山田風太郎
地の果ての獄(下)
下巻/目次
凍 姦 刑
西郷を撃った男
雪 飛 脚
空知集治監
義経、弁慶を追う
コタンの出撃
大 奇 蹟
[#改ページ]
凍《とう》 姦《かん》 刑《けい》
石狩川に、巨大な──直径三尺から五尺ぐらいありそうな薄い蓮状の氷がいくつか流れて来たのを見たとき、有馬四郎助《ありましろのすけ》は、いったいあれは何だろうと眼を見張った。すぐにそれが北の空知川上流や雨龍川や、さらに遠い神威古潭《かむいこたん》あたりから流れて来る氷だと聞き、さらにその氷の蓮が次第にふえ、ついに河の全面を覆ってしまうのだと聞いた。
「そいじゃ、船はどうなるのでごわす」
月形の対岸で、囚人たちが河から砂利を採取する作業を監督していた四郎助は、たまたまいっしょにいた看守長の一人、真壁長八《まかべちようはち》に訊ねた。
「むろん、船は動かせなくなる」
と、真壁は答えた。
「そいじゃ、道作りはやめでごわすか」
「いや、河が凍れば、かえって往来が自由になるわい」
南国人の四郎助は、それではじめて、石狩川の氷は表面に薄く張るようなものではないことを、改めて知らされた。
「なるほど」
と、いって、彼はまた大変なことに気がついた。
「江別から来る船もごわすか」
「もちろんだ。……ただ、あっちの船は鉄で出来とるから、しばらくは大丈夫だが、しかし結局動かなくなる」
「で、石狩川の氷が溶けるまでごわすか」
「その通り」
「いつまで?」
「まず三月ごろじゃな」
「そうなってから、外とは、どうして連絡するのでごわす?」
「ま、河沿いに歩いてゆくよりほかはないな。しかし、江別まで十里はたっぷりある。それも道らしい道もない上に、この雪はまだ深くなるから、まずよほどの命知らずでもなけりゃ、ゆききするやつはないな」
二人の足もとには、七寸ばかりつもった雪があった。──十二月半ば過ぎのことだ。
四郎助は、それで、この月形という監獄の町が、冬の間はまず曠野《こうや》の中の孤島といった状態になることを、はじめて知った。迂闊《うかつ》といえば迂闊な話だが、薩摩育ちでは想像もつかなかったことだ。
それにしても四郎助が、この真壁看守長とこんな話をするのは珍しい。いや、こんな話だから交したのかも知れない。これも四郎助の、あまり近づきたい人物ではなかった。
身体も臼《うす》みたいに岩乗《がんじよう》だが、顔もまた鬼瓦のようだ。看守の中では、荒っぽいほうの最右翼の男であった。
囚人に厳格な点では騎西看守長も同様だが、この真壁看守長には騎西とちがう一面がある。いや、ほかの看守長のだれとも異る特徴がある。それは怖ろしく好色で、またそれが傍若無人なことだ。
例の猥談狂の囚人赤川呂助の、面《おもて》をそむけるような下劣な猥談を、だれよりよろこんで聞いたのはこの真壁長八であった。それどころか、彼のほうから請求した。看守長にファンがいるから、赤川が臆面もなく猥談を長講したといっていい。
それを聞いているときの真壁長八は、同じ話に、飽きもせず舌なめずりし、はてはその口のはしからよだれがながれ落ちるありさまであった。
猥談ばかりでなく、むろん実行のほうが好きだ。月形の売色街といっていい入舟町にはせっせとかよう。そこで気にいった女は、職権をもって、どんな女でもいうことをきかせる。──看守の品行には秋霜烈日の騎西も、同格の同僚だけに、これには黙っているよりほかはないらしい、というような話を、何かのはずみに四郎助は耳にしていた。
いったい真壁長八は、それではどういうつもりでこの北海道の陸の孤島ともいうべき土地へ来て看守長などやっているのか、考えて見ると不可解でもあり、いささか可笑しくもあった。
その好色看守長が、一人の女に眼をつけるのを、はからずも四郎助は見る機会を持った──ちょうど真壁と右のような石狩川の氷の話をした翌日のことである。
……その日の午後も、江別から上って来た外輪船から多数の人々が吐き出された。訊くと、あと何回船がかよって来ることが出来るかわからないということで、人の往来がはげしくなった。月形から出てゆく人間も多いが、陸の孤島と化すこの町へ、どういうつもりで来る人間がいるのか、やって来る者もそれにまして多い。そのやって来る連中の中に、これは心事不可解もへちまもなく、また新しい囚人の一団がいた。それを波止場に迎えるために、何人かの係官とともに、四郎助はいったのだ。
先に一般の客が下りて来る。その中に、例によって酌婦らしいひとむれがあった。
「あの……監獄のお方でしょうか?」
呼びかけられて、ふり返り、四郎助は眼を見張った。
どんなに毒々しく化粧しても、どこかうらがれた感じのする女たちの中に、一輪|鮮《あざ》やかな色彩で咲き出したような美貌であった。年は二十六、七であろうか。髪かたちや衣服は、ほかの女と同様、たしかに売色をなりわいとする女にちがいないが、凍るような冬の日ざしの中に、向日葵《ひまわり》のようにくっきり浮き出して、しかも怖ろしく肉感的なのだ。
「左様でごわす」
四郎助が思わず直立不動の姿勢になったくらいであった。
「その中にいる伊坂大五郎という囚人は、無事でおりますか」
「伊坂大五郎……おう、元気でおる」
と、横のほうから、真壁看守長が歩み出て来た。
「お前さん……伊坂の何だ」
女は、だいぶさきにいった仲間に眼をやって、
「伊坂という人に、お龍がこの町に来て、放免を待っていますと、ただ、それだけお伝え下さいまし」
と、いって、お辞儀して、はたはたと駈けていった。
二、三歩、真壁長八は追いかけて、そのとき船から囚人たちが下りて来るのを見て、さすがにきょうの職務を思い出したらしく立ちどまったが、なおふり返った眼には、ただならぬ光があった。
「伊坂大五郎。……なるほど、きゃつ、来年三月には満期釈放になるやつだな」
と、つぶやいた。
二、三日たって四郎助は、真壁看守長が入舟町の「河骨《こうほね》屋」という銘酒屋へ押しかけて、早速例の女を買おうとして、あっさりはねつけられたという噂話を聞いた。
河骨屋というと、あの娘のいる店だ。銘酒屋とは、酒よりも女を売る店である。そこに売られて来たあのお篠《しの》とかいう娘を救ってやってくれと原|胤昭《たねあき》に頼まれながら、四郎助はしりごみした。いかに気の毒に思っても、自分にそんな力もなければ、許される境遇でもないのだ。しかし彼は、そのことを思い出すと、夕ぐれの雨のような哀切の思いにとらえられる。そういう気持のひっかかりもあって、あれ以来彼は入舟町に足を踏みいれたこともない。
さて、真壁看守長がふられたという話だが、よくよく訊いてみると、それは直接女に拒絶されたというより、その店の亭主に、これは売られて来た女ではなく、自分で志願してこの月形へ来た女で、酒のお相手ならさせますが、身を売らせるつもりはござりませんので、と、断わられたのだという。──どうやら東京にいる亭主の親分筋から、わざわざ依頼状を持って来た女だということであった。こんな町で銘酒屋をひらいている男にろくなやつがあろうとも思えないが、それだけに何かその世界特有の仁義があるらしい。
四郎助は、真壁看守長がふくれあがって、伊坂大五郎という囚人を、じっとにらみつけているのを見た。
みずから志願して、このさいはての町の銘酒屋に来て、やがて出獄する男を待っている女。
そういえば、その伊坂大五郎という男も、みずから志願してこの樺戸へ来た男だ、と聞いたことがある、と四郎助は考えた。
千六百人前後いる囚徒の中でも、それはふと眼をひきつける一組であった。
一組というのは、その伊坂と例の連鎖で結びつけられている網干彦馬《あぼしひこま》という男が、どう見てもこの集治監へ送られて来るような人柄ではないからだ。注意をひいたのは、むしろその網干のほうだといっていい。年は、伊坂と同じく三十歳くらいだろう。痩せてはいるが、いかにも聡明そうで、品がよくて、沈鬱だが、まず美男といっていい容貌であった。
これに対して、伊坂大五郎は、義経に仕える弁慶のようだ。むろん話に聞く弁慶のような巨漢ではないが、実にたくましい体格をしている。顔は武骨そのもので美男には程遠いが、一見しただけでも単純で愚直な性質が表情にあらわれていた。
義経と弁慶といっても、どっちも薄汚い囚人姿であることはいうまでもなく、こんな例を持ち出したのは、実際に二人は娑婆《しやば》にいるころ主従であったと聞いたからである。
そして主人の網干彦馬はたしか懲役十二年だが、家来の伊坂大五郎のほうは三年の刑であった。この樺戸は十一年以上の徒刑囚を迎えるのを原則として、本来なら伊坂は送られて来るはずはないのだが、特に彼はそのことを志願して、どういう計らいでか、それが許可になったようだ。二人が来たのが明治十七年の春だそうだから、伊坂のほうは来年春には満期釈放ということになる。
以上のようないきさつはざっと耳にしていたが、改めて四郎助は、二人についてもっと詳しい話を、看守たちから聞いて見た。
網干は、もと旗本の、それも二千五百石という大禄の家の出身だという。もっとも御一新のとき彼はまだ十歳前後であったはずだが、そう聞けば彼の持つ品のよさもうなずかれる。瓦解してしまえば二千石も三千石もへちまもないが、当人の出来が甚だよくて、成長後工部省の役人になり、明治十五年のころには工作局の局長にまでなっていた。この有能な官吏が、そのころ突如女に惑溺《わくでき》しはじめたのである。
相手は、深川の芸者であった。
彼はそのときまだ妻帯していなかったが、それにしてもおのれを失い過ぎた。成金の生糸商人と張り合ってその芸者にいれあげ、はては公金に手をつけた。
そのあげく、せっぱつまって、ついに強盗を企んだ。──ただし、直接自分がやったのではなく、お抱えの俥夫《しやふ》の伊坂大五郎に、その生糸商人の家に押し入らせたのだ。その商人が近く大金を払ってその芸者を身請けするという話に焦ったこともあった。強盗そのものはうまくいったが、被害者の相手が、ライヴァルたる網干のお抱え俥夫を、何かの機会に見て記憶していて、大五郎は捕縛された。大五郎はけんめいに、それは自分の単独犯行だといい張ったが、網干の身辺を捜査した結果、多額の公金費消が発覚して、彼もまた検挙されたのであった。
それどころか、罪は網干のほうが重くて十二年、伊坂は三年の懲役に処せられ、いっしょに樺戸へ送られて来たのである。
騎西看守長は、この二人を連鎖でつないだ。
だんだん四郎助も気がついて来たことだが、連鎖の組み合わせは、実に意地悪いものであった。囚人をもって囚人を監視させる、おたがいにつながれることによっておたがいに苦しませる、というのが騎西の「連鎖の原理」だが、それにしても、おそらく彼が考えた以上にそれは皮肉なものであった。あるいは騎西看守長に、本能的ないし悪魔的な選択力があったのかも知れない。
ただその中で、網干彦馬と伊坂大五郎の一対《いつつい》だけは、例外的に尋常なものに思われた。
以上のような知識を持ってふり返ると、網干はむろん威張ってはいるけれど、伊坂を罪に落したことを悔いているようすが見え、伊坂のほうは主人がこうなったのは自分の責任だとして、それ以上に申しわけながっている心が見えたような気がする。
──騎西どんにしては親切な組み合わせじゃな。
と、四郎助はうなずいた。
それが、そうではなかったことが、数日中に判明した。ただし、騎西看守長が、それから起ったことまで予見していたとはとうてい考えられないが。──
「あの女は、その芸者じゃなかか?」
と、四郎助は考えた。
あれが東京の芸者だというと腑《ふ》に落ちる。あの美しさなら、網干彦馬のような人間を狂わせてもふしぎではない。──
しかし、すぐに四郎助は首をひねった。
あの女は、網干の名を口にしなかった。自分が待っていることを、伊坂大五郎に伝えてくれといった。
真壁看守長が、入舟町であの女にふられたと聞いた翌日のことだ。四郎助は、また囚人たちと河を渡って、野の外役場にいった。
ここ数日、気温が急速に落ちて、石狩川の流氷の蓮はみるみる厚みを加えていた。それがときどき渡し船にぶつかって砕ける。厚みを加えたといっても、まだその程度だが、やはりあまり気味がよろしくない。
「ことによったら、もう、二、三日で、船はだめになるかも知れん」
と、渡るとき、水面を見ながら、騎西はつぶやいた。
その前に、渡船場に妙な籠《かご》がいくつか重ねて積みあげてあるのを、四郎助は見た。竹を編んだもので、無理をすれば人間が三人くらいははいれそうな籠だ。
前に述べたように、石狩川を対岸に渡る船は、両岸に立てられた巨大な柱をつなぐ針金をつたって渡る。その何本かより合わせた針金に滑車がとりつけてあって、そこから垂れ下がったロープを頼りに船は進むしかけになっている。押し流されないためである。これが往復用に、二条張られている。
ところで、河面がまだ完全に凍結せず、かといって船もあぶない数日間はどうするかというと、その針金で籠渡しということをやる。滑車に籠をとりつけ、対岸からひいてやるか、あるいは乗っている本人がたぐりながら、河の上を渡ってゆくのだ。──そのための籠だと、四郎助は教えられた。
それにしても、そんな籠で囚人をやはり外役場に運ぶのか、と訊くと、やるという。道路工事を急ぐ必要がある上に、懲罰の意味もあるから、囚人の労はてんでいとわないと見える。
……さて、その日の外役場で、四郎助はふと近くを通りかかった大八車を見た。車には、湿地を埋立てるための砂利が積まれ、曳《ひ》いているのは伊坂大五郎で、横から手助けしているのは網干彦馬であった。二人の足は鎖でつながれているが、鎖の長さがのばせば三メートルはあるから、そんな作業が出来る。
「やあ」
と、四郎助は近寄った。
「伊坂じゃね?」
「へえ」
大五郎は、けげんな顔で車をとめた。
「真壁看守長から聞いたかね」
「へえ」
と、大五郎はいった。それっきりだ。ひょうしぬけして、四郎助は念を押した。
「お前を、女のひとが待っちょる。わざわざこの月形まで来て、春まで待っちょるという」
大五郎の顔に一種の苦悶《くもん》の表情が現われたのを見て、四郎助は、おや? と思った。それから彼は、大五郎が網干彦馬のほうをひどく気にしているのに気がついた。
網干は、大八車のそばで腰をまげて、土をとりのけていた。野はいちめんの雪だが、作業場一帯は、囚人たちに踏まれて黒い土が現われている。砂利を運ぶ道も同様だが、日が照っても、夜の間に凍った土は溶けず、泥濘《でいねい》は切り立ったでこぼこを作って、車輪の動きをさまたげていたのだ。
「ところで、あの女は、お前の何かね?」
と、四郎助が訊いたとき、大五郎はふいに黙って車を曳くのにかかり、車のそばで「あっ」という苦鳴があがった。
四郎助より早く、梶棒《かじぼう》の下をかいくぐって、大五郎が駈けつけた。四郎助も、網干の右の掌が真っ赤になっているのを見た。
「こ、こりゃ申しわけねえことを……旦那!」
大五郎はオロオロした。ふいに車を曳き出したものだから、ちょうど車輪の下の凍《い》てた土くれをとり除こうとしていた網干彦馬の手を轢《ひ》いてしまったのだ。掌が完全に潰《つぶ》れているように見えて、四郎助も狼狽《ろうばい》した。
囚人の怪我や急病はちょいちょいあるので、現場にいくつか設けられている納屋の一つに、応急の薬や繃帯などが置いてあった。四郎助はそこへ二人を連れていって、相手の掌に沃度丁幾《ヨードチンキ》を塗り繃帯してやった。傷のみならず、薬の刺戟で物凄い痛みがあるはずなのに、網干が、あぶら汗をにじませたものの、苦痛の声もあげなかったのには四郎助も感心したが、とにかくこれで女の話どころではなくなった。
その翌日、外役場へゆく船へ、その二人が乗り込もうとしているのを見て、四郎助は眼をまろくした。
「網干。……お前、働けるのか」
と、彼は声をかけた。
「あの傷じゃ、いっても、どうにもならんじゃろ」
「いえ、御心配下さいますな」
と、網干彦馬は静かに答えた。
「車の綱曳きくらいは出来ましょう」
「いや、ここから帰してもらって、休ませてもらうがよか」
すると、もう船の中に乗り込んでいた真壁看守長が向うから怒鳴った。
「有馬、何をいらぬことをいっとるか。働く気のあるやつは遠慮なく働かせろ!」
いよいよ氷の蓮のふえた河を渡って外役場に歩いてゆくと、途中で四郎助は妙なものを見た。みな、立ちどまって、口をあけて、そのほうを眺めた。
一面の大平原とはいえ、ところどころ起伏がある。ちょうど現場にゆく方角と反対側になるゆるやかな丘の上から、怖ろしい早さで滑り下りて来た奇妙な人間があった。それが、十間ばかり向うまで来て、ドスンと尻餅をついた。
「休庵先生!」
眼を見ひらいて、四郎助は近づいていった。
立ちあがったのは、まさに独《ひとり》 休庵《きゆうあん》先生だ。アイヌ風のアツシに頭巾をかぶって、腰に狸《たぬき》みたいに大きな徳利をぶら下げているのはいつもの通りの姿だが、それが足に長い青竹をはいて、両手に杖《つえ》をついている。
「スキーの練習じゃよ。こちら側のほうが雪が深いんでね」
と、髯《ひげ》の中から笑った。
見ると、足下の二本の青竹は、心持ち平べったくのばされて、尖端がとがって、そり返っている。藁《わら》靴をはいた足は、金具と紐でその竹に結びつけられている。両手の杖のさきには輪がはまって、必要以上に雪に刺し込まれないようにしてある。
「どうじゃ、見たか、うまくなったじゃろ」
と、威張った。──現代のスキーの標準から見ればむろん児戯《じぎ》にひとしいが、四郎助らの眼には、さっき滑って来たときは、まさに翔《と》ぶが如くに見えた。
「近くば寄って眼にも見よ。もういちど見せてやる。それっ」
と、杖をこいで、勢いをつけて滑りかけて、またドスンと盛大に尻餅をついた。
「わっ、いかん、いかん。これだから町中《まちなか》の人には見せられん。しかし、何でも修行じゃて」
と、笑いながら起き上り、雪まみれになって、もと来たほうへ、子供みたいに夢中の顔つきで遠ざかっていった。あと、四郎助や囚人たちは、あっけにとられて見送った。
やがて労働がはじまり、昼の休憩となった。
網干彦馬と伊坂大五郎の間に奇怪な破綻《はたん》が起ったのは、その昼休みの終りごろであった。
突然、石狩川のほとりで怖ろしい絶叫があがった。そこは工事現場とはうんと離れた場所であったが、そこで二人の囚人がとっくみ合いをはじめたのだ。
少くとも、白い野を渡って来たそのさけびにふり返った四郎助には、そう見えた。彼は駈け出した。うしろから、騎西、真壁の両看守長や、数人の看守も走って来る。
「どげんしたか!」
さけんだとたん、網干彦馬の上に乗りかかっていた伊坂大五郎が、はね飛ばされて、あおむけに倒れた。
地上にのたうちまわる網干の獄衣は、鮮血に染まっていた。──その右手が繃帯につつまれているのは四郎助も知っているが、もう一方の左腕も──手首から先がそっくりないことに気がついて、彼はぎょっとした。
血はその切断面から噴出しているのだ。……手首から先の掌がすぐそばに落ちているのも眼にはいったが、その五本の指は何かをつかむように、まだ曲ったりのびたりしているように見えた。
「あっ、逃げるな!」
向うではね起きようとした伊坂大五郎を、真壁看守長が飛びかかってつかまえた。獄衣の袖がちぎれて飛んだのもかまわず、真壁はその凶行者をなぐりつけた。
「逃げるんじゃあねえ、逃げられもしねえ」
鎖を鳴らして、大五郎はさけんだ。
「どうか旦那のそばへゆかしておくんなせえ!」
「刃傷沙汰を起して何をいうか。神妙にせんか」
「おれは何もしやしねえ。旦那があんなことになったから、びっくりして介抱しようとしてたんだ」
この間に四郎助は、眼の前に落ちた大五郎の片袖を拾いあげ、ひき裂き、苦悶している網干の切断された左手首の上をギリギリと縛った。
そのとき彼の頭に、ある人の姿がひらめいた。
「おいっ、あっちに休庵先生がいたはずじゃ。呼んで来てたもっし!」
と、うろたえている看守の一人に声をかけた。
「いや、こいつら、納屋に連れてゆく。あの、三番納屋じゃ。あそこへ先生を呼んで来てくれ」
それは、そこから比較的一番近い納屋で、きのう四郎助が網干の応急手当をしてやった納屋であった。看守は転がるように駈けていった。
「やいっ、刃物を出せ!」
と、騎西看守長がかみつくように大五郎にいった。
「おれがやったんじゃあねえったら!」
と、大五郎ははげしくかぶりをふった。
「おれ、昨晩、旦那がきのうの傷で痛がってあんまりうなるから、一晩中介抱していた。そこでさっき、ここに寝てウトウトしてたんだ。そしたら旦那が急に怖ろしい声をあげたんで飛び上った。そのときはもう手首が斬り落されてたんだ」
彼は身をもみねじった。
「おれが旦那さまを斬るわけがねえじゃあねえか!」
「それじゃ、だれが斬ったんだ。ほかにだれもおらん」
と、真壁看守長がいった。
「まさか網干が自分でやったとはいわせんぞ。だいいち網干の右手は見る通りだ。拳《こぶし》ごめ繃帯を巻いたすりこぎみたいな右手で、自分の左手の手首が斬り落せるわけがない!」
まさにその通りだ。四郎助も、網干彦馬の右手の繃帯がきのう自分が縛ったままであることを認めた。
「凶器を出せ、どこに隠した?」
「そんなものはねえ。あるわけがねえ!」
大五郎は頑強に──狂気のように首をふった。
「旦那さま……どうして、そんなことをおやりになったんです?」
そのとき、四郎助の腕の中で、流血と苦痛のためもう喪神しているかに見えた網干彦馬の蒼白い唇が動いて、しゃがれたあえぎが出た。
「大五郎は、匕首《あいくち》を、遠く河に投げた。……」
そして、完全に意識を失って、がくりとのけぞった。
四郎助は、その網干を両腕で抱いて、納屋のほうへ向った。網干の足から三メートル近い鎖でつながれた伊坂大五郎も──まるで凍りついたように硬直していたのが、鎖にひきずられて歩き出す。看守たちがそれをとり囲んで移動した。
途中で、騎西がつぶやいた。彼は、切断された手首をつまんで、ぶら下げていた。
「匕首など、どこで手にいれおったか?」
そんなものが、囚人の手にはいるわけはないのだ。しかし四郎助は、その奇怪さより、なぜ伊坂大五郎が網干に危害を加えたか不可解にたえなかった。あれほど忠実に仕えた主人に対して、という疑問より、そもそも大五郎は、あと三カ月もたてば出獄出来る身分ではないか。……ま、それらの点は、これから訊問すれば明らかになるだろう。
納屋にはいって、十分ほどたつと、看守に連れられて、休庵先生がやって来た。
スキーなるものをぬいで、雪だらけの身体を怪我人のそばに置いて、四郎助が袖ぎれで縛ったままの左手を見、そばに置かれた手首を見、それから、失神している網干のまぶたをおしあけて見て、
「こりゃ、ひょっとするとあぶないぜ」
と、いった。
「ここにどんな薬が置いてあるんだ? 持って来な」
と、いい、改めて治療にとりかかりながら、
「いったい、どうしたんだ?」
と、訊《き》いた。
真壁長八が、先刻からのいきさつを説明した。
「ふん。……ほう」と、うなずきながら聞きおえた休庵先生は、やおらその手首をとりあげて、「剣術でこれだけ斬れりゃ、たいしたもんだ」
と、ひとりごとのようにいった。
「それでこの左手はわかったが、右手はどうしたんだ」
こんどは四郎助が、きのうの事故の話をした。
これまた、「ふん。……ほう」と聞いていた休庵は、ちらっと伊坂大五郎の顔を見て、
「ははあ、お前さんはこの怪我人の家来かい?」
と、いった。大五郎は黙って眼でうなずいた。休庵先生は、さらに妙なことを訊いた。
「じゃ、お前さんが、河骨屋に来た別嬪《べつぴん》のあれじゃね?」
それではじめて四郎助は、休庵先生が入舟町へいって、あのお龍とかいう女に逢って何か聞いたらしい、と知った。
「もしお前さんがこんな馬鹿なことをやったのなら、当分監獄は出られねえね。もうあの別嬪さんには逢えねえことになるね。あのひとが泣くよ」
「当分出られぬどころではない。処刑だ」
と、真壁がうなるようにいった。
「殺して下せえ!」
突然、観念したように伊坂大五郎がさけび出した。
「旦那がこんなことになって……おれは生きちゃいられねえ。きょうにも、スッパリやって下せえ!」
真壁が、騎西看守長をふりむいた。
「騎西、おれにやらせろ、な」
「その鬼瓦みてえな面《つら》から見ると、お前さんが真壁という看守長だな。河骨屋でね、お前さんの面白い話も聞いたよ」
と、休庵はニヤニヤしながらいった。
「何を聞いた?」
「怒っちゃいけねえ。自分で、おれはこんな面《つら》だが、といったそうだから。──面はこの通りだが、しかしかんじんの道具で女という女をよろこばせなかったことはない。見ろ、といって、お前さん、酔っぱらって一物を見せつけたというじゃねえか」
真壁は眼を白黒させた。そんなこともあったのか、と四郎助も眼をぱちくりさせた。それはあのふられたという日のことか。あれからまた押しかけての話か。
「そしたら、あの別嬪が出て来て、笑いながら、そんなものが見せたけりゃ、伊坂大五郎のものをいちど見てから自慢しな、ってやられたってえ話だが。──」
真壁は、赤い鬼瓦みたいになってわめいた。
「きさま、何しにここへ来たんだ?」
「あれ? 怪我人があるから来い、というから来てやったんじゃあねえか」
「それなら、治療がすんだら、いってしまえ」
休庵先生はうす笑いしたまま、立ち上って、
「なんだ、まだ鎖をつけたままか。死にかかってるやつとつなぐことはねえだろ。離してやれよ」
と、四郎助にあごをしゃくった。網干と伊坂はまだ鎖で結びつけられていたのである。いわれて、四郎助が寄ろうとした。
「離すな、逃げるおそれがある」
と、真壁長八が怒鳴った。
「処刑するまでつないでおけ。それも罪じゃ」
「処刑処刑とよくいう男だ。しかし、そいつァ考えものだぜ」
「なに」
「有馬君、ちょいといまの刃傷沙汰のあった場所が見てえ。連れてってくれ」
と、休庵先生はいった。
四郎助も、先刻から納得出来ない気持でいる。彼はうなずいて、先に立った。
「わけのわからぬ寝言を、いいたい放題にいうやつだ。騎西、あいつを放っとくのか」
と、真壁がふり返った。
騎西銅十郎は何かいいかけて、しかしむっとふくれ返ったまま黙っていた。この怖ろしい看守長も、休庵先生だけには、手も口も出しかねるものがあるらしい。
「あの伊坂大五郎ってえ囚人は、自分で罪をひっかぶる気だね」
と、外へ出て歩きながら、休庵はいった。
「ひっかぶる?」
四郎助は聞き返した。
「ありゃ、もと網干のお抱え俥夫《しやふ》をやってたってえことだが、その前から──先祖代々、網干家の若党だか下男だかやってたらしい。骨のズイまで網干の家来なんだ。だから、網干にいいつけられて、強盗までやった。──あの河骨屋に来た美人から聞いたんだ」
四郎助は、このとき自分たちのすぐうしろから真壁看守長がやって来るのに気がついた。真壁も気になって、ついて来ずにはいられなかったらしい。
休庵は、平気な顔で、大声でつづける。
「あの美人は──お龍さんとかいったっけね──ありゃ、伊坂大五郎のいいなずけだったんだよ。しかも、フ、フ、大五郎の魔羅を見よ、とタンカを切るほどの」
「へえ?」
「しかし、どっちも貧乏でね。お龍さんはとうとう芸者にならなきゃならねえ破目になった。網干は芸者になったあとのお龍さんに惚れたんだ。ところが、お龍さんのほうは大五郎を忘れちゃいなかった。──おい、どっちだい?」
「こっちごわす」
「お龍さんにいわせるとね、大五郎に強盗やらせたのも、大五郎を牢に放り込むためじゃなかったか、という。それを引受ける大五郎も大五郎だが、こっちはまた、主人の惚れた女が自分に惚れてることを申しわけながって、それでかえって強盗を引受けたんじゃあねえか、という。──まだかね?」
「あの河のそばごわす」
「網干のほうは、たとえ大五郎がつかまっても、決して本人のいいつけだとは白状しねえやつだと見込んでいたかも知れねえ、というんだな。そうは問屋が下ろさず、大五郎の白状じゃねえほかのことから、網干もつかまっちまう結果になったがね。──こりゃ、スキーをはいて来るんだった。ありゃなかなかいいもんだぜ」
「………」
「伊坂大五郎は、そういう男なんだ。そんな馬鹿な、可哀そうな男なんだ、と、お龍さんはいった。──フ、フ、別嬪さんの話だからいうことはみんな信じた気味もあるがね。おれが見ても、あれはそんな男に見えるなあ」
「………」
「どう見たって、網干のほうが、身分も頭も面《つら》もだんちがいに立派に見えるが、女って変なものさ」
「………」
「鬼瓦の一物自慢を笑った話を聞いておれも笑ったが、お龍さんの惚れたのはそればかりじゃあねえかも知れねえ」
うしろで、あらい鼻息が聞こえた。真壁長八がそこまで顔をつき出して聞いているのだ。
「先生」
真壁どころではなく、四郎助は口をさしはさんだ。
「網干の腕を斬ったのは、伊坂じゃなかとおっしゃるのでごわすか」
「なんで斬る必要がある? 三カ月もたちゃ、牢から出られる男だぜ。それに、匕首じゃ、あんなにうまく手首は斬れねえよ」
「では、だれが斬ったのでごわす。ほかにはだれもおりもさん。……まさか、網干が自分で斬ったとおっしゃるのじゃごわすまいな」
彼は息はずませていった。
「何よりまず、網干の右手はきのうの事故で繃帯で巻いたままごわした。御覧のごとく、拳《こぶし》も巻いたままごわす。それで左手が斬れるわけはごわせん!」
「そりゃ、そうだなあ」
「かりに右手があったとしても、匕首でああまでみごとに斬れんことは同じでごわしょう。おう網干は、失神する前に、やったのは伊坂で、匕首は河へ投げたといいもしたが……そもそも、網干が自分でやったとすると、鎖でつながれてそばにおる伊坂がそれに気がつかん──伊坂は、はじめそういいもした──ということがおかしか」
「伊坂はそのとき何をしておったといったかい」
「ああ……昨晩、網干が右手の傷の痛みで苦しむものじゃから、その介抱にくたびれて、そのときウトウトしておったといいもした」
四郎助は立ちどまった。河のふちであった。
「ここでごわす」
足もとにはまだ血がドロリとひろがっていた。土が凍っていて、なかなか吸い込まないのだ。地は低く、水は一尺にも足りぬ斜面の下を流れている。斜面には枯草が寒風になびき、河には無数の氷の蓮が流れているが、河っぷちは水の動きがにぶいのか、流れ寄る氷も停滞して漂っていた。
「氷は上のほうから流れて来るがね。──石狩川は蛇のように曲っておるから、こんな風に岸にたまって、それがつながってゆくのさ。河のまんなかへ、それから上流へとね。じゃから河いちめんに氷が張るのは下流の江別あたりからはじまって、それが逆に遡《さかのぼ》ってゆくところが面白い」
休庵は、河を見渡しながら、こんな気楽なことをいったあと、四郎助をふり返って、
「有馬君、あの秣《まぐさ》切りは、こないだ綱木ってえ囚人が、自分の足を斬ったやつじゃあねえかい」
と、いった。
「えっ、秣切り?……どこに、そんなものが?」
「すぐそこの河の底に──氷で見えにくいが、たしかに沈んでるぜ」
四郎助はむろん、送り狼みたいについて来た真壁も、われを忘れて岸に駈け寄って、水面をのぞきこんだ。そして、たゆたう氷の間から、水底にかすかにひっかっているものが、たしかに秣切りらしい、と、確認した。
それが、綱木和三郎が、鎖でつながれた汚物のかたまりのような赤川呂助と離れて死ぬために、みずからの足を斬った秣切りと同一のものであるかどうかは別として、そんなものがどうしてここに沈んでいるのか。──
「思うに、同じ秣切りだよ。調べりゃわかるだろうが、看守のだれかが、あのあと、あいつをここに捨てたんだ。おそらく草の蔭で錆《さ》びついていたものだろうが、そいつを網干が見つけ出したのさ」
と、休庵はいった。
「錆びていたって、片手が|すりこぎ《ヽヽヽヽ》だって、秣切りなら手首くらい斬れらあ。腕を刃物の上にのせて、もう一方の腕で押しつけりゃいいんだからな。足を使ったのかも知れねえ。ここにそんなものがあったってことは、伊坂には知らせなかった。かえって草で隠してたんだろ。網干がそいつで自分の腕を斬るのを、伊坂はほんとうに見ていなかった。あいつは鎖の先で寝っころがって昼寝してたんだよ。網干は自分でやってから、秣切りは河へ蹴り落した。──」
「………」
「してみると、きのう車に右手を轢《ひ》かれたってえのも、こいつも自分からやったことだね。昨晩、伊坂を眠らせなかったのも思案のあげくのたくらみかも知れねえ」
「なぜ、そんな途方もないことをしたんじゃ?」
と、真壁がさけんだ。休庵はいう。
「伊坂大五郎を罪に落すためだろう。だろう、じゃあねえ、網干が、匕首は伊坂が河へ投げた、など、ありもしねえ嘘をいったということが何よりの白状さ」
「馬鹿な! 痛い──痛いどころじゃない、さっきあんたが、もう助からんかも知れん、といったほどの所業を自分に加えるとは。──」
「そうまでしても、伊坂の放免をじゃましたかったんだ」
「な、なんのために?」
「これまで二人は、どう暮してたかね? あるいはあきらめて、平穏に暮してたかも知れねえ。しかし、あの女が伊坂を迎えに来た、と知ってから、あいつは地獄に堕《お》ちたのさ。以前東京でいちど堕ちた地獄より、もっとぬきさしならねえ、身の毛もよだつ無間《むげん》地獄へ。──自分が、文字通り地獄へ堕ちても、伊坂をあの女に逢わせたくねえと思いつめるほどの地獄へ」
珍しく休庵先生の声は沈痛であった。
「伊坂ははじめは驚いたが、すぐに気がついた。どういうからくりで腕を斬ったかわからねえが、ともかく網干の心中を見ぬいた。それで罪をひっかぶる気になった」
ジロリと真壁を見やって、休庵はいった。
「そんなむげえ主人を、あくまで主人として許そうとする。惚れる女があるのも無理はねえ。伊坂大五郎はそんな男だよ。……処刑など、とんでもねえ話だってえことがわかったか、この鬼瓦。納屋へいって、すぐに鎖をはずして、あの男の前に──女が誇った男の大魔羅にお辞儀でもして来い」
休庵先生は四郎助に眼を戻して、声をひそめていった。
「てめえで腕を斬ったやつは、放っておけ。あのままくたばらせてやれ。あいつにとってはそれがせめてもの慈悲だ」
おびただしい流血に、自分のたくらみが失敗したことへの絶望が加わってか、その翌朝に網干彦馬は息をひきとった。かつては有能な官吏であった男のあまりにも惨めな最期であった。
伊坂大五郎は一人になった。
無実の嫌疑から逃れたこともあって、本来なら三カ月後の釈放まで、いとわしい連鎖からまぬがれるところであったろうが、同日、はからずも別の連鎖の組の一方が欠けるという事態が出来《しゆつたい》して、機械的に彼は新しい連鎖につながれることになった。
五寸釘の寅吉と牢屋小僧の組だが、その朝から牢屋小僧が腹痛を訴えたので外役に出ることを免除され、その結果、余った五寸釘と大五郎が組み合わされてしまったのだ。
せっかく休庵先生が解いてやった鎖は、伊坂大五郎をまたヒョイと捕えた。それが彼の運命をふたたび変えた。
その日の夕方、作業を終ったころからふり出した粉雪《こなゆき》の中を、四郎助が囚人たちと最後の船で外役場から月形に帰って来ると、渡船場が何やら騒がしかった。
訊《き》いてみると、明日からもう船渡しは難しいようだ、例の籠渡しになるかも知れないということで、きょうのうち籠渡しの検査をやるというざわめきなのであった。なるほど、帰る船にも、一日ごとに厚くなった氷がぶつかり、何度もヒヤヒヤさせられた。
二条張られた針金のうち、対岸に渡る一条には一個の空籠《からかご》が吊り下げられてゆれている。
突然、その籠に二つの人影が乗り込むと、下の騒ぎがひどくなった。みんなそのほうに顔をむけて叫喚している。
籠に乗った影を、銃をふりまわしている堂目《どうめ》看守と、背後からその頸に腕をまわしている五寸釘だと認めて、愕然《がくぜん》として四郎助は駈け出した。
「騒ぐな、──騒ぎやがると、こいつの命はねえぞっ」
五寸釘は吼《ほ》えた。もう鼠色の空を吹く粉雪の中に、堂目看守の馬面がうす黒く変り、口や鼻が苦悶にねじれるのがはっきり見えた。
「おとなしくしてりゃ、殺しやしねえ。こいつはあっちの岸に置いておく。逃げるのはおれだけだ。──五寸釘が逃亡したって、樺戸監獄の恥にゃならねえ」
高笑いした寅吉の顔が、魔法のように、空中を遠ざかった。
片手で堂目看守の頸を絞めつけたまま、もう一方の腕で滑車にかかった縄をたぐって、二人を乗せた籠はみるみる向うへ滑り去ったのである。
あとで聞くと、吊られたばかりの籠へ、堂目看守があっというまにさらい込まれたという。
ほかの囚人と鎖でつながれていたはずの五寸釘が、まさかそんなことをしようとは想像もしなかったせいもあるが、膂力《りよりよく》の強い堂目看守を片腕で捕えて離さないどころか、片手で猛烈に縄をたぐって籠を動かすとは実に怖るべき力であった。
四郎助は夢中で騎兵銃をあげた。
「おういっ。──有馬の旦那──」
河の上を、五寸釘の声が流れて来た。
「あんたにゃすまねえが、おれは逃げなきゃならねえわけがあるんだ。アメリカへゆく女房と娘を、横浜の港で見送ってやらなきゃならねえんだよ。わかってくれっ」
声は風にちぎれ、ほかの人間にはわからなかったかも知れない。しかし四郎助の頭には、五寸釘のあの哀切な物語が浮かんだ。反射的に彼の指は、ひきがねにかかったまま硬直してしまった。
「何をしとるか、撃てっ」
飛んで来た真壁看守長が怒鳴り、なお発射しない四郎助からその銃をひったくり、肩にあてた。
「待てっ」
これも駈け寄って来た騎西看守長がわめいた。
「危いっ──貴公の腕じゃ、堂目を撃つ──やめろっ」
実際に、五寸釘は堂目看守をこちら側に向けて盾とし、しかも籠は烈しくゆれながら、粉雪の吹きめぐる夕闇のかなたを、滑車の音とともにもう五十メートルも遠ざかっていた。
「堂目が撃つなら大丈夫じゃろうが」
射撃のうまいその堂目看守が人質になっているのだ。
「しかし、あちらへ逃げても、あの野を逃げ切れるものか。どこかで凍死するのがオチじゃ。放っておけ」
と、無念げにいってから、人質になった堂目看守のことに気づいたらしく、急にあわてて、
「おいっ、もういちど船を出せっ、船で追っかけろっ」
と、船着場のほうをふりむいて、ひっ裂けるようにさけんだ。空籠《からかご》はほかにあるが、まだ針金にとりつけてなかったのである。
百メートル近い石狩川の夕空に、脱獄囚と看守を乗せた籠は、雪にけぶってもう見えなかった。
流氷の危険をおかして、一艘の船がまた対岸に渡っていった。乗っているのは看守長と看守ばかりだ。むろんその中に、有馬四郎助もいた。
実際、すぐに追いかけていってよかった。捜索の結果、堂目看守は、納屋の一つに、真っ裸にされて、ふんどしで縛られて、気を失って転がっていた。放っておいたら凍死したに相違ない。
かつていくたびとなく内地の法の檻を破った明治の大盗が、看守の制服も靴も銃も奪って、北海道の曠野《こうや》の闇のかなたへまたも姿を消したことは疑うべくもなかった。
夜にはいって、粉雪は吹雪にちかいものになった。
大変な騒ぎも一応おさまったあと、集治監の宿直用の看守室で、ひとり四角な大火鉢の炭火で暖をとりながら、四郎助は雨戸を通して聞える吹雪の声に耳をすませつつ、逃亡した五寸釘のことを考えた。
この吹雪の中を、あの男は、夜の大平原を無事に逃げられるのだろうか。ふつうの人間なら、騎西看守長がいったように、どこかで凍死するのがオチだろうが、五寸釘なら、もしかしたら逃げ切るのではないか。それに、獄衣に、奪った堂目の制服と合わせ二重の衣服を持っているのだ。
せめてあの銃を使わないでくれ。──
四郎助は、突然、自分が五寸釘の逃亡の成功を──彼の妻と娘のために──どこか期待しているのに気がついて、だれも見ていないのに、ちょっと間の悪い表情をした。
それからまた、ぎょっとした。
五寸釘が、あの物語を終えたあと、「……お蝶は、ことしの暮にゃ、小雪といっしょにアメリカに渡るんじゃあねえかと思いやす。それであっしゃ、そのときかげながら見送りにいってやろうか、どうしようかって、いまも迷っているんでさあ」と、つぶやいたことを思い出したのだ。
まったく無意味な世迷い言かと思っていたが、いまにして思い当る。──きゃつ、あのころからきょうのことを頭に描いていたのだ!
それから、さらに、どきっとした。
きょうの脱走が出来たのは、何よりもまずきゃつが外役に出ていたからこそのことだ。危険人物の彼が外役に出られたのは、いつぞやの監獄内での囚人の叛乱のとき、事前に五寸釘が密告し、そのおかげで騎西看守長が鎮圧した褒美《ほうび》としてだ。その囚人たちの叛乱は、その前の作業場出火事件の余波として起ったのだ。──
はてな?
ひょっとすると、五寸釘がみんな糸をひいていたのではないか? あの囚人たちの無謀な叛乱も、きゃつが牢仲間の仁義とか何とか焚《た》きつけたものであり、さらに、そもそもあの奇怪な火事騒ぎのもともきゃつではなかったか?
まさか?
四郎助の頭に、また五寸釘の笑うような言葉が、とぎれとぎれによみがえった。「……ちょっと思うところがあって、牢仲間の仁義ってなものをみんなに教えてやったんです。……あれはあれっきりの、まあ、あんな騒ぎを起させる方便で。──」
まちがいない。五寸釘は、樺戸に来たときからきょうの脱走の工夫ばかり練っていたのだ。
しかも、完全におれを愚弄しおった!
四郎助は、ばね仕掛のように立ちあがった。まるで、殴られてから数時間たって飛び上ったような滑稽さであったが、彼はむろん怒りに顔を真っ赤にしている。
頭を掠《かす》めたのは、このことを、五寸釘の相棒たる牢屋小僧が知らないはずはない、ということであった。きゃつ──けさ腹痛とかいって五寸釘と離れたのは、五寸釘の逃亡を知っての上でのことではなかったのか?
四郎助は、つかつかと部屋を出て、第三雑居房のほうへ歩いていった。彼は深夜であることも忘れていた。
廊下の天井には高くボンヤリと洋燈がぶら下がっているが、房内は暗い。ただいびきや歯ぎしりの音は聞える。
「牢屋小僧おるか」
と、声をかけると、中でざわめきが起り、数分たって、格子の向うに、髪のばさとかぶさった痩せた顔が浮かんだ。
「お前……五寸釘の脱獄を承知しておったのじゃなかか?」
牢屋小僧はそれに答えず、しばらくしてひとりごとのようにつぶやいた。
「あいつ、暮まで横浜へ、間に合うかなあ? 暮までもう何日ですかい?……あいつだから、何とか間に合うかも知れねえが。……」
片眼だけ燐《りん》みたいに光っているのが、ニヤリとしたようだ。
「いえ、なに、あいつの話をほんとうだとするならってことで……おれは信用しちゃいなかった。だから、まさか逃げるとァ思わなかったよ」
こいつも人を食ったやつだ、と四郎助は思った。しかし、同時に新しい疑問が生じた。牢屋小僧の弁明を無視して、彼はいった。
「お前、どげんしていっしょに逃げなかったのか」
「この雪じゃ、逃げてもてきめんに凍《こご》え死《じに》だよ。だいいち、あいつと一蓮托生はいやだよ」
それから彼は、一冊の小さな本をかざした。それは四郎助が、彼にもう返してしまった聖書であった。
「それにおれは奇蹟ってえものを信じるんでね。それを待ってるんでさ。……」
「奇蹟?」
四郎助が眼をぱちくりさせて訊《き》き返したとき、吹雪の向うで、獣のうなるような声が聞えた。
「あ、ありゃ何か?」
「あれは伊坂大五郎でさあ。……」
「伊坂? 伊坂がどげんしたか」
「真壁看守長がね、伊坂を中庭にひきずりだして、立木に縛りつけたんで。──」
「えっ、いつ?」
「二時間ほど前。──」
牢屋小僧は持ち前の陰気な声をいよいよ陰気にして、つぶやいた。
「まさか、あの男が五寸釘とつながれようとァ、おれも思案の外だったよ。……」
──五寸釘寅吉と連鎖で組み合わされたのは、まさに伊坂大五郎であった。
きょう五寸釘が逃亡したについては、むろんそのあと、伊坂もとり調べられた。が、その連鎖がどうしてはずれたかは、大五郎にも全然わからないという。ただ渡船場で、突然自分から離れて五寸釘が躍り上り、近くの堂目看守をひっさらって渡し籠に乗り込んだので、彼もあっけにとられて見送ったままであったという。──そのとり調べには、四郎助も立ち合った。
「そんなはずはない!」
と、大五郎は、騎西、真壁両看守長から殴打された。しかし、それ以上、どうすることも出来なかった。だいいち、大五郎は逃亡しなかったのだ。で、訊問はともかくそれで終ったと思っていた。
それが、そうではなかったらしい。真壁看守長は、あとでまた伊坂をひきずり出したらしい。そして、この吹雪の中で、立木に縛りつけたという。──
四郎助は第三雑居房の前を離れ、廊下を、いま声のした中庭の方へ歩いていった。
すると、どこかで戸のあく音がして、廊下の向うから、真壁看守長が真っ白な怪物をひきずるようにしてやって来た。
四郎助とゆき逢うと、真壁はあごをつき出すようにしていった。
「五寸釘を逃がした罰じゃ」
四郎助は息をのんだ。伊坂大五郎の顔は、眉も鼻も耳も、氷の玉にひかっている。全身、雪の石膏《せつこう》に塗りかためられたようだ。知らなかったら、だれかわからなかったに相違ない。
「あのおかげで、堂目看守はこの寒中に裸にされて転がされておった。いま、高熱を発して寝込んでおる。それを思うと、こいつもこれくらいの罰はやむを得ん」
真壁看守長は、片手の乾いた獄衣を見せた。
「心配するな、殺しはせん。それどころか、この通り、代りの着物まで持って来てやった。──来い」
そして、真っ白な伊坂大五郎を曳いて、廊下に点々と雪をこぼしながら、第三雑居房のほうへ去っていった。
二、三日後、四郎助は、伊坂大五郎の陰茎が落ちたことを知った。
そして彼は、あの夜、真壁が、小便だけは自由にさせてやる、といって、立木に縛りつけた伊坂のそれを外気にさらしたままにしていたことを知った。──で、その部分が、重症の凍傷にかかって、壊疽《えそ》を起して脱落したのである。
看守による囚人の私刑《リンチ》もまれではない、ということを、いくどか見聞しはじめていた四郎助も、これには凄惨の気に打たれないわけにはゆかなかった。真壁看守長は、べつに処罰もされなかった。
暮の三十一日の早朝、四郎助が集治監への雪道を歩いてゆくと、門の前の通りを、向うからやって来るアイヌ風の休庵先生の姿を見つけた。門の前をゆき過ぎて、
「おや、先生、こんなに早く、どこへ?」
と、四郎助は呼びかけた。
「おう、有馬君か、これはいい人に出逢った」
と、休庵はいった。
「ちょいと、監獄へ」
「何しに?」
「真壁看守長の動静を訊《き》きに」
四郎助は、けげんな顔をした。白い息をみだして、休庵はいう。
「河骨屋から頼まれたんだ。昨晩、真壁が河骨屋に来たそうだ。そして、あのお龍さんといっしょに河向うへ出かけたという」
河向うは、一軒の人家もない大平原だ。
「それっきり、けさになってお龍さんが帰って来ない。それで真壁看守長はどうしたか、監獄へいって訊いて来てくれということでな」
「二人が?──夜に、でごわすか。なんのためにでごわす?」
「さあ、それには変ないきさつがあったらしいが──きょうも外役に出るのかね」
「いえ、囚人に休日はごわせんが、外役だけは、きょうと正月三ガ日だけは休みの予定ごわす。それにしても真壁看守長と、あのお龍さんが?……ちょっと待って下され、真壁看守長はきょうは出勤するかせんかわかりもさんが、一応訊いて来ましょう」
「待て待て、それより、お龍さんまで帰って来ないのがどうも気にかかる。それに、きょうだれも河向うにゆかんとすると──」
休庵は首をひねった。
「おれはこれから、ちょっと河を渡っていって見て来ようと思うが、お前さんもゆくかね?」
まるで狐につままれたような話であったが、そうと聞いては四郎助も同行せずにはいられなかった。出勤は遅刻することにして、渡船場へ急ぎながら、四郎助は訊いた。
「変ないきさつとは何でごわす」
「昨晩、真壁が河骨屋に来てね、亭主をおどして、とうとうお龍さんにいうことをきかせることになった。すると、お龍さんがいったという。こないだ網干彦馬さまが亡くなったそうだが、考えてみればあのかたも、自分のために監獄にはいるようになったもの、亡くなったもとになった怪我をしたのは、石狩川の向うの岸辺だということだから、そこにいちどお線香でもあげにゆきたい、それがすんでから身をまかせよう、とね」
「あの女が? 網干彦馬のために、そんなことを──」
四郎助は腑《ふ》に落ちない顔をした。しかし、お龍と網干の関係はよく知らないから、その心理についても見当がつかない。
「すると真壁が、そこに線香さえあげたらいうことをきくか。それじゃ、これからすぐにゆこう、といった」
「夜に、でごわすか」
「左様。とにかく真壁はぐでんぐでんに酔っぱらっておったそうじゃ。で、二人は出かけた。あの渡し籠に乗っていったものと思う」
その渡し籠はすぐ眼前にあった。二人は渡船場に来ていた。
朝の光に、河面には氷がひかっている。もう流氷とはいえない。河そのものの凍結がはじまったようだ。
二人は、渡し籠に乗った。綱をたぐると、滑車がまわって、籠はその氷の大河の上を動き出した。
「どうだ、絶景だろう」
身を切るような風の中に、まわりを見まわして、こんな場合にも腰にぶらさげている徳利をラッパのごとく口にあてて、
「氷見酒《ひみざけ》じゃ」
と、笑った。それから、いった。
「おい、伊坂大五郎の魔羅が落ちたそうだな」
「えっ? 御存知ごわすか」
「おとといの晩にも真壁が河骨屋に来て、酔っぱらって、お龍さんにいったそうだよ。──いつかのお龍さんのタンカ、お笑いぐさだと思っていたら、きゃつにとってはお笑いぐさではなかったらしい。あの鬼瓦め、ただ荒っぽいだけの狒々《ひひ》男かと見ていたら、案外タチのわるい野郎だな」
四郎助が息をのんで見つめると、休庵先生はまた一口のんで、しずくをぬぐって、空を見た。
「ともかく、あの二人は昨晩ここを渡った。月があったから、この世のものとは思えぬ眺めじゃったろう」
その前夜だ。
提灯《ちようちん》は一つお龍が持って来たが、満月を過ぎたばかりの月が、氷の河を照らしていた。蒼白な光にすべてが濡れた妖異の世界であった。
そんな風景も眼にはいらないかのように、真壁長八は途中で綱をたぐる手をとめて、お龍を抱き寄せた。今夜の変な用件をすませたあと、という約束だが、この籠に乗っては、もう相手は逃げようがない。
お龍はちょっと抵抗したが、そのはずみにそばに置いた提灯が倒れて火が消えると、そのままおとなしく唇をまかせた。
その唇の柔かさと匂いたつ芳香に夢中になり、調子にのって真壁長八は、片手をお龍の襟からつっ込もうとした。
「あ。……いけない」
お龍は身をよじらせた。
「いいじゃないか」
「いえ、提灯が消えてしまったわ」
「この月じゃ提灯はいらん」
「でも、寒い」
「寒くなんかない。おれは、あつい」
彼はまだ酔っぱらっていた。酔いと欲望に、下半身から炎が燃えあがるようであった。
「それに、お前の身体もあついじゃないか」
「こんな宙ぶらりんのところじゃイヤ。とにかく、早くいって」
真壁長八は笑って、また籠を動かし出した。
月が、向い合った女を照らしている。いま吸ってやったばかりの唇が、なまめかしくあえいでいるのが見える。──
真壁長八は、昔、北陸で兵隊をやっていた男であった。彼ははじめてお龍を見たときから、こんなにきれいな、こんなに色っぽい女は見たことがないと見とれた。お龍が、彼のまだいったことのない東京の深川の芸者だと聞いてから、その憧憬《しようけい》と執念はいっそうかきたてられた。──その妖艶な顔が、いま満月を浴びて、神々《こうごう》しいばかりに見える。
この女を、とうとう抱けるのか。
実をいうと彼は、この夜ふけに外役場にゆくなどという途方もない女の願いをきいてやったら女を抱けるという愉しみより、まずこの女と二人だけになれることがうれしくて、その願いをきいてやったくらいである。
いって、帰るのもまどろっこしい気持だ。──彼は、猛然と綱をたぐった。
対岸についた。そのとき彼は、平行して走る針金にもう一つの空籠《からかご》がぶら下がっているのを見たが、べつに何とも思わなかった。
「どこでござんす」
「あっちだ」
と、彼は指さした。
「河っぷちだが、岸沿いにはゆけん。こっちの野原を廻ってゆくほかはない」
二人は歩き出した。
夜にはいって雪が凍って、注意して歩けば雪沓《ゆきぐつ》をはいた足も沈まないほどの寒さであった。大空の月、地上の雪、一帯は蒼白な光に満ちて、なるほど提灯なんかいらない。
三百メートルばかり歩いて、そうだ、何もほんとうにあの場所へゆく必要はない。いいかげんなところでいい、と、真壁が気がついたとき、
「旦那、マッチをお持ちじゃない?」
と、お龍がいった。
「いや、おれは煙草を吸わんから。──お前、持っておらんのか」
「それが、持って来たつもりだったのにいま探してみるとないんです。さっきお店を出るとき提灯をつけて、そのまま置いて来ちまったらしいんです」
「提灯はいらない」
「でも、お線香つけるのに、火の気《け》がなくっちゃ」
「ああ、そうか」
「こまったわねえ、どこかにマッチがないかしら?」
お龍は近くに見える丸太小屋を指さした。
「あそこにないかしら。昼間、火を焚くこともあるでしょう?」
いかにも作業中に焚火はするが、その作業道具の収納小屋にマッチが置いてあるかどうかは自信がない。──しかし、さすがに彼も酔いがやや醒めるとともに寒気をおぼえて、
「よし、探して見よう」
と、その納屋に近づき、戸をあけて、中にはいった。
中は、真っ暗だ。かんじんのマッチがないので、探しようがない。鍬《くわ》やシャヴェルらしいものを手探りしているうちに、二人はもつれ合った。
よろけるお龍を抱いて、彼はまた顔に顔をおしつけた。こんどはお龍は自分から応え、舌さえからませた。のみならず、手が真壁の股間にふれて──くすっと笑った。
「火はいらん! マッチはいらん!」
真壁長八は、またくらくらと好色の炎にあぶられ、こんどは頭まで熱くなった。あの、あこがれていた女が、こんなことまでしてくれる!
