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山田風太郎
室町少年倶楽部
目 次
室町の大予言
室町少年倶楽部
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室町の大予言
足利《あしかが》将軍という最高権力者の地位にありながら、その四代将軍|義持《よしもち》ほど、一切「否定」の生涯をすごした人物はめずらしい。
彼は九歳で将軍となったが、先代の父|義満《よしみつ》は健在で、彼はただ室町第《むろまちだい》におかれた人形にすぎなかった。
父義満は、健在も健在、そのときまだ三十七歳で、そもそも将軍職を子にゆずったのも、天皇から宣下《せんげ》された俗界の職名をすてて、それを超越した地位にあって君臨するのが目的であった。義満は自分が造営した「花の御所」と呼ばれる室町第もすてて、別に創造した北山第にあって、権力と悦楽のかぎりをつくした。
影うすい少年期をすごした義持に、その上、大危機さえ訪れた。父義満が、彼より八つ年下の、しかもおびただしい側妾《そばめ》の一人の生んだ義嗣《よしつぐ》を溺愛するようになったからだ。
あげくのはて――一四〇八年のことだが――義満は北山第に後小松天皇の行幸《ぎようこう》をあおいで、その天盃を義嗣にたまわらせた。事実上の新・相続者の認証の式典であった。
そのとき兄の義持は陪席《ばいせき》さえも許されず、この盛儀の警備役を命じられるというていたらくであった。放っておけば彼は、将軍の地位はおろか、やがて生命すらあやうい事態になったろう。
突如として運命は逆転した。
その盛儀のあとわずか二カ月ほどして、義満がまだ五十一で急死するという奇蹟が起ったのである。
風前のともしびであった義持の将軍の座は、これで確定した。彼は二十三歳であった。
これから彼の「父否定」の人生がはじまる。
義持は、父が生前に受けるつもりでいた「太上天皇」の尊号を辞退した。
花の御所をはるかにしのぎ、「西方極楽にも換《か》うべからず」といわれた北山第の大建築群も、その中ののちに金閣寺と呼ばれる舎利殿《しやりでん》一棟を残して、すべて解体消滅させてしまった。
のみならず、やはり義満が作った花の御所そのものからもひきはらい、祖父の二代|義詮《よしあきら》が住んでいた三条坊門の屋敷に移った。
ついで、義満が熱中し、その豪富のもととなっていた日明《にちみん》貿易を断絶した。
その絶交状がすごい。「わが先君義満が突如急死したのは、貴国との交易にあたり、臣などと称したことへの日本の神々の怒りのゆえである。もし今回のわが挙に不満があって攻めよせるなら、われ戦わん。かつて神風により元軍百万を海の藻屑《もくず》としたことを再現するであろう」というのである。いささか一人相撲の観がないでもない。
また父に寵愛《ちようあい》を受けていたとりまきたちを遠ざけ、逆に父の怒りを買って罰せられていた人々を赦免した。
義満の愛したものを排斥したもっともいたましい例は、当代一の名ある能の世阿弥《ぜあみ》を幕府の催しからほとんど遠ざけたことである。その代りに彼は、田楽《でんがく》の増阿弥《ぞうあみ》をひいきにした。
――というと、しごく簡単な変革に聞こえるが、事実はむろんそう容易にはゆかない。とくに勢力転換の件など、父があまりに巨大な存在であったため、血を見なければ不可能な事態がいくつもあった。
たとえば、かつて自分をしのごうとした異腹の弟義嗣がのちに謀叛《むほん》を計ったので、これらをとらえて相国寺《しようこくじ》林光院に幽閉し、さらに火をはなって焼き殺してしまうという凄惨な事件もあった。
彼が父否定の人生をすごしたといったが、その父が巨大すぎて、それは一切《ヽヽ》否定の人生にならざるを得なかった。
その否定作業に彼はヘトヘトになり、また父の否定だけに生きているという世評に、また彼はヘトヘトになった。
といって義持が、いわゆるエディプス・コンプレックスばかりに憑《つ》かれて生きた陰湿な人間かというと、意外にらいらくな一面も持っている人物であったらしいが、それにしても事実上の将軍となってから、否定ばかりの十五年ほどをへて自分の人生をふりかえると、一種のむなしさにとらえられたであろうことも推察できる。
彼が三十八歳のとき、子の義量《よしかず》に将軍をゆずって隠遁生活にはいったのも、父の場合とちがって、そんな精神的な疲労のせいであったろう。
義持は、父の野放図《のほうず》な漁色ぶりにも反感をおぼえていたため、側室も少なく、男の子は義量だけであった。彼は息子が、自分のような負《ふ》の妄執から解放された人生を送ることを祈った。
しかるに、その五代将軍義量は二年後、十九歳で早世してしまったのである。
天皇には重祚《じゆうそ》という例があるが、隠退した義持は将軍に戻らなかった。これで名目上、将軍は存在しなくなった。で、将軍空位の幕府がしばらくつづくのである。義持の絶望が思いやられる。
三年後――一四二八年一月はじめ――こんどは義持自身、足に腫物《しゆもつ》を生じ、これを風呂で掻《か》き破ってみるみる悪化し、瀕死の床につくことになった。――
一月十八日の夕刻のことであった。
三条坊門の屋敷は、陰鬱に動揺する人馬につつまれていたが、その音を絶《た》ったような奥ふかい一室の死床のまわりに、三|管領《かんれい》、四職《ししき》と呼ばれる幕府の重臣たち七人が、憂色にそそけだった顔を集めて、とりまいた。ほかには、看病のための医師一人、小姓一人がいるだけだ。
三管領とは交代で首相役につく家柄で、畠山、細川、斯波《しば》の三家、四職とはそれに準ずる家柄で、山名、赤松、一色《いつしき》、京極《きようごく》の四家である。
庭の梅もちぢむ底冷えする日なのに、病室には熱気がこもっている。いくつかある手あぶりのせいではなく、病人の高熱によるものであった。それに膿《うみ》の異臭がまじる。
とみには何の声も出しかねている一同の中から、
「上様」
やっと口を切ったのは、ときの管領畠山|満家《みついえ》であった。
「……悲しや、おそれながらお別れのおんときも遠からずと存じまする。この際、われらあえて承《うけたまわ》っておきたい一つの大事は、御|世子《せいし》の件でござりまするが……五代さま御早世のいまと相成っては、四人の弟ぎみの中のどなたかを次のお世継ぎといたすほかはないと存じまするが」
やはり管領家の細川|持之《もちゆき》もにじりよった。
「その四人のお方のどなたを六代さまとあおぐべきか、なにとぞお名ざしのほどを願いあげたてまつりまする」
義持は、だまって眼をとじて、しばらく返事をしなかった。
いかにも、義持には、四人の弟があった。――
漁色家の父義満は、十八人の妻妾に二十一人の子女を残したが、夭折《ようせつ》者も少なからず、またさきに述べた義嗣のような例もあって、この時点においては、男子としては四人の弟があるのみであった。
義持は正妻の子で、弟たちのうち一人は同腹だが、あと三人は妾腹だ。そして、いずれも早くから僧籍にいれられている。
しかし、義持に嫡子《ちやくし》がない以上、この四人の中から六代目の将軍をたてるよりほかはない。が、義持はまだ四十三歳で新しい嫡子の誕生の見込みはあり、またこんどの死病が急であったために、このような万一の際の意思は、だれもたしかめていなかったのである。
実はそれを聞くために、いまのいま将軍がこときれるとは思わず、その四人の弟ぎみはもとより、御台《みだい》までしばらく別室におひかえ願って、この七人だけが――一人でも欠けたらあとに悶着を残すおそれがあるので、七人全員が、その件についての将軍の断を聞くために、いまここに集まったのであった。
「お年の順番で申せば、まず青蓮院義円《しようれんいんぎえん》さまでござりまするが……」
と、細川持之がいった。
義持の黒ずんだ唇がうごいた。
「クジジャレ」
そう聞こえた。
みな、耳に手をあてた。何といったか、よくわからなかったのだ。
義持は眼をつむったまま、あえぎとも聞こえる声でまたいった。
「クジでやれ」
一同は、顔を見合わせた。
畠山満家が聞きかえした。
「上様……その四人のお方を、あの、クジでえらべ、と、仰せられるのでござりますか。……」
義持はうなずいた。
「ば、ばかな!」
うしろのほうで、低いが、はげしい声をもらしたものがある。
四職の家柄の山名|持豊《もちとよ》だ。
――のちに天下を二分する応仁《おうにん》の乱の一方の大将となる山名宗全だが、このとき彼はまだ二十五歳、髪は黒々としたせいかんな容貌で、すでに武勇をもって知られていた。
「いやしくも天下の征夷大将軍をクジビキでえらぶとは前代|未聞《みもん》。……」
しいっ、と、まわりの眼は叱《しか》ったが、しかし同じ思いの眼でもあった。
死床の将軍の言葉とはいえ、あまりといえばあまりな指令だ。将軍家は病毒のため異常になられたのではあるまいか?
「赤松おるか」
義持が、虫のような声でまたいった。
「は。――」
群臣の中から、妙な肉塊がころがり出した。
やはり四職の、播磨《はりま》の太守で、名は赤松|満祐《みつすけ》というが、これを妙な肉塊といったのは、背は一メートル五〇センチになるやならずだが、頸も胴もないほどずんどうにふとった体躯《たいく》の持主で、しかも入道頭だったからだ。
「石清水《いわしみず》で、くすのき籤《くじ》をひかせよ。……」
「はっ」
「それなら彼らは、自分の運命を自分の手でえらぶことになる。……」
そういうと、ひときわ膿臭を濃く発散しながら、四代将軍足利義持は、がくんと首をのけぞらせた。
一生あまり笑ったことのないこの人物の顔は、この凄惨な死に方なのに、どこかうすら笑いを浮かべているように見えた。
医者が、小さな柄鏡《えかがみ》を義持の鼻孔にあて、将軍の死を告げた。
うなされたような顔でそれを見まもっていた重臣たちの中から、やはり三管領の一家の斯波|義淳《よしあつ》がまずわれにかえって、
「御台さまを」
と、うながし、小姓が立とうとすると、
「待て」
と、細川持之がとめて、赤松満祐をふりかえり、
「それより、赤松どの、いまの上様の最後のお言葉、くすのき籤云々とは何のことじゃ?」
と、尋ねた。
将軍の死も重大事だが、それはここにいる者すべてにとって、それ以上に心をとらえた奇異な遺言にちがいなかった。
「いや、驚き申した。そのようなことを上様が憶《おぼ》えておわしたとは」
と、満祐も面妖《めんよう》な表情で、
「二、三年前でしたか、一夜上様との夜語りの座で、太平記の話が出た際、ふと私の曾祖父《ひいじじ》の円心が、例の楠木《くすのき》から聞いたという籤の話を申しあげたことがござった」
楠木の名はながらく足利家にとってタブーであったが、正成《まさしげ》が死んでからもう百年ちかく、「太平記」という書物が出てからも五十年くらいたち、楠木の兵法話が足利将軍のまわりでも夜ばなしとして語られて、ふしぎではない時代となっていたのだ。
「実はわが家に、太平記・円心おぼえ書《がき》≠ニ申し、太平記の写本の各条々に、同時代に体験した円心入道のおぼえ書を附記したものがあるのでござる」
と満祐はいった。
「ほう?」
「さて、人はことの吉凶、勝敗、順序などをきめる際、しばしば籤を使います。それを正成は彼の発明による独特の籤を用いたそうで……曾祖父円心がじかに正成から聞き、あまり変った籤なので、それを右のおぼえ書に図入りで書き残しております。で、その話を上様に申しあげたところ、よほど興をもよおされたものと見え申すが、しかしいま、それを使えと御遺言にまでお口にせらるるとは。……」
「どういう籤なのじゃ」
「それには……おぼえ書も図入りでござるが、ちょっと紙とすずりがいります」
「待て、それはやはりあとで聞こう」
と、細川持之が制して、
「とにかく御台さま、御連枝《ごれんし》の方々をここへ」
と、小姓に命じた。
さて、それから将軍葬儀のだんどりについて、協議、準備、手配などに忙殺される数日が経過したことはいうまでもない。
葬儀は二十三日ときまったが、後継者の決定は一日も急ぐから、右の「くすのき籤」の説明を、赤松満祐からあらためて聴取したのは、死後三日目の二十一日のことであった。このときは、故将軍の四人の弟たちも出席した。
満祐は、紙と筆で説明しはじめた。
それによると――正成によれば、いくさをするにあたって、兵法の道に迷うことがある。二つに一つの場合ならまだ簡単だが、それが三つ、四つ、五つの道にわかれると、その条件が錯綜《さくそう》して、いかに腹心の参謀と思案をめぐらしても、いずれをえらぶべきか混迷状態におちいることがある。
そんな場合、たとえば四つの兵法が考えられるとき、紙に次のような図をえがく。
[#挿絵(img\017.jpg、横133×縦385)]
甲乙丙丁は、それぞれの作戦案である。下は作戦者だが、これはだれがどこの位置についてもよい。その意味は次にあきらかになる。
次に各自が、これに適当に横筋をいれる。四人なら二本ずつとするが、実は何本でもいい。ただ、その横筋は必ずくいちがっていなければならない。たとえば。――
[#挿絵(img\018-1.jpg、横140×縦387)]
そして各自が、自分の位置から出発して、作戦案の方向へ、あらためて筆を進行させる。このときは最初に出合う横筋のところで必ず曲り、縦《たて》の線にはいると必ず前方へ進まなければならない。すると、各自は一人ずつ、ふしぎにも甲乙丙丁別々の目標に到達する。
そして正成は、自分の到達した目標の作戦案をえらばなければならない。
右の場合なら、
[#挿絵(img\018-2.jpg、横137×縦385)]
つまり、甲案である。
この横筋のひき次第で、その一本だけで、自分のみならず全般の進行の経路は変る。試みにためしてみられるがよい。最後の一本がひかれるまで、自分がどの目標に達するかわからないのである。これは一つの天意だ。しかも自分のひく線もかかわっているのだから、同時に人意でもある。
すなわちこれは、天意とおのれの意思を綯《な》いあわせた結果の選抜となる。
自分はそう確信して、その結果で決定した兵法で、いくたの戦いに勝利してきた、と正成は赤松円心に語り、かつまた、これはいくさにかぎらない。人生万事方途に迷うことは少なからず、その際この籤で大事をきめた例はかずかずござる、と語ったという。
さて、すでに読者の中にはお気づきのひともあるかと思うが、これは現在アミダ籤と呼ばれるものである。
しかし元来アミダ籤なるものは広辞苑にもあるように「白紙に阿弥陀の光背に似た放射状の線を引き、金額をその一端に隠し置き、各自が引き当てた額の銭を出す……」形式のものであった。このくすのき籤をいつ、いかにしてアミダ籤と呼ぶようになったかはつまびらかではない。
後醍醐《ごだいご》天皇が北条幕府打倒の行動を起したとき、最初にこれに応じて幕府に挑戦したのは河内《かわち》の楠木正成であったが、これについだのは播磨の豪族赤松円心であった。円心は幕府の本拠|六波羅《ろくはら》を攻めおとすさきがけとなった。そのとき両者|相連繋《あいれんけい》して作戦したことから、幕府打倒後、建武政府のもとで両人親しく語り合う日もあったであろう。右のような話は、そのころかわされたものではあるまいか――と、満祐はいった。
ところで、その建武政府のもとで正成につぐ大功労者ともいえる円心は、その後どういうものか甚《はなは》だ不遇であった。これはのちに建武政府の重大な失敗の一つに数えられている。そのために円心は、やがて足利が天皇に対抗して起《た》つと、ただちにその陣営に投じた。そして湊川《みなとがわ》前後、よく新田《につた》軍を牽制《けんせい》し、足利|直義《ただよし》とともに正成をほろぼすに至る。――
この史実は、満祐が語らずとも、だれでも知っている。――で、このときも、
「……はて、しからば湊川のとき、正成はやはりそのくすのき籤をひいたに相違ないが、いかなる兵法をたてて敗れたものかな?」
と、首をかしげてつぶやいたのは、若い山名|持豊《もちとよ》であったが、管領畠山満家はさし迫った表情で、
「いや、いまは昔の湊川のいくさ論議などしておるときではない」
と、さえぎって、
「さて、くすのき籤のことはよくわかった。まことに神変不可思議な籤じゃ。なるほど故上様が、御臨終にあたってお口になされたのもうなずける。と、申して……このたびの儀、兵法にかかわることではない。この籤をお世継ぎ選びと、いかにして結びつけるのじゃ?」
と、首をひねった。
「されば」
と、赤松満祐がいった。
「この図で、正成、参謀の位置のいずれかをそれぞれ御連枝におえらびねがい、一方、甲乙丙丁の場のいずれかに足利家の定紋《じようもん》を書きいれます。それからいま申しあげたごとく、みなさまに横筋をひいていただいたあと、いっせいに筆をすすめ、定紋にゆきあたったお方が当選、ということにしてはいかがでござる?」
「ふうむ。……」
「おう、上様は最後に、彼らは自分の運命を自分の手でえらぶことになる、と仰せられました。その方々がみずから横筋をひかれなば、まさしく御自分の手で御自分の運命をおえらびになることになる、と存じまするが。……」
みんな、その四人の弟ぎみのほうを見た。
そこにならんでいた四つの青い坊主あたまが、いっせいにうなずいた。承知したのである。
そのとき、細川持之が、ふとまたいった。
「やあ、もう一つ、上様は、くすのき籤は石清水でひかせよ、と仰せられたな」
石清水とはむろん石清水八幡宮のことだ。
石清水八幡宮の名が突然出てきたこと自体は、みな奇想天外なこととは思わなかった。
元来、八幡宮は応神天皇を主祭神として各地に無数に祭られ、太古から伊勢神宮についで朝廷の尊崇が篤《あつ》かったが、とくに平安朝時代に京にちかい石清水に迎えられ、やがて鎌倉期になると源氏の氏神となり、さらに室町期にはいると石清水八幡宮は西の宇佐、東の鶴岡《つるがおか》を左右に従えて見えるほど、足利将軍の崇敬を受けるに至った。
代々の将軍は、祈願のため、吉凶を占うため、祝福のため、魔よけのため――何かといえばここに詣《まい》る。
義持もまた生涯に三十回、石清水八幡宮に参詣したといわれる。――だから重臣たちは、その遺言を唐突とは考えなかったのである。
とはいえ、義持がくすのき籤を石清水八幡宮でひけ、といったのは、結果は神慮だ、というかたちをととのえたいために神前でひけ、という意味にすぎなかったであろうが、もし彼が数日後、そこにくりひろげられた大セレモニーを見たら、これは、と目を見張ったにちがいない。
くすのき籤は、突如大がかりなものになったのだ。
石清水八幡宮は、京と大坂のほぼまんなかあたり、淀川のちかくに屹立《きつりつ》する男山《おとこやま》山上にある。そのため別名男山八幡宮とも呼ばれる。
いまでは麓《ふもと》の八幡市《やわたし》というさびしい駅からケーブルカーで上る。深々《しんしん》たる杉木立の中に、忘れられたような神社にすぎないが、このころは麓から山頂まで無数の石段と石|灯籠《どうろう》をつらね、数十の堂舎僧坊のいらかを重ねた壮観を見せていた。
寒風が杉のこずえをごうごうと鳴らしているが、雲ひとつない蒼空《あおぞら》であった。
その日、男山の参道は、麓から山上まで数千の武士や貴婦人で充満した。
三管領、四職はもとよりそれ以下の幕府の要人たち、公卿《くげ》、神官、高僧、それに女房、侍臣ら――いずれもきょうの「神事」を見るためだが、何が起るかわからない雲ゆきもないではない性質の催しものなので、警戒にあたる侍たちでこの人数となったのだ。
それがはじまる予定の未《ひつじ》の上刻(午後二時ごろ)が近づいて、本殿あたりの一劃《いつかく》からざわめきがたかまってきた。
本殿の前の、白砂を敷いた広場に、黒く染めた麻を綯《な》った十|間《けん》もある縄が、四本、平行してならべられはじめたのだ。
両側には桟敷《さじき》さえ作られて、そこにいながれた貴顕《きけん》の人々の口からまずざわめきがあがったのであった。
その広場の入口あたりの群集の中に、異風の姿が一つあった。墨染めの衣《ころも》に網代笠《あじろがさ》という雲水《うんすい》だが、これが綺羅《きら》をかざった正装ぞろいの中で、笠も裂け、衣もボロボロという汚さだ。それに、雲水のくせに、腰に木刀を一本横たえている。
「ほ。――あれがくすのき籤の縦の線にあたるやつか」
「左様らしゅうござるな」
答えたのは、二十なかばの武士である。
「しかし、正成はただ紙と筆で籤を作ったそうだが、それをこんなハデなものに仕立てたのはだれだ」
「だれも知りませんが、実は私で」
「なに、お前さんが」
「兄者《あにじや》からこんどのくすのき籤の話を聞き、そこでそれを、天下の将軍をえらぶにふさわしい大がかりなものにしてはどうか、と進言したところ、兄者は手を打って、それから山名どのと相談した結果がこれです」
「ふうむ?」
これは見なおした、といった風で、雲水はあらためて相手の顔をかえりみた。
にがみばしった男の中の男、といいたい容貌で、背は六尺にちかい。
彼がいま兄者といったのは、四職の赤松満祐のことだ。この若い武士は、その弟の赤松|左馬助則繁《さまのすけのりしげ》という。――年もずいぶんちがう異腹の弟とはいえ、兄が五尺足らずのずんどう男なのに対し、この左馬助は常人を超えた堂々たる体躯の持主で、赤松|名代《なだい》の剛の者として知られている。
さっきから、この異風のオンボロ僧を連れて歩いて、警護の武士たちが何かいいかけてすぐに尻ごみしたのは、この同伴者の顔を見たからだ。しかもこのあばれ者が、この僧に対してはばかにうやうやしい。
「それにしても、将軍のあとつぎをクジでえらべとは、義持公も変っておるなあ」
「まことにその通りで」
「あのおひとに、そんな諧謔《かいぎやく》味があろうとは意外だったよ」
「諧謔味――これがおかしゅうござるか」
「虚無的といってもいい」
「は?」
「あのおひとの一生は、父を否定する一生だった。そして、死にあたって、後継者もまた否定した」
「しかし、ともかくもクジでえらべ、と御遺言なされたではござらんか」
「それは、だれにも否定的だったからだよ。……ま、それもわかるがな」
「御四方とも、御存知なので?」
「ああ、知ってる。四人とも父御《ててご》の血を享《う》けて、坊主のくせにみんなどこか気ちがいじみたところがあるよ」
赤松左馬助は変な顔をして相手を見た。
網代笠にかくれてはいるが、その中の顔は清僧《せいそう》そのものの容貌をしていることを彼は知っている。が、この人が、何をいう、といまそれを見ようとしたのは、これがまだ三十なかばだが、すでに都では気ちがい坊主という評判もある禅僧一休だったからだ。
赤松左馬助は、しかし数年前ふと知り合ったこの風狂の禅僧に心底|惚《ほ》れてしまい、ほかのどんな名門の武家に対するよりも純粋な師礼を捧げているのであった。
あの四人の方々はいずれも名刹《めいさつ》の門跡《もんぜき》だが、ボロ袈裟《げさ》をつけてはいるけれど、天衣無縫、天馬往来の観ある一休さまなら、どんな地位の僧でも相知っていたとしてもふしぎではない、と左馬助は考えた。
彼はふと、兄から聞いた一休の、十七か十八のころの逸話を思い出した。
そのころ一休は、清叟《せいそう》という高僧に随侍《ずいじ》していたが、その庵《いおり》には清叟の寿像(生きているうちに作られた木像)が置かれてあった。数日師僧が不在のとき、弟子たちがたわむれにその像に金襴《きんらん》の袈裟をかけた。そして、そのことを忘れた。
そのとき将軍義持が、近くの寺へ来たついでだ、といって突然立ちよった。一休たちは、師はるすでございます、といった。将軍は、かまわぬ、清叟の寿像を作ったそうだな、それを見せてくれ、といって庵の中へはいってこようとした。このとき僧たちは、奥の寿像に金襴の袈裟がかけてあることを思い出して、はっとした。幕府の許可のない金襴の袈裟は御禁制だったからである。
「師のお許しなければ、庵への立ち入りはどなたでもおことわりします」
一休は将軍の前に立ちふさがって、両手をひろげた。
将軍のそばについていた赤松満祐が、「無礼者、そこ通せ」と、叫んだ。
すると一休は、彼を見て――アカンベーをした。
「この若僧は何者か」
と将軍はきいた。彼が名乗ると、
「ほ、お前が一休宗純と申すか」
意外にも義持公はその名をすでに知っていて、しげしげとその顔をながめ、それ以上おしてはいることなく、スタスタとひきかえしていったという。――
「わしにアカンベーをすることは、同時に公方《くぼう》さまにアカンベーをすることだから、その年でその豪胆、驚くべきものだ」
と満祐は呆れはてたように笑って話し、
「それにしても上様は、なぜ一休の名を御存知であったのかな?」
と、首をかしげたが。――
こんど亡くなった義持公と一休の間には、少なくともこんな挿話《そうわ》があったのだ。
それかあらぬか、きょうの八幡宮の次代将軍えらびのことを聞いて、一休がノコノコとやってきて、運よくめぐりあった左馬助が、こうして案内したのだが。――
「義満公のお子らの中で、気性の点では義持公が、いちばんマトモなほうに見えたが、それでもこんなことをやられる」
と、いま一休はつぶやいた。
「あとはそれぞれ、父御のマトモでないところを、一|片《きれ》ずつ伝えておるな。中でも――」
と、いいかけて、ふとむこうをながめ、
「や、その四人と巫女《みこ》が出てきたぞ。いよいよ将軍えらびの籤がはじまったようだ」
と、叫んだ。
いわゆる八幡造りと呼ばれる独特の建築様式の本殿の前の白砂の広場には、さっき長さ十間ばかりの四本の黒縄が縦に横たえられた。
その本殿の横から、四人の僧と四人の巫女があらわれて、男女一組ずつが、その黒縄の端《はし》に立った。
巫女はおきまりの白衣に緋《ひ》のはかまをつけているが、八幡宮ではことに巫女を重んじる。どれもえりすぐった美少女ばかりであった。そして、手前から見て、いちばん左端の位置に立った巫女は片手に一本の旗をついていた。旗には二引両《ふたつひきりよう》が染められていた。足利家の紋章だ。
図ではただ足利家の紋章をかきいれるだけのものであったが、この大じかけになったのである。
そして、四人の僧はみな紫の袈裟をまとい、片腕に朱の房をたらしていた。
青蓮院義円。
大覚寺|義昭《ぎしよう》。
相国寺|永隆《えいりゆう》。
梶井|義承《ぎしよう》。
このうち青蓮院義円は故将軍と同腹だが、あとは異腹の弟たちである。ひとり梶井に寺号がつかないが、これは三千院のことだ。――みな三十代か二十代後半である。
青蓮院義円は、やせがたで、沈鬱な顔をした男であった。
大覚寺義昭は、ふとった大男で、頭はそっているのにひげをはやしていた。
相国寺永隆は、いかにも陽気で快楽的な容貌をしていた。
梶井義承は、僧にしたのが気の毒なほどの美男であった。
さて、男山山上たかく、|とうとう《ヽヽヽヽ》と太鼓の音が鳴った。桟敷席がどよめいた。
四本の縄の端から、四人の将軍候補者は歩き出した。縄に沿って――ではない。てんでに左右自在に移動しながらである。
そして彼らは、あるいはわきめもふらず、あるいはちょっと立ちどまって迷いながら、自分の腕にかけた朱の房を一本ずつ、その両端を縄に結びつけた。どこに結ぶか、彼らの自由意思である。ただその位置は、他の者とずらさなければならない。
その朱の房が、くすのき籤の横筋にあたった。それも赤松満祐が最初に解説したとき、各自の持つ横筋は二本ずつとしたが、この日のくすのき籤では、さらに複雑にするために各自の持つ朱の房は三本ずつとした。
結びつけるのはどこでもいいといったが、その結びによって、その人間が将軍になれるかどうかが決するのだ。しかし、自分だけの結びできまるのではない。他の三人の結びによっても支配される。そして自分の結びも他の三人を支配するのだ。
四人が、それぞれの房を使いつくして、縄の反対の端に立ったとき、桟敷はしーんとしていた。みな眼で、白砂の上に、黒縄と朱の房で描き出された巨大な梯子《はしご》図形を読もうと眼をこらしたのである。
候補者たちは、それを読みとるいとまもなかった。
たちまち、また太鼓が鳴りはじめたのである。
彼らはいっせいに、自分たちの作ったその図形を、逆にたどって歩き出した。
これは一種の「迷路」であった。
[#挿絵(img\031.jpg)]
こんどは縄と房だけに沿って歩く。最初の結び目で曲る。次々の結び目で曲る。ただしあとずさりは許されず、巫女の立つ方向へ、ひたすら進む。
彼らはそれぞれの巫女のもとに到達した。
|とうとう《ヽヽヽヽ》と太鼓が鳴りわたり、桟敷や庭につめた見物人たちは、地鳴りのようなどよめきをあげた。――
足利の旗を持つ巫女のもとへ到達したのはだれか?
「うへへ、心配しておったことが起ったわえ」
と、網代笠の中で一休が長嘆した。
「こりゃ、いちばんおっかないのが旗をつかまえよった!」
規模は大きいとはいえ、これはやはり籤にはちがいない。日本歴史上、最高権力者がクジビキでえらび出されたなどという例は、あとにもさきにもない、このときだけである。
青蓮院義円は、三十五歳で僧の世界からたち帰り、第六代の足利将軍となった。名は義教《よしのり》とあらためた。
彼が当選したとき、一休の独語を聞いた者は赤松左馬助以外にはなかったが、重臣たちもまた「これはどうかな」と、首をひねった。――候補者の中で、いちばん将軍に不向きではないか、と、みな漠然と考えていたからである。
そもそも青蓮院義円は、故将軍と同腹であり、かつ候補者中の最年長者である。本来なら、別に異議なく後継者に指名されるところだ。それなのにそうされなかったのは、義持が義円を指すのに何やら心すすまぬものがあり、さればとてそれを飛びこえて他の弟たちを指名するのもはばかられて、最後のなかば幽界の思案の中からクジビキなどという奇怪なえらびかたを持ち出したに相違ない。
故将軍があっさりときめかねたのも道理、青蓮院義円は、みるからに苦行僧のように陰鬱で、一面それだけに宗教的な雰囲気をいちばん濃くただよわせているように見えた。
それが、変ったのである。
青蓮院を出て将軍の座につくや、陰気なその顔は凄愴の気をおび、瞑想的なその眼はらんらんと銀色の妖光をはなってきたのである。
彼は長身|痩躯《そうく》で、細い口ひげをピンとはやしていた。言語は明晰《めいせき》で、決断的で、まわりくどいことをきらい、諸人を頭から軽蔑している眼をして、かん高い声を発した。
しかし、そんな声も眼も、それまでの僧の時代には目立たなくて、将軍になってからみるみる強烈性を発揮してきたものであった。
義教は、彼なりの「天下|布武《ふぶ》」と、大粛正を開始した。
彼は父の義満の作った花の御所に帰還した。
義満は南朝をほろぼして足利幕府を確立したけれど、まだ完全に天下を統一したとはいえなかった。東には関東公方があり、西にはなお異心をすてない九州の諸豪族があった。
初代|尊氏《たかうじ》は対南朝政策のため幕府を京に移したが、鎌倉にも四男|基氏《もとうじ》をおいたので、やがてその子孫がことごとに京の本家に反抗的態度を示し、それを義満、義持も扱いかねていたのを、義教にいたってついにたたき伏せたのだ。義教は関東公方の持氏《もちうじ》はもとより、捕えたその少年児二人まで斬った。
このとき関東方の残党里見|義実《よしざね》が落武者となって南総にのがれ、かくて「南総里見八犬伝」の幕があがるのである。
一方、九州でも、なお臣従をいさぎよしとしない、大友、少弐《しように》、菊池らの豪族を、周防《すおう》の大内氏に一掃させた。そしてこの手柄をたてた大内氏がやや増長するかに見えると、断乎《だんこ》逆にその所領をけずって威圧した。
また、彼が将軍になる前後から、はじめて各地に「土一揆」なるものが起りはじめていた。それは収奪に対する反抗というより、民衆の力の最初の勃興を示す現象であったが、彼はこれを鎮圧する大将に、もっともよく赤松満祐と山名持豊を使った。この両人はよくその期待にこたえた。赤松と山名の兵が出動すると、その掠奪ぶりは一揆より怖ろしい、と世に伝えられたほどである。
これが、三十なかばまで坊主であった将軍の見せつけた堂々たる武威であった。義円は青蓮院のうすぐらい僧房で何を修行していたのか――義教は戦略攻略にかけて、雷電のようなひらめきを持っていた。
武威は朝幕の規律の乱れに対しても、容赦なく鉄槌となって下された。
公卿たちがろくに御所に参内《さんだい》もせず、一方ひっきりなしに柳営《りゆうえい》のほうへおべんちゃらにごきげんうかがいするのをただして、柳営への出入りを制限し、御所への出仕の出欠簿を作らせた。
御所内での往来に男女の別をきびしくし、それぞれの居住区域の間に新しく壁を作らせ、女官の身であるべからざる妊娠をしたものがあると知ると、密通した公卿をさがし出し、双方|遠流《おんる》に処した。
それからまた彼は、幕府の機構を変え、政治はいままでのように三管領四職の補佐によらず、徹底的に自分の独裁が可能になるようにした。
ところで、彼の武断ぶりが、こういう大事にばかり発揮されたならいいが、同時にそれはきわめて気まぐれで、発作的で、さらに残虐性さえおびて見えるものであったから甚だこまる。
大和で争乱が起ったというので、出動した土岐《とき》、一色という大大名がこれを鎮圧して、武威を誇って自分の指令に従わないので、双方を上意討ちにしたことがある。
花の御所で大名たちの子弟が能を演じたが、それを素人《しろうと》芸だとつまらない顔をしていた公卿を見とがめて、所領を没収したことがある。
ある儀式のとき、途中でふと笑った公卿を、不謹慎だと籠居《ろうきよ》させたことがある。
何年ぶりかに上洛《じようらく》して参上した三河の老武士を、その顔を見てそれまでの無沙汰を思い出し、かえって怒りをもよおして切腹させてしまったことがある。
彼の怒りを買って、乞食《こじき》にまで落ちた公卿があり、餓死にまで追いこまれた親王がある。
幕府からの借金申し込みに応じなかった土倉《どそう》(金貸し商人)で投獄された者がある。
酌のしかたが気にくわなかったといって処刑された侍女がある。
返事のしかたが悪かったといって、彼がいつもたずさえていた金杖《きんじよう》で打ち殺された側妾がある。
献上された梅の大木を、運搬中にその枝の一本を折ったというので斬刑に処せられたお庭者がある。
料理にまずいものがあったので、これまた処刑された庖丁《ほうちよう》人がある。
甚だしきは、鶏の声が耳ざわりだというので、室町一帯から鶏を追放してしまったことがある。
――かつて仏門にあったころ、彼は一般の僧にもまさって苦行僧のような森厳《しんげん》な雰囲気を持っていたが、それは猫をかぶっていたというより、自分のそういう実像を意識し、それだけに常人以上の克己心をもってその爆発を抑制していたのではあるまいか。
義持将軍があえてクジビキなどを持ち出したのは、さすがに同腹の兄として、この弟の性格を見ぬいての危惧からではなかったか。そしてまた一休の言葉も、同じ洞察からの長嘆だったのではなかろうか。
当時の公卿は、この時代を「刃《やいば》をわたる時節」と表現し、また義教を「万人恐怖」のまと、と評している。
もっとも彼だって人間だから、思いがけぬやさしい一面を物語る逸話もあるにはある。
長兄義持に殺された義嗣は、彼にとって次兄にあたるが、実は異腹ながら同年の生まれであった。そのせいもあってか、父義満の寵愛ひとしお深かったその生母を、彼の代になってからとくにねんごろにいたわってやったし、また彼自身が処刑した関東公方持氏の子、春《しゆん》王、安《やす》王の二少年の首を見て落涙ひさしかった、という。
それはともかく、碩学《せきがく》原勝郎はその名著「東山時代に於ける一|縉紳《しんしん》の生活」の中にいう。「義教は喜怒|恒《つね》なくして酷薄なる還俗《げんぞく》将軍として、一概に非難される人ではあるが、見やうによつては因襲打破に志ある、換言すれば、新時代の魁《さきがけ》をなし得る素質のある有力なる政治家であつたのかも知れぬ」
――彼は、百年以上も早く出現しすぎたのである。
義教のかんしゃくの、もっとも悲劇的ないけにえの例をあげる。
一人は、世阿弥だ。
少年にしてその美貌と芸術的天才によって義満に寵愛され、やがて能の世界の帝王となった世阿弥は、義持の代にいたるや、例の父否定の人生観によってか、一転して|まま《ヽヽ》子扱いの座にすえられた。
この冷遇は、弟の義教になってさらに輪をかけたものになった。義教は世阿弥一座に公的な演能を禁じ、ために世阿弥の子|元雅《もとまさ》は伊勢に流寓のはてに死んだ。「一座すでに破滅しぬ」と歎いた世阿弥を、さらに佐渡流刑の運命が追い討った。一四三四年のことで、世阿弥はすでに七十二歳の老齢である。
義教がなぜこれほど世阿弥につらくあたったか、その理由はいまもわからない。
義教は世阿弥を迫害する一方で、あてつけのように世阿弥の甥《おい》音阿弥《おんあみ》をひいきにした。世阿弥が秘伝書を音阿弥に伝授しなかったのをにくんだともいわれるが、要するにこの異常な処罰は、後年秀吉が利休を処罰したのとならぶ歴史の謎である。
具体的な理由は何であったにしろ、世阿弥や利休には、彼らが意図しようとしまいと、義教や秀吉の意のままにはならぬ何かがあって、それが典型的な独裁者の根源的な|かん《ヽヽ》にさわる存在となった、というところだろう。
もう一人のいけにえは、法華《ほつけ》宗の日親《につしん》だ。
武士、公卿に基盤を持つ禅宗、天台宗などの既成宗教に対し、当時、農民への一向《いつこう》宗、土豪町人への法華宗の布教活動は凄《すさ》まじいものがあった。なかでも法華は「われ日本の柱たらん」と叫んだ日蓮《にちれん》の伝統をついで、公武への折伏《しやくぶく》にも怖れを知らなかった。
その代表的なものが日親だ。
彼はなんと、将軍のいる室町第にも伝道にやってきた。
弟子たちをひきつれ、室町第の正門の豪壮な四足《しそく》門の前に立って、
「念仏|無間《むげん》、禅天魔、真言《しんごん》亡国、律国賊!」
と、おらび、
ドンツク、ドンツク、ドンドン、ドンツク!
