山田風太郎
幻燈辻馬車(下)
鹿鳴館《ろくめいかん》前夜
一
「馬車屋さん」
お茶の水橋の上で、干潟干兵衛は呼びかけられた。
「あなたは会津のひとだってね」
馬車の上から見下ろすと、十四、五歳の少年であった。さっきから初冬の雨が霧のようにふりはじめているのに、その少年は傘もささず、裾短かの袴に朴歯下駄という書生姿で、カラコロと歩いている。
「どうして知っていなさる」
と、馬車をゆるめながら、干兵衛は訊いた。彼は饅頭笠に合羽という姿であった。お雛も同様だ。
「こないだ、下谷で、女の子の乗っているこの馬車を見て、道場で先生に話したら、あの馭者はお前と同じ会津人じゃとおっしゃった」
「道場の先生?」
「うん、柔道の先生だ」
「柔道?……柔術とはちがうのか」
「ちがう」
少年は、昂然と頭をあげていった。そういえば、少年ながら仔豹《こひよう》のように精悍なからだつきをしている。――
何にしても、柔道の先生なんかに心当りはないが、別に秘密にしていることでもないから、自分の素性を知っている人は、町にあるだろう。それより干兵衛は、いまの会津人云々という言葉にひっかかった。
「お前さん、会津生れか」
「そう、名は西郷っていうんだが」
「おう、西郷。――」
東京で西郷と聞けば、だれだって鹿児島の西郷を思うが、会津にも西郷という家はある。家はある、どころか、会津藩の家老の一人は、西郷|頼母《たのも》という名であった。
「すると、あんたは、御家老の――?」
「いや、ちがう、親戚には当るそうだが。……」
と、答えたのは、相手もその名を頭に浮かべたからだろう。
干兵衛は、この少年に見おぼえはない。ないのも当然だ。この少年は、どうやらあの会津戦争の前後に生れた年案配だし、自分はもう十年も前に上京して来たからだ。
「それで、いつ東京に出て来たのかな」
「この五月から」
そういえば、まだ会津訛が濃い。
雨の筋が、ふとくなって来た。手綱をとる手にも、氷雨《ひさめ》といっていい冷たさであった。
「書生さん、どこへゆくんだね」
「上野の博物館へ」
「博物館?」
聞き返したのは、それがあまり耳にしない言葉であったからだ。少年はいった。
「先生がそこにいっていらっしゃるから、急用でゆくんだ」
「それじゃ、この馬車に乗りなさい。……いや、銭はいらない」
と、いったのは、むろんこの少年が同郷だと知ったからだが、もっとこの少年と話をしたい気持からでもあった。久しぶりに、会津の話を聞きたい。
「二頭立ての馬車なんかでいったら、先生に叱られる」
「同じ会津人の縁で乗せてもらったといえばよかろう。それに、いま急用だとか何とかいったじゃないか」
「あ、そうか! それじゃあ。……」
西郷少年は、馬車に乗り込んだ。
乗り込まれると、話が出来なくなる、ということに気がついて、干兵衛は苦笑した。……なに、あとでまたその機会はあるだろう。
馬を早めながら、彼の頭に、落城のときの会津藩家老西郷頼母一家の悲劇が浮かんだ。その家の人々は、母、妻、妹、娘ら九人、その他一族十二人、幼童をもふくめてことごとく殉節したのである。……実にそれは、自分の妻お宵が自害したのと同じ日のことであった。
おだやかな干兵衛の眼が、その日のことを思い出すとともに濁って来るのが常で、いまも薄墨色にけぶる雨の風景に血がにじんで来た。
「公園じゃないか」
扉をひらいて、少年がさけんでいた。
広い坂が、紅葉というよりもう黒ずんだ森の中へ這《は》い上っている。なるほど、黒門口だ。
「あっ……先生!」
少年は、つづいて口走った。
干兵衛は、その坂を下りて来る幾つかの人影を見た。ふだんならもっと人通りの多い坂だろうが、雨のせいか、広い坂に人影はまばらな、六、七人であった。
干兵衛の眼を吸いつけたのは、いちばん手前の二人だ。一人はただの番傘をさした黒紋付の若者であったが、もう一人は、蝙蝠傘をさしている。……その傘も、このごろではそれほど珍しいものではなくなったが、それをさしているのが、異人の女であった。
ボンネットとかいう鍔広の帽子、襟飾りのついた洋服、長いスカート、それに靴。
――と、いまの少年の声を聞いて、その二人が、小走りにこちらに駈けて来た。同時に、そのうしろを歩いていた五人ばかりの壮士たちが、これを追って走り出した。これは傘もさしていない。
「おう、四郎!」
と、番傘の書生がいった。
「いいところへ来た。お嬢さんを頼む。……早くその馬車で逃げてくれ!」
「先生は?」
先生と呼ばれた若者は、口髭ははやしていたが、まだ廿歳《はたち》を越えたばかりとしか見えない、しかもふつうより小柄な青年であった。
これが、少年には答えず、馬車からまだ二、三間のところで、異人の女をこちらに押しやり、向うにくるっと向きなおった。
「貴公ら、何のために追って来た」
と、傘をたたみながらいった。
その前に半円を描いた五人の壮士が、あごをしゃくった。
「その女に訊きたいことがある」
「その姿はなんじゃ。それでも皇国の女か」
「女とはいえ、会津の血を忘れたか!」
「お前に、用はない。痛い目を見たくなかったら、そこをどけっ」
青年は下駄をぬいだ。声は静かであった。
「講道館の嘉納治五郎である。それを承知か」
壮士たちは、歯をむき出した。
「若僧の分際で、御大層な口をききおる」
「しゃらくさいっ」
二人ばかり、これも下駄をぬぎ、それを手にして躍りかかった。獣のように迅速な動作で、両方から青年はたたき伏せられたように見えた。
事実、彼の身体は低く沈んだのである。が、同時に壮士の一人は、足で足を払われてその前に横倒しになり、もう一人は、青年の肩を越えてうしろへ放り投げられていた。双方とも、立ち上ろうとして、両手を泥についた。
「この野郎!」
残った三人は、満面を朱に染め、二人は、どこからか匕首《あいくち》を抜き出した。手ぶらの嘉納治五郎は、ジリジリと退がった。
そのとき。――
「先生、御助勢!」
鉄砲玉みたいに駈け寄って来たのは、西郷少年であった。彼は、女を馬車に押しあげ、下駄をぬぎ、何のためらいもなく、真一文字に突入して来たのだ。
「小僧」
向きなおって、これをむずと捕えたのは、短刀を持たぬ壮士であった。その代り、六尺を越える大男で、無造作に少年の胸もとをひっつかみ、宙に吊しあげた。
「こら待て馬車、逃げると小僧の命はないぞ!」
動きかけた馬車を呼んだのは、それだけ余裕があったのだろう。――が、その髭だらけの頭が、ふいに大きくのけぞった。
吊しあげられたはずの少年の足が、その顔面を蹴っていたのである。血しぶきを散らして、あおむけにひっくり返る巨漢とは逆に、少年は腹を雨空にむけて宙を飛び、猫のように身をひねると、遠い地面にとんと両足で立っていた。
あと残った二人は、狂気のように短刀をふるって、治五郎に突きかかろうとした。
その頭と肩に異様な音が鳴って、二人は棒のように転がった。その手から、匕首が飛んだ。二人を打ちすえたのが、空をうねって来た長い蛇のようなものであることを、治五郎は見た。
彼はふり返った。
馬車の馭者台で、馭者は鞭をもとに戻していた。――と、見るや、それがまた宙にうなって、よろめきながら立った別の二人の壮士をたたきつけた。
「お乗りなさい」
と、饅頭笠の下で、馭者はいった。
干兵衛は、二本の鞭を持っていた。一本は、侍時代からの寒竹の日本風の鞭であったが、一本は馬車を操るときの、二メートル以上はあろうという、さらにその先に革のついた西洋流の鞭であった。いま使ったのは、後者だ。馬車を動かしたのは、逃げるためではなく、それがとどく距離まで、逆に近づいて来たものであった。
嘉納治五郎は、下駄をはき、その傍へ寄った。
「ありがとう」
「どこへゆきますか」
「左様。お嬢さんをおとどけせんけりゃならん。神田猿楽町の山川健次郎という先生のお邸へ」
「えっ?」
いままで平静であった干潟干兵衛の眼がまるくなった。
「お嬢さん? 山川さま? あの大学の先生の――」
「ああ、お前は山川先生を知っているはずじゃったな。あれは山川先生の妹さんの捨松さんだ」
西郷少年が、また起きあがりかけた壮士の頭を、転がっていた下駄で二つ三つぶん殴って、泥をかませて、ニヤニヤ笑いながらこちらへ戻って来た。
干兵衛は、吐息をついた。
「いまの御婦人は……ありゃ、異人の女ではなかったのでござるか?」
そういえば、さっき壮士たちが、それでも皇国の女か、とか何とかいったが。――
「この秋、アメリカからお帰りになったばかりじゃ」
「ああ。……そういえば。――」
二
べつにこれといった用事がなかったせいもあるが、ここ一年以上も山川邸を訪れなかったことを干兵衛は恥じた。
山川健次郎といえば、かつての自分の上司の子息であるのみならず、赤ん坊であったころのお雛を養ってくれ、げんにいま商売に使っている馬車までくれた人である。
そういえば、と干兵衛が膝をたたいたのは、山川先生に捨松という妹さんがあって、これが自分がまだ上京しない前――明治四年に、わずか十二歳でアメリカヘ留学した、という話を聞いていたからである。
それが、この秋、帰国したという。――
やがて、神田猿楽町の山川邸へ馬車をいれ、ちょうど在宅していた山川健次郎の前へ出たとき、干兵衛はむしろ恐縮して、からだを小さくしていた。
上野での雨中の争闘の話を聞いて、
「それはよかった。干兵衛がそこにいってくれたとは、天の助け。――それにしても、会津町奉行同心干潟干兵衛、腕に衰えはないと見える。――」
と、山川健次郎は、安堵と感嘆の眼で干兵衛を見やった。
「いえ、驚きましたのは、私のほうで――そこの柔術、いや、柔道の先生とそのお弟子さんで。――」
「うん、そうだ、この西郷四郎君は会津生れじゃ。柔術指南番の西郷弥左衛門という人があったのをおぼえておるかな?」
「弥左衛門どのは存じておりますが、はて、それにこんなお子がありましたかな?」
「その弟の弥五郎。……その倅だよ」
遠くで、きゃっきゃっと笑う声が聞える。久しぶりにお雛がやって来たというので、山川邸の家人たちが――捨松をもふくめて――あちらで歓迎しているらしかった。
白菊のかおる応接間での話である。
西郷弥五郎は、去年亡くなった。そして、同じ会津出身のよしみで、この五月、四郎は山川健次郎を頼って上京して来た。
それが、学問もさることながら、武芸を修行したいという。いろいろ観察した結果、やはりこの少年にはそのほうがむいていると知って、健次郎が思い出したのが、去年東京大学を卒業した嘉納治五郎という青年であった。
山川健次郎は理学部助教授、嘉納は文学部だから、教室では直接知らなかったが、この嘉納が実に風変りな志望の持主で、在学中から、日本古来の、天神真楊流とか起倒流とかいう柔術の大家のもとへ通い、去年卒業すると、みずから柔道と称する新武術の道場を、下谷北稲荷町の永昌寺という寺でひらき、日本伝講道館という看板をかかげ、もう弟子を十人前後もとっているという話を思い出し、それで西郷四郎をそこへ託することにしたのだという。――
そこへ、妹捨松が帰朝した。
彼女が東京見物に出歩くにつれて、思いがけぬ不安が生じた。その異国ぶりが眼をひいて、見当ちがいの反感をもよおす向きがあるらしく、出先で二、三度、無礼を働きかけた男が出て来たのである。
そこで健次郎は、心配して、捨松のガードマンとして、また嘉納治五郎を頼むことにしたのである。
で、きょうも捨松が、上野の博物館を一見したいというので、嘉納をつけてやったのだが、下谷の道場のほうで急に連絡することが生じて、弟子の四郎が呼びに来、嘉納は上野へいったというので、またそちらに廻る途中、ふと干兵衛の親子馬車を見かけて呼んだというわけであった。
それで、少年が、干兵衛を知っていたいきさつがわかった。何かのはずみで、嘉納は山川健次郎から、干兵衛の馬車のことを聞いていたのである。
「で、用件はすんだのか」
と、健次郎が顔をめぐらした。
「すみました」
と、嘉納は答えた。
「先生。……あの女の子のところへいってよろしゅうございますか」
モジモジして、西郷少年が訊く。その許しを受けると、彼は応接間を駈け出していった。
あとを見送って、健次郎が尋ねた。
「どうじゃね、あの子の筋は」
「天才です」
と、嘉納治五郎は答えた。干兵衛も、さっきの雨空を飛ぶ燕のような少年の妙技を思い出して、舌をまいていた。
この西郷四郎が、のちに作家富田常雄によって描かれる姿三四郎となる。
三
代って、捨松が応接室にはいって来た。顔に笑いが残っている。
「あの子、ほんとうに面白くあります」
と、いった。お雛のことだ。
「むかしの会津の唄、教えてくれました。思い出しました」
そして、彼女は窓外の秋雨を眺めながら、小声で歌った。
「雨こんこん
雪こんこん
おらの家《え》の前さ
たんとふれ
お寺の前さ
ちっとふれ。……」
その眼から、涙がしずかに頬につたわった。
干兵衛は、まじまじとこのアメリカ帰りの貴女の顔を見つめている。
最初、上野で見たときは、てっきり異人の女だと思った。その後、それが日本の女性だとわかり、それどころか、いまつくづく眺めていると、会津にいたころ、まだ赤ん坊だったこの御家老のお嬢さまを、たしか何度か抱いてあやしたこともあったと思い出し、そのときの面影さえいまの顔に呼び起すことが出来たが――やはり、どうしても違和感はとれなかった。それは、そのピッタリ身についた洋装のみならず、十年以上もアメリカにいたという事実そのものから来たものであったろう。言葉の調子からして、まだ日本人離れがしている。
顔までが異人めいて白く、冴えてひきしまった美貌で、何だか瞳も碧いような気がした。
しかしいま、涙を流しながら会津のわらべ唄を歌っている顔に、やはりこれは山川捨松さまだ、と、干兵衛は改めて再確認した。
「おヒナ、ベイビイのころ、この家にいたそう、ありますね。また、しばらく、おいたら、どうありますか?」
歌い終ると、捨松が笑顔でいいかけた。
「そうだ」
と、兄の山川健次郎がひざをたたいた。
「干潟。――当分、お前、捨松用の馭者になってくれんかね?」
「えっ、私が、お嬢さまの――」
「うん、いままでその護衛のために嘉納君に頼んでおったのだが、学士の嘉納君に女の用心棒をやってもらうのは相すまんと、実は気にかけておったのじゃ」
「いえ、私はかまいませんが。――」
と、嘉納治五郎はあわてていった。
「それどころか、英語の発音など教授していただいて、もっけの倖いとありがたく存じておったくらいです」
治五郎は、捨松を見た。その眼には、純粋な敬意がかがやいていた。
「しかし、君も道場がある。大学を出て、柔道の道場をひらくとは、君もよほど考えるところがあってやり出したことだろう。それをひらいて早々に、こんな用で縛りつけておくのは申しわけない。げんにさっきも、西郷が君を探して駈けまわったくらいじゃないか」
「ですが、私が柔道をやっているからこそ、お嬢さまの護衛を申しつけられたのでしょう。私以外にこの御用が勤まるとは思えませんが」
と、嘉納治五郎は昂然といった。
「まったくだ、きょうの災難だって、君でなければ逃れられなかったろう。むろん、この男を見なけりゃ、このまま君に頼むよりほかはなかったと思う」
健次郎は、眼で干兵衛をさした。
「この男を見て――失礼だが、ああ、恰好の護衛役がここにおる、と思いついたのじゃ。この干潟干兵衛は、かつて会津町奉行所の名同心として、剣術、馬術で悪党どもをふるえ上らせた男であった。とくに会津者には効目があると思う」
赤面する干兵衛を、治五郎はちらっと見た。治五郎は、さっき自分があぶなかったとき、数間離れたところから鞭で襲撃者を打ちすえたこの男の妙技を、改めて思い出していたのである。
「それに、ある程度、年もとっていて、捨松の護衛役にはかえっていい」
と、健次郎はいった。
「人力俥を使うにしても、俥《くるま》は別々だから、あぶないときはあぶない。といって、まさか若い君と捨松を相乗俥に乗せるわけにもゆかんしな」
こんどは、治五郎の顔が、ちょっと赤らんだ。
このとし、山川捨松は二十三歳、嘉納治五郎は二十二歳であった。治五郎は、捨松のための騎士をやっていて、いつしか彼女に憧憬にちかい感情をいだくようになっていた。彼はその心を見ぬかれたように思って赤面したのである。
「そうだ、何なら西郷少年に来てもらおう。そして、外出のとき、干潟の馬車に乗せてもらえばそれでいい。嘉納君には、ときどき、講道館の手があいたとき頼むことにしよう。どうだね、捨松?」
「わたし、ボディ・ガードなど、要らないのです」
と、捨松はいった。
「悪漢、来たら、よくいいきかせてやります」
「干潟、やってくれるね?」
と、それにとり合わず、健次郎はいった。もうひとりで、そう決めているようだ。こういうところは、やはり元御家老の家柄である。――干兵衛に、むろん断わる理由はなかった。
健次郎は自分でうなずいて、ひとりごとのようにいった。
「会津の馬鹿者どもには、会津人で対したほうがよかろう」
干兵衛は、上野のときから気にかかっていたことを、口にする気になった。それはあのとき、襲撃者の中に、「会津の血を忘れたか」と口走った声があったことだ。
「お嬢さまに乱暴しようとする連中が……会津者なのでござりまするか」
と、干兵衛は訊いた。
「会津には頑固者が多いからの。……」
と、健次郎は憮然として答えた。
「それに、このごろ捨松が延遼《えんりよう》館にダンスを教えにゆくものだから、それを見ていよいよのぼせあがるやつがあるらしい」
「ダンス?」
「異人の舞踏だ」
捨松がいった。
「わたしも、馬鹿らしくあります。乱暴者、なくても、やめたくあります」
「そういうわけにはいかん、お上《かみ》からの、たっての依頼だから」
「ダンスしても、アメリカ人、イギリス人、尊敬しないでしょう」
「吾輩もそう思わんでもないが、条約改正という目的の前には背に腹はかえられん、と、当路者は思っておられるのじゃろ。日本の大官も、お前が思っているほど馬鹿ではない。その目的のためにほんの少しでも役に立つなら、と願ってのことじゃろ。それくらいのお手伝いは、山川家の人間としてせんけりゃなるまいな」
健次郎は、粛然としていった。
「いまの政府のお歴々については、いろいろ批判もあろうが、とにかく吾輩が何より感服せざるを得んのは、明治四年、岩倉卿をはじめ、大久保、木戸、伊藤らの最高首脳が、ごっそり欧米旅行の途に上ったことじゃ。ま、条約改正という目的があり、その話し合いはうまくゆかなんだとはいえ、とにかくまだ海のものとも山のものとも知れぬ維新後の日本を留守にして、二年ちかくドラドラと欧米を見学して回っていた、あの思い切ったクソ度胸は大したものだ」
治五郎の顔を見つめて話していたところを見ると、この青年にいいきかせるつもりであったかも知れない。
「そして、それ以上に感服するのは、そのとき五人の少女を同行して、アメリカに留学させたことじゃ。あの際、よくもそこまで頭を回す余裕があったもの。――」
彼は、妹の顔を見た。
「その中に、十二歳のお前もおった。――」
「イエス」
と、捨松はうなずいた。
「そのお国の御恩にはやはり応えなくてはならん」
「イエス」
彼女はにっこりし、健次郎も破顔した。
この問答は、干兵衛にはよくわからない点もあったが、しかし大体のところは了解出来た。
「それにしても、山川さまといえば御家老さま、その上、御一新後も会津の者でお助けを願った人間はおびただしゅうござろうに」
と、干兵衛はいった。彼もまたその一人だ。
「そのお嬢さまに無礼を働くやつがあろうとは。――」
「会津人ことごとくを救う力はない。それに会津人にもいろいろある。――玄関払いを食わせたやつもある」
健次郎は苦笑して、
「会津も、変ったぞ。……干兵衛、その後の――いまの会津はどうなっておるか、知っておるか?」
と、逆に訊いた。
「いえ、とりたてて」
「この春から、三島|通庸《みちつね》という人が福島県令になった」
「それは、存じております」
「これが、やりてでの。むしろ、鉄血の人といっていい人物らしい。いろいろと新しい施策を試みておられる中に、会津から、新潟、米沢、栃木へ三大道路を開くという大事業を始めて、これが人民の苦役となるというので、いま自由党などが騒いでおるらしい」
「ほう、会津にも自由党が発生いたしましたか」
干兵衛は、ふと健次郎を見やった。
「ひょっとすると、お嬢さまをおどすのは、その一派ではありませぬか」
「うむ、福島自由党の人間で、東京の本部と連絡するために上京しておる者も少なくないようだからね、そうかも知れん。……が、吾輩の感じでは、若松帝政党の一派ではなかろうか?」
「若松帝政党?」
「三島県令が、自由党に対抗して作り出した御用党だ」
山川健次郎は苦々しげにいった。
「どっちも吾輩から見るとキチガイの集まりのようだが、どういうわけか吾輩は、この帝政党のほうが気にくわん。それが、元会津藩士で、下級の者が自由党に多く、帝政党はまず上級藩士から出来ておるというのだが。――」
どうして会津の侍が、そう分れてしまったのか。――それを問うより干兵衛は、ふとこの早春、巣鴨まで送っていった赤井景韶という若い壮士が、雪の馬車の中で、
「福島県が悪県令三島の暴政にさらされる兆しがあるが、おぬし帰る気はないか」
といったことを思い出していた。
あのとき自分は、「孫以外のことに気を使うのはいやだ」と断わったけれど――どうやら、会津のほうがこっちにやって来て、自分にまつわりつきそうな雲ゆきだ。
卓の向うでは、ならんで坐った嘉納治五郎と捨松が――捨松が、卓上の異国文字の本をひらいて何か訊き、あわてて治五郎が答えるのに、捨松がさらに教えていた。
紅もつけていないのに鮮麗な捨松の唇からもれる言葉は、日本語ではなく、干兵衛には美しい鳥のさえずりのように聞えた。さっき上野で、「講道館の嘉納治五郎と承知か」と叱咤したときの武者ぶりはどこへやら、治五郎はヘドモドしているようだ。
ガラスが明るくなり、窓外の氷雨はあがりつつあった。お雛をめぐる山川家の人々の遠い笑い声はまだつづいている。
四
こういうわけで干潟干兵衛は、当分の間、捨松お嬢さま用の馬車の馭者を勤めることになった。――
捨松さまは、少なくとも週に三度は、元御浜御殿の延遼館へゆく。お供は西郷四郎少年だが、治五郎も、健次郎にああいわれても、そのたびに顔を出した。
捨松という女には珍しい名は、父君の先代山川|大蔵《おおくら》が、そのころときどきあったように、男の子には女の名前、女の子には男の名前をつけるとすこやかに育つという言いつたえにならったものだろう。――捨松は、その期待を裏切らなかった。
数え年十二歳で、アメリカに留学する。――ほかにも八つの少女もあったというから、とにかく山川健次郎も舌をまいたように、自分たちの国家的な欧米巡遊に彼女たちを同行させた指導者たちの着想と、この点についてもそのクソ度胸には恐れいるが、それにしても会津出身者の子女でありながら、よくその選抜に叶った捨松もまた大した優秀児だといわなければならない。
……捨松御用の馬車を承るようになってから、干兵衛は、彼女が渡米前に政府から渡されて、その後ずっと懐中にしていたという「洋行心得」なるものを見せられたことがあるが、その中に、
「銘々父母の国をはなれ外国へ罷り越し候につき、おのおの覚悟これあるべきの儀に候えども、一身の慎み方は申すに及ばず、いささかのことなりとも、お国の御外聞に相成らざるよう心がけ申すべし」
などという文言があった。――これが明治であった。
岩倉らは、少女たちをアメリカにおいて、ヨーロッパにいってしまった。留学とはいうものの、この時代のこととて、一種の遺棄にひとしい。
……それから、十一年。
アメリカの女性の最高学府たるヴァッサー・カレッジを卒業して、捨松は帰って来た。言葉があやしくなっていたのは、いたしかたがない。それでもとにかく日本語を忘れなかったのは、ほかに仲間がいたからであろう。
言葉が可笑《おか》しいにもかかわらず、すぐに干兵衛は、このアメリカ帰りのお嬢さまが、日本で育った女以上に日本の女であることを認めた。いつぞや上野で暴漢が、「それでも皇国の女か、会津の血を忘れたか!」と怒号したが、まさしく捨松は、会津のサムライの娘であることをたしかめた。
とはいえ、十一年ぶりにアメリカ留学から帰った山川捨松にまず下った命令は、延遼館におけるダンスの教授であった。
延遼館はいまいったように元の御浜御殿だが、明治初年以来、外国から来朝した貴顕の饗応、宿泊にあてられていた。すでにロシア皇太子やアメリカのグラント将軍やハワイ皇帝なども滞在したことがある。
また天長節の大夜会などもここでひらかれたのだが、この宴《うたげ》には紅毛の外交官なども多くやって来る。しかるに――例えば、明治十三年十一月五日の「東京日日新聞」には、こんな報道がある。
「……さればこの夜招待に応じて参集せる内外の来賓は五百人以上なるべし。亭主方はみな大礼服を着せられ、客方はいずれも小礼服を用いたり。
……さるほどに九時過ぎより、客方の面々は令閨を伴いて来館あり、各々休息の後、立食を始めらる。このとき外客の男女は舞踏場に入り、陸海軍の奏楽につれて舞踏せられしが、わずかに見えし内国の婦人方はもとよりさる技もせられず、またかかる晴れの席になど、われから恥じて参られぬ方々の多かりしは、わが国の風習とはいえ口惜しき心地せられたり」
日比谷の鹿鳴館は鋭意建築中であった。来年にはいよいよ開館されるだろう。
そこで――右の事態に、これではいかん、と政府のほうで気をもんで、かくてアメリカ帰りの山川捨松に、朝野の大官富豪の男女子弟のダンスの稽古を依頼することになったのだ。
五
「やあ、あれは何だ。蜜蜂のお化けか?」
樹の上で、少年は思わず高い声をあげた。
「あはは、こりゃ面白い、蜜蜂女が、燕男と抱き合っておどってら!」
「あげてよ、祖父《じじ》、お雛もみたい」
肩ぐるまの上で、お雛は干兵衛のチョン髷をたたいた。
「あたいも、あそこにあげて!」
「いかん、お前はあぶないわい」
と、干兵衛はその頭をあげて、
「西郷君、あんまり大きな声を出してくれるな、頼む」
と、気をもんで、哀願した。
場所は、浜離宮の延遼館を見る林の中であった。――十一月末のある晴れた午後だ。
その日、干潟干兵衛は、山川捨松を馬車に乗せてやって来た。干兵衛としては、それが三回目であった。用心棒の嘉納治五郎の弟子の西郷四郎も同行していた。
浜離宮は、さきに述べたように元の御浜御殿だが、明治初年以来、外国貴賓の接待所となり、そのために洋館風の建物も増築され、また馬車の待つ広場なども設けられていた。
そこで、ほかのおびただしい自家用馬車を待っているうちに、洋館のほうから、異様な音楽の音《ね》が流れはじめた。
「あれ見たい」
と、お雛がいい出した。実は、一度目、二度目のときもお雛はそうせがみ、むろん干兵衛は叱りつけたのである。
すると、西郷四郎も同様のことをいい出した。彼と治五郎は、これまで何度かここへ来たはずだが、やっぱり治五郎にとめられて、その望みは叶えられなかったらしいのだ。
ところが、その日、治五郎は叱りかけて、ふと洋館のほうに眼をやって、
「では、お嬢さんがだれと踊っていなさるか、見てくれ。……むろん、こっちが見つけられちゃいかんぞ」
と、いったのだ。――そして彼は、馬車の中に坐ったまま、腕組みをして眼をふさいでしまった。
お許しを得た西郷四郎は小躍りせんばかりで、干兵衛とお雛を、洋館に近い林の中へ連れていった。
もう葉を落した樹々の多い晩秋の林であったが、それでもまだ赤い葉を残した一本の樹に、彼は猿みたいにスルスルと上った。前に灌木があるので、干兵衛はお雛を肩ぐるまにして、首だけのぞかせた。
干兵衛は、さっき嘉納治五郎が四郎にいった言葉を思い出している。
治五郎は、山川健次郎から用心棒を一度解かれたにもかかわらず、捨松嬢の延遼館ゆきに、やはりいつもつきそいに、下谷からやって来る。ただ責任感や不安からばかりでなく――武骨な干兵衛から見ても、彼が捨松嬢を恋していることはいまやあきらかであった。
これに対して、捨松のほうは、どう見てもそれに相応した反応を見せているとはいえない。一つ年上にちがいないが、姉が弟に対するようなあしらいをしている。それどころか、英語と変な日本語のせいかも知れないが、彼をからかってさえいるようだ。しかも、この東京大学卒業の、しかも柔道の開祖たる青年は、彼女の一挙一動に赤くなったり、ヘドモドしたり、あるいはうなされたような顔になったりするのであった。
しかも、きょうは――馭者台にいる干兵衛にはわからなかったが、馬車の中で治五郎は捨松に何かやっつけられたと見えて、延遼館に着いたとき、目立ってしょげていた。
「おい、西郷君、お嬢さんは見えないか?」
干兵衛は頭上をふり仰いで、声をかけた。
「え? ううん。……見えない、だれが、だれだか、ゴチャゴチャして――どれが男で、どれが女かもわからない」
西郷四郎は、首をふった。
洋館のガラス窓の数から見ても、中は相当な大広間になっているらしい。そこから、陸軍か海軍か、軍楽隊の鳴らす奇怪な音楽は、同じ節をくり返しながら溢れてくる。――
「さっき、先生が、お嬢さんはだれと踊っているか見てくれ、といわれたが。――」
と、干兵衛がいったとき、
「やあ、見える、見える!」
と、四郎は、干兵衛がぎょっとするほど大声を張りあげた。
この少年は、もともと会津の侍の子である上に、若いながらきびしい師の躾《しつけ》に鍛えられて、十五歳とは思われないほど礼儀と克己心に富んでいたが、はじめて見る異国風の大舞踏会に――それは練習であったにしろ――興奮して、とうとう十五歳相応の少年らしさに逆戻りしていた。
「しかし、だれとも踊っていらっしゃらないよ。鞭を持って、何かしかっていなさる」
「ヘヘえ!」
「あ……前にいるのは、大人じゃない。女の子だ。洋服を着た女の子だ。お雛ちゃんと同じくらいかな?」
「見せて! 祖父《じじ》! あそこへ上らせてよ!」
お雛が、肩の上で足をバタバタさせた。
「いかん、いかん、こんなところで騒ぎたてて、見つかっては一大事じゃ。西郷君、君ももう下りて来なさい」
干兵衛は、とうとうそう命令しないわけにはゆかなかった。
「見物はまたこの次。きょうはこれで帰るとしよう」
帰るとは、馬車のところへ、という意味だ。
干兵衛が早々に引揚げることにしたのは、いいかげんにしないと見つかる、という心配もあったが、もう一つ、ちょっと気にかかることがほかにあったからだ。
馬車に帰ると、嘉納治五郎は、依然として腕を組んで、眼をつむっていた。それに向って四郎は、
「先生! 捨松お嬢さまは、女の子を相手に教授していらっしゃいましたよ!」
と、息をはずませて報告した。
「女の子?」
「お客の連れて来た子供でしょう」
それは、馬車で来たときにも見た。おそらくダンスを習う気持があるなら、家族の子弟のだれでもいいから同伴して来てよろしい、という通知でもあったのだろう。子供とまではゆかないにしろ、延遼館に到着する客の中には、まだ少女といっていい令嬢の姿もチラホラ見られた。
一生懸命しゃべっている西郷四郎と、それを聞いている治五郎に、
「ちょっと、これをお願いします。なに、すぐに帰って参ります」
と、干兵衛はお雛を託して、ぶらぶら門のほうへ歩き出した。
内部の一劃に過ぎない延遼館にも門がある。が、干兵衛が歩いていったのは、そこを過ぎて、浜離宮そのものの表門であった。
これは昔の御浜御殿のままの門だが、きょうはその扉は大きくあけはなたれて、馬車の往来を許している。まだこの時刻にも遅れてやって来る馬車がある。二人の門番は、その馭者から通行証を見せられると、敬礼して道をひらくのであった。
干兵衛も、先刻、そうして通って来たのである。
彼はさっき通って、しばらくしてから、「はてな?」と首をひねった。気にかかることがあった、というのはそのことだ。干兵衛はその門番の一人に記憶があるような気がしたのだ。
いま、その門に近づくと――二人の門番のうち、やって来る馬車をいま改めているのは、これは見知らぬほうだ。もう一人は、門の内側にじっと佇んでいたが、これが干兵衛の記憶にひっかかった男であった。
紺色の帽子に紺色の制服、一見巡査に似た服装をさせられているその門番は、年のころはいくつだろうか、帽子からのぞいた髪は真っ白だ。自分と相前後する年のはずだが――背は高いが、ヒョロリと痩せて、おちくぼんだ眼は、義眼みたいに動かない。
それから、どうも動作がおかしい。さっき見たときも、左足をひきずるようにしていたが、いま見ていると――彼が動かないにもかかわらず――干兵衛は、右手にこそ棒をついているが、その左腕はダラリと垂れて動かないことを知った。
干兵衛は近づいて、
「もし。……」
と、呼びかけた。
「お人ちがいであったら、お許し下され。あなたは、もしやすると……斎藤先生ではござりませぬか?」
門番はふりむいた。無表情と見えたその渋紙色の顔に、かすかに恥じらいの血が動いたようであった。
「どなたじゃな?」
「昔、京都見廻組におった者でござるが。……」
と、干兵衛もちょっと顔があからむのを感じながら、
「その節、いちどお見かけしたことがありますので」
「御存知でござるか」
と、門番はいった。
「隠すことはない。拙者、斎藤歓之助です」
六
自分のほうで思い出して呼びかけたくせに、干潟干兵衛は相手を茫然と眺めていた。――これが、音に聞えた斎藤弥九郎先生の御子息、あの斎藤歓之助どのか?
幕末の剣聖といわれた斎藤弥九郎の名はだれでも知っている。それは彼が神道無念流再興の剣客であったからばかりではなく、江川太郎左衛門、藤田東湖、高島秋帆などと親交があって、幕府の武備の近代化に奔走するという一種の政治運動に携わったためであり、かつその道場「練兵館」に桂小五郎など維新の志士が多く学んだからであった。
しかし、そのため晩年篤信斎と号し名士化してしまった弥九郎に対して、ほんとうの剣士としてはむしろ長男の新太郎と三男の歓之助のほうが、その道の人間には高く買われていた。
こんな話が伝えられている。
嘉永元年、斎藤新太郎はまだ二十一であったが、諸国遊歴の旅に出、その途中、萩の明倫館で長藩の剣士数名をたたき破り、
「道場だけは立派だが。……」
と、苦笑した。
長州侍たちはしばし虚脱状態におちいって、やがてわれに返り、新太郎を生かして萩から出さぬといきまいたが、その不穏の形勢を察した新太郎は、その前に萩を出て、九州へ旅立っていた。
長州の壮士たちは余憤おさまらず、しばらくして大挙して江戸の練兵館のほうにおしかけた。そのとき道場の留守を守っていたのは、わずか十七歳の三男歓之助であったが、これが相手になり、片っぱしから撃破した。得意は「突き」で、この防ぎもかわしもならぬ妙技の犠牲者となった長州侍たちは、面頬《めん》をかぶって試合したにもかかわらず、三日、水も食事も|のど《ヽヽ》を通らなかったという。歓之助はすでにそのころから「鬼歓」と呼ばれる少年であることを彼らは知らなかったのだ。
干兵衛が、この鬼歓を見たのは、ずっとあとの文久年間、つまり彼が京都見廻組にいたころである。
そのころ、斎藤歓之助が飄然と京都へやって来た。
「実戦の御勉強ですか」
と、訊いた者があった。そのころ京都は、暗殺や検挙の血の嵐が吹き荒れている最中《さなか》であったからだ。これに対して歓之助は、
「うん、おれの弟子どもがどれくらいやっておるか、視察のためだよ」
と、うそぶいたという。
そんな話を聞いたが、さてそれを歓之助に訊ねた者が、勤皇方か佐幕方か不明である。
つまり、斎藤歓之助自身は、べつに勤皇でも佐幕でもない、純粋の剣術の専門家として、敵にも味方にも知られていたのである。
練兵館には、たしかに勤皇派も学んだが、とにかく弥九郎先生は幕府の捨扶持ももらっていたくらいだから、旗本の弟子も多い。長州侍だってやっつけられたことは、右の新太郎の明倫館での挿話を見ても明らかだ。
だから、鬼歓も、どっちの陣営に顔を出しても先生扱いにされる別格的存在であったが。――
干兵衛が彼を見たのは、ちょうど用件があって半月ほど大坂へ出張して帰ってからであった。そして、その留守中に起った驚くべき情報を聞いた。
土佐の岡田以蔵を、斎藤歓之助のおかげで逮捕したというのである。
その男は、もう何人殺したかわからない人斬り以蔵という異名さえある険呑な人物で、そのころ京で相ついだ有名な暗殺事件の張本人だと目されながら、はっきりとした証拠がなく、かつともかくも土佐藩の籍はあるので、京都見廻組も手を出しかねていた。闇の中で処理しようにも、あぶなくって、手が出せないのだ。
干兵衛も、その男を、一、二度目撃したことがある。
信じられないような話だが、その岡田以蔵は土佐の元足軽で、正規に剣術を修行したこともない人間だという。が、干兵衛が見た以蔵は、さすが腕におぼえのある干兵衛が心中にうなり声をあげて見送ったくらい、名状しがたい剣気を発散している男であった。それは、斬るか、斬られるか、どっちかである以外にはなく、とうてい逮捕することなど思いも及ばない男に見えた。
しかし、どうあってもその男を始末しなければならぬ。――そういう事態が、干兵衛の留守中に生じた。
そのとき、偶然会津屋敷に来ていた斎藤歓之助が、その話を聞いて、甚だ興味をおぼえたらしく、
「それじゃあ、おれがつかまえてやろう」
と、無造作にいった。
あまり苦もなげな顔をしていったので、見廻組の連中も、半分面にくさ、半分好奇心で、以蔵を張り込んだ網の中へ歓之助を伴った。
ちょうど猿ヶ辻で――築地塀のかげに見廻組をかくし、やって来る岡田以蔵の前に、歓之助は悠然とひとりで現われて、道をふさいだ。
素性は知らず、むろん敵意ある者と見て、たちまち以蔵は抜刀した。歓之助も刀身を抜きはらった。
鬼歓の剣尖は、人斬り以蔵の|のど《ヽヽ》に向けられていた。それっきり、以蔵は動けなくなった。
「もうよかろう」
歓之助の声に、見廻組が出ていったとき、一度も剣をふるうことのなかった人斬り以蔵は、ひとりでどうとくずおれ、気を失った。
こうして、嘘みたいに岡田以蔵は逮捕されたのである。会津藩では、彼の罪状の嫌疑を書きつらねた書面をつけて、その身柄を土佐屋敷に送りつけた。
そのあとに、干兵衛は京都に帰って来て、その話を耳にし、歓之助をはじめて見たのである。
歓之助は、別にどうということはない、といった顔で、また飄然と会津屋敷を去っていった。
以蔵を送りつけられた土佐屋敷のほうでは、胸におぼえがあったのか、それともそちらでも以蔵を持て余していたのか、べつに抗議もいって来ず、それどころか、その後以蔵を国元へ送還して、噂《うわさ》によると、そちらで処刑してしまったらしい。
干潟干兵衛が斎藤歓之助を見たのは、そのときだけだ。
それに記憶があったのは、この剣の魔術師に対する干兵衛ならではの畏敬の念から以外の何物でもなかった。
――あのときは、鬼歓は、まだ三十になったかならないかの年であった。よく職人の名人などにあるように、ある仕事以外はまるで万事に無関心な、とぼけた顔をしているが、しかし身体は鋼みたいな動き方をする人物であった。
それが、いま。――
七
干兵衛は改めて、相手の姿を見まもった。
制帽の下からのぞいた白髪と、ダラリと垂れた左腕と――どこか、病んでいるとしか思えないものうげな動作を見ると、どうしてさっきそれが斎藤歓之助だとわかったのか、干兵衛自身にもふしぎなくらいだ。
干兵衛の心情は、甚だ突飛なたとえだが、現代のわれわれが、三、四十年ほど前の「鞍馬天狗」の映画を思い出しながら、いまのアラカン氏を見るようなもの、といっていい。
「それで……貴公は、いま?」
と、向うから聞いて来た。さっき自分が通した馬車などいう記憶はないらしい。
「馬車の馭者をしております」
「ああ、あれか。なるほど――あ、は、は、は」
老「鬼歓」は笑った。やっと思い出したと見える。まばらな歯の間から、こがらしが吹き出して来る感じであった。
「おたがいにな」
そのとき、もう一人の門番から通過を許された馬車がうしろから近づいて来たのに、干兵衛は気がついた。
「あぶない」
老門番はふりかえり、よけようとして、大きくヒョロついた。その動作も、ふつうではなかった。が、ゆき過ぎる馬車に向って、彼は右手の棒を身体にたてかけ、その手を帽子のところまで挙げて敬礼した。
それがいってしまってから、干兵衛はオズオズと訊いた。
「お身体を、どうかなされましたか」
「実は数年前、中風をやりましてな」
と、鬼歓は答えた。
「え、中風?」
さすがに、これは意外事であった。記憶では、この人は自分より四つか五つ年上のはずで、中風にかかるのはまだ早いようだが――しかし、世には三十代、四十代で中風になる人間もないではないし、それに見たところ、六十くらいにも見える風貌だ。
「兄の世話で、やっとこの職にありつきました。……ここはひまだから、ということだったが、このごろはなかなかひまどころではない」
「兄上とは……あの、新太郎どののことでござるか」
「左様。よく御存知じゃな」
「新太郎どのは、いま何をしておられるので?」
「宮内省の門番をやっております」
干兵衛は黙っていた。返事のしようがなかったのだ。御一新前、剣の名家の二天才といわれた兄弟が、いまそういう境涯にあろうとは。――
宮内省や延遼館というのがまだしもだが、門番は門番である。いつだれから聞いたのか忘れたが、父の弥九郎は、維新後、七十を越えてから、それでも大阪の会計官という変な役を与えられ、造幣寮が火事になったとき大火傷を負って、それがもとで亡くなったとかいう話だが、その子の新太郎、歓之助のほうは、これは純粋に剣一筋の人間だっただけに、ほかに使い道もなく、また然るべき役職を周旋する者もなかったと見える。――
さっきから気にかかって、ひき返して改めて確かめに来たほどだが、さて、以上のことを知っても、干兵衛にはどうしようもない。これと大同小異の例は無数にあり、そもそも干兵衛自身が、いま相手から「おたがいにな」と笑われたくらいだ。
「お大事に、お勤めなされ」
と、彼は頭を下げて、もと来た道へ背を見せた。
「あ……ちょっと待たれえ」
斎藤歓之助は呼びかけた。そして、歩いて来た。足をひきずっている。左半身が不自由らしい。「貴公、昔、京都見廻組におられたそうだが……人を斬られたことはおありかな?」
「いえ。……」
干兵衛は首をふった。――会津戦争、西南の役では敵を斬ったが、京都見廻組当時にはない。「貴公も、そうか。……」
歓之助は悲しそうにいった。
「どうなされたのですか」
「いや、わしはね、剣が無益の修行であったとは思わん。こういう身分になったことも歎いてはおらん。ただ、いまにして心残りなのは、いちども人を斬らなかったことでね」
口からまたこがらしの笑いが吹いた。
「どうにかして、生きておるうち、人を一人斬って見たいと念願しておるものじゃから」
「険呑なことをおっしゃる」
そのとき、また馬車がやって来た。こんどは内からで――もう帰る客もあるらしい。窓から見えたのは、髯をはねあげた燕尾服の大官と、丸髷に白襟紋服の貴婦人であった。
歓之助は、また棒を身体にたてかけて、妙な姿勢で敬礼をした。
「いまのはたしか長州の男でな。練兵館では、剣術のほうはからっきしだめなやつじゃったが」
見送って、老門番は苦笑した。つまり、二十年くらい前には弟子だった男ということになる。
「わしのやって見たいのは、相当の名人じゃで」
「斎藤先生」
干兵衛は異様な鬼気に吹かれながら、相手の左半身に眼をそそいだ。
「その御不自由なお身体で?」
鬼歓の右手の棒がゆらめきながら水平に上って、まっすぐに干兵衛の顔を指した。……反射的にある構えをとろうとして、干兵衛は金縛りになった。その棒の尖端が、そのまま離れて眼の中へ飛び込んで来るような恐怖に襲われたのである。
「だれか、知らぬかな、見廻組どの。いちどだけ、いのちをかけた勝負をしたいというわしの望み、その望みをとげずには、わしは何のためにこの世に生を享《う》けたかわからぬことになる。そんな望みと、同じ望みを持っておる名人が、どこかにおらぬか、見廻組の生き残りの中にでも。貴公は知らぬかな?」
干兵衛は、やっといった。
「斎藤先生。……いまは明治十五年です」
八
二台、三台、延遼館のほうから出て来る馬車があるのに、干兵衛はあわててもとの駐車場へひき返していった。
捨松が来て、まだそれほど時間はたっていないが、ダンスはもう一人、ヤンソンというドイツ商人の夫人が教えているので、そのほうの練習が終った組かも知れない。
もとの馬車のところへ戻ると、嘉納治五郎と西郷四郎とお雛は外に出て、じっと遠い延遼館の玄関のほうを眺めていた。
干兵衛が近づいても、どうしたことか、お雛までふり返りもしない。……彼も、そのほうを見た。
玄関には、いま一台の黒塗りの箱馬車が寄っている。その向うに捨松が、軍人と少女に挨拶していた。どうやらその二人が帰るのを、捨松が送って出たらしい。
少女は、背たけから見てお雛と同じ年ごろに見えたが、これが完全な洋装であった。鍔の広い帽子をかぶり、その紐をあごでリボンみたいに結び、大きくふくらんだ紅いスカートをはいていた。
それに向って、捨松は半身をおりまげて、笑いながら何か話しかけている。そばに向うむきに立っている肋骨のついた軍服を着た男は、四十年輩だろうか、おそろしく肥った巨漢であった。
彼はハンケチをとり出して、しきりにふとい頸のあたりをぬぐっていた。
「あれは、お嬢さまに教えてもらってた女の子だ」
と、西郷四郎がつぶやいた。
すると――お雛も、ぽつんといった。
「あたい、あの子、見たことある」
干兵衛は、妙な顔をした。西郷少年はさっき樹上から窓越しに舞踏場をのぞいていたから、そういったのも理解出来たが、はて、お雛は? あんな妖精のような少女など、干兵衛はいままで見たおぼえがない。
「いつ?」
と、彼は聞いた。
干兵衛を見あげもせず、お雛はいった。
「父《とと》が来た雪のふる日」
「……?」
治五郎がいった。
「あれは大山中将です」
卒然として、干兵衛は思い出した。
この早春、小石川の三島県令の屋敷に三遊亭円朝を運んでいった日、待っている馬車のかげでお雛と話していた女の子を。――あのときはたしか、稚児髷《おちご》に被布を着て、ぽっくりをはいていたっけが。……
少女の服装が日本人離れしているのと、当人がいま向うむきに立っているので顔はわからず、かつまた陸軍卿兼参謀本部長閣下がこんな催しに出現しようとは思いもかけなかったので、それがだれか気がつかなかったが、あれはたしかに、大山中将|父娘《おやこ》にちがいない。そういえばあの父娘は、捨松さまが御帰国になる前から、何の用件でか、山川邸を訪れたのを、干兵衛もかいま見たことがある。――
ダンスの練習に、なるべく沢山の人を狩り出す目的で、かつまた先々のことを考えて、大人ばかりでなく、貴顕の子弟をも歓迎していることは、干兵衛もその眼で見て知っている。それにしても、あれは少し小さ過ぎるようだが。――
しかし、あの三島県令の転任祝いに、たとえ同郷とはいえ、やっぱりあの娘を同伴していったくらいの大山中将だから、このダンスの稽古に連れて来たのも不自然ではないかも知れない。
――実は、幼い娘のみならず、大山自身、ダンスの練習に懸命だったのである。
三、四年後の華やかな鹿鳴館時代の話になるが、当時すでに富豪であった貿易商大倉喜八郎が書いている。
「……ある夜、私が例の如く見物していると、下のダンス場にひときわ目立つ一組があるのです。二人とも男だが、その一人は力士のような大男、一方は人一倍痩せ細ったヒョロ男、御本人たちは手をとりあって一生懸命に稽古していたが、よくよく見るとこれはまた、件《くだん》の大男は陸軍大臣の大山巌さん、片方のヒョロ男は東京府知事の松田道之氏であった……」
見ていると、やがて捨松は身を起した。少女はひざを折って、西洋式にお辞儀をした。
すると、大山は――このころ陸軍卿大山巌は、捨松の長い手袋をはめた片手をとって、うやうやしく頭を下げて接吻した。
「何だ、あの真似は」
と、西郷四郎が舌を出して、ふりむいた。
「けど、さっきのお嬢さまの話は、ほんとですね、先生。あの大山中将が山川家にお嬢さまをお嫁にもらいたいと申し込んで来たというのは」
嘉納治五郎は、返事もせずにそれを眺めていた。
やがて大山父娘は馬車に乗り込んだ。その馬車はこちらの前方を通り過ぎ、門のほうへ去っていった。
遠目ながら、大山中将の顔は、馬車の窓いっぱいにひろがるほど、大きい、というより、際限なく膨張しているといった感じで、しかもその顔はアバタだらけであった。
見送って捨松は、また延遼館の中へ姿を消した。駐車場に馬車はギッシリ詰っていたから、こちらには気がつかなかったようだ。
「嘉納さま」
と、干兵衛は話しかけた。
「ほんとうでござりますか。大山中将がお嬢さまにそんな話を持って来たというのは」
「ほんとうだ。さっき、ここへ来る馬車の中で、捨松さんがそんなことをいわれた」
と、治五郎はうなずいた。
干兵衛は、ここへ着いたとき、治五郎がひどく悄然としていて、舞踏場の|のぞき《ヽヽヽ》見をせがむ弟子の四郎に、「お嬢さんがだれと踊っているか見てくれ」と、彼らしくもない用件を命じたことを思い出した。
「どうだろう、この縁談は」
「大山閣下に、いま奥さまがないのでござりまするか」
「この夏、亡くなられたそうだ。まだ赤ん坊までもふくめて、お嬢さんばかり三人あるそうだが――いまの娘さんは、あれでもいちばん上らしい」
してみると、この春、大山中将が三島邸を訪れたときはまだ夫人がいたということになるが、それでも娘を連れて歩いていたところを見ると、いかに中将があの娘を寵愛しているかがわかるというものだ。
「この夏に奥さまが亡くなられて、もう後添いを求められるとは、馬鹿に気の早いおかたでござりますな。そんなにせっかちなかたとは見えませんが」
「その三人の娘の世話を見てもらう必要もあるのだろう。しかし、お嬢さんのほうから見れば、そこが問題じゃ。年は……十八もちがう。アメリカの大学を出て帰って来たひとが、娘が三人もある家へ、わざわざ後妻にゆくことがあるだろうか」
「お嬢さまは、どうおっしゃっていなさるので?」
「むろん、そんな話がある、といわれただけで、本気に考えておられるとは思わんが……しかし、いま見た通りのありさまだしな。あのアメリカ帰りのレディの気持は、正直なところ、おれには雲をつかむようなのだ」
彼は頭をかきむしらんばかりであった。この武術を愛する学士が、こんなに煩悶する表情を見せたのははじめてだ。
「それで、おれも思い当ることがある。大山閣下は、そんな子供の世話のためばかりじゃない。そんな用なら、ほかに適当な女がいるだろう。どうやら、本気で捨松さんに惚れているようだ。早く申し込まないと、よそからとられると考えたのかも知れん」
「あのアバタが!」
と、西郷少年が憤慨にたえない口吻でいった。
「ダンスに娘を連れて来るのも、きっとお嬢さまに逢いたいからですよ。先生、お嬢さまを、あのアバタから護りましょう。……もともと僕たちは、捨松さまの護衛兵だったじゃありませんか」
「うるさい、子供がこんなことに口を出すな」
治五郎は一喝した。こういうイライラした表情も、この若いが落着きはらった先生には珍しいことだ。
この奇怪としかいいようのない縁談について判断をめぐらす前に、干兵衛は、それまで気にもとめなかったあることを、いまふしぎなものに思い起した。
「大山閣下といえば、ずっと以前から山川さまとおつき合いがあったようでござりまするが。……」
「大山中将は、ああ見えて、なかなかハイカラ好きのかたなんだ。ヨーロッパの兵制視察にもう二度も洋行しておられるし、一方山川先生も、長い間、欧米に留学していられたかただからな。そこで話が合うらしい」
嘉納治五郎は、自分でいって、いよいよ不安な表情をした。
「そこへ、捨松さんがアメリカから帰って来た。――大山中将が捨松さんに惚れたのは、そのハイカラ好みのせいもあると思う」
干兵衛は考え込んでいた。
いうまでもなく大山は、かつては会津の怨敵であった薩摩の男だ。げんに、薩摩への復讐のために、干兵衛自身西南の役に参加したくらいである。
とはいえ、いつまでもそのことにかかわってはいられない。そもそもその大山自身が西南の役には官軍の将帥として出動したのを見てもわかるように、あとになって考えれば、ばかばかしいような敵味方の混乱ぶりで、いま見わたせば依然として薩長が天下をとっているのだから、これにいちいち敵意を向けていては身が持たない。山川先生だって、だから恩讐を捨てて大山中将とつき合っていられたのだろう。
が――妹の捨松さまを、大山の花嫁にするとは?
