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忍法封印いま破る
山田風太郎
目 次
怪童おげ丸
火のはやて陣馬《じんば》千年杉
大いなる長安
われ封印す
母旅|同行《どうぎよう》七人
胎の春秋
母旅同行六人
母旅同行五人
父旅同行四人
父旅一人
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怪童おげ丸
「ああ、愉《たの》しい」
早春の白い日光の下へ出たおげ丸の第一声はこれであった。まるで自分の心を見すかされたように、お芦《あし》はちらとその横顔を見た。
背はむしろ低い方である。が、まるで金剛力士《こんごうりきし》のようなからだなので、決して小柄には見えない。袖《そで》のみじかい柿色《かきいろ》の――というより、色もわからないつぎだらけの襦袢《じゆばん》を着て、袴《はかま》もはかず、裾《すそ》をまくりあげて帯にたばさんだだけの身なりだから、いっそうその黒びかりする筋肉が圧倒的なのだ。そんな肉体をしているのに、顔はふしぎに童顔であった。
「何がです?」
「ここへ来たこと」
「お都奈《つな》さまがいらっしゃるからですか?」
「いや」
そう答えただけで、おげ丸はどっしどっしと歩く。いまいったように決して大兵《たいひよう》ではないのに、足にはまさに地ひびきをたてるような力感がある。
お芦はまたきいた。
「お菱《ひし》がいるから?」
「いや」
と、またいったが、おげ丸のまるい頬《ほお》が、ちょっと赤らんだようだ。そのまま、顔を庭の一方にむけて、
「この道場を見るのが」
と、つぶやいた。
道場といったが、野天の庭だ。ただし、ふつうの庭ではない。――向うには大竹藪《おおたけやぶ》や林も見えるが、その一劃《いつかく》は広さ二百坪あまり、これがまことに奇妙な景観だ。
早春のことでまだ葉のない高い榛《はん》の木が四、五本ヒョロヒョロと立っているが、それのてっぺんちかく、幾条かの鎖《くさり》がたがいにさし渡してある。その鎖からは、これは幾十条かの灰色の縄《なわ》が垂れ下がって風にゆらいでいる。縄は朽《く》ちかかっているものもあった。そして、地面はななめに殺《そ》がれた短い竹の切株だらけであった。また、遠くの小屋の中で、低いがたしかに犬のうなり声が断続して聞えていた。
空から垂れているのは、こより[#「こより」に傍点]縄だ。紙の縄だ。
朽ちていなくても弱いこより[#「こより」に傍点]縄を伝って上へよじのぼる。切れれば、下には竹の切株がある。また向うの犬小屋の中には、いまはどうか知らないが、狂犬が手に入るたびに収容されて、しばしばこの竹の切株の空地に放たれることを、知る人は知っている。犬だけではない、人間といっしょに。
竹の切株の道場の空へ、縄を伝ってよじのぼらされる者は、修行中の忍者であった。竹の切株の道場へ、狂犬とともに追い出されるのも修行中の忍者であった。
すなわちここは、幕府忍び組の頭領《とうりよう》、服部半蔵《はつとりはんぞう》のいわゆる服部屋敷《はつとりやしき》。
いま、人影はないが、この道場の竹の切株はことごとく錆色《さびいろ》にひかり、地面にもぶきみな褐色《かつしよく》のまだらが描かれている。――血のあとだ。
それを見て、
「ああ、愉《たの》しい。――」
と、おげ丸という若者は、うっとりとつぶやいたのだ。
どっし、どっしという感じの足どりからは信じられないような早さで、おげ丸は歩く。母屋《おもや》はもう見えなくなった。それに遅れぬ身の軽さで追いながら、
「そんなにここへ来るのがお愉しいなら、もっとおいでになればよろしいのに」
と、お芦はいう。
「お頭《かしら》から呼ばれないのに、来るわけにはゆかん」
と、おげ丸は答えた。
「きょうは、呼ばれたから、来た」
それから、ふと気がついたようにもういちど「道場」の方へ眼《め》をやって、
「きょうは、ばかに人がおらんが、呼ばれたのは、おれだけかな」
「いえ、ほかの伊賀《いが》衆|甲賀《こうが》衆はさしとめられましたが、駿河台《するがだい》から、たしか麻羽《あさは》玄三郎どの、漆鱗斎《うるしりんさい》どの、釜伏塔之介《かまぶせとうのすけ》どの、高安篠兵衛《たかやすしのべえ》どの、それから栃《とち》ノ木夕雲《きせきうん》どの――その五人だけが来るとききました」
「おう、高安篠兵衛も来るか。久しぶりだなあ」
「麻羽どのや釜伏どのは一刻も前に来て、さっきそこらでちらと見かけましたけれど」
「みんな、なつかしいな。これはきょうはいよいようれしい」
眼が無邪気なよろこびにかがやいたが、ふとまたくびをかしげて、
「おれと、その連中だけを呼ばれて――何の用かな? おまえ、知っておるか」
「いえ、存じませぬ」
「ふん」
といっただけで、おげ丸は屋敷を囲む土塀《どべい》の内側に沿って歩いている。べつにそのことについて思案している表情ではない。眼は依然として愉しげに、なつかしげにまわりの風物に走りつづけている。
頭領服部半蔵は、この江戸城|麹町口《こうじまちぐち》の御門の外に八千石の直参《じきさん》として宏大《こうだい》な屋敷をかまえ、そばの麹町御門でさえ、世には半蔵門と呼ばれているほどだが、配下の伊賀者は四谷の組屋敷に、甲賀者は駿河台の組屋敷に住まわせてある。そして徳川のCIA(中央|諜《ちよう》 報《ほう》 局《きよく》)という特殊職能にもとづき、適宜二つの組屋敷から配下を「通学」させて、厳しい訓練を施していた。
そしてこのおげ丸は、四谷伊賀町《よつやいがちよう》に籍をおいている人間なのであった。
いや、正確にいえば、自分で勝手に籍を移したというべきであろう。――そのことを、いまお芦はいった。
「呼ばれたから来たとおっしゃって――あなたはなぜこのお屋敷にいないのです」
「ああ」
おげ丸は不透明な声を出す。
お芦は、彼女にとって甚《はなは》だつらい事実を口にした。
「あなたはそのうちお都奈さまのお婿さまになるお方ではありませんか?」
「ああ」
――お芦は、この服部家の侍女の一人であり、お都奈さまは主人半蔵の妹なのであった。
しかし、このお芦という女の、なんという美しさだろう。黒い眼もやや厚目の唇《くちびる》も濡《ぬ》れ濡れとひかって、雨のあとの花のようだ。しなしなした妖艶《ようえん》さと、たっぷりした豊麗さが溶け合ったからだだが、それは骨が細いのに、ゆたかに肉がついているせいかも知れない。しかも――こういう感じの美しい女は世にないでもないが、その反面、妙に烈《はげ》しい火のようなものが眼にも口にもあって、そこからむせるような異常な精気が全身に醸《かも》し出されている。動物的精気、といってもいい。こういう女は、他家の侍女などには決して見られない。
お芦が、いま通り過ぎた野天の道場で酷烈な訓練を受けたかどうかは知らず、彼女もまたこの忍びの宗家の一員たることに実質まちがいはない。
ときに――どころか、「通学」して来る忍者たちにしばしば、わざと嬌媚《きようび》の糸をなげてからかうことを辞さないお芦が、いま、へんに真剣な顔をしておげ丸を追っている。
「あなたが四谷におゆきなされたのは、このお屋敷から逃げるおつもりだったのですか」
「ああ」
お芦の顔にちょっとよろこびにちかい表情がながれた。
「ひょっとすると、あなたはお都奈さまがおきらいではないのですか」
「ああ」
例によって放心的な返事をかえしたが、気がついて、
「いや」
と、おげ丸はいささかあわてたようだ。
「おれは、お都奈どのを尊敬しておる」
と、彼はいった。
べつに皮肉な調子ではない。そんなもののいい方の出来る若者ではない。真実、そう思っているらしい声音《こわね》だ。先刻からの短い応答も、他意あっていいかげんな返事をしているのではない。口が重く、かつ女との受け答えにはいっそう気乗りがしないらしいのはおげ丸のもちまえだ。
そうと承知していても。――
お芦はなおくどく話しかけずにはいられなかった。
ふだん、この屋敷にいないおげ丸が、久しぶりにやって来たとあっては。――またやがて主人の半蔵と会う前に、やや時間があるので、庭へ出て来たのをつかまえて、いまほかに人影もないとあっては。
いや、何よりも彼の姿を見た以上は。
おげ丸は、先刻もいったように、袴もはいていない。髪はふだんは蓬《よもぎ》のように生えるがままにしているが、きょうは主家への訪問者として、それでも藁《わら》しべか何かでくくっているらしい。異形《いぎよう》を異としないこの屋敷への往来者の中でも、これほど野性にみちた――ほんとうのところをいえば、これほどむさ苦しい姿をした人間はまずいない。
顔は、童顔である。めったに洗うこともなかろうに、頬は薔薇色《ばらいろ》である。――たしか、もう二十四、五にはなっているはずなのに。
だれしもがまだおげ丸と呼んで怪しまない、清らかな童子めいた印象があった。しかも、そればかりではない。――
いつ見ても、乱髪、裾《すそ》をからげただけで素足のおげ丸。
顔は茫洋《ぼうよう》としてあどけなく、澄み切った子供みたいな眼をしているのに、腰に背丈ほどもある長刀一本。柄糸《つかいと》もぼろぼろだ。
このおげ丸の姿に、形容しがたい力感がある。
常人でない精気をたたえたお芦ですら、一目見ただけでしびれてしまうような感じがするのだが、どんな女だってそうだろう。これは人間ではない、何気なく歩いていても、野の虎《とら》か、森の豹《ひよう》の匂《にお》いだ、と彼女は思う。
その天真な顔とはまったくそぐわない印象で、これは怪奇なこの若者の素性《すじよう》そのものから放たれる野性ではないかとも彼女は思う。しかし、ただ素性だけではない、と服部屋敷のさる人々はいう。
「おげ丸どのは、凄《すさま》じい勢いで回転しておるために静止しておるように見える独楽《こま》だ」
「あれに太刀打《たちう》ちできる忍者は、甲賀伊賀の中にもちょっと見当るまい」
というような意味の評を、きょう来ることになっている五人の面々、すなわち忍び組の幹部はもとより、主人の半蔵自身の口からきいたこともある。
中に、だれであったか、いささか皮肉に、
「まったく無心の独楽だ。人間の頭を持っておらぬ」
と、いった者も、たしかその五人の中にあったけれど。
たんなる容貌《ようぼう》、たんなる姿態よりも、その天真さと剽悍《ひようかん》さのふしぎなる混合、それこそは女の本能をひっとらえるものであった。それに出生と育ちから来るのか、えたいの知れない孤独の風が、彼をめぐって吹いている。頭がない、とあざ笑われる一種の愚直さまでが、女から見ればかえって一種の母性をそそる。この若者を見るとき、女という女は、抱きしめてやりたいような母性と、抱きしめられたときの恐怖の、混迷した想像にしびれるだろう。しかも――決して抱きしめることも抱きしめられることもあり得ないような異次元的|懸絶感《けんぜつかん》に膝《ひざ》も萎《な》えるような思いがするだろう。
このおげ丸をいま追いつつ、お芦はなおしつこく口にせずにはいられない。――
「おげ丸さま、あなたはお菱が好きでしょ?」
さっき、同じことをきいて、彼の頬がちょっと赤らむのを見たが、以前この屋敷にいるころからも、本能的にお芦が感じていたことだ。お菱は彼女の朋輩《ほうばい》であった。
「ああ」
と、こんどはおげ丸は気のない返事をする。
「やっぱり、そうですか!」
思わず胸ぐらをつかみそうになったとき、おげ丸のからだが、ふうとお芦から二メートルも横に離れた。――いよいよ、のぼせて、
「それなのに、どうしてこのお屋敷から逃げたのですか!」
と、お芦は両手をさしのばし、次の瞬間、たたらを踏んだ。
おげ丸は、塀《へい》の下に立っていた。
一見、その足の下は、春の草のまばらに生えた地面に見える、しかし、これが、その春の草が映っているのを見てもわかるように、泥《どろ》の溝《みぞ》なのだ。溝というより、幅三メートルもあるから堀《ほり》にちかい。この服部屋敷に万一外から忍び込もうとして塀から飛び下りた者があるならば、その人間は全身を泥に沈めてもまだ足りないだろう。
そのことをお芦は知っていた。
おげ丸は、その泥の上に立っている。いかにも重げな肉体を、足くびを埋めもせずに。
「要するに修行の障りになるからさ」
彼はそういうと、お芦の手のとどかないその泥の堀の上を、ながれるように歩き出した。――堀のつづく向うの林へ向って。
あとには、泥の上に、点々と彼の足跡だけが印されてゆくばかりであった。
足跡というより、まるでその上に実体がないのに、そこに奇怪な造形が、ぽくっ、ぽくっとつぎつぎに浮き上って来るように見える。
立ちすくんで、茫然《ぼうぜん》と見送っていたお芦がはっとわれに返ったときは、おげ丸の影はその林の中へかくれてゆくところであった。
「ま、待って! おげ丸さま!」
彼女はさけんで、堀に沿ってその方へ、また走り出した。決してあきらめてひき返すような女ではない。
お芦は、林の中へ駈《か》け込んだ。
江戸城のすぐ傍《そば》というのに、武蔵野《むさしの》の森が幾群《いくむら》か、そっくり残っているような一劃《いつかく》であった。檜《ひのき》、欅《けやき》、楢《なら》、櫟《くぬぎ》などの巨木が高々とそびえ、それに藪と蔓《つる》がからみつき、新芽と若葉のために青いけぶりがわたってその果ても見えない。
この服部屋敷の森には詐術《さじゆつ》がある。
江戸のすぐ東、下総《しもうさ》の国|八幡《やわた》に、いわゆる不知《しらず》の森というものがある。わずか三百坪ばかりの森で、望めば竹林のあいだからすぐそこに田圃《たんぼ》が見えるのに、いったん入った人間はどうしても出られない。中に祀《まつ》った平《たいらの》 将門《まさかど》の墓の祟《たた》りだともいい、世に八幡の籔《やぶ》不知《しらず》という。――
これは伝説的な森だが、服部屋敷の森は、樹々《きぎ》の大小の配置による遠近法の錯覚と、道のつけ具合による、あきらかに人工的なトリックが加えられた森であった。いかに八千石の屋敷とはいえ、江戸城のすぐ外にこれほどの大森林があるわけはない。
のみならず。――この中の道のいたるところには、落し穴がしかけられ、また罠《わな》がしかけてある。決して外部からの潜入者に備えてではなく、内部の忍者の訓練用のためのものだが。――
「あ?」
それをよく承知しているはずのお芦でさえ、ふと迷った。迷ったのみならず、そうつぶやいたとたん、あわてて風鳥《ふうちよう》みたいに裾をひろげて三メートルばかり前方へ飛んでいた。
そのうしろから、一むらの竹の葉が、ザ、ザ、ザーッと大空へはねあがっていった。その竹の尖端《せんたん》には罠がついているはずで、危く彼女はそれにかかりかけたのだ。
いちど空を仰いで、次に眼をもとに戻《もど》すと、お芦はいま来た小径《こみち》を見失った。
「おげ丸さまあ! おげ丸さまあ!」
呼ぶと、自分自身の声ですら、まるで緑の穹窿《ドーム》に入ったように、怪鳥みたいなこだまを返す。――ふと、そのこだまに、たしかに彼女のものでない笑い声が混っているのにお芦は気がついた。
「あ。……だれ?」
まわりを見まわしたが、人影は見えない。ただ、声だけが聞えた。
「お芦、その名をそんな大声で呼んでいいのか」
「あっ。……麻羽。――」
「いかにも麻羽玄三郎だ」
声は依然笑いをおびているが、変にぬらっと冷たい笑いの余韻《よいん》だ。
「ここは服部屋敷だぞ。おまえがいま恋する男のごとく呼びたてていた人は、お頭の妹御《いもうとご》のいいなずけだぞ」
お芦はしばし唇をふるわせていたが、やがていった。
「わかっています」
「ま、おげ丸どのはあきらめて」
「とにかく、玄三郎どの、出て来て下さい」
「それより、おれはどうだ?」
「え。――ばかなことを」
「ばかなことではない。まじめな話で、前から考えていたことだ」
しかし、声は笑っている。お芦はくるっと反転した。
「わたし、お屋敷へ帰ります」
「おいおい、そっちはお屋敷とは反対だ。おまえ、おれの方に来るのか」
お芦はまた反転した。さすがに狼狽《ろうばい》した動作だ。
「うふふ、森の出口がわかるまい。――お芦、まあおれのいうことをきけ」
「きく必要はありません」
「いや、きけ。この麻羽玄三郎はな、前からおまえを見込んでおった。これは偽りではない。なんどかお頭に申し込もうとしてためらっておったのは、おれの仲間にもほかにおまえに眼をつけておるやつがおってな。その話し合いを事前に煮つめておかぬと、鉄の団結を誇る服部組に要《い》らざるひび[#「ひび」に傍点]割れを起すからだ」
「まあ、自分たちだけで勝手なことを」
「しかしな、おれは決めた。おまえを女房にすることをきょうお頭に申し込もうと」
声は、まさに自分勝手に、おしつけがましくいってのける。
「前からうすうす気づいてはおったが、おまえがおげ丸どのに恋着しておることをいま確認した。恋着しておるのみならずおまえの気性では、それを態度で示すこともはばからぬことも見てとった。――かくては、服部家に一大|悶着《もんちやく》が起るは必定《ひつじよう》。服部家|静謐《せいひつ》のためいまのうちにおれがおまえをとり込んでおくにしかず。――このことをお頭に申しあげれば、いかなるお頭も一も二もなく御承知下さるであろう。――」
「いや! そ、そんなことは申しあげないで! それだけは!」
「だめだ」
まるで当然の要求のごとく高飛車にいう声に、お芦の眼が燃えた。――白炎《びやくえん》のような殺気に。
「お芦、おれにあらがうつもりか」
同時に虚空《こくう》で、異様なひびきがした。
ビイイイン。……
実に微《かす》かな、しかし澄んだ、美しい旋律ともいうべき音で、お芦の頭上、樹洩《こも》れ日の縞《しま》に黄金《きん》色の線条が巨大な花弁の輪廓《りんかく》をえがいたかと思うと、それがながれるように降って消えた。
お芦は呪縛《じゆばく》されたように立ちすくんでいた。
のちに説明することになるが、いまのひびき、その音質を当時の日本人で耳にした者は稀《まれ》なはずである。
しかし、お芦はその音をきいたことがあるのだ。その音が聞えたときの恐ろしさを知っているのだ。彼女の顔色は変っていた。
「見たことがあるな?」
お芦のななめ右後方、欅の大木と茨《いばら》のしげみの中に、すうと一人の男が立ちあがった。それまで声は前方から聞えて来たような気がするのに。
「おれの縄術《じようじゆつ》。――不空羂索《ふくうけんさく》を」
お芦はからくもふりむいて、その男をにらみつけた。
細長い顔に、ひたいがてらてらひかっている。月代《さかやき》を剃《そ》っているのではない。禿《は》げ上っているのだ。髪の毛のみならず、眉毛《まゆげ》もない。ひげもない。眼は細く、銀の糸みたいな光をはなっている。そのくせ、口はきゅっと両側に吊《つ》り上って――笑っている。青銅の彫刻みたいな皮膚の色と光沢を持った男。
服部一党の誇る甲賀五人衆の一人、麻羽玄三郎。
「さっき、籔のかげの仕掛け罠は逃れたようだが、おれの不空の縄罠を逃れ得るやつは天下にない」
麻羽玄三郎は笑った。もっとも、この能面みたいな顔をした男は、いつも笑っている。声のない笑いを、ほとんど絶やしたことがない。
彼は右手に何やらつかんでいた。ふつうの眼では見えないような、細い――しかし、たしかに金属の線条を。
そうなのだ。彼の持っているのは鋼《はがね》の糸なのであった。
先刻、お芦の頭上にきらめいた巨大な花弁ようの輪廓、常人にはそれ以上見分けるすべもなかったろうが、お芦は知っていた。それはまんなかに大きな円、そのまわりに四枚の花弁のごとく四個の小円がくっついていることを。
この円の大小とかたちは屈伸自在だ。それが麻羽玄三郎の手もとの一本につながる。すべてが鋼の線条で、つまり鋼線の投縄だ。
これを流星のごとく投げられて、たとえ逃れようとしても、この五個の輪のすべてを逃れ得ることはまず不可能だ。一人どころか、お芦が見たときは、玄三郎はたんなる試技だが敏捷《びんしよう》無比の伊賀者七人をいちどに捕えた。彼の手さばき一つで、その輪のすべて、或《ある》いはその幾つかが電光のごとく絞《しぼ》まるのだ。
称して不空の羂索。
羂《けん》とは罠のこと、索とは縄。もともと古代印度で敵を縛り、獣を捕えるための具だが、これを仏の一人に持たせた。すなわち五色の縄索《じようさく》を持つ不空羂索観音《ふくうけんさくかんのん》である。
むろん悪魔を捕えるための聖具だが、この麻羽玄三郎が仏身とはどうまちがっても思われない。ただ、相手にとって逃れるべき空間はない――まさに不空の罠であることに相違はなかった。
あまりにもあえかな音をたてて空にひらく五輪の幻花は、落ちて恐るべき鋼鉄の罠となる。
草の中に消えたと見えたが、お芦はその五つの罠の一つに自分が立っていることを知っていた。――だから、動けなかったのだ。
ただ、あまりにも突飛で非常識な麻羽玄三郎の行動に、
――これはいったい、本気か、いたずらか?
と、その心事を疑わざるを得なかった。
玄三郎は近づいて来た。右手の線条が一塊となって、スルスルとその掌中にたぐりこまれてゆくようだ。
「おれは、おまえをここで犯す。その方が服部組のためじゃ。大義|親《しん》を滅《めつ》す」
唇が耳まで裂けたかと見えたとたん、お芦はついにたまりかねて、ぱっと逃げ出した。先刻のように、三メートルも宙を飛んで、草の中にとんと飛び下り、そのまま逃れ去ろうとする。――その右の足くびに、きりっと切られるような痛みが走ると、彼女はどうと転がっていた。そこにも五弁の罠の一輪があったのだ!
裾がはだけて、真っ白なふとももまでむき出しになったのを、
「無礼な!」
お芦は、狂気のごとく覆《おお》おうとした。と、凄じい痛みとともに、その足がヒョイとはねあがって、また裾をはねのけてしまう。
「げ、玄三郎どの! いかに甲賀組の頭分《かしらぶん》とて、あまりといえば。――」
「女房になる女じゃ」
玄三郎は笑って、その右腕をちょいとしゃくった。
すると、お芦の左手くびにまたきりっと疼痛《とうつう》が走って、腕があらぬ方へひらいた。これにも鋼の投縄がかけられたのだ。
「麻羽玄三郎玄妙の術はいかなるものか、身を以て知っておくがよかろう。将来、いかに頼《たよ》りになる亭主《ていしゆ》かを、胆《きも》に銘じておくためにも。――」
その手くびのしゃくられるたびに、お芦の右足と左手は――いや、痛みのために四肢《しし》のすべてが、彼女の意志とは無関係に動く。それにつれて、裾はもとより襟《えり》もはだけ、次第に肌《はだ》もあらわになってゆく。
大地にひらき、閉じる妖艶の女体の花。華麗な、生命ある操《あやつ》り人形。
「…………」
いま、犯すといったが、それよりこの無惨な見世物に心吸われたらしく、仁王立ちになったままにんまりと見下ろしていた麻羽玄三郎が、ひょいと顔をあげ、ふいに数メートルもうしろへ、ぽーんと飛びずさった。
茨の中に、腕をくんで、ぬうと立っている人影がある。黙って、さっきから眺《なが》めていた気配である。
半身ねじって、それを見たお芦は、
「おげ丸さまっ」
絶叫してはね起きようとしたが、手と足の痛みに、また草をつかんで身をくねらせた。――と、その痛みが、ふいにすっと消えた。
向うで、麻羽玄三郎が手首をかいくると同時に、黒い細い光がその掌の中にスルスルと吸い込まれるのが見えた。お芦を絞めつけていた罠の二つが解けたのみならず、あと三個の輪もすべて、一見したところでは一すじの鋼線となって収容されたのである。
「いや、いたずらでござる」
玄三郎はいった。依然笑ってはいるが、ちょっと間が悪そうだ。
「これも、おげ丸さまのお障《さわ》りを除去せんがためで。――」
と、弁明しかけたが、相手の沈黙ぶりにそんな弁明は無用だと自覚したらしく、かつはむっとして、
「おげ丸さま、そのお姿は何でござる?」
と、いった。
起き直ったお芦も、駈け寄ることも忘れて、眼をまるくしている。
おげ丸は、なんと、一糸まとわぬ真っ裸なのであった。はじめから、裾をからげただけの素足の姿で、脱げばあっさり裸になれそうなおげ丸ではあったが。――
それについて、べつに何の説明もせず、
「両人、屋敷へ帰れ」
と、はじめて彼はあごをしゃくった。にがっぽい声だ。
にがにがしいどころではない。その眼が、先刻お芦が見たときとは、別人のようなひかりを放っている。人間の眼というより、獣の眼であった。
それを見ると、うす笑いした能面みたいな麻羽玄三郎が、ふいに落着かない表情をした。おげ丸がこんな眼をしたときの危険性をよく知っている人間のあわてぶりである。
「は」
玄三郎はそそくさと背を返した。
「その女も、つれてゆけ」
と、また声が追う。
お芦はちらっとおげ丸を見て、はじめてぽうと頬に血をのぼした。相手の全裸の姿と、自分の半裸の姿を思い合わせて、急に羞恥《しゆうち》の念にかられたらしい。彼女は身づくろいしながら、立ちあがった。そして、立ちどまっている玄三郎の方へ、よろめきながら歩いていった。
麻羽玄三郎とお芦は、森を出た。ほんのいま、あんな妖《あや》しげな争いをした男女とは思えない。――両人べつべつに、何やら考えこんでいる顔つきである。
「おげ丸さまは、何のために裸になっていたのです」
お芦がいった。
「何を考えて、何をやるか、わからんお人だ。……修行のためなら、裸はおろか、からだじゅうの皮を剥《む》いても平気なお人だろう」
と、玄三郎は憮然《ぶぜん》として答えたが、ふと、
「――はてな?」
と、小さな奇声を発して、森の方をふりむき、二、三歩あと戻りした。が、すぐに、
「いや、ゆこう」
お芦をうながして、屋敷の方へ歩き出した。
――森の中で、おげ丸は腕ぐみを解いた。逃げていった二人を見送って、にたっと笑った。ほんのいままでの殺気|横溢《おういつ》した表情とは別人のように弛《ゆる》んだ顔であった。
「……ちと、惜しかったが」
そんなわけのわからないつぶやきをもらしたが、そのまま反対の方向へこれまた歩き出した。もっと森の奥の方へ。
森の中にチロチロと水の音がする。やがて例の塀の内側の泥の濠となる流れが、去年の落葉の下を通っているのだ。その向うに、直径五、六メートルほどの沼があって、黄金《きん》の扇のような光線がふりそそいでいた。
沼のほとりに、ぬぎ捨てたきものの一塊と、信玄袋みたいなものがあった。はて、先刻、おげ丸はそんなものを持っていなかったようだが。
しゃがみこもうとして、ふと彼は顔をあげた。
「おげ丸さまあ、……おげ丸さまあ」
また女の呼び声がする。
「こちらでございますか。おげ丸さまあ」
いま出ていったお芦とは、方角もちがうし声もちがう。もっと澄んで張りがあって、りんりんと鈴をふるような若い声であった。
その通り、向うの樹蔭《こかげ》に、華やかな人影がチラチラ見えて来た。ちがう入口から森に入って来る小径《こみち》がそのあたりつづいているのである。
おげ丸は、裸のままのそのそと歩いていった。
「お菱」
「あ。……」
立ちどまった娘は、おげ丸の姿を見て、眼を大きく見ひらき、さっと顔を紅潮させた。
お芦よりやや小柄で、円顔だが、しかし美貌《びぼう》という点ではいずれがいずれともいいがたいものがある。立ちすくんでいるのに、全身になみなみならぬ弾力が感じられて、可愛《かわい》い女豹《めひよう》といった印象があった。また、小柄なのに際立《きわだ》って豊かな胸とよく発達した腰のあいだの胴がきゅっとくびれて、あでやかな女蜂《めばち》といった印象でもある。――服部家の侍女お菱である。
すぐに身を立て直して、きっとして、
「おげ丸さま、お頭さまがお呼びです」
「そうか」
と、うなずいたが、おげ丸は動かず、じっと彼女を眺めている。ひどく無礼な注視だが、また恍惚《こうこつ》としてわれを忘れているようにも見える。
お菱は赤くなったが、声を張って、
「漆鱗斎どの、栃ノ木夕雲どのも、もう参集なされております。おげ丸さま、きものをつけて、早くおいでになって下さい」
「お菱。――」
おげ丸は嗄《か》れたような妙な声を出した。
「話がある」
「何でしょう。――」
「おれはお頭《かしら》の妹婿になる人間だ」
「存じております」
「そのおれがこの屋敷から四谷へ逃げていたわけを知っておるか」
「いえ。……」
「それはおまえを見るのがつらかったからだ」
「まあ。……」
「つまり、おれがおまえを好きだったからだ」
なんという哀切な声だろう。このおげ丸の口から、こんな声が出るとは想像も出来ない。まるで別人のようだ。
そしてまた知る人が見たら、これに対するお菱もいつものお菱らしくないと笑うだろう。活溌《かつぱつ》鮮烈、伊賀者で妙な冗談などいうやつがあると、その頬に平手打ちの音さえたてかねないこの娘が、もじもじとうつむいて、眼のやりどころに困っている。
あたりまえだ。相手は真っ裸だ。うつむいても、すぐ眼の前にゆらいでいるものが、視界のはしに入ることを防げない。――
「きょうお頭に召集されたのは何の御用か知らないが――よい機会だ。おれは決心した。おれはお頭に申し込もうと思う」
「何を?」
お菱は消えいるような小声でいった。
「改めて、おまえをおれの女房にしたいと」
「ま! そんなことをおっしゃると、お都奈さまは。――いいえ、いいえ、いけません!」
顔をあげると、相手のすべてが全視界に入る。
「おまえはそんなことをいうだろうと、おれは裸になって待っておった」
「え。……」
「おまえをここで、おれの女にしてしまう。その方が、結着が早い」
――先刻、麻羽玄三郎がお芦に向っていったのと、同じようなことをいう。
「お菱、おれがきらいか」
「いえ。……」
お菱は顔を紅潮させ、さっきりんりんと鈴のように張っていた声とは、声帯がべつのものみたいな、これまたあえぐような哀切な声をもらした。
「わたしも好きでした。おげ丸さまが」
「そうか! そうだろう。……まず、見ろ」
おげ丸は自信に溢《あふ》れて大きくうなずき、そして身をそらした。
「おまえは倖《しあわ》せ者だぞ。おれほどの道具を持った男はそうざらにはあるまい。――お菱、いざ、来い!」
大手をひろげたおげ丸の胸へ、まるで吸い寄せられるようにお菱が泳ぎ出そうとしたとき、どこかでつぶやく声がした。
「いいかげんにしないか、この馬鹿《ばか》」
奇妙なポーズで二人は静止し、一瞬後、首をねじむけ、それから、わっ、とも、きゃっ、ともつかないさけびをあげた。
向うの沼の上に――頭上からひらいた黄金の日光の傘《かさ》の下に――ひとりの男が立っていた。
きものは着ているが、たしかにおげ丸が。
乱髪を藁でくくって、長刀一本、素足のおげ丸。――その足を、沼の上に運んで、彼はこちらに歩いて来た。
「しかし、やはり大したものだな」
草にあがって、にっとする。怒った表情ではない。感にたえた顔だ。
「おれでさえ、どっちがおれかわからんくらいだ。――ちょっと、見せや」
いったかと思うと、おげ丸は前をまくった。そして、自分のものと、偽おげ丸のものを、つらつらと研究的に見くらべている気配だ。
「五割七分方、ちがうな」
と、いう。むろん本物の方が、たんに量的のみならず、断然威容を異にする。
「せっかくそこまで変化袋《へんげぶくろ》をかぶるなら、的をよく見てかぶるがよいぞ。――釜伏」
「いや、未熟未熟、一言もござらぬ」
と、偽おげ丸は頭をかいた。
「しかし、そっちがそこまで人間離れしたものを持っておわそうとは想像を絶した」
笑い飛ばそうとした頬に、ぴしいっと音が鳴った。
「ひどい! ひどい! 釜伏どの!」
「わっ」
そむけようとした反対の頬に、また高らかな音が鳴る。――狂乱したようなお菱の平手打ちであった。
と、偽おげ丸の口から、妙なものが枯草の上に飛び出した。真っ白な歯だ。歯だけではなく、歯ぐきまでついて。
「ひゅるせ!」
と、さけんだ彼の上顎歯《じようがくし》ぜんぶがない。それでもゆるさず、こんどはつき飛ばされてのけぞった彼の頭から、髪の毛が抜け落ちた。――乱髪の鬘《かつら》が飛んで、あと振り立てているのは青坊主、というよりつんつるてんの禿げ頭であった。
「もうよい、ゆるしてやれ」
と、本物のおげ丸が割って入った。見るに見かねたらしい。――こんどはその胸ぐらにお菱はしがみついて、わっと泣きじゃくり出した。
いまの男の変化の術は知っている。知ってはいるが、その術に自分までが、こうも鮮やかにかけられようとは思いも寄らなかったのだ。ただのいたずらでなく、だまされたからといって、ぶってよい相手ではない。これは甲賀組頭分の一人である。が、いまの場合は。――なんと本物のおげ丸の前で、自分があんな恥ずかしい姿を見せようとは。――
「おい、それを拾って早く変化袋をぬげ」
「おげ丸さま、わたし。――」
お菱は、何といっていいかわからない。おげ丸は、その肩をなでて、彼にしては珍らしいからかいの言葉を吐いた。
「さっきのように美しいお菱も見たことがない」
すると、本物のおげ丸の頬にも平手打ちの音が高鳴った。
「わっ、ひゅるせ!」
おげ丸は、先刻の偽おげ丸そっくりの悲鳴をあげて逃げ出した。
偽おげ丸は地面の上を這《は》いまわって、義歯と鬘《かつら》を拾いあげ、すでに沼の方へ逃げていた。そこに、衣服といっしょに大きな信玄袋みたいなものが置いてあった。
そこで、ややあわてた動作で彼がやり出したことは、実に驚倒すべきものであった。
脱げた鬘はすぐにかぶろうとはしない。義歯は――はずれた上顎歯はそのままに、下顎歯すらもがぼっとみずからはずしてしまった。眉を取る。これも付け眉であったらしい。それから、なんと人さし指と親指を眼《め》にあてると、眼球をころっとえぐり出してしまったのだ。一眼のみならず、両眼をも。
両眼ともに義眼の男。――彼はいったいそれでものが見えるのか。先刻までのようすから判断すると、あきらかに見えるとしか思えないが。
驚くのはまだ早い。
彼は、沼の上澄みの水で両手を洗い出した。水を胸にかける。腹にかける。足にざぶざぶとかける。――かけながら、何やらこすり落している。むしるようにしては膚《はだ》を、いや、肉を洗い落している。
たちまちそこに、枯木を折ったような影がうごめいているのが見えた。髪も眉も歯もない頭部は、人間の顔とは思われない。いや、この世のものとは思われない。わけのわからない異次元の妖怪《ようかい》だ。
それがたしか眼あるがごとく、信玄袋の中を手さぐると、中から粘土みたいなものをつかみ出した。それを右手で頬に塗りつける。左手を水につけて白粉《おしろい》のようにそれをのばす。袋にそれだけの量が入っているのがふしぎなほど、あとからあとからつかみ出して、全身にも塗りつける。左手の水でのばすことは同様である。これが鶺鴒《せきれい》の行水《ぎようずい》みたいに早い動作であった。
袋からこんどは別のものを取り出した。眼球を、歯を。――それから、眉を、鬘を。
あっというまに、彼はそれをつけ、はめこみ、かぶり終ると、流れるような動きでそこにあった衣服をつけ出した。
沼のほとりに、前髪立ちの、すらっとした、振袖姿《ふりそですがた》、紫ぼかしの袴《はかま》をはいた、朱唇雪膚《しゆしんせつぷ》の若衆が、幻影のごとく浮かびあがった。背も少しのびたようだ。
「……ううむ」
見ていたおげ丸がうなった。
「久しぶりに変化袋を見せてもらったが、みごとなものだな。――釜伏《かまぶせ》」
すなわち、これぞ甲賀《こうが》組幹部の一人釜伏|塔之介《とうのすけ》。
ふだん、彼はこの姿で、優雅に服部屋敷を往来している。――それは見ているのだが、お菱の、先刻までの怒りも忘れるほどの自失ぶりは、むろんおげ丸以上だ。彼女がこの釜伏塔之介の忍法「変化袋」を、その経過を、これほどまざまざと見学したのははじめてだからであった。
いうまでもなく術の名は、彼のこの変装用、いや造顔造形そのものの道具を入れた袋から来たものだ。
それにしても、この男のほんとうの顔はどんなものなのか。いや、そもそも彼の肉体に実体というものがあるのか。
「そんな姿で――何もおれなんぞに化けることもあるまいが」
と、おげ丸は心底からの声を発した。
「それが、ふしぎなことにお菱どのには、あなたの姿でのうては通じないので」
と、釜伏塔之介は苦笑した。苦笑しても、水の垂れるような美しさだ。
われに返ると、同時に、いまの釜伏の誘惑とそれに対する自分の反応ぶり、さらにおげ丸の頬《ほお》をひっぱたいたことまで思い出し、いたたまれない恥ずかしさにそこを逃げ出しかけたお菱は、次のおげ丸と釜伏の問答にまた釘《くぎ》づけになってしまった。
「変化袋の姿はともあれ、釜伏、さっきお菱にいっていたことは本心かな」
「はあて、拙者何を申しましたっけ?」
「お菱が好きだ、とかいったようだが」
「うふ、あれでござるか。あれはあなたに代って申したことで」
「おれに代って? おれは頼んだおぼえはないぞ」
「そこが以心伝心で」
「おれの心はおまえにはわかるまい」
「ところが、わが忍法変化袋、その神技のきわまるところ、たんにかたちのみならず、その心にも化けられる至境に立ち至りました」
「心も化ける。ほほう。……」
「わが甲賀の秘伝に――敵の心を知らんと欲せば、その相のみならず態をも学べ――と申すことがござる。相手の表情、動作をそっくりまねると、その心理がわかるというのでござる」
「ううむ。……」
おげ丸は、またうなった。
釜伏塔之介のいっていることは、たしかに人間の外貌《がいぼう》と内部との微妙な連関をついている。――そういうことには、異常に眼をかがやかせてききいるおげ丸であった。
「どうでござる。先刻の拙者の愛の告白、ズバリとあたりましたろうが」
艶然《えんぜん》と笑った唇《くちびる》に、ちょっとからかいの色がある。いま披露《ひろう》した心理と表情の相関は警抜な人間解釈かも知れないが、彼が実際にやったことはその意味での純粋な実験かどうか、あてにはならない。
しかし、おげ丸はうろたえたようにちらっとお菱を見て――子供みたいに赤い顔をした。その刹那《せつな》、お菱は、さっきからの自分の恥をすべて押し流すほど、ずうんと満足の心がつらぬき通るのを感じた。
「とにかく、両人とも帰れ。お頭がお呼びらしい」
と、おげ丸はいった。照れている。
「あなたは?」
「おれもすぐゆく。高安《たかやす》といっしょに」
「お、高安篠兵衛もこの森へ来ておるのでござるか。どこに?」
「いや、まだ逢《あ》わぬが、おるような匂《にお》いがするのだ」
どっし、どっしと例の歩きかたで、しかも恐ろしい早さで森の奥へ消えてゆくのを見送って、釜伏塔之介はお菱をかえり見、ふくよかな頬を撫《な》でてつぶやいた。
「われながら――わが一党ながら、ま、百鬼|昼行《ちゆうこう》の森じゃな、これは」
森の迷路をおげ丸は歩いてゆく。
樹々はまだ芽ぶいたばかりだが、松や杉や椿《つばき》などの常緑樹も多く、それに落葉樹にも枯葉が落ち残り、蒼空《あおぞら》がところどころ見えるといった深い森の感じがある。風のない日で、その森は太古のようにひっそりとしていた。
立ちどまっては耳をすます。常人には聞えない物音をきいている風だ。あるいは本人がいったように匂いを嗅《か》いでいるのかも知れない。
ついに彼は、探していた人間を見つけ出した。
そこはまわりをぐるりと樹林に囲まれた広さ十坪あまりの空地であった。円筒の大気の穴が蒼空《そうくう》となっていて、まんなかにその心棒みたいに高い梧桐《あおぎり》が一本立ち、十数枚の白褐色《はつかつしよく》の枯葉が空の蒼味《あおみ》に浮いていた。その梧桐の下に高さ六十センチばかりに築いた土台がある。いわゆる土壇場《どたんば》で、服部屋敷に於けるこの場所は、或《あ》る掟《おきて》に触れた場合――すなわち相姦《そうかん》の邪淫《じやいん》が発覚した場合、姦夫姦婦をこの土壇に重ねて生胴《いきどう》をためす場所になっている。
その土壇の隅《すみ》に腰かけている男があった。
こちらに背を見せてはいるが、大男である。何やら黙想でもしているかのごとく、じいっと動かない。
すべてが寂莫《じやくまく》とした中に、はじめて揺曳《ようえい》したものがあった。葉だ。梧桐の高い枝に残った葉が、二片、三片、風もないのに、ゆらゆらと散り落ちてくる。男の前へ。
とたんに、キラ、キラ、と閃光《せんこう》がきらめいた。
二条、その男の右と左に。
と見えた刹那《せつな》、ちりんという微かなひびきとともに光は消え、男は依然、寂《じやく》として坐《すわ》ったままである。
ただ、その男の左右に散って来た二枚の桐の枯葉が、なんの音もなく、四枚になって地上に舞い落ちた。
「おげ丸さまか」
男は向うむきのままいった。
おげ丸は、こちらの杉の切株に腰を下ろしていた。これも落葉を踏む音もたてず、酔ったようにその位置で眺めていたのに、男はそのことを知っていたらしい。
「見せてくれ、篠兵衛」
と、おげ丸はいった。そして、梧桐の上の空を見た。
風はない。しーんと静まりかえった蒼空にまばらな枯葉は浮いて、羽根ほどもゆるがない。篠兵衛と呼ばれた男は、ふりむきもせず、そのまま坐っていた。
にもかかわらず、深呼吸でもしているように、おげ丸の肩が動き出した。何か眼に見えない気流が波打って来て、彼を昂奮《こうふん》させて来たらしい。おげ丸はしずかにきものを左右にかきわけた。
――なんと、彼は股間《こかん》を天日にさらしたのである。
ふっ、とそのとき梧桐のてっぺんちかくから、たった一枚の葉が離れた。それはひらひらと不規則な反転をつづけながら舞い落ちて来る。――
キラ、キラ、とまた二条の光流が走った。
一枚の枯葉は三つになって落ちた。
切った男は左右に双刀をひろげたまま、動かなかった。羽ばたく鷲《わし》のごとく。――すなわち彼は、一瞬に二刀を抜き打って、舞い落ちる木の葉を二個所《にかしよ》で切ったのである。
――同時に、奇怪なことが起った。
その男の背後の草に、そのとき、ザ、ザ、ザーッと音たてて何やらふりそそいだのだ。それはまさに一颯《いつさつ》の白雨のようであった。
篠兵衛の両刃《つば》が動いた。ちりん、と同時に鍔音《つばおと》をたてて消えた。彼はぬうと腰をあげてふりむいた。
一メートル八十はあろうと思われる巨漢だ。大たぶさに結いあげ、鬚《ひげ》のみごとさは大武将を思わせる。実に豪快無比の相貌《そうぼう》だが――それより人の眼をひくのは、彼が左右の腰に刀をさしていることだろう。しかも、同じ長さの大刀を。
「お久しや、おげ丸さま」
鬚の中でにこっとすると、まさにみどり児《ご》も笑うあたたかな表情となる。
「愚《ぐ》な遊びをお目にかけた」
「いや。――おれはうっとりした」
と、夢みるようにいうおげ丸の股間を眺め、それから――その前から自分の足もとへかけてつながった乳のようなものに眼を移して、
「これは?」
と、篠兵衛はいった。
「おれの精汁だ」
おげ丸は恥ずかしそうに答えて、あわててきものをもとに戻した。そうときいて、篠兵衛はいよいよ眼をまるくして、
「お? そう申せば、いま背中に驟雨《しゆうう》のごとき音をききましたが、あれがこれでござったか」
「恥ずかしや」
と、おげ丸の頬は赤くなっていた。
「おれはこのごろ、忍法剣法、おのれが入神の境に入ったときはおろか、ひとの入神の技を見るときも、背骨に快味走ってこういうことが起る。――いまもその予感をおぼえて、きものをよごさぬために用意したが、果せるかなだ」
黙って、この相手を見つめている篠兵衛の眼には、笑いどころか――やがて、たしかに恐怖にちかい光が浮かんで来た。
いま放出したというものの途方もないおびただしさと、そしてまた自他を問わず忍技剣技きわまるところ、性的絶頂に達するというその心性への怖《おそ》れであった。
「凄《すご》いものだ。高安篠兵衛の拍掌剣《はくしようけん》。――」
双手相拍《もろてあいう》って一音を発するがごときその怪剣技の名称だが、その一音は敵の断末の一声でなくて何だろう。
「しかし、おぬしがそれを剣客から学ばず、忍法として独自に開発したものとあっては――おそらく世に、おぬしの相手に立つ者はおるまいな」
「ただ一人を除いては」
と、高安篠兵衛はくびをふった。
「だれが?」
「あなた。――おげ丸さま」
「そんなことはない」
おげ丸は切株の上で頭を垂れて考え込んだ。
「おれはまだまだ未熟だ」
そのきまじめな沈思の姿に、高安篠兵衛はやっとまた笑顔になった。
「おげ丸さま、そろそろお屋敷へ帰ろうではありませぬか」
「お、そうであった。お頭がお呼びであった。ゆこう」
おげ丸は立ちあがった。
二人、ならんで森の中を歩き出す。改めて無沙汰の挨拶《あいさつ》をかわす。おげ丸は四谷《よつや》の伊賀者組屋敷に、高安篠兵衛は駿河台《するがだい》の甲賀者組屋敷に。――ときにこの服部屋敷《はつとりやしき》に来ることがあったとしてもたがいにすれちがいとなり、二人はここ半としほども逢っていないのであった。先刻おげ丸は釜伏塔之介に逢ったときもなつかしそうであったが、いまこの篠兵衛と肩をならべて、とりわけあたたかい心の交流をおぼえているようだ。
「ところで、おげ丸さま」
と、ふと思い出したように篠兵衛が顔をむけた。大男なので、上から見下ろすかたちとなる。
「なんだ」
「つかぬことをおうかがいしますが、あなたは……御童貞でござるかな」
「童貞?」
「女を抱かれたことはまだないのでござるか」
「――ない」
「やはり、左様か。それにしても。――」
口をつぐんでくびをひねったのは、先刻のこの若者の凄《すさま》じい放出ぶりを想起したからだ。やがて、いった。
「女を抱きたいとは思われませぬか」
「思う」
しばらくして、うなるように、
「大いに思う!」
と、いった。
「では、なぜ早くお都奈さまのお婿さまになられぬのでござる。お都奈さまがおいやなのでござるか?」
「いやではない」
おげ丸はくびをふった。
「では、なぜ祝言をあげられぬのでござる」
「いまのところ……忍法修行の方が面白いからだ。女は、その修行のさわりになりそうな気がするからだ」
「しかし、おげ丸さま、あなたの場合、それはかえって。――」
といいかけて、高安篠兵衛はふいに足をとめた。おげ丸も釘づけになった。
林の中の小径をまがったところに、女が一人立っていた。
暗いばかりの椿の大樹を背に、その女は夜光虫みたいに浮き出して見えた。氷を彫《ほ》ったような美貌の娘である。
それが、じいっとおげ丸を見つめている。いや、にらみつけている。――と、突然、
「からだを洗ってから屋敷へ帰っていらっしゃい!」
さけぶと、くるっと身をひるがえし、蝶《ちよう》みたいに帯を躍《おど》らせて駈《か》け去った。
あっけにとられたように見送って、おげ丸がいった。
「お都奈どのだが――どうしたというんだ?」
「おげ丸さま、あれをごらんなされい」
と、何ともいえない表情で、高安篠兵衛が指さした。そこからいま来た林の向うへ――偶然、樹が一本もない熊笹《くまざさ》だけの細い空間がつながって、そのかなたに、先刻おげ丸が坐って放出したあの杉の木の切株が見えた。
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火のはやて陣馬《じんば》千年杉
――おげ丸と高安《たかやす》篠兵衛が、その書院に入っていったとき、駿河台から来たという甲賀《こうが》組の麻羽《あさは》玄三郎、釜伏塔之介《かまぶせとうのすけ》、それに漆鱗斎《うるしりんさい》、栃《とち》ノ木夕雲《きせきうん》もすでに参集していた。
「やあ」
「やあ」
と、おげ丸は、きょうここに来てはじめて逢う漆鱗斎と栃ノ木夕雲に挨拶の声を投げ、それから、
「やあ」
と、麻羽玄三郎にも声をかけた。
麻羽玄三郎は、くびをかしげた。能面みたいな顔に、「?」というしかない表情が浮かんだ。いまのおげ丸の挨拶は、他のめんめんに対すると同様「久しぶりに、なつかしや」という意味にも聞えたし、「さっきはどうも」という意味にも聞えた。
じろと、横に坐っている釜伏塔之介に眼をむける。釜伏は知らん顔をして澄ましている。
実は、「おげ丸」に一喝《いつかつ》されて森を追い出されたときから、麻羽玄三郎の心には「――はてな?」という疑いが胸をよぎっていたのである。なんのためにおげ丸はまっ裸になっていたのだろう、という解けない不審が、「ひょっとすると?」という或る疑惑をみちびき出したのだ。
が――そのときと同様、自分の醜態を思い出すと、いまも「……いずれにしても、その疑いをはらすのはいよいよ以《もつ》ておれの恥」という彼の忍者としての自尊心が、そのまま口をつぐませてしまった。
だいいちおげ丸は、もう顔を横にむけていて、
「お頭《かしら》はまだか」
と、そこにならんだ三人の娘の方に問いかけている。彼はきょうこの屋敷に来てから、すぐに庭の方へ出たので、まだ首領の服部半蔵《はつとりはんぞう》に逢っていないのであった。
そこにお芦《あし》、お菱《ひし》、それに半蔵の妹お都奈《つな》までが坐っていた。
「はい」
と、お菱が答える。それだけのおげ丸の問いにも、彼女は赤い顔をしていた。
「そなたたちも、ここへ呼ばれたのか」
「はい、いまそこで奥方さまに、おまえたちもいっしょに侍《はべ》っているようにといわれたのです」
と、先に帰ったお芦が答えた。彼女もまた変な表情をしていた。
「はて、いよいよわからなくなった。何の御用かな?」
「知りません!」
ふいに、ぴしっとお都奈がいった。
あまり憤然とした声なので、そこに坐っていた枯木に白い髯を生やしたような栃ノ木夕雲も、質朴な職人みたいな顔をした漆鱗斎《うるしりんさい》もびっくりしたような眼をむけた。
「…………」
珍らしく、おげ丸は狼狽《ろうばい》し、叱《しか》られた子供みたいにくびをすくめた。高安篠兵衛がにやっと笑う。――
「何の御用にしても」
と、とりなすように漆鱗斎がいった。
「お頭のお申しつけとあれば、われらはただこれ従うばかり」
彼は片手に小刀を持ち、ひざの上には何のためか、四、五枚の小さな貝がらと、そして貝のけずり屑《くず》をちらばせていた。
そのとき、主の服部半蔵が入って来た。半蔵のみならず、その妻のお国までが。――
この半蔵は、伊賀の郷士から八千石、徳川家の大身にまで成上った先代半蔵の二代目にあたるが、もう四十歳前後、いかにも沈毅《ちんき》重厚の風貌《ふうぼう》を持っていた。そしてその妻のお国は、これが音に聞えた忍び組首領の妻かと疑われるほど、やさしく気品にみちた顔をしていた。
それが、書院に入って来たときから、いずれもきわめて憂《うれ》いに沈んだ顔色をしているのが、一同の眼をひいた。
六人の男と、三人の女はお辞儀をした。
顔をあげて、おげ丸は眼でにっと、お国の方へ笑いかけたが、いつもこれに笑顔で会釈《えしやく》するお国が、きょうはそれにも気がつかない風である。
「きょう駿河台から来てもらったのは、ほかでもない。――」
と、半蔵は黙礼してから、口を切った。
「わが服部組に、このたびさる向きから、思いがけぬお求めを受けたについての談合じゃが」
「それは、いかなる――?」
と、長老格の栃ノ木夕雲がいった。半蔵はいった。
「ここにおる三人の娘を妾《めかけ》にさし出せとの御要求だ」
「へっ?」
麻羽玄三郎と釜伏塔之介が奇声を発した。まさにこれはまったく意外な話であった。
「三人、いっしょに、でござりますか?」
と、高安篠兵衛がきいた。
「左様」
「あの、お都奈さまも、でござりますか?」
「左様」
「その御要求をなされたのは、ただ一人からでござりまするか?」
「左様。――」
「な、なんたる人倫のケタをはずれた――いやさ、恐れを知らぬ無法無礼な。――」
と、能面みたいな麻羽玄三郎が、珍らしく息を切らせ、歯をむき出した。
「わが服部組に対して!」
「わが天下無敵ともいうべき服部組に対して、そのような厚かましい申し込みをするいのち知らずのやつが、やわか大名、旗本のうちにもあろうとは思われぬ」
と、釜伏塔之介もいきまいた。美しい顔が、凶相ともいうべきものに変っていた。――それがふいに、ぎょっと息をひいて、
「まさか、御老体の大御所さまや、御謹厳なる将軍家から、ではござるまいな」
「いや」
と、半蔵はくびをふった。
「では、どこから?」
「わが父、大久保石見守長安《おおくぼいわみのかみながやす》どのから」
おげ丸が音たてるばかりに、ぽかんと口をあけた。
大久保石見守長安。――表向きには武州三万石の大名だが、いまの幕府の機構に於ては本多佐渡守とならび、大御所の両輪と天下のだれしもが認めている大実力者だ。
「い、いつ……お目にかけておられたやら」
と、恐怖にあえぐようにお国がいった。
「この三人の娘たちに。――」
いま、服部半蔵は、わが父、といったが、事実はこの妻のお国の父が大久保石見守なのであった。つまり半蔵は石見守の婿にあたる。
この人物ならば――いや、「天下無敵」と誇る服部組の内部の女人に眼をつけ、それを要求することの出来る唯《ただ》一人の人間は、いかにもこの大久保石見守だ。それ以外にあるはずがない。
とは、思いあたったものの――きいた人間は、みないっせいに鉄丸で頭をたたかれたような表情をしていた。
「し、しかし」
と、麻羽玄三郎がうめき出した。
「石見守さまは、たしか六十なかばの御老体。――」
「あのお方は、その点、人間離れしておられる」
と、半蔵は憮然《ぶぜん》としていった。
「それにしても……石見守さまは、去年|佐渡《さど》で中風にかかり、やっと帰られたお方ではござらぬか?」
「それは御回復になられた。しかも、以前にもまさる異様な精気を……半蔵は拝見して、実はうすきみ悪うさえ感じておった」
「さるにても、三人の若い女人を、新しゅう妾にさし出せとは?」
「妾にさし出せ、とたしかに申された。もともと言い出したらきかれぬお人じゃが、しかもこのたびの御要求、何やらただならぬ御決心あってのことのように思われる」
「と、仰せられると?」
「それはわからぬ」
「嫂上《あねうえ》さま!」
きっとして、蒼白《そうはく》な顔でお都奈がむき直った。
「あなたはそれを黙っておききになったのですか。あなたの夫の妹を、あなたのお父上の妾にするという話を」
「ゆるして下さい、お都奈どの」
と、お国は身をふるわせた。その眼には涙が浮かんでいた。
「一度、三度、五度、おことわりをいいました。けれど……半蔵どののお言葉さえきかぬ父が、どうしてわたしなどの忠言にとり合うでしょう」
「お都奈」
と、半蔵がいった。
「石見守どのは、大御所さまの御諚《ごじよう》さえ、そのままにはきかれぬ天下一の大わがまま者であらせられる。――」
「おげ丸どの」
お都奈はわななく声で、こんどはこちらに呼びかけた。
「あなたはなぜ黙っているのです。あなたの許婚《いいなずけ》が――いいえ、あなたの妻が、あなたの父上のおもちゃになるということをききながら。――」
おげ丸の口はなおひらいたままであった。
やがてその口から、長嘆の吐息がもれた。
「なんとも、おれには、いいようがない。……」
なんともいいようがないとは、おげ丸が自分とその要求者との関係を思っての嗟嘆《さたん》の言葉か。――いや、それよりも、その要求そのものの思いがけなさ、途方もなさに対しての声として、ほかの五人の甲賀者たちにも実感があった。
一息おいて、栃ノ木夕雲がいった。
「お頭はいかなる御所存でござりまするか」
「されば、その件について談合したいと思うて、そなたらを呼んだのじゃ」
「いや、あなたさま御自身のお考えを承わりとう存ずる」
「わしは」
半蔵は沈痛にいった。
「拒否は出来まいと思うておる。舅《しゆうと》と婿としてなら、お断わりは出来よう。いやお断わりせねばなるまい。しかし、大久保家と服部家としては。――」
両家の力関係をいったのだ。
夕雲はいった。
「では、なにゆえわれらをお呼びなされたのでござる。ならばわれらの意向も談合もへちまもござりますまいが」
皮肉ではない、無感動な声だ。
「その通りだ。しかし――四谷の伊賀組、駿河台の甲賀組の中には、少なからずこのお芦、お菱に思いをかけて、それを望みとして修行に励んでおる者がある。事実、その中には、わしがゆくゆくこの二人の娘、女房としてつかわそうと見込んでおる者もある。で……いま、突如としてかようなことを行えば、或《ある》いは党中に波が立つかも知れぬ、と案じてのことだ。伊賀組の方には、すでに内々通達した。あちらは抑える自信がある。問題は甲賀の方じゃ」
半蔵の眼が、彼らしくもなく気づかわしげに、ちらっちらっと麻羽玄三郎と釜伏塔之介の方に動いた。
「そこで、甲賀組、そなたらでよういいきかせてやって欲しい。談合とはいったが、ありていに申せば、一度筋を通すため、またそなたらに懇願の心を以てきょう呼んだ」
服部半蔵。――幕府忍び組の総元締《そうもとじめ》である。それが、ちょっと頭を下げた。
幕府忍び組には、伊賀組、甲賀組、根来《ねごろ》組と三派ある。根来組はその歴史的ななりたちから別格として、伊賀と甲賀はこの半蔵の統率下にある。しかし、服部家はもともと伊賀の出身なのであった。
だから、半蔵としてはむろん伊賀組の方が抑えがきく。それに伊賀組には、この甲賀の五人衆と匹敵する、象潟杖兵衛《きさがたじようべえ》、牛牧《うしまき》僧五郎、魚《うお》ノ目《め》一針、狐坂《きつねざか》銀阿弥、安馬谷刀印《あんばやとういん》という大幹部がいたのだが、去年某事件でことごとく秘命のために落命したので、現時点ではいよいよ半蔵の意志通りに従うであろう。問題は、半蔵のいった通り甲賀組だ。
彼らはここで完全にきょう招集された理由を了解した。
「お頭でさえお断わりになれぬ事柄、われらにとやかく言える道理がござらぬ」
と、これは皮肉ではなく、まじめな声で漆鱗斎がいった。
「お頭さまでさえ、御自分の妹御を御舅に献ぜられる。――ましてこの三人の女人とは無縁のわれらに、問題などあるはずがござりませぬ」
いって彼はしばらく休んでいた小刀を動かして、コツコツ、コツコツ――と膝《ひざ》の上の貝けずりの作業をまたやり出した。
「イヤ、イヤイヤ」
「いやですっ」
あまりの突発事に、半分思考力を失ったようにこれまで「談合」をきいていたお芦、お菱が、このときわれに返ったようにさけび出した。
そして二人は、膝で這《は》って来て、おげ丸にとりすがった。
「おげ丸さま、何とかいって下さい!」
「助けて。――」
ちょっとにがにがしげにこれを見ていた麻羽玄三郎と釜伏塔之介も、しかしやや気をとり直したようにひざをつかんで、
「そうだ、おげ丸さま、これはあなたに一言なかるべからず」
「いまお都奈さま仰せの通り、妻たるべき人を実の父の人身御供《ひとみごくう》とする、これはあきらかに人倫に反する。――」
おげ丸は、やっとうなずいた。
「父のところへいって見よう」
半蔵がいった。
「ゆけるか、おげ丸」
おげ丸の眼に、動揺の光が浮かんだ。むしろ、子供のおびえに似た光が。
お国が両腕をもみねじりながらいった。
「ゆるしてたもれ、おげ丸どの、きょうここへ、あなたに来てもらったのは、あなたにわびをいうためでした。姉として、弟の花嫁になるおひとを父上に捧《ささ》げよなどいう恐ろしいことを伝えねばならぬこの苦しさ、な、な、なんといったらいいでしょうか。……」
