、這いよった沢井五兵衛がのぞきこんでいた。ただならぬ|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を感じとったものらしい。――ひとめ、のぞきこんで、
「な、何をした、おぬしは――」
ひっ裂けるように叫んだ。貞四郎はお通を抱きあげたまま、赤い|蝋人形《ろうにんぎょう》のように硬直したままだ。
「ら、乱心したか貞四郎、お通を吉良にやるのにそれほど血まよったか。お通が吉良家へゆくわけは、いまとくといいきかせたはずではないか」
声をしぼっていい、がさがさと蒲団の方へ這いもどると、その下から一刀を抱いて、また這ってきた。
「お通の|敵《かたき》――いいや、同志の裏切り者としておれが成敗する。抜け、貞四郎」
五兵衛の誤解を弁明することはむずかしかった。また貞四郎に弁明することは不可能であった。彼の眼はうつろであった。
彼は乱心した。お通が死んだあとで乱心したのだ。――たたみに這ったまま、|薙《な》ぎつけてきた五兵衛の一刀を無意識的にふらりとかわすと、彼の足はあがって、五兵衛の胸を蹴った。五兵衛はかっと血を吐いてつっ伏した。
「お通、ゆるしてくれ、お通。……」
貞四郎はそうぶつぶつとつぶやきながら、血まみれの女のからだを抱いたまま、夢遊病者のように雨ふりしきる夜の世界へさまよい出していった。
【二】
|内匠《たくみの》|頭《かみ》の弟浅野大学に対する幕府の処分が|下《くだ》されたのは、その夏のことであった。閉門はさしゆるすが、|知行《ちぎょう》は召しあげられ、広島の|宗《そう》|家《け》浅野|安《あ》|芸《きの》|守《かみ》におあずけという決定である。
このひと一人に浅野家再興の望みをかけていた内蔵助およびその同感者たちの夢は、これでまったく破れたわけである。彼らはいかなる挙に出るか。
「……なに、内蔵助がふたたび出府すると?」
十月末のある夜であった。|外桜田《そとさくらだ》にある上杉家の上屋敷の奥庭で、沈痛なつぶやきがきこえた。縁側に立って、唇をかみ、じっと|宙《ちゅう》をにらんだのは、当主の上杉|弾正大弼《だんじょうだいひつ》|綱《つな》|憲《のり》であった。
「大学の運命きまってよりも、京にある内蔵助にべつだんのうごきなく、また浅野家再興の望みきえて、例の浪人ども、|櫛《くし》の歯のぬけるごとく、盟約からはなれてゆく――という報告をきいて|安《あん》|堵《ど》しておったに、内蔵助がまた江戸にくるとは、きゃつ、やはり|不《ふ》|逞《てい》の凶念を捨ておらぬのか」
彼は庭を見た。月はなく、星影のみの秋の夜に、庭は|模《も》|糊《こ》としてそこに人ありともみえないが、綱憲は平蜘蛛のごとく伏した四人の黒装束の男を知っている。
上杉家秘蔵の忍者、能登組の、鍬形半之丞、|折《おり》|壁《かべ》|弁《べん》|之《の》|助《すけ》、|月《つき》ノ|輪《わ》|求馬《もとめ》、|女《めの》|坂《さか》|半《はん》|内《ない》であった。いま主君に内蔵助|下《げ》|向《こう》の報告をしたのは、このなかの折壁弁之助である。
「しかし、内蔵助は、十月七日に京を出たという。……それを追うて、そちも東海道を下りつつ、なにゆえ手をつかねておったのか。きゃつを見捨てて、さきにひとり江戸にかえってきたわけを申せ」
「それが」
と、折壁弁之助は苦しげに、
「討とうと思えば討てまする。ただ、内蔵助めは……浅野家の元家老としてではなく、日野中納言の用人としておし下ってくるのでござります」
日野家は|公《く》|卿《げ》中の名家で、しかも柳営ときわめて親しい家柄であった。
「一行の同勢は十数人、雲助に|舁《か》かせた|二《ふた》|棹《さお》の長持には、堂々と日野家用人|垣《かき》|見《み》|五《ご》|郎《ろ》|兵《べ》|衛《え》と大書した|絵《え》|符《ふ》をつけ、道中駅々の諸役人も|鄭重《ていちょう》にこれを迎え、警護するというていたらくでござります」
「内蔵助め……公卿の用人をたばかるとは、さりとては不敵な奴」
「あいや、あれほど|仰々《ぎょうぎょう》しい旅が、まさか|偽《にせ》|物《もの》にて相成るものではござりませぬ。あれは|実正《じつしょう》、日野家よりゆるされ、そのうしろ|盾《だて》のもとに用人を名乗っておるものと存ぜられます。――そのことに想到したとき、拙者、はたと困惑いたしました。もしこれを討てば、東海道にえかえりそうな大事となるのではないかと」
綱憲はうめいた。もし日野家の用人と名乗る人物が東海道で暗殺され、そして日野家がたしかに用人であると|肯《こう》|定《てい》すれば、まさに京と江戸のあいだの政治的な重大事件となることはあきらかである。しかも、弁之助の見解によると、日野家が内蔵助のうしろ盾になっていることはたしかであるという。――綱憲の心を波だててゆくのは、京の|公《く》|卿《げ》までが、赤穂浪人のあと押しをしてはばからぬという事実であった。見まわせば、日野中納言のみではない。世間のすべてが父の|上野《こうずけの》|介《すけ》をにくみ、浅野の味方をしている。日野家はその尻馬にのっているにすぎないのだ。彼の胸に、孤独の不安と怒りがみちた。
「|懊《おう》|悩《のう》の末、拙者ひとまず江戸へはしり、殿のご思案を承ろうとかけもどって参りましたが、殿、拙者の|逡巡《しゅんじゅん》はまちがっておったでござりましょうか」
「余にきいたとて、わからぬわ」
と、綱憲は不興気にいった。折壁弁之助は|吐《と》|胸《むね》をつかれたようにしばらくだまっていたが、すぐに力をこめていった。
「おきき下され。拙者考えましたは、いかに日野家のゆるしがあろうと、もしきゃつが|敵討《かたきう》ちの挙に出るつもりならば、まさか日野家の用人として行動にうつるわけには参りますまい。江戸にきて、日ならずして内蔵助がその看板をおろすは|必定《ひつじょう》、きゃつがもとの素浪人となったときこそわれらのとき、その機会をやわか見のがすものではござりませぬ。何とぞ、殿には、ご案じ下されまじく。――」
あとの三人の忍者もうなずいた。そのとき、天空で声があった。
「いや、内蔵助を江戸に入れては安心はならぬ」
「やっ?」
四人の忍者はがばと立って、頭巾の顔をふりあげたが、銀河の下に|松籟《しょうらい》の音がめぐっているばかりで、とっさに声の位置がわからなかった。その松籟がまた人間の声となっていう。――
「すでに、その思案は内蔵助の密偵の耳に入っておるではないか。しかも、そのことをまだ知らぬようなうつけたことでは、内蔵助に裏をかかれることは眼にみえておるわ」
「なに、内蔵助の密偵?」
そのとき、夜空から、一個の物体がどさりと庭先へふってきた。暗い大地にころがり、うめきながらも、その人間はのたうつばかりだ。
「|灯《ひ》を近う」
と、綱憲はさけんだ。うしろに坐っていた小姓が|短《たん》|檠《けい》をささげて走りよってきた。
庭でもがいているのは、|中間《ちゅうげん》姿の若い男であった。四人の忍者は、その中間のきている|法《はつ》|被《ぴ》が上杉家の|定紋《じょうもん》竹に|飛雀《とびすずめ》であることを見た。それから、そのからだをえたいのしれぬ白い糸が|蓑《みの》|虫《むし》みたいに巻きついていることに気がついた。
「何やつだ」
中間は身もだえしてさけんだ。
「殺せ。……おれは浅野浪人、毛利小平太だ。これ以上、いかに責めても、もう何もいわぬぞ。首を討て」
【三】
毛利小平太。
「彼は、快挙の議決するにおよび、衆に先だって、目ざましく敵情の偵察に|尽《じん》|瘁《すい》した。その一端をあげれば、一党の東下後、市中の評判によれば、吉良家の防備はすこぶる厳重にて、|惣《そう》|長《なが》|屋《や》の内部には、さらに一帯に大竹を用いて堅固な|障塀《しょうへい》をゆいまわし、たとえ長屋を破って乱入しても、容易に奥へは進まれぬ|由《よし》など噂した。かくては大事と、一党の本部は|伝手《つ て》をもとめて、某家より吉良家の家老にあてた|書《しょ》|翰《かん》をもらいうけ、この書使を小平太に命じた。小平太は心得、下男のいでたちをなし、敵中の虎穴に入って、返書のできるのを待つあいだに、くまなく邸内を見まわし、|世上《せじょう》につたえるような防備のないことをたしかめて、詳細にこれを復命したほどである」(|福《ふく》|本《もと》|日《にち》|南《なん》「|元《げん》|禄《ろく》|快《かい》|挙《きょ》|録《ろく》」)
これほど大胆な毛利小平太だ。彼は右の冒険に味をしめて、上杉家の|法《はつ》|被《ぴ》を手に入れるや、この数日の夜々、それをきて上杉家の上屋敷内を|徘《はい》|徊《かい》し、やはりそのころ|巷《こう》|間《かん》に噂されていた「上野介引き取り」の|実《じつ》があるかどうかをさぐっていたのであった。
その夜、|弾正大弼《だんじょうだいひつ》|綱《つな》|憲《のり》がひそかに異風の四つの影を庭前に召したのに、すわこそ、と植込みのかげにひそんで耳をすませていた彼は、ふいに頭上の松からおちてきた糸のようなものにきりきりと巻きあげられた。あっと思ったが、声も出せぬ。しばらくして、その糸がのびてふたたび宙に|吊《つ》るされたとみるや、振子のごとく空をとばされてそこに投げ出されたのだが、その間、ついに彼はじぶんをそんな目にあわせたものの正体を見ることもできなかった。
が、|虚《こ》|空《くう》で声はいう。――
「殺すな」
浅野浪人、ときいて本来なら反射的に抜討ちにすべきところを、四本の忍者刀がぴたと硬直していたのは、その天空の声のゆえであった。
「内蔵助を江戸に入らせぬてだてはある。その浪人が道具のひとつとなる。それだけでは足りぬ。あとの道具はいまとどける」
|嘲弄《ちょうろう》するような声は、風の中にふうっときえた。
「く、|曲《くせ》|者《もの》!」
はじめて我にかえって四人の忍者がその声の方へはせ寄ろうとしたとき、庭の向こうからばたばたとかけてきた者があった。
「申しあげます」
裏門を護る四、五人の番士であった。
「ただいま、能登の|鞆《とも》|絵《え》と申し、いそぎ献上いたしたきものがある由にて、大八車に長持をのせ、裏門に参っておりまするが」
「なに、能登の鞆絵?」
それは米沢にいるはずの能登組の女であった。しかも、江戸にある能登組の面々も、決して女とあなどってはいない忍者のひとりである。
その鞆絵をもふくめて、彼らの思いあたる女忍者の一群に、彼らはさきごろからある重大な疑惑を抱いていた。しかし、それがあまりにも想像外のことであるために(おなじ能登組が、殿のおん|企《くわだ》ての邪魔をする――そんなばかなことがあろうか)と、彼らはおのれの疑いを疑ってきたのであった。
