伊賀の聴恋器《ちようれんき》
他七篇
山田風太郎
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甲賀衆の忍びの賭《かけ》や
夜半《よは》の秋 蕪村
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目 次
伊賀《いが》の聴恋器《ちようれんき》
剣鬼喇嘛仏《けんきラマぶつ》
嗚呼益羅男《ああますらお》
読淫術
さまよえる忍者
怪異二挺根銃《かいいにちようこんじゆう》
呂の忍法帖
忍法小塚ッ原
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伊賀《いが》の聴恋器《ちようれんき》
一
服部大陣《はつとりたいじん》が「聴恋器」という奇絶怪絶の道具を発明したのは、彼が柳生《やぎゆう》家の息女お万《まん》さまを一目見たとき、自分の睾丸《こうがん》に異様な震動を感じたことに発するのである。
男性が女性に性感をおぼえたとき勃起《ぼつき》現象を起すのは通常のことだが、以前からそんなとき彼は、それとともにふぐりまでかたくなって、中で二つのたま[#「たま」に傍点]が、うずき、ひしめき、もつれ合うような感覚があった。それで彼は、いつか友人に、君は女に惚《ほ》れたときそんな感じがしないか、ときいたことがある。
「ううむ、そういえば」
と、その友人も思い当ったような顔をしたが、すぐに、
「いや、ちがうな。おれはちがう。ただ剣尖《けんさき》の火と燃えるのを感ずるばかりじゃ」
と、いった。
とにかくそういう服部大陣であるが、お万さまを見たときのような震動を感じたのははじめてだ。たしかに彼は、そこから発する音響まで聴いたような気がした。
そして、それからが、いよいよ服部大陣の大陣たるゆえんであった。一日彼は、縁側の日向《ひなた》にあぐらをかき、掌《てのひら》にごろりとふぐりをのせて、つらつら眺《なが》めながら考えた。
――いや、これは決して馬鹿《ばか》にはならん現象かも知れんぞ。
服部大陣は、その姓が示しているように、忍び組服部組の一門だ。が、去年そこから内々義絶を受けて、いまでは伊賀組の身分はともあれ、実質的には牢人《ろうにん》同様になっている。
なぜ義絶されたかというと、彼に、服部秘伝の忍びの術を小馬鹿にするような言動があったからだ。
「しょせんは匹夫下郎《ひつぷげろう》のわざだ、といいたいが、それ以下だ」
と、彼はいった。それどころか、伊賀組の存在そのもののさきゆきが暗いようなことを、公然口にした。
「火つけや闇討《やみう》ちや泥棒《どろぼう》を得意とする集団が、これからの時代に珍重されるわけがないじゃないか」
その通り、去年大坂の戦争が終って以来、伊賀組は江戸城の門衛役をやらされている。いくさのない以上、待機の姿勢で御奉公申しあげるよりほかはない、と服部のほうではいっているようだが、それは世をしのぶかりの姿ではなくて半永久的なものだろうと大陣は見ている。
彼には大志があった。いつの日にか、軍学をもって世に出ようとする。――
服部大陣が、柳生|又《また》右衛門宗矩《えもんむねのり》に目をつけたのはまったくそのためだ。この人物はたしか大和《やまと》の柳生から出て来て、剣をもって徳川家に仕えたはずだが、いつのまにやら兵法をも講じ、それどころか御神君の帷幄《いあく》にさえ参じて天下の事の機微にあずかっているらしい。
そういう経歴の進み具合を見ていて、おれの学ぶべきはこれだ、と大陣は思った。柳生の剣や兵法そのものというより、その処世兵法がである。
倖《さいわ》いなことに柳生又右衛門は大坂の陣から帰って以来、旗本ないしそれ以下の志望者を集めて、剣法や兵法を教えているらしい。――又右衛門が但馬守《たじまのかみ》とか大目付《おおめつけ》とか重々しい地位についたのは、さらに後年のことである。――で、大陣は、それにまじって師礼をとることにした。そして入門して間もない夏の或《あ》る雨の一日、神田《かんだ》の屋敷の書院で、又右衛門が兵法を講義しているところへ茶を持って入って来た娘を見て、彼の例の現象が起ったのだ。
四十半ばの又右衛門に、七郎という十歳ばかりのわんぱく坊主があることは、その子が屋敷じゅうあばれまわっているからよく承知しているが、はたち前のそんな息女が――しかも、みるからにしぶい顔をした父親に、そんな臈《ろう》たけた、美しいというより弱々しいといっていい、高貴な姫君みたいな風姿の娘があろうとは、それまで大陣は知らなかった。又右衛門は当時まだ三千石の旗本とはいえ、決してそんな場所に娘に茶を持って来させる身分ではないが、その日は召使いの女に何かさしさわりでもあったらしい。
名はお万さま、ということをすぐに知った。大陣の胸に、柳生に入門したときには思いもかけなかった野心が生じた。そして間もなく、少くとも三人の強力なライヴァルがいることを知った。
曳馬野玄馬《ひくまのげんま》、酒巻源左衛門《さかまきげんざえもん》、野寺知之丞《のでらとものじよう》といい、年はいずれも大陣と同じく二十六、七、――野寺だけはだいぶ若いが――しかも独身で、タイプはちがうが容貌《ようぼう》も水準以上――大陣は、長芋と悪口する者もあるが、本人は顔にかけてはなかなか自信があった――ただ、大ちがいなのは、大陣が柳生家に入門したにもかかわらず、剣法の方はそれほど関心がないのにくらべて、彼ら三人は、柳生一門のうちいずれも十指の中に数えられる使い手だということであった。
二
さて、それからが大陣の大陣たるゆえんという意味だが、つまり彼は一つの怪説と一個の珍具をひねり出したのだ。
その怪説とは、「卵丸《らんがん》交響説」である。――
実は彼は、伊賀組から半|放逐《ほうちく》といったていになってから、ないしょで占いのようなことをやって暮していた。どこからか「貝合せ」の貝を仕入れて、貝合せという平安朝以来の遊戯が貝を男貝、女貝とわけた遊びだが、それにさらにあやしげな陰陽《おんみよう》学をこじつけて、これを「伊賀の貝占い」と称し、彼独特のムードで結構ファンを持っていた。彼独特のムードとは、髪を医者のごとく総髪にし、羽織に紫の紐《ひも》を結ぶという荘重な風態もその一つで、それが「長芋」という異称を持つ色白の長目の容貌によく似合い、この姿で最初柳生家の兵学講義にならんだときには、
「わしよりも、おまえのほうがよほど大兵法家のようじゃ」
と、又右衛門宗矩を苦笑させたくらいである。
吉凶、禍福《かふく》、失《う》せ物《もの》、走り人――など、いわゆる占いを求められるなかで、彼のもっとも得意とするのは男女の相性《あいしよう》であった。この男女、結ばれて、合うか合わぬか――それを一応は例の貝で判ずると見せかけて、実はカンで重々しく宣告するのだが、それが意外にもあたることが多いという評判で、彼もなかなか自信を持っていた。
そういう「素養」からも発した卵丸交響説なのだ。
「男と女は、まことに恋せねば夫婦《めおと》となるべきではない」
まず彼は説いた。だれでも、そんなことはあたりまえだと思う。
しかし彼はつづける。
「それが、実はあたりまえではない。この地上の夫婦のうち十組に九組は、あたりまえでない結ばれかたをしている。はじめからおたがいにあまり好きでもないのに、浮世の義理とか勘定とかでいっしょになった組は論外として、一方だけが積極的で他方が消極的だという例はうんとある。これらを合わせれば、この世の夫婦の半ばはそうであろう。さてそこで、双方ともに恋し合って結ばれた、と思い込んでおる組じゃが、その思いが果して一生つづくか。そう思い込んで夫婦となった者で、あとで離別の破目におちいる者なんぞ多きや、じゃ。たとえ世間体を憚《はばか》ってそこまでゆかずとも、あとで心中ひそかに悔いない夫婦がどれだけあるか。おのおのふりかえれば、拙者がこの世の夫婦の大半|然《しか》りというのも一理はあるとうなずかれるであろう」
まだ三十にならぬ独身男がこんなことをいうのだが、ここらあたりでだれもが、はて、そういわれれば? といった顔になる。
「ここにまた、まれに生涯惚れ合ったと言い張る強情な夫婦があるとする。しかし、それでもその自信があたっておるとは申されない。なぜかというに、その子を見よ。――もしもその子が不出来であるか、あるいは俗界の眼では出来のいい子に見えても、実は甚《はなは》だ親不孝者であるか、そのような場合は、もともと両人は夫婦になるべきではなかったのじゃ」
たいていの人間が、心もとない眼で宙を見ることになる。
「惚れ合ったと思うておるのも、実は迷妄《めいもう》で、まこと両者の相性はそれほどでもなかった因果は、てきめんに子にあらわれる。英雄と美姫《びき》の子、必ずしも眉目《みめ》うるわしからず才たけず、それどころかその大半は凡庸《ぼんよう》暗愚にして、かくて大なり小なりこの世の興亡の修羅《しゆら》がくり返されてゆくことになる。歴史として見れば面白いが、当人たちは実にたまらん」
「では、まことの相性とはどんなもので、いかにしてそれを見つけることが出来るのでござる?」
問う者があれば、大陣ははっしとひざをうちたたき、
「それは精《せい》と卵《らん》の相性でござる」
と、おごそかにいう。
「御存知のごとく、男の精と女の卵と相合うて、ここに一個の人間が発生するのじゃが、この精と卵がまことに相呼び相|応《こた》えた両者にかぎり、真の恋とは申すべし」
「精と卵――」
ここで神秘的に考えこむやつがある。大陣は詩《うた》うようにつづける。
「ここに、世にあのような美男がなにゆえあのような醜女《しこめ》と偕老同穴《かいろうどうけつ》のちぎりをかわすか、といったような不審を解く鍵《かぎ》がある。また野の愚夫愚婦から嵐を呼ぶ英雄児や天女のごとき美女が生まれて来る秘密がある。すなわち、人は知らず、あるいは当人たちも知らず、両者の精と卵、阿吽《あうん》の息はぴったり合ったのでござるよ」
「拙者の精はいつでも卵を呼び、いかなる女人とも阿吽の呼吸を合わせられるが」
決して茶化す顔ではなく、真剣につぶやくやつがあっても、大陣の眼は爛《らん》とひかる。
「それはいま申した迷妄の肉欲に過ぎん。その肉体の深部の精の息や呼び声ではない」
「ほほう、精汁が声を出しますか」
「出す。精はたしかに声を発する。卵もまたしかり。――その共鳴りの声、最も妙音を発するときが真に結ばれる恋で、その声の美しければ美しいほどよしとし、正しく申せば最高の妙音を発するのは、この地上でただ一組同士のはず、精卵交響の声よければその交合やよし、というべきでござろう」
「――つまり、例の声ですか」
「まだそんなことを申されておる。淫声《いんせい》などは迷妄の最たるものじゃ。いや、――それは常人では聴けぬ。これをもって聴かねば聴えぬ」
そこで大陣がやおらとり出すのが、すなわち伊賀秘伝の聴恋器なるものである。
いったいに大陣は、伊賀組にいたくせに、妙な小道具を作るのには才能があった。たとえば「軽松明《かるたいまつ》」という移動用照明具、「錨縄《いかりなわ》」と名づける縄の先に小さな錨をつけた武器兼|登攀《とうはん》用具、「浮踏《うきふみ》」と称する革袋《かわぶくろ》に息を吹き込む遊泳具、あるいは新工夫の縄梯子《なわばしご》、水中呼吸器、一種の火矢や煙幕など。――
それらは、いざ実用ということになるときわめて難しい。少くとも超人的苦闘を必要とするものが多かった。ところが伊賀組ではなおこれを珍重し、服部大陣が組から追放されただけでそれ以上異常がないのは、これらの独創に対する敬意のゆえではないかと考えているほどである。
それくらい独創に敬意を払うなら、自分たちでも何か工夫したらよさそうに思うのだが、大陣の眼から見ると、それが奇怪なくらい独創力がない。これは何も忍び組にかぎったことではない。日本人そのものがそうなので、その代り与えられた道具を後生大事に、超人的訓練によって使いこなそうと苦闘する。しかも幸か不幸かそれで或る程度は可能とするのだ。しかし一刻に五里走る[#「五里走る」に傍点]べき道具を与えられると、足を棒にしてその目標に達しようと相努めるだけで、発想を根本から転換して一刻に五十里飛ぶ[#「五十里飛ぶ」に傍点]道具を考えようとはしないのだ。じぶんが発明者であるくせに、その道具による伊賀組の荒修業を見ていて、気の毒になるよりもばかばかしかった。伊賀組のみならず大陣は、だから日本人を――当時においては当然人間すべてを、少々|軽蔑《けいべつ》していた。
それはともかく彼の発明したものの中に、「聴金《ききがね》」なる一種の聴音器があった。真鍮《しんちゆう》で朝顔大のラッパを二つ作り、その間を革製の管で結び、一方を目的の場所におき、管をのばして遠いところで一方を耳にあてるというしろもので、実はこれまたそれほどききめがないようであった。しかし「聴恋器」はそれを母胎《ぼたい》にしたものだとはいえる。
それはどんなものかというと――まず現代の医者の使っている聴診器を頭に浮かべていただきたい。
耳にさしこむ方は細い竹製になっており、それにつながれた革製の管はすぐに合して一本となる。その接続が彼の最も苦心したところであり、その皮を猫の皮にしたところは、反響のいい三味線《しやみせん》からヒントを得た彼の味噌《みそ》である。ただ現代の聴診器は、その他方の尖端《せんたん》に象牙《ぞうげ》製の円筒がついていて、これを患者の肺部とか心臓部にあてるのだが、彼の道具はまたもそこで管が二つに分れ、それぞれの先に円筒ではなく、ぐいのみみたいなものがくっついている。
さてそのぐいのみみたいなものが何で出来ているのかというと、それが奇絶怪絶で、一方は男性の陰嚢《いんのう》の皮を蔭干しにして、なめして、二重に貼《は》り合わせて作りあげたもので、原料は死罪場から仕入れて来た。赤黒色に白い粉をふいて、みるからにうす気味が悪い。彼はこれを陽恋盃と称した。
他方は――実は彼はそれも死罪場から女の子宮をもらって来ようとしたのだが、係の役人が男の死罪人の陰嚢は無造作に払い下げてくれたにもかかわらず、女の死罪人の子宮は「何にするのだ」と難色を示したし、それに実は彼も子宮を果してなめすことが出来るのか、いささか自信が持てなかったから――これは手持ちのはまぐりを、貝細工職人のところへ持っていって、盃様のものに作ってもらった。これを彼は陰恋盃と称した。
一方は陰嚢で、一方は貝殻《かいがら》とは甚だ不つり合いだが、どうにもやむを得ない。
「さて、この陰恋盃をじゃな」
「つまり、貝殻の方か」
「左様、男のふぐりにぴったりとあてる。すると――」
「海の響が聴えて来やしないか」
と、いったのは南蛮《なんばん》好みの旗本であったが、大陣には何のことだかわからない。
「うんにゃ、精汁のどよめきが聴える」
と、大まじめでいった。
実は、彼も自分の発明に半信半疑のところがある。お万さまを見たとき、たしかに睾丸のひしめき合う音をほんものの耳で聴いたような気がしたが、事実、この道具を作り出してから、お万さまのことを頭に描きつつ自分のふぐりで実験してみたら、たしかに何やら音響が聴えたのである。
「一方で、陽恋盃の方をじゃな」
「きんたまの皮か」
と、殺風景な用語でたしかめたやつもある。
「女の子宮部にぴったりとあてる。――」
「どこだ、それは」
「へそ[#「へそ」に傍点]の下あたり――まあ下腹部|界隈《かいわい》じゃ」
少々あいまいな表情をしたが、相手は昂奮《こうふん》した。
「そんな、干し柿みたいなものより、ほんものをそこにぴたりとあてたらどうじゃ」
「馬鹿、そういうふるまいに及んでよいか悪いかを事前に調べるための診断ではござらぬか。だいいち、そのほんものにはすでに陰恋盃がぴったりくっついておるのじゃから、そんな面積の余裕はない」
「あ、そうであったな。――で、聴えますか、女性にくっついたその干し柿、いや陽恋盃の方も子宮の音を伝えますか」
「伝えます。実に迦陵頻伽《かりようびんが》のような妙音が。もっとも、相手に惚れた場合にかぎるが」
大陣は力強くいった。ほんとうのところは、こっちは自信がない。自信がないための強調だが、とにかくこの聴恋器の効能は法螺《ほら》を吹かなければならない。
「いや、それよりも陰陽相合したときの妙音を何に例《たと》うべきか」
うっとりといった。
「たとえ、男のみ大音響を発しても、女人《によにん》のほうは何の音も発せぬことがある。たとえいかなる嬌態《きようたい》でだましても卵子の方はごまかされぬ。また例えば、いかに好色漢であろうと爺《じじ》いなど、どれほどもがいても睾丸は虫のごとき音しか発してはおらぬ。すべて、それらを見分けるのがこの聴恋器でござる。これは閻魔《えんま》の浄玻璃鏡《じようはりきよう》であり、また天の声である」
そして、おごそかにいった。
「聴いて進ぜる。貴公の妻にしたいと思うておる女人をつれてござれ。――」
そういわれても、おいそれと同伴でやって来て、精子と卵子の合奏を聴いてもらおうという人間は――とくに女性は――そうあるまいと常識では思われたのだが、それが案外そうでもなかった。
むろん最初のうちは、面白がった安旗本などがあやしげな女をつれて来てやってもらったのだが、それが意外にもあたる――と、主として女のほうから太鼓判を押され出したのである。たしかに聴恋器は、ほんとうに惚れているか、いないかをあてるという。――
こういう噂《うわさ》は早かった。女のほうがしりごみするだろうと思ったのはまちがいであった。ほんとうに惚れているかいないか、そこを余り突っ込まれると困るのは実は男のほうであり、それこそ女のしかとたしかめたいところである。まことに、「天にありては比翼《ひよく》の鳥となり、地にありては連理《れんり》の枝とならん」この世に結ばれるべきはただ一人の男性である、という神秘的空想はロマンチック好みの女人の心をとらえるものであり、それはだれかと知りたいのは、女性の何よりの願望である。一方ではまた、ゴリ押しの男に対する何よりの撃退策ともなる。実は、そんな診断をしてもらいにやって来るという心理状態をかんがえると、実際上の必要は後者のほうが多かったかも知れない。
とはいえ、原動力は何といっても、服部大陣の熱情である。来る客を、承服せしめずんばやまずという。――軍師を志すだけあって、そのあたりの演技は相当なものであった。
では、彼自身はいかなる心情にあったかというと、或る目的に対しての熱情はともかくとして、聴恋器の性能そのものに対しては非常にあいまいなところがあった。だいたい卵子の声なんか聴えるわけがない。では全然インチキかというと、彼のつもりでは体験的に睾丸の叫び声はたしかに聴えるような気がする。半信半疑といったゆえんである。
睾丸に声あれば、卵巣にも声なかるべけんや、だ。――この理論はあやしいが、しかし彼の根本原理、恋とは精子と卵子の呼びかわしである、という考えは正しい。
とにかく、聴恋器による診断は、はじめのうちは実はそれ以前の人相見による男女相性の占いにちがいなかったが、そのうちに――聴えるはずだ、たしかに聴えるはずだ、と信じているうちに、たしかに何やら聴えるようになった。卵子の声すらも。
恋占いの神医、服部大陣。もう占い師というより、彼のあやつる道具といい、その学理といい、医者的尊厳性が彼の総髪からたちのぼっている。
評判が高くなると、収入《みいり》もよくなる。人間、収入がよくなると道徳的にもなる。少くとも道徳的なことをしきりに口にするようになる。
「金銭、家柄、その他俗物的な都合による結婚はいかん。ただ精子と卵子の天来《てんらい》の声を聴け」
彼は説いた。いっそう人気が出た。
そのうちに、某大名の子息と某大名の息女との縁談を――実に、そういう身分の一組が彼のもとへ訪れたという――「精卵に声なし。政略結婚はいけませぬ」と堂々と宣言してぶちこわしてしまったという噂が伝えられるに至って、服部大陣と聴恋器の声価はひときわ高くなった。
三
大陣の標的はお万さまであった。
ところで大陣はお万さまを標的として何とかなると思っていたのか。そこは正直なところ確信がない。
確信がないというのは、お万さまが自分をどう考えているかということではない。いまは明らかに、何とも考えているはずがない。しかし、そのうちにきっと好きになるようにして見せる。その点にかけては彼は変に自信があった。問題は、伊賀者というより牢人にひとしい自分を、柳生又右衛門宗矩が娘の配偶者として認めるかどうかである。
しかし、その点はまあ大丈夫だろう。自分は、かつて八千石の大禄を受けていた先代|服部半蔵《はつとりはんぞう》の血につながる者だし、そもそも一介の牢人でここ数年の間に何千石かの禄にありついた者はうんとある。柳生又右衛門だって、その昔は大和の郷士ではなかったか。
それよりも大陣が期待したのは、宗矩の人格であった。半年の兵学講義の間にまじる剣法談、修養訓、人生論に照らしてみても、彼が娘の婿に権門の御曹子《おんぞうし》などを想定しているはずがない。――
げんに――大陣が探ったところによると――「お万の婿は大豪の士にかぎる」と宗矩自身語っているということであり、それは剣をもって仕える柳生家として当然でもあるが、その理由として、「お万はあの通りなよなよとしておるゆえ、それが生む子のことを考えると、いっそう夫は大豪の士でなければならぬのじゃ」といっているそうだから、いよいよもってこれは――これだけが絶対条件だ。
――ところでおれは大豪の士じゃない。
と、その点は大陣も認めるにやぶさかではないが、しかし剣より兵法を重しとするかに見える宗矩だ。兵法における大豪の士というものがあり得ることは承知だろう。むろん、兵法の上においても今の自分は大豪の士どころではないが、それなら将来見込みがある。いや、必ず徳川家切っての大兵法家になってみせる。――
で、大陣は、かくて柳生のお万さまを標的とすることに見込みはあることにした。――ただ自分が智謀《ちぼう》の士であることを認めさせるには時間がかかる。時間がかかると、見込みがあやしくなる。
やはり直接、お万さまにとりかかるにしくはないが、さてそうするにも危険が伴う。――ほかの柳生の門弟が、指をくわえて見ているか?
