[#表紙(表紙.jpg)]
妖異金瓶梅
山田風太郎
目 次
赤い靴《くつ》
美女と美童
閻魔《えんま》天女
西門家の謝肉祭
変化牡丹《へんげぼたん》
麝香姫《じやこうひめ》
漆絵《うるしえ》の美女
妖瞳記《ようどうき》
邪淫《じやいん》の烙印《らくいん》
黒い乳房
凍る歓喜仏
女人大魔王
蓮華《れんげ》往生
死せる潘金蓮《はんきんれん》
[#改ページ]
[#見出し] 赤い靴《くつ》
閨怨《けいえん》之章
「|※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]《か》の刑《けい》」またの名を「陵遅《りようち》の刑《けい》」という。囚人の指、腕、足の関節、さいごに頸《くび》をだんだん斧《おの》できってゆく古い支那《しな》の刑罰である。
城外の刑場で、姉を姦《かん》して殺した罪人がこの刑にあうというので、その朝はやくから、県下随一の豪商|西門家《せいもんけ》では見物にゆく主人夫妻や娘をはじめ、七人の妾《めかけ》やそれぞれの小間使いのお化粧や支度に大さわぎであった。
おまけに、主人の西門慶《せいもんけい》の悪友で、応伯爵《おうはくしやく》という、常人の七倍はにぎやかな男まできていて、のこのこといたるところの房にひょうきんな顔をのぞかせて、化粧中の妾たちをきゃっきゃっと笑わせている。ひょうきんな、といったが、それは技巧で、よくみれば、すこし痩《や》せがただが、いささかの気品もないことはない、典型的な美丈夫である西門慶とはちょいと型がちがうけれど、なかなかいい男だ。もともと相当な絹問屋の息子《むすこ》だったのだけれど、おきまりの放蕩《ほうとう》のあげくすっからかんになって、いまでは色町でたいこもちをしてくらしている。ことあればこうして西門家に出入して、西門慶にたかろうとしているのだが、面白い男で、用をいいつけていやといったことはなく、色道遊芸通ぜざるはない才人なので、気はあらいが、一面人はよくて、底ぬけに快楽主義者の西門慶は、彼と義兄弟のちぎりまでむすんでいる。
「伯爵、その簪《かんざし》はどうした?」
と、たっぷりした耳に貂《てん》の耳あてをつけながら、大房を出てゆこうとする応伯爵の頭にふと眼《め》をとめて、西門慶がへんな顔をしてきいた。
「あ、これか。――」
と、応伯爵は、ちょいと洒落《しやれ》っ気に髪にさした白銀の簪に手をやって、にやにや相好をくずした。
「うふふふ。これは李桂姐《りけいそ》からもらったんだ」
「李桂姐から?」
西門慶はいよいよ妙な顔をした。李桂姐とは、町の花街随一の名妓《めいぎ》で、いつか彼女の所望によって、彼が最も惑溺《わくでき》している第五夫人|潘金蓮《はんきんれん》の黒髪のひとふさをひそかにもっていって、この美妓の靴底《くつそこ》にいれてふませるのをゆるしたくらいの仲だったからだ。
「そんなはずはない。李桂姐が、その簪をお前なんかにやるはずはない」
西門慶のむきになった表情をみて、応伯爵の笑った眼に、しまった、というような狼狽《ろうばい》のひかりがゆれた。
「あっ、こりゃ、あんたのやった簪なのか。こいつはしくじった。ふふふ、いや、いまのは失言失言。実はこないだ酔っぱらった李姐《りねえ》さんがおとしたやつを、ちょいと失敬したんだよ。とんだところで旧悪露見か。あははははは」
笑いとばして、しかしべつにその簪をかえそうともせず、洒蛙洒蛙《しやあしやあ》として編髪《へんぱつ》にさしたまま、応伯爵は房を出ていってしまった。
西門慶は苦笑して、
「相変らず、ひどい奴《やつ》だ」
「ほんとうに、あのひとは、片手で女を抱きながら、片手じゃその女の髪から簪をぬきかねないわ」
と、傍の第一夫人の呉月娘《ごげつじよう》が、手を口にあてて笑った。もと第二夫人だったのが、前夫人がなくなってから昇格して正妻になった女だが、継《まま》の娘を結構心服させているのでもわかるように、挙止しとやかで重々しく、すこし、陰険なところもあるが、聡明《そうめい》である。そういうかたの女の通性として、存外応伯爵のような風来坊に好感をもっているらしい。西門慶が歌妓《かぎ》にやった簪を猫《ねこ》ばばされたのを痛快がっているのかもしれない。
「まさか、いくらなんでも、あいつがおれの女を抱くまい」
と、他人の妻や想《おも》いものなら手段をえらばずとりかねないくせに、反面|糞《くそ》まじめなところもある西門慶は、呉月娘の諧謔《かいぎやく》を正面からうけとって、白緞子《しろどんす》の忠靖冠《ちゆうせいかん》をつけながら、いささか不安な眼で、その油断もすきもならない悪友のきえた裏庭を見おくった。……
応伯爵は、第二夫人の歌妓あがりの豊満な李嬌児《りきようじ》と、第三夫人の小またのきれあがった孟玉楼《もうぎよくろう》の房をにぎやかにのぞいた。それから、西門慶がもと親友だった花子虚《かしきよ》を悶死《もんし》させてまでその妻を強奪して、いまは第六夫人となっている、小さい細工物のように美しい李瓶児《りへいじ》の、たえず歯痛をおさえているような愁い顔を笑みひらかせてから、垂花門《すいかもん》をくぐって、最近あたらしくひらいたばかりの後園にぶらぶら入っていった。
ここにはまず手前の南側に、第七夫人の宋恵蓮《そうけいれん》、むかって左に第四夫人の孫雪娥《そんせつが》、右に第八夫人の鳳素秋《ほうそしゆう》の房があり、いちばん奥の北側に第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》の房があって、それをつらねる廻廊《かいろう》が、なかに、ひろい、美しい正方形の冬の庭園をとりかこんでいた。東南の隅《すみ》にある小さな書房は桃花洞《とうかどう》と名づけて、常時出入りの応伯爵がいつも主人の西門慶としけこんでひそひそとよからぬ色ばなしにふける部屋であった。
が、じぶんがまっさきにたってそそのかすくせに、さすがの粋人応伯爵が舌をまくばかりの西門慶の色ごのみである。ぜんぶあわせて八人の妻と妾のほかに、潘金蓮の小間使いの|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅《ほうしゆんばい》にも手をつけているし、数人の手代の女房とも姦通《かんつう》しているし、外に出れば花街には寵妓《ちようぎ》がいる。ちかごろ、きいたところによると、西門慶は、西域《せいいき》からきた梵僧《ぼんそう》に不思議な秘薬をもらって、それをつかっているということである。応伯爵からみれば、そうまでしての色慾が、少々おかしくもあり、またときには凄惨《せいさん》な、そら恐ろしいものに感じられてならない。
よく酔いつぶれて、その桃花洞で一夜をすごすとき、この家のどこからかもれる媚笑《びしよう》の声、すすり泣き、やるせない吐息などを耳にして、この小|阿房宮《あぼうきゆう》に主人をめぐる十数人の女たちの肉と魂がそくそくとかもしだす妖気《ようき》に、応伯爵はうなされるような思いのすることがあった。……
桃花洞の前の遊廊にやってくると、もうおめかしのすんだ三人の女が、金きり声でいいあらそっている。第七夫人の宋恵蓮と、第八夫人の鳳素秋が、第四夫人の孫雪娥をこづきまわして、なにやらののしっているのである。
「あんたはこの家の犬とおなじだよ。旦那《だんな》さまのところへいっちゃあ尻《し》ッ尾《ぽ》をふり、大奥さまのところへいっちゃあ鼻づらをこすりつけ、ありもしないあたしたちの讒訴《ざんそ》をきゃんきゃんなきたてて」
「あんたなんか、ただ廚房《だいどころ》をはいまわってりゃいいのよ。なにさ、けさの銀《ぎん》水母《くらげ》の湯《タン》の味は。あんなもの犬もくわないわよ」
両側からまくしたてられて、小柄な、細い孫雪娥のからだは、激怒にぶるぶるふるえ、眼も異様につりあがっているが、ちょっと口もきけない様子だ。
雪娥はもと前夫人の小間使いで、西門慶の好色な気まぐれから第四夫人になったが、いまではいちばん寵《ちよう》がうすい。それには、彼女が深夜に寝ぼけて、夢中遊行するというきみのわるい癖のあるせいもある。ただ料理が上手で、しぜんに廚房につきっきり、召使いをつかってそれぞれの房へ食物をおくる役まわりになったが、それでも、かなしいやきもち[#「やきもち」に傍点]から、他の妾たちのあらさがしに夢中になっている女であった。
「ち、ちくしょう、だまってりゃ、ふたりとも増長して、なにさ。……いまこそふたりとも旦那さまにめずらしがられてるけど、もうちょっとさきになってみてごらん。……」
と、雪娥は息をきっていった。白い唇《くちびる》のはしから泡《あわ》がかすかにあふれている。
「ふん、くやしけりゃ、あんたも旦那さまに可愛がられてごらんな、骨皮のくせに」
「それとも、あたしたちの料理に鴆毒《ちんどく》でもいれようとでもいうの」
恵蓮も素秋も、にくしみに逆上している。ふたりとも新しく妾になったのだから、いろいろ気苦労もあって、古参の夫人たちに対するもやもやが、いちばん影のうすい孫雪娥に爆発したのだろうが、どちらも勝気なうえに、主人の寵をたのんで、ちかごろむやみに傲慢《ごうまん》になった傾向がある。
うしろであっけにとられていた応伯爵のとんきょうな頬《ほお》に、|軍※[#「奚+隹」、unicode96de]《しやも》の蹴合《けあい》をみるような片えくぼがほられた。
「さあさあ、もうおでかけの時刻だ。喧嘩《けんか》はおやめおやめ」
それから、またにやりとして、
「鴆毒は金蓮さんの専売だ」
うっかり口ばしったのだが、そのとき背後の廻廊にふと人の気配をかんじて、さすがの応伯爵もひやりとした。
ふりかえると、遊廊のふとい朱塗りの柱に背をもたせかけるようにして、しずかに第五夫人の潘金蓮が瓜《うり》のたねをかみながらあらわれた。いつごろからそこにいたのかわからない。ずっとまえから、じっと三人の妾たちの喧嘩をきいて立っていたのかもしれない。
新月のようにかすんだ眉《まゆ》であった。灼《や》けつくように真っ赤にぬれた唇であった。容貌《ようぼう》も無双だろうが、この女には、ちかづくと麝香《じやこう》のような匂《にお》いが鼻孔をうつ。いつも鳳《おおとり》をかたどった簪が、慾情にふるえているようにみえた。夜のすさまじい魅惑《みわく》は西門慶もしばしば手ばなしでのろけてきかせたところだが、応伯爵も、放蕩無頼《ほうとうぶらい》の十幾年の経験からおして、この女こそは稀世《きせい》の大淫婦《だいいんぷ》にちがいないと見ぬいている。色に対して守銭奴《しゆせんど》のように慾ばりな西門慶は不安がっているけれど、応伯爵はまさかこの家の愛妾たちにむかって手を出す気はさらにない。が、この潘金蓮に対してばかりは、西門慶への義理も損得勘定も底ぶかいところでどよめくような気がしないこともない。
金蓮は、西門家に第五夫人として輿入《こしい》れするまえ、しがない巷《ちまた》の餠売《もちうり》の女房にすぎなかった。応伯爵が鴆毒|云々《うんぬん》といったのは、その餠売の亭主が、或《あ》る日、顔いろが黄色にかわって、唇が紫になって、九穴から血をはいて死んでしまったのを、町のひとびとが、あれは金蓮に一服もられたのだといっている噂《うわさ》をなぞった悪冗談にすぎないが、その噂がひょっとしたらほんとうではないかと思わせるような美しい深淵《しんえん》のような物凄《ものすご》さが彼女にあり、また、そんなことはとんでもないと破顔一笑させるような、いたずらっ子めいたほがらかさがこの女にある。
「ほ、ほ、ほ、ほ」
と、青い耳飾をゆすって、他意のない無邪気な声で潘金蓮は笑った。
「なんてまあ、恐ろしい喧嘩。……素秋さん、雪娥さん、恵蓮さん、そんな家内喧嘩より、人を殺した罪人がどんなお裁きをうけるか、さあはやく見物にゆきましょうよ」
――五人が、わいわいと中庭をとおり、廻廊をめぐって、大門まで出てくると、西門慶をはじめ、ほかの連中も、もうみんなあつまって待っていた。門の外には、十幾つかの轎子《かご》がならんでいる。
そこへぞろぞろとあるいてゆく途中、突然宋恵蓮が、きゃっと悲鳴をあげた。みると、右の赤い小さな靴が、ぬげて、彼女のうしろの路上にちょこなんとのっている。
「こりゃなんだ、黐《とりもち》じゃあないか」
と、応伯爵が、よろめいた恵蓮のからだを抱きとめながら、のぞきこんでいった。
なるほど、靴の周囲の地面にわだかまっている青味をおびた灰色のものは、どうやら黐らしかった。子供のいたずらかもしれない。
「来旺《らいおう》!」
と、西門慶のどなる声にとんできたのは、門番の来旺児である。痩せた、小さな、猿《さる》のような顔をした男であった。西門慶にしかられながら、地面から靴をとろうとしたが、なかなかはなれない。孫雪娥が面白そうに、けらけらと笑った。
鳳素秋はその方をじろりとふりかえって、
「なにがおかしいの?……恵蓮さま、あたしの靴をおはきになったら?」
応伯爵の肩によりかかったまま、宋恵蓮はにっこりして、
「ありがとう。ほ、ほ、でも、あたしの足はどうかすると金蓮さまのお靴でもゆるいくらいですのに。……」
鳳素秋はいやあな顔をした。せっかくの申出をうけながされたせいばかりではない。さもあなたのような大足はといわんばかりの恵蓮の口ぶりに、はらがたったのである。
そこへ、代りの靴をとりに家へかけこんでいった小間使いがもどってきた。
――こうして、西門家の人たちは、毎日くりかえされる、小さな、意地わるい喧嘩やしっぺがえしの一騒動をまずやりおえたのち、やがて、嬉々《きき》として「|※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]《か》の刑《けい》」を見物するために、美々しい轎子《かご》をつらねていった。
月妖《げつよう》之章
三日ばかりすると元宵節《げんしようせつ》である。その前の晩は、第六夫人の李瓶児《りへいじ》の誕生日で、西門慶をはじめ、六人の妻妾たちは、李瓶児の部屋にまねかれて酒をのんだ。孫雪娥《そんせつが》だけは、あの「※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]の刑」をみてかえった日以来、風邪ぎみで、頭がいたいといって寝こんでいて、やってこない。
妾たちは、しきりに雪娥の噂をする。おとといの深夜、人形を抱いて、その手をねじきって、ところどころにおとしながら、ふらふらと遊廊や庭を徘徊《はいかい》している彼女の姿をみたものがあるというのである。
「※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]の刑か」
と、こういう席になくてはならない応伯爵《おうはくしやく》が、七絃琴《しちげんきん》を大きな革袋からとりだしながら、げらげらと笑った。
「相手が人形だからいいようなものだけど、さ」
と、さっきまで潘金蓮と象棋《しようぎ》をさしていた鳳素秋《ほうそしゆう》が、眉をしかめた。金蓮はひどくまけて、五銭も銀子をとられて、面白くなさそうに、ぐいぐいと金華酒《きんかしゆ》をのんでいる。
応伯爵は七絃琴をつまびきながら、南曲をうたって、主人の西門慶があまりしずかなものだから、ひょいと銀燈のほのぐらい蔭《かげ》をみると、西門慶は第六夫人の李瓶児の頸に片腕をまきつけて、彼女のなにやら喃々《なんなん》たるうったえに、よだれのたれそうな真っ赤な顔でうなずいている。
「ようよう、御両人。……といいたいが、いくら李夫人の誕生日だといって、ほかに六人も絶世の美女を侍《はべ》らせて、ちっとは遠慮しないか」
「なに、こいつのおめでたは、それどころじゃあない」
「へえ」
「どうやら、赤ん坊ができたらしい」
耳たぶまでそめてさしうつむいた李瓶児に、ほかの妾たちはわっと羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》のどよめきをあびせかけた。
気がつくと、いつのまにか潘金蓮の姿がみえない。応伯爵は、もう一曲うたって、笑話をやって、酒をばかのみして、おとなしい李瓶児にあくどいからかいをして、傍の宋恵蓮《そうけいれん》にひどく横っ面をたたかれてから庭へにげ出した。
ほてった頬に、青い寒月がこころよい。
が、さきにその房をぬけ出した潘金蓮は、くらい眼で、むしゃくしゃして花園のなかをあるいていた。象棋にまけたのも面白くないが、西門慶と李瓶児のいちゃつきも面白くない。どうやら、このあいだからしきりに吐いていた李瓶児が、そのわけを西門慶にうちあけたらしい。こんやはきっと李瓶児のところへ寝にゆくにちがいない。……それから金蓮には、もっと屈託することがほかにある。
ふと、潘金蓮は、草むらのなかに白くひかる小さなものをみつけた。ひろいあげてみると、驢馬《ろば》の皮でつくった人形の片腕である。十歩もゆかないうちに、またもぎとられた片足がおちていた。孫雪娥の夢中遊行中の所業《しわざ》にちがいない。金蓮は笑わなかった。彼女の胸に、三日前の、あの「※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]の刑」にかけられた男が、手の指を一本ずつ、それから肘《ひじ》を、肩を、つぎにおなじ順序で足を、最後に首を斧できられたときの、酸鼻《さんび》な悲鳴と血潮の霧がうかんだ。
急にみぶるいして、ひきかえそうとすると、竹林ごしの太湖石《たいこせき》のかげに、ひとりの男がうずくまっているのがみえた。ぎょっとしてうかがってみると、どうやら門番の来旺児《らいおうじ》らしい。
「まあ、この寒いのに、なにをしているのかしら?」
しのび足に背後にちかよっていった金蓮は、首をかしげた。
来旺は何やら手にとって頬ずりしている。舌なめずりして吸っている。月光にすかしてみると、それは鴛鴦《えんおう》の嘴《くちばし》のようにさきのとがった小さな靴であった。
「来旺児!」
ふいによびかけられて、来旺はぴょこんとはねあがった。
「それは、恵蓮さんのお靴じゃあないの?」
おどおどと猿のように顔をゆがめてうなずく門番を、ひかる眼でみすえていた金蓮は、やがて、
「こないだ、門のまえの路《みち》に黐《とりもち》をしかけたのは、それじゃおまえだね?」
といった。
この女のおそろしく頭のよくまわることは、家じゅうの誰《だれ》でもしっている。
来旺はからだをがくがくふるわせながら、またうなずいた。
「靴がほしかったの?」
「はい、金蓮奥さま」
「恵蓮さんの靴が?」
「いいえ、ただ、靴が」
潘金蓮はにやりと笑った。
「そこにお坐《すわ》り」
来旺児は、赤い靴を抱いて、ふるえながら坐った。
「お寝」
ぼろきれのように横たわった来旺の、不安にひきつる顔の上に、潘金蓮はじぶんの靴をのせた。のせたというより、ふんづけたのである。
「それじゃ、あたしの靴もあげよう。そうら」
すると、潘金蓮にさえも意外な反応が足の下で起った。
残忍にふんづけられながら、門番はうめいた。苦痛のうめきではなくて、喜悦のためいきであった。
それが夜の西門慶のうめき声にあまりよく似ていたので、靴底をとおすぶきみな鼻や口の触感に思わず悪寒がはしって、反射的に力いっぱいふみつけると、また歓喜にみちた妙な音をたてて、鼻血が両頬にながれはじめた。潘金蓮は大きくとびのいた。
来旺は、夜目にも妖夢《ようむ》のような白い呼気を口からうずまかせながら、ぽかんと大空の青い月をみていた。
「ああ……靴……小さな靴……足……女の足。……」
たえだえの声で、彼は恍惚《こうこつ》のうわごとをもらした。
潘金蓮は、じっとこの門番の奇怪な姿を見おろしていた。彼女はじぶんの靴や足が、どんなにはげしい蠱惑《こわく》の靄《もや》で男をつつむか知っている。西門慶はしょっちゅう彼女の靴に酒をいれてのむ。じぶんでも、浴室でうっとりと白いあぶらぎった足をみていて、それが手の何層倍も動物的で神秘的な生物のような気がして、急にもえたつような不思議な慾情《よくじよう》をかんじて、きちがいのようにじぶんの足をたたいたりこすったりすることがある。しかし、この男ほど女の足に対して殉《じゆん》 教《きよう》 的《てき》法悦の相をあらわすものを、いままでにみたことはない。この、いままで、ありとも気づかなかった、猿のようにみにくい小男が。……
突如として、情慾のうす雲が金蓮の双眸《そうぼう》を覆った。
「そう……おまえは、足がほしいのね。靴が……あたしの、この足が」
彼女はみぶるいしながらすすみよった。酒のみがあらゆる盃にすいつくように、金蓮はあらゆる色慾の形態に敏感に反応し、われをわすれて陶酔する女であった。
麝香《じやこう》の香をまいて、その裙子《クンツ》がまくりあげられた。
「おお……おお……おお……」
来旺児は無我夢中のうめきをあげた。この第五夫人が、そういうきちがいじみた、気まぐれな慾望をあらわにしたあとの反動が、どんなに残忍な、陰惨な相をおびてじぶんにかえってくるか、彼はそのつつしみもためらいもわすれた風である。
猿のような門番は、芋虫そっくりの十匹の指で、女の靴をなでさすった。くんくんと犬みたいにかいだ。血と汗とよだれにぬれた頬をこすりつけた。それから、ぺろぺろと舌を出して、牛酪《ぎゆうらく》のような女の足をしゃぶりはじめるのであった。
すると、潘金蓮はまた身をふるわした。もう嫌悪《けんお》の身ぶるいではなかった。足を、ふくらはぎを、まるっこい膝《ひざ》をしゃぶられながら、彼女はたえだえの息を小きざみに肩で吐いて、こころよさをたえかねるような上気した頬のいろで身をゆすっていた。
青い青い月のひかりの水底の、この妖《あや》しい一幅の秘戯図を、だれ知るまいと思いきや、そのとき少しはなれた竹林のかげから、そっとはなれたものがある。応伯爵である。
さすがの伯爵も、かすかに苦笑いはしているものの、うなされるようなぼっとした眼つきをして、しきりに首をひねりながら、ぶらぶらとかえっていった。
月に魚紋のような雲がかかって、西門家がしだいに昏《くら》くなった。
|※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]刑《かけい》之章
月をかくした雲は、元宵節の日があけても、はれるどころか、ひるごろからちらちら雪がふりだした。
それでも、町には燈籠《とうろう》をつらね、仮装した童子たちは、朝から爆竹をならし、歌をうたいながら、燈籠屋台をかついでおどりまわっていた。夕になると、子供ばかりではない。霏々《ひひ》としてふる牡丹雪《ぼたんゆき》のなかに、あらゆる舗々《みせみせ》が、蓮花燈《れんかとう》、芙蓉燈《ふようとう》、雪花燈《せつかとう》、駱駝燈《らくだとう》、青獅子燈《あおじしとう》、白象燈《はくぞうとう》と、趣向をこらした燈籠に灯《ひ》をいれて、街衢《がいく》にひしめく群衆のなかを、蓬莱山《ほうらいさん》を負う大|海亀《うみがめ》を模した山車《だし》や、何町もつながる鳳輦《ほうれん》をひいてねりあるいた。
夕から、西門家では大広間にあつまって祝宴をひらいたが、れいの孫雪娥は、まだ|※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]刑《かけい》の光景をみた衝撃からさめないとみえて、相かわらず頭痛をうったえて出てこないし、こん夜は潘金蓮までが、途中から下腹がしぶるといって、じぶんの部屋にひきあげてしまった。おりあしく月のものらしい。
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今宵《こよい》は一同|獅子街《ししがい》の方へくり出して、不夜城のような町の壮観を見物しようということになって、れいによってたいこもちの応伯爵もきていたが、酒宴のなかごろで、まるでいいあわせたように、第七夫人の宋恵蓮と第八夫人の鳳素秋が、なんとなく頭がいたいといい出した。昨夜につづいての酒宴だから、すこしのみすぎたのかもしれない。酒の意地のきたない応伯爵は、両側で蒼《あお》い顔をしているそのふたりの美人の酒を、横から手を出してぴちゃぴちゃのんでいたが、いざみんなが出かけるというころになって、彼も頭がしびれるようにぼうっとして、へんにねむくなったので、あの桃花洞《とうかどう》をかりてひとねむりさせてもらってから、あとで獅子街へおっかけてゆこうということになった。
これで、ほとんどその夜から[#「から」に傍点]になるはずだった西門家のなかで、後園の房にすむ連中ばかり、つまり、東廂房《とうしようぼう》の鳳素秋、西廂房《さいしようぼう》の孫雪娥、南廂房《なんしようぼう》の宋恵蓮、北廂房《ほくしようぼう》の潘金蓮、おまけに、東南の桃花洞にとびいりの応伯爵までが、偶然のこることになったのである。
西門慶たちが出ていったあと、応伯爵は桃花洞の寝台で、妙な眠りをねむった。
大酒に酔いつぶれたあと、意識がもどったときのように、からだがぐったりとけだるく、頭の深部がしびれ、そのしびれが、不快なような、へんに恍惚とするような感じで、瞳《ひとみ》はぼっとひらいているのに、なかば夢み、なかば醒《さ》めているような、うつらうつらした気持である。
しんかんとした邸宅は海底に似て、遠い町の爆竹と器楽の交響が、まるで水をとおしてくるようにきこえる。
何時間たったかわからない。彼は急にのどがかわいた。たちあがろうとしたが、手足がけだるくてうごかない。……じ、じ、じっとかすかにもののやける匂いに眼をあげると、蜜蝋《みつろう》の燭台に、ぼんやりと二重の虹《にじ》の輪がかかっているのがみえた。
「凶だ。……だれか、死ぬ。……」
妓楼《ぎろう》でよくやる遊女の燈花占《とうかせん》を、応伯爵はよく笑ったものだが、このとき彼は、なんともいえない、ひいんやりとした恐怖におそわれた。
跫音《あしおと》がきこえる。北の方から――鳳素秋の部屋の方から、誰《だれ》かひとり遊廊をあるいてくるものがある。
「誰か……水をくれ……」
と、彼はよびかけたが、声がかすれてよく出ない。
「だれか……」
跫音は、桃花洞の扉《とびら》の前をまわって、西の方へ――宋恵蓮の部屋の方へきえていった。
素秋が恵蓮のところへあそびにいったのかもしれない。
それから、どれほどの時がたったか――彼の感覚ではぜんぶで一|更《こう》にもみたないほどのあいだであったが、西門慶一行の帰館してきたのが三更もよほどすぎてからということであったから、彼が半睡半醒でねていたのは二更以上にもなっていたといえる。遠い表の大門の方にがやがやとにぎやかな笑い声がもどってきたのをきいて、応伯爵はやっと、生暖かな恍惚と、しみいるような恐怖の呪縛《じゆばく》から解放された。
ふらふらと頭をふっておきなおり、よろめきながら燭台をとって、桃花洞から遊廊へでる。十歩ばかり、宋恵蓮の房の方へあゆんで、
「ふ!……」
と、彼は声なきさけびをもらした。
真紅の花とみえて、遊廊のうえにおちる灯の輪のなかに散っているのは一滴の血であった。
凝然《ぎようぜん》とたちすくんで、次の瞬間、応伯爵はつんのめるようにかけ出した。宋恵蓮の部屋の扉にとびついて、
「恵蓮さん! 恵蓮さん!」
うわずった声でよんだが、返事がない。扉をひらくと、素秋の姿はみえないで、ただ第七夫人の宋恵蓮ひとり、寂然と寝台に横たわっている姿がみえた。
蝋涙《ろうるい》はうずたかく、滅せんとして陰々とまたたいている灯のなかに、彼女の顔はその蝋よりも白くうかんでいた。
「起きてくれ……恵蓮さん!」
もういちどよんで、その上半身をゆさぶりながら抱きあげた応伯爵は、その肉の冷たい重さと、それからさらに恐ろしい、へんてこな物体が、寝台から床におちたのに、わっと悲鳴をあげて相手をなげ出した。床におちたのは、ももでたちきられた、靴もはいていない、はだかの右足であった。
寝台になげ出された上半身とのへんてこな角度からみると、もう一本の左足も、おなじように離断されていることはあきらかである。応伯爵は夢魔におそわれたような眼で房のなかを見まわした。……気がつけば、床一面になんという碧血《へきけつ》であろう。
蛟竜《こうりよう》をつつむ雲を彩って、血しぶきのちりかかった衝立《ついたて》に、ぐさりとつきたてられているのは、煌々《こうこう》たるひとふりの庖丁《ほうちよう》であった。
またたいていた灯が、ふっときえた。さそわれたように、彼の燭台までがかききえて、まわりがうるしの闇《やみ》となったとたん、応伯爵はころがるように部屋の外ににげ出した。
笑い声がちかづいてくる表の方へにげ出そうとして、辛うじて彼はたちどまった。水をあびたような顔いろで、奥の方をふりかえり、がくがくする両膝をつっぱって、
「まった、まった。……ここが、たいこもちの度胸のみせどころ、と」
かすかにつぶやいたのはさすがだが、声はわなわなとふるえている。
彼はおよぐように桃花洞の方へもどって、遊廊を北へまがって、鳳素秋の部屋の前へあるいていった。
「素秋さん。……」
扉をたたいた。返事がない。悪寒が全身をはいのぼった。
ねばりつく手で、朱塗りの扉をあける。……ここにも、銀燈は蝋涙を盛って、陰々滅々とまたたいている。鳳素秋はいた。
第八夫人鳳素秋は、寝台の上に、凄惨な血の池をよどませて殺されていた。足は……足は……足は、なかった。彼女のまるまるとしたからだは、ただ首と胴と両腕ばかりであった。
卓の香炉からは、縷々《るる》として、竜涎香《りゆうぜんこう》の煙がたちのぼっている。
こんどは、応伯爵はちかづこうともしなかった。ただ、うなされたような眼でその怪奇な屍体《したい》を遠望して、そろそろとあとずさりにかかった。が、こういうときには、ひとすじの塵《ちり》にも人間はつまずくものらしい。なにかに足をとられて、応伯爵はどたんと傀儡《かいらい》のようにひっくりかえった。
応伯爵はまた傀儡のようにぴょこんとはねおきると、廻廊をふらふらと奥へあるいていって、第五夫人の潘金蓮の部屋の前へやってきた。
「金蓮さん。……」
ここにもまたいらえがなかった。応伯爵の瞳は散大して、息もつけない思いである。
「金蓮……金蓮……金蓮さん!」
「どなた?」
だいぶたってから、ねむそうな声がきこえた。
「応伯爵です。あけて下さい」
「あら?……いやよ、応さん、旦那さまはお留守中だから」
「冗談じゃない。……け、恵蓮さんと素秋さんが殺されていますよ」
しばらくして、扉がひらいた。
この女の寝起きの顔によくみる、おぼろ月のようにかすんだ面輪が片手にかかげた燭台に、いぶかしみのためかいっそうぼうっとうかんで、
「なんとおっしゃって?」
「※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]の刑です」
「※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]の刑」
「素秋夫人と恵蓮夫人の両足が、胴からはなれています」
潘金蓮はちょっと笑いかけたが、応伯爵の凍りついたような顔をみて息をのんだ。
「殺されてる、とおっしゃるの?」
「左様」
「だ、誰が?」
もういちど、鳳素秋の部屋の方へとってかえそうとしていた応伯爵は、このときはじめて下手人ということに気がついた。と、同時に、伯爵ばかりではなく金蓮も、いいあわせたように西廂房の方をふりかえったのは、ふたりともおなじ恐ろしいことを思い出したからであろうか。
「雪娥さんの安否をたしかめにいってみよう」
ふたりは遊廊を西へゆき、南へまがって、孫雪娥の房の前へかけていった。
「雪娥さん!」
まだ返答はなかったが、それに耳をすますよりはやく、灯のゆらめくなかに、応伯爵は床の上に、思いがけない――というより、或いはと予期していただけに、いっそう吐気のするほど恐怖にみちた物体を発見して、あっとさけんだ。雪娥の房の扉のまえにおちていたのは、紫繻子《むらさきじゆす》の靴をはいて、血の曼陀羅《まんだら》に織られたような、白い、むっちりとあぶらぎった一本の足であった。
扉はひらかれた。第四夫人の孫雪娥は、寝台の上に横たわっていた。
しかし、平和な銀燭の灯の下に、彼女は、醒めているときはみせたことのない、あどけない、美しい横顔をみせて、こんこんとねむっていたのである。
夢魔之章
――沈黙しているのは、眠れる人ばかりではなかった。
ふたりは船酔いにでもかかったように、その傍に茫然《ぼうぜん》とたっていた。夜を通して町々をねる潮鳴りに似た歓声が、このときどういうものか、地にしみいるように絶えていた。
まず静寂を破ったのは、ふたりではなく、表の方からちかづいてくる西門慶の、酩酊《めいてい》して「看燈賦《かんとうふ》」をうたう声と、からからと陽気な笑い声であった。
「やあやあ、この佳日にふて寝をしている女ども、片っぱしからその罰に、燈籠がわりにいいところへお灸《きゆう》をすえてくれる。あははははは、さあ、でてこい」
「あにき、西|大人《たいじん》、おうい、ここだ、ここだよ」
と、応伯爵がやっとよんだ。
思いがけない方向からの声なので、西門慶はおどろいた様子だが、すぐ、何かわめきながら、どたどたとやってきた。うしろに、書童《しよどう》、画童《がどう》、琴童《きんどう》とよぶ美少年たちをつれている。
「なんだ、どうしたのだ?」
と、そこに立っている応伯爵と潘金蓮の姿をみてどなりつけたが、ふと床に眼をおとして、しげしげとのぞきこみ、たちまち、意味|不明瞭《ふめいりよう》な悲鳴をあげてしりもちをついた。わっとさけんで画童の方が、燭をなげすててにげていった。
「こりゃなんだ。……女の足じゃないか!」
「左様、鳳夫人の右足だ」
「なに? そ、それじゃ、素秋は?」
「部屋で、両足紛失して死んでいる。……宋夫人も、御同様、ただし、これも両足きられてはいるが、のこっていることは、のこっている」
「だれがやったのだ。そんな、きちがいは?」
だまって、寝台の方をみている応伯爵と潘金蓮の視線をおって、西門慶はぎょっとなった。
「あれだというのか?」
「わからない。おれたちも、いまここへきたところだ。孫夫人はあの通りおねむりだが……」
西門慶は酒も色慾もさめて、水をあびたような顔でおきあがり、よろよろと寝台の方へあるいていったが、ふとその下にぬいである黒い靴をみて、
「ひどく、ぬれている。どこを歩いたのだ? こいつ――」
といいかけて、はっとなった。むろん、彼女の夢中遊行という病気を思いだしたのである。
「素秋と、恵蓮の足がきりとられたと?――」
「ああ、恐ろしいこと! ※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]の刑が、人形ですまなくなったのだわ。……そういえば、あたしの部屋の前を、西から東へ、ふらふらと通りすぎていった跫音《あしおと》があったけど、あれが雪娥さんだったのかしら?」
椅子《いす》に両手をかけてよりかかっていた潘金蓮が、身の毛のよだつような声でいった。すると、応伯爵がきいたのも、素秋を殺し、つぎの犠牲者めざして恵蓮の房へよろめいてゆくこの夢幻の殺人者の跫音だったのであろうか。
「金蓮さん、あんたはいのちびろいしましたね」
「あ、あたし? あたしは、雪娥さんのうらみをかうようなこと、ちっともしたおぼえありませんもの。いちばんにくまれていたのは、恵蓮さんと素秋さんだわ」
「……そうかもしれない。しかし、靴がぬれているって、このひとはいったいどこをあるきまわっていたのだろう?」
顔をあげた応伯爵は、このときはじめて中庭とは反対の西の小窓がかすかにひらいているのを発見し、つかつかとあるいていって、窓をひらいた。雪はいつしかふりやんで、雲間から満月がのぞいて、白皚々《はくがいがい》の地上をてらしていた。
「ああ、足跡がある。――」
「なに? 孫雪娥の足跡か」
「……いや、それにしては大きい。ちがうようだ。西の塀《へい》の方へ十歩ほどあるいて、それから南の垂花門の方へまわっている」
表の方が、騒然としてきた。画童がこの兇変《きようへん》をさけんでまわったのであろう。無数の跫音が、ころがるようにはしってくる。
西門慶はあらく孫雪娥をゆさぶったが、彼女は容易にめざめない。そこへもう他の妻妾や手代や下男が、恐怖と好奇に動顛《どうてん》した顔をのぞかせた。応伯爵は、彼らに、鳳素秋のもう一本の足をさがすようにいいつけた。
検屍《けんし》役人の何九《かきゆう》がかけつけてきたころには、もうつぎのようなことがわかっていた。
南廂房の宋恵蓮の傍の衝立につきたてられていたのは、料理上手な孫雪娥の庖丁にまぎれもない。その雪娥は、はたせるかな、また夢中に遊行したものとみえて、彼女の部屋のまえの遊廊から中庭へ、靴の跡がさまよい出て、そのまんなかあたりをめちゃめちゃにあるきまわってもどった跡が、雪に、歴然《れきぜん》とのこっている。それにもかかわらず行方不明の鳳素秋の左足は、どこをさがしても見あたらなかった。ただ、池のほとりに、血まみれになった紫の片足の靴のみがおちているのが発見された。
「一本の足に、二つの靴か。平仄《ひようそく》が合わん。……」
さわぎの途中から、桃花洞ににげこんで、つぶれはてた胆を酒でふくらませようとでもいうのか、ぐいぐいと金華酒《きんかしゆ》をのんでいた応伯爵は、ぶつぶつひとりごとをつぶやいていたが、急にぶらりと部屋をでると、傍をとおりかかった下男の張安《ちようあん》に、
「おい、来旺児はいるかい?」
「さあ、なにぶん、この騒動で――」
「いたら、おれのところへくるようにいってくれ。さあて、どうも面妖《めんよう》だなあ」
と、首をかしげながら、遊廊をまわって、孫雪娥の部屋へまたもどっていった。
いってみると、西門慶は、検屍役人の何九に、しきりに数枚の銀子をおしつけているところであった。あまりことを大きくしないように、役所の方へよろしくたのむ、というつもりなのであろうが、ことを大きくするなといったって、これほど絢爛《けんらん》たる大惨劇は、何九はいままでに逢《あ》った経験はないし、それにしては貰《もら》い分がすくないと思って、頑強《がんきよう》におしかえしていたが、応伯爵がうしろにきてにやにや笑っているので、あわてて銀子をふところにいれてしまった。
「さて、それでは、いいかげんに孫雪娥夫人に眼をさましてもらわなくてはなりますまいな」
急に厳然と威儀をただしてたちあがった何九を、片手をあげて応伯爵はとめた。
「ちょっと。……いったいぜんたい、どういうことになりましたので?」
「むろん、犯人は、雪娥だろう」
「雪娥さんが、どういう次第であのふたりの足をきったのです?」
「つまりだ。きくところによると、雪娥は、素秋と恵蓮をにくむこと甚だしいものがあった。たまたま三、四日まえにあの※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]刑を見物にいったものだから、その憎悪の心と※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]刑の手段が、夢中にくみあわさって、それでふたりを殺したのだろう」
「いや、私の承りたいのは、雪娥さんがどういう足どりで、ふたりの足をきってまわったかということで」
「足どり? うるさい男だな。――そんなことは、雪娥をおこしてきけばわかる」
「それは、わかりますまい。本人は眠っているのですからな」
西門慶がかえっていらいらして伯爵をにらんだ。
「金蓮も、おまえも、跫音をきいたというじゃないか。雪娥はこの部屋から庖丁をもちだし、金蓮の房の前をまわって、東廂房の方へゆき、素秋をきり殺して、それから桃花洞の前をとおって、恵蓮を殺しにいったのさ」
「へ、へ、しかし、この部屋の前におちていたのは、素秋さんの足ですぜ。雪娥さんは二本の足を両わきにかかえて、恵蓮さんのところへおしかけたってわけですかね。それから、また素秋さんの足をかいこんで、えっちらおっちらこの部屋の前へもどってきたってわけですかね?」
「それじゃ、さきに恵蓮の方をやったんだろう」
「どうも、頭が粗雑でこまるな、私も金蓮さんも、その反対の方向をまわる跫音をきいたんですぜ。だいいち、素秋さんの方があとなら、恵蓮さんの部屋にのこっていた庖丁は、ありゃいったいどういうわけです?」
寝台の方へ足をふみ出したまま、口をぽかんとあけていた何九は、賄賂《わいろ》銀何両に値する役人の威容をしめさなくてはならぬとかんがえたらしく、おごそかな眼を宙にあげて、
「それは、こうだろう。雪娥は、素秋を殺し、つぎに恵蓮を殺したあとで、もういちど素秋の房へ足をとりにいったのだろう。なぜ素秋の足をとりにいったのか、そもそも人の足をきるような狂人だから、その気持はわしにはわからん」
「どこを通って、素秋の房にもどり、どこを通って、この部屋にかえってきたのです。私は、東廂房から南廂房の方へゆく跫音を、いっぺんきいただけですぜ」
「それなら、金蓮夫人の方の遊廊を往復したのさ」
「すると、金蓮さんは、部屋の前を通る跫音を、すくなくとも三回はきいたわけですね。はてな、さっきの金蓮さんの口ぶりでは、そういう様子でもなかったが……まあ、これはあとで金蓮さんに、もういちどきいてみる必要がありますな。しかし、何大人、そうすると、素秋さんを殺して、つぎに恵蓮さんを殺しにゆく途中、桃花洞の前あたりに一滴の血をのこしたほどの犯人が、そのあと二本の足をもって、西や北の回廊をあるきまわるのに、そこにはちっとも血潮のしたたりがみえないとは、どういうことです?」
「それじゃ、中庭をつっきったのだろう」
「いや、雪娥さんの雪の足跡は、中庭のまんなかあたりばかりで、この部屋の前の遊廊から往復しているだけで、ほかの廻廊にゃぜんぜんつづいていないようですよ」
はじめて、事態の意外性が、何九と西門慶にわかったらしい。愕然《がくぜん》としてふたりは伯爵の顔をみつめていたが、やがて、同時に、かっとしてさけんだ。
「いったい、きさまは、なんだといいたいのだ?」
「それが、なんとも申しかねます」
応伯爵は、金華酒の匂いを口からふうっとふいて、くびすじをかいた。
「ただ、一本の足と二つの靴がまだ見つからないんで、それのあるところがわかりさえすれば……」
「なに? 一本の足と二つの靴?」
「左様。素秋さんの左足と、恵蓮さんの赤い靴」
すっかり当惑して顔を見合わせている西門慶と何九をよそに、応伯爵は、西の小窓にかたむく青い満月のひかりをながめながらつぶやいた。
「ここに、おそろしく女の足と靴に熱心な奴が一匹おりましてな。そいつが、雪娥さんがれいの夢中遊行で中庭をぶらぶらしているあいだに、あの窓からこの部屋にしのびこみ、廻廊にでて、素秋さんと恵蓮さんの足をきってまわる。もっとも、それにしても、あの跫音と血の点のわからぬことは御同様だが、とにかくこいつは寝ぼけてやったわけではないから、つかまえてみればわかるでしょう。……」
そこへ下男の張安が、いそぎ足でやってきた。
「旦那、来旺児はどこかへ逐電《ちくてん》した様子ですぜ!」
「しまったっ」
と、応伯爵はとびあがった。
「そいつだ! やっぱり、そうか。何大人、来旺児をつかまえて下さい!」
何九がとび出していったあと、茫然たる西門慶をふりかえって、応伯爵は笑った。
「あにき、せっかくの色男が、なんという顔だ。そうしょげなさんな、あすにでもおれが、すぐ第七夫人、第八夫人の代りを見つけてきてやるよ。ついては、その周旋料《しゆうせんりよう》を前金でもらいたいね」
「ばかめ」
――その翌日わかったことであるが、真夜中の元宵節の雑沓《ざつとう》のなかを、七絃琴の革袋にいれた何やらほそながいものを、肩にかついだ来旺児が、歓喜に両眼を血いろにもやして、猿のごとく宙をとんで城外へにげていった姿をみたものがあるということである。
一夜のうちに、その頭上で、二度恐ろしい運命がいれかわったのもしらず、第四夫人孫雪娥は、あどけない、美しい横顔をみせてまだこんこんとねむっていた。
紅蓮《ぐれん》之章
中一日おいて、西門家の大広間で、ふたつの亡骸に「斂《れん》の礼《れい》」が行われた。
「斂の礼」とは、死人を檜葉湯《ひばゆ》で洗い、髪をといて麻糸でくくり、白い新衣でつつむ、入棺まえの儀式で、死人が女なら、婦人がやることになっている。
応伯爵は、さしずめ葬儀執行委員長といった役まわりで、陰陽師《おんようじ》、僧侶《そうりよ》、役人、葬儀屋との交渉や、弔問客たちとの応接に、すっかりへとへとになってしまった。死因が死因だけに、なんでも華美に、大袈裟《おおげさ》にやりたがる西門慶も、このむごたらしいふたつの屍骸だけは、一刻もはやく土に葬ってしまいたいとみえて、出棺もその日のうちということになったので、眼のまわるようないそがしさである。
いよいよ大広間に紅布をかけたふたつの棺をはこびこむのを、伯爵がさしずしていると、入口のところで、何九《かきゆう》が、西門慶をつかまえて報告していた。どうやら来旺児は、素秋の片足と恵蓮の靴をもったまま、他県へ逃亡してしまったらしいというのである。
棺を安置すると、応伯爵は簾《すだれ》をかかげて隣室に入り、やれやれといった顔つきで、ちょっと息ぬきに酒をのんだ。
大広間のふたりの仏は、帷《とばり》にかこわれ、そのなかで女たちの哀哭《あいこく》する声がきこえた。喪装《もそう》したのこりの六人の妻妾や小間使いたちが、泣きながら相談しているのである。
「恵蓮さんの棺には、どの服とどの服を入れてやりましょうか?」
「あの、新しい黄紬《きつむぎ》の裙子《クンツ》と、白綾《しろあや》の上衣と――」
「靴は?」
泣き声がとぎれた。ふたりの仏が、どうして冥土《めいど》をあるくのだろうと、みんなかんがえこんだのにちがいない。素秋のごときは、一本足のままである。
「恵蓮さんの、あの赤い靴はなくなったままなんだけど、それじゃあの金の蝶々《ちようちよう》を刺繍《ししゆう》した黒い靴をはかせてやったらどうかしら?」
こう呉月娘《ごげつじよう》がいいかけたのに、すすり泣きながら潘金蓮のこたえる声がきこえた。
「いいえ、恵蓮さんは、とても赤い靴が好きでしたわ。……春梅《しゆんばい》、春梅、あたしのお部屋にいって、あたしのあの赤い靴をとってきておくれ。あれをはかせてやりましょう」
すぐ、小間使いの|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]《ほう》春梅が帷《とばり》から出てきて、奥へかけてゆく姿がみえた。
表の方では、会葬者がくるたびに簫《しよう》をふき、銅鑼《どら》をうつ音がきこえる。応伯爵も、かなしくなった。死人となってみれば、素秋や恵蓮との面白おかしい遊楽の思い出ばかりがよみがえる。伯爵は涙をおとしながら、一方では、西門慶がどうしても棺のなかにいれるといってきかない銀の塊を、なんとかして入棺のときにちょろまかしたいものだと思案していた。
春梅が赤い靴をもって、また帷のなかに入っていった。しばらくすると、かなしげな金蓮のためいきがきこえた。
「まあ……恵蓮さんの足は、あたしの靴には入らないわ。……あたしの靴が、小さすぎるのかしら?」
「しかたがない。やっぱり御本人の黒い靴をはかせましょう」
これは、第三夫人孟玉楼の声である。
応伯爵は泣きつつ酒をのみ、銀塊のことを考えつつ涙をながしていたが、ふと盃《さかずき》が宙にとまり、凝然と瞳がうごかなくなった。しばらくして、突然彼のからだがふるえあがった。
応伯爵は蒼ざめて、ぼんやりしていた。それからまたながいあいだたって、ふたたび彼はにやにやと笑い出した。
しかし、彼はそれ以後、なにかいっしんに思案している顔で、底に炭と葦《あし》をしいた柩《ひつぎ》に死者を納棺するさいも、ついぞ銀塊のことなど頭にもうかばない様子であった。
出棺は午後おそくになった。雪はあがって、きのうからいいお天気になっているが、何百人という人々のあわただしいゆきかいのために、門のあたりから庭にかけて、池のようなぬかるみであった。ところどころ紙や線香がおちて、泥《どろ》にまみれていた。外には、絹の傘《かさ》や、赤い名旗のなびく下に、町の会葬者や、埋葬役人や、百数十台の轎子《かご》が待っている。ふたつの柩につづいて、麻の冠に喪服姿の西門慶が、首をたれてあるく。そのあとを、ぞろぞろと女たちがぬかるみにあやうげな蓮歩《れんぽ》をすすめる。
庭をよこぎるとき、潘金蓮のうしろを、神妙な顔をしてあるいていた応伯爵がふときいた。
「それはそうと、金蓮さん、恵蓮さんの棺に、やっぱりあなたの靴をいれてやりましたかね」
「いいえ。……恵蓮さんの足にははけませんでしたもの」
「そうですか。では、せっかくだから、素秋さんの棺に入れておやりになりゃよかった」
「あら? 素秋さんの足は、恵蓮さんより大きいんですのに、なおさらあたしの靴がはけるわけがないじゃありませんか」
金蓮は涙にはれぼったい瞼《まぶた》から、いぶかしげなまなざしをなげた。応伯爵はうつむいたまま、ためいきをついて、
「それがね、金蓮さん、素秋さんの棺に入っているのは、恵蓮さんの右足なんですよ」
「えっ? なんですって?」
「つまり、あの夜、雪娥さんの部屋の外におちていたのは、素秋さんの靴をはかせた恵蓮さんの足だったというわけです。したがって、来旺児がもって雲を霞とにげたのも、恵蓮さんの左足。……どうも、あの足きちがいの男が、せっかく女の足を四本もきっておきながら、大きな方の素秋さんの足を盗んでにげたのが解せんと考えておった」
「応さん。……では、恵蓮さんの胴にくっついていた足は――」
「むろん、素秋さんの両足でさあ。あなたの靴がはけるわけはありませんよ」
潘金蓮はたちどまった。かなしみの行列は、門の方へながれてゆく。金蓮はあゆむのもわすれた風で、じっと伯爵の仔細《しさい》らしい顔をながめていたが、
「あなた……そんなこと、どうしていままでだまっていらしたの?」
「へ、へ。それが……ついさっき、わかったのでしてね。そうわかってみれば、あの夜のことがみんな腑《ふ》におちましたよ」
「あの夜のこと?」
「左様。殺戮者《さつりくしや》の這《は》っていった跡が」
「来旺児のことですか」
「足きちがいの来旺は、いかにもあの夜、雪娥夫人の部屋の西側の窓の外にやってきました。あの男は、骨をもらう犬のように、女のきれいなまるっこい足を待っていたのでしょうな。……ところで、私はもっとさかのぼって、李瓶児《りへいじ》夫人の誕生日の祝宴に、だれか、恵蓮さんと素秋さんの酒に奇妙な薬をいれたことまでわかりましたよ。そいつを私が盗みやらかした罰はてきめん。……鴉片《あへん》――あれは、西大人が、西域のへんな坊主からもらったやつですね。で、そのおかげで、その夜、素秋さんも恵蓮さんも、それぞれの房で、死んだようにねむっている。……」
葬列は、哀哭の声にむせぶまぼろしの群のようにただよってゆく。ふたりはぼんやりとした顔で、むかいあってたたずんだままである。
「さて、深夜になって雪娥夫人が、れいの夢中遊行で中庭へさまよい出たのをみすました殺戮者は、東の遊廊を北から下って素秋の部屋に入り、彼女を殺して両足をきりとり、七絃琴の革袋にいれて、桃花洞のまえをとおりすぎたが、血はそのときその革袋からおとしたのです。それから、恵蓮さんを殺してまた両足をきり、胴体には素秋さんの両足をくっつけて、かわりに恵蓮さんの両足を革袋にいれてはこび出したのです。そして、その一方の足には素秋さんの紫の靴をはかせて、雪娥さんの房のまえになげすて、もう一方の紫の靴は、遊廊から、雪娥さんが徘徊ちゅうの中庭めがけて、力いっぱい放り出したのでしょう。さて、のこったもう一本の恵蓮さんの足と、二つの赤い靴をもった犯人は、雪娥さんはぬけがらの部屋に入って、西の小窓にすすみよる。外には、さっきいった来旺児が、よだれをながし、舌なめずりして待っている。……」
金蓮は、すきとおるような顔いろで、応伯爵を見つめている。白い喪靴のつまさきを、かすかに門前の鉦鼓《しようこ》の音にあわせていた。深淵のような眼であった。
「来旺児は、罪は孫雪娥夫人にかかるから、といいふくめられていたのかもしれませんね。なんぞしらん、雪娥はたとえ冤罪《えんざい》をすすがれても、罪は逐電《ちくてん》した来旺にかぶせられるようにたくらまれた奸謀《かんぼう》であろうとは。……尤《もつと》もあいつは、罪も罰もさらに念頭になく、いまごろ、白雲と枯野の果で、顔のひもをといて可愛《かわい》い女の足と靴に頬ずりしていることでしょうて」
「……だれが……それじゃ……なんのために……素秋さんたちの足をきったとおっしゃるの?」
金蓮は、ひくい声でいった。背を、そばの楊柳《ようりゆう》にもたせかけている。あたりにはもうひとかげもない。ただ、町をものうく葬楽の音が遠ざかってゆく。
応伯爵は、もちまえの片えくぼを彫った。
「なんのために、ということが恐ろしい」
彼は金蓮の底しれぬ眼にみいった。
「※[#「咼」の「口」を除いたもの、unicode518e]の刑の朝、恵蓮さんに、あたしの足は、金蓮さんのお靴でもゆるいくらいですのに……と、唯《ただ》一語いわれたために」
「…………」
「それから、納棺のとき、まあ、恵蓮さんの足は、あたしの靴に入らないわ……と、唯一語やりかえすために」
「…………」
「そのために、あなたは、恵蓮さんの胴に素秋さんの大きな足をくっつけたのです」
応伯爵は、息がきれてきた。潘金蓮はだまって、深い冬の蒼穹《そうきゆう》を仰いでいる。ほとんど神聖美の極致ともいいたい横顔であった。われしらず、伯爵の口からは、うわごとのような言葉がころがり出した。
「しかし、あなたの美しさは、そういうことをなさる値うちがある」
潘金蓮は、応伯爵にまなざしをもどした。深淵のような黒いひとみの底に、妖しい媚笑《びしよう》の炎がちろちろとゆらめきだした。
「わ、私は、だまっていますよ、私はね」
伯爵の身体《からだ》の方が、水母《くらげ》のようにふるえはじめた。
「銀、銀の塊などでは、だまらないが」
潘金蓮のなよやかな腕が、うっとりと彼のくびにまきついた。
「ただ、あなたの唇を。……」
潘金蓮の息が、むせかえるように、彼の鼻孔をつつんだ。歯と歯のあいだに入ってくる沈香《じんこう》の花びらのように、ぬれてやわらかな舌を吸いながら、この論外にだらしのない幇間《ほうかん》探偵は、ひょっとすると、いつこっちも一服もられるかもしれないな、と心の遠い底で思いつつ、その一瞬の無何有郷《むかうきよう》にしずみこんでいた。
葬楽の音は、もうきこえない。
[#改ページ]
[#見出し] 美女と美童
白虎《びやつこ》之章
西門慶《せいもんけい》は、或《あ》る雪の夜、悪友の応伯爵《おうはくしやく》といっしょに、ひどく悪酔いしてかえってきた。
というのは、その夜なじみの花街へいって、ふだんから彼が世話をしている歌妓の李桂姐《りけいそ》をよんでみると、おりあしく叔母《おば》の誕生日で出かけているという。やむなく応伯爵を相手に酒をのんでいるうちに、偶然、李桂姐が別室で、或る若い役人と寝ているということがわかったので、怒り心頭に発し、卓をひっくりかえす、皿《さら》や盃《さかずき》をなげつける。おまけに自分が買ってやった敷物や垂帳《すいちよう》までひきちぎって、
「二度とこの家の門をくぐるものか」と痰《たん》をはいてかえってきたのである。
「西|大人《たいじん》、まあそう怒りなさんな。色町に鞘当《さやあて》はつきものだ。怒るだけ野暮というものだよ」
と、応伯爵はなぐさめながら、にやにやしている。この男は、もと大きな絹問屋だったのだが、遊びすぎてすっかり尾羽うちからし、いまは西門慶のたいこもちのようになって暮しているが、それを恥ずかしいとも情けないとも思っていないらしい。天性のひょうきん者だか、脱俗の粋人だかわからない男だった。
「ええっ、まだむしゃくしゃがおさまらん。どうしてくれよう、売女《ばいた》め」
「左様。売女だ。売女だ。――野のあだ花にそってはみたが、女房にまされる花はなし、枕《まくら》の味はうすけれど、朝までそって銭いらず――かね。はははは。まして兄貴、――いったい兄貴はぜいたくだよ。あれだけよくつくしてくれる、別嬪《べつぴん》ぞろいの奥さんをたくさんもって、そのうえ外にまだ手を出すから、罰があたるのさ」
「なに、女なんて、どいつもこいつもあてになるものか!」
「ま、そういったものでもない。さあ、機嫌《きげん》をなおして、家で飲みなおそう。おお、いい雪だ。まるで、鵞毛《がもう》のようだ。そこでひとつ、奥さん方をみんな起して、にぎやかに雪見酒とゆこうじゃないか」
――と、いったようなわけで、それから西門家の奥の広間で時ならぬ雪見の宴がはじまった。
西門慶はふたりの寵童《ちようどう》をよんで、ひとりには寒さよけの梅花模様の簾《れん》をたれさせ、ひとりには炉に獣炭《じゆうたん》をたかせた。ぞろぞろと、眠そうな顔であつまってきた六人の夫人たちも、酔眼のすわった西門慶のただならぬ様子をみてとると、急にしゃっきりとなって、料理や酒壷《さけつぼ》や盃をはこんでくる。
雪見の宴とはいったが、夜のことだから、雪もよくみえるわけがなく、またふたりの放蕩漢《ほうとうかん》にそんな風流気のあるわけもない。西門慶は、左右に、画童《がどう》、琴童《きんどう》と呼ぶ美少年をひきつけて、しきりに大盃《たいはい》をほし、応伯爵は、ちびりちびり茉莉花酒《まつりかしゆ》をなめながら、花のようにならんだ六人の夫人たちにふざけかかって、さわいでいる。
第三夫人の孟玉楼《もうぎよくろう》は、酒をついで第二夫人の李嬌児《りきようじ》にわたしながら、正夫人の呉月娘《ごげつじよう》におじぎして、
「大奥さま、どうぞあたしの、御挨拶《ごあいさつ》を受けて下さいな」
「どうぞ、どうぞ、こんな席ですもの、そんな、わけへだてはなさらずと」
と、呉月娘はしとやかだ。第六夫人の李瓶児《りへいじ》が、
「でも、それじゃあ、あたしたちもいただけませんもの」
みんな、西門慶にはばかりながら、そのくせ無視して、おすましでやりあっている。画童と琴童にやきもちをやいているのだ、と応伯爵は可笑《おか》しくなった。しかし、少年とはいいながら、なんというふたりの美しさだろう。画童は十七歳、ふっくらと靄《もや》のかかったようなやわらかな顔の線は、女にだってめったにありそうもない。甘えるように、なにやら西門慶にささやいている唇から、米粒のように歯がこぼれている。それにくらべると、一つ年上の琴童は、それだけ背もたかく、少年特有の珠を彫ったようなりりしさがある。
「さすがに、西大人、お眼がたかい。……」
と、思わずうっとりとしてその方を見ていると、傍の第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》が肘《ひじ》で伯爵の横っ腹をこづいた。
「なにさ、あなたまで……いけすかない」
潘金蓮だけには、さすがすれっからしの応伯爵も一目も二目もおいている。この女には、その繊細精巧な美術品のような完璧《かんぺき》な美貌《びぼう》のなかに、あらゆる男という男を無限の深淵にひきずりこんでしまうような恐ろしい原始的な力がある。
「応さん。あなたも男の子を相手にあそんだことがある? あるでしょうね、いったい、男が、男にとって、どんなに面白いの?」
「へ、へ、面白いどころか、いつだったかたいへんな眼にあいましたよ。いや、男の子なんかを相手にするもんじゃない」
狼狽《ろうばい》しながら応伯爵は、さっそく、ほんとだか冗談だかわからないことを、例のごとくぺらぺらやり出した。
「ま、さるところでな。さる美少年をうつぶせにして、一儀の最中であったと思いなさい。突然、相手が、もし、ちょっと……待って下され、といいます。もうそうはゆかないと、こっちは一生懸命。向うが顔をしかめて、いや、どうも、急に、おならが出そうで……せつなくてなりません。これには弱ったが、声はげまして、それでも、もうちょいとだ、がまんしてくりゃれ、といっているうちに、こっちの口から、うい。……」
「なあに、それ?」
「口から、おなら」
「まあ、おっほほほほほ、おっほほほほほほ!」
なにか白じらと殺気だった酒席を、傍若無人にかきみだすような潘金蓮の笑い声に、西門慶が顔をむけて、かみつくように叫んだ。
「げらげらと、うるさいぞ。何がそんなに可笑しいことがある?」
「はは、西大人、まだ癇癪《かんしやく》がおさまらんな。遊女にふられて八ツあたりをくわされる奥さんたちこそいい面の皮さね。奥方一同、みんな、おかんむりだぞ」
「なにが?」
「何がって、兄貴、画童や琴童も可愛いにちがいなかろうが、奥さんの方をほうっておいて、そうでれでれしてみせなくともよかろう。これだけ絶品ぞろいの奥さんて、そうあるものじゃない」
「女は、下司だ!」
「ほほっ、いや、たいへんな見幕だね。こりゃ面白い。よろし、そんなら美女と美童の味くらべ論議とゆこう」
「何をぬかす。美少年の味は知っているくせに、つべこべと……」
「その大人のつべこべをきかせて戴《いただ》こうじゃないか。まず美童の美女にまされる点は?」
「男は、ぬしを裏切らん」
「そんなことあてにならん。私など、金のためなら、親でも殺す」
と、応伯爵は平気でやりかえす。こう西門慶にさからうのはめずらしいが、それでもなんとなく人の腹をたたせないのは、この男の徳である。女たちも美少年たちもかたずをのんでふたりを見まもっている。妖しくも美しい対峙《たいじ》の光景であった。
西門慶は、むきになって、
「美少年は、梅花の匂いがする」
「そんなことをいえば、李嬌児夫人には芙蓉《ふよう》の匂いがし、李瓶児夫人には百合《ゆり》の香がする」
「いやな奴《やつ》だ。そもそも、男の子はだ、女のように色だけの味ではない、頭がよくまわって、うてばひびくようなところがあって、単に色をしているような気がしない、もっと、深い深いものがあるんだ」
「あにき、それじゃ話にならん。私は、色の上での味くらべをいっているんだ」
「ようし!」
突然、西門慶は血相をかえてたちあがり、われ鐘のようにどなった。
「そんなら、その証拠をおまえにみせてやる。――みんな、ならべ!」
いったい、何を思いついたのかわからないが、この暴君がこういう顔つきでいるときに、それに従わないことは虎《とら》にさからうよりも恐ろしい。みんなびっくりした表情で、たちあがり、おずおずと一列にならんだ。
「はだかになるんだ」
女や少年たちはどよめいた。正夫人の呉月娘は、きっと顔をふりあげて、
「あたしは、いや」
「……うむ、ま、お前さんだけはよろしい」
と、さすがの西門慶もちょっとひるんだが、すぐに酔眼をほかにすえて、いきなり卓上の皿をたたきつけて怒号した。
「はやく、いうとおりにしないか!」
めんくらった応伯爵が、なにかいおうと、西門慶の方をふりむいたとき、潘金蓮が、うす笑いして、
「ふん、酔っぱらい。脱げばいいんでしょ?」
と、いって、するすると沈香色の上衣と、薄桃色の裙子《クンツ》をぬぎはじめた。応伯爵は、口をもがもがさせただけで、急にだまることにしたらしく、にやにやしてながめている。
髪に鳳《おおとり》をかたどった銀のかんざし、耳に翡翠《ひすい》の耳飾り、足に真紅の靴をはいただけの姿で、潘金蓮はすっくと立った。雪白の肌《はだ》に炉の火がうつって、ちろちろと、這《は》いもつれる陰翳《いんえい》のなまめかしさは、この世のものとは思えない。さすがの応伯爵もごっくり生唾《なまつば》をのみこんだ。
これをきっかけに、西門慶の眼に追われて、他の妾《めかけ》も少年も、ぞろぞろと衣服をぬぎはじめる。重そうなほど豊満な李嬌児、きりっとひきしまった小麦色の孟玉楼、ほそぼそとかよわげな第四夫人の孫雪娥《そんせつが》、小さな細工物のように可憐な李瓶児、そして……彼女たちよりももっと恥ずかしげな画童と琴童。はだかの画童は乳房と下半身さえ覆えば、まったく女にも見まがうばかりの妖艶《ようえん》さだった。それにくらべて琴童は、かたく肉がしまって羚羊《かもしか》のように清爽《せいそう》である。
「みんな、向うをむけ。四つん這いになって、そうだ、肘と膝をついて。臀《しり》をたかくあげろ」
と、西門慶は厳然といった。……やがて、眼のまえに、七つならんだまるいお臀をながめて、応伯爵は笑いもしなかった。可笑しくもない。なんという息づまるような景観だろう。この姿は、なにかに似ている。……と応伯爵はへんにかきみだされた頭で思った。たしかに、動物の姿だ。そしてそれは、見るものにも遠い遠い原始のむかしの動物だったころの本能をよびもどさせる姿態であった。
「白虎《びやつこ》。……」
と、やっと応伯爵はうなった。
古い淫書《いんしよ》「洞玄子《とうげんし》」に、白虎とあるのは、たしかにこのすがたである。西門慶はからからと笑った。
「どうだ? 伯爵。……臀をくらべてみろ。どれがいちばん美しいか。なに、そう女どものやつをじろじろみるな。あの琴童のなめらかで弾力のある肉のしまり具合をみろ。あの画童のぴかぴかひかるようなまるみと、白桃のような腰えくぼをみろ。……」
すると、すぐ傍に、なよなよとうずくまったものがある。ふりかえると、いつのまについてきたのか、いちばん端にいたはずの第五夫人の潘金蓮であった。
「ほんとうねえ。ああ、この琴童のお臀のきれいなこと。あたしにもあやからせて」
そういったかと思うと、いきなり、はだかの腕を琴童の腰にまきつけて、真紅の唇をひたとその臀につけた。
「これ」
西門慶があわててひきはなした腕のなかで、金蓮は急にのけぞりかえって笑い出した。妖しくかがやく眼に、涙がうかんでいる。異常な昂奮《こうふん》がこの女をとらえたことはあきらかだった。
この潘金蓮こそ、稀世の大淫婦だと、ひそかに見ぬいている応伯爵は、なにやら、あつい泥《どろ》のなかから、うすら冷たくぷつぷつとわきあがってくる泡のような底気味わるい予感をおぼえた。
(こりゃいかん。……なぜかわからんが、こりゃいかん。……きっと、これで、ろくでもない騒動がおこるぞ。西大人。……)
卓蝋《たくろう》之章
豪商西門慶をめぐって、寵《ちよう》をあらそう六人の美女と二人の美童。そのあいだのそれぞれの嫉視《しつし》反目は、想像にあまりあるが、剛腹《ごうふく》で色好みの西門慶は、ときに一喝《いつかつ》のもとにしかりとばしたり、ときにわざわざやきもちのたねをまいて、そこからひろがる波紋をかえって面白がったりしている。それでもさすがにねばりつく蜘蛛《くも》の糸のような女同志の閨怨《けいえん》の交錯に閉口することがあり、そんなときには画童か琴童を相手にする。他の六人の妻妾《さいしよう》のあいだには、うわべはとにかく、例外なく深怨《しんえん》の糸のからまりがあるが、このふたりの美童のあいだには、春風のような和気があるからだ。
西門慶は知らない。このふたりの美少年が、ふたりだけが知る恋人であったことを。
しかし、それもむりはない。先日、西門慶は女への腹立ちまぎれにむきになって男色を礼讃《らいさん》したものの、ふだんはやっぱりなんといっても愛妾たちとたのしみをともにすることが多いのである。しかも寵童たちは他に欲望のはけ口を求めることをゆるされない。ときたま、気まぐれに主人からはげしい愛撫《あいぶ》をうけ、しょっちゅう眼に痴態をみ、耳に媚笑《びしよう》をきいているのでは、このふたりの美童が、たまらなくなってお互いを肉欲の対象にしはじめたのも当然である。
さて、この仲のよい、奇妙な恋人のあいだに、最初の悲劇的な石がなげこまれたのは、あの妖しい臀《しり》くらべのあった夜から三日のちのことだった。
その夜、年上の琴童の房にしのんでいった画童は、そこに琴童の姿がみえないので、不安にみちた眼で部屋じゅうを見まわした。
「はてな、昨晩もいなかったが。……」
画童の視線はふと寝台のかげにおちた。彼はかけよって、ひとつの錦の香嚢《こうぶくろ》をひろいあげた。
「これは、女持ちだが、だれのであったかしらん?」
宙にすえられた画童の美しい眼が、突然、驚愕《きようがく》にみひらかれて、彼はもういちどその香嚢をじっと見入った。
「まさか、琴童が、私をうらぎって……?」
しかし、画童は足ばやに部屋を出て、まもなく疑惑に眼をくらくひからせながら、後園にむかって、いそいでいた。後園には愛妾たちのすむ房と、それをつらねる廻廊《かいろう》がある。
画童は、廻廊を北へむかってすすんでいった。いちばん奥の潘金蓮《はんきんれん》の房にちかづくと、彼は白い猫のように跫音《あしおと》をしのばせた。
灯がもれている。なかから、やわらかいふるえ声がきこえてくる。
「琴童、琴童。ほんとうにおまえのからだの美しいこと。旦那さまも御立派だけど、やっぱり若い人はいいわねえ。……」
「ああ、金蓮奥さま、わたしもはじめてです。女の乳房にさわるなんて、……わたしは旦那さまがねたましい。……」
扉の外で、画童の眼がつりあがってきた。全身ふるえ出し、われをわすれて扉をたたきかけたが、急にその手をおろして、じっと考えこんだ。それから狂ったようなうすら笑いを浮べて、またそっとひきかえしていった。
画童が大房《たいぼう》へ入ってゆくと、主人の西門慶は、今夜も遊びにきている応伯爵を相手に、酒をのみのみ、ちかごろ大流行の牙牌《カルタ》をうっているところだった。一種の賭博《とばく》で、こういうことには天才的な応伯爵のいい鴨《かも》になっているらしい。傍で呉月娘が可笑しそうに笑っていたが、入ってきた画童をみてしかった。
「なんです、画童、挨拶もしないで」
「旦那さま、……金蓮奥さまが……」
西門慶は、夢中になっていて、顔もあげない。画童は息を大きくすいこんで、
「いま、琴童をお部屋にひきずりこんで……いいことなすっていられますよ」
「なにっ」
西門慶は、ぱたりと牙牌を手からとりおとしてたちあがった。応伯爵がみあげて、
「あにき、勝負は途中でなげた方が負けだぜ」
「画童、それはほんとか?」
「どうしてそんな嘘《うそ》を。さっき琴童の部屋にいってみますと、琴童はいないで、この金蓮奥さまの香嚢がありましたので、何となく気にかかって後園にいってみますと……」
「金蓮め、やりかねないやつだ。うぬ、どうしてくれよう」
「金蓮さんはともかく、あにき、そうれごらん、男の子だってあてになるものじゃなかろう」
と、応伯爵はにやにや笑いかけたが、急に眉《まゆ》をひそめた。西門慶の血相があまりに凄《すさま》じかったからである。激怒するのもむりはないが、こういうことにかけては、ほんとに常人ばなれのするほど残忍になる西門慶であった。
韋駄天《いだてん》のように大房をとび出し、垂花門《すいかもん》をくぐって後園の廂房《しようぼう》にかけてゆく西門慶のあとを、応伯爵も画童も呉月娘もあわてて追っかけていった。
ただならぬ物音をきいて潘金蓮の房の扉がひらいたのは、すでに西門慶が数間の距離にせまったときである。
「逃げるな! 琴童!」
あわてて閉じられた扉を、恐ろしいわめき声をあげながら西門慶はひきあけた。
|※[#「火+亢」、unicode7095]《オンドル》をむっと汗ばむほどたいた房のなかの、黒漆《こくしつ》に金粉をちりばめた寝台は、真紅の垂帳《すいちよう》にかこまれている。そのなかにひしと抱きあってふるえている金蓮と琴童は、どちらも一糸まとわぬまるはだかであった。これには、つづいてのぞいた呉月娘も応伯爵も、なんともいうべき言葉がない。
「そのままでおれ、淫婦め」
と、あわてて衣服をかきよせかける金蓮に、西門慶は叱咤《しつた》した。
金蓮はおびえた眼で、みんなを見まわしたが、急に腰を白蛇のようにくねらせて寝台をすべりおりると、環視のなかをもかえりみず、名状しがたいほどの甘ったれ声を鼻から鳴らして、
「旦那さま。……かんにんして……旦那さまがいけないのよ。……ちっともあたしのところへきて下さらないんだもの。……」
「うそをつけ。おれは四日ほど前にきた」
と、西門慶はどなって、いきなり息の根もとまるほど金蓮の横っ面をはりとばした。
ひっくりかえった金蓮は、うらめしそうな眼をあげて、うすら笑いをしている画童とその手にぶらさげた香嚢を見とめると、
「画童。……よけいな告げ口をしたのはおまえだね?」
といった。画童はさすがにどぎまぎして、
「いえ、ただ、さっき琴童の部屋にいってみたら、奥さまの香嚢がおちていたので、こりゃおかしいと、とりあえず、旦那さまにおとどけしただけで……」
「香嚢?」
と、寝台の上でふるえていた琴童がけげんそうに、
「そんな香嚢、わたしはみたこともないぞ」
「このおせっかい!」
と、さけぶと、いきなり金蓮ははねあがって、傍の燭台をひっつかみ、槍《やり》のように画童の胸をついた。燃えていた蝋燭《ろうそく》がとんで鉄の針にさされたとみえて、画童は悲鳴をあげながら右胸をおさえてうずくまった。
「ばかめ!」
と、西門慶は足をあげて潘金蓮を蹴《け》たおした。
「誰《だれ》が香嚢のことなどきいておるものか。盗っ人たけだけしいとはきさまたちのことだ」
彼は象牙《ぞうげ》のような金蓮の腹のうえに足をふみかけて、画童をふりむいた。
「画童。この女をどうしてくれよう」
「二度と……こんなことをなさらないように――」
画童は胸をおさえたまま、痛みと憎しみにかがやく眼で金蓮をにらんだ。彼が嫉妬《しつと》しているのは琴童に対してではなく、琴童をうばったこの淫婦であった。
「おお、この蝋燭で、けがらわしいかくしどころに封でもしてあげたらよろしゅうございましょう……」
「なに?……ふ、ふ、いや」
と、さすがの西門慶が狼狽したのをみて、応伯爵は可笑しくなった。この稀代の好色漢が、大金を投じてあがなった愛妾の愉楽《ゆらく》の門に封ができるものではない。
「うむ、そうだ。伯爵、卓蝋《たくろう》ということを知っているか?」
「卓蝋? 知らないねえ」
「そら、宦官《かんがん》を征伐して政権をにぎり、いちじ専横をふるまったものの、のちに殺された、後漢の将軍|董卓《とうたく》さ。町に晒《さら》されて、臍《へそ》のうえに灯をともされたので、これを卓蝋の刑という。画童の言葉で思いついた。よし、この淫婦の腹の上にこの蝋燭をたてて、以後の見せしめにしてくれる」
「西大人、それはすこしひどすぎよう。そりゃ金蓮さんもわるいにちがいないが、おそらくもとはあんただぜ。こないだ臀くらべなどやるものだから、それでどっちかに魔が魅入ったにちがいない」
「うるさいっ。主人が妾と侍童の不義をこらしめるのに、なんの文句がある?」
こうなったら、てこでもひく西門慶ではない。しんとだまりこんだ一同の耳に、裏山の竹林からおちる雪の音がぶきみにひびいてきた。
まもなくはだかの潘金蓮は、あおむけになった臍のうえの蝋燭に火をともされていた。あつい蝋涙《ろうるい》がとろりとおちるたびに左右にくねくねとくねらす曲線が、応伯爵ののどをつまらせた。
「これ、うごくな」
と、命令した西門慶の声も嗄《しわが》れている。激怒しながら、だんだん妙な気持になってきたらしい。と同時に、憤怒がいっそう寝台の上にちぢこまっている琴童にもえあがってきたとみえて、
「さて、あの獣をどうしてやろうか」
と歯ぎしりした。
すると潘金蓮が、苦痛のために眼じりからこめかみへ涙をひきながら泣きむせんだ。
「ああ! 旦那さま、あたしが悪うございましたわ。どんな罰をうけようとしかたがありませんわ。……ふたりがこらしめをうけるのはあたりまえです。……だから、旦那さま、どうぞ二度とあたしに今夜のような迷いをおこさせないために、……琴童を男でなくしてやって。……」
「な、なんだと? 琴童を、あの宦者《かんじや》にしろというのか?」
と、西門慶はぐるりと眼をむき出した。
宦者とは去勢の術をほどこされたもののことである。それは東洋独特の悪夢のような奇怪な刑罰――というより習慣であった。というのは、腐刑《ふけい》と称せられるほどいとわしがられる一方、ひとたび宮廷に入れば、後宮から天子にちかづく機会を最も多くもつので、そこから権勢と豪富をつかんで、しばしば天下をうごかし、ある時代には宮中で三千人の宦官をつのったところ、二万余の応募者があったほどのふしぎなる人種であった。しかし、ふつうの男にとっては、やはり他のどんな刑罰よりもいまわしいものにちがいなかった。
その方法は、陰茎と陰嚢のねもとをかたい紐《ひも》でまきしめて、血液の循環をとめ、さて鋭利な刃物でひといきに切断したうえ、尿道に管をさしこんで排尿の便をはかり、傷口をにえくりかえる油で焼いて消毒しておくのである。
「……よし、画童、紐と剃刀《かみそり》をもってこい」
と、西門慶がしゃがれた声でいった。
「ああ。……」
と、失神したような声をたてたのは、琴童ばかりではない。ことの意外ななりゆきに口もきけない画童のうめきであった。
「おい西大人。いいかげんにしないか」
と、応伯爵はおろおろした。助けをもとめるように呉月娘の方をふりむいた。が、しとやかで上品なこの正夫人は、なぜか仮面のような無表情でだまっている。そのぽっと紅のみなぎった頬のうちがわに、女の悪魔的本能といったような炎がしんともえているようにもみえたが、それは或《ある》いは錯覚であって、驚愕と恐怖のために金しばりになっていたのかもしれない。
西門慶は怒号した。
「えい、金蓮でさえあの罰をうけている。琴童め、殺されないだけめっけもの[#「めっけもの」に傍点]と思え」
これで西門慶は、案外くそまじめな、悪気のない男なのである。それだけに応伯爵はいっそうやりきれなくなって、頭をかかえたまま、隅っこの椅子に坐《すわ》りこんでしまった。また裏山で、ばさ[#「ばさ」に傍点]と雪が鳴る。
やがて、しだいにたかまる琴童のうめきに、とうとう画童が脳貧血をおこしてたおれてしまった。腹のうえの蝋燭が大きくゆらいだのは、金蓮がその方に首をねじむけたからである。じ、じ、……と、蝋涙が白い皮膚に鳴った。応伯爵は、そのとき潘金蓮の苦痛にみちた涙のなかに、なにやら幻のような笑いをみたような気がして、はっと眼を見ひらいていた。
妖炎《ようえん》之章
応伯爵は、これで自分のいやな予感はあたってすんだと思っていたが、その予感をさらにこえて、世にも恐ろしい、ぶきみな事件が西門家におこったのは、それから五日めの夜のことである。
その日も、朝から、ちらちら雪で、午後からやんだものの、いつまたふり出すかわからないような、どんよりした空模様だった。
天候のせいばかりでなく、西門慶はくさくさとする。公けに宮刑《きゆうけい》――去勢の術をほどこされたものは、蚕室《さんしつ》と称する暗室のなかにいれて治癒《ちゆ》をまつのであるが、そういう適当な部屋がないので、琴童は、あれ以来「蔵春塢《ぞうしゆんう》」と呼んでいる裏山の洞《ほら》にほうりこんであるのだが、夜も昼も、彼の苦痛にみちた哀れなさけびが、風にのってきこえてくるからである。
「……画童……画童……みんなおまえのおせっかいのせいだぞう。……この恨みはきっとはらすぞう。……」
朝夕の食物は、画童にはこんでやるように命じてあるので、それだけは彼もはたすのだが、蔵春塢の月形窓からなげいれると、あとは一目散ににげもどってくるらしく、画童は西門慶をみるたびにうらめしそうな眼つきをする。いったん激怒がややしずまってみれば、西門慶だって、存外情がふかいだけに、だいぶ寝ざめがわるい。
裏山からのさけびに耳を覆って、彼はしきりに酒をのんでいたが、呉月娘は実家の祝い事にかえって留守だし、李嬌児は月のものでひきこもっているし、孟玉楼は、もともと琴童は彼女が輿入《こしい》れのさいつれてきた小者なので、ぷんぷん怒っているし、李瓶児《りへいじ》は病気だし、孫雪娥はとてもこういう場合に酒の相手のできるようなたちの女ではない。親友の応伯爵さえも、あれっきりやってこないのだ。こうなると、やっぱりいちばん恋しいのは潘金蓮だが、さてそこに足をむけるのは、男の沽券《こけん》にかかわる。
夕方、大房の外の廊下を、ふと、春梅《しゆんばい》という召使いにつれられてひとりの老婆がとおるのをみて、西門慶はよびとめた。
「おい、劉婆《りゆうば》。おまえ、きていたのか?」
入口にたちどまったのは、からだが二つに折れまがって、白髪の頭が地にくっつきそうな盲目の老婆であった。盲目ながら、鍼医《はりい》で卜師《うらないし》でそして呪術師《じゆじゆつし》でもある。
「これは、旦那さま。ごきげんよろしゅう。……はいはい、金蓮奥さまにお呼ばれしましてな」
それは、劉婆をつれている春梅が、金蓮つきの小間使いであることからわかっている。金蓮が、なんの用でと、問いたいのをがまんして、西門慶がまた大盃を唇にはこんでいると、劉婆は、巾着《きんちやく》のような口をすぼめて、きゅっと笑った。
「旦那さま。金蓮奥さまをゆるしておあげなされ。……お可哀《かわい》そうに」
「糞婆《くそばばあ》め、いらぬことをいうな」
「ふおっ、ふおっ、とかなんとかおっしゃっても、旦那さまはきっとおゆるししてあげなさる。なぜかというに、この婆が男女和合のまじないをしてきましたでな」
「なに?」
「旦那さまはきっと今夜は金蓮奥さまのところへおゆきなさる。いえ、いえ、まだおはやい。旦那さま。……今夜二更の時刻になったら、どうか金蓮さまのお部屋にいってあげて下されや」
「何をぬかす。誰があんな淫婦のところへいってやるものか」
「旦那さま、お忘れ下さるな。二更の時刻ですよ。ふおっ、ふおっ」
梟《ふくろう》のような笑い声をたてて、劉婆はいってしまった。
うそか、ほんとか、夜の星さえもうごかすと噂《うわさ》されている劉婆である。どんなまじないをしたのかしらないが、酒をのんでいるうちに、西門慶はだんだんへんな気持になってきた。あの卓蝋の刑を加えられたときの、金蓮の身もだえる白蛇のような妖しい姿態が脳のひだひだをはいまわる。ふん、劉婆をよんで、おれと和合のまじないをたのんだって? 虫がいいといえば虫がいいが、しかし可愛い奴じゃないか。……
二更すこしまえに、西門慶はたまらなくなって、大房をよろりと出て、後園に出かけていった。
ながい遊廊をあるいていって、北廂房《ほくしようぼう》の扉をたたいた。
「金蓮」
呼んでみたが、返事がない。
「わしだ。これ、あけろ」
灯はともっているのに、なかでは、こそ[#「こそ」に傍点]との音もしない。まだ怒っているのか。それとも二更の時刻にならないと扉をあけてはならないというまじないなのか、何はともあれ、せっかく自分から出むいているのに、返事をしないとはけしからぬと、西門慶は酔った心で、だんだんむかっ腹をたててきた。
「ようし、あけないなら、こっちにもその覚悟がある。二更になろうが、三更になろうが、もう来てはやらないからそのつもりでいろ。劉婆のまじないなど、おれにはきかんぞ!」
どんと扉を蹴りつけて、かんかんになって廻廊をもどってくると、途中の東廂房の扉が半分ひらいて、なかからかすかな灯がもれているのに気がついた。これは、まえに鳳素秋《ほうそしゆう》という妾をすまわせていた部屋だが、いまは無人のはずだし、それにくるときは、そんな灯影はみえなかったのである。
「…………?」
のぞきこんで、西門慶は苦笑した。
画童なのである。画童が向うむきになって、用をたしているのである。きっと、裏山の蔵春塢に食物をはこんでやってかえる途中、急にさしせまったのだろう。片手に燭をもったまま、下半身をまくりあげて、朱塗りの馬桶《マトオン》の上にかがみこんでいるのだった。支那《しな》では、どの部屋にも、常時便器がそなえつけてあるのである。
が、いったん欲情を発して、ぶすぶす燻《くすぶ》っている西門慶には、その小さな灯に、微妙にやわらかい陰翳《いんえい》をつくっている、まるいふたつの小丘のような美童の臀は、まるで、かがやく宝石のように眼にうつった。
「画童」
突然よびかけられて、あわててたちあがってふりむいた美童の股間《こかん》は、まる出しである。あわてて手で覆うはずみに、燭が床におちて、廂房は暗黒となった。
寝台もあるし、蒲団《ふとん》もそのままになっているはずだ。稀代の大好色漢西門慶はむらむらと気ざして、大股《おおまた》にとびこんでいった。闇のなかに、
「ああ……旦那さま……」
と、かすれた声であえぐ美童の声と、背後からしっかりとつかまえた西門慶の嵐《あらし》のような息がもつれあった。
突然、西門慶はぎょっとしてたちあがっていた。そのとき、裏山の方からまた悲痛な呪詛《じゆそ》にみちたさけびがながれてきたのである。
「画童……画童……よくもわしを男でなくしたな。みんなおまえのせいだぞう……おまえだけ、いいことしようと思っても、わしはゆるさん。このしかえしはきっとするぞう。……」
応伯爵が例のごとく、ぶらりとやってきたのは、二更すぎのことだった。
二更すぎだろうが、真夜中だろうが、風のごとく気まぐれにやってくる応伯爵であるが、この数日は、せんだっての西門慶の乱暴にすっかりいや気がさして来なかったのだけれど、今夜は夕方から債鬼においまくられて、金もないので避難するところもなく、やむを得ず、やっぱりこの兄貴分の西門家ににげてきたのである。
借金取におわれながらも、飄々《ひようひよう》たる足どりである。表の方できくと、西大人は後園に入ってゆかれたようだというので、ははん、それは、てっきり潘金蓮とより[#「より」に傍点]がもどったのだろうと、応伯爵はにやにや笑いながら廻廊をあるいている。
東廂房ぞいの遊廊から北廂房へまわる角のところで、応伯爵はふとたちどまった。
一片、二片、ちらと――白いものが舞いこんできた。また雪がふりはじめたらしい。が、応伯爵がふしぎそうにみつめているのは、むろん雪ではない。その夜の向うの――おそらく裏山の蔵春塢のあたりに浮かんだ一点の火である。
(はてな、洞からもれているようでもない、その外に、はだかの蝋燭の火が地面に一本立っているぞ。……)
小首をかしげながら応伯爵が、そのまま北廂房にいってみると、案の定、西門慶は、潘金蓮といっしょにけろりとして酒をのんでいるところだった。
「おお、伯爵。しばらく顔をみせなかったね。いいところへよくきた。あはははははは、御覧のように今夜二更を期して、和睦だ、和睦だ。さあ飲め」
西門慶は、むしょうに陽気である。
「いや、ありがとう。ところで西大人、裏山のあたりにへんな火がみえるが」
「火? はてな、蔵春塢にあかりはやってないはずだが」
「そうではない。はだかの蝋燭らしい」
「それなら画童のやつじゃないか。さっき、これから琴童のところへ夜食をはこんでやるのだといっておったが」
「そうかな。しかし……どうも妙な気がするぞ。しばらくわしはみていたが、蝋燭の火はちっともうごかん」
「めんどうくさいな。それでは一応みてやろう。どれどれ」
二人はまた廻廊に出て、曲り角まで見にいった。しだいに数をます雪片のなかに、遠い灯は、じっと地上にもえていた。
「とにかくいってみよう」
ということで二人はそこから雪をふんで裏山のふもとまで歩いていった。
火はまさに蝋燭の火であった。が、それが妙なことに、雪の中につっ立ててあるのである。雪のなかに?……いやいや、その雪からむっくりもちあがっているのは何であろう?