と、怒濤《どとう》のごとく太鼓を打ち鳴らす。
そして将軍に面会を強要する。
いまの将軍が天台宗の僧出身であることを知っているのか――天台宗は右の呪詛《じゆそ》の対象にはなってはいないが、法華の怨敵《おんてき》であることはいうまでもない――知っていればこその折伏であったに相違ない。
門番が、追いはらっても追いはらっても、性懲りもなくまたやってきては、ドンツクドンツクをやる。
むろん一万五千坪もある室町第だから、ふだんは将軍の耳にとどくことなどなかったのだが、ある春の午後、何かのはずみで義教が聞きとがめ、
「あれは何か」
と、尋ねた。
そこで寵童の赤松|嵐丸《らんまる》が、日親のことを説明すると、義教のこめかみがぴくっとうごいて、
「六角の箪笥牢《たんすろう》に放りこんでしまえ」
と、いった。
果せるかな天台宗の青蓮院にいただけあって、以前から彼はことさらに法華宗に嫌悪感を持っていたのである。
六角は京の地名だ。ここの「箪笥牢」と称するわずか四帖のひろさの檻《おり》に、日親とその弟子たち合計三十八人が追いこまれた。
人間の身体をボロキレのごとく折りたたみ、折り重ねなければはいり切れない――それでもはいり切れるかどうか疑わしい空間に押しこまれたのである。
実際、記録にそうあるのだが、容量の件はともかく、食事や排泄物はどうしたのだろう。
そんなことをもう忘れている義教の前に、当時|侍所《さむらいどころ》の所司(長官)をやっていた赤松|播磨守《はりまのかみ》満祐が、首をひねりひねりあらわれたのは、真夏の盛りであった。
「法華の日親の件でござりまするが」
一瞬、考えて、思い出した。
「ああ、あの坊主か。どうしたか」
「あれ以来、箪笥牢にいれ、それにもかかわらず坊主ども、折り重なったまま狂気のごとく南無妙法蓮華経の声をやめず、日夜おらび叫んでおりましたが、三日ほど前からちとようすが変ったのでござる」
「どう変った」
「日親が題目をやめて、奇態なことを口ばしりはじめたのでござります」
「奇態なこと?」
「題して本能寺未来記≠ニか申すものだそうで」
「本能寺未来記?」
だいぶ前になるが、彼が将軍についてまもなく、そんな名の法華の寺がまた一つできて、いまも存在することは義教も知っている。たしか場所は六角大宮であった。
「実は三、四日前、その寺の坊主が参って日親に会わせろと騒ぎたてますので、そやつもとらえて箪笥牢にほうりこんでやりました。それが持参した文書らしゅうござる」
「その文書を、日親が読みあげるのか」
「左様で」
「どういうのだ、それは?」
「何と申していいのやら、実は私にも不可解なものでござりますが、それを聞いて私は卒然と別のある文書を思い出し、聞きずてならぬものをおぼえ、ともかくかくは御注進に参った次第で」
「別の文書とは?」
「上様は、天王寺《てんのうじ》未来記なるものを御存知でござりましょうや」
「天王寺なら知っておるが」
難波《なにわ》にある聖徳太子が建立《こんりゆう》されたという日本最古の寺だ。正しくは四天王寺という。
「天王寺未来記とは太平記に出て参りますが」
「ほう?」
「太平記」は義教も読んだことがあるが、なにぶん大部な史書で、かつそれからずいぶん時もたつので、「天王寺未来記」のことなど、ちょっと記憶にない。
義教の顔を見て、赤松満祐は、
「それで、本能寺未来記なるものを御説明する前に、天王寺未来記のことについてお耳をけがしたく、ここに太平記|巻《まきの》第六、しかもわが赤松家に伝えられる太平記・円心おぼえ書≠ネる書の一部を持参いたしました」
と、したり顔でいい、たずさえた|ふくさ《ヽヽヽ》の中から、ものものしい手つきで一冊の本をとり出した。
「太平記……円心おぼえ書?」
「は、太平記に、南北朝のころ在世したわが曾祖父円心入道が、みずからの体験や感想をいろいろ書きいれたわが家秘蔵の本でござります」
赤松入道が、元弘の乱以来、そのころのいくさに深くかかわり合ったことは世に知られている。
実は例のくすのき籤の際も、この本のことは、重臣連の前で満祐が披露したことがあるのだが、そのとき義教はその座にいなかったので――いや、その後赤松家にそんな書のあることは、ちらと耳にさしはさんだことはあるが――その実物を見るのははじめてであった。
あらわれいでたのは、すり切れ、虫くいだらけの一書であった。
赤松の兵は勇猛で聞こえている。だから叛乱や一揆の鎮圧にもっともよく使い、この評判がいつわりでないことを充分認めながら、義教はこの赤松満祐がきらいであった。
そもそも彼が将軍になってまもなく満祐が、「あのくすのき籤を持ち出したのはおれだ。従っていまの将軍家はおれが作ったようなものだ」と、とくとくとしゃべったという話を聞いて不愉快に思ったが、それから十年以上もたって執念ぶかくまだ憶えている。
それはそれとして、だいいち背が異常にひくく、ずんどうの体形をして、たしかもう五十の坂を越えているはずなのに、つやつやとあぶらぎっているのも気味がわるい。
言動に遠慮会釈というもののない義教は、ずけずけと口に出して「三尺入道」と嘲《あざけ》ることもあるのだが、そんな悪罵《あくば》をとんと感じないような満祐に、いよいよイライラさせられる。
いまも赤松入道は、将軍に興をもよおさせるひとつの機を得たとばかり、あぐら鼻うごめかして「太平記・円心おぼえ書」なるオンボロの一書をとり出した。
たしかにそれに好奇心もうごいたが、それより相手のおしつけがましさに反撥《はんぱつ》をおぼえて、
「待て、その本と、日親の未来記とやら申すものと、何か関係があるのか」
と、義教はきいた。
「は、関係があるような、ないような……とにかく、お聞き下さればわかります。まずお聞き下されい」
と、満祐は委細かまわずその書をひらいて、
「こうでござる。正成、天王寺の未来記|披見《ひけん》の事」
と読み出した。
「元弘二年八月、楠木|兵衛《ひようえ》正成、住吉に参詣し、神馬《しんめ》三匹これを献ず。翌日天王寺に詣《もう》でて白鞍《しろくら》おいたる馬、白覆輪《しらぶくりん》の太刀《たち》、鎧《よろい》一両そえて引き進《まい》らす。……」
「これそのあたり、手みじかくたばねて、未来記のことを申せ」
と、義教はせきたてた。
「は、それでは」
と、満祐は首をちぢめ、しかしべつにいそぐようすもない口調で、
「その前、正成は河内の赤坂の城を失い、みかどは隠岐《おき》に流されておわしたが、その正成はふたたび出現して天王寺で大いに北条勢を破り申した。その戦勝の礼に天王寺に詣でて供物《くもつ》をささげたのち、さて正成は、この寺には古くから聖徳太子の未来記なるものが秘蔵されてあると聞く。できたらその一部なりと拝見願えまいか、と申し出ました」
未来記とは、いわゆる「大予言」のことだ。
「そこで僧が、蔵からその巻物をとり出して正成に見せたのは、次のような不可思議の文言《もんごん》でござった。――」
ここでいちだんと声はりあげて、
[#ここからゴシック体]
「人王九十五代ニ当ツテ、天下ヒトタビ乱レテ主安カラズ。コノトキ東魚来ツテ四海ヲ呑ム。
日|西天《さいてん》ニ没スルコト三百七十余個日、西鳥来ツテ東魚ヲ食《くら》フ。
ソノノチ海内《かいだい》一ニ帰スルコト三年、|※[#「けものへん+彌」、unicode737c]猴《びこう》ノ如クナル者、天下ヲ掠ムルコト三十余年、大凶変ジテ一|元《げん》ニ帰ス」
[#ここでゴシック体終わり]
と、読みあげた。
「なんのことじゃ?」
「太平記には、正成の解《かい》として、こうござります。人王九十五代とはまさしく後醍醐のみかど、東魚来ツテ四海ヲ呑ム、とは北条の天下を申すのであろう、日西天ニ没スルコト三百七十余個日、とは、みかどの隠岐へ流されたもうたこと、西鳥来ツテ東魚ヲ食フ、とは京方が北条をほろぼすという意味か――と解き、正成は勇躍した、とござる」
「ふうむ。……そのあと、何かまだあったの」
ようやく義教もつりこまれたようだ。
「※[#「けものへん+彌」、unicode737c]猴ノ如クナル者、天下ヲ掠ムルコト三十余年。――※[#「けものへん+彌」、unicode737c]猴とは猿のことでござる由。それが天下をとること三十余年」
「それを正成は何と解いたのか」
「太平記にはそれについて何も書かれておりませぬ」
「その円心のおぼえ書には何とある」
「それにも何もありませぬ。実は私は、大凶変ジテ一元ニ帰ス、とは三代様義満公の南北朝合一のことを意味するのではないか、と考えるのでござりますが、なにぶん円心は、そのはるか以前にこの世を去っておりますれば」
「ああ、そうか」
「それでも、実は太平記には、この未来記の条のすぐ次に、赤松入道円心、大塔《おおとう》ノ宮ノ令旨《りようじ》ヲ賜《たま》フ事、とあって、円心が楠木に応じて起《た》ったこと、すなわち元弘の乱において赤松登場の最初の部分が書かれておりますので、赤松家では太平記のこのあたり、知らぬものはないほどなのでござります」
と、満祐はまた鼻をうごめかした。
――どうやら「太平記」は、南朝に捧げる悲歌であるが、赤松家にとっては誇りにみちた聖書らしい。
「とにかく太平記には、後ニ思ヒ合ハスルニ、正成ガ考ヘタルトコロ、サラニ一事モ違《たが》ハズ、不思議ナリシ讖文《しんもん》ナリ、と、ござる」
讖文とは、予言書という意味だ。
「ふうむ。……」
義教はうなったが、すぐにぴりっとこめかみに筋を走らせて、
「|※[#「けものへん+彌」、unicode737c]猴《びこう》ノ如クナル者、天下ヲ掠ムルコト三十余年。……なるほど尊氏公が死去されてから南北朝合一までかれこれ三十余年になるな」
義教はみるみる不快の表情になって、
「では、猿の如き者とは足利家のことではないか」
満祐はあわてて、
「あいや、滅相もない。そのくだりについては、私にも不可解な怪異の文字で……」
「播州、お前そのことがいいたくて、きょう天王寺未来記など持ち出してきたのではないか」
「そ、そんな……なにぶんこれは聖徳太子のお筆になるという文言《もんごん》ですから、私の意志などはいる余地はござりませぬ」
満祐はみじかい手をふって、
「それよりも、いま本能寺未来記なるものが出現して参った。その文のありよう、まことにこの天王寺未来記と双生児のごときものあり、実に奇々怪々のことと存じ、何はともあれ御報告に参上つかまつった次第にござりまする」
「ふん、それでその本能寺未来記とはいかなるものじゃ?」
「それは……私の口から申せば私のつくりごととおぼしめされるおそれあり、その日親なる坊主をお召しの上、じかにその口からお聞き下されたほうが。……」
――それにしても、室町時代とは「奇妙な時代」ではある。作者は「奇妙な味の時代」といいたいところだ。将軍をクジビキでえらぶ、などということが奇妙な時代というゆえんであり、「太平記」の存在を許した、などというところが奇妙な味の時代というゆえんだ。
「太平記」は、初期のものはすでに尊氏在世のころに書かれたもので、南朝びいきのその内容について、尊氏の弟の直義が異議を申したてた、といわれ、それが完成した三代義満のころの足利家の重臣今川|了俊《りようしゆん》が「難太平記」という批判書まで書いているのに、代々の足利将軍は禁書にも焚書《ふんしよ》にもせず、右のような妖言の個所もそのままにしておいたのだから。
日親が六角の牢獄からひき出されて、室町第の庭にひきすえられたのは、その翌日の午後であった。
室町第の書院の一つ、縁側ちかくに坐っている義教の耳に、法華太鼓を打ち鳴らす音と題目を唱える声がちかづいてきた。
座敷には、もう二人の人間がいた。一人は赤松播磨守満祐だが、もう一人は前髪の美童であった。彼は紙やすずりをおいた朱塗りの経机《きようづくえ》の前に端座していた。
他聞《たぶん》をはばかるふしもあるので、余人はおちかづけなく、ただお書きとりの者一人だけを御用意下されたい――という満祐の言葉によるものであった。
美童は満祐の一族の赤松嵐丸|貞村《さだむら》という。――もっともこの少年を呼ぶことは満祐も考えていなかったらしく、さっき嵐丸が将軍についてあらわれたとき、満祐は「貴公か」と、いっただけである。嵐丸もかろく頭を下げただけで、二人の間はなぜかよそよそしいようであったが。――
「南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経!」
ドンツク、ドンツク、ドンドン、ドンツク!
やがて、砂利が白熱しているような庭に、二人の人間がはいってきた。一人は、団扇《うちわ》太鼓をたたいている僧形《そうぎよう》の男だが、それに屈強な武士がついて腰縄をとっている。
護送してきた侍所の役人で、満祐の弟赤松左馬助である。しばしば一揆の鎮圧に猛勇ぶりを発揮して、なんどか感状を与えたことがあるため、義教も見知った顔だ。
「団扇太鼓を与えねば、未来記をかみ裂くと申すゆえ、やむなく持たせたそうでござる」
と、満祐が説明した。
その「本能寺未来記」なるものは、そのむかし日隆|上人《しようにん》が本能寺を創設したときから、宗祖日蓮|直筆《じきひつ》の秘宝として伝えられ、一見した寺僧もなかったのだが、こんどの大法難で宗派いかなる運命におちいるや、と、はじめてとり出したものだという。――
「もともと気ちがいじみておったものが、箪笥牢にあること数十日、さらに乱心のていでござるが、左馬助が見張っております。狼藉《ろうぜき》はさせませぬゆえ、きゃつの妖言、しばし聞かれませい」
日親はちかづいてきた。
「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊!」
顔じゅう、口だらけにして叫んだ。
なにか、憑きものがしているようだ。僧なのに蓬々《ほうほう》と髪はのび、墨染めの衣が裂けて海藻みたいにたれ、裸身にちかい。それがあばら骨を浮かせている。そのくぼみくぼみに汗がひかっている。
こちらの姿はおろか、建物さえも見えないかのような足どりであったが、
「ひかえろ、御前であるぞ!」
赤松左馬助が肩をおさえると、ピシャリと足が折れたように地べたに坐った。
そして、やっと正気にもどったように、じいっとこちらに眼を凝らして、
「おう、将軍家でおわすよな」
と、いった。
蓬髪、ひげ、ふとい眉、そして垢《あか》、くぼんだ眼ととび出した頬骨は見てとれたが、年齢のほどは見当もつかない。たしか三十なかばと聞いた。
箪笥牢にいれられている四十人近い法華坊主のうち、もう十数人死んだというのにこの日親は、骸骨のようにやせ衰えているけれど、その全身からめらめらと何かが燃えあがっているように見えるのは、決して炎天の光だけではなかった。
団扇太鼓をとりなおし、
「いくたびか将軍家に、国立戒壇建立の儀について勧進《かんじん》に参ったが、門前ばらいはおろか、あのような怪獄に投げこまれるとは、まことにもって天魔|波旬《はじゆん》のお仕打ち。――」
ドンツク、ドンツク!
「かかる迷妄《めいもう》の闇に惑い、堕獄の悪道に迷う将軍家ならば、いつの日か永劫《えいごう》つきせぬ苦患《くげん》の世界に堕《お》ちさせたもうは必定《ひつじよう》と、かねがねその御将来を案じており申したが――」
ドンツク、ドンドン!
「はからずもこのたび、本能寺秘蔵の宗祖日蓮大上人の未来記を拝観するを得申した。――果せるかな、そのおん予言、いまの濁世《じよくせ》をいいあてらるること肌に粟《あわえ》の生ずるが如し。――」
彼はふところから、灰色のしわくちゃの紙片をとり出し、ひろげた。
「よっく御|心耳《しんじ》すまされて聞かれよ。――」
と、燐光をはなつ眼でこちらをひとにらみして、しゃがれた声で読み出した。
[#ここからゴシック体]
「人王百六代ニ当ツテ、天変起リテ地妖ヲ生ズ。
天ノ黒雲|雷気《らいき》ヲ孕《はら》ンデ悪龍ヲ生ミ、鉄《くろがね》ノ爪ヲモテ地ヲ裂ク。血流レテ山河ニ満ツルコト十余年。
鳥虫《ちようちゆう》血ニムセンデ怨嫉《えんしつ》ノ凝塊ト変ズレドモ、陰花ニ眼《まなこ》フサガレテ見エズ、サラニ北嶺ヲ焼ク。
墨ノ如キ夜、西洞ニ火起リテ忽《たちま》チ焦熱地獄ト化《け》ス。悪龍燃エツキテ、白虹《びやつこう》、妙法ノ蓮華ヲアラハシ給フ。
ソノ後、※[#「けものへん+彌」、unicode737c]猴ノ如クナル者、天下ヲ掠ムルコト十余年」
[#ここでゴシック体終わり]
「もういちど読み申す。……」
陰々たる声で、日親は、さらにもういちど、合わせて三回読んだ。
この間、赤松満祐に合図されて、寵童の赤松嵐丸はそれを書き写そうとしている。
「おわかりか?」
紙片をふところにしまい、日親がいった。
「あなたはクジビキで将軍になられたそうじゃな。黒雲雷気ヲ孕ンデ悪龍ヲ生ミ、とは、天のいたずらであなたが将軍になられたことを意味する」
めずらしいことに、大かんしゃく持ちの義教が、ひとことももらさずにこの怪僧をながめていた。さすがの彼も、この相手の凄じさに、あっけにとられていたようであったが、このときわれにかえって、
「嵐丸、それをここへ」
と、そのほうへ手を出した。
満祐の助言をかりつつ筆写していた赤松嵐丸が、その紙片を持ってきた。
受けとって、眼を走らせたが、義教は依然不可解の表情で、
「なんじゃ、これは?」
と、つぶやいた。
文字のつらなりの荒唐無稽なこと、あの「天王寺未来記」とおんなじだ。なるほど満祐がさきにあれを持ち出したことが腑《ふ》におちる。
その満祐がそばに寄ってきた。
日親はわめきつづける。
「黒龍と化して地を裂き、鉄の爪でこの世を屍山血河と変え、鳥虫を血にむせばせるのは、あなたでござるぞ。鳥虫とは人民のことだ。そして人民の恨みのまととなる」
それにはとりあわず、
「陰花とは何だ」
と、かえりみて義教はきく。満祐は首をひねって、
「それが、わかりませぬ」
この問答を聞くや、聞かずや、
「鳥虫の恨みを呼んだことを、迷妄のためあなたは気がつかない。――」
と、むこうで日親が叫んだ。
こちらの問答。
「北嶺を焼く、とは?」
「それも不分明でござる」
「西洞とは?」
「それも不可解」
「また※[#「けものへん+彌」、unicode737c]猴が出て来るな。それが天下を掠むること十余年、とは?」
「まったく理解がつきませぬ」
日親がまた咆《ほ》えた。
「要するにあなたは焼かれて焦熱地獄に堕ちるのだ。そしてこの空の下に、はじめて南無妙法蓮華経の花が咲くのだ!」
ドンツク、ドンツク、ドンドン、ドンツク!
「ただし、眼がふさがれておれば、ということだ。いまにしてこの未来記を見ることができたのは、これぞあなたを救抜《きゆうばつ》する天機に恵まれたものと思うべし。法外の処罰、無用の殺戮《さつりく》をやめ、ひたすら南無妙法蓮華経を唱えたてまつる日々を送られよ!」
「いまのみかどは何代であられたかな?」
義教は満祐にまたきいた。
「さ、それでござる」
満祐はくびをひねって、
「はじめのその文言《もんごん》、気にかかって調べましたるところ、第百二代であらせられるそうで」
後花園天皇である。
「これには百六代とあるな」
「左様でござる」
義教は庭に眼をもどして、
「坊主、せっかくだが、本能寺未来記とやらがいう悪龍は、百六代のみかどのときにあらわれる人物じゃ。いまのみかどは百二代、悪龍は当代の将軍義教ではない」
と、あざ笑い、それから突如爆発したように、
「これにてその未来記が、嘘八百のまやかしものであることは明白なり!」
と、叱咤した。
「左馬助、こやつをひったてて六角牢へつれもどして、こんどは針箱牢へいれてやれ」
「え、針箱牢へ?」
赤松左馬助は眼をむいた。
針箱牢は、六角の獄舎のなかでももっとも惨烈な牢だ。これも箱のような檻だが、高さは四尺ばかり、しかも上から無数の五寸釘が打ちこまれて天井をつらぬいている。中の囚人が立てばそれがモロに突き刺さるというしくみである。
だから、ことしになってからも、女や子供を何人か殺した凶悪囚二人しかいれていない。彼らのうち一人は発狂し、一人はなにかのはずみで立って、頭に釘を刺してもがき死《じに》した。――
「あれは、あまりに無惨の牢。――」
と、左馬助は思わず声を返していた。
「ともかくも、これは僧形の者にござりまするが。――」
こわい顔でここに連行してきたが、実は左馬助は、この法華僧の怖れを知らぬ勇猛ぶりにいささか感心していたのである。
「もしその未来記が、その糞坊主の申す如く信ずべきものなら、義教の運命はのがれられぬところだ。しかるにそやつは、わしが法華の信者になれば助かるようなことを申す。まやかしの証拠ではないか。……」
義教はなおあざ笑い、
「僧形でありながら、妖説をもって世を惑わすやつは、義教のもっとも憎むところだ。やれ」
と、あごをしゃくったが、ふと何かを思い出したように、
「こやつ、いま、わしがいずれ焦熱地獄に堕ちると申したな。――嵐丸、厨《くりや》へいって鍋を持ってこい。いま何かを煮ておる鍋を――」
と、いった。
「は?」
赤松嵐丸もけげんな顔をする。
「その鍋をこの坊主にかぶせて牢に帰らせろ。さすれば針箱牢で、釘ふせぎになって助かるだろう。――左馬助、よいな?」
と、自分の思いつきに会心の笑いを浮かべていった。
左馬助は、二の句がつげない。
嵐丸は走り去った。
「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊!」
ドンツク、ドンドン! この問答も聞こえぬかのように、日親坊は太鼓を打ち鳴らしている。
しばらくして嵐丸が、庭の一角から一人の足軽を連れてはいってきた。足軽はふとい長い竹竿のさきを、一個の鉄鍋のつるに通して吊りさげている。
「左馬助どの、坊主をおさえていて下され」
と、嵐丸がいった。
左馬助はやむなく日親の両肩をおさえたが、日親はちかづいてくる鍋を見て、何が起るか明白なのに、ふとい眉もうごかさない。
竹は鍋のつるに通されただけなのに、黒く焦げて、うすい煙をあげている。――それを持った足軽の腕は、痙攣《けいれん》を起したようにわなないている。
ふるえ、ゆれる鍋を裏返しにして、がぽっと日親の頭にかぶせると同時に、竹はひきぬかれた。
「わあっ」
さすがに叫喚が起り、左馬助がおさえていたのに、日親ははねあがった。
灼熱の鍋の中から、凄まじい黒煙と髪と肉の燃える異臭がたちのぼった。
しかも日親は鍋をとろうともせず、両手の団扇太鼓と撥《ばち》を放そうともせず、躍り狂いながら雄たけびつづける。
「南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経!」
もっとも鼻も唇も焼けただれたと見え、声は明瞭ではない。ただ太鼓ばかりはいよいよ凄まじく、ドンドン、ドンツク、ドンドン、ドンツク!