そこで、と、ひねり出したのが問題の聴恋器である。とにかく一日も早く、それをもってお万さまと自分を結びつけることだ。これぞ比翼の鳥、連理の枝と、お万さまに信じさせることだ。――
彼のめぐらした兵法は右のごとくであったが。さて――いかにすればお万さまを聴恋器にかけることが出来るのか、自分から申し込むのは突飛であり、かつ危険でもある、と大陣は立往生した。
危険がある、危険がある、というのは例の三人である。時間がかかると見込みがあやしくなるというのも、その三人あればこそであった。
酒巻源左衛門、曳馬野玄馬、野寺知之丞。
大陣がこれをライヴァルと断定したのは、柳生の門弟のあいだの風評と、彼自身の観察による。そして宗矩が「お万の婿は大豪の士」というのは、おそらく彼らを考えてのことではないかと思われる。
酒巻は千石取りの旗本で、肉体も大兵《だいひよう》だ。重厚な容貌をしているが、にこっと笑うと童子も笑うような顔になる。宗矩が、門弟中いちばん信頼しているのはこの人物ではないかとさえ見られるふしがあるが、それも当然だ。
曳馬野は牢人だということだが、身なりは、りゅうとした伊達《だて》すがたで、ちっとも牢人くさくない。痩身《そうしん》だが、凄絶《せいぜつ》の剣気が漂い――漂っているといった程度ではない。剽悍《ひようかん》を過ぎて凶暴ですらある。大陣がお万さまに聴恋器を持ち出すはおろか、近づくことさえ危険だと思うに至ったのは、主としてこの男の存在による。
野寺は七百石の旗本の、尤《もつと》もその弟だが、これが実に清純な、曙《あけぼの》のような美青年であった。年は二十歳《はたち》か二十一だろう。これが刀をとっては柳生一門中でも天才的な点で第一だとは信じられないくらいであった。お万さまとならべたらまさに雛一対《ひないつつい》であろう。時間をおくとこちらの見込みがあやしくなると大陣にいちばん気をもませたのはこの美剣士であった。
いずれを見ても恋の大敵だ。恐るべきライヴァルだ、と彼自身は思ったが、客観的に見ればその三人だけが候補者で、彼など番外にきまっている。
ただ、お万さまを聴恋器にかけさえすれば。――
「天にも地にも、お万さまの夫たるべきものはこの服部大陣のほかに一人もござらぬ」
粛然とこういって見せる。妙音など聴えようが聴えまいが、である。
ただ、そういって向うに肯《うなず》いてもらうためには、あの道具に相当の信頼度がなくてはならない。大陣の発明以来の努力はすべてそのためだ。その結果、声価大いに拡まったはずなのに――柳生又右衛門はそのことについて何もいわない。焦《じ》れて、こちらからカマをかけてみたが、全然無関心である。
大陣は日夜、おのれのふぐりに陰恋盃を吸着させて空想した。一方の陽恋盃はしみだらけの壁か何かにくっつけて、そこにお万さまの幻を想定するのだ。あのなよなよとした花のような裸身の真っ白な子宮部に吸いついている、赤黒いふぐりの皮の盃を思い描くのだ。
他端の二本の竹の部分は両耳にさし込んで――すると――ほんとうにそんなことになったとき、聴えようが聴えまいが、といったけれど、ただこれだけで、聴える。たしかに聴える。鳥のごとく、琴のごとく、潮騒《しおさい》のごとく、世にも微妙な美しいひびきが。……
ついに立往生してはいられない事態が、案の定、出来《しゆつたい》した。
年を越えて、冬の或る午後であった。大陣は柳生屋敷の奥にある植込みの中の石に腰を下ろしていた。どこからも見えないが、彼の場所からは庭の一角が見える。
「や、や、や、や――っ」
裂帛《れつぱく》の気合とともに、木剣をふるっているのは柳生|七郎《しちろう》少年だ。宗矩の長子である。冬晴れの蒼《あお》い空の下に、彼は一人で新陰流の真髄、燕尾《えんび》六個の秘太刀の修業に励んでいるのであった。
いや、一人ではない。少し離れてそれを見つめているのは姉のお万で、実は大陣が盗み見しているのはむろん彼女のほうだ。姉だから当然といえるが、繊美な彼女が荒々しい弟の剣さばきを眺めている風景は、大陣の眼にはどうにもそぐわない。そぐわないが、彼女だけ見ていると、どういう姿、どういう表情になっても彼を恍惚《こうこつ》とさせる。――
で、そこへ母屋《おもや》のほうから曳馬野玄馬が近づいて来たのを、それまで彼は気がつかなかった。彼は木剣をぶら下げていた。
「七郎どの、拙者がひとつ稽古《けいこ》をつけて進ぜよう」
あまり笑わない玄馬が、笑顔でいった。七郎は眼をかがやかせ、一礼した。
「やあ、曳馬野か、たのむ」
――はて、これはどういうハプニングか、と大陣が眼をまるくして見ていると、いっとき蒼空の下に大気まで凍ったような静寂が満ちて、ふいに玄馬があっとさけんだ。その顔にぴしっと垂直に木剣が命中した。七郎が投げつけたのだ。
「おまえが、横をむいていたからだ」
と、七郎がさけんだ。
「おまえは姉上のほうばかりながめていた。男同士が木剣をもってむかいあっているというのに、無礼なやつだ。曳馬野は柳生の高弟だということだが、邪念があるとそういうことになる。――姉上、ゆきましょう」
邪念とは雑念のことで剣法修業中よく出てくる言葉だから知っていたのだろう。それ以上の意味を含んでいるわけはあるまいが、とにかく十や十一の少年のいうことではない。
――が、この場合は、それも当然、この七郎こそいうまでもなく後年の柳生|十兵衛《じゆうべえ》である。むろん、このころはまだ両眼|燦々《さんさん》とあいていた。
弟に手をひかれ、一語もなく、美しい人形みたいにお万さまが母屋のほうへいってしまったあと、ひたいに紫の瘤《こぶ》をふくれあがらせた曳馬野玄馬は、そのゆくえを見送ってつぶやいた。それを大陣ははっきりと聴いた。
「今に見ておれ、小僧。曳馬野玄馬、うぬの姉を手籠《てご》めにしても、うぬの兄貴になってくれるぞ」
四
まったく、やりかねないやつだ。この曳馬野玄馬というやつは。
よくいえば不羈奔放《ふきほんぽう》、わるくいえば粗放無頼、どんな相手にでも嘲《ちよう》 笑《しよう》的な口をきき、いい返すとすぐに刀の柄《つか》に手をかける、それにどうやら女ぐせもよくないらしい。――公平に考えて、三人のうちでは、いちばん候補者として見込みがないようだ。
ところが柳生宗矩は本人は質実|沈毅《ちんき》なくせに、何といっても剣人、そういうあばれん坊に寛大な一面もあって、しかも曳馬野玄馬は、さすがに宗矩の前に出るときは猫《ねこ》をかぶって師礼をつくしている。
その彼が、お万さまを手籠めにしてもその花婿になると口にした。――やりかねないやつだ。しかも、いくら七郎のために瘤を出したとはいえ、そんなことで突然そんなことを思いつくわけはないから、それは以前から彼の心中にあったことに相違ない。
柳生屋敷のどこかで、いきなり暴風のように襲いかかってお万さまを強姦《ごうかん》している玄馬の姿を発想して、大陣は蒼くなった。
「御注進。――」
むろん、そうさけんで走りかけて、大陣はたたらを踏んだ。
そんなことを注進して果して信じてもらえるだろうか。むろん玄馬は口をぬぐってしらを切るにきまっている。いやそれよりも、当然注進者は明らかになるから、彼が自分にどう出るか、ぶるる、と大陣は身ぶるいした。
そこで改めて聴恋器が登場したのである。――
さて、だれが見ても恐ろしい曳馬野玄馬はともかく、男の中の男といった風貌の酒巻源左衛門や美青年野寺知之丞に結びつけられるべき女人は、柳生屋敷でもお万さまだけではなかった。それどころか、ここに奉公する女すべてが、ぼうとした眼つきで二人のうしろ姿を見送るのを大陣は見ている。その中で、彼の観察によると、もっとも期待の持てるのは、柳生家の遠縁だというお葦《あし》と、侍女のお市《いち》であった。
前者はいかにもきりっとして、性質も気丈らしいが、これが酒巻を見るとき別人のようにやさしい表情になるし、後者は日蔭の花のような感じだが、美しいという点ではお万さまと双璧《そうへき》であろう。
この両人に対して、平気で淫《みだ》らで無礼な声をかけるのは曳馬野玄馬だけであった。お市など、遠くで彼を見るだけで逃げた。
或る日、縁側で、玄馬がお葦に何やら話しかけて、いきなりぴしっと平手打ちをくった。
「これは」
と、さけんで玄馬は反射的に刀の柄に手をかけた。お葦の冷笑した顔は、凍った炎のように美しかった。
「その手は何ですか。たわけたことをいって、叩《たた》かれて、女を斬るつもりですか」
たまたまそこを通りかかった大陣が、あわててその間にはいった。
「まあ、どうなされたのでござる」
「そこらをウロウロしても、こちらに酒巻どのはおられぬよ――とはなんですか」
お葦は真っ白な歯で唇《くちびる》をかんだ。
「だれが酒巻さまを捜していると申しましたか」
「それはとんでもない話だ」
と、大陣はいって、両者を妙な笑顔で見くらべた。大陣の変な言葉より、その表情に玄馬は不審を抱いたらしい。
「服部、とんでもない話とは何だ」
「いや、拙者の恋占いによるとな。世にあなたがた二人ほど似合いの男女はない。――」
「ば、ばかなことをぬかせ」
「いえ、ばかなことではない、拙者の恋占いはよくあたるのだ」
「おう、そういえばおまえは、妙な道具で男女の相性を見るという評判だな。可笑《おか》しげなやつだ」
「評判をきいたか。伊賀の聴恋器は神のごとしじゃ。嘘《うそ》だと思うなら、あなたがた二人、いちどそれで見てみようか。おそらくそれは甘露のごとき妙音をたてる。――」
狐《きつね》につままれたような表情で立っていたお葦は、このとき、
「やくたいもないことを」
と、吐き出すようにいって立ち去った。
あと見送った玄馬は、もううすら笑いを浮かべていた。
「あの女人とおれが相性のいいわけもないが、しかし、いい女だな。ああいうぴんしゃんした女をねじ伏せて、いい音《ね》を出させるのがおれの道楽じゃ」
偶然にはちがいないが、しかしこういう機会を、実は大陣は狙《ねら》っていたのである。――とはいえ、自分の望みをとげるのに、まだこれから一苦労も二苦労も要《い》るだろうと覚悟していたのに、意外にも反響が早かったので彼は驚いた。
数日後、柳生屋敷でお葦にささやかれたのである。
「服部どの、あなたの……聴恋器というか恋占いの道具はどういうものですか」
「や、あれでござるか」
大陣は狂喜して、熱弁をふるった。例の卵丸交響説をである。もっとも解説中、理性的なお葦の神経にさわるような個所はたくみにオミットしたことはいうまでもない。――しかし先日、「やくたいもないことを」と笑殺したお葦は、聴恋器についてある程度の知識は、もうどこからか得ているらしかった。
「それは、一人では相手との相性がわからないものですか」
お葦は珍しく頬《ほお》を薄紅に染めてきいた。
「出来ない相談ではござらん。拙者など、よく一人占いをやっております」
彼は力強くいった。
「とにかく、是非いちどおいでになって見て下され。あなたを占うなど、わが聴恋器の誇りであります」
「滅相な。人にきかれては困るけれど。……」
日どりを打合わせ、お葦が大陣の家へひそかにやって来たのは、それからまた数日後の午後のことであった。
そこで、三方《さんぼう》に白絹を敷き、その上にうやうやしくのせた聴恋器をとって、大陣は例の陽恋盃を彼女に装置した。下腹部に吸着させるだけでいいのだから、べつに衣服をぬがせなくたって何とかなるのだが、そこを上半身裸にしてしまったのは、服部大陣も「邪念」があるといわれてもしかたがあるまい。むろんお葦は大いに抵抗したのだが、
「ばかな。産科の医者が女人を診《み》るにいちいち邪念をいだくとお考えか。これはそれと同じでござるぞ」
と、彼に一笑されて、彼女は意を決した表情で命じられた通りの姿になった。
さて一方の陰恋盃はそこらの座蒲団《ざぶとん》の上にほうり出し、他端の竹管を自分の両耳にさしこんで、大陣は、
「おう、聴える。あなたの卵子の声が。……」
と、いった。
「ちょっと、聴かせて」
お葦はその竹管を奪って耳にさしこんで見た。――なるほど何やら微かに聴えるような気がする。グルグルグーというような、あまり愉快でない音が――これが、わたしの卵子の声かしら?
「ところで、あなたの相性を知りたいと思う男性はどなたか。それを頭に思い浮かべられたい」
彼はそういって、竹管を奪い返した。
お葦は真剣な表情になった。頬に赤味がさし、宙を見つめた眼がうるみを帯びて来た。
「や、音が澄んで来た。しかし、弱い。――」
「聴かせて。わたしにも聴かせて」
「いや、この場合、双方の音の合奏を聴くのでござるから、あなたではまずい。おそらく何も聴えないでしょう。第三者――しかも拙者の耳でなければ」
彼は深く深く耳をすます表情になった。
「音質は決して悪うはござらぬが……何しろ弱い。いまひとつ、強く相手を思って下され。あなたが抱かれ、口を吸われておる光景でも描いて。――」
「ああ、酒巻源左衛門さま。――」
彼女は必死また忘我の声を発した。
すると、そのとき、隣室とのへだての襖《ふすま》がからりとひらいた。
「ようすはそこにて、残らず聴いた」
現われ出でたのは、曳馬野玄馬であった。
むろんお葦は驚愕《きようがく》して、肌《はだ》を入れようとしたが――自分のうろたえを恥じたようにその手をとめて、怒りの眼できっと大陣をにらんだ。
「服部どの、これはどうしたことですか。わたしに恥をかかせようとたくらみなされたことですか」
「とんでもない、まったくの偶然でござる。先刻この曳馬野が来て……あなたがおいでになるということで、あわてて隣りに控えてもらっておった次第で。……」
大陣は狼狽《ろうばい》していったが、むろんうそだ。きょうお葦が来るので、あらかじめ謀《はか》って曳馬野を呼んだのである。
「きいたところによると服部、その聴恋器、男性のほうもいっしょに聴いたほうが具合がいいようだな」
と、平気な顔をして玄馬はいった。平気どころか、恥知らずな笑った眼で、半裸にちかいお葦をじろじろなめまわして、
「思い出したが、先日、おぬし妙なことを申したな。おれとこのお葦どのが似合いの男女だとか、聴恋器にかけたらさぞ妙音が出るじゃろう、とか。――」
「たわけたことを!」
お葦は肌《はだ》を入れながら横を向いていった。
「おまえさまなどと、いっしょに音を聴いたら、吐気のするような音が出るでしょう」
「うふ、そいつを聴いてみようじゃないか」
いうと、いきなり玄馬はお葦の傍にずかと坐《すわ》り込み、あぐらをかいて、やおら股間《こかん》のものをつかみ出し、おのれのふぐりに陰恋盃を押しつけた。
「無礼な!」
立ちあがろうとするお葦の袖《そで》をぐいともう一方の手でつかまえている。彼女は歯をくいしばり、身をもがいた。
「大陣どの、何をしていなさる。わたしは帰ります。この男を、離して下さい」
「ああ困った。玄馬どの、やめなされ」
と、大陣は半泣きの顔でいったが、すぐにまた何やら霊感にでも打たれたような表情になり、
「いや、お葦どの、まことに慮外の沙汰《さた》だが、こうなればいっそ、御両人の合奏を聴かせて下さらぬか。――拙者の予感をたしかめたいし、また後ほど必ずお葦どのと酒巻どのとの合奏を聴くようにはからって、その相違をとくと承知いたしたい。――」
と、熱誠こもった声をしぼって、たたみを叩いた。
決してそんな提唱に誘われたからではなく、いやも応もないなりゆきからであったろうが、結局お葦は曳馬野玄馬との聴恋器合奏をさせられてしまったのである。
もっとも彼女は横を向いてのことだが――そのあげくの果てが、
「おう、妙音! これは、大妙音! やはり拙者の目測は誤らなんだ! 御両人ともに気丈で、その本性実によく似ておられると見てはおったが、これほど高潮した妙《たえ》なるひびきを、あまりこの聴恋器から聴いたことがない!」
と、大陣が絶叫しはじめたに至っては、何をかいわんやだ。
そんなばかげた話があるものか、と抗議するのもけがらわしげに、やっと手を離されたのをしおに、お葦はその背に侮辱された怒りのわななきを見せて逃れ去った。
大陣としては、しかし作戦通りであった。その作戦の七分までは――曳馬野玄馬とお葦を結びつけるのが目的であった。凶暴無比、お万さまに何をしでかすかわからない玄馬を封じるのは、彼を張り飛ばすのを辞せないほど気の強いお葦しかいそうにない。これを結べば、いかな玄馬もそれ以上お万さまに手は出せまい。
少々最初は強引だが、この第一楽章で、お葦をもって玄馬を免疫にしてしまう作業のはじまりとする――彼はそのつもりでここまで事を運んだのである。
しかるに事は、彼の予想を越えて進行した。それは彼にとって予想以上の好都合な展開でもあった。
奔放無比な曳馬野玄馬は、それから間もない一日、柳生屋敷で酒巻源左衛門に面と向って、おれがお葦どのをもらったぞ、お葦どのはおぬしよりおれのほうにいい音《ね》をたてるそうじゃ。うわははは、と誇り、かつ嘲《あざけ》ったのだ。
酒巻源左衛門がお葦をどう考えていたか、はっきりとはわからないが、そのことで彼はお葦に事情をただし、お葦から彼女の受けた侮辱の話をきいたらしい。――そして、源左衛門は起《た》った。
それが彼らしい義憤か、それとも彼にもいささかお葦を憎からず思うところもあったのか、いずれにせよ果し状が曳馬野玄馬に投げつけられたのだ。
服部大陣にとってまったく望外の好都合といいたいが、しかし実は彼は、三分くらいはこういうこともあり得るとは見込んでいた。
しかし聴恋器の――大陣にすれば苦しまぎれの――悪戯は、ここにライヴァル二人の決闘を呼び、さらに彼が一分《いちぶ》も予想していなかった次の血の波を呼び――たとえ聴恋器が真実神魔の性能を持っていたとしても、決して看破することは出来なかったであろう女心というものの妖《あや》しさを見せつけることになり、服部大陣を茫然《ぼうぜん》自失させるに至ったのである。
五
――この三人の中で、だれが一番強いだろう?
これをライヴァルだ、とひとり勝手にきめこんでから、大陣はそれとなく柳生の門弟たちにきいたことがある。十人のうち七人までが、相当長いあいだ考えたのち、左様さな、強い、という点だけなら、やはり曳馬野玄馬だろう、と答えた。大陣もそう思った。ただ三人ばかり――しかもそのベテランが、「ひょっとすると野寺知之丞かも?」とつぶやいた声もあるにはあった。
さらに御大《おんたい》の柳生宗矩が、大陣の質問に対してではなく、剣談中の漠とした意見ではあったが、
「いまのところ、刀法においても、最も信頼出来るのは酒巻源左衛門」
という意味のことを答えたことがある。
とにかく、その酒巻源左衛門と曳馬野玄馬が決闘した。
ところが、服部大陣はこのことを知らなかった。決闘は三月の半ばの早朝、柳生屋敷に近い或る寺の境内で行われたのだが、その事実も、それからその事実にまつわる変な話も、大陣はあとできいてびっくり仰天し、かつ腕こまぬいて考えこんでしまったのだ。
なんと、その果し合いのあった朝の未明の時刻、お葦が玄馬を訪れたという。――酒巻は果し状をつきつけたことをほとんどだれにも語らなかったというが、さすがにお葦はそのことを知っていた。
この気丈な女が、幽霊みたいにふらふらとやって来て、
「曳馬野どの、あなたは討たれます」
と、いった。
さすがに髪もそそけ立ったような顔色で果し合いへ出かけようとしていた曳馬野玄馬は、この女人の思いがけぬ時の思いがけぬ訪問に不審と警戒の眼をしていたが、この言葉をきいて歯をむき出した。
「お葦どの、不吉なことをいって、おれの気勢をそぎに来たか。その手はくわんぞ」
「あなたは、酒巻どのに討たれます」
巫女《みこ》のようにお葦はくり返した。
「いつぞや、夜ばなしに、あなたと酒巻さまの話が出ましたとき、殿さまは、二人が真剣をもってたたかえば八分通りは酒巻のものだろうと仰せられたことがあります」
「そんな、ふし穴みたいな眼を持った剣の名人がおるから、おれはいちどやって見せたかったのだ」
と、彼は肩をそびやかして一笑し、
「真剣勝負は、やって見ねばわからぬ。酒巻に斬られたら、それもまた本望」
と、さすがに武士らしいせりふを吐いて、ふとお葦の顔に眼をとめた。彼女は泣いていた。――彼はいった。
「ひょっとすると、酒巻から頼まれて来たな。果し合いをとめに来たな」
「ちがいます、わたしの来たのは。――」
お葦は声をのんだ。蒼白い顔に眼がうすびかり、唇だけがあえいだ。――なぜか、このときほどこの女が美しく見えたことはなく、この場合にふいに玄馬は強烈な肉欲にとらえられたが、さすがに決闘前にそれを実行に移す気にはならず、
「ええ、面倒だ。おれはゆくぞ」
と、起《た》った。
「待って下さい」
お葦はその足にすがりついた。いよいよ妙なことになって来た。
「では、ゆくまえに……わたしを女にして下さい」
「な、なんだと?」
彼の足もとに下半身は這《は》い、上半身のけぞるようにしたお葦の顔は、そのとき別世界の花のように燃えていた。彼女は涙をながしながら、酔っぱらったようにややもつれる舌でいった。
「いつぞや、あの服部という妙な男に、あなたとわたしはこの世でくらべるものもないほど似合いの男女だといわれました。そのときは笑いすてたけれど、だんだんそれはあたっているかも知れないとかんがえ出したのです。……あなたは……あなたは、きょう殺されます。……だから、いまわたしと結ばれていって下さい。……」
これは、罠《わな》かも知れない、などいう疑いは、玄馬の脳髄からけし飛んでしまった。危険性も感じなかった。それほどそのときのお葦の声、表情、姿態は凄艶《せいえん》をきわめ、迫力があり、そして真実に溢《あふ》れていた。
で、彼はお葦を抱いた。――彼女はまちがいなく処女であり、しかもひたむきに燃えた。このとき玄馬ははじめて服部大陣の聴恋器の判定を信じ、かつこの女が信じたといったのも信じられる、と信じたくらいであった。
それにしても決闘の前に、たとえ向うからの要求とはいえ、はじめての女と交合一番をしてのける気になったのは、曳馬野玄馬なればこそだ。
彼は勇躍して、決闘の場へ出かけていった。――
そして春の朝霧の中に現われた大豪酒巻源左衛門を迎え、両者飛びちがったあと、みごとに源左衛門を斃《たお》したことを知ったのである。
ただ彼の顔も鮮血にまみれた。あとで調べると、ひたいに一線、糸のような傷を作られていたが、まったく間一髪のことであったと彼ほどの人間が身ぶるいしたほどである。
勝てる相手ではなかった、と勝ったあとで思う。そもそもそういう意識があったからこそ、平生《へいぜい》つっかかったのだ。それが、なぜ勝ったのか。――
それはあの決闘前の交合だ、と彼は思いあたった。あの歓喜が彼を昂揚《こうよう》させた。その消耗がたたりそうなものだが一方で満足感が彼の精神を平静にした。この交感神経と副交感神経の働きの微妙なミックスがあって、はじめて一髪《いつぱつ》を争う強敵酒巻源左衛門を斃すことが出来たのだ。
神に謝す。あの女人に謝す。
どうも彼らしくない。――実は右の感激はずっとあとになってからのことである。事実は、彼がこの決闘に凱歌《がいか》をあげたあとつづいてやってのけたことは、まさに剣鬼曳馬野玄馬にふさわしい行為であった。
たちまよう朝霧の中に、彼はしばし茫乎《ぼうこ》としてたたずんでいた。全身の肌はなお粟立《あわだ》ち、髪の毛はそそけ立っている。
いまの勝負の名残《なご》りのゆえばかりではない。これからあと、どうするか、ということを思えば、彼とて惨たる心境にならないわけにはゆかない。今になってそんなことに気づくのもいかにも彼らしいが、しかしたとえ事前に承知してたとしても、いかんともしがたいなりゆきであり、かつ彼の性格であった。
とにかく千石取りの旗本を討ち果したのだ。たとえ果し合いとはいえ、そもそもこちらから挑発したのだから、とうてい無事にすむはずがない。だいいち、もう柳生家には顔を出せない。それどころか、酒巻の傾倒者の多い柳生の弟子の中から必ず復仇《ふつきゆう》する者がむらがり立って来るだろう。――
――ふっと彼は血に染まったまぶたをあげた。
だれか忍びやかに歩いて来る。
「――野寺さま?」
そんな声が聴えて、霧の中から茫と現われたはなやかな影が、二間ばかりに近づいて、ぎょっとして立ちすくんだ。
柳生家の侍女のお市だ。そこに立っている影が別人で、しかも満面血潮にまみれた男であることをはじめて見てとって、口に手が走ったが、声も出ないようすであった。むろんこちらが曳馬野玄馬であることはすぐにわかったろう、なお地上に濃く霧が渦《うず》巻いているが、倒れている酒巻源左衛門の屍体《したい》も見えたかも知れない。
「見たな。――」
と、玄馬はいった。
妖怪《ようかい》が正体を現わしたときにこんなせりふをいう。――玄馬はそれを意識して、故意に相手を恐怖させる笑顔を作って、そろそろと歩み寄った。
「武士の意気地によって、酒巻源左衛門を斬り捨てた」
彼は霧の中を透《す》かした。
「たしかいま、野寺さま――とか呼んだようだな。してみると、ここへ野寺知之丞が来るのか。はて、この早朝、こんな場所で二人が逢《あ》うのは何の用じゃ?」
まったくの偶然だ。――天魔のなせる偶然としかいいようがない。
それにしても七百石の旗本野寺知之丞と柳生家の侍女お市が、町みな眠る春の早朝、なんのためにこんな場所で逢おうとしていたのか。――
それは永遠にわからなかった。永遠にわからない事態となったのだ。
「何でもいい。どうせ柳生を敵にまわすことになったおれだ。毒食わば皿まで、ゆきがけの駄賃《だちん》、ふだんから剣の天才とか何とか気にくわぬ野寺を斬ってゆく。いや、いちどきゃつとも真剣勝負をしてみたいと望んでおったのじゃ」
常識では律し得ないめちゃくちゃな発想だが、これが曳馬野玄馬の玄馬たるゆえんだ。
「どうも、果し合いする前に女と交合すると縁起がいいらしい」
彼はお市を見つめた。
「おぬしはいちど犯してみたい女ではあった」
ぐいと片腕をとられて、それまで蛇《へび》に魅入られたように立ちすくんでいたお市は、突然身をもがき出した。
「野寺さま、助けて下さい」
花のくきをへし折るように玄馬はお市を地上にたたきつけ、花びらをむしり散らすように、その胸も裾《すそ》もかきひらいてしまった。
もとから白蝋《はくろう》みたいな肌をして、まつげのながい眼や、赤い小さな唇や、どんな男にもひどい力を誘うタイプの娘であった。血ぶるいしている曳馬野玄馬の腕にかかってはひとたまりもない。そこらあたりにも酒巻の血のながれている大地に磔《はりつけ》になったその姿は、無惨というより淫媚《いんび》ですらあった。
「野寺さま、助けて。――」
泣く口に玄馬の唇が吸いつき、彼は犯した。お葦のときより、もっと激烈に。
奇怪な感覚がある。それに気がついて、曳馬野玄馬はぎょっとした。いままで悲鳴をあげていた女がやがておとなしくなったのはいいとして、いつのまにか自分の背に鎖みたいに腕をまわし、指をくいいらせ、身もだえし腰さえ波うたせていることに気がついたのだ。
――はてな?
たしかにこの娘は処女であったことは確認していたのだが、それ以前に、この日蔭の花みたいにおとなしく、つつましやかなこの女が?
「こ、こりゃどうしたことじゃい?」
この場合に、彼らしくもない間のぬけた声を出すと、
「好きでした。わたしはずっとまえから、あなたさまを……」
熱い息でお市はあえいだ。
「なんじゃと?」
玄馬が奇声を発したとき、ひたひたと近づいて来た跫音《あしおと》が、すぐ近くでふっととまった。つまりそれまで、その跫音は聴えていたのだが、さしもの彼もまったく魂をじぶんの身体の下の女体に吸われていたのだ。
彼はふりむいた。霧を足にまつわらせつつ、野寺知之丞が立っていた。
さすがに驚愕《きようがく》して硬直しているその顔を眺めながら、玄馬はゆっくりと女から身を起し、立ちあがった。
「……というようなわけで、この女はおれがもらった」
玄馬はにやりと笑った。
「どうしても、貴公と白刃をまじえねばならぬ仕儀に相なったようじゃ喃《のう》」
そのとき、地上から恐ろしいさけびが起った。
「あのひとを殺して下さい! あのひとを斬って!」
お市であった。あさましい姿のまま、半身をねじるようにして起したお市は、腕をあげて、とがった白い指を野寺知之丞にむけてさしていた。――野寺とお市がどういう関係であったかは知らぬ。とにかくこの美しい春の霧の朝、ひそかに逢おうとした男を、女は指して殺せといったのだ。
反射的に野寺知之丞は刀を抜きはなっていた。世にもりりしく美しいその姿が、一瞬白い炎にふちどられたように見えた。それは柳生一門でも、眼ある者は稀代《きだい》の刀法者と見ていた天才の妖炎であったか、それとも怒りの白炎であったか。――
霧の中に、二条の光がきらめき、曳馬野玄馬はこめかみあたりに赤熱の感覚をおぼえ、よろめいていった。――彼は、斬られた! と思った。まさに彼は血しぶきたてて泳ぎつつ、一瞬、本能的にふりむいた。
野寺知之丞は彼に背を見せて、しずかに歩いていって、地上の女を胴斬りにした。そのあとで、そのからだが、頭部から胸のあたりまで二つに裂けて、地上に崩折《くずお》れた。
玄馬は、自分の刀身が野寺を唐竹《からたけ》割りにしたことをはじめて知った。痛覚に、左手をあげてこめかみをぬぐうと、左の耳がなかった。
――つくづくと、野寺知之丞は、承知していた以上の使い手であったと思う。それに勝てたのは、ただその直前、女が自分を殺せとさけんだ意外事に、彼の精神が動揺していたせいではなかったか? いや、そうにちがいない。それ以外に仔細《しさい》はない、と曳馬野玄馬は考えた、これもまた、ずっとあとになってからのことである。
――それにしても、お市という女はまさに不可解だ。あれはいったいどうしたことか?
