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忍びの卍
山田風太郎
[#改ページ]
忍び組査察
「刀馬《とうま》、御公儀忍び組のことについて知っておるか」
主君の土井|大炊頭《おおいのかみ》にこうきかれて、近習の椎《しい》ノ葉刀馬《はとうま》はちょっとめんくらった。
「は。伊賀《いが》組、甲賀《こうが》組、根来《ねごろ》組とある――ということは存じておりまするが」
「その役目は?」
「お城ならびに上様がどこぞへお成りあそばす際のお護り。――」
「それから?」
「それから、つまり忍び組の忍び組たるゆえんのもの、つまり諸藩の探索などを相勤めておるのでござりましょう」
大炊頭はひざの上の美しい黒猫《くろねこ》のあたまを撫《な》でながら、春の日の庭をながめていた。びんに白いものが目立つが、福々しくふとった頬《ほお》の血色はいいし、まるで市井の楽隠居のように見える。しかし、この老人は幕閣の大老であった。
「それから?」
「それ以上、あまり存じませぬ」
刀馬はちょっと顔をあからめた。
この主人は大老だから、幕府のそんな組織についてはだれよりも知っているはずだ。知っていて問う。これは近習、つまり秘書への口頭試問であった。あまり唐突な質問だから刀馬は一瞬とまどったが、しかし大炊頭はよくふいにこんな試問をした。
「知らぬのが当然じゃ。そうだれにも内情を知られておっては忍び組にならぬ」
大炊頭は微笑した。
「伊賀組はな、永禄《えいろく》のころ織田右府のために伊賀を追われた服部半蔵《はつとりはんぞう》なるものが、その手兵をひきいて権現さまのもとに参じたのがその発祥。その後|元亀《げんき》の世に伊賀の縁故で甲賀のものどもが加わって甲賀組をつくり、さらに天正に入って、豊太閤《ほうたいこう》に滅ぼされた紀州根来寺の僧兵どもが、これまた徳川家に召し抱えられて根来組となった。――」
大炊頭は講釈をはじめた。
「当時、戦国の世にはの、いくさの物見、刺客、敵国に忍び入っての放火、流言など、この三派、徳川家のためになみなみならぬ働きをしてくれたが、大坂の役が終わってからでもすでに十五、六年、彼らの役目はいまおまえが申した二、三のお役以外にまずすることがない。――」
「……は」
「が、もとより世に大乱はいつ起こるやも知れぬ。彼らはその日のためにそなえて、彼らそれぞれ相伝の忍術の修行に、いまも日夜しし[#「しし」に傍点]として励んでおる。――」
「……は」
「刀馬、おまえは忍法なるものを信じるか」
椎ノ葉刀馬は、ちらと主人を見た。たんなる老人の春日閑談だと思って、つつしんで承ってはいるが、それにしても大炊頭がどうしていまじぶんにこんなことを話し出したのか、解しかねるところもあったのである。
「忍法。きいたことはござります。実に荒唐無稽な話もいろいろきいたことはござります。しかし私は、人間の修行の及ぶ以上の術は信じませぬ」
「――おもしろいものでの」
と、大炊頭は、猫をなでながら言った。
「いくさのためのわざが、いくさが無うて泰平の世がつづくと、いっそう巧緻《こうち》精妙をきわめるものとなる。柳生《やぎゆう》の剣法などもその例じゃが、ただしこれがいざいくさというときに、昔のようなあらくれ武者相手に、どれほど役に立つかはちと疑問がある」
椎ノ葉刀馬は、何か反論しようとした。彼はその柳生流を学び、柳生|但馬守《たじまのかみ》の門弟中一、二をうたわれる使い手だと噂《うわさ》される若者であったのだ。しかし、つつしみぶかい彼は、尊敬するこの主君に抗議することはみずから制した。
「甲賀、伊賀、根来の忍び組にしても同様、いまやその三派の忍法は、おまえのいう人間の修行の及ぶところを超えておるときく」
大炊頭は、ひとごとのように言った。
「いや、実はこのわしにしても、彼らの忍法がどれほどまでに達しておるか、よくわからぬのだ。それほど彼らは、おのれらの術を深秘の中にかくそうと努めておるのだ」
ゆたかな頬に、ふっと苦笑がただよったようだ。
「いまや御公儀に敵はおらぬ。彼らは何に対してかくそうとしておるかというと――おたがいどうし、他の忍び組に対してだ。御祖法によって、彼ら三派の交流は断たれておった。それが悪い影響をあらわして来たと見える」
いつしか刀馬は、主人の眼がじいっとじぶんを見つめているのに気がついた。
「三流、たがいに別々の組織としておいたのは、それなりに深い意味があったのじゃが、いまとなってはそれによる利よりも害が多い――と、わしは先年から思いはじめた。で、それを合わせて一派としたい、という望みを起こしたが、いまの様相から推するに、へたに合流させれば、三の力が一以下にもなりかねぬふしがある。わしの思うには、むしろ最もすぐれたものを、ただ一つ選ぶにしかず。――刀馬」
「はっ」
「その吟味はおまえにまかせたい」
椎ノ葉刀馬は仰天した。
はじめて彼は、主人の大炊頭がふいに公儀忍び組のことを言い出した意味を知ったのである。知ったがこれは驚くべき任務であった。
「殿」
「なんじゃ」
「ただいまも申した通り、私、その忍び組三派の内情、また忍びの術など一切存じませぬ。御下知とあらばいかなる死地に入ることにも否やは申しませぬが、これほど無知識なものがそのような選び役を承るとは――私の覚悟を超えた難事に存ぜられまする」
「忍法のことは、忍者以外にだれも知らぬ。公儀の意のままになる忍者は、その三流以外にない。――となると、公平を期するためには、まったく局外の者をその任にあてるよりほかはない。それをおまえこそ最適任者だとわたしは見たのじゃ」
「そ、それにしても。――」
「三派のうち、いずれが御公儀にとっていちばんお役に立つ忍者であるか。――それはお上に対したてまつり、おまえに忠節の心あれば見わけのつくこと」
「は」
「彼らの技術よりも心術を見よ」
「はっ――」
「おまえならばできる。やれ」
違背はできぬ主命、と刀馬もしだいに覚悟をきめては来たが、しかしそれよりも忍び組、忍びの術に対する好奇心が彼の心をとらえて来た。
「それならば……刀馬、及ばずながら仰せに従いまする。とは申せ、殿、その三流の中より選ぶとして、そもいかように?」
「それじゃ」
大炊頭はうなずいた。
「この話はすでに三派に通じてある。で、彼らの申すには……もとよりお上のお申しつけとあらばいかようなことにも従わねばならぬが、外部の個人が、その三派の中に入り、その組織、技能、顔ぶれなどをくまなく査察することは、のちにその人間を通じてたがいに交流するおそれがあるゆえ、得べくんばひらに御容赦に相成りたい、と申して参った。なおあくまで、組の秘密を他の組に知られることを警戒しておるのじゃ。それにも一理はある。で――彼ら三派より、それぞれみずから選び出した選手一人ずつ、これを以て御判定下さるべし、ということになった」
「三人の選手。――」
「いかにも、まずその名だけおぼえておけ。根来組は虫籠右陣《むしかごうじん》、伊賀組は筏織《いかだおり》右衛門《えもん》、甲賀組は百々銭十郎《どどせんじゆうろう》と申す奴じゃそうな」
「虫籠右陣、筏織右衛門、百々銭十郎。――」
刀馬は復唱して、その名を脳裡《のうり》にきざみこんだ。
「彼らとどこで逢うか。こちらの人と日がきまれば、向こうで指定してくることになっておる。その方の名は、わざと向こうには知らせぬ。が――」
大炊頭はすぐ傍《かたわら》の経机の上にあった二つの硯箱《すずりばこ》のうち、一つのふたをひらき、筆をとって小さな壺《つぼ》にひたした。
「刀馬、左掌《ひだりて》を出せ」
けげんな顔で、すすみ寄って掌《てのひら》を出した刀馬に、大炊頭はその筆をさし出した。そして刀馬の掌に何やら書いたのである。筆さきは無色で、刀馬はただ水で書かれたような気がした。
「それが、忍び組査察役のしるしじゃ」
すると、何もなかった刀馬の掌に、徐々に何やら浮かび出して来た。まるで蕁麻《いらくさ》にでもふれたような赤いすじがうすくふくれあがって、
「卍《まんじ》」
という字がえがき出された。
「それをあちらに見せい。十日は消えぬそうな。――これも、三派のうちの或る組からもらったものじゃがの」
大炊頭は刀馬の掌の上の文字をのぞきこんで笑っていたが、顔をあげると、厳粛な眼で刀馬を見すえた。
「なお、言うまでもないが、右の御用、親子兄弟たりとも明かしてはならぬ秘事であるぞ」
――それから二日目、出仕の日であるのに、野羽織を着、深編笠《ふかあみがさ》を小脇《こわき》にかかえて長屋から出てゆこうとする刀馬を、
「……あ、刀馬さま、どこへ?」
と、すぐ外で、地上の落花を掃いていたお京が呼んだ。葉桜となりかかった樹の影の中で大きな眼が、びっくりしたように、いっそう大きく見ひらかれていた。
「殿の御用でな、さるところへ」
「よい御用でございますか」
刀馬はちょっと狼狽《ろうばい》した。
「なぜ?」
「お顔がかがやいて見えまする」
お京は笑った。その若い清純な眼もかがやいている。
「夜までにはお帰りでございますか」
「そのつもりです」
「御機嫌よう、いっておいでなされませ」
お京はあたまを下げた。
刀馬も笑って、深編笠をかぶって歩き出した。歩きながら、まるで女房に送り出されるようだとかんがえる。
しかし、お京は刀馬の妻となるべき娘に相違なかった。いまは孤児だが、刀馬の父の親友の遺児で、去年から椎ノ葉家に養われている。美しくて、利口で、素直で、だれが見ても、「ああ、よい娘御《むすめご》だ」と微笑して見まもらずにはいられない娘であった。祝言は、一年後ということになっている。
刀馬も好きだ。とくに――ふだんは明るいのに、ときどき孤児らしく、ふっと哀しげな翳《かげ》の見える一瞬があって、そんなとき彼は抱きしめて、さくらんぼうの様な唇《くちびる》を吸ってやりたい衝動に襲われる。しかし、武士の家庭らしく、彼はよくそんな衝動に耐えた。お京も、あきらかに刀馬を愛していた。彼を見るとき、眼には灯がともるようであった。しかし、これも決してはしたないそぶりは見せぬ。つつましく自制しているだけに、二人のあいだにはいっそう甘美な、酔うような感情が交流していた。
「しかし、おれのゆくさきが吉原だと知ったら、さぞ驚くであろうな」
春の日を深編笠で彩《いろ》どりながら、刀馬は微笑している。が、門を出ると、ふっと微笑が消えた。
「おれの眼が、かがやいていたと? いかんな」
刀馬は主君の、「このたびの御用、親子兄弟たりとも明かしてはならぬ秘事であるぞ」という言葉を思い出したのだ。彼は父母にも「主命でちょっと他出つかまつる」と言った。それ以上彼は打ち明けるつもりはないし、そう言っただけでそれ以上ききだす父や母でもない。しかし、その顔色がふだんのじぶんとはちとちがうということが、娘の眼にもありありと見えるようでは、いまだ心術至らぬものというべきだ。
むろん、ゆくさきが吉原だから、顔色がかがやいていたわけではない。
そこに虫籠右陣が待っていると思えばこそであった。根来組の選手虫籠右陣が吉原で待っていると、彼はきのう大炊頭から指示されたのである。
刀馬は歩きながら、左の掌をひらいた。注意して、だれにも見せないようにしているが、そこにある「卍」の一字は、依然として赤くかすかにふくれあがったままだ。
そのふしぎさもさることながら、思い出して刀馬はもっとふしぎなことがあった。
大炊頭さまは、実にさりげなくこんどの御用を仰せ出されたが、いまから思うと、前もってじぶんにこの用を申しつけようと心にきめられていたにちがいない。奇怪なことは、それがじぶんに命ぜられたということだ。
忍者というものにまったく白紙であるじぶんに忍者の試験官を命ぜられる。
かんがえて見れば、土井家の家中に、忍者の技術についてそれほど知識を持っている者は、ほかにもあまりあるまいから、だれが命ぜられても同じようなものかも知れないが、それにしても、およそそういう怪異のことを信ぜず、隠微の世界とは最も縁遠いと思われるじぶんにこの役があてられようとは?
「――殿は、おれという人間をどう見ておいであそばすのかな?」
刀馬は大炊頭の心事が不可解であった。
そこでまた思い出すことがある。それは藩の二、三の古老が、いちどならずくびをかしげて、ふっと、「――刀馬、おまえは殿のお若いときによう似ておるな」と言ったことだ。
はじめてその評を受けたとき、刀馬はあっけにとられた。
「むろん、顔や姿のことではない。殿は、失礼ながら、おまえのような男前ではあらせられなんだがの」
と、古老は苦笑して、
「ただ、感じがな。一言では言いにくいことじゃが、ま、申してみれば、おっとりとした、茫洋《ぼうよう》とした感じがな」
「茫洋とした――私が、茫洋としておりますか。ははあ」
「それそれ、そういうところがそっくりじゃ」
「いかにも私、ぼうっとしてはおりましょう。それは私が馬鹿だからです。殿とはちがいもちがい、天地の大ちがい。――」
「いや、殿にもその似ておるところがお気に召されて、それでおまえを格別に御信任になるのであろう。ありがたく思えや」
実際、刀馬は大炊頭の信任をありがたく思っている。彼は老主君を偉大な人物だと心から尊敬していた。その偉大な主君と、じぶんのどこが似ているのか、古老にそう言われて見てもまだ腑《ふ》におちない。
いずれにしても、正直なところ、このたびの御用はちとありがた迷惑、と思ったのは、その命令を受けてから数分のことだ。
彼は大炊頭に絶対服従の心を失わなかった。その御下知や御心事を疑ってはならぬ。それに、そう覚悟してみれば、まったく未知の忍者の世界に、強烈な好奇心もわいて来た。
「……いずれが御公儀にとって、いちばんお役に立つ忍者であるか。――」
刀馬は、大炊頭の言葉を心に復唱した。
「ただ、忠の誠心より見ればよいのじゃな」
しかし、ゆくさきが吉原とは。――?
じぶんの足の爪先のむいた方角を見て、刀馬はまた首をかしげないわけにはゆかなかった。
遊廓《ゆうかく》で待つ忍者。根来組の虫籠右陣という男。
御大老の査察を受けようとしているのに、何とも解しかねる、ひとをくった奴だ。
吉原は、のちの吉原ではない。のちの吉原は、明暦《めいれき》二年――この物語から約二十五年ばかり後――幕府から浅草|田圃《たんぼ》へ移転を命じられて出来たもので、この寛永《かんえい》九年のころは、いまの日本橋人形町あたりにあった。
もともとここらあたりは、泥や小川の多い湿地帯で、芦《あし》、つまり葭《よし》がいちめんに生いしげっていたから葭原《よしわら》と呼ばれ、これが埋め立てられて傾城《けいせい》町とされてから、縁起をかついで吉原と名づけられるようになったのである。のちの吉原は、その名をいっしょに浅草裏へ持っていったものだ。
で、この土地一帯が埋めたてられてからもう十五年になるが、依然として堀や河が多く、そのぬるんだ春の水に、芦が青々としげって、朝の風にゆれていた。
親父《おやじ》橋。――吉原の創業者で、廓者《くるわもの》たちがおやじどのと呼んでいる庄司甚右衛門がかけた橋なので、みながそう呼ぶ。
そんな知識は椎ノ葉刀馬にはない。客は武士の多い時代だが、刀馬はここに足を踏み入れるのははじめてだ。
その橋のたもとに、へんな男が立って、欄干によりかかっていた。
それは気がついていたが、刀馬はまず彼方《かなた》に浮かぶ蜃気楼《しんきろう》みたいな傾城町の屋根屋根に眼を吸われ、また三々五々、こちらに歩いてくる朝帰りの武士や町奴《まちやつこ》らしい群れに、笠をかぶっているのに、こちらが面映《おもは》ゆい気持ちに打たれ、さらにその男が――袴《はかま》もはかず、刀もささず、着流しにぞろっとした寛永染の裲襠《うちかけ》ようのものを羽織って、銀ぎせるをくゆらせているといった風態であったので、
「……これが、いわゆる廓者という奴か」
つまり、廓で働いている人間の一人だろうと、ちらと眼の端にうつしただけで、橋を渡り切ろうとしたのである。
「卍」
と、その男がひとりごとのようにつぶやいた。
刀馬は足をとめた。
「失礼だが、ちょっとお手を拝見。左の方でござる」
気がつくと、髪は総髪にして、まるまると樽《たる》みたいにふとり、その皮膚がつやつやとまっ白で、眼が細く、代わりに、厚ぼったい唇が気味わるいほど真っ赤で――とうてい武士の人相の男ではない。しかし、これが、あの。――
刀馬は黙って、左の掌をかざした。
「了解」
と、相手は言った。
忍者とは思えない愛嬌笑《あいきようわら》いをまんまるい顔いっぱいにたたえて、女みたいな声で、
「根来の虫籠右陣でござる。はじめまして」
へんな奴だ、というより、いやな奴だ、というのが第一印象であった。
「……はて、京町一丁目の轡屋《くつわや》で逢うという約束ではなかったか」
刀馬は言った。右陣はかるく、
「そこへ拙者みずから御案内いたす」
と、さきに立って歩き出した。ふとったからだから、かすかに酒の匂いがした。
「いままで、そこで一酌やっておりましたのでな。安いが、なかなかよい品をそろえた見世《みせ》でござる。轡屋は御存じかな」
「いや、わしは……この吉原へはじめて足を運ぶ」
右陣はちらっと横目で刀馬を見た。細い眼にちょっと軽蔑の色が浮かんだようだ。
「ははあ。……それでは御指南申すが、あそこでは太夫《たゆう》、格子《こうし》と遊ぼうと思えば、まず茶屋で遊興をつくし、それから揚屋《あげや》へ案内されて、そこへ傾城屋《けいせいや》から傾城に出御ねがうことになっております。これが一流。一流には相違ないが、このものものしい手数のみならず、揚代はおどろくなかれ一夜に少なくとも金一両。――」
「…………」
「米にすれば八俵から十俵も買え申す費《ついえ》でござるから、わずか年に三十俵高三人|扶持《ぶち》のわれら根来者ごとき、とうてい歯の立つ相手ではござらん。その次の局女郎《つぼねじよろう》、端《はし》女郎ならば揚屋へ呼ぶ必要はなし、最下等の切見世《きりみせ》女郎にいたってはわれらとて、それほどふところを案ずるおそれはないのでござるが、しかしこれは大半からだじゅうできものだらけ。……」
「…………」
「甚だ以て危険でござるから、拙者、これでも御公儀に御奉公申しあげておるもの、自重自愛して平生は局女郎、やむを得ぬときでもせめて端女郎を相手としております。今日、御招待申しあげた京町の轡屋は局女郎の見世でござるが、しかし、いって御覧になればわかりますが、なかなか以て――」
「虫籠とやら」
呆《あき》れて、右陣の駄弁をきいていた刀馬は、やっと口をさしはさんだ。
「わしは女郎屋遊びに来たのではない。根来の、その忍法とやらを。――」
「あ、わかっております」
と、右陣はけろっとしてうなずいた。
「心得ております。されば、ここから大門《おおもん》まで、かようにいっしょにつれ立って歩いて、いつなりとお好みのときに拙者をお斬り下さい」
「な、なに?」
刀馬は、あまりの右陣の唐突な発言に、思わずぴたと立ちどまった。
それまで刀馬の左側を歩いていた虫籠右陣は、例の裲襠をふわとひるがえして、刀馬の右へ、六尺ばかり離れて、にやにや笑った。
「ちょうど抜き討ちによい距離でござる。このまま歩きます。いつでも、どうぞ。――」
そして彼は、そのままスタスタと歩き出した。
――なお、刀馬は茫《ぼう》として右陣を見送る。
斬れと?
いつでも斬れと?
あっけにとられたのは数秒のことだ。すぐに彼はわれにかえった。じぶんの任務を思い出したのだ。虫籠右陣を斬れ、或いは斬ってもよいとは大炊頭は言わなかったが、それがこの男の忍法を試すためならばやむを得ぬ。――
「いや、その程度の気構えではどうにもならぬ、本気になって下されや」
と、右陣が言った。
六尺ばかり、刀馬の右前方を歩きながらである。まるで刀馬の心を背中で読んだように。
刀馬はかっとした。音もなく地を蹴った。
フワと虫籠右陣は、同じ距離だけ前方に飛んでいる。そのまま、鞠《まり》のはずむような足どりで、トットと歩く。――
向こうから二、三人の旗本奴《はたもとやつこ》らしい影がやって来た。刀馬は襲撃を中止した。すると右陣の歩調がゆるんだ。
旗本たちはすれちがい、ゆきすぎたが、刀馬はやや気勢をそがれた。
「どうなさった?」
と、右陣は笑った。
「斬れと言ったが、虫籠、背後からは斬れぬ。それにおまえは刀を持ってはおらぬではないか。手並みを見せる気なら、尋常に立ち合え」
「拙者はあなたと武芸の勝負をする気はない。拙者は忍者でござる。忍者はむしろ敵の背の方に廻るのを誇りといたす。そういう奴が相手なのだから、遠慮は御無用」
裲襠を通し、背中の肉もだぶだぶと笑っているようだ。
「また背中から斬られても、ふつうの意味では恥ではないが、ただその未熟は忍者の恥とするところです。その練達と未熟を、おまえさまは検分においでなされたのではなかったか?」
刀馬は刀の柄《つか》に手をかけた。すると右陣はツーとまた逃げた。
「実は、拙者の逃げっぷりを御見《ぎよけん》に入れたいのでござる」
はじめて刀馬は、この根来流の忍者が驚くべき或る感応力を持っていることに気がついた。
「左様、左様」
と、右陣は言う。
「拙者はな、相手が何びとであろうと、またどこにおろうと、拙者に殺気をむけるかぎり、それが山彦のごとくにわかる。仮令闇夜《たとえやみよ》に鉄砲で狙われようと。――従って、拙者を不意討ち、だまし討ちにしようと思っても、絶対不可能だ」
殺気を消し、刀馬は彼を追った。何気なく接近し、ふいに抜き討ちの一刀を浴びせてやろうと決意したのだが――刀馬は、こんな奇妙な勝負、こんな変てこな心理経験ははじめてだ。
ゆくてに豪壮な大門がちかづいて来た。
春風が吹き、燕《つばめ》が舞う。はなやかな傾城町へ、一見|緩々《かんかん》と歩みつつ、数歩の間隔をおいた二人のあいだに、剣気の波が断続した。
……遠隔感応《テレパシー》。
正常の感覚器官を通さずに、人の意志を認知する特異能力というものが実在することは、現代でも心理学者が認めている。これには、人間の能力の進化によるもの、すなわち脳髄の機能の極度に鋭敏化したものという説と、本来動物的本能として存在し、ふつうの感覚が発達したためにかえって退化したものが残存している場合に起こる現象だという説がある。
そんな知識が椎ノ葉刀馬にあるわけはないが、このまんまるな、へんに陽気な忍者が奇怪な特異能力の所有者であることを認めないわけにはゆかなかった。
彼の場合、それは人間機能の練磨か、それとも動物本能の保持か。知らず。――
さっと刀の柄に手をかける。ツーイと相手は水すましみたいに逃げる。それが、こちらが擬勢だと、平気な顔をして歩いている。しかも、完全に向こうむきのままでだ。
「無事到着」
と、虫籠右陣は言った。
「これが大門」
われながらのぼせあがり、顔も紅潮させていた刀馬は、そう言われてようやくわれにかえったが、その吉原の大門を見あげる余裕もなく、茫然として相手を見まもった。右陣はまるいあごをなでていた。
「根来忍法|暗剣殺《あんけんさつ》と申す」
「暗剣殺?」
「いや、星占いによる凶の方位の暗剣殺ではない。殺気を感知する術という意味の暗剣殺。これは尋常の武芸試合なればともかく、忍者の場合には大変な能力ですぞ」
ぬけぬけと自讃した。
「君子危きにちかよらず、と申すが、忍者危きにちかよらずで、敵中に忍び入るにも、安全なところばかりを嗅ぎわけて通る。――どうでござる」
「ふうむ」
「いや、根来忍法はこれ一つではない。これはただの一例にすぎん。いま、尋常の武芸試合なればともかく、と申したが、尋常の勝負に於ても、必ずしも拙者、失礼ながらおまえさまに敗れるとは思っており申さぬ。――が、きょうのところは根来忍法の披露。もう一つ、毛色の変わったところを御覧に入れる。どうぞこちらへ」
虫籠右陣は大門を入っていった。
完全に翻弄《ほんろう》されていることを自覚し、まるでおれは子供あしらいだと自嘲《じちよう》しつつ、椎ノ葉刀馬もそのあとから廓《くるわ》の中へ入った。
大門からまっすぐに広い通りがのびていて、そこを朝から酒の匂いのする男たちがどやどやと群れあるいていた。すこし以前まで夜間営業は禁じられて昼遊びだけを許されていた吉原であったが、自然とこのごろは夜も客が絶えない状態で、まさに不夜城の観を呈していた。
「ここが江戸町」
と、右陣が説明する。とくとくたる顔だ。
「次が揚屋町。……向こうが角《すみ》町」
見世見世の朱塗りの格子や、柿色ののれんや、辻々にある踊りの舞台や、そして春の空中に瀰漫《びまん》する脂粉の香や――はじめて入る刀馬には、そのはなやかさはまさに別世界に来たようであった。
「いま歩いておるところが仲の町」
その仲の町を夢うつつに二、三町も歩いて。――
「拙者のなじみの京町一丁目はこちら」
と、右陣は大通りから右へ折れて、と或る見世の柿色ののれんをくぐった。のれんには、く、つ、わ、や、という文字が白く染めぬかれていた。
「お帰りーっ」
廓者がけたたましい声をたてる。
まったくじぶんの家にでも帰ったように右陣はあがりこんで、
「ささ、どうぞ奥へ」
「虫籠。――」
刀馬は困惑した声を出した。
「あ、わかっております」
右陣は例の調子でうなずいて、ついて来た廓者をふりかえり、
「あの女、すぐにつれて来るように亭主に申せ」
と言って、スタスタ奥へ歩き出した。
右陣はこの轡屋という見世はたしか二流だと言ったが、その柱や壁や唐紙《からかみ》や――刀馬の住んでいる侍長屋などとは格段の豪奢《ごうしや》さだ。こんなところに、わずか三十俵三人扶持の根来者が、常連としか見えない出入りが可能なことであろうか。刀馬はいよいよいぶかしさの念にとらえられた。
瀟洒《しようしや》な庭に面した奥座敷には、すでに酒の用意がしてあった。というより、二つの膳《ぜん》のうちの一つは、先刻まで右陣がそこに坐って、つっつきちらしていたのではないかと思われる眺めであった。
「これ、わしはここで酒をのむ気はないぞ」
「どうも気ぜわしいお方ではある。はて……どうしてまたこのようなせっかちなお方を忍び組の吟味役となされたものか」
細い眼で、きらっと見あげたが、
「では、早速」
手をたたくと、やがて大黒頭巾《だいこくずきん》をかぶった老人が、ひとりの娘の手をひいて現れた。
「轡屋の亭主赤右衛門でござる」
赤右衛門が愛嬌よく挨拶をしているあいだに、右陣は娘の右手くびをつかんで、おのれの傍にひきつけた。
遊女らしいきものはつけているが、娘はおびえきっているようであった。気品のある美しいその顔は、化粧もせず、唇をワナワナとふるわせていた。それを――はて、どこかで見たような、と、じいっと見つめていた刀馬は、ふいに、
「そなた。……菅沼家の御家老の娘御ではないか」
と、さけんだ。娘は急にはげしく身もだえして、つかまれていた手をふりほどこうとした。右陣は離さず、笑った眼で刀馬を見て、
「――ほ、お知り合いでござったか、これは奇縁。――」
「菅沼家の御家老の娘御が、どうしてまたかようなところへ。――無礼であろう、右陣その手を離さぬか」
「いかにもこれは美濃国《みののくに》加納十万石、菅沼|飛騨守《ひだのかみ》どのの江戸家老菅沼式部どのの御息女お円さまでござる。去年まではな。――去年正月、菅沼家はおとりつぶし、したがって家中離散、かくていまは――さきごろ身を売られて、源氏名は薄雪、すなわち轡屋の局女郎たるべきはずで」
刀馬は息もつけぬ思いだ。
右陣の言う通りであった。菅沼家の断絶したのは彼も知っている。美濃の菅沼家は、そのむかし武田信玄の上洛《じようらく》を遠江《とうとうみ》野田城でふせいだ有名な勇将菅沼新八郎の後裔《こうえい》にあたる家柄で、徳川譜代の臣だから、刀馬も主君大炊頭の使いとして、しばしばその江戸家老の屋敷へ往来したことがあり、この息女とも挨拶をかわしたことがある。
それが、いかに改易になったとはいえ、廓に身を売る運命におちいろうとは。――
「これ、身代金《みのしろきん》ならば、わしが何とかする。ともかく、離せ、右陣」
「失礼ながら、おまえさまではとうてい手に負えますまい」
と、右陣は一笑して、
「それほど高い金を払って仕入れたこの女人、ばかげたことに、何と言うても見世を張ることをいやがるそうな。そのようなことをするなら、舌をかんで死ぬるとか。――亭主ももてあまして、かくてこの虫籠の出馬と相成った次第、よいか、見ていなされや。――」
そう言いながら、右陣はにぎった娘の手を、じぶんの口の前へ持っていってまるで牛の舌みたいな大きな舌で、その掌をぺろりとなめた。
「ごらんなされ」
と言って、右陣は娘の掌をつき出した。
おそらく、嫌悪《けんお》のためであろう、虚空をつかむように指のわななくその掌は、ぬれるというより、かたつむりの這《は》ったような銀色の膜で塗装されていた。
「すなわち、忍法ぬれ桜。――」
「なに?」
「しばらく、お待ちを」
右陣は娘の手をつかんだまま、言い出した。
「ところで、菅沼十万石が断絶したわけを御存じでござろうか」
「いや、知らぬ」
「亭主、席をはずせ。あとは、例の通りじゃ。わしにまかせておけ」
轡屋赤右衛門が立ち去るあいだも、右陣が、つかんだままの娘の手に妙なことをやっているのを刀馬は見ていた。いまじぶんのなめた娘の掌を、人さし指と中指で、かすかにえぐるように摩擦しているのである。
「拙者の承ったところでは、おととしの暮れ、台徳院殿《たいとくいんでん》さまがおわずらいのとき。――」
右陣はささやくように言い出した。
台徳院殿さまとは二代将軍秀忠のことで、秀忠はこの正月に亡くなったが、その死病のはじまりはおととしの暮れからであったのである。
「諸大名方に、いずこからともなく廻状《かいじよう》が廻ったそうでござる。それは、恐ろしや、当代さまをお除き申しあげて、駿河大納言《するがだいなごん》さまをお立ていたしたいが、それに同心の方を募るという。――」
刀馬には、初耳だ。しかし虫籠右陣の言っていることが容易ならぬ公儀の秘事であることはよくわかった。どうして、こやつがそんなことを――と思い、また、この男が徳川家忍び組のおそらくは精鋭の一人であることを改めて認識して、黙って相手のまんまるい顔を見まもっていた。
「この廻文を御覧なされた諸大名方は、伊達《だて》さま、藤堂《とうどう》さまをはじめとし、続々と土井大炊頭さまにこのむねをお届けなされた。しかるにこのお届けがなかったのは、当の駿河大納言さまと九州の某大藩と、そしてこの菅沼飛騨守どのばかり」
こうしゃべっているあいだにも、右陣は娘の掌を指さきでもてあそびつづけている。
「ほかのおふたかたは知らず、菅沼家がこれを捨て置いたは、おそらくあまりにばかばかしいと思ってのことでござったろうが、ばかばかしいのは菅沼家自身の運命でござったな」
かすかに、ぴくっと娘のからだがうごいた。
主家の滅亡をあざけられて無念に思ったのであろうが――刀馬は、娘の顔がぼっと紅潮してきているのを見た。
「菅沼家の断絶は、この怠慢が原因と、拙者きいております」
娘は、からだをうねらせた。その動作も、顔の紅潮も、何か異様なものに刀馬は感じた。怒りではない――何やら、切なげな、たえかねるような。
「御覧なされておるか」
右陣はにたにたと笑った。
「拙者の忍法ぬれ桜を。――」
「ああ!」
と、娘は身もだえし、唇を大きくあけ、肩で息をした。右陣はかまわず、なおその掌をいじりつづける。掌の銀色の膜は消えていたが、その代わり彼女自身のにじみ出させた汗でぬれひかって来た。
「この掌――この娘の女陰と化したのでござる」
刀馬は、とっさにその意味もわからなかった。
「正しく申せば、この女の掌の皮膚が、秘所の肌ざわりとそっくり同様のものとなったのでござる」
唖然としている刀馬の前で、虫籠右陣はゆっくりと立ちあがった。なお娘の手をつかみ、それをもてあそびながらだ。女は、それに抵抗しなかった。
「どりゃ、次にこれから、この女人の肌をことごとくそのように変えてくれようか」
右陣は女をからませながら、隣の唐紙をあけた。そこは雨戸をしめ切ってあるとみえて、春のまひるというのに仄暗《ほのぐら》く、しかし夜のものがぼんやりと見えた。
唐紙はとじられた。
なお、判断力を失って凝然《ぎようぜん》と坐っている刀馬の鼓膜に、やがて唐紙の向こうから、女の身をよじるようなあえぎがきこえはじめた。
「耳たぶ。……頬」
右陣の声がきこえた。
「口」
動物が蜜壺《みつつぼ》をすすりあげているような音であった。
「や、やめい、右陣」
耳を覆《おお》って、刀馬は絶叫した。
吸盤が、密着していたものから離れるような音がして、
「根来の忍法を御見に入れるのでござる。御大老は、それを見て参れとおまえさまにお申しつけになったのではありませなんだか?」
刀馬は膝をつかみ、沈黙した。
「あご。……くびすじ」
女の声は、泣くとも笑うとも形容できぬものに変わった。それにまじり、一息つくごとに右陣が話しかける。
「お目付さま。いま、ここに入るまでのこの女、御覧なされたでござろうが。――いや、以前の御家老の娘御のときを御存じであったと申されましたな。それはますます以て好都合。それでおわかりのように、この女人、美しいが色気がない。男がちかづけば舌をかんで死ぬるとまで申す。その言いぐさが見せかけでないことは、おまえさまにも御納得でござろうな。……乳房」
また異様な音がながれはじめた。
「その女人が、このあと、はたしていかがなものに相成るか。代は見てのお帰り。……腹」
「右陣、そ、そのような忍法が何の用に立つか」
「さあて喃《のう》。御公儀のおんために、かような忍法がいかなるお役に立つか、それは拙者にもわかり申さん。それを御判断に相成るは御大老でござる。……へそ」
刀馬は一刀をつかみ、われを忘れてまた立とうとした。
「いかん。暗剣殺が告げる。――拙者に殺気を向けられるのは任務逸脱」
右陣は言った。刀馬は立ちすくんだ。
女のうめき声は、いまやけだものじみたさけびにまで高まっていた。右陣の解説がなかったら、さっきまでそこに歯をくいしばって坐っていた娘の、気品にみちた唇から発せられるものとは想像できないほどであった。刀馬の耳はじーんと鳴り、脳髄は惑乱した。
「桜、ぬれ終わんぬ」
右陣の声が言った。
やがて、唐紙があいて、彼が出て来た。にたにたと笑っているが、これははじめからの表情だから、もとの通りといっていい。ただ例の厚ぼったい真っ赤な唇が、異様なぬめりでぬれひかっていた。
「しばし、お待ちを願う。女、手足をばたりと投げ出し、いかになんでもそのままお目にはかけられぬていたらくでござれば」
扇子をとり出して、みずから煽《あお》いだ。
「もうよかろう。薄雪、出い」
唐紙がひらいて、女が出て来た。きものはつけているが、着ているというよりまつわりつかせているといった感じで、泳ぐような足どりで二歩三歩あるき、じいっと刀馬と右陣の方を見つめた。
刀馬は眼を見張った。
外貌は先刻までの娘と同じだ。菅沼藩江戸家老の息女に寸分の変わりはない。にもかかわらず、ちがう。あきらかに遊女薄雪だ。いや、そこにふらりと立っているのは、淫蕩《いんとう》の精とも形容すべき一個の肉体であった。
「お。と、と、と」
こちらへ寄って来ようとする薄雪を、右陣はあわてて手をあげてとめた。
「それ以上、ちかづくな。そこに坐れ。いま、おまえの望む通りにさせてやる。しばらくがまんせいや」
薄雪は坐ったが、なぜか刀馬には、それがどんな微妙な風の一吹きにも、むせかえるほど花粉の渦をとばせそうな花弁のような感じがした。
「うかつにさわると、たいへんなことになりますのでな」
右陣は、例の牛の舌みたいな舌で、上唇をなめた。
「この女の全身、先刻申した通りのものになっておる。むろん、外見は御覧のごとく、すべすべとしたふつうの肌じゃが、それにさわられたときの当人の感覚がです。とはいえ、外より見ても、男たるもの、何やらずーんと来るものがありましょうが。むべなり、ここに坐っておるのは、柔肌をかぶった女陰そのものでござるから」
「…………」
「かかるわざを持つがゆえに、この虫籠右陣、当轡屋で下へも置かぬあしらいを受けるわけ。手間ひまかける女は、拙者が出張してことごとくかように処置をほどこす」
「…………」
「ところで、根来忍法、いかなるものでありましょうな、お目付どの」
椎ノ葉刀馬は黙って、虫籠右陣の、ぼたっとした感じの大きな顔面を見つめていた。耳に、「――いまや彼らの忍法は、人間の修行の及ぶところを超えておるときく」と言った主君大炊頭の声がよみがえった。
しかし、それにしても。――
あの敵の殺気を悟る「暗剣殺」とやらはまだよい。が、この忍法「ぬれ桜」なるものはいったい何だ?
まさに、驚くべきものだが、このような術が御公儀にとって何になるのか。いや、それが何かの役に立つ立たぬは別として――刀馬は、とにかく不快であった。
「ま、それは他の伊賀、甲賀を御覧なされなければ、おまえさまにはいま何とも申されまい。御査察の結果はおまかせいたすよりほかはないとして、せっかくこの吉原においでなされたのじゃ。それはそれとして、遊んでおゆきなされ」
と、右陣は言った。
「あの薄雪と」
「帰る」
と、刀馬は心中に身ぶるいして立ちあがろうとした。
ちらっと見あげて、刀馬のにが味をおびた顔に、右陣はうろたえた風で、
「あ、御立腹か。これはしまった」
とんと扇子で、刀馬の袴の端を押えたが、それはまるで釘《くぎ》でとめたようであった。いよいよ以て厚かましい奴――と、刀馬が袴をひっさばこうとすると、
「ま、まず、見てやって下され、うずうずと待ちかねておるあの薄雪を」
刀馬は、女を見て、すぐに眼をとじた。眼をとじても、それは網膜に眼花《がんか》のごとく残った。女を知らない刀馬でも、その根幹からゆりうごかされそうな淫《みだ》らな笑顔であった。もしこのとき、彼が――必死にお京の姿を思い出さなかったら、危く何をさけび出したか、じぶんでも自信がないほどであった。
「あの女、あれでまだ処女《おとめ》でござるぞ」
すり寄って、いやしげな笑いを満面にたたえて右陣はささやく。
「特別を以て、おまえさまのために、右陣、手つかずにとっておいたのですぞ。……忍法ぬれ桜、やはりな、長いあいだには徐々に鮮度がおちる。まだ新しいうちほど美味を極めます。いわんや、最初に箸《はし》をつけるもの、頬っぺたがおちるどころか、からだじゅう、何もかもとろとろにとけながれんばかり。……」
とたんに右陣はひっくりかえった。いきなり、刀馬が立ちあがったのだ。
忍者らしくもなく、まんまるいからだをぶざまにころがせた右陣を見下ろして、刀馬は言った。
「相わかった。根来忍法、残りなく御報告申しあげるであろう」
「や、そのお顔が気にかかる。これは賄賂《まいない》ではない。拙者が袖の下をつかおうとしたと思われて、左様に大炊頭さまに御報告いたされては大きに迷惑。……」
右陣はそのままべたと刀馬の足もとにひれ伏した。
「お頼み申す。根来組を選んで下され。そうでないと、根来の選手として選ばれたこの虫籠、一党に対して合わせる顔がない。いや、面目を失するどころではない。これによって根来組の存在にもしものことがあれば、右陣のいのちにもかかわることに相成ります。右陣をふびんとおぼしめし……」
刀馬は一笑しようとしたが、その笑いが凍りつくほど恐怖にみちた右陣の顔であった。
「そのための、右陣のこの努力でござる。右陣の苦労を買うて下され。右陣をお助け――」
「わしは公平にやるつもりである」
いとわしさと憐《あわ》れみの感情を制して、刀馬は冷静に言った。
「わしは公平に御報告申しあげて、殿の御判断を仰ぐだけだ」
「お目付どの」
ふいに右陣は身を起こし、じいっと刀馬を見あげて言った。
「先刻お話し申しあげた諸大名への陰謀勧誘の廻状でござるがな。その廻状を出されたもとは、大炊頭さま御自身でござるそうな」
「なに?」
「大炊頭さまは恐ろしいお方でござる。いや、これこそまさに忍法の奥義たる反間苦肉のわざをそこまで味得されておるおん方――従って、その御判断にお狂いはござるまいが、おまえさまが妙な早合点《はやがてん》で御報告なされては、おまえさまの恥になりまするぞ」
右陣はうす笑いをとりもどしていた。ひらき直った、というより奸悪《かんあく》ともいうべきふてぶてしい笑顔であった。
「賄賂をつかい、媚《こび》を売る。これまた忍法の奥義の一つであることを、よくよく御理解に相成りたい――と、まあ申しあげておくのも虫籠のいらざる老婆心か。う、ふ、ふ、ふ」
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査察の結果
――五日目であった。
椎ノ葉刀馬は、品川のと或る茶屋の縁台に腰うちかけて、ひとり往来を眺めていた。
茶屋のうしろは石垣になっていて、その下はすぐに海だ。茶屋で貝や牡蠣《かき》を料理する匂いと、春の潮の香がまじりあって、街道は活気と泰平に満ちていた。
旅人のゆききする風景は、江戸市中よりもにぎやかなほどだ。ここは東海道の江戸の口であった。
のどかな鐘の音がきこえ出した。すぐ前の妙通寺という寺の鐘が正午を告げているのだ。
「品川妙通寺前の茶屋で、午《うま》の刻」
それが大炊頭を通して伝えられた伊賀の選手筏織右衛門と逢う約束の場所と時刻であった。
そのとき、往来を東から三人の男女が通りかかり、茶屋の前で立ちどまった。
「では、拙者はここで」
と一人の武士が小腰をかがめた。
「いろいろと世話になった」
挨拶を返したのは、五十年輩の、修行者風の武士であったが、何気なくこれを見ていて、刀馬は春風の中に、すうと一滴の冷気が吹きつけてきた感じがした。
背は五尺九寸ほどもあろうか、あかちゃけた髪とまばらな髯《ひげ》が、頬骨《ほおぼね》のたかい顔をふちどっている。鼻は高く、やや三角形の眼は琥珀《こはく》色であった。魁偉《かいい》といっていい風貌だが、べつに沈毅《ちんき》重厚なものが全身をつつんでいて、一見、だれをも威圧するようなところはない。にもかかわらず、刀馬がしいんと骨まで冷えるような思いに打たれたのは、柳生の高足といわれた彼のみが知る感覚であった。
「女房には、なおそこまでお送りいたさせますれば」
と、最初に挨拶した侍が言うのに、この魁偉な武士は、
「無用」というふうにくびをふったが、
「いえ、私、しばし用を足しまするので、女房はここで待っておらねばなりませぬ。同じことなら、それよりひと足でもお供を」
と、傍《かたわら》の美しい女にあごをしゃくりもういちどお辞儀して、二人がそのまま歩き出して、三十歩ばかりも西へ遠ざかってから、彼は茶屋へ入って来た。
それで、はじめて刀馬はその男を真正面から見たのだが、はてな、と小首をかしげた。年は三十くらいだろう、がっしりしたみごとな体格だが、背丈《せたけ》は先刻の武士ほどではないし、髯もない。しかし、ややあかちゃけた髪、高い鼻、琥珀色の眼、そして何より沈毅重厚の翳《かげ》が、立ち去った武士に実によく似ているのだ。
しかし、三人連れの男女ということもあったし、そのうちの一人の見送りにここまで来たと察せられるいまの応対から判断して、刀馬はむろんじぶんとは無縁の男だと思っていたのである。
男は、茶屋に坐っているのが刀馬一人であることを見てとると、左掌をしずかにあげた。
「お待たせしたようでござるな」
文字通り、釣られたように刀馬は掌をあげた。赤い卍の浮かんだ掌を。――
相手は微笑してうなずいた。
「伊賀組の筏織右衛門でござる」
しばらく、しげしげとその重厚な顔を見つめていた刀馬は、
「いま先へいった人も、おまえの一族か」
と、きいた。この相手への興味もさることながら、あの武士へ、何やらさらにひかれるものがあったからだ。
筏織右衛門の微笑が苦笑に変わったようであった。
「いや、あれは宮本武蔵どのと申される剣客でござる」
「なに、武蔵どの?」
刀馬は、思わず縁台から立ちあがった。織右衛門は言った。
「ほ、御存じか?」
剣を学ぶ者として、知らない道理があろうか。有名な京での吉岡一門との死闘や、豊前《ぶぜん》船島での佐々木小次郎との決闘は、もう二十年から三十年ちかい昔のことで、刀馬などは生まれてまもないころか、さらにそれ以前のことだが、その物語は幼時からきかされている。その後武蔵は諸国を漂泊し、それほどめざましい試合は耳にしないとはいえ霞ケ関の道場でも何かのはずみでときどき武蔵の話が出、「――ひょっとしたら、剣の強さそのものでは、但馬守《たじまのかみ》さまより武蔵の方が上ではなかろうか」とさえ言う柳生の弟子もあるくらいなのだ。
そのまま、つかつかと茶屋から出てゆこうとする刀馬を、
「どこへゆかれる」
と、織右衛門が止めた。
「追われたとて、立ち合われませぬぞ」
「いや、お話なりと」
と、刀馬は、伝説中の人物が現れたような憧憬《どうけい》の瞳をもやした。
「剣法の話もお好みはなされぬ」
「せめて、御挨拶でも」
「忍法御吟味役どの、お役目はお忘れか」
椎ノ葉刀馬はわれにかえった。が、なお眼を街道の西へ投げて、
「武蔵どのは、江戸へ来ておわしたのか。知らなんだ。――」
「ほとんど知る者はござるまい。噂のまとになるのをおきらいでござるから」
「おまえ、なぜ武蔵どのを存じておる?」
「いや、ちょっとしたことで」
と、織右衛門は話をそらした。べつにもったいぶっている風でもなく、すぐ誠実な口調でつづけた。
「武蔵先生は、御自分のことを人に語られるのをあまり好まれませぬので」
「先生? おまえは武蔵どのの弟子か」
――ほとんど弟子をとったことがないといわれる孤独の大剣士が、この伊賀の忍者に剣法を教えたのか?
「……以前に、少々」
と、織右衛門は重々しく答えた。
「以前に?――いまは?」
「人の道を」
――卒然と、刀馬は思い出した。これもずいぶん昔の話だが、曾《かつ》て江戸を荒らしまわった向坂《こうさか》陣内という有名な大盗があった。彼もまた忍びの術を心得ているとかいう風評につつまれた男であったが、それが武蔵の弟子であったというのだ。
そんな話があるくらいの武蔵だから、この伊賀者を弟子としたとしても、あり得ないことではない。――
とはいえ、ほかにほとんど弟子をとらず、ただ大盗と忍者を弟子として、居所も定めず五十になんなんとして放浪している宮本武蔵という人物は、思えば怪異の剣客にはちがいない。とぎれとぎれに耳に入ってくる噂でも「孤高の剣人」という評と、「狷介《けんかい》にしてちかよりがたい人物」という評が半ばしているが。――
「武蔵どのは、人の道を教えられるというのか、おまえに」
「宮本先生のお話は、いずれまたの機会にお願いいたしたい」
と、織右衛門は言って、ちらっと茶屋の裏の方を見た。
「空いている舟がありましょうかな」
「どうした」
「海へ出ましょう」
「海へ出て――何をする」
「拙者の忍法をお目にかけねばならぬ。そのお約束にてここに参ったのでござれば」
筏織右衛門は立ちあがった。その通りだ。それを見るのが、刀馬もここへ来た目的であった。しかし、海で見せる伊賀の忍法とは?
刀馬は茶代を払って、織右衛門を追った。海ぎわにならんだ茶屋のあいだは急な石段になっていて、石垣を割って海へ下りてゆく。そこにたくさんの小舟がつながれていた。
筏織右衛門は漁師らしい男と何やら話していたが、鳥目《ちようもく》をわたし、一艘《いつそう》の小舟を借り受けた風であった。
「どうぞ」
刀馬をうながして、その舟に乗ると、艪《ろ》はみずから取って、海へ出た。
あたりの海面は漁をする舟が無数にちらばっている。その中を漕《こ》ぎぬけて、織右衛門の舟はどこまでも沖へ出てゆく。
このあいだ、彼はほとんどものを言わなかった。口の重いたちらしいが、しかし人に気ぶっせいな感じを起こさせる陰気なところはない。何となく信頼できる男らしさが、そのいかつい横顔にあった。
「武蔵どのの話は好まぬようじゃが」
と、刀馬がまた言い出したのも、べつに沈黙の重苦しさをはらうためではなく、その大剣士への敬意が断ちがたく、またひいては、その大剣士の弟子たるこの伊賀者への親愛感のなせるわざであった。
「あれほどの高名の剣人を、御公儀がとり立てられぬのはふしぎじゃな。おまえ、弟子としてそうは思わぬか?」
織右衛門は黙々と艪をこいでいる。
「いささか風狂の気味があるお人、ともきいたが、そのせいであろうか」
「左様なお方ではござらぬ」
織右衛門は、ややむっとして言った。
「もう七、八年も前になり申そうか、宮本先生はいちど上様にお目通りなされたことがござる」
「――なに、そのような話、きいたことがないぞ」
「ごく内密のことでござったし、御仕官のことはそれで止みましたから、一般にはだれも知らぬことです」
「なぜ、御仕官のことがそれで止んだのだ」
「武蔵どののほうで、御思案ののち御辞退なされたからでござる」
「なぜ。――」
織右衛門はふとじぶんの昂奮に気がついたらしく、苦笑した。艪を置いて、ゆっくりと刀馬の傍にやって来て腰を下ろした。
「よい眺めでござるな」
と、見まわしていう。
もう水の果てに陸が――品川の寺院群の甍《いらか》が帯のように細く浮かんで見える沖であった。おだやかな日で、春の海は、艪を置いた舟をしずかに浮動させているだけであった。大空から見たら、春潮に漂う孤舟に閑語する二人の風流人とも見えたであろう。
が――ちらりとまわりの海の蒼《あお》さを見ただけで、刀馬はくりかえしてきいた。
「なぜ武蔵どのは辞退なされたのだ」
「拙者、武蔵どのにおうかがいいたし、こんこんと承ったことがござる。――忍法のことについて」
と、織右衛門はしずかに言い出した。
「孫子《そんし》に曰《いわ》く、仁義にあらざれば間《かん》を使う能《あた》わずと。――間とは間者、すなわち忍びの者のことでござる。武蔵どのは申された。忍法のことは、智謀計策を以て、或いは塀《へい》石垣などをのぼり、或いは鎖、枢《くるる》がけなどをはずすわざなれば、天道の恐るべきを知らざれば盗賊のわざにちかしと。――」
「…………」
「従って、この術に志ある者は、毛頭も私欲のためにせず、無道の君のために謀《はか》らず。無道の君に仕えて忍法をふるうはよくよく戒心を要すと教えられてござる」
「…………」
「で、拙者、問いました。いかに無道の君たりとも、その君の一大事とあれば、死を以て御奉公つかまつらねば、諸人より不忠とそしられるではありませぬかと」
「…………」
「すると、武蔵どのの仰せられるには、無道の君たらばはじめより仕うべからず、もし無道を知らずして仕えたらば、すなわち退くべし。――」
茫然《ぼうぜん》ときいていた刀馬は、ここで眼を大きく見ひらいた。
「では、武蔵どのは――当上様を無道の君と見て、仕官を辞退なされたと申すのか」
「……海の上でようござったな」
織右衛門はしぶく笑った。
「いや、先生のお心は存じ申さぬ。それはただ忍法の根本義について教えられたまで。――もっとも、君によって仕官はすな、退身せよといわれても、徳川|名代《なだい》の伊賀組の一人たる拙者には、いまさらどうにもならぬことですが」
筏織右衛門のいま言ったことは、師の武蔵がなお牢人《ろうにん》しているわけを弁明するとはいえ、幕臣として実に容易ならぬことだ。彼は暗に現将軍家を批判したからである。
が、刀馬はそれをとがめる気にはなれなかった。織右衛門の重厚な顔つきと口調に、それをかえって誠実剛毅な人柄のあらわれと思わせるものがあったからだ。
「武蔵どのは」
と、刀馬の方が将軍批判から話をそらした。
「忍法も教えられるのか」
「伊賀忍法は、伊賀者以外は大秘事でござる。たとえ武蔵どのなりと」
粛然と織右衛門はくびを横にふった。
「ただ、右の根本義は、剣法も忍法も同じと申されたまで。――されば一方で、忍者の奥義は、剣の道に於ても学ぶに足ると仰せられます」
「それは?」
「ただ忍の一字」
「忍とは?」
「いかなる修行にも、いかなる秘命にも、刻苦隠忍、ひたすら耐え忍ぶことでござる」
刀馬は、武蔵とこの男が樹下石上に対坐して、このような問答を交している姿を空想した。心にえがくこの両人は、必ずしも顔が酷似しているわけではないのに、同じ胎《はら》から出た兄弟のように相似た感じがあった。それは刀馬にとって、孔子《こうし》とその弟子の対話よりも心をひかれる光景であった。
彼はしばしうっとりと沈黙した。
「さ、その伊賀忍法をお目にかけねばならぬ」
織右衛門はわれにかえったようだ。
「それがいまのところ、伊賀組より選び出された拙者の至大至重の任務です」
彼は小手をかざして陸の方をふりかえった。
「や、来たようですな」
ゆるやかにふくれる波のはるか彼方《かなた》――に陸の方から小舟がちかづいて来た。だれか一人艪をこいでいるが、刀馬には何者か見当もつかない。ただ、その身につけているものから見て、女らしい。――
「女房でござる」
「えっ」
「武蔵先生をそこまでお送り申しあげたら、すぐにこちらへ来るように申しておいたのです」
「おまえの妻女が。――」
伊賀忍法を見せるために、何の必要があるのか? とけげんな表情で見まもる刀馬に、筏織右衛門はちょっと何やら思案のていであったが、やおら懐中から一枚の銅銭をとり出しておしつけた。
「これをあなたが五度放りあげておとし、表と裏の出た順序を――いや、口に出していわれることはない――ただ心の中でおぼえておいて下され」
まるい銅銭には四角な穴があいている。表にはその穴をめぐって「元和《げんな》通宝」と彫られ、裏には一の字が刻まれている。
刀馬は狐《きつね》につままれたような顔で、五度、銭を投げた。
――裏、裏、表、裏、表。
彼は胸にそう記憶した。
舟はちかづいて来た。もうあきらかに、艪をあやつっている一人の女の姿が見える。
寛闊《かんかつ》華麗な色彩や大柄な模様のはやるいまの時勢に、渋い憲房黒茶の小袖《こそで》を着た女房だ。
先刻、往来でちらとかいま見て、美しいひとだなとは感じたが、それ以上印象から薄れさせてしまったのもその地味な衣服のゆえであったが、いまちかづいて来たその細面《ほそおもて》の顔や楚々《そそ》たる姿を見て、衣服が地味なのでかえってその美しさが浮き出ているのを再認識して、刀馬は眼を見張った。それが、なよやかな白い手に、驚くべき巧みさで艪をこいでくる。
「御苦労」
織右衛門は言って、まだ二、三間離れたその舟へ、ぴゅっと一すじの細い縄《なわ》を投げた。縄のさきには鉤《かぎ》がついていて、それが向こうの舷《ふなばた》につき刺さった。
「女房のお麻でござりまする」
織右衛門に紹介されて、女房は刀馬にお辞儀した。青い眉と、微笑した鉄漿《かね》の歯が美しかった。
「ゆかれたか」
「はい、お元気で」
武蔵のことらしい。織右衛門は妻の舟をひき寄せた。二人は、舷をくっつけた二艘を結ぶ作業をしている。いかにもおだやかで、口数は少なくとも心の通じ合った感じの夫婦の動きであった。
「御吟味役に、任意車《にんいぐるま》をお見せする」
「はい」
こんな対話がきこえたが、刀馬には意味もわからなかった。筏織右衛門は、妻の小舟に乗り移った。
大小を置き、袴《はかま》をときながら、
「しばし、向こうをむいておって下されまいか」
と、織右衛門は言った。
そう言われても、茫乎《ぼうこ》として――その妻もまたしとやかに帯をとき出したのを見ても、なおけげんそうに眼を見張っていた椎ノ葉刀馬は、やがてその舟の上に妻が横たわり、夫がそれに身を重ねるのを見て、くわっと全身に血がのぼるのをおぼえた。
「向こうをむいておって下され。……やはり、これは秘儀でござれば」
織右衛門はもういちど言った。
刀馬はあわてて反対側を向いて、坐って、じぶんがいかなるばかげた立場にあるか、自嘲《じちよう》する余裕すら失っていた。
風のない日ではあったが、春の潮はゆるやかにうねり、ひたひたと舷に音をたてている。その波の楽音に、しずかな旋律が溶けはじめた。女のあえぎ声であった。それが、ほんとうにどこまで高まったか、刀馬にはよくわからなかった。彼の耳には、やがてそのなまめかしい声が、波音をかき消すばかりにきこえ、浮動する舟は、彼を天へおしあげ、海の底へおし沈めるほどに感じられた。
秘儀?
秘儀というには、あまりにもまばゆい光にみちた大空の下。あまりにもひろびろとした春の海の上。
「もうし」
どれほどの時がながれたかも知らず、鼓膜もしびれつくして坐っていた刀馬は、ふいにそのうなじに匂やかな微風を感じて、ぎょっとしてふりむいた。
いつのまにか、こちらの舟に、お麻が乗り移っていた。
「……お待たせいたしました」
お麻は言った。吐息のような小さな声であった。
彼女は、最初に見た通り、憲房黒茶の小袖に、きりっと帯をしめていた。が、さすがにぼうと頬がうす赤く染まって、
「失礼いたしましてございまする」
と、かすかに笑んだ。
恥じらうように身をねじると、背を見せて、二つの舟を結んだ縄をとくのにかかっている。やがて立ちあがって、こちらの舟の艪をとった。
「では、そろそろ帰りましょう」
阿呆《あほう》みたいにこの動作を眺めていた刀馬は、はじめて筏織右衛門の存在を思い出して、はっとして向こうの舟に眼を投げた。
織右衛門は、舟の上にあおむけに寝ていた。眼をむいて、蒼《あお》い天を見つめたまま、ピクリとも動かない。その眼が決して何かを見ているのではなく、虚《うつ》ろに散大して、なぜか透《す》き通って見えるのを刀馬はのぞきこんで、
「やっ?」
と、さけんで、立ちあがろうとした。
「大丈夫でございます。夫は死んではおりませぬ」
お麻はゆっくりと艪をこぎ出した。
「夫はあのまま捨ておきましても、一昼夜すぎれば――あすのいまごろは気がついて、ひとりで舟をこいで帰ってくることでございましょう。夫の星占いによりますと、今夜明日、風もなく、雨もふりませぬそうな」
「し、しかし――織右衛門は、どうしたのだ、あれは?」
「からっぽになっているのでございます」
「からっぽ?」
「魂が」
そのあいだにも、二艘の舟は、五間、十間と離れてゆく。お麻は何事もなかったかのように、何物もあとに残してはいないように、しずかに艪をあやつってゆく。
刀馬には、この伊賀者の妻の言葉の意味も不明であったが、先刻のこの夫婦の行為に至っては、さらに判断を絶した。
この貞節の化身のように見える女房が、大空の下であのようなことをしたとは――あの武蔵から人の道を教えられたという剛毅篤実の男が、人の眼もはばからずあのようなまねをしたとは――?
「織右衛門は、伊賀の忍法を見せるとか言ったが」
と、刀馬は放心的な声を出した。
「それがあれか。――」
「左様でございます」
と、お麻はおちついてうなずき、そのまま艪を三押しばかりして、
「先刻の銅銭でございますね。あれの出た順は、裏、裏、表、裏、表だったでございましょう」
と言った。
刀馬は元和通宝のことを忘れていた。いわれて、ぽかんとお麻の顔を見ていたが、一瞬ののち心の中では驚愕がつき上げて来た。
あの銅銭のことをこの女が知っているのがまず奇怪だ。よしやそれは夫の織右衛門と打ち合わせていたとしても、銭を投げたのはじぶんだし、その裏表の出ようはもとより偶然である。あのときこの女は、波の彼方からはるかこちらへ舟を漕ぎよせつつあった。織右衛門の合図を遠目で見たか。いや織右衛門はなんの合図もしなかったようだ――。
「ど、どうしてそれを?」
お麻はまたしばらく黙って艪をおしている。手くびのくねりはやさしいのに、舟は飛ぶように速かった。陸の寺院群がみるみる大きく浮かびあがって来た。
「あれは、わたしが見ていたからです」
と、お麻はいった。
「そなたが? どこで?」
「あなたさまのお眼の前で」
その横顔に、あるかなきかの笑いがほのかに漂って来たようだ。
「お目付さま、任意車という言葉をおききになったことがございましょうか」
そういえば、先刻筏織右衛門がそんな言葉を口走ったようだが、刀馬の耳には呪文《じゆもん》のごとく一過しただけであった。
「そのむかし隋《ずい》の煬帝《ようだい》は、いたく女人がお好きであったそうでございます。それで臣下の何調《かちよう》という者が考え出した車の名で、いつも行幸なさるとき、この車に女人と相乗りしてゆかれたとやら。――車中、女ヲ御ス、スナワチオノズカラ揺動シ、帝モットモ喜悦ス――とあちらの書物にあるそうでございますが、もとよりどのようなからくりの車か、よくわかりませぬ。お目にかけました伊賀の忍法は、ただその名を借りたばかりでございます。意を任せた車、心を託した女人という意味で。――」
「…………」
「海に残して来た織右衛門は空《から》になり、その魂はこのお麻に乗り移りました」
「…………」
「ここに舟をこいでいるのは、お麻ならぬ筏織右衛門なのでございます。織右衛門がお麻に化けて、それらしゅう口をきいているのでございます」
「――ば、ばかな!」
椎ノ葉刀馬は思わずさけんだ。
「お目付さま。いったい女の体内に入った男の精は、どれほど生きているものか御存じでございましょうか」
陸は眼の前にちかづいて来た。もうまわりには舟が群れ、漁師たちが呼び交わしている。それも耳に入らず、刀馬は、このしとやかな美しい女房の唇からもれる途方もない言葉にふたたび息をのんでいた。
「わたしの思うところでは、まず一昼夜。――」
お麻の唇からはじめていたずらっぽい笑い声がもれた。
「なぜかと申しますと、それくらいの時で、織右衛門の魂は、織右衛門のからだにもどりまするゆえ。――」
銅銭の裏表を言いあてたふしぎさはさておき、刀馬はまだ信じない。いや信じられない。かっと眼を見張った凝視の前に、手に艪をつかんだまま、お麻にむきなおった。
くねらせた胴のくびれのたおやかさ、腰のふくらみのなまめかしさ。
それが。――
「女を犯せば、魂も乗り移る」
と言って、凄艶《せいえん》な片えくぼを彫って、
「ただし、私は女房を愛しておりまするゆえ、ほかの女にこれをためしたことはございませぬがな。女房ひとりを相手に、ここまでこのわざを達するには、両人、いかに精魂をしぼりつくしたことか。――もしも運よく、伊賀組ひとつが御公許と相成らば、どうぞこのお麻をほめてやって下されい」
と、じぶんで言った。すでに口調はどこか男じみていたが、なおうなされたような顔色の刀馬の耳に、こんどははっきりと筏織右衛門の声に変わって、
「拙者一人の考えで言えば、かかる披露の仕方は心に染まぬところもござるが、私情をさしはさんでいる場合ではござらぬ。伊賀組の輿望《よぼう》をになって出て参ったこの筏織右衛門、恥をしのんでお頼み申しあげまする。忍法御吟味役さま、どうぞ伊賀組をえらんで下され!」
恐怖にちかい感情のために、刀馬は思わず一刀の柄に手をあてていた。お麻の眼がちらとそれに走ると、笑いの波がきらめいた。
「やってごらんになるか」
細い指が一本まがると、ぷつ、と艪柄にかけた麻の早緒《はやお》が切れた。すうと水の中の艪箆《ろべら》が滴《しずく》を切りつつあがって水面をまわり、三、四間はある艪そのものが繊手に支えられ、構えられた。
「だれが想像するでありましょう。この風にも耐えぬ姿で、新免武蔵直伝の剣をふるおうとは」
「おおっ」
この妖人《ようじん》斬るべし、と思ったわけではない。ただ艪をかまえた女の姿から、名状すべからざる殺気の吹きつけてくるのをおぼえ、反射的に椎ノ葉刀馬は、おめきさけんで抜き討ちの一刀を薙《な》ぎつけていた。
ひらと艪の角度が変わった。艫《とも》にいたお麻は、艪の尖端を舳《みよし》の方に突いた。
「かならず御公儀のお役に立つと信じ申す!」
声は空にあった。お麻は、むなしく風を切った刀馬の一刀とすれちがいに、舟を蹴って舞いあがったのである。艪を支柱にした棒高飛びであった。
「あっ?」
狼狽《ろうばい》しつつ、旋風のように廻った刀馬の一刀は、舳に直立した艪を切断したが、お麻のからだはすでにそこを離れていた。
まだ二間余はあったろう。舟と石垣のあいだの水の面を一羽の鳥みたいに羽搏《はばた》いたその影を、あたりの舟の漁師たちのうち、何人が見たか。それは一瞬のことであり、見ても黒い影としか思われなかったであろう。艪は水中で倒れてしぶきをあげた。
「女だてらに恥ずかしや」
お麻そのものの声に戻って、その楚々たる姿はすでに高い石垣の上にあった。
白日夢を見るかのように、舟の中から茫然と見あげる椎ノ葉刀馬に、お麻はそこにぴたと坐ってひれ伏した。
「筏織右衛門の願い、何とぞおきき入れ下さりますよう。――」
――七日目であった。
どんよりとした雲が江戸の町にひくく垂れこめて、ときどき妙に冷たい風がすうと吹く夕方、椎ノ葉刀馬は、二梃《にちよう》の駕籠《かご》について駿河台へ上っていった。
武家屋敷ばかりのあいだの屈曲する坂を上ると、火消屋敷がある。それに沿う坂を甲賀坂といい、その一帯を甲賀町という。ここに甲賀組の組屋敷があるからである。
右に陰気な火消屋敷の塀のつづいたその甲賀坂の途中に、二人の娘が立っていたが、上って来た二梃の駕籠を見ると、いちど道をよけて、見送って、
「もうし」
と、ひとりが小声で呼んだ。
「あの、お手を。――」
まさかこんな出迎えの者があろうとは予期していなかったが、刀馬ははっとして顔をそちらにむけると、すぐに例の赤い卍の左掌をあげた。
「どうぞ」
二人の娘はさきに立って、シトシトと坂を上り出す。
塀の色が変わった。灰色というより黒ずんで、しみと亀裂《ひび》によごれつくした塀のと或る場所にくぐり戸があった。その前に立ちどまると、
「ここで」
と、娘の一人が言った。
刀馬はうなずいて、駕籠かきに合図した。二梃の駕籠は下ろされた。
刀馬自身がまずその前の駕籠の傍に歩み寄って、垂れをあけて一人の人間をひき出した。眼かくしをされ、うしろ手にくくられた女であった。
そのあいだに娘の一人がくぐり戸をあけ、もう一人は立ち戻って、その女の手をとり、
「こちらはわたしが案内いたしまする、そちらをつれて、ついて来て下されませ」
といった。
刀馬はうしろの駕籠からもう一人の人間を出した。
やはり眼かくしされ、高手籠手に縛りあげられた――しかしこれは浪人らしい大兵の男であった。
「ここで斬るか」
と、その男は言って、髯だらけの中で、口をきゅっとつりあげた。
さきの眼かくしされた女に寄りそって、娘の一人がくぐり戸をくぐったのを見ると、刀馬はあとの眼かくしされた男の縄じりをとった。
男は言った。
「ここはどこじゃ」
刀馬は答えず、駕籠かきたちに、
「常盤橋《ときわばし》に帰ってよし」
と、あごをしゃくった。
常盤橋門外の牢屋敷《ろうやしき》――彼らはそこから来た。大牢の囚人たちのうち、最も腕の立つ男と、最も美しい女の死刑囚をつれて来てくれまいか――というのが、今宵ここで待っているはずの甲賀組の選手百々銭十郎の依頼であったのだ。
むろん、刀馬が勝手に牢からつれ出して来たのではない。土井大炊頭から牢奉行石出|帯刀《たてわき》に指図があってのことだ。
刀馬は浪人者を曳いて入った。背後で、娘の一人が内側からくぐり戸を閉じた。
右は外で見た通りの黒ずんだ塀だが、左は高い生垣《いけがき》になっていて、三尺にも足りぬ細い通路が走っていた。それが、すぐに両側ともに生垣に変わったかと思うと、こんどは左側に塀が移ったりする。
「鳥越《とりごえ》でないことはわかっておるが」
と、浪人はまた言った。鳥越は処刑場である。
「ここはどこじゃ」
「だまれ」
と、刀馬はひくく叱った。
生垣の間の道路は、右に折れたり左に折れたりする。それが、ときには斜めに曲がるところもある。生垣のあちら側は甲賀組の組屋敷になっているのだろうと思うが、密生した杉の葉は全然向こうをうかがわせない。
組屋敷というものは、ほかにも刀馬は知っているし、囲いがたいてい杉の生垣になっているのも知っているが、それがこんな風な植えかたをしてあるのを見るのははじめてであった。彼が甲賀組の組屋敷に入りこんだのは、むろん最初のことである。
下級武士の甲賀組の組屋敷のそれぞれの庭が、そんなに広いわけがない。あっても猫の額《ひたい》ほどのはずだが、この一劃《いつかく》はまるで無人の一国であるかのごとく寂寞《じやくまく》としていた。
迷路になっているのだな、と刀馬は気がついた。もしここで、ふいに生垣を通し、槍《やり》でも突き出されたらひとたまりもあるまい。
――ふっと、そんなことを思い、戦慄《せんりつ》が背を走ると、どれだけどう歩いたか、距離も方角もわからなくなってしまった。
「女がおるな」
と、浪人が言う。
「さっき、女の声がきこえたな」
牢屋敷から眼かくしされたまま駕籠でつれ出されたこの男は、もう一梃の駕籠に女囚が乗せられているのも知らないはずだが、もう敏感にかぎつけたとみえる。いや、げんに鼻をぴくぴくさせ、
「女の匂いがするぞ」
と、舌なめずりした。
「まさか、殺すまえに女を抱かせてくれるつもりではあるまいのう」
にやにやとした。飢えてもいたにちがいないが、いい度胸だ。これは酒乱で、小野道場に通っていた三人の武士を斬ってつかまった仁科《にしな》孫平次という男であった。
刀馬がまた叱りつけようとしたとき、先を女囚とともに歩いていた娘の一人が、小さな木戸をあけた。
「組頭、服部玄斎《はつとりげんさい》の屋敷でございます」
つづいて、刀馬も入った。
思いのほか広い。――組頭の屋敷だからであろう。百坪あまりの庭には、一木一草もなく、ただきのうかきょう打ち込まれたらしい一本の白木の棒が庭の一隅にあるほかは、ただ黒ずんだ荒涼とした土ばかりであった。
向こうに家がある。煤《すす》けた障子をあけ放して、そこに二人の人間がいた。
見ると、肘枕《ひじまくら》した一人の男に、傍に坐った一人の若い女が覆《おお》いかぶさるようにして、じっと唇をかさねているのであった。
五人の男女が庭に入って来たというのに、彼らは膠《にかわ》づけになったようにうごかない。忘我の境に入っているようである。
「――砧《きぬた》さま!」
女囚をつれて入った娘が呼んだ。
男に口づけしていた娘は顔を離したが、なお夢の世界にいるような緩慢な動作であった。
男は肘枕したままこちらを見たが、さして狼狽した風でもなく、これもどこかかったるげに身を起こした。
「おつれしたか」
と、おちついて言った。
「お彩、その男の罪人はあの柱にくくりつけ、お宋は女の罪人をつれて来い。――や、御吟味役さま、ようこそ御入来、お役目御苦労に存じまする。いざまずこちらへ。――」
女たちは、言われる通りにした。
いちばんあとから入った娘は、刀馬から男囚を受け取り、庭の一隅へつれていった。仁科孫平次は、縄をとった者が女に替わったことを知ったらしく、足をふんばって娘の方へ顔をむけ、何やらいいかけたが、いきなりその顔を縄じりでぴしいっとたたかれた。眼かくしされた部分をのぞき、顔に斜めに、みるみる赤黒いすじがふくれあがった。
「ゆきゃ」
おそらくそれがお彩という娘であろう。愛くるしい顔にも似ず凜烈《りんれつ》たる調子で言って、もういちど牛の尻でもたたくように縄を鳴らして、孫平次を追い立てた。
「ち、ちいっ」
例の白木の棒のまえで、孫平次がまた反抗しようとすると、ふたたび顔面に縄じりが音をたてた。ひるむあいだに、柱に縄を巻きつける。二重ばかりに縛ったのが、どういうこつがあったのか、いかに大兵の孫平次がもがいても、彼は柱から離れられなくなってしまった。
それからお彩は、はたはたと風鳥みたいに座敷の方へ駈けていった。
このあいだお宋は、女囚を曳いて座敷にあがり、それを縁側に坐らせると、男の傍にいざり寄った。追っていったお彩がいざり寄ったのも同時である。
「こうれ、大事なお役目のお方の前であるぞ」
「だって、いま、砧さまに。――」
まるでかつえるように左右から寄せた二つの顔に、男はけだるい苦笑をただよわせた唇を、まず右へ、それから左へまわして、公平に接吻してやった。
刀馬だけ、庭の入り口に、ぼうとして立ちすくんでいる。
「失礼つかまつった」
と、男は言った。
「まず、こちらへ。――」
さすがに、坐りなおして、
「甲賀組の百々銭十郎でござりまする」
月代《さかやき》をのばしている。長い顔だ。しかし、ぞっとするほどの美男であった。
あぶら壺からぬけ出して来たような、という形容がある。細面なのに、みずみずして――というより、何かが垂れるような感じで、どこかグニャグニャして、頽廃《たいはい》的な翳のある男であった。
刀馬は歩き出した。
「おまえは病気か」
座敷にあがって、刀馬はきいた。
きいたのは、この百々銭十郎という男の顔の蒼白《あおじろ》さ、声の力なさもさることながら、月代をのばして、平生出仕しているとも見えない様子からだが、すぐそのあとで、こやつ、からだよりも心を病んでいるのではないか――と疑った。
「は。……左様で」
と、銭十郎はものうげに言った。
そう言いながら、両手で、三人の娘の肩を撫でたり、もものあたりをさすったりしている。その指の、武士とは思えない細さ、しなやかさ、そしてまたその切れながの眼のとろんとした色っぽさ。
それにまた三方からからみつく娘たちはいったいどうしたことだ。こちらの眼はおろか、おたがいを憚《はば》かっているとも見えぬ。恥も外聞も知らぬというより、かつえて、耐えかねて、当人たちもどうしようもないかに見える。それにしても、そのうちの二人は、先刻案内してくる途中、むしろふつうの娘よりも凜として、なるほど甲賀組――の娘と思わせるものがあったのに。
心が病んでいるのは、百々銭十郎ばかりでなく、この娘たちも同様ではあるまいか。――そう思うと、この陰惨な屋敷と、この傍若無人な痴態との不自然な対照の裂け目から、妖しい瘴気《しようき》のごときものがもうもうとたちこめているようだ。
気のせいか、このとき刀馬は、この場にむうっと異様な匂いがただよっているのを感覚した。これはなんの匂いだろう?――そうだ、栗《くり》の花の香りだ。しかし、見まわしたところ、栗の木などどこにも見えないが。
「なんの病気じゃ」
「全身の血が精液となるのではないか。――」
「なに?」
「――と、思われるような病でござる」
「…………」
「たまって来まするとな」
弱々しく笑って、ほっとため息をつく。
「ごらんなされ、この娘たち。いまの拙者にかように恋い慕うのもすべてこのため。いや、男のあなたさまにはおわかりにはなるまいが、女にとっては蝶が花の蜜に吸い寄せられるのも同然。……」
男にはわからぬどころではない。そういって銭十郎が吐息をつくたびに、例の栗の花の匂いがいっそう濃く、ふうっとひろがる。
「や、言いおくれました。御紹介いたします。これが当甲賀組組頭服部玄斎の孫娘砧どの」
最初からここにいたみるからに凄艶《せいえん》な娘であった。
「御案内申しあげたのが、砧どののいとこ[#「いとこ」に傍点]にあたるお宋、お彩。姉妹でござる」
豊艶、可憐《かれん》のちがいはあるが、そう言われてみれば、どこか似た美少女たちだ。紹介されても、べつに刀馬にあらためて挨拶もせず、ひたすら百々銭十郎といちゃついて、他を顧みるいとまなし。――
「御覧のごとき美しき娘たち、これに反応せぬは、人間ではない。拙者、愛しておるのです。三人、いずれ劣らず。――」
と、銭十郎は言う。めんめんとして、かきくどくような調子だ。
「それどころか、からだがこうなると、相手はだれであろうと、ただただ女が欲しゅうなる。たまったものを、どっと噴出させとうなる。――」
赤い、柔らかい唇がぬれて、あごへねっとりとしたたった。乳みたいな色をしたよだれであった。
「それができぬ」
「――なぜじゃ」
と、刀馬は言った。好奇心というより、呆《あき》れて、しようことなしの問いだ。
「で、拙者は耐えておりまする。やむなく、この娘たちもこの程度の愛撫だけで耐えておりまする」
百々銭十郎は、刀馬の問いをそらした。
「それに耐えるのは、拙者が忍者なればこそ。またこの娘たちも甲賀組の者なればこそ」
「忍者。――おまえのからだがそうなるというのも、忍法の一つというのか」
「左様。忍法|白朽葉《しろくちば》。――どうして白朽葉というのか、拙者も知らぬ。ただ甲賀相伝の術でして、術というより当人の体質ですな。とにかく首領服部玄斎から教えられてこれを体得したのは百々銭十郎だけ」
「…………」
「ひょっとしたら遺伝かも知れませぬ。そのむかし甲賀に百々という忍びの一族があり、伊賀崎道順なる伊賀者に襲われて敗れたので、道順が、沢山《さわやま》に百々《どど》と鳴る雷《いかずち》も、いがさき入れば落ちにけるかな、と誇って詠《よ》んだという詩があります。甲賀にとってあまり名誉な話ではござらぬが、拙者、その子孫かも知れませぬ」
「…………」
「それはともかく、体得したというより、体得させられたといった方が正しいかも知れませぬ。このような忍者とされたのが、拙者はむしろ恨めしい。なぜなら、かかるからだとなったときは、ゆきちがう女も吸い寄せるゆえ、おちおちと他出もできぬ。だから、病気という届けを出して、拙者はかくのごとくに垂れこめております。これは、じぶんのからだをじぶんの檻《おり》としているにひとしい」
「…………」
「首領玄斎もふびんに思うて、このようにおのれの娘御をはじめ、拙者が好きな娘たちを以て慰撫してくれるのに遺憾がない。また月にいちど、拙者の気が狂いそうになると、どこからか女を拾うて来て、拙者の――男の経血ともいうべきものを吐かしてくれる」
言うことに、ちらっちらっといぶかしい点があったが、この告白全体がそもそもあまりに奇怪をきわめているので、刀馬は再度の疑問の声をさしはさまず、黙って相手の顔を見まもっていた。
「かようにこの娘たちは慰めてはくれまするが、さればとて、これ以上、この娘たちをどうするかということは、かたい禁制になっておるのです。きびしい甲賀組の掟《おきて》でござる」
べつに怒るでもなく、恨むでもなく、けだるそうに彼は言う。――
「愛する娘たちを相手に思いをはらすことができぬ。これは拙者にとって生殺しの拷問でござる。この娘たちにとっても同様の拷問でござろう。ああ、なにゆえわしは甲賀組などに生を享《う》けたのか、しかもその中のただ一人、白朽葉の忍者などになったのか。……思うてここに至れば、拙者天を仰いで落涙することもあります」
実際に銭十郎の切れながの眼がうるんだ。うるんで、いっそう甘ったるくなった。口のあたりもまたぬれ、声もいよいよ甘ったるくなって、
「しかるに、このたび、御大老の御内意を承り――」
骨のないような手で娘たちを愛撫しながら言った。
「首領玄斎が申すには、銭十郎よ、うぬを甲賀忍法に開眼《かいげん》させ、雌伏《しふく》させて来た意味はきょうにあり、いまこそあらゆる苦労も辛抱も、淡雪《あわゆき》と消える春が来た。うぬをおいて甲賀の選手はない。――」
「…………」
「かくていまや甲賀組屋敷の全員、声をのみ耳をそばだて、今日のこの屋敷の首尾いかにと見まもっております」
こういうと、一帯がしーんとしているようだが――事実、ここに入って来たときは、無人の一国であるかのように思われたのだが――その後、先刻から庭の空気は大叫喚《だいきようかん》にひっ裂かれていた。それは一つの口から発せられた。
「やいっ、おれをどうする気だ?」
「ここはどこだ」
「おれを斬るつもりではないか」
「女がおるな、斬るまえに、いちど女を抱かせてくれえ」
「せめて、女をひと目でも見たい。この眼かくしをとってくれえ」
庭の隅の白木の柱に縛りつけられた仁科孫平次が、その柱も地面からぬきあげんばかりにゆさぶって吼《ほ》えているのであった。
「神経にさわる声だな」
と、銭十郎は繊細な皺《しわ》を白いひたいに微《かす》かにきざんだが、言葉をつづける。
「で、これより甲賀忍法をお見せいたさねばなりませぬ。伊賀や根来におくれをとってはならぬ――とは言うものの、勝ったとて、拙者の入った檻がとり払われるわけでなし――いや、勝てばむしろその檻が鉄となるのはきまったこと、思えば虚《むな》しい、憂鬱な忍法争いでござるなあ」
選手が試合前に表白する弁としては、気勢のあがらないことおびただしい。
が、これから甲賀忍法を見せると? すると、いまいった「白朽葉」とやらは、その前奏ででもあったのか?
