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姦の忍法帖
[#地から2字上げ]山田風太郎
目  次
|姦《かん》の|忍法帖《にんぽうちょう》
|胎《たい》の|忍法帖《にんぽうちょう》
|笊《ざる》の|忍法帖《にんぽうちょう》
|転《てん》の|忍法帖《にんぽうちょう》
|牢《ろう》の|忍法帖《にんぽうちょう》
|〆《しめ》の|忍法帖《にんぽうちょう》
|姦《かん》の|忍法帖《にんぽうちょう》
「|瓢箪《ひょうたん》から駒」という言葉がある。意外また意外という意味だが、小事から大事を生むという語感をも含んでいる。これは「駒から瓢箪」の物語だ。つまり、天下国家から、小さな悲喜劇を呼んだという。――
「臣主の利は相ともに異るものなり。主の利は能ありて官に任ずるにあり、臣の利は能なくして事を得るにあり、主の利は労ありて爵禄するにあり、臣の利は功なくして富貴なるにあり、主の利は豪傑の能を使うにあり、臣の利は朋党の利を用うるにあり。……」
|白《はく》|皙《せき》で、小柄ながらでっぷり肥って、いかにも才人らしい総髪の男はこう読んだ。
「つまり主君は、有能で功労がある豪傑を|抜《ばっ》|擢《てき》し、厚く賞するのが狙いでござるが、臣下にとっては能も功もなく、仲間とくんで私利をはかるのが倖せなのでござる。主君は国家と申してようござろう。臣下は官僚と申してもようござろう。まことに能力と努力だけを買われるなら、役人はたちまち悲鳴をあげて主をそしるようになります。世に明君の評あるときは、必ずや官僚は無能にして爵禄され、私利をたくらんでおるものと見てよろしい。――」
じろりと将軍の傍に坐っている老中松平伊豆守を見た。
講義しているのは、由比張孔堂正雪である。テキストは「|韓《かん》|非《ぴ》|子《し》」である。
「あたかも浮気しておる亭主にかぎって、女房をほめたたえるようなものでござる」
こんなはずではなかった。――牛込榎坂に住む|巷《ちまた》の軍学者ながら、大名旗本をもふくめて門弟三千と称する人物だから、その噂をきいて将軍が招いた。「軍学者」という以上は孫子か呉子の講義でもするのかと思っていたら、あにはからんや「韓非子」を持ち込んで来て、真っ向上段から君主論、ひいては政治論をやりはじめた。
しかし、才気縦横、警抜痛絶な皮肉をさしはさんで、なかなか傾聴させる。「さすがは。――」と、そこに陪席していた十人の大名もうなずき、改めて張孔堂に入門の意欲を起したほどであった。
「かくのごとく、主君国家と臣下官僚の利害は一致いたしませぬ。あってはならぬことで、かついかにも一致するように思わせるのが役人の手管でござるが、いつの世でも実相は一致せぬのが常態でござる。あたかも|矛《ほこ》と|盾《たて》のごとし」
といって、眼をあげて、
「恐れながら上様には、矛盾の故事を御存じでござりましょうや」
「矛盾、という言葉は知っておるが。――」
将軍はあいまいな声を出した。彼だけは少々たいくつもしていた。
「いや、好都合にも、その故事は韓非子にあるのでござります。では、ついでに一つ」
と、書見台の韓非子をめくって、また読み出した。
「楚人、盾と矛を売る者あり。これを褒めて曰く『わが盾の堅きこと、よく通すものなし』と。またその矛を褒めて曰く『わが矛の鋭きこと、物に於て通さざるなし』と。或る人曰く、『|子《し》の矛を以て、子の盾を通さば|如何《いかが》』と。その人、応ずる能わず。それ通すべからざる盾と、通らざるなきの矛とは、分を同じくして立つべからず。……」
「天下一の|兜《かぶと》と、天下一の剣との関係じゃな。……」
「左様でござる。よくお分りになります。君と臣とは、あたかもこの矛と盾同様にして、……」
「出羽」
と、ふいに将軍はかえりみた。
多少注意力散漫症の気味もある人だが。――
「思い出したが、その方の家に|羅馬《ローマ》の兜なるものあり、おそらく天下一であろうと申したことがあったな」
「されば。――」
と、天童藩天童出羽守は|一《いち》|揖《ゆう》して、すぐに昂然と頭をあげ、
「いまは日本風の兜には作り直しましたなれど、元来はかの|支《はせ》|倉《くら》六右衛門常長が羅馬より持ち帰りましたる南蛮兜、これまでいくたびか刀を以て|試《ため》し斬りをいたしましたるところ、刀はすべて折れ、兜にはかすかにその痕が残るのみでござりまする」
「熊野」
と、将軍はまた呼んだ。
「そういえば、その方の家にも|破《は》|倭《わ》の剣なるものあり、これまた天下無双であろうと申したことがあったな」
「されば。――」
と、熊野藩那智熊野守もお辞儀して、すぐ誇らかな顔をあげ、
「これは例の高麗陣の折、日本の水軍をさんざん悩まし、朝鮮の守護神ともいわれた李舜臣の帯びたる刀と申し伝え、いつぞや二つ胴を試しましたるところ、二つ胴はおろか、台となしたる樫の厚板をも紙のごとく斬り離したる身ぶるいするほどの名刀でござりまする」
「ほほう。……羅馬の兜に破倭の剣。……」
韓非子とともにどこかへ放り出されていた正雪が口を出した。
「是非それを拝見いたしとうござるな」
「わしも見たい。江戸にあるか」
と、将軍がいった。
「は。――」
「近う、それを持って登城せい」
「は。――」
「ただ見るだけでは面白うない。ついでに、その破倭の剣を以て羅馬の兜を斬って見せい」
天童出羽守と那智熊野守は顔見合わせた。
「剣と兜の、いずれが二つになるか。……矛と盾じゃ」
「恐れながら」
と、いままで黙々としていた松平伊豆守がしずかに将軍の方に向き直った。
「そのような儀、思いとどまられませ。いずれに傷がついても悪しゅうござりますれば。――」
「傷がついて悪いような剣や兜が何になる? そもそも斬るために剣はあり、護るために兜はあるのではないか。世の常の宝とは意味が違う。そちらしゅうもない愚かなことは申すな、伊豆」
「そこがすなわち、君臣矛盾論。……」
と、正雪がまた得たりや、とさし出口するのにとり合わず、
「ついでだからきく。その他の諸家にも何ぞ自慢の武具があるか。兵法|乃《ない》|至《し》兵法者でもよいぞ。いずれ武勇を以て聞えた家柄、何もないとはいわせぬぞ」
将軍は突然頭に浮かんで来たアイデアにみずから膝を打って、眼をかがやかしてそこに居流れた十人の陪席大名を見まわした。
かくて、兜をあげた天童出羽守と、剣を持ち出した那智熊野守以外に。――
五条藩主、五条大和守がやはり刀。
筑摩藩主、筑摩信濃守が鎧。
やはり信濃の|更《さら》|科《しな》藩主、更科諏訪守が弓。
|信《しの》|夫《ぶ》藩主、信夫|岩《いわ》|代《しろ》守が槍。
ここらあたりまではまあオーソドックスであったが、次のものはやや異風であった。しかし、それぞれの大名は沈思の結果、きっと首をたてて披露したのである。すなわち。――
天草藩主、島原天草守が盾。
出雲崎藩主、出雲崎越後守が鎖縄。
|信《しが》|楽《らき》藩主、信楽近江守が十手。
終りの方の二つになると、ほかの大名とちがって、家宝というより武術にちかい匂いがあるが、最後の一人に至っては、これはもう完全な人的資源といえた。
剣山藩主、剣山阿波守が力士。
つまり彼は腕力乃至筋肉を出品したのである。
「ふむ。そうきけばいよいよ以て見とうなる。いずれも、見せい」
といって、将軍はちょっと考えこんだ。
あまり回転のよくない将軍の脳髄にそのときゆらめいていた内容を、正雪は敏速明皙[#底本では「セ」は皙の白を日にしたもの。DFパブリW5D外字=#F9BE]に把握した。
「組合せでござりまするか。……まず攻撃と防禦に分けまする。攻撃は剣と槍と弓、防禦は兜と鎧と盾。――縄、十手、そして力士と相成りますとこれは攻撃用か防禦用かいささか判然とせぬところもござりまするが、こだわらずに以上を大別いたしますれば、剣対兜、槍対鎧、弓対盾、もう一つ剣対十手、そして鎖縄対力士、などという組合せはいかがでござりましょう」
「よかろう」
と、将軍はいった。大名たちの返答はまたず、もはや事は決したという顔つきである。
ところが、――さて、それらの武具の所在をききただしてみると、最初の天童藩の剣と熊野藩の兜はたしかに江戸藩邸に置いてあり、出雲崎藩の鎖縄とその術者、剣山藩の力士も江戸にあったが、あとはことごとくそれぞれの国元にあるというのだ。
それは早飛脚を出していそぎ取寄せることにして、自分の発想に昂奮してせっかちとなった将軍は、数日のうちにとりあえず、すぐに間に合う四藩の誇るべき武具乃至人を御前に披露することを命じた。
「これは拙者、日常指南いたしまする大名旗本衆への教授上の参考とも相成りまする。なにとぞ拙者にも陪観の栄を賜りたく。――」
と、由比正雪はひざを乗り出した。
苦い顔をしていた伊豆守が、きっとなって将軍に声をかけようとしたが、すでに将軍は、
「よかろう」
と、意にも介さぬ風でいった。
かくて瓢箪から駒がまず出た。江戸城に於ける巷の軍学者由比張孔堂正雪の「韓非子」講義から、まず剣と兜、鎖と筋肉という二つの御前試合がくりひろげられることになったのである。
……真っ白な肉が二つに分かれて、その合わせ目から毛がはみ出している。そこに指をさし入れた。
肉はぴったりとはさんだ。微妙に吸いつきしずかにもみこむようにうごめく。擦りつづける。やがて、白い肉がしずかに桃色に染まり、ぬめぬめと濡れてひかって来た。
「まだ……動きが足りぬ」
指をさし入れたまま男はいった。眼をとじて、じっとその感触を味わっているようだ。
「まだ……まだ……まだ未熟だ。そうだ、廻すように、それも|螺《ら》|旋《せん》のように。……」
さらに数分たった。それでなくとも梅雨どきの湿潤な空気が、さらにねっとりと濃厚になったようであった。
「よし!」
といって、男は女のわきの下にはさんでいた指をぬいた。
女は片肌ぬぎになって、むき出しになった乳房の一つを反対の手で押えていたが、二の腕とわきの下の筋肉をわずかに動かすというだけの労力なのに、こちらの方が息はずませて、乳房を押えた手が大きく起伏していた。
「ふう……」
と、しかし男も、ちょっと|吐《と》|息《いき》をついた。
「一番はそれくらいでまあよかろう。……二番、見てやろう」
と、からだのむきを変え、手枕でそこにごそりと寝そべった。
別の女がにじり寄った。唇をすぼめて、ふっと吹く。すると、|粟《あわ》粒ほどの泡が、いく粒か吐き出されて、|空《くう》をただよい、徐々に落ちていった。それをふりかえりもせず、女は寝ている男の耳に口を寄せた。まるで何かささやいているようだ。
事実、女の口からは微かな声がもれている。声というより糸のように細い旋律だ。女は舌の先をとがらせて、男の耳へさし入れながら、その舌にのせて小さな唾液の気泡と、そしてそばに寄らなければ聞えないほどの音波だが、なまめかしいあえぎを送りこんでいるのであった。
「まだ……舌のまるめかたが足りぬ」
眼をとじたまま男はいった。
「いま少しまるめると、声にもまるみが出るのではないか?」
数分たった。
「よし。……春の琴を張れ」
すると女は、男から口を離した。それっきり、やや紅潮した顔ながら、坐ってじっと男を見まもっている。
男は、まだ眼をつむっていた。女は離れたのに、何やら耳をすませて聞いている風である。味わっている顔つきでもある。やおら、襟にさした|楊《よう》|子《じ》をぬいて、その耳をほじった。
「二番、まあよかろう」
といって起き直った。
この座敷にいるのは彼と二人の女だけではない。もう二人、やはり美しい女が坐っていて、いまの|妖《あや》しい儀式を見学していた。男の呼称を以てすれば三番、四番とでもいうべき女であろうか。
あきらかに三番目の女は、三番……と呼ばれるのを待つかのように、ちょっとひざをにじらせた。いつもなら、その順番なのだ。が男はなお楊子で耳をほじりながら、破れ障子の間から外にけぶる銀色の霧雨を眺めている。
「何かあったのですか、兵四郎さま」
と、四番の女がいった。
「いつものあなたとはちがいます」
男はうなずいて、楊子を灰吹きに捨ててこちらに顔をむけた。蒼白い、凄いようないい男だが、きれながの眼に皮肉のひかりがあり、妙に肉欲的な口辺に童子っぽい笑いがある。
「ちと面白い話をきいたのよ」
といった。
「奇妙な御前試合の話をな。……出雲崎藩の曾宮|来《らい》|助《すけ》という男から」
そして彼は、ちかく将軍の御前で、剣と兜、鎖縄と力士の試合が行われることを話し出した。
ここは駿河台甲賀町の甲賀組の組屋敷。男の名を甲賀兵四郎という。組頭すなわち甲賀組の首領の伜である。二十八歳。
彼はここで何をしていたのか。――
彼は快楽をかねた訓練をしていたのである。
兵四郎はもともと相伝の家業には相当熱心な男で、いま公儀隠密組のうちで主流を伊賀組に占められ、甲賀組は傍系となっているのに大不平をもち、公然公儀を批判してはばからぬほどであったが、二年ほど前から突然ぐれはじめた。
むろん、正体はかくしているが|市《し》|井《せい》で肩で風を切って歩いている旗本などをつかまえて、からかって、手ひどい恥をかかせる。|廓《くるわ》へいって遊女に――千軍万馬の遊女があとで首でも吊りたくなるようないたずらをやってのける。その詳細をここに物語る余裕はないが、とにかくそれがいちどばれかかって、老父から手討ちを受けんばかりの叱責を受けて、以来さすがに鬱を外部ではらすことはやめた。
その代り、甲賀組内部で、甲賀組の女相手に、自称「忍法修行」に|耽《ふけ》るようになった。
門外漢から見たら、ただ盛大に淫行をほしいままにしているとしか思われない。自暴自棄の女狂いとさえ見えるところもある。もともと軟派の傾向もあり、美男でもあるので、女たちも嬉々としてそれに応ずるありさまを見て、甲賀者の中で苦々しげに老父にこれを忠告した者があった。一年前から中風の気味のある父が、ろれつのまわらない口で叱ると、兵四郎は平然として答えた。
「くノ一の修行でござる」
くノ一とは女という字を分解したもので、女そのものの隠語でもあるが、また忍者の世界では女を利用する忍法をも意味している。スパイ行為に女人の有用なことは論をまたず、甲賀流でもこれは重要項目の一つなので、老父も押してそれ以上禁じることができなかった。
事実、兵四郎は、女人を対象に数々の忍法を新開発している。では、色気ぬきの修行かというと、ほんとうのところはそれを愉しみぬいている。両用相かねているのだ。
天才とは知能でも体力でも努力でもなく、快楽を以て仕事をする人のことではないかと思われるふしがあるが、この見地から見れば、甲賀兵四郎はまあ天才の一人といってよかったかも知れない。
彼は甲賀組の女の中から、これはという女だけを選び出して訓育し、平生「一番」「二番」などと呼んでいたが、いま、さらにその中から四番までを呼んで、彼の開発した忍法のトレーニングをはじめた。その雰囲気がふだんと微妙なちがいがあるのをくノ一に指摘されて、
「少々、分のいい内職をする気はないか?」
と、いい出したのだ。
もともと忍び組は薄禄であり、このところ泰平がつづいて遠国御用を命じられることもなく、とくに主流派ならざる甲賀組はいたずらにひまで、貧乏で、組屋敷の女たちは日夜内職に精出している者が多かった。
「その変な御前試合が、何か内職のたねになるのですか」
「なる。なるように話をつけた」
そして兵四郎は、以前ちょっと出入りして見た牛込榎坂の由比道場で知り合い、以後鎖縄という技術でちょいちょいつき合っている出雲崎藩の曾宮来助という男との間にかわしたとりひきの件についてのべた。
曾宮来助は主君の越後守から、近日剣山藩の力士――正確には力士あがりの|切《きり》|々《きり》|頑《がん》|鉄《てつ》という武士と将軍家の前で試合をすることを命ぜられた。この場合、いわゆる矛と盾の優劣を|験《ため》す目的から、ふつうの決闘ではなく、来助がかけた鎖縄を切々頑鉄が断ち切るかどうかを見るだけであると知らされて、はじめ彼は一笑した。細いながらも特別製の鎖縄、しかも秘伝の技術によってかけられたものを常人がひきちぎれるわけはないからだ。
が、何しろ将軍の御前である。万一、何かのはずみでまちがいがあったら、切腹したくらいでは追いつかない。で、念のため剣山藩の江戸屋敷にいるという切々頑鉄なる男を偵察してみると、いやこれが大変な奴で、背は七尺五寸、腕のふとさでも普通人のふとももくらいあり、しかも全身の筋肉は鋼鉄のごとく、こぶしで一撃すれば重ねた瓦十枚くらいを粉砕するのは茶飯事だという怪物であることを知って、彼は急に自信に動揺をおぼえた。
「で、一両で契約した」
と、兵四郎はいった。
「その切々頑鉄が負けたら、曾宮来助から一両もらうことになっておる」
「どうして? あなたが?」
「頑鉄が負けるように甲賀流を使うのだ。頑鉄がその鎖切れなんだら、それが甲賀流のせいかどうかはあいまいだが、ほかならぬ御前試合、勝ったらその祝儀としてもこちらに一両進呈してくれるということになった。一両なら、米二石が買える。悪いとりひきではない――と思って、ついでに――もう一つ、剣と兜の試合のほうにも口をかけてみた」
鼻うごめかしていう。
「これは天童藩の兜を、熊野藩の刀で切ることになっておる。曾宮来助の場合とちがって友情ぬきで、どっちが勝っても負けても無関係だが、曾宮の紹介で天童藩に話をしてもらった。つまり熊野藩の刀で兜が切れなんだら、天童藩からも一両もらえることになっておる」
「わかりません。甲賀流を使うとおっしゃいましたが。――」
「甲賀流くノ一忍法を使う」
「――は?」
「つまり、鎖対力士の試合の場合、その前に剣山藩の力士を、女の力でふらふらにさせておくのだ。剣対兜の試合の場合も、同様に兜を切る熊野藩の斬り手を、これまた女の力でへとへとにしておくのだ」
いたずらっぽい、笑った眼で兵四郎はいま妙な訓練をした二人の女を眺めた。
「一番、二番」
「はい。――」
「秘術を使え。なに、いま復習をした春の琴やももすり[#「ももすり」に傍点]などのわざを使うにも及ぶまい。要するに二人の男の精気を、おまえたちがぬきとっておけばよいのだ。いま試して見たのは、おまえたちの方の精気を測って見たに過ぎん」
「で、でも。――」
「甲賀組のために米四石をかせげ」
兵四郎は厳しい、というより無表情といってもいい顔でいった。
「そればかりではなく、甲賀くノ一にとって願ってもない演習ではないか。兵四郎がただ、好きでおまえたち相手に夜も昼もたわむれていたと思うか。……剣山藩の力士、熊野藩の剣士をさそい出す手順はわたしにまかせておけ。やれ」
梅雨ばれの江戸城吹上の庭。
雨のあとのせいか、森も林も、なおそこから緑の雨をふらしているように鮮やかだ。
その中のあずまやに、将軍は腰打ちかけていた。従っているのは、刀持ちの小姓は別として、松平伊豆守とそして例の十人の大名だけ。――いや、もう一人、由比張孔堂正雪。
人数をこれだけに制限したのは、この試合にもともと首をかしげている伊豆守が、無責任な噂が内外にひろがらぬよう、面を犯して将軍に忠告したからである。
が――天童出羽守と那智熊野守、出雲崎越後守と剣山阿波守、四人の顔色はさすがに緊張のため蒼白であった。
あずまやの外には四人の男が坐っていた。四人の大名の家来である。
「よし。……始めい」
と、由比正雪が声をかけて、手にしていた小さな|銅《ど》|鑼《ら》を|桴《ばち》で叩いた。自分がこのゲームの進行係のような顔をしている。
まず第一回戦。
四人の侍のうち、一人目が進み出た。白木の台に白絹をかぶせ、その上に兜をのせている。天童出羽守の家来と羅馬の兜であった。
兜は先刻一同観賞した。日本風に直したというだけあって、|鍬《くわ》|形《がた》やしころをとりつけてあるが、それよりも兜の鉢そのものに一同は眼を吸われた。ただ尖った|胡桃《くるみ》のようなかたちをした鋼鉄の鉢だが、見るからに重厚な迫力は、素材と製法の優秀さからにじみ出てくるもので、なるほどこれでは弾丸もはね返され、鉄の斧で打っても斧のほうが刃こぼれするのではないかと思われた。
これを、うやうやしく台ごと草の上に置く。
つづいて二人目の侍が進み出た。鉢巻で眼をつりあげ、|襷《たすき》十文字にあやなして、|袴《はかま》のももだちをとりあげている。その筋骨のたくましさは熊野藩で在府の侍中一番の抜刀術の使い手であるという披露もさこそとうなずけた。しかし人々は田宮|掃《かも》|部《んの》|助《すけ》というその武士の名より、やはり先刻回覧されたその刀に眼をそそいでいた。
破倭の剣。柄の先に環がつけてあり、|鞘《さや》に玉がちりばめてある。その剣装も大陸風だが刀の切れ味そのものも、先刻あずまやのそばにあった大木の切り株をためしに切らせて見たところ、田宮掃部助の腰からほとばしった電光一閃、さしわたし一尺五寸はある切り株が大根のごとく輪切りになったのである。
田宮掃部助は将軍に改めて一礼してから兜に向き直り、左足をうしろにずらし、すうとからだを低くした。手をかるく、刀の柄にあてた。紀州藩の名剣士田宮平兵衛重正が編み出したといわれるいわゆる田宮流抜刀術の構え、名も田宮というところを見るとその一族でもあろうか。
「――えやあっ」
日光に亀裂が入ったような閃光がほとばしった。
閃光はまさに亀裂となった。凄じいひびきとともに、破倭の剣は二つに折れたのである。台上の羅馬の兜は頑然として、もとのかたちのままであった。
どよめきの中に、田宮掃部助と那智熊野守は喪神したようによろめいた。
「出羽」
と、将軍がかえりみた。
「まことに天下一の兜であるな」
「はっ」
血色をとりもどした天童出羽守は、一同を見まわして鼻をうごめかせた。
「次。――用意」
と、正雪がさけんで、また銅鑼を叩いた。
第二回戦。
残っていた二人の侍が進み出た。一人はまさに雲つくような巨漢である。日の下開山初代横綱明石志賀之助が出たのがこの寛永年間といわれる。この時代、興行としての勧進相撲が行われたかどうかということは疑問だが、信長や秀吉も専門の力士を|扶《ふ》|持《ち》していたといわれるから、大名中にもこのひそみにならっている者があったのは事実だ。この剣山藩の切々頑鉄もたしかにその一人であった。
もう一人の侍は出雲崎藩の曾宮来助という。丸目|主水正《もんどのしょう》伝えるところの一伝流|縄術《じょうじゅつ》の達人という触れ込みで、幾重にも輪にした細い鎖縄を腰にぶら下げていた。指環の半分ほどの細い鎖であったが、出雲崎越後守のいうところによると、百貫の石を曳いても切れぬという。
両人は将軍に一礼した。間隔は三メートル以上もあった。
それから切々頑鉄は、ぱっと肌ぬぎになった。たんに巨大であるのみならず、まるで大鉄丸を無数に盛りあげたような筋肉だ。鎖を人間の力で切ることが出来るものであろうか、と話にきいたときはみなくびをかしげたが、いま想像以上に細い鎖縄とこの|瘤《こぶ》|々《こぶ》した大肉塊をくらべると、鎖が腕環ほどの大きさでも断ち切れるのではないかと思われた。
「御諚により、一伝流の縄術を、お目にかけられぬのが残念じゃが」
と、曾宮来助はいった。
「ただ、巻くにとどめる。よいか――」
「ええわい」
と、切々頑鉄は牛の吠えるようにいった。
曾宮来助の手が腰にすべった。と見るまにそこから魔術のように鎖縄がほとばしり出て三メートル以上も離れた頑鉄の胸に双腕もろともキリキリと巻きついた。それは正確に二重に巻いて、先についた小さな分銅は、これは曾宮来助につながる鎖に小さく巻きついた。
「たった二重でええのかい」
と、頑鉄がいった。
来助がうなずくのを見たとたん、切々頑鉄のからだが赤黒く染まった。筋肉の瘤々がそれぞれの倍の大きさにふくれあがったかと思われた。
「ウーム!」
凄じい|咆《ほう》|哮《こう》とともにりきんだ頑鉄の顔に狼狽の表情が波打った。鎖は筋肉にくいこみ、没入し、外からの眼には見えず、筋肉に二重のくびれが入ったように見えた。――しかも、縄は切れない!
歯ぎしりの音とともに、頑鉄の唇のはしから血がながれ出した。唇をくいちぎったか、歯を噛み割ったらしい。口のみならず、鎖のくびれから下半身に血の網目がひろがりはじめた。しかもなお、鎖は切れない!
頑鉄はどうと地ひびきをたてて地上に倒れ、鎖をふりちぎろうとしてのた打ちまわった。
「頑鉄、どうしたのじゃ!」
たまりかねて剣山阿波守がさけんだ。
「先般の予行演習ではその鎖の倍の太さの鎖をも、みごと紙紐のごとく断ち切ったではないか!」
「やめい、勝負あった」
と、将軍がいった。
みんなしばしシーンとして、大地に巨大な芋虫のごとくころがって|号泣《ごうきゅう》している切々頑鉄を眺めていた。――と、ふと、正雪がいった。
「ちと不審がある」
伊豆が|頭《こうべ》をめぐらした。
「と、申すと?」
「は」
正雪は銅鑼と|桴《ばち》を両手にしたままあずまやの外に歩み出て、地上の頑鉄をのぞきこみ、また向うになお水を浴びたような顔色でうなだれている熊野藩の田宮掃部助に眼をやって、
「両人、昨夜、女と交わりはせなんだか?」
「……なんで左様な不謹慎なことを」
と掃部助がくびをふりあげた。
「一昨夜は?」
すると掃部助は詰まり、がくりと首を垂れた。
伊豆守が声をかけた。
「正雪、左様なことが……なぜわかる?」
「ふっとしたかん[#「かん」に傍点]でござりまする。強いて申せば、両人の腰のあたりの軽みから」
「さるにても、一昨夜のことがきょう|祟《たた》るか」
「おお、一昨夜なら――おれもやったわい! いかにもそういえば、きょうはからだに妙に力が入らなんだ! しかし、わずか五たび交わっただけにて。――」
と、切々頑鉄がまた牛のような吠え声をあげ出したのを、
「だまれ、頑鉄、将軍家のおんまえでたわけたことを。――」
と、剣山阿波守が叱りつけた。たんに無礼をたしなめたのではなく、怒りにからだじゅうがふるえている。
しかし、正雪は質問をやめない。こんどは頑鉄を見下ろし、
「なに、五たび交わったとな? 一人の女と?」
「されば……わしは五たびはおろか七度でも|曾《かつ》てかようなことはござりませなんだに、いま思い出せばその節からその女、奇態な女にて、わしは腰もしびれ、腹中もとろけんばかりここちよく、……」
「奇態な女? 廓の女か?」
「いえ。……」
ふいに頑鉄はひどくあいまいな顔をした。
伊豆守も注意した。
「正雪、御前である。控えぬか」
正雪はこんどはしゃがみこんで、頑鉄にきき出した。それから田宮掃部助も呼んで、これにも小声で訊問しはじめた。やおら、首をかしげ、思い入れよろしくあったが、ふいに大きくうなずいて、
「それ、くノ一ではあるまいか?」
と、つぶやいた。伊豆守がききとがめた。
「くノ一?」
「されば、その女たちただものではないぞ。――」
正雪はなお独語をもらしたが、やがてつかつかとあずまやにひき返して来て、
「いま、あの両人よりきき出したること、詳細はあとでお尋ねに応じまするとして、両人ともに女忍者にしてやられたような感じがいたす」
「女忍者? 女忍者が何をしたと申すのじゃ? 天童藩、出雲崎藩が忍者を使って、熊野藩、剣山藩を破ったとでも申すのか?」
松平伊豆守も、ここはききずてならじ、といった顔をして、天童出羽、出雲崎越後をふりかえった。両大名はぽかんとしている。とぼけているのではなく、この場合、ほんとに何のことやらわけがわからなかったのだ。殿様がたった一両のとりひきを知るわけがない。
「あいや、天童藩、出雲崎藩は御存じなきことでござりましょう。――しかし、いま話に出て来た女を忍者と認め、しかもその出どころは――伊豆守さま、甲賀組ならんと、正雪思い当ることがござります」
「なに? 甲賀組? 甲賀組が、またなんで?」
「なにゆえそのようなことをいたしたかは知らず、おそらくいたずらでござろうが、そんないたずらをやりそうな男を、拙者、甲賀組に知っておるのでござる」
「何やつを?」
「甲賀兵四郎。いちじわが榎坂の道場にも出入した男で」
「甲賀兵四郎、そりゃ甲賀組組頭の伜ではないか」
さすがに老中松平伊豆守はその名を知っていた。――自分が知っているのは当然だが、一介の|巷《ちまた》の軍学者たる正雪までが、|嚢中《のうちゅう》のものをさぐるがごとくその名を挙げて来たのは容易ならぬことだと彼は思った。
「正雪、それは容易ならぬことであるぞ。左様心得てものをいっておるか?」
由比正雪はさらりとして答えた。
「いや、まちがっておるかも知れませぬ。これまた拙者のかん[#「かん」に傍点]に過ぎず。――念のため、その兵四郎を呼んできいて御覧なされませ。まちがっていたら正雪、わが道場にかかげたる、軍学兵法|六《りく》|芸《げい》医陰両道其外一切指南の大看板を七日間とりはずしましょう。――」
まさにその場を去らせず、正雪も大名たちもそのままに、駿河台の組屋敷から甲賀兵四郎が招喚された。
さすがの兵四郎もはるかかなたに平伏しているのを、
「|糺《ただ》さねばならぬことがある。寄れ、甲賀者」
と、伊豆守はさけんだ。
甲賀兵四郎はするすると|膝《しっ》|行《こう》して来た。
実は招喚命令を受けたとき、心中彼は仰天した。どうしてばれたか――と狼狽を禁じ得ないものがあった。
が、あずまやの前に両手をつかえたときはそのような動揺はどこへやら、まるで|褒《ほう》|美《び》でも受けるような顔つきになっていた。そして、伊豆守の問いに平然として、
「まさに、やりました」
と、いってのけたものだ。
「いつ、どこでこのような企てのあることを知ったか」
「三日前でござりました。牛込榎坂あたりで、ふと侍同士の立ち話を耳にしたのでござりまするが、夜でござりましたゆえ、どのような|人《にん》|体《てい》の人であったかは存じ申さず」
ほんとか嘘かわからないが、ただこの答えは、こんどは正雪を大いにまごつかせた。
「なんのためにあのようなことをした。熊野藩、剣山藩になんぞ恨みでもあるか」
「いえ、何も」
先刻から、遠いところで土気色になっている出雲崎藩の曾宮来助、天童藩の兜運び役には眼もくれず、兵四郎は微笑して、
「くじで|中《あた》った方を選びましたので」
と、いった。
「何のために?」
「されば。――恐れながら甲賀兵四郎、このたびのおん企て、あまりにばかばかしいと存じあげまする。鎖縄と力士はともかく、特に剣による兜の試し切りなどは」
「なぜじゃ?」
「兜は人間がかぶってこそ兜である、と拙者相考えまする」
「と申すと?」
「かぶる人間によって、兜は切れることあり、切れぬこともあり。――人間は|俎《まないた》ではござらぬ。気力というものを持っております」
「ううむ」
「石に矢の立つためしあり、念力山をも動かすというではござりませぬか? 魂を|籠《こ》める、という言葉もあるではござりませぬか? そのことを実証するために――精神力というものを最も重んずる甲賀流忍法の信条が正しいか否か、を確認するために、まことに以て恐れ入った儀には存じまするが、このたびのおん企てを利し、忍法研鑚の一助にもと、大それたことを試みた次第でござる。それが早くも御眼力に見破られた上は、いかなる罪とて、甲賀組はお受けつかまつる所存」
堂々といい切った。実は駿河台からここへ急行してくる途中、必死にひねり出した弁明の理論である。名ざしで招喚された以上、へたな空とぼけは身の破滅を招くばかりだ。まさか金二両分のアルバイトなど言えたものではない。
「もっともおん兜のありようはすでに御決定。されば拙者、やむなく斬り手の方の条件を変化させて見た次第。剣山藩のお控え力士の方にも御同様。……あいや、かく申せば天童藩、出雲崎藩より必ず御異議が出るでござりましょう。当然でござりまする。何者がいかなる切りようをしようと兜は切れず、金剛力士が精進潔斎しようとあの鎖縄は切るべくもあらず――と。事実その通りでござろう。両藩におかれては、まったく天地に恥じられる御必要はない。ただし、わが甲賀組といたしましては、想定通りに事が運んだ、とかように考えてひそかに満足いたしておりまする」
「なるほど|喃《のう》……」
さすがの智慧伊豆も、この不敵な甲賀者の釈明を図ぶとい言いのがれとは思わず、むしろいささか感服した気味である。尤も彼も、こんどの企てそのものに乗気ではなかった。
「しかし、前々夜の女人が、そこまで尾をひくものか喃……」
「それがいま申したごとく、そのせいだとは断定いたしませぬが、しかし甲賀流に於てはくノ一――女忍者の修行について特別の配慮を払っておりますれば、御老中さま、おひまの折には、何とぞ甲賀くノ一どものわざのほどを御観閲願いたく。――」
これを機に、宣伝さえはじめた。
「さすがは御公儀|名《な》|代《だい》の甲賀者。――」
と、正雪が口を出した。
「ただいまの、武技武勇はそれをあやつり、よろう者の気力になる、という論法、まことに同感でござる、その点については、張孔堂にても日ごろ声を大にして|鼓《こ》|吹《すい》しているところ。――」
と、いって、彼は将軍の方に向き直り、
「上様。甲賀兵四郎の所論、まことに尤もと思うにつけ、正雪、いまふと思いつきましたることにござりまするが」
と、いい出した。
「|爾《じ》|後《ご》の試合、剣、槍、鎧、弓、盾、十手などのうち――とくに鎧、盾など、芸もなく地に置いてこれを刺したり、矢で射たりしても、まことに無意味と存じまする。やはり、よろうべきものはよろい、持つべきものは持って、その攻撃に対処すべきではござりますまいか?」
「正雪、鎧を着て槍に対し、盾を以て矢に対す。まかりまちがえば人の命にもかかわるではないか」
と、伊豆守が|危《き》|惧《ぐ》の念をもらした。正雪はけろりとして答えた。
「されば、甲賀者伊賀者をお使いなされてはいかが」
「なんと申す」
「いずれが剣、いずれが鎧とは定めず――それはくじでもよろしかろう――ともかく攻撃と防禦を伊賀者甲賀者に分担させれば、この天下一の武具競べ、まさに文字通り生命を吹き込まれたものと相なりましょう。……」
――実は正雪はこの機を利して、彼がひそかに注目している公儀忍び組の実態に触れておきたいという望みを起したのだ。
「恐れながら御公儀にて、泰平の日ごろ伊賀甲賀の者を養うておらるるは、かかる御用にも立てられんがためではござるまいか」
「よかろう」
伊豆守が制止するいとまもなく、将軍がいった。眼のかがやきは、正雪の着想にこの上なく心を奪われたことを表わしていた。
「それで、何人、必要か?」
「武具は六つ。いや、ただいまの天童藩の兜、出雲崎の鎖縄も健在でござりますれば、残るは八つ。つまり四組の勝負と相成ります。従って、伊賀甲賀、それぞれ四人ずつの選手を提供してもらえばよろしいと存じまする」
「承、承知つかまつってござる!」
甲賀兵四郎がさけび出した。
「その儀、甲賀組としては|欣《きん》|然《ぜん》として御奉公いたす」
果然、瓢箪から駒だ、と彼は胸の躍動するのをおぼえた。実力を無視して、伊賀第一、甲賀第二という編制をされているいまの組織を逆転させるべき時は到来した。
「ただ一つ二つ、お願い申しあげたきことがござる。ただいま拙者、甲賀のくノ一のことを申しあげましたが、ことのついでに、その儀にも甲賀のくノ一をお使い下されたく。――」
「なに? 女忍者をか?」
「されば、伊賀衆には甲賀のくノ一を以てあてるのが、ちょうど釣合い。――」
不敵に、うす笑いした。
「ただし、くノ一にはくノ一の特別技能というものがござりまする。それを使わずんば、くノ一を出す意味がござりませぬ」
伊豆守が不安なおももちできいた。
「くノ一の特技とは?」
「すなわち、男をとろかすわざ」
「それを使うとは?」
「すなわち、試合の前に、心ゆくまで伊賀者と交わり、かくてのち敵味方に相別れます」
「………」
「これによって伊賀者その精気に衰えを|来《きた》せば、たとえ|千《せん》|鈞《きん》の鎧をよろうと槍につらぬかれましょう。尤も交合によって消耗いたすはただ男のみとは限らず、相手によっては|姦《かん》せられたる女もまた放心のていたらくと成り果てましょう。かかるありさまとなれば、くノ一が盤石の盾を持とうと弓に刺し通されましょう。換言すれば、事前にどれほど交合しようと、それによって敗るるごとき忍者は、必死の御奉公をいたさねばならぬとき、まずお役に立たぬやつとお認め下されてしかるべし。――いかが?」
「よかろう」
と、将軍がいった。そして機先を制してつけ加えた。
「伊豆、とめるなよ。武具競べなどどうでもよいほどじゃ。余は断然、絶対、それを見るぞよ」
「兵四郎」
わずかに伊豆守は、しゃがれた声でいった。
「甲賀の女忍者を使うとして、その方は何をやる?」
「拙者はしめくくり」
「しめくくるとは?」
「いかなることに相成るや、見当もつきませず」
といったが甲賀兵四郎は、このときなぜか実にうれしそうに笑った。
「ただ相手の伊賀者も四人の男は別として、それをしめくくるべき伊賀組にて拙者に相叶う女一人まかり出るようにお命じ下されませ」
「面白い」
と正雪が手を打った。ちょっと首をかしげて、
「なるほど、八つの武具競べは四つの結果を生むばかり。それを二つとし、さらに一つとするまでにはなお控えの者が必要かも知れぬ。そして甲賀が男なら、いかにも伊賀の控えは女でなければなるまい喃」
待つこと十余日にして、早駕籠を以て注文していたものが続々到来した。同時に伊賀者五人、甲賀者五人が江戸城に招喚された。
甲賀組五人は、組頭伜の甲賀兵四郎と四人のくノ一。これはいいとして。――
さて、伊賀組五人のほうは、例の吹上のあずまやの前に呼ばれてひざまずいたが、何とも納得のゆかない顔つきであった。彼らは、伊賀者四人の精鋭と、その監督者たるべき一人の女人という指名に応じて参加したのだが。――
彼らはそこで一個の巨大な白木の俎と、八個の武具を見た。すなわち。――
天童藩の兜。
出雲崎藩の鎖縄。
五条藩の剣。
筑摩藩の鎧。
更科藩の弓。
|信《しの》|夫《ぶ》藩の槍。
天草藩の盾。
|信《しが》|楽《らき》藩の十手。
あずまやで、これを閲覧する者は、将軍、老中松平伊豆守をはじめとして、出品者たる八人の大名――那智熊野守と剣山阿波守は敗退者として姿を見せていないし、出雲崎藩の鎖縄の術者たる曾宮来助ももはや役目は終ったものとして出場していないが、それは伊賀者たちは知らない――それから、牛込榎坂の軍学者、由比正雪。
その由比正雪が、銅鑼と桴を持って立ち出でて、|厳《おごそ》かな顔でいう。
「このたび御上意により、これら諸家の宝とする武具競べをすることになった。それについて、事柄が諸家の機密にわたる関係から、とくに伊賀者甲賀者の協力を請いたい。すなわちこれらの武具を攻撃と防禦に分けて諸士みずからこれを把って試させよとの御諚である。
ただし、これは決して武術競べでなく、あくまで武具競べであるが、武具はそれを持つ者の気力念力精力などと無縁ではない。防禦の武具でさえ然りであると正雪は信ずる。すなわちこれは武術競べではないが、諸士の気力念力精力競べとなるものと見てくれて結構である。
伊賀甲賀の念力競べ――それを見るために、正雪とくに考案して一つの条件をつける。甚だ破天荒であるが、伊賀甲賀の忍者の気力を見るという目的を効果的に達成せんがために、試合相手と交合し、以て相手の精力に影響を与えることである。甲賀組の選手をとくに女人としたのは、この主旨からだ。――恐れ入るには及ばない、これまた御上意である」
伊賀者たちに声なき動揺がわたった。
まるで自分が主催者であるかのような正雪の口上に、松平伊豆守はにがり切っているが、どうにもならない。武具の強弱が人間の念力にかかわるという説には彼も同感するところがあり、人間の気力が交合によって影響を受けるという論にもべつに否やは唱えないが、武具競べが交合競技というべきものに発展したのは、どこか論理の飛躍があるようだ、とは思うものの、まさにそれが御上意なのだから、いかんともしがたい。
「分担する武具はこれよりくじを引かせるが、たとえば槍は信夫藩自慢の名槍、鎧はこれまた筑摩藩の誇る傑作、いずれがいずれとも申しがたいが、事前の交合により、槍をもつ者の精力消耗すれば、必ずや鎧に通らず、鎧を着る者の気力衰弱すれば、必ずや槍に通されるであろう。――」
伊賀者たちはまたどよめいた。
しかしこれは最初にこの企画をきいたときのような驚きの動揺ではない。彼らは事態を納得した。正雪のいわゆる主旨を完全に納得できたかどうかは別として、突如挑戦者として登場して来た甲賀者ども――しかも、くノ一のむれを眼前に見て、一挙に頭に|敵《てき》|愾《がい》と冷蔑の血が上り、爛と燃える眼でにらみすえたのだ。
「よいか。――相分ったか」
と、正雪は見まわした。みな、いっせいにうなずいた。
「では、くじを引け」
伊賀者四人、甲賀のくノ一四人が、正雪の用意したくじを引いた。
伊賀は兜、十手、槍、盾。
甲賀は剣、鎖縄、鎧、弓。
「競べるは兜と剣、槍と鎧、盾と弓、これは明快じゃが、さて十手と縄が困ったのう。いかにしてその強弱を見るか」
兵四郎がいった。
「十手を以て鎖をねじ切れば十手の勝ちといたし、ねじ切ること能わずんば鎖縄の勝ちといたせばよろしい」
「おお、いかにも。――では、それぞれの第一番、伊賀の兜と甲賀の剣、それぞれ交合の位置につけ。あの|俎《まないた》の上じゃ」
正雪の進行係ぶりは快調である。さしもの伊豆守もあれよあれよと見まもるばかりだ。
梅雨は完全にあがっていた。吹上の庭にはあきらかに夏の光がめくるめくばかりにふりそそぎ、樹々も花も石も|豪《ごう》|奢《しゃ》な自然の饗宴をくりひろげていた。
中央の大俎の左右に離れて、それぞれ一団を作って凝然とにらみ合っていた伊賀者、甲賀者の中から、やがてぱっと衣服を脱ぎすてていった者がある。
やがて伊賀組から一人の男が、甲賀組から一人の女が進み出て、大俎の方へ歩いていった。
「くノ一、一人かや?」
と、伊賀者がいった。鴉天狗みたいな顔をした、長身だが痩せこけて、しかも恐ろしくしなやかな感じのする男であった。
「一人?」
甲賀のくノ一はややとまどった顔をした。全裸のからだにまとうものは、ただ背に長く垂らした黒髪だけだが、ムッチリとあぶらづいた肌は、夏の日にかがよう豊麗な|牡《ぼ》|丹《たん》のようであった。
「男が女を犯すを姦という。つまり、男一人は女三人に相叶うということじゃ。あと二人、この俎にのせるがよかろう」
「――なるほど」
と、こちら側で、ちょっと感心したような声を出したのは由比正雪である。
伊賀者は笑った。
「甲賀のくノ一、だれを相手に男をとろかす修行をしたかは、知らぬが、伊賀の男はちとちがう。のみならず、伊賀にも女をとろかすわざがある。いざ眼にもの見せてくれる。参れ。――」
交合第一番。
大俎の上に大輪の白牡丹が花ひらき、そのひかるような花弁に黒いからす蛇がまといついた。
将軍をはじめ八人の大名は、飛び出すような眼で見ていた。むずかしい顔をした智慧伊豆でさえ、扇子をひらいてその骨のあいだからのぞかずにはいられなかった。
「のぬふ……のぬふ。……」
そんな声が地を|這《は》った。あきらかに、くノ一を犯しつつある伊賀者のうめくような声であった。
「のぬふ……のぬふ……のぬふ!」
「あれは何と申しておるのじゃ?」
と、将軍はかえりみた。正雪は答えず、しばしじいとのぞきこんでいたが、
「おお、あの男の腰を御覧なされ。腰で、のの字、ぬの字、ふの字を書いておりまする」
「ほ。――」
いわれて見れば、そんな具合でもある。将軍はちょっとそれを自分の腰でためして見て、
「そのような文字、腰で書いて何にするのじゃ?」
正雪は解説した。
「いかにも、これは妙策。あの男、その字を書くに念力をこめ、従って女には|快《け》|楽《らく》のかぎりを与えつつ、当人は気をそらして、いつまでたっても漏らすことがありませぬ。少なくともその狙いにてあの呪文を唱えおるものと存ぜられます」
「のぬふ! のぬふ! のぬふ!」
男の|咆《ほう》|哮《こう》に、女のさけびが溶けてながれた。
伊賀者は身を離した。
「まだつづけるか? 試合するか?」
くノ一はひろがった眼で蒼い空を見ていたが、
「試合しよう」
といった。
伊賀者対甲賀のくノ一の交合競技は第一回戦だが、武具競べでは第三回戦にあたる。
さて、その第三回戦。正雪の銅鑼が鳴った。
伊賀者は兜をかぶって、やがてその大俎の上に端坐した。例の破倭の剣を破った天童藩の羅馬の兜だ。
身支度ととのえた甲賀のくノ一は、腰の一刀をスラリと抜きはなち、そこから三メートルばかりの位置についた。
刀は大和五条藩の家宝。|曾《かつ》て大塔の宮が|佩《はい》|用《よう》されたものとかいうことで、その実否はともあれこれはまぎれもなく正宗であった。将軍などは先刻これを見て、あとで五条大和守からとりあげる算段を、ふとめぐらしたほどである。
一瞬、二瞬、日光の白炎の中に立つくノ一の壮絶な姿には、たったいましがたの痴態の|翳《かげ》もない。――彼女は地を蹴った。
「ええーっ」
女声にまぎれもないが、まさに耳も裂くような念力こめたさけび声とともに、正宗は羅馬の兜に斬りつけられた。
「……あっ」
一同の声が散乱した。白光の中に散乱した正宗とともに。
羅馬の兜は依然健在であったのである。
「いかがじゃな?」
兜の下でしばし|瞑《めい》|目《もく》して、いまの打撃の余波に耐えていた伊賀者の眼がひらき、鴉天狗みたいなとがった口がきゅっと裂けたとき、ふいにあずまやの中でまたさけび声が起った。
「おかまい下さるな。甲賀のくノ一ならばさもあるべきこと。――」
という甲賀兵四郎の声が聞えた。
茫然と|佇《たたず》んでいたくノ一は、そのとき折れた正宗を腹にあてがい左から右へいっきに引き廻すと、返す刀で左乳の下を突き、血の花の上へどうと打ち伏したのだ。
「あたら正宗を……身もふるえるばかり惜しゅうござるが、しょせん折れた刀、大和守さま、お刀を汚したてまつったことをお許し下されませ。おゆるしを願っても追いつかぬは、それを折ったくノ一の未熟でござるが……これ天命」
やや蒼ざめてはいたが、兵四郎は落着きはらって頭を下げた。
「第二番、位置につけ」
正雪がさけんだ。
伊賀組甲賀組から二人目の男と女が進み出て、俎の上に横たわった。
女は、これが甲賀のくノ一か、と疑われるほど――まるで深窓の姫君のような気品すらある優雅な美貌の持主であった。それがこれまた一糸まとわず。そして伊賀者は、どういうわけか頭を剃って、唇の異様に厚い、海坊主みたいな大男であった。
まさに海坊主と人魚だ。二人の動きは、そこが地上ではなく海底にあるかのようであった。人魚は身をくねらせて、巨大な海坊主から逃れかかる。海坊主のあぶらぎった|爬虫《はちゅう》みたいな感じの手足がそれを追う。――と見えたが、またよく眼をこらすと人魚がたくみに海坊主のどこかに吸いつこうとしているのを、海坊主が頭をふり、手足をふって逃れているようにも見えた。ふしぎなことに一同はこの夏の光の中に、二人のまわりに蒼い波の幻想をえがいたほど、二人の動きは流動的であった。
ついに一方が一方をとらえた。海坊主の厚い唇とくノ一の桜色の唇が合った。
「……あわいよとさ。……あわいよとさ。……」
息をつくために唇を離すと、ふいごのような海坊主の声が聞えた。
「あわいよとさ! あわいよとさ!」
将軍がくびをひねった。
「こんどは何と申しておる?」
「さて?」
正雪は眼をこらしていたが、やがてはたとひざを叩いた。
「ははあ」
「なんじゃ」
「御覧なされませ、あの伊賀者、女の口、乳房などを|玩《がん》|弄《ろう》いたしおりまするが、かんじんのところはたくみにはずしております。攻めるは四国中、阿波、伊予、土佐の三国のみ、讃岐をのぞいておりまする。つまり、いわゆる三国攻めの変形。……」
「正雪、その方の学殖はききしにまさるものであるな。……」
「恐れ入ります。これもまた軍学上の一知識でござります」
「しかしそれは――事前に心ゆくまで交合するという例の約定に違反する行為ではないか」
「されば、一応注意を喚起いたしておきましょう」
と、正雪は二、三歩歩き出したが、
「いや、しかし、あれほどの美女にあれほど挑まれて――おお、くノ一の手は、とらえるだけはとらえておる――しかもこちらは三国だけを攻めつづけておるは、これまた尋常ならざるわざ」
といって、立ちどまった。
このとき、伊賀者がふいごのようにいった。
「くノ一、讃岐を攻めようか、それとも試合するか。いずれともうぬの望みにまかす」
「試合しよう」
と、くノ一はあえぎながらいった。
正雪は銅鑼をとりあげた。武具競べ第四回戦。
伊賀者は信楽藩の十手。甲賀のくノ一は出雲崎藩の鎖縄。
信楽藩の十手。十手といっても奉行所の捕吏の持っているような一尺二寸の銀ながしではなく、二尺にちかい鉄製のものだ。十手はすでに室町時代からいわゆる小具足捕縛の武器として使用されたが、この信楽藩の十手は元和時代来朝した中国拳法の名人|陳《ちん》|元《げん》|贇《ぴん》の伝えるところという。牛の角のような鉤が左右に出ており、握りの手元には|切《きり》|子《こ》角の球形の手だまりがついていて、いかにも日本では見られない妖異な形状をしている。
出雲崎藩の鎖縄はいうまでもなく、先日縄術の達人曾宮来助によってあやつられ、金剛力士のごとき切々頑鉄を絞めあげて号泣させた極め付きのもの。
いずれも一般の武術とはかけ離れた武器だが、しかしいま、――五メートル以上もの距離をおいて相対し、十手を持った伊賀者と、鎖縄を下げた甲賀のくノ一の構えには、なんの|疑《ぎ》|懼《く》も見られない、まるでおのれ本来の武器を持ち出したかのような姿は、十手、縄術これも忍者にとっては刀以上の特技とするものだからであろうか。
十手を持った伊賀者? しかし伊賀者はどこに十手を持っているとも見えなかった。二尺にちかい十手のかたちはなく、ただ彼は巨大なぶよぶよした右腕一本をこぶしにかためてまっすぐにつき出しているだけであった。
ぶうん。……
いつのまにやら夏の空に、|虻《あぶ》の羽音のような唸りが起っている。甲賀のくノ一の頭上に旋回している鎖縄であった。それはくノ一から空にひろげられた薄黒い半透明の|漏斗《じょうご》のように見えた。
突如、円錐形が一直線となった。
それは黒い一本の棒と化して、中天から伊賀者の頭上にたたきつけられた。
ピイイン、と鼓膜をつん裂くような金属音が起った。鎖は一分のたわみもなく、くノ一の手と伊賀者の間にかかっていた。
伊賀者の手には忽然と十手が現われている。それはそれまで伊賀者に逆手に握られて腕の内側に吸いついていたものが、この一瞬に振り出されたのであったが、常人の眼にもとまらぬ早業であった。
そのひびきの余韻も消えぬうちに、くノ一がたたと二、三歩前へよろめき、それからこんどはあおむけにのけぞっていった。空に躍った鎖縄の突端には分銅がなかった。それは伊賀者の足もとに落ちた。
中天から|薙《な》ぎ落された鎖縄を十手の鉤で受け止めるや、伊賀者はそれを巻きつけたまま引き、そしてぐいとこぶしをひねって、鎖をひきちぎってしまったのだ。術もあろうが、まさに鎖が紙紐と見えたほどのもろさであった。出雲崎藩の誇る――百貫の岩をも曳くと称する鎖縄は断たれた!