彼は頭の中まで妖霧につつまれているような気持で、ひとまず家に帰った。逐電《ちくでん》の用意をするためである。――すると、思いがけないことに、まだお葦がそこに待っていた。
「勝って帰ったぞ」
さすがの彼も笑いかけた。血笑ともいうべき笑いであった。
意外事はまたも起った。まるで幽霊でも見るように、瞳孔を散大させて彼を凝視していたお葦が、突然さけび出したのである。
「きらい! きらい! どうして勝って帰ったの? わたしのために起った果し合いに、死ぬ人と思えばこそわたしはあなたに身をまかせたのに、どうしてあなたは生きて帰ったの?」
曳馬野玄馬はあっけにとられて、阿呆《あほう》みたいに棒立ちになった。この女が、わけがわからなくなった。
ただ、これでお葦が、必ずしも自分が好きで決闘前の交合のはなむけをしてくれたのではないらしい、ということだけはわかった。
それで彼は、いきなりこの女をも斬って、その金切声を沈黙させた。
いやもう、まったくのめちゃくちゃである。ほんの一刻ほどの間に、四人の男女を屠《ほふ》ったり犯したりしたこの殺鬼は、そのまま飄然《ひようぜん》と姿をくらましてしまった。こんな大凶行をやってのけた男に、逃れるあてはないはずであったが――それが、彼の信じるところでは、天下にただ一個所だけあった。
六
服部大陣は、曳馬野玄馬が酒巻源左衛門と野寺知之丞を斬り、あまつさえ柳生家のお葦、お市という二人の女人まで殺して、坂崎出羽守《さかざきでわのかみ》の門に駈《か》け込んだことをあとで知って驚いた。
曳馬野と酒巻が果し合いをした原因については何とかわかる。お葦が曳馬野の家で殺されていたのは奇怪千万だが、それも自分が玄馬とお葦を結びつけようとしたのだから、あれがもとかと強《し》いて理解しようと思えば、まあ理解出来ないことではない。
しかし、野寺知之丞とお市の死に至っては、まったく判断の外にあった。だれにとってもこれは大怪事で、はじめはその下手人すらわからず、ただ現場に落ちていた耳と、片耳のない曳馬野玄馬が坂崎家にいるという噂から、やっとこの変事の輪郭《りんかく》がおぼろげにつかめたほどである。それでもなおはっきりしないことが多々あり、実はお市を刀にかけたのは玄馬ではないのだが、それもいっしょくたに考えられてしまったが、まあこれはいたしかたなかろう。
何が何だかわからなくってもいい。
と、大陣はしかし、やがてニタニタした。
「とにかく、これであの三人は消滅してしまった」
いったいそのことにあの聴恋器がどこまで関係しているのか見当もつかないが、そんなことはどうでもいい。もうあんな抱腹絶倒的道具なんぞ、物置にでも放り込んでしまえ。
――と、浮かれ切って考えて、待てよ、と大陣の首はななめにかしいだままとまってしまった。
ライヴァルは消滅したものの、何もそれで自分がお万さまの花婿の候補者になったわけではちっともないのである。これはいかん。
さて、自分がそうなるのにはどうすればよいか。それは――やはりあの聴恋器に御苦労を願うよりほかにない。――彼は初心に立ち返った。
大陣は努力を再開した。聴恋器の宣伝である。そこにお万さまと自分とをかけて相性を合わせる。――そこに運ぶのが極めて厄介《やつかい》だが、とにかくそうなるように、意気くじけることなく聴恋器の性能の信頼度を鼓吹《こすい》しなければならない。
そう決意して、彼がそもそもの目的にふたたび邁進《まいしん》しはじめたとき――またも大|障碍《しようがい》が立ちふさがった。またも、ではない、彼からすればこれこそ決定的な破局的事態で、なんとほんもののお万さまの花婿候補者が突如登場したのだ。
彼の眼から見れば突如たる意外事に見えたが、おそらく事は柳生家の奥で以前からひそかに進行していたものであろう、それがいよいよ日の目を見ることになって、その花婿候補者は、悠然《ゆうぜん》として柳生家に乗り込んで来たのである。
宇喜多豪兵衛猛秀《うきたごうべえたけひで》。
実に背は七尺にあまり、相貌《そうぼう》堂々として長《ちよう》 板《はん》 橋《きよう》の張飛《ちようひ》のごとく――といいたいが、少し顔が長過ぎるようだ。少し、どころではない。馬くらいはあるのじゃないかと思われる。ただしその下半分は凄《すさま》じい髯《ひげ》に覆われているので、いよいよ圧倒的な威容を形成している。
この偉丈夫が、その年の四月はじめのころ、杭《くい》ほどふとい鉄輪《かなわ》のはまった樫《かし》の棒をついて、のっしのっしとやって来て、柳生家の客となったのだが、そのうちだれいうともなく、あれは宇喜多中納言の妾腹《めかけばら》の忘れがたみで、近くお万さまの花婿となられるおかただ、という噂がひろがった。
宇喜多中納言|秀家《ひでいえ》。――それはかつての|関ケ原《せきがはら》における西軍の総帥で、いくさ敗れて八丈島《はちじようじま》に流罪となった人物だ。それからもう十六、七年になるが、げんに彼自身はもとよりその子たちも、いまなお八丈島で暮しているはずである。
その子の一人を、たとえ妾腹とはいえ、柳生家の娘の婿にするとは?
どうやら噂だけではなく、事実らしい。
人々はみな柳生又右衛門の大胆さに驚いたが、さてそこでもういちど考えてみると、べつにそれほど恐ろしいことでもないようだ。いかにも宇喜多秀家は島流しにはなったけれど、それは西軍の総大将としてやむを得ない処分であって、地位的にはその下にあった石田《いしだ》、小西《こにし》、安国寺《あんこくじ》の徒はみな斬首されたのに、大将が島流しですんだということは徳川の宇喜多に対する心情をよく物語っているではないか。また秀家の正妻は加賀《かが》の前田《まえだ》家からゆかれたひとだし、そこらは宗矩は充分関係方面に打診してのことに相違ない。
そのあたりが大丈夫という目安がつけば、宇喜多秀家の忘れがたみというのは、三千石の柳生家の婿として、ちょっとほかに見つからないような名門にちがいない。一見|骨太《ほねぶと》に見えて、そのへんの計算にぬかりのないところは、いかにも宗矩らしい処世兵法といわざるを得ない。
いや、それよりも――見るがいい。
「お万の婿は、大豪の士にかぎる」
といったという宗矩のかねての言葉に、これほどぴたり的中した人物はないではないか?
一見して圧倒され、その素性を知るに及んで、服部大陣の心腸は九廻《きゆうかい》した。もういかん、えらいものを探し出して来た。
絶望しかけて大陣は、しかし最後の努力をふりしぼって見ようと思い立った。自分の希望が打ちくだかれたというより、あの毛だらけの巨獣のような男に、かよわいお万さまがもてあそばれると思うと、その想像図だけで心臓がどうにかなりそうであった。
いったいお万さまは、そんなことを御承知なのか知らん? そんなはずはない。生命の安全という点からも、そんなはずはない――大陣は、人道的見地からもお万さまを救わなければならないという義憤にさえとらえられた。こんな悲劇的な「政略結婚」は断じて許せない!
彼は何くわぬ顔をして、宇喜多豪兵衛に近づいた。
近づいてみると、思ったほど――いや、思いがけず、豪兵衛はこわい人間ではなかった。それどころか、どんな話をしても当人はあまりはっきりものをいわず、ただ鯨の遠吠《とおぼ》えのような間のびした豪傑笑いで空気をふるわせるだけで、
「いや、いかにも悠揚として、名門の出らしい大器だ」
という評もないではなかったが、大陣は、はてな、こりゃ馬鹿ではないか、と首をひねったくらいである。
さて、そこで彼は聴恋器の猛宣伝をやったのである。柳生家にも作った、七、八人の心酔者を伴って、豪兵衛の前で面白可笑しく、しかも熱烈に、かつ理論的に例の卵丸交響説や、聴恋器の効能や、さらに「この交響が不純であれば、その男と女はたとえ結婚しても必ず不幸な結末を呼ぶ」というぶきみな予言を述べてやまなかった。――
豪兵衛は顔色を動かした。大いに不安の表情になった。
この口の重い豪傑が、どういう風に柳生宗矩やお万さまを説いたのか。――彼とお万さまを聴恋器にかけて見てもらいたい、という申し込みがあったのは、それから間もなくのことであった。
ついに待望の時や至る!
大陣は聴恋器をたずさえて、柳生家にやって来た。
そして――ほかにはただ柳生又右衛門だけがいる奥まった一室で、宇喜多豪兵衛とお万さまをこれにかけた。
その前に、改めて宗矩にこの道具の原理を解説したのはむろんだが、さらに、
「さて、他の音響との区別をお知りねがいたいために、まずお万さまと拙者をもって実験いたし、いちどそれをお聴きたまわりとう存ずる」
と、重々しくいった。
お万さまは恥じらい、いやがったが、ここまで事を運ばれては、結局承諾しないわけにはゆかなかった。ただし、まさか父親の宗矩の前で裸にするのは憚《はばか》られ、ただ衣服をくつろがせただけで、しかもあっちを向き、その下腹部に陽恋盃をあてがい、かつ、大陣は自分のふぐりに陰恋盃を装置した。
なんにも聴えない。――
「もしもし、もしもし」
思わず呼びかけたが、依然なんの応答もない。
「もしもし」
それは覚悟はしていたことだが、大陣の顔に一瞬二瞬動いた憂色は覆えなかった。なぜなら、いまお万さまとこういうことになって、自分の睾丸《こうがん》はたしかに震動しているのに、この聴恋器が全然無反応なのは奇怪千万、という思いを禁じ得なかったからだ。
しかし、たちまち彼は満面を喜色に変え、感動のさけびを発した。むろん、必死の演技だ。
「あ、これでござる、これでござる! これぞ精子と卵子の相呼応するひびきでござるが、ああ、これほどの大妙音、これは近年まれなる例でござる!」
「どれどれ、聴かせい」
宗矩は彼の手から竹管を奪って耳にあてがったがすぐに首をかしげた。
「わしには何も聴えぬぞ。――」
「いや、恐れながらこの音を聴きわけるには、相当の音感的修練が必要でござりまするが――それにしてもこの妙音をおきき願えぬとは何とも残念至極」
彼は長嘆してみせたのち、こんどは陰恋盃を宇喜多豪兵衛のふぐりに吸着させる作業にとりかかった。
むろんこれから悪口雑言のかぎりをつくすつもりだが、さて眼前にとり出させたものを見て、大陣はあっと息をひいたきり、とみには声も出なかった。まるで茶筒のような男根の雄偉さと、その背後にひかえた信玄《しんげん》袋にまがうふぐりの巨大さにである。
「うおっ、ほっ、ほっ、ほっ」
豪兵衛は鯨の遠吠えのような声を発した。しかし、彼は照れているのである。その髯につつまれた長大な顔面は羞恥《しゆうち》に真っ赤に染まっていた。
「聴える、聴えるぞ。――」
そのとき宗矩が大音声をはりあげた。
「おう、これが相愛の男女の精卵合奏の声か、いかにも大妙音。――」
「そ、そんなことがあるものか」
狼狽のあまり、服部大陣は思わず乱暴な声を発した。
「ちょ、ちょっと拝借、拙者が聴き申さねば――」
竹管を奪い返して、耳にさしこんだ、大陣の顔に驚愕《きようがく》の波がひろがった。彼はたしかに――ほんとははじめて、この聴恋器から世にも妙なる、世にも美しい、名状しがたい旋律の高潮を聴いたのである。――
その交響を何といおうか。彼らには形容の言葉もないが、まずドヴォルザークの「新世界から」の第三楽章、第四楽章に似た交響楽であったといおうか。
十日ばかりたって、宇喜多豪兵衛とお万さまは祝言をあげた。
服部大陣はむろん精神的に破滅状態になった。その呪《のろ》うべき聴恋器などズタズタにひきちぎって、捨ててしまった。それでも、どうしても得心がゆかなかった。
さらに十日ばかりたって、彼が深夜柳生家に忍び込んだのは、このどうしても納得のゆかない心境からである。そんなはずはない。あのなよなよと弱々しいお万さまが、あの物凄《ものすご》い怪物と、あんな美しい共鳴りの音をたてるはずがない。――それどころか、もしやするとお万さまは、五体ばらばらになるほどひどい目にお逢いなされているのではあるまいか?
忍びの術はもともと大陣の甚《はなは》だ不得手とするところであったが、しかし何といっても専門は専門である。彼は新夫妻の寝所を、雨戸のふし穴からのぞき込むことに成功した。そして、かっと眼をむいてしまった。
なんと、一糸もまとわぬ花嫁が、おなじくまっぱだかの花婿の上に馬乗りになっている光景を彼は見たのである。お万さまは豪兵衛を文字通り馬にして、細い竹の鞭《むち》をもって、寝所の中を乗りまわしていたのである。
「どうどう、どうどう。いえ、とまってはなりませぬ。走れ、早う走って下され!」
そして彼女は、ぴしっぴしっと馬に鞭をくれた。これがあの繊美なお万さまだろうか。いかにも剣の柳生家の息女にはちがいないが、彼女にこんな趣味があろうとは、想像もしなかった!
お万さまの眼はらんらんとかがやき、全身はばら色に染まり、それは淫《みだ》らどころか、まるで――むろんこれは大陣の形容ではないが――ジャンヌダルクのような勇壮美に燃えていた。そしてその下で、口にしごきの手綱をくわえさせられたあの毛だらけの豪傑は、巨大な尻《しり》を真っ赤に腫《は》れあがらせ、涙をながし、鯨の遠吠えみたいな悲鳴をあげながら、ヨタヨタと這《は》いまわっているのであった。
七
服部大陣がひそかに坂崎出羽守の屋敷を訪れて、「こちらに曳馬野玄馬という方がおられまするや」と、門番に刺《し》を通じたのは数日後のことである。
彼は曳馬野に逢った。――大陣が、玄馬と酒巻、野寺との果し合いや、お葦、お市の死のいきさつを知ったのは、このとき玄馬から聞いたからである。
「女とは、実に不可思議千万のものじゃ喃《のう》」
と、あまり思索的でない玄馬も呆《あき》れ返ったように述懐した。
「いやだ、助けてくれと悲鳴をあげた女が、助けに来た男を殺せという。果し合いの前に、こちらが死ぬものときめて身をまかせた女が、勝って帰って来るといやだという。何が何だかさっぱりわからん。あの女たちが生きておったら、もういちど聴恋器にかけてよくよく見てもらいたいところじゃが、何じゃと? あれは捨てたと? それはどうしてじゃ?」
大陣は答えず、これまた、
「いや、まったく女は不可解じゃ」
と嘆声を発し、それから、先だってから脳中にもやもやしていたものが、このときふと一説にかたまるのを感じた。卵丸交響説に匹敵する――あるいは、それにつながる珍説である。
それはサドとマゾの説であった。むろん、彼がこんな用語を使ったのではないが、彼の説を現代風に要約するとそういうことになる。
すなわち、お葦にはサド的素質があり、同素質を持つ玄馬とはやはり合わなかったのではないか。お市にはマゾ的素質があり、彼女が玄馬を好きだといったのは、やはりほんとうではなかったのか。――
ふっと彼の声がとまった。
彼の頭に、お万さまと宇喜多豪兵衛のあの奇怪な遊戯図が浮かんだのだ。この論理によると、あきらかにお万さまはああ見えてサドであり、豪兵衛はマゾだ。してみると、聴恋器のあの高らかな甘美な合奏は、やはり聴恋器が神魔の性能を発揮したのではなかったか?
作者が思うのに、玄馬対お葦お市の関係はともあれ、豪兵衛対お万さまの関係に対する推測は的中していると見るしかない。
しかし大陣は、ただ自分の見たあの光景のことだけを語り、
「あのような変な化物を柳生の一族としては、柳生家のためにならぬ」
といったあとで、またこんな矛盾することをいった。
「坂崎家にとってはよろこぶことかも知れん」
「そうか、そうか、柳生に豪傑の花婿が来たとはきいたが、その人物はそんな、女の馬になって涙をながしておるような変なやつか」
ひたいに刀痕《とうこん》をとどめ、片耳のない曳馬野玄馬はげらげらと笑った。彼はむろん、いま大陣の述べた男女相性に関する珍説など――そもそも論旨あいまいでもあるし――理解出来ない。興味もない。
「いずれ、坂崎家と柳生家の間は無事にすまぬと見ておったが、そういう情報をきいて、事はいよいよ面白くなった。――」
「いずれ、ではない。おれがきょうここへ来たのは、一昨日、もう一つ、重大な情報をきいたからじゃ」
と、大陣はひそやかに語った。――
いま曳馬野玄馬が坂崎家と柳生|云々《うんぬん》といったのは、例の千姫《せんひめ》さまの件にかかわることだ。
おととしの五月、大坂城から千姫さまを救い出した坂崎出羽守は、大御所さまから姫の身柄をおまえにまかせるといわれ、感激して、その後京の某公卿へ再縁の話をつけた。しかるに千姫はそれをきらい、こんど姫路《ひめじ》に十万石を与えられた本多忠刻《ほんだただとき》のもとへ再嫁することになったのだが、こちらの話をつけたのは柳生又右衛門宗矩である。そこで、その性、強情で偏執的なところもある出羽守は、坂崎の面目をつぶされたと憤怒し、柳生と一戦をまじえるのはおろか、徳川家に弓ひくのも辞せぬと公言するばかりの雲ゆきとなっている。――
「千姫さまが本多家に御入輿《ごにゆうよ》あそばすのはこの七月ということになっておるが」
と、大陣はいった。
「坂崎家ではその御行列に斬り込むとの風評があるが、それはまことか」
「殿はいちど左様なことを申されたようじゃが、まさかそんなことは行われまい」
「そうか。そこで公儀では、表向きのお輿《こし》入れはそのように公表して、事実はこの五月にひそかに千姫さまを本多家にお入れなさるという話はきいたことはないか」
「なに? はじめて聴いたぞ、それは。――即刻、殿にお伝えせねばならぬ」
「待て待て、その噂はやがて伝わって来るじゃろう。しかし、その噂に乗せられてはならん。すべては柳生どのの兵法じゃが――まことに、この五月、江戸城から本多家にひそかに行列がゆく。しかし、そのお駕籠《かご》におわすのは千姫さまではない。柳生のお万さまじゃ」
「な、なんじゃと?」
「それで坂崎の出ようを見る。うまくゆけば、それで坂崎を罠《わな》にかけて、みな殺しにしてしまおうという。――」
その情報は、ほんとうのことであった。さすがは伊賀者で、こういう話を嗅《か》ぎ出したから大陣は、ここへ駈けつけたのである。
「いま、罠にかかってはならんと申したが、その裏をかくという手もある。まさかほんものの千姫さまに手を出すことはなるまいが、柳生の行列ならば、武家の遺恨による私闘という名目でこれを粉砕することが出来る」
大陣はささやいた。
「護るはあの宇喜多豪兵衛じゃろうが、しかしあれが張子《はりこ》の豪傑であることは、それもおれの探った通り。――それに宇喜多と坂崎はこれまたともに天を戴《いただ》かざる怨敵《おんてき》の仲ではなかったか?」
坂崎出羽守はもと宇喜多秀家の家臣であったが、主と仲たがいして徳川家に走り、関ケ原では宇喜多勢に猛烈に攻めかかった履歴を持っていた。
じっと凄じい眼光で大陣をにらみつけていた曳馬野玄馬は、
「よし、ともあれ殿に注進して参る!」
と、掌《てのひら》にぷっと唾《つば》を吐いて、駈け去った。
元和《げんな》三年五月半ば、坂崎家では武者の一群が勢揃《せいぞろ》いした。出羽守はついに柳生を襲撃するという欲望に耐えかねたのである。
しかし、この目的は半ばとげられ、半ばとげられなかった。というのは、この暴挙に恐怖した家老が、ふいに出羽守を殺害したからである。一説にはこれも柳生宗矩の指嗾《しそう》であったといわれる。混乱の中に、しかし剣を高くかかげて号令したのは曳馬野玄馬であった。
「こうなったら破れかぶれじゃ。囮《おとり》のつもりの柳生の行列、これをあくまで叩《たた》き潰《つぶ》してこそ殿のお恨みをはらすことになる。ゆけ!」
かくて、死狂《しにぐる》いとなった坂崎の一党は押し出して、柳生の行列を襲撃した。火つけ役の大陣も見物に同行した。曳馬野玄馬が宇喜多豪兵衛を斬るのを見たいというのが彼のただ一つの目的であった。それに、女を虫ケラのごとく殺すこの男が、お万さまに何をするか、それだけは監視してとめなければならない。――
果然、剣鬼曳馬野玄馬は柳生侍たちを斬りまくった。その豪刀の前に立つ者はなかった。
行列のまんなかの駕籠の傍には、大男が一人棒をついてにゅっと立っていた。そして迫る玄馬を見ると、鯨の遠吠えのごとき声をあげた。
「うおっ、ほっ、ほっ、ほっ」
その腕から鉄輪《かなわ》のはまった樫《かし》の棒がふり下ろされると、馳《は》せ寄ろうとした曳馬野玄馬を、一撃のもとに粉砕した。剣鬼も刀法もあらばこそだ。
これを皮切りとしてあばれ出した宇喜多豪兵衛猛秀の殺戮《さつりく》ぶりは物凄じいものであった。この豪傑の馳駆《ちく》するところ、血と脳漿《のうしよう》のために天地もかき曇り、まなこくらんで逃げることさえ出来なかった。――算を乱す坂崎家の侍たちの屍骸の中に、どこでどうなって巻き込まれたのか、見物に来たはずの服部大陣のぺしゃんこになった屍体すらあった始末である。
豪傑の遠吠えはつづいていた。マゾと、男同士の戦闘における豪勇ぶりとは理論的に何の関係もなかったのである。――
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剣鬼喇嘛仏《けんきラマぶつ》
「……おさらば」
小次郎《こじろう》へも。
彼方《かなた》の床几《しようぎ》場の方へも。
そこから手をついて、一礼すると、武蔵《むさし》の姿は、一滴の血もついていない櫂《かい》の木太刀を提げたまま、さっと北磯のほうへ走り、そこに待っていた小舟の中へ跳びのってしまった。
――吉川《よしかわ》武蔵、最終回の一節である。そしてつづく。
「どこへ指して、どこへ小舟は漕《こ》ぎ着いたか、彦島《ひこじま》に備えていた巌流《がんりゆう》方の一門も、彼を途中に擁して師巌流の弔《とむらい》合戦に及んだというはなしは遂に残っていない」
さて、それからの物語。――
一
武蔵はどこへゆくつもりか、舟は|赤間ケ関《あかまがせき》を通って、東へ、東へと周防灘《すおうなだ》に入ってゆく。
武蔵の姿は、先刻、彼の生命を賭《か》けた決闘の船島へ赴いたときと、ちっとも変っていない。やや赤茶けた髪を真昼の海風に吹きなびかせ、大きな背をまるくして坐《すわ》って、何やらコツコツと刻んでいる。船島への途中も、彼は櫂を削って木剣に変えていた。が、いま、その手許《てもと》で形作られてゆくのは、むろん木剣ではない。小さいが、どうやら一個の観音像のようである。
なんと彼は、たったいま佐々木《ささき》小次郎を斃《たお》した太い木剣の一端を切りとり、それを以《もつ》て観音像を刻んでいるのであった。
試合のころ、西の玄海《げんかい》から東の瀬戸《せと》の海へ烈しく落ちていた潮流は、徐々にゆるやかにしずまりつつある。その小舟は、流血の島から漕ぎ出されたものとはとうてい見えず、ただ初夏の碧《あお》い潮に染まり、そのままその碧さに溶け込んでしまうかに思われた。
しかし、それは、そうは、ゆかなかった。
「舟が参《めえ》ります」
と、船頭がいった。
武蔵はちらと顔をあげた。いかにも東から一|艘《そう》の舟がやって来る。が、それがこちらと同様の小舟で、乗っているのも船頭のほかはただ一人であるのを見ると、彼はまた作業にかかった。
しかし、船頭が特に注意したのは、その小舟が――船頭にさえ何やらただならぬ殺気を孕《はら》んでいるものとして感得されたからであった。
「武蔵よな。やはり、巌流を討ったと見えるな。――」
果せるかな、まだ遠いその舟からそう呼ぶ声が渡って来た。
「意外とはせぬ。予期していたことであったから、おれはここで待っておったのだ」
「……逃げられぬか」
と、頭もあげず、武蔵がいった。
先刻のぞっとするような決闘のなりゆきを目撃したばかりの船頭は、この剣客がたんに臆病《おくびよう》でそんなことをいったのではないことを知っている。うなずいて、舟は右へ――まだ見える九州の影の方へ曲り出した。その方が周防よりも近いのだ。
「いけましねえ」
と船頭は狼狽《ろうばい》した声をあげた。
「あっちも、右へ、右へと回ります」
いかにも向うの舟は、こちらの舟の逃げ道をふさぐように南へ回りつつ、なお必死に漕ぎ寄せて来る。もう十数メートルの距離になり、相手の武士が立ちあがって襷《たすき》をかけている姿がはっきりと見えた。
「武蔵っ、おれはむしろかかる事態を翹望《ぎようぼう》しておったのだ。長岡与五郎《ながおかよごろう》、こうまでしておぬしと剣を交えたいと思っておることを知って、まさか、おぬし、逃げはすまいな。――」
「ゆくがよい」
と、武蔵はいった。船頭に対してである。まっすぐにゆけといったのだ。彼はぬうと立ちあがった。
二つの小舟は近づいた。相手の舟は南側を、こちらの舟は北側を、その間隔を次第に詰めつつ。
「与五郎さま、武道の上のこと、恐れながらお相手つかまつる!」
と、武蔵は呼びかけた。が、彼はまだその刀に手もかけない。――
「よいかな、言《げん》や」
相手は笑った。まだ若く、実に見惚《みと》れるような気品のある美男である。そのくせ、その顔と姿に、武蔵に劣らぬ凄絶《せいぜつ》の匂《にお》いがあった。しかし、これまたいまだ剣を抜かず。――
「ここは見る者もおらぬ海の上。斬られた方は海の底。――遠慮は要らぬ」
二艘の舟は、まるで舳先《へさき》と舳先がぶつかり合わんばかりに寄って――しかし、事実は一メートルほどの距離をおいてすれちがった。とたん。――
「えやあっ」
海鳴りをツン裂く声とともに、長岡与五郎と名乗る武士の長剣がひらめいて、武蔵を薙《な》ぎつけている。――凄《すさま》じい金属音がし、閃光《せんこう》が海へ飛び散った。