「化物め!」
さしもの恐怖将軍も蒼《あお》ざめた顔色で、
「早く連れてゆけ」
と、いった。
左馬助は、焼け鍋をかぶったままの法華僧を連れ去った。赤松嵐丸と足軽も消えた。
この法難が、日蓮宗史に、「鍋かぶり日親」という壮絶無比の名を残す。
「播州」
これも毒気をぬかれて茫然《ぼうぜん》と、無人となった白日の庭に眼をやっている赤松満祐を、義教はふりかえった。
「は。――」
「そちはどういうつもりで、わしに本能寺未来記などというものを聞かせようとしたのか」
「へ、それは昨日も申した通り、その文言あまりにも天王寺未来記と相似たものあり――」
満祐はわれにかえり、あわてた声で、
「しかも天王寺未来記が一笑して読みすてることのできぬ内容のものでござるゆえ、なにとぞ上様のお耳にいれねば、と存じたからでござります」
「足利を猿とした天王寺未来記を、お前は信じるのか」
「あ、いや――」
「ましてやこのたびの本能寺未来記の荒唐無稽さは、人王第何代云々でも知れたこと」
義教は満祐をにらみつけて、
「お前はわしを悪龍といいたいのであろう。それを伝えたくて、あの化物坊主を呼んだのであろう?」
満祐は分厚い唇をパクパクさせたが、両腕ついたままであった。
彼は、自分がこの将軍にきらわれていることを知っている。四職《ししき》にして侍所の大将というのに、ふだんろくに言葉もかけてもらえない。
そして、この猜疑《さいぎ》ぶかい将軍とうとうとしい関係になると、何をされるかわからない、という恐怖感があって、何とか将軍の興をひくような機会を作りたい、という焦りから、たまたま出現した「本能寺未来記」なるものを持ち出したのだが――その努力は逆の目に出たらしい。
「二度と、こんなたわけたものは口にすな」
と、義教は吐きすてるようにいって、座を立った。
数年後、義教が比叡山延暦寺に鉄槌を下したのも、彼のかんしゃく行状記のひとつだろう。
法華宗ならまだわかるが、延暦寺は天台宗の総本山で、しかも彼はかつて青蓮院の門跡であったころ、天台宗の座主《ざす》をかねていた人物なのである。
それが、この挙に出たとは。――
いわゆる叡山の悪僧の横暴は、源平はおろか平安の昔から世を慴伏《しようふく》させていた。はじめて院政を作った白河法皇が、「朕《ちん》の意にならぬもの、鴨川の水、双六《すごろく》の賽《さい》、叡山の山法師」と嘆息したというのは有名だ。
この山法師が軍団を作って、いわゆる「日吉《ひえ》の神輿《みこし》」をふりかついで山を下ってくると、朝廷も幕府もほとんど無抵抗の状態になった。足利の世になってからも、武士をもってこれを追いかえそうとしたことがなんどかあるが、その神輿の姿を見るやいなや、武士たちはたちまち風にすすきの吹きなびくがごとく、刀や薙刀《なぎなた》を投げ出して土下座してしまうていたらくであったから、どうにもならない。
荒法師の狼藉ぶりは、義教の世になっても変らなかった。
山門の権利、財産、名誉などが毛ほども毀損《きそん》されると、たちまち神輿をかついで叡山を下りてくる。そして、それら毀損の回復と、責任者の処罰を要求する。右のような筋道たった理由があればまだしも、それこそ理不尽に、ときには気ばらし、面白半分に横ぐるまをおしてくる。中世において叡山は、奈良の興福寺とならんで、坊主あたまの大ごろつき集団であった。
右の白河法皇の嘆声でもあきらかなように、それはすでに数百年にわたる京の王城の支配者のなやみのたねであったが、これが独裁者義教の|かん《ヽヽ》にさわらないはずがない。
|かん《ヽヽ》にさわるどころではない。彼はなんどか煮え湯をのまされるような思いがした。
それでも彼がめずらしく、これだけには隠忍自重《いんにんじちよう》の態度を保ってきたのは、彼自身がかつて天台宗の座主であったという経歴を持つことと、重臣連の必死の制止のゆえであった。
いっとき天台宗の僧であったからこそ、彼は坊主どもの堕落ぶりを知っている。が、なんとしてもその履歴は彼をしばる。
重臣たちは腰ぬけだと、腹立たしさのきわみだが、いまだかつて叡山にいくさをしかけた者はない。だいいち叡山とのいくさにゆく侍がおりませぬ、といわれては何ともいたしかたがない。赤松、山名の豪傑連さえ尻ごみするとあっては万事休すだ。
が、あるときまた、山門衆徒から、非道ともとれる十数カ条の強訴《ごうそ》がつきつけられ、これをめぐって交渉すること数年、その間にいくたの小競《こぜ》り合いがあり、流血さえみる悶着がくりかえされ、山徒が将軍|調伏《ちようぶく》の法まで行っていると聞いて、義教はついに最後の段階に達した、と認めざるを得なかった。
それでも叡山との全面衝突は髪も逆立つ思いがし、彼は最後の断を下すことに迷っていた。――
そのとき彼は、ふしぎな体験をした。
その日。――やがて管領たちがそろって参上する予定であった。その用件はきかずともわかっている。将軍の暴挙を制止するためだ。そして義教も、理性的にはなおためらっていた。
その前に、相ついで客があった。
小姓の嵐丸が伝えた。
「伊達政宗《だてまさむね》どの御参上。――」
みちのくで名高い大名が、おびただしい進物を捧げてやってきたのだ。
こんなところへ伊達政宗が出てくるか、などいってはいけない。
伊達は鎌倉時代から奥州の豪族で、とくにこの政宗の時代に領土をひろげ、ために伊達中興の主といわれる。――後年の政宗はこの御先祖にあやかって同名をつけた子孫だ。
あばただらけで、幼少時|疱瘡《ほうそう》のために右眼を失ったという伊達大膳大夫政宗は、相当な大老人であったが、まだ|かくしゃく《ヽヽヽヽヽ》として、しばし奥州の政治情勢など語ったのちに退出した。
ついで、また客があった。
「春日《かすが》の局《つぼね》さまおいで。――」
しずしずと座敷にはいってきたのは、なお美しさの影をとどめた気品のある老女であった。
父義満のもっとも寵愛ふかかった愛妾春日の局であった。同時に、非業《ひごう》の死をとげた義嗣の生母であった。
その義嗣が同年であったので、情にうすいといわれる義教が、ふともののあわれをおぼえて、ふだんからこの老女に何かと心づくししてやるので、彼女はその日お礼に訪れてきたのである。
そしてまた客があった。
「武田信長どの御参上。――」
これは甲斐国《かいのくに》の守護の一族で、幕府の命でしばしば関東公方とたたかったが、その武勇を買われて、こんど幕府に直接仕官のことがきまったというので、そのあいさつにやってきたものであった。
伊達政宗と春日の局と武田信長がきた。
別にどうということではない。毎日室町第を訪れる客の中の三人にすぎない。
しかるに、相ついでこの三人に会ったあと、義教はふしぎな、説明できない、わけのわからぬ感覚をおぼえた。いま自分がどこにいるか、自分が何者であるか、頭の中が真空になって、そこを異様な颶風《ぐふう》のようなものがながれるのを感覚したのである。
次の瞬間、彼は何かが乗り移ったような気がした。もともとはげしい気性の持主だが、それがさらに、自分でもわけのわからない奇々怪々な力が、ムクムクと体内にふくれあがってくるのを感じた。
彼は仁王立ちになった。
その姿勢のまま、やがて参上してきた重臣たちを迎え、彼はいった。
「お前らのきた用むきは承知しておる。が、何といおうと、このたび義教は思いきった! もはやお前らにはたのまぬ。わし自身が叡山攻めの大将となる。……さがりおれ!」
重臣たちは圧倒された。
その宣言より、将軍自身の魔人と化したかのような面貌、いや、その全身からたちのぼる魔天のかげろうのようなものに、である。
「ま、ま、しばらくお待ちを。――」
ころがり出したのは、赤松満祐であった。
「そこまで御決心ならば、もうおとどめいたしませぬ」
と、彼は声をしぼり出した。
「おそれながら赤松播磨、まっさきにお供つかまつりまする!」
大軍が叡山をとりかこんだのは、その翌日であった。
山徒たちは仰天した。大軍の数と、それにみなぎる戦気が、これまで見たこともないものであったからだ。
主謀者たち数人が、あわてて山を下りてきて、談判の継続を申しいれた。
「問答無用だ。斬れ」
雲母《きらら》坂あたりまで、みずから馬をすすめていた義教はいった。談判にきた僧たちは即座に斬られた。
やがてまた一人、鉄騎がかけつけてきた。
山上まで攻めのぼった赤松勢の隊長左馬助で、髪ふりみだし、高僧二十四人、根本中堂《こんぽんちゆうどう》に籠《こも》って、なお寄手が近づくならば、一同火をかけて自殺する、と申しておりますが、と報告した。
これを例によっておどしと判断した義教は、鞭をびゅっとふって、
「かまわぬ。こちらから火をかけて、売僧《まいす》ども一人も残さず焼き殺してやれ!」
と、叫んだ。
左馬助は阿修羅のごとくかけ去った。
まもなく山頂にあがりはじめた黒煙を、義教ひとり、あら心地よや、といった眼で、ふりあおいでいたが、その背後に従う軍兵たちは、ひとり残らず氷結したような影をならべていた。
その中で、だれかうめいた者がある。
「ああ、北嶺ヲ焼ク、とは、このことか?」
その声を、赤松満祐のものと聞いたが、義教は、それが例の「本能寺未来記」の一節とは思い出しもしなかった。
ともあれ、叡山に焼討ちをかけたものは史上ただ二人、義教はその第一号となったのである。
十一
「本能寺未来記」ではないが、それに先立つ「太平記・円心おぼえ書」のことを、義教がふっと思い出したのは、一四四一年、日本の年号が嘉吉《かきつ》というめでたい名に改められた春のことであった。
将軍になってから十三年目。彼は四十八歳になっていた。
この春、義教は、糺《ただす》河原で、勧進|猿楽《さるがく》能を見た。――
彼は武断的である一方、出身が出身だけに歌や連歌や芸能にも興味を持ち、それなりに一種芸術的なセンスの持主であったが、とくに猿楽能と幸若《こうわか》の舞いに対しては一隻眼《いつせきがん》を持っていた。
この糺河原の興行も、将軍主催だけに、円形舞台をとりかこみ、周囲をぐるりととりまく大桟敷は全長六十三間におよぶという大がかりなものであった。演じるのは音阿弥だ。
大桟敷には、将軍を中心に左右円をえがいて、公卿、門跡、管領、四職、諸大名はもとより、この日はとくにその家族たちも見物を許されるという催しで、そのため女性の彩りがことさらはなやかさを加えていた。
その演能の最中に、義教はまむかいの席に一輪の薄紅《うすべに》の花を見つけた。
例の赤松三尺入道の顔が見える。その女性は入道のかげにかくれるように坐っていたのだが、他の桟敷にも女性や美童はゆれうごいているのに、その女はまさに一輪の薄紅の花のように周囲から浮かびあがって見えたのだ。
「嵐丸」
と、義教は小声で呼んだ。
「あの赤松の桟敷に坐っておる女はだれか」
「あれでござりますか」
寵臣赤松嵐丸はすでに気がついていたらしい。ひくい声で答えた。
「あれは入道の側妾、篠笛《しのぶえ》と申す女でござります」
「ふうむ。……世にも美しい女があったものじゃな」
さすがの義教が嘆声を発した。
「いくつだ」
「私より二つ年下ですから二十歳《はたち》のはずで」
「いつから播州の妾になったものかな」
「たしか、三年ばかり前と聞きました」
「お前……よく知っておるのか」
「おさななじみ、というところですが、かれこれこの十年ばかりは逢《お》うたことがござりませぬ。それだけの縁でござります」
しかし義教は、そういう嵐丸の顔に憂鬱の色を認めた。
「入道は何歳であったかの」
「こうっと――たしかことし、還暦のはずでござりまするが」
「その年で、あの妾を持つ。……ふうむ」
感心の嘆声ではない。憤慨の鼻息だ。
現代ならこれにつづいて、「なるほど性具入道と号するわけじゃ」という言葉を、義教はつけ加えたかも知れない。赤松満祐は性具入道と称していたからだ。
もっとも性具といっても、この時代「性」にセックスの意味はない。おそらくこの場合もショウグと読んだのであろう。
しかし満祐の場合、なぜか義教は、以前から脳中に漠然とセックスの道具、いや大男根そのもののイメージをえがいている。それは剃髪《ていはつ》というより中年のころからのヤカン頭と、サンショウ魚《うお》のようなつらがまえと、三尺入道と彼が呼ぶ体形のためだが、これが義教の|かん《ヽヽ》にさわっていた。
|かん《ヽヽ》にさわるやつは、かたっぱしから鉄槌を下す義教だが、この赤松満祐にはいままで手を出す名目もきっかけもなかった。
赤松家が尊氏以来足利家にもっとも忠実な大族である上に、満祐自身、じぶんがきらわれていることを察知して、義教に対して死物狂いの隠忍ぶり、滑稽なばかりのごきげんとりを見せていることは、義教もよく承知していたからだ。
が、この糺河原の桟敷で性具入道と大美人のその愛妾を見て、この際、断然、義教は性具入道をやっつけることにした。
彼はこれを、自分勝手なヤキモチだとは思わない。自分の美的観念に違和感を与える、ふとどき千万な存在に対する膺懲《ようちよう》だと考える。
僧出身でありながら、義教が先天的な権謀家であったことは前にのべたが、この赤松退治の謀計もほとんど妖術的であった。
彼はこの妖術のたねに、例の「太平記・円心おぼえ書」を使ったのである。
十二
義教の寵臣赤松嵐丸貞村は、姓の示すとおり赤松の一族にちがいないが、ごく支流の者であったのを、抜群の美少年であったところから、義教の寵童となった。
義教は、性具入道があまり美しい側妾を持っているので不快感をいだいたけれど、実は彼だって十数人の側妾を持っている。
ただしこれは彼が特別に好色のせいではなく、当時の将軍としてはふつうのことであった。たとえ好まなくても、阿諛《あゆ》のため、あるいは保身のために美女をおしつけてくる権臣はあとをたたないから、結果として側妾がたまることになる。
しかし彼自身は、女性より美少年のほうが好みであった。この男色もまた当時の風習としてべつに奇異なことではなかったが、彼はことのほか嵐丸を寵愛した。
が、寵童というものは、女よりシュンがみじかい。義教が将軍になって召し出した美童も、いまや二十二歳となった。もう美童寵童といえる年齢ではない。げんに、すでに前髪もおとして、ふつうには貞村と名乗っている。それでもまだ義教だけは嵐丸と呼び、身のまわりからはなさないけれど、これを先々いかに待遇してやるべきか、というのが彼の小さな悩みのひとつとなっていた。
それが右の性具入道への膺懲欲と結びついて、一つの解決法を生み出したのだ。
つまり、この際赤松家の当主満祐を打ちたおし、代りにこの嵐丸貞村を立てるという。――
このことを貞村に計ると、貞村は足ぶみしてよろこんだ。
一族のうち、だれが正統か、万人一致して決められない時代であることは、そもそも義教が将軍になったいきさつでもあきらかだ。
「同じ赤松の一族のお前があとをつぐなら、赤松の者ども、ことさら不服は申すまい」
と、義教はいった。
「もとよりでござります」
と、貞村は答えた。
もともと、はやくから将軍の側近にはいった貞村は、一族のあるじ満祐と疎遠であった。とくに彼は将軍の寵ふかく、一方満祐はうとまれているので、前者はむしろ後者を見くだし、後者がそれに不快をおぼえるというよそよそしい関係にあった。
しかも、なお嵐丸にきいてみると、いまの満祐の愛妾篠笛なる女は、貞村の縁戚《えんせき》で、幼少時から仲よしで、いまもひそかに文通をかわしているくらいで、しかも女の文《ふみ》に、性具入道のいとわしさを訴えるものあり、貞村は沈痛の思いにふける日が多かったという。
貞村が勇みたって、義教の謀略の立役者となることに応じたのはむりもない。
糺河原の能見物のあと数日たって、一日、満祐が参上した。
侍所の職務報告のためだが、この日、どういう風の吹きまわしか、めずらしく義教はやさしい顔で応接した。満祐は感激して、その後の雑談で、これからまもなく自分の屋敷の池でカルガモが雛《ひな》を産むが、母ガモが子ガモを連れて歩いたり泳いだりするのは実に愛らしい。その季節になったら、是非上様の御覧にいれたいもの――など、ふだん交わさない話を交わした。
そんなとき、ふと義教がいい出した。
「播州、あの太平記・円心おぼえ書≠ネ」
「は」
「例の天王寺未来記≠フ個所のみならず、太平記全般にわたって、円心の体験や感想などが書きいれてあると申したな」
「は」
「あのくすのき籤なども、その中に書いてあったのじゃろ?」
「左様で」
「ちかごろ、わしはあらためて、いちどそれを読んでみたい、という気になった。そのぜんぶをじゃ。足利将軍の家をつぐ者として、何かと参考になることがありはせんか、と思うてな」
満祐はだんだん当惑の表情となり、やがておずおずといった。
「上様、それが……そのおぼえ書、門外不出の赤松家の秘書ということになっておりまして」
「門外不出と申して、いつか持参したではないか」
「いえ、あれはあの巻《まき》だけで、しかも当主の私がついておりましたので。――」
義教は笑った。
「ははあ、お前、わしがそれをとりあげはせんか、と心配しておるな」
まさに、そのとおりであった。この将軍ならやりかねない。
「いや、わしはその本を献上せよとも持参せよともいわぬ。はじめから、書き写させてもらおうと思っておった」
「書き写す?」
「さればだ。だれかをお前の屋敷へやって写本させる。それもいやだと申すか」
この将軍に、そこまでいわれて、なおこばむ言葉は満祐になかった。彼はうなずいた。
「それならよろしゅうござります」
すると、義教が、それにかぶせるように、
「書き手はあの貞村にやらせる。お前と同じ一族じゃ。それならいよいよ異存はあるまいが」
と、微笑していった。
この話のあと、毎日、花の御所から西洞院《にしのとういん》の赤松邸へかよう赤松貞村の優雅な姿が見られるようになった。
ところが、二カ月ばかりたって、五月の末、思いがけない事件が起った。満祐の愛妾篠笛が、赤松貞村とかけおちしてしまったのだ。
貞村が毎日赤松邸へやってくることに、いささか気がかりを感じないでもなかったが、まさかと思っていた。――
貞村が訪れるようになって、篠笛が接待に出るようになった。おさななじみといわれては、満祐もそれをとめることができなかった。それは篠笛みずから望んだことで、もともと満祐はこの若い美しい愛妾に弱かった。はじめは数日おきのことであったが、馴れるに従って篠笛がみずから接待にあたるのが毎日のことになった。それを気にしながらも、一方ではつい馴れて、ゆだんしたのである。
さみだれのふるある夕方、何のあいさつもなく貞村と篠笛の姿が消えているのに侍女が気がついて、赤松家は大さわぎになった。貞村がその翌日からはたと訪れなくなったので、二人のかけおちは、いよいよあきらかになった。
「兄者。……両人、室町第におるらしゅうござるぞ」
赤松左馬助がそう報告したのは、二、三日後のことであった。
そちらからは、何の連絡もない。
「クジビキ公方にしてやられた!」
三尺入道は、満身ふくれあがって、うめいた。
「思えば、最初から罠《わな》にかけられたのじゃ!」
「太平記・円心おぼえ書」を貞村に筆写させてくれ、など将軍がいい出したときから、目的はそんなことではなく、貞村による篠笛誘拐にあったのだ、と、いまにして思いあたる。
いや、誘拐とはいえないかも知れぬ。おさななじみのあの美しい貞村に毎日逢わしておれば、篠笛が心動かされるようになるのは必然のことだ。ましてや貞村は、はじめからそのつもりなのである。いやいや、それは貞村だけの発心《ほつしん》ではない!
「いかに将軍とはいえ、相手もあろうにこの赤松に対して、かかるあざとい所業をしかけられるとは!」
はらわたもねじれるような声であった。
「篠笛を奪われたから無念なのではない。赤松がこの恥辱を受けたことが無念なのじゃ!」
左馬助も、胸を大きく起伏させるばかりだ。
この剛勇で知られた男も、いま四十にちかく、いささか思慮のかげを顔ににじませている。
満祐は、がばと坐りなおし、血ばしった眼で宙をにらんで、
「積年、隠忍のかぎりをつくしてきたが、このたび泣き寝入りすれば、人はみな指さして笑うであろう。……左馬助、満祐は思い切った。赤松は弓ひくぞ!」
と、叫んだ。
「その方、すぐ播州に立ちかえり、いそぎ軍兵を動員して上洛せよ!」
「兄者、怒りは左馬助、兄者以上でござる。いままで、何のためにあの悪虐将軍に犬馬の労をつくしてきたか。……」
左馬助は声ふるわせて、
「さりながら……将軍の罠の目的は、篠笛ごときを奪うにあるのではない。そのことによって兄者の怒りを挑発し、暴発させ、赤松家を抹殺することにある!」
と、叫んだ。
「それこそが、こんどの将軍の狙いでござる。播州で兵をもよおせば、ただちに探知されましょう。その罠にやすやすとひっかかっては、それこそむこうの思う壺にはまることになり申すぞ! それをお覚悟か?」
十三
「この下旬ごろ、いつか申したカルガモ見物にお成りいただけますまいか?」
赤松満祐がこういい出したのは、六月にはいってまもないある日であった。
「それもカモ見物のみにては何でござれば、ついでと申してははばかりがありますが、それを機に是非当邸にもお成り能の光栄をたまわりたく――」
男根的顔貌を愛嬌笑いに崩していう満祐を、義教はじっと見つめた。
貞村、篠笛の二人が失踪してから一ト月ほどになるが、赤松満祐はそれについて何もいわない。貞村があれっきり「太平記・円心おぼえ書」筆写にゆかないことについて、何の不審も申し立てない。おそらくその両人が室町第にいることはすでに承知しているにちがいないが、それにも抗議しない。
満祐はときどき職務報告にくるが、一切知らぬ顔をしている。だから義教も、これまた知らぬ顔をしている。
いま、ついに右のような招待を受けて、義教は「ついに来たか」と、思った。
あのような仕打ちを受けて、この入道が黙っているはずはない、と思うが、黙っている。黙っていられてはこまるのだ。
そ知らぬ顔でいるのがくさい、と思っていたが、はたせるかな、満祐はそんなことをいい出した。
「おお、ゆこう」
一瞬の凝視ののち、義教ははねかえすように答えた。
「参ろうぞ」
自分に恨みをいだいているにちがいない家来の屋敷にゆくのは危険である。しかし、彼は怖れない。それをたたきつけ、踏みにじるのを至快とする。かえってその機会に、相手が暴発せずにはいられない決定的な挑発をしてやろう、と彼は考えた。恐怖将軍らしい残酷な思案が浮かんだ。
日は六月二十四日ときまった。
まさに山雨来たらんと欲して、風楼に満つ。
実にその日の夕刻、義教は、三管領以下の重臣たちはおろか公卿、大名たちまで連れて、西洞院の赤松邸にのぞんだのである。
ただ、四職のうち山名持豊だけが、母の重病のために不参した。
赤松邸は、東は西洞院、北は六角通りに面する数千坪におよぶ宏大なものであったが、ここに将軍はもとより重臣連のひきいてきた家来が充ち満ちた。
この顔ぶれ、この警戒の中では、たとえ凶念をいだく者があっても手の出しようもないはずだ。
あるじの満祐は、こぼれんばかり恐悦《きようえつ》した顔で客たちを迎えた。この日、将軍をのぞき、主客ともにみな大紋烏帽子《だいもんえぼし》姿である。
あいにく曇り空だが、雨にはなりそうにない夕刻であった。
義教と重臣たちは、小憩ののち、広い庭に案内されて、大池にむれる何百羽かのカルガモを見物した。かえったばかりの子ガモが多く、その愛らしさはみなを微笑させずにはいなかった。
やがて座敷にもどり、おきまりの酒宴となる。
銀燭がつらねられ、酌をする侍女たちがゆきかう。
座敷は三|間《ま》をぶちぬいて、庭から見て正面の雲と龍をえがいた唐紙《からかみ》を背に、将軍が坐った。
すぐ前の庭には、新しく能舞台が作られていた。
これはべつに異例の歓待ではない。将軍を自邸に迎えるのはそのころ重臣の義務であり、名誉であり、そこでは余興として必ず観能の一刻があった。これを「お成り能」といった。それは毎年いくどか、まわりもちの慣習となっていたが、いままで赤松家だけこの光栄に恵まれることがなかったのだ。
薄暮のころから能舞台の前で篝火《かがりび》が焚かれはじめた。いわゆる薪能《たきぎのう》である。
こよい舞うものは義教のひいきの音阿弥と、義教がとくに好む幸若の舞であるそうな。
その音阿弥の能「鵜羽《うのは》」がはじまって、笛、鼓《つづみ》が高鳴り出したとき、
「いま、なんどきか」
と、義教が、接待のため、すぐ前にきていた満祐にきいた。
「さ、かれこれ酉《とり》の下刻ごろでござりましょうか。まだまだお早うござる」
午後七時ごろの時刻だ。そのころの六月二十四日というと、いまの暦で七月下旬だから、能舞台のむこうの空にはまだ一片の残照があった。黒雲の中に、へんにぶきみな朱《あか》い色をしていた。
「はじめてお前の屋敷にきた。なかなかよい家だな。義教も心うれしく思う」
笑顔でいわれて、三尺入道は涙もこぼれんばかりの顔になり、
「か、かたじけのうござりまする。実に満祐もこのたびのよろこび、何と申すべきか。こよいはまだいろいろと趣向を用意してござりますれば、何とぞごゆるりとおたのしみのほどを」
「ほ、能のほかにいかなる趣向を?」
「それは、あとのおたのしみ」
満祐はゲラゲラと笑った。
「そうか、それはたのしみに待っていよう。実は、入道、わしのほうからもお前にたのみたい趣向がある」
義教は上きげんで、
「きょうのめでたい日、まことによい機会じゃ。是非お前に務めてもらいたい用があるのじゃ」
「はて、どのような?」
さすがに満祐はいぶかしい表情になる。
義教は高笑いした。
「しばらく待て。やがてその用件で、室町の屋敷からくる人間がある」
義教はいよいよ不審な言葉をもらしたが、
「まず、音阿の能を見ようぞ」
と、正面のほうに眼をなげた。
――室町第から戌《いぬ》の上刻、やってくるのは赤松貞村と篠笛であった。両人は、花婿花嫁のいでたちをしているはずだ。
それを、この座に通して、祝言《しゆうげん》の盃《さかずき》をあげさせる。その媒酌人を赤松入道にやらせるのだ。
この世にも美しい若い男と女の倖《しあわ》せを祈って、赤松家の頭領としてその役を務めてくれと申しつけるのだ。
その両人と三尺入道を見くらべれば、たとえその女が入道の妾であったとしても、きっと重臣連は、そのほうが人道的だと納得するであろう。
さて、これに対して三尺入道はいかに反応するか。
それは驚愕し、憤怒《ふんぬ》するにきまっている。そのあげくこの申しつけを拒否するか、あるいはその言動無礼にわたれば、こちらは席を蹴たてて帰る。そして、重臣のだれかに満祐の上意討ちを命じる。
その前に入道が狂乱して、貞村ないし篠笛に手を出すようなことがあるかも知れぬ。その場合は、その場で入道を成敗せよ、と、あらかじめ貞村に申しわたしてある。
また、きょうこの屋敷に集まった軍兵におそれをなして、ともかくも満祐が屈服し、命に従ったとしても――満座の中でこれほどの恥辱をなめさせられた三尺入道が、そのまま隠忍を通すとは思われない。必ず所領播州に帰り、不穏なうごきを示すだろう。そのときはみずから出馬して、退治する。
これが義教の凄まじい謀略であった。
十四
庭の空はいつしかまっくらになり、地上には篝火がいよいよ盛んに燃えしきっている。
能舞台では鼓の音が絶え、「鵜羽」で神代の豊玉姫に扮した音阿弥の姿が消え、やがてまた高鳴りはじめた鼓とともに、立《たて》烏帽子に壮重な直垂《ひたたれ》、精好《せいごう》の大ばかまをはいた大夫が、幸若の舞いを舞い出していた。
「人間五十年、下天《げてん》のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。……」
義教の好きな「敦盛《あつもり》」であった。
そのとき、遠くで――たしか玄関のある方角で――どどっというような音がし、ついで人馬のどよめきたつひびきが伝わってきた。
「なんじゃ?」
義教のみならず、いながれた重臣たちが、けげんな顔をそちらへむけた。
数瞬ののち、縁側からこれまた大紋立烏帽子の大兵《だいひよう》の武士が、白い布をかけた何か大きなものを、両|肘《ひじ》張って捧げて、しずしずと座敷にはいってきた。
「めずらしい料理を運んで参りました。ひとつ御賞味下さりませい」
おちつきはらっていう。――その顔を見て、
「左馬助か。あのさわぎは何じゃ?」
と、まず義教がきいた。
「あれは馬が一頭、綱を切ってかけ出し、それにほかの馬がつられてあばれ出したので、それをみながとりおさえようとしておる声でござります」
左馬助は答え、義教の前に膝を折って、手にしたものをたたみにおき、かぶせてあった白布をとりのけた。
一瞬、しーんと凍りついた静寂の中で、庭からの謡声《うたごえ》がながれる。
「ひとたび生《しよう》を得て、滅《めつ》せぬもののあるべきか……」
それは大きな白木の俎《まないた》の上にのった二つの生首《なまくび》であった。一つは婚礼の綿帽子《わたぼうし》をつけている。――
赤松貞村と篠笛だ。
いま斬られたばかりのその切口から、血は俎から青だたみへぬらぬらと吐きつづけられている。
左馬助は、ひくい声でいう。
「本能寺未来記にある、陰花とは、男色の寵童のことでござろう。……」
彼は数日前に、こよいの義教のたくらみを探知して、いましがたこの花婿花嫁の両人が輿《こし》で玄関にあらわれるや、たちどころにこの姿に変えたのであった。
これを見るすべもない庭の舞台では、幸若の大夫のくりかえす謡声がつづいている。
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり、
ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか。……」
「赤松っ」
義教が絶叫した。
「謀叛したかっ」
そして、背後の小姓の抱いた佩刀《はいとう》に手をさしのばしたが、小姓は恐怖のためにすでにとびのいている。
そのとき、入道が三尺の高さににゅうと立ちあがり、のけぞりかえって口をひっ裂き、
「わはははは、陰花ニ眼フサガレテ見えなんだか、隠忍のかぎりをつくした満祐がついに思い切ったことを。――死ね、ほろべ、いまぞ知る未来記の西洞とはこの西洞院わが赤松屋敷じゃ、わはははははは!」
大男根がのびちぢみして、哄笑《こうしよう》した。
「左馬助、御命《ぎよめい》頂戴つかまつれ!」
それより前に赤松左馬助はスルスルと膝行《しつこう》し、やっと小姓から刀を受けとって立とうとする将軍へ、片ひざのまま腰間《ようかん》からほとばしり出た豪刀が、横なぎに一閃《いつせん》した。
将軍の首はたたみに落ちて回転し、首のない切口から天井に奔騰《ほんとう》した血しぶきをみずからあびた胴体が、相ついで首のほうへくずれおちた。
これまでの数瞬、あまりといえばあまりな事態に、なかば喪神状態になり、その座に凍りついていた重臣たちのうちのだれかが、
「播州、き、気が狂ったか。――」
と、うなされたような声を発すると同時に、みなどっとむらがり立った。
「一大事じゃ!」
「しょ、将軍|弑逆《しいぎやく》っ」
「出合え!」
観能のため庭につめていた近習《きんじゆう》衆も、むろんこの大惨劇を気死したように見ていて、これがはっとわれにかえり、いっせいに抜刀し、怖ろしい叫喚をあげて座敷にかけ上ってきた。
そのとき、ほんのいままで将軍の坐っていた背後の唐紙の十数枚が音たててひらかれ、そこから具足さえつけた屈強な男たちが、豪刀ひっさげ、顔じゅうを口にして何かわめきながら乱入してきた。それまで待機していた赤松左馬助子飼いの手兵たちであった。
阿鼻《あび》叫喚の斬り合いが開始された。
女たちの悲鳴がもつれあう中に、血が飛び、腕が飛び、肉片が飛ぶ。
が、最初から用意していた者と、驚天の突発事に錯乱状態にある者との争闘の帰趨《きすう》はあきらかだ。近習衆が十人ばかり斃《たお》されると、残りはつむじのようにもとの庭へ追い落された。
そのつむじに吹きくるまれて、座敷にいた三管領家以下の重臣、公卿、大名たちも、なだれを打って逃れようとしている。ほとんどが、これまでいくつかの叛乱に出動した戦歴があるはずなのだが、この霹靂《へきれき》のような大凶変には胆《きも》がけし飛んでしまったらしい。
ただし、襲撃隊はなるべくこのお歴々には手を下さないように注意しているようであったが、むろんお歴々のほうはそんなことには気がつかない。こけつまろびつの惨状だ。
燭台があちこちたおれ、火が障子や唐紙に燃えうつって、めらめらと炎をあげ出した。
その黒煙の中に、三尺入道はなお笑いつづけている。
「あはははは、墨ノ如キ夜、西洞ニ火起リテ忽チ焦熱地獄ト化ス……悪龍っ、わが怨嫉、いまぞ思い知ったか! わはははははは!」
雲龍の襖《ふすま》の前に、赤松左馬助は剣を八双《はつそう》にかまえ、不動明王のごとく立っていた。その刀のきっさきには、この十三年、日本に「万人恐怖」の世を作り出した六代将軍の首が突き刺されていた。満祐はそれに呼びかけたのである。
足利義教、享年四十八歳。
すでに赤松屋敷は、地震のように鳴動している。
能舞台のある一劃をのぞいて、宏大な屋敷には幕府、大名の家来たちが充満していたのだが、これが――この突発事の起る直前から、混乱の渦と化していたのだ。
護衛兵の海の中での大叛乱であった。
赤松左馬助は貞村、篠笛を血祭にあげるとともに、おのれの手兵数十名に命じて、赤松家の馬はもとより、きょう参集した人々の馬、数十頭の綱を切り、その尻を斬って追いはなたせている。それがいたるところ供侍の中へ突入したのである。
そこへ、奥から主人たちがまろび逃げてきた。
火と煙が夜空に舞いあがりはじめた。
数千の人間がみるみる恐慌状態におちいった。
そして、あっというまにこの大群が恐怖の奔流となって邸外へあふれ出し、夜の都大路に四散し、あとは猫の子一匹もいないありさまになってしまったのである。
いや、あとに残っている者もあった。赤松一党である。
それでも数百人の人数が、屋敷の炎上を見まもり、焼跡に残って、それも三日ばかりにわたった。討手来らば来れ、とヤマアラシのごとく毛をたてて待ちかまえたのである。
むろん彼らは、死を覚悟して立て籠ったのだが、奇怪なことに何のこともなかった。
実は逃げかえった管領以下の重臣たちは、この驚天動地の大叛逆に心気も茫となり、さらに、これほど大胆な暗殺を赤松だけがたくらむはずがない、かならずほかに気脈を通じて機をうかがっている大族がいるに相違ない、という疑心暗鬼にとらえられて、みな金縛りになっていたのである。とくに、その日、赤松邸に不参であった山名などが疑われた。
数日たって、赤松一党は、堂々と領国の播磨へひきあげた。輿にのった入道をまもって西国街道を下る行軍の先頭には、なお剣尖に将軍の首を刺した馬上の赤松左馬助の勇姿があった。
当時の伏見宮|貞房《さだふさ》親王の日記「看聞御記《かんもんぎよき》」に、
「人々、右往左往して逃散《ちようさん》す。御前において腹切るの人もなく、赤松落ちゆくに追いかけて討つ人もなし。未練いうばかりなし。諸大名同心か」
と、ある。将軍暗殺にわが意を得たり、と思う大名が多いのではないか、と見ているのである。だからこの日記には、つづけて、
「所詮、赤松討たるべきおんたくらみ露顕のあいだ、さえぎって討ち申すという。自業自得か。将軍、かくの如き犬死、古来その例をきかざることなり」
と、赤松の叛逆が窮鼠《きゆうそ》猫をはむのたぐいであったことを認め、将軍の死に快哉《かいさい》を叫んでいる。
赤松追討には腰をあげないのに、ふしぎなことに十日ばかりして幕府は、大赦令だけは発した。義教の恐怖政治のため獄につながれる者数万におよび、その早急《さつきゆう》な釈放の必要はだれしもまず胸に浮かんだからであろう。
そして数日後、もう真夏の白炎が燃えている赤松邸の焼跡に、十数人の坊主が太鼓をたたいて踊り狂っている光景を、西洞院通りをゆく人々が見た。
やせおとろえた顔、ボロボロの衣、みな幽界の僧としか見えない姿であったが、中でも鼻も口もないほど焼けただれた顔貌を持つ坊主が、ひときわ猛烈に団扇太鼓を打ち鳴らし、凄まじい声で呪文を唱えていた。
「悪龍燃エツキテ、白虹、妙法ノ蓮華ヲアラハシ給フ。……蓮華が見えるぞ、それ、そこに妙法の蓮華が見えるぞ!」
ドンツク、ドンドン、ドンツク、ドンドン!
義教の死によって、やっと六角牢から解きはなたれた鍋かぶり日親であった。
「本能寺をここに移そう。新しい本能寺を、ここに建てよう。本能寺未来記には、そうせよとあるぞ。南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経!」
ドンドン、ドンツク、ドンドン、ドンツク!