どよめくように伊賀の海坊主が笑った。
「あ、待て。――」
と、正雪があわてて駈け出そうとした。
のけぞっていって倒れようとし、からくも身を支えた甲賀のくノ一の手から、分鎖のない鎖縄がふたたび振り出されたのを見たからだ。正雪は、くノ一が血まよって、あってはならぬ再度の挑戦をこころみたのかと思ったのだ。
しかし、それは宙を一閃しただけで、自分の首へ薙ぎつけられていった。なんたること――それはまるで鋭利な刃物のように、くノ一自身の頸を――頸骨そのものもふくめてすぱっと切断し――貴女にもまがう美しい首は草の上にころがり落ちた。あとで血しぶきをまきつつその胴が崩れ落ち、さらに一息おいて、あお空に廻っていった鎖縄が地にくねりつつ這った。
「ああ。……」
だれののどからもれたうめきかわからない。
たんなる武具競べ――と、念を押した。少なくとも伊賀甲賀の念力競べといった。にもかかわらず、この平和的なるべき御前試合は、早くもここに悽惨きわまる二陣の血風を呼んでしまった。
甲賀兵四郎がいった。
「くノ一めが死はもとより、敗れたのもまた当然。あれは鎖をとるまえに、俎の上ですでに三たび昇天しており申した。――次っ」
「第三番、位置につけ」
と、正雪がいった。少し声がふるえている。伊賀者とくノ一が歩き出した。
伊賀者は、先日の剣山藩の切々頑鉄をやや小型にしたような――つまり、全身筋肉のかたまりのような男であった。くノ一は、これはスラリとした長身だが、しかしまるで処女であるかのような清純の香を風にひいている。しかしこれは、あずまやにいる人々は知る由もないが、先日甲賀屋敷で兵四郎の耳に何やら奇妙な声で吹きこむ訓練をさせられていたあの「第二番」と呼ばれた女であった。
大俎の上の交合第三回戦。
それは、あずまやの中の人々の肝を奪うばかりに盛大なものであったが、交合第一回戦第二回戦に比して、とくに男が一応尋常な容貌と体躯を持ち、そして一見正常位をとっただけに、ここに記すべき特別のものがない。ただ処女のように|初《うい》|々《うい》しく見える女が、いくたびか、たえかねたようにほとばしらせたさけび声のなまめかしさが、強烈な美酒を耳にそそいだように、人々の鼓膜をしびれさせた。
正雪の銅鑼が鳴った。
武具競べ第五回戦。
人々は、これまでの試合以上に眼をつむりたい気持になった。
俎の上に、甲賀のくノ一は坐っている。鎧をつけて。そしてこれに相対したのは、槍をかまえた精悍な伊賀者であった。
くノ一の鎧は筑摩信濃守の出品による。真田|安《あ》|房《わの》|守《かみ》昌幸のつけていたもので、かつて昌幸が武田信玄から拝領したものだという。信玄、昌幸、いずれもしぶい、それだけに実戦的には稀代の名将の選んだものだけあって、黒い鉄板から成り、黒糸で|縅《おど》し、外見的にはなんの華やかさもない。ただその胸部の部分に、青貝で六文銭を|象《ぞう》|嵌《がん》してあるが、鉄も貝も、その光は錆びて、かえって重厚な戦気を放っていた。
しかし、人の着て動く鎧である。その厚みには限度がある。ましてや、いまこれを着ているのはたおやかな女身であった。長身だから、まだなんとか身に合ったのだ。その鎧の上に出た首の――黒髪だけを垂らした匂うような美貌に、この場合、かえって人々が眼をつむりたくなったのもむりはない。
伊賀者の槍は信夫岩代守の出品による。何かのはずみで、伊達政宗から譲られたもので、この槍については将軍も、曾て政宗自身から、うっかり贈ったのを惜しがる長嘆の声をいくどか耳にしたことがある。号して「|鶺《せき》|鴒《れい》斬り」。
その昔独眼竜政宗が|蒲生《がもう》|氏《うじ》|郷《さと》と決死の対軍をしていたときに、河原で|将几《しょうぎ》に腰打ちかけていた政宗のこの槍に、たまたま飛んで来た一羽の鶺鴒がその穂先に触れるや否や二つに切れて落ちたという。――|朱《あか》|柄《え》の大槍であった。
いま、それを手にして、三度四度、りゅうりゅうとしごいた伊賀者は、夏の日光を満身に浴びた赤不動さながらの凄じさであった。
このとき彼はしかし、ふっと妙な表情をした。二、三度、首をふる。槍から手を離して、右の耳を、ついで左の耳をほじった。それからあおのいて、放心的な眼つきをした。
すぐに彼は、何かを追い払うようにまたはげしく首をふり、鎧をにらみすえた。
「参るぞ――っ」
草がはね、砂塵が起った。
一陣の|颶《ぐ》|風《ふう》のごとく駈けた伊賀者の槍は、俎の上に端坐したくノ一の胸板を――六文銭のまんなかをつらぬいた。
かのごとくに見えた。鎧のくノ一はもとよりうしろにはたと倒れた。が、同時に鶺鴒斬りの槍は、つららのように穂先を宙に飛ばしていたのである。
苦痛に美しい顔をしかめつつ、くノ一は起き直り、相手を見て――にっと笑った。
みずからは何の打撃も受けたはずはないのに、それ以上の苦悶の|形相《ぎょうそう》で、|茫《ぼう》|乎《こ》として折れた槍を眺めていた伊賀者は、突如その槍を投げ捨て、歩き出した。はっとしたとき、彼は地に落ちた穂先を拾い、いきなりその穂でおのれの頸を刺しつらぬいた。二尺余の穂のうち一尺は血光とともにうなじに突き出した。伊賀者は倒れた。
こんどはみな声もない。
敗れたくノ一さえみずからその敗の責めをとったのだから、男の伊賀者がこのような自己処理をしたのは当然といえる。――しかし、一同惨として口をとじたのは、青草の上に横たわる三つの屍骸からすでに吹きつけてくる風に打たれてのことであった。
「だ、……」
正雪が妙な声を出した。
「第四番、位置につけ」
それぞれ四人目の伊賀者とくノ一が歩き出した。そこに何事も起らなかったもののごとく。
伊賀者は老猿のように白髪でふちどられ、腰もだいぶ曲っていた。これが伊賀組副頭領ともいうべき老人であることを、伊豆守だけは知っている。そして甲賀のくノ一は、美しいが|女豹《めひょう》のような感じがあって、これは兵四郎が指をわきの下へ入れたあの第一番の女であった。
交合第四回戦。
それにしても、あの老人が? と、人々はくびをかしげたのである。が、俎の上に横たわった全裸の女を見下ろした老人の肉体に起った変化を見て、人々は――舌を巻いた者もあり、またわが眼を疑った者もあった。「……ウーム、腰までピンと立ったではないか」と、ボソリと将軍がつぶやいた。
「くノ一」
老人は、歯のない口できゅっと笑った。
「精をつかわせるというが、きのどくながら、わしには漏らすべき精がない、よいか?」
くノ一は仰向けのまま見上げて、花のさゆらぎのような笑い声をたてて招いた。
老人は臆せず応じた。実に長かった。日はまだ中天にかかっていなかったのに、それがやや廻ったほどであった。出すものがない――といったが、しかし老人は三たび寒月に啼く老猿のごとき声を出して人々を驚かせた。
正雪の銅鑼がまた鳴った。
武具競べ第六回戦。
老伊賀者の持つのは盾、天草藩の出品。これがまた木|乃《ない》|至《し》竹束などの日本古来の盾とはちがう。島原天草守は|豊《ぶん》|後《ご》の大友|宗《そう》|麟《りん》と血のつながる家柄で、大友家から伝来したものだというが、楕円形で、厚いなめし革で覆われていて、表面に、うすれかかってはいるが百合の花が油でえがいてある。その百合の花もエキゾチックであるところを見ると、切支丹大名として有名であった宗麟が、南蛮人から手に入れたものでもあろうか。
これに対して甲賀のくノ一の持つ弓矢は、更科藩の出品にかかる。不識庵謙信の所持していた|重《しげ》|籐《どう》の弓で、謙信が守護神としていた軍神の名をとって「摩利支天の弓」と称する。これまで門外不出のものであったが、去年いちどだけ外に出したことがある。よんどころない縁で尾州藩の長屋六左衛門という弓術の名人に貸したのだが、六左衛門はこれを以て京都三十三間堂の通し矢を試みたという。――去年、長屋六左衛門によって、一日に四千三百十三本という通し矢の新記録が打ち立てられたのは一同も知っていたから、それがこの弓一張で射切られたときいて、将軍をはじめみな驚嘆と畏敬の眼で見まもったものだ。
それにしても、いかに名弓にしろ、矢があの皮の盾に立つものであろうか。
「ことわっておくが諏訪守どの」
と、島原天草守が更科諏訪守にささやいた。
「私のところのあの百合の盾、いちど鉄砲で射ったことがある。それが、驚くべし、御覧なされ、百合の花一ひらにも傷がつかなんだ。はね返したのでござる。――だから、たとえ矢は通らずともお気を落し召さるなよ」
甲賀のくノ一は、重籐の弓をひきしぼった。
それと約百三十メートルの距離を置いて、椎の大木の前に老伊賀者は、楕円の盾を把って立った。六十六間、三十三間堂と同じ長さであった。
びゅるんっ!
弦音が鳴り、鷹の矢羽根が夏風を切った。
猿のような悲鳴があがった。ふしぎにそれは先刻の交合の際にもらした声とそっくり同じ声であったが、盾のうしろで老伊賀者は、さらにそのうしろの椎の木に、昆虫のごとく縫いとめられたのである。
摩利支天の弓は、百合の盾はおろか、伊賀者まで貫通してしまったのであった。
「ふう。……」
と、将軍が溜息をついた。
ややあって、
「正雪、何が残ったかの?」
と、きく。
「は、天童藩の兜、筑摩藩の鎧、信楽藩の十手、更科藩の弓。……」
「まだやれるか」
「組合せのことでござりまするか」
「出来るならば、余はまだ見たい」
「それならば、兜と十手、鎧と弓でござりましょうか」
「人は?」
「伊賀甲賀、|宰領《さいりょう》の男女をのぞき、それぞれ伊賀者二人、甲賀のくノ一、二人」
「くじ[#「くじ」に傍点]を引かせい」
「くじ[#「くじ」に傍点]? くじ[#「くじ」に傍点]の必要はもうござりますまい。勝負は兜と十手、鎧と弓と決っております。この場合、やはり女人尊重の意味から、甲賀のくノ一に攻撃用の十手と弓を持たせるべきでござりましょう。――」
「よかろう。――」
「ただ――、十手と弓といえども、兜と鎧に歯が立たねば、くノ一どもが自決することになりましょうが」
将軍は蒼い顔でちょっと考えこんだが、すぐにまた酔っぱらったようなもつれた声でいった。
「よかろう。やらせい」
正雪はうしろをかえりみて、
「では――刀の五条大和守さま、槍の信夫岩代守さま、鎖縄の出雲崎越後守さま、盾の島原天草守さま――御失格の方々は、恐れ入りますが御退場のほどを」
と、会場を整頓してから、甲賀伊賀の生残り組をさしまねいた。
「御上意である」
とことわって、十手と兜、弓と鎧の勝負を伝えた正雪の命令に、両陣、いっせいに平伏したが、その光景には、たんに上意というばかりでなく、ここまで来ては天地が裂けようと敵をみなごろしにせずんばやまずという鬼気がある。
甲賀兵四郎がいい出した。――あくまで事前に交合して、その気力競べをも試みる方針をつらぬかれたい――というのである。
「またか?」
さすがの正雪も少々ウンザリした顔をした。兵四郎は冷然と答えた。
「このたびはそれぞれ相手もちがいますれば」
伊賀者二人と甲賀のくノ一、二人は、じいっとおたがいの眼を見交した。
人間の男と女、交合するのに百人が百人同士、愛を以て結ばれ合うとは限らない。それ以外のさまざまな不可思議な動機もあるだろうが、しかしこのときの男女の交した眼差しほど恐るべきものは、またとこの世になかったろう。
「第五番。――」
正雪の声がかすれた。
「で、あったかな?」
と、自信なげなひとりごとをもらしてふりむいたが、そこに将軍の顔があったので驚いて、
「位置につけ!」
厳然と身を立て直して声を張った。
交合戦はまさに第五回戦だが、武具競べは第七回戦にあたる。
大俎に横たわったのは、伊賀者は例の海坊主で、甲賀のくノ一は兵四郎の呼ぶ第二番、すなわち伊賀の槍を破った女であった。
烈日の下に、俎はまだぬらぬらと濡れ、それに血しぶきがまじり、はや変色して、異様な色を呈している。その上で。――
「あわいよとさ!………あわいよとさ!」
という例のふいごみたいな声が流れ出した。
一国ぬきの三国攻め――たとえ一国はぬかれようと、残り三国はいかんなく|蹂躙《じゅうりん》され、くノ一はいくたび昇天したことであろうか。
銅鑼が鳴った。
やがて伊賀者は兜をかぶって俎の上に大あぐらをかいた。すでに破倭の剣という朝鮮の名刀を折り、正宗という日本の名剣を砕いた羅馬の兜だ。
これに対し、甲賀のくノ一は十手を|把《と》って立った。これは先刻この海坊主の手に握られて、防禦の側に廻ったものだ。そのときこの|陳《ちん》|元《げん》|贇《ぴん》相伝の十手は、出雲崎藩の鎖縄を紙紐のごとくちぎったのであった。いま、動かぬ兜に対しては、十手は攻撃の武器にちがいない。しかし兜を打ち割らなければ十手の敗北となるのである。
「その十手はさっきおれが使った」
と、伊賀者は笑った。
「ひょっとするとその十手は、正宗でさえへし折るかも知れぬ。――しかし、この兜には効くまい。それに、それ、うぬのからだはおれの三国攻めで|麹《こうじ》のようになっておるではないか」
三国攻め以前にすでに彼女は、信夫藩の名槍を握った伊賀者に犯されている。いま伊賀者に笑われて、くノ一の足がまさにぐらりとよろめいた。
わずかに足をふんばって、きっとして海坊主を見すえる。
このとき兜の中の海坊主が、ふっと妙な顔をした。二、三度首をふる。手をあげて耳をほじろうとする動作を見せたが、耳まで覆った羅馬の兜であった。彼の表情が不審から驚愕へ、苦悶から恍惚へ移行した。
彼は思いがけず、女の甘美な声をきいたのだ。とろけるような女のあえぎをきいたのだ。あり得べからざることだが、男の耳をかきむしる女の悦楽の言葉の音楽を、おのれの耳の中に。
甲賀忍法「春の琴」――交合しつつ、男の耳に口を寄せ、声とともに唾液の泡を無数に吹き入れる。最後に男の耳の口に、唾液の糸を幾筋か張る。その泡が糸にふれ、ふれるたびに破れ、破れるたびに女の声を――快美のあえぎを|奏《かな》で、外聴道から鼓膜へ音楽として伝えるのだ。
槍を把って鎧をつけたこの女に対した伊賀者は、このために念力を放散し、敗北した。いや、たんに念力を放散するどころか――いま海坊主は、もはやわれ勝てりと心を解いていた虚をつかれ、突如として鳴りはじめ、反響し、共鳴する女の大音楽の海へ投げこまれ、はじめて射精した!
とたんにスルスルと寄って来た甲賀のくノ一の十手は、真っ向から羅馬の兜に打ち下ろされた。
|戛《かつ》|然《ぜん》!
羅馬の兜の下の海坊主は、しかし動かない。依然として俎の上に大あぐらをかいている。しかし剥き出された眼は真っ白であった。と、その口からタラタラと血潮がしたたりはじめた。と見るまに、兜をかぶったまま、その巨体はどうと俎に打ち伏した。
正雪が駈け寄り、兜をぐいとひきあげ、のぞきこんで、
「みごと、死んでおる!」
と、さけんだ。
兵四郎が声をかけた。
「兜はいかが相成っておりますか、張孔堂先生。――」
「兜? 兜は――ひびも入ってはおらぬ」
といって、くびをかしげた。
「これはどういうことになる? 十手の勝ちか、兜の勝ちか、相討ちか。――わしにもわからぬわい」
「兜が割れておらねば――十手の負けじゃ!」
向うから声がかかった。
「甲賀の負けだっ」
鴉天狗のような伊賀者のさけびであった。兵四郎は腕をくんだ。
兵四郎の沈思の姿と、その伊賀者の判定をどうとったか。――
このとき甲賀のくノ一はこっくりうなずき、十手を逆手に持ち変えて、握りの端についた切子球でおのれのみぞおちを突きあげたのである。その美しい唇からこれまたタラタラと血潮がしたたると同時に、彼女もまた草に伏して――それっきり動かなくなった。
「次――」
兵四郎が顔をあげてさけんだ。
「何、まだやるのか?」
「むろん」
あずまやの中から二、三歩出て来た松平伊豆守を意識しつつ。
「甲賀と伊賀。――いずれも御公儀のため、積年汗血をしぼってたがいにおくれじと修行して参ったもの、ここまで来れば、残った伊賀衆、くノ一、最後まで決着つけねば心落ちつきますまい。――また組に帰ってもみな納得いたしますまい」
と、いった。
「ともあれ、御上意ではござりませぬか!」
伊豆守の足がとまった。
正雪はふりむいて、あずまやの仮面みたいに白ちゃけた将軍の顔を見ると、
「第六番――」
と、声をしぼった。
「位置につけ!」
かくてまた血を塗りかさねた大俎の上に、選手としては最後の伊賀者と甲賀のくノ一がこれまたかさなった。
伊賀者はきょう|劈《へき》|頭《とう》に出場し、「姦」の文字の講釈をし、羅馬の兜をかぶり、くノ一の正宗を破ったあの鴉天狗であった。甲賀は、摩利支天の弓を持ち、百合の盾もろとも老伊賀者を貫通したあのくノ一第一番であった。
やがてまた俎の上で、
「のぬふ……のぬふ……のぬふ!」
というぶきみな呪文が流れはじめた。
実際にそんな字が書けるのか――痩せて骨ばっているくせに、ばかにしなやかな腰を持っているとはいえ、とくにぬ[#「ぬ」に傍点]の字などうまく書けるのか――と、眼をこらしてのぞきこんだ正雪が、このとき、小さく、「あっ」とさけんだ。
「どうした」
と、将軍がきいた。正雪はくびをひねって、
「まことに以て驚くべし」
「何がどうしたというのじゃ?」
「は。先刻も申したように、あの伊賀者、のぬふの呪文にて、おのれの気をそらし、かつは相手を悩殺せんと苦心惨憺いたしております。あれ、あの通り、腰に必死の形相を見せて、のぬふを描いております。しかるに――相手のくノ一は」
「くノ一が何とした」
「あたかも、指をわきの下にはさんだごとく。――」
これは正雪としては御前をはばかっての形容であったが、期せずしてこのくノ一第一番がふだん修行していた方法の一つにみごと適合した。
「あれでは、いかに精根こめようと、のぬふはそれこそ無駄骨折りだ。いや、これも|約定《やくじょう》違反。……」
正雪はあずまやを急ぎ足で出ようとして、ふとまた立ちどまった。
「いやしかし、あれほどの伊賀者にあれほど精根こめさせながら、ついに感づかせぬこれまた容易ならざるわざ。……」
「のぬふ! のぬふ! のぬふ!」
男の咆哮に、女のさけびが溶けまじった。
伊賀者は身を離した。
「まだつづけるか? 試合するか?」
くノ一はひろがった眼で、蒼い空を見ていたが、
「試合しよう」
といった。
武具競べ実に第八回戦。――正雪の銅鑼がかすれたような音をたてた。
伊賀者ははるか彼方の椎の大木の下に坐った。――真っ黒な鎧をつけて。これは先刻逆にくノ一の一人が身につけて、|鶺《せき》|鴒《れい》|斬《ぎ》りの名槍の穂先さえ砕いた六文銭の鎧だ。
これに対して、甲賀のくノ一の把った弓は、例の摩利支天の弓であった。しかも彼女自身がこの前にこの弓を以て、島原天草守の吹くところによると銃丸すらはね返した南蛮渡来の百合の盾をつらぬいている。とはいえ、槍さえ砕く鎧に矢が立つものであろうか?
この弓は、曾て上杉謙信の愛用したものだという。一方の鎧は六文銭こそ|象《ぞう》|嵌《がん》されているが、出所は武田信玄だという。はからずもここに武具競べの川中島が再現されることになったことこそ一奇である。
甲賀のくノ一はキリキリと弓をひきしぼった。
それを百三十メートルの彼方に坐った伊賀者は、恐るべき自信に溢れて、例の鴉天狗みたいなとがった口をきゅっと裂いたが、ふっと日が雲に入ったように笑いが消えた。――彼はこのとき、自分が完全にのぬふの犠牲者としたつもりのくノ一に、全然消耗のない気力の充実を感じとって、はてな? とおのれの眼を疑ったのだ。
びゅるん!
弦が鳴った。
矢は鎧に立った。まさにつっ立ったが、半ばから無惨に折れて、垂れ下がった鷹の羽をふるわせていた。
しかし――伊賀者はぬうと立ちあがった。
片手にその矢をつかんでひきぬき、|鏃《やじり》を顔の前に持っていった。
「血はたった三分。ちょっと肉を刺しただけじゃ」
彼は折れた矢を握ったまま歩いて来た。
「矢は鎧を通しても何にもならぬ、鎧を通して人を殺さずば矢とはいえぬ。ただひっかき傷をつけただけならば甲賀の負けであるぞ!」
そして、その矢をくノ一めがけて投げつけた。
先刻は兜を割らずして伊賀者を殺したのを甲賀の負けといい、こんどは鎧をつらぬいて、しかも自分を殺すことができなかったのをやはり甲賀の負けという。相当強引な論法だが、しかしさっき盾もろとも老伊賀を刺し止めたことを思い合わせると、こんどその程度にとどまったのはまさに奇怪ともいうべく、それがこの鴉天狗のいわゆる念力によるものとしか思われない以上、この論法にもたしかに一理はある。そもそもこのような強引な論法をふるうこと自体が、この男の凄じい気力の現われといえるかも知れぬ。
兵四郎は腕をくんだ。
その伊賀者の判定と兵四郎の沈思の姿をどうとったか。――
このとき甲賀のくノ一はこっくりうなずき、足もとの折れた矢を拾いあげると、片膝ついたまま、いきなりその鏃をおのれの左乳房の下に刺しこんだのである。
彼女は草の上にうつ伏せになり――それっきり動かなくなった。
鴉天狗は|哄笑《こうしょう》した。
「伊賀の勝ちだ! 見ろ、甲賀のくノ一どもは一人残らず失せおったではないか。――」
「まだ武具競べが残っておりまする」
と、兵四郎が腕ぐみをとき、将軍の方にむかっていった。
「兜と鎧が」
「兜と鎧? そのいずれが強いか――較べようがないではないか」
と、正雪がいった。
「較べようはござる。例えば、あの伊賀者が兜をかぶり、拙者が鎧をつけ、伊賀者が拙者の胴を斬り、拙者が伊賀者の頭を斬る、とか――」
「何の武器で」
「されば、おのおの所持いたす刀で」
「たわけたこと申すな。正宗の刀を以てしても割れなんだ兜、鶺鴒斬りの槍を以てしても通らなんだ鎧をなんでうぬらの安刀で」
「いや、甲賀の念力を以てしますれば。――」
「なに? 甲賀の念力?」
「されば――おお、いっそかようにいたしてもよろしい。その伊賀衆にこの|甲冑《かっちゅう》をすべて鎧わせ、それを拙者が甲賀の念力を以て斬る。――」
「ありていに申しあげますると、拙者少々望みがござりました」
微笑して甲賀兵四郎はいう。
「この際、甲賀組を御認識いただきたいと。――実は、伊賀衆とやり合っても充分勝てるとうぬぼれておりました。あのくノ一どもが、敗れた者はもとより、必ずしも完敗したとはいえぬ者まで、みずから命を絶ったのは、この必勝の意気込みにそわなかったからでござりましょう。――さすがは伊賀衆、と、これも改めて認識を新たにいたしましたが、しかしこれにて甲賀の力量も或る程度御推量下されたことと存じまする」
顔は正雪にむけているが、あきらかに兵四郎は将軍と老中にいっている。
「かかる心底なれば、あくまで伊賀衆とぎりぎり決着の勝負、いや、甲賀の念力のほどを|御《ぎょ》|見《けん》に入れたいという拙者の望み、何とぞ|諒《りょう》とせられたく。――」
「よかろう」
と、将軍がうなずいた。
「そのほうの望みにまかす」
「かたじけのう存じまする」
兵四郎はふりむいた。
「望みにまかすとの御上意である。伊賀衆、遠慮なくその鎧と兜をつけられい。鎧が斬れて兜が斬れなんだら兜の勝ち。兜が斬れて鎧が斬れなんだら鎧の勝ち」
「まだ左様な念仏をとなえておるか」
伊賀の鴉天狗は血相ともいうべき顔になっていた。あの兜と鎧をつけたおれを斬る? はじめこの甲賀の伜は逆上乱心したかと思ったが、いま途方もないことをぬけぬけというその顔の奇妙なかがやかしさを見ると、くわっとこちらの頭のほうに血がのぼって、
「死ぬか、甲賀者」
「そうとはかぎらない。いずれが斬れても、おぬしの命はないことになる」
「いずれも斬れるわけがない。斬れなんだら、うぬは死ぬな、くノ一どもと同じく。――」
「そうしなくては、義理がたつまいなあ」
「ならば、同じこと、兜も鎧も斬れなんだ|刹《せつ》|那《な》、おれがうぬを斬ってくれる」
武具競べ、第九回戦。――もはやさすがの正雪も、銅鑼を鳴らす元気もなかった。
が――白熱の炎の中にぬうとつっ立った伊賀者は、羅馬の兜に信玄の鎧という取合わせそのものがすでに怪奇をきわめている上に、内部から燃えあがるものが、その|異形《いぎょう》の姿を、それまでに登場したどんな忍者よりも恐ろしい印象のものにした。
彼は一刀さえも抜きはらって吠えた。
「来い!」
甲賀兵四郎はつかつかと歩み寄った。ふだんの皮肉で虚無的な外貌を知らぬ者にも、たしかに奇妙と思われるほどかがやかしい顔をして。白光が十文字に交錯し、凄じい金属音が二度鳴った。血潮が垂直と水平に|奔《ほん》|騰《とう》した。
羅馬の兜は斬れた!
信玄の鎧は斬れた!