「ああ、うるさい」
と、彼は庭の咆哮《ほうこう》にまた眉をしかめて、
「あとはどうなるか、ともあれきょうの仕事を片づけることにしよう。あの声をいつまでもきいておっては、気が変になる」
それから、やさしく三人の娘を払いのけた。
「はじめるぞ、忍法|赤朽葉《あかくちば》。――」
銭十郎に合図されて、娘たちは立った。三人、それまでの上気していた頬から、さっと血の気がひいていた。
砧は奥に入り、一本の大刀を抱えて出て来た。お宋とお彩は、縁側にひきすえられた女囚の眼かくしをとり、縄をときはじめた。
「――ほ、いちばん美しい女囚をと申し込みましたが、いかにも美しい。――」
と、銭十郎の眼が糸みたいにほそくなった。
「拙者、先刻、女ならばだれでもいい――という心境になると申しましたが、やはり美しい方がよろしい。いや、これで拙者なかなかその点では常人以上に美食の内容にきびしいところがありましてね。あれならば、結構でござる。念のためおたずねしますが、素姓と罪状は何でござりましょう」
「牢できいて来たところでは、主家筋の男の無態な横恋慕をふせぐために、思わず殺害してしまった町人の女房だときいたが。――」
そう答えながら、刀馬は悔いていた。いま、はじめて悔いたわけではない。牢屋敷からこの女囚を受け取り、その罪状をきいたときから、この女をきょうの役に立てるのではなかった、と動揺していたのだ。
主家筋の者を殺害する、これはその動機がいかなるものであっても死罪はまぬかれぬ時代だ。とはいうものの、それが相手の不倫にもとづく場合、この女を憎む者があろうか。ましてや、見るからに貞節で哀艶な若女房であった。
しかし、この女ならば他の女と替えろ、という権限は刀馬に与えられていなかった。それに刀馬は、きょうこの女が甲賀の忍者にいかなる役目を果たさせられることになるのか、まったく見当もつかなかったのだ。
漠《ばく》たる不安は、いま百々銭十郎の口から出た「忍法赤朽葉」とか「美食の内容」とかいうぶきみな言葉でいよいよ現実的なものになった。
とはいえ、先刻から見る銭十郎のいかにもものうげな、病人じみた様子から、まさかそれほど手荒なまねはすまい。――
「来いよ、来い。――」
銭十郎は例の甘ったるい声を出し、若女房をまねいた。
むしろこのとき刀馬は、百々銭十郎よりこの女囚の方に烈《はげ》しい不安をおぼえた。さっき眼かくしされていたときから気づいていたことだ。彼女は唇を半びらきにし、はっはっと肩で息をついていた。
いま、銭十郎に手まねきされて、彼女はじりっと膝でにじり出た。牢を出て以来蒼白かった唇にも頬にもぽっと赤味がさし、眼はうるんだように銭十郎に吸いつけられている。
「来いよ、来い。――」
銭十郎はまたそう猫なで声で言った。
「いや、ここは御査察役さまのおん席、わしの方がそちらにゆこう」
と、ふらりと立ちあがり、ちょっと庭の方を見た。
三人の娘はすでに庭に下りて、仁科孫平次の傍へ歩み寄っていった。砧は袖で大刀をかかえたままだ。お宋が柱のうしろにまわり、懐剣がひらめくと、孫平次の眼かくしがはらりとおちた。
――いちど洞穴《ほらあな》からひき出された狼《おおかみ》みたいに眼をぱちぱちさせた孫平次は、すぐまわりを見まわし、
「どこだ、ここは?」
と、いよいよ判断に苦しむ声を出し、首ねじむけて、じぶんの縛りつけられた柱の後方に坐っている三人の娘をちらっと見たが、すぐに座敷の方へ顔をむけて、
「あ、あれはなんだ?」
と、さけんだ。
眼をかっとむき出し、首をつき出して、じいっと彼はその方角を眺めていたが、やがて以前に数倍する猛烈さで身をもがきはじめた。
「なにをする、あの男は?」
と、わめき、
「こ、これはあまりな。――」
と、泡をふき、
「お、おれにもくれ。その女を、あとでくれえ」
と、狂的な、というより動物そのもののようなうなり声を発した。
当然である。座敷の刀馬もまたおのれの眼をうたがっている。――百々銭十郎はそこの縁側で、まさに衆人環視の中で、若女房を犯し出したのである。
なんたることだ、それに対して女房は抗《あらが》うどころか、これも狂乱のていで彼にからみつき、吸いつき、恥も外聞もない肢態で応《こた》えはじめたのであった。曾《かつ》てじぶんの貞操をまもるために、不倫なふるまいに出た男に死を以て争い、これを殺害したという女が。――息か、汗か、なんの匂いか、そこから吐き気をもよおすほどの濃厚な例の栗の花の香りがひろがり出した。
「いちばん腕の立つ男をと注文しておいたが」
と、銭十郎が言う。
「あの男は何をして死罪となったのでござる」
数分おいて、刀馬の方が息をおさえて答えた。
「神田の居酒屋で酩酊《めいてい》して、三人の浪人者を斬ったという。――」
「それだけのことですか」
「牢役人にきいてはじめて知ったことだが、斬られた三人は偶然わしも知っている男たちだ。九段下の小野道場で稽古中なのを見たことがあるが、あの道場に出入りしていた連中で、わしの見るところでは腕の立つこと、旗本たちでも互角に立ち合える者はそうざらにはあるまい。それをあの男は、ただ一太刀ずつで斬り伏せたという。――」
じぶんの惑乱ぶりをかくすために刀馬は口をきいているのだが、ともすればじぶんが何を言っているのかわからないほどであった。
「ために、数十人の捕方が出て、突棒《つくぼう》、刺股《さすまた》、袖《そで》がらみなど根こそぎ持ち出してやっとつかまえたというあばれ者だ」
「――よし!」
百々銭十郎は、女のからだの上から身を起こした。腕をまわして、傍においてあったおのれの一刀をつかみ、
「その男の縄を切れ」
と、庭にあごをしゃくった。
一人はくびうなだれ、一人は眼をとじ、一人は凝視《ぎようし》しているが歯をくいしばって――三人三様、いずれも坐った大地が熱くなって、それにじっと耐えぬいているかに見えた娘たちが、夢からさめたように立ちあがった。
砧が柱の前にまわって、かかえていた大刀を地に置いた。お宋の懐剣がふたたびひらめくと、柱に孫平次を縛っていた縄が切れ落ちた。そのまま三人は背を見せて、小走りに駈け出し、庭の隅の木戸から姿を消してゆく。
仁科孫平次は、まさに鎖を切られたけだもののごとく猛然と柱から飛び離れ、地上の大刀をひっつかみ、抜くまも遅しと鞘《さや》を宙天に振り飛ばした。いちど、木戸から逃げる娘たちをふりかえったが、すぐに刀身をひっさげたまま座敷の方へ駈けて来た。
「やいっ」
と、吼えた。いちど立ちどまって、
「ここがどこかは知らぬ。うぬらの名も素姓も知らぬ。なんでおれをこんな目に逢わせたのかも知らぬ。それは、あとできく。――まず、その女をよこせ」
まさに狂犬の相貌だ。歯をかみ鳴らす音さえまじえて、
「おれの眼の前で、な、な、なんたる傍若無人な――が、その女、おれに抱かせてくれればゆるしてやる。じゃまをするなら、うぬが何者であろうとたたっ斬ってくれるぞ。そこどけ!」
そして彼はふたたび風をまいて駈けて来ようとしたが、またぴたと立ちどまった。
「き、きさま。……」
うめいたきり、あとは声にならない。
対象物の異様な雰囲気に思わず足が釘《くぎ》づけになったのだ。刀馬も片ひざ立てたまま、息をのんでいた。
百々銭十郎の変化はそれ以前から起こっていた。女を犯しつつあったときから。
顔が変わったわけではない。からだが変わったわけではない。――が、あの何かが垂れそうな、みずみずした、グニャグニャした印象はかき消えている。全身のしなやかさは失われていないのに、鋭く骨ばって来たようで、その顔とからだから放射されるのは、名状しがたい凄惨の気であった。
「斬る」
と、言った。
いままでと同じ低声《こごえ》ながら、あのかきくどくようなけだるい語韻は消えて、ぞっとするような乾いたひびきを発した。彼の手にしずかに白刃が抜きはらわれた。
馬乗りになった彼の下で、女はなおも恍惚《こうこつ》状態にあった。帯のあたりにだけきものがまつわりついているといった姿になって、眼は見ひらいているが、霞《かすみ》の中に星でも見ているような表情だ。その腰のあたりから――あれは何か――おびただしい白い乳のようなものがあふれて、ながれ出して、縁側から地上へしたたりおちているようであった。
銭十郎の刀身がゆるやかに回転した。そして彼は、大きく起伏している真っ白な女の乳房の乳くびの一つをすうと水平に切断したのである。
「あーっ」
さけんだのは、女よりも刀馬と仁科孫平次であった。
細い真っ赤な血の噴水がたちのぼった。銭十郎は斜めにした刀身をそれにあてた。血は刀身にしぶきをちらして、雨のごとく女自身の胸や腹にふりおちる。
悲鳴すらたてられず、苦悶する女にまたがったまま、それを両ひざでおさえつけて、この作業を見まもっている百々銭十郎は、まるで炉《ろ》で焼いた刀を調べている刀鍛冶《かたなかじ》のように厳粛な姿であった。
「――に、人非人!」
刀馬がそうさけぶよりさきに、孫平次が絶叫した。酒乱で三人を斬り殺したこの男が、憤怒に燃えあがり、地ひびきたてて馳《は》せ寄って来た。
百々銭十郎はちらと刀馬を見、ぎゅっと唇をつりあげた。笑ったのである。
「見ていなされ、右の袈裟《けさ》。――」
そして彼は、びゅっとうしろなぐりにその赤い一刀を薙ぎはらった。
まだ、七、八尺の距離はあったのに、仁科孫平次の右肩から左胸へかけて、斜めに赤いすじが走った。血だ。いま血ぬられた刀身から飛んだ血だ。
――と、刀馬は見たのに、まるで鞭打《むちう》たれたように仁科孫平次は棒立ちになったのである。その悪鬼のごとき形相に、凄じい驚愕と苦痛の痙攣《けいれん》が走った。
次の瞬間、いまの赤いすじから、べつの新しい、たしかに孫平次自身のものとしか思えないおびただしい血がながれ出して、彼は巨大な赤い芋虫みたいにからだをまるくして地上にころがり、二、三度くるくると回ると、そのままうごかなくなってしまった。
「斬られたも同然。……死んだでござろうが」
銭十郎はふりむきもせずに言った。
片腕はいま刀身をうしろに薙ぎはらったままの構えである。こんな場合に刀馬が、意志に反して、
「……ああ、きれい」と心中にうめき声をたてたほど技神に入った姿勢であった。
「忍法赤朽葉。……」
うっとりと銭十郎はつぶやいた。
「おれの刃からたばしる血、あれは女の血でござるがな、ふしぎなことに精臭がいたす。むべなり、おれの体内を満たしていた精汁はそっくり女の体内に移ったのでござるから。……おれの精汁は出つくし、吐きつくし、涸《か》れつくした。――寒い。――」
陶酔したような声と反対に、骨ばった感じのからだが、ぶるぶると小きざみにふるえていた。
「あの血の走るところ、その線に従って、相手の肉が切り裂かれる。梨《なし》割り、胴斬り、車斬り、輪斬り、袈裟斬り、唐竹《からたけ》割り、思いのまま、ひょっとしたら円《まる》くも蛇行《だこう》形にも切り裂けるかも知れぬて。……この赤朽葉の一剣に刃向かえる人間がこの世にあろうか」
さしも、柳生道場で麒麟児《きりんじ》とうたわれる椎ノ葉刀馬も戦慄せずにはいられなかった。曾て、「人間の修行の及ぶ以上の術は信じない」と言い切った彼も、それを超える魔剣の存在することをいま現実にじぶんの眼で見たのである。
「寒い。――」
銭十郎はそう言って、身を伏せた。
何をするかと見ていると、女の顔にじぶんの顔を重ねたのだ。乳くびの一つを斬られて、わななきつづける女の唇に。
「かかる際の女の息の熱さ、唇の肉のうごめき。……これ以上の醍醐味《だいごみ》はまたとござらぬな」
しゃぶったり、かんだり、完全にふたをして数秒息の根をとめたり――執拗に、瀕死の女の口をおもちゃにしながら、彼は言う。
「無惨と言われるか。男は、精汁を吐きつくすと、身勝手なもので、急に女に対して冷とうなるものでな。これはふつうの男の生理じゃが、おれの場合は、たしかに特別に残酷になる。いつもこのように、なぶり殺しにせずには気がすまぬ。いままで、何人、こうやって殺したか。……甲賀の百々銭十郎と交わった女に呪《のろ》いあれ」
これは、そも人間であろうか。
「さればおれは、あの甲賀の娘たちを、食べたいほどいとしいと思いつつ、あれ以上、どうにもならぬ。拙者が耐え、あの娘たちが耐えている意味がこれでおわかりか。寒い。――」
かちかちと歯の鳴る音がして、
「女ばかりではない。男でも、だれでも、人を斬りたい、殺したい。――何もあの、血を以て人を斬る忍法赤朽葉まで持ち出さずとも、精汁が空になったときのこの銭十郎の剣法に、まともに立ち合える者が、そうざらにあろうとは思われぬ。――腎虚《じんきよ》の百々銭十郎こそ恐るべし」
と、じぶんで言って、ニヤリとした。
「やがて、一滴、二滴、また三滴、それがたまってくる。それにつれて、拙者はやさしゅうなる。鼻の下が長うなる。あの娘たちがそばにもどってくる。が、それが体内に充満し、血管すらも白濁するほどになると、また拙者の例の地獄がはじまるのです」
刀馬は、先刻娘たちがあわてて庭から姿を消したのを、刀を与えた仁科孫平次を怖れてのことだと思っていたが、その実この百々銭十郎の狂剣から身をまもるためであったことをいま知ったのである。
「まだたまらぬ。まだたまらぬ。――銭十郎は空だ」
と、言った。歯ばかりでなく、からだじゅうの骨がかたかたと鳴るような感じであった。
「斬りたい。人を斬りたい。――」
ぎらと刀馬を見た眼は、甚だ危険なものであった。
「おやりになるか」
と、言ったのが剣法のことだとはすぐに察せられた。
「お坐りなされたかたちだけでわかる。相当なものですな」
それから、おのれの意志を他にそらすがごとく、
「それにしても、甲賀、伊賀、根来の三組、選手を出して、一人一人、別個に素人《しろうと》に査察させるなどということは、大炊頭さまらしいまわりくどさ、というよりばかげたやりかたじゃ。いっそ、その三人をお互いに殺し合いさせた方が単刀直入」
百々銭十郎はその言葉自身にみずから誘発されて、
「伊賀、根来など、忍法というもおかしや」
と、嘲笑した。
「御公儀に眼がないのも或いは当然、何しろ将軍家が暗愚でおわすからなあ。きけば、どもりで、ひとなみにお口もきけぬお方じゃと申すではござらぬか」
刀馬はきっとなった。
「上様は先代さまの御嫡男、本来ならその御相続になんの風波の起こるべきはずはござらぬのに、おん弟君の駿河大納言さまと、いずれを御三代さまといたすべきか。長年のあいだ大いにもめた。――と、もれ承る。いかに当上様がばかであるかがわかる。――」
「銭十郎!」
と、刀馬は叱咤《しつた》した。全身が鳥肌になる思いであった。彼は現将軍に対してこれほど思い切って辛辣な罵倒をきいたことがない。
「上様が将軍家をおつぎになるやいなや、三百諸侯をお城に呼ばれ、二代まではその方どもと同格であったかもしれぬが、自分からは生まれながらの天下取り、しかれば向後《きようこう》はみなのものを家来としてとり扱うから左様心得よ。不承知の者はただちに国へ帰って謀叛《むほん》の支度をいたせ――と宣言なされたという話。その他あれこれの御名君咄《ごめいくんばなし》、どれもが土井大炊頭さまという猿廻《さるまわ》しに操られた芸当と申すではござらぬか」
銭十郎は平気で言う。――依然として、女に馬乗りになったままである。
「それというのも、大炊頭さまが御実権をにぎられんがための御演出。御大老にとっては、ばかの将軍の方がやりようござるからな。――」
「だまれ、銭十郎」
百々銭十郎はこのときまたゆっくりと刀身をまわし、まるでいちご[#「いちご」に傍点]でも摘《つ》みとるようにいとも手軽に、女のもう一方の乳房の乳首をぷつと切りはなした。
「あうっ」
弓なりにそり返る女の腹の上で、彼のからだがかすかに浮きあがった。ふたたび――先刻よりは力弱く――噴きあがる血潮をまた彼はその刃に受けている。平然としてつづけた。
「その見地からみると、御幼時より御優秀という評判のたかい駿河大納言さまが将軍家となられると甚だ以て都合がわるい。――」
われを忘れて椎ノ葉刀馬は一刀をつかんでいた。
われを忘れて? いや、いまの大それた将軍大老の批判にかっとなったばかりではない。さっきからのこの男の所業を見ていて、刀馬の心には一つの決意がきざしはじめていたのだ。
この甲賀者、人間ではない。まさに、剣鬼だ。このような男を御公儀に飼っておくのはおためにならぬ。
斬れと大炊頭から命令されていたわけではなかった。むしろそれは主命に叛《そむ》くことになるかも知れなかった。しかし、斬ったとて必ず殿は御納得になるであろう。この剣鬼、幕臣として人間として、いま斬らずんばあるべからず。――
その刀馬の未発の態勢を、百々銭十郎はぎらとにらんだ。
「かくのごとく暗愚なる将軍家、かくのごとく老獪《ろうかい》なる御大老のための忍者親衛隊、それに選ばれんがためにかくのごとくあくせくする。――拙者個人の本音《ほんね》を吐けば、ばかばかしくもあり、百々銭十郎、少なからず虚無的とならざるを得んが――」
「言うな、銭十郎、それ以上上様と大炊頭さまを悪口するに於ては、そのままに捨ておかぬぞ!」
と、刀馬はさけんだが、銭十郎の眼に射すくめられて、左手につかんだ一刀に右掌をあてかねている。――
「……と、拙者、挑発して」
百々銭十郎のきれながの眼に、乾いた炎のような笑いがゆれた。
「あなたさまはそれに乗せられた」
「なに?」
「実は拙者、先刻から迷っておるのです。――もとより御大老の査察役たるあなたさまを斬るわけにはゆかぬ。つくづくとあなたさまを見ていると、斬りたい。あきらかに修行をつまれた方と見えるだけに、き、き、斬りたい。――」
舌がもつれて、まるで酔っぱらっているようだ。
「いま拙者の申したこと、必ずしも心にもないことではないが、しかし、それよりもあなたさまを挑発して、あなたさまと刃を交えたい衝動のためであった。が――斬れば甲賀組のおとり潰しは必至、なんのためにおれが甲賀の選手となったか、わけがわからない。――」
「やりたいようにやってみるがよい」
刀馬はついにはたと柄をつかんだ。
「わしもうぬのような人非人は斬らずにはおかぬ」
「ああ」
と、銭十郎は長嘆した。長嘆しつつ、その刀身がジリジリと右肩に――あてられ、垂直に、つまり八双の構えにあげられてゆく。
「やむを得ぬ。これ百々銭十郎の業《ごう》であり、銭十郎を選手とした甲賀組の天命。――いや、いや、いや。――」
彼はくびをふった。
「査察役を斬るのも、或るいは忍び組の誉れかも知れぬ。大炊頭さまなら、それをお認め下さるかも知れぬ。――斬りようによっては」
ついに八双の構えは完全なものとなった。
まっすぐに立てられた刀身は、朱色の光芒《こうぼう》を発している。――女の血だ。意志と衝動との相剋《そうこく》に迷いつつ、彼はすでに一刀を血塗り、忍法赤朽葉の準備をととのえ終わっていたのだ。
椎ノ葉刀馬は片膝ついて、一刀の柄に手をかけて、一触即発の姿勢をとっている。
が、彼は、相手の血刃《けつじん》のぶきみさもさることながら、その構えそのものに――全身から放射される殺気のもの凄さに、先刻きいた「忍法赤朽葉をまたずとも、この銭十郎にまともに立ち合える者がそうざらにあろうとは思われぬ」という豪語が決していつわりではないことを知った。
彼のひたいにはあぶら汗がにじみ出した。
二人の間隔は約一間。その空気が一瞬にしーんと氷結したようである。女は流血のためにすでに絶命したか、もうピクリともうごかなかった。
「寒い。――」
と、銭十郎がうめいた。
「あなたさまの左腕をな。横にではなく縦に――肩のつけねから中指のさきまで二つに裂いて御覧に入れる」
ぴいっとその剣尖《けんせん》が赤い鶺鴒《せきれい》の尾みたいに動きかけるのを見て、その刹那《せつな》、刀馬は片膝立てたまま、ぱっと三尺もとびずさった。真うしろではなく、左後方へ。
逃げるつもりはなく、ただその剣尖から吹きつけてくる例の血を避けて、避けた位置から猛然と抜き討とうとしたのだが、
「……あっ」
ふいに、どうと刀馬は横ざまにころがっていた。なんたる不覚、そこに銭十郎の煙草盆が残されていたのを忘れていたのだ。
間髪を入れず、百々銭十郎のからだが浮きあがり、赤い刀身がきらめいた。一瞬まえ、それが動きかけたと見たのは刀馬の錯覚であった。
――が、女体の上から躍りかかろうとした銭十郎は、立って、からだをのばしきった姿勢のまま、その一刀を宙にとめていた。びしいっと音をたてたのは、あらぬ方角の壁へ一条の筋となって散りかかった血痕《けつこん》である。
「……止めた」
と、銭十郎は言った。スイングして、廻る直前バットをとめた打者さながらの姿だ。
はね返るように身を起こした椎ノ葉刀馬は、すでにこれも鯉口《こいぐち》から五、六寸も刀身を見せながら、ぴたとその手をとめて、
「な、なぜだ?……」
と、さけんだ。血の洗礼は浴びなかったのに、彼はすでに肩から左腕、中指へかけてキーンと痛みの走る幻覚すらおぼえていたのだ。
「銭十郎、なぜ止めた!」
「あなたさまの姿勢がわるい。――」
と、銭十郎は言った。
「斬れば、むろん斬れた。ただし、左腕を縦に断つということはできなんだでござろう。いまそこでそのようなかたちで転倒されるとは、拙者も予想外でしたからな。……そこが気にくわぬ。思いのまま、きれいに斬る、ということが拙者の望みで」
土気色になっていた刀馬の顔に、かっと血潮がのぼった。斬られたよりも、ころがったよりも烈しい恥辱感が彼をとらえた。
「きれいにやる、ということが甲賀流忍法の――というより拙者の芸でござってな。拙者、これでも忍法に於ける芸術家のつもりです」
それから、ひとりごとのようにつぶやいた。
「その芸がうまくゆかぬときは――むしろ敗れるにしかず、とさえ思っておる。この信条、或いは百々銭十郎のいのちとりになるかもしれぬて。……」
くるっとその恐るべき刀身を背にまわし、銭十郎は乾いたひかりを放つ眼で刀馬を見下ろし、歯ぎしりしながら言った。
「こ、甲賀忍法はとくと御覧になったでござろう。おたがいのお役目はこれで終わった。早くおひきあげ下されい。拙者からお願い申す。一刻も早く――さ、さ、さもなければ。――」
……さて、椎ノ葉刀馬は迷った。
闇中《あんちゆう》でも敵の殺気あるところ必ずこれを避ける忍法「暗剣殺」と、おのれの唾液を塗って女人の肌を性器の感覚細胞そのものに変える忍法「ぬれ桜」をあやつる、根来組の虫籠右陣。
交合により、その相手の女体に乗り移り、時と場合によっては宮本武蔵直伝の剣をふるうことを辞さぬ忍法「任意車」を廻す、伊賀組の筏織右衛門。
日とともに全身精液に満ちあふれんばかりとなって女人を悩乱させる忍法「白朽葉」を体得し、ひとたびこれを排出すれば剣鬼と変じ、かつそれを注いだ女体の血を以て相手を斬る忍法「赤朽葉」をふるう、甲賀組の百々銭十郎。
くりかえすようだが、椎ノ葉刀馬は、曾てじぶんが口にした「人間の修行の及ぶ以上の術は信じない」という言葉に反し、土井大炊頭が「いまやその三派の忍法は、人間の修行の及ぶところを超えているときく」という言葉通りの事実が、この世に実在することを思い知らされたのである。
実に驚倒すべきわざであった。――そも彼ら三派のうち、いずれを選ぶべきか?
刀馬は迷った。迷って、刀馬は、主君大炊頭の、
「彼らの技術よりも心術を見よ。それはお上《かみ》に対したてまつり、おまえに忠節の心あれば見わけのつくこと」
と言った声を思い出した。
彼らの心術? 彼らの忠節?
いずれも雲をつかむようなところがあるが、しかし――ともかく恥も外聞もなく、どうあってもこのたびの選抜にあずかりたいというしぐさを見せたのは、根来組の虫籠右陣であった。あれならば、たとえいかなる「無道の君」に対しても、犬馬の労をいとわぬであろう。これに対して、伊賀組の筏織右衛門は、どこか懐疑し、煩悶《はんもん》しているところがある。甲賀組の百々銭十郎にいたっては、お上に対して身の毛もよだつ批判を加えた。とはいえ、彼らとてもやはり選抜にあずかりたいであろうことは、こんどの査察に選手となったことでも否定はできない。
漠たる第一印象では、虫籠右陣は陽性にみえてどこか奸悪のところがあり、筏織右衛門はあのような忍法をあやつるとは信じられぬほど沈毅朴篤な人柄に見えた。百々銭十郎となると、これはもう正常の人間とは思われない。刀馬の判断を絶する。
結局、あれこれ勘案して、刀馬の意中には、一人の人間が色濃く浮かびあがった。
――しかし、さらに再考して、彼は主君に対する報告に、おのれの好悪の感情を加えることを自制した。
忍び組査察の命令を受けてから十日目、刀馬は土井大炊頭に復命した。私情で彩《いろど》ることをかたく自制しつつ――ただ彼らの忍法を説明するときにその用語に苦しみつつ――淡々として報告した。
「大儀であった」
長々ときいたあげく、黒猫の頭をなでながら大炊頭がうなずいて言ったのは、ただこの一語だけであった。
驚きもしない。首もかしげない。それっきり、何も言わない。――ただゆっくりと微笑しただけである。
刀馬は拍子ぬけがした。あの忍者たちの忍法よりも、もっと狐につままれた感じがした。
しかし彼は、押して主君の感想や意見をきこうとするのはやめた。こんどの命令を下すときにも大炊頭が、実にさりげなく、何でもない品物の鑑別でもさせるような態度であったことを思い出したのだ。
大老土井大炊頭はそういう人物であった。
こんな話がある。
大炊頭のところへ、はじめて老職を命ぜられた人が来て、大体の心得をきいた。これに対して大炊頭は、「なに、丸い棒で四角な器をかきまわすようにしておられればよろしい」と言った。老職ともあれば、あまり小事に拘泥するな、と教えたのである。
また、のちに彼の後継者となった松平|伊豆守《いずのかみ》信綱が評したという。「私は智慧《ちえ》伊豆などと言われるが、さしあたって思いついた以上に、あとで思案して新しい工夫《くふう》の出たためしがない。それにくらべると大炊頭どのは容易に決せられず、日を経てだんだんよい御思慮を出されてくる。大炊頭どのこそ真の智者と言うべきだろう」
この老人は、まことに自若として、茫洋《ぼうよう》として、また駘蕩《たいとう》としていた。
刀馬がその忍び組査察の結果についてきいたのは、夏になってからのことだ。それも、どんなきっかけで、大炊頭がそう教えてくれたのか忘れてしまったほどの雑務の中であった。
「ああ、それは、甲賀組にきめた」
刀馬は鈍い衝撃をおぼえた。
なぜならそれは彼の最も以外とする選抜であったからだ。いったい大炊頭さまは、いかなるおめがねであれを御採用なされたのか?
刀馬はあの報告の際、じぶんの感情を殺したのがたたったのかと、ひそかに悔いたくらいであった。
――しかし、その後きいたところによると、甲賀組採用とはいっても、甲賀組がどうとりたてられたという話もない。伊賀組根来組が廃されたかというと、その形跡もない。知らなかったのも当然のことである。
夏が去って秋が来た。刀馬は以前の通り、まじめで平凡な近習として出仕をつづけていた。彼の頭から、しだいにあの怪奇な忍者たちの印象がうすれかかった。
ただ、ときどき――吉原の轡屋であえいでいた遊女薄雪や、蒼い海原できいた伊賀組の妻のむせぶような声や、陰惨な甲賀町の服部屋敷での女死刑囚の淫らな肢態などが、悪夢のごとく脳裡によみがえった。
そういうとき、刀馬が恋人お京を見る眼にも、さすがに或る色が濃くなった。しかし、彼はそれにも耐えた。
祝言は春だ。
椎ノ葉刀馬とお京をめぐり、静謐《せいひつ》さと甘美さはいよいよ深さを加えつつ、日は冬へむかって過ぎていった。四海は波もたてず、天下は泰平であった。
なんぞ知らん、そのあいだにもこの桃源の外、魔天で徳川家の命運をかけた権力闘争が進行し、地底で一族の生存をかけた忍び組の死闘がくりひろげられていようとは。
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陰の両輪
――物語の時点は、同じ年の五月にさかのぼる。
さみだれふりしきる夜のことであった。まっくらな四谷の西念寺という寺に沿うた道を通りかかったひとりの傘《かさ》の女を、
「卒爾《そつじ》ながら」
と、呼びとめたものがある。
「伊賀《いが》町の筏《いかだ》という家はどちらか御存じではないか?」
西念寺の小さな山門の下から、そう言いながら傘もささず、ピシャピシャと雨をはねながらちかづいて来たのは、闇《やみ》の中のことでふつうの人間にはさだかに見えないが、背のひくい、しかし恐ろしくふとった男であった。
「筏?」
と、女はきき返した。
「左様、たしか、筏織右衛門と申す。――」
「伊賀町ならばすぐそこでございますが、あなたさまはどちらさまでございますか」
やさしい声をしているのに、ほかに人通りもない闇の中で、見知らぬ男にものをきかれて、依然しっとりとおちついているのは、思いのほかに気丈な女であった。
「拙者、根来組の虫籠右陣と申す者でござるが」
女の足がぴたととまった。
「重大な談合の必要があって、筏織右衛門に密々に逢いたいのだ」
右陣は女の傘の中に入った。
「ほ、おまえさまも伊賀町のおひとか」
と、顔をねじむける。
女はすぐにそのまま歩き出した。右陣はなれなれしくぴったりならんで歩を合わせる。雨がふっているので、傘のないこの男に、傘から外へ出ろとは言えなかった。
「ううむ、これは驚いた。――驚いたのは、おまえさまが伊賀町のおひとであるということではない。おまえさまがあんまり美しいひとなので驚いたのだ」
闇の中なのに、ありありと見えるようなことを言う。いや、実際伊賀者たちの中には闇でも白昼のごとく眼のきく連中が多いから、根来組のこの男も同様なのかも知れない。
「いや、これは失礼、案内していただくのに傘まで御造作《ごぞうさ》かけるとは」
男の息が妙に濃い湿気をおびて頬にかかると、
「傘は拙者が持って進ぜよう」
「いえ、結構でございます」
「なに、御遠慮には及ばぬ。どれどれ」
手がしばらくもつれ合った。ふいに女が鋭い声をあげた。
「何なされます」
「わっ、もののはずみとは言いながら、これはとんだことを。――」
右陣は傘を残して、三尺ばかり横に離れた。もののはずみ――などと言ったが、もののはずみでそんなことが出来るものではない。彼は傘を左手で支えたまま、傘をつかんだ女の手をむりやりにもぎとってじぶんの口のところへもってゆき、その掌をぺろりとなめたのである。すぐに女は傘をとりもどしたが、あっというまもない瞬間的な行為であった。
「ところで、筏織右衛門のことじゃが」
すぐに右陣はけろりと何くわぬ顔をして、のこのことまた寄って来た。
「その御仁《ごじん》、いったい、生きておるのかな?」
傘に入られると見て、女は黙って歩き出した。やや早足に――さすがにむっとした足どりの気配に感じられたのは、言うまでもなくいまの右陣の所業から来たことに相違ない。
右陣は頬をかき、七、八尺遅れてあとを追いながら、
「伊賀組ではどうなっておるのか?……根来組でわしの受けた運命から推測すると、伊賀組でも織右衛門のいのちも保証できぬ事態となっておるはずじゃが。……」
ひとりごとみたいにつぶやいた。
「なに、これから訪ねてみればわかることじゃ」
「御案内はいたしませぬ」
と、女は言った。
「織右衛門をこちらに寄越しまする」
「え、こちらへ? どこに?」
女は、ちらと右側を見た。
「そこの愛染院というお寺の御門の下でお待ちになっていて下さいまし」
「ふうむ。で、ほんとうに筏織右衛門は来るか」
「それは、わたしは当人ではございませぬから何とも申せませぬ。ただ、これ以上、伊賀町へお入りになることは、かたく御無用におねがいいたします」
つとめて息をおさえてはいるが、きっぱりとした調子であった。
つとめて息をおさえている?――女は、闇の中にもかすかな喘《あえ》ぎをもらし、たしかにそれを抑制しているように思われた。
「左様か。では、お待ちいたす。重大な用件でござるぞ」
と、右陣は念をおして、立ちどまった。それから、また声をかけた。
「若しな、筏織右衛門の都合がわるければ、御内儀でもよい。御内儀でもよいから、是非話したいことがあるのだ。そのむね、くれぐれも御伝言を願うぞ」
忍者の眼にも、女のうしろ姿がまったく闇の中に消えてしまうまで、虫籠右陣は雨にぬれてそこに立っていた。
左掌をこぶしにして、人さし指一本を立て、それを右掌でつかんで、かすかに腰をうねらせて、ニタニタ笑った。それが、傘をにぎって歩くいまの女のまねだとは、だれも想像もすまい。まるで海底の海坊主の踊りみたいな動作だ。
ましてや、それが根来忍法「ぬれ桜」――女の右掌を性器と同じ感覚に変え、傘の柄との接触で或る反応を起こすはずだと期待している姿だとは、いよいよ以て何びとにも空想を絶したことであろう。
彼は愛染院の山門の下に立った。
「……で、織右衛門があらわれるか? いまの女房がもどってくるか?」
四半刻《しはんとき》ちかくたった。
「長いな。……まさか、おれを?」
と、まわりを見まわし、大きな鼻をピクつかせて右陣はつぶやいた。
「いや、殺気はない」
半刻たった。なおふりつづく夜のさみだれである。
雨はこの夜ばかりではなく、ここ七日以上も、ときに息をついて霧のようにけぶるとはいえ、ほとんど小止みもなくつづいて江戸の河川をふくれあがらせ、とくに隅田川が危いという噂がながれるほどであった。
虫籠右陣のぼたっとした顔に、白昼では見られぬいらだちの表情が浮かんだ。
「――や?」
彼は山門のかげに身をひそめた。
伊賀町の方から、また傘を打つ雨の音がちかづいて来た。それが山門のまえまでくると、当然のごとく右陣の方へ寄って来て、
「根来組の虫籠どのとやら、筏織右衛門の妻、参りました」
「ほう。その声は、先刻のかたではないか」
と、右陣はおどろいたような声を発したが、
「それははじめから御承知のことではござりませなんだか」
と、相手は彼のそらとぼけを笑殺した。もっとも織右衛門の妻――お麻は笑ってはいない。が、冷やかに口をきこうと努力しているらしいのに、彼女は妙な息づかいをしているようだ。
「いや。――」
と、右陣はなお図々《ずうずう》しく、ごまかそうとしたが、
「なぜ筏織右衛門に妻があると御存じでしたか」
と、きかれて沈黙した。
お麻は言った。
「織右衛門は目下謹慎しております。例の御内示以来、眠らず、食もとらず、坐っております。――で、わたしに話をきいて参れと言うのみで――」
「例の御内示とは、大炊頭さまの、御公儀忍び組は甲賀に決定したというあれじゃな。しかし、あれから五日になる。五日間、一食もとらず、一睡もせずか?」
「はい。――」
「……さもあらん」
と、右陣は長嘆した。
「わしなどは、やけになって大酒をのみ、大飯をくらっていたら、根来組一党からの殺気が風のごとく吹きめぐって来て、あわてて組屋敷を逃げ出して来たくらいだ。――そのことだ、御内儀、相談というのは。――わしも御同様、落第した根来組の選手なのだ!」
と、無念と悲嘆にたえかねるがごとくお麻の――こんどは左手をつかんで、その上に顔を伏せた。
「が、相談を、織右衛門どのでなく、御内儀のあなたとして仔細《しさい》はないか?」
お麻はぴくっと手を痙攣《けいれん》させた。手の甲を這う生暖かいものを感覚したからだ。が、お麻は先刻のように憤然とせず、それを抑えている風で、しずかに言った。
「織右衛門の妻でもよいと申されたのはあなたではありませぬか」
「そ、そう言った。それは、結局、あなたのお助けを借りるよりほかに法はないと思ったからでござる」
そう言いながら、右陣は微妙にお麻の左手をなでさすっている。
「なぜでございますか」
「それはいま言った通り、織右衛門どのもわしも、もはや公然と土俵に上る資格を失った男だからだ。といって、捨ておかば伊賀組も根来組も廃絶の運命におちいる。いまだ御大老から甲賀組合格の報があったのみで、それ以上の御沙汰はないが、あの大炊頭さまが意味もなくあのような査察をやられて、そのまま捨ておかれるはずがない。必ず、そのうち引導がわたされる。その責任者はわれらなのでござる。しかもわれらは根来組、または伊賀組を救わんと欲しても、すでに落第の烙印《らくいん》を……」
「虫籠どの」
と、お麻は右陣のとめどのない愚痴を制した。
「で、どうしてわたしが……わたしに何ができると仰せられます」
「うむ、そうだ、話はいそぐ。しかるがゆえに、かく相成っては、もはや御大老を飛びこえて、直接上様に再度のお調べまたは御慈悲を懇願したてまつるよりほかはない。その役目を果たしてくれるものはあなた以外にない、と右陣は判断したので」
「わたしが……そのような」
お麻は息をひいた。
あたりまえだ。一介の伊賀者の妻が、そんな役目を果たすことはおろか、将軍にちかづくことすらできるはずがない。――この虫籠右陣という男は、窮したあまりに悩乱したのではないかとさえ思われる。
「われらにはできぬ。が、女ならできる」
右陣はさらにその意味を補足した。
「あなたのような美しい方ならできる」
「…………」
「下世話《げせわ》に申せば、色仕掛けでござるな」
「…………」
「将軍さまを色仕掛けにかける。ああいや、胆をつぶされな、これもまた忍法の奥儀、このことばかりは根来といわず伊賀といわず、共通の奥儀でござろうが。――冗談を言っているのではないぞ。そんな場合ではない、伊賀、根来、必死の大難のときでござる」
「けれど」
「上様にちかづき参らせる法でござろう。それはこれから拙者が教える」
「右陣どの」
お麻はわれにかえったようだ。
「それより、その役をなぜ根来組の女衆の中からえらばず、わたしにお目をおつけになったのですか」
「根来組には、いかんながらあなたのような美女はおらぬのだ。いや、わしの忍法眼からみて、あなたほどの適任者はいないのだ。そう思って、わしはまっしぐらにここに馳せつけた。――」
と言って、右陣はじぶんのさっきからの折衝の矛盾に気がついたらしい。
「いや、どうして筏織右衛門どのとあなたを知ったかというと――むろん、本音をうちあければ、先刻からあなたをだれかと知っていたのじゃが。――」
と、弁解した。
「あの査察役どのからきいたので」
「え。――」
とたんに、虫籠右陣は、はじかれたように、ぽーんとうしろへとびのいた。
いままでお麻の手をにぎって、ひたすら哀訴していた右陣がである。お麻の方は、何をしたとも見えない。かえって、不審そうに彼をながめた。
「うそです」
と、お麻は言った。
「あのお方は、そのようなことを洩らすお人柄ではありませぬ」
「ほう、ひどく買ったものだな、われらを落第にしたあのようなぼんくらの若僧を」
「虫籠どの、これほど大事の相談をもちかけられながら、なぜそんな嘘を言われます」
右陣は何やら弁解しかけたようであったが、お麻の決然とした調子に、やりそこねるとすべてがぶちこわしになる、と判断したらしい。
「なに、それはだれからきいたとしてもよろし。また、だれからもきかずとも、伊賀組の中で選手となるのはだれかというと、筏織右衛門という男のほかにないこと、またその女房がお麻どのという美女であることくらいは、根来組として調べればすぐにわかる。――」
と、言ったが、なおじっと彼の方もいぶかしげにお麻を見つめている。
「はてな」
「なんでございます」
「あなた……ほんとうにお麻どのでござるか」
「どうして、そんなことを」
「――お麻どのだ。それにまちがいはない。が、いまふっと殺気にちかいものをおぼえたのじゃが、それが到底、女人の放つ殺気ではない。――」
ぶつぶつと言ったが、すぐにくびをふって、
「いや、伊賀組の選手となる忍者の女房じゃもの、それくらいのことはあるかも知れぬな。――何しろ、数日前までは競争相手のよその忍び組の人間と大事の相談をするのじゃから、疑心暗鬼、枯尾花の幽霊、さすがの右陣も気をつかう」
と、苦笑した。そして、ふたたびじわじわと寄って来て、
「握手成るか、握手成るか、伊賀組との握手成るか。――」
と、また手を出した。
「右陣どの、それでわたしが上様にちかづき参らせるには?」
お麻は右陣の手がじぶんの手をにちゃにちゃと撫でまわすのに、眉をしかめ、口をあけて息をした。が、その感覚よりもなお、彼女の心をとらえているのは、その途方もない右陣の着想に対する疑問らしかった。
「おお、それよ」
右陣はうなずいて、
「この雨つづき、放置すればここ二、三日中にも隅田川が氾濫《はんらん》しそうじゃとて、沿岸の住民どもが堰止《せきど》めやら立ち退きやらで騒いでおる。そこで明朝、上様には隅田川へ親しく御視察に出御《しゆつぎよ》あそばす御予定。――機会はそのときじゃ。そういう場所ゆえ、かならずお麻どのを上様のおん眼にかけられる時はあろう。ひとたび、お麻どのを将軍家に御目見《おめみえ》さすれば、もはやこっちのもの。――」
「まさか、わたしのようなものを」
と、お麻はほのかに笑った。
「いや、そうではない。それはあなたは、あなた自身が思っている以上の美女ではあるが、そのうえ。――」
右陣はいきごんで言った。
「そのうえに、さらにわしが細工をする。あなたを見た以上、男という男が心魂をとろかすような細工をな」
「え?」
「織右衛門どの、ないしはお麻どのに相談したいと言ったのはそのことじゃ。その細工をする以上、夫たる織右衛門どのの了解を得たい。しかし、しょせん、必要なのはあなたのからだでござるから、お麻どのにも是非来て欲しい。なんなら、お麻どのだけでもよろしい。――」
「右陣どの、細工とは?」
ものも言わず、虫籠右陣は、お麻の左腕をまくって、その手くびから肘の内側にかけて、闇にも白くひかるような皮膚を、ぺろとなめあげた。
「あ」
「さっきから、妙な感じがすると思われぬか、お麻どの。さすがは忍者の女房、気丈なものだと実は感心しておった。が、これでもまだ感じられぬか?」
腕を撫でさすられて、それだけのことなのに、お麻のたおやかなからだがのけぞった。傘がかたむき、雨は右陣のみならず、お麻にも銀のけぶりのようなしぶきをあげている。
「これを全身にほどこせば、あなたはいかなることに相成るか。いや、あなたばかりではない。あなたを見た男すべてが餓狼《がろう》のごとくになるのだ。これぞ、根来忍法ぬれ桜、――」
「あ、あ」
と、お麻はまた声をあげた。悲鳴ではない、たえかねるような女の快美の喘ぎであった。
「そして、お麻どのの言うことなら、どんな男でも蝋《ろう》のごとくとろとろになってきくであろう。たとえ、将軍家でおわそうと――伊賀根来の破滅を救うにはこの法以外にないと言ったわけがこれでおわかりか」
「ど、どこかへ、右陣どの、どこかへ」
「どこかへと言って――織右衛門どのに、よいのかな?」
右陣はにたにたと笑った。
「織右衛門、――」
お麻はかすかに理性をとりもどしたようだ。
「夫は、やつれはてて、うごけぬほどでございます。で、わたしに話をきいて参れと申しました。この話をきかせたら、夫はその気性から、きっと不承知でございましょう。けれど、わたしは」
「どこかへ、この右陣といっしょにゆきたいか」
右陣の厚ぼったい笑顔には、ついにこの女、罠《わな》におちた、という満腔《まんこう》の自信があふれていた。
「おおそうだ、織右衛門はきょうで五日、不眠断食と言われたな。それでは、いかな伊賀の忍者とて憔悴《しようすい》しつくして、わしの相談相手にも、女房のあの方の相手にも、ものの役には立ちはすまい。――」
お麻の手から傘が舞いおちた。
芋虫みたいな指で、右陣はお麻の襟をかきひらき、もはやおおっぴらに両腕をその細い腰にまきつけた。
「が、あとできいても、織右衛門は腹を立てまい。あなたを呼び出しに来たのは、わしの忍法眼からあなた自身に見込みをつけたせいもあるが、また伊賀組を助けてやろうというわしの老婆心のゆえもあるからの。同じ厄難におちいったもの同士、忍者は相身たがい。――」
果たして、しかるか。わざわざ右陣が伊賀組の女をぬれ桜の精に仕立てようと謀《はか》ったのは、ほんとうにそんな義侠同情の心からか。
「かくて、ひとたび決定した甲賀組選抜を、もう一段高いところでひっくり返す。これまた忍法の真髄。そして、あのめくらの御大老とぼんくらの査察役の鼻をあかして笑うてやる。――これこそ、いまのこの右陣の悲願で」
これは、或いは本音かも知れない。
黙っているあいだも、彼の舌は音をたてている。両腕で女の胴をかかえ、乳房から乳房のあいだ、みぞおちのあたりまで舌を這わせているのだ。当然、背はまるくなり、まるで彼自身が巨大な芋虫と化したかのように奇怪な姿であった。
そんなことをされても、お麻の身もだえに抵抗のふしは見られぬ。かえって、じぶんの腕を右陣のくびにまきつけて、
「はやく、右陣どの、わたしは、もう。……」
と、腰をうねらせた。だれがこれを、この夜以前の、あのしとやかな伊賀者の妻と想像するであろうか。
「まず、いまのところはこれまで」
右陣は女の胸から顔を離した。
「あとは、宿へいってから、ぬれ桜の総仕上げをする」
「宿? どこですか、根来組の組屋敷?」
「と、とんでもない。根来の組屋敷に帰ったりすれば、わしの命はない。――隅田川のほとりの、さる家に」
「あの……明日の夜までに帰れるでしょうか?」
「なんだと?」
いまようやくくどき落とした事柄の内容が、まだこの女にはよくわからなかったのか。将軍に献上された女が、すぐその足で帰れるものか、どうか。――
「やつれはてている夫が、心配でございますゆえ。――」
虫籠右陣はキョトンとした。いまどこかへつれてゆけといった女が、夫のことを口にするとは。
――雨の中に、しかもこの闇の中で、お麻の眼に涙のようなものを見たのは右陣なればこそだ。しかし、これは彼の判断を絶した。
夫を救わんがために、夫を裏切る道をゆかねばならぬ。涙はその苦しみのためか。いや――と、右陣はくびをふった。このつつましやかな女は、はじめての強烈な刺戟のためにちょっと錯乱したのだ。
「子供みたいなことは申されな」
右陣は、右陣ではない人間みたいに厳然として言った。
「すべて根来と伊賀の命運にかかわる大事のためだ。この場合、そんな心づかいは一切|放下《ほうげ》せられい!」
虫籠右陣はいきなりお麻のからだを横抱きにした。そして、雨ふりしぶく闇の中を、足の八本ある黒い怪物みたいにいずこへか駈け去った。
台風による豪雨ではなかったから、まだこの程度ですんだのである。
が、浅草見付に立ってみれば、隅田川は、河原《かわら》は漫々たる濁水に沈んで、河幅が二倍になったかと思われた。げんに本所、深川などの低地はもう数日前から浸水し、昨夜一晩でまたあふれて、北の千住、綾瀬、東の寺島、小梅地帯も水に浮かんでいるという情報であった。
その朝、将軍家光は、お小姓組の番頭《ばんがしら》でいわゆる「六人衆」と呼ばれた側近の松平伊豆守、阿部|豊後守《ぶんごのかみ》、堀田|加賀守《かがのかみ》やその他の近習をひきつれ、裏金の塗笠《ぬりがさ》、陣羽織に身をかため、甲斐黒《かいくろ》の馬に一鞭あてて、この隅田川氾濫の状況を視察に来た。
こういう予定の出馬も、一時的出水ではなかったからこそ出来たことだが、その予定を組んだ大老の土井大炊頭は、じぶんの方は予定外の政務が出来《しゆつたい》したとかでお供しては来なかった。
浅草見付の土手に駒をとめた将軍の前に、南町奉行の加賀爪甚十郎と北町奉行の堀三左衛門、関東郡代の伊奈半左衛門らが代わる代わるまかり出て、出水の区域、程度、被害、防水、救助の実情を報告した。
「しかれば、両国広小路にお救い小屋を設け、難民どもを収容いたしておりますが、この分にてはなおこれを緊急に増加するの要ありと存ぜられ、……」
と、堀三左衛門が地に伏して、びしょぬれになって報告しているのを、将軍はどこまで頭に入れてきいているのか、
「や、も、ものすごい大木が流れて来おったぞ。やあ、屋根もある。二つ、四つ。……」
と、河面《かわも》の方ばかりに顔をむけてさけんでいた。すこし、どもりだ。
家光もまた雨に打たれている。民情視察は彼の思い立ったことではないが、しかし活発な性質だけに、城の奥ふかく政治の話などきいているよりも、こういうあらあらしい出馬をするのは、存外不愉快ではないらしい。眼をぎらぎらとひからせ、しきりに鞍にのびあがり、ひっきりなしにさけびたてている。
「あ、人じゃ!」
ふいに彼は馬上から飛びあがらんばかりになった。
「人が流れてくる。――女じゃ!」
さすがにみな、はっとして河の方に眼をやった。
いかにも、上流から――岸から十メートルあまりの距離を、うつ伏せに一人の人間が流れてくる。とみるや、それが水の中でくるりと廻って、濁流の中に白い乳房が浮いて、またうつ伏せになった、まさに女だ。しかしその回転は、ただ波にもまれたのではなく、生きていて、もがいたように見えた。
「あれ、救え」
と、家光はさけんだ。
このとき、家臣たちは騒然と総立ちになっていたが、さすがにとっさに河へ飛びこむ者はなかった。
「あの女、救う奴はおらぬのか」
と、もういちど家光は叱咤《しつた》した。女は、眼前ちかくにながれて来た。
突然、みながどっとどよめいた。
一人、馬のまま、河中へ水けぶりあげて入っていった者があるのだ。やはり裏金の塗笠に、陣羽織をつけた武士であった。
「阿部どのだ!」
と、だれかがさけんだ。
お小姓組番頭の阿部豊後守忠秋である。まだ三十歳の若さであったが、この翌年、松平伊豆守信綱とともに、大老土井大炊頭の下にあって老中を命じられたほどの人物である。それが、愛馬|回天粕毛《かいてんかすげ》を真一文字に、ザ、ザ、ザッと水へ乗り入れていった。
「あれよ、あれよ」
みな指さす中に、彼は濁流に弧をえがきつつ水馬をあやつっていって――ちょうどそこへ流れて来た女を片腕にすくいあげるや、その帯をつかんで馬を廻し、また弧をえがいて岸へひき返して来た。
水を離れた岸辺に女をどさとおとすと、彼は馬とともに水ぶるいして、
「これよ、手当てしてつかわせ」
と、駈け寄ったおのれの若党に言った。
家光もそれを見ていた。二間と離れぬ距離である。そして、何思ったか――まるで吸い寄せられるように、みずから馬をうごかせた。
「どけ」
と、彼は言った。
それがあまりにもうわずった声であったので、女を手当てするためにしゃがみかけていた若党はもとより、将軍の移動にあわててついて来た近習たちも、思わずひきしりぞいた。
馬上から家光は、女を見下ろしていた。
女は衣服をつけてはいたが、水にもまれて、その衣服はただ帯にまといついているばかりといったありさまになり、そこの河原に横たわっていた。
死んではいない。
まるいふたつの乳房は白蝋で作られたようで、しかしたしかに起伏している。
眉はおとし、うすくひらいた唇からもれる歯には鉄漿《かね》をつけていた。どこかのおそらく下級武士の妻であろう。年はまだ二十歳《はたち》なかばであろうか。
しかし家光の心には、そんな詮索は湧いてはいない。まわりに渦まく濁水や、ふりしきる雨や、背後の家来や、遠くにどよめく叫喚《きようかん》も意識から消えている。ただ彼はこの女に見とれている。吸引されている。
松平伊豆守信綱だけが、わずかに馬をすすめてのぞきこみ、
「……うむ!」
と、心中にうなり声をあげていた。
勤直で冷徹な秀才官僚たる彼も、いま将軍が茫乎《ぼうこ》として魂を地上にとりおとしたようなありさまの、よって来る所以《ゆえん》を知ったのだ。
たんに美しいだけではない。それは男なら、ずーんと骨の髄までしびれてくるような妖しい蠱惑《こわく》の精であった。これは人間の女ではない。水から上がって来たこの世のものならぬ人魚ではあるまいか。
反射的に不吉な予感に打たれ、信綱がまた馬をすすめて声をかけようとしたとき、
「余は帰るぞ」
と、家光が憑《つ》かれたような声で言った。
「この女、つれて参れ」
――阿部豊後守の水馬ぶりには、ついに一言の褒詞《ほうし》もなかった。
災害時に於ける民情視察。
いつの世でも、支配者が民心を得るためにやるスタンド・プレイだ。たいてい危険の去った災害後のことだが、これが災害中の陣頭指揮というかたちをとるとなると、ますます効果が増大するにきまっている。
しかし、それが、視察に出馬したかと思うと、たちまち宙返りして引き揚げてしまうのでは、逆効果である。ましてや、その原因が、災害地で女を拾ったということにあるに於《おい》てをやだ。もっとも女はただちに駕籠にのせ、人目につかぬように城へつれて帰ったが。――
松平伊豆守信綱は困惑した。事実上の責任者たる役目を土井大炊頭から命ぜられたのは彼だったからだ。
制止するいとまもない将軍の行動であった。その上、彼ほどの人間が、その女を見たとたん、将軍の行為をやむを得ぬことと是認するような気持ちになったのが奇怪であった。――とはいえ、われにかえれば、補佐の任にある者として途方もない失態であるし、報告の言葉にも窮するほどである。
が、知らぬ顔をしていられる場合ではないから、信綱は大老のところへまかり出た。
土井大炊頭は、御用部屋に例の茫洋たる温容で坐っていた。急な政務が出来したと言っていたが、べつにそんな気配もないようだ。
「よいではないか」
報告をきいて、大炊頭は言った。
「春日《かすが》どのはよろこんでおられたぞや」
「――は?」
春日どのとは、曾《かつ》ては将軍家の乳母《うば》であり、いまは大奥で総監督ともいうべき春日の局《つぼね》だ。が、この大炊頭の口ぶりからすると、はやくもその春日の局から連絡を受けていたと見える。もっとも例の女は、すぐに大奥へ送り込まれたから、これは当然のことかも知れない。
しかし、大奥の風儀には厳格な春日の局が、水害御視察のさきで上様が女を拾っておいでなされたのをよろこんでいるとは? と伊豆守はふとふしぎに思ったが、すぐにその意味を了解した。
当代将軍家はことし二十九歳であられるが、数年前までどういうものか女色に興味をおもちでなかった。もっぱら男寵《なんちよう》で、曾てその寵童の一人、酒井山城守重隆なる者がその妻に子を生ませたからといって、腹をたてて、切腹を命じられたほどたわけた例があった。げんにきょう浅草見付への出馬の際、ともに従った六人衆のうちの一人、堀田加賀守もまたその縁でいまの地位までとりたてられた人物だ。
で、春日の局はひどく気をもんで、将軍家のお目にとまる女人があれば、この場合にかぎって喜悦する。ところが将軍家には、右のような御性向ゆえ、女人の好みにひとくせあらせられて、たんに美貌だけではお気に召さない。京の鷹司《たかつかさ》家から迎えられた御台《みだい》もおわすのに、まるでかえりみられないありさまだ。やっとのことで春日の局が奔走して、数人の御愛妾があるが、まだどのお方にも御懐胎のことがない。
だから、将軍家がお目をかけられる女人がおひとりでも出現すれば、春日の局が双手《もろて》をあげて歓迎するのは大いに納得できる。――
「ただ、素姓が知れぬそうな」
と大炊頭は言った。
「恐れ入ってござる」
と、伊豆守はまた顔をあからめた。
「何ぶん、お城へ帰るまで、ずっと気を失ったままにて。――」
「大奥にて意識はとりもどしたようじゃが、まるで白痴同然という。顔立ちからみるに白痴とは見えぬから、水に落ちた驚きのために、一時的に記憶を失っておるらしい、とのことじゃ。――何にしても、上様の御感《ぎよかん》にかなった女人があったとはめでたい」
「私の見たところでは、身分低い侍の女房のように感ぜられましたが」
「いずれ素姓は知れるであろう。ただ、何者の妻であろうと大奥にとどめ置かれるのは必定《ひつじよう》のことじゃから、あまり表立たせぬ方がよいかも知れぬな。女に夫があったとしても、水に流されたものとあきらめておるであろうし。――それにしても、上様のお好みは、わからぬな」
大炊頭は笑った。
大炊頭がそう言ったのは、将軍家のいまの御愛妾、お夏の方がもと大奥のお湯殿の下婢《かひ》であったことや、お万の方が伊勢の尼寺の尼僧であったことや、お玉の方が京の八百屋の娘であったことや、お楽の方が浅草の古着屋の娘であったことなどを意味しているのであろう。
「ともあれ、御大老にもごらんあそばせ」
と、伊豆守は言った。その女を見れば、将軍家が一目で悩殺された理由がたちどころに判明するであろうと思ったのである。
「いずれ、拝顔いたすとしよう。さりながら、きょうのところは上様にも、夜ふけまで大奥にお入りなされることは相成らぬかも知れぬ」
「ほ? 何事でござりまする」
「肥後《ひご》の加藤をとり潰《つぶ》そうと思う」
「――や!」
「肥後守はきょう参府せんとして江戸の口まで来ておるが、昨日より池上本門寺にて待たせてある。明日、改易の御上意を向ける手はずになっておるゆえ、これよりその件について上様にいろいろ言上せねば相成らぬ」
「大炊頭どの。何の罪名で?」
「いつぞやの謀叛《むほん》の廻文に、加藤家は御公儀に届けを出さなんだ」
――読者は、曾て吉原の妓楼で根来の忍者虫籠右陣がこのことを口にし、届けを出さなかった大名を、駿河大納言、菅沼飛騨守、そして九州の某大藩と、三つ名をあげたことを御記憶であろうか。
そのためにすでに菅沼家は断絶し、そしていま九州の某大藩、すなわち五十四万石の加藤家もまた。――
土井大炊頭は、空しくここに坐っていたのではなかったのだ。
「どりゃ」
悠然とたちあがる大先輩を、まだ三十六歳の松平伊豆守は、鈍い戦慄の念とともに見あげ、見送っていた。
もはや亥《い》の刻。――午後十時にちかい。
ふだんなら、むろんとっくに上様がお成りになっている時刻である。が、今夜はまだそのことがない。
べつにそのことについて知らせはないが、春日の局はこの異変の由来を知っているから怪しまなかった。――それは加藤家を改易にするための重要会議によるものだということを心得ていたからである。
謀叛の廻状《かいじよう》云々のことは、言うまでもなく言いがかりの一つだ。それについて加藤家が届けを出さなかったというのも、それがあまりに児戯に類したことだから一笑に付したからに相違ない。ただ、表立って、ものものしく問題にすれば、一藩の存続にかかわる重大事となり得るものであることを看破するものがいなかったのが、加藤家の悲劇であった。が、このことがなくても、遅かれ早かれ加藤家はとり潰されたろう。なぜなら、加藤家は、先代清正の一生を見てもわかるように、徳川家からすれば、しょせん豊臣の遺臣にすぎないからだ。
いまや、それをとり潰すきっかけをつかんで、参勤のため入府しようとした加藤肥後守忠広の一行を池上本門寺に足止めさせた。おそらくその後にくるものを、彼らも感じていることであろう。で、破れかぶれの暴発を起こせば、何しろ音にきこえた五十四万石の肥後侍だ。容易ならぬことになる可能性は充分ある。――
と、見て、その動静の報告を刻々受ける必要上、将軍家が表に待機なされているのは当然、と春日の局は考えている。
彼女はこのとし五十三歳。大奥に於ける女土井ともいうべき存在であった。
「それにしても、この女は」
どうしたものか、と局は眼前に坐っている女を眺めやった。
将軍が水の中から拾って来た女は、総白無垢《そうしろむく》のきものを着せられて、まるで白鷺《しらさぎ》のような姿であった。
この女が何者か、まだ春日の局も知らない。眉をおとし、歯を染め、しかもそのものごしからみると、松平伊豆が推定したように下級の旗本か御家人の女房であるかも知れぬ。何者であろうと、この女は大奥にとどめておくつもりだ。素姓がわかれば、その家もとに因果をふくめてもよいし、或いは永遠に神かくしにしてしまってもやむを得ない。――上様がこの女をお気に召された以上は。
性的放縦には異常なばかり厳格な春日の局が、将軍家と女人、という関係ばかりには眼をつぶるどころか、なんとかしてその両者を熔接《ようせつ》したい、とあせっていた。まだ若君の御誕生がない、ということが彼女にとって最大の悩みであった。
で、局は、いままで必死になって将軍家のためにしかるべき美女たちを周旋して来たが、いずれも将軍家の御寵愛は火花のように一時的なものか、どこか水と油のようにしっくりしないものがある。
しかるにこの女を伴って帰って来たときの将軍の眼つき、息づかいというものは、過去のいずれの場合とも様相がちがっていた。
将軍家は、大炊頭が天下の大事という要務でひき出さなければ、いまにもこの女を寝所へひきずってゆきかねまじき勢いに見えた。だから、いまさら「この女、どうしたものか」と、思案するまでもないのだが。――
しかし、数刻のあいだ、こうして向かい合っていれば、さしも胆ふとい春日の局も、しだいにこの女の怪しさに改めて疑心をかきたてられずにはいられない。
むろん、武器のたぐいをひそめていないことはたしかめた。その挙動もおとなしくて、全然害意は感じられない。ただ、何をきいても、かなしげに首をふるばかりで、どこの何者か、口にしない。お芝居をしているというより、白痴のようだ。しかし、その整った顔だちからみても、そんなことはあり得ず、濁流に流された衝撃と、爾後《じご》じぶんのつれこまれた場所に対する驚きのために、一時的な思考停止状態におちいっているように思われた。
「ここは江戸城大奥」
とも、知らせ、
「そなたをお救いなされたのは、恐れ多くも将軍家」
とも、きかせ、
「お上の御寵愛を受けるのを光栄と思え」
とも、言いふくめてある。
失神からさめたところへこんなことを浴びせかけられれば、女によってはこういう状態になり果てることもあり得ないことではない。――春日の局は、女のこんなありさまを不審には思わなかったが、疑心をかきたてられずにいられないのは、この女の肉体と官能そのものであった。
御用達《ごようたし》商人などが出入りする七つ口から、松平伊豆守の手のものによって、ひそかに運びこまれたのだが、その男たちは眼を充血させ、鼻息を荒くし、ことごとく飢えた狼みたいな表情になっていた。彼らが欲情していることは、局にさえあきらかに看取された。
そしてまたこの女自身が、彼らにさわられるたびに、これまた異様な喘ぎかたをするのだ。男ばかりか、衣服をつけかえるために、大奥の女中たちに触れられても、すすり泣きのような声をもらすのだ。
この女、色情狂ではないか?
いちど、そう思った。が、離して坐らせておけば、この女はむしろ哀艶とも形容すべき翳《かげ》にふちどられている。
美しい。しかし、たんに美しいだけではない。この女には、男の心をかきむしる何かがある、と、そういう女の魅惑だけには鈍いところのある春日の局も認めざるを得なかった。
何にしても――たとえどれほど謎めいていようとも、
「今宵、上様にこの女、捧げなければならぬ」
なぜなら、上様がみずからすすんで、強烈に――おそらくそれは、はじめてと言っていい――女を、この女を所望なされたからだ。
おんあとつぎのことも、まず女人に対する自発的興味が発現なされてはじめて成ることであろう。その第一のきざしが、今宵この女によって生じたならば、もっけの倖《しあわ》せ。――
そのとき、女が言った。
「あの……上様はまだでござりましょうか?」
春日の局は、はっとした。
「そなた。……」
と、凝視《ぎようし》してさけんだ。
「正気にもどったかや?」
そのとき、正気にもどったのではない。上様はまだか、ときいたのは、ここがどこか、じぶんがどんな立場に置かれているのか、先刻からの局の言葉をちゃんと心にとめていた証拠だ、と気がついたのはあとになってからのことだ。
「おお、上様のお入りを待ちかねておるか」
春日の局は満面笑みこぼれんばかりになって、ひざをすすめた。
女は肩で息をしていた。その胸もとから頸《くび》すじ、頬にかけて雪のように白い皮膚がうすくれないに染まり、かすかにぬれひかるほど汗ばんで、何かが匂い、春日の局でさえもなぜか悩乱の気味をおぼえそうなほど、妖しいまでの美しさであった。
「あの……いま何どきでござりましょう?」
「もはや亥の刻であろう。上様のお入り、今宵だけはことさら遅いが、しかし、もうおいでであろう、いましばし待ちゃ」
と言って、局は、さっきから疑惑の一つ一つを改めて解く気になった。
「これ、おまえは何者じゃ?」
「…………」
「夫の名は?」
「…………」
依然として答えず。――もはや、それはゆるさぬ、ときっとなってにらみつけた局の眼前で、女はゆらりと背後の金泥の唐紙にもたれかかった。大きく見ひらいた眼に涙が浮かび出して、つたわりはじめた。血の気がひいて、紙のように白くなった頬に。
「ど、どうしたのじゃ?」
「…………」
「これ、なぜ泣く、そなた、どうしやったのじゃ?」
局は、帯のあいだの懐剣をつかんでさけんだ。
ただならぬそのさけび声に、このお小座敷の周囲にひそとかくれて監視していた女たちが、これまた懐剣をにぎって、ばたばたと駈けこんで来た。用心ぶかい春日の局は、万一のことをおもんぱかって、これだけの用意はしておいたのである。
が、彼女たちも、その女を一目見て、思わず立ちすくんだ。
女は唐紙にもたれたまま、美しい眼を見ひらいて、まばたきもせず――あきらかにふたたび失神していた。その眼が妙に透《す》きとおるように見えた。
幾十秒たったか知れぬ。それは息を二つ三つつくほどのあいだとも思われたし、四半刻《しはんとき》も経過したかとも思われた。名状しがたい鬼気が彼女たちから時間の観念を凍結させた。
そのとき、遠く鈴の音がきこえて、同時に、
「上様、お入り。――」
という厳《おごそ》かな女の声がわたって来た。
ようやく将軍が公務から解放されて大奥へ入って来たのである。
「さがりゃ」
と、春日の局は言った。
「お目障《めざわ》りじゃ、あとはわたしにまかせてたも」
――将軍家光が、少女のお小姓にお刀を捧げさせて、お小座敷に入って来たのを、春日の局は気がつかなかった。
いったい何事が起こったのか。突如として意識を回復したかに見え、しかも涙をながしたのは何のためか。その直前に将軍の大奥入りをきいて、それを恐れて泣いたのか。そのようにはきこえなかった。あの声はそれを待ちかねている語韻であった。そして時をきいたのはなにゆえか。それからまた、そのあとのこの喪心ぶりの奇怪さは?
凝然と見まもる春日の局のまえで、このときその女にまた変化が起こった。瞳孔《どうこう》が散大して透きとおるような女の眼に、黒いひかりがよみがえって来たのだ。
「春日」
入って来た家光が呼んだ。彼もまたこの座敷の異様な雰囲気に一瞬釘づけになったのである。
「……しばらく、お待ちを」
と、局はちらと見て言った。
女の眼には、完全に意識が帰っていた。しかも彼女は――まるで夢から醒めたように、局や、将軍や、まわりの光景を見まわして、愕然とした風なのである。
「こ、ここは……どこでござりましょう?」
「いまさら、何を、たわけたことを。――」
春日の局はおどろきあわてつつ、
「まだそなたは呆《ほう》けておるかや。ここは江戸城大奥、これにおわすは恐れ多くも上様であらせられるぞ」
女は全身電撃されたようであった。眼を宙にすえ、じいっと何かを凝視しているかに見える。
――春日の局は、女がふたたび奇怪な喪心におちいるのではないかと狼狽《ろうばい》して、両手をさしのばそうとした。
「ど、どけ、春日」
と、家光はようやく進み寄った。
彼は座敷の異様な雰囲気を感じとったが、それは主として春日の局の様子から発するものであって、女そのものの異常性はさほど認めなかった。じぶんの来る寸前までに起伏した変化は知らないからだ。異常性といえば、家光は最初から、じぶんの拾って来た女から、生まれてはじめてと言っていい魔魅《まみ》のような吸引力をおぼえていたのだ。
「これ、余が愛《め》でてつかわす。あ、あれへ参れ」
あごを隣にしゃくる。座敷の向うは豪奢《ごうしや》な寝所であった。
女は、うめくように言った。
「夫のゆるしを得ませねば」
「夫? おまえの夫とは、な、何者じゃ」
女は沈黙した。
「徳川家のものであろうが」
家光は、みずから腕を出して、女の肩をつかんだ。
「た、たとえ徳川の家来でのうても、て、天下に余が所望をきかぬ男のあろうかは」
肩にふれただけで、家光は女の微妙で強烈な反応を感覚した。衣服をへだてているのに、指が吸いつくかと思われた。女の表情に苦悶にちかいわななきが走った。
にもかかわらず、女は将軍の腕をおしのけて立ちあがったのである。
「そんなはずはない。あの夫が、わたしをこのような目に逢わせるはずがない。……」
彼女は、夢遊病者のような足どりで歩き出した。
「あの夫が、こうまでして伊賀の出世を望むはずがない……これは何かのまちがいだ。……」
「なに、伊賀?」
春日の局がききとがめた。
「そなた、伊賀者の女房か」
女の眼に、悔いの色がはためきすぎた。局の顔にも、これは――というようなまどいの表情が浮かんだが、すぐに高圧的に、
「伊賀者の妻ならば、いやしき身分とは申せ直参《じきさん》の家筋、上様のお申しつけは神のお声であるぞ。ありがたいと思うて、これ、おとなしゅうしや」
と、言った。
「あの、ごめん下さりませ」
女は、歩いて、唐紙をあけ、立ちすくんだ。
一大迷宮のような大奥だ。どこをどう歩いても、ふつうの人間がたやすく外に出られるわけはないが、いま女のあけた唐紙の向こうは、所もあろうに、絢爛《けんらん》たる夜のものを敷いた御寝所だったのである。
あわてて、身を返した前に、家光が立ちふさがった。
「入れ」
と、あごをしゃくった。
じぶんに捧げられて、いままでこういう逃避のしぐさを見せた女はいない。それがこの家光には妙に新鮮な昂奮を覚えたのであろう。眼が興味にぎらぎらとひかっていた。
「夫のゆるしを得ませねば。――」
女は、もういちど言った。
家光も春日の局も、まだきいたことのないような悲痛な声であった。佇立《ちよりつ》しているだけであったが、恐怖と困惑と悲哀のおののきが、全身をふちどった。
が、家光は笑ってちかづき、女を抱いた。腕の中のふるえ、あえぐ息が、女性にそれほど魅力をおぼえなかった彼に、いまだ曾て感じたことのない、恐ろしいまでの烈《はげ》しい官能を伝えた。たまりかねて、家光は女の唇に吸いついた。いや、このとき、むしろ女の方から吸いついて来たように彼は感じたのだ。錯覚ではない、彼の口には、女の舌が入ってきた。
春日の局にも、女のこの反応ぶりはわかった。心中に、
「傍若無人な。――それにしても、奇妙な女」
と、舌打ちし、苦笑しつつ、ふと二人の足もとの青だたみに眼をやった。
「……あっ」
と、さけんだ。そこにいま血が――あきらかに二滴目の鮮血がぼたっとおちた。
その声はきかず、異様な感覚を口におぼえて、家光もとびのいていた。
女は追うように両腕をさしのばした。が、そのあえぐ唇のはしから、血の糸が白いあごにひいている。――
なんたること、女は家光の愛撫に充分|応《こた》えつつ、みずから舌をかみ切ったのだ!