「や、や、や、や。――」
と、応伯爵がたまぎるような叫びをあげた。
雪に上半身をつっこんで誰かたおれている。しかもその臀はむき出しになって半円球のようにとび出し、はだかの蝋燭は、その肛門《こうもん》にしっかりとさしこんであるのだ。
「画童!」
と、その衣服から悟って、西門慶が絶叫したあとは、しんとした凍るような沈黙が大きな闇をしめた。
蝋燭はひとりでもえつづけている。霏々《ひひ》として、ふりはじめた雪のなかに、妖《あや》かしの円光をえがいて、じじと蝋涙をながしている。しばらく二人は、息をのんだまま、この美しくも凄惨《せいさん》な「燭台」の炎に、阿呆《あほう》のように見とれているきりであった。
魔童之章
「画童!」
やっとわれにかえった西門慶が、ころがるように地に這って、まわりの雪をかきのけはじめた。雪のなかからあらわれた顔は、案の定、苦悶《くもん》に黒瞳をかっとみひらき、紫色に変じた唇をひきゆがめた画童である。
屍体《したい》がゆれて、蝋燭のひかりが大きく浮動した。しかも、紛々たる雪片のなかに血脂を吸った蝋燭の火は、きえもせず、じっとまた鳴って、もえしきっている。
「……ふう。……」
と、異様なため息をついて、応伯爵がそれをぬきとった。真っ白な蝋の下から血が鮮麗なしずくをおとした。
血と炎にはさまれた細い部分を、こわごわとつまんだまま、応伯爵は、西門慶のとび出しそうな眼を追って、蔵春塢《ぞうしゆんう》の方をみる。――扉はひらいていた。
「琴童か?」
と、応伯爵がささやいた。
「外から鍵《かぎ》をかけて、鍵は画童にあずけておいたが……」
と、西門慶はこたえて、意を決した様子であるき出し、蔵春塢のなかをのぞきこんだ。
「琴童、琴童、どこにいる?……いないのかな? 伯爵、灯《ひ》をみせてくれ」
「西大人。……琴童は逃げたらしいよ」
と応伯爵はいった。そして灯をひくくさげて、じっと地上をながめまわしていた。
夜来の雪は、ひるごろあがったが、その雪に深ぶかといくつかの足跡が印されているのである。いまやってきた西門慶と応伯爵をのぞいては、家の方からやってきているのは、屍体となった画童のものだけで、してみると、彼は午後になってはじめて食事をはこんできたらしい。それ以外にあるのは、反対に、蔵春塢から家の方へあゆみ去っているものだけであった。
「……しかし、琴童が家にもどったら、誰か知らせてくれるはずだが」
と、西門慶は不審げにつぶやいて、応伯爵とともに、その足跡を追ってあるき出した。足跡は、まだ傷口のなおらぬ病人らしく、重々しくよろめいている。
「あっ」
遊廊の東南の角までやってきたとき、西門慶は思わず叫んだ。そこには、桃花洞《とうかどう》とよぶ小房があるのだが、その手前の入口の軒下に、うつ伏せに倒れているものがあった。
「琴童だ!」
と、応伯爵もさけんだ。
琴童は死んでいた。これは、屍体にべつに奇抜なところはおろか、血の色もみえないようであるが、さしも清麗をきわめた頬《ほお》もそいだようにおとろえて、そして「腐刑」にかけられた男特有の、手術のあとの傷口から発する悪臭が、むんと冷たい鼻孔にからんでくる。
「これでわかった」
と、西門慶は憮然《ぶぜん》としてつぶやいた。
「琴童め、この四、五日、ひどく画童をののしりつづけておったがな。宮刑にしろといった金蓮も、宮刑にしたわしも、さすがにののしるわけにはゆかんから、密通を告げ口した朋輩の画童を逆恨みしたらしい。……いつか、このしかえしはきっとしてやると吼《ほ》えておったが、画童はびくびくしながら今夜、なにかのはずみで蔵春塢の扉をあけてやったとみえる。そして、画童を殺してしまって……」
「なんのために、お臀に蝋燭をつきたてたのだろう?」
「さあ、わからない」
「琴童と画童はふだんから仲がわるかったかい? わたしにはそうもみえなんだが、西大人なら御存知だろう。内証のことが」
「内証のこと?」
「まあ、こんな場合だからはっきりいえば、おたがいのお臀にやきもちをやくとか」
「何をくだらん。……いや、その点は、女どもとちがって、ふしぎなくらいこの二人は仲よくやっておったようだ。もっとも、それだけに恨むとなったらとことんまでゆくかもしれんが」
「しかえしならば、画童を宮刑にしたらよさそうなものだがね」
「伯爵、蔵春塢にはそんな刃物はないよ」
「ああそうか。まだわたしにはよくわからん点もあるが、画童は画童としてこの琴童はどうして死んだのかな?」
「可哀そうに、わしはあれ以来のぞいてもやらなかったが、見るとおりの衰弱ぶりだ。画童を殺したものの、気力つきはて、ここまでやってきて息絶えたものだろう。……まあ、くわしいことは検屍役人の何九《かきゆう》さんにでも調べてもらうよりしかたがないが、さて、弱ったな、なんとか表沙汰《おもてざた》にしたくないのだがね」
頭をかかえて遊廊に入ってゆこうとする西門慶を、応伯爵はまた呼びとめた。
「あにき、お前はさっき画童にあったようなことをいっていたね」
「うむ。東の遊廊でな。……これから琴童のところへ食事をもってゆくといっていたが……一更ばかりまえのことかな」
と、西門慶は急にあいまいな表情になった。
「それ以後に、後園に入ってきたものはないか?」
「それはわからんが、まあなかろう。しかし、応伯爵、なんのためにそんなことをたずねる?」
と、西門慶はいらいらしてきたらしく、
「それを知りたければ、垂花門《すいかもん》の番人をしている平安《へいあん》にでもたずねるさ。ともかく、画童が琴童に殺されたことは、蔵春塢にいったのが画童だけだからはっきりしている。そして琴童がここまでにげてきて死んだことは、足跡からわかる。他の誰も関係なかろう?」
「いや、あるよ、西大人」
と、応伯爵は首をひねりまわしながらいった。
「もし、ほかのものが誰もこの後園に入っていないということがわかると、たいへんなことになるんだよ」
「なぜ? 後園には、金蓮と孫雪娥がすんでいる。それから、ああ、夕方になって劉婆と春梅が入ってきたようだ。そのほかには、わしとお前と、画童くらいなもの。……いったい、何がたいへんなことになる?」
「なぜかというとね、あにき」
と、応伯爵は、じっと屍体を見おろして、
「琴童は、蔵春塢からここまで、ひとりであるいてきたのじゃない……誰かに負ぶわれてやってきたらしいからさ」
「な、な、なんだって?」
西門慶は笛のような叫びをあげてとびあがった。
「なぜ、そんなことがわかる?」
「あの洞から出て、ここまで雪の上をあるいてきたのなら、靴《くつ》の裏の土はもう途中でなくなっているはずだよ。ところが御覧、琴童の靴の裏には、まだべっとりと洞のなかの土がついている。……」
「…………」
「誰かが負ぶってきた証拠さ、画童ではない。画童は、蔵春塢のまえで殺されたままだ。そうすると……あにき、いっそう恐ろしいことになる。この家から、蔵春塢まで歩いていったものの、ただひとりの足跡しかのこっていないとすれば、それは画童の足跡ではなくって、画童もまた負ぶわれていったということになる。……すなわち、おそらく画童もまた殺されてはこばれたものと考えるのが理窟《りくつ》にあっている。……」
「金蓮か?……劉婆か?……それとも……」
と、西門慶はかすれた声を出した。
「ちがう。少年ながら、この連中を背負って雪のなかをあれだけあるくことは、纏足《てんそく》の御婦人方にはむずかしい」
「すると……」
蝋燭の火が大きくゆらいだのは、応伯爵が逃げ腰になったからである。奇妙なうす笑いをたたえながら、しかし、さすがの伯爵も一種の昂奮のために、いつか血潮にそまった蝋燭の下部をしっかりとにぎりしめて、
「あにき、そうすると……お気の毒だが、下手人は……西大人ということになるのだがね。……」
「ばかっ」
西門慶は大音声をはりあげたが、次の瞬間、急にしんとなってしまった。へっぴり腰の応伯爵がうかがってみると、西門慶はがっくりと首を折ったまま、肩で大きな息をついている。
「西大人。……」
「おれだよ。応伯爵」
と、西門慶は、大きな身体のどこから出るかと思われるような細い声を出した。
「おれの仕事だよ。お前のいったとおりだ。これ、大きな声をたてるな、きいてくれ、伯爵。……しかし、はじめからたくらんだことではない。まったく偶然の災難から、苦しまぎれにしぼり出した智慧《ちえ》だ。……」
「うむ。ま、そうだろう。いまさらあんたが画童はむろん、琴童を殺すいわれがない。いったい、どうしたことなんだ?」
「きょうの夕方のことだ。あの卜師の劉婆めが来おって、金蓮のために、おれと和合のまじないをしたから、今夜の二更になったら金蓮のところにいってみろというのだ。はじめは何をいうかと思っていたが、酒をのんでいるうちに、ふいと劉婆の言葉が気にかかって、二更ごろ、金蓮の房へいってみた。扉をたたいてみたが、返事もしおらぬ。腹をたててもどってくる途中、空《から》の東廂房で、画童めが尻《しり》をまくって、馬桶《マトオン》にかがみこんでいるのをみたわけだ。……そこで、つい、悪戯《いたずら》っ気がおこってな。……」
「どうも、西大人は悪趣味だからな」
と、応伯爵は苦笑いした。
「いや、実に、汗顔のいたりだ。……そこでその、なんだ、途中で画童がいきなり妙な声をあげたかと思うと、突然ぐったりとのびてしまったのだ。呼んでも、ゆすっても、うごかなくなっている。暗闇《くらやみ》のことではあるし。おれもあわてて部屋をとび出した。……」
「なに、暗闇? そのなかで、よく画童ということがわかったね」
「いや、はじめは燭を画童がもっていたのだが、おれがとびかかったとき消えてしまったのだ。さて、部屋をとび出して、金蓮のところに灯をもらいにいったが、まだ返事がない。また東廂房にかけもどって、手さぐりで画童にさわってみると、これはしたり、なんともう冷たくなっているではないか。いよいよあわてふためいて表の方へとび出そうとしたが、考えてみれば、こいつ騒ぎになると甚《はなは》だまずい。こうなると、やはりいちばん頼りになるのは潘金蓮《はんきんれん》だ。そこでまた北廂房にいって、扉のまえで思案にくれていると、うしろからぽんと肩をたたくものがある。金蓮め、いままでそこらを、そぞろ歩きしていたというのだ」
「…………」
「それから灯をもって、金蓮といっしょに東廂房へいってみると、画童は案の定息絶えている。……それからあとは、金蓮のかしてくれた智慧だ。おれが人殺しにならないためには、誰かを下手人にしなければならん。そこで先日から画童に呪詛のわめきをわめきつづけていた琴童に、可哀そうだが一服盛るよりしかたがなかろうと、おれが画童を背負っていって、蔵春塢《ぞうしゆんう》にゆき、酒に金蓮のくれた鴆毒《ちんどく》をまぜた奴を琴童にのませて、その死骸《しがい》をまた背負ってきたわけだ。……」
「……あの画童の臀の蝋燭も、金蓮さんの智慧か?」
「そうだ。なんのまじないだと、おれがきいたら、いまにまた雪でもふり出したら、せっかくの足跡のからくりが、なんの役にもたたないことになる。変な灯をともして、ほかの誰かを呼びよせた方がよかろうと……」
「それだけかな……?」
と、応伯爵が妙な表情で小首をかしげた瞬間、手の蝋燭に白蛾《はくが》のように雪がちりかかってふっと消えた。
闇のなかで、がばと西門慶のひざまずく音と、涙声がきこえた。
「伯爵、どうか見のがしてくれ、義兄弟のよしみでだまっていてくれ、この礼はきっとする。たのむ!」
「いや、それはあんたをどうかしてみたところで、わたしの飯のくいあげになるばかりだ。礼などとはとんでもない」
と、これまた闇のなかで、応伯爵は手をふった様子だが、すぐにその手をさし出す気配がした。
「しかし、西大人、まあ、いまの債鬼どもに追いまくられている窮場だけはたすけてもらおうか。たのむ。……」
臙脂《えんじ》之章
桃花洞に入って、しょんぼりと寝台に腰をおろしたままの西門慶を、棚《たな》からかってにとりおろした酒を、ちびりちびりなめながらながめていた応伯爵は、ふと、
「しかし……どうも……話があんまり都合よくゆきすぎているな。……」
と、つぶやいた。じっとなにかを追うような半眼のまなざしになって、
「西大人。……それは、ほんとうに、あの画童だったろうか?」
と、ぼんやりといった。
「えっ、なにをいう。それは、むろん画童だったよ。琴童は蔵春塢にとじこめられていたし、第一、うしろから抱いた手に、胸にかたくまいた布がふれたからな。そら、画童は、あの晩に金蓮のやつに、燭台の針でつかれてから、胸に傷をして布をまいていたんだ。それから……」
「それから?」
「はじめ、まだ灯がついていたころ、おれに声をかけられて、びっくりしてたちあがった画童に、……ちらと男のものがみえたからな。琴童にはそれがない……」
「そうか……」
応伯爵はほっと身体の緊張をといて、ぐいと盃をほしたがその瞬間に、またぱちっと眼をひらき、突然、微妙なそよぎの波が全身をはしった。
西門慶が、びくんとふりむいて、
「おい、伯爵、どうした?」
「いや、ちょいと、金蓮さんに報告してくる。心配しているだろうから、安心しろといいにな」
頭をかかえている西門慶をあとに、応伯爵はぶらりと桃花洞を出て、廻廊をあるいて、北廂房の扉をたたいた。中庭に雪は卍巴《まんじともえ》とふりしきっている。
「お入り」
入ると、潘金蓮は椅子《いす》に腰かけたまま、ながいまつげの翳《かげ》から、みずみずしい上眼《うわめ》づかいに、応伯爵をみて、
「おや、旦那さまは?」
「いま、きます」
「そう、さっきの妙な火ってなんでしたの?」
そういいながら、金蓮は春の葱《ねぎ》のような白い指で、変なものをいじっている。みると、男と女の稚拙《ちせつ》な人形をむかいあわせに、せっせと紅の糸でしばりあわせているのである。
「いや、あの火は……金蓮さん、画童も琴童も死んでしまいましたよ。その人形はなんですか?」
「えっ?……ああこれ、きょう劉婆がくれましたの。男女和合のまじないなんですって。ほ、ほ。……応さん、いまなんとおっしゃって?」
「琴童のやつ、とうとう蔵春塢で気がくるったらしい。夜食をはこんでいった画童を殺して、じぶんも死んでいるのです。……ははあ、そうすると、あなたと西大人とは、これから絶対にはなれっこないということになるのですかな」
金蓮はすっくと椅子からたちあがったが、応伯爵の眼が手の人形にそそがれているのをみて、また坐った。
「まあ、こわい。……可哀そうに」
と、つぶやく。
「しかし、それほどまでに西大人を大事に思っていなさるとは、いじらしくも、またお羨《うらや》ましいことで。――その点からみると、妙ないいぶんだが、画童や琴童などいう恐ろしい恋敵が死んだことは、……おや、男の人形の眼を赤い紗《しや》でふさぐのは、どういう意味で?」
「これは、主人の眼を、ほかのきれいにみえるものからふせぐため」
金蓮は、卓の上の小筐《こばこ》から、ひとつまみの艾《もぐさ》をつまみ出していた。
「ほほう、なるほど。……しかし、金蓮さん、わたしなら、こうします。つまり、主人が、たとえば二人の美少年に惚《ほ》れたとしますな。すると、わたしが女なら、死物ぐるいにそのうちの一人を誘惑してやります。艾で人形の心《しん》をやくのは?」
「劉婆は、それで主人の心を、あたしのことで燃やすためといいました」
「それからですな。わたしは、その少年の部屋にじぶんの香嚢でもなげこんで、もう一方の少年にそれを発見させ、主人に注進させて、わざと密通しているところへふみこんでもらうようにします。そして、罰として、相手の美少年を男でなくしてしまうのです。……ほ、人形の手にまで釘《くぎ》をうつのですな」
人形の手に、小さな釘をうちこむたびに、金蓮の白い額にもつれる黒髪が、なやましげな翳をつくった。
「これは、あたしが何をしても、これから主人に決して手を出させないため」
「いや、それならもう西大人は、決して卓蝋《たくろう》の刑など思いつきますまい。いったい西大人は、いちばんあなたに惚れているのですからな。さあ、それから、わたしなら、その惚れている御主人を、二更のころにこちらに呼びよせる。ただし、わたしはそのまえにもうひとりの美少年を鴆毒で盛り殺して、その美少年の姿に化けて待っている。……」
潘金蓮は、はたと人形を床にとりおとして、応伯爵をふりあおいだ。桜んぼうのような唇から恐怖の吐息が匂い出した。
「応さん、あなたは男の方だから、もっと若くて美しければ、少年にも化けられるでしょうけれど。……」
「いや、女だって、乳房を布でかたくまき、そして、男のものをくっつければ……そいつはまえに、一方の美少年からきりおとされたものですが、……ちらりとみせるくらいなら、化けられないこともありますまいて、いや、どうも、実に奇想天外、古今|未曾有《みぞう》の変形ながら……金蓮さん、おまじないをつづけて下さいよ」
潘金蓮は紙をとり出して、ふるえる指で、その紙に朱砂でなにやら呪文《じゆもん》をかきはじめた。
「そして、主人にいどんで、途中でばったり気をうしなったふりをする。主人はあわててとび出す。そのあいだに、寝台のかげから、そのまえに殺しておいた少年の屍骸をひきずり出して、わたしは部屋をにげ出す。そして、もとの女の姿にもどって、おろおろしている主人の肩をぽんとたたく。――あとは、人を殺したと思ってふるえあがっている主人を追いまくって、何をさせようが意のままです。屍骸をどこへはこばせようが、たとえ、その臀に蝋燭をともして、ちょっぴりと卓蝋の刑のしかえしをしようが。……おや、せっかく呪文をかいた紙をもやしてしまって、どうするのです?」
「この灰を茶にまぜてのませると、そのひとはあたしが好きでたまらなくなるんですの。……」
「ほほう。そいつをわたしに一杯のませてくれませんかね、金蓮さん」
と、応伯爵はにやにやと笑った。金蓮はまたたちあがった。妖艶きわまりない顔が、笑いかえそうとして、異様にひきつってきた。
「いけません。あたしは主人に貞節をまもらなくちゃなりませんもの」
「…………?」
「応さん。いまのお話、あなたが主人ならともかく、なにもかも、もう終りました。誰が誰に化けようと、その化けた姿はもう消えて、もとのままにもどりました。どんなことをおねだりになっても、もうおそいですわ。……」
芙蓉《ふよう》の顔に、やけつくようにかがやいた眼をみつめて、応伯爵は笑った。ほとんど讃嘆にちかい微笑だった。
「いや、まだおそくはありますまいて」
「どうして?」
「美少年に化けた美女が、たとえ衣裳《いしよう》はもとにもどっても、まだ胸にかたくまいた布までとくひまはないでしょう。ちょっと美女のお胸を拝見したいもので」
金蓮のからだが大きくゆらりとゆれて、なよなよと応伯爵の腕のなかにたおれこんできた。伯爵の指がその紅のかけ着をとる。その白い上衣をとる。そして……胸にかたくまかれた布をといてゆく。
「ああ。……」
どちらが出した喘《あえ》ぎ声かわからない、応伯爵の指さきに、むっちりともりあがった乳房の肌がふれ、ぐみのように柔かくあからんだ乳首がふれた。一瞬、応伯爵は忘我の境に入って、耳に鳴りさやぐ潘金蓮の翡翠《ひすい》の耳飾りの音がきえていった。
「こら」
突然、その耳もとでわれ鐘のような大音声がとどろいたので、あわててふりむくと、西門慶が仁王のように朱にそまってつっ立っている。
「ながいあいだ帰ってこないと思っていたら、こんなことをしておる。けしからんやつだ」
いきなり、応伯爵はぶんなぐられて、部屋の隅《すみ》の寝台にとんでいって尻もちをついた。さっきまでの哀願も何もかも忘れてしまったような西門慶の激怒ぶりであった。
「いやあよ、旦那さま。……」
と、金蓮はたちまちはだかの乳房を西門慶の胸にこすりつけて、しなだれかかった。
「劉婆のおまじないよ。呪文をかいた紙きれをやいた灰を、他の男の方に乳房のあいだにすりこんでもらうと、それで想《おも》う方の心があたしの胸にとびこんでくるのですって。……」
応伯爵はあきれて、頬っぺたをおさえながら、ふたりをながめている。人形の腕に釘はうちこんだものの、ききめは、間男の方にはおよばないらしい。悪くすると、こっちも宮刑にされかねない西門慶の見幕である。が、なるほど、効験は女の方にはあらたかで、西門慶はよだれをながさんばかりの顔である。
「それから、旦那さま、このまじないの茶をのんで下さいな。……」
稀代《きたい》の大淫婦潘金蓮は、甘美の極致ともいうべき声でささやきながら、うやうやしく西門慶に茶をささげた。やや胴をくねらせたその白蛇のごとき立ち姿をふりあおいだまま、
(この女にかなうものは悪魔のなかにもあるまい。……)
と、応伯爵は、いつしかだらしなく、ゆるんできた顔の遠い遠い奥でかんがえていた。
霏々たる雪は、みるみる方なるものを圭《けい》とし、円いものを璧《へき》とし、芥《あくた》も罪も、なにもかも白々とうずめつくしてゆく気配である。……
[#改ページ]
[#見出し] 閻魔《えんま》天女
頻伽《びんが》之章
山東|清河県《せいかけん》で生薬舗《せいやくほ》をいとなんで、県下随一の財産家といわれる西門慶《せいもんけい》は、年はまだ三十なかばだし、みごとな身体《からだ》の持主だし、そのうえ稀代の漁色漢で、正夫人の呉月娘《ごげつじよう》のほかに、六人の妾《めかけ》を邸内にかこっているほど精力|絶倫《ぜつりん》で、性豪放、酒をのんでも大いににぎやかな方だが、或《あ》る晩春の夕、盃《さかずき》を手にしたまま、へんにしずんでいた。
「西大人、どうしたんだ?」
と、遊びにきていた悪友の応伯爵《おうはくしやく》が、それに気がついて、
「お嬢さんの病気が心配かね?」
お嬢さんというのは、西門慶が十六歳の年に、いまはこの世にないが呉月娘のまえの正夫人|陳恵秀《ちんけいしゆう》に生ませたひとり娘で、ことし十七になる。おととしの六月、都のさる名家に輿入《こしい》れさせたのだが、その嫁ぎ先に一大事がおこって、婿の陳敬済《ちんけいさい》ともどもこちらに逃げこんでから、ずっと病気でひきこもっている。
西門慶は首をふった。
「それもあるが……」
「旦那《だんな》さまは、都の陳家のことを案じていらっしゃるのよ、ほんとに、あたしも心配でならないわ。……」
と、傍の呉月娘が眉《まゆ》をひそめて溜息《ためいき》をつく。
陳家とは、娘の婚家である。八十万禁軍提督|楊《よう》|※[#「晉+戈」、unicode6229]《せん》の親戚《しんせき》にあたるのだが、その楊提督が、この数年、梁山泊《りようざんぱく》をねじろにあばれている大群盗団の鎮圧に失敗した責任で、去年の夏下獄され、罪が一族縁辺にもおよびそうなので、あわてて娘と婿をこちらにかくまっているのだけれど、うかうかしていると西門慶にも災がおよんできそうな形勢なのである。
西門慶は首をふった。
「それもあるが……」
「じゃあ、なんだね?」
「実はな、伯爵。……あの方の精力が、ちかごろとみに衰えたようだ。……」
呉月娘と反対側に、西門慶の傍に坐《すわ》っていた第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》が、ぴしゃりとその膝《ひざ》をたたいた。応伯爵は笑い出した。あんまりまともなことを心配していたので可笑《おか》しくなったのである。
「あにきが? 冗談だろう」
「いや、笑いごとではない。まだこの年で、そんな情けないことになるとは、わしもあんまりながくはないかもしれん。……」
と、西門慶は甚《はなは》だ深刻である。それくらいなら、七人もある妻妾《さいしよう》をすこし整理するがいい、おれに潘金蓮をくれないかな、と、金蓮には少なからず参っている応伯爵は心中にかんがえる。それはともかく、西門慶のいうことがほんとうだとすると、応伯爵もいささか気がかりにならざるを得ない。道楽がすぎて落魄《らくはく》したいまでは、西門家に入りびたって、そのたいこもちみたいなことをして、その日その日をすごしている応伯爵だからである。
「いつかあにきがつかっているといった、梵僧《ぼんそう》の秘薬。――あれがいかんのじゃないか。わたしも合歓散《ごうかんさん》とか、顫声嬌《せんせいきよう》とか、いろんな奇薬をつかってみたことがあるが、そのときはともかくとして、あとがどうもいけない。いかに西域天竺《せいいきてんじく》からきた梵僧の媚薬《びやく》とはいえ、むりはどうしても命をちぢめる毒となるのではないかな」
「そりゃそうにきまってますわ。あなたもいいかげんになさればいいのに、ほんとにあなたのおためを考えないひとが、むりむたいにそんなものをすすめるものだから」
と、正夫人の呉月娘は、ちらっと潘金蓮をながめていう。潘金蓮はそしらぬ顔で、大房の窓ごしに美しくくれてきた黄昏《たそがれ》の軒下の鸚鵡《おうむ》の籠《かご》を仰いでいる。すんなりとした鼻すじから唇《くちびる》、顎《あご》にかけての曲線がいぶし銀のような微笑を発し、こちらの半面は宵闇《よいやみ》のように翳《かげ》っていた。清浄さとなまめかしさが神秘に溶けあった横顔であった。
「そうかな」
と、西門慶は心もとなげにつぶやいて、盃をほすと、
「媚薬をつかわないとすると、伯爵、春心をかきたてる法には、どんなものがあるだろう?」
「枕絵《まくらえ》はどうだ」
「ふるい、ふるい。にきび面の年ごろじゃあるまいし」
「春本はどうだ」
「だめだ。この世のありとあらゆるそういうたぐいの本は読みあきた」
「どうもこまったな。これだけ涎《よだれ》のたれそうな美人をたくさん奥さんにして、なお何か香味料が要るとは。罰あたりめ、腹がふくれていれば、何をどう料理してもうまいものか」
と、応伯爵は舌打ちしたが、面白そうな顔である。こんな話になると、急に元気づいて、朝までしゃべっていてもあきない二人であった。呉月娘は、またはじまった、といわんばかりの表情で横をむいている。
「あにき、こないだある人からきいたのだが、もう一ついい方法がある」
「ほう、それは?」
「騒声《そうせい》をきく法。……」
「騒声をきく法……とは、どういうことだい。そんな法は本で読んだこともなけりゃ、人にきいたこともないが」
「つまり、女と寝てるだろう。そして、隣のひとのをきいてるのさ。喋《ちよう》 々《ちよう》 喃々《なんなん》から、いまやまさに法悦境に達しようといううめき声までね。……こいつは、たしかにききめがあるよ。その女を知らなければ知らないほど、こっちの想像をかりたてるから、なおききめがある」
「それは面白いな」
と、西門慶は眼をひからせてのり出したが、急に小首をかしげて、
「しかし、伯爵、その女は誰《だれ》で、その男は誰だい? まさか見もしらぬ男と女を、その騒声とやらをきかせる役のためにやとうこともできまい?」
「なるほど。……この家の奉公人のなかに、誰かいないかい?」
「ばかな。いや、奉公人はともかく、わしがいやだよ。いくら騒々しいわめき声をあげても、あの女か、と思うと可笑しくなる奴《やつ》ばかりだし、かといって、ちょいと小ぎれいな小間使いや、下女だと、……」
といいかけて、西門慶は眼を白黒させた。ちょいと小ぎれいな小間使いや使用人の女房は、みんな毒味がしてある、と口をすべらせかけて、あやうく呉月娘のいることに気がついたのである。潘金蓮がくすっと笑った。
応伯爵もにんまりとして、
「方法はいいが、その人がいないとはこまったね。……」
といったとき、大房にどたどたとひとりの男が入ってきた。青緞子《あおどんす》の衣服に金の簪《かんざし》を横っちょにさした折上巾《せつじようきん》をかぶった、まだ二十歳すぎの若い男で、駿馬《しゆんめ》のように立派な身体をしているが、小生意気で軽躁《けいそう》で、道楽者たる性質は、れきれきとして鼻の上にあらわれている。これが娘婿の陳敬済であった。
「お父さん、お父さん、これから玉《ぎよく》 皇《こう》 廟《びよう》の廟市《びようし》に出かけちゃいけませんかね?」
西門慶はじろっとふりむいた。すこし酒が入っているらしく、陳敬済は赤い顔をしている。この男の一族のために、娘は心労から病気になり、こっちにもいかなる大難がふりかかってくるかと、日夜びくびくしているのに、当の本人はけろりとして、気楽な顔で遊びまわっているのが、西門慶は甚だ気にくわない。
「お前、ひとりでゆくのかい?」
「いいえ、第七奥さんがゆきたいというものですから」
城外玉皇廟の廟市は月に五回ひらく。今夜もその夜のひとつだが、廟のまわりは様々な貨物の店はもとより、珍鳥奇獣の売買から占い、手品、その他いろいろな見世物の商人でうずまるのである。
それはいいとして、西門慶のこめかみの血管がぴくりと脈を打ったのは、陳敬済が第七夫人の朱香蘭《しゆこうらん》といっしょにゆくといったからだった。朱香蘭という女は、ちかごろ妾のひとりに加えたが、もともと陳敬済が都からつれてきた召使いで、しかも前々から敬済と、単なる若主人と侍女という関係ではなかったらしいことに、他人の色事には存外鈍感な西門慶はやっと最近になってうすうす感づいている。
「朱香蘭が?……そりゃかまわんが……娘はどうしている?」
と、きかれて、陳敬済は狼狽《ろうばい》した。きょうは朝から――どころか、この二、三日、見舞いにもいったことがないからである。へどもどしながら、
「いや、だいぶ気分もいいようで――」
「さっき、あたしがいってみたときは、また熱が出たといって、夕食もとらないんですよ」
と、呉月娘がいった。
陳敬済は頭をかき、頬《ほお》をかき、頸《くび》すじをかいた。西門慶は激怒した。
「この薄情者め! お前は娘が死にかけておっても、ほかの女と遊び歩きたいのか! 外出はならん。すぐに娘のところへとんでゆけ!」
陳敬済はきりきり舞いをして退散してしまった。
西門慶は、しばらく、ぽろぽろと涙をこぼしていたが、やがてふと涙の眼を宙にあげて、
「さっきの話だが」
と、いい出した。応伯爵は、なんの話かわからない。
「へえ?」
「女の騒声という奴。伯爵、いやこの年になると、女の味は、顔とか肌とか足とかよりも、あの声こそ、いちばん重きをおくべきかもしれんぞ。まったくの話が」
涙ぐんで、また色話をやりはじめている。呉月娘はあきれかえったとみえて、ぷいと大房を出ていってしまった。あとにのこったのは応伯爵と潘金蓮である。
「左様、夜になって、さてどの房にゆこうかと考えるとき、まず浮かんでくるのは、女の顔じゃなくて、たしかに声だ。……あの声の美しくって、色っぽい奴ほど、頭の中につよく浮かびあがってくるようだよ」
「ははあ。で、西大人、奥さん方のなかじゃあ、いちばん色っぽいのは、どなたのお声だね?」
応伯爵は冗談にきいたのだが、西門慶は存外まじめな顔で、
「そりゃ、なんといっても朱香蘭だ」
と、大きくうなずいた。
「なるほど、歌なんか、朱夫人の声がいちばんきれいで、お上手なようだね。まず西門家の迦陵頻伽《かりようびんが》というところか」
と、応伯爵はお愛想でなくいった。潘金蓮はにこりとして、
「それじゃ、今夜は、香蘭さんのところへいらっしゃるがいいわ」
「いや、あいつは、いま月のものなんだ。おまえのところにゆく」
と、西門慶はいう。声だけならともかく、あらゆる魅力をひっくるめれば、七人の妻妾のうちで潘金蓮が抜群だろう。――色好みの点に於《おい》ても、と応伯爵はみている。潘金蓮はけらけらとたかく笑った。
「いやですよ。あたしは。……そんな元気のなくなった旦那さまではね。――ねえ応さん」
「それじゃわしは李桂姐《りけいそ》のところにゆくぞ。そうだ、伯爵、春《しゆん》 宵《しよう》 一《いつ》 刻値千金《こくあたいせんきん》だ。うちにくすぼっている手はない。これから威勢よく獅子街《ししがい》にくりこもうじゃないか」
と、西門慶はいきなりたちあがった。潘金蓮の顔にさっと失望の翳がのぼった。
獅子街というのは町の花街で、李桂姐は西門慶がひいきにしているそこ一番の美妓《びぎ》の名だが、このありさまでは西門慶の精力がおとろえたというのはどの程度のことなのかわからないと、応伯爵はにやにや笑い出した。
櫺子《れんじ》之章
妻の西門大姐《せいもんたいそ》の部屋から、もうとっぷりと闇《やみ》にとけ入ろうとしている庭へ出て、陳敬済はぺっと唾《つば》をはいた。
持参金めあての親のはからいで嫁にはもらったが西門大姐はもともとあまり美しくない上に、ながい病気でまるで影もない。
妻はもとより、女とねないことがこれで何ヵ月になるだろう。……舅《しゆうと》は何かといえばおれに不服顔をみせるけれど、春だというのに、おれのような若い男が、都の事件と女房の病気で、鬱々《うつうつ》とくらしているつらさを、すこしくらい察してくれてもよさそうなものだ。舅の方は七人も八人も妾をもって日毎《ひごと》夜毎にたのしみ放題にたのしんでいるではないか。それに何ぞや。……
陳敬済は、ふくれっ面をして、高だかと反った池の石橋《せつきよう》をわたった。そのむこうに芙蓉亭《ふようてい》と名づけられた建物があって、第七夫人の朱香蘭はその一室にすんでいる。
朱香蘭は、都にいたころ陳家の小間使いで、彼の情人のひとりだった。しかも、数多い情人の中で彼の方で惚《ほ》れて惚れて、惚れぬいている女だった。命からがら都をにげ出すときでも、彼女をいっしょにつれてくることを忘れなかったのはそのためだ。まだ性的には未成熟な西門大姐は感づいていないが、かえってそのために、この家にきてから思いもよらぬひどい手ちがいが起こってしまったのである。
女とみれば全然眼のない西門慶が、朱香蘭を七番目の妾にしてしまったのだ。いや、あれは私の恋人で――とは、舅にいえるものではない。第一、そんなことをいえば、都においかえされて、たちまち身の破滅である。陳敬済は唇をくいしばってだまっているよりほかはなかったが、恨めしさとくやしさは、満身にのたうちまわっている。……
しかも、香蘭が西門慶の愛妾《あいしよう》のひとりになって、存外不満でもなさそうなのがいっそう面白くない。ふたりだけで会ったときは、やるせないような、ものいいたげな哀艶《あいえん》なまなざしをなげるが、色話には傍若無人な舅が、他の妾の噂《うわさ》同様、香蘭の喃語《なんご》や痴態《ちたい》をみんなのまえでほのめかしても、当の香蘭はそんなとき、からかうような眼を敬済にはしらせて高笑いする。
女ごころは、わからない。……などと詩人的感傷にふけるよりも、香蘭恋しやの情炎で、陳敬済は胸のうちがやけただれそうだ。今宵《こよい》こそ、城外につれ出して旧交をあたため、あいつも廟市へゆくことを承知してくれたのだが。……
「さて、と」
陳敬済はたちどまった。
待っている香蘭に、西門慶に外出を禁じられたとつたえにゆくつもりだったのだが、このままいっては途中に第二夫人の李嬌児《りきようじ》の房がある。うるさい。――彼は足を横にむけた。
垂花門《すいかもん》へむかう、毒だみの花の匂《にお》いのする石だたみからそれて、すこしあるくと芙蓉亭の裏手にまわる。
緑青塗《ろくしようぬ》りの櫺子窓《れんじまど》に、ぽっと灯《ひ》がともっていた。胡弓《こきゆう》にあわせて歌う声がきこえる。まるみのある、美しい泉のような声であった。
「香蘭。香蘭」
窓の下につみあげてある工事用の石材の上にあがって、そっと呼ぶと、胡弓の音がはたとやんで、櫺子の向こうに朱香蘭の顔がのぞいた。
豊かな、美しい顔である。大きな、濡《ぬ》れた眼《め》が若々しく上品で、受け口の厚めの唇が恐ろしく肉感的だった。真正面からみると端麗にちかい美貌《びぼう》だが、横からみると、すこし鼻がひくいので少々下司ばってみえる。みる角度によって娘にもみえ、年増にもみえるふしぎな顔であった。
「おい、だめだ。廟市にいっちゃいかんそうだ」
「誰のいいつけ?」
「お前の旦那さま」
皮肉にいったが、朱香蘭は顔をあかくするより、不安な表情になった。
「あら、どうしてでしょう?……何か気づいたのかしら?」
「気づかれたら、こわいのか?」
気づかれたら、本人がいちばんこわいくせに、女がそういうと、敬済はそう意地わるくいってみたくなる。そういってみると、無思慮でわがままな若者の常として、じぶんの言葉にじぶんで昂奮《こうふん》してくる。
「おい、おれはもう辛抱できない。舅《ちち》に何もかもうちあけて、あらためてお前をかえしてもらおうと思う。ほかに六人も七人も妾をもっている舅だ。大きな顔をして、病気の女房ひとりに義理をつくしておれとはいわんだろう。……」
「だめだめ、そんなむちゃをおっしゃっては。……そんなことのわかって下さる旦那さまじゃないわ。いっぺんにふたりの身の破滅だわ。……」
「ふたりの破滅? ふん、お前は舅の妾をおはらいばこになるのが恐ろしいんだろう?」
「いいえ、あたしばかりじゃなく、もし都のお宅の方に不幸がひろがって、あなたにまでお上《かみ》の手がのびてきたら、かばって下さるのは、ここの旦那さまだけじゃありませんか。旦那さま、いま必死にお上の筋々へ、お金ですむことならと、手を打っていなさるようよ」
「そんなことは知っているさ。……で、もしおれが無事にすんだら、おまえはこのまま知らん顔で舅の妾でやってゆくつもりかい?」
「…………」
「また、もし、おれが無事ですまなくなったら、お前はどうする?」
「…………」
「そのときは、おれはみんなばらして、どんな辺境へ追放されようと、地獄のはてまでおまえを道づれにしてゆくから、そう思え」
そういってから、陳敬済は、急にぽろぽろ涙をこぼして櫺子にしがみついた。
「うそだ。香蘭。おれはおまえをそんなひどい目にはあわせない。だから、どうかおれをすてないでくれ!」
「泣かないで……若旦那さま……ひとにきこえます。泣かないで!」
ほんとに情をうごかされたのか、もてあましたのか、香蘭は、敬済の顔すれすれに顔をちかよらせて、白い指さきでその涙をぬぐってやった。……熟れた果実のように芳醇《ほうじゆん》な息が霧みたいに鼻孔をぬらすと、ふたりはぴったりと唇を吸いあった。
……ながいあいだ饑《う》えていた感覚だった。とくに、この女の唇、歯ぐき、舌の蠱惑《こわく》ほど魔酔のひとときにひきずりこむものはない。ぬるりとすべりこんだ舌が、軟体動物のようにこちらの舌を這《は》うと、それだけで男は法悦境《エクスタシー》におちてしまいそうである。陳敬済のからだから、生ぐさい男の香りがたちのぼった。……息をひとつ吸うために唇をはなすと、香蘭のあえぎが「ああ……あ」という泣き声のような陶酔のうめきとなってもれた。男を野獣に変える女の声であった。
夢中になって、もういちど櫺子に鼻をこすりつけた陳敬済から、どうしたのか、朱香蘭の顔がついとはなれた。
「あ……」
眼が大きく見ひらかれている。陳敬済はどきっとしてふりむいた。
いつしか、木蓮《もくれん》の花の上に、おぼろ月がのぼっている。その下に潘金蓮《はんきんれん》がたっていた。もっとも、その向うは金蓮のすむ北廂房《ほくしようぼう》の方へかよう路である。
ちょっとのあいだ、陳敬済はなんといって挨拶《あいさつ》していいかわからない。
「……眼のごみ、とれましてよ、敬済さん」
と、朱香蘭がいった。金蓮はくすっと笑った。しずかにあるいてきて、
「あたしに気をつかわれることはありませんよ。可哀そうに、……あたしはまえからおふたりのお仲、知っていましたわ。旦那さまの勘がにぶいものだから、それで誰もが涙をみるようになるのですわねえ。……あたしは告げ口なんかしないから御安心あそばして」
ちかぢかとよりそって、白い拳《こぶし》でぽんと敬済の肩をたたくと、ぷうんと焚《た》きしめた麝香《じやこう》の匂いがして、敬済はほっとするとともに、心中に、なんとかしてこの女も手にいれたいものだな、とむらむらとけしからぬことを考えた。
「それはともかく、敬済さん、どうやら旦那さまがいまあなたを探していらしたようよ」
「えっ、舅《ちち》が」
「ええ、いましがた応さんといっしょに大門まで出たら、ちょうどそこへ、都へその後の様子をさぐりに上らせてあった平安《へいあん》と王経《おうきよう》がもどってきたのとばったりあったのです」
「そ、それでどうですと?」
「それが、あまりよい知らせじゃないらしいのですけれど……まあ、今あなたが牢屋にゆくというわけでもないようですから、おちついて……とにかく、はやく旦那さまのところへいらっしゃい」
恋獄之章
都の開封《かいほう》へ、馬をとばせてひそかにさぐりにやってあった小者の王経と平安の報告をきいて、西門慶は胆をつぶした。
梁山泊の水賊にやぶれた楊提督は、すでに投獄されているが、その一族の縁につながるものも、それ以来法院で審理中であって、ちかく、「枷《か》を課すこと一月、期満ちなば辺境に送って兵役に当つべし」という断罪を下されるらしい。しかも、その名簿のなかに、はたして陳敬済はもとより、西門慶の名もあるとのことである。
翌日、西門慶は、宰相の蔡京《さいきよう》の報事《ほうじ》|※[#「櫂のつくり」、unicode7fdf]謙《てきけん》や右大臣|礼部尚書《れいぶしようしよ》の李邦彦《りほうげん》のところへ、莫大《ばくだい》な贈物をもった使いの者を送り出すとともに、門をとじ、拡張中だった花園の工事もやめ、陳敬済のごときは、その部屋から一歩も出ないで謹慎していることを命じつけた。
三日……五日……七日。遊び好きで、軽躁な敬済ががまんのしきれるわけはない。だんだんヒステリーのようになって、部屋のなかでやけ[#「やけ」に傍点]酒をのんだり、器物をなげつけたりしていたが、或る夕、たまりかねて部屋のすぐ外の遊廊を、さかりのついた熊《くま》のようにいらいらと、ゆきつもどりつしていると、ばったり朱香蘭にぶつかった。
「こ……香蘭」
思いがけないことだったらしく、朱香蘭ははっとしたようである。ふりかえった顔に、さっと当惑のいろが浮かんだ。
「香蘭、どこへゆく?」
「…………」
「ふん、舅《ちち》のところだろう?」
皮肉をいったつもりなのだが、唇がひきつって、だだっ子のような泣き顔になった。無意識的に袖《そで》をつかむと、意外な抵抗があった。
「若旦那さま。……旦那さまに叱《しか》られます」
実は、香蘭は、血ばしったような敬済の眼におびえて思わずそう口ばしったのだが、この言葉はすっかり敬済を逆上させてしまった。
「なにっ、旦那さま? ああまた旦那さまか! 二口めには旦那さま、やっぱりお前はおれを迷惑がり、捨てようとしているのだな。この薄情者。……」
「い、いいえ、敬済さま。そうじゃありませんわ。旦那さまに見つかったら、なにもかも、もう終りです。……こうしているまにも、旦那さまがそこへいらっしゃるかもしれませんわ。あたし、ゆかなくっちゃなりません。……」
「くそ。もう身の終りだろうが何だろうがかまやしない。おれは舅に何もかもいう。それより、とにかく部屋へ入ってくれ。そして……、香蘭、おれの味がなつかしくはないか? おれは、おまえのあのむせび泣きがききたくって、ききたくって気がちがいそうなんだ!」
「はなして! 敬済さま!」
びりっと袖が裂けて、雪のような香蘭の腕がむき出しになった。敬済はもう眼がくらんでいる。必死にもみあう二人の顔には、もはや曾《かつ》ての仲のやさしさは微塵《みじん》もない。――
「もし、若旦那さま。香蘭さま。向うから応さんがこちらへやってきますよ」
突然声をかけられて、ふたりははっと争いをやめた。ふりかえると潘金蓮が微笑してたっている。ゆっくりと、交互にふたりをながめやるその眼に、いたずらっ子のような明るい同情の色がゆれていた。
「お気の毒に……」
と、つぶやいて、
「若旦那さま。女というものはねえ、はじめて知った男は忘れろといったって忘れやしませんよ。かなしいのはあなたか、香蘭さんか。……香蘭さんが、あなたからいちじ身をひこうとなさるのも、みんなあなたのためを思えばこそ、そのせいいっぱいの思いの丈《たけ》が若旦那にはわかりませんか?」
真っ赤になったのは、敬済よりも、朱香蘭の方である。香蘭はもとより敬済がきらいではない。が、きらいではないのは敬済にかぎらず男一般である。彼女は男と唇を吸いあっただけで、舌さきまで甘くなって、じぶんでも思いがけない快美なうめきがあふれそうになる。そして、香蘭をそうさせたのは、――男の魅力を思い知らせたのは、西門慶にほかならない。したがって、彼女が極力敬済をさけようとするのも、金蓮がいってくれるような殊勝なこころがけからではなく、不義をみつかって、西門慶にすてられるのが恐ろしいからで、思わず赤面したのはそのせいであった。
しかし、彼女は、そういわれれば、まんざら悪い気もしない。
「ほんとうに、前と後のしがらみにせかれて、つらいのはあたしばかり。……」
つぶやくと、涙の珠《たま》が眼にあふれた。自分自身をだます才能は、女が天からさずかったものである。ましてやお坊っちゃんの陳敬済が、ついひっかかってほろりとなるのを、
「若旦那さま。……それに、香蘭さんは、見ようによっては、いまはあなたのお義母《かあ》さんにもなるのですよ」
と、うってかわって冷然と潘金蓮がいった。これは、いちばん痛烈な警告である。さすがの敬済も、「あ……」と額をおさえて赤面したすきに、ちぎれた袖をひるがえして、ばたばたと朱香蘭はにげてゆく。
茫然《ぼうぜん》として見送る敬済の両肩に、やんわりと金蓮の双手がかかった。むせかえるような麝香と女の香が彼の顔をもやもやと霞のようにつつんだ。
「敬済さま。……」
「な、なんだ。……」
「お可哀《かわい》そうに。おなかをすかせて……あたしがいっぱいにしてあげましょうか?」
「…………」
「見ちゃいられないわ。あたしも女、とても見殺しにゃできない。……」
あきれたものである。朱香蘭が義理の母なら、金蓮だっておなじことではないか。……めんくらっていた敬済の眼に、ぱっと炎がもえあがった。腹のへったときにまずいものなし、どころではない。都からこの清河県にきて、世にはかかる美女もいるものかと、都落ちの悲運がうれしくなったくらいの女である。
「ありがとう! 金蓮さん、ありがとう!」
うわごとのようにそういうと、陳敬済はいきなり金蓮のほそいまるい胴に腕をまきつけて、ずるずると部屋にひきずりこんだ。
「あ……」
あえぐ金蓮の肩から、五色の肩かけがはらりとおちた。はたととじた朱塗りの扉《とびら》の下から、遊廊にながながと這った肩かけを、眼のくらんだ敬済は気がつかない。……
――と、そこへやってきたのは応伯爵である。伯爵だけならいいが、まずいことに西門大姐をつれている。いや、実をいうと、謹慎蟄居《きんしんちつきよ》をいいことに、いっそう見舞いにも顔を出さない夫にいらだった西門大姐が、敬済のところへいってみるといい出したのに、いあわせた伯爵が、やむなく腕をかしてつれてきたのである。
「おや?」
扉の下から這いだした肩かけに視線をおとしてたちどまった西門大姐に、応伯爵は、しまった、と心中に舌打ちした。
「だれか、女がいるのかしら?」
応伯爵は、ほんのさっき、よたよたと歩いている自分達の傍を、あでやかに会釈してさきへ通りぬけていった金蓮の肩かけをおぼえている。
「さあ」
とっさに返答しかねてつったっている伯爵の耳にきこえてくる、なまめかしい女のくつくつ笑い。ばかな、潘金蓮ともある利口者が、なんというばかな!
「こんなことだろうと思っていたら……やっぱり、そうね!」
病みほうけた西門大姐の蒼白《あおじろ》い頬に、さっとひとはけの血の色がうごき、まなじりがきりきりっとつりあがった。
「応さん! 父を呼んできて!」
西門大姐はそう叫ぶと、きちがいのように扉をたたきはじめた。
「あなた、あなた。あけてちょうだい。ねえ! あけてちょうだいったら!」
なかのくつくつ笑いは、しいんとやんだ。沈黙のなかの、ふたりの狼狽が眼にみえるようである。西門大姐は必死に扉をうちつづける。
「応さん、はやく父を呼んできてよ、はやく、はやく!」
へどもどしていた応伯爵は、万事休す、とその命にしたがった。せめて、敬済はともかく、惚れている金蓮の醜態だけは眼にしたくない、というこころもある。
まもなく、知らせをうけた西門慶が鞭《むち》を片手に、嵐《あらし》のごとくとんできた。みると――ひらかれた扉の入口のところに、西門大姐がうつ伏せにたおれて、よよ[#「よよ」に傍点]と泣き入っているし、寝台の傍の壁には、しどけない衣服で、敬済と金蓮がへばりついて、立ちすくんでいる。
「ああ、娘」
と、西門慶はまず娘を抱きあげたが、娘がいっそうかん高く声はりあげるのをきくと、彼女をどさりと床におろして、ぎらっと向うのふたりを見つめた。
「わかった。泣くな。わしがきっと仕置をしてやるからな」
よろこべば和気春風のごとく、怒れば迅雷烈火《じんらいれつか》のごとき西門慶である。陳敬済は真っ青になった。
「ううぬ、このあいだよく意見しておいたのに、まだ道理がよくわからんとみえる。こうなれば、もう娘とはわかれてもらおう。そして開封にかえるがいい。法院の役人が手ぐすねひいて待っている都へな。そして、滄州道《そうしゆうどう》あたりの牢城《ろうじよう》に流刑になるか、征遼《せいりよう》の兵卒にでも狩りだされりゃ、すこしは眼がさめるだろう」
「旦那さま。……ゆるして……みんなあたしがわるいんですから!」
突然、潘金蓮がかけ出して西門慶にすがりついた。西門慶はその肩をつかんで、いきなりびりっと上衣をさきちぎると、
「きさまの悪いことを、きさまから教えられいでか!」
つきとばして、凄《すさま》じい鞭の一撃をくれた。むき出しになった真っ白な、ふくよかな背に、ななめの赤いすじがつっとはしると、みるみるみみずのようにふくれあがってゆく。
「あっ」
金蓮は息もとまった様子である。ひしと両腕で胸をだき、泳ぎ出すような姿勢のまま、必死にくねり、のびちぢみする。やっと、はあっと息をつこうとするところへ、またもや、ぴしっ。つづいて雨のような鞭の乱打であった。床にのめった金蓮は黒髪を渦《うず》とまいて、白い獣のようにのたうちまわった。
「ぶって! ぶって! もっとぶって!」
と、西門大姐はさけんだ。すると潘金蓮も、悲鳴のなかにさけんだ。
「ぶって! ぶって! もっとぶって! ああいい気持! おほほ、このまま死んでしまいたいくらい。おほほほほ! 旦那さまがあたしを可愛《かわい》がってくれないから、こんなことになるのよう。……御病気のお嬢さんをお嫁さんにした若旦那の御辛抱が、お気の毒でたまらなくなったのよう。……若旦那に罪はない。わるいのはあたし、さあ、ぶって! ぶって! おほほほほほほ!」
ころがる火の玉みたいな笑い声に思わず鼻じろんだ西門慶に、西門大姐はむしゃぶりついた。
「お父さま! あのひとはぶたないで! 夫はゆるしてやって!」
西門慶はあきれたように娘の顔をみて、それから鞭を床にたたきつけた。
「おい、敬済。手癖のわるいのにもほどがあるぞ。お前のちょっかいをかけるのは、この金蓮ばかりじゃなかろう。あの朱香蘭にも、さかりのついた犬みたいにつきまとっているのを、おれが知らんと思っているか。……香蘭はもてあまして、先日からわしに何とかしてくれと訴えているんだ」
「えっ……香蘭が?」
「何を顔色をかえる。この分際をわきまえぬうぬぼれ男め、香蘭はな、こういうんだ。謹慎蟄居ぐらいじゃとうていお前の所業はおさまらん。座敷牢でもつくって、とじこめておいてくれとな。やむを得ん、明日からそうしてやるぞ。いいか? あはははははは」
夜叉《やしや》之章
陳敬済は座敷牢に入れられた。まさか格子をくんでうちつけたわけではないが、敬済の房の扉に外から鍵《かぎ》をかけてしまったのである。鍵は西門慶の部屋においてあって、三度三度、食事をはこぶたびに西門大姐の小間使いの夏花《かか》がとりにくる。
(ひどいことになったもんだ)
しょんぼりと寝台に腰をおろしている敬済の眼に、裏庭にむいた櫺子の窓ごしに、春愁をのせてながれる白い雲がうつる。その窓から百歩もあるかない方角に朱香蘭の部屋があるはずだが、その後彼女は、いつか彼が彼女を訪れたようには、訪れてきてくれない。……
(ひどい女だ、あいつは!)
考えれば考えるほど、くやしさに身体じゅうがにえくりかえるようで、じぶんがどうなろうと、断じてこのまま泣きねいりはできないと思う。それにくらべてあの潘金蓮は。……
(金蓮が、あれほど侠気《きようき》のある女だとは思わなかった。おれの不遇をあわれんでくれ……あれほどの折檻《せつかん》をうけながら、みんな罪をじぶんにひきうけようとし、一語として香蘭とのことは口にしなかったじゃないか。姐御肌《あねごはだ》だけに……できた女だ!)