中央から斬り下ろした甲賀兵四郎の刀は、堅牢無比の羅馬の兜を割って脳天にくいこみ、稲妻のごとく強靭無双の信玄の鎧を、内部の胴もろともに|薙《な》ぎ払っていたのである。
三度目の金属音を、これは大地に鳴らしつつ、伊賀者の鴉天狗は横たわった。
そのひびきが消えたあと、あずまやにはまるで穴があいて、そこにいた人々すべて落ちこんでしまったかのような静寂が残った。
しかし、どうやら人間はいた。
「斬ったな」
正雪だ。
「羅馬の兜と信玄の鎧を」
「安物の刀で」
と、兵四郎がいった。
「甲賀の念力、御覧なされたか。――これにていかに精強な武具といえども、しょせん人の一念には敵すべくもあらず、ということをお知り願えればまず本望。――」
不敵な――というより、何か酔っぱらっているような笑顔であった。どこかろれつのまわらぬ舌でいう。
「しかし、よく考えてみると、この勝負、不公平ではござった。あの伊賀衆は少なくともわがほうのくノ一、二人と交合したのに、拙者は清潔ですから」
それからうつむいて小声でいった。
「その上、拙者にはさらに念力をふるい起すものがござった」
「何が?」
兵四郎は顔をあげ、ぐるりとまわし、彼方に坐っているもう一つの影を見つめた。
「公平を期するため、また最後の決着をつけるため、もう一回やらねばなりますまい。――」
「何を?」
「交合と勝負を」
「あの伊賀の頭領の娘とか?」
正確には伊賀の頭領の妹であった。おまみという。――
伊賀は若い頭領がいま遠国御用に出ているので、甲賀組の甲賀兵四郎に匹敵する地位の者という要求で、彼女がここへ出て来たのである。むろん出て来たときには、そのあとでこんなむちゃくちゃな死闘が甲賀組との間にくりひろげられようとは知る由もない。
おまみは実に美少女であった。甲賀のくノ一たちもこれが忍者かと疑われるばかりであったが、よくみればそれぞれそれらしい妖しい影を曳いていたけれど、この娘は夏の日の下に薄い影すら落さないような天真の美しさなのである。
その死闘のあいだ、彼女の顔には、恐怖と苦悩と悲哀の波がわたった。最後には白痴のようになり、いまはただ|茫《ぼう》|乎《こ》として白日の下に坐ったまま、ただ涙を流しているばかりであった。
「その必要はなかろう」
と、松平伊豆守がわれに返ったように口をさしはさんだ。
「もはや武具競べは終った。これ以上の勝負は意味がない」
しばし考えて、評論家のようなむずかしい顔をして、
「そもそもきょうここに起ったことは、この世のものならぬ荒唐無稽の物語と思いたいほどじゃが、物語としてもまったく意味がない。……伊豆は左様に確信しておる」
「あれも伊賀のくノ一、伊賀のくノ一にとっては意味がござりましょう」
と、兵四郎はいった。
「このなりゆきを見て、むなしく伊賀組へ帰れはしますまい。――と申して、ただこの兵四郎と勝負するのは、女ゆえのひけめもあらんか、またそれだけにてはまったく勝負は無用。ただし、あたかも伊賀衆にわが甲賀のくノ一どもをさしむけたごとく、事前に交合いたして拙者の力を|減《げん》|殺《さい》してこそ、この勝負意味があるかと存ぜられまする」
「――よかろう」
と、将軍が機械的な声でいった。
兵四郎は立って、娘の前に歩いていった。
「おまみどの、そなたとわしとの間に伊賀と甲賀の勝負をせよとの御上意でござる」
おまみは恐怖の眼をあげた。
「立たれよ」
兵四郎は、放心状態のおまみをひきたてて、厳粛な顔で俎のそばまでつれて来た。
「ただし、恒例によって、そなたとわしと事前に交合せよとの御上意です」
――やがて、夏の日光の下に、雪の花が咲いた。意志を失ったようなおまみの裸身であった。同時に兵四郎の夢想の花もひらいた。
これこそは甲賀兵四郎の夢想の花のひらくときであった。二年前、彼はこのおまみを一目見てから狂的に恋し、求婚した。兄の伊賀組頭領はにべもなく返答した。「伊賀の娘を甲賀の伜にやれるかよ」たんに不文律による拒否よりも、その声にこもる甲賀への冷蔑のひびきが兵四郎を冷凍してしまった。彼がぐれ出したのはそのときからである。――
いまその伊賀の「姫君」を、御上意のもとに白昼堂々と姦する。――まさか、きょうのなりゆきが、あれはああ、これはこうと一々予測できるものではなく、彼としても大意外事の連続といっていいが、しかしはじめに伊賀甲賀の交合云々を条件としたときに、彼に、この夢があったことは事実だ。そして先刻、彼に羅馬の兜と信玄の鎧を破らせた念力は、これが原動力であった。いかに精強な武器とて一念には敵すべからず、とばかに教訓的なことをいったが、あれは彼にとっても奇蹟の結果であったのだ。いまやその不敵な夢想は、白光と御上意のもとに、完全以上の大輪の花として咲きひらいた。
「わわーっ、わわーっ」
大俎の上で、甲賀兵四郎の途方もない声があがり出した。あけっぱなしの、歓喜そのもののさけびであった。
兵四郎は法悦にもだえながら、声をかすれさせてきいた。
「おまみどの。……忍法なり剣法、あっちの方はお達者か」
「あたしは。――」
おまみは白痴状態のからだに強烈な生命の酒を吹きこまれたようであった。天然自然にうるおった声でいった。
「あたしは知らないの。なんにも。――」
まったく妖異の|翳《かげ》をとどめない若々しい「交合第七回戦」を、扇子の骨の間から見ていた松平伊豆守は、ふとその扇を正雪の方へむけた。
「張孔堂」
正雪は白日の庭に散乱する男女八個の屍体を見つつ、なぜかひどい敗北を感じていた。少なくとも自分に対しては、あの八つの屍体は勝利者のようであった。
「御公儀の忍び組の実態を見て、何ぞ得るところがあったかの?」
正雪は、扇の骨の間からじいっと自分を凝視している伊豆守の眼に狼狽し、これには返答せず、あわてて銅鑼と桴をとって立ちあがり、すじの通らない声を張りあげた。
「武具競べ、第十回。……」
甲賀兵四郎の魂の底からのような大声がきこえた。
「参ったっ。……」
|胎《たい》の|忍法帖《にんぽうちょう》
――三月某日。
余は女を捕え、全裸とし、|牀上《しょうじょう》に四肢を|縛《ばく》し、そしていった。
「お前は余を裏切った。余は叛乱を起した者どもをことごとく|誅戮《ちゅうりく》せずんばおかざるところを、お前をさし出すならば、特別を以て一党の罪をゆるすであろうといい、お前の父はそれを受け入れてお前をさし出した。この交渉が始まったのは三カ月前のことだ。しかるにいま判明したところでは、お前は懐胎して二カ月になるという。しかもその相手は、叛乱の頭領たるあの男であるという。しからばあの男は、余と和睦の交渉中に、和睦の条件たるお前の肉体を侵害しつつあったということになる。余を|愚《ぐ》|弄《ろう》するも極まれりというべし」
いっているうちに、余は改めて燃えあがる憤怒のために、心頭もやきただれんばかりになった。
「いまにして思えばおまえの父がおまえを余にさし出したあと自殺したのは、叛乱の謀議にあずかった者としての責任感または降伏の条件として自分の娘を捧げた屈辱感からだと思っていたが、実はお前の懐胎を知って、余に対して申しひらきが立たなくなったのだな。――お前の父が自殺したのは当然だ。当然どころか、それくらいでは追いつかぬ。だから――お前を身籠らせたあの男は、先刻刑殺した」
牀上に|磔《はりつけ》の姿となり、羞恥のためによじれ、紅潮していた女の肉体は凍りついたように動かなくなり、かつ血の気を失った。
「お前ももとより誅戮すべきところだが」
余は強い意志を以て灼熱した血を冷却し、女をのぞきこんでいった。
「それだけでは余の心が癒えぬ。いまお前は妊娠二カ月だそうだ。だからあと七、八カ月、そのままの姿でここにそうしておれ。その姿で、しだいに腹が蛙のごとくふくれてゆくのを、刻々見てやろう。そして――月満ちて分娩するありさまもとくと検分し、子供が誕生したら――お前の眼前で、その子の首を斬り落してくれる」
たんなる脅迫ではない。余は事実そのつもりでいる。あれほど余を悩ましたあの男の子供をこの世に生存させては、のちのちまでの|祟《たた》りとなる。そういう政治的処断以外に、こうでもしてやらなければ、ほんとうに胸がおさまらないのだ。
「その後に於て、お前をどう処置するか、それはまだ考えておらぬ」
こういい捨てると、余は、この女の懐妊を見破り、かつこの女の世話を命じた老女一人を残して部屋を出ていった。
――四月某日。
女は依然として、|緋《ひ》の夜具に磔となっている。最初のように大の字に四肢を緊縛しておくことは、世話役の手数ともなり、かつ当人に|蓐瘡《じょくそう》のおそれがあるので、両腕の手首だけを固定することにしたが、それでも逃れるはおろか、上に覆ったものをとり払われても女はどうすることもできない。
夜具そのものが厚い上に、その夜具にとりつけて、女の手首にくいいっている綱の環は、指ほどの太さがあるからだ。
さて余は刀を杖にして、|両掌《りょうて》を柄に重ね、例によってつらつらと女を観察する。これで三カ月になるはずだが、まだ一見そのように見えない。懐胎したというのは嘘ではないかと思われ、それが嘘であることをちらと祈る心が|掠《かす》めたが、しかし世話役の老女の話によると、すでにつわりも見たし、万まちがいはないという。月華が停止しているのはいうまでもないことだ。
ただ、気のせいか、いささかふとったようでもある。ふとるべき精神的理由はないのだから、やはりこれは妊娠のせいに相違ない。もともと腰など蜂ほど細く見える女であったから、ややふとって却ってなまめかしくなったのではないかと思われる。肌など脂がながれているようにつやつやと白びかりして見える。
それが、冷たい眼で、余をじっと凝視している。
最初のころは羞恥に全身があからんだが、このごろはそういう現象も見えぬ。慣れたのか、観念したのか、あきらめたのか。
しかし、この冷たい眼を見たとたん、余はこの女が他の男のたねを懐胎したのを嘘であればいい、とちらと祈ったみずからの心を失笑した。
一時はたしかに欲しいと思った。この国に入って、あの時代錯誤な原始的一族を引見し、はじめてこの女を見たときは、その類型の少ない稀代の美貌に|瞠《どう》|目《もく》し、この女と引換えならば、危険なる彼ら一族と共存してもよいと考えたほどであった。それどころか、その後彼らが果せるかな叛乱を起しても、なおこの女を代償として、彼ら一族を|宥《ゆう》|免《めん》するはおろか、余が抱えこんでやったのだ。
にもかかわらず、女はその首領の子を|孕《はら》み、かつ公然と余にこのような反抗的な眼を投げるとは。
やはりこの女と余は、しょせん世界を異にする存在かも知れぬ。
六、七カ月あとに生まれるであろう子は殺す、この予定は不動だ。
こう決意すれば、最初憤怒にまかせて思いついたこの女の妊娠経過観察という行為も、ゆるぎなく遂行できる。
たんなる好色的な行為ではない。あらゆるこの世の現象を精細に観察し、徹底的に研究し、それによって得た知識を合理的に活用するというのが、余の信念である。余はかかるものの考え方を、わが偉大な主君から学んだ。――近代的な銃撃隊の駆使によって、あの古怪なる忍者一族を急速に降伏のやむなきに追いこんだのも、戦闘面に於ける余のこの信念の功であった。
刀を置き、しゃがみこみ、手をさしのべて女の腹にあてる。
吸いつくような触感だ。やはりふつうの女とはちがう。つきたての餅のような感じだ。指でおさえるとくぼみ、指を離すともとに戻るのが、どこやら常態の女のそれとはたしかにちがう、――ここにあの男のたねが生命を与えられて入っているのか?
女の冷たい眼が恐怖の色を帯びた。が、心配することはない。余はこの胎児を、胎児のうちに殺しはしない。
――五月某日。
外陰部がやや肥大し、湿潤となっていることは気づいていたが、きょう濃厚なる乳状のものを分泌したのを観察。老女にきけば、妊婦にはしばしばあり得ることにして病的なものではないと。
女は依然として、夜具に縛せられたままである。そして依然として冷ややかである。
なぜ女が、余の宣言によって余の意図は知っているはずなのに、かくも平然としていられるか、という疑問につき、ふと思いあたるところがあった。
女は、味方の――彼ら一族の何びとかの救援を期待しているのではあるまいか?
そういえば彼ら一族が、改めて余の傘下に入って、黙々として服従しているのがやや不審でもある。しかも飼い殺しにひとしい待遇のもとに。――それは彼らが降伏者の身分であるからやむを得ない。余といえども間諜密偵の存在意義は認めるから、将来使えるならばその方面に使ってやろうと思ってはいたが、それには少なくとも彼らの誇る古怪な術など必要としないし、待遇もさほど改める意志はない。――ともあれ、彼らは、彼らが一族の守護神とまで|崇《あが》めたあの女が余に捧げられ、現在このような状態に陥っていることは承知しているはずであるし、彼らの首領が余に|刑《けい》|戮《りく》されたことはその眼で見ているはずである。にもかかわらず、あれほど凶暴な彼らがじいっとしずまりかえっているのは、考えてみればかえってあやしい。
――ふふん。
と、余は失笑した。
――そうはさせぬ。
彼らが何かを企図しているならば、しかも知性劣悪なる彼らがそれを表に見せないのは、おそらくあの女の懐胎している彼らの首領のたねを気づかっているからであろう。だから、もし彼らが行動を起すならば、ひそかにあの女を盗み出すという策に出るであろう。
余を見て平然、というより余の背後の空間に夢みるような眼を投げている妊娠四、五カ月の女の顔を眺めて、余はいった。
「この部屋は二面は厚い壁だな、一方には、いまお前の見ている窓があるにはあるが、窓の下ははるかな下界だ、その下に、当分鉄砲隊を置くこととしよう」
女の顔色がやや変ったようであった。
「残る一方の廊下はもとより、ここまで上ってくる階段ごとに、これから当直の兵を詰めさせることにしよう」
信長から派遣された佐々成政に面従腹背し、頑として一土豪の結束を崩さず、ついに成政を左遷させた能登の輪島一族は、代って派遣された針ケ谷|掃《か》|部《もん》にも同様の態度をとったが、こんどはそうは問屋が卸さなかった。新支配者たる針ケ谷掃部が、小信長と評されるほど冷厳な人物であったからだ。とくに政治観、宗教観、その他生きてゆく上のものの考え方が、すべてにわたって彼らと次元を異にし、両者ともに共存できぬという確信を抱かせるに及んで、輪島一族は公然叛乱を起したが、針ケ谷掃部の近代的戦法と銃撃隊に追いつめられ、一族の長老たる輪島将曹はおのれの娘を代償に、若い主人と一族の生命の安全を請うに至った。
その将曹が娘を征服者に献じたのち自決したのは、ことここに至った責任を一身に負うたためか、それともその娘がすでに主人の一子を身籠っていることを知って窮地におちたためか、それは本人以外にはわからない。
ともあれ、この一件が暴露されるや、事はすでに死んだ将曹にとどまらず、胎児の父たる一族の若い主人輪島民部はたちどころに首を|刎《は》ねられ、娘のお|炎《えん》はただ禁固せられるのみか、四肢を緊縛されて、針ケ谷掃部のなぶるがままという辱しめに逢うに至った。そればかりか掃部は、やがて生まれてくる民部の子を、お炎の眼前で殺害してみせると宣言したという。――
すべては、いまは針ケ谷家に召し抱えられた輪島一党の眼に触れ、耳に入った。しかも、一党はひっそりとしていた。
当然の事と肯定したわけではない。もはや及ばずとあきらめたわけではない。すでに身柄は針ケ谷家に預けられていると屈従したわけではなおさらない。
ひそかに指令が出たのだ。
「|妄《もう》|動《どう》するなかれ。亡君のおんたねにかかわる大事である。われら三人に任せよ」
われらとは輪島一族中の幹部たる独古銅円、真壁万兵衛、|仏《ぶっ》|桑《そう》|華《げ》陣八という三人である。
輪島一族は古くから能登流の忍びの術にたけているという噂が高かったが、それらの老練者も、叛乱中、針ケ谷の鉄砲隊にむなしく|斃《たお》されて、いかにもその精鋭として自他ともにゆるす者は、いまはこの三人だけであったのだ。
一党の動揺を制しておいて、さて三人はひそかに|鳩首《きゅうしゅ》協議した。
「ともかくもおん母子――とくにお子はぶじにこの世に、また城の外へお出し申しあげねばならぬ」
と、独古銅円がいう。四十年配の|錆《さび》のある風貌の、入道頭の男であった。
「然り、亡君を思えば、それは至上命令だ」
と、真壁万兵衛がいう。三十年配の、右頬にえぐられたように傷痕のある、精悍無比の男であった。
「……しかし、亡君は、いかが思し召してお炎どのにたねを仕込まれたものかな?」
と、仏桑華陣八がいう。これも三十前後だが、忍者らしくない間のびした顔で、しかも眼はきょとんとして、ひどく虚ろな感じさえする。
「あの|期《ご》に及んでだ」
「おそらく亡君は、御自身の御気性、また針ケ谷掃部の気性から、このたびの随身とうてい長からざるものと見られて、せめてそのお子を残そうと思い立たれたのではないか」
「しかしそれはお炎どのが掃部の|妾《しょう》に献ぜられるときまったあとのことだぞ。妾に上げられれば、このような始末となることは自明の理ではないか」
「亡君のお心はいまとなっては知るよしもない。また知る要もない。――陣八、お前は甲賀より帰ってから、どうも懐疑的な人間に変ってていかん」
「いや、べつにこの疑問を懐疑的とは思わんが。――」
仏桑華陣八は、思うところあって数年甲賀へいって修行し、このたびの悲劇のまえに能登に帰って来た男であった。
真壁万兵衛が声をはげましていう。
「要はただそのお子を、母君もろともお救い申しあげることだ」
「むろん!」
と、陣八も大きくきっぱりと頷いたが、さてまた首をかしげていう。
「母君おひとりならばともかく、そのお子がなあ。事が手荒になって、万一やや[#「やや」に傍点]が水におなりなされたりすると万事休す」
それであった。
問題がここに至ると、独古銅円も歯をくいしばって|瞑《めい》|目《もく》し、真壁万兵衛もこぶしを握りしめて沈黙せざるを得ない。いままでの針ケ谷掃部という人物の冷徹なやりくちから見て、彼がこちらのこのような相談を予想していないとは思われないからだ。
密議は堂々めぐりとなり、かくて――「われら三人に任せよ」と一党に触れたにもかかわらず、実際行為は封じられたまま、二タ月たち、|三《み》|月《つき》たった。
焦る真壁万兵衛を、「万一しくじったら、とりかえしがつかぬぞ」と独古銅円が本人も歯がみしつつ制した。
そして突如として針ケ谷掃部が、お炎を禁固している天守閣の最上層――三階をめぐり、急に防備を厳重にしたという事実を見る羽目になったのだ。
三階のその一室の二面は厚い壁、一面には窓があるが、その下の地上、また他の一面にあたる廊下から階段にかけて、日夜を分たず銃槍隊が詰めている。
この重囲の中から、いかにして懐妊せる女を救うべき?
事態はさらに最悪のかたちになったにもかかわらず、真壁万兵衛はかえってふるい立った。
第一に、この事態の悪化から何やら急迫感につきあげられたせいである。第二に、この事態の悪化に、かえって「――ござんなれ、能登の忍法、眼にもの見せてくれん」と忍者魂をかきたてたせいもある。
「やるぞ」
と、或る日万兵衛が決然といった。
陣八はきょとんとした眼をむけた。
「どうやる?」
「見ろ」
と、いって万兵衛は|匕《あい》|首《くち》をとり出し、たまたま眼前にあった長屋の羽目板につき立てた。それからグルリと刃をまわした。
「ほう」
驚くべきは、その板が紙のごとく切れたことではなく、紙を切るほどの音響もたてないことであった。恐るべき練磨のわざだ。
「しかし、どこから? まわりは一尺ちかい厚い壁だぞ。まさかその壁を。――」
「おれはすでにお炎どのに逢うた」
と、万兵衛は|恬《てん》|然《ぜん》としていった。これには銅円も声をたてた。
「なに?」
「いや逢うたわけではない。話をしただけじゃが」
「しかし、世話役の婆がおるじゃろうが」
「婆といえどもよんどころない用もある」
「しかし、部屋の外には|宿直《とのい》の侍どもが詰めておるはずだが」
「ともあれ、おれは話をした。お炎どのはな。――やはり、われらの救援を信じて待っていたと仰せられた。言語に絶する女としての恥も、あのお方のやや[#「やや」に傍点]のために忍んで来たと仰せられた。話をしておるうちに、おれはのどの奥から出るおのれの泣き声に弱ったぞや」
「万兵衛、それくらいならば、なぜそのときお救い申さなかったのじゃ?」
「そう事は簡単にはゆかぬ。それには支度がいる」
万兵衛はうす笑いした。
「その支度も完了した。詳しくは、わしがお炎どのをみごと救い出してからきいてくれ」
真壁万兵衛が事を決行したのは、その翌朝というより未明のことであった。
午前四時。――この時刻、世話役の老女は必ずはばかりに立つ。十分間ばかり部屋は囚人を除いて無人となるが、窓は閉じて内側から錠を下ろしてあるし、ただ一つの通路たる廊下側には警備の武士十数人が眼をひからせてひかえている。
――と、その美しい囚人を乗せた緋の夜具が、音もなく横なりにすうと立った。両手首を固定された女のからだは、落ちはしないが、さすがに下半身はななめにすると流れる。と見るまもなく、夜具はたたみごと回転して、その裏側から同じ夜具に埋もれた女の姿が現われて、代りに部屋に横たわり、静止した。
女は眠っていた。上にかけた薄い夜具を、最初の女同様、顔の半ばまでかけているので、一見したところ、なんの変化もない。上にかけた夜具の四周が軽く縫いとめてあることなど、常人の眼にはちょっとわかりようがない。
実にこのがんどう返しは何らの音なく行われたのである。
この細工を真壁万兵衛は七日間かかってやってのけた。
ひそかにこの天守閣の三階の床下、二階の天井裏に忍びこんで、老女のわずかな不在を利して、上のお炎と会話を交す。その位置をきく。夜具の色、模様をきく。これは彼ほどの忍者だから、あえて至難ではないとして、やがてその天井裏に一式の夜具と一人の女をかつぎこんだのは驚嘆すべき作業だといわなくてはならない。夜具は同じ天守閣内の別の場所にあったものに、お炎の指定により、同様の色、模様の布をかぶせたものである。女は――女はどこから仕入れたか知らないが、顔もどこかお炎に似ているし、おまけに妊娠四、五カ月である。ただ彼女は、眠り薬で眠らされていた。
そして万兵衛はこれらの作業を完全に無音のうちにやってのけた。
頭上のお炎は、たたみ一枚に夜具が乗るように、足を動かして、徐々に移動していった。――そしてこの一夜、いまみごとに彼女は裏返しになって、三階と二階の間の天井裏へ消え失せたのである。
さらに数分、彼女を|褥《しとね》から切り離し、これを抱いて脱出する時間を要した。がんどう返しが成功したとたん、真壁万兵衛はもはやすべては成功したとさえ思った。
しかるに、その手首の環の切り離しをさえ待たず、頭上では一大叫喚が起ったのである。
さしもの万兵衛も、がんどう返しのとたん、天井裏から三匹の鼠が三階へ飛び出したことを知らなかった。鼠は何を血迷ったか、老女の出ていった戸口の隙から廊下へ走り出た。一人の武士が膝をかすめられて叫び声をあげたことから、座敷に三匹の鼠がいたことは奇怪なりとみな駆けこみ、囚人を点検して、さて大騒ぎとなったのである。
「南無三、しなしたり!」
天井裏に封じこめられてすくんでいるあいだに、徹底的な捜索を受けている物音をききとり、もはや逃れ得べくもあらずと覚悟した真壁万兵衛は、
「銅円、陣八をお待ちなされ」
とささやき、もういちどがんどう返しを行って、お炎をもとに戻したのち、眠れる女の下で、おのれもまた腹をかっさばいた。
板をも紙のごとくに切る例の匕首で。
――六月某日。
いまや余の眼にも女の懐胎は明らかに看取される。他の部分もべつにむくんでいるとは思われないが、何となく水気たっぷりといった感じで、皮膚は半透明に見えることがある。
外陰部はいよいよ柔軟にふくれあがり、暗褐色の色素沈着、きわめて湿潤。
しかも女は、自分の肉体的変化などわれ関せずといった顔である。|玲《れい》|瓏《ろう》と形容してもよろしい。
そもそも女というものは不可解だ。余といえども交合を好むことは人後におちぬが、しかしその結果、ともかくもあれほどの容量の胎児を肉体の一部から排出せねばならぬと想像したら、いかなる猛烈な戦闘をも怖れぬ余も、交合を逡巡せざるを得ない。しかし、女は――いかなるかよわき女人も、あかず分娩し、あかず交合する。女というものは、本性空想力に乏しいか、無神経なのか、不敵なのか余にはよく理解できぬ。
しかし、この女はそれにしても不敵なやつだ。先月、あのような事件が起ったというのに、これまたわれ関せずといった表情をしている。
やはり忍法とやらを伝える一族の娘のゆえか? それともこやつは、まだ仲間の救援を期待しているのか?
きゃつら一党もまた黙々として、世に塵を吹くほどの風もなしといった素知らぬ顔だ。にっくきやつらだが、しかし面白くもある。いずれは清掃せねばならぬやつらだが――余個人の安全のためのみならず、この世は理によって支配されるという理を確立するために――しかし、この女が子を生むまでには、こちらも素知らぬ顔をして待ち受けていてやる。
決してこの女やきゃつらの期待通りにはさせぬであろう。
――七月某日。
しかし再考するのに、彼らの技術だけには一顧を与えてもよいかも知れぬ。
いつぞやの忍者など、あれほどの大がかりな細工をするのに、すぐ上の老女にも侍たちにもついぞ|気《け》取らせなかったことは相当なものだ。かかるわざを利用しないという法はない。事と次第では、その技術を保存するために、彼らの一部を|宥《ゆう》|免《めん》してやってもよいと思われる。
ただ――彼らが、ときに口走る幻怪の傲語や、荒唐無稽の世迷いごとさえ捨て去るならばだ。
さきの忍者のわざのごとき、これは人間の練磨の一例として合理的に納得できるが、不合理なものを呪文のごとく信じる心性が失われぬならば、彼らを召抱えるのは、やはり余の信念に反する。
いずれにせよ、彼らがいかなる企図を思い立とうと、あの女を救うことはできぬ。あれ以来、三階の床下はもとより、念のため三階の天井裏にまで、細かい網を張りめぐらし、それに無数の小さな鈴をつけた。
だいいち、その女をつれ出そうにも、そろそろ女自身の身動きが不自由であろう。妊娠六乃至七カ月か。女のまるくふくれあがった下腹部のまんなかに耳をあてると、あきらかに胎児の心音がきこえる。トッツ、トッツ、トッツ――と、本人のそれとはちがって同じ大きさで、しかも澄んで小さく。
――八月某日。
腹部に手をあててみれば、何やら|鞠《まり》のごときものに触れる。両手ではさみ、一方の手でかるく押してみると、他方の手に衝突して、またもとの手に跳ね返る感覚がある。まるで水に浮かんだ鞠のような感じだが、どうやら胎児の頭部らしい。
しかし、人間はいかにして人間になってゆくものであろうか。男の精と女の精が溶合したのち、どのような相貌をたどりつつ、眼口をそなえた人間をかたちづくってゆくものであろうか。ふと、いちど胎児を見たいという衝動にかられる。
いつか|伴《ば》|天《て》|連《れん》に人体解剖図譜なるものを見せられた。それが余の五臓六腑とか何とかいう知識とあまりかけはなれているので茫然としたことがある。考えてみればわが国では、何かといえば腹を切るくせに、その腹腔に何がどんな風に詰まっているのか、それを学問的にたしかめた者が一人もない。――学問的にたしかめようという気さえ起した者がないということは、何たる劣等民族であろうか。ほとんどわが民族の素質に絶望感を起させるほどである。
よろしい。いつかそのうち、懐胎した女数十人の腹を裂き、その時々に於ける胎児の変貌を探究してくれよう。
今回のところは、まずこの女の妊娠及び分娩状況の観察にとどめる。いま、七、八カ月。
もはや忍者どももあきらめたと見える。
「陣八、見ろ」
夜、庭の隅の土塀のそばに歩いていった独古銅円は、ふところから一振りの匕首をとり出した。夜目にもツルリとひかるにはひかったが、なぜか普通でない光に見えた。
そのきっさきを銅円は壁にあてて、グイと円を描いた。
仏桑華陣八は見て瞠目した。壁の方をではない。銅円の|手《て》|許《もと》を見てである。さして大きな円を描いたとは見えないのに、その匕首のきっさきは磨滅して――きっさきどころか、ほとんど柄ばかりになってしまったのだ。ただ壁に白じろと、先刻匕首に見たと同様の光が残った。
「見ていろよ」
銅円は笑って、土塀に寄りそい、火打石を打った。シューッと火花が飛んだ。
と、その塀の上の円が、いま描いた通りに――しかも恐るべき速さで、白熱した光をはなち出したのである。のみならず、そこから薄い煙さえ立ちのぼり出した。
その煙が消え、さらに白熱の光が線香のような赤さに変り、徐々に黒ずんで消えたあと、銅円は|肘《ひじ》でグイとその円の中心を押した。すると――驚くべし、土塀はいま描かれた円のかたちを穴と変えて、向うににぶい音をたてて壁土が崩れおちたのである。
「いまの匕首は?」
「蝋で作った」
「蝋」
「ばかりではない。硝石やら、硫黄やら、鉄粉やら、狼糞やら、それにいまは明かせぬものもある。それが壁の向うまでしみ通って、燃える。これを作るのに、銅円、汗血をしぼった。いまのところ、この蝋剣はあと一振りしかない」
独古銅円は、ふところからもう一振りの同大の匕首をとり出して見せた。
「お炎どのの隣は無人の武具蔵であったな? そこに忍び入って、壁を焼き切れば、もはや救い出したも同然じゃ」
そして銅円はその土塀の穴からするりと向うへ抜け出して見せた。
仏桑華陣八はまだ呆れたようにその穴を眺めていたが、やがて重い口調でいった。
「しかし、その武具蔵へ忍び入ること、またそこから監視の眼を盗んで外へ逃れることが容易ではない」
「なに、人に知られぬうち、まずお炎どのをあの部屋から消えさせるのが最大の難事で、それさえ果せば、あとはそれほど気にしてはおらぬ」
「万兵衛は死んだが」
「銅円はだてに年をとってはおらぬ」
「銅円」
仏桑華陣八は穴に頭を下げた。
「年のことをいえば、わしが万兵衛のあとにつづくべきところじゃが」
「陣八」
と、銅円はふと語調を変えた。
「お前が帰って以来、このたびの大難で、まだ改めてきいたことはないが、お前、甲賀にいって何を修行して来た?」
陣八はしばらく黙っていたが、やおら長い顔をふった。
「べつにさしたることは」
「おまえ……ひょっとすると、お炎どのが好きであったのではないか? わしはそう睨んでおったが」
陣八は穴から顔をずらして、不透明な言葉をもごもごともらした。
「それで甲賀へ逃げたか。それだけの用か」
銅円はしぶく笑った。
「もしこれがあたっておるとすると、そのお前にお炎どのを救えということは――お炎どのはともあれ、その腹のお子を生かすためにいのちをかけろというのは、ちとむごいようでもある。気にすな、わしがきっと救い出して見せる」
独古銅円が事を決行したのは、その翌朝未明のことであった。
美しい囚人の閉じこめられている部屋の隅に、壁に接して着換えの衣類を入れた|葛籠《つづら》がある。やはり世話役の老女が、習慣上よんどころないところへ立っていったあと、その壁際の葛籠が、まるで見えない手に引かれたように音もなく、じりっと前へ動いた。
しかし、これは壁から手が出て、葛籠を押しやったものであった。――たちまち葛籠と壁とのあいだに、ぬうと黒い頭巾の姿が立ちあがった。
「銅円推参」
彼はささやいて、お炎のところへ滑り寄り、|褥《しとね》に縛りつけられていた両腕を解きはなった。そして彼女をひき起し、支えるようにしてもとの穴へ駆け戻った。
「かようにして、抜けられい」
まず彼が見本を示して、もとの武具蔵へ抜け出した。がっしりとした彼のからだが、蛇のようにするりと抜けた。
お炎は半身を入れて、そこから動かなくなった。
「何をなされておる。一刻をも争う場合でござるぞ」
銅円の声は焦った。お炎の顔は、|曾《かつ》て針ケ谷掃部などに見せたこともない泣き笑いの表情になった。
「わたしは逃げられない」
「な、なに?――なぜでござるお炎どの!」
「銅円どの、あなただけは逃げて下さい。だれにも知られぬうちに。――」
お炎は穴から上半身をひき抜くと、|渾《こん》|身《しん》の力をふるい起して葛籠をもとの位置に直し、それからよろめくようにもとの褥に戻っていった。
武具蔵の中で、ふさがれた穴を見て、独古銅円は|茫《ぼう》|然《ぜん》と佇み、やがてその顔に|痙《けい》|攣《れん》が走ると、これまた泣き笑いの表情になっていった。彼はお炎が逃げられないといった意味を知ったのだ。がっしりした彼のからだすら通した穴は、妊娠八、九カ月の女の肉体を通さないのであった。
が、穴の大きさは、それが銅円のなし得る極限であった。蝋を主成分とする焼き切りの匕首は、その円周を描くことでほぼ消耗してしまったからだ。そしてその蝋剣は、原料の関係から、いまこれを使いつくしてしまった以上、当分容易に補給できない性質のものであった。彼はそれを以て二本の蝋剣を作り、一本は試験としてすでに使いすてた。いまにして思えば、その両者を合して大円周を描くに足るただ一本の蝋剣を作ればよかったのだが、まさか自分の通過し得る穴をお炎が通過し得ないとは、さしもの彼にも想像のほかであったのだ。
――あなただけは逃げて下さい、とお炎はいった。が、独古銅円は暗い武具蔵にがくりと坐り、泣き笑いの表情のまま、蝋剣をおのれの腹にあてた。ほとんど柄ばかりと見える匕首にも、なお若干の有効部分が残されていたと見える。その腹のあたりに白熱した一文字が浮かびあがると、銅円はがっぱと前に伏した。
その背から薄い煙が立ちのぼった。
妊娠九、十カ月。よくわからないのだが、ここ数日中にも分娩するのではあるまいか。
いまや女の腹はまんまんとふくれあがり、張り切って、剃刀をそばに近づけただけでも、ピーッと一直線に裂けそうな感じさえする。
腹囲を計測してみたら三尺になんなんとした。
この腹囲のために、せっかく忍者が|穿《うが》った穴から逃げられなかったことを思うと、余はこの女に対してよりもあの忍者に対して失笑を禁じ得ない。あれだから忍者というやつをばかにしたくなる。
とはいえ、いつのまにやってのけたことか、一尺ちかい厚さの壁に穴をあけるとは驚くべきわざだ。あの男のそばに刃のない匕首の柄が落ちており、蝋の匂いがし、そして壁の穴は刃で切られたというより焼き切られたように見えたが、これがあの蝋の匂いのする匕首|様《よう》のものと関係があるかどうか。その前の忍者のしわざは合理的に理解し得たが、今回の忍者にはちと理を超えた異臭をおぼえる。――しかし、余はやはり不合理は信じない。
さて、女の乳房は、最初この女を裸にして見たときから、たしかに倍以上の大きさとなり、乳くびと乳輪は暗褐色を濃くひろげている。乳房をしぼると、すでに薄い液をもらす。
そして、女の腹だが、それがはち切れそうなほど膨隆しているのはよいとして、その皮膚の下に、赤いような青いような大小無数の細いすじがもつれ合って浮かんでいるのは、そも何であろう?
余の推定では、肉が裂けて、血管が透視したものと思われるのだが、いやはや、分娩ちかい女の腹というものは大変なことになるものだ。
女は胸で大きな呼吸をつづけている。しかもそのくせ、|玲《れい》|瓏《ろう》たる容貌はもとのままである。この玲瓏たる顔とこの怪麗とも形容すべき腹部とを交互に見くらべているうちに、余は突如として強烈な性欲の衝動をおぼえた。
もともと恋着した女ではあった。こんどの観測事業は、いわゆる可愛さ余って憎さが百倍といった心因から発していることを余は否定しない。しかしその後、|純乎《じゅんこ》たる学問的興味が油然とわき起って、その方の欲念はほぼ抑圧し得たつもりであったのに、またもや――最初にまさる逆上的欲望に余は襲われた。しかも、ふしぎな憎悪感をも復活させた。
歯をくいしばり、分析してみると、それはこの女をかかる無惨な姿としたその胎内の子に対する憎悪であるらしい。それにくらべれば、余の外部からの観察のごとき、かいなでの無惨にしか過ぎない。――そのような子、この眼で見たくない、ふらりとする目まいの中に、今日いまのいまこの女の腹のまんなかに一刀突き立て、その胎児を串刺しにしてやりたいという発作がつきあげてくるのを感じた。
数日のうちに、余はこの女を犯すか殺すか、いずれかの行為に出ずにはいられない予感がする。
「殿」
と、世話役の老女がいった。
「このおなご、今夜、生みまするぞえ」
「おお、左様か」
針ケ谷掃部はわれにかえり、老女が巾着のような口を片掌で覆い、小首をかしげて妊婦をのぞきこんでいる姿をどうとったか、ふとあわてたように、
「や、産婆が別に要るか」
と、きいた。
「生ませなされますか」
「――婆よ、いまさら、なぜよ?」
「生まれてくる子を見とうはない――とは思し召されませぬか、殿?」
「おお、見とうはない」
と、掃部はいった。
「しかし、余は見てやる。余が見て、この女に見せて、しかるのちその子の首刎ねてくれる。そのことはお前も承知しておることではなかったか?」
なぜ、この老女がそのようなことをいうか、と疑い、次にいまの老女の口ぶりがあるまじき僣越な語韻をもっていたことにむっとなり、さらに老女が、ただこの掃部の胸のうちをちらとかすめた考えを掌を指すように口にしたことに気がついて、掃部はきっとして老女を見すえた。
老女は、依然として巾着のような口を片手で覆い、小首をかしげて、しかしこんどはじいっと掃部を眺めていた。その眼を見ているうちに、掃部の背に、自分でも不可解な奇怪な水のようなものがながれた。
「婆、どうした?」
しゃがれた、みずからも信じられない言葉が出た。
「そちゃ……婆か?」
老女は片掌を動かして、巾着のような唇をつまみ、しずかにひっぱった。すると――顔全体の皮膚がスルスルとそこにたぐり集められ、薄いもみくちゃな皮の一塊となった。同時に、もう一方の手で、白い髷をはね捨てた。
人間は驚愕の極に達したときは、かえってとっさに声が出ないものである。
「……やっ?」
その変化を見つつ、掃部がこのさけびを発したのは、老女が完全に変貌を終え、そこにひどく顔のながい、きょとんとした眼を持った三十年配の男の姿を見出してからのことであった。顔のみならず、その背丈もニューッと明らかにのびた。
「ば、化物!」
そういうものの存在を信じない針ケ谷掃部であったが、生まれてはじめてこの声を口からほとばしらせずにはいられなかった。
「輪島一党の仏桑華陣八と申しまする」
と、相手は改めて手をつかえた。
「御老女ははばかりにて気絶なされております。お顔の皮一枚頂戴仕りましたが、相当肥厚した皮膚でござりましたゆえ、別条はござりませぬ。――」
「く、く。――」
曲者、と呼ばわろうとした掃部を、陣八は片手で抑えた。
「あいや、拙者、いまのところ殿に害意は抱いてはおりませぬ。抱いておれば、いまを待たず、先刻、殿が向うをむいておわしたときにでもそれを出しておりまする」
その言葉を全幅的に信じたわけではないが、いまの怪異をまざまざと見たにもかかわらず、まのびした顔、きょとんと驚いたような眼が、針ケ谷掃部におちつきを与えた。それに元来小信長と呼ばれるほど剛腹な、意志の強い人物でもあった。
「輪島者とな、お炎を救いに来たか」
と、彼は家来を呼ぶことをやめて、この男に向き直った。
「それはならぬぞ」
「お救いに参上したのではござりませぬ。殿へちと御相談に参ったのでござりまする」
「なんの相談」
「やはり、わが亡君輪島民部さまのおんたねを水とするという。――」
「なに? いや、それも相成らぬ。しかし、輪島一党の者がそれをいう――?」
仏桑華陣八は眼をつむった。それから、しずかにしゃべり出した。
「拙者、実は――まことに恥ずかしながら、拙者もこのお炎どのに久しく|懸《け》|想《そう》しておりました。が、亡君民部さまがこの女人を愛し、この女人もまた民部さまに心を捧げておることを知ってあきらめ――あきらめきれず、苦しまぎれに当国を|出奔《しゅっぽん》、数年、甲賀あたりをうろついておったほどでござります。拙者も、この女人が亡君のおん子を生み参らせるのは、見たくないのでござります」
「お前も。――」
といいかけて、掃部は苦笑した。
「それはお前の勝手だ」
「拙者が、いままでここに忍び入ろうとした|朋《ほう》|輩《ばい》におくれをとって、腕こまぬいておったのはこの心のゆえでござった。さりながら、このお炎どのを見捨てられぬ心はいまも同様。――さて、今明日にも御誕生の日を迎え、そのお子を眼前にて討たれるというお炎どのの心中を思えば、もはやいてもたってもおられず、せめてその直前、そのお子を水とすることで手を打とうと、かくは参上。――」
「手を打つとは何じゃ、一人合点のやつが」
と、掃部はさけんだ。そのとき、お炎があえぎながらいった。
「わたしはいやです。陣八、お退り」
「その、お子を水にすることでござりまするが。――」
と、両人の抗議など意にも介せぬ風で陣八はいう。
「水にする、とはむろんいわゆる流産のことでござるが、しかしそれは妊娠初期の流産のことでござって、もはや御分娩まぢかきいまとなっては、ふつうではこの言葉はあたりませぬ。それを拙者、やろうというのでござる。すなわち、甲賀にて学んだ忍法しゃくし返し。――」
「なに、しゃくし返し?」
「なんの由来で左様な名をつけたものか、拙者も存じ申さず、ともあれこの忍法は、胎中の子をふたたび父の精と母の精に分解還元してしまう忍法で。――」
「ほう」
針ケ谷掃部はもちまえの科学的好奇心にむんずととらえられた。
「胎児を精に戻す? それは、いかにして?」
「拙者の精を以て」
このとき、陣八は極めてひくい――沈痛とさえいえる声を出した。
「それどころか、拙者、その忍法を学んだことによって、もはや女人に拙者自身の子を身籠らせることはならず、ただ他人の子を孕んだ女人に適用して、これを水とする能のみを持つ男となり果てました」
掃部は、この男のきょとんとした眼に譬えようもない虚無の空間がひろがっているのを見た。
「お前の精を、女に適用するとは――つまり交合することではないか」
「外部的所見のみにては左様に相成りましょう」
「で、還元した男女の精は、それからどうなる? 文字通り、水になるのか」
「女の精はもともとながら、男の精はなお女人の体中にござる。放置すれば、もとよりこれは水に相成りまするが、それよりあまり時をおかず、女人に性的刺戟を加えますると、その精はふたたび活動を開始し、再度の懐妊も可能と相成りまする」
「ふうむ。――」
「御相談と申しあげるは、実はそのことが眼目で――そのときの民部さまの御精水をいかが処置すべきやと、実は拙者も未決定でござりまする」
「ともあれ、やってみい」
と、掃部はいった。実は彼の心境としてもまだあいまいであった。
「では、とり急ぎ。――」
仏桑華陣八は支度した。
――これが、彼のいう堕胎具? と掃部が舌を巻いたほどの物体が姿をあらわした。他人の胎児を水にする能だけを持つ、と本人は断わったが、それが非常に不公平なような、またこれ以上強力な堕胎具はまたと世にあるまいと思われるような偉観であった。
「いや、いや、いやです。わたしはいや」
と、お炎は両手をうねらせた。が、手首は褥にとらえられている。
「陣八、お願い、民部さまのお子を生ませて」
「ききわけのないことを仰せられる。お生みなされたとて御危害に逢われるということになっておるではありませぬか」
と、陣八はかなしげにいった。
「それにしても……もはやおれの子を生ませる女人はこの世にない、と覚悟して修行したこの忍法しゃくし返しを、相手もあろうに、あなたさまにお使い致そうとはなあ」
陣八はお炎の両足のあいだにひざまずいた。
この男は、堕胎薬の注入にひとしい、という意味のことをいった。しかし、それにしては威風堂々たるその具といい、さらに彼が外部的所見では、まるでスタートラインについた選手のように全身猛気に溢れているのを見て、
「陣八とやら」
と、掃部はおちつきを失った声をかけた。
「うぬは余を惑わして、ただその女を犯す快をむさぼろうとするのではあるまいな?」
「何しに以て」
と陣八はくびをふった。
「いざ、御覧なされ、掃部さま!」
と彼がさけんだとき、だれか「あっ」という声が聞えた。
掃部はふり返った。戸をあけて入って来た一人の侍が、この光景を見て立ちすくんだのだ。――掃部は、この侍が一通の書状を持っているのを見た。
「何か」
「右府さまよりの御書状でござる」
掃部の全身にさっと緊張が走り、それを受け取っておしいただき、かきひらいて読んで、その顔色が一変した。
「輪島者、待て」
と、さけんだ。
「もはやその儀には及ばぬ。やはり右府さまは、なんじら一族ごとき怪奇の習性ある者をお好み遊ばされぬ。余が輪島一族についてとった処置を手ぬるしとして御叱責なされ、ただちにことごとく処断せいとの御諚じゃ。――これ」
と、武士をふり返っていった。
「一同を呼び、この両人を討ち果せと申せ」
「やむを得ぬ。――」
といったのは仏桑華陣八であった。
「忍法しゃくし返し!」
彼は堕胎具の向きを、針ケ谷掃部に向けた。そのつつさきからビューッと白濁したものがほとばしり出て、掃部の頭上から雨のごとくふりかかった。
これから数分か――数十秒か――時さえもわからぬ。
そこに起った現象こそ、この世にあるものとは思われぬ大幻怪事であった。しかしそれは、人間の女人の胎内で常時行われている現象を逆行させたものであったのだ。
あっと口をあけたままの針ケ谷掃部の顔が蒼白くなり、皺だらけになった。その顔色がこんどみるみる赤味を帯びてくると、皮膚に短い毛がボヤボヤと生え出した。それから、その顔や手足に、赤い鮮麗な血管の網目がひろがり出した。全身の大きさは変らないのに、頭部と躯幹が同じ大きさに変った。すでにこのとき、この肉体的構成の急変から、その衣服も帯もズルズルと足もとにすべり落ちている。――
その巨大な頭部からいつしか眼鼻も口も耳も消え、代りにくびのあたりに魚のエラみたいものがちらと見えた。と見るまにまた手足もまるめこまれ、実に人間どころか、この世の動物とも何とも形容できない肉塊になってしまった。これは胎内にあってもまだ胎児とも呼ばれず、胎芽と呼ばれるものの巨大化した姿であった。
それがみるみる桑の実のような肉粒のかたまりとなる。無数のくびれが刻々に数を減じていって、ついには四つにくぎられた物体となり、二つにくぎられた物体となり、さらにただ一個のまんまるい薄黄色い物体となる。すなわちこれは、受精した卵子の|分《ぶん》|剖《ぼう》の逆行現象であった。
人間大の卵子。
それを武士は見たのである。むろんこれが何であるか、彼の想像を超えている。この数分|乃《ない》|至《し》数十秒の間に起った大怪異を、たんにこの世の怪異というばかりではなく、何やらいのちの根源からゆり動かしてくる恐怖に彼は凍りついたように立ちすくんで見ていたが、その物体がここでひとまず変化を小休止すると、うなされたような眼で仏桑華陣八とお炎を眺め、それから異様な奇声をあげて部屋を飛び出していった。
たちまち折り返して押っ取り刀の侍のむれが部屋に殺到して来たとき、彼らはそこにさらに信じられないものを見た。――
巨大な卵様の物体と、たたみをぬらつく乳色の液の上をのたうっているおたまじゃくしのような物体である。ほんの息つくあいだにも変化は再開され、継続していたのである。その平べったい、とがった頭を持つおたまじゃくしは、頭からすぐ出た一本の長い細い尾をうねらせて、しきりに卵子の方へ近づこうともがいているようであった。
侍たちがこの夢魔的光景に息をのんで立ちすくんでいるあいだに、仏桑華陣八はお炎を抱いてその部屋から廊下に出た。廊下を走り、三階から二階へ駈け下りても、二人をとどめる者はだれもいない。
「陣八」
とお炎があえぎながらいった。
「もう、生まれそう。早くどこかへ下ろして」
陣八は、両腕でお炎を抱いていた。まるで大きな|玻《は》|璃《り》の珠でも捧げているように。
「でも、この城じゃいや。わたしは民部さまのお子を生むのです」
「へ」
きちがいのように天守閣の下の大地を駈け出すと、まるい腹の先端が長い彼の鼻の先端にときどき触れた。そのたびに仏桑華陣八はあごをあげて、あえいだ。
「しずかに、いそいで。――」
「――へっ!」
|笊《ざる》の|忍法帖《にんぽうちょう》
「銅馬、おまえ、何人くらいの女と交わったな」
伯父の|卯《う》ノ|花錫兵衛《はなしゃくべえ》にきかれて、銅馬はちらっと警戒的な眼で見た。
「は」
「怒りはせぬ。正直にいって見ろ」
「は。――実は三百九十七人。……」
「こちらがきいたことじゃが、ようもそう正確に数をおぼえておるの」
「いや、それは研究の意味もありまして」
むろん弁解と|阿《あ》|諛《ゆ》の心でいったので、銅馬は笑いかけたが、錫兵衛はニコリともしなかった。
「しかし、よくまあ飽きの来ぬものじゃな。女など、結局どれも似たりよったりのものであろうが」
「それは、花はどの花も花だというようなものです。しかし、|牡《ぼ》|丹《たん》、|芍薬《しゃくやく》、菊、桜、その花弁の色から大きさ、めしべ、おしべの数、つき具合など千差万別、興趣無限。……」
「好きだな、おまえは。――そうでなくては勤まらぬ」
と、伯父は嘆じた。しかし、予想していた説教の気配はなく、いささか感心の語気があった。が、依然としてむずかしい顔で、
「おまえのような男前で、そう女がしんから好きというのは案外珍しい。美男というものはいつも女にチヤホヤされるから、かえって食傷気味になるはずじゃが」
と、いった。謎の生物を見るような眼で、銅馬をつらつら眺めている。
しかし、銅馬から見ると、この卯ノ花錫兵衛も謎の生物であった。
伯父と甥だから血はつながっているはずなのだが、ほとんど共通するところがない。銅馬はこの伯父がちょっとこわい。以前じぶんの放蕩ぶりについて、しょっちゅう手きびしい説教を受けたから、こわさはそれに発現するものだろうと思っていたが、その後、それは両人まったく理解できない別世界の人間だからだと悟った。
結論からいうと、実践者である銅馬に対して、この伯父はまったくの観念論者である。よくいえば、机上の研究者である。たとえばいま、女はどれも似たりよったりだ、とか、美男というものはかえって女に食傷気味になるはずだ、とか知ったかぶりでいったが、そういう伯父は、いまだ妻帯したことがない。銅馬の見るところでは、まだ一人も女を知らないのではないかと思われる。では美男かというと、これが美男の銅馬の伯父といっても、知らない者は信じないほど、三年|燻《いぶ》した|蟹《かに》の甲羅みたいな顔をしている。
そうと知ってから、銅馬はいささかこの伯父を滑稽な存在に思いはじめた。もっとも、それでもなお幾分の謎めいたこわさは残っていたけれど。――とにかく銅馬がそう伯父を解釈しはじめたころから、符節を合わしたように、伯父の方も説教をやめたようである。あきらめた、というより、銅馬を見る伯父の眼には、気のせいか、やや嘆賞にちかい色がこもりはじめたように思う。
おたがいに謎の生物と見ても、その見方の落差が逆転した感じだ。いま、伯父に女|云《うん》|々《ぬん》ときかれて、銅馬がぬけぬけと三百九十七人など答えたのはそのためである。
銅馬の心中のあなどりを、知るや知らずや、錫兵衛はなおしかつめらしい顔でいう。
「色男、金と力はなかりけり、という。一見したところ、おまえはナヨナヨとして婦女子のごとく、それでなおかつそれほどの女と交わる精力を持っているというのは珍しい。わしからみると、いぶかしい感じさえする」
「伯父上、わたしの申したことが|法《ほ》|螺《ら》だとおっしゃるのでしょうか」
「左様さな」
銅馬はしばし考えて、やがてやや意気込んだ顔をあげた。
たんにじぶんの力についての懐疑にむっとしたばかりではない。この機会に、じぶんの女好きの万やむを得ないゆえんを見せて、こんごの伯父の説教を断ち、併せて伯父の笑うべき観念論的人間解釈を粉砕しておきたいと決心したのである。
「いささか失礼ではござるが。――御免!」
銅馬は袴のひもをといて、おのれのものをあらわにした。
伯父の眼がややひろがった。――それはまさに女にも見まがうなよやかな男のものとは信じられないような体積と力感にみちたものであった。銅馬はみずからそれをとった。
数分後。――
「ふ!」
彼の口からそんな息がもれ、二メートルも離れた壁に、直径十センチくらいの白椿がピシャリと咲いた。
「なるほど。――」
卯ノ花錫兵衛はうなり声をたてた。
「これを以て、何とぞ銅馬なる人間を御理解下さりまするよう」
銅馬がにっとふりむいたとき、伯父もまた袴のひもを解き出したのを見て、彼は眼を見張った。いったいこの伯父は何をしようというのか?