――おげ丸はこの半蔵の妻お国の腹ちがいの弟なのであった。すなわち彼は、大御所|股肱《ここう》の重臣大久保石見守長安の末子にあたる。
かきくどくようなお国の声を、切り断つように半蔵がいった。
「大久保家あっての服部家だ。あのお方のお心に叛《そむ》いて、服部家は存在せぬ。わかるな、お都奈。――」
「卑怯者《ひきようもの》」
と、お都奈は兄にむかってさけんだ。兄とはいえ、忍び組の首領にこの言葉を投げつけたお都奈の顔は、しかしこれがふだん氷を彫ったような美貌《びぼう》の娘かと疑われるばかり、燃える薔薇《ばら》の花のようであった。
「家のためには、妹を売っても恥とはしないのですか。――わたしは、生きてはおりませぬ」
「死ぬことは許さぬ」
「なぜ? それはわたしの自由です」
「忍び組の家に生まれた者、忍び組の禄を食《は》む者に自由はない」
鉄の槌《つち》を打ち下ろすように厳然たる半蔵の声であった。
「お芦、お菱もよう胆《きも》に銘じておけ。これは服部一族の掟《おきて》じゃ」
それから彼は、しばらくおげ丸を見まもっていたが、ややあいまいな表情になっていった。
「おげ丸、きょうそなたを呼んだのは、ただそなたのゆるしを求めるためだけではない。いかなる仔細《しさい》か。――石見守どのは、三人の娘ともども、おまえにも駿府《すんぷ》の大久保家に出頭いたすようにとの仰せであった。それを伝えんがためじゃ」
「へ?」
おげ丸は、子供がべそをかいたような顔をした。
「おげ丸、長安の交合を見るか」
これが子に対する父の第一声であった。
じいっと――ほとんど時のたつのも忘れるほど――前の椅子《いす》にならんだ三人の娘を見いっていたのち、大久保石見守長安は、やっと横のおげ丸に眼を移してこういったのである。
それから、はじめて気がついたように、改めてしげしげとおげ丸を見あげ、見下ろした。
「ふうむ。たくましゅうなった喃《のう》。……」
ニコリともせず、さらにつぶやいた。
「いよいよ、母親の血が動き出した面だましいとなって来おったの」
駿府の大久保屋敷である。長安の傍《そば》の椅子には、大きなからだをした、ひょっとこに鬚《ひげ》を生やしたような、しかし豪快の気をたたえた野武士みたいな男が一人ひかえているだけであった。
長安もまた椅子に腰をかけている。間をへだてる円卓の上には、ギヤマンのグラスに赤い透明な液体がひかっている。
おげ丸が幼いころ育った家であった。が、十数年ぶりに訪れてみると、改めてこの屋敷の絢爛《けんらん》たるエキゾチシズムに圧倒されざるを得ない。
床には真っ赤な絨毯《じゆうたん》がしきつめてある。壁には銅盤にまだらな図形を描いた飾物がかけてある。幼いころ、それは世界の地図だとおげ丸はこの父から教えられた。棚《たな》には南蛮の金文字を皮の背表紙にひからせた書物がならべられ、その用途も知れぬ機械のようなものが幾つか置かれてある。
そして窓から見える庭には、ギッシリと花の咲きみだれた大花壇の中に、いかなるからくりか、噴水が高く蒼空に立ちのぼっていた。駿府の春は、江戸より一足早いようだ。ただ春の匂いばかりではなく、屋敷そのものの放つ濃厚な異国の匂いに、おげ丸は吐き気のようなものをおぼえた。
それにしても江戸の服部屋敷にも何度か来た父を、最後に見てからもう何年になるだろう。
六十を過ぎて、ややふとり肉《じし》ながら、白くつやつやとした肌《はだ》をして、キラキラとよくかがやく切れながの眼と肉欲的な赤い唇を持ち、音楽的な声を出し、どこやら異国の貴族めいた感触を持つ父であった。
それが、去年佐渡へいって中風を起し、輿《こし》にかつがれて帰って来たときく。いかにも、いくらかは痩《や》せ、顔色は白いというより蒼味《あおみ》をおびて見えるが、それ以外には病気のかげはあとかたもなく、むしろ肌のつやはあぶらをぬったように、むしろ以前よりもいっそうぶきみな精気を放っている。
その父に見つめられて、おげ丸は――蛇《へび》に魅入られた蛙《かえる》みたいな眼をした。
おげ丸ならずとも、常人ならばだれしも魅入られてしまうだろう。
万人ひとしく英雄と仰ぐ大御所家康でさえ、数十年にわたっておのれの大智嚢《だいちのう》と頼み、たんに信頼するのみか、その天衣無縫の怪腕をあれよあれよと見まもるしかない大久保石見守長安。
正しくは長安《ながやす》であろうが、大御所も彼自身も好んで長安《ちようあん》と呼ぶ。
その出身が甲州《こうしゆう》の猿楽師《さるがくし》であったためだ。当時の名を大蔵十兵衛《おおくらじゆうべえ》という。
信玄に近づいたのはその相伝の職によったものであろうが、天性の経済の才能で、やがて武田家になくてはならぬ存在となった。税務財政はもとより、とくに鉱山開発に異常な能力を発揮し、甲州の諸金山は彼の手によって魔法のごとくよみがえった。
武田家が滅ぶと、それに代って甲州に入った家康の属目《しよくもく》するところとなり、とくに当時徳川家第一の重臣であった大久保|相模守忠隣《さがみのかみただちか》の女《むすめ》を妻に与え、その姓を名乗らせた。
それ以来三十年。――
甲州から関東一円の奉行となり、江戸城および江戸市街の建設に采配《さいはい》をふるい、関ケ原のいくさではその軍需を担当し、伝馬《てんま》、一里塚《いちりづか》、杉並木など五街道の面目を一新し、大井《おおい》川、富士《ふじ》川の舟運をひらき、木曾《きそ》に大植林を行なった。
なかでもその大才がいかんなく発揮されたのは鉱山の開発で、石見《いわみ》、伊豆《いず》、佐渡、奥州南部《おうしゆうなんぶ》などの金山は、彼の奇蹟《きせき》の杖《つえ》のさすところ、以前の数倍、数十倍の産出をもたらした。佐渡の銀のごとき、当時の全世界の四分の一を産み出したといわれる。
表向きは八王子三万石の大名だが、その実徳川家の蔵相、通産相、運輸相、建設相、軍需相をひとりでかねる。
世人呼んで、「徳川家総代官」とも「日本の山将軍」ともいったのは当然である。
そしてまた彼自身、
「長安一人は、旗本八万騎にまさる」
と、悠然《ゆうぜん》と誇った。長安《ちようあん》、と武士らしくない呼び方でおのれを呼んだのは、彼のこの誇りのあらわれだったのである。
ただ、かかる大奇才だけあって、その生涯《しようがい》の行状が甚《はなは》だ不羈《ふき》奔放である。
「佐渡の国へ上下、路次の行儀おびただしきことなり。召しつかいの上臈《じようろう》女房七、八十人、そのつぎ合わせ二百五十人同道、そのほか伝馬人足以下いくばくという数を知らず、ひとえに天人のごとし、さらに凡夫の及ぶところにあらず」
と、「当代記」という本にあるように、名高いしわん坊の家康《いえやす》の家来の行状とは思えない。
この駿府に於ける屋敷を見てもわかるように、こんなぜいたくな建物は、駿府城の中のどこにもない。たんにぜいたくというだけでなく、長安独特の趣味が加わり、その趣味は彼がしばしば交わることを好んだイスパニア、ポルトガルの伴天連《バテレン》や甲比丹《カピタン》の影響であろうが、この交わりそのものが家康の趣味でない。
それでも、さすがの大御所も長安にめんとむかっては、一言のいやみもいうことが出来なかった。まさに長安一人、徳川の黄金の柱として八万騎の旗本にまさる。――
この大久保長安が、当時の徳川家のCIA服部家と「子女の結婚」というかたちで結ばれたのは一奇だが、そのいきさつは別の物語となる。
こういう長安だから、その放逸気ままなことは、たんに物質的生活にとどまらない。性生活はいわずもがなである。
大久保家からもらった正夫人はとっくに亡くなったが、駿府の本邸はもとより、江戸、八王子の屋敷にも、伊豆や甲州や佐渡や、黄金を追う彼の足の及ぶところ、どこにもその寵《ちよう》を受ける女が複数で置いてあった。幼いころのおげ丸の記憶では、駿府の屋敷には金髪|碧眼《へきがん》の女さえいたようだ。
のちに彼が江戸の服部屋敷に住むことになってから、何かのはずみで伊賀者たちが噂《うわさ》していたのをきいたところによると、父の長安は彼自身の発明した特別の精力剤をも服用していたらしい。しかも、さかんな女道楽もそんな薬剤使用も、父の言い分によると、たんに肉の快楽のためだけではなく、一つの人体実験の意味でやっているのだという。――
そんな噂をきいても、おげ丸は失笑も怒りも軽蔑《けいべつ》も感じなかった。皮肉や道徳の細胞は彼の脳髄にはなかった。それに彼は幼いころから、そういう父だと思っていた。ただ彼はその父がこわかった。
幼童時代からおげ丸は、父から肉親らしい愛情の眼をそそがれたおぼえがない。しかし恐怖はそのことではなく、父から受けた教育だ。
いっとき長安はおげ丸に、奇妙な学問を授けようと熱中したことがある。
椅子に坐らせられ、卓に向かわされ、そのころ鞭《むち》とともに受けた学問は大半忘れてしまったが、何でも算法や奇妙な器具の習得であったようだ。その算法も3とか8とか変な図形で、器具も円を描く松葉型の針とか、混ぜ合わせると煙をたてる薬とか、塵《ちり》を葉っぱほどに見せる眼鏡だったりしたような記憶がある。
ほかにも腹ちがいの兄や姉はたくさんあったが、べつにそんな教育を受けたという話もきかなかったのに、何を見込んでおげ丸に、長安がそれを試みたのかわからない。――しかし、この見込みは完全にはずれた。
おげ丸は徹頭徹尾それを受けつけなかったのである。
長安が叱ると、少年おげ丸は虫眼鏡をかみくだいて食ってしまい、煙の立つ薬を頭から浴び、コンパスをおのれの掌につき立てた。そして庭へ飛び出して、大木の枝へ逃げのぼった。
また或るとき、長安はオランダの短銃を教えようとしたことがある。これはおげ丸もちょっと興味を持ったようだが、すぐに、
「いや、この方がいい」
と、放り出して、自分の手で石を投げた。すると、空飛ぶ鳥は、鉄砲よりもっと適確に落ちた。
「敵とたたかうのに、そんな道具を使うのは卑怯《ひきよう》だ」
と、彼はいった。
そのくせ彼は刀や槍《やり》をもてあそぶことは好んだ。長安がそれを指摘して笑うと、
「鉄砲と刀はちがう」
と、いい張るだけで、その矛盾をいいとくすべは知らなかったが、おげ丸の幼い顔はちょっとその信念を捨てそうになかった。
長安は憮然《ぶぜん》として、その野性にみちた怪童を見やってつぶやいた。
「母の子だな」
――おげ丸の母は、山窩《さんか》の女なのであった。
山窩。――日本古来の漂泊の特殊民族。山から野へ、野から山へ、鳥を追い、獣を猟《あさ》り、魚を求めて移動する日本のジプシー。
彼らは時代の争乱に敗れた敗北者ではなく、社会の生活から転落した落伍者《らくごしや》でもなく、神代のころから日本に存在した固有の山岳族であって、時に町や里に下りて、手づくりの箕《み》や笊《ざる》や籠《かご》や筅《ささら》や箒《ほうき》を売って暮しの資とはするけれど、原則として決して下界とは交わらず、彼ら独自の伝統と習俗と隠語を用い、掟を守り、秘密の統率者を奉じてかたく団結している。本来は下界の人と争うことは好まず、ゆき逢《あ》えば山の逃げ水のごとく姿をくらましてゆくが、時に万一、なお彼らに危害を加えるように近づく者があったり、もしくは仲間に掟を破る裏切者が出たりすると、勃然《ぼつぜん》として原始の惨忍性を以て復讐《ふくしゆう》するという。
その山窩の女を、長安が愛して、孕《はら》ませた。その顛末《てんまつ》は詳しく知る者がない。おそらく黄金を求めて山から山へゆき、「日本の山将軍」といわれた履歴の中の一|挿話《そうわ》か、或いは金髪|碧眼《へきがん》の女をすら身辺に近づけたように、長安独特のいかもの[#「いかもの」に傍点]食い、よくいえば、旺盛《おうせい》なる好奇心のあらわれであったかも知れない。
さすがに彼は、その女を駿府の屋敷には住まわせなかった。しかし、生まれた男の子だけは駿府につれて来て、おげ丸と名づけた。
おげ丸とは妙な名だが、山窩のことを別名オゲともいうからだ。山窩が苧《お》で桶《おけ》を編み、これを苧桶《おげ》と呼ぶところから発したともいう。ところで、先年亡くなった大御所さまの次男に、結城中納言秀康という人がある。生まれたとき、ギギという魚に似ているというので、家康がこれをぎぎ丸と呼び、それではあんまりだというので公称をおぎ丸といったが、人を食った長安のことだから、そのひそみに習い、またはとかくの噂の先手を打って、ぬけぬけとおげ丸と名づけたのかも知れない。
おげ丸は自分の素性は知っていた。しかし、母の顔は知らない。
ただ記憶しているのは、むせかえるような草の匂《にお》いと、乳の香と――そして、つるつると、かがやくような真っ白な乳房だけである。
ただ彼は一つ、現実に存在するものとして、妙なものを持っている。それは銀杏《いちよう》のかたちをした竹の笄《こうがい》であって、これはいまでも紐《ひも》で首から下げているのだが、その笄の銀杏の部分に、小さい文字で、
「火のはやて陣馬《じんば》千年杉」
と、彫ってある。何の意味か、いまでは彼にもわからない。
ただこの笄だけが母から伝えられたものだというおぼえがあって、あかん坊のころからこれを下げ、そしていまはただ習慣的に――というより肉体の一部のごとく所持しているだけだ。
べつに教えた者もいないのに、刃をおのれにつき立てることをいとわぬ剽悍《ひようかん》の天性、幼童にして猿《ましら》のごとく大木を駈けわたる跳躍力。
――父の長安が、
「母の子だな」
と、長嘆したゆえんである。
おげ丸が父の「科学教育」を受けつけなかったのもむべなるかな。――それは彼の野性の拒絶反応であったのだ。
長安がおげ丸に科学教育を施そうとしたのには、彼独自の見解があったのだろうが、その見込みがはずれて、彼は立腹した。鞭で打った。――しかし、ついに見離した。それから、小さな息子の「野性」を持てあました。そして、江戸の服部屋敷に投げ込んだ。
実は、服部半蔵の妻となっている腹ちがいの姉のお国が、見るに見かねてひきとったのである。
ところが、この忍者の屋敷は、おげ丸の天性にぴったりであったのだ。つまり水が合ったのである。それ以上に、この山岳の申し子は、肉体も魂も生き生きとよみがえり、すばらしい大忍者の素質をあらわし出したのだ。
おげ丸は半蔵の課する厳しい修行によく耐えた。伊賀甲賀を問わず、その先輩たちの施す訓練を素直にきいた。むしろ陶酔し切った歓喜の表情を以《もつ》て。
駿府からつれて来られた九歳のとき、まるで狼《おおかみ》の子みたいに凶暴であったのが、血みどろの修行のうちに、むっくり肥り出し、ものこそあまりしゃべらないけれど、一見|茫洋《ぼうよう》とし、それが場合によっては颯爽《さつそう》として見える若者に変貌《へんぼう》して来たのを観察して、服部屋敷の人々はむしろ一種の戦慄《せんりつ》をおぼえたほどであった。
精悍《せいかん》奔放な野性と、純潔無比の服従性との混合物。
これは大人には珍らしい性質だが、子供にはそれがある。おそらくそれは、あの天衣無縫の大久保長安と自然児たる山岳の女を父母とし、掟を鉄とする忍者の宗家に育てられて、はじめて誕生した素質であったろう。
半蔵とお国がよろこんだのはもとよりのことである。で、彼ら夫婦は、やがて半蔵の妹のお都奈をおげ丸に妻《めあ》わすつもりでいる。それどころか、半蔵はゆくゆくこのおげ丸に服部家のあとを譲ってもよいとさえ考えていた。
そのことがまだ実行されなかったのは、ただおげ丸が修行一途で余念がないかに見えたからに過ぎない。
天なり命なり、いや人間であるかぎり、いかに忍び組の頭領とはいえ、どうして予測したろうか。突如として、おのれの妻の父から、その父の子の花嫁たるべきおのれの妹を、妾《しよう》としてさし出せという命令を受けようとは。
めちゃくちゃだ。破天荒の要求だ。
――いま、その花嫁たるべき女人と、さらにあきらかに彼を愛し、また彼の愛する女人と、合わせて三人を同行して、おげ丸は父のもとへやって来た。
「たくましゅうなった喃《のう》。……」
その声を投げられて、ふっとおげ丸の眼がうるんだ。
忍者にはあるまじき現象で、かつこの無情な父に捧げるべき反応ではないが――血の山彦《やまびこ》を如何《いかん》せん。そもそもおげ丸は、抑制力も強烈な一方で、情愛に濃厚な山窩の母から受けついだ多感の血の持主なのであった。
それにしても、父はそのまえに妙なことをいった。――たしかにいった。
「おげ丸、長安の交合を見るか」
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大いなる長安
長安はそばの大男をかえりみた。
「但馬《たじま》、ようえらんだ。気に入ったぞ。――この三人の娘たち、たしかに長安のすぐれた子供を生んでくれるであろう」
男は一礼した。
この男は、ときどき長安の供をしたり、またその使いとして服部屋敷《はつとりやしき》に来たことがあるからおげ丸も知っている。
味方但馬《みかたたじま》という山師だ。ひょっとこに髯を生やした野武士みたいな風貌をしているが、もとは福島家の侍大将をし、その後長安に仕えて日本中の金山の現場監督ともいうべき地位にあり、長安の大参謀といわれている人物である。
「姿かたちの美、いかにも利発げな顔。――のみならず、こうなよやかに見えて、みないかにも精が強い。さすがは服部につながる娘どもではある。さだめし交合欲も盛んで、受胎率も高く、分娩力《ぶんべんりよく》も強く、そしてまたたくましい、良質の子を作るであろう喃。……この長安のたねと合するならば」
長安独特のもののいい方だ。――その一語一語の意味ははっきり理解できなかったにもかかわらず、おげ丸はわれに返った。
水を浴びたような感じが、かっとからだじゅう熱くなる思いに変った。とにかく、父がこの三人の女人を妾にするということはたしからしい。――
「父上」
と、彼はやっと声を出した。駿府に来る路《みち》みち、うなされたような思いで考えつづけて来たことだ。
「恐れながら……例の御通達、まことでござりまするか。御本気なのでござりまするか?」
「ずんとまことじゃ。長安、正気である」
長安は落着きはらっている。
「わしはこれより順次、この女どもに子だねを仕込んで、わしのあとつぎを残すつもりでおる」
「あとつぎ?」
おげ丸はいった。
「大久保家のあとつぎならば、すでにあまたあるではござりませぬか?」
長兄|藤十郎《とうじゆうろう》、次兄|外記《げき》たちのことだ。きょうここへ来て、まだだれも姿を見ないが、ほかにも権之助《ごんのすけ》、雲十郎、内膳《ないぜん》などいう異母兄がある。べつに江戸とか越後《えちご》とか播磨《はりま》などに養子にいっている兄もあるし、あとつぎにはなれないが、異母姉も服部家のお国をはじめ七、八人ある。そのほか、おげ丸の知らない兄弟姉妹は何人あるのか見当もつかない。
「みな屑じゃ」
と、長安はかぶりをふった。
「この大久保長安の後継者たるべきやつは一人もない」
「へ?」
「それに、すでに公に知られた倅《せがれ》どもは、やがて一掃されるであろう。……」
長安はつぶやいた。暗然とした眼《め》でもあるが、また冷然とした眼でもある。それにしても、この父は甚だ不吉なことを口にした。
「倅ども、いずれも長安の奢《おご》りに馴《な》れて育ち、その奢りのよって来る父の力、あえて奢りをなす父の心を知らぬ。生きておったとて、何ら生きておる意味のないやつらであろう。……ただし、それにはこの父も悪かった。教育を誤まった。――」
と、長安はいった。
「わが後継者、ということにまで頭をめぐらす余裕のなかったこの長安の罪でもある」
「殿」
と味方但馬が呼びかけた。
「拙者、仰せのままにこの三人の女人をえらび出しはいたしたが……お子はそこのおげ丸どのがおわすではござらぬか?」
豪快な風貌に似合わぬ、ふっ切れぬ表情である。
「殿の御遺志を伝えるもの、おげ丸どのにしくはない――と、但馬には存ぜられまするが」
「こやつはいかぬ」
長安はちらっとおげ丸を見て、苦笑した。
「わしもそう見て、こやつだけには骨折った。実験済みじゃ。が、ことごとく徒労であった。……オゲの血が、邪魔をする。むしろわしの望みとは、ともに天を戴《いただ》かぬ個性であると断定した」
どうやら幼時の、あのぞっとするような教育のことらしい、とおげ丸は思った。思っただけで、いまも本能的な怖《おそ》れが背を這《は》いのぼった。
「で、わしは死するにあたって、このたびこそはと、文字通り必死の念力をこめて、長安の真の後継者を残そうと発心した」
くり返される「子を残す」という言葉よりも、おげ丸はその言葉の前半に衝撃を受けた。
「父上、父上がお死になされる?」
「いかにも。わしのいのちはあと一ト月――二タ月も保《も》つまい」
「ばかなことを! 父上はそのように御壮健ではありませぬか」
「いや、これは灯滅せんとしていっとき明るう燃えあがるがごときものじゃ」
長安はにたっと笑った。しかも、決して冗談をいっているのではない、鬼気のようなものが全身にゆらめいている。
「みずからの診断にまちがいはない。おげ丸よ――服部屋敷では、気力とか念力とかいう言葉を、耳にたこ[#「たこ」に傍点]の出るほど聞かされたであろうが。長安、笑っておったが、しかしわしはいまやまさに念力のみで生きておる」
そういわれても、まだよくわからない。
「しかし、長安個人のいのちなど、もはや問題ではない。大久保家の存亡ごとき、また意とするにはあたらぬ。ただ――日本の未来のために、長安はその後継者を残そうとする」
長安は味方但馬にあごをしゃくった。
「では、始めようかの」
「え、ただいま、ただちに?」
「おお、わがいのちの残灯、燃えておるうちに」
「三人とも?」
「おげ丸にも見せい」
但馬は立ちあがって、おげ丸と三人の娘を見下ろした。
「では、こちらにござれ」
歩いていって、一方の唐紙《からかみ》をひらいた。牡丹《ぼたん》に唐獅子《からしし》をえがいた唐紙であったが、あける物音でそれが重い板戸であることがわかった。
必死の諫言《かんげん》を試みよう、と決心していたおげ丸はもとより、恐怖と反抗に全身をかたくしてそこにひかえていたお都奈《つな》、お芦《あし》、お菱《ひし》までが、ふらふらと但馬について立ちあがったのは、長安の言葉よりも、その怪奇で強烈な体臭にいつしかふらっと酔いかかっていたゆえであった。
それでも、自分たちのその状態を、「まるで狐《きつね》につままれたようだ」という自覚はある。「これは冗談だ。まさか――」という意識もある。
そう思いつつも、但馬にひかれて隣の部屋をのぞきこんだ四人は、思わず、
「あ。……」
と、口の中でさけんで、息をのんでしまった。
やはり真っ赤な絨毯《じゆうたん》をしいた部屋だが、両側の壁一面は鏡となっている。その片側に人間二人は寝られそうな大きな台があって、これまた真紅の夜具がのせてある。すなわち彼らははじめて見るが、これはダブル・ベッドであった。
正面の壁には羽搏《はばた》く金の鷲《わし》の彫物《ほりもの》が飛び出していて、その翼や頭の上に立った三本の大|蝋燭《ろうそく》がゆらゆらと白い炎をあげていた。
その燭台《しよくだい》の上部にあたる壁に、いちめん大きな紙が貼《は》ってあって、そこに何やら文字が書きつらねてある。何だか年表のようである。
「一同、入って、上を見い」
背後の長安も歩いて来た。
茫乎《ぼうこ》としてその部屋に入って天井を仰ぐ。天井にはいっぱいに地図が描かれていた。紙にではなく白亜《はくあ》に直接描き出したものだ。
「世界の地図じゃ。これが日本。……あれがヨーロッパ」
いつのまにやら長安は長い黒い鞭みたいなものを持っていて、天井にさしあてた。
「おまえらも知っておるポルトガル、イスパニア……オランダ、イギリスは、それ、こことここ、こことここじゃ」
地図にはむろん地名が書き入れてあった。
「但馬。一同をそこの椅子に坐《すわ》らせい」
長安は鞭を味方但馬に渡しながら、あごをしゃくった。ベッドとは反対側の鏡の壁の下に、七、八人も坐れそうな赤い長椅子が置いてあった。催眠術にかけられたように四人がそこに腰を下ろそうとすると。――
「そこの女、そなたはここへ」
すでに寝台の上にあぐらをかいた長安は、お芦を指さした。
「これより、世界の歴史を講義してつかわす。そなたはここへ坐れ」
長安はまたいう。お芦はうろたえ、助けを求めるようにおげ丸の方を見たが、おげ丸が口をぽかんとあけたままでさっぱり反応がないのと、じいっと自分を見ている長安の威厳にみちた眼に、よろよろと寝台の上に上って坐った。
「きけ、まずわが明応《めいおう》元年、いまより約百二十年前、応仁《おうにん》の大乱はひとまず終熄《しゆうそく》したれども、天下はなおますます乱れ、伊豆に北条早雲《ほうじようそううん》などが起る。いわゆる戦国序曲の時代じゃ。この年、イスパニアのコロンブス、アメリカを発見す。……」
但馬の長い鞭が年表をさし、天井の地図をさす。
「その六年後、明応七年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ、アフリカ大陸の南端を回ってインドに達す。すなわちインド航路の発見じゃ」
長安はいって、お芦を眼でさしまねいた。
「寄れ、女。……わしの衣服をぬがせえ」
お芦はどぎまぎした。
「その翌々年、明応九年、ポルトガルのカブラル、ブラジルを発見す。……女、近う」
お芦はおげ丸をふりむいた。おげ丸は依然あっけにとられた顔だ。彼女はおどおどと寄って、長安のきものをぬがせはじめた。
「さらに十年後、永正《えいしよう》七年、ポルトガル、インドのゴアを占領す。永正九年、マラッカを奪う。女、そこに寝え」
「――は?」
「寝よと申すのだ。天井の地図は寝て見た方がらくじゃ。長安は、夜毎《よごと》そうしておる」
「あの、わたしは……」
「そこに坐っておっては、邪魔になってわしがよく見えぬ。……一年後、永正十年、イスパニアのバルボア、パナマを横断して太平洋を発見す。……寝ろ」
お芦は、放心したように横たわった。
長安もそれとならんで静かに身をのべる。と、手が無造作にのびて、お芦の襟《えり》と裾《すそ》をかきひらいた。
「あ。……な、何をなされます」
「動くな、日本の大事どころではない、世界の大事を述べておるのじゃ。永正十六年、イスパニア、メキシコを征服す。……」
「お、おゆるし下さりませ、と、殿さま。……」
「永正十七年、ポルトガルのマジェラン、南アメリカの南端を回って、はじめて太平洋に達す。……」
長安の手は、むき出しになったお芦の真っ白な二つの乳房を撫《な》でていた。
しかも、お芦ははね起きることが出来ない。六十五歳の長安の力であるはずがなかった。あるとすれば、無限の歎《なげ》きをおびているような、彼の表情、声音《こわね》の力であった。
「約十年を経て、日本では天文年間に入る。東にイスパニア、ペルーを征服し、西にポルトガル、マカオに植民す。……」
呪縛《じゆばく》されているのは、お芦だけではない。おげ丸もほかの二人の女も同様だ。
彼らは長安が堂々と小長安を現わすのを見た。小長安――といったが、おげ丸はそのとき、明確な意識ではないが、「ああ、父よ!」と心中にさけんだほどである。それはいつぞや、釜伏塔之介が見て「人間離れしている」と評したおげ丸の、たしかに父であることを確認させる雄偉なものであった。
「天文十二年、プロシアのコペルニクス地動説を完成し、フランドールのメルカトール地球儀を完成す。……地動説とは――」
「おげ丸さま!」
と、お芦がさけんだ。彼女は長安のからだの下にあった。
「地が動くことじゃ。地球儀――地球というように大地は球体をなしておる。その地球が日輪をめぐって宇宙を飛んでおる。……」
お芦は長安に犯された。
長安は痛嘆した。
「同じこの天文十二年、わが日本人、はじめてポルトガル人より鉄砲を伝えられて驚倒す。――ああ!」
ああ! とさけんだのは長安ばかりではない。お芦の口からも出た。
同時に。――おげ丸や二人の女からもその声は洩《も》れた。おげ丸は飛び上ろうとした。
「天文十八年。――この年こそ日本にとって銘記すべき年ではある。すなわちこの年、伴天連ザヴィエル来朝し、日本の大久保長安、甲斐《かい》に生誕す」
荘重きわまる声がおげ丸を封じた。
「遅い。――生まれたのが遅かった!」
声は痛痕《つうこん》或いは荘重のひびきをおびているが、腰はいかにもここちよげに動きながら、長安の世界史講義はつづく。
「天文二十年、メルカトール、天球儀を作製し、永禄十二年、同じくメルカトールの正角円筒図法完成す。同年、イスパニア、ルソンのマニラを占領す。日本では、織田《おだ》、上杉《うえすぎ》、武田《たけだ》、北条、三好《みよし》、松永《まつなが》、毛利《もうり》、長曾我部《ちようそかべ》、島津《しまづ》、それにわが徳川《とくがわ》家などが、手もつけられぬめちゃくちゃの騒ぎに血まなこになっておった時代じゃな、ま、いわば茶碗の中の嵐。――」
嘆息一呼。
「メルカトールの図法とは、航海図になくてはならぬもので、甲の港から乙の港へゆくためにはこの海図に定規《じようぎ》をあてるだけで、正しい方位角と航程線を得られる。――うふ!」
長安は奇妙な声をもらして、動かなくなった。
ややあって――しずかにいう。
「女。……もう一人の女と代れ」
「殿!」
鞭で、長安の講義通りに年表と地図をさしていた味方但馬が、やや驚いたように顔をふりむけた。
「今日は、これにて。……」
「いや、長安のいのちは明日をも待たぬ。子だねは、ただ一人の女につくとは限らぬ」
「では――お菱どのか、お代りなされ」
お菱はおげ丸にしがみついた。
「おげ丸さま、助けて。――あなたはなぜ何もおっしゃらないのですか?」
「女、服部に奉公する女が、この長安の命に叛《そむ》くか。叛けと半蔵が教えたか。なんじら、何しにここへ来たか」
お菱は動かなくなった。
恐怖の色は、彼女ばかりではない。おげ丸の面上にもある。それはいまの長安の言葉によるものではなかった。先刻からの父のもののいいかたが、彼の幼時の記憶につながり、彼を恐怖に麻痺《まひ》させていたのだ。条件反射的な恐怖である。
お芦が、夢遊病者のように寝台から下りて来た。ぐったりとおげ丸の足もとに坐る。
「おげ丸、別の女を寄越せ」
と、長安がいった。
恐怖の銅像みたいな――それ以外にはあらゆる知覚を失ったように動かぬおげ丸を、じいっと見つめていたお菱が、
「それを、おげ丸さまはお望みになりますか?」
と、かすれた声でつぶやいた。
そして、眼をとじて、寝台の上へ上っていった。
「女、裸になれえ」
と、長安はいった。
「その方が、たねがようつくように思う」
――お菱は、わななく手でみずからの帯をとき、きものをぬぎはじめた。眼は無限の思いをこめておげ丸の顔を見つめたまま。
「元亀《げんき》元年、日本にては姉川合戦の年、イギリスに於てログ・ラインすなわち船速測定器発明さる。これは鉛を埋めた三角形の木片を紐で船から流し、砂時計で一定時間に船がどれだけ走ったかを調べる道具じゃ」
眼はお菱にそそがれたまま、長安はいう。年譜は彼の脳髄に暗誦《あんしよう》できるほど刻みこまれているらしい。
真紅の夜具の上に、雪白の肉塊が浮かびあがった。すばらしい乳房と、それをよく支えているとふしぎに思われるほどくびれた胴と。――
さすがにがばとそのまま褥《しとね》の上に伏したのを、長安はより添うて、抱きしめた。おげ丸がのどの奥でうめいて、二、三歩よろめき出そうとした。
「天正十年、織田右府、本能寺《ほんのうじ》に死す!」
長安はさけんだ。はじめて、怒りにちかい声であった。
「日本にとって長恨の日じゃ。この日、明智《あけち》日向守《ひゆうがのかみ》は、信長《のぶなが》公のみならず日本の足をへし折った。たんなる主君殺しではない、それが日本にとってとり返しのつかぬ大罪であったことを知る者はただこの長安ばかり。……徳川家の中には、今にして光秀《みつひで》にひそかに香華をたむける馬鹿者《ばかもの》もたんとおるであろうが」
おげ丸の足は釘づけになった。
長安は悠々《ゆうゆう》とお菱を犯した。犯しつつ、いう。――
「時あたかもイギリスの甲比丹《カピタン》ドレークにひきいられる海賊船隊は、セレベス、ジャヴァ、東インドなどで劫掠《ごうりやく》をほしいままにしておった。――」
おげ丸は歯をカチカチ鳴らしながら見ていた。「好きだ。好きであればこそ、おれは逃げた」といったのはおげ丸になり変った釜伏塔之介《かまぶせとうのすけ》のせりふだが、それは決しておげ丸にとって笑うべき告白ではなかった。そのお菱が――実の父に犯されるのを、おげ丸は黙視している。
歯の鳴るのを、ただ忍耐ばかりといったら嘘《うそ》になる。それは名状しがたい恐怖から来た。
「文禄《ぶんろく》三年、征韓《せいかん》の日本軍、制海権を失い、朝鮮に於《おい》て窮地におちいる。同年、イギリスに於て航海天測に一新紀元を劃《かく》するバック・スタフすなわち後測象限儀考案さる。……」
嘆きの声が。――
「おう、おう、おう!」
という、快美きわまるうめきに変る。
「慶長《けいちよう》五年、関《せき》ケ原《はら》の年、イギリス、東インド会社を設立す。関ケ原ごとき、何が天下分目じゃ! 慶長七年、オランダ、ついで東インド会社を設立す。――うふ!」
長安はまた動かなくなった。
年にしては気味わるいほどつやのあるからだが、心なしか肉がおちて、蒼ざめて――だれの眼にも老体とわかる姿と変ったようだ。
「殿!」
と、また但馬が呼んだ。不安げに、
「大丈夫でござりまするか?」
「大丈夫じゃ。女、代れ。……慶長十四年、イタリアのガリレオ天体望遠鏡を作製す。同年、徳川幕府、五百石以上の船の建造を禁ず。……おげ丸、三番目の女を寄越せ!」
「ち……父上」
おげ丸はかすれた声で呼んだ。
「三番目の女人は……服部半蔵《はつとりはんぞう》どのの妹御でござります」
「それがどうしたのじゃ。わしと、わしの娘婿の妹との交合に、何ら遺伝的支障はない」
何だかよくわからないが、父が平気なことだけはたしかである。
「お都奈どのは、このおれの許婚《いいなずけ》でござりまする!」
「本来なら、おまえに子を生ませるべきだろう。おまえがこの父だけの血を伝えるやつならば」
と、長安はくびをふった。
「いかんせん、うぬには野蛮|蒙昧《もうまい》のオゲの血が混っておる。改めて長安個人が生ませ直すよりほかはない」
長安は声を張った。
「あわれ、おげ丸、いままでの長安の講義を何ときいたか」
「――へ?」
「日本は世界の歴史から百数十年遅れてしまったということじゃ。見よ、この百年の間、日本のまわりの国々、島々は、獣に狩られる野の孔雀《くじやく》のごとく、みるみる南蛮人のいけにえとなって来たではないか。……日毎《ひごと》、夜毎、そのれきれきたる跡を、長安はここでこうして地図を眺《なが》めて腸《はらわた》を断って来た」
表現の大げさなのはこの人物の特徴だが、顔を見るといつわりではない。心からなる憂愁の色がある。
「この百数十年の遅れ、捨ておかば数百年の格差にひろがるであろう。なんとなれば、南蛮人ども、奪った土地の富を吸い、それによってますます強大なる文明の力をつけるからじゃ。わが日本国とて、いつインド、マラッカ、ジャヴァ、ルソン、マカオの運命におちいるか、おちいらぬと保証する者はだれもない」
「…………」
「左様な運命を招かぬため、長安は憂悶《ゆうもん》した。いや、この遅れについて煩悶《はんもん》した。それは何から来たか。船から来た。道具から来た。武器から来た。そのゆえんをさらに尋ねるに、それは人間の理を尊ぶ知識すなわちサイエンスから来た。いまもきかせた地動説やら鉄砲やら航海図やらログ・ラインやらバック・スタフやら……いずれも兵士数十万が死ぬ大合戦など、ほとんど無意味に思われる歴史的事件じゃ」
「…………」
「知識というも、根本は人じゃ。人の素質じゃ。……日本にも、いちどその人が現われた。学者ではないが、左様な学者を好み、かつ駆使するだけの素質を持った人が。すなわち信長公じゃが、やんぬるかな、流星のごとく本能寺に燃え落ちた。……しかし、天、日本を捨てたまわず、からくも大久保長安を残し給うた」
「…………」
「なんじ、この長安の一生を何と見る。俗物の俗評は知らず、わしはわしなりに奮闘したつもりでおる。わしは道を作った。城を作った。町を作った。山を作った。そしてまたおびただしい金銀を掘り出した。――はからざりき、この長安の働きが、かえってわが大志を空に帰するもととなろうとは! 女、たねつけは終った。ゆけえ」
なおそのからだの下にあったお菱も、嘆きも怒りもあらばこそ、これまた夢遊病者のごとく寝台から滑り下りる。
「なんとなれば、長安の望んだサイエンスの育成、これをまったく顧みられぬからじゃ。むしろ、これを醸成するのは天下のために危険であると見る。それをとるに長安の力の大いにあずかった天下、小なる天下を固守せんがために! はっきり申せば、一氏族徳川家保身のために!」
息に痛絶の笑いがまじった。
「その気宇の卑小や及ぶべからず。しかも、長安の命はいまや旦夕《たんせき》に迫っておる。ここに於て、日本国のために、改めてわが遺志をつぐ子孫を残そうとする、この長安の心、げに哀れむべし」
と、自分でいった。なんと、その眼には涙すらある。――
「子が生まれ、教育され、父の志を悟る日まで幾十年か、思えば膝《ひざ》も萎《な》えるばかり気の長い話じゃが、なんら地に蒔《ま》かれた種のないにはまさる。それに、そもそもかかる事業は、元来気の長いものじゃ。おげ丸、おまえの意見は、鉄砲は剣法忍法のごとく刻苦の修行が要らぬゆえくだらぬということであったな?」
「……へ?」
「おまえのいう刻苦は、肉体の刻苦ばかりじゃ。鉄砲が出現するまでには頭脳の刻苦がある。いや、おまえばかりを笑おうとは思わぬ。日本人すべて、肉体の苦のみ修行とする愚かなる思想の伝統がある。しかも頭脳の刻苦は、一代、二代、三代とつづけねばならぬ。鉄砲は数百年にわたるその結果じゃ。ただ人間一代にして終る剣法忍法の修行とはくらべものにならぬ」
「……は!」
「数十年、待つをわしはいとわぬ。またその子に託するよりほかに法《すべ》はない。ほかにわが志を伝える者は、だれ一人としておらぬ。――まだ間に合う。日本の遅れをとり戻すには、まだ間に合う! かかる悲願より思い立った大久保長安のたねつけじゃ。これは世界史につながる交合と思え。長安の眼中、徳川家すらなきに、況《いわ》んや服部の妹やらうぬの許婚やら、何をみみずのたわごとをぬかしおるか。ばかめ!」
――おげ丸は気息|奄々《えんえん》たる顔つきであった。
父の長広舌が彼に理解できたかというと、甚《はなは》だ疑わしい。いや、内容の一つ一つ、全然わからなかったといっていい。にもかかわらず、父の志が雄大で、その行為が悲壮なものであることは彼に感得できた。――もともと、猛烈に反抗した幼時から、それと矛盾するようだが、この父の偉大さは心魂に徹して感じていたおげ丸なのである。
「半蔵の妹」
長安はまた呼んだ。
「お都奈と申したか? 参れや」
突然、お都奈はくるくると自分のきものをぬぎはじめた。何も命令されないのに、みずから裸身になったのである。
天地が裂けてもそんなことはしそうにない娘であったのに。――そこに氷を刻んだような白い裸形《らぎよう》がすっくと立った。
「おげ丸どの」
と、お都奈はいった。
「あなたは、いつまで口をあんぐりとあけているのです。閉じなさい!」
そして、ぴしいっとその頬《ほお》が鳴った。
おげ丸の頬に一つ平手打ちをくわせると、お都奈はつかつかと長安の寝台に上っていった。
――考えてみると、おげ丸はいつぞやお菱にも一撃をくったことがある。三人の女のうち、二人にまでぶん殴られたわけになる。
「父上!」
長安がしっかとお都奈を抱いたとき、おげ丸はまたさけんだ。
「も、もう一つ、ただ一つうかがいまする。父上のおんたねつけの儀……日本国の運命につながることは相わかりました。いえ、相わかったとします。けれど、どうしてもおげ丸にはわからぬことがござりまする。それは、なぜ父上のあとつぎを生むのに、服部組の女でなければならんか、ということでござる」
「いかにも、それは忍者の女――くノ一でなければならぬ」
「さ、されば、なぜ?」
「わが死とともに、大久保家も滅亡するからじゃ」
「えっ?」
かっと見ひらいたおげ丸の眼に――父が、許婚お都奈のからだに入り込むのが見えた。ああ!
「ああ」という声はお都奈ももらしたようであった。彼女には、いまの長安の言葉もよく聞えなかったろう。しかしおげ丸には、お都奈の声が聞えなかった。
「大久保家が滅ぶ?」
「その通り、わが一族は根こそぎ掃滅されるであろう。――おげ、いっておくが、うぬも危いぞよ」
そういえば先刻父は、「すでに公に知られた倅どもは、やがて一掃されるであろう」とか何とかいったようだ。――しかし、ばかな! そんなことがあり得るであろうか。徳川家の智嚢《ちのう》といわれた父が? 徳川家の大柱石と目されている大久保家が?
きょう入って来たこの屋敷の絢爛《けんらん》たるたたずまいに何の異常もない。いや、江戸にある徳川の諜報《ちようほう》機関服部家にもそんな不安は毛ほどもなかった。だいいち、そんな不安があれば、半蔵がおのれの妹をここへ妾としてさし出すわけがないではないか。
「父上、大御所さまが、そんな。――」
「ふふ、長安の息ひとすじでもあるかぎり、天下の何ぴとも大久保家に一指もさせることではない。しかし、その息が絶えた日から。――」
長安はゆっくりとからだを動かしつづける。――が、一人目、二人目のときに余裕と見えた動作が、さすがに――彼の好きな機械類でたとえるならば――ぜんまいがゆるみ切ったか油が尽きかかったような感じに見える。
「大久保家は悲劇の嵐《あらし》に見舞われるであろう。百年さきのことをもおもんぱかっておる長安じゃ。わずか先のわが一族の未来が見えぬものかは」
熱し切ったおげ丸のからだに冷気が走った。
「その嵐に耐え、子を守りぬく女、くノ一を措《お》いてだれかある?」
長安はぜいぜいと息を切らせた。自分のいっていることに昂奮《こうふん》しているのではなく、あきらかに限界を超えた肉体的苦闘のためと見えた。
「お都奈以外、二人のくノ一は但馬の眼識にまかせて選んだが、これらの女、必ずや長安の志を体し、いかなる公儀の追及にも屈せず、長安の子を生み、かつ育てていってくれるであろう。……ほかに遺してやるものがある。長安一代のサイエンスの成果じゃ。が、いずれにせよ、その子を守りぬくのが最重の根本にして最大の難事、これを可能とするものは、服部のくノ一以外には天下にない。――」
疑いをはらすための問いはさらに大きな謎《なぞ》を生んだ気味がある。
「大久保家が滅ぶ。――そのわけもわかりませぬが」
と、おげ丸はまたきいた。
「たとえそんなことがあるにしても――服部のくノ一に頼ると仰せられて――服部一党そのものに頼られればよいではござりませぬか。そのための服部家ではありませぬか?」
「半蔵が喃《のう》」
と、長安はいった。息を切らせながら、うすく笑ったようだ。
どうしてこの場合笑ったのか。「半蔵が喃」といってなぜ言葉を切ったのかわからない。
「いずれにせよ、父が死ねば、父の申したことの意味がわかる。――おう、いましばし待て。長安のたね、いまつかわす」
後半は、お都奈にいったのだ。
六十半ばにしては異様に若いと見えた長安だが、いまは七十か八十の老人に見えた。頬はこけ、眼はおちくぼみ、皮膚はかわいて――彼が文字通り精根をしぼっているのはあきらかであった。しかも、ふしぎに醜悪ではないのだ。醜悪どころか、それは生涯《しようがい》の大事業をいまや完成せんとし、最後の苦闘をつづけている老巨人――いや、老英雄の荘厳なる儀式のごとく思われた。
「ううふっ」
長安はうめいて、動かなくなった。
おげ丸は、自分もまた虚脱状態におちいったような気がした。
「お都奈、ゆけえ」
かすれた声で長安はいった。
裸身のお都奈は寝台の上に身を起し、おげ丸を見つめた。その眼から涙がながれおちた。
おげ丸は、この気丈な許婚にはじめて哀憐《あいれん》の情をおぼえたが、しかしどうしてお都奈はこのとき泣いたのか――自分を哀れに思って泣いたのかどうかは疑問である。彼女は第三の夢遊病者のごとく寝台から下りて来た。
そしてまたおげ丸は、決して自分を哀れに思うセンチメンタルな男ではなかったが、このとき自分をお都奈以上に哀れに思った。
「父上」
放心したように彼はいった。
「で、おれをここへ呼ばれたのは?」
「三人の女とその子を護る意義を思い知らせるためよ」
「――へ?」
「いや、たねがついたかどうかはまだわからぬ。が、あと半月か一ト月、長安のいのちのあらんかぎり、日夜交合してこの三人に必ずたねを植えつけて見せる。――生まれて来る子は、いま申したごとく、真に日本のサイエンスをになう子たちじゃ。三人の母とともに、それを護れ」
「――へっ?」
「おげ丸、父はなんじの愚直を信ずる。またなんじの剽悍《ひようかん》を愛する。三人の母と三人の子を、いのちをかけて護れ」
生まれてはじめてこの偉大なる父はおげ丸に慈愛の眼を投げた。
「それがなんじのこの世に生を受けた意義でもある。――およそ人と生まれて、生まれ甲斐《がい》ある生を持ち得る人間は稀《まれ》である。なんじ、オゲの血を受けながら、倖《しあわ》せなやつよ」
長安は沈黙した。彼は仰むけになって、天井の世界地図を眺めた。まるでいまのおのれの行為は大空の雲のごとくすでに念頭から去ったような横顔である。
彼の大講義は終ったらしい。――少くとも、この荘厳なる儀式が一応完了したことだけはたしかである。――しかし、むろん完全にいまの行為を忘れたわけではなかったらしい。
「おげ丸、ゆけえ」
と、ややあって彼はいった。
「三人の女は残れ。なお、説ききかせてやりたいことがある。――但馬、おげ丸に例のこと、よういいふくめておけえ」
……茫乎として、こんどはおげ丸が第四番の夢遊病者のごとくその部屋を出た。
あとを味方但馬が追って来た。
「おげ丸どの、こちらへ」
と、彼はおげ丸を庭へみちびいた。
「……いまさらのことではござらぬが、えらいお父上でござるなあ」
これが、この豪快な風貌《ふうぼう》を持つ父の参謀、そしていまの破天荒な行為のアシスタントであった男のまずもらした嘆声であった。
「かかることは予定の行事であったとは申せ、事実として眼前に見れば、ただただ人間離れしたお方だと、但馬、長嘆のほかはござらぬ。――さりながら、それだけにこの非常の大事、必ず叶《かな》えてさしあげねばならぬと、おげ丸どのにもお覚悟下されい」
おげ丸には庭の大花壇も噴水も眼に入らない。まだすべてが夢の――この美しい眺めでさえ、悪夢の中の風景としか思われない。
「殿よりおあずかりいたし、おげ丸どのにお渡しせねばならぬものがござる」
と、但馬はいった。
「おげ丸どのというより、あの三人の女人のお生みなされるお子に――つまり、遠い先のことでござる。従って、それまではおげ丸どのより、この但馬がひそかに保護し、拙者に万一のことがある際、おげ丸どのに渡すか、その所在を教えろというお申しつけでござるが」
「何だ」
と、きいたが、おげ丸、自分の問いを意識しない。
「石見守《いわみのかみ》さま御一代のうちに御研究なされた、造船、火術、天文、医学、光学、鉱山学などの成果でござる。これを圧縮した書類としてお手文庫に一つ」
「…………」
「石見守さま御死去とともに、拙者それを持って佐渡《さど》へ出立いたし、拙者のみ知っておる金山の廃坑の一つに隠しておく所存でござるが、さて、石見守さまの片腕といわれた拙者の運命、果してどうなりまするか」
「…………」
「ともあれ、先刻殿の仰せあったごとく、何よりも最重最大の条件は、それらのお子がぶじ御誕生になり、かつぶじ御成長になるということでござる。渡すべきものはあっても、かんじんの渡すべきお人がいなくては何にもならぬ」
「…………」
「それを生ませ参らせ、御成長をお護《まも》り下さるがおげ丸どの、あなたのお役目。あなたとて石見守さまのお子でござれば、安全はだれにも保証できぬが……しかし、おげ丸どのなら、必ずその危険をのり越え、その難事を果して下さるものと但馬もお信じ申しあげる」
但馬はこのとき何ともいえぬ表情になり、声をひそめた。
「げにも勝手なお父上とお思いか、おげ丸どの?」
「…………」
「世にもばかげた役目とお考えか。左様にお考えになるがあたりまえでござれど。――」
「…………」
「この場合、かくするよりほかはない。おげ丸どの以外に頼るべきお人はいないと――石見守さま必死の御思案の末でござる」
「勝手にも――ばかげておるとも――おれには何が何だかさっぱりわからん」
おげ丸は頭をかきむしった。
「但馬、それよりも大久保家が滅ぶというのはまことか」
「石見守さまは左様に仰せあそばす。石見守さまの仰せなら、まずまちがいはござりますまい」
「江戸には服部がある」
おげ丸はふいにはじめて火がついたような顔をした。
「父上のお言葉、ただちに江戸へ馳《は》せ帰って告げよう。半蔵どのに御相談申しあげねばならん」
「あいや」
と、但馬は前にまわって立ちふさがった。
「それはならぬ。そのことを禁じよ――というのが、殿の拙者への御命令でござった」
「なぜ? それはなぜだ、但馬?」
「それは、石見守さま御死去ののちのなりゆきを見て察せよ――と、仰せなされたではござらぬか」
味方但馬《みかたたじま》は悵然《ちようぜん》また決然としていった。
「いずれにせよ、おげ丸さま、何分のめど[#「めど」に傍点]がつくまで、このお屋敷にてお待ち下されい」
七日。――十日。――十五日。
おげ丸は端座して過ごした。
いまだに夢を見ているようだ。――屋敷の中の光景、眼の前を通り過ぎる物象、耳に入る物音、すべてが幻影のごとくに見え、幻聴のごとくに聞える。
屋敷には長兄の藤十郎《とうじゆうろう》、次兄の外記《げき》、三兄の権之助《ごんのすけ》、その他の兄や姉の姿も往来していた。それがおげ丸の存在に気がついて、妙な顔をする。
「あのむさ苦しい若僧はだれじゃ」
と、きいた者もある。江戸の服部家に養われている末弟のことを忘れていたのだ。弟だと教えられて、
「ああ、あのオゲの子か」
と、露骨にさげすんだ顔をする者が大半であった。
父の長安が新しく三人の若い妾を入れたときいても、そんな行状には馴《な》れているらしく――その一人が服部家の妹だと知ってさえ――怒るはおろか、驚く者さえいないようであった。
家の中のすべてが浮き浮きと華やかであった。ちょうど春もたけなわである。彼らは供をぞろぞろつれて、安倍川《あべがわ》のほとりや三保《みほ》の松原などに行楽に出かけたり、そこから遊女たちを公然屋敷につれ戻《もど》ったりした。春も「徳川総代官」の栄華も、永遠にこの家の門から去らぬように見えた。
長安はあの部屋からほとんど出ないようであった。――長安のみならず、あの三人も。
それでも、まれに何かのはずみで、そのうちのだれかが、庭など歩いているのをおげ丸は遠望したことがある。彼女たちは夢遊病者みたいに歩いていた。或《ある》いは依然として夢遊の思いにあるおげ丸の眼にそう見えたのかも知れない。
にもかかわらず――彼はふっと眼を大きく見張ることがあった。
彼女たちがみるみるその美しさを大輪の花のごとく咲かせて来たように見えたからだ。いや、もともとがそれぞれ美貌《びぼう》の娘たちであったから、それにふしぎな妖艶《ようえん》さがまつわりつき出した印象だといっていい。
十七日目。
「お芦どのが御懐妊になったようでござる」
と、但馬がいった。
二十三日目。
「お菱どのが身籠《みごも》られたようじゃ」
と、但馬がささやいた。
二十九日目。
「お都奈どの御懐胎。――」
但馬の声には驚嘆のひびきがあった。
四月二十四日、大久保長安が味方但馬にいった。
「但馬、年表に書き入れよ。――慶長《けいちよう》十八年四月二十五日、日本の大久保長安早世す[#「早世す」に傍点]――と」
その夜、長安はふたたび烈しい脳溢血《のういつけつ》を起した。
翌日、まさに慶長十八年四月二十五日、彼は大往生をとげた。享年六十五歳。
[#改ページ]
われ封印す
わが命は旦夕《たんせき》に迫っている。――
長安《ちようあん》はおげ丸にはそう伝えたが、ほかの兄や姉にはそんな予言はきかせていなかったのか。或いはきいてもまさかとだれも信じていなかったのか。
その死とともに、大久保家は暴風のような混乱におちいった。何といっても年も年、それに少くとも去年いちど中風にかかった病歴があるのだから、一応の覚悟もあるべきであったろうに、現実に死なれてみて、はじめて「さてこれからいかがすべき」と狼狽《ろうばい》するところは、必ずしもこの家にかぎらないが、それにしても大久保《おおくぼ》長安の息子たちともあろうものが、父からその無限の想像力の一滴をもみな遺伝されなかったと見える。
それでも。――
「いつぞや父上からきいたことがある。わしが死んだら、むくろは黄金の棺に入れ、駿河《するが》甲斐の僧という僧をみな葬礼に集めよ、と。……それ、金棺の用意をさせい」
などいい出した長子の藤十郎などはまだいい方で、三男権之助、四男雲十郎ごときは、
「蔵の鍵はだれがあずかっておるか。黄金だけでもたしか数十万両はあるはずじゃが。――」
と、血まなこになっているし、次男|外記《げき》や五男|内膳《ないぜん》に至っては、
「父上の死は過房の果てにきまっておる。この大罪を犯した三匹の女狐《めぎつね》めら、みなひっとらえて成敗せい」と、わめきたてた。
その騒ぎの最中、妖《あや》しい隕石《いんせき》でも落ちてきたような一事件によってますます倍加された。
実はおげ丸も驚いたのだが、長安の死から約一時間後に、大久保家の門を入って来た者がある。枯木に白い髯《ひげ》を生やしたような老人で――なんと、江戸の服部一党の栃《とち》ノ木夕雲《きせきうん》なのであった。
「父は死んだ」
眼《め》をまるくしてこれを迎えたおげ丸に、夕雲はうなずいた。
「それで参上したのでござる。――石見守さまの御遺骸に拝顔いたしたい」
――長安の死を江戸《えど》できいて、そこからやって来たということはあり得ない。彼はこの屋敷を見張っていたのだ。当然のことではあるが、駿府へ送りこんだお都奈《つな》やおげ丸のその後のなりゆきやいかにと、あれ以来服部半蔵は、栃ノ木夕雲らを派して屋敷の外からずっと偵察させていたものにちがいない――と思いあたったのは後になってからのことだ。
服部屋敷の長老だ、ということで、ともかく夕雲は長安のむくろの安置してある部屋へ通された。例の世界地図天井の部屋であった。
そこで夕雲は神妙に合掌し、念仏をとなえたのち、突如として、大久保家の人々にとっては仰天すべきことをやってのけたのである。
「少し、遅れた。――時がたちすぎた。――」
彼はそうつぶやきながら、寝台の上にのぼってあぐらをかいた。
そして、屍体《したい》にかけてあった夜具の裾《すそ》をまくって足の一つを出した。次に、自分の足も出した。それから、いきなり匕首《あいくち》をとり出して、長安の足裏と自分の足裏をスーと薄く――まるで鉋《かんな》で削るようにそぎとったのである。
鉋屑《かんなくず》ほどそがれた皮膚であったが、血は夜具の上にながれた。それにもかまわず、夕雲は二つの足の裏をぴったり合わせた。
「な、何をいたす」
藤十郎がさけんだ。夕雲はいった。
「生霊逆《いきりようさか》ながれ。――」
「なに?」
「わが血を石見守さまにそそぎ参らす。血とともに、わが生霊を。――」
声がかすれて、ふっと消えた。
徐々に、栃ノ木夕雲の――それでなくともあまり血色がいいとはいえぬ顔色が鉛色に変っていった。彼はがくりと首を垂れた。眠りにおちいったような姿だ。
しかし、一同はこの老人の方を見ていない。みなの眼はかっと見ひらかれて、横たわった死者にそそがれている。
「……オ、おう」
「顔に血が。――」
のどの奥でこんなうめきをもらしたのが、だれであったかわからない。
それは長安の頬にうっすらと血色が漂いはじめたのを目撃したからであった。一時間もまえに、たしかに息をひきとった死者が。――
唇《くちびる》がぴくぴくっ、ぴくぴくっと動いた。それから、まぶたが痙攣《けいれん》しはじめた。
「わが忍奴《にんど》よ。……」
眠っていたかと思われた夕雲が、弱々しい声でいった。
「言え、なんじ、死するにあたって、なにゆえに三人の女を妾《しよう》としたか。……」
長安はうっすらと眼をあけていた。方向は当然天井の世界地図にむけられているが、しかしうつろな眼であった。が、見ていた者すべてが、まさにこの世のものならぬ恐怖のあまりもはや声もない。――
「わが子を生ませんがためでござる」
長安はいった! 声というより息のようなひびきで、しかし彼はうやうやしくこういった! 夕雲がささやく。
「たねはついたか」
「ついてござる。……」
「で、なんのために?」
「大久保家滅亡の嵐をくぐりぬけ、長安の志を後代に伝えんがために。……」
声がかすれて、ふっと消えた。
徐々に、長安の頬に浮かんでいた血色がうすれて、もとの死相にもどっていった。彼の眼は、ふたたびとじられた。
代りに、栃ノ木夕雲の頬に生色がよみがえって来た。彼の首はもちあげられた。
「おゆるしあれや」
と、彼はいった。
そして、合わせていた足の裏を離した。血はとまり、もう褐色《かつしよく》に乾いているようであった。彼は夜具の裾を直して、長安の足をもと通りにかくした。
「時遅れたれば、いそいだのでござる。石見守さまの御存念 承《うけたま》わりとうて。……」
「おまえは。――」
あごをふるわせながら、外記がきいた。
「死者をよみがえらすのか!」
「いっとき……わが血が、相手の体内をめぐる間だけのことでござるが」
夕雲はいって、寝台から下りて来た。
「それが一たびめぐるあいだか、千たびめぐるあいだかは、わがそそぐ血の量によってきまり、また相手の生前の健康状態、死後の経過時間によってきまり申す。その間、死者はこの夕雲の命ずるがままにしゃべり、かつ動く奴隷《どれい》となれど……石見守さま、わが忍奴となられたる時間は御覧の通り、いま少しお伺いいたしたきことはござったが、万やむを得ぬ」
彼はもういちど片手拝みすると、
「ともあれ、この次第、急ぎ江戸に帰ってお頭にお伝え申すでござろう。――石見守御死去のこと、服部家へ御急報の儀は御無用でござる」
いって、スタスタと部屋を出ていった。
あと見送って、みんなが夢魔が一陣の妖風に乗って来りかつ去ったような思いにうたれたが、さてわれにかえると、以前にまさる混乱状態におちいった。
――さて、しかし、長安の死去直後の騒ぎは、これ以上|叙《じよ》する価値がない。その後数日にして大久保家にふりかかって来た大災厄の衝撃にくらべればである。
「大久保石見守の葬儀とり行うべからず」
駿府城から伝えられた霹靂《へきれき》の命令はこうであった。
大御所さまみずから御弔問にお越し下さるであろうとさえ信じていた遺族にとって、その驚愕《きようがく》はいかばかりか。
――こはそもいかに?
――いかなるわけがあって?