「能登組の鞆絵が、江戸にきておると?」
綱憲の胸に、どこまで四人の疑惑とおなじ疑惑がきざしているかはわからなかったが、いまの注進はたしかに彼の好奇心をゆさぶったようだ。
「よし、通せ」
と、彼はうなずいた。
きいくる……きいくる……と、まもなく、闇に車のきしむ音がちかづいてきた。いまかけ去った門番たちが、長持をのせた大八車をひいてくる姿が、|灯《ほ》|影《かげ》にうかんだ。
「殿。……うるわしき御尊顔を拝し、鞆絵はうれしゅう。……」
その大八車のそばについて歩いてきたお|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》の女が膝をついた。綱憲はせきこんでいった。
「鞆絵。あいさつはあとでよい。余に献上するものとは何じゃ」
「大石の江戸入りをふせぐ人間の|盾《たて》でございます」
「なに、人間の盾?」
「肉の盾と申した方がよいかもしれませぬ」
彼女の|凄《すご》|味《み》をおびたきれながの美しい眼は、そこに|寂然《じゃくねん》と立つ四人の忍者を無視して、蓑虫みたいに地にころがったままの毛利小平太を見おろした。
「なるほど、あのお方は、この長持をここにはこびこんだとき、この男を用意しておくと仰せられたが、その約束にまちがいはなかった」
と、つぶやいて、眼で笑った。
「これは、おまえにとって、|修《しゅ》|羅《ら》の車」
「修羅の……くるま?」
鞆絵の手が長持にかかった。と、風にもえたえぬその|繊《せん》|手《しゅ》に長持はぐらりとかたむいて、|蓋《ふた》があき、なかからわらわらとあふれ出してきたものがある。それは、手も足ももつれ、とっさに正確な人数もわからなかったが、五、六人のはだかの女たちであった。灯影にうすもも色のその肉塊をみて、だれよりも毛利小平太ののどのおくに、|驚愕《きょうがく》のうめきがつっ走っていた。
小平太崩れ
【一】
縁側で小姓のさし出す|短《たん》|檠《けい》の灯に照らされて、庭でもつれあっていた肉塊は、ばらばらに解けて五人の女となった。
「あっ、これは堀伝之丞の御内儀!」
いちばん右の三十あまりの女であった。赤穂では小赤松番所に勤務して金十両二石三人|扶《ぶ》|持《ち》をいただいていた堀伝之丞の妻である。そのころから、|薄《はく》|禄《ろく》の堀にはもったいない器量だと評判になっていた内儀であったが、いまなよなよとうずくまりながら、両手でおさえた顔のひたいには、たしかにぶきみな赤い|環《わ》があった。
「それは|廓《くるわ》の|羅生門《らしょうもん》|河岸《が し》からひろってきた女」
と、|鞆《とも》|絵《え》がいった。羅生門河岸とは吉原のお|歯《は》|黒《ぐろ》どぶに|沿《そ》う最下等の売女町だ。
「おう、そなたは竹内左助の妹!」
つぎに眼をうつして、毛利小平太はさけんだ。金十両五人扶持の|蔵《くら》|横《よこ》|目《め》竹内左助の妹は、はだかのまま、うすぼんやりと立っている。呼ばれて、そこにじぶんの知っている小平太をみると、唇をわななかせたが、その唇のはしからたらりとよだれがおちた。
「それは柳原土手からひろってきた|夜《よ》|鷹《たか》」
鞆絵がいった。夜鷹とは、ござ一枚かかえて、そこの橋のたもと、柳の下、ここの材木小屋、石置場などで|折《おり》|助《すけ》|中間《ちゅうげん》などに春をひさぐ女だ。
「|羽《はね》|田《だ》|金《きん》|太夫《だゆう》の女房ではないか」
小平太は、まんなかの女を見すえ、息をひいていった。それが七両三人扶持、蔵横目の羽田金太夫の女房だとは、とっさにわからなかった。からだははだかだが、|黒《くろ》|羽《は》|二《ぶた》|重《え》の|比《び》|丘《く》|尼《に》|頭《ず》|巾《きん》をかぶって、顔は壁のような|白粉《おしろい》にぬりつぶされていた。ただの比丘尼ではなく、|勧《かん》|進《じん》と称して町をうろつきながら男に身をまかす|歌《うた》|比《び》|丘《く》|尼《に》にまぎれもなかった。彼女は白粉のなかから、氷のようなほそい眼で小平太をみていた。
小平太のひろがった眼は、四人目にうつった。
「|人《ひと》|見《み》|伴《ばん》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》の|娘御《むすめご》。――」
これまた真っ赤な口紅をぬった娘は、小平太をみて、け、け、け、と笑った。十五石四人扶持の|書《かき》|留《とめ》|役《やく》、人見伴左衛門の家で、しとやかなその姿をみたおぼえのある小平太の背に冷たいものがながれた。
「いまはお千代舟の|船饅頭《ふなまんじゅう》」
鞆絵がうすら笑いしていう。それは船頭相手の売女の|異名《いみょう》だ。
「たしか、|糟《かす》|谷《や》|道《どう》|喜《き》老の――」
五両三人|扶《ぶ》|持《ち》の|作《さく》|事《じ》|方《がた》|目《め》|付《つけ》糟谷老人の孫娘、と思い出すよりはやく、蒼白い顔をしたその娘は、そっぽをむいて鼻で笑った。
「あたしゃ浅草堀のけころ[#「けころ」に傍点]だよ」
けころ[#「けころ」に傍点]とは、蹴ころばしの意味で、二百文くらいでころび寝する下級|酌婦《しゃくふ》であった。
えたいのしれぬ白い糸に、蓑虫みたいにしばられて地にころがったまま、毛利小平太は眼をいからせた。
「な、なんたる恥しらず、身すぎ|渡《と》|世《せい》にもほどがある。そなたらの夫、兄、父が、|曾《かつ》て侍であったことを思わぬのか」
「この女どもを売女にしたのは、その夫、兄、父じゃ」
と、鞆絵はいった。
「な、なに?」
「堀伝之丞、竹内左助、羽田金太夫、人見伴左衛門、糟谷道喜、いずれもうぬらの盟約に名をつらねたものどもではなかったか。しかし彼らは、大石ほどの扶持をもらってはおらなんだ。奉公しておるときでさえ、一家を|糊《のり》するのがせいいっぱいのものどもであった。それが|禄《ろく》を失い、そのうえ|病《や》んで、進退きわまり、妻や妹や娘を売った。――」
小平太は鞆絵をにらみ、女たちをながめ、やがてうめいた。
「やむを得ぬ。忠義のためだ」
「そのとおり、彼らは忠義のために生きたがった。それでおのれのいのちをつなぐために、妻を売り、妹を売り、娘を売った。しかし、彼らはみな死んだ」
彼らがみな病死して、不本意にも連判状の名に墨をひかれたことは小平太も知っていた。そんな例があるだけに、彼はあせり、内蔵助の悠長さに腹をたてたのであった。しかし、彼はいった。
「運がわるかったのだ。……しかし、おれは……もし上野介どのの御首頂戴にゆくときは、彼らの|卒《そ》|塔《と》|婆《ば》を背負ってゆくつもりであった」
「この女どもを背負ってゆこうとはかんがえなんだかえ?」
「なに?」
「この女どもも、はじめは夫の、兄の、父の忠義のためによろこんで身を売った。しかし、彼らは死んだ。なんのために身を売ったかわからぬことになった。しかも、汚れはてたからだはもはやもとにもどらぬ。また、この女どもがおちた地獄は、たやすう浮かびあがれるところではない。哀しみ、もだえ、望みをうしない、そのなれのはての姿は見るとおりじゃ。|或《あるい》は|梅《ばい》|瘡《そう》にかかり、うすばかになり、心は冷え、ねじまがり、気もなかば狂った女もおる。そんな哀しみと痛みのあることを――こんな女どものいたことを、おまえはいちどもかんがえたことはあるまい」
小平太は身をもがいて何かさけぼうとしたが、五人の女の眼に――|呆《ほう》けたような竹内左助の妹や、冷たい羽田金太夫の女房や、狂った人見伴左衛門の娘の眼にまでも涙がうかび、すうっと頬にながれおちたのをみると、口がわななくばかりで、言葉が出なかった。
「もとはといえば、貧しさゆえじゃ。しかも、首領たる大石はそのあいだ何をしておる? 浅野家断絶の際、城にのこった金一万六千四百両のうち、|菩《ぼ》|提《だい》|寺《じ》、後室、藩士などに配ったのは、わずかに六千四百両、のこり一万両は、主家再興の費用とやら、|敵討《かたきう》ちの支度とやら、ことごとく手許において、日夜|祇《ぎ》|園《おん》|島《しま》|原《ばら》で、湯水のごとく使っておる。――」
「ちがう! ちがう! あれは太夫ご自身の金だ」
「よいわ、あれを大石自身の金とする。が、たとえそれにもせよ、一方で妻や娘を売り、貧窮のうちにのたれ死にする同志もあるというに、それには|一《いち》|文《もん》の助けもつかわさず、おのれ自身の|愉《たの》しみのために酒色につかいすてて、それが同志か。それが首領か」
おそろしい言葉であった。両腕さえ自由になるならば、小平太は耳を|覆《おお》いたかった。それは以前から、彼自身いくたびも内蔵助にいだいた不満と怒りであっただけに、鞆絵の言葉は|肺《はい》|腑《ふ》にくいいった。
「たとえ、おまえが望みをはたそうと、この女どもの|呪《のろ》いは|永《えい》|劫《ごう》についてまわろうぞ。――いいや、この女どもの呪いを、生きながら受けろ」
鞆絵はあごをしゃくった。すると、女たちは、それまでに何かいいふくめられていたのか、それとも眼にみえぬ恐怖の|鞭《むち》にさしずされたのか、ふたたび大八車に這いあがり、ぞろぞろと長持に入りこむのであった。
鞆絵は小平太を片手でつるしあげた。なよやかな腕なのに、凄まじい怪力であった。
「おまえをしばっているのは、|蜘蛛《く も》の糸巻、女の唾でぬらしてもらえば溶けおちよう。それまで、いっしょにこの車にのって東海道をのぼれ。もはや内蔵助は箱根をこえて下りてきておるはず、逢うたら、おまえの思うままのことをいえ。思うがままのことをしやい」
彼女は小平太を長持になげこみ、|蓋《ふた》をしめた。そして綱憲におじぎをした。
「この車をひき、あとを押す|中間衆《ちゅうげんしゅう》を二、三人拝借いたしとう存じます」
「鞆絵、それで内蔵助の出府をふせぐことができるのか」
「できまする」
「いかにして?」
「この男は、内蔵助を殺しましょう」
綱憲は五人の裸の女と、ひとりの男がなげこまれた長持を見やって、|生《なま》|唾《つば》をのんだ。長持は眼前にあるのだが、内部の状況は想像を絶する。鞆絵は去ろうとした。
「待て」
と、能登組のひとりが呼んだ。忍者とは思われないような美少年だ。これが曾て、お弓が進藤源四郎に、「顔の右半分に大きな|赤《あか》|痣《あざ》があり、左耳がなく、ひょろりと|物《もの》|干《ほし》|竿《ざお》のようにやせこけて、それはきみわるい、醜い男」と、でたらめの相貌を教えた鍬形半之丞の本人であった。
「鞆絵、もし、内蔵助阻止がならなんだら、|如何《いかが》いたす」
鞆絵はふりかえって、平然といった。