たちまち伯父のあらわにしたものをのぞきこんで、こんどは銅馬は口まであけた。それは若い彼の一倍半はたしかにあった。しかもそれ自身金剛力士のような躍動感にみなぎっていた。
数分後。――
「くわっ」
錫兵衛の口から――息ではない――たしかに気合がほとばしると、銅馬とは反対の、三メートルも離れた壁に、直径二十センチくらいの白牡丹がぱあっと咲いた。
「欲すれば、わしは一夜に小便ほどの精汁を作る」
悠々と懐紙でぬぐいながら、錫兵衛はいった。銅馬の方は声もない。――
「気にすな、わしよりこの忍法|春乳精《しゅんにゅうせい》を伝授されれば、おまえとて――いや、おまえならば、あの倍ほどの花が咲こうぞ」
「忍法シュンニューセイ。……」
「わしが二十七年、いのちをかけた研鑚により自得した秘伝じゃ。銅馬、教えてもらいたいか」
「――お、伯父上!」
|唖《あ》|然《ぜん》、|茫《ぼう》|然《ぜん》としていた卯ノ花銅馬は、われにかえると、まるで、五つのパンを裂いて五千人の腹を満たしたキリストの奇蹟を見た者みたいに、おのれの袴のひもはとけたまま、錫兵衛のひざにすがりついた。
「こ、こりゃいかがいたしたことでござる? 伯父上、わたしはあなたを見そこなっておりました。お、お教え下され、その秘法御伝授下さるとあれば、わたし、いかようなるお申しつけにも従いまする!」
「教えてやろう。しかし、どのような試練にも耐えるかな」
銅馬はちょっと|険《けん》|呑《のん》な眼で伯父を見た。
「試練? いのちにもかかわるほどの修行でもせねばならんのですか」
「ばかめ、いのちにもかかわったら、いかに精汁をためても何にもならんではないか。いや、おまえのほうにはなんの別条もない。――」
「おまえのほう、とおっしゃると?」
「おまえは、ただ見ているだけでよいのだ」
「何を?」
「銅馬、おまえは千賀吉左衛門の娘、お関が好きだといったことがあるな」
同じこの|足《あし》|摺《ずり》藩の忍び組の娘である。二年ばかり前、彼はその娘にプロポーズして、吉左衛門に、けっ、なんのこの女たらし、と手ひどく拒絶されたことがある。可憐にしてやさしい美しい娘だし、彼はいまでも大いにみれんがあった。
しかし、伯父がいま突如としてその娘の名を持ち出して来たのはなぜだろう? 銅馬はこの伯父がじぶんをとらえて妙なことを問いかけ、妙な行為を見せたのに、何やら深い魂胆のあるらしいことにはじめて気がついた。
「お関という娘を、つらつら見とうはないか」
「お関どのを見る?」
「あの娘の行状を、そっとのぞいて見る気はないか」
「どうも、よくわかりません。お関どのに何か変った秘密でもあるのですか」
「いや、べつに大したことはない。ふつうの娘だ。――ただその娘の一日一夜を、天井裏からのぞいて見る、そのことがおまえが春乳精の秘伝を受ける資格を得るための試練となるのじゃ。やって見る気があるか、銅馬」
何が何だか、さっぱりわからない。伯父の忍法春乳精なるものも、その娘をのぞき見することが秘伝を受ける資格試験となるということも、よくわからない。そもそも伯父がなぜいま自分に対してそのようなことを思い立ったのか、いささかぶきみな感もある。
しかし、いまさらしりごみできないなりゆきであったし、それにじぶんの惚れた娘の一日一夜をのぞき見することは試練であろうがなかろうが、銅馬にとって大いに好奇心をそそられることであった。
数日後の一夜、卯ノ花錫兵衛は銅馬をつれて、黒頭巾黒装束の姿で千賀吉左衛門の家へ忍び込んだのだが、びっくりしたのは、天井裏へ入るときの錫兵衛の体さばきのみごとさであった。机上の忍法学者にすぎないと見ていたこの伯父は、このような基礎動作にも、あきらかに年期の入った驚くべき熟練ぶりを見せた。
さらに眼を見張ったのは、その天井裏に一枚の夜具さえ敷き、そのまんなかに太い竹の筒が一本にゅっと立って、その口にはめたギヤマンに眼をあてると、下の部屋がぜんぶ視界に入るからくりまで支度してあったことだ。
「……こ、これをお関どのが知っているのですか?」
「知っていたら、こちらがのぞき見する意味がないわい」
「……吉左衛門どのは?」
「まだ知らせてはおらぬが、これはあとで知らせる必要があるかも知れぬ」
「ひえっ、あとで、知らせるのですか! こんなことをしたことを」
「事情をいえば、吉左衛門は了承する。それより、お家のためとあれば、もっと忍びがたきことでも、吉左衛門は忍ぶであろう」
「お家のため?」
「しいっ、まず、のぞけ、銅馬」
銅馬はのぞいた。――それから、一夜一日、ギヤマンに眼をあてつづけた。
そこは四帖半ばかりの小さい部屋で、貧しい忍びの組の侍の娘の居室らしく――いや、小さな鏡台と、針仕事の途中らしい道具類を除くと、そこに住むものが若い娘だとは信じられないような質素な部屋であった。
その娘の影はまだなかった。が、これがあの娘の立ち、坐り、息づく場所かと思うと、銅馬には五彩の霧がかかっているような気がした。
「好きかな、銅馬。……お関を」
「は」
「お関を嫁にもらってやるといったら、いまでもおまえ承知か」
「……は」
銅馬は息のつまったような声を出した。
「あの娘はしっかりものじゃ。三百九十八人目で、おまえとどめを刺されることになるおそれがあるぞ」
伯父がささやいた。もう女遊びはできなくなるかも知れぬといっているのだ。
実はお関のことがだめとわかったとき、銅馬はむろん百何十人目かの女性研究の最中であったが、もしお関と結婚できるとすると、そういう怖れがあるな、と彼も考えたことがある。しっかりもの、というより、あのやさしげな貞潔さに縛られるような予感があって、この千変万化の快楽がそれで封じられるとなると考えものだ、いや、この話がこわれたのは、かえっておれの倖せかも知れん、と思ったが。――
いま銅馬は、それはじぶんが振られた負け惜しみにすぎなかった、と自覚した。
彼女が部屋に入ってくるとき――まだ入って来ないうちから――彼はドキドキした。天井裏から窃視するという異常な経験のせいもあろうが、女性に対して彼がこんな心情になることは珍しい。
やがて、お関は入って来た。つつましやかな身なりなのに、狭い部屋にさすがにぱっと花がひらいたような感じがした。彼女は縫物と、重箱をかかえていた。重箱をそばにおいて、針仕事をはじめる。べつになんの変ったこともない。しずかな晩春の夜である。
むろん、彼女はいつまでもそこにじっとしてはいない。不規則な時間をおいて、何か用があるらしく、|楚《そ》|々《そ》として立ってゆく。その動作からみても、彼女が天井裏からのぞかれているとは、まったく気づいていないことはあきらかであった。
いちど彼女を襟くびの真上から見下ろす角度に恵まれたことがあった。夜で、|行《あん》|灯《どん》の灯は暗いのに、銅馬の眼には、その背中の柔らかいすじから、意外に大きい臀部のくぼみまで見えたような感じがし、彼はごくりと生唾をのんだ。
「伯父上」
|嗄《しゃが》れた声で、彼はささやいた。
「わたしは、三百九十八人目で打ち止めにしてもよろしゅうござる」
やがてお関は、重箱をあけた。|牡《ぼ》|丹《た》|餅《もち》が入っていた。彼女は箱のまま膝において、箸でそれを食べはじめた。たちまち三つ食べた。いささか興|醒《ざ》めではあったが、食べる姿はやはり愛らしかった。
「夕食はしなかったのでしょうか」
「した。あの年ごろは、よく腹のへるものじゃ」
錫兵衛も、しかしややあきれかげんであった。
「それにしても、よく食うの」
お関は、重箱に入っていたものを、五個たいらげた。それから――腹のくちくなったのと、夜もふけたせいであろう、上をむいて、あくびをした。ぎょっとするほど大きな口をあけたが、あくびの声はやはり愛らしかった。
「や、蒲団をしきはじめた。寝るぞ」
お関の裸身が見られる! 銅馬は伯父から竹眼鏡を奪いとり、眼を皿のようにしておしつけたが、お関は裸にはならなかった。寝巻にも着かえず、ただ重ねたきものの一枚をぬいだだけで、あとはそのまま夜具にもぐりこんだのである。
灯を消した。――
「もう何も見えぬ。まず、おまえも寝るがいい」
すぐに錫兵衛はすやすやと寝息をたてはじめた。しかし、銅馬はむろん眠りがたかった。
竹眼鏡の世界は、|闇《あん》|黒《こく》である。その中に、お関は眠っている。灯が消えると、彼の眼に浮かぶのは、灯を消すまえ牡丹餅を食べていたお関の姿ではなく、それ以前の――往来でゆきちがったりするときに見たお関の楚々として清純な姿であった。
いびきの声がした。
「しいっ、伯父上」
あわてて錫兵衛をゆり動かそうとして、銅馬は気がついた。ゴウ……ゴウ……ゴウ……という乾いた材木をこすり合わせるようないびきは、下の部屋から上ってくることに。
そのいびきの声が、ふっととまった。春の|闇《やみ》の中から、あきらかにねごとが聞えた。
「……ぼたもち……」
それから、南無八幡大菩薩、|放《ほう》|屁《ひ》の音がした。またいびきが|奏《かな》でられ出した。
翌日である。銅馬はまたギヤマンをのぞきつづけた。
朝のうち、お関が鏡に向って百面相のような顔を作るのを見た。ときどきニッコリ笑って、どんな笑顔がいちばん魅力的に見えるのか研究しているらしいあんばいであったが、相手もいないのに一人で笑顔を作っているのを見るのは、やはりいささかぶきみな眺めではあった。
午後になって、やはり同じ組の娘が遊びに来た。どんな女でもどこかに魅力を見出すのに一つの天才を持っている銅馬も、こればかりは首をかしげる、狐みたいに口のとがったおしゃべりの娘であった。それと、お関は話している。べつの娘の噂を。
しゃべる時間は、相手の十分の一くらいではあったが、しかしお関のおちょぼ口の批評は、充分相手の量に匹敵する|辛《しん》|辣《らつ》なものであった。――
「どうじゃ、嫁にもらう気はあるか」
「は。……いや」
銅馬はさすがにやや辟易の顔であった。
しかし、伯父はどういう心で、お関の一日一夜を見せたのであろう。あかはだかの女を見せて、自分に幻滅を与えようというのであろうか。が、それにしても、お関にいまさら幻滅感をおぼえさせて、それが何になるというのか。
「嫁にもらわずともよい。犯す気があるか」
「――犯す?」
「気力があれば、犯して見い」
銅馬は仰天した。しかし、錫兵衛の眼がかすかに笑っているのを見ると、わけもわからずむらむらと反抗心がわき上るのをおぼえた。
――どうやら、仔細は知らずこの伯父は、例の観念論的な実験をじぶんに試みようとしているらしい。実践論者として、断じてそれに負けてなるものか。
「それは、やれます。むしろ、あの娘がいかに人間的であるか――いかに生なましい一人の女であるかを知って、以前にまさる親近感をおぼえたくらいで」
「そうか。では、やって見るか。――娘はいないようじゃ。いまのうち、出よう」
実に驚くべきことに、やがて天井裏から這い出した錫兵衛は、何くわぬ顔で表から訪れて、千賀吉左衛門と会い、それから長時間、何を談合していたのか、外に待っていた銅馬をふたたび呼び入れたとき、
「話はついた。お関を犯せ」
と、むしろ厳然と命じたのである。
さらに驚くべきことは、いつか銅馬を鼻で吹きとばした千賀吉左衛門が、感情を恐ろしい意志力でおさえた表情で、黙ってお関の部屋のほうにあごをしゃくり、さらにさらに驚くべきことは、茫然としてその部屋に通った銅馬の前に、お関が以前の通りの可憐楚々たる姿で――いや、|俎上《そじょう》にわななく香魚のように、観念し切って横たわっていたことであった。
数十分後、銅馬はその部屋を出た。
「どうであったな」
と、錫兵衛が、珍しく好奇心にみちた眼をむけてきいた。
銅馬は酩酊したようなさくら色の顔でいった。
「わたしの眼力狂わず、三百九十八人目にふさわしい味でござりました」
「で、何度」
「……三度」
そもそも伯父卯ノ花錫兵衛は、いかなる意図を以てこんなことをやりはじめたのか。果然、銅馬はその片鱗をちらと見た。お関を犯しつつ、彼女からきいたのである。「父から、お家のためだ、と申しきかされたのでございます。……」とお関はいった。しかし、それ以上は彼女も知らなかった。
お家のため。――そうか、そんなことでもなければ、あの伯父がこんな破天荒な行為に乗り出すはずがない。しかし、この破天荒の行為がお家につながるとは、銅馬がいかに想像力をふるっても連結のしようがなかった。
ぶきみさが生じた。しかし――「これがお家のためになるとあれば、いよいよ以てあとに引けんではないか」ついに銅馬はこう結論した。伯父がどのような目算でじぶんに試練を課しているのかはまだわからないが、このような試練にうしろを見せては、じぶんの存在価値、人生目的をみずから抹殺することだ。それに、例の「春乳精」という褒美もある。……
ほんとうのところは、銅馬は女が好きで好きでたまらないのであった。どうしてまあこう好きなのだろうと、じぶんでも奇怪にたえないほどである。とにかく、われながら水もしたたるような美男で、町を歩いてちょっと流し目を送ると、たちどころに女が手に入るので、貧乏な忍び組のじぶんが全然女に不自由しないのだが、これがもし|美《い》い男でなかったら、おれはいったいどうしたろうと、ときに戦慄したり、また天に感謝の眼を投げたりする。
その銅馬だが――それから数日後、ふたたび錫兵衛から強制された行為には、ううんとうならざるを得なかった。
組の中に、お沢という女がいた。いちど結婚したのだが、すぐに夫に頓死されて実家に戻っている女であったが、実に濃艶な美人であった。ややふとりじしだが、皮膚は真っ白なつやをおびて、やや厚目の唇は、雨の日の椿の花のようにぬれている。
むろん銅馬はちょっかいをかけたことがあり、お沢のほうでもただならぬ眼つきをしたのだが、ここにもこわい|仁《に》|科《しな》武太夫という父親がいて、ついに銅馬は寄りつけなかった。町の女なら知らず、なまじ同じ忍び組の中だけに、まかりまちがうと大変なことになるのだ。
そのお沢の家に、錫兵衛につれられていった銅馬は、なんと鎖でお沢と結び合わされてしまったのだ。むろん、父親の武太夫も承知の上で、彼自身、錫兵衛といっしょに二人を鎖でつなぐ作業をした。
ただの鎖ではない。二人は向い合って、犬のように鉄の首輪をはめられ、その首輪が三十センチほどの鎖でつながれているのだ。
「食べ物はそこにある」
と、武太夫は悲痛な声でいって、大鍋と朱塗りの|桶《おけ》を指さした。
「三日たったら、はずしにくる。それまで、こうして二人で暮せ。では」
と、錫兵衛がいって、二人の老人はそこを出ていった。
さて、それから何が起ったか。起るべきことは起った。すでに起り終えたのに、なお二人は離れることができなかった。どんなに離れても、女の豊満な熱い乳房と勃起した乳くびは、絶えることなく銅馬の胸に接触していた。そしてまた起るべきことが起った。
朝が来たとき、卯ノ花銅馬は、その朝の光に|曾《かつ》て知らなかったような惨憺の色を感覚した。そしてすぐ眼前の巨大な女の顔に、鼻毛までまざまざと見た。艶麗な顔と鼻毛の対照は、恐るべき淫猥の印象で彼をつつんだ。そしてまた起るべきことが起った。
消耗がひどいだけに空腹も甚しく、二人は大鍋で食欲をみたした。鍋には卵や油でいためたニラなどを炊きこんだ|粥《かゆ》があった。それが、故意か失念か、箸も茶碗もないのである。やむを得ず、はじめは手づかみで食べたが、顔が近すぎて食べづらく、ついに銅馬が犬のように鍋に顔をつきこむと、女の顔もそれにくっついて来た。……その二人の姿のあさましさ滑稽さに、銅馬は奇怪な快感をおぼえた。
ともかくも、食べ物はあったが、水がなかった。朱塗りの桶に満たされているのは酒であった。やむを得ず、これも口づけで飲み、のどの渇きにまたそれを飲んでいるうちに、二人は当然酔い|痴《し》れた。そしてまた起るべきことが起った。全身緋牡丹のように染まって、あえぎ、挑み、のしかかってくるのはお沢のほうであった。
起るべからざることも起った。
最も起るべき当然事ともいえるが、つまり、|排《はい》|泄《せつ》現象である。これは老人たちも念頭にとどめておいてくれたとみえて、部屋の一隅に大きなたらいが置いてあった。|苦《く》|悶《もん》のはてに、二人はこれを利用しないわけにはゆかなかった。異臭はみちたが、一人がそこにゆけば、もう一人も同じところへついてゆかないわけにはゆかなかった。そして三日目。――この不自然な拘束のためか、酔いのためか、消耗のためか、卯ノ花銅馬はそのたらいの中に尻もちまでついてしまったのである。
錫兵衛がやって来たとき、二人は人間の姿ではなかった。まさに二匹の人間獣であった。
「どうであったな」
と、|恬《てん》|然《ぜん》として老人はきいた。
「三百九十九人目は」
卯ノ花銅馬は半病人になっていた。精神状態も半痴呆化していて、伯父の質問もよくわからないらしかった。
「あたら美い男もかたなしじゃな。費用は出すが、町の廓にいって洗ってくるか」
銅馬は身ぶるいの反応を微弱に示した。
「女は、もう結構でござる。……」
しかし、えらいものだ。
「伯父上、わたしの試練とやらの御褒美に春乳精の忍法を御伝授下さるとの約束ですが、先日のごとき途方もない試練なら、その前にあの忍法を御伝授下さるべきではなかったでしょうか」
十日もたつと、銅馬はこんな冗談がいえるようになった。
「いや、正直に申して参りましたが、何より参ったのは体力の消耗で、それさえつづけば――いま思い出すと、神秘夢幻の境に|蕩《とう》|揺《よう》していたような思いがいたします」
「もういちどやってみてもいいというか、銅馬」
「いや、あれはもう願い下げにいたしたいが……とくに、お沢どのは、もうたくさん」
銅馬はややせきこんできいた。
「伯父上の試練とやらは、まだ終らないのですか?」
「もう一つな」
「も、もう一つ? ど、どんなことを?」
「また、女と鎖でつなぐ。――ただし、心配するな。お沢ではない。お|頭《かしら》のところの|文《ふみ》|世《よ》どのじゃが」
「――えっ、文世さま?」
また鎖でつなぐ、ときいたときはぎょっとした表情をみせた銅馬も、その名をきいて奇声とも嘆声ともつかない声を発した。
それはこの足摺藩の忍び組首領|香《こう》|坂《さか》|讃《さぬ》|岐《き》の一人娘である上に、実に珠をきざんで作ったかと思われるほどの美貌の娘であったからだ。たんに首領の娘だというばかりでなく、銅馬はほとんど神性をすらおぼえ、さすがの彼もいまだ曾て秋波を送ったこともない。
「文世どのとならいやではあるまいが」
「いやも、応も――そんなことを、お頭が御承知なされますか!」
「きけ、銅馬、そもそもこのたびのこと、はじめからお頭の御命令である」
粛然として、錫兵衛はいった。
ひどい恐怖が銅馬をとらえた。お頭の命令だと? そういえば、伯父のみならず、千賀吉左衛門も、仁科武太夫も――おお、みんないったい、このおれをどうしようというのだ?
しかも、もはや逃げることもならぬ雰囲気で、その翌日、彼は錫兵衛にひったてられて首領の家にゆき、そして土蔵の中でその娘とつながれてしまったのである。――なんたることか、文世はすでにこの世の人ではなかった。
「昨夜、仔細あって、毒をのんで死におった」
現われ出でた海坊主のような首領香坂讃岐は、沈痛荘重の語韻でいった。
死人と鎖でつながれた卯ノ花銅馬は、驚愕と恐怖のあまり、なぜこの娘が自殺したのか、それをきく余裕も持たなかった。
とにかく、彼は美女の屍体と、十日間、土蔵の中に閉じこめられてしまったのだ。晩春はすぎて、そろそろ夏の季節に入っていた。そして彼が神性をさえ感じた美少女の屍骸は、徐々に変貌していった。
雪のように白く冷たい肌が、やがて薄青い死斑を浮かべはじめ、甘臭い屍臭をはなち出し、それが大智度論|初《しょ》|品《ぼん》にいう死の|膿《のう》|爛《らん》相に変ってゆく姿は、描写するにしのびない。
発狂しなかったのが、ふしぎである。十日目、香坂讃岐と卯ノ花錫兵衛が土蔵に入って来たとき、銅馬は屍体のすぐそばに坐って、うつろに眼と口をあけていたが、そのくびすじのあたりを這っている|蛆《うじ》にも気づかない風であった。
「卯ノ花銅馬」
と、讃岐はいった。
「足摺忍び組として命令を下す。お|漣《れん》のお方さまのお心をとらえよ」
錫兵衛が説明した。
主君足摺土佐守さまはいまこのお国元に御帰国中であるが、日夜刻々御|憔悴《しょうすい》の度を深めておわすはなんじも知るところであろう。これはひとえにお国御前お漣のお方さまの肉の|鉋《かんな》のゆえである。捨ておけば御出府までおいのちがもつかどうかも危ぶまれるありさまだが、それこそ国家老馬宿大膳の狙っているところだ。すなわち奸臣妖姫の天を恐れざる大陰謀である。
さりながら土佐守さまは、まったくお漣のお方さまに魂をあずけたまい、ただ|諫《かん》|言《げん》のみを以てしてもお手討ちを受ける運命のほかはなく、かくて殿をつつがなく御出府させ申すには、いそぎお漣のお方さまの魂をよそに奪うよりほかないという判断に達した。さいわいにお漣のお方さまは、淫事にかけては大魔女のごときお方ではあるが、おん頭脳のほうは恐れながら白痴にちかいところがおわす。
そのお心をとらえるのがなんじの任務である。なんじを城の奥向きの下男として入れ、お漣のお方さまの眼にふれさせるときは、なんじの抜群の美男ぶりは、必ずやその心魂を奪うであろう。いや、断じて奪って、お漣のお方さまから殿をお放ち申しあげねばならぬ。
七|縦《しょう》七|擒《きん》、お方さまを充分にとろかしつつ、しかも相手はかりにも主君の御寵妾である。もとより不忠不倫の所業あってはならぬが、なにせお方さまは傾国無双の大淫婦、あちらからなんじをお誘いなされるおそれは充分にある。逆に万一、なんじが肉の虜となっては、こと水泡に帰するのみか、馬宿大膳の一撃をくらうこと火を見るよりもあきらかである。
水に入って濡れざるその綱渡りの任務を果させるべく、われらはなんじの女性観を洗脳した。
「まだ女が好きか、銅馬」
と、錫兵衛が不安そうにささやいた。
糸のように細い声で、銅馬は答えた。
「……メ、メ、めっそうもない。……」
「すべては江戸家老の天羽さまの御依頼じゃ。このこと首尾ようしとげたあかつきは、積年不遇の星の下にあったわが足摺忍び組にも一陽来復の日がさそうぞ」
と、讃岐がいえば、錫兵衛もいう。
「これを果すべきものは、おまえのほかにない。殿が御無事で御出立に相なれば、そのときこそ例の褒美、春乳精の忍法を伝授してつかわそうぞ」
それから、つけ加えた。
「女性恐怖症にして、馬のごとき精汁の所有者。これは矛盾しておるようじゃが、これくらいの矛盾は弁証法的に克服せねば、忍びの一族に生を|享《う》けた男とは申せぬぞや」
半月ばかりたって、香坂讃岐の家に使者が来た。ちょうど卯ノ花錫兵衛も千賀吉左衛門も仁科武太夫も来て、ひたいを集めて談合しているところであった。
「なに、城から銅馬の使い?」
書状を見た。
「私儀、もはや精汁の蓄えなし。火急、春乳精の忍法御伝授を乞う」
と、あった。
四人は顔を見合わせた。書状をとどけた使いの男が走り去ったのにも気がつかず、
「蓄えなし、と? なんに使った?」
讃岐がけげんな顔をしたとき、卯ノ花錫兵衛が脳天から出るような声をあげて躍りあがった。
「きゃつ――|笊《ざる》に水を汲むような奴。さてはまた、しょうこりもなく四百一人目にかかりおった!」
外でどっという何百人かの喚声があがり、たしかに馬宿大膳の指揮する声がきこえた。
|転《てん》の|忍法帖《にんぽうちょう》
忍者|穴《あな》|吹《ぶき》|大《だい》|器《き》が|豁然《かつぜん》として、前人未到の妖法「陰陽変」に悟入したのは次の次第による。
二年ばかり前のことだ。彼は首領|馬立牛斎《まだてぎゅうさい》に、その娘との結婚を申し込んで拒否された。
「うぬは、ずく[#「ずく」に傍点]の研究のさなか、左様な野心を抱いておったのか」
と、牛斎は大喝[#「喝」は底本では「キ」DFパブリW5D外字=#F3B7]した。
「どうりで、たたら[#「たたら」に傍点]炉が、わしの申しつけた通りうまくゆかぬと思うておった。――なみの刀鍛冶すら刀を打つときは|潔《けっ》|斎《さい》する。そのような邪念あって、なんで炉がうまく燃えるものかは。お雪はうぬにはやらぬ。これは絶対じゃ」
大器は頭蓋骨からすべての血がひく思いがした。かんたんにはゆかぬことと覚悟はしていたが、「絶対」というような言葉を以て拒否されようとは意外であった。
馬立牛斎は満面朱に染まって、文字通り頭から湯気をたてていた。異常なばかりの激怒ぶりであった。――大器のひどいしょげぶりから、自分の異常さに気がついたのであろう、牛斎は急に声をおし殺した。
「いや、おまえばかりではない。お雪は忍び組のだれにもやらぬ」
赤津藩の忍び組の女は外部へ嫁にやらぬのが|掟《おきて》だ。――大器は顔をあげていった。
「すると、お雪どのは永遠に。――」
馬立牛斎は何も返事しなかったが、その顔は厳粛荘重であった。
――あり得ることだ、と大器は考えた。牛斎のいうところによると、お雪は永遠の処女のままにおくということになる。ふつうの娘なら非常識なことだが、お雪にかぎってはあり得ることだ。
あり得るどころではない、それが当然かも知れない、とついに大器はうなずいた。そして自分がお雪をくれなどと申し込んだことが途方もない非常識なことで、牛斎の怒りがもっとも至極なものに思われて来た。
それはお雪の異常な美しさを頭にえがいたからであった。容貌|魁《かい》|偉《い》な馬立牛斎からお雪のような娘が生まれたのはふしぎ千万だが、ほかのこの世のどんな親を考えても同様にふしぎであったろう。たんなる美しさではない、その名のごとく清浄潔白、むしろ透明を思わせる肉体だが、それを|透《とお》して内部を見ても、絶対にいとわしい内臓や汚れた邪念などありようがないとさえ感じられる。――
聖処女。
むろんそんな言葉は知らないが、大器の頭に浮かんだのはまさにそのイメージであった。
なぜ、しかし牛斎は自分の娘にそんな運命をあてがおうと考えているのだろう、と、いちどちらっと疑問に思った。ひょっとしたら牛斎は――忍び組の若者たちすべての|渾《こん》|身《しん》の修行や研究の炎を、お雪という天上の風で煽ろうとしているのではあるまいか?
お雪を熱い頭で考えているのは自分だけではない。忍び組の若者すべてが、首領の酷烈な要求にあえぎあえぎ服従して研鑚しているのは、掟よりもそれが根源となっていることを大器は知っていた。知っていればこそ、焦燥してふらふらと牛斎の前に出てそんな申し込みをしたのだ。
が、大器はすぐに恥じた。そんなかけひきのたねに考えるには、あまりにも|無《む》|垢《く》なお雪であった。その清純さは理屈ぬきであった。――
――で、馬立牛斎の一喝[#「喝」は底本では「キ」DFパブリW5D外字=#F3B7]のもとに拒絶されて、そのときは大器は案外納得して退散したのだが、しばらくしてふたたび絶望がぶり返して来た。
ほかのだれにもやらない、ということだけで、自分の空虚が満たされるわけではない。いわんや、自分のお雪への恋心は、ほかの連中とは比較を絶する、と信じているに於てをやだ。
「お雪はうぬにはやらぬ、これは絶対じゃ」
その牛斎の声が、おどろおどろと鼓膜に鳴りつづけた。まさに絶対的であった。
飢餓がきわまるといちじ高熱を発するように、穴吹大器は数日のあいだうつらうつらした。自分の日課であるたたら[#「たたら」に傍点]炉の前に坐って、ふらりと炎の中へおちかけて、そばにいた仲間にあやうく抱きとめられたことがある。たんなる|煩《はん》|悶《もん》のためではない、彼はそのときゆらめく炎の中にお雪の幻影を見ていたから、抱きとめられないでその炎に焼かれていたらむしろ本望だと思ったくらいであった。
その熱病のような頭に、ふといつかきいた仲間の一人の言葉が甦ったのである。
「油戸にお雪どのに似た女がいるぞ。――」
油戸とは城下町の遊廓のある場所の名だ。そこにそんな遊女がいるというのだ。
そして、そのとき、その女のところへ登楼した経験を、きわめて|淫《みだ》らな描写を以てしゃべり出したその男を、大器はいきなりなぐりつけたものだが、いまそのことが突然浮かんで来たのだ。
もしお雪に対して淡雪ほどの望みがあったら、大器はそんなところへ足をむけなかったろう。しかしお雪は、もはや絶対に無縁な別世界の女人であった。
……で、大器は一日、ふらふらと夢遊病者みたいに油戸の|廓《くるわ》に出かけていった。その日まで彼は童貞であった。
そういえば、そう見える、というだけの遊女であった。それどころか穴吹大器は、どこが似ているのだ、ばかな! と心中に憤激をおぼえたほどであった。
にもかかわらず彼はその日、おまんというその遊女を抱いたのである。そして。――
憤激してその女を抱いたにもかかわらず、彼は生まれてからいちども経験したことのない、いやこの世のものならぬ極楽境に魂を飛ばせたのである。
童貞であったから、法悦に達するのも早かった。一触即発とはまさにこのことだ。ところが、彼の場合――それからが長かった。十数分にわたって、法悦の極に達しつづけたのだった。
「うそ! うそ! うそ!」
と、遊女はあえいだ。はじめなんのことかわからず、遊女というものは、こういう場合こういう発声をするものかと大器は思った。
「はじめてなんて……うそ!」
――大器があとでみずから検討してみて知ったことだが、もともと彼の|陰《いん》|嚢《のう》は常人の一倍半はあった。そして、探ってみると|睾《こう》|丸《がん》そのものの大きさは、常人の二倍はたしかにあった。ふつうの男性の射精時間はほんの一時だときいて、あとで驚いたものだが、彼はそれが十数分にわたって継続するらしい。その原動力はやはりこの強大な睾丸にあったのであろう。
十数分にわたって熱湯のごとき噴射をあびつづけて、おまんの悩乱もまたその極に達し、もだえ、のたうち、その唇から白っぽいよだれとともに、人語とは思えない声があふれ出た。
そして――なんと、おまんの声はお雪に似ていたのだ。むろんお雪がそんなあられもない声を出すわけはないが、顔は噂とは似ても似つかぬと思われたのに、声質だけはどこかたしかにお雪と一脈相通ずるものがあったのだ。――
この相似と懸絶との交響の中に、大器は幻想していた。
濡れたまつげをふるわせているお雪の眼を。|紅《べに》を刷いたようなお雪の頬を。赤い唇をひらいて舌をあえがせているお雪の口を。波打っているお雪の乳房を。汗でねばりついているお雪の|繻《しゅ》|子《す》のような腹を。そして自分にからみつき、爪をたてているお雪の手や足を。――
それが脳髄に乱舞し、旋回し――いや、現実の全感覚になまなましく灼けついたとたん、
「熱っ。……溶けるう。……」
そんなさけびをあげたまま、おまんは動かなくなった。大器も腰のあたりに一時灼熱感をおぼえ、それから一帯が蝋涙みたいに、とろっととろけた感じがした。
数十秒たっておそるおそる腰をひいてみた。
何のこともない。相手の肉体にもべつに異常は見られない。……ただ両こぶしをにぎりしめ、眼をつりあげて大の字になっているばかりである。
気絶していたわけでもなかったと見えて、さらに数十秒たってから、遊女がうつろな眼をひらいてつぶやいたのが、大器の心からなる述懐と同時で、かつ同じ言葉であった。
「これほどよいものとは知らなんだ。……」
――こうして彼はまず童貞を破ったのである。この体験が尋常なものでないことを遊女は知っていたが、大器の方ははじめてのことだから、だれでもこういうものか、と思いこんでいた。
お雪への憧憬はまだ消えなかったが――いや、それどころかますます昂まって、数日後、彼はまたふらふらと油戸の廓のおまんのところを訪れた。そして実に驚くべきことを耳にしたのであった。
つまり、おまんのところへ、大器につづいて登楼した客の男根がぬけてしまったというのだ。仰天してあわててもと通りに接続したところ、その付着部分あたりがとろとろにとろけていて、しばらく固定していると無事つながったという。――しかし、その後の客にはこんな怪事は起らなかったという。
「……あのひとのせいかも知れない」
と、おまんがいい、そんな荒唐無稽の話はおまんとその客の合作したでっちあげだといってきかなかった遊女が、その日の大器の|敵《あい》|娼《かた》になった。
すると――この遊女の声はべつにお雪には似ていなかったが、感覚からおまんを媒体にしてまた大器はお雪を幻想し――要するに、また同様の怪異が起ったのである。
ここに於て穴吹大器は、じぶんが先天的に――少なくとも最初に童貞を破った日から、世にも異常な能力をそなえるに至ったことを知った。
忍び組には修練の結果、さまざまな超人的技能を体得した忍者はいるが、こんな奇怪奇抜な能力を発揮したものは一人もいない。
なぜこんな現象が発現したのだろう、と大器は考えた。
その結果、これはたたら[#「たたら」に傍点]炉の研究と、自分の大睾丸と、そしてお雪への燃えるような熱情が三位一体となって、無意識のうちに開発された新しい忍法にちがいない、と判断しないわけにはゆかなかった。
たたら[#「たたら」に傍点]炉というのは、当時の原始的な製鉄法の熔鉱炉で、ずく[#「ずく」に傍点]、すなわち|銑《せん》|鉄《てつ》を熔かす炉のことだが、これから刀や鎌や|錐《きり》や分銅やマキビシなど忍者独特の武器を製造するのに、馬立牛斎は大器を専門に、新しい工夫を厳命していた。その研究にそそいだ心血が、いま|忽《こつ》|然《ぜん》として自分の肉体に新忍法を発現させたものと見るよりほかはない。――
この噂が忍び組に伝わって来る前に、忍び組はほかの噂に衝動していた。すなわち。――
「お雪どのが、国家老|芦《あし》|谷《や》|刑部《ぎょうぶ》どのの御子息|采《うね》|女《め》どののところへ輿入れなさる」
という情報である。
卑賤な忍び組から国家老の家へ嫁入りすることは類例のないことだが、これはとくに家老夫妻の懇望によるものだという。事実とすれば、文字通り玉の輿だ。そのうえ、芦谷采女は藩でも評判の、水もしたたる美男である。まさに|一《いっ》|対《つい》の|内《だい》|裏《り》|雛《びな》でなくて何であろう。
驚きののち、ついに及びがたし、と組の若者たちはあきらめたが、しかし穴吹大器は血相変えて馬立牛斎のところへ怒鳴りこんだ。
「お|頭《かしら》、あなたさまは、お雪どのをだれにもやらぬと拙者に誓われたではござりませぬか!」
「……わしは、忍び組のだれにもやらぬ、といった」
と、牛斎はおちつきはらって答えた。
それまで実に森厳無比の首領――と讃仰して来たその頭から、大器ははじめて|老《ろう》|獪《かい》の古狸といった印象を受けた。弓矢八幡、この牛斎は欲につられて栄達の門に娘を捧げたのだ。
「お頭みずから掟を破られたわけでござるな」
「なに?」
牛斎はまた満面に朱をそそぎ、
「そのような文書は当忍び組にはない! うぬはお雪への横恋慕がとげられなんだ腹いせに、頭に向って無礼のいいがかりをするか」
と、絶叫した。
「それこそは掟にそむく。馬立牛斎、首領の権限を以てうぬを忍び組から放逐する。どこへなと出て失せろ!」
大器は|面《おもて》をたたかれたような表情をしたが、やがて、
「かしこまった」
と、うなずいて立ちあがった。
かえって牛斎の方が狼狽して、背を見せた大器に手をあげようとしたが、しかしすぐに下ろした。彼は大器をこのまま組の中に置くことに、やはり危険を予想したのである。――ただ、声をかけた。
「大器、うぬがどこへいって何をさらそうと勝手じゃが、ただ忍び組内部のことと、たたら[#「たたら」に傍点]炉のことは口外するな」
「かしこまってござる」
と、大器はふりむいて、おじぎをしていった。
――これが二年ばかり前の話である。
さて、穴吹大器は、しかしこの赤津藩の土地は去らなかった。なんと城下町で医者の看板をかかげたのである。
「性形外科専門 穴吹大器斎」
という。――
大器が忍び組から籍をぬいたのは、そこにお雪がいないという|寂寥感《せきりょうかん》にたえられなかったことや、馬立牛斎に対して怒り心頭に発したこともあるが、しかしもっと別のことに興味、大げさにいえば生甲斐を発見したためもあることは事実だ。
ただし、それにしても同じ町でそんな看板を出したのは、たんに図々しいばかりでなく、もっとほかの或る感情のせいがあったかも知れない。つまり、あのひとへの絶ちがたいみれん[#「みれん」に傍点]が。
それはともかく、新しい興味、べつの生甲斐とは、いうまでもなく例の能力の発見であった。
女と交合すれば、自分のあとの男の男根がとろっと抜けてしまうという。――このあり得べからざる珍事がたしかに現実に起ることを、その後数回の実験によって彼は確認することができた。
こういうことが可能であるとすると、いったい人生にいかなる貢献ができるだろうという興味が、彼をしてそんな看板をかかげさせたのである。
その看板に好奇心を持って、何人かの男が訪ねて来た。はじめは、「性形外科」とは何のことだ、という疑問を抱いた人間が多く、次にはおのれの「性形」にコンプレックスを持った男たちがやって来た。
ただ、このことは大器斎の技術はむろんまだ未熟――というより、自分でもあいまいなところがあって、
「いや、単独の一本のかたちをととのえるとか、大きくすることは不可能でござる。二本あるとき、これをとりかえるというのでござる」
と説明するよりほかはなく、かつ、
「さらにその交換の媒体として、べつの二個の女体を必要としますが、これは患者の方で用意していただくよりほかはない。――」
といい、そのうえ、
「なお媒体として必要という意味は、拙者自身がその二個の女陰を利用させていただくということになるがよろしいか?」
と述べるに及んで、その用意の手間のかかることと、なんだかこの医者だけにうまくしてやられるようなばかばかしさとで、最初におしかけた連中はみなくびをかしげて一応退散した。
――こういう商売はやはり成り立たぬか? と、大器がいささか気を腐らしはじめたとき、新しい客が来た。あかね屋という、町でも有名な大商人の御隠居である。これが手代風の若いいい男と、あだっぽい年増と、それからぼたもちを踏みつぶしたような下女とを同伴して来た。
「廓での話をきき、いろいろ調査の結果、これはいかさまではないと信じましたのじゃ」
と老人はいい、そして自分のものと手代のものとを交換してくれと依頼したのである。
この交換のことは、例の事件からまず最初に大器斎が思いついたアイデアで、むろん大器斎は待望の時や至れりと勇躍したが、ともかくも実際に交換作業をやるのははじめてのことだから、少々不安もあるのは事実であった。
「鉄は熱いうちに打てと申しますが、まことにほやほやのうちに手術は終えねばなりませぬので、ここで一切を行いたいと存じますが、よろしいか」
と、念を押し、老人の承諾を得てから、やりはじめた。――
まず大器斎が年増にとりかかる。年増は大いにためらったが、隠居に、「間男しくさって、いまさらかまととづらはやめにせい」と叱られて、|悄然《しょうぜん》として大器斎に従ったが、やがて例の熱湯をあびるに及んで、隠居も手代も口をあんぐりあけるほどの狂態を示した。
これを終ると、年増には隠居をかからせ、同時に大器斎は下女にかかった。まるで戦場のような騒ぎである。それにこの下女が陣貝のごとき声を張りあげた。
次が下女と手代の組合わせである。手代が大いに|辟《へき》|易《えき》のていに見えたのは、必ずしも相手がこのぼたもちを踏みつぶしたような下女であるせいではなく、何やら急に自信を喪失したていに見受けられたが、これまた隠居に「間男」|云《うん》|々《ぬん》と一喝[#「喝」は底本では「キ」DFパブリW5D外字=#F3B7]されて、悄然として下女の相手をつとめた。このとき大器斎は、すでに完了した隠居からその老根を抜去している。――
最後に、この手代から抜去して、文字通り湯気を立てているやつを老人のものと交換して、ザ・エンドである。――一抹の不安感はあったが、予想通りすべては成功裡に終了した。
「おお、これはこれは。――」
隠居は頭をたたき、腰をふった。|蕭条《しょうじょう》たる枯野にすっくと立った一本の若木を見るような眺めであった。
「細身じゃが、新刀の冴えは捨てがたい。――先生お礼はのちほど使いの者に。いや、これは倍も三倍もの謝礼をさしあげてもまだ足りぬほどに思うておりますじゃ」
大満悦の隠居と、がっくり来た手代と、うれしいのかかなしいのか当人にも見当のつかないらしい表情の二人の女と――みな去ってから、大器斎はひとりべったり坐っていた。さすがに疲労がいちじるしい。腰の骨が軽石になったような感じである。
しかし、えらいことをやりはじめたものだ、と改めて自分でも思う。
そもそも男からすれば、若いときのさまざまな努力の目的の大半は、大ざっぱにいえば、好ましい美女と、心ゆくまで交合したい、ということにあるといってよろしい。自分をかえりみても、忍び組在籍当時がそうであった。その美女を何とかして手に入れ、その愛の生活を維持するために汗水たらし、それが成るか成らぬかというときに、しかし老いの影は男の足もとから下半身に|這《は》いあがっているのが常だ。そうなって、たとえ地位があり、金があり、権力があっても何だろう。たんなる長寿は、本人にも無意味であり、他からみればただ汚ならしいだけである。かくて不老の法は、長いあいだ人類の夢であり、悲願であった。
そのために人々は、あらゆる奇薬奇法を求め、はては荒唐無稽の怪術まで考案するに至った。しかもなお、人は老いてゆく。――しかし、これこそ不老の決定版ではあるまいか?