「な、何をいたす?」
家光が横っとびに、思わず女小姓の捧げていた刀をひったくったのは、あまりにも意外な出来事に対する恐怖のためだ。
「死なねばなりませぬ。……」
女は言った。血がまた口からながれ出した。
「夫のゆるしなければ。……」
かみ切られた女の舌は、血まみれの肉片として家光の口からおちて、すでにたたみの上にある。その声はただ血のあふれる音のようであった。しかも、家光はその意味をはっきりときいたのだ。
家光は惑乱した。恐ろしいまでの肉欲の反応を見せたこの女が。――全身につきあげて来た憎悪は、いわゆる可愛さあまって憎さが百倍、という心理だ。
「こやつ、狂ったか!」
一刀ひらめかした彼の方が乱心したような動作であった。事実、手もとが狂って、ばさ! と斬りおとしたのは女の左腕であった。
女は倒れなかった。唐紙をたわませてもたれかかったまま、顔をあげて宙を見た。何か、遠いところを見つめる瞳であった。
「こやつ。……」
家光は逆上して、また刃をふるってこんどは袈裟がけに斬った。女はよろめき、歩き出した。家光の方へ。――
茫乎としてこの惨劇を見ていた春日の局も、思わず恐怖のさけびをあげて、夢中で懐剣をぬきはらい、将軍とのあいだをへだてるように、女のみぞおちにつき刺していた。ひきぬくと、はじめて女は、じぶんの撒いた血の花の上にどうとうち伏した。
――高い甍《いらか》の上には、暗い雨がしずかにふりしきっている。
「……はてな?」
そこで、制することのできない不可解のつぶやきがきこえた。
「いったい、なぜかようなことになったか? あれほど将軍をとろかす手管《てくだ》を伝授し、本人も承知したはずなのに……また、ぬれ桜の効験はまだたっぷりつづいておるはずなのに……」
巨大な黒い蜘蛛《くも》みたいだが、これは黒衣と黒頭巾《くろずきん》に身をつつんだ虫籠右陣であった。
ちょうど御寝所の真上にあたる位置に身を伏せて、彼は栄螺《さざえ》を耳にあてていた。甍《いらか》の下の声と音は、すべてその貝殻を通してきれいにきこえた。そして音によって彼は、そこにくりひろげられた光景を、眼に見るがごとくまざまざと知ったのだ。
その破局が彼にとって意外千万なものであったことはいまのつぶやきでも知れるが、ふしぎなことに、
「……が、結果はおなじだ」
と、くびをふって、ふところから何やらとり出した。妙に曲がったかたちをした布きれだ。
ひらくと、くの字なりに曲がった釘があらわれた。しかし彼は、その布きれの方をひらいてのぞきこんだ。
「この女、伊賀者にて候」
と書いてある。雨に打たれてにじみもしないのは、特別の墨で書いてあると見える。
しかし――いったい彼は、何のためにこんなものを用意していたのか。どうやらこれを或る時点で投じて、大奥に注意を喚起するつもりであったとしか思えないが。――
それでは、色仕掛けを以て将軍を寵絡する云々と言った彼の言葉はいつわりであったのか。そもそもいったい、何のためにあれほどの手数をかけたのか。
「あの女、どうしてああなってしまったのか、わけがわからぬが。……」
と言ったが、彼の真意の方がよっぽど不可解だ。
「しかし、狙いはおれの望んでおった通りだ。それ以上だ。なぶり殺し。……」
布をまるめて口に入れ、のどをぐびりとうごかしてのみこんだ。
「とはいえ、ちと惜しいな。あれほどの女を」
ニヤリとした。
「ぬれ桜の忍法をほどこしたまま、手もつけず」
そのとき、栄螺が言った。
「伊賀者を呼べ!」
ひきつったような家光の声だ。
大奥は言うまでもなく男子禁制だ。が、それを護るために、日夜、女には見えぬ要所要所に伊賀者が歩哨《ほしよう》に立って、万一の外部からの侵入者に眼をひからせている。それを突破してここまで入りこんだのは、虫籠右陣なればこそであろう。正確に言えば、殺気あればこれを避けて安全地帯のみをえらんで忍び入る忍法「暗剣殺」のわざあればこそに相違ない。
家光がいまその伊賀者を呼べと言ったのは、この椿事《ちんじ》に動顛《どうてん》したせいもあったろうし、或いは屍骸《しがい》のとりかたづけのためであったかも知れない。
右陣は立って、うすく笑った。
「伊賀者どもが、女の顔を見たら驚くであろうな」
きょう女が大奥にはこびこまれるとき、松平伊豆守がその伊賀者の眼を避けて、七つ口をえらんだことを右陣は知っている。うすら笑いしたのは、言うまでもなく殺されたその女が、伊賀組の一人、筏織右衛門の妻お麻であったからだ。
「こりゃ、ことは急ぐ」
右陣はじいっと闇の底にひろがる大奥の回廊や庭々を見下ろした。まるで気流を観測する気象学者みたいな眼で。
釘と貝殻をふところにしまった。彼はまるで黒い気球みたいに、屋根から屋根をながれ飛びはじめた。むろん、殺到する伊賀者の走路ではない方角へ。
四半刻もたたぬうちである。
右陣は四谷伊賀町のと或る家の戸をしのびやかに、しかし急速にたたいていた。伊賀組の、これも常人には容易に外部から入れぬはずの組屋敷の中に忽然《こつねん》とあらわれるとは、これまた虫籠右陣ならではかなわぬわざだ。
「筏どの……織右衛門どの」
小声で、
「こりゃ、生きておるか? まさか、死んではいまい?」
戸に顔をこすりつけて、
「一大事じゃ。大変なことになった。お麻どのが殺されたぞ!」
とたんに、その戸がクルリと回転して、虫籠右陣は鞠《まり》みたいに中へころげこんだ。
組屋敷にもいろいろある。玄関や式台までそなえ、五間も六間もあるものがあるが、軽輩の伊賀者の家が、それほどのものであろうはずがない。
狭い土間に、起き上がり小法師みたいに――と言いたいが、小法師ならぬ海坊主然として、むくと身を起こした虫籠右陣は、ほんのすぐそこの座敷に、寂然と坐っている一個の人影を見た。
雨の真夜中だ。座敷には一穂《いつすい》の灯影もない。
そこに、月代《さかやき》ものび、ひげぼうぼうの男が、あぐらをかき、うなだれて、まるで苦行者のごとく坐っているのが見えたのは――右陣なればこそだ。
――押してもたたいても、あかなかった戸が、急にクルリと回ってひらいたのは、何かからくりがあったにちがいないが、その位置でこの主人が、どうしてあけてくれたのか?
ちらとそんなことが頭をかすめたが、それどころではない。――が、
「はじめてお目にかかる。根来組の虫籠右陣でござる」
顛倒から起き直るなり、まずこんな挨拶をしたのは、人をくっている。すぐにじぶんでも、これはまのびしている、と気づいたらしく、
「いや、拙者の名は昨夜いちど御内儀を以て伝えてあるはず。おぬしは謹慎して衰弱しておる、とのことで、代理に御内儀が参られた。それも御承知のはず。――その後、あるいきさつあって、御内儀は江戸城大奥へ上がられた。おぬしは意外であろうが、これは御内儀みずから御承諾の上のことだ。要するに、このたびの忍び組査察の結果について、将軍家に御再考を願いたてまつるためじゃが――事、志に反し――」
「……やはり、死んだか?」
と、坐っていた影は言った。ひくく、しゃがれて、しみいるような声であった。
それが右陣の報告に、こう受け答えたと言うより、それ以前から覚悟していたものが、いま胸をついて深い吐息となったようにきこえたので、右陣もあやしんだ。
「やはり? やはりとは?」
相手は黙っていた。
右陣は、いまの不審を解いているひまがなかった。
「お麻どのが美しすぎたのがたたったのじゃ。将軍家にはお麻どのを手籠めになされようとし、お麻どのは、夫のゆるしなければ上様とてままにはならぬと抵抗し、そのあげく、世にも無惨な最期をとげられた。――」
「…………」
「まことに唐突な話で、おぬしも驚くであろうが」
と、つづけたが、右陣は、この夫が意外にもあまり驚いたようすの見えないのに、心中、はて? とまたくびをかしげている。が、闇の中にも、その全身をわななかしているのが、キリキリと痛むほどの悲愁の思いであることは看取された。
「そのいきさつを、いま詳しく話しておるいとまがない。とにかく、ここを逃げてくれ。なんとなれば、お城からここへ、おぬしをとり調べる一行が、ただいまも急行中のはずだからだ」
筏織右衛門は凝然と坐っている。
「お麻どのの死顔を、お城に詰めた伊賀衆が見た。素姓はわかったはず。――おぬしを捕らえてどうしようとするかは知らぬ。おぬしは、人身|御供《ごくう》になりかかったお麻どのの夫だ。その理由はともかく、あのお麻どのの抵抗ぶりでは、上様のお怒りは思いやられる。――」
織右衛門はうごかない。凍りついたようだ。
右陣の方が、いても立ってもいられないように狼狽した。いまにも城から糺明《きゆうめい》のむれの殺到してくる足音がきこえるかと、うしろをふりかえり、雨の声に耳をピクつかせ、
「おそらく、おぬしを引っ立てにくるのは伊賀衆であろう。仲間の伊賀者として、おぬしに手心を加えるわけにはゆかぬ。いや、あの通り、査察に落第しただけに、この場合いっそうおぬしは不利となる。何もかも闇に葬るためにも、おぬしの成敗《せいばい》は必定《ひつじよう》であろう。――こんなことで、夫婦ともにお手討ちになっては、あまりに悲惨ではないか。ばかばかしいではないか」
織右衛門が、ややくびをかたむけた。彼もまた耳をすませたようだ。
「ゆこう、筏どの、委細は、逃げながら話す」
織右衛門は、ふらりと立った。
「おお逃げてくれるか。おぬしを助ければ、わしもいささか償いになる。――」
織右衛門はよろめいた。右陣はあわてて手をのばし、
「や、おぬし、きょうで五日、いや六日、食わず、眠らずであるときいたぞ。走れるか、わしが負《お》ぶってやろうか」
「ばかな」
と、織右衛門はくびをふった。闇の中で、大小だけつかんで腰にさし、蹌踉《そうろう》として土間に下りた。やはり彼も、ともかくもこの場を逃げる決心をかためたと見える。
虫籠右陣は、いちはやく外へ飛び出している。
「あ、来たっ」
と、彼はさけんだ。
いかにも東南の方から――城の方角から、少なくとも十数人駈けてくる足音がちかづいて来た。二人は、その反対の西の方へ――内藤新宿の方角へ走った。
雨の深夜、江戸もはずれのこのあたりに人影はなく、この両人もただ一陣の黒い疾風《はやて》と見えたであろう。
走りつつ、虫籠右陣は、この筏織右衛門が六日六夜不眠絶食していたということをあらためて思い出し、かつ、そのやつれはてた髯面《ひげづら》からそれに相違ないことを確認しつつ、彼がじぶんに一歩も遅れずについてくることに、
「さすがは。――」
と、舌をまいていた。
「もうよかろう」
右陣が言ったのは、甲州街道まで逃げてからのことであった。
「さて、何から話してよかろうか。すべてお麻どのが、おぬしの代理として、本人承知の上のことじゃが。――」
「それはよい。存じておる」
と、織右衛門が言った。
「えっ、知っておる? おぬしが――何を?」
「それよりも、お麻の最期のようす、いまいちど、きかせてくれい」
右陣は並んで歩きつつ、ちょっと不審げに織右衛門の横顔を見ていたが、すぐに、いまのは何かのききちがいか、と思ったらしい。
やおら、しゃべり出した。彼らしくもなく、沈痛の声調で。――彼のきいたお麻の死にようを、そのまま哀しく、なまなましく。
……もっとも、いささか脚色したところがないでもない。彼にしても、お麻の最後の変転ぶりには、どうにも納得しがたいものがあったからだ。あれは彼の筋書きとは、ちょっとくいちがったところがあった。――
ただし、彼自身も腑《ふ》におちかねる話の弱味をおぎなうために、その描写はいっそう凄絶無惨の迫力を加味した。
しばしば、筏織右衛門は立ちどまった。内部から爆発しそうになるものを、恐ろしい克己心《こつきしん》で、皮膚一枚で封じこめようと苦悶するがごとく。
「すべてお麻どの、同心のことであり、覚悟の上のことであった。にもかかわらず、最後に至って、夫たるおぬしのことを思い出し、たとえ御相手が上様なりとも、耐え得ずして抵抗せずにはおれなんだと見える。その心を思えば、あわれでもあり、ふびんでもあり……」
織右衛門は、ついに路上にうずくまって、両手で顔を覆ってしまった。夜の雨が、その背を打ちたたいている。
「さりながら、かりにも御相手は天下の師表たる将軍家、女がかくまで抵抗するなら、ああ貞節の者よとゆるされ、賞されてもしかるべきところじゃが、それを立腹して、あのようななぶり殺しにひとしい御成敗をあそばすとは、いかにも噂通りの暗将軍と言いつべし。……」
「虫籠」
ふいに織右衛門が顔をあげた。その琥珀色《こはくいろ》の眼を見たとたん、右陣はフワ――と一間もとび離れた。
「わしを恨むか。織右衛門、それはおかどちがいだ。くりかえすように、お麻どの、合点《がてん》の上のことだ。今回、伊賀組また根来組の大難を救うには、これ以外に打つ手なく――さて、そのいきさつをこれから、おぬしに説明せねばならぬが。――」
「わかっておる」
と、織右衛門はまた右陣には不可解な言葉をもらした。
「それより、おぬし、お麻の死にざまをそのように見つつ、救うてくれることはできなんだのか?」
「いや、そう言われるとつらい。つらいが、わしとしては、お麻どのひとりを大奥へ送りこむ工夫をめぐらすのがせいいっぱい、またひそかに大奥のお屋根まで忍びこんで、その首尾を見とどけるのが死物狂い。――」
「……それにしても、大奥まで、よう忍び入ったの」
「あ! 護っておるのは伊賀組じゃからの」
虫籠右陣は、この場合にニヤリとした。ちょっと鼻うごめかして、
「わしの忍法暗剣殺あればこそ。――」
織右衛門の殺気が消えた――と見て、右陣はまたのこのこと近寄った。
「わしは伊賀組と握手しようと思っている。いや、すでにおぬしの女房どのと握手し、そのあげく、お麻どのを殺す羽目に立ち至った。その自責の念から、おぬしを救い出した。――そこで、いまや憚《はば》からず、根来忍法を披露するが、わしは、わしに殺気をむける者を避け、危険物からいちはやく逃げ去るのだ。忍法暗剣殺――おぬしには悪いが、これを用うれば、名代《なだい》の伊賀組の哨戒《しようかい》など穴だらけにひとしい。――」
「妙な忍法を心得ておるな。――ぬれ桜とやらのほかに」
「……あっ」
なんの殺気も感じないのに、虫籠右陣はまたとびずさった。
「おぬしは……おぬしは……」
と、あえぐように言った。
いま、織右衛門はなんと言った? 忍法ぬれ桜だと?
それは、お麻には言った。言ったのみならず、それをお麻に施した。――が、この織右衛門は知らないはずだ。すべては、お麻が二度目に家を出てからやったはずではないか?
「おぬしは……いつ?……女房から、れ、連絡を受けた?」
「連絡は受けぬ」
「連絡は受けぬ? で、では、なぜおれの忍法ぬれ桜を――」
「知っておる。おぬしがあれからお麻を吉原の轡屋につれてゆき、そこで何をしたかも知っておる」
「ひえっ」
「あのとき、おぬしが忍法ぬれ桜のみを施して、それ以上のふるまいに出なんだのは、それでも将軍家へ献じようとする女ゆえの遠慮か。が、あの忍法はたしかに恐るべし、おぬしが犯そうとすれば、わしは犯されたかも知れぬ。――」
「わ、わしが?――おぬしが、犯された?」
「右陣、あれはわしだ」
右陣は、かっと眼をむいたまま、声はおろか息も出なくなってしまった。髯だらけの筏織右衛門はニコリともせず、まじめな、いかつい顔で、
「二度目にあらわれて、おぬしと逢って以後のお麻は、この筏織右衛門であったのじゃ」
と言った。
その顔と姿と――昨夜から今夜にかけてのお麻、あの哀艶と形容するにふさわしい女が、やがて濡れつくして、のたうち、あえぎ、官能の精ともいうべき肉体に変化していった姿を思い出すと、虫籠右陣は天地|晦瞑《かいめい》といった状態におちいってしまった。
「わしも、披露しよう。わしは女と交合すると同時に、その女に乗り移る、伊賀忍法任意車。――」
「任意車?」
「心を任せた車という意味じゃ。車を御《ぎよ》するのはわしだ。昨夜以後のお麻は、わしがお麻に代わってその演技をしていたにすぎない――」
晦瞑の脳髄に、また妖艶たぐいを絶するお麻の肢態が乱舞すると、右陣の脂肪の厚い皮膚は、さあっと恐怖の霜に覆われてしまった。
――演技? あれが、この武骨な男の演技?
織右衛門は言う。
「されば、上様にお麻献上のことを、いまさらわしにことわることはない。わしが承知したのじゃ。いかにもこの際、ああやって上様に嘆願するほかはあるまいというおぬしの策に、この織右衛門も乗ったのじゃ」
なお怪異の雲はいくつも右陣の脳裡《のうり》に吹きめぐっていたが、何より信じられぬ一つの大疑惑が、右陣の口をついて出た。
「では、では、では――大奥で死んだ女はいったいだれじゃ」
「お麻だ」
ぬかるみに坐ったまま、織右衛門はまた顔を覆った。
「忍法任意車は、一日一夜しかつづかぬ。――」
「なに?」
「その時限がきれて、お麻のからだにはお麻の魂がもどった。同時に、伊賀町では喪神しておったわしがよみがえった。――醒めたお麻は、そのまえに何をおぬしと約束したか知りようがない。気づけばおのれは江戸城大奥にあり、将軍に人身御供に捧げられようとしていることを知ったとき、あの女の驚きはいかばかりか」
「…………」
「何か仔細《しさい》はある、とは思うたであろう。すでにあれは、昨夜はじめておぬしと逢って帰り、わしと交合したときに、或る程度の覚悟はしておった。が、こればかりは――将軍に身を汚されることばかりは耐えられなんだであろう」
「…………」
「醒めたあとのお麻がどうなったか、わしは知らぬ。知らぬからおぬしにそのようすをきいた。しかし、あの女房なら、おそらく死ぬであろうとわしは推量しておった。が、それほど無惨な死にざまをとげたとはなあ」
はじめて右陣は、お麻の最後のもがきぶりの真相を知った。
同時に、昨夜お麻が――すなわちこの織右衛門が――
「明日の夜までに帰れるだろうか」ときき、また大奥に入ってからも、しきりに時間を気にしていた意味を知った。あれは忍法任意車の廻りつくす時限を恐れたのだ!
「上様の大奥にお入りあそばす時が遅れた。なぜ、昨夜にかぎって遅れなされたのか?」
と、織右衛門は暗然として言った。
まるでこの世のものならぬ人間を見るように、じいっとそれを見ていた右陣が、ひくい、嗄《か》れた声できいた。
「上様のお入りが間に合えば、おぬしはどうした?」
「さればさ。……例の御決定の御変更を願ったであろう。……しかし、からだはゆるさなんだであろう。……からだをゆるさずして、お願いをおきき入れ下さるよう、手管のかぎりをつくしたであろう。……とは思うが、実はわしにも自信がない。あのぬれ桜とやらにかけられたからだは。――」
彼は両こぶしをにぎりしめ、全身をふるわせてうめいた。
「それを、あのお麻は――ようも上様に抗《あらが》いぬいた!」
いまにして、右陣は思う。
お麻との問答中、筏織右衛門のことを教えてくれたのは土井大炊頭の査察役だと、じぶんがでたらめを言ったとき、お麻から発した殺気がただごとでなかったことを。
あのとき、じぶんも、
「到底、女人の放つ殺気ではない。――」
と、感応し、
「よその忍び組と大事の相談をするのじゃから、疑心暗鬼、枯尾花の幽霊、さすがの右陣も気をつかう」
と、そこまで猜疑しながら――まさか、あれが当の筏織右衛門であろうとは!
――実は右陣は、たとえ将軍の大奥入りが定時の通りでも、それに先立ってお麻の素姓を曝露《ばくろ》し、みずから事を破綻《はたん》させるつもりであった。その彼が、
――なるほど、忍び組同士、握手するにも反間苦肉、虚々実々。
と、じぶんのことは棚にあげて、心中、戦慄を禁じ得ない。
事を破綻させるのは、筏織右衛門を復讐の鬼とさせ、じぶんの企図にひきずりこむためであった。いまはじめて織右衛門の恐るべき忍法を知ったわけだが、しかしそれ以前から、音にきこえた伊賀組の選手にえらばれるほどの奴なら、必ずじぶんの企図の役に立つはず、と見込んでいたのだが、その推測は的中していたわけだ。
しかし、さしもの筏織右衛門も、まさかこちらの心中の秘計までは知るまい。――
「織右衛門」
右陣は、坐ったままの織右衛門のまえにひざまずいて手をとった。
「右陣をゆるしてくれい。かかる破綻にひきずりこんだこのわしを」
雨にぬれて総髪がねばりつき、藻《も》をかぶった海坊主みたいな大きな頭をさげた。
「とは言え、もはや悔いてもせんなし、おぬしの妻は非業《ひごう》の最期をとげ、ゆきがかり上、おぬしも御公儀の追及を受けずにはおられぬ身の上となった。いまとなってはあの落第が御公儀のいっそうの御不審を買うもととなる。――」
「…………」
「逃げよう。わしも責任上、行を共にする。いや、最初からわしは、もしこのたびの計画に失敗すれば、根来組を離脱するつもりであった」
「…………」
「ただ負け犬として逐電《ちくてん》するのではない。かかる始末となりはててかようなことを言い出すのは、追いつめられて苦しまぎれの打開策ときこえるかも知れぬが、そもそもわしは最初から、あのような非常の対策をめぐらしながら、一方では、内心、深刻な迷いをおぼえていたのだ」
「…………」
「恐ろしいことだが、はっきり言う。当上様は、果たしてわれらの心と技を捧げつくして悔いなきおん方かと」
「…………」
「例の査察に落第したから言うのではないぞ。恐れながらいまの将軍家は、土井大炊頭さまの傀儡《かいらい》にすぎない。――」
「…………」
「噂にきく、御幼君時代からの御凡庸、それが御襲職以来、とみに御高慢、御奇矯、おんわがままの度を加えられ、老獪《ろうかい》なる土井大炊頭どのの御演出で、なんとか御恰好がついておるときく。――」
「…………」
「さりながら、大炊頭さまはまず御老体、いつの日か、御大老に万一のことあればいかが相成るか。――わしは、何か起こらずにはおかぬと見る。はっきり言えば、いまの天下は危いと見る。さらにはっきり言えば、当上様、われらにとって頼むに足らず、いま見捨てられてもみれんはないと見る」
筏織右衛門は右陣を見ている。じいっと凝視しているようでもあり、瞳孔《どうこう》散大して放心状態にあるようでもある。
「織右衛門、ゆこう」
「どこへ?」
と、織右衛門は瞑想から醒めたように言った。
「この甲州街道をこのまま西へ――甲府へ」
「甲府へ?」
「曾て、諸大名に廻状が廻ったという話を知っておるか。暗愚なる現将軍家を廃し、おん弟君の駿河大納言忠長卿を奉じようという。――わしの見るところでは、廻状の出どころは土井じゃ。それで諸大名の反応を験《ため》そうとしたのだ。この廻状を見て一笑に付せず、律義《りちぎ》一遍、おどろきあわて、ただちに公儀に届け出た者を以て合格とする。――しかし、火のないところに煙は立てられぬ。忠長卿をかかる立場に置けば、諸大名のうちでも少なからず心をうごかす者があろうと思わねば出る智慧《ちえ》ではない。言いかえれば、忠長卿は天下の将軍として立ち得る御器量の持ち主でおわすのだ。わしから見れば、むしろ忠長卿の方が、はるかに民のため、天下のため、将軍としてふさわしいお方に思われる。――」
「…………」
「織右衛門、現将軍家から見捨てられたわれら、ここでいちかばちか、さいころを忠長卿にかけて振ろうではないか」
「…………」
「しかも、天下動乱の雲立ってから、はじめて忠長卿のもとに馳せ参じたとしても、われら軽輩のなすところはない。むしろ、いまかかる破目となったのがもっけの倖《しあわ》せ。いまのうちだ。断じて、やぶれかぶれ、追いつめられて忠長卿のもとへ走るのではなく、むしろわれらから積極的に忠長卿のおんふところにとびこみ、忠長卿をうごかしたてまつろうではないか?」
さすがに、虫籠右陣も蒼白になっている。
「その忠長卿は、いま甲府におわす。――」
「――ううむ」
と、はじめて筏織右衛門はうなった。が、それっきり何も言わない。――
「われら、しがない忍者ふぜいに、そのような大それたことができるかとおぬしは言うか。できると言う。忍者なればこそできると言う。忍者でなくてはできぬやりかたでやるとわしは言う。――織右衛門、この右陣の智慧、才覚を信じてくれい!」
一見、ユーモラスな顔と体躯に似ず、この男の頭が剃刀《かみそり》みたいな冴《さ》えを持っていることは、さっきからの弁舌ぶりでわかるが、その眼がふいにもちまえの愛嬌をたたえて、
「とはいえ、是非おぬしの力を借りたい。――いや、おぬしの驚くべき忍法を知った上は、どうあっても手離せぬ。――」
と、言った。
「ところで、このようなことを企《たくら》んで、万一御公儀に発覚したら、伊賀組、根来組にいかなる運命が見舞うかと、おぬしはそれを心配するかも知れぬ。が、わしの方は大丈夫だ。わしの逐電したことは、危いと見れば雲を霞と逃げ去るのがわしの忍法じゃから、それではその手を使ったかと、みんな苦笑して終わるに相違ない。おぬしの方もゆくえをくらましたとて、女房を大奥でなぶり殺しにされた夫なのじゃから、おぬし本人はともかく、まさかあとあと伊賀組にはたたるまい。むしろおぬしがいなくなった方が、あとに波風立たんでよいかも知れぬ。――いずれにせよ、もはや不合格ときまった伊賀組、根来組ではないか。それほど案ずるには及ぶまい」
何が可笑《おか》しいのか、このとき大きな口がニヤッと笑って、
「さて、これからの企みじゃが、万一事が発覚しても、まず御公儀には知れぬやりかたでやる。――忍者なればこその手だと言ったのはここのところじゃ」
と、ささやいた。
「例えば、わしの忍法ぬれ桜、おぬしの忍法任意車、これを合成すれば、いかなるものが出来ると思う?」
「…………」
「お麻どのの遺志をつぐ。いや、お麻どのの遺志ではないが、あの手をもういちど使う。あの失敗にかんがみて、こんどは絶対にうまくやる」
「…………」
「色を以て将軍家のおんいのちをちぢめる」
「…………」
「わしのぬれ桜にかけた女が、男に対してどれほど恐ろしい力をあらわすか、おぬしもとくと知ったろう。その女に、おぬしが乗り移る。こんどははっきりと将軍家のおんいのちをちぢめる意志を以て。――しかも、それを、刃を以てせず、色を以てするのじゃ。さすれば、いかな土井どのとて、まさかその背後にわれらがおるとはかぎつけることはかなうまい。――」
「…………」
「将軍家御|腎虚《じんきよ》、これをなし得るもの根来のぬれ桜と伊賀の任意車、いや、これを合体して忍法ぬれ車とでも呼ぼうか」
「…………」
「しかも大義名分は、名君駿河大納言さまのおんために」
「…………」
「どうじゃ、筏織右衛門!」
闇の中に、織右衛門の眼がしだいにひかり出していた。地のうなるように、彼は言った。
「やろう」
「や、やってくれるか!」
「お麻の無念をはらすためなら、わしはいかなることでもやる」
雨ふりしきる闇夜のぬかるみの上で、泥だらけの二つの手が、しっかりと握手した。
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駿河大納言
ここ甲州にもながいあいだふりつづいていた雨が、からっと明けた。
ふいに夏らしくなったその蒼空《あおぞら》を、矢のように鈴の音が走ると、二羽の鳥がもつれあって、野の果てに落ちていった。尾羽根に鈴をつけた鷹《たか》が雉子《きじ》をとらえたのである。
まず犬が走り、それから馬にのった鷹匠が駈け、そして侍たちがあとを追っていった。
「やはり、鷹はよいの」
と、笛吹川の河畔に馬を立て、こぶしに鷹をすえた徳川忠長はかえりみた。
「はい。――」
市女笠《いちめがさ》の下で、鷹のゆくえよりも忠長を見まもっていた眼に、微笑をたたえてうなずいたのは愛妾の小督《こごう》だ。
鷹狩りは、冬と秋が多く、原則として夏は行わない。それなのに忠長がきょう鷹野に出て来たのは、やはり長雨の鬱屈《うつくつ》をはらいたいためであり、また小督をつれて来たのも、同じ快を味わわせてやりたいためであったろう。
徳川忠長。このとし二十七歳。兄の将軍家光より二歳の下だが、祖母の――と言っても、あまりにも若くして死んだ――織田家のお市の方の世にきこえた美貌は、兄よりもこの忠長の方に伝えられている。秀麗な面《おもて》には、どこか憂愁の翳《かげ》があった。
この甲州とともに駿河をも与えられて五十五万石、世に駿河大納言と言う。ただし、おととしなんら明白な理由もなく甲州へ帰国を命じられて、江戸へも駿河へも出ることをゆるされず、爾来ずっとこの甲州にいる。
憂いの翳は、そのためもあったろう。彼は身をつつしんで、甲州に来て以来、いちども鷹狩りなどやったことはない。それをきのどくがって、以前から放鷹《ほうよう》をすすめていたのは、小督の方であった。
で、それに応えて、ようやく忠長はきょう城外の鷹野に出て来たが、大がかりな勢子《せこ》など使わず、愛妾の小督とその侍女二人、老臣の鳥居土佐守をのぞいては、鷹匠をもふくめ十五人ほどの小人数の放鷹であった。
「――はて?」
と、馬をならべていた鳥居土佐守がのびあがった。関ケ原の役の火ぶたがきられたとき、伏見城で西軍をくいとめて忠死した鳥居彦右衛門の子という徳川家名代の老臣である。
「殿、しばらくお待ちを」
何を見たか、土佐守は馬に鞭《むち》をあてて、いま鷹匠たちが駈けていった野の果てへ疾駆していったが、やがて、一団となった家来たちとともにひき返してきた。その中に、妙な風態の人間を二人とりつつんで。
浪人風の二人の男は、忠長の馬前にひざまずいた。
「何者じゃ?」
と、忠長が見下ろした。
「よい、みな、すざれ」
と、鳥居土佐守は家来たちを遠ざけ、いきなり刀をぬくと、二人の背後にまわり、さてささやくように忠長に言った。
「草の中にひそんでおったこの両人、拙者に容易ならぬことを耳打ちいたしてござる。このものども、江戸の御公儀忍び組と申すことで」
「公儀忍び組――?」
忠長は眉をひそめた。
「それが、なぜこの草の中に?」
「御当家に随身の望みあって、と申しておりまする」
と、土佐守が言った。疑心にみちた声だ。
「江戸|直参《じきさん》の者が?」
忠長の顔にも不審の雲がかかっている。
「されば」
と、一人が口を切った。まるまるとふとって、ばかに陽気な顔をした男の方だが、その顔と姿を見ただけで、そもそも公儀忍び組の者であるというそのことがまず怪しげに思われる。
「いずれ、追い追い申しあげまするが――このたび御公儀では、忍び組三派のうち甲賀組のみを残され、伊賀根来二派を廃せられることに内定したのでござる。これがいつわりでないことは、念のため御当家よりお探りを入れさせらるれば分明になることで――拙者はその根来組の虫籠右陣、これは伊賀組の筏織右衛門と申すもので」
「伊賀根来の廃止? あり得ぬことだ!」
と、土佐がうしろで言った。
「拙者どももそう思っておりました。が、土井大炊頭さまは、あり得ぬことをなされます」
「大炊どのの御意向か。――」
と、土佐守はやや鼻白んだ。その人を思い、このあり得ぬこともあり得ることだという考えが、その頭をかすめたらしい。
「よし、それが事実としても、御公儀の忍び組を当家にそっくり傭《やと》い入れることなど相成らぬぞ。左様なことを、御公儀がゆるされるものかは」
「むろん、ないしょの話でござる。しかも、お拾い下されたいのは、いまのところこの両人だけ」
と、虫籠右陣はおちつきはらって言った。
「望むところは、もとより伊賀と根来の命脈を御当家にすがって伝えたいということでござりまするが――口はばたき申し分ながら、御当家の御命脈をも、われらの力によってもお護り申しあげたいからで」
「なに?」
「ここ数年、御公儀より御当家への風向き、何やら恐ろしきものあるをお感じにはなりませぬか? 拙者どもからみても、大納言さまおいたわしや、いや、大納言さま危し――という危惧《きぐ》の念切なるものがござりまするが」
「な、なぜだ?」
と、忠長はうめいた。思わずもれた苦鳴にちかい声であった。
「なぜわしが江戸からかくまでにらまれなければならぬのじゃ? わしは将軍家に対して、何ら異心不平を抱いてはおらぬに。――」
「なんの大それた心はないに、先日、肥後の加藤家がとり潰《つぶ》されたこと、御存じでござりましょうが」
忠長と土佐守は顔見合わせた。
参勤した加藤家の行列が江戸に入ることをゆるされず、そのまま家は改易となり、忠広は出羽へ配流せられたという報告は、数日前に受けたばかりであった。しかもその罪状については、なんら知るところがない。――
「加藤家は元来豊臣につながる家柄じゃ。御当家とはちがう」
と、土佐守は言った。みずからに言いきかせるがごとく、
「大納言さまは、恐れ多くも将軍家のおん弟君じゃ。外様《とざま》の加藤家とはちがう!」
「御公儀内々の噂《うわさ》では、例の廻状《かいじよう》――大納言さま御擁立の廻文を、肥後守さまがお届けでなかったことがその罪状であるらしい、と申しておりまする」
右陣はうす笑いした。
「むろん、言いがかり、口実でござるが」
「なんにしても、左様なもの、大納言さまはまったく御存じでないことだ! 御当家には一切関係のないことだ!」
「つけようと思えば、どのような言いがかり、口実をつけることもできるという、加藤家がその見本でござる」
大納言忠長も鳥居土佐も面色|蒼《あお》ざめていた。いまやこの男たちが公儀忍び組の者と名乗っていることは、万に一つもまちがいのないことだと思われる。そうでなくては、これほどの秘事をこれほど自信を以て口からもらせるものではない。
「されば、いま申したごとく、大納言さま危し、大納言さまおいたわしや――と」
「御公儀が何をお企みなされようと、余は何もせぬ。余はひたすらつつしんでおる」
感情をおさえた声で忠長は言った。
「何もせず、ひたすらつつしんでおる者に、あまりに非道無態な仕打ちをすれば、世の耳がある。民の口がある。いや、天の眼というものがある。それにそむけば、諸大名とて長く心服するものかは。――天下は天下の天下であって、ただ一人の天下ではないぞ」
「さ、そこが問題なのでござりまする。大納言さまが左様に御確信を持たれ、その御信念が天理に叶《かの》うておるところが。――」
右陣は声をひそめた。
「これも内部の風聞でござる。土井大炊頭さまが、このたび甲賀組のみを忍び組となされたのは、よほど密々のおん企みあって、それを甲賀組だけに命ぜられるための御支度ではあるまいか。――」
「密々の企みとは、何を?」
と、土佐守が背後で嗄れた声を発した。右陣は言う。――
「忍び組の本領は、探索、流言、放火、暗殺。――」
「御公儀より、大納言さま暗殺の刺客を送ってくるということか?」
「いや――拙者はただ風聞であると申しておりまする。ただそのような風聞をきいたとき、われらとて人の子でござれば、もしそれがまことならば、陰険卑怯、言語に絶す、左様な御下知を受けた者こそ大難の至り――と語り合ったことでござる。されば、このたびわれらが御公儀より袖《そで》にされましたは、考えようによっては、かえって人間としての倖《しあわ》せ。――」
「なんで、その方ら、忍び組から追われた?」
と、忠長が言った。
「御大老土井さまの御査察に落第したのでござりまする。その落第した伊賀と根来の代表選手が、この両人で」
と、右陣は平然と言った。
「うぬら、御大老の御査察によってしりぞけられたというのは、何ぞ失態あってのことか、それとも技倆《ぎりよう》未熟のゆえか」
と、土佐守が言った。
「いや、その御査察の眼が狂っておったのでござる」
「先刻、たしか大納言さまのおん命を護るために推参したと申したな。御公儀からふられた忍者が、御採用の甲賀者を防げるというか、つじつまの合わぬことを。――そもそもうぬらの現われよう、申し分、いずれも唐突であり、不審のかどがある。殿、御用心なされませ!」
と、忠長に声をかけた。
「こやつら、火のないところに煙をたてて御当家にとり入ろうとする痴《し》れ者か、それとも――」
と、くびをひねって、
「万が一、御公儀の忍び組で、その申すことがまこととしても、左様なもっともらしい口実で殿にちかづき、うぬら自身が凶念を抱いているのではないか?」
「お斬りなされい」
と、右陣は言った。
「御家老、不審と思し召すなら、いまのうち、拙者ども、お斬りなされい」
鳥居土佐は、二人の背後に立って、刀をつきつけていた。最初から、彼らの素姓をきいて、これはただごとにあらずと主君の前につれては来たが、老人らしい用心ぶかさで、曲者と判明すれば一閃《いつせん》して斬りすてるべく、刀身をぬきはらってあらかじめ警戒していたのである。
「われらが物好きや冗談で推参したのではないあかしを御覧に入れる。両人のうち、いずれもそこから斬られて結構、さあさあ、御遠慮なく。――」
なお土佐守は胆をぬかれた顔をしていたが、このときこのまんまるい男が、両手で眼をふさいで見せたふざけた姿に、かっとして、
「こやつ――ひとを嘲弄《ちようろう》するか!」
と、背後から、その刀をふり下ろした。
土佐としては、この男の素姓口上、その実否のいかんを問わず斬ってもよいという本能的な判断に達していたし、それに彼は、老人とはいえ、大坂の役にも馳駆して感状をもらったほどのつわものであった。
豪刀とも言うべき刃風《じんぷう》の下に、虫籠右陣の姿はなかった。
右陣は横に飛んでいた。飛ぶというより、地に坐ったままの姿勢で、気球の流れるように横一間の位置に移っていて、
「ばあ!」
と、顔から両手を離したものである。
「あっ」
鳥居土佐守がさけんだのは、それを見たからではない。彼はそれを見るいとまがなかった。なぜなら、空を切ってながれた豪刀が、ふいに空中でうごかなくなってしまったからだ。
刀は、べつの二つの掌《て》のあいだにあった。ふとった男とならんで、いままで一語も吐かず微動だもしなかったもう一人の沈鬱な男が、両手をのばして、ながれて来たその刀身を、拝むように両掌を合わせてピタとはさんでしまったのである。
土佐の満面は朱に染まり、刀をひこうとした。が、それは子供から棒切れでも奪うように、ぐいとそのまま相手にもぎとられてしまった。
「大納言さまに対して最初から凶念あらば」
遠いところで、まんまるい男が、きゅっと笑った。
「かくの通り」
何でもできる、という意味だ。それから、あごをしゃくって、
「その伊賀の筏織右衛門なる者、妻を将軍家に奪われ、殺された男でござる」
「なんと申す?」
「そのお恨みもある。また御家老の申されるごとく、われら御当家にすがって、伊賀と根来を再生させたいという望みもござる。それは否定いたしませぬ。げんにこの通り、われらから正直に申しのべております。しかし、断じてそれだけではない。――」
眼をあげ、忠長を見つめて言った。
「大納言さまの御運命、おいたわしやと存ずればこそでござりまする」
「土佐」
と忠長は言った。
「こやつら、面白い奴らではないか?」
「何が――」
と、鳥居土佐守が言いかけたとき、筏織右衛門は、奪った刀を両手にささげ、しずかにさし出した。老人はいよいよ真っ赤になって受け取った。忠長は微笑した。
「こやつらのわざ[#「わざ」に傍点]がだ」
「あいや、殿。――」
「恐るな、土佐。……このものどもの真意が何てあろうと、余の兄上に対する忠誠の念は変わらぬ。そういえば、爺《じい》も安心するであろう。ともあれ、ふしぎで、面白い奴らだ。余も小督も田舎暮らしで、退屈しておったところ。それに、ききたいこともある。――しばらく、城で飼うてやろう。侍に命じて、城へつれてゆくように申しておけ」
「――はっ」
土佐守より早く、二人の公儀忍び組の男は、草の上に平蜘蛛《ひらぐも》みたいにひれ伏していた。
――世評の通りだ。はるかに兄貴よりこっちの方がまとまって[#「まとまって」に傍点]いる、と平伏したまま、虫籠右陣は腹の中で考えた。
二十七歳の青年大納言らしく、いかにも多感なところがあるが、またおのれを制する力も持っている。見るからに優雅だが、しかし、えたいの知れぬ忍者を面白がって、飼っておけという放胆なところもある。
――いずれにせよ、ともかくも目的は達した。
右陣にとっては、第二の目的だ。こんどは相手が素人だけあって、一見むずかしそうだが、その実、第一の目的であった筏織右衛門を相棒にひきずりこむ手段より、はるかにらくであった。
と、思い出して、傍《かたわら》の織右衛門をそっとかえりみたが、この沈鬱重厚な男は、依然一語も吐かず、土に手をつかえたままであった。
右陣は、苦り切って立っている鳥居土佐を見て、満面に愛嬌《あいきよう》をたたえて言った。
「老婆心までに申しあげまする。われらの素姓、あまり公になされませぬ方が、やはり御当家のおんためでござりましょうな、いまのところは」
それから数ヵ月。
二人の忍者は、甲府城内で暮らした。
むろん、一般の家臣は、これが元公儀忍び組の人間であるとは知らない。笛吹河畔のお鷹野での奇妙な出現ぶり、また主君や家老との応対ぶりは見ていたが、問答の内容はきかなかったから、たんにありふれた世の浪人であろうと思ったのである。
ありふれた――事実、世には、浪人がありふれていた。幕府による大名の改易は相ついでいたからだ。その浪人を召し抱えられたのは、逆にまた彼らがありふれていない浪人だからであろうとも見ていた。家来たちも、あのとき鳥居土佐と彼らとの一場の活劇は遠望していたが、それは手並みを試されたものであろうと判断したのである。まさかあれが忍法とも彼らが忍者とも、想像のしようがない。
しかし、この二人の風貌は、いずれもそれぞれ異彩を放っていたが、城内でのふるまいは尋常なものであった。
虫籠右陣は実に陽気で、だれにもまんべんなく愛嬌をふりまくし、諧謔《かいぎやく》と滑稽でひとのおとがいを解かせるし、筏織右衛門はうっそりと黙りこんで動かないが、陰鬱に見えるのは最初の第一印象だけで、よく見ていると人なつこく、暖かく、さらにいつのまにか実に信頼できる人間だという感じを与えてくる。
侍たちがしだいに彼らの出現ぶりへの疑惑や素姓への探索を忘れたのみならず、忠長や愛妾の小督さえも、しばしば彼らをちかづけて談笑し、むしろそれを愉《たの》しむようにさえなって来たのだ。
忠長は、いつぞやの筏織右衛門の手並み――鳥居土佐守の刀を両掌にはさんで受けとめた妙技が頭に残っているらしく、しばしば彼にその剣技を見せよ、と言った。これに対して、織右衛門は固辞したが、やむを得ぬ破目となって二、三度その片鱗を見せたことがある。
「御家中の方々と試合するのも憚《はばか》りがござれば」
と言って、彼は一人の小姓のひたいに飯粒をつけ、前に坐って抜き討ち一閃、その飯粒を二つに切っておとしたのである。小姓は戦慄《せんりつ》していたのに、そのひたいには微傷もなかった。
また、或るとき。――
旗差し物の竿《さお》の良否をためしているとき、ちょうど織右衛門がその座にあり、「ちょっと拝見」と言って、そこにあった数十本の竿をつかみ、一本一本打ち振ったところ、みな折れくだけてただ一本だけ残ったことがあった。彼は言った。
「これだけは八幡大丈夫と存ずる」
また、或るとき。――
忠長もいる酒宴の際、夏のことで蠅《はえ》が二、三匹とんで来て、織右衛門の肴《さかな》にとまった。たまたまそのとき彼は、忠長からまたなんぞ武技を見せよとすすめられていたが、黙って彼がしていることを見て、忠長は眼を見張った。織右衛門は二本の箸《はし》で、うごいている蠅をかろくつまんで捨てていたのである。
「……はてな?」
と、鳥居土佐守はくびをひねった。
土佐守は、いつか武辺話にきいた当代の或る大剣士のそれに似た逸話をふっと思い出したのである。その名、新免武蔵。――
土佐守のみならず、実は右陣も心中に舌をまいていた。じぶんが相棒にとりこんだこの伊賀者が、これほどの武芸の体得者とは、そこまで期待していなかったのだ。
「虫籠の方はどうじゃ」
そんなとき、忠長にふりかえられると、右陣は狼狽《ろうばい》したていで、
「いや、拙者は――」
と言って、ニタニタ笑う。
「拙者のわざは、一旦緩急の場合にこそ御披露つかまつる。そのときにはこの筏など尻もちをついて驚くでござろう」
鳥居土佐守の豪刀の下を、反対側をむいて坐ったまま横へすっ飛んで逃げた体術から、それもあながち法螺《ほら》ではないと思われたが、しかし忠長はこの愉快な男に、べつにその方のわざを期待しない――期待しなくてもよい心境になっていた。
右陣は、実に面白いことをいう。
「大納言さまは、この甲斐と駿河二国の大守でおわしまするのに、いま甲斐一国に閉じこめられて駿河へお移りをおさしとめになっておりまするのは、実におきのどくでござりまするなあ」
これを、群臣の前でぬけぬけと言う。これは一同|懊悩《おうのう》のまとになっていることだから、みな鼻白んでしーんとしていると、
「だいいち、富士もあちら側で見た方が絶景でござる」
と言い、さらに、扇子でみずからを煽《あお》ぎながら、
「甲斐で見るより駿河一番、と申しましてな」
と、鼻うごめかして、澄ましこむ。
家来たちはどっと哄笑した。嗅いで見るより、するが一番、という駄洒落《だじやれ》がわかったのである。笑いの波に小督の方がふしんげな表情をし、やがて顔あからめるのを、大納言はまだわからず、近臣にきいて説明を受けてもまだ納得できないおももちである。それが可笑《おか》しいといって、またみな笑う。
重大なことを言うとみせかけて諧謔をとばす右陣は、諧謔をとばすと見せて実に重大なことを言った。
「山本勘介とかけて、駿河大納言さまと解く。心は?」
と、問うて、じぶんで答える。
「心は、才、甲斐にふるう。これだけでは面白うもござらぬが、その間に、九郎判官義経のふくみがあるから面白いので」
「何が、義経じゃ?」
と、鳥居土佐がきく。
「つまり、西海にふるう、西海壇ノ浦に威をふるった源九郎でござる。実は当代の義経公は駿河大納言さまだという世の噂を御存じありませぬか? そのおん貴種、御聡明、御武勇、おん男前ぶり――なかんずく、その不遇の御運命が――ああいや、拙者が申すのではありませぬ。巷《ちまた》の声をお伝え申すだけで。――世評どころではない、いつぞやわれら、命ぜられて幕臣の声をひそかに集め、その統計をとったことがありまするが、その七割までが、本音を打ち明ければ、ああ、御兄弟、さかしまでおわしたら――という痛嘆の声でござりました」
さすがに右陣も心得ているとみえて、こんなことを言うのは、傍になみの家臣などいないときだが、それでも忠長は、はっとしてあたりを見廻すことがあり、家老の土佐はきっとにらみつけることがある。そんなとき右陣は、もうべつの冗談に移っていて、女みたいにかん高い声でゲラゲラと笑っているのであった。
たまりかねて、土佐が、
「これ、右陣、あらぬ阿諛《あゆ》、大それたそそのかしを申すな」
と、叱りつけると、たいていは、へへっとひたいをたたいて平伏するが、ときには、
「これは天の声が拙者の口をかりて言うことでござる」
と、厳粛な声調でつぶやくこともあり、また、
「うぬら、世に波立ててそれに乗じ、うぬらの野心をとげようとするか」
と、叱咤《しつた》されると、
「いくぶんは、その下ごころあるやも知れませぬな。このことは最初から申しあげてあります」
と、ひらきなおるかと思うと、
「さりながら、世に波立てるは拙者どもにあらず。残念ながら拙者どもに、左様な力はありませぬ。波は外から、もっと大きな力で、いやでもおし寄せて参る。そのときになって、はじめて拙者どもの申すこと思いあたられよう。またそのときこそ拙者どものお役に立つこと、おわかりいただけようと存ずる」
と、切々たる調子で言う。――
鳥居土佐守は少なからず気をもんで、彼らがそんなことを言って退がったあと、忠長に釘を打つことを忘れなかった。
「殿。……彼らの言葉に耳をおかしなされまするな」
「わかっておる。爺、案ずるな」
と、忠長は一笑することが多かったが、しかし、何かのはずみには、
「しかし、きゃつらが余を義経に例えたこと――義経の運命が余に見舞うであろうと申したことは、或いはまちがいないのではなかろうか、爺?」
と、苦悶にみちた眼で見返すこともあった。鳥居土佐守は、返答ができなかった。
――そもそも家光忠長の兄弟のあいだに暗いものが漂っているのは、近来はじめてのことではなかった。彼らがはっきりした意志を持たない幼年時代からのことであった。
二代将軍秀忠の嫡男竹千代、次男国千代。
本来ならその相続について何の波瀾も起こるはずはないのに、それが早くからもめたのは、秀忠とその御台《みだい》――二人の生みの母――が、文句なく弟の国千代に眼をかけ、これを兄の竹千代より愛したからであった。盲愛ではない。だれが見ても弟の方がはるかにすぐれた少年であったからだ。
いちじは国千代が江戸城本丸に住み、竹千代が一段格の下がった西の丸に住んでいたほどで、幕閣の人々すべて、三代将軍に予定されているのは国千代君、と見込んで疑わなかったほどであった。
これを逆転させたのは、竹千代の乳母春日の局である。
春日の局は駿府に走り、大御所家康に、竹千代を正統の相続者として指定するように嘆願した。
家康は沈思の末、これを受け入れ、秀忠にその意向を伝えた。
いかなることでも偉大な父に従う秀忠が、このときばかりは、容易にくびをたてにふらなかった。戦国の生存競争の凄じさを体験している彼は、馬鹿では天下を継げないことを知っていたのだ。げんにじぶんが長男ではない。父はあとを委《まか》すに足るはこの秀忠とみて、荒々しく狂的な兄の秀康を拒《しりぞ》けて、じぶんを後継者としたではないか。そして、見たところ竹千代は、あの秀康をさらに劣悪にしたような素質なのだ。
が、家康の判断はちがっていた。彼はすでに乱世は克服したという自信を持っていた。これからさき徳川家を磐石《ばんじやく》たらしめるのは、何よりも忠誠無比の官僚組織だとみて、その育成にこころがけていた。徳川家を伝えるものが子孫の優劣によって左右されては、かえって混乱をひき起こす。むしろ厳然たる長子相続制の原理を確立しておいた方が大過がないと見通したのだ。
抗争は陰湿をきわめた。次男国千代を愛する秀忠の御台が織田信長の姪《めい》で、長男竹千代をおしたてる乳母の春日の局が明智光秀の姪であるということも宿命的であった。
しかし、ついに大御所家康の意志がすべてをおし切った。
竹千代が三代将軍家光となったのは、元和《げんな》九年のことである。弟の国千代は大納言忠長として甲斐駿河五十五万石の領主となった。
それからまず平静に七、八年がすぎた。そのあいだに家光の地位とそれをめぐる体制はほぼ確立した。
駿河大納言忠長が所領甲州へ帰国したまま、当分参府の要なし、という命令を受けたのは、おととし寛永《かんえい》七年秋のことだ。なんのいわれでそんな処置を受けたのか、何びとにもわからない。しかし、事実は忠長もその家臣も、おぼろげにそのゆえんを知っていた。昔日の争いがいまに至って祟《たた》ってきたのである。
昔日の争い――と言っても、忠長にとって罪はない。それは彼にとって西も東もわからない幼年時代のことだったからだ。
優秀児らしく覇気もあった忠長は、しかしこれで粛然とした。彼は兄に代わって将軍になりたいと望むほど大それた野心はなかったので、爾来、よくつつしんで、甲府にひそと謹慎していた。
それにもかかわらず、それからも外から波が立つ。例の忠長擁立の怪文書事件などがその例だ。
「……殿、罠《わな》にかかってはなりませぬ」
必死に家老の鳥居土佐が言った。名代の老臣ほどあって、彼は若い主君が危険な立場にあることをよく認識していたのだ。
「頭を下げて、何もせぬ者に、だれがどんな仕打ちができましょうか」
「わかっておる、爺、わかっておる」
「それに、江戸にもわれらの同情者はござります。たとえば寛永寺の天海大僧正のごとき。――」
甲府に来てから、いちど富士山麓で狩りをしたことがある。すると、「富士は殺生《せつしよう》禁断の山である。そこで狩りをなさるとは、殺生大納言ともいうべし」という風評が江戸でささやかれているときき、忠長は苦笑していたが、さらに、「殺生大納言――実によく家来や民を手討ちになさる荒大名であるそうな」という根も葉もない噂に転化していることを知って、さすがの彼も歯をかんだ。
「爺、これは謹慎の有無にかかわらず、あくまで余を葬ろうとする悪意の奸謀《かんぼう》ではないか」
聡明で、多感な忠長だけに、われ知らず立ちあがって、江戸の空へむけた眼に、ただならぬ色の満ちたのは是非もない。
「殿、御辛抱を――ひたすら、御忍耐を」
と、土佐は主君の袴《はかま》の裾をつかまんばかりにして言った。
「それもまた、こちらを叩き出そうとする啄木鳥《きつつき》の術。それに乗ってはなりませぬ。いまは隠忍こそ、それに対抗する最良最大の兵法でござりまする。あちらも人間、そのうちくたびれましょうし、世の眼というものもござる。風が吹きやむまで、ただ靡《なび》いておいでなされませ」
そして鳥居土佐は、江戸のじぶんの縁戚からひとりの美女を探して来て、これに小督という名をつけて、忠長に献じた。主君の心をなごませるためである。
小督は顔やすがたのみならず、心もやさしい女で、よく忠長を慰めた。忠長も彼女をふかく寵愛した。
「爺、甲斐の春秋もまた愉しいものであるな、余は、江戸へ帰れと言われても、もはや帰らぬかも知れぬぞ」
と、ときに彼は笑って言うまでになっていた。
隠忍こそ最良最大の兵法――という老練土佐のやりかたは図星であった。もし江戸の空に耳があったら、そこの城の奥ふかく、いらだちの舌打ちとともに大きな嘆声をきいたであろう。
さて、そこに二人の変な男が甲府に現れたのである。そして、そのうちの一人、虫籠右陣が陰に陽に、忠長の悲劇に同情の意を表し、その不平を煽動《せんどう》しようとしている。――
これも江戸の例の啄木鳥の権謀ではないか? と、当然土佐は疑った。それで彼は、ひそかに江戸に手を廻して調べて見た。
すると。――
どうやら、公儀忍び組の査察云々のことはまことらしいのだ。まだその結果は具体的にあらわれてはいないが、伊賀と根来が失格したことは事実らしいのだ。そして、大奥に於《おい》て伊賀組の妻が非業の死をとげたこともまた事実らしいのだ。
「……きゃつら、ほんものだ。少なくともその素姓にいつわりはない。――」
鳥居土佐もこれは認めざるを得なかった。
その上。――いちがいに彼らを放り出せなかったのは、公儀からの暗殺の手がのびるということも、絶対にないとは言えない、ということも彼は認めざるを得なかったからである。虫籠右陣はともかく、筏織右衛門という男の武術は、たしかに頼むに足りるようだ。武技よりも、その人柄が土佐好みだ。さらに、大奥で殺されたのが、あの男の妻であったとは。――
土佐は彼らを見つつ、腕を組んでいた。
「大納言さまには、まちがいなく天下の将軍家としてお立ち遊ばす御器量の持ち主でおわす」
「恐れ多いことを申しあげまするが、大納言さまの方が、はるかに民のため、天下のため、将軍としてふさわしいおん方に存じあげまする」
「これは決して、いまはじめてこの口から出す言葉ではござりませぬ。以前からの持論で、これはこの織右衛門もきいたことがあるはずでござる。のう、筏!」
虫籠右陣は、ついにこんなことまで口にするようになった。
ただ右陣がしゃべるだけならぬけぬけとしたおべっかにきこえるが、これを傍にいる筏織右衛門が重厚にうなずくと、それが千鈞《せんきん》の重みを与える感じになるからふしぎである。事実、ちらっちらっと忠長も織右衛門の方を見るようだ。
「……やはり、いかん」
と、ついに鳥居土佐守が決意したのは、その年も十二月に入ってからのことであった。
「きゃつ、じぶんの野心のために、大納言さまのお心を乱して一旗あげようと思うておる。筏の方は惜しいが、やむを得ぬ」
そして老人はひそかに二人を呼んで言いわたしたのである。
すなわち、ここ三日以内に城を退去しなければ、両人の存在を江戸に通告する。それ以前に消え失せるなら、黙って見逃してやろう。これはわしの慈悲と思え。――
忠長の愛妾小督が自害したのは、それから二日目の雪の夜のことであった。夜、忠長が寝所に入ると、彼女は夜具の裾の方に白無垢《しろむく》の姿で坐り、片手をついてうなだれて、そのひざから畳にかけて朱《あけ》に染めていたのである。
「小督!」
まったく予期を絶したことであっただけに、忠長は眼を疑った。走り寄り、抱きあげてみると、彼女は懐剣をおのれの胸ふかく刺し込んでいた。
「どうしたのじゃ、これ小督、これはどうしたことじゃ!」
「小督のわがままをゆるして下さりませ。……」
忠長の胸の中で、白いあごをあげて小督は言った。
「そ、そちのわがまま? 余にはわからぬ。小督、わがままとは何じゃ?」
「わたくしを、江戸の上様が御所望遊ばしましたそうな。……」
「なんだと?」
「わたくし、知りませなんだが、江戸にいたころから、春日の局さまがわたくしを将軍家へ献じようとお目をつけられていたとかでござりまする。それで……このたび、上様のお望みに従うならば……大納言さま、御宥免《ごゆうめん》のこと、必ずとりはからうであろう。ひそかに大納言さまからおいとまたまわり、江戸へゆくように……それこそ大納言さまへのまことの御忠節と承りましたが……小督、そればかりはできませぬ。どのようにかんがえても、それはできませぬ。……」
「江戸の――将軍家が!」
「と申して、おことわりいたせば、殿さまに大難がふりかかって参りまする。小督、思案にあまり、心みだれ、このように自害をはかりましたなれど……死んだとて、殿さまに難儀のかかることは同じでござりましょうな。わたくしのわがままとはこのこと。……けれど……けれど。……」
息たえだえに訴えながら、ひしと忠長にしがみついて、
「やはり、わたくしは死なねばなりませぬ。殿さま、わたくしのわがままを、どうぞおゆるし下されまし。……」
「小督」
と、忠長はさけんだ。
「おまえにそのようなことを言ったのはだれだ。だれからそのようなことをすすめられた?」
「あの、土佐どのから。……」
「なに、土佐から?」
「それも、土佐どの、御苦衷のあまりのこと、……どうぞ土佐どのをおとがめなく。……」
小督の四肢に痙攣《けいれん》が走った。同時に彼女のくびはがくりと忠長の腕の外へ垂れて、ふいにそのからだが重くうごかなくなっていた。
大納言忠長は狂気のようにそのからだをゆさぶり、彼女がみるみる冷たくなってゆくのを感じると、自失した虚《うつ》ろな眼で宙を見た。ササササ……と庭に雪の音がきこえるが、彼の耳は真空状態にある。
それから、がばと立って、
「土佐を呼べ!」
と、絶叫した。
「だれぞある。土佐を呼んで参れ!」
大手門内の屋敷に住んでいた鳥居土佐守は、とるものもとりあえず駈けつけて来て、けげんな顔で寝所に導かれるや、その場の光景を見てこれも驚愕の表情になった。
「おぼえがあろう、土佐」
と、忠長は歯ぎしりして言った。
「――と、殿! これは、そもそもいかなる。――」
「だまれ、土佐、芝居をすな、白ばくれるな。うぬはかくまでして江戸に媚《こび》を売ろうとするか。いやさ、この忠長を江戸へ売ろうとするか」
「殿、な、何を仰せられるやら、土佐、かいもくわかりませぬ。これは。――」
その狼狽のていも、忠長には老獪《ろうかい》きわまるおいぼれの演技と見えた。
隠忍こそ最良最大の対公儀策――というこの老家老の忠言は忠長も受け入れて来たが、まさか愛妾を兄に献上せよとは、――しかも、これまでの土佐守の隠忍を勧める言葉があまりにも強いものであっただけに、その極まるところ、こういうこともあり得ると忠長は思った。
そもそも、いま眼前でみずから死んでいった女の、切々たる最後の言葉をだれが疑おう?
土佐守は、われに返ったようすでひざをすすめた。
「殿、小督さまをお手討ちにでもあそばしましたか。そ、それはまたなぜ?」
それもまた土佐のそらとぼけ、居直りと、なかば狂乱した忠長の眼には見えた。
「土佐っ、愛する女を捧げてまでも、忠長は無事をはかろうとは思わぬ。このたわけめ」
にじり寄って来た鳥居土佐守の頭上に白刃がひらめき、土佐は左肩から袈裟《けさ》がけに斬り下ろされて、血しぶきの中につっ伏した。
――その同時刻。
城内の塩蔵の闇の中で、虫籠右陣は飛び出すような眼で、前に横たわったものを凝視《ぎようし》していた。
横たわっているのは、筏織右衛門のからだだ。知らなかったら、屍体と思うだろう。彼は息もせず、瞳孔《どうこう》はひらいたままで、体温もほとんどないのではないかと思われるほどであった。
右陣はこの男を、城の或るところから運び出して来たのである。どこから?――大納言の御愛妾、小督さまのお部屋から。
一刻《いつとき》にもならぬ前、そこで筏織右衛門が愛妾を犯したのであった。これがふつうの人間であったら、小督の抵抗は言うまでもなく、そこへ忍びこむことさえ不可能であったろう。が、この両人にとっては無人の境をゆき、嬰児《あかご》の手を、ねじるようなものであった。小督の声さえ立てさせなかった。
それにしても。――と、右陣は筏織右衛門の姿を見つつ、奇妙な吐息をもらさざるを得ない。小督を犯すということは予定の行動だが、それにしてもその犯しぶりの凄じさは――と、思い出して、あらためて長嘆を禁じ得ないのだ。
実のところ、ここまで一蓮托生《いちれんたくしよう》の相棒となりながら、右陣にはまだよく筏織右衛門という人間や心境に不可解な点がないでもなかった。その沈鬱で重厚な彼が、果たして大納言の愛妾を凌辱《りようじよく》するなどという大それたことをやってのけるか、どうか。――そう約束しつつ、一点のおぼつかなさをおぼえていたのだが、やらせてみれば、まさに疾風迅雷、その光景を目撃していて右陣ほどの者が胴ぶるいをとどめ得なかったほどである。
――こやつ、女房の復讐のためなら何でもやると言ったのは、まさにその通りだ!
ともあれ、筏織右衛門は小督の方と交合した。
異変は起こった。それを知っている右陣もまざまざと見て、思わず恐怖のうめきを発したほどであった。犯された小督の方は、やがてみだれた衣服のまま身を起こし、胴をくねらせたなまめかしい姿態で、
「では、そろそろ御寝所へ参る」
と、織右衛門の声で言って、ニヤリと笑ったのである。伊賀忍法|任意車《にんいぐるま》。――
そして、犯した筏織右衛門は、死人《しびと》のごとく傍に伏していた。――それを右陣はかついで、闇の底をこの塩蔵まで運んで来たのだ。
いま。――雪の音が、蔵の戸に、ササササと鳴った。
右陣は筏織右衛門の透《す》き通るような瞳に、針みたいな光がともり、徐々にそれがひろがってくるのを見た。そして彼は――織右衛門が、じいっとじぶんを眺めているのを見た。
「……やった」
と、織右衛門は溜息のように言った。
「小督の方は死なれた。……しかし、例の仕事はぶじにすませて」
筏織右衛門はヌーッと身を起こして来て、じぶんの胸もとに片手をさし入れて、何やらさぐっているようであった。それから、重々しくつぶやいた。
「まだ体内に精液の生きておるうち、つまり任意車の効験のつづいておるうち、女が自害をすればどうなるか……これはわしもはじめての経験じゃが、女が死ぬとともに、魂はぶじ、わしに戻った。実験は、成功じゃ」
――だれが、知ろう。駿河大納言家の柱石であった家老を死に追いやった者が、この異次元の魔影たちであったとは。
ともかくも大納言忠長は彼の家老であるのみならず、徳川宗家代々の忠節の家柄の者を手討ちにしたのである。
公儀に届けが出された。手討ちの理由は「不届きの儀これあり」と書くよりほかに法はなかった。
これに対して幕府内でも種々|評定《ひようじよう》があったらしかったが、やがてそれに対する処置が伝えられた。
「このたび駿河大納言どの、高崎へ御逼塞《ごひつそく》の儀、上意の趣、申し渡されおわんぬ」
彼は本領たる甲府から、譜代安藤右京進の所領上州高崎に幽閉されることになったのである。
このあいだ、忠長はただ茫然《ぼうぜん》として、いかなるわけでこの破目におちたか、じぶんの運命がこれからどうなってゆくのか、思考の外にあるかのようであった。
ほかの重だった家来たちも、いかにすればよいか、何事も手につかぬありさまなのに、
「かようなときは、一応なお御公儀におわびのお書き付けを御提出に相なった方が然《しか》るべしと存じまする」
と、言い出したのは虫籠右陣である。
で。――
「われら召し使い候鳥居土佐、手討ちに及び候儀、重々まかりちがい、ただいまに至って後悔に候えども、是非に及ばず候。向後に於ては、万事、将軍さまのお指図次第につかまつるべく候云々」
という公儀への謝罪文の案文まで作ったのも右陣であった。彼はもうそこまで駿河家にくい入っていた。
年の暮れちかく、雪の甲州から雪の上州へ、蕭々《しようしよう》として越えてゆくわびしい駿河大納言家の行列の中に、饅頭笠《まんじゆうがさ》に面をかくしているとはいえ、たしかに虫籠右陣と筏織右衛門の姿もあった。
途中の一寒駅で、さりげなく忠長にちかづいた右陣は、ふとこんなことを言った。
「そう申せば土佐守さまは、あの数日前、拙者どもを御公儀に売ってお家の大事をはかる所存と申し渡されました。拙者どもはともかく、小督のお方さままで売ろうとなされましたとはなあ。御家老はお家のためならば、魂まで売られてもやむなしと思われたのかも知れませぬ。さりながら、人には――男には、がまんの限度というものがござりまする。殿がお手討ちなされたのも、ほんとうのところはやむを得なんだことと、拙者ども御同情申しあげておりまする」
忠長は、もはや二人に去れとは言わなかった。
――上州高崎。
領主の安藤家は、三河以来の譜代で五万六千六百石。当主の右京進重長はまだ三十を越えたばかりであったが、剛直を以ってきこえた人物であった。
高崎城内の座所ときめられた一劃に案内された忠長は、やや顔色を変じた。その一劃をめぐって、竹の虎落《もがり》がぐるりと結いまわされていたからだ。罪あっての蟄居《ちつきよ》にはちがいないが、将軍の弟に対してあまりな仕打ちと思われた。
「御公儀のお達しにてやむなくかくは致しましたなれど」
茫乎としてたたずむ忠長に、城主の安藤右京進はつらそうに言った。
「右京進、大納言さまにおん罪なきことはしかと承知。やがて御公儀のお心の霽《は》れる日まで、何とぞ胸をさすって御辛抱なされませ。及ばずながら右京進も、身命をつくして御宥免のおとりはからいあるよう奔走いたしますれば」
右京進は涙さえ浮かべていた。
「この虎落は、大納言さまを御監禁するためでなく、大納言さまを御守護するためのものと思し召して下されい。真実、右京進はそのつもりでござる」
たしかに忠長をあずかった安藤右京進は、忠長に対して心からの同情者であった。竹の虎落は結いまわしたものの、その待遇は鄭重《ていちよう》をきわめた。近臣の出入りは自由であった。
とはいえ、上州の冬は寒く、長く、暗かった。忠長の身辺に、虫籠右陣の陽気な笑い声はさすがにきこえなかった。
近臣にまじり、或いはその眼を盗み、影のごとく忠長にちかづいて、右陣は思いつめた眼でこんなことをささやいたのである。
「――この竹虎落の辱《はずか》しめは、大納言さまに御自害をすすめる御公儀の謎ではござりませぬか?」
「――しかし、殿、断じてその手に乗られてはなりませぬぞ」
「――とはいえ、かかることを、いつまでつづけよという御公儀の御所存でござりましょうか?」
彼は、冬のあいだ、こんな噂ともつかぬ噂を伝えた。
「――江戸にある将軍家の偏執的な御性向は、いよいよお昂ぶりの御様子に承りまする」
「かくては徳川家の御将来、いかが相成るやと、南光坊天海さま、井伊|掃部頭《かもんのかみ》さまらも御憂色、いわんや諸大名ら、いつおのれの首がとぶやと薄氷に坐しておるがごとく、不安の気は上下にみなぎっておると申す」
そして、早春の一日、右陣はついに、
「――徳川家のために、現将軍家の御消滅をはかってはいかが?」
という恐るべき計画をふと口にもらしたのだ。さすがに髪も逆立ち、沈痛凄惨の気はその全身からたちのぼった。
高崎に来て以来、唖のごとくであった大納言忠長も、このときばかりはぎらとこの途方もないことを口にした男をにらんだ。
「左様なこと、忠長は望まぬ」
「恐れながら大納言さまのお望みのいかんを問わず、これは天下万衆の望みでござりまする」
いつものように右陣はひれ伏さず、歯をくいしばってこう答え、忠長を見返した。
「大納言さま。……われらにひとつお委せ下さりませぬか?」
「なに?」
「いや、お委せ下されませ――など申しあげるは身の毛もよだつ、眼をつぶって、知らぬ顔しておって下されませ――と申しあげたいのでござりまする」
「た、たわけ、余は……兄君の弟であるぞ」
「いかにも将軍家のおん弟君でおわせばこそ、わざわざ事前にかようなことをお断り申しあげるのでござりまする」
右陣はひざをすすめた。むろんこのとき、傍には筏織右衛門のほかにだれもいない。
「とは申せ、万一、将軍家に異変とだれの眼にもわかる異変が生じましては、おそらく天下の疑い、大納言さまに集まりましょう。で、われらがやるならば、だれにも異変と見えぬやりかたで将軍家のおんいのちをちぢめ参らせまする」
「――だれにもわからぬ法で?」
「女色を以て」
右陣は厚い唇からチラと歯を見せた。
「左様なことか――と仰せられるかも知れませぬ。が、ここにいわゆる女色とは、ただの女色ではござりませぬ。その女人をひとたび見るときは男の心魂をゆるがし、その女人をひとたび抱くときは体液しぼりつくしてからからになるまで愛撫せずんばやまず――そのような女に、拙者どもが仕立てあげるのでござる」
「…………」
「お疑いなれば、近日この高崎より一女人を求め、その偽りならざることを御見に入れましてもよろしゅうござりまする。何にせよ、女色を以ておんいのちを縮め給う――これは、この筏織右衛門の妻を奪い、恐れながら大納言さま御寵愛のおん方を奪おうとなされ、いずれも死に至らしめ給うたおん方にふさわしいおん酬《むく》いではござりますまいか」
忠長の唇がヒクヒクとふるえた。それは捨て去ろうとしても捨てきれぬ深怨《しんえん》であった。
「しかも、現実には、われらの秘術を藉《か》らずとも、男の心魂をゆるがし男をしぼりつくす女人も世にないではござりませぬゆえ、何びとも背後にわれらの手がうごいておるとは感づくはずはなし、だいいち証拠の残らぬことでござりまする。また、将軍家へすすめるその女人に、われらのことを口が裂けても白状いたさせませぬ」
「それは、そちらの組の者か。根来か、伊賀者の女か。――」
「まさか。――」
薄いが、明らかな笑いが右陣の顔をかすめた。
「将軍家のおん胤《たね》を付かせんがため、先年より春日の局どの、四方に手をのばして将軍家お気に入りの女人を探し求めております。恐れながら小督さまも織右衛門の妻も、その御執心ゆえの犠牲者で。――その女に対して、われら秘術を施すのでござるが、ひとたび秘術を施せば、われらに対して忠実無比。――」
その「忠実無比」がすでに小督にあのようなかたちで現われたことは、大納言忠長の想像を超える。
「われらとて、いのちは惜しゅうござります。まったく無縁の女を用い、断じて拙者らの存在をかぎつけさせぬ自信がござる」
右陣は昂然と胸をそらし、さらに、
「いわんや。――」
別人のごとく決然と、
「大納言さまのおん名など、たとえ天地が裂けましょうと。――」
と、言った。
「たとえわれらが白状しようと、すでに御存じのように、拙者は根来組無断|逐電《ちくてん》の身の上、織右衛門に至っては例の一件、だれがまともに受けとりましょうや、さらにまた、大納言さま、一切、知らぬ存ぜぬで押し通されればすむことでござりまする。証拠はござりませぬ。いや、事実、大納言さまはいちどとしてかようなお望みを口外されたことはないばかりか、左様なことは望まぬ、兄君への御忠節は忘れはせぬ、謹慎、ただ隠忍――とのみ、仰せられております」
彼はひれ伏した。
「ただ大納言さま、しばらく無縁の政変として、見ざる聞かざる言わざるのていでおわされまさんことを。――」
このとき、織右衛門がヒタヒタと膝行《しつこう》してすすみ出た。
「殿! 御私情をお捨て下され、天下の大義のために親を滅する石仏と化せられませ!」
やや三角形の眼がくわっと見ひらかれて、忠長をにらみつけた。その眼は琥珀《こはく》の坩堝《るつぼ》のようであった。
吸いこまれそうなめまいをおぼえ、忠長は眼をとじた。
彼にとって、この男たちの発言がまったく意外、不本意のことであったと言ったら嘘になる。右陣の野心も知っている。織右衛門の恨みも知っている。がなんで彼らの野心や恨みを叱ることができるであろう。
忠長とて――兄に対してめんめんたる恨みもあれば、天下の政道について、わしならばこうするものを――という意欲もあった。それはじぶんでも否定することはできない。……
右陣はそこにつけこんだ。しかも、いまのいまつけこんだのではなく、ここ半歳以上も、陰に陽にその下地をつくってあった。そしてまた右陣の言葉のみならず、いま動かぬ織右衛門が動き、もの言わぬ織右衛門がはじめて声を発して、忠長の魂を打った。
忠長は眼をとじ、黙っていた。
この場合、瞑目し、沈黙していることは、一つの意志のあらわれであることを意識しつつ、なお眼をとじ、黙っていた。
「われらを動かしておるのは、われらの野心、恨み、大納言さまへの御同情、義侠、徳川家のための忠節、憤り――などより、ひょっとしたら、ただ単に、根来と伊賀の腕がムズムズするせいやも知れませぬて」
笑って右陣がそう言い、それからこの二人の忍者が、
「――万事、これで決す」といった風に、スルスルと退がってゆくのを知りつつ、まだ駿河大納言は沈黙と瞑目をつづけていた。
「――わしはゆるしたおぼえはない」
と、心につぶやきながら。……
――狡《ずる》い、と忠長は、じぶんを恥じた。このとき彼の心をしめつけていたのは、この大それた企図への恐れではなくて、この自意識であった。
しかし、彼は決して狡猾《こうかつ》な人間ではなかった。むしろこのときじぶんを狡いと責めるような自意識が、のちに至って彼に致命の匕首《あいくち》となって返ってくるのである。
ましてや忠長は、退いていった虫籠右陣が、
「ああ、まことに忍法は、ただ忍の一字」
と、嘆声をもらして吐いた声を知らぬ。
――それは、去年の梅雨《つゆ》のあけたころからこの春に至るまでの、ながい誘導の苦労をふと自讃したつぶやきであった。
――さて、江戸では。
土井大炊頭の近習、椎ノ葉刀馬は、何も知らなかった。
――その一年、肥後の加藤家が改易になったことや、甲府にあった駿河大納言が高崎に蟄居を命じられたことはむろん知っているが、いずれもいとものしずかに行われたことで、彼の眼から見れば、徳川の天下に波風ほどのものが立ったとも思われなかった。
春のちかづくにつれて、椎ノ葉家には、彼の心を悩ましくする物がいろいろなかたちを現し、ふえていった。婚礼の諸道具である。
鏡台、箪笥《たんす》、夜具、それに白綾の小袖《こそで》とか、帯とか、打掛《うちかけ》とか、さらに結納《ゆいのう》の品々や、酒樽や、紅白の餅まで。――
椎ノ葉家に養われているお京が、刀馬の花嫁になるので、その甘美な色彩は二倍の濃さになった。
日は三月に入った。
いままで二羽の鳥みたいに愉しげに語り合っていた刀馬とお京は、かえっておたがいの顔を見るのもうら恥ずかしく、息もつまる思いになった。ただ春風だけが甘い吐息を伝えた。
明日祝言。
その支度のため、休みをいただいていた椎ノ葉刀馬に、主君の大炊頭から緊急のお召しがあったのは、実にその日のことである。
刀馬がいそぎ出仕して、主家の縁側を歩いてゆくと、大炊頭の居室の縁に、ぴたと平伏している人間が見えた。
やがて頭をあげたその人間の顔を見て、刀馬はあっとばかり驚いた。
すでに忘れかかったはずであったが、いま一目見ただけで、どうして思い出さずにいられよう。甲賀組の百々銭十郎なのである。
あけはなされた障子の奥に、ゆったりと大炊頭が坐っていた。刀馬が坐ってお辞儀をすると、大炊頭は言った。
「さて、両人を呼んだのは余の儀でない。――徳川家の大事のため、おまえたち以外には叶わぬ御用を申しつける」
はっとした。大炊頭はしずかにひざの黒猫をなでながらつづけた。
「はじめに申せば、恐れ多くも将軍家のおんいのちをちぢめたてまつらんとする向きがある。その刺客を、その方ら両人にふせいでもらいたいのじゃ」
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陽の両輪
あまりに衝撃的な命令なので、二人は麻痺《まひ》したように大老の顔を見ている。
「ただし、いかに大それた奴とて、表御座所におわす上様、またお城の外に出御あそばした際の上様は狙いはすまい。まわりの小姓また旗本どもが左様なまねはさせぬ。問題は――大奥じゃ。上様の御身辺には、ただ女人のみの大奥じゃ」
「……殿」
やっと刀馬は声を出した。
「将軍家のおんいのちを狙う向きとは、い、いかなる――」
「それがわからぬ」
「し、刺客とは?」
「それもわからぬ」
と、大炊頭は言った。
これほどの大事を告げ、しかもこれほど雲をつかむような漠《ばく》としたことをのべて、しかもこの大老はいつものように自若としていた。
「いずれの向きから放たれる曲者か、またその曲者の人数、性別、さらに上様のおんいのちをちぢめ参らす手段も一切わからぬ。ただ、そのような企みがあるということのみ、ふとしたことから探知したのじゃ。が、かかる漠とした情報ゆえ、あえてその方らに委嘱するわけじゃ」
刀馬を見すえた眼は、春の海のようで、そのくせ圧倒的な強さを持ったものであった。
「要らざる不安を内外に与えては相成らぬゆえ、このこと、ほかの何びとにも知らせておらぬ。上様にすら申しあげておらぬ。このことよう心得て、ただ上様にちかづきたてまつる曲者を捕捉し、事前に防げ。いや、その害意、凶念、殺気のうちにかぎつけ、これを討ち果たせ。……その方ら、これだけ承知しておればよい」
「……はっ」
刀馬は片腕をついた。冷たいはがねが体内をつらぬいたようであった。大炊頭は、百々銭十郎に眼を移した。
「甲賀者、いつぞやの査察に、甲賀を採ると申し渡したが、甲賀がそれに応える時は、いまこのときにあるぞ」
「……はっ」
さすがに銭十郎も神妙に、椎ノ葉刀馬同様の返答を発したが、
「それならば、拙者ひとりにても結構、このお方は別に必要とは思われませぬが。――」
と、ちらと刀馬にながし目を送って、ひとをくったことを言った。
「――で、わしの頼みたいのは大奥に於《お》ける御守護じゃ」
と、大炊頭は、銭十郎の言葉に即刻にはとり合わず、
「それゆえ、爾来《じらい》大奥をお護り申しあげた伊賀組を、甲賀組に変える」
「えっ」
「甲賀組とて神君御創設以来の新任務。当初は西も東もわかるまい。されば、その指導、取り締まりにこの椎ノ葉刀馬を当てる」
「ははあ、なるほど。――」
と、百々銭十郎はようやく納得した声を出したが、刀馬は驚いた。彼とても大奥のしきたり、伊賀組の慣習、何にも知らない。
「ただし、幕閣のだれにも知らせぬほどの秘事、甲賀組の何びとにも右のこと伝えては相成らぬぞ」
と、大炊頭は言った。
百々銭十郎はくびをかしげてしばらく考えていたが、
「御大老さま」
と、妙な顔をして言い出した。
「いつぞやの御査察でおきき及びのことと存じまするが」
「うむ」
「拙者が拙者自身を飼い馴らすには……女が要りまする。また拙者が甲賀忍法の精髄を発揮しようと思えば……やはり、女が要りまする」
「白朽葉《しろくちば》、また赤朽葉《あかくちば》か」
大炊頭の温顔にうすい微笑が浮かんだ。
「恐れ入ってござりまする」
「ふむ、手当たり次第に大奥の女性《によしよう》を、おまえの経血を吐く対象とされてはこまるの。……よし」
と、うなずいた。
「甲賀組の女のうち、数名、大奥に入れよ。お末か、お犬か。――」
お末とは大奥に於ける風呂焚きや水汲みなどの婢《はしため》で、お犬とは走り使いの婢である。
「その周旋は、わしの方から春日どのへ申しておくであろう。とにかくそちの手のとどく範囲内にその女どもを配っておく。必要あるときは、それを使え。……その他、詳細は追ってこの刀馬をして甲賀の組屋敷に連絡さす。今日のところは、ひとまず退れ」
百々銭十郎は平伏した。それから、起とうとして、
「……匂いますかな」
と、小声で、刀馬にささやいた。
「昨日、あれを吐いたところでござるよ」
赤い唇がかすめて、ふっとかすかに栗《くり》の花みたいな匂いがながれると、スルスルと彼は退がっていった。――それが彼の忍法白朽葉、はっきりいえば精液のことだと了解できたのは、彼の姿が消えてからのことである。
「……殿」
そのゆくえを見送ったあと、思い余った顔をむけて刀馬は言った。
「あれをお使いになりまするか」
嗟嘆《さたん》にちかい声であった。
「あれは、いつぞや御報告申しあげた通り、実に危険な男。――」
「されば、その方が監視役じゃ」
刀馬は、自信がなかった。そもそもあの剣鬼ともいうべき男を駕御《がぎよ》し得る人間がこの世にあるであろうか。それに。――
「拙者、大奥のこと、存じあげませぬが。――」
「それは、あとで然るべき者に教えさせる。それより、その方の役は、ただあの男の手綱をとることじゃ。あれとて甲賀者、まさかこの大炊のつけた目付に違背はすまいが、しかと手綱をとっておれ」
と、大炊頭は言って、それから、じっと刀馬を見つめた。
「刀馬、そちは明夜、祝言であったの」
「は」
「きのどくじゃが、しばし延ばしてもらわねばならぬ。徳川家の大事のためじゃ。わかるな?」
「はっ」
――徳川家光の死後、大奥から三千七百人の女を解雇したという記録がある。全員解雇ということはあり得ないから、以て大奥に勤仕していた人員の厖大《ぼうだい》さを想像するに足りる。
これが、すべて女だ。男は一人も入ることを許されない女人国なのである。
周囲は濠《ほり》と幾重もの塀《へい》や木戸に囲まれている。濠には橋が二つかかっているが、はね橋で、はねあげてあるのがふつうで、釣ってある鎖も錆《さ》びついているほどだ。塀の門や木戸の出入り口には海老錠《えびじよう》が下ろされ、担当の女官の判のある紙で錠をしばり、こま結びにしてある。
外部との連絡は、表、つまり政庁や官邸に通じる上のお錠口《じようぐち》、下のお錠口と、それから、女中たちが許可を得て外出したり、御用達《ごようたし》商人などと応接するいわば勝手口にあたる七つ口だけだが、このうち下のお錠口は非常用でいつも閉じられている。七つ口は、七つ(午後四時)に閉めるのでそう呼ばれているのだが、ここには女官と伊賀者が詰めていて、長持ちの中まで点検する。
上のお錠口。ここに、
「これより中、男子入るべからず」
と書いた札がかけられていて、ここから入ることのできるのは、将軍一人だ。
ここには厚い杉戸があって、午前六時にひらき、午後六時に閉めるが、外側には伊賀者、内側にはお使い番と呼ばれる女官がたえず番をしている。ここからお鈴廊下が大奥へ向かって通り、一町以上もの鈴のついた太い萌黄《もえぎ》の打ち紐が張ってある。将軍が大奥へ入ってゆくときは表からこれをひいて鈴を鳴らし、表へ出てゆくときには奥からこれをひいて鈴を鳴らす。
すなわち、大奥への出入りはこれほど厳重であって、その警戒にあたっているのが、右にのべたように伊賀者なのであった。
それが、この寛永《かんえい》十年春に至って、甲賀組に変えられたのである。
公命に違反すべくもないが、それにしても伊賀組に動揺が起きなかったのは、一年前の査察によって当然いつかはくる運命と覚悟していたせいもあったろうし、また、ひょっとすると――その伊賀組の一人の妻が、大奥に於て変死をとげたという不慮の出来事が、一党をみずから謹慎させていたということもあったかも知れない。
椎ノ葉刀馬は、ふだんたいてい上のお錠口の詰め所にあって、甲賀者たちを監督していた。その服務の規律や慣習については事前に教えられたが、案ずるより生むが易し、土井大炊頭の信寵する近習ほどあって、それを習得するのに、さほどの手間はかけなかった。
甲賀組そのものは何も知らない。将軍を狙う存在があるということすらきいていない。しかし彼らはライバル伊賀組の担当していたこの大任を受けつぐことを光栄とし、みな緊張し、昂揚して、その職にあたり、刀馬の指揮によく服従した。
刀馬は、曲者の警戒もさることながら、それ以上に百々銭十郎に警戒した。
――日とともにたまる精液は血管にまで満ちると自称するのみならずしだいに栗の花のごとき異臭をはなって女をひき寄せる忍法白朽葉。
――ひとたびこれを放出せんか、放出した相手の女に対して惨酷無比となるのみか、ものに憑《つ》かれたかのごとき冷血凄絶の剣鬼と化し、女の血を以て人を斬る忍法赤朽葉。
前者もこまる。――
場所が、何しろ大奥だ。銭十郎自身でさえ、みずからを怖れて檻《おり》に入れていると言った。いまや彼は檻から出た。しかも女人国へ。いや、大奥、女人国そのものの内部ではなく、その出入り口にだが、それでも、日とともに例の異臭は、しだいにお錠口に香りはじめる。――
刀馬は、杉戸の向こうに坐っているお使い番の女が、まるで酔ったようなとろんとした眼つきで、胸を大きく起伏させ、時がこないのに次の当番の交替を求めているのをしばしば見た。またそこを出て、表に使いにゆく老女でさえ、ふと立ちどまり、何か怪しむようにまわりを見まわしているのをいくどか見た。
百々銭十郎は、杉戸や廊下の中央からなるべく身を離して、うなだれて坐っている。まるで重病人が憔悴《しようすい》してへたりこんでいるようだ。
後者もこまる。――
たまって来たものを、どこでどう処理するのか、銭十郎は或る期間をおいて、まるで水の涸れた冬の川みたいな顔をしていることがあった。任務が任務だから、刀馬と銭十郎はほとんどそれぞれの長屋や組屋敷に帰らず城に詰めていたが、銭十郎がそんな状態になるところを見ると、どこかで処理したものにちがいない。
甲賀組の例の砧はお末に、お宋とお彩はお犬になって、大奥に奉公したことは刀馬も知っていた。処理の相手はそれにちがいない。が、杉戸一枚が鉄壁の大奥の内外である。それを越えて、どこでどうして逢ったのか見当がつかないが、これは名だたる甲賀の忍者、あれもまた甲賀組の娘たち、あながち不可能ではあるまいし、とにかくその点については刀馬は眼をつむることにした。
が、排泄すれば人を斬る――あの悪癖はどうしたか?