大山巌、当時の大山弥助は会津攻撃の一将でもあった! 彼が薩軍砲兵隊の隊長として、いわゆる弥助砲をもって会津兵を砲撃したことを、干兵衛は忘れてはいない。いくら恩讐を捨てたとはいえ、山川先生もやわかそれは忘れてはいられまい。
「その御縁談は成り立ちますまい」
干兵衛は、粛然といった。
九
夕暮とともに、ダンスの練習に招集された人々は、波のように去ってゆく。車置場の馬車も、徐々に姿を消してゆく。
その終りごろ、干兵衛たちは、延遼館から出て来る客たちの中に、変な異人のお面や黒い眼かくしをしている者が、チラホラ見えるのに、首をひねった。
――あとで知ったところによると、捨松とともにダンスを指導していたヤンソン夫人が、日本人のひっこみ思案を解消するため、来《きた》る十二月二十四日、耶蘇《やそ》降誕前夜祭に、仮装舞踏会なるものを開こうという計画を持ち出していて、その日、その仮装用の西洋の仮面やマスクの見本を持参したらしい。で、練習の終りごろ、それをならべて見せたのを、何人かの客がもらって、面白がってそれをつけて、馬車に乗り込む者があったのである。
「わあ、ありゃ何だ?」
西郷少年はまた奇声を発した。お雛も眼をまるくしている。
さっき蜜蜂女や燕男といったのは、客の中の、卵形のタガ骨で支えられたスカートをはいた女性や、燕尾服を着た紳士を見てさけんだのだが、こんどはそんな連中が、異人のお面や黒いマスクをつけて出て来たのだから、おったまげたのは当然だ。
これも驚いて見ていた嘉納治五郎も、やがて、
「あれは西洋舞踏の余興用だろう」
と、さすがに学士だけあって、推察した。
やがて、ほかの馬車はほとんど帰ってしまい、軍楽隊も引揚げてしまったが、捨松嬢はまだ出て来ない。
――はてな?
と、首をかしげたところへ、やっと彼女は玄関に現われた。中年の外国女性といっしょであった。そして捨松は手をあげて、さしまねいた。
嘉納治五郎が駈けていって、何か話をしていたが、やがてひき返して来て、干兵衛にいった。
「おい、捨松さんは、今夜横浜へゆかれるそうだ」
「えっ?」
「あの異人の女な、あれはドイツ人の貿易商の奥さんで、やはりダンスを教えている人だが、ちょっと相談事があって、捨松さんは、横浜にあるヤンソン屋敷へゆかれるという。あした帰るか
ら、心配しないように山川先生に伝えておいてくれとのことだ」
――これもあとになってわかったことだが、ダンスのレッスンが進んで来たとき、ヤンソン夫人のヨーロッパ式と捨松のアメリカ式と微妙なくいちがいのあることがわかって来て、その調整のための話し合いに捨松は招かれたのであった。
ヤンソン夫人の馬車は、捨松を乗せて出てゆく。
それを見送って、干兵衛たちがそこを離れたのは数分後だ。最後の馬車であった。
表門を通過しようとすると、門番が一人寄って来た。
「おう、さっきの見廻組か」
と、呼びかけた。斎藤歓之助であった。
そのまま彼は、右手を耳のうしろにあてて、じっと前方を眺めている。
前方には、運河にかかる橋がある。御浜御殿は、東南、西南の二面は東京湾に面し、あとの二面は運河に囲まれた一劃で、門は東北に向いているが、橋やその向うには何の影もない。海から吹く夕風に、晩秋の林がゆれているばかりだ。
「どうかなされたか」
「いま通っていった異人の馬車な。……殺気の雲に囲まれておるぞ」
「な、なに?」
声を発したのは、窓から首をつき出した嘉納治五郎だ。
先に出ていったはずの馬車は、林を廻ったと見えて、その影は見えない。彼らの耳には何も聞えない。
「殺気とは何じゃ」
「殺気とは殺気」
「何か聞えたのか」
「耳は遠い。……ただ、それだけはわかる。いって見なされ、わしもゆこう」
と、いいながら、その老門番は扉をあけて、ヨタヨタと馬車に乗り込んで来た。――治五郎は、
先刻の干兵衛とこの門番との会話を知らない。
「おいっ、……干潟さん、この爺さんは何だ」
答えず、待ちかねたように、干兵衛は二頭の馬に鞭をあてた。
馬車は、昔からのまま大手橋と呼ばれる橋を渡り、砂塵をあげて走った。
橋を渡ったあたりは、旧幕時代、奥平大膳太夫の屋敷だった場所で、このころは空地となり、
さらに林となっていた。道の左側は運河となっている寂しい場所だ。
いかにも、ヤンソン夫人の馬車は、十人余りの黒紋付の男たちにとり巻かれていた。
いや――すでに捨松は、幌をかけたべつの相乗り俥に乗り移ることを命じられて、その蹴込みに足をかけたところであった。相乗り俥とは、二人ならんで乗れる人力俥だ。
ヤンソン夫人の馬車はそこで停められ、二、三人の壮漢が乗り込んでこれを強制したのだが、捨松はむろん、ヤンソン夫人も怖れ気もなく彼らをなじり、襲撃者としては思いのほかに手間暇がかかったのである。が、それでも何とかして命令に従わせたのは、彼らのうちの二人が持っているピストルであった。
「こらっ、それ以上、近づくなっ」
追って来た馬車を見て、そのピストルを持った一人が駈け寄って来てわめいた。
「それを撃てば、延遼館まで聞えるぞ。この騒ぎの物音さえ聞えた」
と、扉をあけて、いい返したのは老門番であった。
襲撃者たちは、ちょっとひるんだ。距離からして、これまでの物音が聞えたはずはないが、げんにその延遼館の制服を着た門番が来ているのだから、ぎょっとせざるを得なかったのだ。
干兵衛は、委細かまわず、馬車をすすめた。自分にむけられたピストルを無視したわけではないが、あきらかに捨松さまを誘拐しようとしているとしか思えない前方の光景に、われを忘れたのだ。
「来ると、ほんとうに撃つぞっ」
捨松にピストルをつきつけた、べつの一人がさけんだ。
さすがに干兵衛は、手綱をひいた。老門番をおしのけて、嘉納治五郎が飛び出した。
「あいつだ!」
「上野で邪魔をしやがったあいつだ!」
絶叫が聞えた。……人数はふえているが、あの日の連中の一味であることが、それでわかった。
治五郎は駈けた。壮漢たちは飛びかかった。二人、三人、相ついで宙を飛び、左側の運河に水けぶりをあげた。治五郎はまるで阿修羅のようであった。
「斬れ! 斬れ!」
発狂したような声とともに、数本の白刃がひらめいた。ステッキの仕込杖を抜いたやつがあったのだ。
その刀の下をくぐりぬけ、さすがの治五郎も河沿いふちに立ち、ついにこれまた懐ろから短刀を抜いた。いかに柔道の開祖たらんとしていたとはいえ、いつかのことがあって以来、万一に備えてそんなものを用意していたのである。
それを半円形に、三本の白刃がとり巻いた。
この混乱のために、ほかをかえりみるいとまもなかったが――この寸前、馬車から少し離れたところで、蟇を踏みつぶしたような声が聞えた。
そこにピストルをかまえて、この争闘に向けていた壮漢の背後から――いや、天から飛び下りて来た者があったのだ。それは馬車から、一間半ちかい距離を飛んで来た西郷少年であった。
彼はその壮士の首ったまに、肩ぐるまになって飛び乗った。怪声を発して、蟇みたいにへたばった男から、西郷四郎はまた跳躍して、先生を追いつめていた男たちの背後に立った。
「こっちを向けっ」
声とともに、轟然たる音が、壮士たちの頭上をうなり過ぎた。その手に、ピストルが握られていた。――いまの奇襲の刹那に、彼はそれを壮漢の手から奪いとっていたのである。
相ついで、二発目の銃声が鳴った。これは別の場所で、地上からであった。
捨松にピストルをつきつけていた男は、突撃して来る治五郎に狼狽し、相乗り俥の俥夫たちに、「その女を乗せろ、早く俥を出せ!」
と、地団駄を踏みながら、そのピストルをふりかざした。
その腕を、ぴしいっと何かが打った。ピストルは宙を飛んで地に落ち、そこで自然に発射した。仰天しつつふり返った男の面上を、第二撃がたたいた。男は倒れた。
そこからまだ二間もあるところからの干兵衛の例の長い鞭であった。彼もまた馬車から飛び下りて、そこまで来ていたのである。
「……いかん! ひきあげろ!」
向うで鋭い声がした。
干兵衛は眼をあげて、落葉した樹の下に立っている一人の男の姿を見とめた。やはり黒紋付の壮士風であったが、ヒョロリと高い姿に、これまたステッキをついている。が、それ以上に干兵衛に「おや」と思わせたのは、その男が、眼に黒いマスクを――さっき、延遼館から出て来た客がつけていたのと同様の――眼かくしをつけていたことであった。
「やめろ、退却じゃ!」
男の叱咤に、壮士たちは逃げ出した。転がっていたやつも起き上って、つんのめるようにあとを追う。
「おい、河の中にもおるぞ」
治五郎が声をかけた。
「帯でも垂らして、救いあげてやらんか」
そして彼は、捨松のほうへ駈け出した。
十
男たちは狼狽しながら逃走した。
あとに残された――捨松を乗せようとした相乗り俥の俥夫たちに聞くと、これはすぐそこの三十間堀を流していたところを、壮士たちにつかまって連れて来られたと、ふるえながらいうだけであった。
相乗り俥を選んだのは、捨松といっしょに乗って、悲鳴もあげさせないようにピストルでおどしながら走るつもりであったろうか。
「干潟さん、いまの男、マスク――眼かくしをしておったな」
と、治五郎が、捨松の手をひいて戻って来ていった。
「あれは、まさか、きょう延遼館にいってた連中じゃあるまい?」
自分の馬車のところに佇んでいた干兵衛は、しばらく考えて、
「ちがいましょう。あれは、さきほどの客のだれかが馬車から捨てたか、落していったものを拾ったのではありませぬか」
と、答えた。
改めて相乗り俥の俥夫に訊くと、はじめ自分たちを連れて来た連中の中には、マスクはおろか、あの男自身いなかったようだ。……いつあそこに現われたのか、それさえ気づかなかったという。
それからまた俥夫たちは、男たちはここで延遼館から出て来る馬車を見張ってはいたが、いまの馬車にめざす人間が乗っていたとは意外であったらしく、いったんゆき過ぎてから、「あれだ、あれに乗っておるぞ!」と気がついて、追いかけた事実も述べた。
干兵衛は、眼を宙にあげて考えていた。いまのマスクをかけた男を、どこかで見たような感じがしていたのだ。たしか、いままで自分とかかわり合ったさまざまの壮士たちの中に。――だが、さて、それがどうしても思い出せない。それとも、会津で知った人間であったろうか?
治五郎は、捨松に話しかけていた。
「どうやら、あなたを誘拐しようとしたらしいが、これはいよいよもって危険な連中ですな」
「それで、気がついたこと、あります」
と、捨松がいった。
「あの男たち、わたし誘拐して、身代金、とろうとしたのでは、ありませんか」
「えっ、身代金?」
「そのほか、考えられません」
捨松は、こんどは西郷少年に呼びかけた。
「四郎さん、そのピストル、貸して下さい」
西郷四郎は、さっき奪いとったまま、まだ片手にぶら下げているピストルに眼をやって、
「何になさります」
と、けげんな顔をした。
「それ持って、横浜、ゆきます」
「何ですと?」
嘉納治五郎は、眼をむいた。
「いま、こんな目にあって、まだ横浜へおゆきになるおつもりですか!」
「こんなことで約束破っては、日本人の恥、ありますから」
捨松は微笑んだ。
「かえって、もう大丈夫、ありますでしょう。それに、そのピストル持ってれば。……あなたたち、帰って下さい」
彼女は、めんくらっている四郎から、ピストルをとりあげた。
そして、どうすればいいのか、判断に苦しんでいる干兵衛たちの前から、捨松を乗せたヤンソン夫人の馬車は動き出し、薄暮の中を駈け去った。
「いや、これは面白いものを見た」
ふいに、しゃがれ声が聞えた。
「近来、珍しい手並じゃな」
彼らはふり返った。いつのまにか、老門番が馬車から下りて、棒をかかえて背後に立っていた。「そこで、相談がある。……その若い衆、わしとひとつここで立ち合って下さらぬか?」
「立ち合う?」
門番は、タ闇を迎えた梟《ふくろう》みたいにうれしげな――が、くぐもった笑いをもらした。
「いのちをかけて、勝負するのじゃ」
嘉納治五郎は、不審な表情を干兵衛にむけた。
そもそも彼は、さっきその門番が殺気云々といったときから、変な爺いだな、と、首をかしげていたのである。彼は改めて、もういちど訊いた。
「干潟さん、あれは何者ですか」
「……斎藤弥九郎先生、というお名前を御存知でござりますか」
と、一息ついたのち、干兵衛はいった。
「おう、知っておる。たしか旧幕のころの剣術の達人。――」
「あれはその御子息で、かつて練兵館の鬼――鬼歓――斎藤歓之助とおっしゃる御仁です」
治五郎は、眼を見張って、背は高いが痩せこけた、落魄の翳の濃いその老人を見つめた。
「それが、いま、延遼館の――?」
干兵衛は、あわてていった。
「いえ、この斎藤先生は、残る一生ただいちど、これはと思う相手といのちがけの勝負をして見たいと、それをいまも念願して生きておられるそうで」
さらにあわてて、つけ加えた。
「しかし、いまの世に、左様なお望み、いかがなものでしょうかなあ?」
「何にしても、せっかくの御所望だが、私の柔道は、敵と決闘するためのものじゃない。……人間としての修行の一法として私は始めたつもりだ」
「しかし、いまのような場合もあるではないかの?」
老鬼歓は、義眼のような眼で治五郎を見すえていった。
「そういう望みを持っておる老人とやり合って見るのも、人間修行の一法だとは思われんか?」
十一
「馬鹿な。……それに、どうやら、身体も不自由のように見えるではないか」
嘉納治五郎は、相手を見あげ、見下ろしていった。さっきから、この老人が足をひきずっていたことに気がついていたのみならず、いま見ても、あきらかに左半身の動きがおかしい。
「前に、中風をやられたそうで」
と、干兵衛がいった。
そのとき、斎藤歓之助の右手の棒があがって、治五郎の胸にじっと向けられた。
けげんな表情でこれを見ていた治五郎が、ふいにはっとして半身に構え、その眼がひろがった。……まさしく彼は、さっき干兵衛が味わったのと同じ恐怖を、その棒の尖端から吹きつけられたのである。
「片手で大丈夫」
と、老門番は、きゅっと唇をまげて笑った。
「しかもな、無手の貴公に、この棒で立ち向うというのではない。わしもまた無手をもってお相手しようというのじゃ」
「なに?」
眼を見張る治五郎の前で、歓之助は、
「おい、関根さん、これを頼む」
と、右手の棒を遠く放った。
それをあわてて受けとめたのは、もう一人のふとっちょの門番であった。やっと彼も、歩いてここまでのぞきにやって来たらしい。
「斎藤先生、いよいよやられますか」
と、いう。歓之助はうなずいた。
「うん、やっと一応やってもよい相手が見つかったようじゃわい」
そして、彼は、右手一本をヒョロリと前へ突き出した。
「これが棒の代り」
見ていた西郷少年には、このえたいの知れぬ老門番が、若い師匠をからかっているように見えた。
たしかに斎藤歓之助は、意識して、そう見える態度をとっているようであった。一方でまた、がつがつしているようでもあった。相手を怒らせ、のっぴきならぬ立場に追いこんで自分の念願を果そうという、彼なりの策らしい。
「先生、とにかくやって下さい」
四郎は、顔を赤くしてさけんだ。
「そんなナマイキな爺い、河へ放り込んでやればいい」
「ああ、そうじゃ」
と、歓之助は、笑いながら同僚にいった。
「わしに万一のことがあったら、兄へ連絡してくれ」
「宮内省の斎藤新太郎さん、ですな」
「左様」
いうなり、老鬼歓は、治五郎のほうに、三、四歩、歩み寄り、
「いやーっ」
と、夜鴉みたいなさけびを発した。同時に右半身になり、その右手を前に突き出した。――掌はかろく四本の指を折っている。
じいっと立ちすくんでいた嘉納治五郎の顔に、決然たるものが動いた。
相手の唐突な挑戦にも、そのだだッ子じみた執拗さにも吊られる気はなかったが、このとき相手の構え――というより、その枯木のような姿から吹きつけて来る寒風、さっきその老人自身が口にしたいわゆる殺気に毛穴を吹かれて、彼ははじめてこれが実に容易ならぬ敵だと感得したのである。
理性の上ではなお不可解なものを残しつつ、すでに彼の肉体は反射的にこれに応じていた。
彼は右自然体に構えた。――
干潟干兵衛は、馬車のそばに、黙って立っていた。
鬼歓の念願が、嘉納治五郎に白羽の矢を立てようとは思いがけなかった。とめるきっかけもないほどで驚いていたが、しかし、両者、武器なしと知って、やや安心した。むしろ、そのなりゆきに好奇心さえ抱いた。しかし彼のそんな気持はほんの寸刻の間であった。
「突きい!」
ひっ裂けるような声とともに、鬼歓は躍りかかった。
老人とは見えない――いや半身不随とは思えない跳躍であった。実に彼は、右足一本で飛んだのである。しかも、伸びて来た右腕が、治五郎の眼には三倍くらいの長さに見えた。
彼は身をのけぞらしながら、飛びさがった。
「突き、突き、突きい!」
老鬼歓は、片足で追いすがった。
嘉納治五郎は、みずから柔道なるものを創造するまでに、いくたの古来の柔術家と試合をした。彼が教えを受けた天神真楊流の福田八之助、磯正智、起倒流の飯久保恆年など、真に名人といっていい人々であった。が、いまだかつて、これほど凄絶な相手にめぐりあったことがない。
さらにまた、研究途上、むろん唐手や拳法なども参考にし、その道の達人とも試合したことがあるが、この斎藤歓之助という剣の鬼才のなれの果ての、文字通りの「片手突き」は、それらとはまたちがっていた。おそらくそれは、彼独特の剣の突きを、半身不随という欠陥の中に生かそうとした、これまた鬼歓の独創的な新武術ではなかったかと思われる。
半身不随はハンディキャップとはならなかった。それはかえって、相手を驚愕狼狽させる奇怪な襲撃のフォームとなった。
「突き、突きい!」
それは、キ、キ、キイッとも聞え、まさに怪鳥《けちよう》のさけびとしか思われなかった。
そして、一本足で飛びに飛ぶ姿は、黒い五位鷺というより、これまた怪鳥としか見えなかった。枯葉がその姿をめぐって旋転した。
治五郎は、うしろざまに逃げた。反撃の機はないかに見えた。
「あっ……あっ」
と、こちら側で西郷四郎はさけんだ。しかも、軽快むささびのごとき四郎が、たださけぶばかりで、その間金縛りになっているほかはなかったほど恐ろしい怪門番の猛追ぶりであった。
実際に治五郎に、反撃の機はなかった。彼は河のふちに追いつめられた。
「突きいいいっ」
絶叫して、最後の一跳躍を試みようとする老鬼歓の眼前に、馬の顔が出て来た。
さすがに斎藤歓之助も、その直前に馬車が動き出しているのに気がつかなかった。……一本足でたたらを踏む彼と治五郎の間に、馬車が割ってはいった。
「これは、どうして動き出したものか。どうっ」
と、馭者台で、干兵衛は馬を叱った。
「邪魔するか!」
老鬼歓は血走った眼でさけんだ。
「斎藤先生、まさか殺生までなさる気ではござりますまい」
と、干兵衛はいった。歓之助老人はしばらく干兵衛を眺めていたが、やがてまたきゅっと苦笑の顔になって、二本足になった。
「さっき見たときは、もうちょっとましかと思ったが、少し買いかぶり過ぎたようじゃな」
と、息をついていった。治五郎のことだ。
干兵衛は馭者台から、反対側を見下ろした。
河っぷちに、嘉納治五郎は坐って、両手を地面についていた。頭を垂れて、顔は見えないが、肩がふるえている。枯葉が雨のようにその背を打った。
それは、これ以上ない敗北の姿であった。好んでやった試合ではないとはいえ、日本伝講道館をひらいて以来、この若い指導者が、無手の敵を相手にこれほど惨たる敗北を喫したのは、はじめてのことであった。しかも、それは半身不随の老人だというのに。――
十二
一週間ばかり後。――それは、正確にいえば、十二月六日の午後のことであった。
干兵衛は捨松さまを馬車に乗せて出かけた。延遼館へではない。――前日、山川健次郎からその訪問先を告げられたとき、四郎がのどの奥で変な声をたてたが、それは赤坂青山の大山陸軍卿邸であった。
西郷四郎は、毎日、下谷の道場からかよって来るから、このことは師匠に伝えたろうに、治五郎も四郎も、その日、山川邸へやって来なかった。――
もっとも治五郎は、あの「延遼館門外の決闘」以来、顔を見せない。四郎に聞くと、あれ以来治五郎は、道場にひとり端坐して考え込んでいるということであった。
で、その日は干兵衛だけが、捨松お嬢さまを馬車で運んでいった。
青山の大山邸は、山川邸にくらべると、その敷地は何倍か、何十倍か、門から玄関までいっただけの干兵衛には見当もつかないほど宏大なものであった。市街を見下ろす高台にあって、西空には遠く、しかしはっきりと白雪をかぶった富士が見えた。
そして林を背にしたその邸宅は、ただ煉瓦作りの洋館というだけではなく、塔みたいなものまであり、干兵衛がどこかで見た西洋の絵本の中の家そっくりであった。彼は、先日嘉納治五郎が、「大山中将は、ああ見えて、なかなかハイカラ好きのかたなんだ」といったのを思い出し、「なるほど」と思った。
大山中将は、みずから玄関まで出迎えた。着流しに兵児帯をまきつけたくつろいだ姿で、幼い女の子の手をひいていた。
その風貌を、後に「不如帰」の中で、蘆花は書く。
「……体重は二十二貫、亜剌比亜《あらびあ》種の逸物も将軍の座下に汗すと云う。両の肩怒りて頸を没し、二重の顋《あぎと》直ちに胸につづき、安禄山風の腹便々として、牛にも似たる太腿は行くに相擦れつ可し。顔色は思い切って赭黒く、鼻太く、唇厚く鬚薄く、眉も薄し。唯此体に似げなき両眼細うして光|和《やわ》らかに、宛《さ》ながら象の眼に似たると、今にも笑まんずる気配の断えず口辺《くちもと》にさまよえるとは、云う可からざる愛嬌と滑稽の嗜味をば著しく描き出《いだ》しぬ」
おまけに、顔全面は|あばた《ヽヽヽ》に彩られている。人間の外貌の美醜にあまり関心のない干兵衛にも、それはまさしく巨大なる怪物に見えた。
ただ、その手にひいている女の子は、これがこの人物の娘かと疑われるばかり色白で細面の美しい子であった。むろん、干兵衛が何度か見た例の信子という少女だ。のちに聞けば、この夏に亡くなったその子の母は、薩摩でも評判の美人であったという。
「また、あったね」
と、お雛がさけんだ。
干兵衛が、いつぞや三島邸や延遼館でかいま見たことを告げると、大山中将は呵々大笑した。そして、
「そん子も来たらよか。信子と遊んでやっちょくれ」
と、いった。
それで捨松は、お雛も連れて、家の中へはいっていった。――
干兵衛は、馬丁に案内されて、大山家の厩のほうへ馬車をまわして、そこで待つことになったのだが、そこで馬丁と煙草をのみのみ、何とも面白い話を聞いた。
「うちの大将は、恋わずらいをなすってるんだよ」
と、馬丁はいうのであった。
「いや、冗談をいってるんじゃない。ほら、惚れたあまりに、寝ては夢、起きてはうつつ、半病人みたいになるってことがあるだろ。なに、ただ話だけで、これまでおれも実際に見たわけじゃない。――あっても、そりゃ、ナヨナヨした娘か色男の話かと思ってたら、なんとまあ、うちの大将閣下がそういうことになられたから胆をつぶした。――お前さんとこのお嬢さまが、アメリカからお帰りになったのを、一目見たとたんにだよ!」
「やっぱり、そうか。……」
「あ、お前さんも知ってるのか。しかし、こんな話は知るまい。――それからまもなくね、閣下は眼の手術をお受けになってね、大学の病院で、眠り薬――じゃあねえ、それ、麻酔ってえやつをかけられなすったのさ。すると、そのとき。――」
当然笑うべき話なのに、馬丁は大まじめであった。
「うちの大将は、ふだんほんとにしゃべらないおかたさ。いま玄関で何かものをいってなすったが、おれなんか十日ぶりに閣下のお声を聞いたくらいさ。それくらい黙りん坊のおひとがね――麻酔を受けている間、しゃべりつづけにしゃべり出しなすったそうだ。それが、表向きには天下国家のことばかりだってえことになってるけれど、なんと実は、あのお嬢さまのことばっかりだったってよ!」
これには、干兵衛も破顔した。
「いえ、これは悪口じゃない。うちの大将が本気だってことをいいたいためなんだ。だからお前さんも、閣下が本気だってことを、それとなくお嬢さんにいってくれ。頼むぜ。……」
馬丁がいってしまってからも、干兵衛の顔にはまだ笑いの影が残っていたが、やがて彼は考えこんだ。
実際に、大山閣下から結婚申し込みのあったことは、嘉納治五郎から聞いている。
そして、捨松さまは、きょうひとりでここへ来た。それは、その話にかかわりのあることだろうか。
ひょっとしたら、捨松さまは、そんな話をきっぱり断わりに来られたのではあるまいか。少なくとも、どうやらきょうの訪問は、先日延遼館のダンスの稽古の際招待されたものらしいが、それに応じてやっておいでになっただけに過ぎないだろう。
「どう考えても、この縁談は成りたちそうにない」
と、彼は独語した。
いまは陸軍卿という顕職にあるが、かつては会津を攻めた薩将で、あばただらけの肥大漢と、アメリカ帰りの会津娘。――年も、一方は四十何歳かで、一方はまだ二十三歳、おまけに向うには三人もの子供衆がある。
あのお嬢さまに、三人の娘の母親になれというのか? 彼はもういちど笑い出した。
夕方になって、干兵衛にも台所から食事が出た。捨松とお雛が出て来たのは、もう夜になってからであった。お雛は、両腕いっぱいに、お菓子やおもちゃをかかえていた。
「おう、何をして遊んでもらった?」
と、干兵衛は眼をまるくして訊いた。
「ダンスしたよ!」
と、お雛は答えた。この子には珍しく、昂奮に頬を真っ赤にひからせていた。
「あの女の子があたいにおしえて……お嬢さまが、あのふとったひとにおしえて……」
捨松が、笑いながら、お雛の頭をかるくぶった。彼女もまた珍しく浮かれて華やいでいるように見えた。
――同じ夜に、斎藤歓之助が殺されていたことを干兵衛が知ったのは、十二月九日のことである。
十三
その日、干兵衛は、山川健次郎に数枚の新聞を見せられた。
「おい、いよいよ福島県に騒ぎが起ったぞ」
健次郎は、干兵衛が馬に飼葉《かいば》を与えているところへ、わざわざその新聞を持って来て、渡してくれたのだ。
「なに、きょうがはじめての記事じゃないが、ついお前に見せてやることを忘れておった。それというのも、お前がいまの会津にあまり関心がなさそうに見えたからだよ。しかし、まあ一応読んでみるがいい」
干兵衛は、あまり頻繁に新聞を読むほうではない。少なくとも、買ってまで読むことは少ない。
しかし、客が馬車に残していったものなどがあるときは、あとでていねいに読む。――おそらく、もし旧幕時代に新聞というものがあったら、案外熱心な読者ではなかったか、と、自分でも思うことがある。
たまに熱心に読むのは、そんな素質の名残りに過ぎないようだ。この天下国家に何が起ろうと、いまの干兵衛には、それほど関心はなかった。
その十二月九日の「朝野新聞」は、
「深夜福島の無名館を襲い
河野|広中《ひろなか》等一味を拘引す」
という見出しのもとに、
「去る一日の夜十二時ごろ、福島県福島の自由党員集会所なる無名館へ、警部巡査、福島監獄署の監守ら都合四、五十名、突如表門を蹴破り闖入《ちんにゆう》し……」
河野広中ほか自由党員らを捕縛したという記事であった。
十二月四日の「東京日日新聞」もあった。
それは福島県下|耶麻《やま》郡で、先月二十八日、三千人もの農民が暴動を起し、警察署を襲うという事件が起り、以来警察のほうでは主唱者四十余人を逮捕し、なお余類を追及中の旨報道されていた。
原因は、三島県令が実行しようとしている三方道路があまりの苦役だから、ということらしい。――いつか、山川先生がいった通りだ。
「ふうむ。……」
と、うなずいたが、身にシミた感激が湧かない。
まがりなりにも東京暮しがかれこれ十年ほどにもなる彼としては、あたりまえかも知れない。また、心配したところで、一介の馭者たる自分にはどうしようもないと考える。
それに会津を想うとき、干兵衛の胸に浮かんで来るのは、どうしても御一新前のふるさとであった。それ以後の会津も、下北から上京するとき立ち寄って知ってはいるのだが、記憶としては空白なのだ。いまの会津については、山川先生に見ぬかれたように、まず関心がないといってよかった。ただ、故郷の人々が安らかに暮してゆくことを祈るだけだ。
「おや?」
ふと、その「朝野新聞」の一隅の文字に吸われた眼を、干兵衛はみるみる大きく見ひらいた。
「去る十二月七日午前七時頃、京橋区|木挽《こびき》町八丁目雑木林中に官服を着たる老人の屍体あるを発見したるをもって、ただちに警視庁出張検視ありしに、右屍体は延遼館門監斎藤歓之助氏(五十)なること判明せり。左胸部に刺創ありたるにより、何者かに殺害されしものと認定せられ、目下その犯人捜索中なりと云う」
背にさっと水が流れた思いであった。
むろんその衝撃は、ほんの先日逢ったばかりの人間が死んだという驚きにもとづくが、またそれがあまりにも印象的な――武術の老魔人というしかない人物であったからだ。
あの人が、殺されたと?
胸に刺し傷があったという以上、だれかの手にかかったに相違ないが、あの老魔人を殺したのはだれだ?
記事は短く、ただそれだけであった。明日以後、続報が出るのかも知れない。
彼は、あの延遼館の門番のことを、山川先生に話していない。歓之助と嘉納治五郎との凄絶な決闘は、捨松お嬢さまが異国の夫人の馬車でいってしまったあとのことだから、捨松さまも御存知ないだろう。山川先生がこの記事に、べつに大した注意も払わなかったらしいのはもっともだ。
しかし、嘉納治五郎は知らないのか。
そういえば、治五郎はその決闘の日以来姿を見せないし、四郎もここ三、四日――そうだ、自分が捨松さまを青山の大山邸へ連れていった日からやって来ない。
延遼館へゆく日は、三日後であった。そこへゆけば、もっと詳しいことがわかるだろう。干兵衛は、その日を待つしかなかった。
西郷四郎が来たのは、その翌日のお昼ごろであった。しかも彼は、門をはいって来ると、その足ですぐに干兵衛のところへやって来たのである。
「干潟さん、助けて下さい」
少年は蒼い顔をしていった。
「どうしたんだ」
「先生が警察につかまったんです」
「なんだと?」
干兵衛は眼をむいた。
「なんで?」
「こないだ先生を負かした延遼館の門番がいたでしょう。あれが殺されたんです」
「……それは、知っておる」
「その下手人の疑いで」
「嘉納さんが! いつ?」
「おとといの晩」
つまり、八日の夜――屍骸が発見されたのは七日の朝ということだから、その翌日の夜ということになる。
「どうしてまあ、嘉納さんが下手人などいうことになったんだ?」
干兵衛は動顛しながら訊いた。
これに対して、唇をわななかせながら四郎がしゃべったのだが、その内容は、治五郎がつかまってから、二日という時日がたっていたので、その間に判明した事実の知識が加わっていたものと思われる。
延遼館の門番斎藤歓之助が屍体となって発見されたのは七日の早朝であったが、彼が殺されたのは、その前日の夕刻のことではなかったか、ということであった。
それというのは、延遼館の門番は、客の多いときは二人で立っているが、ふだんは昼夜交替で勤務することになっている。六日はひまな日であったので、夜番に当る関根という門番が午後五時ごろ門にいって見ると、昼間勤めていた斎藤歓之助の姿が見えず、ただ控所の黒板に、「急にまた試合申込み者あり、一寸失礼。午後四時半、斎藤」という歓之助の文字が残されていた。
同僚の関根は、斎藤歓之助が武術の好敵手を求めていることを知っていた。それですぐにその意味を了解した。おそらく、その相手が突然やって来て試合を申し込み、歓之助はこれを受け、時間もそろそろ交替の関根が出て来るころなので、ひきつぎもせず出ていったものと思われた。
むろん、その試合をどこでやるものか知らなかったが、その翌朝、木挽町八丁目、すなわち延遼館を出て、橋を渡り、河沿いの道の右側の――元奥平家の藩邸だが、やがて逓信省がそこに設けられるという予定もあって、塀も屋敷もとり払われ、いまは空地になっている――雑木林の中で、斎藤の屍骸が発見されたのである。犬の吠え声に通行人がはいっていったのが、その端緒であった。
もとより、とっさにはその下手人は不明であった。ただ、それが、歓之助の書き残した試合の相手であることは充分想像された。また試合をやる以上、まだ地上に光のある時刻――おそらく歓之助が門を去った午後四時半のすぐ後のことと推定された。
そこへ、知らせを聞いて、宮内省の門番をやっている兄の斎藤新太郎が警視庁に出頭した。
――ちなみに、ここで作者が顔を出すと、この翌年の七月十一日の「郵便報知」に、「旧幕府の頃より府下に撃剣の達人として聞えし斎藤弥九郎の孫同|苗《みよう》新太郎氏は、昨日宮内省の門監を拝命されし」という記事があるのは、孫とあるところから見て、この新太郎の子息であろう。父の新太郎はこのとき五十六歳で、おそらく子息が父の名とともにその職もついだものと思われる。
さて、その斎藤新太郎が、弟の屍骸を見てさけんだ。
「突きでやられたな!」
そして、これまた名剣士であった兄はいった。
「この弟と果し合いしてこれを斃したやつは、ただものではござらぬ」
歓之助は、右手に棒をつかんで倒れていたが、ふしぎなことに笑ったような死顔をしていたという。
そこへまた、もう一人の門番関根が、思い出したことを訴えた。――それが、その一週間ばかり前、斎藤歓之助と試合して敗北した嘉納治五郎の名であった。関根は、延遼館へなんども来た治五郎を見知っており、またあの決闘を目撃していたのである。
「おまけに……先生がこのごろいつも短刀を持って歩いていたことまでわかったんです」
と、四郎はいった。
「あれは山川捨松お嬢さまをお護りするためだといってもきかれなかった」
「おい。……まさか、ほんとうに嘉納さんがやったわけじゃあるまいね」
「そんなことをいうなら、僕は干潟さんのところへ来やしない」
と、四郎は憤然とした。
「あの日、先生は延遼館の近くへなんかゆかなかったことは、僕が知ってる」
「ほう。……じゃ、なぜそのことを警察にいわないんだ」
「いえないんです」
「どうして?」
四郎は、歯をくいしばった。やがて、いった。
「先生から禁じられた」
「な、なぜ?」
「あの日の午後から夜にかけて、先生と僕はたしかに外出しました。だから、ほかの門人はそういうよりほかはない。僕だけが知っている。だけど、そのゆくさきを、死んでもいってはならんと先生に命じられたんです」
「どこへいったのだ?」
四郎は、涙のいっぱい浮かんだ眼で干兵衛を見た。
「苦しくって、きょう僕はここへ来ました。干潟さんだけに打ち明けて、どうしたらいいか、助けてもらおうと思って」
一息ついて、少年はいった。
「十二月六日の夕方、僕たちは青山の大山中将の家の庭にいたんです!」
十四
干潟干兵衛は、愕然としていた。――それは、自分たちもまた青山の大山中将の屋敷へいった日であった。
西郷四郎はいった。
そのことを前日干兵衛から聞いて、先生に話した。すると、先生は考えこんだあげく、いままで見たこともない暗い顔をして――このごろ、よくそんな表情を見せるが――おれたちも、そこへいって見よう、といった。しかも、捨松嬢を乗せた干兵衛の馬車とは別に、人力俥でゆこうというのだ。
そして、あの日、宏大な大山邸の塀を乗り越えて、二人は庭に忍び込んだ。それから、洋館をとり巻く森の中の一本の樹を探して、四郎がそれにのぼって、捨松嬢が通された一室の窓ガラス越しに、内部を偵察した。いつかの延遼館における物見の再現である。
それはのちに、蘆花によって、
「……肱近《ひじちか》の卓子《テーブル》には青地交趾《せいじこうち》の鉢に植えたる武者立の細竹《さいちく》を置けり。頭上には高く両陛下の御影を掲げつ。下《くだ》りて彼方《かなた》の一面には、『成仁《じんをなす》』の額あり。落款は南洲なり。架上に書あり。煖炉縁《マンテルピース》の上、隅なる三角棚の上には、内外人の写真七八枚、軍服あり、平装のもあり。草色の帷《カーテン》を絞りて、東南二方の窓は六つとも朗かに明け放ちたり……」
と、書かれた一室であった。
捨松が連れていったお雛は見えなかったから、おそらくお雛は大山中将の娘たちと隣室で遊んでいたのではないかと思われる。――そのとき、四郎は、大山中将が、なんと捨松の前に土下座して、何やら訴えながら、しきりに絨毯に大きな頭をこすりつけるのまで見たのである。
「そ……それを、なぜ警察にいわないのだ?」
と、干兵衛はいった。
「いうと、大変なことになります」
「いや、大山閣下のことまでいわなくてもよろしい。ただ、部屋のようすとか……とにかく、あの日、その時刻、大山さんの屋敷にいたという証がたてば。……」
「僕には、先生の心がよくわかります。泥棒みたいに塀を越えて、家の中を見張っていたことを、ある人に知られるより、死んだほうがましだ、と先生が考えられたことを。――」
「ある人とは?」
「捨松お嬢さま」
干兵衛は息をのんだ。ややあって、
「なるほど」
といった。恋する心、というより、侍の見地からそれを諒としたのである。
「干潟さんだけにいった。しかし、ほかのだれにもこのことはいえません。……それをいわないで、何とかして先生が無実であることを証明出来ないか。……その智慧を借りに、僕はここへ来たんです」
干兵衛は、腕組みをして考え込んでいた。
「それも、急ぐんです。先生がそんな疑いで警察につかまったことが世間に知られると、それだけでもう講道館はだめになります。僕もだめになります」
「斎藤新太郎という人の住所を知っているかね?」
と、干兵衛はいった。
「僕はここへ来る前に、その斎藤さんの家へいって話して見ようかと思って、調べたんです。本郷元町です」
「手紙を書こう。そこへ届けて……いや、投げ文をしてくれないか?」
「なんの投げ文」
「果し状じゃ」
「えっ?……こんどは干潟さんが、その斎藤新太郎って人と果し合いするんですか。何のために?」
「私がやるわけじゃない」
干兵衛は、そばにチョコナンと坐っているお雛をかえりみた。
「お雛。……父《とと》が呼べるか。お前には用はないが、祖父《じじ》に用がある。祖父《じじ》が、一生の頼みじゃ。父《とと》を呼んでくれ。……」
外には、雪がふりはじめていた。その年の初雪であった。
十五
宮内省門衛斎藤新太郎は、その夜、勤めを終えて本郷元町の自宅に帰って来て、妻から一通の手紙を渡された。手紙といっても、切手は貼ってなく、格子戸の隙間から投げ込まれてあったものだという。
ふしんな顔でそれをひらいて、彼の眼は大きくなった。
それには、去る六日夕刻、御舎弟歓之助氏を討ち果したのは自分である。ただしそれは怨恨その他悪意からではなく、ひとえに武芸を競うためで、かねてから歓之助氏が真に生命をかけた勝負をしたいと望んでおられることを承知していて、これは面白いと試合を申し込み、快諾を得たもので、しかも聞きしにまさる歓之助氏の技のため、その防禦のためにもああいう結果にならざるを得なかった、と、書いてあった。
さらにつづけて、その後聞くところによれば、その下手人として嘉納某なる者拘引せられ、警視庁においてお取調べ中の由、無実の疑いをかけられた当人が気の毒であるのみならず、聞けば嘉納某は廿歳《はたち》過ぎの学士とのことで、左様なものに討たれたとあっては、かえって斎藤歓之助どのの御面目にかかわることと存ずる、と、書いてあった。
そして、手紙はいう。
ついては貴殿斎藤新太郎どのも、御舎弟にまさるとも劣らぬ剣術家と承る。よって拙者が歓之助氏を斃した下手人であることを御確認のため、拙者を御覧になりにおいで下さるまいか。もとより確認のためには、両者剣をとって立ち合うこともやむを得ますまい。
御不安ないし御疑念あらば、警官を同伴さるるも可なり。されど、事情以上のごとくなれば拙者を逮捕云々は御免こうむりたし。警官はたんに立会人として、二、三名に限らるべく、大群をもって待ち受けらるるがごときことあらば、拙者出向かざるべし。
ただし、試合の結果、大兄個人の敵討ちとして拙者敗るるとも、それには不平なし。歓之助どの同様、満足の念をもって瞑目いたし候べし。
時刻は、明朝午前六時半。場所は、延遼館門外の元奥平屋敷跡。――
読んで、斎藤新太郎は、この手紙の通りにした。そして、三人の巡査にだけ同行を依頼し、その翌日、延遼館門外に赴いた。ただ、帯刀禁止令以後、数年ぶりに昔の愛刀を携えていった。
彼らは、六時ごろにそこに到着した。十二月十一日の午前六時といえば、まだ夜明け前の時刻だ。
「まだ、だれも来ておらぬ。――」
と、巡査の一人がつぶやいた。地上に薄くつもった雪を見てのことだ。
例年より早いきのうの初雪は、夜にはいっていちどやんだが、またこの未明からふりはじめて、雪は幻の蛾みたいに舞っていた。
巡査たちは、二人は林の中に隠れ、一人は道路側の崩れた築地のかげに身をひそめたが、十分もたたないうちに、
「ううっ、寒いっ」
と、林のほうで、たまりかねたような声がした。
「まだ、来るようすはないか?」
と別の声が訊《き》く。築地のかげの巡査が亀の子みたいに頭を出して答えた。
「まだじゃ」
「ほんとの下手人が、あんな手紙を寄越すじゃろうか。まさか、いたずらじゃあるまいなあ?」「下手人でなければ、あんな手紙を寄越すはずがない」
と、林と築地の中間の空地に立っていた斎藤新太郎が、うめくようにいった。
巡査たちは、それが下手人にまちがいないなら、むろん逮捕するつもりでいる。実は、その中に、新太郎には隠して、ピストルまで用意して来ている者があった。
斎藤新太郎が警察に連絡したのは、ただ彼が宮内省門監という職にあるための謹直さからに過ぎない。彼は手紙の用件に怖れをいだかなかったし、ここに来るのに何のためらいも持たなかった。
むろん、官服など着ていない。散髪《ざんぱつ》はしているが鉢巻をしめ、袴のももだちをとり、わらじをはいて大刀の|こじり《ヽヽヽ》をはねあげている姿は、薄明の中だけに、さっきその髪に白髪がまじっているのを見た巡査たちも、はて、あの人物の年齢は? と首をかしげたくらい勇猛の気を放っていた。
若い巡査たちは、斎藤歓之助の事件で、斎藤兄弟の素性は知ったが、さればとてこの新太郎が若いころ、その技、父をしのぎ、萩の明倫館で長州侍たち十余人を片っぱしから撃破するという勇名をとどろかした話は知らない。
斎藤新太郎は、弟のかたきを討つつもりでいた。性きわめて狷介な弟で、ふつうの意味ではそれほど愛情交流していたわけではなかったが、とにかく剣術の上では天才だと買っていた弟をみごとに仕留めたという相手に、激烈な敵意をいだかずにはいられなかった。そして彼は、むろん、弟はついに兄にまさらずという大いなる自負があった。
さらに十数分たった。
そのとき、遠くどこかで鳥のような声が聞えた。鳥の声というより、銀鈴のような。――
「あれは何だ?」
「小さい女の子の声じゃなかったか?……ひゃっ」
林の中で、悲鳴があがった。新太郎は猛鳥みたいにふりむいた。
「どうした?」
「枝の雪が、頸すじに落ちたのじゃ。……わっ、冷たい!」
「しっ」
築地のほうで、巡査がさけんだ。
「来た!」
「なに、来た?」
「あれかな?……雪で、よく見えぬ、どうやら軍人のようじゃが。……」
このころ、雪がまたはげしくなっていた。それが明らかに見えるほど、地上には蒼白い光が漂い出していた。
斎藤新太郎は、つづいて意外そうな声をもらした。
「軍人?」
「しかし、いまごろこんなところへやって来るのは、それにちがいあるまい。……おう、ゆっくり歩いて来るのに、あの迅さは何じゃ、もうそこまで来たぞっ」
「もういい、隠れておって下され。わしが相手になる」
と、新太郎はいった。巡査は、隠れた。
斎藤新太郎は、羽織をぬいだ。上半身は稽古着であった。
そこから、道路へ出るあたりに、ふっと黒い影が立った。六時半であった。
きゃつだ!