十五
さて、このいわゆる「嘉吉の乱」のなりゆきはどうなったか。
播州へひきあげた満祐が、赤穂《あこう》北方の所領赤松の庄一帯に兵を集め、決死の防戦態勢をととのえつつあるという情報が伝えられているのに、なお幕閣は放心状態であった。
この尻をたたいて、ようやく赤松討伐の軍を編制させたのは山名持豊であった。
将軍横死の夜不参して、いちじはいちばん疑惑のまととなった持豊だが、そのせいのみならずもともと戦意旺盛の人物で、まっさきにその陣頭に立った。
播州に下ったこの討伐軍と赤松勢との戦闘がはじまったのは一ト月後の七月下旬からである。たとえ叛逆の将とはいえ、満祐に対する同情もあって幕府軍の意気があがらず、ために決死の赤松勢の前にしどろもどろのありさまであったが、その中でひとり猛威をふるったのは山名軍であった。
山名持豊はのちに応仁の乱に山名宗全として主役の梟雄《きようゆう》となるが、そのころ世には「赤入道」と呼ばれた。
これはそれ以前の話だが、そのあだなのもととなった異常なばかりのあから顔はこのころから変らない。とにかく「赤入道」と「性具入道」のたたかいは、怪獣の決戦に似たながめであったろう。
しかし、しょせんは衆寡《しゆうか》敵せず、ついに山名軍に包囲された城山城《きのやまじよう》で、赤松満祐が一族郎党とともに自害したのが九月六日である。
この最期にあたって満祐は、弟の左馬助を呼び、お前は赤松家再興のため生きのびろと命じた。左馬助はもとより抵抗したが、兄の厳命によんどころなく、阿修羅のごとく山名軍を突破し、西方へゆくえ知れずとなった。――
赤松領は山名領となった。
これで「嘉吉の乱」は終ったが、さてこの赤松左馬助則繁について、「建内記《けんないき》」という当時の公卿日記は、何とも伝奇的な事実を伝える。数年後この豪傑はなんと朝鮮の一将となって高麗のうちの一国のあるじとなったことを、朝鮮の使者が語ったという。
約百二十年後の一五六〇年、人王百六代|正親町《おおぎまち》天皇の世、一朶《いちだ》の黒雲が雷気《らいき》を孕《はら》んで奇襲部隊をかくし、東海の桶狭間に一匹の蛟龍《こうりよう》を誕生させた。
そしてこの蛟龍は日本を屍山血河と変えたのち、京の本能寺の炎の中に、寵童とともに燃えおちた。享年四十九歳。
そのあと|※[#「けものへん+彌」、unicode737c]猴《さる》の如くなるもの天下をとること十余年。
本能寺といえば、鍋かぶり日親が、当時六角大宮にあったものをここへ移そう、といったのは、さすがにそう簡単に実現できなかったけれど、百年ほどたった一五四五年、本能寺はまさしくほぼ赤松屋敷のあった場所に移っていたのである。
いわゆる本能寺の変はこの西洞院の本能寺で起ったもので、いまもそこの路傍に小さな趾碑がたっている。
現代の寺町御池下ルの本能寺は、その後さらに移ったものだ。
歴史はときにくりかえして起きるように見えることがある。ただし一度目は悲劇だが二度目は喜劇だ、といわれるが、これはどちらが悲劇で、どちらが喜劇か。ともあれこれは、あまりにも凄まじい「そっくりさん」の物語。
[#改ページ]
室町少年倶楽部
人間・序ノ章[#「人間・序ノ章」はゴシック体]
みずみずしい白雲はいくつかながれていますが、あの空のあおさはもうツユがあがったのにちがいありません。まわりの林は、目のさめるような濃緑《こみどり》のひかりをそよがせています。
その林にかこまれた空地から、わっわっという明るい声があお空にはねあがっていました。
「そらっ、そっちへけるぞ。にがすなよ!」
マリをける音がして、また、はじけるような笑い声がつづきました。
その空地では、三人の少年少女がさっきからマリをけって遊んでいました。
三人の少年少女は、一人は十歳前後ですが、あとは七つくらいの少年と、それから五つ六つの少女で、マリをけるのはいちばん年上の少年だけで、あとの二人はまだうまくけることができず、けられてころがってくるマリを、あっちこっちかけまわってつかまえるのがせいいっぱいです。
もう一人、これはおとなの、といっても、はたちほどの女のひとが、美しい笑顔で三人のマリあそびを見まもっていました。
マリといっても、これは鹿の皮で作ったもので、直径二十五センチくらいはあり、おとながケマリという遊びに使うものです。
三人の少年少女は、その年齢ながら、ぬいとりのある小袖をきて、いかにも身分高い服装ですが、まだケマリができるはずはありません。いまいったように、ただ、けるマリをおいまわすだけですが、それでもじゅうぶんおもしろそうでした。
おもりをしているらしい女のひとは、侍女風に見えます。
いまも年下の少年がマリをつかまえそこねて、ステンとしりもちをつきました。うしろへころがっていったマリを侍女がおさえて、
「若さま、だいじょうぶでございますか?」
と、心配そうに声をかけたのにたいして、少年はげんきよくはね起きて、
「だいじょうぶ! さ、そのマリかえして!」
と、可愛らしく腰をかがめて、身がまえました。そして、投げかえされた、自分のあたまの何倍もあるマリを、胸いっぱいに受けとめました。
「うん、うまいぞ、小坊主!」
と、むこうで年上の少年がほめてやりました。
まわりの景色も、その中であそびたわむれている子供たちも、まるで絵本のようなながめでした。
林の中で、人の声もこわがらず、キョッ、キョッ、と鳴いているのはホトトギスでしょうか。まるで深い山の中のようにも見えますが、ここは、京の北小路室町にあるので、世に室町第、いつも花が咲きみだれているので、「花の御所」とも呼ばれている広いお屋敷の中の西側にある片隅でした。
これが作られてからもう六、七十年もたっている上に、近年いろいろなとりこみがあって、ここしばらくあまり手入れをしないので、どこか荒れた感じもしないではありませんが、それだけにそれをいろどる自然はいっそう美しい。
マリをけっている少年が、実はこの「花の御所」のあるじでした。足利|三春丸義成《みはるまるよししげ》といいます。小さいのは異腹ながらその弟で、まだ髪はのばしていますけれど、小さなケサをつけているのを見てもわかるように、早くから東山《ひがしやま》の浄土寺という寺にいれられ、義尋《ぎじん》というむずかしい法名をつけられていました。いま兄が「小坊主」と呼んだのは、そのためです。少女は、足利家の親戚にあたる日野《ひの》富子というお姫さまでした。
その日、偶然、義尋と富子が、おとなに連れられておとずれてきたので、そのおとなたちが兄弟の母親の重子《しげこ》夫人と話しこんでいるあいだに、三人はたいくつして、屋敷の西側のほうのこの場所にきてマリ遊びをしていたのです。もっとも、侍女のお今《いま》がつきそってはいました。
「あらっ」
こんどは富姫がマリをとりにがしました。
マリは、だいぶ離れたところにある池へころがってゆきました。
それをおっかけて、富姫はかける。肩できりそろえた黒い髪がおどって、おとぎばなしの中のお姫さまのような姿なのに、元気はつらつたる遊びぶりです。
「あれ、お姫さま!」
と、お今があわてておいすがりましたが、マリは池の中へおち、そのあとからいきおいあまって富姫もあわや水へかけこもうとしました。
それより前、だれも気がつきませんでしたが、池にかかった橋を足早にわたってきた影があります。
池といえば、屋敷のまんなかに、鴨川から水をひいた三千坪ほどのものがあり、これはそれよりずっと小さいのですが、アヤメの花がいちめんにそよいで、その上に、板を折れ折れにつぎ足した八橋《やつはし》がかかるほどの池でした。あやめ池と名づけられていました。
いま、そこを向うから、こちらの橋のたもとちかくまでわたってきた影が、わたりきってはまにあわずと見たか、二メートルほどの水とアヤメの上を、白い大きな鳥のようにとんで、水辺すれすれであやうく姫君を抱きとめました。
「おっとあぶない」
笑ったのは、十六、七くらいの、しかもその若さで裃《かみしも》をつけ、みるからに貴公子といった感じの少年武士でした。
少女はその腕の中で、礼もいわず、また池のほうへ首をのばして、
「マリを! あのマリを!」
と、叫びました。
少年武士は少女を離し、あたりを見まわし、一メートルほどの枯木がおちていたのをひろいあげて、そのマリをかきよせました。
「まあ、ありがとうございます。よいところへ管領《かんれい》さま」
懐紙でぬぐったマリを、笑いながら少女にわたしている少年武士のほうへ、息をきりながらやっと近づいたお今が、頭をさげて礼をいいました。
「それにしても、みごとなおふるまい」
少年武士は、はじめて頬をぽっとあからめましたが、そのまま三春丸のほうへ顔をむけて、草の上に両ひざついておじぎをします。
「やあ、勝元《かつもと》か。ようきた」
と、三春丸がうれしそうに叫びました。
「いままでそのマリで遊んでいたところだ。勝元もいっしょに遊ぼう」
「は、そういたしたいのですが、ちょうど私と前後してイセイセどのも参上なされ、ぜひ上様にさしあげたいものがあると申されております。それでお呼びに参ったしだいで」
「ああ、イセイセか。あれならいい、ほうっておけ」
三春丸はかるく手をふって、
「それより勝元、お前、ケマリもうまいんだろ? いつか、だれかから聞いたぞ。いまそのマリで教えておくれ」
と、せがみました。
「いえ、いまはちとどうも。それにケマリにはそれなりの場所も装束も|くつ《ヽヽ》も必要ですし――」
と、勝元はくびをふりました。
「そんなことはあとでいい。いまちょっとマリのけりかただけを見たいんだ」
三春丸が足ぶみしていうと、あと二人の小さい仲間も、
「見せて!」
「いま見せて!」
と、スズメみたいにならんで、声はりあげます。
「まあ、管領さま、むずかしいことはおっしゃらず、こんなお子さまがたなのですから、見せてあげて下さいませ」
と、お今も笑いながら申します。
「では」
勝元は眼でおじぎして、立ちあがり、富姫さまからマリを受けとりました。
ケマリは、ある一定の高さ以上にマリをけあげて、地面に落とさない回数をきそう、平安朝のころからの貴族の遊戯です。ケマリ用の皮|ぐつ《ヽヽ》をはいてやるのです。
やがて勝元はケマリをはじめましたが、その|くつ《ヽヽ》もはいてないのに、マリは高く高く同じ高さにあがり、なんどくりかえしても、ケリそこなうことはありません。みんな、あお空に回転し、上下する鹿皮のマリをあおいでいましたが、そのうち勝元の足さばきだけに感嘆の眼をそそぎました。裃をつけているのに、まるで平安朝の若いおくげさまのような優雅な姿と動作でした。
「ほんとうに、イセイセの殿さまよりおじょうずでございますね。……」
お今がつぶやくと、はじめて勝元は、
「あ、そうだ」
と、叫んで、落ちてきたマリを足でなく手で受けとめました。
「そのイセイセどのが、珍しいおみやげを持参なされている。上様、ともかくもいってやって下されませ」
と、あらためていい出しました。
「珍しいおみやげって?」
「私も一見しましたが、インコとやら申す南蛮渡りの鳥ですが」
「インコ? 南蛮?」
「近来、堺《さかい》に帰った遣明船《けんみんせん》から手にいれられたものらしゅうございます」
そういいながら、なぜか勝元の表情には、にがにがしげなようすが見えましたが、三春丸のほうは気がつきません。
「えっ、南蛮の鳥? それじゃ見にゆこう」
げんきんなもので、まるでケマリのことは忘れたように、まっさきに八橋のほうへかけてゆきます。義尋も富姫もそれを追う。
それにつづいて、歩き出しながら、
「お可愛い将軍さま」
と、お今が笑顔でつぶやくと、勝元も、
「まったく」
と、うなずきました。
まったく、と、おとなみたいにあいづちをうちましたが、実はこの細川勝元だって十六歳の管領なのです。
管領とは、後の世では総理大臣と呼ばれる、幕府の最高位にある職名でした。
十六歳の総理大臣は颯爽《さつそう》としていますが、その上、アヤメの八橋をわたってゆく姿には、年齢には似合わないカンロクさえ見えました。
これは一四四五年、当時の暦《こよみ》でいえば六月なかば――のちの暦でいえば七月なかば――のある日のことを書いているのですが、実際このころ、日本の最高権力者たる足利八代将軍は十歳の少年三春丸であり、その補佐役たる管領、すなわちいまの首相は、やはり少年、十六歳の細川勝元だったのです。
こんなふしぎなことが起ったのには、次のような事情があります。
三春丸の父の六代将軍|義教《よしのり》が家臣に暗殺されたのは、四年前のことでした。
そのあと長男の義勝が七代をついだのですが、これがおととし十歳というのに病死してしまったのです。
それでこんどはその弟の三春丸がまたそのあとつぎになったというわけで、だから三春丸が八代将軍になったのは、おととし八歳のときなのでした。
もっとも、ほんとうをいうと、正式にはまだ将軍ではありません。それには天皇の宣下《せんげ》が必要なのですが、なにしろまだあまりに幼年なので、それは十四歳の元服《げんぷく》を待ってからということになっていて、正しくは将軍待命者というべきなのでしょうが、いま三春丸が事実上の将軍であることはまちがいありません。
一方、当時の首相である管領は、細川、斯波《しば》、畠山という代々の重臣の三家が、交替で受け持つというならいになっていたのですが、ちょうどこのころ、それぞれの当主が相ついでこの世を去って、管領になるべき適当な人がひとりもない、という事態になりました。かといって、それより格の下の家柄の人物では、おたがいに張りあって、かえって混乱をひき起す。
そこで、重臣のうち第一の名家ともいうべき細川家の勝元が、とにかく元服もすませた年齢だし、まわりの者が適当に助けてやれば何とかやってゆけるだろうということになって、彼が管領ということになったのです。
さて、その地位につけてみると、さすがに細川家のおん曹子、学問も儀礼も武事も舌をまかせるほどで、おとなの助言など無用どころか、そのおとなたちを平伏させるりん然たるところがある。
それに何より適材であったのは、幼い将軍がおとなのだれよりも、六つ年上の管領のいうことをよく聞くことでした。もともとやさしい性質の三春丸ですが、それだけにこの颯爽たる勝元を兄のように慕《した》うのです。
客がきたからといって、管領がわざわざひとりで将軍を呼びにゆくなんて、さすがに十六歳の身がるさですが、その勝元がいま将軍とともに渡殿《わたどの》から大書院の一つにはいってゆきました。
「あっ、きれいな鳥!」
「大きな鳥!」
富姫と義尋が、まっさきにバタバタとかけよりました。
「おしずかになさい」
と、叱ったのは、いちばん奥に坐っている重子夫人でした。三春丸の母にあたりますが、まだ三十なかばの若さでした。
が、三春丸も弟たちに劣らない昂奮ぶりで、その鳥たちのいる鳥籠へ走りよります。
ツユがあけたかと見える日で、大座敷の障子はあけはなされて、その縁側ちかいところにどっかとすえられた米俵ほどの黒い籠の中には、二羽の大きな鳥がそれぞれのとまり木にとまっていました。ニワトリくらいの大きさで、どちらも赤と青と黄の絵具《えのぐ》で染めたような華麗な色をしています。
「あっ、あぶない!」
声をかけたのは、籠の向うがわに坐っていた三十なかばの武士でした。
「あまり籠に近づかれてはなりませぬ。その鳥のクチバシは木も竹もかみくだくほどでござりますゆえ」
色白の面長《おもなが》ですが、たっぷりふとって、どこか堺の大商人みたいな感じの人物でしたが、これがこの献上物を持ってきた伊勢|伊勢守貞親《いせのかみさだちか》でした。
幕府にあって、政所《まんどころ》執事の職にある。また足利家の私的な財務長官という役割をつとめています。偶然、姓と官名がかさなるので、みんなイセイセどのと呼んでいました。
そういわれてみると、その大きな鳥籠は、木や竹ではなく、細いながら鉄の棒でできているようです。きっとこれも南蛮製のものでしょう。
びっくりして、とびはなれた三人の子供たちに、
「いえ、それほどこわがられることはありません」
と、伊勢貞親は手をふって、
「そこにある餌箱の干しグリをひとつかみとって、籠の外から鳥に見せてやって下され。まず上様から」
三春丸がそうやってみせると、ふいに奇怪な声がひびきわたりました。
二羽のインコがものすごいクチバシをあけ、黒い厚い舌を出して鳴いたのです。
「ヒョーロク!」
「ヒョーロク!」
三人の子供は、キョロキョロまわりを見まわしました。そんな鳥の鳴声をいままで聞いたこともありません。だれか、人間のおとながそう叫んだのだろう、と思ったのです。
「餌をやって下され、上様」
また伊勢守がいい、三春丸が餌を投げいれると、二羽のインコはとまり木から羽ばたいて下へおり、その餌をはねちらしながらついばみます。あっというまにたべおわると、またとまり木へ舞いもどりました。
「もういちど――」
貞親にいわれて、三春丸が餌をつかむと、
「ヒョーロク!」
「ヒョーロク!」
二羽のインコはまた叫びました。
人間とも鳥ともつかない奇怪な声ですが、もうまちがいはありません。それにしても、人間の声とまぎらわしいような声を出す鳥がいるなんて、驚きのきわみです。
ヒョーロクとは、うす馬鹿、まぬけのことですが、それがまたおかしい。
みんな、大笑いです。
ひとしきり、さわぎのあと、義尋が、この鳥を一羽じぶんにおくれ、寺へ持って帰るから、といい出し、六つの富姫も、私もほしい、と、ねだりはじめました。
「ところが……二羽でひとつがい、ということになっております」
と、イセイセどのは頭をかき、
「それを上様に献上に持って参りましたので」
「ほかにもうないの?」
と、義尋がきくと、貞親はいよいよこまった顔つきで、
「は、明《みん》からの渡来船が運んできたのが、この二羽だけだそうでございます。それをやっと手にいれましたもので」
「伊勢どの、あなたが堺の天王寺屋から買われたのは五羽ではないか」
と、言葉をはさんだのは勝元でした。
いままで黙って、このさわぎを見まもっていた勝元でしたが、実はさっきから何かいいたげに口をムズムズさせていたのです。
伊勢貞親は眼をまるくしました。
「えっ、それをどうしてご存知で?」
「私は管領だ」
と、りん然として勝元は申しました。最高の統率者だ、という意味です。
「そのほか私は、あなたが莫大な金襴《きんらん》や麝香《じやこう》や青磁の壺など買いこまれたのも知っている」
貞親の顔は、赤くなったり青くなったりしました。
微笑さえ浮かべて、勝元はたたみかけます。
「失礼ながらあなたのお家柄では、分にすぎたお買物だと思うが、それらの費用はどこから作られたのか」
貞親はぶ厚い唇をふるわせるばかりです。
「いずれ、それはとり調べる。……さらに、いま献上されたインコについても申したいことがある」
「な、なにを?」
「その鳥に人語を教えこまれたのはあなただと思うが、ヒョーロクとは何だ。ヒョーロクとは、下々でいう馬鹿のことだ。そんな下賤な言葉をおぼえさせた鳥を将軍家に献上するとは無礼ではないか」
「あいや、べつに上様をヒョーロクと申しあげるわけではありません。ただお笑いのたねに、おかしい言葉を教えただけで」
「しかし、将軍家に対して、鳥がヒョーロクと呼ぶことになるではないか」
「ふん、お年に似合わぬ邪推をなさるお方だ。……管領とは申されるものの、まだ十六歳とあっては、失礼ながらまだよくご理解されぬことも多かろうと拝察するが」
相手を十六歳と見て、貞親は姿勢をたてなおしました。
「伊勢家は代々、足利将軍家がご幼少のとき、数年はおあずけをたまわってご養育申しあげるのを天職といたす家でござるぞ」
そうなのでした。まさに伊勢家は、足利家の財務長官であるのみならず、昔から歌や連歌や諸礼式についての道にふかくかかわり、おそらく将軍やその兄弟を幼児からそういう雰囲気の中で育てるためでしょう。必ず幼少のころ数年伊勢家にあずけるならわしになっていたのです。三春丸も義尋もそうでした。
こういうわけで、この貞親は重子未亡人の信頼もあつい人物なのです。
そのゆいしょある伊勢家の当主に、こんな文句をつけたのは細川勝元がはじめてでしょう。
「なにをいまさら、上様を馬鹿にするとか無礼をはたらくとか、さようなことは論外の沙汰だ。申さばはばかりがあるが、事実上、親と子も同然の仲でござるわ」
「その仲を、もうやめていただきたいのだ」
「なに?」
「家臣の中に、特別になれなれしい顔をする一家があることは、足利家のおためにならぬ。三春丸さまの将来のお子は――」
と、いって、勝元は三春丸のほうを見て、笑い出しました。三春丸はまだ十だからです。
「足利将軍でいらっしゃるお方は、やれ連歌やら、やれケマリやら、なまぬるいおくげさまのようなお育てかたを受けられてはいけない。もっと武士の大将軍らしくお育て申さねばならないのだ!」
彼だってケマリに長じているのは、いま見たとおりですが。――
「ばかな!」
貞親は肩をゆすりました。大町人を思わせる顔が、猛悪といっていい表情に変っています。
「いかに管領とて、足利家代々のしきたりをそうかるがるとご変改になってよいものか。伊勢家としてはとうてい承服できぬ!」
そのとき、怪声が鳴りひびきました。
「ヒョーロク! ヒョーロク!」
二羽のインコの声です。しかし、だれも笑う人はいない。
「御後室さま、かような暴言、おききのがされるおつもりでございますか!」
「勝元」
と、重子夫人は呼びかけました。驚きに、やはり怒りもまじった眼の色でした。
「それはすこし出すぎた言葉ではないかえ?」
「いえ、私が管領をうけたまわったときから、まっさきに考えていたことです。私の考えがまちがっているかどうか、上様におうかがいいたしましょう」
勝元は三春丸のほうへむきなおって、
「上様、いかがおぼしめされますか」
三春丸はこまったような顔を、勝元と貞親と、それから母のほうへまわして、さて小さな声で、しかしきっぱりと申しました。
「私はなんでも勝元のいうとおりにする。……」
そのとき、すさまじい羽ばたきの音が緊張した空気を破りました。みな、あっと叫んでいました。二羽のインコが籠の外へとび出したのです。
「な、何をいたす!」
伊勢貞親は、血相かえて立ちあがっていました。縁側ちかくに坐っていた侍女のお今が、籠の戸をあけたことを知ったのです。
天井から雪のように――いや、朱、黄、青の花のようにふる羽根の下に、お今はおちついた微笑を浮かべて、
「上様をヒョーロクと呼ぶような無礼な鳥は、空にのがしたほうがお家のためでございましょう」
と、申しました。
「ヒョーロク! ヒョーロク!」
また奇怪な声をたてると、二羽のインコは、あけはなされた障子のあいだから庭へ、そしてツユ晴れの青空へ、妖精のように飛び去ってゆきます。
重子夫人も三人の子供も、そして少年管領細川勝元も、しばし茫然としてそれを見送るばかりでした。
それから五、六日たったある日の午後です。
その日は、足利家の母堂重子夫人は、朝から故義教将軍のお墓まいりに、洛北の等持院《とうじいん》へ出かけていました。
その留守に、細川勝元が参上して、三春丸とひそひそ話をすることしばし、やがて侍臣たちに、
「これから三春丸さまに、あやめ池のほとりで細川家秘伝のケマリをご伝授するが、夕方までかかる。秘伝のものだから、ほかのだれも見ることはゆるさぬ」
といって、三春丸といっしょにそちらへ出てゆきました。片手に大きな包みをかかえているのは、マリや|くつ《ヽヽ》やケマリ用の装束がはいっているとのことでした。
きょうは、義尋も富子もいません。
さてあやめ池のそばにくると、勝元は包みをひらきました。出てきたのは、マリやケマリ用の装束ではなく、ふつうの武士の着物とすげ笠でした。
かわりにいままで二人が着ていた高貴な衣服をいれると、それをつつんで植込みのかげにいれました。
それから勝元が持ち出したのは、ちかくの林の中におきざりになっていた|はしご《ヽヽヽ》です。たぶんお庭者が忘れていったのを、このあいだ見ていたのでしょう。
勝元はそれを持って、林のむこう側の築地《ついじ》塀にたてかけ、自分からスルスルとのぼると、塀の上から、
「さあ、上様」
と、ふりかえって、うながしました。
三春丸もそのあとから|はしご《ヽヽヽ》をのぼります。そこで二人は、眼だけのぞいた柿色の猫頭巾をかぶり、その上から笠をつけました。
二人はどこか外へ出てゆくようです。
勝元は外の往来に人影がないのを見てとると、先にポンと地上にとびおり、ついで三春丸が下りるのに手をかします。
そのまま二人は東へ向って歩き出します。この十歳の将軍と十六歳の管領は、供もつれずに勝手に京の市中へ出てゆくのです。
――と、この二人の行為をだれ知るまいと思いきや、二人の消えた|はしご《ヽヽヽ》の下にかけよった女があります。
それは侍女のお今でした。
いちどお今は、うしろをふりかえってだれか呼ぼうとしましたが、そうはしないで考えこみ、それから意を決したように、やはり|はしご《ヽヽヽ》をのぼってゆきました。そして、先に出ていった二人の遠いうしろ姿がまがり角で消えると、すそをおさえながら、これも路上にとび下りたのです。
とにかく先日のインコさわぎといい、この所業といい、たいへんな美人なのに、思いのほかに大胆な女性らしい。
お今は二少年を追いはじめましたが、二人はむろん気がつきません。
途中で、物売りの女とゆきあうと、お今は自分の扇子とひきかえに笠をもらって、それを頭につけました。
もうまったくの夏の空で、汗が出るほどの光ですが、その下の京の大路はまるで織るような人波でした。きっとツユがあがったうれしさのためでしょう。
両側の店々は、まだ屋根板に石をのせている時代ですが、構えは大きく、通りにむけて見世棚にならべた品々は種類も多くあふれるようで、入口にひるがえる紺のれんはあざやかでした。
「まるで祇園《ぎおん》祭のようだね」
三春丸は話しかけました。
「町はいつもこんな風?」
「まあ、このあたりは」
と、勝元は答えました。
「しかし、みんなただ浮かれて歩いているのではありません。これでだれも何かの用や仕事があって歩いているのです」
祇園祭といえば、ことしも行われました。毎年三春丸も、母や家来などとともに、その山鉾《やまぼこ》巡行を、沿道のある大名の屋敷に作られた桟敷《さじき》から見物するのですが、ことしはあいにく小雨がふって、山鉾巡行はなんとか行われましたが、将軍の見物はとりやめになりました。
それが一年のうちいちばん大きなたのしみであっただけに、たいへん残念がる三春丸を見ていて、ふと勝元が思いついたのが、きょうの「脱走《エスケープ》」でした。
三春丸はめったに花の御所から出られない。出てもそれはおびただしい家来にかこまれた牛車《ぎつしや》や駕籠《かご》の輿《こし》の中です。しかもそのときは、ゆくてはみんな露ばらいで人影もない大路でした。
祇園祭見物の中止に落胆している三春丸を見ていて、
「おう、そうだ」
と、勝元がひざをたたいたのです。
「上様、いちど町へ出て、町人どものふつうのくらしをごらんになりませんか? 私がご案内いたしますが」
三春丸はばんざいをして、
「ほんと? ぜひつれてって!」
と、叫びました。
勝元は三春丸を「教育」するつもりなのです。
十六歳の管領なればこそ頭にひらめいた幼将軍の教育法でした。それは庶民の生活を見せるということでした。
が、そんなことは母の重子夫人も側近たちもゆるさないにきまっています。そこで二人は、御所のすきをねらって、きょう京の町へひそかにぬけ出してきたのでした。
少年の背丈《せたけ》のくせに、笠の下に覆面をしているのは異様に思われますが、そのころ人々は外出するとき、いろいろな覆面をして歩くのが流行でした。それに、あらゆる階級の人がまじりあって、てんでに勝手な服装で通行する都大路では、いちいち注意をむける者もありません。
やさしいたちの三春丸は、道ゆく民衆の活気に気圧《けお》されたようでしたが、眼はキラキラとかがやいていました。
とはいえ、この二人が将軍の卵とほんものの管領であることが発見されると、このころの世相では、いいほうにも悪いほうにもぶじではすみそうにない。これはやはり危険な一種の冒険でした。
やがて二人は、にぎやかな大路から、あちこちの小路にはいりこみました。
そこでは、蜂の巣のような長屋の中で、職人たちがはたらいていました。鍛冶《かじ》屋、刀鍛冶、仏師、轆轤《ろくろ》屋、桶屋、櫛《くし》屋、御簾《みす》あみ、烏帽子《えぼし》作り、扇折り、笠縫い、傘張り……みんな戸をあけはなしてあるので、その汗にひかるはだか同然の姿がよく見えるのでした。
「あれは何?」
「これは何?」
三春丸は、われを忘れて大声でききます。職人たちはちらっと眼をあげますが、あとは一心不乱です。
それをいちいち説明して、
「あの大通りに美しくならんでいる品々は、この人たちのこんなけんめいなはたらきから生まれているのです」
と答える勝元の眼には、うすく涙さえありました。
三春丸がふしぎそうに尋ねたことがあります。
「勝元、なぜ泣く?」
「いえ、管領の職をうけたまわりましてから、けんめいにはたらいている町人や百姓の姿を見ると、なぜか涙が出てくるのです。この人々を、いつまでも平和に暮させたい、もっと暮しがらくであるようにしてやりたい、など考えると――」
勝元は三春丸の肩に手をおいて、
「それは上様と私の肩にかかっているのですぞ!」
と、かるくゆさぶりました。
「上様、それを誓って下さいますか?」
「ちかう! ちかう!」
と、三春丸は、肩にかけられた勝元の手をとり、ふりむいて、握手のかたちになって、
「勝元、わしはいい将軍になるぞ。お前もりっぱな管領になってわしを助けておくれ!」
と、叫び出していました。
その日の夕方になっても、三春丸と勝元はまだ町にいました。
二人は四条の橋の上に立っていました。
橋の上は、この時刻になっても、かぎりもなく人馬が通ってゆきますが、二人の眺めているのは、橋の下の河原でした。
このころ鴨川もその河原も、後年よりずっとひろく、あちこち支流さえながれているといった状態だったのですが、橋から見えるその一帯は、大路にまさるとも劣らない、壮観といっていい風景でした。
石ころだらけの河原の、いたるところに芸人らしきものが立って、何やら歌い、何やら踊ったりはねたりしています。遠くには野天《のてん》の舞台さえ設けられているようです。そのまわりを、それぞれ何十人という群衆がとりかこんで見物しています。そして、それらの上に、もう茜《あかね》づいた夕日がななめにさしているのです。
あれは放下師《ほうかし》、あれは幻術師《めくらまし》、あれは傀儡師《くぐつし》、あれは声聞師《しようもんし》、あれは琵琶《びわ》法師、あれは太平記読み、そしてあの舞台でやっているのは田楽《でんがく》らしい……と、勝元は、いちいち扇子で指して三春丸に説明しました。
そのとき二人は、ふと背後の橋の上に、馬が行列してきたのに気がつきました。
何やらあでやかな布でつつんだ荷をのせた、二十頭ほどの馬の行列です。その手綱《たづな》をとっているのは馬借《ばしやく》と呼ばれる馬方の男たちでしょうが、そのほかに三、四人、宰領《さいりよう》らしい足軽がつき従っています。その一人が旗を持って、旗には、
「伊勢伊勢守様御用」
と、かいてありました。
ふりかえって、じっとそれを見ていた勝元が、
「イセイセどのへゆく荷ですね。どうやら加賀絹らしい」
と、にがにがしげにつぶやきました。加賀の名産です。
「あいかわらずの傍若無人だな」
「あれは伊勢のところへゆくのか。それがどうしたって?」
三春丸には、勝元のつぶやきの意味がよくわからないようです。
「あの人は、この前申しあげたように、上様御養育の家を鼻にかけ、御後室さまにとりいってそのごひいきをカサにかけ、あちこちからワイロのとりほうだいで、その金にあかしてぜいたくのかぎりをつくしております。この加賀絹も、馬の三頭分くらいは、あのインコと同様、やがて御所に献上に参るでしょうが、お受けになってはなりませんぞ」
「お前がそうしろというなら、そうする」
「私はああいう強欲な奸物《かんぶつ》を、やがて幕府から追い出してやろうと考えているのです。一方で、できるだけあの河原にいる連中をらくにしてやりたいのです」
三春丸は、勝元の熱情におされたように、とまどいの色を見せながらも、尊敬の眼で見あげて、
「お前が望むなら、そうする」
と、もういちどいいました。
馬の行列は、向うの橋のたもとに遠ざかりました。
「勝元」
と、三春丸がいい出しました。
「私は河原に下りて、もっとあの芸人たちを見たい。――」
一方、橋のたもとにかかった加賀絹の馬の行列です。
「銀八郎」
と、その宰領の一人がうしろをふりかえりました。よく見ると、これもほかの足軽と同様の姿ですが、なんとまだ少年でした。
「あれは、御所の侍女、お今とやらいわれる上臈《じようろう》じゃないか?」
呼ばれた足軽は、そのほうの雑踏の中を見やって、はっとしたようです。
上臈とは、身分高い女官のことです。――少年足軽はいいます。
「いつぞや等持院に、おやじさまのお供をしていったとき、やはり御後室のお供をしてきたあの女臈を、お前たちが美人だ美人だとあまりさわぐものだから、おれもおぼえた」
おやじさまとは伊勢貞親のことです。この少年は貞親の遠縁のもので、伊勢新九郎という名前でした。
たくましく、せいかんな容貌をしているので、十六、七にも見えますが、実はまだ十四歳です。
「たしかにお今上臈です」
と、おとなの足軽はうなずきました。
「こないだ、御所でおやじさまに恥をかかせたのはあの女だね」
貞親が献上したインコを、お今という侍女が逃がした話を聞いていたようです。
「どうしてあの女がこんなところへ出てきたものかな」
「さあ?」
「何でもいい。いい機会だ。あの女に仕返しをしてやるのに」
「あの女に仕返し? 御所に奉公しておられる女人《によにん》に?」
「そうだ。この四条河原には、いつも牛糞《うしくそ》の虎《とら》がいるはずだ」
伊勢新九郎の眼が、ギラリとひかって、
「あれを探して、あれにやらせるんだ。どうだ?」
と、ささやきました。
身分ある女性に仕返しをする、など途方もないことを思いつくのは十四歳の年ごろなればこそでしょうが、それに対して相手の足軽が「は」と頭を下げたのは、新九郎が主家の伊勢家と遠縁であるせいでしょうか。それともこの少年が年に似合わぬ迫力を持っていたせいでしょうか。
二人はヒソヒソと相談をはじめました。
そのとき、橋のたもとまでひき返してきていた三春丸と勝元が、そこから河原へ下りていったのですが、覆面しているので新九郎たちは気がつきません。二人がちらっちらっと眼を投げているのはお今だけです。
「あ、河原へ下りてゆくぞ!」
新九郎が小声でさけびました。
自分に眼をつけている者があるとは知らず、お今は三春丸と勝元を追って、これも河原へ下りてゆきます。
お今はむろん、花の御所をひそかにぬけ出した若君と少年管領を心配して追って出てきたものでした。
いままで声をかけなかったのは、その勝元が年に似合わず、なかなか思慮のある少年だと見ていたのと、また二人が、何のためにどこへゆくのだろう? という疑惑にとらえられたからです。
いま、あかあかと染まった四条河原にくりひろげられている見世物や大道芸を求めて、二人の少年は経《へ》めぐってゆきます。
もともと祭や縁日などいうものは、たとえ少々野卑なところがあっても哀れをさそうところがあっても、子供の魂を酔っぱらわせてしまうものです。ここもたしかに野卑で哀れなものも多いのですが、何より巨大な祭であり、そこぬけの縁日でした。
「こんどはこれを見よう」
「こんどはあっち!」
三春丸はもう夢中です。
ゆきちがう群衆の中をかけまわる十歳の主君を迷子《まいご》にしないように気をつかって、十六歳の勝元も少しくたびれてきました。
この河原に集まっているのは、町の人々もいますが、えたいの知れない連中もずいぶんいます。一見してあぶれ者と見える男たちもいれば、ふんどしだけの男たちもいます。その中で、たとえ覆面はしていても、ちゃんとした武士姿の、しかも小ぶりの二人は、ともすれば人目をひくようです。