「もうたまらん、お龍、いいだろ? な、いいだろ?」
「ま、こんなところで──寒いじゃありませんか」
「いま、あつがらせてやる。何よりの寒さふせぎじゃ」
彼は女をおし倒した。
寒さふせぎどころか、彼は寒気に無感覚になって、片手でズボンをぬいだ。闇の中で、女の手とからみ合う。あらがうのではなく、かえって挑発する女の手のうごめきであった。鍬と鍬の相ふれるような金属音が聞え、裸になった足にシャヴェルのようなものが触れたようだが、全然気にしない。
彼は夢中で女の裾をかきひらいていた。自慢のものが、熱い、柔かい肉に触れた。──同時に、片方の足くびに、カチンと冷たく、かたいものがはまった。
「はてな?」
と、はじめて異常をおぼえて、彼はそちらに手をやった。
「連鎖よ」
「なに?」
「休庵先生にもらったの」
真壁は、女の身体の上から転がり落ちた。
「き、きさま。──」
「監獄から手にいれたものに、休庵先生が細工して、鍵をかけなくても、はめたらはずれない足枷《あしかせ》ですって──ホ、ホ」
「こいつ、だましたな?」
さけんで、両手で女の頸あたりにつかみかかろうとした真壁の耳に、そのとき遠くで、カラカラという変な音が聞えた。変な音──聞きおぼえのある音だ。
「あ、あれはなんだ?」
「渡り籠の滑車の音」
「なんだと?」
「休庵先生が一つの渡り籠に乗って、わたしたちが乗って来た籠も縄で引っぱって、月形の町へ帰ってゆく音」
真壁は泳ぐように外へ飛び出そうとして、つんのめった。足くびにはまった鉄環から鎖がのびて、何かがひきとめている。
「わたしを殺しなさい。けれど、わたしの足にも連鎖がはまっている」
「………」
「なぜわたしがこんなことをしたか、お前は知っているはずよ」
「………」
「ありがたいと思うがいいよ、二人が向じ氷の蓮に乗ったことを」
「──畜生っ」
彼の鬼瓦みたいな顔は、朱《あけ》に染まった。
真壁長八は起き上り、怖ろしい勢いで足を踏み出した。ズルズルと女が、横になったままひきずり出された。
彼は自分の足くびの鉄環をなぐり、女の足くびの鉄環をひっぱった。そして、それが絶対にはずれないことを知ると、女をひきずったまま、また河の方角へ向って駈け出した。
あの渡り籠を持ち去られては、ほんとうに町に帰るすべがないのだ。氷はまだその上を歩いて渡れるほどにはなっていない。
見えた。──しかし、その籠は、河の上を、いかにも遠く月光に霞みつつ、小さく消えてゆく。
百メートルゆくのが、死物狂いであった。鎖と女を片足でひきずる不自然な労力のために、彼はまさにこけつまろびつした。
「おおいっ、待て、休庵!」
たとえ河のふちに達しても、声は町へとどかなかったろう。氷の大河は川幅百メートルはあった。
「樺戸集治監の看守長をこんな目にあわせて、その酬《むく》いを知っておるか。──」
そこへなお百メートルを余して、無意味なのどをしぼり、そこで彼は精力と脚力を消耗しつくして、ついにへたばった。雪の中にどうとへたり込み、肩で息をし、改めて殺気に血走った眼で、自分がひきずって来た物体をふり返った。
女は無惨な姿であった。黒髪は海藻のごとく解けて雪の上を流れ、それでなくとも乱れていた衣服は、ここまで来る間に裂けて、ほとんど半裸だ。その足くびにはまった鉄の環のあたりから血がいくすじかの糸をひいている。彼女は失神していた。いや、もう死んでいるかも知れなかった。それが、ひきずられる苦痛のためというより、凄じい寒気のためだということに、すぐに真壁は思い当った。
へたり込んでいると、怖ろしい寒気が這い上って来た。下半身は裸であった。彼の足くびからも血が流れていた。鉄環の傷よりも、鉄環そのものの冷たさから、全身が凍って来た。
「おおいっ、おおいっ、助けてくれえ!」
真壁長八は、恐怖の極限の声をあげた。死んでもつながっている美しい女は、いまや憎悪のまとではなく恐怖の物体であった。
しかし、いかに泣きさけんでも聞く者はない。ここは蒼々たる雪の大平原のまっただ中であった。
彼はまた憑《つ》かれたように鉄の環をたたき、無益と知り、ふたたびよろめき起《た》ち、女をひきずって歩き出し、何百回目かの転倒を繰返しはじめた。氷盤のような満月が、この虫ケラの苦悶のうごめきを冷たく見下ろしていた。
有馬四郎助は、外役場の一角に、二個の男女の屍骸を見下ろして、しばし声が出なかった。透徹した朝の光の中に、半裸の二人の身体は、無数の傷の血痕と、無数の氷の珠と簾《すだれ》に覆われているように見えた。
ややあって、彼はつぶやいた。
「女は、死ぬことはなかったでしょうに。……」
四郎助と同様、ここに来て、はじめてこれを発見したはずの独休庵は、憮然としていった。
「どうしても、自分の手で殺《や》りたかったそうだ。そして、あと、どうしても死にたかったそうだ。……」
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西郷《さいごう》を撃《う》った男《おとこ》
年は越えて、明治二十年になった。
雪のふる日が次第に多くなった。数日、二、三センチずつふることもあり、一夜に十センチくらいつもることもあった。石狩川はもう流氷ではなく、まったく凍結し、それに雪がつもって、徐々に厚味を加えていった。
正月早々、囚人たちは「氷橋《こおりはし》」作りに駆り出された。
籠渡《かごわた》しは何といっても能率が悪い。河が結氷すれば、歩いて渡れるからこのほうが便利だ。ただ、歩いて渡れるとはいうものの、怖ろしいでこぼこで、それにときどき割れたりするところがあって、完全に安心というわけにはゆかない。そこで、渡船場からこの氷橋というものが作られる。
それは、この土地で手芝《てしば》と呼ぶ柳の一種の枝を集め、幅二間、厚さ一尺くらいに敷きつめて河を横断させる。するとこれに氷片がくっつき、手芝を|しん《ヽヽ》にした鞏固《きようこ》な氷の土手となり、人馬共に往来出来るようになるのであった。
なにしろ河幅が広いから、二日や三日で出来る作業ではない。手芝を刈り集めることさえも一仕事である。月形の町の人々も出て来て手伝った。むろん、双方がいり混らないように、看守が銃をかかえて徘徊し、監視している。
一月九日の昼過ぎ、渡船場で銃声が起った。
むろん、みんな、はっとしてそちらへ顔をむけたが、すぐほっとした。ちょうど昼休みの時間で、看守長と看守が二人戯れに騎兵銃で野鳥撃ちをはじめたことを知ったからだ。
五十メートルほど下流に──いちめんの氷の河面《かわも》だが、そこに何かがあると見えて、紫褐色の羽根と黄色い尾を持った美しい鳥のむれが下りていた。どうやら黄連雀《きれんじやく》らしかった。
それをめがけて、一人が撃った。
鳥たちは羽ばたいていっせいに飛び立ったが、なお数羽残って動いていた。命中したものはなかった。
それを、もう一人が撃った。
これも命中せず、こんどはみんな舞い立った。
遠くから笑い声があがったが、二人の周囲に笑う声はなかった。それが看守長と看守の中でもいちばんおっかない騎西銅十郎と堂目《どうめ》七郎次だったからだ。あとから撃ったその堂目看守が、ふいに横をむいてわめいた。
「きさま、なぜ笑った?」
相手は、二間ばかり離れたところに立っている連鎖の囚人の一人であった。
「おれは笑わない」
と、その囚人は低い声で答えた。
たまたま近くにいた有馬|四郎助《しろのすけ》は、ああいかん、と思った。
堂目看守は、暮に逃亡した五寸釘の寅吉の人質になって、外役場の納屋に丸裸にされて放り出されたおかげで、その夜から四十度近い高熱を発して寝込んだ。いちじはどうなることかと思ったほどであったが、その大きな身体は生命力をたっぷり持っていたと見えて、年が明けるとともに異常な速度で回復して、おとといからもう出勤出来るようになった。
が、元来凶暴性があるところに、あのときの屈辱感が燃えあがったらしい。みんな、かげで笑っているにちがいない、と、邪推もしたようだ。そのむかっ腹が囚人に向けられて、もう三、四人、殴り飛ばされたやつがある。
その犠牲者がまた出るな、と見ていると、果して堂目看守はつかつかと歩いていって、その囚人の前に立った。
「嘘をつけ、いま、歯が見えたわい」
「そりゃ、歯がある以上、見えることもあるさ」
理屈はその通りにちがいないが、この看守に向って、不敵な口のききかたであった。四郎助はその囚人を知っていた。第四雑居房の浜田友太郎という男であった。
案の定、堂目の蒼白く長い顔が赤く染まった。
「おれをなめるか、やいっ」
彼は右腕をあげて、囚人の頬をこぶしで殴った。
「笑ったら、笑ったといえ、この卑怯《ひきよう》者」
たいていの人間が、この堂目に張り飛ばされたらひっくり返るのに、この相手は、頭さえ微動もしないように見えた。彼は四十半ばの痩せ気味の男であったが、ふだんから鋼鉄の鞭みたいな感じがあった。
堂目は激怒して、また吼《ほ》えた。
「しぶといやつだ。きさま、堺事件で卑怯者の汚名を残しただけのことはあるな」
すると、その浜田友太郎は、四郎助があっとさけんだようなことをやった。堂目看守の頬げたを、逆に殴り返したのである。
思いがけなかったせいもあったろうが、大男の堂目七郎次が一回転してよろめいた。
向き直ったその顔は、もはや完全に理性を失ったものであった。彼はそのまま一間あとずさり、左腕に持っていた騎兵銃を肩にあてがった。
それが即座に発射されることを予測して、四郎助は髪も逆立った。すでにいままで、逃亡を計った囚人を五人も射殺したといわれる堂目だ。四郎助ばかりではなく、騎西看守長もほかの看守も、その場にいた囚人すべてが、惨劇の予感に硬直したようであった。
そのとき、鎖の音がして、一人の人間が動き出した。浜田友太郎と連鎖でつながれている橋詰愛兵衛という囚人であった。
年齢は浜田より二つ三つ年上だろう。体格はいいが、巨漢というほどではない。堂目看守よりだいぶ背が低い。にもかかわらず、鎖のひびきより大地を踏む蛩音《あしおと》のほうが地ひびきする感じで、堂目よりも大きな印象があった。それがななめに歩いて浜田の前に立ちふさがった。
「じゃまするか!」
堂目七郎次はさけんだ。
しかし橋詰愛兵衛はそのまま足をとめず、堂目看守のほうへ歩いて、その騎兵銃の前に立った。ちょうど顔のあたりに銃口が──ほかの人間の眼には、ピタリとくっついたように見えた。
「どけ、撃つぞ!」
「撃て」
と、橋詰はいった。
数十秒、すべてが凍りついた。
それから人々は、銃口が細かく浮動しはじめたのを見た。凶暴な堂目七郎次がふるえ出したのだ。指はひきがねにかかっている。銃のどこかがカタカタと鳴る音が聞え、次の瞬間、轟音《ごうおん》とともに囚人の顔面が四散するのではないかと、四郎助はじぶんの頭蓋骨まで炸裂《さくれつ》しそうな恐怖に打たれ、しかも身動き出来なかった。
「休庵先生、何なさる」
声を出したのは、騎西看守長であった。
四郎助はふり返り、いつのまにかそこに、瓢然《ひようぜん》と独《ひとり》 休庵《きゆうあん》が立っていて、一挺のピストルを浜田に渡そうとしているのを見た。
「勝負あったようだ」
と、休庵は薄笑いしていった。
「さすがは堺事件の豪傑橋詰愛兵衛じゃね」
「囚人にピストルを持たせて……どういうつもりか」
と、騎西はわめいた。
ピストルはかねてから休庵先生が所持しているものにちがいないが、それを浜田友太郎はつかんで、まっすぐに堂目に向けている。──堂目の銃が鳴れば、これもまた火を噴くにちがいなかった。
「なに」
と、休庵は、その浜田の腕をとらえて、河のほうへ回した。
「これはこの男に、ちょっと鳥でも撃たせて見ようと思ってね。……なにしろ、猟師をやっていたと聞いたものじゃから」
「撃っても、ようがすか?」
と、浜田がいった。
「え?……うん、鳥をだぜ」
急に休庵がまごついて念を押したのは可笑《おか》しかった。
「では、三発ほど」
と、浜田はうなずいた。
さっき逃げた黄連雀のむれは、また同じところに舞い戻っていた。それをめがけて、一発の銃声がひびいた。鳥はぱっと飛び立った。あとに一羽だけ、動かずに残った。つづいて、二発鳴った。舞いあがったむれのうち、二羽が落ちてこれも横たわった。
「ほう?」
ピストルを貸したくせに、休庵先生はあっけにとられた顔であった。
「お前さん、たいしたもんじゃあねえか。それほどまでとは思わなかったよ」
そこにいたものすべて、唖然《あぜん》として声もなかった。
「ありがとうごぜえました」
浜田友太郎は、ニコリともせず、ピストルを休庵に返した。彫りの深い顔には、沈鬱の翳《かげ》があるばかりであった。
午後の作業の開始を告げるラッパの音が聞えた。
人々が氷橋を作る仕事──もう七分通り出来た橋、橋というより土手といったほうが当っているが、昨日以前に出来た分は、もう氷結して、ほんものの土手のように固くなっている。その上を、手芝を背負ったり車に乗せたりして人々が運んでいる光景を、独休庵は、渡船場に揚げられた空船《からぶね》の中で、ときどき徳利を口にあてながら、お祭でも見るように、面白そうに眺めていた。
「おいおい、有馬君」
と、ふいに呼びかけた。
近くを通りかかった四郎助がやって来た。
「どうだ、あの二人に、馬はかみつきゃせんかね」
と訊《き》く。
四郎助にはすぐにわかった。馬面の堂目看守が、自分に反抗した二人の囚人に乱暴してはいないか、という意味だ。
「は、いまのところ、大丈夫らしかごわす」
と、彼は答えた。これから先のこととなると、自信がないが。──
「なにぶん、さっきの事《こつ》にゃ、度胆《どぎも》をぬかれたようでごわすで」
まったく四郎助も、あれには胆を奪われた。ピストルの件もさることながら、それ以前に浜田友太郎が堂目を殴り返したこと、橋詰愛兵衛が堂目の銃口にみずから顔をあてがったこと──実に、想像していた以上に剽悍《ひようかん》な二人で、さしもの堂目も圧倒されたようだが、それだけにこれから先、どうなることかと思う。
「なにしろ、人間離れして凶暴なやつだからな。何ならこの休庵が、いつでもあの堺事件の豪傑にピストルを渡すといっておったと、伝えてくれ」
と、いって、またグビグビと飲んだ。そんなことは伝言出来るものではない。
それはまたあとの心配として、四郎助は休庵先生の言葉に関心を持った。
「先生は、あの二人について御存知ごわすか」
「君は知らんのか」
「いや、昔、フランスの兵隊を殺して、切腹せんけりゃならんところを助かった人、っちゅうくらいしか知りもさん」
その二人は、かねてから四郎助の注意をそそっていた。強盗、強姦などの破廉恥罪で徒刑となった大半の囚徒の中でも、その容貌や態度に目立つものがあったからだ。といって、べつに両人が特別にいい男であったわけでも、気品があったわけでもないが。──
とくに四郎助の眼をひいたのは、兄貴分にあたる橋詰愛兵衛のほうであった。いま休庵が豪傑と形容したが、まさにその通りだ。炯々《けいけい》たる大きな眼玉、大武将みたいな|ひげ《ヽヽ》──その堂々たる風貌より、なお人を圧するのは全身から放射される豪快の気迫だ。それは囚人のみならず、看守たちをも圧した。
ただ、みてくれの豪傑ではない。この男には、実績のうらづけがあった。それがつまり、堺事件だ。
「いやなに、おれだってそれほど詳しく知ってるわけじゃあねえが、ただこの月形にながく住んでると、集治監の連中についても、何かと耳にはいることがあるんでね」
と、休庵はいう。
「その堺事件だが、むろんおれもあとになって聞いた話だよ」
と、話し出した。
「たしか明治元年二月半ばのことだ。鳥羽伏見のいくさに勝って、官軍はトコトンヤレナと江戸へ進軍中だったが、その背後の泉州《せんしゆう》堺で大事件が出来《しゆつたい》した。堺の港にフランスの軍艦がやって来て測量をはじめ、そのうち一部の水兵が上陸して来てあたりをぶらつき、女をからかったり神社仏閣にいたずらをはじめた。堺の警備にあたっていた土佐藩兵が急行してもみ合いになり、そのうちフランス兵どもは短艇に乗って、沖の軍艦へ逃げ帰ろうとした。それをめがけて土佐藩兵が射撃し、十一人のフランス兵が射殺されたという事件よ」
「………」
「さあ、大変なことになった。いくら幕府に勝ったって、うしろで馬関戦争の二の舞いがはじまっちゃたまらねえ。フランス側に平謝りに謝った末、莫大な謝罪金のほかに、とにかく撃った土佐兵を二十人切腹させるからかんべんしてくれろ、ということになった」
「………」
「はじめ向う側は、殺されたフランス兵の倍の二十二人処刑しろといったらしいんだが、談判の結果二十人に値切ったらしいんだがね。そのとき土佐藩兵は二小隊から成っていて、それぞれの隊長と小頭《こがしら》合計四人は責任をとらなけりゃならんが、あと十六人必要だってえことになった、ところがね、現場にいた土佐兵は七十人ほどだってえことで、そのぜんぶが鉄砲を持ってたわけじゃなかったろうが、とにかく撃った者が十人や二十人じゃあねえってことはわかっていた。ただし、だれが撃って、だれの弾が命中したか、いくら調べたってわかりっこねえ」
「………」
「そこで土佐軍監府のほうじゃあ、射撃した者は正直に名乗り出ろ、といった。名乗り出ることはすなわち死ぬことだから、こりゃ冗談じゃあねえ。こいつは、はからずも人間の勇怯をためす怖ろしい問いとなった」
「………」
「その結果、おれが撃った、と名乗り出た者が二十五人あった。そこで、それ以外の四十何人かは、お構いなしとしてすぐ土佐へ送り返された。まず助かった第一の組だな」
「………」
「さて、四人の隊長小頭以外に必要なのは十六人の命だが、二十五人名乗り出られたから九人余る。そこで、籤《くじ》をひくことになった。文字通り、死の籤とはこのことだな。その結果、十六人がきまったが、これで命びろいした九人の第二の組が生じた」
粉雪がチラチラ舞い出した。寒さも作業も忘れて、四郎助は船のふちに片手をかけたまま聞いている。
漠然とは知っていたが、なにしろ彼の三つのときに起った事件で、とくに薩摩とは関係ない話だから、こんなに詳しく耳にするのははじめてだ。
「さて、運命の日が来た。二十人は堺の妙国寺という寺にいった。そこでフランス側の立会いのもとに、二十人は一人ずつ切腹し出した。それが十一人まで進んだとき、フランス側の立会いがわけのわからぬことをいい出して、切腹の場から立ちあがった」
「………」
「一人一人、フランス人をにらみつけて、毛唐ども聞け、おれはうぬらのためには死なぬ、皇国のために死ぬのだ、とか、日本男児の切腹をよく見ておけ、とか吼《ほ》えて腹を切る、その物凄さに向うが胆をつぶして怖気《おじけ》をふるった、という説もあるが、殺されたフランス兵は十一人だから、そこで一応勘定は合う、と見たらしい、という説もある」
「………」
「とにかく毛唐たちは寺を駈け出して軍艦に帰っていったから、こちら側はあとを追いかけて、これからどうするのだと訊くと、もう結構だ、あとの切腹は中止してくれという返答だった。……こうして、また命びろいした第三の組が生まれた。これも九人ということになるが」
休庵は氷橋のほうを眺めやった。
「あの橋詰愛兵衛は、その九人の生残りだってことさ」
「なるほど」
うすうす承知はしていたが、つづけてともかく四郎助は訊いた。
「で、浜田友太郎は?」
「さあ、それだ。とにかく、第三の生残り組は土佐で尊敬のまとになった。生き残ったのは望外のことで、かけねなしに死の淵からすくいあげられた連中だから当り前さ。第二の籤逃れ組も、助かったのは僥倖《ぎようこう》だから、これはまた志においては決死の士にはちがいない。問題になったのは、おれは撃たなかったといって最初に許された第一の組だよ。ほんとうに撃たなかったのか、撃ったのに口をぬぐって知らぬ存ぜぬとやったのか。──一方で、みごとに切腹した連中や名乗り出た連中があるだけに──そのいかんを問わず、土佐っぽの面よごし、武士の風上にもおけぬ卑怯者だということになった」
それはわかる。薩摩だって同じだろう。
「その第一の組に、あの浜田がはいっていたという。──とくにあいつは、鉄砲|鍛冶《かじ》の家に生まれて鉄砲の名手ということになってたそうだから、いっそう蔑《さげす》みの対象になったらしい。あいつは、とにかくそのとき雷管が発火しなかったんだといったようだが、そんな弁明は黙殺されたってえことだ」
そして休庵はまた徳利をかたむけ出した。
「あの二人について御存知なのはそれだけでごわすか」
「まあ、そんなところだな」
「二人がこの樺戸集治監に来る事《こつ》になったのは、どげな罪でごわしょう?」
「そりゃ、お前さんのほうに訊きてえよ」
と、休庵は破顔した。
「いましゃべったことだって、直接あの二人から聞いたわけじゃねえ。なんとなく堺事件の勇士だってえことを聞いて、改めておれが調べた話だよ。勇士ってえのは、むろん橋詰のほうだがね」
「あの浜田は、そげな卑怯者と思われもすか?」
──前々から、そんな話を聞いて、首をひねっていたことだ。
浜田の精悍さは、橋詰にまさるとも劣らない。瘠せてはいるが、鞭のようにしなやかな肉体を持ち、年を四十過ぎと聞けばそんな顔にも見えるが、一見したところでは三十代前半の身の動きに見える。どこか、獣の匂いさえした。
ただ、沈鬱だ。さっき堂目看守とやり合ったが、ふだん声を聞くのも珍しい。それが、人一倍の激しさを持ちながら、何かにじっと耐えて抑えつけているような印象であった。ただ橋詰だけにはどこか卑屈なところさえあって、堺の話を聞けばさもあらんと思われる。──
しかし、とにかく怖ろしい堂目看守を殴り返し、銃口さえ向けかけた男だ。
「左様さな、あいつ、馬に堺事件の卑怯者といわれて怒ったね」
と、休庵はいった。
「あいつが、雷管が発火しなかったから撃たなかったというのは、ほんとうじゃあねえか?」
「ほう?」
「撃たねえものは撃たねえという。これもなかなか勇気のいることだが、ま、世間は認めまいね。……いのちがけの勇怯の秤《はかり》にかけられるような機会なんぞ持ったことのないやつらに限って、えてして人の勇怯を論ずるものさ」
と、いって休庵先生は顔を粉雪の空にむけて、鯨みたいに酒の気を噴き、
「ま、とにかくそんな生死をかけた事件に加わった二人が、そのあと、どんななりゆきでここへ来ることになったのか、その話は別に耳にはいらねえ。そいつが少々変だがね」
と、つぶやいて、唇のはしの酒のしずくをぬぐいながら首をふった。
「もっとも、人間、いちどいのちの火花を散らすような舞台を踏んでも、あとは沈香《じんこう》も焚《た》かず屁《へ》もひらずってえ一生を送るか、また怖ろしくくだらねえことで一生を棒にふるかってなことも、よくあるものさ」
集治監に帰って、四郎助は改めて二人の犯歴を調べて見た。
橋詰愛兵衛。明治十三年五月、東京において某官庁に奉職中、同僚と酒上の争いを起し、橋上より相手を投げ込んで殺人。懲役十五年。
浜田友太郎。明治十五年十二月、土佐山中において生業の狩猟中、誤って暴発により一農民を射殺し、懲役七年。──ここには、原則として懲役十二年以上の者が送られて来るのだが、ときに例外はある。
──二人は、まったく別の時期、別の土地で、それぞれ異る原因で罪を犯し、入獄したのである。
氷橋は出来た。一月十二日の午後であった。
で、その日、安村|治孝《はるたか》典獄が検分に出て来た。
何しろ監獄のみならず、この石狩一帯の王様ともいうべき地位にある人物だから、数人の看守長を連れてゆくところ、囚徒はむろん、町の人々も穂すすきのごとくお辞儀する。──囚人に至っては、土下座を命じられた。
安村典獄は、鬚《ひげ》をひねりひねり、氷橋の上を渡って対岸までゆき、やがてまたひき返して来た。
「典獄閣下!」
それまでひれ伏していた囚人の中で、むくりと顔をあげて、突然呼びかけた者がある。
「第四雑居房の橋詰愛兵衛でござります」
安村典獄は立ちどまった。
「いつぞや、私のことにつき、岩村長官閣下にお伝え下さるようお願いつかまつりましたが、伝えて下されましたか?」
と、橋詰はいった。
「伝えた」
と、典獄は答えた。それから、また歩き出した。
橋詰愛兵衛は何やら思いつめた表情をして、ただ口をパクパクさせたが、ついで思い切ったように声を追っかけさせた。
「城山で西郷隆盛を撃った橋詰愛兵衛と浜田友太郎が、樺戸集治監におる──もし叶いますなら、空知集治監のほうへ移監をお願いしておると、はっきりお伝え下されましたか?」
「伝えたが、いまのところ別に何の御回答もない」
安村はふりむいて、無表情にいった。
「しかし、お前、そのことを余り口にせんがよいぞ」
と、いって、彼は看守長たちを従えて、月形の岸のほうへ歩いていった。その中で、一人、立ちどまった者がいる。堂目七郎次であった。
彼は近づいて来て、しゃがれ声でいった。
「お前が……城山で、西郷先生を撃ったというのはほんとうか」
橋詰は黙っていた。
──この光景を、少しはなれたところで四郎助は見ていた。彼はそれまで、その日も見物にやって来た独《ひとり》休庵と話を交していたのだが、いま橋詰愛兵衛が口走った「西郷隆盛を撃った」云々という言葉に、電撃されたように立ちすくんでいたのである。
休庵先生との会話は、実は橋詰や浜田に関するものであった。二人の顔面には、紫の痣《あざ》や大きなみみず脹《ば》れがあった。ここ一両日に出来たもので、それは堂目に打ちのめされた痕《あと》であった。獲物をつかまえたらなぶり殺しにするような堂目の残忍性が、果せるかな発揮されはじめたのだ。四郎助はそれを監視しているわけにはゆかなかったし、またたとえ目撃していたとしてもとめる力はなかった。──
いや、実際は、どうしたかわからない。
四郎助は、この樺戸集治監に来てから、三、四カ月の間に、囚人に対する観念が、赴任時とはまったく変ったことをこのごろ感じはじめていた。一言でいえば、彼らもまた人間である、という認識であり、獣類扱いしてはならない。最低限度、人間として待遇してやらなければならない、ということである。四郎助の鼓膜や網膜には、ふしぎに、何かといえば原|胤昭《たねあき》の声や顔がよみがえった。
それはとにかく現実には、堂目看守の私刑《リンチ》にひとしい所業をどうすることも出来なかったのだから、二人の囚人の負傷の痕についての休庵先生の問いに対する応答は、甚《はなは》だ元気のないものにならざるを得なかった。
そして、いまの一件だ。
西郷先生を撃った男!
それは四郎助に頭にそれまで渦巻いていたさまざまな物思いを、一挙に吹き飛ばした。
「なぜ黙っておるか。はっきり返答せんか!」
と、堂目はわめいた。
橋詰は顔をあげて、沈痛に答えた。
「撃ちました」
「お前もか」
と、堂目は顔を、橋詰と鎖につながれた浜田にむけた。
「いえ。──」
と、橋詰のほうが首をふった。
「撃ったのは、おれだけです」
「しかし、いま、西郷隆盛を撃った橋詰愛兵衛と浜田友太郎といったではないか」
「いや、そのとき二人がいっしょにいた、というだけで。──撃ったのは、私です」
「お前たち、征討軍じゃったのか」
「ちがいます。当時の岩村県令の属僚として鹿児島県庁に奉職しておったのでござる。それが、あの際、いくさを座視しておるに忍びがたく、独断で城山へ出かけて──」
堂目七郎次はしばらく黙って、ただ眼をギロギロさせていたが、
「しかし、西郷先生の屍骸《しがい》には、たしか腹と腿《もも》と二つ弾丸の痕があったと聞いたぞ。……お前だけが撃ったというなら、お前が二発撃ったのか」
「……そうだと思います」
「そうだと思う? なんでそんなあいまいな口をきく。浜田はそのとき銃を持っておったのか」
「持ってはいましたが、撃ちませんでした」
「なぜだ?」
「気の毒だが、浜田は土佐で卑怯者の烙印《らくいん》を捺《お》された男です。そういう男に、西郷先生ほどの英雄を撃たせてはならん、と考えて、お前はよせ、と私が制したのであります」
「なに? ふふん。……で、銃の種類は?」
「県庁にあったカービン銃であります」
「口径は?」
「さ、それは、ちょっと。……」
知らず知らず、四郎助と休庵がそばに近づいて、耳をそばだてているのに、堂目七郎次ははじめて気がついたようで、
「こら、きさまたち何じゃ、あっちへゆけ」
と、一喝した。
「いや、面白い」
休庵先生は平気でいった。
「いったい、貴公、西郷さんの何じゃね? 馬丁か何かだったのかい?」
「馬鹿っ」
と、堂目はどなった。
「おれはこれでも警視庁警視隊として、城山攻撃に参加したんじゃ」
「ほう? 攻め手のほうか。それにしても、いやに西郷さんの最期にこだわるじゃないか」
「西郷先生は、こいつもいったように、ともかく一世の英雄じゃ。それを撃ったというのは大変なことじゃ。だから詳しく訊いておるんだ」
そのとき、さきに安村典獄についていった騎西看守長がひき返して来て、呼びかけた。
「堂目、何をしておるか」
「いやなに。……」
「西郷の一件のことについては、その囚人に何も訊くな、と、典獄がおっしゃっておる。早く来い!」
典獄一行がずっと向うで立ちどまって、こちらをふり返っているのを見ると、堂目看守は狼狽《ろうばい》し、
「おいっ、橋詰。──そういうことだ。この件については何もしゃべるな!」
と、にらみつけ、駈足で、騎西とともに典獄のほうへ駈けていった。
「いや、お見それしたな」
休庵がいった。
「堺事件の豪傑だとは承知していたが、城山で西郷を撃った人物だとは知らなんだよ。いったいどういう状況であったか、聞かしてくれんか」
「いや、その話はするな、ということで」
と、橋詰愛兵衛は低くいった。
「それに、私も話したくない。……さ、ゆこう」
と、彼は、鎖で浜田をひきずるようにして、そこから離れていった。
「驚きもしたな」
四郎助は溜息をついた。ほんとうに彼は驚倒していた。
「そういえば、城山で西郷先生が別府|晋介《しんすけ》どんの介錯《かいしやく》で御最期をとげられる前、流弾を食われたっちゅう話は聞いておりもしたが、その弾を撃ったっちゅうやつが、この樺戸におろうとは……あの橋詰だったとは!」
「あり得ることだな。あれは土佐人だ。そして、なるほどあのころの鹿児島県令は、たしかにいまの北海道庁長官、土佐の岩村|通俊《みちとし》じゃった!」
と、休庵もつぶやいた。
──西南の役のフィナーレ、城山の戦争のあったのは、四郎助が十三──満十二歳の秋のことであった。
その二月半ば、ふりしきる雪の中を熊本めがけて勇躍して出撃していった一万数千の薩軍は、官軍と戦うこと半歳を超え、ついに敗れて鹿児島に撤退して来たのが九月一日のことだ。
彼らは、日向路《ひゆうがじ》で敵の重囲を突破し、長駆して奇蹟的に、阿修羅のごとく帰って来たのである。西郷以下、その数わずかに三百七十余人。
しかも、その鹿児島もすでに官軍の占領下にあった。およそ戦い得る壮丁はことごとく前線へ出たあとの鹿児島へ、新県令岩村通俊以下の官軍が軍艦で乗り込み、鹿児島市民とぶきみな対峙《たいじ》をつづけて来たのである。
西郷帰る!
阿鼻叫喚《あびきようかん》にちかい歓声が、市民の間にあがったのは一瞬のことであった。帰って来た薩軍は所在の占領軍を蹴散らし、城山に立籠ったが、狼狽しつつ踵《きびす》を接して敵の大軍が奔入《ほんにゆう》して来て、これを包囲したのだ。
それから城山をめぐる死闘の二十余日は、官軍の包囲の外にあった市民にとっても、名状しがたい心の死闘の日々であった。
──西郷先生といっしょに戦う!
母と、幼い弟二人とともに兵乱の町を彷徨《ほうこう》しながら、地団駄踏んで城山のほうを眺め、こう泣きさけんだ自分の声を、四郎助は昨日のことのように思い出す。
──あそこに、矢之助兄さんもいるんじゃ!