きゃつだ! というのは、いま巡査が教えた男だという意味で、新太郎の眼は、かっとむき出された。彼は、その男をはじめて見た。
そも、これは何だろう? さっき巡査が教えたように、まさに軍人には相違ない。下級兵士の服装をしている。が、何もしないうちから、その軍帽は裂け、軍服は血まみれであった。そして、その外形以上に、名状しがたい鬼気がその姿をつつんでいた。
「貴公、何者だ?」
と、新太郎はさけんだ。
兵士は答えず、こちらにはいって来た。そのあとの雪の上に足跡の残らない怪異に気がついたのは、あとになってからのことである。
「わしに手紙をくれたのは、貴公だというのか?」
相手はなお答えず、白い帯にたばさんだ刀を抜いた。
「歓之助を殺したのは、お前じゃな!」
新太郎はさけんだ。しかし、もとより聞くまでもない。――彼もまた、抜刀した。
相対した二人の間に、雪はしずかに降った。
最初の一瞬に、斎藤新太郎の頭をかすめたのは、これは剣術など正規に習ったことのない人間だ、ということであった。
が、次の数瞬に、彼は、これは人間ではない、と感じて、ぎょっとした。
「きえーっ」
五十五歳とは思えない裂帛の気合とともに、斎藤新太郎は真っ向から斬り下ろしている。すでにそれが、気合などではなく悲鳴であることを彼だけが知っていた。
たしかに、斬った。しかし、手応えはなかった。
相手は寂然として、もとの通り立っていた。その刀はまっすぐにのびて、きっさきは新太郎の左胸部にあてられていた。
軍帽の下の蝋色の顔が、はじめてにやっとしたようであった。
その剣尖《けんさき》は徐々に下り、ダラリと片腕に下げられた。そして彼は、そのままゆっくりと背を見せて、雪の中を歩き出した。
斎藤新太郎は、凍りついたように立ちつくしたままであった。
彼は、不可抗力的に自分が敗れたことを自覚した。同時に、弟を斃した者がまさにその男であることを――その男以外にないことも完全に認めた。
軍服の男は、往来へ出てゆこうとしている。
そのとき、轟然たる音が静寂を破った。男はゆっくりと首をうしろにねじまわした。が、すぐにまたもと通りに戻し、何事もなかったかのごとく、もと来た道を歩いていった。
ピストルを撃ったのは、林の中の巡査であった。彼らはむろん最初からいまのなりゆきを見ていたのだが、なぜか声も出ず、身動きも出来ず、ただその男が立ち去ろうとする際になって、はじめてその一人がわれに返って、しかもなお夢中になってひきがねをひいたのであった。
あとになって、築地のかげにいたもう一人の巡査が、弾はたしかに当ったといった。それは背から胸をつきぬけて飛び去ったとしか思われず、しかしその男は空気みたいに平気でいってしまったといった。
そのため、その巡査もまた恐怖のために金縛りになっていたのだが、それでも道路へ飛び出したのは彼がいちばん早かった。
往来に、いまの兵士の姿はもうなかった。
その代り、向うに一台の馬車の影が見えた。馬車は雪の中で、こちらに来ようとしていたのを、もと来たほうへ廻ろうとして輪を描きつつあった。
「おういっ、待てえ」
巡査が駈け出すと、林の中の巡査も転がり出して来て、そのあとを追った。
「こら、こっちにいま血だらけの兵隊が来なんだか?」
吼える巡査たちに、女の子を乗せた馭者台で、饅頭笠をかぶった馭者は首をふった。
「いいえ、だれも」
「そんなはずはない! その証拠に。――」
と、巡査は路上を指さそうとして――彼らはこのとき、はじめてそこに彼ら以外の足跡のないことに気がついて、唖然としたのである。
十六
十二月二十四日の午後、干兵衛が山川家の玄関に馬車を寄せたところに、嘉納治五郎と西郷四郎がやって来た。
「おう、これは嘉納さん。……」
と、干兵衛は白い歯を見せた。
治五郎が、あれから間もなく警視庁から釈放されたことは、四郎少年の報告で知っていた。しかし、居所としている下谷の永昌寺に帰ったあと、彼は寝込んでいるそうで、それも聞いていた。「元気になられたかね」
「いや、おかげさまで。……」
と、治五郎は頭を下げた。頬にまだどこかやつれのあとがあった。よほど今度の事件には参ったと見える。
「そのくせ、僕が助かった事情が、僕にはまだよくわからん。それについて聞きたいのだが、干潟さん、これからどこかへお出かけか」
「はい、これからお嬢さまを延遼館へ……そら、きょうは例の延遼館の仮面舞踏会で。……」
「ああ、きょうは十二月二十四日だったのか。クリスマス・イヴ。……」
と、治五郎が思い出したように手を打ったとき、玄関から、捨松が出て来た。例のボンネットをかぶっているが、眼には黒い大きなマスクをあてている。
「これ、似合いますか?」
と、笑った。
むろん、ここからそんなものをつけてゆく必要はなく、活発な性質からおどけて下女たちに見せて、そのまま現われたものだろうが、ふだん清潔な美人なのが、黒いマスクをつけると、白い頬と赤い唇との対照で、別人のように妖艶に見えた。
「あらっ、治五郎さん、久しぶりありますね」
彼女は治五郎に気がついて、
「どうしました?」
と、いった。捨松嬢は、嘉納が警察につかまっていたことさえ知らないのであった。
「は。……」
治五郎がモジモジしていると、捨松はまたいった。
「私、これから延遼館へゆかなくてはなりません。今夜、少し、遅くなりますが、待っていなさい。お話、しましょう。……そのとき兄から話すと思いますが、ひょっとすると、干兵衛の馬車、きょうで終りになります」
「えっ」
干兵衛は、眼をまるくした。
「もう、ダンス、教えなくても、よくなりました。それに、馬車も馭者も、大山中将、貸してくれるそうです。サンキュー、ヴェリマッチ、干兵衛」
捨松は、しかし干兵衛の馬車の扉に手をかけた。
「そして、もう私に乱暴する人、ないと思います」
「なぜですか、お嬢さま。――」
と、西郷四郎がさけんだ。
「私、大山中将のお嫁さんになるのです。近いうち、婚約、発表になるでしょう。大山中将は、全陸軍をもってしてもあなたを護る、いいます」
捨松は愉快そうに笑って、ふくらんだスカートを優雅にゆらめかせて、馬車に乗り込んだ。
干兵衛がお雛の待っている馭者台に乗り、門を出るとき、ちらっとふり返ったら、白い冬の日ざしの中に、嘉納治五郎と西郷四郎の師弟が、捨松さまの宣言を聞いたときの姿勢のまま、凝然と同じ場所に立っているのが見えた。
――山川捨松が大山捨松となったのは、その翌年のことになる。同じくアメリカに留学し、帰国後津田塾を創設した津田梅子などとちがって、彼女はそれっきり大山巌の巨大な影に隠れてしまった。
……年の暮、山川家を出るとき、干兵衛はオズオズといった。
「お嬢さま、例の御縁談、干兵衛にはやはり気にかかりますなあ。そんなにお若くて、しかもせっかくアメリカで学問しておいでなすったというのに。……」
「私は、私のすべてを、あの巌さんにあげるのです」
捨松は、昂然といった。
それから、彼女は、こんな場合に、可笑しくてたまらないように思い出し笑いをした。
「あのひと、おうちで、メイド呼ぶとき、ラッパ、吹くのです。……私、そのラッパになります」
アメリカ、ヴァッサー大学卒業の才媛は消えた。その代り、夫は大陸軍の総帥となった。彼が日露戦役の大司令官となったことは、だれも知る通りである。おそらく彼女は、その偉大なる軍人の中に溶け込んでしまったことに悔いのない生涯を送ったであろう。
しかし、干兵衛の取越苦労癖も、まったく当らなかったわけではない。――
大山の前妻の長女信子が、のちに三島通庸の長男弥太郎のもとへ嫁し、肺を患って破鏡の歎きのうちにこの世を去って、これが蘆花の浪子と武男となることは前に述べた通りだが、その悲劇をいよいよ効果的ならしめるために、蘆花は「不如帰」で継母たる捨松夫人を敵役に仕立てている。
例えば、大山は副官に歎く。「喃《なあ》難波《なんば》君、学問の出来《でく》る細君《おくさん》は持つもんじゃごわはん。いや散々な目に遭わされますぞ。あはははは」
それは小説にしても、現実に捨松がこの小説に悩まされたことにまちがいはあるまいから。――
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赤い盟約書
一
明治十六年二月七日の昼過ぎ、干潟干兵衛は、水道橋で二人の女客を拾った。
師走の初雪も例年より早かったが、いったいにこの年の冬は雪がよく降った。――中でも、この七日の昼ごろから八日にかけての雪は、当時の新聞に、「積ること四尺、帝都未曾有の風雪」と報じられたくらいである。
干兵衛が二人の女に呼びとめられたのは、その雪が降りはじめたころであったが、朝のうちは、風もないのどかな天気であったから、外出した人々があわてたのは当然だ。もっともその二人の女性は、お高祖頭巾《こそずきん》をかぶってはいた。
「鍛冶橋までお願い出来ますか」
と、見上げた眼は、頭巾の中に、どちらも若く美しかった。
「鍛冶橋のどこへ停めますか」
訊かれて、二人は顔を見合せたが、すぐに、
「監獄の前です」
「急いで下さいね」
と、決然とした調子でいった。
鍛冶橋監獄は、そこにある警視庁とともに、初代警視総監川路大警視が作ったものだ。そんなところへ、こんな若い娘が二人、どうしてまあ? というような不審顔は、干兵衛は見せない。「雪がふり出したもので、女の子が一人、中に乗っておりますがな。私の孫です。それでおよろしかったら」
と、干兵衛はいった。
女二人は乗り込み、馬車は動き出した。
鍛冶橋監獄へ近づくと、沿道に人々がならんでいるのに干兵衛は気がついた。雪のせいで、それまでの街路には人影もまばらになっていたのに、このあたりには黒山といってもいい人だかりだ。壮士風の男が、しきりに目につく。そして、場所柄とはいいながら、巡査がやけにあちこちに立っていた。
「こら、停れ」
ついに馬車は、その巡査に制止された。
「それ以上、いってはいかん。馬車を廻すこともならん。しばらく、そこに停っちょれ」
「へ? な、何でござります?」
「いまここへ、会津から重罪人が護送されて来る。それが監獄にはいるまで、静粛にしとれ」
干兵衛は、それではっと思い当った。数日前の新聞である。
「……福島県下の暴徒の東京へ召喚せられしは都合五十八名なるが、昨今迄に悉く同県地を発するの手続きにて、河野広中氏は多分一昨日出立せしなるべしと云う。よって来《きた》る十日頃には東京高等法院を開かるべき御見込なりとか聞けり。この者ども着京の上は、直ちに警視庁へ差送られ、鍛冶橋監獄署にては八房を空室となし置かるる由」
たしか、そんな記事であった。
その囚人たちが、いよいよ東京へ護送されて来たのだ。――その記事をふと忘れるほど故郷から遠ざかっていた自分だが、いま乗せて来た二人の女は、それを迎えるためにここに来たのにちがいない。どうして到着の時刻まで知ったのか不明だが、とにかくあそこで馬車に乗ったのは、ただ雪が降って来たせいばかりではなかったのだ。
その女たちは、馬車の外に下り立っていた。
いま来た方角から、沿道にどよめきが渡って来た。そして大通りを、おびただしい巡査に囲まれて、まさしく囚人たちの一行がやって来た。
六十人近い囚人は、ことごとく編笠をかぶせられ、うしろ手にくくりあげられている。着ているものは、この雪の中に薄着一枚で、その下は赤裸であった。その着物もあちこち破れた者が多く、しかも、あらわになった肌には、この道中につけられたものとしか思えない黒紫色の痣《あざ》の見える者も少なくなかった。
「河野さまはどれかしら?」
「広中さまは?」
二人の女は、のびあがって、ウロウロと眼をさまよわせた。
干兵衛はすぐそのそばに立って、囚人の行列より、女たちのほうへ注意を向けていた。この二人が、囚人たちに身寄りの者であることはたしかであった。そして彼女たちが、とんでもないことを仕出かしそうな予感があったのだ。
「もし……河野先生に何か御用がおありなのでござりまするか」
と、干兵衛は低く訊いた。
「実は、私は会津人なのでござりますが」
二人はびっくりした眼を干兵衛に投げた。あきらかに困惑していた二人に、干兵衛のいまの言葉が、溺れる者が藁をもつかむような作用を与えたらしく、
「ことづてがあるのです」
「どうしてもお伝えせねばならぬことが。――」
と、あえぐようにいった。
「お手紙のようなものですか」
「いえ、伝言です。……けれど、巡査に聞かれてはいけないのです」
それは難しい。そばへゆくだけで、巡査につかまるだろう。それにだいいち、どれが河野広中かわからない。編笠をかぶっているばかりでなく、暮の福島県の暴動の張本人と見られる河野広中は会津藩人ではなく、三春《みはる》藩出身で、干兵衛も知らないのだ。
「あれかしら?」
突然飛び出そうとする二人を、彼はあわてて抑えた。
「お、お待ちなされ、むやみに駈けていってもだめです。……」
なんの見込みもなく、干兵衛はいった。
「何なら、私が伝えてあげましょう。どういう御伝言ですか」
「はい。赤い盟約書をお忘れ下さるな、というのです」
「えっ、赤い盟約書?」
干兵衛は眼をパチクリさせた。
「それが御伝言? そりゃ、何のことで?」
女たちは、お高祖頭巾をふった。
「わたしたちにもわかりません。ただ、是非それをお伝えしなければならないのです」
彼女たちが偽っているのではないことは、その真剣なまなざしでわかった。おそらく、だれかから命じられたのであろう。たとえその意味を知っていたとしても、干兵衛は答えを期待していない。ただあまりにいまの伝言の内容が不思議なものであったので、思わず鸚鵡返しに訊いただけだ。
その間にも、凄惨な行列は通り過ぎてゆく。
干兵衛は焦躁した眼をめぐらして、ふと、すぐ近くからこちらをのぞき込むようにしている白髪の壮士を見いだした。その男には、おぼえがある。――
彼は突然歩いていって、その前に立った。
「河野先生はどれか御存知でござるか」
白髪の壮士は、口をモグモグさせた。
「あれだ。……向うから巡査二人に縄をとられて来る黒紋付に袴の男。……」
思わず答えたのは、とっさのことで狼狽したあまりか、それとも干兵衛の気迫に押されたのか。
その白髪の男が自由党の壮士だとは承知していたが、さればとて河野広中を知っているとは保証出来なかったのに、干兵衛は当然の返事を聞いたように、くるりと背を見せて、馬車の中にはいっていった。
ものの二、三分とたたないうちに、彼は出て来た。孫のお雛といっしょだ。お雛は大きな瓢箪を一つ抱いていた。
馬車の外で、干兵衛はしゃがみこんで、すぐ眼前に近づいて来た一人の囚人を――さっき壮士に教えられたその人を指して、お雛に何やらささやいた。
お雛は、二度、三度、こっくりした。それから瓢箪をかかえたまま、駈け出した。
雪の中を駈けて来るこの姿に、その編笠の男と、左右の巡査はふと立ちどまった。
「おじちゃん、おさけよ」
お雛は、瓢箪をつき出した。
「さむいから、のんでって」
一瞬のためらいののち、囚人は腰をかがめた。
「どなたの御厚意か存ぜぬが、ありがたい。……さあ、飲ませてくれ」
と、編笠をつき出した。両腕はうしろにくくられ、左右から縄をとられていたのである。
その縄をとった二人の巡査は、しばし茫然とそれを見守っていた。とがめるには、酒を持って来た少女はあまりにも可愛らし過ぎたのである。
ただ七つの子というばかりではない。お雛には何か人を呪縛する妖精じみたところがあった。
しかし、むろんたちまち巡査はわれに返った。善意にとっても、これは見物人の中の福島県人からの「さしいれ」だろうが、むろんこの場合許されることではなく、悪く考えると、毒か何かはいっているかも知れない。――
少女の手の瓢箪は、編笠の中につっ込まれていた。
「いかん!」
「こら!」
二人の巡査は、左右から、その瓢箪をたたき落した。
「何しとるか!」
「早くゆけっ」
縄をひったてられて、囚人は泳ぐようにまた歩き出した。
あと、雪の上に酒をこぼしながら転がった瓢箪のそばに、びっくりしたようにお雛は立っていた。巡査たちは、その瓢箪の上に書かれた文字には気がつかなかった。それが飲む人間に読めるようにつき出すことを、お雛は命じられたのである。
矢立《やたて》で書かれた文字は、むろんこうであった。
「赤い盟約書を忘れ給うな」
二
明治民権運動史上、最初の烽火といわれる福島事件について、ざっと述べておこう。
暴動そのものは前年十一月二十八日に起ったのだが、その発端は、その年の二月、山形県令三島通庸が福島県令として会津に乗り込んで来た日から始まる。
彼は、福島県令の辞令を受けたときから、二つの抱負を持った。
一つは、そのころ福島県下に遼原の火のごとく燃えつつあった自由民権思想をたたきつぶすことであった。
その指導者は、元三春藩士で、いまは自由党の総帥板垣退助の信頼もっとも篤い河野広中であった。三島は以前から、「おいの眼の黒いうちは、おいの支配する県に、火つけと強盗と自由党は一匹も見逃さぬ」と豪語していただけあって、福島県下から自由党を掃蕩する覚悟をもって乗り込んで来たのである。
もう一つは、会津の新産業地としての開発であった。
古来から会津そのものは物産に乏しくはないのだが、外界との交通が不便なために、あまり豊かとはいえない。そこで彼は、会津若松から、山形、新潟、栃木の三県に、いわゆる三方道路を作らせよう、と計画したのである。
着任するや、彼はただちにその二抱負の実現にとりかかった。
「政事ニ関セズトイエドモ、講談論議スルタメ公衆ヲ集ムル者ハ、開会前ソノ事項ナラビニ人名及ビ場所、年月日等ヲ詳記シタル書面ヲ以テ、所轄警察署ニ届ケ出ヅベシ。警察吏ハ、ソノ会場ニ臨監スルコトアルベシ」
これがその三月六日に彼が布達した県令第四十三号である。
道路建設については、
「会津地方六郡ノ居民ニシテ、満十五年以上六十年以下ノ男女ハ、毎月一日宛、二カ年間通常夫役ニ服スベシ。服セザル者ハ、男ハ一日金拾五銭、女は金拾銭ノ割合ヲ以テ夫賃ヲ出スベシ」
という命令を下した。三月十六日のことである。
在住民をあげて労役に駈りたてるのみか、出られない者は罰金を払え、というのだ。
当然、これは苦役となった。一人、月に一日、というと何でもないようだが、工事現場にゆくにも二本の足でゆくほかはない当時として、往復だけでも何日もかかる者が多い。出られないと、十五銭、十銭を徴収する、ということについても、実際に工事の始まったのは八月からであったが、それの始まらない前の数カ月分もとりたて、雪がふって工事の出来ない期間の分も仮借なくとりたてるという。米一升が東京相場でも、七、八銭にしかならない時代に、大家族が多く、もともと赤貧の農民が多い地方に、その代夫賃がたまると、容易ならぬものになった。
「結局、お前らの将来の利益になる労働ではないか」というのが、この典型的明治官僚の論理であり、目的のためには手段を選ばないというのが、この鬼県令の思想であった。
果然、民衆の怨嗟《えんさ》の声は、自由党の弾劾の叫びと共鳴して起った。
警官臨監の演説会場でも、壮士たちは絶叫した。
「三島の書いた掛物を見たことがあるが、その下手くそなことは車挽きに劣る。あれでは車夫を県令にしたほうがましだ」
と、やって、罰金を科せられた者がある。
「オッカナイと思うから、オッカナイ」
という題のもとに演説し、
「薩摩のイモホリと思え。怖がるに当らない」
と、やって、重禁錮に処せられた者がある。
三島の言論弾圧にふれて、
「天皇陛下は、万機公論に決するとの詔をもう忘れられたか、と、吾輩は天皇に忠告申しつける、いや、御忠告申しあげる」
と、やって、不敬罪に問われた者もある。
河野広中をはじめ、自由党員で県会に議席を持っている者が少なくなかったが、これも猛烈に抵抗し、三島の出す議案を片っぱしから否決した。
これに対抗して、三島は「若松帝政党」なるものを作った。これは御用党どころか、彼の私兵というべきものであった。
いよいよ道路の起工式が行われた日、会津若松で、河野広中の盟友たる田母野秀顕《たものひであき》らが旅館に宿泊中、夜半襲われ私刑《リンチ》を受け、全員瀕死の重傷を受けるという事件まで発生したが、襲撃したのは若松帝政党員らであった。
若松帝政党は、後年の昭和初年の右翼のごとく凶暴をほしいままにした。しかも、その党員の大半が、かつて会津籠城で勇名をあげた会津藩のさむらいやその子弟たちであったといえば、これは彼らにとっても悲劇以外の何物でもなかったろう。明治新政後落魄その極に達した彼らは、やはり会津戦争に敵として参加した三島通庸に、政府救済金をたねに、まんまと手なずけられ、その走狗となり果てたのである。
さて、代夫賃も払えない者に対して、県は家財差押え、公売に付するという処置に出た。畳一枚が三銭、戸棚が五銭といった値がつけられたという。近代にあり得べき話とは思われないが、実際にあったのである。
明治は日本の最高の栄光時代であると同時に、また最闇黒時代でもあった。
これに対して裁判に訴えようということになり、代表として三人の有力自由党員が選ばれたのだが、三島はこれも検挙した。裁判費用として農民たちから十銭ずつ集めたのに、「詐欺取財」という罪名がつけられたのである。
彼らが拘引されたのは、若松北方四里の喜多方《きたかた》という町の警察であったが、これに悲憤した農民千余人は、町の南方弾正ヶ原に集まり、その釈放を要求するため、喜多方署におしかけた。暗澹たる雲の飛ぶ十一月二十八日の夕刻であった。
警察は警官を抜刀させて、これを潰乱させた。――いわゆる「福島事件」は、こういう経過で勃発した。
三
会津弾正ヶ原の騒動が起ったのは十一月二十八日のことだが、福島県に自由民権の火をつけた河野広中自身は、十月はじめから上京して、京橋槍屋町の自由党東京本部にいた。
が、会津の情勢がますます切迫し、至急御帰国を請うという同志からの飛電相つぎ、彼が福島に帰ったのが十一月十日のことである。
弾正ヶ原事件後三日目の十二月一日の深夜、福島六軒丁にある福島自由党支部「無名館」で、河野広中は警察に襲われ、逮捕された。
「河野磐州伝」によれば、
「抜刀者は数十名、或は巡査(制服)を着けたるものあり、或は短袴を穿《うが》ち、白鉢巻に白襷したるものもあって、各々白刃を揮い、雨戸を劈《つんざ》き、殺気人を襲うの観があった」
と、ある。警察が、福島自由党の指導者を検挙するのに、どれほどの猛気をもってしたか知るに足る。
凶徒聚衆罪に問われて拘引された千人ほどのうち、その教唆者と目された自由党員ら五十八人が、翌十六年の二月初め、国事犯として東京に送られたのだが、途中の惨を河野広中みずから語る。
「……翌日は馬に乗せられた。雪はしきりに降る。前にも申す通りシャツもズボン下も穿いていない。股も脚もあらわしたまま、馬の上に跨っていると、雪はどんどん降る。始めの中は雪が溶ける。しかし、だんだん体温もなくなって、その雪が股の上に三、四寸も積っている。そうして遂に白河へ来た」
――干潟干兵衛らが見たのは、その旅の果ての囚人たちなのであった。
囚人たちは鍛冶橋監獄の門の中へすべて吸い込まれ、見物に集まった人々は散りはじめた。
「お帰りになりますか」
まだそこにじっと佇んでいる二人の女に、干兵衛は声をかけた。
二人はわれに返ったように、干兵衛を見た。いま河野広中へお雛が飲ませようとした瓢箪に、例の伝言が書いてあったということは、お雛がそれをやっている間に、すでに干兵衛が教えている。
その瓢箪は、いま彼が回収した。
「いつまでも居残っていては、疑われましょう。さあ、馬車におはいんなさい」
実際、彼自身にもその危険があった。こちらを見ている巡査がなかったのがふしぎなくらいだが、それは巡査たちも囚人の護送そのものに全神経を奪われていたせいだろうと思う。
促されて、あわてて馬車に乗りながら、女の一人が、帰るのは巣鴨だと告げたあと、また訊いた。
「あなたは、どういうかたですか」
「なに、会津生れの馬車屋というだけで」
干兵衛は、先刻と同じ説明をした。
「巣鴨のどこでござります」
「巣鴨の……そう、庚申塚のそばでいいけれど。……」
お雛はもうさきに乗り込ませてある。
干兵衛が馬車を動かしかけると、だれかそばに寄って来た。
「あっ、待ってくれ」
さっき、自分が、囚人の中の河野広中はどれだ、と訊いた例の白髪の壮士であった。
この男は、よほど自分に因縁がある――と思いながら、干兵衛は無表情に見下ろした。
「先刻はありがとうござりました。おかげさまで助かりました」
「いや、礼をいわなければならんのはこっちじゃ。おぬし……実にえたいの知れぬ馬車屋じゃが、やっぱり自由党の味方じゃのう」
と、白髪の壮士はいった。
「ところで……いま馬車に乗った二人の婦人、あれも自由党の身寄りの者と見たが、ちと話したいことがある。いっしょに乗っていいか?」
「まことに申しわけござりませんが、それは御勘弁下さいまし」
「なに? なぜだ?」
「いつか、あなたが人さらいをなすった――拙者のその孫がいま乗っておりますんで、こわがって、泣きましょう」
さすがに二の句もつげない表情の壮士を、ふりかえりもせず、干兵衛は二頭の馬に鞭をあてた。
雪はいよいよ烈しくなって、もう大通りも薄白くなっている。その道に、馬蹄と車輪の跡をひきながら、干兵衛はいまの男のことを考えていた。
あの男には、ほんとうに因縁がある。
去年の春の雪のふる夜、築地の埋立地で自由党員の屍骸の始末を手伝わされ、その後、お雛をその男にさらわれかけたことがある。そのときは確証はなかったが、あとでやはり自由党の川上音二郎という男にお雛をさらわれるという事件が起り、どうやらそれは、自分が本阿弥三五郎という壮士を死なせたことから、自由党に敵意を持つ人間と目されて、その危難に逢ったらしい。――
実はその秦剛三郎という壮士は、それ以外にもこの物語にチョイチョイ登場しているのだが、それは干兵衛は知らない。
しかし、知っている部分だけでも、それはあまりぞっとしない記憶であり、人物であった。干兵衛は自由党の若者たちにむしろ好意を持っているのだが、あんな粗暴な印象を持つ男とは、これ以上つき合いたくない。いや、ほんとうをいうと、自由党そのもの、及びそれに関係ある連中ともつき合うのは御免こうむりたい。
だからこそ、いままで川上音二郎などに、あの白髪の壮士について詳しく訊けば聞けそうだったのにあえて訊かず、またいつか延遼館の外で山川捨松を襲撃した男たちの中に、どうやら会津で見た記憶のある顔があると思いながらも、べつにつかまえてたしかめようともしなかったのだ。
いま、あの白髪の壮士の頼みを一蹴して、馬車を出したのもただその心情のせいであったが、しかしあの男は、「二人の婦人は自由党の身寄りと見たが」といったところを見ると、その女性たちを知らないにちがいない。とにかく、あの女性たちのためにも、あんな険呑な男とは接触させないに越したことはない。
そうみずからにいい聞かせながら、干兵衛は、しかしその二人の女性を、うしろの馬車に乗せている矛盾に気がついて、苦笑した。
考えてみると、自分がお雛を瓢箪の使者に仕立てたことも、実はお節介なのである。……決して好まないのに、自由党や会津が自分にくっついて来る、と首をひねっていたのだが、これはどうも自分にも責任がありそうだ。
――それにしても、あの女たちは何者だろう?
――それから、赤い盟約書を忘れるな、とは何の意味だろう?
――あの白髪の壮士は、それについての自分と女たちとの問答を、どこまで聞いていたろう?
関係したくない、と思いながら、干兵衛はそんなことを考えていた。それは彼の前半生の同心という職業からも来るどうしようもない習性の名残りであった。
四
「おう」
馬車が庚申塚のそばを通っているのに、干兵衛は気がついた。
ここには昔から、高さ八尺という石の庚申塔があり、その前に団子など食わせる茶屋がならんでいるが、むろん雪のために人影は見えず、店も葭簀《よしず》を立てて閉めていた。
馬車から出た女たちは、低く低く頭を下げた。
眼が言葉以上の感謝をあらわしていた。二人はもっと何か話したそうであった。しかし彼女たちは、「お雛ちゃん、さよなら」と、手をふっただけで、そのまま、もうこのあたり、足くびまで埋めるほどつもった雪の中を、向うの家並のほうへ去っていった。
馬車の中で、お雛と仲よくなったらしい。こっちの正体がよくわからないから、それ以上話すことをためらったのは無理もない。
「はてな、ここは?」
馬車のそばで、干兵衛はまわりの風景を見まわして、首をひねった。
雪の巣鴨の庚申塚。……これは前に経験がある。
すぐに彼は、一年ばかり前、ここで自由党の若い壮士と、馬車の中の酒盛りをやったことを思い出した。たしか赤井とかいう男で、これから故郷の越後高田に帰り、会津にゆくとかいっていたが、その会津ではこんどの騒ぎが起り、そして自由党員らが数十人叛徒として送られて来たのは、いま見たばかりだ。
あの雪の夜の酒盛りを思うと、まるで夢の中の出来事みたいな気がするが、あの若者はあれからどうしたかしらん?
ふいに、干兵衛は、はっとした。先刻、鍛冶橋で見た囚徒たちの中に、あの青年もいたのではないか、と考えたのだ。
……が、たとえそうであったとしても、自分にはどうすることも出来ないことであった。
干兵衛は、馬車を廻すのにかかった。わるくすると、ここで閉じこめられる怖れのある雪のふりかただ。彼は何とかして馬車を廻しおえた。
すると、うしろから、「おうい、おうい」と呼ぶ声がした。
けぶる雪の中に、いくつかの影が浮かび、こっちへ駈けて来た。
「やあ、やっぱりあの馬車屋だった」
菅笠に合羽、わらじに杖という姿で、白い歯を見せて近づいて来た若者を見て、干兵衛は唖然とした。
それは、いま思い出したばかりの、あの自由党の若者だったのである。
「お久しぶり。……赤井|景韶《かげあき》だ」
と、彼は笑顔でいった。
干兵衛は、口をモガモガさせるばかりで、とみには返事も出ない。――いっしょにいるのは、いま別れた二人のお高祖頭巾の女と、それから赤井同様の旅姿をした二人の見知らぬ男であった。
「おれはいま、高田から帰って来たんだ」
と、赤井景韶は懐かしそうにいった。
「そこへ妹たちが、これも鍛冶橋から帰って来て、お前さんの話をした。みなまで聞かないうちに、ひょっとしたらその馬車屋はお前さんじゃないか、と思い当って、わらじも解かずその足で飛んで来たんだ」
「それはそれは」
と、いったが、まだわけがわからないから、干兵衛にはそれ以上の挨拶が出ない。
「河野先生らがきょうごろ東京に着かれるということはわかったんだが、いろいろ事情があって、おれたちは高田を出るのが遅れる。間に合うか、間に合わぬか、あてにならないから、先に妹を東京にやって待たせ、電信で指示したんだ。そしてこっちも遅ればせながら、やっと到着したら、ちょうど妹たちが帰って来て、使命は果したというじゃないか」
「おい、赤井……そんなことをしゃべっていいのか」
「この馬車屋は何者じゃ?」
と、二人の菅笠の男が、左右から心配そうに袖を引いた。
「いや、この馬車屋は信頼出来る人じゃ」
「自由党かね?」
「ちがう。自由党ではないが、もとは会津藩士で……西南の役の戦友じゃ。もっとも、おれと隊はちがったが……いま、妹たちに聞くと、この人のおかげで例の伝言が出来たというじゃないか」
赤井景韶はつかつかと馬車のそばへ歩み寄り、
「あの女の子はいるかね? やあ、おった、おった! たしかお雛坊といったなあ。お雛坊、おじさんをおぼえているかね? 郵便屋さんの唄を教えてもらったっけな。――」
と、はしゃいでいった。
実は、干兵衛はこの壮士に、それほど信頼されるようなことをしたおぼえがない。記憶では、若いに似ず落着いた男と見たが、いま判明したような再会のいきさつや、また妹とやらから聞いた例の鍛冶橋の話から、赤井はさすがに昂奮を抑えきれなかったと見える。
「これから市内へ帰るのか?」
「は、そのつもりでおります」
「これで別れるのは、申しわけないし、惜しいなあ。それにおれは妹たちからざっと聞いて、すぐに飛んで来たので、まだいきさつが不明な点もあるんだ。そうだ、ちょっとうちへ寄らないか?」
「へ? お宅が、この近くにあるんで?」
「いや、このひとの家だが」
と、赤井景韶は、お高祖頭巾の一人を眼でさした。――して見ると、妹というのは一人だけで、その女はちがうらしい。
そういえば、一年前のあのとき、たしか「今夜はこの近くの知り合いの家に泊めてもらう」とかいったようだが、それが、その女の家であったのか。――
「だいいち、この雪では、帰ることも出来ないだろう」
「おや」
と、男の一人が、東京のほうに眼をやった。
「だれか、来るぞ。――」
干兵衛も顔をあげて、まばたきした。けぶる雪の中を、向うから近づいて来る姿に見おぼえがある。あれはあの白髪の壮士ではないか?
「おうい、や、そこにおったか。やっと追いついたぞ」
と、そっちから声をかけて来た。
「いや、俥で追っかけて来たのじゃがな。途中で俥夫がもうゆけぬというから、この雪の中を歩いて来て……馬車の跡がなかったから、もうわからないところじゃったよ。――や」
と、彼は、はあはあいいながら近づいて来て、三間ばかりのところで、ふいに立ちどまった。「赤井じゃないか」
「秦剛三郎。……」
と、赤井景韶はつぶやいた。
その耳に、お高祖頭巾がのびあがって、何やらささやいた。
「赤井……貴公、越後に帰るとか会津にゆくとかいっておったが……帰って来たのか。懐かしいなあ。いや、貴公がおらんと、どうも気勢があがらんよ。柿ノ木さんも、赤井が帰って来ないかなあ、と、しょっちゅういっておられるぞ。……」
ベラベラしゃべる秦剛三郎に、赤井はニコリともせずにいった。
「それより、秦、君はどうして妹たちを追っかけて来たんだ」
「なに、そこにおる婦人は、君の妹か。これはこれは……はじめてお目にかかる。赤井君と血盟の同志秦剛三郎です」
赤井の顔に、チラと後悔の色が浮かんだ。
「いやなに、鍛冶橋監獄の外でね。そこで見かけたその二人の御婦人が、どうやら河野先生の身寄りの人らしい――しかも、ふしぎなことに河野先生を知らないらしい――と見て、どうしても話をしたくなったのじゃよ。それが貴公の妹だったとは思いもよらなんだが、それなら、さもあらん。……」
「なんの話をしに?」
「それは話してみなけりゃわからんが、何にしてもこの秦で、お役に立つことがあるなら、お手伝いしてあげようと思ってのことじゃ」
「ありがとう。しかし、今のところおれも帰って来たことだし、べつに貴公に頼みたいこともないが。……」
「赤い盟約書とは何じゃね?」
と、秦はいった。
干兵衛は、はっとした。やはり、この男は、聞いていたのである。
五
赤井景韶は、女たちをふりむいた。その眼に、こんな男に何を洩らしたのか、という非難の色があった。
二人の女は、とっさに言葉を失ったようであった。干兵衛でさえ驚いたくらいだから、二人が狼狽したのは無理もない。あのいきさつを一口に説明するのは難しい。
「赤井さん、この男は何じゃ」
と、菅笠の男がいった。
赤井と同行している二人は、いずれも容貌魁偉の大男で、一人は三十年輩でみごとなあご髯を生やしているが、いま訊いたのは、髯はない代り、眼はつりあがり、口大きく、むしろ容貌怪異といっていい若者であった。
「赤井とは、血盟の同志だといっとるじゃないか。何者か、とは、こっちで訊きたい」
秦剛三郎は憤然としたようであった。
「赤井、その二人は何者かね?」
赤井景韶は、黙って相手を見まもった。
ふいに秦剛三郎は、雪の中にがばと坐った。
「赤井、水くさいじゃないか。……なるほど、吾輩は直情径行で乱暴者じゃ。みんなから危ながられ、馬鹿にされとるのはよう知っとる。しかし、自由党の志士としての志はだれにも劣らん。いっていいことと、悪いことのけじめはこれでも厳しくつけとるつもりじゃ!」
白髪をふりたたて、大地をたたいた。
「自由民権のためには、いつでもこの命捧げて悔いぬ秦剛三郎であることを知ってくれんか!」
まったく直情径行らしく、涙さえ飛び散った。
「いつか貴公といっしょに警視庁の犬を成敗したじゃないか。あの行為だけでも、貴公とは一蓮托生じゃ。おう、そういえば赤井、おれはこう見えて、警察の犬を嗅ぎ出すには妙な|かん《ヽヽ》があると見えての、あれから何匹か、つまみ出したぞ。例の手じゃ、強盗をするか、どうかと試して――」
放っておくと、とんでもないことをしゃべり出しそうで、赤井はあきらかに当惑したようであった。
「そうまでして自由党のために粉骨砕身しておるおれが、同志の君に信じてもらえんとは情けない!」
「よし、わかった」
と、赤井は手をあげて制した。
「君を信じるとしよう。話すから待て」
と、いったのは、ともかくも相手が熱狂的な自由党の壮士だと信じることにしたのか、やむを得ないとあきらめたのか。――この間にも、雪はいよいよ烈しくふりそそいでいて、みんなもう真っ白になっていた。
「馬車屋。……ちょっとこの馬車を借りていいか?」
「どこかへ参りますので?」
と、干兵衛は首をひねった。
「いや、話をする場所に、馬車を借りたいのだ」
「へ? 中に、孫がおりますが」
「なに、おとなしく話す。お前たち、お雛坊と遊んでやってくれ」
と、赤井は二人の女にいい、また干兵衛に、
「あんたも、はいっていいよ。と、あんたの馬車なのに、こんなことをいっては可笑《おか》しいが」
と、やっと笑った。
「それに、いまさらあんたに隠してもはじまらん。とにかくこの雪の中に、立ちん坊ではおれん。 さあ、みんな、乗った、乗った」
奇妙な表情で馬車にはいってゆく男たちを見ながら、赤井は一人の女に何かささやいて、自分も乗り込んだ。
茫然と立っている干兵衛に、その女がいった。
「あとで……いまの男一人をどこかへ連れてって下さい。兄は、やはりいまの隠れ家をあのひとに知られたくないと申します」
そして、もう一人の女を促して、自分も馬車にはいっていった。干兵衛も乗った。
これで、男が五人、女がお雛をいれて三人乗り込んだわけで、ふだんでも八人は乗れる二頭立ての馬車だ。干兵衛は女組といっしょに入口側に坐ったが、奥側の男たちの話はむろん耳にはいらずにはいなかった。
「これは秦剛三郎君といって、おれといっしょに三島を狙っておった同志じゃ」
と、赤井は改めてひき合せ、また二人の菅笠の男を、
「こっちは、どちらも会津で知り合った自由党の党員で、これが栃木県の鯉沼九八郎氏、これが福島県人の琴田岩松君。……」
と、紹介した。
秦剛三郎は、にやっと笑って、頭を下げた。心を許したのか、別人のように人なつこい笑顔になったが、ふと向うを見て、眼を大きくした。雪をかぶったお高祖頭巾をとった二人の女を見てである。
「さて、お尋ねの赤い盟約書というやつだがね」
「おい、赤井。……」
と、なお琴田岩松がとがめるのに、
「いや、かまわぬ、責任はおれが持つ」
赤井景韶はきっぱりと、
「あれは河野先生への気つけ薬じゃよ」
と、いった。秦は眼を赤井に戻した。
「気つけ薬?」
「うむ、河野先生は……いうまでもなく板垣先生も片腕と頼まれる福島自由党の領袖で、われわれも心から尊敬しておる。しかし、それだけにあのかたは、大物過ぎる、あるいは大物だという自意識が強過ぎる。遠慮なくいうと、野心家といったところがないでもない」
「へえ? そうかな?」
「会津における官憲の暴状を見つつ東京へ出られたいきさつ、また国元の形勢が急迫して、いくら呼んでも帰郷をためらわれたようす――とうとう御帰国にはなったが――おれは会津でつらつら見ておったが、どうやら先生は、江藤司法卿の二の舞を踏むことを怖れられたようじゃ」
「江藤司法卿。――」
「佐賀の叛乱に帰国して、かつぎあげられて、謀叛人として斬首された江藤新平よ。河野先生は、おれは天下の河野じゃ、一福島、一会津のためにいま死んではつまらぬ、と思いかねられぬふしがある」
「なるほど、そういえば河野先生は、そうかも知れんのう」
「で、先生の御危惧通り、まんまとあの騒動の親玉としてつかまり、きょう東京に護送になったのだが、そんなお気持では、ひょっとすると法廷で、みっともないまねをされるのじゃないか、と、つい心配になった。河野先生がまさかとは思うが、いまいった江藤も死刑を宣告されて、大久保内務卿に江藤醜態笑止なり、と笑われたような例もあるからな」
「で?」
「坐獄の先生の御態度は、自由民権運動の将来の士気にかかわる。それで、あの盟約書を忘れられるな、と、失礼ながら御入獄前に活をいれたのだ。あれは先生へのおれの脅喝だよ」
赤井景韶はカラカラと笑った。不敵な、爽やかな笑い声であった。
「なんだ、その盟約書とは」
「先生がまだ福島におられたころ――去年の夏、先生が、おれたち、といってもここにおる鯉沼さんや琴田君ではないが、六人の同志と交わした盟約書がある。それが官憲に見つかると、みんなの首が飛ぶ」
「ほう?」
「いまのままなら、実際に先生は弾正ヶ原の騒ぎとは直接関係はないのだから、いかに政府が暴虐でも、死刑には出来んだろう。だからこそ先生に、かえって軽罪を願う弱気が出て来るおそれがあるというゆえんだが、もしその盟約書が出て来れば、まちがいなく内乱予備罪にひっかけら れて首が飛ぶ。……そのお覚悟で、毅然として法廷に立たれたい、というおれの激励だ」
「どういう盟約書じゃ?」
「それはいまここでいう必要はあるまい。いまいったことで、およその見当はつくだろう」
「どこにあるのじゃ、それは? 貴公がそこに持っておるのか?」
「それもまあ、言わんことにしよう。とにかくこれで、赤い盟約書の意味がわかったろう」
「赤い……それは血書か何かかね?」
「いや、赤い、とは赤井、ということだよ。おれからの伝言ということだ」
赤井景韶はまた笑った。
「これでわかったか」
「わかった。わかったが。……」
秦剛三郎は、眼をまた別のところへやって、
「あの二人の婦人、もう一人のほう、あれは貴公の何じゃね?」
六
このとき秦が眼をまるくしたように、干兵衛もびっくりしていた。
頭巾をとった女たちの美しさにである。
「右がおれの女房……女房といっても、祝言をあげるどころじゃないが……眉輪《まゆわ》というやつで」
お雛と何やら話していたその女が、頭を下げた。ふっくらとして、眼がさめるようななまめかしさに、ふしぎにりんとした感じがあった。
「左がこんど高田から出て来たおれの妹で……麻子」
これは眉輪より二つ三つ年下で、まだ廿歳《はたち》になるやならずだろう。文字通り、清純の香の匂い立つような美貌であった。これもお辞儀した。
「さて、秦君、おれたちはこれから帰るが、君とはここで別れよう」
と、赤井はいって、みなを促して立ちあがった。
秦剛三郎はキョトンとしていたが、あわてて、
「何だ、この近くに家があるのか。そういえば、おれは君の家を知らん。いちどいっては悪いか。まだ話もある。――」
「せっかくだが、こちらもいま越後から来たばかりで、ちと私事で相談があるんだ。そのうち柿ノ木さんに連絡するよ。柿ノ木さんの隠れ家は以前の通りだろう」
「それは、そうだが。……」
「では、これで。……馬車屋さん、すまんがこのひとを送っていってあげてくれんか」
赤井景韶について、二人の同志、二人の女も下りていった。
とりつくしまを失って、あっけにとられているような秦の顔を見て、干兵衛ははじめていささか気の毒の感を催した。さっき麻子という女性を介しての依頼を見てもわかるように、やはりこの男は、赤井に完全には信用されていないらしい。正直にいって、自分だって、こんな粗暴な男は敬遠したい、と干兵衛も考えざるを得なかった。
干兵衛が、つづいてお雛に小さな合羽を着せ、笠をつけてやって馬車を下りかかると、それまでぼんやりしていた秦は、はじめて正気に戻って、
「おい、お前もゆくのか」
と、あわてた顔をした。
「いえ、馬車を動かすために、馭者台へ参りますんで」
「子供もか」
「馭者台へはしょっちゅう乗せておることは御存知でござりましょうが。それに……どうも、険呑でござりましてな」
干兵衛は、にやっと笑った。可笑しくて笑ったのではない。彼には珍しく、威嚇の笑いだ。先刻の鍛冶橋監獄前につづいて再度の拒絶に逢って、白髪の壮士は口をモガモガさせていたが、
「あれは、こっちの失敗だった」
と、頭をかいた。いつかのお雛の誘拐事件のことをさすのは明らかだ。これで彼があれに関係していたことを、はからずも白状したことになる。
「お前さんを、考えちがいしていたよ。……まかりまちがって、築地の埋立地の一件を訴えられると、こっちも手がうしろにまわるからな。もう手は出さないよ。かんべんしてくれ」
怒りっぽい男が思いのほか弱気にあやまったところを見ると、よほどあの誘拐事件はあとあじが悪かったと見える。
馬車は、市内に向って動き出した。さっき赤井も気にしたが、いったいこれで無事に帰れるのか、と干兵衛でさえ不安になるような雪のふりかたであった。
しかし、彼は馬に鞭をくれ、しゃにむに馬車を進めた。立往生してはたまらない、という懸念のほかに、赤井たちが帰っていった足跡がわからなくなるまで、一丁でも二丁でも巣鴨を遠く離れる必要がある、と考えたからだ。
どうやら赤井の家というのは、あの眉輪という女性の家らしい、と彼は推量した。
そして彼は、自分がどうしてあの赤井たちのためにそこまで心配してやるのか、自分の心理を怪しんだ。
意外にも、秦剛三郎はおとなしく馬車に乗っていた。どうやら彼は、彼なりの思いにふけって、馬車をどうかする思案が浮かばなかったようだが、それでも、やっとわれに返ったと見えて、
「おういっ」
と、扉をあけて吼え出した。
「こら、もういちど巣鴨へやってくれ」
「旦那、御冗談でしょう。この雪に……もうここは小石川の駕籠町ですよ」
だいぶいってから、また扉があいた。動いている馬車から、秦は飛び下りた。そして、もう膝を埋めるような雪に、いちど四つン這いになったが、そのまま白髪をふり乱して駈け去った。むろん、反対側の巣鴨のほうへだ。やっぱり赤井らのゆくえが気になって、たまらなかったと見える。
――なるほど、向うが案じたのも無理はない。大変な執念だ。
首をねじまげて干兵衛は見送って、やや呆れた。あの男が、自由党の過激派中の過激派なことにまちがいはなさそうだが、それだけにあれにくっつかれたら、赤井景韶らにろくなことはあるまい。
雪は、もう彼らの足跡を消しているだろう。消してくれていることを祈る。
この日の雪は、その翌日になると、鉄道馬車も停って、石川島監獄の囚人百人が狩り出され、銀座から浅草へかけて、二人ずつ足を鎖でつながれたまま雪かきをさせられたくらいの大雪となった。
越後高田は雪のふかいところと聞く。この雪は、あの男が持って来たのかも知れん、と干兵衛は考えた。
そして、雪だけでなく――自分は、あの若者から白髪の壮士をひき離そうと一臂の力を貸したけれど、あの赤井自身が、何か危険な企みを持って東京へ出て来たのではないか?
干兵衛の頭に、あのうら若い二人の女の顔が、美しい幻のように浮かんだ。彼はなぜか恐ろしい悲劇の予感をおぼえた。
お皺が無心に歌い出した。
「あられ
五合
ぼたん雪
一升」
七
赤井景韶の巣鴨の隠れ家をアジトといっていいか、どうか。――
彼は越後高田人で、父は高田藩の藩士であった。景韶は、十八歳のとき徴募巡査として西南戦争に出かけたこともある。役後、すぐに巡査をやめて、代言人をやっていた。が、自由民権思想に烈しく共鳴するところがあって、あたかも隣の福島県に河野広中というそのほうの大立者が出たのを知って、しばしば河野のもとへゆき、河野の片腕とも目された三春《みはる》人|田母野秀顕《たものひであき》とも知り合った。
やがてまた東京へ出て、自由党の壮士の一人となったのだが、そのとき田母野秀顕から紹介されたのが、巣鴨に住む漢学者|錦織晩香《にしごりばんこう》という人であった。元相馬藩の儒者であったが、維新後いちじ隠栖していたころ、田母野は教えを受けたことがある。その後、晩香は上京して、巣鴨に漢学塾をひらいた。
景韶の隠れ家は、その家であった。
これがアジトといっていいか、どうか、というのは、つまりひとの家だからだが、一方でまた晩香の孫娘の眉輪という娘と恋愛して、契りをかわす仲となったからだ。
祖父の晩香がそんな関係を許したのは、これが結構新しい思想も解する老人で、しかもなかなかの慷慨家で、さらに赤井景韶という若者をえらく気にいってしまったからであった。
錦織家は、晩香と眉輪の二人だけで、井戸のある小さい庭をへだてて二つの建物があり、表側を塾に使い、裏側を晩香の居所にしていたが、こちらを赤井にあけ渡した。それが、赤井のアジトとなった。
「こりゃ大変だ」
庭ともいえない狭い空地にひるがえるおびただしい洗濯物を見あげて、若者は大声をあげた。「あとは僕がやりましょう。手伝わせて下さい」
井戸のそばで洗濯していた赤井の妹麻子は、顔をあげた。塾の学僕の高安《たかやす》宗助であった。
「いえ、男のかたに洗濯させるなんて……それに、もう終ります」
と、麻子はいって、立ちあがり、白い手をひたいにあてて、蒼空を透かせた紅梅を見あげた。庭にある樹らしい樹は、それ一本だけであった。
「でも、よかったわ、やっと春が来るようで」
二人は、しばらく黙って、花と空を眺めていた。
兄の景韶と二人の同志が東京へ出て来てから、もう二十日ばかりたった。日は三月にはいろうとしていた。二月はじめの大雪はとっくに消え失《う》せて、もう遠い夢のようだ。
麻子にとっては、あの雪の日の出来事も夢のようであったが、その前後からの日々もまた夢みているとしか思われなかった。
高安宗助に逢ってからだ。
兄の景韶が、会津から高田に帰ったものの、上京するにはまだ支度が整いかねて、そのうち若松監獄にぶち込まれていた河野広中が東京に移送されるというので、麻子は兄の命令で、数日先に上京して、はじめてこの家でこの若者に逢ったのだ。
麻子は、晩香先生と眉輪さまのことは兄から聞いていたけれど、高安宗助のことは知らなかった。聞くと、去年春、兄が帰郷したあと、学僕として塾に住み込んだ若者だそうだ。
麻子より一つ年上の二十一だそうだが、どこかまだ少年の匂いが残っているような、やさしい、美しい若者であった。
「麻子さま。……」
やがて宗助はオズオズといい出した。
「ちょっとお願いがあるのですが」
「何でしょう?」
「兄上さま……景韶さまは、自由党でしょう?」
麻子は黙って、相手の顔を見守った。
「いえ、お隠しになるには及びません。実は、お願いというのは、僕もそのお仲間にいれていただきたいのです。自由民権の思想を教えてもらいたいのです」
麻子の眼に、夜明けのような光がかがやき出した。
「兄に、話して見ますわ」
と、麻子はいった。
二、三日後の夕方、塾に来た少年たちが去ったあと、宗助は麻子に呼ばれて、裏の離れに連れてゆかれた。
「やあ、高安君。……麻子から話を聞いたがね」
と、赤井景韶はいった。そこには、眉輪だけがいた。北国から来た同志、鯉沼九八郎、琴田岩松という二人の男は、どうやら外出しているらしい。
高安宗助は、きちんと坐って、お辞儀した。
「どうぞ、お仲間に加えて下さい。どんなことでもやります」
「人殺しでもやるかね?」
宗助は二の句がつげず、眼をまるくした。赤井は笑っていた。
「君という青年を知ってから、こちらはまだ二十日くらいしかたたん、しかし、ここにはもう一年くらいいるそうで、眉輪から聞くと、信じていい人間らしい。……いろいろ考えて、君に声をかけて見る気になった」
笑いを消して、赤井はいった。
それから彼は、福島県における三島県令の暴虐ぶりを語り出した。そして、
「三島は代表的なものだが、しかしそんな官憲の横暴は、大なり小なり日本じゅう同じ状態だ。かりにそのやりかたで道を作り、汽車を走らせ、工場を建て、軍隊を養っても、決して民衆は倖せにはならん、と、おれは信ずる。その元凶は、ただ一県令三島などではなく、いまの権力の中枢にある」
と、いった。語調は静かであったが、同時に力強いひびきを持っていた。
「岩倉とか、伊藤、井上、山県、黒田、松方、といった連中だな。三島は猛烈だが、しかしその走狗に過ぎん」
平然と、彼はいった。
「われわれは、その連中を殺《や》るために、東京へ来た」
「えっ」
「ほんとうに、人殺しのために出て来たんだ」
高安宗助の色白の顔は、蒼味すらおびていた。時勢はずれの漢学塾に学僕として住み込んだこの若者が、どういうきっかけから自由民権に憧れ出したのかは知らず、いまその自由党の猛者の一人に、真っ向から恐るべき意志を告げられて、圧倒されたらしい。
「これでも仲間にはいるかね?」
宗助は、救いを求めるように、眉輪、麻子のほうを見やった。この若い二人の女が落着いて聞いているのがふしぎであった。
いや、彼女たちの、じっと見ている眼は、心配そうであった。それは彼の態度に対してらしかった。
「自由党にはいりたい、という望みにまちがいはありません。しかし、いま、そんな途方もない計画を聞かされても、私は驚くばかりです」
あえぐように、やっと宗助はいい出した。
「赤井さん、そんなことをやって、あと先生やお嬢さま、麻子さまはどうなるのですか」
「君は正直者らしい」
赤井は微笑した。しかし、その眼はすぐに曇った。
「そこはさすがに旧幕のころとちがって、まさか罪が九族に及ぶなどということはあるまいと思うが、しかしそれがどうなるか、おれも判断しかねる。そこで……君に頼む気になったのは、おれたちが死ぬか、投獄されるかしたあとの、先生や眉輪や麻子のことだ」
「………」
「実は先生はそこまで御存知でない。この二人は知っておる。二人は、どんなことも覚悟しているといっておる。しかし、何といっても老人と女だ」
「………」
「君に、一挙そのものの仲間にはいってくれとはいわない。ただ、事後の老人や女の苦難の盾となってもらいたい」
「私は」
と、ふいに眉輪が言葉をさしはさんだ。赤井はかえりみて、
「またそれをいう。お祖父さまをどうするか」
と、叱るようにいった。眉輪は沈黙した。
眉輪がいおうとしたのは、私たちは心配ない、という言葉であり、それは死も覚悟しているという意味であり、かつこの問答は何度かくり返されたらしいことが、雰囲気でわかった。
「おれにとって、断腸の思いはそのことだ」
赤井の眼には、いつのまにか涙がいっぱいであった。……一見、決してめめしい性質とは見えないこの男が、どんなに情の濃い人間か、妻や妹に、どれほど深い愛情を持っているか、じかに人を打たずにはいられない表情であった。
「君を信頼出来る人間と見て頼む。こちらからお願いする。これを引受けてくれんか。おれの君に頼みたいのはこのことだ」
「それは引受けますが。……」
高安宗助はしぼり出すようにさけんだ。
「赤井さん、いまおっしゃったこと……政府大官の襲撃、それだけはちょっとお考え直しいただけませんか? お気持はわかりますが、それはあんまり大変なことであり過ぎます。そのこと自体より、その影響が大ごと過ぎます。つまり、眉輪さまや麻子さまがどうなるか、どんなに不幸になるか、それは想像も及びません。僕の力を超えています!」
そのとき、ホトホトと軽く戸を打つ者があった。
八
この裏の離れは、裏の細い路地にも面していた。
「琴田か、はいれ」
と、赤井景韶はいった。実は、彼らはこの家に帰るとき、戸を軽く三つたたいてからあける、と約束していたのである。戸は三つたたかれた。
戸はあいた。
夕暮の外光にまず見えたのは、洋杖《ステツキ》をついた長身の山高帽にフロックコートの紳士であった。それから、影は黒いのに、髪だけは銀のようにひかる壮士であった。
「柿ノ木さん……秦!」
さすがに驚いて、赤井はさけんだ。
「どうしてここを知った?」
「いやあ、ずいぶん探したよ。だいぶこのあたりを歩きまわってね」
と、秦剛三郎は笑いながらいった。
「おととい、偶然、家と家の間から、ここの庭が見えた。――ここの庭なんだろうと思う。――ばかに男の洗濯物が沢山ぶら下がっておるのが見えて、はてな、と思ったのが発見の端緒じゃ」
と、得意げにいった。
「それで、見物をしておると、いつぞや紹介された貴公の仲間が出入する。そこで、この戸のたたきかたも覚えた。それから、そこの娘さんたちが、酒や豆腐を買いにゆく姿も見た。いや、見れば見るほど御両人とも、この世のものとは思えん美人じゃのう。貴公がここを隠すわけじゃわい。あ、は、は、は」
「知ったなら、なぜすぐに来ん?」
と、赤井は苦り切った。
「貴公が隠すから、いっそう探したくなった。ふられると、いっそう惚れるのが人情の常じゃ。じゃから苦労して探しあてたんじゃが、貴公が隠しておるだけに、迂闊に寄りつくと、どういうあしらいを受けるかわからん。こう見えて、わしは貴公が怖いのじゃよ。あ、は、は、は。そこで柿ノ木さんのところへいって相談して、きょう二人で訪ねて来たというわけじゃ」
「赤井、東京に来たというのに、なぜ吾輩に連絡せんか」
と、柿ノ木義康は、持前のしゃがれた声でいった。
「そのうちに、ゆこうと思っていたんだ」
「それほどの大事を企みながらか」
赤井は、口をつぐんで、相手を眺めた。――いままで、戸の外で、中の話を聞いていたことは明らかであった。
「そこに立っておっては、話も出来ん。まず、はいって来なさい」
と、やがて赤井はいい出したが、おびえた顔をして坐っている二人の女を見ると、
「いや、おれが出よう。そこらを歩きながら話そう」
と、立ちあがった。彼は、女たちがおびえた顔をしているのは、その招かれざる訪問者が、以上の応答をしている間にも、じっと彼女たちに眼をそそいでいるからだ、と気づいたのだ。
「こちらも話がある。そこの青年にも来てもらおうか」
と、柿ノ木義康は、高安宗助にもあごをしゃくった。
「なんだ?」
赤井は、けげんな顔をした。
「このひとは、自由党員ではないぞ」
「いや、いまのような信頼を受けた以上は、同志といってよかろう」
柿ノ木義康は落着き払っていう。
「そのひとにも、ちょっと聞きたいことがあるのじゃ」
否やはいわせぬ口調に、赤井はなお腑に落ちかねる顔のまま、やはり同じ表情をした高安を、眼で促した。
「すぐに帰る」
赤井は、二人の女にいいながら、床の間に立てかけてあった杖をとって、高安宗助と戸口へ出ていった。
路地を出て、町ともいえない寂しい集落を離れると、すぐに一望の野となる。日中はいかにも春が来たことを思わせても、まだ三月にはいったばかりで、あちこちにそそり立つ欅の大木にもまだ葉はなく、野もただ枯草の色ばかりであった。
黄昏《たそがれ》の中を、四人は歩いた。柿ノ木義康と秦剛三郎が先に立ってゆくのだが、彼らは往来から離れて、その野原のほうへ踏み込んでゆく。
それはべつに怪しまなかったが、
「おい、このひとに話とは何だ」
と、赤井はうしろから訊いた。
「その前に」
と、柿ノ木はふりかえりもせずに答えた。
「この三月の末にも三島が上京することを知っちょるかね?」
「ほう?」
「いま鍛冶橋監獄で審問中の河野先生らに、勾留か釈放か、その予審の判決がそのころにある。それを聞きにじゃ。三島としては、それが気にかかって、いても立ってもおれんだろう。心配は釈放のほうじゃがね」
「柿ノ木さんは、どう思う?」
「その点について、ひとを通して兆民先生におうかがいをたてたら、そりゃ無罪釈放にきまっとるといわれた。――何しろ、河野先生が弾正ヶ原事件を指嗾《しそう》した証拠はおろか、事実もないんじゃから――あの事件を奇貨おくべしとして、三島が河野先生をとっつかまえて東京に送ったに過ぎないんじゃから」
「そう裁判官が認めてくれればありがたいが」
柿ノ木義康はつぶやいた。
「河野先生を本格的に牢にいれるには、弾正ヶ原事件以外の何かが要るのう。……三島はそれが欲しいところじゃ」
彼は、ふりむいた。
「赤井、貴公は河野先生と、何か盟約書を交わしたそうじゃないか?」
九
むろん、秦剛三郎がしゃべったに相違ない。
赤井景韶は秦をジロリと睨んだが、すぐに柿ノ木義康に戻した眼には、あきらかに困惑の色が浮かんでいた。彼はそれを苦笑に変えた。
「あれは酒の上のいたずら書きだ」
「官憲に見つかると、河野先生の首が飛ぶ、と、いったそうじゃが」
単刀直入にいわれて、赤井はまたつまった。言葉より、この柿ノ木義康が、なまじなごまかしの通じる相手ではないということを承知しているからであった。
「貴公、その盟約書なるものを持っておるのか?」
「持っておる」
と、赤井は答えた。
「あぶないな」
柿ノ木はいう。
「それが三島の手に渡ったらどうする」
「三島が、そんなもののあることを知っておるはずがない」
「は、は、は、は」
何が可笑しいのか、柿ノ木義康はこがらしみたいな声をたてて笑った。
「三島はともかく、警視庁は貴公に目をつけておるぞ」
「まさか――おれが東京に来たのも知らんはずじゃ」
「いや、貴公、相棒がおるだろう」
彼らはいつのまにか、七、八本ならんだ欅の木の下に立っていた。柿ノ木義康は洋杖《ステツキ》の頭に両掌を重ねていう。
「赤井、貴公、東京に帰って来ても、吾輩に連絡せん。秦も敬遠しておるような案配だが、吾輩たちと行動を共にするのに、何かさしつかえでも生じたのかね」
「そうじゃないが……いろいろななりゆきで、新しい同志とやることにしたんだ。しばらくあんたがたは、ただ見ていてくれ」
「見ておって、あぶなくていかん。いま警視庁に目をつけられておるといったろうが」
「そんなはずはない」
「じゃから、あぶないというのじゃ。貴公の新しい同志たち、あれは玄洋社の来島恆喜と往来しておるだろう。爆裂弾を手に入れるためか、製法を聞くために」
赤井は、さすがに、ぎょっとしたように相手を見つめた。
「来島恆喜――玄洋社に属しておるとはいえ、あれも一匹狼の口で、ひとりで爆裂弾の材料を集め、それをさまざま調合して、どうすればいちばん効果的に爆発するか、いろいろ研究しとる。警視庁はそれを知っておって、わざと泳がせとるんじゃ。来島のまわりに集まって来る連中を知るためにな。それに、貴公の同志がひっかかった。――」
赤井は、しばし口もきけない風であったが、やがて、
「柿ノ木さん、あんたどうしてそんなことを」
と、あえぐようにいった。
「そうだ喃《のう》? まちがいあるまい喃?」
と、柿ノ木義康は、赤井の問いには答えず、べつのほうをのぞきこんだ。
はじめ、それは秦剛三郎かと思った。しかし、柿ノ木の冷たく笑った眼が見すえているのは、高安宗助のほうであった。
「警視庁の密偵《いぬ》」
ピシリと二つの顔が硬直した。
一つは赤井だが、もう一つはむろん高安で、硬直したあと、意識的に無表情になろうとし、同時にその無表情は不自然だと気がついて笑い出そうとし――若い顔が、異様な痙攣を起した。
「ば、馬鹿っ」
うめき出したのは、赤井であった。
「これは、おれが帰京するずっと前から――もう一年近くも前から、錦織《にしごり》塾に学僕として住み込んでいた人だ」
「女がいる以上、どうせ貴公が帰って来るだろうと、網を張って待っていたのだろうさ」
「しかし」
自分が信じたのは、そればかりではない。このやさしい、美しい顔立ちの青年が――いや、たしかに純情誠実と見た若者が?