「腹切りまする」
半之丞はにやりとした。|女《めの》|坂《さか》|半《はん》|内《ない》がすすみ出た。
「もひとつ、ききたいことがある。われらがこのごろ語りあって、どうしても解せなんだことじゃ。|瓜連兵三郎《うりつらひょうざぶろう》、|鴉谷《からすや》笑兵衛、穴目銭十郎、|白糸錠閑《しらいとじょうかん》、|万軍記《よろずぐんき》、|浪打丈之進《なみうちじょうのしん》などを討ったはおまえたちではないか」
鞆絵はだまったが、さしつらぬくような女坂半内の眼に、すぐ平然として、
「存じておる者もあり、知らぬ者もあり。――」
「いや、浅野浪人はもとより、うぬらに討てる穴目らではない。さっきそこの樹上にひそんで、そこな浪人をからめとった奴、あれはだれだ」
「…………」
「なにゆえ、味方の忍者を|殺《あや》めた」
「…………」
「いわずとも、わかっておるわ。千坂兵部どののお申しつけであろう」
「兵部め、何をかんがえておることか」
と、上杉|綱《つな》|憲《のり》はひたいに|癇《かん》|癖《ぺき》のすじをうかべてうめいた。
「きゃつ、ちかく出府すると申して来おったが、かならずその所存をただし、事と次第では国家老たりともそのままにはおかぬ。上杉の家老の身を以て、上杉秘蔵の忍者どもを殺すとは――」
「兵部さまご出府。――」
鞆絵は、くびをかしげて綱憲をふりあおいでいたが、すぐにお|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》のあいだの眼をにこりとさせて、
「わたしどもの所業のわけは、兵部さまからおききなされますよう」
そういうと、風のようにあるき出した。|中間《ちゅうげん》にひかれた大八車は、きいくる……きいくる……と鳴りながら、裏門の方へ遠ざかってゆく。
【二】
きいくる……きいくる……と|軋《きし》りつつ、初冬のうすら日さす東海道を上ってゆく大八車、その上の長持の中で、何が行なわれているであろうか。車をひき、あとを押す|中間《ちゅうげん》たちは、そのなかにひとりの男と五人の女が入れられていることを知っていたが、ふしぎなことに、決して|淫《みだ》らな空想を|脳《のう》|裡《り》にうかべなかった。
底に横たわれば、ふたりしか横たわることができまい。坐ってかがむとしても、ほとんどびっしり肉を充満させてしまうだろう。しばられたひとりの男をつつむ五人の女は、けころ[#「けころ」に傍点]、|船饅頭《ふなまんじゅう》、|歌《うた》|比《び》|丘《く》|尼《に》、|夜《よ》|鷹《たか》、|羅生門《らしょうもん》|河岸《が し》の百文|女《じょ》|郎《ろう》、それは|淫《みだ》らどころか、想像するだに凄惨な光景であった。
|外桜田《そとさくらだ》から品川へ、品川から川崎へ――川崎から神奈川へ――神奈川の|宿《しゅく》に大八車がついたのは、翌日の昼まえであった。夜を徹しての運搬である。車のそばには、お高祖頭巾の鞆絵がついて、あるいていた。むろん、そのあいだ、疲れれば車を休ませてくれる。朝になれば茶屋で飯もくわせてくれる。しかし、彼女は、長持のなかへは一椀の飯も水も入れてはやらなかった。それよりも、中の男と女たちは排泄物もあるだろうに、いったいどうしているのだろうか。
長持の中は、まるで生きている者が入っていないかのようにひっそりとしていた。
鞆絵は依然として冷ややかな表情であるいている。
ときどき、うしろをふりかえった。中間たちは、遠くうしろを四人の深編笠の武士が、ひたひたとあるいてくるのを見た。
「あけてくれ」
長持の中から、ほそい、しかしたしかに男の声がきこえたのは、神奈川の宿を出たときであった。声はすすり泣くかのごとくいった。
「おれたちは、罪を犯した」
鞆絵は、すぐ前後に人影がないのを見すますと、長持の|蓋《ふた》をひらいた。中から、髪はみだれ、蒼白になった小平太がふらりと立ちあがった。白い糸はからだのあちこちにまだのこっていたが、「蜘蛛の糸巻」は溶けていた。からだからは異臭を発した。
「どうわかったえ?」
「おれたちがいかに武士の道をたてようと、この女たちにつぐなうことのできない罪を犯したことがわかった」
「おれたちとは?」
「四十八人」
「四十八人か。――」
鞆絵はうなずいた。彼女は盟約にまだしがみついている正確な人数をはじめて知ったのである。小平太はふるえながらいった。
「中でも、罪ふかいは、お頭、大石内蔵助」
「どうする」
「殺して、おれも死のう」
小平太は血ばしった眼で、街道のゆくてを見た。
「お頭は、まだ来ぬか」
「さてのう。京を出た日どりからかんがえて、もうかれこれ、このあたりを通りそうなものじゃが」
「ゆこう。……おれが車をひく」
「おまえが、車を」
小平太は大八車からよろめきおりて、車の|長《なが》|柄《え》をつかんだ。まるで何かに|憑《つ》かれたようなその姿に、中間たちは手をはなし、よこにはなれた。肩で息をつき、眼をすえて、毛利小平太はいうのであった。
「おれたちの武士道のために|犠牲《いけにえ》となったこの女たちのむざんな姿を、ぜひ太夫にみせてやろう。そして、その元凶の死にざまを、この女たちに見てもらおう。その場所まで、おれにこの車をひかせてくれ。……それが、このひとたちに対するせめてものおれのわびごころだ」
小平太の魂が変質したことを、その|形相《ぎょうそう》からみてとって、お高祖頭巾の眼が笑い、ちらとうごいて、異様なひかりをはなった。
「来た」
街道の西の方から、|二《ふた》|棹《さお》の長持を人足にかかせ、六|挺《ちょう》の|駕籠《か ご》をつらねた身分ありげな一行があらわれた。
長持にれいれいと、日野家用人垣見五郎兵衛と大きくかいた絵符の文字がみえてきた。
【三】
下に――下に――といわんばかりの一行のまえに、奇妙な大八車があらわれて、よけもせずにちかづいてくるのに、先頭の駕籠から、|垂《た》れをあけてのぞいた顔が、
「や! 毛利ではないか」
と、眼をまろくした。
その声をきいて、駕籠からつぎつぎにおりてきたのは、近松勘六、|菅《すが》|谷《や》半之丞、三村次郎左衛門、それに江戸から迎えにいった|潮田《うしおだ》又之丞、|早《はや》|水《み》藤左衛門であった。
小平太は|乱《らん》|髪《ぱつ》のまま、あごをつき出し、あぶら汗をしたたらせ、大八車をひいてちかづく。――彼らははしり出て、その|長《なが》|柄《え》をつかんだ。
「小平太、どうしたのだ」
「何を|曳《ひ》いて、どこへゆくのだ」
小平太は、はじめてしゃがれ声でいった。
「太夫はこられたか。……ちと御意を得たいことがある」
まんなかの駕籠から、大石内蔵助があらわれた。茶色の|縮《ちり》|緬《めん》の|円《まる》|頭《ず》|巾《きん》をかぶって、|裕《ゆう》|福《ふく》な長者のような笑顔で、ゆるゆるとちかづいて、
「待ちかねたか、小平太」
と、前後を見まわしたが、遠く女ひとりと|中間風《ちゅうげんふう》の男二、三人が路ばたにひざまずいているばかりなのをみて、
「内蔵助、|約定《やくじょう》どおり、とうとうやってきたぞ。もう腹をたてることはあるまい」
「太夫、拙者は盟約を破るためにここに参りました」
「なんと申す」
「拙者が盟約をぬけるというのではござらぬ。敵を討つという盟約そのものをすべてうちくだくために」
|愕《がく》|然《ぜん》とし、みだれたつ同志を、内蔵助は眼でおさえ、しずかにいった。
「なぜ」
「みなきかれい。われらが|高《こう》|家《け》の隠居の首をとる。われらはおそらく、よくて切腹、わるければ|磔《はりつけ》でござろう。それはもとより覚悟のまえです。しかし、あとにのこる妻や子はいかが相成るか、それをかんがえたことがおありか。これまたよくて遠島、わるければ同罪――同志はわずか四十数名とはいえ、それにつながる百数十人の一生を|葬《ほうむ》るのですぞ」
「小平太、何をいう。左様なことは、みなしかと承知させてあるわ」
と、潮田又之丞はさけんだ。
「それにおぬしは、妻も子もないではないか。いらざる心配はすな」
「小平太、それを気にして、敵討ちをやめようと申すのか」
と、内蔵助はふしんそうにいった。もとよりいままでに、妻子への愛にひかされて脱盟した者はおびただしくある。それをいまさら、しかもこの毛利小平太が口にするのは、ことの是非より奇怪千万に思われたのだ。
「いや、いまさら敵討ちをやめたとて、もう遅うござる」
「おまえの申すことがよくわからぬ」
「太夫――太夫がこの二年ちかく、伏見や|祇《ぎ》|園《おん》で|遊《ゆう》|蕩《とう》のかぎりをつくされておるあいだに、すでに少なからぬ|犠《ぎ》|牲《せい》|者《しゃ》が出てしまったということです」
「……存じておる」
「われわれは、とりかえしのつかぬ罪を犯してしまった。その罪の深さは、たとえわれわれが武士道をつらぬこうと、その名誉を|秤《はかり》にかけて、なお罪の方にかたむくほどのものがあります」
「……存じておる」
「太夫はご存じない! われわれのせめてものつぐないは、敵討ちをやめ、不義士となって世の笑いものとなり、未来|永《えい》|劫《ごう》地獄におちることだ!」
小平太は|絶叫《ぜつきょう》した。そして、車にはしりよって、長持の|蓋《ふた》をあけた。
「太夫がだだら遊びをなされているあいだに、堀伝之丞は死んだ。竹内左助も死んだ。羽田金太夫も死んだ。人見伴左衛門も死んだ。|糟《かす》|谷《や》|道《どう》|喜《き》も死んだ。みな貧しさと病いのための|窮死《きゅうし》です。……そして、そのひとびとの女房、妹、娘などのなれのはてを、よいか、とくとご|覧《らん》なされい」
長持の中から、初冬の|蒼《あお》|空《ぞら》へ、五人の女が幽鬼のごとく立った。
内蔵助・兵部参着
【一】
その姿、その絶叫、狂ったとしか思えない毛利小平太を|唖《あ》|然《ぜん》としてながめ、つぎにその手をとらえ、口をふさぐためにはせよろうとした近松、菅谷、三村、潮田、早水たちの浪人は、この刹那、ぴたと足が釘づけになり、名状しがたいうめきをもらした。
「おう、そなたたちは!」
昨夜、小平太が上杉邸であげたのとおなじ恐怖のさけびである。
「ご覧のごとく、いまは|羅生門《らしょうもん》|河岸《が し》の百文女郎、|夜《よ》|鷹《たか》、|歌《うた》|比《び》|丘《く》|尼《に》、|船饅頭《ふなまんじゅう》、けころ[#「けころ」に傍点]――からだのみならず、魂までも病み、死に、腐れはてた女ども」
と、小平太はかすれた声でいって、やさしく手をさしのべた。
「出い」
女たちは、ひとりひとり、小平太の手をかりて、大八車の上の長持から地上へおりてきた。