考えてみれば、自分の悟入したこの法だって、常識的には荒唐無稽の怪法で、どう後世に伝えていいかわからないが、しかし――遠い未来に於てもこの「そのもの自身の移植」というアイデアが最高の不老の法、或いは若返りの法であるという事実は動かせないのではなかろうか。
肉体の疲労とは反対に、彼の精神は未来学にまで飛んで、揚々と自信に満ちた。
あかね屋の隠居の一件は、|恰《かっ》|好《こう》の呼び水となった。――それ以来は千客万来である。こうこなくちゃうそだ。
むろん、客の大半は不老の法を求めてのことだが、そのうちぼつぼつと妙なのも混りはじめた。
二組の夫婦が手をたずさえて訪れて、夫同士が交換したいという。大器斎が診察しても似たり寄ったりで、べつに代え甲斐もないようだが、二人の夫は真剣に交換を請求してやまない。
――こんな客がふえてくるにつれて、大器斎は、たいていの男が自分のものに対して、これだけは抜きがたいコンプレックスを抱いていることを知った。
しかも、あとできくと。――
「いや、あれ以来、女房が上機嫌でございましてな」
という返事ばかりであったところをみると、錯覚は女性の方にもあるらしい。もっとも感覚的には新鮮感はたしかにあるとみえて、本人も大満足のていであった。
「居は気を移すと申しますか、一本しかない男が二本分を味わえるとは、まるで夢のようでございます。人生が豊富になったような気がします」
などともいう。――かくて、これは不老の術のみならず、夫婦和合の妙法ともなることを大器斎は知った。
それからまた六人連れ、つまり三人ずつの若い男女がやって来たことがある。通してみると、男の方のAは金持で、Bは微禄の侍の伜で、Cは極貧かつ少々精神薄弱のきみがある。ところでその所有物だが、Aのものは甚だ劣悪、Bはきわめて優秀で、Cはまあまあ人間並みであった。それをBはおのれのものをAにX両でゆずりわたし、CからY両でゆずり受けて、その差額で江戸へ遊学したいという。Cはむろん劣悪なAのものをもらうのである。
これは志もけなげであり、そういう計画も実につじつまが合っていると感心して、大器斎は請いに応じたが、さてあとになって、男の当人たちはそれぞれ満足しているとして、同伴して来た女たちはいったいどんな考えだろうといつまでもくびをひねった。
それにしても、まったく世のため人のためとはこのことだ、と大器斎は考えた。むろん彼自身もお金は入るし、そして女の方は客の方から持参して来る。鴨が|葱《ねぎ》を背負って来るようなものだ。すべて、いいことだらけである。――
と、大器斎は、或るときまで或る程度の幸福感にひたっていた。或る程度の、というのは、ときに家老の子息へ嫁にいったお雪のことがちらっと胸をかすめると、そのたびにきりっと痛みが走る思いがするからである。――
が、その幸福感すら、ふいに思いがけぬ恐るべき発見からゆらぎはじめたのである。
或るとき大器斎は、何気なくじぶんの陰嚢にふれてみて、中の睾丸が以前の半分の大きさになっていることに気がついたのだ。
交合のときの自分の快感が常人とちがう、ということが最初わからなかったように、そのあとの疲労感も常人とは異なる、ということが――これは、そのときまで明確に大器斎にはわからなかった。
もっとも、疲労が|甚《はなは》だしいとは自覚していたが、終ったあと、腰のあたりが軽石になったような感覚はいつも体験していた。それが客の交換作業をするたびに、彼は二人ずつの女と――ときには、いつかのように三人ずつの女とも――交合して、それを明けても暮れてもつとめているのだからたまったものではない。
異常な疲れも当然だろう。またそれ以前に、彼が発揮した異常な能力も当然だろう。――彼は、ふつうの男性のごとくあとからあとから補充される液体を供給していたのではなく、どうやら限りある個体としての特別物資を消費して、世のため人のためあの作業をつづけていたらしい。
……ぜんぶ、なくなってしまったらおれはどうなるのだ?
大器斎は愕然とし、かつ恐怖した。
――しかし、結局彼は、例の看板を下ろして門を閉じもせず、また赤津の町を逃げもしなかった。
一つは、患者のむれが、門を閉じさせず、町を逃げることもゆるさなかったからだ。――繁昌のせいばかりではない。妙な現象が起っていた。ぶきみな反動が忍び寄っていた。
ちょうどそのころ、あかね屋の隠居が頓死した。腹上死である。例の年増――妾は、老人は|謡《うた》いの最中にふいにばったり倒れたのだと力説したが、調べてみると一個所だけは直立したままであった。男根を立てたまま謡いをうなるということはあり得ないので、腹上死に相違ないとみなが認定したのである。
これがまた呼び水となったように、以前不老の法を施された老人たちが、相ついでころころと死んだ。――どうやら老人たちはよろこびのあまり使用しすぎて、心臓か脳の血管がそれに調子を合わせ切れなかったらしい。
次にまた、以前に交換し合った二人の間にもめごとがめっきりふえ出した。一方が――「やはり使いなれたものの方がいい」と思い出し、もう一方をつかまえて大器斎のところへつれて来ようとするのだが、相手が承知しない。承知しないとなるといよいよやったものが欲しくなり、一方がむやみに欲しがるともう一方はますます手離したがらないといういきさつで、ついに刃物沙汰まで起るに至った。――
さいわいにして再交換の約束が友好裡に成立した者も、大器斎のところで再手術したあと、また悩む事態が生じた。「それ以来、女房がなんだか不満なようだ。……おれも、どっちがよかったんだか、混乱してわからなくなっちまった」と自主性喪失の嘆きをもらすやつはまだいい方で、向うへいった男根を|慕《した》って、内儀がふらふらと家出をするという例も起った。
なかには、最初の交換が気に入らず、また別の男と交換し、すっかり交換マニアになった人間で、さてやっぱり生来のものがよかったという結論に達し、さてそれを探しても、それがどこへいってしまったか不明となり、大器斎にその追跡調査を談じこむという騒ぎもあった。
さらに悲劇的な知らせも伝わった。江戸に遊学にいった例の若者が自殺したという。しかも屍骸の前の障子にこう書き残していたという。――
「われこの紙をすら破る能わず
ああわれ誤てり
げにや根は金よりも高し」
で、外出した大器斎は二、三度、だれかに石を投げつけられるという目にもあった。そして家に帰ると、客は依然として待合室につめかけていたが、それは再交換を要求する者の方が多かった。
再交換はいいが、そのたびに彼は例の物質を使用しなければならないのである。この異常に気がついてから三カ月ばかりたって、彼がそっと触診してみると、それはそら豆ほどのものになっていた。――
しかもなお彼は門を閉じもせず、また逃げ出しもしなかった。それは右にいったような事情でそれが不可能の状態であったこともあるが、もう一つ彼の方で、積極的にこの作業を続行したい理由があったのだ。
それは自分の技術への執着だ。
これだけ多くの手術例を経験すれば、観察も細かくなり、手ぎわも熟練する。それにもともと忍者時代、その修行も決して不熱心な方ではなく、首領の牛斎がたたら[#「たたら」に傍点]炉といういちばん科学的な部門に彼を主任として配したほどの男であったのだ。
このころ彼の技術は、ようやくたんなる物々交換の域を脱して、新しい分野への意欲をかきたてる境地に達していたのである。
夜も昼も無数に男根と女陰を見る。しかも、ふかしたての餅のような感触となったそれを見て、いろいろと操作に熱中する。――そこから来た幻想であったかも知れない。
或るとき大器斎には、その両者が全然同じものに思われて来たのだ。これは彼の場合、幻想であったが、しかし存外この感覚的混乱は正当なものであったのだ。なんとなれば、その通り男女両性の性器は、その発生のはじめではまったく同じものだったからである。
同じものが途中で分化して、男性の場合ペニスとなり、女性の場合クリトリスとなる。また同じものが男性では陰嚢となり、女性では大陰唇となる。さらにまた同じものが腹腔から下降して睾丸となり、腹腔に停止して卵巣となる。
この分化があいまいになって、現実にこの世にいわゆる半陰陽というものが存在するくらいだから、大器斎が交錯の幻想にとり|憑《つ》かれたのも当然かも知れない。
そこから、ふっと、ひょっとしたら、これは両者を反対に|捏《こ》ね変えることが出来るかも知れない――という技術上の着想が生じたのだ。
それをまず彼は、女性から試みはじめた。――それには或るわけがある。
なにしろ、たんなる技術上の素材にしろ、女性のそのあたりをとろとろにしてしまう穴吹大器斎だ。女性がそのまま素材に甘んじてくれるわけがない。たとえ老木が若木にとり変えられようと、変りばえのしない二人の男がお互いに交換しようと、女性がそれ以前の大器斎先生との体験を忘れてくれるはずがない。――
いちど前にやって来た女二人が、男をつれてまたやって来たことがある。
「先生、もう一度お願い。――」
「またやって下さいな」
という二人の女性を見て、大器斎はくびをかしげた。
全然組合せがちがう。この前に来たときの二人の女性は、べつべつに、ちがう男につれて来られたし、こんどつれて来た男は初顔である上に、一方はヨボヨボの老人で、一方はヒョロヒョロの病人だ。
ともかくも、点検して、
「……こりゃ御交換なすっても。……」
「いいから、いいから」
と、二人の女性はくびをふって、にっとした。
以前に来たときは恐怖にうなされたような顔をしていたが、こんどはばかになれなれしい。――御注文だから、やりはじめたが、この前は途中から発し出した忘我の声を、こんどは大器斎といざ相対するや否や盛大にあげはじめるというありさまで、終っても、一部どころか全身とろとろになってしまって、大器斎がひっぺがそうと思っても容易に離れないというていたらくであった。
さて、次は二人の男性を、この二個の女陰たたら[#「たたら」に傍点]炉で熔解分離しなければならぬ。……ところが、この両人が、この熔鉱炉に物理的に入らないのだ。
「いや、ひょっとしたら、こういうことになるのではないかと見ておったが。……」
と、大器斎は|憮《ぶ》|然《ぜん》とした。すると。――
「いいんです。あきらめるわ」
「それじゃ、こんどはちがったのを持って来ます」
と、二人の女性はばかにあっさりしている。かんじんの用件の方はあっさりして、眼だけはこれもとろとろになったような、熱い粘っこい視線を残して帰っていった。――
こういう女患者がふえ出したと思っていたら、そのうち、全然単独で、或いは女づれでおしかけてくるのも加わり出した。
「……いや、あれは殿方の、例のおとりかえのための前技に過ぎぬから、それのみにてはちとどうも」
と、大器斎がことわると、女たちは、
「それではわたしたちは、ただの道具だとおっしゃるのですか」
と、怒りと恨みにみちた眼を投げていう。
たしかにこれは大器斎の手術の泣きどころであった。以前から、男はいいとして女の方の心理やいかに、と自分でもくびをかしげ、ふびんになり、また|忸《じく》|怩《じ》たるものあるを禁じ得なかったくらいだから、大器斎は女性の補償要求に従わざるを得なかった。――
で、この応接にへとへとになったことと、もう一つ、女性だけの素材が入手し易くなったことで、彼はまず女性を男性に変える試みに手をつけたのである。
或る日、一人の女人に試みた。
もともと、うるんだような眼、ぬれた赤い唇、そしてくびれの入った指さきからぽとぽとと何か滴りそうな豊艶な女であった。
夫にないしょで来たのだが、この夫が豪傑風の侍で、もしばれるとこれは一大事になると思ったものの、女の攻勢がはげしいので、ともかくもこれを何とかしないと身がもたないと大器斎が悲鳴をあげたのが、彼女を実験第一号にえらんだ最大の理由だ。しかしその豪傑の夫が、やはり武器自慢の友人と例の交換をして、その後浮気ばかりしてさまよい歩き、まったく彼女を顧みるところがないという訴えも、彼を決心させる理由になった。
「わたしを助けて下さい」
彼女自身が夫への嫉妬と、情欲に苦しみぬいていた。
「よろしい、あなたの煩悩を|済《さい》|度《ど》して進ぜよう。……大器斎、決死の覚悟をいたした」
彼だけにわかるオーバーな宣言とともに、彼は踏み切った。
そして、第一段階の後、快美と飽満のあまりぐったりと半失神状態にある彼女の半流動的な肉体を素材に、この大手術にとりかかったのであった。
小さな突起を吸い、それからふくらます。――ふくれて来た。それを両掌ではさんで、長時間にわたってまろがし、愛撫する。脂肪分たっぷりの個所を、擦り、|捏《こ》ね、とろとろにし、やがてぐーっと下にひきのばす。――
すると――出来たのである! クリトリスはペニスとなり、大陰唇は陰嚢となったのである!
むろん、まだかたちに不確かなところがある。どこか、あいまいなところがある。――
――やがて、われに返った彼女は、気がついて仰天した。
「これは……どうしたことでございます?」
「今は何もききなさるな。……これこそあなたの煩悩をはらう唯一の法と拙者は信じておるが……何もいわず、ただ十日間お待ちなされ。十日たって、またおいでなされ。そのとき、どうあってももとの姿にして返せとおっしゃるなら、その通りにして進ぜるほどに」
と、大器斎は重々しくいった。しかし|本《ほん》|音《ね》を吐くと、これをどうしてもとに返すか、見当がつかない。――
十日たった。彼女はやって来た。
「ふしぎです。夫への嫉妬がやみました」
大器斎は再診した。すると、事後の経過はますます良好である。移動変形されたものは、その位置に定着し、それぞれ自覚したらしく、外観まで見事なものに近づきつつあった。さらに大器斎自身が驚いたのだが、彼女の陰嚢に――その内容が空虚であることは彼もいかんともすることができなかったにもかかわらず――何やら、豆粒のごときものの存在することが触診されたのである。
――はて、おれの豆粒が一つ入ったか?
気がついて、自分を探ってみると、果然、大器斎のものは一個になっていた!
しかし、これは大器斎の誤解であったかも知れない。そのころ彼のものが消滅したのは事実として、ひょっとしたら、そういう受納場所ができたために、彼女の卵巣が胎生時代の記憶に従って、睾丸同様に降下したのかも知れない。卵巣と睾丸はもともと同じものであったのだから。
また十日たった。べつにその日に呼んだわけでもなかったのに、また彼女はやって来た。
「いや、夫の浮気があまり憎うなくなりました。あれは男として当然の現象と思うようになりました。浮気もできないのは、男のクズかも知れませぬ」
からからと笑った。
それからちょっとくびをかしげて、
「しかし、わたしには、べつの煩悩が。……」
といって大器斎を見たが、以前みたいに粘りつくような視線ではない。――
それどころか、もとの美貌は変らないが、この間までの豊艶さがかき消えて、どこやら、骨太になり、よく見ると、その白い手足にはうっすらと、うぶ毛が生えかかっているようだ。
「いや、先生、いろいろとお世話に相成り、かたじけのうござった!」
そういうと、彼女はどっしどっしと重い|跫《あし》|音《おと》をひびかせて出ていった。
二、三日たって、血相変えて怒鳴り込んで来たのは彼女の夫であった。
「これ、大器斎! そちは何たることをしたのじゃ! 女房のようすがこのごろどうもおかしいと申したら、前をまくって見せて、かんらかんらと笑いおった。そ、そちは何たることをしてくれた! もはやこのまま、ただでは置かぬ。……」
「いや、あなたさまが奥さまをまったく顧みられぬと|承《うけたま》わり、奥さまのお悩み、見るに見かねて、つい。……」
と、大器斎は弁明したが、なにしろ相手が藩でも有名な豪傑だから狼狽した。
「それとこれとは問題の次元がちがう!」
豪傑がわめいて大刀を抜いたとき、外から風のように走りこんで来た女の影が、その利き腕つかみ、肩に一本背負いにしたかと思うと、ずでんどうと投げ飛ばした。
「あっ、お前は。……」
はね起きようとした侍はひげ面をあげて眼をむいた。彼の妻であった。
「この大器斎どのは、わたしの再生の大恩人、お怪我でもさせてなるものかは」
と、彼女は歩み寄り、夫の背に片足踏みかけてみえ[#「みえ」に傍点]を切ったが、すぐにぐいと夫をつかみあげ、小脇にかかえて、
「いや、一家の恥をお目にかけて汗顔の至りでござる。……御免!」
と、そのまま家を走り出ていった。
――それからまた十日ばかりたって、またも豪傑が現われた。ただし、この前とは打って変って悄然としている。彼はおそるおそるいった。
「大器斎先生。……まことに妙なお願いでござるが、拙者を女に変えては下さるまいか?」
「――は?」
「あれ以来、日夜の別なく女房に|打擲《ちょうちゃく》され、この難をのがれんためには拙者が可憐なる女人となるよりほかに道はなし……と女房がいうのでござる」
「ほほう。……」
「女人をああ変えた大器斎どのが、男をこう変えることができぬ法はござらぬ。……」
これが大器斎が、こんど男性を女性に変える手術にとりかかった転機であった。
ひげをふるわせ、眼に涙をたたえた豪傑の顔をじいっと見つめていて、
――出来る!
と、彼は心にさけんだ。
しかし、いった。
「後悔なさるぞ」
ふと、豪傑は正気にもどった眼になった。おそらく大器斎の声の深沈たる物凄さが彼の理性を呼び戻したのであろう。みるみる動揺した表情になって、
「さての、御奉公の件がこまるのう」
と、つぶやいた。
大器斎はスルスルと膝ですすみ寄り、その手をとり、
「やって見ましょう。それは面白い。やってごらんなされ」
と、いった。いま相手をおどしたくせに、彼の方がこの実験への欲望に心をとらえられていた。そうだ、これをやらなければ、|画竜点睛《がりょうてんせい》を欠くというものだ。
「十日間でようござる。御奉公のことは、その間に何ぞ工夫をめぐらしましょう。またあなたさまが御後悔なされば、必ずもとに戻して進ぜる。すでに女人を男に変えた拙者でござるから、その点は心配ござらぬ。……」
このわざを究めつくしたい、という熱情に、忍者独特の執念がかかり、その眼から妖光となってほとばしって、女房変身以来混沌たる心境におちいっていた豪傑をたちまち呪縛してしまった。
かくて、大器斎は手術にとりかかった。――さきのやつを陽変の術というなら、これは陰変の術というべきであろう。
それはどうするか。男性を女性に変えるのに、べつの女体を介在させる必要はないようだが、やっぱりそれは要ったのである。まずこの豪傑の男根をふやかし、とろかさなければならぬ。そのために女陰が要るのだ。そしてその女陰にそういう作用を発揮させるには、やはり大器斎自身が処置を施さなければならぬ。従って、残り少ない例のただ一個の豆粒をまた削らなければならない。――しかし彼は、それを惜しいとは思わなかった。
媒体となる女性は容易に入手できた。このころでも、なお彼を追いまわす女に不足していなかったからだ。
手術そのものは、「陽変の術」より荒っぽく済んだ。
とろとろになった陰茎海綿体を縮小する。これは大部分、ちぎって捨てた。いったいこの海綿体は勃起するためのみにあり、そもそも本来の目的は内部からの液体を排出する尿道さえあれば達せられるのだから、大げさに勃起する必要のない以上は捨てても大したことはない――と、大器斎が考えたわけではない。みるからに質量厖大で、いくら考えても処置に窮し、かつこれを取るのがこの手術の眼目だから、意を決して大部分つまんで捨ててしまい、あとちょっぴりだけ残した。
のっぺらぼうになったそのあたりに、こんどは下からふたをするように陰嚢を撫で上げる。撫で上げ撫で上げしているうちに、ああらふしぎや中の睾丸はどこかへ消えてしまった。おそらく睾丸は驚いて、上部の腹腔の中へ逃げのぼったものと思われる。――この撫で上げた陰嚢で、粘土のごとく土堤をつくっているうちに、次第にそれらしきものになって来た。――
「まず、きょうはこれまで」
と、やがて大器斎はいった。精魂こめた|彫塑《ちょうそ》作業のため、やや眼もおちくぼんだようだ。
「何も言わず、ただ十日間お待ち下され。――」
十日目に、彼はこの陰変の術を施した豪傑を再診した。
――と、こんども新しく成形された器官は、それぞれみごとに定着して、各自の機能を発揮し、柔らかくふるえ、繊細に濡れ、あたたかく息づきはじめていたのである!
穴吹大器斎、前人未到の妖法「陰陽変」はここにはじめて完成したといっていい。
また十日ばかりたって、豪傑がやって来た。いや、もう豪傑といってはいけないだろう。彼はもとの豪傑然とした風貌は変らないが、この間までの武骨さがかき消えて、何となく曲線的になり、ナヨナヨとし、気のせいか声まで赤くなって来たようだから。
それが雨に打たれる|海《かい》|棠《どう》――とまではゆかないが、まあそんな風情でいう。
「あの、大器斎先生。……どうぞ、助けて。――」
「ど、どうなされたのでござる」
「妻の打擲はあれ以来やみ、拙者との愛はよみがえりましたが、一方でなお妻の夜遊びは依然として止まないのでござります。そもそも一人の人間を愛しつつ、またべつの人間を愛するなどということができるものでありましょうか。夜な夜な遊び歩いている妻を思い、妻のあれを思うと、拙者が夜着の袖かみしめてむせび泣いたはいくたびか。……嫉妬、また嫉妬、この悩ましさがかくまで深きものとは、拙者いままで存ぜなんだ。……」
涙をたたえた眼じりは、|閨《けい》|怨《えん》という文字を絵にかいたようであった。胸を抱きしめ、あえぐように、
「拙者、苦しゅうて、苦しゅうて。……」
外見はなお豪傑の面影をとどめているだけに、その哀切さはひとしおであった。
「もとにお返りなさるか?」
心を打たれ、思わず大器斎はいった。
「奥さまと御一緒に、本来の面目にお返しいたしましょうか」
「――はあ?」
豪傑はキョトンとして大器斎を眺め、それから愕然としたように手をふった。
「めっそうもない! 拙者はこのままでいいのです。拙者はこれで満足しているのです。ああ、抱きしめられ、吸われ、さまざまにもてあつかわれる、あの味、かほど深きものとは拙者いままでに知らなんだ。……それが男性時代の数倍のものであることを、拙者はじめて知り申した!」
そして彼はなお夢みるように大器斎に眼をそそぎつづけたが、次第にそれが粘っこい、なまめかしい糸を引き出したように感じられ、大器斎は何やら不安感をおぼえて来た。
「では、何のためにおいでになったのでござる?」
「ああ、わたしとしたことが、何のためにここにさまようて来たか。……男ごころの哀しさを笑うて下さりませ。――」
と、豪傑は、袖でそっと涙をふいて、哀艶に腰をふって帰っていった。
赤津の町で、「陰変」を望む男性の患者がふえ出したのはこのこと以来である。勘定してみると、いつのまにか、それは「陽変」を望む女性の患者よりも多いほどになっていた。
大器斎はくびをひねって、その理由をきいてみた。すると。――
たんなる好奇心、というのが一〇%ばかりあった。
それから、男性が何らかの報酬を手にし得るためには、肉体的精神的に、いうにいわれぬ力闘が必要だが、女性の場合、ちょっとしなだれかかるだけでいいのだから、というのが一〇%ほどあった。
これと似ているが、もっと持続的な見地から――女性は、一家を養い、一族を統率し、国家を憂うるという責任が軽くてすむからラクチンである。困りゃあ、ただ泣けばいい――というのが、これがいちばん多くて五〇%前後あった。男性がいかに生活上思想上のストレスにあえいでいるかを、いまさらのように大器斎は痛感した。
それから、町の長寿番付をみると、長生きしているのは女性ばかりである、という発見からやって来た、長生き希望者が約二五%あった。
ただ大器斎が意外に思った事実は、男性にして男性でない――肉体的にはともかく、精神的にはじめから女性的な男性が、五%前後も存在していたことだ。彼らは自分が男性の肉体を持っていることに重荷をおぼえ、嫌悪を感じ、悩みぬいていたところへ、この奇蹟的な手術をきいて、まるで垂死の病人が再生の奇楽に飛びつくようにしてやって来た。――
そんな者の中に、或る日、思いがけない人物の顔が加わったのを知って、最近あまりものに驚かなくなっていた大器斎も、あっとばかり息をのんだ。
|芦《あし》|谷《や》|采《うね》|女《め》。――
国家老芦谷刑部の子息。
そして――この若者こそ、お雪の花婿ではなかったか?
ひそやかに穴吹医院に現われ出でた芦谷采女は、依然として水もしたたる美男ぶりであった。それが、おくれ毛の散りかかった白い頬をあからめて、大器斎に自分を女体に変えてくれるように依頼したのだ。
「そりゃ、またなぜ?」
じいっとその悩ましげな姿を凝視していて、大器斎は|嗄《しゃが》れた声でいった。
「ひたすら、女になりとうて」
「それはわかっておりますが、しかし……お家柄もありましょう」
「わたしは次男坊だから……何なら家を出てもよい。いや、わたしは家を出たいのだ。――そういうことになれば、親もあきらめてくれるだろう。ながいあいだのわたしの夢がやっととげられる!」
「親御さまはともかく、奥さまが御承知なされますまい」
「その女房からわしはのがれたいのだ!」
「えっ」
大器斎はわが耳を疑った。
「そ、そりゃまたなぜ? な、何かあの奥さまに御不満なことでも――」
黙って、たたみのケバをむしっている采女の姿を見ているうちに、大器斎の頭に或ることがひらめいた。このごろ、こういうタイプの患者もしばしば見ていたからだ。もしや?
「女になりたいと仰せられましたな」
「いかにも」
「では、ちょっと拝見」
「何を?」
「むろん、あなたさまが女人におなりになれるかどうか、拝見せねば何とも申しかねる個所でござる」
大器斎は見た。――そして、ああ、とうなった。
まず、長さ、直径ともに常人の三分の一である。全然幼児のものだ。そして、いかに操作しても、筋肉的にはなんの著明な反応もない。ただ、わずかに分泌しただけで、しかし大器斎の手にすがりついて肩であえぐ芦谷采女の美しい顔には、たしかに欲情があった。あきらかに女性的欲情が。
「お、奥さまとは――?」
と、大器斎はささやくようにきいた。
「抱いてくれというから抱いては寝るが……しかし、わたしは夜がいやだ。妻がこわい。……大器斎、どうぞわたしを女にしてくりゃれ。……」
――お雪どのは処女だ。
大器斎は心中にさけんだ。この夫のこのていたらくを以てすれば、お雪どのが処女妻でないはずがない。
なんたることか。――衝撃の次に、感慨があった。こういうときに日本人は「万感無量」というよりほかに芸がないが、大器斎の場合もまったくその通りであった。
父馬立牛斎が「してやったり」と満足の笑みを浮かべて送りこんだ栄達の門、忍び組の若者たちが「われらついに及ばず」と羨望と敗北の眼を以てふり仰いだ美男の花婿。――そこに幸福にかがやいて入っていった彼女を迎えたのは、かくのごとき運命であったのだ。
――なぜか、大器斎は、自分がいままでこの赤津の町にとどまっていたのは、きょうの日を迎えるためであったような気がした。
そんなはずはない。いくら大器斎でも、まさか芦谷采女がこういう肉体の所有者であろうとは、想像を絶していた。しかし、いままざまざとそれを見るに及んで、彼には、今までの研鑚のすべてがまさにこの日のためであったとしか思われなかった。
ところで、彼の胸に渦まいたのは、皮肉な嘲笑でも復讐の快感でもない。全然別のものだ。――黒雲の渦から次第に立ちあがって来たのは、ただ白雪のようなお雪の裸身であった。
あのひとがお嫁にいって、いままで処女であったというのは天意ではなかったか?
しからば、これからも永遠に処女のままでいるのはこれ天意である。
――理窟ではなく、まさに天からの声をきいたごとく彼はこう確信したのだ。それは祈りにちかい感情であった。
なんだと? 抱いてくれというから抱いては寝るが、だと?
彼は改めてしげしげと、この柔弱きわまる夫の付着物を見つめた。しかし、妻がこわい、とこの男はいう。――采女のいう言葉がどこまで真実かは別として、二人の間の奇々怪々な夜々は、想像するだに心臓を逆なでされる思いがした。いままでお雪が処女であることはたしかだが、しかし夫婦だ。このさき何かのはずみでこのみみずのごときしろものが、かよわき機能を発揮しないとはかぎらない。――
「よろしゅうござる!」
大器斎は決然としてうなずいた。
「永遠にあなたさまを女人にして進ぜよう!」
……すべては終った。
芦谷采女に「陰変の術」を施したのち、大器斎はそう思った。思ったのみならず、からだで知った。みずから探ってみると、ただ一個残ったものは、ケシ粒ほどになっていた。
……これが完全に消滅したら、おれはどうなるのだろう!
せめてこれだけは残しておかなければならぬ、という判断の結果ばかりではない。心理的にも「忍法陰陽変」はもはやその目的を達し、その天命を果したように思われたのである。
が、なお客は来た。彼は病気であるといってすべてことわった。実際、采女の件以来、彼は急速にからだの弱りを意識していた。しかし、いくらことわっても、客は――とくに女たちがおしかけてくるのをやめなかった。はじめて彼は、この赤津からのがれ出ることを決意した。
しばらく諸国を漂泊しているうちに、また蓄積されてからだがもとに戻るかも知れない。
で、すべてのあと始末を終え、旅支度して、彼が家を出かけようとする朝。――また例の豪傑がやって来たのである。
「あら、先生、どこにお出かけ?」
と、彼は眼をまるくし、赤い声でいった。
大器斎は舌打ちしたい気持で答えた。
「ちょっと旅へ」
「いや、それはこまります。先生にこの町を留守されてはこまります」
「こまるといわれても、旅は拙者の自由だ」
いかにもおしつけがましい相手のいいぐさに、大器斎はいよいよむっとしていった。しかし相手は大器斎の腕にからみついた。
「ゆかないで、先生、ゆかないで――」
腕の太さはそのままに、その力には粘液的な強さがあった。
「どうしてもおゆきになるというなら、せめてその前に。――」
「その前に、何でござる?」
豪傑はいった。
「妻が顧みぬのでござる。……」
「それで?」
「それで、拙者、夜々悶々の情にたえず、ついには妄想のあまり心も怪しゅうもの狂おしく……この際、何とぞ先生によってこの煩悩をはらしていただくよりほかないと思いつき、けさ起きぬけにかくは参った次第。……」
この豪傑が女陰の持主であったことをふと忘れていた大器斎は、はじめて相手のいわんとする意味を解して、
「ば、ばかな!」
と、悲鳴にちかい声をあげて、腕をふりはらおうとした。
「そ、そのような|情《つれ》なきことを仰せなさらずと――先生、ただいちどだけ、お願い。――」
もみ合っている二人のところに、そのときはたはたと駈け寄って来た者がある。|風鳥《ふうちょう》のようなその色彩にちらっと眼をひかれ、顔をむけた大器斎は、
「あ!」
と、さけんで争いをやめた。
「……お雪どの!」
そこに立っているのは、お雪であった。
――昔のままだ。ほとんど忍び組にいたころと変らぬお雪が立っていた。
なつかしい、という表現では足りないが、ともかくも笑みかけようとして、大器斎の眉がひそめられた。顔かたちは昔のままながら、わずかに眉を剃っていることと衣服が立派なのとで、彼女がいまは芦谷家の嫁であることを改めて想起し、かつ采女に施した自分の手術のことを思い出したのだ。
そのうえ――お雪は眼をいっぱいに見ひらいて彼をにらみつけていた。
「どうなされた?」
「夫をもとの姿に返してえ」
と、彼女はいった。怒りにみちた眼であった。
大器斎はショックを受けた。その夫にあんなことをして、いまさらショックもないはずだが、それでも彼としては、お雪自身がやって来て、こんな一点のなつかしさをも伴わない眼でにらみつけようとは予想もしていなかった。
「……やはり、悪うござったか?」
と彼は、つぶやいた。
「もしお望みならそのようにいたすが……おうかがいしたいこともある。いざまず中へ」
大器斎は彼女を手術室へいざなった。お雪は一言の口もきかない。
ただそれだけでなく彼は、お雪が昔のお雪とちがっていることをようやく感覚した。姿かたちではない。ほかの、えたいの知れない何かがである。
「お雪どの、忍び組のころは」
とまず挨拶をのべかけると、
「夫をもとに返してえ」
と、彼女はまたあえぐようにいった。
はじめてその眼が常態でないことに気づき、大器斎は|慄《りつ》|然《ぜん》とした。――このひとは、夫があんな風になって乱心したのであろうか?
あのとき天啓のごとく采女に「陰変の術」を施したが、いま悪夢からさめたように彼は自分がたいへんなことをしたと感じた。――それにしてもこのお雪どのは、はじめから半分女であったような夫を、それほどに。――
彼はしゃがれた声できいた。
「あの方をそれほど愛しておりなされたか?」
「好きでした。好きでした。ああ、愉しい夜。……」
お雪は夢みるような熱っぽい眼を宙にそそぎ、問いに答えるのではなく、うたうようにいった。――やはり調子がふつうではない。
「愉しい夜。……しかし采女さまは、あなたと交合なされたか?」
「交合?」
彼女はキョトンとした。その眼は、昔の処女のままであった。――いや、ちがう。きれいはきれいでも、まったく無機的な純白の眼だ。
果せるかな、このひとは何も知らないのだ!
長い間、じいっとお雪を凝視していたのち、大器斎はそう結論を下さざるを得なかった。――意を決し、彼はおのれのものをつかみ出した。
「采女さまのおからだは常のものではない。まことの男のからだはこういうものでござるが。……」
「………」
お雪は悲鳴も怒りの声もあげなかった。これまたじいっと凝視していたが、やがてその眼が異様なうるみと熱と光をおびて来た。
「ああ、これえ」
そんなさけびをあげると、彼女は笑った。それが耳まで裂けたように錯覚した瞬間、彼女は両腕をさしのばし、ひしと大器斎にしがみついて来た。
――その昔、大器はどんなにこのような光景を夢想したであろう。にもかかわらず、このときの大器斎はびっくり仰天し、あわててそのものをしまい、彼女を腕で支えた。
「もういちど見せてえ」
と、お雪は酔っぱらったようにいう。大器斎をゆさぶり、身もだえするたびに、一種異様の体臭が匂う。――
大器斎は知っている。それは欲望に|憑《つ》かれて、ふらふらと自分のところを訪れた女たちの発散する匂いと同じものであった。
抱いたまま、大器斎は愕然としていた。これはもう色情狂だ。夫がああなったために、この無垢純潔な妻はこうなったのであろうか? そうかも知れぬ。しかし。――
いつかの采女の「抱いてくれというから抱いては寝るが、わしは妻がこわい」といった言葉が脳裡を吹き過ぎた。――ひょっとしたらこのひとは、もともとは無知ながら、馬立牛斎から好色の血を受けていて、それが満たされぬあまり、次第――に異常を来していたところへ、最後にあの夫の哀れなものさえ見失って、それでこういうことになったのではあるまいか?