それにしても、どうして宗助は黙っているのだ? 恐怖につき動かされて、赤井のほうが、また柿ノ木に訊いた。
「なぜ、そんなことをいう? 何の証拠があって――」
「あれ以来、おれは馬鹿に密偵《いぬ》を嗅ぎ出す|かん《ヽヽ》が冴えての」
と、秦がいった。あれ以来、というのが、去年の密偵《いぬ》殺し以来という意味だと悟ったのは数十秒たってからだ。
「その学僕のことを知ったとたん、こりゃ臭い! と、直感したんじゃ。――こりゃ、若僧、中《あた》ったろうが」
彼は太い杖を握りしめて、高安宗助につめ寄った。
血の気を失って、粟《あわ》立っているような顔をしていた高安宗助は、赤井景韶を見ていった。
「その通りです」
赤井は、声も出なかった。
「うぬは!」
一息ののち、彼はいきなり拳で横殴りに高安の頬を殴りつけた。宗助は、棒のように枯草の上に転がった。
「許して下さい、赤井さん」
宗助はそのまま地面に這いつくばった。
「僕はたしかに警視庁の巡査です。赤井さんを見張るために錦織塾に学僕となってはいり込んだ者です。しかし、まだ何も報告してはおりません。……」
「何を、うぬは、ヌケヌケと、自由党にはいりたいなど。――」
赤井は、それ以上は絶句した。彼を激怒させたのは、相手もさることながら、自分自身のまぬけぶりであった。
「あれはほんとうです。いえ、自由党にはいりたい、といったときには、まだどこかに任務のことが頭にありました。しかし、さっきあなたから話を聞いたときは、ほんとうにあなたがたの味方になっていました。少なくとも、麻子さまや、先生、眉輪さまをお守りしようという心にうそはありませんでした!」
「服部と、同じことをいう」
柿ノ木義康がつぶやいた。――それが、一年前、自分たちの仲間にまぎれ込んでいた警視庁の密偵服部のことだと気がついて、赤井景韶はぎょっとした。
服部はあのとき、しかし自分は本気で自由党員に生れ変るつもりでいたのだと絶叫し、それが受け入れられずにこの柿ノ木義康に殺されたのであった。――
高安宗助は、冷たい土に指をくい込ませながらいった。
「しかし、それを認めて下さらんなら、どうにでも心のすむようにして下さい。殺されてもやむを得ません。ただ、赤井さんの手で。――」
「赤井、殺せ」
と、柿ノ木義康があごをしゃくった。
「ば、馬鹿な。……」
「何が馬鹿だ。そのために、ここへこいつを連れて来たのじゃないか」
柿ノ木義康は、そこにならんだ欅の木立越しに、夕暮の遠い街道のほうを見ていた。そこを通る人影もないのを見すましているらしい。その意味を悟って、赤井景韶の背にさあと水がながれた。
「立て、高安。――帰って、もう少し話を聞こう」
手をさしのべようとした景韶の眼の前に、いきなり閃光が走り、真っ赤な血の霧がひろがった。
柿ノ木義康の洋杖《ステツキ》からきらめき出した刀身が、いきなり高安宗助の左肩を袈裟がけに斬ったのである。
いままで、つっ伏したきりであった宗助は、はじめて顔をあげた。
「麻子さま……僕は本気で……」
それだけいうと、彼はまた前へつっ伏し、二、三度大きく四肢をふるわせると、動かなくなった。
「何するか、殺すことはないだろう」
ふりむいた赤井景韶の杖は、左に持ち変えられていた。
「生かして、これからどうするつもりじゃ。吾輩らのことも知られたのだぞ」
と、秦剛三郎が歯をむき出していった。自分たちのほうからわざわざ訪ねて来て、無理に連れ出しておいて、「知られた」もないものだが、この男はそんな矛盾は感じないらしい。しゃがみこんで、被害者の鼻に手をあてて、
「一太刀だ。柿ノ木さん、やはり、凄いのう!」
と、嘆声を発した。それでも、さすがに白髪がそそけ立っているように見えた。
「まったく、赤井……君のやることは、あぶなくって、見ておれん。警察の密偵《いぬ》に、政府大官の暗殺を打ち明け、後事を依頼するとは、何といっていいか、阿呆ぶりも言語に絶する」
柿ノ木は絹のハンケチで刀身をぬぐい、洋杖《ステツキ》をおさめながらいった。
「赤井、これでもまだ吾輩らとは別個に行動するつもりかね? やるなら、いっしょにやろうじゃないか」
「断わる」
赤井景韶はたたきつけるようにいった。
「どうしてもいやか」
「あんたたちは、ただの殺人者だ」
柿ノ木義康は、黙って足もとの屍骸を見た。その眼には何の痛みもない。
「いかんか。では、貴公らの成功を祈る、といいたいが、ほんとうのところは失敗を祈る。なんとなれば、そっちで政府の大官や三島らを片づけられては、こっちのやることがなくなるからね。しかし、一面、あとはこっちが引受けた、ともいいたいところじゃから、やっぱり、君、同志にちがいないよ」
きれいな口髭に、氷で刻んだような微笑が浮かんでいた。
「屍骸の始末は君にまかせる。秦、ゆこう」
五、六歩いって、ふとふりかえっていった。
「念を押していっておくが、くれぐれも密偵《いぬ》には気をつけてくれ。まったく警視庁の密偵《いぬ》は、どんな姿でくっついておるか、端倪《たんげい》を許さんことはこれでわかったろう。……」
十
ひとりで帰って来た赤井を、眉輪と麻子はおびえた眼で迎えた。彼の顔色は、むろんただごとではなかった。
「高安さんは?」
と、麻子が訊いた。
「それについては、あとで話す」
と、赤井はいい、「ついて来てはならんぞ」と命令してから、鍬を持っていって、夕暮の野にともかくも高安宗助の屍骸を埋めた。彼としては、そうする以外になかった。柿ノ木義康たちもそのことを見通して、平気な顔で立ち去ったものだろう。
さて、ふたたび戻って来た赤井から、はじめて、高安が警視庁の密偵であったこと、そのために、さっき訪ねて来た以前の同志に処刑されたことを告げられて、二人の女が驚愕したことはいうまでもない。
「あの人が、密偵だなんて!」
と、麻子はさけんだ。
「遺憾ながら、それが事実であったことは認めなければならん」
赤井景韶は沈痛にいった。
「しかし高安は、その任務を捨て、われわれのことをほんとうに心配してくれていたこともおれは信じる。おれはうっかり、例のことを打ち明けたが、それを止めたあいつの顔は真剣だった。いや、高安自身、殺される前、お前にだけは信じてもらいたいようなことを口走った。……」
泣き伏した妹の背を眺め、しかし赤井はもっとほかの悩みにとらえられているように見えた。
「眉輪、予定がちがった」
と、彼はいった。
「三月早々にも決行するつもりでいたが……三月の末に、三島通庸が上京するそうじゃ。あんな走狗は捨てて、ただちに政府の大物を狙うつもりでいたが、きゃつが出て来ると聞いては、やはりその機会は捨てがたい。鯉沼さんや琴田と相談して見なけりゃわからんが。……そうすると、それまでこの家をどうするか」
眉輪は黙って赤井を眺めている。この恐ろしい話を耳にしている女の眼は、まるで音楽でも聞いているようにウットリして、それはまさしく恋する女の――しかも、遠からず死地に入る男を見つめている女の眼であった。
「ここには、おれんぞ」
「なぜ?」
「高安のことで、すでにここに警視庁の眼がひかっておることが判明した。あぶないところだった。しかも、高安が消失したとあっては、警察はもう捨ててはおくまい」
いかにも、あの殺人そのものは見つからなかったとしても、そのおそれはある。おそれがあるどころか、そうなるにきまっている。
「われわれは、どうにかして別に潜伏場所を探すが。――」
われわれとは、やがて帰宅するだろう同志の鯉沼九八郎や琴田岩松のことだ。
「あとのことが心配じゃ」
「いえ、そんなことは心配なさらないで――私たちは」
「お祖父さまをどうする」
赤井はまたそれをいった。
「それに、お前たちに託したいものがある」
「何ですか」
「例の盟約書だ。あれは河野先生への気付薬となるものだが、それ以上に、おれたちが処刑されたあとでも、後世におれたちの志を明らかにする大事な文書だ。それを持って、いつか自由民権の天日が照らす日まで待っていて欲しいのだ」
赤井は腕組みをして、
「ああ、お前たちにどこにいってもらおうか。……心当りのところは、みなあぶない」
と、うめいたが、やがてあげた眼がふっと宙にとまった。
「おう。……あれに頼もう」
「あれとは?」
「例の馬車屋」
「まあ!」
「甚だ突飛だが、あれ以外にない。あれは昔会津の侍で、なぜかひどくおれは好きだ。そして、おれが頼めば、何とか引受けてくれるような気がする。新しいお前たちの隠れ家を探してくれるような気がする」
赤井景韶の口辺には、微笑さえ浮かんだ。
「事は急ぐ。高安の消失に警察が気づかぬうちじゃ。お前たち、明日にでも夜が明け次第市中へいって、あの親子馬車を探して来い」
十一
お高祖頭巾をかぶった眉輪と麻子が、銀座煉瓦街の尾張町の辻で、親子馬車をつかまえたのは、その翌日の午後遅くであった。広い東京のどこを走っているかわからない特定の馬車を探すのはどうかと思われたが、さすがに銀座だ。
もっとも、馭車台にお雛の姿はなく、訊くと、ここ数日、風邪気味で馬車の中に乗せているという。はいって見ると、お雛は頭から赤|毛布《ゲツト》をかぶせられて、座席の一つにチョコナンともたれかかっていた。
「巣鴨へ。――」
二人の女は、ただそういった。さすがにほんとうの用件をここで頼む勇気はなかった。
巣鴨の庚申塚へ着いたのは、もう夕暮であった。干兵衛が馬車を停めると、眉輪だけが下りて来て、家までいってくれといい、その道順を教えた。
こうして干兵衛は、錦織塾へ――その裏側の離れに連れてゆかれたのみならず、迎えに出た赤井景韶に家の中へ呼びこまれ、そのあげく、
「あんたを見込んで、頼みがある。わけがあって、この家を至急立ち退く必要に迫られたのだ。おれたちはゆくところがあるが、この女二人、老人一人、しばらく身を隠す適当なところが思い当らないのじゃ。干潟さん、それを探してやってくれないか?」
と、思いがけぬ依頼を受けることになったのだ。そばに、いつか見た魁偉また怪異な顔をした二人の壮士が、腕組みをしている。
「むろん、時がたてばまたここに戻って来るつもりだ。それまでの間だが。――」
干兵衛は、しばらく返事もしないで、赤井の顔を眺めていた。
それから二人の女に眼を移し、二人の壮士に眼をやった。女たちは心配そうであり、男たちの顔には殺気が燃えて来たようであった。
こういう問題で、それほど複雑な頭の働きかたをさせる干兵衛ではないが、それでもさすがに考える。
干兵衛の脳髄にまずひらめいたのは、やはり自由党が自分を追っかけて来る、という思いであった。実は、さっきあの女性に呼びとめられ、ここに近づいて来る途中から漠然とそれを意識していたのだが、まさか自分にこういうことを頼むのが目的だとまでは考えなかった。
赤井景韶がこれから何をやろうとしているのか、彼は正確には知らない。知りたくもない。それを訊くのは怖ろしい。
繰返していうが、会津のためにたたかって妻を失った彼は、政府に叛旗をひるがえす自由党、とくにその若者たちに好意を持っていた。しかしまた、会津の復讐のために西南の役に出征して子を失い、結局一介の馬車屋となって暮している彼は、壮士たちの未来をもむなしいものに見ていた。よしたほうがいい、という思いのほうが強かった。同時に、そんなものにかかわり合うのは御免だ、とも考えていた。
ただしかし、この巷をゆく馬車の一介の馭者たる彼の、錆びて沈んだ血の下に、いまだに動いてやまぬもう一つの血があった。それは、官憲であろうが自由党であろうが、自分の望みをとげるために、罪のない人間に不幸を与えることは――少なくとも、それを見ていることはがまんが出来ない、という性質であった。
この赤井たちが、何をやろうとしているかは知らないが、とめてもとまるまい、と、彼は考えた。しかし、それとともに、この前胸に浮かんだこのうら若い二人の女のゆくてに待つ悲劇の予感が、いよいよ現実化して来たのを感じた。
干兵衛は微笑した。
「ようござります。かしこまりました」
と、彼はいった。赤井の顔はかがやいた。
「やっ、引受けてくれるか。まことに突飛な依頼であることは百も承知、案じてはおったが、しかしなぜかあんたなら引受けてくれそうな気がしていたんだ。それで、どこに?」
「私のうちに」
「なに、あんたの家?」
「左様です。芝の露月町の裏長屋でござりますが、御承知のように孫娘をいつも連れて歩いておりますので、ふだんは、まあ空家なのでござる。そこでよろしかったら」
「よろしかったら、どころではない。天の助けだ!」
手をさしのべて干兵衛の手を握り、赤井景韶はポロポロ涙をこぼした。この一見落着いた青年が、いかに多血であるかを思わせる感激ぶりであった。彼はこんなことまで口走った。
「干潟さん、礼をいう。赤井景韶、たとえあの世へゆこうと、あの世からも礼をいう!」
こうして干兵衛は、その夜のうちに、錦織晩香先生と眉輪、麻子を、当座の身の廻りの品とともに芝へ運ぶことになった。
別れるとき、赤井は大きな眼で、眉輪と麻子を見て、
「では、頼んだよ」
と、いっただけであった。
あとになって見れば、その眼に無限の思いが籠っていたように思う。しかしそのときは、むしろ明るい笑いさえ満ちているように見えて、彼がそのあと、あんな大事を企んでいて、それは永別を告げる眼であったとは、干兵衛は意識しなかった。むしろ、彼が何か大それたことをやろうとしているというのは、自分の思いちがいではなかったか、と考えたくらいである。干兵衛は、頼んだとは、老人のことかと思った。
白い髯をはやした晩香先生は、このいきさつをどこまで知っているのか、自分の孫娘の運命をどう思っているのか、鶴みたいに飄然と悟った顔で、引っ越しの馬車にゆられていった。もっとも、どうしてこういうことをやるのか、これからどうなるのか、干兵衛だって知らない。
ただ、わけはわからないなりに、馬車のあとをつけて来る人間も俥もないことをたしかめたのは、干兵衛が昔とった同心の杵柄《きねづか》の心くばりであった。
十二
芝露月町に半月ばかりの日が過ぎた。
干兵衛の長屋には、時ならぬ花が咲いた。花とは、むろん二人の女だ。台所のほかには、六帖と四帖半二つだけの間取りで、干兵衛は晩香先生と四帖半に住み、眉輪と麻子とお雛は六帖のほうに暮した。
もっとも干兵衛は、昼間は商売に出かけるから、家にいるのは夜だけといっていい。晩香先生は、いつも一閑張りの小机に向って、巣鴨から運んで来た数冊の漢籍を読んでいる。夜は酒を一本だけ飲んで、子供みたいにコロリと眠る。干兵衛は、彼なりに浮世を捨てたつもりでいたが、この老人を見ていると、まだ自分のなまぐささを感じないわけにはゆかなかった。
とくに、隣室の二人の女を意識するときだ。むろん彼は、男として彼女たちを見る心を捨ててはいるが、何かえたいの知れぬ不安を感じさせる二人の美しさであった。眉輪の豊艶、麻子の清麗、彼にはこんな形容しか浮かばないが、この美しさはただですまないような予感を与える。隣室といっても、同じ小さな屋根の下だから、何かのはずみに干兵衛も、どきっと鼓動が打つような気のすることがあった。
干兵衛の心は、そんなことではなく、別のことでもっと複雑だ。お雛がいっしょに馬車に乗らなくなってしまったのだ。
はじめは、ちょうどお雛が風邪をひいて困惑していたところであったから、二人の女性の来たことはそれだけでもありがたいと思った。しかし、風邪はみるみる癒っていった。
そして、そのあともお雛は、眉輪と麻子に遊んでもらって、毎日夢中になっていた。
おてだまや、あやとりや、まりつきや。――ちょうど三月なので、雛祭りの唄が聞える。お雛が二人に教えているのだ。
「雛一丁おくれ
どの雛めつけた
この雛めつけた
いくらにまけた
三両にまけた。……」
それは干兵衛が教えてやった奥羽のわらべ唄であった。
彼の頭には、幼い蔵太郎《くらたろう》にこの唄を聞かせていた妻のお宵《よい》の姿が浮かんだ。
そしてまた、ここ一年以上も彼女の幽霊が出て来ないことを思い出した。ひょっとすると、お宵はもうこの世に帰って来ることの出来ないあの世の果てに消え失せたのではあるまいか?
また、まだ自分もお雛も知らないお雛の母親のことも胸をかすめる。
いちじ、懸命にそのゆくえを探したが、このごろはもうあきらめている。蔵太郎はたしかに柳橋の芸者でお鳥という名だといったが、それを柳橋にいってどの芸者屋に訊いても、だれも知らないというのだから、どうしようもない。お鳥というのは本名にちがいないから、芸者としてはべつの名を持っていたのかも知れない。なにしろ、蔵太郎が息をひきとる寸前にわずかにもらした訴えだから、それ以上たしかめようもなかったのだ。
しかし、その女を探すことをやめたのは、その女にめぐり逢うことを干兵衛が怖れるようになったからでもあった。お雛の母を見つければ、お雛をその母に渡さなければならないことになるかも知れない。……それはいまの干兵衛にはたえられないことであった。
このまま、いつまでも二人で暮すのだ。二人だけで生きてゆくのだ。
そう思い込んでいたが、いま眉輪と麻子に来てもらって見ると、お雛はよく笑う。声までがちがう。
やはり、お雛には、女手が要るのではないか?
ひとり、馬車に乗って東京の町をゆく干兵衛の顔には、それまでよりいっそう哀切の色が濃くなっていた。あの女性たちにいつまでもいて欲しいと思い、逆にまた傍の小さな馭者台にふだんいる者がいないことが、彼に春先の風をいよいよ寒く感じさせた。
しかし、何にしても実際問題として、眉輪と麻子が永遠に彼の家にいるわけにはゆかないことは、彼も承知していた。二人は、何もかも忘れてお雛と遊んでいるわけではなかった。一方で彼女たちが、恐ろしい緊張で何かを待っていることは、明らかに見てとれた。
「干潟さん、明日にでも巣鴨へ連れていって下さらない?」
眉輪と麻子がそういい出したのは、三月半ばのある夜であった。二人は、いままで抑えていたのが、とうとうがまんし切れなくなったというような表情をしていた。
「えっ、お帰りになるのでござりますか」
「いえ、ちょっと用事があるのです」
「でも、あなたがたがあそこにゆかれていいのでござりますか。もし私に出来ることなら、私が参りますが」
なぜか干兵衛は、二人があそこに帰るのは危険だ、という予感がした。それは、あの家を離れなければならないといったときの赤井の、ただならぬ語気から来たものであったかも知れない。
「もし、何でしたらそうお願いすることがあるかも知れませんけれど……とにかく、近くまでいって見て下さい」
と、麻子は思いつめた眼でいった。
「むろん、お雛ちゃんもいっしょに」
と、眉輪がつけ加えた。
翌る日は、いいお天気であった。微風はもう完全に春のものであった。
家を出かけるとき、なぜか麻子は、どこからか手にいれた沈丁花《じんちようげ》の小枝を、水をいれた竹の花活《はない》けにさして持ち出した。沈丁花はまだひらき切ってはいなかったが、もう濃い芳香をたてていた。
馬車はまるで行楽にでもゆくように、軽くはずみながら駈けていった。
巣鴨に着いた馬車は、もう干兵衛も知っているあの家から少し離れた野原沿いの路傍に停められた。
そして、お雛を連れて来た二人の女は、干兵衛にちょっとここで待っていてくれるように頼み、草の萌え出した野原の向うへ歩いていった。麻子は、例の沈丁花の花活けを下げていた。
やがて三人は、欅の木立の向うへかくれた。
「……はてな?」
干兵衛は、首をかしげた。
三人はやがて現われ、ひき返して来た。麻子の手に花はなかった。
干兵衛の持前の性質で、そのときは何も訊かなかったが、さすがに疑問にたえず、あとになってお雛に、いったい何をしたのだと尋ねた。すると、子供の口ながら、野原の中に一つごろんと転がっている石にその花をのせて、二人の女性はおがんでいたということで、それ以上のことはわからなかった。
実は、麻子がそれをやりたかったのが、この日の巣鴨ゆきの最大の目的であったのだ。
が、ここまで来ては、やはりこの間まで暮していた家を見たくなる。干兵衛は眉輪に頼まれて、まず一人で見にいった。干兵衛も警告したが、二人の女も用心はしていた。
路地の中の錦織塾は、表も裏も雨戸を閉じ切られたままで、ひっそりかんとしていた。やはり、赤井らはどこかへ立ち去ったらしい。
「家の中も、家の外も、だれもいないようでござりますが」
と、干兵衛は報告した。
「巡査も?」
「はい」
二人の女はしばらく考えていた。
「それなら、お祖父さまに、御本をもう少し持っていってあげましょう」
と、眉輪がいった。
干兵衛は路地の中に馬車をいれてゆき、二人の女が下りていって、裏の離れの入口の戸をあけるのを眺めていた。
ふいに、悲鳴が聞え、二人が立ちすくんでいるのが見えた。干兵衛は竹鞭をつかんで駈け出していった。
「何でござる?」
「あそこに。――」
眉輪は家の中を指さした。
雨戸の割れ目を通す細い光の縞の中に、真っ白なものがフワフワと動いていた。そして、ぬうと立ちあがって来た。それが例の白髪の壮士だと知って、しばらく干兵衛も息をのんだままであった。
「やはり、帰って来たな」
と、秦剛三郎がいった。
「いったい、どこへいったのじゃろう、と首をひねっていたのじゃが、なんだ、お前は例の馬車屋じゃないか。お前がその二人を連れて来たのは、偶然か、何か縁あってのことか」
いつか雪の日、この男をこの家から遠ざけたことがあったが、その後のことは何も知らない干兵衛は、何といって挨拶していいかわからない。
「その後、来て見ると、だれもおらん。――とにかく、そのうちだれか帰って来るじゃろうと思って、柿ノ木さんと交替で、ここで毎日ツクネンと待っておったのじゃ」
戸口まで出て来た。
「おや、赤井はおらんのか。赤井はどうしたのかい」
彼は路地を見まわした。ようやく眉輪がいった。
「あんなことがあった以上、警察に目をつけられる怖れがあるといって、急に立ち退くことになったのです」
「なるほど、そうか」
粗雑な頭に、はじめて思い当ったと見えて、ガリガリと白髪をかいた。
「赤井に何か御用でございますか」
「渡したいものがあるのじゃ」
「何でしょう?」
「赤井が見れば、飛びあがってよろこぶものじゃ。これを手にいれるのに、こちらはえらい苦労をして、せっかくここまで運んで、モグラのように待っておるのに、赤井はどこにいって何をしておる」
「ですから、何でございましょう?」
「爆、裂、弾」
十三
秦剛三郎は、干兵衛の顔を見て、
「ホイ、しまった」
と、いった。
聞かれて困る人間に聞かれた、と、気づいたらしい。ほとんど反射的に、干兵衛は聞えなかったような顔をして、馬車のほうへひき返そうとした。
「干潟さん、いて下さい」
と、眉輪がいった。
干兵衛は、すぐに立ち戻った。いまさら知らないふりをしても追っつかないし、それにこの危険な壮士の口からそんな怖ろしい言葉を聞いては、瞬時たりとも眉輪と麻子を置きざりにしてゆくことは出来ない、と気づいたのだ。
秦は、じっと干兵衛を見つめた。
「お前、どうしてこの二人を連れて来たんだ」
「爆裂弾とは何のことですか」
と、麻子が訊いた。
「馬車屋。――ああ、お前は自由党の味方じゃったな」
秦はうなずいて、にやっと笑った。
「何にしても、お前とおれは一蓮托生じゃ。おれがつかまるときがあったら、お前も手がうしろに廻るぞ。……ここで立ち話は出来ん。はいんなさい」
と、さきに家の中にひき返した。
三人は、そのあとについていって――眉輪と麻子は、さっきまで秦が坐っていたあたりに一つ行李が置いてあるのに気がついた。彼女たちにはおぼえのない行李であった。
「これが爆裂弾」
と、秦はしゃがんで、行李を撫でていった。
「なに、その材料じゃがね。このままじゃ爆発せんから心配はいらんよ。……あんたがた、来島恆喜という男の名を聞いたことがあるだろう。これはそいつから盗んで来たものじゃよ」
彼は笑った。
「爆裂弾製造に苦心惨憺しとる男で、材料は集めたが、それをどう調合したら爆発するか、まだわからんらしい。じゃから、赤井君も、同志の鯉沼、琴田君もまだ知らんはずじゃ。来島はどういうつもりか、旧知のこのおれでさえ敬遠しとるくらいじゃからな。……だから、盗んで来てやった」
三人とも、黙っている。
「調べたところ、中にはいっとるのは、塩酸カリと鶏冠石っちゅう薬で……これはおれの兄事しとる柿ノ木義康氏がそういった。それ、先日おれといっしょに来た、山高帽にフロックコートの人じゃがね」
麻子の顔色が動いた。高安宗助を殺したのはその男だと、兄から聞いていたからであった。そんなことには気づかぬもののごとく、秦は鼻うごめかしていう。
「柿ノ木さんは、その調合法をフランスの火薬の本を調べてすぐに知った。あのひとはフランス語がペラペラなんじゃ。で、これをここに持って来て、爆裂弾の作り方を赤井君に教えてやろうと思ったのに、おらん。きょうまで待っておるのに、来ん。どこへいったんじゃね?」
「知りません」
と、眉輪がいった。
「知らん? まさか?」
「ほんとうに、知らないのです」
「あんたがたは、どこから来たのじゃね?」
女たちは、また黙りこんだ。
「馬鹿におれを危険人物扱いにするな。同志だぜ、赤井とは。――まあ、よろしい」
彼はうなずいて、それからひとりごとのようにいい出した。
「この三月二十日の夜にな、延遼館で大宴会がある。大山中将の婚約披露宴で、また男女抱き合いの西洋踊りをやるんじゃろ」
干兵衛の眼がひろがった。
「むろんその夜には、軍人のみならず政府の大官もゆくじゃろう。おう、ひょっとすると、同じ薩摩の縁で、三島県令も出るかも知れん。三島の上京は月末と聞いておったが、どうやらもう上京しておるらしい。……赤井君は、その夜を狙っとるのじゃないか。どうかね?」
二人の女は、答えない。
「しかし、それは難しい。大山中将の婚約者は、アメリカ帰りのハイカラで、これをラシャメンか何かとかんちがいして乱暴を働こうとしたやつがあったそうで、大山がこんど婚約披露宴をやらかすのは、そんな馬鹿どもに対する示威のつもりもあるらしい。じゃから、その晩を狙うのは極めて不利と思う。白刃をふるって斬り込んでも、龍車に向う蟷螂《とうろう》の斧じゃ。……ただ、爆裂弾をもってすれば、話はちがう。どうじゃね?」
「………」
「と、あんたがたにいっても返事は出来んじゃろ。あんたがたが赤井の居所をいわんのも、まあ諒としよう。さすがは赤井君で、よく仕込んだものじゃ。あ、は、は、は。とにかく急いで赤井君に、このことを教えてやってくれ。そして、もし望むなら、すぐ柿ノ木さんに連絡するように、とな。なにしろ、爆薬の調合の割合は、柿ノ木さんしか知らないんじゃから」
「………」
「この行李はここに置いてゆく」
秦は立ちあがった。
「何だかおれと話すことにビクビクしとるようじゃから、おれはとにかく帰るとするが、いいかね、柿ノ木さんに連絡を頼むぞ。ああ、待っておった甲斐はあった。いや、甲斐があったかなかったかは、あんたがた次第じゃがね」
彼は、そばをすれちがいざまに、干兵衛の肩をどんどんとたたいた。
「馬車屋。……どうもえたいの知れん馬車屋じゃな。いつか、ゆっくり話したいもんじゃ」
そして彼は、戸口から外へ出ていった。路地を遠ざかってゆく下駄の音が聞えた。
三人は、数分間、顔見合せたままであった。……まず干兵衛が口を出そうとしたが、とみにはその言葉も見つからない。
とんでもない。とんでもないことだ!
赤井景韶が何かやりそうだ、とは予感していた。そして干兵衛は、その予感に顔をそむけて来た。が、いまの自由党の猛者の推量によると、どうやら政府大官の暗殺を志しているらしい。それもまた自分に無縁のこととしても、狙われるのが捨松お嬢さまの婚約披露宴だという可能性があるとは!
しかも、彼らに爆裂弾を与えるとは、とんでもないことだ!
「帰りましょう」
やっと、干兵衛はいった。
眉輪と麻子は、行李を眺めていた。
「その中に、爆裂弾の材料がはいっているなんて、嘘でござるよ」
実際、彼は半信半疑であった。いや、でたらめだと思おうとした。
しかし、やがて明らかになることだが、それはほんとうだったのである。読者はもう記憶していられないだろうが、作者は、以前来島が松旭斎天一一座の楽屋に潜んでいたころも、川上音二郎にも見せない行李を所持していたとちゃんと書いている。その行李は、まさしく来島恆喜のものだったのである。
「それにしても、いまの御仁は、やっぱり怖い人でござりましたなあ。柿ノ木とかいう人も、ヒョンなことで私は知っておりますが、あれはいまの人以上におっかない」
「でも」
と、眉輪がいった。
「赤井は、行を共にする気はしないけれど、あれも自由党にとっては必要な人だ、と、申しておりました」
二人の女がなおその行李から眼を離さないのに、干兵衛はいよいよ恐怖して、
「いったい赤井さんのいまの居所を、御存知なのでござりますか」
と、訊いた。
二人の女はかぶりをふった。
「知りません。……でも」
「二、三、心当りはあります」
それから、眉輪がいった。
「でも、この行李は持ってゆきましょう。そして、赤井を探して見ましょう」
干兵衛は、眼をむいた。
「えっ? こ、これを? 露月町へ?」
「ここに置いておくと危ないでしょう。いつ巡査が踏み込んで来るかわからないのですから」
と、眉輪が妙に生き生きといった。
実は眉輪たちは、あの日以来ふたたび赤井に逢うことはあるまいと覚悟していた。そこにいま 赤井を探して逢う用件が出来たので、かえって心をワクワクと昂揚させていたのである。
それはその通りだ。きょう自分たちがここへ立ち寄ったのも冒険だったのだ、と、干兵衛も認 めないわけにはゆかなかった。さらに、こんな物騒なものは自分のうちへ運んでしまったほうがいいかも知れない、と、彼のほうはこう考えた。
何にしても、お雛を馬車の中に待たせてあるので、いつまでもここにはいられない。
やがて、三人は外へ出た。干兵衛はその行李を馬車にかつぎ込んだ。
不吉な白髪の壮士の姿は、もう路地には見えなかった。
十四
しかし、破局は、そこから大通りに出ようとしたところに待っていたのである。向うからやって来た三人の巡査が、こちらを見て、何か話し合ったかと思うと、いきなり駈け寄って来て、
「その馬車待てっ」
と、さけんだ。
「おい、この馬車はいまそこの路地から出て来たな」
「錦織塾にいっておったのではないか」
「だれを乗せちょるのか、ちょっと調べる」
この段階では、干兵衛はただ狼狽の域にとどまっていたが、扉をあけた巡査たちが、
「やあ、これは錦織塾の女たちではないか?」
「どこへ消えたかと思っておったら。――」
「高安宗助はどこへいったか。赤井景韶は?」
と、わめくのを聞いて、顔色を失った。高安宗助という名は、干兵衛は知らない。赤井の同志の一人だろうと思った。何にしても、やはり警察は、錦織塾を見張っていたのだ。
「おいっ、馬車屋――このまま警視庁へいってくれ」
巡査の一人が、扉から顔を出してどなった。巡査は三人とも、馬車に乗り込んでいた。
干兵衛は、どうすることも出来ず、命じられた通り、馬車を動かすよりほかはなかった。
どうしよう? どうしよう?
東京へ来てから、馬車を動かすのに、干兵衛はこれほど苦痛に満ち、これほど困惑したことはない。
そして、馬車が鍛冶橋の――去年の暮に新築落成したばかりの警視庁に着いたとき、事態が最悪のものになったことが判明した。
巡査たちは、眉輪と麻子を追い立てるようにして下りたが、その一人は、あの行李をかついだのである。
「あ、それは」
と、干兵衛はさけんだ。
二人の女はふり返った。紙のような顔色であった。同時に二人は、いい合せたように、人差指を縦にして口にあてた。
――黙って!
必死の眼を干兵衛に投げ、眉輪と麻子は、巡査たちにとり巻かれ、警視庁の門の中へ曳かれていった。
どうしたらいいのか?
干兵衛は泳ぐように馭者台から飛び下り、ウロウロと門前を歩きまわり、それから意味もなく馬車の中をのぞきこんだ。
お雛がひとり坐っていた。
「祖父《じじ》」
と、呼んだ。
「まゆわの姉ちゃんがこんなものくれたよ」
と、ふところから一通の書状のようなものを出して見せた。
干兵衛は飛びこんで、それを受け取った。中のものをとり出し、そこに「盟約書」という文字と、うしろのほうに、河野広中、赤井景韶の名を見ると、彼は本能的に恐ろしいものに触れたような気がして、そこに書いてある文章を読むいとまもなく、あわててまた封に押しこみ、自分のふところにねじこんだ。
彼は逃げるように、馬車を警視庁から離した。
夢遊病みたいに、家のある芝の露月町のほうへ馬車を走らせながら考える。
いまの盟約書なるものは、巡査に調べられる前に、とっさに眉輪がお雛のふところにいれたらしいが、それは赤井景韶から託されたものに相違ない。
で、これは警視庁の手にはいることはまぬがれたが、しかしあの行李はどうするのだ? あの行李には、爆裂弾の材料がはいっているという。警視庁にはすぐにそのことはわかるにきまっている。そうなったら、あの二人はどうなるのだ?
――あれは、白髪の壮士からもらったものだ。
彼は、そう証言しに、いちど警視庁にとって返そうとした。
しかし、考えてみると、そんなことは自分が証言しなくても、白状するつもりなら、あの二人がそういえばいいのである。
干兵衛は、さっき眉輪と麻子が唇に指をあてたときの顔色を思い出した。あれは、自分に何もいうな、と合図したのみならず、彼女たちもまた沈黙を守る決意のあらわれだったのではないか?
それを白状すれば、あの白髪の壮士、柿ノ木とかいうフロックコートの壮士、来島恆喜そのほか自由党の連中が、芋蔓式に挙げられるにきまっている。いわば、彼女たちは自由党を裏切ることになるわけだ。
あの二人が、秦や柿ノ木という連中を敬遠していることはわかる。しかし、だからといって、その名を口にすることはあるまい。
干兵衛は、さっきの眉輪の言葉を思い出した。
「あれも自由党にとって必要な人」
彼女たちは、おそらく決して白状はすまい。それはこれまであの二人を見ていても、推察出来た。しかし、それなら彼女たちはどうなるのだ?
干兵衛は、露月町の、長屋に帰った。
「お嬢さまがたは、しばらく巣鴨のお家にお泊りになるそうで」
と、彼は一応晩香先生にはそういっておいた。
それから、物蔭へいって、さっきの盟約書をとり出して、改めてそれを読んだ。
「 盟約書
第一条。吾党は自由の公敵なる専制政府を顛覆して公議政体を建立するを以て任となす。
第二条。吾党は右の目的を達するため、生命を抛ち、恩愛の繋縄《けいじよう》を断ち、事に臨んで一切顧慮するところなかるべし。
第三条。吾党は吾党において決せる事を遵守し、倶に同心一体なるべし。
第四条。吾党は、右志望を達せざる間は、いかなる艱難に遭遇し、また幾年月を経過するも必ず解散せざるべし。
第五条。吾党員にして、吾党の密事を漏らし、かつこの誓書に背戻《はいれい》せし者あるときは直ちに自刃せしむべし。
右の条々死を以て誓うものなり。
[#地付き]」
そして、そのあとに七人が署名し、血判を押してあった。そのうち五人の名は干兵衛の知らないものであったが、河野広中と赤井景韶の名はたしかに見えた。
干兵衛ほどの人間の手が、ワナワナとふるえ出した。これが官憲の手にはいったら、まちがいなく内乱陰謀の国事犯として極刑をまぬがれまい。
[#改ページ]
そ の 男
一
考えてみると、爆裂弾の材料といっしょに、二人の女を馬車でそっくり警視庁に持ってゆかれるなど――しかも、その馬車を動かしていったのは、赤井景韶から彼女たちを託された自分なのだ――第三者から見れば、ポンチ絵としか、いいようがない。
しかし、干兵衛は、笑うどころではなかった。
どうすればいいのだ? どうすればいいのだ?
あの爆裂弾はひとからあずかったものだと訴えて出ても、事実、無関係ではないのだから、それで無罪放免などになるわけがない。そんなお節介は、いっそう彼女たちを苦しませることになる可能性のほうが強い。
と、いって、放っておける事態ではない。とくに――この三月二十日、もし赤井らが延遼館を襲撃するようなことが起るとなると、彼女たちは破滅だ。赤井らがそれでつかまり、罰を受けるのは自業自得として、彼女たちも同じ罪に落ちるのは――干兵衛にはたえられなかった。現在ただいまも、警視庁で、拷問に近い取調べを受けている怖れは充分ある。
眉輪と麻子の気持は、充分知っており、かつその意志を尊重しているのに、やはり彼女たちは犠牲者だと考える。干兵衛は古い男であった。
――とにかく赤井に逢って、このことを知らせる必要がある。
と、ついに干兵衛は考えた。
そもそも赤井らが、捨松お嬢さまの御婚約披露宴に不穏なことをしかける、ということも、何としてもやめさせなくてはならなかったのだ。
しかし、赤井景韶はどこへいったのか。
干兵衛はそれを知らなかった。眉輪か麻子が、二、三、心当りがあるようなことをいったけれど、その二人の女はつかまっている。――
それから数日、東京の町をゆく干兵衛の馬車は、人を乗せるためではなく、赤井景韶をさがすために動いた。しかし、春とともにひとしお人出のふえた街頭に、むろんそんな願いは容易に叶えられるはずもなかった。
干兵衛は、せめてものことに、秦剛三郎も探した。あの男に、何とか責任をとらせるためだ。
しかし、いらざるときに疫病神みたいに現われるあの白髪が、こんなときにかぎってどこにも見えなかった。
三月二十日は近づいた。彼は懊悩した。
十八日の夜であった。女たちがいなくなってから、干兵衛とお雛は六帖のほうに寝ていたが、お雛を寝かしつけたあと、干兵衛が闇に眼をあけて考え込んでいると、
「干兵衛さん」
と、だいぶまえ一本飲んで、もう寝入ったものと思っていた晩香先生が呼んだ。
「眉輪たちは警察につかまったようじゃの」
干兵衛は、とっさに返事が出なかった。
晩香先生には、眉輪と麻子はちょっと所用があって、あれ以来巣鴨の家にいる、といってあったのだ。それでも、あれから何日もたつのだから、老人はまるでここに捨てられたような案配で、いつかそのうち彼女たちのことを不安げに口にするにちがいない、と気にしていたのだが――いきなり、こう図星をつかれようとは思いがけなかった。
「どうして、御存知で?」
やっと、干兵衛は訊いた。
「二、三日前の新聞に出ておったよ」
「えっ、新聞?」
「それで、眉輪たちが帰って来ない日から、干兵衛さんの悩んでおったわけがわかった。知らない顔をしていようと思ったが、あんまりあんたが苦しんでおるから、やっぱりいう気になったのじゃがの」
がばと干兵衛ははね起きた。
「先生、その新聞はどこにござります?」
「机の上じゃよ」
干兵衛は隣室にはいってゆき、手さぐりで、一閑張りの机の上の洋燈《ランプ》をつけた。二、三冊の漢籍の下に、なるほど折りたたまれたままの新聞があった。
自分の留守中、ここでひねもす漢籍を読んでいるばかりと思っていた老先生が、いつ町へ出て、新聞を買って来たものか――など、問いただしているひまはない。
「三面のまんなかあたりにあるが」
干兵衛は読んだ。
「巣鴨小町が馬車で御用」
と、いう見出しであった。
「巣鴨にて巣鴨小町との評判高かりし錦織某女、どういう風の吹き廻しか、かねてより自由党の猛者と熱々との噂ありしが、さきごろより何ゆえか忽然一家姿をくらまし、その筋におかれては不審に思われいたるに、さる十三日のこととか、馬車にて某所を通行中警邏の巡査の網に引っかかり、早速訊問したるところ、何やら険呑なる所持品運搬中なること判明、ただちに警視庁に拘引せられ、右所持品ともども厳重取調べ中なりと聞きぬ」
新聞は、「朝野新聞」であった。記事もそんなに大きくはない。
このころは犯罪事件について、警察が一々発表するわけではなく、また警察《さつ》廻りの記者があるわけでもなく、ただ記者が何かのはずみで小耳にはさんだことをいいかげんに記事にすることが多かった。
だから干兵衛も、べつに新聞を買って読むという気も起さなかったのだが。――
干兵衛は食いいるようにその記事を読んでから、ふり返った。
晩香先生は寝たままであった。小さな夜具のふくらみから、白いチョンマゲだけがのぞいている。向うむきになっているのだ。
「先生」
「何じゃい?」
「いま先生は、知らない顔をしていようと思ったが……と、おっしゃいましたな。どうしてでござります?」
「そりゃ、老いぼれのわしが口を出しても、どうしようもないことじゃからな」
「それはそうでしょうが……先生は、赤井さんが何をしようとしているのか御存知なので?」
「いや、聞いたことはないが、うすうすは知っとる」
「それで、お嬢さまをおまかせになって、御心配ではないのでござりますか」
「若い連中のやることは、わしにはどうにもならんわさ」
どこか、笑いさえおびているような声であった。
「それに、あの連中のやることにも一理はある、と思うておるからの」
「赤井さんたちの……政府の大官襲撃に、でござるか」
「うん」
老人は、平静な調子でいった。
「あのな、干兵衛さん。……維新で日本は眼がさめてな。いま大官となっておる連中は、これからの日本はどうしても西洋流にやらんけりゃ立ちゆかん、と知った。そのためのあの熱に浮かされたような文明開化のとりいれじゃ。で、あらゆることに紅毛人のやりかたを真似したが、ある一つのことだけは頑強にはねのけた。つまり、自由民権というやつじゃ」
「………」
「わしが見るのに、西洋の文明開化というやつは、わしらの見る通りの文物の開化とともに、自由民権というものを支えとしておる。それがなけりゃ、民のまことの倖せはない、と見ておるのじゃな。車の両輪じゃよ。それを、日本は、片っぽうの車輪だけとりいれたのじゃ」
「………」
「で、やっとこのごろ、もう一方の車もとりいれんけりゃならんという運動が起っておるんじゃが、政府がそれをはねのけたのには、それだけの理由があるんじゃから、何としてもこれを押しつぶそうとする。そのためには手段を選ばんというありさまじゃ。当然、これとたたかうほうも、手段を選んじゃおれんことになる。赤井らのやろうとしておることはそれじゃ」
干兵衛は、眼をまるくしていた。
晩香先生の文明開化や自由民権についての解説の内容はともかく、この老人がこんなことをしゃべること自体に対してである。
急に引っ越すといわれても、何の疑いも持たないかのようにのんきな顔で連れて来られて、毎日四帖半でおとなしく漢籍を書見していて、夜になると貧しい食事に愉しげに一本だけ酒をつけてもらって、あとは子供みたいにコロリと寝てしまうこの老人が、こんな知識と意見を持っていようとは?
「先生、それで……政府の大官を殺して、自由民権の世の中が来るものでござりますか」
「いや、それはちょっとやそっとでは、そうはならんじゃろ。赤井もそうは考えておらんじゃろ。ただ、そうまでして世を変えたいという人間たちがおる、ということを知らせれば目的は達する、と思うておるんじゃろ」
晩香先生は、向うむきに寝たままでいった。
「蒔かれた一粒の麦は、いつか芽をふく、と信じて喃《のう》」
老人は、このときやっとこちらに向きを変えた。
「ただしかし、干兵衛さん、あんまりあんたが心配しておるからいう気になったが……赤井は、こんどは何もやらんと思うがな」
「へえ?」
「ひとのやることじゃから保証は出来んが、赤井もこの新聞は見ておることと思う。ほかの新聞にも出ておるかも知れんしの」
「赤井さんが……新聞を見て、やめますか?」
「自首して出ると思う」
「えっ」
「眉輪や妹を助けるためじゃ。その情に濃いところが、あれの志士としての泣きどころじゃて」
干兵衛はまじまじと老人のほうを見つめた。晩香先生は、ふだんと同じキョトンとした顔であった。
いかにもあの二人の女を救うには、赤井の自首しかあるまい。それこそは自分の願うところだ。しかし。――
「自首して出て……先生、それで赤井さんはどうなりますか」
盟約書は金輪際出さぬとしても、げんに爆裂弾がある。それも知らないといったところで、とうてい無事にすむとは思われない。
「去年出された刑法の第百二十六条にじゃな」
と、晩香先生はまた妙なことをいい出した。
「内乱ノ予備又ハ陰謀ヲ為スト雖モ未ダ其事《そのこと》ヲ行ワザル前ニ於テ官ニ自首シタル者ハ本刑ヲ免ジ六月以上三年以下ノ監視ニ付ス、と、ある」
「……?」
「いや、ほかにも大逆大罪のことはたんとあるのに、内乱陰謀についてだけこの特例があるのは、おかしいといえばおかしいのじゃが、ま、こういう事前の自首を望んでのことじゃろ。いまのところ、この法文を頼りにするほかはないじゃろな」
二
三月二十日の夕方。
しかし干潟干兵衛は、午後から曇って来た空の下を、馬車で延遼館に近づいていった。晩香先生は、赤井は何もやらんと思う、といったけれど――いや、げんに、ひとのやることだから保証は出来んが、ともいった――彼は不安に、いても立ってもいられなくなったのだ。
むろん、赤井景韶か、顔見知りの壮士をさがし、もしそれが見つかったら、何とかして暴挙をとめるのが目的であった。
だから、露月町と延遼館とはほんの一足でもあるし、いちどは馬車を捨ててゆこうかと思案したが、おそらく延遼館は混雑するだろうから、馭者台に坐っていたほうが少しは見通しもきくだろうし、また向うでも気がついて、こちらに近づいて来るかも知れない、と考えた。
こうして、わざと馬車でいったために、彼は別の大意外事にめぐり逢うことになった。
芝口一丁目まで来たときであった。
「おう、馬車屋、頼む」
と、長い外套を着た一人の軍人に呼びとめられた。
「いえ、これはちょっと用がござりまして、延遼館へ参りますので」
と、あわてて干兵衛がいうと、
「それは好都合だ。おれも延遼館へゆくのだ」
と、軍人は空を見ながらいった。年は三十くらいか、小柄だが、口髭もりんとした将校であった。
空を見たのは、雨がポツリポツリとふりはじめていたからだ。すぐそこが延遼館という場所でわざわざ辻馬車をとめたのは、そのせいにちがいない。
「もっとも玄関につけるのはやめてくれ。車置場に下ろしてくれていい」
どうやらこの人も、きょうの大山閣下の婚約披露宴にゆくらしい、と、はじめて干兵衛は気がついた。
延遼館に近づくと、道の片側は、馬車、人力俥で埋められている。大山中将は、馬鹿に派手に客を招待したと見える。そこを何とかくぐりぬけて、干兵衛は馬車を門内にいれていった。
延遼館の車置場は、相当広いはずなのに、予想通りいっぱいであった。俥夫にまじって、兵隊の姿も多い。干兵衛は、先日あの秦剛三郎が「大山がこんど婚約披露宴をやらかすのは、示威のつもりもあるらしい」といったことを思い出した。
突然、車輪が変な音をたてた。
「こらっ、何しやがる」
怒号にふり返ると、一台の人力俥のそばで、俥夫が眼をいからせていた。車輪が接触したらしい。しかも、こちらは馬車だから、向うの鉄輪《かなわ》が少々ゆがんでしまったようだ。
干兵衛にはあるまじきことだが、彼はもう首をのばして、そこらにいるかも知れない赤井をさがしていたので、ついうっかり、このへまをやったのである。
「あっ、これは申しわけないことをいたしました」
「申しわけないではすまねえ。やい、もとに戻せ」
俥夫は、馭者台のお雛にまで険悪な眼をむけて、
「てめえ、例の親子馬車屋だな。ボロ馬車を二頭立にひかせてこんなところへはいって来やがるからこんなことになるんだ」
干兵衛はその俥夫の眼に、ふだんから自分の馬車が商売敵として、町の人力俥からともすれば向けられる眼と同じ憎悪を認めた。
「これは三島県令閣下をお待ちしている俥だぞ。やいっ、お帰りはどうしてくれる。この――」
詰め寄った俥夫は、急に絶句した。そのとき馬車から下りて来たのが軍人だということを知ったからである。
干兵衛は、両側から人が寄って来るのを見た。
一方は、七、八人の黒紋付に袴の壮士風の男たちで、一方は一人の将校であった。
「やあ、児玉大佐殿」
と、その将校が呼んで、敬礼した。馬車から下りた軍人が笑顔になっていった。
「森中尉か。お前も来ていたのか」
「は、石黒閣下のお供をして参りました」
そういう若い――廿歳《はたち》になったかならないかの、きりっとした顔だちの将校は、軍人らしくもなく左手に書物をぶら下げている。洋書らしい。どうやら彼は、いままでそこらの俥の蹴込みにでも腰を下ろして、その本を読んでいたらしかった。
「御案内いたします」
と、彼はいい、人力俥のこわれた車輪に眼をやった。
「これは児玉大佐殿だ。俥夫、その件については、あとでおれが聞くことにする。おれは森中尉だ。しばらく待て」
そして、若き軍医中尉森林太郎は、児玉源太郎大佐をうながして、玄関のほうへ歩いていった。俥夫は毒気をぬかれた風で、口をアングリあけてそれを見送っている。
こういう問答をよそに、干兵衛は、もう一方の黒紋付の男たちのほうへ顔をむけている。彼が眼を吸われたのは、近づいて来る男たちより、途中で立ちどまって、やはりこちらを見あげている一人の男であった。
三
自由党の壮士なるものと接触するたびに、干潟干兵衛は驚かされることが多かったが、これほど異様な衝撃を受けたことはない。妙な形容だが、彼は、ねじれた棒で頭の中を突きあげられたような気がした。
もっとも、いま近づいて来た男たちは、自由党の壮士ではない。きょうこのあたりに、そんなものがはいり込めるわけはない上に、干兵衛には、別の存在として彼らに記憶があったのだ。
干兵衛に異様な衝撃を与えたのは、その壮士たちのうしろに立ちどまった男で、それは同様に黒紋付に袴という姿をしていたが、あのしゃれた細い口髭を忘れてなろうか。
「おう。……これは柿ノ木さん。……」
と、干兵衛は、思わず声を洩らしていた。
その男に逢うのは、たしか去年の春以来であった。しかし、あの山高帽にフロックコートという姿で凶刃をふるった印象は、なお不吉な残像として、干兵衛の網膜から去らない。いま、相手の服装はちがうけれど、あの柿ノ木義康にまぎれもなかった。
そのことより、しかし干兵衛の口をついて、続いて出たのは、
「あなた……赤井さんをお知りなさらんか?」
という言葉であった。
柿ノ木義康を見たのは一年ぶりであったが、その名は最近もあの秦剛三郎の口から聞いていた。どうやら秦は、なお柿ノ木と行を共にし、赤井は一応|袂《たもと》を分ったらしいが、まだその男に相応の敬意を払っているらしい、と、干兵衛は見ていた。
干兵衛が、きょういちばん気をもんでいたのは、赤井らの暴挙だ。それをやめさせるには、彼を見つけ出さなくてはならない。そのためには、いちじ秦剛三郎さえ探したくらいだから、いまはからずもその親分格の男を見出して、何より先にその問いが出たのであった。
いったん立ちどまった柿ノ木義康は、また歩いて来た。
「お前か。――何のためにこんなところへ来た」
と、別のことを訊いた。一帯、馬車や俥が立て込んでいて、いままで干兵衛の馬車には気がつかなかったらしい。
「へえ、お客をお乗せして来たんでござりますが、それより赤井さんを探しておりますんで」
と、干兵衛は答えた。
「あなた、赤井さんを御存知じゃござりませんか。放っておくと、大変なことをやらかしそうなんですが」
「赤井は自首した」
「えっ」
干兵衛は、息がとまった。
「い、いつ?」
「きのうじゃ」
柿ノ木義康の顔には、明らかに自分のしゃべったことへの悔いが浮かんでいた。彼はイライラとしていった。
「そんなことはどうでもいい。とにかく、ここから早く帰れ」
「ヘ、へい」
「お前などが心配することはない。あまり首を突っ込むと、ろくなことはないぞ」
見あげた眼は、「死」そのものの眼であった。
干兵衛は、惑乱したまま、馬車を出すのにかかった。相手への恐怖もさることながら、いま聞いた赤井の自首云々の言葉にショックを受けたのだ。
俥を壊された俥夫はもとより、一文句ありげに寄って来た壮士たちまで、黙って見送った。
干潟干兵衛は、延遼館の門を出た。
赤井景韶が自首したという。干兵衛の頭に、眉輪たちが警察につかまったという新聞記事を見たら、赤井はきっと自首して出るだろう、といった晩香先生の声が甦った。そうかやっぱり、あの人はそうしたか。――
そのあとのことは知らず、干兵衛は、ひとまず、気落ちするほど、ほっとした。
三十間堀に近づいて、さすがにまわりに馬車の影がなくなったあたりで、干兵衛は馬車を停めた。――
彼は、さっき柿ノ木義康を見たとき自分をつきあげた|ねじれた衝撃《ヽヽヽヽヽヽ》に、ふたたびとらえられたのだ。
あれは、ただ一年ぶりにあの人物と再会したからの驚きではない。――
干兵衛は、先刻三島通庸の俥を壊したとき、近づいて来た壮士たちの顔を思い出した。あれはいつぞや、すぐそこの延遼館門外で、捨松さまを乗せた馬車を襲い、嘉納治五郎とやり合ったのと同じ連中であった!