虫の知らせか、勝元は何となく危険を感じてきました。
「若君、そろそろひきあげましょう」
と、勝元がささやいたとき、うしろのほうで、「あーっ」という女の悲鳴が聞こえました。
二人はふりむいて、何かさわぎが起ったのを知りました。が、こちらとのあいだに、見物人たちが群《む》れていて、とっさにはよくわからない。どうやら、二人ほどのはだかの男が、|こも《ヽヽ》でつつんだ長い物体を横抱きにしてかけ出した――と見たのは、一、二分のちのことです。
「あの声は、お今だ!」
と、三春丸が叫びました。
「えっ」
勝元は仰天しました。
「まさか?」
「いや、たしかにお今の声だ!」
と、三春丸はくりかえします。ただ一声で、自分の侍女と知ったのは、むしろ十歳という年齢だけの直感でしょう。
長いむしろ包みをかかえた二人のはだかん坊は、鴨川のほうへかけてゆきます。水をわたって逃げる気かも知れません。
そして、もう一人、棒を持ったはだか男がついて走る。その包みのはしから出ているのはたしかに白い女の足で、そこからいま河原へぬげ落ちたのは美しい女|草履《ぞうり》ではありませんか。
実は、その寸前、二少年を追っていたお今は、いきなりうしろからさるぐつわをかけられると同時に、横だおしにされ、大きな|こも《ヽヽ》で巻かれ、そのまま抱きかかえられたのでした。
手馴れた一瞬の仕事でしたが、すぐそばでそれを見ていた者も何人かあるでしょうに、それを追う者もなかったのは、こういうことがこの河原ではさして珍しいことでもなかったせいでしょうか。
「待て!」
まだよく納得できないままに、とび立ったのは勝元でした。
「何を狼藉《ろうぜき》するか!」
かけ出し、二十歩ばかりで追いつき、先まわりして大手をひろげる。
「じゃましやがるか。そこどけ小僧!」
棒を持った男が、ひげの中から歯をむき出しました。これは牛糞の虎という、河原の芸人や見物人にたかるのをならいとするあぶれ者の親分でした。
「どかねえか、くそっ」
自分の名を呼ぶような怒声とともに、うなりをたててなぐりかかってきた棒に、勝元の刀が鞘《さや》ばしりました。
武芸のすじもきわめていいといわれる勝元ですが、なんといっても若年の腕、それなのにその棒が半分、かっとみごとに切られて空へとんだのは、あぶれ者のほうにおどし半分のところがあったからでしょう。
それと見て、あとの二人は|こも《ヽヽ》包みをほうり出して、
「やるかっ」
と、こちらにむかってきた。
それより勝元は、|こも《ヽヽ》包みからほうり出されたあでやかな物体に眼をやって、逆上しました。
それがうつ伏せの女性だ、と見えたとたん、半身を起してこちらをむいたのは、まさしく三春丸さま付きの侍女お今だったのです。
むろん笠は飛んでいます。お今は必死にさるぐつわを自分でときました。
「おう、お今どの!」
絶叫してそのほうへ走り寄るのを見て、はだか男たちは、あるいは半分に切られた棒をふりかざし、あるいは手をワシの羽根みたいにひろげていどみかかってきます。
「えい!」
勝元は夢中で、先頭の男の棒をかわすなり、その片腕を斬り落しました。腕は鮮血をちらしながら河原にころがりました。次にその男も血の中につんのめりました。
「あっ、やった!」
と、その仲間の一人が叫び、
「おおいっ、みなこい! 虎親分が斬られたぞ!」
もう一人が飛びずさって、あごをあげてどなると、たちまち群衆の中から十何人という人間がとび出し、かけよってきました。
数分のうちに、そこに、ざんばら髪、ひげぼうぼう、はだか同然ながら、てんでに棒はおろか刃物らしいものを持った凶悪な輪が出現していました。
そのまんなかに、懐剣に手をかけたお今と、それにすがりついた三春丸と、血刀をひっさげた勝元が立っています。
「なんだ、こいつらは?」
と、あぶれ者の数人がすすみ出て、
「小僧ども、一人前に覆面なんかしやがって」
「まずそれをぬいで面《つら》ア見せろい! 名を名のれ!」
と、呼ばわりました。
この覆面はとれません。名も名のれません。正体をあきらかにすれば、みなびっくり仰天して土下座するか――そんな保証はないのです。実は下層民が上流の人間に対して何をやるかわからない時代だったのです。たとえ対象が天下の将軍であったとしても。
このころ、この風潮を「下剋上《げこくじよう》」と呼んでいました。
輪はちぢまってきました。落日の光は、ものすごいばかりの朱色に変っています。
ちょうどそのとき、四条大橋を東から西へ通りかかった十数騎の騎馬武者がありました。
その寸前、河原で起ったさわぎにいちはやく気づいた者があって、数瞬ののち、通行人が大半らんかんにとりついたので、うしろを通りかかった騎馬隊も、
「はて?」
と、馬をとどめて、馬上からそのほうへ眼を投げました。
すると、ちょうどはだか虫の輪にとりかこまれて立ちすくんだ、ゆいしょありげな少年二人、女一人の姿が見えたのです。
たちまち、その首領らしい、山法師のように白い袈裟頭巾《けさずきん》をつけた一人が首かたむけて、
「あれは御所のお今上臈ではないか。……そして、あの少年は?」
愕然として叫びました。
「おおっ、ありゃ将軍家と管領だ!」
たとえ覆面はしていても、遠目にもそう見てとれたのでしょう。遠目だからこそかえってそのことがよく判明したのかも知れない。
「こりゃ大事だ。ゆけっ」
鞭を空にあげたと見るや、自身がまっさきに橋をかけわたり、西のたもとから河原めがけてかけ下りました。
それにつづく騎馬隊は、その一帯にむれさわいでいる群衆を、石ころみたいにはねとばし、かけちらして、例の円陣のほうへ殺到します。
ふりかえり、胆をつぶして四散するあぶれ者めがけ、馬上からふり下ろされる陣刀は、あちこちにようしゃもない血しぶきをたてはじめます。
「しまった」
人波の中で、そんな声が聞こえました。さっきの伊勢新九郎という少年ですが、聞いたのはそばの足軽だけです。
この二人も、加賀絹運搬の行列からはなれて、この河原にきていたのでした。
「いや、いま助けにきた武者のことじゃない。銀八郎、あれは将軍家と管領細川どのだぞ」
「えっ」
足軽は眼をむき出しました。
「どうしてあの御両人がこんなところへ出ておいでなされたのかな。いやはや、おどろき桃の木とはこのことだ。こりゃ三十六計逃げるにしかずだが、あぶれ者をそそのかしたのがわれらとわかっては一大事だ」
新九郎にも、三春丸、勝元の出現は大意外事であったらしい。
「銀八郎、あとはたのんだ。牛糞の虎がまだ生きていたら、このさわぎにまぎれて始末しておけ」
「はっ」
銀八郎と呼ばれる足軽は、一礼してかけ去りました。
身体も大きいが、とうてい十四歳とは信じられない、おとな以上の用心ぶかさです。――この伊勢新九郎はのちに梟雄《きようゆう》と呼ばれる北条早雲《ほうじようそううん》になるのですから、あたりまえかも知れません。
そのあいだにも、あぶれ者たちを斬りちらし、ふみつぶした騎馬隊のまっさきに立った大将は、馬からとび下り、三春丸の前にひざまずいていました。
「かようなところで拝謁《はいえつ》いたすとは、まったく意外千万。……山名宗全《やまなそうぜん》でござる」
と、うやうやしく申しました。
「やあ、宗全か。よくきてくれた。あぶないところだった」
と、三春丸はまだ大息をついています。
「管領どの。……してまたこれはいかなる次第で?」
宗全に大目玉をむけられて、勝元は頭をかきました。
「いや面目しだいもありません。まったく私の若気《ヽヽ》のいたりで。……」
それから数刻ののち、三春丸と勝元とお今は、堀川西の山名宗全の屋敷で休んでいました。
それまでに相談の上、宗全から重子夫人に――上様は細川どの、お今どのともども、今日山名家にお成りになっている。宗全のある望みで、ぜひともご三|方《かた》に密々お願いいたしたいことがあってお越しを仰いだが、夜分おそくとも必ず御所へ、つつがなくおとどけつかまつりますゆえご心配なく――と、山名家の使いを走らせておきました。
山名家は、細川家には及びませんが、幕府屈指の大名です。細川、斯波《しば》、畠山という三管領と呼ばれる三家についで、四職《ししき》の一つの家柄です。
そのあるじの宗全は、頭はまるめていますが、みごとなひげをはねあげ、堂々たる体格の武将でした。
「わはははは、将軍家と管領の手をとりあっての家出とは、こりゃ前代|未聞《みもん》じゃ。いや、愉快愉快、あははははは!」
四条河原で、勝元たちが、そんなところにいたわけはざっと聞いたが、いまあらためて事情を聞きなおして、宗全は大笑しました。
頭をまるめている、といいましたが、実はもう禿《は》げかかっている山名宗全は、このとし四十二歳ですが、世間からは「赤入道」と呼ばれていました。おそろしく顔色がいいからです。
銀燭《ぎんしよく》にかこまれて、一同の前には饗膳《きようぜん》がならべてある。高い足の膳の上には、鮎ずし、カラスミ、蒲鉾《かまぼこ》などが見えました。
三人の客は少年と女性なので、そこには酒は出してありませんが、当の主人は遠慮なく大盃をかたむけて、「赤入道」の面目|躍如《やくじよ》というところです。
「いや、私のかるはずみ、穴があったらはいりたい。とにかく上様を四条河原までおつれしたのはゆきすぎだった」
勝元はまた頬を赤くします。
「いえ、おとなの私も、おあとに従いながら声もおかけせず、あげくのはては私自身が不覚にもあんな目にあって……」
と、侍女のお今も、勝元以上に顔をあからめます。そして、心配そうに、
「でも、宗全さま、さっき御所へのお使いに、山名家でおたのみしたいことがあるゆえ、上様に密々にお成りをねがったと申しつかわせられましたが、あとでご後室さまから重ねてお問いただしを受けましたら、とくに私などどうお答えすればよいのでございましょう?」
と、尋ねました。
その使いのゆく前から、御所ではもう大さわぎになっているでしょう。なにしろ将軍と管領と侍女の三人が忽然《こつぜん》と消えているのですから。――
たとえいま山名家の使者がいって、右のような口上をのべたところで、そんないいかげんのいいわけでぶじにすむとは思われません。お今が気にしたのはもっともです。
「いやなに、そんなことは何とでもなるわさ」
赤入道は歯牙《しが》にもかけません。
「しかし、ご教育のため、管領が将軍家を町のちまたへおつれ申すとは古来聞いたことがないが、そこが宗全気にいった! 先例もないというのがあっぱれだ。お若い管領なればこその思いつきです。あなたがたの先例もないお出歩きのおかげで、はからずもこのように山名家のお客となっていただいた。ありがたいことじゃ!」
と、正面の三春丸を、片手をあげてふしおがみ、
「とにかく、その方針がいい。いままでなかった新しい将軍をお作り申すのだ。だいたい宗全は、先例のないことをやるのが大好きでござりましてな。おい、つげ」
と、一方の手で、また大盃をつき出しました。
お酌《しやく》をしたのは十三、四の娘で――宗全の長女でした。彼の妻も侍《はべ》っています。なにしろこよい思いがけず山名家の客となったのは、将軍と管領なのですから、それくらいの接待は当然で、宗全が浮かれきったのはむりもありません。
もっとも、さっきいったように、この客には酒は出してありません。宗全はそれに気がついて、
「管領どの、あなたももうご元服なされたのだから、すこしはよいのではありませんか。また、そこのお今どのもめされぬか。いやいや、上様も一杯、二杯くらいは……」
と、すすめ、ふと酌をしている自分の娘を見やって、
「おう、そうだ、御所への釈明がいまできた」
と、ひざをたたきました。
「勝元どのにこの宗全の娘、阿古《あこ》を見ていただきとうてな。つまり、お見合い、というやつです。いずれは妻をむかえ、嫁にゆかねばならぬ御両人、気にいるかいらぬか、いまのうちにたがいに見とどけてもらう。上様とお今どのにもお立会いしていただく。この儀、他人に知られるのが恥ずかしうて、宗全がないしょにご三|方《かた》においでをねがった。この口上、いかがでござるかな?」
みんな、あっけにとられました。
やがて勝元と阿古はまっかになりました。
お今がほほえみました。
実はその宗全の娘阿古は、父そっくりだったのです。十三、四のくせにまんまるくふとって、顔もまるで力士のようでした。それに対して勝元は、だれが見ても水ぎわだった貴公子です。
「おう、これは冗談ではござりませんぞ」
もういささか酩酊《めいてい》ぎみの宗全は、とんとお今の笑いの意味は解しないようすで、
「いや、細川家は天下の管領であらせられるが、不肖この山名宗全も、上様のお父君義教《ちちぎみよしのり》公を弑《しい》したてまつった赤松一族を、みごとほろぼしておんかたきを討ちまいらせた者、決してさほどつり合わぬ縁ではござらんぞ!」
と、酒の虹を吹きました。
そうなのです。
四年前、三春丸の父、六代将軍義教は、重臣の赤松|満祐《みつすけ》に殺されました。
義教将軍は異常なばかり厳格な人で、自分の意にそわぬ家来はかたっぱしから処罰した人ですが、満祐はこの将軍ににらまれたと不安に思うことがあって、その年の六月のある日、西洞院《にしのとういん》二条上ルの自邸で猿楽《さるがく》見物のうたげをひらき、そこに招いた将軍を、突如ふすまをひらいて乱入させた赤松家の家来たちによって殺害させました。そして、屋敷に火をかけ、剣の先に将軍の首をつき刺して、魔軍のごとく領国の播州《ばんしゆう》へひきあげたのです。
あまりの突発事に、なすすべを失って、追討の軍を出したのも二カ月後、しかも決死のかくごで播州の城にたてこもった赤松勢にたじたじの幕府軍の中で、ひとり勇猛ぶりを見せたのがこの山名宗全の兵でした。
そして宗全自身陣頭に立って城を攻めおとし、ついに逆賊《ぎやくぞく》赤松満祐の首を討ちとったのでした。
「あ、そうだ」
と、三春丸が手をたたきました。
「入道、その赤松をほろぼしたときの話を、もういちど聞かせておくれ。……」
「それはもう、天下にかくれもないいくさ話で……」
さっきいばったくせに、宗全も、ややてれたようです。
勝元もいい出しました。
「いやいや、宗全入道の兵法話は、なんど聞いても血わき肉おどる思いがする。いい機会です。私もぜひうけたまわりたい」
「そうでござるか。それでは……」
やがて、赤入道自慢の武功話がはじまりました。
世にこれをそのとしの年号にちなんで「嘉吉《かきつ》の乱」と申します。山名宗全がその乱の英雄でした。
もう何百ぺんもしゃべったので、宗全の舌は太平記読みのように一種の調子をおびています。しかも、こよいは酒がはいっているので、意気天をつかんばかりです。
この屋敷にくるときは夕焼けだったのに、どうしたことか天気が変ったらしく、いま空には雷鳴の音がひびいていました。やがて屋根をたたく雨の音さえ聞こえはじめました。
それも耳にはいらないかのように、猛将の勇ましいいくさ話を、二少年は尊敬にみちた眼をかがやかして聞いています。おそくなっても帰ると御所には連絡してあるはずでしたが、それも忘れたかのような夜がたりでした。
このほほえましい一夜のつどいに、夜空からの雷鳴は何を告げようとしているのでしょう。
無邪気で純潔な十歳の将軍に、兄のように慕われる十六歳の少年管領、彼は将軍を雄々しく、民にやさしい大将軍に育てようと心をくだいています。彼らにつくす美しい侍女お今、また彼らを愛する豪快無比の武将山名宗全。
けれど、一方では何やらいとわしいにおいのする重臣や、ただならぬ妖気を持つ少年の影もちらほらしています。そして世は、下剋上の天下なのです。
さあ、これらの人々の未来には、何が待っているのでしょう?
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人間・破《は》ノ章[#「人間・破ノ章」はゴシック体]
――四年後。
その春三月、二十歳の管領、細川|右京大夫《うきようのだいぶ》勝元は、御後室の重子夫人に招かれて、奇怪な相談を受けた。――
「管領どの」
重子未亡人の顔は憂愁に沈んでいた。
「将軍家が、やはり将軍家になるのはイヤじゃと申してきかぬ」
「は。――」
勝元は唐織《からおり》の裃姿を起した。
三春丸は、実は名目的にはまだ将軍ではない。この五月、元服するとともに朝廷から宣下を受けて、はじめて正式の将軍になることになっている。
その晴の儀式を一ト月のちにひかえて、三春丸がそれにダダをこねている、ということは勝元も知っていて、大困惑している。――彼は自分が叱られたように首をちぢめた。
「だれが将軍になるのじゃ、と、きけば、弟の義尋を寺からもどせばよかろう。父上もいったん僧になられていたものを還俗《げんぞく》されて将軍になられたのではなかったか――そして自分が義尋に代って僧になる、など申す」
それも勝元は、三春丸自身の口から聞いている。
「そんなことは相なりませぬ。家は嫡男《ちやくなん》についでもらわねばならぬ。それを乱すから家が乱れる……その悶着《もんちやく》はいま諸大名の家々の例に見るとおり、いえ、わが足利家にさえ、不幸な例がある。……」
熱病を病んでいるような声だ。よほどこのことを毎日考えつめていたのだろう。――そもそも義尋は妾腹で、彼女の生んだ子ではない。
「管領どの。……ひとつ三春丸に話しておくれではないか」
「あいや、私は」
勝元はひるんだ。
すでに彼自身、三春丸が将軍拒否の希望をもらしたとき、めっそうもないことを、と顔色あらためて説得したことがあるのだ。
「いえ、直接そのことではない」
と、重子夫人は首をふった。
「三春丸どのに側妾《そばめ》を持たせることを」
「――えっ」
勝元は耳をうたがった。
「なんと仰せられました。……ソバメ、と聞こえましたが」
「その通り、三春丸どのの出家をとめるのは、女の綱《つな》、それしか法がない」
「さようならば、いっそ御台《みだい》さまをおもらいになってはいかがですか。このたびの将軍宣下のおん儀をしおに」
「それも考えた。が、将軍の妻は日野家から迎えねばならぬ」
重子はいった。
「いま日野一族に、ちょうど三春丸にふさわしい娘は、容貌、素質から見て、あの富子しかおりませぬ。が、ただ富子はことしまだ十《とお》。……」
と重子は、さらに意外なことをいい出したが、勝元はすぐにこれは意外なことではない、と思いあたった。
まことにその通り、足利将軍はいつのころからか日野家から正室を迎える、というふしぎな縁で結ばれていたのである。
日野家というのは藤原から出た支流の貴族だが、それが、もう八十年ほども前、一族の日野|業子《なりこ》という女性が足利三代の義満《よしみつ》の正室となり、業子が病死したあとその姪《めい》の康子がまた正室となった。ついで、康子の妹栄子が四代の義持《よしもち》の妻となった。そして、五代の義量《よしかず》は幼年で亡くなったが、六代の義教《よしのり》の正室、つまりここにいる重子がまた日野家の出なのであった。
彼女が、わが子三春丸の花嫁もまた日野家から――と、当然事のごとくきめこんでいるのもむりはない。
そしていま重子が、実家をついでいる甥の日野政光の娘、富子をそれにあてていると知って、勝元もなるほどと、うなずかないわけにはゆかなかった。いかにも秀麗で、利発な少女なのである。
そういえば富子を、もっと幼いころからしょっちゅうこの室町第に呼んで、三春丸と遊ばせていたのもそのための遠いはからいであったかと思いあたる。
「いくらなんでも、いますぐ富子を輿入《こしい》れさせるわけにはゆきませぬ」
と重子夫人はいう。
「それまでのつなぎとして側室をあてがってやるのです」
「どちらから?」
「あのお今を」
勝元も、これには|のど《ヽヽ》の奥で、あのと叫んだ。
「正式の妻を迎える前の側妾役……そのような役にまさか管領四職の娘をあてるわけにはまいらぬし、さりとて卑しき身分の者の娘ではまたはばかりがある。あのお今なら、ちょうど似合いじゃ」
お今は将軍お側衆《そばしゆう》の大館上総介満冬《おおだちかずさのすけみちふゆ》の娘だ。
「しかし、お今は三春丸さまよりだいぶ年上ではありませんか」
「どうやら十ちがいじゃそうな」
と、重子は微笑した。
「私ははじめは首をかしげたが、それだけ姉《あね》さまならかえってのちのち身をひかせるのに都合がよかろといわれて、いかにもそれもそうじゃと思うた」
「だれがそんなことを申したのでございますか」
「伊勢じゃ。そもそもこれは伊勢守のかしてくれた智慧《ちえ》なのです」
あのイセイセか。なるほどあのイセイセの出しそうな着想だ。
勝元が大きらいなのにもかかわらず、伊勢貞親は依然として、というよりいよいよ重子夫人の信寵をほしいままにして健在だったのである。
「お今は三春丸どのの幼いころからのお守《も》り役。そのお守り役を、三春丸が正式の花嫁をもらうまでやってもらうのじゃ。三春丸が出家などいい出さぬように」
「そんなことをお今が承諾するでございましょうか」
「その説得は伊勢にたのむ。いえ、伊勢も承知の上のことです。伊勢も、お今は忠義の者ゆえ、いいきかせればきっとその大役を務めてくれるであろと申しておった」
「そして、上様もさようなことをおききいれなされるでございましょうか」
「それゆえ、そなたにたのむのじゃ。きょうそなたにきてもらったのはそのためでした」
重子はいった。
「実はきのうも三春丸どのから、出家のことをいい出された。本人も思いつめていて、何をするかわからない状態です。そこへ私などが側妾のことなどいい出すと、あのぶんでは腹をたてて刃物沙汰をひき起しかねません。……で、そなたから話してたもらぬか。三春丸どのは、私よりもそなたのいうことをききます」
「あいや、管領ともあろうものが、年少の上様にお側妾をおすすめいたすとは」
勝元は真っ赤になっていった。
「それに上様も、このごろはなかなか私の申すことなど――」
「したが、管領どの」
と、重子夫人はむしろ恨みにもえる眼で、はたとにらんで声をはげました。
「三春丸どのを、いまのような三春丸どのにお育てしたのは、そなたではないかえ?」
勝元は絶句した。
夕あかりにチラチラと花の影の見える御所の長い渡殿《わたどの》を、腕ぐみしたまま、勝元はさがってゆく。
大変なことになった、と思う。
いままで三春丸さまから、出家願望の言葉は直接聞いていた。十四歳の少年の望みだが、それだけにいちずで、これはほんものだと感じて、かねてからおびえていた。
どうしてこんな三春丸さまになられたのだろう? と彼自身とまどっている。雄々しくやさしい将軍になられるように、あれだけ心して「教育」し申しあげたのに、そしてあれほど可愛《かわゆ》く自分に兄事して下されたのに、ここ一、二年、三春丸さまはまったく自分の意図の外《ほか》の人に変ってこられた。
それが、何かが狂って来たのではなく、三春丸さま生来のものが姿を現わしはじめたのではないか、と思われるふしがあって、勝元は漠然と一種の絶望感にとらえられかけていたのだ。
生来のものとは――どういうわけか、俗界とかかわりたくない、という志向だ。
それは、この世はわずらわしい、政治のことも、「御教育」のためにときどき持ち出してお耳にいれるのだが、それでいよいよ俗界がイヤになられたのではないか。
政治のこと、というと、土一揆やら徳政令やら、それに何より大半は諸大名のお家騒動の件だ。その原因はそれぞれネバネバとからみ合って正邪の別がわかちがたく、その裁き役を強《し》いられる勝元自身、ウンザリしている。
そんな世界へひきずりこんでゆかれるのは、ふつふつごめんだ――と、三春丸さまが拒否反応を示したのは、いまから思うと当然かも知れない。
しかし、自分は力闘している。細川という管領職の家柄のために力闘している。いわんや上様は足利家のおん大将だ。イヤでもなんでも、ここでふんばっていただかねば相ならぬ!
そう考えていたところだから、いまのおふくろさまのお望みは充分お察しするのだが、それにしても上様に手綱をかけるのにお側妾を以てするとは!
その三春丸さまへの説得役を命じられて、勝元は一瞬いきどおりをおぼえた。が、御後室さまの、「いまの三春丸どのにしたのはお前」という一語に刺しとめられた。その一語は、いまも彼の胸を刺している。
なんにしても、手綱役にあのお今があてられるとは?
勝元の胸に、お今の顔がただよいのぼって来た。二十なかばになって、いよいよ艶麗無比となった顔が。
どうしてお今がいままで嫁《とつ》がなかったのか、ふしぎなほどだ。いや、縁談はふるほどあったけれど、彼女の去ることを三春丸さまがいやがり、また彼女の献身がそうさせたことは承知しているけれど。
なんどかお今に対して、勝元自身の心も動いたことがあるくらいだ。ただお今は自分よりも四つも年上の女であった。
それなのに、その自分よりさらに六つも年下の三春丸さまのお側妾に、あの女がなるというのか?
あるいは彼女がいちばん気の毒ないけにえかも知れない、と勝元は考えた。
上様御説得の工夫つきまするまで、しばらく御猶予を、と未亡人に願って退出して来た勝元であったが、その胸には黒いけぶりが渦を巻いているようであった。
ふと、彼の頭に、また別のある人間の顔が浮かんだ。いつ会っても豪快無比、どんな相談でもたちどころに何らかの決断を示してくれる人物の顔が。――
その足で、勝元は堀川西の山名宗全邸を訪れた。
「わははははは!」
三管領につぐ四職の家柄なのだから、このこと打ちあけて大事ない、と考えて、勝元がきょうの御後室の話を語り、入道にはいかが思われる、と、その意見をただすと、宗全入道はたちまち大笑した。
「十四のお方に十ほども年上のお妾か。そりゃ面白い。あはははは」
「ましてや御正室もないのに、先に御側室とは……さような先例はきいたこともない」
勝元は当惑の嘆息をついた。
「御後室さまの御依頼、ごもっともと考えるのだが、世に先例もないことを行われるのは、管領として……」
「あなたはやはり御秀才でござるな。おい、酒を持って来い」
二人の前には饗膳がある。皿には豆腐や鯉の洗いや雉子《きじ》料理が見えた。
話のはじまる前に、勝元のたのみで給仕から遠ざけられていた宗全の娘阿古が、すこしあわてながら銀の銚子《ちようし》に酒を汲んで運んで来た。
それをなみなみとつがせて、
「秀才は、とかく先例をいう。――先日もな、あるお公卿《くげ》どののお屋敷で、お公卿どのがしきりに先例先例と申さるるゆえ、拙者はいってやり申した。だいたい例などいうものは、昔行ったことがあとで先例となるのでござる。従って、いまはじめてやったことも、後世になれば先例となる。この世に起ることは、先例などとは関係がない、その時々の時勢によって起るのでござる」
からからと笑って、
「先例先例と、いつでも大昔のことに縛られておわすから時勢におくれ、いつのまにやら武士に負けて、この宗全ごとき野人に御馳走してきげんをとらねばならぬ始末となる。先例をいうなら、そもそもこの宗全があなたのようなお方の前で、かような御忠告を申しあげることなどありませんぞ。これからは先例という言葉の代りに、すべて時勢と申されてはいかがでござる、とな。わははははは」
と、大盃をほした。赤入道とはよくいった。
この公卿への嘲罵《ちようば》が、のちに「塵塚物語」という本に残されて、赤入道の面目躍如たる有名な史談となる。
「御正室前の御側室……よかろう。これからそれを先例とすればよろしかろう」
宗全の意見は明快であった。
「それにな、そういわれてみれば、三春丸さま、このごろ拝見しておるにあのお今上臈をごらんになるとき、以前とちごうてなにやら顔あからめたりまぶしそうにしておわす。さすがはイセイセ、そこをよく見ぬきおったな。なるほどあれなら肉の綱で、たしかに若君の御出家などみごとひきとめるかも知れませんぞ」
ふと、心配そうな顔になって、
「御出家をとめるどころではない。若君のほうが変になられるかも知れぬ。あの女、このごろ美しすぎる。……」
入道のひとり合点、ひとりしゃべりだ。
「それにしても、あの若君、どうしてああいう風になられたのかな」
勝元の案じていたことを、彼もいう。
「それはそうと勝元どの、このとしになって、男女のことで私の気づいた重大なことがある。男女のこと、というより、母と男の子のことでござりますがな」
「と、いうと?」
「男の子の気性は、たいてい母の気性を受ける、ということです。豪傑の母はまず気丈者でござる。心やさしき母の子はほぼ柔弱者となる。三春丸さまなども、そのおふくろさまは……ほ? これはちがうか」
入道頭をかき、
「ま、何事にも例外はあるが、この宗全のおふくろなども、それはそれは大した気丈者でござった」
と、自分が豪傑であることを自認したが、自分ではそのことに気づかぬ風で、
「ま、勝元どのも細川家の将来をおもんぱかられるなら、美女よりも心たけき妻をえらばれることでござるな。うーい、阿古、酒をつげ」
と、また朱盃をつき出した。
銚子をさし出した阿古の横顔を、ちらっと勝元は見た。この宗全の娘も十七、八になるはずだが、父そっくり、力士のような顔と身体の特徴はいよいよ本格化している。
勝元は、宗全がこの娘を自分に娶《めあわ》せたがっていることを承知している。――しかし、宗全のいまの見解は、自分の娘を意識してのことか、またはまったく気がつかない彼の平生からの識見なのか、よくわからなかった。
いずれにせよ、勝元は入道の奔放な長広舌《ちようこうぜつ》を笑う余裕はなかった。
幕府の要職にある人々の多くが、宗全に重きをおいている。その武勇の履歴のみならず現在の政治に対しても、多少乱暴なところはあるにせよ、余人の追随を許さないド迫力を示すのに圧倒されている。
そして勝元もまたこの快活な豪傑への敬愛は、他人以上に少年時代のころからつづいていたのだ。
あくる日、勝元はまた御所へ参上し、三春丸に会った。
もし三春丸がその件を承知するなら、こんどは伊勢伊勢守からお今に話をする、という手はずになっていたのである。
勝元はあらためて三春丸の出家の意志がほんものであるか否かをたしかめた。
「イヤイヤ、イヤだ、将軍などは!」
と、三春丸は、待っていた、とばかりに首をふった。
「勝元、たのむ、母者《ははじや》をはじめみなにそういってくれ、たのんだぞ!」
ひと嘆息ののち、
「さりとはやむを得ませぬ。勝元、責任をもってさように努力いたしましょう。ただ、ひとつお願いがござります。これは御後室さまからのお望みでもござります」
と、勝元はいった。
「母者からの望み、それは何だ」
「御承知のとおり、弟君《おとうとぎみ》の義尋さまは、御異腹の上すでに御出家、そこにまた上様が御出家とあっては、足利家の血が絶えまする。そこで御後室さまのお望みと申すは、どうあってもあなたさまによって、足利家また日野家の血を伝えるお子が欲しい、との仰せです」
「わしの子?」
「それで、やがてそのお子を、たとえあかん坊でおわそうと将軍にしよう。とにかく子さえ残してくれれば、三春丸の出家の件は認めよう、と申されるのです。何とぞこの儀、お受け下されますよう」
「わしの子?……だれに生ませるのじゃ」
「あのお今どのに」
この問答のあいだ、のびたりちぢんだりしていた三春丸の顔は、このとき凝縮ひとつに固定した。それから、その頬がぼうと染まった。
こくり、とのどを動かし、かすれ声でいった。
「さようなこと、お今はきくか」
「お今どのは、上様のおためなら、水火の中へでも、と申しております」
勝元はうそをついた。
「子を作ったあと、わしは仏門にはいって、あとお今はどうするのじゃ」
「さ、そこまではまだ考えておりませんが……いずれにせよ、お今どのが決して不倖《ふしあわ》せになられるようなことはないように、勝元お約束いたします」
「お今が不倖せにならないのなら。……いや、倖せになることを請け合ってくれるのなら……いまのそなたの話、きいてやってもよいが」
と、三春丸は真っ赤な顔のまま、蚊の鳴くような声でいった。
それから、顔をあげて、
「けれど、勝元」
と、呼んだ。
「そなたさえ、まだお嫁をもらっていないのに、わしがそんなものをもらうとは、はずかしい」
「はははは、上様は特別でございます。私のことなどお気づかいには及びませぬ」
「それでも、何だか変だよ。勝元、お前もお嫁をもらえ。そうしたらわしもお今をもらう」
勝元はしばし黙っていたが、やがて、
「それでは……私もお嫁をもらいましょうかな」
と、いった。
「えっ、だれを」
「さよう、あの山名入道の娘御、阿古どのを」
三春丸はしばらく勝元の顔をながめていて、やがてぷっと噴き出した。
勝元も笑い出した。
彼は、必ずしも宗全のおもわくに乗ったのではないが、あの豪傑の娘と結ばれることは、こんごも管領としての役目を果たすため、きわめて効果的で、また細川家にあの豪傑の血をいれることは決して不都合なことではない。と、それまで漠然と考えていたことを、いま口にしたにすぎない。
「お今は、きくかえ?」
と、重子未亡人はきいた。
「きかせます」
と、伊勢貞親は答えた。
細川勝元から、三春丸が承知したむねの報告を受けたあと、その日の夕刻である。
「女をくどくのは、私めの本領で……あははは、ましてや若君のおんためのくどき、かような忠義のくどきはいままでやったことがござらぬ」
足利家の重臣でありながら、堺の商人のような風貌は相変らず、どころかいっそう貫禄がついて、御後室に対するなれなれしさはいやましたようだ。またそれを重子夫人も容認しているように見える。
「それにしても、よくまああのお今のような女が、これまで嫁にもゆかず若君に御奉公しておったもので、まさに天の恵み。……いや、あの女性《によしよう》なら、きっと美しい肉の綱で若君をつなぎとめるでござりましょうて」
と、笑い、
「どりゃ」
と、身を起した。
やがて彼は、別の座敷に呼び出してあったお今に会い、いままでの三春丸さま付きの侍女という立場からお側妾の役に変るように命じた。
むろん頭ごなしに申しつけたのではない。
「驚くであろうが」と切り出し、三春丸さまの御出家をおとどめ申すには、そなたの力をかりるよりほかはない。足利家の御命運をお救い申すのは、ただそなたの忠節の心のみだ、と――さっき、くどくのは本領といったが、むしろ彼には珍しい、声涙《せいるい》ともに下る、といった調子で、じゅんじゅんと説いたのである。
お今はうなだれていた。
ふしぎなことに、この思いがけぬ下命に衝動の色を見せなかった。――しかし、黙って首をたれている。
お今は、待っていたのだ。
むろん、自分が将軍のお側妾になるとは――ましてや十も年上の身で、そんな役を与えられようとは想像するはずはない。
しかし、お今は何かを待っている女であった。
彼女がこれまで三春丸さま付きの侍女として奉公して来たのは、むろん幼年時からつきそってきた三春丸さまへの可愛さもある。それから三春丸が彼女をしたい、おいとまをとることを許さなかったこともある。しかしお今には、ほかに何か待つものがあったのだ。
お今は、自分の美しさをよく知っていた。
これまでに縁談はふるほどあったのに、彼女が首をたてにふらなかったのは、右の理由もさることながら、ありていにいえば縁談の相手が、将軍側近である彼女の家と同格かそれ以下であったことに、物足りぬ思いがしたからであった。
彼女は、管領はともかく、四職かそれに近い家柄を夢みていた。ところが、それらの家々のおん曹子は、自分にあきらかに好色の眼を投げながら、みな公卿の御息女と結婚してゆく。その公卿を腹の底では軽蔑しているのにもかかわらず、である。
ともあれお今は、それらの縁談にうなずくほどなら、むしろ将軍のお守り役のようないまの状態にしかず――と考えて、この年に至ったのである。
いま、お今のいだいていた夢想は、その夢想を越えたかたちで天からふって来た。
イセイセどのは、自分に「女」の力で上様の御出家をふせいでくれとおっしゃる。そのために、まだ御正妻もないのにお側妾になれとおっしゃる。……よろしい。なりましょう。
が、はっきりとはおっしゃらないけれど、それはその目的をとげるためのかりそめの役であろう。お側妾という以上、やがて御正室を迎えられるまでのつなぎであろう。
そうはさせない。私はかりそめの役はしない。上様をつないだら、私の死ぬまでつなぎとめてみせる!