と、いやに感じいっている。
ところでその潘金蓮は、それから十日ばかりたった或る夜、洒唖洒唖《しやあしやあ》と、もう西門慶といっしょに寝ていた。女のありがたさ、というか、怒りもはげしいが忘れるのもはやい、という西門慶の気性のせいか、なんにしても、金蓮がちょっと手に負えない淫婦《いんぷ》だということは西門慶も先刻承知だし、そこがまた恐ろしい魅力なのだから、大好色漢の彼がいつまでも金蓮に怒っていられる道理がない。
――夜明にちかいころだが、ふたりはまだ眠らない。いや、繊々《せんせん》とうごく金蓮の淫《みだ》らな十本の指が、西門慶をねむらせない。
「旦那さま。……寝ちゃあ、いや」
「うふふ、しようがないやつだ。それではそこの銀托子《ぎんたくし》をとってくれ」
色道具をはめて二羽の鳳《おおとり》のようにふたりが狂っていると、扉の外であわただしい跫音《あしおと》がきこえた。
「旦那さま、もし旦那さま。……」
「誰だい?」
「来保《らいほ》でございます。都から夜を日についで、ただいまたち帰りましたので、早速お知らせにあがりました」
「おお、もどったか! それで、向うはどうだった?」
西門慶はがばと起きなおった。来保は都へ賄賂《わいろ》をもってゆかせた使者である。
「吉報でございます。李邦彦《りほうげん》さまのお邸にうかがって、うまくお話をつけました。法院の文書にかき出されていた旦那さまのお名前を賈廉《これん》とかきかえていただいたのをはじめとし、陳敬済さまの方も、ぶじおたすかりになって、都へ帰られてもよろしい手つづきをとって戴《いただ》きましてございます」
「そうか、そうか! かたじけない! お前をやらなければ、この首もあぶないところだったな。よし、夜があければ、あらためてお前にも褒美《ほうび》をやろう、いや、御苦労!」
狂喜してから、あらためて水桶《みずおけ》につけられたような思いである。しとしとと来保が去ってゆくと、下から、ひしと金蓮がしがみついた。
「旦那さま。……うれしい!」
あくなき金蓮の淫慾にいささかくたびれかげんだった西門慶も、これであらためて元気がわき出して、物凄《ものすご》い力で金蓮を抱きしめた。……雲がちり、雨がやむと、うっとりと夢みごこちの眼をしていた金蓮が、ふっといった。
「敬済さまもお助かりになったとか……どうなさるの?」
西門慶は金蓮をみて、いやあな顔をした。
「ふん、気にかかるか?」
「気にかかる」
と、くすりと笑いながら、金蓮は唇で西門慶の髯《ひげ》をもてあそんでいる。
「もう、いいかげんに牢から出してあげなさいよ」
「出すと、あいつ、何をするかわからん」
「まさか……あたしは、このあいだのことで懲り懲り」
「どうだかわからんぞ。お前という奴は」
「それに、あたしはもう御勘気がとけているのに、敬済さまだけかんにんしてあげないのは片手落ちで、あたしも気がとがめますわ」
「お前ばかりじゃない。香蘭もあぶない」
「だったら、都の方はもう大丈夫だというんですもの、明日――じゃない、夜があけしだい、都へ送りかえしたらいいでしょ?」
「そうだな。おい、くすぐったい。……どうせ都にはかえさなくちゃなるまいが、あんまりいためつけて、陳家の方に讒訴《ざんそ》でもされると、こっちもあと味のわるいことになるな。……」
「それじゃあ、あたし、これから敬済さまのところに行って、扉をあけてきてあげましょう。……」
「おいおい、なにもいまゆかなくってもよかろう。まだ暗いじゃないか」
「もうすぐ明けるでしょう。ほら、遠く朝市の音がきこえはじめたじゃありませんか」
「それにしても、お前がゆかなくってもいいよ。お前、敬済のこととなると、妙にいろいろ仏ごころを出すな」
「だって、あたしのいたずらで、あの方があんな罰をお受けになったんですもの、ほほ、いくらなんでも、もう大丈夫。すぐ敬済さまを、こちらにお礼によこしますから」
そういいながら、もう衣服をつけた潘金蓮は、鍵をとって大房を出ていった。
中庭はまだくらい。暗いなかに、糠《ぬか》のようにこまかい春の雨がふっている。
陳敬済の部屋から出てきた潘金蓮は、ちょいと右手に拳をつくってながめていたが、すぐににっこりして、遊廊から遊廊へ、白い胡蝶《こちよう》のようにはしっていった。
芙蓉亭の朱香蘭の房のまえにくると、ほとほとと扉をたたく。
「香蘭さん、香蘭さん」
しばらくたって、ねぼけ声で、
「だあれ?」
「金蓮。……金蓮よ、香蘭さん、いいお知らせだから、やってきましたの。敬済さまが、やっと自由になりました。都の方の首尾もよいらしく、ひょっとすると、きょうにも都へお旅立ちになるかもしれません」
「…………」
「夜があければ、旦那さまの眼がこわいから、もうろくに敬済さまとお話できないかもしれませんよ。いまのうちしっぽりとお別れをいいにいらした方がいいんじゃないかとお知らせにきましたの。ああ、そうそう、それも遊廊の方は、さっきお嬢さまの看病をしてる夏花がうろうろしていたようです。裏庭づたいにいらっしゃい。せめて、窓ごしにね」
「…………」
「香蘭さん、あたし、あなたのおこころ、よくわかるわ。恋するこころ、女のきもち、ね、あたしのおせっかい、よろこんで下さるでしょ? さあ、はやく!」
そして、金蓮はひそかにはしり去っていった。
朱香蘭は寝台の上におきなおって、じっとうなだれている。いよいよ敬済さまともおわかれか。彼女の胸になんともいえない哀切感がこみあげる。が、……正直なところ、実はほっとした気味もある。金蓮の、さものみこみ[#「のみこみ」に傍点]顔のおせっかいは、たしかに有難迷惑だった。……
が、彼女はたちあがって、そそくさと身支度をした。金蓮に情なしと軽蔑《けいべつ》されるのがこわかったからだ。女の夢は、じぶんは安全で、幸福でありながら、しかもひとから悲劇の女主人公《ヒロイン》とみとめられることである。櫺子の窓ごしなら、その安全と幸福はまもることができるだろう。……
生暖かい小糠雨にぬれて、小走りに、香蘭は裏庭をはしっていった。夜はまだ明けないが、寺々でうつ鉄牌子《てつぱいし》や木魚の音がきこえはじめた。――ちょうど五更である。
「敬済さま……敬済さま」
暗い櫺子のおくに、人のうごく気配がした。三、四歩はなれて、香蘭はつぎにいうべき言葉にくるしんでたっている。ふたりのあいだに糸のような雨がふる。
「都へお帰りになるんですってね……かなしいわ。……」
敬済はだまっている。香蘭にとって、恐ろしい沈黙である。恐ろしさのあまり、かえって彼女は一歩あゆみよった。
「敬済さま。どうぞ……いつまでも、香蘭をわすれないで。……」
雨はけぶっていた。靄《もや》のようなものが、香蘭の頬をぬらす。霧雨?……いや、そうではない、彼女はふしぎな気《エーテル》と、栗《くり》の花のような匂いにつつまれるのを感じた。鼻孔にからまり、のどにねばりつくじぶんの息と唾液《だえき》が、からだじゅうの血管に蜜《みつ》のようにとけこんで、彼女はほとんど忘我の境にさそいこまれた。香蘭は「男」を感じた。別れにのぞんで、彼女はじぶんがこれほど敬済恋しやの情にかられようとは思いがけないことだった。
「け……敬済さま!」
のどにつまったような声をあげて、櫺子にとびつく。四枚の唇がぴったり合う。苦しげに敬済の唇がひらき、香蘭は吸いこまれるように舌をいれる。頭のなかが、全身が、ぼっとあつい酒の蒸気にみたされたようで、
「ああ……あ」
と、香蘭はれいの、男の精をしぼり出すような甘美なうめきをあふれさせた。
男が、くいしばるように香蘭の舌をかむ。いたみは無我の陶酔に麻痺《まひ》していた。それを感じたのは、一瞬ののち、反射的に窓からとびのいて、あおむけに地上にたおれたあとである。……かっと香蘭は血を吐いた。
「…………」
声とはならぬ声である。すくなくとも人間のものではない絶叫をあげて舌をかみとられた香蘭は、散大した瞳《ひとみ》で窓をふりあおいだ。
櫺子のおくに人の顔の気配はなかった。ただ、そこから、これも、声なき笑いがふってきたようだった。闇夜の底に、黒髪をみだし、凄惨な碧血《へきけつ》をはいてのたうちまわる女のうえに、雨はようやく糸を紐《ひも》とし、蒼白いしぶきをたてはじめている。
菩薩《ぼさつ》之章
二日ふりつづいた雨と、西門大姐がだだ[#「だだ」に傍点]をこねたせいもあって、陳敬済がひとまず都へかえる旅へ立ったのは、三日めのことである。
見送りの為《ため》に西門慶をおとずれた応伯爵はここで、はからずも一騒動を見物する機会に恵まれた。
大門のなかで、泣きしきる西門大姐の手をお義理にとってにぎりしめながら、旅装束の陳敬済は、何やらしきりにきょろきょろしている。自由をもとめる心が、もう旅の白雲にとんで、こころ、ここにないのかもしれない。
苦虫をかみつぶしたような西門慶の傍で、急に潘金蓮がふりかえって、大きな声でいった。
「あら、……朱香蘭さんの姿がまだみえませんわね」
なるほど、見送りにならんだ西門家の人々のなかに、あの香蘭の姿だけがみえないようである。応伯爵も、敬済と香蘭がただの関係ではないことを見ぬいていたから、すこし妙に思った。
「あにき、朱夫人はどうしたんだ?」
「どうしたかしらん。この二、三日、口に腫物《はれもの》ができたとかで、部屋にひっこんだきりだ。病人まで見送る必要もなかろう」
そのとき、みながどっとどよめいた。家の方から噂の主の朱香蘭が出てきたのである。しずしずと――いや、よろよろと、まるでよろめくような歩みだ。ほんの二、三日のあいだに、眼もくぼみ、鼻がとがって、別人のようにやつれ、鬼気をすらたたえた姿であった。
一目みて、眼をひからせ、ついでおびえたように西門慶の方をながめる陳敬済の前に、朱香蘭はしずかに立った。ここまでは、まるで白日の下の影絵芝居のように異様な静寂が保たれていたのだが、次の瞬間、実に思いがけない活劇が生じた。
「この、人非人!」
その香蘭のさけびは、あとになって、そうだったのかと判別できたので、そのときはえたいの知れない獣のさけびときこえた。彼女の袖がひるがえると、銀簪《ぎんかんざし》が空をながれ、あやうく身をそらしてよけた陳敬済が、悲鳴をあげて尻餠《しりもち》をついたのである。
仰天しながら、応伯爵が地を蹴《け》って、朱香蘭を抱きとめた。伯爵の腕のなかで、気のちがったようにもがきながら朱香蘭はさけんでいた。
「ほの、にんひにん! ほろしてやる!」
「殺してやる? この人非人? ああ、口の中に腫物ができてるってことだったね。香蘭さん、香蘭さん、いったいどうしたんだ?」
「ふいに、ほのひと、あはいのひた、はみひって!」
「ふいに、この人、あたしの舌かみきって?……なにっ? いつ?」
西門慶がぬっくと背をのばして歩いてきた。凄じい形相である。
「伯爵、わかった。ああ、あれがそうだったのか? それはおとといの夜明前のことだ」
「おとといの夜明前、何が起ったんだ」
「敬済をゆるして、部屋から出してやることにしたんだ。それで、金蓮が敬済のところへそのことを告げにいったんだ。だいぶたってから、敬済が礼にやってきた。手巾《しゆきん》で口をおさえている。手巾は真っ赤だった。どうしたんだときくと、罪をゆるされたうれしさに、暗がりで柱にぶつかって、鼻血を出したという。……」
「お舅《とう》さん、私には香蘭のいっていることがよくわからない。あれは、ほんとに鼻血ですよ。おそくなったのは、井戸のところへいって血を水で洗ったり、鼻を冷やしたりしていたからですよ。……」
と、敬済は、へどもどしながら弁解した。
「うそをつけ。さては、部屋から出されるやいなや、もう香蘭のところへ乳繰り合いに出かけたな。ううぬ、金蓮め、こいつをゆるしてやれやれと、だからわしのいわないことじゃない。……」
「お舅さん! とんでもない。……わたしは、ほんとうに柱に……」
「その柱はどこだ? その下に血がおちてるだろう」
「…………」
陳敬済は頭をかかえて、だまりこんだ。西門大姐は、くるっと背をむけて、またここを先途とげくげく泣きわめき出す。その足もとに二匹の犬がもつれあって、一匹がしきりに他の一匹のお尻をかぎまわっている。
応伯爵は朱香蘭の肩に手をかけて、
「いったい、ぜんたい、どこで舌をかみきられたんです?」
これに対する香蘭の返事は、きわめて不明瞭《ふめいりよう》不透明なものであったが、要するに敬済の部屋の裏庭むきの櫺子の窓越しであったという。
「では、あなたの方がおしかけていったわけですね? どうして敬済さんが自由の身になったことがわかったんです?」
「はんひんれんはまが、おひらへふははって、わはへをほひめほ――」
「潘金蓮さまが、お知らせ下さって……どうも、わからんなあ。……なになに、なるほど、別れをおしめとね。……」
西門慶がぎろっと眼をむいてふりかえり、金蓮が首をすくめてちぢみあがった。
「じょ、冗談じゃない。私が香蘭と別れを惜しんだなんて! 私は部屋を出てから、香蘭をみたのはいまがはじめてのことですよ。……こうなればしかたがない。白状しましょう」
陳敬済はあかくなり、あおくなり、口から白い泡《あわ》をふいて、
「実は、あの鼻血は、柱にぶつかったものじゃない。……金蓮さんに鼻をぶたれたもので。……」
「どうして?」
「それが、そのなんともはや、あの朝、金蓮さんが、私の部屋にきてくれて、もう謹慎蟄居はしなくてもいいからといって、それはそれは……ちょっとここでは申しかねるような色っぽい身ぶりをなさるものですから……つい、私は、ふらふらと……」
「敬済さま。あんまり、しれしれと嘘《うそ》をおっしゃると、あなたも閻魔《えんま》さまに舌をぬかれましてよ」
と、金蓮があきれたようにいう。
「いや、嘘をついてまで自分の恥を吹聴《ふいちよう》するものか。そこで私が抱きついたとたん、いきなり拳でぴしりと鼻をぶたれたので……」
金蓮は笑い出した。恐ろしい眼でにらみつけていた西門慶も思わず苦笑いする。応伯爵もにやにやして、
「なんにしても、金蓮さんはすぐそこをとび出して、それから香蘭さんのところへまわられたのでしょうな。そして香蘭さんがやってくる。……」
「それは知らん。私も金蓮さんのあとからすぐ部屋を出たのだから。……」
「その証人がいないのだから、水掛論だ。どうも、時刻がはっきりしないのが残念ですなあ」
「時刻?……そうだ、私が井戸で鼻を洗っているとき、寺でうつ鉄牌子《てつぱいし》がきこえはじめたから、あれが、五更」
と、後頭をかきながら、陳敬済。伯爵はまたのぞきこんで、
「香蘭さん、あなたが、櫺子の窓ごしに敬済さんにあわれたのは、それよりまえでしたか?」
朱香蘭は横にかぶりをふる。
「じゃ、鉄牌子が鳴りはじめたあとですね。それならおかしい。いや、話があう。相手は敬済さんじゃないじゃありませんか?」
「敬済のいうことなんか、あてになるものか!」
西門慶は吐き出すようだ。どこからかまた犬が二、三匹かけこんできて、きゃんきゃんさわぎ出した。
「だいいち、五更の前後なら、まだ真っ暗だ。まして暗い櫺子のおく、相手が敬済さんとどうしてわかりました?」
「ばかめ、ほかにそんな大それたいたずらをする男があるか!」
「いや、男か、女か、それさえもまだわかるまい?」
朱香蘭は呪詛《じゆそ》にみちた白い眼できっと敬済をにらみつけた。狂信者のように指をあげてさけんだ。
「いいえ。おほこ、おほこ、おほこ。……ほのおほこ!」
男! 男! この男! 陳敬済は頭をかかえてしまっている。が、西門慶はむしろ香蘭の方を不快そうに見つめていた。いきなり、足もとの犬を蹴とばして、
「ええい、このさかりのついた犬めら、うるさいぞ、もう、なんでもかまわん。その中風婆みたいに呂律《ろれつ》のまわらん女をどこかにひっこめろ。敬済ははやく都へいってしまえ!」
そして、すたすたと家の方へひきかえしていった。
陳敬済はほうほうのていで去った。女たちも傭人たちも家に入った。あとにのこったのは、うららかな春の雲が地上におとす影ばかり。
いや、犬がいる。潘金蓮がいる。そして考えにしずんだ応伯爵がいる。
犬のうち、一匹の牝《めす》はちょうど発情しているらしく、いつのまにやら七、八匹もあつまってきた牡犬《おすいぬ》は、しきりに濡れた鼻をぴくつかせ、その牝にじゃれかかる。
眼をかがやかして、面白そうにみている潘金蓮のうしろに応伯爵が立った。
「金蓮さん。……」
「あら、応さん、面白いわねえ。この犬たち。まるで夢中だわ」
「金蓮さん、やりましたねえ」
「何を?」
「……いまから思うと、敬済さんを座敷牢に入れさせる騒動のときから考えてあったことですね。抱かず、触れず、あとで櫺子の窓ごしに香蘭さんの舌をかみきるために」
「おや、応さん、なんのことをおっしゃってるの? まるで、香蘭さんの舌をかみきったのが、あたしだとおっしゃってるみたい」
「左様。そういうのです。……香蘭さんに、別れをつげるようにいったあとで、あなたはまた敬済さんの部屋にとってかえしたのですね」
「まっ、香蘭さんは、あれはたしかに敬済さんだといったじゃあありませんか? 本人がいってるんですもの、それほどたしかなことはありゃしないわ」
「なぜ香蘭さんは、抱かず、触れず、しかも真っ暗な闇のなかで、相手が敬済さんだとわかったのでしょう? それは、相手が敬済さんだと思いこんでいたからこそ、疑いもしなかったのですが、また男だと感じていたからこそ、てっきり敬済さんだと考えこんだのです」
「だから、男だと……」
「金蓮さん、ごらんなさい、あの犬たちを。あのたくさんの牡犬はどうしてあつまってきたのか。それは風にのった牝犬の匂いをかぎつけたからですよ。そいつは、犬ほど鋭くはないにしても、人間の男と女のあいだにもあるかもしれない。……私なんぞ、それほどの色きちがい、いやさ、色の通人じゃないから、そんな神通力をもたないが、もし本人が、相手の男の匂い、女の匂いにすぐむらむらとのぼせるような好色の鬼ならば、それをひとにも移して考えて、あんなからくり[#「からくり」に傍点]を思いつくかもしれない。……」
「あんなからくり[#「からくり」に傍点]?……どんなからくり[#「からくり」に傍点]?」
「金蓮さん、敬済さんの釈放の知らせは、あなたがもっていったそうですね。あんな時刻に、使者があなただとすれば、それは西大人があなたと寝ていたからにちがいない。あなたは、敬済さんに肘鉄砲《ひじでつぽう》をくわせてから……西門慶の兄貴の男の精を洗い出して、……それを顔から頸へぬりつけたのですね。……」
潘金蓮のからだが、ゆらりとゆれた。あやうく応伯爵はそのたおやかな胴を抱きとめて、
「ふふ、あの西大人の精なら、わたしなどには鼻がまがるかもしれないが、女には……」
そこまでいって、伯爵は、金蓮の女の精の薫《かお》りにくらくらとする。金蓮はなまめかしくあえぐ。
「応さん……応さん……あたしが、なんの恨みがあって、香蘭さんの舌を?」
「恨みは香蘭さんじゃなくって、香蘭さんの声にあったのでしょう。顔はあなたの方が、香蘭さんより千倍も美しい。……そして、いまや、香蘭さんの声は呂律《ろれつ》もあやしいものになりはてた。……あなたの勝ちだ。……」
春の日光と陽炎《かげろう》のなかに、なかばひらいた淫婦潘金蓮の唇から、白い細かい歯がひかった。露にぬれた真珠よりも美しい、そして死神の爪《つめ》よりも恐ろしい歯であった。が、……じいんとしびれるような戦慄《せんりつ》を背すじにおぼえながら、応伯爵の顔は、あの牝犬に吸いついてゆく牡犬のように、名状しがたい不可抗力でそこへおちてゆく。
「あなたの勝ちだ!」
そう、かすかにつぶやきながら。……
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[#見出し] 西門家の謝肉祭
好餌《こうじ》之章
西門慶《せいもんけい》が知県閣下夫人|林黛玉《りんたいぎよく》といつ、どうして意気投合したのか、誰《だれ》も知らない。おそらく生薬舗《せいやくほ》と質屋を手びろくいとなむ一方、役所の方にもぬけめなく鼻薬をまわして、清河県《せいかけん》きっての顔役といわれている彼のことだから、いつかその邸《やしき》へ賄賂《わいろ》でもとどけたとき、何かのはずみでひどくうまがあったのかもしれない。
とにかく、或《あ》る春の夕、その林夫人がひそかに西門家を訪問したので、五人の妻妾《さいしよう》たちは色めきたった。それで気がついてみると、知県閣下はなるほど、この二十日ばかりまえから、都の開封《かいほう》へ招召《しようしよう》されていて留守ではある。が、それだけに林夫人が、西門家を訪れてくるなど、世間のきこえもどうであろうと思われるのだが、やがて轎子《かご》から降りたった夫人の姿をみて、出迎えた妾《めかけ》たちは心中いよいよ色めきたった。
金糸の緑葉の冠をかぶり、白綾《しろあや》の下着に、金地に宝くずしの模様を織った衣裳《いしよう》をまとい、真紅の裙子《クンツ》、白綾の靴《くつ》という艶姿《あですがた》はとうてい噂《うわさ》にきいている四十ちかい年柄とは思えない。尤《もつと》も、噂でも、六十歳をこえる知県閣下が恐ろしいやきもちをやくほどの色菩薩《いろぼさつ》だとはきいていたが、こうまぢかにみても、鼻こそすこしひくいけれど、眼《め》はきらきらとかがやき、ぽってりした唇《くちびる》は真っ赤で、つやつやした顎《あご》のまるみなど、若い西門家の妾たちより、どうかするともっとあどけない感じさえある。大柄な、やや脂肪過多の、たっぷりした身体《からだ》は、重々しさと同時に奇妙に華奢《きやしや》で、みるからにふるいつきたいような美しさであった。
「お出迎え、大儀です」
こうかるく会釈して、西門慶のみちびくままに、しずしずと林夫人は奥へとおる。
ほとんど茫然《ぼうぜん》として見おくる妾たちのなかから、だいぶたって、
「……お出迎え、大儀です」
と、口真似《くちまね》をして、舌を出したのは、第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》である。それから、もちろんがやがやはじまった。
「旦那《だんな》さま、大丈夫かしら? あとで知県さまにわかって、たいへんなことにならないかしら?」
と、眼を不安そうにうごかして、第四夫人の孫雪娥《そんせつが》がいう。第三夫人の孟玉楼《もうぎよくろう》はいらいらしたように、
「まさか、ただやっていらしたというだけで、何でもないじゃありませんか? いくら旦那さまが色好みだって、首をかけてまでばかな真似をなさるはずがないと思うわ」
「と、思いたいのはやまやまだけれど、なにしろうちの旦那さまばかりは、その道にかけちゃあ、人間ばなれしていらっしゃるからねえ」
と、第二夫人の李嬌児《りきようじ》が、ほっとため息をつく。
「そして、あの奥方も、どうやらその道にかけちゃあ、旦那さまにひけをとりそうもないお顔にはみえなくって?」
と、潘金蓮がくつくつ笑い出した。この女は、大胆なのか無邪気なのか、やさしい顔をしているくせに、ときどき、ひやりとするようなことをいってのける。そして、急に小鼻をぴくぴくさせて、
「まあ、おいしそうな匂《にお》いだこと」
と、ごくりと生唾《なまつば》をのみこんだ。
世間はひそかだが、むろん西門家の邸内は、なんとなく騒然としている。といって、よく耳をすませてみれば、べつに変った叫びや跫音《あしおと》がきこえるわけではなく、むしろふだんよりしずかなくらいなのだから、それはおそらく、家人一同の心のどよめきのせいであったのだろう。ただ、ひどくふだんとちがっているのは、たしかにうまそうな匂いだ。いつであったか、新しい巡按使《じゆんあんし》の蔡御史《さいぎよし》と宋御史《そうぎよし》のふたりを招待したときだって、これほどうまそうな匂いは、広大な西門家にみちみちてはいなかった。いうまでもなく、今宵《こよい》の客をもてなす料理の匂いで、いかに西門慶が、この大官夫人を迎えるのに心をこめているかがわかる。
宴《うたげ》の場所は、近年|花園《かえん》のなかにたてた玩花楼《がんかろう》と称する建物の二階で、ここから、夕月に照らされた牡丹や芍薬《しやくやく》や海棠《かいどう》や薔薇《ばら》の大花園が見下ろせる。
「今宵ははからずも、奥さまの御光臨をたまわり、なんとも身にあまる倖《しあわ》せでございます」
と、西門慶は地に頭がつくまで再拝する。南面《なんめん》して坐《すわ》った林夫人はにっこりして、
「ほんとうに結構な御邸で。……あのわたくし、忍びで参ったのですから、あまりゆっくりとはできませんの、まるで狼《おおかみ》みたいでお恥ずかしいのですけど、西門慶さん、どうぞ例のものを」
「いや、それはもとより心得ております。で、目食耳餐《もくしよくじさん》はかえって失礼と存じまして、皿数こそ多くはございませんが、材料はよく吟味いたしたつもりですから、どうぞ心ゆくまで御賞味下さいますよう。……」
「みなさま、わたくし、ほほ、御馳走になりにきましたの、ほほほほ、ですから、どうぞみなさま、あまりおかたくならないで。――さもないと、わたくし、もりもりと食べられないじゃございませんの」
と、林黛玉は八仙卓にいならんだ一座をみまわして愛嬌《あいきよう》よく笑った。愛嬌というより、コケットリイにさえみえる笑顔である。これでは枯木のようにやせた知県閣下が気をもむのもむりはない。
やがて料理がはこび出されてきた。林夫人は唇をぺろりとなめながら、
「みなさま、御信じ下さいますまいねえ。わたくし、この四、五年、ほんとに御馳走らしい御馳走をいただいたことなんかないんですのよ。いつかそうつくづくこぼしたら、西門慶さんが、可哀《かわい》そうに、それじゃそのうちたっぷり御馳走してあげましょうとおっしゃって下すって、――やっと、その機会が参りましたの。わたくし、これから十日ばかりの法楽をかんがえると、もう子供みたいに胸がわくわくしますわ」
「――御馳走? どうだか」と小さな声でつぶやいたのは潘金蓮で、「あら、十日もここへいらっしゃるのかしら?」とささやいたのは李嬌児である。
「まさか、知県閣下の奥さまが、そんなことはございますまい」
と、たまたま遊びにきていた西門慶の親友の応伯爵《おうはくしやく》が、大袈裟《おおげさ》に両手をひろげた。
「いえ、それがほんとうなんでございますよ。主人がここずっと胃がわるいんですの。じぶんが食べられないものだから、ひとがおいしいもの食べるのにやきもちがやけるらしいのでございますわ。こういうのを、ほんとのけちんぼと申すのでございましょうね。そこへもってきて、わたくしがまた生来の食道楽ときているのですもの、そのつらいこと情けないことと申しましたら――」
そういいながら林夫人は、つぎつぎにはこび出されてくる皿《さら》から鼻をうつ芬々《ふんぷん》たる香気に、もう眼はきらきらとかがやき、唇がぬれて、頬《ほお》がぽおっと染まり、のぼせあがったような表情になっていた。
「ほほう、それはそれは、まるで大海で渇《かわ》ききっていらっしゃるようなことで、われわれ下々のものには想像もつかないことでございましたな。さあ、どうぞ、どうぞ」
「まあおいしい! これは魚翅《ユイケイ》でございますわね。ほんとに何年ぶりかしら?」
まったく、その夜の料理は、西門家の愛妾《あいしよう》たちでもめったにおめにかかれないような御馳走だった。元来が稀代《きたい》の好色漢たる西門慶は、「うちの旦那さまは、女と御馳走とほんとにどっちが好きかしら?」と妾たちに思わせるほどの美食家である。その彼が、金にあかし、心をこめてもてなす料理だから、ひととおりのものではない。
四川《しせん》産の白木耳《しろきくらげ》が出る。遼東《りようとう》産の海鼠《なまこ》をほした珍味、黒い海《ハイ》 参《シエンヌ》が出る。遠い南の海からとれた金糸燕《きんしえん》の、美しい、光沢のある、純白な繊維のような燕窩《エンウオ》が出る。林夫人でなくっても、舌鼓うたざるを得ない。
「まあ、これはいったい何でしょう? こんなおいしいもの、たべたことがございませんわ」
と、林黛玉は美しい黄色と褐色《かつしよく》の混った肉のようなものをつまみあげながら、嘆賞のさけびをもらした。
「はははは、それは燻猪肚《シユヌツウトウ》といって、豚の胃袋でございますよ。豚の胃袋を塩と米糠《こめぬか》であらい、揉山椒《もみさんしよう》を加えた湯でたっぷりゆでて、やわらかくなったところを酒と醤油で味つけします。そいつをさらに、砂糖と茴香《ういきよう》をまぶして燻《くす》べたものなんで――」
皿数は少いと西門慶はいったが、とても十皿や十五皿ではすまない。さすがに妾たちはたんのうして、食後の紅酒《こうしゆ》をのみながら、まじまじと林夫人をながめている。林夫人はわきめもふらずに食べに食べる。
「……あの奥さま、みんな平げてしまうのかしら? 御馳走たべにきたとおっしゃったのは、まったくほんとうね」
と、孟玉楼はあきれたようにささやいた。潘金蓮は微笑して、
「奥さまはそうでも、旦那さまがどうかしら」
西門慶もよくたべる。彼は満足感に色つやよく、ひどく柔和になった顔に、うっとりと眼《め》をかがやかせて、林夫人に話しかけていた。
「奥さま、明晩もまた御光来下さいますまいか。明晩は、いまから、二千年もまえの周時代の八珍料理でお舌をけがしたいと存じますが。――」
肉林之章
二千年もまえの料理はどんなものであろうという好奇心があったが、周礼《しゆうらい》の八珍は意外にもうまかった。
それは数日まえから準備してあったもので、たとえば「炮豚《ホウトン》」という料理は、豚を剖《さ》いて臓腑《ぞうふ》をとり、棗《なつめ》をいっぱい腹につめて葦《あし》を編んでつつみ、そのうえに粘土を塗って火にあぶる。土がかわいたら剥《は》がし、手をあらってうすい表皮をこすりとる。これに粥《かゆ》をまぶして、三日三晩油で煮つめ醤《ひしお》で調味して食べるのである。
その他、五種の動物の肉をやわらかくつきたたいてまぜた「擣珍《トウチン》」とか、美酒に牛の肉を一昼夜ひたした「漬《シ》」とか、「|※[#「米+參」、unicode7cdd]《サン》」と称する肉団子とか、いずれも実にこってりした結構なものだった。
西門慶は秘術をこらす。三日めは熊の掌《てのひら》が出た。四日めは豚の胎児をたべた。五日めは猿《さる》の脳味噌《のうみそ》を賞味した。これは生きたままの小猿の頭を手斧《ちような》でくだいて、匙《さじ》ですくい出したその脳味噌を、皿の調味料につけて食べるので、王侯といえどもめったに味わえない珍味である。
愛妾たちはもちろん、いまこそ貧乏はしているけれど元来道楽者の応伯爵も、人にゆずらぬ美食家だと思っているが、さすがにいささかもたれてきた。が、こうなると明日はどんな料理が出てくるのだろうという好奇心と、それから知県閣下夫人の驚嘆すべき食慾《しよくよく》に対する好奇心から毎日のこのことやってくる。
「まあ、食卓が御馳走にあふれているということは、なんと生き甲斐《がい》のあることでしょうね。お宅からみれば、わたくしの家の食卓など、ほんとに沙漠《さばく》のようなものですわ。……」
と、林夫人は飽満して、うっとりした頬に、ほろほろと感傷の涙をながす。その顔は、これがあの恐るべき消化力の持主だとは想像もできないほどに愛くるしい。
「左様左様、食い物の話と女の話だけは、どなたにも傷がつかなくってよろしいもので」
と、応伯爵はげっぷを吐きながら、愛想よく相槌《あいづち》をうつ。
「まったくですな。たとえば美しい御婦人と御同席ねがっていましても、まさか色話もできない場合が多いし、また色話ができるような仲だと、かえっていまさら色話などおくびが出そうなものでございましてな。そこへゆくと、食い物の話は、いま食べているものについて、むかし食べたものについて、いつか食べたいものについて、また新しく工夫した料理について、くめどもつきぬ話のたねがあると申すものでございます。話が面白ければ、気心も合う。そこから追い追い色話に移ってもおそくはないというもので――はははははは」
西門慶は眼じりをさげて、ちらっと林夫人の方を偵察《ていさつ》する。――いや、偵察したように思って、愛妾たちの眼がいっせいにきらっとひかった。
西門慶のけたはずれの色好みは、彼女たちの身を以て知るところである。とはいうものの、よもや知県の出張中にその夫人を誘惑するなどいう、わかれば首のとぶことはたしかな愚行をゆめ演じまいとは思うけれど、また西門慶が、この濃艶《のうえん》きわまる肉感的な夫人を、たんに食道楽の友として歓待しているだけだろうか。そこが、はっきりわからないので、妾たちはいささかヒステリー気味であった。
「まさか。……それに知県さまがおかえりになるまで、もう四、五日じゃありませんか。やっぱり食べるだけのおまねきにちがいなくってよ」
というのが、孟玉楼と孫雪娥で、
「いまに、あっというまに変なことになるんじゃないかしら? このごろの旦那さまのあの奥さまへの打込みかたは、なみたいていじゃないわ。その証拠に、どなたかちかごろ旦那さまがお泊りになった方があって?」
と、心配げなのは李嬌児だ。
「金蓮さんは、どうお賭《か》け?」
潘金蓮は薄笑いした。
「あたしはどっちだってしゃくにさわってならないの。たとえ、奥さまと色事しようがしまいが、あれほどふたりで、夢中になって食べ物、食べ物としゃべっていらっしゃるとねえ、あたし、やきもちが、やけてならないのよ、雛鶏《ひなどり》に、鯉《こい》に、海老《えび》に、蟹《かに》に、鴨《かも》に、牡蠣《かき》にまで。――」
そして、声をたてて笑った。
「あら、なんだか、だんだん知県閣下に似てきたようね!」
さて、その林夫人はうまそうに黄色な|鶏蛋※[#「米+羔」、unicode7cd5]《チータンカオ》をほおばりながら、
「あの昨日いただきました丸鶏《まるどり》の蒸し煮でございますがね。臓物をぬいて酒をそそぐとおっしゃいましたが、それだけでよくあんなにおいしく沁《し》みますこと」
と、話しかけていた。西門慶は得たりとばかり、これに説明している。まるで詩か歌に陶酔しているような会話である。
「ほんとうに、よくまああきないこと」
金蓮は舌打ちして、
「旦那さま、食べ物の話は話として、色町から鄭姐《ていねえ》さんでもよんで歌を奥さまにおきかせしてあげたら、いかが?」
「うるさい、ばかめ、奥さまが御微行でうちへおいでになることは、おまえも知っているじゃないか。町から歌妓《かぎ》をよぶなど、とんでもないことをいうやつだ」
と西門慶は一喝《いつかつ》して、また林夫人の方へむきなおり、
「そのうち、奥さま、是非、うちの焼猪《シヨウツウ》をめしあがっていただきとうございますな。いや、豚の丸焼きと申しても、その豚の毛のとりかたに、秘訣《ひけつ》があるのです。どちらさまも毛を火で焼いて熱湯で肌《はだ》を洗っていらっしゃるようですが、うちでは、豚の腿《もも》をさいて鉄の棒をつっこみ、腹のなかをていねいにかきまわして、口から、空気をふきこんでふくらませ、次にお湯であらって曲刀で毛をそります。そうすると、豚はまるで雪のように真っ白になりまして――」
そのとき、階下から、あわただしく小者の平安がやってきた。
「林奥さま、たいへんでございます」
「えっ、なあに?」
「ただいま、お邸から曾升《そうしよう》とおっしゃるお方が、都頭《ととう》の魚炎武《ぎよえんぶ》さんとつれだっておいでになり、このごろ、毎日奥さまがどこかへお出かけになるゆくさきが、やっとここだとわかったので参りましたと――」
「まあ、曾升の爺《じい》やのうるさいこと。……ほほ西門慶さん、そんなにお顔色おかえにならなくたって、よろしいわ。主人にわかったところで、天地に恥じることはなんにもしていないんですから」
「そして、奥さま、曾升さんのおっしゃるには、知県閣下にはおかえりが二日はやくなって、あさって御帰県になるとの先触れがきたそうでございます」
林黛玉は舌打ちして、かなしそうな顔をした。が、すぐに、例のはなやかな、あどけないような笑顔をにっこりむけて、
「じゃあ、まだ明日があるわね。西門慶さん、おねがい、あしたわたくし、なんとかしてもういちど、忍び出てきますからねえ。わたくしのために最後の御馳走をして頂戴《ちようだい》な。いまおっしゃった真っ白な豚の丸焼きを――ああ、かんがえただけでもたまらない!」
それでもやっと腰をあげて、残りの御馳走に無限の哀惜のこもったまなざしをなげながら、このなみなみならぬ美食家の貴婦人は帰っていった。
大門まで見送って、ぼんやり考えこんでいる西門慶の肩を、白い拳《こぶし》がそっとたたいた。
「旦那さま」
「なんだ、金蓮か」
「もう明日一日ですよ、だいじょうぶ?」
「なんのことだ、それは」
「ほほ、あれほどうまそうな奥方を、ここまで釣《つ》りよせてはなすなんて、旦那さまらしくない」
「いや、べつにそういう悪企みはかんがえなかったが、……しかし、だんだん妙な気持になってきたぞ、ふふ、さすがは金蓮、よく見ぬいたな。しかしな、奥方の方は、ありゃまったく色気ぬきでくるらしい。ちょいちょい、眼で合図してみたが、さっぱり手応《てごた》えがないよ。下手をすると、こっちの首がとぶ。惜しいが、まあまああきらめるとしよう」
「ほほほほ、まあ旦那さまとしたことが、なんてお気の弱い。あの奥さまが、ほんとに食い気だけでいらっしゃるのかどうか。案外、思いはおなじでやきもきしていらっしゃるかもしれませんよ。たとえ、強引に手籠《てごめ》にされたところで、奥さまがそれを知県さまに、御自分の破滅と知りながら、お訴えになるとお思い?」
「金蓮! それじゃおまえは」
「とはいうものの、小娘じゃあるまいし、まさか手籠にするわけにもゆきますまいね。それにはそれと、何かいい手法《てだて》をかんがえましょうよ。ほほほほ旦那さま、金蓮はその道じゃ、そんな野暮なつもりじゃないんですのよう」
酒池之章
玩花楼《がんかろう》の二階から見おろすと、宵闇《よいやみ》の庭のまんなかであかあかと火がもえていた。豚一匹がまるまる入るほどの土坑《つちあな》をきずき、そのなかに、ふくらませた豚を逆さにつるし、ふたをし、目塗りをし、そして下から燃している竈《かまど》の火がみえるのである。……ようやく涎《よだれ》のたれるような匂いが花園にみち、遠い煉瓦塀《れんがべい》をこえて四辺に拡散《かくさん》してゆくのか、あっちこっちでしきりに吼《ほ》え声がこだましている。
ところで、玩花楼の二階では、いまや宴はたけなわだ。
庭の用意がととのうまで、ここで一酌というつもりが、意外に破目をはずした酒盛りになってしまった。ひさしぶりに美食の享楽を満喫し、また当分は、かた苦しい、けちんぼの夫に縛られなければならないという思いからか、食い気一方だった林黛玉夫人も、めずらしく盃《さかずき》をかたむけすぎて、酔っている。
窓ぎわに坐った夫人と西門慶と潘金蓮が、しきりに打拳《だけん》に興じていた。「一《イー》」「二《リヤン》」「三《サン》!」けたたましいかけ声と同時に拳をつき出し、そしてどっと笑い声がわく。また夫人が罰盃《ばつぱい》をのまなくてはならないことになったからである。仄暗《ほのぐら》い銀燭のかげに笑いくずれる林黛玉は、笑いすぎて、そのぼってりした唇から、なめくじの這《は》ったあとみたいに涎をながしているのまでが妖《あや》しい美しさで、まるで潮《うしお》にもまれる大輪の牡丹《ぼたん》のようにみえた。
こちらでは、応伯爵が愛妾たちを相手に、馬鹿っ話をやっている。貧乏して、いまは西門慶のたいこもちみたいなことをして暮している男だけに、こういう席になると、魚が水を得たようにはしゃぎ出す。
「いや、こうして親しくおつき合いしてみれば、いよいよあの奥方は、知県閣下にはもったいないね、駿馬《しゆんめ》、痴漢をのせてはしるとはまったくのこと。あたしゃ、いちど知県さまのお調べをうけたことがあるが、あんなくそッ面白くない爺いはないて。……」
「あら、応さん、いつ、なんのお調べをうけたの?」
「おや、忘れたのか。ほら行者武松《ぎようじやぶしよう》が獅子街《ししがい》の酒楼で李外伝《りがいでん》を殺した騒動のときさ。あいにく酒席に同席していたとばっちりで、ほかの証人一同とお白洲《しらす》へひっぱり出されたが、あんまりお辞儀ばかりさせられるものだから、わたしゃ、つい、うっかりとおならをしたのさ。さあ、大変」
「まあ、いやだわ、おほほほほ」
「いや、笑いごとじゃないよ。いまの音はなんだ、捕えてまいれとの御立腹でね。下役人が血相かえてさがしにきたが、こっちはもう息もすることじゃない。下役人は途方にくれて、どうにも捕えられませぬと報告する。知県閣下はいよいよ怒って、いかなればお上に無礼をはたらいたものを捕えられぬことがあるか、と叱《しか》りつける。どうもその頑固《がんこ》なのには、つくづくにくらしくなってね」
「なにを気楽なことをいっているの、それからどうして?」
「ひょいと、前をみると、犬の糞《くそ》がおちている。そいつをつかんで、しゃしゃり出て、恐れながら申しあげます」
「え?」
「正犯は相わかりませんゆえ、一味徒党をこのとおり捕えましてござります」
「知県さま、どうなすって?」
「にこりともせず、苦虫かみつぶしたような顔で、いつまでもいつまでも、じいっとわたしの顔をにらみつけていたっけ……」
わっと笑いころげる妾たちに、応伯爵は恐悦して額をたたいているが、いったいどこまでがほんとうの話やら。
「応さん、応さん」
金蓮が呼んだ。
「ちょっと、あたしと代って。……もうあたし、べろべろに酔わされちまって」
「おっと、合点」
と、たちあがったが、応伯爵も、蹣跚《まんさん》たる足どりだ。金蓮はしどけない姿で、這うようにこちらにやってきて、べたりと坐り、ふーっと熱い息をつく。
「ああ、豚はまだやけないのかしら。これじゃ食べられなくなってしまうわ」
そのとき、金蓮に交替して拳を打ちはじめた応伯爵が、ひょいと窓から庭の方を見下ろして、
「お、春梅《しゆんばい》がはしってくるが、どうかしたのかな」
「なに、春梅が?」
と、西門慶もたちあがる。春梅は金蓮の小間使いだ。窓から呼ぶと、春梅は息をきりながら、
「旦那さま、料理人の唐牛児《とうぎゆうじ》が、急に腹がいたいと倒れてしまいました。どうしましょう」
これは、まことにこまったことではあったが、しかしその内容よりも、昂奮《こうふん》した春梅の声はいっそうみなにただならぬものを感じさせた。林夫人も窓の傍によったし、こちら側にいた愛妾たちもかけ寄ろうとした。
――その一瞬、突然林夫人がつんのめるようによろめき、あっというまに窓からきえたのである。彼女も酔っていたが、愕然《がくぜん》として傍から手を出してささえようとした西門慶も酔っぱらっていた。
妾たちには、あたかもぱっと黒牡丹がひらいたかのようにみえた。異様な叫びをあげて窓際にとびついた一同の眼に玩花楼の下の暗々たる石畳にまるで二匹の蛍《ほたる》がとまっているような仄青い光がみえたが、それが林夫人の耳飾りの宝玉だったとわかったのは、あとになってからである。
ほとんど夢でもみているように茫然と金しばりになった一同が、けたたましい春梅の悲鳴を皮きりにどっとうごきはじめてから、玩花楼は名状しがたい混乱におちいった。
林夫人は死んでいた。うちどころがわるかったのか、灯《ひ》をもってこさせると、頭から血をながし、あの豊麗な顔がむらさき色にふくれあがっている。西門慶は恐怖のために麻痺《まひ》したようになった。
「お、お、応――伯爵、どうしよう?」
「どうしようたって、奥方がじぶんで酔っぱらって落ちたんだから……」
西門慶は頭をかかえてしまった。夫人を酔わせたこちらの或る下心は金蓮だけしか知らないにしても、知県の留守中に夫人をこの家で死なせたとあっては笞刑《ちけい》や流罪《るざい》ですむことではない。
不幸は呼び水をする。白痴のように棒立ちになっているところへ、またあわただしくかけてきた小者の平安の声が、いよいよ西門慶を悩乱《のうらん》させた。
「旦那さま。また林家の曾升さまが参られました。ちょっと眼をはなしているあいだに、奥方がまた外出《そとで》をなされているが、行先はきっとここにちがいないと。……」
「な、なに、きさま、まさか奥さまがいらっしゃるとはいわんだろう?」
「むろん、お申しつけのとおり左様申したのですが、曾升さまはまた都頭御同伴で、その都頭が十何人かの保甲《ほこう》をつれてきております。今夜は奥さまがいやとおっしゃっても、手籠にしてもおつれかえさなくては、明日御帰りの御主人に相すまぬと。――」
西門慶はよろめいた。酒はもとよりさめはてて、水を浴びたような思いだが、唇はぱくぱくうごくだけで声も出ない。
――と、金蓮がゆらゆらとあゆみ出た。これはまだ酒の香がよくさめないらしい。どこかだらしのない声で、
「いらっしゃらないといったらいらっしゃらないとお言い。もし御信じなさらないなら、どうぞ家さがしでも遊ばせと」
「き、き、金蓮! おまえは、いったいなにをいう?」
「旦那さま。お家浮沈の大事です。どうぞ金蓮におまかせ下さいましな。みなさまは、どうぞ知らないお顔をして――」
「そんな顔ができるものか。金蓮、林夫人の始末はどうしようというんだ?」
「ああ、だめだめ、旦那さまみたいにあわてちゃあ、とても魚炎武の眼は、ごまかせないわ。あの都頭の眼は、そりゃすごいから。……そうだ、旦那さまはちかく正千戸の役に御任官になるでしょう、その内祝いだといって、今夜の予定どおり、庭で酒盛りをつづけていて下さいましな。ベロベロにお酒をのんで、度胸をつけて。――応さん、応さん、こうなっちゃしようがないから唐牛児にかわって、あなた焼豚をきって下さらない? 保甲たちにうんと御馳走して、ごまかすよりほかに手はないわ」
「心得たり、とまあわたしゃいうが、金蓮さん、そっちはほんとに大丈夫か?」
応伯爵の元気は甚《はなは》だあやしい。妾たちはもとよりがたがた音をたててふるえている。じろっと見まわして、潘金蓮はにんまりと笑った。
「細工は流々《りゆうりゆう》、仕あげを御覧あそばせ」
成仏之章
のっぴきならず家さがしをすることになった曾升と魚炎武以下一隊の保甲を、のっぴきならず案内する数人の手代をのぞいて、西門家の数十人の家人や僕婢《ぼくひ》たちは花園《かえん》にあつまった。
「さあ、今夜は、旦那さまのお祝いだ、みんな、のめ、のめ」
応伯爵はみずから庖丁《ほうちよう》をとって、熱い土坑からとり出したまる焼きの豚をきりはなしながら、半狂乱のように酒をのんでいる。さすが、道化者の伯爵も、背なかから汗のしたたるほどこわいのだ。金蓮と春梅はどこへいったろう? 林黛玉の屍体《したい》をどこへかくしてくれたろう?
やがて、母屋の方から、ぞろぞろと捜索者の一隊があらわれた。西門慶のかわききった喉《のど》が、ごくりと空鳴《からな》りするのがきこえる。
「しっかりして、旦那さま」
うしろで声がきこえたので、ふりかえると、いつのまにか潘金蓮が、春梅とならんで立っていた。ふたりともまげた片肘《かたひじ》に、焼肉を山のように盛った大盤をのせている。
「林奥さまがきょうここへいらしたという証拠は、何もないんですから大丈夫よ、保甲たちにうんとふるまってやれば、誰がもうあてもない人探しなどするものですか。さあ、……恵祥《けいしよう》、鄭紀《ていき》、一丈青《いちじようせい》、はやく廚房《だいどころ》へいって、もっとどんどん御馳走をとってきておくれ!」
曾升老人は小首をかしげつつ、魚炎武たちは夜の庭に充満する肉の香気に眼をひからせながら、ちかづいてきた。
西門慶はねじれたような笑顔をつくって迎えた。
「どうです。奥さまはいらっしゃらないでしょうが」
「おられぬ。……まさか、どこか人知れぬところへかくしたのではあるまいな?」
「まさか、知県閣下の奥方を……左様なことを致して、どうなるものでもありますまい。実際奥さまは、昨日お帰りになってから、きょうはおみえにならんですよ」
「ああ、もともと少し軽はずみなところのある奥さまじゃが、あす閣下がお帰り遊ばすというのに、ほとほとこまったことじゃて」
「それより曾升さま、わたくし、ちかく正千戸の役を仰せつかることになり、今宵はその内祝いをやっております。よろしかったら、どうぞ一献。……」
「な、なに、そんなことはしておられぬわい。わしはすぐさまもういちどお邸にかえってみねばならぬ。……それでもまだみえぬなら、もういちど、とことんまでこちらを探させてもらう。どうも、くさい。……ほかに心あたりはないのじゃが。……」
「それなら、それまで、――」
と金蓮が艶然《えんぜん》として口を出した。
「魚炎武さんたちには、ここでおなかをつくりながらお待ちねがっていた方がよろしゅうございますわ。ほら、もうそのつもりで用意してございますし。……ねえ。みなさま、ほんとに御役目御苦労さま、御承知下さいますわね?」
この女の笑顔に悩殺されない男はこの世にいまい。まして餓狼《がろう》みたいな保甲の胃袋を、かきむしるような焼猪《シヨウツウ》の豪奢《ごうしや》な匂いである。そのふたつを眼前にみ、鼻孔にかいでは、もはや禿頭《はげあたま》の曾升の哀れっぽい眼など受けつけるいとまのあらばこそ。
「わっ、ありがてえ」
「こんな大盤《おおばん》ぶるまいには出会ったことがねえ、口が不承知をいっても胃袋がとび出しそうだ」
「都頭《おかしら》、よせとおっしゃるなら、孫子《まごこ》の代までお恨みに思いますぜ」
わいわいと豚のようにひしめきさわぐところへ、金蓮にいいつけられた廚房《ちゆうぼう》つきの下男や婢《はしため》たちがどんどんと新しい肉や臓物をはこんでくる。
林家の曾升老人は、あたふたとかえっていった。
まるい春の月は浮かんでいたが、その空を蒙古《もうこ》からの黄塵《こうじん》がわたって、どんよりと明るく曇り、その下で飲み、食い、はては踊り出した保甲の群は、なにやら夢魔の国のおぼろな妖精《ようせい》めいてみえた。篝火《かがりび》のはぜる音にまじって、ながれる涎、すすりあげる肉汁《にくじゆう》、かみくだく骨、のみこむ臓物の音が、あふれかえる欲望の潮騒《しおさい》のように伴奏する。
その快活な、歓喜にみちた食欲の音楽をきいていると、酔っぱらった応伯爵の頭に、林黛玉の顔が、条件反射的に浮かんだ。あのきらきらと濡《ぬ》れひかった眼が、みずみずしい真っ赤な唇が、つやつやとあぶらぎった白い顎が、嚥下《えんか》するたびに、生きものみたいにうごく円い、ふとい喉《のど》が。……
「金蓮。……」
傍で、西門慶が、すがりつくようにきいていた。
「いったい、奥方をどう始末してくれたのだ?」
「――しっ。魚炎武があそこにいます」
潘金蓮は指をたてて、まるで子供の鬼ごっこみたいな顔つきをした。
「それから、あの曾升爺いが、きっとまたやってくるにちがいありませんわ。いよいよ林奥さまがみえないとなったら、血まなこになって、こんどはこの邸の樹の根、草の根までわけても探しぬくにきまっています。……」
「そ、そ、それで大丈夫か。え、金蓮」
金蓮は、甘えるように西門慶の胸に身をもたせて、じぶんの箸《はし》で大きな炒肉片《チヨウロウピエン》を男の唇におしこみながら、
「だからはやく片づけてしまわないと。……」
応伯爵は、いくきれめかの肉を口にくわえたまま、ふっと顎をうごかすのをやめてしまった。
はてな、金蓮はいまどういったろう? 片づける……片づける……何を片づけるといったっけ。そうだ、林夫人を片づける話だった。突然、応伯爵の瞳《ひとみ》を錦蛇《にしきへび》のようなものがのたくった。はっきり意識した記憶ではない。眼の底に、古沼のような薄暗がりをまぼろしのごとくうごいた或る物の残像である。――応伯爵は、さっき林黛玉が窓からおちる寸前、銀燈におぼろな玩花楼の二階の床に一瞬ちらっとうごいた黒い布を思い出したのである。窓の傍に立っていた、林夫人の足の下から、その椅子や卓をくぐって向うで笑いころげていた潘金蓮の傍へすべった黒い|※[#「ころもへん+表」、unicode88f1]《ひれ》、ああ、あれは金蓮の肩かけではなかったろうか。
それをひけば、林夫人はもちろん窓からおちる。おちた林夫人の顔は紫色にふくれあがっていた。まるで鼻孔をおさえられて息のつまった人のように。わたしたちが二階からかけおりるあいだに、誰かがやろうとすればできる。誰が?……そこにいたのは金蓮の小間使いの春梅だけだ。そうすると、春梅が呼びにきたのも、料理人の唐牛児が急に腹痛で倒れたというのも、あれが偶然だったろうか。
応伯爵は、箸を宙にとめたまま、酒にかき曇った頭で思考をもがきぬく。なんのために?……なんのために?……なんのために?……
「――げっ」
突然、彼は異様な嘔吐《おうと》の声をあげて、口から肉片をはき出した。それが、金蓮と春梅が廚房の方からはこんできた大盤の肉だということに気がついたからである。
「伯爵。……どうしたんだ?」
と、西門慶がけげんな表情でふりかえる。水をあびたように、蒼ざめて、棒立ちになっている応伯爵の方を、ちらっと見て、潘金蓮はあどけない、甘美な笑顔をみせた。つぶやくように、
「片づけなくっちゃいけない。曾升爺やがくるまでに、みんな片づけなくっちゃいけないの。……」
と、いって、それからまだきょとんとしている西門慶の口に、うまそうな肉をおしこんだ。
「旦那さま、どうぞ金蓮を信じて……安心して、うんと食べ、うんと飲んで下さいな。そうでないと、魚炎武にうたがわれますわ。あたしだって、林奥さまにまけないくらい御料理のおはなしはできましてよ。ほんとうに、おいしいおいしい御馳走のおはなしくらい、世にたのしいものはありませんわね。……」
詩のようなそのささやきをかき消して、またどっと歓声がわく。
応伯爵はうなされたような眼で、ぼんやりした春の夜の月に浮かれて乱舞する妖しい鴉《からす》の饗宴に似た影絵《シルエツト》を見て立ちすくんでいる。……
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[#見出し] 変化牡丹《へんげぼたん》
牡丹之章
西門家《せいもんけ》の花園《かえん》には、いま牡丹の花が真っ盛りであった。豪奢《ごうしや》好みの主人が、特に好んで植えさせた花だけあって、燃えたつような濃紅色のもの、妖姫《ようき》にも似た黒紫色のもの、雪のように純白のもの、緋《ひ》に淡紅に黄金色、色とりどり品とりどりに、白金のような夏の日のひかりのなかに、或《あるい》は荘重にしずもり、或は撩乱《りようらん》と微風にそよいでいる。
その花園のなかにある翡翠軒《ひすいけん》にすぐくるようにという命令に、六人の愛妾があつまってみると、主人の西門慶と正夫人の呉月娘《ごげつじよう》と友人の応伯爵《おうはくしやく》が、十日ばかりまえから逗留《とうりゆう》している客人の画家|蘇竜眠《そりゆうみん》先生をかこんで談笑していた。
「おお、みんなきたか。……いやあつまってもらったのは、ほかでもない。わしと月娘の肖像はかいてもらったのだが、せっかくだから、お前たちも、この先生にかいていただこうと思うんだ」
「まあ、うれしい! でも、美人にかいて下さらなくちゃ、いやですよ」
と、白狐《しろぎつね》みたいに痩《や》せた第四夫人の孫雪娥《そんせつが》がしなをつくると、傍の第七夫人の楊艶芳《ようえんほう》が横をむいて笑った。
「ほほ、肖像なら、似ていなくっちゃこまるでしょ? いくら美人にかいていただいても、似ても似つかぬものなら、誰《だれ》をかいたのかわかりゃしないわ」
「なんですって? まるで、あたしを美人にかいたら、うそだっておっしゃってるみたいね? ええ、そりゃあたし、どうせあなたのような絶世の美人じゃないってことはよく知っていますよ」
「あら、誰がそんなことをいいました?」
「これこれ、三人あつまると、お前たちはすぐ喧嘩《けんか》だ。はは、誰がいちばん美人か、画家の先生にこれからえらんでいただこうというのだ。とにかくそこへならぶがいい」
と、西門慶は手をふりながら、八仙卓《はつせんたく》の向うに坐《すわ》っている蘇竜眠をかえりみた。
「先生どうぞ。……先生のお眼に、いちばんきれいにみえた奴からかいてやって下さい」
「西大人、御婦人方をまえに、そんないい方はおだやかじゃないね」
と、応伯爵が口をさしはさんだ。いまでは、おちぶれて、西門慶のたいこもち[#「たいこもち」に傍点]みたいな存在になっている伯爵だが、もともと絹問屋の息子《むすこ》で、竹馬の友だっただけに繊細《せんさい》な女ごころに思いやりのない、わがままな西門慶からよく妾たちをかばってやるので、女たちには存外好感をもたれている。
「いや、まったくおっしゃるとおりで、いちばん美人から、といわれると、わたくしもこまりますな。御愛想ではなく、正直なところ、こうならんで拝見すると、いずれをあやめ、かきつばたで、眼《め》がくらくらするようです」
と、蘇竜眠は、まぶしそうに眼をほそめてながめいった。
妾たちは、息をころして、立っている。第二夫人の李嬌児《りきようじ》は歌妓あがりで、みるからにたっぷりとして豊艶《ほうえん》だ。やや鼻がひくいが、厚目の唇が吸いつきたいほど肉感的だった。第三夫人の孟玉楼《もうぎよくろう》は、おぼろ月のように凄艶《せいえん》な美女で、片頬《かたほお》にかすかに浮かべたえくぼは、男殺しの魔の淵《ふち》といわれよう。それとならぶ第四夫人の孫雪娥は軽羅《けいら》のごとく透きとおって、その美をとらえかねる幻影のようだ。つづく第六夫人の李瓶児《りへいじ》は、小柄ながら淡雪の精のように可憐で、気だてのよさが、そのものかなしげな瞳にやどっている。幸か不幸か、いまのところ妊娠しているので、おなかのふくれているのがむしろいじらしい。第七夫人の楊艶芳《ようえんほう》は、最近|落籍《ひか》されたばかりの清河県で一、二を争った美妓で。……
「おや」
しんとした沈黙のなかに、そのとき、きゅっ、きゅっ、と妙な音がきこえた。みると第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》だけは、長椅子《ながいす》に無造作に身をのばし、右足をかるく立膝《たてひざ》にして、左足をだらりとたれたまま、その爪《つま》さきで愛猫《あいびよう》の「雪獅子《ゆきじし》」をからかっている。きゅっ、きゅっという妙な音は、その口の中から鳴ってくる。鬼灯《ほおずき》を鳴らしているのである。
「金蓮、なぜならばない?」
と、西門慶が叱《しか》った。金蓮はなお猫《ねこ》を足でからかいながら、平気な、ものうげなながし眼で、
「あたしは、いちばんあとでかいていただいて結構ですわ」
と、つぶやいて、また、きゅっ、きゅっと鬼灯を鳴らした。
「相変らず、横着な奴《やつ》だ」
じゅんじゅんに妾たちをみていって、じっと楊艶芳の顔にとまっていた蘇竜眠の眼が、潘金蓮にうつって、またうごかなくなった。視線が交互にそのふたりの顔にゆきつもどりつし、竜眠の表情に困惑の色がただよいのぼった。
(先生、さすがにまよったな)
と、応伯爵は心中に考えて、急に興味津々たる眼になった。
(楊艶芳と潘金蓮、さて、どっちが美しかろう?……たんに、美しい、という点だけなら、いくらか若いだけに艶芳の方かもしれない。あいつのためにはいままで、三人の男が死に、二人の男が発狂している。あいつは、客に段階をつけて、最上の客には神鶏《しんけい》の枕《まくら》に鎖蓮《されん》の燭台、次の客には交紅《こうこう》の夜具に伝交《でんこう》の枕。……わしなんぞがゆくと、顔をみせないで、やっと一杯の吸物を出すだけ、やりて婆あに、夢の中で会いましょう、といわせやがったっけが、夢の中で会いましょうとは、ひどいことをいうやつだ。尤《もつと》も、会えなくって倖《しあわ》せだったかもしれん。あいつは、少々きちがいじみていて、客を馬にして、部屋じゅうのりまわしたり、くいついたり、ひっかいたりして、血をみると、この上もなくうれしがるというくせがあるそうだが、たしか誰か、進士の甲科を受験したとき、前夜艶芳にひっかかれた頬《ほ》っぺたの傷を試験官に見とがめられて、落第した奴《やつ》があったっけ。……くわばら、くわばら)
予期はしていたにちがいないが、画家の眼がじぶんに熱心にそそがれはじめたのを知って、楊艶芳は、ほこらかに顔をあげて、艶然と笑った。蓮糸《れんし》のうすものをまとい、白紗《はくしや》でふちどった裙子《クンツ》をつけ、裙子の下から鴛鴦《えんおう》のくちばしのようにとがった小さな紫の靴がのぞいている。
応伯爵は二、三度深呼吸をしてから、潘金蓮を見やった。
(艶芳の美しさは炎だ。……それからみると、金蓮は水だ。深淵《しんえん》だ。しかしわしは知っているぞ。放蕩《ほうとう》無頼十幾年、あの道にかけては蘊奥《うんおう》をきわめつくしたわしは見ぬいているのだ。金蓮こそ、稀世《きせい》の大淫婦《だいいんぷ》、その色ごとの味のうまみ、深さ、面白さという点を勘定にいれれば、艶芳など酒と湯《タン》ほどのちがいがあることを。……おそらくあと三年もたてば、西門の兄貴は艶芳に飽きるだろう。しかし、金蓮の魔力からは地獄までのがれることはできまいて。……)
潘金蓮は、無心な顔で鬼灯を鳴らしつづけている。
「先生、どいつをおえらびになりましたかな?」
と、西門慶が白紗の扇であおぎながら催促《さいそく》した。
「さあて、まことに困却しましたな。どの方がどうと、ただ眼うつりがするばかりですが、また、こう迷っていてもきりがない。それでは……」
どの女ののどか、ごっくり生唾《なまつば》をのむ音がきこえた。蘇竜眠は指をあげた。
「とにかく、まず、あの方をかかせてもらいましょうかな」
指さしたのは、はたして楊艶芳だった。
重っ苦しい吐息の微風が女たちの唇からながれた。楊艶芳だけ、おさえかねた笑い声をたて、他の妾たちのとろけるような媚笑《びしよう》がみるみるかききえて水みたいに冷淡な表情にかわっていった。
「まあ、あたしだったら金蓮さんをえらぶのに」
と、さっき艶芳に嘲《あざけ》られた孫雪娥は露骨に憎悪をあらわしていった。応伯爵も心中に相槌《あいづち》をうっている。
(そうだ。わしもそうだ。蘇竜眠先生、案外眼がきかないぞ。なるほど楊艶芳は甘い。舌がばかになるくらい甘い菓子のようだ。が、金蓮は酔わせる。先生、女の美しさについては下戸にちがいない。……)
孟玉楼は、つまらなそうな顔をして翡翠軒の軒下につりさげられた鳥籠《とりかご》の鸚鵡《おうむ》に指をさしいれて口ずさんでいた。
「助平女郎のながし眼は、蜂《はち》の蜜《みつ》より甘いけど、浪風《なみかぜ》のたつそのときは、はじめて心がわかります。ほら、うたってごらん」
潘金蓮はゆるゆると身をおこし、花園の方へあるき出した。足に雪獅子がもつれるようにしてついてゆく。
「では、早速、下絵をかきましょうかな」
と、蘇竜眠が、八仙卓《はつせんたく》の上の皿や盃をおしのけて、紙をのべはじめた。筆をとって、もういちどじっと楊艶芳を見つめてから、ふと李嬌児の豊かな耳たぶに燦爛《さんらん》とゆれている金に紫の石をはめた耳環《みみわ》に眼をとめて、
「おお、あの耳環はすばらしい。画竜点睛《がりようてんせい》というが、……あの耳飾りを楊夫人につけたら、この上もない趣向と存じますがな。もし、できれば……」
「あなた、その耳環かして頂戴《ちようだい》よ」
と、楊艶芳は無遠慮にいった。
「いやよ」
李嬌児は、きっぱりと首をふった。
「これは、母のかたみなんですからね。めったな人にはおかしできないわ」
「めったな人って……あなただって歌妓あがりじゃないの」
と、楊艶芳は平気な顔で笑っている。じぶんの美しさにうぬぼれて驕慢《きようまん》無比になっているというより、この女には先天的に他人の心に思いやりのない、きちがいじみたわがままさがあるらしい。女の西門慶というところだろう。
「おい、いいから貸してやれ」
と、西門慶は命じた。李嬌児の顔があかくなり、またあおくなった。それから不承不承にその耳環を耳からはずしたが、楊艶芳にわたそうとして、急にとりおとしてしまった。石だたみに琳琅《りんろう》たるひびきと共に紫の石がくだけ散って、みんな、いっせいに鼻じろんで立ちすくんだとき、
「艶芳さん、せっかくかいていただくのですもの、この牡丹の花を抱いてかいていただいたら、いかが?」
しゃなりしゃなりと花園の方からもどってきた金蓮がいった。片手に大輪の黒牡丹をぶらさげている。
「おお、それはよろしかろう。美人牡丹を抱くの図じゃて」
と、蘇竜眠がその場をとりなすような笑顔でいった。
「ありがとう、金蓮さん。……先生、これでいいかしら?」
と、楊艶芳が、その牡丹を抱いて、肩にあててにっこり小首をかしげたとき、いったいどうしたのか、急に彼女はその牡丹をなげうち、あっと悲鳴をあげて顔を覆った。
「まあ! どうなすったの?」
金蓮があわてて艶芳にとりすがったとたん、ふたりの髪をかすめて、黄金色の虹《にじ》が、ぶうんと羽音をたてて蒼《あお》い空へきらめき消えた。応伯爵がさけんだ。
「蜂《はち》だ! 蜂が牡丹の花の中にいたんだ!」
「えっ? そ、そんなこと、知らなかったわ。艶芳さん、かんにんして……」
とりすがる金蓮を楊艶芳ははねのけた。そして顔を両掌《りようて》で覆ったまま、痛みに号泣しながら母屋の方へはしっていった。
鬼女之章
蜂にしても、ずいぶん大きな蜂だったとみえる。その夜から楊艶芳の顔は恐ろしいことになってしまった。右|眉《まゆ》の上を刺されたらしいのだが、顔ぜんたいが真っ赤にふくれあがり、水疱《すいほう》みたいなものができ、瞼《まぶた》などは腫《は》れふさがって、これがあの眼もさめるような美女だとは想像もつかないほどである。
これでは文字通り絵にもならないので、代りに肖像をかいてもらうことになったのは金蓮だが、金蓮だってそう他の妾たちに好かれているわけでもないから、ふつうなら当然何かと陰口《かげぐち》をたたかれる立場だが、べつにそれほどの嫉《ねた》みの声もなかったところをみると、よほど楊艶芳という女は世にはばかる憎まれっ子だったにちがいない。
痛みとくやしさに、楊艶芳はのたうちまわった。
「ひどい! ひどい女、潘金蓮! まず肖像をかいてもらうのがあたしだときまって、あの女がわざと牡丹に蜂をいれてよこしたのだわ! 畜生、いまにこの恨みはきっとはらすから!」
「まあ、まあ、艶芳さん、そうのぼせては、毒血がいっそう頭にのぼる」
と、看病しているのは応伯爵ひとりだ。あとの連中は、あばれ狂う楊艶芳に辟易《へきえき》して、いちど見舞いにきたあとは、よりつこうともしない。西門慶などは、平気で他の妾たちをあつめて、大房で酒をのんでいる。
「まさか金蓮さんだって、そこまでたくらみはできかねよう。わざと蜂を牡丹に入れたり、蜂が入っているとわかっている牡丹をはこんだりしては、あなたのまえに本人が刺されるおそれがありますからな。まったくあれは、偶然の不幸で――」
そうなぐさめながら、応伯爵は心中に、いやまったく金蓮ならやりかねないて、とかんがえている。
――と、その伯爵の足もとに、やわらかくまつわりつくものがあるので見下ろすと、額に黒ぶちのある真っ白な猫だ。眼ざとくそれを見とがめた楊艶芳が、寝台の傍の小盒《こばこ》をたたきつけてさけんだ。
「雪獅子!」
猫はおどろいて、扉の方へにげていった。応伯爵はふりむいた。いつのまにやら扉がほそめにひらいて、幻のように潘金蓮がたっている。
「おかげんいかが? 楊艶芳さん」
かなしげな顔だった。楊艶芳はむくりとはねおきた。
「ほんとうにひるまはすみませんでしたね。あたし、申しわけがなくって、申しわけがなくって――」
「金蓮さん、肖像はできまして?」
と、艶芳はいった。声帯もどうかなったのか、夜鴉《よがらす》のようにしゃがれた声だ。
「え、半分だけ。ほんとにあたし、あなたにすまないからって遠慮したんですけど、艶芳がなおるまで先生に待っていただくわけにはゆかないって、旦那《だんな》さまがおっしゃるんですの」
「あたし、あなたの肖像ができるまで泣寝入りはしていませんよ」
と、楊艶芳はさけぶと、いきなりぱっと寝台からとびおりた。片手に鋏《はさみ》がひかっているのに応伯爵が胆をつぶしてたちあがるよりはやく、艶芳は扉を蹴《け》はなして遊廊にとび出していた。
「切ってやる! 顔を――髪を――」
潘金蓮はあやうく身をのけぞらして鋏をそらした。とたんに楊艶芳は、うしろからどんと誰かにつきとばされて、うつぶせにつんのめった。
応伯爵が出てみると、李嬌児と孫雪娥がたっている。潘金蓮について、面白がってのぞきにきていたらしい。とっさに艶芳をつきとばした李嬌児は、にくにくしげに肩で息をしながら、
「このきちがい女!」
と、ののしった。大柄で、ゆったりした女だけに、怒りも壮麗だが、しかし応伯爵は李嬌児のこれほど憎悪をむき出しにした顔をみたことがない。よほどひるまの耳環の恨みがふかいのだろうが、やっぱり女はこわい、と、あらためて背すじがぞくっと冷たくなる思いである。
痩せた孫雪娥がけらけらと笑った。
「まあ、ほんとに絶世の美人だこと、是非、先生に肖像をかいていただいて、いつまでものこしておきたいところだわ」
楊艶芳ははねおきて、雪娥にむしゃぶりついた。鋏はとんでいるから大事はないが、まるで軍鶏《しやも》の蹴合《けあい》をみるような猛烈さである。あきれはててたちすくんだまま、応伯爵はそれをとめる勇気もない。つくづくと、夜も昼も、この女たちにとりかこまれて、結構たのしんでいるらしい西門慶のたくましさに感服している。
――もともときちがいじみた女が、蜂の毒にすっかりいかれて乱心気味になっていることは、この夜の騒動でよくわかり、応伯爵も心配しいしい家に帰ったのだが、そのあくる日の午後、また西門家をおとずれてみると、楊艶芳がまったく脳症状を呈しているのにびっくりした。
顔はいっそうふくれあがって、まるで腐った南瓜《かぼちや》のよう、それがとろんとした眼で、あらぬことを口ばしっているのである。
「ああ、みんな、あたしをいじめ殺す。……あたしが歌妓あがりだと思ってさげすんで……好きで歌妓になったわけじゃないのに!」
そして、部屋の一隅《いちぐう》を恐怖の眼でみて妙なことをいう。
「あっ、そこに蘇子虚《そしきよ》がいる! 蘇子虚があたしをにらんでいる! 蘇子虚があたしを殺しにきた!」
そしていきなり象牙《ぞうげ》の櫛《くし》をなげつけた。と螺鈿《らでん》をちりばめた大理石の衝立《ついたて》のかげから、のっそりと雪獅子があらわれて、悠々《ゆうゆう》と赤い口をひらいてあくびをした。
「おい、あにき、蘇子虚って誰だい? どこかできいたような名だが」
と、暗然たる眼で応伯爵がふりかえると、西門慶は苦虫をかみつぶしたような顔で、
「こいつめ、頭にきたらしい、そいつは、まえに艶芳が色街にいたころ、艶芳に血道をあげて、ふられぬいて、首をつった青書生さ」
「あ、そうか。なるほど」
「毒がひくまで手のつけようがないよ。ほうっておけ。さあ伯爵、向うへいって酒をのもう」
涼風のたちはじめた翡翠軒にいって酒宴をはじめた。応伯爵がぐるりとみまわすと、李瓶児と潘金蓮の姿だけがみえないようである。
「おや、李夫人は?」
「さあ、さっき蘇竜眠先生を部屋に呼んでいたようだから、肖像をかいてもらっているのだろう」
「金蓮さんのぶんはできたのか」
「いや、金蓮のは半分できているのだが、なにしろきのうの艶芳のさわぎですっかりおびえて、やはり絵はあとまわしにしてくれといって部屋にとじこもったきりなんだ。どうも、きちがいに刃物というやつには手がつけられない」
そんなことをしゃべっていると、花園の向うから金蓮づきの小間使いの|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅《ほうしゆんばい》が息せききってはしってきた。
「たいへんです! すぐきて下さい!」
この小間使いは、若いがきわめてしっかり者なのに、顔色まで変っているところをみると、ただごとではない。
「どうした、どうした」
「また艶芳奥さまがおあばれ出しになって、下男の来安《らいあん》がとめるのもふりきって、うちの奥さまの部屋にとびこんでいらしったんです。鋏をもって――」
「なにっ」
「そして、あっというまに金蓮奥さまの髪をばさばさに切ってしまって――」
「あっ、とうとうやったか!」
と、応伯爵はとびあがった。西門慶はすでに宙をとんではしり出している。
それを追って一同がかけつけてみると、金蓮の部屋の北廂房《ほくしようぼう》の方から、下男の来安に抱きかかえられるようにして、楊艶芳が、けらけら笑いながら遊廊をもどってくるのにあった。
「おほほ、髪! 金蓮の髪、とうとう切ってやった! さあ、これであいつの肖像は当分かけないよ。ひとをひどいめにあわせて、じぶんがうまいことをしようったって、そうは問屋がおろすものか。おほほほほほほ、いい気味だ! おほほほほほほ!」
片手に鋏、片手に大たばのみどりの黒髪をうちふりうちふり、狂笑する楊艶芳のふくれあがった形相はこの世のものならぬ魔女のようだった。※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅はころがるように北廂房へかけていった。
「ええい、執念ぶかい奴め!」
艶芳をもとの部屋にひきずってくると、西門慶はいきなり彼女を寝台の上になぐりたおした。ぱっと手の中の髪が床上にみだれ散る。
楊艶芳は、ぶったおれたまま、きょとんとして西門慶の顔を見つめていたが、急にまたあらぬ方をみつめて、しゃがれ声でさけびはじめた。
「ああ、みんなあたしをいじめ殺す。……蘇子虚の怨霊《おんりよう》までが……蘇子虚の眼が、それ、そこに!」
指さす床にばらばらに散っている金蓮の黒髪、そこにいつまた入ってきたのか白猫雪獅子が、女主人の香をしたってか、寂然と坐っている。……
小車之章
あきれかえって楊艶芳の部屋を出た西門慶と応伯爵が、北廂房にいって扉をたたいてみると、春梅だけがそっと出てきた。
「旦那さま、ここしばらく金蓮奥さまを御覧になるのはかんにんしてあげて下さいまし、こんなあさましい姿をみせるのは恥ずかしいと、泣いておっしゃいます。お可哀《かわい》そうに。……」
「いや、金蓮さんなら、そういうきもちにもなるだろう」
と、応伯爵はうなずいた。自尊心の人いちばい強い潘金蓮が、さんばら髪の頭を男にみせるはずがない。
「それでは会うまい。ううむ、艶芳のあばずれめ、すこし腫れでもひいて正気になったら、きっとこのわしが折檻《せつかん》してやるからそれまでがまんしろと、金蓮にいっておけ」
西門慶はむしゃくしゃした顔つきで、応伯爵をつれて大房にもどると、蘇竜眠先生をはじめ、女たちをあつめて、あらためて酒をのみ出した。
ところが彼の裁きをまたず、恐ろしい|破 局《カタストロフイ》はその夜のうちにおとずれてきたのである。――
ちょうど、二更に入ってまもない時刻であった。蘇竜眠先生は、孟玉楼に月琴をひかせて、歌をうたい、西門慶と応伯爵はちかごろちかくの梁山泊《りようざんぱく》という水郷に群盗があつまって、しきりに官兵をなやましているという話をしていた。
酒宴まさに酣《たけなわ》のころ、突然、入口ちかくに坐っていた孫雪娥が悲鳴をあげた。白い猫を抱いてふらふらと大房に入ってきた楊艶芳をみとめたからである。
「艶芳!」
ぎょっとして西門慶もたちあがった。
黒髪をといて、ばさとながく背にたれ、真っ赤にはれあがった恐ろしい顔は、とうてい宴席にはべるべき顔ではない。……が、艶芳は、平気で雪娥の傍に腰をおろして、
「ねえ、あたしにもお酒をのましてちょうだいな」
といった。存外おちついた声である。
「艶芳さん、大丈夫ですか?」
と、応伯爵が声をかける。
「もう大丈夫、いたみもだいぶうすらぎましたわ。ほんとに心配かけてすみません。……金蓮さんにはわるいことしちゃって、いまおわびにいったのだけれど、怒っていて出てきません。かわりに、この雪獅子、お部屋をしめ出されてうろうろしてるからつれてきましたわ。そこの肉かなんかやって下さいな」
「ふん、それでは、金蓮の髪をきったことはおぼえているのだな」
と、西門慶は吐きだすようにいう。
「ほんとに、あたし頭がへんになっていたんだわ。いたみと、くやしさと、それから、おかしな人の眼が空中にみえて、恐ろしさにきちがいになっていたにちがいないわ。……」
「蘇子虚だろう?」
と、応伯爵がにやりとしたとき、愕然《がくぜん》として顔をあげたのは、楊艶芳よりも傍の蘇竜眠先生だった。
「蘇子虚!……それが、なんですと?」
「おや? 先生も御存じで?」
「あれは、私の甥《おい》です。去年色街で性悪の売女のために首をつって死んだ不孝者ですが」
みんな、どきっとして眼を見あわせたなかに、ややあって、西門慶が黄蘗《きわだ》をなめたような顔をむけていった。
「これは奇遇だ。……ところで先生、先生はその性悪の売女をご存知ですかな?」
「ばかなことを。私がどうしてそんなけがらわしいところに足をふみ入れますものか。顔は知らんが名はおぼえておる。たしか謝珊珊《しやさんさん》という女で」
「なるほど、先生はご存知ありますまいが、歌妓というものは、姓は妓楼の養母の姓を名のりますし、名まえも変えます。曾《かつ》ての謝珊珊、すなわちいまの楊艶芳で」
蘇竜眠はのどのおくで蛙《かえる》が鳴いたような声を出した。楊艶芳はひしと掌《て》を顔におしあてている。その小きざみにふるえる膝《ひざ》の上で、しきりに肉をしゃぶっている猫の舌の音だけが大房のなかにながれた。
「因果はめぐる小車の……ですかな」
突然、応伯爵がわざとらしく、からからと笑い出した。
「蘇竜眠先生、昨日は先生も楊夫人を第一等の美人とおみとめになったようですが、なんと甥御さんの惚《ほ》れこみようがのみこめたでしょうな。……」
「…………」
「しかしねえ。先生、色街で死ぬの殺すのというさわぎは、梁山泊のあばれ者たちの世界より少くはないんで、もとはもちろん女ですが、その女がいちいち恨まれたり責められたりしていちゃ身がもたない。おわかりでしょうな」
「わかっております」
「ま、昨日の牡丹の蜂さわぎも、もとは先生から肖像をかいていただくのがもとだといえばいえるので、どうか、あの蜂は甥御さんの生まれ変りだとお考えになって、それで艶芳さんへのお恨みが、よしおありになろうと、水にながしていただきたいもので」
「ああ、それでわかった。どこかで蘇子虚さんの眼がみているような気がしてならなかったのは、あれは、先生の眼におぼえがあったからだわ。……」
と、楊艶芳はつぶやいた。さすがに因縁の恐ろしさを感じたものか、めずらしく神妙に、
「先生、どうぞおゆるしあそばして」
「いや、なに、それはもちろん……どういっていいやら、馬鹿者《ばかもの》は子虚だけです」
「いえいえ、それではあたしの心が霽《は》れませんわ。おゆるしのしるしに……先生、お酒をいただかして下さいな」
蘇竜眠はうつろな眼で艶芳をぼんやりみていたが、急に狼狽《ろうばい》した風で、まえの金華酒《きんかしゆ》の壷《つぼ》をとった。楊艶芳が椅子《いす》からたとうとしてひょろりとよろめく。
「いや、そのまま、そのまま、すまんが孫夫人からついであげて下さい」
酒壷がとなりの応伯爵の手にわたる。応伯爵からつぎの李嬌児へ、李嬌児から孫雪娥へ。――そして孫雪娥は盃《さかずき》についで楊艶芳につき出した。
「さあ」
「ありがとう」
楊艶芳は金華酒をのんだ。
なんとなく面白くない顔をしてつくねんとしている西門慶をちらっと横眼でみて、応伯爵が、
「いや、まず、これでめでたい。――」
と、手をうったときである。突然、楊艶芳が異様なうめきをあげた。何か胸を灼《や》かれでもしたように両手でかきむしって、たちあがる。
「苦しい!」
「あっ、どうした?」
みな、愕然と総立ちになる。楊艶芳はなんともいえない表情でじいっと一同を見まわした。ふくれあがった顔の奥から細い眼が、恐怖と恨みにぞっとするようなひかりをはなった。……とみるまに、その唇のはしから、たらたらと血の糸があふれはじめ、顎《あご》を真紅の網に彩った。
「殺す。……ああ、やっぱり……あたしは殺される!」
彼女は物凄《ものすご》いさけびをあげると、よろよろとよろめき、どっとたおれるかにみえたが、そのまま胸をおさえて恐ろしい嘔吐《おうと》の声をもらしながら、つんのめるように大房からはしり出していった。びっくりして雪獅子も部屋をとび出す。とっさのことで、一座はしばらく金縛りにあったようである。たちまち、わけのわからぬ叫びをあげて、騒然と追っかけようとする一同を、
「まった。まった」
と、あやうく大手をひろげて応伯爵はたちふさがった。
「西大人、あにきだけゆけ。あとは、そのまま、そのまま。誰か――酒に毒を盛った奴がある。もとの金華酒には、毒はなかった。いまの、とっさのあいだに誰かがなげこんだのだ。身体《からだ》をあらためる必要がある!」
西門慶はかけ出していった。
応伯爵がいった。
「いま、皆さん御覧のように、艶芳さんののまされた毒酒は、失礼ながら、蘇竜眠先生、わたし、李嬌児夫人、孫雪娥夫人の手をへてわたされたもので、下手人はこの中よりほかにいるわけがない。わたしは蘇先生とおたがいに身体をあらためっこします。大奥さん、李瓶児さんは、まことに恐縮ながらとなりの書房へいって、李嬌児さんと孫雪娥さんをしらべてあげてくれませんかね?」
夏というのに、みんなの肌《はだ》は、恐怖と疑惑に鳥肌になっていた。
やがて、夢遊病者のように西門慶がもどってきた。
「あ、兄貴、楊夫人は?」
「死んだ。いや、わしが追いついたときは、あれの部屋の入口にうつぶせになって、もうこときれていた。伯爵、下手人はどいつだ?」
応伯爵はぼんやりと首をふった。
「わからない。……誰も毒の残りらしいものなど持ってはいない。……」
無明之章
下手人は、どうみてもその四人のうちにちがいないのだが、さてそのうちの誰かということがわからない。応伯爵はさておき、ほかの三人にはそれぞれ楊艶芳に一服盛っても意外とは思われない恨みや憎しみや憎悪があるし、なかでも西門慶がいちばん疑ったのは、やはりあかの他人の蘇竜眠先生だが、さてその先生に、
「めっそうもない。あの席に楊夫人が入っておいでになるとは予想もつかないことでしたし、そもそも楊夫人が謝珊珊であるなど、その直前にはじめて承わったことで、毒など用意しているわけがないではありませんか?」
といわれると、まったくその通りで、これは大なり小なり、ほかの容疑者にも通じる弁明であるし、西門慶は役所の方には然《しか》るべく手をうって、とうとう楊艶芳は病死ということにしてしまった。もっともさすがの西門慶もきちがいじみた艶芳にはいささかこのごろ手をやき気味であったし、第一最後の印象があの恐ろしい顔だから、そのまえの美貌《びぼう》はまったくかきけされ、執念ぶかくさわぎたてるほどの未練もなかったせいもある。……女は美しい顔で死ななければならない。……
陰陽師《おんようじ》の徐《じよ》先生に占ってもらった結果、埋葬は三七二十一日めにとりおこなうことになった。それから連日、西門慶はその用意や弔問の客の接待にまるでいくさのようなさわぎである。
初七日の夕方だった。報恩寺から十六人の和尚《おしよう》たちがやってきて霊前でお経をあげる。大広間に安置された柩《ひつぎ》の向うの灯明壇《とうみようだん》には、花をかざり、香を焚《た》き、豚や羊などの犠牲《いけにえ》がささげてある。応伯爵は、蘇竜眠先生とならんで神妙な顔でひかえていた。先生はすっかりこの家にいづらくなった様子だが、なまじ妙な因縁があるだけに、いますぐ辞去するというわけにもゆかないらしい。
「あっ」
ふいに孫雪娥のかるい悲鳴とともに、皆がざわざわしたので、伯爵が顔をあげると、白い猫が祭壇の肉をめがけて、すうっとはしってゆくのがみえた。
「雪獅子!」
うしろでしかる声がした。ふりかえると、喪服をつけた潘金蓮が、いつのまにやらひそと坐っている。雪獅子はあわてて逃げもどって、金蓮のそばにおとなしくうずくまった。
ごたごたつづきで気がつかなかったが、かんがえてみると、楊艶芳が死んでから、応伯爵ははじめて金蓮の姿をみることになる。この髪では、みんなのまえには出られないといって、死人を新衣でつつむ斂《れん》の礼のときも、納棺のときも彼女は顔をみせなかったのだが、さすがにいつまでもというわけにもゆかないので、やっときょうあらわれたのだろうが、なるほどみじかく切りとられた髪は、本人が美しいだけにいっそう無惨である。
と、鉦《かね》の音がたかまりはじめると、雪獅子はびっくりしたのか、またがさがさとさわぎはじめた。白いものの怪[#「ものの怪」に傍点]のように傍をはしりぬけようとする猫を、応伯爵はとらえようとして、いきなり手の甲をひっかかれた。
(この畜生め!)
手ににじむ血をおさえて、猫の行方をにらみつけると、雪獅子はもう金蓮の足もとにちょこなんと坐っている。金蓮がちょっと頭をさげて、わびるように、にっと笑った。どういう場所で、どういう姿でみせても、男を深酔いさせるような媚笑であった。
もっとも、本音をはくと、応伯爵は潘金蓮に惚《ほ》れているのである。西門慶のおかげで、酒ものめ、毎日面白おかしく暮せるのだから、ゆめゆめその愛妾たちにちょっかいを出す気はないが、ただこの金蓮だけには、一代の男|冥利《みようり》にと、大それたむほん気が、ともすればおこりそうなのに、じぶんでもこまっている。
応伯爵は、われながらだらしないと思われるような笑顔を金蓮にかえした。
(やっぱり、あの女はとびきりだ。楊艶芳などくらべものになるものか。そいつがわからないとは、あのへぼ[#「へぼ」に傍点]画家《えかき》め、世の中の何を美しいとみて絵をかいているんだ?)
――と、心につぶやいたとたん、ふと、海底からゆらめきのぼるひとつぶの気泡《きほう》のような或る考えがうかんで、応伯爵はぎょっとしていた。
(はてな?)