実をいうと、東から来た与五郎の舟が南へ回ったのは、武蔵の舟の逃げ道をふさぐためのみならず、彼としては剣技上の兵法でもあったのだ。せめてこちらが動かぬ大地に立っていればともかく、動く舟から動く相手の舟へ飛び移って襲う、などいうことは不可能だ。力学上、飛び移って転倒せずにおれるかどうかという問題以前に、崩れた姿勢のまま空中で斬り落されるのがおちである。飛び移ることが出来ない以上、すれちがいざまに斬るよりほかはないが、そのとき、彼の舟がその側に回った方が、彼の右腕が自在に効く。
いや、それは相手にとっても同様だが、ただこの場合効くのは右腕だけといっていい。すると、刀の長い方が大地で真正面から相|搏《う》つよりも決定的に有利だ。
佐々木小次郎は三尺を越える長剣|物干竿《ものほしざお》を使ったが、与五郎の刀はなんと四尺になんなんとする「鳥黐竿《とりもちざお》」と称するしろものであった。もっとも船島では武蔵は、その巌流の長刀に具《そな》えて四尺七、八寸の櫂の木剣を使ったのだが、それは与五郎は知らない。
そして武蔵は、すでに櫂を切って、このときその木剣は握ってはいなかった。――
武蔵は受けた。太刀で受けた。が、防禦《ぼうぎよ》のためのみのその太刀は、強烈な打撃にはっしと折れた。いまの音響はそれであり、海へ飛んだ閃光はその折れた破片であった。
決してはね返されたのではなく、与五郎は舟の艫《とも》の方へ飛びずさっている。してやったり! と、目にもとまらぬ第二の襲撃を行うためであった。が、同時にそのまま彼は、ざぶうん! と仰《あお》のけに海へ落ちていた。
いま彼の姿のあった艫に、ぐさと一本の刀が突き刺さった。武蔵の小刀であった。電光石火のごとく、武蔵は左腕を以てもう一方の刀を投げつけていたのである。
武蔵は二刀を使った。
ゆき過ぎた二艘の舟のあいだに、海中の与五郎のみが残された。
武蔵が何かいい、その小舟は漕ぎとめられた。彼は折れた太刀をぶらさげたまま、海中の与五郎を眺めていた。
その舟を漕ぎ戻せば、たとえ与五郎の手に刀は残っているとしても、彼の死は必定《ひつじよう》である。
武蔵は、また何やら与五郎に投げつけた。が、あごをしゃくって船頭に何かいい、舟はそのまま、東へ漕がれ出した。そして、何事もなかったかのように、みるみるそれは、こんどはほんとうに海の碧に溶け込んでいってしまった。
あとに与五郎は、半ば死相のまま片手泳ぎに泳ぎつつ、自分の舟が戻って来る前に、さっき武蔵の投げたものをつかんだ。それは未完成ながら、あきらかに観音の木像であった。
二
長岡与五郎|興秋《おきあき》。
豊前小倉《ぶぜんこくら》四十万石の細川忠興《ほそかわただおき》の次男である。長男の忠隆《ただたか》があったので、細川の旧姓長岡を称したが、先年忠隆がゆえあって山城《やましろ》国|北野《きたの》に世捨人となったので、実質上、細川家の世子である。
母は有名なガラシヤ、その美貌《びぼう》を受けついでいるくせに、恐ろしい剣法好きであった。武勇を以て世に聞えた父の忠興でさえ、不安げに眉《まゆ》をひそめたほどである。年は、美男であるために武蔵よりはるかに若く見えるが、同年でこのとし二十九歳。
佐々木小次郎を細川家に招聘《しようへい》した蔭の力も彼なら、このたび小次郎と武蔵との決闘を計画したのも彼だ。
ほんとうをいうと、彼自身が武蔵と立ち合いたかったほどなのである。彼の刀術はたんに大名の若殿の道楽芸ではなく、剣については決して人にお愛想をいわなかった巌流が、「天下に相許すは君《きみ》と吾《われ》のみ」と表白したくらいであった。
ただ、事実上、いくら何でも彼が武蔵と決闘するわけにはゆかない。細川家の後継者であるというばかりでなく、実は近いうち彼は徳川家に対する細川家の質《ち》として江戸へゆかねばならぬという重大な義務を負っていたからだ。とうてい、そんな軽はずみな行為の出来る身分ではない。
そんなことは、子供じゃあるまいし、彼もよく承知していることと誰もが思っていた。だからこそ、小次郎と武蔵の試合だけで了承したものと考えていた。もっとも、その決闘の場を彼が見に現われなかったことはふしぎではあったけれど。
なんぞ知らん、この細川家の世子が、勝利者武蔵を凱歌《がいか》の海路に要して、これに挑もうとは。――むろん、家臣佐々木小次郎の復讐《ふくしゆう》のためではない。ただひたすらに剣名高き武蔵への闘志だけの結果だが、それほど剣法に対しての執着を断ち切れずにいようとは。――
もとより、このことは誰も知らない。
まもなく小倉の城にぶらりと帰って来た与五郎興秋は、船島の試合についての結果をきいて、
「そうか」
と、いっただけである。佐々木巌流に対する一句の弔詞すら彼は吐かなかった。ただ彼は半彫りの観音像という変なものをどこからか拾って来て、それをじいっと睨《にら》みつけていた。
それから半月ほどたって、彼は江戸へ向った。
大坂の役の起る二年ばかり前のことだが、すでに徳川と大坂の諸大名に対する事前運動の暗流は激烈をきわめ、各大名はそれぞれ脳漿《のうしよう》をしぼってその帰趨《きすう》を定めようとしていた。こういう政略には端倪《たんげい》すべからざる千里眼を持つ老獪《ろうかい》細川忠興である。彼はあえて次男与五郎興秋を江戸へ送って徳川家への忠誠を明らかにしようとしていた。
しかるに。――
江戸へ入る一歩手前で、この重大なる人質、細川家の御曹子《おんぞうし》は、なんとどこかへ姿を消してしまったのである。
「いましばし、何とぞして剣の道を学びたく」
という意味の書置き一通を残して。
三
長岡与五郎興秋が、飄然《ひようぜん》とまた小倉へ姿を現わしたのは、それから二年近くたった慶長十九年の早春のことであった。
「な、何、きゃつめが帰って来たと?」
父の忠興は仰天し、かつ激怒した。
質子《ちし》として送った世子が途中で逐電《ちくでん》する、まさに前代未聞の椿事《ちんじ》で、あのとき忠興がどれほど狼狽《ろうばい》したか、筆舌につくしがたいものがある。面目を失するというより、大御所から愚弄《ぐろう》していると見られることを恐怖したのだ。そのときはやむなく急遽《きゆうきよ》従弟長岡|重政《しげまさ》なるものを代りに立て、それに対して徳川家の方でも異議は唱えず、かつ細川家自体としても第三子|忠利《ただとし》を世子として立て、まず事は無事に落着したものの、思い出すだけでもまだ腹がにえくり返らずにはいられない。
「父上、その節は」
現われ出でたる与五郎は、恬然《てんぜん》としていった。
激怒していた忠興は、あっけにとられたようにその姿を見まもった。顔を見れば、血を分けたわが子――という、よくある感動のせいばかりではない。長大な肉体に変りはないが、痩《や》せて、垢《あか》だらけで、蓬髪《ほうはつ》と髯《ひげ》に覆われて――とにかく、汚ない。しかもその汚なさの中に一種苦行僧のような清らかさがあるのは何としたことであろう。
さて、改めて――なぜあのとき、あのようなむちゃをしたか、と問うと、
「剣法の修業がいたしとうて。ただひたすら、その思いにかりたてられてのことでござる」
と、いう。
「剣の修業ならば江戸へ行っても出来たであろうが」
「いや、それは私の念願通りには出来ますまい」
「そちの念願とは?」
「――新免武蔵を破ることでござる」
「お、あの巌流を破った――?」
そうときいて、なるほどこやつならば、そのようなこともあったろう――と、一応は腑《ふ》に落ちたような気がしたのは、以前のこの伜《せがれ》を知る父なればこそだ。それにしても、あまりにも物の軽重を知らぬ――と、改めて怒る気も失せはてて、
「それでその後は、どこで何をしていたぞ」
「は。山に籠《こも》ったり、野を漂泊したり、あれ以来のこと、一朝一夕には申しあげられませぬ」
「で、いま、何しに帰って来たのか」
と、忠興はいい、じいっと彼を眺めて、
「細川のあとは忠利がつぐことになっておる。このことはもはや大御所さまのお許しを得たことじゃ」
と、いった。
「結構でござります」
与五郎は蚊《か》にくわれたほどの表情もなかった。また、はじめからその覚悟でなければ例の脱走など出来るものではない。
「私の念願は、いま申すように、武蔵と試合すること、それのみでござりまする」
「まだ、やらぬのか」
「やれば、私はここへ帰っては来られなんだでござりましょう。二年のあいだ、いろいろとあの男について研究いたしましたが、知れば知るほど、まことに武蔵鬼神のごとく」
「で、諦《あきら》めて帰国いたしたのか」
「それが、このごろ、愚鈍ながらいささか自得するところあり、いまやれば、ひょっとしたらひょっとするぞ、という意地にようやく立ち到りました。その武蔵はいまどこにいる? 噂《うわさ》によれば九州に来ておるらしい、とのことで。――」
「はて? きいたことがないぞ」
「それがどうやら嘘《うそ》らしいと、来て見てわかったのですが、せっかく私も九州へ帰ったことでもあり、ついお懐かしゅうて立ち寄った次第でござる。いや、そう申すといささか嘘になる。なにぶん武蔵は、剣の道ひとすじを頼りにあてどもなく諸国を漂泊している剣士、かかることもあらんかと、私、数人の弟子に――は、は、私にもいまそんな弟子らしきものもあるのです――そのゆくえを探すことを依頼し、判明すればただちにこの小倉へ急ぎ知らせてくれるよう、あらかじめ申し渡して、私、帰国したわけで」
きけばきくほど、この息子の新免武蔵に対する執念には呆《あき》れざるを得ない。武蔵狂といっていい。
「狂」――
忠興はもはやこの常軌を逸した次男坊を叱責《しつせき》する元気を失い、さらにそれから、小倉の城にある与五郎を見ていればいるほど、その坐臥《ざが》するところ一種の狂風をめぐらしていることを知らされずにはいなかった。
むろん、身体を洗い、髪を整え、衣服を正させて見れば、母譲りの美貌は毫《ごう》も衰えてはいない。むしろますます研《と》ぎすまされて、寒夜の月輪を見るような観がある。
そして、強かった。
「与五郎、修業のほどを見せよ」
と、一応、思い直して命じる父に、
「いや、私の剣は相手あってのこと」
と、答える。
「しからば家中の者を相手にすればよかろうが」
「以前でさえ、私の相手になれるのは巌流のみでござりました。さて、それが、今となりましてはなあ。……」
「大きな口を叩《たた》きおる。家中の者が遠慮しておったということを考えずにうぬぼれおるか」
「私が遠慮なくやれば、相手は死にます。……いかにも巌流の元弟子にて勝負して面白げなるやつ、何人かはござれど、天下に風雲急を告げておるいま、まさか、かようなことでその者どもを細川家から失うわけにも参りますまいが」
忠興はしばし打ち案じていたが、ふと、
「青竜寺《せいりゆうじ》組はどうじゃ?」
と、いった。与五郎は、ちょっと虚をつかれた表情をした。
「青竜寺組? ははあ?」
四
――青竜寺組、それは細川家の忍び組の名であった。
忠興の亡父細川|幽斎藤孝《ゆうさいふじたか》が若いころ山城国青竜寺を居城としていた時代、隣国|甲賀《こうが》から仕入れて育成した忍び組である。もともと半公卿化した足利《あしかが》家の家臣で、それほど強大な手勢など持たなかった細川家が、足利、三好《みよし》、松永《まつなが》、織田《おだ》、明智《あけち》、豊臣《とよとみ》、そしていまの徳川と、覇者《はしや》がめまぐるしいばかりに変転したここ五、六十年、奇蹟的に生きのびて来たのみならず、次第に雄藩としての基礎をかためて来たのは、藤孝、忠興の智略もさることながら、この忍び組の縁の下の力持ち的諜報活動によること多大であった。
ただ、あくまでも影の存在であり、影の力である。また、身分も軽い。――
「あれとなら、ちょっと、やって見ますか」
と、与五郎はいった。
この試合は、小倉城内の一劃《いつかく》で、見る者は忠興とその少数の侍臣だけという、ほとんど秘密にちかい環境で行われた。三方、竹林にとりかこまれた庭であった。
「はて、あれは?」
そこに立って、与五郎はあごをしゃくった。
庭の反対の場所にかたまった三人の男――見るからに剽悍《ひようかん》な青竜寺組のめんめんに対して、ではない。そこから、ちょっと離れて坐っている一人の女に向ってである。
「やはり、青竜寺組に属するもの、登世《とせ》というやつじゃそうな」
と、忠興がいった。女は平伏した。袖《そで》の短い柿色のきものに柿色のたっつけ袴《ばかま》をつけているところはほかの連中と同様なのに、一見しただけでそこにまさしく女がいるとわかる。
「女は。――」
と、与五郎は呟《つぶや》いた。不審というより、何ともいえない嫌悪の翳《かげ》が満面にひろがった。
「困る」
「きょう病んで来なんだが、青竜寺組の頭《かしら》 袋《ふくろ》 兵《ひよう》 斎《さい》の孫娘じゃ。試合のなりゆき検分のため身代りに推参したという」
侍臣たちは、三人の青竜寺組よりも、その女の方へ眼を吸われていた。はじめて見る者も多かったのである。年は十九か二十歳《はたち》ぐらいであろう。これが忍びの者の娘かと疑われるほど雪白の肌《はだ》をして、その上、そこに大輪の花が咲いたかと見える美貌であった。
与五郎は、よんどころなし、といった顔をしたかと思うと、つかつかとひとり妙な方向に歩いていって、竹林の中に入り、そこから二本ばかり青竹を切りとって戻って来た。四尺ほどの長さのその二本を、びゅっ、びゅっと振って見て、一本を投げ出し、一本を取った。
「みな、真剣をぬけ」
と、青竜寺組にいった。
「三人、同時にかかって来い。――」
あっけにとられて彼の動きを見まもっていた三人の忍びの者のうち、一人が嗄《か》れた声を投げた。
「あなたさまは?」
「おれは、これでよい」
三人の顔色が変った。いっせいに猛禽《もうきん》のように首を動かして忠興を見る。
「――与五郎の申す通りにせい」
と、忠興がいった。わが子ながら、少し面《つら》にくくなったのだ。
「ただし。――」
峰打ちにせい、と、つづけようとしたのだが、そのとき三人の青竜寺組はまさに風を巻くといった凄《すさま》じさで起《た》っていた。同時に腰の豪刀を抜きつれた。
むろん、彼らは怒ったのだ。――二年前、佐々木小次郎が船島へ向った直後に、その屋敷の門前に青竜寺組の袋兵斎がやって来て、首を垂れてひくく経を誦《ず》していたという。それほどの老首領が、きょうの試合のために、組の中から特に選びぬいたこの道の手練者ばかりなのである。早春の日の光の中にも、めらっと黒炎のように燃えあがった殺気に、忠興までがいかんともなしがたいのを覚えて声をのんだ。
彼らがほんとうに与五郎に殺意を以《もつ》て斬りかかったのか、どうかはわからない。そんなことを判定するより何より、勝負は一瞬についてしまったのだ。
閃《ひらめ》く三本の乱刃の中を、青竹が宙に躍った。青竹と刀身の相|搏《う》つひびきではなかった。まるで鋼《はがね》と鋼そのものが発するような連続音とともに、三本の刀は三本とも叩き折られて空中に飛び散った。
「いくら青竜寺組のあたまでも」
高々とその青竹をかかげて、与五郎はにっと笑《え》んでいた。
「鉄より固いことはあるまいが?」
――まさか、刃《やいば》と竹が噛《か》み合って刀の方が折れるわけはない。真横から叩いたものに相違ないが、三本の凶刃に対してその角度から打撃するわざは超絶というしかなく、さらにそれにしても竹で鋼《はがね》を折る力に至っては何ともいいようがない。
いかな嘲語を投げられても、三人の忍びの者はただ阿呆《あほう》みたいに無防備のあたまをさらしているだけであった。見ていた忠興や侍臣たちも、茫然《ぼうぜん》として一語もない。
すっと、女が立った。
「わたくし、お相手をいたします」
といった。
与五郎は、ぽかんと口をあけた。
「女が?」
そのあいだに登世という女はゆっくりと歩いて、先刻与五郎が振って捨てたもう一本の青竹を拾い、それを下げて与五郎に相対した。
「それで、おれに立ち向うつもりか?」
「はい!」
黒い星のような瞳で答える。
「ばかな。――おれは女を相手に試合する気はない」
「与五郎」
忠興が、身をゆるがせて声をかけた。
「思い出した。その登世――剣をとっては、青竜寺組第一とかきいたぞ」
「私、そんな話は耳にしたことはありませぬが。――」
「ここ一、二年のあいだに、ふしぎにそうなったと兵斎が申しておった。――」
「ほ? いや、何にしても、女はいやでござる!」
女を相手に試合するのがいやだというより、女そのものがいやだという感じの、ちょっとだだッ子じみた、吐き出すような声であった。
「やって見い!」
忠興は叱咤《しつた》した。
観念したように与五郎は女の方に向き直り、試合の真似《まね》ごとみたいに片手で青竹をつかんですっと前へ出したが――一息、二息、その全身を愕然《がくぜん》たる緊張が、ぴいっとはりがねのようにふちどった。
「…………!」
掛声もなく、登世は地を蹴《け》り、その青竹は真っ向上段から与五郎めがけて打ちおろされている。戛然《かつぜん》! 音あり、無謀とも思われるこの一撃を、やや狼狽《ろうばい》の態《てい》ながら、与五郎は無造作に受けた。
与五郎はたしかに受けた。受けたのみならず、その刹那《せつな》、女の青竹は掌《て》からむしり取られるように強烈にはね飛ばされている。が、次の瞬間。――
「……うっ」
与五郎は、片掌を左の額《ひたい》にあてて立ちすくんでいた。その面上が苦痛に彩られた。しかも、信じられないもののように地上に眼をやり、そこに放り出された女の青竹の尖端《せんたん》がくの字形にへし曲っているのを見ると、
「や、やられた!」
きゅっと苦笑を浮かべて、押えていた掌を額から離した。そこに紫色のふとい血腫がみるみるふくれあがって来た。
登世の青竹は、受けとめられつつ、その凄じい速度のためにへし折れて、そのまま与五郎の頭部を打撃していたのである。
彼はつぶやいた。
「女。……おまえは、近来の与五郎にとって、唯一の例外であった」
五
それが唯一の例外、もののはずみ、何かのまちがいであることは、誰でも認めざるを得なかった。三人の青竜寺組に対するわざを見てはだ。
強い。驚くべき剣人となった。それは認めたが。――
一方で忠興は、帰って来たこの次男に対して、依然不安の眼を注がずにはいられなかった。それは、剣をとらぬときの彼の日常のふるまいに狂の雰囲気《ふんいき》があることだ。狂といっても、凶の気を帯びているわけではない。むしろ静か過ぎる。動かな過ぎる。何にもしなさ過ぎる。
ただ彼は一つの半彫りの観音像を机上に供えてそれを凝視している。
それが武蔵の製作にかかるものであることを、いつしか忠興も知って、いよいよ与五郎の心理に不可解の感を禁じ得ないのだが、敵意か、敬意か、武蔵に対する執念はともあれ、さてそれ以外まったく空《くう》としか見えない生活が気にかかる。いや、気にかかるどころではない。むしろ悽惨《せいさん》の気さえ催すほどで、見ていてそら恐ろしい。
――こやつ、このままでは到底無事にすまぬ。
与五郎が期待しているらしい新免武蔵との試合、それを許す気はまだないが、これを別にしても忠興にはそんな予感がした。
――しょせん、親の膝《ひざ》もとで往生をとげるやつではない。このまま捨ておくならば。
もっとも、もはや三男忠利というはるかに正常な後継者の決定しているいま、この変な憑《つ》き物のした次男にいつまでもここにおられても困るのだが、それでも忠興は、この与五郎を当分は傍にとどめておきたい、とどめておいても気にかからない存在にしたいという望みにとらえられた。矛盾はしているが親として当然な悩みである。
しかし、与五郎はいつかまた妖々《ようよう》と飛び去ってしまいそうな気がした。そして、それはとうてい自分の力ではふせげない運命のように思われた。
彼をつなぐ鎖はないか。彼を縛る縄《なわ》はないか?
「妻じゃ」
と、忠興はひざを叩いた。
いま、はじめて思いついたことではない。与五郎は、ことし三十一歳になるまで、まだ妻を持っていなかったのである。以前から気をもみ、いくどか話したものの一蹴され、ついには諦めていた、与五郎の「女ぎらい」という奇怪な習癖であった。
「おまえ、片輪ではないか」
かって、そう嘲罵《ちようば》してみたことがある。
これに対して与五郎は、一人の美しい侍女を拉《らつ》し来たってそれを全裸にして立たせた。そして自分は二メートル近くも離れて、坐って男根を現わした。父の忠興が唖然《あぜん》としたほどのたくましい巨根であった。そして、彼はその距離をおいて侍女に射精を飛ばして、したたかに浴びせ、父の方をむいて、にやっと笑って見せた。
「まだ、これで済むならば許せ申す」
と、そのとき彼はいった。
「しかし、男女の交合はいやでござるな。いかにも不細工過ぎる、大袈裟《おおげさ》過ぎる。どう考えても優雅でない」
右の遠距離射精が優雅であるか、ないかはともかくとして、彼自身の姿態はたしかに優雅であった。
「そのかたち、その動きに、馬鹿《ばか》馬鹿しいほどの無駄《むだ》がある。あの剣をとっての構え、動きに一点の無駄もないのに比して雲泥《うんでい》の差、いや、その剣の道への、肉体的力学的訓練上のさまたげとなります」
忠興は呆れ返って、それ以来、この件については二度と口にしなかったが――しかし、いま改めて、
――与五郎の狂を鎮め、その空《くう》を埋《うず》め、その羽根をとめるのは女以外にない。
と、発想ではなく決意を示す膝叩きをせずにはいられなかった。
「与五郎、妻をめとれ」
五月に入った或《あ》る日、忠興はきびしい表情で、ふたたびこれを命じた。
「私が、妻を?」
与五郎はびっくりしたような眼をむけた。
「私はいつここを飛び立ってゆくか知れませぬ。ひょっとしたら死ぬかも。……」
「されば、妻を持てというのじゃ」
忠興はたたみかけていった。
「子を残してゆけ。……おまえが、どこへゆこうと、いつ死のうと、おまえの子だけはせめて一人、細川の家に残していってもよいではないか?」
与五郎の狂風をなだめる手段として女を近づける、それが目的ではあったが、こういった忠興の言葉にはたしかに幾らかの真実はあった。ふっと、与五郎の眼にも哀切な光がともった。
が、彼は思案したのちにいった。
「しかし、武蔵は独身です」
「また武蔵か。……あのような野の牢人《ろうにん》と、おまえとはちがう」
「たしかに私とはちがう。私とはちがう鬼人の武蔵でさえ、女を断って修業をしております。いわんや、私ごとき鈍根をや」
そして、与五郎は、昔通りの――昔以上の峻烈《しゆんれつ》さでいった。
「それに、私、やはり交合というやつがぞっとせんのです」
そのとき家臣の一人がやってきて、城門に与五郎さまのお弟子と名乗る少年が到来したことを告げた。与五郎は出ていって、しばらくののち帰って来た。満面が、かがやき出している。
「父上、武蔵のいどころが、判明いたした」
「なに。……どこに?」
「こんどはめったに動きますまい。――大坂城におるそうでござる!」
六
明日にも、大坂に向って発《た》ちたい、と与五郎はいった。
それは忠興の案じつつ、予期していたことであったが、さてそれから与五郎は思いがけないことを口にした。
つまり――大坂へゆくのは武蔵に決闘を申し込むためであるが、向うはこちらの人間も身分も知っている。ただ城外から果し状を送っただけで応じてくれるはずがない。まして武蔵が大坂城へ入ったということは、そこで一旗あげようという志以外の何物でもない以上、その前に飛び入りの決闘などという軽はずみな行為をするとは思われない。それだから、その前に親しく面談して、自分の心境を説明し、もし許されるなら教えさえも受けて、さてその上で堂々と立ち合いたい。――そのためには、自分もまた大坂城入りというかたちに持ってゆくよりほかはなかろうと思う――と、いい出したのである。
そうするよりほかはなかろう――と、言ったって、父に相談しているのではなく、もう自分で決めている顔つきであったが、それでも、
「ただし、どうせ私は敗れて死ぬでござろうから、細川家の難儀にはなりますまい」
といったところを見ると、忠興の怖《おそ》れを看取していたにはちがいない。
「このわがまま、通させていただく代り、先刻のお話、やってみましょう。万障をおして、私の子、作って、残しておきましょう。そのためには、だれぞ女と交合せねばならんのでござるが、その女に注文がござる。……それ、いつぞやの忍び組の女、私をからい目にあわせたあの青竜寺組の娘、あれを措《お》いて、この与五郎の子だねを残す女はござらぬ。……」
それも、ひとり合点して、すっと立った。
「あれはいかんと仰せられるならよすほかはござりませぬが、もし、あれでよければ、今夜にもあの女を私のところへお寄越し下され。……」
そして、彼は去っていった。そんなことを提案したものの、歩きながら懐から例の半彫りの観音像を出して、口の中でブツブツ何やら唱えていたところを見ると、一念はすでに武蔵だけに飛んでいたに相違ない。――
忠興は黙って、これを見送った。与五郎のいうことを了承したわけではない。あまりにも衝撃が甚《はなは》だし過ぎたのだ。
――いま、きゃつ、まるで女の一件が自分の行為のつぐないになるような恩着せがましい口をききおったが、そんなことはとうてい代償にならぬ!