父はすでに病歿していた。異腹の兄の矢藤太も維新の嵐の中に消えていた。そして、もう二人の兄は私学校生徒として従軍し、そのうち圭治という兄は熊本で戦死していたが、もう一人の兄の矢之助のほうは、西郷先生とともに城山まで帰って来て戦っているということは、もうわかっていたのである。
母が幼弟二人をかかえた寡婦《かふ》でなかったら──あるいは四郎助の年がもう二つか三つ年上であったら、彼は城山へ飛んでいったかも知れない。
攻防のうちに官軍の包囲は、蟻《あり》一匹も逃さぬ厚みを増してゆき、西郷軍は不可抗的に消耗し、すでに弾丸を失って石まで投げるという状態になり、そして九月二十四日、最後の日が来た。
その日、午前四時、夜明け前から官軍の総攻撃がはじまった。午前七時ごろ、凄愴《せいそう》な乱雲の下を、西郷は、幹部の桐野、村田、別府らとともに洞窟を出て、雨飛する弾丸の中を岩崎谷へ向ったが、途中、ある坂道で西郷も腿《もも》と下腹部に流弾を受けて倒れた。
「晋《しん》どん、晋どん、もうここらでよかろ」
といって、西郷はどっかとあぐらをかいた。
「そうじごわんすかい」(左様でありますか)
別府晋介はうなずき、西郷のうしろにまわり、大刀を抜きはらって、
「御免なったもんし」(お許し下され)
と、さけんで、その刀をふり下ろした。
そして、桐野、村田、別府らは、隆盛の首を従僕に託し、ひそかに埋葬することを命じ、彼らは岩崎谷の砲塁に至ってなお戦い、刀折れ矢尽き、折り重なって全滅した。午前九時ごろである。
そのあと、城山の炎を、豪雨が一洗した。
官軍は、敵の戦死者の中に首のない一大肥満漢の屍体を発見し、その右腕にある古い刀傷の痕から西郷にちがいないと判断した。そのうち附近の地中から、ついにその首が掘り出されて、西郷の死を確認することが出来た。──
以上が、有馬四郎助があとになって聞き、世にも公になった事実だ。
「しかし、西郷先生が流弾を浴びられたっちゅう事《こつ》は耳にしておりもしたが、それが二発だとははじめて知りもしたな。それが一発じゃろうが二発じゃろうが同じ事《こつ》じゃと思って、忘れたのかも知れん。……なるほど、たしか腹と腿に撃たれた痕があったちゅう話を聞いたような気もしもす」
と、四郎助はいった。
そういえば、それ以外にも、西郷の死についての知識には、あいまいなところがほかにもいくつかある。いったい首を落された正確な地点はどこか、首や首のない屍体はどこで発見されたのか。──さまざまな説が伝えられ、なにしろ関係者が全滅状態になったのだから、それも無理はない。
「おれも、西郷さんは弾丸雨飛の中を悠々と首打たせた、ってな物語を聞いたことがあるが、雨のような弾の中での介錯《かいしやく》ってのも変な話だな。……流弾というのも、おかしいといえばおかしい。流弾とは、それ弾ってえことだろ。そりゃメチャクチャに撃ってたやつもあったかも知れんが、敵の大将にそれ弾が当った、というより、こいつァだれかはっきり狙って撃ったやつがあって、それが命中したと考えたほうがまっとうだとは思わんかね?」
と、休庵先生はいい、また首をひねった。
四郎助は、これに似た話をどこかで聞いたような気がしたが、それが何であったか、どうしても思い出せなかった。
「それも、官軍の兵隊じゃなく、岩村県令の部下が撃ったという。──」
それは、さっき四郎助も意外に思ったことだ。
「あ、そういえば思い出した事《こつ》がごわす」
と、彼はさけんだ。
「西郷先生たちの遺骸は、城山近くの浄光明寺っちゅう寺に埋葬されたのでごわすが、それをやったのはたしか岩村県令ごわした!」
「なるほど」
休庵はうなずいて、
「その下僚であった橋詰が、城山へ出かけて撃ったという。それは岩村の意を受けてのことかな、それともあれの自分勝手にやったことかな?」
四郎助は、はっとした。
「いや、さっき、きゃつ、独断で、といったな。そりゃ堺事件の勇士だから、そういうこともあるだろう。しかし、西郷を撃った橋詰がここにおると岩村長官に伝えてくれといったのはどういうつもりか。少くとも、たとえ事後のことにしろ、岩村はそのことを知っておるということだな」
「あ。──」
「そしてまた、ここの安村典獄が、そのことについては余り口外するな、と注意した。それは典獄もそのことを知っておるということだ。が、余り口外するな、とは、どういうことか?」
休庵が、こう考え考えしている表情を見せるのは珍しい。
「あの安村典獄も騎西看守長も、警視庁警視隊の中隊長として城山のいくさに加わったことは聞いておる。安村などはいちど西郷に組みついてふり落されたことがある、などという法螺《ほら》を吹いておる。じゃが、いま聞いたところによると、堂目もそうだったってね。しかし、それは耳にさしはさんだことがない」
四郎助もはじめて知った。
「また、あの二人にしても、二十年前の堺事件の関係者ということは知れておるのに、十年前の西郷|狙撃《そげき》の関係者ということが知られなかったのは、どういうわけか?」
「………」
「そりゃ囚人はむろん看守にしても、みんなの過去がだれにも知られているわけじゃあねえ。だからこっちが知らなかったといったって、べつに隠してたわけじゃあねえかも知れねえが……しかし、どうやら安村典獄が、余りしゃべるなといったことと、なんか関係がありそうだなあ」
「なぜでごわしょう?」
と、四郎助はいった。
「西郷先生を撃ったといえば、政府軍から見れば大殊勲者でごわしょうに」
「お前さん、あの橋詰がほんとうに撃ったとして、あれをえらいやつだと思うかね? えらいことをしたやつだとほめてやる気になるかね?」
四郎助はうっと息を詰め、混乱した表情になった。
「えらかやつだ、と思う心と、憎んでもあき足りぬやつだ、と思う心が半々ごわす。五年ほど前でごわしたら、そうと聞いたらあの男をどうかしたかも知れもさん。……鹿児島じゃ、いまもそうでごわしょう」
「で、いまその下手人がこの樺戸集治監におると、鹿児島に伝えるかね? 伝えたいと思うかね?」
「さ、それは」
四郎助はいよいよ困惑した。
「われながら実に奇妙な気持ごわすが、知らせとうごわせん。西郷先生を撃った男は、囚人などでない、もっと立派な男であって欲しか、そげな気もいたしもす」
「……西郷さんは、まったく不思議な英雄だな」
凍ってキラキラひかる河を見わたしながら、休庵は独語のようにつぶやいた。背後には、氷橋をぞろぞろ渡る人々の行列がつづいている。
「聞くところによると、東京でやった七年忌には、政府大官をはじめ数万の人が集まったとか、最近じゃ天皇さまが西郷さんの忘れがたみを召し出されたということだが、あんな大きな謀叛《むほん》をやった人間にしては珍しい。珍しいどころか、そんな待遇を受けた逆賊は一人もねえ。それも、このごろ急に風向きが変ったわけじゃあねえ。城山で死んだ直後からだ。空にかかる赤い火星を西郷星と呼んで礼拝することがはやったり、西郷|丹《たん》という薬が売り出されたり、団十郎がすぐ芝居にしたり。………」
まさにその通りだ。鹿児島にいたっては、四郎助もおぼえているが、浄光明寺にある西郷先生の墓は、その年のうちから、いついっても手向けの花に埋まって、墓石も見えないほどであった。
「いくら西郷さんだって、あれほどのことをやった一生のうちにゃ、あまりタチのよくねえことも、あまり感心出来ねえこともあったろうが……人は、それに眼をふさいどる。人に眼をふさがせる何かがある」
「お言葉ごわすが、西郷先生にゃ、そげなうしろ暗いことは一点もごわせん!」
「そりゃお前さんは薩摩っぽだからそういうが、そうかねえ? 話に聞くと、江戸で浪人どもに火つけ強盗をやらせて幕府を倒すきっかけを作ったってえことだし、おれが見ても、御一新後の西郷さんは、何だかがらんどうになっちまってたようだぜ。西南戦争だって、起つべきときにウスボンヤリしてて、いざ起ったとなっても、本気でやる気があるんだか風まかせなんだか、よくわからねえところがあった」
「西郷先生の偉大さは、凡人にはわかりもさん!」
「もう一つある。これもだれから聞いたか忘れたが、西郷さんが死ぬ二日ほど前、薩軍から降伏打診の密使が官軍に来たってな。薩軍諸将謀議の末、西郷先生のお命だけは助けたいと存じて参った、と申したてたそうだが、もはや時機遅れだ、と一蹴されたという。……」
四郎助は眼をむいた。
「そげな話は聞いた事《こつ》はごわせん! そりゃ作り話ごわす!」
「おれの感じじゃ、ほんとらしい。その諸将謀議の席に、大英雄も鎮座していたという。もっとも一ことも口をきかず黙ってたということだが、とにかくその降参話は知っていたはずだという。そして、官軍から拒絶されたという報告を受けて、はじめて湯気をたてて怒り出したそうだ。──」
「そ、そげな馬鹿な事《こつ》は、金輪際ありもさん!」
四郎助は、息はずませた。
「休庵先生、そげな話をなされると、私、失礼ながら打《ぶ》ちもすぞ!」
「──と、こういう話をすると、鹿児島県人ばかりじゃあねえ、日本人のだれをも不愉快にさせるようなところが西郷さんにはあるということさ」
休庵はニヤニヤした。
「それだよ」
「え?」
「橋詰って囚人がほんとうにやって、しかもそのことを黙ってたとするなら──それは、そういう空気が世間にあるからさ。典獄が黙れといったのも、おそらくそのためさ」
「え?」
「さっきお前さんが、撃ち手をたたえていいか、憎んでいいか、よくわからん奇妙な気持だといったっけが、撃ち手の本人も、同じ変てこりんな気持だろう。西郷を撃ったと、威張っていいんだか、恐縮していいんだか。……」
「………」
「もういちど、あの橋詰から聞きてえもんだな。もっと詳しく聞かなきゃ、話にならねえ。──じゃ、きょうのところは、おれはもう引揚げるとする。この氷橋が出来たんで、あっちへ渡ってスキーの練習をするのがらくになったよ」
休庵先生は、四、五歩、歩いて、ふと立ちどまった。
「それにしても、もう一人の囚人の浜田のほうは、さっき堂目との問答中、一ことも口をきかなかったな」
と、首をかしげた。
「堺でも撃たず、城山でも撃たず──かね? あの鉄砲の名人が。──」
二、三歩、いって、またつぶやいた。
「そうそう、あの堂目も、あの馬面で射撃はうまいそうだな。嘘かほんとか、警視庁警視隊の一員として参加したといったが、城山攻撃のときの警視庁警視隊の指揮官はだれだったかな?」
「は?」
「いや、戦争初期のころ警視隊の大将は、当時の大警視川路利良だったことは知っとる。しかしあれは、同じ薩摩人でありながら西郷の暗殺を計った張本人だと見られて、薩摩側の憎悪があまり猛烈だからといって、途中で東京へ召喚されたはずだ。そのあとをついだやつは、だれだったかな?」
雪はふったり、やんだりした。氷橋が出来て、囚人たちはいよいよ大々的に労役に駆り出された。
去年の四月からはじまった空知への道路工事は、なんとか三分の一くらいの地点までのびていた。二月近くになると、雪はめっきり深くなるという。そうなっては、いくら何でも作業は不可能になるから、仕事が出来るうちに極力やっておけという至上命令であった。
五日ばかり後だ。
外役場で四郎助は、ところどころ枯蘆《かれあし》が錆《さ》びた剣みたいにつき出した雪原の南のほうからやって来た休庵先生の姿を認めて、声をあげて呼んだ。
「先生、わかりもした」
竹のスキーをはいた休庵は近づいて来た。
「何が?」
「川路大警視のあと、警視隊は大山巌少将の指揮下にはいりもしたが、城山攻撃当時は、安藤則命中警視が采配をふるっていたといいもす。──」
「安藤則命──川路の片腕といわれた男だな。そうか」
と、うなずいて、急に休庵は横をむき、
「おい、おい、西郷さんの撃ち手。──」
と、呼んだ。
ちょうどそのあたりを、橋詰と浜田が、ふとい材木を縛って、二本の縄をそれぞれの肩にかけて、ならんで歩いていたが、ふりむいて橋詰は当惑した顔をした。
「ちょっと話がある。おいで、西郷の──」
向うで看守たちが見ているのに、休庵先生は平気である。橋詰は辟易《へきえき》した表情で歩いて来た。むろん、うしろに浜田もつながっている。
「先生、西郷なんかと大声でいわれるのは困る」
「やあ、御免御免」
休庵はひたいに手をやって、
「やはり、ありゃ相当に面白い話だからな。もう少し訊きたい」
「あの話か、それはしゃべっちゃいかんということになってるのは、御承知でしょうに」
「なぜかね? 暗殺したわけじゃあるめえし、戦争してて敵の大将を撃ったということに、なんの遠慮もいらんだろう。それに、十年も昔の話だよ」
「それはそうでござるが」
「じゃ、話したくねえことは話さんでいい。しゃべっていいことだけ、しゃべってくんな。──いってえ、お前さんら、どうして岩村さんにくっついて鹿児島へいったんだね」
「それは岩村閣下は、土佐の出世がしらのお一人で、それが新県令として戦乱のまっただ中の敵地へ乗り込まれるというのですから、部下も相当に度胸のすわった連中でないと勤まらぬ、ということで、特に岩村閣下御自身が──」
「お前さんを選んだというわけか。あの浜田もそうかね」
「いえ、あれは自分から志願したのです。昔は同輩でありましたが……堺でああいうことがあって、御一新後、浜田は士族の身分さえ剥奪《はくだつ》されて、拙者の下僚となっておりました。そこでこの際、その名誉を回復する機会を得たいと本人が切に希望いたしましたので、特に拙者からお願いして連れていったのです」
「なるほど」
休庵先生は顔をつき出し、声をひそめた。
「そういう履歴のある二人だから、岩村県令が、城山落城前夜、お前さんたちに西郷狙撃の秘命を与えたってわけか」
橋詰愛兵衛は、ぎょっとした表情になった。
「い、いや、ちがう。われわれはそういう人間だから、別々の意味で奮起して、独断で城山にいったのです」
「兵隊でもねえ、県庁の職員のお前さんたちが、かね?」
休庵はいよいよ声をひそめ、顔をつき出した。
「どうも、腑《ふ》に落ちねえ。それより、だね、岩村県令は、西郷方が降伏を申し出た、と聞いた。万一西郷さんが降参したら困る。西郷さんが生き残って復活したら困る、と、あわてたんじゃあねえか。それも、本人が困る、というより、岩村を特にあの際鹿児島県令として派遣した筋の意向を体して、そうさせてはならん、と、あわてたんじゃあねえか。そこで急遽《きゆうきよ》、西郷必殺の狙撃者を出すことにした──と考えたほうが、おれには腑に落ちるがなあ」
「いえ、だから、われわれが……」
「県庁の下ッぱ役人が思い立つには、事が重大過ぎるよ。だいいち西郷方から降伏打診の密使が来たなんてことも知っちゃあいなかったんじゃねえかね。十年たったいまでさえ、そんな話は知らねえ人が多いほどの秘事だ。しかし、岩村県令なら、その報告は受けたろう──」
橋詰の鼻の穴から出ていた白い息が細くなった。先日、みずから銃口に顔を押しあてたほどの男が、逃げもかわしもならぬ言葉の銃口に硬直したように見えた。
「どうだい、べつに岩村さんを責めてるんじゃあねえぜ。むしろお前さんが勝手にやったといったほうが、岩村さんをなめていることになる。──」
「おっしゃる通りだ」
橋詰はうめいた。
「県令は凄じい顔色で仰せられた。西郷を降伏させてはならん、それは西郷の名誉のためだ、わしは西郷を、英雄として死なせてやりたいのだ、と。──」
「ほう、岩村さんはそういったかい」
休庵は、つぶやいた。
「しかし、その口上は口上として、腹の中じゃ何考えてたか、そりゃ他人にゃわからねえことだがね」
橋詰は、完全に打ちのめされたようであった。
「で、お前さんが撃ったと。──県庁にあったカービン銃だといったっけな」
「──は」
「浜田のほうは手を出さなかったと。──しかし、城山へ出かける以上、銃は持っていったんだろう」
「は、それは、念のために」
「やっぱりカービン銃かね」
「いや、こいつは鉄砲鍛冶出身ですから、ふだん使ってるものを土佐から持参したので、それを持っていったようです。──浜田、そうだったなあ?」
浜田は、はじめてぶすりと口をきいた。
「スナイドル銃です」
それから彼は、いおうか、いうまいか、と迷った顔つきをしていたが、ついに、
「妙なことがある」
と、いい出した。
「なんだ」
「西郷さんに撃ち込んだ二発の弾だがね──橋詰さんのものだが──記念のため、もし手にはいるなら、と、浄光明寺に葬られる西郷さんの屍骸を調べさせてもらったら──傷は盲管でたしかに弾は残ってるはずなのに、下っ腹とふと腿《もも》と二カ所、えぐりとられたような痕《あと》があったばかりでさあ」
「ほう?」
さすがに休庵先生は眼をむいた。四郎助は息をのみ、声も出ない。
「だれか、屍骸が寺へ運ばれて来るまでに、えぐって弾を持ってったやつがあるにちげえねえ。あんまりふしぎだったので、いまでも首をひねってるんだが……ひでえことをするやつがあったもんだ」
「そんな話ははじめて聞いた」
休庵は、浜田のどこか獣めいた顔をしげしげと見つめて、「しかし、お前もその弾がありゃァ掘り出すつもりだったんじゃあねえかえ?」
と、いった。浜田友太郎は、かすかに赤い顔をした。
「で、とにかくお前さんたちはそんな働きをしてのけたのに、あとに何の褒賞《ほうしよう》もなかった──知る人もねえくれえだから、そうだったんだろ」
「県令から、そのことについては黙っておれということでありました」
と、橋詰は沈鬱に答えた。
「一将功成り万骨枯る、と、いいてえが、しかしその岩村通俊だって、たしか西南の役後、しばらく閑職に追いやられていたなあ。……一将はまだ上にいたのかも知れん」
休庵は、寒風にそよぐ髯《ひげ》を撫でもどして、
「あるいは狡兎《こうと》死して走狗《そうく》煮らる、というやつかね。走狗を平気で煮るようなやつが英雄と呼ばれる。──」
と、意味不明瞭の哲学的なせりふを吐いた。
「それで、お前たちゃ、その後二人ともそれぞれ下らねえ人殺しの罪を犯してここへ送られて来たんだが……ところで、橋詰、お前、監獄を空知《そらち》のほうへ変えてくれと岩村長官に嘆願したらしいが、そりゃなぜだ」
「いや、空知は政治犯が多うござるから、ここよりはましだろうと存じて」
橋詰愛兵衛は、恥じたような薄笑いを浮かべた。
「この樺戸のほうは、あまりに下等な囚人ばかりで……拙者の罪は罪として服罪するのに異は唱えませぬが、出来ましたら、と思って、旧知の岩村閣下にお頼みしたわけで」
「看守に手荒いやつがいるからじゃあねえかい」
「正直申して、それもあります」
橋詰のひたいには、新しい痣《あざ》があった。身体には、もっとあるにちがいない。
「それで岩村に、西郷事件を持ち出して脅迫したってえわけか」
「滅相な。脅迫などと、そんな大それた気持はござりませぬが、ここのところの堂目看守の暴虐にたまりかねて、つい典獄におすがりした次第で」
「なるほど。ところでお前さん、西郷を撃ったことを、いまどう思っているね?」
橋詰愛兵衛は、昂然と顔をあげていった。
「人にはいえず──拙者は、生涯の誇りに思っております」
「や、鬼と馬が来る」
休庵先生は、顔を横にまわしていった。
なるほど、雪と大地に動いている囚人たちの向うに、氷橋の方角から、騎西と堂目が歩いて来る。
それが囚人たちに何か聞き、こちらを向き、早足で近づいて来た。
「や、これはいかん」
休庵はスキーの杖をとり直して、退却の姿勢をとったが、
「こらあ、また囚人と外のやつと自由に話をさせておるか。有馬看守、何しとるか!」
という堂目の怒声を聞くと、急にへそを曲げたらしく、杖を雪に突き立てて、待ち受ける構えになった。
「何をしゃべっておった? おい」
堂目は前に立って、凄い眼で、こちらの四人をにらみまわした。
「なに、あんたのことについて、ちょっと訊きてえことがあってね」
休庵は平気で変なことをいい出した。
「なんだと? おれのことについて? 何だ」
「それより、あんたがた、こっちを探してたようだが、何か用かね」
と、休庵は騎西を見た。
「いやなに、典獄から浜田に空知へ移監のことを知らせてやれ、というお言葉があったから伝えに来たのじゃ」
「え、浜田に?」
橋詰が、風貌に似合わない頓狂な声をあげた。
「私ではありませんか」
「それは、たしかめたが、浜田にまちがいはない。岩村長官から電信でそう指示して来られたということじゃ」
橋詰のみならず、浜田友太郎も有馬四郎助も、狐につままれたような表情をした。
「ただし、もう石狩川の船はとまっておる。空知集治監へは、氷が溶け次第、という話だが。──」
堂目看守が独休庵にかみつくようにいった。
「おい、おれに用とは何じゃ」
二人が早足でやって来たのは、右の用件より、休庵と囚人たちが話しているのが気にかかったらしい。
「いやね。さっきちょいとあっちでスキー修行をやって来たんだが、左様、ここから半里ほど南になるか、沼のほとりの土の出た地面に、妙なものが落っこちているのを見つけ出した。そんなところにふつうの人間が近づくわけはねえから、はてな? と首をひねった結果、こりゃ暮に逃亡した五寸釘が落していったものじゃあねえか、と思い当った。──」
と、休庵はふところをまさぐって、
「と、いって、獄衣を着た五寸釘が、こんなものを所持しておるわけがねえ。聞くところによると、あの野郎、貴公を丸裸にして、制服を奪ってこの原っぱを逃げてったそうだね。その制服から落ちたか、中を見て、こんなもの何だ、と放り出していったものじゃあねえか──という推量に立ち至ったんだが」
とり出した財布|様《よう》のものを、
「あっ、それはおれのものだ!」
と、堂目は飛びついて、ひったくった。
「変なものがはいってるね。鉄砲の弾が二個。──撃ったあとの弾で、それもその錆《さ》びかげんから相当古いものらしい」
と、休庵はいった。
「なんでまた、そんなものをお守りみたいに持ってるんだ、と考えてね、ふと貴公が城山で西郷さんを撃った人間に馬鹿にこだわって、弾の口径まで訊いたことを思い出した。──西郷さんを撃った弾のうち、少くとも一発はお前さんじゃねえかね?」
四郎助は、鞭で打たれたような感じがした。
堂目は口をもがもがさせていたが、急に巨大な胸をそらした。
「たとえばそうであったとして、それがどうした? おれは警視庁警視隊として射撃したんじゃ!」
「しかし──いま聞いたことだが、その西郷さんの身体から、撃ち込んだ銃弾をえぐりとっていったやつがあったという。──それも、警視庁警視隊としての仕事かね?」
堂目は絶句した。
「それが、その弾だろう」
休庵は、堂目の手の財布様のものにあごをしゃくった。
「貴公がそんなことをしたについては、おれの想像によるとね、自分の功績の証明のためだ。だれに対しての証明か。むろん、西郷を撃てと命令した安藤則命中警視に対してだろう」
「………」
「その安藤中警視は、一人|合点《がてん》でそんな命令を下したわけじゃあるめえ。いや、その場じゃ独断だったかも知れんが、あれは、その前に召喚された川路大警視と一心同体といわれた男だ。川路ならこうやるだろうと、自信を持ってそんな命令を下したにちげえねえ。川路なら、やるだろう──おれも、そう思う。そして実は川路も、その上にいる人物の意を体して動いた人間じゃああったんだがね」
「………」
「ま、お前さんの頭じゃ、そこまで血は回るめえ。ただ直接命令を下した人に、その命令は果したという証拠として弾を持ってったんだが、さてそのとき西郷さんの身体には二発の弾が食い込んでて、どっちが自分の弾だかわからねえ。別に撃ったやつがあったんだ。むろんちがう場所から撃ったんだが、同時だったので、撃ったときにはそれがわからなかったんだなあ」
「………」
「貴公、その前警視庁に勤めてて、いろいろ|へま《ヽヽ》をやって、大警部から平《ひら》の巡査まで下げられていたってね。それで西南の役に際し、そんな任務を与えられて、落日を返す時や至ると勇躍して引受け、みごとに使命は果したんだが、さて、戦争が終ってみると、世間の風向きがどうもおかしい。大きな面《つら》して、西郷を撃ったとは口に出せねえような按配《あんばい》だ。おまけに、そのうち、かんじんの川路もその親分の大久保内務卿も、この世からあっさり消えちまった。とどのつまりは、何のことァねえ、この樺戸監獄の看守さ」
「………」
「ここに至るにゃ、お前さんもさぞ言い分があっただろ。そのことは、まあ安村典獄も知ってたろうが、黙ってろというしかなかったろ。後生大事に証拠の弾をふところにいれてて、こりゃ栄光の記念か、人には見せられねえ錆びた鉄のかけらか、何ともわり切れねえ、イライラのもとになっていたろ。その気持はよくわかるよ」
聞いている者は身動き一つしない。騎西看守長さえ、はじめて耳にすることらしく、同様に茫然《ぼうぜん》たる表情であった。
「ところで、その二発の弾だがね」
と、休庵は、急に沈んだ声でいった。
「さっき拝見したが、どっちもスナイドル銃の弾だ。口径十四・五ミリの針《ピン》打ち式の弾丸だったよ。当時官軍の銃はみなスナイドル銃だった。だから、この馬──いやさ堂目君にも、どっちが自分の弾だかわからなかったのよ。──」
このとき、やっと四郎助は、ある重大なことに気がついて、心中あっとさけんでいた。
「ということは、西郷さんを撃ったもう一発は口径十二・五ミリのカービン銃じゃなかったってことさ」
四郎助は全身を棒のようにした橋詰愛兵衛と、精悍《せいかん》な顔を昂然と休庵に向けている浜田友太郎を見た。
妙ななり行きになった。
また五日ばかりたって四郎助は、樺戸集治監から空知集治監へ、なるべく早く連絡したいことがあるのだが、電信では通じない性質の書類なので困っている、という話を聞いた。そこで彼は、ふと典獄に、その役目を自分が果すということをかねて、もし第四雑居房の浜田友太郎を、空知へ移送のことが許可になっているなら、春の雪溶けを待たず、あの雪原を通って自分が送っていってはいけないだろうか、と、願い出て見たのである。
そんなことが出来るか、と、安村典獄は眼をまろくした。月形から空知まで五里、しかもこちら側の分担する四里の三分の一は不完全ながら道路が作られているのだから、いまの雪の程度なら、それは出来ると思いもす、と四郎助は答えた。
彼は、いちど空知集治監を見にゆきたかったのだ。政治犯を主とする監獄だから、樺戸とはいささか感じがちがうだろうし、それに──彼は、去年、まだ雪のないころ、その空知からやって来た高野という快活な看守長をこのごろ何かのはずみで思い出すことが多く、その人にもういちど逢って見たいという気持をいだいていたのである。
それに四郎助は、なるべく早く橋詰と浜田を離してやりたかった。──
独休庵があの驚くべき事実を指摘してから、二人の雰囲気がどうもおかしい。それまで橋詰愛兵衛は豪快の気を放っており、浜田友太郎も黙りん坊だが精悍で、しかも橋詰のほうが兄貴分、浜田のほうが弟分としての秩序を保ち、喧嘩ばかりしているほかの連鎖の組とはちがう親密さが流れていたのだ。
ところが、あれ以来、橋詰は別人のように陰気になり、浜田がオドオドして声をかけても、それを受けつけないほどだ。そして、橋詰は何か不服らしく、ひとりでブツブツつぶやいている。四郎助は、まだ彼らにいろいろ訊きたいことがあったが、それも憚《はばか》られるような雲ゆきであった。
四郎助は、このまま二人をつないでおくと、あまり好もしくない破綻《はたん》が生じそうな予感がした。
そこへ、右のような話があったので、これを機会に浜田のほうを空知へ移送してやることを思い立ち、その護送役を買って出たのである。それは許可された。
一月二十三日の朝であった。
その日の囚人は外役場に駆り出されたが、そのころから雪になり、それもいよいよ本格的な大雪になりそうなふりかたで、さすがに作業は中止となり、また鎖を鳴らして氷橋を引返すのにかかった。
しかし、四郎助は浜田友太郎を連れて、囚人道路を南へ歩き出した。
その道路の途中まで、橋詰愛兵衛が送って来た。彼はなんと牢屋小僧と連鎖でつながれていた。五寸釘の寅吉が逃亡したあと、牢屋小僧は唖《おし》で|つんぼ《ヽヽヽ》の囚人と組ませられていたのだが、こんどは橋詰とつながれることになって、おとなしくついて来た。もっとも、うしろに騎兵銃をかかえた堂目看守がついている。
橋詰の浜田への見送りを堂目が許したのは、彼らが自分と同じく西郷狙撃に加わり、しかもその後の不遇な運命は自分以上であることを知って、いささか親近感を持ったのかも知れない。──いや、そうと知ってもなお二人を虐待していたらしいから、この男にそんな人間的な感情があるとは思えないが、とにかく世の常ならぬ運命の鎖につながれた二人の男が別れるということに、なにかの感慨を催したからであったにちがいない。
「おい、大丈夫か」
と、雪ふる曠野《こうや》を見わたして、さすがに心配そうに訊く。
「大丈夫ごわす」
きょうがこんな雪になろうとは思わなかったが、四郎助は意地になっている。
「その縄を離しちゃいかんぞ。……では、ゆけ。おい、橋詰、もうここらでいい、とまれ」
と、堂目はいって、立ちどまった。
「では、橋詰さん、お別れします」
無愛想な浜田であったが、さすがに縛られたままの腰を折った。
「どうぞ、お大事に」
橋詰愛兵衛は、うなずきもせず、茫然と立っている。彼は、依然として腑ぬけのようであった。四郎助はこの虚脱した豪傑的囚人に、いいようのない哀感をおぼえた。
二人は歩き出した。いま堂目に注意されたように、四郎助は左腕に騎兵銃をかかえ、右手で、うしろ手に縛った浜田の縄をとっている。──しかし、堂目看守の眼がなくなったら、すぐにその縄を解いてやるつもりであった。彼は、あまりものをいわないこの囚人に、なぜか生《き》一本と真ッ正直なものを感じて好意を持っていた。
囚人たちがきょうはこのあたりまで来なかったので未完成の道路の雪は膝近くまであった。二人はボロキレで足をつつみ、この地方でツマゴと呼ぶ藁沓《わらぐつ》をはいていた。
ふる雪に、見送る三人の影はすぐにかすんだ。
二、三の会話ののち、待ちかねていたように、四郎助は訊きはじめた。
「浜田、お前、城山で西郷先生を撃たなんだなど、なぜ嘘をついたんじゃ」
「おれが撃ったといったら、西郷さんの恥になるから、と、いわれたからでごぜえます」
「堺事件の事《こつ》でか」
「さようでごぜえます」
「橋詰は撃たなんだのか」
「撃ちました。しかし、はずれました」
「橋詰はそれを知っちょったのか」
「知りません。弾は二発当っていたからでごぜえます」
「そいじゃ、橋詰の弾がはずれたと、なぜお前は知ったんじゃ」
「それはおれの|かん《ヽヽ》でごぜえます。おれが西郷さんの身体の弾を調べようとしたのは、それをたしかめたかったからでごぜえます」
「なるほど」
「しかし、その弾はとられておりました。さあ、それがわからねえ。橋詰さんはあとずっとおれといっしょにいたからそんなことが出来るわけはねえし、また、そんなことをやる人でもねえ。それをあの堂目の野郎がやったとは、こないだはじめて知ったことでごぜえます」
「それにしても橋詰は、二発とも自分が撃ったなど、なぜいったのかな」
「おれも、はじめはめんくらったが。……」
「手柄を自分一人じめにしたかったからか」
「そうじゃごぜえますめえ。あの人は、そんなケチな人ではごぜえません。だいいち、西郷さんを撃ったとあまり大きな顔をして人にいえなくなってからでも、橋詰さんはそういうことにしておりました」
「どげんしてかな」
「あの人は、堺事件の勇士であります。堺で、射撃しなかったのに射撃したといって、切腹を買って出たほどの勇士であります」
「なに、橋詰は、堺で撃たなんだと?」
「左様であります。そばにいたおれは、それを知っていた。しかし橋詰さんは撃ったといって、切腹の組にはいった。……それと同じ心で、自分だけが西郷さんを撃ったということにしたんだろうと思います」
「ふうむ。……そりゃ、勇士か。そりゃ……ほんとうに勇士といえるのか?」
「おれも堺では撃たなかった。雷管が発火しなかったから、撃たなかったといった。しかし、おれはそれで卑怯者の汚名を受けた。そのときおれは不平だったが、撃たなかった橋詰さんが撃ったと名乗り出たと知って恥じました。おれはやはり卑怯者かも知れんと。……」
「そりゃ卑怯者か。そりゃ……ほんとうに卑怯者といえるか?」
「だから、西郷さんを撃ったということで、世間にはやはりおれは顔出し出来ん。岩村県令も、お前は関係ないことにせい、と、おっしゃった。西郷さんを撃った男に、あの橋詰さんこそたしかにふさわしい。あれはえらい男です。……」
突然、彼は、もんどり打ってつんのめった。
銃声が聞えて来たのはそのあとのことだ。
四郎助は、うしろ手に縛られたまま雪の上に転がった浜田の背に血が飛び散ったのを見て仰天し、うしろをふりむいた。
遠く囚人道路の向うで、もみ合っている二つの影が見えた。もう五十メートルばかり離れ、その間に雪はふりしきっていたが、先刻より少し小降りになっていて、一挺の銃を双方から四本の腕で握って、二人の男が猛烈に争っているのが見えた。そして、怖ろしいしゃがれ声が渡って来た。
「西郷を撃ったのはおれだ!」
それは橋詰愛兵衛の声であった。格闘しているのは、むろん堂目看守であった。
驚愕しつつ四郎助は、騎兵銃を放り出し、抜剣し、ひざまずいて、ともかくも浜田の縄を切った。反転した浜田の顔はもう死相に変っていた。胸にも鮮血がひろがっているところを見ると、弾は背から胸へ貫通したのだろう。
ふたたび首をねじむけた四郎助の眼に、銃を奪い返した堂目看守が、撃つにいとまあらず、それをふりあげて、台尻で橋詰をなぐりつけているのが見えた。
──あとになってわかったことである。牢屋小僧とつながっているはずの連鎖が、どういうわけかまたはずれて、いきなり橋詰が堂目看守に躍りかかり、騎兵銃を奪い、発射したという。
「西郷を撃ったのは、堺事件の勇士、この橋詰愛兵衛だぞ!」
それは狂ったような悲叫であった。
頭をかかえてなおさけぶその橋詰愛兵衛に、また大きく銃をふりかぶった堂目看守が、これまた突如のけぞった。
その直前、足もとで轟然《ごうぜん》とあがった銃声に、四郎助は頭全体が|つんぼ《ヽヽヽ》になったような気がした。
四郎助はふりむいて、死んだと思っていた浜田友太郎が、折敷《おりしき》の姿勢で自分の騎兵銃を肩にあてているのを見た。
その顔はすでに死者そのものなのに、それは精悍きわまる名射撃者の姿であった。次の瞬間、彼は雪の中に横倒しになり、銃をかかえたまま動かなくなった。
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雪《ゆき》 飛《び》 脚《きやく》
囚人橋詰愛兵衛が処刑されることになった。
なにしろ、看守に飛びかかって銃を奪い、護送中の囚人浜田友太郎を撃ち、そのため浜田が堂目《どうめ》看守を射殺するという大事をひき起したのだから、四郎助《しろのすけ》も、これはやむを得ないと認めないわけにはいかなかった。
この一件は、若い四郎助に──この樺戸集治監に赴任して以来の数々の出来事でも同様だが──いよいよ、人間不可解、の印象を与えた。
まず橋詰愛兵衛が、浜田友太郎を撃った心理がわからない。橋詰と連鎖でつながれていた牢屋小僧の証言を聞くまでは、てっきり撃ったのは堂目看守だとばかり思い込んでいたくらいである。そして、撃ったのは橋詰だと判明しても、最初は、橋詰が撃とうとしたのは浜田ではなく自分であったのではないか、と考えたほどだ。自分だって撃たれる理由はないと思うけれど、友人浜田を撃った理由はいよいよ不可解である。
──この事件後、四郎助は独《ひとり》 休庵《きゆうあん》先生に、いったいどう解釈するか、と、訊《き》いた。話を聞いて、さすがの休庵も、しばらくはただうなり声を発しているばかりであったが、やがていった。
「そりゃ、やっぱり橋詰は、浜田を狙《ねら》って撃ったんだな」
「なぜでごわす?」
「橋詰は、自分が英雄西郷を斃《たお》したとばかり思ってたんだ。それがあいつの人生の、ひそかな唯一の誇りだったんだ。ところが、そうでねえことがわかった。西郷を撃ちとめた事実と自分とは関係ねえことが明らかになった。堺事件の勇士橋詰愛兵衛の最大の栄光は闇《やみ》に消滅した」
「それにしても、浜田を撃つとは。……」
「その浜田は、空知監獄へ移される。空知は、政治犯を主とした集治監だ。何だか樺戸より一段格が上みてえで、だから橋詰もそっちへ移監してもらうことを熱願してた。なに、空知だって実態は、樺戸に勝るとも劣らねえ物凄《ものすご》さなんだが、とにかく橋詰の願いに反して、そっちへは浜田がゆくことになった」
「………」
「ひょっとしたら橋詰は、自分じゃなく浜田が空知へゆくことになったのも、西郷|狙撃《そげき》を命じた岩村長官が、真相をすべて承知の上でそんな処置をとったのか、と邪推したのかも知れねえ。岩村がどう考えてそうしたのか、おれにゃよくわからねえがね。いや、それより、浜田が自分と離れて空知へゆくと、そこで何をしゃべるかわからねえ」
「………」
「あれこれと思いつめて、ついに橋詰愛兵衛は頭が変になったんじゃあねえか。……おい、橋詰はあれからどうしてる?」
「橋詰は、いまも錯乱状態ごわす。ですから、その気持も聞けもさん」
休庵はしばらく黙っていたが、やがていった。
「あの男は、もとから人の思ってるほど──あるいは、自分の思ってるほどの勇士じゃあなかったんじゃあねえかね?」
「えっ? しかし、堺では、フランス兵を撃ちもせんのに、撃ったと名乗って切腹の組に。──」
「人間、時と場合で、昂奮のあまり──あるいは、ただ卑怯《ひきよう》者といわれることが怖ろしくって、一見勇気のあるように見える行動に出ることもあるものさ。戦争のときなんぞ、特にそんな現象が起る。……もっとも、そんな眼で見りゃ、人間の勇ましいふるまいってやつは、たいていそういうものかも知れんがね。だから、こりゃ橋詰の悪口じゃあねえが、とにかく橋詰は、堺事件の勇士という貼札に拘泥《こうでい》し過ぎたようだ」
「………」
「あまりこだわってるらしいので、つい右のようなかんぐりも出て来るのさ」
休庵先生の解説を聞いても、四郎助は不可解であった。ややあって、彼はまた尋ねた。
「では、浜田は、なぜ自分を撃った橋詰を撃たんで、堂目看守を撃ったんでごわしょう?」
訊《き》いたあとで、彼はみずからいい直した。
「もっとも、あいつは、自分を撃ったのが堂目看守だと思っていたのかも知れもさんが」
彼自身、最初はそう思っていたくらいだから、浜田友太郎がそう錯覚したことは充分考えられる。
「いや、その錯覚はあるめえ。君の話によると、そのとき橋詰は、西郷を撃ったのはこのおれだ、と、さけんでいたというじゃあねえか。橋詰が何を考え、なぜ自分を撃ったか、浜田は知ったはずだ」
と、休庵はいった。
「では、浜田は橋詰を撃とうとして、まちがって堂目を撃ったのか──とも、思われん。あの石狩川で鳥を撃ち落した腕から見てもね。あれは堂目看守を撃つつもりで撃ち、みごとに射殺して死んだんだ」
それは、浜田友太郎の凄絶《せいぜつ》な最後の射撃姿勢を思い出しても、まちがいないと四郎助にもうなずかれた。しかし、彼はなお訊かずにはいられなかった。
「で、どげんして?」
「あれは橋詰への同情、友情を失ってはいなかった。堺事件の卑怯者浜田友太郎は、あくまで男として死んだのだろうよ」
わかったようで、これまた不可解であった。
しかし、とにかく四郎助は、休庵先生とこんな問答を交した。
さて、その橋詰愛兵衛だ。とにかく彼は右のような大罪を犯したのだから、処刑はまぬがれないことになった。ついでに、その前に逃亡を計った高戸宇之助もいっしょに処刑されることに決った。例によって斬首《ざんしゆ》刑で、斬り手は騎西《きさい》看守長、日は二月三日だという。
そう決定してから、橋詰のようすがおかしくなった。
浜田友太郎を撃ったときから錯乱状態であったが、それがいったんおさまって虚脱したように黙り込んでいたのに、二月三日斬首の決定が伝えられてから、また錯乱状態におちいったのだ。
「そりゃあんまりだ。堂目看守どのを射殺したのはおれじゃない。浜田友太郎じゃ!」
独房の格子をつかんでさけび出したのだ。
「浜田を撃ったのはおれだが、それはあいつが英雄西郷先生を撃った下手人だからじゃ。おれは西郷先生を撃たなかった。わざと弾をそらしたんじゃ!」
格子をガタガタと鳴らし、髪ふりみだしてわめく眼は血走って、恐怖の相そのものであった。
「それにきゃつ、西郷の死の秘密をもらすおそれがある。いや、もうもらしてしまった。だから、撃った! おれが斬首になる理由はない! そりゃあんまりだ。……岩村長官はほんとうにそんな御命令を下されたのか、おいっ、もういちど札幌へ聞き合わせてくれ。……助けてくれえ!」
休庵先生との問答後であったが、改めてのぞきにいって、四郎助は面《おもて》をそむけた。
橋詰の精神状態がおかしくなっていることは承知していたが、これほどまでとは思わなかった。これが、あの堂目看守の銃口にひたいを押しあてた男か。いや、堺事件で、みずから切腹の座を買って出た勇士か。──
休庵先生の声が、うす気味悪く耳の奥に鳴った。──「あの男は、もとから人の思ってるほど──あるいは、自分の思ってるほどの勇士じゃあなかったんじゃあねえかね?」
いずれにしても、四郎助はこの男の斬首の刑を見たくなかった。いつぞやの騎西看守長の大|殺戮《さつりく》にも吐気を催したが、こんどはいよいよそれを見るのに耐え切れない思いがした。
彼は、その前に、やはり空知へゆきたいと望み、改めてもういちど安村典獄に願い出た。護送すべき囚人浜田友太郎はすでに死亡したのだが、同時に、空知集治監へ書類をとどけるという役目はまだ残っているはずだったからだ。
「そりゃ、是非頼みたいが、雪はいよいよ本式になったぞ」
安村典獄は首をかしげた。この前雪原横断を試みた日以後も、雪はふりつづいていたのである。
「|かんじき《ヽヽヽヽ》をはいてゆけば、大丈夫ごわしょう。いったんやりかけた事《こつ》をよすのは、気が許しもさん。どうか、やって下され」
と、なお四郎助は頼み、それは了承された。日は二月一日と決った。
四郎助が典獄の許可を得たのは一月二十八日のことだが、その夜だ。たまたま彼は当直にあたり、その任務にも服した。で、その夜更け、H型の雑居房を一人、コツ、コツ、と歩いてゆくと、
「──もしっ」
と、吐息のような声で呼びかけられた。
顔をそちらに向けると、格子の向うから一つ眼がのぞいている。牢屋小僧だ。
「旦那、少々お話があるんですがね。……」
外では、吹雪の音がしていた。
「旦那。……近いうち、やっぱり空知へゆきなさるそうですね」
「ほ、もう聞いたか」
「こんどは、お一人で、ですかい?」
「一人だが、それがどげんした?」
「いや、なに」
監獄では、囚人仲間の消息より、看守長や看守についての情報のほうが早い、というふしぎさを、もう四郎助も認めている。ふしぎというより、それは囚人が生きてゆくための動物的|嗅覚《きゆうかく》によるものというべきであろう。
「それより、話とは何じゃ」
「実は、おりゃ、どうしたらいいか、わけがわからなくなっちまったんで。……」
「何が?」
「そのう、何です、こっちが、まあいいことをしたと思ってやったことが、みんな悪い目に出ちまうんで。……」
「じゃから、何がよ?」
「ええい、白状しちまえ。旦那なら大丈夫だ、と思って声をかけたんだから。──さあ、何から始めていいかな。おれも忘れちまったが、さしあたって、こないだのことだ。旦那が空知へ、あの浜田さんを送ってゆくとき、橋詰さんが堂目の旦那の鉄砲をひったくって撃ちましたね。ありゃ、橋詰さんとおれをつないでた鎖がはずれたからこそ出来た芸当なんだが、それをはずしたのは、おれなんで」
「なに?」
「おれとしちゃあね、橋詰さんをあのままこっちへ残しておきゃ、堂目看守にいびり殺されちまうだろう。だから、いまのうちに逃げるがいいや──まさか空知へはゆけないだろうが、とにかくあそこで鎖をはずしてやりゃ、いつもとちがって無人の野っ原だ、橋詰さんはあんな豪傑だから、何とかどこかへ逃げるだろう、と考えて、やったんです。もっとも橋詰さんは、どうして連鎖がはずれたかわからなかったでしょうが」
もとから低い声しか出さない男であったが、いまはいよいよ低く、まるで闇そのものからのささやきのようだ。──それが、大変なことをいう。
「そいつがあんな始末になったから、おりゃ胆《きも》をつぶした。──それからねえ、その前に五寸釘と伊坂大五郎の鎖がはずれて、五寸釘がずらかったでしょう。あれもおれが一枚かんでたんだが、あの場合は、むろん五寸釘も承知の上です。ただ、おれとしちゃ五寸釘を、何とか横浜へ逃がしてやりたくってねえ。もっとも、あいつにアメリカに行く女房と娘があるなんて話は、おりゃ眉《まゆ》に唾《つば》つけてえところもあるんだが」
「おい、そ、それはほんとうか」
四郎助は、思わず声を高くした。
「しっ、静かにしておくんなさい。……この中にゃ、知ってるやつもあるが、知らねえやつのほうが多い。なるたけ知られたくねえ話なんだから」
と、牢屋小僧はうしろをふりむいた。
廊下の天井の高い洋燈《ランプ》だけの、仄暗《ほのぐら》い牢内は海底のようだ。起きていてもただ寒いだけなので、薄い破れ毛布にくるまってじっとしているうちに、天然自然に眠くなると見えて、牢獄の冬は他の季節よりも静かだという。もっとも、海底動物の世界のようだが、そのいびきや歯ぎしりの音は波に似ている。
牢屋小僧とつながれているのは、また唖《おし》で|つんぼ《ヽヽヽ》の男であったが、これも彼の足もとで、一人前の大いびきをかいていた。
「ところが、五寸釘を逃がしたってんで、伊坂大五郎は一物凍死ってえ目に会わされちまった。──」
牢屋小僧の声には、憮然《ぶぜん》たるひびきがあった。
「それから、高戸宇之助と畑寺重蔵が逃げた件ですがねえ。あの二人の鎖がはずれたのもおれのおかげだ。おれとしちゃ、高戸を逃がすためじゃなく、あの人のいい畑寺を逃がしてやるためにやったことだが、あの野郎、いったん逃げながら、昔の巡査根性を出して、高戸をつかまえてまた帰って来ちまいやがった」
四郎助は呆《あき》れはてて、ただ牢屋小僧を見守るばかりだ。
「まだあるんです。こりゃ、五寸釘との共謀話で、結局五寸釘が逃亡するためのだんどりだったんだが、おれたちがここへ来てから間もなく、牢名主の棺桶熊が夜中に錐《きり》みてえなもので心臓を刺されてお陀仏《だぶつ》になったことがありやしたねえ。あれもおれたちがやったことだ。その凶器が、どうしても見つからねえと騒いだようだが。……」
「………」
「それからねえ、その次に起った藁《わら》細工場の火事の件、あの火だねに使ったマッチがどこから出たか、これもとうとうわからなかったが。……」
右だけの片眼がかすかに笑って、四郎助を見た。
「そうそう、旦那は、みんなおれたちの手品じゃねえか、と、何度か探りをいれにおいでになりやしたねえ。こっちはそらっとぼけて通したが、ほんとうのところは内心ドキリと来て、あとでね、若えくせに、あいつ手強《てごわ》い看守だぜって、実は五寸釘と首をすくめたもんでさあ」
むろん、四郎助は笑うどころではない。まさしく彼は、いくどか、その疑惑にとらえられて、この牢屋小僧や五寸釘の寅吉を詰問《きつもん》したことがある。そのときのことがきれぎれに頭をかすめ──彼は、憤然とした。
「おっと、旦那、怒らねえでおくんなさい。あやまる、あやまる」
牢屋小僧は片手をあげてふり、その手をつぶれた左の眼にあてた。
「あやまってる証拠は、この通りです」
四郎助は、のどの奥で、あっとさけんでいた。そこから、なんと眼玉《めだま》が出て来たのだ。
彼ははじめて見るが、それは義眼であった。直径二センチ六、七ミリの半球型の、ガラス玉を押しつぶしたようなかたちをしていた。
牢屋小僧はそれをのせた掌を、格子の外につき出した。四郎助は、まるでお化けのかけらでも見たように、あわてて身をひいた。
牢屋小僧はささやいた。
「横浜の西洋古道具屋で手に入れたものですがね。古くなったのか出来そこないか、黒目《くろめ》のところもとろけてるようで。……そいつに、こんな細工をしたのはおれだが」
牢屋小僧が、それを掌の上でころがすと、中から小さな金属片がバラバラと出て来た。
義眼の内部はくりぬかれて空洞になっていて、中にそんなものがいれてあったのだ。数種類の剃刀《かみそり》のかけらのようなもの、錐《きり》というより針のようなもの、ヤスリ様《よう》のもの、耳かきみたいな鑿《のみ》、絹糸のまるめたもの、それにマッチ箱の一片、折れたマッチ五、六本、等、等、等。
四郎助は、いつか五寸釘や牢屋小僧を厳重に検査したとき、騎西看守長が念のためこの男のつぶれた左眼をおしあけて見たことがあったのを思い出した。しかし、まぶたの内側には、ドロンと白く濁った眼があるだけであった。──が、それが義眼で、その中にこんな道具がかくされていたことを、いまはじめて知った。
なにしろ義眼そのものが小さなものだから、それらはまるで侏儒《こびと》の国の職人の道具のようだ。しかし、それはまさに脱獄の道具に相違なかった。いまこそ知る、樺戸監獄に火事を起し、牢名主を殺害し、そしていくつかの連鎖をはずして何人かの囚人を逃亡させたのは、これらの道具であったのだ!
「へ、へ、へ、こいつで、こういうものを作りやしてね」
げんに牢屋小僧は、こんどはべつの手をつき出した。掌の上には、一個の鍵がのっていた。四郎助は、それが連鎖用の──看守しか所持していない鍵とそっくりなことを認めた。
「木で作ったものでござんすよ。いつも旦那方がお扱いになるとき見ていやしてね。なに、見てりゃ、どういう具合に出来てるかわかる。それで、これらの道具で、木《こ》ッぱを刻んで作った」
「……逮捕する!」
四郎助は、のどの詰《つま》ったような声でうめいた。
「旦那、おりゃ牢にいるんで。──」
「お前も、斬首刑じゃ!」
「そういわれることを覚悟の上で、こんなものをお目にかけたんでさあ」
四郎助は、これほど途方もない事実をみずから打ち明けたのは、まさに牢屋小僧だった、ということにはじめて気がついて、逆上したひたいに一滴の水をかけられたようにわれに返った。
「お前、どげんしてこげな事《こつ》を……」
「イエスさまのお告げでさあ」
「なに、イエスさま?」
「へえ、実はね、いまいったように、おりゃ、いいことをしたつもりなのが、みんなろくでもねえことになりやがる。いえ、もう牢抜けの手伝いはやりませんよ。それはやらねえが、もう一つ、このごろどうも気にかかる人間が一人ありやしてね。それをどうにかしてやりてえ、と考えたんだが、さあ、おれが手を出すとかえって不倖《ふしあせ》なことになりかねねえ。こりゃどうしたもんでござんしょう? と、イエスさまにおうかがいを立てたら、そりゃ有馬四郎助に相談しろ、本人は馬鹿でまだ気がつかねえが、あれはわしの子じゃ、という御返事があったんで。……」
四郎助は、眼を白黒させた。
「でたらめをぬかせ」
「いえ、嘘じゃあねえ。はっきりそのお声が聞えたんでごぜえますよ。だからこうして証拠品までそろえて御相談申しあげてるんじゃごぜえませんか」
両手をつき出したまま、牢屋小僧は大まじめであった。
「どうしても気にかかる人とは何だ」
「あの船の中の娘ですがね。……」
四郎助は、はっとした。
「あの、五寸釘につかまって強姦《つつこみ》をやられかけた娘、あれが変に気にかかるんでさあ。あの娘、あれからどうなったかってね。どうやらこの町の女郎屋か銘酒屋にでも売られて、もうひでえことになってやしねえか。……旦那は御存知じゃあありませんかえ?」
四郎助は黙っていた。はじめに「船の中の娘」と聞いただけで、あの河骨《こうほね》屋のお篠《しの》だな、と気がついたくらいで、それだから彼の口からとっさに反問も出なかったのだ。
「ほかの女たちゃあんなあばずれだからしようがねえとして、ありゃ何だか可哀そうな娘のような気がしてね。たしかこの月形へゆくってえ女たちだったから、町の銘酒屋を探しゃ、きっといるはずだ。旦那、あの娘をおぼえちゃいませんか?」
四郎助は、やっと訊き返した。
「し、しかし、お前が、なんで?」
「おれにもよくわからねえんだが、なぜかその、迷える一匹の羊ってえ気がしやしてね。……」
そんな文句が「聖書」の中にあったような記憶もあるが、四郎助はただめんくらった。
「その娘を、どげんしろという?」
「旦那、空知へゆきなさるなら、あの娘を連れていってやってくれませんかい?」
さすがに、牢屋小僧は苦笑した。
「お節介も突飛過ぎるとおれも思うんだが、どうも気にかかるもんでイエスさまにおうかがいを立てたら、是非そうしてやれとおっしゃるんでね。……」
「馬鹿もん、そげな事《こつ》がおいに出来《でく》るか」
「いけませんかえ」
「だいいち、空知へ連れてってどげんするか」
「あっちに原先生がいってらっしゃるはずで、あのお方にでも頼んだら、と思いやして」
教誨師《きようかいし》原|胤昭《たねあき》だ。──ゆくりなくも四郎助は、その原胤昭からあの娘を救ってやってくれと頼まれ、そのときも尻込みしたことを思い出した。しかし、そんなことはこの牢屋小僧は知らないはずだ。
「いや、原さんはだいぶ前、釧路《くしろ》のほうへゆかれたと聞いたが」
「へえ、そうですか」
牢屋小僧の顔に失望の色が浮かんだ。
「実は、旦那に頼まなくったって、連れ出すだけならおれにも出来ねえこともねえんだが。──」
と、彼は変なせりふを吐いた。
「そのあと、どうすりゃいいか途方にくれた。空知に原先生がいないとなると、いよいよどうしていいかわからねえ。……それにおれがやると、それ、さっきいったようにどうもあとがよくねえという縁起もあるしねえ。すっかり迷っちまって、そこで旦那に相談を持ちかけたんですが、こりゃうまくねえな」
「何をふざけた事《こつ》をいっちょるか、それより──」
と、四郎助は息はずませた。
「こげなこつを聞いた以上、うぬそのものがただではおけん。……」
「やっぱり、そういうことになりやすかね」
沈んだ声に、四郎助はかえって拍子《ひようし》ぬけがした。彼は昂奮を抑え、さっきから心中に浮かんでいた疑問を口にした。
「それにしても……そげんして、鎖をはずす鍵を持っちょって、ほかの連中は逃がして、お前はいままでなぜ逃げんかったのか」
「おりゃ、奇蹟を待ってるんでさあ」
前にも聞いたことのある奇妙|奇天烈《きてれつ》な呪文《じゆもん》を、また牢屋小僧は唱《とな》えた。
「信心さえすりゃ奇蹟が起るって、イエスさまがおっしゃってるんでね」
四郎助は狐につままれたような顔をするしかない。
「おりゃ、牢抜けなんてアキアキした。裟婆なんかへ出たって、ちっとも面白かありませんや。それよりここで、その奇蹟ってやつを待ってるほうが面白えように思うんで。……」
「処刑されりゃ、奇蹟もへちまもなかろうが」
「旦那、おれも二月三日にバッサリですか」
「いや、待て。──」
なぜか四郎助は狼狽《ろうばい》した。
「おれは二月一日、空知へゆく。向うに何日滞在するかわからんが、とにかく数日で帰ってくる。すべてはそれからの事《こつ》にする。……こら、その変な眼や道具はひっ込めろ。おれが帰ってくるまで、いまの事はだれにもしゃべるでなかぞ」
牢屋小僧が、左眼、ほら穴《あな》みたいにあいた顔でうす気味悪く笑った。
「イエスさまがおっしゃった通りだ。ほら、奇蹟が起ったじゃあごぜえませんか」
「馬鹿、こりゃ、あまり重大で、いまおれにもどうすりゃいいか、ちょっと判断出来んほど重大過ぐる事《こつ》じゃからじゃ。……」
四郎助はほんとうに混乱し、ただ相手をにらみつけた。
「とにかく、首を洗って待っちょれ。……」
フラフラとゆきかかるうしろから、吹雪の声にまじって、牢屋小僧の低いつぶやきが聞えた。
「祈れよ、信ぜよ、父なる神は彼処《かしこ》に在《いま》す。……」
二月一日の朝、有馬四郎助は空知へ向けて出発した。二十八日の夜の吹雪は一応やんだが、この日は朝からまた烈しい雪であった。
「こりゃ、いけんぞ、のばしたらどうじゃ、有馬」
と、安村典獄は首をかしげたが、四郎助は頑固に予定を変更しなかった。実をいうと、うかうかしていると三日の斬首刑に立ち合わされる破目になるからだ。
四郎助は、ひとりで氷橋《こおりばし》を歩いていった。渡り終えないうちに、けぶる雪のために、もう月形の町は見えなくなった。
石狩川を渡ると、外役場には人影一つなく、ただ曠野《こうや》にふりしきる雪ばかりであった。
道路は予定の三分の一──それでも一里以上は何とか出来ている。すでに工事が中止されているので、その上に雪がふりつもり、もう足に|かんじき《ヽヽヽヽ》をつけて歩かなければならなかった。ある距離をおいて、無人の工事小屋だけがひっそりと建っているのが、かえってものさびしい。
最後の納屋をゆき過ぎて、もう道ではない野に──先日浜田が死んだあたりに──踏みいろうとしたときだ。
「あの……看守さん」
うしろから呼びかけられて、ふりむいて、四郎助はぎょっとした。赤い影が白く彩られて、最初、雪女というやつかと思い、次にそれが、赤い毛布を頭からかぶった女──しかもそれを顔の前でかき合わせて、眼だけのぞかせているが、まさしくお篠だと知って、いよいよ眼を見張った。
「有馬看守さんですね?」
と、お篠はおずおずといった。
四郎助は、この娘に二度逢った。一度目はいうまでもなく北海道へ来る船の中で、五寸釘にとらえられて小雀のようにもがいている姿を見たときで、二度目は赴任後間もなく、原教誨師とともに月形の売色街入舟町で、原に「この娘を預《あずか》ってくれないか」と依頼されたときだ。
この娘が、しかしどこまで自分を知っているのか、という判断がつかず、彼は黙ってうなずき、
「……おはん、どげんしてこげなところに?」
と、ともかく第一の疑問をもらした。
「けさ早くから、あの納屋にいたんです」
と、お篠は背後の納屋を指さした。
「お店を逃げ出して」
それだけのぞいた眼が、もう涙にひかっていた。
「あなたがおいでになるのを待ってたんです」
「えっ」
四郎助はいよいよ驚いた。
「どげんしておれがここに来る事《こつ》を知っちょった?」
「きのうの晩、一つ目の看守さんがうちの店に来て、あたしを呼び出して……あしたの朝、有馬看守が川向うの野原を空知へゆくから、いっしょに連れていってもらわないかと。……」
「なんじゃと? 一つ目の看守?」
四郎助は奇声を発した。
「そりゃ……おいっ、おはんはおぼえておらんか、北海道へ来る船の中であばれ出して、おはんたちをつかまえて──それ、原先生に縛られたあの囚人じゃなかか?」
「……あ!」
と、娘は赤い毛布を離してさけんだ。いま、やっと気がついたらしい。
「そういえば、あのひとです。まあ、あのひとが……看守さんになったんですか?」
「馬鹿な! あれはいまでも囚人じゃ。牢の中におるやつじゃ!」
四郎助は棒立ちになっていた。
「それが、入舟町の河骨《こうほね》屋へいったと?」
昨晩はきょうにそなえ彼は官舎に帰って寝たから、監獄のことは知らないが、もし右のことが事実なら、牢屋小僧が集治監の外へ出たことはたしかだ。しかも看守の制服を着ていたというから、どこかでそれを失敬したに相違ない。それにしても、鎖をはずしたのはわかるとして、どうして雑居房を出、また集治監を抜け出したものだろう?
そして、けさ出発するときに典獄に挨拶のためちょっと集治監に寄ったが、べつに何の騒ぎも起っていなかったところを見ると、きゃつの「脱獄」は、だれも知らないにちがいない。──いや、あいつは、「牢抜けなんて、ちっとも面白くねえ」といった。牢屋小僧はまた監獄に戻って、澄まして牢の中に坐っているにきまっている!
四郎助の耳に、牢屋小僧が闇室にいれられたとき、うす笑いして、「いっておくがな、おれをどんなところへ閉じ込めても、そのうちきっと牢抜けをやって見せるから、せいぜい用心しな」といった声が甦《よみがえ》った。その不敵な自信のよって来たるゆえんを先日知ったが──ひょっとしたらあいつは、いままでだって、なんど牢を抜け出して、また何くわぬ顔で帰って坐っていたか、知れたものではない。──
四郎助は、いまさらのように、牢屋小僧の「奇蹟」に茫乎《ぼうこ》とした。
あいつは、この娘を空知へ連れてゆけと頼み、自分に一蹴されて一応あきらめたように見せかけて、その実そんな離れわざをやって、とうとうおれにとんでもないことを押しつけたのだ。
黙然《もくねん》として見つめている若い看守の表情をどうとったか。
「帰さないで下さい。ね、お願い、入舟町へ帰さないで下さい!」
娘は、泣きながらとりすがって来た。
本来なら、帰らせるべきであった。大それたことをやってのけた牢屋小僧を糺明《きゆうめい》するためにも、彼自身とって返すべきところであった。しかし。──
「河骨屋に帰るくらいなら、あたし、ここで死んでしまいます!」
という娘の声に、彼は、
「わかった」
と、うなずいてしまった。
牢屋小僧の「依頼」に応じたわけではない。この娘の必死の願いに負けたのだ。
「追手もあるまいが、早くゆこう」
彼はお篠をうながして歩き出した。お篠は毛布のほかに、藁沓《つまご》に|かんじき《ヽヽヽヽ》まで用意していた。
「けさ早くから納屋におったと?」
氷橋があればこそ、こっちへ来られたことだ。渡し船であったら、すぐに船頭に連れ戻されたろう。
「そいじゃ寒かったじゃろ」
「いいえ、小さな火を焚《た》いて……それに、これを読んでいましたから」
と、お篠は歩きながら、胸から小さな黒い本をとり出した。それが、原胤昭が、別れるとき彼女に渡していった聖書であることを一瞥《いちべつ》して四郎助は知った。同じ本を、あの牢屋小僧も「愛読」している。──その小さな本には、何か変な魔力があるらしい、と彼は改めて感じいった。
そして、この娘があんな店で、もうかれこれ半年近く暮して、牢屋小僧も「もうひでえことになってやしねえか。……」と心配したが、意外にもあの船で見たころと同じきれいな眼をしているのを見て、「ひょっとしたら、それはその本のおかげじゃなかか?」と、なぜか彼は考えた。
しかし、むろん四郎助は、えらいものを背負わされた、という困惑にとり憑《つ》かれていた。
「空知へいってどげんするかね?」
「あそこには、あのバテレンさんがいっていらっしゃるはずですから──」
「いや、原先生はもう空知にいないそうだ」
「あらっ?」
牢屋小僧は、そんなことは告げなかったと見える。
お篠の、落胆して言葉もない顔を、世にも気の毒なものと見て、四郎助は思わず、
「なに、それはそれとして、ゆけば、まあ、何とかなるじゃろが」
と、いってしまった。しかし、もとより何のあてもない。
しばらく黙って歩いているうちに、雪はますます烈しくなっていた。空の果てから、無数の獣の吼《ほ》えるような風の音さえ伝わって来た。さっきまでところどころ、白銀の鎧《よろい》を着たように見えていた林も、白い煙に沈んでしまった。
黙っていると、娘が不安にたえ切れなくなると感じて、
「おはん……前からおれを知っちょったのか?」
と、四郎助はまた話しかけた。お篠はうなずいた。
「え、いつか、原先生といっしょにおいでになりましたね」
「や、あれをおぼえちょったのか。──」
「それはあの船の中で、悪い人たちにホースで煮湯をおかけになった勇ましい姿を見ていましたから。……」
吹雪の中に、四郎助は顔を赤くした。しかしお篠は、その勇猛無比の若い残像がまだまぶたにあればこそ、原胤昭が訪ねて来たときはただの同伴者に過ぎなかった四郎助の顔が、また眼に残ったのであった。
もはや、まったく吹雪だ。空も地のけじめも消えてしまった。
──しまった!