「もとはといえば、みな、夫、兄、父の忠節のために身を売った女たちのなれの果てがこれでござる」
五人の女たちは、|蒼《あお》|空《ぞら》の下に、一糸まとわぬ裸体であった。いや、まとうものといえば、みだれおちる黒髪ばかりだ。しかし、それは、なまめかしいというより、恐ろしい光景であった。ひたいに赤い|環《わ》をてらてらとひからせた女、全身に吹き出物の|斑《はん》|点《てん》をちらした女、|羞恥《しゅうち》というものを忘れたように仁王立ちになって、男たちをぼんやりながめている女。――五人の義士たちは、思わずどどとあとずさった。
顔を|覆《おお》いながら、近松勘六がさけんだ。
「いまさら、このようなものを見せつけて、小平太、なんのつもりか」
「このようなもの? 曾ての同志の女房、妹、娘でござるぞ」
「わかっておる。しかし、もはやわれらには如何ともしがたいことではないか!」
「いや、われらになすすべはある」
「どうするのだ」
「つまり、いま申したとおり、仇討ちをすてるのだ。義士よ忠臣よと世にもてはやされる資格はわれらにないというのだ。われらすべて、むなしく枯骨となった同志、およびこの|醜骸《しゅうがい》と化した彼らの娘、妹、女房に|殉《じゅん》じ、泥土のなかに名もいのちも沈めるのだ。――それこそ、人間としてまことの道ではないか?」
この奇怪な論理が、まっとうにきこえたことこそ奇怪であった。それは義士としての鉄石の意志も道徳もこなみじんにするに足る女たちの凄まじい姿のゆえであった。そして、狂気しているのは小平太ではなく、じぶんたちではないか、と五人の浪士をしらずしらずに動揺させてくるのだ。――小平太はいった。
「せめて、おのおの方、この女どもを、いのちあるかぎり抱きしめていってやって欲しい。それがおれの今生のねがいだ」
「今生のねがい? おぬしは何をするのだ」
「この夏にみた祇園島原の太平楽なご乱行を思い出すと、おれはどうあっても太夫だけにはお恨みを申しあげねばならぬ。この女たちに代わってだ。そのあとで、おれは腹を切る」
小平太は腰の刀に手をかけた。
「邪魔するな、邪魔すれば、曾ての同志であろうと、みな斬るぞ」
その眼に、やはり狂気としかいえないひかりのもえたったのをみて、五人の浪士がはっとわれにかえり、いっせいにこれまた一刀に手をかけたとき、
「小平太」
と、内蔵助が口をきった。
「そちの申すこと、いちいちもっともだ」
小平太の血相は、内蔵助の哀しげな笑顔にかえってひるんだ。しかし内蔵助は小平太よりも、五人の女たちをじっとながめていた。
「わしには一言の弁解のことばもない。肺腑に釘のうたれる思いだ。わしを殺して気がすむならば、わしはここで殺されるとしよう」
内蔵助は、腰の両刀を|鞘《さや》ごめにぬきながら、そこの土にべたりと坐ってしまった。浪士たちは狼狽した。
「太夫!」
「とめるな」
と、内蔵助はきびしい声でいった。
「とめるどころか、もしいまの小平太の言葉をもっともと思い、この|女《にょ》|人《にん》たちに申しわけないことをしたと思う者があるならば、一人でも、二人でも、いや全部ここに首をならべて、この女人たちの仕置きをうけるがよい。――まことにその方が、敵討ちなどするより、もっと人間の道にかなったことではないか?」
内蔵助は涙のうかんだやさしい眼で、女たちをみた。五人の浪士が息をのみ、たちすくんだのは、歯をむいて眼前にたちふさがった毛利小平太に制せられたゆえではなく、この内蔵助の思いがけぬ態度と、無抵抗の気迫に、一瞬、思考が停止してしまったからであった。
いまは柳原土手の夜鷹となっている竹内左助の妹が、よだれをたらりとこぼしながら、内蔵助のなげた大刀をひろった。つぎにお千代舟の船饅頭になっている人見伴左衛門の娘が小刀をひろった。
ふたりはのろのろとそれをひきぬいた。
ちらとそれを背後に見、彼女たちがそろそろとあゆみ出すのを感じながら、小平太はわめいた。
「とめるな!」
その背に、二条の白刃がひらめいた。一刀は彼の右肩から、一刀は彼の左肩から――|獣《けもの》のような驚愕のさけびをあげてふりむこうとする小平太の足に、あとの三人の女がとびついた。
さすがの内蔵助が全身を板のように硬直させている眼の前で、ふしまろんだ小平太の背を|膾《なます》にかえて、なおめちゃめちゃに白刃はふりおろされるのであった。小平太にまといついた女たちも、返り血ばかりではなく、たしかにどこか斬られたとみえる血にそまった。
小平太がうごかなくなると、ふたりの女はうつろな眼で|刃《やいば》をすてた。三人の女も、ふらふらと夢遊病者のようにあるき出した。そして、彼女たち五人は路傍に坐って、ひくくひくくお辞儀をしたのだ。どの女の口からもれたか、吐息のような声がきこえた。
「……|首《しゅ》|尾《び》よう御本懐を……かげながらお祈り申しあげまする。……」
路上に横たわった血まみれの死者はもとより、女たちも内蔵助も、そのうしろに立ちすくむ十数人の従者も、透明な大気に|象《ぞう》|嵌《がん》されたようにうごかない。……いつはてるともしれぬこの沈黙と静止の図の一角に、ややあってむらむらと影のない妖雲がながれだそうとした。全身全霊をおしひしがれるような鬼気と感動を、女たちにおぼえて、腰がぬけたように坐っていた内蔵助は気がつかなかったが、それは一種の|凶々《まがまが》しい殺気であった。
その殺気は、遠くはなれた路ばたに、二、三人の中間といっしょにひざまずいているお高祖頭巾の女のからだから発した。――しかし、彼女もまたいまの思いがけぬ惨劇に心をうばわれていて、さらにはなれた松並木のかげに、|凝然《ぎょうぜん》とたたずむ四人の武士が、たがいにうなずきあった深編笠の下から、おなじ殺気がながれ出したのに気がつかなかった。
うごき出そうとして、ひとりが舌打ちした。
「いかぬ」
街道の東の方をふりかえった。
「季節はずれの大名行列。……どこの大名か」
いかにも川崎の方から、鳥毛の槍を先頭に、金紋の|挟箱《はさみばこ》と、そのうしろに巻きあがる白い砂塵がみえてきた。参勤交代は春から初夏にかけての街道のきらびやかな風物詩で、十月末にこの行列をみることはたしかに珍しい。
砂塵をすかして、ひとりがつぶやく。
「定紋は、輪違い」
「といえば、|播州《ばんしゅう》|竜《たつ》|野《の》五万石|脇《わき》|坂《ざか》だな」
「ううむ、これは面白い」
「何が」
「脇坂|淡《あわ》|路《じの》|守《かみ》といえば去年の三月、赤穂城明渡しの上使として内蔵助とやりあった仁だ。その内蔵助が日野家用人|垣《かき》|見《み》なにがしとやらに変名してうろうろしておるのをみたら、淡路守がいかなる顔をするか、いや、内蔵助がどううろたえるか。これはひとつの|観《み》|物《もの》だぞ」
【二】
さすがに浅野浪人たちは、あわてて小平太の|屍《し》|骸《がい》を路傍にひきずりこみ、さらにきりきり舞いして小平太のひいてきた車、それから彼ら自身の駕籠や長持を路ばたによせて、まえに膝をついた。
内蔵助はどこかに身をひそめでもするかとみていると、「日野家用人垣見五郎兵衛」と大きな絵符をつけた長持のまえに、神妙に坐っている。神妙というより、|昼《ひる》|行《あん》|灯《どん》みたいにぼんやりとして、眼前を通りすぎてゆく行列も眼にうつっていないかのようだ。だから、最初、路上におびただしい|血《けつ》|痕《こん》を発見した|供侍《ともざむらい》のひとりが、行列を逆にさかのぼってかけもどっていったのも見ていたか、どうか。――
行列はふいにぴたりととまった。まんなかの乗物が、ちょうど内蔵助のまえにさしかかったときであった。乗物の戸が、小姓の手であけられた。
「いや、|御会釈《ごえしゃく》、恐れいる」
声の大きいので評判の脇坂淡路守であった。この四月交代すべきところ病気のためきょうまでのばしていた帰国の途上なのである。
「日野家用人、垣見五郎兵衛どの」
その声は、遠い四人の深編笠にもきこえたほどで、しかもそれにつづいて、笑いをふくんだ淡路守の大音声がながれてきたのである。
「|承《うけたまわ》ればこのたび、日野家の若君のおんため某高家の姫君をもらい受けたく|下《げ》|向《こう》された|由《よし》、この|御祝言《ごしゅうげん》|首《しゅ》|尾《び》よかれと、かげながら祈っておる。それにしても、この花嫁をやりたがらぬ|横《よこ》|恋《れん》|慕《ぼ》の向きが、邪魔をしようと途中で待ち伏せをしておるともきく。いま、そこらで妖気を発する四、五匹の|古狐《ふるぎつね》を見かけたわ。用心なされ。……いや、何にしてもなつかしい、五郎兵衛、顔をみたい、もそっと寄られい」
内蔵助は、駕籠の|傍《そば》へ寄った。まわりを長槍をたてつらねた|侍《じ》|臣《しん》のむれがとりかこむ。
そこで、どんな話があったのか、外部にはまったくわからなかった。ただ、しばらくして、脇坂淡路守の行列が西へ消えていったあと、六|挺《ちょう》の駕籠をつらねていた日野家用人の一行の駕籠が十二挺にふえ、さらにそのまわりに、槍から鉄砲までもった脇坂家の家来が二、三十人も護衛として加わって東へすすみ出したのである。――
あとに、五人の女はもとより、毛利小平太の|屍《し》|骸《がい》もなかった。
人通りのたえた|往《おう》|還《かん》に、お高祖頭巾の女ひとり、|茫《ぼう》|乎《こ》として坐ったままうごかなかった。そばに、やはりあっけにとられたように坐っていた|中間《ちゅうげん》たちが、悪夢からさめたようにたちあがって、|空《から》の長持をのせた大八車に寄り、
「江戸へ、かえりやすか?」
と、ふりかえっても、彼女はまだうごかなかった。能登組の女忍者|鞆《とも》|絵《え》である。
事の進展はまったく意表に|出《い》でた。もはや箱根をこえた内蔵助の江戸入りを阻止するには、内蔵助を殺すよりほかに方法はない。しかし内蔵助を暗殺することは、千坂兵部から|厳《げん》に禁じられている。この矛盾した二つの条件をみごとに満たす手段はただひとつ――赤穂浪人そのもの、しかも、もっとも|精《せい》|悍《かん》熱血の男によって、内蔵助を|斃《たお》させることだ。彼女はこう思案したのである。
|修《しゅ》|羅《ら》の車にのせられて、毛利小平太は、彼らの|妄執《もうしゅう》――敵討ちのえがき出す罪悪を満喫した。その恐ろしさは、彼の心まで変質させてしまった。ここまでは|企《たくら》んだとおりであり、またそのあとの小平太の行動も予期のとおりだ。しかし、その道具につかった五人の|犠牲《いけにえ》――|呪《じゅ》|詛《そ》にみち、腐れはてた、あわれな女たちが、刃をさかしまにして小平太を討ち、内蔵助の江戸入りの大道をひらこうとは、ゆめにもかんがえなかった!