やがて彼は手を叩いて侍臣を呼び、
「青竜寺組の袋兵斎と登世、ひそかに参るように申せ。兵斎、病んでおろうと、押して出でよと伝えろ」
と、命じた。
半刻もおかず、その両人が忠興の前に両手をつかえた。
真っ白な髯《ひげ》につつまれた袋兵斎は、なお病臥中であったらしく藍《あい》のような顔色をしていたが、からだは緊張している。忠興自身が青竜寺組を呼びつけるなど、近来にないことであったから、これは当然である。
忠興は、与五郎が新免武蔵なるものと試合をするために大坂城に入ろうとしていることを述べ、さて沈痛な語調で、
「左様なことをさせては、細川家の大事となる」
と、いった。
「ただいまの天下の雲ゆきはその方らも存じておろう。わしの見るところでは、徳川と豊臣の手切れは明年をも待たぬと見る。さればこそ大坂では、さきごろから続々と牢人どもを募っておる。ここに細川家の次男坊が、それに応じて馳《は》せ参じたことが判明してみよ。……」
「…………」
「いつぞや、与五郎め、江戸へ質《ち》としてゆく途中に逐電しおった。あのときですら、わしは夜も眠れぬほど懊悩《おうのう》したものであった。倖《さいわ》い、大御所さまの御大度により、あの件はお見逃し下されて、まず無事に済んだ。が、重ねてまた、そのような――前回にまさる公然たる敵対行為を江戸に見せれば。……」
「…………」
「きゃつに、左様なことをさせてはならぬ。――そのために、その方らの力を借りたいのじゃ」
両人は粛然としたが、しかし不審な面持ちでもあった。兵斎がいった。
「殿が仰せられて、お止めなされては?」
「きゃつ、のぼせあがっておって、止めても止まらぬ。かつて江戸ゆきを逃げたほど非常識なやつじゃ。二年たったいま、なお狂の匂《にお》いの失せぬやつであることは、その方らも知っておろう」
「殿」
兵斎はくぼんだ眼窩《がんか》の奥から梟《ふくろう》みたいな眼をむけた。
「与五郎さま、狂気いたされたとして大坂へおやりなされてはいかがでござります? 江戸と大坂、いずれに天下が傾くか、まだわかりませぬぞ。……」
さすがは青竜寺組の首領だ。両方に賭《か》けろといったのだ。足利と織田、明智と羽柴《はしば》といった具合に両|天秤《てんびん》かけて生き残って来たのは、まさに細川家のお家芸である。忠興は兵斎を見て、これまた梟みたいな眼つきをした。――しかし、彼は首をふった。
「いや、天秤の目盛《めもり》はわかっておる。やはりこの際は、与五郎をとどめたい」
といって、その与五郎が出立《しゆつたつ》にあたり、細川家に忘れがたみを残してゆきたいという望みを起し、その相手に登世を選んだことを告げた。
さすがに両人は驚いた表情をした。登世に至っては、頬《ほお》を紅《くれない》に染めた。
「まことにもったいないとも、おそれ多いとも筆舌につくしがたい儀にはござりますれど」
と、ややあって兵斎は、息を切らせながらいった。
「しかし、そう簡単におんたねがつくか、どうか――いかに忍び組なればとて、それは保証出来かねまするが。――」
「子の件はさておき」
忠興はぴしりといった。
「要するに、与五郎を当分ここにとどめればよいのじゃ。登世とやら、おまえの黒髪で、与五郎をつなぎとめることは出来ぬか?」
青竜寺組の老首領と孫娘は――いや、お登世は、はじめて自分がきょうここへ呼ばれた理由を知った。両手をつかえたその姿は、忠興がそんな期待をかけたのが――そんな心を起したのが充分納得出来る妖艶さであったが、しかし彼女の顔色は、つい今しがたの血の気をひいていた。
「そ、それならば、わかり申す!」
兵斎の方が、うめき出した。
「御諚《ごじよう》、かしこまってござりまする!」
「や、自信があるか」
「登世、きいての通り細川家のおん大事じゃ。力ふりしぼって、この御用お果し申せ、果せるな?」
たたみを叩いてしゃがれ声をしぼる祖父に、登世は頼りなげにうなずいた。それをじっと見つめながら、忠興はいった。
「もし、それが成らずば……与五郎、討ち果たすよりほかはないが、万一左様な始末となれば、それも青竜寺組に頼んだぞよ」
七
「登世と申したな」
褥《しとね》の上にあぐらをかいた長岡与五郎は、ぶっきらぼうに呼んだ。ぶっきらぼうというより、嫌悪にみちた語調だ。投げている眼の光も決闘の場におけるがごとく乾燥している。
「おまえに、おれの子を生んでもらう気になった。――ふ、ふ、こんな気を起しただけでも、仏になるのが近づいた証拠かも知れぬ。――今夜一夜だけのことじゃが、しかしこういう念力あれば、おまえは必ず孕《はら》むだろう。――」
白いうすぎぬをまとったまま、登世は両掌をつかえている。いまにも灯に溶けこむ蜻蛉《かげろう》のような姿は、とうていあの日、与五郎めがけて壮絶な突撃を見せた女と同一人と思われない。
「それにしても、おれが孕ませてもよいと思う女は、おまえがはじめてであった。美しさのせいではないぞ。あの武芸なればこそじゃ。――とはいえ、おまえを見ておると」
彼はけげんそうにおのれの股間《こかん》を見た。
「かかるありさまになるのが奇ッ怪千万じゃ」
例の巨根は、凜然《りんぜん》と屹立《きつりつ》して、武者ぶるいのようなそよぎを見せていた。
「参れ!」
お登世は、もういちどひたいを畳につけたが、身を起すと、ふところから妙なものをとり出して、枕頭にそっと置いた。そこにうやうやしく安置してある例の武蔵の観音像と相対して。
のぞきこんで、与五郎は変な顔をした。やはり小さな像だが、錆びた青銅製で、いままで見たこともない不思議なものである。その顔も姿態も手足のようすも怪異をきわめているが、よく見ると、からみ合った二体の仏像で、どうやら交合して一体と化したものらしい。――
「な、なんじゃ、それは?」
「青竜寺組に伝わる喇嘛《ラマ》の歓喜仏――わたしどもは喇嘛仏と呼んでおりますけれど、男女和合の仏神でござりまする」
「男女和合? おれはおまえと和合しようと思ってはおらぬ。憎合といった方がよい。ただ子だねを残さんがためじゃ」
「そのためにも、是非これを持って参るように、祖父より申しつけられました」
一見、古怪で滑稽《こつけい》だが、凝視していると、一種名状しがたい悽惨妖艶の迫力がその仏像から立ちのぼって来るようで、与五郎は思わず眼をそらした。
「ふん、ともかくも、参れ。――」
登世は褥《しとね》に上って来た。
抱いて見ると、あえかな外見に似もやらず、驚くほどの豊満さであった。乳房はひたと吸いつき、手足は滑ってながれるようで、与五郎はこの変幻甘美な感覚に混乱した。彼女はあえぎ出し、その熱い甘い息にくるまれると、彼もふいごのような呼吸を禁じ得なかった。
「これじゃ、いかんのは」
と、彼はさけんだ。
「たかが、指二、三本ほどの肉棒を口ほどの肉穴に挿《さ》し入れるだけではないか。しかるに、この手足の構えの大仰《おおぎよう》なこと、息づかいの大袈裟なこと、この姿勢に至っては、野暮と滑稽と泥くささを極める。よく、世の芸術家――芸術的神経を持っておると信じておる人間が、かかる形態と運動に耐えられるものと思う」
そういいながら、彼の長大な肉体は猛烈に動いていた。
「それにくらべて、剣と一体化した人間のかたちと動きの力学的な美しさ!」
そのとき与五郎は、女の口からもれる歌声ともすすり泣きともつかぬ呼吸の中に、何やら妙な声をきいた。
「ア、ビ、ラ、ウム、ケン……オン、バサラ、ダ、ト、バン」
無意味なうわごとではない。呪文《じゆもん》のようである。
「バン、ウム、タラク、キリク、アク、アン、アーク。……」
その刹那、彼は全身しぼりぬかれたように放泄《ほうせつ》した。思わず、
「アン、アーク!」
と、わけもわからず合唱して。――
「な、なんじゃ、これは?」
と、彼はうめいた。
「喇嘛仏のごとく、男女合体して離れぬ青竜寺忍法の呪文でござりまする。……」
「なに?」
与五郎は、はじかれたように身を起そうとしたが、女の腰は離れない。女が腰を吸いつかせて離れないというより、まるでおのれの手足がおのれの胴にくっついているように、それは一体化した感じなのだ!
「た、たわけ、よさぬか。――」
「これは、わたしが懐胎して腹が大きくなり、生まれて来る子供の力によらねば離れることはない――そうでござりまする。……」
与五郎は仰天した。文字通り、その姿勢のままそり返って、天を仰いだほどである。天井には妖雲が渦巻いているようであった。
「うぬは……青竜寺組の分際を以て、細川の与五郎に害をなすか!」
「殿のお申しつけでござりまする。……」
「なんだと?」
「恐れながら、与五郎を離すな、と。――」
与五郎は動かなくなった。ただ、胸のみ、一息、二息ついて。――
「やはり、そうか。……父上のお考えになりそうなことじゃ!」
と、さけんだ。
「よし、あちらがかかるたわけた奸策《かんさく》を以ておれをとめようとなさるならば、おれにもそれなりの覚悟が出来た。わすれがたみを残すなどいうことはやめた。おれは、うぬを殺しても、大坂にゆくぞ!」
「殺されても離れぬそうでござりまするが、それよりも、そうなれば、殿はいよいよ以て、いかなる手をつくされても――青竜寺組の勢をあげても、あなたさまの大坂ゆきをお阻《はば》みなされるでござりましょう」
お登世はいった。
「それよりも、与五郎さま、むしろこの姿のまま御出立なされた方が、大坂ゆきのお望みを達するためによいのではござりますまいか?」
「な、なに? ば、ばか。――」
「まことにばかげた姿でござります。恥ずかしいかたちでござりまする。けれど、そうであればこそ、討手や追手をふせぐ法となるのではありますまいか?」
与五郎は判断を絶した。
「及ばずながら、登世、修業した剣法のあらんかぎりをつくして、あなたさまをお護り申しあげ、あなたさまを大坂へお送り申しあげまする。――」
お登世は匂うほど顔をあからめ、ひしとしがみついた。
「わたしは、はじめからそのつもりでおりました。……与五郎さま、お許し下されませ。わたしはあなたさまが好きなのでござりまする。……」
八
まったく驚きいったなりゆきである。
与五郎も驚いたが――その与五郎の心境にいかなる変転があったか――さて、その翌朝。
「では、拙者、大坂へ上りまする。細川家永遠に安泰ならんことを。――」
と、挨拶《あいさつ》して、宣言通り彼が小倉城を出で立ったのを見て、忠興は驚倒した。
なんと与五郎は、お登世とつながったままなのである。――袋兵斎は苦笑し、長嘆した。
「……色を以て相|叶《かな》わずば、あのかたちにしてもおとどめ申すつもりでござったが……そのままあくまでお出で立ちになるとは、いかな兵斎も思い及ばざった!」
いったいどういう具合にして衣服をつけたものか、与五郎はもとよりお登世もちゃんと衣服をつけて、野袴《のばかま》さえ穿《は》いているが、両者はぴったりと胸と腹を合わせて――その袴のひだにかくれてしかとは見えないが、あきらかに腰のあたりで結び合わされている。
背はむろん高低であるが、それを補正するために、お登世はなんと七寸あまりの高下駄《たかげた》を穿いているのだ。
本来なら怪奇滑稽をきわめた姿のはずなのだが――事実、一見した瞬間にはその通りなのだが――ふっと眼を吸われると、この一体化した男女像から、一種名状しがたい悽惨妖艶の迫力が立ちのぼっていることを感ずる。あたかも、与五郎があの喇嘛仏を見たときと同じように。
――袋兵斎の歎きがほんとうならば、従ってお登世にもこれは意外事のはずであり、それにしては高下駄まで用意していたのがふしぎといえばふしぎであったが、その時点においては判断力も昏迷《こんめい》におちいらざるを得ない超論理の合体だ。
で、その超論理のカップルが、少年の弟子もかえりみることなく、妖々と小倉から去り、やがて、|門司ケ関《もじがせき》から船に乗ったという報告を受けるまで、忠興は天地|晦冥《かいめい》の表情で、唖然《あぜん》として口をあけたまま宙を眺めていたが、ようやくここに至って、
「やるな!」
と、うめいた。
「きゃつら、大坂へやってはならぬ。細川家があれを腕こまねいて見逃したと聞えては、大御所さまに対して弁解の辞を失う。追え! 討手をかけい!」
それも、細川家の名を大っぴらに出すことさえはばかりがあると、青竜寺組から十人の討手が選び出されて、これを追撃することになった。もっともこれは、かかる事態に具えて――まさか与五郎が女と交合したまま強引に出立しようとは想像の外であったが――最初から一応は想定していたことでもある。
いかな青竜寺組も海を飛んではゆけないから、早速|十《じつ》 挺櫓《ちようろ》の早舟を仕立ててこれを急追することになる。
さて船出した当座こそ追手のないことを見すましたとはいえ、この不可思議なるカップルは――特に与五郎は楽ではなかった。
天なり命なり、修業のため女を断ち、女ぎらいという点では確信を持っていた自分が、女と交合した姿のまま、百三十里の旅に出で立とうとは!
まず、当然のことであるが、衆人環視のまととなることが閉口の極である。
「――何やあれ?」
「けったいな――夫婦《めおと》がおるやないか」
「あれ! あれ、あれしとる、あれしとる。……」
「こりゃまた厚かましい。なんぼ夫婦でも。――」
眼ひき、袖ひき、その眼をひからせ、その腕をたたき合い、舳先《へさき》の方からも艫《とも》の方からも駈《か》け集って来て、船頭が船体のつりあい上危険をさけび出すほどの騒ぎとなった。
そのうちに、
「あのようなもの、わしは以前に二、三度見たことがあるぞ。伊勢《いせ》の近くでじゃ」
と、したり顔にうなずく古老も出て来て、解説する。
「お伊勢詣りの道中の精進を誓った男がな、途中|潔斎《けつさい》の戒めを破って遊女とまぐわいしたところが、冥罰てきめん、もうなんにちも――中には十四日間、くっついたまま離れないという組もあったぞよ」
「では、ありゃ御神罰か」
「それにしても、九州を出たところでもう御神罰が及ぶとは、お伊勢さまの御威光というものは。――」
しかし、人々の眼は、決して神の冥罰を受けた罪人に対するもののようではなかった。それどころか、全身的な好意に満ち溢《あふ》れて、入れ代り、立ち代り、
「どや、何か不自由なことありまへんか」
「水でも、紙でも、何でも持て来たげるで」
と、いかにして自分の親愛感を示さんかに気をもみぬいた。
「うるさい。見世物ではない。……あっちへゆけ、下郎ども」
はじめ、与五郎は大いに気を悪くしたが、そんなことで追い切れる状態ではない。
「ほほっ」
「女といいことしてて、よくそんなに怒れまんなあ」
「わしなど、それやってたら、とてもそんな声は出んが」
「そんな声の出るほど元気があるお人やから、女とつながったまま旅が出来るのじゃな」
「ひとつ、あやかりたいから、ちょっと元気の根源あたりにさわらせてんか」
と、まったく収拾がつかない。
それはともかく、行動という点にかけては、みなが心配するほど不自由ではなかった。
少くとも、与五郎が動くとき、お登世はほとんど負担とならなかった。彼が進めば、軽やかに退がる。横に歩けば、これまた軽やかに従う。腰をぴったり吸いつけて、高下駄を穿いたままである。まるで巧みな舞踏のパートナーみたいなものだ。もとより女忍者なればこその体さばきである。
立っているときは、お登世が高下駄を穿くとして、坐っているときはどうするか。このときは、お登世は与五郎のあぐらの上に坐って、両足を与五郎の背に組むことになる。何という体位になるのか、お知りになりたい向きはその道の専門書をお調べに相成りたい。寝るときは、寝るのが目的であるから、やむなく与五郎が下になった。
「おゆるし下さりませ」
と、お登世は夜々申しわけながったが、しかしやむなくとはいうものの、与五郎はまるで柔らかい羽根|蒲団《ぶとん》でもかぶったような重みしか感じなかった。お登世は彼の肩に頬をつけて眠った。
それからもう一つ、非常にいいにくいことだが、どうしても説明しておかなければならない事項がある。それは排泄という問題であった。で、あえていうと、あるときは小さい壺《つぼ》に竹筒で水をそそいで溢れるといった状態、またあるときは母親が子供にシーシーさせるあのかたち、あの子供の向きを逆にするという方法で解決するよりほかはなく、それ以上なお詳細に述べることはこの物語の美的印象を損ずることになるので割愛させていただくことにする。
――終始一貫して、長岡与五郎はむずかしい表情をしていた。排泄作用のときは、いよいよむっとして苦り切った顔をした。
「ああ、わたしはとんでもないことをしたのかも知れません。……」
オドオドとして、お登世は詫《わ》びた。いくら詫びられても追っつかない。
「でも、わたしにも、どうすることも出来ないのでございます。……」
それは、与五郎にもわかっていた。彼自身、いかに渾身《こんしん》の力をふりしぼっても、どうしても離れないのだ。
「それが、与五郎さまをお護りする最大の妙案じゃと祖父《じじ》が申したものでございますから。――」
「なに、兵斎が?」
「はい、祖父は、何とぞしてあなたさまのお望みをお叶え申してさしあげたいとわたしにいいつけたのでござります。……」
はじめてきくことだ。
「ふうむ、あの兵斎が喃《のう》。……」
与五郎はまわりを見まわした。
このことを彼がお登世からきいたのは、瀬戸内海も備後《びんご》の鞆《とも》の港に寄ったときであった。が、二人は知っている。この船が門司ケ関を出て間もなく|赤間ケ関《あかまがせき》に寄ったとき、すでにそこからどやどやと乗船して来た十人の修験者があったことを。
そしてまたその山伏たちが、袋兵斎の手によって選ばれ、必死に先回りして追って来た自分たちへの刺客であることを。
九
なぜ細川家の忍び組首領袋兵斎が、自分の大坂入りの悲願を叶えさせようとするのか。そのくせ、なぜ一方で青竜寺組の十人を追手として出したのか。
そんなことを考えてみても無駄だ。またそのひまもない。わかっているのは、送られて来た刺客たちが、決してなれあいなどではなく、いったん命じられたことは全力をあげて遂行しようとする連中であるということだ。
そのことは、お登世もいった。
「あれは、青竜寺組の中の精鋭です」
そしてまた、こうもつぶやいた。
「あのめんめんから、みごと与五郎さまをお護りして見よ、そういっている祖父《じじ》の顔が見えるようでございます。……」
よくある山伏の一団の旅のように、彼らは普通の客のような顔をして船に乗り込んで来た。そして二、三日は、べつになんの行動にも出なかった。
「はてな? きゃつら、何をたくらんでおるのか?」
――実は、追撃隊は弱り切っていたのである。めざす二人をとりまく弥次馬たちに。
とにかくひるまはいつも人の環、人の壁、夜に入っても潮騒《しおさい》のごとくまわりをウロウロとめぐる人の波が絶えない。何か頼みがあればその用を果してやろうと、自分の善意と侠気《きようき》と情愛を示す機会をもみ手して待っているのだ。現在以上に好奇を満たすものはないはずなのに、期待は無限であった。
「だれも見ている者がなくなると、二人、妙なことをやるのやないか?」
「どうなる」
「離れる」
「そんなら、あたりまえやないか」
「離れると、二人、急によがり声を出して」
「馬鹿野郎」
――まことにお登世のいったごとく、物見高い無縁の連中が、二人にとって何よりの護衛となっているのであった。
そのことを与五郎は知らず、敵の無為を怪しんだくらいであったが、しかし青竜寺組は無為に無為の時を過していたわけではない。船は港々で水や食物を補給しながら快調に大坂へ近づきつつあり、彼らは大いに焦燥していたのであった。その結果、ついに一夜、彼らがむなしく坐視傍観しているつもりのなかったことを知ることになる。
室《むろ》の港に泊っている深夜のことであった。与五郎の上にうつ伏せになっていたお登世が、ソロリと傍の刀をとって抜きはらったのを与五郎は知った。と見るや、彼女はそのまま、その刀を逆手《さかて》にとって、ぷすう、と床に突き立てた。
「……うっ!」
床を隔てて苦鳴が与五郎の耳につたわり、何者かさらに下に転がり落ちていった気配だ。何者か――青竜寺組であることはいわずもがな、次の瞬間、与五郎の大きな背は、登世をのせたまま、わずかに右へ移動した。そのあとに白刃が空しく下からつき抜けて現われ、間髪を入れずお登世がふたたび突き立てると、第二のうめきが聞えた。青竜寺組は船底の空部屋の天井に貼りついて、下から襲撃を試みたのだ。
またも左へ移動しながら、
「さすがは。――」
と、与五郎は、改めてこのお登世がかつて彼を瞠若《どうじやく》たらしめた刀術の体得者であることを知った。狙《ねら》いのたしかさもさることながら、厚い床をまるで紙のごとくつらぬくその手練に対してである。
三番目の苦鳴が聞えて、下はそれっきり、しーんとしずまり返った。
「諦めたようでございます」
と、血刃を逆手《さかて》に握ったまま、お登世はいった。
「わたしが見張っておりますゆえ、お心安らかにお眠り下さいませ、与五郎さま」
――その夜はたしかに諦めたようであったが、青竜寺組はむろんそれっきり任務を放棄したわけではなかった。
それどころか、小倉を発して七日目。――今夜は兵庫の港に碇泊《ていはく》し、明日はいよいよ大坂につくという日の夕刻、ついに彼らはたまりかねて、人目もかまわぬ襲撃の火ぶたを切った。目的を達すれば、あと船頭や客を威嚇《いかく》して、自分たちだけ兵庫に上陸し、そのまま姿をくらますつもりで、またそれ以外にもう機会がない。
瀬戸内海が凄じいまでの夕映えに彩られた船上の殺陣がくりひろげられた。
果せるかな、襲撃者は、七人に減っている。
それが七方から、人間の機《はた》のごとくに躍って来るかけひき、その豪刀のうなりは、まさしく彼らが細川家の誇る忍び組であり、首領袋兵斎が選んだ一騎当千のめんめんであることを与五郎に認めさせた。
――いかなおれでも、一人では危いな。正直、彼は心中にそうさけんだほどである。
ただ、このとき彼には背中に眼があった。真向いに結ばれたお登世は、彼の左腕の下から背後へ首を出して、自分の右腕に剣をふるった。
「御自由にお動き下されませ、与五郎さま!」
彼女は軽快にいった。
「うしろはわたしが引受けました!」
すぐに彼は、それを全幅的に信じていいことを知った。与五郎を護るためについて来た、といった彼女の高言に偽りはなかった。高下駄を穿《は》いた彼女の足はたしかに甲板を蹴ってはいるが、まるで飛燕《ひえん》を身にめぐらしているようであった。そして、背後から襲いかかって来るやつをみごとに一刀ずつで仕止めてゆく。
後顧の憂いなき与五郎の強さと来たら、いうところがない。一念、武蔵をめざして積んだ辛酸苦行の実験をするはこのときにありとばかり、その長剣「鳥黐竿《とりもちざお》」の走るところ、夕焼けのなかに紫色にさえ見える血潮の虹がかかり、蝙蝠《こうもり》のごとく修験者のむれは海中に斬って落された。
それに、応援がまじる。
はじめ、肝《きも》をつぶして逃げまどった弥次馬たちが、やがて、
「やあ、あっちへ回ったぞ。それ腰をまわして!」
「足を踏んばり、もう一突き!」
「それ、すぱっ、すぱすぱすぱっ!」
と、躍りあがり、拍手|喝采《かつさい》し、はては手近の板やら水|桶《おけ》やらを投げたりしていたが、そのうち、みんな夢魔の世界にでもいるように眼を見ひらき、声をのんでしまった。
男女一体となって前後にふるう凄絶の双剣。それはまさに剣鬼喇嘛仏とでも形容すべき妖しき姿であった。
ただ、与五郎はときどき、彼の意志に反した怪鳥のようなさけびを発した。
この修羅図の中で、彼は三度射精したのである。あとになって考えてみると、それはお登世が斬ったときであった。そのたびごとに彼は、お登世の絶妙な緊縮によって凄じい放泄を余儀なくされたのである。――
一〇
名門の雄藩細川忠興の次子長岡与五郎興秋、大坂に入城す。
大坂方ではこれ以上はない宣伝の材料となり、また士気も鼓舞されるはずなのだが――事実は、これを発表していいか迷うほどであった。士気に至っては、上がったか、下がったか、見当もつかない。
とにかく、みな首をひねり、唖然となり、次にげらげら笑ってこれを迎えたのである。
与五郎は、もう意に介しない。彼にとって大坂城の評判はもとより、その命運すら念頭の外にあったのだ。――何よりも彼は或る人間の姿を求めた。
武蔵はいた。
――大坂の役の前後に、新免武蔵が大坂城にいた、ということは諸書によってもほぼたしからしい。吉川英治《よしかわえいじ》の武蔵年表にも、「慶長十九年。武蔵三十一歳。西軍の陣場を借り、牢人軍に参加して実戦す」とある。しかし、この間の彼の行実は甚だ漠としている。信頼すべき「大坂御陣山口休庵|咄《ばなし》」にも、応募籠城者の中に、細川与五郎(長岡与五郎)の名は出てくるけれども、武蔵の名はついに見当らない。
つまり、それほどの存在で、あったのだ。
おそらく大坂城の方でつけたランクは、その入城者本人よりも、彼の率《ひき》いて来た手勢の人数によったのであろう。真田《さなだ》六千とか、後藤《ごとう》六千とか、長曾我部《ちようそかべ》五千とか、薄田《すすきだ》二千五百とか。――
武蔵はただ一人。
おそらくほかの人間なら、他の部将の麾下《きか》に属せしめられるところであったろう。が、さすがに誇り高き彼はそれをいさぎよしとせず、実際にも孤影粛殺、城壁の蔭で憮然《ぶぜん》たる顔をして独り坐っていた。
しかし、それを見出した与五郎の眼はかがやいた。
「武蔵どの、お久しや」
武蔵は半眼にしていた眼を大きく見ひらいた。が、――
「長岡与五郎でござる」
と、名乗られて、改めて「や」という声をたてたところを見ると、最初はただこの訪問者の奇怪な姿にびっくりしたものらしい。
「あの節は。――」
と、与五郎は、いつぞやの船島後の一件をわび、それから自分が武蔵どのを目標に刻苦の修業をしたこと、このたび大坂へ来るために不本意にもかかる姿をとることを余儀なくされたこと、それもただ武蔵どのと生命をかけた果たし合いを望んだゆえであること、依然として武蔵どのを尊敬はしているが、何とぞ剣をとって自分と立ち合ってもらいたいこと――等を、涙さえ浮かべて物語り、切願した。
「わが心操に偽りなきは……これこの通り」
と、彼は武蔵から投げ与えられた観音像をそこに置いた。
しかし武蔵はどこまで彼の言葉をきいているのか、えたいの知れない顔をして、なおしげしげとこちらの姿を見まもっているだけであった。
それから、どういうつもりか、微かに身ぶるいして、こんなひとりごとをいった。
「われ……恋慕の思いに……寄るこころなし」
気のせいか、その眼が赤く充血して来たようであった。――そういう方面に頭を働かされるのは、与五郎にとって心外である。
「かかる体様ではござれど、拙者、女ぎらいの信念は変らず、わが一念はただ剣のみにあり。何とぞお立ち合いを」
いつしか彼は、自分が大名の伜《せがれ》であることも忘れている。あたかも師に対するもののごとく訴えるのに、
「……いや」
と、武蔵は首を横にふった。
「まさか、そのような姿のものと試合するわけには参らぬ」
「これで、なかなかやれるのでござる。何ならば、お眼の前でその足さばきを御覧にいれようか?」
「いや、結構。何にしても、たとえ勝ったとて拙者の剣名のあがることにはならぬ」