あのときから、干兵衛は、あの連中に見憶えがあった。十何人かいた中の、二、三人だが――しかも、直接にではなく、世代のちがいから、自分の知っている男たちの弟か、あるいは子ではないかと思われる若い顔であったが――あれはたしかに会津の男たちであった。
あのとき、山川健次郎の、元会津侍やその子弟が、いま三島通庸の私兵ともいうべき若松帝政党なるものを作っている、という言葉と思い合せて、なるほど、と思い当ったが、いま見た壮士たちはまさに彼らであった。
それはいいが、そこにあの柿ノ木義康がいたのはどういうわけだ?
柿ノ木自身、こちらを見て、心持ちぎょっとして、帝政党とは無関係に見せようとするそぶりをしたが、すぐにあきらめたか、それとも自分を見くびったか、結局彼らと一団であることを隠さなかったが――柿ノ木義康は、赤井らの口ぶりによれば、自由党の壮士のうちでも頭分《かしらぶん》の人間のように思われる。いつかの警視庁の密偵の処刑を見てもわかるように、むしろ恐怖的な存在のように思われる。その男が、自由党に敵対するために三島が作ったという若松帝政党といっしょにいるというのは、いったいどういうわけだ?
つづいて、干兵衛を、はっとさせる記憶が甦って来た。
やはり、帝政党が襲撃して来たとき、形勢面白からずと見て、背後から引揚げを命じた男である。ヒョロリと高い姿に黒紋付を着て、その上、眼にマスクをかけていた。――
それを見たあと、自分がその男を、いつかどこかで見たような気のしたことまで、干兵衛は思い出した。
いま見た黒紋付の姿から結びついた印象だ。あれは、柿ノ木義康ではなかったか?
さらに、干兵衛の頭を内側からたたきつけるような思考が浮かんで来た。――延遼館門衛の斎藤歓之助を殺害した下手人である。
その容疑者としていちど嘉納治五郎がつかまって、それはああいう次第で何とか釈放されたけれど、ではあの老剣士を討ち果した人間はだれか、ということは不明で、干兵衛にもいまだ解けぬ疑問であった。
あの男ではないか?
帝政党が逃げたあと、はからずも斎藤歓之助と嘉納治五郎の決闘が繰りひろげられた。――その光景を、あの男が林の中に残って見ていたということはあり得る。同時に、延遼館の老門番の素性を知ったということもあり得る。
しかし、柿ノ木義康がなぜあの斎藤歓之助を殺したのか?
突然、干兵衛の記憶のいくつかが、火花を散らして結びついた。
あの雪の築地の原っぱで、心ならずも柿ノ木義康の仕込杖と相対したとき、自分の脳膜に浮かんだのは、かつて京洛で見《まみ》えたことのある土佐の岡田以蔵という剣客であった。顔や姿から来る連想ではない。実に人間外の魔剣としかいいようのないある感覚だ。そのことは、赤井景韶にも話したことがある。
異名を人斬り以蔵と呼ばれたその男を捕えたのは、練兵館の鬼といわれた斎藤歓之助であった。その結果、岡田以蔵は処刑されたのである。
たしか柿ノ木は、土佐人だとか聞いた。すると――若し彼が、人斬り以蔵の弟か縁辺の者であるならば――その復讐のために、歓之助を殺すということもあり得るのではないか?
いや、まさか復讐ではあるまい。斎藤歓之助が以蔵を直接殺したわけではなし、ただつかまえたというだけのことで、しかも、もう十何年も昔の宿怨をいま霽《は》らすなどいう人間はよもやあるまい。維新前後にかけてのこんな因縁にこだわっていたら、きりがない。
あれはただ、双方、おのれの剣の真価をたしかめたい、という勝負の結果であったろう。しかし、柿ノ木義康にしてみれば、そんなことを思い立つ、少なくともその核《たね》にはなったはずだ。
ただし、右の推量が当っているならば、の話である。
――干兵衛は意識しなかったが、以上は、彼が元同心であったればこその頭の働きであった。馬車を停めて、馭者台で干兵衛はじっと考え込んでいる。
「祖父《じじ》」
と、お雛がいった。
「雨がふってきたよ」
四
さっきまで、ときどき、ぱらっと雨粒をこぼしてはまたやむということを繰返していた空は、やっと本気になって降らせはじめたらしい。もっとも、絹のような春雨ではある。
「おお、そうか」
干兵衛はわれに返った。
「お雛、馬車にはいれ。……祖父《じじ》もはいる」
停めたままの馬車に乗って、干兵衛は煙管をくわえたまま考えつづける。
こんなことは珍しいが、お雛はどうしたのと訊きもせず、ひとりで折紙をして遊んでいる。それはこの前、眉輪と麻子から教えてもらったものであった。
しばらくののち、干兵衛は急にあわてた風で煙管をしまい、
「お雛、しばらく待っておれよ。いや、ちょっと長いかも知れんが、祖父《じじ》はきっと帰って来るからの」
と、いって、合羽をつけ、笠をかぶって出ていった。手に鞭だけは持った。
――結論は、柿ノ木義康が、考えていた以上に怖ろしいやつだ、ということであった。岡田以蔵の弟であるかどうかは別として、あの鬼歓を殺したのは、彼以外にないと思う。西郷少年の話によると、老鬼歓は笑ったような死顔をしていたということだが、おそらく彼は、その決闘に敗れても、敵を讃嘆して死んだのではあるまいか。――
さて、その柿ノ木義康が、いま帝政党といっしょにいる。
これだけは、わけがわからない。
ついに思いついたのは、あの男が帝政党に化け込んでいるのではないか? ということであった。げんに、自由党の中に警視庁の密偵が化け込んでいる例を見たこともあるのだから、その逆もあり得よう。――そうとしか考えられない。
すると、赤井が自首したというので一息ついたが――あの男がいるとなると、やっぱり危険は去らない、ということになる。むしろ赤井よりよっぽど怖い、と気がついて、干兵衛はあわてたのであった。
柿ノ木義康が帝政党に化けて、三島に何かやるというのならかまわないが、捨松お嬢さまに若しものことがあってはならない、と考えたのだ。だいいち、その帝政党が、かつて捨松さまを襲った連中ではないか?
干兵衛は、笠と合羽に身をつつんで、ふたたび延遼館の門内にはいった。
「こら待て」
二本の足で歩くと、俥夫とも馭者とも見えず、さればとてむろん客でもない、異風の感を起させると見える。干兵衛は一人の門番に呼びとめられたが、反対側に立っていたもう一人の門番が、
「やあ、お前か。忘れものでもしたか。通れ」
と、いった。去年、捨松お嬢さまを何度かここへ連れてきたとき顔見知りになった――斎藤歓之助と相棒の門番であった。
日は暮れて、広場のあちこちには、細雨の下に篝火《かがりび》が燃やされていた。
延遼館の窓々には、内部の何百という燭台の灯がかがやいている。その中から、聞きおぼえのある異国の楽の音《ね》が流れて来た。
干兵衛は、とある馬車の蔭から見守った。
それぞれの主人を待つ馭者や俥夫たちは、みな笠をかぶったり、合羽をつけたりしていたが、その中に、例の帝政党は、雨に濡れそぼちつつ、粛然とかたまっている。十何人かいるようだ。
異様な雰囲気だが、さればとて、どう見てもべつに不穏な企みを抱いてここに来たとは思われない。考えて見ると、大山中将主催のこの宴《うたげ》に、たとえ三島の供として来たとはいえ、彼らをここまでいれたのがふしぎだ。いや、逆に、三島の私兵と呼ばれる彼らが、捨松お嬢さまを襲ったのがおかしい。――要するに、何が何だかわからない。
思えば、干兵衛の昔の上司のおそらく子弟にあたる若松帝政党なるものが妙である。
何より、会津の侍たちが、かつて会津攻撃に加わった三島の――おそらくそれは下級将校としてであろうし、またそんな過去は今さらとがめ立てしていられないとして――げんに、叛乱の起るほど会津の民を苦しめている三島通庸の私兵化するとは?
そうだ、いつか山川先生がいった。――「元会津藩士で、下級の者が自由党に多く、帝政党はまず上級藩士から出来ているというのだが。――」
それで、何とかのみこめないことはない。
五十近い干兵衛は、赤井景韶などは別として、いまの世の自由党壮士の大半を動かしている原動力を、主義や思想もさることながら、むしろ維新の波に乗りそこねた連中のあがきだと見ている。世に出る見本は、薩長の下級階級から維新の波を起して、いまや天下をへいげいしている手合だ。「尊王倒幕」の代りに「自由民権」の旗をかかげる。文字が裏返しになっているだけで、逆の手だが、やはり同じ夢をいだいているのだ。
会津で騒いでいる自由党も、下級侍の子弟が多いという。これに対して、かつての上級武士が苦々しい眼をむける気持もわかる。むろん三島の好餌に釣られたということもあるだろうが、それ以上に、昔の階級意識にまだとらえられているのだ。彼らは、下郎や百姓の倅どもが唱える自由民権など、生理的な拒否反応しか起さないのだ。干兵衛自身は下級侍であったが、彼らの頑固さをつくづく知っているだけに、その心理がわからないでもない気がした。
それにしても、あの柿ノ木義康という男は不可解だ。
見ていると、彼は帝政党の一団とはちょっと離れて立っているが、ときどき近づいて何か話しかけるたびに、話しかけられたほうは直立不動の姿勢になる。――自由党の中におけると同様に、彼は帝政党の中でも威厳を持っているらしい。
これが奇怪だ。
帝政党の連中は、あの男が自由党の頭分の一人であることを知っているのか。かつて警視庁の巡査を斬殺したほどの人間であることを承知しているのか。あの行為は、自由党にとっては、防衛上やむを得ぬ、あるいは当然事だとしても、白日の下にさらされては、逃れようもない大罪人であることにまちがいはないのだ。
いつのまにか、音楽はやみ、やがて客たちは宴の館から散りはじめた。次々に、馬車や俥は出てゆく。
その馬車に乗る客の中には、黒田、小西郷、松方、井上、山県などのお歴々ならびにその令夫人があったことを、近くのざわめきから干兵衛は知った。
五
――何も起らなかった。
柿ノ木義康が、「赤井は自首した」といったとき、干兵衛は直感的にそれを信じたが、どうやら間違いなかったようだ。赤井らの延遼館襲撃の暴挙は行われることなく、済むらしい。
もっとも、次第に建物のまわりから人馬の影が消えてゆくのを見ていると、去る者も残る者も、それを護衛する兵士の姿が多いのがいまさらのように眼につき、これではたとえ自由党の壮士が何か企んでも、手も足も出なかったろう、と思われる。
ただし、干兵衛の胸の波立ちは、まだ吐息となって吐き出されるまでにはゆかない。
その柿ノ木義康が、まだそこに残っているからだ。彼の言葉を信じたのは、彼が赤井と同じ自由党だと思えばこそだが、となると、危険が去ったどころではない。
その柿ノ木義康が、ふいにこちらを見たようだ。干兵衛は、はっと身をすくませた。広場には、人影はもうまばらになっていたが、さいわい彼は、消えた篝火の台の蔭にいたので見つからなかったようだ。柿ノ木はべつに何かの警戒心でふりむいたわけでもなかったらしく、すぐに玄関の方角へ頭を戻した。
――その方角から、数人の人影が歩いて来た。
だれか、平安朝のころの貴人の行列にでも使いそうな長い傘をさしかけている。その下に、華麗な西洋風の衣服をつけた女性が、篝火の遠明りに山川捨松嬢だと知って、干兵衛は息をとめ、同時に眼を凝らして柿ノ木たちのほうを見つめた。
不穏の挙動があれば、ただちに飛び出す覚悟であった。
「こちらへ、こちらへ」
その一団の先頭に立った影が、底力のある声でいった。
「なにぶん頑冥な会津の猿どもで、一つには御婚約のお方をただの洋行帰りのはねかえりと思いちがいし、一つには同じ会津藩出の山川家に喜捨を求めにいって断わられたのを逆恨みし、そこでのぼせあがってあげな乱暴をしたとかで――止めようとした者もあったのでごわすが、間に合わなんだと申す。その馬鹿者どもに、いま謝らせもす」
「三島どん、そげな必要はなか。おいも捨松も、もう了解しもした」
迷惑そうにいったのは、大山巌だ。ほかに従兵もいるのに――どうやらさっき見た児玉大佐や森中尉も見えるのに――長い傘を捨松にさしかけているのは、婚約者の当人たる陸軍卿閣下らしかった。
「いやいや、会津におった通庸の知らん事《こつ》とは申しながら、まことに申しわけなか事《こつ》をいたしもした。御婚約御披露宴などなされたのも、そげな不埒者どもがあったためでごわしょう。せっかくの機会ごわす。そやつども、御婚約のお方へ、土下座さすため、わざと連れて来もした。この心、汲んで下され」
干兵衛は、はじめて見た。――あれが鬼県令といわれる三島通庸か。
年のころは干兵衛とほぼ同じ、四十七、八か。しかし、ずっと精気に充ち満ちて、でっぷりとした体躯を襟の広い洋服につつんでいる。しかし、肥満漢というより、骨太の偉丈夫といった感じで、シルクハットの下の顔はやや面長だが、ふとい眉、高い鼻、厚いけれど意志的な唇、まるで青銅を彫刻したような印象であった。
それが、整列している帝政党の壮士たちの前へ来ると、
「大山中将閣下と、近日令夫人におなり遊ばすお嬢さまである。去年の御無礼、土下座して謝罪せい」
と、叱咤した。
雨の中に、男たちはいっせいに坐り、もうぬかるみと化した地べたへ顔を埋めた。
ああ……と、干兵衛は眼をつぶりたい気がした。捨松お嬢さまを襲った馬鹿者ども、という考えでは、まったく三島通庸と同感だが、それにしても、薩人大山、三島の前にひれ伏している、かつての同藩の子弟たちの姿は見るにたえない思いがしたのだ。
「もう、よくあります。みなさま、立って下さい。わたし、こんなこと、きらいあります」
首を横にふりながら、捨松はいった。彼女がいやも応もなくそこへ連れて来られ、やっとここで自分をとり戻したことは明らかであった。
「よか、よか」
大山陸軍卿もうなずいて、三島に向い、
「おはん、何事《ないごつ》でも、トコトンまでやらんけりゃ気のすまん男じゃな。……」
と、まだ何やらいいかけたが、若く美しい婚約者が大股にそこを離れて、向うへひき返してゆくのを見ると、あわてて長い傘を持ったまま追っかけた。ほかの軍人たちも、それを追う。
「帰る」
と、あとに残った三島がいった。
ただ一人土下座せず、直立したまま頭を下げていた柿ノ木義康が頭をあげた。
「千住へでありますか」
「もちろんじゃ」
壮士たちは立った。
そして三島は、そこに待たせてあった俥に乗り込んだ。さっき干兵衛が車輪をこわしたやつとは、別の俥を呼んであったようだ。
やがて動き出した俥をとり囲むようにして、柿ノ木義康と壮士たちは門を出ていった。
干兵衛は、そのあとを追い、やがて延遼館のはるか外に、彼も待たせておいた馬車に駈け寄った。
「玄武、青龍」
お雛に声をかける余裕もなく、馭者台に飛び乗ると、彼は二頭の老馬を呼んだ。
「あの俥を追うのだ。ゆくぞ」
春の夜の雨に粛々とぬれて、三島通庸の人力俥と、それを囲む壮士の一団がゆく。それを干兵衛の馬車が追う。
これはまったく元同心ならではの行為であったが、干兵衛にその意識はない。実に彼は不思議千万にたえなかったのだ。
先刻からの偵察によると、柿ノ木義康に、三島に対する敵意は見えない。どう見ても、三島配下の帝政党の一員、しかもその頭分の一人としか思われない。
突然、干兵衛ほどの男の胸に、異様な戦慄が走った。
それは柿ノ木義康が、帝政党に潜入している自由党員ではなく、自由党に化けている帝政党員ではないかという疑いであった。
若松帝政党は、会津にいるばかりではなく、げんに見るがごとく、東京にも出て来ている。おそらくそれは、福島自由党員が上京して、東京の自由党本部と連動している者が少なくないので、それを見張り、牽制するためであろう。だから、その目的を達するために、自由党に潜入するということも考えられないではない。とくに三島の意を受けた土佐人なら好都合だ。
しかし、柿ノ木義康がそれだとは――そんなことがあり得るだろうか。
げんに彼は、自由党に化け込んでいた巡査を殺害している。若松帝政党は三島の私兵的存在だが、自由党の敵対者という点では、警視庁と友軍のはずだ。三島の私兵が、お上の巡査を殺すなどということがあり得るか。同穴のむじなとしても、そんなことをして、無事にすむとは思われない。――
常識をもってしては、ただ不可解としかいいようのないこの怪事に、夢魔にうなされる思いで、干兵衛は手綱をあやつっている。
闇に消えつ、町の灯影《ほかげ》に浮きつ、三島の一行は北へ進んでゆく。
それが、三島の東京の私邸ではないらしいことに、やっと干兵衛は気がついた。そういえば先刻、柿ノ木が、千住とか何とかいったようだが。――
三島の家は小石川にある。去年の春、干兵衛は落語家の円朝を乗せてそこにいったことがある。しかし、いま三島を乗せた俥はそちらにではなく、神田を通り、上野を通り――どうやら、昔の奥州街道のほうへ出てゆくような気配だ。
はてな、大将、福島県へ帰るのか? と、いちじは干兵衛も狼狽したほどである。
しかし、やがて三島一行が到着したのは、千住大橋の手前――南千住のある屋敷であった。
六
もと物持ちの寮ででもあったのだろうか、大通りから少し西へはいったところだが、こんなところにこんな大きな屋敷があろうとは、いままで干兵衛も知らなかった。忍び返しまでつけた高い塀に囲まれた建物であった。一劃には、土蔵まである。
むろん、馬車ですぐそばに乗りつけて眺めたわけではない。三島たちがその横道にはいってゆくのを見て、大通りに馬車を捨て、あわてて二本足で追いかけてつきとめた結果だ。
門に、やはり何人かの壮士たちが立っていたから、すぐにそれはわかった。
それも近くへ寄って、見たわけではない。物蔭からの遠望である。壮士たちの一人がぶら下げている提灯の光で、門に何やら大きな標札のようなものがかかっているのが見えたが、その文字も見えないほどの距離からであった。
夜がふければ、まだうそ寒い季節であったのに、その数人の壮士はそこを去らない。雨の中に笠をかぶって、どうやら夜を通して門番に立っている気配に思われた。
げんに赤井らの例に見るように、三島通庸を狙っている自由党の壮士たちがあるのだから、それが東京に出て来たとあれば、なるほど外出時はむろん、在宅しているときも夜中護衛させる必要はあるかも知れない、と干兵衛は考えた。
それにしても、去年小石川の自邸にいったときは、こんな警戒はしていなかったのだから、わずか一年で――三島が福島県令になってから、いかに彼をめぐる空気が険しくなったかがわかる。こんどの上京に、自邸に泊ることを避けたのも、この護衛の見地からかも知れない。
いまにして思うと、三島が馬車ではなく俥を使ったのも、非公式の宿泊所からの往来のためであったと思われる。
男たちが話していた。
「御帰邸になって、息子どのが来ておられることを知られて、驚かれたじゃろうな」
「ま、しかし、県令の御上京をまったくの隠しごととするわけにはゆかんさ」
「県令閣下は、河野の裁判で判決が下りたら、福島へお帰りになるのじゃろ」
「そりゃ、県令だからの」
「しかし……家具調度の買入れ、女中などの傭い入れ……どう見ても、このまま御在京としか思われんぞ」
低い話し声であったが、あたりが森閑としているので、干兵衛にも聞えたのだ。
「おい、お龍さまを、このまま、ここに置いておかれるんじゃないか?」
「まさか――御国御前《おくにごぜん》を」
「小石川の奥方に知られてしまったことは確かだし」
「しかし、会津に置いておくのも、このごろ険呑かも知れんの。……人前にめったに出されんとはいえ、やはりだんだんと県令御側妾のことは知られて来たようじゃし」
「うん、聞くところによると、三島閣下は近く福島県令をかねて栃木県令にもなられるというじゃないか」
「なるほど、そうなると御上京もずんとらくになる。場所も、この千住とは……おう、それでお龍さまをここに置く気になられたのかも知れんぞ」
しばらくみな黙っていたが、やがてまた声が聞えた。
「いま会津に置いても険呑じゃといったがの。……会津人のおれがこわいぞ」
「うん。正直なところ、おれもこわい」
「あんな美人がなぜこわいか、わけがわからんが、実はおれもじゃ」
「おれたちばかりじゃない。……大将がこわがっていなさるのじゃないか?」
「お、そういえば――」
しばし顔見合せている風であったが、いきなりみんなケタケタと笑い出した。
「あのこわい人が、こわがるのじゃから。――」
と、やがて一人がいいかけて、口をつぐみ、ふりむいた。
門の奥のほうから、傘をさし、提灯を持った三、四人の女が出て来たのだ。手に籠をぶら下げている女もあった。――どうやら、女中たちらしい。
「急に足りないものが出来て、買物に参ります」
と、挨拶し、彼女たちは門を通り、町のほうへ歩いていった。
いったんやり過してから、干兵衛も大通りへひき返した。彼は考え込んでいた。
いまの話で、三島県令について新たに得た知識はある。しかしこのとき干兵衛は、三島県令個人の動静については、それほどの関心はなかった。それより知りたいのは、あの柿ノ木義康という人間についてであった。
しかも、ただの好奇心からではない。
柿ノ木の言によれば、赤井景韶は自首したという。それはまだ確認出来ないが、事実赤井がつかまったとしても、やむを得ぬことと思う。しかし、あの眉輪と麻子の運命は?
その二人は、現実に警視庁にとらえられているのだ。そして、たとえ赤井が自首したといっても、代りに二人が釈放されるとは保証出来ないのだ。
しかし、あの二人は、何とかして救い出さなければならぬ!
そのために――漠然と干兵衛は、こちらに何か取引のたねを持つ必要がある、と考えた。もし三島県令が巡査殺しの男を私兵として抱えているならば、それがその材料になるかも知れない、と感じた。ただし、それをたねにどう取引していいかわからないし、またそんな度胸がいまの自分にあるか、どうか、疑問だが。――
とにかく、この際、柿ノ木の正体を捕捉しておかなくてはならない。たしかめずにはいられない。
干兵衛は、何とかしてあの屋敷に忍び込んで、いまあの男がどうしているか見てやりたい、という衝動にかりたてられた。
ほかに法がなかったら、彼はその高い塀を乗り越えることまで試みたかも知れない。しかし、見ればそれに忍び返しまでつけられて、見張りの耳をごまかすことは実際問題として難しい上に――このとき、彼の頭に忽然と浮かんで来たある考えがあった。
干兵衛は、大通りに停めてあった馬車の中にはいった。
「お雛」
と、彼は呼んだ。
「眉輪お姉さん、麻子お姉さんが、このあいだ警察につかまったことを知ってるだろう?」
お雛はうなずき、泣き出しそうな顔をした。
「何も悪いことはしないのに、まちがってつかまったのじゃ。それを助け出してあげなくてはならん。……そのために、父《とと》の力を借りたい。……父《とと》を呼んでくれ」
やがて、夜の千住の大通りに、澄んだ女の子の呼び声がながれた。
何事もなかった。
「父《とと》!……父《とと》!……きて!」
声は、間をおいて、三度繰返された。
忽然と、数間さきの雨の中に影が湧き出した。
馬車の入口からはいって来た兵士姿の幽霊を見て、干兵衛は叱りつけた。
「なぜ、早く出て来ん?」
「何度もお呼びになりましたか」
息子の幽霊は恐縮し、かつ哀しげにいった。
「はて……だんだんと声が聞えにくくなったのかも知れません」
七
お雛の呼び声が、亡霊の耳に聞えにくくなったという。――
干兵衛は、この点について、つづけて詰問しているゆとりはなかった。
彼は、手短かに、あそこに福島県令三島通庸の別邸があるが、中に柿ノ木義康という男がいると、その人相を説明し、その男が、真に三島の腹心の配下であるかどうか、そばにいってその言動を探ってくれまいか、と依頼した。
この倅の幽霊が、冥界から全知の眼でこの現世を見知っているわけではないことを、彼は承知していたからだ。
「さて、それはどうですかな」
と、蔵太郎は首をかしげた。
「ただ、おどすだけなら間に合いますが……私のこの姿を見られては、具合が悪いのでしょう?」
と、彼は自分の、あちこちと裂け、かつ血まみれの軍服を見まわした。
「御存知のように、私は幽霊ですが、出ればだれの眼にも見えるのですからな。中に軍人でもいれば、それにまぎれて、ということも考えられますが、この凄まじい姿ではどうですか。ちょっと具合悪いんじゃないですか」
何となく笑うような調子も、以前の息子にはなかったものだ。干兵衛は、もういちど叱りつけようとして、突然、さっきその屋敷から数人の女が買物に出たことを思い出した。
「そうか。それでは、蔵太郎。……お宵を呼べぬか?」
「母上ですか。母上だって……」
と、また首をひねったが、すぐに、
「いや、久しぶりに私も母上に逢いたい。呼びましょう」
蔵太郎の亡霊は、馬車の扉から、暗い往来に向けて呼んだ。
「母上、来て下され! 蔵太郎でございます。母上!」
依然ふりつづいている夜の細雨の中に、ぼうとひかる霧の一塊が浮き出した。その中から、ひとりの女が歩いて来た。
「やあ、母上!」
馬車の入口で、お宵は蔵太郎を見、干兵衛を見て、何かいいかけたが、
「お祖母《ばば》! お祖母《ばば》!」
と呼ぶお雛の声を聞くと、泳ぐように馬車の奥へ駈け込んでいった。
「おう、お雛、ちょっと見ない間に、大きくなったねえ!」
お宵はひしと孫娘を抱きしめ、頬ずりをした。お雛は、お祖母《ばば》、お祖母《ばば》と呼びつづけている。
どちらも愛する妻と孫娘ながら、この抱擁の光景には、干兵衛はいつも違和感を禁じ得ない。その祖母が、いつまでたっても二十七歳の若さと美しさを保ち、かつ髷も崩れ、黒紋付の着物は裂け、白いのどから鮮血をしたたらしていることに。――
「ちょっと見ない間に――いいえ、もう一年以上にもなるわねえ」
お宵は、ふりむいた。
「蔵太郎、なぜこのごろわたしを呼んでおくれでない?」
「相すみません。どうも、僕が呼ばれたときの状態が、母上に来ていただくような状態でなかったものですから。――」
と、蔵太郎は頭をかいた。
干兵衛は、このとき馬車の外の往来を、傘をさし、提灯をさげた女たちがやって来るのを見た。さっき例の家から出て来た女たちだ。南千住の町で、買物をすませて、帰ってゆくところらしい。「お宵。……お雛を抱いたばかりですまんがの」
干兵衛はわれに返り、妻の亡霊のところに近づき、さっき蔵太郎に頼んだのと、同じことを依頼し、馬車に用意してある傘をとり出した。
「いまその屋敷の女中衆が帰っていった。それにまぎれて、はいってくれるわけにはゆかんか?」
しばらくののち、女中たちが帰って来たのを門で迎えた帝政党員たちは、また番小屋で雑談をはじめて、ふとまた一人の女が傘をかたむけてはいってゆくのを見た。
「はてな、さっきみんな帰って来たのじゃなかったか?」
と、ひとりが首をかしげ、さらに別の男が、
「何だか、傘に雨の音も、下駄の音もせなんだようだが、気のせいじゃろうな?」
と、これまた首をひねったが、まさかそれがほんものの幽霊だとは想像も及ばなかった。
八
門にかかげられた標札には、「福島県庁東京出張所」とあった。
その屋敷の奥座敷で、県令三島通庸は、苦り切って、息子の弥太郎をにらみつけていた。そばに、妾《めかけ》のお龍が坐っている。
三島のこんどの上京は、いままでの帰京とちがって、特別のものであった。「福島事件」予審に証人として出廷するためである。従って、内密の出京というわけにはゆかないが、わざと家には知らせなかった。彼は、任地は危険だといって、家族は東京に残していたのである。
しかし、自分の性格を知っている家人は、こちらの心を汲んで、これまた知らぬ顔をしてくれるものとばかり思っていた。それが、自分が作りあげた三島家の家風だと考えていた。
ところが、その日大山中将の婚約披露宴にいった留守に、息子の弥太郎がこの宿舎を探しあてて訪問し、それに、自分がないしょで連れて来た愛妾のお龍が逢っていようとは。――
妻の和歌子は、うすうす任地の側妾のことは知っていたろうが、剛腹な薩摩女で、いまだそのことを口にしたことがない。それでも、それを東京に連れて来たと知って、さすがにたまりかねて息子を寄越したのか。――
通庸は狼狽した。また、自分に無断で息子に逢ったというお龍にも腹を立てた。
「なぜ、門前払いをくわせん?」
「わたしは、逃げ隠れするのはいやでございます」
お龍は冷然といった。
三島は、明治七年酒田県令として単身赴任したが、その後、公用で上京した際、一夕、柳橋で遊んで、そのとき見染めたのが、このお龍であった。
生れは越後とかで、まだ一本にもならないお酌であったが、どういうわけか、鉄人といわれた四十男の三島が、いちどにとらえられた。その翌日、また山形へ帰任するとき――女には、どちらかといえば不器用な彼が、あっという間に芸者屋に話をつけて、飄風《ひようふう》みたいに彼女をさらっていって、それ世来「御国御前」とした女であった。
そのとき女は、まだ十八であった。越後の大きな百姓の娘だったということだが、いわゆる北越戦争の嵐の中に、親も家も失い、東京の芸者屋に売られたばかりという境遇で、その運命の激変が当人にもまだ納得出来ない風で、ただ嵐にうちたたかれてふるえている小鳥のような娘だったのが――それから六年、山形県令ついで福島県令となった三島の権妻として暮しているうちに、まったく別の女に変身した。
その変りようは、三島にさえ、うす気味悪く思われるほどであった。
まず彼女は、途方もなく美しくなった。最初の一瞥から、これはきれいな娘だと見ていたが、どこか|かげろう《ヽヽヽヽ》のように儚《はかな》げに見えたのが、みるみる眼からも唇からも肌からも、何か妖光がしたたりそうな凄艶無比の女に変って来たのである。
それは女が成熟したものとして満足の至りだが、同時に――うす気味悪いというのは、彼女の喜怒哀楽の異様な現われかたであった。
三島は、鬼県令と呼ばれた通り、鉄のごとき法令や処断を下す。劇的な日は数々あったが、そんな夜、お龍は三島の心魂をとろかさんばかりに燃えるのだ。また、いかに彼といえども、その断を下すべきか、下さざるべきか、迷うときがある。そんな夜、「断」のほうへ、彼に鞭をあてるのもお龍であった。
三島はいつか訊いたことがある。
「お前……会津の人間がきらいなのじゃなかか?」
お龍は、宙に何やらを見ている風であったが、
「はい」
と、冷たく答えた。
これは外に洩らしたことのない閨房の秘語であったが、隠すより現わるるなしで、ようやくこのごろ、外でも、
「県令に暴政をさせるのは、あの妾だ」
という声がささやかれるようになり、はては、殷《いん》の紂《ちゆう》王における妲己《だつき》にくらべる者さえ出て来た。
お龍を三島がこんど東京に連れて来て、一応東京に住まわせることにしたのは――まだはっきり決めているわけではないが――何より右の風評にこんどの福島事件が重なって、急速に危険性をおぼえたからであった。
それに近いうち彼は栃木県令となり、遠からず、さらに東京で待望の栄職につけるという見込みもあったのである。
危険は、こちらの帝政党に防がせるとして、東京に連れて来れば来たで、べつの難題がある。むろん小石川の自邸との関係で、その点については彼も、いかがはせん、と苦慮していたのに、早くもその家から倅がやって来て、あっさりお龍が逢ったというので、さしもの通庸も動揺した。
――何を話した?
と、訊こうとして、お龍のまぶしいばかりの眼に射られて、彼のほうが眼をそらし、ともかくも息子の待っている座敷にはいっていって、相対したのであった。お龍もついて来て、平然とそばに坐った。
ぎごちない挨拶ののち、
「おふくろに頼まれて来たか」
と、三島はいった。
「いいえ、僕一人の考えで」
と、息子の弥太郎は答えた。イガグリ頭の書生風だが、まだ十八歳だ。彼は駒場農学校の生徒であった。
「なんじゃと? お前一人が。――」
三島はまばたきして息子を眺め、すぐに傲然といった。
「おいのこんどの上京は、福島自由党の裁判に立ち会うための公用じゃ。おいはこの裁判の結果に、県令としての生命をかけちょる。なりゆき次第では、当分家族とも逢わず帰任するつもりじゃ。女子供の知った事《こつ》じゃなか。……そこへ、お前が、何しに来たか」
「学校で、いろいろ話をしています」
と、弥太郎はいった。
「大方の意見は、父上のやりかたに批判が多いのです。道路作りに出ない会津の人に、罰として差押えまでやるのはあんまりだ、旧幕時代の悪代官もよくしなかったほどの暴政だと。――僕も同感です。僕は恥ずかしい」
三島通庸は、案外な顔をした。倅は父親に、県政について意見をいいに来たのである。
「そげな用か。……じゃから、女子供の知った事《こつ》じゃなかといっちょる」
と、彼は笑った。
「あの差押えか。そいじゃ、その事について、お前にわかるようにいって聞かせる。よかか。県令となった以上、会津を豊かにする義務がある。そんためにゃ、四境、山の壁に囲まれた若松から外へ道を通さんけりゃならん。道を作るにゃ、金がかかる。お国は、いまほかにいろいろ費えの要ることが山積して、とうてい会津なんぞにかまっちゃおれん。どうしても会津の人間自体が、自分のために労役するよりほかはなか。それは公平じゃないといかん。自分の都合不都合で、働く、働かんということは許されん。そこで、労役に出られん者は、金で償うよりほかはなか。そん金もなか人間は、家財を競売にされてもこりゃやむを得んこっちゃ」
何段論法になるか知らないが、一気に、太い棒のようにまくしたてた。
「これを非情とか残酷とか、いい顔をしていいたがるやつの多か事《こつ》は、吾輩も承知の上じゃ。しかし、政治っちゅうもんは、公平の理を通さんけりゃ、何もかもが立ちゆかん事《こつ》になるんじゃ。鬼県令のそしりは甘んじて受ける。おいは、おいのやりかたを断乎おし通すことこそ、会津の未来を開く大愛であり、かつは県令としてのお国への御奉公になると信じちょる」
遠い座敷では、酔った歌声があがりはじめていた。きょう延遼館に連れていった壮士たちであった。
彼らが、こんど郷党の大立者大山中将の花嫁になるという山川捨松嬢に乱暴を働いたと聞いて、陳謝させるために延遼館に同行したものの、雨の中に土下座までさせたことのわだかまりを、それはそれとして断つために、帰邸するなり通庸は酒盛りを命じ、女中たちに肉や酒を買いにやらせたのである。
その歌声を圧する堂々たる父の声に、気おされながら弥太郎は、なおいおうとした。
「それは官僚サイドからの一方的論理です。そもそも父上が、自由民権を憎悪され、あんなに弾圧されるのは、日本の民衆にとって――」
「自由民権?」
それまで、とにかくいくらかの余裕があったかに見えた通庸の顔が、どす黒いほどの血に染まった。
「そげなぜいたくなものは、百年たってから輸入するがよか。まだ日本は国家としての骨格もかたまっとらん。いま早くも国民一人一人が、てんでにおのれの私欲を、自由の、民権のともっともらしい屁理窟で、鵝鳥のごとくいいたてておれば、十年のうちにも日本は滅びる。日本はいま、それどころじゃなか!」
叱咤すると、彼はぬうと立ちあがった。
「百年後は知らんぞ。いまは自由民権をたたきつぶすのがおいの神聖なる義務じゃ。これ以上、いうことはなか。帰れ、弥太郎」
そして、お龍にあごをしゃくってうながすと、彼は座敷を出て、廊下伝いに、歌声の聞えるほうへ歩いていった。――
十八歳の少年は、袴の膝をつかんだまま、部屋に一人とり残された。
――この少年が、のちに「不如帰」では海軍少尉川島武男となり恋妻と割かれて日清戦争に出征してゆくが、実際の三島弥太郎は、農学校卒業後アメリカに留学し、帰朝後官吏となって、大山将軍の娘信子と結婚し、離婚し、やがて日本銀行総裁となる。人の世多くはかくのごとし。
壮士たちの酒盛りをしている部屋の手前から、つと一つの人影が出て来た。
「や、柿ノ木」
と、三島はちょっと眼を見張った。
「今夜、帰るのか」
「は。……きょうの御用はすみましたから」
柿ノ木義康は細い口髭の下で、微笑した。――貴顕の集まる延遼館に例の姿ではかえって目立って、ゆきにくかったと見える。いま彼はそれまでの壮士姿を消して、いつもの山高帽にフロックコートであった。
「おはんのこと、警視庁はどう見とるのかの」
と、三島はその姿をしげしげと眺めていった。
「そろそろ、向うに知らせておいたほうが、よくはなかか?」
「なに、警視庁もまだ知らないほうが……自由党に潜入しておる警視庁の密偵さえ気がつかぬほうが、自由党の馬鹿どもをだますのに効目があります。いっそ閣下が、待望の警視総監になられる日まで化けておったほうが面白いかも知れませぬ。――いや、しかし、ひょっとすると、私の正体を知っておるやつが。――」
柿ノ木義康はふと黙り込んだ。
廊下の向うから、数人の女中が、新しい酒や膳を運んで来るのが見えたからだ。――女中たちがお辞儀して通り過ぎると、義康はまたいった。
「警視庁などより、実はもっと気にかかるやつがあります」
「何者《ないもん》じゃ」
「町の馬車屋でござるが。――」
九
「町の、馬車屋?」
「は。私、これでも帝政党におるときの姿を、自由党の関係者に見られぬように注意しておるつもりですが、それを、その男に見られたようで」
「その町の馬車屋っちゅうやつが、自由党か」
「いえ、そうではありませぬ。一応調べたところ、自由党を|ひいき《ヽヽヽ》にしておるようなところもありますが、まあ、ふつうの馬車屋でござる。子供連れの老いぼれでもあり、べつにたいしたやつでもないので、いままで放っておきましたが。――」
三島に語るというより、胸中にあるわだかまりを独語しているかのような柿ノ木義康であった。「そやつが、はからずもきょう延遼館で、帝政党員としての私を見ましたので」
三島通庸は少々不安げに、柿ノ木を眺めて、
「こら、おいはおはんが何をやっちょるかよく知らんが、刑法第百二十六条でかばい切れんようなことはしちゃいかんぞ」
と、妙なことをいった。
「おはんはどうも殺生好き過ぐる」
「いや、私は、自由党を国賊と目される閣下の御信条に衷心共鳴して、私なりに出来る限りの働きをしておるつもりであります」
「それは、わかっちょる。じゃが。……」
「閣下が警視総監になられるのは、いつのことになりましょうか」
「そげな事《こつ》は、おいにもわからん。この秋ごろ、福島県令を兼ねて栃木県令になれ、っちゅう内命は山県内務卿から受けておるが」
「福島県令を拝命されてから一年。その分でゆくと、来年か再来年にも、いよいよ東京に御凱旋ということもあり得るのではありませんか。御念願の警視総監として。――」
――実際に、三島通庸が警視総監となったのは、翌々年の明治十八年のことになる。
「それまで何とか化け通して、東京の自由党を一掃しておきましょう。は、は、は」
「おほんがあまりやり過ぎりゃ、そげな話もぶちこわしになる。――うんにゃ、それよりおはんに頼みたい事《こつ》が別にある」
「なんでありますか」
「例の、河野らの内乱の盟約書じゃが……何とか、その現物を。――」
と、三島はいいかけて、ふとそばのお龍がうしろのほうを、じっと眺めているのに気がついた。「何じゃ?」
「あれは、だれでございましょう?」
柿ノ木義康も、そのほうを見た。廊下の柱の蔭に、一人の女が立っていた。
はじめ、それはさっき通っていった女中たちの仲間の一人だと思い、
「おい、何をしとる。早くゆかんか」
と、叱りつけた。
女は動き出した。漂うようにこちらにやって来た。そして、二間ばかり向うで、また立ちどまって、じいっとこちらをのぞき込んでいる。
三人は、声が出なかった。彼らは、それが女中ではないことを知った。髷も崩れ、|のど《ヽヽ》から血をしたたらせた女であることを知った。しかし、それより彼らに水を浴びるような思いをさせたのは、名状しがたい凄惨の印象であった。
「お前は。……」
問いかけてきたのは、その女のほうからであった。その黒い眼は、ひたとこちらに向けられていた。
「むかし、会津に来た官軍の……」
それっきり、凍りついたような沈黙ののち、
「――ひいっ」
たまぎるような悲鳴をあげたのは、その女であった。そのまま彼女は身をひるがえし、泳ぐように廊下の向うの薄闇に溶け込んでいった。
それが、あり得べきことではないが、この世のものでない異妖の姿を直感して、三人は数分間、そこに身動きもならず呪縛されていた。
「……あれは何じゃ?」
と、三島が嗄れた声でいった。
「むかし、会津に来た官軍の……と、申しました」
と、お龍がいった。
「会津攻撃にゃおいも参加したが……あげな女、おぼえがなかぞ。それに、県令のおいに、いまさらむかし会津何とかいうのもおかしか」
三島はふりむいた。
「柿ノ木、おはんも土佐隊としていった。おはんじゃなかか?」
「いや、私もあんな女、知りませんが。……」
たしかに、記憶のない表情であった。――が、同時に、脳髄の奥のどこかに、何やら煙のようなものがまつわりついている眼つきでもあった。
突如、彼は雷に打たれたように全身を硬直させた。
「――あの女か!」
と、うめいたが、その顔がしらちゃけて、彼には珍しい恐怖そのものの相になった。
「いや、あの女は死んだ。……そんなはずはない! それに、あのときの姿のままとは!」
「おはん、やはりおぼえがあるのか。……」
三島の問いには答えず、柿ノ木義康は突風に吹かれたように、ステッキをひっかかえ、いま女が消えた方角へ駈け出していった。
十
……馬車のそばに凝然と立って、一方を眺めていた干潟干兵衛と蔵太郎は、雨の中を走って来る影を見て、
「お」
「母上だ」
と、声をあげた。
足音もしなかったが、たしかに、こけつ、まろびつといった姿のお宵であった。
「助けて下さい」
「どうしたのだ。見つかったのか」
「はい。そして、あのこわいひとが追っかけて来ます。早く逃げて下さい」
驚きながらも、干兵衛は唖然とした。干兵衛ばかりでなく、思いは幽霊の蔵太郎も同様であったらしく、
「幽霊がこわがっちゃ困りますな」
と、いった。
「とにかく、早く、逃げて!」
亡霊お宵の顔は真剣で、恐怖にわなないていた。
三島屋敷のほうから、往来を、七つ八つ、黒い影が走って来た。
「じゃあ、逃げなさい。あとは私にまかせて下さい」
と、蔵太郎がいった。
「母上、それではきょうはここでお別れすることになるかも知れません。この次お逢いする日まで、どうぞお達者で」
干兵衛は、馭者台に飛び乗った。そして、そばの、いつもお雛が坐っている台をあごでさし、片手をのばして、「乗れ」と、お宵にいった。お宵は、ちらっとお雛のいる馬車のほうへ眼をやったが、すぐに干兵衛に手をとられて、そこに腰を下ろした。干兵衛はこの際にも、冷たい妻の手をいとしく感じた。
馬車は走り出した。
追って来たのは、柿ノ木義康と門番の壮士たちであった。壮士たちは、女が一人、漂うように門を出ていったのに眼をパチクリさせていたが、つづいて柿ノ木が飛び出して来て、女のことを訊き、「あれをつかまえろ」といったので、わけもわからず追跡にかかったのである。
柿ノ木義康は、そこの往来から動き出した馬車の影を見て、愕然としていた。
――あいつだ!
あの男の馬車だ。夜の色にさだかではないが、たしかにきゃつの馬車が、こんなところにいた!
延遼館からの帰途、あの馭者のことを考えつづけていたのに、そやつがまさか自分のあとを追って来ていたとは、さすがの柿ノ木も気がつかなかった。それは干兵衛の馬車による尾行が巧みだったからでもあったが、まさかそれほど大胆な所業をしようとは、義康にも意外であったのだ。
いや、ほんとうにあいつは追って来たのか。偶然か。いま逃げていった女と関係があるのか。――彼は混乱した。
女の姿は見えない。混乱しつつも、それがあの馬車に乗っていることを彼は直感した。
「あの馬車を逃すな!」
と、彼はわめいた。壮士たちが駈け出した。
――と、その前に、ふうっと立ちふさがった者がある。それは町家の灯影にけぶる夜の雨が凝って水煙と化し、たちまち人のかたちとなったものとしか思われなかった。
たたらを踏んで立ちどまり、壮士たちは異様な声をあげた。
そこに白刃をひっさげた軍服姿の若い兵士を見たのだが、その物凄まじい姿そのものより、彼らを氷結させたのは、その人間のはなつ異次元の鬼気であった。見るがいい、それはこの闇に、ふしぎな燐光にふちどられているではないか。
「な、何やつだ?」
と、柿ノ木義康が絶叫した。
「見る通り、幽霊じゃ。……」
と、相手は陰々と答えた。
壮士たちは、それだけで逃げ出した。何人か、もつれ合って転んだが、泥まみれになって、泳ぐように逃げていった。
柿ノ木義康はステッキの仕込杖を抜刀した。
「化物!」
と、彼はさけんだ。
さしもの柿ノ木が、髪も逆立つ思いであった。彼は、まさしく眼前に出現したのが幽霊である ことを知った。
ただそれだけなら信じなかったろうが、彼はほんの先刻、もう一人の幽霊を見たばかりであった。それはまさに、この世にあり得べからざる女人の亡霊であった。この文明開化の世に、たしかに幽霊が出現したのだ!
一閃、柿ノ木義康の刀身は突き出された。それは狂いなく兵士の胸をつらぬいた。
が、彼はつんのめった。老鬼歓を斃した彼の妖剣であったが、いま、相手の実体はなかった。まるで煙に「突き」をくれたようで、そのために柿ノ木ほどの男がぶざまに泳いだ。
しかも、そののどに冷たい手がかかったのである。胸をつらぬかれたはずの相手は、片手を柿ノ木のくびにあてたのである。義康は、その蛇のような触感をまざまざと感覚した。
笑うような声が耳の奥に吹きつけられた。
「あの馬車は、幽霊のおれが護っておる。あれを追うな。あの馭者に手を出すと、お前をとり殺すぞ。……」
それっきり、柿ノ木義康は失神して、くずおれた。
――馬車は、夜の雨の中を駈けていた。車輪の音は聞えない。
背後に追って来る跫音のないことをたしかめたのち、干兵衛は訊いた。
「お宵、だれを見たのだ?」
「あの男です」
「柿ノ木義康か」
「え? そ、そう。……」
お宵は、まだふるえていた。さっき蔵太郎に笑われたが、常人を見てこんなにこわがる幽霊を見たのは、干兵衛もはじめてだ。
「お前、柿ノ木義康を知っておるのか」
お宵は黙り込んだ。そして、干兵衛をじっと見た。しばらくして、
「いいえ、あなたに教えられた風態の人です。柿ノ木、と呼ばれていましたから、きっとあの人なのでしょう。……」
「それで、そんなにお前がこわがるのは?」
また一息おいて、
「あの男が、あなたを狙っているからです。ですから――」
と、お宵はいった。
彼女は、干兵衛の問いをそらした。――あの男は、まさしく会津落城のとき、自分の家に乱入して来、自分を犯した呪わしい男であった!
あのとき、あの男は、|しゃぐま《ヽヽヽヽ》をかぶった鬼神のような官軍の隊長であった。凄まじい髯をはやしていた。さっき見たのは、フロックコートに山高帽、細い口髭という伊達男だ。が、それを忘れてなろうか。見まちがえてなろうか。――いや、お宵は、今夜はじめて、自分を犯し、自害させた男の名を知ったのであった。
あまりの怖ろしさにお宵は反射的に逃げ出し、そして、ふるえつづけた。そして、そのことを夫に告げかけたのは、干兵衛に訊かれる寸前のことであった。声は、彼女の|のど《ヽヽ》をつき破りかけていた。
が、このときお宵ののどを鉛のように封じたものがあったのだ。
それをいえば、このひとはあの男に仕返しをするだろう。ひょっとしたら、殺そうとするかも知れない。――
そうすると、このひとはどうなる。人殺しの罪に落ちるか、その前に、あの男に殺されるか。――いずれにしても、怖ろしいことになる。
――幽霊も、心配する。
何より、あのお雛がどうなる?