ようやく四郎助は、きょうの出発を悔いていた。これほどの吹雪になるとは思わなかったのだ。こんなひどい吹雪は、月形の町ではまだ味わったことがないような気がした。
いかん、引返そう。
いちど考えた。しかし、引返すことは出来なかった。強情のためではない。この娘のためにだ。引返すことはこの娘にとって破滅を意味する。
迷い、しかし、その迷いを捨て、四郎助はともかく前へ進んだ。うしろから、懸命の顔で、お篠はついて来る。それを見ただけで、引返すことは不可能だと思わないわけにはゆかない。
彼は前へ進んでいるつもりであった。しかし、これが一直線に進めるような原野なら、もともと囚人道路など作る必要はないのだ。それは大部分が、前にもいったように、一丈の竿《さお》を片手でつっ込んでも、ズブズブと根もとまではいるような湿地帯であった。原野というより一大|沼沢《しようたく》地といったほうがいい土地であった。だから、秋にいちど空知監獄のほうから高野看守長一行が来たことがあるが、その中の乾いた部分を選び選びやって来たので、そんなことをやる人間もめったにない、結構一種の冒険なのであった。
それがいまは、ただいちめんの深い雪だ。雪も薄ければ沼か乾いた地面か判別出来るだろうが、こんな──一メートル半以上と思われる──積雪になると、もう眼にはそれと見分けのつけようがない。それを必死に眼を凝らして、絶えず迂回しつつ進む。
「……あっ」
うしろで、悲鳴があがった。
ふり返ると、お篠が片足とられて倒れていた。身体がななめに沈んでゆく。四郎助の歩いた足跡を、死物狂いに辿《たど》っていたのだが、ちょっとした踏みちがえで、沼に足をつっ込んでしまったらしい。
四郎助は駈け戻って、ひきずりあげた。お篠の片足の|かんじき《ヽヽヽヽ》と藁沓《つまご》はぬげていた。雪の中に手をさし込んでさがしたが、それは沼の下へ沈んでしまったと見えて、どうかきまわしても手にふれなかった。
「おぶされ」
と、四郎助は背をむけた。
「いえ、大丈夫です。このままで歩けます」
「いや、それより、おぶったほうが早いんじゃ」
と、四郎助は叱りつけるようにいった。実際、だいぶ前からそう感じていたので、それはほんとうのことであった。モタモタしていると、冗談ではなく凍死の運命におちいりかねない。──低かった気温はさらに低くなったようだ。空気は鉄みたいに変化したようであった。
彼はマントをぬぎ、お篠のしごきを解かせて背負い、そのうしろから毛布とマントで覆わせて行進を再開した。
「すみません。ほんとうにすみません」
お篠の息が、熱く四郎助の頬を撫《な》でた。
「おはん、東京の者《もん》か」
「いえ、秩父です。……」
「秩父? 秩父の女が、北海道へ?……貧乏のせいか」
「それもありますけれど、北海道へ来たのはあたしの願いでもあったんです」
「なぜ?」
「兄さんが、北海道にいるらしいので……でも、月形へ来ようとは思いませんでした。まして、あんなお店に売られるなんて夢にも思いませんでした。……」
「兄が北海道にいるらしい? 居場所も知らんのか」
「はい、ただ北海道にいる、と聞いたばかりで。……」
二人の問答らしい問答は、この吹雪の中ではこれが終りであった。
囚人道路が一里と若干、それからもう何里来たろうか。距離感覚があやしくなった。そして、方向感覚さえも消滅してしまった。
いまは天地は晦冥《かいめい》であった。ただ渦巻き、疾走する濛々《もうもう》たる白一色の雪煙だけが周囲にあった。吹きつける雪片は針のように顔につき刺さり、衣服はパリパリと凍りつき、背にまわした彼の指は、最初お篠の身体にふれた部分が火のように感じられたのに、次第に無感覚になって、曲ったままになった。
「おい、寝てるのか?」
背の娘が黙り込んだので、彼はぎょっとしてゆさぶった。返事はなかった。
お篠は明らかに眠りかかっているのだ。けさ早くからあの場所に来たといったが、おそらく彼女は昨夜から眠ってはいまい。しかしいまお篠を襲って来た睡魔がただごとではないことは、四郎助にも了解された。
「眠っちゃいかん、こら、起きろ、おいっ。──」
彼はゆさぶった。
「はい」
変にウットリした声が、数十秒後に聞えた。
しかし、そういう四郎助のまぶた自身が、ガラスのかけらみたいに強《こわ》ばって来るのだ。風はもはや氷雪の巨大なかたまりであった。それは大地のあらゆるものを根こそぎにするような叫喚《きようかん》をあげていた。
──遠く、美しい鈴の音《ね》を聞いたのは、それからどれくらいの時間が経過してからであろうか。
はじめ四郎助は、それを幻聴かと思った。吹雪のかなたにふしぎな影が浮かび、それがこちらにやって来るのを見ても幻覚としか思われなかった。あるいは、吹雪の中でなくても、そう見えたかも知れない。
それでも彼は大声をふりしぼった。
「おおいっ……おおおおいっ」
奇怪な鈴の音と影は、急速に接近して来て、すぐ近くに停《とま》った。
「あれえ? 有馬君じゃあねえか」
休庵の声であった。
「こんなところで何してるんだ」
たくさんの犬に曳かせた|そり《ヽヽ》に乗ったアイヌ姿の休庵先生は、呆《あき》れはてた顔でまた|そり《ヽヽ》を近づけて来た。
休庵先生は二人を|そり《ヽヽ》へ連れていって、例の大徳利を持ち出して四郎助に飲ませ、それからお篠にも少し飲ませた。さて、それから、いったいどこへゆこうとしていたのだと訊く。
四郎助は、連絡書類をとどけに空知集治監へゆく途中この吹雪に遭遇したむね答えた。
「その……お篠は?」
入舟町になじみの休庵は、むろん娘の名は知っていた。
四郎助はヘドモドしながら、これは河骨屋を逃げ出したので、偶然いっしょになったのだ、と説明した。
「そうか。恋飛脚《こいびきやく》 石狩往来《いしかりおうらい》でなくてよかった」
と、休庵先生は笑ったが、四郎助には何のことだかわからない。
「それにしても、真冬ここを二本の足で歩こうとは無茶なやつだ」
と、休庵はいった。
「ここは、これでなくては通れん」
と、|そり《ヽヽ》を軽くたたいた。
「こりゃ、いったい何で?」
「アイヌの犬|ぞり《ヽヽ》さ」
それは長さ三メートル、幅五十センチほどの木と竹を組み合わせて作ったもので、継ぎ目はどこも獣の皮を細長く切ったようなもので縛ってあった。中には例のスキーが積み込んである。そして、これを曳く犬は十頭ばかりいたが、四郎助がまだ見たことのない、尾の巻きあがった、狼みたいな顔をした巨大な犬であった。もっとも彼は、そもそも大|ぞり《ヽヽ》などというものもはじめて見る。
「ありゃカラフト犬だよ。……ふしぎなことに、北海道のアイヌは古来犬|ぞり《ヽヽ》を使わん。|そり《ヽヽ》を曳くに適した犬もおらん。|そり《ヽヽ》自体もカラフトの犬|ぞり《ヽヽ》だ。結《ゆわ》えてある紐は、ありゃあざらしの皮さ」
「ほほう」
「例のスキーの研究が発展して、|そり《ヽヽ》を思いついたんだが、なかなかうまくゆかんで思案してたところへ、ふと空知に、カラフトの犬|ぞり《ヽヽ》を使っている男があると聞いてね。ここ四、五日、そっちへいって修行して、いま見本をもらって稽古かたがた帰るところだったのさ」
と、休庵はいった。
「そいじゃ先生は、空知からのお帰りごわすか」
「左様。しかしお前さんたち、そういうことなら、また引返すことにしよう。三、四人は乗れる。乗ってけ」
と、彼は|そり《ヽヽ》の前方に乗り込み、長い革鞭《かわむち》をふるった。
「廻るぞ。──」
三人を乗せて、犬|ぞり《ヽヽ》は大きく迂回し、|そり《ヽヽ》にとりつけた鈴の美しい音とともに走り出した。
「どうじゃ、吹雪も屁《へ》のカッパじゃろが」
「なるほど、たいしたもんでごわすな」
気のせいか、吹雪も弱まって来たようだ。
四郎助は眼をまろくしてゆられていたが、人心地がつくとともに気がかりなことを思い出した。
「先生、この人は空知へ、例の原先生を頼ってゆくつもりだったらしゅうごわすが、その原先生がもう空知にはおられんので困っちょるのでごわす。……先生は、どこか、この人を預ってくるる人を御存知じゃごわすまいか?」
「ふうん」
休庵は犬のむれをはしから鞭でたたいていって、たたき終って、
「それは、あの人物がよかろう。いや、あんなすっ頓狂なバテレンよりずんと頼もしいかも知れん」
と、いった。
「有馬君、君はからす組って聞いたことがあるかえ?」
「からす組?」
「いや、君の年じゃ知るめえ。戊辰《ぼしん》の奥羽戦争でね、ゲリラ戦というやつをやった伊達藩の部隊の名だがね。これが侍じゃなく、百姓や|やくざ《ヽヽヽ》ばかりから出来上っておって、怖ろしく官軍を悩ました。その隊長は、これだけ武士で細谷《ほそや》十太夫という。──仙台藩が降伏したあと、その快傑は北海道へ逃げてアイヌといっしょに暮していたが、あの西南の役にノコノコと現われて、こんどは官軍に少尉として従軍した。いわゆる戊辰の復讐組の一人さ。で、細谷も西郷さんを討ちにいったわけだが、そこで負傷して、また北海道へ来た。北海道どころか、いちじはカラフトまでいって、そこからカラフト・アイヌを家来にして連れて来た。つまり、この犬|ぞり《ヽヽ》をくれた御仁よ」
「へへえ」
「そっちでよかったら、そこに預ってもらうことにしよう。向うは大丈夫だ」
「どうじゃ?」
と、四郎助はふりむいた。
「あたしは河骨屋みたいなところでなければ、どこでもいいんですけれど」
休庵先生が向うをむいたまま笑った。
「でも、あなたは?」
と、お篠は心細げにいった。とりすがっていた人につき離される子供のような表情であった。
「おれは、御用がすんだら、すぐに月形に帰らんけりゃならん。おはん、そこにいて、何とか兄さんの居場所を探してもらうがよか」
|そり《ヽヽ》は、やがて道らしいところを走り出した。ゆれが幾分おだやかになり、鈴の音はいよいよ甘美になった。
お篠が小さく溜息をついた。
「あたい、いつまでもこうしてこの|そり《ヽヽ》に乗っていたい。……」
「有馬看守といっしょにかえ?」
と、休庵先生がまた笑った。四郎助は赤くなった。
「ここが峯延《みねのぶ》。……このあたりから先、一里ほどの道は空知監獄側の分担で作りつつあるんじゃ」
と、休庵が教えた。
その一里ばかりを進むと、間もなく町が見えて来た。月形とそっくりの、雪に覆われた黒い町であった。黒い印象はやはり官舎が多いせいだろう。
そして、樺戸監獄と同様に高い塀にかこまれ、「空知集治監」という大標札のかかった正門の前に──やや離れて、|そり《ヽヽ》は停《とま》った。
と、ちょうどそこから、ゾロゾロと赤い行列が出て来た。編笠に赤い獄衣を着た囚人の一団で、みな肩にシャヴェルや|つるはし《ヽヽヽヽ》をかついでいる。
「炭鉱──幌内炭鉱にゆくのさ。雪は地の底へふらんからな」
と、休庵があごでさした。
「囚人にとっちゃ、月形よりもまだ辛《つら》い」
それから笑顔をふりむけて、
「おい、有馬君、お篠をまさかここで下ろすわけにゃゆかんから、お名残《なごり》惜しいだろうが、連れてゆくよ」
と、いった。
最初にこの怪医に逢ったとき──病囚に一服盛って軽く始末したときは大変な医者だと思い、その後案外人なつこいところもある人物のように思われ、特にどういうわけか自分には親愛感を示すので、四郎助も同様に親愛感をいだいていたが、しかし、ときとして、ぞっとするような無情な一面を見せることがないでもない。──いま、四郎助は、それを感じた。
しかし、休庵先生のいうことは、尤《もつと》もにちがいない。あわてて|そり《ヽヽ》から下りながら、
「そのからす組の大将の家はどこでごわす?」
と、四郎助は訊いた。
「この奥の、カラフト・コタンというところの細谷十太夫といえばわかる。じゃあ」
|そり《ヽヽ》は動き出した。お篠がさけんだ。
「有馬さん。……いちどそこへ来て下さい、ね、ね、お願い。──」
白い哀しげな顔が、すぐ雪に霞んで消えていった。
雪は、あの吹雪ほどではないが、まだふりつづいているのだ。──四郎助は背を返し、その雪にけぶる空知集治監へ向って歩き出した。
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空知集治監《そらちしゆうじかん》
有馬|四郎助《しろのすけ》は、すぐに渡辺典獄に逢った。
渡辺典獄は、四郎助が持って来た書類を見る前に、
「ほう、お前が有馬看守か」
と、四郎助の名乗りを反覆し、彼を案内してきた看守がドアに手をかけている背中に、
「おう、高野看守長がおったら、すぐに来てくれろと伝えろ」
と、命じた。
それから、書類をひらいて読み、
「ありがとう。しかし、この連絡に、吹雪の中をやって来たのか?」
と、ふしぎそうな顔をあげた。四郎助は書類の内容は知らない。
「は。いえ、雪中の月形・市来知《いちきしり》間の原野を横断して見ようと、私が望んで来させてもらったのでごわすが、いや、えらか目にあいもした」
と、直立不動のまま、苦笑いした。
「や、お前、薩摩っぽか」
と、典獄はいった。
「いや、原|教誨師《きようかいし》がお前を馬鹿に褒《ほ》めとったとかで、うちの高野がおぼえておって、去年の秋にお前に逢ったそうで、帰って来てから、うちの若い看守にもああいうのが欲しい、と、いうとったが──お前が薩摩人だとまでは聞かなんだ。おれも鹿児島の士族じゃ」
そのことは、もう四郎助も知っている。その上、渡辺の口に薩摩|訛《なま》りがないことを見てもわかるように、実は鹿児島県生まれではないことも。──
空知集治監の典獄渡辺|維精《これあき》は、小柄で鋭い樺戸集治監の安村典獄とちがい、頬まで美髯《びぜん》に覆われた、威風堂々たる体格と容貌の持主であった。そして、樺戸のほうは初代の月形潔が病身で早く引退したので、いまの安村は二代目だが、一年遅れて開設されたこの空知集治監では、この渡辺が初代で、そのまま今日に至っている。
この人は、元来美濃の豪農の子であったが、御一新前、薩藩大坂屋敷に奉公していた。その縁で、維新後、鹿児島県の士族にしてもらったのである。それから警視庁にはいって警部補までになり、あの西南役当時は、鹿児島県警察署長、翌年には小菅の東京集治監の副典獄となり、そして明治十五年にこの空知集治監が開かれると、その初代典獄を命じられたのだ。年はたしかことし四十三と聞く。
「まあ、坐れ」
と、渡辺典獄は、テーブルを隔てた二つ三つの椅子をあごでさした。
煉瓦作りの暖炉にあかあかと燃えているのは、石炭らしい。そういえば、この町にはいったときから、町じゅう石炭くさかった。月形のほうはまだ大半|薪《まき》と炭だが、ここはさすがに石炭の町だ。
しばらく鹿児島の話をしていると、ドアをノックして、高野看守長がはいって来た。
「やあ、来たか」
と、彼は手をさしのばして、握手した。活気に満ちた手触りであった。
四郎助は、ここへ来る途中猛吹雪に逢って遭難しかけたことを話した。お篠のことはいいそびれたが、独《ひとり》 休庵《きゆうあん》先生の犬|ぞり《ヽヽ》に助けられた話はした。
「うん、あれは妙な医者だな」
と、高野も首をかしげた。以前から休庵先生は、この町にもちょいちょい現われていたらしい。
「このごろ、カラフト・コタンの鴉仙《あせん》和尚のところへ来ておったようだな。ふうん、犬|ぞり《ヽヽ》を習って、その帰りか」
「鴉仙?」
「その昔、仙台藩の侍で、戊辰《ぼしん》のいくさのとき、百姓やばくち打ちだけ集めて、からす組という部隊を作り、侍よりも官軍を悩ました前名|細谷《ほそや》十太夫という人さ」
その話は、休庵からもちょっと聞いた。
「いまは坊主になって、鴉仙和尚と称しておる。なるほど、知り合えば、あの休庵先生とウマが合うだろう。おれもね、その昔、官軍とやり合った朝敵長岡藩の人間だから、あの和尚は好きだよ。──いや、御両所には失礼」
薩摩に縁のある渡辺典獄と四郎助は苦笑した。しかし、この高野|襄《ゆずる》は、ただの典獄と看守長という関係以上に渡辺に信任されているらしいことは、二人の雰囲気でわかった。
「それがいま、この奥のアイヌ部落に住んでおる。あの独休庵だって、素性は知らんが、おれの見るところ、ただものじゃないな。──どうもいまの北海道には、監獄の外にもただものじゃない人間がウヨウヨしとる。は、は」
高野看守長は笑って、
「そのうちおれが、そのアイヌ部落に連れてってやろう」
と、いった。四郎助は、いささかぎょっとした。そこにはあのお篠がいっているはずだからだ。やっと答えた。
「そのうち、と、いわれても、私はすぐ月形へ帰らなきゃなりもさんが」
「あ、そうか」
と、高野は気がついて、
「しかし、この雪ではちょっと帰れんぞ。来るときもえらい目に逢ったというじゃないか。雪の溶けるころまで、ここを見学してゆくがいい。あとで典獄から、あっちへ断わってもらうことにする。──典獄、いいでしょう?」
「そりゃ、こっちはかまわんが。……」
と、渡辺典獄は笑顔でうなずいた。
高野看守長は、四郎助を連れて、空知集治監を案内し、説明した。
ここは明治十五年七月に開かれたのだが、樺戸より一年あとに出来ただけあって、敷地はほとんど同じ面積だが、建物はさらに岩乗《がんじよう》になり、その配置も何となく「近代的」な感じがした。囚人は約二千人というから、樺戸よりもだいぶ多い。さらに樺戸では看守長は八人だが、ここには二十五人、看守は樺戸が五十人ほどだが、ここでは何と三百五十人もいるという。
「幌内炭鉱があるからね」
と、高野はいった。それだけ監視の手がかかるということだろう。
「炭鉱のほうにも、監獄長屋というものがあって、まあここの分監だ」
獄舎の窓の外の雪はまばらな粉雪になっていて、黒い煙を吐いている高い煉瓦の煙突がいくつか見えた。建物自体は木造だが、暖炉と煙突は煉瓦作りになっているらしい。雲の低く垂れた空は、もう夕暮近かった。
「それで、ここの囚人は大部分政治犯ごわすか」
「まさか、懲役十二年以上もの政治犯が二千人もおるわけはない。それは百人足らず──あとは一般の凶悪犯だが、まあ内地の政治犯の重いやつは、たいていここに送られて来とることは事実だ」
高野は答えて、
「おう、いつか月形へ連れてった自由党の連中な、あれはいまここにおるはずだ。──という意味はきょうは炭鉱にやられておらんということだが──そっちへいって見るか」
と、いった。
獄舎を出て、こんどは作業場へいった。樺戸と同じく、鍛冶《かじ》、煉瓦焼き、木挽き、竹細工、藁《わら》細工、醤油味噌製造、養豚場などがあるということであったが、彼の連れてゆかれたのは、木工場であった。
ちょうどそこへはいったとき。──
「きさまなんぞ百姓|風情《ふぜい》が、こんなもの読んで、何になる?」
という怒声とともに、一人の囚人がもう一人の囚人の頬を音たてて殴りつけた。
そこは樺戸と同様、がらんとした蓆《むしろ》敷きの大きな建物で、百人以上もの赤い獄衣を着た男たちが、戸棚とか箪笥《たんす》とか、箱とか膳とか、その他さまざまな農具、照明具、台所用具などの木工品を作っていた。──
これは樺戸でも驚嘆したのだが、それらの作品があまりみごとなので、囚人たちは娑婆《しやば》にいたころそれぞれの専門職人だったのかと訊くと、それがまったく監獄にはいってからはじめた鑿《のみ》や鉋《かんな》や|鋸 《のこぎり》だという。人間とは、やる気になれば才能を超えてたいしたことをやるものだと感動し、そしてまた四郎助にとって囚人たちへの認識を改めさせた理由のもっとも大きなものの一つが、これらの作業場における印象であったといっていい。
それはともかく、そこにはむろんあちこち看守が立っているのに、囚人が囚人を殴打するのを黙って見ている。──高野たちがはいって来たのを見て、それらがいっせいに敬礼をしながら、はじめて狼狽《ろうばい》した表情をした。
それを見て、囚人たちもふりむいた。
「何か。──横川」
と、近づいてゆく高野に、
「いえ、ここに置いておったこの本が見つからんので、だれか知らんかと問いましたところ、こいつが持ってったことが判明したので、つい、のぼせあがって」
と、ややきまり悪げに答えたのは、いま殴ったほうの若い囚人だ。その手にぶら下げた小さな黒い本を見て、四郎助はまばたきした。それは原教誨師の例の聖書であった。
「その本にゃ、盗んだやつは殴れと書いてあるかね」
「これは恐れいってござります」
囚人は赤面してお辞儀したが、殴った相手には、
「もういい、ゆけ」
と、横柄《おうへい》にあごをしゃくった。殴られた男は低く頭を下げて、スゴスゴと向うのほうへいった。
「有馬看守。おぼえているかね。これが横川省三君。──おい河野、玉水、鈴木、中野──ええと、あっちへ連れてったのはだれだったかな? たしか、三人だったが。──」
「私、河野と鈴木君であります」
と、別の一人がもう一人を眼でさした。
四郎助は、あのとき紹介された自由党の若い囚人たちの顔を思い出した。たしか加波山《かばさん》事件だの静岡事件だのいう剣呑《けんのん》な騒ぎをひき起した連中だとかいった。──
高野看守長は、彼らについて、もう一度説明した。
加波山事件とは、福島事件で河野広中以下福島自由党を一掃した福島県令三島通庸への復讐を志し、その後栃木県令になった三島を栃木県庁もろとも爆殺しようと計り、近くの加波山に集結した自由党員らが、襲って来た警官隊とちょっとした戦争をやった事件で、河野|広躰《ひろみ》や横川省三や玉水嘉一などがその一味であった。河野広躰は河野広中の甥《おい》であった。
静岡事件とは、この加波山一挙と相呼応しようとした、いわゆる岳南自由党が箱根離宮の落成式に参集する大臣たちをみな殺しにしようとし、その準備として爆弾など作っているうちに一斉につかまった事件で、鈴木|音高《おとたか》や中野次郎三郎や鯉沼九八郎などがその一味であった。鈴木音高はもと山岡という旗本の家柄であった。
高野が、四郎助の雪中遭難の話をすると、面白そうにみな哄笑《こうしよう》した。
「それはよい経験をされたな」
と、横川省三は、ややまじめな表情でいった。
「僕はここを出たら千島か満州へゆきたいという希望を持ってるんだが、高野看守長──何とか吹雪の日、もういちど月形へ連れてってくれませんか」
月形の外役場に来たときも感じたことだが、彼らは高野看守長を友人扱いにしているようであった。おれよりも颯爽《さつそう》としておる、と、四郎助は思った。
「お前たち、あの秩父の連中をえらく見下しているようだが、同じ自由党じゃないか」
と、高野は、さっき追い払われた男の混っていった、ずっと向こうのグループに視線をやった。
「いや、あいつらが自由党|面《づら》をするのが気にくわんのです」
と、横川がいい、
「なあに、たかが秩父の百姓一揆の連中が!」
と、鈴木が吐き出すようにそっぽを向いた。
──なに、秩父の百姓一揆?
ふっと、四郎助の頭に何かひっかかった。
高野看守長が歩き出したので、彼もあとを追った。
「あの自由党の若い衆、おれは志士と認めて、そのようにつき合っておる。それにね、樺戸でも同じだろうが、囚人仲間でいろんな種類の組が出来る。それを統率するのに、あの連中がいちばん役に立つ。若いが、みんな人間がしっかりしとるから、泥棒や強姦組はみんな尊敬するのだな」
囚人の作業している間を歩きながら、高野はひとりごとのようにいう。
「いいことばかりはないもので、それが悪い目に出る面もあるようだ。あの連中を少し天狗にならせたよ」
「秩父の百姓一揆とは……あの秩父事件の事《こつ》ごわすか?」
と、四郎助は訊いた。
「その通り、君、知っとるのか」
「いえ、それほど詳しく知りもさんが。……」
「明治十七年秋のことだ。重税と高利貸にいためつけられた秩父の農民が、竹槍や猟銃で蜂起した。その数は五千とも八千とも一万ともいわれる。これが警官はおろか軍隊とも戦ってついに鎮圧され、四千人が裁判にかけられた。その結果三百人が重罪者となり、死刑を宣告された者が七人ある。もっともその中の二人は逃亡して、実際に死刑を執行された者は五人だったと聞いておるが。──」
と、高野は話した。
「その重罪者の中で空知へ送られて来たのが、あの連中だよ」
──あのお篠は、秩父の女だといった、と、四郎助は頭にひっかかったものをつかまえた。もしかすると、お篠は、その秩父事件に関係がある娘じゃなかろうか?
「おい、有馬君、あの男を見ろ」
と、高野看守長が、調子を変えてささやいた。
あごでさした方角の羽目板の下に、三十過ぎの男が坐って何かコツコツ刻んでいた。蒼い、陰気な顔色をした男だ。ほかの連中はみんなそれぞれ集団を作っているのに、その男だけは一人ぽつんと離れている。
「たしか明治十五年……岐阜で自由党の大将板垣さんが刺された事件があった。嘘かほんとうか知らんが、例の、板垣死すとも自由は死せず、という名文句の出た事件だ。あれがそのときの刺客相原|尚※[#「(耳+火)/衣」]《なおふみ》だ。……」
──しかしお篠は、たしか兄が北海道にいるらしい、と聞いた、といった。空知集治監にいれられたのなら、北海道にいるらしい、などといわないだろう。
「相原のほうが先に来た。あとで自由党の連中が来て、ちょっとした騒ぎがあってこっちも心配したが、ま、殺せば罪が重くなるだけだからね。いまじゃああして、一人疎外されておる。……いや、敵と味方、強者と弱者、志士と凶賊、元侍と百姓、監獄というところは、材料は何でもかまわずぶち込んだゴッタ煮の鍋みたいなものでね」
秩父組のところに来た。彼らはそれぞれ仏像みたいなものを刻んでいた。みな、病んでいるのではないかと思われるほどやつれ、顔色が悪かった。
その前に立って、しばらくそれを眺めていた四郎助は、ふいに、
「おい、お篠って知らんか?」
と、訊いて見た。
みんな顔をあげた。どれも明らかに猟師か農民の顔だ。しかし、キョトンとした眼であった。──これは、知らないな、と、四郎助は直感しないわけにはゆかなかった。
「お篠って何だ?」
かえって、高野のほうが狐につままれたような顔をした。
「いや何」
窓を通して、遠く、カーンカーンという鐘の音が伝わって来た。
樺戸集治監でも時間ごとに鐘が鳴るが、あの怖ろしいひびきとはちがう。それは町の遠くからだんだん近づいて来る。四郎助にとって、聞きおぼえのある音であった。
「あれは汽車でごわすか」
と、彼は高野の問いをそらした。
小樽から、札幌、江別を経て、この幌内まで汽車が通じていることは四郎助はむろん知っている。その汽車は、この雪の中でも何とか走っているらしい。
翌日の午前、四郎助は,また高野看守長に、こんどは町を案内してもらった。
自分がここに来た用件は終ったはずであったが、なにかまわない、当分ここで勉強してゆくがいい、と、しきりに高野がいうのだ。どういうわけか、高野はひどく四郎助に好感を持っているようだ。
四郎助も、感激した。そして渡辺典獄がいいというなら、ここで何日か過させてもらったらありがたい、と思うようになった。
高野看守長と自由党の若者たちとの開放的な雰囲気も樺戸では見られないものであったし、渡辺典獄も──これはむろん当時の四郎助の知らない書物だが、「東陲《とうすい》民権史」という本に、河野広躰らがここへ送られて来たとき、「全身|疲痩《ひそう》、ほとんど骨と皮を存するに至る」状態であったが、「空知典獄渡辺維精の恩眷《おんけん》を受け」健康を回復した、と書かれたような慈愛の性格であった。それは何となく四郎助にも感じられたし、だいいちあの原胤昭がここにも聖書をばらまいていったらしいが、それを多くの囚人が公然と読んでいるのでも、典獄の寛大さが察しられた。
監獄は、明治以来の「空知郡」にあるにちがいないので「空知集治監」と名づけられたが、町の名自体は「市来知《いちきしり》」といった。イチキシリとは「熊の足跡の多いところ」というアイヌ語から来ている。
東西に流れる幾春別《いくしゆんべつ》川の作る、わりに広い谷の中央にあり、主として、川の北岸に広がっている。囚人の数はもとより、監獄職員も、看守以上の者でさえ四百人に近く、それ以下の身分の獄丁及びその家族を加えれば、月形よりはるかに多い。
「あの山が、三笠山だ」
と、高野は集治監の北方のコンモリした低い山を指さしていった。
「渡辺典獄が、奈良の三笠山に似ている、といってつけられたものなんだ」
──そのために、市来知はやがて三笠山村という名に変り、さらに三笠町、そして三笠市と改められることになる。これは後の話。
山は白いが、町は意外に黒々とした印象であった。西部劇風の町であることは同じだが、人通りは月形より多いのに、なぜかもっと冷たく殺風景な感じがする。雪はつもっているのだが、それでもいたるところ積みあげられた石炭が黒い顔をのぞかせている背景のせいかも知れない。そして、二人が歩いている間にも、石炭を山積みにした貨車が、煙を吹きつけて通っていった。
町の半分は集治監関係の官舎といってよかったが、やはりここにも、怪しげな店がならんだ横町や裏通りがあった。
そこを歩いていると、ふいに|つらら《ヽヽヽ》の垂れ下ったその一軒から出て来た二人の男があって、その一人が、
「あ、これは高野の旦那」
と、呼びかけてお辞儀した。三十半ばの商人風の男だ。
「きょうは雪がなくて、ありがたいことでござります。……きょうは、どうしてまたこんなところを?」
「なに、樺戸から来た人があるもんだから、ちょっと市来知の町を案内してるのさ」
その男は、官服を着た四郎助にもていねいに頭を下げた。しかし、四郎助も高野看守長も、もう一人の男のほうへ眼をやった。
それは四十五、六の、体格のいい、真っ黒に日焼けした男であったが、例のアツシを着ていた。しかし、明らかにアイヌ人ではない。──
「集治監の方ですか。わしは厚田でニシンをとっとる梅谷《うめたに》十次郎という漁師です」
と、その男は名乗った。集治監の看守は巡査もかねている、と承知しているから、自分の異装についての釈明だろう。──厚田は、月形の西方、石狩湾に面した漁村だ。
「この奥に住んでる細谷ってえ人が、昔、わしの知り合いでしてね。いや、その細谷がここに住んでるってえことを最近聞いたものだから、わざわざ船と汽車で訪ねて来たんだが、話によると──」
「御承知のようにあの和尚さんは、おれのところへ来るやつは、みんな日本の着物を脱ぎ捨てて、アイヌの着物を着て来いってえお人でしょう。その話をきいて、うちへおいで下さったんで」
と、さきの男がいいわけをするようにいった。
四郎助はちらっといま二人が出て来た店の看板を見あげた。銘酒屋ではない。小さな屋根には、腐ったような木の看板がのせてあって、「ふるぎ」と書いた文字が薄れかかっている。
冬のことで、通りに面した戸がしめてあるからわからなかったが、古着屋にちがいない。どうやらその男は、古着屋の亭主らしい。
「やあ、そうか。うん、あの和尚は、おれたちでさえアツシを着てゆかなきゃ逢わないって人だからな」
と、高野看守長は笑った。
「それどころか、いつか、監獄の官服なんか着て来ると、クセモノと認めてアイヌの矢で射《う》つぞとおどされた。昔の知り合いか何か知らんが、とにかく気をつけてゆくがいい。──いや、こんなことをいっちゃ、こんどいったとき射殺《いころ》される。近く集治監の高野がおうかがいすると、よろしく伝えておいてくれ。じゃ」
と、高野看守長はいって歩き出した。あとを追いながら、四郎助がふり返ると、古着屋の亭主は店にはいり、厚田から来た男は、アツシを着たまま反対のほうへ歩いてゆくのが見えた。
「その細谷っちゅう人のところにゃ、アイヌの着物着てゆかんけりゃならんのでごわすか?」
と、四郎助は訊いた。
「そうなんだ。日本人は大きらいだ、といってな。当人はアイヌ人のつもりでいる」
と、高野はうなずいた。それなら──と、四郎助は考えた。あの休庵先生ははじめからアイヌ姿だから甚だ好都合だったわけだ。いや、休庵も同じような思想の持主かも知れん。
「いまの漁師──本人は漁師といったが、少くとも漁場の親方だな。しかも、もとは侍だな」
と、高野はつぶやいた。いわれてみれば、昔、細谷と知り合いだったというのだから、そうかも知れない。
「それも仙台じゃない。あれは江戸人だ」
「ほう?」
「あの古着屋の亭主──西野孫六という男だが、商売上、警察と縁が深い。泥棒が盗品を売り込みに来たり、身なりを変えるために古着を買いにいったりするからね。市来知でただ一軒の古着屋さ。それでよく集治監にも出入するんだが、あれもひょっとしたら、もとは侍──侍の家の出じゃないかとおれは見ている」
「へえ?」
「当人に訊いたら、へへ、とんでもない、と手をふったがね。……何しろ、出来てから五年になるやならずの町だから、町じゅうの人間が素性不明といっていい。きりがないから、監獄の外の人間はいちいち詮索はせんことにしとるがね」
そういえばあの亭主は、古着屋らしくない品のいいところがあった、と、四郎助が考えていると、高野はまたいい出した。
「それじゃ、これから幌内炭鉱へいって見ることにするか」
幌内は、幾春別川を隔てて、すぐ南方にあった。──むしろ、幌内の谷口に市来知の町があるといったほうが正しいだろう。市来知は、幌内炭鉱があればこそ出来た町だからだ。
幌内に石炭が出る、ということは、明治初年から知られていたが、明治五年、ときの開拓使榎本武揚によって確認され、政府が招聘《しようへい》したアメリカ人技師ライマンによって、その埋蔵量は一億トンに及ぶ大炭鉱であるという報告を受けると、以後、大鳥圭介、黒田清隆、伊藤博文、山県有朋ら、当時の大官らが相ついで視察に赴《おもむ》き、明治九年にはこれを官営で大々的に開発することが決定された。
そして、その石炭を輸送するために、幌内から小樽まで鉄道が作られることになり、それは明治十四年に開通した。実に、東京─横浜、大阪─神戸につづいて、日本で三番目につけられた鉄道である。明治の指導者たちは、いみじくもこの北海道の炭鉱が新しい日本の一大エネルギー源であることを見ぬいたのである。
そしてこの開発に当る労働力として囚人を使用することも決定され、そのために空知集治監が設けられることになったのである。──空知集治監はただ囚人を収容するための監獄ではなく、実は幌内炭鉱の労働力の供給地として作られたものなのであった。
当然それは、石炭資源のための人的資源ということになる。──
この明治二十年から六年後の明治二十六年夏にここを視察した刑法の岡田朝太郎博士がその実情を述べているが、それを要約すると次のような光景だ。
「……ここに入らんと欲すれば、外套を着し、手燭を携えざるべからず。坑内闇黒にして、夏といえども寒気不時に襲来すればなり。……進んで幾千尺に達すれば、腰を屈してわずかに歩行すべし。横坑に入れば業に就《つ》く囚徒また匍匐《ほふく》横臥、岩を砕くの音|丁 々《ちようちよう》たりといえども燈火明暗|面《おもて》を弁ずる能《あた》わず」
「……囚徒の使役は一日を二分し、十二時間を就業時間とす。一を夜間の就役に充《あ》つ。坑内に昼夜なければなり」
「……囚徒は喫飯に定時なく、随時随意に飲食す。飲料は河水なり。腐敗して飲料にたえず。この事情は、炭坑の囚徒に消化器病、下痢病を多からしむるに至る。便所と食堂の区別なく、炭粉、炭坑ガス相合して遊動し、悪臭|塵埃《じんあい》こもごも鼻口に入り、ついに囚人に一種の肺病──塵肺労を誘起せしむ。空中に飛散する炭粉の量の多きは、衣服の色に徴して大体を察するに足る。柿色の獄衣、一週日前後にして鼠色となり、月を閲《けみ》すれば闇黒色に変ず」
「……廃疾者の合計二百六人、あるいは、一手なきものあるいは一足なきもの、空知分監内を徘徊《はいかい》し、五十以上の盲目者一所に整座し、軽役として綿の塵埃をえり分けつつあるを見、ほとんど、いうところを知らざりき。空知にあるの囚徒もとより凶奸無頼の輩多し。しかれども、薄暮、手を失いしもの教導となり、盲者背後より前者の帯にすがりて、相連なりて監房に帰るの状を見るもの、だれかよく酸鼻の情にたえんや。かくて有害なる坑内に入るは、好んで死地に進むものと思わざるべからず」
市来知から一里足らずのところを汽車に乗って来て、四郎助はこの光景を見た。──
いや、まだ坑内にはいらず、その手前の、黒いピラミッドのようなボタ山を背景に、あえぎあえぎレールの上を石炭を満載した四輪車を押している囚人のむれ、看守に鞭《むち》打たれながら、つるはしやタガネやカンテラを持って坑口に向っている囚人の行列を見て、これはあの世の風景ではないかと眼を疑った。
いまにもまた雪を落しそうな暗い雲の下を、遠雷のような音が渡って来た。
「ハッパをかけておるのだ」
と、高野がいった。
「だから、ここには火薬庫もある。──あれだ」
と、山の中腹のみるからに陰惨な煉瓦作りの建物を指さした。
「樺戸の外役場でね、おれが連れてった囚人たちに煙草をのませているのを見て、あちらの騎西看守長にいいかげんにせんかと怒鳴りつけられて、おれは、ここだから許すんだ、空知へ帰りゃ地獄だ、といったことがあったが、そういったわけがわかったろう?」
いくつかの分監──いわゆる監獄長屋の前で、手足のない者、盲目の者までそれぞれ何か働かされているのを見るに至っては、四郎助は戦慄《せんりつ》しないわけにはゆかなかった。
佐渡の金山《かなやま》この世の地獄、という言葉を聞いたことがあるが、明治になっても──これは、空知の炭山《すみやま》この世の地獄、ではないか?
ただ、四郎助の眼を見張らせ、幾分かの救いになったのは、彼ら囚人の中に少からず黒い聖書──明らかに原教誨師が配ったものにちがいない──を読んでいる姿を見かけたことであった。
むろん、至るところ看守たちが、牛頭馬頭《ごずめず》の邏卒《らそつ》然として、騎兵銃をかかえて立っている。その数は、樺戸監獄の外役場の比ではない。──
ここに移監されることを望んだ橋詰愛兵衛はもとより、四郎助自身も、いまのいままで何か錯覚していたところがある。
空知集治監典獄渡辺維精は、ただ寛大慈愛の人ではなかった。ここに集治監を置かれたのはこの炭坑のためである、という政府の目的をよく認識し、かつその使命を遂行し得ると上から見込みをつけられた人であった。
──これは後日譚だが、渡辺典獄がのちに三池集治監の典獄に転任されたとき、その赴任に際し、三池炭鉱の責任者、三井鉱山部長団|琢磨《たくま》──作曲家団|伊玖磨《いくま》氏の祖父──以下が、はなばなしく大牟田駅に出迎えたのを無視して、わざと三池に直行したといわれる。これだけの剛毅な一面を持っている人物であったのだ。この渡辺維精の孫娘が、やがて大正、昭和の社会主義の学問的指導者大内|兵衛《ひようえ》氏の夫人となる。
この場合は、その剛毅な一面が、幌内炭鉱の苛烈なノルマと警備となって現われた。
「片輪《かたわ》は一年に千人くらい出る。原因は落盤、ガス、それからおたがいの喧嘩だね」
高野看守長も案外平気であった。
「やむを得んこっちゃ」
そして、またいいだした。
「ところがね、一方じゃ囚人には、ここへ来て働かされることをむしろ希望している連中もあるんだ」
「え、どげんしてでごわす?」
「それはな、あの穴にはいってこそ、きゃつらの自由が生まれるからだよ」
「穴の中の自由?」
「うん、坑道は樹の枝のような支道を加えると、いまのところ十三里もある。その中にいつも五十人内外の看守にカンテラを持ってあちこちに立たせているが、たとえ平均に立たせても、八、九町に一個のカンテラということになる。いわんや、危険なところには看守がゆかないにおいてをやだ。きゃつらは、何でも出来る」
「………」
「第一に酒。いや酒瓶を持ってはいる、などということは金輪際出来ないはずなんだが、なんときゃつらは、握り飯の残りを岩の穴にいれ、藺草《いぐさ》という草を持ち込んで、醗酵させて酒を作るらしい」
「………」
「第二に煙草がのめる。こいつは外からごまかして何とか持ち込める。──きゃつらだけが知っている廃坑の中には、酒、煙草はおろか卵やら、干魚《ひざかな》やら、結構御馳走といえるものが一通り貯えてあるというが、こっちにはつきとめることが出来ん」
「………」
「第三に、ばくちが出来る。第四に──男色が出来る」
「………」
「第五に、逃亡の機会をつかみ得る。少くとも、つかみ得ると、きゃつらは考える。穴を掘ってゆく尖端には、看守もついておらんことが多いからな。よく地形を勘定にいれれば、看守の見えないところに穴を掘って、地底から地上に出られると思う。また、実際にそれをやったやつが少くない。何でも、地中にくいこんだ木の根を見たら、怖ろしい誘惑にかられるそうだ。根っこを上に辿れば地面があるにきまってるからね」
四郎助は、うならざるを得なかった。
「樺戸じゃ、外役に連鎖ってえものを使ってたね。あれを見て、これはうまい智慧《ちえ》だと典獄に報告したのだが、暗い穴の中の仕事では不都合のほうが多いだろうと、いまのところまだひかえておるが、そのうち使用することになるかも知れん。いまいったように、脱走を計るやつがあとをたたんから」
「逃亡を計って、……逃亡し切った囚人が沢山ごわすか」
「それが遺憾《いかん》ながら、相当数ある」
残念そうに、高野はいった。
「きゃつらは、つるはし、タガネ、槌《つち》など持たせてあるが、それを離すときまで銃で監視しておるし、たとえ暴れだしてみたところで、いま見た通り、要所々々には網の目のように看守が配置してある。……にもかかわらず、ちょいちょい逃亡を計るやつが出て、しかも四人に一人は成功するという割合が出ておる」
「樺戸じゃ、連鎖をつけておっても逃亡しもす。……」
憮然《ぶぜん》として四郎助はいった。
──ここに怖るべき空知集治監の記録がある。
明治十五年開設されたこの集治監が、明治二十四年までの十年間に、三百五十四人の逃亡実行者を出している。そのうち、たちまち追跡して捕縛した者百七十三人、斬殺ないし射殺した者六十六人という記録だ。逃げおおせた者は百十五人ということになる。
この斬殺ないし射殺の数を怖ろしいものと見るのは現代人の感覚で、当時の集治監関係者からすれば、逃亡者の数こそ「遺憾」なものであったに相違ない。
「さ、それではひとつ、坑内にはいって見るか。──それには少し支度がいるが。──」
気をとり直したように高野看守長が四郎助を促したとき、
「……あっ、脱走者だっ」
という絶叫が遠くから聞え、つづいて、二発の銃声がこだまを呼びつつひびいて来た。
雪を蹴ると、足もとから黒い石炭の屑が飛び散った。あっちこっちからも、びっくりするぐらい沢山の看守が湧き出して、抜剣して駈けてゆくのが見えた。
貯炭場のすぐ近くに、一人の囚人がうつ伏せに倒れ、そばに、さきに駈けつけた二人の看守が銃をかかえて立っていた。いま撃った二人らしかった。
囚人の獄衣の背からは血がこんこんと流れ出して、雪と炭の混じり合った泥の上にひろがっていた。
高野看守長は、その身体をひっくり返して、
「即死だな」
と、その死顔を見つめ、
「秩父組の井出辰吉じゃないか」
と、うめき、
「去年の秋から秩父組で死んだやつが、これで三人目だ!」
と、さけんだ。
「脱走しようとしたやつは、これがはじめてだが……どこから逃げた?」
これに対して、その囚人を射殺した看守の一人が、どちらの方角から逃げて来たようだ、といい、そちらに坑口はないから、どこかに穴をあけて出て来たにちがいない、と高野がいい、すぐに、四、五人がそのほうへ銃をかかえて走っていった。
「ほかにも秩父組がいるはずだ。そいつら、どうしてるか。……それから、風穴《かざあな》の鉄がおったら、それも連れて来い!」
と、高野看守長は叱咤《しつた》した。
この混乱を見つつ、四郎助は茫然としている。所属を異にする集治監の看守だから、手伝おうにも、どうしていいかわからないのだ。──その四郎助をちらっとふり返って、
「やあ、すまん。見る通り、事件が起った。坑内見物はまたあとにしよう。君は、左様、あそこのポンプ小屋をまわると看守派出所があるから、そこで待っててくれ」
と、きびしい顔でいった。
ほかの看守たちの目ざわりにもなるだろうし、迷惑にもなるだろうと、四郎助はややうろたえながら、指さされた方角の看守派出所にゆき、そこで待っていた。そこにいた看守も駈け出していったと見えて、ストーヴのまわりの四つ五つの椅子はみな無人であった。
騒然とした人の声や物音が次第に鎮《しず》まってゆき、午後遅くなって、高野がやって来た。
帰途、彼は話した。
あの脱走囚は、やはり地中から小さな穴を山の横腹にあけて逃げようとしたものであった。これは先例も少くないが、高野は特に不審を感じた。それは、その囚人が秩父組の男だったからだ。
「秩父事件でここへ送獄された連中だよ。本監にいたやつらの同類だ。全部で十何人か送られて来たんだが。──」
それが去年の秋から、つづいて二人が不慮の死をとげた。坑内ガスによる死だ。
新しい坑道を掘ってゆくと、有毒ガスが発生することがある。突然大量に発生して爆発するか、そこまでゆかなくても、少しずつ発生して、昨日まで安全であった坑道が、急に人を死に至らしめることがある。古い坑道ではなおさらのことだ。
「何にしろ地中の坑道は樹の枝のようにつながっているから、これが一番こわい事故で、それでやられたんだ。それが、ただの不慮のガス死じゃない。──」
秩父事件の連中から半年ほど遅れて、堀口鉄平という男がはいって来た。後志《しりべし》の岩内《いわない》あたりで三件の強姦事件が発覚して、十二年の刑で入獄して来た男であった。
これが、ふしぎな能力を持っている。
岩内には、茅沼《かやぬま》炭鉱という、小規模だが幌内より古い──幕末から掘られている炭鉱があって、彼は若いころからそこで働いていた坑夫であった。これが、ガスの発生を嗅ぎつけ、嗅ぎわける奇妙な能力を持っている。危険と見ると、自分で綱を巻いてはいっていってそれをたしかめる。時には半死半生になってひっぱり出されることがあるが、そんな場所へほかのやつがゆくと、必ず死ぬ。どうやらガスに敏感であるのみならず、それに強い特異な体質を持っているらしい。
人間ガス探知器だ。
これは炭鉱にとって、実に重宝《ちようほう》な存在であった。当然彼は、炭鉱に対してもある力を持ち出した。
「当人だけが、いつもいのちがけでそういうことをやってくれればありがたいんだが。──」
酒や煙草の特配はいいとして、坑夫に対しても生殺与奪の権をふるいはじめたのだ。
ときどき、気まぐれみたいに、きょうはおれの鼻は風邪《かぜ》をひいているから、とか、体調が悪いから、とかいって、ほかの囚人をやる。殺しはしない、たとえ気絶しても、生き返るようにしてやる。その気絶の程度で、おれがはいるのと同じくらい見分ける、といい、実際結果はその通りであった。
しかし、名ざされた囚人にとっては大恐慌だ。どうやら鉄は、自分の気にくわないやつを人身御供にあげるらしい。
が、抵抗も拒否も許されない。一日一刻の休みもなく石炭を掘ることこそ至上命令であって、そのためには坑夫の百人や二百人のいのちは何ほどのことでもない、というのがお上の方針であったからだ。指名された囚人は、否も応もなく縄でくくって穴の中へ吊り下ろされた。
ところが、去年の秋に、その代用人間ガス探知器の一人が死んだ。
「ホイ、しまった。やりそこねたわい」
と、鉄平は苦笑いした。
そして、ことし早々に、また一人が死んだ。
「その二人は、どっちも秩父組の男だった。その屍骸を見て、薄笑いしている鉄平──風穴の鉄という異名を持ってるんだが──の顔を見て、おれははてなと思った。こりゃ、やりそこねたんじゃなく、何か魂胆《こんたん》があって、わざとやったんじゃないかとね」
高野はいった。
「それで調べて見ると──きゃつ、北海道生まれじゃない。内地の、秩父出身だ!」
「ほう?」
「秩父の大宮の、神官兼高利貸という妙な家の次男坊だ。いま三十八だそうだが、少年のころから親父《おやじ》と合わなくて、ぐれて、廿歳《はたち》前に家を飛び出した。そして北海道へ流れて来て茅沼炭鉱で働いていた。──一方、大宮の実家は、秩父事件のとき、騒ぎを起こした百姓たちの恨みの標的の一つになって、襲撃された。殺されはしなかったが、一家|私刑《リンチ》に近い暴行を受けて、家も火をつけて焼き払われたらしい」
「へえ。──」
「喧嘩して飛び出した家のはずなんだが、そう聞くと、癪にさわるんだな。きゃつ、当初はこの空知監獄に秩父の連中がいるとは知らなかったようだが、そのうちに知った。で、しっぺ返しをはじめた──と、いうこともあり得るだろう」
「そ、そげな事《こつ》がわかっちょって。──」
「いや、これはおれの当推量だよ。そして、さっきの事件が起った。で、いま風穴の鉄と秩父組を呼んで訊いたんだが、鉄のほうはむろんそらっとぼけて何も知らないという。秩父組のほうは、後難を怖れてはかばかしい返事をしない。しかし、どうやら逃亡を計ったやつは、何日か前から、こんどは自分が例の名ざしを受ける徴候を感じて、死物狂いに逃げ出そうとしたらしい。ただ、その証拠がない」
無念そうに高野はいった。
「それに、何といっても風穴の鉄は炭鉱にとって貴重な人材だ。秩父組がきゃつのために死に絶えても、典獄は眼をつぶってることを余儀なくされるかも知れん」
「………」
「しかし、おれは、それでもきゃつを処置したい。とはいうものの、強姦罪だけではいって来てるやつを、死刑にするわけにもゆかん。秩父組の件に関しては、証拠がない! これからまたつづいて、死の穴へ吊るされようと、鉄がホイしまった、といえばそれまでだ。こっちはどうすることも出来ん!」
「………」
「こんな、天下御免の殺人者というものが、ほかにあるかね? 普通の世界じゃ絶対あり得ない。……」
しばらくあらあらしい息だけを吐いて歩いていて、高野はうめくようにつぶやいた。
「ただ一つ、きゃつ自身が脱獄してくれれば射殺出来るんだが。……」
「え?」
眼を見張り、四郎助は声はずませた。
「何なら……その男の脱獄に、こっちから手を貸してやったらどげんごわす?」
「それは出来ん!」
高野看守長は急に断乎《だんこ》として首をふった。
「国家の集治監として、そんな無法なことは、絶対に出来ん!」
ドギマギし、赤面した頬をかくすように、幾春別川にかかる幌内橋の上で、四郎助はふり返った。
もう夕暮の空の下に、雪をかぶっているはずの幌内の山々は妙に薄黒く、荒涼凄惨の微光にふちどられて見えた。
……ところが、風穴の鉄は、脱獄を狙っていた。
この地の果ての獄に来て、それを夢みない囚人はないが、中でも彼の願望は強烈であった。それは彼の顔貌が、どこか陰毛にふちどられた男根を思わせるように、異常なばかりの肉欲のためだ。
娑婆にいたころ、彼は少くとも三日に一度は女を抱かないと気が変になる男であった。相手はたいてい岩内の女郎だが、それを買いにゆけば一夜に、三、四回交わって、なおかつそうなのである。彼が、牢屋にはいるきっかけとなった強姦事件も、むろんこの体質から溢れる粘液の飛沫だ。
それは岩内の商家の娘や女房などを犯したものであったが、ほんとうをいうと、警察がよくその三件しか挙《あ》げなかったものだと思う。……やったのはそれに十倍するし、中には、それが発覚すると、十二年どころか首吊りになるような罪も犯しているからだ。
しかし、十二年ですんだことをありがたい、など思わないことはいうまでもない。十二年もたてば、五十に手がとどく。──いや、そんな無限に近い遠い先のことどころか、彼にとっては、きょう、明日の一日一日が、内側から火であぶられるような苦しさであった。囚人としての特別待遇など糞くらえであった。
どんなことがあっても脱走しなければならない。たとえ十日、いや五日でつかまってもいい。
ついに彼は、そうまで思いつめるようになった。
しかし、いかに思いつめても、それが容易なわざではないことは、彼も認めないわけにはゆかなかった。
五・五メートルの高さと十五センチの厚みを持つ塀にとりかこまれ、四隅の櫓《やぐら》には監視哨が立っているという集治監そのものから脱獄することは、まず不可能だ。それにくらべれば、四周に塀を作ることの出来ないこの山のほうがまだましだ、と最初考え、そして自分の特技のおかげでしょっちゅうここで暮せるようになったのはもっけの倖《さいわ》い、と、ほくそ笑んだのは、とんでもない早合点であった。
なるほど坑道の中こそ自由だが、そこを一歩外に出れば──出入時はむろん、監獄長屋への往来にも、たえず騎兵銃がつきつけられている。かりに自分だけの穴を掘って出たところで全山死角のないように、いたるところ看守が立って見張っているし、闇にまぎれて、と思っても、夜は監獄長屋に追い込まれ、これが、正式には外役所仮監と呼ばれているように、本監の獄舎がそっくり移動して来たようなもので、格子と厚い板壁にかこまれて、そこから自由に出るなどということは金輪際不可能であった。
ガス探知の特殊能力を持つ彼にしても、以上の監視の外には置かれなかった。
彼は絶望した。
しかし、体内にたけり狂う肉欲の炎が、また破獄への情熱をかきたてた。
──どうしても看守の制服が要る。
と、彼は考え出した。
警戒の眼はきびしいけれど、集治監とちがって、何といってもここは広大な山だ。まわりに塀も柵もない。脱走の可能性はそれだけ高い。ただ、遠く近くからたえず見張っている看守の眼を逃れるためには──彼は、それらの眼から一番遠くを伝って歩くきわどい線まで調べあげた──どうしても、看守の制服を着ている必要がある。赤い獄衣はむろん、官服以外の姿では、必ず発見される。
その看守の制服を手にいれる方法があるか?