お今の体内から、めらめらと白炎がたちのぼった。
しかし彼女は、まだ黙ってうなだれている。
それを、いま自分のもち出した破天荒の難題に思いなやむ女の姿と見て――「ま、むりもないわ」と思いつつ、一方で伊勢貞親は、「ああもったいない。これを十四の将軍の妾にするのか」と、彼自身が案出したことなのに、ちょっと複雑な慨嘆をおぼえていた。
お今は、決してふとってはいないが、指などどこかくびれが見えるような、ふっくらした姿態を持っていた。小さいが、やや厚目の唇は、いつも鮮やかにぬれている。肌は真っ白に、ぬめぬめとひかっているようだ。
そのゆたかにふくらんだ胸もとが息づきはじめた。
ごくり、と、生つばをのみこんで、
「どうじゃな、そのお役、承引してくれるか、どうじゃな?」
と、貞親はさしのぞいた。
「御意《ぎよい》の趣き、かしこまってござりまする」
小さな声で、お今は答えた。
そして、しずかにあげた黒い瞳には、うっすらと涙のような光があった。
「私、けんめいにつとめて、上様の御出家をつなぎとめましょう」
「おう、やってくれるか」
貞親は叫んだ。
「そなたの忠節、貞親しかと御後室さまに申しあげておくぞ」
「ただひとつ」
お今はいった。
「おねがいがござります」
「なんじゃ?」
「のちのち、私についてのお扱い、それはひとえに上様のお心にまかせる、ということを、お書きもので約定《やくじよう》して下さりませぬか?」
思いつめた眼で、おずおずという。
利口な女だから、将来のことを懸念《けねん》したのだろう、と推察し、海千山千の伊勢貞親が一議もなく、もっともだ、と理解した。むしろ彼女をふびんにさえ思って、
「わかった。貞親、そのむね誓書にしるして血判しようぞ」
と、大きくうなずいた。
イセイセどのは、この女をみごとくどき落したと信じた。その実、世にも稀有な大魔女を足利家の中枢にかかえこんだことを知らない。
燭台には墨をぬった紙覆いがかけてあるので、部屋の中は日蝕のように暗い。
香炉のけむりが、金|屏風《びようぶ》の上に、幻の蛇のように立ちまよう。
その下に、肌小袖と湯文字だけの姿で立った白鷺《しらさぎ》のような姿をあおいで、閨《ねや》の中の三春丸はガタガタとわななき、眼をとじて、反対のほうをむいてしまった。
やがて、ふわっとなまあたたかい香気が鼻孔をつつむと、三春丸の背に、熱い、やわらかなものがすべりこんで来た。
「ふるえていらっしゃる」
耳もとに、しめった息がささやいた。
三春丸は、自分でもおかしいほどふるえていた。――幼いころから毎日そばにいた女が、なぜこわいのだろう。しかも彼は、自分の股間のものが直立して、痛みさえ感じているのが恥ずかしかった。
が、三春丸は、背中の女もまた小刻みにわなないているのに気がついた。
「お今……お前だってふるえているじゃないか」
「ほんとうに」
相手は笑い、やわらかく三春丸を自分のほうにむかせた。
そのとおり、お今もふるえていた。二十四になるけれど、彼女はむろん処女だ。――ただ笑うことができたのは、相手が幼時から知っているまだ十四歳の少年だからにすぎない。
「三春丸さま、私はいままで三春丸さまのお守《も》りでした。これからもお守りをいたします。毎夜、毎夜、こんな風に」
と、お今はいって、三春丸の手をとって自分の胸にさしあてた。
それから、羽二重《はぶたえ》の肌小袖をそっとかきひらいて、一方の乳房を出して、おかしいほどふるえている少年の手を、はげしく起伏している真っ白な乳房へまたおしあてた。
「私の乳、のまれてもようござりまするえ」
乳の出るわけはないが、少年はその通りにした。
数分して彼女は、かすかに身もだえしながら、片方の足をこころもち三春丸の片足にのせた。
事前に老女から、「御存知であろうが」といわれて、こよいの作法を教えられはした。が、そのとき聞いた事の順序などは、頭の中で燃え失せて、彼女の身体は自然のままうごき出したのであった。
「うっ」
奇妙な声をもらして、三春丸は全身を痙攣《けいれん》させた。下半身に熱いものがながれ散るのをお今は感覚した。それだけで、はやくも三春丸は放泄《ほうせつ》したのだ。
二人の身体は動かなくなった。
「いえ、そのままで……」
お今はいった。彼女は老女の教えてくれたことを、いま頭によみがえらせていた。
やがて、横におかれた懐紙をとって、あたりをぬぐった。
それから、大息をついている少年をあらためて抱きなおし、唇をなめてから、少年の唇にあてた。ちょうど自分の下唇が相手の口の中にはいるように、そして相手の上唇を舌でチロチロなめた。
三春丸は火のような息をはき、夢中のていで彼女の唇や舌を吸いはじめた。
芙蓉《ふよう》露深うして花びらに満ち、たがいに飲んで|のど《ヽヽ》に声あり。
十分ばかり口を吸い合ったのち、お今はなおふるえつづける片手をのばして、少年の下帯からそっと陰茎《いんきよう》をつかみ出した。それはふたたびかたくそそり立っていた。
お今にも、はじめての手の触覚であった。
それはこのどこかひよわな翳《かげ》さえある少年として、信じられないほど巨大なものに感じられた。しかも彼女がしずかに掻《あが》くと、それはいよいよ大きく、かたく、熱くなった。
「あう」
三春丸はまたうめきをあげて、二度目の放泄をした。
その始末をしてからも、お今は少年の陰茎から手をはなさなかった。しかし、しばらくは動かず、ただひしと抱き合っていた。二人はおたがいの心臓の音を聞いた。
「上様……上様が好き」
お今は、三春丸の口すれすれに口をよせてかすれ声でささやいた。
「わしもお今が好きだ」
と、三春丸は半分気が遠くなったような声で答えた。
「ほんとうですか?」
「ほんとうだ」
「でも、私はこんなに年上で……どうせあとになれば捨てられる身。……」
「何をいう。わしがお前を捨てるものか。捨てないよ。決して!」
「約束して下さいますか。上様、ほんとうに約束して下さいますか」
「約束する。お前を捨てるなんて、そんな……」
三春丸は、自分が何をしゃべっているのかわからなかった。まだやるべきことが残っているはずだ。彼はそればかり考えていた。
いじられつづけて、十四歳の少年はまたかたくなった。彼は快美に身もだえした。
お今も自分が何をしているのかわからない。相手を年下と見て、なぶっている気はまったくない。彼女自身もはじめてのことで、頭はあつくなり、からだじゅうがじんじんとうずいて、しびれはてそうなのだ。動作はすべて本能によるものであった。
お今は、若い将軍の下帯を解き出した。少年といっても、彼女より背丈はある。その身体が彼女の意のままに動いた。それからお今は将軍を自分の身体の上にかさねた。
足をひらいた。
「お今、お今……」
三春丸は子供みたいな声を出した。
「痛《いた》……痛……痛!」
みずからみちびきながら、お今は悲鳴をあげた。
悲鳴をあげながら、腰を波打たせはじめた。
数十秒にして三春丸は、お今の腹の上でぐったりとなった。まさに全身の髄をぬきとられたように。
いつ少年が女体の上からながれ落ちたのか知らぬ。二人はならんで、おぼろになった瞳を天井にむけて、深い息をつきながら横たわっていた。
いつしか二人は、恍惚の極、喪神とも魔睡ともつかぬ状態に落ちた。
どれほどのときがたったか。……しずかにお今は身を起した。半裸の姿で、そのまま掛蒲団をそっとはぐ。
三春丸はそれにも目ざめず、これはまっぱだかで四肢をばたりと投げ出したままだ。口をひらいた寝顔は、少年というより童子さながらであった。ただし、数刻前より、頬が削《そ》げたような陰翳《いんえい》がある。
しばらくして、はじめてお今の口辺に妖しい笑いが浮かんで来た。彼女はこの少年将軍に可愛らしさとともに、嗜虐《しぎやく》的な心火が燃えあがってくるのをおぼえたのだ。さっきの恥ずかしさを忘れた狂乱を経過しての余裕であろうか。
お今はあたりを見まわし、手をのばして、枕もとの漆《うるし》ぬりの高坏《たかつき》に盛られた白い紙包みをとった。うす紙をひらくと、砂糖を使った京菓子があらわれた。
それを口に入れ、しばし噛んだのち、彼女は口を三春丸の口によせた。
甘いものがとろりと口の中にはいって来たのに三春丸は目ざめ、すぐに事態を察した。
「お今、起きているのか。……これは何じゃ」
「お菓子」
と、いってお今はまた口移しにした。
むにゃむにゃとそれをのみくだしながら、三春丸は、
「眠い。……もう少し寝させてくれ」
と、いった。
「いえいえ、まだ眠るのは早うござります。上様、もういちど起きて」
お今はぞんざいな言葉づかいで、いたずらっぽくにっと笑い、両手で三春丸の両手をつかんでひき起した。
褥《しとね》の上にあぐらをかいて坐らせられた三春丸は、唇をなめまわしながらキョトンとお今を見ていたが、みだれた黒髪を肩にかけた女の、蒼白の半裸の姿に、やがてまぶしさのあまり眼をあけていられないように眼をとじて、
「お今、寝よう」
と、細い息を吐いて、ころんとまた横になりかけるひざへ、お今はまたがった。そしてひしと三春丸を抱きしめた。二人の胸と胸、腹と腹は寸分のすきまもなく、ぴったりと吸着した。
その姿勢で、少年はまた没入させられた。
「上様。……いつまでも、いつまでも私を可愛がって下さいますか。こんな風に」
三春丸の首にしがみついて、熱い息でお今はささやく。
三春丸はとうてい可愛がる、といった表情ではなく、
「可愛がる、可愛がる……しかし、もうゆるしてくれ」
あとは、ひいひいというあえぎばかりになった。
お今はなまめかしく尻をゆらめかしながら、
「これからも、どんなことでも私のいうことを聞いて下さいますか」
「聞く、聞く。……ひい、ひい」
「ああ、たまらない。どうしましょう、どうしましょう」
「ひい、ひい、ひええ!」
と、三春丸がこときれるような声をあげたとたん、お今も快美骨までとろけるのをおぼえて、異様な泣き声をもらしつつ、指そりかえる両足で、ひしと少年の胴をしめつけた。……
二人は重なって、紅閨《こうけい》の上にまたたおれた。牡丹《ぼたん》、露したたり、したたりつくして、花はじめて閉じ、枕頭の燭火ようやく尽きて香煙|幽《かす》かなり。
その翌日、管領細川勝元は室町第に参上し、三春丸に謁見《えつけん》した。
何くわぬ顔をして近来の政情など報告したのだが、三春丸は大病の病みあがりみたいな顔つきをして、何も耳にはいらないかのようであった。
が、勝元が退《しりぞ》こうとすると、ふいに、
「勝元、近う寄れ」
といい、寄ると、その耳に口をつけて、
「勝元、女とはホトホトよきものであるなあ。……わしは女が好きらしい」
夢遊病のようにささやいた。十四歳の無邪気というより、将軍の大らかさからの述懐であったろう。
勝元が絶句していると、三春丸は弛緩《しかん》した笑顔になって、
「お前も早くお嫁をもらえ」
と、いった。
二カ月たって、四月十六日、三春丸義成元服の儀をあげた。その加冠の役にあたったのは管領細川右京大夫勝元であった。その他、元服式にともなう数々の古式による役目を務めたのもすべて細川一門であった。
ついで二十九日、朝廷から宣下を受けて、義成は名実ともに足利八代将軍となり、名を義政と改めた。
それから三カ月ばかりたって、勝元は山名宗全の娘阿古と祝言をあげた。
――花の御所にいくたびか花はひらき、散った。
しかし人の世は、もとより花の世界ほどもの静かに、また秩序があるものではない。
天下は多事で、義政は将軍として、ほとんど毎日のように管領から政務の報告は受けるが、その大半は諸大名間、あるいはその一族内の悶着で、たとえ将軍の権威をもってしても明快に裁くことができないたぐいのものが多い。
管領としてさまざま苦慮しているらしい勝元を見つつ、まだ十代の将軍義政は、露骨にいやな顔をするか、あるいは何かほかのことを考えているような顔をしていた。
実は花の御所の中にも憂鬱な悶着が進行していたのである。
御後室の重子夫人と、愛妾お今との争いが始まったのだ。
お今は、その地位についてから、今参りの局《つぼね》と呼ばれるようになった。
義政の出家をふせぐ秘法は成功した。
が、その道具としてお今を起用した重子夫人と伊勢貞親は、秘法は成功したにもかかわらず、その後のなりゆきに、まさに尻もちをつかんばかりになった。
花の御所への諸大名その他からの進物《しんもつ》はおびただしい。むろん将軍家への献上だが、いままでこれを一手に扱って来たのが伊勢貞親で、それを報告するのは重子夫人に対してだけであった。進物ばかりではない。足利家をまかなう御料所からの年貢《ねんぐ》、地子銭《じしんせん》つまり税もまた夫人及び貞親の掌握下にあった。いわば伊勢貞親は足利家の大蔵大臣だったのである。
管領細川勝元が、少年時代から不とどきと見て、どうにかしようと意図しながらついにどうにもならなかったそのしきたりが、いとも軽やかに崩されて、あれよあれよというまに今参りの局に移って来たのだ。
むろん今参りの局自身がしゃしゃり出てそうなったのではなく、すべて将軍の口からの命令としての変化である。
このことに重子夫人が異議をとなえると、義政はちょっと困惑した表情ながら、
「足利家の財政を、将軍の私が見るのに、何の不都合があるのです」
と、いう。――それをいわせているのはあの今参りの局だ、ということはあきらかなので、貞親が今参りの局に脅しにちかいいやみをいうと、
「私のことについては、すべて上様のお心次第、お言葉次第、という誓書をいただいておりますが」
と、艶然と一笑する。
上様をつなぎとめる肉の手綱に、とんでもない女をえらんだ! と愕然としたが、ときすでにおそい。
その役目は終ったはずなのに、いまや将軍は完全に今参りの局の手綱にあやつられる馬のように見えた。
実際、御所内で、将軍をさして、「ヒョーロク」というあだ名がささやかれ出したが、これが、いつか伊勢貞親が献上しようとしたインコの叫びと関係があるかどうかはわからない。いずれにせよ、まさに若い将軍は、当時うす馬鹿を意味するその異名にふさわしい、と見れば見られる人になってしまったのであった。
前将軍家御後室さまの「家出」という前代未聞の珍事が起ったのは、今参りの局なるものが花の御所に出現してから二年目のことである。
そのころ、細川家とならぶ三管領の家柄|斯波《しば》家に、御多分にもれずお家騒動があった。以前から、将軍と管領が少年のせいもあって、前将軍未亡人に訴える例がしばしばあり、この場合も重子が口を出したが、あろうことか今参りの局が容喙《ようかい》して、重子夫人の意図とはちがう結果を招いたのである。
伊勢貞親の報告を受けて重子夫人の怒りは爆発し、彼女は御所を出て、嵯峨のある寺に籠ってしまった。
このときは勝元とその一門の重臣たちがその寺へはせつけ、御後室の御帰館を請うた。
重子は今参りの局の追放を迫り、勝元たちが了承したので室町第にもどったが、むろん今参りの局は出てゆかない。「上様のお心次第」というばかりである。そして将軍は許さない。それ以来重子は、今参りの局とは、じかに一切口をきかなくなった。
いまや今参りの局は、花の御所の女王となった。
すこし後のことになるが、奈良興福寺の経覚という坊さんの書いたものに、
「――室町殿|祗候《しこう》の女房、今参《いままいり》と称す。この五、六年、天下の万事あわせて此《こ》の身上にあるの由、謳歌せしむるの間、権勢をふるい、傍若無人なり」
と、ある。
むろん、この女王のまわりには新しい取巻きができた。有馬|持家《もちいえ》とか烏丸資任《からすますけとう》などの大名や公卿であったが、可笑《おか》しいことはその中に、いつのまにか――彼女から権力の大半を奪われた伊勢貞親の顔も見えたことだ。まさかあの誓約書に縛られたわけではあるまい。このなめくじのようなイセイセどのは、自分に有益な水分さえあれば、どこへでもいって這いまわる。
このお今の変身ぶりに、息をのんでいた一人は細川勝元だ。
はじめは、自分もまたお今をいけにえにしたたくらみの一人だ、と心中|じくじ《ヽヽヽ》たるものもあって黙視していたが、そのうちたまりかねて、意を決して義政に諫言《かんげん》の挙に出たことがある。
直接今参りの局のことにはふれないで、何とか御政事にもいま少しお心をかたむけられたく――と、忠告してみたのだ。
「いや、勝元。……お前には悪いが、わしの力などでは及ばない」
と、義政は、気弱げな顔で首をふった。
「例の大名どものお家騒動か。あれはどう裁きをつけても、それで事は結着しない。どっちの言い分を聞いても、あの欲深なギラギラする眼を見ただけでうんざりしてしまう」
「ではござれど、その裁きをつけねば天下は治まりませぬ。その治まりをつけるのが将軍家としての御天職で……」
勝元は声をはげました。
「不肖勝元も、上様の御補佐を管領の天職と心得て日夜忙殺されております」
「それはありがたいが、勝元、わしにはお前の眼も、あの諸家の欲深な男どもの眼にだんだん似て来たように見える」
そういってのぞきこんだ義政の眼は、決して皮肉なものでなく、まだ十代に相違ない無邪気をおびたものであった。
「とにかく、わしは、わしの天職は、ほかにあるような気がしてならない」
「上様が、さようなことを仰せられては……将軍家以外の御天職とは何でござります?」
「それは、いろいろある」
義政の眼がけぶった。そして、にたっと笑った。
勝元は、なぜか将軍が、今参りの局との夜を思い出したのだ、と考えた。それで、少しむっとして切り出した。
「上様は……今参りの局どのを、やはりいたく御寵愛でござりましょうな」
「ああ」
義政は恍惚とした息をついた。
「あの女はいい。ほんとうにいいぞ。……」
おおっぴらなものだ。勝元は決然として、
「実は、そのことについて……」
と、膝をすすめると、義政は、たたんだままの扇をふって、
「いや、まわりで何かとうわさしていることは知っている。お今が知っていて、教えてくれるのだ。あれは笑っているが、わしは少しこまっている。女同士の争いは実にこまる。それはどうにもならないよ。まあ、政治の世界同様、よその世界を見るように見ているほかはないな」
と、無責任な笑いを頬によぎらせてから、
「ところで勝元、お前の家はうまくいっているのか」
と、またのぞきこんだ。
勝元は、とっさに答える言葉を失った。
実は彼自身、家の中に大悶着があったのである。
数年前、彼は山名宗全の娘を妻とした。それには若い自分が管領としてうまくやってゆくについては、大実力者たる宗全の協力を得たほうが好都合だ、と考えたのと、またあの豪傑の血を享《う》けた娘なら、必ずよい子を生むだろう、と期待したからであった。
ところが、そういう縁で結ばれると、宗全は、協力の域を超えて、まるで山名家も管領の権を得たように、あれこれと政治上の問題に口を出しはじめた。
一方で、妻とした阿古には子供が生まれない。
いや、実をいうと勝元は、まるで女力士のような妻にみるみる食欲を失って、最初の一年ほどはともかく、以後はまったく手を出さない。その気にならないのだ。勝元には、細川家という名門の貴公子だけにただの武家ではない文化人的な一面があって、だからこそ豪傑を憧憬したのだが、いまになってそのセンスがお相撲のような妻を拒否するのを、どうしようもないのであった。
それがこのごろ、彼の美的感覚に叶《かな》う女を側妾とした。
べつに管領たる身分として、妻にもはばかるところはない、と考えていたが、先日、妻の父たる宗全が、北小路の細川邸へ、入道頭から湯気をたてて詰問にのりこんで来た。
側妾を持つのはいいが、結婚後まだ数年しかたたないのに、正式の妻たるものに夫婦としていたちの道切りとは何ごとか、というのである。それもまた勝手として、貴公は細川に山名の血をいれたいとわしにいったが、あの言葉はありゃ嘘か、と家鳴り震動せんばかりにわめきたてた。娘からの訴えに、はねあがってかけつけたものらしい。
そして、娘をひきとる、といい出したのに対して、意外にも抵抗したのが娘の阿古だ。その言い分がふるっている。
「それでは私があの側妾に寄り切りで負けたことになります。私は決して土俵から下りませぬ」
力士のように顔を真っ赤にして、声ふるわせて雄たけび、テコでも動かぬようすを見せた。そして、私に子供はいらぬ、その代り、弟の豊久を細川家の養子にしてくれ、といい出した。宗全はこのとき五十を越えながら、まだ三歳の子があったのだ。
そして、もしこの先側妾に男子が生まれたとしても、それは僧にして、決して細川家をつがせぬようにする。――
この奇怪な談判を、ついに勝元はのまされた。
天下の管領でありながら、彼は二十代なかばにして、そのあとつぎは未来の自分の子ではなく、妻の弟とする、ということで寄り切られてしまったのだ。
こんな騒ぎがあったのを、この将軍はもう知っているのか、と、いま一瞬胸をつかれて、勝元は義政の顔を見たのだが、
「何にしても、いざこざに女がからむと、なかなか手におえないよ。天下をどうするかより、そっちのほうがむずかしいかも知れん」
と、義政は笑った。しかし、どこか面白そうな笑い顔でもある。
「とにかくお前は、きょうわしを説教に来たようだが、勝元、いつまでも兄貴づらするのはやめておけ。義政はもう三春丸ではないぞ」
いい捨てられて、勝元はただ黙って平伏した。
いわば、ほうほうのていで退出しながら、勝元は、いまの将軍のおひゃらかしみたいな応答にもかかわらず、義政という人が決して噂ばなしのヒョーロクではなく、へんな凄味の素質を持っているという自分だけの直感を、あらためて確認した。
それにしても、「義政はもう三春丸ではない」といういまの最後の捨てぜりふは耳に残る。
反射的に昔の少年三春丸の面影が頭によみがえり、彼は軽い痛みのようなものが胸をかすめるのをおぼえた。
「ああ、人は変るものだ。……」
京のある辻に、妙な立札が立ったのは、一四五五年正月のことである。
女の顔らしきものが一つ。男の顔らしきものが二つ書かれ、その下に、
「けだし政《まつりごと》は三魔に出づるなり。
御今《おいま》、有馬《ありま》、烏丸《からすま》なり」
と、あった。
京雀はすぐにその意味を悟って、妙な顔でうなずき合った。
いまはもう今参りの名はだれでも知っているし、有馬とは有馬持家という足利家の近臣、烏丸とは烏丸資任という公卿で、両人とも今参りの局の取巻きで威勢をふるっている人間だと知られている。「三魔」とは、三人とも名が「マ」で終っていることを踏んだものだ。
あきらかにこの三人への反感を煽動する立札であった。
さて、いちどは今参りの局にうっちゃりをくったかに見えた御後室の重子が反撃に出たのは、同じ春のことであった。
例の「家出」事件から数えると、四年目になる。
いや、こと新しく反撃をたくらんだのではない。そもそもそれ以前からきまっていたことだ。
義政に正妻を迎える。それが日野一族、重子夫人の甥の娘にあたる富姫であることは前からきまっていた。
それまでも重子夫人は、今参りの局を打ち倒すために、一日も早くこの挙に出たかったのだが、どう考えても富姫が幼すぎた。――
それがとうとうことし十六歳になったのだ。そして重子夫人が見ても、充分以上に美しく、かつその年とは思えない利発さと気丈さをそなえた娘になった。
春のある日、義政は母から正式の結婚のことを通告された。
「えっ、私に妻をもらえ、ですと?」
義政は、キョトンとした顔をした。
彼は、結婚自体も、相手のこともまったく念頭になかったのだ。それほどそのほうは飽満状態にあった。
「私はまだ必要としていませんが……して、相手はだれです」
「あの富子」
彼は首をかしげた。
「あれは日野家の娘。その血筋といい、本人の素質といい、足利家の正室としてまたとない娘だと思います」
と、重子夫人はいった。
「あなたとて、将軍がいつまでも側室だけを持って、正室を迎えないわけにはゆかないことは御承知でしょう」
「それはわかっていますが……」
義政はいった。
「お今のことですね。母上がお今をこころよく思われていないことは承知しています。しかし、あれは私にとって、それこそまたとない女です」
「義政」
「たとえ富子を正室に迎えても、あの女を決して放逐する陰謀などはめぐらさない、そのことをお約束下さるなら、富子を妻にしてもよろしい。そもそも、あの女を私の側妾にあてられた張本人は母上、あなたですよ!」
重子は黙りこんだ。
義政はふとうすきみ悪い笑みを浮かべて、
「ははん、富子、あれも悪くはないですな」
と、つぶやいた。
いま、そんな問答をかわしたくせに、ちょっと好色的な笑顔であった。
重子はとまどった表情で、婚礼はおそくともことし中にしたい、と、いった。
その夜、義政は今参りの局にこの話をした。相手は日野家の富子だとも告げた。
「ゆるしてくれ。しかしこればかりはどうにもならなかった」
そのときは、一度目を終えて、今参りは熱い腕を義政の首にまきつけ、しずかにまだ身体を波打たせているときであった。
彼女のうごきがとまった。
義政はあわてて、それについて母に条件を出し、承諾させたことを告げた。
「それはいつかあることだろうと、覚悟しておりました」
しばらくして今参りはいった。もうしずかな息づかいであった。笑いさえまじえて、
「でも、そうなっても上様、三日にひと夜は、今参りのところへおいでになって下さいね。……」
「それはむろん!」
義政はわれを忘れて大声でいった。
「ほんとう?」
「ほんとうだとも!」
ややあって、
「でも、富子さまに男の子さまができたら?」
「ばか、まだそんなことまで考えてはいられない」
――覚悟していた、というのはいつわりではないが、実は今参りはやはり衝撃を受けていた。
今参りは必ず将軍の子を生もうと思っていた。いずれ正室は迎えられるだろう。しかし必ず子ができるとはかぎらない。また男の子ができるとはかぎらない。男の子ができても丈夫な子とはかぎらない。一方、自分が丈夫な男の子さえ作っておけば、妾腹であっても相続の可能性は充分あるのだ。
それが最初からの今参りの熱病のような夢想であった。その夢想が叶えられなければ、自分が将軍の側妾になった意味はほとんど霧散するとまで考えていた。
夜ごとに彼女が将軍を、からからにするまでに悩殺したのは、その目的もあったのだ。
それなのに、子供ができない。
いや、いちど分娩したことはあるのだが、女児であった。それではどうにもならないので、早々に実家にやってそのままになっている。早く、一日も早く、男の子を生まなければならない――と、内心、火のように焦燥しつつきょうまで来たのである。
そのいちばん怖れていた事態が、いまや具体的な事実となって到来した。
いま、しかし、すぐに義政の首にまきつけた腕をまきなおし、
「いいえ、富姫さまにお子は作らせません」
「とは?」
「私の調伏《ちようぶく》で」
息に笑いがまじって、
「でも、富姫さまと私がこんな関係になろうとは……ああ、人の世は何ということでございましょう」
そういうと、今参りは、こんどは全身を白い蛇のようにからめて来た。……
義政はまた今参りの蜜壺に沈んだ。
この女人《によにん》を側妾にしてから六年目になるが、その甘美法悦の世界は濃密さを増しこそすれ、まったく薄らがない。
それにしても、今参りはもう三十に手がとどく年齢になっているはずだが、その美しさは毫《ごう》も衰えない。この女は、側妾になってからひときわかがやきをおびたが、それ以来、いくつになっても女の最高の魅惑をたたえているように見える。
それがこの夜は、ほとんど義政は魔界にあるの思いがした。富子のことなど頭からけし飛んでいた。
義政と日野富子が婚儀をあげたのは、その年の九月二十七日のことである。義政二十歳、富子十六歳。
その夜だ。
枕頭にうなだれて白鷺のように坐っている十六歳の花嫁を、すでに閨《ねや》の中にある義政は眺めやった。
富子はふるえているが、義政はむろんふるえてはいない。二十歳の花婿は、もう千軍万馬の四十男みたいに好色的な眼で、花嫁をなぶりつくしている。幼なじみだけに変な気もするが、花婿花嫁ということになると、今参りとは打って変って、このういういしさはまた格別だ。
「おいで、富子」
と、義政は呼んだ。
富子は顔をあげ、わななく声でいった。
「約束して下さい」
「え、何を?」
「女は……私ひとりにして下さい」
義政はめんくらった。
じいっと自分を見ている花嫁の眼は、こんな場合なのに十六歳とは思えない、強い意志のこもった凝視であった。
富子はまたいった。
「お今を追い出す、と約束して下さい」
義政はいよいようろたえて、
「それは、そなた次第だ」
といい、手をさしのべて、
「こんな夜に、そんな談判はへんだ。まあ、ここにおいで」
と、富子を閨にひきずりこんだ。
それから三年。
将軍義政の正妻と側妾はともに懐妊した。まさに妊娠戦だ。
正しくいえば、正妻のほうが若干《じやつかん》早かったかも知れないが――このことを知って、義政は、
「ほほう」
と、眼をまるくし、
「ひょんなことがあるものだな」
と、苦笑した。
というのは、正室富子との間は、最初の夜から何だか変であったが、日を重ねるうちにいよいよしっくりしなくなり、閨をともにするのも間遠《まどお》になっていたのに、それが孕《はら》んだと聞いたからであり、側妾今参りのほうは、これは彼女が三日に一夜と願ったのに、五日に四夜はそちらにゆくというありさまであったが、依然として妊娠の徴はなかった。それが久しぶりに孕んだというので、これも奇態なことだと首をひねったのである。――しかも、両人、そろってとは。
どちらかは男の子だろう。そう考えて義政はよろこんだ。彼にしても自分の相続者の誕生は待ちのぞむところであったのだ。
先に生んだのは富子のほうであった。翌年の一月早々のひるごろである。生まれたのは男の子であった。
彼女の産所《うぶや》をめぐって歓呼の声があがった。しかし、その夜のうちにそれが消えた。あかん坊が死んでしまったのだ。
それから三日目、富子の兄日野|大納言勝光《だいなごんかつみつ》という者が、産所の床下に奇怪なものを発見した。朱いよだれかけをつけた小さな藁《わら》人形で、それに釘が打ちこんであった。
「呪殺《じゆさつ》じゃ!」
と、彼は叫んだ。
どのほうから仕掛けられた呪殺か。――十指のさすところ、それはだれの眼にもあきらかであった。
いそぎ秘密|裡《り》に、将軍義政、その母重子、管領細川勝元、日野勝光、それにあの伊勢貞親などが集まって、会議がひらかれた。
まだ呪殺だの調伏などが行われ、その効験が信じられた時代である。
またその容疑者が、もともとそんなことをやりかねない、と、だれにも疑われる人間なのである。
まだ産褥にある富子はこの座にいなかったが、藁人形のことが発覚したとき、
「殺して! あの女を殺して!」
と、狂乱して叫んだという。――
義政ですら、いつかの――富子の入嫁に際して、富子に子供が生まれたら調伏する、といったあの声を、そのときは冗談だと思っていたけれど、いま戦慄とともに頭の奥によみがえらせていた。
「もはやかく相成っては」
と管領勝元は口を切った。じいっと義政を見て、
「御追放もやむを得ますまい」
「それでいいのかえ?」
と重子がいった。
「将軍の御子を――しかも、せっかく御男子がお生まれなされたというのに、それを呪殺した女を」
「では、遠島の罪にいたしますか」
「それにいたせ、殺してはならぬぞ」
と、義政が口を出した。
「それも、なるべく都近いあたりに」
彼としては、そういうのがせいいっぱいであった。
そして、顔を覆うようにしてその座を立った。
あと見送って、重子夫人が声ふるわせてつぶやいた。
「わが子ながら、なんとまあ、色ぼけにもほどがある。かような天魔|破旬《はじゆん》の所業をしてのけた女を」
「あいや、何と申しても、御幼少のみぎりよりお守《も》りをした女性《によしよう》ですから」
暗然として、勝元はいった。
「遠流《おんる》と申してもどこらあたりにすべきか。念のため私より今参りの局に実否をといただし、その返答|如何《いかん》よって考えましょう。私にまかせて下さりませぬか?」
「あの女――あの女も近く子を生みますぞ」
いったのは、日野勝光だ。呪殺の藁人形を発見した男である。利《き》け者という評判で、その通り、みるからに鋭い容貌の持主であった。
「それが御男子であったら、どうなさる御所存か。ひょっとしたら上様は、その場合は母子ともに許してやれ、と仰せなさるかも知れぬ」
みな沈黙した。
「それまで待つといたそう」
と、ややあって伊勢貞親がいった。
「といって、いまはこの御所はおろか、京にも置きかねる事態。私がおあずかりしましょう。伊勢の私の所領へ送って御出産を待ち、その結果によって上様の御判断を仰ぎとう存ずる」
数分して、みなうなずいた。
勝元もうなずいたが、しかしこのとき貞親の顔を見ていて、なぜか背にぞうとしたものが這うのを感じた。何か口走ろうとして、歯をくいしばってその声をのんだ。
日野大納言が長嘆した。
「花の御所とは申すが、いや妖雲|濛々《もうもう》とはこのことでござるなあ」
妹の生んだ子が死んだと知って、そのあとで呪いの藁人形を投げこんだのは、この男であったことをだれが知ろう。そして、以前、今参りの局打倒のために、あの三魔の立札を立てたのも、この日野大納言なのであった。