ことの意外にうろたえて、何をどうしてよいやら、ただ仰天している大久保家を見舞ったのは、城の役人たちの迅雷《じんらい》のごとき家宅捜索であった。蔵の戸はうち壊され、部屋部屋の天井裏、床下までさぐられて、おびただしい物品が押収されていったが、何が持ち去られたのか、息子たちにもわからない。その理由に至ってはいよいよ以《もつ》て不明である。
やがて、その理由はあきらかにされた。しかも決定的な破滅の断罪を伴って。
「石見守|累年《るいねん》の私曲積悪|分明《ぶんみよう》せるにつき、家改易、八人の倅《せがれ》ども残らず切腹仰せつけらる」
――この私曲積悪の詳細はついに判然としない。それは歴史の謎として現代に至っている。
ただ当時の風評また後代の伝説によれば、長安は、その旧主|武田《たけだ》家の系図と旗を護持し、毒酒数石を醸造して大御所及びその側近らを一挙に毒殺する計画を持っていたとか、寝室の床下に石櫃《いしびつ》があり、この中に明《みん》へ渡した日本の宝物の目録と、明に日本を攻撃すべくすすめた密書ならびにそのとき加担する諸大名の連判状が入っていたとか、或いは日本をキリシタン化するためポルトガルへの軍船依頼状及びこの企みに加わった諸旗本の連判状が蔵されていたとか、いろいろある。
いずれも、いかにも作り話じみていて、かつでっちあげくさい。
ただ、大久保長安が貯蔵していた黄金が七十万両、銀は数も知れぬ――とあるのは事実らしい。これは家康の死後、貯えてあった黄金九十四万両にほぼ迫ろうとしている。
――あとになって思い出そうとしても、それがいつの夜であったか、昼であったか、大久保家に相ついで下された鉄槌《てつつい》のどの時点であったか、おげ丸にはどうしても思い出せなかった。
庭であったか、座敷であったか、それも覚えがない。そのときまわりには、あわただしく駈《か》けまわる家人の跫音《あしおと》がとどろいていたような気もするし、そばにお都奈、お芦、お菱の三人が坐《すわ》っていたようにも思うし、また味方但馬ひとりだけであったような気もする。
――すべてが混沌《こんとん》たる暴風の渦、暗澹《あんたん》たる狂瀾《きようらん》の中の悪夢としか思われない。
「こ、これは、どうしたことじゃ?」
おげ丸は惑乱してさけんだ。
「わしのいのちはあと一ト月――二タ月は保《も》つまい」といった長安の予言はあたった。「わが死とともに大久保家は滅亡するであろう。わが息絶えたその日から、一族は掃滅《そうめつ》され、大久保家は悲劇の嵐に見舞われるであろう」という宣告はまさに的中した。
事実となってみれば、そんな予告をきかないよりは、もっとその恐るべき事態の現実化に驚倒せざるを得ない。
「徳川家の大柱石といわれた大久保家が?」
「石見守さまなりゃこその柱でござる」
と、但馬はいった。
「父が徳川家にとって何ぞ罪あることをしたというのか?」
「功のみでござった」
「な、ならば、なぜ?」
「その功のありようが、大御所さまの御恐怖そのものであったのでござる。一言で申せば、石見守さまの人間性、世界観が、大御所さまや本多佐渡守《ほんださどのかみ》どのの御策定なされるこれからの世のなりたちように背反するものであったと申そうか」
但馬の声は慨然たるひびきをおびた。
「いまや世界の大航海時代ともいうべきときに、眼は外に向わず、ただ一小徳川家のために日本を小さく乾《ほ》しかためておこうという固陋《ころう》の思想への怒り、門閥階級よりもただ人間の頭脳を重しとする思考、支配者のための道徳よりも合理をたっとぶ清新の精神……その石見守さまの人間像が」
おげ丸には何のことだかよくわからない。
「ただ生きておわすうちは、何ぴとも一指もさすことは出来なんだ。そのおん息絶えた刹那《せつな》から――待つや久し――と、あさましいばかりに見えるのも恥じず乗り出して参られたは、いかにその恐怖が甚だしかったかを示すものでござる。石見守さまはすべてお見通しでござったが。――もっとも、大久保家にある巨万の金銀をいちはやくとりこめる目的もござりましたろうが」
「但馬、そのおびただしい金銀こそ罪にあたったのではないか。父上はなぜそのように金銀をためこまれたのか」
「石見守さまはいつの日にか、西欧の大学《コレジヨ》に匹敵する学校を設立しようとお考えでござった。――が、最後に至っては、その望みも空《むな》しとおあきらめなされ、またその金の没収ごとき意とするに足らずと一笑なされておりました。長安が伝えるものはほかにある、と。――」
「それは?」
「それが先日申しあげた長安一代のサイエンスの集大成でござりまする。――ウ、フ、フ、この最大の宝を、公儀の方は気がつかれぬ。その存在すら、漠《ばく》としか御存知ござるまい」
と、この場合に但馬は笑った。
「それをあずかって、拙者はこれより佐渡へ逃げのびまする。とはいえ、拙者も危《あぶな》いが、おげ丸さま、あなたも危い。両者相伴っておれば、いよいよ危ない。で、いまの危機をのがれ、かつ、やがて御誕生なさる石見守さまのお子にぶじ御成長のめど[#「めど」に傍点]がついたとき、但馬必ず御連絡いたし、その宝を捧《ささ》げたてまつる」
「父の子が誕生。――」
「それでござる。それこそは、拙者のあずかる宝以上の宝でござる。サイエンスの集大成、そのようなものが存在しても、それを使う人なく、使える時代が参らねば、文字通り宝の持ち腐れ。いや、それを使える時代を招来するのも使う能ある人あればこそ。――それが、石見守さまの御遺志と御純血を受けつがれたそれらのお子でござります。そのお子さまをお護り下さるが、おげ丸さま、あなたの御使命。――」
「わ、わしにそんな自信はない」
おげ丸は、うなされたようにいった。
「服部に頼もう。江戸の半蔵どのに。――」
「いや、服部はあてになりませぬ。それどころか、ひょっとすると。――」
「ひょっとすると? 何だ」
先日の問答を、またくり返したようだ。
「いや、そもそもおげ丸さま。――石見守さま御死去のことはすでに服部家に知らせたものがあるはず、またその後の騒ぎはとくに御承知であろうに、いまだ服部家よりこちらに何ぴとも見えぬではござりませぬか?」
それであった。そのことはおげ丸も不審に思い、いても立ってもいられぬほどの焦慮をおぼえていたのだ。
「この役目、ただおげ丸さま御一人にかかる、と但馬は申しあげる」
但馬は暗然また凄然《せいぜん》たる眼をむけた。
「ただおげ丸さまとて御安泰とは申されぬ」
「うむ」
「おげ丸さまは、たしか大久保家のお子として、公にはお届けになっておらぬはず。ひょっとしたら、目下のところは大御所さまも御存知ないかも知れぬ。さりながら、やがてそれは知れることでござろう。――いわんや、このたび御懐胎の御愛妾さま[#「御愛妾さま」に傍点]たちのことすらやがて知られる日が来ることは必定でござれば」
「……う」
「それを護って逃げられるあなたに追及の手がのびぬはずがござらぬ」
「…………」
「おげ丸さま、必ず逃げて下されよ。味方但馬お信じ申す!」
「…………」
「お父上必死の御遺言をお忘れもあるな。それは日本国のためであると。――」
大久保長安の参謀にして、かつ当代一の大山師といわれた男は、おげ丸の肩をたたいていた。
「では、キナ臭くならぬうちに、拙者は逐電《ちくてん》つかまつる」
この日以来、味方但馬は、混乱している大久保家から忽然《こつぜん》として消え失せた。
――またいつのときであったか、やはり崩壊のとどろきのまッただ中であったが、おげ丸は三人の女にとりかこまれて坐っていた。
お都奈、お芦、お菱の三人であった。
それが夜か昼かも思い出すことが出来ないのに、このときの三人の顔は網膜に咲いた三輪の妖花《ようか》のようにまざまざと揺れ残っている。
「おげ丸さま、ここを逃げましょう」
と、お菱がいった。
「ど、どこへ?」
「どこかへ。ただおげ丸さまといっしょに日本のどこかへ逃げよ、と石見守さまは仰せられました」
実に無責任きわまる父親だ、などとおげ丸は考えない。まだ放心状態の顔へ、きっとして、奇妙なひかりを放つ眼をすえてお菱はいう。
「どこへゆこうと、わたしがおげ丸さまをお護り申しあげまする」
話が逆だ。――それにしても、女豹《めひよう》のような美しさは以前と同様だが、お菱は変った。どこがどう変ったのか一言にはいえないが、彼女がまったく別世界の存在に変ったことを、おげ丸は頭脳以外のもので感ずる。
「わたしたちのことは、いまに知れまする」
と、お芦がひざで這《は》い寄って来た。
「わたしたちのやや[#「やや」に傍点]のことが」
こういいながら、おげ丸のひざに手をかけて、ゆさぶった。なんのためにゆさぶったのかわからないが、言葉をきかない者の眼には媚態《びたい》としか見えないお芦の姿態であった。もともと妖艶な女が、まるで春雨に濡《ぬ》れつくしたような感じで――その濡れ濡れした眼をあげて、
「あなた、おげ丸さま。……あなたはあの長安さまのお子か」
と、わかりきったことをきいて、しげしげと見まもったのは、その心事いよいよ以て不可解である。
「そのやや[#「やや」に傍点]のためにも、これ以上ここにいるのはようありませぬ」
と、いったのはお都奈だ。
「この家には、血の匂《にお》いがします」
――この記憶があるところを見ると、長安の公式の子息らが切腹したとか、或いはその当日のことであったかも知れない。
大久保家の子息ら――藤十郎、外記、権之助、雲十郎、内膳の五人はことごとく切腹を命じられたのである。江戸、播磨《はりま》、越後《えちご》に養子にいっていたあと三人の子も同様の運命にあったことは伝えられていたし、数人の娘たちもみなそれぞれ他家へ預けられた。
「やや[#「やや」に傍点]が生まれたらどう育てるか――読み書きはもとより、初等算法の順序に至るまで、とくと長安さまから教えられはしましたが、生まれるまえの胎教についても御伝授を受けたのです。やや[#「やや」に傍点]のためにようありませぬ」
と、お都奈はいった。――ひどく思索的な顔だ。
世界地図の下の寝台へ上るとき、涙をながし、身もだえしたあの三人の女たちが、それ以来数十日、長安とともにあって、いかなる教育を受けたのか。――三人が容姿のみならず、その精神状態までまったく変貌《へんぼう》したことはあきらかであった。
三人は、声をそろえていった。
「どんなことがあっても、わたしたちは長安さまのお子を生み、日本国のためにサイエンスの教育を施さねばなりませぬ!」
それにしても、このころまでおげ丸と三人の女に、公儀から何の手ものびて来ないということがふしぎであった。おげ丸は幼童のころから江戸に追われていたとはいえ、いまはこの大久保家にいるのだし、三人の女の懐妊のことはまだ知られていないにしろ、彼女らの存在そのものが長安晩年の怪事として噂《うわさ》されていたからだ。
何の取調べもないということが、ふしぎを通り過ぎて、かえってぶきみに思われた。
「江戸へゆこう」
ついに、おげ丸はいった。
「服部のところへ帰ろう」
「あそこへ帰ってはならぬと長安さまからかたく禁ぜられました」
と、お都奈がくびをふった。
それはおげ丸も味方但馬からきいている。しかし、そのわけがわからない。わからないといえば、江戸の服部家から――その一員たる栃ノ木夕雲からいちはやく報告はきいたはずなのに――いま以て何の連絡もないのが不可解である。
服部に頼るなかれ。――そういったのが、その服部家の娘であり、半蔵の妹であるお都奈だということに驚く余裕すらおげ丸にない。
「頼らないにしても、相談しなければならんのだ」
と、おげ丸はいった。
彼を育ててくれたその家は、彼にとってもふるさとにひとしい。義兄の半蔵と姉のお国は、心情的には実の父と母にひとしい。彼のこの心の指向は自然であった。
「江戸へゆこう」
――しかし、その必要はなかった。
――江戸の服部半蔵は、むろん大久保家崩壊の事実を知っていた。いや長安死去のことも、駿府から江戸まで百八十キロ、これを一日一夜にして馳《は》せ戻った栃ノ木夕雲によって、その翌日にはもう耳に入れていたのである。
舅《しゆうと》の死。服部家の大パトロンであった大いなる長安の他界。
それ以前から長安の行状に怪異の疑心を抱き、その動静を監視させていた半蔵だ。この朝にたちまち駿府へ馳《か》けつけようとしたが、その半蔵の足を釘《くぎ》づけにしたのは、夕雲からきいた長安の最期――正確にいえば、最期のさらに後に於ける、予想以上、予想外の怪異であった。
――死するにあたって、なにゆえ三人の女を妾としたか。――わが子を生ませんがため――大久保家滅亡の嵐をくぐりぬけ、長安の志を後代に伝えんがため。――
死せる長安は忍奴としてたまゆらによみがえって、そういったという。
「大久保家が滅亡する?」
まさに、彼にとっても青天の霹靂《へきれき》だ。そんな情報も徴候も、彼はなんらつかんではいない。
立ちすくんでいる半蔵の耳に、彼の斥候たちは相ついで驚くべく恐るべき事実を伝えて来た。雷電のごとき大御所の大久保家への誅罰《ちゆうばつ》である。
――あらゆる大名の異心、すべての旗本の秘事、ことごとく探知している幕府中枢の諜報《ちようほう》機関の服部が、眼の睫《まつげ》は見えぬといおうか、燈台下暗しといおうか、おのれの妻の父たる大久保長安を大御所がかくも恐ろしい眼で見ていたとは、八幡、夢にも知らなんだ!
それにしても、これほど徹底した粛清と、それを自分が知らなかったことを考え合わせると、大御所のこの決意が相当以前から固められ、かつ計画がきわめて隠密裡《おんみつり》に進められて来たことが、戦慄《せんりつ》とともに思い知らされる。――そして半蔵を戦慄させたのは、そのこともさることながら、いまそれが事実となって展開されながら、いまだに自分に何のはかるところもないということであった。
なぜか? いうまでもなく服部が大久保の女婿だからだ。
数日、半蔵は立往生し、金縛りになり、沈吟し、苦悩していた。みずからの処置に窮したのである。
そして彼は、ようやくにして駿府ならぬ在府の本多佐渡守の屋敷にまかり出た。黙座はかえって危険であると判断したのだ。
本多佐渡守|正信《まさのぶ》。
大御所にとって、大久保長安とともに車の両輪といわれた人物だ。大御所は経済顧問として長安を駿府に置く一方で、佐渡守は将軍秀忠の政治顧問として江戸に置いた。江戸にはいるが、この佐渡守が駿府の事件を知らないはずがない。知らないどころか、すべて大御所との合作、いや真の立案者はこの佐渡守ではないか――ということは、今にして半蔵は 掌《たなごころ》 のものを指さすがごとく思いあたる。
手|土産《みやげ》が要《い》った。
黙殺された幕府忍び組首領の面子《メンツ》にかけても、このぶきみな実力者にショックを与える情報を提供する必要があった。
「なに? 長安の子が、三人の新しい妾の腹におると?」
さすがに愕然《がくぜん》として、佐渡守は半蔵を見まもった。「家康の分身」と呼ばれたくらい、同類の狸《たぬき》に似てふくぶくしい容貌《ようぼう》をしていたが、その眼がぐるっとむき出された。
「その可能性がござりまする」
と、半蔵は沈痛に答えた。
いうまでもなく配下の栃ノ木夕雲がつかんで来たあの報告である。
「その妾は……服部一党のものじゃな」
ややあって、佐渡守はいった。果然、そのことは彼も知っているのだ。――じいっと半蔵を見つめたまま、佐渡守はいった。
「それゆえ、手をその女どもにはつけなんだ」
案の定、すべての指揮者は彼であることを表白したつぶやきであった。
「服部は先代半蔵のころより大御所さま御秘蔵の家柄じゃ。……傷がついては、服部のためにならぬのみか、徳川家にもさしさわりがある」
半蔵は平伏した。胸中の鉄塊が溶けてゆく思いであった。
「――と、大御所さまに申しあげてある。やがて石見守につながる縁辺《えんぺん》一族、ことごとく追罰を受けるであろうが、服部にかぎり御斟酌《ごしんしやく》あるであろう。佐渡としては左様にあらせたい」
「か、かたじけのう存じまする!」
「で、その石見守遺腹の一件じゃが」
と、佐渡守は顔色を改めた。
「石見は何を企《たくら》んでそのようなことをいたしたのか、その方存じておるか」
「いえ、まったく拙者にもその理由はわかりませぬ。……ただ、いま申しあげたように、栃ノ木の報告によれば、石見守、大久保家の命運を予測し、そのあとにひそかに御公儀に知られぬ子を残したいという一念より左様なことを思い立ったものとしか思案がつきませぬ」
「それだけか?」
佐渡守はくびをひねった。
「それにしても長安は六十五であるぞ。その年に子を残そうとするは、あまりに異常な発心とは思わぬか?」
「いかにも左様。――その件については、そもそも服部に三人の妾をさし出せと命ぜられたときから、半蔵、解《げ》しかねる思いでござりました」
「わしも、三人の妾のことは知っておったが、それは単なる好色のためにて、子を残すためとは思いもよらなんだ。しかも、その妾を、わざわざ服部一党からえらんだとはいかなる意味か。――それらの女に子が生まれれば、少なくとも半蔵、その方には知れることではないか?」
半蔵の顔色が蒼《あお》ざめた。いちどは服部家への疑いは去ったと思ったものの、それがまたあと戻りして来たことを知ったのである。
「さらに石見は、長安の志[#「長安の志」に傍点]を後代に伝えんがため――といったと申したな?」
このとき本多佐渡守は、どこか遠い虚空で高笑いの声をきいたように思って、ぎょっと宙に眼をあげた。すぐに幻聴だと知ったが、それはあきらかに天衣無縫の長安の哄笑《こうしよう》であった。
これほど権謀にたけた大策士の本多正信が、ついに生前一指もさすことが出来なかったライヴァル大久保石見守である。徳川家のために微に入り細をうがって腐心する自分の政策を、横から、
「――小なるかな、あわれ、佐渡よ」
と、軽やかな笑いを浮かべて見ていた感じのする長安である。
その生前の眼で見られていたときと同じように、いま佐渡守の頬《ほお》の筋肉がぴりっと動いた。
「ただごとではない。きゃつ、徳川家に祟《たた》りをなさんとする志じゃな」
と、いった。
「その胎児ら――もし、あるとすれば、生まれさせてはなるまい。生まれたらば、生かしは置けまい」
「――は!」
「その件、服部一党の責任にて処置せい」
「――はっ、仰せまでもなく、もしおゆるしさえあれば拙者ただちに駿府へ走って、女どもにその真偽をたしかめようと存じておりました。もとより遺腹存在すれば、半蔵、その始末をつけまする」
「始末したら、その証拠を見せよ」
佐渡守は念をおして、さらに恐るべき釘をさした。
「申すまでもなく、半蔵、これは服部の存亡にもかかわる一事であるぞ」
「承、承知いたしておりまする」
「おげ丸とやら申すやつもおるな」
と、佐渡守はいった。
「あれは、その方にかかわる者じゃと思うて、わざと目を離してつかわした。――が、長安がそれほどのことを企んだとすれば、そやつも何やら気にかかる。服部から切り離して考えた方が、服部家のためにもよいのではないか?」
「――は?」
半蔵はいよいよ全身が冷たい汗に覆われるのを感じた。この人は、何でも知っている。――
「おげ丸の件については、その処置も拙者におまかせを願いまする」
と、彼はいった。
「あれはいかにも石見守の一子ではござれど、いまやこの半蔵の弟、子にひとしく、拙者の申しつけに決して違背つかまつらぬ者でござれば。――」
ゆきは屠所《としよ》に曳《ひ》かれる羊のごとく、かえりは獲物《えもの》の場所を教えられた虎《とら》のごとく、服部半蔵は麹町《こうじまち》御門外の屋敷に帰って来た。
……おげ丸及び三人の女がいままで放置されていたのは、右の次第によったのである。そしてまた半蔵がこれまで黙殺されていたのも同様の理由による。
が、服部半蔵はいまや決死の形相であった。この一事まさに服部家の存亡にかかわる。
大久保家はいかにも服部家の大パトロンであった。長安はいかにも半蔵の舅であった。大久保家と服部家、その両家が血縁関係を結んで、いずれが大きな利を得たかというと、それは服部家の方であろう。そのことは半蔵も認めるにやぶさかではない。しかし、かかる意外の事態となっては、問題はまたべつだ。
長安が徳川家の禄を食んだのは天正《てんしよう》十年、いまから三十年前のことにすぎないが、先代服部半蔵が大御所に仕えたのは永禄《えいろく》九年、五十年前になんなんとする。徳川家の臣としては、服部家の方が古いのだ。
半蔵は、舅の長安が最後に及んで、思いがけぬ執念の企図に服部家をひきずりこんだことに、むしろ怒りをおぼえた。
たんに身にふりかかる火の粉を払うためばかりではない。「徳川家の家来としての順逆はわきまえねばならぬ。大義親を滅す」彼はこう確信した。
この半蔵の信念は不動のつもりであった。第三者から見ても、その心事は大いに諒《りよう》とすべきであろう。――が、もし彼が、長安が死するにあたって、
「……半蔵が喃《のう》」
と、奇妙なうす笑いを浮かべたと知ったなら、みずから進んで本多佐渡守へ情報を提供しにいったおのれの行動と思いくらべて、果してその頬の赤らむのを禁じ得たかどうか。
さて、屋敷に帰ると、妻のお国をとりかこみ、一党の幹部たる甲賀《こうが》五人衆が不安げに待ち受けていた。そして、
「即刻、駿府へゆく」
と、半蔵がいい、本多屋敷でのいきさつを説明すると、思いがけずお国が、
「わたしも参りまする」
と、いい出したのである。
「おまえが? 何をしに?」
「お都奈どのたちへわびに」
お国はこの数日のあいだに、蝋《ろう》をけずったようにやつれていた。半蔵の悩みも甚《はなは》だしかったが、妻のお国の苦しみはそれに倍するものであったろう。大久保家は彼女の実家だからだ。その実家の悲劇に対する衝動もさることながら、余波がこの服部家へ及んで夫の半蔵が悶々としているのを見れば、彼女は憔悴《しようすい》せざるを得ない。それに、いまきけばいよいよ驚倒すべきその悲劇の祭壇へ、もろに犠牲《いけにえ》として送りこんでしまった夫の妹お都奈や二人の侍女への心苦しさは、いっそう切なるものがある。
しかし、半蔵はいった。
「いま、そのようなこと、どうでもよい。おまえの責任ではない」
「でも、おんな衆が身籠《みごも》っているかどうか、それを見きわめるのも、急を争うのでございましょう」
「うむ。……」
べつにお国の手をかりるまでもないが、しかし一応はそのことに関するかぎり女の口からきいてもらった方が好都合かも知れない。ただ、お国を同伴するとなると、自分一人でゆくよりも駿府への時間がかかる。彼は焦燥していた。
が、さらにお国はいう。
「おげ丸のことが気にかかりまする」
「とは?」
「あれは、変った子でござりまする」
「それは承知しておる」
「いま承わった父の恐ろしき願い、しかもおんな衆たちとともにおげ丸をも呼んだ父の心。――二つを思い合わせると、わたしは何やら胸騒ぎがしてなりませぬ」
「それは、どういう意味だ、お国」
半蔵ははっとしていた。いかにもそうきけば、長安がなぜおげ丸を呼んだか、その理由がまだ解明されてはいないのだ。
「わたしにもそれはわかりませぬ。ただ。……」
お国のやつれはてた頬には、姉としての本能的な恐怖と、必死の祈りがわなないていた。
「何か、事あるとき、おげ丸を説得するにはわたしがいた方がよいかとも思われまする」
「お頭」
と、高安《たかやす》篠兵衛が太い声で口をさしはさんだ。
「承わっておって、どうやら拙者ども五人、みな駿府へお供した方がよいかに存ぜられまするが、いかが?」
――江戸から駿府まで、逆行して来た栃《とち》ノ木夕雲《きせきうん》のごとく一日一夜というわけにはゆかない。お国を乗せた駕籠《かご》を伴っているため、彼らが駿府の大久保屋敷に到着したのは、それから三日目の夕刻であった。
そして一行は、はからずもその門前に、旅姿のおげ丸とお都奈、お芦、お菱の四人を見出した。――
「――オ、おう、半蔵どの!」
まず声をかけてきたのは、おげ丸の方であった。眼をかがやかせて、
「姉上も。――」
思わず、にこっとした。
「ようおいでなされた。おげ丸、待って、待って、待ちかねておりました。このたびの大変、何から申してよいやら――」
飛び立つように歩いて来ようとする袖《そで》を、お都奈《つな》がひいて何やらいった。お国にはわからなかったが、半蔵には聞えた。彼の妹は「御用をきいて、おげ丸どの」とささやいたのである。
「おげ丸」
と、半蔵の方から二、三歩進み寄った。
「おまえら、どこへゆこうとしていたのじゃ」
おげ丸は半蔵の全然愛想のない表情を見て、これは二、三度口をぱくぱくさせた。――実は彼は、四人、笠《かさ》をかぶった旅姿なのに、どこへゆくつもりか、この場になってまだ自分でもよくわからなかったのである。
彼自身は江戸へゆこうと思っていた。しかし三人の女は、江戸へいってはいけない。むしろ西へ逃げようという。といって、西のどこへゆこうというのか、彼女らにも目標はないらしい。――いずれにしても、このまま、大久保家に坐りこんでいることは許されない事態であることはたしかなので、意志不決定のままふらふらと旅立ちかけたところなのであった。
「兄上さまこそ、ここへ何しにおいでになったのですか」
こんどは、お都奈が正面を切っていった。
あきらかに警戒の眼なので、半蔵はちょっとめんくらった。気丈な妹だということは知っていたが、兄の自分に対してそんな眼をむけるとは思いがけなかった。彼はじいっとお都奈を見つめた。ちがう、どこか、以前の妹とはちがう。――
「お都奈、おまえは身籠っておるな?」
半蔵はしゃがれた声でいった。
お都奈の頬がぼうと赤らんだ。
半蔵はほかのお芦《あし》、お菱《ひし》の方へ眼を移した。すると二人はどぎまぎした表情をして、しかもおげ丸のうしろへかくれるようなそぶりを見せた。
「……ううむ」
ひくいうなり声をもらしたのは麻羽《あさは》玄三郎だ。
「……三人とも、喃」
長嘆したのは釜伏塔之介《かまぶせとうのすけ》だ。
「はい、長安さまのお子を」
はっきりと、お都奈はいった。
「と、申しあげたら、兄上さまはどうなされまする?」
「堕《おろ》せ」
と、半蔵はいった。覚悟はしていたが、われを忘れた恐怖の声であった。
「三人とも、その子を堕せ。いや、われらの手で、ただちにそれらの子、みな水にしてくれる」
お都奈はしずかに頭《こうべ》をめぐらして、おげ丸をかえり見た。
おげ丸だけはわかる。……だから、わたしたちがいったでしょう? と彼女はいったのである。しかしおげ丸には、半蔵の意図も心理も見当がつかず、ただ霧の中にある思いがした。
やっと、のどをごくりと動かせていった。
「なぜでござる?」
「なぜ?――とは愚鈍なやつ、大久保家へ下された大御所さまのこのたびの御誅罰を見ればわかるではないか。石見守どのの御叛心《ごはんしん》、あきらかとなったゆえじゃ」
「父には叛心などござらぬ。それは……死なれるまでおそばにあったおげ丸、よう存じております」
「では、何ゆえこのたびのお咎《とが》めがあったのじゃ?」
「大御所さまが……何やらかんちがいしておるのでござる」
「た、たわけ、あの神のごとき大御所さまが、かんちがいなど。――」
すると、お菱がつぶやくようにいうのが聞えた。
「小さな、神さま。……」
「とにかく、子は堕せ。われら、そのためにここへ来たのだ。女ども、うぬら自身恐るべき災いを胎内に持っておることがわからぬのか」
女たちの意外な反応に半蔵はうろたえ、満面を朱に染めて地だんだ踏んだ。
「否やを申すなら、うぬらいのちはないぞ。母子もろともに成敗《せいばい》するほかはないぞ!」
「おききの通りです」
と、お都奈がおげ丸をふり仰いだ。
「問答無用です」
おげ丸は、なお口をぱくぱくさせていた。父長安の大志を半蔵に解説しようと思うのだが、日本国百年後のサイエンスの芽を残すために――など説明しても、とうていこの相手が納得してくれそうにないことは、彼にもわかる。だいいち、ほんとうのところを打明けると、彼自身、父の遺言なるものがよくわからない。
妹の口から、問答無用、という言葉まで吐かれるのをきいて、半蔵の憤怒は絶頂に達した。
「お都奈! 服部家の存亡もこの一件にかかわっておるということがわからぬのか。あのここな、妹の分際を以てこの兄の命令にさからおうと申すのか!」
お都奈の白蝋のような表情に、さざなみほどの動きもない。それを見て、おげ丸はふり返って、こんどはお菱、お芦の顔を見た。
お菱が、眼《め》でいった。
――子供を堕すなんて、絶対イヤ!
お芦が、眼でいった。
――おげ丸さま、助けて!
おげ丸は、ゆっくりと頭をもとに戻した。やっと彼も、女たちをここまで教育した父の執念を解したのかというと、ちょっとちがう。そんな理性より、ただ、この女たちを見殺しにするわけにはゆかない。いや、腹の中の胎児まで血まみれの水にするなどいうことは断じて出来ない、という人間としての原始の感情が、鈍重に、しかも力強く芽生えかけて来たのであった。
さらにそれよりも、この刹那《せつな》、女たちの哀切な六つの眼が、感覚的におげ丸を打ったといった方がいい。――
「せっかくでござるが」
と、彼は茫漠《ぼうばく》たる声でいった。
「いやだそうで」
「なにっ」
さけんだのは、麻羽玄三郎だ。
「おげ丸さま。――あなたは――お頭の御下知にお叛《そむ》きなさるのか?」
右手が、左の袖口に入った。
ちらっとおげ丸はそれを見た。
「ゆこう」
平然として、三人の女をうながして、歩き出した。
どす、という地ひびきがした。笠はかぶってはいるが、おげ丸の足ははだし[#「はだし」に傍点]だ。ただ長刀一本のみの姿を先頭に、あとの三人の女も歩き出した。
「ゆかせてはならぬ」
と、半蔵がうめいた。こだまの声に応ずるがごとく、五人の甲賀衆は彼らのゆくてに半円をえがいてならんだ。両刀を腰の左右にさした高安篠兵衛が、苦しげにさけんだ。
「おげ丸どの、あなたをゆかせぬためには、われら――やむを得ず――」
「おれは逃げねばならん。それだけだ」
と、おげ丸は低い声でいった。
「しかし、逃がさぬというなら、やむを得ず。――」
どす、どす、と足はゆっくりと、しかし一歩もとどまらず近づいて来る。
実にこのとき、この若者を訓育した服部半蔵すら本能的な戦慄をおぼえ、おぼえたのみならず、われ知らず身を横にひいたのだが――おげ丸の眼は、こちらを見ていない。遠い夕べの雲を眺《なが》めているような眼をしている、おげ丸は、こちらと眼の合うことを避けているのだ。にもかかわらず、殺気に対しては反射的にその肉体が反応するのか、何とも名状しがたい動物的な殺気が放射されているのであった。
ましてや、あとの甲賀衆だ。ぱっと、中央あたりにいる漆鱗斎《うるしりんさい》と釜伏塔之介が左右へはね飛んだ。
路《みち》はひらいた。三人の女をつれて、おげ丸は通ってゆく。
「お、おげ丸。――」
帛《きぬ》を裂くような声が走った。
はじめて、おげ丸は立ちどまって、眼をそちらにむけた。駕籠の前に、姉のお国が立っていた。
「おげ丸、おまえは服部家に弓ひくのですか?」
お国は歩いて来て、前に立ちふさがった。腸《はらわた》をしぼるようにいう。――
「おまえも、わたしも、たしかに大久保長安の子です。けれど、おまえは父上からどういう扱いを受けましたか。ただ狼《おおかみ》の子のように捨てられただけではありませんか。あなたを育てたのはだれですか。わたしとはいわない。それは半蔵どのではありませんか。おまえは服部家のあの忍びの森の中で大きくなって来たのではありませんか?」
おげ丸の眼が、あきらかに動揺した。
その通りだ。いちばん痛いところだ。この半蔵とて、きびしいけれど自分に眼をかけてくれていることはよくわかっていた。とくにこの腹ちがいの姉が――強情我慢の顔をしているけれど、違和感の孤独に耐えかねている少年の自分を、かげになりひなたになり、どれほどいつくしんでくれたかは、いまでなくても、いつでも思い出して、彼はヒョイと涙ぐむことさえあった。
「いままでのことではありません。このたびのことは何ですか」
両腕をねじり合わせて、お国はつづける。
「父上の御他界、それからの大久保家の運命はお国も胸もはり裂ける思いですけれど、それにしても父上御生前の――とくにお都奈どのたちをお呼びになった御所業は、天魔か畜類か、何にたとえましょう。しかも、いまきけば、まあ何ということか、三人懐胎しているとか」
彼女は白い手をのばして、弟の胸ぐらをつかんだ。
「おげ丸、そのお都奈どのは、おまえの許婚《いいなずけ》であったことを知っているのかや?」
ゆさぶった。
「許婚を身籠らせられて、それをおまえは護って逃げようというのかや?」
おげ丸の乱髪の頭が、ぐらぐらとゆれる。
「おまえはどういう料簡《りようけん》で、三人の娘たちといっしょに逃げるつもりでいるのか。ふつうではない子とは知っていたけれど、こうまで馬鹿《ばか》とは思わなんだ」
痛烈である。おげ丸の眉《まゆ》が下がり、口がぱくぱく動いたが、声にならない。――たとえその頬をぶっても、と思っていたお国であったが、それが自分が叱《しか》ったときの少年のころからのおげ丸の表情であることを知ると、ふびんさに涙があふれた。
「江戸へ帰ろう、おげ丸。この三人の娘といっしょに。――娘たちの懐妊のこと、すべて半蔵どのにおまかせしよう。そうすれば、娘たちにもきっと大御所さまの御慈悲があろう。――」
「おげ丸どの」
と、お都奈が呼んだ。
「ゆきましょう」
おげ丸はまたお都奈の眼を見た。ほかの二人の女を見た。――彼のからだは、ぶるっと一つ、大きくふるえた。
彼は姉の手をとりのけた。
「……ともあれ、いまはこの女人たちといっしょに参ろうと存ずる。姉上、おげ丸をおゆるし下されい」
まるで尊い置物でも置き変えるように、彼はお国のからだを横へ動かした。
「やるな!」
半蔵が叱咤《しつた》した。
ふたたび、われに返ったかのように前へ回ろうとする五人衆を、涙さえ浮かべた眼でおげ丸は見る。涙の中から一閃《いつせん》の妖光《ようこう》がたばしったように見えて、五人はどどとまた退《さ》がった。
お国はさけんだ。
「おげ丸、おまえは服部から学んだわざで、服部に手向う気ですか!」
おげ丸の背が、鞭打《むちう》たれたようにぴくっと動いて、彼は立ちどまった。
「おまえが、どんなわざを身につけたか、わたしは知らぬ。けれどもおまえが一党の中でも一、二を争う忍者となったということは、半蔵どのからきいている。そのわざを教えた人はだれか。そこにいる甲賀屋敷の五人の衆などはその兄弟子の人々ではないか。それだけの忍者に仕立てたのは半蔵どのではないか。だいいちおまえは、ふだん半蔵どのをお頭《かしら》と呼んでいたほどではないか」
「う。……」
「また、おまえやわたしがいまなおお目こぼしにあずかっているのは、ほかでもない服部一族に籍をおいておればこそ。――その服部家におまえが叛くとあれば、わたしはもう生きてはおれぬ」
「う。……」
「いえ、服部家の忍びの森から御公儀に弓ひく者が出たとあっては、その忍びの森も存続を許されぬであろ。服部家は大久保家のわだち[#「わだち」に傍点]を踏むことになるであろ」
「う。……」
「それでよいかや、この恩知らず!」
おげ丸はふりむいた。
そのべそ[#「べそ」に傍点]をかいたような顔に――やっとききめがあったか、と思うと――彼はうなずいた。
「忍法は、われら四人、逃げるだけに使う。……それでお許し下さるまいか?」
と、小声でいった。
「えっ?」
「攻撃には、わが忍法を封じる。……それでは、いけまいか?」
お国からは眼を離している。半蔵からも眼をそらしている。彼は――五人の甲賀衆にいったのだ。まるでないしょ話するような声と顔で。
「それから、刀はよかろうなあ、篠兵衛?」
「う。……」
こんどは、高安篠兵衛がうなった。
「刀は、さむらいのふつうのたしなみだから」
うなったのは、高安篠兵衛だけで、あとの四人は――服部半蔵もお国も、声もない。唖然《あぜん》としたのは、この申し入れではなくて、相手がいまもこちらのいうことをきかず、やっぱり逃げる――いや、攻撃云々というような言葉さえもらしたことだ。
おげ丸は、はじめて半蔵とお国を見た。
「これにて、姉上をお許し下さるまいか? また姉上、おれをお許し下さるまいか?」
哀願するようにかすれた声でいって、低く低く一つお辞儀して、おげ丸は背を見せた。
悄然《しようぜん》として、首を垂れて、もの思わしげに、こんどは、どす、どす、という跫音《あしおと》ではなく、とぼ、とぼと、彼は去ってゆく。
一息、二息、顔見合わせて――五人の男は動こうとした。それと同時に、
「お芦、お菱、さきにおゆき」
と、お都奈がいった。うなずいて、二人の女ははたはたと駈け出した。
くるっと彼女はふりむいた。
「わたしは何も封じない。よいかや?」
五匹の送り狼に、蒼白《そうはく》な笑顔とともに、ぴたりと向けられたのは一挺《いつちよう》の短銃の銃口であった。
五人衆のみならず、半蔵もまたぎょっとした。
たんに短銃を向けられたばかりではなく――またそれが服部一党も知らないかたちの、小さいがしかしあきらかに南蛮製の精巧なものであることを認めたからではなく――向けたのが、お都奈、すなわち服部一党の首領の妹だからであった。
「長安さま御遺愛のイスパニア銃です」
と、お都奈はいった。
「お都奈。――」
と、半蔵はひきつるような声でさけんだ。
「先刻から、うぬは……人が変ったと見ておったが、そ、それまでに。――」
「一足でも動かれたら、撃ちますよ」
と、お都奈はいい、あとずさりに歩き出した。あとずさりだが、さすがはこれも忍者屋敷に育った女、小鳥のように軽い足のはこびである。おげ丸は終始一貫お都奈の方をふりかえりもせず、憂わしげにうなだれて、もう向うへ歩み去ってゆく。
さしもの服部一党も身動きが出来なかった。お都奈の眼に、決しておどしではない、狂ったような殺気のあることを認めたからだ。
おげ丸は向うの侍屋敷の塀《へい》の角から消えてしまった。つづいて、お都奈もそこへ近づく。
「追え!」
麻羽玄三郎がさけび、五人衆が地を蹴《け》ったとたん、轟然《ごうぜん》たるひびきとともに、たしかに弾丸が彼らの頭上をうなり過ぎた。
「わざと狙《ねら》いははずしたのですよ」
声だけを残し、お都奈の姿も消え失せた。
さすがに服部一党も、しばし毒気をぬかれた白ちゃけた表情でおたがいに顔を見合わせている。――と、この場合、ばかに落着いて高安篠兵衛がいった。
「お頭。ちょっとうかがいますが」
「な、なんだ」
「われらがひるむのは、まだ決心のつかぬところがあるからで」
「何を悠長《ゆうちよう》な」
「あちらはことごとく服部一党に籍を置く者、お都奈どのに至ってはお頭の妹御、それと、骨肉相|食《は》み、血を血で洗う争いを起してよかろうかと」
「今さら、何をいう。きいた通りじゃ、見た通りじゃ、ましてや、あろうことか、われらに鉄砲を向けおった!」
「つまり、あちらがそれほどまでに覚悟をきめられたとなると、こちらもそれ相応の覚悟をきめねばならぬ。――ひょっとすると、斬《き》らねばならぬかも知れませぬぞ」
「ううむ」
半蔵の歯がキリキリと鳴った。
「容赦は要《い》らぬ。もはや妹とは思わぬ。斬れ!」
「左様か」
高安篠兵衛の声は、落着いているというより、むしろ沈痛であった。
「……それにしても、あのおげ丸どのを敵に回すことになったとはなあ」
「では」
と、長老格の栃ノ木夕雲が一同に白い髯《ひげ》をしゃくった。
「西へ逃げた、安倍川《あべがわ》を渡らせてはちと面倒じゃ。急ごう」
五人衆はスルスルと疾走しはじめた。――たったいま「敵」の手に短銃のあることを思い知らされたばかりなのに、そんなことは念頭にないかのような追跡の速度であった。
「わしもゆこう」
坐《ざ》して待つに耐えかねるようすで、半蔵はお国にいった。
「おまえは、大久保家で待っておれ」
「あなた、ゆるして下さい、おげ丸を。――」
「まさか、生かしておいてくれというのではあるまいな?」
ただ蒼白になってふるえているお国をにくむがごとくにらんで、服部半蔵も西へ走り出した。
先を疾走しつつ、五人衆は話している。駈《か》けながら、息も乱さぬ会話だ。――漆鱗斎がいう。
「おげ丸どのの気が知れぬが……あれを敵に回すとなると、こりゃふんどしをしめ直さねばならぬぞ」
「おげ丸どの。……敵ならば、おげ丸と呼べ」
麻羽玄三郎が叱った。もともと彼はおげ丸を呼び捨てにしかねまじきところがあった。大久保長安の一子、首領の奥方の弟ということは承知しているが、どこかおげ丸に精神的な稚《おさ》なさをおぼえ、また最初のうちはおげ丸に親しく忍法の初歩課程を指導したという先輩意識からだ。
「おげ丸とやり合うことはそれとして、あの三人の女をどうするのじゃ?」
「子を堕させるのだ」
と、釜伏塔之介がいう。
「そうだ。三人の女の堕胎の証拠をもち帰れ――と本多佐渡守さまが申されたそうだな。要するに、ひきずり出した胎児と、ぺちゃんこの腹になった三人の女をお目にかければよいのだ」
「ところで、女たちはそれを承知せぬ、となると、どうする?」
鱗斎がいった。
「お頭は、斬れ、と仰せられましたが」
栃ノ木夕雲が、はじめて口をさしはさんだ。
「ただ斬っては――甲賀組のわれらとしてはあまりに芸がないの」
五人は、しばらく沈黙して走った。駿府の町なみはみるみるはずれに近づき、安倍川の河原が路のかなたに見えて来た。
ややあって、高安篠兵衛が、ふうっと大きな嘆息をついた。
「……おれはやっぱり、まだ決心がつかぬ!」
五人は河原に出た。
白い広い河原は、夕焼けに染まっている。渡し船はない。舟は旅人をのせて、安倍川のまんなかあたりを向うへ渡ってゆくところだ。河原に立っているのは、果せるかな、おげ丸と三人の女であった。
彼らはこちらをふりむいた。お都奈が短銃をとりあげるのが見えた。
五人はあたりを見まわし、横に走った。
そこに莚掛《むしろが》けの小さな小屋が十数個、散在していた。そのあいだに駈け込んでぴたりと伏した五人の武士を、莚小屋の住人たちがあっけにとられたように見まもった。
「だれが、だれをつかまえる?」
と、夕雲がきく。
「おれが、お芦を」
と、玄三郎がうめくと、塔之介もうなずく。
「おれが、お菱を」
「では、わしがお都奈どのをつかまえるか」
と、鱗斎がいって、かま首をもちあげた。
「来ぬな」
「来たら、もっけの倖《さいわ》いじゃが」
玄三郎が、周囲に頭を回した。莚小屋の入口に坐って箕《み》を編んだり、赤ん坊に乳房をふくませたりしている裸の男や女たちをにらみ返して、
「山窩《さんか》か?」
と、つぶやいた。信濃《しなの》、甲州《こうしゆう》、相模《さがみ》の山々はもとより、武蔵《むさし》の野、駿河《するが》の河のほとりに、茸《きのこ》のごとく群棲《ぐんせい》しては逃げ水のごとくに去る漂泊族の光景は、しばしば見る。すなわちこれは山窩の瀬降《せぶり》だ。それよりも玄三郎は、この瀬降を戦略眼で見た。
「ここへ来れば、おれの不空羂索《ふくうけんさく》が」
「篠兵衛、おまえがおげ丸にかかるか」
と、夕雲がまたきく。高安篠兵衛は、ひとりごとのように答えた。
「おげ丸どの喃。……あれは斬る気にならねば、始末におえまい」
「斬れるかな、おまえの拍掌剣《はくしようけん》で」
「いや、危ない。――」
苦笑というより、どこか沈痛味をおびた鈍い笑顔だ。釜伏塔之介がいった。
「しかし、おげ丸は……忍法を封じたと申したぞ」
「もしそれがまことであるとすると……いっそう、斬りにくい」
「なぜだ?」
麻羽玄三郎が、吐き出すようにいった。
「おげ丸のそんな誓約、あてになるものか! おれは、斟酌《しんしやく》せぬぞ」
そのとき
「や。……何をする?」
と、向うをうかがっていた漆鱗斎が低くさけぶと、その片腕があがり、こぶしから西へ――河原の方へ、何か投げた。
投げたかどうか、第三者に何も見えない。ただ夕焼けのせいで、キラキラと四、五片の小さなきらめきが空に残ったからそう見えたので、あとは東から西へ吹く晩春初夏の風ばかりであった。
河のほとりから、お菱だけが四、五歩こちらに戻《もど》り、次に右から左へ、十メートルばかり横に走るのが見えた。途中で、三度軽くしゃがみながら。――
と、三箇所から、朦《もう》――とうすみどりの煙が湧《わ》き立った。
五人がはっと立ちあがったとき、河のそのあたり一帯、濃い煙が幕を引いたようにたちこめて向うに佇《たたず》んでいたおげ丸、お都奈、お芦はもとより、そこへ駈け込んでいったお菱も完全に見えなくなってしまった。
「あっ、いかん!」
甲賀五人衆は、狼狽《ろうばい》して駈け出した。
風は東から西へ吹いている。うすみどりの煙は、岸から河へかけてみるみるひろがり、その部分は対岸さえも霧につつんだ。色は薄いが、濃度は濃い。――そこへ突入しようとして、
「待った!」
麻羽玄三郎が踏みとどまると、空中にピイイインという美しい金属音が鳴った。
一瞬ののち、そのこぶしに鋼《はがね》の線条が巻きこまれるのが見えたが、彼は例の不空羂索を以て、その煙の中を一薙《ひとな》ぎしたのであった。
「おらぬ!」
さけぶとともに、彼と塔之介は煙の中へ突入した。が、たちまち、
「うわ。……」
と、両人ともあわてふためいた声を出した。足もとから、ざぶっと水音があがっている。勢いこみすぎて、河の中へ足を膝《ひざ》まで踏み入れたのである。
同時に、銃声が聞えた。今の水音と悲鳴を的に撃ったものにちがいない。二人はもとより、煙の中に入っていたあと三人も、うなり過ぎた銃弾の下に、電光のごとく身を伏せている。
「おれは逃げる。――」
おげ丸の声がした。銃声も遠かったが、その声も遠かった。
「逃げるときにかぎって、申しわけないが、忍法を使わせてもらう――と、いったろう?」
すでに河の中流からの声だ。岸辺には一艘《いつそう》の舟も見あたらなかったというのに。
「……おお、伊賀忍法浮寝鳥!」
水の中で釜伏塔之介が絶叫したとたん、また銃声があがり、弾《たま》が地上一メートルのあたりを飛び過ぎた。
「声を立てるな!」
低く、栃ノ木夕雲が叱咤した。視界まったくとざされた煙の中なので、それで助かったようなものだが、同時に敵の位置も姿も見えないので始末が悪い。
「撃ったのはおれではない。……七連発だそうだ」
おげ丸の声はさらに遠ざかった。
「おれは止めているのだが――いまの場合は、手がふさがっていてしかたがない。かんべんしてくれ。――」
まるで、いたずらをしておいて、雲を霞と逃げ去る童子みたいな声であった。
「おげ丸の浮寝鳥はわかるが」
と、麻羽玄三郎がささやいた。もう弾《たま》は飛んで来ない。
「あと三人の女はどうしたのじゃ?」
「手がふさがっておるといった。おげ丸どのが、両腕にぶら下げておるにちがいない。――」
と、高安篠兵衛が舌をまいたようにいった。
金剛力みたいに重量感のある肉体を持ちながら、水にも泥《どろ》にも沈まず、妖々《ようよう》とその上を歩くおげ丸の体術は、彼らとても及ばぬところだ。全体として、何のあの若僧ごときに、という自負心はある五人衆ではあったが、いま安倍川の波の上を――おそらく一人の女を肩ぐるまにでもし、二人の女を両腕にぶら下げて歩み去ってゆくおげ丸の姿を想像すると、改めてぶるっと戦慄《せんりつ》が走った。
煙が薄れたとき、実際ぶるっと麻羽玄三郎と釜伏塔之介は水ぶるいした。二人は水の中に這《は》いつくばっていたのである。
「おう、何をしておる?」
背後から、跫音が走って来た。首領の半蔵がいま追いついて来たのだ。
彼は五人の異様なようすと、河の上に漂い残るうすみどりの煙を見くらべて、
「どうした。――おげ丸めらは?」
と、さけんだ。
「逃がし申した」
と、まず漆鱗斎が答えた。意外にも、平然たる調子だ。
「なに?」
半蔵ははっとして、河の対岸を眺めやった。こちらからの渡し舟がいまそこについたらしい光景だが、旅人たちはそれよりさらに向うの村の方を見て、みな何やらわめきさけんでいるようだ。
彼らは、渡し舟を追い越して水の上を歩いて渡った異形の一団に胆《きも》をつぶして騒いでいるのだが、その意味を問いただすより、旅人たちの中におげ丸らの姿が見えないことに半蔵は愕然《がくぜん》とした。
「逃がした?……な、何をけろりとした顔をしておる」
「いや、大丈夫でござる」
と、漆鱗斎はもちまえの実直な職人みたいに見える顔をむけた。指で、右眼のあたりをいじっている。
ふいに片掌を左眼にピタリとあててふたをすると、
「おう、これは手越の石橋。――」
と、いった。
「や、やったか」
「鱗斎の忍法遠見貝。――」
玄三郎と塔之介が、水の中から立って来て、滴《しずく》をまきちらしながらさけんだ。
漆鱗斎は、会心の――はたからみれば、別人のようにうす気味の悪い笑顔になった。
「遠見貝が三人のうちのだれに嵌《は》まったかはまだわからぬ。しかし遠見貝第五番が嵌まったことはたしかじゃ。これからきゃつら、どこへ逃げようと、その行方は手にとるようにこちらに知れる。……まず落着いて、もういちどものは談合と参ろう」
さて、これはどういうことか。
漆鱗斎の忍法遠見貝。それは彼の製造した貝のレンズを相手の眼球に嵌めることによって成立する。彼はいつも貝をけずっていた。薄く薄く――ついには眼に見えぬほど薄く、かつ小さく。
そして作りあげた無数の小さな貝の盃《さかずき》。他人が見たら区別もつかないが、彼のいうところによると、それは七種あるという。称して遠見貝第一番、第二番、第三番。……第七番。
彼はそれを敵の眼に向って投げる。風にのれば、それは舞いつつ意外に遠くまで飛ぶ。またこの剥片《はくへん》を飛ばすのに、彼独特のわざもある。そして、敵のからだの他の場所に触れたものはそのまま落ちるが、眼に命中したものだけは、眼球を生理的に濡《ぬ》らしている涙液のためにピタリと吸いつくという。――むろん、その盃のかたちは、眼球と同じ曲面にくぼませてあるのだ。
ひとすじの毛が撫《な》でても瞼《まぶた》をつぶる人間の眼。その敏感な眼が、この飛来する貝の剥片を見ず、また角膜表面に吸着してもそれを意識しない。
漆鱗斎の忍法の怪異はそれだけではない。――
そのあと、その人間の見る視界は、はるか離れた鱗斎によって捕えられるのだ。すなわち鱗斎は七種の貝のコンタクト・レンズをいろいろおのれの眼に嵌めて見て、もしその種類が一致するときは、敵が見ているものを、彼のその眼鏡がうつし出すのだ。つまり、同じものが鱗斎にも見えるのだ。――これ遠見貝と称するゆえん。
いま彼はうす笑いして、「手越の石橋が見える」といった。
手越の石橋とは、安倍川の西の部落にかかっている橋だ。そこを敵の一人が通過中だというのだ。――それがだれであるかはいまだ知らず、その人間のゆくところ、敵の存在する場所はいちいち鱗斎によって看取されるであろう。
「ううむ。……」
半蔵はふとい息をついた。承知はしていたが、いまさらにこの職人的|風貌《ふうぼう》を持つ甲賀衆《こうがしゆう》の一人のわざの効用にうならざるを得ない。
「あちらが日本じゅう何処を逃げ回ろうと、しょせんは袋の鼠《ねずみ》」
と、鱗斎はいう。――
「落着いて、処理が出来るでござろう」
「で、いまさら談合とは?」
と、半蔵は向き直った。
「それでござる。先刻夕雲老がな。お頭は斬れと仰せられたが、ただ斬っては甲賀組としてはあまりに芸がない、といった。まことに同感で」
鱗斎はつづけた。
「よほど窮せぬかぎり、あの三人のおんな衆は殺しとうない。――要するに、その腹の子を堕せばよいのでござろうが」
「――そんな法があるか」
「さ、なんぞ工夫もがなと思い、そこで談合と申したわけでござる」
「お頭」
と、ふいに釜伏塔之介がいい出した。
「子を堕したあとの残骸《ざんがい》を下さるか?」
「残骸?」
「すなわち、あの――どれもがそれぞれに美しい三人の女のからだ」
半蔵は眼をつぶり、かっとむき、大きくうなずいた。
「子を堕しても、しょせんは徳川の日のあてられぬ三人の女――欲しくば、やろう」
「殺さずして、子を堕す法があるぞ!」
麻羽玄三郎がさけび出した。青銅の能面みたいな顔に、眼が銀のようなひかりを発し出していた。
「われらが交合することじゃ!」
「なんだと?」
「あの女どもひっとらえて、いくたびか、幾十たびか、日も夜も犯しまくれば、いかんぞ子宮《こつぼ》が動き出さざることやある? すなわち腹の子を吐き出さざることやある?」
銀の眼が血の網目《あみめ》に彩られた。
「お頭《かしら》、この工夫はいかがでござる?」
服部半蔵は、眼をつぶり、かっとむき、決然とつぶやいた。
「その見込みがあるなら、その工夫も一案じゃ。やって見い。――ただ」
安倍川のかなたをきっと見やって彼はいった。
「急ぐにはあたらぬと申して、本多佐渡守さまの御命令じゃ。あまりに悠長に時を過ごしては、服部の面目にかかわるのみか、こちらの心事を疑われる。この使命、おまえら五人にまかせるが、もし要るならば、ほかに甲賀の者ども幾人なりと使うてよいぞ!」
「大袈裟《おおげさ》なことを」
と、釜伏塔之介が一笑した。
高安篠兵衛はこのとき河原の上にはじめて妙なものを見つけて、そこへ歩いていった。細い短い青竹が三本、三個所にわたって一直線にさし込んである。みんな近づいてのぞきこむと、青黒と黄のわけのわからないかたまりが溶けてこびりついて、なおうすくうす緑の煙を吐いていた。
「ははあ、これに火をつけて煙の幕を張ったか。――」
半蔵はさっき河原の上にただよい残っていた煙を思い出し、篠兵衛のつぶやきの意味を知った。
「女ども――さては石見守どのから妙なものを学んだな?」
と、うめいた。
「先刻のお都奈の短銃もその一つ。――」
それから顔色をさらに凄然《せいぜん》と改めていい出した。
「うぬら、やはり甲賀者どもの加勢を受けろ。女たちとてゆだんがならぬ。わが舅《しゆうと》ながら石見守《いわみのかみ》どのの工夫なされたことどもを女たちが伝授されているとすれば、なかなか以てひとすじ縄《なわ》にはゆかぬぞ。目的をとげることこそ先決、念には念を入れよ。だれか一人、すぐ江戸へ帰って、甲賀者どもを編制してつれて来い!」
「なるほど。――」
と、栃ノ木夕雲がうなずいたが、しかしそれほど感銘した表情でもなく、
「しかし、まさかわれらの忍法を以てしてなあ?」
と、ぽつりとつぶやいた。
服部半蔵は、改めて甲賀五人衆を見わたした。彼の配下に属する面々ながら、その個々のわざに至っては半蔵もはるかに及ばないことを認めざるを得ない超絶の妖法者《ようほうしや》たち。
麻羽玄三郎の不空羂索。
釜伏塔之介の変化袋。
高安篠兵衛の拍掌剣。
栃ノ木夕雲の生霊逆《いきりようさか》ながれ。
漆鱗斎の遠見貝。
「おんな衆の鉄砲などより、おげ丸どのの忍法こそ問題じゃな」
と、高安篠兵衛が、次第に暗くなってゆく西の夕焼け雲を見て独語した。
「それこそ、こわいような。……愉《たの》しみなような」
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母旅|同行《どうぎよう》七人
時は五月。
ところは東海道。
ゆくは怪童おげ丸と三人の美女。
大坂《おおさか》の役はこの翌年の十月からはじまることになるのだが、駿府《すんぷ》にある大御所|家康《いえやす》の胸中の風雲は知らず、まだ世の人の眼《め》には江戸《えど》と大坂、ともに永遠の和平と繁栄の二部として共存するものと見えて、それをつなぐこの街道のゆききは、青嵐《せいらん》のなかにむしろ華やかですらある。
それらの旅人がすれちがいざまに、また追い越しざまに、ことごとくちらっとこの一行に大きく見ひらいた眼をむけるのは、いうまでもなく三人の女の稀有《けう》の美貌《びぼう》ぞろいのせいだが、またそれにくっついている男の異風さのためもある。
笠《かさ》はかぶっているが、その下に乱れる髪、ずんぐりむっくりした肉体、長い一本刀、裾《すそ》をまくっただけのはだしの足。――三人の美女とのとり合わせがおかしいばかり、しかし異風さはその風態よりも、この怪童、正確にいえば怪童的青年の発する野性とも凄絶《せいぜつ》とも形容しがたい精気にあったのであろう。
彼はときどき背後をかえりみた。凄絶の野性はそのときに発する。
まっすぐに歩いているときは、彼はむしろ憂わしげであった。
「追ってきますか」
と、お都奈《つな》がきく。
「いや」
「来ると思いますか」
「むろん」
お菱《ひし》がきく。
「こわい?」
おげ丸はちょっと考えて、
「少々」
こんな問答をどこ吹く風と、
「でも、おげ丸さまと御一緒に、こんな旅をしようとは。――」
と、お芦《あし》がうっとりとつぶやいた。
お芦ばかりではない、三人の女みんなが妙に浮き浮きしている。彼女たちの顔には、ほんの先日、安倍川まで追って来たぶきみな「敵」の姿、いやそれ以前の二タ月ばかりの出来事の記憶がてんでないようだ。
まるで何事もなかった二タ月前、いっしょに旅に出たような――それどころか、おそらくそのときでもこんなに浮かれはしなかったろうと思われるほど華やかな、むしろ動物的陽気さといったものを発散していた。
「そう急がないで、お菱どの」
と、お芦が息はずませていう。
「大事なサイエンスの子が流れたりしたら、どうします?」
「ほんとうに」
と、お都奈が厳粛に見えるほど理性的な眼になってうなずいた。
「からだをはげしく使うことは、とくに四ヵ月までは気をつけなければいけないという長安さまのお教えでした。そのころまではまだ妊卵の着牀《ちやくしよう》が不安定だから、ともすれば剥離《はくり》して流産し易いのだそうですよ。――わたしたちは、ただ三人の旅ではありません、おなかの子供を入れると同行六人、おおもう一人、おげ丸どのがいた!」
ちょうどそこは、駿河の宇津谷峠《うつのやとうげ》を上るところであったようにも思うし、遠江《とおとうみ》の小夜《さよ》の中山《なかやま》を上るところであったようにも思う。
「おおそうだ、おげ丸どの」
ぽかんと口をあけて歩いていたおげ丸に、お都奈はいった。
「お芦の息づかいがせわしい。流産でもしたら一大事じゃ。おぶっていってやって」
「いえ、お都奈さまこそ御大切です」
お芦は幅のひろいおげ丸の背中を見て、
「いっそ、二人とも。――」
「まさか?」
「いえ、安倍川ではわたしたち三人をいっぺんにおぶっていってくれたおげ丸さまではありませんか。大丈夫ですわ」
「まあよい、おまえだけでもおぶわれるがよい、頼みます、おげ丸どの」
初夏の山路に汗ばんだお芦のからだが、やわやわとおげ丸の背中にかぶさり、あえぎながらいう。――
「それから、お都奈さま、おなかの中のやや[#「やや」に傍点]のため、長安さまから教えられたことは何でしたっけ?」
「衣服や皮膚を清潔に保つこと」
「それから?」
「なるべくやや[#「やや」に傍点]の骨を丈夫にするため、牛の乳をたくさんのんだ方がいいと。――おげ丸どのに、心がけて手に入れてもらいましょう」
「それから」
と、お菱も熱心な眼色できく。
「あまりはげしくからだを使うことはいけないけれど、また運動が不足になってもいけない――という御注意でした。特に推奨しなければならないのは、深呼吸と骨盤底筋の練磨《れんま》だと」
お芦はあえぐ息をいっそう大きくして、おげ丸の頬《ほお》に吐きかけた。
「深呼吸はわかりますけれど、骨盤――何とかは?」
「骨盤の底にある筋肉を丈夫にし、また妊娠時に出来易い静《じよう》 脈《みやく》 瘤《りゆう》の発生をふせぐための修行だそうです。それには、ふだん仰むけに寝て、膝を直角に曲げ、腰をあげ、肩と足の裏だけでからだを支えます。そして、だれかほかの人に曲げた膝をおさえてもらい、それに反抗して膝をひらいたりとじたりする、これをしょっちゅうくりかえすと、骨盤底筋が丈夫になるのだそうです」
「それから?」
「それから、そう。――」
と、お都奈はふいに赤い顔をした。
「忘れたなら、あとで教えてあげましょう」
実は大久保石見守長安は、三人の若い妊婦に、ふだんから肛門《こうもん》の収縮運動を心がけるように、冷静な口調で教えたのである。
お芦はおげ丸の背中で、臨時に膝の開閉運動を試みるらしく、熱い腿《もも》をしきりにぎゅっとしめつけたり、力をぬいてひらいたりした。
おげ丸は、黙々と歩いている。――こんなあいだにも、ときどき彼はうしろをふり返ることをやめなかった。
それからまた。――
天竜川《てんりゆうがわ》に沿う池田《いけだ》の宿《しゆく》の旅籠《はたご》であったか、浜名湖《はまなこ》のほとりの舞子《まいこ》のであったか、とにかく波か流れの音の聞える夜であったと思う。
三人の女は、それぞれ小冊子をとり出した。
表紙には「初等算法」「初等物理学」「初等天文学」などとある。――大久保長安の直筆である。
さて、これらの書物を一本の燭台の下に置き、三人の女は顔を寄せ、紙に何やら筆を走らせ出した。おげ丸にはちんぷんかんの図形や数字などを。
彼女たちは頬を上気させ、熱心に語り出した。
「直角三角形の斜面の上の正方形は、他の二辺の上の正方形の和に等しい。――」
「その証明法は?」
とか、
「ものを液体につけるとね、そのものが浸った液体の分だけ、そのものが軽くなるそうよ」
「ああそう、こんど行水するとき、よくたしかめてみましょう」
「どうやって?」
「溢《あふ》れた水の目方をはかればいいんでしょ」
とか。――
或《ある》いは「星座」とか「地動説」とか「天球の回転について」などいう言葉が、しきりに彼女たちの唇《くちびる》から飛び交わす。
部屋の隅《すみ》っこにおげ丸は、すね[#「すね」に傍点]を抱えて坐《すわ》っていた。彼女たちのいっていることがちんぷんかんなことはその通りだが、生まれてはじめてきく言葉かというと、彼には記憶がある。昔、父の長安が鞭《むち》を以て彼に叩き込もうとし、死物狂いで逃げ回ったぞっとするような記憶だ。
きいているうちに腰の落着きが悪くなり、耳にふたをしたいような気持になって来て、必死に想念を他にそらそうと努力する。
――麻羽《あさは》玄三郎の不空羂索の鋼縄を逃れる法如何?
――高安《たかやす》篠兵衛の拍掌剣《はくしようけん》をふせぐわざ如何?
すると。――
「おげ丸どの」
声がかかる。お都奈だ。
「あなたもここへいらっしゃい」
「へ?」
「やや[#「やや」に傍点]が生まれたら、あなたにもこういう教育をしていただかなくてはなりません。あなたもここへ来て勉強して下さい」
「いや」
おげ丸は頭をかいた。
「それはまあ、子供が生まれてからでようござろう」
「だめです、こういう勉強は一朝一夕で出来るものではありません。一朝一夕どころか、一歩は一歩より、百年の段階を経てはじめて身につくものだとは、長安さまが口をすっぱくしてこんこんと仰せなされたことではありませんか?」
「でも、父の望むは生まれて来る子供でござろう。生まれてからすぐに教えるわけではあるまいし。――」
「いえ、いまわたしたちがこういう勉強をしているのが、直接おなかのやや[#「やや」に傍点]のためにいい影響を与えるのだそうです。これを胎教と申します。あなたもいっしょにやって下さると、わたしたちにもはげみがつきます、さ、ここへいらっしゃい!」
おげ丸は両手をつき出した。
「それだけは、助けてくれ!」
とたんに、おげ丸はぱっと立った。
障子に寄って、すうと細くあける。――このとき彼は、天竜川か浜名湖かとにかく黒い夜の波と、それを背景に燃えるいくつかの焚火《たきび》を見たのである。
「あれは何?」
お都奈がきいた。ややあって、おげ丸は少し変な顔をして答えた。
「あれは、山窩《さんか》の瀬降《せぶり》」
珍らしいことは珍らしいが、天外の住民ではない。が、おげ丸にとってその一族を見るたびに奇妙な戦慄に似た感をおぼえる。――遠い祖先を見るような、また血が血を呼ぶどよめきをきくような。
彼はふと胸にぶら下がった竹の笄《こうがい》を見て、それから眼をそらした。
いうまでもなくいまのおげ丸にはまったく無縁の存在だ。
「あれが?」
「あれではない。――たしかに凶念ある敵が」
おげ丸が動物的な感覚でとらえたのは、まぎれもなくこの旅籠にひたひたと忍び寄って来るもの、或いはじいっと遠くから眼をそそいでいるものの実体であった。
しかし、その夜、べつに異変は起らなかった。
奇妙な話だが、こういうことでもなければ、その夜おげ丸は「大久保長安語録」学習の場にひきずり出されて、大いにしごかれ、鏡の中の蟇《がま》のごとくあぶら汗をながしたことであろう。
それからまた。――
三河《みかわ》に入って、御油《ごゆ》か赤坂《あかさか》であったと思う。やはりそういう警戒体勢を見せたおげ丸に、ふと思い出したようにお都奈がいった。
「おげ丸どの、あなたは敵に対して忍法を使わないといいましたね。それはほんとうですか?」
「――本気でござる」
「なぜ?」
「服部家に悪うござるから」
「わたしたちも服部家の人間ですよ。それがみんないわば服部家に叛《そむ》いているのですよ。――けれど、わたしたちはそれを悪いとは思いません。日本国の未来をになうサイエンスの子を葬むろうとする向うが悪いのです。日本国に叛いているのは向うですよ」
「よくわからぬが……おれは姉を泣かせるのがつらいから」
「服部家や嫂上《あねうえ》にばかり義理立てして――お父上には悪いと思いませんか? お父上はあなたを信頼してわたしたちの護衛者となされたのですよ!」
おげ丸は、ふとい眉《まゆ》を八の字にして大いに苦しげな顔をした。
お都奈はいささか軽蔑的《けいべつてき》な笑いを浮かべて、なおいう。
「もっとも長安さまは忍法とか忍者とかをあまり高く評価してはいらっしゃいませんでした。公儀がああいう個人技の――いえ、長安さまは、はっきりと化物とおっしゃいました――化物たちに頼っているうちは、日本国は逆行するばかりだと」
それならなぜ自分を護衛者にしたのだ? などとおげ丸は反論しない。こと忍法に関して、いまや完全に父の代弁者となったこの女たちと論争してみたってはじまらない。
「いずれにせよ、わたしたちはおげ丸さまの忍法の守護があろうとなかろうと、きっと生きのびて長安さまのお子を生み、お教え通りに育ててみせまする」
お都奈の言葉に、お芦、お菱も、また壮絶といった表情でうなずくのであった。彼女たちは何かもの[#「もの」に傍点]に憑《つ》かれたように見えた。
かと思うとまた。――
三河もだいぶ西へ来てから雨の日がふえたから、池鯉鮒《ちりふ》か尾張《おわり》の鳴海《なるみ》の宿であったろう。雨は五月雨《さみだれ》、すなわち梅雨だが、その雨声につつまれた夕の旅籠でまたふとお菱がいった。
「おげ丸さま、この腹のやや[#「やや」に傍点]はあなたにとって何でしょう?」
「…………」
「弟さまになるわけですね、妹さまかも知れないけれど」
そういわれてみればまさにその通りだが、何だか狐《きつね》につままれたような思いでもある。
「わたしたちは、あなたの弟か妹かの母親になります。すると、わたしたちは、あなたにとっても母」
「…………」
「わたしはおげ丸さまの母か」
彼は自分をのぞきこんでいる眼が、妖狐《ようこ》の眼のような気がした。
「これ、おげ丸」
「――は?」
「わたしの肩をたたきやれ。母のいいつけであるぞよ」
「――へ?」
「ほほほほ、まあ、なんという顔、おほほほほほ!」
笑いころげながら、おげ丸を見つめているお菱の眼には涙がいっぱいであった。
おげ丸は、なぜお菱の眼に涙があるのかわからない。哀惜の涙かというと、ただ笑い涙のようにも見える。だいいち、なぜ自分をこんなふうになぶるのか、女の心が解しかねる。泣くとすればなぜ笑うか。笑うとすればなぜ泣くか。
キョトンとした眼をお菱にむけてはいたが、さすがにおげ丸の心中のショックは大きかった。
このお菱がおれの母? お芦も母? そしてまたお都奈もおれの母?