それは看守を一人ひそかに殺して、奪うよりほかはない。いくら考えても、それしか法はない──
寝汗をかき、うわごとをいい、もがきまわりながら、なお繰返し悪夢を見るように彼は考えつづけた。
では、看守を一人ひそかに殺す法があるか?
それは、むろんほかの看守に気づかれず、しかも声も立てさせぬ一撃必殺のものでなければならない。坑内のあちこちにはブリキのカンテラをぶら下げた看守が一人ずつ立っているから、これを狙えばよさそうなものだが、そのカンテラを落させたり、悲鳴をあげさせたりしたら万事休すだ。またたとえ一人を殺してそれに化けても、すぐにほかの看守の前を通り過ぎるということは出来ない。
それより、むしろ──坑内にはいる口がいくつかあるが、その坑口の外に立っているやつだ。最低二人は見張っているが、その二人組の口だ。それが一番成功率が高い。彼はこう見きわめた。
で、それを始末する道具だが──相手に気づかれないほど小さくて、しかも最も鋭利なのはカミソリだ。彼はこう結論した。
カミソリは、それ以外にも口ひげやあごひげを剃る必要からも欲しかった。それは看守もひげをはやしているけれど、自分たちのそれとはちがう。囚人はときどき監視下に鋏《はさみ》で荒っぽく髪やひげを切ってもらうだけだから、遠目に見ても蓬々《ほうほう》として汚らしい。それは出来るだけ短く切らなければならない。
カミソリのほかにも、欲しいものがあった。
看守の制服が必要なのは、この山を出るまでであって、そこを出たら、それは紛《まぎ》れるよりむしろ目立つ。特に、この雪の季節では、速度の点からも汽車に乗って逃亡するのが望ましいが、元来の囚人が官服など着ていたら、改札口や車中でかえって見とがめられるおそれが充分ある。だいいち、自分が官服を奪ったことは、すぐに発覚するだろう。
山の外のどこかで、一般人の着物を手にいれたい。それも、だれにも気づかれずにだ。
彼はまた絶望した。──こうなると、自分だけが山の主《ぬし》みたいにここに閉じこめられているのがかえって都合が悪い。
風穴の鉄の苦悶は、秩父組に、毒のガスとなって吹きつけられた。
むろん半ばは、それらの連中が自分の故郷の家に害をなしたという不快感のしっぺ返しであったが、半ばは右のイライラの爆発でもあった。
彼は二人を坑内ガスで虫みたいに殺した。
そして、ひとりごとのようにつぶやいた。
「カミソリと着物さえありゃ、おれはここから逃げ出すんだが。──」
確信あっての脅迫ではなかったが、思いがけずこれが効いた。
それから数日後、秩父組がおそるおそる、それらのものを手にいれる法がないでもない、と、いい出したのだ。
「なに? ど、どういう具合にしてだ?」
彼の問いに、相手は答えた。大変な内容であった。
実は秩父でいっしょに騒動を起した仲間の一人が、この市来知に来て、町中《まちなか》で暮している。そして、おたがいに連絡している。それは決して大それたことを企《たくら》むためではなく、向うはこちらの安否を訊き、こちらは世の中のことを訊くだけだが──その法は、塵紙に炭の粉をとかした水で文字を書き、本監とこの分監の交替のとき、幌内橋のたもとにまるめて捨てておく。向うも同様だ。それをおたがいに拾い合っているのだが、それが自分たちの少くとも出獄の日まで生きる力となっている、というのであった。
「えっ、そいつは何てえ名だ? 町で何やってんだ?」
と、鉄は訊いた。
それに対して、それは絶対にいえない、殺されてもいえない、という返事であった。それはいえないが、しかしそいつに頼めば、いま欲しいといったものが、何とかなるかも知れない。──
風穴の鉄の脱走は、彼らにとって死神の退去ということになるのは明らかであった。
「手前たち、おとなしそうな顔をして、たいしたことをやっていやがるんだな。……」
いちど彼の頭に、このことを密告したら、ということがひらめいた。しかし、密告して、秩父組を改めて縛らせたところで、自分に一文の利もあるわけがない、と、すぐに気がついた。それより、いかにもきゃつらを利用することだ!
カミソリは紙にくるんで幌内橋のたもとの草むらに投げておいてもらう。それを秩父組が交替のとき拾って来る。着物は橋のすぐ下に隠しておいてもらう。それを自分が逃亡のとき拾ってゆく。──そんな相談が出来た。
しかし、外部の男と連絡する交替のときが思うように来ず、それは意外に手間どった。鉄は焦《じ》れて、カンシャクを起して、マゴマゴしてやがるとまた一人ガスを嗅がせるぞ、と脅した。
ほんとうにやりかねないその眼に恐怖したのだろう。こんどそう脅された秩父組の男が無謀な脱走を計ったのは、むろんその運命を逃れるためもあろうが、それより無理にでもその町の仲間と連絡しようとしたのではないか、と思われる。──
そしてそれは、果せるかな失敗した。
風穴の鉄の手にやっと一挺のカミソリがはいったのは、それから一週間ばかりたった二月九日のことであった。
翌日の午前十時ごろ、彼はそれを懐にかくして、一人ある坑口に出た。正規の坑口ではなかったが、そこにも二人看守が立っていて、反射的に騎兵銃をかまえた。
「すみません、旦那。……どうもおかしい」
「どうした」
「第三|中切《ちゆうぎり》のところで妙な地鳴りが聞えます。ひょっとすると、落盤の前ぶれかも知れねえ」
「なんだと?」
二人は狼狽し、すぐに一人が、
「では、ちょっとおれが聞いて来る」
と、坑内へ駈け込んでいった。
不安そうにのぞき込んでいるもう一人の看守の背後へ、鉄は歩み寄り、カミソリを相手の頸動脈にあて、いっきに引き切った。間髪をいれず、左手につかんでいた|ぼろ《ヽヽ》をピタリとそれにあてた。
二、三分して、彼は看守を地上に横たえた。むろん声も出ぬ即死であった。
坑内からの反響に耳をすましながら、その制服をはいで着換える。靴をはく。それから、下着だけになった屍体を、すじ近い崖のかげにひきずり込む。なんども頭の中で予行演習をやった行動だから、手馴れた手ぎわだ。腐ったような赤い獄衣は地中に埋めた。
五分ののちには、ちゃんとした一人の看守が、石炭の山を縫う道を、やや早足で歩いていた。歩きながら、バリバリとひげを剃る。帽子からのぞいていた蓬髪はすでに切られている。
遠く、あちこちに看守が立っているのが見えたが、ちらっとこちらを見ただけで、何の不審も持たないらしかった。
看守姿の鉄は、正式の入口ではないところから山を出た。むろん、そこも、少し離れた場所から見張られていたのだが、これまた何の異変も起らなかった。
彼は、幌内橋に来た。そして橋下の河原の石のかげに、風呂敷につつまれた商人風の着物一式を発見した。念のいったことに、鳥打帽に藁沓《つまご》、身体にまとう毛布《ケツト》、小銭をまじえて五十円ばかりはいった財布まで揃えてあった。しかも、すべてが新品でなく、着古し、使い古したものであることも周到に感じられた。
秩父組は、約束通りにしてくれたのである。
彼はその着物に着換え、官服と靴と剣と銃は風呂敷につつんでまた石のかげにかくしておいた。
こうして、脱走囚、風穴の鉄は、幌内駅から何くわぬ顔をして汽車に乗り込んだ。その汽車の発車時刻も見はからっての凶行だったのだ。
この汽車は、客車は機関車のあとの二輛だけで、あとは石炭を満載した貨車ばかりつながっている。幌内駅から乗り込んだのは、炭鉱関係の役人の家族か、出入商人七、八人で、客車の中はまばらであった。
人数が少いので、怪しむものはないかと鉄はヒヤヒヤして、毛布《ケツト》を鼻まであてていたが、乗った連中はおたがいを石のように黙殺して、窓外を流れる雪景色に眼をやっているだけであった。
すぐに、監獄のある市来知の駅につくと、こんどは女や子供も乗って来て、客車は半分くらい埋まった。こちらとあまり変りのない、えたいの知れない風態の男もいる。しかし巡査風の者はいない。鉄は、やっと胸なで下ろした。
この汽車は、あと江別、札幌などに停車しつつ、小樽まで二十二里ばかりを、八時間ほどかかって走る。
これでも人間の歩く速さの三倍ほどで、当時としてはこれにまさる乗物はなかったのだ。とくに外は、馬も走れぬ雪の大地だ。たとえ炭鉱のほうで事件に気がついたとしても、この汽車より早く追っかけてくることは出来ない。だいいちこっちの服装を知らない。
──もう大丈夫だ。
吐息をつくと同時に、
──しかし、こんな脱走をしたやつは、いままでにあるめえな。
と、彼は会心の笑いを浮かべずにはいられなかった。外部としめし合わせて脱獄するということはあるだろう。しかし、それを手伝ったやつが、仲間ではなく、ただこっちを厄払いしたいために、死物狂いに手をかしてくれたなどという破獄の例は、まあなかろう。
市来知駅から乗って来て、彼の前の席に坐った網元風の男が、これはもう一杯はいっているらしいいい顔色で、
「ア、ア、へ、ヘイ、ホイヤ、ホ、ホ」
と、膝をかろくたたきながら、小声で口ずさんでいた。どうやらアイヌの唄らしかった。
はじめそれも甘美な裟婆の唄声として、放心状態で聞いていた鉄も、人心地をとり戻すとともに、毛布《ケツト》を顔から下ろし、改めて車内に眼を動かせた。
そして、ふいに、どきっとした。一瞬、また毛布《ケツト》を顔まであげようとした。
通路をへだてて、五つばかり向うの席だ。やはり市来知から乗った女にちがいない。──二十七、八の角巻きをした女が坐っていた。商家の女房らしい髪かたちだが、そのくせどこか品があって、怖ろしくなまめかしい。角巻きで口のあたりを覆っていても、珍しいほど美しい女だとわかった。
──あの女だ!
と、鉄は心中にさけぶと、身体じゅうの血がざわめき出した。
──あれはオショロ屋の女房だ。
それは、さすがの風穴の鉄も、思い出しても頭じゅうが血みどろになってくるような記憶であった。
……五年ばかり前だ。彼はないしょの用があって、岩内から余市へいった。用をすませて、町をぶらぶらしているうちに、赤ん坊を抱いて歩いているすばらしい美人を見かけた。「これは、やらなければならない」と、彼は即座に決心した。尾行して調べてみると、町の大きな海産物問屋オショロ屋の嫁で、若い夫婦は、店のすぐ裏側の別棟に、夫婦と赤ん坊だけで住んでいることがわかった。
二日後の夜、じっと物蔭からうかがっていた鉄は、その夫がどこかへ出かけたのを見て押しいった。そして、赤ん坊を人質に、その女房を強姦した。途中で、赤ん坊がはげしく泣いてやまないので、これを出刃庖丁で刺し殺した。そのむごたらしさに自分で酔っぱらって、彼は半失神状態の女に、ありとあらゆる|凌 辱《りようじよく》を加えた。ほんの短時間のあいだに四回も犯したのである。
そして、家を出て少しいったところで、帰ってくるその夫を見かけた。夜であったが、何か異様なものを感じたらしいその若い夫が、不審そうにじっと立ちどまったのを見て、これは生かしてはおけない、と、彼は腹をすえた。女房を犯すときは覆面していたが、このときは顔をまる出しにしていたからだ。
彼は襲いかかり、絞殺した。そして、自分の着物がさっき赤ん坊を殺したときその血を浴びたことが気にかかっていたので、その夫の着物をはいで、それに着換えて逃げ出した。──
もし発覚すれば首吊りになる、と彼が考えていた犯罪というのはこれであった。
これが、発覚しなかった。余市と岩内とは距離があり、彼が余市へいったことをだれも知らなかったせいかも知れない。神経の荒っぽい彼は、その後一年ほどたって、余市で奪った着物を、ばくちの|かた《ヽヽ》にしてしまったが、それでもついに手がまわることはなかった。
汽車は鐘を鳴らしながら走っている。
彼は、女をうかがいつづけた。
偶然、女と眼が合う。……しかし、何の反応もない。
──あいつ、知らねえんだ!
彼はやっと合点がいった。あの晩、自分は覆面をしていた。赤ん坊を殺してからは、洋燈《ランプ》も吹き消した。あの女は、とうとうおれの顔を見なかったのだ。そして、あとでおれの顔を見た亭主のほうは始末した。……
鉄はほっとなり、うれしくなり、さらに何だか物足りなくなった。昔の色おんなに、そ知らぬ顔をされたような気になった。
で、図々しくも彼は立ちあがって、便所にゆき、帰りに、その女の前の、空《あ》いていた席に、
「ごめんよ」
と、腰を下ろした。
女は依然として気がつかない。二十分ばかりして、彼は話しかけた。
どこからどこへゆく、とか、すまいはどちらだ、とか。──女は、市来知の親類におめでたがあって来たといい、家は小樽で昆布屋をやっていると言葉少なに答えた。どうやら実家ではなく婚家先の話のようで、彼女はその後再縁したらしかった。返事はぽつりぽつりだが、むろん眼前の男が、五年前自分を犯し、子供を殺した人間とは、夢にも知らぬ眼だ。……彼はいよいよ物足りなくなった。
声を聞いただけで、あの夜の声が思い出される。彼は、わざと自分の膝《ひざ》を女の膝にぴったりくっつけた。そのぬくみで、あの夜の女の身体の熱さがよみがえる。見たところ、女はいよいよ色っぽくなっている。……ついに、たまらなくなって、彼はじゃまっけな毛布《ケツト》をぬぎ、それだけ薄くなった着物の膝を、逃げる女の膝に押しつけた。
女の膝のくぼみにたまった脂《あぶら》の感触が、彼をあの夜の粘液の中をのたうちまわっているような恍惚境にひきもどした。
──と、女の眼が、自分にとまった。顔ならはっとするところだが、それが膝のあたりだったから、「これは脈があるぞ!」と、彼はドキドキした。そのほうには、むやみに自信があるだけに、こいつは濡れ出して来たようだぞ、と見ぬいたのだ。
「おい小樽に着いたら、ちょっとつき合ってもれえてえんだがね。……」
と、彼は魅入るように女をにらみつけ、嗄《か》れた声でささやいた。
すると、女が立ちあがり、どこかへフラフラ歩き出した。どうしたんだ? と、ややうろたえて見送っていると、女は、さっきまで自分が坐っていた席に──あの網元風の男のところへいって、何か訴えている。どうやら二人は知り合いらしい、と気がついた。
と、その男がこっちへやって来た。鉄は全身を闘志で鎧《よろ》った。
「失礼。もう十分ばかりで江別ですな」
と、その男は、低い、落着いた声で鉄に話しかけた。
「着いたら、あたしといっしょに、下りてもらいましょうか」
「なんだと?」
鉄は、眼をむいた。
「てめえ、何だ」
「あたしゃ、厚田の梅谷十次郎ってえ漁師ですがね。あの御内儀のお店に出入させてもらってるんで……お前さんに、ちょいと訊きたいことがあるんでね」
「何を?」
鉄は、ぎょっとした。しかし──さっきからのこの男のようすを見ても、自分を脱獄囚だと見ぬいているはずはないが。──
「お前さん、あのおかみさんに、何かしやしなかったかね?」
「何だ、そのことか。へっ、おれがあの女に何をしたってんだ?」
鉄はひらき直った。
「おれは、ちょいと世間話をしただけだ。それが悪いのか?」
「そんなことじゃない」
漁師はゆっくりと首をふり、ささやくようにいった。
「お前さんの着ている着物だがね。それが五年前に殺された、あの御内儀の前の御亭主の着物で……膝のあたりについた|しみ《ヽヽ》からしても同じものだといいなさるんだがね。その着物を、殺された人は、殺されたときに着ていなすったんだが。……」
ぱっと鉄は立ちあがろうとした。そのことを発見された驚愕よりも、そのことを知った恐怖のためであった。
その片腕を、ぐいっとつかまれた。
「世の中にゃまちがいということもあるんだが、そのあわてぶりで、お前がその殺しに関係のあることがわかったよ」
力には自信のある凶暴な風穴の鉄を、びくとも動かさぬその男の力であった。ただの漁師ではない、武術の心得のある腕にまぎれもなかった。
ふしぎなことにその厚田の漁師と名乗った男は、風穴の鉄をとらえたまま江別に下りたが、警察にはつき出さないで、知人らしい材木屋の家へ連れていって、土間のふとい材木に一夜じゅう縛りつけた。
「……野郎、あの秩父野郎」
鉄は歯ぎしりして吼《ほ》えた。
「ひとを罠《わな》にかけやがったな。どうするか、見てやがれ、こうなりゃ、一蓮托生、てめえらも地獄にひきずり込んでやるぞ。……」
こううめいたことから、丸太ン棒を持った梅谷十次郎の問いに、彼はうかうかと──というより、くやしまぎれに、自分の脱獄を幇助《ほうじよ》した秩父組のことを白状した。
「そりゃ面妖な話じゃないか」
と、十次郎は首をかしげた。
「お前がつかまりゃ、秩父組もつかまる。お前を罠にかけるわけはないじゃあないか」
「しかし、着物はあいつらが用意したんだ。……」
と、いったが、彼はわけがわからなくなった。なるほど、いわれて見れば、秩父組の連中があの殺人やあの着物のことを知っていたというのもおかしい。そもそも秩父事件そのものが、あの犯罪よりあとで起ったことだからだ。……
何にしても、彼自身については、もう遅かった。朝、凍りついたような鉄をひきたてて、梅谷十次郎はまた汽車に乗って、市来知へひき返していった。
こうなりゃ、何でもいい、秩父組の連中をなるべく沢山地獄への道連れにひっぱっていってやるだけだ、と、彼は自棄的なせせら笑いを浮かべていた。
雪はあるのに市来知の町は、遠からぬ春を思わせる朝霧にけぶっていた。
しかし梅谷は、こんどもまた集治監に直接ゆかず、ふしぎなことに裏町の古着屋を訪ねた。びっくりしている古着屋に、
「おい、こないだここで逢った高野さんってえ看守長があるだろ。あの人が集治監にいたら、すぐに呼んで来てくれ」
と、命じた。
十分もたたぬうちに、高野看守長が、銃をかかえて飛んできた。有馬四郎助も同行していた。
縛られたまま外に待たせた風穴の鉄を四郎助に監視させて、高野は古着屋の中で梅谷十次郎としばらく何か話しているようであった。
四郎助は驚愕していた。きのう幌内炭鉱で風穴の鉄が看守を殺害して逃げたということは、むろんすでに判明していて、その捜索に空知集治監も震動していたのである。獄衣を着たままか、おそらくは奪った看守の制服を着た男のゆくえを、血まなこになって追及していたのだが、その男がまさかこんな着物を着て、ぬけぬけと汽車に乗って逃亡していようとは思わなかった。……
やがて、高野が出て来た。
「集治監にゆく」
と、いって、縄をとって歩き出し、しばらくしてから、
「鉄、しかしお前も幌内炭鉱の功労者だ。縄はとってやるから、堂々と歩いてゆけ」
と、妙なことをいって、その縄をといた。しかし、むろん四郎助と両側から鉄をはさんで歩いている。
ふと四郎助は、その高野の姿が消えているのに気がついた。
ふり返ると、彼は十メートルばかりうしろで、雪の路上にしゃがみ込んで、靴の紐《ひも》を結び直している。
──と、鉄が、いきなり四郎助を殴りつけ、ぱっと飛び立つように横町へ逃げ込みかけた。
銃声があがって、彼は棒を倒すように転がった。路上で膝撃ちの姿勢になった高野看守長の騎兵銃から、かすかな煙があがっていた。
「二度目の逃亡じゃ、射殺もやむを得んな」
と、彼は白い歯を見せていった。
茫然として風穴の鉄の屍骸を見下ろし、また眼をあげた四郎助は、高野看守長のずっと向うに腕組みをして立って、じっとこちらを眺めている梅谷十次郎が、これも白い歯をかすかにのぞかせたのを見たような気がした。
「妙な男に見込まれたもんだ」
屍体を獄丁に運ばせたあと、集治監へ向って歩き出しながら、高野看守長が話した。
「あの男は、鉄の五年前の人殺しを、いまさら大袈裟にあばいて欲しくないというんだ。殺された男の女房は、いま再婚して倖せに暮しているというんでね。それに、秩父の連中も、罪に落したくないという。どうやら秩父組に同情心も持っているらしいんだが。……きのうまで泊ってたカラフト・コタンで、鴉仙《あせん》和尚からおれの話を聞いて、あれは話せる看守長だと見込んで、おれをわざわざ呼んだというんだが」
高野は苦笑の眼を、四郎助にむけた。
「ここで何もかも片づけたい、というあいつの希望に、何だかうまくはまってしまったような気がする。……そういうわけだから、有馬君、鉄がつかまったいきさつは、だれにも黙っておってくれ。ただ、ここで見つけて射殺した、というんだ」
高野はそこで首をかしげた。
「ただ、あの漁師が脱走囚を車中で発見した件で、どうにも腑に落ちぬことがあるんだが。……」
このときまだ何のことかわからず、まったく変な漁師もあったものだ、と四郎助はもういちどふり返った。朝霧の向うへ、梅谷十次郎が、のっしのっしと遠ざかってゆくのが見えた。
──はるか後年、昭和三年、有馬四郎助が豊多摩刑務所長であったころ、「新選組始末記」という作品で登場した作家の祖父が、梅谷十次郎という幕府御家人で、彰義隊士であった梅谷は、敗れて仙台に走り、榎本武揚らと北海道へ走り、五稜郭で敗れて、ついに厚田の漁師になったという経歴を感慨ぶかく読んだ。すなわち作家|子母沢《しもざわ》寛の祖父である。
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義経《よしつね》、弁慶《べんけい》を追《お》う
二月下旬のある午後、空知監獄に三人の奇妙な来訪者があった。
「こちらに原胤昭《はらたねあき》先生は来ておいでにならんだろうか」
と、いうのだが、門衛は眼を見張った。
一人は帽子に制服、マントを着て──ただし、足には白い脚絆《きやはん》を巻き雪沓《ゆきぐつ》をはいた書生だ。もう一人は背に四角な箱を背負い、長い棒を杖にした五十過ぎの老人で、箱ごめに簑《みの》をつけ、牛みたいな顔に笠をかぶっている。これだけでも、監獄への訪問者としては相当に異装の人間だが、それより門番をたまげさせたのは、この二人の男の間に立っている洋装の女だ。
黒い長いマントを羽織り、足にピッチリと革の長靴をはいて、女にしては長身のほうだが、鍔《つば》の広い帽子の下の顔はまるみを帯びて、華麗な、若い日本の女の顔であった。手に鞭《むち》を持っている。
「原先生? そりゃだれかね?」
「キリスト教の教誨師です。たしか去年秋、こちらに来られたはずで。……」
と、書生がいった。
「ああ、あの人か。あの人はもうおらんが……あんたがた、どなたか」
「これは東京から来られた長男爵《ちようだんしやく》の御令嬢です」
姓はよく聞きとれなかったが、男爵という言葉はわかった。門番は、それが三年ほど前に作られた新しい貴族の名称だということを知っていた。それで、いよいよ胆をつぶして、
「しばらく、お待ちを」
と、態度まで変って、駈け出していった。
すぐに庁舎のほうから、高野看守長と有馬|四郎助《しろのすけ》が出て来たが、これも毛色の変った三人の来訪者に眼をまろくした。
書生がもういちど女性の身分を名乗ると、
「ああ、石川県の長家《ちようけ》のかたか」
と、高野はうなずいた。同じ北陸出身なので、その日本には珍しい姓に知識があったと見える。
のちに四郎助は教えられたが、長《ちよう》とは、その昔|長谷部《はせべ》といっていたものを省略するようになったもので、鎌倉時代から能登《のと》の豪族の姓であった。のちに前田家に、別格の家老として臣属したが、その禄三万三千石という大名並の名家だ。──そんな家柄だから、さきに施行された華族令で男爵とされたのだろう。
そしてまた書生は、その女性が長可奈子といい、かねてからキリスト教教誨師原胤昭を敬愛していたが、こんど北海道の監獄を訪ね歩いている原に用があって来道されたものである、といった。
「ああ、そうですか」
高野看守長はいった。
「原さんなら、私も尊敬しております。去年秋、たしかにおいでになったが、その後、釧路集治監や根室《ねむろ》監獄のほうへ廻られた。そちらの用を済まされたら、もういちどここへ帰っておいでになるとのことでしたが、まだお見えにならんようですな」
「それはいつごろになるか、おわかりにならんですか」
「左様、二月末か三月になるかも知れん、といわれとりましたが。……」
「ああ、困りましたなあ。……」
書生は、令嬢をふりむいた。
「一応、札幌へ帰りますか」
令嬢は考えて、首をふった。
「札幌にいると、追手につかまるでしょう。それに原先生は、わたしが来たなんて人づてに聞くと、そのままお逃げ出しになるような気がするわ」
すずしく、甘美な、笑いを帯びた声であった。
「いっそこの町で、先生をお待ちしていようかしら?」
「この町で? この町に、泊るところなんかありますか」
後半分は、首を戻して、高野に対する問いになった。
「旅籠《はたご》はあるが……そんな貴婦人をお泊めするような宿は一軒もありませんな」
高野は答えたが、好奇心に満ちた眼でこの一行を眺めている。四郎助も、同様であった。まるで雪中に咲いた西洋の花のような男爵令嬢の鮮麗さもさることながら──彼女は、いま何といった? 追手につかまるって?
書生は、つぶやいた。
「この町で知っているといえば、カラフト・コタンだけだが、まさか可奈子さんをあんなところへお連れ出来んしなあ」
「や、カラフト・コタンを御存知か」
と、高野看守長は意外そうにいった。書生は答えた。
「ええ、去年の夏ですか、ある人の紹介であそこの大将の細谷《ほそや》って人に、熊狩りの法を伝授してもらいにいって、二、三日泊めてもらったことがあるんです」
「君は、農学校の生徒だね」
と、高野は相手の帽子や服を見ながらいった。
「はあ、橋本左五郎と申します。可奈子さんの弟さんの友人なんです」
「ついでに訊《き》こう。あの、箱を──ありゃ、鎧櫃《よろいびつ》だな──背負った御老人は?」
「あれは長家《ちようけ》の家来筋で、可奈子さんのお供をして来たんです」
「チョンマゲを結《ゆ》ってるな。御令嬢は怖ろしくハイカラだが、家来のほうはばかに古風だね。コタンに行けば、アイヌが驚くだろう」
「ですが、連れてったって、泊めてくれるかどうか。……なにしろ、僕がいまいったような縁しかないんですから」
「いや、あそこならこの市来知《いちきしり》の町の旅籠より安心だよ。私も細谷十太夫って人は旧知だから、なんなら私もいっしょにいって話してやろう。どうだね?」
「それはありがたいですが……可奈子さん、お聞きの通りです。この町の奥にコタン──アイヌの村があって、そこではどうかという話なんですが……いや、あんなところにゃ、可奈子さんを泊められないなあ」
「アイヌの村?」
長可奈子は帽子の鍔《つば》をかしげたが、眼はかがやいた。
「面白いわ、連れてって! それにそんなところにいれば、たとえここまで追手が来てもわからないでしょう。もっともこのかたが黙っていて下さるという条件付きだけれど。……」
可奈子は高野を見た。
「あなたは、ほんとうにこの監獄のかた?」
「そうですよ。これでも看守長であります。高野|襄《ゆずる》と申します」
「そうじゃないみたい」
聞いていて四郎助は、高野が官服を着ているのに令嬢がそんなことをいった気持がよくわかった。高野襄という男には、たしかに看守離れした天空|海闊《かいかつ》な印象があった。
「あなたはさっき、原先生を尊敬しているとおっしゃいましたわね」
「は、その通りです」
「あなた、クリスチャン?」
「いえ、そうじゃありませんが、原胤昭という人に惚れたんです」
「左五郎さん、このかた、信頼出来ると思うわ。お願いして下さい。どうせあなたは、このままこの町にいるわけにはゆかないんでしょう」
「はあ、それじゃどうか、カラフト・コタンのほう、お願いします」
と、橋本は高野に頭を下げた。
「承知しました。実はね、私も近いうち細谷さんのところへゆこうと思ってたんだから、いい機会だ」
高野はうなずいて、
「有馬君、きょうはひまだ。いってみるか」
と、いった。そして、四郎助に否応《いやおう》もいわせず、
「おれはちょっと連絡して来る。君は先に──ああそうだ、あそこにゆくにはアツシを着てゆかなきゃいれてくれん。君、例の古着屋に案内してくれ。あそこで借りてゆく。おれはすぐあとで追いつくから」
と、足早に庁舎のほうへはいっていった。
「有馬看守ごわす。ゆきましょう」
と、四郎助は、三人を促して、門の外へ歩き出した。
カラフト・コタンには、あのお篠がいるはずだ──と、思い出したが、いつまでも高野に隠しておけることではなし、またべつに恥じるところもない、と考え直した。
雪道を歩きながら、四郎助は橋本左五郎に訊いた。
「カラフト・コタンにゆくにゃ、アイヌの着物着てゆかんけりゃならん事《こつ》は知っておられもすか」
「ああ、存じております。去年、うかがった折。──そのことは、紹介してくれた人から聞きましたので、札幌から用意して持って来ました」
「熊狩りの伝授を受けに来られたのですと?」
「はあ、実は、僕は農学校で畜産を学んでいるんですが、あんなあたりの牧場にも熊が出没して、危険でもあれば被害も馬鹿にならんものですから」
そこに、高野看守長が追いついて来た。
「や、失礼。ところでですな」
と、早速彼は質問した。
「さっきから気になってたんだが、追手、追手、とおっしゃったが、そりゃどういうわけです?」
橋本は困惑した表情で、令嬢を見やった。
「なに、犯罪でもないかぎり、聞いちゃいかんことなら聞かんでもいいですがね」
「いえ、橋本さんはわたしの弟と東京の学校は同窓だったというだけで、詳しいことは御存知ないのです。わたしからいうわ」
と、令嬢が問いをひきとった。
「それにこのかたは原先生を尊敬してるっておっしゃったし、あと、万一追手が来たとき黙っていていただくためにも、お話ししておいたほうがいいと思うわ」
令嬢は話し出した。
彼女は、数年前、東京でふとした気まぐれでキリスト教の教会にゆき、そこで原胤昭と知り合い、深くその人柄と信仰にひかれた。それまで鹿鳴館《ろくめいかん》で得意になって舞踏などしていた生活を恥じるようになった。しかし彼女は、由緒ある長家の娘である。鹿鳴館はともかく耶蘇《やそ》を信じたり、耶蘇を伝道する男を敬《うやま》ったりすることは禁断の身であった。
それどころか──長家にとってただ一人の男の子であった弟が、去年の春急病で亡くなったので、彼女は養子を迎えて家のあとをつがなければならない運命になった。耶蘇など、いよいよとんでもないものになった。実際に養子の具体的な話が持ちこまれた。それが長家からすると主筋にあたる前田家の人であった。
「そのうち原先生は、北海道へ──集治監のある町に、出獄人保護所とかいうものを作りたい、という御希望を持って、東京からお出かけになりましたの」
原胤昭はそんな目的で樺戸や空知に来たのか、と、四郎助ははじめて知った。
「原先生が東京においでにならなくなると、わたしは胸にぽっかり穴があいたようでした。いくら息を吸っても、どこかへ抜けてゆくみたい。それがはっきりわかって、もうがまん出来なくなったのですわ」
こういったときの可奈子の眼に、ただの信仰以上の情熱の光がやどっているのが、四郎助にも見てとれた。
卒然として彼は、いつか、やはり原教誨師を訪ねて月形へやって来た黒衣の尼僧を思い出した。あれはただ信仰の糸にひかれて追って来たものであったらしいが、この令嬢はちがうようだ、と彼は、燃える薔薇《ばら》のような可奈子の顔を横眼で見た。そしてまた、あの原胤昭という人を思うと、どっちの女性の心情も理解出来る気持がした。
「それでわたしは家出をしました。わたしを可愛がってくれた爺やだけにそのことを話したら、爺やだけがついて来てくれました。あの鎧櫃にわたしの身のまわりの品をいれて……どうしてもお供をするといってきかないのです」
可奈子はきれいな歯を見せた。
鎧櫃を背負ったチョンマゲの老人は、ニコリともせず、牛のように黙々と歩いている。
──そして彼女は札幌に来た。
原胤昭がいることは知っているものの、北海道ははじめてなので、以前にときどき東京の屋敷に遊びに来た弟の友人、橋本左五郎が札幌にいるのを訪ねて、その案内で、まず汽車で来られるこの空知集治監のある町へやって来たのであった。弟は華族の子弟ばかりの学習院をきらい、東京大学予備門予科にかよっていたが、橋本はそのころの友人で、彼はその後志すところがあって、予備門は中退し、クラーク博士が設立した札幌農学校にはいっていたのだ。
「追手というのは、そのことですわ。東京じゃ、大騒ぎしてるでしょうから」
「そりゃ面白い。……いや、面白いというのはですな、あの原さんが女性に追っかけられるというのが面白い」
可奈子の頬が赤くなった。
「それで、追っかけられてるほうのあなたですが、もし追手が探してやって来たらどうなさいますか」
「ほんとうに来たら、そんなもの、追い返してやりますわ!」
彼女は、びゅっと手の鞭を鳴らした。可愛い顔をしているが、これは相当に気丈《きじよう》な女性らしい、と四郎助も認めないわけにはゆかなかった。
高野はなお笑いながらいった。
「で、原さんをつかまえたら、あなたはどうなさるおつもりです」
「もし出来ましたら、出獄人保護所を作るお仕事のお手伝いをしたいと思っていますの。……いいえ、もうわたしは東京へ帰れません。帰りません。原先生がいやだとおっしゃっても、そうするよりほかはないのですわ」
生き生きした令嬢の顔を見ながら、ほんとうにそうなったらいい、と、四郎助は考えた。原先生のためばかりでなく、このお嬢さんのためにも、だ。この男爵家の令嬢には、見る者にそう望ませる強烈な魅力があった。もっとも、長家の関係者だけはそうではあるまいが。
そしてまた四郎助の胸には、いま令嬢はあんなことをいったけれど、そんなことをあのストイックな原教誨師が承知するだろうか、という一抹《いちまつ》の不安もきざした。
「や、ここだ」
彼らは、町の中の路地の一つ、例の古着屋の前に立っていた。
「御免」
|つらら《ヽヽヽ》の垂れ下がった軒下に、亭主の顔が現われた。
「また来た。カラフト・コタンにゆくから、アツシを貸してくれんか」
高野はいった。
「一枚じゃない。ええと、男が四人だから四着だ。いいかね?」
「それはもう……どうぞ、どうぞ。ま、おはいり下さいまし」
と、亭主は愛嬌よくうなずいた。
「女は要《い》らないんですの?」
と、可奈子が声をかけた。
「あ。──そうでしたな。女性は連れてったことがないから、どうでしたかな。いや、いつかいったとき札幌から芸者が、二、三人、遊びにきてて、これは芸者姿のままなのを、大将、相好崩して見てたから、女性はその必要ないんじゃないですか」
店にゾロゾロはいった。
うす暗い店には、天井から古着が沢山吊られ、壁の棚にも積まれている。その奥のほうから、亭主は小僧に手伝わせて、アイヌのアツシばかり、十数枚とり出して並べた。
|おひょう《ヽヽヽヽ》の若木の繊維で織った地に、黒や紺の木綿布をあて、それに白糸や赤糸で鎖のような刺繍《ししゆう》をしたアツシの、素朴で豪快な美しさは──もっともこれは古着だが──ようやく四郎助にもわかりかけていた。
「どれでもいい。……それにしても、古着屋とはいえ、何でもあるな」
と、高野は、ぶら下がった古着の行列を見まわしていった。亭主は茶碗に次々にお茶をそそぎながら笑顔で答えた。
「旦那がたの官服ってえやつを除けば、だいたい何でもあるようで」
「あはは、こりゃ古くなればお上に返すことになっとるからな。町の古着屋に巡査の官服がぶら下がっとっては困る。……待てよ。おい、こないだの風穴の鉄の盗んでった官服な、あれのゆくえがまだわからんのじゃが、あれを売りにきたやつはないか」
「いえ、ござりません。そんなものを売りゃ、たちまち足がつきますもの。……旦那、ありゃ、あの脱走囚がどこかに捨てたっきりになってるんじゃございますまいか」
「そうかも知れんな。おい、みんな、適当にアツシを一枚ずつ選んでくれ。……それはともかく、西野、お前、まだ女房もおらんそうだが、どうしてかね?」
「いえ、そりゃ、何となくで……この町に余ってる女といや淫売くらいなもので。へ、へ」
知り合いの二人だけの雑談だが、四郎助はちらっと可奈子のほうを見やった。土間の可奈子は、好奇に満ちた眼でアツシを眺めている。
「旦那、堅気《かたぎ》でいいのがありましたら、ひとつお世話を願います」
「世話はいくらでもするが、それにしてもお前の素性をいくらかでも知らなきゃ、話の持ってゆきようがないよ。変なことを訊くが、お前、もとは武家の育ちじゃなかったのかね?」
「あの……私が武家育ち?」
亭主は眼をまるくし、それからゲタゲタ笑い出した。
「これは驚いた。どうしてそんな途方もないことをおっしゃいますんで?」
「いや、ただそんな気がするからさ」
「旦那、ちがいますよ、滅相もない。かりにもお侍の家に生まれた人間が、北海道へ来て古着屋なんかやりますか」
「だって、例の厚田の漁師は、徳川《とくせん》の直参だった人だよ。元江戸の与力《よりき》職で、耶蘇の教誨師をやってる人もある。フ、フ、監獄で看守をやってるおれだって、これでももとは越後長岡藩百二十石、槍術師範の家柄の人間さね」
「旦那、買いかぶってくださるのはありがたいが、わたしゃそんな大それた生まれじゃありませんよ」
「じゃなんだ」
「へへ、天下を狙う大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》。……」
古着屋の亭主西野孫六はそり返って見せた。
高野は苦笑した。
「なに、この町に出没する連中の身許《みもと》をいちいち洗ったって始まらない。いいたくなかったら、いわんでいい。おれも監獄の外の人間の素性はほじくる気はないから、安心しろ」
「まあ、これ、きれい!」
土間で、アツシの一枚をひろげていた長可奈子がさけんだ。紺の地に太目《ふとめ》の白布で唐草模様をえがいたものであった。
「わたし、これを着てゆくわ!……女が着ていったっていいんでしょ?」
カラフト・コタンは、幌内から幾春別川に沿って、さらに一里近く東へはいった山峡にあった。雪は、月形より少いということだが、それでも一メートル前後つもっている。細い雪道はつけてあった。
そこを歩きながら、高野は、カラフト・コタンについて説明した。
コタンが集落を意味するアイヌ語だとはもう四郎助も知っている。月形の町の近くにもコタンはあるし、町の中をアイヌ人は歩いている。しかしそれはもともと北海道原住のアイヌだが、これからゆくのはカラフトから移住して来たアイヌだという。
明治八年、ロシアとの間にカラフト・千島交換条約が結ばれたとき、カラフト・アイヌは、日本、ロシアいずれの国民になろうと自由意志にまかせるということになったが、このとき細谷十太夫はカラフトに渡り、説得して、八百五十人ほどのカラフト・アイヌ人を宗谷に連れて来た。
ところが、翌年、北海道開拓長官黒田清隆は、これを実験的に幌内炭鉱の坑夫に使役しようと思いつき、大砲を積んだ船を宗谷にまわして、強制的にこの空知へ連行した。──
「そのとき細谷さんは宗谷を留守にしていたんだが、このことを聞いて人道に反すると激怒して空知に駈けつけ、相当な騒ぎがあったらしい。とどのつまりカラフト・アイヌは坑夫になることは免《まぬが》れ、大部分は宗谷に帰ったのだが、一部分だけ残って、以来、細谷さんも彼らといっしょに住んでいるのさ」
と、高野は話した。
「そういうことがあったあと、お上のほうでは、それじゃ囚人を使おうということになり、集治監が設置されることになったのだよ」
白い世界に遠くコタンの萱《かや》の屋根がいくつか見えて来たあたりで、アイヌの子供たちが、七、八人、遊んでいた。頭巾《ずきん》のようなものをかぶって、やっぱりアツシを着ているのが可愛かったが、これが弓で矢を空中に射ているのだ。
山ぶどうの蔓で編んだ輪を空高く投げあげ、それを下から小さな弓で射る。クルクルまわる輪を、矢はみごとに通りぬける。
「アツシを着てゆかないと、弓で射殺《いころ》すと鴉仙《あせん》和尚がおどしたといったが、おれがこわがったわけがわかるだろう」
と、高野は笑って、子供のむれに近づいて何か話しかけた。すぐにひき返して来て。
「和尚はいる。お客が来てるそうだ」
「看守長は、アイヌ語がお出来になるのでごわすか」
「なに、カタコトだよ。客があるというのに、馬鹿に犬が咆《ほ》えるな。……まさか、おれたちを見てのことじゃなかろう」
なるほど、びょうびょうたる犬の咆え声が流れて来る。それも、五匹や十匹の声ではない。
五人は、コタンに近づいていった。すると、かえって犬の咆《ほ》えるのがやんだ。
木をつらねて垣のようにしたものがあった。その木の先にかけられた動物の頭蓋骨が熊のそれであることを、四郎助は知っている。たしかヌササンとか何とか呼ばれるアイヌの習俗であった。
それをまわると、屋根も壁も萱で出来たいくつかの家の前の広場に、何十頭かのカラフト犬がいま投げ与えられたらしい肉片をガツガツと食べ、十人くらいのアイヌ人の男女が立って、こちらを向いているのが見えた。
「おう」
その一人が、髯《ひげ》の中で白い歯を見せた。
「あっ、休庵《きゆうあん》先生!」
「有馬君か」
独《ひとり》 休庵《きゆうあん》は歩いて来た。
「お前さん、まだこっちにいるんだってね。おれは昨日《きのう》、またやって来た。犬|ぞり《ヽヽ》の犬の、鞭の使い方にまだ腑に落ちねえところがあるもんだから、もういちど鴉仙和尚に教えてもらいに来たのさ。……それにしても、こりゃみんな空知集治監のおれきれきかね?」
休庵の眼は、アツシは着ているものの、鎧櫃に杖をついている老人と、それから、それでもなおハイカラな令嬢に移った。
その間に、高野看守長と橋本左五郎は、それまで休庵とならんでいたもう一人の髯男の前へいって、それぞれ挨拶をしていたが、やがて高野が、
「みな、おいで、これがここの大将、鴉仙和尚だ」
と、呼んだ。
休庵先生も髯だらけだが、この鴉仙和尚も髯だらけだ。ただし、休庵がむしろ大兵なのにくらべて、こちらはどっちかというと短躯で、しかも肥《ふと》っている。それが、肉がついていて肥っているというより、胆っ玉で肥っているといった感じであった。ふとい眉の下のぎょろっとした眼玉の光だけでもただものではない。同様にアイヌの頭巾をかぶってはいるが、どうやら頭は丸坊主《まるぼうず》らしい。年は、四十半ばだろう。
これが戊辰《ぼしん》、官軍が奥州征伐をしたとき、仙台藩士でありながら、領内の百姓や遊侠の徒を集めてからす組というゲリラ隊を組織して、武士よりも官軍を悩まし、仙台藩降伏後、北海道へ逃れてアイヌの世界へ身を没した細谷十太夫という人物であった。
そのくせ、休庵先生のほうにはどこか浮世を捨てた虚無的な翳《かげ》があるが、このアイヌ姿の坊さまには、何かに|憤 《いきどお》っているような獣めいた匂いがある。
その凄味のある眼が、洋装の上にアツシを着た長可奈子を見て、細められた。
「こりゃ、大変な美人じゃな」
と、いい、
「男爵の御令嬢、ここにおいでになりたいとのことだが、そのきれいなお口のまわりに入墨《いれずみ》をされてもよろしいか」
と、笑った。
四郎助はぎょっとした。まわりをとり囲んで立っている連中のうち、女性らしいのはみんな口のまわりに入墨をしているのを見たからだ。男性らしいのは、ことごとく怖ろしい髯で、休庵や十太夫は髯を生やしているといっていいが、これはまるで毛の中に顔があるとしか思われない。
「はい、かまいません」
と、可奈子は小腰をかがめて微笑《ほほえ》んだ。
「あはは、とにかく珍客だ。歓待します。……詳しい話は、炉ばたで| 承 《うけたまわ》ることにしよう」
と、いって細谷十太夫は背を見せたが、そのまま空を仰いで、
「クロよ! 来い!」
と、さけんだ。
すると、一番近くの、一番大きな家の屋根のてっぺんにとまっていた一羽の鴉《からす》が、羽根音|凄《すさま》じく飛び下りて来て、十太夫の肩に乗った。
そのまま平然として十太夫は、萱《かや》のすだれをかけた入口を、その家の中へはいていった。どうやら少し|ちんば《ヽヽヽ》のようだ。
そのあとについて歩き出しながら、高野看守長は、
「そうだった。あのひとは、からす組のときから一羽の鴉を飼っていたと聞いた。まさかあの鴉がそのときの鴉じゃあるまいが。……」
と、四郎助にささやいた。
「あの|びっこ《ヽヽヽ》は、戊辰のかたき討ちに、西南の役に従軍して負傷した名残りだ。ま、快男児というより妖怪の怪のほうの怪男児かも知れんな」
四郎助は、その鴉や高野の言葉に気をとられているひまがなかった。そのとき家の中から出て来た一人のアイヌ娘が、お辞儀しかけて、四郎助を見てはたと立ちどまり、眼をいっぱいに見ひらいたからだ。
飾りのついた鉢巻きのような頭巾をつけ、ガラスの頸飾《くびかざ》りを垂らしたアイヌ娘の姿にまぎれもないが、まさしくお篠であった。
「お、こりゃ。……」
高野がさけんだので、四郎助ははっとした。
「そいつは、おれがちょっと預《あずか》ってもらった娘だ」
と、うしろから休庵先生が声をかけて、四郎助を見て、どういうつもりか片眼をつぶって、ニヤリとした。
むろん高野看守長は、アイヌの家の中から、アイヌ姿ながらあきらかに日本の娘が出て来たのを意外に思っただけらしい。
高野が家にはいり、長可奈子たちがつづいてはいっていくのをやり過ごしてから、四郎助はお篠にささやいた。
「元気かな?」
「はい」
と、答えて、お篠の眼に、みるみる涙が盛りあがった。すると四郎助の鼻の奥にも、それははじめての現象であったが、ふいに甘ずっぱい液体がつんと満ちて来るような感じがして、彼はみずからその心理を不可解に思った。
「お兄さんのいどころはわかったかね?」
「いいえ」
と、お篠は首をふった。
しかし彼女の、以前の蒼白い頬は、別人のように美しい血色をとり戻していた。だれがこれをほんのこの間まで月形の魔窟にいた女だと思うだろう。それは生き生きした、素朴なアイヌ娘そのものであった。
壁も天井も萱《かや》で出来た家の中は、ただ四角な一つの大広間になっていて、床《ゆか》には葦のすだれが敷きつめてある。そのまんなかに切られた大きな囲炉裏《いろり》には、自在鉤《じざいかぎ》に鍋がかけられて、火が赤あかと燃えていた。
その炉を囲んだ花|茣蓙《ござ》に、細谷十太夫、休庵先生、それから四郎助たち五人の客が坐った。
細谷十太夫は、改めて高野看守長から長可奈子についての依頼を聞いて、
「そりゃ面白い。……いや、面白いというのはだ、家出した女を、監獄の看守長がかくまってくれと頼むというのが面白い」
と、高野が可奈子から話を聞いたときと似たようなせりふを吐いた。
「ははあ、そういうことになりますか。なるほど」
と、高野が、自分の行為にはじめて気がついたように苦笑したのはおかしかった。
「だから監獄の看守長をやっても、おれはお前が好きだよ。まったく話せるやつだ」
なお、原教誨師という人間についての話を聞いたあと、十太夫は快諾した。
四郎助は、アイヌのコタンにはいったのははじめてであった。その家の中はなおさらである。
萱《かや》の壁に作られた棚にならべられた、脚《あし》つきの漆塗りの行器《ほかい》や、膳や桶、たらい、笊《ざる》、片口《かたくち》など、野趣がありながら妙に古雅な諸道具など、本来なら、好奇に満ちて観察するところであった。また、いっしょに家の中に戻って、料理や濁酒《どぶろく》を黙々と、しかしおだやかな愛嬌とともに用意してくれたアイヌの人々は、いよいよ強く印象に残るはずであった。
しかし、あとになって見れば、この日のコタン訪問の記憶は、ある一語から受けた衝撃だけに覆われてしまった。
やがて濁酒を飲みながらの雑談となり、高野看守長が、十太夫の肩にとまったままの鴉を見ながら、その昔のからす組の勇戦をたたえ、それが侍でない人間たちの部隊であったことに感嘆すると、
「いや、ありゃ、やくざや百姓どもだから強かったのよ」
と、こともなげに十太夫はいった。
「西南戦争でも、官軍が勝ったじゃないか。その官軍というのは、大部分が百姓上りの兵隊で、こいつが天下無敵とうぬぼれていた薩摩侍をぶちのめしたんだ」
「そういえば、うちの囚人の中にも例の秩父事件で送られて来た連中──みんな農夫や猟師ですが、炭坑の苦役に黙々と耐える根性、監獄内でのつつしみぶかさ、見ていると、なまじな侍崩れや、大言壮語する自由党の若いやつらより、人間として好ましい連中が多いようですな」
と、高野はいい、さらに、獄内で自由党の若者たちが威張っていて、秩父組を見下すこと甚だしいものがある実状を話した。
「なまじ秩父組が、自由をさけんで政府に叛乱を起したという点で同様なのが気にさわって、ことさら差別をつけようとしている傾向があるようです」
「おい、休庵先生、秩父騒動のことを知ってるかね?」
と、十太夫は独休庵のほうを見た。
「いや、知らんな、樺戸のほうにゃ、そっちの関係者がおらんしな」
と、休庵が首をふると、
「それじゃ、聞きなさい。特に、そこの華族御令嬢、いや、あんたが鹿鳴館にうつつをぬかしておる軽薄貴族の枠《わく》からはずれた人じゃということはわかったが、それでも、よく耳をあけて聞いてもらいたい」
と、十太夫はいって、濁酒をグイグイ飲みながら、秩父事件の話をしはじめた。
四郎助は、さっきからお篠のほうを眺めていた。お篠は広間の隅に坐って、アイヌの老婆たちと食器を拭く仕事を手伝っていたが、このとき彼女が手の動きをとめて、じっとこちらに耳をすましている気配を、四郎助は見てとった。
秩父事件の話を、改めて、さらに詳しく四郎助は聞いた。
明治十七年、重税と高利貸に苦しんだ秩父の農民はついに起ちあがった。当時の松方《まつかた》財政による増税や、道をつけるにも役場や学校を建てるにもただで人民を働かせ、労役に出られない者は金銭を代納させられるという苦しみは、全国どこも同様であったが、とくに山だらけの秩父は、養蚕《ようさん》で生計をたてていて、高利貸から金を借りて繭《まゆ》や織機《おりき》など仕入れた家が多かったので、政府のデフレ政策で、絶体絶命の窮乏におちいったのである。
で、十月末、農民はむろん、土地の猟師、木挽《こびき》、職人、土方から行商人、ばくち打ちまで、八千人から一万人といわれる人数が、猟銃や刀、竹槍をとって蜂起し、一帯の高利貸を焼打ちし、いっときは大宮まで進軍して、郡役所や警察、裁判所まで占拠した。
秩父の山や谷にこだました彼らの歌声にいう。
「昔思えばアメリカの
独立したのもむしろ旗
ここらで血の雨ふらせねば
自由の土台がかたまらぬ」
また、その首謀者たちは、「革命本部」と称し、この明治十七年を「自由自治元年」と号し、「ワレラスデニ朝敵ナリ、恐レ乍《なが》ラ天朝サマニ敵対セヨ」と指令したという。
しかし、三日間に及ぶ巡査隊、憲兵隊、さらには高崎から出動した鎮台兵との交戦ののち、彼らは敗れ、その残党七十数人は信州八ヶ岳をのぞむ馬流《まながし》の村まで逃れ、追いつめられ、十一月九日の戦闘で十三人戦死し、残り六十数人は逮捕されて、ここに潰滅した。
「そいつらは、秩父|困民《こんみん》党と称したそうだよ」
と、十太夫はいった。その眼に涙さえ浮かんでいた。
「政府の獄卒の一匹たる高野なんぞはどう思うか知らんが、おれの眼から見ると、ひたすら哀れで、かつあっぱれなものだ」
高野看守長は、苦笑もしなかった。
「福島事件とか加波山《かばさん》事件とかをひき起した自由党なんぞより、貧乏人の死物狂いの叛乱という点で、こっちのほうがほんものだ。板垣退助何者ぞ、河野広中何者ぞ、おれの見るところでは、彼らは権力欲の変形物に過ぎん。自由党のいわゆる壮士何者ぞ、きゃつらもまた、薩長の藩閥から落ちこぼれた出世欲の餓鬼どもの悪あがきに過ぎん」
十太夫の顔が燃えあがるように見えたのは、ただ濁酒や炉の火のせいばかりではなかった。
「それなのに、いまの高野の話によれば、ただの個人的復讐に逆上して三島県令を殺そうとした加波山事件の連中が、自由民権の本家|面《づら》をして威張って、秩父の囚人たちを見下しておるという。本末顛倒も甚《はなは》だしい。高野、監獄に帰ったら、加波山の若僧どもに秩父事件の話をして、秩父組の爪のアカでも煎《せん》じて飲めといってやれ」
「はっ」
と、高野看守長は、渡辺典獄に対したときよりも神妙にうなずいた。彼は、いつか四郎助に語ったくらいだから、秩父事件のことは一応も二応も知っているはずだが、改めて感動した顔であった。
四郎助に至っては、なおさらだ。──あとで考えると、内容もさることながら、さらに細谷十太夫の語りかたにもよったと思う。ただ、この快和尚が世の常超えた熱血男児であることはたしかとして、こういう秩父事件に対する同情は、それが起ったとき以来のものか、あるいは最近何か新しく聞くところがあって血が鳴っての叱咤《しつた》であったか、その点よくわからないが、どうも後者であるような気がした。
「ところでその秩父の叛乱の首謀者と目された七人は死刑ということになったのだが、そのうち二人はつかまらず、欠席裁判のまま死刑の宣告を受けた」
と、十太夫はつづける。
「存じております」
と、高野はいった。
「事件後逃亡したっきりになったその死刑囚の名を知っておるか」
「たしか手配書が空知集治監にも来たので見た記憶がありますが、いまちょっと名前は忘れましたな」
「菊池貫平と井上伝蔵というのだそうだ」
「ああ、そうでしたか」
「菊池は代言人で困民党の参謀長、井上は生糸商人で会計長だったそうだ。実際に、そういう役名《やくめい》をつけていた。──何しろ大将の侠客田代栄助は総理と称していたというんだから、さっきいった革命本部とか自由元年とかと同様、決して困民党を馬鹿にしちゃいけない」
さすがに十太夫も、髯の中でちょっと笑ったようだ。
「お前さん、監獄に勤めてるんだが、そういう名は聞かんかね? いや、知らんといったな」
そのとき、向うで何か音がした。お篠が椀をとり落したのを、四郎助は見た。
「しかしまあ、そのうちつかまるだろう。死刑になるほどの人間が手配書を廻されて、逃げ切ったやつは、いままで日本歴史に一人もない」
ちと大袈裟なようだが、ほんとうかも知れない、と四郎助は思った。
「つかまれば──死刑囚だから死刑になるだろうが──万一、まかりまちがって空知監獄に来るようなことがあったら、大事にしてやれ。そのために名をおぼえておいてくれ。いま、名まで持ち出したのはそのためだ」
「菊池貫平に井上伝蔵ですな」
と、高野はうなずいた。
「とにかく、罪人が百姓とか商人とか、あるいはばくち打ち、浮浪人だからといって見下してはいかんということだ」
四郎助に衝撃を与えたのは、この会話ではなかった。そのつぎに十太夫が休庵先生に話しかけた、えたいのしれぬ一語であった。
「と、いうようなことは、だれよりあんたが知ってるわなあ、益満さん」
と、十太夫がいって、休庵先生をかえり見たのだ。
「ふっ」
と、休庵先生が笑いとも息ともつかぬ鼻の音をたてて、そっぽをむいた。
「──益満」
一息おいて、四郎助はさけんでいた。
「休庵先生……先生は、益満といわれるのでごわすか?」
「益満とはお前さんの旧姓だろう」
自若として、休庵は顔をこちらに向けた。
「いや、こないだあの娘をここへ連れて来たとき」
と、お篠のほうへあごをしゃくって、
「ふとお前さんのことをしゃべったので、鴉仙和尚が何かこんがらがったのさ」
「ああ、そうか」
十太夫が頭をかき、急に可奈子のほうに話しかけた。
「さっきは承れとえらそうに命令したものの、せっかく長男爵家の御令嬢を客人として迎えながら、男爵家とはあんまり関係のなさ過ぎる話をして失礼しました。それはそうとおうかがいしたいが、明治十一年大久保内務卿を打ちとめた刺客の中に、たしか長連豪という人物がありましたな。あれは御当家と何か関係があるのでござるかな?」
「一族の者でございます」
と、とまどいながら、可奈子は答えた。
高野看守長は、細谷を見、休庵を見、四郎助を見ながら、それ以上に狐につままれたような顔をしている。──
一時間ばかりして、長可奈子主従を残し、四郎助は、高野看守長と、橋本左五郎という農学校の生徒とともに、カラフト・コタンから帰路についた。橋本はこれから汽車で札幌に帰るという。
「おい、あの娘を連れて来たとき、休庵先生がお前のことをしゃべったとはどういう意味かね?」
と訊く高野に、あの吹雪の中の話をしながら、心そこになく、四郎助の頭の中には別の妖しい吹雪が渦巻いていた。
──鴉仙和尚は独休庵を、たしか益満と呼んだ!