ふっと、彼女のまえに影がさした。鞆絵は顔をあげた。四つの深編笠が立っていた。
「内蔵助は江戸へ入った」
と、|錆《さび》をおびた声でひとりがいう。能登組の月ノ輪|求《もと》|馬《め》の声だ。
「内蔵助の|阻《そ》|止《し》がならなんだらどうすると、そなたは申したかな」
冷たく笑った声は、|鍬《くわ》|形《がた》半之丞にまぎれもない。――その実、四人はいましがた脇坂淡路守に|嘲弄《ちょうろう》されて、歯ぎしりするほど憤怒しているのであった。
鞆絵がすがりつくような眼であたりを見まわしたのは一瞬である。彼女はこのとき、たしかにこの四人の能登組ではない、もうひとりの人間の眼が、すぐそばでじっとじぶんをながめているのを感じていた。それは|無明《むみょう》綱太郎の眼であった。しかし、あたりに彼の姿は見えなかった。また、たとえ見えたところで、彼女の立場はもはや絶体絶命であった。四人の能登組の追及のゆえもさることながら、彼女自身の誇りにかけてだ。
鞆絵はうなずいた。
「腹切ると申しました」
このみじかい言葉のはじめに彼女の手に懐剣がひかり、いいおえたとき、それは腹につきたてられた。帯も着物も薄紙のように、凄まじい切れ味でそのままきりきりとひきまわし、抜きあげた懐剣を左の乳房の下にあてがうと、彼女はばたりと前にうち伏した。凄絶きわまる女忍者の|最《さい》|期《ご》であった。
この|迅《じん》|速《そく》な自己処理には、さすがの能登組の面々も|胆《きも》をぬかれたらしい。口ほどになく、蒼白になって立ちすくんでいたが、すぐそわそわと、
「とにかく、このことを|弾正大弼《だんじょうだいひつ》さまにご報告いたさねば」
「中間! このものの|骸《むくろ》を長持に入れ、お屋敷に車をひきもどせ!」
と、あえぐようにいうと、風のように東へかけ去っていった。
もはやにげ出す気力もなく、やおらがくがくとふるえる手足をあやつり人形みたいにうごかして、鞆絵の屍骸をかつぎあげ、車の上の長持に入れようとした中間たちは、もういちど、ひいっとのど[#「のど」に傍点]のおくで妙な声をあげた。|空《から》っぽのはずの長持の底に、いつのまにやらひとりの男があおむけに寝ころんでいたのである。――投げこまれるというより、手からはなされて自然におちてきたお高祖頭巾の屍骸を両腕にうけて、男はいった。
「……いま、救ってやっても、どうせおまえは死んだであろうな。忍者ならば、そうあるべきところだ。――中間、ふたをしめろ。そして、いま命じられたとおり、車をひいて江戸へもどれ」
【三】
上杉家の国家老千坂兵部が米沢から出府してきたのは、十一月の半ばであった。彼の出府の目的の重大性は、江戸屋敷の人々にもほぼ想像された。
いうまでもなく、このごろ江戸の|巷《ちまた》という巷でささやきかわされる浅野浪人たちの復讐ちかしといううわさとつながる御用に相違ない。これがもしまことのこととなるならば、上杉家末代までの恥辱だ。おそらく、即刻上野介様を米沢へおひきとりなさるか、せめてはこの上杉藩邸におかくまいあそばすための御出府であろう。いままでむなしく上杉家の方で|傍《ぼう》|観《かん》していたのがおかしいくらいなのだ、と人々はうなずき、小柄ながら|磐石《ばんじゃく》の重みを持つ国家老をあおいで、みな|愁眉《しゅうび》をひらいたのである。
もうひとつ、江戸屋敷の人々の|耳《じ》|目《もく》をひいたことがあった。それは兵部が娘の織江を同伴して出てきたことである。――去年の春、この織江が無断で江戸屋敷から米沢へにげてゆき、それについてひと騒動を起こしたことはだれも忘れてはいなかったから、彼女をつれて江戸へ出てきた千坂兵部の心事は、これはだれにも想像できなかった。
――外桜田の藩邸に入った当日の夜のことである。御前から下がってきた父を、織江は|雪洞《ぼんぼり》をささげて廊下で不安そうに待っていた。
「父上、殿にはごきげんうるわしゅう……いらせられましたか」
兵部はだまって、さきに座敷に入った。その苦悩にみちた横顔をみて、織江は二度とたずねる勇気をうしなった。江戸へくるのを何よりおそれる織江が、父の命ずるままに同行してきたのも、この父の苦悩の顔にそれを拒否する気力をうしなったからであった。
座敷に入って、ふたりは立ちすくんだ。そこにひとりの男が平伏していていった。
「御出府と|承《うけたま》わり、お待ち申しあげておりました」
と、男は顔をあげていった。
「無明か」
と、兵部はさけんだ。織江は声も出せぬ。まことにそれは無明綱太郎のあの冷やかで不敵な顔であった。
「早速ですが、御用命の条々、その後のなりゆき始末についてご報告いたします」
|淡《たん》|々《たん》として彼はいい出した。
「第一、浅野浪人どものうち真に報復の意志をもち、一味の陣頭に立っておる奴を探り出すこと、第二、彼らを江戸屋敷から送られた刺客からまもってやること、第三、その浪士と女忍者どもを結びつけて、彼らを女地獄につきおとし、復讐の意志を|消磨《しょうま》させること、第四に、もしその女どものうち、上杉家を裏切るおそれある奴が出たならば、その女を討ち果たすこと。……このお申しつけでござったな。結論から申せば、能登組の女ども、汗血をそそいで赤穂浪人のうち最も|烈《はげ》しき旗ふり数名をえらび、|仰《おお》せのとおり女地獄におとし|背《はい》|盟《めい》いたさせましたなれど、ふびんや六人の女ども、すべて落命いたしました。江戸の能登組とたたかって殺された者もあり……ご当家を裏切るおそれ生じて、拙者の手にかかった者もあります」
水のような綱太郎の声が冬の夜気の底をながれる。兵部はそのまえに坐って腕をくんだまま、織江は|雪洞《ぼんぼり》のそばにじっと片手をついて、綱太郎の横顔を見つめたままであった。
「なお復讐の志をすてず、ただいま江戸に集まった浅野浪人は四十七人。――もし、仰せのごとく彼らを殺してはならぬものならば、あと四十七人の女忍者が|要《い》りましょう」
綱太郎はかすかに皮肉な笑いをうかべ、ひとごとのようにいう。――
「あくまで復讐の志をとげさすまいと思えば、きゃつらすべてを討ち果たすよりほかはありませぬ。それほど性根のすわった四十七人と見受けてござる」
兵部はしかし頬に手をあてたまま、綱太郎の言葉をきいているのか、いないのかわからない顔つきであった。綱太郎の眼に、ようやく不審の色がうかび出た。
兵部はやがて、しずかにいった。
「苦労をかけた。礼をいう。いや、そちのこと、さきざきともに|悪《あ》しゅうははからわぬぞ」
「あいや、御用命のそもそもの狙い――きゃつらの企てを|土《ど》|崩《ほう》|瓦《が》|解《かい》せしめるということの目的はまったく果たしてはおりませぬ。それにもかかわらず、拙者がここにぬけぬけと参上いたしましたは、いま申しましたとおり、ことここに及んではその四十七人をすべて討ち果たすよりほかはないのでござりますが、それにてよろしきや、というご判断を仰ぎたく存じたからでござります」
なぜか沈んだ兵部の態度に、逆に綱太郎の全身に凄味をおびたものがあふれ出た。
「そのおゆるしさえあれば、この二、三日中にも、拙者、その四十七人の浪士ことごとくを亡きものにしてごらんにいれまするが」
金剛網
【一】
お望みならば、赤穂浪人四十七人、ただちにこの世から消してみせる、と平然としていう無明綱太郎をながめやった千坂兵部の眼が、かすかに動揺したようである。
「彼らの動静は相わかっておるか」
と、いった。
「ことごとく」
と、綱太郎はこたえて指を折った。
「首領大石内蔵助は一子|主税《ちから》とともに、日本橋|石町《こくちょう》三丁目の宿屋小山屋に投宿しております。これに従う者は、小野寺十内、大石瀬左衛門、菅谷半之丞、潮田又之丞、近松勘六、三村次郎左衛門の合計八人」
「…………」
「つぎに|新麹町《しんこうじまち》六丁目|大《おお》|家《や》喜左衛門|裏《うら》|店《だな》には、吉田忠左衛門、吉田沢右衛門、原惣右衛門、不破数右衛門、寺坂吉右衛門の五名が合宿しております……」
「…………」
「さらに新麹町四丁目の|和泉《いずみ》屋五郎兵衛|店《たな》には、中村勘助、|間《ま》|瀬《せ》久太夫、間瀬孫九郎、岡島|八《や》|十《そ》|右衛《え》|門《もん》、岡野金右衛門、小野寺幸右衛門の六名」
綱太郎は指を折りつづける。
「おなじく新麹町四丁目の|大《おお》|家《や》七郎右衛門|店《たな》には、千馬三郎兵衛、|間《はざま》喜兵衛、間十次郎、間新六。……」
「待て」
千坂兵部はくびをふって、|鉛《なまり》のような顔色でつぶやいた。
「一つ家に屈強な男どもが七人も八人も同居しておるのを、大家から届け出はあろうによくも町奉行所が知らぬ顔をしておるもの、江戸の素浪人の詮議には一通りならず眼をひからせておる奉行所が……」
「されば、その見地からも、もはやあまりに長く彼らは待機できぬものと見受けます。いまや彼らは、ただ吉良どのの|隙《すき》を狙うばかり――好機とみれば、彼らは今夜にも吉良邸へ乱入いたすやもしれませぬ」
兵部はおびえたように立ちあがった。しかし、綱太郎を見下ろしてうめいた言葉は意外なものであった。
「無明、その話はまたあとできこう。きょう米沢からついたばかりのわしだ。すこし疲れておる。ゆるせ。……」
そういうと、兵部はにげるように背をみせて唐紙をあけ、ふりかえっていった。
「そちは当分、ここに住んでおれ」
綱太郎は坐ったまま、あと見おくってくびをかしげた。それからそのままくびをまわして、織江を見た。織江はじっと綱太郎を見つめていたが、視線があうと、はっとうつむいた。
「おなつかしゅうござる、織江さま」
綱太郎にしては、素直な、あたたかみをおびた声であった。
「あれから、もう一年以上もたちましたな。ご案内下された米沢の|御廟山《ごびょうざん》や法恩寺や林泉寺などの風物、忘れはしませぬ。いまはもう雪の下でござろうが」
織江の頬に血がのぼった。――すると、綱太郎の背に、異様な恐怖に似た感覚がながれた。織江が、おゆうに似ていることは、最初のひと目で綱太郎の心臓をわしづかみにしたことであった。
おゆう、おゆう! 彼にはじめて恋というものを味わわせ、そして生きながらの地獄につきおとした女、彼の手にかかって殺され、しかも地上の女という女を妖怪のごとく彼に思いこませるに至った女!