詰め所にあって、銭十郎が寒風に吹かれたようにカタカタと骨を鳴らしているのを刀馬は見た。その刀馬をじろと見る銭十郎の眼は実に戦慄《せんりつ》すべきものであった。
眼が逢うと、ひくい声でつぶやいた。
「拙者、耐えております」
また、飢えたようにあたりを見まわし、嗄れた声で言った。
「拙者、敵を待っております」
実に、彼は耐えているのだ。それは刀馬も認めざるを得なかった。女に対しても――たとえ三人の娘に放出したあと、彼がどのように惨酷な仕打ちをしたかは想像のかぎりではないが、べつに大奥に死びとが出たという話はきかないから、彼はそれ以上の行為には出なかったのであろう。
曾《かつ》て土井大炊頭の悪口は言ったものの、さすがに百々銭十郎も、あとでおのれを制し、甲賀組の任務を果たすべく大いに努めているらしい。――
日はすぎた。刀馬は次第に悩ましい思いにとらえられた。
与えられた任務の意外性から来た衝撃と、最初の緊張が大きかったために、精神的疲労の反動も甚だしかった。
あまりに大炊頭さまの仰せなされたことが漠然としていすぎる。ともかくも、お錠口の番所に詰めてはいるのだが、考えてみれば、ここは表御殿からの通路だ。こんなところから曲者が大手をふって入ってくるわけがない。といって、数万坪に及ぶ大奥の、どこを警戒していたら曲者をとらえられるのか、見当もつかない。しかも、大奥そのものに入ることはゆるされないのだ。
その上。――
この秘密を知っている者は、じぶんと百々銭十郎の二人だけなのである。これがまったく肉体的にも精神的にも人間の常規の外にある奴で、思えば何たる男と握手して協同作戦をすることになったものであろう。
とはいえ、あの大炊頭さまが、冗談やいたずらで、こんな重大な命令を下されるわけはない。一年前のあの忍び組査察にしても、あとであれは殿の気まぐれかと思ったこともあったが、げんにそれをちゃんと記憶なされていて、このたびの御用を仰せつけられたのだから、大炊頭さまの御胸中には何かしかとした筋道がえがかれていることにまちがいはない。
必死に、緊張をとり戻そうとする。――主命は、いかなる犠牲を払っても果たさなければならぬ。
――が、けだるい南風の吹く日など、刀馬の胸に、いつのまにかお京の面輪《おもわ》が浮かんでくるのをどうしようもなかった。
「御用により、祝言は延期する」
こう言いわたしたときの、お京のいっぱいに見ひらいた瞳が、ふるえるような哀しさでよみがえってくる。彼女は黙ってお辞儀をした。が、たたみにつかえた白い掌に、やがて涙が一滴《ひとしずく》おちたのまでまざまざと思い出す。両親も何も言わなかった。御用の内容もきかなかった。曾て忍び組査察役の命令を受けたときと同様であった。
「――お通り遊ばす」
杉戸の傍で、甲賀者が声をかけた。
春日の局が、文筺《ふばこ》のようなものをささげた女中をつれて、いましずしずと奥へ入ってゆく。――五月の或る午《ひる》下がりだ。
刀馬は詰め所の中に坐っていたが、春日の局が表との連絡に往来するのはほとんど毎日のことなので、このごろは「……あのお方が将軍家のおん乳母」という感動も薄れて、機械的に頭を下げただけで、眼にはむしろお京の幻影だけがあった。
春日の局は大奥へ入っていった。
「……御査察役どの」
呼ばれて、刀馬は顔をむけた。百々銭十郎であった。
「いまの御女中、どなたでござる?」
ものを言うたびに、強い栗の花の香が匂う。――銭十郎が傍にちかづくまで気がつかなかった自分の放心ぶりに刀馬は狼狽《ろうばい》し、
「なぜ?」
と、反問した。
銭十郎はくびをかしげて、奥の方をのぞきこみつつ、
「はてな。あの御女中。……どうも異な感じがいたす」
「何と申す、あの御女中が。――」
刀馬は改めて眼から夢を拭いて、
「あれは、このごろ何度も春日どのに従ってここを通られる。おまえ、知らなんだのか」
と言って、いまさらのごとくその女人の豊艶な姿を瞼によみがえらせた。
「たしか、お国どのと申される。春日どのの遠縁の女性《によしよう》で、ただいまは表使いとして大奥に入られたが。――」
刀馬はちょっと言い淀《よど》んだが、すぐにいまの銭十郎のききずてならぬ一語を思い出し、
「さきごろ上様に御目見《おめみえ》もすませられ、いずれは御中臈《ごちゅうろう》におなりなさるお方とのことじゃ。そのお方が、異な感じとは――」
「承知いたしておりまする」
銭十郎はからだをグニャグニャさせながら言った。白朽葉が発現してくると、彼の動作はしだいに軟体動物的となる。
「いままでは、何のこともなかったのでござる。きょう分ったのでござる。これまで逢うときは拙者のからだが涸れていたときだったのでござろう。いまはじめて気づけば、あの御女中は、どうも変わっておいでなされる。――」
「どこが? 同じお国どのではないか」
「拙者があそこに坐っておりまするとな。通りかかられる御女中が、必ずいちどは立ちどまられる、まわりを見廻される、そこまでゆかずとも、息のはずみ、頬にのぼる血色、ないしは心ノ臓の動悸《どうき》にきっと変化が起こります。余人には見えずとも、拙者には感応するのでござる。それが――きょうのお国さまには、何の反応もない」
「ばかなことを」
刀馬の方が顔をあからめた。
「いかにおまえなればとて……いつも必ず女人がそうなるとはかぎるまい」
「いつぞや、甲賀屋敷で御覧になったことを――白朽葉をお忘れではござるまいな」
と、銭十郎は言って、またくびをひねり、うなずいた。
「あれは女ではない」
「なに?」
銭十郎の自信ありげな顔つきに刀馬は動揺をおぼえた。が、その意味を解く何の連想も脳裡《のうり》に浮かんでは来なかった。いかに銭十郎が自信ありげに言おうと、そんなばかなことが信じられようか。
「御査察役どの、あの女人にちかづいて、もういちど験《ため》してみる必要がありまするぞ。いや、警戒してみる必要がありまするぞ。いや、警戒しなければならぬ。あとを追うて、監視していなければならぬ。――」
銭十郎は刀馬の顔を見た。
「われら、大奥に入ることはかないませぬか?」
「たわけたことを」
「では、われらの例の任務、放擲《ほうてき》することになる――なりかねぬことを、拙者いまはっきり申しあげる」
「だいいち、入ろうとしても、入れぬわ」
「なに、われらが大奥の監視役ではござらぬか。それに、ほかの甲賀者、拙者から申すのもおかしな話でござるが、もし拙者が忍び入ることになれば、ことごとくめくら同然。――」
――いわゆる大奥の北側に、女人たちの住む長局が三棟ならんでいる。その一棟ずつが五十三間というから、約一町もの長さがある。男子禁制の大奥の中でも、まさに秘巣とも言うべきところ。それぞれの長局は区切られて、その房の一つずつに、身分に応じて一人または数人の女人が住み、廊下をへだてて、めいめいの湯殿と厠《かわや》がある。江戸の女性専用高級マンションといった設計だ。
この長局のさらに北側に、ひろい馬場がある。この一帯すべて男の入るべからざる世界なのに、こんなところに馬場があるのは異なものだが、これは最初の築城のときの縄張りのゆえであろう。
むろん手入れはするのだろうが、何といっても使わないものだから、ことに五月の青葉も黒ずむ季節になると、しだいに草に覆われてゆき、まわりの樹立《こだ》ちとともに、どこか廃園的な景観を呈してくる。――
その草がなびき、一陣の青嵐《せいらん》が吹きわたっていった。遠目には、たしかにかたちあるものとは見えなかったのである。――が、ぼうとけぶった緑色のものが樹立ちの中に入ると、それはかなぐり捨てられた一枚の布となり、そこに一人の女が現れた。
「虫籠」
と、かすれた声で呼ぶ。
筏織右衛門の声であったが、その声を発したのはまぎれもなくお国――春日の局推薦のあの美しい女中であった。
「おおさ」
答える声がすると、樹と草の中に緑色の靄《もや》の一塊が、これまたふうっと消えて、虫籠右陣が浮かびあがった。にっと笑っていた。
お国はちか寄った。どこか夢遊病者のような足どりだ。
「今宵、いよいよ、上様のお伽《とぎ》をすることになった」
お国は、草の中をじっと見下ろした。
「おお、では。――」
きらとひからせた眼を、右陣も草の中へ移す。――そこに、やはり緑色の布をとり払われて、下帯一つの筏織右衛門が仰向けに横たわっていた。
こんなところに二人の男性が入りこんでいると知ったら、大奥じゅう、煮えこぼれるような騒ぎとなるであろう。――しかも、何びともの想像をも超えるさらに怪奇な光景が展開されたのは、それからのことであった。
「甲賀者の眼を盗まねばならぬので、ここまで出るに苦労するわ」
お国は疲れ果てたように弱々しくいって坐りこみ、織右衛門の傍の樹の根にもたれかかった。
みるからにみやびやかな衣服のすそをひろげ、豊艶なこの女が、なんと、あられもなく両肢をひらいた姿で。
それっきり彼女はくびを垂れた。
全裸ともいうべき筏織右衛門は仰向けになったまま、ビクリとも動かない。青銅の彫刻に似た肉体であった。
ぶうん、と鈍い音をたてて虫が飛ぶ。風が吹いて、何かの花粉が飛ぶ。――それ以外は動くものとてはない、ただ緑に染まった晩春の真昼であった。
虫籠右陣も、まるで苔《こけ》むした達磨《だるま》みたいに凝然として、じいっとお国と織右衛門を見まもっている。――
幻妖なり伊賀忍法|任意車《にんいぐるま》に乗せられた魂が、一つの肉体からもう一つの肉体へもどる幾瞬。
すでに虫籠右陣はいくどかこの光景を見ているのだが、そのたびにまるで夢魔の世界にある思いを禁じ得ない。
お国はくびを垂れてはいるが、その瞳は散大して、まるで透《す》き通るようになっているであろう。
げんに筏織右衛門がそういう瞳をひらいている。――やがて、その瞳孔《どうこう》に針のようなひかりがともってくるはずだ。お国の肉体へ乗せていた彼の魂とともに。
……すでに春日の局によって選ばれたこの女性は、大奥に入る前から、その家族、過去、性向、趣味など周到に調査され、大奥に入る直前に織右衛門によって襲われ、犯されていた。爾来《じらい》、この女人は、外見はお国にまぎれもないが、その実体は筏織右衛門であった。よしや、その挙動に不審なことがあろうと、だれがこのような神魔のわざを想到するであろう。
ただ、いささかの難点は、それが一昼夜にかぎるということであった。織右衛門の憮然《ぶぜん》として説くところによると、それはお国の体内にある織右衛門の精虫の死滅するときであるという。
で、それに先立って、お国はかくのごとく、「虚死」している織右衛門の傍に帰って来る。実体が織右衛門自身なのだから、大奥に満ちる女人群の眼を盗むのは、ごらんのように不可能のわざではなかった。――
そして、新しい補給が行われ、ふたたび、みたび、任意車は廻りはじめるのだ。
いま。――
虫は去り、風も止んだ。
魂の帰還はほんの数十秒を要するだけなのだが、虫籠右陣にも永劫《えいごう》と感じられる時間が経過して――筏織右衛門の眼に、針のようなひかりがともり出した。
「……無事参着」
唇《くちびる》がうごいた。
横に身うごきする衣《きぬ》ずれの音がした。お国が放心したような眼で、右陣を見、織右衛門を見ていた。それから、じぶんのあられもない姿を見て、恐怖と惑乱の表情になった。
この女人も、いま本来の自分に帰ったのだ。この瞬間も、すでにいくたびかくりかえされたことだが、そのたびに彼女はこんな表情にならずにはいられないらしい。
むべなり。――
「……あれ」
かすかな悲鳴をあげて立とうとする足くびを、するっとのびて来た織右衛門の毛むくじゃらの腕がつかんだ。
そして、甦《よみがえ》った織右衛門の金剛力士みたいな裸身の下にひきずりこまれ、押さえつけられ、まだ天地|晦冥《かいめい》のうちに、彼女はふたたび犯されはじめたのだから。
青い草の上に、撩乱《りようらん》たる衣服の花はひらいた。
その花の中の真っ白な雌《め》しべを荒々しくもみしだきつつ、織右衛門の手はさらにうごいて、彼女の帯を解く。あらゆるものを剥《は》ぎとってゆく。
「この方が、ぬれ桜を施すに都合がよかろう」
と、彼は言った。
――両者とも、決して性の快楽など味わう心境にない状態のはずだが、たんに機械的な打撃、摩擦だけで、不可抗的な肉の反応が、火の波濤のようにうねってくるものらしい。――とくに、女には。
右陣はこれを優雅な小督の方にも見たし、また姿は豊艶だが性格は春日の局好みらしく、なかなか気丈と見えるこのお国にも見た。
もはや理性のないはずの彼女が、それに応え、手のみならず、足までもからませて、じぶんの方から織右衛門に吸いついてゆくのを、いくたびか右陣は見た。そして、いまも。――
「…………」
言葉、叫びというより、何か牝獣のような声帯のふるえを発するとともに、彼女はぐったりと喪神した。折り重なった織右衛門もうごかない。――彼もまた意識を失ったのだ。で、それは、鋼鉄のかたまりが白い熱い蝋《ろう》のながれを、物理的におし潰《つぶ》しそうに見えた。……
……草の匂いの中に、ふうっとむせかえるようなべつの香りがひろがった。
……ゆらと、織右衛門の肉体が浮かびあがり、軽々と反転した。その下で、お国はしかし、のびのびと四肢をひろげたままである。が、その眼はかがやいて、右陣を見て笑っているのに、揺りおとされてこれまた大の字になった織右衛門の眼は、ふたたび虚《うつ》ろな穴になっていた。
「先刻も言ったように」
と、お国は言った。
錆をおびた織右衛門の声だが、その柔らかなのど、盛りあがった乳房、くびれた胴、ふくらんだ腰のあたりまで、雪白の肌にうすくれないが散って、さしもの右陣もわれを忘れてぼうっと見とれている。
「今宵上様のお閨《ねや》に侍《はべ》る。……ぬれ桜をやってくれ」
「……あ」
右陣はわれに返った。
お国はもとより伊賀忍法任意車のあやつるままであったが、まだ根来忍法ぬれ桜を施してはいなかった。あまりに早く、かつ強烈に効果を発揮しすぎては、かえって春日の局の不審を買うからである。
いまや、いよいよ将軍の寵を受ける夜が到来したという。この一夜をはじまりに将軍の心魂をとろかし、ついには虚していのちを失うのも惜しまぬほどに狩りたてるには、もとよりぬれ桜の女体となるにしくはない。――最初からのプログラムであった。
が、いまうすくれないに匂い立つその女体を見ては、右陣すらが、もうそんな必要はあるまいに、と思ったくらいであった。
「早くたのむ。長い留守はできぬ」
「お」
右陣は気をとりなおし、お国のからだの傍にひざまずいて、唾液にぬれひかる真っ赤な大きな舌を出した。
青い縞《しま》のふる森の中に、さざなみのような異様な音がながれ出した。お国の肉体がぬれ桜にしあげられてゆく。――
凄艶と言えば言える。醜怪と言えば言える。が、その光景の中で、
「あら、切なや」
と吐息をもらした女の実体が男であると知ったら、これは異次元の怪奇と形容するしかない。――
「たえがたや」
これを女の声で言われたとき、虫籠右陣は、彼の方がたえがたくなって、われ知らずぬれ桜以上の所業に及ぼうとした。
その動作を、お国は押さえた。これはあきらかに筏織右衛門の恐ろしい腕の力であった。
それから二人は、こんな馬鹿な問答を交した。
「今宵将軍家に捧げねばならぬからだじゃ。汚してくれるな」
「し、しかし、おまえのからだはすでに汚されているではないか」
「さればよ。この体内には織右衛門の精虫が生きておる。その力で、織右衛門はかくのごとく織右衛門でおられる。そこにおまえの精虫が入って見よ」
お国は、にっと笑った。
「わしの精虫は、おまえの精虫に負けはすまいが、相当傷んで、劣悪化するわ」
「…………?」
眼をぱちくりしている右陣をおしのけて、お国は立った。そしてもと通り、大奥女中としての衣服をつけはじめた。女らしい、みごとな手さばきである。――が、ときどき、
「……ふ」
というような喘《あえ》ぎともうめきともつかぬ声をもらした。
「衣服が擦れるたびに、妙な気がする。忍法ぬれ桜。……相当なものじゃな」
全身の皮膚が性器の感覚細胞同然となるのだから、これは当然であろう。しかし、右陣はそれを自讃する気力を失っている。
「織右衛門」
と、呼んだ。
「おまえ……そのからだはすでに処女ではないが、将軍家に見破られはせぬか?」
「大丈夫じゃ」
と、お国はうなずいた。
「いかなる男にも、そんなことは見破られぬ手管《てくだ》は心得ておる。ましてや、女知らずの――と申してもよい将軍など」
そして、腰をなまめかしくくねらせて見せた。
――その実体が、くりかえすようだが、筏織右衛門、しかもあの武骨一点張り、沈毅《ちんき》重厚の男だと思うと、右陣は鬼気すらおぼえざるを得ない。
そして、いまさらの感慨ではないが。――
あの美しい肉体が、男にゆだねられながら、しかも男の眼で終始相手を観察しているのだ。交合ということは、男にとっては、そのときの言動、相当滑稽なものであることが多い。それを、あの男は、その気になればいかなる男にも身をまかせつつ、そのせりふや動きを、くまなく知悉《ちしつ》することができるのだ。――と思った。
どんなに君子ぶった大名であろうとも、もったいぶった大官であろうと。――げんに将軍家まで。
いま根来忍法を賞揚されたが、その奇抜にして痛絶をきわめるところ、この伊賀忍法任意車に匹敵するものがまたとあろうか。
そして、それをあやつるこの筏織右衛門という男も、あんなまじめくさった顔をして、想像以上に皮肉と諧謔《かいぎやく》を解する性格に相違ない。そうでなければ、とうていできるわざではない。――
「おい、留守中を大事にしてやってくれよ」
と、お国は白いあごをしゃくって、なお草の中に喪神している裸の筏織右衛門を笑顔で見下ろし、
「では、ゆくぞ」
シトシトと、ゆきかけた。――と、
「あっ。……待った」
と、何思ったか、右陣が低い、ただならぬ声をあげた。大きな鼻をピクピクさせて、
「おぬし、まさか将軍家を、今宵手にかけるなどということはあるまいな?」
「わかっておる。それでよいなら、すでに手にかけておる。なんでこれほどの手間をかけようか。心配すな、例の手で、じっくりゆくわ」
と、お国はうなずいた。例の手とは、色道の蟻地獄《ありじごく》のことだ。
虫籠右陣はしかし、まだ妙な顔をして、じいっと耳を澄ませていた。彼の「暗剣殺」のレーダーが、何かをとらえたのだ。はじめ彼はそれを、妻を殺されて将軍への復讐一途に生きている筏織右衛門の殺気かと思ったのだが。――
「いかん、何者かに狙われておるぞ」
「なに?」
「……遠い。あの馬場の中だ。多人数ではない、一人か二人。――」
さすがにお国もはっとして、初夏の日光にいちめん草のそよいでいる馬場の方をふりかえった。そこからここは見えないはずだが。――
「かまわぬ。ゆこう」
と、うなずいた。右陣はくびをひねって、
「待て、危い。――」
「捨ておけば、いよいよ危いではないか。そのぬけがらをかかえて、何とする」
と、お国はまた織右衛門にあごをしゃくった。
「わしならば――この姿ならば、なんとか言いのがれできる。あしろうておるあいだに、おぬし、それを背負って身をかくしてくれ」
平然として、お国はいちど身をかがめ、足もとに咲いている名も知れぬ赤い花のひとむらを折り取ると、背を見せて歩き出した。
――事実、その通りだ。もし自分たちを捜索している者があるとすれば、この場合、女姿の人間が、その者どもを引き寄せて処理するしか方法はない。
が。――
「あの殺気。……ただものではない」
図々しいことでは容易にひけはとらぬ虫籠右陣ほどの者が、なぜか全身の筋肉もきゅうっとひきつる思いで、おちつかぬ眼でそのうしろ姿を見送った。シトシトと、夏草の中をお国はゆく。
広い馬場のまんなかあたりまできたとき、草の中から、ぼやっと緑の靄の一塊が立った。たちまちそれは一片の布となって風に舞いおちた。
百々銭十郎が現われた。
「…………?」
銭十郎は、女を見て、くびをかしげていた。やがて言った。
「御女中、どこへ、何しにゆかれたか」
「花活《はないけ》に投げこむ野花もがなと思うて来ましたが。――」
お国もまたくびをかしげ、不審げにいった。
「それより、あなたはどなたですか。ここは男子禁制の大奥のはずですが」
銭十郎は答えない。答えられもすまいが、それより答えることを忘れているのだ。――そして、それっきりお国も黙りこみ、彼を眺めいった。
二人は約一丈を隔てて相対峙《あいたいじ》した。――それから、実に妙なことが起こった。
草の中に身を伏せて、最初のうち椎ノ葉刀馬と甲賀組のお彩もその目撃者であったのだが、それより早くその異常を感知したのは、森の中にいてこれを見ていなかった虫籠右陣であったろう。彼は筏織右衛門を肩にひっかけ、這うようにして逃走をはかっていたのだが、ふとその動きをとめて首をひねったものである。
「……はてな、殺気が消えたぞ」
刀馬も、あっと思っていた。
銭十郎と刀馬は、大奥にあるお国を見張っていたのだ。彼女の傍にくっつくことはもとより、尾行することなどできないから、それは完璧《かんぺき》な監視とはいえないが、一方で、大奥に入れてある三人の甲賀の娘にも同じ役目を命じてあって、そのうちの一人お彩からの急報によって、先刻お国が長局を出て、ひとりこの馬場の方へ出かけたのを知って、そのあとを追って来た。が、この草原の中で、ふっとその姿を見失ったのである。
「……いまの消えぶり、いよいよただものではない」
という銭十郎の疑惑に刀馬もようやく同感し、
「ううむ。……しかし、あれがまた現れても、こちらの姿を見せてはならぬぞ」
と、それだけはかたく禁じておいたのだが。――
それが、いま忽然《こつねん》とふたたび現れた。
刀馬が、いまあっと思ったのは、百々銭十郎が草の中からふらふらと立ってしまったことだ。そして、止めるいとまもなく、お国と問答をはじめている。――
とみるまに、ふたり相寄って、ぴたりと抱き合ってしまった。妙なことが起こったというのは、その接近と抱擁が、なぜか人間の意志を伴わない、まるで鉄片と磁石のような印象に見えたことであった。
「な、何をなさる」
お国はさけんだ。が、刀馬の眼には、たしかに彼女の方からも銭十郎にしがみついていったように見えた。
「あなたは……女か? ほんとうに女か?」
銭十郎はうわごとみたいにこんなことを言いながら、お国の胸もとへ手をさし入れている。その手が何をさぐったか、たちまち彼は驚きの声を発した。
「奇怪なり、これは、女だ!」
――世にこれほど奇怪なさけびはなかろう。まぎれもない女をさして、これは女だ、と言ったのだから。
刀馬は唖然《あぜん》としていた。最初から彼は、「お国は女ではない」と言った百々銭十郎の言葉を、そんな馬鹿な! と思っていた。
だから、いまの銭十郎のうわごとに改めて呆《あき》れたのではない。それより、そんなまねを――あきらかに乳房をまさぐられるという行為を加えられながら、お国が、一見抵抗しつつ、その実じぶんの方から銭十郎に腰をおしつけ、波打たせているように見えたのに唖然としたのだ。
――しかし、何たるお国の美しさか。いや、それはいままでにいくどか見て、とっくに承知しているが、いま森の中から帰って来たこの女人は、そこで妖狐から媚薬の洗礼でも受けてきたのではないかと疑られるほどの異常ななまめかしさであった。
妖狐の洗礼――そこまで疑いつつ、刀馬の脳髄は過去の記憶に、まだなんの連想も結びつけない。
「……うっ」
背後で、かすかなうめきがきこえた。
お彩だ。この甲賀の娘は、地に這いつくばったまま、草のあいだから、百々銭十郎と女の痴態を見て、歯をくいしばっていた。が、この甲賀の娘が耐えているのは、いまのいまではない。彼女は先刻銭十郎をこの馬場に呼び出したときから耐えている。
むべなり、百々銭十郎はいまや濃厚なる例の香りを放っていた。ちょうど白朽葉が腐熟する時期にあたっていたのだ。
が――もっとも惑乱していたのは、これら草の蔭の目撃者より、相抱擁した当人たちであったろう。
百々銭十郎は、「――これは、女だ!」とうめいたが、うめくよりさきに、彼は彼女を女だと直感していた。この直感の急変が何によるものか彼は知らない。同時に、殺気は消えた。精液に充満した彼のからだは、盲目的に立ちあがり、女に吸引された。
同様に、全身性器と化したお国も、これまた意志に反してこのえたいの知れぬ男に引きずり寄せられた。
はじめて相逢うた白朽葉とぬれ桜。
それぞれの忍法が、それぞれの体得者の意志をも超えた強烈な作用を発揮したといえば滑稽でもあるが、恐るべき力でもある。――
「たまらぬ、吐く、吐かして下され。……」
百々銭十郎はからだをグニャグニャさせながらお国にからみつき、彼女を草の上に押し倒そうとした。
将軍家|御側妾《おそばめ》たるべき女人にそんなことをされては一大事だ。刀馬はわれにかえって愕然とし、草の中から身を起こそうとしたとき、彼は銭十郎の背に巻きつけられたお国の手に、いつのまにか一振りの懐剣がにぎられていて、それが日光にキラとひかったのを見た。
「危い、銭十郎!」
思わず、立ちあがって、椎ノ葉刀馬はさけんだ。
お国がちらと刀馬の方を見た。同時に懐剣が銭十郎の背につき立てられたまま横にながれた。銭十郎がグニャリとからだをくねらせながら横に飛んでのがれたのである。
「うぬは!」
一間ばかり飛び離れて、銭十郎はかっと眼をむいた。
草の中に仁王立ちになった銭十郎の顔はちょっと白痴めいていた。
ふいに背中を刺された驚愕のためではない。――相手に対する認識の混乱のためだ。これはいったい、男か、女か?
そもそも彼は、最初お国を女ではないと言ったが、それではそのお国が将軍の側妾になる予定の女だという事実をどう解釈するか。彼の直感は事実を超越したものであったが、それでも彼は、
「……あれは男の女装したものではないか」と判断したのである。将軍の男寵《なんちよう》趣味は有名だから、そういうかたちで美少年を大奥に入れようとしたか、或いは「曲者」がそこにつけこんだか、そこに何かからくりがあるらしいと見て、念のためにたしかめようとしたのだ。
しかるに、森から出て来たお国を見て、これはまぎれもない女だと彼は知って惑乱した。が、いま突如として背を刺されて、刺された事実より、その手練、力に、彼はとっさに「男」を意識した。「うぬは!」と思わず、そういうさけびを発したのはそのためだ。けれど、見るがいい。
懐剣を逆手《さかて》ににぎったお国は、いまのもみ合いのあいだに乱れつくして、一方の乳房はまる出しになっている。濡れひかる白い珠《たま》のような乳房であった。――女だ、女だ。これ以上なまめかしい女体がまたとあるだろうか。
「無礼な」
と、お国は、銭十郎と刀馬に眼をくばりながら言った。
「御馬場とはいえ、大奥に男が現れることさえ奇怪なのに。――」
――筏織右衛門は、実は驚いていた。何より、椎ノ葉刀馬――品川で逢って、心中好感を抱いていたあの若い査察役がこんなところに出現したのに驚いたのだ。
その直前に彼は、じぶんにからみついて来た男が、ただものではないことを知覚している。その男から発する妖しい力に吸引されて、あやういところでわれに返り、こやつ生かすべからずと懐剣をふるったが――彼ほどの人間が、一瞬相手をのがしたのは、相手の蛇のような体術もさることながら、刀馬の出現にはっと気をとられたからであった。
「追っての御沙汰を待ちゃ」
彼は――いや、お国はそう言って、懐剣を帯のあいだにおさめ、乱れた襟をなおした。刀馬は気押《けお》されて、茫然《ぼうぜん》として立ちつくしている。
お国は二人を無視するように、シトシトと歩き出そうとした。
「そ、その女人は――」
じいっと見ていた銭十郎が、うめくようにさけび出した。
「椎ノ葉さま、容易ならぬ使い手でござるぞ!」
「なに?」
「わしにはわかる。それがわかる――。しかし、わからぬ。いまの構え、世にまともに立ち向かえる男があろうとも思われぬ。女人にしてそれほどのわざを持っていようとは。……何かがあった。森の中で、何かがあった。……」
銭十郎は混乱した眼を、お国と森へはね返らせた。
「森へいってごらんなされ、椎ノ葉さま!」
刀馬が歩き出したのは、銭十郎の疑惑に同感したというより、お国にとがめられた間《ま》の悪さをのがれるためであったが、その前に、いちどゆきかかったお国が立った。
「なりませぬ」
――森の中の虫籠右陣はうまく身をかくしてくれたであろうか。おそらく大丈夫だとは思うが、何しろ織右衛門のぬけがらをかかえているのだから、万一ということがある。お国はさすがに狼狽した声であった。
「あなたは……お錠口に詰められていたお方ですね。しかも甲賀者ではない。――たしか、土井大炊頭さまの御家来と、春日の局さまから承りましたが」
春日の局から得た知識ではない。以前の知識だ。彼女は苦しまぎれに椎ノ葉刀馬の足を封じる口実を見つけた。
「たとえ大炊頭さまの御家来だとて、かような場所まで入られて、あまつさえ甲賀者を――」
ここで織右衛門は、ようやくいまの男が甲賀者であることに想到した。そうか! そうであったか。道理で――。
「甲賀者がかかるふるまいをするのを見のがされるのは、どういうわけでございますか。いっしょに春日のお局さまのところへ参って、それをうかがわねばなりませぬ」
「森へゆくのをこわがっているのだ」
と、銭十郎がさけんだ。
「椎ノ葉さま、立ち合うて見なされ、その女と。――わしの言ったことが思いあたられる。柳生流の高足も歯が立つかどうか。――」
その声がかすれたかと思うと、銭十郎はがくと草の中に膝をつけて、
「お彩。……お彩、来う!」
と、さけんだ。
百々銭十郎が刀馬をけしかけるばかりで、そこにふらりと立っているだけであったのは、考えてみれば彼らしくないことであったが、それも道理、彼は相当な重傷を受けていたのである。あとでわかったことだが、さっき一応はお国の懐剣からのがれたように見えたものの、その実懐剣のきっさきを肉にくい入らせて、そのまま横へ飛んだので、背の中央から左の肩胛骨《けんこうこつ》へかけて、グイと引き裂かれ、そのまま流血をつづけていたのであった。
草むらから、お彩が鳥みたいに舞い立って、銭十郎の傍へ駈け寄った。
「白朽葉、吸わせてやるぞ」
あえぎながら銭十郎のからだの下へ、お彩は嬉々として――むしろ渇《かわ》ききった人間のようにおのれの身を投げこんだ。
そして、みずから手をそえて銭十郎の袴《はかま》をとり、みずからの裾をひらいて、身もだえしつつ銭十郎を迎え入れてゆくのであった。
草の中から血と精液の匂いが、むうっと立って、初夏の風にひろがった。
はじめて見る光景ではなかったが、刀馬の顔は朱色に染まった。すぐに彼は、銭十郎がこの行為のあと、何を志しているのか知って、はっとした。
「おゆきなされ」
と、彼はお国に言った。彼女に対して一点の疑惑はぬぐいきれなかったが、それでも戦慄して言わずにはいられなかった。
「おゆきなされ。さもなくば、あなたの命にかかわる。――」
しかし、お国はかすかにのびあがった。
「あれは、何をしているのです?」
その顔が上気して、刀馬ですらふるいつきたいほどであった。この言葉を刀馬は女のわざとらしい好奇の演出ととったが、ちがった。
「あの二人はどうしたのですか」
織右衛門は、突如としてはじまった甲賀者の奇怪な行為に、それが何を意味するか、あくまで見とどけたいという欲望にかられている。
近づこうとした。その前に、こんどは刀馬が立ちふさがった。
「いかん、ゆきなされと申すに!」
やむなく、抜刀した。
「斬って見られい」
笑うようにいったのは、百々銭十郎だ。お彩と交合しつつ、顔をこちらにむけてあざ笑った。
「斬れるか、どうか?」
それに挑発されたわけではないが、なおこの女人がこの場にあれば危険だと判断し、気絶させてもつれ去るべきだと決心した刀馬は、
「御免!」
刃を返し、みねうちの刀身をその胴へ薙ぎつけた。
女に対する思いやりがこの一撃の速度を鈍らせたか。――いや、柳生道場きっての名手椎ノ葉刀馬の一刀だ。それがそれほど緩慢なものではなかった証拠は、ぴしいっとはためくような音響でも知れた。
「あっ」
刀馬はさけんでいた。刀は横にのびたお国の双手《もろて》に――その両掌《りようて》のあいだに、ぴたと挟《はさ》みこまれてしまったのである。いまの音は、その肉と、鋼《はがね》の相搏《あいう》つひびきであった。
取ろうとしたが、取れない。――その刀身を鉄壁の間に挟んだように動かぬものとしながら、お国は、刀馬でもなければ甲賀者でもない、あらゆる方角へ眼をやって、心中ひどい狼狽をおぼえていた。
馬場の南側――長局のある方向に、数人の侍女をつれた春日の局の姿が見えたのだ。――もともと局の眼をのがれて、ここにぬけ出してくるのが無理なことであった。それに、時をかけすぎた。局はこちらを見ている。この女だてらの刃物沙汰の姿を見て、春日の局がどう思うか。
「お彩、死ね」
銭十郎が言っていた。彼はお彩の上に馬乗りになって、スラリと一刀を抜きはらった。
「甲賀のために、死んでくれるか」
「甲賀のためでなく」
可憐《かれん》としか言いようのないお彩は、あられもない姿で、それを恥じらうどころか、歓喜と苦悶にむせぶように答えた。
「おまえさまのために、お彩は……本望です!」
「――よしっ」
刀身がきらめきつつ旋回し、その乳くびが切断され、ほそい血しぶきが、ぴゅーっと噴出した。
その血しぶきを、一刀を斜めにして受けていた百々銭十郎は、すでに涸れはてた凄惨きわまる剣鬼の気を四方に放っていた。
お国は銭十郎のこの儀式を見ていた。
――きゃつ、何のためにかかるまねをする?
彼女が椎ノ葉刀馬のみねうちの刀身を両掌で挟んで受け止めたのは、たんなる防禦のためではなく、この若者に対する遠慮のためだ。――が、いま女を犯し、その血で刃をぬらす甲賀者の全身から発する異様な殺気を感得し、こやつ、斬るべしと覚悟した。
それに、春日の局を迎え、この両人に騒ぎたてられるより、両人を討ち果たし、何とか言いのがれするにしかず。――と決意して、きらと刀馬に戻した眼は、もはやただならぬ殺気に満ちている。
刀身を挟みとられた椎ノ葉刀馬は、その眼を見た。たんなる殺気の感覚ではない戦慄が彼の脳髄をつらぬいた。あの眼は?
反射的に彼もまたそれまでの配慮をかなぐり捨て、その大刀を離し、小刀に手をかけようとした間一髪、大刀はまるで掌の皮膚を剥がんばかりにしてもぎとられた。
たしかにそれは、彼が手を離す以前に、意志に反して奪われた。
「場所柄もわきまえぬあの痴《し》れ者」
と、お国はあごをしゃくった。声はもとよりその動作までが優雅であった。
「大奥に御奉公の女として成敗します」
スルスルと銭十郎の方に寄った。
お彩に馬乗りになったまま、銭十郎はふりむいた。
「女狐の正体、口を割らしてくれる」
一丈の距離で、
「見たか、甲賀忍法赤朽葉!」
赤光一閃《しやつこういつせん》、空中に血のすじがたばしった。
お国はいちど立ちどまった。白刃をひっさげたその右肩から、どぼっというような音とともに血しぶきが立った。赤朽葉によってたたきつけられた女の血は、人間の筋肉の繊維のみならず骨組織まで断裂する作用を持っていると見える。その右腕は、肩のつけねからたしかに切り離された。が、落ちかかったその腕を、お国はおのれの左腕でつかんだのである。一息停止しただけで、彼女はながれるように寄った。
「あっ」
百々銭十郎の眼に驚愕の青い火花が散った。
彼としてはこの謎の女の右腕を打ち落とし、その正体を白状させるつもりであったのだ。が、相手は打ち落とされたその腕をつかんだ。腕の先には、なお白刃がにぎられていた。――しかもそれは、そのまま銭十郎めがけて袈裟《けさ》がけに薙《な》ぎつけられて来た!
女に馬乗りになった姿勢のまま、狼狽して銭十郎は飛びのいた。
本来なら、まだ刀身のとどかぬ距離である。が、刀の長さに腕の長さが加わって、しかも左利きの一撃に、きっさきは銭十郎の眉間《みけん》から左眼へかけてななめに走った。
血の霧に顔面吹きくるまれつつ飛びずさった銭十郎は、獣めいた咆哮《ほうこう》とともに、横なぐりの一刀をふるっていた。
お国はなおすすんだ。腕のついた刀がながれて――草の上に横たわっていたお彩の胴へ斬り下げられた。あたかも、そこに馬乗りになっていた男の幻影を唐竹《からたけ》割りにするごとく。
が、その刹那《せつな》、彼女の胴からも鮮血が噴出して、即死したお彩と折り重なって、どうと崩折《くずお》れた。
あくまでも蒼《あお》く明るい五月の空の下。
青嵐吹きわたる広い草原の上。
椎ノ葉刀馬は茫乎として立っている。柳生道場きっての使い手といわれた人間が、嬰児《あかご》同然に大刀を奪われて、まるで馬鹿のようだが――しかし、この風景の中に描き出されたいまの決闘は、あれは現実のことであったろうか。いや、現実のことであったに相違はない。そこにあまりにもきらびやかな、そしてあまりにも酸鼻な屍骸《しがい》が二つ折り重なっているのだから。
「ああ。……」
もう一人、これも全身血まみれになった百々銭十郎が、血刀を杖にして立ったままうめいた。
「しまった」
長嘆したのは、おのれの傷のことでも、甲賀組の娘の死のことでもない。相手を殺して、その口を封じてしまったことであった。彼ほどのものが、狼狽のあまり、その意志に反して相手を胴斬りにしてしまったことであった。
「しかし、大したやつだ。椎ノ葉さま、おわかりになったでござろうが」
刀馬は先刻じぶんをにらんだ女の眼を思い出していた。何か脳髄を内部から針で刺されるような気がしたが、それがかたちをととのえるまえに、銭十郎の声につき動かされた。
「森の中で、何かがあった。いって見て下され、何があるか。――」
刀馬は走り出そうとして、跫音《あしおと》にふりむいた。
侍女をつれた春日の局が息せき切って駈け寄って来た。
「待ちやれ」
局の眼も唇もひきつっていた。――彼女は、長局にお国がいないことに気がつき、今宵将軍家に侍ることになっている女だから、こんこんと最後の訓戒を垂れようと思っていただけに少なからずあわて、そのお国が先刻この馬場の方へ出てゆく姿を見た者があった、という知らせに、舌打ちしつつみずからさがしにやって来て、はからずもいまの光景を見たのだ。
「いや、それよりも一刻も早く」
銭十郎にあごをしゃくられて、
「わけはあとで申しあげる。御免」
刀馬は森の方へ走り出した。
「こ、これは何ということです」
「御覧なされたでござりましょうが」
と言って百々銭十郎は、どうと坐った。背からの流血もさることながら、左手をあげて半顔の血をおしぬぐう。傷はひたいから左頬にかけて走り、左眼をあけることは不可能となっていることに彼は気がついた。
「われら、甲賀の者でござる。そのわれらが何ゆえ大奥のかような場所に入りこんでおったか、それをおとがめに相成るまえに、いま拙者が成敗したこの女人の素姓をあきらかにしていただきとう存じまする」
「この女は……わしの遠縁の者じゃ。怪しき女ではない。――」
「その遠縁のかたが、これほど武芸に達しておられたとは、お局さま、御承知でござりましたか?」
春日の局は言葉が出なかった。おちついた彼女も、頭が混乱していた。
彼女は、お国が白刃を両掌で挟んで受け止めたのを見た。お国がじぶんの片腕を打ち落されながら、その腕をもう一方の腕でつかんで、なお相手に襲いかかる姿を、走りながら見た。
たしかにそれを目撃はしたが、じぶんの眼を疑わずにはいられない。あれはほんとうに、じぶんの知っているお国であったか。
お国は彼女の遠縁の娘であった。才色双絶で、もはや或る大身の旗本へ縁談がきまっていたのを、彼女が懇願し、かつ因果をふくめて大奥へ入れたのだ。女人に対する欲望があまりにも偏《かたよ》った将軍の感受性にも、充分訴えるに足る美貌の持ち主と思われたし、それにこのじぶんの縁につながる女性によって待望の――何より彼女が苦に病んでいる――将軍の後嗣が得られるなら、これにまさる慶事はないと考えたからであった。
それほどの娘であったから、おそらく武芸も一通りはたしなんでいるであろう。しかし、それにしても、二人の男を相手にして、いまのあの凄じい決闘の姿は?
じぶんの眼を信じるとすれば、それは魔女としか見えなかった。
春日の局は、ちらりと草の中のお国の無惨なしかばねに眼をやり、眼をとじた。この娘には、わたしの知らない何かがある。――そのような女人を、上様に捧げようとしたじぶんの責任は重大といわなければならぬ。――
「この件については」
眼をあけて、彼女は言った。
「わたしがとり調べるまで、みなかたく他言は無用でありますぞ」
百々銭十郎はニヤリとして、それから草の上につっ伏した。さすがの彼も、おびただしい流血のために喪神したのである。
――馬場の北につづく森、その森の向こうに塀がある。塀の彼方にまた空地や道があって、そのゆくてにはまた塀があり、その外は濠となっている。
ともかくも、森のはずれの塀の内側まで、筏織右衛門のからだを背負って逃げて来たが、それを越えるとかえって人の眼があるので、虫籠右陣はそこの熊笹の中に筏織右衛門を置いて、大息をついた。
「こやつ、ぬけがらのくせに、鉛みたいに重いやつだ」
呆れたように見下ろし、それから頭上の杉の木に舞いあがった。じぶんたちの逃走もさることながら、あとに残してきた「任意車」の運命も気にかかったのだ。
杉の木にのぼったが、ここからは幾重もの梢《こずえ》にさえぎられて、馬場は見えない。――彼はふところから例の栄螺《さざえ》をとり出して、耳にあてた。遠くからの物音によって、その場の状況をさぐろうとしたのだ。――
「…………?」
さすがにこの距離ではよくきこえない。それにこの前の大奥の屋根の上と下、あのお麻が殺されたときには、眼には見ずともなりゆきは大体見当がついたが、きょうのことは彼の予想を絶しているので、何とも想像のしようがない。――
「あ。……いかん」
ふいに彼はあわて出した。
「来たぞ。――殺気のかたまりが」
むろん、何かを見たのではなく、彼の「暗剣殺」が告知したのだ。
杉の梢から見下ろして、右陣は少なからず狼狽した。じぶん一人なら、どんなことがあっても逃げ切れるが、あの鉛のような重いぬけがらの男をどうしよう。
「こっちに来るか?」
敏感に、小鼻、というにはあまりにも大きなあぐら鼻をうごめかして、
「これは、いかん。来るわ!」
うろたえて、飛び下りた。
――と、そのとき、横たわっていた筏織右衛門がじっとじぶんを見ているのに彼は気がついた。が、どこかなお放心的な眼で、
「……やられた」
と、つぶやいた。
右陣は飛び上がった。
「やっ、織右衛門。からだに帰って来たか。助かった! 一大事だ。こっちを探しにやって来るぞ。早く逃げてくれ」
「わしの衣服はどうした?」
「傍にある。そんなものはあとで着れる。とにかく早く、こっちへ来い!」
と、右陣は緑の布を放り投げた。
ぼっと緑にけぶったかたまりが二つ、樹立ちの中を吹き過ぎていった。それが消えたあと、正確に反対の方角に、椎ノ葉刀馬の姿が現れた。
「……ここらでよかろう」
太古さながらのふとい幹が林立している場所で、右陣は言った。熊笹の中で、筏織右衛門は息も乱さず、おちつきはらって衣服をつけている。
「危くなったら、また避難するとしよう。……ところで、筏、どうしたのじゃ」
「一昼夜を経ずして、わしの魂が戻ったということは――あの女が死んだ、ということじゃ」
「死んだ? あのお国は殺されたのか?」
「左様。……実に容易ならぬ敵」
織右衛門は宙を凝視してつぶやいた。
「わしの任意車でよかった。実体のわしが、知らずして立ち合ったら、わしもまた斬られたかも知れぬ」
「敵とはだれだ」
「甲賀者だ。……右陣、例の査察のときの甲賀組の選手は何という奴だ」
「百々銭十郎、という名だけは探り出した。しかし、その忍法は知らぬ」
「そやつだな。まことに恐るべき奴だ」
木の間をもれる青い光の斑《ふ》の中に、それに似たひかりを放って筏織右衛門の眼が、じいっと動かなかった。こんな織右衛門の眼、声の調子を、右陣はいままでに見たこともきいたこともない。――
いかなることがあったか、右陣はまだつまびらかにしない。が、お国が殺され、織右衛門が甦ったことは事実だ。いま織右衛門は相手の忍法に長嘆しているが、織右衛門の任意車にしても、いかにそれが破壊されようと、いつまでたっても織右衛門は健在なわけで、実に不死鳥ともいうべき術と改めて舌をまかずにはいられない。
「わからぬなあ」
「何がどうしたというのだ」
「まず、きゃつの忍法。女の血を以て斬るわざもさることながら、わしを……男ではないかとかぎつけた。それにきゃつ、女を吸い寄せる恐ろしい力がある。……」
織右衛門はしきりにくびをひねっていた。
「のみならず、例の査察役の若僧がおるぞ。それは大炊頭さまが、甲賀のうしろ盾《だて》になっておりなされるということではないか?」
「甲賀が御公儀唯一の忍び組に採用されたのだから、それはべつに面妖なことではないが」
「いや。わしには、不可解じゃ」
織右衛門は、右陣にはわからないひとりごとを洩らしたが、すぐに、
「ともあれ、第一の任意車は失敗した」
「そういうことになるか」
右陣はじいっと織右衛門をのぞきこんで、
「で……これで、しっぽを巻くか」
「ばかを言え」
と、織右衛門は厚い肩をゆすった。
「われらがここまで思い立って、これくらいのことで挫折してよいか。それに甲賀組が――あの甲賀者が護っておるとなれば、いよいよ以て手はひけぬ」
「それでこそ、伊賀の筏じゃ。わしが見込んだだけのことはある」
おだてられ、織右衛門は重く苦笑した。
「わからぬところも少々あるが、ともあれ敵の顔ぶれ、その忍法も大体見当はついた。こんどは、やりそこねることはあるまい」
「しかし」
右陣はやや思案顔をした。
「敵もこれでいよいよ警戒するぞ。大奥へ新しい女をまた入れるであろうか?」
「当分、入れぬであろうな」
「どうする」
「現在ある御側妾を使うよりほかはあるまい」
「使えるか。それらの御側妾に将軍があまり食指を動かさぬので、春日の局が気をもんでいるのじゃが」
「おぬしの忍法ぬれ桜、またわしの忍法任意車、これを合体したぬれ車にあらがい得る男が世にあろうかとは、おぬしが言った言葉ではなかったか」
織右衛門は言った。
「御側妾は、どなたがおわしたかな」
「お楽の方……お夏の方……お玉の方……お万の方」
「ふむ」
「お振《ふり》の方……お佐野の方……お琴の方……お舟の方」
「なかなか、女ぎらいどころではないではないか」
「春日の局が、やきもきして数だけは揃えたのだ。好ききらいの烈《はげ》しい子供に、これでもかこれでもかと御馳走をつきつける賢母に似ておる。しかもその春日の局が、そういう男女の道には先天的に反感を持っている女なのだから、これは悲劇じゃな。あれの望んでおるのは、ただあとつぎだけで、その見地からみるとこれは、牛や馬に子だねを残そうとしてむりやりにつがわせる所業同然だが」
「よし、その中のどなたかをぬれ車に仕立てるとしよう」
青葉の中に、筏織右衛門はぶきみに微笑した。
「将軍家のおんいのちをちぢめる目的もさることながら……きゃつ、あの百々銭十郎と申す奴との勝負、その方が面白いわ」
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攻防濡れぐるま
将軍家|御側妾《おそばめ》の一人、お舟の方は、六月末の或る夕方、お湯殿に入っていて、背をながしていたお末の女が、ときに放心状態になって、ほっとため息をつくのをききとがめた。
「どうしたのじゃ」
「は、はい。――」
お末の女はわれにかえった。
お末とは大奥で、風呂焚きや水汲みなどに使われる女で、これはおくるという十七になる少女であった。
「きょう拝見した御衣裳があまりお美しゅうて」
「どなたの?」
「こんど御中臈《おちゆうろう》になってお入りあそばす方の」
「え、こんど御中臈に――なんというお方がお入りなさるのじゃ」
「なんというお方か存じませぬ。ただ、きょうひるま、春日の局さまがお指図なされて運びこまれましたお長持ちなどのお手伝いをいたしておりましたとき、見せていただいたのでございます」
お舟の方はくびをかしげた。御中臈といえば、上様御側妾とまず同義語といっていい。それになるにはいろいろの手続きと順序を要し、それだけに事前に評判になるはずだが、こんどまた新しい御中臈が大奥に出現するなどという話は、彼女はきいたことがない。
「なかでも、その裲襠《うちかけ》のみごとさというものは。――」
おくるはうっとりつぶやいた。まだ開かぬ花といった感じで、ひくい身分のこともあり、だれの眼をもことさらひかないようだが、色白で、きゃしゃで、お末にしておくにはもったいないような娘であった。
新しい御中臈の話などきいたことはないが、まさかおくるがそんな偽りを言うとは思われない。それに春日の局といえば――あり得ることだ、とお舟の方は考えた。
ほんのこのあいだまで、お舟の方がいちばん新しい御中臈なのであった。小旗本の娘であったのを、彼女も春日の局に推挙されて召し出されたのだ。薄禄の旗本の家柄だが、いままでの御側妾は、どういうものか八百屋の娘であったり、古着屋の娘であったり、それにくらべて彼女は身分に恥じるところはない。恥じるどころか、彼女はじぶんの美貌に、幼いころから絶対の自信を持っていた。そういうお召しも、前世から約束されていたことのように思ったほどである。
上様には、女人に対しての特殊のお好みがあるらしい――とは、そのとき春日の局が言った。そのお好みに、そなたが沿うように思われる――とも言った。
事実、お舟は御目見《おめみえ》して将軍の気に入ったようであった。彼女はふるい立ってその閨《ねや》に侍《はべ》った。いままでの御側妾がどうもしっくりしないで、やがて有名無実の存在となったということはきいていたから、むろん処女ではあったが、彼女は全精根をこめてお伽《とぎ》をしたつもりであった。
――ところが、結果は同じだったのである。それ以来、お舟の方が将軍に召された夜は十指で数えるにもあたるまい。
将軍家は女がおきらいか、というとそうとも思われぬふしがある。しかし、なんだか、酒は大いに好きだが、すぐに悪酔いしてしまう人間に似たところがある。――
わがままなのか、移り気なのか。大奥の女群に飽満しているのか。または春日の局の強要に、意識的に反撥を禁じ得ないのか。
いずれにしても自信を持ち、野心を持っていたお舟の方には、少なからぬショックであった。なまじ将軍家が病的な女ぎらいではない――どころか、どうかすると、盲目的にのめずりこみそうな素質も感覚されるので、みれんが残る。やきもきする。
が、いかにいらいらしても、お呼びでないのにこちらからおしかけることは絶対にできない大奥の掟であった。
そこへ、またもや新しい御中臈の話である。
――ほんのこのあいだまで、彼女がいちばん新しい御中臈であった、と言ったが、それはさきごろお国という女人が入ることになっていたからだ。しかし、その女人は、どういうわけか大奥から姿を消してしまい、その後なんの沙汰もないようだ。だから、正確には、やっぱりお舟の方がいちばん新しい御中臈である。
じぶんもそうだが、お国も春日の局の周旋によるものであったという。いかなる女人を捧げれば上様のお気に召すか――それに春日の局が血道をあげていることが体験的にわかるだけに、このたびの話は、彼女にとってききずてならなかった。
「ほう。……みごとな御衣裳」
と、お舟の方はつぶやいた。
「それを春日どのが、みずからお手入れなされたとえ?」
局の気の入れかたが想像される。
「御覧なされますか」
と、おくるが言った。
「たわけたことを申しやるな」
と、お舟の方は、はしたない十七歳のお末を叱ったが、やがて着替えする畳の間に入り、ゆもじを出されたとき、
「それはどこのお部屋じゃえ?」
と、きいた。
襷《たすき》がけのおくるは、全裸のお舟のまえにひざをついて、ゆもじを巻こうとしていた。むろん、お舟の方の、をである。大奥に於ては、御台《みだい》さま、御側妾はおろか、高級女中にいたるまで、このような姿でひとに衣服をつけてもらう慣習であった。
「お国さまがお入りなさることになっておりましたお部屋でございます」
ひたい髪を、お舟の方の下腹部にふれさせんばかりにして、おくるはあどけなく答えた。
――それから数刻ののち、お舟の方はおくるとともに、点々と網行燈《あみあんどん》のともった夜の長廊下を、その部屋へ忍びやかにいそいでいた。
たんに豪奢なその新御中臈の衣裳を見たい、という望みばかりではない。それらの衣服或いは道具をみれば、その女人の素姓も知れるにちがいない、という好奇心に彼女はたえることができなかったのだ。
「ここでございます」
と或る唐紙《からかみ》をあけて、おくるは言った。
入って、唐紙をしめると、廊下の灯影に遮断されて、中は闇黒になった。
「おくる、灯りをつけや」
お舟の方は言った。
「はい。――」
おくるは答えた。手燭を持っていたはずだが、なかなか灯がつかない。
「何をしていやる」
「はい、ただいま。――」
火打ち石を打つ音がして、ぼうと手燭が炎をあげた。愛くるしいお末の顔が、そのとき妙に蒼《あお》ざめて生気のないものに映ったが、それは光線のむきと、夜ふけ、ともかくまだ住み手のいない部屋に入ったという気後れのせいかも知れない。――
いや、お舟の方はそんなことを考えるゆとりもない。それより彼女は、部屋の隅に置いてある古めかしい長持ちの方に眼をやった。
「あけてたもれ」
彼女の方から進み寄った。
が、うしろからついて来たおくるが手燭を持っていることに気がつくと、お舟の方はじぶんでかけがねをはずして、長持ちのふたをあけた。のぞきこんだが、内側は暗くてよく見えない。
「灯を、こちらに廻して。――」
手燭の灯がすぐ傍に来たが、長持ちの中にはきらびやかな衣裳ひとつ見えず、底の方に黒っぽい布がふくれて見えるだけであった。
「裲襠など、どこにある?」
「その下でございます」
ひどく間のびした調子で言うおくるの異常さにまだ気づかず、お舟の方は長持ちの中へからだをかがめ、手をのばして黒い布をとった。
「……あーっ」
さけんだつもりだが、実は悲鳴さえ出ず、だがかっと眼を見張った彼女は、そのままさかしまに長持ちの底へ落ちこんでいった。のばした手を、下から何者かにつかまれたのである。いや、その直前、彼女は闇夜《やみよ》の海に浮かんだ海坊主みたいな顔を見たのである。
蹴出した裾から、真っ白な二本の足が宙に躍り、沈むと同時に、音もなく長持ちのふたが閉じられた。
片手で閉じたのはおくるであった。手燭をしずかに、そのふたの上に置く。しずかというより、まるで病んでいるような動作だ。実際、彼女はその長持ちによりかかった。
長持ちはいちどガタリと小さくゆれ、「ああう」というようなお舟の方の声がきこえたが、それっきり動かず、なんの音もしなくなった。――ただし、長持ちから三尺も離れた人間の眼、耳にはである。
片肘ついて、頬にあて、よりかかったおくるには、名状しがたい微動がつたわる。猫か犬かが水でもなめているような音が断続してきこえる。――
「……犯すなよ」
と、おくるはひくい声で言った。
「犯せば、あとの任意車《にんいぐるま》の効果が悪うなる」
それに対してどういう応答があったか、やがておくるは長持ちを離れ、そのまわりを廻った。
長持ちと壁とのあいだに空間があった。そこにも黒い布がかたまっていて、それをとりのぞくと筏織右衛門の仰むけになった姿が現れた。
その傍におくるは坐り、壁にもたれかかって首を垂れた。
雨こそ降っていなかったが、ジットリと霧のこもったような――そして霧ばかりでなく、数千人の女の眠る吐息と肌の香のたちこめる大奥の夜。
長持ちの上の手燭のあげるけむりが、音もなく、断続的にゆるやかな螺旋《らせん》をえがいている。
その向こうに、ぬうと黒い影が立った。筏織右衛門であった。彼はしばらくなお散大した瞳で、手燭の炎をながめていたが、やがて動き出した。その灯を取り、歩いて――おくるの前に坐ったのである。
「声をたてるな」
と、彼は言った。
壁にもたれていたおくるも、垂れていた首をあげて、眼をいっぱいに見ひらいていた。いま、そう命じられたが、声もたてられないほどの恐怖の眼だ。
しかり、おくるは、いまおくるとして甦《よみがえ》って来たのだ。彼女は昨夜お半下《はした》部屋から手洗いにゆこうとして、その途中、闇の中から現れた何者かに襲われ、犯されたのであった。
それが何者であったか、彼女は知らない。何事が起こったのかさえ、十七歳の少女にはよくわからないくらいである。
が、いま。――
手燭を前に置かれ、ゆらめきのぼる油炎の向こうにじいっとひかっているやや三角形の琥珀《こはく》の眼に、彼女は魔界からの凝視を受けているような感じになり、さらに麻痺《まひ》的な状態におちいった。
「世話になったのう」
と相手は錆《さび》をおびた声で言った。
――しかり、筏織右衛門は、昨夜以来この十七歳の少女の肉体に宿をかりて住んでいた。お湯殿でお舟の方を洗い、その肌に下着までつけてやったのも彼なのであった。
何を世話したのか、おくるは知らぬ。いや、相手が何者か、ここがどこで、じぶんがどうしてこんなところにいるのかも知らぬ。が、わけのわからぬ礼を言って、恐ろしいその眼がにっと笑んだとき、思いがけずひどくやさしい、人間的な――哀れみの色さえ浮かべたような気がして、ふいにおくるはわれにかえり、何かさけび出そうとした。相手のふとい声がそれを抑えた。
「ふびんや、おまえはこれからどうなるか。忍者に見込まれたを、前世からの因果と思え」
内容よりも、声の重々しさが、おくるをふたたび凍りつかせてしまった。あぶら火の向こうの眼は、これもふたたび、琥珀というより火を映した氷のような感じに戻っていた。
コツコツ、コツコツ。――
長持ちをかすかに打つ音がした。
「――お」
織右衛門は立って、長持ちのふたをあけた。
中から、全裸の女体を両腕に抱いた海坊主のような影が、ニューッと立ちあがった。虫籠右陣である。
女は――お舟の方だ。長持ちにひきずりこまれたときはたしかに衣服をつけていたから、中ですべてひき剥《む》かれたものに相違ない。が、この将軍家御側妾は悲鳴もあげず、しかも気絶していない証拠には、その姿で、片腕を海坊主のふとい頸《くび》にまきつけて、なお火のようなあえぎをもらしていた。
「御覧の通りじゃ」
真っ赤な、厚ぼったい唇《くちびる》をつりあげて、右陣は笑った。
「釘をさされた通り、ぬれ桜に仕立てるだけでがまんしたが、長持ちの中のもつれ合い、わしにとっては大地獄であったぞや。おぬしとの協同作業は、どうもわしの方が分がわるい」
と言って、舌を出して、鼻先に起伏している女の乳くびをなめた。
身をふるわせてお舟はいよいよ右陣にしがみつき、春日の局などが耳にしたら卒中でも起こしそうな言葉を口走った。
「いましばし、おとなしゅう、おとなしゅう……そうもがかれると、さなきだにぬらぬらしておる肌が、剥いた桃のように滑りそうじゃ」
「御苦労」
織右衛門はしぶく笑って、
「まず、出て来い」
と言った。
右陣はお舟の方を抱いたまま、風船のように長持ちの外へ出て来ながら、脳髄もしびれつくして見つめているおくるの方に眼をやって、
「醒《さ》めたか」
「醒めた」
「これから、どうしよう。生かして、二度と外に出せぬな」
「とはいえ、手にかけるはふびんでもある」
と、織右衛門は嘆息した。
おくるは自分のことを――自分の生死にかかわることを問答されているとは判断する力も失っている。その彼女の魂をさらに天外に飛ばす光景が、やがてそこにくりひろげられた。
たたみに横たえられた将軍家御側妾に、はじめからそこに坐っていた男が、途方もない所業を加えはじめたのだ。――男はまるでまな板の上の白い人魚を料理するようにおちつきはらっており、そしてお舟の方は、耳を覆いたいような悦楽のうめきをあげてそれに応えているのであった。
「忍法任意車。――超絶無双のわざ、とは思うが」
長持ちにもたれかかり、両足投げ出して坐り、肩で息をついてそれを見物しながら、海坊主が言う。
「手数もかかるの」
「このことがか」
「いや、この女人を任意車に仕立てるために、その娘を任意車に仕立てなければならなんだとは」
「大奥じゃ。一足飛びというわけにはゆかぬ」
二人の忍者は、技術的な会話を交しているのだ。
さすがに将軍家御側妾に、単刀直入にちかづくわけにはゆかない。本来の姿では、その近辺に姿を現すことさえ不可能だ。で、広大な大奥の南西隅の端っこにあるお半下部屋近くにひそんで――それさえも常人には至難のことだが、――まずこのおくるというお末を任意車に仕立て、それによってお舟の方にちかづき、ようやくここにおびき寄せたことを言っているのだ。
「筏」
「なんじゃ」
織右衛門の声がかすれて来た。
「しかし、考えようによっては、時間的連続のわざともいえるな。……これを空間的同時のわざというわけには参らんか」
まるで相対性原理みたいなこの哲学的質問には、筏織右衛門もめんくらったようである。
「どういう意味じゃ」
「つまりおぬしが、同時に二人の女を犯すと、二台の任意車が出来上がる――という理屈になるが、そういうわけにはゆくまいか、と言っているのだ」
「や」
動きがとまった。
「それはわしも試みたことがない。ううむ。――頗《すこぶ》る興味ある実験じゃが――二台の任意車、つまり二人のわしがこの世に出現するということになると、われながらちと怖いな」
「二人どころではない。――理論的には、数千人の大奥の女変じてことごとく数千人の筏織右衛門となるということもあり得るではないか」
「しばらく待て。――」
かすれた織右衛門の声が、ふっと、切れると、彼はお舟の方のからだの上につっ伏した。
また例の永劫と思われる数瞬が過ぎて、溶け合った黒白二体の蝋人形《ろうにんぎよう》のうち、まず織右衛門の腰に巻きつけられていた二本の白い足が動いて、ひらいた。
織右衛門のからだがころがりおち、お舟の方がゆっくりと身を起こした。
「きものをくれ」
右陣が長持ちの中から、先刻剥いだお舟の方の衣服をとり出してわたすと、お舟の方はそれをつけながら、
「いまの話じゃがの」
と、言い出した。
「あれは、やはりだめだ」
「どうして?」
「複数の女人を、同時に犯すなどということは不可能だ。最初の放出と同時に、わしは相手に乗り移ってしまうのじゃから」
「なるほど。――」
右陣はくびをかしげて、
「しかし、そこを二つの鉢に如露《じよろ》で水をやるごとく。――」
「うむ、二人くらいなら、何とかなるかも知れぬ。しかし、数人となるともういかぬだろう。いわんや、数千人など、――」
と、苦笑して、
「その二人も、悪くすると、半織右衛門が二人出来上がるかも知れぬ。とにかく、いままで試みたことがないから、わしには見当がつかぬ。まず興味ある宿題としてあずかっておく」
この滑稽な会話を、深沈たる大奥の夜、二人の忍者は大まじめな顔で交した。大まじめではあるが、それだけに恐るべき忍法技術論であった。
げんに、いまここに立ちあがった将軍家御側妾お舟の方が、伊賀忍法任意車と根来ぬれ桜とから合成された、「ぬれ車」ともいうべき存在なのである。
「では、また明夜。――」
と、お舟の方は、シャナリシャナリと歩き出した。
右陣が声をかけた。
「明夜、将軍家が大奥に入られることはまちがいないな?」
――その翌夜だ。
百々銭十郎は大奥の天井裏を這っていた。
これは椎ノ葉刀馬にもないしょのことである。あとで知れたら大奥の警戒のためだと弁明するつもりで、事実それもいつわりではないが、銭十郎の目的はほかにある。
実はこの大奥潜入を、彼はいままで二、三回試みているのだ。刀馬といえども、四六時ちゅう銭十郎のそばにくっついているわけにはゆかないから、このことは可能であった。
銭十郎の白朽葉は、周期的に満ち、また引いた。満ちたときの彼の苦しみは、彼自身が表白したところだ。その彼が、大奥と、文字通り杉戸一枚を隔てたところに駐在を命じられたのだ。杉戸一枚とはいえ、大奥に群棲している女たちはまだ遠いが、白朽葉となったときの銭十郎は、そこからの匂やかな風を、鼻粘膜もいたむほどに嗅ぎつけた。
で、彼は、一夜、夢遊病的に天井裏から大奥へ這いこんだ。
数千坪に及ぶ巨大な闇《やみ》の空間。林立する柱やうねり走る梁《はり》は、怪奇な密林を思わせる。こんな風景が、この世にまたとあろうとは思われない。
その中を這う百々銭十郎は、さすがに万一のため、黒装束に黒頭巾で全身をつつんでいたが、その頭巾のあいだからのぞく眼は――隻眼であった。左眼はななめの刀痕に、糸のようにとじられている。
いつぞやの大奥の馬場で、いまだにえたいの知れぬお国という女との決闘の際受けた傷であった。
密林の梢《こずえ》をわたる片目の獣のごとく、彼は大奥の空をゆく。そして、彼は見た、さまざまの光景を。
天井の小さな節穴から、また板と板との微《かす》かな合わせ目から、或いは彼自身が音もなく錐《きり》であけた穴から。――
一個室に一人住んでいる女もあれば、二人、三人、或いは数人住んでいる女たちもある。女百態――と言ってはまだ足りない。前にも言ったように、大奥の女は数千人に及ぶ。それは千変万化をきわめた。
千を以てする適当な形容詞がほかにないのを遺憾とするが、それは百花|撩乱《りようらん》というより百鬼夜行図であった。実はさしもの銭十郎も、唖然《あぜん》とし、憮然《ぶぜん》とし、呆然《ぼうぜん》とせざるを得なかった。
とくに一人の個室の光景が意表に出る。むし暑い夏の夜の長さ。その長い夜をただ一人ですごす女は、いかなる行状を見せるか。
鏡をのぞきこんで、百面相をこころみている女がある。持ちこんだ牡丹餅《ぼたもち》のたぐいを、驚嘆すべく大量に、黙々とつめこんでいる女がある。かと思うと、ひとりでぶつぶつと、朋輩や上司への悪口をつぶやいてうっぷんをはらしている女がある。名作の雛《ひな》のような顔をして、みるも無惨な大あくびする女があれば、内股をさらけ出して、そこにできたふきでものか何かを眺めいっている女がある。とくに――厳格を以って知られたある老女が、いとも盛大なる放屁《ほうひ》をやってのけたときには、百々銭十郎もあやうく天井の梁からころがりおちるところであった。
それからまた彼は、彼自身が忍びこむことによって、女たちに或る変化が起こることを知った。つまり、白朽葉の及ぼす影響である。
どこから吹いてくる風か、女たちは知るまい。なんの匂いかも明瞭に弁別することはできまい。ひょっとしたら、何かが匂うことすら意識しなかったかも知れぬ。
が、天井裏にひそんで、じいっとのぞきこんでいると、女たちは、極端な老女をのぞき十人のうち九人までが、やがてぼっと頬を紅潮させ、眼をとろんとうるませ、胸の起伏を大きくするようになる。十人のうち五人までが、胸に手を入れて何かをいじりながら、口をひらいてあえぎ出すようになる。そして十人のうち二人か三人までが――なんと、みずから慰め、或いは女同士、たわむれ合うようになる。――
それは眼もくらむほど妖艶な、または吐気のするほど凄惨な光景であった。
天井を切りひらいて飛び下りたい衝動を、百々銭十郎は死物狂いに自制した。彼といえどもその結果の破滅はよく承知していたからである。――
……とにかく、彼は天井の遊行がやみつきになった。
そして、ついに或る願望を起こしたのである。将軍家の閨房を盗み見たいという欲望である。――その夜彼がまた大奥に忍びこんだのは、その目的であった。
将軍は毎夜大奥に入るものではない。とくに現将軍家は、なぜか大奥に寝ることに何か抵抗があるらしく、十日に六日は、官邸の方つまり中奥に眠る。しかも、ここのところ十数日にわたって、お錠口《じようぐち》に足を運んだことがない。
それを、ひさびさに大奥に入られる。――そういう情報が、お錠口につとめる甲賀者の耳に伝えられたのだ。しかもこよいは、御台さまのところへお休みになるという。
その時刻は六つ(午後六時)ごろであるという。
その時刻から、銭十郎は御台さまのお部屋ちかくの天井裏にひそんでいたが、いったいどうしたのか、一刻《いつとき》たっても二刻たっても、将軍がやってくる気配がなかった。
「……はてな、どうしたか?」
夕刻、上野の寛永寺から南光坊天海僧正が登城して、表で何やら会談中であるという知らせはきいていたから、ひょっとしたらその話が長びいているのかも知れない。
ついに、待ちかね、たいくつして百々銭十郎は、例の天井裏の散歩をはじめた。散歩というものの、まるで蛇がうねりすべるような速度だ。
――と、あるところで、彼はふいに動かなくなった。
きょろきょろとあたりを見まわし、それからまた考えこんだ。彼の頬が紅潮し、眼がとろんとうるみ、胸が大きく起伏しはじめた。
「女だ」
と、彼はただならぬうめきを発した。
女だらけの大奥で、まさしく彼は、女の精髄ともいうべき匂いを嗅ぎつけたのである。ふいに彼はまた蛇のようにうねり出して、その匂いの湧き出してくる地点へちかづいていった。
「ここだ」
銭十郎は節穴から下を見下ろした。――たった一つの右眼で。
その眼が節穴よりも大きくなった。なお、穴に眼をくいつかせていた銭十郎のからだが、しだいにブルブルとふるえて来た。
恐怖のためではない。この恐るべき男にとって、こわいことが世にあるわけはない。――彼が見たのは、まさに彼の白朽葉の吹きどよもさんばかりの光景であった。
下の座敷には、たたみに手燭が置かれて、大きく灯がゆらめいていた。それに照らされて、ひとりの娘が、一個の長持ちにしがみついて、何やらうわごとをもらしているのだ。
娘のきものは、帯にまつわりついているだけといっていいありさまであった。全身がうすもも色に染まって、それが濡れて異様な光沢を放っている。それだけでもふつうの男の心魂をゆるがせる姿だが、その半裸の肌から、たしかに白朽葉の銭十郎をひきずり寄せる女の精髄の香が匂い立っているのだ。
「ねえ。ねえ。……もしっ、どうにかして。……」
まだ十七、八の骨細のからだをくねらせて、彼女はむせびながら、さらにきわめて淫らなことを口走った。
見ているうちに、百々銭十郎の鉄の自制は燃えとろけた。彼の手に小柄《こづか》がひかると、それはまるで紙でも切るように天井を裂いて、そこから黒い鳥みたいに舞い下りていった。
「これ、どうしたのじゃ?」
さすがに息をおさえ、しのびやかにきく。
ふいにそんな出現をした黒衣の男を見て、娘は悲鳴もあげなかった。ただ立ちすくみ、眼を見張ったが、ふいにとびついて来た。
一瞬、さっと銭十郎の頭を或る記憶がかすめて、反射的に両手首をつかんでいた。先日のお国という女がじぶんに抱きつきながら、ふいに刺して来たあの記憶である。
「ま、待て、待て」
つかんだ相手の手にも、からだにもどうやら武器のたぐいはないらしいことを確かめて、
「そなたはだれじゃ」
「お末のおくる」
「どうしてこんなところにおる」
「わからぬ」
「わからぬ? 何をしておったのじゃ」
「男に抱かれていた」
「男に? 男が、どこにおる?」
「この中に」
「この長持ちの中にか?」
銭十郎は、はっとした。
大奥で、男ひでりの女中が密通するために長持ちに男を入れて運びこませるなどいうお伽噺《とぎばなし》はきいたことがあるが、事実としてそれが発見されたということは耳にしないし、だいいち、目下甲賀組に護らせている大奥に、そんなことのあり得るはずがない。――
が、彼は、娘の両手首をつかんだまま、長持ちのそばに歩み寄った。
長持ちには、外からかけがねがかけてある。ふつうなら容易にはずせるはずだが、それがぐいと恐ろしい力でねじまげてあるのだ。
「この中に?」
娘はうなずいた。
銭十郎は、耳をすませた。が、長持ちの中に人間がひそんでいるとは思えない。――鋭敏きわまる忍者の鼓膜にも。
銭十郎は、おくるの手首から手を離した。離すと同時に、おくるはからだじゅうでしがみついて来た。
それにかまわず、銭十郎は長持ちのまがったかけがねを、またぐいとのばしてしまった。中に人間がいるとは思われないが、かけがねをこうして封じた長持ちに何が入っているか、それだけたしかめたくなったのだ。
彼は長持ちのふたをおしあけた。
「……おう」
と、さすがに驚愕の声をもらした。
――いた。たしかにいた。一人の男が。
胸に掌《て》をくんで、仰むけになって――眼をひらいて、じいっと空中を凝視している。たしかに銭十郎を見たはずだが、微動はおろか、その眼はまばたきもしない。――
その眼が、どこか透き通って、ギヤマンめいているのに気がついて、銭十郎は手をのばした。
男のからだは冷たかった。鼻口に息は感じられなかった。
「死びとじゃな」
と、銭十郎はつぶやいた。
さあ、いよいよ以てわからない、この男は何者か、どうして死んでいるのか。この女は何をしていたのか。――場所が大奥であるだけに、容易ならぬ一大事だ。
「こ、これはいったいどうしたことじゃ?」
「知りたいか?」
娘は笑った。
彼女はまるでゆるい接着剤でねばりついたように彼にしがみつき、全身を蠕動《ぜんどう》させつづけていた。まるで狂女としか思われないが、しかし、狂ってはいない、と銭十郎は直感した。ただ何か異常なことが起こって、その衝撃のために乱心しているのだ、そういう感じであった。
「抱いてくれたら、教えてあげる。わたしを抱いて」
そして、娘はもっと卑猥な言葉を口にした。――烈しく波打たせる肉のうごめき、熱い息のふるえ、いや、そんなたんに欲情するふつうの女の生理的な反応ではない。もっと男そのものを吹きくるんでしまう花粉のようなものが匂い立った。
すでに、遠くからこの天井裏まで吸い寄せられ、みずから転落して来たといっていい百々銭十郎だ。いままで、この蠱惑《こわく》に抵抗して、長持ちの中を点検するのがせいいっぱいの行為といっていい。
「抱いてやったら、教えるか?」
条件じみたことをいったのは、たんに言葉のあやだ。
彼は女を抱いたままたたみに倒れ、そして盛大にふりそそぎ、まきちらしはじめた。からだじゅうを白濁させていた白朽葉を。
これを流出するときの百々銭十郎の生理的快感は、おそらく同様の場合に於《お》けるなみの男性の数十倍分で、むしろ病理的法悦といっていいくらいだが、その銭十郎にして、これほど魂魄《こんぱく》人外境に飛び去る思いになったことはない。
事実彼は、女にからだをぐたと伏せて、数秒軽い失神におちいったほどであった。
――この娘が? と思う。
――このしなしなとかぼそい、きゃしゃな、一見まだ開かぬ花の感じの娘が? と思う。
これはただものではない、少なくともただごとではない、と百々銭十郎は考えた。そう考えたのは第一回の放出を終わってからのことで、それまでは彼ほどの者が無我夢中であった。しかも、事前にお国のことがちらと頭をかすめたのに、敢て抱いたのだから、忘我の中にも、この娘から危険感をとり除いていたことは事実だ。
あのときは、ちかよるまでお国が女であるか男であるか、彼自身惑乱しているところがあった。これは疑いもなく女だ!