もう四郎助の頭には、橋本左五郎のことなど消滅していて、ふとした縁で長男爵令嬢を空知に案内して来たこの書生のことをのちまで思い出すこともなかったが、この人物について述べておこう。
橋本左五郎は、後年北海道酪農の開拓者となり北海道煉乳会社を設立した人だが、彼について、東京大学予備門予科で同窓であった夏目漱石が書いている。この物語とは関係のないことだが、当時の学生の生活がよくうかがわれるので、ついでだから紹介しておく。
「橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽|水《みず》の傍で御寺の二階を借りて一所《いつしよ》に自炊をしていた事がある。其《その》時は間代を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚いて、夫《それ》で月々二円で済んだ。尤も牛肉は大きな鍋へ汁を一杯|拵《こしら》えて、其《その》中に浮かして食った。十銭の牛《ぎゆう》を七人で食うのだから、斯《こ》うしなければ食い様《よう》がなかったのである。飯は釜から杓《しやく》って食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難儀であった。余は此処《ここ》で橋本と一所に予備門へ這入《はい》る準備をした。橋本は余よりも英語や数学に於て先輩であった。入学試験のとき代数が六《む》ずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰《もら》って、其御蔭《そのおかげ》でやっと入学した。所が教えた方の橋本は見事に落第した」
「試験の成績が出ると一人では恐《こわ》いからみんなを駆り催《もよお》して揃って見に行《い》った。すると|悉 《ことごと》く六十代で際《きわ》どく引っ掛っている。橋本は威勢のいい男だから、ある時詩を作って連中一同に示した。韻《いん》も平仄《ひようそく》もない長い詩であったが、其中《そのうち》に、何ぞ憂えん席序下算《せきじよかさん》の便と云う句が出て来たので、誰にも分らなくなった。段々聞いて見ると席序下算の便とは、席順を上から勘定しないで、下から計算する方が早分りだという意味であった。丸《まる》で御籤《おみくじ》見た様《よう》な文句である」
「其後《そののち》左五は──当時余等は橋本を呼《よん》で、左五/〃\と云っていた。左五は其後追試験に及第したにはしたが、するかと思うと又落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入《はい》って仕舞《しま》った」
空知集治監に、驚天動地の大脱獄事件が勃発したのは、それから数日後──三月にはいったばかりのある午後であった。三月にはいったというのに、町には霏々《ひひ》と雪がふっていた。その日彼は、町へ買物に出かけて帰庁したとたんに、門から十数人の看守を連れて駈け出して来た高野看守長を見出したのである。
「おう、有馬、一大事が出来《しゆつたい》した」
「何ごわす?」
「秩父組が破獄した!」
「えっ?」
「ちょうど炭鉱にやられておった連中もみな帰っておって、計十三人、それだけじゃない、加波山事件の鈴木音高と横川省三の二人も──」
いっしょに走り出し、息せき切っての問答だ。
「こ、この白昼に、どげんして?」
「みな、看守に化けた。それが大手をふって門を出てゆくのを、門番は、幌内へ出張する交替組かと思って、敬礼して見送ったという。この雪で、顔もよく見なかったという」
「そいで、き、きゃつら、どこへ?」
「停車場《ていしやば》へだ。……それにきまっとる!」
彼らの駈けているのも停車場へ向う道であった。
「いま、二時前だ。二時に、小樽ゆきの汽車がこの市来知を通る、それに乗るに相違ない!」
高野は歯がみしていた。
「おれは病監の屋根の雪下ろしを指図していて知らなんだ。いま、その連中が逃亡したことがわかったんだ」
「その連中が看守に化けたとは、官服はどこから?」
「備品倉庫から官服を盗み出して、悠々ときゃつらに配ったやつがある」
「何ですと?」
「髯を生やした一人の看守が。──そういえば、と獄丁の一人が証言した。顔じゅう物凄い髯を生やした看守が、看守詰所から出て来るのを見たというんだ。いま調べて見ると、いかにも備品倉庫の鍵がない。それを持ち出し、倉庫から官服をとり出し、雑居房を鍵で堂々とあけて、囚人たちを出した!」
「その看守は何ちゅう看守ごわすか!」
「わからん、調べたところ該当者がおらん。目撃した獄丁は、最近新しく赴任した看守が何人かあったから、その中の一人だろうと思っていたというんだ。……まさか、ほんもののはずがない。そいつは、にせものにきまっとる! とにかく最初に看守に化けて集治監にはいり込んだやつがいる。そいつのしわざだ!」
「逃げたのは、秩父組ごわすと?」
「秩父組全員と、それから、加波山組の鈴木、横川。──混乱しておって、正確なところはまだわからん。……あっ」
高野看守長が顔をあげてさけんだ。
ゆくての停車場のほうから、カーン、カーンという鐘の音が聞えて来たのだ。それはあきらかに、それまでとまっていた汽車が動き出したひびきにちがいなかった。
「いかん。……逃げられる!」
つんのめるような、死物狂いの疾走であった。実際に、雪のでこぼこ道に、看守の何人かがふしまろんだ。
彼らが停車場に着いたのはそれから五分後であった。すなわち幌内から来て市来知に停車していた汽車が西へ向けて発車してから五分後であった。
その汽車はすでに、影もかたちもなかった。──と、いいたいが、実は大部分が残っていた。果せるかな、そこには怪事が起っていたのだ。
その汽車はふつう通り、機関車、次に罐《かま》を焚くための石炭車、それから二輛の客車、うしろに七、八輛の石炭運搬貨車という編成になっていたのだが、突如駅へ駈け込んで来た十数人の看守が、先頭の機関車弁慶号と次の石炭車と最初の客車一輛だけを切り離すことを命じたという。重大事件が札幌に勃発したという電信がはいったので急行しなければならないからだ、といったという。ただならぬけんまくと、そもそも集治監の看守群の命令なので疑心の起しようもなく、駅のほうでは、あわててその通りにした。そして彼らは、客を追い出してその客車に乗り込み、あれよあれよという間に発車させていったという。
「だ、大胆な!」
高野看守長は、西のほうを見て、地団駄踏んだ。
見わたすかぎりの雪の世界を、二条の鉄路だけがのびて、消えていた。いや、その上になお雪はふりつづいていた。
動くものとしては、その汽車の速度にまさるものはないのだ。ましてや脱獄者たちは、貨車を切り捨て、身軽になって逃走していったのである。
「あそこに、汽車がもう一つあるじゃごわせんか、看守長!」
と、突然、四郎助がさけび出した。
なるほど停車場の別の線路に、もう一台の機関車がひっそりととまっていた。予備のものらしく、客の影はなく、数台くっついた貨車にも石炭は積まれていない。
「おいっ、機関手を用意しろ、あれを出せ!」
四郎助はわめいた。
「機関車と、次の罐《かま》焚きの石炭車だけ残し、あとは切り離せ。それだけあっちよりこっちが身軽になる。──」
「そうだ、あれで追っかける!」
あっけにとられていた高野看守長は躍りあがった。
「しかし、有馬、ほかの看守はどうするか。──」
「われわれ、二人だけ、機関車に乗り込みましょう。とにかく追いつかんけりゃ、どげんしようもなか! 追いつきさえすりゃ、決死の覚悟で、何とかなりもそう。──早くせんか。こういっちょる間にも、時間が過ぐる。早く、早く!」
それが義経号と呼ばれる機関車であったことを知ったのは、あとになってのことである。義経号が煙をあげ出したのは、さらに十分ばかり後であった。
機関車には、機関手と罐《かま》焚きの見習い、それに高野看守長と四郎助が乗り込んだ。それ以上の人数をいれる余地はなかったが、騎兵銃は数挺運びいれた。それから四郎助は長い縄を求め、これを二十本くらいに切って積み込んだ。
「何だ、それは?」
と、高野がけげんな顔をした。
「縛《しば》る縄ごわす」
と、四郎助は答えた。高野はまじまじと四郎助の顔を眺めた。
追跡は開始された。義経号にもとりつけられた鐘は、カーンカーンと鳴りはじめた。
前に述べたようにこの北海道の汽車は、幌内─小樽間二十二里──八十八キロを、八時間で走る。時速十一キロという大鈍行だ。ただしそれは途中各駅十五分ずつの停車時間をふくめ、また石炭を満載した貨車を十何輛も牽引《けんいん》してのことで、かつまた、そう早く走る必要もなかったからのことだ。
しかし、いまは貨車をすべて切り離した。それが罐《かま》も焼けただれよと必死の速度をあげたのである。もう雪のつもったレールの上を、それは左右に真っ白なけぶりを切り裂いて走った。おそらくふだんの速度の三、四倍は出たかも知れない。
「燃やせ! 燃やせ!」
狭い機関車の中で、高野看守長は怒号した。罐の焚き口からの赤光《しやつこう》に、その顔は仁王のようであった。
すでに汽車は空知山地を出て、原始林の大樹海の中を走っている。──それが、ときどき切れて、白くひろがる大平原地帯を走ることもある。
もう時間の観念はなかったが、遠くゆくてに煙が見え出し、やがて先を走る汽車の尻が見えて来た。
「あいつだ!」
機関車は同型の同馬力のものだが、脱走車のほうが、客車を一輛余分につけているせいであろうか、または先をゆくため、熊手《くまで》のような野獣よけの|牛 払 器《カウ・キヤツチヤー》に雪がたまったせいであろうか、徐々に、徐々に、こちらの眼に、それは大きくなって来た。ようやく向うも追跡車に気づいたのだろう。
その速度がゆるみ、やがてとまると、バラバラと十幾人の影が左右に飛び下りた。
「逃げるつもりか」
「この雪の中を──!」
なお急速に近づく機関車から見ていると、彼らは、線路わきに積んである大木をかかえて運び、これをレールの上に投げ出した。
銃声がとどろいた。高野が騎兵銃を撃ったのだ。威嚇《いかく》射撃で、命中した者はなかったが、これで囚人たちはあわてて汽車に飛び乗り、また発車した。
材木は、三、四本、レールに横たわっていた。あぶないところで、こちらの機関車がとまった。
高野と四郎助と機関手見習いの若者が飛び下りて、これを除去するのにかかったが、十何人かでやった仕事を三人でやるのに難渋した。あえぎながら材木と格闘する三人に、雪はなお吹きつけた。
彼らは再追撃にかかった。
「燃えろ! 燃えろ!」
四郎助は、自分もシャヴェルをとって焚き口に石炭を投げ込んだ。
この場合に、高野は感嘆と満足の吐息をもらした。
「いや、お前の元気は原さんから聞いたが、さすがだな」
そのときは四郎助は何のことかわからなかったが、あとで考えると、北海道へ来る船の中の、武勇伝の話かも知れない。
途中の停車場は、無視して走りぬけた。脱走車も同様に走りぬけた証拠に、どの駅にもその姿は見えなかった。
そして、江別を通過して一里あまりの地点で、ついに彼らは追いついたのである。
雪原のまっただ中に、またとまりこんで動かない弁慶号を彼らは見た。そして、ふたたび左右に飛び下りて逃走しようとする囚人の姿を見た。
「逃げるなっ」
急停車した機関車の一方の窓から、四郎助は一発撃った。
「有馬──殺すなっ、足を狙え!」
と高野は注意し、自分も反対の窓から銃を出して、
「おおいっ、逃げると全員射殺するぞっ」
と咆哮《ほうこう》した。
すると──野に鋭い声がひびきわたった。
「やあ、高野看守長だ。そんなら逃げられん。──みな、降伏しろっ、抵抗するなっ」
それは加波山岨の鈴木音高の声であった。
そして囚人たちは、高野と四郎助が銃と縄を持って汽車から下り、一人一人縛ってゆくのを、雪の中でじっと立って待っていた。それがみな、看守姿なのが異様であった。
このとき雪は小降りになっていたが、五十メートルばかり向うに、別の汽車がとまっているのに二人は気がついた。その機関車が──後に知ったことだが、それは静《しずか》号という機関車であった──こちらを向いているのを見てもわかるように、それは西から来た汽車で、弁慶は義経に追われてあきらめたのではなく、静《しずか》との挾み打ちになって停車せざるを得なかったのだ、ということをはじめて知った。この線はむろん単線だが、おそらく本来なら、もっと手前の江別とか岩見沢で入れ違うはずのところ、全速力で走りつづけたために先にゆき過ぎて、この平原のまんなかで弁慶の立往生をやる羽目になったのだ。
「逃げたのは、これだけだな」
真っ赤な顔で、息を切りながら、高野看守長がいった。
四郎助は弁慶号の客車をのぞいて無人であることをたしかめ、機関車をのぞいて機関手と見習いが──おそらくいままで囚人の一人に威嚇《いかく》されていたのだろう──尻餅をついてへたばっているのを見てとって、
「それだけでごわす」
と、いった。
「秩父組が十三人、加波山組が二人──十五人──十五人だ!」
と、高野はにらみまわして勘定した。
これまで、考えるひまもなく、問う余裕もなかったが、四郎助には疑問がいくつかあった。それは、あのおとなしい秩父組の連中がなぜこんな脱獄を計ったのか、ということであり、次にまた、彼らを見下していた加波山組がなぜ行《こう》を共にしたか、ということであった。
──後者については、思い当ることがないでもない。それは、あのカラフト・コタンで鴉仙和尚の説教を聞いて感動した自分が、集治監に帰って、加波山の連中に、そっくり和尚の口まねをして、秩父騒動の物語をしてやったのだが、明らかに加波山組も感動して、
「そうでありましたか」
「それはこっちが悪かった」
と、頭をかき、二、三人の者は涙さえ浮かべたからだ。反省すれば、爽やかな若者たちであった。
しかし、それにしても、模範囚ばかりといっていい秩父組が、突如こんな大それた行為に出たのが不可解だ。
「張本人はどこにいる?」
と、高野が吼《ほ》えた。
「私です」
と、横川省三が進み出た。
「私たちがそそのかし、秩父の諸君を連れ出したのであります」
「嘘をつけ。最初に看守に化けて鍵を使い、お前たちを雑居房から出したり官服を配ったりした髯の男がおる。そやつは何者だ、そやつはどこへいった?」
はじめて気づいて、四郎助は愕然としていた。なるほど、そいつがこの中にいない!
「それは私であります」
鈴木音高が進み出た。いかにも、その鼻の下には囚人らしからぬ立派な口髭《くちひげ》が生えている。──
「なに、お前が? それも嘘だ! そんなちっぽけな髭じゃない。おれの調べたところじゃ、物凄い髯の看守が犯人だ。そいつは、おれの見るところ、官服を着て外部からはいって来て、そんなことをしてのけた。そやつは何者だ。そやつはどこへ消えた?」
高野は足踏みした。
そのとき四郎助は、西にとまった汽車から十人余りの人影が下りて、レール伝いにこちらに歩いて来るのを見た。
何にしろ、来るべからざる機関車が東から走って来て、放っておけば衝突しかねまじき事態であった上に、こちらに奇怪な光景が展開しているのを見て、怪しんで見に来たのだろうが、その中に巡査らしき者、いや、大官風の人物も混っているのを見て、四郎助は、はてな、と首をひねった。そのあとからも、ふつうの客らしい人間たちが飛び下りて、やはりあとについて来るのを、巡査が手をふって追い返している。
「実は……加波山事件の関係者であります」
と、鈴木はいった。
「それが町に潜んでいて、決死の冒険で私どもを救出に来てくれたのであります」
「なんだと?」
高野は、昂奮のあまり、まだ背後に近づいて来る人影に気がつかない。
「それはなんというやつだ。どこへいった?」
「その同志はわれわれを救出したあと、別行動をとりました。その名とゆくえは、殺されても申せません」
「看守長」
四郎助に眼で合図されて、高野はやっとうしろをふりむいて、
「やあ」
と、眼を見ひらいた。
「札幌警察の安藤署長ではござりませんか」
安藤署長と呼ばれた官服の男は、そばの大官風の人物に眼をやって、
「石川県令岩村高俊閣下である」
と、いった。
「なに、岩村──高俊──閣下?」
高野看守長は文字通り一尺も飛び上った。──彼が驚いた理由はまたべつにあったのだが、それは知らず、四郎助も驚いた。
「承知しておると思うが、北海道庁長官岩村通俊閣下の弟|君《ぎみ》にあたられる。今回、来道され、空知集治監視察においでになられたのだが、急なことで、集治監のほうへ連絡するひまがなかった」
安藤署長はいった。
「これは空知集治監の看守長であります。名は何といったかな?」
「高野襄であります」
と、答えたが、彼は穴のあくほど岩村県令を眺めていて、敬礼するのも忘れたようだ。
岩村高俊はちらっと不機嫌な顔をしたが、
「これはいったい何事か」
と、縛られたままのおびただしい看守群を見まわし、またそばにとまったままの二台の機関車を見やった。年は四十二、三だろうか、あごに美髯《びぜん》を生やした、堂々たる容貌と恰幅《かつぷく》であった。
そのとき、うしろで声がした。
「こら、来ちゃいかん! 来ちゃいかんといっとるのに、わからんか、帰れっ」
なお、線路の上を近づいて来る、ステッキをついた山高帽に洋服の男を、県令一行に随行した巡査が追い払おうとしたのだが、その巡査も、次に聞えた高野の言葉に耳を奪われたようだ。
「これは、集治監からの脱走囚で、それをただいま追跡して来て逮捕したところであります」
「なんじゃと?」
岩村県令も、安藤署長も眼をむいた。安藤がいった。
「みな、看守ではないか」
「看守姿に化けて破獄したもので、秩父事件、加波山事件の囚徒であります」
「ほ。──これが?」
と、岩村県令が、すぐそばの横川省三をしげしげとのぞきこんだとたん、縛られたままの横川が、いきなり、かあっ、ぺっ、と、唾を吐きかけた。
「何するか?」
安藤署長が躍りかかって、横川の頬を殴りつけた。
「県令閣下に何たる無礼を!」
「石川県の岩村県令といえば、栃木県の三島県令とならんで、東西鬼県令の大関だと県令評判|鑑《かがみ》にある。こちらははじめてお目にかかるが、三島の代りだと思ってくれ」
殴られても、平気な顔で横川はうそぶいた。
「きさま、何者だ?」
「三島をやりそこねた加波山事件の志士横川省三だよ」
「射殺せよ! 看守長、即刻射殺せよ!」
発狂したような声で、安藤署長はさけんだ。
高野看守長は、棒のようにつっ立ったきり、動かなかった。
「なぜ命令に従わんか。大官に対して、かかる暴行を働いた脱獄囚を。──」
「高野さん」
と、横川が笑いながら呼びかけた。
「やってください。何にしてもわれわれは無事にゃすまない。それなら、いま、あなたの手で処刑されたほうがありがたい」
「ただし、脱獄の発起者はわれわれ二人だけです。秩父組はわれわれがだまして連れ出したんです。あの連中に罪はありません」
と、鈴木もささやくようにいった。
「実はわれわれは、こういう場合のために脱獄したんで。……ちょっと離れます。逃げるのじゃないから、あわてないで下さい。位置をとるためで」
そして二人は、あとずさりして、十メートルばかり離れた線路の上にならんで立った。
「さあ、撃って下さい!」
四郎助は眼を見張ったまま、声も出なかった。高野看守長はなお動かない。
「看守長、やれ」
と、頬をハンケチでぬぐいながら、岩村高俊がいった。冷たく見えるほどの美丈夫だが、凶相といっていい表情になっていた。
「脱獄囚は射殺してよいと監獄則にもあるではないか!」
「監獄則の第何条にそんなことがありますか」
突然、うしろから錆《さび》のある声でいった者があった。
みなふりむいて、そこに、さっき巡査に追い払われたはずの男が立っているのを見た。山高帽にステッキをついている。四十半ばの、大きな口髭を生やした、みるからに高潔な容貌の紳士であった。
「監獄則にあろうとなかろうと、監獄の目的は懲罰にあり、その人員を減少するは、かえって国家のためになるとの内務卿の通達がある」
と、岩村高俊はひたいに筋を浮かべてわめいた。
「獄卒、銃を貸せ、おれが処刑してやる」
「石川県令のあなたが、何の法律的権限があって北海道空知集治監の囚人を射殺なさるのですか」
と、紳士は静かにいった。
「きさま、何者だ!」
と、岩村はさけんだ。紳士は帽子をとって一礼した。
「私、京都の同志社大学の校長|新島襄《にいじまじよう》と申す者で、こんど旧知に招かれて札幌に来たついでに、空知集治監へ参観にゆこうとしているところであります」
「なに、新島先生。──」
石川県令だけに、すぐ近い京都の──いや、日本じゅうに大教育者として知られたその名を知らないはずはない。さしも剛腹に見えた岩村高俊も、それっきり絶句した。
義経、弁慶、静の三つの機関車が、その順序で東へ向って動き出したのは、それから二十分ばかりたってからであった。
それが、義経号と弁慶号はつながったまま、お尻の方向へ逆進行し、そのあとを静《しずか》号だけが正常に進行した。
そして、江別停車場で、義経号と弁慶号が行違《ゆきちがい》線にはいり、静《しずか》号は岩村県令や新島襄を乗せて、さきに市来知へ走っていった。
そのあとで、改めて義経号と弁慶号は、市来知へ帰っていった。弁慶号には、脱走囚人たちが乗せられている。縛られたままだが、横川、鈴木をふくめて、現場で処刑されることはまぬがれたのである。
「──鈴木音高は妙なことをいった」
去来するさまざまな感情の中に、四郎助の頭にはあの言葉がひっかかった。
「──われわれは、こういう場合のために、脱獄したといった。それは、どういう意味だ?」
高野看守長に、そのことについて話しかけようとしたが、高野は腕を組んで、珍しく重っ苦しい顔で何か考えこんでいるようで、声もかけられない雰囲気であった。
「──こういう場合とは、脱獄が発見されてつかまった場合、という意味だ」
四郎助は、思い当った。
「──すると彼らは、そんな場合、罪を一身にひき受けるために脱獄したということになる。彼らにとって脱獄は、彼らの脱獄のためではなく、秩父組の脱獄を守ってやるためであったということになる」
「──それにしても、あの連中は、これからどうなるのだろう?」
四郎助は、いまは脱獄されたときの怒りが消えて、彼らのために気をもんでいる自分に気がついた。
黄昏《たそがれ》になった空からまた雪がチラチラ落ちはじめていたが、市来知停車場界隈はまだ──先刻以上の大騒ぎであった。囚人の集団脱走と、それがつかまって帰って来ることが、さきに到着した静号の知らせですでにわかっていて、看守たちがそのまま残って待っていた上に、町の人々が見物につめかけていたからだ。
その中をかきわけるようにしてゆく囚人たちの行列のうしろについて、町の通りを集治監のほうに歩いていった四郎助は、ある辻で、ふと透《す》きとおるようなさけびを耳にした。
「兄さん!」
声に、聞きおぼえがあった。彼は右側を見た。群衆の中に、アイヌ娘の姿のお篠がいた。
「兄さん! お篠です!」
囚人たちが通り過ぎたあと、往来をつっ切って彼女は駈け出した。四郎助は、左側の群衆の中に立ちすくんでいる古着屋の亭主の顔を見た。
四郎助は立ちどまった。
「おい、あとは頼むぞ」
と、高野看守長も、べつの看守に囚人の護送を依頼して残った。
「あの娘の兄が──あの西野孫六だったのか?」
と、訊く高野に返事もせず、四郎助は歩き出し、お篠にしがみつかれている西野孫六の前に立った。
「おはん……秩父の男だったのか?」
いったとたんに、四郎助の背に冷たい戦慄が流れた。自分でもよく考えず、ふるえ声が出た。
「あの秩父組を脱獄させたのはおはんじゃなかか?」
お篠はふりむいて、四郎助と高野看守長を眺め、自分のとんでもない行為を見つけられた恐怖に、紙のような顔色になった。
「心配するな。鴉仙和尚から頼まれたことだ。縛りはせん」
と、高野はささやくようにいい、西野のほうに顔をつき出した。
「お前、菊池貫平か、井上伝蔵か?」
「──井上伝蔵でござります」
西野孫六は低い声で答えた。
「髯はどうした?」
彼はふところから、一塊の黒い毛のかたまりをとり出した。つけ髯であった。
「お前、看守に化けて集治監にはいったな。その官服はどうして手にいれた?」
「この前、脱獄を計りました風穴の鉄という男が幌内橋の下に残していったものでござります」
「なに?」
二人は瞳をぬかれたような気持がした。高野はうめいた。
「では、お前は、あのときから──?」
「はい。獄内の秩父の仲間と連絡していたのは私でござります。それが風穴の鉄の脱走を手伝いましたのは、むろん仲間の命を助けるためもありますけれど、看守の官服を手に入れるためでもござりました。風穴の鉄が看守に化けて炭鉱をぬけ出して、幌内橋で着物に着換えるという手は、あの男が自分で考え出したつもりのようで、実はこちらがそう仕向けたのでござります」
「そ、それじゃあ……あの男は、その着物が昔きゃつが殺した男の着物だったのでつかまったわけだが、それもそう仕組んだことかね?」
「いいえ、まさか。……あとで聞いて、私もびっくりいたしました。あれはうちの古着の中からいいかげんに持っていったもので、それがそういう因縁のある品であったとは、まったく天道のなせるところでござりましょう」
井上伝蔵は落着きをとり戻し、微笑さえ浮かべていった。
四郎助は、高野が風穴の鉄を処置したあと、「ただあの漁師が脱走囚を車中で発見した件で、どうにも腑に落ちぬことがあるんだが。……」と、つぶやいたことを思い出した。
あれは、風穴の鉄が、自分の殺した男の着物を着ていたことについての不審をもらしたものであったろうが、それは実に「天道」によるものであったのだ。
人々は散りはじめ、いま雪のふる夕ぐれの往来に立っているのは四人だけであることは、四郎助の意識の外にあった。
「官服を手に入れたのは、おっしゃるように秩父の仲間を脱獄させるためでござります。……もともと私は、そんなつもりでこの町に来たのではありませぬ。たとえ脱獄させても、逃げ切れるものではござりません。私はただ、牢の中の仲間をひそかに慰め、励ますだけが目的でこの町に住んでいたのでござります。ところが、牢内で仲間が、加波山の衆にひどく見下されていると知って、哀れでもあり、腹も立ち、どうあってもここの集治監から仲間を逃がしてやらなくてはすまない気持になったのでござります」
井上伝蔵はいった。態度は従容《しようよう》としていて、もとは生糸商人だったそうだが、いつか高野が、あれはもと侍ではなかったか、といったのはある意味で正しい、と四郎助は考えた。
「しかもあなたさまから、私の素性について眼をつけられているらしい、と知って、これは事を急がなければならない、と私は決心したのでござります。平生よく集治監にお出入させていただいている関係で、看守はどういうふるまいをするものか、集治監の中の建物の配置はどうなっているか、というようなことはよく承知しておりました」
「………」
「で、それはまんまとうまくいったようなものの、あの加波山の衆につかまって、その中の二人が、おれたちも出させろ、といい出したのには閉口いたしました。それじゃあ災難のもとも、いっしょにくっつけて出すようなものでござります。あの衆は、いや、おれたちが悪かった、その罪滅ぼしのために、万一つかまったとき責任をとってやるためにこんなことをいうのだ、と申しました。それを信じた、というより、あの際、ほかに方法がなくて、いっしょに出てもらったのでござります」
彼は、さびしげに微笑んだ。
「しかし、やっぱりうまくゆかなかったようでござりますな。いえ、私までつかまることになって、しかし実はほっといたしました。私こそ脱獄の張本人でござります。さあ、高野の旦那、監獄へお供いたしましょう」
伝蔵は、両手をさし出した。
「ただ、この妹が……お篠がどうしてこんな姿でこんなところに現われたのか、見当もつきませんが、どうやら旦那がたは御存知のようで……私は心配してやる資格もない指名手配の死刑囚でござります。どうか、旦那がた、罪のないこの妹のことだけはよろしくお願い申します」
高野は、伝蔵の手をとらなかった。
「わかった」
と、うなずいた。
「妹を連れて、早くこの町を出てゆくがいい」
「えっ」
「お前のことは、鴉仙和尚に頼まれたんだ」
「あのカラフト・コタンの大将が、どうして私のことを?」
「そりゃ、妹に訊くがいい。和尚のほうにはおれが話しておく。脱獄した連中がどうなるか、それはおれの力の及ぶところではないが、とにかくお前は死んじゃいけない。お前がつかまったからといって、あの連中がどうなるというわけじゃない。お前が白状したら、かえって具合悪いことになるだろう」
高野は口早《くちばや》にいった。
「それより、お前は逃げのび、生きのびて、秩父事件のことを後世に伝えろ。……それじゃ、おれはゆくぜ。あんまりこんな立ち話は人に見られたくない。有馬、ゆこう」
高野看守長は歩き出した。
それにつられて歩き出した四郎助のうしろから、ハタハタとお篠が追って来た。
「これを」
さし出されたのは、あの黒い聖書である。
何のためにお篠がそれをさし出したのかは知らず、四郎助は、
「ありがとう」
と、受けとり、
「元気で暮すがよか」
と、いった。
十歩ばかりいってまたふり返った四郎助は、霏々《ひひ》としてふる黄昏の雪の辻に、眼をいっぱいに見ひらいて見送っているアイヌの姿の娘を見、それはその後長く彼の瞼に残った。
──大正七年七月、有馬四郎助は小菅監獄の典獄になっていたが、東京朝日新聞で、北海道|北見国常呂《きたみのくにところ》郡|野付牛《のつけうし》村の伊藤房次郎という農夫が、六月二十三日死床にあって、妻子にはじめて、自分が秩父事件で死刑を宣告され、以来三十五年間潜伏しつづけた井上伝蔵であるという驚くべき告白をしたという記事を読んだとき、あっという嘆声をもらすとともにまず眼に浮かんだのは、この明治二十年早春、雪の空知で別れた井上伝蔵の妹の哀切な残像と黒い聖書であった。そして四郎助は、井上伝蔵がついに逃げ切ったこと、その後妻子を持ったこと、そして彼の死をこれで知ったが、お篠のゆくえはついにつきとめることが出来なかった。
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コタンの出撃《しゆつげき》
新島|襄《じよう》は、この年はじめて北海道へ来たのではなかった。
二十三年前──彼がまだ二十二歳のとき、いちど来たことがある。それは彼にとって運命の旅立ちの土地であった。
元治元年四月、安中《あんなか》藩士であった新島は、備中松山藩の藩船に便乗して函館に来、たまたまその六月、函館を出港したアメリカ船に身を投じて、ひそかに渡米したのである。
むろん彼に、以前から熱烈な海外渡航の志があったからだが、当時なおきわめて危険であった海外への脱出が成功したのは、偶然の幸運と、この決死の行為を助けてくれた、二、三の人々があったからであった。その中に、函館イギリス商館の書記をしていた福士成豊《ふくしなりとよ》という人がいた。
明治七年帰国した新島は、それ以来同志社大学の仕事で東奔西走し、休むいとまもなかったが、この年やっと右の福士の招きで来道したのである。そして函館で当時を偲《しの》び、また札幌を訪れ、さらに空知集治監視察に足をのばしたものであった。
集治監の参観は参観として、彼は自分が目撃した脱獄事件にも深甚な関心を寄せた。
その囚人たちが、加波山《かばさん》事件や秩父事件の囚徒で、あれだけ大がかりで大胆不敵な脱獄をやりながら、一人の人間も殺傷していないことを聞くと、むしろ感心した態《てい》で、
「彼らを死刑にしちゃいけませんぞ。それは法にそむいたことですぞ」
と、渡辺典獄に釘を刺しておいて、二、三日後、空知集治監を去った。
この話を、その翌日、四郎助は高野看守長から聞いた。
「あの新島っちゅう先生は、典獄にそげな命令をされるほどえらか人ごわすか」
「命令じゃない、意見だろう。しかし新島先生が大学で、同盟休校した生徒の前で、諸君見よ、いまこの事件の真の犯人を罰する、といって、太いステッキが折れるまで自分の腕を打ちつづけたという話は、天下のだれでも知っとる。無視は出来ん」
高野はいった。秩父組がなぜ脱獄に成功したか、その真相は知っているはずなのに、まだ知らん顔をしている看守長であった。
「幌内炭鉱も視察して、あとで典獄に苦情を述べられたが、典獄は一言も申しわけをされなんだ。なまじ反駁されなんだ点、おれは典獄もえらいと思うが……とにかく、あの脱獄事件の処置については、一応見送り、やるにしても減食か炭鉱送り、重くて闇室入り──まあ、死刑にはならんようだ」
「それでほっとしもした」
「実は、おれもそう進言したんだ。原先生から聞いたんだが、ほら樺戸のほうでも、船中叛乱を起した二人の凶悪犯を、闇室だけにとどめたというじゃないか」
「ああ、そうでごわした。……」
「ただ、気にかかるのは、あの岩村県令だがね。あれが黙っとるか、どうか。──」
「石川県令が、空知集治監の処置について口出しする事《こつ》はごわすまい」
「そりゃ、新島先生もおっしゃったことだが、理窟は理窟として、あれは岩村長官の弟だからな。それに、元来が相当にむちゃな男だ。……」
高野看守長は、しかめっ面《つら》をした。
「ただ、何だかおれには、あの県令は、脱獄囚どころではない、といったようすに見える。──」
「いったい、何の用で石川県令が空知へ来たもんでごわしょう?」
「さ、それだよ、当人は視察、といっとるが──お供について来た札幌警察の署長は帰したしね。そのくせ当人は、まだ滞在しとる。その目的がよくわからん」
その通りだ。岩村県令は内地から連れて来た数人の従者とともに、あれからずっと渡辺典獄の官舎に──高い煉瓦の煙突のある、この市来知《いちきしり》でいちばん立派な建物に泊っているのであった。ただいちど、これも幌内炭鉱を視察にはいった。
高野看守長が顔色を変えて四郎助のところにやって来たのは、その翌日の午後だ。
「有馬、すぐカラフト・コタンにいってくれ」
「何でごわす?」
「岩村県令が、これからコタン見物にゆく。──おれはその案内を命じられた」
「へえ?」
「ところがあそこは、アイヌの着物をひっかけてゆかなきゃ追い返すところだ。典獄がそういったのだが、岩村県令は一笑してとり合わん。矢で射つというのも、まさかとは思うが、まちがいがあってはならんから、お前さきにいって鴉仙和尚にそういってくれ。ついでにお迎えの支度もするように、ここのところはまげて聞いてもらいたいと、和尚に至急連絡するよう、典獄の仰せだ」
「はっ」
と、いって四即助は駈け出そうとして、
「あ。──アツシがごわせんが」
と、うろたえた。
「緊急の場合だ。コタンの近くで、高野からの急な使いだと怒鳴ってゆけ」
四郎助は、市来知から一里ばかり、雪の道を駈けた。
「ふうん、石川県令の岩村がここへ?」
と、細谷十太夫は、けげんな顔をした。
もっとも彼は、岩村高俊が空知へ来たことはすでに知っていた。高野看守長がやって来て、お篠が井上伝蔵とともに去ったいきさつを報告したついでに、そのこともしゃべっていったからだ。しかし、お篠の件はともかく、岩村など、このコタンに何の関係もあるまいと思っていたが。──
「おい、お嬢さん、あんた石川県の出だが、岩村県令を御存知かな」
と、ふり返った。
「いいえ。……わたし、ずっと東京にいましたもの」
長可奈子は首をふった。出身県はともかく、華族はみんな東京住まいだという意味だ。
独《ひとり》 休庵《きゆうあん》は月形へ帰ったとのことだが、可奈子は家従の広木源兵衛とともに、まだこのコタンにいた。やがて再訪するという原|胤昭《たねあき》を待つためだ。原|教誨師《きようかいし》が空知集治監に来たら、すぐ教えてくれるようにと四郎助は依頼されている。
それはいいが──四郎助はきょうここへ来て、最初見たとき、眼をまろくした。可奈子が、お篠と入れ替って、アイヌの衣裳をつけていたからだ。お篠のときも驚いたが、彼はそれ以上に驚いた。華麗で気品のある顔が、アイヌの頭巾や着物との対照で、妖しい愛らしさを描き出していた。
「お逢いしたこともありませんけれど、おいでになるなら、そっと拝見したいですわ」
「こりゃアイヌ娘にも途方もない美人がおる、と見直すかも知れん。見直すのはいいが、さらってゆくかも知れんて」
と、十太夫は笑った。
あとで思えば、これはまさに知らぬが仏の両人の問答であった。
「見世物扱いは大きらいだが、相手が相手だ。騒ぎを起してもしかたがあるまい。おい、みなの衆、一応歓迎の芝居をやってくれ」
と、十太夫は命じ、さて四郎助に話し出した。
「おれも年のせいでおとなしくなった。岩村高俊はおれの敵だからな」
「和尚の敵?」
「あいつは戊辰《ぼしん》のとき、奥州へ攻めて来た官軍の軍監だったんだ。もっとも、そんなことをいってりゃ、日本じゅう敵だらけになる。──お前さんにゃ相すまんが、西郷さんにはかたき討ちをしてやったが──まあ軍監とはいうものの、当時は廿歳《はたち》過ぎの若僧だったから、頭から湯気をたてるのも馬鹿々々しい。知らぬ顔してあしらってやろう」
肩の鴉《からす》に餌をやりながらいう。
「とはいえ、当時官軍の一隊長に過ぎなかった岩村高俊ってえ名を、なぜおれが知ってるかというとね。べつにからす組とやり合ったからじゃあなく、長岡藩の傑物河井継之助を殺した張本人だからさ。……おい、高野が何かいわなかったかえ?」
「いえ。……」
しかし四郎助は、あの脱獄騒動のとき、雪の野で高野看守長がはじめて岩村高俊に逢い、その名を聞いて一尺も飛び上ったあと、穴のあくほどその顔を見つめ、ついに最後まで岩村の命令に耳のないもののような顔をしていたことを思い出した。それからまた、それ以後高野が、彼には珍しく鬱々《うつうつ》と腕組みして考え込んでいることを思い出した。
「河井継之助という人はね、どうやら幕末維新にかけて、幕府方、新政府方を問わず、えらい人物を十人あげろといわれたら充分はいる人だったらしい。事実当時からその名声は、西郷さんとならんで仙台にまで聞えておったよ。その河井さんが、小千谷《おぢや》までいって、越後口から会津へ攻め入ろうとする官軍に、説得するからしばらく待ってくれと談判した。……」
四郎助の耳に、いつか聞いたこれと同じ話がよみがえった。──そうだ。あれは小樽からの汽車で原胤昭と幸田成行という青年の会話であった!