その女に織江がそっくりだということは、綱太郎を混乱させずにはいなかった。
運命の星の呼び声であろうか。何も知らぬ織江は綱太郎にある感情を抱いたようであった。それに対して綱太郎が、なんとも奇妙な反応――織江につきそう老女の卯月などが腹をたてたくらいの無礼ともみえる態度をみせたのは、むろん「殺した女」への恐怖からであった。
しかも彼は、彼女への|愛執《あいしゅう》を|断《た》ちがたかった。女はきらい、と公言した綱太郎が、この一年、|上《かみ》|方《がた》から江戸へかけて六人の女忍者とともに義士堕天行というおかしな任務に奔走しながら、いくたびか織江の|幻《まぼろし》がまぶたにうかんでくるのに、彼は妙な笑いをうかべずにはいられなかった。苦い感情と同時に、なんともいえぬ甘い思いにとらえられるのだ。女へのにくしみがこわばらせた非情な仮面のおくそこから、曾てのあかん坊みたいにひたむきな情感がともすれば|甦《よみがえ》ろうとしていた。
そして、いま一年ぶりに織江をみて、綱太郎はじぶんが彼女に惚れていることをはっきり知った。「おゆうに似た女」という|呪《じゅ》|縛《ばく》から解けて、はじめて純粋に織江を愛していることを知った。彼はこのとき、おゆうのことをまったく忘れていた。
しかるに、いま、顔をあからめてはじらった織江の姿をみたとたん――夢魔のように綱太郎の胸を、おゆうの幻影がかすめすぎたのである。それは曾て大奥の御錠口で、彼が強引な付け文をしたとき、おゆうがみせた|羞《は》じらいの姿であった。
無明綱太郎は恐怖につきうごかされたように立ちあがっていた。しかし、それは回想の恐怖ではなく、本能的な運命の予感からきたもののようであった。
「織江さま、失礼いたす」
「どこへ?」
織江はびっくりして顔をあげた。
「父がこのお屋敷にいらっしゃいますようにと申しましたが」
「いや、こんなところにのんべんだらりとしてはおられぬ。いまの話をきかれたろう。浅野浪人どもは、今夜にも御当家の殿さまの父君吉良上野介さまのおん首をとりに推参するやもしれぬ事態なのです」
無明綱太郎は縁側から庭におりた。むろん彼が玄関から正式に入ってきたわけはなく、これは彼が忍び入ってきた路を逆にもどるつもりの行動らしい。
綱太郎は追われるように庭をあるき出した。しかし、織江はそのあとを追ってきた。
【二】
「無明さま」
「…………」
「綱太郎さま」
織江は二度よんで、それからわれを忘れたようにいった。
「わたしを助けて下さいまし」
無明綱太郎はくるりとふりむいた。|霜《しも》|月《つき》半ばの寒月が水のように樹々や石や泉水をうかびあがらせている庭のまんなかであった。綱太郎はその月光の中に、可憐に唇をわななかせている織江の顔を見つめた。
「あなたを助ける? ――だれから」
「父から」
綱太郎は小首をかしげた。
「父上さまから? ……兵部さまがあなたをどうなさるというのか」
「父がわたしをどうしようというか、それはわたしにもわかりませぬ。けれど、わたしは恐ろしいのでございます。……なぜ父がわたしを江戸へつれてきたかということをかんがえますと」
|卒《そつ》|然《ぜん》として綱太郎は、あることを思い出した。去年の春、この織江が主君の綱憲の好色の眼に狙われて米沢ににげかえったことである。
そのために奥州街道に追手までかけられたのを、はからずもじぶんが救ったのが、そもそも彼女を知り、ひいては千坂兵部から奇妙な任務を命じられるはじめであった。――その後、父の兵部は織江を手許に置いていた。江戸の綱憲からその件について何かいってきたかどうかは知らない。平然たる兵部の態度からみると、そんな話もないようであったが、たとえ綱憲がなんといってきても、それにとりあう兵部とはみえなかった。
しかし、いかに剛毅な千坂兵部にしても、そんなことのあった娘を同行して出府してくるとは、かんがえてみればいぶかしい。
「わたしは江戸へくるのが恐ろしゅうございました。けれど父は」
「父上は何と申された」
「父は申しました。織江、このたびの出府は兵部思うところあって|命《いのち》がけのものじゃ、父のみならずおまえにも、あるいは命をもらわねばならぬかもしれぬ。いっしょに江戸へいってくれるか――こう申したのでございます」
「なに、あなたの命が欲しい? なんのために?」
「それだけで、父は何も申しませぬ」
ふたりは沈黙して、じっと顔を見あった。
|戦《せん》|慄《りつ》が無明綱太郎の背を|這《は》いのぼった。彼はおぼろげながら兵部の意図を感じたが、恐怖のためにそれを口にすることができなかった。同時に織江も同じことを感得しながら、そしてそのためにこそいま「わたしを救ってくれ」と口ばしったにちがいないのに、やはり恐怖のためにそれを言葉にあらわせないでいることを知った。
「兵部さまが命がけの出府と仰せられ、あなたの命ももらいたいと仰せられたという。……わからぬなあ」
綱太郎はつぶやいたが、それは恐怖にたえかねて、話をよそにそらそうとするあがきでもあった。
「兵部さまのご心事が|腑《ふ》におちぬのは最前からのことだ。――織江さまはご承知かどうかは知らぬが、拙者はこの一年、兵部さまのお申しつけで、浅野浪人が吉良どのに復讐の挙に出るのを、なんとか未然に阻止したいと奔走しておったものです。しかし、これは失敗した。それというのも、浪人どもを殺してはならぬという兵部さまのご制約があればこそで、拙者とともに働いた六人の女がみな死んだのも、その制約のためといってよい。浪人どもをみな殺しにすれば、万事簡単にすむことなのです。拙者はいま兵部さまに左様に申しあげた。しかるに、兵部さまは、はかばかしい返答をなされぬ」
「…………」
「お父上が、浅野浪人を殺すことを望まれぬお心はよくわかる。浅野浪人を暗殺すれば、吉良家上杉家に世の疑いがかかる。そして吉良家上杉家が、いま以上に世のにくしみをあびるようになる。――そういうご見解なのだ。拙者らはそのご見解にしたがってうごいた。が、これだけは残念ながら兵部さまのお見込みちがいであった。浅野の浪士どもは、みなごろしにせねば復讐は避けられぬ。そのことがはっきりしたのに、なぜ兵部さまはまだ迷っておいでなさるのか。いかに兵部さまが上杉家のご安泰をお望みであろうと、ご主君の父君がみすみす討たれるのを|傍《ぼう》|観《かん》なさるご所存ではござるまい。だいいちそこまで隠忍することを、綱憲さまが望んでおわそうとは思われぬ」
「…………」
「そこまで隠忍することは、隠忍ではない。腰ぬけです。謙信公以来の上杉家の名が|泥《でい》|土《ど》にまみれ、世上の笑いものとなる。武家として恥ずべきは、世ににくまれるより笑われることだと拙者はかんがえるのだが――拙者には、お父上が何を思案しておいでなさるのか、まったくわからぬ!」
「…………」
「いや、兵部さまは、このたびは命がけの出府と仰せられたといわれたな。それならば、まさか浅野の浪人どもの|企《たくら》みを、やはり見逃がすおつもりとは思われぬ。上杉家の千坂といえば当世珍しい知恵者として噂のたかい名家老、そのご軍略は拙者ごときのうかがい知るところではないが、何らかの奇想天外の手段を以て浪人どもを一挙に|金《かな》|縛《しば》りになさるご所存であろう。……それにしても」
話はやはり最も恐れていることにもどらずにはいられなかった。
「あなたのおいのちが欲しいとは?」
彼はかすれた声でいった。
「織江さま、父上の仰せなら、あなたはよろこんで死になさるか」
「上杉家のためならば」
と、織江はいった。決然たる語調であった。
「それなら、何を拙者に救ってくれと申されるのか」
「命ならば、捨てまする。けれど……父が求めるのは、わたしの命ではないような気がするのでございます」
ついに織江はその言葉を唇にのぼすと同時に喪神したようによろめいた。綱太郎はそのからだを抱きとめたまま、|凍《こお》りついたようであった。
彼女の言葉の意味するものは、綱太郎にはまだはっきりとはわからなかった。それにもかかわらず、彼は|吐《はき》|気《け》をおぼえた。同時に、彼女へのもえるようないとしさが、全身の血管のはしまで脈うつのを感じた。女を恋する心が綱太郎の胸に不死鳥のごとくよみがえったのである。
「織江さま」
と、彼はいった。
「拙者とともにここを逃げられるか」
「そうはさせぬ」
と、ふいにしゃがれ声が四方からながれてきた。綱太郎は愕然として庭をすかした。
彼ほどの男が、それにまったく気がつかなかったのは不覚であったが、それほどいまの事態に昏迷していたともいえるのである。それにしても、真昼のように明るい月明かりの庭に、なんの気配もなく忍びよっていた四つの影はさすがであった。
いうまでもなく能登組の忍者、鍬形半之丞、折壁弁之助、月ノ輪求馬、女坂半内だ。彼らはふたりを中心に、正確な正方形をかたちづくっていた。
「話はきいた」
「うぬが、能登の女どもの背後にあって、おれたちの仲間を|殺《あや》めた奴だな」
「千坂どののお申しつけも奇怪だが、その千坂どのに|叛《そむ》いて、そのご息女とかけおちしようとは、いよいよ以て奇怪な奴」
「ふ、ふ、そうはさせぬどころか、うぬもこの場を去らせはせぬ」
そのとき、屋敷の方からかんだかい声がながれてきた。
「お嬢さま! お嬢さま! 織江さまはどこにいらっしゃいます?」
【三】
庭のむこうに、白い影があらわれた。
「織江さま、父上さまがお呼びでございます。お嬢さま!」
老女の卯月だ。綱太郎がそう気がついたとき、向こうでも庭のまんなかに立っている織江を見つけたらしい。
「まあ、そんなところに――何をしておいであそばす」
織江といっしょにいる男が無明綱太郎だとはわからなかったようである。月光をすかして、卯月はこのとき庭の四方に立つ四つの影にも気がついたらしいが、その異様な雰囲気にいっそう気がもめたらしく、
「それは何者でございます?」
そうさけびながら、ばたばたと、ころがるようにこちらに駆けてきた。卯月の姿が、四つの影のうち、二つの影をむすぶ線をつっ切ろうとした。――その刹那、彼女のからだは両断され、墨汁のように|奔《ほん》|騰《とう》する血けむりの下に庭にうち伏していた。
織江が、一瞬声もあげ得なかったのは、その凄まじいとも|酸《さん》|鼻《び》ともいいようのない光景に息がつまったというより、それが現実であるかどうか、わが眼をうたがったからであった。何が、どうなったのかわからない。卯月が、二人の忍者をむすぶ線をつっ切ろうとしたということすら、|咄《とつ》|嗟《さ》にはわからなかった。彼らの間隔はそれぞれ六、七間もはなれていたし、彼らは身うごきひとつしなかった。真昼のような冬の月明かりの下に、空間には何物も存在せず、何物も動きはしなかった。それなのに老女卯月は――まるで眼にみえぬほそい|鋼《はがね》の糸にひっかかった魚のごとく、腰から胴斬りになって崩れおちたのである。
うごかない四人の忍者こそ、真に恐るべきものであった。うごかぬどころか、その一瞬、犠牲者をはさむふたりの忍者は氷結したようであった。実際、黒衣のなかで、ふたりの肉体は、凄まじい念力の放射のために氷のごとく透明になったのである。
「能登忍法、|金《こん》|剛《ごう》|網《もう》」
と、べつのひとりがつぶやいたとき、ふたりのからだは常態にもどっていた。
「これ、無明綱太郎とやら、浅野浪人どもをみなごろしにすれば、万事簡単にすむことだと申しておったな。同感だ。ただし、そのことにうぬの力はかりぬ」
「いざとなれば|吉《き》|良《ら》|邸《てい》をつつんで、その周囲にこの金剛網を張れば、たとえ|痩《やせ》浪人どもが五十匹百匹おしよせようとも、見るとおりだ」
「いままで、きゃつらを泳がせて平気でおったのも、きゃつらが|一《ひと》|束《たば》になって集まるのを待っておったのだと申してもよいわ」
「なんとなれば、この金剛網をひとたび張れば、こちらの寿命を三年ずつちぢめるのでな」
笑うような声が四方からながれ寄ってくる。声のみならず、四つの影はゆっくりとあるいてきた。綱太郎と織江をかこむ見えない死の四角形がちぢまった。