もし一昼夜前、彼がこのおくるとめぐり逢っていたらどうなっていたかわからないのだから、彼の直感はさすがである。つまり彼の白朽葉の嗅覚は、たんに筏織右衛門の任意車と化した女は男ではないかと疑い、たんに虫籠右陣のぬれ桜に仕立てられた女は完全な女だと認識し、両者合体してぬれ車となると混乱をきたすので、その点は存外科学的に正確なものだ。
さて、第一回の放出といったのは――そのあとで、
「ね、もういちど。……」
なお狂乱しつつせがむおくるに応じたことで、彼にしても稀有《けう》のことだ。彼自身、まだ放出するものがあったかと呆《あき》れたほどである。特例を以て第二回の放出を終えた。
「もういちど!」
「たわけ」
「では、教えてやらない」
教えてやるもやらないも、おくる自身天地|晦冥《かいめい》の状態だ。これは肉欲の化身となった女のいわせる無思考の手管《てくだ》であった。あわれ彼女は、このとき相手の変貌を知らない。
「言え」
涸《か》れ果てた形相で、銭十郎は女に馬乗りになって、そのうすもも色の乳くびをつまんで、ねじまわした。
「あの死びとは何者じゃ。どうしてあんなところにおる?」
おくるは快美と苦悶にくねりつつ言った。
「知らない。――」
「なんだと?」
このとき銭十郎は、はっとして別の或ることに気がついた。長持ちのかけがねを外からあんな風にねじまげたのはだれかということだ。この娘の細い葱《ねぎ》のような指でできることではない。――もっと早くこのことに気づいてもよかったはずだが、いままで思考の外にあったのは、やはりこの娘に魂を奪われていたせいであったろう。
「もう一人、だれかいたな?」
「あ」
と、おくるはうなずいた。
「だれだ?」
「知らない」
「そいつは、どこにおる?」
「あっちへ」
と、おくるは顔を廊下側の唐紙へねじむけた。知らない、知らない、という口上が、べつに深い思慮あってのしらばくれでないことはこれでもわかる。――
銭十郎はふいに飛び立って、唐紙に手をかけた。唐紙はひらかなかった。
何かで留めてある気配である。が、たかが唐紙一枚、蹴放せばひらくものを、しかし百々銭十郎は飛び返った。
飛び返るというより、このときもまだおくるは、彼の足くびをつかんでいたのである。彼がふたたびその上に馬乗りになると、おくるは狂喜して両腕をさしのばした。その両腕をつかんで足で踏んまえ、銭十郎は一刀を抜きはらった。
ぷっ!
ぷっ!
なんら逡巡《しゆんじゆん》の色もなく、この夏の夜に寒風に吹かれたようにその二つの乳くびを切断し、噴出する二条の血しぶきを刃にあてる。
――例によって例のごとしだ。それどころか、立ちあがるついでに、ぐさと左乳房の下をきっさきでつらぬいたのは、悲鳴をふせぐためのとどめであろう。罪なき少女の生命はかくのごとくにして闇天に飛び去った。
無惨の極みには相違ないが、しかしこれより前、筏織右衛門の任意車となり、虫籠右陣にぬれ桜と仕立てられた娘は、醒めてなお生きるよりも、いまここで快美にもだえるうちに即死した方が倖《しあわ》せであったかも知れぬ。すでに彼女は筏織右衛門から、「ふびんや、おまえはこれからどうなるか。忍者に見込まれたを、前世からの因果と思え」と宣告されている。
織右衛門なればこそ嘆息してこう言ったが、はからずも忍者の死闘の業風《ごうふう》に巻きつつまれた少女一人の生命など、しょせん落花のひとひらにしか過ぎない。
はじめて銭十郎は二枚の唐紙を蹴った。
まず右足で蹴放し、次に電光のごとく左足で蹴放して、内側に倒れかかる左側の唐紙の下をくぐって廊下に出る。カラカラと何か金属のような物音が廊下を飛んだ。
――男がいるときいた。
――そやつをとらえれば、すべてはわかる。
そうと見込みをつけて躍り出したのだが、廊下には何者の姿もなかった。いや、この一劃は無人の空部屋がつらなっていて、網行燈《あみあんどん》の灯影もなく、ただ闇々たる廊下だが、しかしたしかに人の気配はない。――
しかし、外から唐紙を留めた奴がいる。いま飛んだ金属ようのもののひびきがそれだ。闇にも眼のきく銭十郎は、廊下の上に折れ曲がった五寸釘状のものを認めた。釘状といったのは、くの字なりのその物の両端が、釘よりもっと鋭くとぎすまされていたからだ。
何か? そんなものを銭十郎もいままで見たことはなかったが、本能的に、「忍者の武器!」と直感した。
身をかがめ、片手をのばしてそれを拾おうとした。
とたんに銭十郎は、はたと片膝ついて身をねじった。正確に、それまで彼のうなじのあった位置の空中で、キーンと微かな、が、鋭い音が鳴った。
その姿勢で、ふりかえりざま百々銭十郎は、廊下の天井にべたっとくっついた黒い影を見、
「ふ!」
凄じい笑いと刀身がひらめくと、その方向へ一条の血潮がたばしっていった。
――これよりほんのすこし前。部屋の中で長持ちのふたが持ちあがって、にゅっと海坊主みたいな頭が出た。まるであぶらでもかぶったようにヌラヌラとひかる虫籠右陣の顔であった。
常人とすれば精力絶倫の肉塊みたいだが、彼にしてみれば相当疲労こんぱいした表情であった。――この一昼夜、彼は長持ちの中で、おくるともつれ合っていたのである。たださえそう広くない長持ちの中に、そのほかに魂のぬけがらではあるが、体積だけはもと通りの筏織右衛門のからだが、横たえてある。
最初のうちは、たいくつしのぎのおもちゃに相違なかったが、そのうち彼の方が遊ばれ出したのは是非もない。つまり、おくるをぬれ桜と変えたので、まさに自業自得というところだ。
それでも彼は、ここを離れることができない。ここが「任意車」の補給基地で、彼はその整備員兼警備員だからである。そして任意車が帰ってくるまでの無為な一昼夜を、ただ筏織右衛門のぬけがらといっしょに暮らしているより、このおもちゃで遊んでいるにしかず。――
と、いうつもりであったのだが、さすがに相当くたびれた。
で。――いま。
「あ、あ、あ」
と、長持ちから出した顔で大あくびをして、みずからも酸素を補給したが、その胴にもうさくら色にぬれひかる二本の腕が、下からからみついて何か言った。
「待て、待て、待て」
と言ったのは、ただ、いましばしの休息を欲しただけだが――このとき右陣の耳がぴくっと動いた。
いまあくびをしたくらいだから、べつに何らの危惧をおぼえて顔を出したわけではない。ただ彼は、例の「任意車」のことを案じて長持ちのふたをあけたのである。
すなわち、任意車が出動してから、もう一昼夜はたつはずだ。最初の想定からすれば、もうかれこれ一刻もまえに、めざす将軍家をそれに乗せ、もみたて、ゆさぶりぬき、そして何らかの口実で御寝所を一応しりぞき、ここへ魂の補給に帰ってくるはずだ。
それが、まだ帰ってこない。帰ってこなければ、織右衛門の精魂が切れる。つまりお舟の方そのものにもどる。そうなったら一大事だ。
いったいぬれ車はどうしたか?
そう思って顔を出した虫籠右陣が、今ぴくっと耳を動かしたのは、例の「暗剣殺」に何か触れるものがあったせいではない。ただ彼は、天井裏に微かながら何かの物音をきいたのだ。
遠くから、何者かが、蛇のようにうねりすべってくる音を。
「あれは?」
殺気は感じないが、夜更け、大奥の天井を這ってくる――しかも、あきらかにこの座敷の天井へむかってちかづいてくる奴が、ただものであろうはずがない。右陣は狼狽《ろうばい》した。
長持ちのふたをとじても無益のわざだ、と彼は直感した。狼狽しつつ、彼はおくるをひきずり出し、そこで長持ちのふたをしめてかけがねをまげ、じぶんだけ外へ逃げ出して、唐紙を外から留めた。これだけが、数十秒の仕事であった。
唐紙を外で留めたのは、そやつを封じるためではない。おくるにじぶんを追って来させないためだ。
当然、そやつはおくるに何かきくだろう。その問答によって、そやつの正体をつきとめ、これからのなりゆきを判断し、処置する。
そして彼は廊下の天井に吸いついて、例の栄螺《さざえ》を耳にあててきいた。――
おくるはいちど追って来ようとしたが、唐紙があかないのを知って、こんどは長持ちにしがみついたらしい。「男」がそこに一人残っているから。
果たせるかな、天井裏を這って来た奴は、おくるをとらえ、ききはじめた。そして、ろくに何もきき出さないうちに、蜜にぬれつくした女の花心に、蛾《が》のごとく落ちこんだ。
むりもない。おれの咲かせたぬれ桜じゃからな。
廊下の空で、こんな場合に虫籠右陣は、にたっと会心の笑みを浮かべた。
ついに男は、おくるからこの自分のことをきいた。こちらに出て来ようとして、ひき返した。それから――きゃつは、何をしている?
栄螺を耳にあてがった右陣にも、それがわからない。わからないが、そやつがまたこちらへ出てくることはあきらかだ。――逃げようと思えば逃げられる。しかし、右陣は逃げようとはしなかった。
そやつは長持ちの中の筏織右衛門を見た。死びとと判断したらしいが、ともかくもあの男を見た。――見られた以上、もはやそやつを生かしてはおけぬ。
だれだ、きゃつは?
――甲賀組の百々銭十郎!
名だけは知っているその男が、虫籠右陣の頭にひらめいた。女の血を以て人を斬ると筏織右衛門からきいた奴。――
果然、二枚の襖《ふすま》が蹴放された。二枚目に倒れる唐紙の下から現れるという細工には眼もくれず、ほっとしてその男が廊下にしゃがんだところを、右陣の「針つばめ」が襲った。
危く銭十郎はそれをかわした。
うなじめがけて投げつけた武器は、その位置の空間で反転してとび返っている――両端針のごとくとぎすませたくの字型の釘、称して「針つばめ」は、曾《かつ》て彼が、筏織右衛門の妻が殺された夜、大奥の屋根でちらと見せたことがある。目標にあたらなければふたたび飛び返る妖しの武器。オーストラリアの土人が野獣狩りに使うブーメランを小型化したようなものといっていいが、根来組でも数人しかあやつる者がない秘術を要する。
キーン。
闇の空間で反転した「針つばめ」は、本来なら右陣の手に戻るところだが、しかしそれは鋭い音をたてて天井につき刺さった。そこに右陣の姿がなかったからだ。間髪を入れず、同じところに、これも一線をえがいて血しぶきが吹きつけられた。
「針つばめ」をかわすなり、血笑して酬《むく》いた甲賀流赤朽葉!
「…………!」
百々銭十郎は声なくうめいた。
闇の天井に、相手はみごと必殺の赤朽葉からのがれ去った。いや、のがれ去るというより、彼の刀身がそこを狙う数秒前に、相手がヒラと移動していたことを銭十郎は知った。
――廊下とはいえ、長刀をふるって躍りあがってもとどかぬほどの高い天井だ。
よしやとどいても、銭十郎はそうはしなかったろう。なんとなれば、万一それをかわされれば、落下するじぶんの頭上から、これは避けもかわしもならぬ一撃をくらう可能性が充分あるからだ。それをやってのけるわざを持つ敵と、銭十郎は見た。――
それよりも、必殺の赤朽葉を!
が――「血の走るところ、その線に従って相手の肉が切り裂かれる。梨《なし》割り、胴斬り、車斬り、輪斬り、袈裟《けさ》斬り、唐竹《からたけ》割り、ひょっとしたら、円くも蛇行《だこう》形にも切り裂けるかも知れぬ。この一剣に刃向かえる人間がこの世にあろうか」とみずから豪語したその赤朽葉に、みごと刃向かう人間がこの世にあろうとは!
二閃《にせん》、三閃、赤朽葉は空《むな》しく天井に血のすじをえがいた。血が飛んで、それをかわすのではない。銭十郎が狙いをつけた空間から、それ以前に相手は圏外へ飛んでいるのだ。
飛んで、しかも天井から落ちない。黒衣につつまれた鞠《まり》みたいなその影は、どこかに吸盤でも持っているかのごとく天井に吸着し、そして、例の奇怪な釘を投げつける。――
きゃつはだれだ?
これほどのわざを持っているのは何者だ?
――忍者だ、と銭十郎は知覚した。しかも、もとより彼の所属する甲賀者ではない。
伊賀? 根来?
事の重大性に愕然とするより、銭十郎は血まなこになった。必殺の赤朽葉、とはいうが、最初はこの相手を殺す気はなく、その四肢の一本でも斬りおとしてとらえるつもりであったが、いまや討ち果たすもやむなしと覚悟するに至った。――
そうと覚悟しつつ、彼は声を発しなかった。いや、相手を推察すればこそ、いよいよ人は呼ばなかった。じぶんの大奥潜入がたんに無断の隠密行であるのみならず、そもそも最初土井大炊頭からすべて秘密にと申し渡され、「このことよう心得よ」と釘を刺されている。それよりも、この他党の忍者に対する甲賀の誇りにかけて、断じて助けを呼ぶことなどできなかった。
ただ空中でキーンと釘の反転する音。
それが天井に微かにつき刺さる音。
それ以外に床踏み鳴らすひびきもなく、物音一つたてぬ闇中の死闘であった。
空の黒い旋風のように逃げつつ、虫籠右陣も心中ひどく狼狽している。
甲賀の百々銭十郎。――十中八九までその正体を看破して、彼はこれまた事態の重大性にあわてふためいたのだ。じかに対決するのはいまがはじめてだが、その恐ろしさは肌を以て知った。実は相手のなぎつける死の血しぶきを、「暗剣殺」によって避けるのがせいいっぱいで、おのれの針つばめでこの敵を制するなどということはしょせん不可能だと右陣は見ぬいたのだ。
逃げようと思えば、まだ逃げられる。自分一人なら逃げられる。廊下にのがれ出したときから、彼は念のため黒い頭巾で面をつつんでいる。まだこちらの正体は知られてはいまい。――
が、あと長持ちに残る織右衛門のぬけがらはどうするのだ。また、やがて任意車の刻限切れるお舟の織右衛門はどうなるのだ?
そのためにも、ここで百々銭十郎を斃《たお》さずんばあるべからず。――しかも、この敵の妖剣に敵すべくもないのをいかんせん。
すでに虫籠右陣の所持する針つばめは消耗しようとしている。小さな武器だが、十本内外は所持していて、しかも反転して手にもどるその釘はふつうなら無限といっていいのだが、この場合にかぎって一瞬たりともじぶんが同位置にとどまっておれぬ危急の事態であった。
右陣は逃れてゆく。――黒い風船のように。
銭十郎は追い討ってゆく。――黒い狼《おおかみ》のように。
長い、広い、まがりくねった廊下、回廊を、長局からいわゆる御殿向《ごてんむき》の方へ。
この間、夜更けとはいえ、まだ廊下を通行し、座敷に出入りする女の影も少なからぬのに、彼女たちがついにこの血闘に気づかなかったことこそ、決闘そのものよりも奇怪事といえた。彼女たちの姿が見えると、天井の黒影もふっと消え、同時に廊下の黒影もぴたと伏せる。事実はそうだが、それはまるで人間の五感の外にある異次元の争闘のようであった。
右陣は、絶体絶命の窮地を脱する目標をつかんだ。
――こっちへ来い。こっちへ来い。
声には出さないが、あきらかに一つの方角めざして誘導しようとする。御殿向の西南側お鈴廊下の方へ。
が、そのお鈴廊下の方から、そのとき微かに鈴の音がわたって来たのをきくと、彼はぎょっとした。
――しまった。間に合わなんだか?
お鈴廊下に鈴が鳴るのは、表から将軍が大奥に入ってくる合図である。予定よりも数刻遅れたが、今宵上様のお入りはうそではなかったと見える。――
長いお鈴廊下をやってくると左側にお小座敷と称する一劃があり、御側妾《おそばめ》は当番に従って、長局からそこまで召し出される。しかし、今宵は御側妾ではなく御台《みだい》さまのところへ泊まるというのだから、将軍はさらに廊下を奥向きの方へ入ってくるはずであった。
その廊下がお鈴番所のところで右へ曲がって、両側は庭の渡殿となる。その渡殿のまんなかあたりに、数刻前からじっと佇《たたず》んでいる女の影があった。
お舟の方だ。
お小座敷にお召しを受けた夜なら知らず、いかに御側妾の一人にせよ、本来ならこんなところに、勝手に佇んでいるはずがない。ましてや今宵は、将軍家は御台さまのところで御寝《ぎよしん》なさるという。――
が、彼女はやがてそこを通るその将軍を待っているのであった。
あまりに遅い。
一、二度、彼女は悄然として、奥の方へ立ちもどる気配を見せたが、思いなおしたらしく、またそこに佇んだ。
むりもない。ようやくにしてつかんだ機会だ。はじめは怪しまれ、とがめられようと、ひとたび将軍がじぶんに眼を投げさえしたら、あとはこちらのもの。――
およそ男性であるかぎり、一目見たら、たとえ今宵約束の相手が何びとであろうと、そんな心魂など天外に飛び去らせずにはおかぬ。――妖艶無比のお舟の方の実体は、もとより筏織右衛門であった。
表の方から、遠く、美しい鈴の音が鳴って来た。
このときお舟の方は、渡殿の片側の壁の下に坐って、首を垂れていた。まるで待ちくたびれて、居眠りでもしているようだが、まさかそんなことはあるまい。
鈴の音をきいて、お舟の方は顔をあげた。――待ちかねていた、当然、この思いにその眼がかがやき出すところである。
事実、彼女は立ちあがった。が、何をうろたえたか、まるでその場を逃げるように、またも奥の方へ歩み出したのだ。十歩ばかりいって、彼女はふっと足をとめた。
ゆくての天井から、小さな雲の一塊のようなものが流れてきた。
「甲賀だ」
彼女だけにきこえる声が言った。
「百々銭十郎じゃ」
同時に、空から一振りの刀身がおちて来た。ほとんど反射的に彼女はそれを宙で受けとめている。雲の一塊は、声と刀を流したまま、その頭上を流れすぎていった。
――鈴の音は、百々銭十郎もきいた。将軍が入ってくるのだ。その方角へ曲者が逃げたと知って、彼は狼狽した。突然、彼はゆくての渡殿のまんなかに立っている一人の女人の影を見た。長いおすべらかし、華麗な裲襠《かいどり》――御中臈らしい。本能的に、いちど彼はぴたと伏した。
が、次の瞬間、その御中臈が右手に白刃をひっさげているのに気がついて、はっと眼を凝らしていた。
渡殿の両側には、点々と網行燈がつらなっている。
――あれは、たしかお舟のお方さまではないか? それが、なぜ、かようなところに白刃をぬいて? あの女人はこちらを見ている。おれを見ている!
そうと見つつ、このとき百々銭十郎の頭にひらめいたのは、まったく別の女の姿であった。しかもそれは彼の手で討ち果たして、すでにこの世にいないはずの女だ。お国、それがふたたびここに再現して来たような直感をおぼえて、彼はぎょっとした。
錯覚だ。あれはあの女ではない。いや、錯覚ではない。あれはあの女だ。――
漂うように、お舟の方は歩いて来た。銭十郎もまた糸で引かれるように立ちあがっている。両者ともに白刃をひっさげて――それが徐々にあがり、お舟の方は青眼に、百々銭十郎は八双に構えた。
いま、天井を走りすぎていった影とともに、いちどゆらめいた網行燈の灯が、この刹那《せつな》いっせいに氷の灯と化したかのように静止した。
二歩、三歩、お舟の方はすすむ。
二歩、三歩、銭十郎は退がった。
蒼白な銭十郎の顔が、さらに藍《あい》色に変わって来た。涸れ果てたその皮膚に、どこにそんな水気が残っていたか、あぶら汗がにじみ出して来た。
灯は動かないが、これは風になびかんばかりのたおやかな美女、その繊手に寂《じやく》と構えられた一刀は、鉄壁もおしひしがんばかり、磐石《ばんじやく》のような豪宕《ごうとう》の剣気を、銭十郎のみが感覚した。
――このとき、お鈴廊下の方から一群の影があらわれた。お錠口まで出迎えた侍女たちに囲まれた将軍家光だ。
それが見える位置にいるのだが、銭十郎には――助けは呼ばぬ、という自尊心からではなく、事実として声も出なかった。また、何もきこえなかった。
一声、二声、侍女はさけんだかも知れぬ。が、それっきり、家光をはじめ侍女たちはそこに立ちすくんでいる。大奥にあり得べからざるこんな光景を眼にして、沈黙し、佇立《ちよりつ》しているのもまたあり得べからざることだが、これまた事実として佇立し、沈黙してしまったのだ。
無心の灯さえ凍りついた。人間が凍りつかなくてどうしよう。――凝然として相対しているだけなのに、それほどこの両人から放射している超絶の殺気であった。
「……血を以て人を斬る忍法赤朽葉まで持ち出さずとも、精汁が空になったときのこの銭十郎の剣法に、まともに立ち合える者が、そうざらにあろうとは思われぬ。腎虚《じんきよ》の百々銭十郎こそ恐るべし」
――曾て銭十郎は、こう豪語した。
それほど自信を持つ百々銭十郎が、いまこのギヤマン燈籠のようにあえかな女人の一刀に、のしかかる山岳ほどの重みを覚えている。こやつはだれだ? これほどの力量を持つ剣客が、いまの世に、ほかにだれがある?
頼むところはただ赤朽葉だけであった。
が、もしその一閃がかわされたら?
先刻の天井の曲者の体術を思い出し、銭十郎の背につーッとひとすじ汗がながれた。
両人の間隔は一丈あった。その間隔を維持し得たのは百々銭十郎なればこそだが、彼にとっては渾身《こんしん》のわざだ。
スルと相手が出た。出たように見えた。まるで一山崩れかかっておのれが押し潰《つぶ》されるかのような圧倒感をおぼえ、
「ええーっ」
祈りをこめて銭十郎は、八双の刃をななめに振り下ろしていた。
もとより刀身のとどく距離ではない。しかし、赤朽葉は空中を走った。……
いや、何も走らなかった。彼の刀身からは一滴の血も飛ばなかった!
「――しまった!」
先刻からの天井の曲者との死闘のあいだに、刃に塗った血しぶきはすべて振り切ってしまったのだ。それを知覚したのも一刹那なら――血、血! と、それを求めて彼がのどであえぎをもらしたのも一刹那であった。
一刀振り下ろした姿勢のまま、ばね[#「ばね」に傍点]のように飛びずさる百々銭十郎の眼に、女のにっと笑った顔が宙に迫った。
相手は風鳥《ふうちよう》のように躍りかかって来たのだ。その刀身がまっ向から薙ぎ落とされて、銭十郎の右腕をばすっと斬り離した。――と、彼は思ったのである。相手の刀は空間をその位置へ光流をえがき、それをふせぐすべは彼になかったのである。
しかるに。――
斬り離されたのは、柄《つか》をつかんだ彼の右掌の半ばだけであった。血しぶきは立ったが、その瞬間、相手ははたと床《ゆか》に片膝ついていた。
そのときの相手の顔を、長く、いつまでも銭十郎は忘れることができなかった。長く、いつまでも、といっても、彼の短い人生に於てのことだが。――
お舟の方は、片膝ついて、顔をあげて銭十郎を見た。見たというより、のけぞりかげんであった。しかも、なかば口をあけ、眼をうつろに見ひらいて。
たったいまのあの凄じいまでの美しさと迫力はどこへ消えたのか、それは病んでいるような、むしろ失神直前の人間の顔と見えたのだ。
そのふしぎな顔もたしかに見た。いや、銭十郎は、その直前、打ちこんでくるこの敵の一刀が、空中で、突如その速度と力を失って、ただたんに物理的に落下し、ためにそのきっさきがこちらのこぶしを斬り裂いたのみであることも知った。――いままでの銭十郎なら、敵のこの異常を怪しんで、間一髪、おのれの刀身をとめる余裕があったろう。
が、いかんせん、この敵は恐ろし過ぎた。彼は絶体絶命であり過ぎた。
右の異変を知りつつ――のがれた! と思った刹那、反射的に彼の一刀は敵にむかってはね返っている。書けば長いが、見た者には一瞬の静止もない迅雷のわざであった。
銭十郎の刃は薙《な》いだ。片ひざついてのけぞった敵の細首を。
骨を断つ音すらせず、蝋のごとくその頭は切断されて床に落ちている。ばたと伏した胴とのあいだに、血と黒髪をもつれさせて。
叫喚《きようかん》が鼓膜を打った。はじめて人々が駈けてくる跫音《あしおと》がきこえた。
「これは何事じゃ?」
「おまえは何者じゃ?」
「これは、お、お舟のお方さまではないか!」
「お、おまえは男ではないか。男が、なぜこの大奥に。――」
懐剣に手をかけた女たちの輪の中に、百々銭十郎はなお茫乎《ぼうこ》として立っている。
このとき渡殿の灯が、ふたたびゆらゆらといっせいにゆらめき出したのを見つつ、いまおのれのした決闘が、なお夢幻の中の決闘であったかのような錯覚から彼は離れることができなかった。
が、彼の隻眼は、ふと向こうに――これも女たちに囲まれて、蒼白い顔で立っている将軍を見た。さすがに彼は両ひざをつき、刀を投げてひれ伏した。
「恐れ入ってござりまする」
と、彼は言った。ようやくわれに返ったのである。
「御大老の御下知にて、ひそかに大奥をお護り申しあげておった甲賀の者でござりまする」
「大炊が?」
と、家光は言った。
事、ここに及んではやむを得ぬ。銭十郎は顔をあげて言った。
「ただいまのお舟のお方さまのお姿、御覧あそばされましたるや。――いや、ここにおわすこのおん方が、果たしてお舟のお方さまなりや。――拙者、不審に耐えず、それどころか、ただいま立ち合うたる手応《てごた》えは、実に天下に十人となきほどの恐るべきおん腕前、ほとんど妖怪と申してもしかるべきお方と、拙者、愚考つかまつりまする」
家光はつかつかと歩いて来た。
身首を断たれたお舟の方のかばねから一間ほどのところで、ぴたりととまり、のびあがってのぞきこんだ。
のっぺりとした顔に、子供じみた恐怖と、それから嫌悪《けんお》の色がどんよりと浮かんだようだ。活発な性質だが、さすがにいまの衝撃のために、何か麻痺したような表情であった。それから、こんどはばかに素早い動作でくるりと背をむけて、向こうへ歩き出した。また女たちがあわててあとを追う。
「余は中奥に泊まるぞ」
と、言う声がきこえた。
銭十郎の言ったことを肯定したのかどうか、表情が鈍いからよくわからない。――しかし家光は、いまの銭十郎の奇怪な言葉を反芻《はんすう》するより、まずこの異変に感覚的な動揺をおぼえ、さらにいつぞやの――伊賀者の妻の惨劇を思い出して、今夜はおろか、大奥に対して当分入る気にもならないほどの恐怖につき動かされていたのであった。
将軍の意向よりも、百々銭十郎はなおおのれ自身の疑惑にとらえられている。
――あのお国という女人、この舟の方。
これにあれほどの剣技を教えたのはだれだ?
女に対してこれほどの剣法の伝授が可能であろうか?
いや、あれもこれも、ただ伝授された者とは思われぬ。生まれながらの抜群の素質と、数十年にわたる酷烈の修行を持った大剣士そのものだ。だが、これほどの技術と力量を持つ剣客がいまの世にどこにある?
表の方へ消えた将軍と入れかわりに、男たちが殺到して来た。だれかお錠口に呼びにいって、杉戸の外に詰めていた甲賀者たちが、非常の例に特別に大奥へ闖入《ちんにゆう》を許されたとみえる。
「百々」
と、だれか驚愕した声でさけんだ。
「おまえは、だれに断って、いつここへ来た?」
椎ノ葉刀馬であった。
「御覧なされ」
と、銭十郎は屍骸《しがい》にあごをしゃくった。
「二人目のお国さまでござるわ」
「二人目のお国さま?」
「あれと同様のふしぎなる女剣士」
それから、ようやくにして彼自身もしびれていた脳髄が溶けて、もう一つの重大事を思い出し、がばと彼は立ちあがった。
「おお、長局《ながつぼね》、三ノ側の或るお部屋に長持ちがござる。そこに一人、見知らぬ男の屍骸がござるわ!」
「なに? 男の屍骸?」
これもいかにも驚くべき報告だ。この現場も容易ならぬことだが。――刀馬はうろたえて、命令した。
「よし、半数はここに残れ。あと半数は、ま、まず、銭十郎、そこへ案内しろ!」
立ちあがろうとして銭十郎は、ふと床の上の何かに眼をとめ、左手でそれをひろいあげた。それは彼の右手の――小指、薬指、中指であった。それとともに右掌の半分、さっくりとそぎとられていることを、彼自身、いままで気がつかなかったのである。
十一
――半刻ののち。
表の御用部屋にちかい一室に、刀馬と銭十郎は相対していた。
土井大炊頭は中奥の将軍家のところへお見舞いに参上しているが、やがて退がってくるまでここで待っているようにとの指図であった。ふつうなら大老も城にいる時刻ではないが、その夜は天海僧正が登城して、ながながと会談していたため、大炊頭もまだ在城していたのである。
「な、なんだと?」
椎ノ葉刀馬は驚きの大声をたてた。
それまで。――なぜ、ひとり銭十郎が大奥に忍び入っていたのか、どこをどのように行動したのか、いかにしてお舟の方と刃をまじえるに至ったのか。――などと、ほとんど詰問にちかい刀馬の問いに対して、どこかあいまいで、うさんくさいところがあって、そのくせふてくされているような百々銭十郎の応答ぶりに、ようやく刀馬が憤然としかかったときである。
それでも三ノ側の長局の一室に置かれた長持ちの中に、男の屍骸を発見した顛末《てんまつ》に答弁が及んで――それに至るまでの話の経路には、銭十郎は何かかくしているところがあるらしく、刀馬には納得できないものがあったが――銭十郎は言った。
「その男は……左様、髪はややあかちゃけて、頬骨のたかい、がっしりした武士風の男でござったが、たしかに死んでおりました。からだは冷たく、息はせず、眼はひらいておりましたが、ギヤマンのようで。――」
――その男はいなかったのである。銭十郎が案内したその部屋に、たしかに長持ちと、もうひとりお末の娘の無惨な屍骸はあったが、長持ちの中に死んでいたというその男は、忽然《こつねん》と消えていたのである。死びとが、なぜ消失したか? という訊問に対する銭十郎の返答であった。
刀馬は宙に眼をあげた。
右こぶしに巻いた布をつくろいながら、銭十郎は言う。――
「もう一人、あの曲者がかつぎ出したに相違ござらぬ。……」
「…………」
「拙者の赤朽葉をすらみごとにかわす男。覆面はしておりましたが、たしかに鞠のごとくふとった男でござる。それが、その身の軽さ、あたかもこの空気を水に変じたるがごとし。――」
「…………」
「しかしながら、その曲者より、またあの死びとより、さらに奇怪なのは、あの御中臈の剣法の力量だ。いつぞやのお国さまと同じ、あれにはあなたさまも子供あしらいされましたろうが。こんどのお舟のお方にしても、拙者もすんでのことに一撃のもとにやられるところでござった。もし、その寸前……面妖にも、ふいに相手が喪神しなかったならば。……」
「…………」
「だれが教えたか、いや女に教えてあの域に達し得るものとは拙者には信じがたいが、事実としてあれほどの力量を持つ女人が出現しておる。一人は新しい御中臈として出仕なされようとした方。一人は以前よりの御中臈」
「…………」
「御大老は仰せられた。上様のおんいのちをちぢめんとする向きがある。その曲者の人数、性別、手段は一切わからぬと。いかようにして大炊頭さまがそれまで御探知なされたかは存じませぬが、いまようやくわれらの得た知識でも、このぶんにては大奥に住む女人のうち、だれが第三、第四の豪剣の使い手か。――思えば、雲霧の中で妖怪をとらえるようなものでござるぞ」
刀馬は、凝然として宙をにらんでいた。
妖怪。――銭十郎は、妖怪と言った。
しかし刀馬は、いま銭十郎のその言葉をきく前に、すでに妖怪の文字を頭にえがき出していたのだ。「――左様、髪はややあかちゃけて、頬骨のたかい、がっしりした武士風の男でござったが、たしかに死んでおりました。からだは冷たく、眼はひらいておりましたが、ギヤマンのようで。……」
同時に彼は、いつぞやの大奥の馬場でお国さまと対決したときの記憶をよみがえらせている。
あのとき自分の一刀は、相手の両掌でぴたと挟《はさ》みこまれ、そのまま豆腐から抜きとりでもするように、ぐいともぎとられてしまったのであった。まさに銭十郎の評する通り、子供のごとく――。それを思い出すと、いまでも全身の血が逆流する思いだ。
そのあとで。――
「――お国さまはどなたにあれほどの剣をお学びなされましたのか」
と、春日の局にきいた。春日の局も口あんぐりといったていで、
「――あれが……そんなはずはない」
と、つぶやいた。
「しかし」
「そのことについては、あとで調べて答えます。それまでだれにも言いやるな」
と、春日の局はふきげんそうにまた言った。それっきり――なぜあのとき自分たちが大奥の馬場まで入りこんでいたか、ということについてなんのおとがめもない代わり、その調査の結果についてもなんの報告もなかったのだ。
いま思い出しても、まるで妖怪と立ち合ったような気が、刀馬にはしていた。――そしてまた。
自分の刀身を挟みとったときのあの女人の眼!
そのとき自分は、たんなる殺気以上の、まるで脳髄を内部から針で刺されるような感じがしたが、あれは? あれは? あれは?
「銭十郎」
と、刀馬は嗄れた声で言った。
「おまえは伊賀組の筏織右衛門、また根来組の虫籠右陣という男を知っておるか?」
「筏織右衛門、虫籠右陣」
「例の忍び組査察のときの、それぞれの選手じゃ」
「逢《お》うたことはござらぬ。ふふん」
と、銭十郎は肩をゆすった。
「それが?」
「おまえの立ち合うたお国、お舟という二人の女性《によしよう》は、その実、伊賀組の筏織右衛門ではなかったか?」
「――えっ?」
銭十郎は片眼をむいた。
「そ、そんなばかな。……わからぬ、拙者にはわからぬ。伊賀の筏織右衛門は女でござるか。二人の女なのでござるか」
「いや、べつに織右衛門はおるのだ。織右衛門が乗り移るのだ。――実際の筏織右衛門は、おそらくおまえが長持ちの中で見た男、あれだ」
「あの男は、死びとでござった」
「一見、死びとに似て、事実、魂も失っておるが、あれは生きているのだ」
刀馬の眼には、品川沖で小舟に横たわって、虚《うつ》ろに散大し、しかもなぜか透き通るような眼で蒼い天を見ていた筏織右衛門の姿が浮かんだ。
それからまた、その織右衛門が乗り移った女房のお麻が、長い艪《ろ》をかまえて、「だれが想像するでありましょう。この風にもえ耐えぬ姿で、新免武蔵直伝の剣をふるおうとは」と笑った声が耳によみがえった。
お国はあの男だ。あの眼を見て、脳髄を針で刺されるような感じがしたが、その理由はそれだ。眼そのものはお国の眼で、織右衛門の眼ではないのだから、それ以上あの奇妙な感覚をみずから解き得なかったのは是非もない。――
それにまさか、あの筏織右衛門がこんどの将軍を狙うという途方もない陰謀に加担する――加担するどころか、その主役であろうとは、だれが想到し得ようか、公儀に対しては絶対忠誠の奴隷《どれい》であるべき伊賀者が。――
おお、あれ以来、あの男には逢ってはいないが、筏織右衛門はいまどうしているのか?
じいっと眼をすえて思念を凝らしている椎ノ葉刀馬を、百々銭十郎はぽかんと口をあけて眺めていた。さしもの彼も、あまりに予想外の奇怪事を告げられたので馬鹿みたいになってしまったのだが、ようやく刀馬の表情からそれが一笑に付すべきものでないと知って来たらしい。
「伺おう」
と、ひざをすすめ、かみつくように言った。
刀馬は、品川での筏織右衛門の査察で得た知識を語った。それからまた、ついでに吉原での虫籠右陣の査察で得た知識をも語った。
「おまえほどの使い手が押しひしがれる思いがしたのは当然じゃ。筏織右衛門は、新免武蔵どの直伝の弟子とみずから誇る人物じゃからの」
「…………」
「討つならば、その長持ちの中の織右衛門を討つべきであった。おまえは長蛇《ちようだ》を逸した」
「…………」
「それからおまえの赤朽葉をのがれた鞠のような曲者は、あれは根来組の虫籠右陣ではなかったか?」
「…………」
「ううむ、織右衛門がこの逆謀に登場するということは考えにくいが、あの右陣も加わっているというのならわかる。きゃつが織右衛門をそそのかしたに相違ない。――」
「――思いあたる」
と、はじめて銭十郎はさけんでひざをたたいた。
「そうか、右陣はそのような逃避の術、また女を色きちがいと変える術の体得者でござったか!」
そのとき、刀馬はふいにべたと平伏した。
土井大炊頭がこの部屋に入って来たのである。
十二
「百々、傷はどうじゃ」
坐りながらきく。銭十郎もひれ伏したまま、
「は、さしたることもござりませぬ」
「右の指三本を失うたそうな、この前は左眼をつぶされ。――」
「面目次第もござりませぬ」
銭十郎は彼らしくもなく、頬に血をのぼした。
「いや、わびておるのだ。それだけのことは、一件落着ののち、必ず公儀で酬いてつかわすぞや」
大炊はやさしく言った。刀馬の方が感動した。
しかし、どこかうろんくさく、人をくったところがあるとはいえ、百々銭十郎は実によくやるというべきだ。最初の査察のとき、
「――かくのごとく暗愚なる将軍家、かくのごとく老獪《ろうかい》なる御大老のための忍者親衛隊、それに選ばれんがためにかくのごとくあくせくする。――拙者個人の本音《ほんね》を吐けば、ばかばかしくもあり、少なからず、虚無的とならざるを得んが」云々と、いま思い出しても身の毛もよだつほどの痛烈な評語を放った百々銭十郎が――と思うと、はじめはきちがいかと思ったが、やはりこれも徳川|直参《じきさん》の忍び者と、これにも感動せざるを得ない。
いま、大老にねぎらわれて、しかし銭十郎の方はべつに感動の色はなく、むしろ勃然と憤怒《ふんぬ》をよみがえらせた表情で、
「いかにも一件落着。――拙者の望むところは、ただ伊賀の筏織右衛門、根来の虫籠右陣なるものを一刻も早く討ち果たすことでござる」
と、頭をあげて言った。
「なに、伊賀の筏? 根来の虫籠? そちゃ、だれからその名をきいた」
「拙者からでござりまする」
と、刀馬は言った。
「拙者もいま思いあたったのでござる。殿、これは実に容易ならぬ相手でござりまするぞ。銭十郎が眼を一つ、指三本を失うだけですんだのは、むしろ幸運であったと言うべし、なお敵の正体を知らなんだら、いのちの保証もできかねるところでござった。――」
刀馬はおのれの想定を大炊頭にのべた。
ふだん、おっとりとしていて、とくに主君に対して謹慎の状を失わぬ椎ノ葉刀馬であったが、この夜ばかりは昂奮して、むしろなじるように、
「殿には、その後の伊賀、根来、その後の筏織右衛門、虫籠右陣の動静について、何ぞ御承知ではありませなんだか?」
と、言った。
大炊頭は黙ってきいていた。黙って刀馬の顔を見ていた。
突如、刀馬は全身が冷たくなった。
「刀馬、そちゃだれの許しを得て、そのような話を百々めにしたか?」
と、大炊頭は言った。
「そもそも最初の査察のとき、忍び組それぞれが――外部の個人がその三派の中に入り、その組織、技能、顔ぶれなどくまなく査察することは、得べくんば御容赦に相成りたい、と申して来たとわしが言ったのを忘れたのか。公儀忍び組は、おのれらの術を深秘の中にかくそうと努めており、それにも一理はあるとわしが言ったのを忘れたか?」
刀馬はわきの下に汗のにじみ出るのをおぼえた。おだやかな大炊頭の声にひそむ恐ろしさを感覚し得るのは、彼なればこそであった。
「禁じたことは、してはならぬ」
大炊頭はそう言って、こんどは百々銭十郎の方へ顔をむけた。
「小言ついでに、おまえにも言う。傷は気の毒じゃが、しかしわしは、大奥をお騒がせしてはならぬ、上様を驚かしたてまつってはならぬと言った。しかるに大奥で、しかも上様のおんまえで、あのような始末となったのはおまえの心術、いまだ至らぬのじゃ」
「あれは。――」
この男の不敵な気性か、或いは刀馬ほど大炊頭に対して謹慎の心がないせいか、銭十郎は心外きわまる面がまえをした。
「拙者もその点については苦慮つかまつった。しかし、あれは、やむを得なんだのでござる。詳しく申せば。――」
「よい、よい」
と、大炊頭はゆるやかに首をふった。
「いずれにしても、その方らに大奥の守護は今後まかせられぬとわしは判定する。爾今《じこん》、上様には当分大奥に入らせられず、中奥にお泊まりなされ、然るべき侍どもを以てお護りいたす」
刀馬は蒼ざめた。主君の判定がむりだとは決して思わず、ただ主君の期待にそい得なかったことを思い知らされてしばらく面《おもて》もあげられなかった。
「当分、というのは、その方らが、曲者《くせもの》ども――の伊賀と根来の男を処置するときまでじゃ」
刀馬は、はっと頭をあげた。
「伊賀の筏織右衛門と根来の虫籠右陣はの、去年の五月某夜、それぞれの組屋敷を同時に、無断|逐電《ちくてん》して以来ゆくえが知れぬ」
刀馬にとってはじめてきく意外事を、大炊頭はいともしずかに言う。
「事の打ち明けついでに言っておく。その直前、筏の女房は大奥に召され、上様にあらがいたてまつって、お手討ちとなっておる。――」
「――あ!」
あの貞節の化身のようなお麻の姿が脳裡にきらめいて、その衝動を吟味するいとまもなく、
「さりながら、何事があろうと、御公儀忍び組に籍を置く者にして将軍家のお命をちぢめ参らせようと企むなどとは以ての外」
と、大炊頭は厳然として、
「なおまた、例の伊賀根来左遷の動機もあろう。が、左様な動機も直参にかぎっては成り立たぬことは、その方らならばわかるはず。およそ幕臣にとって、上様に叛逆《はんぎやく》する動機などは金輪際あり得ないのじゃ」
と、言った。
「わしは信ぜぬ。――」
何が何やら、とっさに昏迷《こんめい》におちいった表情の刀馬をじっと見て、
「黒幕があるな」
「――黒幕?」
刀馬は息をのんだ。
「幕臣として上様に叛逆する動機など金輪際あり得ない忍び組の者に……殿すら信ぜぬと仰せられる大罪を……かげでそそのかす者があると仰せられますか」
大炊頭は、しずかに扇子を動かしていた。
「それよ、証拠がないとめったなことは言えぬ喃《のう》」
「証拠。――」
ふと、大炊頭は微笑した。
「話はちがうが、きょうもきょうとてな、寛永寺の天海僧正が登城なされて来た御用を存じておるか」
と、文字通り、ほかの話を言い出した。
「例の高崎におわす駿河大納言さまのことじゃ」
「駿河大納言さま?」
「その方らも承っておると思うが、大納言さまには種々の御風聞により上様のごきげんを損ぜられ、ただいま上州安藤右京進のところに御蟄居《ごちつきよ》に相成っておる。その右京進より僧正へ、大納言さま御宥免《ごゆうめん》の嘆願状が出され、それによって僧正御登城となったのじゃ」
「…………」
「種々の御風聞といま言った。その風聞とは何ぞや、と僧正は仰せられるのじゃ。証拠を言え、と詰問もなされた。知っての通り、御三代さまをお決め申しあげるにあたって、当上様と大納言さまのおん仲に――いや、おふたかたと申すより、それにつながる者どもの間に、いろいろと根の深い悶着《もんちやく》あり、そのとき僧正は当上様派であったはずだが、このごろの大納言さまの御窮状、おんいたわしさは、さるにても見かねると仰せられる」
「…………」
「わしでさえ――と、僧正は言われるのじゃ。わしでさえ、上様に対したてまつり御異心なく、ひたすらつつしんでおわす大納言さまには涙を禁じ得ぬ。ましてや以前、大納言さまにおん味方《かたうど》した因縁つきの宿老、大名、老女たちは、まだこのお城に雲ほどおるのじゃ。理も非もなき大納言さまいじめの度がすぎて、それらの御同情が凝って暴発すれば、徳川家の内部は蜂の巣をつついたようになるぞ、大炊、それは承知のことか――と、上様のおんまえで、閣老たるわしがさんざんとっちめられた。もとよりわしを介し、上様に御諷諫《ごふうかん》のおつもりであろうが、相手は天海大僧正じゃ。いや、わしも冷や汗かいたぞや」
「…………」
「こういう例がここにある。参考のためにきいておけ。――刀馬、銭十郎」
「――は」
「さて、このたびの大それた曲者じゃ。これを誅戮《ちゆうりく》するのはその方らの任務じゃが、ただ殺してはならぬぞ。その背後を探索せよ。何より大切なのは、その証拠をつかむことじゃ。わかるか?」
「はっ」
「わしが思うに、彼らも、大奥に於て将軍家を悩ましたてまつることは、一応断念するであろう。しかも、彼らはすでにその正体をこちらに感づかれたことを知ったであろう。であるから、逃げる。――これを追及せよ。しかれば黒幕もわかるであろう」
「おお。――」
「今回の不首尾の面目を回復することは、かかってその方らの動きにある。――吉報を待っておるぞよ」
大炊頭はすっと立った。
十三
平伏したまま、その姿が消えても、二人はしばらく動かなかった。――考えこんでいるのである。
「ただ殺してはならぬ、と条件つけられたが、こりゃいっそうの難事じゃな」
と、やがて銭十郎がつぶやいた。
「伊賀、根来とて、甲賀と同じ忍び組。きゃつらが生きてやすやすと口をひらこうとは思われぬ。……そもそも、討ち果たすだけでも至難じゃ。とくにあの筏という奴は」
銭十郎としては初めてといっていい弱音をもらしたのは、よほど思い知るところがあったと思える。が、くびをかしげて、ひょいと自分の布を巻いた右掌に眼をやると、
「いや。――斬る、きゃつをきっと斬る」
と、うめいて、この場合ににやりとした。
「きゃつともういちど立ち合いたい。立ち合うのが愉《たの》しみじゃ……」
――自信あってのうす笑いか。いや、それよりもこの剣鬼的忍者は、ただ恐るべき剣士たる大敵筏織右衛門との三度目の決闘を夢みて、一種芸術的陶酔をおぼえたのであろう。
「百々」
と、考えこんでいた刀馬が頭をあげて言った。
「いまの殿の御述懐をなんときいた。――黒幕云々のお言葉を」
「さ、それは――左様、黒幕があるのでござろうな。きゃつらに黒幕ありとせば、まずこれより伊賀組、根来組の組屋敷に探りを入れて、筏、虫籠とやらの以前の言動、あれからのゆくえなどを探索するよりほかはありますまいか」
「いや、それよりも殿の仰せられた、駿河大納言さまの一件が、わしの胸にひっかかる」
「駿河大納言さま。それは別の話じゃと。――」
「証拠がないから、そう言われたのだ。その証拠をつかめと仰せられたのだ。わしには、そんな気がしてならぬ。――」
「――や!」
銭十郎は、一眼を大きく見ひらいて椎ノ葉刀馬を凝視した。
「では、黒幕は駿河大納言!」
「しいっ」
と、刀馬は鋭く制して、なお考えこみ、やおら決然として、
「百々、高崎へゆかねばならぬかも知れぬな」
「高崎へ。――」
「もし、わしのこの推定があたっておるとすれば、筏、虫籠のゆくえを追及するよりは、わしたちがそちらへ先廻りした方が、きゃつらを誘い寄せることになる。――」
言って刀馬は、ぶるっとかすかに身ぶるいした。
「椎ノ葉さま」
銭十郎が、ぎらとひかる眼を向けた。
「きゃつら、誘い出されるまでもありますまい」
「とは? なぜ?」
「御大老も仰せられた。彼らはすでにその正体をこちらに感づかれたと知ったであろう――と。であるから、彼らは逃げる、と仰せられたが、拙者はきゃつら逃げるとはきまっておらぬと見る。かえって、われらを生かしておけぬと狙ってくることは必定。――」
刀馬の沈鬱《ちんうつ》な顔色をのぞきこんで、
「いや、そのときは椎ノ葉さま、危くないところで見物していなされや」
と、笑った。
「ばかめ」
刀馬の背に戦慄《せんりつ》が走り、顔色が沈んだのは、恐怖のためではなかった。あの筏織右衛門とたたかわねばならぬか? という感慨のためであった。
彼が筏織右衛門に織右衛門として逢ったのはたった一度だけであった。しかし彼は織右衛門になぜか好意を禁じ得なかった。あの蒼い海の上できいた織右衛門の朴訥《ぼくとつ》な声はまだ耳朶《じだ》に残っているほどだ。
「――忍法のことは、天道の恐るべきを知らざれば盗賊のわざにちかし。……」
「――この術に志ある者は、毛頭も私欲のためにせず、無道の君のために謀《はか》らず……」
「――もっとも、徳川名代の伊賀者の一人たる拙者には、いまさらどうにもならぬことですが」
そも、彼はいかなればこそ天魔に魅入られて、このたびのような大逆に加わるに至ったのか。そういえば、彼の妻――あのやさしげな女房が、将軍家のお手討ちになったときいたが、それはまたなぜ?
いまいちど、彼と語り合ってみたい、という望みが刀馬の胸をよぎった。――が、すぐ彼は、血ぶるいする思いでくびをふった。いや、それよりも何よりも、まずきゃつを討ち果たさねばならぬ。それが主君からかくも信任を受けたおのれの至高の義務だ。
それに、あの馬場で、おのれの刃《やいば》を両掌で挟みとめられた恥辱を思い出すと、刀馬の血は燃えざるを得ない。
「わしこそ、もういちどあの男と立ち合いたい。――」
「ふふん」
「柳生流の面目にかけて!」
「ふふん」
刀馬はいよいよかっとした。
「百々、おまえは大丈夫か。……片眼を失い、右手ももはや……ものの役には立つまいが」
「なんの!」
肩をゆすり、銭十郎は宙をにらんだ。
「この次に立ち合うときは、まずきゃつの左眼をつぶし、次に右手の指三本を斬りおとし、それから止めを刺してくれよう」
が、ふとその顔に動揺の波がゆれた。
「ただ――ここで問題なのは、きゃつの姿。若しきゃつがまたほかの女に乗り移っていたら――それは椎ノ葉さまにもお見分けがつきますまいな?」
――思えば思うほど、実に何という敵か。
まともに立ち合ってさえ、新免武蔵の再来かと思われるほどの大敵なのに、まことに相手はどのような女の外貌を以てするか予測することもできないのである。
「ともあれ」
と、銭十郎が言った。
「こっちから誘い出すまでもあるまい――とは申したものの、さればとて無為にぽかんとして待っているわけにもゆかぬ。まず、こちらが動いて見せねば――仰せのごとく、しからば高崎へ発足してみましょうか。しかし、そのためには、あの二人の娘も同行いたさねば相成りませぬが。――」
「二人の娘」
「砧とお宋」
「おお、あれを?」
「拙者の白朽葉の洩らしどころ、兼、赤朽葉の入手どころとして」
「百々」
ふいに、刀馬はさけんだ。
「きゃつらがわれらを狙っているとすれば――もしその娘二人を同行すれば――きゃつら、その二人の娘を手品に使いはせぬか?」
「と、おっしゃると?」
「敵の両人、いずれも女を手品のたねとする忍法を使う。特に筏織右衛門の任意車とやら、それを以てわれらに近づこうとするに相違ない。――」
「ははあ。……」
「それを逆手に使う」
「逆手」
「つまり、その二人の娘に言いふくめ、そのいずれかに進んで筏織右衛門を乗り移らせる。ところが、いま思い出したが、きゃつの任意車は一昼夜しか効験がないのだ。先刻、おまえが刃を交えたときに、相手の女人がふいに喪神したというのは、その一昼夜の刻限が来たのだ。その死角をつこう。筏織右衛門がその二人の娘のうちどちらかに乗り移ったとき、織右衛門のからだはどこかで死びとのごとく横たわっておるはずじゃ。その場所をもう一方の娘に命じて案内させ、この根源の織右衛門を除去してしまうのじゃ」
「なるほど。――」
「むろん、もう一人、虫籠右陣という化け物もいる。その眼をのがれてわれらを導くというのも難しいが、そこを何とかできまいか」
「あれたちもただの娘ではない。ともかくも甲賀組に生を享《う》けた者、何とかするではござろうが」
「いや、それまでにせねば、あの筏織右衛門は討てぬ。――黒幕の証拠をつかまずして、ただ殺すなよ、と殿は仰せられたが、少なくともあの筏の方は始末しておかねば、われらの行動は甚《はなは》だ危険じゃぞ。――」
ふいに刀馬の胸に痛みが走った。このたびの死闘に、またも二人の娘を犠牲の祭壇に捧げようとする自分の着想にふと人間としてのためらいを禁じ得なかったのである。
が――敵の恐ろしさ、その背後にある黒幕の巨大さを想うと、この犠牲は万やむを得ぬと思う。
「椎ノ葉さま」
と、銭十郎はぼんやりと笑った。
「あなたさまは、実に頭のよいお方でござるな」
「大義、親を滅す」
歯をくいしばって、刀馬はつぶやいた。
十四
永劫《えいごう》とも思われる大きな闇の中で。――
「やりそこねた喃」
「うむ」
「百々銭十郎。――想像以上に恐ろしい奴だ。すんでのところで、わしもやられるところであった。もし、あの馬場でのお国が血潮を以て斬られたときの話をきかなかったならば」
「うむ」
「おぬしにまかせれば始末してくれると思うたが」
「すまぬ。刻限切れねば仕止めたものを。――将軍に魅入る絶好の機と、わしがみれんを残したばかりに」
「いや、そもそも最初に嗅ぎつかれたわしが悪い――。やりそこねたというのはな、あの夜のことよりそれからのことだ。あれっきり、将軍が大奥に入って来ぬ。警戒したか、大奥のお側妾におじけをふるったか。――」
「それもさることながら……まずいのは、わしの正体を見られたことだ、百々銭十郎、たしかにわしのぬけがらを見たのじゃな」
「見た。死びとと思うて見のがしたが」
「わしを見たなら、あの椎ノ葉刀馬という大老の近習に報告したにちがいない、報告したなら、刀馬はそれがこの筏織右衛門だと感づいたにちがいない。――」
「従って、この虫籠右陣の存在も知ったに相違ない。――」
「で、駿河大納言さまのことまで推定したであろうか?」
「さ、いまのところそこまでは。――しかし、いずれにしてもあの両人、始末せねばならぬな」
「その通りじゃ。この前の大奥馬場でのとき、ふとあの若者を斬り捨てることをためらったのは、わしのわしらしくない私情、致命的な誤りであったかも知れぬ。――」
「ところで、なぜ百々銭十郎がわしを嗅ぎつけたか、ということがわしにはまだよくわからぬが。――あの刀馬が何か指示したものか?」
「そのことじゃがな、右陣」
「うむ」
「わしがおくるというお末に化けていたとき、ふっと気がついたのじゃが、大奥の婢《はしため》の中に、たしかにふつうの女ではない女が二人おった。――忍者じゃ。つまりくノ一。――」
「なに?」
「甲賀者だな、あれは。――そのときは、その女、かえりみるいとまがのうて見のがしたが、あれがわしたちを見張っていたに相違ない。おぬしが銭十郎に嗅ぎつけられたのは、そのためではないか?」
これは考え過ぎだが、しかし結果は同じで、あの通りだ。
「ふうむ。甲賀のくノ一。――」
「虫籠」
「おいよ」
「いま、妙案を思いついた。伊賀根来対甲賀じゃ。しっぺ返しも忍者らしいしっぺ返しをしてやらねばならぬ。その二人のくノ一な、あれに化けて銭十郎に近づき、片づけてくれよう。ついでに、あの椎ノ葉刀馬をも始末して、一刻も早く禍根を断っておかねば、うかうかしておると高崎の大納言さまにもわざわいが及ばぬともはかりがたいわ」
「おお、任意車に甲賀のくノ一を乗せる。やるか?――わしも手伝うぞ」
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授精分割
「――お京」
「はい」
式台で、大小をかかえて坐っていたお京が顔をあげた。
朝霧のたちこめた七月初めの朝だ。旅支度で、椎ノ葉刀馬がしゃがんでわらじの緒をしめているのを、お京はじっとのぞきこんでいた。
それが、もの哀しい眼色であることを刀馬は知っている。むりもない。この春以来、彼はお城に詰めていて、ろくに帰宅したこともない。明夜祝言、というところまで迫っていたあのことも、それっきりだ。たまたま帰った日、お京がもの言いたげな眼を投げるのも、痛いほど承知で、彼は知らない顔をして来た。このたびの主命果たすまでは、とみずからにかけた戒律であった。
いま、刀馬は旅立とうとする。これは支度のため、さすがにかくせない。しかし彼は、上州高崎へゆくとは、父母にもお京にも言っていない。御用で駿府にゆくと言ってある。例によって、何の御用で駿府にゆくのか、などと父母はきかなかった。すべて打ち明けたところで、万に一つのまちがいのあるはずもないが、大炊頭からくりかえし、
「このたびのこと、幕閣のだれにも知らせぬほどの秘事、親子兄弟たりとも明かしてはならぬ御用であるぞ」と言いわたされた趣旨を、あくまで彼は護ろうとしているのだ。
「さしたる御用の旅ではござりませぬゆえ、お見送りなどはもったいのう存じまする」
と、刀馬は、父母にはこう居間で挨拶し、玄関までは、お京だけが見送りに出た。
お京にも、何も言わずにゆくつもりであった。また、決して言ってはならなかった。
けれど。――
言うまでもなくこの旅は、将軍家おん弟君駿河大納言にかかわりがあるのではないかと想像される大事だ。それに、さしあたっての敵は、あの伊賀根来の大忍者。――思えば、全身の毛穴もそそけ立たざるを得ない。
果たして生きて帰れるか? と自問すると、彼はくびをかしげる。否! とさえ自答したいほどの使命だ。
おのれの死は鴻毛《こうもう》にひとしいとして、さてこのお京は?
自分の妻たるべく運命づけられてこの椎ノ葉家に養われて来たお京であった。ここで自分が地上から消えてしまったら、どうなるか?
それを思うと、刀馬の胸にはきりきりと錐《きり》のようにつらぬいてくるものがあった。で、彼は言おうとした。――
――お京、もしわしがふたたびこの家に帰って来なんだら、父母のことよく頼み入るぞ。
――いや、そうではない、わしが死んだときいたら、遠慮なくどこかへお嫁にゆけ。
「なんでございます?」
問いかけたお京の顔からは、それまでの憂愁が消えて、ぱっとはなやかな日の光がさしたようであった。彼女は、刀馬から何か一言いわれるたびにそんな顔になる。
が、この瞬間、刀馬の胸には鉄槌《てつつい》のように大炊頭の言葉がひびいた。
――禁じたことは、してはならぬ。
「この霧は、いつまでもつづくであろうかな」
と、彼は言った。
「朝のうちだけでございましょう」
と、お京はちらっと外に投げた眼をすぐにもどして、
「刀馬さま、御道中、お気をおつけ下されまして」
と、言った。
「では」
刀馬は立ちあがって、手を出した。
胸にかかえていた大小を、お京は渡そうとした。
すると――どういうものか、大刀の下げ緒が、お京の帯にはさんでいた懐剣の柄《つか》にからまってスルスルとのび、そして、絹とはいえ、丈夫に組んであるはずの緒が、途中で、ぷっつり切れた。
「まっ」
顔色を変えて身を浮かせるお京に、
「どこぞ傷んでおったか? いや、不覚」
刀馬は笑って、まず小刀をさし、お京が、自分の懐剣にからまった緒をあわててとるのをおだやかに待っていた。
それを受けとると、さりげなくつくろい、腰におとすと深編笠《ふかあみがさ》をとる。
「御用はさしたることもないが、ついでにゆっくり富士でも見て来よう。しばらく、留守を頼むぞ」
淡々と言って、あともふりかえらず朝霧の中へ歩み出していった。以前の通りの、物に動ぜぬ、おっとりとした刀馬のうしろ姿であった。
お京は式台の上に立って、それを見送っていた。
やがて、その愛くるしい顔に、ただならぬ決心の色が浮かび出て来た。
彼女は式台から下りて、長屋の外に駈け出した。途中、門にちかい一本の桐の木に、だれがかけて忘れたか、藤笠《ふじがさ》が一つ、雨ざらしになっていたのをとってかぶったが、むろん、身なりはふつうのままで、足には赤い緒の草履《ぞうり》をつっかけたままである。
まだ朝が早いので、門外の屋敷町を通る人はそう多くない。遠く霧にかすんで、たしかに深編笠が去ってゆく影が見えた。
なんでお京は刀馬を追う気になったのか。――彼女自身、はっきりしない。
きっかけは、いま刀馬の刀の下げ緒が切れた不吉のしるしであることはたしかだが、しかしそれだけではない。彼女は、刀馬がわらじの緒をしめているときの横顔から、こんどの旅が決して「さしたる御用ではない」旅ではないことを直感していたのだ。
この春以来、刀馬がお城で重大任務に服しているらしいことは、お京にもわかっていた。いかに刀馬が黙っていようと、かくそうと、それはあきらかであった。そして、けさ。
この旅は、その重大任務につながるものだ、と彼女は察知した。しかも刀馬さまのおいのちにかかわるほどの。
それはきいてはならぬ。またお京もそれをきこうとは思わぬ。
しかし――刀馬は自分に何か言い残そうとした。しかもそれはこの自分の運命にかかわることであった。――お京はそこまで刀馬の胸を読んだ。が、刀馬はついに何も言わずに旅立っていった。
それだけはきいておかねばならぬ。
刀馬さまが自分に何を言おうとなされたか、それをきいておかねば、あとで取り返しのつかないことになるような気がする。――
走りながら、お京はそう自分に言いきかせた。
しかし、お京に突如刀馬を追わせる気にならせたのは、それよりもっと深い女の呼び声であったろう。それは、刀馬さまはほんとうに自分を愛してくれておいでなさるのであろうか、という疑いから発したものであった。
祝言延期のことではない。いま黙々として主命の用に出立していったことではない。そんなことをお京はうらみには思わぬ。ただ彼女の胸には、いつごろからか、うす暗い哀しい霧がうすく立ちはじめていた。刀馬さまはほんとうに、あのお顔や御様子ほどのあたたかいお人であろうか、あのお方は、主命とあらば自分を捨て、しかも依然として茫洋《ぼうよう》としたお顔と御様子をつづけていられる――鉄石のお心の持ち主ではなかろうか?
霧の中を、藤笠の下から眼をすえて、ひたひたとお京は駈けた。
椎ノ葉刀馬はまだ気がつかない。二人の間隔は、声をあげればとどくほどの距離となった。
しかし――お京は呼ばなかった。
刀馬さまが言おうとして、お黙りなされたことだ。それをわたしがきいてどうしよう。――たとえ刀馬さまのふんわりとしたものごしの中に、鉄石の冷たさを感じたとて、それは武士として、主命に服する侍として、当然のことではあるまいか?
呼んで追いすがれば、笑われよう。いや、叱られよう。
お京は立ちどまった。刀馬の影は霧のかなたに消えてゆく。張りさけるような眼でこれを見送り、やがてお京はうなだれて、しおしおと背を返そうとした。――そのとき、彼女ははっとして顔をあげ、まわりを見廻した。
北へ!
刀馬さまが北へゆく!
東海道を西へゆくといって旅立ったあのお方が、江戸の町を北へおゆきなさる。――
「どこへ? 刀馬さまはどこへおゆきになるおつもりなのか?」
ややあって、お京はまた追い出した。それを知ってどうしようというのか、途中でいくども彼女はひき返そうとした。が、ひき返さなかった。ときどき、何かのはずみで刀馬がうしろをふりかえった。そのたびに、お京は物陰に身をかくした。彼女を刀馬に、見えない糸で結びつけているのは、いまや強い好奇の心であった。
――そこまで、もう少し、そこまで。
実にお京は、刀馬を二里以上も追いかけたのである。
気がつけば、荷をおいた馬が多い。旅装束の人々が多い。――まだ霧たちまよう板橋の宿《しゆく》。
すなわちここは中仙道《なかせんどう》の江戸の口。
そのはずれをもまたゆきすぎて、街道からちょっとはずれた林の中に、地蔵堂がある。その縁側に、三人の六部が腰をかけていた。煙管《きせる》をくゆらしている。
畑の中の小道を歩いて、椎ノ葉刀馬はそれにちかづいた。
「待ったか」
と、きく。
「いや」
と、答えたばかり、一人の六部は煙管をくゆらしたまま、あごをしゃくる。
刀馬は地蔵堂の縁にのぼり、向こう側へまわった。向こう側が正面になっているのである。
次第に霧があがり、街道に鈴をつけた馬や、笠をかぶった人影が、まばらな行列ほどに浮かんで見えて来た。
「暑くなりそうだな」
と、煙管をくわえたまま、まんなかの六部が言う。そう言いながら、このとき彼は両腕をのばし、左腕はそちらの六部の袖からさし入れ、右腕はこちらの六部の裾の合わせ目からさし入れていた。
「指が三本ないでな。薬指と小指はまあなくてもよいが、中指は欲しいの」
と、右腕にからまるようにしている六部にささやきかける。
二人の六部は笠を前に伏せていたが、肩が大きく起伏して、ときどき、たえかねるようなあえぎをもらした。
「待たせた」
声に、三人はやや離れた。まんなかの六部は、澄まして煙管に手をもどしている。
縁側を廻って現れたのは、これまた一人の六部であった。
正しくは六十六部という。法華経六十六部を写し、日本全国六十六か国に、一国一寺に一部ずつ納経して歩く行者《ぎようじや》だ。鼠木綿《ねずみもめん》のきものに手甲《てつこう》、脚絆《きやはん》みな同色で、帯のまえに鉦《かね》をつけ、背に笈《おい》やお厨子《ずし》を背負い、腰には刀を一本、手には錫杖《しやくじよう》をつけている。笠は中央とふちを紺木綿でつつみ、頂上に鐶《かん》をつけたいわゆる六部笠という深い笠であった。鎌倉時代からはじまった巡礼だといわれるが、江戸時代にはもう喜捨だけを受けて諸国をまわる漂民にすぎなかった。
「参ろうか」
新しい六部がうながすと、四人うちそろって街道の方へ出ていった。その六部がひくくきく。
「百々。つけられたか」
「いや、感ぜぬが」
ふっと鼻で笑って、
「しかし、眼はつけておるであろうな。そして、わしたちがこの中仙道を北へ歩き出したと知って仰天しているであろう」
「高崎へは。――」
と、やや小柄な六部が言った。
「江戸から何里あったかしら?」
「この板橋から二十四里八丁」
と、もう一人、小柄な六部が答える。
いずれも女の声であった。――もっとも女六部というものもあったから、だれもふしぎに思う者はない。ただ、ゆきかう旅人の眼を吸いつけたのは、その二人の女六部の、顔は笠にかくれているのに、何ともいいようのない姿態のなまめかしさであった。
彼女たちは、嬉々として北へ歩を運んでゆく。何か嬉しいことでもゆくてに待っているように。
待っているのは、死だ。忍法赤朽葉の素材たる女の鮮血を捧げるために。――この二人の女六部は、死ぬために、しかもそれを承知で歩いてゆくのであった。すなわちこれは、甲賀のくノ一、砧とお宋。
――ずっと遠くの、と或る百姓家の納屋のかげで、お京はその地蔵堂を見まもっていた。
地蔵堂の縁を廻って新しく現れた六部が刀馬であることを彼女は知った。刀馬はそれまでの深編笠の旅支度を地蔵堂の中で脱ぎ捨て、六部姿に変形《へんぎよう》したのである。
やがて、四人の六部は中仙道を北へ去ってゆく。
それを――お京はさらに追った。
刀馬が六部姿と変わったのは驚いたが、しかし彼女は怪しまない。隠密? その言葉が頭にひらめいた。そうだ、刀馬さまは、公儀隠密の命をお受けなされたのだ。怪しまないが、家を出るときの刀馬の顔色を思い出し、彼女の全身にはふるえが走った。
お京は、その四人のうちの二人の六部が女であることも知った。これは彼女も怪しんだ。公儀隠密に女性が使われるとは、いままで物語にもきいたことがないからだ。それが甲賀の女忍者であろうとは、お京の想像を超えている。
――あの女たちは何者であろう?