金蓮は、やさしく雪獅子の頭をなでながら、鉦の音の中にうなだれている。
読経がおわって、席をたつ人々のなかに金蓮の姿をみて、応伯爵はあわててあとを追った。
「金蓮さん、金蓮さん」
「あら、応さん、しばらく。……」
「どこへ?」
「こんな恥ずかしい髪でしょ? だから翡翠軒にでもいって、ひとりで休んでいようと思うの、あそこに半分かきかけの私の肖像もまだおいてあるはずですし。……ほんとに艶芳さんは、恐ろしい、お気の毒なことになりましたわね」
「いや、それじゃ私もそこまでおともしましょう。なあにあれは天罰ですよ」
「天罰? 何の天罰?」
応伯爵はとつおいつ思案にくれた顔で、だまってあるいている。ふたりはぶらぶらと後園の方へならんでゆく。
夕映のなかに、自然の豪奢な晩餐《ばんさん》のようにかがやいている牡丹の花園のところまできたとき、やっと意を決したように応伯爵がいった。
「金蓮さん、あなたもたいへんでしたねえ。顔はもうなおりましたか?」
「髪は、まだこれだけしかのびないわ」
「髪じゃなくて、顔ですよ」
「顔、あたしの顔が、どうかしまして?」
「蜂に刺されたでしょう?」
「あら、蜂に刺されたのは楊艶芳さんよ、あたしじゃないわ」
「いいや、楊艶芳さんの刺されたあと。――おそらく、その翌々日、あなたはここへきて、牡丹の中の蜂をさがし、じぶんですすんで顔を蜂に刺させたでしょう?」
潘金蓮はたちどまって、じっと瑞々《みずみず》しい瞳を見はって伯爵を凝視した。動揺はない。瞳のおくには、午睡のたのしい夢をやぶられた童女のような、ものういいぶかしさが満ちているばかりである。
応伯爵の方が、へどもどしてしゃべりつづける。
「いちばんはじめ、楊艶芳さんが蜂にさされたのは、あなたのたくらみであったか、どうか、それはわかりません。しかし、それに刺された艶芳さんがひどくうらんで、あの翌日、あなたの髪をきるのきらぬのとあばれ狂ったときから、あなたの心に、はっきりとひとつのたくらみが生まれたことはたしかだ。その夜、楊夫人は入れ替った。おそらく、楊夫人はじぶんの部屋からさらわれて、猿ぐつわでもはめられて、あなたの部屋に監禁されていたのでしょう。見張りは|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅《ほうしゆんばい》です。したがって、三日目からの、あの蘇子虚だの何だの、妙なことをいい出した楊夫人は、その実楊夫人ではなく、みずから蜂に刺されてふくれあがった顔をしたあなた、潘金蓮さんだったのです」
金蓮は、白牡丹のひとくきを折って、鼻孔にあてていた。
「だから、あの夕方、北廂房《ほくしようぼう》におしかけて、金蓮さんの髪をきったのは金蓮さんのひとり芝居で、おそらく髪をきる姿を来安にはみせなかったのでしょう。ほんとは髪をきったのじゃなく、あれはあらかじめ別に用意した髪ですよ。女の髪などは町でいくらでも売っていますからな」
「あたしの髪はごらんのようにきられていますわ」
「そいつは、それに筋書をあわせるように、あとで――昨日かおとといかにきられたのでしょうよ。あのときに髪をきる。それは一見、蘇竜眠先生に肖像をかいてもらうのを楊艶芳さんがじゃまをしたとみせかけて、実は、楊夫人が亡くなってからきょうまで――あなたの顔の腫れがひくまで、部屋にとじこもっている理由をつけるため、どうしても必要なふるまいだったのですな」
「……あたしが、艶芳さんに化けていたという証拠が、どこにありまして?」
「そいつを、ほんのさっき私は発見したのです。……雪獅子」
「雪獅子?」
「あのあなたの愛猫が、あの日以後の楊夫人に、いつもくっついてあるいていましたよ」
潘金蓮の顔色がはじめてすっと変った。夕日がしずかにかげってきた。
「そして、あの夜、大房で酒をのんでいた私どものところへあらわれたのも、むろんあなたです。そして、あなたはわざと蘇竜眠先生から盃をもらわれた。先生の甥が蘇子虚という男だったということを、どこからかきいていて、なんなら疑いがあの先生に、――あなたをえらばず第一番に艶芳さんをえらんだあのへぼ画家にかかればいいくらいのお考えだったかもしれんが、おまけにその酒壷が、李嬌児さん、孫雪娥さんのみならず、私の手をもわたったものだから、いっそうわけがわからなくなり、おかげでこの私までが真っ裸になるというとんだ道化芝居でしたよ」
金蓮は牡丹の花で顔をかくすようにして、立っている。牡丹の白い花弁が宵闇《よいやみ》のなかにかすかにふるえている。
「さて、その酒をのんで、あなたはいかにも毒をのんだというような真似《まね》をなすった。……」
「…………」
「あの血は、いったいどうしたものか。ひょっとしたら、鬼灯《ほおずき》に血をいれて、そいつをかみつぶしたものではないか。……」
「血、どこからその血を手に入れたのです? あたしのからだには、錐《きり》でついたほどの傷もなくってよ」
「へ、へ、なんならはだかになって、みせていただきますかな」
金蓮は顔から牡丹をはなした。蒼ざめた顔に、眼がうす青く、熱っぽくひかっている。
「え、いいわ」
「おっと、はだかになっていただくのはまだはやい。金蓮さん、女には、たしか、傷ひとつなくたって、あれくらいの血は手にいれる方法がありましたね。……」
「…………」
「話をつづけましょうや。そしてあなたはよろめきながら部屋をとび出して北廂房にいっさん走り、あとを追っかけた西大人が発見したのは、あらかじめ、そのすこしまえに、こいつはほんとに鴆毒《ちんどく》で盛り殺し、楊夫人の部屋の入口にひきずり出してあったあの屍骸《しがい》ばかり」
――刻々とふかまりゆく闇のなかに、潘金蓮は、だまって立ちつづけている。そこにいるとしらなかったら、牡丹の花のひとふさかともみえる仄白《ほのじろ》い顔だった。やがて、彼女はかすかに笑った。
「じぶんで蜂に刺されたり、髪をきったり、そうまでして、あたしが艶芳さんを殺す理由があるかしら。あたしを恨んでいたのは艶芳さんの方なのに」
「だから、あれは天罰だといっているのですよ」
「あたしにはわからないわ」
「私にはわかりますな。あの俗物のへぼ画家などは、第一番にかく肖像を艶芳さんにうばわれたあなたのやきもちだ、などいうかもしれませんが、ほんとうの女の美しさ、というものを解する私にはわかります。あれはほこり高い美の女神が贋物《にせもの》にそそいだいましめの血潮だということを。……」
金蓮の手から、はたと牡丹が地におちた。もう空にはまったくひかりがない。ただ夜の花園にむせぶような花の香が濃くたちこめてくる。
「応さん。……もうはだかになっても、はやくはない?」
「はやくはないが、金蓮さん、ひかりがないのが惜しいことで」
と、応伯爵は笑った。彼は潘金蓮が、自分の罪に眼をつむってもらうために必死の媚態《びたい》をこらしはじめたことを知っていた。そしてこの恐ろしい女が真に愛しているのは西門慶だけであることも知っていた。
「じゃあ」
あえぐような吐息が鼻孔にかかると、彼の唇に、夜露にぬれた牡丹の花弁のような唇がふれてきた。
(これで、おれの口は永遠にふさがれるわけか。そして、もしひらけば、二度めには同じ唇から、鴆毒がさしこまれてくるにちがいない。……)
そうかんがえながら、応伯爵は一|刹那《せつな》の甘美な戦慄《せんりつ》のなかに沈んでいる。そして、追う者と追われる者は一体となって、深い無明の闇に沈んでしまった。……
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[#見出し] 麝香姫《じやこうひめ》
霹靂《へきれき》之章
或る初秋《しよしゆう》の午後、日のひかりに白金《はつきん》のようにかがやいている西門家《せいもんけ》の門を、あんまり縁起のよくないものが二つ、とぼとぼと入っていった。
一つは新しい柩《ひつぎ》だが、もう一つは人間で、西門慶の親友の応伯爵《おうはくしやく》、この男を縁起のよくないというのは、きょうも、ほとほと債鬼《さいき》にせめはたかれて、なんとか西門慶から百両あまり借り出したいという目的でやってきたからだ。
「はてな」
と、応伯爵は、数人の人夫にかつがれて、さきに入っていった柩を見送って眉《まゆ》をひそめた。
「もう棺桶《かんおけ》の用意をするとは、李瓶児《りへいじ》さんはよほど悪いらしい。可哀そうに。……それにしても、あの柩は、こうみたところでも、三百五十両から四百両はするな。ああ、もったいないことだ」
李瓶児というのは、西門慶の第六夫人で、この夏の終りごろから重病の枕《まくら》もあがらない女である。支那《しな》では、まだ病人が生きているうちに、立派な棺桶をつくってみせてやり、安心させてやる風習であるが、その紅い絨毯《じゆうたん》につつまれた柩も、幅三尺、長さ七尺五寸の、みごとな楸材《ひさぎざい》のものであった。
「ああ、わしも死にたい。首でもくくりたい。わしが死んでも……しかし、あんな立派な棺桶は要らん。もっとも、どこのどいつも、あんな棺桶をつくってはくれまいが……毛無し野郎の糞《くそ》坊主へのお布施も要らん。ただ、生きているうちに、香奠《こうでん》をくれないかな。たった百両でいいのだがな。……」
応伯爵は憮然《ぶぜん》としてつぶやく。西門慶は伯爵が大好きで、また太ッ腹な男であるが、一方で、大金持だけあって、なかなか金にうるさいところがあって、いままで借金の上にも借金をかさねてきた応伯爵もさすがにまたねだるのが気がひける。気がひけるどころか、図々しい半面、存外はにかみ屋でもある応伯爵は、考えるだけでも口が膠《にかわ》のようにひらきにくい。
鬱陶《うつとう》しい顔で大広間に通ると、ここはまた、棺桶をはこびこまれた家ともみえないくらい、例によって例のごとく陽気でにぎやかである。尤《もつと》も、主の西門慶には、李瓶児のほかに第一夫人の呉月娘《ごげつじよう》、第二夫人の李嬌児《りきようじ》、第三夫人の孟玉楼《もうぎよくろう》、第四夫人の孫雪娥《そんせつが》、第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》という百花|撩乱《りようらん》ぶりだから、それもむりはないかもしれない。
「いよう、伯爵か、いやにふさいでいるが、お金の話はごめんだぜ」
と、それらの夫人にかこまれた西門慶は、赤い顔でにやにや笑いながら、盃をさし出す。
「李瓶児が思わしくなくなってな。気鬱《きうつ》ばらしに、時ならぬ花見の宴としゃれている。まあ坐《すわ》ってつきあってくれ」
「花見?」
と、ぬけめなく先手をうたれた応伯爵は苦笑して、
「みたところ庭に花らしい花もみえないようだが、花は奥さん方か」
「ばかをいえ。この匂《にお》いがわからないか」
「あ、なるほど」
そういわれて、鼻をぴくつかせるまでもなく、あたりの空気を、色なく染めて、むせかえるような甘い薫《かお》り。――眼をもういちど庭になげると、窓のすぐ外に枝をさしかわす金木犀《きんもくせい》と銀木犀《ぎんもくせい》の細かい花が、それこそ黄金と白銀の粒を盛ったようにひかりつつ秋風にしずもっている。
「しかし、ながく嗅《か》いでいると、胸がわるくなるような匂いだな。わたしには、やっぱり、御婦人方の匂いの方がいいね」
と、応伯爵はわざと鼻をくんくん鳴らして傍の孟玉楼の袖《そで》に顔をこすりつける。
「はははは、伯爵、お前に女の匂いがわかるか」
「わかるともさ、いつかもいったように、李嬌児さんには芙蓉《ふよう》の匂いがし、いま御病気の李瓶児さんには百合《ゆり》の香がし、この玉楼さんには……さて、なにかな、もういちどよく嗅がせて――」
「いけすかない、応さん」
と、孟玉楼は袖で伯爵の顔をはらりとたたいて、つんと向うへにげた。
「こいつ、まるで犬のような奴《やつ》だな」
「左様、犬は一里もさきから牝犬の匂いを嗅ぎつけるし、虫は花の薫りをしたって、十里の向うからとんでくる。まず女の香をかぎわけるぐらいの能がなくって、どうして色の道を語れるものか。わたしなんぞ、好きな女の匂いに似た匂いなら、かいだだけでもうむらむらしてくるて」
「おや、伯爵、きょうはいやに鼻息があらいな。しかし、これはなるほど語るに足りる。わしもな、女の肌の匂いについては、いろいろ好ききらいもあり、またそれを嗅ぎわける能にかけては、また人後におちん方だとうぬぼれているが……」
と、こういう話になると稀代《きだい》の大好色漢だけに、西門慶は大恐悦で、舌なめずりして膝《ひざ》をのり出し、
「それで、伯爵、芙蓉の香りとか、百合の匂いとかいったが、おまえ、女のどんな匂いが好きだね?」
「わたし?……わたしは……さあ」
と、応伯爵はちょっと考えて、にやりと一方にながし眼をやって、
「わたしは、麝香《じやこう》の匂い。麝香の体臭をもつ御婦人」
西門慶はすぐ傍の第五夫人潘金蓮をちらりとみる。鬢《びん》のみえるまで銀糸で黒髪をたくしあげた金蓮は、さっきからだまって、頬杖《ほおづえ》をついたまま、舌の上に蓮《はす》の実をのせて、噛《か》むでもなく、吐くでもなく、もてあそんでいた。深沈たるあどけなさ、清純なる妖艶《ようえん》さとでも形容すべき絶世の美女である。道楽者の応伯爵が、少なからずいかれているのもむりはない。
「金蓮か」
と、西門慶は不安と会心の笑みのいりまじった表情で応伯爵をながめたが、ふとなにやら遠くを見つめるような眼つきになって、
「なるほど、麝香の匂いをもつ女――」
「あにきもそうかい?」
「伯爵」
西門慶の両眼はみるみる生き生きとかがやいてきて、
「おまえは、麝香の体臭をもつ女といえば金蓮しか知らないのか」
「ほほう、ほかにもどなたかござるかね?」
「あるともあるとも、おまえも知ってる女でな、金蓮はいかにも麝香の体臭をもっているようだが弱い、弱い。まず麝香鼠《じやこうねずみ》くらいなものだ。そこへゆくと、あの女はすばらしい。正真正銘、雲南の麝香|鹿《じか》の香嚢《こうぶくろ》を子宮の奥にもっているのじゃないかと思われるくらいだ。わしはあの香をかぐと、息がはずんで、下腹のあたりが充血してくるような気がする。むかし楊貴妃《ようきひ》の汗は、この世のものならぬふくいくたる香気をもっていたそうだが、あの女も、たしかにその点魔性だね。……」
「おい、ひとりで、うれしがっているが、その女はいったい誰《だれ》だい? え、西大人」
「李桂姐《りけいそ》だ」
「李桂姐、李|姐《ねえ》さんなら知っているが、はてな」
李桂姐とは、清河県《せいかけん》の花街随一の名花で精力絶倫の西門慶の寵妓《ちようぎ》である。西門慶はにたにた思い出し笑いをして、
「それは、おまえなんぞ知るまい。李桂姐が麝香の匂いを放つのは、ただあれが月のもの前後の数日にかぎるんだ。そのとき、あいつは、いつも奥ふかくひきこもって、ふつうの客のまえに姿をあらわさないからな」
そのとき、大広間の扉《とびら》がひらいて、ひとりの女が入ってきた。五色の肩かけに金雀色《ひわいろ》の裙子《クンツ》をつけ、蓮歩楚々《れんぽそそ》というより、泳ぐようによろめきつつ歩んでくる。七尺の距離で、みんな鼻孔にむせぶような麝香の香がからまってきた。息がつまるばかり仇《あだ》っぽい、熟《う》れきった、瓜《うり》ざね顔の美人であった。
「噂《うわさ》をすれば影とやらだが、これは珍客だな」
と、応伯爵が眼を皿《さら》のようにしてつぶやく、西門慶もめんくらって、犀《さい》の皮椅子《かわいす》から立ちあがった。
「李桂姐!……ど、どうして、ここへ?」
李桂姐の色を失った唇《くちびる》はわなないて、しばらく声にならなかった。やっと胸の動悸《どうき》をおさえていった。
「旦那《だんな》さま、武松《ぶしよう》が町にかえってきました」
香合之章
一同の顔色がさっと変った。青天霹靂《せいてんへきれき》とはこのことである。なかでも総身水をあびたようになったのは、主の西門慶で、
「な、なにい? 武松がかえってきたと? いつ、どこでみた?」
「おひるすぎ、紫石街《しせきがい》で王婆《おうば》がみかけたそうです。なんでも武松さんは墨染の衣に数珠《じゆず》を首にかけ、大きな戒刀を二本腰に吊《つ》った行者の装いに化けていたそうですけれど、身の丈八尺のあのひとをみまちがえるはずがないと、王婆が蒼《あお》くなってとんできましたわ」
「ううむ、それで、保甲《ほこう》には知らせたのか」
「早速人をやって、知らせましたけれど、相手が武松さんですから、おじけをふるって知らない顔をしています。それにこのまえの騒動の罰は、一百の刑杖《けいじよう》とその後の恩赦ですんでいるから、また新しい罪を犯したのならともかく、何もしないものをとらえることはできないと。――」
「武松め、なにしにこの清河県にまいもどってきたのだろう?」
保甲とは、自治警察官のことである。
さて武松という男が町に帰ってきたときいて、たちまち西門慶がふるえあがったのもむりはない。それにはつぎのようなわけがある。
第五夫人の潘金蓮は、数年前しがない町の餠売《もちう》りの武大《ぶだい》という男の女房だった。春の或《あ》る日、彼女が竿《さお》で戸口の簾《れん》を下ろそうとしていると、ふと竿が、手からはなれて、たまたま往来を通りかかった貴公子の頭にたおれかかった。これが西門慶で、ふたりの縁がむすびついたはじまりである。なにしろ稀代の妖婦《ようふ》と色男、となりの茶店の王婆の手びきで、たちまちただならぬ仲となったが、ここまでは町の人々の面白おかしい話題となった。ところが、十数日ののち、金蓮の夫の武大が、一夜のうちに九穴から血をながして悶死《もんし》してしまったわけは誰も知らない。ただ西門慶が検屍《けんし》役人の何九《かきゆう》 叔《しゆく》に少なからぬ銀子をひそかに贈ったという噂《うわさ》はながれている。
武松はこの武大の弟である。しかも、三|寸丁《ずんおとこ》とあだ名をつけられた兄とはうってかわった八尺の大男、身躯凜々《しんくりんりん》、相貌堂々《そうぼうどうどう》、眼は寒夜の星のごとく、眉は漆《うるし》のごとく、斗酒なお辞せず、荒獅子《あらじし》のごときあばれん坊である。曾《かつ》てちかくの景陽岡《けいようこう》で、額の白い大虎《おおとら》を素手でなぐり殺したその豪勇を買われて清河県のとなりの陽穀県《ようこくけん》で巡捕《じゆんほ》の都頭《ととう》となった。
兄が変死をとげたとき、彼は官命で都の開封《かいほう》へ出張していて留守だったが、やがて帰ってきて、兄の死と町の噂をきくや、果して怒髪天をついて、たまたま獅子街の橋畔の酒楼で、役人の李外伝《りがいでん》と一ぱいやっていた西門慶のところへおどりこんだ。西門慶は窓からにげ出して、あやうく難をのがれたが、そのときの恐怖は生涯《しようがい》夢魔となってつきまといそうなくらいである。とばっちりをうけて李外伝がなぐり殺され、酒楼は暴風のふきすぎたように荒らされ、そして武松は保甲の群にとらえられた。
このときも、西門慶は知県に莫大《ばくだい》な贈物をしたといわれているが、とにかく、武松が訴える嫂の密通や兄の毒殺は根も葉もないことだという判決が下され、武松は一百の棒を背に加えられたのち、頸《くび》に七斤半の鉄枷《てつかせ》をはめられ、遠く孟州《もうしゆう》の牢城《ろうじよう》に送られた。
その豪傑が、最近、徽宗《きそう》皇帝が東宮をたてたので恩赦になったときいて、びくびくしていたが、さていよいよ町へもどってきたとなると、西門慶たるもの震駭《しんがい》せざるを得ない。お上の方では「武松がもういちど罪を犯したのならともかく」といっているそうだが、その新しい罪というのが、西門慶の殺されることであるかもしれないのだ。そして、李桂姐があたふたととんできたのもこれまたむりからぬことで、このいまは西門慶の寵妓である彼女は、武松が都頭をしていたころ、彼の愛人だったのである。
「ううむ。これは当分、わしは町へ出られないな」
「あたしは……旦那さま、あたしはどうしたらいいのでしょう?」
おろおろしている二人に、横からおちついた声がかかった。
「李姐さんもこの屋敷にいらしたらいいじゃありませんか。この屋敷なら奉公人も多いし、乱暴者が奥へ入ってくるまでには、いくつか門があるし、大丈夫だと思いますわ」
潘金蓮である。応伯爵はふりむいて、舌をまいた。ひとごとのようなせりふであり、顔色である。しかし、武松がいちばん狙《ねら》っているのは、李桂姐よりも西門慶よりも、潘金蓮かもしれない――どころか、感情としてはそれにきまっているのだ。
金蓮は、ものうげに卓に頬杖をついたまま、
「武松は嵐《あらし》のような男です。嵐は、空と風次第。こちらが屋根と壁をせいぜい丈夫に守った以上は、どうすることもできやしません。それに、人間、死ぬときはどうしたって死ぬのです」
にこりとして、
「それより、いつ死のうと心のこりのないように、この世をたのしみぬいた方が賢いんじゃありません?……だから、旦那さま、いま旦那さまは、あたしたち女にとってききずてならないことをおっしゃった。それがほんとか、どうか、ちょうど李姐さんもいらしたことだし、香合せでもして遊んでごらんにならない?」
「な、なんのことだ?」
「さっきからきいていれば、やれどの女の匂いがいちばん好きだの、やれ百合の香だの、芙蓉の香だの、みんな嗅ぎわけることができるだの、ばかなことおっしゃって、ほんとにいい気なものだと思うわ。ねえ、みなさん?」
この女には、生命の危険よりも、おのれの魅力の問題の方が気にかかるとみえる。しかし、これはなにも金蓮にかぎったことではなく、女というものぜんぶがそうらしく、まして、肌の匂いについてはまったく無視されたほかの愛妾《あいしよう》たちも心おだやかでなかったとみえて、金蓮にふりむかれて、たちまち、がやがやと私語し、うなずき合いはじめる。
「そうよ、そうよ、肌の香りなんて、どの女だってそんなに変りはないわ」
「だから、旦那さま、ほんとに女の肌の匂いだけ嗅いで、それが誰かわかるかどうか、お部屋をまっ暗にして、いちど嗅ぎわけてごらんなさいな」
「それは、面白いな」
と、応伯爵が手をうち、西門慶もちょっと眼をかがやかせたが、すぐ、がっくりと首をたれ、溜息《ためいき》をついて、
「待て待て、武松の方をなんとか手をうたなければ、とても、それどころではないわい。……」
――その西門慶が、金蓮のいい出した奇怪な遊戯を実演してみようという気になったのは、それから二日目の夜のことである。
それには、もともと彼が、そんな破格な遊びが大好きな下地があるのに加えて、ひるま役人の何九が、人骨を百八ツの玉とした数珠を頸にかけた行者武松はけさはやく町の門を出て、東北の済《さい》 州《しゆう》 梁《りよう》 山泊《ざんぱく》の方角へあるいていったという報告をきいて、ほっと胸をなでおろしたからである。それに、月経のあいだだけ麝香の匂いを放つといわれる例の李桂姐が、いまちょうどその時期で、それをにがすと、また一ト月待たなくてはならないからだ。
中秋名月とは約一ト月おくれたが、やはり美しい満月の夜だった。それときいて、もとより応伯爵は、舌なめずりしてとんできたが、かんじんの部屋からはしめ出されてしまった。場所は、花園の中にたてられた玩花楼《がんかろう》の広間だが、もとより女の香合せは、あたら月光を扉でさえぎった闇中で行われるのに、とくに金蓮の提案で、女たちは香を焚《た》きしめた衣服をぬぎ去り、肌を洗って全裸体になるのだから、いかに眼にみえないとはいえ、道楽者の応伯爵など、危なくってとうてい入れさせることなどできるものではない。で、彼は不平満々として、母屋の一室で、酒をのんで待っている。
「……旦那さま、もうよくってよ」
玩花楼の二階は、質草のうちで、とくに高価な書画や骨董《こつとう》や、南京《ナンキン》の五色|緞子《どんす》などを入れた部屋になっていて、豪華なそれらの財宝をみまわしながら、これまたにやにやと盃をかたむけていた西門慶は、女のひとりが下からそう呼んだ声に、酔歩蹣跚《すいほまんさん》として階段を下りていった。
「玉楼……雪娥……李嬌児」
呼んでみたが、もとより返事はない。
「李桂姐……潘金蓮!」
どこやらで、誰か、くすっと忍び笑いをしたが、あとはそれっきり、しーんとなった。階段をおりたところで、西門慶はしたたか足を何かにぶっつけた。それが先日運びこませて、一応ここへ置いてある李瓶児のための柩だとはすぐわかったが、それもちらっと頭の一隅をかすめただけである。
広間はもとより闇黒である。そのうばたまの闇《やみ》のなかに、正夫人の呉月娘をのぞいた五人の美女が雪白の裸身を、或《ある》いはたたずませ、或いはうずくまり、とくに金蓮などは闇中をいいことに、どんないたずらっぽい、淫《みだ》らな姿態をしているかもしれたものではないと思うと、すべて、それらの肉体のすみずみまで知っているはずの妾《めかけ》たちながら、西門慶にも、それは胸がどきどきしてくるような、一種異様な魅力であった。
芳夢之章
漆をぬりこめたような闇のなかを、鼻をぴくつかせながら、西門慶はさまよいあるく。香《こう》ばしい肌の匂いと甘い女の息の薫りを求めて。――
彼は絶対に女の身体に手をふれることはできないことになっている。もちろん彼には何にもみえないけれど、彼の跫音《あしおと》をきいて、女たちが身をひくわけだが、ただそのまえに主がやってきたとき、女たちは、はあっと彼に息をはきかけるのだ。すると西門慶は「青い小盒《こばこ》は潘金蓮に」といった風に指摘してから、右手の小盒をその女にわたすのである。
彼はあらかじめ右手に青い盒、左手に赤い盒、右の袖に黒い盒、左の袖に白い盒、懐に紫の盒をもっている。それぞれの中に、紅玉《こうぎよく》、真珠、瑪瑙《めのう》、猫睛石《びようせいせき》、孔雀石《くじやくいし》が入っているが、妾たちはどれがどの色の盒に入っているかは知らない。とにかく、そのときわたされた宝石は彼女らにくれることになっている。宝石のねうちにそれぞれ差があるわけだが、それがわからないから、人情として、誰もがじぶんに手渡された小盒の中に、いちばん高価な宝石が入っているような気がするだろうから、盒をとりかえるおそれはない。
「うむ……なるほど芙蓉の香がする。おまえは李嬌児だな。それ、赤い小盒は李嬌児に」
と、西門慶は、闇のなかに左手の盒をわたした。むれるような、ゆたかに甘い香りがもやもやと彼の顔をつつみ、やがてその女はしりぞいてゆく。
「はて、これは誰だろう?……丁子《ちようじ》の匂い。……ふうむ、さて……ああ、わかったぞ、これは孟玉楼だろう?」
あいた左手を思わずつき出すと、掌《てのひら》がくりっと隆起した乳房にふれた。右手の青い小盒をその女にわたして、笑いながら西門慶はなお歩きまわる。
次に彼は、かすかに肉桂《につけい》のような匂いをはなっている孫雪娥とおぼしき女に、左の袖からとり出した白い盒をあたえた。あとにのこったのは、潘金蓮と、李桂姐である。
麝香のかおりを求めて、西門慶は歩いた。ときどきたちどまって、鼻をぴくぴくさせる。――とそのとき、花園の彼方で、遠く鏘然《しようぜん》とまるで鉄の棒が石甃《いしだたみ》に鳴るような音がした。はっとして西門慶は顔をあげたが、音はそれっきりきこえない。
ぷーんと、すぐちかくで濃い麝香の匂いがした。西門慶は歩みよった。
「李桂姐」
そう呼んだとき、また石甃にあの物音がした。だいぶちかくなっている。
「旦那さま。……」
と、不安そうにすぐ傍で声がきこえた。いかにも李桂姐の声である。しかし今夜は女の誰もが声をたててはならないことになっているのに。……
「あたし……ちょっと、ここを出てはいけませんでしょうか?」
「どこへ?」
「あの、……おなかが痛いんです。さっきから、しぶるような気がして、一生懸命がまんしていたんですけれど。……」
「待て。――あの音はなんだ?」
すぐ玩花楼のちかくで、また鉄と石の相搏《あいう》つひびきがきこえる。のみならず、こんどはあきらかに何物かの跫音がまじってきこえた。
「旦那さま! ひょっとすると……」
扉の方で、恐怖にしめつけられるような声をなげたのは潘金蓮だ。
「――武松かもしれません。……」
「なんだと? 武松が!」
傭人の注進も犬の吠《ほ》え声もなかったが、あの鬼神のような武松なら、ひとにらみで犬も人も気死させてしまうかもしれない。西門慶は恐怖のために麻痺《まひ》したようになってしまった。
扉が鳴った。誰かが外側から押しているようである。
「だ、旦那さま……はやく、李姐さんもはやくかくれて!」
「金蓮。――ど、どこへ?」
「どこかへ――はやく、あの棺の中へでも!」
そのとき、気絶したように、腕のなかへ李桂姐がたおれてきた。それをひっさらうように、西門慶は、それこそ闇雲《やみくも》に階段の下へよろめきはしる。
扉の内側にかけた閂《かんぬき》がはじけとんだ。凄《すさま》じい怪力である。その一瞬、柩のなかに李桂姐とともに身をなげこんだ西門慶は、はたと蓋《ふた》をとじてしまった。危急のさいには、人間は不可思議な能力を発揮するものといわれるが、よくそれだけのことができたものと、のちのちまでも西門慶は、それをふりかえってわれながらぞっとしたことである。
だから、それ以後のことは、柩の中の西門慶にはみえなかったが、ほかの妾たちは、扉が八双にひらいて、ぱっとながれ入る月光のなかに、いったい何をみてどうしたのか。まるで妖光《ようこう》に吸いよせられる黒い蛾《が》のようにすぐ内側からおよぎ出していった潘金蓮の姿をみた。
「ああっ……ゆるして――武松!」
凄じい金蓮の悲鳴と鉄杖の音がきこえた。光はこちらまでとどかなかったが、恐ろしさのあまり三人の女はひしと両掌《りようて》で顔を覆った。
金蓮の悲鳴がはたと絶えたので、おそるおそる顔をあげたとたん、妾たちは、ひらかれた扉の青い炎のような月を背に、ぬッくとつっ立った凄じい姿を見たのである。何やら頭巾《ずきん》か衣のようなものを頭からかぶっているが、たしかに片手に巨大な鉄棒をもった、身の丈八尺にあまる巨漢の姿を。
「西門慶……にげるなよ!」
おし殺した牡牛のような声がきこえた。くらんだ妾たちの眼に、一瞬に青い光とその姿はきえた。扉がふたたびとじられ、広間が闇黒にもどったのだ。
しかし、その人間は入ってきた。闇のなかに、世のつねならぬ重量感のある跫音と、あの物凄い鉄棒の床をうつひびきが、どっし、どっしと歩いてくる。
彼はときどき立ちどまった。妾たちの姿はまだ発見しないようである。だから棺桶の存在もみえなかったのか、わかってもまさかそのなかに生きている人間が二人も入っているとは気がつかなかったのか、やがて鉄杖をひきずりつつ、階段を上っていった。
妾たちは石の像みたいに立ちすくんだまま、その隙《すき》に逃げ出すことも忘れている。いや、忘れているわけではないが、物音をきいて、すぐに武松が飆風《ひようふう》のように二階からかけおりてきそうなのと、だいいち、腰がぬけたようになって、身体が恐怖に金縛りになっていたのだ。
武松は二階で何をしているのだろう?……一瞬が一刻にも思われる。髪の毛の逆立つ思いとはこのことである。が、三人の妾たちより、その数十倍も、言語に絶する苦悶《くもん》を味わっているのは、もとより棺中の西門慶と李桂姐であった。
苦悶は、いまにこの蓋をあけられはしないかという、骨から脂のにじみ出るような生命の恐怖からばかりではない。なんといっても屍体ひとつを入れるに足りる棺の中である。そこへ、西門慶は、李桂姐を抱きかかえたまま、仰むけにころがりこんでいたのだ。上と下と、ぴったり重なったまま、それっきりふたりは身うごきひとつできなくなってしまったのだ。文字通り、息のつまる苦悶であった。
四本の足は縄《なわ》のようによじれ合い、大きく起伏する美妓の乳房が西門慶の胸毛をおしつぶし、つき出した彼の顎《あご》は、ひらいた女の口にくいいって、はっはっとはげしい息が、濃い霧のように彼の鼻孔をつつむ。まさに窒息しそうな麝香の芳香であった。――ふっと恐怖に麻痺した西門慶の脳髄を、苦痛の快感、ともいうべき異様な陶酔がひたした。
が、それもほんのしばらくのことである。まもなく、李桂姐は、汗ばんだはだかの体を、こすりつけるようにして、奇妙に蠕動《ぜんどう》させ波うたせはじめた。
「旦那さま。……」
「――しっ」
「あたし、……切なくって……切なくって……」
「――しっ」
死物狂いの西門慶の叱咤《しつた》に、彼女は歯をくいしばった。けれど、喘《あえ》ぎが舌を吐かせた。涙をこぼした。全身が汗をにじみ出させた。そして、ついに、口ではないところから、声が――いや、異様な音があふれはじめた。
「――しっ」
西門慶は必死だ。が、あふれ出すのは、音ばかりではない。熱い、粘稠《ねんちゆう》な液体のようなものだ。それは上の女から下の彼へ、したたり、ながれ、ひたしてゆく。そして、棺の中には麝香と、それからもうひとつの濃厚な薫りがとけあい、密雲のように満ちていった。
「ああ……ああああ!」
ほとんど女は、法悦にちかいうめきをあげた。瀉泄《しやせつ》の快感はいずれの個所もおなじであるが、とくにこの場合は、生命《いのち》にかかわるものだけに、李桂姐がわれをわすれて、欲望放出のさけびをもらしたのもむりはない。
しかし、西門慶は、もはや叱責の声すらでない。悲鳴もでなければ、嘔吐《おうと》もできない、膠《にかわ》のように抱きあったまま、李桂姐は、あとからあとから、かぎりなく排泄《はいせつ》しつづける。そして、せまい棺の中の空間を、芳烈な麝香と糞汁《ふんじゆう》の悪臭が、濃厚微妙にまじりあいつつ、しだいにふたりを、まるで花氷のようにつつみ、凝固してゆくのだった。……
満月之章
それだから西門慶は、いつ武松が二階にのぼり、広間に降りてきたのか知らず、まして、いつ玩花楼を去ったのか、半失神状態のうちに知る由もなかった。いや、ほかの妾たちにも、恐怖のあまり、武松がとどまっていた時間がどれほどであったか、はっきりとわからなかったくらいである。
彼女らには、ほとんど数更のあいだと思われたが、あとできいてみると、西門慶が李桂姐の前にたったころから、なんとなく胸さわぎをかんじたといって母屋から応伯爵がかけつけてきてくれたときまでにも、一点(約半時間)足らずであったらしい。
ともかく、ふしぎにも魔人武松は、何事もなすことなく立ち去った。かんじんの西門慶と李桂姐をさがしあぐねたくらいだから、他の妾たちもついに眼中に入らなかったものと思われる。さらに奇蹟《きせき》的な倖《しあわ》せだったのは、玩花楼の扉の外にたたきつけられた妖婦潘金蓮が、ただたたきつけられて二、三箇所打身とかすり傷をつくったくらいで、生命がたすかったことで、武松は或いは西門慶退治ののち、ゆっくりと金蓮を料理するつもりであったのが、かけつけてきた応伯爵の跫音《あしおと》でもきいて、いちはやく退散したのかもしれない。
もっと不思議千万だったのは、金蓮はもとより、ほかの三人の妾たちも、はっきりとあの八尺にあまる巨大な黒影を目撃し、あの凄じい鉄杖のひびきと、「西門慶。……にげるなよ!」という牡牛みたいな咆《ほ》え声をきいたことはたしかだというのに、宏大な西門家の幾重もの門の番人や奉公人のなかに、誰ひとりとしてその姿をみたものがないということであったが、なにしろ素手で虎をなぐり殺すくらいの男だから、どんな魔力を心得ているか知れたものではない。
そして二日後、何九《かきゆう》 叔《しゆく》の知らせによれば、やはりいくら探しても、清河県に武松の姿はみあたらないという。
危難はひとまず去ったけれど、全然被害者がないというわけでもなかった。三日めの日暮れ方、泣く泣く李桂姐が花街へ追いかえされたことである。
門のところで、暗い恐ろしい町をながめ、またうしろに冷淡無情な西門慶の眼をふりかえり、哀れな歌妓は悄然《しようぜん》と歩み去っていった。
西門慶はすぐに家のなかにとってかえす。今宵《こよい》から、第六夫人の李瓶児の病態がとみにあらたまったからでもある。
あとにふたりの男女がのこった。応伯爵と潘金蓮である。
「暗香浮動《あんこうふどう》して月黄昏《つきこうこん》、か。……」
と、ひくく吟ずるようにつぶやいて、応伯爵が東の空をみあげる。その東の空から、垂死《すいし》の病人を抱いた西門家の甍《いらか》の上にかけて、陰暗《いんあん》たる黒雲がながれ、その雲のふちが玲瓏《れいろう》たる銀いろにかがやきはじめている。
「金蓮さん、おかげさまで」
と、応伯爵がにやにやとお辞儀して、懐からとり出した五十両の馬蹄銀《ばていぎん》二|錠《じよう》を、掌のうえでちゃらつかせた。
「西大人、命びろいのうれしさに、玩花楼の二階の手文庫から、これだけ紛失していることに気づくどころではないらしい。これひとえに、金蓮さんのかしてくれた智慧《ちえ》のおかげで」
「どういたしまして」
潘金蓮は、つんと会釈してあるき出す。一味同類のつもりで尾をふったら、急によそよそしくされた犬みたいに、応伯爵は哀れっぽい、うろたえた顔つきになって、あわててそのあとを追う。
「破天荒の詭計《きけい》まンまと図にあたったり。へへ、誰も、まさかあの武松が、肩かけを頭にまき、肩からかぶったあなたを肩車にしたこの応伯爵であったとも、閂がはじめから折ってあったとも、あの大鉄杖が鉄片を竹竿のさきにくっつけたものであったとも、恐怖に逆上した眼ではわからなかったのもむりはない。……」
まんまるい月が、乱れとぶ雲間から、凄艶《せいえん》な顔をのぞかせた。応伯爵はくすくす笑って、
「はははは、化けの皮がはがれちゃこまるから、たった一度だけ、西門慶、にげるなよ! とおどしてみたが、いやその可笑《おか》しかったこと、棺桶の中で西大人、生きながら半分死ぬ思いだったことでしょうて」
金蓮はにこりともしない。なにか憂わしげに、うなだれて、石橋をわたっている。
「おや、金蓮さん、なにをそんなに思案にしずんでいるのです?」
「うるさいわね、応さん。……お金を手に入れる算段をしてあげたのだから、もうあたしにはかまわないで下さらない? お礼はもうたくさん。――」
「これはまた薄情なおことばで、おなさけない。そうおいでになるなら、いいたくないが、わたしだってだいぶあなたのお役にたったつもりで」
「なにが? あの騒動であたしが何を得しました? わざわざ、じぶんで打身やかすり傷こしらえて」
「へへ、金蓮さんともあろう方が、わたしにお金をつくって下さるお心根だけで、わざわざ打身やすり傷をこしらえなさろうとは思われない。わたしにお金をつくってやるからというあの御相談は、実は世をいつわる――いいや、このわたしをつかって、西大人と李姐さんを棺桶においこみ、そこで兄貴を姐さんの肌の香りの大魔力からときはなそうという、太公望《たいこうぼう》、黄石公《こうせきこう》も鼻をつまんで三|舎《しや》をさける六韜三略《りくとうさんりやく》の計」
「え?」
「おそらく、あの夕、あなたは食物にまぜて、そっと李姐さんに牽牛子《けんごし》をのませましたね。朝顔の種子を粉末にした奴を。……あれは峻下剤《しゆんげざい》として恐ろしいききめがあります」
「…………」
「とかなんとか、見てきたようにえらそうな口をききますが、実は、あなたが、西大人とわたしの、女の匂いの品定めをした直後からこの大計画にのり出されたことを知ったのは、ほんのさっき、李姐さんの門を出てゆくあわれなうしろ姿をみた刹那《せつな》からで。……御安心なさい。兄貴はもはや二度と李姐さんの匂いなんかにひかれやせんでしょう」
「…………」
「艱難《かんなん》をともにするは易く、倖せをともにするのは難い。が、おなじ共犯者が、事がうまくはこんだのちに仲間われしちゃばかげていますな。さあさあ、金蓮さん、にっこり笑顔をみせて下さいよ。……とはいうものの、未だひらかぬ美女の顰《ひそ》みをながめては、伯爵さらに思うらく」
「…………」
「金蓮さん、あなたの愁いは、麝香追放のはかりごとが、逆に転じて、あなたまでが西大人にうとましがられやしないかということではないのですかな」
潘金蓮は、じっと応伯爵をみつめた。やがて、青い涙の珠《たま》が月影に浮かびでて、幼女のようにこっくりとうなずく。虫がいいといえば虫がいいが、可憐といえば可憐でもある。とうていこれがあの驚天の詭計をたくらんだ女とは思われない。
「李姐さんの肌の香も麝香なら、あなたの肌の香も麝香。――なるほど、こいつは相討ちになるおそれがある。ちいっと考えが足りませんでしたなあ」
「あたしは、たとえ恋するお方ににくまれようと、ほかの女があたしより可愛がられることにはがまんがならない女なの。愛しさよりも憎しみが先にたつ女なの」
と、潘金蓮はしみ入るようにつぶやく。
「あたしは、ひょっとすると、悪い妖婦のたちかもしれませんわねえ。……」
応伯爵は口をぽかんとあけた。
あれだけのことをやってのけて、いまほろほろと泣きながら、ひょっとすると私は妖婦のたちかもしれない、などとつぶやく女の姿を凝視《ぎようし》したまま、彼はなんともいえない、ぞーっとするような奇妙な戦慄におそわれた。
「いいえ! いいえ!」
突然、潘金蓮は顔をふりあげた。拳《こぶし》をにぎりしめて、
「とにかく、李桂姐は追いはらったわ。あたしはあたし、あたしは勝った。あたしは負けやしない。きっと、きっと――」
その麝香の香に匂いたつ顔とならんだ青い満月が、すっと、ひかりを失って銅盤みたいに錆《さ》びたのを、茫然《ぼうぜん》として応伯爵はながめている。自信と誇りにみちた、稀代の大妖婦のつぶやきであった。
「あたしは、いつまでも旦那さまをつかまえて、はなさない。……」
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[#見出し] 漆絵《うるしえ》の美女
死恋之章
西門慶《せいもんけい》は椅子《いす》にしずみこんだままじっと李瓶児《りへいじ》の肖像を見つめている。
絵の中の第六夫人李瓶児は、頭に金の冠をいただき、双鳳珠子《そうほうじゆし》の飾をつけ、身には真紅の花袍《かほう》をまとい、片頬《かたほお》に、もちまえの歯痛をこらえているような可憐なもの哀しい微笑をたたえていた。いつか西門家に逗留《とうりゆう》していた画家の蘇竜眠《そりゆうみん》がかいていってくれたもので、まるで生けるがごとき五彩の漆絵《うるしえ》であった。
李瓶児が死んだのは、もう一ト月まえの九月十七日のことだった。いままで、どの妾が死んだときだって、いや、ずっとまえ、正夫人の陳恵秀《ちんけいしゆう》が亡くなったときだって、こんな盛大ではなかったと思われるほどの葬式をやったのは、まだ五日ばかりまえだが、それまでも、その後も、西門慶はずっとこの霊前に寝起きして、あけくれ嘆きかなしんでいる。
「可哀そうな女だった。……」
李瓶児はもともと、西門慶の隣家にすむ親友|花子虚《かしきよ》の妻だったのを、その花子虚を悶死《もんし》させてまでうばいとった女である。小づくりで、さびしくって、おとなしい女だった。いまの正夫人|呉月娘《ごげつじよう》はもとより、ほかの妾たちには誰《だれ》も子ができないのに、彼女は去年の六月に子を生んだ。稀代の好色漢ながら、それだけ多血質の西門慶が、どれほどその官哥《かんが》と名づけた赤ん坊を熱愛したろう。ひところは、まったく女などには一向に関心がないほどだった。……
「あいつは、これっぽっちも悪いことなどしなかったのに、どうして死んでしまったんだ? ほかに死んでもいい女どもはいっぱいいるのに!」
可愛がっていた官哥が変死をとげたのは、この八月末のことである。第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》が飼っている雪獅子《ゆきじし》という白猫が、赤い着物をきた官哥を、なんとかんちがいしたのか、いきなりとびかかってその顔をかきむしり、おどろきのあまり赤ん坊はひきつけて、とうとう死んでしまったのである。急をきいてかけつけた西門慶は、鬼神のように雪獅子をつかみあげ、穿廊《せんろう》の石だたみめがけてたたきつけ、血へどを吐かせて殺してしまったが、愛児の生命はかえらない。
「坊や! 坊や! あたしをのこして死んじゃいや! いいえ、あたしもゆく、あの世できっとお乳をあげる!」
李瓶児はそう泣きさけびつづけたが、病気はきっと、そのかなしみのせいにちがいない。……
李瓶児はそれからめっきり弱ってしまった。いつも経血がひたひたとながれてとまらない死病にとりつかれてしまったのである。それでも、この重陽《ちようよう》の佳宴《かえん》には病躯《びようく》をおして、風にもたえぬ夕顔の花のような姿をみせていたが、途中、いつしか座からきえていたのを、まもなく、じぶんの房で浄桶《おまる》の傍に下半身を鮮血にそめて失神している姿を部屋つきの小間使い迎春《げいしゆん》が発見して、そして、それから約十日ばかりの苦しみのはてに、ついに亡くなってしまったのだった。……
「旦那さま。……」
扉《とびら》をあけて、第二夫人の李嬌児《りきようじ》と第四夫人の孫雪娥《そんせつが》が顔をのぞかせた。
「大広間で、お食事の用意ができましてよ。湯《スープ》もたべごろで、お酒もあたたまりました。すぐいらして。――」
「勝手にたべろ」
と西門慶はふりむきもしないで、弱々しい声でいった。わがままで、粗暴で陽気なこの主人が、こういうあの世の亡者みたいな声を出すようになってから、もう幾日たつことだろう。……ふたりの妾は、顔を見合せ、肩をすくめて出ていった。
「情のふかい女だった。……」
と、西門慶はなおも李瓶児のまぼろしを追う。あいつが、おれの熱情と手管《てくだ》で、はじめかなしげな顔をし、うっとりとなり、ついに天性のつつしみぶかさを失って、快美のあえぎをあげてくるさまは、あの白楽天のうたった琵琶《びわ》の音いろの変化を女体のうえにみるようで、おとなしい女だけに、ほかのあばずれなどとは雲泥《うんでい》の差のある、たえがたい魅惑《みわく》だった。……
「旦那さま。何をなすっていらっしゃいますの? 酒がさめると、応さんが気をもんで、そりゃうるさくってしかたがないんですのよ」
と、こんどは第三夫人の孟玉楼《もうぎよくろう》がよびにきた。
「おまえこそ、うるさいぞ!」
西門慶はかみつくようにどなった。
孟玉楼がきもをつぶして去ってから、彼は首をふった。
「いやいや、李瓶児は、おれにあんまり怒っちゃあいけないとよくいったっけ。……それから、酒をのむな。それから、あんまり、女道楽をするなと。……養生して長生きをして下さいと。……ああ、やさしい女だった! かわりにおれが死ねばよかった!」
みあげると漆絵の李瓶児は、かなしげな笑いを浮かべながら、彼に何やら話しかけそうである。西門慶はぽろぽろと涙をこぼした。
「また、泣いていらっしゃるの?」
李瓶児がいったのかと思った。西門慶はぎょっとした。が、ふりかえると、いつのまにか、こんどは呉月娘が、心配そうに、また不快そうな顔でたっている。
「おきもちはわかるけど、死んだ人は死んだ人でしょう? いくら泣いたって、生きてかえりゃしませんよ。この一ト月、まるで髪もとかさず、顔もあらわず、それじゃ鉄の人だってたまりませんわよ。それどころか、李瓶児さんが死んだとき、毒気のある死人の顔に顔をこすりつけたりして……まるで正気の沙汰《さた》じゃないわ」
同情が、しだいに正夫人らしい愚痴になる。
「男なら、すこしは心におさえておけないものかしら? 李瓶児がきてから三年ものあいだ、一日としてたのしい思いをさせなかったのが不愍《ふびん》だなんて……まるであたしがあのひとに水を汲《く》ませたり、粉をひかせたりしたみたいじゃないの?」
西門慶は一言も発しないで、しずかにふりむいた。その顔が、呉月娘のおしゃべりをいっぺんに封じてしまった。およそ悲哀を忘れたような造作が、涙にぬれながらわなないて、腸《はらわた》もちぎれんばかりの表情をかたちづくっている。――呉月娘は溜息をつき、首をたれて、そっと去っていった。
「李瓶児、どうしておれをすてていってしまったのだ?……おれももうながくはない。生きていても生き甲斐《がい》がない。……」
西門慶は、がばと頭をかかえこんで哀哭《あいこく》した。
「李瓶児! 李瓶児!」
「あにき。……おい、あにき」
と応伯爵《おうはくしやく》が入ってきた。いい男で、どこか剽軽《ひようきん》な脱俗のおもむきがあるが、さすがに心配そうだ。ついにたまりかねてやってきたらしい。もっとも、おさきに一杯やっていたとみえて、いささかあかい顔をしている。
「尤《もつと》もだ。尤もだが、すこし水気を入れなきゃ、涙も涸《か》れるよ。……酒と盃をもってきた。ここでふたりでのみながら、しみじみと泣こう。……」
西門慶が、あかん坊のようにこの友人の肩にしがみつこうとしたとき、扉のあたりで、ひくい、やさしい、ふくみ笑いの声がきこえた。
「……人間というものは、死んでからも、倖せと不倖せがあるものなのねえ。……」
「なに」
扉にもたれかかっているのは、第五夫人の潘金蓮である。金糸で胡麻《ごま》の花を刺繍《ししゆう》した汗巾《かんきん》で、これもほんのり桃色になった頬をあおぎながら、うっとりとした眼で、李瓶児の肖像をながめている姿は、この世のものとも思えない美しさだった。彼女はほのぼのと笑いながら、西門慶と、うしろにつれてきた小間使いの春燕《しゆんえん》をみくらべた。
「ねえ、春燕、おまえの兄の琴童《きんどう》も、そりゃあ旦那さまに可愛がられたものだったよ。でも、李奥さまとちがって、おまえの兄は、死んだらそれっきり、旦那さまのお口から、琴童の琴の字も出たことはない。……」
春燕はぽかんとしている。ただ、西門慶と応伯爵の顔色が蒼《あお》ざめた。
春燕之章
「どうも、あにきの愁嘆《しゆうたん》ぶりにはこまったな。……ほうっておくと、ほんとにあれじゃ李瓶児のあとを追いかねませんぜ」
底なしの蒼空を、雁《がん》が鳴いて通る。めっきりさむくなって、朝夕人の唇がむらさきにかわるほどになったが、日中は碧落《へきらく》に黄金色のひかりがみちて、草も樹《き》も生命の最後の祭典のように、錦繍《きんしゆう》に身をかざってしずかにかがやくのだった。宏大な西門家の、裏山にちかい林のなかである。
「金蓮さん、なんとかあなたの美しさで、西大人をもとの陽気な人にさそいもどせませんかな」
ぶらぶらとあるきながら、応伯爵は、ちょっと潘金蓮の方をみる。すこしはなれて、虫籠《むしかご》をもった小間使いの春燕があるいている。……潘金蓮はだまって、美しい舌を出した。応伯爵も首をすくめて、
「いや、……こんどこそは、さすがのあなたの美貌《びぼう》も歯がたたんかもしれん。もし、西大人の恋いしたう相手がこの世に生きている女であったなら、それは金蓮さんにかなうものじゃない。が、こんどの相手は死人です。肖像画です。……生きている李夫人は、あなたの恋敵のうちにも入らなかった。しかし、あの漆絵となった李夫人は恐るべし。失った小さな翡翠《ひすい》は、もっている大きな真珠より惜しいものだ。ふたたびかえらないものへの無限の哀惜、追憶と幻想が、あの漆絵をまさにこの世のものならぬ夢幻の魅惑あるものに化粧させてしまった。……」
「ほんとに、しゃくだわ」
と、金蓮がつぶやく。だだッ子みたいにあどけないその口調が、応伯爵を微笑させる。
――と、同時に、ふと先日のことを思い出して、ちょっと不安になり、
「しかし、金蓮さん、しゃくにさわるかもしれませんが、こないだは少々ぎょっとしましたよ」
「こないだ?」
「……左様。琴童のこと」
「ふ、ふ、だって、しゃくですもの」
と、金蓮は平気な顔で笑った。ゆらゆらとはこぶ蓮歩《れんぽ》の下から、八方に青い虫がとぶ。……美しいうすら笑いをうかべた横顔に、応伯爵がいよいよ胸さわぎをかんじたとき、
「春燕、春燕」
と、金蓮がふりかえってよんだ。秋の蝶《ちよう》を追っていた春燕は、あわててはしってきて、七歩のところでたちどまる。まだ女になりきっていない年ごろだが、兄の琴童が珠を彫ったようにりりしい美童だったのによく似て、清純な、勝気な、少年じみた美少女だ。
ところで、応伯爵には、琴童の死後、潘金蓮がこの妹をつれてきて、じぶんの小間使いにした心理がわからない。ましてや、彼女が春燕のいるまえで、「あの秘密」をともすれば口ばしりそうにする気持がわからない。……もっとも、この金蓮という女は、しゃくにさわると、なにをするか捕捉《ほそく》しがたい無鉄砲なところがある。
「あのねえ、春燕。……」
「はい、なんでございましょう? 奥さま」
「おまえの兄のことなんだがねえ。……悲しいだろう?」
「それは、もう……奥さま。毎夜、兄の夢をみない夜とてはないくらいでございます。母も、兄が死んでから、急にがっくりして亡くなったくらいですもの」
「琴童は、ほんとに旦那さまに可愛がられていたわ。あたしがねたましいくらいきれいな子だったからねえ。……」
「金蓮さん。……」
応伯爵は思わず声をあげた。いったい金蓮は何をいいだそうとするのだろう?
「その琴童がなぜ死んだか?」
と、潘金蓮は平然として、ひとりごとのようにつづける。応伯爵は両腕をまえにさしだしたまま、金魚みたいに口をぱくぱくさせている。
「ほほ、春燕、実はおまえの兄は、西門家から知らせたように病気で死んだのじゃあなかったのよ。……春燕、もっとこっちにおより、なぜ、そんなにはなれてたっているのさ?」
「いいえ、金蓮奥さま。奥さまのお傍に漆の樹がございます。あたし漆に弱いものですから」
といったが、春燕の顔も、金蓮の言葉にびっくりして、真っ蒼《さお》だ。
「おい、金蓮さん。……」
「いいの、いいのよ、応さん。あたし春燕に懺悔《ざんげ》しなくっちゃ苦しくって。いつかいおうと思っていたんだわ。琴童はねえ、実は旦那さまの御成敗をうけたのがもとで死んだのよ。男のものをきられたのがもとなのよ」
とうとういってしまった。応伯爵は硬直している。
「あの秘密」を知っているのは、西門慶と金蓮と応伯爵の三人だけだ。西門慶が、小間使いの春燕をみるたびになんとなく具合のわるい顔になり、そのくせ彼女を放逐しろと金蓮にいいつけることができないのはその弱味のためだ。
「……というとおまえは旦那さまを恨むかもしれないけれど、それはたいへんなお門ちがい」
と、金蓮は応伯爵をかえりみて、にやにや笑った。
「なぜかというと、おまえの兄が宦者《かんじや》にされたのは、実をいうと……ついもののはずみで、このあたしと色をしたのがまちがいのもとで。……旦那さまが御立腹なさるのはあたりまえでしょ?」
「……はい」
と、春燕はうなだれて、ふるえている。
「侍童と妾との色事。……世間さまのどこに出しても、旦那さまのおはらだちはむりもないと思うわ。だからあたしも罰をうけたのよ。はだかにされて、おへそのうえに蝋燭《ろうそく》をともされたわ。……そして琴童は、男のものをきられた。しかも、それは旦那さまの御発意じゃない。おまえの兄の朋輩《ほうばい》だった画童《がどう》が、そんなむごたらしい智慧《ちえ》を出したの。だから琴童が怒って、のちに画童を殺し、そしてじぶんも死んでしまったの。……ゆめにも、旦那さまを逆うらみしちゃいけませんよ」
「……はい!」
「うらむなら、あたしをお恨み、わるいのは、このあたしだからね。おまえを小間使いにしたのは、その罪ほろぼしのためなの。……だまっていようと思っていたわ。けれど、こんど李瓶児さんが亡くなって、あの旦那さまのおなげきぶりをみるにつけ、つい死んだ琴童のことが思い出されて、可哀そうで可哀そうで、ついしゃべっちまったの。……」
春燕の手から、いつしか虫籠が地におちている。大きな澄んだ眼に、涙がいっぱいにたまって、きらきらとかがやいている。……いまの女主人の恐ろしい告白が、その淡雪《あわゆき》のような魂にどれほどの衝撃をあたえたろうか。
それにも思いおよばないのか、潘金蓮はけろりとして、蒼穹《そうきゆう》をながれる雲母《きらら》のような白い鱗雲《うろこぐも》をあおいで、
「おかげさまで、胸がせいせいしてよ」
と、快さそうな息をついて、それから名状しがたいほどの妖艶《ようえん》きわまる媚笑《びしよう》を浮かべた。
「応さん、応さん。なんだか気持がかるくなって、元気がでてきたわ。そう、これなら、きっと旦那さまを墓場の入口からひきもどせそうな気がしてきたわ。……」
この稀代《きたい》の淫婦《いんぷ》の天衣無縫ともいうべき心の変転には、酸いも甘いもかみわけたつもりの応伯爵も、ただぽかんと口をあけたっきり、声もない。
石榴《ざくろ》之章
さて、女ごころの酸いも甘いもかみわけたつもりの粋人応伯爵に、しばしば狐《きつね》につままれたような思いをさせるほど不可解な妖婦潘金蓮は、いったいどこをどうしたのか、それから十日もたたない或《あ》る夜のこと、まんまと西門慶といっしょに寝ていた。
「ちょいとそこの茉莉花酒《まつりかしゆ》とって。……ああ! ほんとうに、しみじみと味の濃い季節になったわねえ!……お酒も、そして、色事も」
金蓮は白いのどくびをあげて盃をほしながら、そんなことをいった。秋ふかい夜だというのに、真っ裸で寝台に腰をかけている。ちょいとよじった腰はなよなよとくびれているのに、乳房はつんとつき出して、象牙《ぞうげ》の椀《わん》をふせたようだった。……唇《くちびる》をぬらした酒のしずくが、琥珀色《こはくいろ》にかがやきながら、まるい顎《あご》からのどくびをつたって、その隆起のあいだをすべっていった。
「ほんとに何ヵ月ぶりかしら?……死人ばかり恋い慕って、くやしいったらありゃしない」
きゅっとつねった。
「あいたたたた」
西門慶は甚《はなは》だだらしがない。もともとたえず七、八人の妾をもって、その上、花街の歌妓《かぎ》やら手代番頭の女房やら、ところきらわず手を出す大好色漢である。ひとたび妙な禁制《タブー》をといて、白旗をかかげたとなると、もう矢も楯《たて》もたまらばこそ。
「おい、はやく、ねろ」
「待ってよ、秋の夜はながいわよ。……旦那さま、まだ李瓶児さんへのみれんがおのこり?……なにさ、あんないつも泣いてるような女」
「これ、仏の悪口はいうな」
「ほら、すぐにそうむきになる。ああくやしい! いっそ、あの肖像画をひきさいてやろうかしら?」
「と、とんでもない! そんなことをするとかんべんしないぞ」
「まあ、こわい顔、ほ、ほ。――と、いちじはかんがえたくらいですけどね。やめました。あの肖像画はやぶっても、旦那さまの心に李瓶児さんの幻がのこっているならなんにもなりゃしない。いっそ漆絵ならば、いつか年とともに剥《は》げるでしょう、色褪《いろあ》せるでしょう。……それをいま破ってしまえば、いまの美しい漆絵が、永遠に褪せず、剥げることのない胸のうちにのこることになるのですもの。……」
「なにを、愚図愚図ひとりごとをいっているんだ。おい、はやく横になれといったら」
「あっ、待って! 御馳走は、ゆっくりたべるもの。――」
「じ、じらすのもいいかげんにするがいい。金蓮!」
手をとってひかれると、花のような身体《からだ》がくずれて、真紅の唇がぴったりと西門慶の唇にかさなる。金蓮はたえだえの息の雲をはきかけながら、むせぶようにいった。
「旦那さま。……あの、梵僧《ぼんそう》からもらったお薬は?」
――梵僧の薬とは、いつか西門慶が城外永福寺に出かけたさい、そこの大禅堂で逢《あ》った、西域天竺国《せいいきてんじくこく》は密松林、斉腰峯寒庭寺《さいようほうかんていじ》からやってきたという羅漢《らかん》みたいな古怪な老雲水からもらった秘薬で、
「形は卵《らん》、色は鵞黄《がこう》、外見は糞《ふん》のごとく、内は玉より貴し。掌上のこの丸薬、用うれば飄然《ひようぜん》として身は極楽に入る。一戦して精神さわやか、再戦して血気つよし。夜を徹しておとろえざること槍《やり》のごとく、ひさしく用うれば腎《じん》をうるおし、百日にして髭《ひげ》くろく、千朝にして体おのずから強し。一夜に十女を御するもその精とこしえに損われず、老婦は眉《まゆ》をひそめ、淫娼《いんしよう》は三舎を避く。……」
――という、いやはやたいへんな薬だが、能書きほどではないにしても、ききめはたしかにあるようだ。
金蓮が、それをいい出したのは、いわゆる御馳走に、にんにく、脂肪、香味料をふりかけて、いよいよ濃厚絶妙の珍味たらしめようという下ごころからだろうし、西門慶ももとよりそれに否やはないが、さて、まえにもいったように、だいぶまえから李瓶児の肖像画のまえで精進潔斎《しようじんけつさい》していたこととて、その場にその媚薬《びやく》があるわけもない。
「誰か、呼べ。……はやく、もってこさせろ」
「いいわ、あたしがとってきます」
潘金蓮は、寝台からするりとぬけ出して、枕頭《ちんとう》の燭台をうごかせて蝋燭に灯《ひ》をとると、西門慶のながい袍《パオ》をふんわりとひっかけて、房を出ていった。
……風がでてきたとみえて、家をとりまく林が、夜の潮騒《しおさい》のようにどよめくのがきこえる。
じじっと鳴る銀燈に、眼をあげると、漆絵の李瓶児は、もの哀しそうに、なまめかしい寝台を見下ろしている。
金蓮があんまりその肖像に燭台をちかづけていったので、あぶないと手を出そうとしたが、そのとき、ふと肖像の眼に、ちらっと白くひかるものがみえたような錯覚がして、西門慶はあわてて蒲団《ふとん》を頭からかぶってしまった。
金蓮はなかなか帰ってこない。
(ちくしょう。どうしたというんだ、薬のある場所は知っているはずなのに。……)
閨《ねや》のなかは、たまりにたまった西門慶の欲情のために、むれるようである。火のようなものが、下半身からもえあがり、血がごっと風匣《ふいご》みたいな音をたてて全身をかけめぐる。おあずけをくった餓狼《がろう》そっくりの苦悶《くもん》と激怒が、彼の口をあえがせた。
――と、そこへ、音もなく入ってきた女の影がある。
「旦那さま。……」
「金蓮か!」
「いいえ。……春燕でございます」
西門慶はぱっと蒲団をはねのけた。おどおどとたっているのは、まさに金蓮の小間使い春燕のういういしい姿である。
「あのお薬をもっていってくれといいつかりましたので、ここに……」
「金蓮はどうした?」
「奥さまは、もういちどお化粧をなおしてからおいでになりますそうで……」
「ばかな! な、なにをのんきなことをしているんだ。よし、そこの茉莉花酒をとってくれ」
西門慶は、春燕からうけとった金の小匣《こばこ》から二粒の丸薬をとり出して、盃にあけると、ぐっとのんだ。
春燕は、おじぎして、出てゆこうとする。その腰がくねるように左右にうごく。西門慶は血ばしった眼でそれを追った。……媚薬がきいて、眼が肉慾《にくよく》にもえたぎってきたせいにちがいない。あのまだほんの小娘だと思っていた春燕の臀《しり》が、今夜なんと男の胸をかきむしるような、熟れきった、なまめかしいうごきをみせることか。……
「ま、待て! 春燕!」
西門慶はばねのようにはねあがって、春燕の肩をひっつかみ、声もあげさせず寝台の上にその小さな身体をほうった。たちまち娘の紐《ひも》がきれてとぶ。裙子《クンツ》がひきちぎられて宙に舞う。慾情の嵐《あらし》が、春燕のうえを覆った。
――一瞬、二瞬、三瞬。……
突如として、西門慶の悲鳴に似たさけびがながれた。
「あっ……、こ、これは!」
寝台からころがりおちた彼の眼が、驚愕《きようがく》と恐怖にかっととび出している。春燕は、身をねじらせて、ばたりと横たわったまま、笛のような泣き声をたてていた。
石榴《ざくろ》――むきだしになった美少女の下腹部には、石榴の花が咲いていた。真っ赤に腫《は》れあがって、外がわにめくれ出した巨大な貝のような肉のうえに糜爛《びらん》した水疱《すいほう》やら膿疱《のうほう》やらが無数につき、上半身が清麗きわまる雪白の肌《はだ》だけに、この世のものとは思えない、悪夢のような景観である。さっき、臀をくねらせてあるいていたのもむりはない。……
「しゅっ……しゅっ……」
西門慶は、奇声を発した。
「春燕。こりゃ、なんだ?」
慾望の爆発寸前に、それがねじ伏せられたときほど男を怒らせることはない。男は気の狂った野獣にかわる。まして、天性、ひとたび怒れば、ひとなみはずれて残忍になる西門慶である。仁王のごとくおどりあがったが、突然、その眼に、恐ろしい追憶の膜《まく》がかかった。
寝台の上に横たわった春燕に琴童の亡霊が重なった。曾《かつ》て西門慶のために宮刑《きゆうけい》をほどこされて、下半身血と腐臭にただれた美少年の姿が彼の眼によみがえった。……眼が恐怖にくらんだ。
「琴童!」
夢中になって、その白い細い頸《くび》をおさえつける。
「いや、春燕。きさま、病気をわしにうつして、わしを腐らせて、兄の敵討をしようとしたな。……ううむ、恐ろしい奴《やつ》!」
西門慶は狂乱したかのごとくしめつけた。ぐゎうと風がわたって、ぱたりとおちる。……急に異様な沈黙が部屋にみちた。
――まるで、その一陣の魔風がえがいていったように、そこに吹きおとされた惨麗な血曼陀羅《ちまんだら》から、ふらりと西門慶が身をおこしたとき、風のなごりか、すうっと銀燈がゆらめいた。
はたと、なにやら肖像が音をたてた。はっとしてふりかえると、その下におちた一匹の玉虫が、ぶうんと舞いあがって、妖《あや》しい金緑色の虹《にじ》をえがいた。
が、西門慶はそれをみていない。西門慶は凝然と壁の肖像をみつめている。
「……おお……」
しぼり出すようなうめきが、その唇からもれた。
李瓶児が泣いている。すでにぐったりとうごかなくなった春燕と、彼女を殺してしまった西門慶をしずかに見おろして、漆絵の美女の眼から、ふたすじの涙がひかりつつながれおちている。……
微笑之章
――その朝、あけがたから債鬼にせめたてられた応伯爵が、れいによって西門家ににげこむと蒼《あお》い顔をした潘金蓮に手をとられて、だまってその部屋にひきこまれた。
「…………?」
西門慶はいつものように、李瓶児の画像のまえの椅子に、ぐったりとしずみこんだまま、頭をかかえこんでいる。が――ふと、寝台のうえをみて、応伯爵は腰をぬかしかけた。
「あにき。……」
「……金蓮がわるいんだ」
と、西門慶はほそい息をついてうめいた。
「金蓮の奴め、おれをさんざんじらしておいて、途中ですっぽかしおった。そこへあの梵僧の薬をもってきた春燕に、おれが手を出したのは、当然のなりゆきだ。……」
「あの……恐ろしいありさまは、あんたのしたことかい?」
と、応伯爵は、わざと春燕の下腹部から眼をそらして溜息をつく。
「いいや、はじめからだ。まるで、鯉《こい》のつもりで手をつっこんだら蝮《まむし》をつかんだような気持だった。琴童の幽霊かと思ったよ。……さっき金蓮にきいてみると、金蓮め、十日ばかりまえ、やっぱり琴童のことを春燕にしゃべったそうだ、春燕のやつ、おれに病気をうつして、兄のしかえしをしようとしたのかもしれん。……」
「病気? ……なんの病気だろう。金蓮さん、御存知ありませんかな?」
潘金蓮は、横をむいて舌を出した。
「まさか、応さんたら、ひどいことを」
「いや、これは失礼、ただ御婦人だからたずねたまでで。……あたしゃ、こうみえて、玉茎玉門の疾病についちゃなかなか蘊蓄《うんちく》がふかいのですがな」
「なにをいばっていらっしゃるの?」
「陳自明《ちんじめい》の婦人大全良方に曰《いわ》く、便毒の生ずる、欲心甚だしき人、昼の思うところ、夢寐《むび》の間に発してうごかずといえども精気ただちにながれずして滞《とどこお》り、或《あるい》は交合の数合を欲して強いて精液をとどめ、或は女子|陰戸《いんこ》中に|※[#「病だれ<於」、unicode7600]留《おりゆう》の精湿《せいしつ》をたくわえ、男子これに交わりてその湿熱穢濁《しつねつわいだく》の気をうけていたすものあり。……そんなら、春燕より、西大人の方がおさきにかかりそうなもんだ。淋疾《りんしつ》でもなければ、下疳《げかん》でもないらしい。浸淫瘡《しんいんそう》ともちがうし、熱沸瘡《ねつふつそう》ともちがうようだ。……」
応伯爵は、ふと壁の肖像画に眼をあげた。
「おいっ……西大人、なんか……李瓶児夫人が、涙をながしているじゃないか」
「あれか。実はわしもあれには胆をつぶしたんだ。死骸《しがい》を見下ろしてぼんやりしていると、ふとあの絵が音をたてて、よく見ると、李瓶児が泣いていた。……」
「絵が、音をたてた?」
「いや、すぐ傍に燭台がおいてあったものだから、一匹の玉虫がとびこんできて、ぶつかった音らしい。あの涙は蝋《ろう》だ」
「ほう。……蝋涙《ろうるい》」
「きくと、金蓮めが、絵にやきもちをやいて、いたずらをしておいたという。その蝋が燭台の熱さにとけてながれおちたものらしいが、いやそのときわしは、ぞーとして、心《しん》ノ臓《ぞう》を、氷《こおり》の手につかまれたような気がしたよ。……わるいいたずらをする奴だ」
「だって……しゃくですもの」
と、金蓮は、あどけなく微笑した。
応伯爵は眼をかたくつむったまま、合掌して、
「しかし、なんにしても可哀そうなことをしたな……南無頓証仏果《なむとんしようぶつか》」
「おい、伯爵、おれは、ど、どうしよう?」
「まさかあにきをどうするわけにもゆかん。しかしなんだ、事の収拾《しゆうしゆう》には、まだ百両の銀子は要るな。検屍役人の何九《かきゆう》に五十両はやってよろしくたのまなくちゃならんし、あとの五十両は……春燕の供養料としてわたしがあずかっておこう」
やれやれ、これで借金の責苦《せめく》がひとまずしのげる、と考えて、応伯爵はもういちど神妙《しんみよう》に合掌する。
「そもそも、あにき、あんたがいつまでも仏の画像などにこがれているからこんな始末になったのだよ」
「おっ、そ、そうだ、伯爵、あの漆絵をどこかへもっていってやき捨ててくれ」
「なに? それはまた恐ろしく豹変《ひようへん》したね」
「あの肖像は恐ろしい!」
西門慶は、またじっと壁の漆絵をあおいで、わなわなとふるえた。
「たとえ、蝋の涙だったにしても、わしはあのとき、李瓶児がわしをみていると思った。あの瞬間の恐ろしさが忘れられんのだ。わしは、あの漆絵をみるたびに、これからいつまでも、昨夜の、地獄のような思い出になやまされるだろう。それはたまらん。……がまんができない。……」
西門慶は、急にまた両手で頭をかかえこみ、上半身をゆすってしぼり出すようにわめきはじめた。
「おいっ、伯爵。とにかく屍骸をなんとかしてくれ。それから、漆絵をもっていってくれ! はやくはやく!」
「おっと、合点」
応伯爵はめんくらって、あわてて壁から漆絵をはずし、小わきに抱いて部屋を出た。
朱塗の勾欄《こうらん》をめぐらした長い廻廊《かいろう》に、黄色い落葉が、からからと鳴りつつ舞ってゆく。――ふと、しとしととうしろにつづく跫音《あしおと》に応伯爵はふりかえった。
潘金蓮があるいてくる。かなしげな、まじめな表情で、楚々《そそ》と歩をはこんでくる。
「おや、金蓮さん、なにをそんなにうれしそうな顔をしているのです?」
と、応伯爵がたちどまると、金蓮はびっくりしたように憂愁にみちた眼をあげて、
「まあ、あたしがうれしそうな顔。……うそおっしゃい」
「うそじゃありませんよ。ほんとにうれしくってたまらない顔だ。鏡をもってきてあげましょうか?」
金蓮は不安そうに頬をなでた。
「小間使いの春燕が殺されたのに、あたしがうれしがるわけがないじゃありませんか?」
応伯爵は、もちまえの片えくぼを彫った。
「いいや、それはそうにしても、あなたはまんまと目的をとげたのですからねえ」
「目的?……あたしになんの目的が」
「これですよ、このわたしが小わきに抱いた李夫人の画像」
「それが、どうしましたの?」
「あなたの恐ろしい恋敵を、みごとに放逐しましたねえ」
「放逐したのは、あたしじゃありません。旦那さまのお勝手ですわ」
「と、みえて、そうではない。なみの手段ではとうてい及びもつかない漆絵の魅惑を、西大人の頭のなかでまんまと世にも恐ろしい事件とつないでしまいましたねえ、そこにいたるまでの方法も、まるでほころび放題のようで、実によくあにきの気性をのみこんだみごとな策謀だ。画像の眼に蝋をつけたのもあなた、扉の外から玉虫を画像めがけてなげつけて、西大人の注意を絵にむけたのもおそらくあなた。……」
「知りません、そんなことは、あたし」
「まさか、あにきが春燕を殺すとまでは見究めはつかなかったろうが、最も不快なものをみて一騒動おこすことまでは、心のうえのからくりで、ちゃんと事ははこんである。……」
「不快なもの? 春燕の病気まであたしのせいだとおっしゃるの?」
「左様」
「あたしが移したとおっしゃるの?」
「左様」
「ほ、ほ、なんなら、あたしの……あれをみせてあげましょうか?」
「是非」
潘金蓮はついに沈黙した。頬に紅の色がのぼって、怒りに匂《にお》うその顔を、応伯爵はにやにやとながめいって、
「もっともあなたの……からだは、しみひとつない白玉にちがいない。春燕に病気をうつしたのはあなただが、それはあなたのからだからじゃない。おそらく、馬桶《マトオン》――浄桶《おまる》からですよ」
「…………」
「あなたは、春燕のつかう浄桶の底に、漆の樹液をいれておきましたね」
「…………」
「春燕の病気は、ありゃ漆かぶれですよ。女は漆に弱いもの、まして身体のなかでいちばん柔らかな場所へ、むき出しに下から毒気を、真っ向にふきあげられてはたまらない。……」
蕭条《しようじよう》と、甍《いらか》に軒に、雨のごとくふる落葉の音のなかに、ふたりはしばらくだまってたっていた。……やがて、潘金蓮が、しみ入るような声でいった。
「それから?」
「それからは、何もない」
と、応伯爵は微笑した。
「どうしたくっても、あなたは直接手を下したわけでなし……それに、あにきの金と同様に、この幇間《ほうかん》の口をとじさせるものがあなたにありますよ。すなわち、これ、絶世の美貌」
潘金蓮は笑った。傲然《ごうぜん》たる向日葵《ひまわり》のような笑顔だった。
「金蓮さん、西大人はこの肖像をやき捨てろといったが、わたしはやき捨てません。家にもってかえって、あにきに代り、この薄倖《はつこう》の佳人を弔ってあげるつもりなんですがね。……わたしにゃ、ちっとも嫉《や》けませんかねえ?」
「おきのどくですわ、応さん。……」
金蓮は冷やかにまた笑った。秋の日が、氷のようにその笑顔に照る。まわりに落葉が霏々《ひひ》とふり、旋飆《せんぴよう》としてめぐる。あたかも黄金の渦《うず》のように。――
応伯爵は、まるで拈華微笑《ねんげみしよう》の仏像でも仰ぐように、法悦にみちた顔でたちすくんでいた。……
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[#見出し] 妖瞳記《ようどうき》
蝙蝠《こうもり》之章
山東|清河県《せいかけん》きっての豪商|西門《せいもん》家の、ながいながい煉瓦塀《れんがべい》にそって歩いてきた応伯爵《おうはくしやく》は、その曲り角で、ふいに暗がりからばさと飛び立った黒いものにおどろかされた。
「なんだ、蝙蝠か」
舌打ちをして、思わず眼で追う妖しい翼のきえていったうす暗い雲母摺《きららずり》の空には、もう糸のような弦月が朦朧《もうろう》とかかっている。――そこから、眼をもとにもどして、もういちど足をふみ出そうとした応伯爵は、ふたたび、ひえっというような奇妙な叫びをあげた。
思いがけず、そこにひとりの男が立っているのである。暮れなずんだ晩夏の夕も、この時刻になっては、何者ともさだかには見分けられないが、ひょろりと背のたかい、そして、応伯爵よりももっとおちぶれた身なりの男だった。
応伯爵とむかい合っても、その男はひとこともいわなかった。のみならず、まるで彼の姿がみえないかのように、ふらふらと歩いてきて、あわてて身をよける伯爵の傍を、すうっとすれちがって去ってゆく。
「……はてな」
すれちがうはずみに、薄明りにちらとみえたその男の痩《や》せ衰えた横顔に、応伯爵は小首をひねった。その気味のわるい男は、たしかに片目――左の目が糸のように細く白いのを見とめたからである。まるであの弦月そっくりに。
「そうだ、あの男は、たしか……」
はたと手をうってふりかえると、いくら暗いとはいえ、空にその月もあるのに、ほんのいますれちがった男の影は、まぼろしのように溶けている。応伯爵はきょろきょろして、それからぞっと冷水をあびせられたようになり、急にばたばたと大門めざしてかけ出した。……
応伯爵は、この邸《やしき》の当主西門|慶《けい》の竹馬の友だが、いまはすっかり尾羽うちからし、ただ天性の気転と軽口を利用して、西門慶の遊蕩のたいこもち[#「たいこもち」に傍点]をして生計をたてている男である。
大広間にいってみると、正夫人の呉月娘《ごげつじよう》と第二夫人の李嬌児《りきようじ》と第三夫人の孟玉楼《もうぎよくろう》と第四夫人の孫雪娥《そんせつが》があつまって連花餠をたべながらお茶をのんでいた。「今晩は。――西大人は、いませんかね」ときいてみると、みんな面白くなさそうな顔をして、「さあ後園《こうえん》にいらっしゃるんじゃあない?」とよそよそしい。
「後園?」
後園にいま住んでいるのは、ここにいる孫雪娥をのぞいては、第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》と、それから半年ばかりまえ、新しく第六夫人となった劉麗華《りゆうれいか》である。西門慶はそのどちらのところにいっているのだろう? と応伯爵は思ったが、このやきもちやき[#「やきもちやき」に傍点]の女たちにはとりつくしまがない。
それでも愛想のいい応伯爵のことだから、ひとことふたこと、他愛もない諧謔《かいぎやく》で女たちを吹き出させてから、大広間を出て、まもなく後園に入っていった。
ながい東側の遊廊を歩いてゆくと、まんなかあたりに東廂房《とうしようぼう》がある。ずっと以前、鳳素秋《ほうそしゆう》という妾《めかけ》が住んでいたが、彼女が不慮の死をとげてから、いまは、劉麗華が入っている。
「劉奥さん」
と、伯爵は呼んだ。きょうは西門慶に金をかりる目的でやってきたのだが、急に麗華にも会う用ができた。
なかではしばらく返事がなかったが、五、六度呼んでいると、朱塗りの扉《とびら》がひらいて、白い顔がのぞいた。
「おや、春梅《しゆんばい》じゃあないか」
伯爵が眼をまるくしたというのは、その|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]《ほう》春梅が、潘金蓮の小間使いだったからである。
どの妾の小間使いも、女特有の露骨な主人びいきなことはむろんだが、なかんずく、この金蓮、春梅ほど親密な主従はない。
「あら、応さん?」
「おまえさん、ここにいるのか」
「うちのお部屋には、旦那《だんな》さまがきていらっしゃいますもの」
「あ、なるほど、じゃあいま金蓮さんのところへ顔を出すと、お尻《しり》を蹴《け》っとばされるかな」
「ほ、ほ。まさか。まだ日がくれたばかりなのに。大丈夫よ。きっといまお酒をのんでいらっしゃるわ、いってごらんなさいな」
「麗華さんは?」
「いま、ちょいとそこらをそぞろ歩きしてくるといってお出《で》になりましたけれど」
てきぱきした口調だ。みるからに理智的《りちてき》な美しい女だった。この春梅にも、実はすでに西門慶の手がついていると応伯爵は見ぬいているが、それでも嫉妬《しつと》ぶかい金蓮が、この小間使いと意気投合しているところをみても、この春梅の利口さがわかるだろう。その女ばなれした賢さが、女の中の女ともいうべき、淫《みだ》らでだらしのない金蓮に気に入られるのにちがいない。
応伯爵がぶらぶらと奥へ進んでゆくと、廻廊のまがり角ではたと劉麗華にあった。
「お、麗華さん。いまあなたの部屋をのぞいたところが、春梅だけいて――」
「ああ、そう。旦那さまは金蓮さんのお部屋よ、双陸《すごろく》をしていらっしゃるわ」
「いや、わたしはあなたに用があるので――」
「あたしに? なんの御用?」
劉麗華は眼を大きくして、応伯爵を見つめた。軒にかかるほそい新月のひかりにもあざやかにみえるほどの明眸《めいぼう》である。
元来、西門家にもおとらぬ富豪の夫人であった女だけに、この麗華ほど気品たかく、憂わしげで、ろうたけた容貌《ようぼう》はちょっとほかにいない。しいて難をいえば色気が淡いくらいだが、それをせめるのは心がいたむほどの、深い、美しい湖のような瞳《ひとみ》の持主だった。
「実はねえ、いま、この邸の外で――」
と応伯爵は声をひそめて、
「背のひょろりとたかい、片目の男にあったのだが、あれはたしかに葉頭陀《ようとうだ》――あなたのまえの旦那《だんな》さま」
ぱっとそのとき遊廊の下から一匹の蝙蝠《こうもり》が三日月に舞いあがって、ふたりをとびあがらせた。
「劉奥さん、御用心なさいよ。――」
玻璃《はり》之章
「頭陀――さんが?」
劉麗華の顔色がかわった。
顔色がかわったのは、いまも応伯爵がいったように、その男が彼女の前の夫だったからばかりではない。そもそも麗華がこの西門家の第六夫人になるについては、次のようないきさつがある。
葉家はとなりの陽穀県《ようこくけん》屈指の富豪だったが、その若い新妻の麗華を、ふとしたことで西門慶が見染めた。なにしろ稀代の好色漢である。
いろいろ思案をめぐらしたあげく、都に葉頭陀の異母弟が貧乏しているのをさがし出して、遺産争いの訴訟を起させた。ところで西門慶は、要路の大官|楊提督《ようていとく》とは親戚《しんせき》なので、それを通じて宰相蔡太師《さいしようさいたいし》に賄賂《わいろ》をおくり、葉頭陀をまんまと敗訴させてしまった。
葉頭陀はびっくり仰天して、陽穀県と都とのあいだをかけずりまわっているうちに、心労と困憊《こんぱい》のため、気がへんになり、一年ばかりまえ、都の旅館からふらふらとどこかへ出かけていったきり、行方も知れずになったが、その後|噂《うわさ》にきくと孟州道《もうしゆうどう》の方で野たれ死をとげたとか。
こうして西門慶はまンまと葉家を破産させ、その後あらためていろいろ手をつくして、その家財を買いとり、ついでに劉麗華を手に入れたのだが、その死んだと思った葉頭陀がまだ生きていて、西門家の界隈《かいわい》をうらめしげにうろつきまわっているとあっては、麗華の顔色がかわるのもむりはない。
「――といって、なにしろ、あの暗がりのなかだから、はっきり葉さんだと見きわめたわけじゃないが」
応伯爵は、ちょっと気の毒になって、
「ま、とにかく用心にしくはない、一応、お知らせしておかなくっちゃと思ってやってきたんですが、これから西大人にも告げて、その善後策を講じてもらうことにしましょうや」
茫然たる劉麗華をはげましてから応伯爵は北廂房《ほくしようぼう》の方へ歩み去る。北廂房は三室にわかれていて、手前はいま麗華の道具をのぞいたもと葉家の財宝をしまいこんだままの庫《くら》に使用され、いつも鍵《かぎ》がかけてある。
隣の金蓮の部屋の扉をあけると、西門慶と金蓮は西側の寝台にならんで腰かけたまま、酒をのんでいるところだった。
「なんだ伯爵か。だまって扉をあける奴があるか」
ふたりの顔がさっとはなれ、西門慶はぐいと唇の滴をぬぐうし、金蓮はあわてて胸からあふれ出した乳房を着物でつつんだところをみると、どうやら西門慶は金蓮の乳房をいじりながら、口うつしに酒をのませてもらっていたらしい。
「へ、へ、あにき。そうわたしに気をつかいなさんな。それよりも、御注進御注進だ」
「なんだい」
「どうやら、葉頭陀さんはまだ死んじゃいないようだぜ。ほんのいま、塀《へい》のところで、じっとなかをうかがっていた影がそれらしいと見たが」
「なに、うそをつけ」
「うそならいいんだが、わたしの眼《め》に狂いはないよ。どうするね?」
応伯爵はにやにやしている。剽軽者《ひようきんもの》の伯爵だが、存外しん[#「しん」に傍点]のとおったところがあって、そうたちのわるいでたらめ[#「でたらめ」に傍点]をいう男ではないことを知っているだけに、西門慶は伏目になってかんがえこんだ。
「こりゃ気にかからあね。西大人、なんならここ当分、あたしがたえず、邸のまわりを見張っていようか。……ついては、その番人代を前払いでもらいたいんだがねえ」
手を出した。西門慶はその手をはらいのけ、盃《さかずき》をとりあげて、
「葉頭陀がなんだ。あれが生きていようと、うろうろしようと、わしになんの関係がある? 訴訟の判決はお上のなさったこと、家を買ったのはわしのはたらき、麗華がきたのはあれの勝手さ」
ぐいとのんで気焔《きえん》をあげる。
「そうかね、しかし麗華さんがきたのは勝手だとはすこし可哀そうな言い分だろう」
「なあに、頭陀に未練がありゃあ、あんな女なんぞくれてやる」
「ほほっ、恐ろしく情《つれ》ないことをいうな。そりゃ金蓮さんへのお愛想じゃないか」
「ばかな、なにをいまさら」
応伯爵は、ちらっと向いの壁の鏡をみた。そこにうつった潘金蓮は、べつににこりともしないで、うつむいて、つつましやかに赤い盃をいじっている。これが、ちょっと機会さえあれば、さっきのように西門慶に乳房をいじらせたりする女とは思われない。
「いま、ここに麗華さんがきていたろうが」
「いや、きていないよ。――どうして?」
「しかし、そこの廻廊の曲り角であったぜ。麗華さんはたしかにこっちからやってきたようだったが」
「はてな、この部屋の前を通る跫音もきかなかったから、それじゃ隣の房に入っていたのかな。しかし鍵は金蓮にあずけてあるはずだが」
鏡と背中合わせの壁の向うは、例の葉家の財宝をおいた庫である。なにかの用で麗華が入ることはあり得よう。が、金蓮は傍の七宝の花瓶《かびん》ののった青貝《あおがい》の小卓のひき出しをちょいとのぞいてみて、
「鍵なら、ここにあってよ」
「おかしいな。じゃ、はじめからあそこに立っていたのかな」
小首をかしげる応伯爵に、西門慶はとりあわず、
「おい、なにをでくのぼう[#「でくのぼう」に傍点]みたいに立っているんだ。まあ坐《すわ》って、いっぱい飲め」
酒をのみながら、応伯爵は、西門慶がさして麗華に未練がなさそうな口ぶりをもらしたのも、べつに金蓮へのお愛想じゃなかろうと思う。一年前、葉家をほろぼしてまで手に入れたがった劉麗華だが、その西門慶の熱がさめたのはいつごろからだろう。とにかく伯爵が、それらしい言葉を西門慶の口からきいたのは、あれはたしかに二タ月ほどまえ、あの大きな鏡がこの部屋へはこびこまれるときのことだった。
その鏡は、扶南《シヤム》渡来の、透明光潔の碧玻璃《へきはり》からできていて、青銅の二匹の竜にふちどられた、横五尺、縦六尺の大きなものだが、もともと葉家の道具のひとつだったもので、この家にきてからはしばらく大広間においてあったのを、なにかの都合でそこからとりのけなくてはならないことになったとき、六人の妻妾《さいしよう》のあいだでうばい合いになった。みんなそれぞれの理窟《りくつ》をつけてじぶんの房に置きたがる。なかでも所有権の正当性を主張したのは、もちろん劉麗華だ。
しばらく妾たちの争いをきいていた西門慶が、おしまいにその結着をつけた。
「おい、鏡というものはな、鏡の精というものがあって、あんまり美しい眼でみられると、鏡がやきもちをやいてわれるそうだ。だから、麗華はあきらめろ、一応金蓮の部屋に置いておくがいい」
強引に、こうしてその碧玻璃が、ここにきたのだが、応伯爵はそのとき西門慶の心中にえがかれていたものを想像することができる。西門慶は潘金蓮とのいちゃつきを、あの鏡にうつしてたのしみたかったのにちがいない。
それだけに、あの虫もころさぬ玲瓏《れいろう》たる金蓮の夜の痴態が、どれほど蠱惑《こわく》的で凄《すさま》じいものか、思いやられるというものだ。放蕩無頼《ほうとうぶらい》の応伯爵は、ほかの愛妾たちにはさほど妙な気をおこしたことはないけれど、金蓮だけには、その空想をえがいただけでも、頭がぼっと深い酔いににごったようになる。
「美しい眼でみられるだけで、鏡の精がやきもちをやくのなら」
と、伯爵はうっかりつぶやいた。
「え、なんだって伯爵?」
問いかえす西門慶に、応伯爵はあわてて盃をぐいとほして、むにゃむにゃとごまかした。しかし、彼はこういいたかったのだ。
銀燭にもだえぬく潘金蓮の妖艶《ようえん》の姿をうつして、あの鏡が割れなかったらふしぎだろうと。――
(ちくしょう。せめて鏡になりてえや。……)
聖女之章
劉麗華の瞳は、ほんとうに美しかった。
大きくって、真っ黒で、眼のなかに黒い花が咲いているようだ。西門慶を悪魔にしたのも、この眼の力にちがいない。黒い花というより、ひかりの具合によっては碧潭《へきたん》にたとえた方がいいときもある。色っぽいというより、神々しいくらいだが、そこがほかの色気満々たる愛妾たちと趣きを異にして、西門慶の憧憬《どうけい》をさそったのであろうが、その神聖美に澄んだ眼が、やはりすぐに稀代の好色漢たる西門慶の熱をさましてしまったものに相違ない。
そこが、女の美に対する男と女とのちがいで、女はあんまり色っぽい同性に対しては反感をもつようである。女が好くのは、たいてい色気を感じさせない清純さか神聖美にみちた女にきまっている。
そのいい例が、潘金蓮の小間使いの春梅で、彼女はひどく劉麗華を恋いしたっている。先日、応伯爵もけげんな顔をしたが、春梅が金蓮の眼をぬすんで、ちょいとひまさえあれば東廂房にいりびたっているのはしょっちゅうのことである。
その夕《ゆうべ》も、椅子《いす》にしずんで、ひっそりと香炉のけぶりを見つめている劉麗華の足もとにひざまずいて、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅はほとんど同性愛にちかい頌歌《しようか》をその憂愁の麗人にささげていた。
「さっき、旦那さま、また金蓮さんのお部屋におこしになったようね。……」
劉麗華はしみ入るようにつぶやく。
「春梅、御用があるんじゃない?」
「いいえ、あたしは邪魔者ですわ」
と、春梅は微笑して、それからかなしそうな眼をあげて、
「お可哀そうに、奥さま。……」
「どうして?」
「旦那さまは、奥さまのほんとうのお美しさがおわかりにならないのですわ。そりゃ、金蓮さまもお美しい。小間使いのあたしでさえ、ふるいつきたいようです。けれど奥さまのお美しさは、女を超え、人間ばなれをしていますわ。あたしからみれば、まるで神女のよう。……」
「いいえ、あたしはだめ、あたしのようじゃ、とても旦那さまのお気に入らないの、あたし、なんにも知らないから……」
「その尊さが旦那さまにはわからないのです。このお邸の淫らな風は、劉奥さまには場ちがいすぎます。なれているあたしでさえ、一日になんどかは耳にふたをし、眼に掌《て》をあてたいような気持になるのですもの。……はきだめの鶴《つる》と申しますか、泥中《でいちゆう》の白蓮《びやくれん》と申しますか、このお邸に奥さまは、ほんとにもったいないお方なのですわ。……」
春梅は、渇仰《かつごう》にたえかねたように、劉麗華の黒い靴《くつ》を額におしいただいた。劉麗華は、やさしくその髪をなでている。
「いいの、いいの、春梅、心配しておくれでない」
「旦那さまのお勝手には、ほんとにあたしでもはらがたちます。あんなに、きちがいのように御執心だったくせに。……奥さま、きっとまえの葉家の旦那さまが恋しゅうございましょうね。……」
麗華の手がふっとうごかなくなった。その眼に、恐怖のひかりがうかぶ。やがてうなだれて、ききとれないほどの声で、
「春梅、そのことはどうぞいってくれないで。……あたしは、もう過ぎたことは思い出さないようにしています」
「はい、はい、奥さま。悪うございました。もう申しますまいね」
春梅は涙をふきながらたちあがって、さも以心伝心といった風なのみこみ顔に、にっこりと微笑の花をひらいて、
「奥さま、ではあたし、表の方に参ります。それじゃ鍵をどうぞ」
といって、黒い鍵を劉麗華の手にわたし、ていねいにおじぎをして房を出ていった。
劉麗華はじっとその鍵に見入った。これは、北廂房の一つ、葉家の道具をいれてある庫の鍵である。
葉家からはほとんど捨値にちかい金で入手した家財は、あの碧玻璃をはじめとして、使えるものは使ってあるが、むろんまだしまったままの品物も相当あり、とくに葉頭陀|手沢《しゆたく》の酒器とか冠とか椅子とか筆硯《ひつけん》琴書などの道具類は、麗華の眼にふれさせないようにとの配慮からか、ひとつも外へ出してない。――おそらく麗華にとっては、過ぎた日のなつかしい夢として、じっとながめたり、撫《な》でさすったりしたい品々も、その中にあるであろう、春梅はこう気をきかしたらしい、彼女はすきを盗んでは金蓮のところからその鍵をもち出して、麗華にかしてくれるのだった。
劉麗華は、しずしずと遊廊に出た。蕭条《しようじよう》たる雨の夜だ。あたりに誰《だれ》もいないのを見すませると、跫音をしのばせながらあるいて、北廂房とならびの例の部屋に入る。
なかは黴《かび》くさく、真っ暗だった。いろいろな道具が乱雑においてあるはずだが、なれているとみえて、彼女は物音ひとつたてない。いや、手をふれようとすらしない。彼女は、蛇《へび》のように身をくねらせて、西側の壁にちかづいた。
そこに、まるで錐《きり》でつらぬいたほどの穴があるのを、いつどうして麗華は知ったのだろう?