武蔵はうるさげに首をふった。以前から狷介《けんかい》の風貌のあった剣客だが、いっそうきびしく、傲慢《ごうまん》の気を濃くしたようだ。とはいえ、自分が武蔵であったなら、やはり同じ返答をしたにちがいないとは与五郎も認めざるを得ない。
「では、離れたら、お立ち合い下さるな?」
「離れる日もござるのか」
「されば、こやつが懐胎したら――生まれて来る子が父を押し出すそうでござる」
大まじめでいう長岡与五郎に、武蔵は苦笑して、
「そのときは、拙者も考えましょうず」
と、いった。
やや機先を制されたものの、ともかくもこれだけの確約をとりつけた与五郎にとって、ただ待たれるのはお登世の懐妊だけであった。ただ試合のためのみならず、いつまでもこうしてくっついているわけにはゆかないのだから、彼の待望は焦燥的なものとなり、お登世への要求は凶暴の気を帯びたものとなった。
「やい、早く孕《はら》め」
「は、はい。……」
「そもそもこうして武蔵どのの傍へ到着した以上、おまえの用は済んだのだ。だいいちはじめから要《い》らざる真似をしおって……いまや、足手まとい、といっても世にこれ以上の足手まといはない」
「も、もうしわけありませぬ。……」
いかに責めはたき、いかに虐待しようとも離れぬ女体を何としょうぞ。
はては、焦《じ》れて、彼は、
「おう、いつぞやの船上の血戦のとき、おまえのしぼり具合、まことに絶妙であったが、あのこつで、もういちどやってみい」
など、いい出した。
彼はそれを絶妙といった。彼にもその感覚が絶妙であったことがわかって来たのである。――そう命じられてもお登世みずからはよくわからず、それを再現するのに悶《もだ》えぬき、悶えの中に彼は絶妙の感覚に襲われて放泄した。――しかし、それは彼の切望する意味ではもはや無用であった。お登世はちゃんと身籠っていたのである。
それが判明して狂喜したのはよかったが、さてそれからの十ヵ月、それはそれとして何という新しい悩みであったろう。お登世の腹部が大きくなってくるにつれて、次第に二人はそり返って動かなければならなくなったのだ。それでも二人は離れなかった。
その間に、天下の風雲はいよいよ急を告げて、その年十月冬の陣となる。大坂城の善戦の中に、武蔵はひとり動かなかった。一、二度、手兵を与えてくれるように願い出たこともあったようだが、そんな遊兵はないと却下されると、あとはむっつりと不機嫌《ふきげん》な顔で、黙然《もくねん》といくさを傍観していた。彼に近づくのは、ただ長岡与五郎とお登世だけであった。
彼らは武蔵から教えを受けた。武蔵は剣よりも人間の道を教えた。
「世々の道にそむくことなし。……」
「身をあさく思い、世をふかく思う。……」
「一生のあいだ、欲心思わず。……」
「身を捨てても名利は捨てず。……」
「心、つねに道を離れず。……」
「神仏を尊んで、神仏を恃《たの》まず。……」
武蔵はちらっと傍に置かれている歓喜仏の方を見やった。彼は自分の観音像にはまったく何の感慨もないようすで、その代りお登世の持っている歓喜仏には甚だ興味をおぼえたらしく、しばらくそれを貸してくれといい出したのだが、どういう心境でそんなものを座右に置く気になったのか、与五郎にはわからない。とにかく彼の方は、そんなものを見るのは鬱陶《うつとう》しさのかぎりなのだが。――
遠く近くどよもす武者たちの鬨《とき》の声や酒歌をよそに、ここ、みるからに煤《すす》けた城内の一小室で、赤茶けた蓬髪の頬骨の高い剣客が重々しい口調で説法し、それを、そり返りつつも合体した男女がうやうやしく聴いている光景を、寂然と眺めているのは怪奇なる喇嘛仏だけであった。
武蔵に対していよいよ信仰を深くするとともに、与五郎は武蔵が大坂城で認められないのを無念に思った。それはひとえに武蔵に手兵のないゆえであると思った。
「細川与五郎興秋が、武蔵どのの手兵じゃ。それで充分ではないか?」
彼は力説したが、これに対して塙団《ばんだん》右衛門《えもん》という豪傑が、
「それでは新免武蔵の手兵は一人か、二人ということになるのか」
と、笑い飛ばし、哄笑《こうしよう》の渦《うず》が巻いた。
冬の陣は相伯仲して終り、いったん和議は成ったが、翌|元和《げんな》元年の春が過ぎぬうちにふたたび戦機は大坂城をめぐりはじめる。埋められた濠《ほり》を越えて、東軍の雑兵《ぞうひよう》などがすぐ城壁の下まで入りこんで、傍若無人な嘲罵や挑戦を試みはじめたのはその徴候であった。
これに対して、突如、与五郎とお登世は出撃した。実はそのころ与五郎とお登世は九十度にちかい角度でつながるばかりになっていたが、このからだで、あまりにも無礼な東軍の将兵七人を斬って捨てたのは――まったく「武蔵の手兵」の力を味方に誇示せんとした与五郎の努力にほかならない。
あまりにも凄じい剣技に、はじめ唖然とし、次には万雷の拍手を以て歓呼する大坂城の侍たちの中で、城壁の上に立って、ひとり武蔵は憂鬱そうに見下ろしていた。
二人の合体が解けたのは、その数日後である。お登世は女児を生んだ。夏の陣の火ぶたが切られたのはさらにその数日後である。そして、混乱の中に、武蔵の姿は大坂城から消えていた。
一一
「武蔵は逃げた。――」
そんな噂の中に、いま完全な一人となった与五郎は、「そんなはずはない」と絶叫した。が、それが事実であることを知ると、みどり児を抱いたお登世にいった。
「武蔵どのは、武蔵どのの真価を認めない愚かなる大坂衆に愛想をつかされたのだ。それもむりからぬこととおれは思う。ともあれ、武蔵どのはただひとり、ひたすら剣の道を辿《たど》られるだろう。おれは追う。……その道の極北で、必ず対決し、宿年の悲願を果たさずにはおかぬ。おれはゆくぞ」
お登世はうなだれていたが、やがてつぶやいた。
「わたしは残ります。身を浅く思い、欲心思わず、身を捨てても節を捨てず、世々の道にそむかないという武蔵さまのお教え通り、わたしはこの城と運命をともにいたしまする。……」
「なんじゃと?」
与五郎は虚をつかれた顔をしたが、すぐに、
「おお、おまえはおれではなく、おまえはおまえだ。勝手にさらせ。おれはおまえではなく、おれはおれだ!」
と、みずからの自由をたしかめるがごとく、地ひびきをたてて跳躍した。
「おれは長岡与五郎だ。おお、長岡与五郎は必ず武蔵に勝って見せるぞ!」
そして彼は、鳥黐竿《とりもちざお》のつかを叩いて、勇躍して駈け去った。彼のからだにも心にも、不本意にも結ばれていた女のからだや心へのみれんはもとより、生まれた子への感慨など糸ひとすじもないかのようであった。
夏の陣はわずか十日にして暴風のごとく過ぎ、大坂城は悽惨豪華な炎の中に消えることになる。
――さて、長岡与五郎はどうしたか。彼は武蔵に逢うことが出来たのか。剣鬼喇嘛仏《けんきラマぶつ》はついに大剣士と宿望の刀を交えることが出来たのか。
それは実現されなかった。すでに彼は剣鬼喇嘛仏ではなかった。それにしても、それ以前にも彼は比類ない剣客であったはずなのに、その合体が解かれたのち、いかなる変化が彼を見舞ったのか。――変化は、剣技よりもその魂に起った。
どうしたことか、落城後まだ一ヵ月もたたぬ六月のはじめ、廃墟と化したその城の跡の石にうずくまって、顔を覆ってすすり泣いている男の姿が見出されたのである。それが、大坂籠城に加担した細川家の次男坊であるとわかって、すぐに彼は捕えられて細川家にひき渡されたが、そのときも彼は無抵抗で、長い刀をだらんと下げたまま、ただ涙の浮かんだ眼で哀切なつぶやきをもらしているだけであった。
「おれのもう一人の喇嘛仏はどこへいった? おれのお登世はどこへ行った? ア、ビ、ラ、ウム、ケン、タラク、キリク、アク、アン、アーク……」
細川家の家譜には「長岡与五郎興秋。元和元年六月六日、父忠興の命により、山城国東林院において自殺す」とある。
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嗚呼益羅男《ああますらお》
一
山寺竿兵衛《やまでらかんべえ》がどうしてそんな商売を思いついたかという話からはじめる。
そもそも、遊び好きな世の若い男が働き出すのは、とどのつまり食うためと女のためで、竿兵衛もその例にもれないが、それはそれとして人間はたいていあやふやな見込みで何かをはじめ、それで飯が食え、好きな女も手に入ったとなると、その仕事に夢中になり、だんだんあとになって、その最初の目的以外の、もったいぶった哲学をくっつけるものだ。
竿兵衛に至っては、あやふやどころではない、相当にインチキな思いつきから始めたことである。すなわち「男根占い」という。――
これは彼にとって前職にあたるものだが、それがいまの商売のきっかけになり、またこれはこれで彼の或《あ》る種の才能を証明する風変りな思いつきだから、まずその話からはじめなくてはなるまい。
竿兵衛が二十九の年の秋であった。そのとき、彼は銭湯に入っていた。――銭湯といってもこれは慶長十五年の話だから、蒸風呂である。正確にいえばその蒸風呂から出て、広い板敷きの部屋で湯女《ゆな》に垢《あか》をかいてもらっていたのである。湯女は後年寛永ごろ全盛を極めて有名になったけれど、このころから江戸には、少数ながら銭湯もあり、湯女もいた。
で、その部屋には、裸の客たちが伏せた桶《おけ》に腰を下ろしてずらっとならび、大きな櫛《くし》をさし、襷《たすき》をかけた湯女たちがその垢をかいてやっていた。垢をかくとは、蒸風呂に蒸されぬいた肌《はだ》に、ふうっ、ふうっと息を吹きかけながら爪で垢をかき落すのだ。
衛生的見地から見ると、女の方からはあまり結構な仕事とは思われないが、男の方からすればなかなか結構な快楽である。――なかでも竿兵衛は、好きな湯女に垢をかいてもらっているので、うっとり恍惚境《こうこつきよう》におちいっていた。
そのとき、前で同じように背中の垢をかいてもらっている男の股間《こかん》をふと見たのである。そして、改めてその上の方に眼をやった。というのは、それが実にほっそりと美しい若衆で、しかも見るからに色|蒼《あお》ざめ、沈痛にうなだれているのに、その股間の一物は実に堂々としたふとみを持ってゆれていたからだ。
「こら、何を見とれているかい」
と、竿兵衛は首ねじむけて、小声で叱《しか》った。彼のうしろの湯女も気づいたらしい。
その若衆は一語の口もきかず、やがて去った。――
竿兵衛がもういちど風呂《ふろ》に入り、また出て来て垢をかいてもらっていると、こんどは別の男が前に坐っていた。湯女はさっきの若衆の垢をかいていたのと同じ女であった。
その湯女は、二人とも前から知っていると見えて、ほんの今しがた誰々さまがおいでになって、いれちがいにお帰りになったところだといった。――
「な、なんじゃと?」
その男は、びっくりするような大声をあげた。
「藤巻七之丞《ふじまきしちのじよう》が参ったと?」
蒸風呂の中は真っ暗だから顔を見るのははじめてだが、いままでその中で割鐘《われがね》みたいな声で謡《うた》いをうなったり、ひとりで呵々《かか》大笑したりしていたのは、その男にちがいない。髯《ひげ》だらけで筋骨隆々として、六尺を越える大兵の侍であった。
「さてはきゃつ、死支度《しにじたく》のつもりでからだを洗いに来たか!」
「えっ、あのお方が死支度? そ、それは、なぜ?」
「きゃつ、今宵《こよい》、このおれ大塔玄蕃《だいとうげんば》と果し合いすることになっておるのじゃわ!」
周囲の者が驚いて、しーんとして見まもる中に、大塔玄蕃はぬっくと立ちあがり、めざましいばかりの全身運動を試みたのち、のっしのっしと出ていった。
「ああ!」
と、二、三人の湯女が胸を抱き、泣くような声をもらした。
「お可哀《かわい》そうに、あの藤巻さまは。――」
「いや、心配するない」
と、竿兵衛がいった。
「あの豪傑の方がやられるぜ。あの方が死支度か、生きているうちに湯灌《ゆかん》を使いに来たことになる。――」
「ど、どうして?」
「今、見たんだがな。あの若衆の方の一物が、顔に似合わず立派なもので、豪傑、しきりに空笑いしていたっけが、こっちの方は、まあ見るも哀れな、みすぼらしいやつがションボリとしておった。あれじゃあ、男同士、いのちのやりとりでは若衆の方が勝つ、と占いが出ているようなもんだ」
べつにそれほど根拠があっていった予言ではない。まったくその場の思いつきのでたらめであった。――それなのに、その夕刻、そこから程遠からぬ銭瓶《ぜにがめ》橋の橋上で行われた果し合いの結果は、山寺竿兵衛のいった通りになったのだ。
山寺竿兵衛という牢人《ろうにん》は、根相《こんそう》を見て、果し合いの勝敗の占いを立てる。――
そんな噂《うわさ》が、そのときから拡がった。
と――それから間もなく、四、五組の決闘者がいぶせき彼の浪宅に現われたのである。それぞれ、根相を見て、近くやることになっているおたがいの果し合いの勝負を占ってくれという――とにかく、殺伐な時代ではあった。
で、占ってやった。――
その第一組第二組は、常識通り、人相も根相も強そうな方に軍配をあげたら、その通りになった。当り前である。ところが第三組は、いつかの藤巻七之丞と大塔玄蕃ほど極端ではなかったけれど、人相と根相の逆になっている例がやって来たので、その通り根相のすぐれている方を勝ちだと認めたら、これは体格のいい方のやつが勝ってしまった。――
そのときは、
「いや、あれはおれが勝つといった方が、前夜の晩、前祝いのあれが過ぎたのじゃ」
と、照れかくしにごまかしたところが、ほんとうにその男が決闘前夜、若い妻と四回も交わったということがあとでわかった。その若い妻が詰問に来たので何とか弁明しているうち、苦しまぎれにふとカマをかけて見たら妻がそう白状したので、彼は居直っていったものだ。
「一回にしなされよ。二回以上に及ぶと根相が衰えますぞ、と、こんこんと申しあげたつもりじゃが」
それで、知る者のあいだでは、彼の名がかえってあがったようである。
第四組、第五組は、人相根相とも甲乙たりがたく、どうしてもよくわからなかったので、閉口しながら心中にサイコロを投げていいかげんに決めた。すると――貴公が勝つ、といった方が、ほんとうに勝ってしまったのである。
偶然か、それともお前が勝つといわれ、お前が負けるといわれた人間が、当然それぞれ意気込みの優劣となってそんな結果を呼んだのかわからない。とにかく、相当あやふやであった竿兵衛は、これで変な自信を持つようになり、牢人以来模索していたおのれの生業を、やっと発見したように思った。
二
ここのところ、しばらく戦《いく》さはないようだが、西の大坂城とこの江戸と、永遠に両立しそうもないということはだれにもわかっていて、その日の大動乱に備えて両家をはじめ各大名が、着々と牢人などを召し抱えるのに一生懸命な時代である。このときにわざわざ扶持《ふち》を捨てて牢人する山寺竿兵衛みたいな例はちょっと珍しい。
彼はもともと武州《ぶしゆう》三万石|大久保石見守長安《おおくぼいわみのかみながやす》の家来であった。それが考えるところあって、三年前に牢人となった。――のちになって、大久保家が改易《かいえき》になったとき、「ふむ、おれはあのときからキナ臭い予感がしていたのだ」と彼は鼻をうごめかしたが、これは大変なしらばくれであって、ほんとうのところは、武士をやっていてもとうていウダツがあがらない、いまの扶持では美しい女を女房に迎えることも難しい、大禄をもらうにはいのちをかけた戦功をあげなければならないが、そんな能力はてんでないし、だいいち命を失ってしまっては元も子もないと侍奉公に見切りをつけたからであった。
大久保家は、主人の石見守長安その人が、猿楽《さるがく》師から鉱山《やま》師となり、ついに徳川家の蔵相といって然《しか》るべき地位についた人で、その肌合いも武人というより経済人に近く、家中の雰囲気《ふんいき》も他家にくらべて何となく商人的な気風があったが、それにしてなおかつ、竿兵衛がおいとま願いの意志を持ち出して相談したとき、
「ふむ、その方がよいかも知れぬな」
と、重役があっさり許可してくれたところを見ても、いかに彼が武家奉公には不向きな人間であったかがわかる。
実は竿兵衛は、自分が侍向きでないことは承知していたが、一方では主人の人生コースに甚《はなは》だ共鳴するところがあり、自分も同種の才能があると自負していたので、或《ある》いはそれを見込んで自重を求められるかとも思っていたところ、拍子ぬけするほど簡単に巷《ちまた》に放り出されたので少なからず狼狽《ろうばい》した。
侍としてはまず劣等に属する体格といっていい。やや常人より背低く、むしろ肥っている方なのだが、その肥り方がぶよぶよして、見た目も大儀そうである。事実、十間も走ると足がついてゆかずきっと転んでしまうのだから、武芸の鍛錬など出来はしない。運動神経がにぶいから運動不足でいよいよからだがぶよぶよする。顔は、唇《くちびる》厚く鼻ひくく、大変な下がり眉《まゆ》で、十七、八の女の子が見ると必ず噴き出すといったユーモラスな御面相である。――
さて、こういうわけで牢人となった山寺竿兵衛で、はじめはやれやれと思っていた。大久保長安さまほどにはゆかなくても、上方にやはり徳川の侍であることを捨てた豪商|茶屋四郎次郎《ちややしろうじろう》みたいな存在もあるし――いかに控え目に見ても、それまでの扶持にくらべて倍くらいの稼《かせ》ぎ口はすぐあるだろうと考えていた。
ところが、そうはうまく問屋が下ろさなかったのである。侍時代、いろいろと夢みていた儲《もう》けるアイデアは、片っぱしからいすか[#「いすか」に傍点]のはし[#「はし」に傍点]と食いちがった。そもそもどんな商売でも、侍以上に汗水たらし、ときにはいのちがけでなくては大儲けなど出来ないものらしかった。
そのあてはずれの失敗|譚《だん》をいちいち書いていたらきりがないから略する。要するに彼は、ここ半年くらいは粥腹《かゆばら》をかかえて茫然《ぼうぜん》と日なたで髯をぬいているような日が多い状態であった。
そのくせ、銭湯にゆくのは生意気だが――湯女つきだからこれは一種のぜいたくである――実は、その前或る武具商人の走り使いをして、ちょっと小金が入ったのだ。そして今度に限ったことではないが、小金が入るとその銭湯に駆けつけるのが彼の唯一の生甲斐《いきがい》であった。そこに彼の惚《ほ》れた湯女がいたからだ。
つまり、例の果し合い前の武士の男根くらべなどやり出したときに彼の垢をかいていた湯女だが、年は十八で名はお蝋《ろう》という。
右に述べたような肉体を持ちながら、竿兵衛はなかなかの女好きで、その上甚だ面食いであった。そしてお蝋は彼の好みにもぴったりと来る――湯女には珍しい臈《ろう》たけた感じの美貌《びぼう》の持主であったのだ。
この女を手にいれることこそ、彼の夢想であった。たかが湯女、といってはいけない。湯女にはちがいないが、このお蝋には相当の武士や町人が是非|妾《めかけ》にと望む口がひきもきらずと聞いている。――まして自分の現状を思うと、これは難関だ。
ただ暮しの現状だけではない。顔を考えるとことは絶望的で、そのことは彼自身|馬鹿《ばか》ではないからよく心得ている。だから、そのとき根相|云々《うんぬん》といったのも、実はそれにお蝋の注意をひきたい下心があったからで、それだけが彼の滑稽《こつけい》味を帯びた肉体的特徴の中で唯一の自慢の――多少、からだに似てぶよぶよしてはいるが――ものであったのだ。
さて、右のような偶然のことから、彼はおのれの生業をついに発見した。――
と、いっときは膝《ひざ》をたたいたが、それは少し早合点であった。あれ以来、相ついで四、五組の客が来たからこれはと意気込んだが、その後期待したほどの客はないのである。
彼はすぐにその理由に思い当った。殺伐な時代だから江戸で毎日、果し合いの一つや二つは行われているだろうが、果し合いの前に敵味方が仲よく男根をならべて見せに来るなどというケースはそんなにあるものではない。――
そこで、急遽《きゆうきよ》占いの範囲を拡大した。失せ物、待ち人、走り人、男女合性善悪の考え、などいうのがふつうの売卜《ばいぼく》者のレパートリーだ。この中で彼の男根占いで扱えそうなのは残念ながら男女合性だけであるが、それに、この商いはうまくゆくか、おれは将来出世をするか、今の病気は癒《なお》るか――つまり商い占い、出世占い、病気占い、などを追加して、長屋の軒下に、「おん占い、竿根《かんこん》堂」という提灯《ちようちん》をぶら下げた。
――考えてみると、これは現代の男性雑誌の目次とだいたいそっくりではないか?――当らないはずがない。やがて、客足がのび出した。
むろん算木や筮竹《ぜいちく》ではなく、以前主君の石見守から何かのはずみで頂戴《ちようだい》したイスパニア渡りの小さな天眼鏡と、大久保家をやめるときにどこからかちょろまかして来た金の扇子と、手製の羽帚《はぼうき》が商売道具である。
客の男根をその金の扇子を半びらきにして載《の》せ、うやうやしく天眼鏡でのぞきこむ。やおら羽帚でしずかに撫《な》でると、それはむくむくと膨隆しはじめる。で、その形、色、つや、長さ、ふとさ、くびれかげんに血管の怒張案配、なかんずく起立力の強弱――これらを綜合《そうごう》して、重々しく、もったいぶった御託宣《ごたくせん》を述べる。
「ほう。……このお若さは何十代でござるな」
と、相手の年より一世代ほど割引いてよろこばせるのをはじめ、だいたいにおいて七、八割は希望に満ちた診断を下してやり、あと、二、三割は不安のふしもあることを婉曲《えんきよく》につけ加えておく。相手がどうなろうと、「だから――」と、あとで逃げ口上を作っておく新興宗教と同じ――いや経済評論家と同じ手だ。
何とでも能書きを述べ立てるデータに不足はない事柄だが、それに加えて次のような理念を高くかかげるのが新しいところで、山寺竿兵衛なればこそだが、こうなるといよいよ以《もつ》て現代評論家くさい。
「考えて見さっしゃれ、およそ人間のからだのうち、五臓六腑《ごぞうろつぷ》は知らず、手がなくなっても眼がなくなっても鼻がなくなっても、あと子孫を残すに別状はござらぬ。いや五臓六腑でさえ、そのことには関係はござるまい。ところがこの魔羅《まら》なるもの、わずか三寸の突起物を失っただけで――その及ぶところ、この地上から人類が死絶えるのでござるぞ。この世の男すべてが、もしことごとく魔羅を失ったとすればじゃ」
いかにも深刻げに、大きな頭をかたむけていう。
「されば人間のからだで、これほど重大なものはござらぬ。ただ当人の生死《いきしに》を超えて、ひろく人類の滅亡にもかかわるという。これほど軽きこと鴻毛《こうもう》に似て、これほど泰山のごとき大いなる任務を担っておる道具はござらぬぞ。……」
こんなことをいうときの竿根堂の顔は、元来がユーモラスなだけにかえって怪奇味を帯びて不思議な厳かな雰囲気を醸《かも》し出す。
「すなわち、これこそその人間の人生のみならず、過現未の運命をつらぬく原動力の肉棒でござる!……おわかりかな?」
「わ、わかり申す、わかり申す!」
みながくがくとうなずいて、おのれの眼下に同様にがくがくとあまり原動力らしからず、うなずく肉棒を、しかし今までに知らなかった神秘壮大なもののごとくに俯瞰《ふかん》し、帰ったらすぐにその前で香でも焚《た》きたくなるほどの思いにかられるのであった。
ともあれ、竿兵衛の生活はこれでやっとめど[#「めど」に傍点]がついた。
客がちょっと途絶え、占い料が手に入ると、彼は一目散に銭瓶橋の湯屋に駆けつけた。胡瓜《きゆうり》や茄子《なす》ばかり眺《なが》めていて花を見るように、湯女たちは以前にも増して彼の眼を強烈に愉しませた。
彼がお蝋をくどくのに、加速度的な熱を加えたことはいうまでもない。
女性の心をとらえるのに、容貌や肉体や富や才能より、これただ熱情にまさるものはない――というのが、山寺竿兵衛ではない、作者の案外単純な考えであるが――その通りのことが起った。
身分ある武士や大町人からの誘惑も多かったお蝋が、ついにこの滑稽な顔をした牢人易者山寺竿兵衛になびいて、こっくりしたのである。彼の女房になることに。――
「かたじけない、かたじけない!」
占いの客に対しては相当にひとを食っている竿兵衛が、涙をこぼした。
「誓う。おれは誓うぞ! おまえを必ず、そこらの町人の妾などには万々|勝《まさ》るぜいたくをさせてやることを!」
三
たんなる結婚前の盲目的な誓いとか、結婚直後の感激のあまりのうわごとではない。感心なことに竿兵衛は、その通り新妻に献身した。
彼にとっての夢想が実現したのだ。有頂天にならざるを得ないではないか。――
竿兵衛は死物狂いに働いた。そして京の呉服物や長崎の南蛮渡りの装飾品など、身分不相応なものを金に糸目をつけずに手に入れて、若い妻に与えた。いくら与えても、与えたりないような気がした。
また実際、金に糸目をつけずにといっても、せいぜい巷《ちまた》の占い師である。たかが知れてはいる。――彼は切に切に商売繁昌を祈ったが、さすがに自分の根相で商い占いをやるほど愚かではなかった。それよりもっと現実的な繁昌の法を考案した。
根相占いの場にお蝋を伴うことにしたのもその現われである。
「……客のあれを、じいっとのぞいてじゃな。口をあけて、三回大きく呼吸《いき》をして見せえ。それから感に耐えたように、うっとりと眼をつぶるのじゃ。……商売のためじゃ、頼むぞよ」
その演技をつけたら、客に効くこと羽帚の比ではないことを発見したが、実はそこまで竿兵衛も計をめぐらしたわけではなかった。ただ、もっと評判を呼び、客を呼ぶことを考えてのことであった。
美女がおのれの男根を凝視して、深呼吸をし、恍惚と眼をとじる。――この儀式はしかし、現代でのあらゆる原始的な手練手管を弄《ろう》しての媚術《びじゆつ》よりも、ひょっとしたらもっと高度な――能の世界にも似た――快楽を男性に与える方法であったかも知れない。
俄然《がぜん》、果せるかな、客はふえた。なかには、一日おきに占いを立ててくれといって通って来る男さえ、数人ならずあった。
「いや、あなたは先日拝見した通り。……」
と、いいかけると、
「士は三日別るれば、すなわちまさに刮目《かつもく》して相待つべしという。おとといのあれとは面目一新しておるはずじゃ。新鮮なところを、是非見てくれ」
と、せがんできかない。――
ただ、こうして客寄せの工夫を凝らしたものの、あきらかに自分の及ばないと思われるものには、妻を出さなかった。たまたま、たいしたことはないと見ていたものが、起立すると意外に壮絶の相を呈するものがあって狼狽することもあったが、このときは必ずその客が帰ったあとで、その色とかつや[#「つや」に傍点]とかそり加減などにケチをつけた。
「見たか、ああいうのをウドの大木という」
とか、
「人間の気稟《きひん》は、顔よりも根相にれきれきたるものがある。一見、雄大と見えるが、心眼を以て観《み》ればその下品《げぼん》の相は争えぬ。……」
とか、――これはこれで、なかなか神経を使わなくてはならない。
もっとも、そもそもこういうことをやるのは、竿兵衛が或る種の自信を持っているからである。どういうわけか彼はおのれのそれに対しては、客観的な判断力を失っているようであったが、だいたい自信とはそういうものである。人は必ず少なくとも何か一つの自惚《うぬぼ》れを持っており、文字通り自分が自分の何かに対して惚れているのだから、他人はどうすることも出来やしない。