四人は親しげに、肩をならべて歩いている。ときどき六部の刀馬は、やさしく女六部をいたわるようだ。あのようなやさしさは、このごろ自分に見せたことがない。――
とはいえ、お京がそれを追ったのは、決して盲目的な嫉妬ではなかった。彼女はそんなあさはかな娘ではなかった。
女がお役に立つ御用ならば、わたしだって役に立たないことはない。――お京をつき動かしたのは、実にこの考えであった。どうしてわたしも使って下さらないのか?
御公儀のためではない。刀馬さまのためだ。
この決意をなおあさはかと笑わば笑え、旅立つ刀馬から異常なものを予感し、さらに刀の緒が切れるという不吉なしるしを見たお京が、そのあとをなお追ってゆくのを、だれが奇矯な行為とそしれよう。ただ、おとなしい性質に見えて、それだけの情熱を胸に秘めている娘ではあった。
板橋から二里八丁、蕨《わらび》の宿。
ここで四人が茶屋に入って朝飯を食べ出したのを見すますと、お京は宿場で女の飾り物などを売っている店に入って、それまで着ていたきものをもっと質素な旅衣裳と変え、その上、銀かんざしまで売って、路銀をつくり、手甲脚絆やわらじを買った。
「あ。……あのかんざしは」
店を出てから、彼女はいちど立ちどまった。
それがいつか刀馬が買って来て与えてくれたものだとは、売るときから承知していて、それもこの場合しかたがないと決心したのだが、刀馬からもらったかんざしを売るということが、何やら不吉な行為だという認識が、はじめて胸をついたのである。
四人の六部は茶屋を出て、さらに北へ歩いてゆく。
まさに、暑くなった。七月の日ざしは、ぎらぎらと中仙道を照りつけはじめた。
蕨から浦和へ一里十四丁。
浦和から大宮へ一里十丁。
ときどき、四人の六部は何気ないそぶりでうしろをふりむいた。土ほこりを避けるふりをして、お京は笠を下げた。笠だけは、家からつけて来たあの藤笠であった。
大宮から上尾、桶川《おけがわ》、鴻《こう》ノ巣《す》。
板橋から九里八丁。
鴻ノ巣は、渺茫《びようぼう》たる武蔵野のまっただ中の宿場だ。
その鴻ノ巣の旅籠《はたご》で。――
この夜、百々銭十郎は、泊まりこんだ狭い一室がむうっと息苦しくなるばかり、白朽葉の匂いを放っていた。
それでなくても風のない、むし暑い夜の宿であった。刀馬の前で、その眼も恐れずしなだれかかる二人の娘を、手と口だけで愛撫してやりながら、銭十郎が言った。
「――椎ノ葉さま、きゃつら、つけて来たでござろうか」
「つけておるはずだ」
考えこんでいた刀馬が顔をあげ、その顔をそむけて言った。
「われらがこの鴻ノ巣まで北上して来たのを見て、きゃつらいよいよ狼狽《ろうばい》しておるはずだ。われらを高崎へ入れては一大事と、おそらくじっとしてはおられぬ心境にあるはずだ。またこちらも高崎へ入る前に、虫籠右陣はともかく、筏織右衛門だけは除いておかねばならぬ」
やおら銭十郎は、白い粘着物をむしりとるように二人のくノ一をおしのけて、
「では、出て見い、外へ。――」
と、言った。
「筏織右衛門と虫籠右陣の人相は、椎ノ葉さまからよくきいておぼえたであろうな」
「――え」
「虫籠は、女をしゃぶりつくして色きちがいに変えるそうな。筏は、女と交合してそれに乗り移るそうな」
「――ホ、ホ」
「笑いごとではない相手だぞ。――ただ、筏の方は女に乗り移ったとたん、死びとのように魂を失うという。そこがわれらの狙いだと椎ノ葉さまが仰せられる。そこへつけこむのは、わしとしては気にくわぬところもあるが、あわよくばそのときの筏織右衛門を生けどりにできるかも知れぬ、と言われて見れば、この際了承するほかはない。やらねばなるまい。――しかし、ともかくも一人は任意車の忍法はまぬがれるはずだ。たとえ万一死をおかそうと、必ず甲賀のくノ一としてここへ帰って来やれ」
「――どんなことがあっても!」
「褒美は、それからじゃ。たっぷりと白朽葉を喃《のう》」
二人は酔ったような顔色になった。
「百々銭十郎の白朽葉への欣求《ごんぐ》が勝つか、きゃつらの任意車とやら、ぬれ桜とやらが勝つか。――さて、両人のうち、いずれがここへ無事に帰ってくることになるか喃?」
「二人とも!」
と、二人はきっぱりと答えた。
「わたしたちは、いままできいたような大奥の女人ではありません。甲賀のくノ一です」
「おれはそれを信じよう」
「その虫籠右陣のぬれ桜とやらの忍法にかかるようなわたしではありませぬ。もし首尾よう右陣に逢うことができたら、それにかかったようなふりをして、向こうをだまし、きっとおまえさまのお申しつけを果たします」
と、お宋が言った。いかにもみずみずしい豊艶な顔に、別人のように思いつめた眼がひかっていた。
「その筏織右衛門の任意車とやらの忍法には、わたしはかからぬ。――織右衛門に乗り移られたような顔をして、わたしの手でその両人、討ち果たしてやろう」
と、砧が言った。もともと凄艶な顔だちが、さすがに血の気をひいて蒼白《あおじろ》く変わっていた。
「いや、それはならぬ」
と、刀馬がくびをふった。
「魂を失っておる織右衛門か、それとも右陣か、いずれかその一方を証人として捕らえねば相ならぬ。その処置はわれらにまかせい。――とにかく、そのゆくえをつきとめたら、両人のいずれかここへ帰って来てもらいたい。――」
銭十郎が言った。
「では、いって見い」
やがて、砧とお宋は旅籠を出ていった。
この二人、果たしてこの任務を果たし得るか?
たとえ任務を遂行して帰って来たとしても、やがてそれは死につながる公算が大きい。もしその一人が筏織右衛門に変わっているならばこれは討たねばならず、それを討つためにはもう一人の女は、或いは銭十郎の赤朽葉の素材として血をささげねばならぬからだ。
あとを見送って、刀馬は思わず立とうとした。
「およしになった方がよかろう」
と、坐って煙管をくわえたまま銭十郎が言った。
「危い――」
「なに?」
「しばし待たれい。あの女どもを信じて待つことにいたそう。甲賀のくノ一を」
――板橋から高崎に至るあいだの宿駅十一宿のうち、本庄、深谷につづいて三番目に民家の多い宿場であった。夜に入っても暑熱が去らないので、戸をあけはなして涼んでいる家が多く、またその暑さをしのごうとして、ぞろぞろと往来を歩いている人間もまた多かった。
二人の娘は、宿場の北の端まで歩き、また南の端まで歩いた。
その人混みの中で、ふいに二人は、それぞれの手に、ぺたりと生暖かく濡れたものを感覚したのである。
「女衆、どこにお泊まりで?」
手拭いを三角のかたちにかぶった、宿か茶屋の客引き風の、鞠《まり》みたいにふとった男であった。
「これは笠はぬいでいらっしゃるが、女六部さまと見えまするな。みたところお若いのに御奇特なことで」
二人は旅籠の名を言った――しかし、からだに異様なものがながれた。男にしてはきみのわるいほど白いぼってりした顔、細い眼、まっかな分厚い唇《くちびる》。――
「へっ、じゃあ、夕涼みのぶらぶら歩きで。――」
彼はかん高い愛嬌笑《あいきようわら》いをたたえて言った。
「それじゃあ、ついそこの河原に鴻ノ巣一番の涼しい茶屋がありますぜ。そこでしばらく、冷たい麦湯でもおひとつ、いかがです?」
二人は、はっきりとこれが虫籠右陣であることを知った。
「ゆきましょうか」
「え」
「ありがとうごぜえやす。実はあたしはその茶屋のものでござんすがね。では、こっちへどうぞ。――」
奇声を発してぺこりとおじぎした男につづいて、二人の娘は南の宿場はずれの方へ歩き出した。つづいて、というより、ねっとりとあぶらっこい手に手をにぎられて。
実にスムーズな邂逅《かいこう》、円滑無比な捕捉というべきであるが、これは敵味方双方とも、同目的の哨戒《しようかい》行動をしていたといっていいのだから、当然のことだ。ただ、この接触が、いかに恐るべき結果を呼ぶかは、砧お宋の想像の外にあり、いかに惨たる結果を生んだかは、虫籠右陣の予想の外にあった。――
――当時、この鴻ノ巣あたりは、利根川や荒川が、いずれが本流でいずれが支流か、見わけのつかないほどのあばれ川で、元和《げんな》年代から関東郡代の伊奈備前守が、築堤を築いたり、堀割《ほりわり》を掘ったり、最もその治水に心を労した一帯であった。
おそらく、その荒川の古い流路の一つであろう、鴻ノ巣に入る手前に、堀とも川ともつかぬ流れがあって、そこの土手に、もと船小屋であったのか、或いは何かの番小屋であったのか、屋根までとどきそうなほど生いしげった夏草の中に、一つの小屋の影があった。
水に細い月が映っている。水の月影は涼しげだが、しかし草に覆われた武蔵野の大地は、ここもまたひるまの余熱に、暗い大熔鉱炉みたいにもえている感じであった。
風もないのに、その上手の草がザワザワと吹きなびいていった。
「いらっしゃれ」
草の中で、女みたいにかん高い声がした。
「こちらへござれ。あれが鴻ノ巣で一番涼しい茶屋で」
虫籠右陣は、灯影もないその小屋を指さした。
すでにこのとき彼は、もはやこの二人の女の掌《て》をぬれ桜の一片と化し終えたことを確信している。
手をとられた刹那《せつな》うすきみがわるく、あわてて手をひこうとするが、何とはなしのへんな快感に、ふともう一息そのままにする。それが次の快感を誘発し、加速度的に濃化して、ついにはどうしようもない悦楽の極に女をみちびいてゆく。――曾《かつ》て伊賀者の女たるお麻をさえみごと堕《おと》した虫籠右陣の秘法ぬれ桜だ。
そう長からぬ、お手々つないでの「散歩」のあいだに彼が施した掌中の性技は、微妙濃厚をきわめ、常人が全身を以て享楽する快感の数倍、十数倍にあたるものであった。
「いや、涼しくはならぬ。もっと熱うなるかも知れぬ。が、暑さを忘れるほどの熱さじゃ。こういう暑気払いが、人間同士、男と女同士のあいだにあることを教えて進ぜよう」
すでに言葉づかいまで変わっているのに、それにも気づかぬ風で、左右に曳かれている女は、とられた手をふりほどこうともせず、火のような息づかいをしていた。
しかし。――
理性はある。これが、きいていた根来忍法ぬれ桜か。
――という認識はある。にもかかわらず砧とお宋は、にぎられた手から伝わってくる快美の波にからだじゅうを灼《や》かれていた。
もうどうなってもいい。
あやうく最後の理性がそこまでとろけそうになりながら、その理性の糸を二人はからくもつなぐ。――筏織右衛門とやらいう男へ。
それに逢《あ》い、これを一人が魂のぬけがらとしたあとで、もう一人が何とかして百々銭十郎にその場所と経過を報告する。――それこそは彼女たちが甲賀のくノ一として絶対に完遂しなければならぬ義務であった。
「入れ」
三人は小屋に入った。
破れた板羽目のあいだからさしこんでいるのは、月光というより水明かりかも知れない。その奥にもたれるようにして、一人の男が坐っていた。
――筏織右衛門だ。
かねてからきいていた風貌そのものの人間をそこに見出し、混沌たる火の渦みたいな頭に、さっとひとすじの冷気が走った。
「誘い出したか」
琥珀《こはく》色にひかる眼で見すえて言う。
「うむ、夕涼みに出たところを首尾よく夕涼みどころか、ごらんの通りじゃ」
まだ左右にふたりの手くびをつかんだまま、右陣は笑った。人さし指だけがのびて、女の掌の中へ入ってうごめいている。
一瞬、脳髄に走った冷気を、あきらかに意識して二人はふたたび火の渦に巻きこまれている生態にかくした。
――じいっと二人を見ていた織右衛門が言った。
「わざと誘い出しに乗って来たか」
「――なに?」
すっとんきょうな声をあげたのは虫籠右陣の方だ。いそがしく左右に首をふって、
「こやつらが? まさか?」
「おい、うぬらは何のために高崎へゆく?」
砧とお宋は黙って、ただあえいでいた。返事のしようもないが、しかし口もきけないほどの衝動が舌を縛ってしまったこともたしかだ。
「右陣、こやつのどちらかに化けて、刀馬や銭十郎を始末してやろう――というこっちの考えだがな。つらつら思うに、きゃつらが――わざとそう仕向けて、ぬけがらとなったこのわしを討ちにくるということも充分考えられるわ」
織右衛門は重々しく微笑して言った。
「わが師、新免武蔵先生も、兵法必死の争いにはいかなる術策もまた兵法のうち、と徹し切られたお方であった。いわんや、虚々実々の忍者の争いに於《おい》てをや。……もっとも以上のこと、つらつら思うに――と言ったが、実はいま、ここに入って来たこの二人を見た刹那、わしの直感したことじゃ」
実に恐るべし、筏織右衛門の烱眼《けいがん》。
さしもの椎ノ葉刀馬天来の着想も、虎穴に入って虎児を得ようとする二人のくノ一の努力も、一瞬に水泡と変える洞察力を発揮したが、それもそもそも彼がこの敵方の作戦と、機微相触れる発想を抱いていたせいかも知れぬ。
「言え、第一に、何しに高崎へゆこうとしたか?」
「…………」
「第二に、百々らがどこまでわれらの背後を知っておるか?」
「…………」
「第三に、大老土井大炊頭さまは何をどこまで御存じか?」
「…………」
「第四に、うぬら、誘い出されたと見せかけて、その実おれを誘い出しに来たとおれが見たのは当たっておるか、どうかじゃ?」
「…………」
「黙っておるのも、また自白のしるしとなるぞ」
――何と言われようと、これに答えるすべがあろうか。
これまで珍しく黙りこんで二人の女の顔を見ていた右陣が、このときぺろっと真っ赤にぬれた大きな舌で下唇をなめた。
「言わせてやろうか?」
顔をめぐらして、
「どうじゃ、織右衛門」
と、うかがいをたてた。
「甲賀のくノ一とは面白い。甲賀のくノ一の根性が勝つか、根来の忍法ぬれ桜が勝つか――是非、本格的に験《ため》して見たい。やらせてくれ」
織右衛門はちょっと考えていたが、
「言わせられるものなら、言わせて見ろ」
刀を抱いて坐ったまま、あごをなでてうすく笑った。
さて、これから暗い大熔鉱炉のような武蔵野の中で、どこへも声のとどかぬそのまた荒涼たる小屋の中で、虫籠右陣のぬれ桜がらんまんと盛大に狂い咲いたのである。
砧とお宋は右陣の行動に抵抗しなかった。抵抗してはならぬのだ。筏織右衛門にああまで言われても、なおかつ織右衛門をぬけがらにすることこそ、彼女たちの至大至重の任務なのであった。
しかし。――
掌の中の肉感だけでもあの始末だ。それが、全身に施された。――いまや一糸まとわぬ姿とされた二人は、網にかかって海からひきあげられたばかりの二匹の白い人魚みたいに、もつれ合い、からみ合い、のたうちまわった。
「どうじゃ、まだ言わぬか?」
「わたしたちは何も知らない。……」
「まだ足りぬか、これでもどうじゃ?」
しぼり出すような快美のうめきにまじる人間としての言葉は、しかし、
「知らない。……」
「それよりも。――」
それにつづく、さらに露骨な愛撫を求める意味のものであった。右陣の額にやや焦りの色が浮かんだ。
「言え、白状すれば、もっと可愛がってやるわ。――」
「右陣」
と、織右衛門が声をかけた。
「そこのけ」
「……な、何だ?」
「甲賀のくノ一の骨髄までにはぬれ桜は効かぬと見える。わしがやって見よう」
ぬうと織右衛門は立ちあがった。
「ふ、ふ、こやつらの望み通りに、伊賀の任意車を」
「こやつらの、どっちに?」
「二人に」
「――なに?」
「あれをやる。……二人の織右衛門を作って見せる」
右陣は口をあけた。
ややあって、思い出した。――いつぞやの大奥での会話を。自分が言い出したことだ。「おぬしが同時に二人の女を犯すと、二台の任意車が出来上がる――という理窟になるが、そういうわけにはゆくまいか」云々と。
「それは出来ぬと言ったではないか」
「難しいが、興味ある宿題だと言ったのだ。ただの女ならやらぬ。しかし、これが甲賀のくノ一であるがゆえに、あえて実験して見たいと思う。わしの任意車を逆用しようという頗《すこぶ》る危険な、大それた目的を抱いて乗りこんで来た女たちゆえ、それをもう一つ逆さに使ってやろうと思う」
「半織右衛門を二人作るのか。――それで?」
「いや、いま考えたのじゃが、一人は七分の織右衛門、一人は三分の織右衛門を作って見ようと思う」
「へえっ?」
「というのはな、椎ノ葉刀馬と百々銭十郎め、空《から》になったわしを狙っておるのだ。弓矢八幡、この見込みに誤りはない。で、七分の織右衛門で銭十郎をあしらい、三分の織右衛門で椎ノ葉をあしらって、きゃつらの裏をかいてくれる。まず、わしの七分三分で充分な相手じゃな」
なんという絶大な自信だろう。
「そ、それは剣の勝負となったらそうかも知れぬが、しかし、二人の女を、七分三分の織右衛門にするなど――そんな芸の細かいことが、できるのか?」
「一人にわしの精虫を七割与え、一人にわしの精虫を三割与える。それが出来れば、出来る。もっとも、わしもはじめてのことじゃから、完全な自信はないが」
にんがりと笑って、それから恐ろしいことを言った。
「出来そこなったら、右陣、この二人を斬れ」
「二人を斬れ?」
「うまく出来れば、おぬしには斬れぬ。とくに七分の織右衛門の方は。――しかし七分の織右衛門が出来上がっておれば、おぬしを斬る心配はないから大丈夫だ。そして出来そこなえば、おぬしにも斬れる。そうすれば、魂はまたこの本家の織右衛門に舞い戻る」
理論は秩序整然としている。
「そしてまた、万が一、七分の織右衛門が銭十郎に敗れて斬られ、三分の織右衛門が刀馬に斬られれば、これはまた魂はここに戻る。いずれにしても、どっち転んでも、わしそのものは厳然としてここに甦《よみがえ》る。どうじゃ?」
「なあるほど。わかった。わかったが、ちと惜しいな」
「何が?」
「もう少し時をかしてくれれば、わしのぬれ桜で吐かしてくれたものを」
「まだそんな負け惜しみを言っておるか」
「いや、それにもう一つ、せっかくの甲賀のくノ一、一人はおぬしにまかすとしても、一人はわしがなぶりつくしてやるつもりで、それを愉《たの》しみにしておったのに、またしてもおぬしの愉しみを、指をくわえて見ていなくてはならぬとは。――」
しかし右陣は珍しく執念を残さなかった。強烈な興味と好奇心のために、自分のみれんなどどこかへけし飛んでしまったようであった。
「じゃが、これは面白い。やって見ろ。おぬしの愉しみを、今夜はわしがかいぞえしてやる。――」
「わしは愉しみではない。それに、かいぞえも要らぬ」
と、織右衛門は言って、砧とお宋を見下ろした。
「甲賀のくノ一、わしを見ろ」
この問答をききつつ、砧とお宋は逃げようともしなかった。すでに彼女たちは最初の志が無惨に破れたことを知っている。脳髄の深部に、逃げなければならぬ、このことを百々銭十郎に報告しなければ大変なことになる――という意志の小さな石はあったが、それをめぐる理性も感覚も、どろどろの溶岩みたいに燃えたぎっていた。
そしてまたたとえ正気であっても、正気であればこそ、いよいよ以《もつ》て逃げられなくなっていたかも知れぬ。――筏織右衛門の眼を見たならば。
それは三角形の琥珀色にひかる眼であった。あらゆるものが闇《やみ》と化した中に、ただ二つ、催眠術師のつかう水晶球《すいしようだま》のような魔力を持つ眼であった。真剣を以て相対したときも、たいていの剣士は、まずこの眼のたたかいに麻痺《まひ》してしまうであろう。――
そして、二人の甲賀のくノ一は、もろくもこの伊賀の大忍者に犯されたのである。
その前に、織右衛門が、ただ一つ念のため右陣に「遺言」した。
「右陣、言うまでもないことじゃが、おぬしだけは、わしが甦えるまでこの小屋にいて見張っていてくれよ」
「心得た」
そして、まずお宋が犯された。――
「……これが三分」
と、言って、砧に移動しようとした筏織右衛門は、なおとりすがるお宋に足をつかまれて床に両手をついた。
織右衛門にしてはぶざまな醜態というべきであったが、その顔がさあっと白ちゃけ、声までかすれているのを知って、右陣は息をのんでいた。織右衛門は、三分、生命を失っているのだ!
「手を離せ」
と、だれか細い声で言った。
織右衛門ではない。――それが織右衛門の足にしがみついているお宋の口から出たと知って、さしもの右陣がぞっとした。お宋の中の三分の織右衛門がそう言ったのだ!
もとよりこのあいだ、砧は織右衛門にからみついている。
「七分にかかる」
と、織右衛門が言った。
数分後、織右衛門はだらんと動かなくなった。仄《ほの》かな水明かりのせいでは決してなく、この暑い夏の夜に、その背がまるで霜を置いたようにつや[#「つや」に傍点]のない蒼白さで浮かびあがった。
そのからだをはねのけ、やがて、にゅーっと砧が立ちあがった。
そして砧は、右陣よりもまずお宋を見下ろした。
「お宋」
と、呼ぶ。むろん、砧の声で。――
「――どうなった?」
実にこれは筏織右衛門の声であった。ただ、どこか織右衛門にしては柔らかいひびきも感じられるようだが、これは気のせいかも知れぬ。
「――三分はたしかに」
と、お宋は答えた。三分はたしかに織右衛門になった、という意味であろう。むろんこの返事はその三分の織右衛門がしたにちがいない。両手をつき、腰をくねらせ、まるで濡れつくして花弁の二片三片を地に散らした牡丹《ぼたん》みたいな姿で。
「うまくいったらしい。やっては見るものだな。……しかし、どうも妙な気持ちだぞ、右陣」
と、織右衛門の声で砧が言って、虫籠をふりかえった。これもその声がどこから出てくるのか奇怪にたえない凄艶な砧の姿であった。
それから彼女は眼をとじて、あたかも何かの苦痛に耐えているかのごとくであった。右陣があとで考えたところによると、どうやら彼女の体内では、七分の織右衛門と三分の砧がたたかっていたらしいのである。
が、やがて砧は言った。
「お宋、ゆこう」
「どこへ?」
「いわずとも知れたこと、百々銭十郎と椎ノ葉刀馬の泊っておる旅籠へ」
「そ、それはならぬ」
と、お宋は言った。両手をついたまま、はげしく首をふって、これも何かの苦痛にもだえぬいているかのようであった。
「ならぬ? あの二人を始末しにゆこうではないか。こちらがこの姿ゆえ、あの二人をからかいつつ仕止められる。どういうかたちになるか、想像するだに可笑《おか》しく、面白いぞ。おまえは刀馬の方にかかれ」
「いけない。甲賀を……裏切ってはいけない!」
「はて?」
砧はくびをかしげ、苦笑した。
「ははあ、おまえは、七分はまだお宋じゃな」
それから、右陣をふりむいた。
「右陣、先刻、このくノ一どもにきいた問いじゃがな」
このくノ一ども、といったが、その中には自分も含まれているはずである。
「くノ一ども、右陣に誘い出されたと見せかけて、その実織右衛門の魂を誘い出しに来たのではないか――という問い、これはあたっておる。まさにその通りじゃ。……えい、黙れ」
と、ふいに妙な言葉をさしはさんだ。しゃべっているのは彼女だけなのに。
その美しい額に、針みたいに微《かす》かな苦痛の皺《しわ》が刻まれていた。彼女が叱ったのは、体内の三分の砧なのであった。
なんという奇妙な白状であり、また異様な叱責《しつせき》であろう。叱りはしたが、いまべらべらとこの夜の企みをしゃべらせたのは砧自身なのだ。同一体内で、砧が織右衛門に告白し、そしてそのあとでそのことを悔いて制止しようとしているらしい。
七分の筏織右衛門と三分の砧との、不可思議なる融合と抵抗と鎮圧。――
「何しに高崎へゆくかと言えば、それは将軍家のおいのちをちぢめんとする黒幕探索のため。――すなわち、われらの背後に駿河大納言がおわすのではないかという疑いをたしかめるため。――」
砧はしゃべる。われらとはもとより織右衛門らのことだ。
先刻の虫籠右陣のぬれ桜の責め問いにはついに耐えぬいた彼女も、体内に洪水のごとく侵入して来て七分までを制圧した織右衛門には、いかんともなすすべがないらしい。とにかく脳髄もその割りで溶け合ってしまったのだろうから、是非もないことだ。
「次に、土井大炊頭さまがそれをどこまで御承知かというと、その点はわたしにはよくわからぬ。そこまでは銭十郎から何もきいてはいないからじゃ」
この場合、わたしといったのは甲賀のくノ一としての砧のことである。
きいていて、虫籠右陣の脳髄も混乱して来た。
「しかし、大炊頭さまは御存じなのではないか。……いや、そもそもこのたびの隠密行が。――」
とたんに、砧はさっと身を沈めた。
その頬をかすめて飛んだものが、戞《かつ》! と音して板羽目につき刺さった。忍者独特のマキビシであった。逃走のときばらまくための道具だが、むろん命中個所によっては充分必殺の武器となる。
投げたのは、お宋だ。彼女は、片足はまだしどけなく投げ出してはいたが、片ひざ立てた姿勢で、異様な表情で砧をにらみつけていた。
怒りにきらめいていた眼が、砧ににらみ返されて、波のように動揺した。
「味方打ちか」
と、砧は言った。
「……味方打ちはいけない」
つぶやいたのは、お宋である。が、すぐにまたきっとして、
「おまえは生かしてはおけぬ」
と、砧にさけんだ。
ああ、お宋もまたその体内で、七分のお宋と三分の織右衛門がたたかっているのだ。いまの行為は、その分裂症状とでもいうべきものであったろう。
「なるほど喃」
と、お宋を見すえたまま、砧が言った。
「こういう結果になるとは意外であったな。しかし、こういうこともあり得るわけじゃな。いかにも喃。……」
砧はしきりに感心しているようであった。織右衛門の感想である。
「右陣、これでは、このお宋をつれてはゆけぬぞ。――つれてゆけば、刀馬にかかってくれるどころか、こちらを裏切るおそれがある。――」
と、砧は言った。
「さればとて、置いていったとて、急を知らせに逃げ出すにきまっておる。縛っておいても縄など児戯に類するだろう。何しろ七分三分とはいえ、筏織右衛門と甲賀のくノ一の合体した人間じゃからな」
さすがの砧も、やや処置に困惑した顔色であった。
「右陣、おまえが見張っておるか?」
と、つぶやいたが、
「いや、右陣一人の見張りでは危い。――」
「ば、ばかな!」
「冗談ではない。どっちがどっちに何をするかわからぬ。ひょっとすると、このお宋、そこにおる織右衛門にとどめを刺すかも知れぬぞ」
と、あごをしゃくった。
こんな七分織右衛門と三分織右衛門との角逐《かくちく》をよそに本体はそこにギヤマン玉みたいな眼をうつろにあけて、大の字にひっくりかえっているのであった。
「任意車が死ねば、魂は本体に舞い戻る、ということはわかっておる。しかし、本体が死ぬと、任意車の方はどうなるか? この場合、わたしの中の七分の織右衛門が死に、殺したお宋の中の三分の織右衛門が死ぬのか? すると、わたしは三分のわたしということになるが、それはいったいどういうことなのか? 三分だけ自分である人間などいうものがこの世にあり得るのか? これは甚だ興味ある実験。――」
と言いかけて、身ぶるいし、
「いや、そんな実験だけは願い下げじゃ。そんなことになってはたまらぬ」
苦笑して、そこにおいてあった織右衛門の大刀をとりあげると、
「お宋、外に出い」
と、言った。
「右陣、おまえの刀をお宋に貸してやれ」
「な、何をするのだ?」
「これから、このお宋と立ち合うて見る」
「えっ?」
「七分の織右衛門と三分の織右衛門との果たし合い。――これも一つの実験じゃ」
よほどおのれの忍法についての研究心の旺盛な男らしい。――
いや、この場合、男といっていいのかわけのわからない実存だが、しかしその眼には決して冗談ではない、妖しいまでの残忍な光がうかび出していた。
「し、しかし。――」
「まず、見ていろ。……百々銭十郎、容易ならぬ相手じゃ。それを斃《たお》し得るか否かの予備練習ともなる。――」
砧は身支度して外へ出ていった。
虫籠右陣は、この夜ほど阿呆みたいに眼前のなりゆきを口をあけて眺めていたことはない。それが、このときこう言われて、いよいよ茫乎《ぼうこ》として、腰の大刀を抜き出した。
夢遊病者のようにそれを受けとって、お宋もやおら身支度して小屋の外に出た。彼女としても、七分のお宋は砧を殺さなければならぬはずである。しかし三分の織右衛門は果たしていかなる心境か。
――やがて、細い月のかかった土堤の草の中に、二人の女は白刃をかまえて相対した。
ほんの一、二時間前、彼女たちがどうしてこんなばかばかしくも恐ろしい果たし合いをしようと予想したろうか、同じ掟《おきて》の中に育ち、同じ目的を抱いて隠密行に出た甲賀のくノ一同士が。――
虫籠右陣は口をあけっぱなしであった。
こんな決闘がひき起こされようとはもとよりびっくり仰天であったが、それ以上にこの果たし合いのムードがだ。
「三分織右衛門」
と、白刃を構えたまま、砧が呼ぶ。これはたしかに織右衛門の声であった。
「足のつかいようが悪い。つまさきをいま少し浮かして、きびすを強く踏んで。……」
そして、うたうように言い出した。
「陰陽の足という。これ肝心なり。陰陽の足とは、片足ばかり動かさぬものなり。斬るとき、退くとき、受くるときまでも、右、左、右、左と踏む足なり。かえすがえす片足踏むことあるべからず。――」
これに対して、
「七分織右衛門」
と、これも白刃を構えたまま、お宋も呼ぶ。これまた織右衛門の声のようでもあるが、しかしひどく細くて、弱々しい。
「肩の力をぬいて。……」
そして、つぶやくように言い出した。
「くびはうしろのすじを直《すぐ》に、うなじに力を入れて、肩より総身はひとしく覚え、両の肩を下げ、背すじは直に、尻を出さず、ひざより足先まで力を入れて、腰のかがまざるように腹を張り。……」
「おお、わかった!」
と、砧は言って、
「右陣、小刀《しようとう》も貸せい」
と、さけんだ。右陣はいよいよ混沌として、
「な、何をする?」
「両刀を使うて見る。相手は、百々銭十郎と椎ノ葉刀馬の二人じゃからな。わが師匠のひそみに習うて。――」
左手に小刀を受けとった。
「この果たし合い、してよかった! おのれの鈍《なま》っておるところ、歴然として鏡にかけて見るがごとし。いや、物を言って教えてくれるところ、鏡以上じゃ。おのれの剣法の矯正にこれほどまさる法はない。まるでわが師に訓《さと》されておるにひとしい。――」
――わが師とは、言うまでもなく新免武蔵のことだ。後年、これらの極意を武蔵は「五輪の書」に文字として書きとどめるが、同じ心得は、こんこんとして筏織右衛門に伝授していたのであろう。
「よし、かたじけない!」
と、砧が言ったのは、この立ち合いが大いに参考になったという礼であったろう。
礼を言っておいて、
「では、三分織右衛門、この二刀流防げるか!」
鎌《かま》みたいに細い月の両側に、二条の剣光がひらめいたかと思うと、二すじの血しぶきがあがった。左右高低の差はあるが、水平に走る血しぶきを。
「あーっ」
さけんだのは、右陣だ。
もろくも、お宋は斬られた。同時にその左腕を打ち落とされ、その右足をひざの上から斬り離されて。
「右陣、手当てをしてやれ」
と、砧は言った。
「三分は、わしと同じ筏織右衛門、七分はわたしと同じ甲賀のくノ一じゃ」
と言ったが、彼女は倒れた影を見てもいなかった。
「殺すこともあるまい。またおぬしが手当てしてやれば、死ぬこともあるまい。――逃げはせぬ。逃げられはせぬ。右陣がついておっても大丈夫じゃ。おぬしの方も、片手片足の女に、それ以上いたずらをする気も起こるまい。――」
まことに、計算は出来ている。この奇怪な決闘の目的は、次に控える真の決闘のためのウォーミング・アップをかねて、裏切るおそれのあるお宋の足をここに封じておくためであったのだ。
その計算は右陣にも納得されたが、わからないのは砧の心理だ。いま七分は甲賀の朋輩、三分は織右衛門というよしみによって云々という意味のことを言ったが、同時に自分も三分は甲賀のくノ一であり、七分は織右衛門なのだから、いずれにしても分身の仲である。何も無惨無慈悲に片手片足を斬るという法はあるまい。
七分は筏織右衛門、と言ったが、ほんとうにこのほうの七分は織右衛門か? と右陣は疑惑を抱いたほどであった。
織右衛門とはもう一年以上ものつき合いになるが、この男はいざとなったらあっと胆をぬかれるような思い切ったこともやってのけるが、それだけに平生黙々として、しかもふしぎな暖かみと諧謔《かいぎやく》さえ感じられる人柄であった。
そこに三分の甲賀のくノ一の魂が入ったことによって、その言葉と手並みはまさに織右衛門にちかいが、妙な残忍性が化学的変化として現れて来たようにも思われる。砧のいまの行動は、右のような計算よりも、むしろその妖しい残忍性から発したもののように思われる。――
もっとも、いまさらこの妖怪の心理を不可解だと首をかしげる方がおかしいかも知れぬ。さなきだに一種の妖怪といっていい筏織右衛門が、その姿、完全な甲賀のくノ一に七分まで入りこんで、いよいよ以てわけのわからない妖怪に濃化したのだから。
やがて。――
「では、ゆくぞ」
と、砧はゆきかけた。大小二本は置いたままの手ぶらである。
「ひ、一人でゆくのか?」
「あたりまえじゃ、その方針に切り換えたからこそ、お宋をああした」
「大丈夫か? あの二人を相手に」
「大丈夫というより、これまた非常に興味がある対決だといって置こう」
「お、おいっ、刀は?」
「両刀さげていっては、この姿に化けた甲斐がない、あちらの刀を借りる」
実に恐るべき自信だ。
「では、あと、くれぐれもわしの本体の守護とくノ一の見張りを頼む。――」
砧は夏草の中を、鴻ノ巣の町の方へ駈け去った。
あと見送って、虫籠右陣はしばらく考えこんでいた。やがて、たおれたままのお宋を小屋の中へ運びこんだが、彼女が流血のため半死のありさまになって、もはや起つ気力もないのを見きわめると、べつに手当ても加えず、なおうつろな眼で天を眺めている筏織右衛門も放り出したままにして、これまた駈け出した。
――鴻ノ巣の方へ。
七分の織右衛門、果たして百々銭十郎と椎ノ葉刀馬を斃し得るや否や?
その不安もさることながら、もっと強い好奇心に右陣はとらえられたのだ。
――三日月の下を、鞠みたいな影が土手を駈けていって消え去ったあと草の中から、ふっともう一つの影が身を起こした。
影は藤笠をかぶっていた。それが、ふしんげに、鴻ノ巣の町の微かな灯の方をすかして見ている。
――土手が街道と交わるすぐちかくである。
お京であった。
彼女は、いまの時刻、やっと鴻ノ巣までたどりついたのである。刀馬一行を追っては来たのだが、彼らが何やら警戒しているようすに、あまりに近づいては感づかれる、とはじめ彼女はそれを気にして、わざと距離を置いた。もっとも彼女としては刀馬に知られることを絶対的に怖れているわけでもなかったが、とにかく無断の追跡をしていることにまちがいはないのだから、何かのきっかけでもなければ、このことを知られるのが憚《はば》かられた。――ただし、お京がこんな気づかいをしたのは、江戸を出てしばしのあいだのことである。あとは、炎天の街道を風のように北上してゆく刀馬らを追うのに必死で、しかも自然にみるみるひき離された。ただ、ひとすじといっていい中仙道だから、結果的に刀馬たちとはぐれることがなかっただけである。
いま、街道を、疲れた足どりでトボトボとやって来て、ふと、横の土手から走って来た影に、お京は何ということもなくしゃがんで身をかくした。夜更けの草むらを一人でやってくる影――というより、その影のはなつ妖気に、本能的に彼女の魂が吹かれたのだ。
三日月の仄明りに、彼女が見たのは、砧であった。
さすがの砧も、場合が場合、草の中にかくれた女の姿に気づく余裕はなかったらしい。たとえ気づいたとしても、それをかえりみる余裕はいよいよなかったろう。
しかし、お京の方ははっとしていた。
「……あのひとは?」
たとえ六部笠をつけていないとはいえ、見すごしてなろうか。あれは刀馬さまと同行している女六部の一人ではなかったか?
その女が、たった一人で、どこからか来て、ただならぬ妖気を曳いて、どこかへ駈けていった。――
どこからか?――お京は遠く土手の方に黒く見える小さな小屋を見た。いまの女はあそこから出て来た。まさか、刀馬さまがあの小屋に?
五歩、十歩、ともかくもその方へ近づいて見る気になったお京は、ふいにまた草の中へ身を沈めた。そして彼女は、二度目にその小屋から出て来た虫籠右陣をやり過ごしたのである。さすがの右陣も、これまた場合が場合、先にいった砧に気をとられて、ただ気ぜわしげに走り過ぎた。――
お京は右陣を知らない。
しかし、彼女はいよいよその小屋にふしんの心を抱いて近寄っていった。そして、おそるおそるのぞきこんで、ひっくりかえって眼をむいている一人の男と、片手片足を切断されて虫の息の一人の女を見出したのである。
まず、血みどろの中に模糊《もこ》としてうごめいている女の姿に仰天して駆けこみ、それがやはりあの女六部の一人であることを知ったお京の驚きはいかばかりか。
刀馬さまはどこへ?
お京は不安に頭もくらくらする思いで、あらためてそこに大の字に倒れている男を見た。むろん、刀馬ではない。見知らぬ中年の男だ。そうっと指さきを触れて見ると、氷のように冷たい。死んでいるらしい。
これはいったいどうしたことだ?
女の方にはまだ息がある、と知って、お京が、その女のきものの一部をちぎり、腕と足をぎりぎりとしばって止血にかかったのは、彼女の心のやさしさもさることながら、刀馬のゆくえをつきとめたいという焦燥からでもあった。
「いけない。……」
と、お宋の唇が動いた。
気がついた! と思うより、いまのつぶやきにお京はまごついた。
「いけない。……いってはいけない……」
「え? 何がいけないのです?」
それが女の声だと弁別する能力をこのとき失っていたらしく、反射的に瀕死のお宋は言った。
「銭十郎どのと、椎ノ葉刀馬さまを殺しにいってはいけない。……」
「椎ノ葉刀馬さま!」
お京はまさに裂帛《れつぱく》の声をあげた。
「椎ノ葉刀馬さまを……だれが殺しにいったのです。刀馬さまはどこにいらっしゃるのです?」
無我夢中でゆさぶりたてられて、お宋の眼にかすかに光がもどった。が、なお散大した瞳でお京を見あげて、
「おまえは……だれ?」
と、はじめてきいた。
「刀馬さまの知り合いの者です。ね、刀馬さまを、だれが――」
「ほほう」
とお宋は言った。
「椎ノ葉刀馬の恋人ででもあるのか?」
それが、弱々しいが男の声であったような気がして、お京はぎょっとして息をひいていた。――お宋の中の筏織右衛門のつぶやきであった。――が、すぐにお宋は甲賀のくノ一として正気にもどった。
「知り合いなら、いそいでいっておくれ」
「ど、どこへ?」
「鴻ノ巣木屋町のあぶらやという旅籠へ」
「あぶらや」
「そこへ、砧がゆく。姿は砧だけれど、ほんとうは筏織右衛門。――」
「筏織右衛門。な、なんのことですか、それは。――」
「いそいで。――いそがなければ、刀馬さまたちが危い。――」
意味はなお不可解であったが、その内容の重大性と、切迫した息づかいに、お京は動顛《どうてん》して立ちあがって、ゆきかかった。
「待って。――」
とお宋は呼んだ。
「ゆくまえに、この男を殺して。――」
「えっ?」
お京はふりかえり、眼を見張った。――この男を殺せ?
――その男はもう死んでいるではないか?
と、言おうとしたのである。
が、そのまえに、お宋はくびを横にふった。
「いや、殺してはならぬ。……」
それが地を這うような低いかすれ声ながら、またも男の声であったような感じがして、お京は恐怖の突風に吹かれて小屋を駈け出した。
怪異混沌、といった心理状態だが、ともかくお京の脳髄をつらぬいているのは、刀馬さま危し、といういまの女の一語であった。
そのあとで。――
お宋はじいっと筏織右衛門を見つめた。その眼がしだいにひかり出した。
お宋にはかすかに生命があるが、筏織右衛門にはない。この超絶の大忍者も、いまや一個の物体にひとしい。――お宋のふるえる右腕が、残されていた織右衛門の刀をつかんだ。じりっ、じりっ、と、彼女は虫のように這い出した。
……こういう事態を心配すればこそ、砧がくりかえし、虫籠右陣に監視を依頼していったのだが、その右陣が無責任にも、抑えがたい好奇心に吊られて、砧のあとを追っかけて出ていってしまい、かつ、そのあとでお京が瀕死の人間に止血の手当てを加えるという不測の事も起こったので、やはりこういう事態とはなった。
とはいえ、左腕右足とおびただしい血を失ったお宋を這わせているのは、甲賀のくノ一ならではの精神力と使命感であったろう。
刀身が床すれすれに動いて、横たわっている織右衛門の頸部に触れんばかりになった。あと寸余で、頸動脈につき刺さる。――
このとき、お宋の眼の光がまたさざなみをたてて、すうと薄れた。
「……血が動いておるのかな?」
お宋の唇が動いた。出たのは男の声だ。織右衛門の血液循環の意味だ。
「……本体を殺すと、その魂を借りておる二人のくノ一もまた死ぬのかな?」
筏織右衛門の例の求道的なつぶやきであった。
「やって見たいが。……」
ふいに、お宋の全身がふるえた。
「ぶるる、いや、こんな実験はすこしゆきすぎじゃ。いかん、いかん」
お宋の手から刀がおち、彼女はばたりと顔を床の上に伏せた。
[#改ページ]
芸術赤朽葉
――結果からいえば、筏織右衛門にこのように実験的精神が旺盛であったればこそ、百々銭十郎や椎ノ葉刀馬が危機を一応制止されたとも言える。
砧は鴻ノ巣の木屋町の旅籠あぶらやに帰っていった。
「銭十郎どの」
息はずませて、彼女はさけんだ。
「筏織右衛門の居場所、つきとめて来た」
「やはり、おったか?」
砧は、このあぶらやを出てからの虫籠右陣との邂逅《かいこう》を語った。ここまではほんとうのことであったが、あとは誘い出しの嘘言《きよげん》となる。すなわち事実とは逆の、鴻ノ巣の町の北方の森の中に織右衛門がいたと称し、さらにお宋が身を挺して彼をぬけがらとしたと言ったのである。
――やった!
してやったり、と椎ノ葉刀馬は眼をかがやかせたが、すぐにはっと或ることに気がついて、
「では、お宋が織右衛門になったわけじゃな。織右衛門になったお宋はどうした?」
「それが。――」
砧は可笑《おか》しそうに、口に手をあてた。
「きいていたように、伊賀忍法任意車とは、女を犯してはじめて成る。――で、織右衛門がお宋を犯したとき、そのお宋の姿があまりになまめかしゅうて、右陣はそれが織右衛門に変わったとは知っているはずなのに、つい淫らなふるまいをしかけて、お宋の織右衛門を怒らせ、ふたりが喧嘩をはじめたすきに、わたしは逃げて来たのです。――」
「あの二人が、喧嘩?」
「いえ、お宋とわたしは最初から、二人のうちどっちが織右衛門に犯されようと、任意車になったように装って、一方を逃がそうとかたく約束しましたから、そのせいにちがいありません。――」
「よし、そこへ案内しろ」
と、刀馬は立ちあがった。
「わしがお宋の変わりようをたしかめ、右陣を牽制しておる。そのあいだに、百々、ぬけがらとなった織右衛門を仕止めろ」
「……虫籠右陣|喃《のう》。きゃつとて、常人にはそうやすやすと牽制されぬ、恐るべき技倆《ぎりよう》を持っておりますぞ」
「ともかくも、本体の織右衛門さえ始末すれば、右陣ごとき――これは捕らえる。こやつはきっとわしが捕らえて、すべて泥を吐かしてくれる」
と言ったが、百々銭十郎が何かきっぱりしない、どんよりした表情で坐っているので、刀馬はかんちがいした。彼は焦燥して、足ぶみした。
「百々、斬りたければ、おまえが右陣を斬ってもよいぞ。その代わり、わしがぬけがらの織右衛門を捕らえてやろう。いずれにしても、策は当たった! 機会はいまじゃ。ゆこう、銭十郎。――」
「いま、しばし。――」
と、銭十郎は思い切り悪く言った。眼も粘っこく、砧を見つめている。
やがて、
「砧、褒美をやろう」
と言った。
「おれの白朽葉を――」
「なに?」
あっけにとられた椎ノ葉刀馬に、銭十郎はにやりとして、
「約束でござる」
「そ、そのような褒美は、あとでよい。すべてが終わってからでよかろうが」
「いや、それが、そうでない。この砧が、筏織右衛門であったら、椎ノ葉さま、どうなさる?」
「な、なんだと?」
椎ノ葉刀馬はがんと脳天を打たれた思いになり、反射的に刀をひきつけて、じいっと砧に見いった。
そんなことは考えたこともなかったが、いかにも万に一つの可能性のないことではない。しかし、この女が?
「あの、わたしが?」
声に出して笑ったのは、まず砧であった。
「わたしが、あの、伊賀の任意車?」
なんという砧の美しさであろう。いや、この甲賀の娘の凄艶なことは、最初に見たときから認識しているが、今夜ただいまの砧が、眼のかがやき、紅潮した頬、動くたびにしゃべるたびに、ヒクヒクと微妙に律動しているような皮膚、実に異常なばかりの迫力を持っているのを、おそらく重大任務を果たして帰還した昂奮からであろう、と刀馬は見ていた。
この女が、筏織右衛門の任意車だと?
「椎ノ葉さま」
と、銭十郎が言った。
「筏織右衛門が女に乗り移って現れたら、それがこちらにわかるであろうか? といつぞや話したことがありましたな。しかし拙者は、そのような場合にでも、もしこの体内に白朽葉が満ちておるならば、相手の正体が男だとわかるはずだ、と思うておりました。――」
「百々。――で、この砧の正体が織右衛門だと申すのか?」
「それがわかり申さぬ。いや、むしろ、これは、女そのものでござる」
酔っぱらっているような銭十郎の語調であった。
「しかし、その鑑別力の問題でわしの白朽葉があてにならぬことは、いつぞやの江戸城のお国どのの一件でわかり申した。――」
「では、なぜ、この女が織右衛門かも知れぬなどと。――」
銭十郎の言い出したことは、何が何やらわからない。
刀馬がかんちがいしていたといったのは、先刻からの銭十郎の煮え切らぬそぶりが、かねてから彼がぬけがらの筏織右衛門を討つということにあまりうれしからざる顔をしていたので、そのための逡巡《しゆんじゆん》かと思っていたのが、いまはじめて銭十郎が実に驚倒すべき疑いをこの砧にかけていると知ったという意味であった。もっとも白朽葉が満ちて来たとき銭十郎が、へんにナヨナヨ、グニャグニャするのは、彼の常態でもある。――
筏織右衛門がただちに甲賀のくノ一たちの虎穴に入る秘策を洞察したのもさすがであるが、その裏をかいて逆に二人のくノ一を手玉にとり、文字通り傀儡《かいらい》としてここに逆襲を試みた伊賀忍法任意車を、たちまち看破した百々銭十郎はさすが以上と言える。――
――と言いたいが、実はそうではない。百々銭十郎は存外頭脳的に単純なところがあって、これほど周到な配慮をめぐらす男ではない。
銭十郎のいまの嫌疑は、まったくあてずっぽうだ。彼は、帰って来た砧を見たとたん、たとえ大利根が決潰《けつかい》して水が軒先に迫ろうと、ここでただちに遂げねばならぬ欲望にとらわれたのだ。
それだけにすぎない。その目的を遂げたいための言いがかりにすぎない。――
「この疑いをたしかめるには、この女と交合してみるが何よりと存ずる」
と彼は言った。
「交合して見れば、いかになんでもこれが男か女か、その反応でわかるでござろう」
こうくりかえして言ったとき、銭十郎はもう砧のぬれひかるような手くびをにぎって、ひきずり寄せている。
しかし、ほんとうのところをいうと、銭十郎にはそんな確信はない。だいいち、いま自分でも言ったように、砧はどこからどこまでも女そのものである。――で、その自分のせりふの矛盾をすぐに曝露した。
「それに、織右衛門を斬りにゆくにしろ、虫籠右陣を斬りにゆくにしろ、いずれにしてもこの白朽葉を放出しておかねば。……」
矛盾というのは、こういうせりふがつまりこの砧を、織右衛門と認めていないという現れだ。
彼にとって、理屈はどうでもいいのであった。ただ天地が裂けようと、いまのいまこの女と交合したいのであった。それでなくてさえ、白朽葉が体内に充満し、全身から例の栗《くり》の花の匂いを濃く放っているところだ。ましてこの砧は――知るや知らずや、依然として虫籠右陣のぬれ桜の化身でもあるのだ!
ズルズルとひき寄せられ、砧は抱きしめられた。
百々銭十郎にひき寄せられ、抱きしめられた砧――七分織右衛門の心境やいかに。
七分織右衛門というが、織右衛門その人の個性はなかなか強力で、彼は完全に三分の砧を統制したつもりでいた。少なくとも本人の自覚では、十分の織右衛門として、いつもの任意車のごとく砧の演技をしているつもりでいた。――演技のつもりで、銭十郎に抱きしめられた。
実は彼、百々銭十郎がこのような行為に出るとはまさか予想もしていなかった。彼としては、いま銭十郎か刀馬の刀を奪い、一瞬の間に両人を斃《たお》してもよいのであった。
ところが――彼は少々方針を変えた。しばらく様子を見よう、という心境になったのだ。
第一に、得べくんば刀馬を殺さず、ひっとらえて、この公儀隠密の探索度をたしかめたいという希望から、第二に、この甲賀名代の忍者のなすがままにまかせて、敵の確認力と自分の演技力と闘争を試みてみたいという欲望からだ。あたかも、おのれの隠蔽《いんぺい》能力に無上の自信を持つ男が、ウソ発見器に相対したようなものであったろう。
然《しか》り、この不敵な野心、ないしいたずら精神は、やはり筏織右衛門の自信、まかりまちがっても自分一人でこの両人を料理し得るという自信の裏付けから発したものであった。
「白朽葉を……白朽葉を……」
銭十郎の胸の中で身もだえし、彼女は火のようなあえぎを銭十郎のあごのあたりにまつわらせた。白朽葉がいかなるものであるかは、三分の砧が知っている。
――しかし、彼女の肉体を走る微妙なうごめき、いや強烈な痙攣《けいれん》の波は、果たして筏織右衛門の演技であったか。肉体だけはあらゆる皮膚のすみずみまで性器の感覚細胞と化するぬれ桜、その快感に燃え狂う三分の砧の真実の反応ではなかったか。
あたかも百々銭十郎を動かしているのはひたすら交合欲だけであって、あとの目的はそれを支える理屈にすぎなかったように、筏織右衛門が銭十郎を受け入れるためにいくつかの理屈を考え出したのは、これまた砧としての交合欲が源泉ではなかったか。
百々銭十郎の男の花臭《かしゆう》を放つ白朽葉の霧に吹きくるまれて。
一方の銭十郎は、おのれ自身の白朽葉の内的衝動に加えるに、砧のぬれ桜に心魂をとろけさせている。もし砧の肉体がぬれ桜の洗礼を浴びていなかったら、或いはこれを女ではないと看破したかも知れないが、さすがの銭十郎も完全に理性も忍法も溶解した、たんなる雄獣となってしまった。
二人は交合を開始した。
それは盛大きわまるものであった。傍に椎ノ葉刀馬という人間が存在しているなどとは、まったくかえりみるいとまもない、凄絶無比とも形容してしかるべき交合ぶりであった。
刀馬は茫乎《ぼうこ》としてそれを眺めているよりほかはない。
――と言いたいが、むろん、それどころではない。彼も百々銭十郎などいう妖異な人間とコンビを組んだおかげで、いくどかこの「白朽葉の祭り」を見物させられる羽目になったが、この夜ほどもの凄じい男と女の狂宴を見たことはない。
溢れ、たばしり、飛びちる白朽葉。
もだえぬき、舞いくるうぬれ桜。
むろんそんな認識はないが、彼の目撃したのは、人間の男と女の愛戯ではなく、忍法と忍法との交合ともいうべき人外境の秘図であったろう。彼もまた魂をその異次元の世界へ飛ばされてしまったことは是非もない。
どれほどの時間が経過したか。
――刀馬さま。――
眼前にどよもす叫喚《きようかん》の中に、ふと彼は細く澄んだそんな声をきいたような気がした。
――刀馬さま、いらっしゃいますか。――
熱い頭にその呼び声が吹き通ったとき、彼はぶるっとかすかに身ぶるいした。それをお京の声と知ったのである。むろん、妄想の錯覚だと思った。
「椎ノ葉刀馬さまはこちらでございますか」
三たび、その声が、これはすぐうしろから耳朶《じだ》を打って、彼はふりかえった。襖《ふすま》のあいだからのぞいているのは、旅籠の亭主と、まごうかたなきお京の顔であった。
二人は、この部屋の光景を見て、あっとのけぞりかえったことは言うまでもないが、次の瞬間、お京は身を立てなおし、
「刀馬さまっ――姿は砧だけれど、ほんとうは筏織右衛門だということを――その意味がおわかりですか!」
と、さけんだ。
同時に、百々銭十郎のからだが破れだたみにころがり落ちた。みずから落ちるまえに、はねおとされたのである。
仰むけになったままの砧は、右手でそこにあった銭十郎の大刀を、左手で反対側にあった椎ノ葉刀馬の小刀《しようとう》をひっつかんだ。
「……あっ」
狼狽《ろうばい》と驚愕のもつれ合った声を発しつつ、片ひざ立てた刀馬の抜き打ちの大刀は、ばねのごとくはね起きた砧の小刀の鍔《つば》ではっしと受けとめられていた。
間髪を入れず、彼女は両刀抜きはらい、ぬうと立ちあがっていた。
「椎ノ葉どの、あの女人はどなたでござる」
砧は言った。小刀をつけたままである。
「姿は砧だけれど、ほんとうは筏織右衛門だと――えらいことを知っておる。隠密が、くノ一以外にまたあのような女隠密を使っていようとは、いかな織右衛門も気がつかなんだ。いや、驚いた」
驚きは織右衛門よりも刀馬の方がひどかったろう。
砧の凄艶な唇から洩れて出るのは、まさしく錆《さび》をふくんだ筏織右衛門の声であった。これにも驚愕せざるを得ないが、それより刀馬の脳髄を衝撃したのは、いうまでもなくお京の出現だ。さらにいまの言葉だ。
が、もとよりそれをお京に問うている場合ではない。いまの抜き打ちをはね返された手は、こぶしから肩まで、ジーンとしびれている。
第二の襲撃を送ろうとして、刀馬はぴたと相手の小刀に抑えられた。
「百々。……味はどうであった」
砧はニンガリと笑んでまた言う。
「織右衛門の味がしたか」
さしもの百々銭十郎が声もない。――
男か女か、白朽葉のレーダーを以てしても嗅ぎあてられず、知覚の混乱をきたしたのはお国の一件で経験している。交合してこれをたしかめるといったのは、たんなる口実だ。――と承知しているにもかかわらず、いま、まざまざと快美の夢幻境につつみこんだこの柔肉が、なんと男の魂を持っていたとは!
が、もとより銭十郎を絶句させているのは、それよりもおのれにさしつけられた相手の大刀だ。
その大刀を不覚にも奪われて、からくも小刀をつかんだものの、百々銭十郎ほどの者が、二度、三度、それをとりおとす醜態を演じたのは、決して彼の右手の指三本がなかったせいばかりではない――
が、ともかくもそれを抜きはなち、相対したが、これまた磐石《ばんじやく》の大刀にぴたと抑えられた。
「いや、そちらの味は知らず、こちらの味は飢餓に肉汁と骨つき肉をかぶりついたようであった。このまま、永遠に砧でありたい。――いや、女がこれほどの味を味わうものならば、もともと女に生まれたかったほどじゃ」
と、砧は言った。嘲弄《ちようろう》ではない、ばかに真実味を帯びた述懐であった。
「しかし、人は生きておる以上、極楽に住むわけにはゆかぬ。いわんや、忍者をや。――極楽は終わった。斬らねばなるまい。――斬る」
と言ったが、眼をちらと動かして、
「狭いな。太刀さばきに不都合なのはいたしかたないとして、火事でも起こせば、旅籠の亭主に気の毒じゃ」
と、言った。
「亭主、ちかくに空地があるか」
襖の向こうに腰をぬかしていた亭主が、すぐ裏にそれがある旨、脳天から出るような声で答えた。
「その方が、よいと思うなら、出てくれ」
砧はあごをしゃくった。
椎ノ葉刀馬と百々銭十郎はこれに従った。
――黙々として、さきに部屋を出、旅籠を出てゆく刀馬と銭十郎は、まるで師の命令に従う弟子のごとくだが、むろんそんな心境であるはずがない。この場合、万やむを得なかったのだ。砧の姿をした織右衛門の言う通りであったのだ。
いかにも旅籠の裏に、小川に沿うて空地があり、もとより三日月はその空にもかかっていた。
「改めて御挨拶いたす、御査察役どの、品川以来、お久しや。――」
と、砧は、織右衛門の微笑した声で言った。
「と、言いたいが、その実、大奥の馬場でお相手つかまつったな」
「織右衛門!」
と、刀馬はのどをしぼった。
「うぬがまことに伊賀の筏であるならば、最後にきく。伊賀者の身を以て、なぜ上様に対したてまつり、大逆の罪を――」
「拙者の女房は、罪なくして上様のお手討ちを受け申した。――」
暗然として、砧の姿で織右衛門は言った。
「銭十郎どの」
と、砧は――こんどは砧の声で言った。
「おまえさまと、かかる果たし合いをしようとはなあ。……甲賀の組屋敷の日々を思い出せば、胸もいたむような」
たんに砧の声というばかりではない。実にそれは、言葉通りの哀切な想い出をこめたつぶやきであった。
「たっ、たわけ。――この化け物」
百々銭十郎は嗄《か》れたうめきを発した。
これには情感のかけらもない。憤怒《ふんぬ》はいわずもがな、彼はこの夏の夜に、寒風に吹かれたごとく全身をふるわせている。銭十郎は白朽葉を放出しつくしたのだ。いまや彼はあの乾き切った一殺鬼と化し終えたのだ。
「やるか。――」
さすがに粛然として、砧は両刀を左右にひろげた。
「円明二刀流!」
それっきり、三人はしばし剣を持った氷の像となった。
円明二刀流! 円明二刀流!
名はきいていたが、椎ノ葉刀馬ははじめて見た。生死をかけぬ者の眼からみれば、それは弦月《げんげつ》の下に翼をひろげた白鷺《しらさぎ》の姿にも見えたであろう。が、刀馬は――実にその小刀の方をむけられながら、まるで双頭の鷲《わし》の翼につつみこまれ、打ち叩かれそうな圧迫感をおぼえた。
むべなるかな、新免武蔵直伝の円明二刀流。
そのことを、理性では知りつつ、その姿の凄艶さになお感覚的には疑っていた刀馬も、いまや全人的にいかんなく思い知らされたのだ。
歯がみする。眼を血ばしらせる。あぶら汗をしたたらす。――にも拘わらず、刀馬は足指一本動かしてそこから進み出ることができぬ。
刀馬どころか、あの大剣鬼たる百々銭十郎までが。――
「血。――」
と、銭十郎がさけんだ。
「女の血が欲しい――」
筏織右衛門の旺盛な実験的精神のおかげで、百々銭十郎と椎ノ葉刀馬の危機が一応制止されたと前に言ったのは、つまりお京の急報が間に合ったという意味だが、しかし結局は「一応」のことに過ぎなかったと言ってもいいかも知れぬ。
実に織右衛門は、銭十郎と刀馬を左右にまわして、次第にこの両人の肩に息をつかせはじめるほどの豪宕《ごうとう》の剣気を放っているのであった。――しかも、七分でだ。彼らを相手にしているのは、両人は知らず、七分の筏織右衛門であったのだ。
「あ、あ、赤朽葉。――」
百々銭十郎があえいだかと思うと、ふと眼が異様なひかりを発して、
「椎ノ葉さま!」
と、声をかけた。
「おお」
「いま来た女人はどなたか。あなたのお知り合いか。あの方を拝借したい――」
「は、拝借? 何をする?」
「赤朽葉を頂戴いたしたい。はっきりいえば、血をもらいたいのだ!」
銭十郎はとんでもないことを言い出した。
そもそも、つれて来た二人の甲賀のくノ一をどう使うか、精密な計算は不可能であったとはいえ、あわよくば一人は織右衛門の魂を盗むために、一人は赤朽葉を採取するためにと考えてはいたのだが、そんな虫のいいつもり[#「つもり」に傍点]はそうは問屋が下ろさず、かえってくノ一の肉体を奪ったにひとしい筏織右衛門は、ここにただ一人、恐るべき大敵として現れた。赤朽葉を提供すべきくノ一は、ほかにはおらぬ。――
「うふ」
砧が失笑したのは、この銭十郎のあてはずれに対してであったろう。それから、
「はて、百々も知らぬ女か? これはわしが知らなんだも道理。――」
と、つぶやいて、眼を一方に投げた。
そこの草むらにお京が凍りついたように立っていた。
「お知り合いじゃな。さすれば幕臣につながる女人じゃな。御公儀のためには、一身を犠牲にして悔いなきはずの女人じゃな。――」
銭十郎は督促した。
「椎ノ葉さま、ここに来て、乳房を出せと仰せられい」
「ば、ばかな!」
刀馬はうめいた。
「百々、おまえ、この砧――いや、織右衛門に、しょせんかなわぬと悟ったか」
「どっちがばかげたことを言っておるか御存じか。ばかな! ど、ど、百々がこやつにかなわぬ? けっ、くそでもくらえ。わしはこやつの、まず片眼をつぶし、指三本を斬りたいのだ。それから、なぶり殺しにしてやらねば胸が癒えぬのだ。そのために赤朽葉が欲しいのだ!」
銭十郎は絶叫した。
負け惜しみに似ているが、ひょっとするとこの剣怪の本音《ほんね》であったかも知れぬ。
「椎ノ葉さま! その女、ここへ呼ばれい。呼ばれぬか!」
刀馬は土気色の顔になっていた。銭十郎は叱咤《しつた》した。
「大義親を滅す!」
それこそは刀馬が甲賀のくノ一をあえていけにえの祭壇に捧げるべく、曾《かつ》て声を励まして銭十郎に命じた言葉であった。
「そこのけ、銭十郎――」
――むしろ、沈痛の気をおびて刀馬は言った。
「おまえは見ておれ、椎ノ葉刀馬、一人を以てこやつと立ち合おう」
「――けっ」
銭十郎は奇声を発した。
「竜車に向かう蟷螂《とうろう》の斧《おの》」
失笑に嘲笑が重なった。
「あれはおまえさまの色女でござるか。それほど御自分の方の色女は御大事か。いや、わしも色女はつれては来たが、これはあくまで御用に役立たせんがため。――おまえさまは、なんのためにあの女人をつれておいでになったのか」
「お京」
と、それには答えず刀馬は言った。
「おまえがここに来たわけ、砧、織右衛門云々と申したわけ、わしは知らぬ。しかし、お前は織右衛門という男の居場所を知っておるな。どこだ。――」
織右衛門という意味さえわからず、お京はふるえながら言った。
「この鴻ノ巣南はずれの街道から左へ百歩ばかり、土手の上の小屋に、死んだ男と、片手片足斬られて半死半生の女がおりました……」
「死んだ男? 半死半生の女?……それだ。よし、わかった!」
刀馬は銭十郎に声をかけた。
「銭十郎、いって織右衛門を捕らえろ。捕らえて逃げろ。それまで、わしはこの砧を支えておる。おまえが百歩走ったところでわしが斬られても、おまえの使命は果たせる。ゆけ、銭十郎!」
さすがに砧の表情が動いた。それまで刀馬、銭十郎の問答を面白げにきいている風で、お京の証言に先刻の自分の嘘がばれたとわかったときは苦笑すら浮かべた顔に、狼狽のさざ波が立った。
三日月にキラと小刀がひかると、それは流星のごとく刀馬の方へ薙《な》ぎつけられた。戞《かつ》と火花がちると、一本の刀が草に飛んだ。飛んだのは――おお、砧の小刀の方だ。
「いかん!」
手に一本残った大刀を斜めに構えたまま、砧は飛びずさった。これはその方角の銭十郎の襲撃にそなえての構えでもあったが、疾風のごとく突っ込んで来た椎ノ葉刀馬に、
「おおっ」
と、いささかうろたえて、またとびずさった。
砧――いや、筏織右衛門ほどの者がこのような破綻《はたん》を見せたのは珍しいが、それは七分織右衛門のせいであったか。刀馬の決死の突撃ぶりが思いのほかであったのか。それともいまの刀馬の下知が、彼に動揺を与えたのか。――
「やるな!」
銭十郎と砧の口から、同時に同じ言葉がもれた。
「ふむ、ちと面白い、そのかけひきは。――あとは知らず。しばしがほどは何とか持ちそうじゃ。では、参りますぞ、拙者は――」
銭十郎は身をひるがえした。
「あ、待て。――」
追おうとする砧を、
「やらぬ」
と、刀馬がまた追いすがり、灼《や》くようなその剣気に背を吹かれて、砧は反転した。
それっきり、二人の剣はかすかに浮動するのみで、二人の足は釘づけになった。すでに死相ともいっていい必死の形相でこの大敵を釘づけにしつつ、刀馬は言った。
「お京、江戸へ帰れ。そして見たままを御公儀に告げろ」
さしもの砧、すなわち七分織右衛門も焦燥にかられていた。こうしているあいだにも、銭十郎は土手の小屋へ宙を駈けている。そのゆくてには、ぬけがらの自分の本体が横たわっているのだ。秒瞬の間にこの刀馬を斬りすててそのあとを追わねばならぬ。――
その焦燥が七分織右衛門の力量を甚だしく減じたのであろうか。とにかく彼をそれ以上、焦燥のままに封じてしまったのは、何といっても江戸の柳生道場で麒麟児《きりんじ》とうたわれた椎ノ葉刀馬の死物狂いの一刀であった。
しかし、刀馬もまた焦っている。
お京が、逃げないのだ。逃げないどころか、懐剣をぬいて、砧のうしろに廻ろうとしているのだ。むろん刀馬に助勢のつもりであろうが、へんにうろちょろされると水もたまらぬ砧の一刀がいつそこへ飛ぶかもわからない。――
……右陣が小屋にいる。
やっとこのときこのことが砧の頭に浮かんだ。右陣に番をさせておいたはずだ。いまのお京とやらの報告中に右陣らしい男が出てこないのが不審だが、しかし、きゃつ、小屋付近にはいるはずだ。あれがいる以上、たやすくは銭十郎の目的をとげさせることはあるまい。――
……よし!
ややおちつきをとりもどした砧の刀身が、ふいに倍の長さと厚みを加えたようであった。
「刀馬、もはや容赦はせぬぞ」
ズ、ズ、ズ……と、意志を超えて刀馬は二、三歩あとずさりながら、
「お京、逃げろ。それが椎ノ葉刀馬御用のための最大の助け――」
その声の悲痛さに、お京が意を決して、これまた身をひるがえそうとした。――そのまんまえに、ぬうともう一つの影が立って、彼女の懐剣を持った腕をつかんだ。
「あっ」
「もうよかろう、右陣、見物役から登場しても」
その二つのさけびと声は、相対峙《あいたいじ》する二人の耳朶に雷のごとき衝撃を与えた。
――しまった!