それは或《あ》る夜、そこにぽつりと灯の色が、黄金のしずくのようにみえたから、気がついたのだ。彼女がかがみこんで、その穴にぴったりと左の眼をおしつけた。
ああ、春梅よ、よもやおまえはゆめにも知るまい、麗華がこの部屋に入るのは、はじめは知らず、いまは決して頭陀の品など愛撫《あいぶ》するためではなかったことを。その目的はまったくその小さな穴から、となりの金蓮と西門慶の秘戯をのぞき見るためであったことを。
麗華は葉頭陀など愛してはいなかった。もともと隻眼《せきがん》の富豪に、お人形のように買われただけだ。しかし、そのことに気がついたのは、この邸にきて、西門慶の愛撫をうけてからである。この稀代の好色漢の体臭のまえには、前夫の面影など香炉のけむりよりもなおあわく、消えてしまった。いや、当人の彼女も、あれよあれよとすすり泣くだけで、西門慶におしひしがれて、なすすべもなかった。
それが、たちまち、あのわがまま者をつまらながらせたことを、彼女は知っている。西門慶は、不平も怒りも露骨にあらわすからだ。ああ、あたしはどうすればいいのだろう? どうしたら旦那さまによろこんでいただけるのだろう?
その解決は、はからずもこの穴の向うに発見した。彼女は潘金蓮の痴態をみた。
寝台は向うの壁の下にあった。こちらの壁の厚さと穴の小ささのために、もちろん全景はみえなかったが、対象がよくうごくので、ほとんど完全にみることができた。
のけぞりかえって笑う金蓮を。――身をよじらせてもだえぬく金蓮を、――馬のように四つン這《ば》いになった裸の金蓮を。――また逆に西門慶を馬にしてのりまわす金蓮を、――或いは西門慶の背なかに両手と両足をからませてしがみついたまま、西門慶を歩かせたり、踊らせたりする金蓮を。
夜の潘金蓮は、ひるま女同士のつきあいでみる金蓮とはまったく別の女であった。西門慶にからみついた白い手足は、奇怪に四本とみえず、無数の蛇のもつれとみえた。さしもの西門慶が全身の体液をしぼりつくしてからからになったようなのに、なお執拗《しつよう》に金蓮の唇と舌が這いまわって彼をのたうちまわらせた。
この極彩色の色|曼陀羅《まんだら》を照らす銀燈も、なぜかふだんのひかりを変じて、まるで霧のような妖しい乳色にけぶる。……みているうちに劉麗華はまるで蒸風呂《むしぶろ》にでも身をひたしたように、血が熱くなり、手足の指がかがまって、はあはあと喘《あえ》ぎはじめ、全身がぬれてきて、はては眼がくぼむまでに身体じゅうがからからに疲労してくるのだった。
あさましいとも思う。恐ろしいとも思う。けれど麗華はいまやどうしても夜な夜なこの凄愴《せいそう》の鬼気をすらおびた色地獄を盗み見にこずにはいられなかった。この神女の瞳にも似た美しい眼は、のぞきの快楽のためにこそ生きていたのだ。
――で、その夜のこと。彼女はいつものように、ひたと例の穴に眼をあてた。
金蓮は例によって向うの寝台に横坐りになって、背を壁にもたせかけている。寝台の傍の青貝の小卓やその上にのった七宝の花瓶、竜頭瓶《りゆうとうへい》、青銅《からかね》の香炉などはいつものとおりだが、西門慶の姿はみえない。
ふと、金蓮が顔をあげて、唇をうごかした。
声はきこえなかった。というより何かあえいだようである。その表情に恐怖の色をみて、劉麗華は、おや、と思った。――どうやら、姿はみえないけれど、部屋にいるのは西門慶ではないらしい。ということに気づいたのはまもなくである。
旦那さまはどこにいらしたのだろう? 金蓮は誰をみてあんなにおののいているのだろう?
金蓮の両腕のみえないのが奇妙だ。まるで、うしろ手にくくられでもしているようである。――と、また金蓮の唇が苦しげにひらいた。いまにも失神しそうな顔つきになった。
劉麗華の眼のまえが真っ暗になったのは、次の瞬間だった。灯がきえたのではなく、壁の穴のすぐ向うに誰かが立ったと知って、麗華は顔をはなそうとした。
その刹那《せつな》、彼女は左眼に熱鉄の痛みをかんじて、恐ろしい苦鳴をあげていた。
死眼之章
応伯爵が雨の廻廊をあるいてきた。
例によって借金の用で、ぶらりとやってきたのだが、西門慶は後園にいるときいて、後園に入る垂花門《すいかもん》のところまでくると、そこに門番の平安と春梅がよりそってひそひそささやきかわしているので、なんだときくと、春梅が、さっき廻廊のかこむ夜の中庭に怪しい影がみえたようだというし、平安は、後園には旦那さまと、金蓮奥さま、孫雪娥さま、劉麗華さまの四人以外誰も入っているわけがないという。そこで応伯爵は春梅をしたがえて、じろじろあたりを見まわしながらあるいてきたのである。
東廂房をのぞいてみたが、劉麗華はいない。
北廂房の方へまがる角まできたとき、突然、ばさ! と庇《ひさし》で羽根の音が鳴って、ふたりの額に冷たいしずくが散った。きゃっと春梅が悲鳴をあげた。
「おどろくことはない。蝙蝠だ」
と、伯爵は燭を軒下にかざしながら、
「どうもいやに蝙蝠が多いようだが、どこかの庇に巣でもつくったのかな」
「ちがいます。ちがいます。応さん、あれ、あれ。……」
春梅のゆびさす方向に眼をやって、応伯爵はぎょっとした。いつのまにか、あの庫の扉がひらいて、そこにぼんやりと人影がたっている。
その影は音もなく、よろめくようにちかづいてきた。それにばたばたと凄じい羽根の音をたててまつわるのは、さっきの蝙蝠であろうか。――あとずさりして逃げ腰になりながら、燭をさしのばした伯爵は、こんどは思わずあっとさけんだ。
「劉夫人!」
劉麗華だ。腕をあげて左眼をおさえ、麗華は幽霊のように歩いてくる。その白蝋《はくろう》ににた頬《ほお》に、すうっとほそい血の糸がひいている。そしてぶきみな蝙蝠は、その血の香をしたってか、なお颯々《さつさつ》と執拗に、とびめぐっているのであった。
「ど、どうしたんです?」
「眼を……眼を……」
麗華は、かすかな、悲痛な息を吐いた。その手から、一つの鍵が石だたみにおちて、美しいひびきを、発した。
「誰かに、眼をやられたんですか? 誰に? 誰かが、あの中にいるんですか?」
劉麗華は答えない。急にのめるようにじぶんの部屋の方にはしり出した。わっと泣き声をあげながら、春梅がそのあとを追う。
応伯爵はかがみこんで、鍵をひろいあげ、遠くからひらいたままの扉をみた。庫の中に誰かがいるのだろうか、北廂房のなかも気にかかるが、恐ろしくって、その手前の扉のまえを通ることができない。
「おうい、あにき、西大人――」
彼は大声で呼んだ。三度、四度、声をはりあげると、意外にも西門慶は、北廂房のなかからではなく、西廂房の方から、孫雪娥をつれて、廻廊の角をまわってきた。
「なんだ、伯爵、騒々しいぞ」
「おや、あにき、そっちにいたのか」
「うむ、金蓮め、いやにきょうはぷりぷりして御機嫌《ごきげん》ななめでな、つまらないから、おれはすぐに雪娥の方にいっていたのさ。ところで、なんだ、いまの声は?」
「なんだかわからんが、麗華さんが、その庫のなかで眼を刺されてにげ出してきたが」
「眼?」
西門慶はぎょっとして応伯爵をみた。その頭に、ひとつの不吉な、まがまがしい影が、かすめたことはたしかだった。蒼い顎《あご》をねばるように、ひらいた扉にしゃくって、
「……いるのか?」
「わからん!」
「おうい、平安! 平安児!」
平安がとんできた。これをさきにたてて、その部屋に入ってみたが、なかはただ暗いばかりで、道具の蔭《かげ》になんの怪しい影もひそんではいない。伯爵のもった燭のほかは、一点の灯もみえなかった。が、彼は西側の壁の傍に、じっと立って見下ろしている。燭のなげる円光の中に、小さな血のあとが落ちているのを。……
「金蓮はどうした?」
突然、西門慶が気がついてとびあがり、すぐに隣の房にまわっていった。なるほど、これだけの騒動を外できいていて北廂房にいるはずの金蓮が、いやにしずかなのはふしぎである。
すぐに西門慶のけたたましい呼び声がきこえた。
「伯爵、たいへんだ、はやくきてくれえ」
仰天して応伯爵が北廂房にかけつけてみると、西門慶は寝台の上の潘金蓮を抱きかかえ、口うつしに酒をのませていた。
「どうしたんだ、金蓮さんもか?」
「いや、息はある。みたところ、傷もないようだが、気を失っているんだ」
金蓮の胸が大きくうごき、薄眼《うすめ》がひらいた。ぼんやりと西門慶の顔をみると、急にひしとしがみついて、わっと泣き出した。
「こわい、こわい! あの男は、どうして?」
「あの男――とは誰だ?」
「片眼の、ひょろりとした男」
「なに、それではやっぱり葉頭陀がきたのか。それで、どうした?」
「ふいに入ってきて、東廂房に麗華の姿がみえないが、どこにいるか知らないかというんです。ああ、あの片眼の恐ろしかったこと! 知らない、知らないといっているうち恐ろしさのあまり気が遠くなって……」
ぐるぐると部屋をあるきまわっていた応伯爵は、そのときふいと風のように外へ出ていった。
東廂房へやってくると、ここももちろん一騒動である。両掌で顔を覆ったまま虫のようにのたうつ劉麗華を、泣きながら春梅が介抱している。
「お可哀そうに、奥さま……お眼……お美しいお眼を……」
「おい、春梅、おまえの御主人は金蓮さんだろう。あっちもひと騒ぎらしいぜ。ここはわたしがひき受けるから、はやくいってみてあげな」
春梅があわてて部屋を立ち去ると、伯爵は麗華のむせぶ肩に手をおいた。暗然としたまなざしで、
「いったい、どうしたんです。麗華さん?」
「いいんです。……ほっといて! あたしが悪いんですから!」
麗華は激痛にうめきながら、必死に首をふる。応伯爵はその耳に口をつけて、
「いや、あなたのいい悪いの話ではない。あなたの眼をさした下手人のことですが……下手人はあの庫のなかにいたんじゃあありませんね?」
「いました。……いました」
「葉頭陀さんが?」
「それはわかりません。真っ暗だったんですもの」
「真っ暗ななかで、よくあなたの眼が刺せましたねえ」
劉麗華はだまりこんだ。伯爵はなおささやくように、
「麗華さん。……あなたの刺された眼からおちた血が、西側の壁の下におちていました。その壁の下の方に……錐でつらぬいたほどの穴がある。わたしがみたときは、灯をとおさないように、向う側からその穴はふさいであったが、あなたの刺されたときは、きっとひらいていたにちがいない。……あなたはそれをのぞいていて、向う側から刺されたのじゃありませんかね?……いつかもわたしは、あなたがあの庫に入っていたのをみたおぼえがあるが……いったい、その穴から何をのぞいていたんです?」
突然、麗華は奇怪にも簪《かんざし》をぬいて、われとのどぶえにつき立てようとしていた。
照魔之章
応伯爵は狼狽《ろうばい》して女の手をつかんだが、それをとめるには恐ろしい死力を要した。やっと簪をもぎとって、はあはあ息をつきながら波うつ劉麗華の背を見下ろしている。
(はて、あの問いが、どうしてこの女にそれほどの困惑を起させたのだろう?)
と、めんくらった顔つきだ。
突然、彼の顔に、さっと或る表情がながれ、その頬にみるみる彼らしくもない血潮がのぼった。やがて唇がまがって、にんまりとした淡い笑顔となる。
――麗華は死にたかった。あのことをいうぐらいなら死んだ方がましだった。人間というものは奇妙なもので、どんな罪よりも、恨みよりも、死よりもたえがたいものがある。それは恥である。人間は小さな恥をかくのにたえかねて、はるかに大きな犠牲をしのぶものだ。――ほんとうにほかの女たちに、なかんずくあの春梅に他人の秘戯を夜な夜なのぞいていた、あさましい、醜い、滑稽《こつけい》なじぶんの姿を想像させることは、おのれの痴態をみられるよりもはるかにたまらないものであった。この気高い、神女にまでたとえられた女には。
「劉夫人。……あの庫の鍵は……金蓮さんがあずかっていたはずだが」
と、応伯爵は、やっと、かすれた声でいう。かすかな嗚咽《おえつ》が、
「春梅が貸してくれました」
「春梅がねえ。――春梅は、金蓮さん付きの小間使いだが――ほんとうにあのとき金蓮さんの部屋に、ほかに誰かいましたか?」
「そうとしか思われません。……そうでなくっちゃ……」
「といって、西大人は孫夫人といっしょに西廂房にいたらしいし、春梅は垂花門のところに、平安と立っていたという。ほかにかんがえられるのは、あなたの前の旦那の葉頭陀さんが忍びこんでいたということだが、さて、その頭陀さんが」
といいかけて、応伯爵は、じっと首をひねり、突然、妙なことをいい出した。
「あなたが刺されたとき、金蓮さんはどこにいたか、御存じありませんでしたか?」
「金蓮さんはいつもの……青貝の小卓の傍の寝台に」
「というと、庫と境の壁とは、反対の西側の壁沿いにですね。どんな恰好《かつこう》で?」
「寝台の上に坐って、うしろ手にでもくくられたような姿で、恐ろしそうな顔で部屋のなかの誰かを見ていらっしゃいましたわ。……」
そのとき、どたどたと西門慶が入ってきた。下手人は誰だとか、医者を呼べとか例によって例のごとく騒々しくさわぎたて、それによよ[#「よよ」に傍点]と泣きもだえる麗華の声がまじる交響楽を、しばらく無心な表情できいていた伯爵は、急に、
「……その誰かが見えなかったわけですな」
と、ひとりのみこみ顔でうなずいて、また飄然《ひようぜん》と部屋を出ていった。
北廂房にとってかえす。なんの用か、あわただしくかけ出してくる春梅を呼びとめようとして応伯爵はちょいと思案にくれ、そのまま見送ってぶらりと部屋に入った。
潘金蓮は蒼《あお》い顔でまだ寝台に腰をかけていたが、じろじろとあたりを見まわしている応伯爵にけげんな眼をむけて、
「応さん、葉頭陀はまだ見つかりません?」
「見つかりませんな。……あなたは、さっきほんとうに見ましたか?」
「見ましたとも。そういったじゃあありませんか。うす気味のわるい片眼をひからせてひょろりと背のたかい――」
「というようなことを、いわなきゃあいいのに。そのつまらない一言《ひとこと》が、惜しや千丈の堤《つつみ》をこわす」
「えっ?」
「蟻《あり》の一穴はみごと美しい眼をもつ敵を葬り去ったのに」
潘金蓮はちらちらと応伯爵をみる。ながい睫《まつげ》のまたたくたびに、青い火花がひらめくようにみえた。応伯爵はのろのろとちかよって、金蓮とならんで寝台に腰を下ろしたが、彼女はからだをずらせるのも忘れた風であった。
「応さん、それ、なんのこと?」
「きょうねえ、金蓮さん、わたしがここへくるために、扁食|巷《こう》まできかかると、そこの辻《つじ》にゆきだおれがあって、何九《かきゆう》さんたち検屍《けんし》役人がさわいでいたっけが、その行路病者が、たしかに片眼の葉頭陀。――」
金蓮の額を愕然《がくぜん》としたものがかすめた。が、みるみる怒りにちかい暗い翳《かげ》が満面を覆ったのは、いったい誰にむかっての怒りであろうか。
「応さん、あなたはまるであたしが麗華さんの眼を刺したようなことをおっしゃいますが、あたしはこの部屋を一歩も出ませんでしたよ」
「左様、あなたはこの部屋にいて、あの壁の穴をとおして隣からのぞきこんでいる劉夫人の眼を、針か何かで刺したのですな。その機会をつかむために、春梅をつかって、麗華さんに鍵を自由にさせ、毎夜麗華さんをその穴からのぞかせる癖をつくり出したところまではみごとだが……ひょいと葉頭陀を利用する気になったのが、千慮の一失」
「劉……麗華さんが、あたしに刺されたと、おっしゃって?」
「いや、あなたはここに坐っていたといっていましたが」
「ここに坐ってて、どうしてあたしが遠いあの壁ごしに麗華さんの眼を刺すことができるの?」
「碧玻璃《へきはり》」
「えっ?」
「あなたはねえ、この西側の壁の下じゃなくって、あの東側の壁の下に坐っていたのですよ。こっちの壁にはあの大鏡をおき、向うに寝台と、あの穴からみえる範囲の手廻《てまわ》り道具――青貝の小卓や花瓶をうつし、うしろ手に、劉夫人の眼を、ぷッつりと――」
潘金蓮は大きな瞳をいっぱいに見ひらいて、応伯爵を見つめている。胸が大きく起伏し、甘酸っぱい、なやましい息が、もやもやと彼の鼻孔にからまった。
「ああ、なんて黒い、ベットリぬれつくような眼だ。そんな美しい眼をもちながら、あなたは麗華さんをゆるすことができなかったんですな。西大人が、眼は麗華の方がきれいだが、しかし金蓮の方が魅力があるといった言葉のただし書きでさえ、あなたは……あなたは、なにひとつ、じぶんよりもすぐれたものをもつ女にはがまんがならないんですな。……」
金蓮の白い腕が、伯爵のくびにまきついた。熱い、ふるえる息が、必死にいう。
「証拠がない。応さん、証拠がないわ。あの片眼の男は、葉頭陀だとはかぎらなくってよ。麗華さんさえも知らないことだわ。見ていたものは、誰もいないんだもの。……」
「左様。見ていたのは、あの鏡だけ」
「だけど、鏡はしゃべらない」
金蓮の唇が、応伯爵の頬からあごにかけて、やわらかく這いくすぐる。応伯爵はあらゆるものを忘却の果てにおしながす。
「応さん。鏡は、みているだけでしゃべらないわ。……」
その稀代の妖婦の恐ろしいささやきは、もう応伯爵の唇からのどのおくへ、じいんとしみこみ、そして脳髄を魔酒のようにひたしてゆくのであった。
[#改ページ]
[#見出し] 邪淫《じやいん》の烙印《らくいん》
舌獄之章
茉莉花《まつりか》の花のしべ[#「しべ」に傍点]をうかせた乳風呂からあがってきた西門慶《せいもんけい》は、まっ裸《ぱだか》のまま、螺鈿《らでん》の寝台にあおむけにねころんだ。
すると、それを待っていた幾人かの女が、まるで五色の雲のように彼をとりまき、おおいかぶさる。彼の腕を、胸を、顔を、腹を、足を――からだをぬらす乳のしずくを、それぞれ美しい、やわらかい舌を出して、ぺろぺろと猫《ねこ》みたいに、すみずみまで、しゃぶり、ぬぐいとるのであった。
ちかごろ、この稀代《きたい》の暴君で好色漢の富豪がおもいついた浴後の手入法である。ときどき、きもちよさそうなうなり声をたてたり、「こら金蓮、あまりいたずらをするな」と、くすぐったそうに腰をよじらせたりしていた西門慶は、ふと唇のうえをすべってすぎたひとつの肌《はだ》の感触に、とじていた眼をふっとひらいた。
「これは、ゾオラ姫――」
白蛇のうねるように女たちのあいだをすりぬけて西門慶の足もとのほうへうずくまった女は――これは衣裳《いしよう》、髪かたちこそこの国の女とおなじだが、あきらかに異国の娘だった。西門慶は恐悦したように、にやにや笑った。
「ほほう、あなたもここにいられたのか?」
「あらいやだ、旦那さま、いままで御存じなかったの?」
と、第三夫人の孟玉楼《もうぎよくろう》が腰のあたりでいった。
「うむ。……湯気にあたりすぎたのか、すこしぼんやりしておった」
「それが、いまどうしておわかりになりましたの?」
と、いったのは第四夫人の孫雪娥《そんせつが》である。
「うむ。……顔のうえをなでた肌ざわりからな」
「肌ざわり?」
「されば、肌ざわり。ほかの女どもとは、まるきりちがうわい。だいいち、こうして眼をとじていても、ゾオラ姫がまえにあると、雪の精が立ったようにまぶたがあかるくなる。……」
「いよう、これは西大人、相かわらず、玄宗《げんそう》皇帝もおよばぬ御法楽だな」
と、扉《とびら》のほうで声がして、友人の応伯爵《おうはくしやく》が舌なめずりしながら入ってきた。西門慶はものうげにそっちへ顔をむけたが、おきあがりもせず、
「伯爵か。なに、これは仕置きをしているのだ」
「なんの仕置き?」
「さればさ、犁舌獄《りぜつごく》――舌で、畑のかわりに、わしのからだをたがやさせておる」
と、西門慶は愛妾《あいしよう》たちをあごでさして、
「こいつらが、うそか悪口以外に口をきいたのを、おまえ耳にいれたことがあるかい?」
「まあひどい」
と、第七夫人の憑金宝《ひようきんぽう》がつぶやいた。
「ひどくはないさ。伯爵、まあきくがいい。先にもこのゾオラ姫からいただいた大食《タージ》の国はファルスの海からとれたみごとな二|顆《か》の真珠のうち、一顆がなくなった。盗んだ奴《やつ》は、どうかんがえてもここにおる女どものほかにはいない――」
「ほほう。……というと?」
「その真珠をみていたときに、その部屋にいたのは、わしと家内の月娘《げつじよう》のほかにこいつらだけだったからな。あとで、どいつをしらべてみても、おたがいの悪口をいうばかり――」
「あたりまえだわ。そんなうたがいを受けちゃあ」
と憑金宝が、またむきになった。
「あたしなんか、ここへ輿入《こしい》れしてきたとき、どの奥さまにも御挨拶《ごあいさつ》に、ひとつずつ真珠をさしあげたくらいなんですもの」
彼女は、もと南門外の布問屋の未亡人で、そのたわわな大輪の花のような豊艶《ほうえん》さにも似げなく、後家になってもまだ金貸しをして、ここにくるときは、上等の平織布を五百箱、現銀子《げんなま》を四千両ももってきたほどの女だった。
「だって、あんなちっぽけな真珠とちがって、盗まれたのはそりゃすばらしい真珠よ」
と、ぬけぬけといったのは第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》である。凄艶なうすら笑いをうかべて、
「世にも名だかい末羅《バスラ》真珠というんですって。――まだ、だいじょうぶ、ひとつぶのこっているから、あとで応《おう》さん、みせてもらいなさいよ」
「このとおりだ、伯爵。みんなしゃあしゃあとしたものだ。とにかくこいつらのなかには、ふとい嘘《うそ》つき女めがまじっておる。嘘やでたらめのうまい奴は、死んでから舌で畑をたがやさせる犁舌獄という地獄におちるそうだが、わしはわしで生きながら、こいつらに、その罰をあたえてやろうと思っている。――」
「なに、――へ、へ、それならわたしも畑になりたいね」
といいながらも、応伯爵はふしんそうにゾオラ姫のほうをながめている。この娘は三月ほどまえから、アル・ムタッツという異教の僧といっしょに西門家に逗留《とうりゆう》している娘だが、言語服飾はすっかりこの国のものになりながら、もとは遠い大食《タージ》の国の或る王の姫君だったということだ。
髪は黄金色で、鼻はほそくたかく、眼は高貴な翡翠《ひすい》のように碧《あお》い。そして、なんという情熱にもえる赤い唇だろう。……しかし、いつ西門慶はこの王女をものにしたのだろうか、なにしろ、手あたりしだいの好色漢だから、あぶないとはまえから思っていたが、こうして、この姫君がほかの妾にまじって、おなじように嬉々《きき》として、ばかげた快楽《けらく》にたわむれている姿をみると、いまさらのごとく西門慶の凄腕《すごうで》におどろかざるを得ない。
応伯爵の視線に気がついて、西門慶は子供みたいに舌を出した。
「あれか。……達沙《たつしや》はいま留守だよ」
達沙とは、アル・ムタッツという異教僧のことである。
「なんだ、すると、あの坊さまにはないしょか」
「うむ。あの坊さまは大きににが手だ。……実は夜毎《よごと》に、姫から大食《タージ》の国の千一夜物語とか、縛達城《バクダツト》という町の話などきいているうち、ついおかしなことになってしまった……」
と西門慶はおどけてくびすじをかいたが、だまってかんがえこんでいる応伯爵の顔いろに、いささか不安になってきたらしい。もと姫の家来だったといわれるアル・ムタッツ師は、ふだんから西門慶の荒淫《こういん》をせめてやまないうえに、さまざま不可思議な術をつかうのをその眼でみているからである――その不安をふりはらうように、西門慶は、急にいきおいよく寝台のうえにおきあがると、紅綾《べにあや》の下着を羽織って、
「伯爵、まあ、よくみてくれ、姫の肌の白さ、なめらかさを――」
といって、のそのそと、ゾオラの傍へあゆみよった。
「この肌にすりよられたら、孔子《こうし》さまでもひとたまりもあるまいぜ。文字どおり、雪の肌とはこのことだろう。わしも、東夏、西夏、高麗《こうらい》、蒙古、吐蕃《とばん》の女までさまざまとためしてみたが、実はもう肌の黄色い女にはあきあきしたよ……」
「黄色い?――そうかな、たとえば李嬌児《りきようじ》夫人でも金蓮さんでも、そうその姫君におとらぬとわしにはみえるが」
「なに、そりゃ、壁みたいに白粉《おしろい》をぬりたくっているからだ……うそだと思うなら、みろ素肌の胸を……」
といって、片腕をのばして第二夫人李嬌児をひっつかまえると、ぐいとその胸をかきひらいた。あっとおさえるいとまもなく、みごとなふたつの乳房があふれ出る。
「姫、胸を……」
西門慶にいわれるよりはやく、この異国の王女は、昂然《こうぜん》としてみずから胸をあらわした……応伯爵は思わずうなった。それはまさに雪花石膏《せつかせつこう》の彫刻のような、神々しいまでの胸だった。こうならんでくらべれば、あきらかに李嬌児のほうは陽灼《ひや》けした布のように黄ばんでいる。
「どうだ、伯爵、わしの国の女の肌など、みられたものではあるまい。……こちらは、ふれるのももったいない、おがみたいようじゃないか」
といいながら西門慶は、われをわすれたように半円球をなでまわし、その紅い乳くびをいじっている。
「だから、わしはおがむよ。アル・ムタッツの神はおがまないが」
「わかった、兄貴のまいったわけはわかったよ」
と、伯爵はゴクリと唾《つば》をのみこんで、眼をそらしながら、
「しかし、姫は――」
といいかけた。王女は、西門慶の愛妾のひとりに加えられることに異存はないのか。あのアル・ムタッツが承知するのか、といおうとしたのである。が、それよりはやく、ゾオラ姫は急にけらけら笑い出して、
「あたしは――」
いきなり、ひしと西門慶のくびにそのまっしろな腕をまわして、ピッタリ唇をおしつけた。……支那《しな》へきたのはものごころもつかぬ幼女のころだったというが、この大胆さは、恋の表現には、卒直な異国の女の血潮のなせるわざであろうか。なみいる愛妾たちも顔色のない鮮烈なポーズであった。
唇をはなすと、粘っこい糸がひいて、西門慶のあごによだれとなって垂れた。ゾオラ姫は青い炎のような眼で女たちに笑みかけて、
「あたしは大食《タージ》の国の娘です。大食《タージ》では、身分のたかい男はみんなハレムにたくさんの妻をもっていますわ……」
「けがれたる彼らは、邪神アラーを、信じているからですじゃ」
突然、扉のほうで、もうひとつの声がそれをたちきった。ふりかえって、みんな顔いろをかえた。ここはオンドルで春のようなのに、外は雪か――いや、その雪をかぶったようにまっしろな髪と髯《ひげ》、あとは全身|鴉《からす》みたいに黒い影がたっていた。影のなかで、眼と、胸の十字架だけが氷のようにひかっている。達沙アル・ムタッツは陰鬱《いんうつ》な怒りにしゃがれた声でいった。
「姫、あなたさまの神は――邪淫者を罰したもう天帝《エホバ》御一人のはずではございませぬか?」
魔僧之章
おもしろがってなんべんもきいているくせに、なんべんきいても、西門慶はむろん、存外物知りな応伯爵にも、この異人の故郷|大食《タージ》の国や、彼らが支那へ漂泊してきたいきさつがよくわからないが、それもむりはない。
大食《タージ》の国とは、いまのアラビアである。ゾオラはそこのルムの海(地中海)に面する小さな王国の姫君だった。当時アラビア一帯はいうまでもなく回教の支配下にあったが、この王様はめずらしくも、熱烈な耶蘇《ヤソ》教の信者だった。片手に剣、片手にコーランをとなえる回教国の包囲のなかにあって、この王国の運命のあやうさは、つとに予想されたところであるが、はたせるかな、悲劇は十五年ばかりまえにおこった。回教徒にうばわれた聖地イェルサレムを回復せんとして、羅馬《ローマ》法皇が大遠征軍を派遣したのである。すなわち、世に有名な十字軍の第一回はこれである。ゾオラの父王はこれに呼応して起《た》った。――そして聖地は回復されたが、数年にしてまた失われた。ゾオラの国はほろんだ。そして、幼いゾオラは、司教アル・ムタッツにいだかれて、沙漠《さばく》を東へはしり、たまたま末羅《バスラ》のみなとにきていた宋船にたすけられて、ファルス海(ペルシャ湾)をのがれいで、はるばるとこの支那へながれてきたものだった。
アル・ムタッツは、支那を伝道してあるいていた。どうじに、そのころ魔法とも思われたアラビア医学を駆使して、ひとびとを救った。彼と姫が、西門家に滞在するようになったのも、この山東|清河《せいか》県の町へやってきて、たまたま酒色|喪耗《そうもう》のきみで病臥《びようが》していた西門慶を治療してやったのが機縁なのだから、この白髪の老達沙は、毫《ごう》も西門慶に遠慮するところがない。達沙とは、もと大食《タージ》語、タルサー、すなわち、「おそれる人」つまり神を畏《おそ》れる耶蘇教信徒をさす呼称である。もっとも、このころ支那では耶蘇教のことを、景教《けいきよう》とよんでいた。
――たちすくんでいるゾオラ姫のそばへ、老いたる景教僧は、不吉な影のようにちかづいてきた。
「姫、いまのたわけたお姿はなんでございます?」
「…………」
「ああ、この家の神をおそれぬ淫靡《いんび》の風を知りながら、なお足をとどめていたのがわしの不覚であった。もはや一日もはやくこの家をたち去らなければなりませぬ」
「お待ちなさい、達沙。……外はいま、恐ろしい寒さの季節ですのに」
と西門慶が、おどおどと口を出した。アル・ムタッツはふりむいて、西門慶のまるはだかにちかい滑稽《こつけい》な姿を、笑いもせず、きびしい眼でみあげ、みおろした。西門慶はいよいよ赤面せざるを得ない。
「雪が、なんであろう。わが主、基督《キリスト》は海の上さえおわたりになられたですじゃ。――たとえ、外が氷寒地獄であろうと、この家の腐爛《ふらん》の色地獄にくらべれば、これにまさることいくばくか。姫、旅の用意をいたしましょう」
大食《タージ》の王女はうなだれて、小さな声でいった。
「あたしは、ここを出たくはない……」
アル・ムタッツは肩をビクリとうごかせた。まだいちどもじぶんに反抗したことのない姫のこの拒否のことばにおどろいたようである。
「なんと仰せられます?……末羅《バスラ》国から烏刺《ウボラ》国へ、提羅廬和《ジエルラハル》国から獅子《セイロン》国へ、そしてこの支那の杭州《こうしゆう》のみなとから四百四州をめぐってきた春秋十幾星霜、そのあいだ、星に、太陽に、天帝《エホバ》の恩寵《おんちよう》をおいのりなされぬ日も夜もなかった姫君が……」
「あたしは、その旅にもうつかれはてたわ。アル・ムタッツ」
ゾオラはくりかえした。アル・ムタッツの驚愕《きようがく》の眼が、だんだん痛烈ななげきと怒りのかがやきをおびてきた。
「ふむ、それでは姫は、とうとうこの家の悪臭にしみておしまいになられたな。ああ! わしはかえりみるべきであった、姫のおからだのなかに、あの淫蕩《いんとう》な母上さまのおん血潮がながれていることを……」
ゾオラは顔をあげた。アル・ムタッツは怒りにふるえる声でいう。
「あなたのおん父上は、後宮に多くの妻をたくわえる、あのけがらわしい回教徒の国々のなかにあって、厳としてただひとりの王妃のみをまもられる清操《せいそう》の国王であらせられた。ところが、それにくらべておん母の王妃さまは、しょせんあの淫《みだ》らなアラビアの女性でありましたのじゃ。家臣のひとりとの密通があきらかとなって、その家臣は殺され、しかも寛仁なお父上は、王妃を城外に放逐なされただけであった。それが悲運のはじまり、城がおち、国王が戦死なされたのは、それから七日めのことでありました。……が、姫よ、よくきかれい、母上の密通がなぜわかったかというと、それはおごそかな天帝《エホバ》の神意で、母上が罪の臥床《ふしど》によこたわられた翌朝、その背に、恐ろしい、まっかに灼《や》きただれた十字架の烙印《らくいん》があらわれたからですのじゃ。姫、なにとぞ天帝《エホバ》にそむかれるな……」
「アル・ムタッツ」
とゾオラは眼を大きくひろげて、
「そのお話は、あたしはじめてきいてよ……」
「なにをいわれる。母御さまのおん罪は、ことあるごとにわしがおきかせしたではございませぬか」
「いえ、母さまの背なかに十字架の烙印があらわれたなどということを……」
景教僧はまばたきをして、髯をしごいて、それからくもった声でつぶやいた。
「はて、左様でございましたかな?……いや、それはあまりに恐ろしい奇蹟《きせき》でございましたから、口に出すのをはばかったのですじゃ。じゃが、ただいま、姫のあまりといえばあまりなおふるまいをみて、思わず知らず、いわずには――」
「ちょっとまって――」
と、ゾオラは顔を空にあげた。その眉《まゆ》が、なにかを想《おも》い出そうとする努力に、きゅうっとひそめられた。
「なにか……あたし……想い出せそうだわ。……」
「想い出す? なにを? はははは、姫、それは御記憶にはございますまい。母御さまのことは、姫が三つのおとしに起ったことでございますから」
「いいえ、想い出しました」
ゾオラの顔が白い紙のようになった。唇までが透きとおり眼が恐怖のために義眼みたいにかわいて、アル・ムタッツのほうへむけられた。
「あたしは、おぼえている。……二つだったか三つだったかしらないけれど、あたしのこの眼は、たしかにその恐ろしい光景をみていたわ。……子供にはわけがわからない。けれど、眼はおとなとおなじようにものを映して、その記憶はあたまのどこかにしみのこっているのね。……それが、いまのあなたの告白で、まぶたに浮いてきました。幕屋《まくや》のなかでうつぶせにねじふせられている女のひとの白い背を……その背にあがった恐ろしい白いけむりを、そして真っ赤に灼けた十字架をさげていた男の顔を……」
「ばかな! 三歳の幼児になんの記憶が――それは姫の悪夢ですじゃ」
「その男の顔を……」
ゾオラはくりかえして、突然顔をおおってよろめいた。
「アル・ムタッツ、母上の背に烙印をおしたのは、あなただったわ……」
恐ろしい景教僧は、棒みたいに硬直した。くずおれたのは姫のほうだった。アル・ムタッツはくろい下唇をつき出して放心したようにその姫の姿を見おろしていたが、やがてきしり出すように、
「あれは、王の御命令でありましたのじゃ」
その眼に、つよいひかりがもどった。
「いいや、あれは天帝《エホバ》の命ぜられた罰でありましたのじゃ」
彼は、胸に十字をきって、呪文《じゆもん》のようにいった。
「姫、おたちなさい」
ゾオラはふらりと顔をあげた。
「姫、わしの眼をみなさい」
景教僧のおちくぼんだ眼窩《がんか》のおくに、妖《あや》しい灯《ひ》がともった。姫の眼がこれにとらえられると、暗い、眼窩は、深淵《しんえん》のようにふしぎな吸引力をあらわした。ゾオラはあやつり人形みたいにたちあがった。……催眠《さいみん》術というものを知らない人間たちには、それはたしかに魔術のような光景だった。
「姫、わたしたちは旅立たねばなりませぬ」
「……はい、わたしたちは、旅立ちましょう……」
と、ゾオラ姫はほそぼそといった。
西門慶も応伯爵もほかの妾たちも、名状しがたい鬼気に身をしばられて、茫然《ぼうぜん》としてつったっている。達沙アル・ムタッツは、依然として魔のような眼で姫の眼をとらえたまま、厳粛な声音でいった。
「これ以上、なおこの邪淫《じやいん》の巣に身をおけば、天帝《エホバ》はかならず姫のおからだに、烙印の冥罰《みようばつ》を下されましょうぞ」
珠盗之章
――それにしても、外は恐ろしい寒さだった。この十日あまり、かわいた雪が舞っては屋根につもり、ちょっと晴れてとけたかとおもうと、また身をきるような寒風がふきなぐって、房という房の軒さきからは、まるですだれのように氷柱《つらら》がさがっている。
そのなかを、明日、達沙アル・ムタッツとゾオラ姫は、またゆくえもしれぬ伝道の旅に出ようというのだ。
その夜、わかれの宴がひらかれた。卓のうえには、例によって、胡桃《くるみ》と葱《ねぎ》と肉の炊物《たきもの》から、羊の水炊きやら、鵞鳥《がちよう》のくびの塩漬《しおづけ》やら、ぜいたくな御馳走が銀燭に照らされているが、西門慶は悄然《しようぜん》としている。ゾオラ姫をうしなうのが、気もたえいらんばかりにつらいのだ。つれてゆくのが恐ろしい魔力の所有者ともみえる景教僧でなかったら、非常手段をめぐらしてでも、なんとかしたいくらいだった。
愛妾たちは、はしゃいでいた。むろん彼女らは、大いなる恋敵ゾオラ姫の去るのが、うれしくてしようがないのである。この金髪|碧眼《へきがん》に高貴と情熱をあふれさせた王女の魅力は、まったく異質でエキゾチックで、さすが艶をきそう彼女らにも対抗のしようもないものだからだった。
しかし、わかれの宴に、気もたえいらんばかりにかなしがっている人間と、うれしくってしようのない人間がまじりあっていては、その雰囲気《ふんいき》がなんとなくチグハグなのはやむを得ない。――だいいち、送られる当人の景教僧のむっつりと苦虫をかみつぶしたような顔が、こういう宴では、不吉な鴉のように目ざわりだ。唄《うた》もなく、ともすれば笑い声もとぎれた。
「応さん」
と、潘金蓮がよびかけた。
「ちょうどいい機会だから、あの末羅《バスラ》真珠をみせていただきなさいよ」
「お、そうだ。それは是非拝見したいものですな」
と、応伯爵は顔をあげた。それをみたいのはもちろんだが、それより、このばらばらな宴席に、なにか興味あるひとつの焦点をつくり出そうとするらしい金蓮の思いつきを察したからだった。
「西大人、あの姫からいただいたという真珠をわしにもみせてくれ」
西門慶は狼狽した。ゾオラがくれたのは、アル・ムタッツにもないしょだからである。はたして、アル・ムタッツの眼がぎょろっとひかった。
「い、いや、伯爵、あれは、その、なんだ、出すと、またなくなるおそれがある。――」
「まさか、こんなにたくさんの人間がみていますのに」
と、金蓮が笑った。
かえって、ゾオラのほうがへいきだった。へいきというより、そんな問答をきいているのかいないのか、やけのように香荷酒《こうかしゆ》をあおっている。景教僧がうめくようにいった。
「御主人、わたしにもその末羅真珠とやらをおみせ下さい」
こうなってはもうしかたがない。西門慶は正夫人の月娘をやって、その真珠をもってこさせた。
「おう、これは」
応伯爵は、おもわず嘆賞のさけびをあげた。――それは、ほんとうに弥蘭《ミラン》河に咲く蓮華《れんげ》におく大つぶの夜露のようなみごとな真珠だった。
「いや、これをみると、なるほどあとのひとつぶがなくなったのが惜しいねえ……」
「あとのひとつぶが、なくなった?」
と、景教僧が、うわ眼づかいにじろりとみる。西門慶がへどもどしているのに、さすがに呉月娘がそれを受けて、
「ほんとうなんですよ。盗られたのは、その真珠ばかりではありませんの。こないだは、わたくしの白銅の鏡がなくなりましたし、そのまえは金の腕環《うでわ》と銀の壷《つぼ》が――それから沫金鏤《まつきんる》の太刀、象牙《ぞうげ》の櫛《くし》――このごろ、ふしぎに、ちょくちょく物がなくなるんですよ」
「その真珠は……もと三粒ぞろいのもので、姫のおん母上のおもちものでありましたのじゃ」
と、景教僧がしゃがれた声でいい出した。
「母后の御密通があらわれたのは、そのひとつぶを姦夫《かんぷ》めにおあたえになったことが、わかったからでありました。……その真珠をもらった人間、盗んだ人間に呪《のろ》いあれ!」
みな、なんともいえない恐怖に身をかたくして、大きくひらいた眼で、卓上の大真珠に視線をあつめている。……応伯爵は、そのなかで潘金蓮だけが不敵なうす笑いをうかべているのに気がついた。
金蓮はとなりのゾオラにささやいた。
「ゾオラさま、ごらんなさい、あの女たちのとびつきそうな眼を」
「…………」
「あの真珠は、女という女の眼を、みんな盗人の眼にしますわ。ほほほほ。……なかでも、ほら、泥棒猫《どろぼうねこ》みたいな孫雪娥さんの眼。……」
と、すこし身をひいたのは、ゾオラとははんたいに金蓮のとなりにすわっているのが、孫雪娥だったからである。いくらなんでも、これは雪娥もききとがめたとみえて、
「なんですって? 金蓮さん、あたしが泥棒ですって?」
「あら、きこえた? ほほほほ」
「笑いごとじゃないわ。失礼な! 泥棒とはなによ?」
「泥棒なんていやしなくってよ。泥棒猫みたいな眼といったのよ。――」
「くやしいっ」
すこしヒステリイ気味のある孫雪娥が、いきなり金蓮のどこかをひっかくと、金蓮がまけないでピシャリと雪娥のほっぺたをひっぱたく。たちまち、ふたりの女のとっくみあいの大喧嘩《おおげんか》となった。皿《さら》がおち、壷がたおれ、金蓮の袖《そで》がひるがえったかと思うと、燭台がひっくりかえって、あっというまに部屋がまっくらになってしまった。
「ばかめ、なにをさわぐ」
西門慶の怒号する声がきこえた。ぽっと赤いひかりがいくつか床のほうからあがってみえるのは、ところどころにおかれた銅の火鉢《ひばち》からだったが、それだけに部屋はいっそう闇黒《あんこく》を感じさせた。
「灯を――」
と呉月娘がさけんだとき、応伯爵の手もとで、かちっと青い火花がちった。こういう場合にはすこぶる機転がきいて敏速な伯爵が、腰の皮袋からとり出した燧石《ひうちいし》をうって、取燈に火をつけたのだ。取燈とは麻幹《おがら》のあたまに硫黄をぬったものである。
このあいだ、わずか五つか六つ呼吸するほどの時間で、灯はふたたび燭台にあかあかと点じられた。
突然、西門慶が、はっとして顔をふりむけていた。
「月娘。――真珠はあるか?」
呉月娘はからだをのばして、小盒《こばこ》をのぞきこんで、首をふった。
「ないわ」
「くそ!……また、やりおったな?」
と、西門慶が歯ぎしりしてうめいたとき、いまのさわぎをききつけた寵童の棋童《きどう》や小間使いの玉蕭《ぎよくしよう》や小鸞《しようらん》がかけこんできた。
「ううむ、なんたる不敵な奴か。伯爵、盗人はその女どものなかにいるということは、たしかに嘘ではなかったろう。おい、棋童、小鸞! もっと燭台をもってくるんだ。もう容赦はならん。きっとここで盗人をさがし出さずにはおかぬ。みんなそこをうごくな!」
「あにき、いったい、どうするんだ?」
「みんな、はだかにしてしらべる。髪から着物、耳のあなから、それにこいつらのなかには、まだまだ妙なところにかくしかねない奴もいる。しらみつぶしにさがし出すんだ」
応伯爵はなにかいいかけたが、急ににやにやしてだまってしまった。美しい愛妾たちのみるみるはだかにされてゆく眼の法楽をおもって、悦に入ったのだ。
が、このとき、隅《すみ》のほうで、
「おお――罪ふかきこの家に呪いあれ!」
とつぶやいて、くるっと壁のほうをむいた景教僧の影に気がつくと、西門慶はさすがにすこし正気をとりもどしたとみえて、
「やい、みんなとなりの部屋にゆけ!」
と、女たちにあごをふった。孟玉楼がヒシと胸をだいて、
「いやよ、となりは火の気もないのに」
「だまれ、なにを悠長《ゆうちよう》なことを」
こんどは金蓮が、にくらしそうに、
「あんなまっくらななかで、よくみえたものね。いっぱいならんでいる御馳走のなかの小盒から、音もたてないで。――猫みたいな眼をもったひとをさがしたらいいんだわ。……」
「うるさい、はやく、ゆかないか!」
西門慶は、ざわつく女たちを、まるで檻《おり》に鶏をおいこむように、こづきまわし、けとばした。蒼白《あおじろ》い顔に、女特有の底意地わるさをひめて、呉月娘がつづく。
まもなく、となりの部屋で、あらあらしいきぬずれの音がしはじめた。「うう、さむい。――」「とんだ宴会だわ――」などいう声にまじって「あっ……あっ、いやあ」と、抵抗とも嬌態《きようたい》ともつかないはしたないさけび声をあげたのは、金蓮だろう。しかし、まもなくざわめきはしんとやんだ。
扉がひらいて、西門慶が苦汁《くじゆう》をのんだような顔つきであらわれた。
「あにき、真珠はあったか?」
「ない!」
と、西門慶は、重っ苦しい声でいった。
そのとき、いままでだまって香荷酒をなめていたゾオラ姫が、うす桃いろにそまった顔をあげてふといった。
「もしかしたら……真珠を盗ったひとは、あのひとかもしれませんわ。……」
烙印《らくいん》之章
「な、なんですと?」
西門慶をはじめ、ぞろぞろ出てきた女たちも、棒立ちになる。ゾオラの眼も頬も、異様なくらい、かがやきをおびていた。香荷酒がきいてきたらしい。
「姫、あのひとって?」
「あのひと。……金蓮さんのことばで思いつきました。猫みたいに、闇でももののみえるひと。……」
「へえ、そんな人間が、このなかにいるのか?」
「いいえ、明るいところが、急に暗くなっても、ものがみえるように眼をならしていたひと。……」
「だれだ。それは?」
「灯がきえるまえに、ずっと眼をつむっていたひと。……それも、金蓮さんが、みんなの眼をごらんなさい、といってくれたから、いま思い出したのです。……ずっと眼をつむっていたひとは、あの憑金宝《ひようきんぽう》夫人でしたわ。……」
一同がぎょっとしたのは、そのことばより、つぎにゾオラがけたたましく、ケラケラと笑い出したことだ。なぜか、ゾオラの様子はへんだった。急にひどい昂奮《こうふん》状態にゆりうごかされているようだった。
しかし、次の瞬間、部屋は名状しがたい混乱におちいった。それは、あわてて鳥のとびたつようににげかけた憑金宝の袖を、いきなりむずと西門慶がとらえたからだ。
「きさまか!」
「あっ旦那さま。……」
身をもみねじっているその姿をみても、ほかのものにはまだ夢をみているようである。このおびただしい持参金をもち愛妾中随一の財産家である憑金宝が盗人とは!
顔をおおったまま足もとにくずおれた彼女を見おろして、西門慶自身茫然たる顔いろだった。
「き、金宝、ど、どうしたというのだ?……まえまえから物のなくなるのも、みんなおまえのせいだったのか?」
「旦那さま、ゆるして。あ、あたしの病気なんです。……」
「病気?」
「え、月のものがはじまると……どうしても、ものが盗みたくなるんです。……手が……手がひとりでにうごいて、盗人をするんです……」
「ばかな!」
西門慶には、そんな病気の思いやりはない。おどろきがしずまると、急に激怒がその眼を爛々《らんらん》とかがやかせた。
「それで金宝、末羅真珠を、どこにかくしたのだ」
「あの……のみこんでしまいました。……」
ものもいわず、西門慶は憑金宝の口に手をかけて、
「吐け、出さないか?」
彼は金宝の背なかをたたき、舌をつかみ出そうとした。のたうちまわる金宝の無惨な姿に、みんなオロオロしているが、だれも手も出せない。
その騒動に水をうったのは、そのとき突然ながれた景教僧の声だった。
「姫、どうなされた?」
ゾオラ姫のようすは、すこしへんだった。さっき妙に昂奮していたのに、いまは蝋《ろう》のような顔いろになって、上半身をぐらりぐらりとさせている。夢中になって憑金宝をさいなんでいた西門慶も、これにはめんくらって、あわてて席にかけもどった。
「姫、気分がわるくおなりなすったか?」
ゾオラは顔をあげた。その眼はうっとりとかがやき、唇にはなまめかしい微笑がうかんでいる。
「やっぱり、あたし、旅には出ないわ。ここにいさせてもらうわ。……」
「なにをいわれる。姫!」
アル・ムタッツは狼狽《ろうばい》してたちあがった。ゾオラはへいきで見かえして、
「あたし、気分がおかしいの。……なんだか病気になったみたい。……だから、アル・ムタッツ、あんただけ、さきへいって――」
「姫、わしの眼をみなさい」
景教僧のおちくぼんだ眼窩のおくから、また例の妖しいひかりがほとばしった。
「……わたしたちは、姫、旅立たねばなりませぬ。……」
ところが、ゾオラは、こんどはあやつり人形みたいにたちあがらなかった。依然として、うっとりとかすんだような眼で魔僧をみながら、
「ゆきません。……あたしは、ここで、この方とこうしているんです。いつまでも……」
つぶやくようにそういうと、不敵にも、白い腕をあげて、西門慶のくびにまきつけ、ぐったりともたれかかった。西門慶は恐悦するより眼をパチクリさせているし、アル・ムタッツにいたっては、口をアングリとあけている。ゾオラはまるで幻想の船にでものっているように、肌を西門慶にすりつけ、ゆらゆらと身をゆすっていた。
「お……姫」
西門慶はのぞきこんだ。姫はいつしかそのままの姿勢ですやすやと睡《ねむ》っていたのである。
「これは……ひどく酔われたようだ」
「その手にはのらぬ」
と、アル・ムタッツは、歯ぎしりして、姫の姿をにらみつけた。
「仮病をつかって、わしをたぶらかそうなど……そうまでして、このけがらわしい淫楽《いんらく》の家にとどまろうとは……天帝《エホバ》をおそれぬ大それた方。……」
西門慶は、その呪いの息吹で、ゾオラがそのまま冷たくなってしまいそうな恐怖におそわれた。
「おい、だれか、姫をとなりへはこんで、寝台に寝かせてあげてくれ。……」
棋童や小間使いたちが、睡りこけているゾオラ姫を抱きかかえて、隣室へはこび去った。心細げに、月娘と金蓮があとについてゆく。
まもなく、月娘や小間使いたちがもどってきた。西門慶は不安そうに、
「姫はだいじょうぶか?」
「だいじょうぶ。べつに熱もないし、きっとお酒ののみすぎですわ。金蓮さんがみていますし」
西門慶はうなずいて、すぐまた憑金宝に恐ろしい眼をそそいだ。
「ううぬ、どうしてくれよう? 腹をたちわってやろうか」
「まさか。……のんだものが、いつまでもおなかにとどまっていやしまいし」
と、隣から出てきた金蓮が、扉のところでいった。その言葉の意味をさとって、西門慶がむっと顔をしかめた。アル・ムタッツのほとんど苦しいまでの怒りのうめきがきこえた。
「おう、あの由緒ある王家の真珠を!」
潘金蓮は笑った。
「まさか、汚れた真珠を旦那さまのお手許《てもと》においてもしようがないでしょう。……いっそ、あたしに下さらないかしら」
妾たちはどよめいた。汚物につつまれたすばらしい大真珠、これほど女たちを惑乱《わくらん》させるものはなかろう。西門慶は、最初よりいっそう腹がたってきた。
「こいつ、腹をたちわってもあきたりない奴だ」
「お病気なんだから、かんべんしてあげなさいよ。……旦那さま、女には、月のものがはじまると、いろんな魔物がとりつくものですわ」
「そんなたわけた病気があるか」
「あの大食《タージ》の坊さまに、おまじないをしていただくといいわ」
と、金蓮はけろりとしていった。
「たとえば、むかしあの坊さまは、ゾオラさまのお母さまに罪のつぐないとして、背なかを十字の烙印でやかれたとか。……」
アル・ムタッツはとびあがった。くびをふろうとしたが、金蓮はしゃあしゃあとしてつづける。
「またそのおまじないでもしていただけば、いくらなんだって金宝さんの魔物でもおちるでしょう」
「ひどい、金蓮さん!」
身もだえして、憑金宝がさけび出した。
「あなた、よくそんなひどいことがいえたものね。……どうも、さっきからおかしいおかしいと思ってたけど、やっとあなたにだまされたことがわかったわ。……こうなったら、みんなばらしてあげるから、かくごしておいで。……盗んだのはあたしです。けれど、盗んだものは、まえからあなたと山分けしてたじゃありませんか?」
「なんだと?」
と、西門慶は眼をむき出す。金宝は涙をふきながら、
「あたしの病気を知って、それにつけこんで、むしろあたしをそそのかしていたじゃあありませんか? 今夜だって、そうだわ。もうひとつのこった末羅《バスラ》真珠を盗む最後の機会だからといって、灯をけしてもなお眼のみえるように、あんな智慧《ちえ》をかしてくれたのはあなたじゃありませんか?……ふたりとも、同罪だわ!」
金蓮はそれをききながら、うす笑いをうかべている。
「あなた、みんなあたしをこんな目にあわせるようにしくんだのね? あたしをこの家から放逐しようと思って?」
「そうなの。この家に、泥棒が病気というひとなんかにいられちゃあやりきれませんもの」
と、金蓮はぬけぬけといった。西門慶の、この女に怒っていいのかわるいのか判断に苦しんでいる表情を、金蓮はへいきでふりかえって、
「なんにしても、あの泥棒女のからだから出てきた末羅《バスラ》真珠は、あたしに下さいね?」
「やっちゃいけない! それが、狙《ねら》いだったんだわ。その手にのっちゃいけませんよ、旦那さま!」
と、憑金宝はきちがいのようにさけんだ。
「やかましい!」
と、西門慶はどなりつけた。
「ふたりとも、狐《きつね》か狸《たぬき》か、とんでもない奴らだ。とくに金宝、泥棒狐のくせに、指図がましい顔のできた義理か。えい、きさまのような奴は、ほんとうに……」
「病気なんだから、坊さまにおまじないをおねがいしなさいよ」
と、金蓮がまたそそのかす。西門慶はちらっとアル・ムタッツのほうをみた。景教僧が、なんともいえない陰惨な顔でおよぎ出た。
「おお、わしは耳をふさぎ、眼をおおいたいようだ、悪臭うずまく罪悪の家よ。いかにも、わしが浄《きよ》めて進ぜる」
憎悪と嫌悪《けんお》にブルブルとふるえる指で、胸の十字架をはずすと、傍の大火鉢にぐいとつっこんで、
「そこな夫人」
と、金宝をみた。金宝はにげようとして、その恐ろしい眼にしばりつけられた。
「わしの眼をみて……わしの眼をみて……おお、大食《タージ》の沙漠に知らぬ人もいない王家の秘珠を盗み、けがした女よ、そなたはその罪の罰をうけねばならぬ。……」
彼は、卓上の水壷に両手をつっこむと、そのぬれた手で、真っ赤にやけた十字架をとりあげて、しゅっとしごいた。憑金宝よりも西門慶への示威だが、掌と灼けた十字架のあいだの水蒸気の障壁《しようへき》をしらぬ一同は、てきめんにその魔力に金しばりになってしまった。
「いいや、その罪は、聖なる十字架で浄めねばならぬ!」
たちまち、憑金宝のむき出しにされた白い背から、恐ろしい煙がたちのぼり、悲鳴とともに、彼女は悶絶《もんぜつ》した。
魔僧アル・ムタッツは、十字架を水にひたして冷やし、胸にかけると、暗い眼でまた一同を見まわし、
「天帝《エホバ》の御意にそむく罪人は、だれしもその冥罰をうけましょうぞ!」
と言うと、ぶきみな跫音《あしおと》をひびかせて出ていった。
みんな、うなされたように、床にうつぶせになった憑金宝の背を見つめて、たちすくんでいる。そのむっちりした肉にえがかれた十字の火ぶくれ!
「えい、見たくもないわ。そいつをとなりへほうりこんでおけ!」
と、西門慶が顔をそむけてどなった。
小間使いたちが、失神した金宝を隣室にはこびこんだあと、一同は夢遊病者みたいに席にもどった。宴はもはや沈みきっていた。だいいち、かんじんの送るべきゾオラ姫もアル・ムタッツも席から姿をけしているのだ。
「――おい、伯爵」
と鬱々《うつうつ》と盃を口にはこんでいた西門慶が呼びかけた。
こういう場合に、いつも気をとりなおして、一座をにぎやかにしてくれる幇間役《ほうかんやく》の応伯爵が、なにやらひどく思案にくれているのが気にかかる。西門慶がかんがえこんでいるのは、いまはもう憑金宝のことでも末羅《バスラ》真珠のことでもなく、あの景教僧の呪いのことだった。
「伯爵、どうしたものだろうな?……姫は旅には出ないといっているが……あの恐ろしい達沙のことをかんがえると、わしは……」
そのとき、隣室で異様なうめき声がきこえた。みんな、はっと顔をあげて耳をすませていたが、突然応伯爵がとびあがった。
「――姫だ!」
と、椅子《いす》をはねかえして、となりへはしりこんだ。
――しかし、ゾオラは相かわらず、寝台に横たわっていたが、気がついたとみえて、眼をあけているが、恐ろしい苦痛にねじれた顔で、両腕で空をかいている。
「姫! ど、どうかなされたか?」
「いたい、いたい」
と、ゾオラはうめいた。
「あつい、背なかが――」
「えっ、背なかが?――」
つづいてかけこんできた西門慶たちは、ぞっとして棒立ちになる。部屋にはだれもいない。いや、寝台の下に、蒲団《ふとん》をかけられてひとり気を失ったままの憑金宝夫人をのぞいては。
「せ、背をみろ、背なかをみろ。――」
西門慶の声に、呉月娘と孟玉楼が、ふるえる手で、苦悶にうめいているゾオラのからだをうつぶせにして背をあらわにしながら、
「まあ、ひどい寝汗。――着物も蒲団もビッショリだわ――」
といいかけて、なにかさけんでとびすさった。
「ら、烙印だ!」
伯爵が、うめいて、よろめく。見よ、あの西門慶がたたえてやまなかった雪白の肌に、無惨にうかびあがった火ぶくれの十字架!
「いつ、いつ、いつ?――あいつは?」
西門慶は、恐怖に両腕をもみねじって、まわりを見まわした。
「扉はひとつだ」
と、応伯爵はいま入ってきた扉にあごをふって、それからただ北側だけにある窓のところへはしりよってひきあげた。灯に美しく軒から長くたれた氷柱がきらめくのがみえた。
「いや、ここからも、だれも入った形跡はない。庭をうずめる雪に、足跡なんかひとつもない!」
と、応伯爵は地上をすかしてみながらさけんだ。冷たい沈黙のおちた冬の部屋に、人々はそれこそ凍りついたようにたちすくんでいた。
飄風《ひようふう》 之章
「それは、知らぬ」
と、眼を大きくひろげたアル・ムタッツは応伯爵に、
「ほかにだれも人がいなかったというのがまことなら、あの罪の女性《によしよう》憑金宝夫人を糾明《きゆうめい》なされい。だいいち、あの女には、おのれの罪を王女にあばかれたうらみがあるではありませんか?」
「その憑夫人はずっと失神していたのです」
「失神したふりをしていたのではありませんか」
「いや、あの烙印をおすには、灼けた十字架ではなくとも、灼けた火箸《ひばし》か熱湯でももちこまなくてはなりません。しかしあの部屋に、そんなものをもちこんだ人間はだれもいないのは、みんな知っているのです。憑夫人はもちろん、そんなものを誰にもみつからないようにふところ[#「ふところ」に傍点]やたもと[#「たもと」に傍点]にいれてはこぶことはできっこないし、また思いあたる器具や容器もない。それかといって、姫のねむっておられた部屋に、火の気もなかったのです」
「窓から出て、火箸を手に入れにいったのではありませんか」
「それが、庭に、人のとおった足跡などまったくないのです」
それで、だまりこんでしまったアル・ムタッツは、泣きもだえるゾオラを抱きしめて、
「姫……姫……」
と、いたましげな声をしぼったが、ふっと眼が宙にすわると、
「天帝《エホバ》の御意があらわれたのですじゃ! 人智《じんち》を以てはかるべからざる神の御手が、邪淫の臥床《ふしど》に下って、烙印の冥罰をおろされたのですじゃ! 姫、天帝《エホバ》を恐れなさい。わしの申す言葉をないがしろになさった罰は、このとおりでありますぞ……」
と、ほこらかに、おごそかにさけんだ。……
一夜あけると、雪ははれて、凄《すご》いほどの碧空だった。が、寒気はいよいよきびしかった。そのなかを、このストイックな老景教僧は、やはり旅に出るという。のみならず、王女もつれてゆくという。これに対してゾオラが苦痛をしのびつつ悄然《しようぜん》としたがっているのは、天帝《エホバ》の神罰に懲りたからにちがいない。そしてまた西門慶もあえてそれをとどめようともしないのは、おなじ恐怖からであろうか。
旅立ってゆく異国の僧と王女を、一同が門まで送って出ていったとき、応伯爵が、なにやら思案にくれた顔でやってきた。
西門慶や呉月娘が、ふたりと別れの挨拶をかわしているあいだ、応伯爵は潘金蓮と小声ではなしている。
「金蓮さん。……憑夫人のからだから出てきた末羅《バスラ》真珠はどうしました?」
「だめだめ、やっぱり旦那さまが、洗って、とりあげてしまったわ」
「そんなことだろうと思った。それくらいのことで辟易《へきえき》する西大人じゃない」
応伯爵はくすりと笑って、うつむいて、地べたの氷のかたまりを蹴《け》とばした。氷は冷たい美しい金属的なひびきをたてながら、ころがっていった。
「わたしは、昨夜、どうしてもわからないことがあった」
「――なにが?……あのゾオラさまの烙印のこと?」
「それもそうですが……あなたが、なぜ姫に、憑夫人の盗みをあばくような暗示をあたえられたか、ということが――」
「ああ、あれ? だって、おうちのなかに、泥棒が病気というひとにいられちゃあかなわないもの。といって、朋輩《ほうばい》のことを、あたしの口からはあばきかねるじゃあないの?」
「そりゃそうですが、だまっていれば、あなたは憑夫人の盗んだものが半分手に入るじゃあありませんか。それを、いまさら。……」
「ほ、ほ、あたしはそんなわるい女じゃありませんよ。仲間になったのは、証拠をつかむためだったのです。いつか、おそかれはやかれ、旦那さまにはいおうとかんがえていましたわ。……だいいち、いつまでも金宝さんの盗みがばれないと思って? あたしは、それほどばかな女でもありません」
「そう、あなたは、ばかどころか、恐ろしいくらい利口なひとだ。……」
といったきり、応伯爵はまただまって潘金蓮の顔をみてにやにやと笑っている。
「そのりこうなあなたが、金宝さんの盗みをぶちまけるのに、なぜ昨夜をえらばれたか、わたしはそれをかんがえていたのです。……」
「応さん、あなた妙にあたしにからむのね? そりゃなにも昨夜じゃなくてもよかったのですわ。けれど、もう悪いことにはしんぼうできなかったのです。……」
金蓮は応伯爵の眼をのぞいて、ふとはにかむように微笑した。
「あなた、笑っているわね?……ほ、ほ、笑うわねえ。応さん、あたしはたしかに金宝さんの盗んだものをはんぶんまきあげていたわ。けれど、よくかんがえてみたら、盗んだものは、まさか人前に出せないでしょ? いつも、かくして――それじゃ、手に入らないもおなじことだわ。それどころか、かくすのにいつも気をつかって、とてもひきあわないと思ったの。だから、いっそみんなぶちまけてしまえば、御褒美《ごほうび》とまではゆかなくっても、あの汚された不浄の末羅真珠一つぶだけは堂々とお下げわたしになるだろうとかんがえたのよ。……それがあのよくばりおやじ、そうは問屋がおろさなくって、たいへんな勘定ちがい」
「金蓮さん、あなたはりこうなひとだ。それくらいのことがわからないひとじゃない」
「え、それは、どういう意味?」
「あなたは、いままで手に入ったものも、末羅真珠も、みんななげ出しても、なおやりたいことがあったのじゃありませんか?」
「え、だから、あの泥棒女の放逐。――」
「それも、ついでだ。わたしの思うには、あなたはただあの憑夫人の背なかに、達沙から烙印をおさせたい目的だったのじゃありませんか? あなたは、しきりにそのことをそそのかしていられた」
「おや、なぜ? 金宝さんの肌なんか、ちっともきれいじゃないわ。……」
「おっと、金蓮さんらしくもない。はははは、思わず、語るにおちましたね。いや、憑夫人の肌にやけどをつくるよりも、達沙に烙印をおさせるのを、みんなの眼のまえで見させたいというのが、その目的だったのじゃありませんか?」
「どうして? あなたのいうこと、わからないわ」
「達沙の恐ろしさを見せつけるため。――あとでゾオラ姫の背なかに十字架の烙印があらわれたとき、その烙印をおしたのがあの達沙だと、みんなに思いこませるため。――」
「え、あれ、坊さまのしわざでしょ? 坊さまでなくって、だれが?」
「いやいや、いかな達沙といえども、姫の傍にいなくって烙印のおせるわけがない。げんに、姫の母御にしろ、憑夫人にしろ、実際に達沙が灼けた十字架をおしあてたじゃあありませんか?」
「それじゃ、あの金宝さんでしょう。金宝さんは傍にいたんだから」
「金宝さんは気絶していましたよ。すくなくとも、灼けた十字架などもって入るいとまはなかった」
「それなら、あの天帝《エホバ》という恐ろしい神さまが――」
「はははは、あの達沙もわけがわからないものだから、じぶんに都合のいいようにそんなことをいい出したが……しかし、あの坊さまは恐ろしい。いまに何もかも気づかねばいいが……はやく旅にいってしまってくれればいいが。……」
景教僧と王女は、もういちど西門慶夫妻におじぎして、しずかにあゆみ去ろうとしている。そのゆくての真《ま》っ蒼《さお》な空にポツンと一点の黒い雲がうかんでいた。
ボンヤリとそれをみていた潘金蓮が、眼を大きく見ひらいて、応伯爵をふりかえった。
「応さん、あなたはいったい、なんだといいたいの?」
「ゾオラ姫の背に十字の烙印をつけたものは、十字架でもやけ火箸でもなく、十文字にくみあわせた氷柱《つらら》だったといいたいのです。……」
「まっ、氷柱が、あんなやけどを――」
「なんなら、氷柱のうえにながいあいだねていてごらんなさい。姫のからだがひどくぬれていたのは、そのためだったのですよ。……」
「ゾオラさまが、そのうえに、へいきでねていらしたとでもおっしゃるの?」
「姫は、酒にいれられた鴉片《あへん》で半失神していました。そうなるまえのあの異様なはしゃぎぶり、あの活溌《かつぱつ》なうごき、達沙の眼の魔力もなんのききめもないあの肉欲的なふるまい。……あれはみんな鴉片のせいだったのではありませんか? そして、酒宴ちゅう、姫の傍にいたのは、西大人とあなただった。……」
「あたしが、あの姫君に、なんのうらみがあって」
「肌へのやきもち」
「え?」
「さっき、あなたが語るにおちたというのは、そのことです。あなたは、西大人がほめちぎったあの大食《タージ》の姫の雪白の肌に、みにくい十字の傷あとをつけたかったのでしょう。……」
景教僧と王女はすでに十歩遠ざかった。
「応さん」
潘金蓮は、応伯爵の耳たぶに芳醇《ほうじゆん》な息をふきかけながら、ふりむいた。その背後で、さっきの黒雲が、みるみる妖しいばかりにひろがりはじめた。飄々《ひようひよう》と風が面《おもて》をふいてきた。
そのとき、二十歩遠ざかったアル・ムタッツが、くるりとふりかえった。
老景教僧は、つかつかとひきかえしてくる。みんな、なにやら恐ろしい予感にしばられてたちすくんでいる。地の果てから、ぶきみな物音が鳴りどよもしてきた。
「ちょっと、いま気がついたのじゃが」
と、アル・ムタッツは一同を見まわして、いった。
「昨夜、姫がおねむりになっていたとき、傍にひとりいられたのは、どなたじゃ」
「――それは、憑金宝と……」
と、西門慶がドギマギしてこたえる。
「そのほかには?」
「呉月娘、棋童、小間使いの小鸞《しようらん》、玉蕭、……」
「いいえ、あたしたちは、みんないっしょでした。ひとりというと、ああ、金蓮さん。……」
と、呉月娘がいぶかしげにふりむいたとき、アル・ムタッツは一歩ゆらりとふみ出して、潘金蓮の眼に見いった。刺しつらぬくような眼のひかりである。
「姫の烙印は、やけどではなかった。……発赤《ほつせき》、水疱《すいほう》、壊疽《えそ》……症状はよく似ておるが、あれはひどい凍傷であった。……考えたりな、氷の烙印とは、……姫に鴉片をあたえてねむらせた女、そこな夫人……ここへきなさい」
金蓮は、にげようとしたが、老景教僧の深淵のような眼にとらえられた。
「わしの眼をみて……わしの眼をみて。……」
金蓮は、フラフラとおよぎ出した。応伯爵は全身水をあびたような思いでなにかさけぼうとしたが、声も出ない。景教僧は、金蓮をにらんだまま、見えない糸でひくように、あとずさりにふたたび往来をあゆみ去ってゆく。ふしぎな轟《とどろ》きがたかまってきた。
「おう、雲が!」
西門慶がさけんで、空をあおいだ。暗澹《あんたん》とした雲は、いつしかするすると黒い紐《ひも》をたらしつつ、疾風《はやて》のようにちかづいてくる。と、みるまに、地上からもひとすじの雪けぶりがまきのぼって、天地をつなぐ柱となった。
「竜巻だ!」
と、応伯爵が絶叫した。
それは、町の甍《いらか》や鋪石《しきいし》や枯葉をまきあげつつ、右や左へ、それこそ竜のようにうねりながらちかづいてくる。にげようにも、みんな金しばりになったようだった。このときにはじめてアル・ムタッツはこれに気がついたらしい。ふりむいてなにかさけんだが、次の瞬間、彼も王女も潘金蓮も、まっくらな砂塵《さじん》のなかにみえなくなってしまった。
「金蓮さん」
応伯爵がさけんではしり出したとき、竜巻は、ぐうっと大きくむこうへそれながら、虚空《こくう》から、どっときらびやかなひとりの女を吐きおとした。潘金蓮である。轟きと竜巻は、みるみる彼方へ去ってゆく。
「金蓮さん! 金蓮さん!」
応伯爵が半狂乱に抱きあげたとき、金蓮は嵐《あらし》にうたれた梨《なし》の花のような顔いろで、
「背なかが……」
といったきり、がっくり失神してしまった。
――あとでわかったことであるが、潘金蓮の背には、地におちたとき、そこの鋪石の紋様のとおり、クッキリと赤い十字の傷あとが浮いていた。けれど……あの一陣の冬の飄風は、妖しい異国の僧と王女をいずこへはこび去ったのか、ついにそのゆくえもしらずとなん。
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[#見出し] 黒い乳房
触手之章
応伯爵《おうはくしやく》は、もと大きな絹問屋の息子《むすこ》に生まれながら、道楽で家をつぶしてしまったくらいだから、賭博《とばく》にかけては天才だった。したがって、幇間《ほうかん》みたいに出入りしている山東|清河県《せいかけん》随一の豪商|西門慶《せいもんけい》など、彼にとってこのうえなしの鴨《かも》である。
ところが、ふしぎなことに、麻雀《マージヤン》をやると、このごろ彼はよく負ける。いや、かならずといっていいほど負ける。好きだが、ひどく勘がにぶくって、そのうえ多血質ですぐ逆上しやすいたちだから、勝負事には弱い西門慶だと思っているだけに、天才のはずの応伯爵がかえって血眼《ちまなこ》になった。
「よし、リーチだ!」
「おい、いいのか?」
と、北家《ペーチヤ》の西門慶が、ニヤニヤ笑った。ひどく、自信まんまんたる表情である。
つづいて南家《ナンチヤ》の呉月娘《ごげつじよう》夫人が、西門慶のまえに重ねてある牌《パイ》をとり、つぎに第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》がとる。西門慶が万子《ワンツ》の清一色《チンイーソー》をやっていることはあきらかだから、だれも万子を出しはしない。が、西門慶がつぎの牌をとりこんでニタリとしたところをみると、また悪運つよくも、欲しい万子《ワンツ》を手に入れたのだろう。
一巡して、牌をとった応伯爵の顔いろが変った。いちばんおそれていた九万がきたのだ。西門慶がゲラゲラ笑った。
「伯爵、リーチだろう」
「やむを得ん。そら!」
「栄《ロン》」
と、西門慶はまたあがってしまった。清一色《チンイーソー》の四暗刻《スーアンコー》の、むろん満款《マンガン》だった。
「伯爵、これでおまえにいくら貸したかな。ほかのこととちがって、この勘定ばかりはかんべんしてやるわけにはゆかないぞ」
「はらうよ、むろん、それはこの首を売ってもはらうが。……」
と、伯爵は泣き声でいって、しばらく思案にくれていたが、
「いや、まけたまけた、今夜は西大人をよろこばせて、もうよすとしよう」
と、さすがに見切りをいさぎよくして牌をなげ出し、ガチャガチャとかきまわしてしまった。
が、そのあとで酒宴となっても、やっぱりみれんがのこるとみえて、金華酒をひとくちのんではふっと考えこみ、
「しかし、どうも奇妙だな、あにきは、じぶんのまえにつんだ牌の順序を知っているのじゃないか。……」
「あはははは、そんなことを知るものか。わしは象牙の裏まで見透せるほど天眼通ではないわい」
「むろん、そうだ。ただ考えられるのは、はじめ積むときに、指の腹でおぼえているのじゃないかということだが、……あにきの指が、それほど芸のこまかいはずがないし。……」
「この指がか?」
と、西門慶は、じぶんの人さし指と中指を灯にかざして、また愉快そうに哄笑《こうしよう》した。いもむしみたいにみじかくて、さきのふくれた指だった。
「麻雀の話はさておいて、伯爵、そうこの指をばかにしたものではない。この指は、なかなか神変不可思議な妖術《ようじゆつ》を体得したのだぞ」
「と、いうと?」
と、応伯爵はふしんそうな顔をあげたが、西門慶の眼《め》にぎらついている好色的な笑いに、あいまいな苦笑をうかべて、
「そいつが、毒々しい指だってことは、ようく知っているよ」
「まあさ、麻雀にまけたからって、そうにくまれ口をきくものではない。この指はな、伯爵、闇中《あんちゆう》にふれただけで、左様、ただ乳房のさきにふれただけで、どの女か見わけることができるのだ」
「へへえ。……」
こういう話になると、応伯爵も、勝負にまけたことは忘れて、好奇心に眼をひからせる。西門慶はいよいよ得意になって、
「なあ、伯爵、女をたのしむのは、要するに五感のものだろう。眼、耳、鼻、舌、そして触感。――」
「あたりまえだ。もっともそのうえに、心、というものがあるが、あにきなどにはわかるまい」
「えらそうな口をきくな。おまえだって、ガラにもないよ。ところで、そのうち、何がいちばん大事だと思う?」
「そりゃ、何といって欠けてはならんものばかりだが、まあ、ふつうには眼だろう。いわゆる美女とは、眼にみえてきれいな女のことをいうのだから」
「だからおまえなんか、いつまでたっても色道の深奥をきわめつくせないのだ」
「それじゃ、あにきはどうだ」
「触覚だ」
「なるほど。……そうかもしれないが、しかしそれ一点ばりというのも、少々人間味がないようだね。なんだか、畜生の色恋にちかくなるよ」
「それだ。色道の醍醐味《だいごみ》は、そこまで墜《お》ちて、はじめて究めつくせるのだ。二兎《にと》を追わんと欲すれば一兎をも得ず、況《いわ》んや五兎をや。……五感で味わおうなんぞと思ったら、気がちっていかん。なかんずく、いまおまえのいった眼など、これがいちばん邪魔になる。何でも一芸とおなじでな、一芸に達すると、百芸万象の深奥に達する。……」
「これはおどろいた。西大人からいまさら禅坊主みたいな色道の講釈をきこうとは思わなかった」
「おれが、麻雀の達人となったのもそのおかげだといえば、おまえもちっとは腑《ふ》におちるだろう。わからなけりゃ、それでいい」
西門慶は、うれしそうにゲラゲラ笑った。
正夫人の呉月娘をはじめとして、第二夫人|李嬌児《りきようじ》、第三夫人|孟玉楼《もうぎよくろう》、第四夫人|孫雪娥《そんせつが》、第五夫人潘金蓮、それからこのごろ新しく西門家の後園に迎え入れられた葛翠屏《かつすいへい》と香楚雲《こうそうん》は、キョトンとして顔を見合わせている。ただ、見合わせようにも見合わせようのないのが、卓の隅に影のようにすわっている第六夫人の劉麗華《りゆうれいか》ばかりである。彼女は、盲目だった。
応伯爵も、わかったようなわからないような気持である。色道に触感の大事なことは知っているが、いまさら何をと思う。しかし、この稀代の大好色漢が、ちかごろその飽くことのない色欲世界での猟奇から、なにやら珍しい霊感を獲得してきたらしいことは想像できる。
たしかに、あのへたな麻雀に、別人のような魔力をそなえてきたほどに。
盲女之章
「金蓮さん」
声は、きこえなかった。ただ、廻廊のむこうに立っている葛翠屏の厚い唇《くちびる》のうごきでわかったのだ。
西門家の後園だった。正方形の中庭をかこんで、北廂房《ほくしようぼう》に潘金蓮、西廂房に孫雪娥、南廂房に葛翠屏、東廂房に劉麗華が住んでいて、それを朱の廻廊がつらねている。北廂房から出て、東の廻廊にまがりかかった金蓮は、その南のはしに立っている葛翠屏に呼ばれたのである。
葛翠屏は、もと或る高官の妾《めかけ》だったのだが、その高官に西門慶が金を貸して、そのかたにもらいうけた女だが、色は白く、みごとなからだをしているが、鼻がひくく、唇があつく、ちょっと狆《ちん》に似た顔をしている。じぶんより美しいものに対しては、じっとしてはおれない性質をもつくせに、醜いものに対してはまた軽蔑《けいべつ》というより憎悪にちかい感情を抱かずにはいられない潘金蓮は、彼女がきらいだった。
ついと身をひるがえそうとした金蓮は、そのとき翠屏が、親指をつき出して東廂房をさし、それから両手で抱くまねをして腰をうごめかしたのに立ちどまった。
「…………」
「…………」
眼と眼で、ふたりの女は問答した。東廂房に西門慶がきているというのだ。
金蓮は、音もなくあるき出した。その東廂房のまえを、仮面のような無表情でとおりすぎて、翠屏のまえにくると、
「翠屏さん、のぞいてみてやらない?」
と、微笑した。
ほかの妾と西門慶とのいちゃつきを見たい、その欲望はないことはないが、そういう点はふだんでも西門慶は豪快なくらいあけっぴろげだから、いまさらという感もある。金蓮がいまそうもちかけたのは、ほかに理由がある。それは東廂房の劉麗華が、盲目の女だということだった。盲目の女を相手に、西門慶はどういう愛撫《あいぶ》のしかたをするのだろう? じぶんたちに対してと、おなじだろうか。それとも?……金蓮には、きょうひるまきいた西門慶の「……色道の醍醐味を、五感で味わおうなんぞと思ったら、その深奥をきわめつくせるものではない。なかんずく、眼などいちばんのじゃまになる。……」云々《うんぬん》といった仔細《しさい》ありげな言葉が、気にかかってならない。
ふたりの女は、眼をひからせて、外に出た。月のない、初秋の夜だった。
跫音《あしおと》しのばせて、東側の庭をあゆみ、櫺子《れんじ》の窓ごしに、そっと東廂房をのぞきこんで、ふたりは息をのんだ。
部屋に灯はともっている。花瓶《かびん》に黄金のような木犀《もくせい》の一枝がさしてあった。
見るためでなく、そのむせかえるような薫《かお》りをかぐためであったろう。西門慶と劉麗華は、まっぱだかだった。それもおたがいに見るためではない。灯も、消す必要がないからともしているだけだ。麗華は盲目だし――そして西門慶も、どういうつもりか、黒い布で眼かくしをして、盲人みたいに手さぐりにあるいているのだった。
劉麗華も生まれながらの盲女ではない。この夏、ふとしたことで失明した女だ。両腕をまえに、おしりをうしろにつき出して、ソロソロとうごいている姿は、ふつうなら滑稽《こつけい》にみえるはずだった。
それが、可笑《おか》しくはないのだ。おたがいの息づかいと跫音をもとめ、その息づかいと跫音もひそめ、音もなくさぐりよろうとしているふたりの姿は、なにか真剣勝負か芸の苦行のような凄愴感《せいそうかん》があった。しかも、これだけのあいだに、ふたりがどんなに昂奮しているかは、全裸の肉体の変化をみればよくわかる。
[#画像(288.jpg、横303×縦296)]
「色道は、触覚だ」
と西門慶はいった。
しかし、触覚とは相手の肌にふれることでなく、ふたりはすでに空中をとおして、微妙な肉感を撫《な》でまわしているようだった。
潘金蓮の眼が哀しみに翳《かげ》った。
彼女は、西門慶がじぶんの知らない世界に、ふしぎな白馬にのって漂い去ったような悲哀と驚愕《きようがく》をおぼえた。西門慶がじぶんから離れ去ったことを、彼女はこれほどふかく感じたことはなかった。
ついに、西門慶の指の尖端《せんたん》が、劉麗華の乳房にふれた。うすい赤い乳くびが眼にみえてピンと勃起《ぼつき》した。
「あああウ!」
劉麗華はあえいだ。
もとは西門家におとらぬ富豪の夫人だった女だ。盲目ながら、この女ほど気品たかく、憂わしげで、ろうたけた容貌《ようぼう》は、ほかの愛妾にも類をみないが、それだけに色気が淡く、失明以前には西門慶の寵《ちよう》もそれほどふかいとはいえなかったのに、いま、ひくいうめき声ながら、別人のように――なんという獣を思わせる声であろう。
「おおおウ!」
と、西門慶もうめいた。ふたりは立ったまま、からみあっている。八本の手足が、ウネウネと這《は》いまわり撫でまわし、摩擦しあい――異様な白炎が螺旋《らせん》のようにたちのぼり――ひとすじ透明な汗のようなものが、ふたりの足をつたっておちるのがみえた。
気がつくと、葛翠屏は、窓の下に大きな尻《しり》をペタンとすえて、肩で息をしている。
唇をなかばひらき、十本の指がひきつけたようにおののいていた。
潘金蓮も、痙攣《けいれん》と嘔気《はきけ》をかんじた。彼女は、劉麗華に讃嘆《さんたん》をおぼえた。にくしみをかんじたのは、足もとのこの肉塊に対してだった。――まるで、じぶんじしんの秘戯を盗み見られたように。
鞦韆《しゆうせん》 之章
さて、それから一ト月――西門家の後園に、どれほどとらえがたい愛情の波がたゆたい、まつわり、ながれ去ったであろうか。ひとりの男をめぐる七人の妻妾、かんがえただけでもわずらわしいかぎりだが、その西門慶がまた、移り気でわがままの権化《ごんげ》みたいな男だから、かえって、十年一日の風景だともいえる。
「……落つる葉に秋風の早し
八月に胡蝶《こちよう》の来り
ならびとぶ西園の草
これに感じて妾《しよう》の心をいたましめ
そぞろに紅顔の老いんことを愁う。……」
中庭の中央に、鞦韆《ぶらんこ》がある。ひとりそれに腰をおろして、ぶらぶらとかすかにゆすりながら、劉麗華はうたっていた。見えない眼を雲にあげ、かなしげな声であった。
すっと、ひたいを照らしていた日が翳った。夕ぐれがせまっていると気がついて、彼女は足で地をさがしながらおりようとして、
「おや、だあれ?」
と、さけんだ。だれか、うしろから鞦韆《ぶらんこ》の綱をつかんだものがある。
「あっ、よして!」
劉麗華は悲鳴をあげながら、クルクルまわった。うしろのだれかが、綱をねじりはじめたのだ。麗華の泣き声を無視して、その手はなおキリキリと綱をよじると、いきなりつきはなした。恐ろしい勢いで、鞦韆は逆に回転し、それからまた反対にまわって――どうと、麗華は地上におちた。彼女はほんの数秒失神していたが、だれかに抱きあげられて、また恐怖のさけびをあげた。
「奥さま。――奥さま」
金蓮つきの小間使い|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅《ほうしゆんばい》の声だった。
「ああ、おまえ。……」
麗華は、安心するとともに、すがりついて、わっと泣き出した。
この春梅は、どういうものか、まえまえからひどく彼女を好いてくれて、失明後はいよいよ親切にしてくれる女だ。しっかり者の春梅は、淫蕩《いんとう》きわまりのないこの邸に、麗華を、泥中《でいちゆう》の蓮《はす》、はきだめの鶴《つる》、場ちがいの犠牲者のようにみて、同情してくれるらしいのだ。
「お可哀《かわい》そうに……奥さま、だれかまたいたずらをしましたね」
「春梅、みていたの?」
「はい、いま西の廻廊を通りすがりにひょいとのぞいたら、奥さまをのせたまま、鞦韆がひどくまわっているので……」
「まわしたのは、だれ?」
「それが……いたずら者がだれだったか、よくわかりませんでした。東の廻廊へ、ちらっとにげこむ裳《も》がみえたようでしたけれど――おや、あそこに靴がひとつおちてるわ。廻廊にあがるとき、あわてておとしていったものですね」
春梅は、はしっていったが、どうしたのかなかなかかえってこない。
「春梅、春梅」
と、麗華は呼んだ。
「はあい。……」
「だれの靴?」
こんどは、返事がなかった。春梅はその靴をひろいあげて、ひどくこまったようすである。
「いいから、かえってきておくれ。……あたし、わかってるの」
もどってきた春梅に、麗華はさびしい笑顔をみせた。
「春梅。……金蓮さんの靴でしょ」
「…………」
「あたし、わかってるのよ。このあいだから、わたしにひどいいたずらをするのは、きっと金蓮さんか、翠屏さんにちがいないって――」
「翠屏奥さまも?……どうしてでしょう?」
「どうしてだか、わからないわ。一ト月ばかりまえから、そうなの。……でも、このごろ、翠屏さんはなにもしなくなったけれど」
庭に夕闇《ゆうやみ》が、たちこめはじめた。麗華の顔は、風にふかれる夕顔のようにわなないた。
「翠屏さまは、このごろ旦那《だんな》さまの御寵愛《ごちようあい》だから」
春梅はしばらくだまっていたが、やがて溜息《ためいき》をついて、
「旦那さま、ほんとうに気まぐれな方ですね。あたしには、どうして急にこのごろ旦那さまが翠屏奥さまのところばかりお通いになるのか、それこそわかりませんわ。こういってはなんですけれど、奥さま方のうち、翠屏奥さまの御器量がいちばんお落ちになる、こう見えますのに。……そりゃあね、きのうも御酒席で、旦那さまが応さんに、伯爵、いちど眼かくしして女とあそんでみろ、盲目になったつもりで、女を抱いてみろ、この世の美女が、眼でみたときとはまったくひっくりかえるから、なんて妙なことをおっしゃって、翠屏さまのほうをごらんになってニヤニヤお笑いになりましたけれど、それじゃ、盲になったつもりだと、翠屏奥さまがいちばん美人だとでもおっしゃるのでしょうか? ホホ、まあ、眼かくしまでして、むりに美人に思おうとするなんて……正気の沙汰《さた》じゃあありませんね。あたしなら、いやでございますわ。ばかにされたようですわ。それなのに、翠屏奥さまといったら、とくいそうにみんなを見まわし、お笑いになって。……」
「翠屏さんのお話なら、もうきかせないで」
と、麗華ははげしくくびをふった。
麗華には、わかっている。西門慶は、あの微妙不可思議な触手の快楽を発見し、会得した。そして、対象をうつしたのだ。眼かくししさえすれば、かならずしも相手が盲女である必要はないということを知ったのだ。
「あのひとは、ほんとうにごりっぱなおからだをしていらっしゃるから。……でも、旦那さまはそうやって、いま翠屏さんを御寵愛なのに……あたしなんか、もうふりかえっても下さらないのに、なぜ、金蓮さんは――」
「奥さま、風がさむくなりました。もうお部屋にかえりましょう」
春梅はあわててさえぎったが、麗華はいいつづけた。
「なぜ金蓮さんは、いまでもわたしをにくむのかしら?」
彼女はひとりであるき出した。東廂房への方角は、いま春梅のはしってゆき、はしってもどった跫音から、ほぼ見当がついていた。春梅は、あわててその手をとりながら、
「ゆるして下さいまし、奥さま。……金蓮奥さまは、御自分より美しい方をにくまずにはいられない、こまったおくせがおありなのですの。……」
「あたしは、金蓮さんほど美しくはないわ。それに盲目なのに。……」
「わかりません! あたしにもわかりません! なぜ、そう執念ぶかく金蓮奥さまがあなたをおにくみになるのか。――」
急にわれをわすれたように、春梅はさけび出していた。
「奥さまを盲にしたうえに!」
はっと気がついて、口をおさえたが、もうおそい。劉麗華は立ちどまった。
「春梅、なんといいました?」
「…………」
「あたしを盲にしたのは金蓮さんですか?」
「いいえ、ただ……奥さまの眼は、ほんとうにお美しかった。にくらしいほどお美しい……と、いつか金蓮さまがおっしゃったのをきいただけですわ。……」
春梅は、苦しそうだった。じぶんの失言に、顔いろも蒼《あお》ざめている。
しかし、劉麗華は、じぶんの眼のつぶれたときのことを思い出した。ひとにはいえないことである。この夏、彼女は、金蓮の住む北廂房の壁に小さな穴のあることを発見して、偶然、西門慶と金蓮の痴態をみた。そしていくどかその窃視欲《せつしよく》に誘惑されて、とうとう何者かに壁の向う側から、のぞいているこちらの眼を刺されたのだった。刺されたのは片眼だけだったが、それがもとで両眼とも失明してしまったのだ。
彼女は、じぶんがひとの秘戯をのぞいていたとは、死んでも口外できなかった。それでその事件は、あいまいな結果になってしまったのだが、彼女自身は、じぶんを刺したものが金蓮だとはいままで思ってはいなかった。なぜなら、彼女がのぞいていたとき、金蓮はずっと向うの壁際にいたからだ。……しかし……しかし……いま春梅にささやかれてみると、そこに何か恐ろしいからくりがあるような気がする。
劉麗華は、春梅にみちびかれて部屋にもどってからも、いっしんに考えつめた。わからない。わからない。けれど、じぶんを盲にしたものは金蓮にちがいない。あの※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅がそういう以上は!
「奥さま、こちらのお手も」
春梅は、さっき鞦韆からおちたときについた麗華の泥《どろ》を、湯でていねいに洗ってやっていた。
「まあ、よく火のおこっていること。奥さま、このお湯はおろしておきましょうか? お危のうございますから」
といったのは、銅の火鉢《ひばち》を気づかってのことであろう。
「いいえ、なれているから大丈夫」
と、麗華は寝台に腰かけたまま、かすれた声でいって、うなだれている。ふしぎなことに、春梅がもう金蓮のことを口にしないのは当然として、麗華もそれ以上何もきこうとはしない。
彼女は、ただ寝台の傍で強く匂《にお》っている例の木犀の花かげに顔をそむけて、いっしんに何かを思いつめている。夕闇が凝って、もののけの影をかたちづくったような姿だった。
黒炎之章
どれほどの時がたったか。――劉麗華は、依然として凝ったように身うごきもしなかった。彼女は、ただひとつの音をきいていた。沸々《ふつふつ》と何やら煮えるものの音を。――それはしだいに彼女のあたまを灼《や》き昏《くら》ますばかりの炎の音と変っていった。
もう行ってしまった春梅の声がきこえる。
「なぜ、そう執念ぶかく、金蓮奥さまがあなたをおにくみになっているのか――」
遠く母屋のほうで、月琴の音と笑い声がきこえた。だれもじぶんを呼びにくる者もない。金蓮もあのなかでたのしそうに笑っているだろう。――いや――
劉麗華は、さっき部屋のまえを、酔った声で南曲を口ずさみつつ通っていった金蓮の声を思い出した。金蓮は、北廂房にかえったのだ。
あの女が、あたしの眼をつぶした。
じぶんより、美しい眼をもつあたしがにくいばっかりに、あたしを生まれもつかぬ無明の地獄におとし、そのあげく、なお足りないで、なぶり、いじめ、苦しめぬこうとする。
劉麗華が思いつめていたのは、むろん、金蓮の眼をつぶしてやることだった。しかし彼女は、すぐにその考えを放擲《ほうてき》した。それは盲目のじぶんに出来ないことである。針も刃物も矢も毒も、もうじぶんの自由にはならない。
彼女は耳に沸々とたぎる音をきき、またひとつの声をきいた。
「まあ、よく火のおこっていること。奥さま、このお湯はおろしておきましょうか? お危のうございますから」
わきたぎっているのは、銅の火鉢にかけてある銀の壷《つぼ》の湯であった。
すっくと劉麗華はたちあがった。わななく片手にその銀の壷の把手をにぎり、夢遊病者のように部屋を出た。
夢遊病者のように――いや、そうではない。盲ではあったが、彼女はよく知っていた、北廂房へゆく路《みち》を。もっとも、いかに盲でも、そうむずかしいわけはない。彼女のいる部屋は東廂房だから、そこを出ると、右にまわり、角を左に折れてすすむと、右側が北廂房になる。
片手で廻廊の朱塗の勾欄《こうらん》をさぐりながら、麗華は金蓮の部屋のまえに立った。
「金蓮さん」
はじめひそやかに呼んだ。むこうであけた扉《とびら》のかげから、いきなり熱湯を顔のあたりにあびせてやるつもりだったが、返事がない。――彼女は、もう二度ほど呼んで、そうっと扉をあけた。
寝息がきこえた。まだそれほどの時刻ではないが、きっと酔いつぶれたのであろう。麗華は耳をすませた。たしかに、金蓮の寝息だ。彼女はすすみよって、左手をそっとのばした。なまあたたかく起伏する着物にふれたが、なお寝息はやまない。
と、みるまに、麗華は右手の熱湯を、さかさまにしてザッとその上にあびせかけた。
「ぎゃっ」
悲鳴があがったのと、そのからだが鞭《むち》のようにはねあがったのと、どちらが早かったか。――どうと寝台の向うにころがりおちて、凄《すさま》じい苦鳴ののたうつのをあとに、麗華は身をひるがえした。面《おもて》を吹く風をたよりに、もとの扉から廻廊にのがれ出る。
そのまま左に折れて、彼女はもときた路をかけ出した。が、たちまち、
「あっ」
と、さけぶ声がすると、彼女は何者かにつきあたってひっくりかえった。
銀の壷が床におちて、鏘然《しようぜん》と鳴る。ぶつかったのは盲目のせいばかりではない。向うからやってきた人間も、角をまわって出合がしらの衝突に、もろに床に顛倒《てんとう》したようすだ。
「まあ、劉奥さま!」
春梅の声だった。
「どうかなさいまして?」
「春梅」
そういったまま、麗華はうしろをふりかえった。金蓮が追っかけてくることは、なかばかくごのまえではあったが、ふしぎにそのようすはない。それでは、手さぐりながら、もくろみは予想以上にうまくいって、金蓮の眼も顔もやけただれたのだろうか。それとも、或《ある》いは死んでしまったのかもしれない。……
「まあ、奥さま、壷などおもちになって、お水ならだれかお呼びになればよろしいのに。――ああ、みんなあちらにあつまって、あんまり応さんが面白い話をなさるものだから、すっかり奥さまのことを忘れているんですわ、おきのどくに……」
春梅は、麗華をやさしく抱き起した。
「さ、かえりましょう」
彼女に手をひかれて、じぶんの部屋にもどりながら、麗華はワクワクした。春梅は、さきにひきあげた夫人の金蓮を気づかって、北廂房にゆこうとしていたにちがいないのだ。そうすると、万事休すである。いや、これはじぶんの破滅を承知しての復讐《ふくしゆう》にちがいないが、もし金蓮が悶死《もんし》し、じぶんの行動を知っているものがこの春梅だけだとすると、ひょっとしたら、うまくのがれられるかもしれない。あれほどじぶんの同情者である春梅なら。――そう思って、麗華はワクワクしたのだ。
「春梅。……金蓮さんのところへゆく?」
東廂房にもどって、寝台のはしに坐《すわ》らせられると、彼女はかすれた声できいた。
「はい、なにか、御用でしょうか?」
「いいえ、そうじゃあない。それよりも……」
劉麗華は、必死だった。
「ひるま、おまえ、あたしの眼をつぶしたのは、金蓮さんだといったけれど、あれは、ほんとう?」
「まあ、奥さま、あたし、そんなこと申しましたでしょうか。そんな、途方もないことを!……あの、奥さま、お水をくんでまいりましょうか?」
「春梅、おにげでない」
麗華の声は、ねじれるようだった。
「おまえ、あたしを可哀そうと思ってくれる?」
「奥さま! それは、もう……」
「それじゃあ……それじゃあ……もし、あたしが金蓮さんをうらんで仕返しをしたとしたら……それもむりはないと思っておくれか。それとも、やっぱりにくいとお思いか。……」
春梅は、だまりこんだ。何をいい出したのかと、マジマジと劉麗華の顔を見まもっているようすである。
ちかくの寺で、鉄牌子《てつぱいし》を打つ音がきこえた。
「まあ、もう二更になりますわ。奥さま。……なにかひどくたかぶっていらっしゃいますわ。お話はあしたにして、今夜はもうおねむりなさいませよ」
と、春梅はもてあましたらしく、麗華の肩を抱いて、寝台に横たえようとする。麗華は狂ったように身もだえしながら、
「いいえ、春梅、どうぞいっておくれ、おまえは金蓮さんを大事と思うか、あたしをいとしがってくれるか」
「ええ、ええ、なんにしても春梅は、奥さまが大好きでございますよ。……」
突然、春梅はそこでまた沈黙した。麗華をなでていた手が、じいっとうごかなくなってしまった。
「どうしたの? 春梅。……」
「奥さま、だれか、そこにいます。……」
「えっ、どこに?」
「この寝台と壁とのあいだに、床に仰むけになって――」
劉麗華は水をあびたような思いではね起きたが、それよりもっと恐ろしい叫びが耳を打ったのは次の瞬間だった。
「あっ、胸がやけただれて――おお! これは、す、す、翠屏奥さま!」
屍幻《しげん》之章
西門慶は、酔った足どりでフラフラと後園にやってきて、南廂房のまえに立った。
「おい、翠屏」
と、呼ぶ。夕方から、翠屏は酒席に顔もみせないのである。もっとも顔の点からいうと、それほど見たい顔でもない。ただ、あのすばらしい肌のなめらかさ、微妙な筋肉のうごめき、それ自身一個の動物のような乳房だけが、彼にとっての必要物だ。
「準備はいいな?」
そういうと、彼は黒い布をとり出して、眼かくしをした。なかで、ふくみ笑いがきこえたところをみると、このごろの慣習どおり、翠屏も眼かくしをしたようすだ。
西門慶は、扉をあけてなかに入った。
両うでをつき出し、ソロソロとあるき出す。このとき彼は、眼はむろんのこと、聴覚、嗅覚《きゆうかく》まで、いっさい自律的に禁断してしまう。それには一種の技術が必要であるが、彼はすでにそれを身につけた。それは盲女との愛欲ではからずも習得した、奇怪な遊戯のテクニックだった。そして、全身全霊、ただ触覚の化身となって、相手の肌にふれてゆくとき生ずる感覚は、それはまあ、なんという絶妙の快楽であったろう。
壁をぬるようなかたちの掌《てのひら》が、ワングリとまるい乳房にふれた。これだ、彼が葛翠屏を見なおしたのは! 豊麗、優雅、妖艶《ようえん》、さまざまの美をほこる愛妾の数にことは欠かないが、これほど吸いつくような蠱惑《こわく》に濡《ぬ》れた乳房が、またとこの世にあるであろうか。
「おおウ!」
と、それだけで西門慶は、法悦のうなり声をもらした。
夜のむこうで、なんともいえない絶叫がきこえたのは、その刹那《せつな》だ。いかに聴覚を禁断したとはいえ、それはふたりをぎょっとして立ちすくませるに充分だった。
たちまち、翠屏は、バタバタと部屋をかけ出していった。西門慶もあわてて眼の布をとりながら、
「おい、待て」
と、扉の外へとび出したが、すでに南の廻廊には人影もない。ただ、東の廻廊を北へかけていく跫音がかすかにきこえた。
「はてな、いまの声は、どうやら東廂房の方からきこえてきたようだが。――おうい、翠屏」
と、キョロキョロしながら、東の廻廊にまわってゆくと、北側から、ひょっこり潘金蓮があらわれた。
「なあに、大きな声をして、翠屏翠屏って――」
ちかづいてきた金蓮は、ふきげんそうにいった。
「おい、翠屏はそっちにゆかなかったか」
「そんなこと、知りませんよ。それより、春梅はまだ母屋のほうにいるんですの? 二更になったら起してくれっていってあるのに――」
「春梅なんか知るものか。はてな、おかしいなあ」
西門慶が眼をこすっているところへ、南の方から応伯爵がフラフラとやってきた。
「なんだ、西大人。やっぱりここへ、もうしけこんでいるのか。馬鹿っ話にむちゅうになって、ヒョイとふりかえってみると、あにきはいないじゃないか? そう気がついてみると、金蓮さんも麗華さんも翠屏さんもいない。そりゃあにき、はやくこっちに籠《こも》りたかろうが、おれはあにきに是非今夜じゅうにきいてもらわなくちゃこまることがあるんだよ……」
すこし、伯爵は酔っている。西門慶は、にがい顔をした。また借金の相談にきまっている。
「それどころじゃない、葛翠屏がいないんだよ」
「翠屏さんが? いつから?」
「なに、たったいま南廂房からとび出してこっちへきたはずなんだが、反対側からやってきた金蓮が知らないというんだ」
「そんなばかな話があるものか。それじゃこの東廂房にいるんだろう」
と、伯爵は、傍の扉をさした。
西門慶と金蓮は顔を見合わせた。ふたりとも、この部屋の住人には間のわるいことがあるらしい。
「……ウム、そういえば、いまこの部屋のあたりで妙な声がきこえて、それで翠屏がかけ出していったのだが……」
「それじゃ、呼んでみよう。おうい、劉夫人」
中は、しいんとしていた。扉をひっぱったが、鍵《かぎ》をかけてあるらしい。
「えい、ほうっておけ。それより、おかしいな、翠屏はどこにいったろう?」
「じゃあ、もういちど探してみましょうか」
と、西門慶と金蓮は、そそくさと北の方へいそぎ足でいってしまった。応伯爵はあわててそれを追おうとしたが、ふとまた傍の扉に視線をもどして、
「はてな、これもふしぎだな。いくら盲でも、このさわぎはきこえるはずだが――それに、いまこの部屋でへんな声がきこえたって?」
と、つぶやきながら、騒々しく扉を叩《たた》いた。
「劉奥さん、劉奥さん、なにも変ったことはありませんか?」
あやうく、応伯爵はつんのめりかけた。扉が急にひらいたからである。なかに蒼白い顔で立っているのは、春梅だった。
「おい、春梅さん、おまえ、ここにいたのか?」
「応さん、はやく入って下さい。御相談があるんです」
と、春梅はいそいで伯爵をひきずりこんで、また扉をしめた。伯爵はめんくらって、キョロキョロと部屋の中を見まわして、ふっと眉《まゆ》をひそめた。
「劉奥さんは、どうなすったんだ」
劉麗華は、寝台の上で両手で顔を覆っていた。
「それより応さん、寝台のむこうをのぞいてみて下さい」
応伯爵はのぞきこんで、しりもちをついた。
「わっ、こ、これは! 乳がやけただれて……死んでるのかい? だ、だれ?」
「翠屏奥さまです」
「なにっ……翠屏さんは、いま西大人が追っかけてきたというじゃあないか」
「なんのことですか、それは?……翠屏奥さまは、だいぶまえから、そこにたおれていらしたらしいのですわ。あたしたちは、さっき気がついて悲鳴をあげたのですけれど」
「それじゃあ西大人がきいた変な声とは、その悲鳴なのか。……おかしいな、翠屏さんは、いつからあんなになって、ここにいたのだろう? 劉奥さん、あなたはずっとここにいらしたのでしょう。――」
「いいえ、あたし……さっきここを出ました」
麗華は、幽霊のような声でいった。あまりの驚愕《きようがく》、あまりの恐怖のために、いつわる気力もおしひしがれたのだろう。
「どこへ?」
「金蓮さんの部屋に」
「なんで?」
「あたしの眼をつぶした金蓮さんに仕返しをするために」
「なんですって? だ、だれが、あなたの眼をつぶしたのは金蓮さんだなんていったのです?」
「この春梅が」
「とんでもない! 奥さま、あたしはそんなことを申したことはありませんわ!」
「まあ、よろしい、それから?」
「あたし、北廂房にいって、そこの銀の壷の煮湯をねている金蓮さんにあびせかけてにげ出したのです。……そして、にげもどる途中、曲り角で春梅にぶつかって、いっしょにここにもどってきたのです」
「熱湯をかけた? しかし金蓮さんは、いま見たが、相変らず腹のたつくらいきれいな顔をしていましたぜ。そして、翠屏夫人のほうが……熱湯をぶっかけられて、ここにいる」
「わかりません。あたし、なんだか、わけがわかりません。恐ろしいことです。……」
「あなた、北廂房へいったって――眼がみえないのだから、何かかんちがいしたのじゃありませんか?」
「いいえ、それくらいのことはわかりますわ。ここを出て、右にまわって、左に折れて、右に入ったところが北廂房ですもの。……」
「それに、あたしも、廻廊の東北の隅《すみ》で、劉奥さまにぶつかったんです」
と、春梅がいった。
「なるほど。……そして、たしかに金蓮さんに熱湯をかけたのですね?」
「それは、盲だから見たわけじゃありませんけれど、感じはたしかに金蓮さんでした。かけたときの悲鳴もそう。――たとえ、あれが翠屏さんだとしても、翠屏さんがなぜ北廂房にねていたのでしょう。またねていたとしても、それがどうしてこの東廂房にいるのでしょう?……恐ろしい! あたし、恐ろしい!」
「応さん、御相談というのはそこなのです。あたしにもわけがわかりませんけれど、とにかく翠屏さんはここで死んでいらっしゃいます。なにか、おそろしいまちがいです。……あたし、劉奥さまがお可哀そうでならないんですよ。たすけてあげたいんですよ。熱湯をかけられたひとが、金蓮さまならともかく、翠屏奥さまであってみれば……あたしは、いま劉奥さまのおっしゃったことを、旦那さまや金蓮さまにはだまっているつもりなのですけれど」
と、春梅は熱心にいった。
「応さん、なんかこの善後策を考えて下さいません? あなたなら、きっと悪くはなさらないだろうと思って、急におすがりするつもりになったのですよ」
だらしがなくって、諧謔家《かいぎやくか》で、素寒貧《すかんぴん》の応伯爵だが、妙に女たちに好かれる男でもあった。またそれをちゃんと知っていて、女にたのまれると、いやとはいえない性分をとくいに思っている応伯爵ではあったが、
「それは、心得たが……しかし、ふしぎですな。いったい奥さんは、いつからこの部屋にいらしたんですか? ちっともここを留守にされたことはなかったのですか?」
「ですから、さっきほんのしばらく北廂房にいったほかは――そのまえは、夕方、中庭で鞦韆《ぶらんこ》にのっていて――そう、金蓮さんがふいにうしろから綱をよじってあたしを苦しめ、地面におちたところに春梅がやってきて、つれもどってくれたのですわ。それ以来、ずっとここにいます。……」
応伯爵はあたまをかかえこんでいたが、やがてくびをあげて、
「しかし、いつまでこうしているわけにはゆかん。……ともかく、西大人に知らせてこなくっちゃ。……」
「応さん。おねがい。……」
伯爵は、春梅を見て、ニコリと笑った。
「御心配御無用。なんとかうまくとりつくろっておくよ。――何しろ、あたしはおまえさんの御主人にはベタ惚《ぼ》れなんだから」
それが、劉麗華のふしぎな犯罪をかばってやることと、どんな関係があるのか、応伯爵はえたいのしれない言葉をのこすと、ブラリと東廂房を出ていった。
乳房之章
そのまますぐ北廂房へゆくのかと思ったら、そうではなくて、いちど南廂房をのぞきにゆき、それからやっと応伯爵は、金蓮の部屋にひきかえしていった。
「あにき、西大人」
扉をあけてみると、翠屏夫人さがしはどうなったのか、ふたり、むかいあって、ケロリとして酒をのんでいる。
「これだからかなわない。翠屏さんがどこにいるか、見つかったのか」
「見つからないが、そのうちどこからか出てくるだろう」
「出てきたよ」
「どこから?」
「東廂房から」
「へえ?」
「おどろくのはまだ早い。鯉《こい》の丸揚げみたいになって、往生していなさる」
「なにっ?」
「なんでも、さっき劉夫人と春梅が、眼かくしして鬼ごっこをやって笑っていたら、いきなり翠屏さんがとびこんできて、急に怒り出し、春梅にとびかかろうとして、じぶんですべってころんで熱湯をあびてしまったそうだ。ふたりとも胆をつぶしてるが――あにき、あんまり指の妖術が堂に入って、翠屏さんをのぼせあがらせすぎたのじゃないか」
みなまできかず、西門慶は部屋をとび出していった。
あわててたちあがる潘金蓮を、応伯爵は手でおさえた。
「ちょっと待った、金蓮さん、それよりあたしはあなたに見てもらいたいものがある」
彼はふところから、一つの賽《さい》をとり出した。それを、卓の上にならんでいる二つの酒盃《しゆはい》をふせて、その一方ではたと覆った。
「さあ、どっちに入っていると思います?」
金蓮は、ジロリとその手もとをみて、
「そっちにきまってるじゃあないの」
「ところが、こっちなんで」
と、伯爵がもう一方の盃をあげると、賽はそちらに移っている。
「ばかばかしい。それどういう意味なの? 応さん、あっちでたいへんなことが起っているというのに、悠長《ゆうちよう》な手品なんか見せつけて」
「あなたの手品のまねですよ」
「あたし手品なんか知りませんわ」
「ところが、なかなかそうでない。しかし、手品にはからくりと同時に、手ぎわのはやいことも大事でしてね。煮湯の壷をふりかざす女に襲われながら、悲鳴だけあげてからだをかわす手ぎわは、千番に一番のかねあい、相手が盲であることだけがたよりのきわどい芸当でしたねえ」
「なんですって。あたしが何をしたというんです?」
「あなたが劉夫人に熱湯をかけられたときのこと」
「あたしが? いま応さんは、翠屏さんが熱湯をかけられて死んでる――というようなことをいったじゃありませんか」
「御存じでしょう。あなたがかけたんだから。もっとも、そうおとなしく煮湯をかけられるひともあるまいから、そのときもう翠屏さんは、鴉片《あへん》か何かでねむらされていたかもしれないが」
「何のことだか、ちっともわかりゃしない。あたしが、翠屏さんに、どこで熱湯をかけたというの?」
「東廂房で」
「東廂房には、麗華さんがいたじゃありませんか?」
「いや、劉夫人はずっと南廂房にいたんですよ。その部屋の主はすでに東廂房でねむらされていて、留守だったが。――劉夫人は、鞦韆の綱をまわされて、方角の見当が狂って、春梅にひかれるままに南廂房にかえってきたのです。いまのぞいてみたら劉夫人の大好きな木犀の花が、南廂房にありましたっけ……」
「……それから、どうして?」
「だから劉夫人は、東廂房から出て北廂房にきたつもりで、実は南廂房から東廂房にきたのです。そしてあなたに熱湯をあびせた。……」
「あたしはここにいるじゃありませんか」
「まあ、ききなさい。そして劉夫人がにげ出したすきに、あなたはあらためて翠屏さんに煮湯をかけて、こっちにぬけ出してきたのでしょう。……」
「おかしなことをいうわね。麗華さんは東廂房をにげ出したって――まああのひと、東廂房にいるじゃありませんか」
「左様、劉夫人は、東廂房をにげ出して、春梅と曲り角で――本人は廻廊の東北の隅で衝突したと思ってるらしいが、実は東南の隅で衝突して、そのはずみにまた方角が不明となり、春梅に手をひかれて、まンまともとの東廂房へかえっていったのですよ。……」
「…………」
「……哀れ、劉夫人は、春梅を無二の親切者だと信じているようだが、なんぞしらん、春梅こそあなたの命にただこれしたがう忠実無比の小間使いだとは」
「…………」
「ただし、あなたは、こんどのことは劉夫人は道具であって、目的ではない。そのために劉夫人を罪におとすことは、いささか仏ごころにたえかねるものがあったでしょう。東廂房をぬけ出すや否や、あなたは北から西の廻廊をまわり、たまたま西大人が母屋のほうからやってくる跫音をきくや、翠屏さんに化けて、あにきをからかった。おかげで、劉夫人はたすかったようです。もし夕方から翠屏さんが東廂房にいたとなると、翠屏さんに寵をうばわれた麗華さんへのうたがいは、ちっとやそっとで解けようとは思われない」
「あたしが……翠屏さんに化けた? ホホホホ、あたし、あんな醜い女には化けられないわ」
妖婦潘金蓮は、傲然《ごうぜん》として応伯爵を見すえた。
「いったりな、金蓮夫人! ですな。ただ、あたしが、このごろの西大人の珍妙な鬼ごっこあそびを知らないならば。……ふむ、あれを、あにきは、てっきり翠屏さんだと思っているらしい。あはははは、それだから、あにきの触覚の妙術もあてにならん。ひょっとすると、金蓮さん、それは劉夫人をたすけようなんて殊勝な心からじゃあなく、西大人の小癪《こしやく》な指を、内々笑殺するあなたのいたずら心からだったかもしれませんな、……」
金蓮は、ただ沈黙して、古沼のような眼で、応伯爵を見まもっている。応伯爵の全霊を吸いこむような魔のひとみで。
そのからだが、徐々にくずれて、彼の胸にのめずりこんできたとき、伯爵は、ついにすべてを忘却した。胸をひたひたとつつみ、ながれ、灼きこがす乳房の感覚に、彼はふいにまた酔いがもどってきたようなきもちで、はあはあとあえいだ。
「そうだ。あなたが西大人を嘲笑《ちようしよう》したのは当然だ。笑いなさい、笑いなさい、笑ってやりなさい。……しかし、ほんとうをいえば、翠屏夫人の乳房など爛《ただ》らす必要はなかったのだ。あなたの方が、千倍も美しい肌とゆたかな乳房をもっているのに!」
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[#見出し] 凍る歓喜仏
凶兆之章
山東清河県の豪商|西門慶《せいもんけい》が、ときどき妙に不安げな深刻そうな顔をして、思案にくれているようすを見せはじめたのは、この秋のころからだった。
他人からみれば、年はまだ三十なかばの美丈夫だし、宏荘《こうそう》な大邸宅には金銀財宝があふれているし、莫大《ばくだい》な賄賂《わいろ》のおかげで、正千戸《せいせんこ》という官職にもついたし、おまけに十本の指でかぞえるくらい絶世の美女が妾《めかけ》として侍《はべ》っている。まさにこの世で欠けざるものは望月と己ればかりという身分である。なんの不足があって、彼のひたいに、そんな憂鬱《ゆううつ》な翳《かげ》りがさすのか、見当もつかない。
ふだん、ひどい気分屋だから、だれもまじめにきいてやる者もなかったが、ただ親友の応伯爵だけが、何かのはずみにたずねた。
「西大人、このごろ、何かふさいでいるね」
「うむ、どうも身体《からだ》のようすがおかしい」
伯爵は笑った。いつかもこの精力絶倫の男はそんなことをいってこぼしたが、その舌の根もかわかぬうちに、町の花街へくりこんで、一晩じゅうさわいで、ケロリとしていたものだ。またあの伝だろう。――そうであってくれなくては、西門慶にたかって、面白可笑しい日をくらさせてもらっているじぶんがこまる。
「はははは、しかし兄貴の顔いろときたら、まるで花が咲いたようだぜ」
「顔いろはどうかしらんが、ときどき頭がいたい。眼がチカチカして、眼まいがする。耳鳴りがすることがあるし、夜眠れない。――」
妾を十人ちかくもって、そのあげく町の美妓《びぎ》だろうが、家の小間使いだろうが、傭人の女房だろうが、手あたりしだいにくいちらしていては、ときにはそれくらいのことにならなくては人間ではない。
と、一応は思ったが、伯爵はだまってニヤニヤしている。
忠告しても、いままでの凄《すさま》じいまでの漁色がやむ男ではないことを知りつくしているからだ。また肉欲の権化《ごんげ》のようなこの男から、それをとり去ることは、雪達磨《ゆきだるま》から雪を除くようなものだ。だいいち、西門慶が急にからだをいたわったり、身をつつしんだりしたら、こっちが面白くない。――ひどい親友もあるものだが、
「おい、おまえ、笑っているが、おれのいうことをうそだと思っているのか」
「え、いや、笑いはしないぜ、とんでもない」
伯爵はあわてて、
「そりゃ兄貴、遊びの趣向がつきて、退屈のあまりのイライラだろうよ。何か面白いことを考えてみようか」
「まだ、そんなことをいっている。それどころじゃない。……」
西門慶は息をひそめ、声をふるわせて、
「このごろ、おれはよく幽霊をみるのだ。……」
「えっ? 幽霊? だ、だれの?」
「いろんな奴《やつ》が出る。足の血だらけになった鳳素秋《ほうそしゆう》や宋恵蓮《そうけいれん》や、口から血を吐いた朱香蘭《しゆこうらん》や楊艶芳《ようえんぽう》や、くびが糸のようにくびれた春燕《しゆんえん》や、顔のやけただれた葛翠屏《かつすいへい》や、さめざめと泣いている李瓶児《りへいじ》や――」
みんな、曾《かつ》て西門慶が愛し、いまはこの世にない女たちだ。
「へえ、で、でるのは、女ばかりかね?」
「男も出る。下腹部を血に染めた琴童《きんどう》や、紫いろの顔をした画童《がどう》や、それから――」
彼の愛した美童たちだ。
「それから?」
「うらめしそうな眼でにらんでいる花子虚《かしきよ》や、やせこけた葉頭陀《ようとうだ》や――」
西門慶にその妻や愛人を奪われた男たちだ。
応伯爵は、じっと西門慶の顔をみた。
「お化けの勢ぞろいだな」
と、ややあってつぶやいたが、西門慶はあたまをかかえこんでいて、怒る元気もないらしい。こういう諧謔《かいぎやく》をとばすのは伯爵の口ぐせだが、その声はふるえていた。
そういわれてみれば、美と富と権力そなえざるはないこの大好色漢の快楽の路《みち》すじに、なんという多くの犠牲者のしかばねが横たわっていることだろう。……応伯爵の眼は、彼らしくもなく、思わず惨とした。
「なかでも、いちばんよく出るのは、餠売《もちう》りの武大《ぶだい》だ」
これは、いま第五夫人の潘金蓮《はんきんれん》の前夫である。
潘金蓮は、放蕩学《ほうとうがく》を卒業したはずの応伯爵でさえ、いまなお妄執《もうしゆう》の霧につつむほどの、西門家の愛妾群をぬいた美女だが、もとは南門外の貧しい裁縫師の娘だった。はやくから父親が亡くなったが、幼女のころから町の人々の話題にのぼるほどの美貌《びぼう》で、十五のとしに或《あ》る小金持の老人の妾に売られた。ところが、その老妻のすさまじいやきもちのために、出入りの餠売り武大の女房におしつけられてしまったのである。
さてこの武大という男が、性質こそまじめだが、「三寸ちび」とあだ名がついているくらいの醜い小男で、一日、その家のまえを通りかかった西門慶が金蓮を見初めて、わりない仲となったのは是非もないが、それからまもなく武大が九穴から血をながして死んでしまったのは、是非もないといえるかどうか。
事実は、武大は、女房と西門慶の密通している現場をおさえたのだが、かえって西門慶のために打ちたおされて、その夜ウンウンうなっているところを、金蓮に薬と称してむりやりに鴆毒《ちんどく》をのまされたのである。この毒は西門慶からわたされたものだが、七転八倒する武大に蒲団《ふとん》をかぶせ、それがうごかなくなるまで、金蓮が馬乗りになっていたものだった。
いかに西門慶や金蓮と親しい応伯爵も、そこまで打ちあけられたことはないが、欲しいとなったら手段をえらばぬ大駄々《おおだだ》ッ子の西門慶や、この世のものとは思われぬ美しさに妖煙《ようえん》のごとき物凄《ものすご》さをからみつかせた潘金蓮の性向から、それくらいのことは感づいている。
「……なるほど、もっともだ」
「なに? 何がなるほど、もっともだ?」
とび出すような西門慶の眼に、応伯爵はまた大|狼狽《ろうばい》した。
「ああ、いや。それでは兄貴が鬱陶しいのももっともだ」
と、顔をあげて、
「どうだ、西大人、泰岳東峰《たいがくとうほう》におまいりして魔除けの祈祷《きとう》でもしてもらったら?」
「魔除けの祈祷?」
「そうだ。あそこに雪澗洞《せつかんどう》というふかい洞穴《ほらあな》がある。夏でも氷が張っているという大変な洞穴だ。そこに雪洞禅師という苦行僧が坐っている。このひとに祈祷してもらうと、たいていの悪魔は退散するそうだ」
「雪澗洞――」
「うむ、ここから西五十里、雪のふる季節にでも入ったら、もうゆけない。いま好天のつづいているあいだに、遊山がてらにでもいったら、それだけでも気がはれるだろう。私もいってやるよ」
それから、ニヤリとした。
「ついでに、金蓮さんの魔除けもしてもらうがいい。もっともあのひとは、とても幽霊なんかにうなされそうもないが。……」
羅刹《らせつ》之章
天下第一の名山といわれる泰山の前面には、歴代の天子を祀《まつ》った泰岳廟《たいがくびよう》がある。下から見あげると頂《いただき》は天に接し、雄々しいかぎりの山だが、泰岳東峰はそれをこえてさらに東にあった。
西門慶一行は、朝くらいうちに清河県の家を出て、轎子《かご》をいそがせ、その夕方、泰山のふもとの宿に泊った。四、五十里というと、わが国での八里ばかりにあたる。同行しているのは、正夫人の呉月娘《ごげつじよう》、第五夫人の潘金蓮、それに応伯爵と二十人ばかりの侍女や傭人たちだった。
翌朝はやく起き出でて、泰山をこえて、泰岳東峰にのぼった。ころは秋の末つ方、漠々《ばくばく》たる寒雲に雁《がん》とんで、まるで冥府《めいふ》にゆくような荒涼たる道程だ。
山の頂上は、路が断崖《だんがい》を左右にきりわけて、一方の崖に、なるほど人の背くらいの洞窟がぽっかりひらいている。これが雪澗洞というのだろう。その両側に金炉がおかれて、線香のけむりがのぼっていた。
中をのぞくと、それだけで氷のような冷風が、ふうっと面に吹きつける。ここに人がいるとは思われないが、遠く一点の燈明がみえて、そのむこうに朦朧《もうろう》と白い影が浮かんでいる。
奥底もしれぬ穴なのに、どこかうす白い、ふしぎなひかりの照りかえしている石洞だった。
「禅師さま――禅師さま!」
と、応伯爵が呼ぶと、やがて中から、鏘然《しようぜん》と金属の鳴る音がもどってきて、木乃伊《ミイラ》のような老苦行僧があらわれた。
手に九環の錫杖《しやくじよう》をつき、白い衣に紫の袈裟《けさ》をつけているが、恐ろしいことに、その錫杖や裾《すそ》から、薄い氷のかけらが散りおちた。――してみると、洞穴の中のあのふしぎな反光は、その名のごとく、氷のはりつめているせいとみえる。
これが、この雪澗洞にここ二、三十年間|坐禅《ざぜん》をくんでいるといわれる雪洞禅師だった。
西門慶と応伯爵は、礼拝し、魔除けの読経を請うた。
「それらの亡霊が出るというのは……亡霊に出られる因縁があるからであろう。まず、その諸悪所業を懺悔《ざんげ》なされい」
と禅師はいった。
西門慶は、従者たちをふりかえって、ためらった。
「諸悪所業……いや、わたしからみると、あの世からもわたしにうれし涙をこぼしこそすれ、亡霊となってわたしを悩ますとは、実にふとどき千万な女どもで……」
「ほんとに、旦那さまの方に出るなんて、とんでもない眼のみえない亡霊どもだわ」
と、金蓮がうす笑いしていった。それからケロリとして、好奇心にみちた無邪気な声で、
「禅師さま……この洞穴には氷が張っているんですの?」
老苦行僧は、陰鬱《いんうつ》な、むっとしたような眼でふりかえったが、金蓮をみて、かすかにまばたきをした。渦《うず》まく灰いろの雲を背に、金蓮の全身は、うすいひかりにふちどられているようだった。
「女人……女人地獄使……女人大魔王……」
禅師は口の中で、ブツブツとつぶやいた。
応伯爵はぞっとしたが、金蓮はへいきで老僧の傍へナヨナヨとあるいていって、子供みたいに洞穴をのぞきこみ、それから、ふりかえって、
「まあ、燈明が壁にキラキラひかって……きれいなこと! 禅師さま、いちどつれて入ってみて下さいな」
といった。
雪洞禅師は、口のあたりをぬぐった。えもいわれぬ芳香をはなつ美女の息の雲につつまれたのに、一瞬、混迷を起したようである。
「ほ、ほ、女は魔王ですって? たいへんなこと。でも、きくところによると、どんな悪魔でも退散させる御法力をおもちになるという禅師さま、もしそれがほんとなら、あたしといっしょにこの洞穴に入ったところで、何も恐ろしいことはないでしょ?」
うす笑いを浮かべたまま、ヤンワリと抱きついた。
老苦行僧は、死物狂いにそれをふりはらうと、怪鳥のような意味不明のさけびを発した。
そのとたんである。蕭殺《しようさつ》たる山々に、地鳴りのようなどよめきがあがった。
あっとさけんでひれ伏す西門慶一行のなかに、その禅師自身が愕然《がくぜん》としてふりかえるのをみた応伯爵は、はっとして麓《ふもと》の方を見下ろした。
麓の方から三人の人影が、とぶようにかけのぼってくる。三人――いや、その中の一人は、女を背にひッかついでいるらしい。
「や、あれはなんだ」
西門慶もたちあがった。その三人の下から、何十人何百人ともしれない兵卒たちが追っかけてくる。
「賊――賊――」
「待て――水滸《すいこ》の賊――」
そんな叫びがきこえて、兵卒の群が三人に追いすがったと見るまに、その中の墨染の衣をきた賊の腰から、しぶきのように豪刀がほとばしって、四、五人、たちまち屍《かばね》をつんだ。
「武松!」
こちらの金蓮の唇《くちびる》から、はじめて恐怖の一語がはしると同時に、西門慶は金しばりになってしまった。
武松! 武松! 行者武松! それこそは、この二人にとって夢魔よりも恐ろしい男の名だ。なぜなら、彼は二人が毒殺した武大の弟だからだ。
兄とちがって身の丈八尺、曾てちかくの景陽岡《けいようこう》で人喰《ひとく》い虎《とら》を拳骨《げんこつ》でなぐり殺したほどの豪傑で、豪傑らしく単純で気の短いあばれん坊ときているので、武大の死について、あらかじめ用意した西門慶や金蓮のいいのがれなど、全然役にたたないから始末にわるい。始末にわるいどころか、事実、いちど西門慶は襲われて、すんでのことに五体ひき裂かれかけたこともある。西門慶は戦慄《せんりつ》して、知県、奉行に手をまわし、武松を捕えさせて遠く孟州《もうしゆう》の牢城《ろうじよう》に送ったが、先年|徽宗皇帝《きそうこうてい》が東宮をたてたので恩赦《おんしや》になり、獄をとかれた。爾来《じらい》彼はすっかりグレて、済州|梁山泊《りようざんぱく》にたてこもって猛威をふるう賊の群に身を投じたときいていたが、その梁山泊の官軍の包囲の中にあるにもかかわらず、その後いくたびか西門慶は、この恐るべき復讐鬼《ふくしゆうき》が身辺にうろつくのを感じたことがある。
はたせるかな、墨染の衣の袖《そで》をまくりあげて背をむすび、二本の鮫鞘《さめざや》を腰に吊《つ》るし、人骨の数珠《じゆず》をくびにかけた武松は、ハッタとばかりこちらを見あげて、
「そこにいるか、西門慶っ」
と咆哮《ほうこう》すると、魔風のごとくはせのぼってきた。
それよりはやく潘金蓮は、西門慶の手をとって雪澗洞の入口へまろび寄っている。そして老禅師の耳たぶに必死のあつい息を吐いた。
「禅師さま、どうぞお助け下さい。――」
返事もまたず、茫然《ぼうぜん》たる苦行僧をあとに、洞穴の中へにげこんでいった。さっき小馬鹿《こばか》にしたくせにいい気なものだが、この場合はなんともいたしかたがない。
半分死んだようになって立ちすくんでいる残りの人々のまえに、戒刀をひっさげたまま、武松はちかづいてきた。
「西門家の奴らだろう? 西門慶はどこにいる?」
「主人はいません」
やっと、正夫人の呉月娘がこたえた。
「主人は清河県の家にいるはずです」
「ばかめ、おれたちはけさその清河県の家へのりこんできたのだ。すると、きゃつはこの泰岳東峰に出かけて留守だという。かくしてもだめだぞ。お……金蓮もいないな。やい、西門慶と潘金蓮はどこにいる?」
そうわめく武松の戒刀のみならず、衣からも雨にぬれたように血がしたたる。そのうしろから、女を肩にかついだもう一人がやってきたが、ふりかえって、
「燕青《えんせい》、矢を大事にしろやい」
と銅鑼《どら》みたいな声で吼《ほ》えると、ドサリと女を投げ出した。
下の山路にのこった一人は、弓に紅《あか》い矢をつがえて射ているが、まさに一発必中の神技で、完全に追手を射すくめている。
「……李桂姐《りけいそ》!」
肩から投げ出されて、地に弱々しくうごめいた女をみて、応伯爵は口の中でうめいた。
これは清河県の花街随一の美妓で、西門慶がパトロンをしている女だが、それ以前は武松の恋人だったのである。
が、それより、人々のどよめきをきいて、応伯爵は顔をあげて、口をアングリとあけた。李桂姐をかるがると背負ってきた人間を、今までてっきり男だと思っていたが、よくみると、これはしたり、女ではないか。
身なりは男装束、ズングリとした腰、槌《つち》のような手足、凄じい眼光だが、双の頬《ほお》には血いろの頬紅《ほおべに》をぬりたくり、しどけない胸もとにあふれ出す臼のような乳房。――これぞ、曾て孟州道嶺十字坡《もうしゆうどうれいじゆうじは》に人肉を売り、いまは梁山泊にたてこもる百八人の侠盗《きようとう》中、その物凄さに於《おい》ては何人にもゆずらぬ母夜叉《ぼやしや》の孫二娘《そんじじよう》。
「武松、どうしたえ?」
「西門慶と金蓮がいないのだ」
母夜叉はぎろっと一同を見まわして、雪澗洞のまえに坐っている禅師をみると、
「お坊さま、その穴の中でございますか?」
「いいや、この中には誰《だれ》もいぬ」
と、禅師はふるえながらいった。
母夜叉はニヤリと笑ったが、山路を見下ろして、
「ほ、こりゃウカウカとはしておれぬ。武松やい」
「なんだ姐御《あねご》」
「このおまえを裏切った尻軽《しりがる》女をはじめ、西門慶、潘金蓮を梁山泊へさらってゆくことは先《ま》ずあきらめな。どうせ同じだ。ここでみんな誅戮《ちゆうりく》を加えたらどうじゃい」
「では、そうするか」
と、武松がうなずくよりはやく、母夜叉は李桂姐の胸もとをつかんでグイと吊るしあげ、のけぞった雪のようなのどぶえにプスリと匕首《あいくち》をつきたてると、いっきに腹までひき裂いてしまった。
紅箭《こうせん》之章
この一|刹那《せつな》、人間とも思われぬ声が山と谷にこだま[#「こだま」に傍点]したが、それは李桂姐であったか、ほかのものであったかはわからない。女たちの中で、二、三人、顔を覆って、失神したものがあったからである。
「武松よ」
母夜叉は切り裂いた美女の腹に手をつっこむと、
「おまえ、よくもこんな腸《はらわた》のくさった女に惚《ほ》れたものよの。おお、くさい、くさいわ!」
ずるずるっと臓腑《ぞうふ》をひきずり出すと、屍骸《しがい》を犬のようにほうり出し、ツカツカと苦行僧のまえにあるいていって、
「お坊さま、御布施《おふせ》」
ペタリと臓腑をそのあたまにのせて、
「この穴はゆきどまり?」
老僧はガクガクとうなずいた。さっき嘘《うそ》をいったのは、女人大魔王といえども法衣の袖ににげこめば救わざるを得ないという大慈悲心によるものか、それとも金蓮の哀訴が、さしもの苦行僧の心魂をとろかしたのかはわからないが、この殺人鬼たちの人間ばなれのした無茶苦茶ぶりには、魔除けの祈祷も氷中の苦行も、一切ケシとんでしまったのもむりはない。
「深さは?」
「い、一里」
一里はだいたい日本の六町だ。
「横穴などは?」
「ない、まっすぐじゃ」
「ようし!」
と、武松が洞穴に入りかけたとき、最後の一人が飛鳥のようにかけのぼってきた。
「武松、どこへゆく?」
「この穴の奥に、敵がにげこんだのだ。燕青、いましばらく追手を射すくめておいてくれ」
「待て、そのひまはない。残った矢はもう一本だ」
西門家の人々の中で、この男の姿をみたのは、応伯爵ひとりだろう。あとの女や下男たちは、みんな頭をかかえて這《は》いつくばったきりだ。
その姿、髪に花をさし、紅蜘蛛《べにぐも》の刺繍《ししゆう》をした腰当に扇をさし、雪白の頬、朱の唇に漆《うるし》の瞳《ひとみ》、これこそ水滸伝中随一の色男、浪子燕青。
女にも見まごう美男ながら、四川産の弓一張に、紅い矢羽根をつがえては、十万の禁軍《きんぐん》を震駭《しんがい》させる弓の名手だ。
しかし、その矢があと一本とあっては!――とみて、はやくも捕手たちは、どっと喚声をあげて追いのぼってくる。豪勇無比の武松がおればとにかく、彼が一里の穴に入ってしまっては、女の母夜叉、弓なき燕青だけでは、たしかに不安だ。
はじめて、武松は狼狽した。
「彼奴《きやつ》!」
と、雪澗洞をのぞきこんで切歯した。ゆきどまりの穴の奥に敵がひそんでいるとわかりながら、それをとっちめるいとまがないのだ。
「兄貴、待て」
と、この場合にも、花の笑顔を失わぬ浪子燕青は、武松をおしのけてふりむいた。
「矢はまだ一本あるよ。ここから射こめば、手前にいる奴にあたる。まず、いまのところ一人だけでがまんせい! 西門慶か金蓮か、どっちが所望だ?」
武松は、眼を炎としてうなった。
「どっちも、所望だ!」
「むりなことをいってはいけない」
と、燕青は苦笑して、それから洞穴の奥へさけびかけた。
「やい、西門慶! 潘金蓮! ただいまこの穴に矢を射こむものは、弓をとっては四百余州にかくれもない梁山泊の浪子燕青。女を殺したくなかったら、男が前に立て。男を死なせたくなかったら、女が前に出ろ。――三ツ数える。よいか。――」
応伯爵の耳に、追手の声が遠くなったが、むろんこれは錯覚だ。戦慄のために、脳味噌《のうみそ》がかたく小さくなって、からあんとしたのである。その戦慄は、あの生命にも悪にも根づよい西門慶と潘金蓮のいずれが死の前に身をさらすか、洞窟の奥のふたりのあいだに、その一瞬もえあがったであろう青白い炎のような争いを想像して、身うちにはしったおののきだった。
「一ツ――」
はたして、洞穴の奥からかすかな物音がひびいてきた。
「二ツ――」
跫音《あしおと》だった。だれかがはしり出てくるのだ。それでは、どっちかが、気でも狂ったのか。
「三ツ――」
キリキリとひきしぼった紅矢のまえに、すっくと一人があらわれた。潘金蓮だ。
「あたしをお殺し!」
金雲の刺繍をした赤い靴《くつ》には氷がひかっているが、燃える牡丹のような凄じい美しさである。
「地獄へいったら、閻魔《えんま》さまにきいてやろう。あたしほどの美しい女が、三寸ちびの片輪男に売りとばされて、花も実もある殿御にいい寄られたとき心をうつしたのが何の罪、閻魔さまだってこまるだろうよ。それを姦婦《かんぷ》だ淫婦《いんぷ》だと、人を殺すことばかり知って女の心を知らない朴念仁《ぼくねんじん》ども、教えてやろう、女の心というものは、きらいな男なら毒を盛っても夢にもみないが、好いた殿御は、殺されたって殺させないよ! さあ、その矢をお放しな!」
「待った!」
と、いまにも切ってはなされようとした矢のまえに、母夜叉が立ちふさがった。
「この女のいうことには一理あるよ」
「姐御、何をいう?」
と、武松が地団駄ふむのに、
「なるほど、この女のいうとおりだよ。いままで腹たち割ってもあきたりない毒婦だと思っていたが、武松、おまえのような男を裏切ったそこの李桂姐とは、ちっとわけがちがうようだ。女の心としちゃあ、むりもないやね。……」
と、たったいま鬼神も面をそむけるばかりの屠殺《とさつ》をしてのけたこの臼《うす》のごとき魔女が、なんと「女ごころ」に大いに同情した。
「どけ、母夜叉!」
「どかぬ、それに、この女の、じぶんの生命を張って男を助けようとした性根が気に入った! 義を以て集まる水滸の石碑に女星の名をつらねたこの母夜叉、この女を殺しては山寨《さんさい》にひるがえる替天行道《たいてんぎようどう》の旌旗《せいき》に相すまぬ。ゆるしてやれ、武松、燕青!」
とさけぶと、手にもった匕首を、ビューッとうしろざまに投げつけた。
たちまち、山上にあらわれた追手の隊長|魚炎武《ぎよえんぶ》が、胸にその匕首をつき立てられてのけぞりおちる。どどっとひく兵卒たちの眼のまえから、
「ゆこう! 同志!」
と、母夜叉は、ふたりの侠盗をうながして、魔神のごとく地を蹴《け》った。
彼らがきえ、兵卒たちが追い――海嘯《つなみ》が去ったあとのように茫然と立っていた一行のうち、まずわれにかえったのは応伯爵である。
「西大人は?」
雪澗洞の奥に、西門慶は気絶していた。恐怖のためか、寒気のためか、原因はどちらかにちがいないが、その様子がいささか変だった。まっかな顔をして、大いびきをかき、ギョロリと眼球《めだま》をむき出して、しかも失神していることにまちがいはない。
応伯爵は、ぎょっとした。
「中風か?」
この男、ちょっと医学の心得もある。西門慶、まさに恐怖の突風に中《あ》てられた!
女獄之章
あとでわかったところによると、やはり西門家は、武松と燕青のなぐりこみにあっていたのである。同じ時刻、花街の李桂姐は、母夜叉に襲われてさらわれたが、急をきいてかけあつまってきた奉行所の兵卒にかこまれ、逃走しつつも、西門慶のゆくさきを執拗《しつよう》に追ってきたとは、なんたる不敵な連中か。
ともかく、大難は去った。
もともと多血質の西門慶だから、中風の素質はあったわけだが、はたしてあの失神が脳溢血《のういつけつ》であったかどうかは疑問として、たとえそうだったとしても、ごく軽度のものであったろう。それに年も若いし、また氷のなかに頭をつっこんで倒れていたのがかえってよかったのかもしれない。轎子《かご》でかつがれて泰岳廟へはこばれ、そこの方丈に一夜泊めてもらうと大分きぶんもなおり、翌日清河県にかえると、からだだけはまず平常にかえった。
さしも、華麗をきわめた大邸宅も、ふたりの兇盗《きようとう》にあらされて、惨澹《さんたん》たるものだ。螺鈿《らでん》をちりばめた大理石の衝立《ついたて》は木ッ端みじんになり、銅の火鉢《ひばち》はひっくりかえり、花園の中の芙蓉亭《ふようてい》などななめにかしいでいる。
西門慶が茫然としているので、応伯爵が傭人を指揮して始末させているところへ、奉行|陳文昭《ちんぶんしよう》がやってきて、
「三人のこそ泥[#「こそ泥」に傍点]めは、たしかに梁山泊へ追いこみました」
と、報告した。
何をいってやがる、それではぶじ敵のねじろに逃げこませたのじゃないか、と伯爵は心中に苦笑したが、二度とこんなことのないように、奉行所の方に懇ろな配慮をたのんでおかなければならないから、すぐに大枚の袖の下を用意させる一方、荒れていない玩花楼《がんかろう》に悪魔退散の大宴会を設けさせた。
むろん、陳奉行もそれが目当てでやってきたにちがいないし、応伯爵がその袖の下の一部をじぶんの袖の下にいれたこともいうまでもない。
朱泥《しゆでい》のような丸焼きの鶏や、酒漬《さけづ》けにしたうえ香油や蒜《にんにく》や胡椒《こしよう》で味つけした蟹《かに》など、西門家特有の豪華な食卓をまえに、いつもならいちばんよく食う主人役の西門慶は、まだボンヤリしている。
ほかの呉月娘をはじめとする愛妾《あいしよう》たちも、まだ恐怖のなごりに箸《はし》もとまりがちになるなかに、潘金蓮だけ依然として美食を満喫しているのを、応伯爵は舌をまいて横眼で見ながら、奉行に愛想よく応対していた。
「もう御心配は要らぬ。当分、きゃつらを一歩も山寨《さんさい》から出すことではない。――当分どころか、あれを包囲した官軍の勢いからみれば、おそらく永遠に!」
と、陳奉行が昂然《こうぜん》としていうのに大きくうなずきつつ、伯爵は別のことを考えている。あの三人の兇賊《きようぞく》への恐怖ではなく、愕然とするのは、潘金蓮の西門慶への愛であった。
応伯爵は、夫婦だって、つまるところは他人だと思っている。況《いわ》んや、徹頭徹尾女を快楽の道具としてみる西門慶と、快楽の道具たることに甘んじるどころか、それを無限の力とし、誇りとしているかにみえる潘金蓮のあいだにあるものは、要するに色と金の鉄鎖であって、もともとは自己、自我、自愛のかたまりのような二人だから、死の斧《おの》を以てすれば、そんな鎖はたちどころにきれて飛ぶだろうと思いこんでいたのに、あの稀代《きたい》の大淫婦が、あの好色漢に、あれほど純粋な愛を抱いていようとは!
応伯爵は、おどろきの念とともに、なぜか落莫《らくばく》たる失望感、敗北感にとらえられた。
「あ、あれは?」
と、傍で呉月娘が顔をあげていった。入口から胡弓《こきゆう》をかかえた美しい娘が、笑いながら入ってきたからだ。西門家では、客によってはよく芸人をよんでもてなすことがあるが、
「あれをお呼びになったのは、応さん?」
「いえ」
と伯爵はくびをふったが、その娘の顔になんだか見憶《みおぼ》えがあるような気がした。陳奉行はいよいよ恐悦して、
「いや、これは思わざるおもてなしにあずかって恐縮千万。――というようなわけで、これからはずっと兵卒を出して、厳重にお邸を護らせましょう。こうしている唯今《ただいま》も、門はことごとく護衛の兵が……」
「あっ」
と、突然、応伯爵はとびあがって、まえの大皿《おおざら》で西門慶を覆った。皿は乱離と散って、西門慶のくびすれすれに背後の壁に、発止と紅矢がつき刺さった。
娘は笑った。胡弓とみえたのが、いつのまにか弓と変っている。
「浪子燕青、ふたたび推参!」
これからまき起った竜巻のような混乱は、叙するに言葉がない。
要するに、奉行の絶叫に殺到してきた兵卒のために、燕青は西門慶を射とめず、また彼の方でもいわゆる「一矢むくいる」という程度のつもりでのりこんできたものらしく、たちまち変化のように逃げ飛んでいってしまったが、陳奉行の面目を失墜させたことはおびただしいものがある。
西門慶が神経衰弱のようになったのは、まことにむりもない話で、彼が女を恐怖しはじめたのはこれからだった。
なにかのはずみで、どの女かが、ひょいと燕青にみえるらしいのである。廻廊などあるいていて、突然物凄い悲鳴をあげて棒立ちになることがある。
「夜は夢に幽霊があらわれて、昼は幻に殺人鬼が来る。これではいかな西大人だってたまるまい」
応伯爵はつくづく同情したが、そのうち西門慶の乱心ぶりに、だんだんおそれをなしてきた。
恐怖のあまりか、西門慶が、女たちにひどく残酷になってきたのだ。以前から、女を鞭《むち》でたたくくらいは平気でやる男ではあったが、それは陽性な癇癪《かんしやく》か嫉妬《しつと》からで、本来は恐ろしく女に甘い男なのである。世界一、女が大好きな男なのである。また大好きでなければ、たえず妾を六人も七人も囲っておけるものではない。
それが、このごろの女たちに対する暴虐ぶりときたら、まさに血も涙もない悪質無残なものとなってきた。西門家の甍《いらか》にふる氷雨《ひさめ》がひびき、蕭条《しようじよう》と散って庭園を埋めつくす落葉の音の中に、日毎《ひごと》、夜毎、女たちの悲叫がながれた。
「まったく、兄貴は変になってしまったぞ!」
応伯爵がついにうなってしまったのは、或る冬の晴れた朝だった。
金を借りる用があって、白い息を吐きながら出かけてゆくと、西門家のようすがすこし変である。門々を、奉行所の兵卒が警備しているが、中に入ってみると家人はだれもいない。
ただ、愛妾のひとり憑金宝《ひようきんほう》の小間使い小鸞《しようらん》が泣きながらかけてきたのに、
「おい、小鸞、どうした?」
「奥さまが――奥さまが――」
「奥さまが、どうしたんだ?」
「玳安《たいあん》と――後園の池に――」
玳安は、西門慶のもっとも気に入りの小者である。西門慶がよその女に手を出すときは、いつもこの男を間にたてる。
ただならぬ気配に、応伯爵は後園にかけつけた。
後園をめぐる廻廊には、人々がいっぱいだった。それが、みんな一語も発せず、つくりつけの人形のようにうごかない。
中央の池をみて、応伯爵の全身に粟《あわ》が立った。
池は凍っていた。昨夜の寒さだから、それはふしぎではない。恐ろしかったのは、その氷盤のような池のまんなかに、腰から上だけあらわれたはだかの男女が、ピッタリ抱き合ったまま、凍りついていたことだ。凄いほど晴れた蒼空《あおぞら》の下に、髪にも眼にも唇にも氷滴をちりばめた屍体は、白いというより透きとおっているようだった。
「あ、あれは……」
「憑奥さまと、玳安児。……」
傍の下男の平安が、色のない唇をそよがせた。
「な、なぜ?」
「昨晩、密通しているのを旦那さまに見つけられて……足に重りのついた鎖をからみつかせられて、あのように……」
応伯爵は、廻廊の向うをみた。
西門慶が小卓を出させて、盃《さかずき》を口にはこびながら、姦夫姦婦の屍体《したい》をみている。しかし、その眼は虚《うつ》ろに、顔もまた凍りついたような表情だった。
右の方をみると、そこの廻廊に、愛妾たちの一団が、じっと立ちすくんでいる。
応伯爵は、足をガクガクさせながら、その方にちかづいた。女たちはそれにも気がつかぬ風で、微風のようにささやき合っている。
「でも……憑金宝さん、かえって倖《しあわ》せだったかもしれないわね。……あんなにピッタリ抱き合ったまま死ぬなんて……」
「でも、昨晩は、池に沈められてから、ふたり恐ろしい声でお互いに罵《ののし》り合っていたじゃあないの?」
「凍え死ぬくらいですもの。抱き合わずにはいられないわね。……」
「それにしても、金宝さんともあろうひとが、どうしてまああんな男と――」
「わかるわ。きっと、さびしかったのよ。……」
「ねえ、このごろ、旦那さまがお泊りになった方ある?」
おたがいに顔見合わせて、だれもがくびをふった。
「女が、みんなあの燕青にみえるらしいから。……」
応伯爵のうしろに、だれか、ひとりそっと寄ってささやいた。
「応さん、御覧、旦那さまを。……」
潘金蓮だった。その顔は、いままで見せたことのないほど暗かった。
「あそこに、殺された人より、もっと可哀《かわい》そうな人がいます。……」
それはどういう意味なのか。
問いかえすより、西門慶をもういちどみて、応伯爵はうたれた。
ただひとり小卓によって盃をふくんでいる西門慶は、一見魔王にも似ているが、そのそそけ立った髪、白ちゃけた顔色には、名状しがたい惨澹《さんたん》たる孤独と恐怖と苦悩と悲哀が、もののけのように翳っているのだった。
遁走《とんそう》之章
浪子燕青は、西門慶をほとんど狂気におとしいれた。
あの美しい賊の神出鬼没ぶりは、陳奉行を饗応《きようおう》したときにまざまざ思い知らされたことだが、その男が、また西門家に潜入したらしいのである。
「やっ、これは何だ?」
憑金宝と玳安に仕置してから、三日ばかりのちの或る朝だった。大房の外の壁に大きく書きのこされた一行の墨のあとをみて、西門慶は驚倒した。
「天巧星《てんこうせい》、浪子燕青《ろうしえんせい》、三度来訊《みたびらいじん》」
西門家は、にえくりかえるような騒ぎになった。
警備していた兵卒たちもとんでくる。門から怪しい者は断じて入れなかったという。それにもかかわらず、この恐ろしい文字は、たしかにここにのこっているのである。
「だ、だれかの悪戯《いたずら》では?――」
と、兵卒のひとりがいった。
しかし、それが決して悪戯ではなかった証拠に、それから三日たった夕方、庭園をあるいていた西門慶めがけて、びゅっとひとすじの矢が、竹林の奥からとんできたのである。矢は傍の楊柳《ようりゆう》につき刺さって、ぶきみな紅い羽根をふるわせていた。
邸《やしき》は、きちがいじみた大捜索を受けた。こうなると、途方もなく建物が大きく、庭がひろいだけにかえって始末がわるい。燕青の姿は発見されなかったが、何しろ女に化ける男だけに、どこにどうして潜んでいるのか、端倪《たんげい》すべからざるものがある。
西門慶は、半病人になってしまった。彼は庭の玩花楼の二階にひとり籠《こも》って、あらゆる扉《とびら》をとじさせ、食事だけ運ばせて暮すようになった。その食事の運搬人には、わざわざ鈴をつけさせ、いちいち兵卒の誰何《すいか》をうけさせるという恐慌ぶりである。
あの豪快な笑い声はどこへきえたのだろう? あの陽気な怒号はどこへいったのだろう? ましてや、夜毎に愛妾たちの房をめぐるなどという沙汰《さた》は、とうのむかしに止《や》んでしまった。女たちは恐怖と不満に、鬱々《うつうつ》とたれこめてくらし、ときどきヒステリックな叫びをあげ、邸全体が、陰々たる妖気《ようき》のうちに、みるみる荒廃してゆくようだった。
「……年貢の納め時か?」
応伯爵は、ふっとつぶやいてみて、愕然とする。
そんなことがあっていいはずはない。西門慶はまだあの若さだし、財宝は無限だし、にくまれッ子世にはばかるどころか、女たちはあれほど彼を愛しているし、お上では彼を護るのに血道をあげている。だいいち、万一この家が変なことにでもなったら、じぶんも飯のくいあげだ。
それでも、思わずそうつぶやかざるを得ないほど、この邸の変貌《へんぼう》ぶりは異様だった。こんなことは、曾てない。それに、あの西門慶のやつれぶりをみるがいい。
歯ぎしりしても、幻の賊は、依然としてこの邸の中を徘徊《はいかい》しているらしかった。庭に紅矢のおちているのが、その後もなんどか発見されたからである。
応伯爵でさえ、ついには恐怖のさけびをあげたくなったくらいだから、当の西門慶がほとんど乱心状態におちいったのもむりはない。
暗い寒い冬の夕、一燈だけをともした玩花楼の二階にうずくまっていた西門慶は、ふいにしめきった窓の扉に、たん、と何やらあたった音に、三尺もとびあがった。
「なんだ?」
と、つぶやいて棒立ちになったが、ふいに狂的な眼になって、その窓のところにとんでゆき、がらりとひらいた。
「やい! 燕青! いっそひと思いにさっさと殺してくれ!」
と、わめきかけて、ふと扉の外をみた。紅矢だ。それに一葉の紙がむすんである。
ふるえる手で、矢文をひらいた。
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「西門慶門下。
義によって足下と淫婦潘金蓮を狙《ねら》うこと久し。両者の運命わが矢壷《しこ》にあるは、つとに足下の熟察せらるるところならん。然《しか》るに今に至るもなお紅箭《こうせん》を放たざるは如何《いかん》。他なし。金蓮の艶冶《えんや》に心|蕩揺《とうよう》すればなり。
金蓮の朱唇《しゆしん》の綻《ほころ》びるところ、嬌《きよう》なること解語《かいご》の花に似、繊歩《せんぽ》を移すとき、軽きこと飛燕《ひえん》の如《ごと》し。
眉《まゆ》は憂いなけれども常に蹙《ひそ》めたるはまことに西施《せいし》の顰《ひん》をよくし、眼は倦《う》まざれどもひらくに懶《ものう》きは、まさにこれ楊妃《ようひ》の睡《ねむ》りをよろこぶが如し。鉄石といえどもあに熔《と》けざるを得んや。金蓮、金蓮、金蓮を欲す。金蓮を与えられなば、われ紅箭をおさめて水滸に去らん。ねがわくば足下ひそかに金蓮を伴《ともの》うて、明朝泰岳東峰に来れ。
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[#地付き]浪子燕青」
西門慶は、うなってしまった。
あの色男の兇賊は、邸にひそんでいるあいだに、ついに潘金蓮の絶世の美貌に降参してしまったらしい。金蓮の妖艶《ようえん》を以てすれば、あり得ることである。そして、彼女とひきかえに、こちらの生命をたすけるといっている。
この世にまたとなく愛した女だった。それが梁山泊へつれ去られて、はたして無事生きてゆけるだろうか。武松がいる。兇悪無残の百八人の剽盗《ひようとう》がいる。しかし。……
「はてな、あいつ」
と、西門慶は、ふっとこのごろの金蓮の様子を思い出した。
ふしぎなことがある。彼が女たちの閨《ねや》をおとずれなくなってから久しく、どの女もが鬱々|悶々《もんもん》としているのに、彼女ばかりはなぜかはればれとした顔つきなのがいぶかしい。三夜と男なしではいられない女のはずなのに!
「あいつ、この燕青と、もう出来ていやがるのかもしれんぞ」
まさかとも思う。しかし、西門慶はむりにもそう思おうとした。
これで良心の楯《たて》ができた。背に腹はかえられない。この恐ろしく自分本意な男は、生命とひきかえに、最愛の女を敵に売ろうとしているのだった。
その夜ふけて、西門慶は潘金蓮の扉をたたいた。
「金蓮、ちょっとおれといっしょにいってくれ」
「どこへ?」
「雪澗洞へだ。もういちど雪洞禅師に読経してもらおう」
金蓮はへんな顔をしたが、やつれはてて幽鬼のような西門慶の物凄いばかりに思いつめた表情をみると、いやも応もなくひきずり出されてしまった。
西門慶は金蓮を馬にのせると、うしろからピッタリ抱きついて、邸をとび出した。家人や警衛の兵卒たちが、あれよといういとまもない。
空に氷のかけらのような弦月のかかった寒夜のことであった。
――翌朝、応伯爵がやってきて、はじめて二人の失踪《しつそう》を知った。だれにきいても、その行方を知るものがない。
応伯爵は蒼《あお》くなってかけまわって、玩花楼の二階の隅《すみ》に、まるめられて捨てられた矢文を発見した。
応伯爵を先頭に、兵卒の騎馬の一隊が、泰岳東峰めがけて駈《か》け出していったのは間もなくだった。
――しかし、泰岳東峰に、西門慶と潘金蓮が、まだぶじに生きているであろうか?
氷華《ひようげ》之章
正気の沙汰ではない。あの秋の好日、あれほどの人数で旅したときでさえ、満目荒涼とした道程だったのである。
そのおなじ路を、ただ一痕《いつこん》の月をたよりに、冬の深夜、馬をとばせてゆく西門慶の姿は、だれか見たら天空夜叉かとも思ったにちがいない。実際、彼の心は、すでにこの世のものならぬ魔界の声に呼ばれて、それによってうごかされていたのだ。
西門慶と潘金蓮が泰岳東峰の頂についたのは、もう暁だった。蒼白い冷たいひかりを面にあびて、彼はブルブルとふるえあがった。悪夢からさめたような気がしたのである。
じぶんはとんでもないことをしたのではなかろうか。賊の脅迫に乗って、まんまと罠《わな》におびき出されたのではあるまいか?