十一
伊勢へゆくなら草津から右へ、東海道をとるはずだが、輿《こし》は左へ、東山道へはいってゆく。
一月の雨が蕭々《しようしよう》とふりしきる中である。
輿は屋根もあり、四方に板を張った板輿だが、漆ぬりで真っ黒だ。その轅《ながえ》を四人の足軽がかついでいる。交替のためか、それをかこむように、べつに五人の足軽も歩いている。みんな黒い笠の下に黒布で覆面をして、身につけている具足もこれまた黒い。
みるからに凶々《まがまが》しい印象を与えるこの黒い一団は、やがて東山道からも左へそれて、寂しい村をいくつか通っていった。
やがて、前方に鉛色にひかる湖が見えてきた。夕ぐれ近い琵琶湖だ。
長命寺村という湖畔の村の岸につながれていた漁舟の一|艘《そう》を借り、輿をそのままのせ、黒衣の足軽たちは湖へ漕《こ》ぎ出した。その一人は櫓《ろ》をたくみにあやつった。
輿の中からは見えずとも、舟にのせられたことはわかるだろうに、何者がのせられているのか、一語も声はもれない。足軽たちはそれを怪しむように、二、三度、輿へ耳をあてた者もあったが、しかし彼らもまた語を発しない。
この琵琶湖を渡って、「蘆花浅水《ろかせんすい》の秋」と詠じた貴人がいる。この詩こそ銀色の足利時代を象徴したものといわれるが、いまは冬だ。氷雨《ひさめ》ふりしきる水をゆく沈黙の舟は、まさに冥府の風物詩であった。
茫々とけぶる湖に、すぐに島影が見えて来た。
沖の小島と呼ばれる島だ。
まわりはほとんど絶壁に近いが、それでもいくつか磯と呼んでもいい場所があった。その磯の一つに舟はつけられた。
輿はまたかつぎあげられ、その群《むれ》は枯草をふんで、小高い丘へ上っていった。
そこの、蕭条《しようじよう》たる枯木林の中に小さな廃寺があって、輿はその本堂らしいところへ運びこまれた。
床には塵のみならず落葉さえたまり、柱には蜘蛛《くも》の巣が張っている。
「あけよ」
と、足軽風の中でいちばん長身の男がいった。これが首領らしい。
輿の戸はあけられ、一人の女が、両側から足軽にささえられて外に出た。
「いままで、ようおとなしうしておられたな」
と、首領がいう。
「覚悟していましたから」
と、床に坐ったまま、女は答えた。
足軽たちは、数分黙って見下ろしているばかりであった。
今参りの局だ。
能衣裳のような裲襠《かいどり》を羽織っているが、あきらかに腹部が大きくふくらんでいる。臨月に近いだろう。
彼女は、前日、伊勢貞親に呼び出された。
彼は、御台所《みだいどころ》の御出産に対する呪殺のことが発覚し、きょう明日にも断罪の使者が来るはずだ、と告げた。が、上様はなお憐れみをかけられ、ひそかに私の伊勢の所領に落ちさせよ、との御諚《ごじよう》であった。急ぎそのようにお支度なさるがよい、といった。――
それで今参りの局は輿にのせられ、ここまで運ばれて来たのである。
その輿に九人の従者がついた。伊勢家の郎党にちがいない、と彼女は考えたが、そのとおり、それは伊勢貞親の遠縁の者で、伊勢新九郎とその配下たちであった。その新九郎なる者が、遠い昔、四条河原のあぶれ者たちをそそのかして自分をさらおうと試みたことなど、彼女は知らない。
あのとき十四だった伊勢新九郎は、もう二十八歳になっていた。
貞親の遠縁でありながら、彼はまだ足軽|頭《かしら》だ。それは新九郎が望んでのことであった。足軽とはこのころに発生した侍の最下級ながら最新の形態で、なぜか新九郎は、それに属しているのが自分の修行になると称して、やめようとしない。そして、伊勢貞親の闇黒面で、血を見ることも辞せない役を務めて来た。八人の配下も、伊勢家というより彼個人の家来といっていい。
彼らはしばしば一団となって諸国をめぐる。新九郎は天下の大勢を知るため、と貞親にいっている。そのために琵琶湖のこんな離れ島も知っていたのだ。
さて、彼らに護られた輿が、伊勢国へゆく道からそれてゆくのを、輿の中で今参りの局は知っていた。そのあげくいま湖水を渡って来たが、それが琵琶湖であることもすぐに知った。
が、今参りの局は一声もたてなかった。そもそも彼女は、貞親が呪殺云々という嫌疑を告げたときから、ひとことの弁明もしていない。
あの連中にそのような罠をかけられた以上、もはや弁明は無益だ、と覚悟したのである。だいいち、呪殺のことは、やりはしなかったけれど、まさしく彼女の悲願であったのだ。
この男たちが何のために自分をここへ連れて来たかは、いまさら問いただすまでもない。
「覚悟している」
と、いわれて、九人の男たちがみな黙ってみまもるばかりであったのは、その言葉自体に打たれたからでもあるが、やはりこの女性の美しさに、数瞬、眼を麻痺させられたからでもあった。
たしかこの女は三十なかばになるはずだが――見よ、死の座にすえられて、その腹は大きな鞠《まり》のようにふくらんでいる。女のもっとも醜くかるべき姿態でありながら、その艶麗さはうすくらがりの中に、全身から蛍光をはなっているかのように見えた。
「ただ……願いがひとつある」
と、今参りの局は顔をあげていった。
「首を斬らないで、腹を斬っておくれでないか」
「な、なんですと?」
伊勢新九郎は眼をむき出した。
「この腹をまっぷたつに」
そういって今参りの局は、みずから裲襠《かいどり》をぬいで床にひろげ、さらにきものをぬぎはじめた。
「お待ちあれ」
新九郎はあわてて、
「な、なんのためでござる?」
「私はこの腹の中の子が見たいのじゃ。男の子か、女の子か……いいえ、そんなことはどうでもいいけれど、とにかくこのややを孕んだままでは死にたくない」
そして、全裸となった今参りの局は、裲襠の上にしずかに横たわった。真っ白な腹を、銀灰色の闇に盛って。
さしもの黒衣の刺客たちもおもてをそむけ、凝然たる眼を見合わせた。
「それをひと目みさえすれば私は成仏《じようぶつ》できる。さあ……この腹を切りや!」
九人は肩で息をし、しだいに魔界にひきずりこまれて来た。
一人がいう。
「お頭、いうことを聞いてやってはいかがかな?」
また一人がいう。
「それで成仏するとあれば、せめてもの罪ほろぼし。――」
みな、眼が人間外のもののように、血まじりの銀色にひかっている。
わずかに――なかば理性を残していたのは新九郎一人であったろうか。
「よし、うぬらにまかせる。おれは外で待っている」
といって、彼だけ本堂の外へ出ていった。
なおふりつづける雨の中に彼は立っていた。笠をたたく雨音を破って、突然、身の毛もよだつ女の絶叫が聞こえた。彼は思わず耳をおおった。
みずから望んだ「帝王切開」とはいえ、それはやむを得ぬ悲鳴であったろう。――ついで、「おぎゃあ!」というあかん坊の声がした。それっきり、堂の中は静寂にもどった。
それからどれほどの時が立ったか。――
氷雨の中に凍りついている新九郎の前に、ふらふらと八人の男たちが現われた。どういうわけか、みんな両手をつき出してぶらぶらさせている。
「死にました」
と、一人がしゃっくりのような声でいう。
新九郎もかすれ声で、
「あかん坊の声が聞こえたが……」
「ひと声泣いただけで、これも死にました」
と、他の一人がいう。
「男か、女か」
「男でござった」
と、別の一人がいい、さらにもう一人が、
「それを……裂かれた腹に抱いて……あの女性《によしよう》は、にいっと笑って死にました」
と、いう。
このとき新九郎は、もう闇に近い暗がりの中に、八人の配下の手がみな真っ赤にぬれて、その指の先から血のしずくが垂れているのをまざまざと見た。
しばらくののち、魔性《ましよう》の刺客たちは、裲襠でつつんだ今参りの局とその嬰児《えいじ》の死骸とともに、また舟で長命寺村へもどっていった。途中、屍骸に石をつけて湖へ沈めた。
長命寺村から東山道へ、さらに草津までひき返すと、伊勢新九郎は、二人の配下を報告のため京の伊勢家へ送り、あと六人の足軽を連れて、夜の東海道を東へ去った。京へやった二人も、やがて追って来るはずになっている。
彼らは伊勢貞親から、大金のほかに駿河の今川家への紹介状をもらっていて、そこにわらじをぬぐ予定であった。まさか沖の小島の惨劇が世にもれるはずはないと思われるが、貞親のほうで、この連中をそばにおいておくのが気がひけたのである。あらかじめ、そういうことにしてあったのだ。
十二
すべてを秘密裡に葬る、というわけにはゆかない。あれほど権勢をほしいままにした今参りの局が、ふいに消失してしまったのだから。
世には、今参りの局が御台所の御産を調伏したので、遠流になったとか、あるいは死をたまわったとかいう風評がながれたが、どこからもれたか、関係者には、その凄惨な最期が――何者の手によってかとは知らず――戦慄をもってささやかれた。
当時、相国寺《しようこくじ》の公用日記「蔭涼軒《おんりようけん》日録」に、「不慮の儀によって、お今上臈逝去」と書き残されている。
それより前、今参りが姿を消してから二日目の夕方、細川勝元は義政に呼びつけられた。
「勝元、お前も知っていたのか」
と、いきなり義政はどなりつけた。
その横に、御台所の富子が、産褥からやっと出て来たらしい凄艶な顔でそっぽをむいて坐っている。どうやら二人は、いままで烈しい口争いをしていたらしい蒼い顔だ。
勝元は、将軍がすべてを知ったことを知った。
「は」
彼は青だたみに両手をついた。
「お前もそこまでの謀議に加わっていたのじゃな」
「は」
と、答えたが、実は勝元は、まさか今参りの局が殺されるとまでは考えていなかった。それを知って彼は立腹したが、その怒りは自分の意志を無視して謀議が進められたことにあった。
今参りの局の死そのものについては、ここ数年彼女及びその取巻き連中の傍若無人の羽根ののばしかたには、管領として不快を超えた感情を持っていたから、右の怒りに胸をさすれば、これで足利家の病巣の一つがとり除かれたことになる、と考えていたのである。
が、ちょっと顔をあげて、勝元は、義政の眼が涙を浮かべ、それが火のように赤くひかっているのを見た。
「人非人!」
義政は叫んだ。
このどこか気弱で、どこか虚無的な将軍が、これほど怒りの相をむき出しにしたのを、勝元ははじめて見た。
「お前ら、今参りを相知ったのは昨今のことではあるまい。それをあのような悪鬼|羅刹《らせつ》も及ばぬ無惨な殺害に出るとは……うぬら、人間ではない!」
いや、それまではあずかり知らぬところ――と勝元がいいかけると、
「それはお今がみずから望んだ死に方」
と、御台のほうが先にいった。
「また、手を下したのは貞親の足軽どもで……貞親も粗暴な者をえらんだ、と、くやんでおりましたが……けれどまた、足利家のおんためにはいたしかたなき所業であったかも知れぬ、と申しておりました。富子もそう思います」
勝元もいい出した。
「上様のお怒り、重々ごもっともとは存じますれど、まことに御台さまの仰せの通り、天下のためには……」
「足利家のため? 天下のため?」
義政は、ひきつるような|のど《ヽヽ》で、
「お前たちがそれをいう。あはははは、あははははは!」
と、笑い出した。花の御所ぜんぶに鳴りわたるのではないかと思われる狂笑であった。
「富子、お前の胸を焼きただらせていたのは、ただ嫉妬だ。勝元、お前の頭にひしめいていたのは、ただ権力欲だけだ。わしはすべてを知っている」
その言葉より、声が罵られる二人の口を封じた。
「こうはいってもな、お前らはこの先もおなじようなことをいい、おなじようなふるまいをつづけるであろう。義政はそれも知っておる。えい、好きなようにやれ、わしも好きなようにやる。お前らと同じく、人間ではない人間としてな」
声が急に沈んで、ぼやけた。
「いや、ここはすでに魔界じゃ。……」
二人はぎょっとした。
義政は、二人の中間あたりのうす闇をじっと凝視している。いま、狂的な声で罵られているときより――はじめて、恐怖にちかいものが二人の背をながれた。
「上様、いかがあそばしました?」
と、勝元がいった。
義政はなお眼を動かさず、
「そこに今参りが来ておる。……」
と、つぶやいた。
「血まみれの腹に、血まみれのあかん坊を抱いて、それ、そこに来ておる。……」
二人は、そのほうに顔をむけた。
が、どこにもだれもいない。ただ、皮膚の粟立《あわだ》ったおたがいの顔を見合わせただけである。
義政は妖しい笑いを浮かべて、
「おう、痛かったであろう。苦しかったであろう。わしが抱いてやる。ここへ参れ……ここへ、ここへ……」
と、両手をさしのばして、ゆらゆらさせた。……
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人間・狂ノ章[#「人間・狂ノ章」はゴシック体]
将軍から、お前の頭にひしめいているのは、ただ権力欲だけだ、といわれて勝元は心外に思ったが、しかし客観的に見ても、彼が管領として日夜、その職務に忙殺されつくしていることは事実であった。
彼が生まれたころから発生した土一揆なるものが、近年急速に頻発しはじめた。一方で、町衆というものが驕奢《きようしや》をきわめるようになって、それに伴って盗賊のたぐいが急増した。山門の強訴《ごうそ》は相変らずだし、それより何より、大名間の争い、大名家内部の争いは野火のようにひろがって、手もつけられないほどだ。
相続をめぐって、親と子、兄と弟、叔父と甥、正腹と妾腹――そのどっちにも、それぞれの一門、家臣がからみ合う上に、幕府の高官、大名中の実力者が介入する。
この幕府の高官の介入の中で、最もたちの悪かったのは例のイセイセどので、たとえば三管領の一つ斯波《しば》家で主人派と重臣派とが内紛を起したのに介入したのだが、はじめ貞親は重臣派をひいきにした。その重臣の娘が彼の愛妾だったからである。しかるにのちになると、こんどは主人派に鞍がえした。その主人の妾の妹が彼の妾になったからである。
これは特に破廉恥な例だが、とにかくどの例をとってもその混沌ぶりは大同小異で、とうてい一刀両断というわけにはゆかない。
管領として勝元は、ほとんどそのすべてにかかわりを持つことを余儀なくされたが、しかしそれに対して彼は、決して自失無為であったことはない。極力その裁きに努力して来たが、解決の方向としては、管領としての安泰、また細川一族の勢力の伸張を志《こころざ》したものであったことは否《いな》めない。そして彼は、そういう政務をたのしんでいるところがあった。
それを権力欲といわれればそれまでだが、一方で彼は、細川家の安泰は足利家の安泰、足利家の安泰は天下の安泰と信じて疑わなかった。
さて今参りの局の事件が起ったのは、彼が三十歳のときのことだが、この前後から彼の前に一大政敵が出現した。
山名入道宗全である。
もともと山名一族は、但馬《たじま》、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》、石見《いわみ》、備後《びんご》、安芸《あき》、伊賀、播磨《はりま》、備前《びぜん》、美作《みまさか》と、主として山陰だが十カ国に領国を持つ大大名であった。加えて、前将軍義教を弑《しい》した赤松満祐を討伐したという大戦歴を持つ。
その娘を勝元が妻としたのは、この山名家の実力と宗全そのひとの豪快さに敬意を表してのことであった。
その後、変ないきさつで、宗全の男子の一人を養子とし、自分のあとつぎとしてから、両家の結びつきはいよいよ濃いものになった。
だから、細川家のライヴァルたる三管領の一つ斯波氏の勢力をそぐために両人協力したこともあるし、また、武功を鼻にかけて不遜《ふそん》でさえある宗全に、政治に冷淡な義政も立腹して上意討ちを命じたほどの事件があったが、これも勝元が身体を張って助けたこともある。
が、次第に勝元と宗全の仲はぎくしゃくするようになった。
細川家は、摂津《せつつ》、丹波《たんば》、讃岐《さぬき》、土佐、和泉《いずみ》、阿波、淡路、備中《びつちゆう》、三河と、主として山陽四国九カ国に領国を持ち、しかも管領という最高の家柄だから、かつては宗全も一応敬語をもって対していたのだが、勝元の妻と養子の父という立場につくと、言葉までおうへいなものになった。
かつて少年時代、あこがれのまとであったその豪傑ぶりも、勝元が蹴鞠《けまり》に堪能であったことでもわかるように、武家ながら文化の伝統を持つ細川家の貴公子の感覚には、やがてたえがたいものに変って来た。
少年のころ、勝元の眼にはすでに中年に見えた宗全だが、さて勝元が三十になっても、宗全入道はいよいよあぶらぎって健在なのも気味がわるい。実は勝元が三十でも宗全は五十なかばなのだから、べつにふしぎではないのだが。――
その肌のちがいが違和感となり、嫌悪となったのに加えて、勝元が三十歳を越えてくると、政治的にも相|容《い》れない案件がふえてくる。
また宗全が、ただ豪快ならいいのだが、これが案外|老獪《ろうかい》なところもあって、政治的にもなかなかの野心家なのである。
右にのべたような諸家の内紛にもいちいち首をつっこんで来るが、がいしていえば彼は旗色の悪いほうへ肩いれをした。へそまがり、一言居士といっていいが、世には彼を侠勇の将と呼ぶ者もあった。
勝元からすれば、それも宗全流の人気とりの策略に見える。むしろ梟雄《きようゆう》と呼んだほうが当っていると考える。
こういうわけで、なんどか宗全が、公けの席で他人の眼もはばからず、というより、故意にそういう場所で、岳父づらをして、若僧扱いにする。これに対して勝元が、白面の貴公子然として冷やかに応対する、といった光景がしばしば見られるようになった。
勝元とて、決しておとなしいほうではないから、不快のあまり、宗全に辛辣《しんらつ》無比の一撃を加えたことがある。
前にのべたように、義政の父義教将軍は、播磨の豪族赤松満祐に弑され、赤松一族は宗全に滅ぼされた。
ところが赤松の遺臣たちは、その後一門の子孫をかつぎ出して、執拗に赤松家の再興を願い出てやまなかった。
将軍を弑虐《しいぎやく》したものの、それは天下を奪うための謀叛《むほん》ではなく、恐怖のための、鼠、猫をはむの凶行であったことはその後あきらかになっており、当時同様の恐怖をいだいていた重臣たちも多かった。
それに赤松家は古くからの名族であることもあって、ついに遺臣たちの悲願をきいてやることになった。勝元は、その赤松家再興の推進者となったのである。
それに対して義政は、「よきにはからえ」とうなずいた。
もともと細川家は赤松家と親しい縁であったからの勝元の運動であったが、これは山名に対しては過剰反応、イヤガラセのきわみであったかも知れない。
宗全は激怒した。
「前将軍を弑虐した謀叛人の再興に手をかすとは、勝元気でも狂ったか!」
赤松家討伐の立役者は彼であり、彼の所領の中に播磨がはいっているのはその褒美であり、かつその後も播磨で赤松残党の鎮圧に血まなこになっていたのだから、彼の怒りは脳溢血を起さんばかりになった。
「いまの世はスジの通らぬこと、万々承知はしておるが、それにしても前代未聞、それをぬけぬけゆるしたヒョーロクもヒョーロクじゃ!」
花の御所やその近くの細川屋敷のほうをハッタとにらんで、将軍までも罵った。
当時、大徳寺の一休和尚が宗全を評して、
「鞍馬ノ多聞《たもん》ハ赤面顔《せきめんがん》
業《ごう》ハ修羅ニ属《ぞく》シ、名ハ山ニ属ス」
と、からかった。
名ハ山ニ属ス、とは山名を意味し、顔は鞍馬寺の本尊|毘沙聞天《びしやもんてん》のように赤く、やることは修羅の行状だ、といったのだが、まさに赤入道は修羅の人となったのである。
「よし、娘と伜に細川の家を出よといってやれ!」
とたけり狂うので、使者が細川家に走ったが――こはいかに、娘の阿古はそれを拒絶したという。のみならず、養子となっている弟の豊久も帰さぬ、といったという。
宗全はめんくらった顔でしばらく立往生していたが、
「えい、どいつもこいつもマトモでないやつらばかりじゃ。勝手にさらせ!」
と、大息をついた。
あとになって、義政が笑いながら勝元にいった。
「赤入道が怒ったそうだな」
今参りの事件から一年ばかりたっている。さすがにあの憤怒はだいぶうすれたようだ。
「お耳にはいりましたか」
と、勝元は苦笑した。
「何やら、子供のケンカのように見える」
「は」
と、勝元はちょっと意表をつかれた眼を投げた。
ヒョーロク将軍はむしろ無邪気な顔で、
「宗全とはいわぬ。またこんどのことにかぎらぬ。勝元、悪いがな、お前もふくめて、みなのやっていることは、何もかも子供の遊びのように見えるがな」
「子供の遊び?」
勝元はややけしきばんだ。かくも苦労の多い政治をひとまかせにして、自分は知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいる将軍が何をいう。
「ああ、やっていることに何の意味もない。やったことも何もあとに残らない、という点でな」
義政の表情は冷然たる笑顔になっていた。
「では、上様のなされていることは、何か意味があり、あとに残るとお考えでございますか」
「その通り」
馬鹿に自信のある声で、ヒョーロク将軍はうなずいたかと思うと、それまでの問答はけろりと忘れたように、しばらく障子の外の雨音に耳をすましていて、
「雨つづきで、外に出歩けぬのが困るの」
と、いった。
この年も雨が多かったが、天候不順はその翌年さらに悪化した。水が欲しいときに干魃《かんばつ》がつづき、太陽が欲しいときに長雨がつづき、稔りのときにイナゴの大群が襲った。
そして、いわゆる「寛正の大|饑饉《ききん》」が日本を覆う。
田畑に収穫なく、地方からの流れ民は京へながれこみ、これが餓鬼道世界の中に死んでいった。当時のある僧の日記に、「京中人民餓死輩は、毎日五百人、あるいは三百人、あるいは六、七百人、惣《そう》じて其《その》数を知らず」とあるが、京の餓死者の数は八万二千人に及んだといわれる。そしてこんどは疫病が発生して、また死者の数を加えた。
屍骸は、鴨川に大穴を多数掘り、その一つ一つに千人、二千人と投げこんだが、なお始末しかねて悪臭は京洛の天地を満たした。
この惨事の名ごりの死臭がまだ消え失せぬころから、義政の行楽や建築志向が急速にエスカレートする。
もともと連歌とか茶の湯とか生花《いけばな》とか蹴鞠とかの文化的趣味の濃い将軍ではあった。いや、本来の職分たる政治・武事はほとんど関心のない生活なのだから、もう趣味とはいえないかも知れない。
その心性が、いよいよ外形的にも大規模な、経済的にも大費用のかかる行事や工事として現われて、世の眼を見張らせることになる。
「応仁記」という書に、糺《ただす》河原の猿楽見物、華頂山《かちようざん》、若王子《にやくおうじ》、また大原野《おおはらの》の花見、石清水《いわしみず》八幡宮参詣、奈良の春日《かすが》大社参詣、伊勢神宮参詣その他、五、六年に一度の行事でもゆゆしき大事であるのに、そんな盛儀が二、三年の間に十度も行われた、とある。
彼ひとりがせいぜい数十人のお供をつれて参詣したり、見物したりするわけではない。足利家をはじめ、公卿、門跡、女房、三管領四職以下の重臣とその一門、それらに従う家来たちと、数千、あるいは万を越える人数が、綺羅《きら》を飾って参加するのである。まさに豪遊だ。
さらに、天下に息つくひまもない感を与えたのは、相つぐ大土木工事であった。花の御所の大改造、高倉御所と称する別邸の普請《ふしん》、その他公用、私用、まさに建築マニアの相貌を見せはじめた。それが、庭なら夢窓国師が作ったという西芳寺《さいほうじ》の庭そっくりのものを作らせ、建物なら腰高障子一|間《けん》分に二万銭をかけるという凝ったものであった。
ただぜいをつくしたものではない。それらの庭も建物も、すべてが能の世界を思わせる幽玄の気のただようものでなければならなかった。
まだ三十になるやならずで、義政がのぞいた美の世界の極北である。
彼は、これらの工事現場にみずから赴《おもむ》いて、いちいち指図《さしず》する。それは愉快そうに見える、というより、まるで憑《つ》きものがしているように見えた。あるいはその幽玄の世界の一人のように鬼気迫るものがあった。
さすがは将軍の権威だ。――といいたいところだが、権威の中には当然財力もふくまれているはずだが、実は、それがない。
土一揆の頻発で地子銭《じしせん》の徴収もままならないから、幕府の権威が落ち、幕府の権威が落ちたから、地子銭の徴収がままならない、という悪循環が急速調になりつつある時代で、官庫は脱水状態を起して久しい。
では、何によって右のような行楽や土木の費用をまかなったのかというと、鍛銭《たんせん》(臨時税)命令の濫発と土倉《どそう》からの借金である。
そして、しばしば徳政令を出して、借金を帳消しにしてしまう。――それしか手はなかった。
こういう数年を経たある秋の日であった。
管領細川勝元は、ふきげんきわまる顔で室町第を訪れた。
すると、将軍は人払いの上、お庭者の善阿弥《ぜんあみ》と二人だけで、邸内の黄金《こがね》池のほうへ出かけられたという。
「善阿弥と、か」
彼はいよいよ不快の表情になった。
実は勝元は、このごろ義政がその善阿弥と、ほんの小人数の近習《きんじゆう》だけつれて、しばしば忍びの外出をする。そして、しきりに東山のあちこちを探渉する。その目的はどうやらさらに大規模な山荘を作るためらしい、と聞いて、それが事実かどうか聞きただすために参上したのであった。
で、彼もただ一人で、そのほうへ出かけた。
樹々の間から美しい秋の木《こ》もれ日が、ななめに池にさしている。この黄金池は三千坪ばかりあるが、まるで深山の中をさまようようだ。近年、西芳寺の苔寺《こけでら》そっくりに作り変えたものだが、樹々や石は京洛一円の寺や公卿の庭の然るべきものを強引に移植したのはいいとして、さすがに苔だけはまだうまくついていない。が、禅味と幽邃《ゆうすい》さはほんものにちかい。
勝元にも、だんだん義政のめざす「芸術」がわかって来た。
いわゆる幽玄というやつらしいが、勝元からすると、それは一切の人間味を排除した、人間拒否の果てにある境地に感じられる。
しかし、それをどう評価していいか、わからない。
勝元は八橋《やつはし》をわたっていった。
やがて潭北亭《たんぼくてい》と名づけた池畔のあずまやに、二人の人間が坐っているのが見えた。義政と善阿弥だ。
善阿弥は雪のような白髪をおいた老人だが、はっぴに股引という姿であった。「山水《さんすい》お庭者」という身分だが、義政に寵愛され、尊敬さえされている庭造りの大名人であった。
「や、勝元か」
と、義政はけげんな表情で迎え、
「何か、急用か」
と、聞いた。
勝元はひざをついて、上様がまた東山あたりに大山荘を作ることを考えておられるらしいということを耳にしたが、それはまことでござりますか、と尋ねた。
義政はべつにかくすようすもなく、それはまことだ。このごろやっとよい地を見つけた。東山の浄土寺のあるあたりだ。ただし、きょうあすのことではない。それどころか十年くらいかけて、この善阿弥とよく相談し、心ゆくまで自分の望みに叶った山荘を作りたい、と考えている、と淡々といった。
勝元は、上目づかいで、
「怖れながら上様。……上様は幕府の官庫の中身を御存知でござりましょうや」
「知っておる。しかし、そう申しながら、これまでの行事や普請は何のこともなくできたではないか」
「それは、まさに刀の刃渡りで……いまここで、何の必要があって、あらたに宏大な御山荘など、それについていやます民の苦はいかばかりか、それを思えば……」
勝元の声音には、圧迫的なひびきさえあった。彼はきょう単独でこのことをいいに来たのではなく、一門や親しい重臣たちの意向をも背負って推参したのである。
「ふふん、お前ら、それほど民の苦を気にする手合いか」
義政は笑殺した。
「そもそもわしは、あのような普請や行事、それほど天下のために悪いことをしたとは思わぬ。この悪天、饑饉、疫病、土一揆など相ついでやまぬ世に、将軍たるものがどこにおるかわからぬような存在であって見よ、民の不安はどれほどか。そこにあのような猿楽見物、花見物、寺社参詣、大普請を行えば、民は安心いたす。下々の仕事もふえる、泰平のありがたさも眼に見える。景気もにぎやかになろう。――」
からかっているのか、本気な説か、無表情な顔からはよくわからない。
「わしはそう見るが、わしの考えておることはそればかりではない。わしはお祖父さまに匹敵する一つの世界をこの世に残そうと思う」
お祖父さまとは、足利将軍中の「大帝」ともいうべき三代義満公のことだ。
「お祖父さまは北山に北山山荘を作られた。あれと同じものを東山に作ろうと思う」
その件でここへ来たのだが、勝元はうなった。
その北山山荘は、義満公死後とりこわされて、いまやその一部たる金閣寺だけ残して、あとは地上から姿を消した。義政はむろん勝元にとっても生まれる以前のことだ。が、その規模の壮大さ、祇園精舎《ぎおんしようじや》さながらの大千世界はいまも語り草になっている。
「いま、北山第は地上から消えたが、しかし見ないわしの心には残っている。お前の心にも残っているだろう。いや、家来の老人たちも何かといえば、北山第の御代《みよ》のころは、という。それをわしは再現しようというのだ。わしに再現しようと思い立たせたのが、北山第の力だ。そういう力は滅びない」
文化という言葉は、後年のような意味ではまだなかったが、義政は文化のことを口にしたのである。
「しかもな、わしは北山第に劣らぬものを作ってみせる。あのような金ピカを消した、もっと錆《さ》びた、もっと深い、銀色の大千世界を――」
そういう義政は、しかしいま、朱色の炎に燃えあがったように見えた。いよいよななめになった夕日が、あずまやの柱を通してさしこんでいるのだ。
老庭師の善阿弥が、ニンマリとうなずいた。
勝元は、穴みたいに口をあけたままだ。
もともと彼は、世にこの将軍をひそかにヒョーロク将軍と呼ぶ者もある中に、彼だけは少々買っているところがあった。
政治にまったく無関心で無責任な性情は沙汰のかぎりだが、ただひとつ興味があるらしい芸術の分野で、なまじ勝元も常人以上に趣味があるだけに、自分とは別世界の何やら凄味みたいなものがあることを感じていたのである。
一言でいえば、義政の好む芸術は、人間の匂いを消した世界らしい。幽玄は幽玄でも、無人の世界であるらしい。
この将軍のきょうまでの相つぐ文化的大道楽を、異常なものと思いつつ、結果的に座視して来たのは――いつか今参りの局の惨劇直後、自分たちを人非人と罵り、「わしも好きなようにやる、お前らと同じく、人間ではない人間になってやる」と絶叫したのが耳朶《じだ》にねばりついていて、それで制御する力を失ったせいもあるが――また、将軍生来のそういう異質な趣味に、少なからずはばかるところがあったからだ。
ただし、全幅的尊敬というところまではゆかない。――その道楽の数々を、人間ではない所業とはこのことか、と思い、困ったことだ、と考えて来た。
が、いまはじめて勝元は、義政に圧倒されるのをおぼえた。このヒョーロク将軍を魔王のように感じた。
背の落日にふちどられて、義政はその肩をゆすった。
「勝元、わしはわしの天職を見つけたぞ! 東山に義政の美の天地を作るという。――」
勝元は恐怖に打たれた。この将軍の人間自体に対してのみならず、将軍の妄想している計画に対してである。
彼はきょう自分がここに来た使命を思い出した。右の風評に捨ておけぬものをおぼえて推参したのだが、いま聞けば、風評以上、途方もない狂気の望みといわざるを得ない。
北山の金閣寺にあたる建物には、銀箔を張りつめるという。またその山荘一棟を建ててすむ話ではない。後年の言葉でいえば一帯に個人的な一大高級リゾートタウンを作るようなものだ。
彼はうめくようにいった。
「上様、それはしかし、それでは天下が滅びまする!」
「天下は滅びば滅びよ、世は破れば破れよ。あははははは!」
義政は笑った。
「お前のいう天下とは、私欲背信、魑魅魍魎《ちみもうりよう》の世界じゃ。百姓町人とて、自由狼藉、下克上の餓狼のむれじゃ。そんなやつらがいかに騒ごうと、ひしめこうと、泣こうと、わめこうと、もともとが無意味な渦なのだから、やがて泡のごとくあとかたもなく消え失せる。わしの作った美の世界は、いつまでも地上に残る。――みんな、やりたいことをやらせろ」
「あいや、やりたいことをやらせろ、と仰せられて、事実として上様、官庫はからっぽ同然でござりますぞ!」
「金《かね》か」
義政の昂奮の憑きものが落ちたように、キョトンと勝元を見下ろして、それからウスボンヤリと笑った。
「金は富子に借りるわさ」
作者は、「人がいかに変るものか」という主題で、花の御所をめぐる一群の人々をえらんで観察している。
しかし、日野富子ほど変ったものはなかろう。
彼女が足利家の御台《みだい》となってから、十年ばかりたっていた。
花嫁となった初夜、夫にむかって、「お今を追い出すと約束して下さい。女は私ひとりにして下さい」と、りん然と迫った十六歳の富子、はじめて生んだ子供を呪殺されたと思いこんで、産褥で、「殺して! あの女を殺して!」と叫んだ二十歳の凄艶な富子はどこへいった?