お菱はからかい気味にいったが、冗談ではない。まさか、母というのはあんまりだろうが、それに近い存在になったことは疑いがない。
正直なところ、おげ丸は哀《かな》しかった。お菱の言葉で、彼女たちが自分とは決定的に遠い存在になったことを思い知らされて、雨音の中に運命的な悲愁の感が魂を占めた。
その運命の激変を笑うような軽やかさはおげ丸の脳髄にない。第三者からみると怒ってもいいと思うのだが、それはその運命を激変させた張本人、父長安の大講義によって洗脳されてしまった。よくわからないところもあるのだが、彼もまたそれなりに長安に憑かれてしまったことは事実である。
ただ悲哀の情だけはいかんともしがたい。
そして、ひたすらに哀しみつつも、そこがおげ丸のおげ丸たるゆえんだが、眼は前方をさぐり、耳は左右にとぎすまされ、背中の筋肉細胞は背後に迫る影をとらえようと呼吸している。それは脳髄や感情とは別個な動きを示す忍者の肉体の本能であった。
――敵は来るか?
来ている、彼はそう確信した。来ないはずはないが、彼の忍者本能が、事実敵の追跡を捕捉《ほそく》しているのである。
彼と三人の女の旅は、ゆるゆるとしていた。時間的にいえば、ふつうの旅人の三倍以上の緩慢さがあった。
第一には、それでも敵の追跡をまこうとして、ふと敵の影が感じられなくなった時と場所では、数日も同じところに潜んでいたり、またときどき北方の山への街道に逃避や迂回《うかい》を試みたこと。
第二には、女たちがまったく恐怖というものを感じないかのように、むしろこの旅を愉しむかのように平気でいて、「あまり急ぐと流産のおそれがある」など勝手なことをいい、かつおげ丸がそれを勝手とも思わず、なるべくそれを尊重したこと。
第三には、いくら急いでも、ついにはあの敵から逃れ切れるものではないという自覚もあったこと。
また第四には――いったいどこへ逃げたらいいのか、実は彼と三人の女にもしかとした目的がなかったからであった。
そして、いつまで?――ということも、ほんとうをいうと漠《ばく》たるものだ。
女たちはいう。
「やや[#「やや」に傍点]が生まれるときまで」
それから、指おり数える。一ト月……二《ふ》タ月……三《み》月……七月《ななつき》……八月《やつき》。
しかし、九月十月《ここのつきとつき》を経て、たとえ子供がぶじに生まれたとて、それで目的完了というわけにはゆかない。それから十年、二十年、天日からひそんで育てあげなければならぬという義務がある。思えば思うほど、膝も萎《な》えるばかりの遠大の事業だが。――
そこまではおげ丸もよく考えない。いまはただ。
――必ずおれはこの女たちを敵から護って子を生ませて見せる。
という、それこそ馬鹿《ばか》のような一念のみだ。
そして事実、東海道《とうかいどう》を一見女づれの遊山旅のごとくにゆくこの一行を、敵からこれまで護って来たのは、このおげ丸の、眠っていても起きている動物のような感覚と殺気なのであった。
追跡隊は実に二十人にふえている。
本来のいわゆる「甲賀五人衆」に加えて、ほかに半蔵が江戸から出動を命じた十五人、いずれも甲賀者ばかりで、その銘々は三人ずつ、五人衆がそれぞれ名ざしで呼んだものだ。
半蔵自身は思案の末、自重《じちよう》した。
――なんの、われら五人で大丈夫でござる。
――お頭はお帰り下され。いかにもこれは服部家の命運にもかかわる大事ではござれど、また見方によっては服部家の私事。それにお頭自身加わられては、天下多端のとき服部一党の公務がおろそかになりましょう。
――またお頭が留守されては、何事やらんとみな疑い、かくてはこの秘事があきらかになるおそれもござる。
――また、お頭に指図されては、かえってわれら五人のやり甲斐《がい》がござらぬ。
口々にそんなことをいう五人衆の進言をもっともと思い、かつ自分は江戸から動かずに事を処理するならば、本多佐渡守《ほんださどのかみ》に対していよいよおのれの権威を高からしむるゆえんであると判断して、ともかくも後髪をひかれるがごとく江戸へ帰ったが、なお念のため、十五人の援軍を加えることを彼らに承知させたのだ。
「女たちを捕えて、次々に江戸に送るというような事態の場合、そういう者どもが要ろうが」
といい、
「事の首尾をいちいちわしに報告し、またわしの下知を伝える用もある」
と述べ、
「さらに――まさかそんなことはあるまいが――きゃつらを西国に逃がすと事が面倒になるぞ。その網を張るためにもそれくらいの人数を揃《そろ》えておった方がよかろう」
とも、いった。
で、おげ丸たちを追う五人、さらに江戸から急派された甲賀者たちが途々順次|馳《は》せ参じて来たのだが。――この人数を以てして、事実上いままで拱手《きようしゆ》傍観。
理由はある。
たんに対象の四人に襲いかかってみな殺しにする気なら知らず。――江戸へ帰る半蔵のうしろ姿を見送って、
「まさかお頭の前で、服部一族の女に交合堕胎を試みるのをまざまざと披露《ひろう》するのはちと気がひける」
と、麻羽玄三郎と釜伏塔之介がにたりとささやき合ったような底意のあること。
五人が、それぞれ三人ずつの配下を持つと、ふしぎなことに集団的競争心が湧《わ》いて来て、おたがいに牽制《けんせい》し合うような気が生じて来たこと。
特にふっと対象を見失ったとき、そのゆくえをとらえるのはまず漆鱗斎《うるしりんさい》の遠見貝だが、その鱗斎が――この何の野心もなげな職人的風貌を持つ男の腹の底にいかなる変化が起ったのか――ときに、へんにそっぽをむいて情報提供をしぶるようなそぶりが見えて来たこと。
しかし、最大の理由は、何といってもやはり、以前から正直なところひそかなる恐怖をおぼえていた怪童おげ丸の忍法であった。
……とはいえ、ついに尾張《おわり》の宮《みや》(いまの熱田《あつた》)まで敵を見送って、彼らもあわてた。
まさかとり逃がすこともあるまいが、と半蔵はいったけれど、宮から東海道は七里の海。
「おういっ、出るぞおっ」
雨の中に銅鑼《どら》が鳴り、浜鳥居の下から人影が七つ八つ、あわてて走る。
渡し場に横についた船には、松明《たいまつ》をかかげている者もあった。海は凪《なぎ》だが、日は暮れかかっている。六月に入って、連日の雨はなお止まなかった。
宮と桑名《くわな》を結ぶ渡し船が午後四時以降に出ることを禁じられたのは、後年の由比正雪《ゆいしようせつ》の乱以後のことである。それ以前は、いつという時を定めず、客の数と、風、潮の満干の都合によって船は出た。もっとも快調にいって六時間、たいていは二十時間ちかくかかったというから、朝出たところでどうせ夜にかかる。従って夕《ゆうべ》に船が出ることも珍らしいことではなかった。
四十人乗りの船がまだ帆をあげず、櫓《ろ》で漕《こ》ぎ出して、岸を百メートルばかり離れたころ、その舷《ふなばた》からスルスルと一条の綱が下ろされた気配を、波音にまぎれて、だれも聞いた者がない。ややあって、船が百反帆を巻きあげかかったころ――その綱をつたって、まず一人の男が、つづいて三人の女が海面に向って下りていったのを、だれも見ていた者がない。
四人の男女は、綱の尖端《せんたん》に、しばらく四個の房みたいにぶら下がっていた。
「よいか。――」
いったのは、おげ丸だ。
くるぶしを波に洗わせながら、彼の顔は、金太郎みたいにふとっているのに、なぜか象牙《ぞうげ》の彫刻のように見えた。
「綱を離すぞ」
彼の首ったまには、お都奈が肩ぐるまになっていた。綱を握った彼の両腕には、お芦とお菱がぶら下がっている。
「――あっ」
頭上でだれかさけんだのは、おげ丸が綱を離した刹那《せつな》であった。
波を砕いて船は進んだ。海に立って、女三人を支えたまま、おげ丸は沈まない。
舷からのぞいていたのは四、五人の商人《あきんど》風の男であったが、しばらく信じられないものを見るような顔をそこに膠着《こうちやく》させていた。
――と、そのうしろから、二、三人の女とともに駈《か》けて来た投頭巾《なげずきん》をかぶった中年の傀儡師《くぐつし》がヒョイとのぞいて、
「おおっ……浮寝鳥!」
と、絞め殺される鵝鳥《がちよう》みたいな声を出した。
「逃げたな、逃がしてはならぬ、ひっとらえろ!」
あわてて、商人の二人が、舷に結びつけられた綱をつたって、同じように滑り下りたが、たちまちひとりは波に打たれて海中にしぶきをあげ、もう一人は――このとき結ばれていた綱がひとりでにスルスル解けて、あっというまにこれも転落した。
かりにそんな災いがなかったとしても、常人ではどうなるものでもない。このあいだにも帆は夕風をいっぱいに孕《はら》んで進んでいる。綱の下にはすでにおげ丸たちの姿はなかった。その一群はもうだいぶ後方の波の上に立っていた。
常人では、といった。たとえ失敗したとはいえ、常の商人《あきんど》がそんな冒険を試みるはずがない。いや、残った商人をかきのけ、舷にとりついた傀儡師は、
「しまった!」
とさけびつつ、その手が躍ると、藍色の空気を切って、銀の光が数条、海の上へ飛んだ。あきらかに手裏剣《しゆりけん》であったが、やや転舵《てんだ》した船からの狙《ねら》いは狂って、ことごとくあらぬ方へ飛魚のごとくしぶきを散らした。
「御苦労だなあ」
と、おげ丸は潮けぶりの中に白い歯を見せた。
「釜伏塔之介《かまぶせとうのすけ》。――」
傀儡師はうしろの旅芸人らしい三人の女に、
「顔をさらすな」
と、狼狽《ろうばい》してさけび、
「さすがはおげ丸だ。見ぬいておった!」
と、うめいた。
平生の美少年姿とは似ても似つかぬ中年男だが、それではこれが釜伏塔之介であったのか。そしてまわりにひしめき合っている男や女は、江戸から呼んだ甲賀者たちであろうか。
船は進む。地だんだ踏んでいる彼らを乗せて、船は波を切ってゆく。
皮肉なことに、追われる者をあとに残し、追う者を先に。――そして、この場合、両者の間隔がみるみる遠ざかってゆくのを、追う者はいかんともなすすべがないのであった。
「海路平安を祈る。桑名へゆくがいい」
そういっただけで、おげ丸の白い歯は消え、またもや象牙彫りの仮面《めん》みたいな顔になった。そして、足に無数の白珠《しらたま》をちらしつつ、きっと前方を見た。――渡し船が通り過ぎたあとの海の向うを。
ちょうどそこを一艘《いつそう》の漁船がこちらへ来かかっていた。漁から戻《もど》って来たらしい舟で、三人の裸の漁師が乗っていた。おげ丸はそれを見とどけてから、船を脱出したのである。
中間に渡し船があって、それまでの光景を目撃しなかった漁師たちも、そのあとに残っているこの奇怪な群像にはじめて気がついて、
「おんや?」
ひとりがそうさけび、三人ともじいっとこちらをのぞきこみ、そして櫂《かい》を握っていた一人が、へたへたと尻《しり》もちをついてしまった。
「来い。来い――」
さしまねくことの出来ないおげ丸はそう呼びかけたが、漁師の舟が無人と化したかのようにゆらゆら揺れているばかりなのを見ると、一人の女を肩ぐるまに、二人の女を両腕にぶら下げたまま、波の上をその方へ歩き出した。
模糊《もこ》たる海面を、妖々《ようよう》としてさながら船幽霊のごとく。
伊賀忍法浮寝鳥。――驚くべき体術、というよりまさに物理学を無視した怪術だが、これを体得したおげ丸といえども、まさか七里の海を渡るわけにはゆかぬ。いや、岸までの百メートルを歩むことさえ至難だ。
歩くたびに極度に消耗するらしく、一歩ごとに肉が削られてゆくように見えたが、逆にその足はくるぶしから足くび、ふくらはぎから膝《ひざ》まで沈んでいって、彼がその舟にたどりついたときには、腰までつかった彼自身はもとより、両側のお芦、お菱の下半身も波に洗われていた。
左右の女二人をまず舟にどさと投げ込み、舷にとりついて、首のお都奈を振り落す。それから。――
いちどおげ丸は胸まで沈んだと見えたが、次の瞬間――まるで迫出《せりだし》に乗ったように、彼のからだはぐうっと海から出て来て、舟には跨《また》いで入った。
さすがにがっくりと坐ったまま、しばし重病人みたいに大息をついている。それを見ても三人の漁師はもはや悲鳴すらあげず、これまた腰がぬけたように坐り込んでいるだけであった。いまの怪異を見れば、だれだってそうなるだろう。
「おい、漕いでくれ」
やっと、おげ丸が顔をあげていった。
「宮ではない……舟を西へむけろ、いまの渡し舟を追って」
おげ丸は声を張った。
「ゆかぬか!」
漁師たちは、腰を一蹴《ひとけ》りされたように立ちあがった。
舟はまたもとの沖へ向って進み出した。はるか前方に渡し舟の百反帆は小さくなり、うしろの方で、「おおーい、おおーい」というかなしげな呼び声がする。これはさっき海に落ちた二人の男の声らしい。
……やはり、桑名へ向うのか?
というように、三人の女はおげ丸を見ていたが、それはきかず。――
「あの男たちのこと、いつからあなたは知っていましたか」
と、お都奈はたずねた。渡し舟からの脱出は、突然おげ丸が命じたことなのである。――
おげ丸は答えた。
「舟に乗ってから」
「あいつらの顔を見て?」
「いや、おぼえはない。ただ、かん[#「かん」に傍点]で、たしかに何者かがこちらを見張っておると」
「そういわれれば、中に二、三、思いあたるやつもいたけれど、あの男たち、ふだんほとんど服部屋敷《はつとりやしき》に顔を見せぬやつらです。それが顔かたちを変えているのだから。――」
お菱がいった。
「顔かたちといえばおげ丸さま、あなたは釜伏どのを――いえ、塔之介を名ざしでお呼びなされたけれど、あれが塔之介とは、わたしはいくら穴のあくほど眺《なが》めても」
「それもかん[#「かん」に傍点]だ」
お芦がいった。
「すると、追って来るのはあの五人衆だけではないのですね」
「江戸から呼んだと見える。しかも、おれの知らない顔だとすると、甲賀屋敷《こうがやしき》のめんめんらしいな」
四人はちょっと黙りこんだ。
雨の海は蒼茫《そうぼう》と暮れて来る。はるか後方に灯《ひ》がまたたきはじめ、それでそこに陸があることがやっとわかるまでになり、その灯も波に見えつ隠れつするほどになった。
「舟を返せ」
ふいにおげ丸は命じた。
「宮ではない。もっと西の、どこかひと気のないところへ」
漁師はうなされたような手つきで櫓を返す。海はもう真っ暗であった。
三人の女は、やっとおげ丸の考えを了解した。彼は海が闇《やみ》に沈むのを待っていたのだ。前方の桑名には、ともかくも釜伏塔之介たちが先着している。うしろの宮にはあとの甲賀衆がまだうろついているかも知れぬ。そこでおげ丸は一応沖へ出て陸からの視界を絶ち、さらに完全に夜になるのを待って、全然敵のいない岸へ上り、そこから陸路をとって旅をしようとしているのだ。
――その通りであった。おげ丸はやがて宮より西方の、庄内川か日光川か、人家もない夜の砂州に舟を着けさせた。
それから数日後、彼らは雨のあがった名古屋街道《なごやかいどう》を北へ歩いていた。清須《きよす》から墨股《すのまた》へ出て大垣《おおがき》へ上り、大垣から中仙道《なかせんどう》へ向う道を名古屋街道という。
「おげ丸どの、どこへゆきましょう?」
「大坂?」
「大坂へは、まだいったことがないわ」
「江戸よりももっと繁華なという太閤《たいこう》さまの町」
「ああ、それはいい考え! そこまでは甲賀衆も追っては来ないでしょう」
「見つけたら、江戸の甲賀者だと大坂方の侍に告げればよい。そこでみんな一網打尽」
一年後も未来だ。未来の風雲を知らない女たちは、急に夏らしくなった光の中に、浮き浮きとして手をたたいて笑った。
一路は平安に見えた。完全に背後からの追跡の手を絶ったかに思われた。そのはずであった。
然《しか》るに。――
「はてな?」
中仙道に入って、青野からさらに西の垂井《たるい》の宿に向う途中で、おげ丸はふっとうしろをふり返った。両側から山の迫り出した街道に、旅人はちらほら見えるが、疑わしい影はない。
また歩きながら、しきりにくびをひねっている。いま見る旅人たちに不審はないが、それにもかかわらずおげ丸は、なおひたひたと執念ぶかくあとを追って来る足を――いや、何者かの眼を感覚したのだ。彼としても、あの道で完全に追手から離脱したと思っていたのに。
「どうしたの?」
立ちどまる三人の女の眼を見つめ、
「やはり、おれたちをにらんでいる眼がある。――」
と、おげ丸はつぶやいて、ふいに三人の女の前に向って立った。
「ちょっと眼を見せろ」
一人一人、顔と顔が触れんばかりにのぞきこんで、
「南無三、しなしたり!」
と、彼はさけんだ。お芦の前であった。
「いつやられたか、漆鱗斎の遠見貝。――」
「えっ鱗斎の――何が?」
「きゃつ、貝を投げて相手の眼に嵌《は》める。すると、相手の眼に映るものは、そっくり鱗斎の眼に映るのだ。どこを歩いておろうと、その眺めを鱗斎が知っておるかぎり、きゃつは嚢中《のうちゆう》のものを探るようにそこを知るのだ! それが、お芦の両眼に、みごとに嵌まっておる!」
女たちは、一党の人々の忍法を完全に知っているとはいえない。いや、むしろ大半は知らないといっていい。
「わたしの眼に?」
お芦は眼をいっぱいに見ひらいた。しかし、おのれの眼を見ることは不可能だ。
お都奈とお菱も顔色を変えてお芦の眼をのぞきこんだ。
「どこに貝が?」
「何も見えないけれど。――」
おげ丸は、伊賀甲賀を問わず、服部家につながるすべての忍者のわざを知っていた。熱心に教えを乞い、学び、或いは看破してみずから修行したのだ。で、原則として一人一芸に徹したそれら忍者よりも、その一芸に於ておげ丸の方がはるかに高度の域に達したものすらある。
むろん、とうてい及ばぬものもあり、さらに全然手の出せないものもある。釜伏塔之介の変化袋とか、漆鱗斎の遠見貝などがこの不可能の例なのであった。
「ふつうの人間には見えぬ」
と、彼はいった。
「そしてまた、いったん眼に嵌められた遠見貝は、たとえその眼をくじり出し、小柄ではがそうとしてもはがれぬ」
彼はもういちどお芦の眼を見た。
「それは、鱗斎の眼だ」
「イヤ、イヤイヤ!」
お芦は瞼《まぶた》をこすり、爪《つめ》をたててもだえた。
「どうすればいい? わたしはどうしたらいいのです?」
「……眼をつぶって、道中してもらうよりほかにないなあ」
「眼をつぶって? それだけでいいのですか?」
「それが、なかなか容易なことではないぞ。――」
お芦は眼をとじて、四、五歩歩いて、たちまち小石につまずき、よろめいた。よろめいたとたんに、彼女の眼はひらかれていた。
「ほんものの、盲の道中よりむずかしい」
いうは易《やす》く、行うは難《かた》い。いかにもこれから何十里か何百里か、眼をとじたまま旅することはほとんど不可能にちかいことを、まざまざとお芦は知った。
「待て待て、もう少しゆこう」
と、おげ丸はいって、先に立って歩き出した。道は上り勾配《こうばい》にかかっている。
腕組みをして、思案顔なのは、この文字通り附着して金輪際離れぬ敵の眼をいかにして封ずべきか、という工夫もさることながら、そもそもお芦にいつ遠見貝が嵌められたか、という点検であり、いままでそのことに気づかなかった不覚に対する悔いであり、それからまた。――
左右の山が急に迫り、あたりはところどころ畑もあるが、ただ夏の風に吹きなびく草原で、一帯高原といっていい景観を呈して来た。いかにも梅雨のあがったあとの季節らしく、強い日ざしにむっと草いきれがする。
「向うにある高い山は何という山?」
「伊吹山《いぶきやま》」
お都奈の問いに、おげ丸が答える。
「ここはどこ?」
「関《せき》ケ原《はら》」
「ああ、ここが」
と、お菱がさけんで、感動的な眼で見まわした。
いうまでもなく十三年前、この曠原《こうげん》で二十万近い大軍が、いわゆる天下分目の戦いをくりひろげたことを思い出したからであった。
女たちは、夏草の中に、血けむりと砂塵《さじん》をあげて馳駆《ちく》する兵馬や旗差物の幻影を見たようにしばし佇《たたず》んだ。――
「兄もここで戦ったはず。――」
ふいにお都奈が、ぶるっと身ぶるいした。いまの自分たちの立場を思い出したのだ。
「すると、すぐ向うに不破《ふわ》の関《せき》跡があるはず。そこを越えれば、もう上方《かみがた》」
彼女はおげ丸をうながした。
「おげ丸どの、急ぎましょう」
近江《おうみ》へ早く入ったとてどうというわけではないけれど、そこはもう大坂の勢力範囲といっていいのだから、何となく東からの追手を逃れるという実感をそそるのであろう。――しかし、おげ丸はうしろの方を眺めていた。
垂井の宿の方から、三人の山伏《やまぶし》がやって来る。おげ丸はいった。
「ただ逃げてもだめだ。お芦の見ている伊吹山やこの関ケ原は、鱗斎の眼にも映っている」
「あ!」
お芦は両掌で顔を覆った。
「お芦、やはりこれから眼をつぶってもらわねばならんが」
と、このときおげ丸はニコッと笑った。まるで十二、三のいたずら坊主みたいな表情で。
「その前に、ちょっといたずらをしてやろう。――お芦、来い」
お芦がけげんそうに近寄ると、おげ丸は――実に仰天すべきことをやってのけた。三人の女人の前で仁王立ちになって、なんとおのれの男根を丸出しにしたのである。
「お芦、見ろ」
「?」
「いまは眼をあけてよろしい。眼をいっぱいにひらいて、顔を近づけて、よっく見ろ」
「?」
さしも嬌艶《きようえん》なお芦も二の句もつげないようすなのを、おげ丸は両腕のばして相手の両肩を抑え、おのれの股間に敬礼させた。
実に雄渾《ゆうこん》壮絶をきわめるオブジェがぐうっと眼前に拡大され、お芦が思わず目まいして眼をとじたとたん。――
「そうだ、そこで眼をつぶって――何事が起っても、もはや絶対にあけることはならん」
おげ丸はお芦のからだを起し、おのれの出品物をしまい、さてふり返った。
三人の山伏は、ほんの十数メートルの距離まで近づいた。その数分前に、いちど彼らは立ちどまったが、こちらのおげ丸の奇行に、「――何をしているのか?」と不審にたえないかのように歩いて来て、さておげ丸と眼が合ったのである。
が、べつに何の戸惑いもなく、おげ丸一行の前をスタスタと通り過ぎてゆく。
「素知らぬ顔というのが、かえっておかしいな」
と、おげ丸がつぶやいた。
いっせいにふりむいた山伏たちに、おげ丸はいう。
「つけて来たのは、うぬら三人だけではあるまい。――あとのやつらはどこにおる?」
おげ丸は、三人の前に、三メートルばかりに近づいた。
「見たおぼえのないやつらだ。それでまず直接の追手としてくっついて来たのだろうが、甲賀者だな」
笑っているのに、けものの匂《にお》いが立ちはじめた。お都奈にもお菱にもおげ丸が――とくに旅に出てから、どこか哀しげであったおげ丸が別人と化したかのように見えた。
山伏たちは呪縛《じゆばく》されたようであった。
「口できいたとて答えるやつではないことは百も承知だ。そこを、いわせてやろうと思う」
突如、三人の山伏の手が動いた。
恐怖に打たれての反射的行為とも見えたが、それだけに電光のごとく――事実、電光のようなものが数条、三本の腕からおげ丸の顔をめがけて叩きつけられた。
凄《すさま》じい乱撃の音響がした。地に散乱したのはマキビシという四方にねじくれた釘《くぎ》を突出させた忍者独特の武器であり、おげ丸の手には刀身が抜き放たれていた。何がどうしたのか眼にもとまらなかったが、とにかく山伏たちの飛道具は一瞬にその刀と鍔《つば》で叩き落されていたのである。
「刀は使うといった!」
棒立ちになっている三人の山伏ののどぼとけのあたりを銀光が薙《な》いだ。ただ一閃《いつせん》。
鍔鳴《つばな》りさせて長刀が鞘《さや》におさまると、
「ゆこう」
何事もなかったようにおげ丸はのそのそと歩き出して、ヒョイとふり返り、
「お芦、眼はあけなかったな?」
「え、え」
お芦はこぶしまで握りしめて、眼をつぶっている。眼をひらかないことに必死というのは生れてはじめての体験である。
「おぶってやろう、おいで」
おげ丸は立ち戻って、お芦の前に背をむけた。
ゆらりと背負って歩きながら、またふりむいて、
「来いよ。ついて来い。――」
と、声をかけた。路上に三人、つくりつけの人形みたいに立っている三人の山伏たちに。
すると――西へ歩くおげ丸たちにつづいて、その数メートルうしろを、山伏たちもふらふらと歩き出した。
「あとのやつらはどこにいる?」
と、おげ丸は、だいぶ歩いてから、前方を見たまま、もういちどきいた。
「栃《とち》ノ木夕雲《きせきうん》どのと麻羽《あさは》玄三郎どのが垂井に」
と、いちばん右の山伏が、糸のような声で答えた。おげ丸に何をされたのか、血のあとも見えないが、とにかくとみに気力を喪失したらしいことはたしかだ。
「それから?」
「高安《たかやす》篠兵衛どのと漆鱗斎どのは、その向うの大垣に」
と、まんなかの山伏がかすれた声で答える。
「ばかに泰然とかまえておるな。ははあ、鱗斎はたかをくくっておるか。――それから?」
「釜伏塔之介どのは、たしか桑名へ渡られたはず。――」
と、いちばん左の山伏が細い声でいった。
「ああそうか、そうであったな」
おげ丸は思い出し笑いをした。
「で、うぬらのような木ッ葉|天狗《てんぐ》は江戸から何匹呼んだ」
「十五人。――」
「みな、甲賀者か」
「左様。――」
おげ丸はてくてく歩いていたが、ふいに、
「よし、うぬら、そこに止まっておれ」
そのまま西へ数百歩、不破の関跡あたりにかかる手前で、お都奈とお菱がふりむくと、三人の山伏は小さく、まだそこの街道にならんで立っていた。
――チリン!
そのとき微《かす》かな金属のひびきがした。おげ丸の腰から鳴った鍔音《つばおと》であった。
と、同時に。――
ちょうど山伏たちをふりむいていたお都奈とお菱は肺でさけび声をあげたのだが、その一瞬に三人の山伏ののどぶえがそろってぱっくりと赤い口をあけ、そこから前へ鮮血が噴出したかと思うと、どうと前へのめり伏してしまうのが見えたのだ。
「伊賀忍法、百足歩き。――」
と、おげ丸はぼそっとつぶやいた。
「斬《き》られても、本人も気づかず、百足は歩く」
それから彼は、右の方をちらっと見あげた。小さい山が青々と盛りあがっている。十三年前、西軍の総帥|宇喜多秀家《うきたひでいえ》と副将ともいうべき小西行長《こにしゆきなが》が布陣した天満山だという名は知らず、彼はお芦を背負ったまま、街道からはずれて、その方へ草をかき分けて歩き出した。
息を切りながら、お都奈がきく。
「どこへ? おげ丸どの。――」
「栃ノ木夕雲と麻羽玄三郎がうしろから追って参る。――」
あともふり返らず、そういっておげ丸は樹立ちの中に身をかくしてゆく。
――その通り、東の方から関ケ原を駈けて来たのは、たしかに栃ノ木夕雲と麻羽玄三郎と、そして三、四人の香具師《やし》風の男たちであった。
そして彼らは、街道にきれいに頭をそろえてうつ伏せに倒れている三人の山伏を発見した。抱きあげて見ると、のどを横に斬り裂かれ、完全にこと切れている。
香具師たちがうなり声をあげ、いっせいに西の方へ駈け出そうとするのを、
「待て」
と、栃ノ木夕雲はとめた。
「きくまでもないが、念のため」
といって、自分と屍骸《しがい》の一つのわらじの緒を切り、はだしになった二つの足裏を匕首《あいくち》で薄く削り、にじむ血糊《ちのり》を通してピッタリ合わせた。一息、二息、三息。――
「わが忍奴《にんど》よ。……」
夕雲がいった。
「わが問いに答えよ――斬ったのはおげ丸か」
「左様」
と、死んでいた山伏の口があくびするように動いた。藍色《あいいろ》の頬《ほお》に、血が紫色によみがえっていた。陰々と夕雲はいう。
「うぬらともあろうものが、かくもむざむざ大根のごとく。――」
「三人、ただ一薙《ひとな》ぎでござった。――」
「三人、同時に?……きゃつ、やはり手向うではないか!」
と、麻羽玄三郎が凶暴にうめいた。生霊《いきりよう》を逆《さか》ながれさせられた死霊は答える。
「刀は使うと申された。――」
また頬が白ちゃけて来たのを、夕雲はゆさぶった。
「で、たしかにきゃつら、西へ逃げたな?」
「いかにも、不破の関を越えて。――」
がっくりと、山伏は首を地に落して動かなくなった。
栃ノ木夕雲は立ちあがった。
見下ろして、ふと考えこむ表情となり、
「こやつら、もっと生きながらえさせてやろうか? いや、かくも未熟なやつら、わがいのちをやるほどの値打ちはない」
ぶつぶつとつぶやいて首をふり、
「ゆこう。……大坂までゆかせては事面倒じゃ」
そんなことははじめからわかっているではないか、といわぬばかりに足踏みしていた香具師風の甲賀者たちが、鎖をとかれた犬のごとく西へ駈け出すのを追って、麻羽玄三郎と夕雲も急ぎ足となる。
不破の関跡を横目に見て、関の藤川の橋を渡って、一目散に近江《おうみ》の国へ。
老人らしく慎重な栃ノ木夕雲が一応ここで念を入れながら、逃走者が上方へ逃げこんだものと断定したのも、東から関ケ原を過ぎれば西へゆくものというあたりまえの考えに加えて、上方に入ればこちらの面倒となり、逃走者にそれだけ有利となるという先入観が働いたためであったろう。
しかし、西へ彼らが駈け去ったあと、ややあって、天満山の方からがさごそと、お芦を背負ったおげ丸を先頭に、お都奈、お菱がまたもとの街道に現われた。
「釜伏……麻羽……栃ノ木。……」
と、おげ丸は指折り数えた。西へうっちゃり[#「うっちゃり」に傍点]をくわせためんめんである。
「よし、帰ろう」
おげ丸は、こんどはもと来た東へ、のそのそと歩き出した。
お都奈とお菱がきく。
「帰る? どこへ?」
「まさか、東海道を駿府《すんぷ》へ帰るのではないでしょうね?」
「どこだかわからん。――ともかく、上方には、釜伏、麻羽、栃ノ木がいるのだから」
と、おげ丸はいった。
――それはそれとして、さきに七里の渡しを桑名へ渡ろうとしたくらいだから、いちどは上方へ入ろうと思ったことは事実である。しかし、いまこちらに向って、たとえ麻羽、栃ノ木をやりすごすというようなことがなかったとしても、果しておげ丸がそのまま近江の国へ入ったかどうかは疑問だ。
関ケ原。
その地に立って、彼の胸にそれまで予期しなかった転換が起ったのであった。
先刻、三人の甲賀者が追って来ることに気づく前からおげ丸の心にきざしていたことである。
上方、そこは江戸にとってやはり一敵国であるという実感は、徳川家の内部にあるおげ丸だから拭《ぬぐ》い得ない。とくに服部機関は、それを目標に訓練し、かつ現実に活動しているといっていい。――その地に逃げ込んでいいのか? 服部一族の内部の争いをそこに持ち込んでいいのか?
長安なら、意としなかったかも知れない。目的のためにはむしろそれを大いに利用して、鼻うごめかしたかも知れない。
しかし、おげ丸には、父の持たぬ精悍《せいかん》さを持つ一方、へんに義理がたいところがあった。服部家相手にみずから忍法を封じたのと同じ心性がこのとき動き出したのだ。関ケ原という地名に触発されて。
というより。
――上方へ逃げるのは卑怯《ひきよう》で、恥さらしだ。
つまり、たたかうならばおれ一人で、という純粋な決意がどこかにある。ということは、しょせんは追跡者たちがとうてい追跡をやめないだろうという予感、むしろ期待があった。ただ、それにしても時が欲しい。女たちがぶじに子供を生むまでの安らかな時が欲しいという考えに変りはない。
「山へゆこう」
突然、おげ丸はいった。
「え? どこの山へ?」
お都奈の問いに、おげ丸は答えなかった。
どこの山なのかわからない。そもそも、いまなぜ山へといったのか、自分でもわからない。ただこのとき、ひたすら山へ、という思念にとり憑《つ》かれたのだ。
山こそわがふるさと、山こそ、わが愛する女たちの子を生むところ――そんなはっきりした意識はない。思うに、しかし無意識のうちにも彼の体内をながれるオゲの血は、いまもどこかの山岳のふところに眠る母の魂を呼んでいたのではあるまいか。
「中仙道をゆく」
と、ややあっておげ丸はいった。
「ともあれ、木曾《きそ》か、信濃《しなの》へ。――」
すでに彼の足は、関ケ原を、垂井の宿ちかくまで戻っている。
「そこまで、おげ丸さま、わたしを負ぶっていってくれるつもり?」
背中でお芦がきいた。
「――ああ」
と、おげ丸はいった。
「おまえは眼をあけてはならん。山や川はもとより、一本の木、一軒の家、一人の百姓を見ても、それがどの国のどのあたりか、鱗斎は知る。指摘しかねないやつだ。……難行だろうが、がまんしてくれい」
「いいえ」
と、お芦はうしろからおげ丸の耳に口を寄せた。杏《あんず》の花のかおりがした。
「わたしは、いつまでも盲《めしい》でいたい。お芦は、鱗斎の貝を嵌《は》められてよろこんでいます」
そして彼女はおげ丸の耳たぶをかじった。
「ひゃ!」
思わず奇声を発したおげ丸の方を、その耳とは反対を歩いていたお都奈とお菱がふりかえって、その眼にさざなみのような光がゆれてひかった。
お都奈がいった。
「何をしているのです」
「あの、眼をつむっているので、口がおげ丸どのの耳にふれたのです」
お菱がいった。
「……お芦どの、下りて歩きなさい」
「いいんですか、おげ丸さま?」
「ううん。……だめだ」
お都奈とお菱はそれっきり黙ったが、あきらかに落着かない顔をしていた。
――すると、お芦は、平気でまたおげ丸の耳にささやく。
「おげ丸さま、わたしの口の匂い、わかりますか?」
「口の匂い?」
「長安さまに入れてもらったものがあるのです」
「父に? 何を?」
「ホ、ホ、ホウ、それは秘密」
笑うお芦の口からまた甘ったるい杏の花のかおりがする。その吐息に頬をなぶられているうちに、おげ丸はふらっと目まいのようなものを感じた。
これ以上背中のお芦と問答することに本能的なおびえをおぼえ、きっとして、
「しばらく黙ってくれ。気をゆるすのはまだ早い。大垣にはほんものの鱗斎と高安篠兵衛がいるのだぞ。いや、きゃつら、こちらへ来つつあるかも知れぬ。よく見張れ」
と、おげ丸は叱《しか》って、すぐにまた、
「いや、お芦ではない。おまえは見張ってはいけない」
と、あわてて訂正して、常人の倍はある速度をさらに早め出した。東へ。――敵よりも難物はこの味方かも知れぬという予感をおぼえつつ。
東から来た漆鱗斎と高安篠兵衛の一群は、なんと関ケ原で、南から来た釜伏塔之介の一群と逢《あ》った。
宮から桑名へ、みごとに海へうっちゃられた塔之介たちは、歯がみしながら伊勢街道を関ケ原へ駈けのぼって来たものだ。
むろん、塔之介はそこで鱗斎たちに逢おうとも、ましてそこに三個の甲賀者の屍体《したい》が転がっていようとも予想のかぎりではない。
「おげ丸はどこへいった?」
宮の沖でなめさせられた潮水の苦杯のいきさつを語るにいとまあらず、かみつくように釜伏塔之介はさけんだ。
「それがわからぬ」
と、漆鱗斎はそれこそ瞳《ひとみ》をぬかれたような顔をしている。
「関ケ原で、わからなくなった!」
「遠見貝はどうした?」
「それがよ、ただ大男根がにゅーっと眼にちかづいたのが見えたのを最後に、四界は闇黒《あんこく》。――それで遠見貝を嵌め変え、あわてて大垣からここへ駈けつけて来たのじゃが。――」
[#改ページ]
胎の春秋
七月。――
妊娠第三ヵ月。
卵の大きさ鵞卵《がらん》大。身長七―九センチ。体重二十グラムにして臍輪《さいりん》まったく閉じ、四肢《しし》の指趾《しじ》分明し、爪の甲生ず。外陰は性別を区別し得るに至り、少し運動を開始す。
子宮は手拳大となり、小骨盤内を充《み》たし、恥骨結合の上縁に膨隆す。
おげ丸たちは、中仙道の一宿、美濃国鵜沼《みののくにうぬま》の西、各務野《かがみの》の農家にいた。野の南に三井山という小さな山があるだけで、十キロ四方の草原である。
――関ケ原から五十数キロ東へ来たばかりだが、ここまで来るにもおげ丸は実に往生した。そのあいだ、お芦をずっとおんぶしていたからである。
女一人を背負うのに、物理的な苦は感じないおげ丸だけれど、感覚的な負担はたいへんだ。くびすじにふれる熱い息、背中を押す柔かい弾力のある乳房、手もめりこむようなお臀《しり》のくぼみ。――しかも、だんだん馴《な》れて、この背中のなまめかしくも厄介《やつかい》な物体が、たしかに意識的に妙な動きかたをして彼を悩ます。
東海道あたりではまだ追手を気にかけるところもあったお芦だが、その追手を西へやり過ごして中仙道に逃げこんで来ると、安心したのか、どうやらおげ丸に全意識をむけ出した。
もともと服部屋敷でもふだんから忍者たちに嬌媚《きようび》なからかいの言葉や姿態を惜しまなかったお芦である。それが、おげ丸にいたずらする――というより、道中の絶えざる肉と肉の密着と動揺に、本人自身、自制し切れない反応が起って来たらしい。
「こんどこそ、敵を離したと思う。少し、そろそろと歩いて見るか?」
と、持てあましておげ丸がいうと、
「またつまずいて、やや[#「やや」に傍点]が流産でもしたらどうします」
と、いう。
お都奈《つな》、お菱《ひし》の聞えないところで、笑いながらささやく。
「おげ丸さま、あなたはやっぱり長安さまのお子さまですね」
「何を、いまさら。――」
「そっくりですわ」
「いや、顔は全然ちがう。どういうものかな」
「いえ、顔じゃなく」
「何が?」
「背丈もちがいます。けれど、姿かたちが」
「からだも似てはおらん。何がよ?」
「眼をつぶるまえ、わたしが最後に見たもの」
数分間考えて、おげ丸は、
「ばかな!」
と、苦笑した。
で、おげ丸は閉口して、へとへとになって、美濃の各務野まで来て一軒の農家の離れを見つけると、そこにひとまずこのお荷物を置くことにしたのだ。
ところが、夜になると――いや、旅しているあいだこそ夜にかぎったが、一つところに長く滞在して、しかもあまりそこらを出歩けない世を忍ぶ暮しをしていると、夜にならなくても、ほかにすることがないと見えて、昼間も例の胎教だ。
すなわち長安の教科書による例の科学と世界史の勉強である。そして本人たちの輪講はいいとして、必ずおげ丸にも聴講を強要する。保護者として、おげ丸にも同程度の教養を求めるというのだ。
これもおげ丸には大苦しみだが、さらに勉強のあいだあいだには妊娠中望ましい運動をはさむ。すなわち例の骨盤底筋の訓練というやつで。――
女の一人が仰むけに寝て、両膝を立て、腰をあげて肩と足の裏だけでからだを支える。そしてほかの女に曲げた膝をおさえてもらい、その制御《せいぎよ》に反抗して膝をひらいたりとじたりする。それをおたがいに、交互にやるのだ。
それはいいのだが、彼女たちは必ずおげ丸に見張りを命ずる。なるべく外を見ているのだが、それでも絶えずあがる掛声や笑い声や、それにときどき何かのはずみで妙なうめきなどもらすので、思わずふりかえると、とたんに彼女たちのそんなあられもない姿態と運動が眼に入る。――
一ト月ちかくそこにいて、おげ丸はだんだん麹《こうじ》にからだをつつまれて、何となくべたべたして酸っぱくなって来たような感じで、
「ともかくも、ここを移ろう」
といい出したときは、肩で息をしていた。じっとしていたのに、くたびれはてた顔つきであった。
「どこへ?」
「どこかへ」
まだ旅をしていた方がいい、という衝動であった。
八月。――
妊娠第四ヵ月。
胎児の身長十―十七センチ。体重百―百二十グラム。男女の性別ますます明瞭《めいりよう》となり、皮膚には生毛を発生しはじめ、運動やや強く、胎盤の形成完了す。
子宮は児頭大となり、恥骨結合の上、二、三指横径に達す。
おげ丸たちは飛騨《ひだ》の高山《たかやま》の旅籠《はたご》にいた。べつに確たる目的あって来たのではないが、この山国の町の美しさと涼しさに魅せられて、ここにまた一ト月ばかり逗留《とうりゆう》することになった。
八月といえば、いまの暦でいえば九月だが、その半ばに有名な八幡祭りがある。京の祇園祭《ぎおんまつ》りにならって、飛騨の匠《たくみ》たちが精魂こめて作った神輿《みこし》や山車《だし》が、明《みん》の綴錦《つづれにしき》、南蛮渡りのゴブラン織などの見送り幕も絢爛《けんらん》と、稚児《ちご》をつらね、鳥毛打ちの囃子《はやし》もにぎやかに練り歩く。
「見たい」
「見にゆきたいわ!」
と、お都奈とお菱ははしゃいだ。するとお芦《あし》もさけんだ。
「わたしも」
「ゆくかね」
と、うっかりいって、おげ丸はあわてた。
「とんでもない。高山祭りが鱗斎《りんさい》の眼にうつったらどうなるか。おまえは宿にいて、眼《め》をつぶって待っておってもらわねばならぬ」
だだ[#「だだ」に傍点]をこねるお芦は、おげ丸の説得を容易にきかなかったが、ややきっとしたお都奈とお菱の、
「大事の前に、祭見物が何ですか」
「盲をしているためにいままで愉《たの》しい目を見ることもあったのだから、こういうときに少しはつらい目に逢って差引きなしですよ」
という言葉に、さすがに鼻白んで黙りこんだ。それにしても、お都奈とお菱の言い分は、少しばかり、はしたないといっていいか、意地悪いといっていいか、彼女たちには珍しい皮肉であった。
同じ旅籠に泊っていた縫針売りの老婆にお芦を託して、三人は見物に出た。
蜀《しよく》の山市《さんし》ともいうべき地理にあるため、およそ日本がはじまって以来、戦争はおろか大軍の通過したこともない――ただいちど二十年前|織田《おだ》の一将|金森法印《かなもりほういん》がやって来て、いくさらしいいくさもせず、それまでの古い領主にとって代った以外、他に戦国などどこにある? といった顔で暮して来た町であった。奈良《なら》王朝の寺々もほとんどこの飛騨の匠の作品ではないかといわれているくらいの古雅な伝統は脈々といまもこの町の家や橋に伝えられている。
美しい華やかな神輿や山車の行列に沿い、見物人は雲集し、囃子の交響に人々のどよめきが加わった。そして雑踏の中におげ丸は、ふっとお都奈の姿を見失った。
「あ。……」
きょろきょろして見まわしたが、波うつ群衆のどこに呑《の》まれたか、お都奈の影はない。
「お都奈どの、お都奈どの」
叫んでも、声は囃子や笑い声、さけび声にかき消された。
「まさか、甲賀者《こうがもの》がこの町へ来ていることはないでしょうね」
と、お菱も不安げにいう。彼女はしっかりとおげ丸の手を握りしめていた。おげ丸はくびをふった。
「そんなはずはない」
それから、見物人に押されて自然に祭の行列を追うかたちになりながらいった。
「宿はわかっているのじゃから、迷子になることもなかろう。もうちょっと見物して、おれたちも宿へ帰ることにするか」
二人は歩いた。
おげ丸はお菱に握られた手がしっとりと熱く汗ばんで来たのを知ったが、いま一人を見失ったところだから、そのままにしていた。
「ああ愉しい」
お菱が吐息をついた。
「わたし、こんなに愉しい日が来ようとは夢にも考えていなかった。……」
「うん、おれもこんなに美しい祭りを見るのははじめてだよ」
「祭りじゃなく……おげ丸さまと二人だけでいることが」
彼女はきらきらとかがやく眼でおげ丸を見あげた。
「おげ丸さまは愉しいとは思いませんか?」
「うん」
と、おげ丸はうなずいた。
「愉しいなあ」
お愛想のいえる男ではない。――いっとき彼は、追手のあることも、お菱が父の子を身籠《みごも》っていることも忘れた。正直なところ、服部屋敷《はつとりやしき》にいたころから彼がいとしく思っていたお菱であった。彼女の頬は薔薇色《ばらいろ》に染まり、うっとりと匂い立つような顔色をしていた。
はじめにそのことを思い出させたのはお菱であった。言葉より先に、彼女はふいにあふれ出した涙でそれを見せたのである。
おげ丸はあっけにとられた。
「ど、どうかしたかね?」
「このことがなかったら、どんなによかろうかと」
「このこと?」
「おげ丸さまといっしょに飛騨の祭りを見るなんて、服部屋敷にいたころ、ほんとうに夢にも思っていませんでした。けれど……その間に、駿府のことが挟《はさ》まっているのです! ああ、わたしは。――」
顔をふると、涙が頬にひろがった。
「あなたのお父さまのお子を。――」
棒立ちになっていたおげ丸は、お菱がのけぞるようになったので、あわてて抱きとめた。
「おげ丸さま」
「なんだ」
「堕《おろ》したらいけないでしょうか?」
ほんのいま薔薇色に匂い立っていたお菱の顔は、水を浴びたように蒼《あお》ざめていた。が、おげ丸の腕の中で、彼を見つめている彼女の眼は哀切を極めた。
「駿府のことを、お菱は消したい。――」
「消してどうするの?」
横から、声がした。
二、三人、見物人をおいて、その向うからこちらを見ているのがお芦だと知って、お菱のみならずおげ丸も、あっとばかりに口をあけたきりであった。
「消して、あとどうしようというの、お菱。――」
お芦は人をかきわけて、つかつかと寄って来た。その向うに、これまた口をあけている針売りの老婆の顔が見えた。
「あとで、おげ丸さまと夫婦《めおと》にでもなりたいとでもいうの?」
お芦はお菱につかみかからんばかりであった。
「こんなことになるから、わたしがついていなくちゃいけなかったのだわ。眼を離していると、何が起るかわかりはしない。――」
「眼を。――」
と、やっとおげ丸がさけんだ。
「お芦、おまえは眼をあけて。――」
あっとさけんで、お芦はあわてて眼をふさいでいた。
「いままで、眼をつぶっていたのです。せめて、祭りの音でもきこうと、針売りのおばばさまに手を引いてもらってここまで来たのです。すると、思いがけなくお菱の声がしたものだから――思わずあけてしまったのです」
と、おろおろしてお芦はさけんだ。
おげ丸はふり返った。
いまひらいたお芦の視線のかなたには、夏の――というより、この高山では初秋といっていい日の光に、ゴブラン織の山車の幕が絢爛とかがやきながら、しずしずと動いていた。
「鱗斎が見たかも知れぬ」
と、おげ丸がさけんだ。
「いや、見たにちがいない。――」
彼は、ややうろたえて、まわりを見まわした。
「お都奈どのを見つけたら呼べ。……宿に帰らねばならぬ。宿へ帰って、すぐさま出立せねばならぬ。きゃつらが、この高山へ来る前に。――」
そして、お菱、お芦の手をとって、急ぎ足でしばらく歩いて、ふとお芦のからだに妙な痙攣《けいれん》が走ったように感じられたので、おげ丸はふりむいて、「や?」と驚きの声をあげた。
とじられたお芦のまつげの下から、二すじの細い血の糸が垂れていた。
「な、何をした。お芦。――」
「さっき、針売りのばばさまから買った縫針で、眼を――」
お芦の片手から、血まみれの一本の針が落ちた。
「申しわけありませぬ、おげ丸さま。……もうどんなことがあっても、お芦は眼をひらかないでしょう」
いまさらそんなことをしても追いつかない、といってみたところで追いつかない。彼女は微笑《ほほえ》んでいた。なまめかしい、という感じでは三人のうち一番だが、同時にしまりのないところがあるともいえるお芦のこんな凄愴《せいそう》な笑顔ははじめて見た。
「どんなことがあっても、追手からのがれて、おなかのやや[#「やや」に傍点]を無事生まねばなりませぬゆえ。――」
「すみませぬ、お芦どの」
お菱が飛びついて、お芦の肩を抱いた。
「わたしが悪かった。わたしに魔がさしたのです。おまえのいう通りです。子を消したとて、すべてが消えるわけでもないのに。――」
人々がまわりに寄って来た。両眼から血をながしている女、それを抱いて泣きじゃくっている女は、神輿や山車よりも好奇心をそそる対象であったにちがいない。
「とにかく、帰ろう」
おげ丸はそれに気づいて、お芦を背にぐいとかつぎ、タッタと走るように歩き出した。
おげ丸の背で、お芦はまだにんまりと笑っていた。邪悪、というほどではないが、その笑顔にはどことなくぶきみ千万なものがある。
ひょっとしたら、いまの自分の「破戒」をわび、かつ永遠の「厳守」を誓ったけど、お芦の本心は――ただお菱とおげ丸との問答をきいてかっとなったヒステリー的行為か、やきもちから来たあてこすりであったのかも知れない。しかし、同時にこれで永遠におげ丸のお荷物となることを狙《ねら》ったとまで見るのは考え過ぎだろう。
むろん、おげ丸はそんなことは考えない。ただ、えらいことをやったものだと惑乱している。
惑乱の中にも、彼はくびをひねっていた。――さて、飛騨からどこへ逃げようかと。
「……まっ、こんなところに?」
群衆の中から、息を切らしてお都奈が走って来て、ふいに眼をまるくして、
「あら! お芦も来たの?」
と、さけんだ。おげ丸は説明する元気も失っている。
ともあれ、女たちが分娩するまでに、まだ少くとも五ヵ月はあった。――おげ丸にとって厄介至極なのは、敵の甲賀者か味方の女たちか、いずれをいずれとも判じ難い。
「――おおっ、飛騨の高山だっ」
と、漆鱗斎《うるしりんさい》はさけんだ。――ちょうど、高山でお芦が眼をひらいたのと同日の同時刻にである。
それがどこかというと、なんと関ケ原だ。
あれから二ヵ月、甲賀衆は関ケ原の宿にいた。
べつに春から夏へ、伊吹山《いぶきやま》を仰いで歌ごころを養っていたわけでも、この地の戦史を回顧していたわけでもない。動こうにも動けなかったというのがいつわりのないところだ。
漆鱗斎・高安《たかやす》篠兵衛組と、釜伏塔之介《かまぶせとうのすけ》組とはこの関ケ原で偶然落ち合ったが、麻羽玄三郎・栃ノ木夕雲組はすでに西へすっとんでいってしまっている。
「いかん。――呼びもどせ」
ということで、高安篠兵衛がこの味方をあわてて追っかけて――そして、すでに近江《おうみ》の磨針峠《すりばりとうげ》まで急行したものの、まったくおげ丸たちの匂いもしないのに、
「はてな?」とくびをひねっていた麻羽・栃ノ木をやっとつかまえた。
さてこれを呼びもどして、一同関ケ原に勢ぞろいしたものの――さてかんじんのおげ丸たちの行跡をまったく失ってしまった。
「東へひき返したか?」
「東といっても、東海道もあれば中仙道《なかせんどう》もある。まさか、東海道ではあるまいが。――」
「いや、存外人をくったところもあるおげ丸だから、逆に虚をついてやりかねぬぞ」
「それとも、北国街道か?」
「南へ、伊勢街道《いせかいどう》を逃げるという手もある」
ここは天下分目のいくさが起ったくらいの要衝で、その通り東西南北いずれにも道がつながっているのだから、彼らがここに立往生して、迷ってしまったも当然だ。
「やっぱり西国だ。その可能性がいちばん強い。――」
と、麻羽《あさは》玄三郎がみれんげにいうと、
「いや、おげ丸はたしかにおれの遠見貝に気がついた。気がついて、途方もない大いたずらをやりおった! おれに大男根を見せて、あとは遠見貝の嵌《は》まった眼をつぶらせおった!」
思い出しただけで、また鱗斎は舌打ちして、
「あんなことまでやったおげ丸だ。斬られた三人に、西へ向ったと見せかけたところがかえって臭い。――」
斬られた三人とは、山伏姿に化けさせた甲賀者で、ほかに尾張《おわり》の宮の沖で二人海に落ち、一人は何とか陸まで泳ぎついたものの、一人はどうやら溺《おぼ》れたらしく、すでにこれまで合計四人の犠牲者を出している。
「こんなことになるのであったら、東海道のうちに始末すべきであったのだ」
「それを、敵はすでにわが眼中にあり、最もよい時期と場所をえらんで――などと、悠長《ゆうちよう》なことをいっていたのはだれだ」
麻羽玄三郎と釜伏塔之介がなじるのに、責任者の鱗斎は頭をかかえていたが、
「もしかすると、うぬは手柄を一人占めしようとでも思ったのではないか」
「そして、その手柄でこれ以後、甲賀組の主導権を握ろうとでもいう野心を起したのではないか」
などと弾劾《だんがい》されるに及んで、あらぬ濡衣《ぬれぎぬ》か、それとも胸にどきりと来ることでもあったのか、この一見地味な男にも似合わず昂奮《こうふん》して、
「それというのも、おまえたちがあの三人の女を犯して堕胎させるなどいい出したからだ」
と、歯をむき出してやり返した。
それに負けている玄三郎や塔之介ではない。嘲罵《ちようば》のこもったげらげら笑いで答える。
「では、うぬは一人でそれをやるつもりであったのか」
「やれば、おまえの方が流産するじゃろう。あははははは」
とんだ仲間|喧嘩《げんか》がはじまる始末だ。
「そんなことをわめき合っておる場合ではない。――」
と、高安篠兵衛がとめて、
「ともかくも、向うがどこへ逃げたかをつきとめねばならぬ」
というわけで、さてこの関ケ原を基地として、改めて東西南北へ彼ら自身、また配下を派して情報を蒐集《しゆうしゆう》する。
その間、何度か、
「江戸のお頭への連絡は?」
と、不安げにいい出した者もあったが、
「まさか、高言の手前、おめおめとこの失態を報告は出来ぬ」
という栃《とち》ノ木夕雲《きせきうん》の言葉に、それもとりやめになった。
「ともかくもこうなった以上、一刻も早く使命を果して、それを土産に江戸に帰るのが唯一の報告じゃ」
従って、それだけに彼らの責任はのっぴきならず、いよいよ重大、その焦燥、狂奔はいうまでもない。
これが常人相手の捜索ならこれほどの苦労はないのだが、この鱗斎の遠見貝といい、また七里の渡しで完全に化けたつもりの釜伏塔之介の変化袋もたちまち看破されたことといい、いまにして相手が余人ならぬおげ丸であることをみな思い知った。
そこに。――
「おおっ、飛騨の高山だっ」
八月某日に至って、突如鱗斎がさけび出したのだ。
蒼空《あおぞら》と群衆の中を華やかに練ってゆく飛騨の高山八幡祭りの山車、それが美濃の関ケ原にいる漆鱗斎の眼に見えて、それから――まさにおげ丸、お菱の顔や姿が映ったのは、あたかも音声を消したカラーテレビを見るよう。
「おう、ゆけっ、高山へ。――」
「いや、麻羽組が近江へ出ている」
「高安は北国街道へいっておる。――呼び戻《もど》せ」
騒いでいるまもなく、突然また、こんどは「あっ」といって、鱗斎が両眼をおさえた。
ややあって、眼に嵌めていた第五番の遠見貝をみずから鱗斎ははずした。と、その薄い二片の貝は、彼の掌の上でハラハラと砕けた。
「どうした?」
と、釜伏塔之介がきくと、鱗斎は茫然《ぼうぜん》として答えた。
「いま――ちくっと眼を刺されたような感じで、それっきりまた見えなくなってしまったが、はてな?」
こんな奇態な経験ははじめてだ。が、すぐに鱗斎は躍りあがった。
「いずれにせよ、きゃつら、気づかれたことをまた気づいたのはたしかだ。急げ、また消息を失うと一大事だ。麻羽、高安への連絡は、甲賀者をあとに残してやらせい!」
――かくて彼らは、もみにもんで中仙道を東へ六十キロ、太田の宿へ、さらにそこから北へ、有名な中山七里を越えて百二十キロ、高山へ急行した。
いかに彼らでも、飛騨路の嶮《けわ》しさ、三、四日はかかる。
が、到着の日に、おげ丸一行の泊っていた旅籠を洗い出したのはさすがである。さらに彼らが、飛騨から越中富山《えつちゆうとやま》へぬける山路を北上していったときいて、そのあとを追った。――
高山より北流する宮川が神通川《じんつうがわ》と名を変えるあたり、すなわち飛騨と越中《えつちゆう》の国境《くにざかい》あたりで、ふと山中の河原に莚張《むしろば》りの小屋が点在しているのを見て、栃ノ木夕雲が近づいた。
「これ、うぬらいつからここに瀬降《せぶ》っておる?」
むろん、これが山窩《さんか》と知ってのことだ。
「十日ほど前から」
と、瀬降りの前で、あかん坊に褐色《かつしよく》の巨大な乳房を与えていた女が答えた。
「では、二、三日前、ここを通っていった女づれの一行があったろう? 男一人、女三人。――」
「見た、見た」
何事か、とまわりの小屋から這《は》い出して来た見るもいぶせき――が、原始の善良性にみちた顔をした男たちが、口々に、その三人の女がたいへんな美人ばかり、男はずんぐりむっくりしたからだにたまげるほど長い刀をさして、女のうち一人を背負っていた、という意味のことを、甚《はなは》だ不透明な言語で答えた。
「まちがいない」
「それゆけ!」
甲賀衆たちは、雪を踏んで越中へ殺到していった。
九月。――
妊娠第五月。
胎児の身長十八―二十七センチ。体重二百五十―二百八十グラム。全身生毛を以て覆われ、頭髪発生しはじむ。胎児の運動|活溌《かつぱつ》となり、胎児心音強く、腹壁外より明らかに聴くを得。
子宮底は臍下約二指横径に達し、下腹膨隆しはじめ、母体は胎動を自覚す。
なんとおげ丸たちは美濃の中津川《なかつがわ》の宿にいた。
――むろん、甲賀衆をこんどは北へうっちゃったわけだが、実はおげ丸はいっとき飛騨から越中への道を志したのである。
越中が目的ではない。越後《えちご》へぬけて、佐渡《さど》へ――ということが頭をかすめたのだ。佐渡は曾《かつ》て父|長安《ちようあん》の王国ともいうべき島であった。そして、そこには、もしいまも安全であるならば、あの父の軍師、味方但馬《みかたたじま》がいるはずであった。
それで、高山からいちどは北への道をとった。が、途中で彼は足をとめた。
そのコースなら、当然敵も想定するだろう、と考えたこともあるが、そればかりではない。味方但馬は、長安からのあずかりもの、すなわち長安の科学の集大成を護持して待つといった。しかし同時にそれは長安の子がぶじ誕生し、かつ成長したあかつきに渡すべきもので、それまでは両者相分れていた方が危険率が少い、ともいった。それを思い出したのだが、そればかりでもない。――
父長安の旧王国に逃げ込む、というそのこと自体が彼の心に拒絶反応を起したのだ。
安易をにくむ、それもある。ちょうど敵国上方へ逃走することを忌《い》んだへそまがりの天性、それもある。しかし、おげ丸自身も意識しないもう一つの――おそらく真の理由は、父に洗脳されたはずの彼の、父に対する悲しき抵抗の心が、はからずもここで小噴火を起したのではあるまいか。
旅籠を逃げ出したのが夕暮ちかかったので、山路《やまじ》は夜にかかった。そこで、おげ丸は反転した。
夜の高山の町を通ってまた南へ。――
だから、おげ丸たちの姿を日のあるうちに見た者は、だれでも北へ逃げたというだろうが、これはあらかじめの計算ではない。ましてや――実にふしぎな話なのだが、彼らはむろん飛騨越中の国境などへいったおぼえはないので、のちに追跡した甲賀衆が、例の山窩たちからきき出したような事実は、むろんおげ丸のあずかり知るところではない。
いうまでもなく、高山から南下した彼らは、高山へ北上する甲賀衆と、途中――中山七里あたりでゆき逢った。
いつ発見されるかわからない逃走と追跡の旅ではない。その数日、当然あるべきことと覚悟して遭遇した敵である。おげ丸は先頭に立ち、全力をあげて警戒し、みごとにやり過ごした。お都奈などは、谷底の道を急行する甲賀衆を短銃で狙い、
「いま、籔《やぶ》をつついて蛇《へび》を出すことはあるまい」
と、おげ丸にとめられたくらいである。
攻撃を受けないかぎり、こちらから手を出したくない――敵にして友という意識がおげ丸に働いたからであったが、しかし後になってみれば、やはりこの遠慮がとり返しのつかない大惨劇を呼んだといえる。
ともあれ、彼らはかくてもと通りの中仙道《なかせんどう》に戻ったのだが――。
飛騨路から中仙道に入る太田《おおた》の宿、そこからわずか六十キロほど東へいったばかりの中津川の宿で停止して、それから一ト月も動けなくなってしまった。
というのは、お都奈が急に腹痛を訴え出したのがはじまりで。――
流産というものは必ずしもその誘因にただちにつづいて起るものではない。ときには数日をおいて起ることがある。そんなことを知らないおげ丸がはじめただの腹痛だと思ったのみならず、お都奈もそう思っていたらしかった。彼女は長安からもらった腹痛用の丸薬などを服《の》んでいた。
ところが、夜半に至って。――
「おげ丸さま、たいへんです」
と、お菱がおろおろとして飛んで来た。
「お都奈さまが血を流されて。――」
「なに、血を? ど、どこから?」
お菱は赤くなったり蒼くなったりして、
「どうやら、御流産のようです」
「で、出たのか!」
「いえ、まだですけれど、いまにも。――」
おげ丸は仰天した。
「そ、それはまさに一大事だ。産科の医者を探さねば。――」
「いえ、都奈さまは、おげ丸さまを呼んでとおっしゃいます」
判断力を失い、片身離さぬ長刀さえ置きっぱなしにして女たちの部屋に駆け込んだおげ丸は、うす暗い行燈《あんどん》の灯《ひ》に赤いものを見て、はっとして立ちすくんだ。それは布きれを染めた血潮であった。
彼は身をひるがえそうとした。お都奈は細い声で呼んだ。
「待って、おげ丸どの。――」
「いや、医者を探して参る」
「間に合いません」
「えっ、間に合わぬ?」
「流産の後始末なら間に合うかも知れません。けれど、わたしは、流産してはいけないのです」
「してはいけないといったって、その通り。――」
行燈のかげに坐《すわ》っていた盲目のお芦が、ふるえ声でいった。
「あの飛騨の山道を急いで歩いて来たせいじゃないでしょうか?」
「わたしはいまあかん坊を生んではなりません」
と、お都奈はいった。夜具からのぞいた顔は、ふだんでも氷を彫ったような美貌《びぼう》だが、それがたんなる形容ではないほんものの氷みたいに見えた。彼女はあえぎながらいった。
「日本国のために!」
「おお。――」
おげ丸は活を入れられたようになり、夜具を回って、お都奈の傍《そば》に坐り、その手をとった。ぎょっとするほど出血し、氷みたいな顔をしているのに、手は燃えるように熱かった。
「おげ丸どの、助けて。――」
おげ丸はどうしていいのかわからない。
「あかん坊を助けて。――」
助けてといっても、あかん坊はなおお都奈の胎内にいるのだから、手の施しようがない。おげ丸は、ただ首をがくがく振りながら、彼女の手を握りしめていた。女のからだから腕へ、ぴくっ……ぴくっ……と、間歇的《かんけつてき》な痙攣《けいれん》が波打って来る。
くいしばったお都奈の歯のあいだから必死のさけびがもれた。
「おげ丸どの、あかん坊が出ないようにして!」
狼狽し、混乱し、おげ丸はお都奈のかたわらで頭をかきむしり、さてそれから何をしたか。――
なんとおげ丸は、血まみれのお都奈の――胎児の門に顔をおしあて、これを吹きはじめたのである。流出しようという胎児をもとの通りに吹き返そうというわけだ。
そんな治療法が産科にあるものではない。忍法にあるかというと、そんなものもない。ただ進退きわまり、無我夢中、成敗《せいばい》は天にまかす復原術であった。
蟇《がま》のごとく這いつくばり、妊婦の股間《こかん》に顔をうずめているおげ丸の姿を――作者ならばむしろ荘厳なものと見るが――お菱はどう見たか、彼女はただ息をのみ、眼を見張っているばかりであった。
ただ、名状しがたい音に、
「あれは何?」
と、お芦が眼の見えない顔をふり動かせた。
「お菱、おげ丸さまは何をしているの?」
お菱は声もなかった。
この復胎法――というよりシャーマニズムの呪術《じゆじゆつ》としかいいようのない行為がいつまでつづいたか、時空を超越した光景なので、だれも時間の経過も知らなかったが、ともあれ妊婦がスヤスヤと安らかな寝息をたて出したので、おげ丸が額をあげたとき、障子には白じらと水のような天明の光があった。
一念、神に通じたか、お都奈の胎児はついにその門内にとどまってくれた。――
さて甲賀組を飛騨から北へやり過ごしたとはいうものの、彼らがいつまでもおげ丸たちの消息のない北陸道あたりをうろうろ彷徨《ほうこう》しているとは思われない。必ずやまたひき返し、中仙道一帯を捜索するにきまっている。
そのためにも、同じ宿駅に長らくとどまっていることは危険だ。そう承知しつつ、お都奈にそんなことがあったので、また万一のことがあってはと警戒し、おげ丸一行は一ト月近くもその中津川に足をとめられていた。
彼らが木曾街道《きそかいどう》に踏み込んだのは十月のことだ。
いまの暦でいえば十一月、木曾路を枯葉とともに北から吹き通る風は、もはやこがらしに近かった。
妊娠第六ヵ月。
胎児の身長二十八―三十四センチ。体重約六百―七百グラム。皮下脂肪の蓄積はじまるも皮膚なお薄く、皺襞《しゆうへき》多く、胎脂を以て覆わる。この月に於《おい》て胎児を娩出すれば、すでに呼吸し、かつ四肢を動かせどもただちに死亡す。
母体の子宮底は臍高《せいこう》に達し、胎児各部分を明らかに触るを得。
胎児の状態など、おげ丸にはわからない。
ただあかん坊が九ヵ月ないし十ヵ月で生まれることだけは承知している。――その時よ来い! 一刻も早く誕生の日よ来い!