「ちょうど江戸開城のときの勝さんと同じ立場さ。河井はそのとき四十一、二と聞く。ところがこれと応対したのが西郷じゃなくって、越後口官軍軍監という地位にあるものの、わずか二十三の土佐人岩村精一郎すなわち高俊だった。これが河井の理をつくしての嘆願をケンもホロロにはねつけ、河井、帰っていくさの用意をしろ、戦場で逢おう、と、わめいて追い出した。それでも河井は本陣の門に、二度、三度、ひき返して再考を願ったという。岩村はとり合わなかった。これで長岡藩は官軍に敵対せざるを得ない運命におちいった」
「………」
「もしこのとき河井の相手に西郷か、せめて山県でもいてくれたら、河井の死のみならず、あの奥羽戦争もなかったのではないか、といわれる。ただ虎の威をかる若僧の無思慮な鼻息が、あと敵味方何千かの生命を奪い、ひいてはその後の奥羽人の悲惨な運命を呼んだ。……」
「………」
「と、いっていいかも知れん。いや、なに、その長岡藩出の高野がだ、胸撫でさすって岩村の案内をしようってんだから、おれがへそを曲げてぶちこわしにしちゃ申しわけなかろう。心配するな、おとなしく迎えてやるよ」
と、細谷十太夫は、からからと笑った。
──岩村県令らの一行がカラフト・コタンにやって来たのは、それから二時間ばかりたってからであった。彼自身の従者三、四人のほかに、渡辺典獄以下看守長や看守など二十人余りの人数だ。四郎助は具合悪いので家のかげで見ていたのだが、高野看守長も神妙な顔で一行にまじっていた。
コタンの人々は、|酋 長《しゆうちよう》をはじめ正装して、村の入口でこれを迎えた。
そして、|熊 祭《イヨマンテ》など、いろいろな行事が用意されていたのだが──はじめから、とんでもない椿事《ちんじ》が起った。
「……あっ、あなたは!」
岩村のうしろの従者の一人が、突如けたたましいさけびをあげたのだ。
「可奈子お嬢さま!」
アイヌ姿の可奈子は、アイヌの女たちのうしろから、そっとのぞいていたのだが、こう呼びかけられて卒倒せんばかりに驚いた。彼女はそこに、長家の家扶の顔を認めたのだ。
「なに、長家の御令嬢がここにおる?」
岩村県令も愕然たる声を発していた。
長可奈子は、岩村が石川県令だと承知していたが、まったく自分とは関係のないアイヌ村見学者の一行だと思っていた。──なんぞ知らん、岩村は、実は可奈子の件に関して北海道までやって来たのであった。
明治十六年以来、石川県令として金沢にいた岩村高俊は、去年の暮から賜暇《しか》の名目で、その実新しい猟官運動のために東京に帰っていた。そしてたまたま前田侯爵家から、長男爵家の娘の失踪について相談を持ち込まれたのである。そして、その原因となったのは原胤昭という耶蘇《やそ》の教誨師で、その男は目下北海道の監獄めぐりをやっており、それを追っていったらしい、という話も聞いた。
前田家、長家からすれば世に知られてはならぬ|醜 聞《スキヤンダル》で、ちょうど在京している岩村高俊の兄が、北海道庁長官岩村通俊であることから、秘密裡に捜索なり勾留なり、なんとか処置してくれまいかとの内談であった。
両家としては高俊を通じての通俊への依頼のつもりであったらしいが、多額の謝礼金を贈られて、高俊はみずから北海道へゆくことにした。別にまた、兄の通俊としばらく逢わず、その兄からこのごろ糖尿病で苦しんでいるという知らせを受けていたこともある。
で、高俊は北海道に来て兄と逢い、兄がそれとは知らずすでに原教誨師から、各集治監のある町に出獄人保護所を設けたいという陳情を受けて、それぞれの監獄をめぐることを許可したという話を聞き、さらにその原が近く空知集治監に再来するらしいと知って、まずこの町へ来たのであった。
彼にしてみれば、このカラフト・コタン訪問は、それを待つ間の暇つぶしに過ぎなかった。
ところが、念のためいっしょに東京から随行してきた長男爵家の家扶が、このアイヌの村に当の可奈子を発見しようとは、岩村県令にしてもまったくの大意外事であったのだ。
──あまりに予想外の部落だから、しばらく身をひそめるのに好都合だろうと可奈子が考えた理由が、追手がまたあまりに予想外の人物であったため、そっくり逆の目に出たのであった。
「可奈子お嬢さま、どうしてこんなところへ?」
棒立ちになった長家の家扶は、すぐに躍り上り、
「仔細はあとで承ろう。とにかく東京へ帰りましょう。おいでなされ!」
と、駈け出した。
「爺や!」
可奈子のさけびとともに、家扶の前に、アツシを着た老人が飛び出した。それが長家の家従広木源兵衛だと知って、家扶は眼をむいた。
「やあ、お前か。──お前もいたか。うぬは主家に対して何たることを──そこどけ!」
「うるさい、お嬢さまはお嬢さまのお考えあっての御旅行じゃ。そっちこそ帰りなされ!」
チョンマゲの老人は家扶をつき飛ばそうとし、家扶はそれをおしのけようとして、二人は格闘をはじめた。
この突発事に、お供をしてきた渡辺典獄や高野看守長ら集治監の連中も、アイヌの人々も、あっけにとられた顔で立ちすくんでいるばかりであった。
と、見るや、岩村県令がつかつかと一人、歩き出した。持ち前の強烈な性格は、四十三になった今でも全然衰えてはいなかった。彼は、家扶をねじ伏せた広木源兵衛の頭を、持っていたふといステッキで殴りつけた。
血潮さえ雪に散らしてひっくり返った源兵衛を、なお打ちすえようとステッキをふりあげた腕を、ぴしっと何かが打って、岩村はステッキをとり落した。
「無礼者っ」
ふりむいて、岩村は眼をむいた。
彼を打ったのは、長可奈子自身であった。その手の鞭がなおあがったのを見て、さすがの岩村高俊が飛びずさった。
「御令嬢か。お強いな」
と、それでも顔をゆがめて笑った。
「お家から頼まれて、わざわざ石川県令の吾輩がお迎えに来たのじゃ。さあ、ござれ」
「石川県令が、わたしの家出と何の関係があるのですか」
と、可奈子はいった。アイヌの女頭巾の下の顔が薔薇《ばら》のように染まっていた。
「私の家の者には告げて下さい。可奈子は、安華族の暮しは拒否します。もっと尊い天へゆく道をえらんだのです。それをひき戻そうとなさるなら、可奈子はほんとうに天国へ逃げてゆくでしょう、と。──」
「なんじゃと?」
岩村高俊は、もういちど見えない鞭にひっぱたかれたような表情になり、すぐにふりむいて、怖ろしい声でさけんだ。
「うぬら、何をしておる? この娘をとらえて、早く連行せんか!」
そこに立ちすくんだ高野ら、集治監の看守たちに対してであった。
そのとき、妙なしゃがれ声がした。声の主は鴉仙和尚であったが、言葉は明らかにアイヌ語であった。
すぐに、二、三人のアイヌが広場の向うへ駈けていった。──先刻からそこにつながれて、ときどきひくいうなり声をあげている数十頭の巨大な犬のむれのほうへである。
「ここへ来て、敵対的行為をする人間には、まずあの犬どもがお相手することになっておる。あれは熊でも食い殺すカラフト犬だがね」
と、彼はいった。
「それと喧嘩するのがいやなら、おひきとりになったほうがお利口だろう。それとも、綱を切って、よろしいか?」
「ま、待て。……待て!」
やっとわれに返ったらしく、高野看守長が飛び出して、犬の方角に数メートル走って、ふり返り、
「話はあとにしよう。この場は……ともかく、犬を放すことだけは待ってくれ!」
と、大手をひろげて、仁王《におう》立ちになった。
「……と、いうようなわけだ」
と、高野は四郎助にいった。カラフト・コタンから、ほうほうの態《てい》でひきあげたあとの夜のことだ。
彼は、岩村高俊が空知へ来た目的やいきさつをはじめて渡辺典獄から聞いて、それを四郎助に話したのである。
「なるほど、そういうわけごわすか」
と、四郎助はうなずいたが、
「しかし、それにしてもいわば、家出娘、それをつかまえる用に県令を使うとは、さすが華族はたいしたもんでごわすな」
と、嘆声を発した。
「前田家長家のほうでもあわてたのだろう。いかに鹿鳴館などに駈り出されても、令嬢が耶蘇の風来坊を追っかけて家出をしたと世間に知られりゃ、こりゃただごとですまなくなるからね。おれだってあの原さんという人を知るまでは、耶蘇といや切支丹バテレンと思っていたのだから無理もない。とくに長家のほうは、さきに一族から大久保内務卿暗殺の刺客を出した負い目があるから、いっそうあわてふためいたのじゃないか」
高野はいった。
「もっとも岩村にとって、あそこで可奈子嬢を見つけたのは思いがけなかったようだ。きゃつは原さんをつかまえれば、天然自然に令嬢をつかまえることが出来ると思って、そこでここに来て網を張っていたらしい」
四郎助は高野が、岩村県令を呼び捨てにしているのに気がついた。岩村の命令を聞かなかったことを思い出した。
「看守長、岩村県令は、昔、看守長のお国の長岡藩を。……」
「ああ、あのいくさで、おれの祖父《じい》さんは七十七で戦死し、親父も負傷したよ。……しかし、いまとなっちゃ、それは|私 事《わたくしごと》だ」
高野看守長は宙を眺め、その眼を四郎助に戻して、
「それよりゃ、原さんだ」
と、いった。
「岩村県令がここで原さんを待っているとは、道庁のほうからそういう情報を得たからだろう。われわれも、二月末か三月はじめには帰ってくるつもりだと原さんから聞いている。それは明日《あす》あさってのことかも知れん。原さんが帰って来たら、どうなるか。──」
四郎助はいった。
「原先生がおいでになったら、岩村県令がつかまえるとおっしゃるのでごわすか。しかし、何も悪か事《こつ》をやらんのに、つかまえるっちゅうわけにはゆきますまい。げんにカラフト・コタンでも、あの令嬢に叱られて、顔を赤くしたり青くしたりしながら、岩村県令は結局すごすごと退却したじゃごわせんか」
その通りであった。その日、岩村がなすところなくコタンから引揚げたのは、カラフト犬より可奈子の抗議の正当性に封じられたことは明らかであった。
「うん、しかし、やっぱり面倒なことになるのは事実だ。わざわざ好んで、待ってる網にはいることはあるまい。難は避けたほうが賢明だろう」
と、高野は首をふっていった。
「有馬、お前、明日から市来知《いちきしり》の停車場に張り込んで、原さんが汽車から下りて来たらすぐにこのことを教えてあげろ。いいか。……」
四郎助は、その通りにした。
その翌日、彼は市来知の停車場に引率されて来た例の十五人の脱獄組を見た。むろんみな赤い獄衣に編笠、手錠に腰縄という姿であったが、その中の二人が──横川と鈴木が、四郎助に気がついて、編笠をあげて、どういうつもりか舌を出して、ニヤリとしたのでわかったのである。
彼らは幌内ゆきの汽車に乗せられた。とりあえず炭鉱の苦役に追いやられることになったらしいが、しかしそれはそれ以上の処罰は一応まぬがれた証《あか》しともいえるので、四郎助はむしろほっとした。
原胤昭が、西からの汽車から下り立ったのは、その翌日の──三月七日の夕刻であった。
例によって、黒い山高帽、黒い詰襟の洋服、黒い脚絆《きやはん》に、十字架をしのばせた銀の鎖を頸《くび》にかけ、四角なカバンを肩にかけた質素な姿だ。北海道へ来る船中から月形まで、それから数日の間だけのつきあいであったが、一目見ただけで、名状しがたい、なつかしさに四郎助はつきあげられた。
「先生!」
四郎助は駈け寄った。
原胤昭は四郎助を眺め、それからぐるっとまわりを見まわした。
「ここは月形ではありますまいな」
と、いったのは、四郎助が樺戸の看守だという記憶があったので、ちょっと昏迷《こんめい》を起したと見える。──その顔は、この前見たときよりいくらか痩せたようで、さらに清爽の印象を深くしていた。
「はい、樺戸集治監の看守有馬四郎助ごわすが、ちょっと用件があって、この二月から空知集治監のほうに来ちょるのでごわす。──それより、先生」
四郎助は、ぐいぐいと原を停車場の隅にひっぱっていった。
「先生、長可奈子っちゅうお嬢さまを御存知ごわすか。その方が、この空知へ来とられもすぞ」
「ひえっ」
原は、しゃっくりみたいな奇声を発した。
四郎助は、彼女が原を追って東京からこの市来知のカラフト・コタンに来ていること、さらにそれを追って前田家長家から依頼された石川県令岩村高俊が、空知集治監の典獄の官舎に滞在していること、この両人のカラフト・コタンにおけるやりとり、そして岩村はどうやら原を待ち受けているらしいことを話した。
「ふうむ。……」
原胤昭は、さすがに茫然《ぼうぜん》たる表情をした。
「驚きましたな、あのお嬢さまには」
と、嘆息し、微笑して、
「どうか、私が帰って来たことはお嬢さまにはないしょにして下さい」
と、いった。
「そういうわけにもゆきもさんが、そっちはまあどうにかなるとして、問題は岩村県令のほうごわす。先生、申しわけごわせんが、今すぐ──いや、こんどの小樽ゆきの汽車で逃げて下さらんか」
「なぜ私が逃げなくちゃならんのですか」
原胤昭はけげんな表情で、四郎助を見た。
「私は何も、そんな悪いことはしていないつもりですが」
「そ、それはそうでごわすが、その岩村県令っちゅう人が、道庁の岩村長官の弟で、なかなか強引な人物だそうで……君子危きに近寄らず、と高野看守長のお言葉ごわす」
「どんな身分の人であろうと、どんな性格の人であろうと、悪いことをしていない人間をつかまえてどうするということは出来んでしょう。……有馬君、私はね、出獄人保護所というものを作りたいと念願して、北海道へ来たのです」
「わかっちょりもす」
「各集治監の典獄がよかろうといったらよかろう、という許可を札幌の岩村長官から得て、各地を根まわしに歩いてまわって来たのです。その中で、ここの渡辺典獄がやはり一番手応えがあった。最初に作るのはここだ、と決めました。とりあえず私は、これから渡辺典獄に改めてお願いする用件があります」
澄み切った眼に、てこでも動かぬ意志を四郎助は認めた。
「それからまた、ここの炭鉱に、私の帰りを待っている多くの囚人があります。私はそこで働かされている人々に、空知へ来たらまた顔を見せるという約束をしたのです」
彼は歩き出した。四郎助は、やんぬるかな、と、とめる力を失った。
「私は岩村県令とやらなんかより、その男爵令嬢のほうがこわい」
原教誨師は笑い声をたてた。
「なんでまた、こんなところへ来られたものか。そりゃみんなが気をもむのは無理もない。県令に逢うことがあったら、そういってやりましょう」
「先生、どこへ?」
「前に、ここへ来たとき泊った木賃宿に。……いや、もし典獄から出獄人保護所をこの町に作ってもいいといわれましても、次にはその費用をどうするか、という問題がある。むろんお上で出して下さるものではないのでね、有馬君、私にはこのこと以外に心配しているようなひまはないのですよ」
一見、集治監の関係者には、とくに変ったことのない日々が過ぎた。
一両日、原は集治監にやって来て、渡辺典獄とも用談したが、すぐに幌内炭鉱のほうへ出かけた。
彼から、長可奈子にはないしょにしてくれと頼まれたものの、そうはゆかないと四郎助は困惑したが、たまたま町で、買物に来た広木老人と逢い、ともかくも通報だけはしておいた。その翌日、原は幌内へいってしまったのである。
──原先生、それもあって、逃げたな。
と、四郎助は可笑《おか》しくなった。あの令嬢には気の毒だが、やはり案の定だ、と思った。
──それから、岩村県令からも逃げたのか。
これは可笑しくなかった。幌内へいったって、岩村から逃げたことにはならないからだ。
しかし、原胤昭が市来知《いちきしり》へ帰って来たことは、むろん岩村県令に知れているだろうに、岩村が原に接触した気配はなかった。それがぶきみであった。
「いったい、どうなっちょるのでごわす」
四、五日たって、四郎助は高野看守長に訊《き》いた。
「岩村が何を考えるのか、おれにもわからん。しかしな、あれがどう考えようと、何もせぬ原教誨師をつかまえるなどいうことは出来ん。まさに原さんのいう通りだ」
高野は、首をかしげていった。
「しかし、岩村がいつまでも手をつかねているとは思えん。きゃつ、何か企《たくら》んでおる。……典獄にそれとなく尋ねて見たのだが、あのおれを信頼しとられる典獄が、何やら苦しげな顔をして黙っておられる。それが、岩村が何かを企んでいる証拠だ!」
さらに、三日ばかりたった。
三月の半ばを過ぎて、さすがに吹く風に、冷たいながらどこか春が匂いはじめた。雪はなお一メートル近くあったが、幾春別川の氷も溶け出した。江別方面から汽車で来た人の話によると、石狩川の氷も流れはじめているという。
「有馬。……気になることが起ったぞ」
当直の四郎助のところへ、高野看守長がはいって来たのは、三月十七日の午後七時ごろであった。
「岩村県令が、幌内へ出かけた」
「えっ?」
「正午の汽車でいったという。──」
昨日ごろから、典獄は風邪をひいて発熱したといって登庁して来なかった。虫の知らせもあって、先刻高野が官舎に見舞いにいったところ、典獄がそういったというのだ。岩村県令はずっと典獄官舎に泊っているので、そのことは典獄から聞くまでわからなかった。
「何しに岩村は幌内へいったのか?」
「典獄はどげん仰せられとりもしたか」
「尋ねたが、お答えにならん。訊くな、高野、県令については何も訊くな、と申された。たしかに熱のあるお顔であったが、おれの見たところじゃ、ありゃ風邪以外の原因から発した熱のように見えた」
四郎助は不安に鷲づかみにされて、高野を見つめたままであった。どうしていいか、わからなかった。
高野は、看守詰所の中をしばらく歩きまわっていたが、やがて顔をあげて、
「幌内へいって見よう。お前もゆけ」
と、いった。
「ただし、いまの時刻じゃ、もう汽車はない。歩いてゆくのだ」
しばらくの後、二人は提灯《ちようちん》を持って、夜の雪道を歩いていた。幌内は炭鉱、市来知には集治監があるので、どちらにも駅はあるが、距離は一里足らずだ。
その半ばあたりまで来たとき、二人は突如前方の夜空に、くわっとあがった火柱を見た。一分ほどたって、ズズズーンという音響を聞いた。
「あっ……ありゃ何でごわす?」
「ああ」
と、一息おいて高野がさけんだ。
「火薬だ! 幌内には、ハッパ用の火薬倉庫がある。そいつが爆発したにちがいない!」
四郎助は、この前幌内へ案内されたとき、高野が指さした山の中腹の陰惨な煉瓦作りの建物を思い出した。──二人は、狂気のように駈け出した。
いったい、なぜ火薬庫が爆発したのだ?
何か漠たる不安の予感におびえて集治監を出た二人であったが、これはあまりに意想外のことで、二人は足が地につかなかった。実際に二人は何度もころび、雪と汗にまみれつくした。
雪道のことで、彼らが幌内炭鉱にたどりついたのは、それから半時間もたってからのことであろうか。
夜空を染めた火炎は途中すでに消えていたが、炭鉱はなお騒然としていた。
提灯をぶら下げて、忙しげに歩いている三人の看守をつかまえて、高野は何事が起ったのだ、と訊いた。そして、予想していた以上の怖ろしい事実を知った。
ここに泊り込んでいた教誨師原胤昭が逮捕されたというのだ。山腹にある火薬庫が午後七時半ごろ突如爆発し、看守らが駈けつけたとき、すぐ近くにつっ立っている原を見つけたというのだ。即刻彼は逮捕され、いま第七独居房に拘禁されているというのだ。
「火薬庫の火薬が、三分の一ほどの量だったのが不幸中の幸いでしたが、いや大変な騒ぎでした」
と、看守の一人がいった。
高野は息はずませて訊いた。
「原……教誨師がなぜそんなことをしたというのだ?」
「きょう昼間、こちらへ来られた岩村県令閣下と原教誨師の間に、烈しい争いがありました」
と、べつの看守が答えた。
「ど、どうして?」
「県令閣下が御視察中、囚人の中に敬礼もせず、材木に腰かけたまま、本を──原教誨師が配った耶蘇の本を読んでいたやつがありましてね。例の加波山の脱走囚です。で、県令閣下が怒って、ステッキで殴打されて、そのあげくその本をひったくって靴で踏みにじられた。それを見ていた原教誨師が抗議して──あれは見かけによらず妙な術を心得ていますな──県令のステッキを奪って二つにへし折る、という騒ぎがあったのであります」
「ほう」
「そして、夜になっての火薬庫爆発で、教誨師が現場のそばでつかまった。当然、昼間の一件の腹立ちまぎれと見られ、県令は激怒されて明日のうちに処刑するから、それまで監禁しておけとの御命令でありました」
「ば、馬鹿な? 石川県令がなんの権限があって、幌内の事件の処罰をするのか」
「とにかく、全責任は自分がとる、との仰せです。ついでに昼間のけしからぬ二人の囚人もひき出されて、今、隣りの独居房にぶち込まれています。脱走囚だ、ついでに処刑してやる、と県令は申されておりました。……いや、何とも猛烈なお方ですな」
山の中腹あたりの闇に、なお、燃え残る火の色が赤く見えたが、高野と四郎助は独居房のある牢舎に駈け出した。
この幌内は空知集治分監と称されているように、牢舎もあれば独居房もある。──その一劃にはいり、高野は、見張りの看守をつかまえると、
「鍵を貸せ」
と、いって鍵をとりあげ、
「だれにもいうな。……しばらく外で待っておれ」
と、命じた。
高野看守長は、空知集治監でも典獄についでみなを心服させている存在だから、看守は唯々《いい》として敬礼して出ていった。
「原さん」
提灯の光に、格子の奥に顔が浮かんだ。
「やあ、高野さん」
「大変なことになりましたな。いったい、どういうことです」
「いや、おかしなことが起った」
と、原の顔は苦笑した。
「きょう夕方ね、ばったりとここで長家の家扶さんに逢ったのです。それが、可奈子嬢がこの幌内に来ている──この炭鉱にそっとやって来て、私に逢いたいといっている、というのです」
「えっ、長可奈子嬢が? あの令嬢は、カラフト・コタンに──」
「さあ、私もそこをよくよくたしかめればよかったんだが、あのお嬢さんの気性からして、それはあり得ることだと思い込み、心気|動顛《どうてん》した──とにかく、可奈子嬢が、あの山の中腹にある建物に来ているから、日が暮れてからいって、一目だけ逢ってやってくれまいか、と、その家扶がいう」
「長家の家扶──ああ、そいつは岩村県令にくっついて来たやつです!」
「私は令嬢に逢って、私を追っかけるのはよしなさい、早く東京にお帰んなさい、というためにノコノコあの建物に出かけていったんだが、第三者から見りゃ、鼻の下を長くしていったと見られてもいたしかたがないでしょうなあ。は、は。すると──いきなり眼の前で、ドカーンと来たから、いや胆をつぶした。もう数分こっちが早くいってたか、もう数分あっちが遅く爆発してたら、私は吹っ飛んでいたでしょうな」
原は笑った。
「びっくり仰天して腰をぬかしたところへ、どっと駈けつけられて、この始末です」
「卑怯な!」
と、四郎助はさけんだ。
「そりゃ、ひどか罠《わな》ごわす! お嬢さんは絶対に知りもさん!」
「原さん、逃げて下さい」
高野もいった。
「逃げる? 逃げりゃ、私がほんとに悪いことをしたと見られますよ」
原は、とんでもない、といった顔をした。
「私も昼間少々おとなげない真似をしました。岩村県令が立腹されるのはもっともだ。ただ、県令は、長家の令嬢と私との関係について、何かかんちがいをなされておる。また私という人間を、買いかぶっておられる。明日、お取調べがあるでしょうから、そのときによく弁明します」
「岩村県令は、明日、あなたを処刑するといってるそうです。御存知ないのですか」
「処刑? 処刑というと、死刑ですか? まさか?」
「岩村はあなたをつかまえる理由に苦しんで、罠にかけようとしたのでしょうが、まかりまちがえば原さんはあの爆発で吹っ飛ぶところだったのですよ。あれは、それでもかまわん、と思っているような男ですよ。……私は、やりかねぬと思う。やると思う」
高野は、独居房の錠に鍵をさしこもうとした。
「待って下さい」
と、原は手をあげた。
「それをあけて、私が逃げると、こんどはあなたが無事にゃすまないでしょう。だいいち、ここを逃げたところで、この雪の世界を、幌内からどうして逃げるんです? あなたにも私にも、どっちにもいよいよ具合悪いことになるだけじゃありませんか」
高野看守長は沈黙した。
「それに、かりに何とか逃げたとして、それじゃ、あと私の仕事はどうなるのですか。私は逃げないで、明日堂々と弁明したほうが賢明だと思います」
「高野さん、高野さん」
しのびやかに呼ぶ声がした。
「こっちを出して下さい」
隣りの独居房にいる横川省三らしかった。
「出してくれりゃ、おれたちが岩村を仕留める」
「おれたちゃ、どうせ無事にはすまないんだ。やらせて下さい」
そのまた隣りの鈴木音高もいった。
「馬鹿なことをいっちゃいけない」
原が叱った。
「岩村県令を殺したりなどすれば、罪は君たち二人にとどまらないよ。あと加波山の諸君みんなが無事にすまなくなるよ。渡辺典獄にだって迷惑が及ぶだろう」
高野看守長は立往生した。四郎助は身体じゅうの穴がみんなふさがれたような気がした。
高野が、黙ったまま歩き出した。四郎助はそれを追った。
外に出ると、高野は鍵を看守に返し、
「もう私事ともいっておれん」
と、四郎助にいった。祈るようなうめき声であった。
「からす組の大将に相談にゆく」
カラフト・コタンはこの幌内から半里ほど奥の位置にあったのである。
「看守長。……鴉仙和尚に頼むとどうかなるのでごわすか!」
「わからん」
二人は夜の雪道を、またつんのめるように駈けていた。
「原さんはまだ気楽に考えてるが、岩村はやりかねぬ。おれは、やると思う。それなのに、あの人は動こうとしない。──」
息が切れて、高野の|のど《ヽヽ》が笛のように鳴っていた。
「今夜じゅうに何とかせんけりゃならん。どうすりゃいいか、どうすりゃいいか。……おれには何の智慧もない。考えておるひまもない。とにかく、あの和尚に相談してみるほかはない!」
四郎助の髪も逆《さか》立つようであった。
原胤昭が、死の滝壺へ向う小舟に乗っている人のように思われた。それを知らせてやっても、彼はまさかといって舟から飛び下りることを拒否している。その舟の向きを変えようにも、時間の制約がある。明朝までに何とかしなければならないのだ!
時計はないが、おそらく十時近くなっていたのではあるまいか。──彼らはコタンにころがり込んだ。
当然な一騒ぎののち、例の囲炉裏《いろり》のそばで鴉仙和尚、長可奈子主従、独休庵に、二人は幌内のいきさつを説明した。──驚いたことに、休庵先生はまたこのコタンに来ていた。
「あの爆発の音は、ここまで聞えた。ほう、あれはそんなことじゃったのか」
と、鴉仙和尚はいった。
「さて、それは困ったぞ。……」
「わたし、参ります」
可奈子は立とうとした。
「どこへ?」
「幌内へ」
蒼白な顔に、唇がふるえ、眼が半ば正気を失ったひかりを凝固させていた。
「わたしが、岩村県令に逢って話をします」
鴉仙和尚は考える眼つきになったが、
「いや、それはだめだろう。押問答のあげく、結局向うはやりたいことをやるだろう」
と、首をふった。
「和尚さん、あなたは──原先生が幌内から出て来るまではどうしようもない、幌内から出て来るまで待てとわたしにおっしゃいました。そのために、こんなことになってしまったのです」
可奈子の眼に、痛恨、といっていい涙がきらめいた。
「そしていま、そんなひとごとのようなことをおっしゃる。──もう、あなたにはおすがりしません!」
「相すまん」
頭を下げ、休庵のほうをふり返った和尚の眼に、炉の火が赤く燃えていた。
「休庵先生、おれは実は腹が立って、胴ぶるいしておる。おれが殴り込みたいほどなんじゃが、まさか岩村県令の首をとるわけにもゆかん。……だいいちそんなことをすれば、あとアイヌに災難がふりかかるじゃろなあ?」
「うん、その心配はあるな」
「そいつは困る。せっかく高野君から頼って来られたんだが、うまい智慧がない。あんた何かないか」
「それを今考えていたんだが。……」
休庵は可奈子を見あげて、
「お嬢さん、ちょい待ち。……どうやら、何か法がありそうだ」
と、いい、
「要するに、岩村をおどして、あのバテレンを助けりゃいいんだろう?」
「むろん、そうよ、ただ|はた《ヽヽ》迷惑な八ツ当りのないように、だぜ」
「おい、有馬君。……赤蜘蛛《あかぐも》の市松って知ってるかえ?」
と、休庵がふりむいた。
あまり見当ちがいの問いなので、四郎助はめんくらって、まばたきした。
「知っておりもす。しかし、それは樺戸にいる囚人じゃごわせんか」
「左様、では、血なめの茂《しげ》は?」
「それも知っておりもすが。……」
「舶来《はくらい》軍治は? マラキリの角助は? お化け又九郎は?」
四郎助はうなずいた。みんな樺戸集治監の囚人だ。たしか赤蜘蛛の市松は強姦常習犯、マラキリの角助は|つつもたせ《ヽヽヽヽヽ》、舶来軍治以下の三人は泥棒で──とにかく樺戸へ送られて来るくらいだから、相当以上に悪質で、しかもそういう連中が大半の囚人の中でも最低の印象を与え、四郎助さえあまり話しかけたこともない囚人たちであった。
しかし、彼らがどうしたというのだ?
「ありゃ、岩村高俊には一文句も二文句もある連中だ。おれが頼めば、出動してくれるだろう。……こんな仕事に、まっとうな人間を使うのはもってえねえ」
「おい、しかし樺戸にいる囚人じゃ、どうしようもないじゃないか。あそことここの間は五里もある。しかも夜で、雪の野ッ原だ」
と、和尚がいえば、高野もいう。
「先生、ただ岩村をどうかするというだけなら、幌内にいる囚人にも希望者がないこともないのです」
「まあ待ちな。あいつらならよろこんで出動してくれるだろうな、と考え、しかし樺戸じゃしようがねえな、と考えたとたん、それだからこそ──こっちに来られるはずのないやつだから、そいつを来させたら面白いじゃないか、と。──」
「どうして来させる?」
「犬|ぞり《ヽヽ》を使う」
──あ! と、口の中で四郎助はさけんだ。
「石狩川の氷は動き出したとはいうものの、まだ船は通れるどころじゃない。江別廻りは出来ねえ。樺戸から空知へ来るにゃ地つづきに来るよりほかはねえが、まだ雪は五里の野を埋めている。向うから、常人が──夜、何時間かの間に来られるわけがない。しかし、犬|ぞり《ヽヽ》なら可能だ。おれでも片道二時間見れば大丈夫じゃろ。しかも、ここにおる者以外は、まず犬|ぞり《ヽヽ》を頭に浮かべるやつはいねえ」
休庵は髯をなでた。
「樺戸監獄から連れて来たやつは、目的を達したらまた向うに返す。あとで岩村が騒いでも、そいつらは樺戸から来られるはずはねえんだから、岩村の夢物語になってしまう。だれも罰することは出来ん」
「ふうむ」
「どうしてもその五人は連れて来てえんだが、犬|ぞり《ヽヽ》にゃ、御者のほか四人しか乗れん」
「おれもゆこう」
鴉仙和尚は太い眉をあげた。
「二台でゆこう」
「そうしてくれるか。すると、それで来るとき、七人、ということになるが、まだ三人乗れるな。いや、そりゃ軽いほうがいいにきまってるが、実はゆくときほかに人手の欲しいことがあるんだ。おれの手際《てぎわ》じゃ、まだどこへ|そり《ヽヽ》を突っ込ませるかおぼつかねえ。そんなときの手伝いが第一、それにね、月形にはいる手前の石狩川、おととい氷橋《こおりばし》を崩して、いまは例の渡し籠なんだ。それで渡るよりほかはねえんだが、その手伝いが第二」
「先生、私が参りもす!」
と、反射的に四郎助はさけんだ。
「うん、お前さんには来てもらおうと思っておった。というのは、樺戸集治監から五人ひきずり出すのがそれはそれで一仕事で、それには樺戸の看守のお前さんの手助けが必要だ。もっとも、逆に、向うにいねえはずのお前さんがいちゃ、せっかくの名案がぶちこわしだから、向うに見つかっちゃ困るが、それには別の工夫がある。それにしても、とにかくお前さんにはいってもらわなくっちゃどうにもならねえ。──あと、二人まだ乗れる」
「むろん、私がゆきますよ」
と、高野が決然といった。
「あんたか。しかし、あんたは空知集治監の名物看守長だからな。樺戸にだって顔を知られとるだろう」
「しかし、顔を見られなければ。──」
「いや、向うから囚人を出すのにね、やっぱり看守に化けてはいるやつらが必要なんだ。──こないだ、和尚から聞いた秩父組の話から思いついたんだがね。──それにゃ、向うに顔の知られていねえ助《すけ》ッ人《と》が必要だ。おい、いまあんた、こっちの囚人にも岩村退治の希望者がないでもないといったね、そいつを使えないかね!」
高野看守長は眼を大きくひろげて休庵を見ていたが、
「使えます。どんぴしゃり、幌内に、ちょうど二人おります!」
と、いった。
「幌内なら、ここから出かける途中だ。ついでに看守の官服を別に五着何とかならんかね」
「それは何とかなるでしょう」
「それ以外にも、おれが月形から囚人を連れて来たあとのことで、あんたに幌内で待っていて、やってもらいたいことがある。……それは、幌内へゆく途中で話そう」
独休庵はアイヌの棍棒《シユト》をとって立ちあがった。
「どうもおかしなことになったな」
と、首をかしげ、
「じつはおりゃ、あの切支丹バテレンは気にくわねえんだが……しかし、どうやらあれはヘボン先生の、時をへだてたおれのおとうと弟子らしい」
と、うなずいて、
「時間がない、急ごう。和尚、|そり《ヽヽ》の用意をさせてくれ」
鴉仙和尚は大感心の顔つきで休庵を見あげて、
「いや、さすがは神出鬼没の御用盗で幕府を悩ました親玉だけのことはある」
と、いった。
四郎助ははっとした。和尚はつづいてまた変なことをいった。
「しかし、あんた、身体のほうは大丈夫かね」
休庵は委細かまわぬ顔で、
「大丈夫だ。……お嬢さん、心配しないで吉報を待っていて下さいよ」
と、そっちに笑顔を見せて、家の外へ出ていった。
やがて、一台に鴉仙和尚と高野看守長、一台に独休庵と四郎助を乗せた犬|ぞり《ヽヽ》が、幌内へ向って走っていった。
幌内炭鉱に近い幌内橋のところにとまると、高野看守長だけが下りて炭鉱に駈けていった。しばらくすると彼は、二人の看守をつれて駈け戻って来た。途中休庵から智慧を授けられた通り、官服は着ているが、まさに加波山事件の囚徒横川省三と鈴木音高であった。
高野看守長は何か憑《つ》きものがしたような顔で、突然何思ったか、厳然としてこんな訓示をやり出した。
「……空知集治監の光栄はこの一挙にあり。本壮挙に参加し、無実の義人を救わんとす、空知囚徒としての本懐、何ものかこれに過ぎるものあらん、天祐神助われにあり、各員一層奮励努力せよ!」
各員、といったって二人しかいない。四郎助たちをいれたって、五人だ。
しかし二人の若い囚人は、ほんものの看守みたいに挙手の敬礼をして、犬|ぞり《ヽヽ》に飛び乗った。
──高野|襄《ゆずる》は、実に後年の連合艦隊司令長官山本|五十六《いそろく》の実兄である。十五歳にして長岡藩破滅の悲運にあい、いま空知集治監の看守長となっている襄より三十二年年下の弟、高野五十六は、このとしまだ満三歳、成長後大正四年、元長岡藩家老山本家に養子にゆき、山本五十六となるのである。
そして、高野からこの命令を受けた、元旗本の子で、岳南自由党の壮士鈴木音高は、満期出獄後アメリカのシアトルに渡り、旧姓山岡に戻って貿易商となった。太平洋戦争後、極東裁判で東郷外相の特別弁護人となったジョージ山岡は、この「明治の叛臣」の遺児である。
さらにまた、もう一人の「叛臣」横川省三は、のち日露戦争に際し大陸に渡り、軍事探偵として鉄橋爆破の特別任務を受け、ロシア軍の背後に潜入したが、目的達成寸前に捕えられ、同志の沖禎介《おきていすけ》とともに、明治三十七年四月、ハルピン郊外、なお雪に覆われた曠野で銃殺刑に処せられた。
二人の娘への遺書にいう。
「父ハ、天皇陛下ノ命に依リ、露国ニ来リ四月十一日露兵ノ為ニ捕ヘラレ、今彼等ノ手ニ依テ銃殺セラル、是《これ》天ナリ命ナリ。汝等幸ニ身ヲ壮健ニシ、尚《なお》国ノ為ニ尽ス所アレ」
その最後の彼のポケットには、一冊のぼろぼろになった黒い聖書が秘められていたという。
……さて、そんな未来談よりいまの話だが、何をするかわからない岩村県令の罠から「無実の義人」を救うためとはいえ、何という奇怪な編制の出撃部隊だろう。しかも彼らの求めにゆく援軍は、樺戸監獄最低の凶悪囚なのだ。
それに進んで参加しながら四郎助は、すべてが悪夢の中の出来事みたいな気がした。
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大《だい》 奇《き》 蹟《せき》
|そり《ヽヽ》にとりつけてあった鈴は除去した。幌内を離れた二台の|そり《ヽヽ》は、市来知《いちきしり》の町を避け、山沿いに峯延《みねのぶ》へ向った。野も畑もみんな|そり《ヽヽ》の道になる雪のおかげである。
すぐに前面は曠野となった。月のない闇天《あんてん》の下であったが、その雪のために地上には妖しい微光が照り返している。その中を、まず鴉仙《あせん》和尚と横川、鈴木を乗せた|そり《ヽヽ》が走り、そのあとを、独《ひとり》 休庵《きゆうあん》と四郎助を乗せた|そり《ヽヽ》が走る。峯延から、月形へ。──
「|そり《ヽヽ》を習うのは雪のあるうち、と考えて、またコタンに押しかけたのがよかった──のか、悪かったのか、よくわからんが、とにかく大変なことをはじめることになったもんだなあ」
と、休庵は笑った。
「お前さんも変な帰りかたをすることになった」
まったく同感だ。
四郎助が空知集治監に来てから、なんともう一ト月半にもなる。雪に封じ込まれているというのがその理由だが、これまでも休庵先生の|そり《ヽヽ》に便乗すれば、月形へ帰れないこともなかったのだ。それが、高野看守長の人柄にひかれ、またその万事のみこんだような勧めをいいことに──もう一つ、四郎助には、樺戸《かばと》集治監に帰ることをためらうある理由があったが──つい空知に異例の長|逗留《とうりゆう》をしたばかりに、実に思いがけない帰還をする羽目になった。
それも、ただの帰還ではない。樺戸から囚人を連れて来て、さらにまた送り返さなければならぬ。しかも、すべてを夜の明ける前に終えなければならぬ。
これがやすやすと出来るとは思えないが、やらねばならぬ。──原先生を救うためにはだ。
その目的が、四郎助の心の中で、今夜の行為のすべてを正当化した。
しかし、それにしても休庵先生に訊《き》かなければならないことがある。
「先生。……これから樺戸から出す囚人どもごわすな。それがなぜ岩村県令に恨みを持っちょるのでごわす?」
「うん、あれはな」
十メートル以上もある長い鞭をふりながら、休庵はいった。
「おい、こいつをお前さんが使って見な、遠い犬じゃなく自分の身体に巻きついてしまう。なんてえらそうにいうおれが、和尚にゃ笑われる腕前なんだが。……あの中の赤|蜘蛛《ぐも》の市松とお化けの又九郎が喧嘩して、市松は鼻をかみちぎられ、又九郎は一方の眼玉を指でほじくり出されたことがあったっけね。去年の暮だ」
「や、そげな騒動がごわしたな」
「まるで腹のへったときのカラフト犬みてえなやつらだ。それから、ことし早々、舶来軍治が肺炎で死にかけた。……おれが呼ばれてね、ま、一服盛って往生させたほうが、世のためのみならず当人のためにもなるやつらだと思ったんだが、どういうわけか、ふと助けてやる気になった。そのとき、本人たちもつい弱気になったか、おれには素性を打ち明けたんだ。あとのマラキリの角助、血なめの茂も同じ仲間だということが、それでわかったんだが。──」
「きゃつらの素性?」
「いまのあいつらは、もうどうしようもねえ下司の悪党だが、恥のかけらは残っていたらしい。それで隠していたんだが、あいつら、あれでも元は佐賀の侍でね。開拓使判官として、札幌の町作りの最初の鍬《くわ》をいれた島義勇の配下だった連中だそうだ。大通りの幅を四十何間かにして、京都の何倍かの町を作るという島の大風呂敷の絵図を、そのころけんめいに書いたもんだ、と、きゃつら泣いたよ」
「………」
「その島のやりかたに明治政府は仰天して首にし、代って来たのがいまの長官岩村通俊だが──さて、首になった島義勇は、のちに明治七年、江藤新平とともに佐賀の乱の首謀者となった。──」
綱をあやつりつつ、休庵は語る。
「佐賀藩出身の大立者《おおだてもの》だった島は、国元の情勢が不穏だというので、それを鎮めるために東京から汽船で西下した。その同じ船に、岩村高俊が乗ってたんだ」
四郎助の耳に、幸田|成行《しげゆき》の声がよみがえった。
「その高俊が、島に聞えよがしに、佐賀の腰抜けどもに何が出来ると嘲笑した。その悪口雑言は、いまでも耳に残っておると、そのとき島に同行していたあの連中がいう。岩村はわざと挑発していたんだな。明治政府に抵抗するやつはたたきつける、という見本を大久保は作り出そうとしていた。その大久保の腕となったのが高俊さ。何という乱暴な人間を使う、と木戸が呆れたそうだが、高俊の売り込みを、大久保が買った。もういちど河井継之助を作れ、というわけだ。狙いは図に当り、島は江藤とともに叛乱を起し、敗れて斬刑|梟首《きようしゆ》という極刑に処せられた。その刑場に、高俊は大久保とともに笑って立ち合っていたという」
期せずして、休庵も幸田と同じことをいう。
「ところであいつらは、まあ首だけは助かって、牢屋にぶちこまれただけですんだが、それが転がり落ちるはじまりさ。といって、それが強盗強姦の徒刑囚、何の因果か旧縁の北海道へ送られるまで落ちたってえのは話にならんがね。これァあいつらの不心得のせいだろうが、そういう不心得なやつらだけに、てめえたちの一生を破滅させたのは岩村高俊だと思い込んでいる。……殺《や》れといったら、殺《や》るね──おっとっとっと!」
休庵は、大きく鞭をふりまわした。|そり《ヽヽ》を曳く犬の方角が大きく右へまわりかけたからだ。
鞭は十数メートルもある。これをあやつる休庵にこの前感心したのだが、さっきから見ていると、さすがに鴉仙和尚よりだいぶ下手なのがよくわかる。
「きょうは、先導がいて助かる」
と、休庵はつぶやいた。
犬の進路はもとに戻った。夜なのに、この前乗せてもらったときよりはるかに速《はや》い。ひとえに、先に道をつけてゆく和尚の犬|ぞり《ヽヽ》のおかげであった。
曠野の空は暗く、地は仄白《ほのじろ》い。それぞれ十数頭の犬に曳かれて走る二台の|そり《ヽヽ》は、第三者が見たら、日本の風景どころか、この世の光景ではないもののような異妖の感に打たれて、眼をこすったに相違ない。
その|そり《ヽヽ》に乗っている四郎助すら、自分が魔界を飛んでいるような気がした。
この|そり《ヽヽ》の到着先でやることを思うと、髪の毛も逆立つようだ。事実、野を切る夜風のせいばかりでなく、かれの毛穴はそそけ立っているのだが、しかしそれよりもなお彼の魂を鷲《わし》づかみにしている「あること」があった。
それは、長可奈子《ちようかなこ》をカラフト・コタンに連れていったとき、鴉仙和尚が休庵先生にふと呼びかけた「益満《ますみつ》」という言葉だ。
そのとき、こちらの問いに休庵は、返答にならない返答でごまかした。
しかし、そのことは、あれからずっと、四郎助の頭に夢魔のようにこびりついている。
──このひとは、あのひとではあるまいか?
それは四郎助を驚倒させた。北海道へ来て以来、驚くことは多かったが、この想像ほど彼に衝撃を与えたものはなかった。
しかし、このことを今まで口に出さなかったのは、なお彼をとらえている疑問と恐怖のためだ。
幕府の断末魔、大強盗団で江戸を荒しまわり、鳥羽伏見戦争の火だねを燃えあがらせた男。そのために幕府につかまりながら、官軍東征のとき不死身のごとく現われて、山岡鉄舟とともに駿府に密行して西郷に会わせ、勝海舟との会見のお膳立を作った男。──つまり、大西郷の闇の片腕として維新の嵐に活躍した男。
しかも、上野戦争の際、流弾に当り、三日目にこの世を去ったと伝えられてはいるけれど、それほどの大物なのにその死に立ち合った薩摩人は一人もなく、調べれば調べるほどその最期が霧につつまれている男。
彼は実に、益満一族の妖星であった。その人に対する四郎助の一種いいがたい悩ましい感情はすでに記した。
そして先刻、明らかに鴉仙和尚は休庵を「御用盗の親玉」と呼んだ。
その前から四郎助の頭に浮動していた疑惑、臆測、否定、肯定、また恐怖の粘体はどっと堰《せき》を切った。彼の脳裡に黒雲が渦巻きはじめた。
二十年、彼は生きて、この北海道に生きていたというのか? 髯だらけの、酒びたりの怪医として。──
思い出せば、彼は四郎助を何度か旧姓の益満の名で呼び、ふしぎな親愛感を示した。四郎助もまた彼に、奇妙ななつかしさを感じた。
──が、また思い出せば、あの西郷狙撃事件の回想に際し、休庵は一通り以上の興味は示したが、一方でどこか冷淡な批評も漏らした。
そうだ、たしかにこんなことをいった。
「……西郷さんは、まったくふしぎな英雄だな。……いくら西郷さんだって、あれほどのことをやった一生のうちにゃ、あまりタチのよくねえことも、あまり感心出来ねえこともあったろうが……人はそれに眼をふさいどる。……話に聞くと、江戸で浪人どもに火つけ強盗をやらせて幕府を倒すきっかけを作ったってえことだし、おれが見ても、御一新後の西郷さんは、何だかがらんどうになっちまってたようだぜ。……」
これが、その火つけ強盗の親玉の吐くせりふだろうか?
それからまた彼は、西郷を撃ったと称する男が、その後何の褒賞もなく落魄《らくはく》の末、徒刑囚にまでなった事実に対し、こんなこともいった。
「狡兎《こうと》死して走狗《そうく》煮らる、というやつかね。走狗を平気で煮るようなやつが、英雄と呼ばれる。──」
そのときは、何の意味かわからなかった。あとで考えて、西郷必殺を命じた真の命令者のことかと解釈した。
しかし──いまや四郎助は、西郷の闇の片腕と目された男の末路を想到した。あの言葉は「走狗」自身の述懐ではなかったか?「英雄」とは西郷のことではなかったか? そしてまた、あれは走狗を憐れみ、英雄にいきどおるというより、結局おのれもまた走狗とされてしまった英雄を嘲笑《あざわら》う声ではなかったか?
さらにまた、先の西郷の悪口に類する意見も、同時におのれ自身を嘲笑う言葉ではなかったか?
あまりひねた物の考えかたをしない四郎助を、こんな邪推に近い解釈に落したのは、いうまでもなくかつて聞いた兄の一人|圭治《けいじ》の、うなされたようなささやきの記憶であった。
圭治はいった。
「おいはいろいろ考えた。考えて見りゃ戦争当日戦場で、流弾によって死んだ、と伝えられちょるのもいぶかしか。──」
この声がよみがえるとともに、もう一つの声がよみがえって、四郎助はぎょっとしていた。
「流弾というのも、おかしいといえばおかしい。……こいつァだれか、はっきり狙って撃ったやつがあって、それが命中したと考えたほうがまっとうだと思わんかね?」
それは、西郷の死についての休庵先生の見解であった。
後者を聞いたとき、以前にそれに似た言葉を聞いたおぼえがあるような気がしたが、それは兄圭治の言葉であったのだ。
そのせりふを吐いたときの休庵先生は何を考えていたか、と思うと、いまさらのごとく戦慄《せんりつ》を禁じ得ない。
そしてあのとき、兄の圭治はなお悪夢のような想像をしゃべり出したのだ。
すなわち、その人物を殺したのは、長兄の矢藤太ではないか。矢藤太は、西郷の闇の片腕を抹殺する秘命を受けてやったのではないか、と、いった。
──以上のことさえ、四郎助の人生観を変えるほど怖ろしいことであった。
しかるに。──
その人は、いまここにいる。
ということは、その人はあのとき殺されはしなかった、ということになる。
天地が裏返しになったような恐怖をおぼえつつ、四郎助は考えつづける。
では、上野の戦争のとき、広小路で三日間も立往生して死んでいたと伝えられた男はだれだ? 何者が、それがその男だと確認したのか?
それが、はっきりしない。戦争のあと三日目に発見されたというのも奇怪だ。わかっているのは、たしか|こめかみ《ヽヽヽヽ》を撃ち抜かれていたということだが──それなら顔面も破壊されている可能性も多かったろう。たしか明治元年五月十八日と記憶しているが、新暦に直すと六月の下旬くらいになるだろうから、気温による死顔の変化も考えられよう。
──死んでいた人間はだれだ?
四郎助の頭に、そのころ消息を絶った長兄矢藤太が浮かんだ。
殺されたのは、矢藤太兄ではなかったか! なぜ? いかにして?