彼女はその後、みるみるふくよかに――それどころか、すこしふとりぎみではないか、と見えるようになった。女の眼から見ると、以前より美しくなった、という者もあった。しかし、男の眼からすると、ふしぎに色気が感じられなかった。
色気などケシ飛んでしまうような理知と勝気が、その瞳からかがやき出していたからだ。二十代なかばで、富子は管領四職らをも、正気で頭を下げさせる貫禄をそなえはじめた。
今参りの局が死ぬと、足利家の財政はたちまち彼女の手に移った。それに富子の兄の日野大納言が凄いような切れ者で彼女の黒幕となった。
御後室の重子や伊勢貞親が今参り暗殺の陰謀を思い立ち、また加担したのは、その財政権を奪い返すためであったが、それはあれよあれよというまに富子と日野大納言の手中にはいり、重子と貞親は口アングリの態《てい》になった。重子のごときは落胆のあまり、あれからもまもなく影うすく病死してしまったほどである。
この移動を、義政は横目で見て、平然としていた。自分の欲するだけの費用をわたしてくれれば、あとはわれ関せずといった顔である。
こういう将軍だから、足利家の財政のみならず、ついで幕府の財政権も富子のほうへ移動してしまったのはやむを得ない、というより当然だ。
地子銭《じしんせん》、鍛銭《たんせん》の徴収、徳政令の可否、朝廷への献金、国家的行事の出費――それらのほとんどが、将軍より御台の手で決裁されることになった。
その政務を、富子は生き生きとやった。
彼女は本来の御台所の職務より、はるかにその本性に合った職務を見つけた。むしろ、その職務のために足利家にはいって来たように見えた。
むろん、策士で聞こえた兄の大納言の入れ智慧もあってのことにちがいないが、とにかくそういう高貴な身分の女性とは思われないほど利殖にたけている。
堺の商人と取引きする、金貸し商売の土倉へまた高利の金を貸す、そしてその貸し金をひきあげてから徳政令を出す、いわゆる京都に出入りする京|七口《ななくち》に関所を作って通行代を徴収する――等、巨利は洪水のように彼女の手もとにながれこんだ。
夫の義政が勝元に、東山山荘の建造費は妻から借りる、といったのも、あながち荒唐無稽な思いつきではない。
さらに、驚くべきことは、富子がただ目先の物欲のかたまりではなかったことだ。禁裡や公卿、寺、諸大名への贈物にも遺漏はなかった。しかも献上にも寄進にも、季節季節の花とか鮎とか松茸《まつたけ》とかをそえる心配りを見せた。
「ありゃ、将軍家よりも――」
と、だれもがささやいた。
ある公卿は日記中に嗟嘆《さたん》して書いた。
「当時の政道ことごとく御台の沙汰なり」
当時、とは、ただ今、という意味である。ただ財政だけではない。一般の政務もまた富子の手に移ってしまったのだ。
いわゆる南北朝のころ、この世の規範からはずれた者を婆娑羅《ばさら》と呼んだが、この日野富子はその伝統をついだ豪快なおんな婆娑羅といっていいかもしれない。
では富子が義政の妻としての本来の職分は捨ててしまったのか、というと、そうではなかった。――
彼女は堂々と、夫婦としての義務を果たすことを夫に要求した。
もっとも、最初からそうであったのではない。結婚後、相当期間、そのほうにおける二人の間は冷淡であった。今参りの局が生きている間はである。そして今参りの局が死んでからは――怪異が起った。
その事に及ぶか、及ばないかのときに、ふいに夫が動かなくなり、顔を横にむけて、じいっと閨のむこうのうす闇に眼をこらして、
「また来たか。……」
と、いう。
例の血まみれの腹に血まみれの胎児をかかえた今参りがそこに坐って、こちらをのぞいているというのだ。その眼、その表情は決してお芝居とは見えなかった。実際にそのものを見ている人間の眼であり、表情であった。そして、あとは眼を天井にむけたまま、しーんと横たわったままなのである。
そんなとき、彼自身|憮然《ぶぜん》としてつぶやいたことがある。
「わしに見えて、お前に見えないのがおかしい。貞親も勝元も見たことがないというが、わしだけに見えるのが理屈に合わんぞ。……」
とにかく今参りの局の死後、しばらくはこんな怪異がつづいた。
しかし、一年ほどたってからのある夜、ヒステリーを起した富子が、がばと起きなおり、
「今参りが何ですか! それほど今参りがお好きなら、私を今参りと思って下さい!」
と叫んで、はったと義政をにらみつけてから、その妖しき怨霊は二度と現われなくなった。
とはいえ、依然として夜の義政は受動的であった。弱々しいというのではない。物理的に刺戟すれば充分反応するのである。それどころか、命令さえするのである。
「乗れ」
とか、
「その足、右へ」
とか、
「舌を出せ」
とか。――
が、それ以外、これといった会話はしない。むこうも人間の女を相手にしているようでないが、こちらも人間の男を相手にしているような気がしない。肉体的には接触しても、人間的接触という感じがない。
おかしいことに、それでも女と交わる快感は人並みにあるらしく、彼はほかに十人近くの側妾を持った。これは当時将軍として常例のことであったから、富子も拒否はできなかった。今参りのときは、あまりにその惑溺《わくでき》ぶりが異常であったから黙認できなかったのである。
それとなく探りをいれてみると、その側妾たちにも義政の態度は同様であるらしい。のみならず、その二、三人に、
「十四にしてあれほど女好きになったわしが、これほど女ぎらいになるとは喃《のう》。……」
と、ぬけぬけと述懐したことがあり、あまりのことにその一人が、それならなぜ私を側妾になされたか、と詰問すると、
「側妾の役をなすときはよい。それ以外のときの女がきらいなのだ」
と、いったという。
こういう夫だから、たとえどんなに多くの側室を持ったとて、富子はもはや嫉妬を感じない。その側室たちは、夫より自分に慴伏《しようふく》している。
さて、富子はこの夫に対して、堂々と交合を要求した。
「おたねをいただきます」
と、おごそかに宣言してその事にとりかかるのを常とする。あまり奮発しない夫に対して、彼が物理的に奮発状態になるテクニックを、この高貴な女人は自発的に開発した。
彼女の目的は、ひたすら次代の足利将軍のたねを受精することにあった。しかもそれは絶対男の子でなければならない。それを作らなければ、いま自分がやっている大奮闘がすべて水泡に帰するのだ。
このことはむろん最初から富子の目的であったのだが、どういうものか実現しない。
思えば思えば、ただいちど生まれた男の子を死なせてしまったのが痛恨のきわみである。あれは今参りのわざのせいではなく、兄の日野勝光のはかりごとだとあとで知ったけれど、今参りが呪詛《じゆそ》していたことにまちがいはないのだから、あの女を憐れむ気は毛頭ない。
それ以来、右のごとく渾身の努力をして来たが、どうしても生まれない。
義政のほうも、精がうすいのか、あれだけたくさんの愛妾を持ってこれにも生まれない。――いや、三人ばかり孕んだことがあって、ちょっとひやりとしたことがあるけれど、生まれたのは女の子ばかりであった。
ところで富子は、まったく焦らないというと嘘になるが、ふしぎな自信を持っていた。
いつごろか、かつて太政大臣までやった大学者の一条|兼良《かねら》の「源氏物語」の特別講義をきいたことがあるが、そのとき兼良がしげしげと富子を見て、「天照大神《あまてらすおおみかみ》、神功《じんぐう》皇后、光明皇后、北条政子と……日本という国は、女人が治めたほうがよく治まる国かも知れない」などいったので、自分の能力や運命について、だんだん神がかりになって来たせいもある。
彼女は、いつか自分が将軍の子を生む、必ず男の子を生む、という信仰にちかい確信をいだいていた。
さて、その義政が、ある日、馬鹿にやさしい声で、東山に大山荘を作りたいが、お前のほうで工面《くめん》できるかな、と持ちかけたとき、
「あなたのあとつぎができましたらね」
と、彼女はかるくいなした。
花の御所をめぐって、運命のあとつぎ騒動が起ったのはその翌年のことである。
すなわち一四六四年の夏、ヒョーロク将軍は、足利家の後継者について、途方もない思いつきを持ち出した。
まず彼は、東山の浄土寺に弟の義尋を訪れた。義尋ははやくからこの寺の門跡《もんぜき》となっている三つ年下の異腹の弟だ。
そして、唐突に、お前に将軍を譲って、自分が出家してここに住みたい、と、いい出したのである。
彼はいう。
「わしはこの職がほとほとイヤになったのじゃ。いままで何とか辛抱して来たが、もはやがまんの限界に達した。人間一生ただいちど、それを好まぬことをしてつぶすのは馬鹿げておる。わしも二十九になった。これ以後の生は好きなことをして送ってゆくことに覚悟をきめた」
唐突に、といったが、実は彼がこんなことをいい出したのはこれがはじめてではない。十五、六年前、かつて彼が将軍になろうとしたとき、同様のことをいい出して、ひと騒動を起したことがある。
そうはいっても、義尋はあっけにとられた。
「兄上が、将軍よりもお好きなこと? それは何ですか」
「山荘を作ることじゃ」
「そんなこと、将軍をやっておられても」
「いや、それでは専心できない。それを作るのがわしの天職とさえ思っているほどのことだ」
「で、その山荘をどこに」
「このあたりに」
この浄土寺をとりこわし、そのあとにこの世のものならぬ一大浄土を作り出したい、と義政はいう。むろん規模は浄土寺とは比倫を絶する。
そういえばここ一、二年、兄がお庭者の善阿弥を連れてひそかにこのあたりを徘徊していると聞いたことがあるが、あれはこのためであったのか。ひょっとしたら兄は、この地一帯に執心して、自分を寺から追い出すためにこんな話を持ち出したのかも知れぬ、と義尋がふと考えたほどであったが、それにしてもひきかえるものが将軍職とは常識を超えている。
「だからお前が将軍になっても、このことだけはわしに叶えさせてくれ。それだけが将軍を譲る条件だ。よいか」
「でも……将軍を譲るといわれても、そんな場合は子に譲るのがふつうではありませんか」
「わしには男の子はない」
「しかし、兄上もまだそのお年、富子どのはさらにお若い。これからまだできるみこみは充分あります」
「いや、そのみこみはない」
義政はひどく確信的にいった。そして、
「万一できたら……それは、僧にする。それはかたく約束する」
「富子どのが……そんなことをゆるしますか」
「いや、きかせる」
と、義政はいい、妙な笑いを浮かべて、
「実は、いまいった山荘の夢、富子よりお前の方が叶えてくれそうだ、と考えて決断したのだ」
と、いった。
義尋の眼が、だんだんひかって来た。
実はこの義尋も兄と一脈通ずる気弱な一面を持つ男であったが、それにしてもたとえ異腹にしても将軍の弟と生まれながら、自分の意志とは無関係に幼年時から僧の運命にきめられたことに、以前からいやされぬ不満をいだいていた。
いままで兄の底なしの遊楽を指をくわえて見ていたが、それが突如自分に可能な世界として眼前に現われて来たのである。
以前からの兄の性向を知っている彼は、この天からふってきたような将軍移譲話を、決して狂気の沙汰とは思わなかった。
「それほど兄上が望まれるなら……」
と、義尋はいい、この話を承諾した。
――とはいえ、義政は内心、あらゆる将軍としての権力を弟に譲ろうとは考えていない。譲るのは名目だけで自分は一種の法皇的存在となり、公的な義務も道義的な束縛もない、自由無際限の大道楽をほしいままにするつもりでいる。
法皇の意味がちがうが、これはローマにヴァチカンが作られつつあったのと時代を同じうする。知らずして義政は一種のヴァチカンを夢みていたのだ。
二、三日の後の夜、義政は珍しくやさしく富子を閨に迎えいれ、交合を果たしたのちこの件を切り出した。自分の決断をのべ、義尋との約束を打ちあけた。
むろん、富子は驚愕した。
「そんな……とんでもないことを……御病気でも何でもないのに御自分から将軍をやめるなんて……しかも、出家している弟さまへなんて……聞いたこともありませんわ」
「先例なんかどうでもいい。弟はまちがいなく、わしが山荘を作るのに協力してくれるだろう。お前が金を出してくれないのが悪い」
「まさか、いくら何でも私にそんなお金はありません。また、かりにあったとしても、あなたのおっしゃるような大がかりな工事に、妻の私がお金を出すなんて、そんなことが世に通るものでしょうか。細川をはじめ管領四職みな反対するにきまっています。たとえ弟さまだって、同じことです」
「もう弟と約束したんだ」
「これから先、男の子が生まれたらどうするのです」
「それは仏門に入れる、という約束をした」
「そんな滅法界なことを……正気の沙汰じゃありません」
「正気の沙汰じゃないといっても……現実に男の子なんかいないじゃないか」
「生まれます。かならず生まれます!」
「いや、生まれない」
「なぜ?」
「あの世から、今参りが呪殺する……」
といってから、義政はふっと首を横にむけて、
「おう、今参り、そこに来たか。……」
陰々といった。
その横になった頬を、上からピシャリと富子はたたいた。
「痛い、何をする」
「馬鹿な狂言はもうおやめなさい!」
彼女は蒲団をはねのけ、義政の上に逆に馬乗りになった。
「もういちど、おたねをいただきます!」
そして、彼女が開発した操作ののち、また前むきに乗りなおして、
「きっと……きっと……きっと私は男の子を生んでみせる!」
黒髪ふりみだして交合した。……
それはそれとして義政は、勝元ら重臣に自分の発心《ほつしん》を打ちあけ、義尋の還俗と将軍移譲のための手つづきをとることを命じた。
勝元らはむろん驚倒した。
しかし、狂気の沙汰としか思えないその督促に、ついに彼らは押しきられた。
「かく決定《けつじよう》いたしましたる上は、必ず義尋さまに御違背のことはありますまいな。……」
と、最後に勝元が念をいれたのに対して、
「弓矢八幡、まちがいはない!」
と、義政は胸をたたいた。
こういうやりとりのせいもあって、勝元が義尋の後見役を背負わされたかたちとなり、寺を出た義尋をしばらく細川邸にあずかる、というなりゆきになった。
義尋は浄土寺を出て細川邸にはいった。十二月はじめのことである。
ここで名を義視《よしみ》とあらためた。
ただし、将軍移譲までには、所定の官位昇進その他朝廷関係のことで、いろいろ手つづきを要する。
しかるにそれから三カ月もたたない翌年の二月、義政は富子から、月のものがとまったことを告げられたのである。
その報告を聞いたとき、義政はあっけにとられ、
「嘘つけ!」
と、叫んだが、やがて月を経るうちに、富子の懐妊はいよいよあきらかになった。
悲願の念力ついに通じて、彼女はみごと受精したのだ。
あの今参りの局の惨劇を呼んだ出産から六年目の懐胎であった。
富子としては、ただ夫のあとつぎを作りたいという純粋な望みのほかに、もし将軍の座を夫の弟に譲られたりしたら、自分及び自分の一族のつかんだ権力が一切奪われてしまう。それどころか、いまや「押大臣《おしだいじん》」という悪名さえつけられている兄の勝光など、あと無事でいられるかどうか疑われるほどであったから、これは悲願どころかギリギリ必死の懐胎であったろう。
ともあれ、将軍移譲のことは、これで立往生のかたちとなった。
むろん、不安にかられた義視からは、子供のことは関係ない、とは最初からのお約束ではなかったか、すでに還俗した私としては、お約束を履行していただかねばもはや面目が立たぬ、早々に将軍職を譲られたし、と火のつくようにせきたてて来る。
一方で重臣連からは、ともあれ胎中のお子の御誕生を見るまでは、将軍御移譲などもってのほか、と、あらためてきびしい鎖をかけて来る。
これに対して義政は、
「ぶじに|やや《ヽヽ》が生まれるとはかぎらぬ」
とか、
「生まれても男子とはかぎらぬ」
とか、弁明とも抗弁ともつかぬ返答をするよりほかなかった。
狼狽してはいたが、しかしこの時点では彼は、義視との約束は守らなければならぬ、という気持のほうが強かった。
彼の山荘作りの可能性の問題もさることながら、もし男の子が生まれたら、まさかあかん坊を将軍にして三十歳の自分がやめるわけにはゆかず、結局その子が元服するまで将軍をやらなければならぬことになるだろう、と思われるし、それより何より、そのことによって富子のいばりかげんは決定的なものになり、あの欲にかけては猛禽《もうきん》のような日野大納言の跳梁《ちようりよう》はいよいよとどまるところを知らないものになるだろう、と考えると胸もわるくなるからだ。
富子が出産したのは、十一月二十三日のことであった。
男子であった。
そのあかん坊を抱いて、産褥から、
「……だから、いわないことではありませんか」
と、いった富子の眼には、勝利とあざけりの笑いがかがやいていた。
義政は茫然として、応答の言葉もなかった。
が、人の心は、いうまでもないことだが、まことに自分勝手なものである。それまで義政の心情は右のごとくであったのに、いざ現実に男の子の顔を見ると、それがふらふらと逆の心情にゆれうごいて来るのを彼は感じた。
その男の子は「義尚《よしひさ》」と名づけられたが、やはりこの子を坊主などにはできない、という気になったのである。
周囲の声もむろん同様だろう、と考えた。
しかるに、ここに、
「いや、義視さまをお立てしなければならぬ。少くとも義尚さま御成人までのつなぎとしても」
断乎としていい出したものがある。
なんと、細川勝元なのだ。
「将軍家は、義視さまにお約束なされた。のみならず管領たるそれがしにも同様のお約束をなされた。将軍家のお約束が守られなければ天下にしめしがつかぬ」
義政はまたあっけにとられた。
ついで、それに賛成する者が重臣たちの半分もあったのには、ケタケタと笑い出したほどであった。
彼らはみな、それまでの自分の約束を狂気の沙汰と悪口|雑言《ぞうごん》したやつらではないか。それがいまさら、その約束を守らねば天下のしめしがつかぬと?
いまになって勝元がこんな異論を唱えたのは、さきに義視をあずかるときに義政とかわした約束を破られては、まさに面目にかかわる、ということもあった。しばらくあずかっている間に生じた義視への親近感もあった。
が、それよりも勝元は、このまま義尚が将軍となっては、いまでさえ目にあまる富子と日野大納言の専権ぶりがどれほどのものになるか、と恐慌をきたしたのである。そして重臣たちの半分も彼と同じことを考えたのである。
それはつまり、義政の危惧と同じであったということだ。
いちど笑ってから、義政はうなずいた。
「いや、勝元の申すことはもっともだ。あの約束はやはり守らねばなるまい」
が、富子と日野大納言及び重臣の半分は、むろん義政にそんなことはさせない。
両派の抗争は、熱い氷のように、炎をあげながら氷結した。
この氷結を溶くのは、思うに義政しかないが、ここに至ってなんの決定も下さず、彼は花の御所に連歌師の宗祇《そうぎ》を招いたり、茶道の禅僧|珠光《しゆこう》を呼んだりして暮していた。
両派のどちらかが来て、決断を迫ると、
「とはいうが、どちらに裁定しても、半分はきかんじゃないか」
と、笑いながらいう。
「ま、そのうちどちらかに決まろうよ。……世の中はすべてなるようになって、なんとか結着するものさ」
その翌年の早春である。
細川勝元は、伊勢貞親から奇妙な招待を受けた。
管領どのは鯉料理がお好きで、あちこち異なる川の鯉を食べわけられると承っているが、このたびわが屋敷の池に、異なる川の鯉十匹を買いそろえた。その場で庖丁人に料理させるがそれを食べわけて見せてはいただけまいか。
ただその御妙技を、私も拝見したいが日野大納言もごらんになされたいと申されるゆえ、貴殿がおゆるし下さるならば大納言もお招き申しあげたい。さらに大納言はいまだ義視公の御|親炙《しんしや》を得ず、いちど親しく御謁見の折りを得たいと申されておる。この清遊を機に、得べくんば義視公の御光臨をたまい、隔意なき清談の一刻をおすごし下さるまいか。
そういう招待なのであった。
来たな!
勝元は全身の毛を逆《さか》立てた。
義尚側の巨頭二人と、義視側の巨頭二人。はじめての組合せの会合だ。イセイセどのはいまはケロリと富姫のとりまきの中心人物になっているし、義視に至っては当の本人である。
義視と打ち合わせたのち、勝元はこの招待を受けるむね返事した。
そして、指定の日に、伊勢家を訪れた。曇ってはいるが、もう春近いのを思わせるなまあたたかい日の昼前であった。
むろん数十人の郎党ひきつれての訪問だが、これらは邸内の然るべき場所に待たせ、二人は庭の一劃にある数寄屋に案内された。
迎えた伊勢貞親の笑み崩れんばかりの愛嬌ぶりはいつもながらだが、銅仮面のような鋭い顔の日野大納言も、きみわるいほどの笑顔であった。
まずはじめに茶の湯となって談笑する。当然、鯉の食味談となった。
この当時、京の上流階級では、魚のうち鯉が最高の御馳走であった。海に遠いせいもあるが、それより調味料として醤油がまだなく、味噌が主なものであったからで、味噌で味つけするとなると、海の魚より鯉のほうがうまい。
それにしても、鯉によって採《と》れた川をあてる、とは勝元の食通ぶりも相当なもので、義政に説教はするけれど、実は彼だってなかなかのぜいたくやだったのである。もっとも、彼自身は、自分のぜいたくは決して管領の規《のり》を超えてはいないと、信じている。
後年の史書にも残る勝元のこの名人芸が、やがて披露されはじめた。
すぐ庭前の池から釣り上げた鯉を、庖丁人が縁側に出した大俎《おおまないた》の上で洗いにする。それを一きれずつ食べて、勝元は、これは宇治川のもの、これは保津川のもの、これは淀のもの……などと、川の名をあげてゆく。
どういうしるしがしてあったのか、料理人はみな鯉の出所を知っていて、皿を出す前にその出所を書いた紙片をあとの三人にまわしてあったのだが、それがいちいち、みごとに的中するので、三人は感嘆の色を禁じえないようすであったが、そのうち勝元が、いちど洗いの一片を半分食べて、箸をとめた。やがて妙な顔をして、残りを皿にもどした。
「どうかなされたか」
と、貞親が聞く。
「これは琵琶湖の鯉であろう?」
と、勝元が料理人をかえりみた。
日野大納言が手の紙片を見た。それにはたしかにそう書いてあった。
「しかも、沖の小島附近でとれたものであろう?」
「さ、そこまでは、ちとどうも。しかし、それがどうしておわかりなのでございますか」
と、料理人が尋ねた。
「あのあたりの鯉は、妙に血なまぐさい。――げんに、この鯉も」
しばらく、しーんとした。
日野大納言と伊勢貞親は、その琵琶湖の沖の小島で何が起ったか、勝元が何をいおうとしているのかを、いまさとったのである。さあっと二人の顔が蒼ざめていった。
唇がねじくれたが、とっさに声は出ない。
「あはははは。せっかくではござるが、いくら鯉が好きでも、もうたんのういたした」
勝元は笑って、庖丁人にむかい、
「ちょっとその鯉を別にとっておいてくれ」
と、命じた。
「さて御酒をいただきますか」
料理は鯉ばかりでなく、四条流のものが用意されてある。
酒をくみかわしながら、会談がはじまった。むろん鯉の食い分けなどは余興で、それがきょうの目的だと、勝元らは承知して来たのだ。
貞親らの条件は、何といっても現実に足利家の御嫡男が御誕生あそばされたのだ。これをただちに仏門にいれるなどということは古今に例がない。されば、義視さまには改めて相国寺《しようこくじ》においりになって、政治界から身をひいていただけまいか、というものであった。相国寺は義満公が創建した五山第二位の大|禅刹《ぜんさつ》だ。
これをいい出したとき、貞親らの眼はただならぬ底びかりをはなっていた。
それに打たれたか、意外にも淡々と勝元らはうなずいた。
「もう、やむを得ないでしょう。ここらで事態を収拾せねば、こちらが天下のそしりを受けることにもなりましょうぞ」
と、勝元は義視に進言したのである。
ようやく和談成って、双方は快飲した。
そして、午後おそく義視と勝元が数寄屋を出たとき、二人の足はよろめきかげんでさえあった。
それでも忘れないものがあったと見えて、勝元がふと声をかけた。
「おう、例の琵琶湖の鯉、ちと妙なことをいったが、あれをもういちど賞味したい。いただいて参ろうか」
藁|づと《ヽヽ》にした鯉をぶら下げて千鳥足の勝元の背で、貞親がしずかに三度首を横にふった。――
実は、きょうこちらの出した条件に、まだ勝元らが難色を示したら、ぶじには帰さぬつもりだったのである。その条件以外に、もはや解決の法はない。もし不承知なら、両人を始末せよ、という富子の命令であった。あとは、義視、勝元に謀叛の意志|分明《ぶんみよう》したゆえ、大義親を滅す、非常手段だが討ち果した、と将軍に報告しておく。いままでの経過から、将軍もそれを容認されるであろう、と彼女はいったのである。兄の日野大納言も同意であった。
その招待を受けたとき、勝元が、
――来たな!
と、全身の毛を逆立てたのは、こういう事態を直感したからだ。
しかし彼は、貞親らの条件をのんだ。
その数寄屋を出たとき、植込みにひそむいくつかの影を見てとって、果せるかな、と彼はうなずいた。
貞親が首を横にふったのは、和談が成った、行動を起すのはやめよ、という刺客たちへの合図で、それは見なかったが、黒い影のむれが動かなかったわけも察している。
義視、勝元は無事に帰邸した。
ところが両人は、その翌日、急に室町第に参上して将軍に謁見を乞い、日野大納言と伊勢貞親が昨日の自分たちに毒を飼おうとしたむねを注進したのである。
毒を飼う、とは毒殺を計る、という意味である。
伊勢邸で饗《きよう》された鯉に異味あり、その一片を食した勝元は軽い腹痛をおぼえた。事にかこつけて持ち帰り、飼猫に食わせたところ、血へどを吐いて悶死した。と、両人はその鯉と猫の死骸を持参しての告発であった。
義政のそばにあった富子は、勝元をにらみつけた。怖れげもなく見返した勝元の眼には、かすかな笑いがあった。
勝元のいっていることはまるきり嘘だ。しかし彼はみんな知っている、と彼女は感じた。この男を殺せ、と自分が命じたことも知っているかも知れない。
勝元は、ふいにやって来た身の毛もよだつ危機をつかんで、逆に相手に一撃を加えたのである。いつのまにか彼は、したたかな、凄まじいまでの権謀家になっていた。
「ふうん」
と、意味不明の鼻息をたてて、義政は勝元と富子の顔を見ている。これも、いま聞いた毒殺未遂事件の張本人はだれかと推測しているようだ。この女なら、やりかねないと。――
そのとき小姓があわただしくはいって来て、細川屋敷に数千の軍兵が集まりつつあることを伝えた。……
――結局、将軍の弟君、管領の毒殺を計ったものの未遂、ただし容疑者の自白もないままに、日野大納言は蟄居《ちつきよ》、伊勢貞親は近江に流罪ということになったが、両人は弁明もしなかった。
貞親はその処分を受けたとき、「あの沖の小島が利《き》いたわ!」と、うめいたが、それは鯉の食べ当ての際、勝元の突然のあのせりふに呪縛され、文字通り毒気をぬかれたことへの悔いと、事実罪を犯していないのに、その気があったために弁明の意欲を封じられ、服罪した今参りの局とそっくり同じ立場に落されたことへの無念の声であった。
なお貞親の流罪先はその琵琶湖の沖の小島で、将軍義政自身がうす笑いしながらそれを指定したと、貞親は聞いた。――
ともあれ勝元は、少年管領時代から望みつづけていたことだが、容易に意のままにならなかったこのなめくじのような「君側の奸」を、やっとこさ何とか退治することができたのである。
同時にそれは、富子が強力な二人の策士を失ったことであった。
しかも、正面の敵細川勝元は、あきらかに自分に対して敵意をあらわにした。
早春の風なお寒く、さすがに不安な顔を宙にむけた富子の眼に、ひとつの入道頭がにゅっと浮かんで来た。
細川家に、見ようによっては何とも滑稽な珍事が発生したのはその夏のことだった。
勝元の妻阿子が子を生んだのである。
さても勝元は、右の将軍後継者の件とは別に、山名宗全との不和に心を奪われること久しかった。
あらゆる政治問題に、こっちがこういえばあっちがああいう対立がつづいていたのは前に述べたとおりだが、なかんずくこのごろ険悪の度を濃くしていたのは畠山家の内争をめぐってであった。
畠山家は、細川家と並ぶ三管領の一つたる大族だが、これがまた御同様にお家騒動をひき起した。実子がないので甥を後継者にしたら、あとで実子が生まれて両派分裂という事態になったのだが、これまた例によって外部からの介入がはじまって骨がらみになってしまったのである。
勝元は甥派に味方し、宗全は実子派に肩入れした。
その名分、理由はいろいろあるが、宗全の場合は、その実子のほうの妻が自分の娘であったということがあり、同じ理由が勝元を甥派にしたといえるかも知れない。
つまり、勝元の妻と、畠山の実子の妻は姉妹だったのである。
ふつうなら親密な縁になるべきところ、勝元の場合は逆に不仲の原因になった。勝元は妻の阿古と断絶して久しかった。
夫勝元と父宗全の対立がいよいよ深刻化してゆく中に、阿古は断じて細川家を去ろうとはしない。養子とした弟の豊久をむんずとつかんで、臼《うす》のごとく坐っている。勝元にはそれが呪詛のかたまりみたいに見えた。
しかるに、その呪詛のかたまりに孕ませてしまったのだから、滑稽な珍事|出来《しゆつたい》、といわなければならない。
何か宗全にひどく立腹することがあって悪酔いし、たったいちど虐待的交合をしたら、結婚以来十数年ぶりにマカフシギにも懐妊したのだ。
阿古はその夏に出産した。
男の子であった。名は政元《まさもと》と名づけられた。
――これが、一生|不犯《ふぽん》、山伏姿を常のよそおいとし、時の十代将軍足利|義稙《よしたね》を放逐してしまう妖管領細川政元になるのだが、これは後の話。
さて、勝元は三十七歳にして、不和の妻からはじめて男子を得たわけだが、彼はどうしたか。
なんと彼は、これを細川家のあとつぎとし、それまであとつぎとしていた宗全の子豊久を坊主にして、寺に放りこんでしまったのだ。その秋のことである。
妻はともあれ、やはり実子は可愛かったのであろう。
このとき、義政が首をひねりまわして勝元にいった。
「どうもお前のやることはわからんな」
「何がでござります」
「山名の子を坊主にしてしまったことよ。いつかわしは、お前が山名の子を養子にしたとき、たとえ実子が生まれてもそれは僧にすると約束した、とか聞いたことがあるぞ」
「ほ? よくさようなことをお憶えでござりますな」
「いや、わしのほうにも似たようなことが起ったから思い出したのよ。お前はわしに、義視を将軍にすると約束した以上、子が生まれてもその約束を守らねば天下にしめしがつかぬ、といった。しかるにいま、お前は、わしにしてはならぬといったことを、けろりとやってのけたのはこりゃどうじゃ」
勝元は、自分の矛盾にはじめて気がついたような顔をしたが、すぐに苦笑して、
「あいや、捨ておかねば将来、細川家も他家同様の悶着をひき起すたねとなると判断しましたので、いまのうちに処置しました」
と、答えた。
それもあるが、細川家の後継者に宗全の子をあてるなどもってのほかだ、というかねてからの嫌悪が、この決断をあえてさせたのであった。
宗全が激怒したことはいうまでもない。
新しく細川家のあとつぎとなった政元だって自分の孫にあたるわけだが、それとは別にかかる仕打ちを受けてわが面目はいずこにありや、と、赤入道が頭から煮え湯をあびたように、躍りあがった。
彼は豊久をすぐに寺からひき出し、山名家にもどし、還俗させた。
すでに彼のもとには、この春に受けとった御台所富子からの秘状がある。
「……われ三十の春に逢うて、優曇華《うどんげ》の花待ち得たる心地して、とてももうけたる若君を剃髪染衣《ていはつせんい》にやつしまいらせんこと、本意《ほい》なくこそ候《そうら》え。
若君のことは、山名どのに参らせて候。彼の御生涯を計らせて給わるべし。
このこと人にもらしたまうな」
この手紙を受けとったとき、宗全は大きくうなずき「御台《みだい》のいうことはもっともだ。実のおん子をあとつぎにせぬとは、勝元気でも狂ったか!」と叫んだが、その勝元が実の子をあとつぎにしたことに大憤怒したのだから、宗全の論理も錯乱している。
そのころ畠山両派は、京都周辺で兵をもって小ぜり合いをつづけていた。
これに託して宗全は、山陰一円の領国から大軍を呼びはじめた。
同時に細川も、山陽四国一円の領国から大軍を呼びはじめた。
そして、それ以外にも諸大名を自分の陣営にひきいれるべく、双方虚々実々のかけひきに狂奔している、と伝えられた。
京の冬雲はみだれたち、暗澹の色をおびて来た。
ついに京にはいって来ていた畠山両派が、万里小路《までのこうじ》の畠山邸の奪い合いをはじめ、鴨川ちかくの上御霊《かみごりよう》の森に飛び火して戦闘を交《かわ》したのは翌年の、一四六七年一月十八日のことである。
このときは小戦闘ですんだが、五月二十日に至って細川と山名の両軍は鳴動をはじめ、二十六日未明からついに本格的な大衝突を開始するに至る。花の御所と堀川西の山名邸の間が、最初の戦場になった。
そのいくさの雄《お》たけびがいよいよたかまったひるごろ――ひるまから、花の御所で、将軍義政は盃をかたむけていた。さすがに御台の富子の顔色は真っ青になっている。侍女たちもその座に居たえぬような動揺ぶりを見せていたが、義政は平然としていた。
そこへ、鎧《よろい》姿の勝元がかけこんで来て、ここは危険だから、ただちに細川邸へ御動座あるべし、お迎えの兵ども、すでに御所の四足門外で待ち受けてござる、と督促した。
彼は、自軍の「旗」とするために将軍の身柄を拘束に来たのだ。これを失ったほうが叛乱軍となる。
「いや、わしはここで見ていよう」
義政は盃をはなさずにいった。
「何を悠長なことを仰せある。ここに山名の者どもが推参せばいかが相成りまするか」
「いや、山名なら、富子がここにおるから大丈夫だ」
うす笑いしていう。すでに富子が山名に援護を求めていることを知っているらしい。
「このいくさに、わしは関係ないよ」
このヒョーロクが! と心中罵り、勝元は怒りと焦りに血ばしった眼でにらみつけて、
「上様、大乱が始まったというのに、天下の将軍がさようなききわけのない、御幼稚なことを申されて……き、気でもお狂いなされたか!」
「勝元」
義政は悠然として、
「幼稚というが、お前らのやっていることのほうが子供じみているよ」
と、いった。
「ひとを狂ったかというが、わしはお前よりマトモだ。いやお前ばかりではない。宗全も富子も、いやいやいまの天下のやつばら、みな狂っておる。正気なのはわしだけじゃ」
それは、火炎の中の氷人の姿とも見えた。こんな場合に一種の恐怖に襲われて、勝元は口わななかせ、あえぎだけ残してそのまま駈け去った。
しばらくして、ごくり、と|のど《ヽヽ》をうごかせ、富子がいった。
「兵をつれて、つかまえに来るかも知れませぬ」
「そうだな。それはイヤだな」
義政はやっと盃をすて、
「わしは、かくれん坊をするとしよう」
と、立ちあがった。
「上様、どこへ?」
「もっと合戦ごっこがよく見えるところへいって見物しようと思う」
と、いいすてて縁側のほうへ消えてゆく将軍を、富子も侍女たちも、金縛りになったように茫然と見送っているばかりであった。
――義政は、千鳥足で、あやめ池の八橋《やつはし》を渡っていった。西のほうの叫喚はいよいよ凄まじく、家々に火でもつけたか黒煙があがり、その煙が渦まきながら、こちらへながれて来る。
あやめ池には、白、紫、紅のアヤメがそよいでいた。花の御所は大改造したが、どういうわけか忘れられたようにこの一劃はまだ手つかずだ。
義政は橋を渡りおえ、そこの緑にけぶる林の中の空地を塀のほうへ歩いていって、ふとゆくての塀に梯子《はしご》がかかっているのを見た。彼はふりかえった。草の中に蹴鞠の鞠がひとつころがっていた。
彼は思わず立ちどまった。
はて、これは?
少年時代のことなど思い出したこともない義政だが、この風景はいつか見たことがあるようだ、という感覚が、ふっと遠い遠い昔のある日を頭によみがえらせた。
まさか、時間がここだけ停止していたのではあるまい。あの日の鞠や梯子ではあるまい。だれがここに忘れたのか、げんに鹿皮の鞠はふやけ、うす黒くよごれているが。――
そうだ、あの日、自分は幼い富子や義尋とケマリをして遊んでいた。美しいお今もいたし、颯爽たる少年勝元もいた。……あれはいったい何だったろう?
あの風景の中に喜戯していた人々は、いま幽明を問わず惨憺たる怨敵同士の修羅の中にいる。
どうしてこんなことになってしまったのか。なぜわれわれはこんなに変り果てたのか。いや、人間はどうしてこんなに変るのか?
はじめて義政は、心臓のあたりに痛みのようなものが走るのをおぼえた。
煙は西方からいよいよ濃く、蒼空に黒い天の川のように流れてゆく。叫喚は何十万匹かの獣の咆哮のようであった。
「しかし、わしは作るが、きゃつらは焼き払う。……ヒョーロクどもが!」
義政はそのほうへ大軽蔑の息を吹いてから、
「わしだけは変らないぞ。わしだけが正気だ! それがわからんか。……」
と、つぶやいた。
――このとし、応仁《おうにん》元年。
初出誌
室町の大予言  小説新潮一九八九年三月号
室町少年倶楽部 オール読物一九八九年一月号増刊
単行本 一九九五年八月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十年八月十日刊