木曾街道に入ったばかりの馬籠《まごめ》の宿《しゆく》で、おげ丸は両掌を額に合わせ、ただそれを祈るばかりであった。
――中津川《なかつがわ》から馬籠まで、もうつづら折れの山道だ。里人は十石峠《じつこくとうげ》というが、本来は十曲といったのを訛《なま》ったものだという。
そこをおげ丸は、盲目のお芦を背負い、両腕にときどきお都奈を抱いて上って来た。しかし、中津川からわずかに八キロ余の馬籠に泊ったのは、そのお都奈のからだが案じられたのみならず、彼女の精神状態に何だか心もとないところが出て来たからだ。
あの流産騒ぎ以来のことである。
中津川に一ト月いたのもそのせいもあったのだが、あれほど理智的であったお都奈の言動がどうも変だ。
げんにその十石峠を上って来るときも。――
「おげ丸どの」
と、腕の中でいう。
「生まれて来る子は、だれの子でありましょう?」
「父上の子でござる」
「ほかの女はそうかも知れぬ。しかし、わたしの子はそれだけでしょうか」
「それだけとは?」
「父上はわたしに水を入れられた。おげ丸どのは風を入れてくれた。水は子の血となり、風は子の息となる。肉はわたしが作る。生まれて来る子は三人の合作ではないでしょうか?」
だいぶ歩いてから、やっとこれはあのおげ丸の胎児復原法のことをいっているらしいと見当をつけたが、それでもこの哲学はよくわからない。
彼女は、あのことばかり思いつめているらしい。思いつめたあげくの哲学的思考であろうが、おげ丸でも変だと思う。こんな妙なことをいうお都奈ではなかったはずだが、これもあの流産騒ぎの余病にちがいない、と彼は考えた。しかし、ほんとうのところは、流産騒ぎそのものよりも、おげ丸の復胎術の方が彼女をおかしくさせた張本人かも知れない。
すると、背中でお芦がいう。
「こうしていても、わたしは胎教をやっているのですよ」
「どんな胎教」
「関ケ原でわたしが最後に見たもの――あれを瞼《まぶた》にえがいて、生まれて来るやや[#「やや」に傍点]もあんなにふとくたくましくあって欲しいと念じつづけているのです」
例の遠見貝の悪戯《いたずら》は、彼女にとって負目ではなく、どうやら特権的儀式として追憶されているらしい。
すると、ならんで歩いていたお菱が、おげ丸よりも頭の回転が早く、
「お芦、おまえはあの後飛騨でまた眼をあけたではありませんか。そんな胎教はもう無効ですよ」
――いや、めちゃくちゃな立論であり、めちゃくちゃな否定だ。みんな正気のような口のきき方をして、どこか正気でないところがある。
馬籠の宿場には転がりこんだが、彼女たちの非論理きわまる言い合いはなおつづく。おげ丸は宿を逃げ出し、村の入口の田の畦《あぜ》に腰を下ろして大息をついた。
むろん、ついた当日ではなく、それ以来毎日のことだが。――
道は一本道、しかも宿場そのものが坂の両側にあるような地勢で、ここからもだんだん畑の中をつづら折れに上って来る道が一望に見える。ここで見張っていれば、万一中津川方面から敵が追って来たとしてもすぐに見つけることが出来るだろう。――
「物見だ」
といって出て来るのだが、むろん逃避だ。しかし収穫のあと水を張った田毎《たごと》にうつるのは、月影にあらず敵影にあらず、近来とみになまなましくなった――懐胎期間の半ばを越えた女たちの生態であった。
とにもかくにも忍者一族の娘たち、常人以上に軽捷《けいしよう》であったのが、やはり肩で息をすることが多くなり、ときには顔がむくんで見えることもある。お菱がそっと口を動かしているので何かとのぞいて見ると生米であったりするのも異様だし、それにみな、みるみる乳房が大きくなって来たようだ。
お芦のごときは、どういうつもりかおげ丸を呼びつけて、いってみると、乳房の一つをまる出しにしている。おげ丸があっけにとられていると、
「ちょっとしぼって見て」
という。
めんくらいつつ、ぎゅっとにぎりしめてやると、暗褐色《あんかつしよく》の乳頭から薄い透明な液体がタラタラとにじみ出した。――
「ああ」
彼女はうっとりと身をふるわせた。
「きもちのいいこと」
――ひとりになると、そんな彼女たちの表情や姿態がかえっておげ丸の脳髄でなまめかしくからみ合う。このごろいよいよあぶらづいて肥りぎみになった女たちにくらべて、おげ丸の方はいささかやつれたようだ。
で、馬籠に暮すこと一ト月近いその日も、坂道の路傍の石に腰をかけて、物見よりも白日夢にふけっていると。――
「おげ丸どの」
うしろから、声がした。ふり返ると、お都奈だ。
「あ。……あなたもここへ?」
「あなた、などと呼ばないで」
「へ?」
「わたしはおげ丸どのの許婚《いいなずけ》だった女ではありませんか」
「……しかし」
「いまはお父上の子を身籠っている女だ、というのでしょう?」
いっている言葉よりも、おげ丸はお都奈の眼に魅入られた。厳しいような、なまめかしいような――とにかく以前の気丈で理智的なお都奈にはとうてい見られなかった表情だが、それに中津川以来へんに思いつめた狂的な感じが加わっている。
「それについて、あなたにお話ししたいことがあるのです」
「なんでござる?」
「それより、ちょっと見せて」
「何を」
「この春――服部屋敷の忍びの森で見たものを」
「?」
「ほら、あなたが高安篠兵衛の拍掌剣を見ながら、木の切株の上で見せたものを」
「?」
「関ケ原でも、お芦に見せたじゃないの?」
やっとおげ丸はお都奈の要求しているものを了解したが、関ケ原はともかく、この女性が忍びの森の一件をまだ記憶しているのには唖然とした。さて、その要求の内容はわかったが、その理由に至ってはいよいよ以て腑《ふ》におちかねる。
「それを見て、長安さまを思い出したいのです」
と、お都奈はいった。
「でないと、わたしはどうなるかわかりません!」
なぜ、どうなるかわからないのか、それこそわからない。しかし中津川以来、妙なところのあるお都奈を知っているおげ丸は、この女人のヒステリー的状態を怖《おそ》れた。
「では、ともかくもお見せつかまつるが。……」
あいまいな声と顔つきで、それを出した。
「おげ丸どの」
「はあ?」
「お都奈はたしかにお父上のお子を身籠っています」
異様にひかる眼で、そのものを見下ろしたまま、お都奈はいう。
「なぜ長安さまがわたしたちに子だねを仕込まれたか、その意味はいま思い出すまでもありません。お都奈は生みます。日本国のため、きっとその子を生んで見せます。――けれど、それは日本国のためのサイエンスの子であって、わたしの子ではありません。……」
「…………」
「わたしは長安さまの子を生む道具です。それは聖なる道具ですけれど、結局は道具です。その義務さえ果たしたら、わたしがわたしの子を生むことに長安さまが御異議をお唱えになるでしょうか?」
「…………」
「いいえ、長安さまは、そんなことはかまわぬ、とおっしゃるにちがいありません。あの方は笑ってそうおっしゃるにきまっています。……わたしは、このごろそう考えるようになったのです」
「…………」
「おげ丸どの、いつかわたしはわたしの子を生みたい! それはいけないことでしょうか?」
「――だれの子を?」
おげ丸は嗄《か》れた声を出した。
「わたしはおげ丸どのの許婚でした」
お都奈はじっとおげ丸の眼をのぞきこんでいった。手はいとしげに小おげ丸を撫《な》でていた。
「そして――いま腹にあるやや[#「やや」に傍点]を生むのに支障さえなければ、いまおげ丸どのとわたしが夫婦《めおと》になってもさしつかえないのではないでしょうか?」
彼女はついにいった。
お都奈のいっていることは実に論理的だ。こんな理窟《りくつ》はお都奈なればこそと思うし、また何だか変だとも思う。おげ丸にはよくわからないが、ただ――彼女がしきりに撫でさすっている行為だけは、絶対に以前のお都奈にはあり得なかった行為だ。
「で?」
おげ丸は不安そうに、やや腰をひいていった。で、このふるまいは何でござる? といおうとしたのだが、
「わたしの考えは変かも知れません」
と、お都奈は自分でいった。
「わたしは大変罪深いことを考えているような気もします」
彼女はおげ丸の股間にひざまずき、どう見ても狂的な顔をふりあげた。
「そのために長安さまを思い出し、お叱《しか》りの声あればきき、煩悩《ぼんのう》を消すよすがにもしようと。――」
そしてお都奈は、長安の声をききたいと焦るがごとく、小おげ丸に頬《ほお》ずりをした。この思考と行為の関係はおそろしく飛躍している。
それはともかく――なんじょう以てたまるべき。
曾て高安篠兵衛に「女を抱きたいと思うか」ときかれ率直に「大いに思う!」と答えたおげ丸だ。鉄石どころか、正直なところこの旅に出て以来、愛する女たちのなまなましい生態にふれ、このところとみに悩みぬいているおげ丸だ。
熱い頬に頬ずりされて、ザ、ザ、ザーッと驟雨《しゆうう》のごときものが路上へ飛んだ。
「……あ」
そこで、声があがった。
四人の女巡礼がそこを通りかかっていたが、みないっせいに頭からこの白雨をあびて――棒立ちになった。みな真っ赤な顔をしてこちらをにらんでいるところを見ると、通りすがりにさっきからこちらの行状を見ていたに相違ない。
実はおげ丸は、遠くからこの女巡礼たちが坂を上って来るのを見ていたのである。彼女たちがふる鈴の音もきいていたのである。――が、それが十数歩の向うに近づいて来たころから、眼も見えず耳も聞えずというていたらくになり果てた。
たちまち奇声を発し、わらわらと宿場の方へ逃げ上ってゆく四人の女巡礼たちを、おげ丸は放心状態で見送っていたが、ふと。――
「お都奈!」
と、さけんだ。
どの[#「どの」に傍点]をつけることを忘れたのは、あわてたためか、急速に親愛感をおぼえるようにたったためかわからない。
「鉄砲を持っておるか」
「はい、ここに」
お都奈はふところからイスパニア銃をとり出した。
「あの女巡礼を撃って見てくれ。いや、あててはならぬ――頭上に」
うろたえながら、お都奈はふりむき、逃げてゆく女巡礼たちの空へ一発ひきがねをひいた。――なのに、銃声とともにばったりとその右端の一人が倒れた。
むろん、命中したわけではない。その証拠に、倒れた女巡礼はこちらに顔をふりむけ、すぐにはね起きて、さきにいった朋輩《ほうばい》たちを追って、みるみる馬籠宿の中へ消え去った。
「いかん。――お芦たちが危い!」
おげ丸は躍りあがった。
「あれは、釜伏だ!」
「えっ? あの女巡礼が。――」
「そんな気がする。ううむ、女に化けるとは思わなかったが、そういうこともありうる。――」
おげ丸は二、三歩走り出し、ひき返してお都奈の手をとり、また駈《か》け出した。
「どうしてわかりました」
「いまの四人の女巡礼、三人赤い顔をしたが、一人は顔色変らず、おれの方を見ておった。そのときはこちらもべつに気づかなかったが、あそこまで逃げてから、はてな、と思いあたったのだ」
「で、短銃は?」
「いまの女の転び具合、むろん弾《たま》を避けたのだが、あのとっさの間の電光の身ごなし、忍者以外の何者でもない。それが、いま顔色も変えなかったあの女だ!」
「ほかの女は?」
「あとはほんものの女だ。そうか、江戸から呼んだという甲賀者《こうがもの》のうちにはくノ一もおったか。さもあらん。――」
「ああ、それなら撃ち殺してやればよかった!」
と、お都奈はさけんだ。これは正気の声である。――走りながらの問答であった。
「しかし、ついに来たな」
と、おげ丸はうめいた。声にはしかし恐怖というより躍然たるひびきがあった。
「来るはずだ。遅かったほどだ。きゃつら、とうとうこちらを捕捉《ほそく》しおった!」
旅籠《はたご》に駈け戻った。お芦とお菱は無事であった。
急報によって、素破《すわ》とばかり彼女たちも身支度したが、さてどこへ?
「先に釜伏がいった。うしろからは残りの面々が追って来るだろう」
両側にはほとんど脇道《わきみち》というもののないひとすじの木曾路だ。おげ丸は街道に立って左右にそそり立つ木曾の山々をふり仰いだ。
蕭条《しようじよう》たる木曾の第一宿馬籠の空、葉は落ちつくしても美しい樹々のかなた――山々の頂上にはすでに雪が白くひかっている。
「ともあれ、北へ。――」
またもや、お芦を背負って、おげ丸は歩き出した。
すでに妊娠第七月。
胎児の身長三十五―三十八センチ。体重千―千二百グラム。皮膚暗赤色にして皺《しわ》多く一見老人のごとき顔貌《がんぼう》を呈す。男児は睾丸《こうがん》下降して陰嚢《いんのう》内にあり。女児の小陰唇《しよういんしん》、陰挺《いんてい》は大陰唇のあいだよりいちじるしく突出す。大腸内には胎糞《たいふん》あり。嚥下《えんげ》作用あれどもいまだ吸引力なし。これを娩出《べんしゆつ》すれば弱々しく啼泣《ていきゆう》し、かつ四肢《しし》を動かせども間もなく死亡するを常とす。
子宮底の高さは臍上二―三指横径。
[#改ページ]
母旅同行六人
馬籠から宿場を過ぎること五つめの上《あ》げ松《まつ》の宿。四十数キロ。
むろん、ひと足で来たわけではない。その間、前を見、うしろを見、かたつむりのごとく歩を運ぶ上に、すでにときどき乾いた雪片をすらまじえる木曾の山風にお菱《ひし》が風邪をひき、途中しらなぎ坂の茶屋に、六、七日も逗留《とうりゆう》した。
そして、ようやく上げ松を過ぎて。――
「……お」
おげ丸は、木曾川とは反対側の山の林の中に立っている高札を見た。前後に人影がないのを見すましてから、
「ここを動いてはならんぞ。おれはちょっとあれを見て来る」
と、三人の女にいい置いて、右手の山の急な斜面を平地のごとく上っていった。
高札はそこだけに立っているのではない。この街道、あちこちで見ている。お留山《とめやま》、すなわち里人の伐木を禁ずるお触れで、徳川家《とくがわけ》の木曾《きそ》代官山村甚兵衛の名によって立てられたものが大半だが、その中に、ときどき、
「一枝を切る者は一指を切る」
とか、
「木一本首一つ」
などいう、きわめて単純で恐るべき文言のものがあって、その立札はもうぼろぼろに朽ちかけたものが多い。墨のあとも風雨に薄れているが、なんとその命令者の名が。――
「徳川総代官|大久保石見守長安《おおくぼいわみのかみながやす》」
と、ある。
すなわち長安が生前の一時期、いまの代官山村甚兵衛の上にあって木曾を支配していたころの名残りだ。そんな時代があったとはほのかにきいたこともあるが、まだその当時の立札までここに残っていようとはおげ丸にも思いがけなかった。
すなわち木曾の山林をみだりに伐《き》ることを禁ずる法を確立したのは長安なのである。まことに土地の人間にとって残酷な法令で、しかも死刑を以て脅すとは一見言語道断だが、この長安の方針は徳川三百年を通じてつらぬかれ、結果として現代の木曾の大美林を残し、土地の人々をもうるおしている。ヒトラーのアウトバーンがドイツ復興の原動力となったと同様、政治の批判はまことに一朝一夕の眼では出来難いものだ。
それにしてもおげ丸が、高札を見ると、それが父のものではないかとのぞきにゆかずにはいられない心理はいかなるものか。――本人にも不可解だ。
で、いま、高い山の斜面の檜林《ひのきばやし》の中で、
「一木|一梟《いつきよう》」
という怪文字と大久保長安の名を読んで、妙な満足をおぼえ、さて山を下ろうとして何気なくヒョイと下の街道のゆくてを見た。――
崖《がけ》を廻《まわ》った向うの山肌《やまはだ》、これも岩だらけで、その中腹に延々と板を編んだものが渡してある。
――ははあ、あれがつまり木曾のかけはしか。
と、うなずいたあとで、さらにその上方に――ぴたっと貼《は》りついた四つ五つの影を見たのだ。
枯れた蔦《つた》の葉が這いまわり、さらにその下に岩の突起があり、何も知らず下のかけはしを渡っていったなら、ついにその姿を見ることも出来なかったろう。
「お都奈《つな》、来い。――」
と、おげ丸は声を落して呼んだ。
お都奈、といつのころからか呼び捨ての名で呼ばれて、お都奈はいそいそと山を上って来た。さすがに腹のふくらみが目立ち、おげ丸のそばに来たときは肩で息をしてあえいでいる。
「あれが、木曾のかけはしだ」
と、おげ丸は指さした。
「上に甲賀者が――五匹、へばりついておる」
「……あ!」
「橋の下にも貼りついておるやつがあるようだぞ」
「ま!」
「岩と枯れ蔦がじゃまになって、あの中に五人衆のだれかがおるかどうかはわからないが、何にしても知らずにへっぴり腰で橋を渡れば危ないところだったよ。なるほど、待ち伏せるには一番の場所じゃな」
きっとしてその方をにらんでいたお都奈が、ふところからイスパニア銃をとり出した。
「待て」
おげ丸はふりむいて、いまやって来た街道の方を見た。
それも木曾川にそそり立った険しい山の中腹を削った細い一本道だ。そこを七、八人の、白衣に金剛杖《こんごうづえ》をついた御獄《おんたけ》行者のむれが駈けて来る。まだ豆粒のような影だが、あの速度では数分でここへ到着するだろう。
「うしろからも来るぞ」
「え?」
「とうとう挟《はさ》みうちになったよ」
おげ丸は眼下を見た。二人ならんで歩けないほどの道に、お菱は盲のお芦《あし》の手をしっかりとつかんで、こちらを仰いでいる。
ここで前後の敵を迎えんか、おげ丸が前に立てば女たちは後の敵と直面することになり、おげ丸が後に回れば女たちは前の敵と対することになる。
「……鉄砲でおどすよりほかはないなあ」
おげ丸は憮然《ぶぜん》として、かけはしの方へあごをしゃくった。
「この難所を突破するには、あれをどけるよりほかはない。ただし、あの五人衆の中のだれかがあの中におるかも知れぬ。なるべく殺しとうない。――」
この場合に、おげ丸はまだそんなことをいっている。
「おどせばいいのだ。狙《ねら》いをはずして撃ってくれ。合図したら撃って、きゃつらが逃げるのを見とどけたらすぐに下りて来い。頼むぞ。――」
山を駈け下りて、お菱お芦に情況を説明する。
「お菱、煙筒《けむりづつ》があるか」
「あい」
「二本貸せ」
おげ丸は腰に下げていた紺染めの縄《なわ》をとり出して、一メートルくらいに切った。硝石をしみこませた木綿縄――火縄《ひなわ》だ。その一端に点火した。火縄はぶすぶすくすぼり出した。
お菱が出した二本の細い竹筒を、両足の親指の外側にはさみ、お芦を背に背負った。
「お都奈、撃て」
轟然《ごうぜん》と銃声が山峡にこだました。一発、二発、三発。――
「まっ、あわてて転がり落ちること。おほほほほほ!」
「みんな逃げたか」
「転がり落ちて、かけはしを向うへ。――」
狙いははずさない。お都奈は狙って撃った。たしかに崖から橋の上へ落ち、さらに一つはねて下の河へ落ちていったやつがあり、橋でとまって、はね起きてこけつまろびつ逃げていったやつもあるが、その恰好《かつこう》から見て負傷していることはたしかだ。
「よし、下りて来い、ゆくぞ!」
おげ丸は火のついた火縄を口にくわえた。お都奈が山からよじ下りて来るのを見すますやいなや、真っ先に駈け出した。あとに二人の女がつづく。
崖をまわると、まもなくかけはしであった。
――いまでもここに昔の石垣の跡が残っているが、これは後年|慶安《けいあん》年間に尾州藩《びしゆうはん》が築いたものだ。その後の元禄《げんろく》ですら、芭蕉《ばしよう》が、
「かけはしや命をからむ蔦かずら」
と、詠《よ》み、さらに数百年を経て明治の世になってさえ、子規《しき》が、
「見る目危き両岸の岩穂、数十丈の高さに切りなしたるさま一双の屏風《びようぶ》を押し立てたるごとし。さらに一歩を進めて下をのぞけば川の勢い渦《うず》まく波に雲を流して、当りて砕くるひびき大磐石《だいばんじやく》も動く心地す。ささやかなる橋の、虹《にじ》のごとき上を渡るに、わが身も空中に浮かぶかと疑われ、足の裏ひやひやと覚え、強くも得踏まず通る」
と描写したほどの大難所だ。ましてやこの慶長年代。――
ここの山肌は人力で削って道とするのも叶《かな》わぬと見え、ただ板や杭を蔦かずらで結び合わせて崖沿いに吊《つる》してある。その長さ約百メートルに及ぶ。
それにかかる前、おげ丸はちょっとしゃがんだ。
たちまちその両足から、朦《もう》――とうすみどりの濃い煙が二すじ噴き出した。青竹の煙筒に火縄から点火したのである。
「足もとに気をつけろよ。……お芦はしっかりとおれにつかまっておれ」
さけんで、先頭に立って、かけはしを走り渡りはじめた。
「断った通り、刀は使うぞ!」
だれに対してか、おげ丸は呼ばわった。
その通り、下半身煙につつまれたおげ丸が、左手に長刀をふるうのが見えて、
「げっ。……」
「くわっ。……」
途中、三度ばかり、絶叫が聞えた。
お都奈は、おげ丸の頭上からもんどり打って落ちて来て襲いかかった影を見て、まだ崖の上にへばりついていたやつがあったのかと驚いたが、あとの方の二度の悲鳴は、橋のすぐ下からあがったようだ。同時に、はるか下の渓流で物体の落ちる水音が聞えた。
それをしかと見すます余裕はない。――ただでさえ危ないかけはしが、いちめん濃いうすみどりの煙につつまれている。お芦を背負ったおげ丸より、さらに十数メートル遅れたのは是非もない。
「お都奈、お菱、早く来い!」
前方で呼ばわる声がする。
「早く来ぬと、かけはしが落ちるぞ」
「――えっ」
「火縄をかけはしに二ヵ所ひっかけておいた。枯れ蔦の結び目が燃え出して、やがて橋は落ちる」
いつのまにそんなことをしたのだろう。――こういう行動に移ると、まるで魚が水を得たごとく、鳥が風を得たごとく、俊敏軽捷、別人どころか人間離れして来るおげ丸であった。
「斬《き》ったやつらの中に、五人衆はおらなんだよ」
百メートルのかけはしをつつがなく渡り切ってから、おげ丸はいった。ほっとしたような顔は、自分たちが無事であったことでなく、そのことであったようだ。
「ああ、やすやすと斬られるめんめんではない」
むしろ、その敵を誇りに思っているかのようにいう。
両足の細い青竹から吐き出される煙は、さすがにもう薄くなっていた。薬が燃えつきたらしい。――お菱が長安から太い青竹の筒三本に入れて授けられたもので、彼女はそれを適時細い筒に詰め変えて使うが、藍《あい》を主体とした色素に、塩剥《えんぼつ》などの燃焼加熱剤を混合した煙幕だ。
「忍び道具のうちにも、煙を出すものもないではないが。――」
むろん、これほどすばらしい発煙兵器はない。おげ丸もこの点は父長安の発明に頭を下げざるを得ない。もっとも、こういうサイエンスにははじめから白旗をかかげているけれど。
そのとき、背後のかけはしのずっと向うで、わあっという絶叫とともに、また水に落ちる音が二つばかり聞えた。
「うふ」
ふり返りもせず、歩きながらおげ丸は笑う。
かけはしのあたりは、まだ濃いうすみどりの煙につつまれている。そのために、火縄から発火して燃え落ちていた個所に気づかず、追って来た連中が転落したと見える。
「死んだか生きたかは知らず、ちょっとあとを追っては来られまい」
おげ丸は両足の細い青竹を捨てて、前方を見わたした。
「しかし、逃げたやつらはどうしたか?」
お都奈から考えても、たしかに逃げた甲賀者はいたはずだし、またはじめから前方に待ち伏せていたやつがないとはいえない。が、かけはしは過ぎたものの、依然としてつづく断崖沿《だんがいぞ》いの木曾路には、渓流に舞い散る無数の松葉のほか、人影は見られなかった。
「この先には、福島の関所があるな」
と、おげ丸がつぶやいたとき、はるか後方から、ピイイン、ピイイン、という世にも美しい金属的な音がかすかにながれて来た。
ようやく煙が霽《は》れて来た。
十数メートル下の木曾川に転落して、そのまま赤い虹をひいて流れ去った者もあるが、死物狂いに、岸壁沿いの岩にかじりついた者も四、五人ある。そして氷の滝を横にしたような急流に、やがてズルズルと押しながされようとする姿も見えたが。――
ピイイン。……
空に、あえかな金属音がひびくと、岩につかまった一人の男の頭上に黄金の輪がひらき、その胴を捕えた。
――と、見るや、まるで鞠《まり》みたいに空中にはねあげて、高い崖の上の道に放り出した。輪はむろん、解けている。
かけはしのたもとの路上に仁王立ちになった御獄行者姿の麻羽《あさは》玄三郎は、しゃくりあげた甲賀者をかえりみもせず、あたかも投網《とあみ》を打つ漁師のごとく低い河を見下ろし、またもビューッと投げた。
――不空羂索《ふくうけんさく》の鋼縄《こうじよう》を。
こんどは一本の縄から二つの輪が生まれて、二人の甲賀者を捕え、またも崖の上へはねあげた。
「不覚な!」
「待ち伏せておって、このざまとは?」
「女づれの敵ではないか」
口々に罵《ののし》りながらも集まって、行者姿の甲賀者たちは介抱する。傷の手当をしたり、人工呼吸をしたり――その中で、
「あ、いかん!」
と、絶望の声をあげた者がある。
「このくノ一、頸《くび》に鉄砲貫通し……いまこと切れたようでござる!」
「待て待て」
と、ちらっとこちらを見ていったのは栃《とち》ノ木夕雲《きせきうん》だ。彼はそのとき半死の甲賀者の一人の足の裏に、自分の足の裏をピッタリ合わせていた。
例の生霊逆《いきりようさか》ながれ。――
と、いうほどでもない。二つの足のあいだから、ほとんど血はにじみ出していない。しかし、これでも輸血はしているのだ。もし本格的にやると死者すらも一定時間生き返らせるほどの彼の怪血、ほんの小部分の毛細管の接触でも、半死の男を回復させるには充分なのであろう。――たちまちその男の頬に生色がよみがえって来る。
夕雲は、こと切れたという仲間の方へ、移った。
巡礼姿の女だ。さては先刻かけはしでおげ丸一行を迎撃しようとしていた人数の中に、このくノ一も混っていたと見える。それにしても、頸を横に貫通銃創を受けて、しかもいま河から救いあげられるまで生きていたらしいのは、大した生命力ではある。
「いったん落命した人間を生き返らすには、その生返った時間の倍だけこっちの寿命がちぢむのでな」
と、夕雲は重々しくいった。
もったいぶった、思案の表情だ。どうやらそれだけちぢむ自分の寿命が惜しい案配だが、仲間のいのちにかかわることで、他人から見ればけちんぼのようだが、本人にして見れば金を貸すより考え込むのも当りまえかも知れない。
が、すぐに。――
「そのくノ一死なすに惜しい器量じゃな」
と、枯れはてた顔に存外好色的な笑いを浮かべて、
「では、一ト月ぶん」
といって、匕首《あいくち》をとり出すと、おのれの足の裏を一ミリくらいの厚さにぐいとそぎ、削った皮をまるめて二つにちぎり、死んだ女の首の射入口と射出口にベタリとなすりつけると、くノ一の足の裏も同じ厚さに削って、ピタリと合わせた。
――はからずも開設された臨時野戦病院というところ。
「焼け落ちたかけはしをどう渡るかの」
前の方から、高安《たかやす》篠兵衛が戻《もど》って来た。べつにあわてた風もなく、ふだんの通りに悠然《ゆうぜん》としている。
「どれくらい落ちておる」
と、かみつくように麻羽玄三郎がいった。
「約、二間ばかり。――」
「よし!」
玄三郎はその方へ駈け出した。
この騒ぎをよそに、まるでおれには関係ない、といわぬばかりの顔つきで、立ったまま、うつむいて、臍《へそ》の前で何か細工をしている男があった。小さな刀が動くたびに、キラキラと雲母みたいにひかりつつ剥片《はくへん》が落ちる。漆鱗斎《うるしりんさい》である。それから手のものを一つ、片眼に持っていってあてがった。
例の遠見貝の製造だ。
ひまさえあればこれを作っているのはこの男の以前からの習性だが、このごろその製作ぶりがいっそう熱狂的になったようだ。まるで受験期の迫った高校生が英単語のカードをのぞきこんでいるように、寸暇があればこれをやっている。
――いったい、それがどれほどの役に立つのだ?
釜伏《かまぶせ》か、麻羽か、いちどならずそうきいたことがある。嵌《は》められた相手の見るものをこちらの眼にうつす忍法遠見貝、たしかに驚くべきものだが、相手が常人なら知らず。――
――その眼をとじられれば、それまでではないか?
げんに、敵はその通りに眼をふさぎ、結局ほとんどものの役に立たず、ついに春から秋を迎えてしまった。このはからざる大手違いも、もとはといえばこの遠見貝への過信に胚胎《はいたい》するものといっていい。
――また、たとえそれで敵の所在をつきとめたとしても、そのあと、さてそれがいかなる効用を発揮するのか?
何といわれても、この職人風の風貌《ふうぼう》を持つ漆鱗斎は、黙々としてひたすら貝を削りつづけているのだ。
いまのいまも。――この場合にその作業をつづけているのは非常識きわまる行為だが、それをとがめる気を起させないほど、もの[#「もの」に傍点]に憑《つ》かれたような鱗斎の姿であった。
で、高安篠兵衛も気にもとめず、
「夕雲老、結局わが方の損害は何人かの?」
「先にいった釜伏組を調べねば判然とせぬが、四人ではないか」
「して見ると、ろくに相手にもならぬうちにもう八人か?」
八人とは味方の犠牲者の合計だ。夕雲の顔は白ちゃけ、代りに死んでいたくノ一の頬が血色を浮かべ、乳房が波打ち出した。眼はひらいたが、まだ茫《ぼう》とうつろである。
「やはり、おげ丸じゃなあ。……」
と、舌をまいたように篠兵衛がいったとき、
「――出来たっ」
と、鱗斎が大声をあげた。
篠兵衛がびっくりしてふりむくと、鱗斎は片手を振って何か投げたような動作を二度見せた。それから、泳ぐように近づいて来て、いまよみがえったばかりのくノ一のきものの裾《すそ》をぐいとひらき、顔をそのあいだにくっつけた。
「――あっ」
さけんで、眼をおさえたのは、高安篠兵衛だ。
「こ、こりゃ。……」
彼の視界からは蕭条《しようじよう》たる木曾《きそ》の山も何も忽然《こつぜん》と消えていた。眼にぐうっとひろがって来たのは、なんと――女陰そのものであった!
「とくに目先を変えるためにもこれを見る。見えるか、篠兵衛?」
笑みをふくんだ鱗斎の声が聞える。
篠兵衛は突如として自分の視界に生じた怪異は鱗斎のしわざであることを知った。
「こりゃなんだ?」
と、篠兵衛は眼をかきむしった。
「遠見貝と名づけてよいかどうか。しかしそっちからする遠見貝にちがいなかろうから、やはり、製作成功順にその第八番と呼ぼう」
「なんだと?」
「それをいまおまえの眼に嵌めてやったのじゃ」
舞い落ちる一枚の木の葉を同時に二刀で切り分けるほどの大剣士高安篠兵衛の両眼に、まばたきもさせず二枚の貝を嵌めこんだ漆鱗斎の神技を何にたとえたらよかろうか。
「わしの見ておるものが、おまえに見えるはず。見えたら成功したのじゃ。見えるか、篠兵衛、この女陰が。――」
篠兵衛の眼には、わずかな数センチの近さでまざまざとそれが見える。
彼は眼をつぶった。が、驚くべし。――
「眼をとじてもその影像は離れぬじゃろうが。――事実、ものを見ておるのはおまえの眼ではないのじゃからな」
「ばか、はずせ!」
と、篠兵衛は狼狽《ろうばい》し、満面を朱に染めてさけんだ。
「はずしてくれ、鱗斎、もうわかったわやい!」
くノ一の股間《こかん》に顔をうずめていた漆鱗斎は、にたっと笑いながら立ちあがって来て、篠兵衛の一眼の瞼《まぶた》を片手の指でかろく突き、嵌めていた貝の剥片を片掌に落した。次にもう一眼に、同じことをした。
「これが、わし以外の人間ではだめなのじゃ」
そのとき、前方で、麻羽玄三郎の大声が聞えた。
「かけはしをかけたぞ。――みんな来い! 来て、早く渡れっ」
みな、その方へ駈け出した。いって見てわかったことだが、かけはしは麻羽玄三郎の不空羂索であった。彼はその自在の鋼条を向うの岩の突起にひっかけて、切断されたかけはしの部分をつないだのであった。
むろん、常人には叶わぬ文字通りの綱渡りだが、甲賀の精鋭にとってはロッククライミングの初歩よりも易々たるものだ。
玄三郎のザイルは実に七、八人の男の懸垂にも耐えた。
この鋼条の正体は、当時日本ではざらに求められない――実は、南蛮渡来の楽器の部品なのである。現代の戦闘で鉄条網代りに用いられるピアノ線は、楽器のピアノの弦そのものではないが、ピアノの弦も甚《はなは》だ勁《つよ》いものでかつ曲げにも強い。むろん、この時代には西洋にもまだピアノは存在せず、これはその前身楽器たるクラヴィチェンバロを分解して、中の弦をとり出したものだが。――
そのクラヴィチェンバロなる南蛮楽器をどこから手に入れたかというと、十数年前|服部半蔵《はつとりはんぞう》が舅《しゆうと》たる大久保長安から譲られ、その後こわれて配下の麻羽玄三郎に与えたもので、当時|縄術《じようじゆつ》の修行に汗血をしぼっていた玄三郎が、この鋼線を縄として使う術を編み出した。その一振するところ、世にもあえかな甘美のひびきを発するのも当りまえ。
いま彼は、大久保長安に由来するその鋼の縄をつたい、大久保長安の子らを抹殺《まつさつ》すべく、猿《ましら》のごとく妖々《ようよう》と木曾川の上空を渡ってゆく。――
木曾福島の関所がいつごろから設けられたかさだかではないが、種々の文書によって慶長十年以前から存在し、木曾の豪族山村甚兵衛なるものが家康の委嘱《いしよく》によって厳然とこれを護っていたことだけはたしかである。
木曾のかけはしから福島まで約八キロ。その間、敵影を見ず。――
が、福島の宿に近づいたとき、おげ丸がふと何思ったか路傍の水車小屋に立ち寄り、のぞいてみてからひき返して来た。
「お菱、また煙筒を貸してくれ」
くびかたむけて、いう。
「煙を張って、関所を通ろうと思う」
「えっ」
「むろん、関所でないところを抜けようと思えば抜けられよう。しかしここで騒ぎを起せば、追って来るやつら、あとやすやすと通れなくなるだろう。――きゃつらの追跡、かけはしを落しても遅らせるのにあんまりききめはなかったようだ」
彼はうしろをふりむいた。
徳川家、といえばいまやおげ丸の敵といっていい存在だが、その徳川家の関所によって徳川の走狗《そうく》たる甲賀一党の足を封ずる。夷《い》を以て夷を制する兵法にはちがいないが、ふだんどう見てもぼんやりしているおげ丸が、こういうことになると別人のように大胆な奇策を思いつくところがふしぎ千万だ。
「もっとも、そううまくゆくかどうかはわからない。はじめから女三人つれて罷《まか》り通るのは、ま、荷が重い。おれがまずいって、煙の幕を張るから、あと関所の騒ぎにつけこんで、三人通れ」
「三人、関所のこちらで待っているのですか」
「うむ。……あの水車小屋の中に」
と、おげ丸は指さして、さてまた思案頭になった。
「いや、お都奈とお芦と二人だけ待って」
背中のお芦を下ろした。
「お菱は関所の手前までおれといっしょにおいで」
「どうするのですか」
「おれだけ通りぬけて、大丈夫と見たら口笛を吹く。そうしたらおまえはあの水車小屋まで駈け戻り、お都奈と二人でお芦の手をひいて関所を駈けぬけろ」
おげ丸は、まわりを見まわした。
「それから、先に逃げた甲賀者のことがある。いままわりにおる気配はないが、万一のことがある。また追って来るやつらもある。それらしき者が近づいたら、お都奈、鉄砲を撃て」
「むろん」
お都奈はきっとした。
「その音が聞えれば、危険の合図としておれは駈け戻って来るが、関所の騒ぎ次第では、おれの耳にとどかんこともあるだろう。そのときに、まんなかにいるお菱が、関所を抜けておれのところへ知らせに来い。――」
一応は、周到である。
それにしても煙幕を張って関所を突破しようとは大胆不敵すぎるが、関所破りが目的ではなく、追跡隊の足を乱れさせることが狙いである以上、いまほかに打つ手はないであろう。
「合点《がてん》です」
お都奈はお芦の手をひいて、水車小屋にかくれた。
おげ丸はお菱とともに関所に近づいた。
むろん、関所でないところでも、抜けようと思えば抜けられよう――とおげ丸はいばっていったけれど、果してそれが実際上可能であったか、どうか。
西から急坂を上ってゆくと、関所の西門がある。騎馬でも悠々と通過出来るほどの大きな棟門《とうもん》だ。すぐ左は高さ三十メートルになんなんとする木曾川の大断崖で、右には嶮《けわ》しい根の北山がそそり立ち、はるか駒《こま》ケ岳《たけ》へつながっている。その山麓《さんろく》から断崖まで、わずか三十数メートル。
門を入って見ておげ丸もはじめて知ったのだが、左の断崖のふちには高さ三メートルの柵がめぐらされ、右の山麓には番所の建物がつづき、その間の通路は幅二メートル半。これが四十メートルほどの長さで東の門までつづいている。
これ以外には、まったく越えるすべもない木曾の山峡の関所であった。
その西の門を入るや否や、おげ丸は、東へ、全速力で駈けぬけた。ふつうならそんなことが出来るわけはないのだが、それが出来た。
槍《やり》を立てた番卒たちも、あっと眼をむいたきり、「待て」と声を出す者もなかったのである。
なぜなら、いま魔風のごとく駈けぬけた男のつき出した片手から、うすみどりの濃い煙が朦《もう》と噴き出して、彼自身の姿はもとより、みるみるほかの旅人も柵も建物も対岸の山影も塗りつぶしてしまったからだ。
「危いっ、危いっ」
遠くで、ひっ裂けるような声が聞えた。
「死の煙だっ、その煙、吸うと死ぬぞっ――」
さけんでいるのは、だれあろうおげ丸自身であった。
この煙の関所破りはあまり意表をついていて、当時の人間としてこんな煙幕ははじめての経験だけに、あっと立ちすくんだのも一瞬、たちまち関所は上を下への混乱に陥ったのもむりはない。いまのさけびも偽りとは思えず、中にいた旅人たちはもとより、役人番卒たちも仰天し、恐怖して、東西の門を閉じるにかかるどころか、先を争って逃げ出した。
叫喚のかなたで口笛の音が流れた。
それを関所の手前できいて、お菱は水車小屋へ馳《は》せ帰った。北から南へ吹き過ぎる木曾のこがらしは、もう煙をそこまでおし流し、こけつまろびつする無数の人影とともに彼女を追って来る。
「お都奈さま!」
呼ばれて、水車小屋からお都奈が顔をのぞかせた。
「早く、いまのうちに!」
お菱がさけんでいた。
お都奈は手にしていた短銃をしまい、お芦の手をとって水車小屋を出た。お菱がもう一方のお芦の手をとる。
十歩も走らないうちに、
「ちょっと!」
お菱が前方を見て、横へ走った。手をひかれてその方へお芦がよろめき、当然、もう一方の手をとったお都奈もその方へ駈ける。
そこに農家の納屋みたいなものがあり、三人はそこへ逃げ込んだ。お菱だけが外に眼だけのぞかせて、すぐに、
「ゆきましょう」
と、またお芦の、手をとって駈け出した。
「どうしたの?」
と、お都奈がきいた。お菱はくびをふった。
「いま、あの釜伏みたいな影が見えたように思ったのですけれど、まちがいだったようです」
関所に上る急な坂は、もう煙でいっぱいであった。その中を逃げ下りて来る旅人や番卒の影が、夢魔の世界の踊りのようだ。
それに逆らって上るのだから――しかも、つかんでいるお芦は盲目なのだから――お都奈自身がよろめいて、何度もお芦の手を離した。
「お芦、しっかりして!」
と、さけぶ。
「お菱、いるかえ?」
と、呼ぶ。
いつ関所の西門をくぐったのかわからない。関所の中には一メートルの先も見えないうすみどりの煙が渦巻いていた。そこでも、まだ前からぶつかって来る者がある。
「お芦……お菱っ」
ついにまた手がもぎとられたように離れ、お都奈はお芦と分離してしまった。従ってお菱とも別れてしまった。どこかで自分を呼びたてる二人の声がしたような気もしたが、ずっと前のようでもあったし、はるかうしろからのようでもあった。
「お都奈さま。……お都奈さまっ」
見えない眼を前にむけ、うしろにむけて、お芦はたしかに必死に呼んだのである。
「お菱、離れてしまった、お都奈さまと」
「え? まあ、どこで? 大丈夫、わたしがついている」
お菱はしっかりとお芦の手をつかんでいた。ひきちぎれるほどの力であった。
「まっすぐにゆけばいいの。とにかくいまは東の門を出なくっちゃあ。……」
いつ東の門を――つまり関所を駈けぬけたのか、むろんお芦にはわからない。
いつのまにか足もとがふつうの街道ではなく、落葉や枯笹の鳴る場所へ入っていったようだ。しかも、急な斜面を上ってゆく。お芦は何度も転んだ。それをお菱がひき立てた。必死の逃走にはちがいないが、盲《めしい》のお芦にとってはいささか無情とも感じられるお菱の介添《かいぞえ》ぶりであった。
お芦の肩や腕に何かがしきりに当り出した。どうやら竹林のようであった。
「お菱。……おげ丸さまはどこ?」
「しっ、まだそんな高い声は立てないで!」
二人はもつれ合いながら、なお竹林の斜面を上った。そしてやっと平坦な場所に来て、お菱はとまり、お芦の手を離した。
「お、お、おげ丸さまは……お菱、どこ?」
お芦は一本の竹にすがりついたまま、やっといった。肩も胸も波打っている。
「こんなことをして……おたがいに、やや[#「やや」に傍点]が流れはせぬかえ?」
「おお、ほんとうに。――」
お菱はあわてたように答え、お芦の腹に手をあてた。妊娠七ヵ月と十日ばかり――と、正確そうにいうとかえって嘘《うそ》になる。お芦が懐胎したのが一番早く、かつそれが確認されたのはむろん妊娠と同時ではないから、ひょっとしたら彼女はもう八ヵ月近かったかも知れない。その腹はあきらかにまんまるくふくれあがっていた。
お菱は、お芦の腹に手をあて、撫《な》でまわした。それから、お芦の帯に手をかけて、それを解き出した。
「な、何をするの」
お芦は狼狽して、お菱の手をとらえた。
「わたしの帯など解いて、どうするのじゃ」
「やや[#「やや」に傍点]が流れないように、療治してやろうと思うて。――長安さまからきかなかったかえ?」
「え、どんなことを?」
「大久保長安秘伝の流産を防ぐ法」
竹にすがりついたお芦の帯は解かれて、枯葉の上に落ちた。
「こう、腹を撫でながら。――」
しずかに、やさしくお菱の手が、じかにお芦のふくらんだ腹を撫でまわす。
「一方で、口から強い母体の息を吹き込む」
お芦の口に、生暖かい、ぬるっとしたものが密着した。お菱の唇《くちびる》だ。
そんな防止法は、きいたことがない。――息を吹き込むのではない。お菱は舌を出して、お芦の唇をなめ、歯をなめ、歯ぐきまでなめ、そしてその舌を口の中へ這《は》いまわらせた。
お菱がこんなことをするのか? あのりりしいお菱が? 驚きながら、お芦は二タ月ほど前の中津川でおげ丸がお都奈に試みたという流産防止法を思い出した。彼女は見ることが出来なかったけれど、おげ丸がいかなることをしたか、もう知っている。これはその亜流なのであろうか?――数十秒後に、しかしお芦はそんな驚きや疑いを忘却した。
もともと一見したところでも、いちばん官能的なお芦だ。彼女は相手がお菱であることも、女であることも忘却した。とろけるような快感が全身にひろがった。
ふとい孟宗竹《もうそうだけ》にからみついて口づけに夢中になっている二人の女人を、もし木曾の里人がかいま見たら、御獄からでもやって来た二匹の白蛇《びやくだ》の化身《けしん》とも見たかも知れない。――
「あ、あ」
口を離して、お菱もあえいだ。
「これは、わたしの方も子が流れそうじゃえ。……」
そして彼女は、お芦の片手をとって、自分の腰におしあてた。しばらくそのままにされていて――お芦の手が、ふいにぴくっと引かれたようだ。が、手は押えつけられたままであった。
「いえ、わたしはいつのまにか流産してしまった。――」
「お菱。……」
お芦はさけんだ。
「おまえは、お菱か。――」
「水車小屋から、お都奈さまと三人、手をとり合って逃げてから、ここまでわたしはしっかりとおまえを離さなかったのではないかえ?」
お菱はさとすようにいった。
「お都奈さまも離しとうはなかったけれど、あの場合、そこまで手は回らなんだ。それにあのお方は危ないおもちゃを持っておいでなさるのでなあ。あの方の腹を撫でさせてもらうのは、またこの次にしよう」
急にお芦は身をひるがえして逃げようとしたが、たちまちそこにしどけなく倒れた。帯のないきものの裾を踏みつけられていたのである。
甘ったるい笑い声が降って来た。
「腹までふくらせるのは御免蒙ったが、眼のあるお都奈さまが気づかれなんだとは、さりとは迂闊《うかつ》千万。もっともこの変化袋はおげ丸さま以外にちょっと見破る者もあるまいが、それにしてもかくもみごとに美しゅう化けた釜伏塔之介を、お芦、盲のおまえの眼に見せられぬとは喃《のう》。――」
――あらゆる人間にそっくりそのまま変相|変貌《へんぼう》する忍法変化袋、それはいまさら驚倒することはないとして、そもそも釜伏塔之介はいつお菱と入れ替ったのか。
この物語でいえば、先刻書いた――
「……お菱は水車小屋へ馳せ帰った。北から南へ吹き通る木曾のこがらしは、もう煙をそこまでおしながし、こけつまろびつする無数の人影とともに彼女を追って来る」
という文章と、
「……お都奈さま!
呼ばれて、水車小屋からお都奈が顔をのぞかせた」
という文章の間である。その間隙《かんげき》に釜伏塔之介は、忽然《こつねん》と入りこんだのであった。すなわち、水車小屋にいるお都奈、お芦を呼び出したのは、お菱にあらず彼塔之介であったのだ。
そういう機会を彼が待ちに待っていたことは、おそらく「変化袋」に用意してあったものだろうが、彼がお菱そっくりの衣服を身につけていたのでも知れる。つまり、お芦がおげ丸と分離している機会を。
盲目のお芦だけなら、声のみでも欺《あざむ》けたであろうが、この変装はいっしょにいるお都奈を欺くためのものでもあった。さしものお都奈も、あの動顛《どうてん》の際ではあり、まったくこのことに気がつかなかったのは是非もない。ただ、いかに釜伏塔之介とて、化けた当の対象お菱に出て来られては万事休すだ。水車小屋から手をとって走り出てから十歩、ふいにまた納屋へかくれたのは、ちょうどそのお菱が関所からの坂を駈け下りて来る姿を遠望して、とっさに彼女をやり過ごしたのだ。
かくていま、まんまとお芦を、関所を越えて街道を見下ろす小山の竹林の中へさらいこんで。――
「さてお芦、江戸以来――途中、駿府《すんぷ》その他でちょいちょいかいま見たが――まず服部屋敷といっていいが、奇妙な縁と変ったものじゃなあ」
釜伏塔之介は思い入れよろしくいった。完全に捕えたという自信もあるせいか、さすがの彼の声にもいささか感慨のひびきは消しがたいものがある。
「変ったのは、しかしおまえの方といっていい。ばかな! いまや徳川家の逆賊と化し、しかももはや死んで世にいない大久保長安の子などを生んで何になる? いやさ、服部一族に叛《そむ》いて何になる?」
お芦は答えない。帯のないきものの裾を踏んまえられて、ただあえいでいるばかりだ。妊娠七―八ヵ月、かくすにかくせない腹部は、ただ帯のないせいばかりではない。大きく起伏するその腹を――本来なら醜く見えるかも知れないその膨隆して真っ白にひかるその腹を――しかし釜伏塔之介は、以前の服部屋敷に於ける処女のお芦よりも魅惑的なものと見た。
「お芦、心を改めて服部屋敷に帰れ。あのなつかしい忍びの森へ喃」
塔之介はしゃがみこんで、猫《ねこ》なで声で、
「わしのいうことをきけ。いや、わしのいうことをきけば、服部屋敷に無事帰参出来るようにはからってやるぞ」
あごに手をかけていう。
「実はの、察しておるだろうが、わしらの受けた秘命は、おまえら母子ともに殺せということじゃが――長いなじみでもあり、同じ服部の釜《かま》の飯を食った人間として、左様な無惨な所業はわしの本性として忍びがたい。腹の子だけは生かしておけぬが、おまえのいのちだけは助けてやりたい。そのためには、ここでその子を堕《お》ろし、腹のぺちゃんこになったおまえをつれて江戸に帰り、わしの女房としてお頭におゆるしを乞うことじゃ」
このときお芦は、なお肩で息をしていたが、急にじっと顔を塔之介の手にまかせた。彼のいうことにひかれたのか、彼の提案以外に自分の助かる道はないと観念したのか。――盲目なので、あえぐ唇だけがいっそうなまめかしい花のように見える。
もういちど塔之介はその口にかぶりつきたくなったが、しかし説得の必要があるので、つまり自分がしゃべらなければならないので、それを割愛した。
「子を堕ろす。……おまえがわしの女房になる」
塔之介はくり返す。――曾《かつ》て彼は服部屋敷のお菱を誘惑しようとしたが、気の多い男だ。しかしどんな男だって、お菱、お芦のいずれかを選べといわれたら、ううむとうなって迷わずにはいられないだろう。そして、どっちでもいい、いや、どっちも欲しいとさけび出すだろう。
「この二条件を同時にかなえる法がある。それはここでわしとおまえが交合することじゃ」
彼はいった。
「その腹で、交合して、果して子が堕りるかどうか? 本来のわしじゃとどうもおぼつかないがの。いつぞやのおげ丸を見て、かかるものも世の男にはあり得るかと感服得心、以来あの仁の顰《ひそ》みにならうことにした。知っておるか? 顰みにならうとは、その昔越の美女|西施《せいし》がいつも眉《まゆ》をひそめていたので、美女ならざる女どもがいつもしかめっ面をしてまねたという故事で、わしがおげ丸大のものをとりそろえて身に帯びることにしたのは、かたちこそ異なれ、その精神だけは大いに相通うものがある。これならば、見よ、孕《はら》んだ女が交合すれば、いかなる女とて流産せずにはいられまいが?」
見せた。
「いや、見ろといっても、おまえには見えぬのであったな。うふふふ」
彼は笑った。自分でも可笑《おか》しいらしい。しかし塔之介の全身は依然としてお菱の姿なのだ。その股間におげ丸にならうと称するものをとりつけている。――まさに怪奇妖異、形容すべくもない異次元のもののけ[#「もののけ」に傍点]の姿というしかない。
「見えずともよい、いま、それを知らせてやる」
彼は改めてお芦をぐいと抱きしめた。
「おまえはおげ丸に惚《ほ》れておったの。うふふ、せめてこれでおげ丸を偲《しの》べ。姿かたちだけはそっくりに似せたつもりであるぞ。――」
「いや、いや、いや!」
お芦ははげしく首をふったが、いまさらそれで手をひく相手であるはずがない。まとったばかりのきものを、みるみる最後の一枚まではぎとられて、彼女はさけんだ。
「しかたがない。おまえのいう通りにします。どうにでもして!」
自暴自棄というより、もはやきちがいめいた声であった。
「でも、もう少しじっと抱いて。もういちど口を吸って!」
――もともと服部屋敷でももっとも男性に対して挑発的《ちようはつてき》で、曾て塔之介も「あの女を女房にして見ろ、腰弱な男なら骨身もくたくた、水母《くらげ》みたいな男に変えられるぞ」と笑ってほかの忍者たちにささやいたほどの女だ。
「おおそうかそうか。やっと得心したか。――」
釜伏塔之介は「お菱の顔」を笑みに崩して、お芦の口とその中にひらひら動く美しい舌をのぞきこんだ。もっともお菱がどんなに笑み崩れても、こんなきみの悪い顔にはなるまい。
「つき合いは長いが、おまえの口の匂《にお》いをはじめてかいだ。甘い杏《あんず》の花のかおりがする。――よしよし、交合堕胎には時がかかるし、わしも全精根をこめねばならぬ。そのまえに、一意専心、たっぷりおまえの唇や舌を味わってやろう」
といって、音たててお芦の唇に吸いついた。
数分間にわたって、吸い、しゃぶり、噛《か》み、さて。――
「おっとっとっと!」
と、おのれの口をひき離した。舌を出して、ひっこめて、
「危いところで舌を誘いこまれるところであった。舌を入れれば噛みちぎられるおそれがある。実はお芦、悪いがまだわしはおまえを信用し切っておらんところがあるのじゃよ、うふふ」
と、笑った。
「おまえの方の舌を入れろ」
と、改めてまた吸いつく。
いったいどういう心境か。命助かるために観念したのか、やぶれかぶれか、何やらべつに成算があるのか。いずれにせよお芦は星眼朦朧《せいがんもうろう》という形容――もっとも眼はとじたままだが――とにかくそういう形容にふさわしい表情になって、もともとこの女人の本性を看破していると自信を持っているだけに、塔之介は、これほどのおれの技巧に、こいつは何もかも忘れ果てたか、そうなるはずだ、と彼自身浮かれ切った。
それも道理、お芦の舌は彼の口中にさし入れられ、熱い軟体動物のように這いまわる。――
とたんに、何やら豆粒ほどの異物が、もつれ合った舌のあいだから滑り出した。はっとしたとたん、お芦の舌はそれを塔之介ののどにはね落していた。
ぱっと釜伏塔之介はお芦をつきのけ、立ちあがっている。
「何じゃ?」
にらみつけた塔之介の眼に、盲目の顔をふりあげて、お芦がにんまりと笑うのが見えた。――
「な、何をした?」
一歩踏み出しかけた塔之介の顔に異様な表情が浮かぶと、彼は口の中に指をつっこんだ。何かをつかみ出そうとするように。
何かをつかみ出そうとするように。――しかし、いまの豆粒はすでに彼の腹中に入っている。時すでに遅し。
しかるに――それはまばたきするほどのあいだのことであったが――釜伏塔之介は実に仰天すべきことをやってのけた。
みずから両手の指をおのれの小さな「お菱の口」の上下にかけると、くわっと左右にひき裂き、その中にこぶし一個まるまるつっこんだのである。のみならず――驚くべし、次の瞬間、その奥からズルズルと粘液にまみれた腸詰の肉みたいなものをひきずり出し、地面に放り出した。
足をあげて踏みつぶすと、そこから強烈な杏の花の匂いがぱあっと虚空に散った。
「…………?」
この種の匂いでこれほど濃厚なものを釜伏塔之介はいまだ嗅覚《きゆうかく》に経験したことがない。それはいま彼が踏みつぶした粘膜の中の豆粒から発した。
それこそはお芦が大久保長安から授けられた毒薬であった。青酸性のものだが、胃液以外には溶けない特殊の皮膜で豆粒大に包装したものだ。それを彼女はしょっちゅう口中の頬《ほお》と歯のあいだにふくんでいる。胃液以外には溶けないと長安は保証したけれど、そして事実お芦に異常はなかったけれど、彼女の息にはその毒の香がこもっていた。彼女のはなつ甘い――男の心をくらくらさせる匂いは、死の息の匂いであったのだ。それは相手の胃に入るやいなや数十秒にして皮膜が溶け、相手をして死に至らしめる。
彼女が先刻塔之介に、「母子ともに死ぬか、それともおれの女房になって、おまえだけ助かるか」と二者択一を迫られたとき、いちどしんとしずかになり、かつ唇で彼を誘うがごとき表情を見せたのは、とうとうこれを使うときが来たと覚悟したからであった。
そして、ついに釜伏塔之介はお芦のなまめかしい口の蠱術《こじゆつ》にかかった!
しかるに。――
塔之介は、なんとその毒の入った内臓そのものをひきずり出したのだ。まさか胃袋そのものであるはずはない。咽喉から食道、胃に至る内層粘膜であろうが、それを腸詰のごとくぬき出した。あり得ることではないが、何しろ眼球でさえほじくり出し、他のものと入れ替えるという男だから、彼にとってはまさに朝飯前に掃除機の塵袋《ちりぶくろ》をとり替えるようなものだったかも知れない。
「……釜伏?」
さすがにお芦は笑いを消し、異様な声をあげた。何も見えないけれど、意外なことが起ったとは感づいたらしい。
「お芦。――」
もはや時間的に絶命しているはずの男の声が聞えた。
朝飯前に掃除機の紙袋をとり変えた人間の顔ではない。すでに彼自身の口はひっ裂けている。人間のものでない顔と声で、塔之介はいった。
「もはや、ゆるさぬ」
彼は躍りかかった。
そのとき彼は、うしろで彼自身のものよりさらにはげしい、怒りに燃えたあえぎ声をきいた。だれかがこの山へ駈けのぼって来る。
ちらっと竹林の向うに麻羽玄三郎の御獄行者姿が見えた。
「ちええ、いかにしてきゃつ、ここを知ったか」
と、釜伏塔之介は舌打ちした。
味方は味方、進退窮すれば遠慮なく助けを求めるが、一方では激烈な功名争い、いや、女争いの追撃戦でもある。さればこそ塔之介は、作戦上のこともあるが、わざと先行して、一人、めざすくノ一をとらえることにかくも苦心|惨憺《さんたん》した。
彼としては味方から離れ、単独でくノ一をとらえ、犯し、思いのたけをはらし、かつみごとに堕胎させて、死せる胎児と腹のぺちゃんこになったくノ一をひっさげて、意気揚々と味方にまみえたかった。――かくて、まんまとお芦をこの山中にひきずり込んだのを、だれ知るまいと思いきや。
「きゃつ、いちばんうるさいやつだ」
いちばん親友でもあるが、またこういう事態では、まさにいちばん邪魔になる麻羽玄三郎だということは親しいだけに塔之介はよく知悉《ちしつ》している。
「ええい、先取権はおれだ」
首をもとに戻すと、彼はおげ丸に模したものを立て直した。
とたんに、その上半身に何やら冷たい輪がはまると、ピイインという金属音が宙に鳴って、釜伏塔之介は息の根がとまるはおろか、胴も二つにちぎれんばかりに絞めあげられ、高だかと空中へはねあげられている。
彼が竹林の中にころがり落ちたとき、輪はすでに解けていたが、自分とお芦のあいだにすっくと立ち、不空羂索《ふくうけんさく》をぶら下げて仁王立ちになっている麻羽玄三郎の姿が見えた。
「あつかましいやつだ。おれに断りもなく、何をさらすか?」
と、玄三郎は吼《ほ》えた。
「これはおれの女だぞ! 手を出して見ろ、こんどは首をひきちぎってくれる」
血走った眼でひとにらみして、彼はずかずかとお芦のそばに歩み寄った。
お芦はさらに恐ろしい敵が出現したことを知った。その眼が自分の全身を這いまわっているのを火の走るように感覚した。が、全裸のからだを覆う衣服はいまどこにあるか、それを探すべき瞳《ひとみ》は彼女にない。――
しかし、麻羽玄三郎は、はっはっと夏の日の犬のように舌を吐いてあえいでいた。――さしもの彼も、木曾のかけはしを渡り、福島の村を駈《か》け、関所を走りぬけ、この山を馳せのぼって来たことと、それにお芦がすでに釜伏塔之介にとらえられたということを知っての焦燥のために、心臓も破れんばかり、かくていま見る通りの大息となったのだ。
お芦がすでに釜伏塔之介にとらえられた。――それを麻羽玄三郎がなぜ知った?