色情狂のお雪。
それは絶対に結びつくはずはないが、現実にそれはここにいる。
大器斎は、いったいいままで自分のして来たことは何か、生存の意義すら失ったような気がした。むらむらとこの女と自分に腹がたち、天にさえも怒りをおぼえた。そのくせ罪悪感と愛憐の感も波打っていた。
さらに、この女人に思いをとげたいという欲望と、永遠に処女のままにおきたいという執念も交錯した。何をどうしていいのかわからない。
しかも、自分の力はただあのケシ粒ほどの大きさのものしか残っていない。――
完全に理性の混乱した大器斎に、このとき横から猛烈な力でしがみついた者がある。
「わたしの好きな人に何しなさる」
豪傑であった。彼はいつのまにかのこのこと、ここへ入りこんでいたと見える。
ふいに大器斎はがばと向きなおり、その豪傑をおし倒した。――また。また天啓のごときものが頭にひらめいたのだが、なにしろその頭が混乱しているのだから、この天啓が正しいかどうかはよくわからない。
とにかく大器斎は、豪傑と交合したのである。
それから――彼は、自分のものを自分のからだから抜去した。陰変の術を自分自身に適用したのははじめてだが、念力のいたすところか、それはとろりと抜去した。――
にもかかわらず、彼には千人力ほどの努力を要したように思われた。自分のものだからではない。手が|萎《な》えて、全然力が入らなかったからだ。
次に、必死の力をふりしぼって、大器斎はお雪をおし倒した。――
「わしは永遠にあなたのそばにおります」
お雪には事前の処理を加えていなかったのに、例の彫塑作業がうまくできたのは、これまた念力のせいか、またはいまの光景を見ているだけですでにおびただしく流出していたお雪自身のせいかよくわからなかった。
ただし、この彫塑作業はただ大陰唇をひき下げ、あとをふさぐだけであった。あとは。――
「これで永遠にあなたは処女でもある。――」
大器斎みずからの肉体を合しての――以前の交換の技術をも加味した「陽変の術」であった。
「――できたっ」
と、絶叫したとたん、穴吹大器斎はばったりつんのめった。
――|黒《こく》|闇《あん》|々《あん》とけぶってゆく視界に、しかしこのときけらけらと歓喜の笑いをあげながら、陽変のお雪と陰変の豪傑がからみ合い、もつれ合った淫蕩な姿態が見えたような気もしたが、それが現実のものであったかどうか、大器斎は永遠に知らない。
|牢《ろう》の|忍法帖《にんぽうちょう》
おんな牢の女囚たちが、どうやらキリシタンに染まったらしい、という報告を牢屋見廻り与力から受けて、江戸町奉行跡部肥前守はぎらりと眼をひからせ、
「もと[#「もと」に傍点]は、あの二人の女じゃな」
と、いった。それからただならぬ顔色で、
「余自身とり調べる。馬ひけ」
と、さけんだ。
数寄屋橋門内の町奉行所から小伝馬町の牢屋敷まではほんの一足の距離である上に、町奉行の出馬が急なことで、連絡するいとまもなかったと見える。跡部肥前守が到着したとき、牢屋敷の門前では、七人の罪人に対して定めの|敲《たた》きの刑がちょうど執行中であった。
敲きの刑は、ほかの刑罰と同じく、数日前に奉行所で肥前守自身が判決し、申し渡したもので、いま執行中のものが、どういう罪状であったか、七人が七人、いちいち記憶はないし、またその光景を見るのに特別の興味もない。
それに肥前守はむろんほかに心急ぐことがあって牢屋敷に来たのだが、しかしその肥前守の眼をふと吸いつけたのは、この日の敲きの刑が|甚《はなは》だ変っていたからであった。
もっとも、馬から下りて近づいて来た者が町奉行であると気がついて、門の前の|将几《しょうぎ》に腰うちかけていた牢奉行の|石《いし》|出《で》|帯《たて》|刀《わき》がびっくりして、
「やめい!」
と、刑の執行を中止させた。
肥前守はくびをふり、打役のほうを見て、
「かまわぬ。つづけよ」
と、いった。
敲きの刑は、罪人を牢屋敷門前の|筵《むしろ》に裸で腹這いにさせ、四つの手足を押える。それを打役が|箒尻《ほうきじり》と称する鞭で、肩から尻へかけて打ちたたくのである。箒尻というのは、長さ六十センチ、太さ一センチあまり、竹を割ったもの二本を革でつつみ、その上をこより[#「こより」に傍点]で巻いたものだ。罪の軽重によって、五十、百と数がきまっている。これを牢奉行、与力、同心、|徒《かち》|目《め》|付《つけ》その他牢屋敷の役人たちが検分する。
ともかくも鞭で五十、百と打たれるのだから痛い。この痛みを少しでも柔らげるためには、牢内に言い伝えがあって、がまん強く声をたてぬやつは、打役もつらにくくて力をこめて打つようになるから、ともかくもあらんかぎりの声をしぼって泣きわめく。すると、打役の打撃はそれに比例して弱まるというのであった。で、いまも――七人の罪人は、小伝馬町全体に狂犬の大群が発生したのではないかと思われるほどきゃんきゃんと|吠《ほ》えしきっていたのである。
その声は肥前守もきいていたし、またそういう囚人の口伝も知っている。――いま、鞭の手は止んでいるのに、しかし罪人たちはその悲鳴をやめず、町奉行到来と見てその慈悲を求めるためか、いよいよ怪声を発しているのを、肥前守は片腹痛く思った。
「つづけろ」
と、彼はもういちどいった。
「打役。……そのほうは、例の伊賀組から来た男であったな」
「は」
と、鞭を持った三十ばかりの重厚な容貌の男がお辞儀した。
「そのほうの志願した鞭の修練、是非見たい。よい機会じゃ、見せてくれ」
「は」
彼は鞭をとり直した。
この鞭が――定めの箒尻とはちがう。日本で馬を鞭打つ鞭でもない。捧に数メートルもの長い革をとりつけたものだ。それを以て罪人たちに敲きの刑を加えているのを、いまちらと見たのが、ほかの用件で来た肥前守の足をとどめた原因であった。
ふつう、敲きは一人ずつ打つ。従って多人数ともなれば時間もかかるし、その悲鳴をきいているほうも決して楽ではない。そこで思いついたものであろうか。
その打役は、表門のすぐ下に鞭をとって立った。罪人はそこから数メートル離れて、一列横隊に腹這わせられている。|河《か》|岸《し》で魚をならべたようだ。ただ、その四肢をそれぞれ四人の牢屋敷下男がとり押えている。
打役の手があがり、虚空に長い蛇みたいな鞭があがった。
と、一方から一方へ、その背に肉を打つ音がたばしり、また逆の方向へもどってくる。手足を押えている下男たちの頭を飛びこえて、革鞭はきれいにゆきつもどりつするのであった。
悲鳴がまた盛大にあがり出した。まるでピアノの鍵盤を走るようなものだ、と形容したいが、むろんそんな霊妙な音波ではない。例のけだものの|咆《ほう》|哮《こう》である。それが決してずるい演技ではなく、いわゆる敲きによる通常の苦しみとは類を絶する痛みを与えていることを、はじめて肥前守は確認した。
「いちど叩いたすじを、髪の毛ひとすじの狂いもなく叩いております」
と、牢奉行の石出帯刀がささやいた。肥前守は舌を巻いた。
「なるほど、背に走る鞭のあとが、どやつもただひとすじであるな。――みごとなものだ」
「それが山方孫三郎の申しますには」
と、帯刀は打役の名をいって、
「この七人の男ども、いずれもすぐにかっとなり、かっとなると何をしでかすか当人でもわからない凶暴な奴らでござるが――いま打たれた鞭の跡、これがこやつらが将来ともに逆上することもあるときは、そのたびにいま御覧のごとく真っ赤な火ぶくれとなって、きゃつらに痛みを知らせるでござりましょう――と、孫三郎は申すのでござる」
「ふうむ」
「それも牢屋敷に来て、実物の人間の肉を相手に修行したおかげ――と本人は感謝しておりまするが」
「伊賀者は、やはり奇態なやつじゃな」
跡部肥前守はもういちど鮮やかな鞭の連打をふりかえり、さて石出帯刀にむき直って顔色を改めていった。
「それはそれとして、石出、わしがきょう来たは余の儀ではない。女キリシタンの件じゃが」
キリシタンは公儀にとって、放火殺人よりももっと重大な犯罪者だ。ここ十数年、そんなものの噂もきかなかったのに、さきごろ思いがけず発見されたのである。
それが、江戸の町をながして歩く鳥追い女二人であった。路上でふと|十《ク》|字《ル》|架《ス》をとりおとしたのを、偶然通りかかった目明しが見ていて逮捕したものであった。
ただちに町奉行跡部肥前守みずから審問し、この二人の女が姉妹で、姉がカタリナお|芹《せり》、妹がモニカお文と名乗り、|天帝《ゼウス》を信仰することをはっきりと述べたが、さてそれ以上、生まれも素性も白状しない。
「どのように責められても、それだけは申しあげられませぬ。ただお仕置にかけて下さりませ。天帝さまのために命を捧げまする|殉《マル》|教《チリ》は、望むところでございます」
よろこばしげに、昂然としていう。いずれもはたちになるやならず、冷たい白洲に春の太陽がおちたような美貌なのだ。その気品ときよらかさは、決して|巷《ちまた》の鳥追い女のものではなかった。
これをただちに処刑せず、一応おんな牢へ送りこんだのは、事があまりに重大だからだ。肥前守は事実を老中にとどけたあと、この二人の女キリシタンの背後関係をつきとめるべく、鋭意情報を蒐集中であった。しかるに。――
「おんな牢の女囚ども、ことごとくキリシタンに染まったとな」
牢屋敷に入ってゆきながら、肥前守はいった。
「は、まことに思いもよらざる事態にて。――」
敲きの検分などは捨ておいて、石出帯刀は歩きつつ、町奉行に改めて報告した。要するにおんな牢にはいま三十数人の女囚が収容されているが、殺人、ゆすり、盗みなどの罪を犯した女たちが、このごろ朝な夕ないまわしい邪教の祈祷をあげているのが発見されたというのであった。
「そのみなもとはあのカタリナお芹とモニカお文じゃな、よし、案内せい」
肥前守は急ぎ足になった。
表門を入ってゆくと、左側には灰色の土塀がつづいており、まんなかあたりに|埋門《うずみもん》がある。そこを入ると、広い荒涼たる牢庭になっていて、その向うに約百メートルにわたる長い格子の行列が見えた。格子は二重になっていて、その間の通路を|外《そと》|鞘《ざや》という。内格子の中に一般庶民を入れる東西の大牢、侍や僧を収容する東口の|揚屋《あがりや》、女を収容する西口の揚屋などがならんでいる。
町奉行と牢奉行は、そのおんな牢の前に立った。
十五畳あまりの広さの陰湿な房の中には、いま三十数人の女囚が入れられている。どの牢も臭いが、とくにこのおんな牢からは一種異様な月経臭ともいうべき匂いがながれ出し、のみならず、その前に立つと、相手がだれであろうと、大牢以上の悪罵が――きわめてわいせつな|嘲弄《ちょうろう》の声が投げつけられて、役人たちを|辟《へき》|易《えき》させるのが常だ。
それが、しーんと静まり返っている。気のせいか、異臭すらもないようだ。
「ふーむ」
肥前守はうなった。
一応牢内にたたみは与えてあるが、それは牢名主以下の顔役がそれぞれ数枚分重ねあげて独占し、あとはみな板敷に坐っているというのが牢の習慣で、それはおんな牢とて変らないはずだが、いま見ると、たたみは公平に敷きつめられて、そのまんなかに二人の女が坐り、あとの女囚たちはそのまわりに輪になって、これまたひっそりと坐っているのであった。いままで何か語っていたらしいが、外鞘にだれか立ったと知って、ふとそれをやめた気配であった。
「御奉行さまであるぞ」
と、石出帯刀がいった。
こちらを見て、わずかに一礼したのは、まんなかの二人の娘だけである。あとの女たちはそ知らぬ顔をして、それどころか、だれかこういうのが聞えた。
「カタリナさま。――ゼズスキリストさまのお話、つづけて下されまし」
「な、なにい?」
承知はしていたが、あまりのことに石出帯刀は狼狽し、ひっ裂けるようにわめいた。
「うぬら、みなキリシタンとなったのか。ことごとく|磔《はりつけ》になるを覚悟の上か!」
「――一日も早く|天《ハラ》|国《イソ》へ参ることが、みなの望みでございます」
と、女囚の一人がいい、また一人がこちらをむいて冷やかにいった。
「主よ、彼らをゆるし給え。そのなすところを知らざればなり」
その言葉の意味もわからないのに、肥前守は、それこそ顔を鞭で叩かれたような気がした。――そして彼は憤怒した。
「石出、参れ」
彼は背を返し、つかつかと外鞘から出ていった。
腕組みをして、黙々と歩く町奉行の暗灰色の顔を見て、石出帯刀は恐怖した。
「あれまでとは存ぜなんだ。……早速、あの両人、急ぎ隔離するようとりはからいましょう」
「……もう遅い」
と、肥前守はつぶやいた。
「それより、一日も早く処刑すべきであろうが……あのぶんにては、ただ処刑しては足りぬ。足りぬどころか、あれらの信心の炎にあぶらをそそぐ結果となるおそれがあるな」
牢のある一劃を出る。右へゆけばもとの表門だが、正面に同心詰所がある。そこに妙なものが見えたので、肥前守はふと立ちどまった。
見えたのは、二本の刀身だ。薄暗い詰所の中に、それだけがキラとひかったので眼を吸われたのだ。立ちどまってのぞくと、痩せた蒼白い男が、二本の刀身を両手に持って、余念もなくしげしげと眺め入っているのであった。
「あれは何をしておるのかな」
と、肥前守はきいた。
「は。――きょう夕刻、四人ばかり死罪にいたしまするゆえ、首斬役が、お預り申したお刀の点検をいたしておるようでござる」
「あれが山田浅右衛門か」
「いえ、|御《お》|室《むろ》法助という男で。――あれが来てから、山田浅右衛門は失業中でござります」
「や、御室法助、あれも伊賀組から志願して来た奴じゃな」
「御意」
「ためし斬りもいたすか」
「その予定になっております」
死罪は牢屋敷東隅の首斬り場で執行される。そもそも本来、町奉行同心の役目なのだが、あまりうれしくない職務なので、町の浪人である山田浅右衛門なる者に報酬を与えて依頼することになっている。山田家は代々浅右衛門を名乗り、これが一家相伝の職業となっているほどだ。このとき、もし大名旗本その他から、所持の刀剣の斬れ味をためしてもらいたいという依頼があれば、斬首後の屍体の胴をその刀で斬って調べることになっている。むろん、これも礼金つきだ。
その役をいま御室法助という男がやっていると石出帯刀はいったのである。
「きょうの夕刻な」
と、肥前守は思案していたが、やがてうなずいて、
「石出、急ぎこれよりそれをやれ」
と、命じた。
「あの二人の女キリシタンにその光景を見せてやれ。そして、転ばせるのじゃ。処刑はともあれ、その前に棄教させねば肥前の顔が立たぬ。即刻支度いたせ」
これもまた数日前、肥前守が判決を下した罪人である。
四人の男は、大牢から引き出され、いわゆる地獄門と称せられる入口から処刑場につれこまれて来た。
死罪を命じられた四人は、その門の向うで顔にいわゆる|面《つら》|紙《がみ》と称せられる半紙をあてられ、ひたいで二つに折って、|藁《わら》でしばられている。従って、眼かくしの状態になるが、口は出ている。――その四つの口が、のどの奥まで見えるほどひらいて、わめきさけんでいた。
「やいっ、死罪はきょうの夕方だぞ!」
「おれたち、夕方まで生きていていいのだぞ!」
「牢屋敷で時刻を勝手にくりあげることァならねえ。そんなことァ承知できねえ!」
「殺されたって、暴れて殺されねえからそう思え!」
口だけ見ても、彼らが凶悪無惨な男たちであることはわかった。
彼らは美しい町娘三人を古寺につれこみ、七日七晩にわたって淫虐無惨の行為をくりひろげたあげく、ことごとくなぶり殺しにしてしまった無頼漢どもであった。
「えい、黙れ、往生際の悪い奴らめ」
「神妙にせい。神妙にせぬとただでは捨ておかぬぞ!」
役人たちは、罪人をうしろ手にくくりあげて縄尻で、牛でも叩くようにぴしぴしとなぐりつけたが、文字通り死物狂いのもがきぶりをとり|鎮《しず》めるのに手を焼いていた。
「ただで捨ておかぬとは、首でも斬るというのか。首を斬るというから騒いでるのじゃあねえか!」
「それ以上、何をしようってんだ。町奉行を呼んで来い。やい、町奉行を呼んで来やがれ!」
「――町奉行はここにおる」
という声がながれた。
ききおぼえのある秋の霜のような声であった。わめいていた四人の死罪人は、ぎょっとして息をのんで棒立ちになった。
「うぬらの死罪ただいま行えとは、この跡部肥前みずからが命じたことじゃ」
眼かくしされている四人には見えないが、牢屋敷の東隅にあるその処刑場には、町奉行跡部肥前守のみならず、検視与力や牢屋同心や首打役や介添えの非人たちが、それぞれ所定の場所にひかえていた。
肥前守はそういっただけで、また地獄門のほうを眺めていた。
ややあって、そこからまた二人の囚人がつれこまれて来た。
白衣の女である。しかも、これはうしろ手にくくられてはいるが、面紙をあてられていない。二人は、黒い眼をいっぱいに見ひらいて、はじめて見る処刑場の光景に思わず立ちすくんだ。
まだ血はながれてはいないが、一個所に掘られた穴、その前に置かれた|筵《むしろ》、土を盛りあげた土壇場、刀箱、洗い桶など、いちいちそれが何を意味するかは知らず、|晒《さら》されたような秋の白い日に照らされて、一目見ただけで人間の魂を凍りつかせずにはおかない凄惨の気がそこにあった。
「カタリナ、モニカ」
地の底から湧き出るような声で、肥前守は呼びかけた。
「切支丹を転べばゆるす」
二人の娘は、奉行を見た。
蒼ざめて、唇はふるえて声にならなかったが、しかしなんのためらいもなく、二人はしずかに首を横にふった。
「まず、見るがよかろう」
肥前守にあごをしゃくられて、四人の死罪人のうち、一人目を役人がひき出そうとしたが、その男のみならず四人とも、火に触れたようにまた怒号しはじめ、猛り狂って、そこにいた役人、非人総がかりでとり押えるという騒ぎになった。
「面倒でござります。二人ずつ、縛り合わせられい」
と、与力に声をかけた者がある。
「おためし御用」と書いた刀箱の中から刀をとり出そうとしていた首斬役であった。――先刻、同心詰所で刀を調べていた男である。
「二人ずつ?」
「縛り合わせれば、暴れにくうござりましょう――二人ずつ、斬ります」
見れば、背は高いが、痩せて、蒼い皮膚をして、しかも学者みたいなものしずかな顔をしている。伊賀組から志願してこの牢屋敷に勤務している御室法助だ。
ひどい騒ぎの結果、ともかくも四人の男囚は二人ずつ縛りつけられ、その一組が筵の上にひきずられていった。|章《た》|魚《こ》みたいな八本の手足を、八人の非人が押えつけて大汗をかいている始末だ。
「では」
ひどく冷静な声で御室法助が一本の刀を抜きはらい、歩み寄った。
二人の罪人の首は筵のそばの穴へつき出されたが、一方はなんとかうつ伏せにされたものの、一方はその肩のあたりで横むきになり、甚だ|不《ふ》|揃《ぞろ》いである上に、なお烈しくふりたてられ、ねじくれ、叫喚している。ふだんのような観念した死罪人ではない。
キラ、と秋の日光がきらめいた。
ばすっ――という|濡手拭《ぬれてぬぐい》をはたくような音はただ一つであった。が、二つの首は穴の中へ同時に転がりおちた。
急にうそみたいにしずかになった二つの肉体を、非人たちはまだ必死に押えつけていた。血が首から出つくすまで押えているのが定法だが、しかしこの場合はその定法を忘れても、押えつける努力がとっさに転換できなかったほどのあっけなさであった。
ふつう、一人の首を斬れば、三リットルちかくの血液が噴出するという。――してみれば、二人で六リットルちかく――ほぼ三升の血が穴の中へ吐きおとされたわけだ。
それよりも見ていた一同は、いまの斬りにくい二つの首をただ一閃で斬った首斬役のわざに胆を奪われた。動かなくなった死人の首のつけねの斬り口は、いずれも定法通りの位置できれいに斬りそろえられている。
「水」
と、御室法助がいった。
あわててわれにかえって、非人が手桶から水をそそぐのを、いま人間二人を斬った刀身で受けている御室法助は、その水よりもしずかな姿であった。
「らくなものじゃ。――見たか」
と、彼がふりむいて声をかけたのは、あとに残った二人の男囚であった。らくなものだ、とは斬るのがらくなものだといったのか、斬られるのがらくなものだといったのかわからない。
生き残りの男囚の眼かくしが、いまの騒ぎではずれていると見てこういったらしいが、男囚は返事どころか、息もない。
これはそも人間であろうか? と彼自身恐怖をおぼえつつ、跡部肥前守は女囚二人をかえりみて、これまた甚だ非人間的な声を発した。
「見たであろう? 転ばねば、あの通りじゃ」
二人の切支丹娘は奉行を見て、それから蒼い秋の天を見た。
「|天帝《ゼウス》さま、天に於て思し召すがごとく、地に於てもあらせたまえ。――われらが人にゆるし申すごとく、われらが|咎《とが》をゆるしたまえ」
その言葉の意味よりも、その姿に肥前守は、この娘たちがたとえ首を斬られようと棄教しないであろうということを知った。
「次。――」
と、御室法助がいった。
放心状態になっていた二人の男囚のうち一人、こけしの馬八というやつがわれにかえり、また獣みたいな声をあげて身をもがき出したのを、一人がいっしょに縛られたままのひじでつついた。
「何しやがるんだ」
「ちょっと待て、お奉行さまに申しあげてえことがあるんだ」
むき直ったのは、頭の半分がむしられたように髪の毛のない大男であった。――なまはげの銅五郎という。――
「お奉行さま」
「なんじゃ」
「その|女《あま》ッ子、キリシタンでやすね?」
「うぬの知ったことではない!」
「その女ッ子、キリシタンをやめたら首斬りを助けてやるのかね?」
「うぬの知ったことではない! これ、こやつどもを斬れ」
「ま、待って下せえ。もし、お奉行さま、その女ッ子のキリシタンをやめさせたら、あっしたちの首斬りをやめておくんなさるかね?」
「……な、なに?」
満面朱をそそいでいた肥前守の眼に怒りではない火がともった。一息ついて、
「うぬがそれをやめさせると? 申せ!」
「いま首を斬るのをやめて下さらなくっちゃ、そいつはいえねえ。――そ、それが出来なかったら、あしたにも首を斬られても、なまはげ、文句はいわねえ。それこそ、まないた[#「まないた」に傍点]の上の鯉同然、スッパリ首の座に坐りやす!」
肥前守はなお、なまはげの銅五郎の顔をにらんでいた。
石出帯刀が横から口を出した。
「いのち惜しさのでたらめでござる。お奉行さま、そやつのごとき凶悪無頼のやつの申すこと、おとりあげ下さるな」
「待て」
と、しかし肥前守は手をあげた。――眼は遠い首斬役の御室法助を見ていったのである。
「思うところあって、こやつらの処刑は明日にのばす。――きょうはそれまでにせい」
御室法助はあっさりと一礼した。そして、非人に何かいい、自分はふたたび刀箱のほうへ歩いていった。
見ていると、非人たちは首のない屍骸を運び出し、法助は刀箱からまた新しい刀をとりあげている。――肥前守は思わずきいた。
「御室、何をやる?」
「おためしを頼まれたお刀は二本ござりまする。ただいまその|一《ひと》|振《ふり》はためしましたが、あと一振残っておりますゆえ、土壇場にてためします」
これは異例のことではない。死刑場のいわゆる土壇場はそのために作ってある。
異例は、いったん罪囚をこの死刑場にひき出しながら処刑を中止した奉行の処置のほうであった。で、爾後の刑をとりやめたことではあり、さらにいま思いついたことを具体化するのに心せかされて、
「帯刀、女どもはもとの牢に戻せ。男どもは暫時、しかるべきところへつれてゆけ」
と命じて、肥前守は立ち去ろうとしたのだが、その足をふととめたのは、なんといっても先刻見た首斬役の神技への興味であった。あの男のためし斬りは、いかなるものか?
「や、また二体を一つにするか」
いかにも非人たちは、首のない屍骸を土壇場に重ねている。
土壇場とは土を六十センチほどの高さに築きあげ、まないた[#「まないた」に傍点]のようにしたもので、屍骸をその上にのせて斬り、刀の斬れ味をためすことになっているが、牛肉のかたまりを斬ることを考えてもわかるように、そのうえ人間には脊椎もあり、斬り手の腕、刀の出来、よほど二つが揃わなければなかなか完全に両断など出来るものではない。
それを――胴二つを重ねて――御室法助は気合もかけずに斬った。
たしかに人間の肉を斬る音はしたし、げんにその刀が下の土壇まで斬り込まれたのも眼に見たが、なおほんとうに斬ったかどうか疑われるほどの鮮やかさであった。
非人が駈け寄って、屍骸をひきずり落そうとすると、四つの切り口から内臓があふれ出した。
「見たか?」
と、肥前守はのどをごくりとさせ、もういちど女囚をふりむいた。
二人の切支丹娘はひざをついていたが、白蝋のような顔を天にむけて唇をわななかせた。
「主よ、彼らをゆるしたまえ。そのなすところを知らざればなり」
こけしの馬八が殺されたのは、その夜のことであった。
刑場で、延期されていた処刑を執行されたのではない。――おんな牢の中でである。
牢に灯はなかったが、二重の格子ごしに薄い月光が満ちており、ともかくも十五畳ばかりの空間に三十数人の女囚がいて、そのまっただ中で男が殺されたのである。しかも、その男がどうして殺されたのか、女囚はもとより、そばにいたもう一人の男なまはげの銅五郎も知らず、そして死んだ当人のこけしの馬八にもわけがわからなかったろう。
おんな牢牢名主|穴《あな》|釣《づり》のお島の証言。
『ええ、お奉行さまに申しあげます。きのうの晩。……
なあんてえのもばかばかしいや。あの男二人を、おんな牢に入れたのァ、おまえだね? いっておくがね、おんな牢の中にゃ、|入《じゅ》|牢《ろう》改めも病気の介抱も、非人の女房のほかは|入《へえ》れねえことになってるんだ。これァ町奉行はおろか御老中さまだって勝手にゃできねえ権現さま|以《い》|来《れえ》の牢法度のはずだ。
それをね、たしかに鍵役同心が外から錠をはずして男を二人入れたのァ、ありゃお奉行さま、おまえのいいつけにちがいない。出るところへ出たら、あたしゃ、このことだけはいうよ。出るところへ出るたって、どうせ出るのァお仕置場だろうが、そこでも天下の法度破りをしたのァだれかってことァ、のどの裂けるまでさけんでやらァ。
さて、牢に入って来たのァ、男二人だ。そのうちに雲つくような一人が、
「やい、キリシタンの女ァどいつだ?」
と、いきなりわめきたてかと思うと、
「や、そことそこにいるな。こっちへ|来《こ》う」
と、丸太みたいな腕をにゅっとつき出した。
真昼みてえにすぐ見つけやがったが、そういや、わかるんだ、あのカタリナさまとモニカさまは。――どんな闇ン中でも、ぼうっと蛍みたいなふしぎなひかりを出してるようなおかただからねえ。
まずカタリナさまをひきずり出すと、あの野郎いいやがった。
「お奉行さまとの約束じゃい。おめえのキリシタンを棄てさせる。棄てねえといったって棄てさせる。おっと、棄てるといったってもうだめじゃい。いまキリシタンの仏よりもっと|御《ご》|利《り》|益《やく》のある仏を拝ませてやらぁ。その甘露をあび、その極楽を味わった上は、女はもうほかの信心はしねえ。ともかくも、それを味わってから、何とかごたくを並べて見ろい」
そして、おさえつけ、あっというまに、あろうことか、カタリナさまをまるはだかにしやがった。
「馬、やれ。惜しいが、おめえにさきに|箸《はし》をつけさせてやる。おれは見張ってて、じゃまするやつがあれァひねりつぶしてやらぁ。あとでおれがもう一人を喰うとして、それまでおれは、女どもといっしょに、おめえ、馬八の馬八ぶりを見物し、アーメンとか何とかしおらしいことをぬかしているその娘の口がどんなにあられもねえ|音《ね》をたてるか、とっくりきいてやらぁ」
男が入って来たときから、こっちァきもをつぶしてあっけにとられていたんだが、このときあたしゃ、やっと正気にもどって飛びあがった。
「な、何しやがる。何が何だかわからねえが、|外《げ》|道《どう》、カタリナさまにそんなことァさせねえ。それ、みなの衆、こいつらを叩き出してやんな!」
まっさきにむしゃぶりついたのが、おッそろしい力で羽目板にたたきつけられた。まわりの女も夢中でつかみかかったようだが、女の力はかなしいもんだねえ。いいや、あいつは化物だ。情け容赦もあらばこそ、女衆たちをなぐりつけ、蹴とばし、二、三人骨をたたき折られたものがあったくれえだ。
そのあいだにも、馬という野郎は、いちど――月の光にもありありと馬みてえなものを見せて、にたりとして――ひっつかまえたカタリナさまにのしかかりゃがった。
あれよ、と思ったとたん、あたしゃあたまがくらくらして、眼さきも見えなくなった。そのときだよ、
「ぎゃん」
と、ただ一声、人間の声だか何だかわからねえ声がして、馬がころがりおちて動かなくなっちまったのは。
「馬、どうした?」
眼をむいて見下ろした野郎が、ふいにのどをかきむしると、これも地ひびきたててひっくりけえった。そのまま眼をまわしちまったのはご存じの通りだが、さあ何がどうしたんだかわからねえ。
え? 馬のからだのどこにも傷がねえって? 傷はねえが、カタリナさまのキリシタンの妖術にちげえねえって? 冗談いっちゃいけねえ、カタリナさまは馬の野郎におさえつけられていなすったんだ。
えっ? 外鞘にいた鍵番もふいにくびを絞められて気を失っちまったって? そういや――牢の中のあの大男野郎がのどをかきむしったとき、ちらっとそのくびに黒い蛇みてえなものが巻きついているのが見えたような気もするけれど――あれァ何だったのかしら? もしだれかが絞めたとしてもさ、カタリナさまはいわずとも知れたこと、モニカさまだってほかの女だって、あんな大男のくびを絞められるかよ。まして牢格子の外の鍵番なんぞ、だれが手をかけられるものかえ?
でも、だれかそれをやったものがある。――
ホ、ホ、わたしにゃわかっている。いえ、笑いごとじゃない。だれがやったか、それァわたしにゃちゃんとわかってるんだ。
天にまします|天帝《ゼウス》さま。――』
町奉行跡部肥前守は惑乱し、こけしの馬八殺害の下手人はカタリナお芹であると断じ、なまはげの銅五郎のくびを絞めて失神に至らしめた者はモニカお文であると断じ、カタリナお芹を死罪、モニカお文を敲きの刑に処することを命じた。
首斬役御室法助と、打役山方孫三郎がふたたび登場した。
二人は遅疑なく命を受け、そのあと顔見合わせていたが、まず御室法助がいった。
「実は拙者の斬術修行、おかげさまにてほぼ所期の目的にちかづいたように存じますれば、これを機会に伊賀組に復帰いたしたいと存じまする。ついては最後のお願い。――拙者の斬った人間のからだについて、とっくりと調べたきことあり、そのカタリナお芹なるキリシタン娘、生きながらこけしの馬八の屍骸を重ねて二つ胴にいたしたるのち、その娘の屍骸、頂戴して参りたいと存じまするが」
つづいて、山方孫三郎もいった。
「拙者も同様の望みでござりまする。鞭をくれたあとのそのモニカお文なる娘の屍骸、これも頂戴いたしとうござるが」
「ま、待て、山方。――御室のほうの願いはまず了承したが、そのほう、モニカを殺せとは申さぬぞ。だいいち、鞭で打っただけで殺せるか」
「ただ一撃にて殺せます。何なら、そのなまはげの銅五郎、一鞭で殺してごらんに入れましょうか? はて、世にも恐ろしきキリシタンの大罪人、殺して|悪《あ》しゅうござろうか?」
跡部肥前守はうなり声をたてて思案していたが、やがて――しょせんは、いずれも生かしておけぬやつらだ。モニカお文のほうはなお責めて|訊《ただ》したいと思っていたが、思えば妖しきキリシタン娘、凶悪無頼のなまはげの銅五郎ともども、この際、一挙に始末しておいたほうがよいかも知れぬ――と、断案を下した。
「よい。願いはゆるす。やれ」
公儀の一機関伊賀組から、斬術、鞭術の秘密研究の一助にもと、とくに派遣されて来た二人の伊賀者であった。
もともとその意味もはっきりわからないのに、伊賀組のやることなればこそそれを受け入れた跡部肥前守は、病理学的というか法医学的というか、彼ら自身の手を下した屍骸の追跡調査をしたいという願いを、これまたよく意味もわからず受け入れた。
その日のうちに、肥前守の眼前で、御室法助は例のためし斬りをした。
死刑場の土壇にまずカタリナお芹をのせ、その上にこけしの馬八の屍骸をのせて。――
「きえーっ」
この日は珍しく、凄絶無比の気合を発して一刀を斬り下ろしたのである。
だれの眼にも、その刀身が馬八の屍骸を両断し、カタリナお芹を通りぬけて土壇まで斬り込むのが見えた。
「では、頂戴つかまつる」
そばに寄せた駕籠の中に、散った花をひとつかみにしたようにお芹を投げ入れ、そのまま法助は非人をうながして牢屋敷の門前に出た。
跡部肥前守、石出帯刀をはじめ牢役人たちは、夢魔の中の世界を泳ぐがごとくこれを追う。
牢屋敷の門前では、筵の上に、モニカお文となまはげの銅五郎がとり押えられて、坐らせられていた。昨夜、おんな牢の中でわけもわからず眼をまわした銅五郎は、いまは正気にもどって何かわめいていたが、奉行の姿を見ると、いっそう声をはりあげた。
「キリシタンを転ばせられなかったから、敲きにかけようってえのか? 敲きにかけただけで首を助けてくれるってえならありがてえが、それならあとでこの女を下せえ。この女をおれにくれたら、きっと転ばして見せらあ。マリア観音なんかより、もっと大好きな銅五郎さん――と、しがみついて離れねえようにしてやらあ。もし、お奉行さまっ、この女ッ子をくんろ。――」
「男の縄を切れ」
と、はるかうしろで山方孫三郎がいった。
銅五郎の四肢を押えていた非人たちが驚いたようにふりかえったが、打役のまじめで重厚な顔を見ると、ききちがいではなかったと知って、その縄を切った。銅五郎は半分毛のない頭をねじむけて、これもキョトンとしていたが、いきなりはね上って、ぱっと逃げ出した。
空中に数メートルも黒い革鞭がのびた。
軽い短い音がその背に鳴ると、銅五郎は棒立ちになった。と、その口から――背後から見てもわかるほどおびただしい血が、がぼっと溢れて地にしぶくと、彼はその上にくるくるっと巨大な昆虫みたいにまるくなり、動かなくなってしまった。
「女の縄を切れ」
と、また山方孫三郎がいった。
モニカお文は縄を切られたが、じっとそのまま坐っている。――
「立て」
いわれて、彼女は立ちあがった。
「歩け」
冷厳な声はつづく。
モニカは歩き出した。一歩、三歩、七歩。――見ているほうで息がつまるような時間と距離であった。十五歩。
空中に黒い革鞭がのびた。
ぴしいっ。
先刻とはちがう耳も覆いたいほどの音がその背に鳴った。モニカお文はこれまた美しい昆虫のように大地にころがってしまった。
「では、頂戴つかまつる」
孫三郎は、先刻のカタリナお芹を入れた駕籠をうながして、そのほうへ寄り、同じ駕籠へモニカお文をも無造作に投げ入れて、それから――御室法助とならんで一礼し、そのままスタスタと遠ざかっていった。
あと、町奉行も牢奉行も|茫《ぼう》|乎《こ》として見送ったままである。
人通りのない遠い町の辻にくると、御室法助と山方孫三郎は、「伊賀組へはわしたちが運んでゆく。御苦労」といって非人を帰らせた。
それから、駕籠から二人の娘のからだを引き出した。からだを――屍骸ではない――抱くようにして出すと、カタリナお芹もモニカお文も、よろめきつつ大地に足を置いて立った。立つには立ったが、なお夢みるごとくぼうとして、二人の伊賀者を眺めている。――
「参ろう」
歩き出した二人の男のあとを、雲を踏むように二人のキリシタン娘は追った。
「暫時」
と、山方孫三郎がいってふりむいた。右側に一軒の豆腐屋があって、その店先に一丁の豆腐が皿に置かれていた。孫三郎は革鞭をとり直した。
ぴしいっ――と、遠い豆腐に鞭が鳴った。たしかに鳴った。その証拠に、その皿から水さえ散った。が、豆腐は小山のごとく崩れない。――
「ふむ」
と、御室法助がいって、ふりむいた。左側に一軒の餅屋があって、その店先に二つの餅がお供えのように飾ってあった。法助はその前へ歩み寄った。
「亭主、代金はあとで払う」
声をかけると、キラ、と何やら秋の日光に一閃した。餅をおいた台にかすかに刀身がくいこんだが、二つの餅は微動だもしない。
――と、また山方孫三郎の革鞭が蛇みたいにのびた。驚くべし、彼はそれを振りもしないのに、ただ手くびを微妙にしゃくるだけで、鞭のさきは生けるもののごとくその餅を巻いて、手前にひいた。
すると――下の餅はまるのまま、上の餅だけがぱっくり二つになって往来にころげおちたのである。
カタリナとモニカは、二人の侍のいまの行為が何を意味するのか、白痴みたいにそれを眺めていたが、たちまちその両眼に光がよみがえると、同時にさけんだ。
「では――昨晩、牢格子の外からわたしたちを助けて下さったのはあなたですね? そ、それから――」
「しいっ」
と、山方孫三郎がいった。御室法助がニコリともせずつぶやいた。
「いや、すべて|天帝《ゼウス》のしわざでござろう」
|〆《しめ》の|忍法帖《にんぽうちょう》
青葉の上に二梃の駕籠が置かれていた。
「|道《どう》|兵《べ》|衛《え》。……かねて所望の|果《はて》|無《なし》のくノ一じゃ」
江戸家老の|樟《くす》ノ木兵庫はかえり見た。道兵衛と呼ばれた男はちょっと頭を下げただけで、じっと庭に眼をむけている。
この屋敷の主人、樟ノ木兵庫は、以前は塵一つおちていても家人を叱りつける厳格な人柄であったのに、いまは庭は|蓬《ほう》|々《ほう》たる春の草に覆われていて、むしろ廃園の趣きがある。そこに駕籠がならんで、ただ二つだけあった。それを運びこんで来た小者はすでに去り、|苔《こけ》むした灰色の土塀にかこまれた庭に、ほかに人影は見えなかった。
「果無のくノ一、出い」
と、兵庫はいった。
まるで駕籠の内部から風でも吹いたような感じで垂れがあがって、二人の女がすべり出て来て草の上にぴたと両膝をついた。
女にはちがいないが、黒髪は結わず、うしろでたばねて背におとし、きものは|肘《ひじ》までの|襦《じゅ》|袢《ばん》様のものを着て、|袴《はかま》は、膝を紐でくくったいわゆる伊賀袴をはき、腰には山刀風の小刀までさしている。
「先刻、吉野から着いたばかりの姿じゃ。右がお|阿《あ》|野《の》」
一人が頭を下げた。蝋のような肌をして、彫りのふかい顔をした女であった。
「左がお|日《ひ》|野《の》」
もう一人が頭を下げた。これは雪白の顔に、黒い眼と赤い唇が、まるで花が咲いたような女であった。
まさに、女にちがいない。両人ともに息をのむような鮮烈な印象を与えるのは、その美貌もさることながら、襦袢もはち切れそうな胸の隆起、くびれた胴からむっちりふくらんだ腰へかけての曲線が、なみの女とは抜群の肉感を見せているからであろう。それはたんに官能的というより|女豹《めひょう》のような野性の迫力があった。
「紹介するぞ。これがおまえらの先輩の|弓《ゆ》|削《げ》の道兵衛」
と、兵庫はいった。
二人の娘は顔をあげて、にっとなつかしげに笑った。
「お阿野、おまえは|十津川虫斎《とつがわちゅうさい》の孫じゃとな。お日野、おまえは大塔の|赤《あか》|婆《ばば》の孫じゃとな」
にこりともせず、しかし感慨にたえぬかのように弓削の道兵衛はいった。これも|月《さか》|代《やき》をのばし――というより、乱髪を無造作にたばねただけの野人めいた|風《ふう》|体《てい》でやや頬骨がたかいが、鋼鉄で作られたようにひきしまった容貌と肉体を持った男であった。年は四十前後であろうか。
「わしが|果《はて》|無《なし》|谷《だに》を出て江戸に来てからもう二十年に近うなる。谷におったころ、おまえたちが生まれておったか、どうか? それにしても、あの虫斎老や赤婆の孫に、このようなきれいな|生《いき》|物《もの》が生まれたとはなあ」
「気に入ったか、道兵衛」
と、兵庫がきく。
「は、これならば使えるでござろう」
と、道兵衛はうなずいて、
「問題は、拙者の方の修行でござる。これより|験《ため》して見ようと存ずる。はばかりながら御家老さまにも、拙者の修行のほどを何とぞ御検分に相成りたい」
と、いって、袴をとき出した。けげんな顔で見まもっている庭の二人の女に、道兵衛はいう。
「虫斎も赤婆も、すでに先年失せたとな? 惜しいことじゃ。……虫斎の術はたいしたものであった。胃にさまざまの毒虫を飼っておって、時に応じてこれを吐く。敵と刃を交えておるときですら、この毒虫を吹いて敵を刺す。……赤婆の術もたいしたものであった。薄い紙をな、おのれの月のものにひたしたやつを相手に投げる。ひろがれば顔に貼りつき肉|仮《め》|面《ん》となって息の根をとめ、紐に|綯《な》えばのどにからんで徐々に絞めあげる。……虫斎の虫供養、赤婆の虫の|垂《たれ》|衣《ぎぬ》といった。偶然とはいえ、忍法の名に同じ虫の字が入っておるのも一奇じゃが、その孫二人がえらばれてここへいっしょに来たのも、それ以上の奇縁じゃな。おまえたち、|祖《じ》|父《じ》|祖《ば》|母《ば》の忍法を学んだか」