それでお宵は問いをそらしたのだが、干兵衛のほうは、まともに妻の亡霊の答えにとらえられていた。
「柿ノ木が、おれを狙う? どうして?」
「あの男は、たしかに三島県令の家来です。自由党に化けているだけです。……そのことを、あなたに知られたから、このままには置けない、といっておりました。……」
「ふうむ」
「あなた……馬車を停めて下さい」
「なに、どうした」
「気分が悪うございます」
お宵は、まるで深海の魚が地上にひきあげられたときのような大きな息をつきはじめていた。「ああ、そのときが来た」といって、苦しげに蔵太郎の幽雲が消えてゆくのを、何度か干兵衛は見ている。今夜のお宵にもそのときが来たのか、と、彼は思った。もっと妻と話したい。もっと訊きたいことがあるが。――
「もういちど、お雛を見とうございます。早く、馬車を停めて!」
お宵は、あえぎながらいった。干兵衛はあわてて馬車を停めた。
が、お宵は地上に下りると、馬車の中へ向おうとして、急に立ちどまり、馬のほうを見て手をふった。
干兵衛が、手綱をしめているのに、二頭の馬は歩き出した。その蹄から、はじめて路上に戞々《かつかつ》と音があがり出した。
そして、数間いってから、干兵衛がふり返ると、そこにはもう妻の亡霊の姿はなかった。
「祖母《ばば》! 祖母《ばば》!」
そのときになって、お雛の呼び声が、哀しげに暗い雨空に流れた。
……前日の三月十九日の夕方、赤井が警視庁に自首して出たことを干兵衛は知った。柿ノ木義康がいったことにまちがいはなかったのである。
新潟県高田の士族赤井景韶が、同志を語らい、天誅党なるものを組織し、要路の大官の暗殺を計画したという、いわゆる「高田天誅党事件」なるものがこれで世に知られたが、それより世人の耳目をひいたのは、さきに「福島事件」で予審にかけられていた五十八人のうち、五十二人までが、内乱罪及び凶徒聚衆罪の証拠なしとして、四月十二日、無罪放免になったことであった。
首魁と目された河野広中をふくむ六人だけがまだ勾留されていたが、これでこの裁判の前途はほぼ推量されることになった。少なくとも、河野らが極刑になることなどはまずあるまいと見られるに至ったのである。
――三島は内務卿や大臣連中の間を駈け回って、この審決に異議を申し立てたというじゃないか。
――河野だって、証拠は何もないそうだ。
――あれも無罪になると、頭からゆげをたてて会津から送りこんだ、三島の面目はまるつぶれじゃな。
巷には、こんな声が満ちていた。
干潟干兵衛は、世間とは逆に、赤井事件のほうに心を奪われていた。いや、それも正確ではない。彼の焦躁のまとは、ただ赤井の妻の眉輪と妹の麻子の運命だけだったといっていい。
そして、四月半ばになって、二人の女は警視庁から釈放されたのである。
[#改ページ]
刑法第百二十六条
一
つかまってから、一ト月ぶりである。
二人の女は、むろんやつれていた。もともと|かげろう《ヽヽヽヽ》のような感じのあった麻子はむろん、豊艶な眉輪まで痩せ衰えて、蒼白いというより、肌はむしろ透明に見えた。
ともかくも、何より先に、行水を使う二人の女を、はじめ干兵衛は場所をはずすのも忘れて、数瞬ボンヤリ見る羽目になったが、そのとき二人の身体にうす紫の――たしかに痣まであるのも目撃したのである。警視庁でどんな取調べに逢ったか、想像するに足りる。
眉輪と麻子もボンヤリして、二、三日はほとんど口をきかなかった。
苦痛からのがれた虚脱感もあったろうが、しかしその心中を思いやれば、惨澹というしかない。
彼女たちは釈放されたが、夫たり兄たる赤井景韶はつかまったのだ。正しくいえば、彼女たちを釈放させるために、赤井は自分たちの計画を放棄して自首して出たのだ。もっと忌憚なくいえば、彼女たちの|へま《ヽヽ》によって――同罪である干兵衛は決してそうは考えなかったが――赤井景韶の目的をたたきつぶすことになったのだ。
「気にするなよ」
と、晩香先生はいった。
「こういっちゃ景韶が怒るかも知れんがの。わしゃはじめから成功はせんと思うておったぞよ。むしろ成功せんほうがかえってええとさえ考えておった。武器をもってする凶行が成功すれば、逆に自由民権の思想が根絶やしにされる心配があるからの。ただ、志を天下に告げれば足りる。その目的を達するには、このほうがええんじゃ」
「……わたしたちは、これから何のために生きてゆけばよいのでございましょう?」
と、眉輪が風のような声でいった。
「景韶の裁判を見守ることじゃな」
「裁判は、どうなりますか」
「実際に行為したわけじゃないから、まさか死刑にゃなるまい。しかし、無罪釈放とはゆかんことは覚悟しておれ」
「裁判は、いつごろになりますか」
「さあ、いつになるか。わしの見るところでは、早くて秋ごろになるかと思うが。……」
麻子が、顔をあげた。
「それから、わたしたちは?」
「やはり、国へ帰るか。――」
「国とは?」
「高田は、うるさかろう。わしは相馬へ帰ったほうがいいように思う」
相馬中村は、晩香先生の故郷だ。老人は元相馬藩の儒者であった。
「それから?」
「それから……わしの死んだあとのことまで心配しちゃおれん」
晩香先生は笑った。しかし、二人の女は笑わなかった。
ただ、彼女たちをわずかに笑ませたのは、お雛だ。「お姉ちゃんが帰って来た。お姉ちゃんが帰って来た」と、手を打ってはねまわるお雛を、二人は抱きしめて泣き笑いした。
こんな問答を聞きながら、干兵衛は黙々としていた。とうてい自分の口をいれる話ではないと思っていたし、またそれを避けたい気持もあった。わずかに、眉輪と麻子の釈放だけを、純粋によろこんだ。
ただ、いかな干兵衛も報告しないではいられないことがあった。いうまでもなく、柿ノ木義康のことだ。
彼は、あの柿ノ木義康が自由党に化け込んでいる三島県令の秘密の家来であることは九分まで確実だといった。果せるかな、眉輪と麻子は驚倒した。それに問いただされるままに、干兵衛は、延遼館のこと、千住の三島別邸のことを話した。さすがに幽霊の件は口にしなかったが、その代り自分が発見されて柿ノ木に追いかけられたことは話した。
「それは……」
麻子はさけんだ。
「兄に知らせなければ!」
しかし、赤井景韶は牢の中にいる。どうやって知らせるのか、その方途がない。それに、知らせて何になるのか――とも、干兵衛は考えた。
「それなら、もう景韶はだまされることはなかろう。牢の中までだましにやって来るやつはあるまいからの」
と、晩香先生は苦笑した。
「わたしには、信じられません」
と、眉輪はいった。実際、干兵衛にもまだ信じられないような話なのだ。
数日たって、どういう相談がまとまったか、眉輪と麻子は、巣鴨の家に帰るといい出した。ここへは緊急避難の意味で来たのだから、いつまでもお世話になってはいられない。自分たちはとにかく釈放されたのだから、もうどうということはあるまい、あちらで赤井の判決を待つことにしたいというのだ。
干兵衛はとめなかった。その言い分は尤もだと思ったし、自分がすでに柿ノ木に眼をつけられた以上、ここも安全だとは保証は出来なかったからだ。
ただ。――
「干兵衛さん、やはりこれはあなたが預かって下さい」
と、いったん戻した例の「赤い盟約書」を眉輪から渡され、
「どうもそのほうが安全な気がするのです。もしわたしたちが東京から去るなら、そのときにいただきに参りますから」
と、麻子にいわれたとき、これは引受けた。
彼女たちとこれから縁が切れるとは思わず、それは彼も望んではいなかった。だいいちお雛が二人にまつわりついて離れないのだ。
眉輪と麻子が晩香先生を連れて、干兵衛の馬車に乗り込んだのは、その翌日であった。
明治十六年の春はいまやたけなわであった。天皇は飯能《はんのう》へ、皇后は上野へ花見に行幸啓し、満都は花に浮かれ切っていた。干兵衛の馬車も、その行楽の風物詩の一点景と見られたかも知れない。
「おいっ……干兵衛さんやあい」
馬車の扉をあけて、晩香先生がさけんだ。日比谷の濠端であった。
日比谷はもと外桜田と称し、諸藩の江戸屋敷が集まっていたが、いまは大半とり払われて、近衛兵営と練兵場になっている。――公園になったのは、これからさらに二十年後のことである。「ちょっと知り合いが通る。下ろしてくれ」
干兵衛は、馬車を停めた。
ちょうどそこを、二台の俥が通りかかって、いまの声にこちらを見て、その一台から五十半ばの男が、びっくりした表情で下りて来た。
「やあ、錦織先生ではござりませぬか」
「久しぶりじゃな、志賀さん。――お達者か」
相手は、長身骨太の、いかにも元は武士であったらしい――いまは羽織袴の堂々たる風采の人物であった。
もう一台の俥も停り、下り立ったのは四十半ばの品のいい婦人であったが、腕には生れて間もない赤ん坊を抱いている。これは、こちらに目礼して、つつましやかに控えているだけであった。
晩香先生は眼をパチクリさせて、
「奥方の抱かれているのは……ありゃあんたのお子か」
「まさか」
相手は苦笑した。
「孫でござるよ。この二月に生れたばかりで」
「ほう、直温《なおはる》君のお子か。で、直温君はいま東京におられるのか」
「いや、倅は第一銀行の石巻支店詰めですが、先日出張で上京して来たついでに、あの子も連れて参りまして――直哉と申しますが」
そのまま、二人は立ち話をはじめた。
以上の問答は、何気なく耳にしたものの、あと干兵衛は濠の春光にちる花びらに心を吸われていたのだが、そのうち、突然、晩香先生の叱咤の声が聞えはじめたので、胆をつぶした。
「わしの縁戚にな、剛清という一徹者がおる。これが貴公をかんちがいして、奸物ともに天をいただかず、とまでいっておる。わしは説諭したが――しかし、三左衛門どの、あんたも感心しないところはあるぞ」
錦織晩香先生は顔を真っ赤にし、白いチョンマゲをふりたてていった。
「わしのいいたいのは、相馬家のことではなく、足尾のことじゃ。あれは、あんたと古河がはじめて以来、てきめんに鉱毒の惨がひどくなって、ために渡良瀬川流域の百姓に生色がないと聞く。
いやしくも元大名の相馬家が、鉱山《やま》師の仲間となって百姓を苦しめる法があるか。ただちにあれから手をひかっしゃい!」
それで干兵衛は、このごろ世の噂になりかかっている栃木県足尾銅山の鉱毒騒ぎのことを思い出した。
しかし、いま干兵衛が驚いたのは、晩香先生の怒りぶりであった。この老人については、最近見直すところもあったとはいえ、こんなに立腹した声を出すのを聞いたのははじめてだ。
志賀という男は、粛然と首うなだれて立っている。小さな老人の言葉の鞭を、そのがっしりした身体に甘んじて受けて、一切抵抗はしないと見える姿に、干兵衛はむしろ気の毒の感を催した。
その妻の胸の中の赤ん坊が、オンギャア、オンギャアと泣き出したので、晩香先生はやっと相手を離して、馬車に戻った。
――巣鴨についてから、干兵衛は改めて、晩香先生がこのいきさつについて麻子に話している
のを聞いた。
志賀三左衛門は、瓦解前、相馬藩で二百石、仕法掛《しほうがかり》代官次席までやった人物で、いまは東京で相馬家の家令をやっている。若いころ篤農家二宮金次郎の弟子にまでなったが、どういうつもりか、数年前から古河市兵衛という実業家と組んで足尾銅山の再開発をはじめ、それはおそらく相馬家の利殖のためと思われるが、その結果、そこから流れ出る渡良瀬川の流域に大変な鉱毒の害を与えているというのであった。
「銅で百万の巨富を得ても、百万の百姓を苦しめて何になる?」
晩香先生は、また昂奮しはじめた。干兵衛は、一見世捨人に見えたこの老人が、孫娘を志士赤井景韶に与えて平然としていたのは、なるほど尤もだ、と、やっと了解した。
馬車でふたたびひき返すとき、それまで眉輪たちとここで別れることになるとは知らされていなかったお雛は、だだをこねて、哀しげに泣いた。
二
政府要人の大々的暗殺を指向したという「高田天誅党事件」は、いちじ干兵衛が愕然とするくらい大袈裟なものになった。
赤井景韶自身がそこまで考えていたかどうかわからないが、故郷高田で彼と関係のあった自由党員二十五人もまた事件連累者として逮捕され、東京に護送されたのである。
それらの名も干兵衛は新聞で見たが、いつか巣鴨で逢った二人の同志――たしか栃木県人鯉沼九八郎、福島県人琴田岩松という名は、その中にはいっていなかった。いかにその検挙がずさんなものであったかが推量される。
ともあれ、赤井は、干兵衛などの手のとどかない場所へいってしまった。三島県令も任地へ帰任したらしい。
春から夏へ、東京の町を、親子馬車は経巡ってゆく。干兵衛は、嵐は過ぎ去ったような気がした。
七月十九日に、高等法院で、福島事件の判決があった。拘禁されていた六人のうち、領袖河野広中は軽禁獄七年、あと五人は軽禁獄六年であった。
この罪は、重いか、軽いか。「天下始めて司直吏の正邪に惑う」と、「自由党史」は痛憤しているが、会津のほうでは、逆に無念の舌打ちをひびかせた者があったかも知れない。
これらの人々が政府顛覆の盟約書を交わしたという自白はあったものの、それはあくまで拷問による結果であって、口供それぞれくいちがい、はっきりしたその証拠物件のなかったことが、この中途半端な宣告となったのであろう。
ともあれ河野らは、石川島監獄に移された。
このとき、東京に「天福六家選」という――明らかに「顛覆」をもじった――彼ら六人を英雄とする錦絵が売り出され、版元が検挙されたという事件があったのも、当時の世相の一断面であった。
夏から秋へ、親子馬車の車輪は廻ってゆく。干兵衛は、何もかも以前の通りの生活に戻ったと考えた。
しかし、運命は彼とお雛を、赤井一族から離さなかった。だいいち彼は、まだあの盟約書を預かっていたのである。
十二月十七日、高等法院で、こんどは赤井景韶の判決があった。
連累者としてとらえられた者はすべてその証拠なしとして釈放され、彼一人のみ――検察官は、「いったんこれを抛ちたりとも、すでに暗殺を企図せば内乱陰謀罪となるなり。あに既遂と未遂の別をもって犯罪を消滅し得べけんや」と論告し、判事は刑法第百二十六条をもって情状酌量して、重禁獄九年の刑に処した。そして、彼はただちにこれまた石川島監獄へ移されたという。――
これを二十日過ぎの新聞で見て、干兵衛は巣鴨へ駈けつけた。
その途中――大塚あたりで、
「おうい、親子馬車のおじさあん」
と、小さな丁稚に呼びかけられた。
「やあ、お前さんか」
去年の夏、ただで乗せて、そばを食わせてやった古本屋の小僧であった。あの日、大きな頭を汗だらけにしていた小僧は、きょうは同じイガグリ頭をこがらしに吹かせて、テクテクと歩いていた。
気はせきながらも、干兵衛は馬車を停めた。
「どこへゆくんだね」
「巣鴨の庚申塚の近くさ。……いつかはどうもありがとう」
「うん、いや。実はわしもそっちへゆくのだが」
「錦織晩香ってえ漢学の先生のところだよ」
「なに、錦織塾へ? ど、どうして?」
「その先生から、うちの店で本を買うことになったのさ。それできょうからひきとりにゆくんだよ。どうやら三回くらいは来なくちゃならないようで、何しろ遠いからへいこうだよ」
「乗りな。……わしも同じところへゆくんだ」
奇縁に驚きながら、干兵衛はその小僧を乗せて巣鴨へいった。
むろん、眉輪たち三人はもう判決のことは知っていて、二人の女は改めて涙を流した。「自由党史」は、赤井の心中を推して、「渾身狂熱の可燃質をもって満たせる壮士彼のごとき、いずくんぞよく九年の長久なる月日を、黒獄圜扉《こくごくかんぴ》の裏《うち》に消遣《しようけん》するを得んや」と難しい言葉で記しているが、二人の女の心も同じことであったろう。
ただ、晩香先生ばかりは、
「なに、九年なんぞは一炊の夢じゃ。九年たっても、赤井はまだ若い。気を長うして、待っていてやれ」
と、白い髯をしごいて、本屋の小僧に本を渡しに座敷を出ていった。
そして、干兵衛も、例の盟約書を二人の女に返した。
小僧が帰っていったあと、眉輪たちはいい出した。近いうち自分たちは相馬中村へ帰ることになるけれど、それまで、この二、三日、ここに泊ってくれないか、というのである。何より、お雛ともういちどいっしょに暮したいから、というのであった。
なんぞ知らん、別離を惜しむこのやさしい心が生んだこのひとときを、魅入るがごとく魔が狙っていようとは。
干兵衛は巣鴨のその家に泊ることになった。
三日目の夕方であった。師走ながら、明るい暖かい日で、一人だけ商売に出た干兵衛が馬車で帰って来ると、戸口に晩香先生とあの本屋の小僧が立っていた。
「干兵衛さん、どうしたものかな?」
と、晩香先生が不安げにいった。
「眉輪と麻子と――お雛坊がいなくなってしまったのじゃよ!」
三
晩香先生と本屋の小僧は、唇をふるわせて、こもごもいう。
きょうの午後、小僧が最後の分の本を受け取りに来た。その整理がまだ出来ていなかったので、晩香は眉輪と麻子に手伝わせ、小僧には待ってもらう間、いいお天気でもあり、近くの庚申塚へ、お雛と遊びにやらせた。そこには飴や団子を売る何軒かの茶店がならんでいたからだ。
ところが、そこでお雛がさらわれたのである。ふいに、三、四人の男が近づいて来て、お雛に菓子をくれ、名を訊いていたが、その一人が、ふいに小僧に、
「お前、錦織塾にいって、そこにいる二人の女に、すぐに来いと言え。二人だけで来いと言え。来なければ、この子だけ連れてゆくと言え」
と、いった。
小僧は胆をつぶして、塾へ飛んで帰った。この知らせを聞いた眉輪と麻子は、ほとんど相談をするいとまもなく、庚申塚へ駈け出していった。
小僧は、びっくりと恐怖のあまり、しばらく腰がぬけたようになっていたが、それっきり眉輪と麻子が帰って来ないので、老先生といっしょに探しにいった。すると、三人の姿はかき消えていた。――
むろん、そのあたりには人々がいて、このいきさつを見ていた者もあった。それによると、往来のすぐ向うに人力俥が三台待たせてあって、まんなかのやつにお雛を抱いた男が乗り込み、前後の俥に二人の女が乗せられ、それぞれ俥のわきに男たちがくっついて、飛ぶように東京方面へ走り去ったという。――
もう一時間ばかり前のことだが、晩香先生と小僧は、どうしていいかわからず、ただ茫然とそこに立ちつくしていたらしい。
「もう一台、あとからついていったという人もあったけどね」
と、小僧はいい、また首をひねった。
「ふしぎだね、お雛坊、いっぺんも泣かなかったよ」
しかしお雛は、そんなとき奇妙に泣かない子ではあった。が、二人の女がいちども周囲の人々に助けを求めなかったのは、どうしたことであろう?
「実はな、干兵衛さん」
と、晩香先生はいった。
「こっちへ戻って以来、変なやつが家のまわりをウロウロしとる気配はあったのじゃよ。裁判はすんだが、なにしろ謀叛人の家族なのじゃから、それが警察の者にしろ何にしろ、それくらいのことはあるじゃろうと思い、とにかく用心はしておった。二人の女は、実は懐剣さえ忍ばせておった。それが――あのお雛坊を囮《おとり》にするとまでは思わなんだ!」
干兵衛は、棒をのんだようにつっ立ったきりであった。
「それを囮に呼び出された眉輪と麻子が、どうやら声もたてずやすやすと連れてゆかれたのは、思うにお雛の身に危険があると見たからじゃろう。いま思えば、お雛を抱いて乗った男は、短刀か何かをつきつけていて、それを二人に見せつけたに相違ない」
干兵衛は、小僧に訊いた。
「どんな身なりのやつだった?」
「自由党みたいだったよ。ほら、|ひげ《ヽヽ》はやして、紋付きて、ステッキついてるひとがたくさんいるだろ。あれだよ。みんな、おっかない顔ばかりだったよ」
干兵衛の脳裡に、一つの顔が浮かんだ。
「その中に、白髪の男はいなかったかね?」
「ううん、そんなひと、いなかったみたい」
小僧は、大きな頭をふった。晩香先生は首をひねった。
「そりゃ、自由党のやつじゃろ? 自由党が、眉輪たちをさらうのはおかしい。さればとて、警察がそんな風な連行をやるっちゅうのも面妖であるしな」
ふいに干兵衛の脳髄に、もう一つの姿がゆらめきのぼった。
「それじゃ、その中に、山高帽にフロックコートの男は見えなんだか?」
「いや。……」
小僧はまた首をふった。
しかし、こんどは干兵衛は、頭からその影を消さなかった。本人が現われなくても、配下を使ってやらせたということは、充分あり得る。
あれ以外にない!
いったい何のために眉輪と麻子をさらったのか。その意味は、とっさにはわからなかった。わからないだけに、かえってこのかどわかしは、あのわけのわからない男のしわざという直感があった。
突然、干兵衛はあることを思い出した。彼は、血走った眼で訊いた。
「先生……ひょっとしたら、眉輪さまか麻子さまは、この前拙者がお返ししたものを持っておられるのではありませぬか?」
「……おう!」
晩香先生は手を打った。
「そういえば干兵衛さん、この家はめったに留守にしたことはないのじゃが、それでもやむを得ぬ用で、三人出かけたことが何度かあったよ。その留守に、何者かが忍び込んで、探し物をした形跡があった。それも、あとになって気がつくほど注意深い捜索ぶりであったが……それ以来、眉輪が肌身につけておる。お前さんのいうのは、あの盟約書のことじゃろう?」
それ以上、尋ねようともせず、干兵衛は馬車に駈け戻っていた。そして馭者台に乗り込むと、かつてない荒々しさで、玄武、青龍に鞭をあてた。ゆくさきはむろん千住の三島別邸であった。
熱病病みみたいにひかる眼で前方を見すえて、彼は考える。
あの盟約書を、なぜか自由党の秦剛三郎という男が見たがったことは知っているが、柿ノ木義康がそれを知り、それを欲したということは、干兵衛のいままでの知識にはない。
しかし、自由党に化け込んだ柿ノ木が、秦から聞いたということはあり得る。
そして、その存在を知った以上、柿ノ木がそれを入手するために手段をえらばなくなった、ということは充分考えられる。なぜなら、あの男は三島通庸の「闇の手」だからだ。柿ノ木というより、おそらくそれは三島の意志だろう。
すでに河野広中にも赤井景韶にも判決は下っている。しかし干兵衛の知るかぎりでは、両者の「犯罪」は結びつかず、それぞれ七年、九年の禁獄に処せられたのだ。おそらく三島はそれに不満だろう。とくに河野に対しては。――それについての彼の憤慨ぶりの噂は、干兵衛も聞いた。三島は、国事犯として河野広中を極刑に処し、福島自由党を根絶やしにすることを望んでいるだろうからだ。
いまあの盟約書が三島の手にはいれば、裁判はやり直されることは必定だ。
どこまで盟約書の内容を知っているかどうかは別として、その可能性を期待して、柿ノ木義康が執拗に動いたのではないか?――十中八九、この推測にまちがいはない!
――馬車が千住に着いたのは、もう日が暮れてからであった。暗いこがらしが吹き起っていた。
大通りで馬車を捨て、例の屋敷に近づく。
歩きながら干兵衛は、三島通庸はいまたしかに任地にあるはずだ、と考えた。それからこの十月、三島が福島県令をかねて栃木県令にも任命されたことを思い出した。福島県における鉄腕が、政府のおめがねに叶ったのにちがいない。
だから、現在彼が福島にいるのか栃木にいるのかつまびらかにしないが、この東京屋敷にいないことはほぼたしかだ。もっとも彼が不在でも、配下がその意を体して動くということは充分あり得る。
その家の門にまだ遠いところで、干兵衛は足をとめた。門のあたりが何やら騒然としている気配に気がついたのだ。
夜目ではあるが、幾つかの提灯に十人を越える人影がゆれ動いている。
――何かあったのだ!
干兵衛の全身から血の気がひき、われを忘れて彼は、ヒタヒタと近づこうとした。すると――早くもその影を見とがめたと見えて、
「だれだっ」
凄まじい声をあげて、そちらから殺到して来た。その手に白刃さえひらめいたのを見て、さすがの干兵衛も驚いて、身をひるがえして逃げ出した。
あやうくその男たちをやり過したものの、やがて干兵衛は、今夜この三島別邸が、とうてい近づくことも不可能な、ただならぬ雰囲気につつまれていることを知った。塀のまわりを、仕込杖を持った壮士たちが、組になって徘徊《はいかい》しているのだ。
「……お、そうだ!」
闇の中に、ひたいにあぶら汗をにじませながら立ちすくんでいた干兵衛は、やがてはっとこがらしの鳴る夜空を見あげた。
それから、低く――しかし、必死の声でさけんだ。
「蔵太郎! 蔵太郎!」
あの息子の力をかりるよりほかはない、と彼は思いついたのだ。
「来てくれ。助けてくれ。……おうい。蔵太郎!」
五分たっても、十分たっても、何の異変も起らなかった。
干兵衛は、いかに自分が呼んでも息子の亡霊の現われるはずのないことに、改めて気がついた。
四
眉輪と麻子とお雛は、まさにその千住の屋敷に連行されていたのである。晩香や干兵衛の想像通り、お雛の難を聞いて駈けつけた眉輪と麻子は、お雛を人質にされ、悲鳴をあげることも許されず、むなしくそこへ運ばれたのであった。
どこへ連れてゆかれるのか、その誘拐者たちが何者であるかも思い当らず、その門をはいるとき、そこの標札が「福島県・栃木県庁東京出張所」となっているのをちらっと見て、はじめて二人は、そこが干兵衛から聞いた三島県令の別邸であることを知った。
連れ込まれたのは、母家から渡り廊下でつながれた土蔵の中であった。
「しばらくここで待っておれ」
男たちは、いったん出ていった。あとに、重い土戸《つちど》がしめられた。
金網の張られた小さな窓が、高いところに一つある。そこからさしこむ光はすでに冷たい黄昏で、蔵の中は朦朧と薄暗かった。眉輪と麻子は、お雛を中にしっかりと抱き合っていた。
十分ばかりして、また戸があき、手提げ洋燈《ランプ》を二つ三つ持って、七、八人がはいって来た。その中に、一人の女と、山高帽にフロックコートの男がいるのを見て、眉輪と麻子は眼を大きく見ひらいた。
女はむろんはじめて見る顔だが、眉輪より一つか二つ上に見える――妖艶無比の女であった。が、彼女たちを驚かせたのは、それよりもフロックコートの柿ノ木義康だ。
「両嬢、久しぶりですな」
と、彼はステッキの上に掌を重ねていった。
彼女たちがこの前この男を見たのは、ことしの早春のことで、その日、彼は、麻子の恋人、高安宗助を殺害して野分《のわき》のように去ったのであった。
「こんなところでまた逢うことになって、びっくりするのは尤もだ」
しかし、実は彼は、巣鴨から彼女たちにとりついていたのである。それどころか、きょうの誘拐を命じたのは彼であった。ただ羽織袴の壮士風で、しかも庚申塔の裏にかくれ、ここへ来るときも別の俥に乗って来たから、彼女たちが気がつかなかったに過ぎない。
ここで衣裳を改めて出て来たのは、もう自分の正体を明らかに示してもかまわない、と判断したからだ。しかし、眉輪と麻子は、じっと見つめたきり、しばし口もきけなかった。
ややあって、あえぐようにいった。
「あなたは……」
「自由党の柿ノ木さまが。……」
逢ったのは一度だけだが、話は夫たり兄たる景韶から何度も聞いている。峻厳なる統率者として、景韶が一目も二目も置いている柿ノ木義康が、三島県令の私兵らしいということはかつて干潟干兵衛から聞かされたのだが、なお二人は半信半疑であった。それが、いまここに、その通りの姿を現わしたのを見ても、ああ、やっぱりそうであったか、と思うより、眉輪と麻子は、思わずそんなさけびをあげずにはいられなかった。
「そのからくりを、いま説明しているひまはない」
細い口髭の下の唇が薄く笑ったが、すぐに氷のような眼で二人を見すえて、
「あんたがた、河野や赤井連名の盟約書を持っているだろう。それを見せてもらおうか」
と、いった。
そういうものが存在していたことは、すでに明らかになっていた。しかし、その現物がない。おそらくそれはもう処分されたのだろう、と考えられた。が、その後、どうもその盟約書はなお残っていて、赤井の家に伝えられているのではないか、と見られる疑いが生じて来たのだ。疑いというより――それさえ出て来れば、河野一味を改めて極刑に出来る、という三島の執念からの推測であった。
その望みを受けて、若松帝政党はひそかに捜索した。それはやはり入手出来なかった。
そこに、たまたま柿ノ木義康も巣鴨へいって、例の親子馬車屋が錦織塾に泊り込んでいることを知り、ついに荒療治の決断を下したのだ。その馬車屋の孫娘を人質にして、眉輪、麻子をここに連行するという策を。――柿ノ木は、その盟約書なるものが、もしまだありとすれば、その二人の女のいずれかが身につけているにちがいないという見込みに、やっと到達したのであった。
「おい、身体を改めろ」
と、彼は帝政党員たちをふり返った。
ふいに、二人の女の手が動こうとした。
「無駄な抵抗はよしたがいい」
と、義康がいった。
その眼から放たれた妖光に、眉輪と麻子は呪縛されてしまった。それは、理も非も超えた殺人の熟練者そのものの眼であった。
男たちの手が這い、たちまち二本の懐剣が床に投げ出された。そして、なお数本の手は二人の女の衣服を這いまわった。
「何もありませぬが。……」
と、男たちが無念そうにいった。
「裸にしろ」
と、柿ノ木義康は厳然とあごをしゃくった。
「紐一本残すな。裸にして調べろ」
「それなら」
ふいに、そばに立っていた女が口をさしはさんだ。お雛に眼をやって、
「この娘は外に出しましょう」
裸調べを制止はしなかったが、これくらいの配慮はさすがに働いたと見える。――男の一人が、お雛を横抱きにしようとした。
と――それまで、まるで石の人形みたいに立って、じいっと眼を見張っていたその小さな娘が、突然顔をあげてさけんだ。
「父《とと》……父《とと》……たすけて!」
みんな、キョトンとした。
数十秒ののち、女がいった。
「父《とと》? 父が、どこに?」
柿ノ木義康はぐるっと見まわして、その眼が釘づけになった。
しめてあった土戸が、このとき音もなく開き出したのだ。そして、みんなのかっとむき出した眼に、その土戸の間に、軍服軍帽の影が浮かび出した。
殺鬼柿ノ木義康ほどの男ののどの奥から、笛のような声がほとばしっていた。
「……あ、あ、あいつだ!」
五
干潟蔵太郎は、土蔵の入口に凝然と立っている。
ただそれだけで、その亡霊が、見る者を金縛りにする物凄さを持っていることはすでにたびたび述べたが、この場合、柿ノ木義康も、それから壮士たちの中にも、それがまさしく幽霊であるとこの春認めた者があるのだから、なおさらだ。柿ノ木に至っては、あのとき恐怖のあまり失神したくらいである。
そのときの恐怖のために、彼は――あれ以後、例の馬車屋をすこぶる気にかけながら、きょうまであえて手を出そうとはしなかったほどだ。
しかし、彼らよりなお身体に衝撃を走らせた者があった。
それは、柿ノ木といっしょに土蔵にいた女――お龍であり、かつ当の亡霊であった。
「……蔵太郎さん!」
お龍がさけんだ。
飛び立とうとした足を、見えない地上の糸に引かれたように彼女はまた立ちすくんだ。
「父《とと》とは……この子が、父《とと》というのは?」
「おれの子だ」
血まみれの顔で、あえぐように蔵太郎もいった。
「ああ、お鳥! お前は、お鳥だな? いま、見そびれるところだった。あれから六年たったからな。……つまり、そこにいるのはお前の子だが……」
彼はなお信じられないもののごとく、しかし燃えるような眼で女を見まもった。
お龍も、同じ眼で相手を見つめていた。これはいったい何であろう? これは幽霊としか思われない。――いや、まさしく幽霊だ。そういえばこの春、彼女はこの屋敷で女の幽霊を見た。そのときはまだそれが幽霊だとは信じられなかったが、そのあとを追って外へ出た柿ノ木義康や壮 士たちから、こんどは兵士の幽霊に逢ったという話を聞いた。それがこの干潟蔵太郎であったの か?
干潟蔵太郎と、柳橋でお酌をしていたころお鳥と呼ばれていたお龍は、まさに六年ぶりにいまめぐり逢った。ただし、死者、生者として。
このあり得ない再会を現実のものとしながら、むろんお龍は混乱している。
しかも、彼女の脳裡の混乱の中心は――頭の深部から吹き起って来る嵐は、その幽霊よりも、いま聞いた「そこにいるのはお前の子だ」という言葉であった。
――この子が、わたしの子か。
お龍は、お雛を見やった。
――これが、山川家の門前に捨てたあのお雛か。
彼女はつぶやいた。
「わたしは、ただこの子は町の馬車屋の子としか聞いていなかったけれど。……」
「ああ、いままでおれは、どれほどお前を探したことか。……」
と、蔵太郎はいい出した。
「何より先にお前に訊きたいのは、お鳥、お前がどうしてここにいるかということだ。ここはどこだ?」
彼は、ちらっと柿ノ木義康と用心棒たちに眼を走らせて、
「見た顔だ。あいつらがいるところを見ると……ここは、父上から聞いた三島県令の邸だな」
と、うなずき、次に愕然としたように、
「ひょっとすると……お前、三島県令の何かじゃないか!」
と、さけんだ。
お龍は答えなかった。
「それより訊きたいことがある。お前はなぜお雛を捨てた?」
お龍はなお黙っていた。しかし、その表情には変化が現われていた。最初の衝撃から、名状しがたい哀切感へ――そして、「いまのお龍」の、一種の力を秘めた白蝋のような冷たさに。
「それは、この子が、会津の侍の子だと知ったからです」
と、彼女は答えた。
「会津の侍? おれのことか?」
「あのころわたしは、あなたについて、ただ福沢塾の書生さんということだけしか知っていませんでした。あなたが会津のお侍だった――少なくとも会津の侍のお子だったと知ったのは、あなたが九州へ出征なさる前にはじめて聞いたことです。会津落城のかたきを討つために薩摩征伐にゆくのだと。――」
「おれが会津の人間だということが悪かったのか」
「そうです」
「な、なぜ?」
「会津侍は、わたしの親のかたきですから」
「なに?」
お龍の眼に、燐光のような光がともった。
「わたしは越後の女です」
「それは聞いたことがある」
「越後南蒲原郡加茂の百姓の娘です。瓦解のときのいくさで、会津兵のために、父も、母も――一家ぜんぶ殺され、家は焼かれました。……」
蔵太郎はキョトンとしていた。
お龍は、明治元年の北越戦争のことをいっているらしい。その年の春から夏へかけて、会津兵が長岡兵と協力して、越後一帯で官軍に抗したことは、当時十歳であった蔵太郎も知っているが、会津兵が越後の百姓を殺したとは聞いたことがない。――
「それは、いくさのことだから、何かのまちがいはあったろうが。――」
「いえ、ちがいます。会津兵がわたしの家を盾にしてたたかい、逃げるとき、鬼のようにみんなを殺して逃げたのを、わたしはこの眼で見たのです。……」
蔵太郎は、会津落城のときの会津兵の勇戦はもとより、その前の会津・長岡協同の抗戦を誇りに思っていたが、実際は、絵物語とはちがう陰惨な事実があった。
――そのころ、戦場を視察したイギリス公使館付きの医師ウイリスが書いたものによると、会津兵は越後の百姓たちに弾よけとして畳を背負わせて先に進ませてたたかい、やがて会津への撤退戦に際しては、惨虐で無秩序な暴漢のむれと化した。
「越後における退却の道に沿うて、会津兵は、婦女子を姦し、民家を掠奪し、反抗を示した者をすべて殺戮した」
と、ある。
会津落城のたたかいで、会津人は薩長の暴逆ぶりに深怨をいだく結果になったが、しかし立場を変えれば、会津侍もまたこれくらいのことはやったのである。戦争というものの本質的悲劇というしかない。
「あなたが九州へいったあと……わたしは、苦しみました。やがて赤ん坊は生れました。けれど、会津の侍の子はどうしても育てられない。……それで、わたしは捨てたのです」
蔵太郎は、まだ腑に落ちない顔をしていた。
しかし、彼を見すえたお龍の眼には、彼をひるませるものがあった。――やがて、幽霊の眼には、恐怖にちかい光が浮かんだ。
「それにしても、あなたはどうしてここへ?」
「この子が呼ぶと、おれは出て来るのだ」
と、蔵太郎は答えた。せっかくドロドロと出て来たのに、なんとなく出鼻をくじかれた顔である。
「行って下さい」
「え?」
「いまさらあなたに逢いたくはありません。もう出て来ないで下さい」
蔵太郎の幽霊は、茫然とお龍を見つめて、
「無情なことをいうな。六年たつと、こうも女は変るものかな?」
と、つぶやいた。実際に、かつて一歳下の恋人であった女は、いまや五歳の年上であった。
「父《とと》」
お雛が叫んだ。
「これ、あたいの母《かか》さま?」
さすがに、察したらしい。
「うん」
幽霊は、悄然として答えた。それから、思い出したように訊いた。
「ところでお雛、なぜ父《とと》を呼んだ?」
「あ。……これ、持ってってもらおうと思って」
お雛は、ふところから一通の書状のようなものをとり出した。蔵太郎は受け取って、妙な顔をして、
「こりゃ何だ」
「だいじなもん」
どこかで、あっ、というさけびがもれた。
――それまで、まるで魂をぬかれた人間みたいにこれを眺めていた眉輪と麻子であった。
同時に、同様の状態にあった柿ノ木義康と帝政党の壮士たちもわれに返ったようだ。
「それは」
と、柿ノ木がさけんだ。
それは先刻、ここへ連れ込まれたとき、眉輪が素早くお雛のふところにねじ込んだものであった。そのことを、いま柿ノ木は知った。同時に、それこそ自分が探していたものであったことを直感した。
「ま、待て!」
彼は、仕込杖を抜刀して、馳せ寄ろうとした。
「来るか?」
幽霊は、刀をとり直した。幽霊の刀というものが、現実にどういう作用を現わすか、くびをひねるいとまはない。すでにその刀身から血をしたたらせている物凄さに、柿ノ木たちは魔風に吹き戻されたように立ちすくんだ。
「よし、わかった」
蔵太郎は、お雛から受け取ったものをポケットにいれた。
「では」
彼は肩で息をしながらお龍に敬礼し、背を見せた。彼女に消えることを命じられるまでもなく、きょうはそれで消える時限が迫っているらしい――とは知らず、お龍はさけんだ。
「この子も連れてって!」
「いや、それはだめだ。許容量を超える」
入口で、蔵太郎はいった。
「しかし、お雛、困ることがあったら、いつでもおれを呼べ。……それまでは、お鳥、われわれの子だ。世話を頼むぞ」
そして、彼は出ていった。
こうして、たしかに存在した福島無名館の国家顛覆云々の「盟約書」――もし後世まで残存していれば日本民権史上の歴史的文献となったはずの証拠物件は、永遠にこの世からあの世へ持ち去られてしまった。
柿ノ木義康たちが呪縛から解かれて、恐怖にわななきつつ、それでもどっと追って出たのはそれから数分後のことであった。
お龍は、何と思ったか、それでもお雛の手をひいて、これも外へ出た。あとに土戸はしめられ、眉輪と麻子は蔵にとじこめられた。
六
――干潟干兵衛が、千住の屋敷の外に来たのは、それから二十分か三十分ばかりたってからのことであった。
彼は息子の幽雲を呼んで、そのききめのないことを思い知らされたが、幽霊はその前にちゃんとその屋敷の中に現われていたのである。それがどこかへ消えてしまってから、干兵衛はやって来たわけだ。幽霊とのすれちがいである。
暗いこがらしの中に、彼は苦悶して、両腕をねじり合せながら立っていたが、やがて、
「そうだ、警視庁ヘ!」
と、うめいた。
とにかく、三人の娘がさらわれたのだ。しかも誘拐者が、実に険呑なやつなのだ。一刻も猶予はしていられない。それを救い出すには、警察の手をかりるよりほかはない。
警察と三島県令とは友軍の仲ではないか、などと考えたことを彼は忘れている。干兵衛は駈け出し、馬車に飛び乗り、警視庁のある鍛冶橋の方角へ向け変えた。
明治政府の警察にそれほど好感の持てない干兵衛も、奇妙なことに――あるいは、かつて同心として働いたことのある同業意識からであろうか――そういう機関に対する一種の信頼感はいだいていたのである。
その馬車が数間駈けて。――
「やあ、あれだ」
往来を向うから走って来た三人の人間が、そんな声をあげ、駈け寄って来た。
この際に、干兵衛は、眼をまるくした。それは以前、巣鴨の錦織塾で赤井といっしょに見たあの鯉沼九八郎、琴田岩松という壮士と、それから驚いたことに松のや露八であった。
「あんたがたが、どうしてここへ?」
「いや、赤井の判決を聞いて……先刻、錦織塾を訪ねての、晩香先生から話を聞いた」
と、鯉沼がいった。
「で、お前の馬車がこっちへ向ったらしいと聞いて、急いで追っかけて来たのじゃ」
と、琴田がいった。
東京で、たしかに赤井景韶と行動を共にしていると見えたこの二人の名は、赤井が逮捕されたときも、その一味と目された高田の人々が検挙されたあとも、ついに新聞に出なかった。どこかに逃れたことにまちがいはないが、それにしても天に翔ったか地に潜ったか、と干兵衛も首をひねったものだが、いま、いったいどこから現われたものか。
それにまた彼らと、幇間の松のや露八がどうしていっしょにいるのか? 露八は去年の秋、たしか静岡へ去ったはずだが。――
「静岡で、おれがいままでかくまっていたのさ」
と、露八がいった。
しかし、干兵衛にしてみれば、いまそんなことはどうだっていい。
彼は、たったいま警視庁に依頼することを思いついたが、再考するまでもなく、これは自由党に救援を求めるのが筋だ。その自由党員が――しかも赤井景韶の同志が現われて来たのは、まさに天の助けというしかない。
干兵衛は熱病のように、眉輪らの誘拐と、三島別邸のただならぬ雰囲気と、そして自分の想像を――三島の配下柿ノ木義康が、盟約書を奪うためにこの挙に出たものにちがいない――ということをしゃべった。
ところが――案に相違して、鯉沼と琴田の反応は期待に反した。
「柿ノ木さんが、三島の家来など、そんなことは信じられん!」
と、容貌怪異の琴田岩松はさけんだ。
「あれは怖い人だが……それだけに自由党のお目付役で……そんな、馬鹿な!」
干兵衛は足ずりしたいようであった。
「それが嘘だと思うなら、はいって見て下され」
「待て、まさか、斬り込むわけにはゆくまい」
魁偉な鯉沼九八郎もいった。
「それに、三島はいま東京にはおらんじゃろう。……落着け、馬車屋、落着いて、善後策を考えよう」
当然な思案で、ほかの場合なら干兵衛もこう考えたろう。しかし、いまの干兵衛はちがった。
いまのいまも、お雛はどうしているか?
「おう。……いた、いたっ」
そのとき、また大声をあげて駈け寄って来た者がある。
ふりむいて、正体を知っても、みんなぎょっとした。町の灯に、銀のように髪がたなびいた。
それはあの白髪の秦剛三郎であった。
近づいて、はあはあと犬みたいにあえぎながらいった。
「巣鴨へいってな。話を聞いた。誘拐のことも、鯉沼、琴田君が来たことも聞いた。貴公たち、いままでどこへ潜んでおったのじゃ?」
と、いって、もう一人の大入道を見て、こんどは彼のほうがぎょっとしたようだ。
「やっ、そこにいるのは露八じゃないか。……どうしたのじゃ?」
この白髪の壮士は、かつて根津遊廓でこの松のや露八にきんたま酒を飲ませ、かつねじ伏せられて、その返盃を飲まされかけたことがある。――
「いえね、あたしゃちょいと廓《くるわ》のつきあいで」
松のや露八はさりげなくかわして、秦がまた二人の壮士に何か話しかけているすきに、
「ね、あいつにしゃべっちゃあいけないよ」
と、小声で干兵衛にささやいた。
しかし干兵衛は、露八をおしのけるようにしてしゃべり出した。――
七
干潟干兵衛は、この秦剛三郎が激烈を通り過ぎて野卑凶暴といっていい男であることを知っている。しかし、この場合は、それが寒風の中に火を見たような頼もしさに感じられた。
秦は、柿ノ木が三島の配下だという話には、笑殺どころか憤然としたが、赤井景韶の妻と妹が三島の別邸に誘拐された事実については、期待通りの反応を示した。
「なんのための誘拐だ?」
という問いに、干兵衛は、どうやら赤井景韶が河野広中と交わした盟約書を奪うためだと思われる、と告白しないわけにはゆかなかった。
「ふうむ。……」
この男も、その盟約書にただならぬ関心を持っているらしいことは、干兵衛も知っている。その眼がピカリと光ったのを見て、干兵衛が――これは、いうべきではなかったか?――と、一瞬、気おくれをいだいたとき、
「それは、捨ておけん!」
と、秦はさけんだ。
「おいっ、両君、何を棒立ちになっとるんじゃ。早くそこへゆこう」
鯉沼九八郎と琴田岩松は当惑した声で、この人数で押しかけても、万に一つも成功の見込みはないという意見を述べた。こんどは秦が棒を呑んだようになって、三島屋敷の方角をにらんでいたが、たちまちはっしと手を打った。
「よしっ、加勢を呼んで来よう」
「加勢?」
「日比谷鹿鳴館裏の例の家の同志じゃ。今夜も必ず十人くらいはおると思う。あそこへいって相談しよう。貴公たちもゆけ。この馬車でいってもらおう」
干兵衛は、はからずも去年の春の雪の夜、はじめて秦剛三郎たちに呼びとめられたとき、たしかそのあたりへゆけと命じられたことを思い出した。どうやら自由党の隠れ家があるらしいが、あそこのことか。――
「事態は切迫しとる。早く乗れ」
鯉沼と琴田も、そこは知っているらしい。が、なおためらう表情であったが、秦に叱咤されて、追われるように馬車に乗り込んだ。
つり込まれて、これも乗ろうとする松のや露八に、
「こら、お前に用はない!」
と、秦が一喝した。
「さいでやすか」
露八は戻って来て、干兵衛にささやいた。
「干潟さん、いつか聞いた、お前の孫のおふくろだがねえ、たしかお鳥とかいった――そのゆくえの糸をつかまえてやったぜ」
「えっ」
「芸者じゃねえ、まだお酌で、しかも身請けした人が、まわりに固く口止めしていったから、さすがのおれもなかなかわからなかったわけよ。それを、だれだと思う?」
「だれだ」
「三島県令。――」
「な、なんだと?」
干兵衛は、訊き返そうとする口もしびれてしまった。
「おいっ、何をしゃべっとる? 急いでゆく必要はないのか!」
と、秦剛三郎が、焦った風に歩み寄って来た。
「よし、露八さん、馬車でいってくれ。あとで話を聞こう」
からくも干兵衛がそういったのは、秦にせかされたためばかりではなく、いま耳にしたことがあまり衝撃的で、とっさに判断力を失ったからであった。
露八は馬車に乗り込んだ。いまの干兵衛の声を耳のはしにでも入れたか、こんどは秦もとめず、その代り、干兵衛につづいて、自分も馭者台のそばにならんで乗って来た。
「さあ、やってくれ!」
――師走の夜の町を、馬車は東京のまんなかめがけて駈けつづけた。
寒風の中に白髪を吹きなびかせて、秦は訊く。
赤井景韶の妻や妹は、どういう具合にさらわれたのだ? それが盟約書を持っていることをどうして知ったのだ? 鯉沼、琴田はいままでどこにいたのだ? いや、柿ノ木さんが三島の家来だとは、何を根拠に、そんな途方もないことをいい出したのだ?
が、干兵衛があまり怖ろしい眼を前方にすえたまま、一切返事をしないので、さすがの秦もついに黙り込んでしまった。
干兵衛の思念は燃えつづけている。
蔵太郎の女が、三島県令の妾になっていると? どうしてそんなことになったのか? 蔵太郎の子を生んだ女が、なぜ会津を苦しめる元凶の妾になったのか?
干兵衛の脳髄を、一つの記憶がかすめ過ぎた。それはこの三月、あの三島屋敷の門ではからずも聞いた帝政党の壮士たちの会話であった。何でも彼らは、それが実に怖い女だ、としゃべっていたようだ。
その女は、いまあの屋敷にいるのか。三島通庸は任地にいるはずだが。――
突然、干兵衛は、はっとした。お雛は、ただ眉輪たちをさらう囮として使われただけだと思っていたが、ひょっとしたら、向うはお雛の生れも承知でさらったのではないか。お雛をさらったのが、その実母だとすると――これはどういうことになる?
彼は混乱した。
お雛の母を、永年探し求めつつ、ただ、漠然と彼は、お雛がその女に連れてゆかれる日を怖れていたが、この現実は、そんな自分のエゴイズムによる怖れ以上に好ましくない事態であるような気がする。――
いつしか馬車は、鍛冶橋あたりを走っていた。ここまで来ると、千住辺とちがって、一帯は灯の海といった感じさえする。
警視庁の洋風の新庁舎の門には、二人のポリスが立っていた。それさえも意識の外に、その前を走り過ぎた干兵衛は、そのときならんで坐った秦剛三郎の手から一枚の紙片がヒラヒラと路上に落ちていったのも気がつかなかった。
日比谷の、ほんの一ト月ばかり前開館された鹿鳴館には、もう夜会があるのか、窓々に灯がともっていた。どこにあるのか、干兵衛は知らないが、このすぐ近くに自由党の秘密の巣があるとは驚いたことだ。
「どこの道からはいるので?」
と、干兵衛はそばの秦に訊き、そのとき背後から雪崩のような靴音を聞いた。
「待てっ」
「その馬車待てっ」
たちまち馬車は包囲された。
干兵衛は、むろん肝をつぶした。千住でいちどは警視庁へ駈け込むことを考えながら、そのあと彼の念頭から警察のことは一切かき消えていたのである。だからいま警視庁の前を通りすぎたことさえ気がつかなかった。
「な、何御用で?」
ともかくも、尋ねた。
「その馬車に、捜索中の者が乗っとる。神妙にせい!」
と、警部らしい男がわめいた。
秦のことか、鯉沼、琴田のことか? さすがの秦剛三郎も、阿呆のように口アングリとあけ、茫然自失の態だ。馬車の中の鯉沼、琴田も同様にちがいない。無理もない。巡査の大群の中には、もう抜剣した者もあって、それがガス燈に無数にキラキラしている。
「馬車を回せ! 警視庁へゆけっ」
怒号に、干兵衛は従った。そうするよりほかはなかった。
巡査たちに囲まれて、馬車を歩ませながら、干兵衛は、こんな目に逢うのはこれで二度目だ、と思った。眉輪、麻子、そっくり警視庁へ運び込まされたことがある。――しかし、彼は、あのときほど狼狽していなかった。次第に落着くに従って、秦たち自由党の壮士には気の毒だが、やはりあの件は警視庁に依頼するほかはあるまい、と覚悟した。
が、干兵衛の思案を粉砕する大意外事は、馬車が警視庁の門前に停ったときに起ったのだ。
「馬車のやつら、下りろ。無用の抵抗はやめろ」
警部の叱咤に、秦剛三郎はもとより、鯉沼も琴田も馬車から地上に下り立った。いわれるまでもなく、抵抗の気配はない。
ついで、大入道がにゅっと頭をのぞかせた。
「あっしゃあ、ただ相乗りの客なんですがねえ。あっしも縛られるんですかい?」
「お、お前は幇間の露八じゃの」
と、警部がいった。名物男だけに、顔は知っていたと見える。
彼はちょっとまごついて、そばの男をふり返った。
「あれは、よかろう」
と、その男がいった。
干兵衛は、愕然とした。それは白髪の男であった。鯉沼九八郎と琴田岩松はすでに巡査に囲まれて連行されていったのに、まだそこに残っていた秦剛三郎であった。
その秦が、干兵衛にいった。
「お前には訊きたいことがある。お前は来い」
まるで氷結したような干兵衛に、秦剛三郎は――あの粗暴軽躁の雰囲気を持っていた男が、いま銅仮面のような表情になって、
「おれは警視庁の警部だ。神妙にしろ」
と、いった。
八
干潟干兵衛は腰縄を打たれ手錠をかけられ、椅子に坐らせられていたが、頭蓋骨まで錠をかけられたような思いであった。
深夜の警視庁の一室である。彼一人だ。いっしょにつかまった鯉沼、琴田はどこへ連れてゆかれたのか、もういない。
扉があいて、警部の肩章をつけた男と、秦剛三郎がはいって来た。制服を着たほうが、あきらかに秦を上の階級と見る物腰なのを眼にしながら、干兵衛はまだ茫然としている。
「信じられんか」
白髪の壮士は、卓の向うに立って、薄く笑った。
「見る通りじゃ。もはやおれの正体を現わさんではおれん事態に立ち至った。もういちどいうが、疑うな、秦剛三郎は警視庁警部だ」
干兵衛は、しかし、さっき警視庁の門前で秦がそう名乗ったとき、まわりのポリスたちがあっけにとられたような顔をして見守ったことを思い出した。警視庁の巡査でさえ、この男を――この男の正体を、いままで知らなかったのだ。
実に、柿ノ木義康が三島県令の私兵であったことを知った以上の衝撃事であった。この自由党員中、最も激越な――干兵衛が見ただけでも、激越を超えて頭がおかしいのではないかと思われたこの男が、警視庁の密偵であったとは?