かけはしを渡ったところで、ふと貝の一片を嵌めた漆鱗斎が、「や?」と驚きの声をあげ、
「――お芦が塔之介につかまったぞや」
と、さけび出したのである。
「な、なに? なぜそれがわかる?」
「これは先刻開発した第八番の遠見貝ではない。それ以前の第三番のものじゃがの。これと対《つい》のものを、釜伏の変化袋の中の眼玉の一に嵌めておいた」
と、鱗斎は告白した。
「お菱の眼に似た眼玉じゃよ。あの釜伏、ひとのぬけがけは怒るくせに当人こそはいちばん挙動がくさい。で、この眼球を使うときこそ敵のくノ一をつかまえるときじゃなと思うて、あらかじめちょいと遠見貝第三番をくっつけておいたが」
「ど、どうした、それが?」
「いま、きゃつの前に、水車小屋らしいところから、お都奈どのとお芦が現われた。――」
「や?」
「きゃつ、駈け出した。どうやらお芦の手をひいて。――」
「こ、来いっ」
玄三郎は鱗斎の手をとって駈け出した。味方が敵をつかまえたという情報をきいた顔ではない。敵が味方をつかまえたときいたような形相だ。
まるでレーダーをひっかかえて走っているようなものだ。どこへ? どこへ? 玄三郎は鱗斎の指導するままに駈けた。そしてどうやら、関所をぬけた向うの右側の竹林のある小山の中らしい、ということを探知し、かつ、
「や、や、お芦の眼がくっついた。眼がくっついたということは、口もくっついたということじゃ。きゃつ、やりはじめたぞ!」
と鱗斎がさけび出すに至って、ついにやや遅れがちな彼を放り出し、阿修羅《あしゆら》のごとく一人でこの山へ駈けのぼって来たのである。
麻羽玄三郎はやや息をととのえて、お芦を見下ろした。
「お芦、服部屋敷以来だの」
と、この男もまたやり出した。――
「忍びの森で、おまえと喃々《なんなん》と語り合ったことがあったのう。おまえを是非とも女房にしたい、おまえも是非ともおれの女房になりたいと。――」
嘘をつけ。喋々《ちようちよう》喃々どころではない。あのとき彼は、不空羂索を以て彼女を縛《しば》りあげ、縄《なわ》で彼女をあやつって、みずから犯される姿態をとらせたのであった。――いま彼は塔之介に「おれの女に手を出そうとはあつかましいやつ」という意味のことをいったが、あつかましいのはどっちだか知れたものではない。が、彼の能面みたいな顔は大まじめであった。大まじめだけにいっそう恐ろしかった。
「それまでに思いをかけたおまえじゃ。いま見ればもはや支度は出来ておる。わざわざ不空羂索を使うまでもないが。――」
しかし、片腕の鋼の縄にちらっと眼をやって、
「やはり使うた方が好都合か。――その腹では」
と、つぶやいたのは、まんまるく腹のふくれあがった女と交わるおのれの姿勢に思いを致したからであろう。彼はうなずいた。
「よし!」
同時にまたピイインと、こんどはさらに微《かす》かな音がお芦のからだのすぐ上で鳴って、彼女の頸《くび》と四肢《しし》に鋼《はがね》の輪がかけられた。
「やはり、この方がよい。子が堕りるまで、どれほど時がかかるかも知れぬでな」
そして、まるで数羽の鵜《う》をあやつる鵜匠《うしよう》みたいに手くびをしゃくり出した。――それにつれて、お芦の頸と四肢が、くねくねと動き、上下し、踊りはじめた。
「くくっ」
歯をくいしばって抗おうとする。
が、頸と手頸足頸にからんだ鋼の輪の玄妙さよ。それはからんでいるとお芦に感覚させぬほど柔かく、いったん玄三郎の意志に反すると、たちまち剃刀《かみそり》の刃をあてたような痛覚を彼女にくいいらせる。
見るがいい、お芦は竹林の朽葉《くちば》の上に仰むけになったまま無惨な踊りを踊りぬき、はては両腕の肘《ひじ》と両足で支えて宙に浮きあがり、まるい真っ白な腹を空に盛って腰を浮動させはじめた。――
「動くな!」
玄三郎が叱咤《しつた》したのは、これはふらふらと立ちあがりかけた同僚釜伏塔之介に対してだ。
「おまえは子が堕りてからじゃ。おとなしく、そこで見物していろ!」
口を両耳まで吊《つ》りあげて笑うと、麻羽《あさは》玄三郎は袴《はかま》をとった。髪もなければ眉もひげもない青銅の能面のような無毛の玄三郎、それは全身に於《おい》ても同様であった。
その姿で、彼は両足でお芦の足をはさむようにし、左腕で彼女の腰を支えてのしかかった。しかも彼の右腕は高々とあげられている。バレーにちょっとこんな構図があるが。
「――お、おげ丸さまっ」
お芦はついに悲鳴をあげた。
本来なら両者相重なって倒れずにはいられないかたちだが、高くあげた玄三郎の右腕から出た五条の鋼縄《こうじよう》は、彼女に玄三郎を乗せたまま宙に浮く姿勢をやめさせないらしい。――玄三郎は笑った。
「玄三郎さまと呼べ」
「おげ丸さまっ」
「麻羽玄三郎推参」
「ああ!」
そのままのかたちでお芦はついに犯されはじめた。
まるで時間を超越した光景で、時間の経過もわからなかったが、
「どれほど時がかかるかも知れぬでな」と玄三郎はいったけれど、それほど時はたたなかったであろう。――
「……お」
能面みたいな顔に何やら異様な表情が走った。
「――堕りるか!」
と、玄三郎はさけんだ。何やら手応え? を感覚したらしい。
お芦の全身に痙攣《けいれん》の波がわたり、その口からはあきらかに陣痛のうめきがもれていた。――いや、いまはじめてこの現象が起ったのではなく、先刻からの激烈な動きの中にはじまっていたらしいのだが、その運動にまぎれて彼は気がつかなかったのだ。
むろんそれを期待しての姦淫《かんいん》だが、運動は彼自身ばかりではない。相手の女もはげしく動いている。それはもとより自動的なものではなく、彼の不空羂索の縄さばきのせいで、いのちも絶えよと抵抗しようとしてもそれがならず、悶《もだ》えつつも彼の動きに応《こた》えずにはいられない――さらに、むしろ男を挑発するかに見える女の腰の動きに、玄三郎はふと没頭した。
――それも或《ある》いは当然。これは以前から彼が懸想《けそう》し、妄想《もうそう》の中で犯そうと渇望《かつぼう》しぬいていた女だ!
「あら、面白や」
ばかなことに、それを女自身快楽のあまりの悶えのごとく錯覚して、さすがの玄三郎も期待していた事実がついに到来したことに気づかなかった。
が、地上に破水が溢《あふ》れ出しては、いかな彼も異常を認めずにはいられない。
「は、は、初まったな?」
と、さけんだが、玄三郎はなおお芦を離そうとはしない。――ふりむいて、
「堕りるぞ、釜伏。――大久保長安の第一子を、あの世からこの世へ葬むる。――その一番手柄はこの麻羽玄三郎じゃ。まちがわないためによっく見ておけ!」
と、また口を耳まで裂いた。
さしもの釜伏塔之介も、股間《こかん》のみ男性、あとは女身という怪異の姿で、しかも毒気をぬかれて尻《しり》もちついたまま、口をぽかんとあけている。
血まじりの羊水はバシャバシャと地上でしぶきを散らしつづけ、鋼の縄もひきちぎれんばかりにお芦の四肢は戦慄《せんりつ》した。
「ううむ、ううむ!」
この声はお芦のものではない。玄三郎のりきみ声だ。
――実にばかげた、かつ恐るべきスポーツを思い立ったもので、こんなおしっくらをはじめた者は地上では麻羽玄三郎を以て嚆矢《こうし》とするだろう。
「いや、これにはかなわぬ。――」
ついに彼は音をあげた。
が。――交合堕胎ついに成る!
玄三郎は会心の笑いを浮かべて、ゆっくりとはじめてお芦を地上に横たえ、身を離した。お芦の頭と四肢をとらえていた不空羂索もスルリと解けた。
――と、むせび泣きのようなうめきをもらしつつ、
「げ、玄三郎どの。……」
と、お芦がかすれた声で呼んだ。
玄三郎はまたがった姿のままのぞきこんで、
「おおなんだ?」
「何もかも終りました。……わたしは負けた。……」
吐息のようにいったとたんに、お芦の顔が陣痛の苦悶にねじれる。しかも彼女は、
「げ、玄三郎どの、もっと抱いていて、もうしばらく。……」
と、あえぎながら、鋼縄のない両腕をさしのばした。
「わ、わたしの口を吸って!」
「なに?」
さすがに麻羽玄三郎の能面じみた顔もキョトンとした。
陣痛にのた打ちつつ、いま犯したばかりの男に接吻《せつぷん》を求める女。――こいつ、気でも狂ったのではないか、と、案外まっとうな疑いが彼の脳裡《のうり》をひらめき過ぎたのも一瞬、おお、かかる天外の流産促進法を試みられれば、いかなる女も頭が変にならずにはいられまい、とうなずき、さらに、それともこやつ、おれの凄《すさま》じいわざと力に心魂とろけ果てたか、と妙な解釈をしてうぬぼれた。
苦悶《くもん》にわななく女の顔が、盲目であるだけにいっそう淫美に見えて。――
「おお、吸ってやるわ」
と、彼の方の心魂がとろけ果てた。
お芦のからだの上に四つン這いになって、能面みたいな顔を近づける。――
そのとき、どこかでしゃっくりのような声が聞えた。
ふりむくと、いまの声は釜伏塔之介《かまぶせとうのすけ》が発したようだ。
が、彼はそれ以上、何もいわない。――ただ、眼をいっぱいに見ひらいて、こちらを眺《なが》めている。
にやっと麻羽玄三郎は笑って、ふたたびお芦に口を近づけた。あえぐ女の口が、杏の花に似た香の炎をたてて、彼を酩酊《めいてい》させる。――
するとまた、
「おおいっ」
遠くでさけぶ声がした。
「――おげ丸だっ、おげ丸がそっちへいったぞっ」
――漆鱗斎《うるしりんさい》の声であった。
麻羽玄三郎の念頭からは何もかもけし飛び、彼はがばと身を起そうとした。
「いかにも、きゃつが来る」
と、釜伏塔之介が小手をかざして山腹を見下ろしながらいった。しかし、ばかに落着きはらって、
「きゃつはおれがひき受ける」
と、いった。
「ばかな? おまえごときにおげ丸の相手は。――」
片手に小さな輪となってたばねられた不空羂索が、美しい死のひびきをたててゆらいだ。
「いや、おまえがそうしておれば、おげ丸は金縛《かなしば》りだ。女の頸に縄をかけて、口を吸っておれ」
と、塔之介はけしかけた。
――いかにもその通りだ。まさかおげ丸と一騎討ちして敗れるとは思わないが、ここにいまや子を流産しようとしてもだえているお芦に自分が馬乗りになっておれば、おげ丸が立ちすくみ、手も足も出ないにきまっている。
「うふ、よし、では、きゃつに見せつけてやろうかい」
玄三郎は不敵に笑い、横目で釜伏の方を眺めながら、わななく産婦の口に吸いついた。
この場合に、ねじれる女の唇に忘我の境に落ちかかりながら、いちど離れて、
「まだか?」
と、塔之介にきく。
「まだだ」
玄三郎は、ふたたびお芦の口を吸った。
お芦の舌が炎のように彼の歯を灼《や》き、彼の舌とからみ合う。――ぱっと朽葉《くちば》の音がした。塔之介が逃げ出した、と直感してふりむこうとした麻羽玄三郎は、そのとたんのどにはね落とされた豆粒のような異物を感覚した。
「な、何じゃ?」
玄三郎はぱっと立ちあがり、左手を口につっこんだ。
が、すでに及ばず。――ただ、それがただの異物でないことを知覚して、
「こ、こやつ、色仕掛でしゃらくさいまねを!」
右手の鋼の輪のたばが、足もとの女に打ち振られようとして、しかし彼は猛鳥のごとくふりむいた。
竹林の向う、たった今まで釜伏塔之介が尻もちをついていたところにおげ丸が立っていた。じいっとこちらを見ている眼《め》を見たとたん、さしもの麻羽玄三郎がこれまでの自信も雲散するほどの戦慄に襲われた。
おげ丸が佇《たたず》んだのはほんの一瞬である。どす、とその足が踏み出した。
「受けて見るか、甲賀流《こうがりゆう》不空羂索。――」
麻羽玄三郎は絶叫した。
「えやあっ」
恐怖にちかい声であったが、その手からくり出された鋼の線条は相手にとってこれ以上はない恐るべきものであった。ピイイン、という音をだぶらせつつ、五つの輪が水平に、ななめにつながって空中にのびた。
おげ丸の長刀がひらめいた。
が、最初の輪をふせいでも次の輪が、さらに息もつがせず第三、第四、第五の輪が襲いかかる、麻羽玄三郎至妙の縄術。――狙《ねら》いあやまたず、おげ丸めがけて飛んだと見えて。
それが空で静止して、だらしなく地につながって落ちた。
どうしたのだ。玄三郎、おい、どうしたのだ玄三郎。――彼は鋼線を打ち振った姿のまま、長身をくの字なりにした。と見るや、そのままどうと前へつんのめり、青銅色のあごにがぼっと鮮血を散らすと、くるくるっとからだをまるくし、二度三度、恐ろしい痙攣を起し、それっきり動かなくなってしまった。
「…………?」
おげ丸の顔に怪しみの色が浮かんだのも一瞬、彼は玄三郎の急変をかえりみるにいとまあらず、疾風のように馳《は》せ寄って、お芦を抱きあげた。
「お芦っ、おげ丸だ!」
はだかの肩に手をまわしてゆさぶる。
眼をつぶり、まるで虐殺された女の屍体《したい》としか見えない姿で、しかしお芦はいった。
「おげ丸さま、わたしはだめ。……」
「何をいう。おげ丸が来たのだ。おまえをおれから離したのがまちがいだった。ゆるしてくれ。しかし、もう大丈夫だ。さ、ゆこう。……」
「いえ、わたしはゆけません。わたしはけがらわしい獣に犯され、長安さまのお子は流れます。……」
「なんだと?」
わざと眼をそむけていたお芦の股間におげ丸は視線をやって、ぎょっとした。
血の沼のようなそのあたりに、黒いものがにゅっと現われた。それがあかん坊の頭の髪の毛だと知って、おげ丸は息をひいたまま、身動きも出来なくなってしまった。
硬直したおげ丸のからだに、逆にお芦は爪《つめ》を立てた。
飛んで来た枯葉が竹林を鳴らしてゆく。
「ゆるして下さい、おげ丸さま。……」
からだが痙攣するとともに、血まみれの胎児はするすると全身を現わした。
泣き声はない。産声《うぶごえ》はあがらない。
お芦の妊娠期間は七ヵ月―八ヵ月。
八ヵ月ならば。――
胎児の身長四十―四十五センチ。体重千五百―千九百グラム。眼瞼《がんけん》ひらき、皮下脂肪発育し、体形やや円満となるも、皮膚が赤色にして皺《しわ》多く、顔貌《がんぼう》なお老人のごとく、かつ全身にうぶ毛密生す。娩出《べんしゆつ》せる胎児は保育よろしきを得ば生存し得べし。
それが、秋の太陽の下に出た。しかし、産声はながれない。――ひょっとしたら八ヵ月には至らなかったのかも知れない。
「おげ丸さま、あかん坊は泣きませんね」
「うむ。……」
「男でしょうか、女でしょうか?」
「待ってくれ、見て来る」
「いいえ、死んでいるなら、見てもしかたがないわ。……」
お芦は寂しげに微笑《ほほえ》んだ。あの嬌艶無双《きようえんむそう》の女がこんな寂しげな笑顔を見せるのか、と胸もえぐられる思いで、おげ丸がもういちどひしと抱きしめたとき、
「お願い、お都奈さまとお菱には、りっぱによい子を生ませてあげて!」
お芦は祈るようにささやき、笑顔を消した。
おげ丸は彼女が唇をとじ、生唾《なまつば》でものむようにのどを動かすのを見た。――
「お芦、おまえは生きてゆくんだ。さ!」
抱きあげようとする腕の中で、お芦のからだにはげしい痙攣が走り、彼女の口に血の花が咲いた。それは、強い杏の花の香をたてながら溢れおち、彼女はがくりとのけぞった。
「お芦、お芦っ」
おげ丸は、お芦が口の中でいつも長安から授けられた毒薬をもてあそび、かつ先刻釜伏にさらわれたと知ったとき、それを三粒も口にふくんだことを知らなかった。が、彼女がこと切れたことだけははっきりと知った。
「お芦、死ぬな、おまえが死ぬことはない、お芦っ」
――おげ丸はお芦をしずかに枯葉の上に横たえてから、産声をたてないあかん坊の方へいざり寄った。血と粘液にまみれた小さな肉塊を抱きあげる。
――男の子だな?
抱きあげたのは、ただその思いだけからである。
熱い肉体から出て来たその肉塊は暖かかった。それよりも、臍《へそ》の緒を通して、死んだばかりの母の血がまだ送られて来るゆえであろうか。
おげ丸は刀を取った。そのとたんに。――
「……おう!」
竹林のすぐ向うで、どよめくような声があがった。
おげ丸はそこに漆鱗斎、高安篠兵衛《たかやすしのべえ》、栃《とち》ノ木夕雲《きせきうん》、おんな姿の釜伏塔之介、それに数人の御嶽《おんたけ》行者の装束をした甲賀者たちを見た。――彼らはそこからこちらに這《は》い寄ろうとしていて、ふいにおげ丸が刀を取ったので、どどどとあとずさったのである。
――おげ丸はどうしてお芦がこの山にいることを知ってやって来たのか。
なお煙幕がただよい、人々が混乱している関所の中で、お菱《ひし》とお都奈《つな》はめぐり合った。というより、水車小屋に馳せ戻《もど》ったお菱がそこにお都奈もお芦もいないことを知り、あわてて関所の方へとって返し、そこで、
「……お菱、お芦っ」と呼びぬいているお都奈を探しあてたのである。
「おう、お菱――お芦はどこへ?」
「それより、お都奈さまはなぜわたしが呼びにゆくまえに水車小屋をお出になったのですか?」
「おまえが呼びに来て、手をとってつれ出して来たのではないかえ」
「えっ、わたしが?」
そんな問答ののち、二人はようやく事態の恐るべきことに気づき、関所の向うに待っているおげ丸の方へ走り出し、このころ胸騒ぎをおぼえてひき返そうとしていたおげ丸をつかまえて、右の怪異を告げたのである。
「……塔之介だ!」
驚愕《きようがく》による数秒の硬直ののち、おげ丸は絶叫した。
「釜伏のしわざだ。そのお菱は塔之介であったにちがいない!」
そして後は、お都奈とお菱に関所を北へ出たところの或る籔蔭《やぶかげ》を指定し、そこで待っているようにと命じて、自分はお芦の捜索に駈け出した。
狂乱したような十数分の捜索ののち、彼は関所から山の方へひとり上ってゆく漆鱗斎の姿を遠くから発見したのである。それはちょうど麻羽玄三郎が鱗斎をふり離してさきに山へ上っていった直後の時点であったらしい。それは知らず、発見したのは鱗斎だが、そのようすがゆくてにただならぬものが待っていることを感じて、鱗斎とはちがう斜面を山に駈け上って来たのだ。ようやくおげ丸に気づいた鱗斎が仲間に発したらしい警報に、そのおのれの予感が的中していることは確かめたが、ときすでに遅し。――
お芦は犯され、死に、そして生まれて来た胎児もまた。
おげ丸は、いまどよめきの声をあげた甲賀衆をちらっと見た。高安篠兵衛らも、鱗斎と玄三郎の遠見貝問答をきいていた甲賀者の報告によって、やっとここへ追いすがって来たものらしい。――
が、おげ丸はまるで夢の中の群像でも見るような眼を投げただけで、刀を取り直して、あかん坊と母体をつなぐ臍帯《せいたい》をぷつりと切った。――彼が刀を取ったのは、そのためであった。
――生きているものとは思わない。ただこの死児を抱いてゆこうと決心しただけである。
しかるに。――
その肉塊を抱いて、数歩、ほとんど甲賀衆も意識になく、その方へ歩いたとき、
「……おぎゃあ!」
彼の腕の中から、この声がほとばしった!
……実にこのときのおげ丸の表情こそ観物であった。はじめはびっくりのあまり危くそのあかん坊を放り出しかけたほどである。あわてて抱きとめ、刀を地につき立て、信じられないように両手で眼の前にさしあげた。あかん坊はそれっきり泣かなかった。いまの声はききちがいであったのか――という風に、彼はゆさぶった。
「おぎゃあ!」
あかん坊はまた泣いた。それをしおに、
「おンぎゃあ、おンぎゃあ、おンぎゃあ。……」
何ぴとをも感動させずにはおかない、小さな生命の讃歌はつづきはじめた。――そしておげ丸は、あかん坊をさしあげたまま、げらげらと、ほんとうにうれしそうに笑い出したのだ。
あかん坊の泣き声とおげ丸の哄笑《こうしよう》はもつれ合いつつ、交響しつつ流れてゆく。――ふいに彼は立ちどまり、ふり返った。
「お芦」
彼はあかん坊を左腕に抱いたまま一礼した。
「ようやった! よう生んだ。……この子はおげ丸がきっと育てる。安心して成仏せい!」
とたんに彼はくるっとまた反転し、片手の長刀を宙にあげた。すぐそこまで這い寄っていた御嶽行者たちが、むささびみたいにまたはね飛んだ。
「この子のために、斬《き》るぞ!」
おげ丸はさけんだ。眼前の甲賀衆にではなく、その向うの高安篠兵衛たちに対してである。
泣きつづけるあかん坊を片腕に抱き、右手に長刀をふりかざしただけの構えだが――魔王もたじろがずにはいられないすばらしい迫力に溢れた金剛不壊《こんごうふえ》の姿であった。
そのままおげ丸は、こんどはあとずさりに歩き出し、立ちすくんだ甲賀組の眼前から、山の斜面を下りはじめた。あとずさりに山を下るという離れわざが、彼にとってはまるで平地を前へ進むような無造作な動きに見える。
「……の、のがすのか?」
と、耳まで裂けた口で、お菱の姿の塔之介がいった。
「麻羽玄三郎を失って?」
――なに、本人は先刻、その玄三郎がお芦から口移しに毒をのまされるのを黙視、どころか待ち受けていたくせに。
「待て」
動き出そうとした甲賀衆を、栃ノ木夕雲が制した。
「その玄三郎のために、いま時を争う」
「なに?」
「生霊逆《いきりようさか》ながれを試みる。――きゃつはこの際、一応捨ておけ」
釜伏塔之介が、それでも追って竹林のはしまで駈けた。おげ丸はあかん坊を抱いたまま、まだこちら向きになって、山をもう小さくなって駈け下りてゆく。――
「機会はまだある」
と、高安篠兵衛がほっと肩で大息ついていった。
「時はまだ、いつでもある。――」
自若たる自信、或いは負けおしみ――というより、何やら安堵《あんど》したらしくもある篠兵衛の吐息のつきかたに、釜伏塔之介がとがめる眼になってつかつかと戻って来たとき、栃ノ木夕雲が麻羽玄三郎の屍体のところへまろび寄った。
「玄三郎!」
蒼《あお》い能面みたいな死顔をのぞきこみ――匕首《あいくち》をぬくとそのわらじの緒を切って裸足を出し、またおのれの足も出して、その足裏をぴったり合わせた。
「……ああ、時がたち過ぎた。――それに毒死らしいが、これが生霊逆ながれにとってはいちばんたちの悪い難物じゃて」
と、くびをかしげた。どうやらこの足裏合わせは、脈をとる代りの診断らしい。或いは死後経過時間の測定らしい。
「どうするかのう?」
と、顔を一同にふりあげる。
「麻羽を生き返らせるか、どうしようか。――」
「生き返る見込みがあるのか」
と、篠兵衛がきく。
「ないこともない。いや、今ならば何とかまだ間に合う」
「おお、ではやってくれ。頼む。――な、何をためらっておる?」
「いつもいっているように、生霊逆ながれ、やれば助けてやった人間のいのちの倍だけ、わしの寿命がちぢむ。とくにこの玄三郎など、その死因からしても三倍のいのちをわしが失う公算がある」
「ば、ばかな! 同じ甲賀五人衆のいのちを、何を守銭奴のごとく勘定しているのじゃ」
「金の貸借に関係のないやつにかぎって、つねにそのような気前のいいせりふをぬかす。いのちを失うのはわしであって、おぬしではない」
とはいったものの。――栃ノ木夕雲は、実に三ミリくらいの厚さで、ぐっと足の裏の皮と肉を削った。先刻かけはしのところで甲賀者やくノ一に輸血したのとは反対の足である。つづいて、玄三郎の足の裏も削って、改めてぴたりと合わす。
「では、三ヵ月分ばかり」
「それだけか?」
「三ヵ月たったら、また考える。わしの足の裏の皮とて限度がある」
「面の皮より薄いか」
この場合に、珍らしく高安篠兵衛が諧謔《かいぎやく》を吐いた。
口からあごにかけて吐かれ、もう黒く乾きかかっている血以外には血ありとも見えぬ麻羽玄三郎の顔。――いや生前から生色ありとも見えなかったその能面みたいな顔に、いま、ふしぎな生色らしきものがよどみはじめた。
甲賀者たちはそのまわりに佇立《ちよりつ》して、うなされたような表情でこれを見まもっている。彼らはこの夕雲の秘術を、名は知っていても現実に見たのはこの旅に出てからで、しかし何度見ても驚倒せざるを得ない。彼らはしばし、逃げたおげ丸たちのことも忘れたほどであった。
麻羽玄三郎はぽっかりと眼をあけた。
やや斜めとなった首の眼が、銀色にひかり出した。――その方角に、釜伏塔之介が立っていた。
玄三郎の眼が自分を見ていると知って、塔之介の顔に狼狽《ろうばい》の波が立った。――玄三郎は、まず自分の見ているものが何物であるかを思い出そうとし、また自分の身の上に何が起ったかを思い出そうとしているようであった。
「釜伏い。……」
玄三郎は呼んだ。たしかに死んでいたこの男は、いまついに声を発した!
「おまえ。……お芦の毒のことを知っていたなあ?」
手には不空羂索を握ったままだ。それをひいたと見えて、鋼条が枯葉の上で、リ、リ、リ、と微かな、が、気味のわるいひびきをたてた。
それを知りつつ、釜伏塔之介は身動きはおろか、とっさに応答の声も出ないようすだ。――むく、と玄三郎が立ちあがりかけた。
「待て、玄三郎」
と、栃ノ木夕雲がいった。
「いま、味方争いをしているときでない。ひかえおれ、わが忍奴麻羽玄三郎!」
夕雲が、この傲岸《ごうがん》な麻羽玄三郎に向って、こんなえらそうな口のききかたをしたことはない。これに対して玄三郎が、まるで「われに返った」かのごとく、「はっ」といってまたひざをついてしまったのを見て、一同はあっと口をあけた。
栃ノ木夕雲の生霊逆ながれ――たしかにそれによって死者の生命はよみがえるが、逆ながれした血は夕雲の血で、爾後《じご》その再生者は夕雲の「生霊」のままの奴隷となる。そのことはとくと承知していたが、現実にこの人を人とも思わぬ麻羽玄三郎までがそうなってしまったのを見ると、だれしも心中にううむと嘆声をあげざるを得ない。
「麻羽より、それよ」
夕雲の眼は、玄三郎を叱《しか》るまえにお芦の屍骸《しがい》にそそがれていた。
「その女を、わしの忍奴に変えてやろうか――と、先刻から考えておった」
「えっ?」
これには漆鱗斎たちもぽかんと口をあけた。
「お芦めを、忍奴に?」
「実は、江戸のお頭のことが気にかかる。――」
と、夕雲はいった。つまり江戸から甲賀者の援軍を送ってもらったきり、こちらからは何の連絡もしていない。報告しようにも出来なかったからだが、さればとてとうていいつまでも放っておけることではなく、首領半蔵の怒りと焦燥はいかばかりかと、そのことが頭に浮かぶといても立ってもいられなくなるほどみな懊悩《おうのう》している。
「いまさら、この時期になって、めざす女の一人、やっとしとめたと報告するのは間がぬけておる。恥ずかしくもあり、かつまたお頭も眉《まゆ》に唾《つば》をつけなさるであろう。――それを解消するには、この際、腹に子のない女一人、現物を江戸に送るよりほかはない。――」
「おお」
と、みなさけんだ。が、塔之介がきく。
「しかし、子は?」
「子もまた殺した。――」
「殺したといって、子はおげ丸につれてゆかれてしまったではないか」
「殺した――死んだ――と、お芦自身に報告させる。生き返ったお芦はわしの忍奴じゃ。いかなる行動も、わしの意志のままじゃ」
「な、な、なるほど。――」
漆鱗斎がひざをたたいた。
「子の始末はあとでする。――しょせん、おげ丸を逃しはせぬ。同じことじゃ」
と、うなずきつつ栃ノ木夕雲は、またもおのれの足の裏を削り出した。
「いのちを削るとはまさにこのことじゃ。はて、わしはきょう一日だけでも、どれほどいのちを削ったか? その上またまた生霊を逆ながれさせるわしの辛さ、いやもう辛さなんていうものじゃないが、この際、やむを得ぬ。ただし、ここから江戸へ帰る時日、多めに見て半月分もやればよかろう」
それから、お芦の足にとりかかる。
「江戸までのめくら旅には、甲賀者を一人つけてやらねばなるまい」
夕雲はお芦の足と足を合わせた。
お芦の屍体は朱にひたった蝋細工《ろうざいく》のようであった。たんに毒をあおって死んだものではない。それ以前に出産という行為で、まさに血の海を作り出している。その蝋のような肌《はだ》が、しかしやがてほのぼのと美しい血色を浮かばせて来た。
とはいえ、乱れる黒髪、全裸のからだ、凄惨《せいさん》のきわみだが、それにどんな心情を起したか、ふらふらと魔魅に吸われるがごとく寄っていってのぞきこんだ釜伏塔之介が、
「うわ!」
と、奇声を発して飛びのいた。
このときお芦が後産――胎盤を生みおとしたのである。しかし。――
「わが忍奴よ。……立て」
例のもったいぶった夕雲の声がかかると、お芦は糸にでも引かれるように起きあがって来た。
「ここへ参れや」
その通り、お芦は夕雲の前にひざまずく。眼はつぶれたままだが、まるで視覚があるようだ。夕雲はしげしげとのぞきこんで、にたっと笑ったが、お芦はそれから顔をそむけようともせず、老皇帝の前の侍女のごとくうやうやしい表情をむけたままである。
「忍奴玄三郎」
と、夕雲は横目で見ていった。
「あれにお芦の衣類がある。拾って来て着せてやれ」
すると麻羽玄三郎もうやうやしくその命に従う行動を起した。
「忍奴お芦、わしの口を吸え」
夕雲はまたあごをしゃくり、そのまま薄い枯葉みたいな口をつき出した。――と、お芦はのびあがり、その老いた口にひたと唇《くちびる》をあてるのであった。
その背にきものをかけようとした麻羽玄三郎が、ふいにのどの奥でごろごろというけだものめいた音を発した。が、お芦に接吻されたままの夕雲にじろっとにらみつけられると、これまた犬のごとく耳まで垂れてしまった。
「……こりゃ、へたをすると」
釜伏塔之介が漆鱗斎にささやいた。
「われら一同、そのうちことごとく夕雲の忍奴になりかねぬぞ。……」
「同感じゃ。……しかし、承知はしておったが、げに恐るべし」
と、鱗斎も長嘆した。
「が、しかしあのおかげでわれらはまさに、七たび生まれ変って逆賊おげ丸を滅ぼさん――という芸当が出来る。だれより、おげ丸が胆《きも》をつぶすじゃろうな」
夕雲が口を離して、厳然とお芦に命じていた。
「わが忍奴お芦よ。……江戸へゆけ。服部屋敷《はつとりやしき》へ。――」
――ほんの先刻までのお芦なら、死刑台へ歩めといわれるよりも峻拒《しゆんきよ》した要求であったろう。しかし、彼女はうなずいた。
「はい。――」
死刑台も何も、お芦は死から甦《よみがえ》って来た女である。
「そして、その腹を見せ――腹の子は未熟児として木曾福島《きそふくしま》で死んだ――と、お頭に言え」
「――はい。――」
この問答をよそに、漆鱗斎がふと思い出したように、そばの高安篠兵衛にささやいた。
「ところで、篠兵衛、おぬし、おげ丸が忍法を使わず、ただ剣のみでおぬしと対するとしたら、おぬし勝てるであろうかの?」
高安篠兵衛はしばし黙考ののち答えた。
「十中七までは、勝てる……と思うが」
「いや、危いぞ」
と、鱗斎はくびをひねった。
「さきほど、かけはしのところで、わしはおぬしに気づかれずして遠見貝第八番を嵌《は》めた。――しかるにいまおげ丸は、わしの投げた遠見貝第一番をみごとふせいだぞ」
「なに?」
「先刻おげ丸が刀を高々とふりかざしたろう。あのときだ、わしの遠見貝はあの長刀にふせがれて、ハラハラと砕けて、それ、あそこに散らばって落ちておる。――」
……南から北へ、ただひとすじの木曾街道。
そこを追いつ追われつする敵味方のあいだに、どうしてそんな奇蹟《きせき》が起ったのか。
つまり、逃げるおげ丸一行が、追う甲賀組集団の眼をのがれて、どうしてお芦に逢うことが出来たのか。
それは死霊のみちびきとも、天の声とも、いずれともいいがたいものがある。
そこは鳥居峠《とりいとうげ》を越えて奈良井《ならい》の宿から贄川《にえがわ》の宿へ――いわゆる木曾路の最後にちかい山中の下り坂のあたりであった。そこを、トボトボと、一組の男と女が歩いていた。女はお芦で、男はその護送者としてつけられた行者姿の甲賀者であった。
ほかの甲賀者から数日遅れてたったので、さきにいったその一団はもうどこにも見えない。ほかに旅する人影もない。あたりまえだ。木曾路にはもう乾いた雪が舞いはじめている。
辛苦に馴《な》れた甲賀者ですら耐えがたい寒風の中を、お芦は漂うようにゆっくりと歩いている。
「……もう少し、早くゆけぬか?」甲賀者はなんどもそういいかけたが、とにかく相手が盲目なので声をのんだ。
数日の休養をとったとはいえ、産後である。――といいたいところだが、それどころではない。「死後」のお芦だ。肌は蒼いのを通り過ぎて半透明に見えるばかり、「死後」の人間が生きて歩いているわけは甲賀者は知っているけれど、やはりそれは幽界の精霊のように見える。
旅籠《はたご》にいるあいだ、まだ旅立って以来、それなりにこの女がぞっとするほど美しく見えるときがあって、甲賀者もふとギラと眼をひからせることもあったが、むろんそれだけで手も血も冷えてしまう。もっとも、彼女を動かしている生霊が栃ノ木夕雲だと承知しているせいもある。
栃ノ木夕雲の生霊逆ながれ。――その忍法が実在することはげんに見る通りだが、げんに見ていて、まだ甲賀者にはよくわからないところがある。
この女の魂は、この女の魂なのか、夕雲なのか。半々なのか。それとも月の暈《かさ》のごとくかぶさっているのか。或いは時により両者流動するのか。
「あ。……」
ふいに甲賀者はわれに返り、あわてて呼んだ。
「これ、どこへゆく?」
街道の下り坂から、横に入る細径《ほそみち》がある。そこへ盲目のお芦は、うなだれたまま、漂うように入りこんでゆくのであった。
「木曾路はこちらだぞ。これ、われわれは一刻も早く江戸へゆかねばならぬ旅であるぞ。……」
お芦は返事もしない。彼女はものをいったことがない。
ただ、その足はいよいよ遅くなった。まるで背中に、見えない糸をつけてひかれているようだ。
細径のゆくてに雪のちりかかる雑木林があって、その向うに石塊をのせた板屋根の農家があるのを甲賀者はみとめた。そこから、かすかに一つの声がながれて来る。
「おンぎゃあ、おンぎゃあ、おンぎゃあ。……」
その泣声をきいて、「?」といった表情はしたが、まだお芦の行動の意味が甲賀者にはわからない。
すると、その農家のかげから、
「ああ、こまった。乳がないとは。――」
と、ほんとうに困ったような歎声《たんせい》をあげて、にゅっと現われた者がある。
あかん坊をふところに入れて、片手で押えた怪童おげ丸。――つづいて、そのうしろから、お都奈、お菱が現われた。
双方、かっと眼をむいて見合ったまま、数十秒、声もない。いや、ただ泣きしきっているのはあかん坊だけだ。
「……お芦!」
最初にさけんだのはお菱であった。
「……たたっ」
同時に、意味不明の声を発して、甲賀者が背を見せた。逃げようとしたのである。いや、先にいった仲間に、おげ丸たちがまだこんなところにいることを告げに走ろうとしたのかも知れない。
「おげ丸どの、斬って!」
と、お都奈がさけんだ。
おげ丸の眼が、ちらっと逃げる甲賀者の方へ動いた。二跳躍、三跳躍、それだけで短躯《たんく》の彼が、もう甲賀者の背に手のとどく距離にあった。しかし、彼はそこで踏みとどまり、ふりむいた。
「いや、逃げる者は殺す必要はあるまい」
その声も切れぬうちに、お都奈の手から轟然《ごうぜん》たるひびきがほとばしり、雑木林の向うで甲賀者はもんどり打ってころがり、そのまままるくなっている。
「お芦、生きていたじゃあないの?」
「お芦が死んだ、なんて嘘《うそ》じゃあないの?」
お菱とお都奈はそうさけんで、駈け寄ろうとした。が、これまたぎょっとしたように足をすくませてしまったのは、そこにいるお芦の様子がただごとでない――この世の人間とは思われない鬼気をたたえていることに気づいたせいだ。
お芦はなおうなだれていた。
それから、なに思ったか、またトボトボとひき返しはじめた。足は依然漂うようだが、顔は恐ろしい苦痛に耐えているようにあぶら汗にぬれ、唇が、ピク、ピクとわなないている。いや、何か口の中でつぶやいているようだ。
その前に、おげ丸が立ちふさがった。
「お芦。――」
彼はふところのあかん坊をさし出した。
「おまえの生んだあかん坊だ」
両手に受け取って、その重味に引かれたように、お芦は地上に坐《すわ》った。するとこのとき、あかん坊の泣き声がとまった。
お芦はあかん坊を抱いたまま、自分の胸をあらわした。あふれ出た半透明の乳房に、あかん坊は吸いついた。
それをとり囲んで、おげ丸、お都奈、お菱は凝然《ぎようぜん》と立っている。
――天地は寂莫《じやくまく》の気に満ちた。
ただ雪ふりしきる中に、みどり児に乳房をふくませている母――この母子像はしかしこの世のものか。
あかん坊だけは、あきらかにこの生命に満ちた世界のものであった。おそらく、飢えていたのであろう。小さなのどが、グビリ、グビリと力強く波動するのが見える。それにしても、生まれ出でた小さな人間の、何と生命力に満ちていることよ!
――そもそもお芦は、この子をだれの子と思っているのか。
彼女は栃ノ木夕雲から、子は死んだ、と教えられた。むろん嘘だが、お芦自身は自分の腹の子がどうなったかを知らないのだ。強いていえば、生前の? 彼女の最後の知識でも、たしかにその子は死んでいる。
そしてまた、たとえその子が生きておげ丸につれ去られたと知ったとしても、いまや夕雲の忍奴となりはてたお芦は、夕雲の意志に反する知覚など持てるはずもないのだが。――
しかし、彼女はその子に乳をのませつづけている。
時さえも測るべからざる時が経過した。
あかん坊の唇が、乳房から離れた。誕生間もないあかん坊が、乳房から唇を離すときはすなわち眠るときである。
するりとその小さなからだが、母の手から落ちようとした。
「……お!」
おげ丸がわれに返り、危くそれをさらいあげた。同時にお芦はばたりと前にうち伏した。
「お芦、お芦!」
お都奈とお菱が呪縛《じゆばく》から解かれたようにすがりつき、抱きあげて――二人は、はっとしてのぞきこみ、次におげ丸の方へ顔をふりあげた。
「あ、息がない。――」
「おげ丸どの、何とかして。――」
おげ丸はしゃがみこんで、むき出しになったままのお芦の乳房の下に手をあてて、
「……死んだ」
と、つぶやいた。
「こんどこそは、ほんとうに。――」
「こんどこそ、とは?」
「いままでのお芦は……思うに、栃ノ木夕雲の生霊逆ながれじゃ。……」
「――えっ」
「それ、おまえたちも、父長安が死んで、いちどよみがえったのを見たことがあるではないか。……」
お都奈とお菱は、夢魔にでも襲われたような顔を見合わせた。
「お芦は、夕雲の命ずるままに動いて来た。夕雲の命令には、絶対|叛《そむ》けぬはずであった。それから外《そ》れてここへ来たのは、このあかん坊の呼び声であったろう」
ふところでスヤスヤと眠っているあかん坊から、地上のお芦へ眼を移したおげ丸の声はふるえ、頬《ほお》には涙がつたわり出した。
「夕雲の生霊逆ながれにかけられた人間が、なお夕雲の意志に逆らうことがあり得るか。あり得るたった一つのものを、いま知った。それは母だ、母の心だ。……」
声は嗚咽《おえつ》となった。
「子に乳を与えたのも、もとより夕雲の意志の外にある。――さっき、お芦がぶつぶつと何やらつぶやいていた。はいただいま、はいただいま……と、お芦はいっていた。それは夕雲にわびていたのだ。わびつつも、お芦は子に乳をやった。その心と行為は責め木にかけられてばらばらになり、そしてとうとうお芦のいのちをひきちぎってしまったのだ!」
おげ丸はさけんだ。
「お芦、しかし、この子は――おげ丸は、きっと育てるぞ。われら三人で!」
お都奈が眼を雪の天にあげてつぶやいた。
「子はみんな生きている。われら同行六人。――」
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母旅同行五人
芦丸《あしまる》、とおげ丸は呼んだ。そう名づけたのである。
それをふところに入れて、おげ丸は雪の木曾路を北へぬけてゆく。
「おげ丸どの、いったいどこへゆくのです?」
「さ、どこへゆこうかな?」
「敵はどうしているのでしょう?」
「さ、どうしているかな?」
お都奈とお菱がきくのに、おげ丸は首を前にかたむけて、芦丸をのぞきこみながら、心ここにないようだ。
眉も眼《め》じりも下がり、ゆるみ切った顔つきに、お都奈は少し気を悪くしたようであった。
「敵といえば……おげ丸どの、少々心細い。――」
「あん?」
「なぜ、このあいだ鳥居峠《とりいとうげ》で甲賀者を斬らなかったのです。またその前、甲賀組が勢ぞろいしていたというお話だったのに、なぜ一人も斬らないで、お芦を見殺しにしてしまったんです?」
「いや、あのときは、この芦丸を拾って来るのが精一杯で……べつに、むりして殺さなくてもいいだろう。もともと味方の衆だからな。……」
「まだあんなことをいってる。では、その甲賀衆がもうわたしたちの前には現われないとでもいうのですか?」
「そんなことは絶対にないが。――」
「変な自信を持って……あの男たち、みな殺しにしないかぎり、わたしたちは安心して子供が生めないわ。それでも、向うに、まだあなたは遠慮しているのですか!」
「ま、時と場合による。……」
「おげ丸どのらしくないわ。ほんとにじれったい。……あなたはどうしても忍法を封じているつもり?」
「そう約束したからな。……」
「それであの五人衆を討てますか?」
「うひゃ!」
おげ丸は奇声を発した。
「芦丸が、おれの乳に吸いついた!」
くすぐったそうに、また快感に耐えないかのようにふとったからだをくねらせる。――まったく処置がない。
「おげ丸さま、そんなに可愛《かわい》い?」
お菱がふりむいた。語尾に、ふしぎさとともにやや嫉妬《しつと》のひびきがある。
「こんな可愛いものが世の中にあるか。おまえ可愛くないか」
「それは可愛いけど。……そうね、芦丸さまはおげ丸さまの弟ですからね」
「弟?」
おげ丸はキョトンとした。いかにも腹ちがいの弟にはちがいない。――しかしおげ丸は、この子を自分の子のような気がしていた。まるで自分が腹をいためた子みたいな気がしていた。
「おンぎゃあ、おンぎゃあ、おンぎゃあ。……」
芦丸は泣き出した。
乳にはまったく苦労する。
鳥居峠ちかくの農家に立ち寄ったのもそれであったが、牛を飼っている家さえ見れば、乳はないかと頼み込む。あかん坊を抱いている女を見れば、これにも叩頭《こうとう》する。――
それが実に忙がしい。生まれて間もないあかん坊というものが、まるで腹に時計でもあるように、昼夜をとわず三時間おきに眠りから醒《さ》めて「おンぎゃあ、おンぎゃあ」と乳を請求するものであることを、おげ丸ははじめて知った。
男というものは、父親になってはじめてこんなことを知るのだが、おげ丸は、まことにばかげたことに、女が乳を出すはじまりということも、それまでよく知らなかった。最初、だから。――
「おい、乳をくれ!」
と、お都奈、お菱に要求して、
「子供が生まれなければ、女は乳が出ないんです」
といわれて、眼をぱちくりさせたものである。
「だって、おまえたち、もうすぐ生まれるではないか」
「もうすぐといっても、生まれたあとじゃないとだめなんです」
「そんな大きな乳房を持っていて――いったい何が入ってるんだ」
子供が生まれたとたん、その乳房から豊かに乳が出はじめる――という女のからだのからくりをはじめてきいて、おげ丸は縹渺《ひようびよう》たる表情になったが、しかしそう神秘的な思いにばかり耽《ふけ》っていられないときがある。――
やむを得ず、米を煮て、重湯を口に入れてやっても、あかん坊は不満で、不承知で、「おンぎゃあ、おンぎゃあ」と必死の泣声をはりあげる。
「そういう栄養はいけないんです。あかん坊には、どうしても乳でないと。――」
と、お都奈が冷静に長安の栄養学を伝える。
「その乳がないんだ。……ああ、そこに四つも大きな乳房がぶら下がっておりながら!」
はったとばかり、お都奈とお菱の胸をにらみつけるおげ丸の眼には、この若者には曾《かつ》て存在したことのない憎しみの光さえ燃えているようで、二人の女はふるえあがった。
しかし、その間隔で乳を要求するあかん坊をうるさいと思うどころか。――
「よく生きて生まれた」
心から、そう思う。女が正確に何百日で子を生むものか知らず、またお芦が身籠《みごも》った日も正確にはわからないのだが、早産児であることはたしかだ。
――だいいち、生まれたときは息もなかったではないか?
それがこのように生きていて、なお生きんがために、乳を請うて泣きさけんでやまない。
おげ丸は感動し、眼さえうるませ、道中、乳を求めて必死に歩きまわった。ひょっとすると、甲賀組の追跡をのがれたのは、かえってこの常識はずれの道くさのせいであったかも知れないほどである。
雪の木曾路を、乳もらいにさまようおげ丸。
女二人は顔を見合わせた。
「おげ丸さまは、変ったわね」
茫洋《ぼうよう》たる童顔なのに、どこか一脈ふしぎな凄絶な孤独の翳《かげ》を曳《ひ》いていたおげ丸の、何というこのごろの顔のだらしなさ。
「……あれで甲賀組が出て来たら、大丈夫か知ら?」
夜ともなると、旅籠でおげ丸は芦丸を抱いて寝る。
たまたま乳があって、芦丸がスヤスヤと眠っていると、おげ丸が小声で、調子のはずれた唄《うた》をうたっているのが、隣りのお都奈お菱の耳に聞える。
「はたごはいくら
十三はたご
めしは何めし
とうぼし飯
汁は何じる
かぶの汁。……」
お都奈とお菱は吹き出した。
「あれでも子守唄《こもりうた》?」
「おげ丸さまがあんな唄を……どこで覚えたのか知ら?」
これは、まだいい。――二人にとって、どうにも聞き捨てにならないつぶやきが流れて来ることがある。おげ丸が芦丸に話しているのである。
「芦丸よ。――おまえのかあさまはなあ、服部屋敷でも一番の美人といわれたひとで、それなのにその心の雄々しいこと、鬼神も泣かせるほどであった。……自分の眼がひらいていると敵にいどころを知られる、という厄介《やつかい》なことになったことがわかると、かあさまはみずから美しい眼を針で刺してつぶしたほど。……盲《めしい》となったかあさまをおんぶしておれは歩きつづけたが、こんどはおまえをおんぶして歩く。おまえの美しいかあさまを偲《しの》びながら。……」
「――おげ丸どの!」
と、お都奈が声をかける。声をかけずにはいられない。――
「芦丸さまをこちらへよこして」
「お、起きているのか。どうして?」
「そんなにしゃべりつづけだと、あかん坊もよく寝られないじゃありませんか?」
お菱もいう。
「このあいだなんか、おむつをびっしょりにしたままで、おげ丸さまは朝まで口をあけて大いびきをかいていて。……」
「そっちで寝させると、つぶされやしないか?」
「だれに?」
「二つの大きな腹にはさまって。……」
「何をばかなことを。――さ、つれて来て下さい。あかん坊は女と寝るのがふつうなんです。そしてわたしたちは、そのころから長安さまにお教えを受けた教育をしてやらなければいけません。……」
お菱の声もややかんばしっているところを見ると、相当に頭に来ているらしい。――
……さて、木曾路はぬけたが、一行は立ち迷っていた。
日毎《ひごと》にふりつむ雪と、日毎にふくらんでゆくお都奈、お菱の腹と、何よりも芦丸の乳の問題と、そしてまた、いずこへゆかんかというおげ丸の迷いのために。
とにかく三時間おきに乳を請求されるので、それを相当量確保してからでないと次の旅路へ踏み出せず、また宿の内外に乳をもらえる女性が数人あると、そこからなかなか離れられない。
それから、いったいどこへゆくかという問題。
べつにゆくあてはないのだが――やがて中仙道を洗馬《せば》から塩尻《しおじり》へ北上するにつれて、ふっとおげ丸は、いっそ佐渡《さど》へゆこうか、と思い立った。塩尻の手前から松本、善光寺《ぜんこうじ》と辿《たど》れば、道は越後《えちご》に通じる。むろんそこは万丈の雪に埋めつくされているが、実をいうと雪は、おげ丸にとって大して障《さわ》りにはならないのだ。お都奈、お菱の大きな腹や芦丸が風邪をひきはしないかという憂いをのぞけば、雪はおげ丸にとって、敵に対してむしろ利点となる。――その意味はやがて明らかになるだろう。
佐渡へゆこうか、と思い立ったのは、むろんそこに味方但馬《みかたたじま》がいるからで、その目的地は飛騨《ひだ》の高山《たかやま》でも、ヒョイとおげ丸の頭に浮かんだことがある。おげ丸独特の或る心情から、そのときはそれをとりやめたが、しかしこのまま中仙道《なかせんどう》、或いは甲州街道《こうしゆうかいどう》に道をとれば、ゆくさきは江戸《えど》だ。彼らにとっては、破滅以外の何ものでもない江戸だ。
さて、いかがすべき?
迷いつつ、その塩尻も過ぎた。――心配していた風邪に、どうやら芦丸がかかったような徴候があり、それは大したこともなく、三、四日で癒《なお》ったようだが、そのことが北国への道を、おげ丸にひるませたのである。
中仙道は塩尻峠にかかる。
雪はやんでいたが、どんよりと銀灰色の雲が大きな空を覆って、それに浮きあがった飛騨、木曾、赤石、立科、富士その他四周の白い山脈山塊は、雄大というよりむしろ凄絶《せいぜつ》の相貌《そうぼう》だ。
こんな日に峠を越えたくはなかったのだが――塩尻まで来たとき、おげ丸は、ふっと何やらキナ臭い匂《にお》いをかいだのであった。べつにこれと敵の影を見たわけではないが、そこがおげ丸特有の第六感だ。
で、雪の峠を越えにかかる。何者であろう、道は数十人の足の跡に踏みかためられている。それが裸足《はだし》の跡だ。
――はてな?
それを怪しむゆとりは、おげ丸になかった。塩尻で乳を補給しなかったために、芦丸がまた泣き出したのである。
「こまったな?」
おげ丸は往生して、ふり返った。お都奈とお菱は乳房をおさえたが、これまた泣きそうな顔を見せただけだ。――いまにも生まれそうなあかん坊を腹に持ちながら、その子が生まれた刹那《せつな》からでなくては乳を出さないという、女のからだのエゴイズムよ。
「おンぎゃあ、おンぎゃあ、おンぎゃあ。……」
芦丸はおげ丸のふところの中ではね返る。もうそんな力の出て来た芦丸であった。
――すると、お都奈がおげ丸の袖《そで》を引いた。峠の上に、点々と人影がならんでいる。ぎょっとしてふり仰ぐと、これはこの寒中に、裸にひとしい異形《いぎよう》の男女であった。
上半身には襦袢《じゆばん》ようのものをまとっているが、男はあとは下帯一本、女は赤い腰巻をまくりあげて、背には莚《むしろ》を巻いたものや、青竹の束などを背負っている。男はひげだらけで、女はあかん坊に乳房をふくませているものもある。足はみんな裸足だ。
――ははあ、さっきの足跡はこの連中か。
と気がついたが、もはや引返すことは出来ない。
上ってゆくおげ丸たちを、この数十人の異形の一団は、おとなしく道の両側に堵列《とれつ》して迎えた。
黙々として、実におだやかで、人なつこくさえあるまなざしだ。おげ丸はそれを感じたが、お都奈とお菱はうす気味悪そうであった。雪の中に、むうっと暑苦しい、獣くさい匂いが吹きつけて来るようだ。
――このひとたち、だあれ?
ゆき過ぎて、お都奈がおげ丸にきこうとしたとき、うしろから、
「もしっ」
と、呼びかけられた。
「乳を。……」
三人の女が追って来た。三人ともあかん坊を抱いて、その乳房はまるで小さな俵のようであった。
おげ丸はふり返った。
「乳、要るか?」
と、女たちはいった。
おげ丸はふところの芦丸をのぞきこんだ。芦丸はさっきから小さな口をあけて、あらんかぎりの声で泣きしきっている。
「……お!」
おげ丸は、まるで自分が渇《かつ》えていて、甘露の声をきいたような眼つきをした。
が、二、三歩戻って、そこではたと立ちどまった。
「いや!」
彼はくびをふって見せた。
「オゲの乳は要らん!」
そして、お都奈、お菱を眼でうながし、泣きさけぶ芦丸をしっかりと抱いて、逃げるように峠を駈《か》け下りていった。
峠道が平地になってから、おげ丸は大息をつきながら二人にいった。
「オゲの乳を芦丸に飲ませては、父上のお心にそむくじゃろうが」
お都奈とお菱はやっといまの連中の素性を知った。しかし、何とも挨拶《あいさつ》のしようがない。――おげ丸の素性もまた思い出したからだ。
ふりかえると、銀灰色の雲の下に、点々と山窩《さんか》たちの影がこちらを見下ろして動かない。
「何だか、あの人々に悪いようですね」
と、お菱がいった。
「悪くはないが……芦丸にはこまったな」
と、おげ丸は泣きさけぶあかん坊をいよいよ持てあました。
「これ泣くな、泣くな、おまえに愚昧《ぐまい》凶暴のオゲの乳をやってはならんのじゃ。とはいえ、その声をきくと、こっちの胃袋もねじれるようじゃわい。な、下の諏訪《すわ》までゆけば、きっと乳を探してやるほどに。……」
道はやがて雪の原にかかる。このあたり、いの字ケ原という。――また雪がちらつき出した。
その雪の原の道の向うに、灰色の一塊が見えた。それが動き出すと、四つ、五つに分れた。まるで煙のかたまりでも吹きちぎれたような感じなのに、お都奈、お菱が、
「――何かしら?」
と、眼をこらしたとき、おげ丸が急にふところのあかん坊を背に負い出した。
それが四人の人影と見えても、そのうち三人はたしかに女と見えたし、しかもそれは巡礼ではなくてふつうの女の旅姿であったし、まだ何者か、お都奈とお菱にはよくわからなかった。
「おい、漆鱗斎《うるしりんさい》だな、あれは」
おげ丸がいった。二人は雪をすかし見て、愕然《がくぜん》とした。
「あっ……では、あれは甲賀のくノ一たち。――」
二人は身をひるがえそうとした。
「逃げてもだめだ。うしろには、栃《とち》ノ木《き》、高安《たかやす》、釜伏《かまぶせ》、それに二人の甲賀者《こうがもの》がおる。――」
と、おげ丸がくびをふった。彼は芦丸を背に背負い終えている。
いかにも、いつ現われたか、たったいま歩いて来た雪路のうしろに、五つの影が、これまたぼやっと煙のかたまりのごとく分れるのが見えた。
左右はいちめんの――五十センチ以上はつもった雪の原だ。向うの林までにはだいぶ距離がある。
こちらが気づいたと見て、前後の敵は、雪けむりをあげて駈けて来たが、それぞれ十メートルばかりの距離でぴたりと立ちどまった。
お都奈が短銃をとり出すのが見えたかららしい。
「これ、うぬら前に立て」
と、栃ノ木夕雲の命ずる声がうしろで聞え、これもふつうの武士姿に戻った甲賀者が二人、前に出た。夕雲はまた声をかける。
「そちらのくノ一も前へ」
いわれるまでもなく、甲賀の女忍者三人は、漆鱗斎の盾となっている。どっちも一列縦隊になって、たとえお都奈が撃ったとしても、それは五人衆には及ぶまい。
「まず、このままで日の暮れるのを待とう。そのうち餓鬼《がき》がかつえ死ぬじゃろう」
と、夕雲が笑った。このあいだも、むろん芦丸は空腹を訴えて泣きつづけている。
このときおげ丸は片膝《かたひざ》つき、左腕をにゅうっとななめ上方にさしのばした。
「お都奈《つな》、お菱《ひし》、この腕にぶら下がれ」
この体勢は、いままでいくどか試みている。一瞬とまどい、すぐにお都奈とお菱はその通りにした。
お菱は手くびに、お都奈は肘《ひじ》に――女二人をぶら下げたまま、おげ丸はすっくと立ちあがった。その左腕はピーンとななめ天空へのびたまま、鋼鉄の棒のようだ。
恐るべき怪力ではあるが、この構えで、しかも雪の一本道の前後に敵を迎えて、彼はどうしようというのか?