二人の娘は顔をあからめた。
「いえ、とてもわたしたちには」
「よい、よい、容易に学んでできる技ではない。それに、その若さではのう」
このとき弓削の道兵衛は袴をぬぎ去り、きものを帯にたくしあげた。――そして、その中のものをぎょろりと出した。
「ううむ」
と横目で見て、樟ノ木兵庫はうなった。
「はじめて見たが、道兵衛、ききしにまさるものじゃな」
「お恥ずかしゅうござる」
「生まれつきか、それは?」
「若干はその気味もありまするが、例の|馬吸無《ばきゅうむ》の忍法を鍛練しておるうちかく相成ってござりまする。では、何とぞ御検分を」
弓削の道兵衛はそのままの姿で――まるで石ころみたいに、あまりものに動じないと見える老家老も、このときばかりはややひるんだ体で、しかし相ついで庭に下り立った。
「おまえたちに求めておったのは、ただその若さじゃ。その美しさじゃ」
と、いいながら、道兵衛は二人の娘にちかづいた。
「果無谷に、男をくらくらさせる美しい娘を送れと註文したら、えらばれたのがおまえたちじゃ。期待はまさに裏切られなんだ」
そして、お阿野の前に仁王立ちになった。
「お阿野、胸をひらいて乳房を見せよ」
娘たちは、眼前に迫った|異形《いぎょう》のものを見て、張り裂けるほど瞳孔をひらいたままであった。身動きもできない様子のお阿野に、道兵衛は|叱《しっ》|咤《た》した。
「何しに来たか、くノ一、菊池家の御用とあれば、果無の一族は水火をもいとわぬ|掟《おきて》を忘れたか!」
お阿野はふるえながら、じぶんの胸をかきひらいた。晩春の日の光に、二つの半球がなめらかな白光をはねてあらわれた。
道兵衛はさらにすすんだ。
「お阿野、腰をあげろ、膝で立て」
その通りにしたお阿野はたちまち乳房と乳房のあいだに、ふとい熱鉄の棒状のものが垂直に押しつけられたのを感覚した。
道兵衛の両手がのびて来て、二つの乳房をつかむと、両側から押してそれをくるみ、しずかにもみ出した。しんなりと見えるお阿野は、そんなことをされるほどみごとに盛りあがった大きな乳房を持っていたのである。お阿野はさけび声をあげようにも、顔は強烈な男の匂いを放っている道兵衛の腹のあたりにおしつけられて息もつけず、そのままの姿勢で腰をくねらせた。
「ううふっ」
道兵衛はうめいて、離れた。
崩折れるお阿野の顔を一瞬かすめ、遠ざかってゆく異形のものの|尖《せん》|端《たん》に、白い乳みたいなものが一滴やどり、それが青草の上におちたのを彼女は幻覚のように見た。
「忍棒、まずはかくのごとくでござる」
|喘《あえ》ぎながら、道兵衛はいった。
樟ノ木兵庫は、むしろ恐怖の眼でそれを見つめている。兵庫を圧倒したのは、これだけの刺戟を加えてなお一滴を洩らすにとどまった道兵衛の忍耐力――そもそも彼が検分を|請《こ》うた一件――よりも、いま彼がみずから忍棒と呼んだところのものの巨大さであった。さっき|瞥《べっ》|見《けん》したときも舌を巻いたが、それはいまたしかに常人の倍はあろうかと思われた。
「お日野、口をあけい」
兵庫は、次に道兵衛がお日野という娘の前に立って言った姿も、お日野が白痴みたいにその濡れた椿の花弁のような唇をひらいた表情も、それから数分にわたってえがき出された光景も、まるで白日夢でも見るような思いで眺めていた。
「いかん!」
ふいに道兵衛がさけんで、とびずさった。
そのとき彼のからだから、一条の白い糸が、ビューッと真一文字に飛んで、二メートルも離れた石燈籠にまで達してしぶきを散らした。実に驚くべき大量の液体であった。
道兵衛は、がっぱと大地に伏していた。
「未熟!」
|吼《ほ》えるようにうめいた。
「御家老の御検分を請う、など口はばたきことを申し、言語道断のこの未熟、弓削の道兵衛、恥じ入ってござりまする!」
身をもんで、わななく顔をあげて、
「いま、いましばらくの|御《ご》|猶《ゆう》|予《よ》を。――御家老さま、して拙者に御用を仰せつけられるのはいつごろでござりましょうか?」
「いつとはいえぬ。しかし遠からざる日、と思うておってくれた方がよい」
|茫《ぼう》|然《ぜん》としていた樟ノ木兵庫は、じぶんの言葉で我に返り、もと通りの厳格な表情にもどった。
「して、道兵衛、いま一つの忍法、あの方はいかが相成っておる?」
「これもまだ未熟。――これはまだ御家老さまの|御《ぎょ》|見《けん》に入れる程度にも達してはおりませぬ。しかしながら御家老さま、いましばらくの御猶予を。――倖い、かかる恰好の実験素材を得ましたれば、道兵衛、血をしぼり、骨を刻んで、忍棒と馬吸無の修行に相勤めますれば、何とぞ、あと二タ月、いや|三《み》|月《つき》――」
吉野藩七万石。
その南方の奥も奥、|重畳《ちょうじょう》たる山岳のどんづまりに|果《はて》|無《なし》山脈という連嶺がある。その向うは、熊野だ。この果無山の一峡谷から江戸に送られたお阿野、お日野は、かえって人外境にあるかのような日を過ごした。
来るときに通った以外、江戸の町へ一歩も出たことはない。ここが江戸のどこであるかさえも知らない。吉野藩江戸家老樟ノ木兵庫の屋敷だということを知っているばかりである。
しかも彼女たちが自由行動を許されたのはその中の一劃だけであった。屋敷の内部にむかっては、三|間《ま》か四|間《ま》を残し、厚い板戸で区切ってあるのだ。外へ向っては、最初にかつぎこまれたあの広からぬ草蓬々の庭だけがひらき、これも塀に囲まれている。
その世界で、彼女たちは、ただ弓削の道兵衛とだけいっしょに暮した。
お阿野とお日野は決してふつうの娘ではなかった。二人自身は、自分たちの生まれた谷や自分たちを異常と思わなかったが、事実は果無の谷はむかしから吉野藩秘蔵の忍者の村であり、二人はそこで全身に吸った妖気以外は、ただ本能だけの女――人間の女というより|女豹《めひょう》にちかい娘たちであった。
そのお阿野とお日野が、弓削の道兵衛と接触して、つくづくその異常な性行にめんくらったのである。
まず最初の文字通りの「接触」からして衝撃的であったが、それ以来。――
道兵衛は彼女たちを「恰好の実験素材」と呼び、「おまえたちに求めておったのは、ただその若さじゃ、美しさじゃ」といったが、実にこの言葉通りの、その線に沿うて、二人はおよそ若い美しい素材として考えられるかぎりの実験をさせられたのである。
一糸まとわぬまるはだかにされて、さまざまな姿態をとらされるくらいは序の口だ。逆立ちをして歩かせてみたり、彼の方へ足をむけて大の字に寝させてみたり、ときにはお阿野とお日野を抱き合わせたまま、ごろごろと転がらせてみたり。――
これを彼は、股間をまる出しにしたまま、腕組みをして、じいっと凝視しているのであった。
ただ離れて、まじまじと観察しているばかりではない。寄って来て、くんくんと嗅ぐこともあれば、直接手でなでまわすこともある。すでに最初に逢ったとき、あれだけのことをしてのけた男だ。口を吸ったり吸わせたりは毎日のことで、ときには彼女たちのからだじゅうをなめまわしたり、逆にじぶんのからだじゅうをなめまわさせたりする。何を思いついたか、はだかのお日野を肩ぐるまにして歩いたり、じぶんが馬になって、はだかのお阿野を乗せて|這《は》いまわったりすることもあった。
ほろほろと風も酔い|痴《し》れるような晩春の草の中で。あらゆるものが白いひかりを放ったような初夏の縁側で。あぶらも火も陰々滅々といまにも消えそうなさみだれの夜の部屋で。
――まさに、夜を日についで。
最初のうちは、この人は気がちがっているのではないかと思った。果無谷にいたころ「この村でいちばんえらいのは、江戸まで召されて殿のお側ちかくお仕えしておる弓削の道兵衛という男じゃ」と祖父や祖母からきかされていた人物とは別人かと思った。
しかし、やがて彼女たちは、これが当の道兵衛にまぎれもなく、そして彼がまさに正気であることを知った。
藩主の菊池河内守にはまだお目通りしていないが、ここがその江戸家老樟ノ木兵庫の屋敷であることはまぎれもないし、そしてまたこれらの行状をくりかえしているあいだ、彼は実に深刻厳粛な眼つきをしていたからであった。
「相済まぬのう。苦労をかける。……さりながら、そなたらでのうては望めぬことじゃ」
と、ときにまったく常識人みたいに顔をあからめることもあるし、
「ふびんや、くノ一、秘密の修行とはいえ、まだうら若い身を」
と、父親みたいな慈眼を伏せることもある。
こういうときには、この重厚でいかつい、むしろ|凄《せい》|愴《そう》|苛《か》|烈《れつ》とも見える男が、それこそ「別人」のように、やさしい、ういういしい人柄に見えるのだ。しかし、こんなことは極めて珍しい――梅雨どきのこぼれ日のような現象であった。
次の瞬間には、
「これ、お阿野、きものをかかげろ」
と、来る。
「お日野、左足をあげろ」
と、来る。そして悦楽とも苦行ともつかぬ、|「[#「「(ひょう)」はUnicode=#98C8、DFパブリW5D外字=#F8A2]風《ひょうふう》の中に火の燃え狂うような妖しき祭典がくりひろげられはじめる。……
元来|羞恥《しゅうち》の感情というものを知らない二人の娘ではあったが、ときには「これはあんまりだ」と本能的なためらいを見せることがあると、彼は厳然として、
「うぬら果無一族の歴史を知っておるか。われらの祖は、その昔、世に大逆賊と呼ばれた人々|乃《ない》|至《し》それにつらなる人々であったのだぞ。それを菊池家の御先祖に|諭《さと》され、許され、養われていまに至ったのじゃ。われらの血は、天朝への|贖罪《しょくざい》と菊池家への絶対的忠誠のために|享《う》けつがれ、流されなければならんのじゃ。その崇高悲痛の大義のまえに、ためらうことは何がある」
と、叱咤した。
また同様の場合、これは彼女たちばかりにではなく、おのれ自身にもいいきかせるがごとく、
「修行とはな、ただ馴れること、耐えること、これに尽きる」
と、深沈とつぶやくこともあった。
あまりにその顔色が荘重なので、彼女たちも思わず粛然と居ずまいをただすと、「これ、なでさせろ、いじらせろ」と来る。……
実に修行とは、馴れること、耐えることであった。
これらの修行のあいだ、初期のうち、彼が、
「あっ、いかん!」
という絶叫とともに、例の白い水をビューッと飛ばし、
「ああ、われいまだ未熟なり!」
と、頭をかかえて這いつくばうことが実にしばしばであった。
ところが、それが次第に少なくなり、極めて稀になって来たのである。いや、眼をあけているときはほとんどこの未熟な現象が消滅したといっていい。
ただ、夜だけあった。少なくとも夜の方にその|頻《ひん》|度《ど》が多かった。
夜、たいてい道兵衛は、二人の娘と|同《どう》|衾《きん》した。命じて、その乳房や腹や足をぴったりと密着させて眠った。その深夜、ときどき。――
「ううふっ」
異様なうめきにふっと眼をあけると、闇から天井へ白い細い糸がかかって、それが天井にはねかえると、雨のごとく落ちてくる。……
反射的に二人はころがって横に避難したが、道兵衛はぐったりと放心的にその白い雨に打たれながら、
「ゆるせ。……この年になって、わしは以前から五日にいちどは夢精する男であった。これでも少なくなった方じゃ。……さりながら、これまた忍棒未熟、ああ、春夢恐るべし。……」
と、悲哀と苦悩にみちた嘆声を発するのであった。
いったい彼の修行は何を目的としているのかよくわからない。が、これらのことに関するかぎり、道兵衛の|惨《さん》|憺《たん》たる述懐から、その直接の願望はおぼろげながら察しられるが、そのほかに、彼女たちとはまったくかかわりのないことで、いろいろ理解のできない彼の修行があった。
一つは、彼が水を飲まないことである。
ここへ来てはじめ数日は気がつかなかったことだが、彼は一滴も水を飲まない。お茶も飲まない。ただ娘たちが支度する食事中の一汁だけは、最初のうちとっていたようだが、いつのまにか、それにも手をつけなくなった。むろん飯や菜に或る程度の水分はふくまれてはいるであろうが、とにかく彼は何の悲願あってか「水断ち」をしているようであった。……それで、ときどき噴出される例のおびただしい液体は、いったいどこから湧き出してくるのか、考えれば奇怪に耐えないことであった。
いや、彼は水を|摂《と》る。
それはもう一つの修行そのものだが、彼は一日に一回はそれを試みる。いよいよ以て怪奇的で、もの恐ろしくて、目撃者が女性でなかったら、実に抱腹絶倒すべき実験であった。
彼はあぐらをかき、股間に水を入れた朱塗りの大盃を置く。それにおのれの肉体の尖端をにょろりとひたすのである。|黙《もく》|然《ねん》として、数十分、或いは数時間。
うしろから見ていると、まるで坐禅をくんでいるように見えるが、近寄ってきくと、口の中で|誦《ず》しているのは経文ならで、
「……落花の道に踏み迷う、|交《かた》|野《の》の春の桜狩り、紅葉の錦着て帰る、嵐の山の秋の暮、一夜を明かすほどだにも、旅寝となればものうきに、恩愛のちぎり浅からぬ、わがふるさとの妻子をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住み馴れし、九重の都をば今をかぎりとかえりみて、思わぬ旅に出でたまう、心のうちぞ哀れなる。……」
という太平記の一節なのであった。
しかし、声はしだいに高まる。
「正成、舎弟の正季に向って、そもそも最期の一念によって善悪の|生《しょう》を引くといえり、九界のあいだ何か御辺の願いなる、と問いければ、正季からからと打ち笑って、七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさばや。……」
このとき彼は、
「|喝[#「喝」は底本では「キ」DFパブリW5D外字=#F3B7]《かつ》! 忍法馬吸無!」
と、しぼりあげるがごとくうめく。
やがて、その朱塗りの盃を傍に置き、彼はしずかに立ち去る。日によって、或いはありありと失望の色を、或はにっと会心の笑みを面上に漂わせて。
その盃の水が、最初に汲んだときより少し減っていることに気づいたのは、おそらく道兵衛が水を飲まないという異常事を知って、道兵衛と水、という関係に注意が喚起されていたせいであったろう。しだいに二人は、道兵衛がこの儀式を試みたあと、にっと会心の笑みを浮かべていることが多くなり、その日は水の残存量が少なくなっていることを知った。……
弓削の道兵衛は、なんとおのれの男根を以って水を摂取していたのである。そう判断するよりほかはなかった。
――こういう修行や儀式がつづいたのである。
春から夏へ――実に三カ月。
そのあいだに道兵衛がどれほど変ったか。外見に関するかぎり、その沈毅重厚の面貌や言行になんの変化もなかった。変化したのはお阿野とお日野の方だ。
第一に、彼女たちの外見が変った。最初からあれほど美しく、あれほど肉感的であったのが、いよいよその官能美が形容を絶するばかりになったのだ。それは暗い雨気をふくんだ微風にゆらぐ、花粉をべっとりつけた雌しべのようであった。
第二に、彼女たちは道兵衛を恋するようになった。そもそも百日間、たった一人の男と性的刺戟の極致ともいうべき生活をつづけていて、性愛の奴隷とならぬ女がいるであろうか。またその観念の対象がその男に固着しないという女がいるであろうか。――しかもこの弓削の道兵衛は、彼女たちとは年は倍ほどもちがうにもかかわらず、充分女性の心をとらえ得る一面を持っている男であった。当人は意識していないのに|仄《ほの》|見《み》える孤独の|翳《かげ》と一種ひたむきな、思いつめているような或る性格、当人はむしろ克服しようとしているらしいのに、ちらと見せる例のこぼれ日に似たはにかみ[#「はにかみ」に傍点]とやさしさ。
第三に、彼女たちは、要するにめちゃくちゃになってしまった。というのは、こんな行為を加えながら、道兵衛はついに彼女たちに対して最後の行為には及ばなかったからだ。燃えあがらせるだけ燃えあがらせておいて、酸素の補給口をピタリと閉じているようなものだ。
夜、左右から密着させた乳房を火のようにし、腹を波打たせ、ふとももを|痙《けい》|攣《れん》させて、
「……なぜ?」
という意味のことを、彼女たちはもっとも本能的な、もっとも原始的な用語で叫びかけることがあった。これに対して道兵衛の返答は、さすが彼女たちをも憤然とさせるものであった。
「けがれるといかん」
こんなことをしていながら、いまさらけがれるも何もないものだ。しかし道兵衛は、彼女たちを侮辱する気は全然ないようで、例の思いつめた顔つきで、
「それを使うとな、忍棒の修行にはなるかも知れぬが、それよりわしは馬吸無の忍法を試みとうなる誘惑にかられる」
と、わけのわからない独語をもらし、さらに、
「すると、おれの内部に混りものが入る。いつお呼びがあるかはわからんでな。内部はいつも清浄に保っておかねばならんのじゃ」
むしろ、切々とした調子でいって、ひとりうなずくのであった。
四カ月目。……真夏七月半ば。
弓削の道兵衛はついにみずから作った肉の監獄を出ていった。
夕方、出てゆくときに道兵衛は、お阿野とお日野にこんなことをいった。
「今夜、わしがここへ帰って来なんだらな、わしは当分帰って来ぬものと思ってくれ。おまえらの御用は相済んだ。おかげでわしの修行もほぼ完成したと思う。いや、御苦労であった。おまえらの忠誠の行為は天も感応ましますであろう。……いつでも、遠慮なく果無の山へ帰ってよいぞ」
二人はあっけにとられて顔を見合わせた。その顔に血の色がのぼって来たのは、道兵衛の姿が見えなくなったあとであった。
弓削の道兵衛がまかり出たのは、吉野藩江戸藩邸、しかもその下屋敷の主君の御座所であった。
そこに主君の菊池河内守義貞と、その|側《そば》|妾《め》お|廉《れん》の方と、江戸家老樟ノ木兵庫の三人がひっそりと待っていた。
どういうわけか、夜に入ったとはいえ、この暑い季節に、座敷のまんなかにはもう緋の夜具がのべられてある。
平伏する道兵衛に、
「大儀」
と、兵庫はうなずいて、
「道兵衛、いよいよそのときが来た」
粛然としていった。
「明日、殿には御切腹あらせられる」
「――や!」
道兵衛は、顔をあげた。
菊池河内守は蒼ざめてはいたが、しかし、|従容《しょうよう》ともしていた。白い瓜みたいに長いが、それだけに、気品にみちた容貌であった。
「いつ来るか、いつ来るかと待っておったが、本日、御公儀より御内示があった。殿が御切腹と相成らば、特別を以て弟君に一万石を残され、菊池家の断絶は許すであろう、とのお達しじゃ。であるから、殿はお腹を召させられる。もとよりこの兵庫も追い腹切って|冥《めい》|土《ど》のおん供をいたす所存」
兵庫はこのとき痛恨の表情になった。
「かかる始末になったのも、例の|高《こう》ノ|尊《そん》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》一味のせいじゃ。そ知らぬ顔をしておるが、内々公儀に先年来の当家の企てを密告したのはきゃつ以外にない。きゃつがひそかに伊賀者を養うておることまでわしは探知しておる。たとえ菊池家が滅んでも、おのればかりは無事にまぬがれたいという浅ましさ、いやそれ以上に、公儀に主家を売って、おのれはさらに栄達したい欲心からの裏切りとわしは見ておる」
「……お申しつけ下されば、道兵衛ただちに高ノ尊左衛門どのを討ち果しまするが」
と、きっとして道兵衛はいった。高ノ尊左衛門とはやはりこの吉野藩の江戸家老次席であった。
「いなとよ、尊左衛門めは、明朝殉死にさきだって、この兵庫が|誅戮《ちゅうりく》いたす」
と、樟ノ木兵庫はいった。
「それよりも、御最期にあたって殿の御熱願あそばすは、例の顔世のお|方《かた》さまのことじゃ。顔世のお方さまに殿のおん|胤《たね》を植えまいらせなんだことじゃ」
「………」
「去年、お国入りの際、八方手をつくし、ようやく顔世のお方さまをお探し出されたのが御下向の直前、ついに顔世のお方さま御懐胎のことなく、殿だけ御帰邸あそばすのやむなきに至った。顔世のお方さまが、吉野を離れるのはいやじゃ、とどうあっても江戸へお下りなさるのを承知なされなんだからじゃ」
「………」
「そのおりは、また御帰国のときに御懐妊のこともあろう、と思うておった。またその後、当家の企てが公儀のかぎつけるところとなり、いまその向きから何かいって来るか来るか――と、当方も疑心暗鬼にかられつつ、まさか尊左が内通しておるとは思わなんだゆえ、一方でよもやとも思い、ついに顔世のお方さまを江戸へ無理にもお呼びすることなく今日に至ったのは無念の至りじゃ。とはいえ、それは顔世のお方さまの吉野への御愛着を思い、さらに万一、江戸にて和子御誕生のことあれば、いったん|緩急《かんきゅう》の際公儀の手がこれにも及ぶかも知れぬ――と、怖れたせいもある」
「………」
「いずれにしても、当面、菊池家はまず滅亡にひとしい状態となる。それは悲しまぬと殿は仰せられる。ただ心残りなのは、かえすがえすも国元の顔世に胤を残さなんだこと、ただ一つ、と仰せられる。――」
兵庫は落涙した。
「申すまでもなく、殿は大忠臣菊池家おん|裔《すえ》、また顔世のお方さまは、これまで吉野の奥にはかなくお過しなされて来たとはいえ、まぎれもなくこれまた大忠臣北畠家の御末孫」
「………」
「その尊き御陰陽、合してここに和子御誕生あらせらるれば、これ忠魂の|権《ごん》|化《げ》にして、このお子さえおわせば、かねてよりの当家の御悲願、天朝御回復という大義の達成は、七生ののち、期して待つべきのものがある。このお子は必ずお作り申しあげねばならぬ」
「………」
「さりながら、殿は江戸、顔世のお方さまは吉野におわす。その間百五十里。――しかも殿は明朝この世をお去りあそばす」
眼をとじて、この悲劇を|反《はん》|芻《すう》するかのごとくしゃべっていた樟ノ木兵庫は、このとき眼をあけて、はたと弓削の道兵衛を見すえた。
「ここにおいて、道兵衛、うぬの出動を待つほかはない。かねてよりかかることもあらんかと、ひそかに修行いたさせおきたるうぬの忍法馬吸無」
「……はっ」
「また、忍棒」
「……はっ」
「成ったか。達したか」
道兵衛も兵庫を大きな眼で見返して、
「まず、たいていは」
と、答えた。たいていは、といったが、絶大な自信にみちた顔であった。
「では、やって見い。――いや、やらねばならぬ。殿もすでに御承知、いや左様にお覚悟あそばされておる」
兵庫はうなずき、ふりむき、うながした。
「いざ、殿、御出精を」
菊池河内守はふらふらと立ちあがり、かたわらの側妾をうながした。
「これよ。……あれに|寝《い》ねよ」
これまで――樟ノ木兵庫が菊池家の悲痛な運命を語っているあいだ、この側妾は白痴みたいに無表情にそこに坐っていた。
しかし、たしかに美女である。やや肥りぎみで、あごも指もくくれかげんで、どこもかもまるく、むっちりとあぶらがのり、つやつやとした肌は真っ白にひかっているようであった。眼はふくよかなまつげのために、どこを見ているのかはっきりしないほどぼうっとしていて、赤い唇はなかばあけられて、そこから米粒をならべたような歯の奥に、ちょっぴりと舌さえ見えた。
やや御頭脳がお弱くておいでなさる――という噂だが、御主君の江戸に於ける側妾のうち最も御寵愛のふかい方であった。
「あら? こんなところで?」
さすがにびっくりした表情をしたが、
「先刻、こんこんと|訓《さと》してつかわしたではないか?」
かん高い声で河内守に叱られて、ぽっと頬をあからめ、河内守のあとについて、真紅の夜具の方へ|歩《あゆ》んでいった。
――御合歓の儀が行われた。まるで雀の行水みたいな早さであった。十秒もたたないうちに河内守は、しなびた|胡瓜《きゅうり》みたいにうつ伏せのまま、ころがりおち、
「済んだぞや」
と、肩で息をしていた。
「道兵衛、いそげ!」
兵庫にせきたてられて、弓削の道兵衛はいささかあわてふためいた。あまり早いので、準備が間に合わなかったのである。
が。――彼は、「かしこまってござる!」とさけんで、位置についた。なお無意識的にからだをうごめかしていたお廉の方に馬乗りになったのである。
傍で首をもちあげて、菊池河内守は、まるで妖怪を見たような顔をした。河内守が見たものは、いつか樟ノ木兵庫をして、「それは生まれつきか」と怪しませたほどのものであった。女に馬乗りになったが、どちらが馬かわからないほどであった。
しかし、そのままの姿で、道兵衛は天をふりあおいだ。彼は眼をとじ、|誦《ず》しはじめた。
「……正成、舎弟の正季に向って、そもそも最期の一念によって善悪の生を引くといえり、九界のあいだ何か御辺の願いなる。……正季からからと打ち笑って、七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさばや。……」
それはまさに、|悽《せい》|愴《そう》な乱軍中にあって馬上にのびあがり、はったと敵をにらみつける死相の大武将を|彷《ほう》|彿《ふつ》させる荘厳な姿であった。……道兵衛のひたいから汗がしたたった。あきらかに念力を凝集させ、
「在天代々の菊池北畠両家の諸忠霊、願わくばおん加護あらせたまえ。――忍法馬吸無!」
その声はひくくこだまし、同時に|鞍《あん》|下《か》のお廉の方がたまぎるような――しかし決して苦鳴ではなく名状しがたいほど快美にみちた――さけび声をあげたが、その余韻では断じてない、ヒューン、というようなうなりが、たしかにきこえた。
三分ばかり、なおそのままの姿勢で彼は|瞑《めい》|目《もく》していたが、やがてしずかに立ちあがり、たたみの上に平伏した。
「……おん|胤《たね》、たしかに御拝借いたしてござりまする」
こんどはお廉のお方さまは失神状態にあったが、河内守の方がむくと起き直った。
「いま、異な音がしたが……あれが吸いあげる音か? あれほど余のものは大量であったか?」
「いえ。恐れながら、あまりに少量でおわすゆえ……勢いあまって、いささか風をも吸いこんだようでござりまする」
「大命下る!」
樟ノ木兵庫は叱咤した。
「弓削の道兵衛、かならずそれを洩らしてはならぬぞや」
「おお、忍棒の術を以て」
昂然として答えてから、道兵衛はみずからの股間をのぞき、|恐懼《きょうく》の眼色になって、
「いや、これはさきほどまではわが身でござったが、いまや菊池の化身、おん忍棒とこそ申すべし。かく心得て、雨露にもあてず、必ず捧持奉送の大任を果しまする」
といった。
「おお、それきいてわれらも|安《あん》|堵《ど》して眼がつぶれる。この場よりただちに出立できるよう、あれに路銀、笠、わらじなどを支度させてある。すぐに立て」
「こは、かたじけなし」
弓削の道兵衛は身支度をととのえた。深編笠に野羽織という一見武芸者風の|装束《しょうぞく》であった。
ようやくもとの気品高い大名としての風格を回復した河内守が、いままでに一度か二度しか目通りゆるしたことのない菊池家軽輩の一忍者を、手を合わせてふかく拝んだ。
「なんじの吉野へもたらすものは、七生ののち天朝御回天のことをもたらすものであるぞよ。……いざゆけ、弓削の道兵衛!」
――どこから湧き出したか、夜の大屋根に、二つの影がふっと現われた。いちど、一つの影の方がすべって|甍《いらか》からころがりおちかけたが、悲鳴もあげずすぐに這いあがって、やがて二人ならんで、|棟《むね》の上に坐った。
月のない夜であった。天空には|黒《こく》|闇《あん》|々《あん》たる風が吹く。
ややあって、はげしい息づかいがきこえ出した。
「……ひどいひとだわ!」
「……あの道兵衛どのは!」
お阿野とお日野だ。そういったきり、また絶句して、二人は昂奮と激情を、夜の風に|冷《さ》まそうと努力している風であった。
彼女たちは、いままで問題の座敷の天井裏にひそんで、一部始終を目撃していたのである。菊池河内守や樟ノ木兵庫ならいざ知らず、弓削の道兵衛ほどの者がこのことに気がつかなかったのは、よほどこの夜の大事に注意力を奪われていたせいであろう。
「……あんなふとっちょの女から」
「……どうやら、吉野の顔世とかいうひとへ」
キリキリと歯のきしる音がした。嫉妬にはちがいないが、二人の娘の熱くなったからだを吹きどよもしているのは、第三者から見ても当然だと同情できる人間としての怒りであった。
「……どうする?」
「……そんなことさせないわ!」
一人がひくく、しかしきっぱりと答えたとき、きいた方がいった。
「――あれは?」
二人は、屋根の上から広い庭に眼を投げた。
常人には絶対に視界のきかない闇夜の大地を、|蟇《がま》みたいに這ってゆく幾つかの影を見たのだ。
「何者かしら?」
「七人いるわ」
彼女たちの眼には、|黒《くろ》|頭《ず》|巾《きん》黒装束の男たちとはっきりわかる七つの影は最初の蟇のような徐行から風のような|疾《しっ》|走《そう》に移り、木立ちをつきぬけ、はるかかなたの塀を黒い|鞠《まり》みたいに躍り越えていった。
お阿野とお日野は立ちあがった。
ここは郊外の下屋敷なので、その外はいちめんの畑であった。その上を駈けていった七つの黒衣の影は、往来にちかい畑の中にひそやかな水音をたてている小川を、いちど跳び越えてから立ちどまった。
「待て、ここで支度してゆこう」
「追うのか、この場から、あの男を」
「むろん」
七人は頭巾と黒装束をかなぐり捨てた。
「これはひどい|蜘《く》|蛛《も》の巣じゃ」
と、つぶやく声がきこえたところを見ると、彼らは下屋敷の床下にひそんでいたのであろうか。いっせいに、ぬいだ黒衣をばたばたと振っている。
「ぺっ、ぺっ、顔も蜘蛛の巣だらけだぞ。おい、川がある。ついでに洗ってゆこう。夜が明けたら、ひとにも見せられぬ」
「きゃつを追うのに、間に合うか?」
「なんの、果無の忍者ごとき。――それにゆくては吉野ときまっておるのじゃ」
七人は裸になり、夏の夜の川に入って、ざぶざぶと洗い出した。盗賊に似たふるまいをして来て、しかも何やらさきに目的があるらしいのに、みな悠々たるものだ。
「果無の忍者などいうものが吉野藩にあろうとは、このたび|高《こう》どのに飼われるまで耳にしたこともなかったの」
「天下に知る者がない。――ということは、二流、三流だからだ」
「しかし、あれには|胆《きも》をつぶしたな。あれが果無の忍法馬吸無というやつか」
「見ることはできなんだが、たしかヒューンといううなりまできこえたぞ」
「高どのから、樟ノ木めが果無の忍者を養うてひそかに奇態の忍法を修行させておるらしい、と情報を受けておらなんだら、何をしておるのやらわからなんだかも知れぬ」
「男根を以て吸いあげるとは、ても、まあ。――」
「できるかな?」
みんな、水に中腰になってりきんで見た。
「――できぬ!」
いっせいに、悲鳴をあげた。
「吸いこむどころか、逆の方角から何か出そうじゃ」
みな、ゲラゲラと笑い出した。
「しかし、あれだけじゃ、きゃつの芸は。――」
「伊賀の忍者にかかってはただの一討ちじゃ。そろそろ、ゆくか?」
ざっと水音をたてて、大地にはねあがった。ふたたび衣服をまといはじめたが、そのすべてを裏返しにすると、まったくふつうの武士の姿となった。頭巾はしまい、その代りにどこからか折りたたんだ編笠をとり出して、ひらいて、かぶった。
「ところで、そうじゃ、樟ノ木めは明朝、|高《こう》どのを手にかけるとか申したな。このことはお知らせせねばならぬ」
「それに、われらが果無の忍者を追うことも報告しておかねばならぬし」
「七人、ことごとくきゃつを追う必要はない。六人でいい。一人は残れ」
「|入《いる》|鹿《か》、おまえが残れ」
「よし来た。では、ゆけ」
「おお、数日のうちにきゃつを必ず仕留めて帰ると高どのに申しあげておけ。――」
声だけが残った。
六つの影は、ふたたび黒い疾風のようにもう向うの往来へ駈けのぼっていた。
あとに残った一つの影が、やがてゆっくりと畑の中を歩き出そうとしたとき、ふっと夜風が甘ずっぱく匂ったかと思うと、頸にぴたと何やら貼りついた感覚がした。
反射的に手をあげてこれをとろうとしたが、まるで濡れ紙のようで、しかもいかにかきむしっても破れず、とれもせぬ。――
「ううふっ」
うめくと、そのものからたちのぼる甘ずっぱい匂いが、いよいよ濃く鼻孔をつつんだ。
「いまいった男たちは、何しにいった?」
前の闇の中で、女の声がした。
「果無の忍者を、何のために追っていった?」
入鹿と呼ばれた男は、その声の方向へ猛然と走りかけて、立ちすくんだ。息がつまったのだ。貼りついた薄い粘膜状のものが、ぎゅっと頸を絞めつけて来た。
「言わねばしまる。言えばゆるむ。――言え」
言えといわれても、声が出ないのだから、入鹿は顔色を黒ずませてのどをかきむしった。かすかに、息が通った。
「殺しにいった」
と、彼は|嗄《か》れた声でいった。また頸がぎゅうっと絞まった。女の声がいう。
「おまえは何者じゃ?」
ゆるんだ。
「よ、吉野藩の家中。――」
絞まった。
「嘘つけ」
ゆるんだ。――実に頸に貼りついた甘ずっぱい粘膜は、一息ごとにしめつけられたり、ゆるんだり、まるでそれ自身生きているような|搏《はく》|動《どう》を持っているらしい。
「え、江戸家老次席高ノ尊左衛門どのに、り、臨時に傭われた、い、い、伊賀者。――」
「けっ、伊賀者か!」
吐き出すような大軽蔑の声とともに、また粘膜が絞まった。こんどは、徹底的に絞まった。
虚空に手を泳がせながら伊賀者入鹿は崩折れて絶命したが、ふしぎなことに彼はこのとき、恐ろしい苦悶とともに、名状しがたい快感をもおぼえつつ、魂を闇の天へ飛ばしたのである。
「どうする?」
と、お日野がにがにがしげにいった。
「あの六人を?」
お阿野はちょっと考えていたが、優雅と凄艶さの溶け合った顔に似合わぬ乱暴な言葉を吐いた。
「ほうっておくがいいや!」
彼女たちは、まだ大いに怒っているのであった。
炎天の東海道を、砂塵をながくひいて走る深編笠の影。まるでその下に実体がなく、笠だけが風に飛んでゆくようだ。
弓削の道兵衛という名の人工精液輸送器、とでもいいたいところだが、この場合、人工といっていいかどうかわからない。何もかも天然だからだ。
現代でも、動物の人工授精にあたっては、魔法瓶または特別の輸送器で精液を輸送するが、その前提として、精液の生命力の保存が必要であって、そのためには卵黄|緩衝液《かんしょうえき》を加えたり、ドライアイスでマイナスCに凍らせたりして、さまざまの工夫が凝らされている。
道兵衛の場合、さいわいにしてそんな工夫の必要がない。
動物の人工授精の場合は、金属製の外筒と柔軟で薄いゴム製の内筒から成り、そのあいだにCの温湯を入れて温めた人工|膣《ちつ》というものを用いて、|雄《おす》から精液を摂取するのであるが、この場合は天然膣を用いたから、そんな器具の必要もなかった。
それにしても弓削の道兵衛の忍法馬吸無こそ奇絶怪絶といわなければならぬ。
人間の射精現象は、輸精管壁の筋肉、摂護腺の筋肉、つぎに尿道の筋肉及び球海綿体筋、坐骨海綿体筋という順序で、該部の諸筋肉が収縮してゆくことによって起るのだが、彼の場合はこれが逆の順序で収縮するのであろう。しかも強烈な筋肉運動により、最初には一種の真空を作って吸引を開始するのであろう。
ともあれ、彼は走る。――
ふつうの忍者のベテランの脚力は一日百五十キロといわれるが、弓削の道兵衛の速歩ぶりはそれすら上廻っていたかも知れぬ。その夜一夜、その翌日一日駈けつづけて、夜にはもう江戸から百八十キロの府中に泊っていたからである。
途中の箱根の関所は間道を越えた。おのれの輸送すべきものが未来に、公儀打倒につながる重大なものだ、という自覚から警戒したのではない。関所のひらく時間、しまる時間に|煩《わずら》わされたくなかったからだ。むろん間道越えはいわゆる関所破りで、発覚すれば|磔《はりつけ》ものだが、彼ほどの忍者にとっては、見張りの番人の眼をくらますくらいは茶飯事であった。
彼は、いそぐのだ。
天然輸送器とはいうものの、頂戴した主君のおん精液の鮮度、純度を保持するためには一刻も早い方が効果的だろうと考えるのは当然だし、自分の生理に関する問題もあった。
水分の|排《はい》|泄《せつ》の問題であった。
男性の場合、まず|膀《ぼう》|胱《こう》がいちばん奥にあって、そこから出る尿道の途中に射精管の開口部があり、外尿道口は両者兼用、ただ一つというのが甚だこまる。道兵衛のような任務を受けない作者でも、このあたり神様は、ずいぶん横着をきめこまれたものだと思う。同じまとめるなら大小の方を一個所にまとめられた方が配管上も合理的であったのではあるまいか? むろんこんな解剖学的知識が道兵衛にあるわけはないが、本能的に、万一、奥の方からの水分の流出によってその外側に存在するものが押し流されては万事休すという認識があった。むしろ正確な解剖学を知らないだけに、いっそうこの点を怖れたともいえる。
江戸から吉野まで、いかに自分の走力を以てしても、五、六日はかかるであろう。そのあいだ彼は外尿道口をしめっ切りでいなくてはならぬ。彼はそのように決意したのだ。
排泄の問題は摂取の問題につながる。水分を|摂《と》ってはならぬ。――だからこそ彼は、「水断ち」の修行に刻苦した。
しかし、時は七月半ば、炎天の下の急行である。急行すればするほど水が飲みたくなる。この矛盾を承知しつつ、|敢《あえ》て彼は全力急行の方途をえらんだ。彼の超人的な訓練を以てしても、小便せずにすむというギリギリの限度は四、五日以内であるという経験から来たものである。
飲まず出さずの急行に、さすがの道兵衛も、二日目の夜は府中に一泊したが、翌朝は一番に起きて、ふたたび西へ駈け出した。
安倍川がある。
早朝なのでまだ混雑してはいなかったが、広い河原にはもう旅人や川越え人足の影がうごいていた。水は腰のあたりまでの深さで流れているようであった。
ふだんの道兵衛なら人足を煩わすまでもないが、この場合は冷却を警戒した。
「旦那あ」
河童を油でいためたような人足が四人、|空《から》の連台をかついで寄って来た。
「ひとつ、いかがでやす?」
「三百六十八文」
人足の肩ぐるまでゆくという手もあるが、道兵衛は、「おん忍棒」がたとえ間接的にせよ、不浄な川越え人足に触れることを|恐懼《きょうく》した。
「頼む」
約六百メートルの河を渡りつつ、彼は深編笠をかたむけて、自分の股間ばかり眺めていた。それが気にかかるというより、彼は水を見ることを怖れたのである。
水を飲まぬ、という訓練を念入りに重ねて来たはずだが、一昨夜からきのうにかけて、炎天の下を駈けつづけて来たという条件は、もとより彼の肉体に想像以上の苦痛を与えていた。
少しくらい飲んでもいいではないか? 飲んでも出さねばいいではないか? 小水とあれとはまたちがうのではないか?
誘惑が、かわいたのどぶえまでつきあげ、またねじおさえられる。|咄《とつ》、春以来の苦行は何のためぞや! と、おのれの薄志弱行を|鞭《むち》打つ。
またきょうも暑くなるらしく、朝の光がぎらぎらと河面に照りはじめていた。――そのきらめきが、ふいに変な乱れ方をしたと感じたのである。
それは視覚というより忍者としての本能的な反応であったろう。道兵衛はちらと顔をあげて、連台の先棒をかついでいる二人の人足が、首をねじむけて、じいっとこちらを眺めているのを見た。――
ぱっと道兵衛は立った。
抱いていた一刀から白光がほとばしり出て、ふりむいた人足の首の一つが、ばさ! と|濡《ぬれ》|手拭《てぬぐい》をはたくような音とともに水面へ斬り落された。血の雨に、朝の光が一瞬の虹をえがいた。
連台はかたむいて、道兵衛のからだは宙に飛んでいる。いや、彼の行為で人足の一人が消え、それで連台がかたむいたというより、その寸前に彼の方が連台からはね落されていたのだ。その感覚と同時に、彼の足が連台を蹴って、その人足の首を斬りとばしたといった方が正しい。
「果無の忍者!」
人足の一人がわめいた。
「吉野へはやらぬ」
もう一人の人足も歯をむき出した。
水の中で、両人、ともに長い刀身を抜きつれている。――ふんどし一本の彼らは、それまで刀などどこにも持っていなかったのに。
刀を並べて連台の底にしかけてあったのだ。――と気づく以前に、道兵衛は彼らが何者であるかを疑った。ふいに江戸できいた樟ノ木兵庫の「|高《こう》がひそかに伊賀者を養うておる」|云《うん》|々《ぬん》の言葉がひらめいた。きゃつらだ! しかし、それにしても、あれほどの自分の急行の旅に、さらに先廻りしている奴があったとは?