そこへ、金切声がふってきたのである。
「西門慶ではないか?」
雪洞禅師が、雪澗洞のまえに立っていた。くぼんだ眼窩《がんか》に恐怖のひかりがゆれて、
「そなたたち、そこらであの燕青とやらいう賊に逢《あ》いはせなんだかの?」
「あ、やはり燕青はきておりますか!」
「うむ、武松と燕青と母夜叉めが、さっきからここに待っておったわい」
「えっ、武松が!」
「ところが、母夜叉めが急に腹がいたむというてな、さっき泰岳廟の方へ運んでいったが、そのまえ、三人の相談していたには、やがてここに西門慶と潘金蓮がやってくる。きたら、このまえの女同様、腸をひきずり出してなぶり殺しにしてくれようと、それは恐ろしい声で笑っていたわ」
「あっ」
颶風《ぐふう》に吹きあげられたように、西門慶はキリキリ舞いをした。
いったんおりた馬に、またしがみついて這《は》い上ろうとするのに、金蓮が、
「旦那さま、引き返しては、そっちに賊たちが!」
――といって、泰岳東峰をこえれば、道はひとすじ梁山泊へ通じる。
「いかん、いかん、あの連中がやってくるわ」
と、禅師は急に狼狽してさわぎ出した。西門慶は仰天してその方を見下ろしたが、眼もくらむ思いで、何もみえない。しかし、金蓮もさけび出した。
「あれ、あれ、あの飛ぶような姿はたしかに武松。――」
それから、いきなり西門慶のもっていた鞭をひったくって、馬の尻《しり》をピシリとたたいた。馬は、雪澗洞から東へ狂奔して去る。
「な、何をする!」
「あの馬がここにいては、あたしたちが来たことがわかるじゃあありませんか」
そして金蓮は、西門慶の腕をつかんで、グイグイと雪澗洞におしこんだ。
「禅師さま、御慈悲。――」
ふたりは洞穴にまろびこんだ。二度めの洞穴入りである。しかもそれが決して、万全を保証されないことは、このまえの恐ろしい経験でわかっているのだが、いまや絶体絶命、ほかにのがれる方途もない危急であった。
西門慶と潘金蓮は、いちばん奥に抱き合って、息をこらした。いや、息をこらそうとしても、おたがいの呼吸が、洞窟内にこがらしみたいな音をたてるのに身の毛をよだてた。
穴はほぼまっすぐだが、ここまで入るとひかりはとどいてこない。入ってきたときは、たしかに闇黒《あんこく》だった。しかしそのうち、抱き合ってふるえている二人を、しだいにうす白い微光がつつんできた。二人は、まわりの岩壁が氷でまったく張りつめられているのを知った。
「――ううっ」
と、西門慶はうなった。寒気が鉄の環《わ》のようにしめつけてきた。ころがりこんでくるときながした総身の汗が、たちまちパリパリと肌《はだ》に凍りつく感覚があった。
十分ほどたって、西門慶はたまりかねて、金蓮をおしのけて這《は》い出そうとした。
「危い――旦那《だんな》さま――」
「いや、このままでは凍え死んでしまう。……それに、彼奴《きやつ》ら、もういってしまったのじゃないか?」
熊《くま》のように四ツン這いに六、七歩出たとき、出口のあたりで何やら叫び声がしたかと思うと、カラカラとその方から鋭いひびきをたててすべってきたものがある。あわててそれをつかんで西門慶は「ぐっ」というようなうめきをもらし、もとのどんづまりににげもどった。紅矢だったのである。
発見されたのか? かっととび出すような眼で出口の方をみていたが、どうしたことか誰も入ってこない。息がつまるような数分がすぎたが、もはや西門慶はふたたび這い出す勇気を失った。
寒さのために、ふたりの肺は、錐《きり》でつき刺されるようにいたみ、皮膚がヒリヒリとしてきた。
「金蓮。……」
金蓮はふしぎなことをはじめた。からだをくねらせて、その衣服をぬぎはじめたのだ。気でも狂ったのかと思うと、彼女はいちばん下の冷えた汗で凍りついた肌着《はだぎ》をとってすて、その上に坐《すわ》った。そして、かわいた上衣《うわぎ》をゆるく身にまとって、肩かけはフンワリと西門慶にかけた。
「ばか」
といったが、西門慶の眼に涙が浮かんだ。
「旦那さま……肌と肌を合わせた方が、少しは暖かいのでは……」
そういわれて、西門慶もその気になった。ふたりは裸身《はだか》と裸身になってピッタリ抱き合い、そのまわりを衣服でヒシヒシとつつんだ。
なるほど、この方が――と思ったのはつかのまである。氷寒地獄はさらに凄じい歯をむき出して、ふたりをのみこんだ。金蓮はたえず身をゆすっていた。西門慶はしだいに懶《ものう》くなってきた。
「旦那さま、眠ってはだめ、眠ってはだめ!」
突然、西門慶は恐怖の叫びをあげて金蓮にしがみついた。うす暗い虚空《こくう》に、白蝋《はくろう》のような憑金宝《ひようきんほう》と玳安《たいあん》の幻影が哄笑《こうしよう》するのがみえたからだ。
「金蓮!」
「ここにいます。旦那さま、金蓮はここに……」
金蓮は乳房をこすりつけ、腹をこすりつけ、腿《もも》をこすりつけた。西門慶の胸と腹に、熱い飴《あめ》がとろとろと溶けかかるような快感がひろがった。
「旦那さま、眠っちゃあいや、眠らないで……」
金蓮の全身は一分のすきまもなく西門慶に密着して、ゆすぶりたてた。
西門慶は、水晶のような薄光にみちた白い洞窟の中に、天上の楽の音の鳴るのをきいた。そして霏々《ひひ》としてふる牡丹雪《ぼたんゆき》の中に、蓮花燈《れんげとう》や芙蓉燈《ふようとう》や雪花燈が、波のようにうねるのを見た。燈籠《とうろう》は、彼の愛した無数の女たちの笑顔に変り、そして彼は鐘のように鳴りひびく美しい女の笑声をきいた。
誰かの声。誰かの声。……
涅槃《ねはん》之章
汗馬に鞭をふるって泰岳東峰をはせのぼってきた応伯爵は、雪澗洞のまえに異様なものをみた。弓をもった雪洞禅師が立って、洞穴の中をのぞきこんでいる。
「せ、西大人は?」
「あ、あの女人を助けてくれ! ああ、あれは凍え死んでおるかもしれぬ。……」
苦行僧は、呪縛《じゆばく》からとかれたように弓をなげ出し、がばと大地に崩折《くずお》れた。
応伯爵たちが雪澗洞の奥からひきずり出したとき、はだかの西門慶と潘金蓮はもう息がなかった。
「おいっ、西大人のからだをこすってくれ! わしは金蓮さんを――」
伯爵は発狂したようにさけびながら、金蓮にのしかかって、その氷の肌を摩擦しはじめた。
この場合、西門慶を他人にまかせて、金蓮の介抱にとりかかったのは、一見友達|甲斐《がい》がないようだが、実は親友とはいうものの、西門家にたかって生活しているような応伯爵は、西門慶が死ぬとたちまち破滅におちいるのである。それすらも忘れ、彼の全霊は、ただ金蓮だけに満たされた。
応伯爵が、ほとんど全裸にちかい潘金蓮を抱いたのもそれがはじめてなら、その行為になんの色情を感じなかったのもはじめてである。彼は人の眼もわすれ、金蓮にしがみついて、雪白の肌をこすりつづけた。
うずまきながれる山上の冬雲のきれめから、黄金のひかりがおちてきたとき、金蓮の乳房のほとりとみぞおちに、ぽっとほのかなほてりが出てきた。
「金蓮! 金蓮さん!」
そのとき、金蓮は、夢みるように伯爵のうなじに腕をまきつけると、唇に唇をおしつけ、かすかに舌さきをうごかした。
「旦那さま! とうとう。……」
「なに?」
「とうとう、あたしのものに……」
応伯爵は惑乱《わくらん》した。
そのとき、うしろで歯ぎしりとともにひくいうめき声がきこえた。
「女人大魔王。……」
ふりかえると、雪洞禅師がすっくと立って、くぼんだ眼窩のおくから、炎のような眼で、なまめかしい金蓮の姿をにらみつけていた。それは嫉妬の炎であった。
「ああ、わしは妖婦の甘言に堕《お》ちた! わしは妄語《もうご》の戒めを犯した! 来もせぬ賊を来たと告げて、そこな西門慶を雪澗洞に追いこみ、あまつさえ紅矢で脅して凍え死させてしまったのじゃ! わしともあろうものが天魔に魅入られて、淫婦の口車に乗せられたのじゃ!……いかなるつもりでかようなことを企てたかと思っていたら、さてはおまえは、そのように他の男との邪淫をのぞんで、主人を死なせたのだな?」
そして、金蓮の美にとろかされて一挙に殺人の共謀者に墜ちたこの三十年の氷の苦行僧は、ふたたびどう[#「どう」に傍点]と地上にうち倒れた。
応伯爵は、西門慶の傍にかけよった。
「兄貴、おい、兄貴! 西大人!」
西門慶は、完全に凍死していた。
応伯爵は大地も裂けるような恐怖と驚愕《きようがく》と憤怒におそわれて潘金蓮をふりむいた。なんだと? この大破局が、すべて金蓮のさしがねだと?
あたまは真っ黒な炎にあぶられるようだった。不可解、不可解だ! 金蓮が西門慶を殺してどうするのだ。西門慶あっての潘金蓮ではないか。そして彼女は、彼女自身の死をおそれぬほど彼を愛していたのではなかったか!
金蓮は半身を起して、無限の激情をたたえた眼で、じっと西門慶を見つめていた。
「ああ、あたしは生きかえったのね?……あたしもいっしょに死ぬつもりだったのに!」
「金蓮さん、こ、こ、これは、いったい――」
「三度めからの燕青はあたしでした。……」
金蓮は顔を覆った。指のあいだからキラキラと涙があふれおちた。
「それは、な、なぜですか! なんのためですか!」
「旦那さまは、このまえこの雪澗洞ににげこんだときから、もう死んでいたのです。……」
「えっ、西大人が、もう死んでいたとは?」
「応さん、あれからのちの旦那さまの顔、姿を思い出して下さい。……旦那さまは、あれ以来……女とは縁のない病人になっちまっていたのです。女は抱いてもどうすることもできない男、女の閨《ねや》をこわがる男……それがあの旦那さまといえるでしょうか?」
応伯爵は息をのんで、凝然として宙をみた。あの惨として鬼気にみちた西門慶の姿が甦《よみがえ》った。おお、不能の西門慶、それは想像もおよばぬ恐ろしい事実だった。
「可哀そうな旦那さま! あたしはもういちどもとの旦那さまにかえしてあげたかったのです。地獄から天国へはこんであげたかったのです。……でも、旦那さまは、女を――あたしにさえ身ぶるいして、逃げられるようになりました。どうしても抱こうとはして下さらなかったのです。女をこわがる男が、女をにくむ男が、女を抱くためには……玳安と憑金宝さんのあの美しい姿を思い出してごらんなさい。――」
金蓮はユラリとたちあがって、あるいてきた。全裸なのに、寒風の中にその白い肌には、ほとんど悪魔的な力を以て、美しい血潮がさしてきた。
この女は、まさに氷寒地獄も淡雪にひとしい女人大魔王なのであろうか。しかし、その姿は聖女のごとく美しく、乳房も唇も、全身が恐ろしい哀《かな》しみにわななきぬいているのだった。
「でも……旦那さまは、とうとうもとの旦那さまになりました! あたしの腕の中で……あたしの胸の中で! ごらん、応さん、旦那さまの顔を!」
しずかに抱きあげた潘金蓮の腕の中で、胸の中で、稀代の大好色漢西門慶の顔が、恍惚《こうこつ》たる歓喜と法悦に、にっと死微笑をうかべたようなのを、応伯爵は真空となった頭の奥に映している。
真空となった頭に、黒雲が渦まいて、やがて雪崩《なだれ》となって崩れおちる西門家の甍《いらか》となり、さらにすべてを圧して淫婦潘金蓮の白い裸形が、いっぱいに立ちひろがってくるのだった。
[#改ページ]
[#見出し] 女人大魔王
喪家之章
山東清河県きっての豪商、西門慶《せいもんけい》が死んだ。
「死んだのではない、殺されたのだ」
「だれに?」
「梁山泊《りようざんぱく》にこもる百八人の兇盗《きようとう》の一人、行者|武松《ぶしよう》に」
「なぜ?」
「ほら、西大人の第五夫人|潘金蓮《はんきんれん》は、もと武松の兄|武大《ぶだい》の女房だったろ? その金蓮と西大人が密通し、武大を毒殺したとかで、武松が兄の敵と狙《ねら》っていたのだそうだ」
「いいや、わしのきいたところでは、西大人と金蓮が、泰岳東峰で魔除けの苦行をしているうちに、西大人が凍え死をしたのだというぞ」
町の噂《うわさ》はとりどりであったが、この金と精力と男まえと欲望と、およそ欠けるもののない大快楽家が、清河県の西五十里、氷の業風吹きすさぶ荒涼たる泰岳東峰の頂で死んだことはたしかであった。
その証拠には、或《あ》る冬の夕、西門慶の死体をのせた轎子《かご》と、それをかこむ一行が、粛々として西の門から町にかえってきた。その中には、町の人々の話に出た愛妾潘金蓮や西門慶の親友兼|幇間《ほうかん》の応伯爵《おうはくしやく》の、首も胸にめりこまんばかりにうなだれた姿もみえた。
これを迎え入れた西門家の震駭《しんがい》ぶり、驚擾《きようじよう》ぶりは筆舌につくしがたい。正夫人の呉月娘《ごげつじよう》は卒倒するし、第二夫人|李嬌児《りきようじ》、第三夫人|孟玉楼《もうぎよくろう》、第四夫人|孫雪娥《そんせつが》をはじめ、香楚雲《こうそうん》やら劉麗華《りゆうれいか》などいう妾《めかけ》たちが家じゅう鳴りかえるほど泣きたてるし、小間使、番頭、手代、小者などは、逆上してかけまわる。
そのなかで、さすがに応伯爵だけが、必死にみなをとり鎮め、慰め、励まし、指揮していた。
番頭の貢四《こうし》に、馬蹄銀《ばていぎん》をたっぷりわたして棺《ひつぎ》をさがしに走らせる。陰陽師《おんようじ》の徐先生を呼びにやる。遺骸《いがい》を安置する大広間の飾立てをさしずする。親戚《しんせき》知人にその旨を急報する。――
なにしろ突然のことで、しかも清河県随一の富豪として官民のあいだに一大威力をふるっていた人間が死んだのだから大変だ。喪礼葬儀の規模も並大抵のことではすまない。
「応さん、よろしくお願いします。西門家の体面にかかわるようなお葬式を出しては、あたしがそしられますから、ほんとにお金は吝《おし》まないように」
と意識を回復した呉月娘が、気をとりなおして依頼する。
「ええ、どうぞ雑用その他お役に立つことがありましたら、遠慮なくこきつかって下さいよ。生前、あたしがどれほど西大人のお世話になったか、せめて兄貴のお葬《とむら》いくらいあたしが手伝わなきゃあ、閻魔《えんま》さまの前で兄貴に叱《しか》られまさあ」
応伯爵は、平生の諧謔《かいぎやく》は忘れたように、神妙に、甲斐甲斐《かいがい》しく、
「ええと、徐先生の占いで、大人の納棺は三日目、二月十六日にお墓の穴を掘って、二十日に出棺をすれば、ほかの障りはないそうです」
と、報告した。
哀哭《あいこく》と混乱のうちに二日目が来る。
西門慶の遺骸は、紅《あか》い絨毯《じゆうたん》につつまれた楸材《ひさぎざい》の棺に入れられ、大広間に安置された。報恩寺からは坊さんが来て経をあげる。呉月娘をはじめ愛妾たちは喪服をきて、つぎつぎに霊前にすすみ出て哭《な》く。陰陽師の徐先生がおごそかに棺に長命|釘《くぎ》をうちこみ、傍に、「武略将軍西門慶公之棺《ぶりやくしようぐんせいもんけいこうのひつぎ》」とかいた旗をたてた。
この日、検屍《けんし》役人の何九《かきゆう》が弔問にやってきて、応伯爵に耳打ちしていうには、
「ところで、どうだな、こちらと取引している商人などで、主人の亡くなったのを幸い、売上金をわたさぬ奴《やつ》、借金をかえさぬ奴がもし出てきたら、役所の方でとりたててやってもいいぞ」
「ありがとうございます。そんな節は、是非お力ぞえいただきたいもので」
何九はモジモジしている。応伯爵は急に気がついて、彼に金をにぎらせた。
「ああいや、こんなことは、そんな場合が起ったときでいいが――うむ、まあ。それではこれは、役所の係り係りへわたしておくこととしよう」
何九が西門家の門を出てゆくと、土塀《どべい》の外で、ひたいをあつめてヒソヒソと相談をしている三人の男がある。みると、このごろ顔を見かけなかったが、西門家の手代の春鴻《しゆんこう》と来爵《らいしやく》と来保《らいほ》だ。あきらかに旅からかえってきたばかりの風態だった。
三人は、ふりかえって何九をみると、急にとび立って、逃げ出そうとした。
「待て」
と何九は一喝《いつかつ》して三人を釘づけにし、ジロジロにらみつけた。
「なぜ逃げる。主人が亡くなったことを知らないのか」
「へえ、それは臨清《りんせい》の水門でききました。それで、おどろいて急ぎ戻《もど》ってきたところなんで――」
「臨清の水門? お前ら、どこへいってたんだ?」
「へえ、楊州《ようしゆう》へ、綿の買付けにいっておりましたんで――」
「綿は買ってきたのか」
三人はまた狼狽《ろうばい》の様子をみせた。
「へえ、波止場《はとば》の船につんで参りましたんで――」
「よし、それじゃ俺《おれ》があとで見てやろう」
何九の第六感は、すでに三人の胡乱《うろん》くささをかぎつけている。
突然、春鴻が、がばと膝《ひざ》をついて、あたまをすりつけた。
「旦那《だんな》、どうぞお見のがしを――」
「何を見のがすのだ?」
「実は、この来保の申しますには、主人が死んでは綿をもってかえったところでしかたがない。丁度《ちようど》船ではこんでいる間にも、二割は値があがっている。いっそこの波止場で売りはらっちまえと――」
「いいえ、あたしゃ、こうなりゃお金にしてもってかえった方が、お家のためになろうと思いましたんで――」
と、来保はあごをガクガクふるわせた。
「で、売り払った金はいくらあったんだ」
「へえ、四千両ばかり」
「うぬら、そいつを山分けにして、高飛びしようってつもりだったんだろ。そのまえに、こっちの様子をうかがいにウロウロしていたんだろ?」
「旦那!」
と、来爵がすがりついて、何九の耳に必死にささやいた。
「あとで、半分、二千両、お宅へもってゆきますから、御慈悲を――」
何九は空をむいた。
「勝手にしろ」
と、彼はひくい声でいいすてて、スタスタあるいていってしまった。
三人の手代がほっとしたような顔を見合わせ、立ち去ろうとすると、
「待ちな」
門のかげから、応伯爵がニヤニヤしながらあらわれた。ぎょっとしている三人の前で、あごをなぜながらいう。
「あたしにも、黙り賃として、まあ千両くらいはもらいたいね」
雪崩之章
初七日になると、また坊さんがあつまって読経をあげる。
最初のうちの衝撃的な悲しみの潮が去ると、西門家には、いいしれぬ暗さと静けさと不安さと空虚がただよって、こんな日がくると、悲しみを新たにすると共に、ふしぎに救われたような陽気さがよみがえるのだった。
応伯爵は、この日、霊前で焼香をすませ、声もかなしく追悼文を読みあげた。
「重和元年正月二十七日、門下生応伯爵、謹《つつし》みて哀悼の意を、故錦衣西門大官人の霊に致す。
霊は生前硬直の人物にして、性をうけて剛健なりき。弱きをおそれず強きにあらがわず、友を慰むるに鉄拳《てつけん》を以てし、女を助くるに腎水《じんすい》を以てせり。嚢中《のうちゆう》ゆたかなれば、軒昂《けんこう》の気概は陽物に上り、陰門に下る。恩をこうむりたる二子を股間《こかん》にしたがえ、しばしば花に寝、柳に臥《ふ》し、合戦するに敗れしことなし。しかるに今や永《とこしな》えに立たざるとは。ああ悲しいかな、ここに残れる貧生、ふたたび亀頭《きとう》をならべて柳暗花明《りゆうあんかめい》の巷《ちまた》にすすみ、その術を競うを得ず。わが亀頭ただ涙を腰間にたれるのみ。
ここに白濁《はくだく》を供え、寸觴《すんしよう》を献ず。霊にして心あらば来りうけよ」
女たちは、追悼文がよくわからなかったとみえて、いっせいに泣いた。応伯爵も読んでいるうち、ほんとうに涙がながれてきた。
その夜、応伯爵が庭をあるいていると、石橋の上で、うなだれた潘金蓮に逢《あ》った。
「おや、金蓮さん」
と、伯爵はびっくりして、声をかけた。
泣いたり、怒ったり、或《ある》いはおたがいにヒソヒソ話をしたり、何やらざわめいている他の妾たちの中で、たったひとり、北廂房《ほくしようぼう》にとじこもって、声もきかせない潘金蓮であった。おそらく、西門慶をいちばん愛していたのはこの女であったろうと、応伯爵は信じて疑わない。
「何をしているんです?」
「応さん。かなしいわ。……」
「わかっていますよ、それは――」
「そんなことじゃあないの、李嬌児さんのお部屋の前にいって、そっと様子をきいてごらんなさいな?」
「へ?」
金蓮はいってしまった。
応伯爵は、ポカンとあとを見送り、それから、くびをかしげながら、跫音《あしおと》をしのばせて李嬌児の部屋の外へ近づいていった。
話し声がきこえる。声は、きょう焼香にきた李家の婆さんである。李家は西門慶が生前に大いにひいきにしてやっていた妓楼《ぎろう》だった。李嬌児は第二夫人だが、もと李家の歌妓だった女である。
「そりゃお前、西門の旦那にゃ御恩は受けたろうけどさ、死んじまえば、恩の返しようもないじゃないか。あと、ここの家にいて、どうなるのさ? 大奥さんにいびられて、はては犬みたいに追ん出されるのがオチだよ。お前さんも、もう三十四じゃないか。せっかく張の旦那がお妾にもらいたいとおっしゃる。帆は風の吹くときにあげるもの、いまを逃したら、こんな運はまたとこないよ。……」
張の旦那とは、この清河県で西門慶につぐ富豪の張二官《ちようじかん》のことらしい。初七日の夜がきたばかりなのに、もう鞍《くら》をのりかえる相談だからおどろかざるを得ない。
「これからは、この町も張の旦那の世さ。提刑院《ていけいいん》で、西門の旦那のあとがまに坐るつもりで、もう都の方のお役人がたに、うんとつけとどけを送んなすったそうだよ。その張旦那は、どうやらあの金蓮さんにも眼をつけていなさるらしい。ウカウカしてると、お前、売れ残っちまうよ。……」
「でも、おかあさん、張の旦那はたしかまだ三十くらいでしょ?」
この分では、李嬌児はだいぶ軟化しているらしい。
「ああ、三十二さ。おまえ、二十八とごまかしなよ。まだそんなにきれいなんだもの、六つくらいサバをよんだって、誰《だれ》がわかるもんかね」
「フ、フ、フ」
「それで、向うさまにゆくとなったら、なんといっても金と物はたんと持ってった方があとあと肩身がひろいからね。このドサクサの中だもの、手あたりしだいにつづら[#「つづら」に傍点]にとりこんだってわかるものか。せいぜい、うまくやっとくれ。……」
ひどい女たちもあるものだ。
と怒る資格は、応伯爵にはない。実は伯爵も、呉月娘から葬儀万端の指図をまかされたのを倖《さいわ》い、だいぶ懐をうるおしているからだ。
――二月三日は、西門慶のふた七日にあたる。この日は玉皇廟《ぎよくおうびよう》から呉道官をはじめ十六人の道士がよばれて、法事を行った。
「応さん」
と、何やら屈託顔の呉月娘が伯爵に話しかけたのは、その夕方だった。
「何だか、お客さまが少ないとは思わない?」
「そうでしょうか?」
「だって、李瓶児《りへいじ》さんのお葬式のときなど、もっと弔問客がおしかけてきたように思うんだけど。……」
李瓶児はまえに亡くなった愛妾の一人である。
「あたしのやり方がわるいのでしょうか」
「そ、そんなことはありませんよ」
「あの王様のような旦那さまのお葬式なのです。どうか思いっきりはで[#「はで」に傍点]に、にぎやかなお葬いを出して下さいな。……」
そのとき、うしろでひくい声がきこえた。
「大奥さま、奥さまのせいじゃありませんわ」
潘金蓮がかなしげに立っていた。
「それは、世間の人がみんな恩知らずだからです。いままでこの家からお葬式の出たときは、まだ旦那さまがいらっしゃいました。お弔いにきたのは、欲をかくしたおベッかです。こんどはその旦那さまがいらっしゃいません。もうおベッかをつかう必要はないのですわ。……」
応伯爵も、そんなことは知っている。ただ呉月娘に気の毒だから言わなかっただけだ。金蓮はつづける。
「西門家は雪崩《なだれ》のようにくずれつつあります。家の外にも内にも、いまのうちに喰《く》い荒そうとする白蟻《しろあり》がいっぱい。――応さん」
応伯爵はドキンとした。
「それは、喪家《そうか》にとって、しかたのない運命でしょうね?」
「ああ、いや、それは……」
「あたしもそれは承知していますけれど、ただ……旦那さまが亡くなってまだお葬《とむら》いも出ないのに、もう乳繰りあっている人間がいることにはがまんがなりません。……」
「金蓮さん」
と、呉月娘は、きっとして顔をふりむけた。
「だれが、そんなことを?」
「楚雲さんが、番頭の劉包《りゆうほう》と」
「えっ」
「いま、劉包が、キョロキョロしながら、楚雲さんのお部屋に入ってゆきましたわ」
呉月娘はこぶしをにぎりしめ、眼《め》をすえた。やがて、ふるえる声で、
「なんという淫《みだ》らな恩知らず! そればかりは許せません。応さん、下男を二、三人呼んで下さい。もしそれがほんとうだったら、きっとお仕置をしなくては、主人の亡くなった家のしめしがつきません」
香楚雲の部屋では、櫺子《れんじ》の窓の外に、血相かえた一団が忍びよってきたことを知らなかった。
灯《ひ》もともさず、まっくらな中で、たしかに楚雲と劉包のなまめかしいあえぎがきこえた。劉包は、よほどながいあいだ楚雲に想《おも》いをかけていたのだろう。香楚雲も、西門慶の死前後からの禁欲にもだえぬいていたのだろう。それは、ふたりが無我夢中になって、ふた七日の夜の静寂も忘れたような、恥しらずの嬌声喃語《きようせいなんご》をあげているのからわかった。
「淫婦《いんぷ》!」
「姦夫《かんぷ》!」
どっと、一団は部屋になだれこみ、たちまちふたりを一つに縛りあげて、ひきずり出した。
「どうしてくれよう」
と、呉月娘は怒りにもえる眼でふたりをにらみすえた。楚雲と劉包は全裸の胸と胸、腹と腹を合わせたまま、手足の八本ある白い妖怪《ようかい》のような姿でころがされている。
「まあ、旦那さまの御遺骸《ごいがい》は、まだ大広間にあるというのに……」
「大奥さま」
と、金蓮が沈んだ声でいった。
「あたしによい考えがあります」
「どんな?」
「さっき奥さまは、旦那さまを王様のように葬りたいとおっしゃっていましたわね。どうか、王様のように葬ってあげて下さい」
「それが、このことと、どんな関係があるの?」
「殉葬《じゆんそう》させるのです」
「え、殉葬?」
「しかも、こんな恩しらずは、あの殺頭葬《さつとうそう》に」
ふたりの姦夫姦婦は、全身を粟立《あわだ》ててもがき、応伯爵も真《ま》っ蒼《さお》になった。
「な、なに、殺頭葬?」
双珠之章
支那《しな》で、殉葬のことが、いつからはじまったのか明らかでない。
が、殷様式《いんようしき》およびその延長とみられる西周《せいしゆう》の遺跡によると、古代にはかなりひろく殉葬の行われたことが知られている。そして、文献によれば、東周から隋《ずい》、唐《とう》、さらに明、清にいたるまで、王侯、貴族階級にはしばしば殉葬が行われたことは明らかである。
しかし、そうはいうものの、時代が下るにつれて、だんだん稀《まれ》になっていることはいうまでもなく、まして「殺頭葬」ときいて、一同が眼をまるくしたのもむりではない。
「殺頭葬」とは、頭と身体《からだ》を切断して、バラバラに埋葬する殉葬の一形式であって、ふつうの殉葬が死後なお主人に奉仕する意味のものとちがい、刑罰のこころをふくめた恐るべき一種の犠牲であった。
「しかし、それは、あまりといえば……」
「けれど、応さん、このことを表|沙汰《ざた》にすれば、ふたりとも無事にはすみませんよ。主人の出棺前に、妾と手代が姦通《かんつう》するなんて、絞《こう》や斬《ざん》ですむものですか。……といって、大奥さまが御慈悲をかけられて、大目にみておやりになれば、こんな女や手代にも、やっぱりかたみ[#「かたみ」に傍点]は分けておやりにならなくちゃならない。……」
「まさか。……」
と、呉月娘はさけんだが、しかしまさしく潘金蓮のいうとおりだから、思わずキリキリと歯を鳴らした。
金蓮はそのとき声をひそめて、
「奥さま、応さん。ちょっと」
と、ふたりを廻廊の隅に呼んだ。
「奥さま、ほんとうに西門家には虫ケラがウヨウヨしています。主家の売上金を盗んで逐電《ちくてん》する傭人、手代と密通する妾……ほかにもまるで泥棒猫《どろぼうねこ》みたいな男や女がたんといることは御存じでしょう。そういう連中に、かたみ[#「かたみ」に傍点]や財産をわけてやるのは、まるで盗人に追銭だとはお考えになりませんの?」
「そりゃそうだけど、だれが何をしているか、何を考えてるか、わかりゃしないわ」
「だから、ちかいうち、奥さまから厳《おごそ》かに殉葬の話をもち出して下さい」
「ああ、それでみんなをためすのか!」
と、応伯爵は、ほっとしてさけんだ。
「そうなんです。それで、恩知らずどもは、みんなこの家をにげ去ってしまうでしょう。まあ、ほんとうに殉葬になってもいいと申し出る人はないでしょうけれど、それでも奥さまの話をきいたときの様子で、人それぞれのまごころはさぐれましょう。そして、ほんとうに旦那さまを――西門家を大事に思っている人々がわかるでしょう」
「ふうん、それは面白いな」
金蓮のいい出した殉葬のことが、単なる方便だということを知った安心感と、それに生来こんな悪戯《いたずら》が大好きな応伯爵は、よろこんで手を打った。
「しかし、あの間男と淫奔女《いたずらおんな》はどうします?」
「それは、大奥さまのお心にまかせましょう。とにかく、出棺の日まで裏山の蔵春塢《ぞうしゆんう》にでも縛ったままとじこめて、殺頭葬の恐怖を骨の髄まで味わわせておやりになるがいいわ」
呉月娘は、もの凄《すさま》じい顔色でうなずいた。
まじめな呉月娘は、これを悪戯とは思わない。主人の死以後、雪崩のように西門家がゆらぎつつあることを感じてイライラせずにはいられないし、また口に出してはいわないが、たくさんの妾どもに財産を分けてやらなければならないことに対するくやしさが、煙のように心の底にある。ましてその中の幾人かが、獅子身中《しししんちゆう》の虫であるに於《おい》てをやだ。
――墓を掘るのは二月十六日の予定であったが、五日から城外五里原に、恐ろしく大規模に墓が作られはじめた。直径五十間余のひろさに円錐形《えんすいけい》に土を掘り、その中央に地下三間のふかさに棺室を設ける。南と北に、地上から入る石の扉をつくり、ここから石の階段からなる墓道を下りていって棺室に通じるというしくみである。
そして、西門家の内外に、もの恐ろしげな噂がたち出した。
「こんど、西門の旦那のお墓には、たいへんな宝物が埋められるそうだ」
「宝物どころではない、人間も埋められるってきいたぜ」
「えっ、生きている人間が?」
「うむ、あのお妾たちが」
「そりゃ惜しい! あんな美人たちを、なんてまあ、むごたらしい――」
「それが、本人たちの望みなんだそうだ。あの旦那に死なれちゃあ、みんなこの世に生きてる甲斐がないってね」
「それはまた感心なものだな。みんな美人を鼻にかけた浮気女ばかりかと思っていたが、見なおしたぜ。案外――恐ろしいほど貞女ばかりじゃないか」
「貞女――そういえば、そうかもしれん。西門の旦那以外に、この世に男はない――あの旦那ほどの道具をもっている男は、この世にない――といってる女もいるそうだから」
「あっ、そういう意味か。畜生、ひどく見下げられたものだな。しかし、残念だが、その通りかもしれないね。なにしろあの旦那はほんとうに驢馬《ろば》くらいあったそうだから」
――それから数日後、李嬌児が逐電した。
みなが、噂のまとの妾たちを注目していたので、ぬけぬけと大荷物を運び出すわけにもゆかなかったのだろう、あとで調べてみると、居室のつづら[#「つづら」に傍点]や箱には、せっせと取りこんだ財宝がいっぱいつめこまれていたが、それも、とるものもとりあえずといった逃走ぶりは笑止であった。
このことを知って、呉月娘の頬《ほお》に、怒りをおびた笑いが浮かんだことはいうまでもない。
――三日後はいよいよ出棺という十七日の夜のことである。
呉月娘は、はじめて妾たちをみな呼んで、おごそかにきり出した。
「みなさま、主人の生前は、ほんとうにお世話さまでございました。……本来なら、こんなにたくさんの女が一つの家にくらしていて、喧嘩《けんか》や嫉妬《しつと》さわぎのたねには困らないはずなのに、波風ひとつたてず、姉妹のようにむつまじく暮せましたのは、ひとえにみなさまのお人柄のよさと、それからただ一つ、主人への愛に、車輪のようにむすばれていたからでございましょう。……」
なに、波風のたたないどころか、夜毎《よごと》日毎、ねたみとにくしみの炎の車のまわらないときはなかったのだが、みんな、神妙な表情でうなだれている。
「主人への愛――それはむしろわたしより、あなた方のほうが強かったかもしれません。そしてあなた方のどなたもが、そのことにかけては、決してほかのどなたにも負けようとは思っていらっしゃらないでしょう。……」
妾たちは、わざとらしくうなずいた。
「わたしはそれを信じています。亡くなった主人も、きっとあなた方を信じていたでしょう。……その主人が、いまわのきわに、いいのこしていったことがあるのです。わしはあの世にいって、ひとりで暮すのはいやだ。この世ほどにぎやかでなくったっていいが、せめて一人か二人、話し相手になってくれる女が欲しい。――こう遺言していったのです。お笑いになる? わたしは、あのひとがどんなに寂しがり屋だったか、そしてどんなに女が好きだったか、それを思うと、なんてまあばかげた虫のいい望みだとは笑えないような気がするのです。……」
呉月娘は、刺すような冷たい眼で、妾たちを見まわした。それから、うなだれて、小さな声でいった。
「いかがでございましょう。どなたか……主人を……あの世でなお世話をみてやろうとお考えの方はいらっしゃらないでしょうか?」
みんな陶器のような顔色で、正夫人を見つめたきりであった。
実はこれまで、眼に巨大な墳墓《ふんぼ》を見、耳に町の恐ろしい風評をきいても、だれもがまさかと思っていたのである。手代と密通したという香楚雲は或いは殺頭葬の刑に逢うかもしれない。しかし、罪のないじぶんたちを、やわか生きながら墓に埋めるような非常識な試みを実行に移そうとは思っていなかったのだ。
げんに、李嬌児が逐電したとき、孟玉楼など皮肉に笑ったものである。
「ばかな李嬌児さん、まんまと大奥さまの手にひっかかって! 殉葬の噂なんて、きっとあたしたちを恐がらせて、ただで追っぱらおうって計略だわ。財産を分けてやりたくなくって、ただで逃げ出す人があったら、もっけの倖《さいわ》いってわけね。だれがそんな手にのるものですか!」
それが、いまほんとうに呉月娘からきり出されて、彼女たちは鼻じろんだ。
どれだけ呉月娘がこのことをまともに考えているのか? もしそれが試験であったら、ここで醜態をみせたらせせら笑われるだろう。といって、もし真剣な話なら、ゆめゆめそんな志望は口に出来たものではない。
恐ろしい静寂がはりつめた。
そのとき、だれかが顔をあげて、ひくい声でいった。
「あたしが、お供をさせていただきますわ」
呉月娘と潘金蓮は、愕然《がくぜん》としてふりむいた。
澄んだ笑顔をみせて、死の白羽の矢をみずからひたいにたてたのは、一人ではない。二人の女である。痩《や》せて、一番影がうすくって、西門慶の寵《ちよう》も最も淡いとみられていた孫雪娥と、盲目の愛妾劉麗華であった。
殺頭之章
十八日の夕方のことである。明後日の葬礼がどうかと思われるような雪となった。
「あの二人、どうしてるかしら?」
と、ふと潘金蓮がつぶやいたのをきいた応伯爵は、急に香楚雲と劉包の様子を見にゆく気になった。
蔵春塢《ぞうしゆんう》というのは、その名づけたところからもわかるようように、裏山の洞穴《ほらあな》ながら、一時は寝台や火鉢《ひばち》などを置いて、西門慶が番頭の女房やら小間使いをひきずりこんではもてあそんだ場所だが、その後いつしか家の中で何か悪いことをした傭人たちを監禁する牢《ろう》となって、入口にはふとい格子がはめられ、大きな錠がかけてあった。
夜に入って雪がやんだのを機会に、応伯爵は、灯をかかげて裏山をのぞきにいった。
香楚雲と劉包はなおおたがいに縛りつけられたまま、ころがされていた。下男たちが腹を立て、且《かつ》面白がって縛ったので、女の両手くび、両足くびは男の背なかで括《くく》られ、男の両腕も女の背で、足もまたまっすぐにして括られている。食物だけは、だれかが皿に持っていってやるらしいので、おそらく一人一人が上になって、犬のようにすするのであろうか、二人はまだ生きていることは生きていたが、恐ろしい悪臭がながれ出してくるのは、排泄物《はいせつぶつ》の匂《にお》いにちがいない。
「おい」
と、伯爵が呼ぶと、二人は弱々しくうごめいた。
「お助け……」
と、虫みたいな声で楚雲がいった。灯の影にすかしてみると、ボンヤリと蒼《あお》く二人の顔がみえる。どちらもやつれてはいたが、とくに劉包のやつれぶりは、凄いようだった。
応伯爵の心に、あわれみの念が起った。
「お助け……」
「うむ、そうだなあ、生命だけは何とか助けてもらうように、わしから大奥さまに話してはあげるが……」
と、いって、鼻をつまんだ。
「しかし、臭いね、じぶんたちのものとはいえ、これじゃ本人もたまらんだろう。もうしばらく辛抱していなさい。決して悪くはしないから」
といって、彼はふところから鶏の丸焼きをとり出して、格子のあいだから投げこむと、早々に退却した。
――これが応伯爵の――いや、この世の人間の、哀れな、生きている香楚雲と劉包の姿をみた最後であった。
十九日の朝になって、西門家には驚天動地の大変事の起っていることがわかったのである。
変事は、西門慶の遺骸の安置してある大広間に起っていた。その棺の両側に、首を切断された楚雲と劉包の死体がのめっていた。そして――あの徐先生が長命釘をうちこんだ棺のふたがはねあけられ、中の西門慶の屍体も、首と胴を切りはなされていたのである。
呉月娘はふたたび卒倒し、西門家はふたたびにえくりかえるような騒動におちいった。
真冬のことであったので、西門慶の死顔はまだ変色もしていなかった。この生前、世に比類もなかった大快楽児は、死してなおふしぎな力を血液にたたえているのだろうか、切りはなされた死顔は、依然としてウットリした好色的な微笑をきざんだままであった。
「鎮まれ、鎮まれっ……さわぐことはない。西大人は殺されたわけではない。前の通りだ。死人のままだ! さわいで世間に恥をさらすことはない!」
急報をきいてかけつけた応伯爵は、妙な制止のさけびをはりあげながら、もとより当人も惑乱《わくらん》している。それはいうまでもなく、こんな大それた、無残な行為を誰がやったか? という疑いであった。
さわぎの最中に、何九が騎馬で泡《あわ》をふいて飛んできた。一枚の大きな紙片を鷲《わし》づかみにしている。
「深讐西門慶、屍といえども、殺頭の刑に処せずんばやまず。行者武松」
こうかいた紙きれが、西大門の傍の外壁に貼《は》りつけてあったというのだ。
ああ、それでは西門慶に兄を殺され、兄嫁を奪われ、いまは梁山泊の剽盗《ひようとう》のむれに加わっている魔人武松が、西門慶の死んだのにもあきたらず、なお屍《かばね》の首に戒刀を加えて去ったのであろうか。
「けれど、武松が、いつ?」
潘金蓮が戦慄《せんりつ》して唇をわななかせ、呉月娘がかん高い声をあげて家人に、昨夜侵入した魔人の影を見た者はなかったかときいてまわっているあいだ――応伯爵は、腕をくんで、裏山のまえの雪の中に立っていた。
「――なぜ?」
と、彼は心にさけんでいる。
「武松が、なんのために?」
屍を辱かしめるためといったら、一応意味が立つようだが、それにしても死体の身首を切断して、それだけでなんになるというのか。まして武松にとって何の恨みもない香楚雲と劉包を殺頭の刑に処して、それで何になるというのか?
ふしぎなのは、その楚雲と劉包であった。いうまでもなく、蔵春塢の格子はひらかれていた。しかし、武松は、彼らがそこに監禁されていることを知るはずはない。いや、げんにいま、蔵春塢にゆきかえりした雪の足跡を、念をいれてしらべてみたのだが、昨夜応伯爵自身がつけたもの以外は、たしかに楚雲と劉包がよろめきつつ洞から出ていったとみえる足跡しか残っていないのである。
とすると、楚雲と劉包は、じぶんたちの力で蔵春塢をのがれ出していったことになる。あのあさましいほどに縛りあげられた縄《なわ》をとく。外からかけられた錠をあける。この不可能事がよし可能であったとしても、さて彼らが何のために西門慶の遺骸のある大広間に入ってゆき、いかにして殺頭の刑にあうような目にあったのか?
母屋の方で、何九のさけぶ声がきこえた。
「何、だれも武松の姿を見たものがないと? そんなばかなことがあるものか!」
応伯爵は、雪の寒さより、血の冷たさに凍りついて立っている。
万一――万一――この大変事に手を下したものが家人の中の誰かとする。悪戯《いたずら》にしては、あまりといえばあまりだろう。しかし、正気とすれば、目的がいよいよわからない。とくに、西門慶の首を切りはなして、何になるというのだ?
「狂人?」
応伯爵は、家の誰かれの顔を順々に思い浮かべている。戦慄は、そのことからにじみ出してくるのだった。
墳墓之章
こういう妖《あや》かしの手で切断された香楚雲と劉包を、「殺頭葬」にするわけにもゆくまい。
「姦夫姦婦を、おなじ墓に埋めちゃあ、西大人も腹をたてるでしょう」
と、応伯爵がいうのに、呉月娘もうなずいた。彼女にしても、ほんとうにこの二人を殺頭葬にしようとは考えていなかった風である。
さわぎが一応おさまってみると、さて始末にこまるのは、この二人の屍体である。明日、いよいよ主人の葬礼を出すというのに、きょう姦夫姦婦の弔旗で露ばらいさせるわけにはゆかない。そんなきもちにはなれないし、その準備もない。――香楚雲の屍体だけは、その夜のうちに親戚の者をよんでひそかにひきとらせたが、劉包という手代はまったく子飼いの男で縁辺の者もなかったから、呉月娘もその遺骸のやり場所に途方にくれた。
「こうなってみると、やはり可哀そうですね。殺頭葬でおどしただけに、あたしが一番この仏に恨まれているような気がしますわ。首を切った奴が武松だとしたら、なにしろ素手で大虎をなぐり殺すような男だけに、恨んでお化けになっていっても、鼻息で吹きとばされて、あたしのところに迷って出るかもしれないわ。そんなことになったらたいへんだから、あたしの手で葬ってやりましょう。旦那さまのお葬式のすむまで、あたしの部屋に置いてやって下さい」
こう言い出したのは、潘金蓮である。それを神妙だとか、不敵だとか、感心したり、呆《あき》れたりする余裕のある事態ではなかった。首の切りはなされた劉包の屍骸は、金蓮の住む北廂房にかつぎこまれた。
さて、翌日は、いよいよ西門慶の葬礼である。呉月娘が叱咤《しつた》激励し、応伯爵が東奔西走した甲斐があって、それは一代の豪商らしい盛儀となった。
山河は雪に覆われていたが、空は冷たい壮麗な夕焼けだった。
柩車《きゆうしや》の綱を挽《ひ》く百人の会葬者、林立する|※[#「羽/妾」、unicode7fe3]《そう》、はためく紅絹《もみ》に金文字の名旗、つらなる琴、鏡、刀剣、机杖などの冥器《めいき》、そして真紅の|※[#「ころもへん+者」、unicode891a]幕《ちよまく》につつまれてすすむ柩車。――
それを見物する人々のなかに、ふみ殺された者が出たくらいの大葬礼であったが、しかし彼らのすべてがほんとうにこの大好色児の死を悼《いた》んであつまったものとは思われなかった。それよりむしろ、その死者が何者かに首を切断されたという怪奇な風評にうごかされたのと、それから、その死者に殉じて生きながら墓に入るという二人の妾への好奇心からであったろう。
孫雪娥と劉麗華。
「麗華さんは盲なんだもの、さきをはかなんでのことだし、雪娥さんも夢遊病という病気持ち、そのうえ、あれは旦那さまの生前、いちばん影がうすくって、みんなから見くびられていたものだから、いま破れかぶれの見栄を張ったのよ。生涯《しようがい》たったいちど最後の花を咲かせてみんなを見返してやろうというつもりなんだろうけれど、それが死花とは、感心していいんだか、きのどくなんだかわからないわね」
そんなことを、口をゆがめていう妾もあったが、その心はしらず、純白の喪服に純白の靴《くつ》をはいた二人の殉葬の女人は、白鷺《しらさぎ》のように浄《きよ》らかに美しかった。
重和元年二月二十日、中国四大奇書の二つ、「水滸伝《すいこでん》」と「金瓶梅《きんぺいばい》」に今も大好色漢の名をのこす西門慶は、城外五里原の巨大な墳墓に送りこまれた。
そして、会葬者の行列が、石の墓道をひきかえしてきて、石の扉がとじられたとき、あの白い孫雪娥と劉麗華の姿は見えなかったのである。
――その翌日、西門家からそっと小さな棺がはこび出された。中には、あの哀れな劉包の死体が入っている。その棺は、金蓮が西門家へ輿入《こしい》れをするとき仮親となった群西街の王婆のところへ入り、その翌日、城外の淋《さび》しい或る墓地にひッそりと葬られた。それは、金蓮の父母の眠っている共同墓地だった。
――それから十日目の或る夕のことである。
五里原の墓寺に一つの轎子《かご》がついて、中から潘金蓮があらわれた。胸に紅いきれにつつんだ四角なものを抱いている。
彼女は墓番にいった。
「これを、旦那さまのところへお供えしたいのだけれど、扉をあけてくれる?」
地底に棺室まで設けるくらいの墓だから、むろんゆけないことはないが、墓番の宋万《そうまん》は眼をまるくした。あの殉葬された二人の女は、まだ生きているだろうか。いや、おそらくもう死んだろう。しかし、どちらにせよ、そのぶきみな墳墓の底へ入ってゆくとはおどろくべき女人である。
「い、いったい、何をお供えなさるのです? なんだか、ひどく重そうなものだが……」
「見せてあげましょうか?」
「い、いえ、それには及びましねえが……」
「まあ、御覧なさいよ、びっくりするから」
と、金蓮は笑いながら、その包みをといた。
螺鈿《らでん》をちりばめた箱からとり出された品を見て、墓番は奇声を発した。それは銀托子《ぎんたくし》やら勉子鈴《べんしれい》やら、そのほか彼の見たこともない奇怪な器具もあるが、まごうかたなき催淫具《さいいんぐ》ばかりだったからだ。
「旦那さま、御遺愛の品なのよ。……こんなものがあたしの手許《てもと》に残っていると、いろいろとつまらないことを考えるから」
うす赤い顔をして、身をくねらせる潘金蓮の息もつまるようななまめかしさに、墓番の老爺はウットリと見とれて、何十年ぶりかで血のさわぐ思いをした。
「ああ、なるほど、それは……御奇特なことで」
宋万はヘドモドして、わかったような、わからないような嘆声をもらした。
金蓮は、石の扉をあけてもらい、墓道を下へおりていった。やがてまもなくあがってきて、
「どうも、ありがとう。やっとこれでせいせいしたわ」
金蓮はまだ胸に例の四角な包みを抱いていた。それでは中の品物だけを供えてきたのだろうか。それにしてはまだ妙に重そうにみえるが――しかし、ひとたびこの女の媚笑《びしよう》に魂をうばわれた老墓番は、もうそれに疑念をおこす余裕がなかった。そのうえ、もっと心にかかる或る問いがある。
「奥さま……それより……あのふたりの奥さまは?」
「御立派にお亡くなりでした。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」
と、彼女はふりかえり、首をたれて合掌し、涙をひとすじ頬にひいてから、また轎子にのって去っていった。
魔王之章
潘金蓮の轎子が、彼女の父母のねむる荒れはてた山の貧しい共同墓地についたのは、もう真夜中だった。
彼女はなぜか轎子をかえして、ひとりそこに残った。向うの山に、大きな、蒼白《あおじろ》い月がのぼった。この世のものとも思われない光であった。が、金蓮はおそれげもなく、例の包みをひらいて、中から黒い、まるい、重そうなものをとりあげて、胸に抱いた。
「あなた。……あなた」
金蓮はすすり泣いた。だれが、この女の、これほど哀しみと愛にみちた泣声をきいたものがあるだろう?
「やがて、あたしもここへ埋められるのですわ。それまで、寂しがらないで、安らかにお眠り」
彼女は、その黒いものを撫《な》で、口づけし、さもいとしげに抱きしめた。
やがて、金蓮は、それを置いて、轎子に入れてきた鍬をとりあげた。そして繊手にたかくふりあげると、よろめきよろめき、土を掘りはじめた。
「金蓮さん」
と、そのとき近くの白楊《はくよう》の樹蔭《こかげ》から、沈んだ声で、黒い影が漂い出した。
「応さん」
と、金蓮はビクンとして立ちすくんだ。
「あなた……あたしを、つけてきたの?」
「左様、あの五里原の西大人の墓へゆかれたときから」
応伯爵は、恐ろしげに、地上の黒い物体をながめやった。
「それは……西大人の首ですね。……」
まるい月の下に、西門慶の生首は、依然としてウットリと微笑している。しかし、さすがに頬からあごにかけて、紫いろの濁りがあらわれて、ひたいのあたりからは、うすく、汁《しる》のようなものがながれ出していた。
「あなたは、それをあの五里原の墓からとってきたのですね。……ああ、それほどまで、西大人を――」
「あの墓は、立派ですわ。けれど、偽りにみちた墓ですわ、応さん」
と、金蓮は顔をふりあげていった。
「大奥さまの見栄からつくられた墓、そして、ちっとも悲しんではいない人々のお参りする墓、あたしはそんなところに旦那さまを眠らしておく気にはなれなかったのです。……」
「金蓮さん、あなたのその心もよくわかるが」
と、応伯爵は、暗然としていった。
「しかし、あそこには、世にもけなげな、貞節な二人の女が侍《はべ》っている。……」
「それが、いっそうあたしにはがまんならないのです」
「えっ?」
伯爵は愕然として、潘金蓮を見まもった。
金蓮は恍惚《こうこつ》とした表情で夜空をあおいだ。
「もし、二人が殉葬を申し出なければ、あたしがお供をしてもいいと思っていましたけれど……」
「金蓮さん、あの二人はもう死んでいましたか?」
伯爵はかすれた声できいた。
「劉麗華さんは、もう息がありませんでした。雪娥さんはまだかすかに生きていました。みれんがましく、扉の方へすがりついていました。あたしは……」
といいかけて、金蓮は急にだまりこんだ。応伯爵は声もない。が、やっと、しぼるように、
「だから、あの墓からこの首をとってきたというのですか! しかし、ここの地面の底には、あの姦夫劉包の屍体が埋まっているはずではありませんか? そこに並べて埋葬されて、西大人がよろこぶでしょうか?」
「劉包の首は、黄河へ捨てました」
潘金蓮の顔に、物凄《ものすご》い微笑がうかんできた。
「なんですと?……すると――」
ここには劉包の胴体だけ埋まっているというわけか、と叫ぼうとして応伯爵は、金蓮の妖《あや》しい笑顔に気づき、突如、全身に閃光《せんこう》のようないたみをおぼえた。
「ああ、も、もしかしたら……もしかしたら……ここに埋まっている胴は!」
「旦那さまのものでした。五里原の墓に埋まっていたのは、劉包の胴に旦那さまの首をつけたもの、あたしが群西街《ぐんせいがい》にはこばせたのは、旦那さまの胴に、劉包の首をつけたものだったのです。……」
応伯爵は立ちすくんでいる。
「なにしろ、旦那さまの死骸を、いちどに盗むことは、かよわい女一人の力ではできないことでしたもの。……」
いまや、あの夜、二人の密通者を殺頭の刑に処したものはあきらかであった。そしてまた、西門慶の首をきりはなした意味もあきらかであった。――すでに、あのときから、劉包と西門慶の胴は入れかえてあったのだ。
「わかったでしょ?」
この大魔王とも形容すべき女は、応伯爵の眼をじいっと見入って、ささやくようにいうのだった。
「劉包と楚雲《そうん》を、蔵春塢《ぞうしゆんう》から救い出したのはあたしです、あたしは、応さん、あなたの残した雪の足跡をふんでいって、戻ってきたのです。救われた二人は、あたしのこころのままでした。弱りきった二人は、このあたしのほそい手でも、墓場で死にかけた雪娥さんを殺すより、まだたやすかったのです。……」
あごをガクガクさせて、棒をのんだようにつっ立っている応伯爵に、死してなお一人の愛する男を独占するために、三人の男女を犬のように殺戮《さつりく》し、その愛する男の屍体でさえ両断してのけたこの女は、いま真昼のように明るい満月をあびて、恐ろしいというより荘厳に、女王のごとく命じるのだった。
「さあ、あなた、あたしの旦那さまを想《おも》うこころがどんなものか、それが分ったら、この鍬で、はやく墓穴を掘って下さい」
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[#見出し] 蓮華《れんげ》往生
墓鬼之章
早春の夕方、西門家の小間使い|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅《ほうしゆんばい》は、城外五里原にある西門慶《せいもんけい》の墓に詣《もう》でて、恐ろしい目にあった。
まず墓番の小屋に寄ったのだが、どうしたのか、墓番の老爺がいない。「宋万さん! 宋万さん!」と、呼びつつ、さがしつつ、墓の入口までやってきて、彼女はあっと立ちすくんだ。
山東清河県きっての富豪といわれた西門慶の墓である。直径五十間余、ふかい地底にある棺室までながいながい石の墓道がつづく巨大な墓だが、その入口の厚い石の扉《とびら》が、まるで瓦《かわら》のようにくだけているのだ。のみならず、そのまえにたおれた宋万の首がなかった。いや、首は傍にころがっていたが、刃物できられたのではなく、凄じい力でねじきられたような酸鼻な死骸《しがい》であった。
これは天魔の業か。
いや、天魔よりもっと恐ろしい男のしたことだ。とっさにそう気がついて身をひるがえそうとしたが、春梅はからだがうごかなかった。洞窟《どうくつ》みたいにひらいた墓の穴のむこうから、すぐに重々しい跫音《あしおと》がきこえてくるのを耳にしながら、彼女は凍りついたようになっていた。
入口に、真っ黒な影があらわれた。墨染の衣をつけているが、二本の鮫鞘《さめざや》を腰につるし、人骨の数珠《じゆず》をくびにかけた、身の丈八尺におよぶ行者の姿だ。
「何奴《なにやつ》だ」
と、まるでじぶんが墓番のようにこちらをとがめてきた。
武松《ぶしよう》である。済《さい》 州《しゆう》 梁《りよう》 山泊《ざんぱく》に巣くう百八人の大盗中、その剽悍《ひようかん》さでは五指を下らぬ行者武松にまぎれもない。彼が、なんのために西門慶の墓に入りこんでいたかは問うまでもなかった。
いうまでもなく、西門慶が死んでもなおあき足りず、その墓に入って、屍《かばね》をはずかしめるためにあらわれたものに相違ない。
「お、うぬは――」
武松の眼《め》が、頭巾《ずきん》のかげでぴかとひかった。
「金蓮《きんれん》の小間使いだな」
気丈な春梅だが、声も息も出なかった。
「金蓮はどこにいる? やい、歯を鳴らさずに返事をしろ」
「おうちに」
「なに、金蓮は来なかったのか。お前ひとりだけを墓参によこしたのだな」
武松は舌うちをしたが、すぐになんの躊躇《ちゆうちよ》もなく、
「では、うぬは一足さきに地獄で待て」
戒刀の鞘がシューッと鳴ると宙に光芒《こうぼう》がはしった。
「待て、武松」
うしろで、声がかかった。
ふりかえると、いま春梅があるいてきた路《みち》に、ひとりの女が立っている。いや、身なりは男装束でズングリした腰、槌《つち》のような手足は男よりもたくましいが、頬《ほお》に血いろの紅《べに》を塗り、盛りあがったふたつの乳房はまさしく女、これは梁山泊百八人の群盗中の恐るべき花、母夜叉《ぼやしや》の孫二娘《そんじじよう》であった。
「姐御《あねご》、なんだ」
「待ちな、こんな女を殺したってしようがないよ。それより、敵は潘金蓮《はんきんれん》だ。潘金蓮のことをきこう」
母夜叉はずか[#「ずか」に傍点]と春梅の傍へ寄ってきた。鼻孔もつまるようなわきがの匂《にお》いがした。
「おい、金蓮はなぜお前といっしょにこなかったのだえ?」
「金蓮奥さまは……お嫁入りのおしたくでお忙しいものですから」
「なんだと、金蓮のお嫁入り? 西門慶が死んで百日たつかたたぬというのに、あきれた淫婦《いんぷ》め」
「いいえ、御本人のお望みというより、周守備《しゆうしゆび》さまの御執心と大奥さまのおとりはからいなんです」
「金蓮の嫁入り先は、周守備というのかい」
母夜叉はちょっと鼻白んで、武松をふりかえった。守備府の周秀は、山東のこの一帯を管轄する武官で、梁山泊の仲間も一目も二目もおいている豪勇の男だからだ。
「武松、こりゃ、いそがなくっちゃいけないよ」
「何を、周守備ごとき、――たとえ、金蓮が天子の妾《めかけ》になろうと、敵をとらずにおくものか」
「そりゃお前の力も恨みもとっくに御存じだが、あれを周守備のところへ入らせちゃ、やっぱりちっと面倒だわな。やい、女、金蓮の嫁入りはいつのことだえ」
「な、七日のうち――」
「よし、それじゃあ今夜、西門家に乗りこもう」
「姐御、そうと話がきまれば、いよいよこの女を生かしてはかえせないね」
と、武松はまた戒刀をとりなおす。春梅は悲鳴をあげた。
「待って下さい。あたしがかえらなければ、おうちの方からさがしにきます。あたしが殺され、お墓があらされていることがわかれば、お屋敷の方でさてはと感づくにきまっています。それでなくても、こんど御婚礼の話がきまってから、おうちには守備府の官兵がウロウロしているんです」
「といって、お前を殺さなけりゃ、金蓮に知らせるだろう」
と、母夜叉はニヤリと笑って、武松をかえりみて、
「武松、どうしよう?」
武松は返事もせず、ただ戒刀の柄にぷっと唾《つば》を吐いた。殺気に地だんだふんでいるようだ。春梅は、年に似ず怜悧《れいり》で気丈な娘だったから、この二人の脳の構造がひどく単純なことを看破したが、この場合、その単純さがいっそう全身の皮膚に粟《あわ》を波だてた。
「知らせません、知らせません」
と、必死にさけんだ。母夜叉は物凄い眼で春梅の顔をのぞきこんで、
「お前、手引をするかえ?」
「……します」
「どうやってな?」
「…………」
そのとき、遠くで「宋万! 宋万!」とよぶ声がきこえた。山の下に待たせてあった春梅の轎子《かご》の供のものか、それともちかくの寺の僧の声か。母夜叉はすこしあわてて、
「よし、一日待つ」
火のような眼で、春梅をにらみすえると、
「今夜のうちに手引の方法をかんがえて、それをかいた紙きれを竹筒にいれて、西大門の外へうめておけ。このことを金蓮や役人に知らせて、おれたちをつかまえようなどしたら、断っておくが、うぬの細首は金蓮とともにとぶぞよ。よいか、この武松は、素手で景陽岡《けいようこう》の大虎《おおとら》をなぐり殺したほどの男だということを忘れるな。――」
そして、この二人の兇賊《きようぞく》は、魔鳥のごとくかけ去っていった。
蠱術《こじゆつ》 之章
うすづきはじめた夕日のなかに、西門家の石甃《いしだたみ》のあいだから萌《も》え出した青草が、いちめんにそよいでいた。西門慶の生前第一の親友だった応伯爵《おうはくしやく》は、後園にいそぎながら、暗然としてそれを見わたした。
西門慶が死んだ冬から春へ、ほんのわずかのあいだにこの変化である。石甃の草ばかりではない。くずれおちた土塀《どべい》の壁ばかりではない。青みどろに覆われた池ばかりではない。
手代の春鴻《しゆんこう》と来爵《らいしやく》と来保《らいほ》は、売上金をつかんで逐電《ちくてん》した。都の親戚《しんせき》へ、番頭の傅銘《ふめい》に小間使の玉簫《ぎよくしよう》と迎春をつけて知らせにやったら、傅銘は途中でこのふたりの娘を姦して、都の大官に売りとばしてしまった。愛妾《あいしよう》のひとり香楚雲《こうそうん》は番頭の劉包《りゆうほう》と密通したあげく怪死をとげてしまうし、またべつの愛妾|李嬌児《りきようじ》も、町の金持張二官のところへにげていった。第三夫人の孟玉楼《もうぎよくろう》は知県の後妻にゆくことになっているし、第五夫人の潘金蓮は。――
いまも庭や建物のあちこちにチラチラする兵士の姿は、守備府の周秀の部下だが、それは七日のちにせまった、潘金蓮の輿入《こしい》れの準備のためという名目だった。しかし、実際は、金蓮を警戒していたのだ。のちに山東兵馬制置に進官し、梁山泊の草賊の討伐司令官を命ぜられたほどの勇将周秀は、むろん金蓮の絶世の美貌《びぼう》にぞッこん執心してのことだが、一方、彼女の底しれぬ淫蕩《いんとう》の噂《うわさ》にいよいよ興をそそられていた。が、それがじぶんのものとなるとすると、その点にちょっと不安をおぼえざるを得ない。とくに、主人死後の西門家の内情が紊乱《びんらん》をきわめているという評判だけに、一刻も眼をはなせないような気がするのだ。そのうえ、彼女の過去のいざこざから、命をねらっている男さえあるという。――それやこれやで、これは金蓮のからだのみならず、心をまもる番兵たちだった。
潘金蓮の心――金蓮は、何をかんがえているのか?
応伯爵はもの想《おも》いにくれる。彼は金蓮に惚《ほ》れていた。だから本音をはくと、西門慶が死んで、ちょいと大それた望みをいだいたこともある。しかし、金蓮と西門慶の愛欲のすさまじさを腹の底まで見せつけられて、彼は恐怖すらおぼえていた。金のないことはさておいて、とうていおれにはもちきれんだろうと思う。その点はあきらめているが、さて周守備のところへゆくとなると、こことちがって、もうおいそれと逢《あ》うこともできまいから、それを思うと応伯爵は気が遠くなりそうだった。あげくのはてに、金蓮がけしからんと思う。その実あんまり親友でもなかったくせに、金蓮の多情は百も承知のくせに、西門慶のために義憤を感じざるを得ない。
とはいうものの、こんどの話が、ほかの妾どもとちがって、金蓮が望んでうごいた形跡はまったく見られない。周守備から申しこまれ、正夫人の呉月娘がすすめ、金蓮がものうげに受けただけである。それは応伯爵も知っていた。
金蓮は、すべてにものうげだった。一見そうみえて、実は深淵《しんえん》のような生命力の妖光《ようこう》を発していたこの女が、西門慶の死後、ほんとうに影のようだった。
「金蓮さん」
後園の北廂房《ほくしようぼう》に入った応伯爵は、それも気づかない風で、寝台に腰をかけたままうなだれて何やら思案にくれているのをみると、たったいままで抱いていたうらめしさなど忘れはてて、可哀《かわい》そうで胸がいっぱいになった。
「まだ西大人のことをかんがえているのですかい?」
「…………」
「それで、お嫁入りができますかね。門の方じゃ、お嫁入りの支度の品をかかえた商人や、お祝いをもってくる連中がウヨウヨしてますぜ。さあ、笑って笑って」
心とは反対のことばが口からとび出す。
「そんな顔したって、あたしにゃよくわかりますさ。うれしくってしかたがないくせに」
「応さん、あたしは大奥さまがゆけとおっしゃるから、ゆくだけですわ」
と、金蓮はしずんだ声でいった。
「そりゃ知ってますよ。しかし、あなたがもしほんとにいやなら、いくら正夫人だって、あなたを追い出すなんて、そんなことは世間がゆるさない」
と、応伯爵はりきんだ。本音だ。金蓮をやりたくはないのである。
「でも、いまこのうちの御主人は、やっぱり大奥さまです。旦那《だんな》さまはもういらっしゃらないのです」
応伯爵は、正夫人の呉月娘が、相つぐ妾や傭人の泥棒猫のような逐電に怒りながら、その一方で、自分に不要な連中にはさっさと手ぶらで消えてもらいたく、自尊心と良心と欲望の責木にかけられてヒステリーみたいになっていることを知っている。なるほど、金蓮ほど誇りたかい女なら、この家にはさぞ居辛かろう。それにしても、曾《かつ》てはその呉月娘に一歩もゆずらなかった金蓮が、こんなに色あせた人形のように、なすがままになっているのは不安である。いくら周守備さまのところへゆくにしろ、もらうべきものはもらったのかと心配になる。
「あたしは何も要らないの」
応伯爵の遠まわしの問いに、金蓮はつまらなさそうに微笑してこたえた。
「あたしはどうなったっていいの」
応伯爵は、ふとさっきから金蓮が手にしているものに気がついた。
「おや、金蓮さん、それはなんです」
「これは、お薬」
「なんてお薬」
「蠱死膠《こしこう》」
「蠱死膠? なんの薬です」
「これはねえ、旦那さまが遺していらしたものなの。旦那さまのおつかいになったものは、銀托子《ぎんたくし》も牙触器《がしよつき》も相思套《そうしとう》も硫黄圏《いおうけん》も勉子鈴《べんしれい》も懸玉環《けんぎよくかん》も、みんなお墓へお供をさせたけれど、これはおつかいにならなかったから」
いま金蓮が列挙したものは、みんな催淫具《さいいんぐ》だ。応伯爵は、やっと金蓮のいじっていたものが媚薬《びやく》であることがわかると、かなしげにこんなものをもてあそんでいる女にぞっとしたし、またさっきからの自分の同情がばかばかしくもなった。
「へえ、どうしてつかわなかったんです?」
「死ぬからです」
「死ぬ?」
「ええ、どっちかが」
「どっちかがというと、男か女かが?」
「ええ、これはねえ、まず女がつかうのだそうよ。でも、口からのんだのじゃあききめがないんですって。……で、薬が女のからだのなかで溶け、はじめてききめがあらわれるのだそうです。仇敵《きゆうてき》にでも……犯されたい……というきもちになるんだそうです」
ささやくようにいう金蓮の顔を、伯爵は茫然《ぼうぜん》としてみている。
「でも、三日以内に男と交わらないと、死んでしまいます」
「交わると?」
「こんどは薬が男に吸われて、男がその薬を受けた女に恋いこがれます。そしてもしその女と交わらないと、三日のうちに男がもだえ死んでしまうのですって」
「交わると?」
「こんどは女がその男に。――それをくりかえしているうちにおたがいの体液がまじりあい、薬のききめはいよいよつよくなってくるんですって」
金蓮は微笑した。
「応さん、あなたにあげましょうか? これをくれた梵僧《ぼんそう》がこの一服しかくれなかったそうだけど」
応伯爵はかんがえこんだ、放蕩のかぎりをつくしてきた応伯爵にとっては、そんな色欲のいたちごっこは、ぞっとする永遠の地獄だ。ただ、相手が金蓮ならば。――
「へ、へ、いただいてもよろしいが、あなた、その薬をつかってみてくれますかい? まず、あたしのために――」
「ほ、ほ、そうしてあげようかしら?」
「わっ、そりゃほんとですか?」
「そして、薬をあなたに吸わせてから、お嫁にいってしまう」
「すると、あたしは?」
「三日以内に死にます」
笑いもせず、といっても辞退もせず、応伯爵が大まじめに思案していると、小間使いの春梅がヨロヨロと入ってきた。おや、あたしの代りに、旦那さまのお墓参りにゆかせたはずなのに。――
「春梅、なんて顔色なの?」
「奥さま、たいへんです」
「どうしたの?」
「あの、武松が」
春梅は、金蓮と主従というより姉妹のような仲であった。そのうえしっかり者だったから、武松と母夜叉の脅迫をそのままつたえたのはさすがだが、頬のいろは蝋《ろう》のようだ。応伯爵も仰天した。やっとさけんだ。
「ううむ、大胆なしれものめ、しかし、それこそ飛んで火に入る夏の虫だ。これを機会に、周守備さまに武松をとらえていただけば、禍《わざわい》 転《てん》じて福となるというもの。――」
かってなもので、こうなると守備府をたよりにするほかはない。さわぎたてる応伯爵をよそに、金蓮はじっと眼をふせて寝台にすわったままだ。うちのめされたようにもみえるし、無関心といった風にもみえる。
「よし、それじゃ、すぐに守備府の兵士に連絡してこよう」
あわててとび出そうとする応伯爵を、
「応さん、待って」
と、金蓮はしずかにとめた。
「守備府の兵士に武松を殺させたら、きっとあとの仲間が怒り狂うにちがいないわ。梁山泊のあばれ者たちは百八人もいるというじゃあありませんか。それがぜんぶ復讐《ふくしゆう》の鬼みたいになって、あたしや春梅を狙《ねら》いはじめたら、かえって手におえないことになるし、いつまでもそれをのがれられるとは思えないわ」
「そんなら、どうするんです?」
「春梅、竹筒にいれる紙に、こうかいておくれ。――明日の夕方、守備府の兵士に化けて西門家に忍びこむようにと。そしてその竹筒といっしょに、守備府の兵士の服をひとつ、西大門の外に埋めておいておくれ」
「そ、そんなことをして――金蓮奥さま!」
「そして、武松がこのうちに入ってきたら、日がくれるまでかくれているようにといって、お前が裏山の蔵春塢《ぞうしゆんう》に武松を案内するんです。そのとちゅう、ちょっと路をそれると、古井戸があることを知ってるでしょ? 水はないけれど、深さは一丈五尺前後はあります。草に覆われて、いままでなんども傭人たちがおちたことがある。そこに武松を――」
「落し穴におとして、やっつけるのですか――」
「いいえ、あとで、あたしもその中に入ります」
「あっ」
と、応伯爵はさけんだ。なんということをいい出したのだ。金蓮は気がくるったのか。それは虎とおなじ檻《おり》に入るにひとしいではないか。いや。――
「武松は、虎さえも虐殺した男ですぜ、金蓮さん! な、な、なんたる――」
「あたしは武松を飼いならしてみせるわ」
潘金蓮はすっくと立ちあがった。応伯爵は眼を見はった。いままで生気をうしない、色あせていた金蓮が、水を吸った花のように甦《よみがえ》ってきた感じなのだ。
「あたし、かくごをしたわ、武松をあたしの足もとにひれ伏させるよりほかに、あたしが一生涯たすかる法があると思って?」
「しかし、金蓮さん! 武松を、か、か、飼いならすとは? あれはあなたを不倶戴天《ふぐたいてん》の敵と狙ってる男なのですよ!」
金蓮はそれにはこたえなかった。真紅にぬれてきた唇が、ニンマリと笑んだ。
「あたしは……やっと生甲斐《いきがい》をみつけたわ」
その眼が、じっと手の中のあの秘薬にそそがれているのをみると、応伯爵はからだがふるえ出した。潘金蓮は何を思いついたのか。
奈落《ならく》之章
――まっくらな、宙を墜《お》ちながら、武松は火の玉となった。やられた! と思う。春梅に裏山へ案内されながら、もし女にふしんの挙動があればと充分注意していたのだが。――
まんまと守備府の兵士に化けて西門家に入りこんだものの、武松の顔を見知っているものも少なくないはずだから、夜まで裏の洞穴《ほらあな》で待てという春梅の言葉にうかとひッかかった。そのうえ、前後左右に警戒するあまりに、思いきや、踏んでゆく大地の青草が、いきなりぽっかり口をあけようとは!
古井戸の底へ、どんとおちるや否や、武松は、
「おおおっ」
まるで猛虎《もうこ》のごとく宙にはねあがって、またおちた。井戸の深さは一丈五尺はたしかにあった。いかな武松といえども、これはむりだ。
「春梅っ、だましたなっ」
わあああん、とこだま[#「こだま」に傍点]し、つむじ風のように巻きのぼっていった声に、思いがけぬしずかな声がふってきた。
「いいえ、いま、金蓮さまをつれてきます」
「なに!」
それはどういう意味か。金蓮がくるとは、罠《わな》におちたじぶんを笑うためか。それとも、約束どおりやっぱり復讐の手引をするつもりか? 武松はそんなことはかんがえない。ただ、金蓮、という名をきいただけで、ぱっと反射的に戒刀をひきぬいた。
――草をふんで裏山の方へあるいてゆく潘金蓮の姿を、遠くから身の毛をよだてて見ていたのは春梅と応伯爵だけであった。
金蓮は立ちどまった。夕焼けの最後の一閃《いつせん》が、そのひたいを照らした。沈香色の上衣《うわぎ》に五色の肩かけをかけ、縁どりをした朱鷺色《ときいろ》の裙子《クンツ》をつけたその姿は、夕映とともにきえるかなしい妖精《ようせい》のようにみえた。そうだ、金蓮は、ほんとうにこの世からきえてしまうかもしれないのだ。応伯爵のこめかみには、あぶら汗がしたたった。
金蓮を敵と狙っているものは、ただの人間ではないのだ。大虎を素手でなぐり殺し、役人をたたきつぶし、裏切った女を引き裂き、いちどに八斤の肉と十五|椀《わん》の酒をのみ、兇暴無惨《きようぼうむざん》の水滸《すいこ》の群盗百八人のうちでも、もっともその猛勇ぶりをうたわれている男なのだ。その男が入っている井戸の底へ、われと身を投じようとする金蓮は、九死に一生の見込みもあろうとは思われない。なんたるむちゃな無謀な賭《かけ》だ!
よしまた千に一つの賭があたって、金蓮が武松をひれ伏させたとする。武松がひれ伏すとは、金蓮の色に屈服することであった。金蓮はおそらくあの秘薬をつかうにちがいない。やわらかくぬれた肉のひだに、男を恋の罠におとす毒がとけている。もし武松がそれにふれたら、こんどは金蓮の勝だ!
――金蓮は、なまめかしくほそい腰をひねって、井戸のなかをのぞきこんでいた。応伯爵はのどをヒクヒクさせて、もし金蓮がゆるしさえすれば、たとえ死のうと、おれがあの肉の罠におちたいと思った。金蓮対武松のたたかいには、千に一つの賭がある。しかしここであぶら汗をながして見ているだけのおれには、万に一つの賭もない。
「武松」
と、金蓮は笑顔で呼んでいた。
「金蓮よ」
穴の底で、かすかな、が、凄じいうなり声がきこえた。きらっとひかるものが浮きあがってきて、すぐに下で大きな地ひびきがした。白刃を抱いたまま武松がとびあがって、またころがりおちたのだ。
「武松、あわてることはないわ。あたし、いまそこにいってあげるから」
「なんだと?」
「ちょっと、ないしょでお話があるの。だから、すすんであたし来たのよ。お前が春梅にだまされたわけでもなければ、あたしが春梅にだまされてつれ出されたわけでもないのよ」
とまるであいびきをうちあわせるような甘美な鼻声だ。
「うぬと話などはない!」
「それじゃああっちへいってしまうわよ」
武松はうっとつまった。金蓮は笑った。
その笑顔を遠く応伯爵がみていた。いまだ! いま兵士をよべば、武松は殺され、金蓮は助かる! そう思ってさけび出そうとしたはずみに、この一見邪気のない笑顔をみたので、はっと応伯爵がとまどったとき、穴の底では、
「話をきく。おりてこい」
と、武松がうめいた。戒刀のきっさきを上に、垂直にたてた。金蓮はそれをのぞきこんで、ひくい声でいった。
「その刀であたしをお突きか、それともあたしを抱きとめておくれか。どっちでも――そら!」
ひらいた朱鷺色の裳裾《もすそ》が井戸の空をふさいだ。あっと思った瞬間、武松は刀を投げすて、両腕をひろげて女のからだを受けとめていた。鉄のような胸と腕のなかに、匂いたかい柔軟きわまる一塊の肉がおちた。
一瞬、あたまが麻痺《まひ》したようになった武松は、つぎの刹那《せつな》、全身の血が沸騰した。宿怨《しゆくえん》のためより、いまの自分のわけのわからぬ行為に激怒したのだ。獣のような咆哮《ほうこう》をあげると、彼は金蓮のほそ首に手をかけようとした。その一瞬まえに、金蓮の唇《くちびる》から声が出た。
「武松、じぶんから身を投げこんできた女を、すぐにくびり殺して、お前、それで男といえて?」
武松はふいごみたいな息を吹いたが、手の力がゆるんだ。「男」という一語こそは、義をうたい侠《きよう》をとなえる梁山泊の魂の骨格だったからだ。
「いま、話をきくといったじゃあないの?」
金蓮のからだは、熱い汗にびッしょりぬれていた。まさに、はじめての虎の檻に入った調教師の恐怖である。
「殺すなら、話をきいてからにしてもいいじゃあないの?」
「うぬの話をきく耳はない!」
「そう、それじゃあ殺しなさい。けど、いっておくけれど、あたしを殺すと、お前はこの井戸からにげられないわよ。井戸の深さは一丈五尺、お前の背はその半分の八尺しかない。翼でもないかぎり、飛ぶことはできまいよ。そしてお前がここにおちていることは、春梅が知っている。もし春梅がそれを守備府の兵士につげたなら、どんなにお前が豪傑だって、それこそ袋の鼠《ねずみ》だわ。矢を射ちこむか、上からこのまま埋められるか――」
「うぬを殺せば、おれは死んでも本望だわえ」
と、武松は吼《ほ》えた。
しかし、それはうそだった。兄の横死を知ったときの怒りの熱度は毫《ごう》もうすれてはいないが、いまはそれにちがった色の炎がまじっている。その後彼は梁山泊の群盗の一人となった。その仲間の手前にも、兄の敵をみのがしてはいられないというみえ[#「みえ」に傍点]があったのだ。彼は乱雲に乗って駈《か》け、曠野《こうや》に血をまいてゆくいまの豪快な生活に陶酔しきっていた。べつに生命はおしまないが、正直なところ、兄の敵のこの女を殺すことなど、彼にとって一投足のスポーツにすぎない。
「そう、うれしいこと」
金蓮は武松に身をすりよせて笑った。
「それじゃあ、あたしと心中してくれる気なの? この地の底に、ふたり折り重なって埋められていいの?」
闇《やみ》のなかに眼がひかり、息が匂っている。酔ったようにもつれた声であった。そうだ、金蓮は恐怖に酔っているのだ。あえぐような快感が、金蓮のからだをくねらせた。
「ばかな!」
かえって武松の方が身体《からだ》をひこうとした。しかしそこはせまい井戸の底だった。
「なら、あたしの話をきいてくれる?」
「きいたところで、うぬを殺すことに変りはない。うぬを殺せばおれも殺されることに変りはない。無用な舌をうごかすな、かくごしろ」
「待って! そうとはきまってないわ、あたしの話をきいてくれればお前が助からないでもなくってよ」
「なに、どうして?」
「あたしがこの耳飾りをなげあげると、春梅が綱をもってきてくれることになってるの。上にあがってから、あたしを殺したっていいじゃあないの」
「うまいことをいって、おれをだまそうとしてもだめだ」
「お前をだますつもりなら、はじめからあたしがここに入ってくるわけはないわ」
武松はつまった。金蓮がここにみずから身をなげこんできた心は、まったく謎《なぞ》だ。
「ねえ、殺すのは一刻のちでも、夜中でも、夜明けでも、いつでもできることだわ。ゆっくりおかんがえな。でも、そのあいだ、あたしのいうことをきいてくれてもいいじゃない?」
「言え」
と、武松はついにうめいた。金蓮は空をあおいだ。
「まあ、きれいなお星さま」
小さな四角な空に、蜜蜂《みつばち》のむれているような春の星がみえた。大地の底にいるのは、その空をともにいただかないはずの男と女であった。
「抱いて、武松、さむいの」
と、金蓮はいった。武松は、金蓮が上衣と裙子《クンツ》の下に何もつけていないことを感じた。まんまるい乳房、なめらかな腹、ながれるようなふとももが、わななきつつ彼の皮膚にふれた。彼は巨大な心臓をわしづかみにされたような気がした。名状しがたい香りをもった息が、胸、あご、頬、鼻孔にからまる。
「武松、お前があたしをうらむのもむりはないけれど、お前の兄さんを殺したのはあたしじゃないのよ、この家の旦那さま、……もう死んじまった西門慶の旦那だわ、いいえ、べつに罪を死人になすりつけるわけじゃない、あたしをみて、いちどあたしを抱いて、その夫を殺してでもあたしをとりたくない男が、この世にいるでしょうか?」
金蓮は哀訴してはいなかった。弁解してもいなかった。それは絶世の美女の矜《ほこ》りにみちた高言だった。いまや恐怖するものは豪勇武松であった。
「兄上!」
と、彼は思わず悲鳴をあげた。彼をまもるものは、もはや怪力でもなければ戒刀でもない。おのれにからみついてくるものが曾ての嫂《あによめ》だという節義のこころだけである。
「武松……武松……まあこの瘤《こぶ》のような腕……この熊《くま》みたいな胸毛……ああ、あたし、お前に殺されたい!」
その声は、色仕掛で男をおとすというより、すでに肉の内部からうずき、もだえ、もえあがる女の官能の炎のたぎりとしかきこえなかった。
暗い天と地に、時間がすぎた。月が昇ってきた。
地底のたたかいより、もっと恐ろしいたたかいが、地上の応伯爵の心の中にあった。武松が勝って金蓮が虐殺されているとかんがえると、彼は気が狂い出しそうだった。金蓮が勝って、井戸の底で両人が交わりあっている姿を空想すると、彼は卒倒しそうであった。ついに気力が尽きかけたとき、
「あっ。……」
と春梅がさけんで、かけ出した。
月光の下で、春梅が井戸の傍から何かをひろいあげるのがみえた。下から投げあげられた耳飾りにちがいない。すると――?