「卯月」
はじめて織江は絶叫し、老女の|屍《し》|骸《がい》の方へかけ出した。
「危ない!」
銅像のごとく仁王立ちになっていた綱太郎が、狼狽してそれを抱きとめようとしたが、織江はころがるようにかけていった。――そのとき、庭のむこうで、また声がした。
「織江」
「あっ、父上さま」
ちかづいてきたのは、千坂兵部であった。彼は織江から綱太郎を――それから四人の能登組に視線をまわし、最後に老女の無惨な屍骸に眼をおとして、つかつかとその|傍《かたわら》に寄った。
「半内、弁之助、求馬、半之丞――老女を殺したのはうぬらのわざか」
「ご家老、この始末を拙者らが弁明いたすよりは、ご家老さまのご弁明をうかがいたい儀がござる」
不敵に彼らがそういって兵部の方へむきなおったとき、兵部は一喝した。
「のぼせるな、能登の犬めら、忍者の|分《ぶん》|際《ざい》を以て上杉十五万石をあずかる兵部に|糺明《きゅうめい》のことがあるとは|僭上《せんじょう》の|沙《さ》|汰《た》であるぞ。ひかえおれ!」
戦場で十万の兵を|叱《しっ》|咤《た》する声とはこのような声であろう。ひろい庭にみちた|蒼《あお》い月光に亀裂がはしったかと思われる大喝に、四人の忍者は一瞬はっとひるみ、もっとも近づいていたふたりなどは、思わずがくと片膝をついてかしこまったほどであった。
「織江、参れ」
と、兵部はしずかにいった。織江は父のそばへかけよろうとして、ふいにうしろをふりむいた。
「――きゃつ、逃げた!」
と、能登組のひとりがさけび、どっと彼らは庭を殺到していったが、死の四角形は崩れていた。無明綱太郎は、すでに遠い塀の上に立っていた。
沈痛な声がそこからきこえた。
「まだ兵部さまのお心がわからぬゆえ、今夜はこのまま拙者はゆきます。――しかし」
その影は月明かりの夜空へ飛んだ。凄絶な声のみを残して。
「織江さま、拙者を欲するときは拙者を呼ばれい。無明綱太郎、いつでもあなたを救うためにきっと来る!」
無明・有明
【一】
元禄十五年十二月十四日。
この数日ふりつづいた雪は、人馬の往来もとまるほど江戸市中を|埋《う》めつくしたが、それがようやくふりやんで、凄いような月があらわれたのは、その午後十時ごろであった。
|外桜田《そとさくらだ》の上杉の上屋敷の一室に、午後から千坂兵部は坐っていた。そのまえに三人の男がひかえている。炭火、|行《あん》|灯《どん》、茶、食事、それらを運ぶことを命じられたのは織江であったが、いつその座敷に入っても、兵部をはじめ、三人の忍者も|凍《こお》りついたように身うごきひとつしなかった。
一人目の|女《めの》|坂《さか》半内が雪のふりしきる外からかえってきたのは、午後二時ごろであった。彼は、その日の朝から、大石内蔵助をはじめ浅野浪士十余名が|高《たか》|輪《なわ》の|泉《せん》|岳《がく》|寺《じ》にあつまり、|方丈《ほうじょう》をかりて|襖《ふすま》をたてきり、密議したのち四散したことを告げた。
二人目の月ノ輪|求馬《もとめ》が帰邸してきたのは、午後五時ごろであった。彼は、その午後から本所二つ目|相生町《あいおいちょう》の|小豆《あずき》|屋《や》善兵衛こと赤穂浪人神崎与五郎の店が大戸をとじ、その裏口から三々伍々、十数人の壮士が集まりつつあることを知らせた。
三人目の折壁弁之助がもどってきたのは、夜がふけて雪がやんでからであった。泉岳寺を出た内蔵助は小野寺十内とともに、両国矢の倉米沢町の堀部弥兵衛宅へ駕籠を走らせ、にぎやかに盃を|交《かわ》しているが、その膳にあるのは、かち栗、|昆《こん》|布《ぶ》、|寒《かん》|鴨《がも》を調理して|菜《な》|鳥《とり》の吸物という出陣の祝いにまぎれもないものであったことを報じた。
それでも千坂兵部はうごかない。ひとりひとりの報告をきいて、
「よし、ここにひかえおれ」
と、いったきり、じっと火鉢に手をかざしたままだ。
そもそも、この国家老は何をかんがえているのか? 三人の忍者の眼は疑惑と|焦燥《しょうそう》にらんらんとかがやいて兵部をにらんでいたが、鉄からでもできているようなその姿にはねかえされて、しだいに視線がたたみにおちてくるのを禁じ得ないのであった。
かえりみれば、彼らが兵部の命のままうごいていることが、彼ら自身にもふしぎであった。復讐を志す赤穂浪士を暗殺する――この主君綱憲の意志に反し、それのみかこの企図のじゃまをしたのが兵部であることはいまやあきらかである。それにもかかわらず、出府以来、江戸屋敷の主導権をにぎっているのは、この兵部なのだ。この小兵な国家老は、彼らのみならず、綱憲をすら、|磐石《ばんじゃく》の重みでおさえつけているのであった。
主君のまえに彼ら四人の忍者を呼び出して、
「|爾《じ》|今《こん》、このものどもは私が指図いたします」
そういいわたして、綱憲が|沈《ちん》|鬱《うつ》な顔でうなずくのをみては、彼らも従わざるを得ない。
しかし、兵部の心事を不可解としつつ、彼らも兵部を全面的に疑っているわけではなかった。赤穂浪人どもが吉良邸に討ち入るのを、兵部がみすみす見のがそうとは思われないのだ。それならば彼が出府してくるわけはない。またそれ以来、浪士どもの動静を、一日一刻のすきもなく、じぶんら忍者から報告をうけているわけはない。――とはいえ、いまや浪士どもは、ようやくただならぬうごきを見せはじめた。百に九十九、浪人どもが吉良邸に推参するのは今夜と思われる。しかもなお、うごかぬ兵部は何をかんがえているのか?
雪に埋められた夜は、死のごとく静寂であった。庭の枯れ木から、かすかに雪のおちるひびきにも、三人の忍者の全身の毛は立った。
四人目の鍬形半之丞が面色を変じてかけもどってきたのは、夜半もすぎた午前一時すぎであった。彼は、本所二つ目|相生町《あいおいちょう》の|小豆《あずき》|屋《や》に十数名、本所三つ目横町の剣法道場杉野九郎右衛門こと杉野十平次宅に十数名、そして本所林町の長江長左衛門こと堀部安兵衛宅に内蔵助をはじめ十数名、あわせて四十七人の浅野浪士がすべて集結し終わったことを告げ、さらに――|今朝《こんちょう》|寅《とら》の一点、午前四時を期して、彼らはその三ヵ所から吉良邸へ殺到する予定であることを報じたのである。
「よし」
千坂兵部はすっくと起った。凄まじい眼の色をみて、四人の忍者はいっせいに、はじめて兵部のたくらみを直感した。四人をして、吉良邸をめぐる四つの地点に立たせ、必殺の金剛網を張らしめる。そして、襲撃する赤穂浪人四十七人、ひとりのもれこぼれもなく、この一夜にみなごろしにする。――御家老はこの一瞬を待ってござったのだ、彼らはそう思ったのである。
しかし、それは錯覚であった。兵部は意外なことをいった。
「|御《ご》|前《ぜん》に参上いたす、その方らも、みな参れ」
【二】
「今朝未明、寅の上刻、浅野浪士ども、上野介さまお屋敷に推参いたしまする」
|閨《ねや》の上に起きなおった上杉|弾正大弼《だんじょうだいひつ》|綱《つな》|憲《のり》は、千坂兵部のこの言葉をきいてのけぞりかえった。声も息もなく見つめて、|閾《しきい》の外にしずかにひれ伏している兵部の姿に、いまの一語はききあやまりではなかったかと疑った。
「兵部、何と申す」
「上野介さま、今朝|果《は》てさせられまする、と申しあげてござります」
千坂兵部は平伏したまま、しずかにこたえる。綱憲はさけんだ。
「さ、左様なことを、そちはぬけぬけと……いや、いま浅野浪人の討ち入るは寅の刻と申したな。それならば、まだ間にあう。即刻、手勢をすぐって本所松坂町へ押し出せば、まだ間にあう! 父をまもれ、父上を討たすな、兵部っ、何をゆるりとかまえておる?」
「そのことにつき、殿のお覚悟のほどを仰ぎたく、兵部かくは参上つかまつってござります」
「覚悟?」
「されば、上野介さまは赤穂浪士どもに討たれさせ給うべし、そのお覚悟でござります」
「兵部っ、そ、そちは……出府以来、余はそちの心事をいぶかしんでおった。さりながら、そちは万事わしにまかせろと胸を張って申したゆえ、余は信じておったのだ。これ、そちはそもそも、何をしに江戸へ出てきたのか!」
「上野介さまが赤穂浪士どもの手にかからせ給うように……そのときまで、彼らに当家より無分別な手を下さぬように……出府いたして参りました」
綱憲は唖然とした。もしや、とは疑っていたが、まさか、と思う。――その恐るべき告白を耳にして、愕然としたのは四人の忍者もおなじだ。彼らはかっと眼を見ひらいて、この上杉家の家老にあるまじき家老を見まもった。
「父に……死ねと申すか。父の死ぬのを、兵部、そちは望んでおるのか」
「曾ては望んではおりませなんだ。得べくんば上野介さまのおんいのちを助けまいらせたいと……兵部は兵部なりに|肺《はい》|肝《かん》をくだきました。浅野浪人の暗殺などという非常手段を使わずとも、それが成るものならば。――しかし、その手段を使わずば、彼らの一挙がふせげぬことが判明したいまでは、私は上野介さまのお果てなさることを望んでおりまする」
「なに」
「この一言、いま申しあげるまで……兵部は夜々|輾《てん》|転《てん》つかまつりました。しかも、いま申しあげて、この口裂けずやとも思いまするが……たとえこの口裂けようと、いやさ殿に八ツ裂きのご成敗を受けましょうとも、兵部、これを申しあげまする」
「なぜだ! 兵部っ、な、なぜだっ?」
「それが将軍家の御意向と、民の心でござれば」
これまでたたみにかじりつくようにひれ伏していた千坂兵部は、はじめて顔をあげた。なんたる恐ろしい言葉だ。そしてなんたる恐ろしい眼だ。
「正しく申せば、それが民の心ゆえ、将軍家がご変心あった、と申すべきでござろう。浅野刃傷の際、殿中の喧嘩は両成敗、という幕典を忘れ、喧嘩のもとを不問に付し、内匠頭には切腹、上野介さまには神妙なりとのご|優諚《ゆうじょう》をたまわったは、公方様のいちじのご立腹による片手落ちのお裁きでござりました。時たって民がこのお裁きに不服の批判をたててきたのに気がついて、公方様はご自分のご処置を、しまった、とご後悔あそばされたのでござります」
「うぬは――将軍家のお心を見てきたような」
「あいや、これは兵部の当推量ではございませぬ。上野介さまがお|曲《くる》|輪《わ》うちからへんぴな本所へお移りなされるのを、|上《かみ》で冷然黙視なされておったのもそのあらわれ、また浅野浪人どもが五十人ちかく江戸にあつまっておるのを承知のうえで、いまなお知らぬ顔で見のがしておらるるも、その証拠」
兵部は死灰のような顔色でつづける。
「にくや浅野の家老大石内蔵助めは、お上がお悔いなされ、さらに上野介さまを討てよといわぬばかりのお心におなりなさるまで待っておりました。刃傷の直後、上野介さまを討っては、腹だちまぎれの乱心逆上と見られたでござりましょうが、事件以来二年ちかく、歯をくいしばって待ちに待ち、そのあいだに、お上に貸しのかたちをととのえてしまいました。きゃつらは、もはやたんなる復讐にあらず、お公儀の片手落ちのお裁きに対する抗議という大義名分をつくってしまったのでござります」
「知らぬ、知らぬ、公儀が何をかんがえておるか、浅野浪人どもがいかなる思案をめぐらしたかは知らぬ。余の知ったことでない、また父の知ったことでない!」
「あきらかに、上野介さまにおん罪はございませぬ。ただ上野介さまは……お公儀のお裁きのしりぬぐいをあそばされなければならぬお方でございます」
「それこそ、片手落ちだ!」
綱憲はたちあがって、絶叫した。
「時がうつる。兵部、そちの|妖《あや》しき説教をきいておるときでない。父を殺しては上杉家の名折れだ。能登の者ども、起て、はやく|侍《さむらい》どもを呼びあつめろ」
「ならぬ」
兵部はふりむいて、ひくい強烈な声でいった。膝をうかせようとした四人の忍者はぴたとおさえつけられた。
「浅野浪人どもの暗殺すらおさえた兵部でござる。いま手を出すことは、断じて相なりませぬ。それは上杉家の断絶をまねくことでござります」
「なに、上杉家の断絶? たわけっ、浪人どもが高家へ夜討ちいたすを、高家の親族たる上杉がふせいで、なぜ断絶せねばならぬのか」