疑惑、察知、驚愕、そんな火花を脳裡に散らしつつ、弓削の道兵衛の足もとからは凄じい水けむりがあがっている。
白刃が交叉した。はだかの人足の一人が袈裟斬りになってつんのめり、水に伏した刹那、道兵衛は反転して、背後から襲いかかって来たもう一本の刀と刃をかみ合わせている。腰まである水の中の死闘であった。
下帯一つだが、実に恐るべき力量を持つ敵であった。敵もまた同じ実感を抱いたであろう、腰を打つ水にからだはたわみつつ、中天にがっきと立った二本の刀はしばし微動だにしなかった。
ふいに、道兵衛が横ざまに倒れた。彼は水中から足をさらわれたのだ。
なんたる不覚、このあいだひそかに水中に潜って忍び寄ったもう一人の敵に彼は気づかなかったのである。四人の人足のうち二人を|斃《たお》し、いま刃を合わせている男はただ一人だけ――とは知っていたが、その知覚を計算するいとまは道兵衛になかった。
「……おうっ」
身をねじりつつ、水へ倒れてゆく道兵衛の背を、立っていた人足の一刀が追い討って、道兵衛の肩のつけねから血しぶきが水平に走っている。その左腕が切り落されたのはたしかに見えたが、しかし道兵衛は水中の裸虫ともつれ合いつつ、ズ、ズ、ズ――と四、五メートルもおし流された。
「こなくそ、伊賀の手並、おぼえたか!」
なお猛然とその方へ駈け寄ろうとした伊賀の裸の背に、このとき二本の手裏剣が同時につき立った。彼はのけぞりかえり、水けむりをあげ、もがきもせずに流れ去った。
「早く、早く、あの方ヘ!」
十メートル以上も離れた連台の上に、二人ならんで坐っていた娘が、狂気のように身をもんでさけんでいた。
こちらの人足たちは、娘たちがたしかに手裏剣を投げたのを見て胆をつぶし、恐怖してその命令に従おうと焦った。
このとき、下手の水中から、にゅうっと一人立ちあがった。かたむいた深編笠に水の|簾《すだれ》がかかっている片手に一刀をひっさげている弓削の道兵衛であった。
彼の片足かどこかにまだしがみついている者があるらしく、道兵衛はふたたび刀を振り下ろして、|蔓《つる》でも切るように斬りはらい、さっとちかづいてくる連台の方を見た。
その連台の上の人間を見て驚愕したかどうか、かたむいた深編笠に顔がかくされているのでわからない。あきらかに水中に彼をとらえている者はもういないと見えるのに、やがて彼はふたたびどうと水中に横だおしになった。
それが何のためか疑うまでもない。立っているあいだもその腕を切断された左肩から、滝のごとく血が河へ流れおちていたからだ。
「早く、早く! これに乗せて!」
二人の娘は、みずから身を|躍《おど》らせて水中へ飛び込んだ。
「あのひとを載せて、あっちへ運んで!」
十数分ののち、弓削の道兵衛は、失神したからだを|鞠《まり》|子《こ》寄りの対岸に横たえていた。
人気のない河原へ運ばれたのだが、ここもまた|眩《まぶ》しいほどの白い河原で、もうじりじりと暑い日ざしが照りつけている。
二人の娘は、そこで自分の|襦《じゅ》|袢《ばん》を裂いて、わずかに残っていた道兵衛の腕の切断面に繃帯をした。このときようやく道兵衛の唇がうごいた。
「水……水」
たんなる暑さばかりではない。ここ一両日の水の禁断現象ばかりではない。おびただしい流血をした人間特有の生きんとする本能のうめきであった。
娘の一人がおろおろと立って、川岸の方へ駈け出した。途中で何やらひろいあげた。口の欠けた古徳利であった。それを持って走り、水をくんで駈けもどって来た娘は、その徳利の欠け具合を見ると、注意してそれをじぶんの口にふくんで、道兵衛の口に唇を寄せた。
道兵衛は薄眼をあけた。
ちかづいた娘の口から水が垂れているのを見ると、
「いかん! 水はいかん!」
恐ろしい声をあげて、娘をはねのけた。それから、はじめて気がついたように、お阿野とお日野の顔を見つめていたが、
「なんのために来た?」
と、いった。
それがあまりに無情な声にきこえたので、二人は黙っていた。徳利は、道兵衛の傍に置かれた。
「この旅の煩いとなる。もはやうぬらとは無縁のはずじゃ。あっちへゆけ」
と、道兵衛は蠅でも追うようにあごをしゃくった。
二人はぷうっと頬をふくらませ、顔を見合わせていたが、立ちあがってスタスタと河原を踏んで歩き出した。
このときようやくいま道兵衛を運んだ人足が、役人や弥次馬をつれて家のある方角から駈けて来て、二人の娘をちょいと見たが、すぐに向うの河原に横たわっている男を見ると、その方が問題だと見たらしく、わらわらとそちらへ駈けていった。
お阿野とお日野は立ちどまって、不安そうにそれを眼で追った。
「――どうするのかしら?」
「――ほうっておくがいいや!」
道兵衛はなお仰むけに横たわって、蒼い天を見ていたが、ちかづいてくる人声と足音に、さすがにむくと身を起した。
が、べつにあわてる風もなく、まず股間に手を入れて何やらたしかめ、それから立ちあがった。じいっと足もとの徳利を凝視していて、ちらっと半身をかがめたが、いきなり足をあげてこれを蹴った。そして、もう四、五メートルの距離まで迫った人々をちらっと見たが、突如、それまでの緩慢な動作とは別人のような、まるで|悍《かん》|馬《ば》みたいな|迅《はや》さで、河原をななめに、向う側へ駈け出していった。口をあけた人々が、やがて気がついてふりかえると、二人の娘の姿もすでに消えていた。
どこまでいっても東海道は、白熱した一本の道かと思われた。
安倍川からさらに約百六十キロ、鳴海の|宿《しゅく》にたどりついたとき、弓削の道兵衛の顔は|木《ミ》|乃《イ》|伊《ラ》みたいにひからびていた。骨の張った顔だけに、それは悽惨にすら見える。そのくせ彼は、下腹にかけて、水腫を病んでいるような気がしていた。
――飲んだな、あのとき。
きのうの朝、安倍川で伊賀者と水中の死闘をくりひろげたとき、彼は不可抗力的に水を飲んだのである。不可抗力的に――というより、彼は自分で、これはやむを得ん、と意識してがぼがぼと水を飲んだ気味がある。飲んだ勢いであの敵を仕留めたといっていいくらいであった。
――あとで、愕然として、しまった! と、それ以来は厳禁したが、それでもあれは|祟《たた》っている。いや、それに伴う作用が起りはじめていることを彼は感覚している。しかも、一方で恐ろしい渇きもまだつづいているのだ。
水を|摂《と》りたい。いや、排出したい。
昨夜一夜じゅう、どこにも泊らず、駿河、遠江、三河、尾張と、実に四カ国ぶっ通しに走りつづけて来たのに、この生理の歯ぐるまに腹背をかみくだかれているようで、彼の足はやや速度がにぶっていた。彼の願望では、その日のうちに宮まで出て、桑名へ一気に渡ってしまうつもりであったのだ。
江戸を出てからすでに四日目。
疲労の極度に達すると、人間はかえって眠りがたい。それに、傷の痛みもあった。夏のことで、手当も不充分な傷は、どうやら化膿現象を起しているらしかった。――
鳴海の|旅籠《はたご》で、|輾《てん》|転《てん》反側していた弓削の道兵衛は、夜更けとともに、異様な声をきいた。――
隣室からの、女の何やらささやく声、あえぐ声、うめく声である。ただの音色ではない、と道兵衛は気がついた。若い夫婦でも泊っているのか? と思ったが、どういうわけか男の声はきこえなかった。
|喃《なん》|々《なん》たる意味不明の痴語はつづく。たまりかねて道兵衛は|咳《せき》ばらいした。それでもとまらない。
|嫋々《じょうじょう》とむせぶような吐息はつづく、道兵衛は、この暑いのに、頭から夜具をかぶった。それでも止まない。
|纏《てん》|綿《めん》たるうわごとは寄せては返す波のごとくつづく。いつしか肉体が異変を起しているのを知り、ついに道兵衛はがばと起きなおった。
四つン這いといいたいが、腕一本だから三つン這いである。彼は隣室との境の襖の傍に這い寄った。
こういう場合、低クラスの忍者は、|閾《しきい》に小便を流すという。道兵衛はそんなまねをしたことはないが、たとえ必要であっても、いまそれは彼にとって最大のタブーであった。それに、そんな必要もなかった。安旅籠のことで、閾から三十センチばかりの高さに、襖が破れて、紙が垂れ下がっている個所があったからだ。
そこに眼をあてると、やはり小さな穴があいていた。
|行《あん》|灯《どん》もつけていないが、しかし弱い月影が窓の障子からさしこんで、まったくの闇というわけではない。その模糊たる|仄《ほの》明りの中に何やらうごめいている。闇にも眼のきく道兵衛だが、視線の低いせいもあり、しばらくは何が何やらわからなかった。
蒼いぬめぬめとした白い蛇のようなものがもつれ合っている。まんまるい壺みたいに見えるものが、しかし大きく起伏している。なめらかなまるみに黒髪と見えるものが這いまわっている。うすくらがりの奥底に、さらに深いくらがりが見える。それらすべてが波のように身を上げ下げしている。
――二人の女だ。二人の女が、白鳥のように抱き合って、もだえているのだ。
そうと知ったあと、その二人の女が何者であるかをつきとめる以前に、彼は自分の意志に反して或る現象が切迫しているのをおぼえて脳天もくらむ思いになり、
「――いかん!」
と心中に絶叫して、その穴から身を離そうとした。
「入って御覧なされませ」
「いつかのように、道兵衛さま」
声がした。
弓削の道兵衛は満面を朱に染めて、襖をあけて隣に踏みこんだ。
「うぬら。――なんたるまねを!」
肩で息をしながら、彼はうめいて、見下ろした。
お阿野とお日野は、からみ合ったまま、笑いもせずに見あげていった。
「あなたから、教えられたことです」
「二人、抱き合って、こういうことをしたあとでなくては眠られなくなってしまったんです」
道兵衛はしばし沈黙していたあとで、やがてまた低い声できいた。
「うぬら。――何のために、わしのあとを追う?」
「果無へ帰るんです」
道兵衛は完全に絶句したのち、やがて荒々しく襖をとじて自分の部屋へ帰った。このとき彼の顔からは血の気がひいていた。
彼は、二人のくノ一たちを叱るより、自分の未熟を痛切に恥じたのであった。
そもそも彼は、こういう|破《は》|綻《たん》を怖れればこそ、あの忍棒の酷烈な訓練をして来たのであった。この二人の娘に最終的な行為を加えたことはないが、それはそんな必要がないからだ。意志なくして交合するなどということは金輪際あり得ないからである。しかし、自分の意志とは無関係に、いかなる誘発的な事物が|耳《じ》|目《もく》に触れることになるか、それは予測しがたい。万に一つ、そんなことが惹起して、万に一つ、不覚な結果に及んだら、すべて、何もかもが水泡に帰するのだ。とくに以前からおのれの蓄積量が多量であることを自覚しているだけに、彼はその万に一つの失敗を警戒して、あのような自分でも必要以上と思われる猛訓練を重ねて来たのであった。
しかるに。――いざ、任務についてからのこのみずからの|脆弱《ぜいじゃく》性は何ぞや。
恥じよ、忍棒! 汗顔せよ、忍棒!
いや、すでにこれはなれなれしく忍棒などと呼ぶべきものではない。おん忍棒とも称したてまつるべきものである。――
きくところによると、宮本武蔵は一生妻帯しなかったという。現代人たるわれわれからみると、あまり意味のある独身とは思われないが、もし意味があるとすれば、その意味をもっと圧縮し、さらに切実化したものが、この場合の弓削の道兵衛であったろう。――弓削の道兵衛の苦労だってあまり意味がないではないか、といわれる人があるかも知れないが、そんなことをいえば、たいていの人間の苦労もあまりたいして意味のあるものではないのである。
道兵衛はがばと端坐し、おん忍棒のとばりをみずからかかげ、これに謝しはじめた。おん忍棒はなお|逆《げき》|鱗《りん》しているようであったが、これは得手勝手というものである。
「……落花の道に踏み迷う、交野の春の桜狩り、紅葉の錦着て帰る、嵐の山の秋の暮、……」
眼をとじ、必死に|誦《ず》しつつ、彼はおん忍棒に礼拝しつづけた。これが第三者に対する敬礼と同じ姿勢をとらなければならないということは、甚だ心外であったが、ほかに法とてはなかった。
無我の境に入ったためか、隣の声は耳から消えたようであった。
このとき、お阿野とお日野は、例の襖の穴から逆に、かわるがわるこちらをのぞきこんでいた。
彼女たちの方は、最初のときほどもう怒ってはいなかった。道兵衛の苦悶の姿に、ちょっと悲壮味をすらおぼえていた。しかし、さればとてすべて釈然としたかというと、そうはゆかない。彼女たちのめちゃめちゃにひき裂かれた女性としての怒りは、復讐とまでゆかなくても、何か相当なしっぺ返しをしなければ鎮まらなかった。先刻からの声のいたずらはその一つの現われである。
そして、このとき。――
襖から眼を放したお阿野は、口をあけて、七度、八度、何か吸いこんだようであった。それから、襖の穴に口をあてた。薄い煙のようなものがスーッと音もなく吐き出され、道兵衛の部屋に入ると、小さな虫となって散った。どうやら蚊のようであった。
「果無忍法、虫供養。……」
と、お阿野はつぶやいた。
道兵衛はやがて|妄《もう》|念《ねん》を完全に|調伏《ちょうぶく》したと確信したと見えて、しずかに寝についた。
が、それからものの三十分もたたないうちに、
「――あっ、いかん!」
と、絶叫して、はね起きた。
眼を大きくひらき、歯をくいしばり、腹式呼吸をしている。正気では妄想を断っても、夢にしのびこんで来た|妖《あや》しきものが、|九仭《きゅうじん》の功を一|簀《き》に欠きかけたのである。
「危いかな。ああ、春夢恐るべし。……」
と、道兵衛はうめいた。
彼はおちおち眠ることもできなかった。それに何やら|痒《かゆ》いようでもあった。
標高八八○メートルの高見峠で、弓削の道兵衛はおん忍棒を掻いていた。
東は伊勢の国飯高郡山粕村。西は大和の国吉野郡高見村。
尾張の宮から七里の渡しを越えて桑名へ、桑名から松阪へ南下し、そこから西へ――大和の国へのびるいわゆる和歌山街道に入る。
すでに六日目。
この峠を下りればついに吉野だ。いわゆる吉野藩の本領にはまだであるが、ついに吉野の地に入ることはたしかなのだ。
その安堵のせいばかりではない。或る感覚にたまりかねて、道兵衛はそこの路傍の石に腰うちかけて、それを|癒《いや》しはじめたのであった。
疲労ではない、例の渇きと排泄への願望ではない。むろんそれはある。あるどころか、ますます激烈化して、からだじゅうの内臓が遠心力と求心力の糸で上下左右にひっぱられ、かきまわされ、のたうちまわっているようだが、この大苦痛にはいまのところ、なお彼は耐えていた。このことに関する超人的な修行のたまものである。
ただ、耐え切れないのは痒みであった。これは修行の課程外のものであった。
伊勢湾をおし渡っているころから明確におぼえはじめた|掻《そう》|痒《よう》|感《かん》である。あまりに非常識な忍耐を強いたために起った局部の異常か? と思ったが、それをかえりみるいとまなく、ひたすら彼は駈けつづけた。桑名から南下するにつれ、暑さはいよいよひどくなり、そして痒みもまたますます甚だしくなった。痒いもので尖端を切って走るということは、何よりもその疾走力を心もとないものにした。
で。――
ついにここまで達したのを機会に、これを点検し、一応癒してみる気になったのである。
袴をぬいで、点検してみると、赤銅色の外皮の上にいよいよ赤く、いくつかの斑点があって、それがかすかにふくれている。虫に剌されたようだ。
「――はて、いつ?」
くびをかしげたが、その疑問を追及するよりも、道兵衛はただ|恐懼《きょうく》した。
「おお、雨露にもあてぬとお誓い申しあげたものを、なんたる不覚、おいたわしや、ただいま、ただいま。……」
掻き出した。しかし、それはそれとして、これは、ちょっとでも刺戟すると爆発しそうな危険物であった。彼は眼をつむり、歯をくいしばり、身ぶるいした。まるで熔岩が噴火口めがけて、ぐうっと押し出して来そうな迫力のある手応えがある。死物狂いに、彼はこれを制圧した。しかし、痒い。……
|重畳《ちょうじょう》と南北につらなる山脈と大樹海を切るひとすじの山道。燃える太陽がすぐ頭上にあるような高い峠の上。そこの白い土にひっそりとおちたまるい深編笠の影がしずかにゆれている。
これこそ弓削の道兵衛の不覚であった。
危険物を爆発しないように|繕《つくろ》う。――このいやが上にも細心の注意を要する作業と、そこからつたわるまた別種の快味と――それに精神力を集中させていた道兵衛の前に、ビューッと何やら飛んで来た。
太陽がやや傾いていたのが、わずかに一髪の救いを彼にもたらした。物体より地にうつるその影がまず眼に入り、反射的に彼は腕をつき出してそれを払いのけようとした。
その手くびに、くるくるっと一本の鎖が巻きついた。
道兵衛は立ちあがった。三メートル余の鎖のかなたには、鎌をふりかぶった一人の男が、眼を|血《ち》|色《いろ》にしてにらんでいた。
「伊賀者か!」
さけんだ道兵衛の腕は水平にあがっている。凄じい力で引かれたのだ。一歩引かれてわずかに鎖をゆるめ、次の瞬間、道兵衛はこれを強烈にしゃくった。音波よりも早い波が鎖をわたって、相手はよろめいた。
「斬れ! きゃつに刃を持つ腕はない!」
片膝つきながら、男は|吼《ほ》えた。
道兵衛はちらと眼を走らせて、右側からもう一人の男が白刃をふりかぶって猛然と行動を起したのを見た。
弓削の道兵衛は自分を追跡する伊賀者が六人とは知らなかったが、これは安倍川で襲撃した連中の一味であった。あのときは連台をかつぐに要するのは四人だし、それだけで充分目的は達すると思ったから、|敢《あえ》て府中寄りの河原で待っていたのだ。それを意外にも四人とも|斃《たお》されて、あわててあとを追って来たのだが、四人の仲間を返り討ちにした敵の力量と、片腕失っても昼夜の急行をやめない敵の精神力の凄じさに圧倒されて、ついにここまで手を出す機会がなかったのである。
しかし、いまやその機会をついにとらえた。ただ一本残った敵の右腕とともにとらえた。
|土埃《つちぼこり》を巻いて襲ってくる敵の一刀を見つつ、さしもの弓削の道兵衛もいかんともしがたかった。
ばすっ!
肉と骨を断つ悽惨な音とともに、彼の右腕は地に落ちてころがっている。
しかし、これで鎖の拘束からのがれた彼は、一跳びで二メートルもうしろへ飛びずさった。
「やった!」
鎖鎌の男ははね起き、腕のついた鎖をひきずりつつ、鋭い大鎌をふりかぶって馳せつけて来た。もとより、いま腕を斬った男は、血まみれの豪刀をスルスルと寄せて来ている。
「|果《はて》|無《なし》、手無し」
と、鎖鎌の男が笑った。
「術も無し!」
これも笑って、いまひとりの男も大刀を頭上にふりかざした。
一息ついたのは、おそらく道兵衛にもはや防ぐすべなしと見たゆるみからであったろう。すでに|俎《まないた》の上の犠牲者は、観念したかのごとく、眼をとじて、やや深編笠をのけぞらせ、甘んじてこの断頭の刃を受ける構えに見えた。――
その刹那、その二つの鼻孔から、ビューッと二すじの水が噴出して、ならんで立った二人の伊賀者の顔面にしぶきを散らしたのである。それは相手を、これものけぞらせたほどの凄じい量と力であった。
「――わっ」
「――うふっ」
あまりに思いがけないことで、二人が眼をつぶり、或いは片手で顔を覆ってむせ返った瞬間、道兵衛は地を蹴った。
右膝をあげて一人の股間を打つ。左膝をあげてもう一人の股間を打つ。
一瞬のわざであったが、これがいかに強烈無比の打撃であったかは、それぞれ一メートルもうしろへすっ飛んだ二人の鼻から、ぐわっと鮮血が噴き出したことでも知れる。二人の男はどうと路上に仰むけにひっくり返ったまま、一、二度、全身をぶるぶるとふるわせただけで、それっきり動かなくなってしまった。
道兵衛は歩いていって、両足でふたりののどぶえを蛙みたいに踏みつけて、念のために決着をつけた。
が、そのまま彼も白日の中に、放心したように仁王立ちになっている。――
右肩の斬り口から血は溢れつづけていたが、鼻からの噴出はもう止んでいた。
「……いったい、こりゃなんだ?」
彼自身、|茫《ぼう》|乎《こ》として、路上に撒かれた血でない液体のあとを見下ろしている。
いま、意識してやった放水ではない。そんな忍法は彼のレパートリーの中にない。それは、いまぞ最期! と無念の念力こめた刹那、突如としてのどぶえにつきあげて来、鼻から噴出したものであった。決してそれは透明な液体ではなかった。変色した血色の液体であった。
血でない――といったが、或いは血であったかも知れない。死を意識した人間の強度の血圧亢進によるものとも考えられるからである。しかし、それにしては、いま一帯に漂うこの強烈な異臭は何であろう?
尿毒症患者の血液には尿素や尿酸が増量しているから、道兵衛の血液も尿臭を放っていた――とも考えられるが、いっそ尿そのものが、ついにたまりかねて新しい流出口を発見したものだと考えてはどうであろうか。ちょうど女性に鼻孔からの代償出血があるように。
してみると、彼は駿河の安倍川で飲んだ水を、伊勢と大和の国境で排出したわけで、その着色濃度がほとんど血色にちかい濃褐色であったのもさこそとうなずける。
やがて弓削の道兵衛はゆらゆらと崩折れた。たんなる流血による失神にしてはあまりにも肉体の爽快さをおぼえつつ。――
数分後。
息はずませて、東から峠を駈けのぼって来た二人の娘が、
「あらっ?」
「大変!」
と、顔色かえて立ちすくんだ。
――さて、両腕失った弓削の道兵衛が腰をくねらせつつ、吉野を西へ歩いてゆく。その十メートルほどうしろを、お阿野とお日野が歩いてゆく。
ときどき、道兵衛がふりむいて、おちくぼんだ眼をひからせて、
「帰れ!」
と、腰をくねらせながら叱咤する。
「帰るんです」
と、お阿野は答え、
「果無へ」
と、お日野が答える。
やがて道兵衛は十津川沿いに南へ下がり、菊池河内守の所領に入ることになるのだが、果無の村はさらにその南にあるのだから、どうにもいたしかたがない。
しかし、二人の娘は弓削の道兵衛の情の|強《こわ》いのにも呆れはてた。高見峠で二人が助けてやらなかったら、道兵衛はどうなったかわからないのである。傷の手当てはもとより、ふたたび袴をつけてやることさえ、二人の手を借りなければ道兵衛にはどうにもならなかったのである。
「わたしたちがいなかったら、何もできないくせに。――」
「ねえ、たとえこんどの御用を済ませたとしても、あのひといったいどうするつもりかしら?」
「吉野藩はひどい国減らしになるというし」
「あら!」
「どうしたの?」
「果無へつれてゆこう」
「果無へいって?」
「いっしょに暮す。――」
二人は、ちらっと眼と眼を見合わせた。おたがいにはじめて妙な敵意を感じて、まずお日野が話をそらした。
「でも、あの御用果させるつもり?」
「まだわからない、どうしてやったらいいのかわからない」
「にくらしいわね、あんなに必死に頑張って」
「ゆくさきで、あんな御用をするために」
「わたしたちなど、あの二本の腕と同様、要らないものみたい」
「痒いはずだけど……たまらないほど痒いはずだけど。――」
と、お阿野はいって、前方に眼をそそいだ。
弓削の道兵衛は腰をくねらせて歩いている。
両手がないから、腰をふって平衡をとって歩いているのではない。彼は痒いのであった。まさに、たまらないほど痒いのであった。まるでその部分に眼に見えないほど微細な虫が数万匹うごめいているように思われた。痒みは|間《かん》|歇《けつ》|的《てき》に脳天までつきあげて、脳髄もまた痒みのためにのた打ちまわるかと思われた。
|鷲《わし》|家《か》にちかいところで、ついに彼はそれ以上一歩も歩けないほどになって、路傍の|庚《こう》|申《しん》堂に寄って、そこの縁側に腰をかけた。|瞑《めい》|目《もく》し、歯をくいしばり、腰のあたりをしずかに回転させていたが、ふいにかっと眼をむいて、
「これ」
と、わめいた。
「先にゆけ、先に果無へ帰れ」
二人の娘はゆき過ぎた。
それがさらに十メートルほど先の椎の木蔭にかくれてこちらをのぞいているのを知りながら、彼はついに耐えかねて、片足あげてわらじの裏で|掻《か》きはじめた。数分後、こんどはもう一方の足をあげて掻く。右足、左足、右、左。……袴その他の介在物があるのが、気も変になるほどいらだたしい。
「もうたまらない。……」
と、お日野がいった。
「見るに見かねるわ。わたしたちまで痒いみたい。……もうかんにんしてあげてよ」
「それじゃ」
と、お阿野はうなずいて、木蔭から庚申堂の方へ歩いていった。いたずらした張本人も痒そうに腰をくねらせているのである。
「道兵衛さま」
その声もきこえぬかのように、弓削の道兵衛は足の運動に没頭している。
「何だか、お痒そうですけれど……そうじゃありません?」
道兵衛は高熱を病んでいるようなうつらうつらした眼をあけた。
「掻いてあげましょうか?」
道兵衛は数分くびをかたむけて打ち案じていたが、やがて、
「うん、掻け」
といった。この誘惑だけは抵抗しがたかったと見える。
風もない日盛りの、山中の街道に、しばらくひそやかな物音だけがつづいて――ふいに道兵衛の足があがり、お阿野をどうと蹴たおした。
「そんなことをする奴があるか! に、にぎ……ば、馬鹿め!」
と、|大喝[#「喝」は底本では「キ」DFパブリW5D外字=#F3B7]《だいかつ》した。
「だって、そうしなくちゃ痒みがとまらないんです!」
と、地面にたおれたままお阿野がいった。
「……ほら、とまったでしょう?」
しかし、道兵衛はもう返事をせず、うっ、うっ、とうなりながら立ちすくんでいた。それから、それでも耐えかねたように駈け出し、庚申堂の裏手の崖っぷちに仁王立ちになり、猛烈に腰を前後に振りながら、瀕死の獅子のような凄じい絶叫をあげていた。
「吐いて見ろ、もはや親とも子とも思わぬ。おん忍棒とは思わぬ。ただの棒として、へし折ってくれるぞ! あっ……あっ」
そのとき、横から風もないのに、何やらさくら色の薄紙のようなものがヒラと飛んで来てまといついた。
「それで封印しました」
と、声がした。
声にならんで、やや半身を前かがみにして、お日野がこちらに顔をむけていた。
おん忍棒を熱鉄のようなものがつらぬきかけて、それがぴたと|堰《せき》|止《と》められたのを感覚し、道兵衛はそれを見た。うす桜色をおびているが半透明の柔らかくぬれた薄紙のようなものが、くるっと巻きついて、そこから甘ずっぱい匂いが立ちのぼった。
「こ、こりゃなんだ?」
「婆の教えてくれた虫の|垂《たれ》|衣《ぎぬ》。――」
虫の垂衣とは平安朝のころ、女人が|市《いち》|女《め》|笠《がさ》のまわりに垂らし、全身をつつんだ薄い|帛《きれ》のことだが、この場合はむろんそれではない。お日野の祖母大塔の赤婆の得意とした秘技の名だ。薄紙を経血にひたしたもので、投げれば風にひらめいて、敵の顔に貼りつき、いかにかきむしってもとれぬ肉仮面となって、その息の根をとめる。――
「おお――虫の垂衣。――」
さすがに道兵衛は、眼をもういちどかっとむいて見まもったが、
「とまったようじゃ。かたじけない」
と、珍しく礼をいった。大息つきながら、
「で、こりゃ紙か? うぬはいま、あれであったか?」
と、声を低めてきいた。
「ちがいます」
「ちがう?」
「いまは婆のときより、もっと進んでいるんです」
肉感的なあごを昂然とあげていった。長らく果無谷を留守にしている弓削の道兵衛は、その後のふるさとの仲間や後継者の|研《けん》|鑚《さん》ぶりを知らない。
ふいにぎょっとしたようにお日野の方へまた顔をむけて、
「こりゃ永遠にとれぬものか? 今日ただいまは甚だありがたいが、いざというとき、とれぬとこまる。――」
と、いった。
お日野の華やかな顔に、憂いの雲がすうっとかかった。
「おい、いかにすればよいのじゃ、そのときは?」
「もとのところへ戻ればとれます」
「もとのところへ?」
「同じ性質のもののところへ」
そう答えたきり、お日野は背をむけてうなだれた。そのうしろ姿がふいに哀艶なものに見えたが、道兵衛には、彼女の急変ぶりはおろか、言葉の内容もまだ不可解であった。
「何にしても、わしのよいというときまで、おまえ、付いておってくれ。わしは大塔の赤婆の苦心開発した虫の垂衣を信じる。いや、うぬら、つれて来てよかった!」
勝手なものだ。二人の娘のひたいに憂鬱の雲がますます濃くなりまさったのも感づかず、弓削の道兵衛はいよいよ意気軒昂とした。
「では、ゆくぞ!」
後はふたたび忠義一途ともいうべき韋駄天を開始した。
が、百メートルもゆかないうちに、彼はまた、
「あっ」
と、さけんで立ちどまった。
「お日野。……こりゃ、絞めつけたり、ゆるんだりするようであるぞ!」
「それ、生きているんです。ひとめぐりは」
「ひとめぐり?」
「月のめぐり」
道兵衛にして、何やら妖しげな雲がぼやっと頭にかかるのをおぼえたが、そのあいだも下半身からの快美の脈搏は、ズキン、ズキン……とつきあげてくる。
「でも、生きているだけ封印はたしかです」
「ううむ、包装が完全なればよろしいが……あっ、あっ」
と、道兵衛は路上でまた途方もない大声をあげたが、たちまちかかる問答の時間も惜しいとばかり、また砂塵を曳いて駈け出した。すでに自分の想定よりも、だいぶ遅れているのである。――
彼らが、十津川上流の山中にある菊池河内守の居城についたのは七日目の夜に入ってからのことであった。
「江戸表、殿様ならびに御家老樟ノ木兵庫さまよりの急使でござる。すぐに顔世のお方さまにお目通りを願いたてまつる」
一応門番にはそう伝えたが、門番がうろたえてちかくの直接の上司に報告にいっているあいだに、三人の姿はもう大門から消えていた。
こういう連絡が目ざすところへ達するまでに少なからぬ手間を要することは、江戸屋敷の慣習からもいやというほど体験しているし、またたとえ達したとしても、顔世のお方さまがすぐに信じて、おいそれと御用を受納してくれるとはかぎらない。かくては何のために、かくも昼夜兼行、必死の旅をして来たのかわからない。
弓削の道兵衛は、二人のくノ一をつれて疾風のように城内を駈けていった。そして、奥の一劃にちかづいた。――
大名が一年ごとの在国中に用いる愛妾を御国御前という。菊池河内守の御国御前はまだ顔世の方だけであった。南朝北畠家の末孫であったこの姫君が、姫君とはいうものの大いに|落《らく》|魄《はく》しつくして吉野の奥にひっそりと暮していたのを先年発見し、河内守が狂喜して御国御前に登用したのであった。
御国御前に登用してみると、みなあっと驚いた。洗い立ててみると、さすが名家の血は争えず、まるでおぼろ月のような高貴な美貌が浮かび上って来たからである。
河内守はますます狂喜したが、しかし江戸へ帰府するにあたって、彼女は同行をこばんだ。
「あくまで吉野にいたい。――」
というのであった。すでに御国御前とされたのが異常な運命の急変だから、それにはじめての出府というのでは疲れも重なるであろうと思われたし、だいいち、南朝の|裔《すえ》があくまで吉野にいたいというその心情は大いに|掬《きく》すべく、敬すべし、河内守はこう考えて、顔世の方を国元にとどめておくことを肯定した。
しかるに。――
顔世のお方は、この夜、密通していた。相手は若手だが、非常にやりてで、実質上の城代家老ともいうべき高ノ|氏《うじ》|馬《ま》という。すなわち高ノ尊左衛門の息子であった。
このような山中の城でも、やはり暑い真夏の夜であった。
雲間からのぞいたおぼろ月のような半裸の顔世のお方が|恍《こう》|惚《こつ》の声をあげ、これをひしと抱きすくめた氏馬は、顔世の方の声の余韻が突然ぷつと切れたので、
「どうなされた?」
と、きいた。
仰むけになった顔世のお方の眼が大きく見ひらかれて、自分の背後の何かを見つめている――と知った|刹《せつ》|那《な》、氏馬はうなじに鋭い痛みをおぼえて、
「――あっ」
と、さけんで、身を反転させてはね落ちた。彼の方はまるはだかであった。
そこに三人の人間がぬっと立っていた。まんなかの一人は、|蓬《ほう》|々《ほう》たる髪、鋼鉄のような肉体を持った男で、射るような眼をこちらにそそいでいる。両側は二人の女だが、その一人が白刃をぬいて、こんどは氏馬ののどぶえすれすれにそれをさしつけているのであった。
「な、何者だ?」
と、氏馬はそののどぶえをひきつらせた。
「江戸の殿よりの使者じゃ」
「なに?」
「こちらはいずれさまか」
と、男はきいた。低いが、凄じい殺気を秘めた声であった。
「江戸からの使者? ば、馬鹿な! 殿からのお使者がそのようないぶせき姿でくるか。や? うぬは両手がないな。く、曲者、出合え。――」
「みなの衆に出合われたらそちらがこまりはせぬか。――言え、名を!」
きっさきが動いて、氏馬ののどから血がタラタラと流れおちた。
「こ、高ノ氏馬。――吉野藩の高ノ尊左衛門の伜じゃ。めったなことはするな!」
「ほ、高の?」
男の眼に炎が燃えたようであったが、いよいよ声は沈痛に、顔世のお方の方にあごをしゃくった。
「そちらさまは?」
「か、顔世のお方さま。――」
「顔世のお方さまと申せば、殿がお大事の御国御前さまじゃな、めったなことをしておったのはうぬの方ではないか」
弓削の道兵衛は、こんどは白刃を持ったお阿野の方にあごをしゃくった。
「斬れ」
「待って。――」
と、お阿野は白刃をつきつけたまま、顔を横にむけてお日野に何やらささやいた。
「成敗するより、もっとこの男にふさわしい罰を。――立て! 立って、あそこにお立ち」
と、高ノ氏馬を刀で追いたてて、壁際に直立不動の姿勢をとらせると、七度、八度、大きく口をあけて何やら吸いこんだ。
このときお日野は仁王立ちになり、裾のあいだに手をさし入れて、眼をとじて、何やら口の中で気合一声、スルスルとそこからさくら色の薄衣のようなものをひき出した。ふうっと甘ずっぱい匂いが立ちこめた。
――こは、そも何?
この場合に道兵衛は|唖《あ》|然《ぜん》として見まもったが、これは――正確にいうとお日野のからだの内部の重層扁平上皮の第一層なのであった。突飛な形容を許されるならば、彼女の内部は、トランジスタテレビのアンテナみたいに重層式にひき出せるようになっていて、彼女がそれをちぎった手際は、クリネックス・ティシューをちぎるのに似ていた。
そんなものがひき出せるかという向きがあるかも知れないが、そもそも女性の定期的出血そのものが子宮腔内の粘膜上皮の剥離排出なのだから、べつにそれほど非科学的な現象とはいえまい。ただ、これが体外に独立して存在しても或る期間――お日野のいうところによれば約一ト月――生きて脈動をつづけるということは奇怪だが、これは人工的にひき出された粘膜の執念というものであろう。だいいち女性そのものが、大海原の満潮干潮とともに脈動している厳然たる事実の方がよほど神秘的である。
さて。――
「忍法虫供養!」
声とともに、お阿野の口から、スーッと薄い煙のようなものが噴き出されて、それが壁に|磔《はりつけ》になった高ノ氏馬の股間の手前で、ぱあっと散ると、無数の虫になった。鳴海で弓削の道兵衛に吹きつけたときより、はるかに大きい虫であった。
「動くと、斬る」
氏馬の両腕は腿の両がわに|膠《にかわ》づけになったままであった。激烈な痛みが下半身に起った。
「忍法虫の垂衣!」
声とともに、お日野の手からうすくれないの垂衣のようにひるがえったものが、氏馬の痒みを全面覆った。
「ホ、ホ、ホ。――その痒みは、掻いてもとれぬ。隔靴掻痒とでもいうべきもの。――当分、のたうちまわり、ころがりまわって苦しむがよい。痒さのあまり死んだ男もわたしは知っている。――」
「ゆけ」
ようやく意味を知って――同時に、自分を苦しめたあの痒みの原因も知って――しかし道兵衛は怒らず、この場合に、苦笑いしてまたあごをしゃくった。
「呼びたいなら、人を呼べ。こちらは殿のお使者じゃ」
と、いって、つんのめるように屋敷を逃げ出してゆくまるはだかの高ノ氏馬の醜態を見送りもせず、彼はお日野をふりむいた。
「封印を解けえ」
「解かなくっても、もとのところへ返せば自然に溶けるんです。もっともいまの男はそんなことを知らないから、かきむしって爪から血を流すだけでしょうが」
「もとのところ? もとのところはいかん」
「似たところなら」
と、お日野は悩ましげにいった。――そこに何やら天然の融解剤が存在しているとでもいうのであろうか。
道兵衛はしばしお日野を見て考えこんでいたが、すぐに、
「おう、そうか! よい、うぬを信じる」
と、大きくうなずいて、|閨《ねや》の方へすすみ寄り、ひざまずいた。
「お方さま。――江戸のお殿さまには大義のためにすでに御切腹ということにまちがいはござりませぬ。さりながら。――」
先刻からの大異変に、顔世の方は、最初のしどけなくも美しい姿のまま、半分喪神したように眼を見ひらいている。
「殿、最後の御遺命により、忠臣菊池家と北畠家のおん血潮|凝《こ》っておん|和《わ》|子《こ》を成しまいらせたく。――」
まるで|出《すい》|師《し》の表を捧げる諸葛亮のごとく切々として、
「ここに菊池家秘蔵の忍びの者、弓削の道兵衛、おん胤を頂戴つかまつって江戸より推参いたしてござる。いざ、これより御献上。――」
と、道兵衛はいって、顔世の方の足もとの方に|爛《らん》|々《らん》たる眼をそそいだが、ふいに、
「南無三、しなしたり!」
と、ひどい衝撃の声をあげた。うしろにしりもちをついたきり、しばらく次の言葉も出ない。――
「どうしたのです?」
「お方体内にはすでに逆臣高ノ氏馬めの虫がおる。――」
しばらく考えて、二人のくノ一は「ああ!」とさけんだ。
弓削の道兵衛は頭をかかえて――といいたいところだが、両手がないから、ただ頭をねじまわして、
「いかがすればよいのじゃ? いかがすればよいのじゃ?」
と、|悶《もだ》えた。
「道兵衛さま!」
と、お日野がさけんだ。
「馬吸無!」
「なに?」
「まず吸い出して、それから。――」
「おお!」
と、はたと手をうちかけて、道兵衛はこれも首だけ、はたと音をたてるほどうなずいたが、
「それは妙案だが、吸い出すためには、まずわしが出さねばならぬ。――」
と、いって、じいっとお日野の顔を見た。それから、お阿野の顔を見た。
ふいに二人のくノ一の顔がぽうと染まり、眼がかがやいた。
「わたしに!」
「わたしに!」
と、二人はさけんだ。
「おそらく、大量にある」
と、道兵衛は重々しい自覚の声をもらした。
「二人分は要るじゃろう」
さて、ここで弓削の道兵衛は、二人のくノ一に一応中継の貯蔵庫を設けたのである。それから、さもけがらわしげに顔世の方の傍にいざり寄って、それを吸いあげた。その処分という問題になって、ちょっとくびをかしげていたが、二人のくノ一に案内させて障子をあけさせて、縁側に立ち、二人を左右に侍らせていたが、ややあって、
「逆賊退散!」
わめくとともにひき返して来た。それから二人のくノ一からまた吸いあげた。
実に馬吸無の忍法だけでも三回の連続技であった。しかも、この複雑な段階の操作を、彼はまちがいなく遂行した。しかし、――
すでにここに来たときから|木《ミ》|乃《イ》|伊《ラ》に渋紙を張ったように憔悴していた道兵衛であった。さしもの彼も、ふたたび顔世の方の傍にいざり寄るひざは、がくがくと音をたてるばかりにわなないていた。
「これぞ尊き殿のおん胤――」
声もふるえていたところを見ると、それは疲労のせいではなく、感動のためであったかも知れない。――
「拝すだに尊き花のおからだに、恐れ入ったる仕儀にはござれど、大義のためいましばらくの御辛抱を」
いちどはさもさもけがらわしげであったのに、こんどは彼は天上のおん|女《にょ》|体《たい》を眼前にしたごとく、声涙ともに下るといったありさまで、
「いざ、御嘉納のほどを! 頂戴めされ!」
と、大喝[#「喝」は底本では「キ」DFパブリW5D外字=#F3B7]した。
大喝[#「喝」は底本では「キ」DFパブリW5D外字=#F3B7]というより、百五十里おん忍棒の艱難、ここにはじめて解放の時いたるといわんばかり、盛大な満足の|咆《ほう》|哮《こう》であった。
道兵衛は立ちあがった。法悦をすぎて放心の眼で、じいっと顔世の方を見下ろしていたが、突如、
「……あっ」
と、どこかが破れたような声をあげた。
両手足、ばたりと投げ出したまま、顔世の方は瞳孔を散大させて、ピクリとも動かなかった。失神ではない。あきらかに彼女はこと切れていたのである。あまりの衝撃のためか――、いや、なかばひらいたまま刻々と色を失ってゆく美しい唇のはしから、タラリとひとすじ流れた白い乳のようなものは何であろう。
どどどっとうしろざまに弓削の道兵衛はよろめいていって、壁にどんとぶつかって、これも崩折れた。
驚愕して、くノ一は駈け寄った。狂気のようにゆさぶると、道兵衛は、
「……臣が事おわんぬ」
と、微かにつぶやいたが、これもまたがくりと首を垂れてしまった。絶望の打撃は、疲労|困《こん》|憊《ぱい》したこの果無の大忍者の心臓をも止めてしまったのである。
真っ赤な夕焼けの谷を|鴉《からす》が一羽南へ飛んでゆく山峡の道を、お阿野とお日野がとぼとぼと歩いてゆく。はるか足の下では、逆に流れる十津川の冷たいひびきが鳴っていた。
「あの鴉が道兵衛さまかも知れない」
谷をふりあおいで、お阿野がつぶやいた。
お日野もしばらくそのゆくえをながめていたが、
「ちがうわ」
と、いった。
「道兵衛さまには羽根がない」
「道兵衛さまは、わたしたちの胸の中にいる」
と、つぶやいてお阿野は「……あ!」と小さくさけんで立ちどまった。
「ひょっとしたら……ほんとうに道兵衛さまは、わたしの中にいるかも知れないわ。いくらあんな忍法をつかっても、あんなにたくさんあったんだもの」
「二人分ね」
「殿さまの分はほんのちょっぴり」
「道兵衛さまのあれが――そうだ、わたしの中にいるかも知れない」
「いいえ、いる、きっといる。きっといるわ!」
二人のくノ一は、いちど北の空をかえり見た。が、次の瞬間、若い一匹のかもしかみたいに四つの足をそろえて、むせぶような青い樹海の中の路を駈け出した。
南へ、南へ、|果《はて》|無《なし》の|山《やま》|脈《なみ》の中のふるさとへ。
単行本
昭和四十三年七月三十日文藝春秋刊
文春ウェブ文庫版
姦の忍法帖
二〇〇一年五月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第二版
著 者 山田風太郎
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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