干兵衛は、世の自由党員のすべてが警視庁の密偵から成り立っているのではないかと思うほどの、奇怪な妄想にとらえられた。
「おれは、お前がおれのことを知っておる以上に、お前のことを知っておるつもりでおった。じゃから、かえってお前はいままで助かったといってよいくらいじゃ。お前は、自由党をひいきにしてはおるが、自由党員ではない。一介の町の馬車屋に過ぎん。……と、見ておった。しかし、おれの考えておった以上に、お前はいろいろなことを知っておるようじゃ」
深沈と、秦はいった。
「柿ノ木義康が、三島県令の配下じゃと? 自由党のことに関しては知りつくしておると思っておるおれも、これは驚いた。もういちど訊きたい。その件について話せ、よいか?」
干兵衛はなお黙っていた。口もきけなかったのだ。
「ははあ、おれという人間が信じられんか。……あるいは、それも無理はない。自由党員としての秦剛三郎はまるできちがい犬じゃからの」
秦は苦笑した。
「あれは、仮装舞踏会じゃ。お前もうすうす気づいておろうが、自由党の中には警視庁の探偵がずいぶん混っておる。それは自由党のほうでもよう知っとる。じゃから、なまじな化けようでは、たちまち仮面《めん》をひっぺがされる。あれでも、思案のあげくの手じゃ。……おれは、警視庁の密偵を見つけ出すためといって、強盗までやらせた。――」
「強盗どころではない。――あんたは、その警視庁の密偵を殺した!」
干兵衛は、やっとうめき出した。
「手を下したのは柿ノ木という人だが、あんたもまちがいなく協力者だった。――警視庁の密偵を殺害する警視庁の密偵があるか?」
「お前は、どのことをいっておるのか?」
秦はちょっと首をかしげた。干兵衛は、相手がとぼけようとしているのかと思ったが、実は秦剛三郎は、いくつかの記憶をまさぐっていたのである。
「ああ、お前に築地の埋立地に埋めさせた服部のことか。あれはまさに巡査じゃった。しかし、あのときお前もその告白は聞いたろう。服部は変心し、ほんとうの自由党員になりかかっておった。すなわち警視庁の密偵として、落伍者であり、裏切者であり、危険人物じゃ。――だから、制裁した」
「あ。……」
「おれはあれが巡査であることは知っておったが、向うはおれを知らぬ。自由党に潜入しておる密偵で、おれが警部であることを知っておる者はほとんどない。しかし、おれは警視庁の警部として、任務に背いた巡査を処置したのじゃ」
脳天をたたかれたような思いになりながら、干兵衛はまたべつのことを思い出した。
「のみならず……あんたは……爆裂弾まで手にいれて……赤井さんに渡そうとしたじゃないか。赤井さんがあれを使ったら、どうなると思う? 自由党に爆裂弾の世話までする警部があるか?」
「赤井らは、爆裂弾がなくても延遼館を襲撃するはずじゃった。しかも、どれほどの人数、どんな手段で来るかわからん。……それをやめさせるには、その女房や妹を逮捕して、それを餌《えさ》に赤井の自首を待つのが、いちばん賢明ではないか? すなわち、あの火薬は、赤井らの蛮行を防ぐ天来の妙薬であったのじゃ」
干兵衛は、眼をかっとむいたままだ。彼は、はじめて眉輪と麻子と、爆裂弾をいれた行李を運ぶ途中、巡査の臨検にひっかかったのは、偶然ではなくてこの秦剛三郎の周到な網にひっかかったのだ、ということを知った。
なんとまあ、その謀略の張本人を黙秘するために、眉輪たちが警視庁で拷問まで受けたとは!「そ、そんなことが通るのか。目的はともあれ、警部ともあろう者が……いや、たとえ警部であろうと警視総監であろうと、咎めなくてすむか。無罪ですむのか!」
「それが、すむのじゃ」
秦は、声をたてずに笑った。
「お前は知るまいが、刑法第百二十六条というものがあって、その条文は――内乱ノ予備又ハ陰謀ヲ為スト雖モ未ダ其事《そのこと》ヲ行ワザル前ニ於テ官ニ自首シタル者ハ本刑ヲ免ジ六月以上三年以下ノ監視ニ付ス、というのじゃ。内乱の陰謀に関係しても、事前に自首すれば無罪または無罪同然となる、ということで、密偵となった警察官が何をやろうと、すべてこの百二十六条が適用される。……心配するな」
干兵衛は、しばらく口をあけたままであった。――いうまでもなく彼は脳裡に、いつかの晩香先生の言葉を思い出している。
「事前の自首」すなわち「密告」が、国事犯的大罪に限ってなぜ無罪にまでなるのか――と、晩香先生も首をひねっていたが、いま彼はそのわけを知った。
その条項は、政府にとっての「敵」を手なずける導入口であると同時に、政府密偵の逃げ口であったのだ。むしろ真の目的は、後者にあったのではないか。「六月以上三年以下ノ監視」といっても、対象者が警察官なら有名無実といっていい。
「いや、こんなことをお前にしゃべってもしようがない。さあ、おれがその筋の人間だということがこれでわかったら、柿ノ木義康についての問いに答えろ」
と、秦はせき込んだ。
おそらく彼が、こんなことを他人にしゃべったのは、はじめてではなかったろうか。それまでたまっていた告白欲を、ここではからずも排泄したものと思われる。
この欲求不満を解消させると同時に、逆に彼は自分のおしゃべりに悔いをとり戻したのかも知れない。――その顔は、元の秦剛三郎に返ったように凶悪であった。
干兵衛の心に、ひとつの変化が起っていた。彼は、いま知った事実に驚愕したが、この相手に以前以上の侮蔑をおぼえた。また、この警視庁の密偵が柿ノ木義康の正体を知らなかったということにも、それなりの怖ろしさとともに、滑稽感も禁じ得なかった。しかし、とにかく一つの決心に到達したのだ。
それは、警視庁に頼る、という最初の思いつきに戻ることであった。この男はいとわしいが、しかし柿ノ木義康とは別組織であったとすれば、いよいよお雛や眉輪たちを救ってもらう可能性が出て来たということではないか。――
例の盟約書についての懸念はあったが、この際、背に腹はかえられなかった。
「申しあげよう」
と、決然と干兵衛はうなずいた。
そして、千住であわただしくしゃべったことを、改めて詳しく繰返した。柿ノ木義康が三島県令と関係のあることを力説した。
「ふうむ。そうか。……」
秦はしばらく宙を見ていたが、やがてそばの警部をふり返って、
「よし、この件についてはひとまず宿題としておこう。こいつを監獄へ放り込んでおけ」
と、いった。干兵衛は仰天した。
「来い」
警部がテーブルを廻って、腰縄をとった。
干兵衛はヨロヨロと立ちあがり、テーブルに手錠をかけられた両掌を打ちつけて絶叫した。
「私が何をした?」
「屍体隠匿罪じゃ」
「私が――いつ?」
警部秦剛三郎は、また声もなく笑った。
「築地の埋立地で、お前は、柿ノ木義康に殺された男の屍骸を埋めた」
――自由党のことに関しては知りつくしていると思っていた警視庁の大スパイ、秦剛三郎が、いまいささかその自信に動揺をきたしたようだが、彼が知らなかったことはまだほかにある。松のや露八だ。
さすがの秦も、この東京の廓で名高い幇間が、いったん静岡へひっこんだものの、その地のいわゆる「岳南自由党」のひそかなシンパとなり、東京から逃げて来た自由党員鯉沼九八郎や琴田岩松をかくまい、また彼らを連れて上京して来たほど肩入れしている人間だとは知らなかった。だから、この男だけは見逃した。
「ああ、こりゃ、どうしたものかなあ。……」
その松のや露八も、しかし弱り果てていた。馬車の馭者台の上でである。
千住でこの馬車に乗るとき、彼は干兵衛に、白髪の壮士に対して警戒を促したが、彼のほうも秦の正体を看破していたわけではない。だから、この夜のいきさつについては、彼も何が何だかよくわからず、その大きな入道頭の中はただ混乱していた。――残されたのは、干潟干兵衛の馬車だけだ。
ともかくも、その馭者台に乗り、彼は師走の真夜中の東京をさまよい出した。無意識にあやつる手綱さばきだけは、さすがに元幕臣土肥庄次郎の腕であった。
足ずりせんばかりの抗弁も無益で、干潟干兵衛が三カ月の重禁錮に処せられ、未決の鍛冶橋監獄から既決の石川島監獄へ移されたのは、数日後の大晦日近いある夕方のことである。
鉄格子に囲まれた囚人護送車の中で、干兵衛はほかの十人ばかりの囚人にくらべて目立ってやつれはて、放心したように明治十六年の歳の瀬の巷の風景を眺めていた。
馬車は、京橋を過ぎ、霊岸島の通りに出て、渡し場に着くと、ここで囚人たちは船に乗せられて、潮の匂いのする大川を渡る。そこはもはや二丁目のない地獄の一丁目と呼ばれる石川島監獄であった。
釈放になるのは、来年三月二十八日のことになるという。――
それまで、お雛たちはどうなるのか。それから、そもそも自分の馬車や老馬の玄武、青龍はどうなってしまったのか?
[#改ページ]
明治叛臣伝
一
石川島監獄は、寛政年間、当時の火付盗賊|改《あらため》、長谷川平蔵が創設した石川島人足寄場の後身である。
いうまでもなく隅田川の河口にある島で、四辺は水に囲まれ、よほど遠泳の特殊能力でもなければ、容易に対岸に逃げられるものではない。時折役人や囚人を渡す船の船着場は、むろん当局の取締り下にある。監獄のまわりは土手と煉瓦塀で、要所要所には四面|硝子《ガラス》の監視台が置いてあった。
一般の犯罪者を収容する市ヶ谷監獄に対して、ここには主として政治犯を送ったが、干兵衛はこの石川島へ放り込まれたのである。
監獄は、中央正面に看守|押丁《おうてい》の見張所があり、東西に羽翼をのばしたように廊下がのびて、廊下を挾んで監房がズラリと並んでいる。
ここにいれられた重禁獄、重禁錮の囚人は、懲役刑とはちがい、本来なら労役はないはずだが、しかし現実には労役に狩り出された。とにかく入獄者に徒食はさせないというのが、明治監獄の、法以上の、最低の鉄則であった。
やがて、年は越えた。干兵衛はこれまで四十余年の星霜に――とくに瓦解の年以来、つらい、苦しい正月を送ったことが何度かあったが、これほど悪夢を見ているような新年を迎えたのははじめてであった。
だいいち、自分がなぜ監獄に投げ込まれたのか、どうしても納得出来ない。
柿ノ木義康が三島の部下であることを警察に告げることがとりひきの材料になると考えたが、どうやらそれが逆の目に出たとしか思われない。名目は何であれ、警察はさしあたってそれが公表されることを防ごうとしたのではないか。――考えてみれば当然のことであり、溺れる者は藁をもつかむ心理状態にあったとはいえ、自分の甘さに頭を打ちたたかずにはいられない。
それにしても、あの自由党員中、最も矯激な煽動家と見えた秦剛三郎が、警視庁の密偵であったとは!
干兵衛は、改めて明治警察の怖ろしさに心肝の冷えるのをおぼえた。刑期は三カ月ということになっているが、果して三カ月たったら釈放されるのか、それさえ信用出来ないような気がした。
その三カ月も――いや、一日一日が、干兵衛にとって永劫の苦しみに感じられた。
彼は毎日、柿色の獄衣を着て、労役に出た。
囚人たちの労役は、縄細工、皮細工、竹笠編み、草履編み、瓦焼きに桶作り、炭団《たどん》作りに菜種の油しぼり、米搗きに水汲みなど、旧幕時代とそれほど内容は変らなかった。
食物は、麦飯に、朝夕は薄い味噌汁に一つまみの漬物、昼だけは、腐ったような塩魚がつく代り、漬物も汁もない。
干兵衛の仕事は水汲みであった。
石川島監獄で使う水は、獄内にある井戸から汲みあげるのだが、その井戸に滑車などはとりつけてなく、ただ井戸の上に張り渡した板の上に立って、桶を下ろして縄でたぐりあげ、そばに置かれたいくつかの大桶に移す作業だ。水を満たされた大桶は、別の囚人たちによって、所要の場所へ順番に運ばれてゆく。
いうまでもなくこれは、易しそうで難しい重労働であった。しかも、ちょうど寒中の水仕事だ。
一カ月もたたないうちに、干兵衛の頬は削《そ》いだようになった。しかし、それは、この苦役のせいではなかった。彼をさいなむ心痛と焦躁のためであった。
お雛はどうしたろう?
眉輪と麻子はどうなったろう?
「――お雛! お雛!」
彼は、監房の夜、うなされて何度も怖ろしいさけびをあげた。夢ばかりではなく、井戸の上で水を汲みながらも、鉛色の空を仰いで、うわごとみたいな同じしゃがれ声を洩らした。
それからまた、限られた行動の区域内を、憑《つ》かれた獣のようにウロウロ歩きまわることもあった。それはここから飛び立つ羽根を見つけ出すためであった。
この石川島監獄には、赤井景韶もいるはずだ、と考えたこともある。考えたのみならず、彼は赤井の姿を探し求めた。あの男に事実を告げれば、何か思い切った法を教えてくれるかも知れぬ。――
しかし、重禁獄九年の赤井は、その監房も労役場もまったく別と見えて、どこにも見当らなかった。また、同様の運命におちいっている河野広中たちや、自分といっしょにはいったはずの鯉沼九八郎や琴田岩松の姿も見えなかった。
――赤井さん、聞いてくれ! あんたの内儀と妹は、柿ノ木義康のために三島屋敷にさらわれておるのだぞ!
干兵衛は、なんどか、あらんかぎりの声でさけび出そうとした。
その機先を制し、いつもその袖をひいて彼ののどを封じたのは、同じ監房にいれられ、水汲みもいっしょにやっている原|胤昭《たねあき》という囚人であった。
「干兵衛さん、およしなさい。……がまんしなさい」
まだ三十過ぎたばかりだが、病みあがりらしく痩せ衰えてはいるけれど、実に高潔な容貌を持った男であった。それはその男の内部から照り透《とお》って来る印象であった。
この囚人が、なんと「天福六家選」という、福島事件でここに入獄した六人の自由党員を礼讃した錦絵の版元だということを知って、干兵衛は、これは妙な縁だと思ったが、それより意外なのは、この原胤昭が、もとは江戸の町奉行所の与力だったということであった。
その絵は、ほんとうは「東京名所図」などで有名な版画家小林|清親《きよちか》が描いたのだが、それをかばい、絵を描いたのも自分だといい張って、すすんでこの石川島監獄へ放り込まれた男であったのだ。
実は、干兵衛がはいる前に、この石川島には腸チフスがはやって、原はそれにかかり、九死に一生を得たばかりであったのだ。彼はのちにその牢獄の惨状を伝える。
「四角な材木で取り囲んだ寒風吹きさらしの石川島の監獄に、百人二百人とひとかたまりで打ち込まれている。囚人はからだとからだをすりつけて、僅かに凍死を免れるという有様。私は獄中で、今でいうチブスにかかって、屍体室へ放り込まれ、気がついて見ると死人と一緒に積みあげられているという次第なのです。そりゃひどいものでした」
――この原胤昭は、このときの石川島の体験から、一生を司法保護に捧げたクリスチャンとなる。
その男が、必死にとめてくれたのである。
「いま、妙なことをやると、あんたは永遠にここから出られない。――」
むろん、干兵衛の素性を聞いてのことだ。
この相牢者がいなかったら、干潟干兵衛は何をやり出したかわからない。――それほど彼の苦しみは甚しかった。
島の凍《い》てつく大地に生爪を立てて、一日一日を刻むような冬が過ぎて――海から吹く風に、心なしか春の匂いが感じられるようになった。やっと三月がやって来たのである。
この月末までには、干兵衛は釈放されることになるはずだ。――
しかし、間に合わなかった。破局は、その月のうちに来たのである。
二
三月二十三日の昼過ぎであった。
千住の「福島県・栃木県庁東京出張所」の門に、白髪の男が立った。
「柿ノ木義康氏はおられるか。自由党の秦剛三郎がちょっとお目にかかりたいと伝えてもらいたい」
そこにいた帝政党の壮士たちは、しばし唖然として見まもっているばかりであった。
世間には一般に知られていない「出張所」だが、しかし自由党ならもう知っているだろう。この東京におけるアンチ自由党の一牙城を知らないはずがない。
騒然としかかった男たちに、
「とにかく、とりつげ!」
と、傲然として秦はわめいた。
さいわいなことに、帝政党の中に、この訪問者が自由党の名物男で、同じく自由党の幹部に化けている柿ノ木とよく行を共にしていたことを知っていた者があって、
「待て、報告して来る」
と、混乱した顔で奥へ走り去った。
すぐに彼は駈け戻って来て、
「お通りなさい」
と、しかしなお吹っ切れぬ表情でいった。
白髪の壮士は、一同を見てニヤリと笑い、肩をそびやかして屋敷にはいって来た。
――やがて彼は、奥の一室で柿ノ木義康と向い合った。しばらく二人は、一語も発せず、しげしげとおたがいの顔を眺めていた。――まるで、はじめて逢う人間のように。
まさしく彼らは、いままで知っている相手とは別の男として相まみえていたのである。
柿ノ木義康は着物と袴姿であったが、その銅面のような無表情は変らない。その数分間の沈黙にたえかねて、最初に口を切ったのは秦のほうであった。
「いや、驚いた。あんたの本拠がここだったとは」
「おれは、貴公がうすうす嗅ぎつけておると思っておった」
と、はじめて柿ノ木は薄く笑った。
「おれのほうは、貴公がどうも警視庁の密偵くさい、と感づいておったよ。もっとも、こちらも、確信はなかった。貴公、警視庁の探偵にまちがいはないじゃろ?」
「その通りじゃ」
秦は大きくうなずいたが、
「しかし、柿ノ木さん、それを感づきながら、なぜいままで知らぬ顔をしておった?」
「知った顔をすれば、第一にこっちの正体もばれる。第二に、自由党にばれる。――素性の点で、二人がまったく無関係の人間に見えることが、何より有効な隠蔽策になる、と判断したからじゃ」
それはまさにその通りであった。およそスパイとは最も縁遠いタイプを作りあげた二人だが、少なくとも一方が他の一方の素性を知らなかったことが、最大のカモフラージュになったことは疑いない。
「それにしても貴公」
と、柿ノ木はふしぎそうな顔をした。
「その白髪で……警視庁の巡査でおぬしを知っておる者はなかったのか? その点が、わしに断定をためらわせた原因の一つじゃが。……」
「わしは長州萩警察の警部じゃ。特令をもって東京に呼ばれてから、もう五、六年にもなるか。萩の、前原一党の探索で腕を認められたものと思うが、あちらでさえおれが警察の者だと知っておる者はほとんどない。まして東京においてをや。御存知なのは、内務卿と警視総監と……あと、二、三の幹部だけじゃろう」
秦は深沈といった。
「それより、柿ノ木さん、あんたこそつくづくと怪物じゃな。……実は、暮からきょうまで、改めてあんたのことを念入りに調べておった。その結果、あんたが土佐の人斬り以蔵の弟であることはまちがいなし、いちどは土佐隊の隊長として会津攻撃に参加したこともまちがいなし、その後中江兆民の弟子となり、その世話でしばらくフランスヘいっておったこともまちがいなし、と判明した。――」
「……ウイ」
と柿ノ木は髯の下で白い歯を見せた。
「その徹頭徹尾土佐人のあんたが、なぜ反自由党の巨魁三島県令の腹心となったのか?」
「自由党の主流は土佐人だからよ」
「さ、だから怪物だといっておる。土佐人のあんたが、なぜ?」
「兄はなあ、あれだけ土佐勤皇派のために犬馬の労をつくして、いったん用済みになると、土佐につれ戻されて、畜生みたいに始末された。――」
土佐の岡田以蔵は、幕末における三大暗殺者の一人といわれた。足軽上りのくせに、人を大根のように斬り、しかもその殺戮ぶりの残忍さで戦慄させた男だ。
「そして、一家の者もまた、まるで血を好む悪獣の一族のように嫌悪され、さげすまれた。――へそ曲りの兆民先生が拾ってくれなかったら――そのころ岡田|緒蔵《おぞう》といった少年のおれは、どうなったかわからん」
秦は心中に、これはまさに血を好む悪獣の一族にちがいない、と、自分のことは棚にあげて考えている。
「おれにとって、土佐人は怨敵だ。――こういっても、おれ以外の人間にはわかるまいが」
柿ノ木の眼の青い燐光を見て、秦は心中を見ぬかれたように感じてややあわて、一息ののち、からくも応対の言葉を見つけた風で、
「いや、それで腑に落ちた。……ところで、そんなあんたを、兆民先生は御承知かね?」
「まさか。……とはいえ、大将、のちにおれを破門したところから見ると、何かキナ臭い匂いを嗅ぎつけたのかも知れん。フ、フ、フ」
柿ノ木義康は、唇の両はしを吊りあげて笑った。
これらの対話は、昂奮した息づかいもなく交わされた。特に、声だけ聞いていたら、一方の相手が秦剛三郎とは想像もつかなかったろう。――さっき秦は柿ノ木を怪物といったが、ひとのことはいえない。これはまさに二匹の怪物の問答であった。
「それで秦。――何の用で来たか」
いちど、ちらと左に置いた洋杖に眼をやってから、冷然と柿ノ木義康は相手を見た。
「おれを縛りに来たか。警視庁なら、おれを縛ってもおかしくはないが。――」
「ふむ、縛るつもりなら、三島県令も縛れるな。福島栃木の県令の行為としては、ちとやり過ぎのようにも思う」
「いや、おれの行為はおれの独断専行じゃが――しかし――」
柿ノ木の左手が、そろっと杖に動いた。
「待て、それは待て」
はじめて秦は狼狽した声をあげた。
「そのつもりなら、おれはここへ来ぬ。わざわざ、あんたに殺されには来ぬ」
「じゃから――何しに来たか、といっておる」
「三島県令が明後日《あさって》御上京になるそうじゃの」
「左様。それが、どうした」
「先日、内務卿から聞いたところによると、三島閣下は来年にも警視総監御発令のことになるらしい」
柿ノ木は、当然事のごとく秦を眺めている。
「そのとき承ったことじゃが、三島総監は、かつての初代川路大警視にまさるとも劣らぬ適材適所じゃということじゃ。……さもあらん」
秦のささやきはいよいよからむようになり、また眼に、明らかに卑屈な光が浮かんでいた。
「そこで、三島県令御上京の節……おれを特別に御引見願えまいか? いまのうちに顔を通じておきたいのじゃ。柿ノ木さん、これまでのよしみにどうじゃ?」
将来の布石の露骨な依頼であった。――この男が、きょうここへ来た理由は、このことにあったようだ。
「……悪縁じゃなあ」
柿ノ木が苦笑したとき、どこかで、
「母《かか》さま! 母《かか》さま!」
という女の子の声がした。
「おねえちゃん出して! おねえちゃん出して!」
秦が立っていって、庭向きの障子を細目にあけるのを、柿ノ木はとめもしなかった。
すると、もうチラホラ春の花の咲いた中庭を隔て、向うの縁側をトコトコと走ってゆく女の子の姿がちらっと見えて、消えた。だれかを追っていったようである。
「例の馬車屋の子じゃな」
と、秦はいい、首をかしげて、
「あの子が母親と呼ぶのは、だれじゃね。まさか、赤井の女房や妹じゃあるまい?」
と、いった。
自分の正体をあばかれても平然としていた柿ノ木が、このときはじめて妙な顔をした。
「貴公……ここにあの子や、赤井の女房や妹がつかまっておることを知っておるのか?」
「知っとる。それを聞いたからここへ来たんじゃ」
「だれから聞いた」
「あの馬車屋から。――あんたが三島県令の家来じゃっちゅうことを教えてくれたのもあの男じ ゃ」
これは柿ノ木にとって意外事であったらしい。彼はいままで秦が自分の正体を嗅ぎつけたのは、まったく別の筋からと考えていたようだ。
「あの馬車屋はいまどこにおる?」
と、ややせきこんで訊いた。
「石川島監獄に」
と、秦はニヤリとして答えた。
そして、旧臘、鯉沼九八郎、琴田岩松ら自由党員といっしょにその馬車屋を一網打尽にしたいきさつを語った。これに対して柿ノ木は、前の両人についての情報は自由党を通じて知っていたが、馬車屋までとらえられて石川島へ送られたことは知らなかったようだ。
「きゃつは、ここにつかまっとる女たちを救ってもらいたくて、あんたのことを訴えた。一応屍体隠匿罪で石川島へ放り込んでおいたが……礼をいってもらいたい」
「きゃつが!」
「あいつ、妙に自由党をひいきにするやつだが、しかし自由党ではない。ともかく三カ月の重禁錮としたが、それが精一杯のところじゃ。しかし、これでもう自由党にからむことには懲りたろう」
「そやつは、いつ出て来る?」
「この月の末ごろのはずじゃ。あと一週間以内。――」
秦は、柿ノ木を見た。
「それで、柿ノ木さん、赤井の女房と妹はいまどうしておる?」
「蔵の中にいれておる」
「蔵?」
「この屋敷は、昔、物持ちの寮じゃったということじゃが、実はきちがいの息子がおってな。それを入れておくための蔵じゃったそうな。それで、一応、人が住めるようになっておったのが幸い。――」
「それにしても、暮からいままでか?」
秦はたたみかけた。
「例の盟約書はどうした?」
柿ノ木義康はしばらく返答しなかった。幽霊が持っていってしまった、ということを説明する気にはなれなかったのだ。
「出すに出せぬ、と実は処置を考えあぐねておったのじゃが。……」
と、うめくように独語した。これは本音であった。
「その馬車屋が、牢から出て来るという。さて、あの女たち、どうしたものか?」
「それは、ただでは出せぬな。馬車屋に逢わせることはもとより……自由党本部にでも連絡されたら、峰の巣をつついたような騒ぎになるぞ。天下に公にされると、貴公のことはむろん、三島閣下の御昇進にもさわりが出て来るだろう」
と、秦剛三郎がいった。
「ただ一つ、法がある」
「なんじゃ」
「その女どもを出しても、しゃべらぬようにしてやることじゃ」
「――殺せ、というのか?」
「まさか、あれほどの美人を二人、そんな無慚な」
「では、どうする?」
「犯す」
柿ノ木は、相手の顔がもとの凶暴な秦剛三郎に戻っているのを見た。
「あれを犯して……あと、黙るか?」
「女をこちらの意志のままにするには、ほかに法はない。しかも、ただ姦するばかりではない。一日一夜で……いや、三日三晩でもいい、その間、ありとあらゆる醜行を強制し、獣以下に変えてしまう。それで、女は黙る。……黙るどころか、うまくゆくと、爾後あれもこちらの密偵に仕立てあげることさえ出来るかも知れん。わしにはその自信があるが、柿ノ木さんはどうじゃね?」
柿ノ木義康は眼を宙にあげていた。遠い何かを思い出すように。――
「眉輪か、麻子か、あんたどっちをとる? 一つは芍薬、一つは山百合、どっちもええが……どっちでもええなら……わしに麻子のほうをまかせてもらいたいんじゃが……あれは、処女じゃぞ!」
秦は、舌なめずりしていった。ひょっとしたら、きょう秦がここへ来たのは、次代の警視総監に|いんぎん《ヽヽヽヽ》を通じるためばかりではなく、このことを思いついたせいかも知れない。
眼まで赤く血ばしって、
「承知か、承知なら、柿ノ木さん、手を出せ」
柿ノ木義康は、ゆっくりと手を出した。
二人は黒い縄のように握手した。
三
春の庭を横切る渡り廊下を、手鞠《てまり》みたいに小さな影が飛んでいったと思うと、
「はいっちゃ、だめ!」
と、蔵の入口で両手をひろげた。
そこへ、|もののけ《ヽヽヽヽ》のように近づきかけていた二人は立ちどまり、
「なぜじゃ?」
と、秦が訊いた。
「おまえ、わるいひとだから!」
「図星じゃ。一言もないのう」
柿ノ木義康はニンマリとした。
「しかし、どこで見ておったのか。――」
「うるさい、どけ」
秦剛三郎はお雛を抱いて、横へ移そうとした。と、蔵の土戸に背をあてたまま、少女は空をむいて何かさけびかけた。
「おっとっとっと!」
柿ノ木はひどく狼狽して、駈け寄ろうとした。
「母《かか》さま! 母《かか》さま! きて!」
柿ノ木は硬直した。幽霊を知らない秦は、けげんな顔で柿ノ木のほうを見やったが、ついでその眼を動かして、渡り廊下の向う――母屋《おもや》のほうに立っている女を眺めた。その眼つきで、柿ノ木もふり返り、
「おう。呼んだのはあっちか」
と、吐息をついた。
「母《かか》さま、このひとたち、とめて!」
お雛はさけんだ。
「ねえちゃんたち出して! ね! ね!」
女は歩いて来た。
「あなたたち、何をしているのです」
柿ノ本義康はしばらく答えず、何か考えていたが、やがてお辞儀していった。
「これはやはりお龍さまにお願いせねばならぬ。ちょっとお耳を拝借」
そして、お雛のほうに眼をやりながら、お龍の耳にささやいた。
「蔵の中の女ども二人に、どうしても埒《らち》明けねばならぬことが出来《しゆつたい》しました。詳しいことはのちほど申しあげるとして、てっとり早く申せば、いま牢におる男が出て来るのです。出れば、ここに押しかけて来るは必定。その男に、あの女たちがしゃべっては面倒なことに相成る」
「………」
「その男とは、あなたの舅《しゆうと》――いや、舅だった男で」
「………」
「つまり、あのお雛……さまの祖父《じじ》、例の元会津侍の馬車屋でござるが」
美しい能面のようなお龍の表情に、やや動きがあった。
「埒明けるとは?」
「いや、殺しはしませぬ。ただ、いらざることをしゃべらぬようにまじないをかけるのですな。それで、あのお雛さまをしばらくここから離して、あやしておって下さるまいか」
「そんな用なら、あなたがたがどこかへ連れていったらいいでしょう」
「それが出来ないので」
「なぜ?」
「あの小娘……いや、お雛さまが例のものを呼びなさるおそれがあるので。いまもそれを呼ばれたかと思って、ヒヤリといたしました」
お雛の呼ぶ亡霊のことだ。さしもの柿ノ木義康も、あれにだけは辟易しているらしい。
お龍は何かまた問いかけようとしたが、つぶらな眼で不安そうにこちらをじっと見ているお雛に、これ以上のささやきを危険に感じたらしい。
「おいで、お雛」
と、呼んだ。
「わたしとあちらで、鞠でもつきましょう」
お雛の黒い眼が、ぱっとかがやいた。
「まりつき?」
「ええ」
「お母《かか》さまがあたいとあそんでくれる?」
「ええ」
お雛は、蔵の戸から身を離して飛んで来た。
お雛はむろん二人の問答を聞いてはいなかった。それに彼女は、明けてまだ数え年八つであった。
花のような笑顔で走って来た娘を、抱いてやりもせず、お龍は背を見せて、先に母屋のほうへ歩き出した。まつわるようにお雛はそのあとをついてゆく。
「おい、あれはだれじゃ」
と、秦が訊いた。
「怖ろしいほどの美女ではないか」
「……ふむ、まさに怖ろしき美女だ」
と、柿ノ木義康はうなずいた。
「あれは三島閣下の御側妾。――福島も栃木もあぶないので、一年ほど前からここに置かれておるのじゃが」
「ほう。……」
秦は首をひねった。
「あの馬車屋の子が、母さまと呼んでおったが」
「その通りらしい。つまり馬車屋の倅が、昔生ませた子供らしい」
「なんだと? あの子をさらったのはあんただが、それを承知でさらったのか」
「知らなんだ。まったくの偶然じゃ。さらったあとで知って、おれも驚いたのだ。奇縁じゃな。その倅が。……」
「どうした。どこにおる?」
「あの世の人間じゃ」
「なんだ、死んだのか。それにしても、あの小娘が三島県令の御側妾の子であったとは、こりゃ参ったな。どうしておる?」
「どういう心境かな。あの女性の心事はわしにもわからんことだらけじゃが、とにかく情《つれ》ない。どうやらあの子を生ませた男が気にくわないらしい。従って、あの子が出て来ても、ほとんど興味がないように見える。むしろ迷惑がり、嫌悪しておるように見える」
「ふうむ。……何しろいまは、泣く子も黙る三島県令の御側妾とあってはな」
「娘のほうは、まだ見ぬ母を、子供ごころに慕っておったらしい。それが現われたので、母《かか》さま母《かか》さまと追って歩いておるが、おふくろさまのほうはとんと無情じゃ」
柿ノ木は、ふっと耳をすませた。
母屋の縁側のほうで、少女の唄声が聞え出した。
「雛一丁おくれ
どの雛めつけた
この雛めつけた
いくらにまけた
三両にまけた。……」
柿ノ木は微笑した。
「珍しい。……さて、やるとするか。――」
二人は、土戸の錠をはずして、中にはいった。
母屋の縁で、お龍とお雛は鞠をついていた。唄を教えるのは、お雛だ。
「いくらにまけた
三両にまけた
なんで飯《まんま》くわす
赤の飯《まんま》くわしょ。……」
お龍の手から鞠がすべって、縁側を転がっていったのを、お雛は小犬みたいに駈けていって拾った。いくら母《かか》さま母さまと呼んでも、なぜかそらぞらしく、眉輪や麻子を蔵から出してくれと頼んでも一向聞いてくれない母に、さすがにこのごろは――これ、あたいの母さまかしら? と、変に思いかけていたところに、突然遊んであげるといわれて、お雛は有頂天になっていた。
庭の草は青ばみ、ゆらゆらと陽炎《かげろう》がたちのぼっている。もう散った梅の古木で、鶯はまだ美しいさえずりをつづけている。
無心に鞠をつくお雛は、鞠の妖精のようであったのに、ふいにその手から鞠がはずれて、また縁を転がっていった。それを、追いもせず、
「あ?」
と、お雛は空を見た。
「いま、おねえちゃんの声、きこえなかった?」
お龍も、その声を聞いた。土戸をしめれば、大の男がどんな声をあげても、外に聞えるはずのない土蔵の中から、たしかに女のさけび声が空を流れていったのを聞いたのだ。
あの男たちは、埒を明けるといった。いらざることをしゃべらぬように、まじないをかけるといった。――それがどんなことか、彼女は知らない。故意に聞かなかったところもある。お龍は無情な女であった。
「いいえ、何も」
と、彼女はいった。
そして、自分で鞠を拾って来て、自分で歌いながらつき出した。
「赤い飯《まんま》くわしょ
魚をやるか
鯛魚《たいとと》くわしょ
小骨がたったら
かんでくわしょ。……」
――土戸があいたのは、三十分もたってからのことであったろうか。
柿ノ木義康と秦剛三郎が出て来た。二、三歩出て、柿ノ木ほどの男が、足をフラリとよろめかせたし、秦は土戸に錠を下ろして、その下にベタリと坐ってしまった。二人とも、深呼吸をしている。
秦の白髪の乱れようはもとより、手入れのいい柿ノ木の顔のあちこちに、擦り傷掻き傷らしいものがあって、そこから血がにじみ、衣服は裂け――それより、この二人が、これほど凄惨といっていい顔色になっていたことも稀だろう。
十分ばかりそうしていて、
「やるもんじゃのう。……」
と秦が唇をゆがめて苦笑した。
「しかし、面白かった。これほどの快楽は、近来久しぶりじゃ」
と、柿ノ木がうっとりとつぶやいた。そして、
「さて、もういちど。……これからが勝負じゃて」
と、起ちあがった。
「よし、こんどはあれをやらせてやる。もう唯々諾々《いいだくだく》ときくじゃろう。……」
秦は舌なめずりして、また土戸をあけにかかった。二人は、はいった。
――母屋の縁側のその場所は、土蔵の入口の見えない位置にあった。そこで鞠をついていたお龍は、お雛がそこに棒立ちになったまま、土蔵のある方角へじっと顔をむけているのを見た。
ふいにお雛はさけんだ。
「――ねえちゃんが死んだ!」
お龍は、水を浴びたように立ちすくんだ。
「そ、そんな。……」
彼女は、柿ノ木と秦が何をしたか知らなかった。ただ、殺すようなことはしない、という言葉はそのまま受け取っていた。――だいいち、ここから土蔵の中のことがわかるわけはないではないか?
そのため、かえって、いまのお雛の声にぞっとして、そのお雛がふいに蔵のほうへ駈け出そうとするのを、
「いけません! いらっしゃい!」
と、彼女は抱きかかえ、その反対のほうへ歩いていった。鞠は庭に転がっていた。
――土戸がまたひらいて、柿ノ木義康と秦剛三郎がまろび出て来た。再度蔵にはいった彼らは、そこに半裸の眉輪と麻子が舌をかみ切って、血まみれの白蛇のように抱き合って絶命しているのを発見したのだ。
虚脱したように顔見合せた二人の耳に、遠くから幼女の声が流れて来た。
「――おねえちゃんが死んだ!」
四
二日後の三月二十五日、三島通庸は栃木から上京して来た。
去年十月、新しく栃木県令に任命されたとき以来の上京である。
彼は栃木県に着任すると、またもや例によって大土木工事を起そうとしていた。奥羽街道や塩原道を作りにかかったのだが、これがまた彼らしいやりかただ。予算の関係から事務当局は、旧来からの街道の改修案を出したのを、彼は、そんなつくろい程度では、のちにまた改修改修と無用の費《ついえ》がかかるだけだ。たとえいまは難事であっても全然新しい道路を作ったほうが結局有利だといって、その方針を立てさせたのである。つまり現代でいえば、小規模にまず二車線の道を作るより、はじめから四車線の道を作らせるようなもので、これもまた一見識にはちがいない。
しかし、それが簡単に出来るようなら苦労はないのだから、この問題について中央当局と折衝のため彼は上京して来たのである。
県庁の役人らとともに十余台の人力俥をつらね、帝政党員らに護られての入京であった。千住の屋敷からも、千住大橋まで出迎えに出た。
栃木から千住まで約二十里の道程だ。栃木を立ったのは前日の朝だということであったが、東京に着いたのはもうその日の夕暮であった。
「おや?」
県令を護って、屋敷のほうへ廻りかけた出迎えの連中のうち、柿ノ木義康と秦剛三郎がぎょっとしたように往来の向うを見た。
遠い町の一角に、二頭立ての馬車が停っている。――
「あ、あ、あいつだ!」
秦剛三郎がさけんだ。彼が駈け出すのにつづいて、柿ノ木もそれを追った。
馬はこちらを向いていた。馭者は饅頭笠をかぶった男であったが、あわてて馬車を廻そうとし、猛然と駈け寄って来る二人に間に合わぬと狼狽し、馭者台から飛び下り、一目散に向うへ逃げていった。
「きゃつか? あれが牢から出て来たのではないか?」
と、柿ノ木が息を切らして訊いた。
「ちがう。――きゃつはまだ牢にいるはずだ。それに、あいつは大男だった。――」
秦は、ふいに手を打ち合せた。
「おう、今のはたしか松のや露八だ。……」
それではじめて彼は、干潟干兵衛をつかまえた夜、松のや露八だけは見逃したことを思い出し た。
してみると、あれ以後、露八がその馬車を動かしているらしい。町で見かけたのはこんどがはじめてだが、きゃつ、それで商売をやっているのか、それとも何か目的あってこちらを探りに来たのか?
馬車をのぞいて見たが、中は無人であった。
「とにかく、没収しておけ。処置はあとだ」
と、秦がいった。
二人は馬のくつわをとって馬車を歩かせ、三島たちのあとを追って屋敷に戻った。そして、門の内側に停め、立木に馬をつないだ。
「あ……げんぶ! せいりゅう!」
透き通るような声とともに、玄関のほうから、女の子が駈けて来た。いちど転んだが、すぐに起きあがって、馬に飛びつき、
「祖父《じじ》は?」
と、ウロウロあたりを見まわし、また、
「祖父《じじ》はどこ?」
とさけんだ。
玄関をはいりかけた三島通庸は、いぶかしげにそれを眺めやった。
「あれはどこの子供じゃ?」
「わたしの子でございます」
と、出迎えたお龍がしずかに答えた。三島は眼をまんまるくした。彼は、暮に東京で起った事件を知らなかったのである。
「そのことについては、あとで申しあげましょう」
その夜は、無事入京の酒宴がひらかれた。
そして、その翌日、柿ノ木義康は秦剛三郎を連れて、三島の前にまかり出た。彼にしては珍しくオズオズした態度であった。
柿ノ木は、自由党に潜入して、密偵として辣腕をふるいつつある警視庁警部秦剛三郎を紹介し、さらに旧臘の事件――赤井景韶の妻と妹が例の盟約書を持っている形跡濃厚なので、ここに連行したいきさつ、それが亡霊によって持ち去られた奇怪な事実を報告した。
三島通庸は、何とも表現のしようのない顔をして聞いていた。
「幽霊が。……」
と、彼はつぶやいた。
「二人おるか?」
ふつうなら一笑に付すべき話だが、彼はまじめに考え込んだ。――笑うどころではない、彼もいちどその中の一人、女の幽霊を見たことがあるのだ。
それに三島は、昨夜のうちにお龍から、あらましのことを聞いていた。
「で、その赤井の妻と妹はどうしちょる?」
「不本意ながら……処置いたしました」
「なんじゃと?」
これはお龍からも聞いていなかったと見える。お龍も口にするに忍びなかった事実にちがいない。――柿ノ木と秦は、ここ三、四日中にもあの馬車屋が出獄することをおもんぱかり、さきおととい、二人の女に口封じの誓約をさせようとして、はからずも死に至らしめたことを告げ、かつ、その夜のうちに屍骸を邸内の一角にひそかに埋葬したことを白状した。
「それは……途方もないことを!」
さすがの三島も眼をむいた。
「じゃから、おいは……おはん、殺生好き過ぐる、というたじゃなかか。警察に知られたら、どうすッか?」
「なに、警視庁の警部も共犯でござります」
と、柿ノ木は秦をかえりみていった。彼は開き直った不敵な面だましいをとり戻していた。
「幽霊が四人になったらどげんすッか?」
三島通庸は、真剣に不安そうな声をもらした。柿ノ木義康は首をひねった。
「いや、手にかけた人間が、みんな幽霊となって出て来るなら、もっと沢山の幽霊が出てもふしぎではござらんが。……」
「あの女の子が呼ぶと、そんときだけ出て来るっちゅうのじゃな?」
と、三島は、奇態にたえぬ、といった顔をした。
「そうらしゅうござる」
「で、あれは、赤井の女房や妹が殺されたっちゅう事《こつ》を知っちょるのか?」
「見もせぬのに、ふしぎに知ったようでございます」
と、お龍がいった。
「きみのわるい子!」
そして彼女は、さきおとといのあのとき以来、お雛が一切食事をとらないことを告げた。口もきかず、身動きもせず、あの馬車が屋敷にはいって来たときだけ、さけんで、飛び出したという。それ以来、台所から、麦や糠《ぬか》や水をもらって馬にやっているが、それ以外の用では、依然口をひらかないという。
三島通庸は腕組みをし、眼をつむって思案していた。
「お龍……おはんは、あの子は自分の子とは思わん、といったな」
と、やがていった。
「会津の侍の子は、たとえ自分の子でも見とうはない、といったな」
お龍は黙って、こっくりした。
三島は眼をあけた。怖ろしい光であった。
「柿ノ木」
「は」
「その子は何もかも知っちょる。世には出せんじゃろう。ふびんじゃが……どこかへ連れ出して処置せい」
五
三島通庸はふっと眼をさました。――何か夢の底で、はろばろとした幼女の声を聞いたような気がしたのである。
置時計を見ると、午前三時だ。――そばに、前夜抱いたお龍はいない。
ひょっとしたら、いまの声は、あの小娘のものではなかったか――と、思った。あれを処置せよ、と命じたことは、いかに剛腹な彼でも、文字通り寝ざめが悪い。
しかし、今夜はあの子は、お龍といっしょに寝ているはずだ。聞くと、お雛をこの屋敷に連れて来てから、いちども抱いて寝てやったことはないという。それを昨晩、せめて今夜一夜だけでもいっしょに寝てやりたいといい出した。
その心理を、意外というべきか、さこそというべきか、不可解というべきか――三島は何とも判断がつきかねた。しかし、うなずかないわけにはゆかなかった。
ともあれ、少なくとも今夜は何もないはずだ。――何かの聞きちがいだろう、と、三島はまた眠りに落ちかけた。
「……閣下、閣下」
また障子の外で呼ぶ声がした。いちど目ざめてから、十分くらいしたろうか。
「柿ノ木か」
と、彼はまた眼をあけた。
「そこにお龍さまはおられますか」
「お龍は……子供といっしょに寝ておることは、おはんも知っちょるじゃろが」
「は。――実はそのお子さまの声を外で聞いたような気がいたし、はて? と思って、向うの御寝所にうかがい、声をかけましたが御返事なく、思案の末、あけてのぞいて見ましたところ――お龍さまもお子さまも、その姿がござりませぬ。――」
「なに?」
三島は、がばと起き直った。
「厠《かわや》ではなかか?」
「いや――ひょっとしたら――逃げられたのではありませぬか?」
「どこへ?」
「それは、わかりませぬが――とにかく、秦を外へ出して見ましたが」
柿ノ木義康は、縁側を足早に立ち去った。
――きょう、夜があけたら何をするつもりであったか、彼は例のフロックコートに洋杖《ステツキ》という姿であった。
玄関へ出ると同時に、
「来てくれ、柿ノ木さん!」
という、秦のただならぬ声が聞えた。
外は深い春の夜の靄《もや》であった。その空の一角がぼうと明るいのは、そこに月があるからだろう。
柿ノ木義康は駈けつけて、そこに突っ立っている秦剛三郎と、足もとに倒れている四人の壮士たちを発見した。今夜の門番をやっていた連中だ。
「殺されておるのか?」
「いや、息はある。気を失っておるらしいが」
秦は声をふるわせた。
「この靄のため、わからなんだ。――見ろ、馬車がない!」
ふりむいて、柿ノ木も茫然とした。二日前からそこにあった馬車は、二頭の馬もろとも、忽然と消えていた。
「お龍さまは、馬車が使えるのか?」
と、彼はつぶやき、急に首をふった。
「いや、そんなはずはない。それに、この四人まで気絶させるとは……だれか、外からやって来たやつがあるのじゃ!」
「露八じゃないか。……そういえば、あいつなかなかの腕っぷしだぞ」
と、秦がいった。
玄関には、三島をはじめ、この声高な問答を聞きつけて目ざめた壮士たちが、仕込杖を握って十数人飛び出していた。
突如、柿ノ木義康は棒立ちになっていた。
「馬車の音が聞えなかったのは、どういうわけじゃ?」
いわれて、秦も改めてぎょっとしたようだ。
柿ノ木は、たしかにこのあたりでお雛の叫び声を聞いた。それ以後、じっと耳をすませていたのだが、馬車の動き出す音はしなかった。いうまでもなく、このころの馬車は鉄輪《かなわ》だ。それが四輪あり、二頭の馬は八つの鉄蹄を持っている。――その音は、まったく聞えなかったのだ!
「ひょっとしたら。……」
柿ノ木が夜空を見たとき、
「何をしとるか。早く追え!」
と、うしろで三島通庸が叱咤した。
突風に吹かれたように、秦剛三郎が門から駈け出した。つづいて壮士たちが追い、柿ノ木もそれに押しもまれるように往来まで走り出た。
馬車の影は見えない。もっとも春の夜の町を靄は埋《うず》めている。
「逃げたとすると、どこか。――」
秦が答えた。
「巣鴨の錦織塾じゃないか」
「おいっ、錦織塾を知っとる者があるだろう」
と、柿ノ木がふり返った。数人の壮士が進み出た。暮にお雛たちを誘拐した連中であった。
「そっちに、五、六人、いってくれ」
「五、六人? あとはどうするのじゃ?」
訊く秦に、
「ひょっとしたら。……」
地を這うような声で、柿ノ木はまたうめいた。
「石川島監獄かも。――」
六
――その十数分前のことだ。芯《しん》をほそくした洋燈《ランプ》の灯影《ほかげ》に、お龍は――いや、お鳥は、じっとお雛の寝顔を見つめていた。二人は同じ夜具の中にあった。
いっしょに寝てあげよう、といえば、その数日前までなら、おそらく夢かと思う顔をしてよろこんだにちがいない娘が、口を一文字に結んで、棒のようにころがったままで、お鳥がその蒲団の中につづいてはいっても、その硬直ぶりを崩さずにいた。
――それまで、この自分の娘を「敵」だと見ていたお鳥が、やっとこれを抱いたとき、娘のほうはこの母を、完全に「敵」だと断定したらしい。
しかし、眠れば、幼女だ。眠ったまま、いつしかお鳥にしがみつき、無意識的に母の乳房さえさぐった。お鳥は卒然として、七年ばかり前の、この子が自分の乳房を吸っていたころのことを 思い出した。彼女は、みずから乳首を、さくらんぼのようなお雛の唇にあてがい、涙を流した。
お鳥が母《ヽ》になったのは、お雛を抱いたからではなかった。三島がお雛の抹殺を命じ、自分がうなずいた直後からであった。なぜ、そのとき突如として心に変化が起ったのか、自分でもわからない。
しかし、いかに自分が動揺し、哀願しても、もはや事態が動かせぬものであることは、そのときからお鳥は察していた。彼女だけは知っているが、三島は骨の髄まで鉄人ではない。あれで妙に涙もろい半面もあり、間のぬけたところもある。しかし、お雛にふたたびその祖父に逢う機会を与えることは、ただ、「やり過ぎた」配下の柿ノ木義康のみならず、三島自身の生涯の破滅となると知っての断だ、ということは承知していた。
だから、そのときは声をのんだ。――
が、いま。
もう枕もとに坐ったお鳥は、そっとお雛をゆり動かした。
「お起き。……お雛」
ぽっかりと眼をひらいた娘に、
「声をたてないで……着物を着るの」
と、ささやいた。
「ここから逃げるのです。急いで、いまのうちに逃げなくっちゃ、大変なことになるの。――」
――こうして、二人は、そっとその家から忍び出たのだ。外は春の夜靄でいっぱいであった。
「どこへにげるの?」
お雛に訊かれて、お鳥は返答につまった。彼女は、東京はおろか、日本じゅうのどこにも逃げる場所を知らなかった。
「祖父《じじ》のところへ」
と、ともかくもいった。
「祖父《じじ》はどこ?」
「……石川島というところ」
「とおいの?」
「遠いかもしれない」
「それじゃ、馬車でゆきましょう」
お雛は指さした。 靄の中に、馬車が浮かんで見える場所であった。お鳥は首をふった。
「わたしには、馬車なんか動かせない」
「じゃ、父《とと》をよぶよ。――」
お鳥は息をのんだ。
それこそは、生涯の「怨敵」の象徴であり、かつて彼女が追い払った亡霊であった。
しかし、いまお鳥は、それを制止する声が出なかった。
「父《とと》……父《とと》……きて!」
夜空に、銀鈴のようなお雛の声がながれた。――
反応は、たちまち起った。靄の中から、いくつかの跫音《あしおと》が走って来て、
「何じゃ、いまの声は?」
「たしかに、ここらで聞えたが。――」
門番の壮士たちであった。それまで母娘《おやこ》はひくいささやき声で話していたのだが、いまのさけびだけは、さすがに耳にしたと見える。
「お、あれは。――」
「お龍さまと、あの子じゃないか」
駈け寄って来た四人のうち、ふいに二人はうしろから首すじをつかむ冷たい手を感じた。
ふりむいて、眼が逢う。裂けた軍帽をかぶり、血を流した若い兵士の眼と。――その刹那に、二人の壮士は脳髄から血がひくのをおぼえて、へタヘタと崩折れた。先に進んだ二人も、異様な気配にふり返り、靄の中に立った凄まじい兵士の姿を見た。――柿ノ木義康さえ失神させたこの亡霊を、亡霊として、この二人は前に見たことがある。
棒立ちになった彼らの前に、兵士は近づき、二本の腕をまたさしのばした。それがのどぶえにふれると同時に、彼らもまた気を失って崩折れた。
「また、出て来て、相すまん。……」
干潟蔵太郎の幽霊は、申しわけなげにお鳥に頭を下げた。
「しかし、お雛の呼ぶ声がしたものじゃから……お雛、どうした?」
「祖父《じじ》のところへつれてって」
「祖父《じじ》が、どこにいる?」
「いしかわじま。……」
お鳥がいった。
「あなたの父上が、石川島監獄にいられるのです。……」
「なに、おやじが石川島監獄に? な、なぜだ?」
と、蔵太郎は驚いて訊き返したが、すぐに一刻の時間も惜しむように、
「すぐゆこう。お前、ここに乗れ」
と、控えの馭者台を指さした。
「お雛を抱いて、乗ってくれ。わけは途中で聞こう」
ようやく、この母を敵でないと知ったか、お雛はお鳥に抱かれてそこに乗った。蔵太郎も馭者台に飛び乗った。
「青龍、玄武、ゆけ!」
馬車は動き出した。二頭の馬の蹄の音も、四つの車輪のひびきもたてず。――
いかに当時から人口百万の東京でも、この時刻、めったに人通りはない。しかも、その町を海のようにひたす珍しいほどの濃い夜靄であった。稀に町へ出た人々は、東京が異次元の銀灰色の世界に変ったような気がした。そしてさらに稀に、その馬車にゆき逢った人々は――靄の中から現われ、完全無音のまま走りぬけて、また靄の中へ消えた馬車を、怪しむよりも自分が見た幻覚だと思った。
馬車は、築地の明石町に着いた。――波の音がひろがっていた。
干潟蔵太郎がここへ馬車を持って来たのは、彼がまだ生きていて福沢塾の塾生だったころ、何度かここの外国人居留地に見物に来て、ついでに対岸の石川島を眺めた記憶があったからであった。
「おやじを救い出して来る。お前たちはここで待っていてくれ」
と、蔵太郎はいった。お雛がすがりついた。
「父《とと》。……あたいもゆくよ!」
「いかん。まさか牢破りに子供を連れてゆけるか。……ほんのしばらくだ」
蔵太郎はそこでちょっと考えこみ、
「ひょっとすると追手がかかっておるかも知れんな。念のため、おふくろを呼ぼう!」
と、つぶやいて、
「母上。――来て下され!」
と、呼んだ。
数十秒後、靄の中から静かに女の影が現われた。
「祖母《ばば》! 祖母《ばば》!」
お雛がさけんだ。
この世に現われても不審げなお宵の亡霊に、蔵太郎は、道々お鳥とお雛から聞いたことや、今夜のいきさつを手短かに話した。
「では……おまえが……蔵太郎の嫁女かえ?」
蔵太郎に対してはそれほど恐怖のようすを見せないお鳥が、わずか三つか四つしかちがわないと見えるその母の――彼女にとっては姑《しゆうとめ》の亡霊に見つめられて、これにはふるえあがった。
七
天井に近い小さな窓は、ただ鉄格子がはめてあるだけで、冬の日など雪が吹きこむことがあり、囚人はその底で冷凍状態になることがある。しかし、やっと春が来て、その夜はそこから銀色の光がにじんでいた。
月光というより、光ある靄の一塊だが、しかし同じ蒼白い光の一塊が、扉の把手《とつて》のところにも落ちていた。窓の明りが、斜めに宙をよぎって、ちょうどその位置へ落ちているのだ。
夜はふつう一点の灯もない石川島監獄の監房である。
何となく目ざめ、偶然この光の奇術に気がついた禁獄人原胤昭はこれだけのことに感動していつまでも眺め、それどころか相牢の相棒にも教えてやろうと思いついて、そばに薄い汚れ毛布をかぶって、海底動物みたいに眠っている干潟干兵衛をゆり起そうとした。
「おい、干兵衛さん。……」
いいかけて、胤昭は眼を凝らした。
監房の厚い樫《かし》の扉には外側から錠が下ろしてある。その錠をはずす音もしないのに、把手がゆっくり廻るのが見えたのだ。
干兵衛も眼をあけていた。
例の月と靄の溶け合った光の一塊があったから見えたのにちがいない。そこに立っているのは、同じような制服を着た二人の男であった。
一人は、干兵衛たちも知っている看守長であったが、その顔が異様であった。恐怖にひきつっているのだ。そして、もう一人は。――
「お」
干兵衛は毛布をかきのけ、跳ねあがった。
「お前か!」
原胤昭は、それが軍服を着た若い兵士であることを認めた。すでにどこかで斬り合いでもして来たように、服は裂け、血を流している。――しかも、ただそれだけではない凄惨の気に、彼は打たれた。
「それを」
蔵太郎があごをしゃくると、看守長は抱えていた大きな風呂敷包みを置き、可笑しいほどふるえる手で、中から衣服をとり出した。
「二人房だと聞いて、二人前持って来た」
「わかった」
よく事情はわからなかったが、干兵衛はうなずいた。そして自分は衣服を脱ぎながら、原胤昭にも着換えるようにいった。
原は訊ねた。
「あれはだれだ」
「わしの倅だ。……あんたも早く」
原胤昭は首をふった。
「私はいいですよ。私は出ませんよ。干兵衛さん、あんたもよしなさい。あんた、明日《あした》が満期出獄の日じゃないか。何て馬鹿なことをやるんです」
干兵衛は、水をかけられたような顔をした。ためらった表情で息子を見ると、
「お雛が明石町の岸まで来ている」
と、蔵太郎がいった。
「えっ。……お前が助けてくれたのか。それで、眉輪と麻子という人は?」
「あれは、殺されたそうだ。――」
「な、なんじゃと? だ、だれに?」
「柿ノ木義康と秦剛三郎に」
干兵衛はそれ以上訊こうともせず、獄卒の服を着て、靴をはき、余ったもう一着分と自分の衣服をつつんでひっかかえ、原胤昭をふり返りもせず、扉の外に出た。
黙って見送っていた原胤昭が、このとき声をかけた。
「干兵衛さん、どうしてもというなら、北水路の水門をすすめる。あの下が、ぬけられる」
干兵衛は、息子をふりむいた。
「はいって来たのは、どっちだ」
「こっちだ」
さすがに、正式の出口のほうではない。しかし、どこの口にしろ簡単にはいれるわけはないし、また通路のあちこちには獄卒が見張っている。それをくぐり抜けて来たのみならず、看守長を虜にしたらしいが、そのいきさつを干兵衛は問いただそうともしなかった。
幽霊に潜入法を訊いたってしかたがない、と思うより、ほかに彼の心をとらえていることがあったからだ。眉輪、麻子の死の件についてですらなかった。
「重禁獄のほうへ連れてゆかせろ」
と、彼は息子の亡霊にいった。むろん息子が片手をつかんでいる看守長への命令である。
「赤井景韶を出しにゆく。……殺されたおんな衆の夫であり、兄である人じゃ」
旧幕時代以来の牢獄を、石と鉄で補修したといっていい建物であった。太い柱や黒ずんだ壁には、何十万という囚人の血と涙がまだらにしみついている。囚人以外の人間でも、この中に立てば、これは魔性の世界ではないかというおののきにとらえられずにはいられない。
ただ、ところどころ洋燈が下がって、ボンヤリと赤ちゃけた光の輪を落し、そこに洋式の制服を着けた番人が立っているのが、いまが明治だと思わせた。
迷路のような廊下を、三人は通っていった。
遠い位置にいる番人は、これを巡回の看守たちと見て、黙って敬礼を送って来るだけであった。
その前を通ることを避けて、彼らは、重禁獄の獄舎にはいり――赤井景韶の監房に到着した。
扉は、看守長の腰にぶら下げられた鍵束であけたのだが、それで錠を廻しても音をたてないのが異様であった。むろん看守長は、最初から夢魔の世界にさそいこまれたような心理状態でいる。
赤井景韶と二人の相牢者は、昼間の苦役のために泥のように眠りこんでいたが、干兵衛にゆり起されて、驚いてはね起きた。
相牢者は、あとでつかまったが赤井の一味と目された鯉沼九八郎と琴田岩松で、三人はこの夜も足鎖でつながれていた。――蔵太郎は、それもはずさせた。
干兵衛が、眉輪と麻子が、柿ノ木と秦のために誘拐され、殺されたらしいと告げると、それだけで赤井景韶は悪鬼そのものに変貌した。干兵衛についている兵士にすら眼をとめず、またさし出された着換えの服も、着るもまだるいといわんばかりに斥けたくらいである。
しかし、鯉沼、琴田とともに廊下に出たら、
「河野先生を救わなければ!」
という、三春《みはる》人琴田岩松の言葉だけには、われに返ったようだ。
彼らは、こんどは河野広中の監房をめざした。
河野は、六年前の大久保利通暗殺事件の連累者、石川県士族松田|克之《かつゆき》という人物と同房であったが、この思いがけぬ来訪者にしばらく絶句した。が、赤井らの申し出は拒否した。
「せっかくだが、私はこのまま刑期を勤める。七年たったら、いやもう六年たったら、晴れてまた世に出られるのだ。私にはまだ天日のもとでやらねばならんことがある。……破獄すれば、その望みは叶えられぬ。それどころか、すべては破滅じゃ。赤井君、君も考え直してくれ」
「そうですか」
赤井は、河野をにらみつけるようにしていった。
「私は、ふたたび世に出ても、生きてゆくためには明治政府の走狗となるよりほかはない、と、このごろ考えるようになっておりました。いま破獄の機会を与えられたのは望外のことですが、出れば私なりに、かねてからの望みをとげる法もあると思います。……それでは先生、行を別にいたしますが、くれぐれも例の盟約書の精神はお忘れ下さるな」
彼は決然としてつけ加えた。
「それに私には、どうしてもいまここを出なければならんわけもあるのです」
そして彼らは、脱獄の意志を表明した松田克之だけを伴って、獄舎の外へ出た。
「……や、靄が薄れて来た。――」
と、干潟蔵太郎がつぶやいた。
いかにも、さっきまでこの世を銀灰色につつんでいた濃い靄は薄れ、東の空に半月が浮かんで見え、建物や立木が相当遠くまで見透せるようになっていた。
石川島監獄は、これだけは完全に明治式に、高い煉瓦塀に囲まれていた。そして、ところどころに、四面に大きな硝子《ガラス》窓をつけた監視塔が立っていて、そこに吊された洋燈に、番人が立っている影が見えた。
「この人数が動くのを発見されたら終りだな」
蔵太郎自身は、どうしてはいって来たのか。彼は幽霊だから別として、いま獄舎からひき出して来た五人の脱獄囚を、ぜんぶ逃がすことに、ちょっと途方にくれたようだ。
むろん干兵衛を除く連中は、まさかそれが幽霊だとは思いもよらず、みんなこれを奇怪人間だと知覚しつつ、それより一刻も早くこの島から脱出することだけが念頭にあった。
「おう。……原さんが、北水路の水門の下がぬけられる、といったぞ」
そうさけんだ干兵衛は、同時にその原胤昭が、元八丁堀の与力であったことを思い出した。従って、職業柄何度もこの石川島に来て、その地勢や構成などに、余人の知らぬ知識を持っているにちがいない。――そのことを、それまで原は一語ももらさず、さっきはじめてそんなことをいったのである。
石川島には、いくつかの小川――というより狭い運河ともいうべきものがあり、その一つはいま彼らの足もとを流れていた。そのゆくての水門のそばには、しかしむろん番小屋がある。
「番小屋のそばから水門の下へ、潜って通ろうと思うが……みなさん、泳げますか」
と、干兵衛がみなをふり返った。
「十間か、二十間くらいなら。……」
と、松田克之が心細げな声を出すと、あと鯉沼と琴田も同様のうなずきかたをした。
「よし。……それでは私が、その外へ、そのあたりまで舟を廻します。そこまで泳いで出て来て下さい」
と、蔵太郎がいった。
そして彼は、そこに夢遊病者みたいに立っている看守長の眼に見いって、干兵衛以外の一同を唖然とさせる言葉を吐いた。
「おれは幽霊じゃ。お前もそれはわかっているだろう。今夜のことは、夢を見たと思え。少なくとも、夜が明けるまでは騒ぐな。……さもなければ、お前の命はないぞ」
八
おそらく石川島監獄へいったのではないか、という柿ノ木義康の|かん《ヽヽ》は当っていた。そして、「とにかく馬車を見つけるのじゃ。あの馬車を探せ!」という指示も的を射ていたが、しかし、その夜の濃い靄があがりかかっていなかったら、もっと発見は遅れていたにちがいない。
石川島を見る対岸を駈けていた男たちは、それをやっと明石町で見つけた。船着場になっているので、そこはちょっとした空地になっていた。この時刻なので、ほかに人影はなかったが。――
「おう。……あそこにおる!」
薄れて来た靄の中に、彼らはその馬車が遠く朦朧と浮かんでいるのを見た。その向うに、夜も蒼白く明けかかっていた。
「ま、待て!」
殺到しようとする壮士たちを、しかし柿ノ木義康は制した。山高帽の下で、彼は、ちょっと形容のしにくい眼つきでその馬車をにらみつけていた。
「なんじゃ?」
と、秦が不審な顔をした。
「あれがおるかも知れぬ。……」
柿ノ木義康はつぶやいた。――馬車が石川島へ向ったのではないかという彼の|かん《ヽヽ》は、実は、その馬車が出てゆくのが無音であったということから、ひょっとしたらあの兵士の幽霊がまた出現したのではないか、という想像から来たものであったのだ。
「あれとは何だ」
「幽霊だ」
しかし、彼は首をふった。
「何であれ、こんどは見逃せぬ。よし、ゆけ」
そして柿ノ木義康を先頭に、彼らは一団となって近づいていった。巣鴨へ分れた連中を除いても、壮士たちはまだ十人以上もいた。
「いたっ」
「やっぱり、いたっ」
彼らは見た。馭者台に坐って、こちらを見ている女一人、少女一人を。
はじめ、てっきりお龍さまとお雛だと思った。が、たちまち壮士たちの中から「あっ」というさけびがあがった。それは、お龍ではない――髪ふり乱し、のどから血をしたたらせた女であった。
その女は、馭者台の上から、きっとこちらを見つめている。その眼が自分に向けられていることを柿ノ木義康は知った。あの女だ! どこから現われたのか、まさしく会津攻撃のとき、自分が犯した女だ!