あまり空想力に自信のない四郎助に、ふしぎなことにある一つの構図が描かれた。
灰燼《かいじん》に帰した寛永寺めざして、雨の広小路をぶらぶらとゆく深編笠の武士を、官軍の将校らしい男が追う。まわりに人影がないと見るや、突如うしろの男が短銃をとり出す。その刹那《せつな》、前の武士がふり返り、抜く手も見せずこれまた短銃をとり出す。二発の銃声がとどろいて、うしろの官軍将校は雨の路上に棒倒しになる。──
武士は近づき、斃《たお》した男の顔をのぞき込む。
数分後、衣裳をすっかりとりかえた屍体を近くの立木によりかからせて、彼は去ってゆく。彼は自分を殺そうとした男の意図も、その背後の意志もすべてを知ったのだ。雨の中に、人間にもこの世にも完全に絶望した男の顔があった。──
いま、二十年後、石狩の雪原の|そり《ヽヽ》の上で、四郎助は眼をあげた。
その男の顔が、暗い風に髪と髯を吹きなびかせている独休庵に重なった。
「先生。……」
かすれたような声で、四郎助は呼んだ。
休庵はふり返りもしない。前方を快走する和尚の犬|ぞり《ヽヽ》を追尾するのに懸命のようだ。
四郎助は、しばらく声をのんだ。休庵先生の綱さばきに遠慮したわけではない。
繰返していうが、以上の推理や判断は、さっき犬|ぞり《ヽヽ》に乗ってからのものではない。またそれ以後、順序立てて脳中に流れた思考でもない。むしろ、ずっと以前から感づいていることを、みずから逆流させたり、停止させたりした傾向さえある。
しかし、やはり結論はそこに到達した。そして四郎助がそれを確めることを憚《はばか》ったのは、夢魔のような事実を切り裂く恐怖のためであった。
曠野の果てに、微かに灯が見えて来た。──月形の町だ! なんという速《はや》さだろう。空知を出てから二時間もたってはいまい。
驚くとともに、四郎助はついに決心した。恐ろしいことだが、それだけはいま聞いておかねばならない。
「先生!」
ただならぬ声に、こんどは聞えたらしく、休庵はふりむいた。
「なんだ?」
「先生は、もしかしたら、益満──」
と、いいかけたとき、綱をとったままの休庵の背が急にまろくなり、綱を鞭持つ右手に持ち添えると、がぼっと何か吐く音がした。
左手で布みたいなものをとり出したが、飛び散った黒いものは、明らかに血であった。
「ど、どげんなされました?」
「肺病の血だよ。このところ、わりに無事に来たんだが……昨晩コタンでやってね。どうもこの風に吹かれるのがいかんらしい」
四郎助は去年の秋、月形の入舟町で、休庵先生が原胤昭を救おうとして、騎西看守長とやり合った際、喀血《かつけつ》したことを思い出した。また先刻、コタンを出るとき、和尚が休庵に「身体は大丈夫か」と訊いた意味を了解した。
「そ、それは」
「なに、大丈夫だ。おれの足が走ってるわけじゃあねえ。これに乗ってゆきゃいいんだから。──」
と、休庵先生は笑ったが、綱の手さばきの狂いに敏感な犬のむれの足が乱れ、|そり《ヽヽ》がぐらっと左側にそれたかと思うと、大きく左に傾いた。
「や、しまった。沼に落ちた。──」
休庵はあわてた声をあげた。|そり《ヽヽ》が雪に覆われた泥炭の沼へ片足落したのだ。
四郎助は飛び下りて、これをもとに戻すのにかかった。その足も雪と泥に膝までめり込んだ。
この事故に気づいたらしく、前方の|そり《ヽヽ》もとまり、横川と鈴木がこれまた雪に足を埋めながらひき返して来た。──四郎助が口を切ろうとした問いは、それっきりになった。
二台の|そり《ヽヽ》は、相ついで石狩川のほとりに到達した。
「……ああ!」
岸に立って四郎助は、思わず、嘆声を発した。
彼が空知へゆくときに通った例の氷橋は、休庵のいったように崩されて消滅し、石狩川は、凍る以前と同じように流れている。ただし、流れているのは水ではない。──雪あかりだけで、ハッキリとは見えないが、動いているのは氷だ。河を埋めつくした巨大な蓮状の氷が、異様な音をたててひしめきつつ、雪を乗せたまま流れているのだ。石狩に、明治二十年の春は来ているのであった。
「おい、この二人に籠流しの要領を教えてやってくんな。急ぐんだ」
と、休庵先生がそばに来ていい、|そり《ヽヽ》に乗ったままの鴉仙和尚のほうへひき返していった。なるほどこれでは、|そり《ヽヽ》は渡れない。和尚は犬と|そり《ヽヽ》を守って、こちら側で待つことになっている。
舟渡しが不可能な間だけ、綱をつたって滑車で河上を渡る籠は、本来なら岸でひいてくれるしかけになっているのだが、ひき手がいないときは、自分でたぐっても渡れる。一つに、二、三人は乗れる。
四郎助は鈴木と乗り、横川は休庵先生と乗ることになった。
「先生は身体の具合が悪らしか。横川、お前ひっぱれ。下手すると籠から河へころげ落ちるぞ」
綱のたぐりかたを二人に教えていると、また雪がチラチラふって来た。
「こりゃなかなか難行だな。しかし、雪がふってくれれば|そり《ヽヽ》の跡が消えるので、その点はありがてえ」
と、休庵が戻って来ていった。
まず、四郎助の組が渡り、次に休庵先生の組が渡った。
河の上で、四郎助の全身は粟《あわ》立っていた。寒さのせいばかりではない。樺戸集治監から五人の囚人を連れ出すという行為の恐怖と不安のためだ。
深夜のこととて、月形の町に人影はなく、ただ雪だけがふりつづいていた。しかし、監獄につくと、むろん唐草《からくさ》模様の鉄の門はとざされ、両側の門衛所には灯影《ほかげ》があった。それから遠い塀の両端の望楼にも灯がともっていた。いうまでもなく看守が夜も勤務しているのだ。
その中へ、どうしてはいるのか。
むろん、四郎助がはいるためだけなら、はいることは出来る。しかし、空知集治監にいるはずの彼が、この深夜に帰って来たことが知られれば何もかもぶちこわしになるから、顔を見られてはいかん、と、休庵先生はいう。
では、どうするか。
休庵先生の案は、自分がまず門番のところへいって、何とか外へ誘い出す。そのすきに四郎助と看守姿の横川と鈴木がはいっていって、めあての囚人たちを連れ出す──というのであった。むろんその間、とくに四郎助は、ほかの樺戸の看守に顔を見られてはならない。夜のことだから、勤務している看守は少いし、その配置は知っているから、その眼を避けることは不可能ではあるまい。──
「じゃ、とにかくやって見るぜ」
三人を物蔭に隠し、休庵は門のほうへゆきかけた。酒は飲んでいないはずだが、酔っぱらったような足どりだ。
「先生、待って下され」
四郎助はあわてて呼んだ。
「どげんいって、連れ出しもすか」
「うん、まあ……寒いから、そこらで一杯飲まんか、と。──」
「そりゃだめでごわす。そげな事《こつ》で出て来るものでごわすか」
「それじゃ、そこらにゆき倒れがあるから、とでもいって。──とにかく、出たとこ勝負でゆく」
不安なことは山ほどあり、休庵が門番を連れ出す法まで詳しく聞きただしてはいなかったのだが、この場になって休庵の無茶さに、四郎助は呆れ返った。
「そげな用で、門番が二人とも出て来もすか。……それに、おいたちがはいって、また出て来るときにゃ、どげんするのでごわす。それまで外にひきとめておかれもすか?」
「なに、なんなら誘い出して、ちょいと気絶させてもいい。この二人に頼むとしよう」
と、休庵は、横川と鈴木にあごをしゃくった。
「しかし、銃を持っておりもすぞ。その音だけで万事休すでごわす。それに、そんな異変が起っては、あとこっちの計画通りゆきもすまい」
「さ、そういわれると困る。おれには、それくらいの智慧しか持ち合わせがねえが。……君に何かうまい思案があるかい」
四郎助はうなった。彼にも何の工夫もない。看守の身分として、勤務先に潜入する法など真剣に考えたことはない。
しかし、これはやらなくてはならないことであった。
「とにかく正門はいかんでごわす。裏に回って見もそう」
「おう、裏側に一つ潜り戸があったな」
「いや、あれは厚い樫《かし》の戸で、内側に大きな錠が下ろしてあるからだめでごわす」
それは監獄内で死亡した囚人を墓地に運び出すなどのための門であったが、鍵はむろん看守詰所にある。
「やはり、塀を乗り越えるよりほかはごわすまい」
「あれをか」
休庵は眼を横に流して、ウンザリした顔をした。塀の高さは、一丈七尺──五・二メートルあった。
「夜に加えて、この雪ごわす。物見の眼もけぶっておりもそう」
「それじゃ、そうしよう、とにかく、急ぎたい」
四郎助は突き飛ばされたように歩き出した。休庵たちがあとに従う。
「梯子《はしご》じゃ、梯子はあるまいが……棒でも板でもいい。なるべく長いやつを……見つけたら、拾ってくれ」
四郎助はいった。
長い正面の端にやっと出た。しかし、そこからすぐには曲れず、まだ柵がつらなっている。大通りに面した正面をのぞき、あと三方は内部と外部から物など投げて連絡出来ないように、さらに柵をめぐらしてあるのだ。
その柵をめぐって、裏側に向った。
「ありました」
「これじゃ、しかし役に立たんでしょうな」
少し遅れて来た横川省三と鈴木音高が、あえぎながら、抱えていたものを突き出した。
横川のは、長さは五尺ほどあるが、板であった。鈴木のは、柄の折れた鍬《くわ》であった。
この場面に休庵先生は笑い出した。
「何だい、それは? 子供のおもちゃじゃあるめえし」
「申しわけない。こんなものしか、見つからなかったんで。──」
「しっ」
と、四郎助は叱りつけて、一番近い塀の隅の望楼をふり仰いだ。灯影はあるが、絶えずグルグル回っているはずの人影は見えない。この雪に、何が見えるものかと、番人は股火鉢でもきめこんでいるのではあるまいか。
「よし。……とにかく早く塀のところへゆこう」
彼らは柵を乗り越えて、塀のほうへ忍び寄った。
望楼に異状はなかったが、塀に近づいて見ると、それはいよいよ絶壁としか思われない高さであった。
「おい、どうするんだえ? 人間が人間の肩に乗ったって追いつかねえぜ」
休庵がいった。
「ああ」
四郎助は、われに返ったような表情をして、ふいに、
「そうだ、雪の台を作ろう。その鍬と板で雪をすくって。──」
と、小さくさけんだ。
その鍬と板を拾ったのがほんのいましがただから、はじめから考えていたことではない。これはいまとっさに霊感のごとくひらめいたことだが、
「その上に、一人が一人の肩に立つ。──」
「馬鹿いっちゃいけねえ」
休庵はあっさりと手をふった。
「この塀は一丈七尺あるってな。人間が二人つながったって、少くとも七尺くれえは雪を積まなきゃならねえ。しかも、二人が立って大丈夫なくれえの固さに、だぜ。そんな仕事がそんな折れ鍬と板っきれで、何時間かかると思う?」
彼は、いらだたしげにそばの塀を軽くたたいた。
「夜明けまでに何もかも終えなきゃ、せっかくの大兵法が役にたたねえんだ。……ああ、こいつがひらいてくれりゃいいんだが。──」
また、コツコツと指さきでたたいた。それは偶然、例の潜り戸の扉であった。
と、その扉が、ギ、ギ、ギ……と、錆《さ》びた音をたてた。音ばかりではない。それは徐々に内側にひらいてゆく。
外の四人は、息をひき、眼をむき出して立ちすくんでいた。
彼らはそこに、看守の制服を着た一つの影が立っているのを見た。そいつが、いった。
「たたけよ、さらば、ひらかれん。……」
ぱっと、横川省三と鈴木音高が飛びずさった。二人とも、反射的に腰の佩剣《はいけん》に手をかけた。
ふとい息を吐いて、四郎助が次のつぶやきをもらさなかったら、二人はそのまま抜刀して突進していたにちがいない。
「──牢屋小僧じゃなかか!」
「左様で。……御無事でお帰り、有馬の旦那」
牢屋小僧は戸の間から、黒い煙の一塊みたいな感じで出て来た。
「お前。……どげんして、こげなところに立っちょったか」
「いえね。あっしゃグッスリ寝てたんだが、その夢枕にキリストさまが立たれてね。わが子、ローヤコゾーよ、いそぎ看守の服を着て裏門へゆけ、お前の助けを待つ人あらん……とか、何とかおっしゃったんで、その通りにしていたんでさあ。……」
四郎助は、眼をパチクリさせた。相手の顔はよく見えないが、大まじめらしい。
いっていることの意味さえわからないが、しかし、四郎助は──この変な囚人が、原胤昭が樺戸に聖書を残して立ち去ってから、いったいどうしたのか、何かといえば怪しげなせりふを吐いていたことを思い出した。一方でまた彼は、自分が空知へゆくことになったときお篠が同行することになったのが、看守に化けて外へ出たこの牢屋小僧の働きによったものであったことを思い出した。
こいつは牢屋の内外、自由自在に出没する化物らしい。まさか、切支丹バテレンの妖術ではあるまい。そのからくりの一端を、牢屋小僧が自分から、義眼の中の細工で見せてくれたが。──
そもそも四郎助が空知に長滞在した理由の一つに、樺戸監獄に帰りたくないという彼自身の心理があったが、そのまた理由は、帰れば牢屋小僧を放ってはおけないが、しかし、というためらいであったのだ。
なぜ、自分にそんなためらいの心情が起ったのか、自分でもわからなかったが。──
いまでもわからない。虫の知らせというよりほかはあるまい。見よ、そのおかげでこの一つ目の怪囚人は、ここにちゃんと待って、内側から扉をあけてくれたではないか。……
以上は、混乱したまま凝固した四郎助の脳味噌に、数秒間でひらめき過ぎた想念の光だ。
「こりゃ。……」
ようやく横川、鈴木も、それがただの看守ではない、と気がついたらしい。
「どういうかたで?」
「お前たちと同類じゃよ」
と、四郎助は自分をとり戻した。
「つまり、囚人だ」
「へえ?」
「いま、説明しておるひまはなか。……牢屋小僧、お前にも詳しく話すひまはなか。ただ、原先生が空知で下手すると明日にも命があぶなか大難におちられとる。それをお救い申すには、ここにおる五人の囚人に急いであっちへいってもらう必要があるんじゃ。河向うまで迎えの犬ぞりが来ちょる。そこへ、一刻も早く連れてゆきたいんじゃ」
四郎助は、五人の囚人の名をあげた。
「手伝ってくれ」
「へへえ、原先生をお助けするためでござんすか。……」
官服姿の牢屋小僧は十字を切った。
「なるほど、キリストさまが出て来なすったわけがわかった!」
牢屋小僧はちょっと首をかしげた。
「お易い御用だ、といいてえが、ただね、今夜はあの騎西の旦那が夜勤でね、さっきも眼をひからせて巡回してやがった、あの旦那だけにゃ気をつけなくちゃならねえ」
「ほう、騎西看守長が──」
「いえなに、大丈夫でござんすよ」
──めざす五人の囚人は、三つの雑居房にばらばらにいれられていたが、それを連れ出すのに、十分もかからなかった。
建物の配置、獄舎内部の通路、看守の位置、巡回時間など、むろん四郎助は知っている。だから彼が同行して来たのだ。ただし彼自身は見つかっては困るから、物蔭に隠れて、横川、鈴木だけを行動させる。もっともその両人とて、樺戸の看守にはない顔だが、しかし五十人もいる看守だから、遠目なら万一見られても、見過される可能性のほうが強い。むろん、そういう危険は極力避けさせる。──そのつもりであった。
しかし、ここに潜入するときと同様、いざ潜入してからも、たとえば牢屋小僧とは無関係の雑居房の鍵は看守詰所から盗み出すよりほかはないが、四郎助が動かなければどうにもならなかったろう。──もし、牢屋小僧がいなかったら、だ。いや、四郎助が動いたとしても、果してそんなにうまくいったかどうか疑問だ。
「なに、ビクビクしねえで、あっしについて来ておくんなさい」
と、牢屋小僧は、ほんものの看守みたいな顔をして、先に立ってスタスタ歩いた。
看守詰所には、一人の看守が股火鉢をして、椅子の上で居眠りをしていた。牢屋小僧は平気な顔でそこにはいりこんだ。彼が壁から鍵束をはずすとき、ガチャリと音がしたが、看守はグラリと一つ身体をゆすっただけであった。入口から、おっかなびっくりのぞきこんでいた四郎助は、背まで汗ビッショリになった。
この奇妙な囚人は、みずから影そのものになったのみならず、同行者をも影のむれに変えてしまったかのようであった。
こうして彼は、三つの雑居房をめぐり、その前で、
「おい赤蜘蛛の市松はおるか」
とか、
「舶来軍治、出て来い」
とか呼んだ。
影になったとしか思われない、とはいうものの、ほかの囚人もこれに気づかないわけはないが、そのなりゆきをみな首をかしげて見まもっているだけで、だれも声一つ立てない。この怪囚徒がいまや全囚人にふしぎな力を及ぼしていることを、改めて四郎助は認識しないわけにはゆかなかった。
こうして牢屋小僧は、五人の囚人を次々にひき出し、横川らが持参した看守の制服を着せ、監獄から──例の潜り戸から連れ出すことに成功したのである。
それがわずか十分ばかりの仕事であったが、そう神経の細くないつもりの四郎助がいまにもつんのめりそうになるほど疲労|困憊《こんぱい》した。
「や……やったな」
潜り戸の外にしゃがみこんで待っていた休庵が、びっくりしたような声をあげて立ちあがった。雪はなおふりつづいている。
しかし、そこを離れて、柵を越えたとき、牢屋小僧が首をかしげた。
「はてな」
「どげんした?」
「感づかれたかも知れねえ」
四郎助は、はっとしてふりむいた。
べつに、騒ぎの起った物音は聞えないが。──
「いや、旦那、急いでおくんなさい。こうなりゃ、逃げるより手はねえ。……河向うまで、犬の|そり《ヽヽ》のお迎えが来てるとおっしゃいましたねえ」
牢屋小僧はせきたてた。
彼らは、一路、真夜中の月形の町を渡船場に急いだ。
──と、河が見えて来たあたりで、突然、休庵がまたうずくまった。四郎助は気がついて、あと戻りし、のぞきこみ、休庵が雪の上にまた血を吐いているのを見た。
「やっぱり、いけねえ。しかも、こりゃ相当重症だぜえ」
と休庵は顔をあげて笑った。夜目ながら、その相がただごとでないのを、四郎助も見てとった。
「おれはいいから、お前さんたち、さきにいってくれ」
「先生がおいでにならんと、|そり《ヽヽ》が使えもさん」
「ああ。──そうだったな」
そのとき、牢屋小僧がふりむいて、舌打ちした。
「旦那。……やっぱり、追っかけて来やしたぜ」
なるほど、うしろから雪の道を何人かの跫音《あしおと》が追って来るようだ。四郎助は狼狽《ろうばい》し、休庵先生の片腕をとってぐいと自分の肩にかけ、死物狂いに駈け出した。
やっと広い渡船場に出た。
しかし、船はない。渡るなら、渡し籠だ。それに乗るとしても、この人数では何回かに分けなければならないから、もう間に合わない。
迫手は三人であった。明らかに看守たちだ。それが猛然と追いついて来た。
「待て!」
それは看守長の騎西銅十郎の声であった。
「うぬらは何者だ。看守の制服を着ておるが、この夜中に北門から出てゆくとは奇怪なやつら。──これから、とり調べる」
そういうと、彼はこちらを駈けぬけ、渡し籠の柱のところへ走り寄り、佩剣を抜いて、その籠を下げた針金の綱をバッサリ切り落してしまった。
そのまま仁王立ちになって、彼は配下の看守にいった。
「おい、おれが合図したら、遠慮なく射殺せい!」
背後にならんだ二人の看守が騎兵銃を構えた。
のどの奥で獣のようなうなり声をもらし、猛然と横川省三と鈴木音高が動こうとした。彼らは万一、こういう羽目になった場合にも備えて出動して来たつもりであった。
「おとなしくしてろ」
と、休庵先生が声をひそめてささやいた。
「あいつらはおれにまかせろ。銃を撃たれて、監獄に聞えたらおしまいだ」
四郎助は身体が棒みたいになった。
先刻集治監の門前で彼が持ち出した危惧《きぐ》をいま休庵がふたたび口にしたわけだが、それが現実のものになり、事態が最悪のものになったことは明らかであった。
騎西看守長は、刀身をぶら下げたまま、官服を着た五人の囚人の前に立ち、
「きさまらか」
と、うめいた。
「なんでこんなところにおる? その服は何だ?」
五人は黙っていた。返事のしようもなかっただろうが、その凶悪囚たちがただ動物的な恐怖のために居すくんでしまったようであった。
騎西は横川と鈴木の前に移り、その顔をのぞきこんだ。
「こいつら、樺戸集治監の人間ではないな。やい、動くと撃つぞ!」
一喝《いつかつ》して、さらに四郎助の前に動いた。
「おや、有馬じゃないか。お前、空知にいっておったはずだが、どうしたんだ?」
万事休すだ。四郎助も口がきけない。
「次はおれだ、独《ひとり》 休庵《きゆうあん》」
休庵先生が、|瓢 々《ひようひよう》と歩み出た。四郎助はこのとき、ほんの先刻までいっしょにいた牢屋小僧が、忽然《こつねん》と消えているのに気がついた。
むろん、騎西はまっさきにアイヌ姿の影が独休庵だと見てとっていたに相違ない。明白に脱獄囚を眼前にしつつたちどころに一刀両断にしなかったのは、一応休庵に憚《はばか》ったせいだとしか思われない。
歯をむき出して訊いた。
「先生、何のためにこんなことをなすった?」
「お前さんをおびき出すためだよ」
「なんだと?」
「この世に生きてて有害無益なやつには死んでもらうのがおれの道楽でね。前々からお前さんを見てて、どうもその道楽の道具になりそうな人だ、と感じてたんだが……どうやら、おれ自身がその通りの人間で、近いうちにくたばるらしい。そこで道楽のしおさめにお前さんを選んだのさ」
休庵はニヤニヤしていう。
騎西看守長はかっと眼をむき出し、全身を硬直させて立ちすくんでいたが、やがて、
「何を、馬鹿な! そんな目的で囚人を脱獄させるやつがあるものか。だいいちおれたちが追って来たのは、いましがた集治監内を裏門のほうへゆく不審な影をふと見かけたからで、まったくの偶然だ」
と、肩をゆすり、あごをつき出し、ふり返った。
「うぬらがこんな大それたことをやったほんとうの理由はあとで聞く。こら、こいつを片っぱしからひっくくれ。抵抗の気配を見せたやつがあったら、この場で射殺しろ!」
「待った、これを見な」
騎西看守長はぎょっとした。休庵の襟《えり》の間から、ピストルの銃口がのぞいていたからだ。
四郎助の頭に、いつかの月形の魔窟《まくつ》街での、この両人がやり合いかけた対決が浮かんだ。これはその再現であった。
「ただし、そっちが撃たなきゃ、こっちも撃たねえ」
と、休庵は向うの二人の看守にいい、改めて騎西のほうへ頭を戻した。
「おい、人を斬ることの好きな騎西銅十郎、お前さんその昔、江戸の新徴組《しんちようぐみ》で鳴らしたってな。それなら御用盗の益満休之助ってえ名は聞いたことがあるだろう。どうだ、いまその益満のなれの果てと、鉄砲なしの堂々の斬り合いをやって見る気はないかえ?」
──あっ、と四郎助はさけんだつもりだが、それと同じ別人の声のほうが鼓膜を打った。いうまでもなく騎西銅十郎当人のものであった。
「……き、き、貴公。──」
と、騎西銅十郎は息を切った。
「まさか? まさか、益満休之助が?」
「いつ、どこで死んだか、聞いたことがあるかえ?」
騎西の顔に、改めて愕然《がくぜん》たるものが痙攣《けいれん》した。休庵は、看守たちのほうへ顔を向け、
「というようなわけで、両人、ここで真剣勝負をやる。お前さんら、鉄砲を撃ってじゃましちゃいけねえぜ。──そらよっ、こっちも飛道具は捨てらあ」
と、ピストルを雪の上にほうり出した。
「よし! ……話はあとで有馬から聞いてくれる」
騎西はついに決断したらしい。彼は、吼《ほ》えた。
「休庵。……刀をとれ。剣をとっては騎西銅十郎、堂々たる男じゃ。そこにおる有馬からでも借りろ」
「なに、おれはこれでいいのさ」
休庵がぶらぶら振って見せたのは、例のアイヌの棍棒《こんぼう》であった。
「いや、騎西さん、怒るな。決して馬鹿にしているわけじゃあねえ。断わっておくが、さっきいった道楽はこれで充分やってのけられるつもりだぜ」
騎西看守長は、ぱっと飛びずさり、剣を構えた。激怒に燃えあがり、黒い炎のような姿であった。
闇の空から、雪はふりしきっていた。そのためか、闇であるべき地上には、蒼味《あおみ》をおびた妖しい光が満ちていた。いや、それは雪のためというより、すぐそばを流れる氷の大河の反映であったろう。
見ていたものすべて、身動きも出来ず、声も出なかった。これがただの男の決闘ではないことは、剣を知らない人間にも寒風のように感得《かんとく》されたからだ。
「えやあっ」
騎西看守長の口がひっ裂けた。
──その刹那、一見|飄然《ひようぜん》と突っ立った休庵先生の肩が一つ波打って、口にがぼっという音が立ち、タラタラと黒いものが溢《あふ》れ出した。
躍りかかろうとしていた騎西の身体に、一瞬、驚きともためらいともつかぬ波が走ったが、もはやとめてもとまらず、その姿は巨大な夜鴉《よがらす》のように羽搏《はばた》いていた。
一同の眼に、騎西の剣を受けた休庵の棍棒の先端が斜めに切り飛ばされて空に飛ぶのが見えた。二人の身体は激突した。と、見えて、休庵は向うへつんのめってゆき、騎西銅十郎だけ高々と刀をふりあげて、仁王立ちに立っていた。
四郎助は氷結した。
と、次の瞬間、騎西の身体が徐々にそり返り、どうと倒れた。あおむけになったそのみぞおちに、棍棒が半分までめり込んで突っ立っているのが見えた。
「……やむを得んなあ。……」
地上から声が湧《わ》き、休庵先生が口のあたりをぬぐいながら、ムクムクと起きあがって来た。
「いや、おっかねえやつだ。おれが血を吐かなきゃ、やられるところだったよ。なにしろ、この年だからな。……もっとも、血を吐いたのは、お芝居じゃねえぜ」
そのとき、うしろで、ぐっというようなうめき声がした。
ふりむいて四郎助たちは、二人の看守が騎兵銃をとり落すのを見た。その二つの頸《くび》に、黒い腕が巻きついていた。その腕が離れると、二人は崩折れた。あとに牢屋小僧のヒョロリとした影が残った。
「これも、いたしかたないねえ」
と、彼はいった。いつのまに現われて忍び寄ったのか、彼は、決闘に魂を奪われていた二人の看守を、絞殺したのである。
「やい」
と、牢屋小僧は、五人の囚人に声をかけた。
「この仏《ほとけ》をみんな河へ放り込んでくれ、夜があけるまでにゃ、氷の蓮に乗って、西海浄土へいっちまわあな」
茫然としていた五人は、われに返って、その通りにした。
投げ込まれた屍骸は、すぐ水に沈んで見えなくなった。
「うん、こんな殺生をするつもりでやり始めたことじゃあなかったが。……」
休庵は憮然《ぶぜん》として河を見わたした。
「とにかく後門の狼は始末したが、前門の氷は虎より始末が悪い。籠渡しの綱は切られちまった。河は渡れねえ。こりゃ、困ったなあ。……」
「河向うに、犬|ぞり《ヽヽ》が待ってるそうですね?」
と、牢屋小僧がいった。
「そいつをあっしが呼んで来やしょう」
「ど、どうして向うへゆく」
「イエスさまのお力にすがって」
「なに?」
牢屋小僧は河っぷちに歩いてゆき、ひざまずき、たったいま二人の人間を絞め殺した手でふところからうやうやしく黒い本をとり出し、小さな字など見えるはずない光の中で読みはじめた。
「……夕《ゆうべ》になりて舟は海の真中《まなか》にあり、イエスはひとり陸《おか》に在《いま》す。風逆らうによりて弟子の漕ぎわずらうを見て、夜明けの四時ごろ、海の上を歩き、その許《もと》に至らんとし給う。弟子たち、その海の上を歩み給うを見て、変化《へんげ》の者ならんと思いて叫ぶ。イエス、彼らに語りていい給う。『心安かれ、我なり、なんじらの信仰いずこにある』……」
彼は空を見あげ、何かに耳をすますように首をかしげ、十字を切り、ふりむいた。
「さいですか、大丈夫ですか」
と、ひとりでうなずき、
「この河を、歩いて渡っても大丈夫だってイエスさまがおっしゃったようで。……じゃ、|そり《ヽヽ》を呼んで来ますぜ」
と、立ちあがった。
「おい、馬鹿な真似はよせ」
休庵が眼をまろくしてさけんだ。
牢屋小僧は返事もせず、実に無造作に河の上に下りた。そして、歩き出した。──彼は水に沈まなかった!
五歩、六歩、氷の蓮の上を、ヒョイ、ヒョイ、と軽く歩いてゆく姿に、いま屍体を流した囚人の中の、マラキリの角助とお化け又九郎が、
──あれ?
というような顔をして、つづいて、うっかり水の上に下りて、たちまち、わっという悲鳴とともに溺《おぼ》れた。あわてて、赤|蜘蛛《ぐも》の市松や血なめの茂《しげ》や舶来軍治がこれをひきあげるのを、牢屋小僧はふり返り、
「なんじらの信仰いずこにある」
と、ニヤリとして、そのまま、あれよあれよという間に河の上を駈け去っていった。……
「ど、どうしたんだ?」
「ありゃ、切支丹バテレンか?」
横川、鈴木たちも眼をまんまろくしている。休庵先生もあっけにとられている。
「おいにも、わかりもさん。……」
と、四郎助は頬をつねってうなりを発した。
自由自在に牢を出没する牢屋小僧の妙技は、まだ何とか理解の中《うち》にあるとして、この怪異だけは何としても不可解だ。牢屋に生まれ、牢屋に育ったという陰惨きわまるこの囚人が、ふと原胤昭が残していった聖書に興味を持ったのもふしぎだが、あれはどうやらその本を切支丹バテレンの妖術書だと信じたかららしい。はじめ文字さえ知らなかったのが、その内容を知ろうと夢中になって、とうとう読むことさえ可能となったのは、おそらくその妖術を牢抜けに役立てようと考えたからではないかと思われる。それにしても……これはどうしたことだ?
あの闇の精のような囚人は、いまや常識を超えた力を発揮しはじめたのだ。四郎助の耳に、いつかの牢屋小僧のつぶやきがよみがえった。「おりゃ、奇蹟を待ってるんでさあ。信心さえすりゃ奇蹟が起るって、イエスさまがおっしゃってるんでね。……」その奇蹟がついに起ったというのか?
それでもまだ信じられない。しかし現実にその超物理学的現象はなお進行した。十分ばかり後、雪ふりしきる河の上に、異様な影がまた現われた。それは犬の大群にひかれた二台の|そり《ヽヽ》であった!
うなされたような顔をならべている一同の前に、犬|ぞり《ヽヽ》はこちらの渡船場に上って来た。一台には牢屋小僧が乗り、一台には鴉仙《あせん》和尚が乗っている。和尚は何だか夢を見ているような表情をし、彼自身も夢の中の人間みたいに見えた。
「さあ、早く乗んな」
と、牢屋小僧はあごをしゃくった。
「騎西看守長はどうやら正門からじゃなく、裏門からそのままおれたちを追っかけて出たようだ。だから監獄のほうじゃこの騒ぎをまだ知らねえとは思うんだが、そのうち気づくにきまってる。早くこの河を渡っちまったほうがいい」
「おいたちが乗って、沈まんか?」
と、かすれた声で四郎助が訊《き》いた。
「大丈夫」
と、牢屋小僧は、おっほん、といった顔で、おごそかにうなずいた。
「さっきイエスさまにおうかがいをたてたら、請合っておくんなすった。だからこうして渡って来たんじゃあごぜえませんか」
──数分後、合計十一人を分乗させた二台の犬|ぞり《ヽヽ》は、百メートルの石狩川をおし渡っていった。|そり《ヽヽ》の下で、氷の割れる音がした。いや、割れる前から、氷は蓮のように流れている。前方を駈ける犬のむれからは水しぶきが立って、蒼い珠《たま》がちりみだれている。
四郎助の眼に、その犬も、|そり《ヽヽ》も、自分たち自身からも螢光《けいこう》のような光が発しているように見えた。
「ええ、あっしゃ、ただ原先生をお助けするってえことしか、まだ知らねえんですがね。……いってえ、どういう話なんで?」
いまになって、やっと牢屋小僧が四郎助にそんなことを訊いた。四郎助は、うわごとみたいにいきさつを話した。
「へえ、そういうわけですか」
対岸に着くと、牢屋小僧は一人|そり《ヽヽ》から下り立った。
「空知へお供して、原先生の御安否を見とどけてえが、お話によると、夜明けまでにまたこっちへ帰って来なきゃ首尾がよくねえんでしょう。そのためにゃ、樺戸のほうに気づかれちゃ困りまさあね。そっちが心配《しんぺえ》だから、あっしゃ、ひき返しやす。こっちはひき受けやした。……空知のほうは、休庵先生、有馬の旦那におまかせいたしやす。うまくやっておくんなせえよ。あっしゃ、時刻を見はからって、またここに来て待っていやすからね」
と、彼は手をふり、また流氷の河へ戻っていった。
一同は首をひねり、こぶしで頭を打ちたたき、さて、真夜中過ぎの雪の大曠原をまた疾走しはじめた。
……虫の知らせか、寝苦しさに、石川県令岩村高俊はふと目ざめた。
ひるま、小生意気《こなまいき》な耶蘇の教誨師を罠にかけるためにちと手荒《てあら》なことをやってのけ、夜が明ければ強引に始末してしまうつもりだが、彼の経歴中、これと大同小異の行為は無数にある。いまさら、そんなことが気になるはずはないが。──
──何時《なんじ》か?
枕頭の金の懐中時計をとろうとしたついでに、そこに置いてあったステッキの頭が眼にはいった。ひるま、あの教誨師のために折られたのだが、握りが象牙製で精巧な土佐犬の頭の彫刻になっているので、部下が捨てかねてそこに置いたものらしい。
時計は、二時半であった。
その時計もステッキも、吉田健三という横浜の貿易商から贈られたものであった。高俊の従兄《いとこ》に竹内綱という政客があって、その子の茂が吉田家に養子にもらわれているという縁で、金沢から上京した高俊のところへ、このお正月その子を連れて来た吉田健三がお土産にくれたのだが、健三は福井県出身の男だから、土佐犬の彫刻のステッキは、高俊のためにわざわざ作らせたものであることは明らかで、それを棒っ切れみたいにへし折ったあの教誨師は、いよいよ捨ておきがたいと思う。
──後年の宰相吉田茂は、このとし横浜にいて九歳であった。
また枕に頭をのせた高俊の耳へ、そのとき、戛《かつ》、戛《かつ》、という靴音が廊下を近づいて来た。幌内炭鉱内の典獄用の官舎の奥の一室で、むろんこんなところには看守以上の者しかやって来ることは出来ない。
「閣下、閣下」
と、扉の外で呼んだ。
「……な、何か?」
「あ、お目ざめでござりますか。夜中、恐縮であります」
「ば、馬鹿、いま何時だと思っておるか」
「はっ、午前二時半でござります。まことに慮外な時刻で恐れいりますが、至急閣下に御面会を願う者が参上いたしまして」
相手は平気な大声でいった。
「なんじゃと?」
岩村高俊はベッドから下り立ち、ドアのところへいった。彼にそんな不用意な行動をとらせたのは、不審もあるが、逆にまた相手のあまりに堂々とした声のせいもあった。
ドアをあけた。とたんに|みぞおち《ヽヽヽヽ》に一撃を喰い、彼は悶絶《もんぜつ》した。
……頭からそそぎかけられる冷たい液体に、高俊は気がついた。眼をあけて、その液体にむせ、身をもがこうとして、もがけないのに彼は気がついた。
なんと、首だけ出ていて、身体は小さな箱のようなものにはいっているのだ。
「闇室ってえやつだ」
「そいつに、首穴だけあけてやった」
「あばれたって、だめだよ、岩村さん」
「ここは地獄の中の地獄」
「つまり、空知集治監幌内分監の拷問場だあ」
そして、どっと笑う声がした。
高俊の頭から、また盛大に液体がかけられた。それは強烈な酒の匂いがした。どうやらそばにいる二人の男が、一升徳利を手に持って、代わる代わる浴びせているらしい。前には三人の男がならんでいる。はじめ牛頭馬頭《ごずめず》の邏卒《らそつ》かと思われたが、みんな赤衣の囚人姿であることに岩村は気がついた。
そこはまさしく、幌内分監内の独房のならんだ建物の一劃であった。岩村もいちどのぞいたことがあるが、四面煉瓦の、窓といっては高いところに小さなものが二つあるだけの、みるからに陰惨な一室であった。いまそこの机とも台ともつかぬものの上に、煤《すす》をあげて、坑内用のカンテラが一つ燃えている。──どうしてこういうことになったのか、まったくわからない。
「無礼者」
と、彼は吼《ほ》えた。
「こりゃ何だ、何をする。ここを出せ!」
狂気のごとくあばれて見たが、手足さえ自由に動かせる余地はない。
「だれか、来てくれ! 看守はおらんか!」
返って来たのは、傍若無人な男たちの笑い声だけであった。それは煉瓦の壁に反響し、何十人もの人間が笑ったようであった。
「きさまら、何だ?」
「岩村、おれを知らんかね?」
一人が顔をつき出した。片頬に赤い蜘蛛《くも》みたいなやけただれの痕《あと》のある男であった。
「おりゃ赤蜘蛛の市松ってえ男だがね」
「おれはどうだ、マラキリの角助ってんだが。──」
髪の毛はおろか、眉も髯もない、頭部に毛というものが一本もない顔が出て来た。
「舶来《はくらい》軍治といってもわかるめえなあ」
白瓜《しろうり》を水にふやかしたような男だ。
「血なめの茂《しげ》」
舌を出すと、紫色の舌がダラリとあごの下までとどいた。
「お化けの又九郎」
これはお化けとしか形容のしようがない。
悪寒《おかん》の風に吹かれつつ、岩村はわめいた。
「馬鹿っ、知らんっ、北海道の囚人などに知り合いはないっ」
「いや、知るめえなあ、十三年前のことを思い出させたって、知るめえなあ。……」
と、赤蜘蛛がいった。
「十三年前?」
「明治七年二月。──」
「なに?」
「横浜から出た船の甲板の上で、てめえは同船している佐賀の島義勇先生一行を横目で見つつ、酒を飲みながら、わざと聞えるように、さんざん佐賀人の悪口をいった。佐賀のやつらは、鳴声だけやかましい鴉《からす》みたいなものだ、とか、葉隠れどころか、おれが一鞭あててやれば屁隠れして消えてしまうだろう、とか、ぬかしやがったな。──」
「………」
「そのときたまりかねて、島の一行から飛び出して、おめえたちに殴りかかった若えのがあったろう。そのころはこんなやけどの痕《あと》なんかねえ、もう少しいい男だったはずだが。──」
「……あ?」
と岩村はさけんだ。
相手の顔にはっきりした記憶はないが、しかし何やら思い出したことはあるらしい。──そんな表情が走った。
「おれもそのときそこにいたんだ」
「おれもいっしょだ」
と、舶来軍治と血なめの茂がいった。
「それからなあ。……いくさに負けて捕縛された江藤さんや島さんが、四月になって佐賀の臨時裁判所で、武士にもあるまじき梟首《きようしゆ》獄門という非道無惨な判決を申し渡されたとき、てめえ、さも心地よさそうに裁判官席に坐ってたろう」
「こちとらは懲役三年の組だったが、その判決のむちゃさに法廷であばれ出した。その騒ぎを、てめえ笑って見てたなあ、忘れたかえ?」
と、マラキリの角助とお化けの又九郎がいった。
「……おう!」
と岩村はまたうめいた。
「うぬら、佐賀の賊の残党か?」
赤蜘蛛とマラキリの口が裂けた。
「賊?」
「賊にしたのはてめえだ!」
血なめの茂とお化けの又九郎が、恨めしそうに、陰々といった。
「島先生はなあ、北海道開拓首席判官をやめられたあと、宮中で天皇陛下の撃剣のお相手をやっていなすった。明治七年、佐賀の士族が不穏だという情報で西下されるとき、当時天皇さまは宮城の火事のため赤坂御所にお住まいだったが、夜明け前、その御門の前にいって、島先生以下われわれは土下座して御挨拶して、それから横浜にいった。──謀反《むほん》なぞ、企《たくら》むはずがねえ」
と、舶来軍治がいった。
「その開拓判官のころは、おれたちも嬉々《きき》として、札幌の町の図を書いたり、草鞋《わらじ》がけで石狩の森の中を何十里も歩いて道をつけたりしたもんだ。クラーク先生よりずっと昔の話だが、へ、へ、ま、大志ある少壮官吏ってえところだったなあ」
みんな、こがらしみたいな声をたてて笑った。
「そのなれの果てが、このざまよ!」
「うぬら、天下の法律によって裁かれながら……」
岩村は歯をむき出した。
「外道《げどう》の逆恨みするか!」
「外道はだれだ?」
凄じい声が返った。
「江藤、島両先生を、当時の法律にもねえ梟首獄門にかけたのはだれだ?」
「しかも、その梟首を写真にとって天下のさらしものにしたのはだれだ?」
「そもそもてめえは、はじめからてめえが出世するためには、何百何千という人間が血の海に沈もうと意に介しねえ外道の見本じゃあねえか!」
「そういうやつが出世してゆくのがこの世というものか、と、呆れはてたのが、おいらたちがこの世からはずれた人間になった理由の一つだ。わかるか、岩村。──」
いつの間にか五人の手に、きらめく匕首《あいくち》や、物凄い鏨《たがね》や、火のついた蝋燭が握られているのを見て、さしもの岩村高俊も恐怖した。
「わ、吾輩を殺すのか?」
「いや、殺さねえ」
囚人たちが、ぶきみな顔を作った。
「おれたちが堕《おと》されている生地獄に堕してやらあ」
「まず、鼻を落し──」
「歯を叩き折り──」
「蝋燭であぶり──」
「その面《つら》で、これから生きていってもらおう。その面で、これから大臣や華族に出世するがいいや」
彼らは近づいて来た。
「ただし、慈悲で、あんまり痛くねえようにしてやる」
「その前に麻酔薬ってえやつを飲ましてやる」
一人が、例の一升徳利を持ちあげて、また頭からざっと浴びせると、もう一人が、別の徳利を高俊の口に突っ込んだ。
「うっ」
首をふったが、身体は手足も出ない箱の中だ。
「お釈迦さまにかけるのは甘茶だが」
「人間亀にゃ幌内名物の暗闇《くらやみ》酒だ。ありがてえと思え」
それはここの囚人が暗闇酒と呼ぶ、地底で密造した酒であった。それは高俊は知らなかったが、強烈な悪臭は、先刻から彼の満面を濡らしていた。実はそのため、もう彼の舌はもつれていたのである。それをいま、強引に口につっ込まれ、否も応もなくドクドクと|のど《ヽヽ》にそそがれて、
「がふっ、あふっ、助けてくれ!」
息がアルコールの霧に変るかと思われるほどむせ返りながら、彼は悲鳴をあげた。
「何でもする。……お前たちを釈放してやる!」
「お前にそんな権利はねえ」
「ある。きょうにも吾輩は、吾輩の責任において囚人を一人処刑しようとしておったくらいじゃ。逆に、お前たちの四人や五人、釈放しても典獄に文句はつけさせん。──」
「ほんとかね? 信用出来ねえなあ。……」
何かいうたびに、徳利が傾いて、酒がのどぼとけに衝突する。実は、いちいちその発音通りには記さないが、少し前から急速に岩村の呂律《ろれつ》は怪しくなっていた。脳髄が火の泥みたいに渦巻き出していた。
囚人たちは何やらヒソヒソ相談していたが、やがて、
「よし、それじゃ一つ験して見よう」
と、うなずき合い、やがて切り出した。
それは、この拷問場につづく独房群に、いま、七、八人の囚人が閉じこめられている。それをみんな釈放しろ。そいつらを瀬踏みとしてこの幌内から出して、別に何の騒ぎも起らなかったら、次にこっちも釈放してもらう──と、いうのだ。
そして、ともかくこの拷問場の外に、看守か看守長を呼び、その旨《むね》命令せよ、というのであった。
「看守長を呼べるのか? 呼んでいいのか?」
と、高俊はあえいだ。
「とにかく、呼んで見ろ」
と、お化けの又九郎がいった。
暗闇酒にビショ濡れになった髪をふりはらい、岩村高俊は金切声を張りあげた。
「おうい、看守はおらんか!」
すると、たちまち向うから靴音が近づいて来た。
───あとになって考えると、そう呼んだらすぐにそんな反応があったのが不審である。それほど近いところに看守がいたなら、それまでに何かやってくれそうなものだ。それから、そもそも自分をこんな目にあわせるくらいなら、そんな面倒な手数を踏まなくても、その囚人たちが勝手に脱走すればよさそうなものだ。
もっとも、あとで回想しようとしても、岩村はまともにこんな疑惑をいだくことは出来なかった。すでにこのとき、彼はグデングデンに酔っぱらっていて、脳中は支離滅裂の状態であったからだ。
しかし、その時点において、看守の靴音を聞いたとたん、彼の頭に助けを求めるという考えがひらめいたことはむろんである。
「おい、こっちのいう通りにいえ」
赤蜘蛛が匕首をピタリと頸にあてた。
「さもねえと、一息にかっ切るぞ」
実際、鋭い痛みが頸の皮膚を走ったようだ。
囚人のささやく通りに岩村はいわずにいられなかった。
「看守か。……吾輩は岩村じゃ。声をあげるな、何も訊くな。……ただ、命令に従え。隣りの独房におる囚人を、即刻、ひそかに釈放せよ。……吾輩岩村高俊が責任を持つ。……釈放する囚人にはすべて官服を与え、一人ずつ五円を与えよ。即刻やれ。……ほかの人間には知らせるな。やり終えたら、ふたたびここに来て、後命を待て。……」
実は舌もレロレロになって、常人には何をいっているかわからない言語であったが、靴音は心得た調子で、風のように立ち去った。
三月十八日未明。
幌内停車場で、ただ一輛の客車に、あと長く石炭を積んだ貨車を連ねた「義経号」が、煙突から煙をあげはじめたとき、歩廊には十余人の人影があったが、その中で、いちばんほっとした顔を見せたのは、端《はし》っぽに一団となっていた四、五人の看守たちであったろう。
看守姿をしているが、実は三時間ほど前、幌内分監の独房からわけもわからず釈放された連中だ。始発が出るまでここに待っておれと高野看守長にいわれて、それまで待合室に寒雀みたいに身を寄せ合っていたのだが、これは夢ではあるまいか、と何度も眉に唾をつけ、一方で、いまにも炭鉱から追手が来るのではないか、と、生きた心地がしなかった。
いったんどこかへ去ったその高野看守長が、十分ほど前また停車場へ姿を現わしたときも、ほっとするより、彼らはぎょっとした。
高野は、有馬看守と一組の男女と一人の老人を同伴していた。彼らはちらっと囚人のほうを見たが、片眼をつぶって見せただけで、知らない顔をしていた。
すぐに始発の五時半に近づいて、客は歩廊に出て来たのである。
「きゃつら、自分たちが、こっちを逃がすための案山子《かかし》武者だとは夢にも知るまいな」
と、高野は、わざと看守姿の囚人たちとはあらぬ方向を見て、笑いながらつぶやいた。
まさしくその囚人たちを逃がしたのは、あとになって、ほんとうに逃がしたかったのはだれか、ということを紛《まぎら》わせるためであったのだ。
しかし、四郎助は笑うどころではない。すべてが予定通りに進行し、みごとに完了しようとしていても、なお不安だ。
「岩村県令は、まだ目ざめんでごわしょうか」
「あはは、あれだけ暗闇酒を飲まされりゃ昼ごろまで気絶しておるわい」
──泥酔状態になった岩村県令は、そのままもとの官舎の居室のベッドに戻されたのだが、鯨みたいないびきをたてて、まったく前後不覚のていであった。
さて、それからが忙しかった。
高野看守長と有馬四郎助は、あの樺戸から連れて来た凶悪囚たちを、ふたたび鴉仙和尚と休庵先生の二台の犬|ぞり《ヽヽ》に託して送り出したのち、高野は独房から出した右の囚人をこの幌内駅に待たせ、有馬四郎助は同じく独房から救い出した原胤昭を連れて、いったんコタンにいって、長可奈子《ちようかなこ》嬢と家従の広木老人を呼び出したのだ。
この間、例の助《すけ》ッ人《と》、横川省三と鈴木音高は、脱走組に加わらないで、また独房へ戻っていった。両人ともちょっと迷ったようであったが、やはりこれからの長い人生のためには、満期釈放を待ったほうが賢明だ、という結論に達したらしい。
「うん、お前さんたちはそのほうがよかろう」
高野は、あっさりと了承した。こんどの奮戦《ふんせん》の目的はあくまで原胤昭救出にあったのみならず、あとで彼らが案山子《かかし》武者の囚人たちと同類視されてはかえってよろしくないと認めたからだろう。
そして、彼もコタンにいって、四郎助たちといっしょに幌内停車場へひき返して来た。
──犬|ぞり《ヽヽ》が使えないので、それでもやっと始発に間に合うという時間になったのだ。
「はからざる迷惑をかけましたが。──」
と、原胤昭はまだ憮然《ぶぜん》たる顔をしていた。
「今後のために、いま逃げていいか、悪いか。……」
「原先生、何をおっしゃる。岩村はほんとうにあなたを処刑しようとしていたのですぞ!」
と、高野看守長は叱咤した。
「いったん外に出られれば、もう大丈夫です。岩村は闇から闇へ、のつもりでいたんだから、まさか外にいる無実の人間を逮捕するなんてことはもう出来ない。かえって薮蛇《やぶへび》をつつくことになる。……」
「わたしがさせませんわ!」
と、長可奈子がさけんだ。彼女はまた、足にピッチリ革の長靴をはいて、鍔の広い帽子をかぶり、黒い長いマントを羽織った颯爽《さつそう》たる姿であった。
「そんなことをしたら、わたし伊藤侯爵にでも訴えます」
手の鞭をびゅっとふり、
「それから、原先生、例の出獄人保護所のこと、父に話して見ますわ。……」
「東京に帰ってくれますか」
原は静かにかえりみ、長可奈子は、あら? といったように頬に動揺の血潮をのぼした。夜明けの光に、それは薔薇《ばら》のように美しかった。
五時半になった。
「お騒がせしました。では」
と、客車に乗り込もうとして、原教誨師は、ふと例のカバンをガサゴソと手探って、
「あなたがたにさしあげたか、どうか忘れましたが、これをどうぞ。……」
と、二冊の聖書を、高野と四郎助にさし出した。
「私、必ずまたこの空知へ帰って来ますが。……」
やがて客はみんな乗りおえた。義経号は動き出した。カーンカーンという鐘の音が鳴りはじめた。
夜来の雪はやんでいて、新雪に黎明《れいめい》の微光が蒼いかがやきを刷《は》いていた。両側にその雪を切り裂きつつ、義経号は西の地平線に消えていった。
「また空知に帰って来るといわれもしたが、あのお二人、揃ってでごわしょうか」
と、歩廊に立ちつくして、四郎助がいった。
「何だか、やっぱり原先生お一人であるような気がする」
と、高野看守長がつぶやいた。
「夜が明けて来もしたが。……」
と、四郎助ははじめて気がついたようにまわりを見まわした。
「あの犬|ぞり《ヽヽ》は、夜のうちに無事樺戸集治監に着いたでごわしょうか?」
「心配あるまい。あれから二時間くらいで、もう着いているだろう。……とくに、君から聞いたことがほんとうだとすれば──牢屋小僧といったっけね?──そんなふしぎな力を持っとる囚人が待っているとすれば、大丈夫だ。……」
四郎助は、なお首をかしげ、手の黒い聖書にじっと眼を落した。高野がうながした。
「さ、帰ろう。それにしてもあの県令閣下のその後をたしかめなきゃ、気が落ち着かん」
岩村高俊は、午後になって、割れるような頭痛と怖ろしい吐気とともに覚醒した。
はじめ彼は、この肉体的異常について、自分に何が起ったのかわからなかった。しかし、数分後に、奇怪な記憶をきれぎれになったみみずのように脳裡によみがえらせ、彼はがばと起き直り、発狂したようにさけび出した。
「だれかおらんか! 看守はおらんか!」
扉をあけて、高野看守長と有馬四郎助が顔を出した。
「ここに、赤蜘蛛の何とかいう囚人がおるな? 頬に赤い蜘蛛のようなやけどの痕《あと》のあるやつじゃ。……それから、マラキリの何とかというやつ……毛の一本もない、海坊主のような囚人じゃ!」
「赤蜘蛛? マラキリ?」
高野看守長はけげんな表情をした。
「そんな妙な名の囚人は、当分監にも空知本監にもおりませんが。……」
「それから……何とかいった。おう、ハクライ……血なめ……お化け。──」
高野は、笑い出した。
「聞いたことがありませんな」
「おらんはずがない! 吾輩は見たのじゃ、そやつらは──」
「閣下」
と、高野は心配そうにいった。
「閣下はどうかなされたのではありませんか。けさ、左様、午前二時半ごろ、ふいに私をお呼びなすって、独房におる囚人をみな釈放しろと御命令になり、私が異議を申し立てましても、御承知にならず、そのときから首をひねり、ひねり、やむなく御命令のままに従いましたが。……」
「なに?」
岩村はかっと眼をむいて、看守長を凝視していたが、ふいにまた叱咤した。
「あの教誨師はどうした?」
「むろん、あれも釈放しました。……あの男は、けさ午前五時半始発の汽車で、この幌内を去りました」
「ば、馬鹿な!」
うめいたとたん、胸にまた酒の匂いがつきあげ、岩村はベッドの上から床に、もろに悪臭のある液体を吐いた。頭の中にまた火の泥が沸騰し出した。
「いま、何時じゃ?」
「三月十八日、午後一時過ぎでござりますが。──」
「赤蜘蛛……マラキリ……そやつらがここにおらんはずはない。そやつら、佐賀の乱の残党じゃ! 隠すな、そやつらをつかまえろ!」
「そのお言葉の囚人でごわすが。……」
と、有馬四郎助がおずおずといい出した。
「私、実は樺戸集治監に所属しておるものでごわすが、佐賀の乱の残党と承って思い出しもした。そやつらは、樺戸にたしかにおりもす」
「なんじゃと?」
岩村は四郎助をにらみつけ、やがてわめいた。
「なら、そやつらがここに来たのじゃ! けさ、ここに現われたのじゃ!」
「閣下、お言葉ですが。……」
と、高野看守長がいった。
「樺戸集治監からここへ来るには、月形から汽船に乗って江別まで下り、そこから汽車に乗ってこの幌内へ来るより道はござりませぬが、夜中の汽船や汽車もなく……だいいち、石狩川は、いま氷が溶けはじめておるとはいうものの、まだ汽船の通行はいたしておりません」
「石狩川? 河を通らんでも、陸はつながっておるだろうが」
「この空知と月形の間は、五里ござります。しかしそれは沼沢《しようたく》の大原野で、冬以外でも容易に通ることはならず、そのために囚人に道路を作らせつつありますが、いまだ完成せず……ましてや、いま雪はなお二、三尺もつもっておって、とうてい通行は不可能であります」
「な、なんじゃと?」
岩村高俊は白痴みたいな表情をしていたが、両腕をふりまわして絶叫した。
「電信で訊《き》け、樺戸集治監に右の囚人がおるか、どうか、大至急、問い合わせろ!」
有馬看守がつき飛ばされたように駈け出していったが、十分ばかりして、息せき切って帰って来た。挙手の敬礼をしていった。
「右の囚人は、昨夜からけさまで、まちがいなく樺戸集治監に存在しておるそうでごわす!」
十日ばかりして、石狩川に船が通るようになった。
有馬四郎助は、江別まで汽車でゆき、そこから汽船で月形に帰った。──なんと、その日を待ちかねたことだろう。それは、樺戸集治監へ帰りたいという理由からではなく、気にかかる人々の消息を知りたいためであった。
そして四郎助は、茫然とせざるを得ない事実を聞いたのである。
五日ばかり前の夕方、独休庵先生がついにこの町を去るといい出し、籠渡しの籠に乗って石狩川を渡っていった。ここのところ急速に身体の具合が悪いらしい先生を心配した町の人々が数人見送ったのだが、そのとき休庵先生には片目の看守らしい男が一人お供をして、甲斐々々しく世話していることをはじめて知った。
それにしても、河を渡っていったいどこへゆくつもりなのだろう、と怪しんでいたら、南のほうから犬の大群にひかれた|そり《ヽヽ》がやって来て、鴉を肩にとまらせたアイヌ風の男が手綱《たづな》をとってあやつっていたが、それに二人は乗り込んで、なお雪の残る大原野を、雲ひくく垂れた北の果てへ走っていったという。──
四郎助は、十八日の未明、幌内で休庵先生を見送るとき、あわただしい別れながら、
「先生、先生はほんとうに益満──」
と、呼びかけたのに対し、
「実は、あの男は明治元年に死んだ男だよ。……おれは、石狩生まれのドク・ホリデイ」
とだけ答え、ニヤリとして、鞭をふるって、|そり《ヽヽ》を翔《か》け去らせたときの休庵先生を思い出した。
そして。──
その独休庵はもう独りならず、彼とともにあの怪異の囚人牢屋小僧が、牢屋からも自分の眼の前からも、永遠に姿を消してしまったことを知った。
有馬四郎助略年譜
元治元年。鹿児島に、薩藩士班益満喜藤太の四男として生まれる。
明治二年。有馬家の養子となる。
明治十二年。満十四歳にして鹿児島県の小学校訓導となる。明治の小学校の面白さ。
明治十九年。北海道集治監看守となる。
以後、北海道各集治監を歴任するが、このころまで四郎助は勇猛な武断の行刑吏としての印象をとどめている。しかし、人の魂の旅は幾山河、明治二十年代の終りごろから、彼はしきりに聖書をひもとくようになる。
明治二十八年。内地に赴任、浦和監獄典獄となる。
明治三十一年。麻布霊南坂教会において、牧師留岡幸助より洗礼を受け、留岡とは終生の友となる。
明治三十二年。横浜監獄典獄となる。
このころ、十七歳にして放火殺人の罪を犯して無期徒刑となり、いちどは脱獄したこともある一凶悪囚が、その後獄中で回心し、模範囚となり、二十三年ぶりに仮出獄を許されたとき、早朝裏門を出ると、そこに有馬典獄が立っていて、
「今日は私は典獄ではない。君の友達だ」
といって、官舎に連れてゆき、大切な賓客のように待遇したという挿話がある。
明治三十七年。小田原にて少年囚釈放者保護事業を始める。
大正四年。小菅監獄典獄となる。
大正十二年。九月の関東大震災に際し、小菅刑務所に軍隊が出動して、銃剣をもって囚人の逃走を警戒しようとしたとき、有馬刑務所長は、せっかくですが、ここにはその必要はありません、と謝絶した。一人も逃走しない囚人を眺めつつ、有馬の眼から滂沱《ぼうだ》として涙が流れつづけていたといわれる。のちにアメリカのウイスコンシン大学社会学のギリン博士が来日した際、大震災に小菅から一人の逃亡者も出なかった原因について質問したのに対し、有馬は答えている。
「あなたは多分、私がクリスチャンであることを御存知でしょう。私は彼らを囚人としてでなく、人間として処遇します。私はキリスト教について説教はいたしません。ただ私は彼らと友人になろうと努力します」
昭和二年。豊多摩刑務所所長となる。
昭和九年。死去。満六十九歳。
免囚保護の父といわれる原胤昭とならんで、有馬は後まで「愛の典獄」と呼ばれる。
[#地付き](完)
〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年九月二十五日刊
初出誌  『オール讀物』連載〈昭和五十一年六月号〜五十二年八月号〉
単行本  昭和五十二年文藝春秋刊