「よし、ゆけ!」
夕雲がこぶしをふり下ろした。
まるで鎖をはなたれた猟犬のように、甲賀者とくノ一は殺到した。女たちのついていた杖《つえ》はいずれも仕込み杖であった。それをいっせいに抜きはなっている。
それを見つつ、おげ丸は刀の柄に手もかけず――それと見て、前後から駈け寄った甲賀者とくノ一は、躍りかかって、あやうくおたがいの剣尖《けんさき》から青い火花を散らすところであった。二人のあいだから、おげ丸を中心とする人体群は消滅していた。
「やっ?」
おげ丸は、子供を背負い、女二人をぶら下げたまま、道からうしろ飛びに二メートル近くも、雪の原の上に立っていたのである。
なぜ、そんな逃げ道に気がつかなかったか、というと、むろんそれが常人なら足を腿《もも》のなかばまで没しかねない――という判断があったからだが、その判断があったにもかかわらず、そこに軽がると立ったおげ丸に、
――おげ丸の忍法|浮寝鳥《うきねどり》。
という知識はあったのに、思わず知らず、当面の甲賀者とくノ一、二人、
「待てっ」
ややあわてながらも、どどどとその方へ踏み込んで、おそらくその下は泥田にでもなっていたのか、腿どころか腰まで雪に埋めて前へ泳いでいた。
「見せてやる。おげ丸の鏡中剣!」
声とともに、右腕からピューッと飛来したおげ丸の長刀|一閃《いつせん》。
これが向って右の甲賀者の首を刎《は》ね、そして左のくノ一の頸《くび》の皮膚まで走って、ピタリととまった。長刀はそのまま向うへ引かれたにもかかわらず、くノ一はまるでおのれの首も刎ねられたかのごとくつんのめっている。むろん、甲賀衆は、女もまたてっきり斬《き》られたものと思った。
あっと眼をむきつつも、もとよりそれにひるむめんめんではない。――
「両人、眼をふさげ!」
おげ丸がさけんだとき、路上に一列横隊となった甲賀者たちから、無数のマキビシが飛んでいる。
凄《すさま》じい音がして、それはおげ丸の刀で叩き落されたが、しかしお都奈のふともも、お菱の肩、そしておげ丸自身のからだの四、五ヵ所から、ぱっと鮮血が飛び散った。なかんずく、おげ丸の左眼から。――
いかにおげ丸でも、左腕に女二人をさげて、右腕のみでふるう剣では、マキビシのすべてをふせぎ切れなかったと見える。
「そこだ、逃すな!」
と、釜伏|塔之介《とうのすけ》がさけんだとき、おげ丸たちはまた二、三メートル飛びずさり、そしてそこから轟然たる音響がほとばしった。
おげ丸の腕に片手でぶら下がったまま、お都奈が撃った短銃であった。――これはさすがに狙《ねら》いが狂って、弾丸はそれはしたものの、これにはさしもの忍者たちも狼狽《ろうばい》して、
「うひゃ!」
奇声を発して、いっせいに路上に這《は》い伏した。
「高安、おげ丸の鏡中剣をよく検討して見てくれ。これは防備のために使ったのだから、約定違反と責めるなよ。――」
おげ丸の笑い声が、もう二十メートルも向うで聞えた。
そのまま彼は、こちらを向いて、風のように流れ去った。深い雪の上を、まるで大地を走るがごとく。――その驚くべき背走ぶりを、一同あっと眼をむいて見送っただけであったが、彼らを釘づけにしたのは、それよりも、左眼に血の花を咲かせつつ高笑いしたおげ丸の形相の凄じさであった。
――いずれにせよ、雪はおげ丸にとってかえって有利になるといったのはここのところだ。
この怪奇なる一編隊が、みるみる雪原のかなたの雑木林の中へかくれようとするのを見て、はっとわれに返った甲賀者たちが、猛然として追おうとするのを、
「待て」
と、高安篠兵衛がとめた。
「やはり、こちらも無謀であった。――敵ながら恐るべし――」
篠兵衛は長嘆して、
「機会はまだある。――」
と、仲間を制して、雪の上に倒れた甲賀者とくノ一のそばに歩み寄った。
「見ろ」
と身首を異にした甲賀者を指さす。
「ああ、こうなってしまっては、もはや生霊逆ながれも及ばぬわ」
栃ノ木夕雲がうしろからのぞいて、
「や、くノ一の方は傷がないぞ。生きておるぞ!」
「それも、わざと刃をとめたのだ。いかにもおげ丸らしい。――それよりも」
と、高安篠兵衛はくびをかしげてふりむいた。
「おい、みな、いまおげ丸は剣をどちらの手に握っていたと思うか」
「むろん、右手だろう」
「そして、どちらから斬って来たと思うか」
「むろん、右からだろう」
「つまり、こちらから向って左側からだな。ところが斬られたのは右側のこの甲賀者だ。おげ丸の剣はこれを斬って、左側のくノ一の頸の皮でとめた。――」
「あっ」
一同ははじめてその事実に眼をむいた。
夕雲がきく。
「では、おげ丸は左手に剣を持っていたというのか?」
「そうかも知れぬ。或いはいちど右側から斬って来て、眼にもとまらず刃を反転させたのかも知れぬ。――たしか鏡中剣といったな。きゃつ、いつあのような怪剣を会得したのか。――要するに、鏡中の像が実像と左右反対であるごとく、眼に見えるおげ丸の剣と実体とは逆なのだ。おれが恐るべしといった意味が、これでわかるじゃろう」
「ううむ」
さすがに一同は口をあけた。その口の中で、文字通り舌が巻きあがっているのが見えた。――ややあって、漆鱗斎がいう。
「というと、つまりいよいよ高安の拍掌剣もついにおげ丸の鏡中剣に及ばず、ということになるわけか」
「それは、やって見ねばわからぬがな」
と、篠兵衛《しのべえ》はいった。べつに負け惜しみでもなく、ほんとうにそう思っているらしい重厚な調子であった。
「大丈夫でござります」
くノ一の一人がうしろからいった。
「わたしの投げたマキビシ、たしかにおげ丸どのの左眼をつぶしました」
「やあ、そうであったな」
夕雲が手を打った。
「それはたしかに見えた。いかなおげ丸でも片眼をつぶされては、そのわざに支障を来《きた》すじゃろう。――」
「追おうではないか。この機を逃すことはない。――」
と、塔之介《とうのすけ》がはやり立った。彼は以前の美少年の姿に戻っている。――と、べつのくノ一が、雪原をすかして、「あ!」と驚きの声をあげた。
「敵の足跡も残っておりませぬ!」
一同は、はじめて気がついた。その通りだ。あかん坊まで入れて三人の人間をひっさげて駈け去ったおげ丸のうしろには、いかにも羽根で刷いたほどの跡もないのであった。
「敵は跡を残さず、こっちの跡は残る。いま追えば、かえってやられる。――落着け、落着け」
と、高安篠兵衛がいった。
「それに、もう一つこわいことがある」
「なんじゃ?」
「いまさらのことではないが、やはりお都奈どのの鉄砲じゃ」
一同は沈黙した。――たしかにあのイスパニア銃は、おげ丸にも劣らず彼らにたたらを踏ませるものにはちがいなかった。なんの、女の細腕で――とは思うものの、鉄砲ばかりはさすがの忍者にも閉口のたねで、それにつけても大久保長安のサイエンスとやらが恨めしい。
とはいえ、むろんそれで手を引ける事態ではなく、またその気もない。たいして修行したわけでもなく、しかも苦行苦練のおのれをかくも悩ます近代兵器には、その銃口にかみついて、くいちぎってやりたいほどの憎悪と敵愾心《てきがいしん》をおぼえている。
「そのお都奈……じゃがな」
と、漆鱗斎がいった。なぜか彼はうす笑いを浮かべている。
「いま、お都奈の眼に、わしは遠見貝第八番を嵌《は》めたと思う」
「――や?」
夕雲がさけんだ。
「いつ?」
「みながマキビシを投げたときじゃ。さすがのおげ丸の刀も、マキビシから女たちを護るのにせいいっぱいで、それに混じって遠見貝第八番が飛んだのを気がつかなかったようじゃ」
「では――お都奈の鉄砲が狂ったのはそのためか」
「いや、ちがう。遠見貝第八番は、たしかにお都奈が鉄砲を撃つ前――おげ丸の腕に左手でぶら下がったまま、必死にこちらを狙おうとしている眼に嵌まりこんだが、そのままでは何の異常もない」
鱗斎は掌の上の薄い貝を、コンタクトレンズのごとく両眼に嵌めて雪を見下ろした。
「こちらが同じものを嵌めると、はじめて向うに異変が起る。――いまお都奈の視界は真っ白になったはずじゃ」
鱗斎はすぐにその遠見貝の――彼の見ているものが相手にも見えるという驚くべき第八番の貝をはずした。
「こちらがはずせば、向うはもとの通りとなる。従って、ちょっと自分の眼の異常には気がつかぬという敵にとっては厄介至極なものじゃ。これは、使えるな?」
「おう、それは使える!」
と、塔之介が手を打った。
「そいつをおげ丸の眼に嵌めることが出来たら、きゃつの秘剣も蜂の頭もないが」
「いや、おげ丸には難しい」
と、鱗斎はくびをふる。
「現実には、お都奈の眼に嵌まっておるのじゃ」
と、夕雲が口を出した。
「それを使うよりほかはない。それを使ってあのお都奈の南蛮銃を封ずることが出来たらめっけものじゃな」
「封ずるも何も、お都奈があれでこちらを狙ったとき、鱗斎がその第八番の遠見貝を嵌めればすむことではないか」
と、塔之介がいう。夕雲は軍師みたいな思案顔をしていたが、やがてうなずいた。
「うむ、面白い兵法を思いついたぞ」
「何だ」
「その遠見貝第八番、鱗斎はいまちょっとこちらのやつを嵌めてみたが、あれは要らざることであったぞ。向うにおのれの眼が変じゃと気づかれたらおしまいではないか。すでにお芦の先例もあることじゃし――それは決定的な時にこそ使うべきじゃが、しかしそれよりもこれを利用して、お都奈ひとりをおげ丸からひき離す工夫はどうじゃ?」
「お都奈をおげ丸から離す。――」
「そうすれば、まずお都奈とその胎児も始末出来るじゃろうが」
「どうやっておげ丸からひき離すのだ」
「おまえ、おげ丸に化けろ。――いつか服部屋敷で化けたことがあるそうじゃの。玄三郎がまんまと化かされたというが」
「それは、出来ぬことではないが――しかし、ほんもののおげ丸がそばにいては何にもならぬではないか」
夕雲は塔之介を見つめていった。
「そこがわしの兵法じゃ。……さて、おまえにはおげ丸に化けてもらうとして、もう一人――くの一のだれかをお菱に化けさせるわけにはゆかぬか」
「いや、変化袋のわざはおれだけにかぎる」
「それは承知じゃが、くノ一の方はそっくりのままでのうても、ざっと似ておるだけでよい。左様、あのお今など顔かたちがどこかお菱に似ておるが、おまえの変装術を以てすれば、一応お菱らしく見せることも出来ない相談ではないだろう」
「さ、それにお菱は、大きな腹をかかえておるぞ。そこまで似せるのか。――」
釜伏塔之介はくびをかしげて夕雲を眺《なが》め、
「で、それはともかく、夕雲老、おぬしの兵法とは?」
「されば、まず、おげ丸に化けたおまえと、お菱らしき女に化けたお今とのいちゃつきを、遠見貝第八番を介してお都奈に見せて、お都奈を動揺させる。――」
「そんなにうまくゆくか」
「何とか、うまくやるのじゃ。そして、さらに――おげ丸の危急迫る――左様、われらに斬り殺されるところでも見せて、お都奈をいよいよ別の場所に走らせる」
「おい、ちょっと待ってくれ。おげ丸が斬り殺されるところを見せるというと、つまりおれが斬り殺されるわけか」
「そういうわけだ」
「ばかな! おれが斬り殺されたら、おれは死んでしまうではないか」
「なに、あとはわしの生霊逆ながれに委せろ。必ずわしが生き返らせてやる」
「夕雲!」
塔之介はかん走った声をあげた。
「うぬはおれを――うぬの忍奴に変えるというのか。いやさ、それが狙いでそんなばかげたことを思いついたのではないか!」
「わしの狙いは、ひたすら使命達成にある。それくらいまでにやらぬと迫真性がなく、おげ丸からお都奈を分離させることは出来まいと思うばかりじゃ」
「しかし、たとえあとで生き返るとしても――殺されるときには、わしは痛い。――」
夕雲は、手をあげた。
「玄三郎、来い。――」
塔之介はぎょっとした。雪の道をうしろから、漂うようにやって来たのは麻羽玄三郎と一人の甲賀者だ。
死んだ玄三郎が生き返ったことは、なるべくおげ丸に知られない方がいいだろうと、これまで後方にひき離してあったものだ。それは承知しているけれど、あのお芦の毒薬の件以来、塔之介はこの「親友」が近づくたびに、何やらうす気味わるい風にすうと吹かれる思いがする。
「玄三郎、塔之介を説《くど》いてくれ。わしの忍奴になることを怖《おそ》れるなと」
「はっ。――」
麻羽玄三郎のからだのどこかで、リ、リ、リ、と不空羂索《ふくうけんさく》のひびきがした。彼はじろっと塔之介を上眼《うわめ》づかいに見ていった。
「塔之介。……わしといっしょに、仲良く夕雲老の忍奴になろうなあ?」
塩尻峠の上からも雪の大地に灰色の巨大な銅鏡のごとく望まれた諏訪湖は、いちめん氷に張りつめられていた。十日ばかり前から凍りはじめたそうだ。
塩尻から十二キロばかりの下《しも》の諏訪は、さすがに夢中で過ぎた。ここから道は中仙道と甲州街道に分れるが、湖に沿って甲州街道に入ったのは、だから特別の意味はない。
気がついてみると、湯げむりの立つ上《かみ》の諏訪の町の中を歩いていたのである。旅籠《はたご》というものもろくにない時代だが、ここは古くから温泉が出るので、湯治の客のためにそれが少なからずある。
「ここに泊ってゆこう」
と、おげ丸がお都奈、お菱をかえりみた。もう夕暮であった。
「乳をもらわねばならぬ」
例によって芦丸が、彼の背で泣いていたのである。
お都奈とお菱はうしろをふりかえったが、黙ってこっくりとした。おげ丸の眼の傷を想《おも》ったのだ。その左眼につき刺さった甲賀組のマキビシ――四方に釘を突出させた武器――はひきぬいたが、むろんその眼はそれ以来閉じられて、まだ血がこびりついている。そしてまた彼女たちも負傷していた。
湖に面した一軒の旅籠に泊り、傷の手当、乳の入手などに気をもみ、ひるまの死闘の疲れもあって――その夜遅く、芦丸を抱いたまま、お都奈はこんこんと眠ったが、彼女は異様な夢を見た。
夢を見ていて、自分は夢を見ていると承知していることがあるが――お都奈はてっきりその状態だと思った。
眼はつぶっている。それに部屋は真っ暗なはずだ。――にもかかわらず、いつのまにか、部屋の隅《すみ》のあぶら皿《ざら》にぼんやりと灯《ひ》のともっているのが見える。
いや、それよりも彼女は、実に思いがけないものを見た。おげ丸が枕《まくら》もとにしゃがんでいるのだ。しかも、まっぱだかで。
さけび出そうとして、お都奈は声をのんだ。おげ丸がにたっと笑うと、そばに向うむきに寝ているお菱の肩をゆさぶったのだ。
「おげ丸どの!」
彼女はさけんだ。
「何をしているのです?」
すると、お菱の声が聞えた。
「お都奈さま、どうかなさいまして?」
「おげ丸どのが。――」
といいかけて、お都奈はまた息をひいてしまった。その一瞬にあたりは真っ暗になったが、その寸前、枕頭《ちんとう》にしゃがんでいたおげ丸の姿も忽然《こつぜん》と消滅しているのを、彼女はたしかに見たのだ。
「どうかなさったのですか、お都奈さま?」
もと通り、闇《やみ》の中に寝ているお菱の声であった。
「……いま、そこにおげ丸どのがいたように見えたけれど。――」
「おげ丸さまが? おげ丸さまは隣に寝ているではありませんか。ほら、あんなにいびきをかいて。――」
そういえば、そのいびきはさっきから、ずっとそこからつづいて聞えていたような気がする。
「わたしは夢を見ていたのかも知れない。……」
お都奈はぼんやりした声でいった。しかし、ついには自分でも可笑《おか》しくなって笑い出した。
それから、どれほどたったであろう。彼女はいつしか眠って、また夢を見た。――お菱がそっと起きあがって、隣の唐紙《からかみ》をあけている夢を。
あやうくまた声をたてようとして、お都奈はさっきのことを思い出し、息を抑えた。これは夢だ。――
たしかに夢にちがいない。自分はそこにじっと横たわっているのに、隣へ入っていったお菱の姿がよく見えるのだから。彼女がしどけない姿で、袖を顔にあてて、おげ丸の枕頭に立ったのまでが見えるのだから。
夢には相違ないが、お菱は何をしようとしているのか?
お菱は顔に袖をあてたまま、おげ丸の蒲団《ふとん》にすべり込んだ。おげ丸の顔ははっきり見える。彼は目をさまして、つまり右眼だけをあけて、またにたっと笑った。――お都奈は、声は抑えたが、からだがくわっと熱くなり、骨まで鳴り出して来そうで、歯をくいしばった。
夜具の中で、二人は何をしているのか、それは見えないが、おげ丸がお菱の顔に顔をおしあて、その唇《くちびる》を吸いつづけているのはあきらかに見える。
――なぜ、こういうことになったのだろう?
――二人はいつから、こんなふるまいをするようになったのだろう?
お都奈は身をふるわせながら考えて、いや、これは夢だ、と頭をふった。が、おげ丸がついに片手で夜具の襟《えり》をはねのけ、お菱の一方の乳房をつかみ出し、身をずらし、夜具を小山みたいに盛りあげ、もう一方の乳房を吸い――なお袖で顔の上半分を覆っているが、そのたびにお菱が大きく口をあけてあえぐのを見るに至って、ついにお都奈もうめき声をたてた。
「お都奈さま、お都奈さま」
ふっと視界が闇黒《あんこく》に沈み、またそう呼びかける声が聞えた。
「まあ、ひどくうなされて。――」
お都奈は闇の中に茫然《ぼうぜん》と眼をひらいていた。また夢を見た、と改めて思ったが、からだはまるで熱病でも病んだように熱く、汗ばんで、うるおっているのを感じた。
「どんな恐ろしい夢をごらんになったんですか?」
心配そうにお菱がきく。
夢の内容はいえなかった。思い出すのも恥ずかしかった。このわたしが、まああんな夢を。――彼女は大声をたてなかったことにほっとし、またうめき声をもらしたらしいことを恥じた。
「甲賀衆の夢」
と、お都奈はかすれた声で答えた。
「甲賀衆。――」
お菱はささやいた。
「追って来ているでしょうね。あのまま振り切れるわけがありませんもの。どこにいるのか知ら? ね、お都奈さま。――」
「黙ってて! おねがい」
お都奈はけんのある声を出した。
いまはっきりと目覚めていても、よみがえる夢のなまなましさ、ふとこの同志ににくしみをおぼえていることを自分の声のけわしさで自覚し、彼女はまた恥じた。
「眠りましょう、お菱。……」
しかしお都奈は自分の眠りに自信を失った。
――果せるかな、それからまたどれほどかたって、お都奈はまたも夢をみた。
くりかえし、打ち返し、彼女の脳を洗う妖夢《ようむ》の潮騒《しおさい》。――なんぞ知らん、その根源は彼女の眼にあったことを。
いや、さらにその根源は、隣の同じ作りの旅籠に泊っている漆鱗斎の眼にこそあった。彼の眼が見れば、たとえ閉じていようと眠っていようと、お都奈の眼もまた同じものを見る。
鱗斎は見た。自分の枕もとにしゃがんだおげ丸を。また隣室に移動して、そこで痴戯するおげ丸とお菱を。――正確にいえば、おげ丸に変形《へんぎよう》した釜伏塔之介とお菱に化けた甲賀くノ一を。
そんなばかげた行為をやっている男女を、横からへっぴり腰でのぞきこんでいる彼の姿は、さらに第三者の眼から見ればいよいよばかげているけれど、しかし鱗斎の顔は同時中継のテレビカメラの撮影技師のごとく厳粛であった。彼は適当に第八番の遠見貝を嵌めたり、はずしたり、その操作に精根をこめた。
お都奈はその日の昼間、いの字ケ原の森で、自分の視界が真っ白になったことを経験している。そのときは、わたしどうしたのか知ら? とうろたえたが、それは十数秒のことであったし、ちょうど雪原を見ていたときであったし、もはやその怪異をも忘れていた。またかりに思い出したとしても、そのこととこの夢の妖《あや》しさとをとうてい結びつけることは出来なかったであろう。
だれが、遠隔の人間の視覚が自分に投影されるなど想到するであろうか。――たとえ以前に、こちらの視覚が向うに投影されるという怪忍法の存在することを承知していたとしてもである。
しかし、それにしてもお都奈は、せめてこの妖夢のことを、おげ丸を起して訴えればよかったのだが、――夢の内容が内容だけに、自尊心の強い彼女が、ついにこの念を起さなかったのは天なり命なりというべきか。
さて、お都奈がまたも見た夢だが。――
それは、この旅籠の裏口からスタスタと出てゆくおげ丸の夢であった。しかも、一刀をひっさげて。
――はて、おげ丸どのはどこへ?
と、くびをかしげたとたん、お都奈は目がさめた。目がさめると視界は暗い。――いや、雨戸の隙間《すきま》から蒼白《あおじろ》い黎明《れいめい》のひかりがもれて、そばにお菱とあかん坊が眠っているのが見える。が、お都奈はがばと起きあがった。
「おげ丸どの!」
声をひそめて呼びかける。
隣室からいびきの声は聞えない。――とたんにまた彼女の視野は暗くなって、次に夜明けの湖の水際を走っているおげ丸の姿が浮かびあがった。
これは夢か、現実か。すでにお都奈の脳髄は混沌としている。起きあがったまま、彼女は眼《め》を見張っていた。心臓を冷たい手でわしづかみにされた思いであった。
おげ丸のうしろを追っている幾つかの影がある。高安篠兵衛、栃ノ木夕雲、それに甲賀者たち、四、五人。――
「……あっ」
反射的に彼女は枕もとの短銃をとっていた。
むろんこのときは鱗斎が遠見貝をはずし、その影像は消えていたのだが、彼女はその銃を抱いて座敷をすべり出し、宿の裏口から湖の方へ駈け出していた。
この行動は、もとよりその一夜を通しての夢と現実の交錯からみちびき出されたものだ。一歩外へ出るとともに、しどけない姿を襲った恐ろしい寒気とともに、わずかにまた理性が戻《もど》りかけたが、たちまち彼女の眼に――おげ丸がつんのめり、甲賀組が殺到し、その乱刃の下から血しぶきがあがりはじめたのが映ると――その眼にまた何の異常もない湖が見え出したにもかかわらず、彼女はその湖に向って走り、かつそれに沿って走り出した。
蒼茫《そうぼう》たる夜明けであった。
湖に沿う雪は凍っている。彼女の足が踏み込まないほどに。
それなのに、たったいまそこを走っていったと思われるたしかに数人の足跡が残っている。重くて、あらあらしい男の足跡だ。
――いま見た光景はほんとうだったのだ!
いや、改めてそう確認するまでもなく、お都奈の眼は、前方の湖畔に一群の影を見た。
だれか倒れている人間をとりかこんで、その影のむれが白刃をふるっている。暁の光に、その男が血に染まっているのが見えるし、凶行者たちが凱歌《がいか》の笑いをどよめかせているのが聞える。――
「お、おげ丸どの!」
と、お都奈は絶叫した。斬られている人影は、たしかにおげ丸であった。
「どうしたことですか、これは。――」
凶行者たちがふりむいて、にたっと笑った。――お都奈は立ちどまった。
「――してやったり」
と、つぶやいたのは栃ノ木夕雲だ。彼はこのとき、もうおのれの足を、屍体の足と合わせている。
「鱗斎、いや改めておぬしの遠見貝の魔力に敬意を表する」
「では、わしがあの女、もろうてよいな?」
と、鱗斎がぼそりという。夕雲がきく。
「おまえがもらって、どうするのじゃ?」
「交合するのじゃ」
「はて、おまえが? うふ、出来るかな?」
「ばかをいえ。……服部家の婿になるのは、その技量からしてもわしのほかはないことは、みな認めたであろうが」
鱗斎は甲賀者たちをふり返った。同時に両手の指を眼にあてた。
「おい、つかまえろ」
お都奈は、まんまと誘い出されたということにまだ気がつかず、おげ丸が殺されたという驚愕《きようがく》と怒りのために倒れんばかりになり、全身をふるわせていたが、ようやくその足をしっかりと踏んばり、わななく腕をあげて、イスパニア短銃をあげていた。
だれを狙ってやるか?
その銃口が、彼女がいちばん敵として恐ろしいと思っている高安篠兵衛の、いささか憂鬱《ゆううつ》げな顔の下に擬せられたとき、その視界がさあっと白くなった。
鱗斎はうつむいて、雪を見ていた。
「あっ、これは。……」
お都奈は狼狽して左手を眼にあてていた。
視界が白くなった刹那にでも撃っていれば、まだだれかに中《あた》ったかも知れない。――こちらに足を踏み出した甲賀衆の姿をちらっと見たとたんに、彼女はひきがねをひいた! 度を失った短銃の弾は、むなしく黎明の空を飛び過ぎた。
二発、三発、四発! 銃口はしかしあらぬ方をむいて火を吐いている。
――しまった!
お都奈は驚愕していた。何が何だかわからないが、とにかく敵の術中に陥ったことだけは知った。
殺到して来る跫音《あしおと》と哄笑《こうしよう》をきいて、彼女は身をひるがえした。――湖の方へ。いや、湖の上へ。
「――おおっ」
甲賀者たちはたたらを踏んで汀《みぎわ》で棒立ちになった。
お都奈は湖の上を逃れてゆく。湖は凍っていた。しかし、凍結していると知って逃れた場所ではなかった。それは文字通り盲滅法《めくらめつぽう》の行為であった。
「逃すな!」
あわてて甲賀者たちは湖へはね飛んだが、これは男ばかり、その足もとから恐ろしいひびきがして、湖は彼らの姿を胸まで呑《の》んでしまった。――氷は、お都奈だけは乗せたものの、三人の男は体重を支え得ない厚さだったのだ。
いや、三人の男どころか。――
「うわっ」
悲鳴をあげ、氷の破片と銀のしぶきをはね散らして沈んだ三人の甲賀者を見て、べつのところへ高安篠兵衛が飛び込んだが、一メートル八十はあろうかと思われる巨体を乗せて、氷はめりっとぶきみな音をたて、彼はあわてて岸へ飛び返った。
「ゆけ、くノ一」
鱗斎がさけぶ。彼はなお雪を見たままだ。
「三方からゆけ」
甲賀くノ一は散って、三ヵ所に分れ、そこから湖へ飛び下りて、氷上のお都奈の方へ迫り出した。
「おげ丸どのう!」
と、お都奈の悲痛な声がながれた。
お都奈がのどをあげてさけんだのは、おのれに迫る三人の甲賀くノ一を見たからではない。彼女の視界は依然真っ白だ。
それはおげ丸の殺されるのを見つつ、自分がどうすることも出来ない――いかなるゆえか知らないが、明らかに敵の忍法によって何も見えなくなったいまの立場からあげた断腸の呼び声であった。
すると。――
「おおい」
どこかで、声が聞えた。
「お都奈!」
――おげ丸の声だ!
声のみならず、このとき彼女の眼にはちらっと汀を走って来るおげ丸の姿が見えた。――
それが実に奇妙な視角であったのは、この刹那《せつな》鱗斎がおげ丸の方へ眼をあげたからだが――お都奈はその視角を疑うにいとまあらず、また、いま斬られたはずのおげ丸が走って来るという事実に驚くいとまさえあらず。――
「おおっ、おげ丸どの!」
絶叫して、狂喜して、無我夢中で氷上をその方向へ走りかけた。
おげ丸は立ちどまり、これを見た。うしろをお菱も、あかん坊を抱いたまま駈けて来る。おげ丸はふりかえり、お菱をあかん坊ごめに片手に抱き、長刀をひきぬくと、これまた湖の上へ飛び下りた。高安篠兵衛よりはるかに短躯《たんく》なのに、むしろ重げにさえ見える彼のからだを氷は軽がると乗せている。
「帰れ、帰れ、ひき戻せ!」
と、高安篠兵衛がくノ一たちにさけんだ。
お都奈がまた短銃をあげたのを見て、漆鱗斎はあわてて雪に眼を落した。もっともお都奈の視角は鱗斎の視角だから、たとえくノ一たちを撃っても無効であったろうが。
「くノ一、その女だけ仕止めろ!」
と、彼はさけんだ。質実な職人風のその顔が――おそらく、ここまでおのれの遠見貝の術を成功させながら、この土壇場で長蛇《ちようだ》を逸しかけた、という怒りのためであろう――別人のような凶相に変っていた。
「お都奈の腹に手裏剣を打って、胎児もろとも刺し殺せ!」
三人のくノ一の手から、三条の銀光が飛んだ。お都奈のまんまるい腹部めがけて。
その直前に、お都奈は狂った視角のために足をもつれさせ、がくとひざをついている。
手裏剣はそのために、彼女の頸につき刺さった。正面と、左右ななめ前方から。――なんと、そのうなじにきっさきをキチンとそろえて。
そのまま、くノ一たちは身をひるがえして岸の方へ逃げ出した。
おげ丸はこれを見た。その一人へ滑走しかけたが、たちまち思い直してお都奈の方へ馳《は》せつけた。
「お都奈!」
お菱を放り出し、狂気のごとく抱きあげたが、お都奈はこときれていた。
――なんじょう、たまろう、おそらく即死したものであろうが、短銃をつかんだまま、にっと死微笑を刻んでいるのは何のためか。思うにそれは、おげ丸の生きていることをその直前にたしかめ得たからであろう。
――おげ丸は、お都奈が旅籠をさまよい出て、数分後にそのあとを追って出たのであった。
そのもとは、あかん坊の泣き声だ。例の乳が切れて訴える時間でもないのに、芦丸が突然はげしく泣きはじめて、まずお菱が目ざめ、そばに寝ているはずのお都奈の姿と短銃がないのに気づき、はっとして隣のおげ丸を起しにいったのだ。そのまえにお都奈がおげ丸のいびきをきかなかったのは、ちょうどおげ丸がそのときいびきをかいていなかったか、或《ある》いはお都奈が半錯乱状態にあったために過ぎない。
「そういえば、お都奈さまは。――」
と、お菱はおろおろしていった。
「夜中から何やらうなされていらしたようですわ。……」
長刀ひっつかんで、おげ丸は飛び出した。そして、旅籠の裏から湖へつづく足跡を追って、ついにこの惨劇の場に到達したのであった。
しかし、ああ、まさに惨劇。ときすでに遅し。
「お都奈さま、お都奈さまっ」
お菱はその屍骸《しがい》にすがりついて泣きもだえた。
おげ丸はふりむいた。
岸の方で、甲賀組が騒いでいる。こちらを指さす者あり、止める者あり、ぬれねずみになって水ぶるいをしているやつあり、また屍体のようなものに肩を入れ立ち上らせようとしているやつもあり。――その屍体のようなものをよく見ると、驚いたことにおげ丸そっくりの男なのだ!
事実は、大急ぎで「生霊逆ながれ」を施し、文字通り半死半生の境にある釜伏塔之介を、夕雲と鱗斎がかついで逃げようとしているのであった。
「えい、退《ひ》け。氷の上では勝負にならぬ。――おげ丸に浮寝鳥のわざある以上は」
甲賀者たちを叱咤《しつた》しているのは、高安篠兵衛であった。
「だいいち、こちらは向うへ寄れもせぬではないか。それより、あちから襲って来られて、釜伏を生かしそこねたら一大事。――」
万止《ばんや》むなし、とわらわらと向うへ逃げてゆくこの一団を、おげ丸は追おうとした。
そのとき。――
「おげ丸さまっ」
お菱がただならぬさけびをあげた。
「お都奈さまが。――」
「ど、どうした?」
「あかん坊をお生みなされます」
「な、なんだと?」
おげ丸はふりむき、立ちすくんだ。
お菱はお都奈の股間《こかん》に坐《すわ》っていて、こちらからは何が起っているのかよく見えない。駈《か》け戻ろうとして、その足はふたたび釘付けになった。
お都奈はたしかに死者だ。それはたったいまおげ丸が確認した。それなのに、その死者があかん坊を生むと? 生きている女でさえ苦闘のあぶら汗をながす出産、それをいま、死んだ女がやっていると?
ほんのこのあいだ、彼はお芦の凄惨《せいさん》な分娩《ぶんべん》を目撃している。しかし、さしものおげ丸もこんどばかりは生まれてはじめてといっていいほどの圧倒的な恐怖をおぼえ、冷汗したたり、髪の毛も逆立ち、それ以上一歩も近寄れなくなってしまった。
「……出て来ます、出て来ます!」
お菱がさけび、おげ丸の足もとにも、血が――先刻の手裏剣でお都奈の首からほとばしったものとはちがう新しい血が、ほかのえたいの知れぬ液体をまじえて、チョロチョロと流れて来た。
まるで太古の夜明けだ。いや、氷河時代から目覚めかかった大地のようだ。
まだ湖の上の空は蒼々と暗いのに、東にそそり立つ白い蓼科八《たてしなやつ》ケ岳《たけ》などの空に、朱色の――神秘なばかり、恐怖的なほど赤い光がながれ出している。
そして、徐々に、湖上もその色に染められ、やがて血の色さえもはっきりしないようになった。
「……う、生まれました!」
数歩離れて、芦丸を抱いて立ちすくんでいるおげ丸の眼に、お菱が血まみれの肉塊をささげるのが見えた。
が、それが果して生まれたというべきか。死者が分娩したというのがそもそも大怪異だ。うぶ声はあがらなかった。
しかし、お菱はさけぶ。
「男の子ですっ」
そのとたん、その下の氷がめりっと音をたて、八方に亀裂が走った。夢中でおげ丸は、片手にそのお菱をひっさらい、大きく飛びのいている。
お菱の抱いた死せる肉塊から、するすると肉の紐《ひも》がのびて、ぷつっと切れた、臍帯である。その刹那《せつな》に、
「おぎゃあ!」
死せる肉塊は、高らかな声をあげた!
同時に――おげ丸自身を浮寝鳥の術で重力を消しているとはいえ、女二人、あかん坊二人の重みをわずかに乗せていた氷が、いまのお菱の激動についに支え切れなくなったのであろう――亀裂の放射線の中心部にあったお都奈の屍体が、忽然《こつねん》と水の中へ姿を没してしまったが、その刹那、おげ丸とお菱は、凍結していたお都奈の死微笑が、にいっと花のようにひらいたのを、たしかに目撃したのであった。
それこそ、こちらが死びとと化したような静寂の中に、ただ、
「おンぎゃあ、おンぎゃあ、おンぎゃあ……」
曙《あけぼの》の光の中に高らかにいのちの讃歌《さんか》を奏《かな》でているのは、死女の生んだ第二のあかん坊だけであった。
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父旅同行四人
「……都奈丸《つなまる》」
と、おげ丸は呼ぶ。
ふところから泣き声をあげているのは、十日ばかり前に生まれたばかりのあかん坊であった。これに合わせて、背中に背負った芦丸もまたそり返って泣く。
「おう、よしよし、おう、よしよし」
いくらなだめても、飢《ひも》じい二人のあかん坊は、そんなお座なりの慰撫《いぶ》では承服しない。
それはわかっているのだが、おげ丸は持てあまして、ただささやく。何かいわずにはいられない。
「都奈丸、おまえのかあさまはなあ。……日本一の忍び組の大将|服部半蔵《はつとりはんぞう》どのの妹御で、その名を恥ずかしめぬ勇ましい女人であった。鉄砲で敵を打ち払い打ち払い、あげくの果ては……まあ、どうしたことか、たった一人で敵の大軍の中へ乗り込んで壮烈な討死をとげたが……なんと、死んだあとでおまえを生んだ。――」
あかん坊は哀《かな》しげに泣く。
「泣くな、泣いてくれるな。死んで、こときれてから子を生むとは、さすがは服部半蔵の妹、いや、女の一念、母の一念の力でのうて何であろう。……まさに弁慶《べんけい》の立往生も及ばぬ働き。おまえはそのかあさまの子じゃないか。そのかあさまが、そんなにまでして生んだ子じゃないか。……」
しゃべっているうちに、おげ丸は声涙ともに下るといった調子になる。
お都奈の最期を思い出すと、泣かずにはいられないが、同時にそれ以前のありし日のお都奈のさまざまの姿がよみがえって来るのだ。
木曾《きそ》の馬籠《まごめ》で、「おげ丸どのとわたしが夫婦《めおと》になってあたりまえ」といい、切なげに小おげ丸を撫でながら、「わたくしはおげ丸どのの子を生みたい!」ともだえたお都奈や、東海道で、「やや[#「やや」に傍点]が生まれたら、あなたにもこういう教育をしていただかなくてはなりません。あなたもここへ来て勉強して下さい!」と命じたお都奈や、或いは駿府《すんぷ》の大久保屋敷で、長安に犯される前、ぴしいっとおげ丸の頬《ほお》をたたいたお都奈や、さらに江戸《えど》の服部屋敷で、「からだを洗っていらっしゃい!」と叱りつけたお都奈や。――
その気丈さでおげ丸を辟易《へきえき》させた女の言動が、なんとまあ、いま可憐なまでにひたむきなものとして甦《よみがえ》って来ることか。――
「それでも泣くか、都奈丸。――ああ、しようがないなあ!」
おげ丸は犬みたいな哀れな眼で――しかも右眼だけの一つ眼で、街道のまわりを見まわした。
雪の甲州路。――諏訪《すわ》から甲府《こうふ》へ向ってつづく路上だ。ここはまだ信濃《しなの》の寂しい村にかかるところであった。
「お菱《ひし》」
その部落へ入って、おげ丸はふりむいた。
「あかん坊の泣き声が聞える家があったら教えてくれ。おれにはこの都奈丸と芦丸の声ばかりが耳にがんがん鳴ってよく聞えない」
乳をもらおうという算段である。
黙々としてうしろから歩いていたお菱も、また泣きそうな表情でうなずいた。
あかん坊をのぞいては、たった二人で歩く甲州路。
そのことを意識すると、お菱はふっと血が熱くなるような気がして、重い腹も寒い雪路も苦にはならないほどだが、しかしかくもおげ丸が苦しみ、それを女の自分がどうすることも出来ないということに想い到《いた》ると、彼女はただ黙ってうなだれるよりほかはないのであった。
――けれど、見よ、お芦《あし》の子、お都奈の子はみごとに生きている。
そしてまた、胎《はら》の中には自分の子も。――自分とおげ丸を合わせ、雪の旅は同行五人。
お菱の胸には、お芦、お都奈にまけず、どんなことがあっても自分の子を生まなければならぬ、そして芦丸《あしまる》、都奈丸も立派に育ててゆかなければならないという不撓《ふとう》不屈の意志が改めて湧《わ》きあがる。
「あ。……」
ふいにお菱は顔をあげた。
「え、あかん坊の泣き声でもしたか」
「いえ、何かあかん坊の食べられそうなものを頼んで来ましょう」
お菱は左右にひっそりと戸をしめ切り、屋根の煙出しから囲炉裏の煙をたちのぼらせている百姓家の一軒の戸をたたきにいった。
ややあって彼女は、べそをかいたような表情でひき返して来た。両掌に盛っているのは、四つ五つの赤い柿の実であった。
「醂《さわ》し柿といって、酒樽《さかだる》につけた柿だそうです。……干柿よりはまだましだと思って」
「柿を、あかん坊が食うかね?」
小柄をぬいて、むいて、都奈丸の口にあてがって見せた。せめて果汁でも吸ってくれればと祈ったが、むろんあかん坊は受けつけない。背中の芦丸も同様だ。二つの小さい口は、あらんかぎりの声はりあげて泣く。
その哀れさもさることながら、物音というもののない雪の山里で、どこまでもよく通るあかん坊の泣き声にお菱はおびえた。
「おげ丸さま」
「うむ。……」
「甲賀衆はついて来ているのでしょうね」
「ついて来ているだろう。……とうてい離れる相手ではない」
「いったいおげ丸さまは、どこへおゆきになるおつもりですか」
おげ丸はふいに刀をぬいた、それを真っすぐに立て、片腕でお菱から柿の一つをとって、ぽんとかるく空中へ投げあげた。柿は吸いつけられたように刀のきっさきにつき刺さる。
「そのことだ。おれは考えているんだが」
なんのためか、柿をつき刺した長刀を持ったまま、ノソリノソリと歩きながらおげ丸はいう。
「江戸へゆこうと思う」
「えっ、江戸へ――?」
いかにも、このまま甲州街道を南へ進めば、ゆくさきは江戸のほかにはない。
「江戸へゆけば、江戸には服部家が。……」
「そこへ帰ろうと思うんだ」
と、おげ丸はうなずいた。
「兄上と姉上にこのあかん坊を見せてさしあげようと思うんだ。人間ならば、これを見せればまさかどうしようという気はなくなるだろう。まして姉上にとっては、この二人も姉上の――弟ではないか。加えて都奈丸は、兄上にとっても甥《おい》にあたるじゃないか?」
おげ丸のいい出したことは重大だが、それよりもお菱は、おげ丸のやっていることに気を奪われている。
おげ丸の刀は、キラキラと光を旋舞させていた。――柄を両掌の間で回転させているのだが、それまできっさきにつき刺さっていた柿が、その刃をつたって、徐々に下りて来る。しかも、何たること、クルクルと皮をむかれながら。
「おれとおまえだけなら逃げ切れる。逃げて見せる。しかし、あかん坊がなあ。乳でこの通り往生しているし、北の雪国へ入れば風邪をひかせる心配もある。もしあかん坊に万一のことがあったり、また痩《や》せ衰えて弱い子になったりしたら、父長安の教育法もへちまもないじゃないか」
柿は鍔《つば》もとまで下りた。長い長い皮を地に垂らしたまま。
「それにこれ以上、あの甲賀のめんめんと、血みどろの仲間|喧嘩《げんか》をするのは、やはりどうも気がすすまぬ」
きれいにむかれた柿をとってお菱に渡し、また新しい柿を受け取り、空中に投げあげて、きっさきにつき刺す。お菱は手の中のむかれた柿を見た。むかれた柿の皮はどこまでも同じ幅で、かつ同じ薄さであった。
「食べろ」
と、おげ丸はいう。
「それよりも、半蔵どのと姉上に頼もう。姉上は、すべてをまかせれば、きっと大御所さまの御慈悲を願ってやろうと仰せられた。ほんとうだ。あの古今の大英雄であらせられる大御所さまが、こんなあかん坊をいつまでも眼のかたきになどされるはずがないと思う。――」
おげ丸は弱気になった、とお菱は思う。おそらくそれもあかん坊のせいであろうが。――
それよりも、彼の天性のひとのよさ、のんきさがここで現われたと思う。駿府以来の長い死闘の旅を思うと、いまになってそんな手ぬるい解決が可能だとは、女のお菱にも思われないのだが。――
「姉はあの通り涙もろい女じゃ。半蔵どのとて、野良犬同然のこのおれをここまで育ててくれたお方、こんなあかん坊をじかに見れば、それを殺すの何のと、そのような血も涙もないお人であるわけがない。――窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さずという。おれは江戸へいって、われらもろともあかん坊たちを、服部家に投げ込んで見ようと思うのだが、お菱はどう考える?」
柿はまた皮をむかれながら、クルクルと刀身をすべって来る。――
「どうだ、見えるか、面白いだろ?」
おげ丸はふところをのぞきこみ、また背中をふりかえった。
彼はあかん坊をあやすためにそんなことをしていたのだと、お菱はやっと気がついた。――あかん坊にそんな妙技が理解出来るはずはないのだが、魂は天ならぬ天使に通じたか、四つの無心な黒い眼は、ふところと背中からまじまじと向けられて、いつのまにか泣き声はやんでいた。
白雲の天地にただ一つ動く赤い色に心を奪われたせいかも知れないけれど。
――柿を持たずして、長刀でその皮をむく。あまりに軽がるとやってのけるので、これを神技とは思わず、ただふしぎな曲芸とばかり見た者には、雪の山里をゆくこの一行は、哀れにもまた面白げな風物詩の中の一点景と見たかも知れない。
もっとも、街道のどこにも、一見、そんな見物人はいなかったが。――
にもかかわらず、これを見て戦慄《せんりつ》の顔を見合わせた連中がある。
「……やはり、大変なやつじゃな」
「片眼となって、ちっとも刀さばきに狂いを来たしてはおらぬではないか」
栃《とち》ノ木夕雲《きせきうん》と漆鱗斎《うるしりんさい》はふりかえった。
「どうじゃ、篠兵衛、あれは」
「左様。おげ丸があの刀術を防備のみに使って……忍法を以てわれらに逆襲して来ようとはせず、ただ逃げることのみに専念しているのは、われらにとってまず倖《しあわ》せとせねばならんであろうな」
と、高安《たかやす》篠兵衛はうなずいた。
「――と、思っておったが、ぶきみなことがある」
「何だ」
「おげ丸のゆくえだ」
「おう、きゃつ甲州路を南へゆくが、まさか江戸へではあるまいな」
「いや、そうかも知れぬ」
「江戸は、きゃつにとって必殺の地ではないか」
「そうでないかも知れぬ。ともかくも、あれはお頭の奥方の弟さまじゃもの」
「しかし、まさか?」
「おげ丸がどういうつもりでおるかは知らぬ。ともあれ、あれは江戸へゆこうとしておると思う。――そして、あれが江戸へいったらどうなるか。その結果、おげ丸たちがどうなるかは判断のかぎりではないが。――」
「何をのんきなことをいっておる」
と、夕雲と鱗斎は今さらのごとくあわて出したようだ。
「篠兵衛、おぬし、何を考えておるのだ」
「さ、おげ丸に左様にさせるべきか、あくまでそれをふせぐべきかと。――」
「ふせがねばならぬ。長安どのの子供二人、まだ身籠っておるお菱もろとも、ことごとくつつがなく、服部屋敷に身を投じさせたりしたならばこちらの立つ瀬がない。――一刻も早くきゃつらを始末せねば!」
高安篠兵衛は鉛色の空を仰いでつぶやいた。
「おげ丸を江戸へゆかせるとなあ、こちらの立つ瀬どころか、もっと身の毛もよだつ恐ろしい結果を招来しそうな気がしてならぬ。……」
「おげ丸のあの剣」
と、鱗斎がいった。
「きゃつが江戸へいったら、などと、そのあとのことまで心配しておる場合ではない。いまのことじゃ。あれをお菱から離すことが焦眉《しようび》の急」
「――おう、では、もういちどあれを使ってみるか」
夕雲がいって、うしろから三人のくノ一を混えた甲賀者五人とともに、妖々《ようよう》と近づいて来た麻羽《あさは》玄三郎と釜伏塔之介《かまぶせとうのすけ》にあごをしゃくった。
「あれとは?」
「生霊逆ながれじゃが、それを釜伏にもういちど――」
「釜伏? 釜伏は生霊逆ながれで現在あの通り生きておるではないか」
「先日、お芦が生き返って、また死んだであろうが」
と、夕雲は唐突にいい出した。――この幻妙の術によって甦《よみがえ》らせ、江戸へやろうとしたお芦が、途中どういうわけかやはり死んでしまったことは、もう彼らも知っている。
「おげ丸はあれを、むろんわしの術によって生き返ったお芦と判断したにちがいない」
「うむ。――」
「で、こんどもしお都奈を見たら、やはりお都奈が生霊逆ながれによって氷の下から甦って来たものと思うにちがいない。――」
「や?」
「そうは思っても、やはりきゃつはそれに引きつけられるであろう」
「そのお都奈に?」
「釜伏を化けさせるのだ。釜伏の化けたお都奈。――これは、こちらの自在に動かせるこれ以上はない道具となるではないか」
「な、なるほど。――」
「そのすきにお菱にかかる。そちらを料理することにする。――どうじゃ?」
夕雲はみずからひざをたたき、その手でさしまねいた。
「釜伏、来い。――」
塔之介がやって来た。
「おまえ、お都奈に化けられるな?」
「はあ?」
塔之介は、ぼんやりした返事をする。くびをかしげて、
「拙者、夕雲どのの生霊でござれば、果たして左様な術が使えますかなあ? あれは遠い遠い前世のことで」
「使える。げんに玄三郎の不空羂索《ふくうけんさく》のわざに変りはないではないか」
「使え」
と、うしろから麻羽玄三郎が、能面みたいな顔をつき出す。うすきみのわるいささやき声で、
「変化袋を使えぬなど横着なことをぬかすならば、おれがおまえに不空羂索を使って見せるぞ」
「――はっ」
なんという変りようだろう。あの驕慢《きようまん》で、どこか玄三郎などを小馬鹿《こばか》にしているところもあった釜伏塔之介が、まるで先輩に向った新入生のように直立不動の姿勢である。栃ノ木夕雲に対しては、師を見るがごとき恐懼《きようく》の色さえある。
――だから生霊逆ながれなど、いやだいやだといったんだ! と生前[#「生前」に傍点]の塔之介ならいったろうが、いかんせんいま、あれほど抵抗した夕雲の忍奴になり果てた塔之介だ。そんなせりふは、脳中をめぐる夕雲の血でおし流されてしまうと見えて、それ以上反抗の言葉は出ない。
「お都奈に化けて」
何かを思いついたように、夕雲はにやっと笑った。
「おげ丸を誘ってみろ。……おげ丸をとろかして見ろ」
「はっ」
鱗斎がいった。
「で、おげ丸とひき離したお菱を何とか始末するとして、おげ丸はどうする?」
「おれにまかせてくれえ」
と、玄三郎がうめくようにいった。
「そもそも、その両者をひき離すという案は面白いが、ほんとうのところはなぜそのようなことにそれほど骨を折るか、おれには解せぬほどじゃ。はじめからおれを出してくれれば、両人いちどに不空羂索でひっくくってくれるものを」
「わしの兵法にさし出口するか」
と、夕雲が叱った。
「大事をとるのじゃ。黙っておれ、この忍奴め!」
「へへっ」
それまで沈黙のていであった高安篠兵衛が顔をあげた。
「やはり、おげ丸は斬《き》らねばなるまい。――何をいまさら、というかも知れぬが、正直なところ、わしはおげ丸を斬ることに心進まぬところがあった。責めてくれるな、あれとわしとは親友であったのじゃ。長安どのの子の始末はやむを得ぬとして、おげ丸だけは逃げてくれるならば逃げて欲しいと念じておった。……が、あれが江戸へゆくとなると、こりゃ捨ておけぬ。その結果は、やはり吉よりも凶、とくに服部家にとって戦慄すべき事態を呼ぶ可能性の方が強い。――で、わしが斬ろう」
と、いって、左右の手で柄をたたいた。高安篠兵衛の双刀は、腰の左右にさしてある。
「と、決めたとなると、いま麻羽が申したごとく何もおげ丸を分離する必要もないようじゃが、やはりひき離せ。……わしは一意専心、雑念なくあれと刃を交わえたい」
「大丈夫かな、一人で?」
と、鱗斎がいう。
「麻羽に手伝ってもらったらどうじゃ?」
「いや、よけいなものが混ると、かえってわしは負ける。――」
「よけいなもの?――けっ」
と、玄三郎がのどの奥から凶悪な音をたてた。
高安篠兵衛は手をあげて制した。
「その通りじゃ。一人ならばわしは、少くとも負けはすまい」
「少くとも?」
「九分九厘、相討ちとなるじゃろう。――」
――路上にしめ飾りが落ちていたのを見たことがあるし、旅の万歳師とすれちがったこともあるから、いつか正月が来て、それも過ぎたのであろう。
おげ丸にはそんな年中行事に心をとめるゆとりがない。またいつ信濃から甲斐《かい》へ越えたかも意識の外にある。
……乳。
ただ乳。
それだけだ。彼の全生活を占めているのは。
乳のあるところには、いつまでもへばりついていたい。しかし、いつまでも二人のあかん坊に乳をくれる女はいない。それにまたこの二人のあかん坊が、どちらも早産児にちがいないのに、いや、そのためかふつうのあかん坊以上に貪欲《どんよく》なのだ。……まるで、わずかなオアシスの恵みから、すぐに砂漠へ追い出される二つの瘤《こぶ》をつけた駱駝《らくだ》みたいなものであった。
二人のあかん坊の泣き声をきいていると、切なさにおげ丸は気も狂わんばかりになって来る。
江戸へゆこう。服部屋敷へゆこう。……
渇《かつ》すれば、死の毒泉も乳と蜜《みつ》の泉のごとくに見えて来る。おげ丸の頭に、義兄半蔵や姉のお国の顔が、まるで故郷の慈父慈母のように思われて来たのは、こんな場合に人間の心にだれでも起る甘い非理性的な傾斜であった。
はじめにこのことに疑惑を持っていたお菱も、次第に彼に同化されている。むろん、自分が生き残るつもりはない。ほかの生命は知らず、服部家こそ自分にとっては必殺の地だ。
江戸へゆくまでに自分の腹の中にある子は生まれるだろう。それを他の二人のあかん坊とともに、自分のいのちとひきかえに服部家にさし出すのだ。ほんとうに、この地上のだれが、罪もない三人のみどり児を殺すだろう。
おげ丸と同じ程度に苦しみながら、お菱はしかしどこか倖せそうであった。
――もともと恋していたおげ丸だ。恋するおげ丸と同行二人旅。――むろん、この場合、あとの小さな三つの生命は念頭の外になる。
南へ下るにつれて雪は次第に少なくなってゆくけれど、風はもとより刺すように冷い。が、その寒風の何という甘美さよ。
あえぎあえぎ歩いてゆくお菱の頭からは、追跡して来る甲賀組《こうがぐみ》の影さえ消えがちだ。ただ浮かぶのは。――
いつか江戸の服部屋敷の忍びの森で、おげ丸に代って釜伏塔之介が自分への愛の告白をしたのを、「どうでござる。あたりましたろうが」とひらきなおられて、ただ顔あからめたおげ丸。
また雨の東海道《とうかいどう》の旅籠《はたご》で、「わたしはおげ丸さまの母になるわけか」と自分がからかったときに、何ともいいようのない悲愁の表情になったおげ丸。
いま、そのおげ丸の横顔に、とろけるような眼を投げながら、お菱は必死についてゆく。
――たとえ、どんなことがあろうと、わたしはこの人のいうがままに従おう。……この子を生めば、もうわたしは死んだっていい。この倖せな短い日々を持つことが出来た上は!
ふしぎなことに、いつのまにかお菱は、腹の子がおげ丸の子であるかのような錯覚にとらえられていた。
この子は、おげ丸さまのためにも、どんなことがあっても生まなければならない。……
しかし、そのとき、わたしにあのお芦やお都奈さまのような恐ろしい、すばらしい出産が出来るだろうか?
ふとお菱は、まるで虫の知らせか、天来の声でもきいたようにおげ丸に呼びかけた。
「おげ丸さま」
「あん?」
「もしわたしがあかん坊を生むまえに死ぬようなことがあったら……わたしの腹を切っても、子供を生ませて。……」
そのとき彼女の脳中には、意識せずして空中で柿をむくおげ丸の刀さばきが浮かんでいたのかも知れない。
「おンぎゃあ、おンぎゃあ、おンぎゃあ。……」
おげ丸が何かいおうとしたとき、その背中とふところで、また二人のあかん坊が泣き出した。
――甲府に宿り、勝沼《かつぬま》を過ぎ、大月《おおつき》を通って、猿橋《さるはし》を渡ったときだ。
またはげしく泣き出したあかん坊に、おげ丸は救いを求めるように頭をめぐらした。というより、そのとき何かもののけに襲われたような感覚に打たれてのことだが。
「……お!」
彼はのどに何かつまったような声を出した。
ふりかえって、お菱も立ちすくんだ。
いま渡って来た甲州猿橋。
長さ三十三メートル、高さは実に、六、七十メートル。見下ろせば眼もくらむような谷底に、富士《ふじ》から発した桂川《かつらがわ》が真っ白な泡《あわ》をかんでいる。橋は葛《かずら》を編んで作った吊橋《つりばし》だ。
その橋のまんなかに、じっと立っている影がある。
「……お都奈。……」
おげ丸がうめいた。
いつ、そこに現われたのか、それは天から舞い下りて来たものではないか。
銀灰色に渦《うず》まく冬空の雲を背景に、高い吊橋の上に、実際その女の姿は宙天に浮いているように見えた。
こちらをじいっと眺《なが》めながら、そこから生と死の見えない壁に隔てられているかのごとく立ちよどんでいる姿は、無限の哀しみにつつまれた悲母そのものの幻影としか見えなかった。
ふところの都奈丸がまたひときわ高く泣いた。
「……つれていってやる」
と、おげ丸は憑《つ》かれたようにささやいた。
「都奈丸、おおつれていってやるぞ。かあさまのところへ」
彼はお菱をふりかえった。
「おまえ、ここに待っておれ。……おれは、乳をもらって来る」
そして彼は、吊橋を、お都奈の方へ向って戻り出した。
――むろん、おげ丸は、それをお都奈がいのちをとりとめて、追って来たものとは思わない。あのとき彼女が完全に死者として凍った諏訪湖《すわこ》に沈んでしまったことは疑わない。
ただ彼の頭によみがえったのは、木曾路の果てのお芦と芦丸のあの母子像であった。芦丸に乳をのませにやって来た母お芦の亡霊であった。――いや、おそらくは栃ノ木夕雲の「生霊逆ながれ」によってさまよい出したお芦のことであった。
あれだ! と思った。
しかし、それにしても、氷の湖から彼女の屍体《したい》をすくいあげ、その忍法をかけた夕雲の真意はまだ不可解で、そうやすやすと近づくべき対象ではないが――しかし、最初に彼女の姿を見たときずうんと脳髄をつらぬいた衝撃から、すでに彼は魔界にひきずり込まれていたのか。それとも、生ける亡霊といっていいお都奈ながら、飢えた都奈丸にその母の乳を与えてやりたいという、彼自身かつえたような望みにかりたてられたのか。
いずれにせよ、彼自身、その実体が何であれ禁じ得ぬなつかしさに足をふるわせながら、吊橋の板の上を歩いていって、お都奈の前に立った。
「お都奈」
さすがにおそるおそる声をかける。
「おまえの生んだあかん坊だ」
といって、ふところの都奈丸をさし出した。
「ともかくも、乳をのませてやってくれ」
――すると、ひたとそのあかん坊を見つめていたお都奈の唇《くちびる》が、ピク、ピクとふるえはじめ、半透明に見える顔が、恐ろしい苦痛にたえかねるがごとくあぶら汗にぬれて来た。彼女はいちど手を出しかけたが、やがてゆっくりとくびをふり、背を見せた。
トボ、トボ、と彼女は橋の上をもと来た方へ戻ってゆく。
「ま、待て」
おげ丸はあわてて追いかけた。
「待ってくれ」
相手のからだに触れるのも恐ろしく、葛を編んだ手すりに背を擦《こす》って前に回り、また都奈丸を押しつけて、
「一口――一口でいいから乳をのませてやってくれ。腹一杯でなくてもいい。――」
ふいにおげ丸は、あのとき木曾路で、芦丸の眠るまで乳をのませたお芦が、そのままふたたび――永遠にこときれてしまったのを思い出した。
「腹一杯のませてはいけない。ただ、一口だけ!」
押しつけられて、お都奈はまたおげ丸と入れ替りながら都奈丸を抱いた。
「早く、早く」
せきたてられて、ふるえる手で襟《えり》をかきひらく。半透明な乳房が現われる。
が、あかん坊はその乳房に吸いつかない。それどころか、その手から逃れんとするもののごとくにのけぞり返って泣く。
おげ丸はくびをかしげた。
「はてな?」
「おげ丸どの。……」
哀しげに眼をあげて、銀の鈴をふるわせるような声でお都奈がいった。
「わたしの口を吸って。……そうせねば、乳が出ませぬ。……」
「――へ?」
おげ丸は眼をぱちくりさせて相手を見つめた。この前お芦は、そんな要求はしなかったが。――
「よし」
しかし、おげ丸はうなずいて、近寄った。飢えた都奈丸のためには、彼はなんでもするつもりである。ましてや、亡霊にしてはあまりにも魅惑的なお都奈の唇に、吸い込まれるように顔を寄せて。――
「…………」
ふとまた、おげ丸の顔がとまった。お都奈の匂《にお》いではない、何とも形容しがたい死臭ともいうべき匂いが、相手の口から吐き出されている。――
「早く。――」
その匂いをもらしながら、美しい唇が誘った。おげ丸は気をとり直した。死から甦った女なら、当然だ。
「……おげ丸さま!」
そのとき、背後から遠くお菱のさけびが聞えた。
ふりむいたおげ丸は、一瞬に、橋向うの山蔭から現われた七つ八つの影が、お菱に近づいて来るのを見た。その中に、なんと、死んだと思っていた麻羽玄三郎のきゅっと能面みたいに笑った顔までが。――
「やっ?」
さけんで、その方へ走ろうとして、おげ丸がくるっとまたむき直ったのは、その方からもただならぬ殺気の吹きつけて来るのを感覚したためだが、その刹那、彼の方へ一歩近寄りかけていたお都奈は、裾《すそ》をひるがえして二メートル以上も飛びずさった。
亡霊にふさわしい、というべきか。いや亡霊とは思われない荒々しい体さばきであった。はじめておげ丸は脳天を槌《つち》でたたかれたような表情になった。
「――釜伏塔之介っ」
絶叫すると同時に、その長刀が稲妻のごとく抜きはなたれている。
「いまごろ気がついたか、鈍なやつ。――」
お都奈の美しい顔で、釜伏塔之介はにやっと笑った。しかし彼は、いま懐剣に手をかけたところを、電光のごとくおげ丸にふり返られて、しまった! と戦慄していたのである。
「斬って見ろ、おればかりか、この子の落ちる先は百尺下の桂川だぞ。……」
おげ丸の刀はおろか、足まで動かなくなった。
片腕に都奈丸を抱き、左腕を都奈丸のくびにおしあてたまま、塔之介はスルスルとうしろへ退がってゆく。
「やったぞ! みごと、敵は罠《わな》にはまったぞ!」
鬼女そのものの相貌《そうぼう》で、塔之介はさけんだ。
――それにしても、これまた栃ノ木夕雲の生霊逆《いきりようさか》ながれによる忍奴のはずだが、それにふさわしからぬひっ裂けるような凶猛な声であった。
「もはや煮て食おうと焼いて食おうと心のままじゃが――おうい、篠兵衛、これからどうするのじゃよ? まず、子供をくびり殺そうか?」
「わっ……」
そのとき、背後でただならぬ何者かの絶叫が聞えたようだが、おげ丸はかえりみるにいとまあらず、タタと塔之介の方へよろめき出した。
「た、た、助けてくれ」
おげ丸はいって、がばと坐《すわ》ってしまった。
「子供のいのちばかりは!」
そして、前に抜き身の長刀を横たえて、ひたいを橋板にすりつけた。その背で芦丸が泣きさけんでいるが、これさえかまう余裕はない。
――そういえば、この釜伏塔之介の変化袋は知りつくしているはずだ。それどころかいままでにこやつがお菱に化けてお芦をおびき出し、またおげ丸に化けてお都奈をおびき出したらしいことも承知しているはずだ。
その自分が――眼前のお都奈をまったく夕雲の生霊逆ながれによるものだとばかり思いこんで、釜伏の変形したものだと、その可能性すら疑って見なかったとは!
おげ丸らしからぬ大不覚だが――それだけにこれは塔之介にとっても大冒険だ。お芦やお都奈などの女なら知らず、いつかの忍びの森に於《おい》てのごとく、おげ丸だけには変化袋が通用しそうもなくて、彼を相手にはひるんだものだが、夕雲の命令には忍奴の悲しさにやむなく服した。
つまり夕雲の兵法は当ったのである。夕雲と塔之介、二人の二つの忍法のコンビネーションがおげ丸を惑乱させ、みごとにおげ丸はお菱からひき離され、誘い寄せられたのである。
刀を置き、土下座してしまったおげ丸を見て、塔之介はまた戻りかけた。片手にこんどはあからさまに懐剣を握りしめて。
すると、――
「よせ、危い。――」
と、声をかけた者がある。
猿橋の西のたもと――さっきおげ丸たちがその前を通り過ぎた大樟《おおくす》のかげから、ゆらりと高安篠兵衛の巨体が現われていた。
「危い?」
塔之介はお都奈の顔で歯をむいた。
「危ければ、この子を殺す」
「子を殺す前に、おまえの足はなくなる。よせ!」
と、篠兵衛はもういちどいった。まだ距離もあり、低い声なのに、鼓膜をぴいんとたたくようなひびきがある。
「おげ丸ほどの男を相手にするのじゃ。卑怯《ひきよう》な真似はよせ。――堂々とやれ。そのためにこそここにわしがひかえておる」
篠兵衛は叱咤《しつた》した。
「おまえの役目は終った。あとはわしにまかせろ。その子を返して、おまえだけ来い、忍奴!」
「ちえっ」
釜伏塔之介は舌打ちすると、いきなりぽうんと都奈丸を放って、はたはたと高安篠兵衛の方へ逃げていった。
危くおげ丸は都奈丸を受けとめ、ふたたび刀をとってすっくと立ちあがっている。
背後からこのとき、ふうっと緑色の煙がながれて来たが、おげ丸はふり返ることが出来ない。塔之介とすれちがい、橋の上をのっしのっしと近づいて来る高安篠兵衛の眼に彼は吸引されている。
高安篠兵衛の眼は、あきらかに殺気を放射していた。その恐ろしさをおげ丸ほど明確に知るものはなく、それにもかかわらず、またこの場合、おげ丸ほど他の万象を忘れ、その眼に歓喜すらおぼえ、勇躍して馳《は》せ向えるものもなかった。
彼は前後にあかん坊を背負い、抱いたまま、スルスルと篠兵衛の方へ動き出した。
五メートルばかりの間隔をおいて、二人は立ちどまり、相対した。
「おげ丸」
と、篠兵衛は呼んで、
「そう呼び捨てにせねばならぬ縁ではあったなあ」
ちょっと、その眼の殺気に哀しみの靄《もや》がからまった。
「やるまえに、ききたいことがある。おまえはこのまま江戸へゆくつもりであったか」
「その通り。――服部屋敷へ」
「やはり、そうであったか? それからどうするつもりであったか」
「この子供たちを兄上に託する」
「お頭《かしら》はその子供たちを殺される」
「そんなことはない! このあどけなさをお見せして、御慈悲を願えば。――」
「ああ、おげ丸らしく思慮の足りないことだ。そのことはお頭の御一存ではどうにもならぬことだということが、おまえにはよくわかっていないと見える。――もしその子供たちが服部家で殺害されたら、おまえはどうするつもりであったかな?」
「そんなことはない! そんなことはない!」
おげ丸はあえいだ。篠兵衛は長嘆した。
「そのあとが恐ろしい。――しかるがゆえに、おまえを江戸にゆかせることはならぬ。――しかるがゆえに、おまえをいまここで討ち果たす」
そのとき、橋の東の方で、一声、二声、断末魔のうめきが聞え、はるか谷底で水音がひびいた。
おげ丸の隻眼に、苦悶《くもん》にちかい波がゆれたが高安篠兵衛の眼はそれを離すことをゆるさない。――彼の声は深沈としていよいよ低くなった。
「おげ丸、子供は置け、待っていてやる」
「このままでよい。――」
篠兵衛のうしろで、釜伏塔之介が腕組みをして立っている。おげ丸は金輪際ふたたびあかん坊をおのれから離す気になれなかった。背中に芦丸、左腕に都奈丸を抱いたまま、この場合に、おげ丸はにこっと笑った。
「おぬしの拍掌剣、久しぶりに見たい」
「――よくぞ、申したっ」
ツツ、と篠兵衛は進み出した。
葛の橋上に三条の光芒《こうぼう》がほとばしった。三条、というのは、高安篠兵衛の腰の左右から二本の刀身が抜き出されたからで。――
おげ丸は抜身をただ青眼にあげただけだが、ふしぎな構えをした。篠兵衛に右半身だけを見せ、横向になって、にゅうっと右腕の長刀をさし出したのだ。いわば、フェンシングのように。――
これに対して、篠兵衛は右手に大刀、左手に小刀を抜きはなち、鷲《わし》のつばさをひろげたかのごとく立っている。
この双刀を以て、舞い散る二枚の枯葉を同時に切り、また一枚の枯葉を三片に切り離す高安篠兵衛の玄妙拍掌剣。
その三条の刀身が氷のように大空に凍結した。相対する二人も微動だもしない。
見ていた釜伏塔之介も身動き出来なくなった。――ふしぎなことに、おげ丸の腹背に泣いていた二人のあかん坊さえもぴたっと声をとめてしまった。
深い谷底のせせらぎの音さえも消え失せたかと思われる瞬間まで、いくばくの時がながれたかも知らず――その静寂を破ったのは、
ピイイイン。……
という美しい鋼の音であった。
麻羽玄三郎の不空羂索のひびきだ。
このときまで。――
猿橋の東のたもとで、ゆくてから現われた甲賀組を迎えたお菱は、数秒の硬直ののち、橋の上へ、ト、ト、ト、と逃げ戻《もど》ったが、数メートルでぴたりと立ちどまった。おげ丸の方へ逃げることは、おげ丸もろとも敵を腹背におくことになると判断したのだ。
くるっとしゃがむと、片ひざついてもういちど敵を見る。その手に火打石が鳴るのをきくや否や、どっと敵が殺到して来ようとしたが、このとき彼女の足もとから、朦《もう》――と淡緑色の、しかし濃い煙が湧《わ》き出して、いちめんあたりをつつんでしまった。
お菱はもとより、橋そのものも。
数十秒、みな棒立ちになり、すぐに甲賀者一人、くノ一、一人、抜刀して突入して来たが、たちまち恐ろしい悲鳴をあげ、相ついでつぶてのように渓流へ舞い落ちていった。
事実は、煙の中でお菱が懐剣をふるい――二人を刺したのではなく、葛にならべてある橋板を数枚切り離したので、その底なしの落し穴から落ちたのだが、残った甲賀者たちは何が起ったのかわからない。
いちばん恐ろしいのは、おげ丸の姿さえ煙のかなたに見えなくなってしまったことで、彼が馳せ返って煙の中に待ちかまえていないという保証はない。
「り、り、鱗斎」
と、さしもの夕雲があわてた。
「おまえの遠見貝はきかぬのか?」
漆鱗斎は沈黙している。他人の見ているものを見たり、こちらの見ているものを見せたりする彼の忍法が、ばかげたことに、単純といえば単純な煙幕の中の敵を見ることができない。――
「ええ、役にたたぬ遠見貝め」
と、麻羽玄三郎がののしったとき、向うで、
――やったぞ! みごと敵は罠にはまったぞ!