この前、その女は自分を見て逃げた。しかし、いまは逃げようともせず、けぶる靄の虚空から、じいっとこちらを見すえている。柿ノ木は、頭髪まで逆立つ思いがした。
が、彼は歯をむき出した。同時に、洋杖からも刀身が滑り出した。
「化物め、その正体を見とどけてやるぞ!」
わめいて、突進しようとしたとき、その女がそばのお雛に何かいった。
と、お雛が、春暁の空を仰いでさけんだ。
「父《とと》! 父《とと》!」
秦剛三郎をはじめ、帝政党の壮士たちは、その直前に、水の上を近づいて来る艫《ろ》の音を聞いて、ちらっとそちらに眼をやっていた。
石川島のほうから、たしかに舟が一艘やって来る。水面にはなお靄がたちまよい、はっきりとは見えないが、どうやら五、六人の影が重なっているらしい。
「おおーい」
その舟から、呼び返す声がした。
次の瞬間、秦も柿ノ木も、ぎょっとした。舟から一人、下りるのが見えたのだ。まだ岸から距離のある水の上へ。
その影は、靄の這う水の上を、まるで地上を歩くように近づいて来た。
「父《とと》が来たぞ!」
岸に上って来たのは、あの兵士の幽霊であった。
蔵太郎はそういったが、岸に立ちどまって、落着きはらって舟のほうを眺めている。
「あ、あれをやれ!」
柿ノ木の絶叫に、五、六人の壮士が刃を抜きつれて駈け向い、斬り込んだ。刀身は一本残らずその軍服にくい込んだと見えた。が、彼らはキリキリ舞いをし、自分の力でそのまま水へ飛び込んでしまった者が二人もあった。つんのめった連中も、この怪異に、尻もちをついて悲鳴をあげた。
「来い。――早く、来い」
蔵太郎は、だれも斬らない刀をあげて舟をさしまねいた。
舟は岸に近づき、乗っていた男たちが駈け上って来た。五人いた。
「赤井さん、あの中に御内儀や妹さんを殺したやつがいるだろう。それ、これをあんたに渡そう」
蔵太郎に渡された刀を握って、赤井景韶はすすみ出た。蔵太郎の鬼気を帯びていることはいうまでもないが、獄衣のままの赤井景韶の姿は、内部から燃えあがるもののために、それにもまして凄惨であった。
「蔵太、おれにも何かないか?」
と、干兵衛が嗄《か》れた声でいった。
すると、馭車台のお宵の手から、空中を長い鞭が飛んで来て、干兵衛の手に落ちた。
「……は、破獄者だっ」
それまで、口をポカンとあけていた秦剛三郎が、このときやっとわれに返って躍り上った。
「こやつら、脱獄して来おった――捕えろ、いや、みな斬れっ」
|しゃぐま《ヽヽヽヽ》みたいに白髪をふりたてて咆哮し、それに応じて、残りの壮士たちが狂ったように殺到した。
その頭上を、干潟干兵衛の長い西洋鞭が薙《な》いで通り、また薙いで戻った。
おだやかな男であったが、このときはその鞭に異様な殺気が籠っていた。壮士たちは鼻口から血を噴いて、いっせいにもんどり打った。
その鞭はまた、さっき蔵太郎を襲って尻もちをついた連中や、水に落ちて石垣に手をかけて這い上ろうとしていた二つの頭に、改めて凄まじい打撃を与えていった。
赤井景韶は、柿ノ木義康と秦剛三郎に向い合っていた。
「赤井さん。――」
干兵衛は呼びかけた。
「手を出すな。おれに斬らせてくれ!」
赤井は答えた。強がりではない。まなじりを決し、彼は復讐の鬼と化している。
柿ノ木義康は、山高帽の下で、はじめて、にやっと笑った。このときこの明治の剣鬼の心中からは、驚愕も恐怖も消えている。彼はただ、かつての若い「同志」が、一人で自分を斬ると高言したことに笑ったのだ。
彼は右手一本で刀を突き出し、左腕は背後にあげるという、例のぶきみな西洋剣術の姿勢をとっていた。
「赤井。――いつか築地の原っぱでやりかけたことの結着を、はからずもいまつけることになったようじゃな」
「裏切者め!」
赤井は、怒りのために肩で息をしていた。
「裏切者ではない。おれは警視庁警部、柿ノ木さんもそれに準ずる立場にある」
秦剛三郎がわめいた。
「赤井、官憲に刃向うか!」
「官憲が、罪なき女を犯し、虐殺したというのか」
「問答無用じゃ、くたばれっ」
秦が猛然と斬り込んだのと、どこかで女の高笑いが聞えたのが同時であった。白髪をみずから の血しぶきに染めてつんのめる秦剛三郎の背に、なお怪鳥のようなその声は流れた。
ほとんどまた同時に「突き」の行動を起しながら、柿ノ木義康は、向うの馬車の上で、「あの女」が髪をふり乱して血笑する姿を、ちらっと見ている。
その一瞥と、その異次元的な恐怖が、彼の魔剣の速度を数十分の一秒遅らせた。――
秦剛三郎をたたき斬った赤井景韶は、もうその刀を一振するいとまもなく、無我夢中で突き出していたが、それが間に合ったのだ。フロックコートの胸から背へ刀はつきぬけ、柿ノ木義康の長身は棒のように立ちすくんだ。彼の右腕と剣は、赤井の肩を越えてむなしく空中へのびていた。
転がり落ちた山高帽に鮮血をぶちまけ、その上にどうと崩折れた柿ノ木義康を、赤井景韶は放心したように見下ろしている。
とはいえ、この死闘の勝敗を決したものは、何よりも炎のような赤井景韶の憤怒であったことは疑いない。
「あなた。……あなた」
その声を、まず干兵衛が聞いた。
「この女を、どうしましょう」
彼はふりむいて、馬車の外に、見知らぬ若い女が立っているのを見た。それから、馭者台からお宵が下りて来るのを見た。
干兵衛は、そちらに歩み寄った。
「それが――?」
「お雛を捨てて、三島県令の妾になった蔵太郎の嫁です」
と、お宵はいった。
干兵衛は、その女については、脱獄してからここへ来るまで、二、三語、蔵太郎から報告を受けた。いや、それ以前、お雛の母親が三島県令の側妾になっているということは、ちらっと松のや露八から聞いたこともある。
その驚くべき事実のいきさつを、彼はまだつまびらかにしない。しかし、それはとうてい平心をもって聞き流しに出来ないことであった。そこへ歩み寄る干兵衛の眼には、殺気にちかい光があった。
が、その彼よりも。――
「なに、三島の妾?」
われに返り、うめいたのは赤井景韶だ。
「そやつか。話に聞いていた会津自由党弾圧の奸婦は!」
馳せ寄って来る姿は、いまの殺戮の返り血をあびたまま、死神さながらであった。
するとまた、春暁の空に、銀鈴のような声が流れた。
「母《かか》さまをころしちゃ、イヤ! 父《とと》、たすけて!」
赤井の前に、黒い影がながれ寄っていった。蔵太郎であった。
「どけ、どかぬか!」
すでに血に酔っぱらったような赤井は、それを刀の峰ではねのけようとしたが、その刀は煙を薙いだような感覚があったのみで、蔵太郎は動かなかった。
彼は赤井に一瞥もくれず、ふり返ってお辞儀した。
「父上、母上。……許してやって下さい。あれは私の女房です。……」
お宵はうなずいたが、肩で息をしていた。
ああ、消えてゆく。――と、干兵衛は気がついた。亡霊がこの世にとどまれる刻限が迫っているのだ。蔵太郎も同様、それでなくても物凄まじい姿が、あの世へ帰る直前の鬼気にふちどられていた。
「お鳥。おれはお前を許す。……お雛を頼むぞ」
声はすでに靄の中にあった。わずかに地上に薄く漂っていた靄が、そこに集まって一塊となっているようであった。
そして、その中にお宵もまたつつまれて、やがてその靄がながれて消えたあと、二人の姿はそこになかった。
……お宵は、ついに、蔵太郎にも干兵衛にも、柿ノ木義康の「罪」を打ち明けなかった。それは彼女の恥じらいと、それ以上に、夫と息子に対するいたわりのためであった。しかし、このデリカシーに満ちた亡霊は、まさしく息子と夫を介し、脱獄した赤井景韶が、自分を犯した男を殺すのを見とどけたのだ。
九
なんども経験したことながら、干兵衛は茫然として立ちつくしている。――お龍、赤井も、もとよりのことだ。
とくに可笑しかったのは、脱獄して来たあとの三人で、これは終始一貫河岸に三本の杭みたいに突っ立ったきりであった。岸についてからこれまで、五分くらいの出来事であったが、息つぐひまもない椿事、いや怪事に、まるで夢でも見ているような顔つきをしていた。あるいは、そもそも監獄で眠りをさまされたときから、同じ心境であったかも知れない。
改めて地上に横たわった柿ノ木義康、秦剛三郎の屍骸と、悶絶したままの壮士たちを見渡した干潟干兵衛は、
「あの馬車でゆこう」
と、いってから、
「しかし、どこへ?」
と、みずからに問うもののごとくつぶやいた。
そのとき、鯉沼九八郎と琴田岩松が、同時に奇声を発した。
「あ。……露八。……」
「どうして、ここへ?」
干兵衛はふりむいて、町のほうから、大入道が駈けて来るのを見た。まぎれもなく、松のや露八にちがいなかった。
彼はこちらを見、また地上の惨状を眺め、
「やったねえ」
と、はあはあ息を切りながら、嘆声をあげた。
「どうしたのだ」
と、まず干兵衛のほうから訊ねた。
「あの馬車を三島屋敷にとられたのは、あたしの|へま《ヽヽ》でね。おとといの晩のことだが」
と、露八は答えた。
「それで、あたしは責任を感じて、それ以来三島屋敷を見張ってたところ、さっきその馬車が出て来て……奇妙に音がしねえもんだから、靄の中に見失っちまった。そこへ、こんどは帝政党が 駈けて来た。そいつを追っかけて来たわけだが、からだがなまってて、いや往生したよ」
干兵衛は、去年の暮に警視庁の前でこの男と別れたきりだ、ということを思い出した。が、いま露八がいった言葉の意味もわからない。
「それより、そっちはどうしたんだ。これは――」
と、こんどは露八のほうから訊いて来た。
「破獄したね? ふうむ。……」
すぐに察したようだ。
「あとの衆はともかくとして、干潟さん、あんたまで出て来たのか。どういうつもりだ?」
干兵衛には返答のしようがない。それより、そんなことを訊く露八の気持はどういうつもりだ、と彼はいいたかった。
「いや、干潟さん、あんたまで警視庁につかまったきり出て来ないので、あたしゃ心配してねえ。あのあと、これでも探りをいれていた。そしてあんたが、三カ月、石川島に禁錮になったということを知った。三カ月といやあ、あんた、そろそろ釈放のときじゃないか」
「きょうは何日だ」
「三月二十七日さ」
「や。……それでは明日《あした》だ」
そういったきり、名状しがたい表情をしている干兵衛をじっと見て、
「干潟さん、帰るわけにはゆかんかね?」
と、露八がいった。
「どこへ?」
「監獄へ」
「ば、馬鹿な!」
と、干兵衛は唖然たる顔をした。
「いや、それにしても明日釈放というのに、きょう破獄するとは、それも相当に馬鹿げていると思うからさ。ここにいる自由党の衆ならわかる。どうせ遠からず、いのちは捨てる覚悟だろう。しかし、あんた、これからどうする気だ?」
露八は、ほんとうに心配そうであった。
「ここを逃げたって、とうてい無事にゃすまないよ。あそこにお孫さんがいるじゃないか。あの子をどうするつもりかい?」
彼は、馬車のそばに立っている女も見たはずだが、それについては何もいわなかった。お雛の母が三島通庸の側妾になっていると干兵衛には教えたけれど、実在のお龍はまだ知らなかったのかも知れない。
干兵衛は、棒をのんだようになっていた。頭の中を、脱獄はやめろといった原胤昭や河野広中の声が流れた。むろん、あのときは、そんな忠告に従っていられる場合じゃない、と耳からふり捨てたのだが。――
露八は、水の向うの石川島のほうを見た。
「この場の始末は、こりゃわかる。しかし、牢からここまで、どうして出て来たんだ。気のせいか、島のほうじゃ、べつに騒いでもいねえようだが」
「牢に帰りたくっても、まさか……そんなことは不可能じゃ」
と、干兵衛はうめいた。
しかし、このとき、そばに来て、この問答を聞いていた赤井景韶が口を出した。
「いや、それは案外大丈夫かも知れないよ。あの出られようからすると」
「あれは、特別だ」
干兵衛のいったのは、幽霊のおかげという意味だ。
「どうも、助けてもらったおれがいうのはおかしいが、干潟さん、明日《あした》が釈放と聞いてはおれも迷う。このまま逃げれば、先に待つのは十が十、死だが、戻れば、あんたの場合は、千番に一番のかねあい、とまでもゆかない、十に七八は助かるにちがいない。――脱獄のことは知らぬ存ぜぬで、何とかごまかせるだろう、とにかく当人が牢に残ってりゃ」
自分が脱出出来た以上、あとは知ったことじゃない、というつもりで赤井がいっているのではないことは、いうまでもなかった。彼自身、先に待つものは十が十、死だ、といっているくらいだからだ。
干兵衛としても、いま夢からさめたような頭で考えれば、柿ノ木、秦の制裁を見た以上、怒りの憑きものは落ちたような気がする。
「しかし、あの馬車と孫が」
と、彼はふり返った。
「あれは、あたしが引受ける」
と、露八がいった。
「だいたい、おとといまであの馬はあたしが養ってたんだ。巣鴨の錦織晩香先生のところで待ってるよ。――」
干兵衛は決心した。馭者台のお雛のところにいって呼びかけた。
「お雛、もうちょっと待ってくれ。左様さ、祖父《じじ》がもう三日帰らなかったら、もういっぺん父《とと》を呼んで、祖父《じじ》のところへ来るようにいってくれ」
その手があった。
赤井らは、悶絶して倒れている帝政党の壮士たちから衣服を剥ぎ出した。身なりを変えるためである。
十
そもそも破獄そのものが、驚くべきことであったが、いったん脱獄してまた牢に帰るということは、それ以上に前代未聞だ。
それを干潟干兵衛はやってのけたのである。
彼は舟でまた石川島へひき返し、水門の下をくぐって監獄にはいった。さっき脱獄を手伝わせた看守長はどうしたのか、監獄は何事もなかったかのように、まだ眠りに沈んでいた。そして、原胤昭の待つ彼の監房もまた扉をあけたのである。
完全に朝になって、赤井景韶、松田克之、鯉沼九八郎、琴田岩松ら四人の自由党員が破獄していることが明らかになって、石川島監獄は上を下への大騒ぎになった。そして看守長は、四十度を越す高熱を発していた。うわごとにちかいその証言は、まったくとりとめがない、というより、きちがいの夢物語としか思われなかった。
ふしぎなことに、その夜のことについて干兵衛にはいちどの訊問もなく、彼はその翌日釈放されたのである。
看守長の証言が右のごとく常識では信じられないものであった上に、現実にちゃんと干兵衛は在牢していたのだから、全然問題にならなかったと見える。だいいち干兵衛は、高熱からさめた看守長の再証言以前に、監獄の大騒動にまぎれて、ただ規定通りに枯葉のごとく追い出されたの であった。
彼は、巣鴨にいった。――
そこには、晩香先生と松のや露八とお雛と、そしてお鳥が待っていた。馬車もあった。
「……で、がしょう?」
干兵衛を迎えて、鼻うごめかす露八に、
「赤井さんはどうした?」
と、訊くと、あの四人のゆくえは、あれっきり知らないという。
「もうこうなったら、あたしの手に負えねえ。あたしゃ、もう自由党から手をひかしてもらいますよ」
と露八は、ほとほと懲りた顔をし、
「それじゃ、おあとがよろしいようで。……」
と、大きな身体にとぼけた風をただよわせて、飄然と去っていった。
干兵衛の「新しい一家」が出来た。
これは実に奇態なとりあわせであった。しかし干兵衛は、晩香先生がほんとの父親みたいな気がしたし、お鳥がほんとの娘のような気がした。事実彼女は、息子の嫁であり、お雛の母であったのだ。
実は、干兵衛も、自由党には懲りた。それまでも、決して自分から進んで関係したのではなく、向うからからみついて来て、不本意に巻き込まれたものにちがいなかったけれど。――
それより、当面心配があったのは、むろん三島通庸の手だ。
あの明石町の河岸の決闘で、柿ノ木義康、秦剛三郎が殺された。警視庁では下手人を破獄した連中だと見ているらしいが、あのとき干兵衛も混っていたことは、ほかの壮士たちは知っているはずだ。よしやあの朝靄と、自分たちも悶絶するほどの混乱の中で、それを確認出来ず、まして干兵衛の着ていた獄卒の官服に眼をくらまされたとしても、現実に馬車と、そしてお鳥とお雛が巣鴨のこの家に来ているのだ。そのことは、むろん向うも、もう探り出しているだろう。
にもかかわらず、三島の手がこちらにのびて来る気配はなかった。警察に通報したようすもなかった。むやみに手を出すと、かえって向うの藪蛇になるからだろう、と干兵衛は考えざるを得なかったが、やはりぶきみ千万で、この三島の無為と沈黙についてどう思うか、と、そっとお鳥に訊いたことがある。
「わたしがこわいのかも知れません」
お鳥は、しずかに笑った。
干兵衛は、このときだけ、この三島県令の側妾が恐ろしい女だ、という例の評判を思い出して、心中にぎょっとした。
が、それ以外は、お鳥は、お雛にとろけるような眼をむけているふつうの母親――それどころか、いままでお雛を捨てて来た罪をわび、その空白をいっぺんに埋めようとして、それ以外のことは念頭にないかのような、哀しいまでの母親の姿であった。
しかし、三島のほうから手を出して来なくても、こちらから言い分がある。とくに晩香先生を思えばだ。三島通庸は、晩香先生の娘眉輪のかたきの一味――たとえその惨劇のとき不在だったにしても――疑いなく黒幕といった存在に相違なかった。
この件について、干兵衛は晩香先生とこんな問答を交わしたことがある。
「先生、三島県令をどう思います」
「どう思ったところで、どうにもなるまいが」
「あれはお嬢さまの御災難について、まったく無関係とはいえませんが」
「眉輪は赤井景韶の女房になった以上、どんなことが起っても覚悟の前じゃったろう」
晩香先生は、机の上に置かれた二つの位牌をふりかえって、淡々とつぶやいた。
「どうせ人間は、みんな仕掛花火に似た命じゃて。……いや、花火を打揚げられる人間は、まだ倖せといおうか」
ややあって、干兵衛はまた訊いた。
「赤井さんは、どうするでしょうかな」
「さてね」
「赤井さんは、どこへいったものでしょう」
「うん、どこへいったものかな」
老人はひとごとみたいに答えたが、やがてこの問答とどこまで関係があるのか、次のような見解を述べ出した。
「干兵衛さん、わしゃこのごろ妙に思うんじゃが、明治十年以来のこの世の空気は、それ以前の維新や文明開化のころより古めかしいような気がしてならん。あんた、どう思う?」
「へへえ、左様でござるかな。そいつは気がつかなかった。先生、それはどういうことです」
「それでいろいろ考えて見たのじゃがな。どうもそれは、維新前後と反対に、新しいものが古いものに踏みつぶされてゆく時代だからじゃなかろうか」
そして、晩香先生は笑った。
「わしたちは――干兵衛さん、お前さんもじゃぞ――とっくの昔に踏みつぶされた前々代のかけらじゃぞ。は、は、は」
干兵衛も苦笑した。
一方で彼は、たった一人の孫娘を殺され、その婿は脱獄囚として逃亡し、いまは無縁の自分に――一介の町の馬車屋に養われながら、以前と同じのんきな顔で本を読んでいるこの老人の心を不可解に思った。しかし、それはそれでありがたかった。
彼は、この老人と、亡児の嫁と、孫娘を養ってゆく生活に甘んじ、それ以上は望まなかった。むしろ、この新しい家族が出来たことに満足した。長い間、お雛の母を探しながら、それが出て来ることを怖れていたけれど、しかもそれが実に怖ろしい出現でありながら、結果として、これほど倖せな日が来ようとは、だれが想像したろう?
頼む、もう二度とこの暮しをおびやかす者は来てくれるな、と、彼は祈った。予想されるその不吉な訪問者には、警視庁や三島の手のみならず、赤井景韶をふくむ自由党もあった。
幸か不幸か、警視庁あげての必死の捜索にもかかわらず、天に翔けたか地に潜ったか、明治はじまって以来の大破獄囚赤井景韶の消息は、あれきり|はた《ヽヽ》と断たれていた。
この間、二、三度、何を思ったか、お鳥がお雛に、「父《とと》を呼んでくれないか」と頼むのを聞いたことがある。お雛は呼んだ。しかし、ついに蔵太郎は、これも現われなかった。――
だんだんお雛の声が聞えなくなる、と、いつかいった蔵太郎の言葉を干兵衛は思い出した。お雛が成長するにつれて魔力を失って来るのではないか、という危惧が現実化して来たようだ、と彼は考えた。
それでも彼は悲しまなかった。むしろ息子や妻が、あのおどろおどろした姿を、もう二度と見せてくれないほうがありがたい、とさえ考えた。
こうして春から夏へ移ってゆく東京の町を、干兵衛の馬車は廻ってゆく。もったいないが、塾のほうを少しこわして、馬屋にした。
以前とちがうのは、そばにお雛がいないことであった。お雛はその母にくっついて、離れようともしないのだ。彼は、捨てられた。それもいまでは、むろん一抹のさびしさは禁じ得ないものの、それよりふしぎに干兵衛の微笑をさそった。
このごろの世相は、御一新前後より古い、という晩香先生の説は、むろん別のことをいっているのだろうが、東京の風物は、やはり西洋の色を日毎に濃くしつつあった。
駿河台にはニコライ堂なるものが建てられはじめた。鹿鳴館で、うら若い大山捨松夫人が世話役となってひらかれた慈善大バザーが、巷の話題になった。そして、イギリスにならって、伯爵だの子爵だの、新しい華族階級の名が発表された。……
一方では、相馬事件なるものが起った。ちょうど足尾銅山で新しい大鉱脈が発見されたという評判の中で、その大出資者の一人たる相馬家のお家騒動が始まったのだ。家令の志賀三左衛門らが若い主人を精神病者として私擅《しせん》監禁している、と、旧藩士の錦織剛清なる者が告訴したのであった。
これには干兵衛も、特別の関心を持たないわけにはゆかなかった。その錦織剛清という人物はどうやら晩香先生の一族の者であるらしく、かつ志賀三左衛門もいつか見かけたことがあるからだ。
「志賀はそんなことをする男じゃないよ」
晩香先生は一笑して、志賀のほうをかばった。
「あれは大した男じゃ」
いつか、その銅山のことで叱咤したくせに、先生は志賀の人物をほめ、
「思い込んだら一路つき進む。ただ、気の毒なことに、相馬家といい、足尾銅山といい、あれをとり巻く世界が夜のように暗い。……」
と、干兵衛にはわからないひとりごとをいった。
何にしても干兵衛は、これこそ晩香先生がいったように、世の中が逆行して草双紙の時代にひき戻されたような気がして面白かった。
すべて干兵衛は、東京が開化錦絵の世界に変ったような感じがした。どういうわけか、東京の町が絵のように美しく見え、自分の馬車さえ、その絵の走馬燈の一点景となったような亡我の日々を送った。
しかし、現実の干兵衛の馬車は、やはり嵐の世界にひき戻された。――
十一
九月十日であった。この日はちょうど二百二十日にあたり、東京は夕方からひどい風雨となった。
夜ふけて、入口をたたく音を、その雨と風の音と思っていたが、やがて、
「干潟さん、干潟さん」
と、呼ぶ声を耳にして、干兵衛はぎょっとした。
いっせいに顔をあげた晩香先生、お鳥、お雛を眺め、干兵衛は立ちあがり、その戸をあけにいった。戸をあけるとともに、滝しぶきみたいな雨と一人の男がはいって来た。
笠をかぶり、杖を握り、合羽をつけていたが、声でわかった通り、まさしく赤井景韶であった。
「ちょっと待って」
干兵衛がひとこともいわないうちに、彼はまた外に出てゆき、やがてもう一人の男と二人で行李をかつぎ込んで来た。その男は老人で、どうやら俥夫らしい風態であった。
「御苦労だった。いま銭を渡す」
と、赤井はいってから、
「いや、ひどい目に逢わせた。ひとつ、酒でも飲んでいってくれ。――」
と、つけ加えた。
ズブ濡れの老俥夫は、疲れ果てた哀れな顔で手をふった。
「いえ、結構でございます。駄賃さえ頂戴すれば。――それより、早く帰していただきたいもので」
「それでは、気がすまぬ。では、せめて茶漬でも食ってゆくがいい」
と、赤井はいいながら、戸口をピシャリとしめ、
「干潟さん、何かありませんか?」
と、いった。
あっけにとられてこれを見まもっていた干兵衛たちの眼の前で、さらに意外事が起ったのは次の刹那だ。戸をしめた赤井景韶はそのまま、そこに立っていた老俥夫の背後から首に片腕をまわし、いっきに絞めあげたのである。
鼻口から血をたらしながら、苦悶というより驚愕の表情のまま、俥夫は崩折れた。
「な、河をする?」
干兵衛がさけんだのは、そのあとのことだ。
「このまま帰られては困る。………それどころか、現在|尾《つ》けられているような気さえするのだ」
と、赤井は低い声でいった。
そして、さすがにおののく手で笠をとりながら、
「お久しぶりです。先生。――」
と、改めて挨拶した。
晩香先生は、黙って眺めている。干兵衛もさっき一語を発したきり、眼を大きく見ひらいたままであった。――明石町で別れて以来、ちょうど半年ぶりだ。干兵衛の印象は、これは別人ではないか、ということであった。
この雨の中を、どこから来たのか、濡れつくしたその姿は、しかし明らかにこの夜の雨のせいではなく、逃亡以来の惨苦を物語っていた。ただ痩せたばかりでなく、獄中にあってさえ失われなかった若々しさが殺《そ》ぎ落され、くまどりの出来た眼の上まで髪が粘りつき、地獄から来たような陰惨な感じがあった。
「……あれから、どこへ?」
やっと、干兵衛が口を切った。
「あれから……一両日、東京の同志のところにいて、ようすを見て、それから、甲州へいった。乞食に化けてね」
赤井は笑った。
「甲州の寺で、坊主になって三カ月ほど隠れていて、どうやら警察に嗅ぎつかれたような匂いが したから、静岡に逃げて、そこでまた三カ月ほど。――」
むろん各地の自由党のシンパのところだろうが、それが決して大舟に乗ったようなものでなかったことは、そのやつれた顔を見れば明らかだ。旧幕時代の凶状持ちと同様――いや、いまはいよいよ全国的に警察の蜘蛛の網が細かくなった明治の世のお尋ね者であった。
――余談だが、このとき静岡で赤井景韶をかくまったのが、いわゆる岳南自由党の鈴木|音高《おとたか》――前名山岡という旗本出身の自由党員で、かつて松のや露八が頼っていったのも同じ人物であった。この鈴木音高はのちにつかまって北海道の空知監獄へ送られ、出獄後アメリカのシヤトルに渡った。――六十年後、「極東国際軍事裁判」で、東郷茂徳外相の主任弁護人ジョージ山岡は、この「明治の叛臣」鈴木音高の子である。
予期もしていなかったとはいえ、渡良瀬川鉱毒の惨のもとを作った一人といえないこともない志賀|直道《なおみち》の孫が、白樺派の志賀直哉となるように、人間の血脈の織りなしてゆくこの地上の相の神秘さよ。
「あのときの四人、いっしょに?」
むろんそんな感慨をいだくわけもなく、干兵衛は訊く。
「いや、松田とは東京で別れた。とめたのだが、一人、中仙道のほうへいったが、どうやらすぐに板橋で逮捕されたらしい。警察ではかくしておるが」
「へへえ?」
「むろん、松田は何もかも知らぬ存ぜぬで押し通したのだろうが、やはり静岡もあぶなくなって、とくに鯉沼、琴田は以前静岡にいたこともあって顔を知られておるから、早くからまた行方をくらました。実はおれもね、十日ばかり前、名古屋へゆこうとして、大井川橋で警察の網にひっかかって、すんでのことでつかまるところだったよ」
「ふうむ。……」
「それで名古屋ゆきはあきらめて、逆にこっちへ逃げて来た。もともと名古屋である仕事を果したら、すぐにひき返すつもりでいたんだ。これを運ぶ用があるからね」
赤井は眼で行李をさした。
「こんなものがあるから、逃げるのにいよいよ惨澹たる大苦労さ」
「何です、それは」
「爆裂弾。そら、いつかあんたや眉輪たちといっしょに警視庁へ持ってゆかれたやつと同じ内容のものさ。静岡にいる間、そこにいた来島恆喜と協力してまた作ったんだ」
干兵衛は眼をむいてそれを眺めていたが、やがて、
「それを……東京に運んで来て、何をなさるおつもりだ?」
と、怖ろしげに訊いた。
「いや、目的地は東京じゃない。宇都宮だ。……実は、こちらへ寄るつもりもなかったんだが、この嵐じゃどうにもならなくなって、心ならずもここへ待避した。どうやら馬がいるらしいので、あんたもここにいると知って、実にほっとしたよ。……御迷惑だろうが、一休みさせて下さい」
赤井は上り口に手をつこうとして、
「いや、その前にこの屍骸と、外の人力俥を始末せんけりゃならん。……」
「宇都宮へゆくとは?」
と、干兵衛はまた訊いた。
「正確にいうと、宇都宮じゃない。栃木県との県境《けんざかい》に近い、築波山北方の加波《かば》山という山じゃが、鯉沼や琴田たちがそこを本拠として潜んでいる。――三島県令をやっつけるために」
「えっ」
「二人から、連絡があった。――三島はさきに県庁を栃木から宇都宮に移し、この二十日に盛大に開庁式をやる予定になっている。そこへ進撃し、襲撃して、一挙に屠りたい。河野広中先生の甥御の広体《ひろみ》氏をはじめ大部分福島自由党の残党だが、すでに数十人の同志がこの壮挙に加わっているという」
どどっと、戸が鳴った。赤井景韶は獣のように顔をふりむけて、
「――風か?」
と、歯をむき出して笑った。
「そこへこの爆裂弾は、何よりの手《て》土産《みやげ》になる。しかし、たとえ三島県令をやっつけたとしても、むろんわれわれは死ぬだろう。自由の旗の下に死んでゆくのは、もとよりわれわれの望むところだ。これで、眉輪、麻子も安らかに眼をつむってくれるだろう。いや、おれは眉輪たちのところへゆくんだ」
赤井景韶は詩《うた》うようにいった。
「烈風にひるがえすべき旗の檄も考えてある。……ここに檄を飛ばして天下三千七百万の同胞に告ぐ。われらここに革命の軍を加波山上にあげ、以て自由の公敵たる明治専制政府を顛覆し、完全なる自由民権の国家を造出せんと欲す。……先生、いかが?」
「いかん」
はじめて晩香先生は声を出した。
「えっ。……この文句がいかんのですか」
「お前がいってはいかん。お前はゆく資格を失った」
先生は、白い髯をゆり動かした。
「なんですと? な、なぜ?」
「お前は、なぜいまその俥夫を殺したか」
赤井景韶は、土間にボロキレみたいに転がったままの屍骸に眼をやり、唖然たる顔をした。
「いや、これは牛込あたりから無理に曳かせて来たもので……どうやら私を不審な者だと察したようです。ここで離しては、必ず警察へ駈け込むおそれがある。いや、それどころか、途中まで尾行されているような気配があった始末で。……ふびんですが、大事の前の虫ケラです」
「これ、自由、民権とは、だれのための自由民権か」
晩香先生の眼は、火のようにひかっていた。
「わしはお前を見そこなっておった。罪もない無縁の老俥夫を殺して、何が自由の旗じゃ。お前はただの殺人者じゃ。そんなものに加わられては、革命の旗が哭《な》く」
赤井の顔色は変った。
「即刻、警察へ自首せい! その行李はこっちで預かっておく」
赤井は先生をにらみつけていたが、顔をゆがめて笑った。
「御老人はどうかなされたようだ。……せっかくですが、そんな馬鹿げたことは出来ません。私はともかく、爆裂弾はどうあっても加波山に運ばなければならんのです。干潟さん」
と、呼びかけた。
「それじゃ、ここで休ませていただくことは御遠慮する。まことに相すまんが、あんた馬車でおれと行李を運んでくれんか?」
「お待ちなさい」
と、干兵衛は立ちあがった。
赤井のほうへ来るかと思ったら、押入れのほうへいって、そこで何か探していたが、すぐに細引《ほそびき》のようなものをとり出した。押入れには、芝の露月町の家から持って来た彼とお雛の身の廻りの品がいれてあったが、それは彼が会津藩の同心時代愛用した捕縄《とりなわ》であった。
それを左手に持ち、右手に寒竹の鞭をぶら下げて、
「私も先生と同感だ。……自分の目的をとげるためには、他人を虫ケラ扱いにする人間は私はきらいでね」
と、いった。
赤井景韶は、右と左と二度平手打ちをくったような表情をしていたが、やがてその眼に凶暴ともいえる光がともった。
「わけのわからぬ老いぼれどもだ。……こうなれば、力ずくでもこちらの要求を聞いてもらおう。よし、来い!」
さけぶと、戸をあけて、外へ出ていった。
十二
風は空にうなり、雨は地に鳴っている。
これほどの嵐になると、雨つぶが一つ一つ、それ自身|螢《ほたる》みたいに光を持っているかのように、天地の間にふしぎに蒼白な光がある。
それを来るときに見てとって、外での格闘が可能だと見たのであろう。先に出た赤井景韶は、数間先でふり返って、仁王立ちになり、手にしていた握り太《ぶと》の杖をあげた。
「干潟さん、おかしなことになった」
雨の中に、泣き笑いに似た顔が浮動して見えた。
「それも、そっちの度しがたい頑愚のせいじゃ」
干兵衛は、答えない。口に縄をくわえているせいもある。
彼の心境は、まあ「赤軍派」の若者を見る「戦中派」の気持であったといおうか。しかも、かつて全力をあげたいくさに敗れ、すべてに挫折した男は、十数年後に、いま別のいくさに赴こうとしている若者を縛ろうとしているのであった。
それはまさしく別のいくさだ。彼のたたかいは、彼なりにお国と秩序を守るためのものであった。赤井のたたかいは、国家と体制を破壊しようというものだ。にもかかわらず、以前から干兵衛は、赤井のみならず自由党にどこか愛情をおぼえていた。一方で、それは若者たちが無意識的にも新しい天下取りを志しているのだと見る、皮肉な中年男の眼を持っていたにせよ、同時に、それがおそらく打ち砕かれるだろうという洞察もあって、かえって哀憐の念にとらえられていた。
ただ、いずれにせよ、その目的のために、無縁|無辜《むこ》の人間をいけにえにするのも辞さぬ、という行為は、断じて気にくわない。これは、かつて罪なくして大不幸におちいり、いまはからくも得た小さな幸福に甘んじている彼の、一貫した信条である。――
横なぐりの雨に、吹きちぎれた無数の木の葉が飛んだ。その中に、赤井景韶の杖からも何やら飛んだ。それは鞘であった。杖は、仕込杖になっていたのだ。
干兵衛の構えた鞭に、そうせずにはいられないものを赤井は感じたらしい。――
「えやあっ」
かつて剣鬼柿ノ木義康をすら斃《たお》した赤井景韶の刀身がきらめいた。
ふたつの身体は相搏ったように見え、次の刹那、一方だけがのめっていった。干潟干兵衛は高々と鞭をあげて立ち、飛びちがった赤井景韶は、泥の中に伏して、二、三度うごめき、がっくりと顔を埋めた。その胴を薙いだ元会津藩同心の鞭は、若者を悶絶させるだけの力を持っていたのだ。
「………」
干兵衛は近づき、哀しげに見下ろした。それから縄で相手を縛り出した。
それをかついで立ちあがったとき――彼は、ふと前方を見た。数間先の雨の中に、ちらっと蝙蝠《こうもり》みたいに翔け去った影を見たのだ。
干兵衛はしばらくじっとそちらを眺めていたが、そのまま失神した赤井をかついで、家の中へはいっていった。
「やはり、巡査が尾けていたようです」
と、彼は赤井を土間に置いていった。
「呼笛《よびこ》が鳴っております。仲間を呼んでいるらしい」
晩香先生とお鳥は耳をかたむけた。風音の中に、たしかに遠く呼笛の音がちぎれてゆく。
「これを何とかしなけりゃなりますまいな」
干兵衛は、眼を例の行李にやっていった。
「先生、実は私がこれを加波山とかへ持っていってやろうと思うのですが」
晩香先生は驚くどころか。――
「いや、それはわしも考えていたことじゃ。実は、わしがゆこうと思っておった」
「えっ、先生が?」
干兵衛のほうが、眼をまるくした。
「先生がおゆきになっても、どうしようもございますまい」
「うん。まさか、わしが鉄砲を撃つわけにもゆかんが、ちょっといって、檄とか斬奸状とかの文章など、案じてやろうと思うての。それで、出来たら、お前さんに馬車で連れていってもらおうと考えておったが、お前さんにそんな気持があったのなら、いっそうありがたい。干兵衛さん、いっしょにゆこう」
晩香先生は、遠足にゆく子供みたいにはしゃいだ声を出した。
干兵衛は、お鳥を見て、
「遅くなっても、三、四日で帰って来られると思うが。――」
と、いって、考え込む眼になった。呼笛の声は、二つ、三つになったようであった。
「これは?」
お鳥は不安げに、縛られたまま転がっている泥ンこの赤井を眺めた。そのそばに、赤井が殺した老俥夫の屍骸があった。
「それは、警察につかまってもらう。やむを得ん。しかし……お前たちを、どうしよう?」
「三日間くらい、私たちは待っています」
「いや、警察が踏み込んで来たら、そうはゆくまい。とくにお雛が困る」
干兵衛は、お雛にいった。
「お雛、父《とと》を呼んでくれないか」
八つになった少女は、いままでの異常事を、例によってオットリと眺めて、さけび声一つたて なかった。お雛は、きちんと坐ったまま、父を呼んだ。銀鈴の声は屋根をつらぬいて、風音渦巻く夜の天へ昇った。
「あのひとを呼んで……どうなさるのでございます」
と、お鳥が訊いた。
「いま思いついたのだが、お前たち……神田猿楽町の山川健次郎先生のところへいってくれ。お鳥は山川さまのお屋敷は知っているだろう? 三、四日たったらわしが迎えにゆくといってくれ」
「わたしが。……」
「お雛がいれば、山川先生はくわしく訊かず、きっと養って下さる」
「そ、それで、蔵太郎さんをお呼びになったのは?」
「外に、いま赤井さんが乗って来た俥がある。蔵太郎にそれを曳いていってもらうのだ」
その蔵太郎はなかなか現われなかった。干兵衛が巣鴨のこの家へ来てから、いちども出て来たことはないのだ。
呼笛の声は、さらにふえた。干兵衛は、行李をかかえて立ちあがった。
「先生、とにかく馬車を持って来ます」
晩香先生は、何やらいっしんに白い布でくるんでいた。それが眉輪と麻子の位牌であることを干兵衛は認めた。
「景韶の代りにこの二人を連れてゆく。あれたちの魂のほうが、革命のいくさとやらに参加する資格がある」
と、老人は顔をあげて、からからと笑った。
心いそぐので、干兵衛はそのまま外へ出た。
依然、微かな妖光に満ちた水煙のかなたに、五つ、六つ、蝙蝠みたいに動く影が見えた。――どうしてすぐに踏み込んで来ないのか、と思い、おそらくこれまでの赤井の魔神のような破獄ぶりと神出鬼没の逃亡ぶりに怖れをいだいて、仲間を呼び集めて念入りに包囲網を張っているのだろう、と推量した。いままでの経過や尾行ぶりが不明なだけに、警察側の動きはよくわからない。
馬屋のある塾のほうへ廻って、馬車に行李をいれ、そこにかけてあった笠と合羽をつけた。そして馬車を出して廻って来ると、入口に軍服の男が立って、お鳥と向い合って何か話していた。「蔵太郎か」
いつぞやの礼をいうのも忘れ、干兵衛は叱りつけた。
「遅いではないか」
「いや、出て来るのが非常に苦しいのです。ひょっとすると、これが僕の……」
と、いいかけて、蔵太郎は父の雨支度を眺め、
「茨城の加波山というところへゆかれるのですと?」
「うむ、急ぐのだ。そちらのことより、お前に別に頼みたいことがある」
「お鳥とお雛を山川先生のお屋敷へ連れてゆく件ですな。それは簡単ですが。……」
「あまり簡単ではない。警察にとり巻かれておるのだ」
晩香先生が出て来た。
「ほう、これが、例の。……」
と、幽霊をしげしげと見あげ、見下ろしたのは、干兵衛が先生にだけ話したことがあるからだ。「どうしてあの世から出て来られるのか、のちのちの参考のためにいちどゆっくりと訊こうと思っておったが、せっかくの機会じゃというのに、今夜はそのひまがないようだ。いずれ、あちらへいってから訊かせてもらうとしよう」
干兵衛は、晩香先生の胸に抱いた白い包みを見た。
「先生。……先生は、加波山で死なれるおつもりでござるか」
と、さっきからきざしていた疑念をたしかめた。
「は、はは。うまくいったらの。干兵衛さん、つくづく見ておると、法をおもちゃにしておるのは、自由党の若者たちでのうて政府のほうじゃとわしは思うが、お前さん、どう思う?」
干兵衛の脳裡を、刑法第百二十六条の条文が通り過ぎた。
「いや、何にしても、前々代に滅んだ人間が、いまのメチャクチャな若僧どもの仲間に混って花火を揚げようとする。まあ、そこの幽霊さんと同じようなものじゃがの」
晩香先生は、高笑いした。
「なにぶん、ヒョロヒョロの仕掛花火じゃて。思うように揚がらんかも知れん。あ、は、は、は。さ、いってくれ」
干兵衛は先生を馬車に押し込むと、ふり返った。幌をかけた俥の中に、お鳥に抱かれたお雛の顔が、夜光虫のように浮かんで見えた。
「お雛。……祖父《じじ》はちょっといって来る。おとなしく待っておれよ」
「祖父《じじ》! 祖父《じじ》!」
と、お雛は呼んだ。
その声が、ふだんの生活の呼び声と少し変っているような気がした。すぐに干兵衛は、それがお雛が父の亡霊を呼ぶときと同じ調子であることに気がついた。
「よんだら、きてくれるね、祖父《じじ》!」
「ああ、ゆく」反射的に答えて、干兵衛はみずからぎょっとした。
「父上、僕が先に走ります。途中まで、あとをついて来て下さい」
蔵太郎は梶棒をとりあげた。
俥につづいて、馬車も動き出した。
ふりしぶく雨に呼笛がひびき、向うから点々と黒い影が駈け寄って来るのが見えた。干兵衛は、はっとしたが、前方の俥は平気で走ってゆく。
すぐに影のむれとゆき逢った。抜剣した巡査たちであった。それが――いかに豪雨の中とはいえ、一台の俥と一台の馬車とすれちがいながら、彼らには何物も見えないかのように、一心不乱に庚申塚の方角へ駈け去っていった。……
人力俥とは道灌山の近くで別れた。俥は南へ、馬車は東へ。
このとき馬と馬車が蹄とわだちの音をたてはじめたのに、干兵衛は気がつかない。
やがて千住大橋を渡り、北へ向って駈けながら、干潟干兵衛はゆくての空に蒼白い光を見た。夜明けにはまだ遠いのに、そうとしか思えない凄愴の光であった。
ひょっとしたら、おれは晩香先生と――いや、自由党の若い連中と運命をともにすることになりはしないか。――さっきお雛をお鳥に託して山川家にやったときから、虫の知らせでおれはある予感を持っていたのではないか。――と、彼は考えた。
しかも、それを怖れるどころか、身体の底から、田原坂《たばるざか》や会津で燃えた血が、ふつふつとまた甦って来るのを彼は感じた。――おれの残生の捨場所は、これからゆくところにあるのかも知れない。
「急げ。……玄武! 青龍!」
鞭をふるう干潟干兵衛の姿は、すでにその女房や息子と同じ燐光にふちどられていた。爆裂弾を乗せた辻馬車は、水天わかちがたい夜の武蔵野を、まっしぐらに翔けていった。
[#地付き]〈幻燈辻馬車 了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和五十五年一月二十五日刊
初出誌 週刊新潮/昭和五十年一月二日号〜十二月二十五日号
単行本 昭和五十一年八月新潮社刊