春梅は綱を傍の立木にむすびつけ、井戸の中へなげおとした。やがてそれをつたって、巨大な影が草の上に立った。それから、生きている金蓮の影が。――
応伯爵はヘナヘナと膝《ひざ》をついてしまった。
武松も、金蓮も、一語ももらさない。不倶戴天のふたりが、このようにしずかに、黙々と相ならんで立つことを、いままで想像もできたろうか。わずかに金蓮が春梅にうなずいてみせて、顔をそむけた。春梅があるき出すと、武松がそのあとに従う。西門家を去るつもりとみえる。
「賊だ!」
われを忘れて、応伯爵はとびあがり、さけび出した。嫉妬《しつと》のためにあたまが火みたいになって、金切声で、
「おおいっ、梁山泊の賊が入ったぞ!」
後園の廻廊のあたりから、三人の兵士があらわれた。土塀《どべい》の方へあるいてゆく大きな影をみると、ばらばらと追いすがる。武松は立ちどまって、ゆっくりとふりむいた。応伯爵は指さした。
「そいつだ! 守備府の兵服をきているが、そいつが賊だ!」
すさまじい絶叫があがった。武松の戒刀が横なぐりに一閃すると、もう首のない三人の胴が三方にあるき出していたのだ。しかし、このとき廻廊の方から、雪崩のように兵士たちがあふれ出して、どっと殺到してきた。
猛然と武松がこれに反撃の歩をふみ出したとき、ふいに先頭の兵士が悲鳴をあげてのけぞった。月光にさらしたその胸に、一本の矢がつき刺さっていた。
「武松、はやくこい!」
土塀の上に、ふたつの影が立っていた。ひとりは弓に次の矢をつがえている。応伯爵はそれが梁山泊の兇盗のひとり浪子燕青《ろうしえんせい》であることを見てとった。武松は身をひるがえし、大地を蹴《け》って塀にとびあがった。
もうひとつの影が笑いながらいった。
「武松、首尾よく淫婦を殺したかえ?」
母夜叉《ぼやしや》だ。武松はこたえず、土塀からとんだ。つづいてあとのふたりも、巨《おお》きな蝙蝠《こうもり》のように月明の空へおどりあがって消えてしまった。
葬婚之章
三日後に、花嫁姿の潘金蓮をのせた轎子《かご》が西門家の門を出た。
日を早めたのは、周守備が、武松一味の闖入《ちんにゆう》に恐慌を来したからだ。金蓮を西門家においておくのはあぶない。一日もはやく守備府にひきとるにかぎるとあわてたのである。もっとも彼は、金蓮と武松が、あの夜おなじ井戸にひそんでいて何をしていたかは知る道理がない。
それを知っているのは、当の二人をのぞいてはおれだけだ。と応伯爵は、苦虫をかみつぶしたような表情でつぶやいた。……しかし、じぶんの心頭を滅却してかんがえれば、金蓮は、たしかに勝負に勝ったのだ。あれであの悪魔のような復讐鬼の追跡を、もののみごとに絶ったのだ。
みるがいい、媚薬|蠱死膠《こしこう》は、いまや武松に受けつがれたではないか。三日のうちに金蓮と交わらなければ、彼は悶《もだ》え死ぬ。むろん金蓮はそれをかんがえてあの必死の離れ業をやってのけたに相違ない。ああ、いかにも稀代《きたい》の大淫婦潘金蓮らしい、破天荒の戦法であり、勝利ではなかったか!
「金蓮さん、たしかに負けましたよ。あたしもね」
その翌日、嫁入りまえのごッたがえすなか――守備府から続々とどけられる金糸冠や瑪瑙《めのう》の帯留め、飾り玉や胸環《むねわ》、衣服などの品々の整理をこまめに手つだいながら、すきをぬすんで金蓮の傍にゆき、応伯爵がこう笑いかけたときは、彼はもう感嘆とともに、金蓮のために心から祝福するきもちになっていた。
「…………」
金蓮はだまって、うなだれている。婚礼まえの歓《よろこ》びの色はまったくみられない。それは金蓮らしくもないはにかみにしろ、あの恐るべき敵からのがれ、やっつけた凱歌《がいか》の笑いはこみあげないのか。――ふしぎなことに金蓮は、ふたたび生気をうしなっていた。まえよりもっと色あせて、影のような女にもどっているのであった。
「どうしたんです? ひょっとしたら、金蓮さん、あの薬は」
応伯爵はくびをひねった。あの蠱死膠は相手に触れさせると、こんどは相手の男が凄じい春情にもだえはじめるということだが、やはりいくぶんこちらにもよくない影響をのこすのではなかろうか。それとも金蓮は、望みどおりに武松をじぶんにひれ伏させて、安堵《あんど》と満足のあまり虚脱状態におちいったのであろうか。
「そうだ、あの薬は……」
伯爵は急に新しい不安にとらえられた。わかった。蠱死膠を吸った武松は、金蓮恋しさにふたたび野獣のごとく襲ってくるにちがいない。金蓮はそれを恐怖しているのではないか。
「武松がまたきますね、金蓮さん」
「来るでしょう」
金蓮の声は力ない。
「あたしを殺しに。――」
応伯爵はその意味がわからなかった。しかし、話にきいたあの薬のききめからかんがえると、肉欲のはげしさから、或《ある》いは武松が金蓮を殺してしまうこともあり得るかもしれない。
「それじゃ、一日もはやく守備府へにげこまなくっちゃあ。……あたしが、もっと日をいそぐように話をしてさしあげましょうか」
「そんなことはなりません。守備府の方でいそいで下さるのに、そのうえあたしからせかせるなんて――」
「それじゃあ……どうも不粋な話だが、婚礼の行列を、とくに厳重に警戒してもらうのですな」
「応さん、心配しなくっても、武松がくるにしてもべつにこの二、三日にかぎったことでもないのだから」
「だって、金蓮さん、あの薬は三日のうちに――」
「そう、あと、二日後に――」
と、金蓮はつぶやいて、ボンヤリと応伯爵の顔をみた。生気をうしなった顔色のなかに、金蓮の眼はふしぎなひかりをともしていた。心熱のチロチロともえる青い火のような眼であった。ふっと応伯爵は、魅入られたようにあたまがぼうっとするのを感じた。……のちに彼は、この一瞬のことを想い出して、名状しがたい身ぶるいをおぼえたものである。
「二日のちに、あたしは――」
と、金蓮はもういちどつぶやいて、がばと寝台に身を伏せた。その腰のうねりとふくらみのなまめかしさに、応伯爵がフラフラとちかづきかけると、思いがけない恐怖にちかい金蓮のさけびがとんできた。
「寄っちゃいけない、応さん! あっちへいって! あたしの傍へよると、あなた死ななくちゃならないことになってよ!」
――さて、その二日後の夜、花嫁姿の潘金蓮をのせた轎子《かご》が西門家の門を出た。
門を出るまえ、正夫人の呉月娘は金蓮の手をとって「金蓮さん、あなたはひどいひとねえ、あたしをひとりぼッちにして」と泣いた。応伯爵は、女とはそらぞらしいものだと、いまさらのように感服した。これに対して以前の金蓮なら、皮肉な笑みをかえすか、もしくはおなじように泣いてみせるところだが、どうしたのか彼女は、呉月娘のことばもきこえない風で、奇妙な放心状態にただよっているようだった。
支那《しな》の婚礼では紅色を貴ぶ。真紅の衣服に真珠をちりばめた金糸冠をつけ、そのうえから薄紅の紗《しや》をかぶって、これまた四対の紅紗|燈籠《とうろう》の飾られた四人かつぎの大轎子《だいきようし》にのった花嫁金蓮。その美しさをいままで存分に思いしらされていたはずの人々も、まるで幻影でもみるようにいくども瞬きをした。
行列についてゆくつもりの応伯爵も、それをみて、思わず涙をながした。なぜだかじぶんでもわからない。守備府に入った金蓮を二度とみることができないというつらさからではない。それよりもっと運命的なふかい悲哀を、その夜の花嫁の妖《あや》しいまでの美しさから感じたのである。だから応伯爵は、金蓮についてゆく春梅までが、これまた涙をたれているふしぎさを、少しもふしぎには思わなかった。
門を出て、いちど轎子のうえの金蓮は、西門家の方をふりかえった。放心状態にみえるとはいうものの、さすがに愛憎悲喜の渦《うず》まいた春秋を、無限の感慨を以てかえりみたものであろうか。そのあいだにも、紅い灯《ひ》に彩られた行列は、夜の町へあゆみ出てゆく。
神のみぞ知る、これが死出の行列であったとは。
いや、神よりほかに、もうひとりそのことを知っていたものがある。のちに応伯爵は、花嫁の大轎子をかついでいた男のひとりからきいたのだ。――轎子のうえの潘金蓮が、西門家をふりかえったとき「旦那さま、やっぱりあたしは旦那さまのところへ参ります」とつぶやいたことを。
曠野《こうや》之章
その婿礼の行列に、刀槍《とうそう》をたずさえた兵士が十数人ついているのはいささか異様であった。応伯爵までが、おっかなびっくり、刀術も知らないくせに、一本の青竜刀をかかえこんでいる。
武装兵をつけさせたのは、応伯爵の切なるねがいによるものだが、しかし周守備は、それは要らざる取越苦労だと思っていた。なぜなら、いちじはびっくりしたものの、きのうの午後、清河県を去る西五十里|泰岳東峰《たいがくとうほう》を、たしか浪子燕青と母夜叉と思われる賊が、二騎相つらねて梁山泊の方へ、とぶように去っていったという情報を得ていたからだ。かんじんの行者武松の動静はわからないけれど、もし武松がなお金蓮を襲うつもりなら、燕青と母夜叉がそれを見すてて去ることはなかろうから、おそらく武松はさきに梁山泊へかえったのだろう。金蓮、守備府に入ると知って、さすがの兇賊たちもついにあきらめたものとみえる、と剛愎《ごうふく》な周秀はかんがえた。もとより彼は、あの蠱死膠のことなど知りようがない。
行列は運河にかかる石橋にかかった。月の明るい夜がつづいていて、行列の先頭にたった半数の兵士のまえには、たしかに橋上一匹の猫《ねこ》の影もみえなかった。それなのに、彼らがわたりきったとき、ふいにうしろに思いがけない絶叫をきいたのである。
「オおっ、武松っ」
「武松だっ」
橋の石の欄干《らんかん》のうえに、魔神のごとく忽然《こつぜん》と行者の姿が立っていた。
橋の下にやもり[#「やもり」に傍点]のように吸いついてひそんでいたのだと知ったのはあとのことだ。武松が欄干からとびおりると同時に、行列の人々は、たまぎるような悲鳴をあげてにげ出した。
橋の上になげ出された轎子に崩れ伏した潘金蓮の傍に、武松はちかよった。おちた紅紗燈籠が、メラメラと炎をあげはじめた。このときまで気死したように立ちすくんでいた前方の兵士が、やっと驚愕《きようがく》からさめたとみえて、うなりをたてて数条の矢がとんだが、武松の戒刀が稲妻のごとく旋回すると、それはすべて二つにきれておちた。
「武松」
弱々しく金蓮のよぶ声がきこえた。
「やっぱりあたしを殺しにおいでか?」
「いや、さらいに来た、嫂上《あねうえ》」
「え、嫂上?」
「やっぱり、金蓮と呼ぼう。金蓮、おれはお前にまけた。おれはお前に惚れたらしい。あれから三日、おれはお前を想って、地獄におちた!」
この問答を行列のうしろの方にいた応伯爵は、それこそ地獄の思いできいていた。しかも、そのとき、ひとり矢をつがえた傍の兵士に、「射るな!」と思わずさけんだのは、金蓮が武松のまえにユラリと立ちあがったからだ。
「あたしを? お前があたしを?」
金蓮は笑った。蒼い月光と、もえあがる燈籠の炎に彩られて、それはこの世のものならぬ妖しくも美しい笑顔であった。金蓮はふたたび甦った!
息をのんだのは応伯爵ばかりではない。橋上の、この花嫁と魔人との異様な問答からかもし出されるふしぎな鬼気のようなものに、刀槍をかまえた兵士たちも、なぜか魂をうばわれている。
「武松。……あの井戸の中で、あたしの誘いにとうとうのらなかったお前が」
「しかし、おれはあのとき、お前を殺せなかった」
「殺せば殺せるおれを殺さず、みずから身をなげこんできた女を殺すことはできない、あらためて、堂々と殺しにくるといって去ったお前が」
「そのあとで、お前のまぼろしに降伏したのだ」
「でも、あのときあたしは負けたと思った。あれほど恥しらずな姿をみせて、いいえ、いのちをかけての誘惑をこばまれたあたしは、殺されないでもお前に殺されたのもおなじことだったわ」
「金蓮、ゆこう。おれといっしょに生きよう。おれはそのために同志をさえすてた。いや、すてられた。燕青も母夜叉も、おれをあざ笑って、あきれはてて梁山泊へ去った。――」
「もうまにあわないかもしれない。武松、あたしはお前のいったあとで、毒をからだに入れたの」
「なに? しかし、お前、生きているではないか」
「三日のちに死ぬ毒なの。あたし、だんだんからだじゅうに冷たい火がまわってゆくようで、この行列が守備府までゆきつかないうちに死んでしまうところだったの」
「金蓮! 金蓮! たすかる法はないのか?」
「ただひとつ、三日以内に男に犯されたなら――」
「たすかるのか!」
くずれかかる金蓮を抱きとめ、ゆさぶって水牛のように武松は吼《ほ》えた。
応伯爵は茫然とした。彼にとって、驚倒すべき対話だった。あの夜井戸の底で何事もなかったこと、金蓮が毒をつかったのはその後であったこと、したがって恐ろしい蠱死の毒はいま金蓮の体内にあること。――ことごとく思いがけない問答だ。
猛然として、武松の手がうごいた。金蓮の紅服が裂かれて、彼女の裸身が月明に人魚のようにうかびあがった。世にも単純なこの豪傑は、敵のまッただなかの橋上で、ただちに金蓮を救う行動に出るつもりとみえる。
「いけない!」
応伯爵は火に吹かれたようにとびあがり、われをわすれて傍の兵士から弓をひったくった。そこにくりひろげられようとする光景に眼もくらみ、夢中で矢をきってはなしていた。むろん、武松めがけてだ。
「わっ」
と、武松はさけんだ。さけんだのは武松だが、矢のつき立ったのは金蓮の背だ。それが応伯爵の網膜にぴしりと灼《や》きつけられた。矢羽根と、白い背と、それを抱いた行者の巨大な影と物凄い月と。――すべてが、そのまま静止した。
応伯爵の脳髄にはすべてが静止したまま刻印されたが、彼のからだは泳いでいた。眼まいを起したのである。よろめいて、欄干にぶつかると、彼は冷たい運河におちていった。
水音とともに、橋上では、フィルムがうごき出したように凄じい混乱と怒号が起りはじめていた。兵士たちがどっと殺到しようとし、それと相搏《あいう》つがごとく、片手にはだかの金蓮をひっかかえたまま、武松が獅子のように跳躍してきたのだ。戒刀が無数の青竜刀や槍をはね砕き、月明の運河にバシャバシャと血の雨をふらしてきた。……
応伯爵がドブ鼠みたいになって運河からはいあがってきたとき、橋の上は人影もなく、ただ折れた刀槍と、兵士たちの首と胴と手足が、血しおの中にちらばっているだけであった。そして町の西大門のあたりに、嵐《あらし》のような叫喚をきいた。――
はじめ武松の出現をみた町のものが、あわてて急を守備府につげたのがかえってわるかったのである。あわてふためき、もみにもんで押し出してきた二、三十騎が、魔風のごとくかけてきた武松とぶつかると、その先頭のひとりが簡単に斬《き》りおとされて、馬をうばわれた。
馬上、血みどろの戒刀を横ぐわえにし、金蓮を片手にひっかかえた武松が、飛天夜叉のごとく翔《か》け去ったあとを追って、守備府の騎馬兵が、潮のように西大門から町の外へあふれ出し、野と村落へちっていた。
大いなる山東の山河の上を、月はしずかにうごき、かたむきかかった。たったひとり、満目人影もない地上を、いまは恐怖もわすれて、応伯爵はさまよっていた。
「金蓮さあん。……」
泣き声はむなしく風にきえた。
「かんべんしてくれ、金蓮さあん。……」
――その声もとどかない遠い荒沙の中で、運命の敵同士であった二人の男女のあいだに、ふしぎな最後のたたかいがくりひろげられていた。
「金蓮、これしきの傷がなんだ、しっかりしろ」
「いいえ、あたしはもうだめ、じぶんでわかります。……」
「金蓮……金蓮! お前はいま蠱死膠のことをいっていたな。おれがお前と交わるとお前はたすかるといったな、よし。――」
「いけない、いけないわ、武松、あたしは死ぬんです。あたしからこの蠱死膠を吸って、あたしが死んじまうと、お前は三日のうちに死んでしまいます。……」
いまは全裸となった瀕死《ひんし》の金蓮のほそい手は、豪勇武松の鉄の胸をしりぞけた。
「あたしがはじめからあの媚薬をつかわないで、あたしだけのもって生まれた力でお前をこがれ死させてやろうとうぬぼれたのが、かえってよかったのだわ。いま、あたしはお前を死なせたくはない。……」
「金蓮! お前が媚薬をつかおうとつかうまいと、おれにとってはおなじことだ。待て、おれがいまその毒を受けてやる。――」
「あたしが死んだあと、男がもだえて何になろう? あたしは生きてこそ男をもだえさせたいの。武松、あたしはお前が好きよ、薬のせいかしら。あたしはお前と交わりながら死にたい。でも、やっぱりいけない。……あたしはこうして、男にこがれつつ死んでゆくのが、あたしらしいかもしれない。……」
手はあらがいつつ、金蓮の足は、武松の胴にからみついた。もだえにもだえながらそのからだが冷たくなっていった。
「さようなら、武松。……」
「金蓮!」
武松は金蓮の唇を吸った。蠱死の毒を吸いとるように、息を吸い、舌を吸い――そして、生命を吸いとった。
ガックリとうしろにくびをたれた稀代の大淫婦潘金蓮は、美しい口をひらき、夢幻の瞳《ひとみ》はむなしくひろい天を見ていた。月は沈み、夜はまだ明けず、曠野の果ては模糊《もこ》と暗かった。
その野末から遠く呼び声がながれてくる。
「武松やあい」
「梁山泊へかえってこい、武松――」
しかし、潘金蓮の屍《しかばね》を両手で抱いたまま、銅像のようにつッ立った行者武松の耳に、その同志燕青と母夜叉のさまよいつつ呼ぶ声は、容易にきこえてはこなかった。
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[#見出し] 死せる潘金蓮《はんきんれん》
邂逅《かいこう》之章
「南風帰心を吹き
飛びて墜《お》つ酒楼の前
楼東《ろうとう》一|株《しゆ》の桃
枝葉青煙を払う。……」
だれか、のんきそうに微吟しているものがある。しぶい、いいのど[#「のど」に傍点]だが、声が小さいのと、その男が、ひとり、ぽつんとはなれて盃《さかずき》をふくんでいるので、きいているものもなかった。杏花村《きようかそん》でいちばん大きな酒楼である。
こちらにあつまって、酒をのんだり、飯をくったりしている群のなかには、旅人の姿もまじっていたが、大半は、いつものように、ちかくの清河県《せいかけん》の町の連中が多かった。ガヤガヤと交す話は、こういう店らしくとりとめもなかったが、そのうち北の街道からやってきたひとりの旅人の口から「遼《りよう》」という言葉がもれると、話はたちまちそれに集中した。
もっとも、このごろ、四、五人も人が寄れば、「遼《りょう》」の話が出ないことはない。東|蒙古《もうこ》を遊牧していたこの部族が、しだいに強大の度をくわえて、蒙古全土から満洲一帯、さらに北支那の辺境を侵しはじめてからすでにひさしい。朝廷の方でも、宰相の蔡京《さいきよう》や大臣の|高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]《こうきゆう》、楊《よう》|※[#「晉+戈」、unicode6229]《せん》らがかわるがわる討伐軍を出したが、いずれも大敗して、この春のころからは河北から黄河をこえて、この町を去ること五、六十里(日本の十里内外)の地にまでその異形の蛮兵が出没しはじめるというありさまだから、みなが戦々《せんせん》 兢《きよう》 々《きよう》としてこの脅威について語るのもむりはない。
「周守備さまが討伐にゆかれたらよかろう」
と、いったものがある。
周秀は清河県に駐屯する守備府の司令官だが、勇将の噂《うわさ》がたかい。
「周守備さまは、いま梁山泊《りようざんぱく》の方へむかっておられるわ」
「あ、そうか。いやはや、国の内外、何やら騒がしゅうなって、末世のしるし歴然たるものがあるな」
「大きな声ではいえないが、宰相の蔡京さまや高大臣など、責任のなすりあい、勢力争いに血道をあげ、征遼の陣も梁山泊討伐の軍も、それぞれの派閥からくり出され、それも味方の点かせぎやら政敵の失策をねらうやら、筋も道もいりみだれてとんとわからず、将兵たちもうか[#「うか」に傍点]とは出征しかねるありさまじゃというが」
「そういえば、梁山泊のひとたちにもひそかに皇帝の密使がいって、和睦を申しこんだという情報もある。罪をゆるすのみならず、そのままみなを官軍の将にするとか」
「おれもきいた。それをおだてて、そっくり征遼の戦いにむけようという算段らしいが、さて、うまくゆくかの」
話は、梁山泊――山東西北部の一大沼沢地帯を根じろとしてあばれまわっている百八人の兇盗《きようとう》の噂《うわさ》となる。いや、いまでは誰《だれ》も盗とも賊ともよばず、叛乱軍《はんらんぐん》、いやいや民衆待望の英雄児の一群とすら見られてきた感のあるのも、いわゆる末世のしるしか。
周守備のこと、梁山泊一味のことから、潘金蓮《はんきんれん》の話になったのは、偶然だが、自然でもある。曾《かつ》て清河県第一の富豪|西門慶《せいもんけい》の愛妾《あいしよう》のひとりとなり、西門慶が、泰岳東峰《たいがくとうほう》の、夏でも氷柱のたれるという雪澗洞《せつかんどう》で凍死してから、周守備にのぞまれてその花嫁となろうとし、婚礼の夜、途中の行列を梁山泊の賊|武松《ぶしよう》に襲われて行方不明となった女だ。曠野《こうや》のはてにさらわれて、屍骸《しがい》はついに発見されなかったが、掠奪《りやくだつ》される騒ぎのさい、矢をふかぶかと背に射られていたこともあり、また梁山泊の配下の鼠賊《そぞく》で、周守備の手に虜《とりこ》となった葉春《ようしゆん》という男が、武松がハッキリ金蓮が死んだといっていたとつたえたから、彼女の死んだことにまちがいはなかった。
生前、淫婦《いんぷ》だの妖婦《ようふ》だの、あまり評判はよくなかった女だが、永遠にこの地上からきえたとなれば、その絶世の美貌《びぼう》のみが、くだけた珠のまぼろしのように愛惜の嘆声を発しさせるのも、男たちすべてのおろかな天性か。
「いや、美しい女だったな」
「あの女のおかげで、おびただしい男や女が死んだというが、原因があの女の美しさにからんだことなら、おれも死人のひとりになりたかった。……」
真顔でいうひとりを笑う声もなく、誰かが、
「底なしの金と絶倫の精力、男っぷりがよくてひまがあって、そのうえ驢馬大《ろばだい》のしろものをもつ西門慶大人が、生涯手をつけた妾《めかけ》、女房、色女は何十人あったか――が、そのなかで潘金蓮ほどの美女はまずなかったろうな」
と、感にたえたようにつぶやいたが、これが、実に思いがけぬ騒ぎのもととなった。
だれしもそれを肯定するものとみえたのに、
「いや、潘金蓮より、うちの奥さまの方が美しい」
と、ひとり抵抗したものがある。
その男は、町で西門慶につぐ二番めの――したがっていまは一番の富豪|張二官《ちようじかん》の奉公人だった。彼のいったうちの奥さまとは、張家の愛妾|李嬌児《りきようじ》のことであった。
これだけなら、まだ酒楼の笑話ですむところだったのに、また別のところから、
「ばかぬかすな、西門家にいた女性連のなかで、うちの奥さまほどきれいな方があるものか」
といいかえした者があったので、ことが面倒になったのである。
その男は、知県李供璧《ちけんりこうへき》の従者だった。彼のいったうちの奥さまとは、この春知県のところへ後妻にいった孟玉楼《もうぎよくろう》のことであった。
話がからんできたのは、ふたりが酔っていたせいばかりではない。すぐみんな気がついたのだが、李嬌児は曾て西門慶の第二夫人であり、孟玉楼は第三夫人であった女なのだ。
実は、その李嬌児と孟玉楼は、この日たまたま城外|玉皇廟《ぎよくおうびよう》の廟市《びようし》にやってきて、バッタリ出合い、西門家にいるころはあんまり仲がよくなかったのだが、それぞれ他家の人となってから、ひさしぶりの邂逅《かいこう》だから、内心はどう思ったか見当もつかないが、表面は女らしい大袈裟《おおげさ》なよろこびの顔を見せあって、ふたり手をたずさえ、さっきこの杏花酒楼の二階にのぼったばかりなのだ。
むろん、供の小間使いや小者もそれに同席したのだが、このふたりだけは窮屈なのをきらってか、この店先にすわりこんで酒をのんでいたとみえる。おそらくこの喧嘩《けんか》の口火をつけた男は、知らずして「潘金蓮がいちばん美しい」といったものと思われるが、ひょっとしたら、そのことをちゃんと勘定に入れていて、西門慶の死後いちばんはやく他家に嫁いだ李嬌児や孟玉楼にあてつけて言ったのかもしれない。
「へん、お前のところの孟夫人、ありゃなんだ、うすあばたがあるじゃないか」
「何を――李夫人がどうしたってんだ。あんな豚みたいにふとっちょ。――」
そして、ひとりが盃を投げると、ひとりがくみつき、たちまち傍の卓や椅子《いす》をひっくりかえして、とっくみ合いをはじめた。いよいよわるいことに、そのとき二階からおりてきた知県側と張家の小者が数人あって、これが事情もきかずにそれぞれ味方をたすけようとはしりより、これまたおたがいに格闘をはじめたので、はては収拾のつかない大乱闘となったのである。
往来は、黒山のような人だかりだった。双方の名と喧嘩の原因をきいて、いよいよ面白がる連中が大半で、とめるどころかゲラゲラ笑っての見物だ。
「名花二輪|妍《けん》を競うか。こんな風流な喧嘩はまたとないて」
「あっ、こんどは小間使い同士、組打ちをはじめたぞ」
「風流どころか、まるで軍鶏《しやも》の蹴合《けあ》いだな」
「こりゃいかん、あの女、お尻《しり》も何もまるだしだ」
「見ちゃおれん、おれ、ちょっと加勢してきてやろう」
「よしゃがれ、よせったら、手を出すと、こいつ、承知しねえぞ」
「何を、きさま張家の狗《いぬ》か。なら、おれが相手だ、さあきやがれ」
あっちこっちにとんだ飛火がうつって、往来はむろん通行止めだ。
――すると、その群衆にさえぎられて、立往生した二台の轎子《かご》があった。一つは清河県の町からきたもので、もう一つは逆に五里原の方から杏花村に入ってきたものだ。どっちも身分ある人とみえて、供が相当ついているが、とくに町から出てきた方は行装美々しく、兵士の姿さえまじっている。
その兵士のひとりが、ついにたまりかねて、抜刀してさけんだ。
「鎮まれ、鎮まれっ、周守備閣下の令夫人のお通りであるぞ。鎮まれっ、鎮まらぬと、撫《な》で斬《ぎ》りにするぞっ」
その声に、一帯の喧騒《けんそう》は、電撃をうけたようにおさまってしまった。
硬直した群衆の中を、長剣をぬいた兵士を先導に、町からきた轎子はしずしずと通りぬけたが、ふと反対側に道をよけてとまっている轎子の傍をゆきかけて、
「待って」
という、やさしい声がかかった。
「その轎子は、もしや西門家の――?」
その声に、そちら側の轎子からのぞいた顔が、おどろいたように眼を大きく見ひらき、あわてて轎子からおりてきた。
あわてながらも、挙措しとやかに、
「まあ、これはとんだところで――」
と、お辞儀をして、
「どうぞ、お通り下さいまし。守備府の奥さま。――」
こちら側の轎子からも、ひとりの女性が降り立った。冠をいただき、鳳《おおとり》の簪《かんざし》をさし、真紅の上衣に藍金の裙子《クンツ》、華麗な装いのなかに、いかにも名将の夫人らしい鷹揚《おうよう》さがみえる。
「いいえ、どうぞ、あなたこそおさきに」
と彼女はいった。
「もとの御主人の奥さまに道をよけさせて、どうして通行がなりましょうか」
西門慶の第五夫人潘金蓮の、曾ての小間使|※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅《ほうしゆんばい》である。
屍鞭《しべん》之章
周守備が娶《めと》ろうとしたのは、潘金蓮であった。が、彼が迎え入れたのは、血に染まった空轎子だけであった。ただ、その空轎子についてきた春梅の名状しがたいかなしみにぬれた姿が、彼の眼をとらえたのである。
彼は春梅を捨て得なかった。そのまま家においておくうちに彼女は彼の心までとらえてしまった。生ける金蓮を抱いたことのない周秀は、いまや春梅にこのうえもなく満足している。
むろん、春梅は美しい。しかし、なによりその怜悧《れいり》さが、名将の心をとらえたのだ。彼が彼女を妻としたのは一ヵ月まえのことである。
そのことは、西門家の正夫人|呉月娘《ごげつじよう》もきいていた。しかし、そのわずか一ヵ月のあいだに、なんたる春梅の変貌《へんぼう》ぶりだろう。顔はまるみを増して珠をきざんだよう、背丈までもたかくなったようで、これがほんのこのあいだまで、じぶんのうちの小間使だったとは思われず、こうして相対しているだけでも、おのずとその気品に圧倒されそうである。
呉月娘は、ちょっと口もきけなかった。
春梅はゆたかに微笑《ほおえ》んだ。
「奥さま、きょうはどちらからのおかえりでございますか」
「あの、五里原の主人の墓所へ」
呉月娘は、やっといった。
「あなたは?」
「これからちょっと永福寺へ」
それは周守備の家の寺である。それも西門家の檀那寺《だんなでら》の報恩寺などよりもっと格のたかい寺で、最近周秀が数千両の銀子を喜捨して、実に壮麗な仏殿をたてたときいている。
春梅は、またほのかに笑った。
「そこに、金蓮さまのお墓があるものですから」
「え、金蓮さんの?」
「美女薄命と申しましょうか。ほんとうにお可哀《かわい》そうな方でした。亡くなっても、お葬式を出してくれる身内のひとりもないなんて、あんまり無惨で――」
呉月娘の顔が、うすあかく染まった。本来なら、西門家で葬式を出してやるべきではないか――と春梅に皮肉られたような気がしたからだ。あわてて、いった。
「でも、金蓮さんの屍体《したい》も見つからなかったのでしょう?」
「ええ、ですから、埋めてあるのは、金蓮さまの赤い靴《くつ》なんです」
「靴?」
「でも、あたしにとっては、御遺骸《ごいがい》とおなじですわ」
「……ほんとうに、恩を忘れないなんて、いまどき珍しい方ね。金蓮さんが亡くなられたおかげで、あなたが周守備さまの奥さまにおなりになったとはいえ、その果報も当然かもしれませんわね」
ほめたようだが、言葉の裏に毒がある。さっきのしっぺ返しだ。
いったいに、西門家の正夫人たる呉月娘にとって、生前の潘金蓮はもっとも恐るべき強敵であった。金蓮の美貌と淫蕩は、呉月娘のとうていおよぶところではなかった。が、金蓮がただそれだけの女なら、聡明《そうめい》な呉月娘にとって、それほど恐ろしい存在ではないが、天衣無縫とみえて、金蓮にはなにか油断のならない智慧《ちえ》があったように思う。――が、その智慧のもとは、実はこの春梅ではなかったか。どういうわけかまるで姉妹のように金蓮と仲のよかったこの春梅が、その智慧袋ではなかったか。金蓮をして、正夫人たるじぶんにあつかましく張り合わせた策士は、利口なこの女だったのではないかとさえ、呉月娘はかんがえている。
丁々発止ともいうべきやりとりも、第三者からみると、世にも優雅なふたりの貴婦人の応対にみえる。まわりの群衆は、好奇にみちた眼で、これを見まもっていた。
呉月娘はそれに気がついた。いや、それより、いまのじぶんのしッペ返しを春梅が察したのを知って、ここらで陣をひくのが賢明だと判断した。
「まあ、とんだ見世物になって、恥ずかしい。それでは、守備府の奥さま。――」
「お待ち下さいまし」
と、春梅はおちつきはらっている。群衆など、眼中にないといった風情だ。
「奥さま、このさわぎの原因をおききになりましたか」
「え、さっきの喧嘩の――何も、存じませんけれど」
「いまちょっと轎子の中で耳にはさんだのですけれど、どうやら張本人は孟玉楼さまと李嬌児さまらしいですわ」
「まあ! とおっしゃると?」
「おふたりが、この酒楼の中にいらっしゃるようなのです。喧嘩をしていたのは知県さまと張家のひとたちらしいのです。いまはそれぞれ他家の人ですけれど、もとはおふたりとも西門家の方、いってみれば西門家の恥ですわ。どうぞ奥さま、おふたりをなだめて、仲直りさせてあげて下さいましよ」
いうことはもっともだが、その態度はあきらかに命令であった。この春までは西門家の何十人かの小間使いのひとりとして、台所や廻廊をかけまわっていた小娘が、いまや西門家の妾たちの争いをとり鎮めろと正夫人に命ずる地位に立ったのである。
呉月娘は、感情をおさえて、杏花酒楼に入っていった。あとにしずしずと春梅がつづき、さらに剣を持った従兵たちがしたがう。
杯盤狼籍《はいばんろうぜき》といった態の酒楼のなかには、二階からおりてきた孟玉楼と李嬌児が、茫然として立っていた。むろんこの二人が直接喧嘩したわけではなく、大騒動にきもをつぶしていたのだが、それより、店のまえの呉月娘と春梅の立ち話をみて、出るに出られず、そこに棒をのんだように立ちすくんでいたのだ。
「おふたりとも、しばらくですわね」
と、呉月娘はいった。李嬌児と孟玉楼は、あわてて腰をかがめた。
「どうなさったんですの? いま春梅さまからきくと、なにやらいさかいをなすったのですって?」
ふたりが返事もできないうちに、うしろから春梅が、
「なんでも、李嬌児さまと孟玉楼さまが、どっちがお美しいかということが喧嘩のもとですって?」
「いえ、あの……」
「それは、どちらもお美しい。西門家にいらした奥さま方のうちで、金蓮さまは特別として、あとは孟玉楼さまか李嬌児さまかって、よくあたしたち小間使いがいい争ったものですわ……」
春梅のとどめの一撃の巧妙さよ。「金蓮さまは特別として」という一言でふたりを笑殺したのみならず、同時に燕《つばめ》がえしに呉月娘を黙殺し去ったのである。
呉月娘はすうっと蒼《あお》ざめて、冷たい声でいった。
「孟玉楼さま、李嬌児さま、どうぞ仲よくして下さいね。他家へゆかれても、西門家にいらしたときとおなじように。……」
なに、西門家にいたころから、犬と猿《さる》である。しかし、呉月娘はふたりには眼もくれず、店のまえに雲集して聞き耳をたてている群衆の方にちらっと眼をはしらせて、
「西門家の妻として暮していた女……十何人か、みんな非業の死をとげたなかに、あたしたち三人だけ生きのこって、まあまあ平穏で幸福な日をおくっているのは、やはり天が見ていたのだ――と申した方もあるのですよ」
と、このしとやかな女にも似ないキンキンとした声でいった。
「ほんとうに、これが天の果報かどうかは、あたしたちには何ともいえませんけれど、少くともあたしたちが貞節な女だった、淫《みだ》らな女ではなかったということは申せましょう。淫らな女ほど、ひどい罰をうけて死んだ――と申したお方もございます」
この言葉が、いまの騒動となんの関係があるのか。――ない。
春梅だけにあきらかなのは、それが、金蓮のことをいっているのだということであった。
「徳もなく、貞節のこころをもたず、ひたすらに淫らに、身分たかい男の心をとらえようとする女には、いつかきっと相応の酬《むく》いがくるというみせしめだ――という声もございます。どうぞ李嬌児さま、孟玉楼さま、世間にうしろ指をさされないように、おたがいに町で、ほんとうの貴婦人はあのひとたちだといわれるようになりたいものでございますね」
これは、金蓮になぞらえて、一小間使いから守備府の司令官夫人に成り上った春梅のことを諷《ふう》したのである。それを知ってか知らずにか、可笑《おか》しいことに孟玉楼も李嬌児も、急に貴婦人らしく、おすましの顔でうなずいた。
「おっしゃるとおりでございます」
春梅は薄笑いした。
呉月娘は背をかえして、ツカツカと外へ出てゆこうとした。そのとき、酒楼の隅《すみ》で、ひくくのどかに口ずさむ声がきこえた。
「両人|対酌《たいしやく》すれば山花ひらく
一杯一杯また一杯
われ酔うて眠らんと欲す、卿《きみ》しばらく去れ。……」
呉月娘はたちどまって、その声の方を見た。吐き出すようにつぶやいた。
「この世にふたりとない友達のような顔でとり入っても、死んでしまえばあとはよりつかず、ノホホンとしてさもたのしげに世をわたるおひともある。主人が死ねば、そのあとがまに坐《すわ》ってとくいになる女だってあるのだから、それを責めるほどのことはないけれど、ああ、人のこころはわからないもの。――」
そして、あともふりかえらず出ていったあとに、その男の傍にちかよって、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅はくすっと笑った。
「応さん」
その男は、盃から顔をあげて、
「これは、一別以来」
と、ニヤリとした。西門慶の親友、応伯爵である。春梅はなつかしそうに、
「ほんとうにしばらくですのね。ときどき遊びにいらっしゃいな」
「守備府へですか? ブルル、軍人さんはあたしの肌《はだ》にあわない」
「あら、応さんったら。――ホホ、そんなにきらったものではないわ。……でも、いまの呉奥さまのお言葉、のぼせあがったいやがらせだけど、あなたにはそう見当ちがいでもないわね」
「へえ、どうして?」
「あなたは、金蓮さまが好きでしたね。あたしは、金蓮さまをほんとうに愛していたのは西門慶の旦那さまより、むしろあなたではなかったかとさえ思っていました」
「※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]夫人」
応伯爵は溜息《ためいき》をついていった。
「それは、たしかにそうでしたよ」
「それなのに、その金蓮さまがお亡くなりになっても、あなたはたしかにノホホンとして、町を飲みあるいていらっしゃる。いえ、お噂はきいています」
「するとあなたは、あたしに金蓮さんの後追心中でもしろとおっしゃる?……」
「いえ、それほどにまでは申しませんけれど、それにしても、ほんとに、たのしそうなお顔をしていらっしゃるわ」
応伯爵は、しばらくだまって宙を見ていた。春梅にとって、謎のような恍惚《こうこつ》たるまなざしであった。が、すぐに彼はおどけた眼つきになって、
「死ぬもの貧乏と申しましてな。生きていればこそ、仰せのとおりいろいろと愉《たの》しいこともあろうというもので、おたがいにまず倖《しあわ》せそうで、結構なことです」
春梅はじっと応伯爵を見つめた。ひくくひとりごとのようにいった。
「応さん、あなたまでが、あたしがいま幸福だとお思いになるの?」
「え、そりゃ、守備府の令夫人ともなれば、あたしなどの知らない気苦労もうんとおありになるでしょうが」
こんどは春梅が、応伯爵にとって謎《なぞ》のような妖しい微笑をうかべた。
「そんなことではないの。あたしにとって金蓮さまのいらっしゃらないこの世は、沙漠《さばく》とおなじなのです。おわかりになる?……あなたには、わからないでしょう?」
男狩之章
それが夏の初めの話であった。
この杏花村酒楼の事件以来、町には、遼や梁山泊の噂がいちじ下火になって、しばらくこの話題でもちきりになった。
なにしろ、偶然ゆき逢《あ》って火花をちらしたこの四人の女性が、いずれおとらぬ美女で、且《かつ》それぞれ清河県きっての名流夫人であるうえに、だれもが過去か現在、大好色鬼ともいうべき西門慶の未亡人、妾、或いは小間使いだったのだから、興味に不足のあろうはずはない。
彼女らの美しさ、彼女らの確執――しかし、話柄は現在の彼女たちより、死んだ西門慶と潘金蓮が、いかに淫蕩であったかということの方に多く費された。それは西門慶、或いは潘金蓮の死後、いくどもくりかえされた話題であるが、こんどはまた新しい話のたねが――西門家の怪奇なまでの淫猥《いんわい》な曝露《ばくろ》物語が提供されたのである。それはどうやら、人々の反感の火の粉をはらうために、あの四夫人のうちの誰かからながされたものらしかった。つまり、金蓮その他の妾はかくのごとく淫奔《いんぽん》であったけれども、あたしたちはちがうと力説するためにである。それは成功した。なぜなら、金蓮の好色はまえから有名なものであったし、それにくらべれば、この四人の女などははるかに「徳」のたかい方であることはあきらかだったからだ。
それで町の人々が金蓮をにくみ、彼女らいわゆる貴婦人に好意をもったかというと、そうではない。反対である。
しかし、そのことを彼女たちは知らなかった。前代未聞の一大悲喜劇はそこから起った。
――さて、その事件ののち、十日ばかりたって、梁山泊攻囲にしたがっていた周秀将軍が町にかえってきた。水滸《すいこ》の賊を討滅したからではない。百八人の大盗にひきいられた群盗はおそろしく剽悍《ひようかん》であったから、官軍が攻めあぐんでいるのも年ひさしく、その一将たる周守備が、ときどき負傷兵の後送とともにひきあげて、一息入れるのはしばしばあったことだ。
しばらく町で休養して、兵を補充してまた出撃してゆくのは毎度のことだが、こんどはいままでとはまったく変った事態が起った。周秀将軍は、募兵ではなく、徴兵の挙に出たのである。しかもそれはおそろしく大々的で且強制的であった。
「どうしたというのだ、これは……」
清河県の町の男たちはびっくり仰天した。いままで、梁山泊の戦争を茶のみばなしにしていたが、それが直接じぶんたちに関わり合ってきたとは!
右往左往しているうちに、男たちは片っぱしから守備府にひきたてられていった。これでは徴兵ではなくて、まるで罪人の逮捕だ。それが必ずしも若いもの、丈夫なもの、貧乏なものばかりではないので、町の金持たちも愕然《がくぜん》とした。数人、兵役のがれの袖《そで》の下をもって、守備府へしのんでいったものもあったが、金品とともに放り出されてしまったという。――
「周守備はなぜこんな無茶をやるのだ」
「梁山泊の連中に痛い目にあわされて、のぼせあがったのではないか」
「それもあるが、大将、ここで一ついいところをみせて、征遼総司令官への格上げをねらっているらしい」
「軍人の野心に、巻きぞえをくってはたまらない」
そんな評判が騒然とながれる或る日、知県の李供璧《りこうへき》と町の豪商の張二官が守備府をおとずれた。資力のあるものは、このさい、軍費の供出を以て、徴兵に代えることはできまいか――という陳情をするためである。
「資力あれば、むろん国はよろこんで受けよう」
と、周守備はいった。漆黒《しつこく》の長髯《ちようぜん》、六尺ゆたかの巨躯《きよく》、そのむかしの関羽もかくやと思われる威風、あたりをはらうばかりである。
「それはそれは、私どもの誠意を快く御嘉納いただき、なんとお礼を申しあげてよいやら。――」
と、安堵《あんど》に顔をかがやかせつつ、はやくも心中に、そのお金をどれくらい値切ればよかろうか、と算段する張二官に、周秀は厳然と、
「しかし、神聖なる兵役の義務は別、こちらでそれに耐えるとみれば、その者はかならず従軍していただく。……見たところ、あなたなどはまだ若く、ほれぼれするような強壮な身体《からだ》をもっておられる。いずれ、守備府より呼び出しが参ると思うが――」
張二官はとびあがって、狼狽《ろうばい》のあまり金切声をたてた。
「そんな、ばかな!」
「たわけっ」
鼓膜もつんざくような声で、周秀は大喝《たいかつ》した。
「内憂外患こもごも起り、いまや国そのものがゆらいでおるのが眼にみえぬか。一日もはやく水滸の小賊を掃滅して北辺の大難にあたらねば、なんじらの財宝はねこそぎ蛮賊の足に蹂躪《じゆうりん》されることは、火をみるよりも明らかであるぞ。虫のいい世迷《よま》いごとをのべるひまに、家にはせかえって、いそぎ応召の用意でもしろ!」
「越権だ! 越権だ! 貴下はなんの職権をもって一般民衆を兵に狩りたてられるか!」
と、李知県は昂奮《こうふん》してさけび出した。
「この暴挙は、都へいって訴えますぞ!」
「あいや、都へゆかれる必要はない」
と、周守備はむっつりといった。
「明日にも布告を出そうと思っていたところだ。都の高大臣より、すでに軍使が当守備府に到着されておる」
扉《とびら》がひらいて、正装した武官と貴婦人が入ってきた。貴婦人はもとより春梅である。
「李知県さま」
と、春梅はいった。
「高大臣さまより御派遣になりました殿司《でんじ》大尉|陳敬済《ちんけいさい》さまであります」
李供璧も張二官も、あっと眼をむいた。
おどろきは、二重であった。こんどの動員が政府の命令によるものであることを知ったおどろきもさることながら、いっそう胆をつぶしたのは、その軍使だ。陳敬済はもと西門慶の婿であったが、素行がわるくて家を追い出された男なのだ。もとは八十万禁軍提督|楊《よう》|※[#「晉+戈」、unicode6229]《せん》の縁戚《えんせき》にあたる家柄のものだときいていたが、それでは都へ追いかえされたのち、つて[#「つて」に傍点]をもとめて高大臣の使者となるまでに出世したものとみえる。
陳敬済は、じっと李供璧を見つめて、冷たく笑った。
「知県、貴下が町の富商の後楯《うしろだて》となって兵役忌避の陳情に参られたことは、大臣にしかと報告しますぞ。御心配あるな」
供璧と張二官はふるえあがって、ほうほうのていで逃げかえった。殿司大尉陳敬済はあとを見おくって呟《つぶや》いた。
「けしからん奴《やつ》だ。ただちに飛状《ひじよう》を高大臣におくり、知県左遷の命をいただかせましょう」
「陳大尉」
と周守備はいった。髯《ひげ》につつまれた顔が、勇将らしくもなく、卑屈にあからんでいた。
「もし、わしが全力をあげて梁山泊にあたり、首尾よくこれを討滅したら、征遼の軍命を受けることはあるまいな?」
町の噂とは反対に、周守備は、雲煙万里の北の沙漠へ出陣することをおそれているのであった。しかし皇帝の帷幄《いあく》では内々そのことが議せられているときいて狼狽したのである。ただ水滸の賊を滅ぼせば、その任を免ぜられると陳大尉が約した。すくなくとも梁山泊の作戦ならば、いままでのようにこの町へかえってこられる。――この町には愛する妻がいる!
驍将《ぎようしよう》 周秀は、いまやまったく、この美しく賢い妻の虜であった。
「それは必ず」
と、陳大尉は一礼した。
白皙《はくせき》の面に才気ばしった微笑をうかべて、
「閣下と令夫人を万里の遠きにひき裂くような無情なことはいたしませぬ。それにつけても、閣下が征遼総司令官に擬せられているという情報をいちはやくきいて、私に一臂《いつぴ》の力をかすように書面を下された春梅さまのお智慧《ちえ》が、閣下の運命をかえました。危いところでありました」
「まことにそうであった。清河県をあげて動員し、皇帝陛下に誠意を見せろといってくれたのもこの妻であったが」
陳大尉は、大きくうなずいた。
「まことに、よい奥さまであります」
――その翌日、張二官がひそかに町を逃走したことがわかった。いうまでもなく、守備府からの呼び出しを恐れたのである。そのあとで、妾の李嬌児が家財を整理してあとを追おうとしていたらしかったが、それは未然に発覚しておさえられた。
十日のちに、都からきた飛馬が、知県李供璧の追放命令をつたえた。
そのあいだにも、町の男たちの大半は召集され、やがて、炎天の下を周守備にひきいられ、屠所《としよ》にひかれる羊のごとく梁山泊の方へ出征していった。
女たちの号泣が、西大門をゆるがせた。
砂塵《さじん》のかなたに行軍は消え、あとに「男のいない町」が残された。
旱天《かんてん》之章
その夏ははやくきたが、暑いことも、例年をこえた。
柳も甍《いらか》も石甃《いしだたみ》も白くそりかえり、清河県はカラカラに煎《い》りあげられたようであった。ほんとうに、町は何もかも干あがり、乾ききってしまった。
人々は、死んだ魚みたいな眼をして、ノロノロとうごいた。人々――といっても、それは女ばかりであった。若い娘も、瑞々しかるべき女房もみんな老婆みたいな顔になっていた。
「こりゃ、妙なことになりおったぞ」
日ぐれがたの町を、応伯爵はブラブラとあるいていた。ふつうの年の夏なら、夕涼みの人々が、往来や軒下に、ひる以上にむらがっているのだが、ことしはひっそりと、幽冥《ゆうめい》の町のようだった。いや――暗い窓々のおくから、じっとじぶんを見ている眼を応伯爵は感じる。女の眼だ!
飛びついてこないのは、おたがいに牽制《けんせい》しているからだけのことだと応伯爵は知っている。こわい。ほんとうに、こわい!
からっけつで、のんだくれで、ひとにたかることで暮しをたてていて、そのため犬みたいにあしらわれていた応伯爵であった。それが、最近、なんだか形勢が変ってきた。彼の姿を遠くで見ただけで、いそいで戸をしめた金持の家々が、このごろは争ってその戸をあけて彼を迎えいれ、愚にもつかぬ彼の漫談をききたがるのである。むろん、きき手はその家の女あるじや小間使たちばかりだが、そのあいだ彼は、じぶんの話より、じぶんの顔をウットリと見つめている女の眼を感じる。のみならず、お茶を出す、菓子を出す、そのはずみに、ともすれば彼女らはこちらのからだにさわりたがるようだ。ちょっとさわっただけで、彼女らの皮膚がさっと紅潮するほどはげしい反応を起すのがアリアリとわかる。――
それどころか、こんな光景を見たことさえある。――
応伯爵が、招かれた或る富家に入ってゆくと、ふたりの小間使いが扉に顔をよせて、からだをこすりつけ合っている。何をしているのか、伯爵がきたのも気づかない風で、夢中だ。
「…………?」
ときどき、ふるえるような息を吐いて、身をよじらせるふたりの手が、おたがいの|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]女《こし》のなかにしのびこんでいるのをみて、応伯爵はつかつかと傍へ寄った。おしのけられて、小間使いは声も出ず、ただ顔を火のようにした。
応伯爵は、だまって扉に眼をあてた。そこにほそい隙間《すきま》があった。
女主人が寝台に横たわっているのがみえた。むこうむきになっているので、その背と臀《しり》としかみえないが、あついせいか、ほとんど衣服をぬぎすてている。まるいふたつの小丘のような臀部《でんぶ》のなやましい曲線と、なだらかな白いふともものむこうに、一匹の獣の尾がうごいていた。それはどうやら狆《ちん》らしかった。彼女は何をしているのか。……あえぐ息と、ひきつるような発作が、波状的に汗ばんだその肉体を痙攣《けいれん》させた。――
また彼は、べつの家で起った或る事件を知っている。――
その家には、片腕のない下男がひとりいた。片腕がないので、兵隊にもとりかねたのだろうが、容貌《ようぼう》もあばた[#「あばた」に傍点]だらけの牛殺しみたいな醜い男だった。それが一ト月ばかりまえ、その家にいったとき、彼が嬌艶《きようえん》な女主人をあごで使っているのをみて一驚したのだ。いつ、立場が逆転したのか、おどろいたのはそればかりではない。十日ばかりまえ訪ねたら、こんどはその女主人のふたりの姪《めい》――まるで睡蓮《すいれん》のように清純な美女が、白痴みたいに濡《ぬ》れた唇を半びらきにして、その下男のうしろを追っかけあるいているのを発見して、茫然としたものだ。
この異変が、すべてただこの町に男がいなくなったせいであることを、すぐに応伯爵は看破した。ああ! 清河県に男性なし! 残っているのは、少数の兵士をのぞいては、子供か、老人か、病人か、不具者だけといってもよかった。けれど。――
「あれからたった五十日でこのありさまだ」
――もしむかしの応伯爵なら、きっと大声で笑い出したろう。しかし、いまの応伯爵は、吐気と恐怖だけをおぼえた。彼は「ほかの女」には一切興味がなかった。それから、この町の変化の背後に、ボンヤリと或る恐ろしい意志を感じた。
この町に男がいなくなったのは、周秀将軍が命令したからだ。が、その周秀にそうさせた、もう一つの意志がある。
周守備夫人、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅。
応伯爵は、そう直感する。じぶんだけが、ピンピンしているのに徴兵をまぬかれていることにも、彼女の特別のお目こぼしを感じざるを得ない。それは涙のこぼれるほどありがたいが、しかし、それでは彼女は、どうしてこんなことをやりはじめたのか?
町じゅうの女が、さかりのついた雌犬《めすいぬ》みたいになったことには、男ひでりという原因だけでない事情もあった。
それに油をそそぐような春梅の傍若無人のふるまいだ。周守備の出征のあと、彼女はよく寺|詣《まい》りに出かけた。なんのための寺詣りか、彼女はいつもあの都からきた陳敬済を供につれていた。しかも、その寺で、或いは往復の街頭で、衆人環視のなかに、彼との喋《ちよう》 々《ちよう》 喃々《なんなん》の痴態を見せつけてはばからないのだ。爛々《らんらん》たる白日の下に、頬《ほお》と頬をくっつけんばかりにしてあるいたり、綾羅《うすもの》を透してムッチリとひかる腰をくねらせて高笑いしたり、それを見る女たちのあたまをクラクラさせた。陳敬済はいい男だし、春梅もまたひとしお豊艶になったようである。
「あのふたりだけじゃない。陳大尉の従兵たちも、みんな周家の小間使いといちゃついているそうよ」
「御主人が出征していらっしゃるというのに、なんという大胆な!」
「ほんとうに、天をおそれないのでしょうか?」
はじめ、そんな噂に歯ぎしりしてみたが、それにのしかかるように不敵な狎戯《こうぎ》の風景を見せびらかされては、圧倒されて、ただ悲鳴のような吐息にかわる。だいいち、町の門はすべてその陳大尉の指揮のもとにかためられているのだから、お手あげだ。
清河県は、乾ききった。死人の町になった。しかし、その奥で、急速に淫らな吐息にぬれ、女たちの乳房だけが息づきせわしく波をうっていた。
そして、このごろでは、夜ごとの周家の宴《うたげ》のことが話題のたねだ。周家の大広間では、毎夜美酒と山海の珍味をかこんで、春梅夫人と町の貴婦人や令嬢たちが、言語に絶する淫楽のときをすごしているというのであった。相手は陳大尉とその従兵たち、それから特別に美少年のむれが、彼女たちに奉仕しているという。――
それがべつに秘密にしているわけでもなんでもなく、まるで宣伝班でもいるように噂がひろがってくるのだが、周家の大広間では、美少年を馬にして貴婦人たちが乗りまわしているとか、円陣をつくって中央で一組ずつ秘戯の姿を見せ合うとか、女たちが眼かくしして、ただ触れる肉体の感触だけで相手の男をあてる遊びだとか。――きくだけで、そこに招かれない女たちの心をかきむしらずにはいないのであった。当然、町はみるみる悪性の伝染病が伝播してゆくように、淫蕩きわまる瘴気《しようき》に充満してしまった。
「ふしぎだ」
応伯爵は、しきりに小首をひねる。
ふしぎなのは、町の変りようではない。春梅だ。あの聡明《そうめい》な春梅が、そんなことをやり出したのが解せないのだ。
彼女は、女|蕩《たら》しの陳敬済の術中におちたのか。いやいや、春梅は決してそんな愚かな女ではない!
「あの女だけは、将軍の令夫人として、これ以上の女はないくらいうまくやると思っていたんだがなあ」
ただ、ふっと伯爵の胸に、幽霊のように浮かびあがってくる言葉がある。それはいつか、杏花村酒楼できいた――
「そんなことではないの。あたしにとって、金蓮さまのいらっしゃらないこの世は、沙漠とおなじなのです。……」という春梅の述懐だ。
彼女は周秀を愛してはいないのか、かりに愛していないとしよう。が、それでも町の貴婦人をあつめて、こんな乱痴気さわぎをやる真意がわからない。春梅はそんなことで心が満ち足りるような女では、決してないのだ!
「ふしぎだ。なぜ?」
そしていま応伯爵は、その乱痴気さわぎの宴に招かれて、周家へいそぎつつある途中なのであった。
魔宴之章
「みなさま」
応伯爵がその大広間に入っていったとき、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅が立ちあがって、ひとびとに呼びかけていた。
「このまえのときに約束いたしましたように、今夜はあたしの新しい趣向を、思う存分たのしんでいただきたいと思います」
大広間にあつまっているのは、噂のとおり、何十人かの貴婦人や令嬢や、陳敬済をはじめとする兵士たちだった。男たちは、何者が入ってきたか、というようにぎらっと不穏な眼で応伯爵をみたし、女たちも新しい獲物《えもの》をみた獣みたいに眼をかがやかせたが、春梅だけはちらと視線をうごかしただけで、意にも介せぬ風で、
「まず、今夜のあたしたちの享楽の奉仕者を御紹介いたしましょう。いまあたしたちは、ほんものの処女を見ております。――でも、処女が恥ずかしがって、はげしく抵抗するさまを見るのは、実はもうあきあきしました。今夜はそうではないのです。ちょっと、この娘の素性をお知らせ申しあげましょう。これは契丹《きつたん》の娘なのでございます」
一同は、ざわめいた。応伯爵は、ひとびとの円陣の中央に、うしろ手にくくられてガックリひざまずいたままの娘の姿を見た。彫りのふかい、凄《すご》いような美少女だ。が、彼女は泣くより歯をくいしばっていた。しかし、ひとびとがどよめいたのは、契丹族の国がすなわち遼だからだ。
「遼の娘が、なぜここに?」
と、眼をまるくして陳大尉がさけんだ。
「御存じのように、遼の蛮兵はこの町を去る五、六十里の土地にまで出没しておりますが、これはその一味の女兵《によへい》だった娘でございます。たちまち虜《とりこ》となって、都へ送られるはずが、負傷しているためにこの清河の町へ送られて、いままで牢《ろう》の中で治療を加えておりましたのを、ふと思い出してひき出したわけなのです。たとえこの娘をどうしようと、牢死したといえば、それですむことでございます。でも、ごらんのように、まだ敵愾心《てきがいしん》を失っておりません。そのたけだけしい女豹《めひよう》を、可愛い雌犬にかえるのが、今夜の趣向なのですわ」
「おもしろい!」
「おれが馴《な》らしてやる!」
と、いっせいに兵士たちがさけんで、身をのり出した。
「待って下さい。この娘をおさえつけて、強引に犯したところで、それはほんとに殺風景な眺《なが》めだけですわ。それより、この酒|風呂《ぶろ》で酔わせて、この娘自身からもえあがって炎となるのを見た方が、ずっと面白いとはお考えになりませんか?」
春梅は、契丹の娘の傍にすえつけられた棺様《ひつぎよう》の木箱を指さして笑った。
応伯爵は、さっきから彼ののど[#「のど」に傍点]を鳴らすような芳香がただよっているし、それはいったい何だろうと思っていたが、棺になみなみとたたえられている液体が、琥珀《こはく》色の酒であることをはじめて知ったのである。
「さあ、だれか、この娘を酒風呂で浴《ゆあ》みさせてやって下さい」
声に応じて、三、四人の兵士が殺到した。春梅の言葉がよくわからなかったらしい契丹の娘は、おどろきあわて、夢中で逃げようと立ちあがったが、たちまち、たくましい鋼鉄のような腕にとらえられた。
彼女は怒りと恐ろしさに口もきけず、狂気のようにあばれまわり、必死の力で身をふりきろうとしたが、そのため着物が裂けて、はじけるように乳房がとび出した。兵士のひとりは、ゲラゲラ笑って、波うつ真っ白な乳房をなでまわした。
「こわがることはない。可愛がってやるのだよ」
娘はいきなりその手にかみついた。兵士は眼をほそめた。
「なかなか、やるわえ」
娘はくくられたまま、衣服をかき裂かれて、まるはだかみたいにされてしまった。それでもなお死物狂いにもがくのを、手とり足とり、ざぶうんと酒風呂のなかへ投げこまれ、髪の毛をつかんだままいくどもいくども頭から浸された。
どれくらい彼女は酒をのんだことであろう、やがてひきあげられたとき、濡《ぬ》れひかる全身の肌はうすくれないに染まり、息は火のようであった。
「縄《なわ》をといてやって」
と、春梅がいった。
縄がとかれて、娘はにげようとしたが、たちまち足がもつれて、ころがった。投げ出された二本の雄しべのあいだに酒にぬれたうすい桃色の雌しべがあらわれたが、彼女はそれを覆うのも忘れて、ただからだを左右にくねらせた。
「もう大丈夫よ、陳大尉」
春梅は平然としてふりかえった。
待つや久し――陳大尉は一息大きく吸いこむと、つかつかと傍により、娘を抱きあげた。娘はのけぞってあたまをふったが、大尉の片手が蛇《へび》のように這《は》いまわるのに腰をよじったすきに、ついに唇をとらえられた。
陳大尉は娘の肺臓まで吸いこむように、むさぼりつづけた。その頬がなんどもえくぼ[#「えくぼ」に傍点]のようにくぼんだ。
唇がはなれると、彼女はうめいた。涙がこめかみにながれおちた。が、だんだん抵抗が弱くなり、グッタリと眼をつむり、はてはその両腕が大尉の背にくいこんでしまった。
しばらくののち、哀れな少女は、うなじに黒髪をふりみだしたまま、かすかにひらいた唇のあいだに白い歯なみをのぞかせて、骨がとろけたように横たわったままうごかなかった。それを見て、次の兵士が、満面を充血させてすすみ出てきた。……
「ごらん! ごらん! 契丹の女は、じぶんから息はずませ、足をまきつけ、身もだえして快楽にこたえているではありませんか!」
淫らな毒草の香りのようににごった空気が室中にただよい、貴婦人たちは肩で息をしていたが、やがてひとりがこう叫んで傍の兵士にしがみつくと、大広間はたちまち血の匂いすらする肉欲の白泥と化してしまった。
うなされたように、応伯爵は立ちすくんでいる。実をいうと、これと大同小異の光景は曾て西門家でしばしばお目にかかっているから、腰をぬかすほどのことでもないが、茫然とせざるを得ないのは、そのウネウネとゆれる肉の万華鏡、乳房の波、唇をもれる息もきれるような嬌声《きようせい》のなかに、なんと、あの孟玉楼夫人の姿を見出したからだ。――
突然、ばねのようにはねあがって、大広間からかけ出していった影を、あの契丹の娘だと見て、彼ははっとわれにかえった。すぐ傍に、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅がうす笑いして立っていた。
「どうお? 応さん」
「春梅さん。……」
「西門家が、なつかしくない?」
「ばかな――こりゃいったい、なんのまねですか?」
「女は――いいえ、人間は、だれでもおなじだということを知ってもらいたいためなの。ごらんなさい、あそこで自称貴婦人が、身も世もあらぬといったありさまで、愉しみごとに酔い痴れているではありませんか。……もし金蓮さまが淫らな女だったとしたら、女はみんな淫らです。……」
応伯爵は、顔をあげた。
「春梅さん、すると、これは――金蓮さんへの嘲《あざ》けりを嗤《わら》いかえすためですか?」
「金蓮さまを恥ずかしめたひとを、あたしはゆるすことができないのです」
春梅の声は、荘重ですらあった。応伯爵は、頭をふった。わからない。
「あなたは、それほどまでに死んだ金蓮さんを?――いま、あなたは、周守備という立派な夫があるというのに!」
「あたしは夫を愛しておりました。しかし、もっとふかく金蓮さまを愛しているのですわ。あのひとを、あたしは忘れることはできません。……あのひとは、あたしにとって、どんな男よりも魅力のある方でした。……ふたりのあいだの愛と快楽のまえには、あらゆる男など、火のなかの雪のようなものです。……」
春梅はとぎれとぎれにいった。その恍惚とした表情が、いつかの杏花村酒楼での謎のような笑顔と重なった。
はじめて応伯爵は知ったのである、――潘金蓮と※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅の主従が、この世のものならぬ同性愛に結ばれていたことを。――
「あなたにはわからないでしょう」と、春梅が嘲けるようにいったのもむりはない。まさに、わからなかった。しかしこれこそ金蓮と春梅の関係をあきらかにする深刻重大な鍵《かぎ》であったのだ。
おお、それにしても、すべての男のみならず、才女春梅すらも蠱惑《こわく》の深淵に沈め去った稀世《きせい》の大淫婦潘金蓮よ!
※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅は暗い厳粛な眼にもどって、あたりを見まわした。
「もし金蓮さまが淫蕩の罪であのような死に方をされたというのなら、あたしはすべての女に罰を受けさせずにはおきません」
応伯爵も見まわした。まばたきをし、救われたようにつぶやいた。
「呉月娘夫人がいない。……」
「そうです。あの方だけは、どうしてもこの仲間に入っておいでにならない。歯をくいしばって、冷たい石仏みたいに、かたくなに家にとじこもっておいでです」
春梅は、身ぶるいするような微笑を片頬によどませた。
「でも、まもなく、きっとあの女たちとおなじようにおなりになるでしょう。あの女たち――いまの契丹の娘とおなじ運命をたどって」
「契丹の娘――あの娘が、さっきにげたのを、知っていますか?」
「知っています。今夜ここに呼んだ兵士は、西大門の番兵たちです。西大門は無人です。あの娘は、きっと町からにげ出していったでしょう。六十里はなれた仲間のところへ」
応伯爵は愕然として顔をふりあげた。
「※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]夫人!」
「この町にはほとんど男がいないことは、あの娘は知っています。おそらく遼の蛮兵たちは復讐《ふくしゆう》にもえて襲来してくるでしょう。この町は、やがて凌辱《りようじゆく》の血しおにまみれつくすことでしょう。……」
恐怖にしびれて棒立ちになった応伯爵に、春梅は冷たくやさしく笑いかけた。
「いいおくれましたが、昨夜おそく、わたしはひそかに飛報を受けとりました。梁山泊でまた官軍が大敗し、夫は戦死しました。……援軍の見込みはありません。応さん、お逃げなさい。これがあなたへのせめてもの志です。そのために、あたしは今夜あなたを招いたのです。……」
滅亡之章
背徳の町に紅蓮《ぐれん》の炎があがっていた。
応伯爵は、杏花村で、野の果てに――清河県の町の方角に、碧空《へきくう》に立つ竜巻のような黒煙を見たのである。周家の夜宴のあった翌日の夕刻ちかいころであった。
「しまった! おくれたか!」
応伯爵は眼を血ばしらせていた。鞭《むち》をふるって、うしろをふりかえり、
「いそげ、いそげ!」
と叱咤《しつた》した。まなじりを決し、髪を逆立てている。この臆病《おくびよう》な道楽者が、こんな形相をしているのもめずらしい。
十数人の少年たちが、一つの棺《ひつぎ》を肩にかついで走っていった。少年たちはみな清河県のものだが、棺は昨夜周家の大広間に酒をたたえられていたものだ。いったいその中には、何が入っているのだろう? ときどきすきまから、キラキラと滴のようなものが少年たちの頭や肩にふりかかるが、まだ酒が入っているのだろうか。それにしても、彼は昨夜深更、その棺を少年たちにかつがせて、嵐《あらし》のように西大門から西へかけ出していったのを、財宝でも入れて逃走したのかと思っていたら、いま、やはりおなじ棺をかつがせて、炎上する町へ彼はかけもどってゆく。――
清河県の町の城壁の天を赤く爛《ただ》らしているのは、夕焼けか、炎かわからなかった。町の遠くで、わああんという物凄い叫喚がどよもしたが、それっきり物のやけるひびきにかき消された。
西大門はあけはなれたままであった。胸に矢を射ちこまれた番兵の屍体が折りかさなっていた。その怪奇な鷲《わし》の矢羽根の色を見て、応伯爵たちは恐怖の表情になった。
「やはり、来たな?」
「だれが?」
と、少年のひとりがふるえ声できいた。
「遼兵」
少年たちが立ちすくんだ。彼らは何も詳しいことはきかされていなかったのである。
応伯爵は祈るような眼を西の夕空になげて、
「まだ来ないか?」
「だれが?」
「救援軍」
彼は、何をいっているのだ。周守備は死に、救援軍のくるはずのないことは、昨夜春梅からきいたばかりではないか。第一、清河県から狩り出された兵たちは、この大異変を知らないはずではないか。
「しかし、やがてくる。きっとくる。来ないはずはない!」
やがて彼はうなずくと、決然として命令した。
「だれかさきに物見にはしれ。そして遼兵がいたら道をまわれ。大丈夫だ。襲来した遼兵は、小部隊にきまっている。きゃつらの眼にふれないように、守備府へたどりつけ!」
町は、惨澹《さんたん》たるものだった。家々は炎上し、往来には、曲った刀や折れた剣とともに、首や手足や胴だけの男女が散らばり、きのうまでの女の香に満ちた町が想像もつかないほどである。あちこちに股《また》から血をながしたまっぱだかの女がころがっているのも、炎にあかあかと照らし出されつつここで演じられた光景が、いかに凄惨《せいさん》なものであったかを思わせる。――
応伯爵と少年たちは、裏通りをぬけて走って、守備府の裏門にたどりついた。
あとで考えれば、彼らが守備府の中に入れたということは、奇蹟《きせき》的であったのである。おそらく侵入した遼兵たちが地形不案内のせいもあったろうが、裏門はともかく、その前面の広場では、最後の地獄図絵が展開されていたのだ。
守備府に追いつめられた生残りの警備兵は、その塀《へい》や門を楯《たて》に、最後の防戦をつづけた。そしてもはや矢種もつきはてていたのだが、それを知らないで攻めあぐねての威嚇《いかく》か、それとも鏖殺《おうさつ》ちかしと見て勝利に酔ったのか、蛮兵たちは広場で恐るべき血の祭典をあげはじめたのである。
町のあちこちから狩りあつめてきた十数人の美しい女たちをまんなかに、彼らは銅鑼《どら》や羯鼓《かつこ》をうち鳴らし、梨花《りか》の鎗《やり》や丈八《じようはち》の蛇矛《だほこ》をふりたて、円陣をつくって踊りまわった。吹き出したいような怪奇な舞踏だが、それがかえってぞっとするような物凄《ものすご》さをあたえている。そのなかに、旋風のように踊り狂っているのは、あの契丹の女兵であった。
彼女が隊長に何かささやいた。雉《きじ》の尾羽根をつけた三叉紫金《さんしやしきん》のかぶとをかむり、連環鉄《れんかんてつ》の鎧《よろい》をつけたその隊長が何やら命令すると、蛮兵たちはかけ出して、あらあらしく女をひきずり出し、手真似《てまね》でおなじようにおどれと命じた。
女たちはおどり出した。手足のかたちと順序がちがうと、鎗や矛でたたきなぐられ、彼女たちは息をきりきり、珍奇な跳躍を強いられた。よろめき、つんのめり、足の爪《つめ》をはがして血まみれになりながら、しかし次第に女たちは恍惚状態におちいった。野獣のような男たちの匂いが、彼女たちを酔っぱらわせたのだ。
ふいに、契丹の娘が中央を指さして、怪鳥のように何かさけんだ。
円陣の中央に、ひとり立ちすくんでいるのは呉月娘であった。日はすでにくれ、炎だけがその姿を照らし出した。が、その炎の朱にも染まらず、その影は白鷺《しらさぎ》のようであった。彼女は眼をつむっていた。
隊長がすすみ出て、そのまえに立った。
「なぜ踊らぬ?」
奇怪な抑揚のかたこと[#「かたこと」に傍点]でそうわめいた。
呉月娘は冷たく誇りたかい無表情で答えた。
「いやです」
「殺すぞ」
「死ぬことは、かくごしています」
隊長は火のゆれる瞳で彼女を見すえた。
「よし、お前をはだかにして、臀に鞭をあててやる」
「何をいうのです。あたしはそこの契丹の娘が、この町の淫らな男や女のいけにえになったことをききました。でも、あたしはその仲間には入っていなかったのですよ。あたしは主人の死後、かたく清浄をまもって、愛にとじこもっていた女ですよ! そのあたしを恥ずかしめるなんて、いくら未開の遼のひとでもあんまりだとは思いませんか?」
「言いたいことはそれだけか」
と、隊長は冷然といった。
「おい、この女を剥《む》け」
とびかかる蛮兵に呉月娘ははげしく抵抗しながら、
「けがらわしい、あたしに手などおふれでない! 貞節な女に、こんな乱暴をするなんて、この野蛮人!」
しかし、彼女は大地にうつ伏せにおさえつけられ、四肢《しし》を鷹《たか》の爪皮の靴で踏んまえられてしまった。裙子《クンツ》が無惨にひきまくられて、臀がまる出しになった。脂ののったなめらかなふたつの円球が、火光《かこう》に美しく映えた。
「よし、このきれいな皮膚を充分に鞣《なめ》してやれ」
だれよりはやく、あの契丹の娘が革の鞭をもってはしり出て、ぱしっと呉月娘の臀をうちすえた。
復讐と歓喜にもえ、つづけざまに乱打する鞭の下に、皮膚にみるみる赤いふといみみずばれが腫《は》れあがって、呉月娘は泣きさけび、鞭を避けようと腰をうねらせ、反転した。
それでも彼女は、両足をかたくしめあわせ、恥ずかしさに身をよじらせたが、つぎの鞭がうなり、はげしい打撃が加わるにつれて、思わず足をばたつかせたので、美しい内ももがすっかり露出してしまった。
蛮兵たちは、夜空も鳴りどよもすばかりにどっと哄笑《こうしよう》した。隊長がいった。
「やい、うぬはいまおれたちのことを、未開の野蛮人とぬかしたな。無礼な女めが! それではおれがうぬに野蛮な未開の血をそそぎこんでやろう!」
「御慈悲です! ゆるして下さい!」
たまりかねて、呉月娘はさけんだ。
「野蛮人に慈悲はない!」
隊長は、呉月娘に襲いかかった。
彼女は、恥辱と苦痛のほかは、何も感じなかった。ただ、身をふるわせてうめいているだけだった。しかし、この未開の野蛮人の、拷問《ごうもん》にちかい愛撫《あいぶ》にもみしだかれているうちに、ついに強烈な激情が彼女の全身を波のようにさらってしまった。
――応伯爵たちが、守備府の建物の二階にかけのぼってきたのは、そのときである。
そこに、石像のように※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅が立って、窓から下を見下ろしていた。あの陳大尉も傍に血まみれになって、辛うじて立っていたが、すでになかば喪神の眼つきである。
だまって、ふりかえって、春梅は広場を指さした。応伯爵は窓にとびついて、思わず息をのんだまま、声もなかった。
「あのとおりです」
春梅は笑った。地上には銅鑼と羯鼓の狂ったような交響と、天には炎のどよめきのみが満ちている。
「すべて終りました。町は滅びます。……」
「※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]夫人……」
「もっとも、あたしにとっては、金蓮さまがお亡くなりになったときが、この世の滅んだときでした。あたし、たったいま、毒をのみましたわ、応さん。……最後の眼にうつるあの光景をみやげ話に、あたしはよろこんで金蓮さまのところへ……」
「春梅さん、金蓮さんは生きている」
応伯爵はひくい声でいって、うしろを指さした。春梅はふりかえって、そこに少年たちによって立てられた棺様の箱のなかに、すっくと立っているひとりの女の姿を見た。
不死之章
絶叫が、※[#「まだれ<龍」、unicode9f90]春梅ののど[#「のど」に傍点]をほとばしった。
金蓮だ。潘金蓮だ。まさに、金蓮が生きてそこにいる!
そんなはずはない。そんなはずはない。しかし、この早春たしかに死んだ潘金蓮が、そこににっと妖しい微笑をきざんで立っている。かがやく黒瞳、雪白の肌、なかばひらいたなまめかしい唇、それは決して幻ではなかったが、ただその全身に、遠い火炎をうけて、無数の露か宝石をちりばめたようなふしぎなきらめきがあった。
「奥さま」
春梅はかけ寄ろうとして、バッタリたおれた。その口から、ぱっと鮮血が床にまかれた。背に大きな痙攣がはしった。二度、三度、手がのびて床にくいこみ、その方へ這いよろうとしたが、そのままの、女主人を恋う姿で、春梅はこときれた。
「そして、町は滅びない。……」
応伯爵はつぶやいて、窓の方をふりかえった。
半失神の状態にあった陳大尉は、このときふと遠く街路の向うをみて、電撃されたようにかっと眼をむき出した。
「おお、行者武松。――」
いちど梁山泊攻撃陣に加わったこともある陳大尉は、その摩利支天のような恐るべき兇盗の雄姿を見たことがあるのだ。窓にかけより、たしかめようとしたその顔の下へ、どこから飛んできたか、一本の紅矢がうなりをたてて射ちこまれ、声もあげず彼は地上へ顛落《てんらく》していった。
「金蓮! 金蓮!」
絶叫が夜空をわたった。
武松である。――彼はこの春、金蓮をさらったが、曠野の果で死なせてしまった。号泣しつつ彼は去ったが、いまに金蓮のあで姿は脳裡《のうり》をしびれさせている。その金蓮が生きている。それはきょう、清河県守備府の牢獄の虜となっていた配下の葉春がにげもどってきての報告であった。葉春は昨夜牢から解きはなってくれた応伯爵という男が、武松にそう告げろといったというのだ。
笑いすてるには、武松はあまりにも金蓮の幻に魂をうばわれていた。さいわい攻囲の官軍は、勇将周秀を討たれて動揺している。敵中を突破して清河県へ、それをたしかめにゆこうと思いきった武松に、同行を申し出たのは、同志の浪子燕青《ろうしえんせい》、母夜叉《ぼやしや》の孫二娘《そんじじよう》、黒旋風の李逵《りき》、九紋竜の史進《ししん》、花和尚《かおしよう》の魯智深《ろちしん》の五人であった。
「金蓮! 金蓮はどこにいる? 金蓮! 生きているなら、姿をみせろ。――」
武松の叫び声に、応伯爵は少年たちに命じて、棺を窓の傍にすすめさせた。「生けるがごとき」絶世の美女潘金蓮は、火炎を受けて、天上から下界を見下ろした。
もとより金蓮の生命はなかった。曠野の果に捨てられたその屍骸《しがい》を見つけ出し、応伯爵は泰岳東峰の夏でも氷柱のたれる雪澗洞《せつかんどう》へはこんだのだ。氷につつまれて不死の美貌を保つ金蓮を伯爵は礼拝しつづけた。それが彼のただひとつの秘密であり、生命のもとであった。
その屍骸をいま彼は、氷|漬《づ》けにしたまま五十里の路を清河県へはこびかえったのである。武松を町へ呼ぶために。それによって、全滅に瀕《ひん》する町を救うために――。
「おう金蓮!」
殺到する武松につづいて、五人の侠盗《きようとう》は疾駆してきた。狼狽しつつ、それにかけむかう遼の蛮兵たちは、血のつむじ風に吹きくるまれた。わずか六人と侮《あなど》るものの愚かさよ、これは水滸伝中、その武勇にかけては倫を絶する鬼神のごとき豪傑たちだ。
一瞬のまに凄じい屠殺場《とさつじよう》の観を呈した広場から、雪崩をうって蛮兵たちは逃げ出したが、ふしぎなことに、そのあとを追ってかけ出した女が四、五人ある。そのなかに、発狂して色餓鬼となった呉月娘の姿があったが、だれもそれを見とめたものはなかった。
水滸伝の豪傑たちは去った。
死せる潘金蓮を不死の美女と信じて、その棺をささげて唄声たからかに、遠く梁山泊へ去った。――
焼け崩れた西大門の外に立って、応伯爵はそれを見送っていた。背後になお町は夜空を焦がして燃えつづけているが、それとたたかう人々の喚声には生色がある。しかし、応伯爵は泣いていた。
彼は町を救った。けれど、金蓮を喪《うしな》った。彼にとって、金蓮は「生きて」いたのだ。そのくせ彼は武松たちもまた彼女を「生きて」いるものとして奪い去ってゆこうとは思いもかけなかったのである。
「いや、やがてまた灼《や》けた日がのぼる」
と、彼はくびをふった。
「それは金蓮のからだを焦がすだろう。……溶かすだろう。そして彼らはきっと金蓮を捨てるだろう」
応伯爵ははしり出した。潘金蓮の骨をひろってやるのはおれしかないと思ったのである。とろとろに腐れはてようと、真っ白な野晒《のざらし》になろうと、おれだけは、きっと、きっと抱きしめてやる!
「金蓮、潘金蓮――」
かなしげな叫びをあげながら、そのくせ、憑《つ》かれたように眼をかがやかせて、暗い、はてしない曠野を、応伯爵はどこまでもどこまでも駆けつづけていった。
角川文庫『妖異金瓶梅』昭和56年6月10日初版発行