という釜伏塔之介の絶叫が聞えた。
「――さてこそ、おげ丸はそこにおらぬ!」
夕雲がさけび、麻羽玄三郎が橋のたもとまでスルスルと歩み出た。じいっと淡緑色の煙をうかがうことしばし――投げようとしてはその構えを解き、放ろうとしてはその姿勢を崩し――ついにその手から、ビューッと不空羂索がかなぐり出された。
ピイイン……という美しいひびきをたてながら。
その音に、まるで全身の弦《つる》を切られたように、おげ丸と高安篠兵衛の姿が躍り、三条の刀身が神速にして幻妖の光芒をえがいた。
「…………!」
二人の二つの口はひらいたが、しかし洩《も》れたのは声ではなく、人間の肉と骨を断つ音であった。同時に凄《すさま》じい血潮が鉛色の冬空に奔騰した。
どちらから?
双方から。――
おげ丸の左肩と高安篠兵衛の右肩から。――いったい三本の刀身はどういう軌跡をえがいたのか。
それはたんなる円弧でもなければ直線でもなく、しかも電光のごとき速度であった。
横むきになり、左腕にあかん坊を抱き、右腕の長刀をさしのばしているおげ丸。常人ならば篠兵衛の双刀がその腹背を襲っただけで、枯葉を三片としたようにその肉体を三つに切断してしまうはずだが、おげ丸の長刀がぴいっとあがるのを感覚するや否や――左剣を以てそれを防ぐ構えをとり、篠兵衛の右剣はうなりをたてて、おげ丸のあかん坊を抱いた腹面へ薙《な》ぎつけられていた。
それまで気づかず、その刹那《せつな》篠兵衛ははっとしていたのだ。左眼がつぶれているはずのおげ丸が、右眼がつぶれて見えることを。――
――きょ、鏡中剣!
絶叫したのは篠兵衛の方だ。ただし心の中だけで。
おげ丸の長刀を握っていたのは、その左腕であった。彼は左横向きになっていたのではなく、右横向きになっていたのであった。
それでも迅雷のごとき高安篠兵衛の大刀は、おのれになぐり落されたおげ丸のその左腕を、ばさっと肩のつけねから斬り離していた。
しかし、それ以上に恐るべき結果をもたらしたのはおげ丸の長刀であった。余人には、その腕が斬り離されてからのことと見えたが、その一刀は篠兵衛の右肩から左脇腹にかけて、あばらすべてをななめに切断しつつ、ずうんと斬り込まれていたのである。
そんなはずはないが、少くとも第何肋間あたりからは、刀を握った腕は、それを動かす本体とは分離したまま、自動的に篠兵衛を斬ったように見えた。
かくて。――
双方から同時に、凄じい血潮が鉛色の冬空に奔騰した。
両者は数秒顔見合わせたまま立っていた。
高安篠兵衛はなお双刀をひっさげている。おげ丸の方に刀はない。刀どころか、それを握っていた左腕もない。のみならず、右腕にはあかん坊を抱いているのだから、両腕ないも同様だ。
が、やがて。――
「負けたわや、拍掌剣。……」
おげ丸を見つめて、ひどくなつかしげににいっと笑ってこうつぶやき、どうと前のめりに倒れたのは篠兵衛の方であった。おげ丸の腕のくっついた刀をからだに斬り込ませたまま。
――過ぐる日に、彼はいった。
「少くとも相討ちになるであろう」と。
しかしながら、彼はおげ丸の片腕打ち落しただけで、おのれはいかんなく斬り伏せられた。この目測のちがいはどこから来たか。いうまでもなくおげ丸の長刀が右手にあると見えて左手にあったという、これ以上はない目測ちがいから来たものであった。そのために篠兵衛の大剣の攻撃は狂いを発し、小剣の防備もまた乱れを生じたのだ。
おげ丸は茫乎《ぼうこ》として立っている。
死闘の一瞬、彼の隻眼を燃やしていた歓喜の光は消えて、ただ悲愁の雲だけが浮かんでいた。――好きだったのだ、おげ丸はこの男が。
それにしても、よく勝てたと思う。――そして、ふっと驚いた表情になった。
おれは忍法を使ったか?
彼は忍法を封じるといった。ただ剣と防禦用《ぼうぎよよう》の忍法だけは使うといった。それには違反していないようだが、剣を使うときにちょっとそれがあいまいになるようだ。それは必死の場合、反射的に出るのを禁じ得ないわざであった。
――いずれにせよ、いまの場合鏡中剣をふるわねば斃《たお》せぬ敵ではあった。
「おンぎゃあ、おンぎゃあ、おンぎゃあ。……」
いままで別世界に眠っていたかのように黙りこんでいた二人のあかん坊がまた泣き出した。
同時におげ丸は、はっとわれに返って、うしろをふりむいた。右腕のあかん坊を地におろし、しゃがんで、斬り離されたままのおのれの左腕を、刀の柄からひきはがす。指を一本一本ひらかせて。
この動作のあいだ、数メートルも向うで、釜伏塔之介はあごをだらんと落したままたちすくんで、身動きもしなかった。
この数分、完全に無防備であったおげ丸をどうにかすればいいものを。――
果してどうにかなったかどうかは疑問だが、それよりも高安篠兵衛が斬られたという事実。その斬られ方の幻怪さ、そして――片腕のつけねからなお血を吐き落しながら茫洋《ぼうよう》としているかのごとく見えるおげ丸の姿に、さしもの塔之介も胆を奪われて、全身がしびれはててしまったのだ。
おげ丸は塔之介を無視したかのように、篠兵衛のからだにくいこんでいたおのれの長刀を抜きとった。それから、口に都奈丸の帯をくわえてぶら下げ、にゅーっと立ちあがった。
橋の東のたもとを覆《おお》っていた淡緑色の煙は霽《は》れて来ていた。
そこに一塊の人影が輪を作っている。――その無数の足のあいだに、倒れているお菱の姿が見えた。
「…………!」
お菱、とさけぶことは出来なかったが、おげ丸はそれをめがけて、橋を駈け戻りはじめた。同時に、一団の甲賀者もこちらへ殺到してきた。
真っ先に麻羽玄三郎が立っている。いちどはおげ丸が、たしかに絶命しているのを見とどけた玄三郎が。――
いまにして知る。おそらくこやつは、栃ノ木夕雲の忍法による忍奴だ。
それが、半亡霊の人間にふさわしい妖《あや》しい笑いを浮かべて、しかしそれらしくない殺気を全身から放ち、手に束にした鋼条を振りつつ近づいて来る。
おげ丸は、背に芦丸、口に都奈丸、隻眼隻手に血刃をひっさげた姿である。
「ま、待て」
麻羽玄三郎のうしろから、栃ノ木夕雲の白髪|白髯《はくぜん》のただならぬあわてた顔がつき出した。
「休戦じゃ、玄三郎」
「何を――この機をおいて」
「控えろ、忍奴!」
叱咤されて玄三郎ががくんと首を折ったのに、夕雲は入れ替って前へ出た。
「おげ丸、急ぎ休戦を申し込む。理由は、それぞれ味方の犠牲者を救わんがためだ。……見る通り、いちど死んだ麻羽玄三郎が生き返った。わしの生霊逆ながれによるものであることは、おまえも察しておるじゃろう。……それを、いまおまえに斬られた高安に試みたい。――」
甚《はなは》だ虫のいいことをいう。しかし、また。
「あそこにお菱が倒れておる。煙の中で手ごころがわからず、玄三郎が不空羂索にかけて、首を絞めたのじゃ。しかし、死んではおらぬ。とどめを刺すのを、わしが、抑えたのじゃ。早く手当をすれば助かるじゃろう」
その方に投げているおげ丸の眼は血走っている。
「いずれも急ぐ。この橋の方でやり合っておるひまがない。そこ通せ、おげ丸、こちらを通すなら、こちらもおまえを通してやる。どうじゃ?」
おげ丸は返事をしない。もっとも、都奈丸をくわえている口は返事のしようがない。
「や、口がきけぬか、承知なら、おげ丸、一歩左へ寄ってくれ」
――おげ丸は、一歩、左へ寄った。一歩のみならず、二歩、三歩、橋の葛の手すりに身を横にして移動した。
「休戦成立、それゆけ」
おげ丸の前を、甲賀組は駈けぬけてゆく。この休戦への不満か不安か、彼らの髪がいずれも逆立つように見えたのは、この場合やむを得ぬ心理であろう。
最後に夕雲が、
「いずれ、また」
と、無意味のような、ぶきみなような挨拶《あいさつ》をして通るのを待たず、おげ丸は反対の方へ駈け出した。
完全に煙の吹き払われた橋のはしに、お菱は倒れていた。
口にくわえた都奈丸を下ろし、刀を置き、おげ丸は一本の腕で抱きあげた。
「お菱《ひし》。――」
お菱の細い頸《くび》には凄じいくびれの跡がある。――いうまでもない麻羽玄三郎の不空羂索のあとだ。それどころか、彼女の鼻孔と口からは、血の糸があごに数条たれている。
「お菱っ、た、た、助けに来てやれなんだことをゆるせ!」
――おそらく長安直伝の煙幕を張っても、五輪となってひろがる麻羽の鉄縄《てつじよう》の一つがお菱をとらえたのであろう。玄三郎のあの鋼条がどんなに恐るべきものであるか、おげ丸は知っている。
その気になって打ち振れば相手の骨肉をも断つが、縄《なわ》をかけてからもてあそぶつもりなら、手くびのしゃくりかげんひとつで緩急自在、相手の息をとめ、また通じ、この世で地獄にもない大苦患《だいくげん》を味わわせるあの不空羂索。――いかにお菱がこうなるまでに、彼の残忍性のいけにえになったことであろう。
しかも、死んではおらぬ、と夕雲はいったけれど、彼女のからだははや冷たくなりかかっている。――
「おげ丸が来たぞ、お菱っ」
絶叫してゆさぶったが、もとより返事はない。
おげ丸は血走った眼を橋の西へ戻した。
甲賀者たちは、二、三人こちらを眺めている者もあったが、あとは高安篠兵衛の屍骸《しがい》をとりかこんで騒いでいた。風に乗って、声が聞える。
「夕雲老。……いくら何でも」
「――ばかっ、動かすなっ」
「動かさなくても、もうだめだ」
まさに、あっちも屍骸だ。あれが生き返るとは思われない。――
お菱の屍骸を地に横たえようとして、おげ丸ははっと手をひっこめた。
ぴくっとその掌《てのひら》に波打つ感覚があったのだ。お菱の腹から。――
あわてて、ふたたびその腹部に手をあてて、おげ丸の頬《ほお》に血潮が上った。ぴくっ……ぴくっ……と、そこから打って来るのはあきらかに胎動ではなかったか。
――さっと、死んだあとでも分娩《ぶんべん》したお都奈のことが頭にひらめいた。
「お菱、生きておるぞ、あかん坊が!」
ゆさぶって、お菱の足を見る。この場合に、お菱の両足がばかにきちんと揃《そろ》えられているのにはじめて気がついて、おげ丸はその裾をまくった。
そして、その真っ白な両腿《りようもも》をぎりっと一本の鋼条が縛っているのを見出したのである。
――麻羽玄三郎のしわざだ。彼の鋼の五輪のうちの一輪だ。
そも玄三郎はいかにして、また何のためにかかることをしていったのか。たんにお菱を苦しめ、恥ずかしめるためか。それともとどめを刺すことを夕雲からとめられたくやしまぎれの悪戯《いたずら》か。その意図を察するのに苦しむ。
おげ丸は大刀をとって、その鋼条にあてた。
切れない!
おげ丸は驚かない。麻羽の鋼の弦が刃をあてたくらいでちょっとやそっとで切れるものではないことは、以前から知っていることだ。――それよりおげ丸を愕然《がくぜん》とさせたのは、この鋼条が切れなければ、お菱のふとももは開かない。それがひらかなければ、あかん坊は生まれようがないということであった。
「……お菱っ、お菱っ」
おげ丸は絶叫した。
お菱は刻々と冷たくなってゆく。しかも、何たること――その腹は眼に見えて、大きく起伏している。何物か、その胎内で四肢をひろげようとしては力つきて小さくなり、また大きくのびあがろうとするように。
何物か?……いや、あきらかに新しい生命がこの世の光を求めてもがいているのだ!
血をたらしたお菱の唇は動かないのに、おげ丸にはお菱の声が聞えた。
「――おげ丸さま。……もしわたしがあかん坊を生むまえに死ぬようなことがあったら……わたしの腹を切っても、子供を生ませて。……」
それから、おげ丸は何をしたか?
お菱の帯を切り裂き、きものをひろげ、死んでも蒼白のつやを失わない、まんまるい腹に長刀のきっさきをあて、一線、毛よりも細いすじを入れ、そこから血がしずかに左右へつたわりはじめたのは覚えている。
しかし、それ以後のことはほとんど記憶がない。
冬の白日は冥府《めいふ》のごとき暗さに変り、透き通った空気は闇淵《やみわだ》の泥《どろ》のごとき模糊《もこ》たるものに変った。その中に極彩色の巨大な蕾《つぼみ》のようなものが浮かびあがり、それが重い花弁の血の花となってひらいたとき、おげ丸の意識はぼうと薄れた。実際、彼の左肩からの流血はつづいていたのである。
――が、もし、ちょうど時代も同じ、当時のフランスのギルモーという外科医がおげ丸の行為を見たとするならば、おう東洋のわが弟子よ! と手を打ってさけんだかも知れない。おげ丸はなんと帝王切開術――妊婦の腹壁と子宮壁を切開して胎児をとり出すという大手術をやってのけたのである。
しかも、悲母観音や見そなわす。――
「おンぎゃあ、おンぎゃあ、おンぎゃあ。……」
突如として、猿橋の東畔にあがった高らかなうぶ声に、西畔の甲賀組がふり返ったときは、そちらの大手術は、栃ノ木夕雲必死の努力にもかかわらずまだ未完成であった。
彼らは、おげ丸が右手に血まみれの肉塊を捧《ささ》げるのを見、その肉塊がおのれの生命の讃歌をうたっているのを聞いた。――
ややあって、おげ丸が、お菱の屍体を桂川へ落し、片手拝みし、一人のあかん坊を背に、もう一人のあかん坊をふところに、さらにその小さな肉塊を抱いて、蹌踉《そうろう》として橋から東へ去ってゆくのを見たが、さしもの麻羽玄三郎をはじめ、一同その鬼気に打たれ、茫然《ぼうぜん》として見送るほかに芸がなかった。
おげ丸はゆく。
母旅同行五人からまた一人、母を減じて同行四人。
いや。――母はいない。これは父旅同行四人。
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父旅一人
しかし、これは父旅であるか。
正確にいえばむろん兄だが――彼は父のつもりでいる。が、何にせよ、こんな父や兄の姿が、世にほかにあるであろうか。
背に芦丸《あしまる》を背負っていることは同様だが、右の腰に網袋のようなものにつつんで、都奈丸《つなまる》をぶら下げ、左の腰にもう一人のあかん坊をやはり網袋につつんでぶら下げている。
三番目のあかん坊もまた男の子であった。おげ丸はこれに菱丸《ひしまる》と名づけた。
それがみんな泣いているのだ。乳を欲してそれが与えられないあかん坊の泣き声ほど、この世にいたましい声があるだろうか。それは人のはらわたをかきむしらずにはおかない大合唱であった。
その三人の子をぶら下げてゆくおげ丸の顔と姿の悲惨さよ。左眼はつぶれ、左腕もない。きものにこびりついた、血潮はどす黒く変色して、そのままかたまり、こびりついている。
彼はときどき口を大きくあけた。それは三人のあかん坊の泣く顔とそっくりであった。
むろん、傷の痛みによるものではない。運んでいるものの重さによるものでもない。――ただ、その哀れな大合唱にかきむしられる心のつらさから来るものであった。
乳。
乳。
乳。……
求める口は三つとなり、事態はいよいよ急迫した。
「助けてくれ!」
彼はそうさけびたかった。実際彼のときどきあける口は、声なくそうさけんでいたのだ。
「おれを助けてくれえ!」
泣きわめく三人のあかん坊を鈴なりにぶら下げて、甲州街道《こうしゆうかいどう》を東へよろめき歩く彼の姿は、哀れでもあり悲壮でもあるが、第三者にはわけもなく可笑《おか》し味をさそうと見えて、すれちがいざまに笑ってゆく旅人がある。大半は好奇の眼で見て通るだけで、たまにそばに寄って事情をきいてくれる者があっても、爺《じい》さん婆《ばあ》さんばかりで、何の役にもたたない。
江戸《えど》へ。
服部屋敷《はつとりやしき》へ。
こうなっても、おげ丸はなおそこへすがりつこうとしている。三人のあかん坊に浴びるほど乳を与えてくれるのはそこしかないという固着観念からだが、この意識はすでに相当正気を失ったものといっていい。
「兄上! 姉上! 助けて下され、おげ丸とこの三人の子供を!」
猿橋から鳥沢《とりさわ》、鳥沢から犬目、犬目から野田尻《のたじり》、野田尻から鶴川《つるかわ》へ。――
日ごとにあかん坊の泣き声はかすれ、弱まり、おげ丸は次第に自信を失って来た。果してこの子供たちが江戸へゆくまで生きているであろうか?
上の原の宿まで来たときだ。
ふいにうしろから声をかけられた。
「おげ丸」
ふり返り、顔をあげて、おげ丸はあっと眼を見ひらいた。
「おたがいに厄介《やつかい》ないのちを、あの世からひき戻したの」
馬上から見下ろしているのは、高安篠兵衛であった。――おげ丸が、その蹄《ひづめ》の音もきかなかったのは、あかん坊の交響楽のためであったか。彼自身、肉体と魂いずれとも半死の状態にあったためか。
それにしても、あばらすべてを袈裟《けさ》がけに斬《き》り離されたはずの高安篠兵衛が、よくも生き返って、何くわぬ顔で馬で追って来たもの。――
おげ丸の眼には、しかし驚嘆よりも恐怖よりも、よろこびのひかりがあった。
「お。――篠兵衛」
と、さけんだが、さすがにそれ以上何と挨拶していいかわからない。篠兵衛の方が話しかける。
「おげ丸、まだ江戸へゆくつもりか」
「ああ」
「ゆかれてはこまる。ゆかせぬ」
「ううむ」
「ゆかれては服部一党の破滅となる。で、このむね、わしは先にお頭のところへ報告にゆく」
内容はともあれ、語調は平静である。この春以前、この両人がなつかしげに交わしたさまざまの会話と同じ調子に聞える。
いや、平静というより、篠兵衛のもののいい方、顔つきに何とも名状しがたいうすきみの悪い、ぬらっとしたひびきのあることにおげ丸ははじめて気がついた。忍者にしては珍しく、どこか暖か味のあった高安篠兵衛とは別人のような邪気が、その全身からたちのぼっていることを改めて感覚した。
「服部一党は、甲賀伊賀合わせて総勢三百、お頭はその全力をさしむけても、おまえの江戸入りを阻止されるであろう。――」
「ば、ばかな!」
と、はじめておげ丸は大声を発した。
「兄上がそんなことをなされるか。そんな、大袈裟な。――」
「わしがさせる」
高安篠兵衛はうす笑いした。
「おげ丸、そうさせるために、わしは江戸へゆくのじゃ。この高安篠兵衛がなあ、う、ふ、ふ、ふ、ふ」
「あ、待て、高安っ」
四、五メートルもゆき過ぎた高安篠兵衛の馬を追いかけて、おげ丸はわれを忘れて隻腕に長刀を抜きはなったが、篠兵衛の馬はもう十メートルも先にあった。
「おまえと、一対一でやり合うことは懲りた。もうやめたよ」
ふりかえって、篠兵衛は笑った。
曾《かつ》てわれ一人以ておげ丸をはばむと、決然としていった高安篠兵衛か。――それは知らないが、彼にあるまじき奸悪《かんあく》の相に、背に水のながれる思いがしておげ丸は口をつぐんだ。
「ここから江戸まで、十五、六里。馬でいって、服部衆が駈けつけて来るまでに三、四日もあればよかろう。おげ丸、おのれのみならず、餓鬼の首もよう洗っておけよ、う、ふ、ふ、ふ、ふ!」
そして高安篠兵衛はそのまま馬を江戸の方角へむけて疾駆させていった。
おげ丸は、口をあけて見送った。――馬が蹄の音もたてないことにはじめて気がついたのだ。
高安篠兵衛が栃ノ木夕雲の生霊逆ながれによって甦ったことはあきらかである。すなわち彼もまた半亡霊の忍奴と化したのだ。が、馬までも――どこで借りた駅馬か、それまでも半亡霊としか思われなかった。
それにしても、死に返り生き返り、またも眼前に現われる甲賀五人衆。これではきりがない。加えて江戸からは服部一党が殺到して来るという。――
それに絶望するよりも。――
「おンぎゃあ、おンぎゃあ、おンぎゃあ。……」
この間も泣きつづける三人のあかん坊の泣き声の方に、ひたすらおげ丸は魂をもみねじられていた。
幻想が彼の脳を犯す。なつかしい義兄や姉が、その三百人の配下に乳を満たした鉢《はち》を持たせて駈けつけさせてくれるような。
上《うえ》の原《はら》から関野。ここで甲州街道《こうしゆうかいどう》は、甲斐《かい》から相模《さがみ》に入る。相模を通過するのはわずかに十キロ内外で、次はいよいよ武蔵国多摩《むさしのくにたま》だ。
関野を通り、藤野という小さな村に入ったときだ。あかん坊の泣き声はかすれ、菱丸のごときは、口をあけているのに声すらたてなくなった。
「……もしっ」
路傍から呼ばれた。
一人の老人と二人の老婆が、そこの枯草の上に坐って、竹で箕《み》を編んでいた。日だまりとはいえ、冬の最中といっていいのに、三人とも襦袢《じゆばん》のようなものをまとっているだけだ。――山窩《さんか》だな、とおげ丸はぼんやりと考えた。
「乳が欲しいのじゃねえけ。……放っておくと、子供《やから》が屍骸《おろくじ》になるげ」
と、老婆がいった。巾着みたいな顔に、涙が浮かんでいるのが見えた。
乳? その声をきいただけで、おげ丸は飛びつくような眼になった。が、見たところ、乳などはない。三人の老人に、乳のあるはずがない。
「オゲの乳でもいいか?」
と、老爺《ろうや》がいった。
――はてな、と、ふつうならおげ丸ははっとするはずだ。それは信濃《しなの》の塩尻峠《しおじりとうげ》でゆき逢《あ》った山窩たちから、乳をやろうといわれたときに、「オゲの乳は要らん!」とおげ丸が言下に拒否した事実に相応する言葉であったからだ。では、この老山窩たちはあの群の中に混っていたのか?
そこまでもおげ丸は考えない。
「何でもいい」
と、彼はいった。もうオゲの乳だろうが狼《おおかみ》の乳であろうが、乳であれば何でも欲しかった。
「乳があるのか」
「ここにはない」
と、老婆がくびをふった。
「が、陣馬山《じんばさん》へゆけばあるげ」
「陣馬山?」
「ここのその道から、北へ一里半、上れば乳を出す木があるげ。……」
老婆は指さした。彼らの坐っている場所のすぐそばに、街道から左へ、山の方へ入る細い道が出ていた。
「乳を出す木?」
「山の木には、ときどきそんな木があるげ」
老婆はぎゅっと歯のない口で笑った。
「陣馬の山に杉の木が一本、これに女陰《さね》に似た大穴があっての。そこから乳をたらしておるげ。――」
そんな奇怪な木が地上にあるだろうか?
おげ丸はしかし疑問を持たなかった。漂泊族たる彼らはそんな木を知っているのかも知れない、とも思ったし、だいたい彼はそんなことを単純に信じる方であったし、だいいち飢えたあかん坊への苦悩のために頭は霞《かす》んだようになっていたし。――あとで思えば、このときから神秘なる山岳の魔風は、外界ではなく彼の血の中に吹きめぐりはじめていたのかも知れない。
「…………」
何となくお辞儀して、おげ丸はその山道に入り、歩き出した。
山峡の道は、渓流に沿って、どこまでもうねうねと上ってゆく。歩いて一里半といったが、まわりは山だらけだし、陣馬山がどういうかたちの山か、きくのを忘れたことに気がついた。ゆき逢う人影はまったくない。しかし、猟師か鹿《しか》の通うらしい細道はある。
陣馬――陣馬――陣馬山。
あえぐように歩いているうちに、おげ丸はふいにはっとして、おのれの頸にかかるものをのぞきこんだ。
ものごころついて以来、ずっと身につけていまは肉体の一部と化しているようなもの[#「もの」に傍点]なので、指を見てことさら指という意識が起らないと同じく、そのもの[#「もの」に傍点]のことをそのときまで思い出さなかった。
彼は片手で自分の頸にかかっていた紐《ひも》をはずした。紐の先には銀杏《いちよう》のかたちをした竹の笄《こうがい》がくっついていた。この笄の部分にある小さな文字を彼はのぞきこんだ。改めて読むまでもない。――
「火のはやて陣馬千年杉」
と、彫ってある十の文字。
その意味を彼は知らない。ただ、いまは顔も記憶のない母からこれを伝えられたということだけを彼は知っている。
しかし、いまあかん坊はもとより彼までが餓死しそうな絶体絶命のときにあたって、忽然《こつねん》として乳のあるところを教えられた。その山が、おのれの首にかかる首飾りに彫ってあるものと同じ名だとは?
運命を感じる。というより、運命そのものに憑《つ》かれたように、おげ丸は山を上ってゆく。
道がゆきづまりになり、渓流の石の上を飛び渡って反対側へ移ったり、足を踏み入れるたびに枯葉の渦巻く柏《かしわ》の雑木林を通ったり、或《ある》いは屏風《びようぶ》にちかい急斜面の杉林の中を、その杉にすがりつつななめに上っていったり。――
ふいにそれらの樹々がとぎれた。
「おう!」
と、彼はさけんだ。
突然、視界はひらけていた。
山頂に樹々はなく、すすきをはじめただ短い枯草のみが吹きなびいている高原で、しかもまわりを遠く近くめぐる山々の壮観、それはおそらく高尾《たかお》や影信山《かげのぶやま》や小仏峠《こぼとけとうげ》などの秩父《ちちぶ》山脈、或いは丹沢《たんざわ》、箱根《はこね》山塊などであったろうが、それよりもおげ丸は、西に真っ赤な夕焼けを背に浮かぶ、凄絶《せいぜつ》ともいうべき富士の山影に見とれた。
ここが陣馬山か。
おげ丸はむろん知らないが、彼はすぐに眼を移した。草原の中にたった一本、赤い空をつき刺さんばかりにそびえている杉の大木に。
――陣馬千年杉。
――陣馬の山に杉の木が一本。
竹笄の文字と山窩の老婆の声が交錯し、またその声が、
――女陰《さね》に似た大穴があっての、そこから乳をたらしておるげ。
と耳によみがえると、おげ丸はまろぶように、その杉の大木のところへ駈け寄っていった。
たしかに大きな穴はあった。何十年のあいだに蟻《あり》にでも食われたか、その根もとから地上一メートルほどの高さに、子供なら入れそうなほどの穴があった。たしかにそれは女陰に似ている。――
が、乳などは出ていない。そこから山麓《さんろく》までのびているのではないかと思われるほどの長い木の影が這《は》っているばかりである。
おげ丸はその穴の中をのぞいた。
穴の中は乾き切り、その奥にまた無数の小さな虫食い穴があいているだけで、脂や樹液など――もともと杉に果して眼に見るほどの脂や樹液があるかどうかは疑問だが――一滴も見えない。
おげ丸はどうとその下に坐《すわ》った。
山を上ってきたために全身をうるおしていた熱い汗が、いっぺんに氷の玉と化したようであった。それでなくても冬の山頂には、身を切るような風音がある。赤い夕焼けが、紫色に変って来た。
「――あたりまえだ。乳の出る木などあるわけがない」
彼は髪に指をつっこみ、うなだれてうめき声をたてた。
「あれは、オゲの婆《ばば》のたわごとだったのだ」
三人のあかん坊がまた弱々しく泣き出した。
おげ丸は、腰にぶら下げているもう一つの小さな袋から米をつかみ出し、口でかみ砕いて、あかん坊たちに口づけに与え出した。ときどき、せっぱつまると万やむを得ずやったことだが、むろんあかん坊は好まない。しかし、よほど飢えていたと見えて、三つの小さな口は必死に吸いついて来た。
米はつきた。それは袋にひと握り残っていただけであった。
おげ丸自身、忘れていた空腹が、米をかんだためにかえって全身にひろがり、しかもそれ以上の絶望のために、千年杉の根もとに坐ったきり、腰をあげる気力も失っていた。
紫から次第に暗い氷みたいに変ってゆく大気に、妙な幻影が浮かんでいた。それが先刻からつづいて消えないのに、おげ丸の意識がふととまった。
――あれは何だろ? 銀杏の葉っぱみたいな。
それが、自分の首飾りの笄のかたちであることに気づき、やがてまた同じかたちが別の空間に存在していることを思い出したのは、富士をふちどる残光がついに消えたころであった。
別の空間ではない。千年杉の穴の中だ!
彼は立ちあがり、穴の中をもういちどのぞきこんだ。常人には見えない暗黒だが、おげ丸には見える。彼が忍者でなかったとしても、この場合にはありありと見えたろう。――穴の奥に、無数にあいている孔の中に、銀杏の葉と同じかたちをしたやつがあるのを。
彼は、例の首飾りをはずし、笄と見くらべ、大きさまでが同じであることを発見し、それをたしかめるために、腕を入れて笄をその穴の中の孔におしあてた。――
「しまった」
おげ丸はさけんだ。
何しろ真っ暗な穴の中の仕事だ。さすがの彼も、その銀杏形の孔の下に、笄の足そっくりのひび[#「ひび」に傍点]まで入っていることに気がつかなかった。
だから、笄をおしあてたとたん――それは鍵穴に鍵を入れたと同様――いや、それ以上にすっぽりとはまりこみ、はっとしたとたん、彼の指さきから離れて、穴の中のまた孔へコトンと落ちてしまったのだ。
落ちた。笄は落ちた。それがおしあてた個所ではなく、杉の根もとの方で、たしかにつき刺さるような音がした。この穴の奥に、もう一つ空洞があったらしい。――
と、見えないその空洞《くうどう》の底で、かすかな、キリ、キリ、キリ、という木か石の触れ合うような音が聞え出した。
――こ、こりゃ何だ?
ぎょっとしてのぞきこんだおげ丸の眼に、穴の奥に赤い銀杏が浮かびあがったのが見えた。火だ。たしかに火が、穴の奥の空洞の底で燃え出したのだ。そして何やら異様な匂《にお》いがおげ丸の鼻をついた。
おげ丸は狂気のごとくあかん坊たちを身につけて、三、四メートルも飛びのいた。
くわっと、最初の穴そのものが赤くなった。
と見るや――文字通りおげ丸は仰天していた。杉の木の中を、シューッというような音が翔《か》け上ると――そのてっぺんちかくから、ドド、というひびきをたてて、真っ赤な火光が闇《やみ》の大空へたばしったのである。
「――狼煙《のろし》だ!」
おげ丸はさけんだ。
彼はさっきの異臭を思い出した。あれは忍び組でも使う、狼の糞《ふん》を乾かしかためたもので、まさに狼煙の原料の燃える匂いであったのだ。その糞の中に硝石が混っているらしい。
ともあれ、星凍る陣馬山上に一道の狼煙があがり、おげ丸があっけにとられ、茫然としていると――何たることだ、その赤い狼煙の残像がまだ消え去らぬうちに向うの山からもまた狼煙があがった。と思うまもなく、反対側の山からもまた同じように狼煙があがる。
見るがいい、闇黒寒夜の満天に、高尾、影信山、小仏峠、その他秩父の山脈から、また遠く丹沢、箱根の山々からさえも、十数条の狼煙があがり出した。
おお、これこそ火のはやてでなくて何だろう?
そして――。
先刻おげ丸が上って来たのとは反対の北の山麓から、数本の松明《たいまつ》とともに何者かのむれが、えっさ、えっさ、と馳《は》せのぼって来たのは、それから一刻もたたないうちのことであった。
「大疾駆《おおのり》だ!」
「大疾駆だ!」
そんな呼びかわす声がし、やがてその一団は、おげ丸の立ちすくむ千年杉の方へ近づいて来た。
「アヤタチは?」
「うんにゃ、国宗《くにむね》さまはまだよ」
「では、待とう」
「あれは?」
「あれは、あれよ」
彼らはおげ丸を指さし、意味不明の会話を交し、そのまわりにぐるっと円陣を作ってしまった。男が大半だが、女もいる。子供もいる。その数、十数人。
いつか塩尻峠で見たのと同様の風態で、男は襦袢に下帯一本、女は赤い腰巻をまくりあげ、背には莚《むしろ》や青竹の束など背負っている。
――まぎれもなくこれは山窩のむれであった。
彼らはおげ丸を見つめ、また何やらひそひそ話をし、やがて人なつこい笑顔で若い二人の女が近づいて来た。
「乳、あげますげ」
と、女は三人のあかん坊を見ていった。
近づくと、むうっと獣くさい匂いがしたが、おげ丸はもはやそれをとめる気はない。二人の女の乳房は俵みたいであった。彼女たちが次々におげ丸の手からあかん坊をとりあげ、その乳房にかぶりついたあかん坊たちが飲めるだけの乳を満喫し、やがてスヤスヤと眠りこんでしまうまで、口をあけて眺《なが》めているばかりであった。
――陣馬山に乳を出す木の穴があるげ。
やっとあの山窩の老婆の声と、きゅっと笑った巾着《きんちやく》みたいな顔が思い出された。
そのあいだに、ほかの山窩たちは火を燃やし、土鍋《どなべ》をかけている。一方では、竹と莚を使って、いわゆる瀬降《せぶ》りの小屋を作っている。やがて、粥《かゆ》に小鳥の肉を煮こんだ土鍋がおげ丸の前に運ばれた。おげ丸はむさぼり食わずにはいられなかった。
食い了《お》えて、人心地がつくと、かえって夢でも見ているような気がする。どうしてこういう事態になったのか、陣馬山の狐《きつね》につままれたとしか思えない。――
この人々が山窩であることだけはたしかだが、彼らがどうしてここへ集まって来たのか、いったい何をしようというつもりか、まったくわからない。
きいてみると、とにかく、この陣馬山の千年杉に火のはやてがあがると、どんなことがあっても集合しなければならないことになっているらしかったが、彼ら独特の用語を以てしゃべるので、おげ丸にはよくのみこめない。
ただ驚いたことは、彼らのうちには、たしかにおげ丸のこと、おげ丸のいま置かれている運命を知っている者があるらしいことだ。そういえば、あの陣馬山の「乳の木」を教えた老山窩たちも何やら知っていたのではなかったか?
とにかく眠れ、ということで、おげ丸と三人のあかん坊は瀬降りの一つに案内された。瀬降りの中には藁《わら》までが敷いてあった。
それに、藁がなくても寒くはなかったろう。その外には焚火《たきび》の輪を作って、夜じゅう、それが燃えていたからだ。おげ丸は死んだようになって、こんこんと眠った。不安はなかった。あかん坊がたっぷりと乳をのんだという安心と、それにこの怪異な山岳族に何ともいえない人なつこさが感じられたからだ。
それでも、その一夜、燃える焚火の色と、そして何やら風のわたって来るようなどよめきを、絶えることなく夢の中で見、かつきいていた。
夜が明けた。
おげ丸は瀬降りの外に出て、あっと眼をむいた。千年杉をめぐって、なんとオゲのむれが――例の原始の姿だが、たしかに百人は越えるだろうと思われるほど集まっているのを見たからだ。おげ丸は夜中つづいていた物音が、彼らのやって来たざわめきであったことを知った。
「……な、何が起るんだ?」
と、きいても、
「明日《あす》までまってくんろ」
と、オゲは笑って答える。
陣馬山はいいお天気であった。雲の光、草の色、風の声、山にはもう美しい春が来たかと思われた。
で、おげ丸は茫然として、一日じゅう彼らの生活を見ていたのだが。――
莚と竹で瀬降りを作る。その前に気楽そうにあぐらをかいて、せっせと箕《み》や笊《ざる》を編む。鼻唄《はなうた》をうたいながら、双刃《もろは》の匕首《あいくち》を砥石《といし》でとぐ。大地に土釜《どがま》をかけて何か煮て食う。小鳥や魚を竹串《たけぐし》に刺してあぶる。その鳥を――木にとまった鵯《ひよどり》を捕えるところをおげ丸は見ていたのだが、竹に匕首をつけてそばに近づいて刺すのが、まるで動かないものを刺すようで、こりゃ忍者も及ばぬと彼は舌をまいた。
太陽が昇る。風が吹く。
すると、それに酔っぱらったように草原を駈けていって、子供たちと輪になって乱舞する。
そしておげ丸は、あちこちで若い山窩の男女が、踊りながら交合する光景さえ見たのだ。
愉《たの》しきかな、山よ、風よ、雲よ。――見ていて、おげ丸も酔った。怪しむ心も驚く心も消え失せて、彼はその世界に溶けこんだ。食べるものさえ、すぐに胃に溶けるようであった。あかん坊たちは満腹して、眠りながら笑っていた。
おげ丸はじぶんがふるさとに帰ったことを感じた。
明日まで待て。――と、オゲたちはいった。その日が来た。
その日の真昼どき。
「アヤタチだ!」
「国宗さまだ!」
オゲたちがどよめいた。
と、見ると、山の北方から妙なものが上って来た。
数人の男が、馬みたいに駈けて来る。それが白いものをかついで、一人の老人がその白いものにまたがっている。――まさに、馬だ。七、八人の男が、真っ白な女体を横なりにかついで、老人はその女体を鞍《くら》として打ち乗っているのであった。
陣馬へ来た人馬。
それに乗った老人は、腰まで白髪《しらが》を垂らして、まるでからだじゅう白い毛につつまれた皺《しわ》だらけの肉塊のようであった。しかし、迎える山窩たちは、いっせいにひれ伏している。白髪の中の肉の一塊は子供みたいに小さいのに、その顔らしいところにひかっている眼はすばらしい威厳をはなっていた。
あっけにとられているおげ丸に近づいて来たその老人は、しかし笑顔になった。
「おげよ、呼んだか?」
と、いった。
「火のはやてで呼んだろうが」
おげ丸はキョトンとしている。
「で、わしは来たのじゃ。上州の三国山から。……祖父の国宗じゃよ」
老人の眼は涙を浮かべていた。
どうやらこの人馬は、二日間で三国山からこの陣馬山へ飛んで来たと見える。
そして彼は人馬から降りて、おげ丸にぶら下がるように抱きついて、おいおいと泣き出した。おげ丸はただめんくらっているばかりであったが、ふしぎなことに、このはじめて見る怪老人に、本能的に他人でない匂いを嗅《か》いだのであった。
やがて老人は、おげ丸と相対坐《あいたいざ》してしゃべり出した。ほかのオゲたちとちがって、彼の言葉はほぼふつうの人語に近かった。
彼はおげ丸を生んだ母の父であった。そしてまたオゲのアヤタチ――実に日本六十余州の山窩の総首領なのであった。
国宗にとっては不本意なことであったが、或るゆきがかりから二十数年前、娘は時の「山将軍」大久保長安《おおくぼちようあん》の愛妾《あいしよう》の一人となった。爾来《じらい》、その娘の倖《しあわ》せのためにわざと縁を断ったが、ただ万が一、絶体絶命の危急の際はこの陣馬山に火のはやてをあげよといい、竹の笄に「火のはやて陣馬千年杉」と刻んだものを渡した。――
「知っておろうが」
と、アヤタチ国宗はいった。
「その竹笄を使わねば、火のはやては上らぬことになっておる。その笄のかたちと同じ千年杉の洞《ほら》の穴からそれを落せば、笄の先が洞の底のからくりにはまり、小さな木車がまわって火打石を擦り、はじめて狼煙が陣馬山の上にあがることになっておるのじゃからな」
おげ丸は知らなかった。そんなことを母からきいたこともなかった。或いはきいても、忘却してしまったのであろうか。
「なに、知らぬ?」
アヤタチはけげんな表情をした。
「では、娘は伝えなんだのかも知れぬ。なにせ、オゲとは縁を断たせてくれ、二度と眼の前に現われんでくれと泣いて頼んだから喃《のう》。……」
老人の顔には無限の哀感が浮かんだ。が、すぐにその眼に、この年も知れぬほどの老人とは思われぬ燦々《さんさん》たる光がかがやいて、
「それでも娘は、銀杏の笄だけはおまえに伝えたと見える。しかも、知らずしておまえはそれを使って火のはやてをあげた。これ天意でのうて何であろう?」
といい、おげ丸をのぞきこんだ。
「おまえはそれをあげねばならぬところであったのじゃ。おまえは絶体絶命のところにあったのじゃ。……あの火のはやてを見れば、武甲相のオゲことごとくここへ集まることになっておる」
その通り、このあいだにも、道具を背負った山窩たちは、蟻のごとく鳥のごとく、続々とこの山上へ上って来つつあった。
さてまた祖父国宗がじゅんじゅんとして語るには。――
娘の哀願により、爾来大久保家のまわりにはオゲの匂いも嗅がせなかったが、しかし遠くから絶えず見まもってはいた。とくにその娘が死んで以来、服部屋敷に住むおげ丸を。――哀れな獣のような幼童おげ丸を、なんどさらって山へつれて来ようと思ったであろう。しかし、かりにも「日本総代官」とうたわれた大久保石見守のおん曹司《ぞうし》である。娘の願いがないまでも、どうしてオゲの一族にひきもどしてよかろうか。こう考えて、あえて手を出すことは控えて来た。
そして、このたびの事件である。――
「わしはみんな知っておる」
と、国宗は歎《なげ》くがごとくいった。
おげ丸のゆくところ、オゲたちは必ずその動静を三国山へ報告した。いくどかおげ丸の苦しみを助けようとしては手をひっこめ、しかし絶えず眼は離さなかった。――
おげ丸の頭には、東海道《とうかいどう》、飛騨路《ひだじ》、木曾路《きそじ》、甲州路《こうしゆうじ》、いかにも幻の逃げ水のごとく出没していた山窩のむれがようやくよみがえった。
「そしておまえはいま江戸にゆこうとしておる」
国宗は顔色を改めた。
「死あるのみじゃぞ」
――期せずして高安篠兵衛と同じことをいう。しかし、これがあたりまえのものの見方であろう。殺すための刺客を送り出した江戸の服部屋敷へのこのこと帰ってゆこうとしているおげ丸の考え方がおかしい。
しかし、おげ丸は信じるところがあったのだ。義兄の人間を、また姉の愛を。
おげ丸は、ぼんやりとした口調でそれをいった。それに対して、老国宗は説得をはじめた。
「おげ丸、山へ帰れ。オゲのむれに入れ。ここには太陽がある。自由がある。そして乳があるぞ。子供はみるみる大きくなる。強くなる。それがいちばん大事じゃ。おまえがオゲをきらっておるのは知っておる。じゃから、おまえが望むなら、いつもそばにおってやって、おまえのいいように育てろやい。教えろやい。ふむ。――あのサイエンスとやらを」
と、この慶長《けいちよう》の山窩の大親分は英語を使って、歯のない口できゅっと笑った。――この老人はそんなことまで知っている。
おげ丸はオゲをきらってはいなかった。――少くとも、もういまは。
それどころか、いま見るような風と日光につつまれている山岳を、自分とともにゆく三人のあかん坊を空想すると、そのまま蒼《あお》い天空へ溶けてゆくような歓喜の心さえ湧《わ》いた。
そうだ、そうして丈夫に或る程度子供を成長させてから、佐渡《さど》の味方但馬《みかたたじま》のところへつれていってやるのがいちばんよいことではなかろうか?
しかしまた、オゲを軽蔑《けいべつ》する父の大長安の言葉が耳によみがえる。また、胎教ということさえ熱心に語っていた三人のあかん坊の母たちの顔が眼に浮かぶ。オゲの中で育てれば、あかん坊たちは自分と同じような馬鹿《ばか》になるのではなかろうか?
が、ついに。――
「あれ、見よ」
と、祖父国宗の指さすところ。
「あかん坊にとってあれ以上の世界がどこにある?」
と、いわれたその光景におげ丸は屈服した。
千年杉の根もとに藁を敷き、三人のあかん坊がスヤスヤと眠り、それを、七、八人の女たちがやさしく見まもっている。女たちの豊かな乳房が日光に白くつやつやとひかっている。――ここに来てから、彼はあかん坊の泣き声をきいたことがない。いうまでもなく、ひもじいと見れば、ただちに山窩の女たちからこんこんと乳の泉が補給されるからであった。
「では、しばらくお世話になろう」
と、おげ丸はつぶやいた。赤い夕焼のころであった。
国宗は躍りあがってよろこんだ。
「酒宴《ふくろあらい》じゃ! 酒宴じゃ! おげ丸が山に入るとよ、わしの孫がわしのふところに帰るとよ、それ、祝いの酒宴の支度をせい!」
そのとき、オゲの一人が猿《さる》みたいに走って来て報告した。
おげ丸には、その男が早口で何をいったかよくわからなかったが、国宗の顔がぴりっとしまり、やがてそれを通訳したのをきいてこれまたはっとした。
「おげよ、江戸からの服部組、三百人が、蟻の這い出るすきまもなく、この陣馬山を囲んでおるとよ」
しかし老人は、けろりとしてかえりみた。
「ま、そのことオゲの男どもには伝えおけ。酒宴のすむまでは、そやつら一匹も、一歩も山へ入れるなよ、と。――女どもには酒宴の用意をさせえ」
オゲの男は駈《か》け去った。
彼は何かさけんで回っているようだ。――と、見るかぎりの男たちは、旋風に吹かれる木の葉のごとく山の斜面を馳せて下ってゆく。
「おげ、落着け。おまえはここへ坐っておれ。――やがて、いまにも日が落ちる。闇が来れば、地上のいかなる忍び組とやらでも、オゲが山を走るのをとめられぬぞよ、う、ふ、ふ、ふ」
落着けといわれても、落着かぬ表情で下の方に眼をやっているおげ丸に、老人は平然と笑いかけた。
オゲの女たちが、酒徳利《さかどつくり》や土鍋などを持ってまわりに集まって来はじめたとき、おげ丸はしかし立ちあがった。
「ちょっと、見て参る」
「どこへ?」
「――半蔵《はんぞう》どのが来ておられるかも知れぬゆえ――」
「逢《あ》わんがいい。おまえはそこから離れる決心をしたのではないか」
「いや、それでも。――」
そのとき、またべつのオゲの男が駈けて来た。
「アヤタチ、下から服部《はつとり》の侍が四人上って来ての。おげ丸さまにどうしても逢いたいといってきかねえ。――」
「馬鹿《ぼんくれ》、一匹も入れるなといったのをきかなかったか」
「いや、そのときはもうそこまで来てたんだ。何しろたった四人だから、何とでもなるが。――一人は大将の服部半蔵とか名乗ってるぜ。――」
「なに、服部半蔵」
おげ丸は躍りあがった。
「義兄が来たのだ。――逢う、案内してくれ!」
彼はちらっと千年杉の方をふりむいた。
わらわらと駈け集まって来るオゲの女たちのシルエットの向うに、天使のように眠っている三人のあかん坊が見える。――
やはり、義兄半蔵と話をつけるまでは、あかん坊は見せぬ方がいいだろう、とおげ丸は考えた。で、自分だけオゲの男について、山を下り出した。
さして歩くまでもなく、四人の男はそこまで来ていた。まわりにつきまとう十数人のオゲたちの制止をふり切り、かきわけるようにして彼らは上って来る。
栃《とち》ノ木夕雲《きせきうん》。
高安《たかやす》篠兵衛。
麻羽《あさは》玄三郎。
漆鱗斎《うるしりんさい》。
それは認めたが、義兄半蔵の姿が見えないので、十メートルばかり離れたところでおげ丸は立ちどまった。
「おう、おげ丸」
と、向うで笑いかけて来たのは高安篠兵衛だ。早くも江戸へいって、江戸から戻って来たと見える。――
「えらい味方が出来たのう。驚いたわい」
と、篠兵衛はあごをしゃくった。
おげ丸は、見わたすかぎりの林の中に――その樹上に、無数の猿のごとくとまっている影を見た。オゲのむれであった。きらっきらっと樹氷のごとくひかるのは、山窩独特の例の双刃《もろは》の短剣、いわゆる山刃《うめがい》であった。
「半蔵どのは?」
おげ丸は声をかけた。
「半蔵どのがおいでなされたときいたが」
「服部半蔵の使者が来たといったのじゃ」
と、栃ノ木夕雲が恬然《てんぜん》として答えた。
「さ、そのお頭《かしら》じゃがな。――」
高安篠兵衛はゆっくりといった。おげ丸はいらだった。
「兄はここに来ておるのか、いないのか」
「お頭はまだ江戸におわすが。――」
「なに、江戸に」
「お頭も、わしの話をきいて、いろいろと御思案なされ。――」
馬鹿《ばか》に低い声だ。
おげ丸は二、三歩すすみ出て、その四人が何やら耳をすましているようすなのに気がついた。
「大久保石見守長安どのの御遺児たちは、思えばまことにふびんゆえ。――」
そのとき、風にのって、おげ丸はあかん坊の泣声をきいた。ただ一声、二声、それがどの子であるかは知らず、ただならぬものを感覚して、おげ丸は鞭打《むちう》たれたようにふりむいた。
「ふびんなれど――やはり、断乎《だんこ》、殺せとの仰せじゃ!」
篠兵衛が吼《ほ》え、他の三人とともにふいに横へ走り出した。
山頂から、いまおげ丸が下りて来た道ではなく、道のない林の斜面を、そのとき一人、オゲの若い女が女豹《めひよう》のように駈け下りて来るのが見えた。
「――やったっ、やったっ、やったっ」
ひっ裂けるようなさけび声であった。
おげ丸は天空からその影が鉄槌《てつつい》となっておのれの脳天を打ったような気がした。
「三人の餓鬼、ついにくびり殺したぞっ」
まぎれもなく、釜伏塔之介《かまぶせとうのすけ》の絶叫でなくて何だろう?
その方へ走ってゆきながら、四人の甲賀衆《こうがしゆう》がおげ丸の方をむいて、にやっと笑った。おげ丸の総身から血がひいた。
――忍奴高安篠兵衛は江戸へいった。足かけ三日にして、江戸から三百人の服部組をつれてきた。半蔵自身はちょうど、大坂に対する重大な諜報会議があるため動けなかったが、断じておげ丸と三人の遺児は江戸の外で殺せという厳命を下した。本人は動かぬとはいえ、手兵の忍者三百人をすべて出動させたことでもその決意ぶり、ないし狼狽《ろうばい》ぶりは想像するに足りる。
さて篠兵衛は駈け戻《もど》って、あと四人の仲間から、おげ丸が陣馬山に入ったことをつきとめたが、同時に、怪奇なるオゲの大群に護られていることをきいたのだ。とりあえず山を包囲はしたものの、さて三百人の服部組を以てすれば、その殲滅《せんめつ》は必然のこととして、さてそうなったあかつきには甲賀五人衆の面目いずくにかある?
かくて。――
わざとひとまず服部組を山の下に待たせ、最後の機会を待つことを請い、栃ノ木夕雲の命令で忍奴釜伏塔之介はオゲの女に変装した。陣馬へ急ぎつつあった若いオゲの女一人を捕えてこれを殺害し、それに化けた。独特の体臭を持つオゲ女に化けるまでに、彼の忍法変化袋は、いまだ曾《かつ》てないほどの苦心を要した。
が、彼は成功したのである。オゲの女に化けて陣馬山上にひとりまぎれ込み、おげ丸が子供から離れるという稀有《けう》の機をつかんで、ともあれその子供たちを殺害するという目的を達したのである。
が、目的を達したあと、ぶじに離脱することは至難であろう。――そこであと四人の甲賀衆が、これまたただならぬ覚悟を以て出動し、逃げて来る塔之介を収容すべく、ここまで押し上って来たのであった。
いま。――
あわてふためいて山の方から追って来るオゲのむれ、またこちらの道から追ってゆくオゲのむれ、それも眼中にないかのごとく凱歌《がいか》の笑いをあげている甲賀五人衆を見て――おげ丸はそこに凍りついたように立ちすくんでいた。
が、次の瞬間、彼は五人衆に眼もくれず、つんのめるように山上へ馳せ戻り出した。
「しもうた! しもうた!」
山からまろび落ちんばかりの国宗が、彼とぶつかり、
「おげ丸、ゆるせやい。た、大変なことになった、あ、あかん坊が。――」
と、しがみついて来たのを、二メートルばかりも横へはね飛ばし、おげ丸は千年杉の下へ駈けていった。
波のように騒いでいるオゲの女たちをおしのけ、のぞきこんでおげ丸は棒立ちになった。
三人のあかん坊は死んでいた。みんな柔かい頸に、無惨な指のあとがあった。
「――おおっ、芦丸《あしまる》! 都奈丸《つなまる》! 菱丸《ひしまる》うっ」
彼は一人一人抱きあげ、ゆさぶり、頬《ほお》ずりをし――次々に絶望に顔をひきゆがめて、それをもとの藁の上に置き、そして地面につっ伏した。
遠くちかくただならぬ喚声があがりはじめた。
しかし、オゲの女たちは、それよりも地から洩《も》れて来る声に打たれて、身動きも出来なかった。――おげ丸の号泣に。
「ゆ、ゆ……ゆるせ!」
しぼり出すような声が聞えた。
「た、た、頼む」
彼は土を噛《か》んだままいった。
「乳をやってくれい。……」
オゲの女たちは顔を見合わせた。
「あかん坊たちの口の上から、乳をしぼってそそいでやってくれい。……三人、手をつないで、三途の川を渡る元気がつくように。――」
オゲの女たちは、夢遊病のようにその通りにした。豊かな幾つかの乳房から、白い乳は、むなしくあいた小さな三つの口へ滴々と落ちた。
ふらふらと立ち戻って来たアヤタチ国宗はその光景を見、なお大地にたたきつけられたようなおげ丸の姿を見下ろし、ややあって。――
「もう、いい」
と、これはおげ丸にいった。
「おげ丸、ゆこう。……外道《げどう》鬼畜のわざではあるが、何というてももはやとり返しがつかぬ。思えば、これらの子供、オゲの血が混ってはおらぬ。オゲの世界には入れぬ天意であったと思え」
肩に手をかけて、ゆさぶった。
「それよりも、おまえこそオゲの申し子じゃ。山へ逃げようぞ。いまならば、まだ間に合う。わしたちが立ち去るまで、オゲどもは必ず敵から防いでくれる。おげ丸……わしといっしょに、さあ、ここから北へ飛んでゆこうぞ。陣馬から雲取山《くもとりやま》へ、碓氷《うすい》へ、白根山《しらねさん》へ、三国峠《みくにとうげ》へ。――」
「江戸へ参る」
と、嗚咽《おえつ》とともに、大地の声は低くうめいた。
「なに?」
アヤタチ国宗は耳に手をあてた。
「江戸へゆく? 何しに。――子供は、死んだのだぞ」
「江戸へ参る」
もういちどいって、おげ丸はニューッと立ちあがった。
それから、じいっと三人の死児を見下ろし――真っ赤な夕焼け空を仰いだ。
「ゆるしてくれい。……おれが封じたために……おまえたちの母親を死なせ、おまえたちを死なせてしまった。……」
暗赤色に燃える空を背に、乱髪隻眼、右腕のみの姿は同じながら、もはや地上のものではない魔界の姿であった。しかも、たった一つのその眼は涙でいっぱいだ。さしものアヤタチ国宗も、息をのみ、声を絶った。
「……さぞ、歯がゆかったであろう。――」
おげ丸は雲の果ての何者かに呼びかけた。
「見ていろ。……おげ丸、いまぞ忍法の封印を破る」
背より長い刀の柄をにぎると、彼はどす、と足を踏み出した。
「お祖父《じい》、その子たちの供養を頼む――それは、おれの子だ!」
凄愴《せいそう》の気に打たれて、そこにいたものすべて、眼を見張ってただ見送る中に、おげ丸はそういい、地ひびき立てて、しかも流れるような速度で、いま駈けのぼって来た道を、山上から馳せ下りてゆく。
かくんと口をあけていたアヤタチ国宗が、
「やんぬるかな」
と、肩をゆさぶり、それから、からだにばね[#「ばね」に傍点]が入ったように厳然として、
「おげ丸が江戸へ死ににゆく。――武甲相のオゲ族の面にかけて、下界の忍び組木ッ葉|微塵《みじん》にせえ。わしの孫おげ丸をぶじ江戸へゆかしてやれえ、とオゲどもに伝えろやい!」
と、オゲの女たちに命じた。
国宗にいわれるまでもなく、すでにこのとき陣馬山には暴風でも吹き起ったかのような叫喚が渦巻いている。
その中を。――
「オオ、おげ丸だっ」
「おげ丸がまた山を下って来たぞっ。――」
絶叫がつっ走った。甲賀五人衆だ。
先刻相会した場所よりもずっと下の杉林の中で、彼らは山窩のむれとたたかいつつ、なお山の下へ逃れようとしていた。さすがの彼らも、まったくいのち知らずと見えるオゲのむれの襲撃をいささか持て余しているかに見えたが、これは彼らが下山の態勢にあったからともいえる。
ただし、むろんただ逃れるつもりはない。山の下から、このとき相呼応して服部組が上って来る物音をきいたために、ともかくもそれと一つになって、改めておげ丸を討取り、さらに、釜伏塔之介が殺害したものの収容するいとまのなかった三人のあかん坊の屍骸《しがい》――目的達成の証拠物――を手に入れるつもりである。
が、その杉林の中の道を、スタスタと下りて来たおげ丸を見て。――
「――きゃつが来た!」
「やはり、天命逃れられぬところと覚悟したか!」
「よしっ、この際、ここで始末してしまえ!」
五人は逆にとって返した。先頭に立っているのは高安篠兵衛で、その双刀の舞うところ、それこそ例の木の葉のごとくオゲたちは斬って落されるが、あとにつづく連中も、さすがにその気になれば、オゲの山刃《うめがい》のごとき、文字通り刃も立たない。
下から高安篠兵衛が吼えた。
「おげ丸、冥土《めいど》へゆくつもりで下りて来たか」
「江戸へゆく」
「なに?」
「服部屋敷へ。――」
隻眼になお涙を流しつつ、むしろおげ丸は沈んだ声でいう。隻腕はだらりと垂れたままだ。そのまま彼は、同じ速度で山を下って来る。
ぞっとするような一瞬の沈黙と静止のうち、ピイイインという金属音がたばしると、歩く棒のようなおげ丸の頭上からいくつかの鋼条の輪がかかった。
いうまでもなく麻羽玄三郎の不空羂索《ふくうけんさく》だ。
五輪となって襲う鉄の縄術《じようじゆつ》、その一輪は猿橋でお菱の足に切り残して来たが、あとの四輪は健在だ。それは刀で切ろうとしても切れないが、さらに刀の柄に手もかけぬおげ丸に、絶対の神機と見て薙ぎ出した麻羽玄三郎の妙技、それは放心状態に見えるおげ丸の首から胴へ、桶のタガのごとくみごとにすべて嵌《は》まった。
「し、仕止めたっ」
腰、胴、胸、頸と、一本の腕ごめに四輪の鋼条に巻かれ、それは腸詰のように凄《すさま》じいくびれとなってくいこんだ。
殺到して来る五人をじいっと見て、
「忍法|不壊金剛《ふえこんごう》!」
おげ丸はさけんだ。同時に不空羂索は、幾十片の糸屑《いとくず》のごとく四方にちぎれ飛んだ。その数だけの美しいひびきをたてながら。
「あっ――」
五人の甲賀衆はたたらを踏んだ。
彼らは急坂の下にいた。むろん、踏みとどまるにわざも努力も要らぬ体勢にあった。しかるに。――
「忍法天地返し!」
絶叫とともにおげ丸の手から長刀が一閃《いつせん》するのを見た刹那《せつな》――その勾配《こうばい》が傾いた。急斜面が、ぐうっと平地になったのだ。
それは錯覚であったか否かは知らず、彼らはおのれと大地との角度を同じに保って、当然つんのめった。のみならず、その急坂を魚みたいに身を水平にして流れ上っていった。
おげ丸は動かない。動いたのは、その隻腕の長刀のみだ。ただ五度《いつたび》。
もつれ合ってつんのめって来た甲賀五人衆は、生霊逆《いきりようさか》ながれも拍掌剣もあらばこそ、一瞬の間にすべて脳天から股《また》まで二つに裂かれて、血の瀑布と化した山路に折り重なった。
「――見たか? 見てくれたか!」
天に向ってこうささやき、おげ丸はふり返りもせずに山を馳せ下ってゆく。
そのあとで、栃ノ木夕雲の屍骸の両足が、足の裏を合わせようとするようにピクピクとうごめいて、ついに離れたまま動かなくなった。彼はおのれ自身に対して生霊逆ながれを試みようとしたのであるか。
陣馬山から甲州街道へ。――
すでにこの光景を望むところまで上って来ていた服部組は、おげ丸めがけて殺到しようとした。その服部組に対して、樹々から猿のごとく豹のごとく山刃を握った無数の影が舞い落ちる。それはあの人なつこいオゲのむれが異次元の獣と化したかのような剽悍《ひようかん》ぶりであった。
甲州街道を東へ。――
おげ丸は服部組の追撃を怖れない。どういうわけか、稲妻《いなずま》形に東へ歩みつつ、追いすがる忍者群を見ると、そのたびごとに踏みとどまり、ふり返る。
「来い、来い。――」
彼は血まみれの長刀でさしまねいた。
「江戸まで十五里、服部組三百人の死びとの道を築いてくれる。来い!」
殺到しようとして、服部衆はことごとく地にメリ込んだ。
なんと――おげ丸の大地を踏むところ、その裸足の足跡も残らないのに、その見えない跡に服部組の足がかかると、乾いた土は泥濘《でいねい》のごとく、膝まで、腰まで、ズブリと彼らの足を没するのであった。
「忍法砂地獄! あははははは!」
血笑しつつおげ丸は、路上に算を乱してもがく忍者群のところへ、いちいち馳せ戻っては、そこを血の海と変えた。それでなくとも血の雲を流したような甲州路を。
そしてまた、戦車のごとくすすむ。ただ一人、江戸へ。――
おげ丸は何のために江戸へゆこうとしたのか。その意志の通り、服部屋敷についたのか。ついたとするならば、そこに何が起ったか。それからおげ丸はどうなったか。――
史実は何も語らない。
ただ明らかなのは、慶長十九年、時あたかも大坂の役を眼前に控えたこの時点に於て、徳川名代の忍び組服部家が一応滅び、二代目半蔵が史書の上から永遠に姿を消したという事実だけである。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『忍法封印いま破る』昭和53年11月20日初版発行