むろん、竿兵衛は、その自信あるものに全力をあげた。湯女をやっていただけに、残念ながらお蝋は処女ではなかったけれど、まだ開花していないようなところがあって、それが竿兵衛にいよいよ先の愉しみを抱かせた。とにかく、こんな若い、こんな美しい肉体が自分の自由になるとは望外のことだけに、彼の、客観的に少々ぶよぶよした一物は、そのままとろけて、全身をかけめぐるようなうれしさであった。
それにしても、先の愉しみはともかく現在としては、十一年下とはいいながら、彼女があまり稚《おさ》ない感じなのが、ますますいとしい一方で、何やらおぼつかなくもある。性的の面のみならず、何を買い与えてやっても、湯女のころ人から物をもらいつけていたせいか、あたりまえのような顔をしている。――竿兵衛から見ると、湯女あがりらしくもなく、おっとりしている。
それが彼の或る焦燥感をいよいよ刺戟《しげき》した。
何か一発、もっと儲ける法はないものかな。――
巷の占い師などという個人作業は、現代の作家みたいなもので、いかに精を出して見てもその収入は知れたものである。やはり、人を使わなければならない。人を使うということは、要するに人に十働かせて七、八の報酬しか与えず、その二、三を労せずして使用者が懐に入れる仕組みになっているということで、多く人を使えば使うほどそのピンはねは多くなる。
しかし占い師などいうものは、これまた作家とおんなじで、特に竿兵衛のごとく特別製の占いを以て売り出した者は、弟子を使ってやらせたとしても――その後、客の応接用に十三の小僧を傭《やと》ったが、これは問題外である――客の期待にそえるものではなく、へたをすると、彼自身の存在価値を失わせてしまうおそれがあった。
そこに妙な話があったのである。
山寺竿兵衛がお蝋を女房にしてから約一年ばかりたった慶長十六年八月。――
四
その年の八月、山寺竿兵衛のところへ大久保家からひそかに使いが来て、以前彼が奉公していた江戸屋敷に参上するようにということであった。
「はて?」
元《もと》主家の面目をけがしたなどという咎《とが》めではないか、と、いささかぎょっとして、おっかなびっくり罷《まか》り出ると、迎えたのは、いつか彼をあっさり馘《くび》にした例の重役であったが、そのほかに十二、三人の見知らぬ――大久保家の人間ではない顔が、同じ書院にずらっと並んでいた。
「暑いところをわざわざ呼んで、大儀じゃ、竿兵衛」
と、重役はいった。
「その後、変りはないか。――といいたいところじゃが、おぬし、異能を発揮してなかなか盛業中であるらしいな」
やはり、知っている。――唾《つば》をのんで、ともかくも答えた。
「いや、お恥ずかしき次第で」
「その話はの、実はここにおわす方々から耳にしたことじゃが」
「その方々は?」
「お旗本衆――というより、柳生《やぎゆう》一門の衆と申した方がよかろうか」
道理で先刻、顔よりもまず何やら凄絶《せいぜつ》の気が迫って来たわけだ。しかし、柳生一門が何のために? と、およそそんなものとは一番縁のない竿兵衛はいよいよ恐慌を来たした。
「おぬし、男根を見て果し合いの勝敗やら、事業の成否やら、いのちの吉凶やらを占うそうじゃな」
「はっ。……それが、汗顔のいたりながら、実は口から出放題の――」
「いやいや、謙遜《けんそん》は無用。なかなか以て馬鹿にはならぬらしい――と、この方々のお話じゃ。なに、べつにこの方々の中におぬしの占いにかかった人はないようじゃが、いろいろ調査の結果、或る程度信じられる、と柳生一門|錚々《そうそう》の剣士連が申される。そこで、わしを介しての御依頼じゃが。――竿兵衛、近う寄れ」
重役はさしまねいて、思いがけないことをいい出した。
「さんぬる六月、出雲《いずも》の堀尾中《ほりおなか》 務《つかさ》 少《しよう》 輔《ゆう》どの、肥後《ひご》の加藤《かとう》肥後守どのが他界なされたことはきいておろうな?」
「さ、左様でしたかな」
商売と女房に夢中のところであったから、このごろとんと天下のことなど風馬牛《ふうばぎゆう》だ。
「堀尾どのは元|豊臣《とよとみ》家三中老のお一人、肥後守どのはいうまでもなく豊家第一の御勇傑、これが、今という時点にあたって幸か不幸か相ついでこの世を去られた」
今という時点、といったのは、江戸と大坂の風雲いよいよ急を告げている今という意味だろう。なるほど堀尾といえば堀尾茂助|吉晴《よしはる》、故|太閤《たいこう》が中老に任じたほどあって重厚の性だが、有名な清正に劣らぬ大豪の人でもあるという。
「一見、徳川家にとって大幸のようじゃが、それがそうではない。むろん両家ともに内部に徳川方、豊臣方の士を抱えておる。それを主人が大過なくぴたりと抑えて、さればこそ|関ケ原《せきがはら》では両家ともに東軍側に立ったのじゃが、その眼力|具《そな》えた重石《おもし》が忽然《こつぜん》消えたとあれば、たちまち内が二つに割れるのはあたりまえ、げんに今、両家とも一触即発《いつしよくそくはつ》の雷気《らいき》を孕《はら》んでおるそうな。――竿兵衛、これは秘密じゃぞよ」
大久保家の重役は声をひそめた。
「そこでこの柳生衆、のちのちの禍根を断つためにひそかにこれより肥後と出雲へ参られて、それぞれの藩中で豊臣派の主だった指導者を始末されるそうな。むろん、斬ったのは、同じ藩中の者と見せかけて」
「……ふわ、ふわあ」
竿兵衛は奇妙なあえぎをもらした。何と合槌《あいづち》打っていいかわからない。
実にどうも、おっかない話だ。話そのものもこわいが、そういう話を自分に聞かされるということがいっそうこわい。――そんな話とかかわり合いたくないから牢人したというのに、なぜ? なぜ? なぜ?
「ところで加藤、堀尾ともに天下に武勇を以て知られた家、決して容易な仕事ではない上に、仕損じてはかえって徳川家に害をなす。――そこで、おぬし、この方々とともに肥後、出雲へいって。――」
「えっ、肥後と出雲へ」
「暗殺決行の前夜、明日の吉左右《きつそう》を占ってもらいたいとのお頼みじゃ。いや、用件はそれだけで、決しておぬしに危い目は見せぬ」
「ふわ、ふわあ」
「迷惑とは思うが、いやとはいわせぬ。そのためにこの方々は、直接おぬしではなく、大久保家を介して頼みに来られたのじゃ。いやなどいうどころか、この秘事、漏らしただけでも斬る」
周囲に、しーっと剣気が張りつめたようであった。
「いま牢人しておるとはいえ、元は大久保家の禄を食《は》んだ者、七たび生まれ変っても徳川家への御恩は忘れてはならぬはずじゃ。承諾してくれることと信じて、礼の先払いしてとらせる。これよ」
手をたたくと、家来が盆に白い包みを盛って現われた。
「大判三十枚をつかわす。おぬしがいまは表面徳川と縁のない牢人と思えばこその心づかいであるぞ。受取れ」
「ふわ、ふわ、ふわあ」
こんどの怪鼻息は少しそれまでの音調とはちがっていた。大判とはいうまでもなく慶長大判、合わせて三百両になるが、――竿兵衛は易者で相当あくどくかせいだつもりだが、その報酬としてこれまで大判など一枚も見たこともない。
いかなる意味でも、いやも応もなかった。顔色|蒼醒《あおざ》めて彼は帰宅し、放心状態で、二、三日中に西国に旅をする、と伝えた。わけを聞くお蝋に、
「仔細《しさい》あってゆくさきも目的も口外を禁じられておるが、きっと無事に帰還いたすぞよ、きっと、きっと!」
と、いっているうちに、不覚にも彼は泣けて来た。
泣きながら、竿兵衛は包みをひらいた。中から目を射るような山吹色の、三十枚の慶長大判が現われた。
「大久保家より拝領したものじゃ。泥棒《どろぼう》して来たものではないぞよ」
「いったい、どうなされたのでござんす!」
「されば、そのわけは申せぬことになっておるが、何にしても、ただおまえをよろこばせようと思うてのこと。――」
と恩に着せかけたが、お蝋が恐ろしそうに大判を見つめたきり、手も出さないのを見て、
「喃《のう》、そのような金じゃから、安心して使え。いや、おまえによろこんで使ってもらわねば、わしがいのちをかけて御用を承わった甲斐がない。……」
と、その肩を抱きよせ、乳房に大判の一枚をあてがって、ちょっと見得を切った。そして心の中で、こんなポーズをしている自分をほかの誰かに見てもらいたくってウズウズした。やや心が明るくなった。おう、そうじゃ、この可愛い女房のためなら、なんで人殺しの旅が辛かろう?
その夜、竿兵衛はお蝋と三回交わった。
むろん、しばしの訣別《けつべつ》を悲しむ熱情のせいもあるが、またお蝋がはじめてといっていいほどの燃え方をしたせいもあった。――そして、この夜を境として若い妻は、肉体のみならず精神的にも成熟の一飛躍をとげたようであった。
彼が出立の朝、かちぐり、昆布《こんぶ》、打鮑《うちあわび》など、武士の出陣としての祝いの膳部が用意されていたのだ。何とまあ、どこから学んだか、この湯女あがりの女が。――
「おう、出かした!」
竿兵衛は思わずさけび、弟子の小童|丁松《ちようまつ》が見ている前で、われを忘れてお蝋に接吻《せつぷん》した。そして祝いの朱盃をあけたのち、一本の短刀を丁松に渡して、
「丁松! おれの留守中、これを以て、死ぬ覚悟で奥方を護《まも》れ、よいな?」
と、叱咤《しつた》した。妻を奥方といったことに、彼はついに気がつかなかった。
さて、かくも勇壮に、はるばる肥後と出雲に向って出で立った刺客行であるが――彼のお役目は男根占いである。
肥後と出雲での柳生剣士の暗殺行為は、実に素早くみごとに行なわれた。その詳細はこの物語の主題ではないから割愛するとして、それよりも、この任務遂行前夜における「竿根堂」の占いであるが。――
それが、ほぼ的中してしまったのである!
加藤家では七人の刺客が潜入して二人が死んだ。そのうちの一人は、前夜竿根堂が、「あなたさまは御用心なされた方がいい」と、おずおずいった剣士だったのだ。堀尾家では六人の刺客が潜入して一人が死んだ。このときは竿根堂は全員大丈夫と保証したのだが。――
むろん敵中に屍体《したい》を残すなどということはしなかった。それはほかの生存剣士がかついで来て、途中然るべきところに埋葬したのだが、このとき妙なことをやった。
それぞれの国を逃れ出たあとで、剣士が懐中から袱紗《ふくさ》の包みを出して竿兵衛に見せたのだ。その包みの中には、死んだ仲間から切り取った男根が入っていた!
「おぬしは危い、といわれた男の遺言でな」
「ひえっ」
「もしおれが討たれたら、おれの一物を切って女房にとどけてくれ、といったのでその通りにしたついでに、当らなかったやつのそれも切って来たのじゃが」
「ふわっ」
「いや、おぬしを責めはせぬ。大丈夫といってくれたやつはたいてい大丈夫、危いといわれた一人がまさにやられたので実に驚きいっておる。それで、この危いといわれた男根のどこが危いか、また大丈夫といわれたのに落命した男根はどこでまちがったのか、もういちど説明してくれい」
――実は、それこそあてずっぽうなのである。竿根堂としては全員大丈夫とお世辞をいいたかったのだが、それでは自分がわざわざつれて来られた甲斐がないような気がしたので、恐る恐る一本にだけ首をかしげて見せたに過ぎない。
しかし、こういわれると解説せざるを得ず、彼は必死に解説した。それくらいの講釈の知識はさすがにもうたくわえていたし――ひたいに汗を浮かべてしゃべっているうちに、当った一本は、ほんとうに自分でも確信があったような気がして来たから不思議である。
それはそれとして、このときから彼は頭の奥に何やらチカチカとアイデアの光が明滅しているような気がして、自分でもいらだたしくなったが、それが何であるか、どうしてもわからなかった。
それが、帰りの道中で。――
「いや、やはりいかん。とうてい保《も》たん」
と、柳生の剣士の一人が、紙包みを次々に捨ててゆくのを見るに及んで、はっと気がついた。むろん柳生組は、江戸に持って帰ろうとした戦友の遺骨――いや、「遺根」が腐敗したので持て余したのだが、そうだ、おれの頭に浮かんでいたのはこのことであったのだ、と思い当ったのであった。
柳生の剣士連はうす気味悪いことを話し合っていた。
「こりゃ骨も残らんで、魚より始末が悪いの」
「うむ、女房どのが何よりありがたがると思うたがなあ」
さて、山寺竿兵衛は三ヵ月半ぶりに無事江戸に帰還した。
その当座は、やれやれ命があったと胸|撫《な》で下ろし、二度とあんな御用は御免だと考えたことはいうまでもないが、さてそれから以前のように占い商売の日常に戻って見ると――このときの体験が異様な甘美さを以てよみがえって来た。
おぬしは危い目には逢わせぬ、と刺客たちは保証してくれ、実際その通りであったけれど、とにかく人殺しに他藩に潜入するのだから、彼なりにひやひやすることもあったのだが――それにしても、慶長大判三十枚とはほかではめったにありつけない報酬だ。
しかも、何という貞女に成長したものであろう。女房のお蝋はその慶長大判を神棚《かみだな》に祭って彼の留守中、一指も触れようとはしなかったのだ。それのみか、帰還後、お蝋はいちだんとなまめかしくなって、その鮮烈な印象というものは。――
と、こういうことを考えると、竿兵衛はごくりと生唾をのみ、また、ああ、と吐息をつかないわけにはゆかなかった。女房はたしかになまめかしくはなった。が、あの刺客行の前後におけるお蝋の魅惑の鮮烈さにはついに及ばない。それは、自分の責任でもなければ彼女の責任でもない。ああいう事態でなければほかに望むことのできない感激と昂奮《こうふん》の経験なのだ。――
かくて、そのころから山寺竿兵衛はまた大久保家のまわりを、舌で唇をなめながらウロウロするようになる。例の重役のところへ、べつに呼ばれもしないのに、お土産《みやげ》など持って出入するようになったのだ。
――また、いつかのような御用はありませぬかな、と。
それが、あったのだ。また慶長十七年夏。
五
その年の五月、肥前日野江《ひぜんひのえ》の有馬《ありま》修理太夫|晴信《はるのぶ》が切腹を命じられ、同月、会津《あいづ》の太守で故|蒲生氏郷《がもううじさと》の子たる飛騨守秀行《ひだのかみひでゆき》が死んだ。
前者は徳川家に陰謀を企んだとの嫌疑《けんぎ》によるものであり、後者は「稟性《ひんせい》残忍、刑に処する者或いは釜《かま》に投じ、或いはこれを焚殺《ふんさつ》す」と伝えられた荒大名で、いずれも死後、その家がどうなるかと危ぶまれた家であった。そうなると、有馬家、蒲生家、苦しまぎれにその向背は逆睹《ぎやくと》しがたい。――
そこでまた前年と同様のことが起ったのだ。すなわち、両家ともにその内部で反徳川の志を抱く分子を始末するという。――
山寺竿兵衛にまた密命が下った。
それが、意外なことに、こんどは大久保家ではなく――石見守長安とならんで大御所さまの大謀臣といわれる本多佐渡守《ほんださどのかみ》であったので、彼は仰天した。いって見ると、用件は同じであった。佐渡守は、柳生から前の話をきいたらしい。しかし、彼が派遣しようとしているのは、柳生一門ではなく、小野《おの》派一刀流の剣士これまた十三人であった。
佐渡守はしぶくて、報酬は慶長大判十枚しかくれなかった。その上、いよいよ難しいことを要求した。
「そちの男根占いで、危いと見たやつは出すな。そのためにその方を頼むのじゃ」
これは大久保家以上に拒否の出来ない相手であった。
さて、目的の国へいって、それぞれの前夜、ずらっと並べられた男根陣を観閲して――竿根堂は、みんな危い、といいたくなった。とにかく出動させて失敗すれば、自分の責任になりそうだからひるまざるを得ない。
が、そういうわけにもゆかないので、有馬家のときには二本、蒲生家のときには三本、いい加減に見つくろって、これこれはお危のうござるようで、と指摘した。
すると――幸か不幸か――失格を指摘された男根たちがいきり立って承服せず、結局みんな出動してしまったのだ。
どうやら、柳生がみんな出動したのに張り合ったらしい。これでは何のために竿兵衛が占ったのかわからないが、それは竿兵衛の責任ではない。
そして、これはまあ、どうしたことか、彼の指摘した五本中、三本が果然|潰《つい》えたのである。保証されたうちにも一本いけないのがあったが、ともかく彼の占いはほぼ当ってしまったのである。
のみならず――竿兵衛はそのときにみなに依頼した。
「もし御不幸にしてお命捧げられましたるお方のありました場合は、何とぞそのおん魔羅を私めにいただかせて下さりませ」
「お。――柳生が左様なことをいたしたそうな。しかし、みんな途中で駄目《だめ》になったと聞いたぞ」
「そのために、私、いささか工夫を凝らしてござりますれば。――」
彼がそういった意味はやがて判明した。小野の刺客たちが、死んだ同僚の男根を切り取って逃げて来たとき、竿兵衛はそれまで背に負っていた包みをとり出した。その中から塩をギッシリ詰めたわりご[#「わりご」に傍点]――木製の弁当箱――が幾つか現われた。
それに向って――「南無阿弥羅仏《なむあみらぶつ》、南無阿弥羅仏」と殊勝げにつぶやきながら、彼は死者の男根を一本ずつ詰め、それぞれのわりご[#「わりご」に傍点]に姓名と製造年月日をしるした。
これでも肥前からはとうてい保《も》たず、それこそ塩にとろけたなめくじ[#「なめくじ」に傍点]みたいになってしまったけれど、会津の方からはまずまず原型を保って江戸に到着した。彼はそれぞれの家へ鄭重《ていちよう》にとどけた。
そして彼はその家から、涙とともにそれぞれ大判をもらう破目になったのである。破目になったのではない、そうなるだろうと考えてやったことで、これこそ前年ひらめいたアイデアの実現であった。
すなわち山寺竿兵衛は、戦死者の男根を遺族に送りとどけるという――いわば「遺根収集人」という新職業を開発したのだ。
六
もう占いなどという、はか[#「はか」に傍点]のゆかない個人作業はおやめだ。
人を使って、死人の男根を集めて遺族にとどける商売にかぎる。――竿兵衛はひざをたたいたが、この商売にはほんとうに人を使わなくてはならなかった。
何年間に何度あるかわからない公儀からの御下命などをあてにしてはいられない。自分から積極的にそういうケースを求めて歩かなければならない。むろんただの病気で死んだ人間の男根などを欲しがる遺族などない。ただ自分の家から遠く離れた戦場――少くとも決闘の場で死んだ人間の男根を送りとどけてやる場合にかぎり、遺族が感慨無量となるらしい不思議な心理を竿兵衛は看破した。
だから、そんな条件の死人を探さなければならないのだが、そのためには江戸のみならず、各地方に情報員を置かなければならない。むしろそんな発火点を事前に察知して、すぐに手を打たなければならない。
むろん、ただちに彼が大々的にこの新商売に乗り出したわけではなく、徐々に徐々にではあったが、しかしそれは予想以上にうまくいった。いくどもいうように、いたるところ敵味方が混在していて、おたがいに歯をむき出している殺伐な時代で、戦争とはいえないまでも、ちょっとした集団戦など十日に一度は起っている乱世であったからだ。
ただ、さすがにその流血の時と場所をそう迅速につかむ手段が不備で、手遅れになることが多く、はじめのころの成績は、月に五本、十本、十三本などいうありさまであったが、それでも占いよりは収益が多かった。しかも業績は次第に上向きになり、前途は明るいのである。
「源平、南北朝、応仁の乱以来の戦国で、討死した人間は何百万人か。それなのに、こういう商売を考えたやつが一人もないとは、ても不思議じゃな」
と、彼は日本人に独創性のないのを憐れみ、かつそれに反比例して自分の智恵を誇った。
ただ、これに似た前例はあるのである。もっとも敵を討ち取った場合だが、首を奪う余裕のないときは鼻を切って持ち帰り、その代用とする。――谷崎潤一郎《たにざきじゆんいちろう》の「武州公秘話《ぶしゆうこうひわ》」は、その慣《なら》いによって鼻を切られた首の物語であるし、朝鮮役では、日本軍が敵兵の耳を切って、首の代りに大量の耳を秀吉《ひでよし》の大本営に送ってその戦果の確認を求めたという。
しかし、敵でもない戦死者の男根を遺族にとどけてその報酬をもらうというアイデアは、山寺竿兵衛をもって嚆矢《こうし》とするだろう。
稀《まれ》ではあるが、「そんなものは要らない」とことわる遺族がある。
不思議なことに両親にそんな例はなく、未亡人か遺児に限るようだが、そのようなときは竿兵衛みずから乗り込んでこんこんとこれに訓示をたれる。
「なんじゃと? 御亡夫の御遺根が欲しゅうないと? これはまた何たる御無情な! こ、これ、御覧なされ、これがあなたさまをあれだけおよろこばせした御道具でござるぞ! やれ、いとしや、なつかしやと抱きしめて頬《ほお》ずりでもなさるのが妻の情と申すものではござらぬか!」
「は、はい。それはわかっておりまするが、せめて御遺骨か、御遺髪ならばまだしも。――」
「頭の骨や髪が何でござる? 御亡夫があなたを妻と選ばれたのに、骨や毛は何の関係もない。ただ、ひたすら、このものでござる。あなたを欲しがったのはこれでござるぞ。大いなる指のごとく指し示したのはこれでござるぞ。……」
たたみを叩《たた》いて、
「しかるにこのもの[#「このもの」に傍点]を顧みられぬとは、イザナギイザナミ以来の大不貞と申すも足らず、あわれ、人間の信義を裏切る大不義と申そうか!」
拒否する息子に対しては、
「そもそもあなたがこの世に出られたは、お母上からではない。それ以前にこのものからでござる。それは御承知であろうな? いわばあなたが発生の天然記念物というべく。――」
「そ、それは存じておりますが、たとえ頂戴《ちようだい》したとしても、あとに残れば別、とうてい保存出来ぬとあれば。……」
「この世に永遠に残るものがどこにござる? 金石すらもいずれは風化して消えることは五十歩百歩、ただそれを一瞬とはいえ敬い祭る真情こそ永遠につながる。……」
はらはらと落涙して、
「このものは、もはやあなたに何の縁もなきものと思われるか。その点より申さば御祖父、御祖母こそこのものには縁なきはず、しかるにそちらは是非受納したいと悲願なされておるに承わればあなたは、馬鹿馬鹿しい、たちまち消える泥細工を買うようなものと申されたとやら、あ、あ、泥細工で小便が出るか、いわんやあなたをこの世に射ち出した大砲を泥細工とは、なな、なんたる不孝、愚かなる銭勘定。――」
これではだれだって、悲鳴をあげて買わないわけにはゆかない。
山寺竿兵衛のセールスの術も上達した。その能弁、説得の内容、態度表現の迫力、いずれも常人を以てしてはとうてい太刀討ちしがたいものになった。――
遺根の採取に機動力は大きくなる。そしてそれを「売り物」にする技術も進んだ。わりご[#「わりご」に傍点]から漆《うるし》の筐《はこ》となり、さらに螺鈿《らでん》の筐へと高級化する。運送の方法も、専門の飛脚、早馬を以てする。いちじは富士の氷室から採った氷を利用しようかと真剣に検討してみたくらいである。――使用人はふえざるを得ない。そして彼が計算した通り、彼の儲けも使用人の数に比例して大きなものになっていった。
二、三年のうちに、山寺竿兵衛の家は御殿にちかいものになり、その綺羅《きら》びやかな衣服や飾りや道具にうずもれて坐っているお蝋はまるで貴女のように見えた。
女ほど水のごとく環境の器に従うものはない。大家の姫君も三年|辻君《つじぎみ》をやらせればたちまち浅ましい売女風となり、いやらしい売女も三年姫君としてたてまつれば悠揚《ゆうよう》とした気品を具えるようになる。可笑《おか》しいことに竿兵衛の方は、商売に対する熱意でその面貌に或る迫力を増したとはいえ、どこかがつがつした牢人の匂い、インチキくさい売卜《ばいぼく》者の臭味が消えないのに、お蝋の方はおっとりとして、いかにも大家の妻女――もう奥方といっても笑う者もないほどの――優雅さを身につけて来たようであった。
しかし、よく見ると、彼女はあまりうれしそうではなかった。口数も多くなかったし、青眉のあたりに憂わしげな翳《かげ》が漂っていた。
竿兵衛だけが、妻が理解出来ない深淵の深みを増してゆくことをよく感得して、だから彼はそこに金銀で埋めるために、いよいよ男根を求めて駆けずりまわった。
恐ろしいもので、そのうち彼は、大量殺人の方角や場所をカンで嗅《か》ぎつけるようになった。それが彼の男根占いなどとは何の関係もないから可笑しい。占いなど竿兵衛は忘れてしまった。ただ屍臭を嗅いで飛ぶハゲタカのような本能によるものであった。
もっとも、右にいったように、たしかに彼の手足となって働く者もふえた。最盛期には百人以上にも上ったが、これはそこらの旗本も及ばない人海作戦といってよかろう。そして、やがて女房のためのみならず、あらゆる企業と同じくそのためにも彼はいよいよ大量の男根を必要とするようになったのである。
すなわち、戦争か、少くとも一大名が滅ぶほどの騒動を。――
慶長十八年、大久保石見守長安がこの世を去るや、その一族みな殺しになり、その家中にも罪せられたり――例の重役もむろん切腹してしまったが――家来もまたおたがいに斬り合ったりはては別の大久保家にも飛火したりして、数百人に上る犠牲者が出たのも、彼のこの渇望の果てであった。この大久保一族滅亡事件の真相はいまに至っても怪しげな謎につつまれ、まじめに検討するにも値しないほど馬鹿馬鹿しい伝奇的色彩を帯びているが、それも道理、もとはといえば元《もと》家来山寺竿兵衛のでたらめの密告に端を発したものであったからだ。――期せずして彼は、一種の「忍者」にまで昇華していたのである。
しかも彼がこのことについて、不敵にも「おれは以前から予感していたのだ」という意味のことをとぼけ面でいったことはすでに述べた。――
七
大義親を滅し、男根大義を滅すというべきか。世に男根あるを知って、主あるを知らずというべきか。
山寺竿兵衛は、まるで男根に憑《つ》かれた男のようであった。――しかし、だれが彼を笑うことが出来るか。いつの世もほかの何かの慾《よく》に憑かれた同様の人間が――儲けるためには手段を選ばない人間がウジャウジャと存在しているではないか。
これでは足りない。とうてい間に合わない。――
大久保家滅亡以来、彼のユーモラスな容貌はとみに凄惨味を帯び、しきりにそんなことをぶつぶつ呟いているようになった。
彼は暗い霞《かすみ》のかかったような眼を宙にあげて何かを夢見ているようであった。
ワーテルローの戦いのあった夜、月の冷たく照らす屍体に埋まった平原をさまよう盗賊の姿をえがいて、ユーゴーはこういっている。
「あらゆる軍隊は一つの尾を持っている。半ば盗賊であり、半ば従兵である者ども、戦争と呼ばれる薄明りが生み出す蝙蝠《こうもり》、少しも戦うことをしない軍服の案山子《かかし》、作病者、びっこ、密売者、もぐり商人、乞食、風来坊――それらの者どもを、行進する軍隊はうしろにつれている」
まさか竿兵衛は、戦場盗賊団など考えてはいなかったが、夢見ているのは軍団のあとについて、合戦ののち戦死者の男根を収集して歩く一部隊のことであった。これまた一種の泥棒かも知れないが、むしろ彼の想念にあったのは、敵も味方もない、今の赤十字みたいなものであった。
うん、おれのやっていることは、ほんとうに世のため、人道のためではなかろうか?