という絶望感に刀馬が打たれたのは当然だが、それ以上に、
――万事休す。
という破滅感に襲われたのは、砧、すなわち七分織右衛門の方であったろう。
「右陣」
と、砧は言った。
「なぜ、来た?」
「おぬしの剣法七分三分の振り分けぶりが見とうて」
右陣は恬然《てんぜん》として言った。もがくお京を抱きすくめたままである。
「これは、さすがにうまくゆかなんだな。実験過度というべきであった」
「なぜ、百々銭十郎を追わぬ」
「あれがおるときは、怖かった。いったあとではもう間に合わぬ」
事実にはちがいないが、七分織右衛門にとっては戦慄《せんりつ》すべき事実だ。
「もし本体が死ねば、わしも死ぬぞ。筏織右衛門は完全にこの地上から消える」
「やむを得ぬ。この際、いかんともしがたい」
あまりにこの返事が、自分の無責任ぶりを棚にあげた冷淡なものだと、それでも気がとがめるところがあったか、右陣は突然もちまえの女みたいなかん高い声を張りあげた。
「織右衛門、例のわれらの大望、まだとげぬ。しかも現在はかえって敵の探索の防戦に追われておる。その二つながらの用を、右陣この女を以て果たす」
「その女を以て。――」
「この女、おそらくは土井大炊頭どのの近習たるその椎ノ葉刀馬の恋人じゃ。これを精根こめてぬれ桜に仕立てあげれば、われらの大望を果たすにも、また防戦につかうにも、これ以上はない恰好の道具となろう。――」
刀馬は全身の肌も粟立《あわだ》つ思いであった。
「やる、虫籠右陣、必ずやって見せる。織右衛門、安心して死んでくれ」
そして右陣は、つかんだお京の手を、自分の口のところへ持っていって、ぺろりとなめた。
「そのまえに、織右衛門、刀馬は討ち果たしておいてくれ。……百々銭十郎の方は、わしがあとであしらう。いや、暗剣殺と針つばめを使って、おぬしのかたきはきっと討ってやる。では、ゆくぞ。――」
実にひどい奴だ。この右陣という男は。
いったいこれが、いままであれほどのコンビを組んで来た仲かと疑われるほどの非情さだが、実際問題としては彼自身いま宣言したごとく、やむを得ず、いかんともしがたい行動であったかも知れぬ。ぬけがらの織右衛門を救うすべもない以上、この任意車の運命ももはや極まっているからだ。目的のためには、あらゆる私情と無益な労力を捨て去ってかえり見ぬのが忍者の習いであった。
とはいえ。――
「おお、この娘の柔肌、こう抱いただけでもぬれ桜の仕立て甲斐のある肌と見たぞ」
その声にすでに歓喜のひびきがあるところを見ると、ひょっとしたら虫籠右陣は、目的よりもこの手段の方に心魂をとろかし、そのためにはいままでともすればおのれ自身の悦楽を制限していた筏織右衛門という相棒の消滅をいとわない心すら湧いていたのかも知れぬ。
「おのれ」
必死にもがくお京をぐいと横抱きにし、一方の手でお京の濡れた掌をもてあそびつつ、
「逃げるのも、わしの忍法の一つでな」
風船のごとくゆきかかった。
「待て」
と、刀馬はさけんだ。
それから、なに思ったか、すうと刃を下げて、砧にちょっと頭を下げた。
「いや、おまえとの勝負、やめようとは言わぬ。あの右陣を斬ろうとも思わぬ。右陣を斬っても、おまえはわしを見逃しはせぬであろう。……が、しばらく、わしがお京に遺言するまで待て、織右衛門。――」
この戦闘中の異様な願いに対して、これまたなに思ったか、砧はかすかにうなずいて見せた。
向き直った刀馬から、右陣はお京を横抱きにしたまま、ぽーんと一間ばかり一挙に飛び離れた。忍法暗剣殺。――
「お京」
と、刀馬はその位置で呼んだ。
「そなたがわしの御用をどこまで知っておるかは知らぬ。おそらく何も知らぬであろう。が、刀馬、今生の願いとして言う。お京、こののち、そなたの身の上にいかなる恥辱、惨苦があろうとも、生きて駿河大納言さまの御真意を探れ。探って土井大炊頭さまに御報告申しあげろ。よいか。――」
これを当の敵の前で言う。実に途方もない依頼で、また絶対不可能ともいえる義務をお京に課したわけだが、ここで百に一つも生き残る望みを持たぬ椎ノ葉刀馬には、もはやほかになすすべもない願いであった。
「あ、は、は、は。きいたか、お京、何とかあの願い、かなえてやれ」
もう、なれなれしく名まで呼んで、げらげら笑いながら虫籠右陣はお京を抱いたまま、往来の方へ駈け去ってゆく。
「かたじけない」
刀馬はくるっと向き直って、また頭を下げた。
「では、立ち合おう。筏織右衛門。おぬしと人まぜせず心しずかに立ち合うは、椎ノ葉刀馬の本懐でもある。――いざっ」
刀身をあげた。
砧はしかし刀を下げたまま、まだ虫籠右陣のゆくえを見送っていた。依然として凄艶な片頬に、きゅっと苦笑のようなものが浮かんでいた。
「百々銭十郎は、もう小屋へいったであろうかな」
しかし、唇からもれたのはこんな言葉である。
「ついたであろうな、おそらくすでに」
銭十郎の足の早さと距離を測っている表情であった。
「まだぬけがらを殺さぬと見える。その証拠に、わしはここにまだこうして生きておる。……もっとも本体が殺されると任意車も死ぬという実験はまだ試みたことがないが。……」
「銭十郎には、殺すな、捕らえろと言ってある」
「しかし、きゃつ、血に渇しておるぞ。とくに先日、眼と指を斬った筏織右衛門には。それなのに、おそらくはまだぬけがらには手をつけておらぬ。……きゃつ、何をしておるか?」
「銭十郎の行動などどうでもよい。――織右衛門! おまえがまさに筏織右衛門ならば、生きておるうちにわしの一刀を受けて見ろ!」
「ふむ」
笑った眼が、青い炬火《たいまつ》のごとく燃えた。
――時間にして、椎ノ葉刀馬と砧が完全な二人だけになって対決したときから、もう十数分も前のことであったろう。
超人的な甲賀の忍者の疾走力である。百々銭十郎は例の土手の小屋に到着していた。そして彼はまさにそこに「死せるがごとき」筏織右衛門とお宋を見つけ出した。
「……ふうむ」
銭十郎はさすがに息をのんだ。
眼はギヤマンのように虚《うつ》ろにひらき、顔色は蝋《ろう》のごとく、鼻孔に糸ほどの息も通わぬ。そっと触れてみても体温はない。――
「……これで、死んではおらぬと?」
曾て、彼はこのような筏織右衛門の姿を、いちど江戸城大奥で見たことがある。
そのとき彼は、これを完全な死びとだと思って見のがしたために、刀馬から「おまえは長蛇を逸した」と言われたのだが、それをいま忍法任意車を送り出したあとのぬけがらに過ぎないと明確に承知していても、やはりこれがふたたび生き返る可能性を持った肉体だとは信じられないほどであった。
銭十郎は隻眼を返して、床につっ伏しているお宋を見やった。
床にながれたおびただしい血はすでに乾いて、幽《かす》かな月明りに碧《みどり》のひかりを反射しているが、さわってみると、これはわずかに体温があった。
無惨なり、四肢の半ばを断たれた甲賀のくノ一。
「お宋」
呼んで見た。
その声が、この瀕死の女にとってどれほどの魔力を持っていたか、一滴の甘露を浴びたようにお宋は眼をひらき、銭十郎を見た。
「おお」
と、彼女は言った。
「抱いて」
なかば散大した瞳に、歓喜というより欲情の炎を銭十郎は見た。
銭十郎は知らないが、このお宋もまた、虫籠右陣のぬれ桜と化して、その残香をまだ死にゆく肌にとどめているのであった。――ひょっとしたら一刻前の百々銭十郎なら、片手片足のこのくノ一を、委細かまわず抱いて愛撫したかも知れぬ。――しかし、いまや彼は涸《か》れはてている。
「死ぬな」
と、彼は言った。
「いましばし、生きておってくれい」
曾ての同士に対する慰撫の言葉ではない。激励にはちがいないが、それはこの女のためではなく、自分自身のためだ。
いかなるなりゆきでかかる始末になったのか、銭十郎は知らぬ。砧が筏織右衛門の任意車と化し終えられたことだけは確かだが、お宋を斬ったのはその砧か、織右衛門か、虫籠右陣か、だれかわからぬ。そういえば虫籠右陣とやらの姿が見えぬが、彼はどこへいったのか、またあの椎ノ葉刀馬の恋人らしい娘が、どういう次第でこの小屋のことを知ってあのようなことを急報に来たのか、一切わからぬ。
知る必要はない。
「――要するにおれは、ここで筏織右衛門を斬ればよいのだ」
銭十郎はこう確信していた。
織右衛門を捕らえて逃げろ、と刀馬は言った。
銭十郎はそんな気はない。刀馬がそう言ったのは、陰謀の黒幕を糺明《きゆうめい》するためだろうが、そんな必要があるなら、それはいまどこにいるかわからないが、虫籠右陣を以てその役にあてる。
この織右衛門は斬る。
本体を見たとき、銭十郎の決心はいよいよかたくなった。おのれの指や眼を斬られたときの無念さを思い出したのである。
ただ、このままでは斬れない。――
死びとにひとしい、ぬけがらの筏織右衛門は斬れない。四たび、堂々と立ち合い、この新免武蔵直伝とやらの男とおのれの赤朽葉と勝負したい。彼にはこの意識があった。そもそも最初刀馬からこのアイデアをきいたときから、彼が何となく気乗りしなかったのはこの意識のためであった。
これは銭十郎の武士道ではない。忍者に武士道は有害無益である。
似て非なるものだが、これはおのれの忍法赤朽葉の芸術の誇りのためであった。すでに三度立ち合って、彼は一眼三指を失ったが、しかし彼はなお赤朽葉が敗れたとは思っていない。それどころか、一度目も二度目も、任意車ではあったが、ともかくもたしかにお国もお舟も斬ったではないか。
「ともかくも」などというのは、しかしその勝利に、どこかあいまいな感じをみずから払拭《ふつしよく》し得なかったからだが。――
ともあれ、三度目、砧と相対してその場をはずしたのは、そこに赤朽葉の素材がなかったことと、それよりたとえ、砧を斬っても本体が甦《よみがえ》ってはまたもと通りになるだけではないか、と知ったからだ。
こんどこそは、甦った本体と堂々と刃を交える。おのれの赤朽葉の芸術をいかんなく見せてくれる。――
その一念で、彼はここに来た。
その織右衛門がいつ甦るか。一昼夜たてば、任意車の刻限が切れるという。そのときを待つ。――いや、それまでに砧は刀馬を討ち果たして、ここへ馳せ戻ってくるかも知れぬ。それどころか、いま自分と踵《きびす》を接して馳せつけてこないのがふしぎなくらいだ。
――すると、やはりこのぬけがらをどこぞへかくして置いた方がよいかも知れぬな。
ぎらと銭十郎は織右衛門を見やった。
「殺してはならぬ」
と、お宋が言った。彼女はうすい瞳で、じいっと銭十郎を見つめていた。
「その男を殺せば、秘密もすべて消える。――」
それはお宋の中の三分織右衛門の言わせた必死の制止の言葉であったが、銭十郎にはまさかそんなことは想像もよらない。
「ふふん、そうか。――」
と、案外素直に彼は言った。
砧がくれば、あの刀馬などいう夾雑物《きようざつぶつ》をとりはらって、これを討つ。それでよい。――ここには赤朽葉の素材がある。
「……わかっておる。死ぬなよ、お宋」
と、彼はばかにやさしい声でいった。何も「わかっちゃ」いないのである。彼女を死なせたくないのは、ただその必殺の赤朽葉を得たいためだけであった。
なんぞ知らん。――曾て、彼は言った。「きれいにやる、ということが拙者の芸でござってな。拙者、これでも忍法に於ける芸術家のつもりです。その芸がうまくゆかぬときには――むしろ敗れるにしかず、とさえ思っておる。この信条、或いは百々銭十郎のいのちとりになるかも知れぬて。……」
その言葉を今宵実践することになろうとは。
「あの査察役どの、存外もつな」
焦《じ》れたように彼はつぶやいた。
ふと、彼は、異様な気配をおぼえた。筏織右衛門がたしかに彼を見つめていた。――銭十郎は、ぱっととびずさり、おのれの小刀に手をかけた。
が、織右衛門は大の字になったままピクリとも動かない。顔だけがこちらを向いているが、視点は定まらぬ感じで、いま凝視していたように思ったのは錯覚か、と銭十郎がまばたきしたとき、
「……百々」
たしかに声がきこえた。
「なぜ、いままで手をつけなんだ?」
溜息のような声であったが、たしかに織右衛門の――先刻砧の唇からもれていたものと同じ声であった。銭十郎はさけんだ。
「よ、よ、よみがえったか。筏織右衛門。――」
「帰って来た。――砧のくるまから」
ちょっと、その言葉がとっさに銭十郎にはわからなかったが、たちまちはっと或ることに気がついた。
「砧――砧が死んだということか、それは。――あの椎ノ葉が、砧を斬ったということか!」
任意車が死ねば魂は本体に帰るということはすでに充分知っていることでありながら、椎ノ葉刀馬があの砧の織右衛門を斬るということが、即座には銭十郎に思い浮かばなかった。
「そうか。その手もあったな。織右衛門、わざとあの若僧に斬られたな?」
「いかにも、こういう手もある。しかし――あれは強い――見直した。――」
織右衛門の頬に、渋い微笑が漂うのを見ると、銭十郎はひっ裂けるようにさけんだ。
「なんであろうが、筏、よう帰って来た! それをおれは待っていたのだ。おれは任意車とやらの刻限切れる一昼夜までも待つつもりでおった。うぬと余人を混えず一騎討ちしたいと思えばこそ。――立て!」
「ふむ」
と、言ったが織右衛門の顔から微笑は消えない。が、それでもゆっくりと半身を起こした。やる気があるのかどうかはっきりしないような、けだるい動作である。
そのけだるい動作で、そこに転がっていた自分の大刀をつかみ、小刀をつかむ。――ちらっと、銭十郎のひきつけた小刀を見て、
「ははあ、大きい方は砧に取られたの」
と、言った。――旅籠のいきさつを言っているのだ。まさに、まちがいなく彼の魂はあの現場から直行して来たのである。
ただ、帰って来たのは砧に託していた七分のみ。――ここにいるのは、姿は完全な筏織右衛門だが、その実やはり七分織右衛門ではなかったか。そのけだるげな動作は、三分の欠落から胚胎《はいたい》したものではなかったか――
「貸してやろうか」
二本の手につかんだ大刀と小刀をつき出していう。「本体」筏織右衛門の「実体」を、知るや知らずや百々銭十郎は、坐ったままだが、風もないのに、さあっと寒風に吹かれたようにさかやきの髪をそよがせた。
「要らざる世話だ。おれはおれの刀を使う。――よいか!」
「よい。――」
まさに一髪の時間だが、ピーンと身の毛もよだつ殺気が走った。が、たとえ銭十郎が大刀を持っていたにしても、その位置ではわずかにとどかぬ距離であった。それを計測したか、それとも銭十郎の全身から放射される殺気を感受する力がまだ鈍っていたか、筏織右衛門はなお両手首を交叉《こうさ》させて鞘《さや》のまま大小をつき出している。
もっとも、坐ったまま顔の前に大刀と小刀を斜めにつき出しているのだから、一応の防禦態勢にはなっていようが。――
「防げるか、甲賀流赤朽葉!」
百々銭十郎の小刀がきらめいた。
それは奇妙な軌跡をえがいた。刀身は腰から左方へ、床上七、八寸の高さを水平に走り、そこに横たわっていたお宋の両乳首を切断し、そのまま筏織右衛門の顔へ、ななめに薙《な》ぎあげられていったのである。
むろん、剣尖のとどかぬ距離だ。
にもかかわらず、織右衛門の面上で、ぱっと血しぶきが散った。血ぬられた銭十郎の刃から飛んだ赤朽葉が織右衛門の顔めがけてたたきつけられ、そこにつき出されていた一拳《いつけん》と一眼を襲い、血潮とともに三本の指が落ちた。
「まず眼には眼! 指には指!」
坐ったまま三尺余も飛びずさり、同時に電光のごとく燕《つばめ》返しに返った銭十郎の刀身は、噴出しつづけるお宋の乳房の血しぶきにあてられている。再補給のためだ。彼は歯をむき出した。
「伊賀の選手、甲賀流忍法の返礼おぼえたか!」
「わしはうぬの左眼と右手の指を斬った」
同じ両手首を交叉させたままの姿勢で、同じけだるい調子で織右衛門は言った。こんな構えをしているから、彼は銭十郎のただ一閃《いつせん》で一眼三指を斬られたのである。
「惜しいかな、うぬの斬ったのは、わしの右眼と左手の指じゃ!」
「なにを。――」
銭十郎が、スルリと出て来た相手の顔と手のあたりをのぞきこんだとき――あり得べからざる閃光があり得べからざる角度に湧き、はっとした刹那《せつな》、それは奇妙な軌跡をえがいて彼に襲いかかって来た。
交叉した織右衛門は右手の大刀を匕首《あいくち》のごとく逆手に抜き――というよりも鞘の方が下に引かれた感じでその刀身を廻転させて、百々銭十郎の左胴から右肩へかけて、逆袈裟に薙ぎあげた。
「…………!」
いかんなく、完全に斬りあげられたまま、銭十郎の刀身はなおくノ一の乳房の上にさしあてられている。それほど筏織右衛門の一刀が、彼にとって思いがけないものであったのだろう。
ニヤッと彼は笑った。それから、どうと崩折《くずお》れた。
……ほとんど即死にちかい断末魔の一瞬に、なんでまた銭十郎は笑ったのか。
この場合、斬った個所と斬られた個所の右左を指摘されて、ついうかと敵がすべり出して来たのに気がつかなかった自分の途方もない迂闊《うかつ》さを自嘲して笑ったのか。それとも、長刀を逆手に握ったまま、並手と同じ速度で斬りあげた敵の妙技に感嘆して笑ったのか。
ひょっとしたら、それらすべてを超越して、いずれにせよ、おのれの忍法「赤朽葉」の芸術精神に殉じて玉砕した会心の笑みであったかも知れない。――
ともあれ、伊賀と甲賀の死闘は終わった。これが両者いずれも座位のままの決闘であったのも忍者の世界らしい妖異な構図であったといわねばならぬ。
……依然として赤い弦月の下の、暗い大熔鉱炉のような武蔵野のまっただ中、その小屋にいま血潮にまみれて動かなくなった甲賀組の男女二人の忍者のかばねを、筏織右衛門はしばし茫乎として見下ろした。
彼の顔には笑いがない。むしろ慄然たるものがある。
「……七分織右衛門のままであったら敗れたかも知れぬな」
と、思う。――
決闘の直前、いや百々銭十郎の一撃を受けてからも、なお彼の動作が緩慢であったのは、むろん相手を油断させる下ごころはあったにせよ、すべてが計算されたものではなかった。七分織右衛門、というより、三分、脳髄の機能が欠落していたためであった。しかるに。――
銭十郎はお宋の乳首を切断した。その流血により赤朽葉の本格的な製造中、当然、お宋の生命《いのち》は赤い三日月の空へ飛び去ったのである。その刹那に、お宋に託してあった三分の織右衛門は完全に復原した!
その直後の彼の迅雷のごとき神技はこの結果にほかならぬ。――
「……さて」
織右衛門は、はじめて立った。
身支度をととのえる。いちど斬られた右眼を、左手でおさえた。その左手の、小指、薬指、中指はない。
それから彼は小屋を出ていった。彼はどこへいったか。――
やや時を経て。――
息はずませてこの小屋に椎ノ葉刀馬が駈け込んで来て、百々銭十郎とお宋の屍骸《しがい》を見下ろして、茫然《ぼうぜん》として立ちすくんだ。
いったい、だれがこの両人を斬ったのか、いかなる経過でこういうことになったのか、刀馬にも天地|晦冥《かいめい》である。彼がここに駈けつけて来たのも、何らかの明確な想定あってのことではない。お京の口走った知らせにより、ともかくもこの小屋の様子を見に直行して来たにすぎない。――
刀馬は砧を斬った。
あの旅籠の決闘に於て、みごとに相手を――筏織右衛門の任意車と信じられる砧を斬った。わざと相手が斬られたのではないか、と、一瞬疑ったほどみごとな袈裟斬りであった。
にもかかわらず、ここに百々銭十郎は死んでおり、ここにあるべきはずの筏織右衛門の本体がない。――
彼のからだはどこへ消えたか。筏織右衛門は死んだのか、生きているのか?
ともあれ、甲賀組の三人は道程で果てた。実にけさ、相連れて江戸を立った四人の隠密仲間のうち、三人はここで消滅してしまったのだ。かんじんの高崎へ入るに先立って。
公儀忍び組三派のうち、自分の査察により、大老の認定によって合格した甲賀組が、落第した伊賀と根来にかくも敗れ去り、一掃されたということは何たる皮肉か。
むろん、刀馬はそんな皮肉を感じている余裕はない。絶望も落胆もしてはいられない。彼はまなじりあげた。
「高崎へ行く」
……朋友二人のかばねに片掌《かたて》をあげ、彼はきびすをあげて小屋の外に出た。
「ひとりでも駿河大納言の秘密を探って見せる」
刀馬は、暗い、赤い光のみちた曠野を見わたした。
ひとりでも、とつぶやいて、お京の面輪《おもわ》が眼に浮かんで来た。
いや、いま思い出したのではない。旅籠から駈けつけてくる途中も、彼の心をとらえていたのは、百々銭十郎よりもお京のことであったといっていい。それを髪も逆立つばかりに案じて駈けつけて来たといっていい。
お京は虫籠右陣にさらわれた。どこへさらわれていったか、刀馬は知らぬ。それを見きわめるいとまのないあの場合であった。もしやしたら、お京を横抱きにしたまま、右陣はここに来ているのかも知れない――と考えて馳せつけて来たが、それは根拠のない空頼みに過ぎなかった。
「……虫籠はどこに?」
しかし、曠野に血走った眼をさまよわせても、右陣もお京もこのあたりには見えなかった。
刀馬の頭には、あの真っ赤な唇を持った海坊主みたいな右陣の姿と、その淫猥な忍法が浮かんだ。彼のひたいにはあぶら汗がにじみ出した。
「お京」
刀馬は歯をくいしばってうめいた。
「死ね」
――いかなる恥辱、惨苦があろうとも、生きて駿河大納言さまを探れ、と命令したことを彼は忘れている。
しかし、それこそはまさに彼の至大の使命であり、至重の任務ではあった。
椎ノ葉刀馬は、疾風のごとく鴻ノ巣へとって返した。もはやそこに一夜宿る余裕はない。心いそぐのは、ただ目的地の高崎であった。
お京をさらって、虫籠右陣は、深夜の中仙道を黒い風船みたいに飛んでゆく。
横抱きにした左腕の鉄鎖《てつさ》のような怪力、しかもその一方で、お京の右掌をしっかと右掌でつかんで、これをもてあそびつづけているのだ。
恐怖はいうまでもない。絞めあげられた胴の苦しさはいうまでもない、が、それにまさる、手の感覚の恐ろしさは何であろう。お京はこんな感覚をいままで経験したことがない。――快美感といえばいえる。が、その快美感もこの場合、他の恐怖や苦悶に混合すると吐気を催させて、お京はついに気を失った。
失神して、むしろお京は倖《しあわ》せであったかも知れない。――
駈けているうちに、虫籠右陣の方がお京の胸の触感にたまらなくなって来て、熊ケ谷ちかくのと或る路傍の神社の境内に立ち寄ると、そこの拝殿にどさりとそのからだを投げ出した。さすがに少々くたびれた。
「もうよかろう」
と、言ったのは、追っ手のことだ。
追って来る可能性のある者は、百々銭十郎か椎ノ葉刀馬か見当もつかないが、たとえだれが追って来たとしても、ここに気がつくはずがない。杉木立越しにしばらく往来を見張っていた方が賢明だろうとも思う。
「さて、これをどうするか」
傍に横たわった娘を見て、やおらつぶやいたのは、高崎へつれていってからこの道具をどのように使用するか、という意味で、現在ただいまのことではない。
現在ただいまは犯すつもりでいる。
「これは、あの椎ノ葉刀馬の何にあたるのか? 恋人らしいと見たが、どうして砧や織右衛門のことを知ったのか?」
だぶだぶとふとったからだを倒し、お京とよりそって寝て、頬杖ついた。
「それをきき出すためにも、何に使うにしても、まずおれのものにしておいた方が好都合じゃて」
芋虫みたいな指をのばして、その襟をかきひらいた。杉木立をもれる赤い月が、お京のあらわになった胸におちると、妖しい照明のように青白く変わった。実に、青く匂うかと思われる乳房であった。
「……処女《おとめ》じゃな」
舌なめずりして、指さきで、チョイ、チョイと乳くびにふれる。つまんで見る。
「ともあれ、醒めて犯さねば面白くもないし、あとあとの役に立たぬ。……これ、起きろや」
眠った娘のあまりにも清浄潔白な美しさに、かえってこれからの淫戯の悦楽が、想像するだけでも彼の濃い血をかきたてて、右陣は豚みたいに鼻息をあらくして、本格的な行動に移ろうとした。
掌にぺっと唾を吐き、まず大きく拡げた――その両腕が何者かにつかまれたと思うと、うしろに引かれ、彼はずでんどうと地上にころがり落ちた。
「わっ」
あおむけになった腹の上に、むずと足がのせられた。
「暗剣殺、あまり役に立たぬではないか」
その足から上を見あげ、にがい笑いを浮かべている顔をふり仰いで、虫籠右陣は驚愕と恐怖にとっさに声も出なくなってしまった。
「安心して死んでくれと、頼まれたが、その頼み、きけなんだ」
「筏……い、生きていたのか、織右衛門」
やっと右陣はあえいだ。
「て、敵はどうした?」
「椎ノ葉刀馬は七分織右衛門を斬り、百々銭十郎は十分織右衛門に斬られた」
なんのことだか、たちどころには分らない。
「ま、まず、その足を離せ、み、味方同士を何とする?」
「薄情な味方同士だが」
織右衛門は苦笑した眼を縁の方に投げた。
「しかし、味方同士にはちがいない。……その娘の使いよう、おまえの一存にはゆかぬ」
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隠密祭壇
「……大炊頭の隠密が。――」
そう言ったきり、蒼白になって駿河大納言忠長はしばらく沈黙していた。
深夜の高崎城の奥ふかく――忠長の幽閉されている座所の一室である。前に三人の男女がいた。
二人の男は平伏していた。
虫籠右陣と筏織右衛門であった。女は、お京であった。
周囲に虎落《もがり》が結いまわされているとはいえ、城主安藤右京進のひそかな好意によって出入り自由だが、しかし幽所は幽所である。ここに女一人をつれて入って、余人のだれにも感づかれなかったのは、やはり忍者なればこその行動であったろう。
蒼白になり、沈黙している忠長に、右陣は報告した。江戸城大奥以来、中仙道《なかせんどう》鴻ノ巣にいたるまでの顛末《てんまつ》を。
「……ありようを申せば、われら、しくじった、と申してようござりましょう」
と、右陣はたたみにひたいをこすりつけた。
「……すべて、われらの責任でござりまする」
なんのかんばせあって――といった態《てい》でもあるが、しかしこの男の報告ぶりのべらべらした調子には、どこかぬけぬけとした無責任な印象がないでもない。――
しかし忠長は、この男を責めることすら忘れていた。大老土井大炊頭の隠密が、彼らを追ってこの高崎へむかったという事実だけに衝撃されていた。
「なぜ……なぜ……」
と、鉛色の唇《くちびる》でつぶやいた。
「大炊はこの高崎に眼をつけたのか?」
「うまく、してやられ申した」
と、重々しく織右衛門が言った。
「きゃつらが中仙道を来たのをわれらが邪魔しようとしたことが、かえってわれらのゆくさきを自白したことになり申した。……」
「が、そもそも、大炊頭はなぜ隠密をこちらへむけて放ったのか?」
「われら、断じて大納言さまのおん匂いもたてなんだつもりにはござりまするが」
と、右陣は、この追及には必死に弁解し、声ふるわせて、
「さりながら、大炊頭さまは恐ろしきおん方でござりまする」
「で、そのもう一人の隠密は、もう高崎に入ったのか。入って、どこへいったのか。その方ら、そやつを見のがしておるのか?」
右陣は織右衛門をちらと見た。織右衛門は両手をついたままである。その左手の指三本はなく、右眼は刀痕にとじられていた。
「それについて、申しあげたきことがござりまする、大納言さま」
と、右陣は言い出した。
「織右衛門とも語り合ったことでござりまするが、いずれにせよ、大炊頭さまから眼をつけられたことは事実でござる。されば、その隠密一人を捜索し、誅戮《ちゆうりく》しても事態は変わらず、それどころかいっそう悪化するばかり、それより、かく相成った上は、その隠密を利用してこの窮地を逆転するにしかず。――」
「――とは?」
右陣はあごを横にしゃくった。
「その女を使うのでござりまする」
忠長は、お京を見た。この場合に、美しい娘と思った。
最初から、二人の忍者がこの娘を伴って帰還して来たのを、はて、といぶかしむ気はあったのである。しかし、両人の報告があまりにも重大苛烈なものであったので、それ以外のことは心からけし飛んでしまったのだ。
「何者じゃ、この女は?」
「どうやら、潜入した隠密の恋人らしいので」
「なに?」
右陣は、お京の現れたいきさつを語った。それから、言った。
「その隠密は、土井大炊頭さま最も御信寵の椎ノ葉刀馬という男でござります」
忠長は吐胸《とむね》をつかれた表情で、しばしお京を見まもった。
お京は、端然、凜然と坐っていた。もはやここにいる貴人を駿河大納言忠長卿と知って、それに対する礼儀は失わなかったが、しかしまたこれこそ刀馬が隠密として旅立った眼目だと思う。むろんまだ何が何やら五里霧中の感じだが、しかし、いままでの問答をきいていて、その霧がはれかかって来たようなところもある。
どんな場合にもフンワリとしたやさしい外貌を失わない娘であったが、しかしこの素姓をきけば、その毅然とした魂が忠長の胸にもひびいて来たのであろう。――それに彼自身、いまの問答を思い出して、不安な表情になり、
「大事ないか? かかることをきかせても」
「やむを得ずんば、斬ってもさしつかえはありませぬが」
と、右陣は言った。
「しかし、斬るよりも、利用した方が賢明である。いや、絶対この娘を利用せずんば、この窮地を脱する手段はない、というのがわれら両人の思案の結論でござりまする」
「利用する、とは、これを人質にして、その隠密を脅《おど》すとでも申すのか?」
「ま、大まかに申せばそういうことになりまするが、しかし相手の椎ノ葉刀馬とて相当の根性の持ち主と見受けまする。大炊頭さまほどのお方の信任を受けた男でござりまする。とうていひとすじ縄ではゆきますまいが――拙者の忍法ぬれ桜を使えば、何とか」
この場合に、右陣は例の真っ赤な舌で、ぺろりと厚い下唇をなめまわした。
「要するに、相手の隠密の心魂をとろかし、われらの傀儡《かいらい》と変え、大炊頭さまへの風聞書を、われらにとって危険のない、むしろ吉報とすることは、必ずしも難事ではない、と右陣は思考つかまつりまする」
「……しかし、かようなことをきかせて、そんなことが叶うか?」
「なに、ひとたびこの女に秘術を施せば、われらに対して忠実無比。――われらのこと、口が裂けても白状いたさせませぬ。いわんや大納言さまのおん名など、たとえ天地が裂けましょうと。――」
曾《かつ》て右陣はこれと同じせりふを忠長の前で吐いて、勇躍して江戸へ向かったはずだが、その目的にまんまと失敗しながら、いままたケロリとして、しかも絶対の自信を以てお京を眺め、忠長を見あげている。――
が、すぐにその眉をしかめて、
「しかるに、この筏は、隠密|籠絡《ろうらく》のこの拙者の案に不賛成を唱えるのでござりまする」
と、右陣は言った。
筏織右衛門は依然として手をつかえたままである。この男は最初からほとんど黙ったままだ。
使命|頓挫《とんざ》の弁解など一切せず、ふてぶてしいといえばふてぶてしいが、しかしこれほどの男がこれほどの負傷をして、しかも眼を縫った刀痕はまだ血をこびりつかせ、切断された三本の指にも布も巻かず赤い傷口を見せたままなのは、いかにも彼の働きが凄惨なものであったことをまざまざと物語っているようで、忠長には右陣以上にこれを責める気を起こさせなかった。それに、あまりものを言わないのは、以前からこの男のくせでもある。
「織右衛門」
と、忠長は呼んだ。
「右陣の案には不同意か」
沈痛の語気で、
「余も右陣の申すことには心すすまぬが、しかしおまえの不同意はなぜじゃ」
「いまさら及ばぬからでござる」
と、織右衛門は重い溜息とともにようやく口をきった。
「と、申すと?」
「かかる事態となって、一隠密をどうこういたせばとて、とうてい御大老を動かし得るものではござらぬ」
織右衛門は面をあげていた。――まさにその通りだが、これは実に戦慄《せんりつ》すべき断案であった。右陣はせきこんで言った。
「す、すりゃ、筏、どうすればよいのじゃ?」
「所期の目的に邁進《まいしん》するよりほかはない、と存ずる」
「とは?」
「将軍家のおんいのちをちぢめ参らすということ」
断乎、頑然たる筏織右衛門の面だましいであった。
「なまじ、へっぴり腰で防いでも防ぎ切れる場合ではござらぬ。攻勢こそ最大の防禦なりと申す。なんの小隠密のごとき、或いは御大老とて、元を枯らせば枝葉は枯れる。たとえ将軍家御他界のことにつき、とやかく風評たてる者があろうと、新しい樹が植え変われば、いつしかその蔭により添うてくるもの……これが人の世でござる」
忠長も右陣も気をのまれた態である。
「大納言さま、拙者ども江戸をたちまする前に、南光坊天海僧正さまが御登城なされ、大納言さまいじめの件につき、上様と御大老を難詰なされました由、きき出してござる。お味方はあるのでござりまする」
織右衛門はきっと忠長を見た。
「これしきのことであわてふためき、ちぢみあがっては、そもそも何のためにかかる大望を思い立ったか、われらの男がすたり申す。殿! われらは私情私欲を以てではなく、天下の大義のために立ったのでござりまするぞ!」
隻眼に魅入られたように、忠長はただあえぐばかりであった。織右衛門はつぶやいた。
「拙者、ひとりでもやって御覧に入れる」
「筏、ではおぬしはまた江戸へ走って、荊軻《けいか》のごとく将軍を刺そうとでも申すのか?」
と、右陣が言った。
「そんなことができるならば、われら、あれほど苦労はせぬ。――」
「いや、この女を使う」
「おぬしも?」
「伊賀忍法任意車として」
「また? しかし、御公儀は新しい女人に対してはもはや疑心暗鬼。――」
「されば、どう事を運ぶかはまだよく考えてはおらぬ。しかしこの娘が、土井大炊頭さまの近習に身寄りの者であるということが何よりのつけ目じゃ。これを手品のたねにして、こんどはきっと大願成就して見せる。しかも、事は急ぐ。すぐ江戸につれてゆくぞ。――」
「高崎に入った隠密はどうする」
「あれはおぬしにまかせる。椎ノ葉刀馬ごとき、適当にあしらうなり、消すなり、それくらいのことはおぬしにも出来るであろうが」
織右衛門はいまにも立ちあがりそうにした。
「……筏」
忠長が沈んだ声で言った。
「おまえが術を以て将軍家を何とかするという話は以前もきいた。しかし、正直に言うと、その術とはいかなるものか、きくのが恐ろしゅうてそれ以上はきかなんだ。……いままたこの娘をどうとかするという。いかなることをするつもりか?」
「御不安でござりますか?」
と、織右衛門は微笑した。
「ひとたび失敗しておめおめ帰って来た拙者、心もとなく思し召すは無理からぬことでござりまする。御安堵願いまするため、では、これより拙者の忍法任意車なるものを御見《ぎよけん》に入れまする」
「――あ」
と、右陣の方がうろたえたとき織右衛門は坐ったまま、流れるようにお京の傍に寄った。
ゆっくりと両手をあげた。あまりにおちついた動作なので、かえってお京が身動きもできず、そのまま両腕をつかまれた。
「虫籠、帯をとけ」
と、言う。
お京の頬に血がのぼった。が、つかまれた両腕はぴくとも動かなかった。
「無礼なことをしやると、舌をかんで死にまする」
「好きなようにするがよい」
向かい合って、ちかぢかと寄せた琥珀《こはく》色の眼にお京の眼は吸引された。
数秒のことであったが、お京には時間の知覚がなくなった。例の――甲賀のくノ一すらも催眠術にかかったようになった二つの水晶球《すいしようだま》みたいな眼が、金茶色の海のようにひろがり、波打ち、彼女は吸いこまれ、沈みこんでしまった。
「帯をとかぬか、右陣」
すぐ前で言う声が、天上の風音のごとくにきこえた。
お京の腰から、帯がスルスルとひきぬかれた。きものが、肩からずりおちた。それを意識しつつ、お京は身もだえはおろか、「……刀馬さま!」とさけぼうとする声すら出なかった。
「ま、待て」
忠長がさけんだ。
「織右衛門、その娘をいかがいたす?」
「犯しまする」
「お、犯す? 犯して、何とする?」
「いま申した通り、伊賀忍法任意車、すなわち、拙者の魂がこの娘に乗り移るのでござる」
自若《じじやく》として言いながら、そのあいだも筏織右衛門は、すでに半裸の姿となったお京をたたみに横たえている。
お京は驚きと恐怖と怒りのあまり、悲鳴もあげなかった。まるで呪縛《じゆばく》にかかったようにからだが自分の思うままにならず、まるであかん坊みたいに相手の思うままにされるのに、心だけが悶《もだ》えて、眼から涙があふれおちた。
「やめよ、織右衛門」
忠長は顔を紅潮させて叱咤《しつた》した。
「はて?」
と、織右衛門はふしんげにふりかえった。
「拙者の忍法、御覧あそばしとうはござりませぬか?」
「見とうはない。女人をそのような目にあわすのは、忠長、見とうはない!」
「これはしたり」
織右衛門は心外な表情になった。
「では、御覧あそばさずとも、拙者の忍法をお信じ下されまするか」
「信じる、信じないはべつとして――余は、女人をそのような目にあわせてまでおのれの鬱塊《うつかい》を霽《は》らすことは望まぬ」
「意外なことを承る」
これは虫籠右陣の奇声であった。彼は織右衛門よりも愕然とした顔になっていた。
「殿、殿はこの春、拙者どもが江戸に向かうとき、黙ってお見送り下されたではありませぬか!」
忠長は沈痛にうなだれた。ややあって言った。
「それを、わしは悔いておるのじゃ」
顔をあげて、しずかにくびを振った。
「忠長、未熟にしておのれに克《か》ち得ず、その方どもの動きを座視し、織右衛門ごときにはそのような傷までさせたことをわびる。もうよい、余も、その方どもも、爾後《じご》、つつしんでひかえておろう」
「あいや、いまさら大納言さまに左様なことを仰せられましては、拙者どもの立つ瀬がござらぬ」
右陣は狼狽《ろうばい》し、やや血相を変えた。
「それに、御大老の隠密はすでに御身辺にちかづいておると申しますのに!」
「運は天にまかす。いずれにせよ、余は右陣の策にも織右衛門の策にも心すすまぬ。これ以上の犠牲を――罪なきこの女人をまで修羅の祭壇に捧げることは忍びぬのじゃ。いま、余は、余の心をはっきりと知った」
「罪なき女人――殿、その女は、江戸の隠密の色おんなでござりまするぞ!」
「すでに、それが男の修羅の世界のいけにえじゃ」
忠長は多感な眼で、お京を見やった。
「ゆくがよい、娘」
「そ、それは相成らぬ。ゆかれて何もかも告げられては、なんのためにこの娘をここへさらって来たのか、いや、江戸以来の苦労が水の泡、どころか身の大破滅。――」
右陣はしどろもどろに、
「お悔いなされたことを御公儀に報告いたされれば、大納言さまの方はおよろしかろうが」
と、悲鳴ともひらき直ったともつかぬ口のききかたをした。
忠長はきらとひかる眼で右陣を見たが、すぐにその眼光を沈めて、
「罪受くるときは、忠長も受ける」
と、言った。
「右陣」
いままで黙っていた織右衛門が呼んだ。
「仰せのままに従おう」
「な、なんだと?」
「大納言さまが左様にお覚悟あった上は、われらがこれ以上とやかく申しあげることは恐れ多く、また無益《むやく》の沙汰でもある」
「や、やめて、織右衛門、この事態すむことか? われらはこれからどうするのじゃ?」
「しばらくわれらも、なりゆき静観しよう」
筏織右衛門は先刻のものに憑《つ》かれたような激語を、どこかへ投げ捨てたように平然として、
「では、この娘、仰せのごとく放ちやりましょう」
と、言った。
そのすこし前から両腕を離されたお京は、恐ろしい夢からなかば醒めたように、起きあがって、身づくろいしながら、息をつめてこの問答をきいていた。
「待て、織右衛門」
と、忠長は言った。
「そちは……面従腹背、余の申すことに従う気はないな? おのれの方針、どこまでもとげようとしておるな?」
織右衛門があまりに恬淡《てんたん》として態度を変えたので、かえって不審の気を起こしたようである。
「それとも、この娘、斬るか?」
織右衛門は返答をしなかった。分厚い無表情でお京をながめているのを見て、忠長はいままで思ってもいなかった激情にかられた。
「女、余のそばにおるか?」
「――あ」
右陣がまた奇声を発した。みるみるその眼に或る皮肉の色が浮かんで、交互に忠長とお京を見くらべた。忠長がこの娘の美しさに食指を動かしたと見たらしい。たしかに忠長は、江戸の隠密身寄りの者――というより隠密それ自身といっていいこの娘の、その身分と任務にふさわしからざるやさしい姿に心をとらえられたにちがいなかった。しかし、それを好色的なものとは全然意識せず、このときはただ、いまこの娘をこの二人の手にゆだねれば、かならず無事にはすまぬ、という危惧《きぐ》に打たれての言葉であった。
お京はじっと忠長を見あげた。
まだよく事情はわからぬままに、忠長が自分を案じてそう言ったことは、彼女の胸にも感じられた。が、彼女を決意させたのは、自分一身にかかわる不安ではなく、そのよくわからぬ事情をなおしかとつきとめたいという隠密としての――いや、刀馬のための使命感であった。
「お心のままに」
と、お京は小声で答えた。
七月。
八月。
その暑い夏を、お京は高崎城内の駿河大納言の幽閉の一劃《いつかく》で過ごした。
忠長の身辺に忽然《こつねん》とひとりの女人がふえていることに対して、城主の安藤右京進はべつになんの異議も申し立てなかった。お京は知らないが、このことについては忠長から「甲府で旧知の者じゃ」と断っただけですんだのである。
忠長がここでわがままの仕放題をしているなら知らず、ひっそりと身をつつしんでいるのがいたましく、いまや彼の深い同情者となっている右京進は、「……おそらくは御寵愛の女人か」と想像しても、むしろこのことを悦《よろこ》んだくらいであった。
しかし、忠長はお京をそのようには遇しなかった。身辺の世話をさせてみて、お京がほかの安藤家からつけてくれた侍女たちとはきわだって利発なのに、ときどき「ほ――」という眼で眺めることはあったが、むしろそれ以外は、ただしずかな眼で彼女を見ているだけであった。
――ふしぎなお方。
はじめはお京はそう思った。
忠長がそんなしずかな眼で自分を見ているからではない。潔白な処女であり、かつ椎ノ葉刀馬という恋人を持つお京は、そんなことを他の男に期待するどころか、もし好色的な眼をそそがれれば、おびえ、苦しんだであろう。
忠長が自分の素姓を知っていて、身辺に置いて従容《しようよう》としているからであった。
次第に彼女にも、事件の輪郭《りんかく》がおぼろげながら見えて来た。いままで見たこと、きいたこと、そしてまたそれ以後、数度深夜ひそかに推参したあのうすきみわるい二人の男の言動からである。
彼らは忠長のために何やら陰謀を企んだらしい。しかもその陰謀は江戸の将軍家に対するという大それたものであったらしい。そのためにこそ椎ノ葉刀馬が、この高崎へ隠密に来たものらしい。――
彼女は必死にきき耳をたてた。刀馬のためにである。
そのことを、忠長は知っている。知っていて、平然としている。それどころか、例のしずかな眼で彼女を見て、二、三度こんなことを言った。
「そちは恋人の隠密の居場所を知っておるか?」
「……いいえ」
息をのんで、お京はくびを横にふった。
「その男から、連絡はないか?」
「……いいえ」
また、忠長は言った。
「望むならば、そちはいつここから出てもよいぞ。ただし。――」
と、くびをかしげた。
「うかと出れば、そちのいのちはあるまい。余の傍を離れてもそのほうを護ってやる力は、いまの余にはない」
忠長の問いに対するお京の返事を真実のものだと忠長がきいたか、どうか? 少なくともお京は、忠長のこのつぶやきを、真実のものとしてきいた。
お京はあの二人のぶきみな男の眼を、執拗でみれんがましい眼を、彼らがそばにいないときでも、背中にねばりついているように感じていた。
忍者。
彼らがそう名づけられるものであることを、彼女は知った。
実物を見るのははじめてだが、彼ら自身が忠長に対して忍法云々と高言した記憶もさることながら、それより彼女にはもっと生々しい、恐ろしい記憶がある。
鴻ノ巣からあの虫籠右陣にさらわれたとき、掌に味わわされた奇妙な感覚、それがいまだ曾て経験したことのない快感であっただけに、虫籠の海坊主みたいな怪貌と結びつけると、いまでも吐気をおぼえるのだ。
さらに、あの筏織右衛門という男、これは右陣ほどきみわるくなく、一見古武士然たる風格があるが、それにもかかわらず――この男が鴻ノ巣郊外でたしかに死んでいて、しかものちに生きて現れたという事実、また鴻ノ巣の旅籠《はたご》裏で刀馬と刃を交えた女が、たしかにこの男と同じ声でものを言っていたという事実が、まるでこの世のものならぬ妖怪を見るような霧で、この織右衛門をつつんでいるような気がする。――
これらの男を忠長卿が出入りさせているのがそもそも奇怪なほどであったが、しかしこれも事実だ。そして、この結びつきの過去、現在、未来をもっとたしかめるのが自分の任務である。――
この探索の任務、うかつに出れば生命の保証はないという恐怖以外に、お京を忠長の傍にひきとどめたのは、かんじんの刀馬のゆくえがわからないということであった。
刀馬さまは、あれからどうなされたのか。いまどこにいらっしゃるのか。自分がここにいることを御承知なのか?
ただ生きていることだけはたしからしい。――いちど、忠長と右陣がこんな問答をかわす座に、侍《はべ》っていたことがある。
「あれは、どこにおる?」
「それが、わかりませぬ」
と、右陣はくびをひねった。
「しかし、この高崎城のまわりを嗅ぎまわっておることだけはまちがいござりませぬ。この城のあるじが、殿のお味方であることが、きゃつにとって難儀でござろう。――ただし、ひょっとしたら、この娘がここにおることくらいは探り出したやも知れませぬて」
そして、傍にいるお京を、例の執拗でみれんがましい眼で見て、ニヤリと笑った。
「もし、そうなら、なお影も見せぬということは、ちとおまえに冷たい男じゃな」
次に忠長を見た。
「それにしても、拙者、あれ以来、いっしんにきゃつのゆくえを探って、そのほかに仕事はないといってよいくらいでござるが、それでもつかまらぬのは、さすがというか、あっぱれというか。――そこで、この女人さえお貸し願えれば、たちどころにおびき出してごらんに入れまするが」
「逢《あ》いたいか?」
と、忠長はお京をかえりみた。
お京は顔から血の気をひいたまま、くびを横にふった。逢いたいのは、のどからそのさけびがあふれそうであったが、こんなからくりで逢うわけにはゆかなかった。
「ならばよせ」
と、忠長は言って、右陣をつきはなした。
「隠密ごとき、捨ておけ」
それから、ふときいた。
「織右衛門は何をしておる。江戸へいったのではあるまいな?」
「織右衛門はおりまする。江戸へは参りませぬが、そっちの風向きを探っておるようでござりまする」
また一夜、お京はその織右衛門が深夜推参してこんなことを報告したのをきいた。
「殿。……阿部対馬守さまがひそかにこの高崎へおいでなされ、また江戸へお帰りなされたことを御存じでござりますまいな」
「なに、阿部対馬が?」
阿部対馬守重次は、松平伊豆守や阿部豊後守とおなじく、いわゆる六人衆と呼ばれる将軍側近の寵臣である。この人物が高崎へ来たということは容易ならぬことだ。
「右京進からは何もきかぬぞ。何しに阿部が来たのか?」
「そこまでは拙者も存じませぬが、どうやら安藤さまとの御会見の趣は不首尾であったらしく、ふきげんな顔色で御帰府に相成ったようでござる」
「ふうむ」
――のちにわかったことだが、実は、将軍家光の秘書ともいうべき阿部対馬守は、以心伝心、家光の望みを体してこの高崎へ来て、忠長を預かっている安藤右京進に、忠長の抹殺をすすめたのである。右京進の方から、忠長が自殺するようにしむけろ、と暗示したのだ。
このいきさつを、三田村|鳶魚《えんぎよ》の「駿河大納言一件」を以てすれば。――
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安藤は、阿部のいうところをきいて、何ともいいようがないから、しばらく黙っておりましたが、やがて、
「かような仰せをこうむることは、実に不幸の至りといわなければならぬ。しかしいったん御沙汰があった以上はその仰せにそむくわけにはゆかない。何分これは一大事であるから、貴殿の御口上だけでは相成らぬと思う。お墨付を持っておいでになるだろうから、それを拝見したい」
と、いった。
阿部重次はお墨付は持っておりませんから、
「それはけしからん話だ。君のお心から出たことを重次がお伝えして、貴殿のお耳に入れたのであるから、お墨付はなくともお疑いなさるには及ぶまい」
と、折返していったけれども、右京進にしみてると、いかにもむごい、無理な仕方なので、容易には承認できない。
「いや、お疑い申す次第でもなければ、仰せを軽くするわけでもない。駿河さまは大|相国《しようこく》の御寵子であり、当上様の御愛弟のはずである。いま罪をこうむってお預けになっておられるけれども、臣下一般の例に準じてとりはからうわけには参らぬ。せっかくのお言葉ではあるが、御口頭だけでは承知できないから、是非とも上様のお筆を染められたものを拝見した上でなければとりはからえない」
と、いい切ってしまった。
お使いに立った阿部重次も、よんどころなく、ひとまず江戸へ引返して来ました。
立派な士がお使いに立って、役に立たないで引返したのですから、阿部重次の一分というものは、このときに廃《すた》った。このことがのちに重次の身を殺す原因になっているので、三代将軍が亡くなると、阿部重次も殉死してしまった。
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三田村鳶魚はこう書いている。生前の不面目を殉死というかたちで謝した乃木将軍の武士道は、この時代から胚胎《はいたい》していたのである。
しかし、このいきさつで、上からの圧力を以てしても、いかに忠長を護る同情の壁が頑強であったか。明確な立証なくては、いかに忠長を破滅に追いこむことが至難であったかがわかる。
将軍からの密使をはねつけた安藤右京進は、むろんこのいきさつについては忠長に黙っていた。だから、忠長もこのことは何も知らなかった。
「……委細はわかりませぬ。また対馬さまが不本意にてひきあげなされたらしゅうはござりまするが、しかし――」
と、織右衛門は忠長をじっと見つめて、
「鉄環《てつかん》がしまりつつあることだけはたしかなようでござりまするな」
忠長は動揺したようすもなかった。沈鬱《ちんうつ》な織右衛門の片眼に、ややいらだちのさざなみがゆれた。
「座して波の至るを待つか、無為にして虎の来たるを待つか、それとも。……」
忠長は平静である。決して自暴自棄になっているのではなく、波であれ、虎であれ、従容として運命の訪れを待つといった顔色であった。ただ例の恐るべき織右衛門の眼は避けたいらしく、しずかに傍のお京をながめていた。
「その女人。……」
と、それに気づいた風で織右衛門が言った。
「どのように大納言さまを見ているのでござろうか」
「どうみておるな、京」
はじめて忠長は微笑した。お京は答えられなかった。
「大納言さま」
「うむ」
「その女人……小督さまに似ておりませぬか?」
「なんと申す。いや、顔だちはちがっておるぞ」
「いや、顔だちはともあれ、感じが、なんとなく」
そう言われて、はじめて驚いたような灯が、ふっと忠長の眼にともり、彼は改めてしげしげとお京を見つめた。小督さま――とはだれか、お京は知らない。しかし、凝視されて、お京の頬になぜともない薄い血の色がのぼった。
――徐々にお京は、探索すべき対象があきらかになってくるのを感じた。
大納言さまは、江戸の将軍家のおん弟君でおわしながら、そのおにくしみを受けておわす。そのために、窮鼠猫《きゆうそねこ》をはむという譬《たと》えの通り、いちどはこの怪しの忍びの者を放って兄君に報復を企てられた。しかし、いまはそれを悔いて、ひたすらつつしんでいらっしゃる、そのいちどの罪も、その実この二人の忍者が誘い、そそのかし、みずから強引に犯したふしがある。――
お京の結論は、大納言さまに罪なし、ということであった。
刀馬は大納言さまの御真意を探れといった。そのためにこそ、彼女はここにいる。が、ここにいて、ひたすら忠長の言動を見ていれば、少なくともその人間性に於て、彼が死を賜うような人ではない。――
が、一方でお京は、それにしてもなぜ忠長卿が、自分を江戸の隠密のゆかりの者と知ってお側に置いておかれるのであろうか、と疑った。
自分はだまされているのではあるまいか。そんな結論を得るように、ずるいお芝居を見せられているのではなかろうか?
しかし、いくら彼女がせいいっぱいの疑いの眼で見ても、忠長卿はそんな奸悪《かんあく》な人柄ではなかった。それどころか、将軍家の弟君として生まれながら、世にこれほど孤独な、さびしい、気の毒なお人はないのではないかと思われた。
そのうちにお京は、小督という女人が何者であったかを知った。忠長が甲州にあったころ、最も寵愛した側妾《そばめ》であったという。そのお人は自害なされてしまったという。――が、どういうなりゆきでそんな悲劇にたち至ったのか?
これはしばらくわからなかったが、やがて彼女はおぼろげながら、その真相を耳にすることができた。安藤家からつけられた侍女たちの噂話《うわさばなし》からである。なんと小督の方は、江戸の将軍家からお召しを受けて、それを拒否して自害したという。――
いよいよ以て、大納言さまになんの罪があるべき。――たとえ、いちどは忍者を江戸へむけられたとしても、それは当然のことだ!
お京は義憤に燃えた。
この大納言さまに対して、なおも江戸からは、
「鉄環がしまりつつある」
と、織右衛門は言う。
織右衛門の言葉がなくとも、忠長の側にあって、ほかに何の異変もないのに、お京もこのことをひしひしと感じた。
お京は刀馬に逢いたいと思った。逢いたいのはずっと、喘《あえ》ぐばかりであったが、いまや一日も早く、一刻も早く逢って、「大納言さまの御真意」を知らせなければ、とりかえしのつかないことになるという焦慮にかられて来た。
すでに榛名や碓氷の山々は紅葉し、高崎城には秋風というより、肌寒い風が吹きはじめていた。
一日、ついにお京は忠長にむかって、城を出たいと申し出た。
「ゆくか?」
忠長の顔にかすかな動揺の波がわたったようであったが、しかし彼はしずかに言った。
「椎ノ葉とやっと連絡がついたか」
「いいえ」
と、お京はくびをふった。
「左様なことができるはずがござりませぬ」
「その者は、どこにどうしておると思う?」
「もし……いのちあれば、もはや江戸に帰ったのではあるまいか、とも存ぜられまする」
「いのちがあれば?」
忠長は沈思の眼色になった。
「筏、虫籠、両人が手を下さねば、その者生きておるはずじゃ。待て、虫籠にそのことたしかめて見よう」
と言って、忠長はお京を見て微笑した。
「やはり、ゆくか? さびしいの」
「……お世話になりました。ほんとうに何と申してよいか。――」
お京の眼に、なぜとも知らず涙が浮かんだ。
「でも、京は……大納言さまのおんために、決して悪うははからいませぬ。そのことだけは信じて下さいまし!」
「そんなことではない」
忠長はお京を深い眼で見つめた。
「京、それより、わしがなぜそちをここに置いたか存じておるか」
「いいえ。……」
「実は、わし自身も知らなんだ。が、いつぞや筏に、おまえが小督に似ておるといわれてはじめて気がついた。小督とは、甲府におったころ、わしが愛《め》でた女じゃ。……顔は似てはおらぬ。が、そういわれてみれば、どこか似ておる。いや、実に似ておる。強《し》いて申せば、やさしい心ばえが。……」
お京の頬に血潮の色がさした。
「しかし、いつまでもそちをここに置いておくわけにはゆくまい。おまえの務めもある。それより、わしはすでに死に神を閾《しきい》の外に待たせておる男じゃ。小督が死んだのも、わしにとりついた死に神のせいであった。……ゆくがよい」
あやうくお京は、それまで思ってもいなかった言葉――殿さま、いつまでもお京はお側におりまする――というさけびがのどからあふれ出るところであった。
「しかし。――」
と、忠長はつづけた。
「まえにも言ったように、おまえがここを出れば危い。危いというのは、あの筏、虫籠両人のことじゃ。とくに筏織右衛門の方はこわい男。――」
しばし、思案していたが、やがて忠長はうなずいた。
「よし、虫籠を呼んで、保証させよう」
虫籠右陣が忠長の前に呼ばれたのはその夜のことであった。
まず、椎ノ葉刀馬の安否をきかれて彼は、自分はもとより織右衛門も刀馬に手を下したおぼえはないと言い、またそのゆくえについては、
「それがふしぎでござる。拙者の探索を以てしても、いまだに判明いたしませぬ。さりながら、あの椎ノ葉、決して手ぶらで江戸へひきあげるような男ではござりませぬ」
と、断乎として言った。
それから、お京をちらっと見て、――
「きゃつをおびき出すには、ただ一案あるのみ、と右陣は思っておりますが」
「それは?」
「その女人をここから出して、高崎の城下を歩きまわらせることでござる。さすれば、きゃつ、かならず姿をあらわすに相違ござりませぬ」
忠長は言った。
「お京はいよいよここを出るという」
「えっ?」
右陣は眼をまるくした。
「出て、どこへ?」
「椎ノ葉を探して逢うか、江戸へ帰るか。――」
「椎ノ葉に逢い、江戸へ帰って、な、なにを言うつもりでござりまする。この女は――」
「さ、それは余にもわからぬ」
忠長は微笑した。
「出れば、右陣、この京をぶじに捨ておくか?」
「この女を――」
「手をかけぬと余に誓え」
「せ、拙者はともかく、あの筏が。――」
「筏織右衛門は、このごろ姿を見せぬが、何をしておる」
「織右衛門は――大納言さまが必ずふたたび出動を命じられるものと確信し、その日がきっと来ると予言し、歯をくいしばって待機しておりまする。そのときは、その女人を任意車に仕立てんものと、これまた不動の予定を立てておる按配でござりまする」
忠長はかすかに身ぶるいした。
「右陣、この女を、織右衛門から護れ」
思いつめた声であった。
「護ると誓え」
虫籠右陣は黙りこんで、忠長の顔を凝視した。ややあって、嗄れた声で言った。
「殿。……うまく手なずけられましたなあ」
「何を?」
「この女、おそらく大納言さま、将軍家に対し毛頭御異心なし、悪いのはこの右陣ないし織右衛門だけ――と報告するに相違ありませぬ。……いや、なんのためにこの女をお側に置かれるか、と拙者くびをひねっておりましたが、いまやっと納得がいってござる。そこまでの御深謀御遠慮とは、さすがは御賢明のおん名も高き大納言さま。――」
「た、たわけっ」
忠長は満面を紅潮させてさけんだ。
「下司《げす》め、何を申す。ううむ、うぬを頼もうとしたは忠長の迷いであった。もはや、頼まぬ、さがりおれ」
「ああいや、お待ち下されまし」
右陣は狼狽の態であった。
「拙者ともあろう者が、動顛《どうてん》のあまり、はしたなきことを申しあげ、お怒りにふれまして恐れ入ってござりまする――承、承知つかまつってござる。もともと大納言さまのおんためにのみ動いてきた拙者、なんで御意向に叛きましょうや、その御諚《ごじよう》、かしこまってござりまする!」
がばとひれ伏して、たたみに声を這わせて言う。
「おそらく、大納言さまのこのおん策、当たるでござりましょう。御公儀よりの大納言さまのおん疑い。これを以て解けるでござりましょう。――」
「まだ、そのようなことを申しておるか。公儀の余に対する眼のごとき、もはや忠長にとって、右でも左でもよいのだ。えい、うぬごとき下司の顔、見とうもない、さがれ」
「と、殿! 殿にまで捨てられましては、右陣、天地の間にゆきどころがござりませぬ。おゆるしを――せ、拙者の真情、大納言さまへの忠心は、事実を以て証明いたしまする。いかにも右陣、この女人を織右衛門から護り、椎ノ葉なり江戸なりへ、必ずとどけてごらんに入れまする!」
虫籠右陣は赤くなり、蒼《あお》くなりして言った。
「ただし、筏の執念こそ恐るべし。――きゃつの望みは、大納言さまのお心などは二の次として、おのれの女房を将軍家にお手討ち受けた恨みを霽らさんとするものでござれば。――」
はじめてきく筏織右衛門の過去に、お京ははっとして右陣を見まもった。
右陣の顔はこのとき蒼白一色に変わっていた。一見陽性な彼らしくもない凄い眼つきになって――彼が何やら決意したことはあきらかであった。
「殿、……あれは恐ろしい男でござる」
「承知しておる。さればこそ、そちを頼んだのじゃ」
「いえ、そんなことではござりませぬ。大納言さまがお考えあそばしておるより、もっと恐ろしい意味で申すのでござる。――織右衛門の忍法任意車のことは御存じでござりましょうが」
「……知っておる。いつぞや、それをこの京に試みようとしたではないか」
「あれを、織右衛門は小督さまに試みました」
「な、何?」
忠長は雷火に打たれたような表情になった。
「小督が……筏の任意車に……」
つぶやいたが、それが何を意味するか、とっさに頭もよく廻転しない風であった。――右陣は言う。
「つまり、織右衛門は小督のお方さまを犯したてまつり、小督のお方さまに乗り移ったのでござります。……かるがゆえに、小督さまが自害なされたお手も織右衛門の手なら、最後に小督さまのお口からもれたお言葉も織右衛門の言葉。……」
忠長は凝然と眼を見ひらいたままだ。
しだいにその髪の毛もそそけ立って来た。お京はいままで、これほど恐怖にみちた人間の顔というものを見たことはない。
事実、忠長が味わっている恐怖は、およそ人間の経験し得る恐怖の最大のものであったろう。――思いあたるところがあったのだ。
「な、なんのために? きゃつが……なんのために……」
カチカチと歯を鳴らしながら忠長は言った。
「大納言さまのお恨みを将軍家に向けまいらすために……おのれの私怨を、大義名分化し、かつ、首尾よういったあかつき、その手柄を以て大納言さまにとり入らんがために。……」
「……右陣!」
忠長が傍の刀をとるより早く、右陣は例の風船みたいな動作で、五、六尺もうしろへ飛びのいていた。
「うぬは……うぬもそれ、承知のことであったか!」
「あ、あとで織右衛門よりきいたことでござります」
「そ、それを、なぜいままで余に秘しておったか!」
「それには、いろいろと仔細《しさい》が――あいや!」
躍りかかって来ようとする忠長を手で制したが、右陣の顔色も土気色であった。忠長の一刀を恐れる右陣ではない。さしもの彼も、自分自身の曝露を恐怖したにちがいない。
「恐れながら、それをお抜きあそばせば、拙者、逃げまする。まず、まず、おきき下されい」
と、右陣は息を切らせて言った。
「いま、織右衛門は私怨を大義名分化しようとした――と申しましたが、しかし大義名分はもともとあるのでござる。当上様より大納言さまが将軍家とおなりあそばした方が天下のため、ということは、拙者も口をすっぱくして申しあげてござりまする」
「そのようなたわごとはもはやきかぬ。うぬらが余と小督に対して無惨の所業をなしたわけを言え」
「毛頭、拙者にかぎり、そのようなつもりはござりませなんだ。事後、織右衛門よりきいて、驚愕いたしたのでござります。織右衛門は申しました。大納言さまにお起ち願うため、大納言さまより御下知《おげち》をいただく始動のため、大義、親を滅すと。――拙者、驚愕するとともに、戦慄いたしましたが、事すでに及ばず、もはや乗り出した舟でござりまする。大願成就のあかつきは、ひそかに小督のお方さまのおん菩提《ぼだい》を弔いまいらせんと。――」
はるかかなたで、右陣は抜けあがったひたいもすりむけんばかりに、頭をたたみにこすりつけた。
「だいいち、織右衛門が怖ろしかったのでござりまする。……」
のどぼとけもひきつるような声で言う。
「また、なんでこのような大それた秘密を大納言さまにうかと打ちあけられましょうや」
右陣はようやく顔をあげた。
「さりながら、拙者もまた織右衛門と同腹ならば、なんでいまかようなことを白状いたしましょうか。いま拙者があえてこれを曝露いたしましたるわけは、第一に筏織右衛門が、たとえ大納言さまがどのように御変心、いや御改心あろうと、決して志を変えるような男ではない、ということを御認識いただくため。――」
凍りついたように忠長は宙をにらんでいた。彼もまた筏織右衛門が恐ろしい男であることは、以前から承知していた。しかし、同時に頼もしい、或いは好もしい人物であるとさえ見ていた。お京を外に放つことについて、ふと織右衛門の方に保証させようか、と考えたほどである。しかし、織右衛門が厳然頑然としてそれに同意しそうにないと感じて、彼は少々のんしゃらんとしたところのある虫籠右陣の方をえらんだのであった。
しかし、織右衛門がかくまで恐ろしい男であったとは、忠長の想像を超えていた。
任意車なる忍法がいかなるものかはきいていたが、それを小督に試みようとは。――
しかもいつぞやお京を見て、小督に似ておると、天も怖れずその名を口にしようとは。――
恐怖が怒りに変わり、忠長の全身がふるえ出した。
「第二に、目的のためにはかかる無惨の企みをなす男が、やわかそこの女人を見のがすはずがない、ということを御承知いただかんがため。――」
「斬れ」
と、忠長はしぼり出すようにうめいた。
「筏を首にして余が前に持て」
「それが……なかなか容易ならざることでござる。あれは、なみたいていの腕、手段を以てしても首にできる男ではござりませぬ」
と言ったが、右陣はまたスルスルと少しひざをにじり出して来た。
「さりながら、大納言さまの御下知とあらば……拙者、必死に相勤めまする。織右衛門のこと曝露いたした第三の動機こそ、拙者のこの誠心を大納言さまに披瀝《ひれき》いたさんがため。――」
――ほんとうにそうか? 虫籠右陣。
彼はあきらかに、最初から心を協《あわ》せた――むしろ彼がおだてぬいた同志を裏切っている。彼こそ、おのれの野心のために筏織右衛門を誘い出し、その秘術を利用しようとした張本人ではなかったか。
「拙者、かならずこの女人を公儀隠密に渡し、筏織右衛門を首にして持参つかまつる」
彼は次第にそっくり返って来た。
「できるか?」
「やります」
右陣は胸すらどんとたたいたが、
「ただし。――」
と、ふいに声をひそめた。
「もし、そのこと成らば、拙者に大納言さまのお墨付を頂戴いたしとうござりまする」
「余の墨付? なんの墨付」
「されば、大納言さま、根来伊賀の忍びの者を以て将軍家への刺客となされ候事、その者の名は根来の虫籠右陣、伊賀の筏織右衛門なる者に相違なき事、などの――」
「た、たわけめ。――」
「あいや、左様な大それた文書、以ての外と思し召すは当然でござりまするが、大納言さま、拙者の身にもなってお考え下されませ。――拙者思いまするに、大納言さまにまことおん罪あらせられぬことは、いまの拙者の告白にてこの女人も承知、その旨隠密に告げるでござりましょう。もともと将軍家の御弟君、ましてや御公儀の周辺に大納言さまをおかばいいたす勢力も牢固《ろうこ》としてござれば、結局大納言さまにかかる暗雲は霽れることでござりましょう。――そのあかつき、拙者のみが、勝手に騒ぎを起こした不届き者としてお払い箱、いやそれどころか、罪を一身に負うて首の座にすえられるというおそれは充分ござりまする。昔より、よくあることでござる。それ、狡兎《こうと》死して走狗《そうく》煮らる。――」
「左様なことをいたす忠長か。その方に罪あるときは、余も同罪以上じゃわ」
「大納言さまのお心はお信じ申しあげておりまするが、しかし、万一の際の念のため。――」
果然、虫籠右陣が筏織右衛門を裏切ったのは、大納言から野心まったく消滅し、おのれの野望も万事休したと知って、ギリギリの場合の自分だけの安全保証のためであったのだ。
奸悪無双といえばいえるが、まさに右陣の身になってみれば、当然の防衛対策かも知れない。
「そのようなお墨付、うかと頂戴できるものではないことは右陣、百も承知いたしておりまする。ただ、そのお墨付、頂戴いたしたとて、うかと拙者も白日のもとには出せませぬ。出せば拙者の首が飛ぶばかり。これは大納言さまと拙者だけのあいだのことでござりまする。いわば君臣水魚の証状《あかしじよう》。――」
なにが君臣水魚だかわからない。
右陣はさらに膝行《しつこう》して来た。
「しかも、ただいま頂戴したいと申しあげておるわけではありませぬ。筏織右衛門を首にしたら、と申しあげておるのでござりまする。とにもかくにも朋輩として行を共にして来た男を首にしようとする拙者、せめてその保証なくんば、右陣、とうてい動けませぬ。出来ませぬ」
彼は充分忠長の抜き打ちを受け得る距離にちかづいて、にゅっと海坊主みたいな首をあげていた。
「それもならぬ、と思し召すなら、大納言さま、いざ右陣の首をいま討たれませ!」
陰謀に関係ありという大納言さまのお墨付をくれという。――なりませぬ、そんなものをこの男にお渡しなされては!
と、お京は胸に早鐘が打ったが、しかし彼女はそんなことを指示できる立場にはなかった。
身ぶるいするようなしばしの沈黙があった。
「欲しいのは、筏めの首じゃ!」
と、忠長は完全に理性を失った声でさけんだ。
「よし、織右衛門の首持って参ったら、その墨付、たしかにうぬにつかわそうぞ」
「では」
虫籠右陣は腰を浮かせて、お京をうながした。
「参ろう」
「いま、京もつれてゆくか」
自分から言い出したのに、忠長はおどろいたようにいった。右陣はおちつきはらって、
「されば、必ずこの娘の恋人にひき渡しまする。……同時に、筏の首、きっと御覧に入れる。万事、それにて落着。まず、十日、お待ち下されましょう」
と、答えた。
お辞儀したお京は、右陣につづいて起ちあがった。
「大納言さま。……京を信じて下さいまし」
忠長はしずかに首を二、三度横にふった。自分の一身のごとき、もはやどうでもよい、といったそぶりであった。黙ってお京を見る眼には、多感を抑制した哀愁のひかりがあった。
ふしぎなことにお京の胸にも――いつか江戸で刀馬と別れたときより痛切な哀しみの波がゆれうごいた。
「……妙なことになったな」
珍しく黙りこんで歩いていた虫籠右陣がこうつぶやいたのは、城の外へ出てからである。
「いずれが敵やら味方やら、忍者の明日はたんげいを許さず。……隠密の道もまた同じ」
凍るような晩秋の闇の中で、うすく笑ったようだ。
まったく妙ななりゆきになったものだ。どうやらこの男が自分の味方――少なくとも行を共にする男になったような案配だが、しかし実にきみの悪い男だ。本質的には筏織右衛門よりこわい感じがする。いつかの掌《てのひら》の感触を思い出すと、お京の全身には悪寒《おかん》のようなものがひろがった。感覚的にもきみが悪いが、それより、人間としてもひどく奸悪な男のように思われる。
「……しかし、そなたは隠密の祭壇に捧げられた女人」
まるでお京の胸を見透したように右陣が言った。
「ともあれ、筏織右衛門は誅戮せねばならぬ。大納言さまのお申しつけであるのみならず、おまえにとっても絶対の至上命令のはず。……いまの話でわかったろう。織右衛門が大納言さまに対していかなることをしてのけたか。何にかえてもあれを御成敗に相成りたいと大納言さまがお怒りなされたは当然じゃ。しかも、捨ておかば、大納言さまの御意にそむいても、あくまでも将軍家を狙うぞ。そなた、大納言さまをお救い申しあげたかろうが」
お京の心臓を焦燥の血潮が打ちはじめた。
「椎ノ葉は……どこにいるのでしょうか」
「それがいまだにわからぬと申しておる。しかし、われらがそのゆくえも知らぬ上は、必ずぶじに生きておるはずだ。しかも、この高崎界隈に。――一日も早うあの御仁に逢うて、善後策を講じ、公儀へよしなにとりはかろうてもらわねば相ならぬ」
右陣にしては甚だ虫のいいことを言うが、お京にとってはまさにその通りだ。
「逢うて、われらと協力して、筏織右衛門を打ち果たさねばならぬ」
「あなたは、わたしを椎ノ葉に逢わせてやるとおっしゃいましたが」
「されば、そなたを借り出した上は、それはできよう。先刻申した通り、何日かわしと連れ立って、高崎城下を歩き廻って見い、必ず反応がある。――」
右陣はお京の手をとった。べつにこのときは右陣はぬれ桜を施す気はなかったが、お京は身ぶるいしてその手をふりはらった。
右陣は横目で見て、ニタリとしたが、すぐにその笑いを消して、
「ただし、織右衛門もこっちを見のがしはすまい。ひょっとしたら、こう城から出て来たわれらを、きゃつもう見張っておるかも知れぬ。あれはそなたを道具にしようと、あくまで執拗に待っておるのじゃ。尤も、こっちもきゃつを始末しようとしておるのじゃから、それはこっちのつけ目でもあるが」
と言って、これまたぶるっと身ぶるいした。
「しかし、あれは大難物じゃぞ。なみのわざ、ふつうの手段では討てぬ」
「椎ノ葉に逢うようにして下さいまし」
「椎ノ葉刀馬の手にも余る。――ひょっとしたら、そなたの手を借りねばならぬかも知れぬ」
なまぐさい息が、お京の頬にかかった。
「とにかく、そなたは恋人の、隠密としての使命に捧げられた女だということを、ようく胆に刻んでおいてくりゃれ」
お京は右陣の言うことが何を意味しているかは知らず、ただ吐気のするような恐怖をおぼえ、歯をくいしばって言った。
「とにかく、一刻も早う椎ノ葉に逢わせて下さいまし。わたしは刀馬の申す通りに従いまする」
あくる日から、虫籠右陣とお京は、高崎城下を徘徊《はいかい》しはじめた。
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虚空虚無僧寺
一日。
三日。
五日。
お京は高崎の町を歩いた。いわゆる上州|颪《おろし》の吹き下ろす黄葉、紅葉の中を。
藤笠をかぶってはいたが、その下の美貌は町の人々をふりかえらせた。で、ときにおかしげな男が寄って来て、その顔をのぞきこんだり、手をとったりしようとする。と、その鼻さきに、キーンと何か鳴って、そんなたわけ男たちをびっくり仰天させる。たしかに釘みたいなものが飛んで来たと見えたのに、それは鼻先一寸で反転していって、そこから二、三間も離れた編笠《あみがさ》の男の手中に戻ったようだ。
笠はつけているが、樽みたいなその姿と、いまの妙な釘の警告に、
「……ほ、あんな男がついているのか」
と、みな眼をまるくして、しっぽを巻いて逃げていってしまう。
この遊弋《ゆうよく》のあいだ、お京と右陣は、城下連雀町の行商人宿に泊まっていた。連雀とは連索《れんじやく》の当字《あてじ》であって、背に荷を背負う縄、またはその具のことである。ひいては行商人を意味し、その町を連雀町といい、江戸の神田にもあるが、この高崎の連雀町は、もとこのあたりの国主長野氏の箕輪《みのわ》城下にあったものを、徳川時代に入ってこの高崎に移したものであった。
ふしぎなことに、右陣はお京と別室をとった。もっともお京はそれを当然と思っているが、さすがの右陣も大納言の依頼に責任をおぼえたか、または他に期するところがあったのであろう。
お京がふしぎに思ったのは、筏織右衛門がそこにいないことであった。あの夜から、右陣は織右衛門に秘密にこの宿をとったらしい。爾来《じらい》、二人は城下を歩きまわっているが、織右衛門はその姿を見せない。
「……危なければ、わしの鼻が嗅ぎつける」
と、右陣は言った。お京は知らないが、忍法暗剣殺のことである。
織右衛門の現れないことはまずいいとして、椎ノ葉刀馬もまた容易に姿を見せなかった。
いったい刀馬はこの高崎界隈にいるのだろうか。そもそも、右陣の保証するように、生きているのだろうか?
ついにその反応があったのは、九日目の朝のことである。
高崎の町の東にある大信寺という寺の山門の傍に大|銀杏《いちよう》がある。その日、そこを通りかかったお京は、雨のような黄色い落ち葉にまじって、一枚の紙片が舞って来たのを見て、ふと拾いあげて、全身におののきが走った。
「あさって、午《うま》の刻、榛名風呂寺に待つ」
――刀馬の文字だ。
お京は顔をあげて、あたりを見まわしたが、その姿はどこにも見えなかった。風船みたいに虫籠右陣が飛んで来た。本能的にかくそうとするお京の手から紙片をひったくって、右陣は思わず奇声を発した。
「なあるほど。……虚無僧寺に巣を作っておったか! そういえば、いま山門の向こうにちらと消えた虚無僧の影があったぞ」
二歩三歩、その方へ走りかけて、
「いや、追ってもむだだろう。榛名へゆこう」
――どこへいったか容易にわからなかったも道理、榛名の虚無僧寺、俗にいわゆる風呂寺に刀馬が潜んでいようとは。
高崎から北へ五里半渋川。そこから西へ二里余伊香保。その西に榛名の群峰が大地に円をえがいて聳《そび》えている。
この榛名の一山の中腹に、奈良朝のころ創建されたといわれ、現代も存在している榛名神社があるが、ちょうどその麓にあたる榛名湖畔にも、当時風呂寺と呼ばれた虚無僧寺があった。
正しくは金剛山慈上寺といい、高崎志に「高崎田町は連雀町の北に接し、ここに虚無僧寺あり、慈上寺と名づけ、榛名より至ると伝う。世に風呂寺とも呼ぶは、これ昔は虚無僧の湯風呂をたてて、遠近の客を浴せしめしゆえとぞ」とあるように、この物語の当時は榛名にあり、後年高崎の田町に移ったものである。
普化宗《ふけしゆう》の総本山総州小金井一月寺の一派だが、これを風呂寺と呼ぶのはここに限ったことではない。諸国にある虚無僧寺の末寺は、古来、風呂をたてて訪れる人に施し、薪代《まきだい》を志として受けるという妙な慣習ができていて、どこでも風呂寺と呼ばれたのである。
高崎からここへは八、九里の道のりになるであろう。――もしお京に連絡の紙片を投げ、右陣がちらと見かけた影が刀馬に相違なく、彼がこの虚無僧寺に居をかまえていたとするならば、いかにも右陣が「なるほど!」と長嘆したように、距離といい、場所といい、まさに隠密としての絶好の潜伏地であったといわねばならぬ。
全身の血も沸きたつ思いであった。
お京と右陣はすぐ榛名へ向かって歩き出した。
明後日の正午と指定されたのがいらだたしいほどであったが、その翌夜は、温泉の白煙あがる伊香保の宿に泊まる。
伊香保の湯は天正《てんしよう》年間、土地の豪族木暮氏らがひらいたということになっているが、奈良朝のむかしからここに湯の湧くことが知られ、爾来入湯の客を集めていたらしい。
そこから嶮《けわ》しい路をのぼってゆくと、忽然《こつねん》として山上にひろびろとした草原がひらけ、周縁一里の榛名湖が冷たい水光に富士に似た山影をうつしていた。この高原を真弓ケ原といい、このころはこの榛名湖を伊香保沼ともいった。
富士に似た山は、榛名富士である。その山麓の湖畔に、人が住むとも思われぬ一寺が見えた。
すなわち、標高四千尺の空にある虚無僧寺、金剛山慈上寺。
珍しく風のない、シーンと蒼《あお》い空の静まりかえった日であったが、山路を上りつめて来ても、肺も痛くなるような寒さであった。もう半月もたてば、この湖に氷が張ると伊香保の宿の人が言ったのもさこそとうなずける。
染まったような蒼空に浮いて、動かぬ黄色い樹々、黄色い草原。その向こうにひかる湖。
それはあくまで明るいのに、死の国を思わせる凄惨の気を帯びた景観であった。
お京はしかし、寒気も、この無人の山上にぶきみな男とともに上って来たという恐怖も、いったいまたなんでこんなところに、だれが虚無僧寺を作ったのかという疑問も感じなかった。
「……あそこですね?」
右陣の方は、何を感じているのか、珍しく黙ったままうなずいた。
二人は枯れた草の中の小路を、湖の方へ歩いていった。
すると、路傍にならぶ大きな裸木の下の石に、腰うちかけている一人の男の姿が見えた。
虚無僧である。
鼠色の木綿に紺黒の袈裟《けさ》をかけ、尺八を石の上に置いていた。顔をかくした天蓋《てんがい》をうつむけたまま彼は、凝然と動かない。
一目見ただけで、お京は全身が火みたいに熱くなり、いちど立ちどまってから、
「刀馬さま!」
絶叫して駈け寄った。
が、なお虚無僧は眠っているように天蓋を傾けたままである。人ちがいかと思った。が、その姿かたちがまぎれもないその人であることを確認してから、
「刀馬さま、お京ですっ」
お京はまた泣くようなさけびをあげて駈け寄った。
虚無僧は天蓋をぬいだ。まさに、椎ノ葉刀馬である。
が、お京は、ほんのいま別人かと思ったよりも、もっとひどい同じ感覚に打たれて、ふたたび息をのんでいた。
刀馬だ。しかし、以前のあのふっくらとした頬や静謐《せいひつ》な眼はどこにいったのだろう。頬は蝋《ろう》をけずったように、眼は血ばしって、闇夜《やみよ》の星のような暗い光を放っていた。それが、お京を見すえたが、彼は一語も発せず、石から起ちあがろうともしない。――
「どうなされたのです。刀馬さま、お京です、お京が参りました!」
お京はそのひざにすがりついた。
刀馬の全身がふいに硬直したようであった。が、あきらかに一つの意志力を以て、お京の肩に手をかけると、眼をあげて、しかし向こうに立っている虫籠右陣をながめた。
「…………」
右陣はフワと飛びずさった。何かが暗剣殺のレーダーに触れたらしい。
「み、味方じゃよ。いまは。――」
と、あわててさけんだが、ふいにうなずいた。
「ははあ、わかった。貴公、疑っておるな、その女人を。――それが筏織右衛門の任意車ではないかと」
赤い唇《くちびる》を耳まで裂いて、きゅっと音もなく笑った。
「むりもない、筏やわしの忍法はとっくに御存じの貴公じゃからな、いや、充分、その可能性はあり得るぞ」
椎ノ葉刀馬は、お京をはねのけて、ぱっと立ちあがろうとした。
「ま、待て、可能性はあるが、ちがう、そのお京どのはちがう。お京どののからだは、まさに貴公と別れたときのまんまじゃ」
と、右陣は言った。
「いや、わしが言っても、何も信ぜぬかも知れぬ。わしは、ここで離れて、榛名富士でも見ていよう。すべてはまず、お京どのからきいてくれい」
刀馬はお京のあごに手をかけて、じいっとのぞきこんだ。
……徐々にその眼に、以前の通りの暖かい愛情の灯がともって来た。
「話してくれ」
と、彼は言った。
――お京は話し出した。
なぜ自分が江戸から追って来たかということを。なぜ自分が鴻ノ巣の旅籠《はたご》に現れたかということを。またそれ以来の、知っているかぎりのことを。なかんずく「大納言さまの御真意」を。
これは刀馬にとっても驚くべき報告のはずであった。しかし、きいている刀馬の例の蝋色の顔は無表情であった。蝋というより鉄のようにきびしかった。
わたしにも信じられないほどの内容だから、刀馬さまもお信じになれないのも当然かも知れない――と次第にお京は動揺しながら、とくに大納言さまの御真意に至っては刀馬さまはなお釈然としないのではなかろうか、と胸もしめつけられる思いになって来た。
事実、刀馬は驚いている。それが表情に出ないのは、このとき彼が隠密としての使命の鬼と化しているからであった。
――あれ以来、この榛名の風呂寺に潜み、虚無僧となって、彼もまた高崎城内奥ふかく、妖雲につつまれている大納言忠長の動静を探索しつづけていた。
この大きな公儀の嫌疑者を預かっている城主が彼の庇護者であることも知った。それに焦れたらしく、江戸からいちど不吉な使者阿部対馬守が訪れたことも知った。奇怪にも姿は見せないが、たしかに筏織右衛門らしい男と虫籠右陣らしい男が、ときどきひそかに忠長のもとへ出入りすることも探り出した。
しかし、この間、刀馬の心をもっとも苦しめ、もっともその行動を縛ったのは――江戸へ帰る足をすら封じたのは、お京が大納言の側ちかく侍《はべ》っているという事実であった。
お京は右陣にさらわれた。あの淫猥きわまる忍者の手中におちて、彼女はいかなる目にあったか。すでにそのとき右陣は、「これを精根こめてぬれ桜に仕立てあげれば、われらの大望を果たすにも、また防戦に使うにも、これ以上はない恰好な道具となろう」と宣言している。
それに対して自分は、「そなたの身の上にいかなる恥辱、惨苦があろうとも、生きて大納言さまの御真意を探れ」と命じた。彼女はその命令を果たすために、大納言に侍っているにちがいない。――しかしまた刀馬は、お京がしごく平安に暮らしているらしいことも探り出した。この事実こそ、隠密としての苦心惨澹よりも、彼の頬を蝋みたいに削った魂の鉋《かんな》であった。
果然、お京は城から出た。
あきらかに自分を呼ぶためである。
そうとは知ったが、その背後に虫籠右陣がついているのを知って、当然刀馬はそれが罠《わな》であると認めた。が、罠であることを、お京自身は自覚しているのか、どうか?