「いまの公方さまが、ほかならぬ綱吉公でござれば。――いまの将軍家は|大名潰《だいみょうつぶ》しをご道楽になされておるお方でござります。御一族の|越後松平《えちごまつだいら》二十六万石ですら、虫のごとくひねりつぶされたお方でござります。もしご当家が、いま公方様のご意向にそむき、浅野浪人の討ち入りにおん横槍をお入れなさるとせんか、待つや久しとばかり公方様のおん手が当家におよぶは|必定《ひつじょう》、いいがかりは、何とでもつけられまする、殿! ご当家は、|元《がん》|来《らい》関ケ原で徳川家に弓ひき、|会《あい》|津《づ》百三十万石から三十万石へ、いまはからくも十五万石で|残《ざん》|喘《ぜん》をたもちおるお家でござりますぞ」
綱憲はどうと閨の上にすわった。兵部の眼から涙がながれおちた。
「大石内蔵助は日野家用人の肩書きを以て下向したとやら、また|脇《わき》|坂《ざか》|侯《こう》がそれと知りつつ、大石をかばいなされたとやら……|公《く》|卿《げ》大名もまた浅野浪人どもを公然とはげましおりまする。それと申すも、みな将軍家と民の心をうしろ|盾《だて》にしておるゆえでござる。おいたわしや、いまや上野介さまは天下ことごとくから見はなされ、ひとり捨て殺しにされるご運のほかはござりませぬ」
「そうはさせぬ」
狂的な眼をふりあげて、綱憲はさけんだ。
「上杉十五万石をかけて、余は父をまもる!」
「|殷《いん》|鑑《かん》遠きにあらず、|内匠《たくみの》|頭《かみ》の短慮の二の舞いをふまれてはなりませぬ。しかも、上杉家がとりつぶされたとて、当方には討つべき|敵《かたき》はないのでござります、殿……公方様の思う|壺《つぼ》におちなさるな、いま、忍びがたきを忍ぶことこそ、公方様に勝つことでござりまするぞ」
兵部は腹の底までひびく声でいった。
「たとえ殿がいかに仰せられようと、いま上杉家の侍一人たりともうごかすことは、この兵部がゆるしませぬ。|不《ふ》|識《しき》|庵《あん》|謙《けん》|信《しん》|公《こう》以来百五十年、名ある上杉の家をあずかる千坂兵部の忠義はこれでござる」
綱憲は顔を|覆《おお》った。気性のはげしいこの大名が、身をもんで|嗚《お》|咽《えつ》するのであった。――しかも、なお千坂兵部は微動だもしない。小兵のからだから発する巨岩のごとき冷厳な威圧感を以て、主君と、四人の忍者をおしひしいでいる。
綱憲の|歔《きょ》|欷《き》のほかは|寂寞《じゃくまく》たる雪の深夜を、風がひょうと吹きすぎる音がした。その風音のなかに、遠くひとつの声が|甍《いらか》の上の虚空できこえたのである。
「――忠義――兵部どの、あなたさまもか。――」
兵部ははっと顔をふりあげた。しかし、声も風音も、それきり|断《た》えた。綱憲も忍者たちも気づかなかったようである。いまの声は錯覚であったかと思わせるほどのしずけさであった。
兵部はもういちど平伏して起った。
「まいれ」
四人の忍者をしたがえて、うなだれて彼は去った。
兵部はもとの座敷にかえった。織江がひとり、白い花のように坐っていた。すでにこの日まで、何をいいふくめられたか、首の座にすえられた|殉教者《じゅんきょうしゃ》のような白い|輪《りん》|廓《かく》が、その全身をふちどっていた。
「織江、わかっておるな」
と、兵部はいった。しばらく沈黙して、また|嗄《しわが》れた声でいった。
「この夜こそ、殿は天下一の|不倖《ふしあわ》せなお方であらせられる。十五万石の国持ちでおわしながら、眼前に実のご|親《しん》|父《ぶ》を討たれさせ給うのを眼をつぶって、お耐えなされなければならぬ。……そなたなど、いかに苦しかろうと、左様な苦しみなどおよびもつかぬ生き地獄に泣かれておる。織江、あの殿が、男泣きしておいであそばすのじゃ」
はらわたのちぎれるような声であった。
「この殿のおんもだえをおなぐさめ申すには、女のそなたの力をかりねばならぬ。兵部にはおよばぬことじゃ。夜明けまで、そなたのすべてをあげて、殿を抱きまいらせい。ともに泣いてさしあげるのじゃ。……またもし、苦しみにたえず殿が|獣《けもの》とおなりなさるならば」
兵部はうめいた。
「殿の|鞭《しもと》を甘んじて受けて死ね。千坂|父娘《おやこ》の忠義をつくすのはこの夜にあるぞ」
「はい」
「支度してゆけ」
|織《おり》|江《え》は起った。
|茫《ぼう》|然《ぜん》としてこの問答をきいていた四人の忍者を、千坂兵部はふりかえっていった。
「そちら四人、殿のご寝所のまわりにひかえて金剛網を張れ」
何者に対して金剛網を張るのか、ききかえさないうちに兵部はつかつかと座敷を出ていった。
兵部はひとり、雪のなかを表門の方へあるいていった。やがて、たとえ本所から求援の飛馬がはせつけようと、この門でしりぞけ、また内の動揺をこの一身でとめて外にもらさぬ覚悟からであった。
【三】
ひとり織江が|白衣《びゃくえ》にきかえて坐っていた。いちど心で「――綱太郎さま!」と呼んで、万感をふりすて、すっと起とうとした。
その眼前に音もなく、巨大な|薄《うす》|羽《ば》|蜉蝣《かげろう》のように舞いおちてきたものがある。それは人のかたちとなった。織江は口をあけたが、息も出なかった。
「織江さま」
かなしげな無明綱太郎の眼であった。
「ゆかれるか」
織江は|呪《じゅ》|文《もん》のようにいった。
「ゆかねばなりませぬ。上杉家に奉公いたす者として、父の言葉にそむくことはなりませぬ。……忠の一字はまもらねばなりませぬ」
「忠か。――よく申された」
うめくがごとくいった綱太郎の眼にしだいに炎がもえあがり、彼は小わきにかかえていた油紙のようなものを、女の足もとにはらりと敷いたのである。
|閨《ねや》のそばに|白《しら》|鷺《さぎ》のようにうなだれて坐った娘を、ながいあいだ綱憲はにらんでいた。
娘は一語も発せぬ。しかし、彼女がここにきた理由、千坂兵部がここにこさせた理由を、綱憲は思いあたった。そして、くるおしい苦悶のなかに、綱憲は|獣《けもの》じみた笑いをうかべたのである。曾て、彼はこの娘に手をつけようとして、にげられた。その娘が、いますすんでじぶんの|閨《ねや》に|侍《はべ》ろうとしている。しかし、綱憲の眼にひかってきたのは、愛よりも憎しみにみちた肉欲であった。彼は千坂兵部の娘を、必要以上にはずかしめたい欲望にとらえられた。
「織江、はだかになれ」
と、彼はしゃがれ声でいった。冬の灯影に、織江はしずかに起って、その|白《しろ》|無《む》|垢《く》をぬぎすてた。
なめらかな肩、|椀《わん》をふせたようなふたつの乳房、くびれた胴、なよやかな足――そのすべてに|玻《は》|璃《り》のように灯影がうつり、清純妖艶、形容もできぬ美しさに、なかば狂った綱憲が息をのんで見あげたとき、女の両腕の肉が重い音をたててたたみにおちた。おちると同時に、それは血しぶきをあげて、いくつかの|肉《にっ》|塊《かい》となった。つづいて、両足の筋肉が|真《ま》|綿《わた》をぬぐようにすべりおちていって、これまた血まみれの|腓腸筋《ひちょうきん》や|外《がい》|股《こ》|筋《きん》や|内《ない》|転《てん》|筋《きん》や|臀《でん》|筋《きん》の|堆《たい》|積《せき》となった。
この世のものならぬ悪夢をみる思いで、かっとむき出された|弾正大弼《だんじょうだいひつ》|綱《つな》|憲《のり》の恐怖の眼に|靄《もや》がかかった。靄の中に、露出した骨だけの足で立った女の乳房や腹や腰の肉のかたまりが、まるで|万華鏡《まんげきょう》の花の破片が崩れるように解体して――みるみるそれは、うす暗い血の霧の底へ、女体の|刺《さし》|身《み》と化してかさねられていった。
――本所の空のみに|断腸《だんちょう》の思いをはせていた千坂兵部が、何の気配もないのに、愕然としてあたまをあげたのはこの時刻である。
虫の知らせというべきか、いや、兵部の胸にはただひとつ、苦悩のなかに、夢魔のようなべつの危惧が尾をひいていた。それゆえにこそ、彼は四人の能登者に金剛網を張らせたのだ。それにもかかわらず、このとき兵部は冷たい胸さわぎにつきうごかされ、泳ぐようにはせもどった。
「|女《めの》|坂《さか》」
端然と廊下に坐った女坂半内が、呼ばれてかすかにうごいたとみえた瞬間、血しぶきをたてて、ばらばらになって廊下に崩れおちた。
「月ノ輪」
魂をとばし、兵部がひた走って、廊下のべつの端の月ノ輪求馬を呼んだとき、その姿もまた寸断されておのれの血の沼に解体した。
「|折《おり》|壁《かべ》……|鍬《くわ》|形《がた》」
総身水をあびたような思いで、兵部が、綱憲の寝所をめぐる座敷を走るにつれて、二ヵ所に端座した折壁弁之助と鍬形半之丞も、一陣の魔風にふかれた枯葉のごとく分解してたたみを血に染めるのであった。
|寅《とら》の一点。本所松坂町。
夜明けにはまだ遠いというのに、地は真昼のようであった。月と雪と――それよりもなおひかりを放っているのは、その雪を蹴って走る刃、その月にかがやく槍であったろう。
頭巾の下に鉢金を入れ、黒小袖に純白の袖じるし、|襟《えり》に誇らしげに名をしるして、元禄のさむらい花を散らすはこの|一《いち》|期《ご》にありと、|跫《あし》|音《おと》とどろかして吉良邸の門へ殺到してゆく四十七士を、魂のないもののように見送って、無明綱太郎はつぶやいた。
「忠義はきらい。……女もきらい」
彼の眼に月はうつらなかった。天は暗かった。――彼はよろよろとあるき出した。白雪に覆われた地もまた、彼の視界には、霧のように暗かった。実際、彼のからだはうす暗い霧につつまれているようであった。
彼はじぶんにささやいた。
「無明綱太郎、おまえはどこにゆく」
そしてその影は、雪の大江戸を|這《は》う|薄《うす》|羽《ば》|蜉蝣《かげろう》のごとくひらひらと消えていった。
[#地から2字上げ](忍法忠臣蔵 了)
おことわり
本作品には、(講談社文庫版の)五十四頁に始まり全八頁にわたり、片手落ち、片輪、狂気、発狂など心身の障害に関する、今日では差別表現として好ましくない用語が使用されています。
しかし、江戸時代を背景にしている、この時代小説であることを考え、これらの「ことば」の改変は致しませんでした。読者の皆様にご賢察をお願いします。
〔初出〕
「週刊漫画サンデー」一九六一年一一月二五日号〜一九六二年四月二一日号連載
〔出版〕
『忍法忠臣蔵』(単行本・一九六二年・小社刊)
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後、「山田風太郎忍法全集」第七巻(一九六四年・小社刊)・講談社ロマンブックス版(一九六七年)・「山田風太郎全集」第三巻(一九七二年・小社刊)・角川文庫版(一九七六年)・富士見時代小説文庫版(一九九〇年・富士見書房刊)・「山田風太郎傑作忍法帖」第11巻(一九九四年・小社刊)
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〔底本〕
講談社文庫『山田風太郎忍法帖2 忍法忠臣蔵』(一九九八年)
山田風太郎(やまだ・ふうたろう)
一九二二年、兵庫県生まれ。東京医科大在学中の一九四七年、探偵小説誌「宝石」の第一回懸賞募集に「達磨峠の事件」が入選。一九四九年に「眼中の悪魔」「虚像淫楽」の二篇で日本探偵作家クラブ賞を受賞。一九五八年から始めた「忍法帖」シリーズでは『甲賀忍法帖』『魔界転生』等の作品があり、奔放な空想力と緻密な構成力が見事に融合し、爆発的なブームを呼んだ。その後、『警視庁草紙』等の明治もの、『室町お伽草紙』等の室町ものを発表。『人間臨終図巻』等の著書もある。二〇〇一年七月二八日、逝去。
忍法忠臣蔵 山田風太郎忍法帖2
講談社電子文庫版PC
山田風太郎 著
(C) Keiko Yamada 1962
二〇〇二年一二月一三日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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