これに対して、ついに彼が応答したのは、たんに疑い、怖れていたのでは、おのれの使命が一歩も進まぬことを覚悟したからだ。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
刀馬はお京を、この榛名山上に呼んだ。もとより罠におちる可能性のあることは百も承知だ。
そしてまた。
刀馬にはお京のからだがきれいなままであろうとは信じられなかった。万に一つもそんな奇蹟があり得ようとは思われない。
まさに、男として断腸の諦念《ていねん》である。が、話はきく。きいたあとで、お京は斬る。それをあやつる忍者どもも斬る。そしておのれは生き変わり、死に変わっても、あくまで御大老のもとへ報告に帰る。――刀馬はこう決意してお京と再会した。
「――大納言さまはよいお方です。きのどくなお方です。たった一人ぼっちのお方です。大納言さまにおん罪はありません」
――いま、お京は語り終えた。すがりつく必死の眼で、
「刀馬さま、何よりもまず、そのことを信じて下さいまし!」
刀馬は信じた。
お京がもとのままのきれいなからだときれいな心を保っていることを。
信じられない奇蹟であるが、それは真実であった。いま自分を見上げている榛名の湖よりももつときれいな眼が、理性を超越して刀馬にそれを信じさせた。――が、刀馬が信じたのは、ただそのことだけであった。
話の内容よりも、まずお京が無垢《むく》のままであるということはどういうわけか? さらにまたあのひとすじ縄ではゆかない虫籠右陣が、ぬけぬけと傍についているのはなぜか? この疑惑にとらわれて、
――お京、刀馬は信じる。
その言葉を吐くのも忘れて、彼は眼をあげて、向こうの右陣を眺めやった。
虫籠右陣は、腰に手をあてた姿の背中を見せて、蒼い天に浮いた榛名富士をふりあおいでいたが、お京の声のとどかぬ距離なのに、まるでその背中に眼があるようにふりむいた。
「信ぜられますまいな」
ニヤリとした。
「しかし、事実ですぞ、天地神明にちかって」
歩いてきた。
「たとえ事実としても、それで大納言さまに果たして罪なし、と御公儀が認められるや否や、お京どのの考えとちがって拙者は少なからず疑問に思うておるが、貴公の御判断はいかがじゃな」
煙管《きせる》を出し、火をつけて、くわえたまま、
「少なくとも、お京どのの申された通りに報告されれば、大納言さまの御安全は保証できぬと拙者は思う。まことに大納言さまに罪なし、と御公儀に評定される法はただ一つしかない、曾《かつ》て将軍家を狙った忍者をこの地上から抹殺することじゃ。すなわち、筏織右衛門とかく申す虫籠右陣を」
ひとごとみたいに言う。
「さすれば、大納言さまに限って、これ以上の御追及は免れる可能性がある。大納言さまに限って、というのは、大納言さまをいまだにひいきしようとする勢力が幕閣になかなか強大であるからじゃ」
口から吐いた煙のゆくえに眼をあげて、
「証拠なければ如何《いかん》ともしがたし。すべてはあの煙と同じこと。――いかが思われるな、御大老の隠密どの」
と、言った。
実にひとをくった口上だ。
その真意を測りかねたように、黙然と眺めつづける刀馬に、右陣はぺらぺらとしゃべる。
「さて、両人の抹殺じゃが、拙者の方は心配ない。拙者はこのまま、おとなしゅう消える。わがこと終わんぬ――と思ったら、右陣、女に対しても至極サッパリ、あきらめのいい方でな。ふ、ふ」
この場合、ちらと何気ないふうでお京に眼をやったのもうすきみが悪い。
「消えるといっても、死ぬのはこまる。三十六計、逃げることに致す。逃げて、御公儀のわしへの御追及が止むか、というと、それは止むまいが、拙者、逃げることには自信がある。また、大納言さまから、その御保証も頂戴いたすことになっておる――」
「大納言さまの御保証?」
ふっと刀馬はききとがめたが、右陣はそれには答えず、
「拙者については御心配に及ばないが、問題は筏でござる。きゃつ、決してあきらめる男ではない。将軍家に女房をなぶり殺しにされた恨みからも!」
と、断乎として言った。
「拙者の申すこと、どこまで御信用かは御自由として、このことだけは信じていただいてよろしい。で、きゃつは絶対に抹殺しなければならぬ。これは、昨日まで仲間であった拙者が申すことじゃ。きゃつだけはその息の根とめておかねば、大納言さまをお助けしようとしてもお助け出来ぬ破目と相成るぞ。――」
煙管の煙が吹きなびき出した。しずかだった山の上に風が起こりはじめた。
「のみならず、あれを生かしておいては、貴公が江戸へ帰ることも叶うまい。きゃつ、待っておる、見張っておる。どっしりと、頑強に。機会を狙っておる。――」
右陣はぶるっと身ぶるいして、まわりを見まわした。しんかんとした草原に人影はない。ただあちこちと草むらの群塊が立ってそよぎ出しただけである。
「あいつの眼をくらましてここへ抜け出すのに、実に苦労した。が、まず大丈夫でござろう。拙者の暗剣殺には何も触れなんだから」
煙管をしまい、
「あらゆる意味からして――将軍家のおんためにも、大納言さまのおんためにも、貴公のためにも、お京どののためにも、筏織右衛門だけは討ち果たさねばならぬことは、これでとくとおわかりでござろう」
と、言った。
「事態はかくのごとくじゃが、貴公、筏を討つ意志がおありか」
お京が刀馬の手をかたくつかんだ。
「討って下さいまし、あの男を。――大納言さまのおんために!」
「それは……最初から、そのつもりでおる」
と、刀馬は言った。
「えらい!」
右陣が奇声を発した。
「ただし――たとえその意志と勇気があっても、実行がむずかしい」
「わしは……鴻ノ巣で、いちどきゃつを討ち止めた。……」
刀馬はきっとして答えたが、しかもそのあとに甚だ歯ぎれの悪い一語をつけ加えなければならなかったのは是非もない。
「ただし、任意車と化した織右衛門であったが。……」
右陣はゲラゲラ笑い出した。
「なぜ笑う?」
「いかにも貴公が討たれたあの甲賀のくノ一は、筏織右衛門の任意車ではあった。ただし、七分だけの」
「七分?」
「織右衛門はおのれの精液の七分だけあのくノ一にそそぎ、あと三分はもう一人のくノ一にそそいだのじゃ。つまり、貴公の相手になった任意車くノ一は、七分の織右衛門であったのじゃ」
これは刀馬の想像も判断も超えている。
「のみならず、その七分織右衛門すら、わざと貴公に斬られたのではないかと思われるふしがある。いや、絶対そうにちがいない。――」
「なんだと?」
と、刀馬はさけんで、言い直した。
「わざとわしに斬られたと? 何のために?」
「ぬけがらとなった本体の織右衛門にいそぎ帰るために。――いそいで帰って、百々銭十郎を討ち果たすために。――かくて、よみがえった筏織右衛門は、あの銭十郎ほどの稀代の使い手を一撃のもとに斃《たお》して、悠々と立ち去った。――」
茫乎《ぼうこ》と眼を見ひらいた刀馬の前で、右陣はあごをなでて笑った。
「貴公一人では、とうていあの男を料理しがたいことがこれでおわかりか」
彼は一歩あゆみ寄り、顔をつき出し、声をひそめた。
「二人がかりでやろう。わしが手伝う。いや、三人がかりといったほうがよいかも知れぬな」
「三人がかり?」
「いまの話でもおわかりになったように、筏織右衛門最大の泣きどころは、任意車を送り出したあと、ぬけがらとなった本体を襲われるときは、まったく死びとを斬るにひとしいという点にある。で、このときの織右衛門を狙う。これ以外にきゃつを仕止める法は絶対にない」
「…………」
「むろん、織右衛門がぬけがらと化した以上、魂を送り出した任意車は存在しておる。これすなわち織右衛門にほかならぬから、危険千万なことは同様じゃが、これはうかつに殺してはならぬ。殺せば魂はまた織右衛門に舞い戻るという厄介なことになる。ただひたすら逃げるにしかず。そして逃げるだけなら、拙者、例の暗剣殺にかけて請け合う。しかも、わずか一昼夜じゃ、一昼夜逃げれば、任意車は元来の女に戻るであろう。いや、そのあいだにぬけがらの織右衛門の方を討ち果たせば、この場合はおそらくその刹那《せつな》にもとの女にもどる公算がある」
「…………」
「いろいろと手順はなお相談する必要があるが、ともかくもわれらが作戦の基本方針はかくの如し。任意車の方はこの右陣がひきつけて逃げまわる。その間、貴公がぬけがらの方を討つ。どうじゃ?」
「右陣」
刀馬はさけんだ。
「いま、三人がかりと申したな。三人がかりとは?」
「その任意車に、お京どのがなってもらう」
「なに、お京を。――」
「されば。――」
これまで、どこか不謹慎な笑いをニタニタ浮かべていた虫籠右陣は、このころから、厳粛な――むしろ悲しげといっていい顔に変わっていた。
「つまり、織右衛門をして、お京どのを犯さしめる、ということになるが。――」
とたんに右陣は、ポーンと飛び一丈以上も飛びずさっていた。
「斬るつもりか、拙者を。――」
また、うすく笑った。
「不可能だ、それは」
まだ残る厳しい表情にこの笑いが混って、一種名状しがたい凄惨の形相となり、
「のみならず、この企図、すべてぶちこわしになるぞ。――拙者の企図もおじゃんになるが」
果然、右陣がお京をつれて城を出たのはこの企図を抱けばこそであったのだ。
彼が大納言忠長に請け合った二つの事項、お京を椎ノ葉刀馬に託し、かつ筏織右衛門を首にするというこの二つの要件を、再会したお京と刀馬を以て、まんまと果たさせよう……としているのだ。実に恐れ入った、老獪辛辣《ろうかいしんらつ》きわまるかけひき。――
「大義親を滅す!」
右陣の醜怪な唇から、この言葉が吹きつけられた。
「公儀隠密の大義を捨てられるか」
刀の柄《つか》に手をかけたまま、刀馬は蒼白になっていた。
刀馬は右陣のひとり合点の企画をすべて了承したわけではない。彼は大納言さまに罪なしとも、この右陣を許そうとも思ってはいない。しかし、筏織右衛門だけは、まさにあらゆる意味に於て討ち果たさねばならぬ、ということは、この場合、のっぴきならぬ先決の至上命令であった。
すでに右陣は、五間もかなたへ風船のごとく逃げ去って、草の中から小手をかざしてこちらを眺めている。追えば、雲を霞《かすみ》とすっ飛んで、逃げ水のごとく捉らえがたいであろう。――いま裏切った筏織右衛門に通報するということも考えられる。
「刀馬さま!」
お京が呼んだ。
ふりむいた椎ノ葉刀馬の顔は死相に近かった。のどがピクピクと動いたきり、声にならなかった。
山の天候は変わり易い。――
いつしか榛名の山上に銀鼠《ぎんねず》色の雲が出て、それを背に、刀馬のびんの毛もそそけ立っている。
お京は或る決意をのべようとして呼んだのだが、すでに刀馬が同じ決意を抱いて自分を見ていることを知ると、恐怖のために心臓も鷲《わし》づかみになったような気がした。
「お役に立てて下さいまし。――お京を。――お京がお役に立つならば」
やっと彼女は言った。唇もおののき、声もおののいた。
「いつかあなたはわたしに、どんな恥辱、惨苦があろうと、生きて大納言さまを探れとおっしゃいました。あなたの隠密御用のためには……お京は江戸を出たときから命さえ捨てているのです」
お京は歯をくいしばってつぶやいた。
「――どんなことになろうと、お京はお京です」
彼女はすでに筏織右衛門の任意車とはいかなるものであるかを知っている。これは決して魂まで犯されることはないという誓いの言葉であった。――しかし、果たしてそれは可能であるか? 酷烈な苦悶を、刀馬は任務の意志でねじ伏せた。
「お京、刀馬はあとで、いのちのあらんかぎりそなたにわびる」
と、彼は嗄《か》れた声で言った。
「この御用を果たしたあかつきは」
それはお京がいかなることになろうと愛は失わぬという意味をこめた言葉であった。
しかし刀馬は身ぶるいした。それはおのれ自身の非人間性に戦慄《せんりつ》したのであった。なんぞ知らん、曾て祝言前夜まで迎えた恋する女人に、いま甘んじて死よりも無惨な隠密の祭壇のいけにえになれと、この非情の命令を口にしようとは。
遠くで、虫籠右陣が声をかけた。
「承知か」
刀馬はうなずいた。
「では、――」
右陣は厚い下唇をなめた。
「お京どのをこちらによこしなされ。――」
「――何をする?」
「ぬれ桜に仕立てよう」
「――ば、ばかめ!」
「いや、決してばかげたことではない。現実の問題として要求するのじゃ。――実は拙者はこのまま高崎へ引き返し、明日、いまの時刻、かならず筏をここへおびき出して来る。今夜はおぬしら、伊香保の湯にでも泊まるがよろしい。で、明日、筏とここで逢う。織右衛門は前からお京どのをおのれの道具にしようと眼をつけておることは拙者の申した通りじゃが、用心ぶかいきゃつのこと、あまりこちらがお膳立てをととのえると、かえってひょんな疑いを抱くおそれがある。そのとき、有無を言わせずお京どのの肉の虜《とりこ》とさせるには、いまのうちに虫籠のぬれ桜に仕立てておくにこしたことはない。――」
熱心に言って、右陣はふと妙な笑い方をした。
「貴公、ぬれ桜となったお京どのを今夜伊香保で抱きとうはないか? 筏織右衛門に犯される前にこの天上の淫楽を味わせるのは、これが右陣の何よりの親切、御両人の悲恋に対する虫籠の何よりのはなむけでなくて何であろう?」
「――た、たわけっ」
「隠密どの、これをもしたわけと申されるなら、なんで織右衛門の忍法に耐えられようぞ。実は貴公とお京どのを験《ため》す意味もある虫籠右陣の忍法じゃ。――いかが?」
「刀馬さま」
と、お京が言った。
「いかなることであろうと、お京は相勤めまする」
お辞儀して、お京は歩き出した。――右陣の方へ。
まるで、枯れ野の上に幻の聖なる祭壇があって、殉教の歓びにみちてそこに急ぐ処女のごとく。
が。――
いちど、お京は立ちどまった。彼女は完全には虫籠右陣の忍法ぬれ桜を知らない。理性的にはむしろ筏織右衛門の忍法任意車とはいかなるものであるか、その方をよく理解しているくらいだ。しかし全然知らないかというと、そうではない。いちど、覚えがある。鴻ノ巣から横抱きにしてさらわれるとき、掌に受けたあの恥ずかしい吐気のするような、異様な快感。――
七、八尺向こうに立っている海坊主みたいな虫籠右陣を眺めて、お京の顔色は蒼白に変わっていた。右陣が、片眼をつむって、ニタッと笑った。
「ござれ、ござれ」
身ぶるいし、歯をくいしばり、しかしお京は決然としてまた歩き出した。すでに筏織右衛門に犯されることすら覚悟している自分だ。いや、死を覚悟している自分だ。虫籠右陣にどのような目にあわされようと、それがなんであろう?
――どんな恥辱、惨苦があろうと。
――刀馬さまの御用のために!
お京は右陣の前に立った。
「よろしいかな?」
と、右陣が言って、刀馬に横目を送った。
これに対して刀馬がいかなる反応を見せたか、お京は知らぬ。ただ彼女は、右陣の両腕がニュッとのびて、じぶんの襟にかかるのをおぼえた。
「よろしいかな?」
熱い、なまぐさい、蒸気みたいな息が顔にかかった。彼女は眼をつむった。
同時に、お京のきものは両肩からぐいと肌ぬぎにされていた。
「…………」
キリキリとお京の奥歯が鳴った。が、なお彼女は眼をとじている。
ちょっと右陣は身を離した。眼をほそめて、じいっとお京を見つめている。この場合に、彼は見とれたのだ。象牙のようなくび、ふっくらと盛りあがった珠《たま》のような乳房、ほのかに赤らんだ乳くび、柔らかな陰翳をぼかしたみぞおちから腹へのふくらみに。――
ひょうと榛名の山に寒風が吹きわたった。
「寒かろう。おお、無惨やな」
と、右陣は言った。
「いま、わしが熱うして進ぜる」
お京は、熱くぬれた粘膜のようなものが、乳房にベタリと吸いつき、ぬらっと這いまわるのを感覚した。名状しがたい甘美な戦慄がそこからひろがった。
われ知らず、悲鳴にちかいかすかなうめきをあげて身をくねらせると、もう一方の乳房にも、同様の感覚が這いまわった。
「おう……おう!」
右陣の方が、盛大な――ふいごみたいな息をついた。
「これほど甘い、これほどなめらかな肌を濡らしたことはないぞや。この右陣の舌の方がぬれ桜になりそうじゃ」
そして彼は、ゲラゲラと大悦の哄笑をあげた。
刀馬は見ている。じいっとこれを見ている。
彼が眼をとじようとしたのは、お京が右陣の方へ歩み寄ってゆく途中であった。しかし、彼はその眼をあけて、凝視した。お京自身がこの無惨に耐えようとしている。それに眼をつむって、何が男か。いかなる惨苦、恥辱をも忍べ、といったのは自分ではないか、見てやるのが――恋人の殉教を見とどけてやるのが、おれの義務だ。おれ自身の殉教でもある。――
刀馬は見た。
海坊主みたいな虫籠右陣の頭が、お京のくびすじから乳房、みぞおち、腹部へかけて這いまわるのを。
その頭が動いて過ぎたあと、それぞれの部分が匂うようなさくら色にぬれひかってくるのを。
そして、お京のその乳房や腹部が大きく息づかいをはじめたのを。
「熱かろう。……上半身、熱くなったであろう」
と、右陣の牡牛みたいな笑い声が聞こえた。
「では、そろそろと下半身に移る。……ちょっと、この草の上に寝て下されや」
声は懇願的だが、その両腕はお京をおさえつけるようにして、草の上に倒してゆく。それに対してお京が抵抗のようすもなく、人形のように倒されていったのは、彼女は完全に観念したのか。それとも。――
――待て!
たまりかね、自制を失い刀馬はそうさけび出そうとした。
そのとき、一陣の風が吹き、それに吹き飛ばされたように虫籠右陣が、フワ――と二間も横へ流れ飛んだ。
風が吹いて、すぐちかくの丈《たけ》高いひとむらの枯れ草がなびき伏した。そこから、しずかに一人の虚無僧が立ちあがって来た。
「……右陣の暗剣殺、あまりあてにならぬなあ」
錆《さ》びた笑いをふくんだ声とともに、虚無僧は天蓋をぬいだ。
右陣はもとより、椎ノ葉刀馬もかっと眼をむき出している。
天蓋の下から現れた顔は、筏織右衛門にまぎれもなかった。苦笑しているような眼が、右陣を見ている、ただ一眼だけ。――もう一方の眼は、糸のようにとじられて。
いつから彼はそこにいたのか。最初から一人この山上の草原に待っていた刀馬すら、全然人間の存在を感づかなかったのに。――
「もっとも、殺気は出さぬ。殺気どころか、わしは呆《あき》れて見ておったのだ。右陣、お京、そもいったい何を思いつき、何をしようとしておるのかと。……いや、相わかった」
例によって重々しい口調だが、ふ、ふ、というふくみ笑いがその語尾に曳いたようだ。
「が、これ以上はこのわしも見るに見かねる」
全身、麻痺《まひ》したように立っている刀馬を、織右衛門は見やった。
「感服したぞ、公儀隠密どの。――」
彼はゆっくり草むらの中から歩み出て来た。
「本来ならば人間としていかがかと思われる忍耐じゃが、隠密は人間ではない。人間であってはならぬのじゃ。ああ、よくそこまで忍ばれた」
ニコッと一眼が笑ったようだ。
「忍の一字! 忍の一字!」
織右衛門の声が風にながれた。
「いつぞや海で、新免武蔵先生のお言葉としてこのことを申したなあ。忍の一字の奥義たることは、忍者の道に於ては剣士以上、公儀隠密ならばさらにそれ以上。――」
すでに筏織右衛門の眼からは笑いが消え、厳粛苛烈の相貌に戻った。
「ということは――いずれここまでそれぞれの道に耐えて来た両人、貴公と拙者、いずれかここで相果てねば、とうてい事の決着はつかぬということでもある」
ゆっくりと、右手が大刀のつかにかかっていった。
「もはや任意車などくり出す要もいとまもないことはおわかりだろう。筏織右衛門、本体を以てお相手する。……いざっ」
その腰間から光のしぶきがほとばしるとともに、椎ノ葉刀馬の鞘《さや》から電光の一閃《いつせん》が噴いていた。
榛名山上に吹きはじめた風はすでにうなりを呼んでいた。天に銀鼠色の乱雲が走り、地に枯れ草は吹き靡《なび》いた。
その中に相対峙《あいたいじ》した二人の虚無僧。
筏織右衛門は右肩に八双の刀身を立て、椎ノ葉刀馬は青眼に構えた。
刀馬の脳裏《のうり》に、大空の雲のように迅《はや》く、そして無数の想念がながれた。
品川の海以来、江戸城大奥、鴻ノ巣などで対決したときの戦慄の記憶。それにもかかわらず織右衛門に対する不可思議の敬意と好もしさ。しかもこの敵断じて斃さねばならぬという大老の隠密としての義務。
その義務のゆえに、いま自分が恋人をいけにえにしてまでこの敵を斃そうとした羞恥《しゆうち》の思い、それがみごと事前に破綻《はたん》した動揺と、そしてそれにまさる歓び。
すべての想念は、しかし、一息のあいだに翔《か》け去った。隠密としての任務すらも吹き払われた。雲の影、風の声、草のそよぎもまた消滅した。
ただ刀馬の眼には、大剣士筏織右衛門の姿だけがあった。いや、垂直に天に立った豪刀と、それから――それを握った敵の手と。
死、また生は別。
柳生の道場で修行した剣の魂を、この巨巌にたたきつけて、最後の火花を発すれば、わがいのち以て瞑《めい》すべし。
そして、すでに透明な炎と化した刀馬の眼は、八双に構えた筏織右衛門の左手の指が、小指、中指、薬指が断たれて、わずか二本であることを見たのである。
その指の欠落が穴のように見えた。
織右衛門にとって、左手の指三本の無いことがどれほどの欠陥となるか。もはやそこに懐疑は持たぬ。ただ狙うべきは、鉄壁と見える敵の構えに於けるあの唯一の穴。
風音の中の寂寞《じやくまく》。
……何を感じたか、ピクッと鶺鴒《せきれい》みたいに織右衛門の刀が上がりかけた。その柄が右の頸部《けいぶ》まであがった刹那。――
「ええいっ!」
死生一如、椎ノ葉刀馬の刀身は空を水平に灼《や》き切らんばかり、織右衛門の「無い指」めがけて横薙《よこな》ぎに斬りつけられていた。
――ばすっ!
山風に血潮の熱湯が散乱した。
一人の人間が、一瞬にこれほど物凄い量の血を奔騰させたことがあるであろうか。
それを刀馬は見ていない。眼をとじて、左から右へ――一閃、横薙ぎにしたまま、その間、肉と骨を断つ恐ろしい手応えを感覚したのに、刀馬はなお無心の境にあって、右へ腕と刀を一線にのばし切った姿勢であった。
……斬った!
はじめてそう絶叫し、彼は眼をひらいた。なお筏織右衛門はそこに立っていた。ただし、首のない虚無僧姿で。首のないのみか、宙にななめにあげた両腕のさきに、刀も二つの手首もない。
と見たとたん。――
その奇怪な姿が、枯れ草の血の上に――そこにすでに転がっているおのれの首と両手首の中へ、どうと崩れ伏した。
……斬った! 「生きている」本体の筏織右衛門を!
刀馬はただ敵の「穴」を斬った。しかるに結果としてその渾身の一刀は、八双に構えた筏織右衛門の両肘から頸《くび》をただ一薙ぎで切断したのである。
眼はその結果をたしかに見つつ、彼はなお幻影でも見ているようにうつろにひらき、心もまたしびれつくしたように茫乎と佇《たたず》んでいた。
「……刀馬さまっ」
はじめて外界からの呼び声が聞こえた。
われにかえり、ふりむき、椎ノ葉刀馬は走り出し、地に刀をつき立て、草の中から身を起こしていた半裸のお京をひしと抱きしめた。
「斬った。……あの男をわしは斬った!」
うわごとのようにさけんだ。
「見たか、お京、あれはまことか?」
これに対して、お京は答えなかった。この場合に、彼女は身をくねらせ、ただむせぶような声をあげた。何かの感覚に沈みこんでいる気配である。――
「勝った。わしは武蔵の弟子に勝った!」
刀馬はお京に頬ずりをした。
虚無僧の衣服も魂もまだ返り血を浴びているのに、刀馬は、抱きしめたお京のからだに、いまだ感じたことのないほどの凄じい甘美さを覚えている。
「江戸へ帰れるぞ。帰ろう。二人で、江戸へ帰ろう。――」
「まだ一人います。虫籠右陣が。――」
やっとお京は言った。彼女は別の感覚から必死に理性を呼び起こそうとしているようであった。
「右陣。……」
刀馬はふたたびわれにかえった。これこそ真の覚醒であった。
つき立てた血刀の柄をつかみ、ふりむいて刀馬は、
「……あっ」
と、さけんだ。
虫籠右陣が逃げてゆく。草原の向こうを、もう約五間もかなたへ、背をまるくしてすっ飛んでゆく。その右腕には、たしかに筏織右衛門の生首をひっかかえて。
――右陣の存在を忘れていた。お京にそう言われるまで。
筏織右衛門ほどの者を斃した直後の虚脱はゆるされよう。しかし、お京を抱いてからのしばしの忘我は不覚の至りだが、それが何に因するのかは知らず。――
「しまった! あれをのがしてはならぬ」
と、刀馬は躍りあがったが、二、三歩走って立ちどまった。
みるみるうちに草原の彼方へ――伊香保の湯へ下る山道の方へ消えていった右陣の足の早さに、その望みを断たれたことを知ったのである。
「あの男は、高崎城へゆきます」
と、お京が言った。
「織右衛門の首とひきかえに、大納言さまのお墨付をいただきに」
「大納言さまのお墨付?」
「はい。大納言さまにおん罪なし、ときまったときに、自分一人に罪をかぶせられることを怖れて、あの男は、いままでの所業はすべて大納言さまのお申しつけでしたことだというお墨付を頂戴いたしたいと申していたのです」
刀馬は、右陣が先刻、大納言さまの御保証云々と言った言葉を思い出した。
ぎらと彼の眼が凄じいひかりをはなちはじめた。
彼は右陣をゆるそうとは思ってはいない。しかし、大敵筏織右衛門はともかく、右陣の方は殺さずに捕らえたいと思っていた。それは大炊頭から、「このたびの大それた曲者、ただ殺してはならぬぞ。その背後を探索せよ。何より大切なのは、その証拠をつかむことじゃ」と特に言いふくめられたのを胆に銘じ、その命を果たすことを苦慮していたからであった。
忍者を使って将軍家を狙ったという駿河大納言のお墨付。
それこそは自分の渇望していたものそのものではないか?
「ゆこう」
彼は馳せ戻って、お京をひき起こした。
「わしたちも高崎へひき返そうぞ」
二人は、手をとり合って、榛名の山を走り、山道を駈け下りはじめた。
伊香保へ――渋川へ――高崎へ。
その間、八、九里。
晩秋の落日はたちまち吹き落とされて、こがらしのすさむ夜となる。
一刻も足を休めることができなかった。あの右陣の足の早さを思って、刀馬は焦った。ついには彼は、お京を背負って走り出した。
この急行ほど奇怪な「道行《みちゆき》」はなかったろう。
刀馬の背に、お京の乳房が触れる。肩に手が触れる。お京は何かにたえようとしているらしいが、しかしたえかねて、あえぐ、身をくねらせる。その熱くもだえる肉のうごめきが、まざまざと刀馬に伝わる。
このときに至って、いまだ結ばれぬ恋人同士を嘲弄《ちようろう》するかのごとき虫籠右陣の忍法ぬれ桜は、妖しく夜のこがらしに万朶《ばんだ》と咲きゆらいだ。
が、――その快楽にひたっているいとまは二人にないのだ。
それぞれの理性は死物狂いに「大納言さまのお墨付」へ翔《か》けている。しかも、それをめぐる二人の思いは正反対なのであった。
そのことを、二人はまもなく知らなければならなかった。――少なくともお京は、はじめて二人の心の裂け目を知って心臓を鷲《わし》づかみにされた思いになったのだ。
刀馬とお京が高崎城にちかづいたのは、その翌朝の未明のことであった。
――右陣はもう着いたであろうか。
――ついたにはちがいないが、大納言さまに逢ったであろうか。
――逢ってそのお墨付を頂戴したであろうか。大納言さまがそれを御承知なされたであろうか。
――もし頂戴したとしたら、右陣はこの城を去ったであろうか。去ったとしたら、どこへ去ったのであろうか。
二人の思いはここまでは一致していた。
「お京……」
暁闇の空に浮かぶ城の影を仰いで刀馬が言った。
「そなた、もういちど城へ入れるな?……大納言さまのおんもとへ参れるな?」
「――は、はい」
では、また二人はここで別れなければならないのか? 刀馬をふりかえったお京の眼は哀しげであった。
「いって、そのお墨付はもはや右陣が頂戴したかどうかたしかめてくれい」
「はい」
「頂戴して、もし右陣がそこにおれば、そなたいかなる手段を以てしてもそれを奪ってくれい。もし奪うことができなければ、右陣がこの城を出るときをわしに教えてくれい。もし出たら、どこへいったか、探ることができたら探ってくれい」
「――はい」
そんなものが、あの男の手に入ったら一大事だ、とお京は思った。刀馬も同じ思いにちがいない。――もしまだであったら、自分はどんなことがあっても大納言さまをおとめしなければならぬ。
「もし、頂戴していませなんだら?」
「大納言さまにお書きあそばすようにおすすめしてくれ」
「――えっ?」
お京のびっくりした顔から、刀馬はちょっと眼をそらした。彼女の心は榛名できいてよく知っていたからだ。
が、刀馬はふたたび秋霜の眼をお京に戻していた。
「それこそはこの刀馬の欲しいものだ。それを手に入れるためのわれらの隠密の苦行であった。――お京、わかるな?」
「刀馬さま!」
お京はさけんだ。
「このたびのこと、大納言さまはまったく受け身のお方です。たとえ忍びの者を江戸へむけられたとしても、それもまた追いつめられたお方の受け身のことです。ほんとうは大納言さまに罪はござりませぬ。そうお京が申したこと、おわかりになっていただけませんでしたか?」
「そのお京の見解、大炊頭さまに必ず申しあげよう。しかしそのお墨付も大炊頭さまに御覧いただかねばならぬ」
「そ、そのようなものを、大炊頭さまにさし出されましては。……」
「御判断は御大老のおん胸一つ」
刀馬は言った。
「刀馬の公儀隠密としての任務は、ただ探索し、入手した証拠、資料、風聞などを残りなく御報告することにあって、それ以上にない」
暁闇の中に、お京は刀馬の顔をじいっと見ていた。
その眼に、はじめて自分に対してただ恐怖の光だけが浮かんでいるのを見ると、刀馬は魂に疼痛をおぼえた。胸に榛名の風音がよみがえり、風音の中に筏織右衛門の声がよみがえった。「隠密は人間ではない。人間であってはならぬのじゃ。忍の一字、忍の一字!」
痛む魂をみずから踏みにじるような荒々しさで、彼は一歩踏み出し、お京をかき抱いた。
「お京、ききとどけてくれ」
と、ささやいた。
「公儀隠密としての刀馬、土井家のさむらいとしての刀馬、そして……おまえと祝言しようとし、また江戸へ帰ったあと、ただちに祝言あげるつもりの刀馬の、必死の願いをきいてくれ。……」
抱きしめられて、お京はかすかに身もだえし、むせぶような声をもらした。
忍法ぬれ桜、その意識はなく、ただすべてをかなぐり捨てて、このまま甘美な暁闇に溶けこんでしまいたいという衝動にかられると、刀馬は身ぶるいして、死物狂いにお京をひき離した。
「いってくれるか」
「はい。――」
と、お京はのどのつまったような声をもらした。
なお刀馬はお京の片手をにぎっていた。濡れているようにスベスベして、しかもそれまでからだが燃えているのではないかと思われる熱さから、しだいに陶器のような冷たさに変わって来た感じであった。
お京はもういちど訴えるような眼で刀馬を見た。あきらかに惑いと哀しみの翳《かげ》があった。しかし、
「参りまする」
と、彼女は言って、みずからあとずさった。
お京の手から、刀馬の手が離れた。
「よし!」
みずからをふるい立たせる凄絶な声で刀馬はさけんだ。
「あと一刻。……わしは大信寺大銀杏の蔭で待っておる。そなた、そのお墨付を手に入れることができたならばそれを持ち、もしまた右陣から奪うことができぬか、或いはすでに右陣が持ち去ったことが判明したならば、その旨、告げにもういちど城を出て、大信寺に来てくれい。刀馬は一刻、そこで待っておる」
お京は黙ってお辞儀した。
うなだれたまま、背を見せた。
夜は明けつつあった。にもかかわらず、城へ、一歩、一歩、トボトボと歩いてゆくお京のうしろ姿は、かえって薄明かりに消えてゆくかげろうのようにはかなげなものに見えた。
虫籠右陣は、大納言忠長の寝所ちかい一室に待っていた。まえに、まるい大きな風呂敷包みを一つ置いて。
平然としたものだ。
彼がべつにあわてる様子もなく、例ののんしゃらんとした顔で、忠長卿の目覚めを待っていたのは、まさかあの隠密が――その隠密と逢った恋人の娘も――ふたたびここへ、少なくともけさのうちに近づいて来たり、立ち戻って来たりするはずがない、という確信があったからであろう。
あの両人、あれから手に手をとって江戸へ帰ったろう。ひょっとしたら、昨夜は伊香保の湯でぬれ桜をいっそうぬらしつくしたかも知れぬ。
……惜しい。
ふと、右陣の眼が何かを思い出したかのように粘っこくひかった。
……あの娘に施したぬれ桜は、結局あの娘の恋人を喜悦させたに過ぎなかったか? はて、おれの忍法としては、芸がなさ過ぎて、かえって皮肉なことになった。――
本来なら、あれは筏織右衛門を罠にかけるためのものであったのだ。それは無効のものとなった。しかし、結果的には同じこと、きゃつは首になってここにおる。それにしても、あの若僧、なんのはずみでか、よくもあの男を首にしたもの。――
右陣は、眼前の風呂敷包みに眼をやって、つぶやいた。
「ついに本体失せたか織右衛門。……まさか、任意車はどこにもおるまいなあ。織右衛門があのように生きて剣をふるっていた以上、任意車がよそにおるわけはないが、万が一、また妙な実験を試みて、そのようなものがおったとしても、やがて一昼夜、魂の帰るべき本体はもうこの地上に存在せぬ」
安藤家からつけられた小姓がやって来た。
「大納言さま、お会いなされまする」
「や。……お目覚めか」
やがて、忠長が出て来た。右陣は平伏した。
「殿、……御約束の十日目には一両日遅れましたなれど、まず右陣が申しあげたごとく。――」
右陣はうす笑いして、前に置いた風呂敷包みをしずかに解き出した。
筏織右衛門の首が現れた。
眼はとじているが、高い鼻、張り出した頬骨、あかちゃけた髪。――重厚不敵な筏織右衛門の首にまぎれもない。ただ、どういうわけか、生前はあまり笑顔を見せたことのない男であったのに、どこかにんまりと笑みをふくんでいるように思われる。
「あれほど大納言さまに祟《たた》り、悩ませたてまつったこの男、御諚《ごじよう》のごとく、右陣たしかに首にいたしてござる。いや、えらい辛苦をつかまつりましたが、――」
忠長は首を見ていた。
死微笑を浮かべているのがいっそう恐ろしい首であったが、右陣を見る方がもっと恐ろしかった。わが命じたことに相違はないが、よくも年来の朋輩をこの姿にして平然としておられるものではある。――
「もはや、大納言さまは御安泰でござります」
と、語尾に笑いをひきながら右陣は言った。
「しかれば、何とぞ例のお墨付を。――」
「京はどうした」
「たしかに、あの隠密に逢うて、ひき渡してござりまする」
「隠密に逢うた……と申すか」
「されば、お京どのが殿に御同情申しあげておることは言うまでもなく、あの女人がその隠密に連絡を切に望んだのも、そのことを訴えようとしたのが半ばの目的でござりますれば、隠密はこれをきき入れ、必ずそのように御公儀に報告いたすでござりましょう。……それにつけても、拙者の方は、かくては何よりも殿のお墨付を。……」
「京がぶじに隠密に逢うたという証《あかし》があるか」
「それをお疑いあそばすか、殿!」
低いが、この男には珍しく鋭い声で右陣はさけんだ。
「すでに朋輩たるこの筏すら首にした右陣、どうしてそのような偽りを申しあげましょうぞ!」
忠長は黙った。その頬にうすく血がのぼった。
忠長がそのお墨付を渡すことをためらったのは、自分の危険を怖れたからではない。怖れはすでに放下《ほうげ》している。運は天にまかせている。
彼が抵抗をおぼえているのは、自分がただこの男の意のままに従うということであった。いかに保身のためとはいえ、かくも易々としておのれの朋輩を抹殺して来たこの男の望み通りに。
しかしながら、保身のために友を殺すこの男の心事たるや、戦慄すべきものがある。この行為に偽りのあろうはずがない。そしてまた、織右衛門を討てと命じたのはこの自分ではなかったか?
忠長が顔をあからめたのは、恥の意識からである。
「つかわそう」
と、言った。
「何とかく?」
「されば。――」
右陣はまわりを見まわし、隅にあった経机から硯《すずり》と紙を持って来た。墨をすり、墨と紙を忠長に捧げて、考え考え言った。――
「……われら召し使い候伊賀者筏織右衛門、根来者虫籠右陣なるもの、将軍さまに対したてまつり無道のしわざに及び候儀重々まかりちがい、ただいまに至って身の毛もよだつばかり後悔に候えども、是非に及ばず候。――」
忠長がそこまで書いたとき、唐紙《からかみ》がしずかにあいた。
「お京!」
さけんだのは、忠長よりも右陣の声の方が高かったろう。――
お京はしずかに入って来て、二人をしばらく眺めていた。唇がひくひくとふるえ、何やらみずからの心とたたかっている様子であったが、やがて言った。
「それをお書きになってはなりませぬ、大納言さま」
――お京は、刀馬に命じられたことと反対のことを口にしているのであった。
「それを申しあげるために、京はここへ帰って参りました」
――そちが隠密に逢うたというのは偽りであったか?
と、愕然として問いたかったのは忠長で、
――うぬはどうしてまたこの城に帰って来た?
と、かみつくようにききたかったのは右陣であったろう。
しかし二人は「お京!」と一声あげたきり、かっと眼を見張っているばかりであった。二人はお京の眼のひかり、頬のうすくれない、唇のわななき、それらが醸《かも》し出す一種異様の凄絶とも形容すべき美しさに打たれたのだ。
お京の美しさは二人は知っていた。しかし、このような凄絶な美しさは曾て知らない。……忍法ぬれ桜! そう心中に呟いた虫籠右陣ですら、いや、それだけでない、はてな? と首をかしげたほどである。
まず声に出してものを言ったのは右陣の方であった。
「左様にあの隠密から言われて来たか」
そして突然、狂的なかん高い声を張りあげた。
「ううむ、わかった! 案の定、みなぐるになって、このわし一人を悪者にする気じゃな。昔から大疑獄、政治的陰謀などに於ては、常に小魚ばかりが罪せられ、呑舟《どんしゆう》の魚は逸せられる。検察の方がそう処理するのが常套手段じゃ。……こ、これ、女、大老の隠密めはそう指図《さしず》したのであろうが」
「あのひとはそんなことを申しませぬ」
と、お京は言った。
「お京ひとりで考えたことでございます」
「な、なぜだ?」
忠長がきいたのは、なぜお京が――という意味であったが、むろんお京の方は、なぜそのようなお墨付を渡していけないのかという意味にとった。
「そのようなお墨付、この者にお渡しになっては、おん身の破滅と相なられます」
「な、なぜだ?」
と、こんどは右陣がうめき出した。
「それを頂戴したとて、わしがやみくもに天日の下へ持ち出せるものと思うか。持ち出せば、わが身の破滅となるばかり。ただの破滅どころか、身の毛もよだつ惨刑を受けるは必定。――わしはただ、万一の場合、大納言さまから捨て殺しにされぬ心頼みに、せめてそのお墨付を頂戴しておくだけであるわ」
「椎ノ葉は、必ずあなたからそれを奪います」
お京は眼をすえて言った。
「あのひとは、それを奪わずにはおきませぬ。……それを御公儀にさし出されたときのことを考えますと。……」
忠長と右陣は沈黙した。お京の言葉の意味はわかったが、その言葉を口にする心事を不可解とするもののごとく。
ふいに右陣が笑い出した。
「うふふ、奪われるかよ、この右陣が、あの若僧ごときに。――危いと知れば、逃げ水のごとく逃げ失せ、逃げきる根来の忍法暗剣殺。あははははは!」
そして彼は血相かえて、忠長の方にむき直った。
「殿! おききの通りでござる。この女、何を思いついて、ここに帰って来たかは、ちと解《げ》しかねるふしもござるが、少なくとも拙者がこの女を隠密にひき渡したことはまことでござりましょうが。のみならず……ここに拙者が持ち帰った筏織右衛門の首。――すなわち右陣が殿にお約束申しあげた二条件は、完全に果たしたわけでござりまする。その二条件、果たせば必ず例のお墨付賜ると承りましたな?」
蛇みたいな眼が、忠長の手にしたままの紙にそそがれて、
「いや、大納言さまはすでにそれを半ばしたためられておりまする。それをお下げ渡し下されませ!」
と、脅《おど》すように言ったが、たちまちその顔がくしゃくしゃっとゆがむと、醜怪でもあり、滑稽でもある泣き顔になった。
「殿、右陣が殿のためによかれと粉骨砕身し、その望み挫折したあとは、これまた事態収拾のため大納言さまの御下知通り行動つかまつりました。実に、朋輩筏織右衛門をすら首にしたのでござりまするぞ! いまや、右陣には何もない。ただ失意のからだを追われて、この地の果てに姿を消さんと欲するばかりでござる。せめていのちの保証状たる大納言さまのそのお墨付、これを頂戴いたしたいと望むのが、大納言さまにかくまで召し使われた人間として不当なお願いでござりましょうか!」
なんと、この海坊主はポロポロと涙を流しているのだ。彼は恐怖と必死そのものの表情でかきくどいた。
「御公儀のお尋ね者となる公算大なる拙者にとっての護符はそればかりでござる。このこと、お察し下されませぬか、右陣を哀れとおぼしめさぬか。それをすら、いまさら知らぬと仰せられるならば、恐れながら大納言さま、これを御卑怯といわずして、――」
「右陣どの」
お京が声をかけた。
「わたしではそのつぐないになりませぬか?」
「なに?」
右陣は涙の眼をキョトンとむけた。
「おまえが、大納言さまのお墨付の代償に?」
「すじちがいのことかも知れませぬ。また天と地ほどのちがいのある身替わりかも知れませぬ。けれど、わたしが右陣どのに、生かすも殺すもままの女になってついていたら……御公儀の……いえ、御公儀の化身といえるあの隠密から」
と、お京は椎ノ葉刀馬のことをそう呼んだ。
「右陣どのを護るいささかの楯《たて》にはなりますまいか?」
「おまえが……わしの女に。――」
「いま承っておりますと、右陣どのの御嘆願は、右陣どのにとっては尤ものことです。そこをまげて、代わりにわたしをつれていって下さいまし。お願いでございます、右陣どの!」
右陣は呆れたようにお京を見つめた。
お京はすでに身を捨てている。まことは罪なき憂愁の貴人、駿河大納言さまは、どんなことがあってもお救い申しあげねばならぬ。そう覚悟して来た一念が、その清らかな眼に炎となって燃えている。このおのれを捨てた魂の清浄さと、ぬれ桜の肌が醸し出す美しさ、それこそは、忠長、右陣を先刻から瞠目《どうもく》させていたお京の凄艶さの秘密であったのだ。
右陣は舌なめずりした。
「さあて、喃《のう》。……」
ごっくり、と生唾をのみこんだ。
「それ……交換条件になるかのう。危いぞ。……いや、なるかも知れぬ。……それに、ぬれ桜、未完成でもあるし。……」
ぶつぶつと、くぐもった声でひとりごとを言う。
「これは思わざる提案でござったが……この女人、わが手に入り、全身ぬれ桜となった肌、そのどこを吸い、どこを撫で、どこをどうしてもよいおもちゃとなってくれるなら、右陣、明日、磔《はりつけ》 柱《ばしら》 に上ろうとみれんはないかも知れぬ。こりゃ一考の要がある。……いかが?」
と、おのれの思案の反響をたしかめるかのように忠長の方をかえり見た。
「いかがでござりましょう、大納言さま。ただいまのお墨付の件は撤回、その代わりこの女人を頂戴して参ると申しあげたら。……」
その眼が――いま泣いた海坊主がもう笑った――と言っていいぶきみな笑いを浮かべている。
「右陣」
と、いままで、ひたと沈黙していた忠長が口を切った。
「次を言え」
「は?」
「先刻の、わしの墨付のつづきじゃ」
「……やっ? すりゃ、やはりお墨付の方を下されまするか。だ、大納言さまは、それほどこの女人に――」
「無用のことは申すな。お京はうぬに断じてやらぬ」
と、忠長はきっとして紙と筆をとり直した。
「ただ墨付の文言《もんごん》を言え」
右陣はじいっと、その凜然、というより蒼然たる顔色を見ていたが、やがてうなるようにしゃべり出した。声がふるえていた。
「――向後に於ては、万事将軍さまのお指図次第につかまつるべく候事。……」
忠長はしずかに筆を走らせた。
「駿河大納言忠長、と御署名の上、おん花押《かおう》をお願いつかまつりまする。……が」
右陣はふとい頸《くび》をまげ、泥棒猫《どろぼうねこ》みたいな眼つきでお京をふりかえって、
「よいのか、お京どの?」
と、言った。
「大納言さまは――そなたが危険視するこのお墨付を賜っても、そなたをわしには下さらぬと仰せられる。……それでよいか?」
お京はこんどは何も言わなかった。ただ忠長ばかり凝視して坐っていた。
「忠長は、人間としてこれを選ぶ。そのような墨付、どのようにでも、うぬが欲するままに使え」
お墨付をひたいに投げつけられて、虫籠右陣は鞭《むち》をあてられたような表情をしたが、すぐにそれをおし戴き、折りたたみ、懐中にした。
「やんぬるかな。惜しいかな。――とは申せ、これは拙者にとって絶体絶命の護符、では、ありがたく。――」
「ゆけ、右陣!」
忠長に叱咤《しつた》され、右陣は突風に吹かれた風船みたいに飛びずさり、ちょっと方角がわからなくなったとみえて、二、三度きりきり舞いをしてかき消えた。
――夜は明けたが、晩秋というより初冬の朝だ。
まして、山国といっていい上州高崎の城の奥ふかい幽所。
這いあがる冷気は、うすら明かりの一室を氷獄と変えんばかりだ。二人はその氷に閉じこめられたように身動きもせず、しーんと沈黙していた。
「ああいうことになった」
と、やがて忠長が言った。――お墨付を渡したことであった。
「お京、恋人の隠密に逢うたか?」
「…………」
「隠密はどう申したか?」
「…………」
お京はなお黙りこんで忠長を見ていた。
「いや、きくまい。わしにはどうでもよいことだ。あの墨付がいつ、いかなることになるかは知らず、いずれにせよ忠長のいのち、しょせん長くはないことは覚悟しておる」
「…………」
「そなたが何を考えて、あれを渡すな、自分をいけにえにせよと言ったか、これまた知らず、ただそなたの好意、忠長はありがたく思うぞ。高崎へ来て以来……いや、わしが生まれて以来、はじめて受けた人間のまごころかも知れぬ」
「…………」
「お京、ゆくがよい。恋人の隠密のところへ」
「…………」
「わしのもとにおるのは、死びとと共におるにひとしい。ゆけ、お京」
いつしかお京は、片手をついてうなだれている。
寒さは感じなかった。彼女はしずかな炎が体内に燃えているのを感じていた。
お京もまた虫籠右陣があのお墨付をどう使おうと思っているかは知らない。彼自身は万一の際の心頼みのためだけだと言っている。しかし、あれほど忠長にとって重大な、致命的なお墨付が、あの奸悪《かんあく》な男の手に入って、いつまでも無毒無害の一片の紙として眠っていようとは思われないのだ。それは彼女の本能的な予感であった。
しかし、いま、彼女はそれを恐怖しない。絶望もしない。
――大納言さまは、御自分の御運命をあの妖怪にお渡しなされた。わたしに代えて。
椎ノ葉刀馬のことが頭に浮かんだ。
それにくらべて刀馬さまは、わたしを。――そんな比較はお京の理性にない。
ただお京の脳裡に浮かんだ刀馬の姿は、江戸で春光をあびてふっくらと微笑していた顔ではなく、枯れ葉狂い飛ぶ山上の風の中に血刃をふるう虚無僧の影としてであった。それは山上の虚無僧というより、遠い遠い虚空を飛び去る魔像のように思われた。
「わたしは」
お京は顔をあげ、おのれの魂を見つめるような眼で、かすれた声で言った。
「大納言さまと運命をともにいたしまする」
大空にそそり立った大銀杏の裸にちかい梢《こずえ》から、こがらしのうなりとともに、どこにそれだけ残っていたかとふしぎなほど黄葉が飛ぶ。
その風の中で、笑う声が聞えたような気がした。
「ああ。――まことに忍法は忍の一字」
大銀杏の木蔭に佇んでいた椎ノ葉刀馬は、はっとして空を見あげた。
そこから吹きおちて来た声のように思われたが、むろんふり仰いでも、空を舞ってゆくのは黄色い枯れ葉の渦ばかり。
「ついに手に入ったわが護符、駿河大納言さまのお墨付」
はじめて気がついた。ずっと遠くの往来を、スタスタと歩いてゆく見覚えのあるうしろ影に。
それが虫籠右陣のまんまるい姿であることを知ったとき、刀馬は足もとから脳天へ、冷たい血が逆流したような気がした。彼を打った愕然たる衝撃は、右陣がどうしてここへ来たか、というより、お京はどうしたか、という思いであった。
「うふふ、これでわしは絶対安全じゃ。わしを捕らえる者は、徳川の天下にひびが入ると知れ。――」
彼は歩み去ってゆく。
ひとりごとみたいだが、それにしては大声だ。声は妖しく、嬉々としている。
「待て」
いかなる仔細《しさい》で彼がここに現れたかは知らず、われを忘れて、刀馬は駈け出した。背中に眼があるように、右陣は走り出した。
高崎の市中を廻り、南へ。――江戸の方へ。
それにしても、何たる人をくったやつか。右陣の足つきでは、はじめからその方角へ逃げるものときめこんでいたとしか思われないが、この大信寺は、高崎城から江戸への道すじにあるのではない。ここは、廻り道となる。――右陣はあきらかに刀馬のいどころを探し、いつぞやの経験から推測し、そして刀馬をからかいに廻って来たのだ。
「……うぬ、きゃつ!」
刀馬は逆上した。天蓋をおさえ、宙を飛んで駈けた。
「あ、は、は、は。武蔵野の逃げ水もはだしで逃げる忍法暗剣殺。――」
笑い声を残し、右陣はスーイ、スーイ、と流れ飛んでゆく。
高崎の町を離れるとき、刀馬はいちど立ちどまった。あきらめたのではない、あとに残っているはずのお京の運命が、一瞬その足をとらえたのであった。
「女はあきらめろ」
右陣の声が飛んで来る。
「いや、女の方がおまえさんをあきらめた。――」
刀馬の胸にその言葉がつき刺さり、彼はのどまで血のかたまりがつきあげて来たような気がした。彼は歯をくいしばって、それをふせごうとした。
歯をくいしばっても、たちまち息が――肺そのものまで吐き出しそうに、それを破って来る。
「待て!」
歯をむき出して追撃する刀馬のゆくてに、中仙道を、はやくも遠く右陣のまるい姿が駈けてゆく。――
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雪の卍
中仙道《なかせんどう》を北から吹くからっ風。
その風に追われる枯れ葉のごとく――いや、その枯れ葉をも笠《かさ》や天蓋《てんがい》の前に吸いつけるほどの速さで走るふとっちょの侍と虚無僧に、往来の旅人は胆をつぶした。
高崎から一里十九丁倉ケ野。
倉ケ野から一里半新町。
新町から二里本庄。
椎ノ葉刀馬は天蓋の中で歯がみして駈けつづける。承知はしていたが、なんという虫籠右陣の脚力であろう。いや、足が動いているというより、まるで球体がころがってゆくようだ。
本庄から二里二十五丁深谷。
深谷から二里二十七丁熊ケ谷。
刀馬は昨夜から一睡もしていないのだ。その前夜、前々夜も眠りがたい一夜を過ごしたのだ。歯がみをしても、次第に足は鉛をひきずっているようになる。すると――呆《あき》れたことに、虫籠右陣も速度をおとし、はては立ちどまって、腰に手をあてて待ち受けるしぐささえ見せるのだ。
「ううぬ、人を嘲弄《ちようろう》するか!」
頭もくらくらして跳躍すると、またスーイと逃げ出す。
いったい、きゃつはどういうつもりなのか。
大納言のお墨付、それを自分の守護神と考えているらしいが、大納言に対してこそ何らかの力はあれ、公儀に対してどんな効用を持っているというのか。しかも、わざわざ公儀隠密たるおれをからかって、どうしようというのか?
それより、お京はどうしたのだ。右陣の入手したお墨付をとりあげること、また右陣が城から出て来る前に自分に急報に来ることは失敗したらしいが、さてそのあと、お京は何をしている?
右陣の声が耳に鳴った。
「女はあきらめろ。――いや、女の方がお前さんをあきらめた。――」
あれはどういう意味だ?
わからない。すべてわからない。とにかくその右陣を捕らえないかぎりは。
そして何よりもお墨付を奪わなくては!
熊ケ谷から鴻ノ巣へ四里六丁。
――おお、あの鴻ノ巣だ!
ただ、そう思っただけである。それ以上、何を考える余裕もない。
昼もない。夜もない。
刀馬の眼には太陽も闇《やみ》も消えてしまった。もとより通過した宿場の名もわからぬ。ただ、足だけが前方の球体めがけて動いている。動いていることさえ、次第に感覚から失われて来た。そして、前方の球体すらも。……
「悲壮じゃ喃《のう》」
ふっとそんな声が聞こえた。
気がつくと、海坊主みたいな顔がニヤリとして自分をのぞきこんでいた。
「それに、少々、滑稽でもある」
刀馬は自分が疲労|困憊《こんぱい》のあまり、路傍に倒れているのに気がついた。もとより天蓋など、どこへ飛んだかわからない。
無我夢中で躍りあがり、抜き打ちの一閃《いつせん》をくれた。
泳ぐような態勢の一刀を、虫籠右陣がくらうわけがない。
ぽーんと飛びずさった。
「悲壮といえば、見ようによっては人間なるものの運命すべて然《しか》りじゃが、これに滑稽の分子をふくむのは男ばかりらしいな。ふしぎなことに、女にはそれがない。――思うに、女はおのれの自然によって歩むからであろうな。それからみると男は。――」
細い寒月を背に負ったまんまるいシルエットが、だぶだぶとゆれて笑いながら言う。
「なかんずく忍者と隠密は、悲壮であり滑稽であることを以て本領とする。心の自然を絶対排除しなければならんからじゃ。してみれば、男の象徴的職業でもあるな。――同類として、実に同情にたえん」
一瞬、二瞬、刀馬は立ちすくんでいる。なぜこの男のこんな警句が肺腑《はいふ》につき刺さるのか。
「自然の道を歩む女が、耐えかねてついに貴公を捨てるのはこりゃ当然。――ふびんや、どうやら貴公の恋は、ついに悲恋に終わると見たが、貴公はそれでも。――」
「うぬに説教は求めぬ!」
刀馬は絶叫した。
「ただ、うぬの所持するものを渡せ!」
ふたたび斬りかかろうとする鼻の先に、キーンと何かが鳴った。
はっとした刹那《せつな》、釘のようなものは右陣の手に返って、そのまま彼はまたもはねかえるように逃げ去ってゆく。
「あ、は、は、は、は。御存じ根来の忍法暗剣殺」
と言う奇声と言っていいかん高い笑い声を空中に残しながら。
軽快なる愚弄的逃走と、こけつまろびつの必死の追跡であった。
江戸へ、江戸へ。――
虫籠右陣のめざすゆくさきがそこにあったと知ったのは、板橋の宿《しゆく》に入ってからのことである。それまで彼を追うのがせいいっぱいで、そのゆくえをつきとめる余裕もなかったのだ。
すでに刀馬は半死半生、念力だけで動いている。が、何日目かは知らず、夕ぐれの板橋の宿の景観に、はっとわれに返り、愕然とした。
きゃつ、何たる不敵な奴、大逆の身を江戸へ投じて何をするつもりか?
――おうい、そやつ、謀叛人《むほんにん》だ。捕らえてくれ!
さけぼうとして刀馬は声をのんだ。彼ははじめて、いままで知らなかった戦慄《せんりつ》をおぼえたのである。
その戦慄の意味を彼自身は知らない。右陣が何を考えて江戸に帰ったのかまだ想像を絶している。
ただ、このとき刀馬は、あのお墨付のありようをお京が恐怖していたことを思い出したのだ。それにもかかわらず、彼はそれを欲した。御公儀のためにそれを欲する一念で追って来た。しかるにいま、彼はお京のためにそのお墨付を恐怖したのである。
あれを逃がしては、お京にとってとりかえしのつかぬことになる。――
それは運命的な予感であった。
いちど、
――きゃつ、根来組の組屋敷に逃げ帰るのではないか?
と、思ったのである。根来組の助勢をかりて反撃するつもりか、と考えたが、右陣が根来組を無断|逐電《ちくてん》したいきさつをかえりみると、絶対そんなことはあり得ない。
すぐにそれは妄想と知れた。右陣の駈けてゆく方角からである。
が、夜に入った江戸の町を、虫籠右陣を追ってよろめき走る刀馬は、やがて眼前に見えて来た或るものに、自分が新しい幻覚にとらえられたのではないかと疑った。
土井大炊頭の屋敷の表門。
それだったのだ。夜目にも巨大に、黒ぐろと。――
その屋敷の中には、むろん刀馬の長屋もある。ほとんど吸いつけられるようにその門へ駈け寄って、彼ははっとおのれをとり戻した。
その前までたしかに来た右陣の姿は消えていた。
門はもはや閉じられているのに。――そもそも右陣がここへ逃げこむわけがない。
泥のように疲れはてたからだをヨロリと佇《たたず》ませたまま、刀馬は、すべてが――いままでの必死の急行も、長い隠密の辛苦も、何もかも悪夢の中の出来事ではなかったかと疑った。いや、この門さえも。
が、これは現実だ。
彼はぶるぶるっと身ぶるいした。
例の一件のことはともあれ、この門前で虫籠右陣が消滅したことこそ奇怪であり、かつ恐ろしいことである。――
彼は潜《くぐ》り門の方へ寄って、しゃがれた声で呼んだ。
「椎ノ葉刀馬。帰邸つかまつったと、殿へお伝え下されい。急ぎの御用でござる」
すぐに彼は邸内に入った。
夜の大老の屋敷はしんかんとしている。何の騒擾《そうじよう》の気配もない。数ヵ月前と同じように、ただ夜風が凍るように冷たいばかりで、それだけにいっそう静謐《せいひつ》であった。
ふっと――刀馬は、この一劃《いつかく》にあるさむらい長屋の灯の下に、父母とともに愛くるしい笑顔をかたむけてお京が坐っているような錯覚にまたとらえられた。
ちがう。お京は北の高崎に残して来たのだ。
それを現実だと思い返すと、胸が切られるように痛んだ。
そのあいだにも、彼は小姓に案内されて、建物の中を奥へ奥へと通ってゆく。
小姓が唐紙《からかみ》の前にひざまずいて告げた。
「あけい」
なつかしい主君のゆったりとした声が聞こえた。
唐紙はあけられた。平伏して頭をあげた刀馬は、土井大炊頭が独り坐って、灯の下に何やら書状を読んでいる姿を見た。円座を横に、大炊頭はたたみに端坐していた。
「刀馬、隠密御用の旅より、ただいま帰還いたしました」
と、刀馬は気力をとり戻し、きっとしてまず言った。
このとき彼は、例のお墨付の一件はこの主君にひとまず秘そうと覚悟している。それより何より、大逆の忍者虫籠右陣がこの界隈で消滅したことを告げねばならぬ。――
「殿、御報告に先立って。――」
「やつれた喃、刀馬」
大炊頭は温容を向けた。
「以前の刀馬のようでない。いや、人間の姿ではない。苦労をかけた。おかげで、望みのものが手に入った。駿河大納言さまのお墨付が。――礼を申すぞ」
大炊頭は手にしていた書状を、しずかに灯にかざした。
脳天に鉄槌《てつつい》の一撃を受けた思いである。――
刀馬はかっと眼を見張ってそれを凝視したまま、呼吸もとまってしまった。
「われら召し使い候伊賀者筏織右衛門、根来者虫籠右陣なるもの、将軍さまに対したてまつり無道のしわざに及び候儀重々まかりちがい、ただいまに至って身の毛もよだつばかり後悔に候えども、是非に及ばず候。向後に於ては、万事、将軍さまのお指図《さしず》次第につかまつるべく候。……駿河大納言忠長。……」
大炊頭は淡々と読んで、莞爾《かんじ》と微笑した。
「わしの欲しかったのはこれじゃ」
「殿! そ、そ、それは。――」
刀馬はあえいだ。
「根来の虫籠右陣めが。――」
「右陣はそこにおる」
大炊頭はあごでさした。小姓が立って、障子をあけた。
寒月のかかった庭をのぞきこんで、刀馬はふたたび驚倒したのである。
袴《はかま》のももだちとった四、五人の武士が、槍《やり》をついて厳然と立っている。その足もとに這いつくばっていた大きな水母《くらげ》みたいなものが、やおら身を起こした。うしろ手にくくりあげられた虫籠右陣であった。
総髪にした髪がばさと乱れた下で、このとき右陣がぼやっと笑ったように見えたが、それは庭にさす灯影と寒月の仄暗《ほのぐら》さが醸《かも》し出した幻覚であったにちがいない。――
「あのここな、言おうようなき大逆の痴《し》れ者め」
大炊頭に叱咤《しつた》されて、たちまち右陣は世にも哀れな顔を恐怖に痙攣《けいれん》させ、またべたと冷たい地べたにつっ伏してしまった。
「曳いてゆけ、あとで大炊自身がとり調べる。いや、明日にも南光坊天海僧正、井伊掃部頭などに披露せねばならぬ大事の生き証人。それまで舌などかんで失せくさらぬよう、厳重に見張っておれよ」
「はっ」
「立て!」
腰も立たぬ風でひれ伏している虫籠右陣の背に、槍の柄がうなって、彼ははねあがった。そのままひきずり立てられ、よろめきながら暗い庭の彼方へ消えてゆく。――
茫然《ぼうぜん》として刀馬はそれを見送った。
虫籠右陣はどうしたのか、彼は大納言さまのためか、おのれのためか、進退きわまり、いち[#「いち」に傍点]かばち[#「ばち」に傍点]かで大炊頭その人を狙いに潜入したのか。それともあのお墨付をたねに、何ぞ途方もないとりひきをしにやって来たのか。
いずれにしても彼がしくじり、お墨付をとりあげられ、みごとに捕縛されたことは事実である。
彼は大老の威に打たれて金縛りにでもなったのであろうか、あの眼に見えぬ悪気流にいちはやく感応して、羽ばたき逃げる魔鳥のような「暗剣殺」の忍者が。――
「閉じよ。……退がってよい」
大炊頭に命じられて、小姓は障子をしめ、平伏して去った。
大炊頭は、お墨付をたたみ、おしいただいて傍《かたわら》の経机に置いた。
「これを手に入れるための千辛万苦。……思いやるだに気も遠うなるばかり。ああ、ようやったものよ」
刀馬は大炊頭がだれのことを言っているのか、頭が混乱した。
「思うても見よ、かような黒煙あげんばかりの恐ろしきお墨付、火種がのうて何びとがお筆を下されようぞ」
「あいや!」
と、刀馬はさけんだが、自分が何を言おうとしているのか自分でもわからない。ただ、この世の果てから波濤《はとう》がうねってくるような恐怖に打たれて、夢中でそういうさけびを発したにすぎない。
「ようも書かせたり。……」
大炊頭は刀馬を見た。その眼にはこの老人には珍しくうるみのようなものが見られた。
「刀馬」
「――はっ」
「そちは甚だしく疲労しておる。御用の報告は、明日にでも聞こう。ただその前に、わしが甲賀、伊賀、根来の忍びの者に命じたことどもについてだけ、ざっと聞かせておく」
大炊頭は自若として言う。
「そちの査察の結果、つらつら思案ののち、忍び組の三人に申しつけたことはこうじゃ。……根来の虫籠右陣には、駿河大納言さまをして上様におん恨み抱かせられ、弑逆《しいぎやく》の御陰謀をはからせ給うようにと」
――あーっという声が魂の奥底から出たが、声にはならなかった。
「伊賀の筏織右衛門には、徳川家のため、敢て暗君を害したてまつるようにと」
血も凍りつく思いとはこのことであろう。
「甲賀の百々銭十郎には、上様を狙う曲者を、弓矢八幡、防いで討ち果たせという――これはその方も同座しておったから承知しておるな?」
遠い人間世界の果てからうねって来た波濤が、どんとぶつかったとたん、刀馬は理性も情念もしぶきとなって虚空に飛びちったような気がした。
「三人とも、精根をつくした。その命令を果たすために、おのれの意志と智能と技術の全力をあげた」
「…………」
「百々銭十郎が相果てたことはわしも承知しておる。そちは、その死にざまを見たか。将軍家に対して雑言《ぞうごん》してはばからぬあの狷介《けんかい》破倫の剣鬼ですら、その将軍家の御馬前で壮絶な忠死をとげたものと見てよい。――」
「…………」
「筏織右衛門も、あれほど思慮のある男、心中さまざまの疑念、苦悶を去来させたことであろう。しかし、結局は、忍び組の掟《おきて》に従い、わしの命に服した。あれは、おのれを利用して将軍家を狙わせようと企む虫籠右陣の策に、わざと乗った。女房をすら、みずから承知して将軍家のお手討ちに合わせたは、将軍家を討ち参らせるという破天の大事に踏み切るため――おのれの意志に火をつけるためであったろう。――」
「…………」
「なかんずく、あっぱれであったのは虫籠右陣じゃ。……きゃつ、みごとに空中楼閣を打ち出した。将軍家暗殺、何びとがこのような大逆をやすやすと計ろうか。右陣はそれを計らせた。また仮令《たとえ》この陰謀を企もうと、何びとがそれについての墨付などをやすやすと書こうか。右陣はそれを書かせた。――そこに至るまでのだんどり、辛抱、のっぴきならぬ追いつめぶりは、あの男の脳漿《のうしよう》をしぼりつくした果てでのうて何であろうぞ」
「…………」
「あれは磔《はりつけ》にても足らず、八つ裂きの刑を蒙《こう》むるであろう。おそらく、その大苦患《だいくげん》のため、泣き、わめき、醜態のかぎりをつくすであろう。しかし、心中には忍びの者としての凱歌をあげて死んでゆくであろう。思えばあの虫籠右陣こそ、徳川名代の最大の忍者と評すべし」
「…………」
「右陣が筏織右衛門を駒として使った凶変――お城の馬場に於ける怪事、大奥お廊下に於ける怪事などは、事実として春日の局以下、枢要の人々が知っておる」
大炊頭は机の上に眼をやった。
「ここにお墨付、ならびに生き証人として根来者が捕らえられておる。もはや、だれが疑おうか。たとえ、いかに黒幕をかばおうとする向きがあろうとも――天海僧正、井伊掃部頭などはもとより、剛直無比の盾《たて》、安藤右京進すら、ああ、万事休すと天を仰いで嗟嘆《さたん》するほかはない」
椎ノ葉刀馬はひれ伏していた。意志を以てひれ伏しているというより、魔天から大地へたたきつけられたような姿であった。
――いまにして思いあたることもある。しかし、断じて腑《ふ》におちぬこともある。
脳髄は混沌と波うち、そこから泥のように湧き立つさまざまの疑念のうち、彼はきれぎれにそれを吐いた。
「と、殿。――うかがいまする。虫籠右陣と筏織右衛門は、その目的のために両人腹を合わせて、一心同体に働いたものでござりましょうか?」
「別々であろう。或いは筏は全容を推察していたかも知れぬが、そ知らぬ顔で右陣の傀儡《かいらい》となっていたのであろう」
と、大炊頭は思案して言った。
「公儀忍び組は、横の連絡はせぬ。してはならぬ。ただ上司の命に一途《いちず》に邁進《まいしん》するばかり。――筏はその鉄の掟を護る男じゃ」
これがいつぞやの――刀馬が銭十郎にふと大炊頭から命ぜられた秘事を打ちあけかけて、大炊頭から叱責《しつせき》されたこと――と、つながる、とは想起する余裕はない。
「筏織右衛門は――拙者、討ち果たしました。い、筏は、わざと拙者に斬られたものでござりましょうか?」
「そうではあるまい。いや、そうではない」
大炊頭は微笑した。寵臣を柔らかく舌でなめるような笑顔であった。
「そのような心弱い筏ではない。あれは、そちの隠密としての根性、気魄、執念に圧倒されてそちに敗れたのじゃ。――と、右陣は申したわ。安心いたせ、その点は誇ってよいぞ、刀馬。――」
「殿、もう一つ、うかがいとう存じまする」
刀馬はふるえるひざをにじり出させた。
大納言さまにおん罪なし、ということはお京が必死に説いた。しかし刀馬は、たとえそそのかされてであろうと、あざむかれてであろうと、さらにいやいやながらであろうと、忍びの者を使ってあのような行為のあった以上は、大納言さまにおん罪なしとは言いがたい、と思っていた。
しかし、思えばお京は、本能的に知覚していたのだ。――なんぞ知らん、すべてここまで徹底した虚構であったとは!
「い、いま、空中楼閣と仰せられましたな」
「言った」
「な、なんのために、かほど、え、え、遠大なる罠《わな》を駿河大納言さまに。――」
「徳川家万代のためじゃ」
「徳川家のため。――」
「当上様のおんためではない。駿河大納言さまはまことに御不憫《ごふびん》なお方とわしも深く御同情申しあげておる。さりながら、天下のためには私情は滅せざるべからず。徳川家は、恐れながらもはやおんあるじの御賢愚を以て左右されるべきものではない、そのおん屋台を磐石《ばんじやく》たらしめる骨組みは別にある。――これはわしの恣意《しい》ではないぞ。神君の御遺訓じゃ」
大炊頭の微笑は消え、その姿はまさに磐石のごとく森厳なものに見えた。
「御代お変わりなされるたびに、その御子孫の方々がたがいに御賢愚を争われることになったら、そのなりゆきはいかが相成るか。そのたびごとに徳川家はゆらぎ、その惨害は測るべからざるものがある。……その見本が、いま御当代にある。当上様以上に御声望ある方がおそばにおわしてはならぬのじゃ、それは必ず将来のわざわいとなる。いわんやげんに、そのお方を遠く上州にお移し申しあげても、なおそれに心寄せる面々が少なからざるに於《おい》てをやじゃ。根は深い。いまにして禍根は断っておかねばならぬ」
大炊頭の茫洋《ぼうよう》たる相貌は、動かぬ灯を受けて、肉の厚い能面のような陰翳《いんえい》を作っていた。
「後世、この大炊を奸《かん》と言い、老獪《ろうかい》といい、悪辣無双と評する者もあるであろう。そのそしりは、甘んじて受ける。それがいま天下の大老たる職を奉ずる者の負わねばならぬ重荷じゃ」
灯がゆらいだ。
それがなぜか真紅の業火のように見え、その彼方に厳然と坐った土井大炊頭利勝は、この世のものならぬ大魔王さながらで、茫然と見あげていた刀馬は、われ知らずおしひしがれたようにまたつっ伏してしまった。
「虫籠右陣、筏織右衛門、百々銭十郎。……きゃつら、徳川家の忍びの者として、いかんなく働いてくれた。しかも、彼らに至ってはその名も残らぬ。すべての記録は秘密裡に抹殺されるであろう。……不憫《ふびん》なものどもよ」
大炊頭の声がうるんだ。
「ただ、わしだけが知っておる。――」
彼らの役割は明らかになった。しかし――刀馬の胸からのどへ絶叫が濆《ふ》き上がろうとした。
では、自分の役割は何であったのか?
「刀馬」
大炊頭はふいに慈顔に戻って、やさしく言った。
「御苦労であった喃。帰って休め。……やがて一件落着の後、その方にもよい知らせがあろうぞ」
二十日ばかりたった。
寛永《かんえい》十年十二月十日、これはいまの暦で、一月九日にあたる。江戸には朝から雪がふりはじめていた。
「椎ノ葉刀馬どの、参られました」
と、大炊頭に小姓が告げた。
「通せ」
「お庭にて御意を得たいと申されておりまする」
「庭で?」
大炊頭はちょっと不審げな表情をしたが、すぐに、
「異なことを申す奴じゃ。外は雪ではないか。まあよかろう。庭に通せ。……雪はふっても寒うはないの。そこあけよ」
と、命じた。
彼は炬燵《こたつ》にあたり、膝の上の黒猫をなでていた。暖かげな、福々しい顔をして、いかにも上機嫌に見えた。
小姓は障子をひらいて退いた。
いかにも外は雪だ。まだ積もったというほどではないが、庭は真白になっていて、牡丹雪《ぼたんゆき》はしずかに樹々や石燈籠《いしどうろう》にふりつづいている。
その中を、水色の肩衣《かたぎぬ》をつけた椎ノ葉刀馬が傘もささず、歩いて来た。あれ以来の休養で体力を回復したらしく、以前の通りのふっくらとした顔にもどっている。縁側の外にひざまずいた。
「お召しによって参上つかまつりました。仔細《しさい》あって、ここにて御意を承りたいと存じまする」
と、微笑の顔をあげた。
「何を考えておる?……刀馬、高崎の一件、もはやきいておろうな」
「巷《ちまた》の風聞ながら、まずざっと。――」
「駿河大納言さまには、この六日夕刻、お腹を召させられた」
と、大炊頭は言った。それからしずかな眼を空に投げた。
「高崎も雪がふっていたそうな」
さすがに微笑は消えていたが、刀馬は茫洋とした顔で、こう告げた大炊頭をふり仰いでいる。
風聞によれば、六日の日暮れ、高崎城の幽所にあった忠長は、召し使っていた女中たちをみなひきとらせて、お側には二人の女小姓しかいなかった。その一人に酒肴《しゆこう》を暖めて参れと忠長は命じた。そこでその女小姓が立っていって、酒肴を持って来ると、忠長は白小袖《しろこそで》の上に葵《あおい》の御紋のついた黒小袖をかけて、うつ伏せになっていたが、もう一人の女小姓もかたわらにこれまた伏してもはや動かず、両人とも、その小袖は血潮に染まっていたという。――
「お京、と申したか?」
大炊頭の声が、ちょっとかすれた。
「お供つかまつったらしい。存じておるか?」
「覚悟いたしておりました」
顔色はやや蒼《あお》ざめていたが、刀馬はおちついた声で答えた。
じいっとそれを凝視していた大炊頭の眼に、感嘆と満足のひかりが浮かんだようであった。が、これも変わらぬ顔で言う。
「六日、阿部豊後守忠秋が、例のお墨付を高崎へ持参して、安藤右京進に見せた。そのこと、きこしめされた大納言さまにはついに御観念なされたものと見える。捨ておかば、右京進に迷惑のかかることになるからの。ついでに言えば、虫籠右陣もすでに誅戮《ちゆうりく》を受けた。――いずれにしても、この一件はまず落着」
大炊頭はきっとなった。
「さりながら、徳川家万代のためには、まだまだ片づけねばならぬことが山ほどある。……刀馬、そもそもわしは、この一件で、何のためにその方を使ったか、察しておるか?」
「いえ。――」
「大納言さまのお墨付を手に入れるためだけならば、右陣ら三人の忍者にて足る。その渦の中にあえてその方を投げ込んだのは、忍びの者――徳川家の忍者たる者はいかなるものであるか、いかにあらねばならぬか、そちに学ばせるためじゃ。そちの役割、相わかったか」
「――はっ」
大炊頭はにことした。
「わしの査察したところでは、その方、よくこの試練に耐えた。さすがわしがよい家来と眼をかけただけのことはある」
彼は炬燵の上に、二重になったあごをややつき出した。
「そこで、そちにまた頼みたいことがある。いつぞや申したように、わしは公儀三派の忍び組を解体して、一派にまとめたい望みを持っておる。ただし、甲賀、伊賀、根来、いずれも捨てがたい。といって、その一派を以て他の二派を統制させることはまず思いもよらぬ。であるから、その三派すべてを解いて、まったく新しい忍び組を作りたい。――」
黒猫をなでながら、大炊頭は言った。
「刀馬、その方がその新忍び組の首領となれ」
刀馬は依然、茫洋とした顔で主君を見つめていたが、これには答えず、顔からやや血の気がひいたようであった。
「そちならやれる。わしのめがねに狂いはない。大老土井大炊頭秘蔵の忍び組を組織いたせ、どうじゃ?」
「かたじけのう存じまする。さりながら、殿。――」
「さりながら?」
大炊頭は山岳ののしかかるような凄じい気魄で庭の上の愛臣をにらみつけた。
「刀馬、否やは言わせぬぞ。土井家、ひいては徳川家の家来として。――」
「拙者、腹を切っておりまする」
はじめて刀馬の坐っている膝の下から雪ににじみひろがってゆく血潮に気がついて、大炊頭はがばと立ちあがり、かっと眼をむき出していた。
霹靂神《はたたがみ》のようにさけんだ。
「刀馬! あるじに叛くか?」
「叛きはいたしませぬ。拙者たしかに新忍び組は作りまする。ただし、虫籠右陣、筏織右衛門、百々銭十郎と、冥土《めいど》で。――卍組《まんじぐみ》とでも名づけたらよろしゅうござりましょうか」
すでに死相に変った顔に、ウッスラと笑いが浮かんだ。
「おそらく、駿河大納言さまをお護りいたすための冥土の忍び組――大納言さまと、それから。――」
声がふっと消えると、椎ノ葉刀馬はしずかに雪の上にうち伏した。
凝然と立ちすくんだ土井大炊頭のうつろな眼の世界に、その屍《かばね》と血潮に雪は霏々《ひひ》とふりそそぎ、そして万象はみるみる真白にけぶってゆくのであった。
新井白石の「藩翰譜《はんかんぷ》」にいう。――
「寛永九年の春、大相国(二代将軍秀忠)かくれさせたまいしとき、利勝ただ独り謀《はかりごと》を以て、天下を泰山の安きに置くという。その事秘しぬれば、つまびらかなることをば世人知らず」
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『忍びの卍』昭和50年8月30日初版発行