屍《しかばね》をものともせずに踏みにじって進んでゆく将軍や大実業家とひとしく、彼は説教好きとなり、一種の哲学さえ持ち出した。説得力はセールスで鍛えてますますみがきがかかり、自分の商売の存在価値についての信念は、セールス用ではなく自分に対しても、牢固としてぬきがたいものになった。
男根こそこの世の生命の根源である。それをすでに死んだ野から集めて来て、恩愛の人々におくる。それはふつうに菩提《ぼだい》を弔うどころか、生命の根源を人々の涙の川でよみがえらせる行為である。それによって多少の儲けはあるにしても、それはまあお寺さまが寄進を受けるようなものだ。南無阿弥羅仏、南無阿弥羅仏……。
「南無阿弥羅仏、南無阿弥羅仏。……」
そうつぶやきながら、竿兵衛が忙がしそうに、しきりに上方へ行く日がふえた。――そして慶長十九年十月、ついに大坂冬の陣が起った。
まさか、いくら何でもこの戦争をひき起すのに竿兵衛の力があったとは思われず、それは例のハゲタカ的本能による動きであったと考えられるが、とにかくその報をきいたとき彼が躍りあがってよろこんだのは事実である。かねてからの夢想が実現するときが来たのだ。彼はそのとき江戸にいた。
「野郎ども、千載一遇《せんざいいちぐう》の時が来たぞ!」
今はこの家で厳粛な儀式となっている出陣の祝膳がすむと、竿兵衛は起ちあがって吼《ほ》えた。
「こんどこそは、何千か何万か、日本じゅうの松茸《まつたけ》がただになるほどの男根が採れるぞ! それ、塩を千俵ほど買え、遺根|筐《ばこ》の職人に夜鍋《よなべ》代を先払いしろ。馬の支度はよいな。――用意が整ったら、みな押し出せ! こっちにゃ人は要らねえ。江戸の配達の方は、上方から魔羅を運んで来た第一陣からそれぞれ部署につけ。今はただ一刻も早く上方へ、上方へ。――男根一本でも腐らしちゃあ名折れだぞ、そうれ、押し出せえ!」
まるで軍配一閃、風林火山の旗の下、馬上で号令する機山信玄公みたいであった。
そして彼らは土けぶりをあげて、上方へ押しのぼっていった。――
――それっきりである。山寺竿兵衛が江戸から姿を消してしまったのは。
そのまま彼は大坂にあって、遺根収集の指揮をとるのに夜も昼もないようであった。現地からは続々と大量の塩|漬《づ》けの筐が送られた。曾《かつ》てのいくさ嫌いなどはどこへやらである。そこまではよかったが、その翌年、夏の陣で、最後の大乱戦に巻き込まれて、彼自身壮烈な戦死をとげてしまったのだ。
配下の一人が馬を乗り換え乗り換え、泡をかんで江戸へ馳《は》せ戻って来たのはそれから五日目であった。彼は汗と涙だらけの螺鈿の筐をさし出した。――突如未亡人となったお蝋のもとへ、
「こ、これが旦那の御遺根で。――」
走り出して来たお蝋は、その筐を抱いたまま、ぼんやりと土間に立ちすくんだ。
それから、よろめくように、次の土間に入っていった。そこにも大坂から送らせて、人手が足りないために未配達の漆や螺鈿の箱が山のように積んであった。現代でいえば、土産物《みやげもの》屋の山菜の漬物の箱みたいな観があった。彼女はその上に筐を置いた。けだるげに、まるで、力を失って投げ出すように。
お蝋は草履をぬぎ捨てて、急いで座敷を幾つか通り過ぎていった。
いちばん奥の彼女の部屋に、小僧の丁松が坐っていた。それが千両箱に腰かけたまま、裾《すそ》を両側に高々とかかげていた。まだ汗ばんださくら色の頬をしているが、どうやらだいぶ前からそんな恰好《かつこう》をしていたようであった。
「な、何かありましたんで?」
と、小僧丁松は聞いた。いや、もう小僧とはいえない。彼はもう十七、八の少年というよりかもしかのような足を持つ若衆であった。
「なんでもありはしない」
と、お蝋は首をふって、にっと笑った。
「お内儀さん、湯女遊びはいいが、あたしゃもう萎《な》えそうで、早くお願い申します」
「まだ、おまえの年で、何サ、あんなに槍のように強いくせに」
お蝋はからだを優雅にくねらせて、しゃがみこみ、若々しいかもしかのような足のあいだに匂い立つような顔をうずめていった。
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読淫術
一
忍術なんか、もういくらやったってしようがない。……だれやらの小説のことではない。ほんものの公儀忍び組の話である。
江戸開府以来、かれこれ百年ちかく、将軍さまも四代目、しかも大老が「下馬将軍《げばしようぐん》」と呼ばれるほどの威令をふるっていると、四海波もたたず、忍びの者などの使いどころがない。――伊賀甲賀《いがこうが》組は、貧乏に苦しんでいた。
もっともこれは侍全般にも通じることで、その鬱屈《うつくつ》にたまりかねて、旗本|奴《やつこ》などいうものが出現してあばれたりしたが、それもひと昔、ふた昔、弾圧され、一掃されて、いまは猫《ねこ》のごとく飼い馴《な》らされて、ただはるかに大老の気息をうかがうばかり、せいぜい武芸ならぬ他の仕事に精を出して、少しでも収入をふやす努力に日々を費していた。侍の内職などいうものがそろそろはじまったのもこのころからのことである。
それでなくてさえ軽輩で、日蔭の存在であった伊賀甲賀のめんめんの悩みは深刻であった。一般の侍のように四書五経や謡《うたい》など教えたところで、だれも習いに来る者はあるまいし、だいいち、そんな素養のあるやつは稀《まれ》である。特技を生かすとなると、泥棒《どろぼう》でもするしかない。
彼らの運命は、その首領の服部百蔵《はつとりひやくぞう》に象徴されているかのようであった。
年はたしか六十一、二のはずだが、痩《や》せこけて、禿《は》げた頭はしみ[#「しみ」に傍点]だらけで、腰はまがり、足どりもヨタヨタして、七十か、それ以上にも見える。これが若いころ革命的な恋をした人物とはとうてい思われない。
革命的な恋というのはちと大袈裟《おおげさ》だが、ともかくも彼が甲賀系の女と結婚したからである。
職制上、服部家は伊賀組甲賀組の頭《かしら》となっていたが、祖先の服部|半蔵《はんぞう》が伊賀の出身であったから、代々結婚の相手も伊賀系ときまっていたのを、彼がはじめて破ったのである。伊賀甲賀はひとしく幕府忍び組とはなったが、いろいろな過去のいきさつから、久しくしっくりしないところがあったのを、この結婚によって文字通り合体させようという彼の持論を実現させたのだ。
もっとも、その当時、特に伊賀組内部に猛烈な反対論があったのを、ともかくも黙認させたのは、必ずしも彼の持論ばかりではない。実は百蔵はそれより前に二度伊賀の女を妻にしていて、甲賀の女は三度目だということがあった。そして妻を二人死なせたのは、彼が「仕殺した」のだという。――
若い連中から見ると、いよいよもって信じられない。普通以上に老耄《ろうもう》の甚《はなは》だしい首領を眼前にしてはだ。
組の窮乏をよそに、この首領は影のように無為に坐《すわ》っている。ふだん、あまりものをいわない。ときどき、相談にやって来る組の者に対して何かいうが、それは具体的な解答というより哲学的なひとりごとにちかい。
「は、何もすることがない? 人間、何もしないですめば、それに越したことはない。……およそ人間のやることで、世に対し有害無益でないものは何ひとつない。……ただ子孫を残すということのほかは」
など、つぶやくだけで、お話にならない。そのくせ当人には、妻を三人も――三人目の甲賀の女も、結婚後数年にして世を去った――「仕殺した」と称するくせに、子供はない。
いう言葉の意味もよくわからないが、このごろは、きき馴れた配下の者にも不明瞭《ふめいりよう》なくらい呂律《ろれつ》が怪しい。なんとなく、もう長くはないな、という気がして、せっかく暮しの相談に来た用件も忘れて、首領の健康を気づかう者があると、
「世の中には必要悪というものがある。いろいろとある。……しかし、人間の長生きほどの必要悪はちょっとないな。……いや、不必要悪かも知れん」
など、またえたいの知れぬことをいって、
「うふ、うふ、うふ」
と、風呂《ふろ》の中の屁《へ》みたいな、はかない声をたてて笑う。
こういう完全に呆《ぼ》けた、棺桶《かんおけ》に半分足を入れているような老人が、伊賀甲賀組の首領だとは。――若い連中は嗟嘆《さたん》した。もっとも、中年以上の人間にいわせると、こんな哲学的言辞を弄《ろう》するのはいまにはじまったことではなく、百蔵の昔からの特徴で、そのくせ彼は、一方では忍び組のためにさまざまな、奇想天外な術や道具を創案したそうだ。だから、このようなへんな独語も、かつては信頼につながっていたのだが、若い連中にはとうてい信じられないし、そんな歴史を知っているめんめんも、いまではあれは夢ではなかったかと、眉《まゆ》に唾《つば》をつける思いになって来た。かつて百蔵が、伊賀甲賀の完全なる合併をはかったということも、両者を同じ蓮《はす》にのせて亡滅の沼へ送り込む無意識の下準備ではなかったかと疑われ、遠からずこのヨボヨボの老人がくたばるのと同時に、その一党も地上から消え失せるのではあるまいかと予感されるほどであった。
そのうちに、伊賀組で、甚だ衝撃的な事件が起った。
自分の足を食ってしまったという蛸《たこ》みたいな男が現われたのだ。伊賀組の中でももっとも薄禄で、文字通り明日の米にも困る一家であったが、その主人が自分の片足を切断して、鍋《なべ》で煮て、三人の子に腹一杯食わせ、数日後、死んでしまったという事件である。
むろん、明日の米にも困るとはいえ、難破した筏《いかだ》の上の饑餓《きが》ではあるまいし、自分の足まで食う必要はなかったろう。おそらく、一年前に妻を失った男が、貧乏暮しがほとほといやになったせいであろうが、いずれにせよ、これはみなを打ちのめした。
伊賀組の瓦楽太郎《かわららくたろう》、馬見印兵衛《うまみいんべえ》という若者が、服部百蔵の前に思いつめた顔を出したのは、それからまもなくのことであった。
「一同の代表として罷《まか》り越しました」
「吉谷鍋作《よしたになべさく》のことでござるが」
一同の代表というのは、この両人を百蔵が特別に目をかけている形跡があるので当然のことであり、吉谷鍋作というのは、むろん自分の足を食って死んだ男の名であった。
「あれかな」
と、百蔵老は泰然としていった。
「あれは、隠密御用の折、食尽きて生き永らえんとするときの実験と思う。片足切って死んだのは手当が悪かったせいで、鍋作の修行いまだ至らず。……」
むろん、こんなに明快に道破したわけではない。だいいちこのごろは、この二人の若者でなければ意味もききとれないくらい、その発音は不透明なものになっている。
「は、隠密などという御用が、まだ伊賀組に仰せつけられる望みがあるのでござるか」
と、瓦楽太郎がいった。
百蔵老は黙っている。当惑というより、キョトンとした顔である。馬見印兵衛が焦《じ》れていった。
「足まで食いたくなるのは吉谷にかぎり申さぬ。このごろの伊賀組の様相を見れば、あのような悲劇はなお相ついで出来《しゆつたい》するおそれがござる。……かるがゆえに」
と、声をふりしぼった。
「拙者ら、組のためにあえて盗賊を働かんと思い立ってござります」
「稼ぎは組のうち困窮甚だしき者に分配する所存」
瓦楽太郎もいう。おどしではない。眼に涙さえ浮かべた悲痛な表情であった。
「このこと申しあげるために推参いたした」
「もし、ならぬと仰せられますならば、今日ただいまわれらを御成敗に相成りたい」
百蔵老はまだ黙っている。こんどはどうやら考えこんでいる風情《ふぜい》であったが、それがあまり長くつづくので、十分もたってから二人はたたみを叩《たた》いた。
「お頭」
「あん?」
まるで居眠りから醒《さ》めたように老人はいった。
「甲賀のな、おゆたと千也《ちや》を呼べ」
二人はめんくらった。
「な、なんでござる?」
「伊賀だけの話ではあるまい。甲賀にも教えてやろう。内職を」
「内職?」
「それで、四人で稼《かせ》いで、伊賀甲賀で困っておるやつを助けてやれい」
二
甲賀組から、おゆたと千也という娘がやって来た。二人とも、何事ならんという表情をしていたが、馬見と瓦から説明をきき、いよいよけげんな顔で、それでも老首領のまえにつつましやかにひざまずいたが、やがて服部百蔵から、彼のいう内職なるものをきいて、眼をいっぱいに見ひらいた。
それも、即座に出て来た説明ではない。例によって突忽《とつこつ》たる哲学的な序説からはじまる。
「人間、何が大事だといって、色事ほど大事なものはない。……」
など、まずいい出したのである。
「そんなことはきかなくったってわかっておる、とおまえたちはいいたいじゃろ。しかしおまえたちの場合は、おまえたちの睾丸《こうがん》ないし子宮がそういわせておるので、わしのいうのはもっと深遠なる生物学的頭脳からじゃ。人間のやることすべて、その重大性、色事にまさるものはなく、それさえ懸命にやっておれば、この世に生まれて来た義務は果たせると思われるほどじゃ。なんとなれば、わし、おまえら、その他あらゆる人間の個々が現在ここに存在するには、戦国、源平、平安奈良はおろか、神代の昔から――いやいや、そもそもこの地上に人類が発生して来て以来、何十万人かの男と女が色事をして、連綿と子を生みつづけて来た結果だからじゃ」
ことわるまでもないが、例の朦朧《もうろう》たる語韻《ごいん》と支離滅裂なる語脈を翻訳|整頓《せいとん》すると、まずこんな意味となるのを紹介しているのである。
「されば、人間は、だれしも子を生まねばならぬ。子なき人間は、よしほかにいかなる大事業をなそうとも、何百万年に及ぶおびただしい祖先をすべて空に帰し、その生物学的な糸を自分のところで断つというとりかえしのつかぬ大罪で帳消しとなるのみか、その大事業すら無意味となる」
それでは、お頭は如何《いかん》? と瓦楽太郎は問おうとしたが、
「恐れながら、その意味では、上様も御同罪であるなあ」
と、百蔵が長嘆したので、思わず黙ってしまった。
「いうまでもなく、子を生むもとは色事じゃ。いや、子を生ませんがために、神が人間に色事を快とする心を与え給うたのじゃ。それが余りに快なるゆえ、愚かなる人間はかんじんの目的を忘れて、ただ快に溺《おぼ》れて能事足れりとなすやつさえおる。……」
そこではじめて百蔵老は、自分のことを思い出したらしい。
「わしかな。わしに子が出来なんだのは、その色事を研究し過ぎたゆえじゃ。それについては、わしだけは特別例外として悔いはない。なぜなら、第一に、子を生むことも忘れるほど研究した甲斐《かい》があって、色事の蘊奥《うんのう》をきわめたこと。……」
ふだんなら笑い出すところだが、瓦楽太郎も馬見印兵衛もウンザリした。
「お頭、内職の話はどうなりましたので?」
「第二に、わしに子がない代りに、わしが子を生むよりもっとましなあとつぎを得たこと。……」
老首領はもとより耳も遠い。
「すなわち、おまえらじゃ」
「えっ?――」
「瓦、おまえ、おゆたが好きじゃろが」
「あ。――」
「馬見、おまえ、千也を嫁にして不服はないじゃろが」
二人の若者は絶句した。
「おまえら両人、甚だ陰気な用件を持って来おったくせに、甲賀からこの二人のくノ一がやって来るや否や、もう男根を立てておる」
「あいや」
二人は狼狽《ろうばい》した。
「わかっておるわかっておる。その方の眼力では蘊奥をきわめたわしじゃと申しておるではないか」
百蔵老はまた妙なことをいった。老人の指摘したことはまさに図星に相違なかったが、いくら色事の極意に達したところで、衣服に覆われた肉体の変調までわかるはずはないが。――
「瓦とおゆた、馬見と千也、この組合せがよろしいな。この組合せがいちばん熱度があがるように思う」
二人の若者のみならず、二人の娘もその言葉通り真っ赤な顔をしている。内職の話など、いよいよどこかへ消し飛んでしまったようだ。
「ただし、忍び組の後継者に二組は要《い》らん。どっちをあとつぎにするかは、これからの成績を観察して」
「お頭さま」
千也が呼びかけた。それはわれに返ったというより、こんな突然の話から逃れようとするはじらいのせいであったかも知れない。
「お呼びになりましたのは、そんな話でございますか」
「あ、いや。……それそれ、伊賀甲賀の貧乏を救う内職の話よ」
やっと、思い出したらしい。で、はじめて百蔵老は、実に驚くべき内職話を披露《ひろう》したのである。
「つまり、色事とはそれほど大事なものである」
と、またやり出したが、こんどは話はあらぬかたへ脱線しなかった。
「そこで……ま、いわば結婚相談所、もっと正しくいえば交合診断機関といったようなものを作って、それで稼いだものを、伊賀甲賀の貧困家庭に分配することにいたしたい」
「?」
しかし、まだよくわからない。瓦と馬見が、おずおずといった。
「――それは、男女の相性でも見るのでござるか?」
「――それとも、相手の身持ちなど探索するので?」
「そんなありふれたことを、この百蔵が持ち出すかよ」
と、百蔵老は大|軽蔑《けいべつ》の顔つきをした。
「伊賀甲賀ならずば、とうてい余人には叶《かな》わぬこと。――わが積年の研究の一端をもらす。承れ」
「へへっ」
巾着《きんちやく》に風が入ったような首領の珍しい威厳に、四人は思わず手をつかえた。
「まず結婚について、男が心配するのは、女が処女であるかどうかということじゃ。むろん、れっきとした侍の家の息女にめったにふしだらなことのあるはずもないが、それほどでもない身分、また町方では相当の商家でも、このごろ泰平に狎《な》れて相当な淫風《いんぷう》が吹いておるときく。……それを、その娘には手も触れず、またまわりを手先《いぬ》のごとく嗅《か》いでまわることもなく明らかにする術」
「…………」
「これを膜鳴りの術という」
四人はまばたきした。
「次に、こんどは女の方からじゃ。いま、瓦、馬見が勃起しておるといったが、女の立場からして、自分を見るたびに勃起しておるような男でのうては、結婚してからとうていうまくない。しかるに男は、勃起もしておらんのにあたかも勃起しておるような言動を女に示す図々しいやつがおる。あるいは逆に、痛みをおぼえるほど勃起しておるのに、そんなことは思いもよらぬといった顔をした偽善的なやつもおる。これを、これまた手も触れずに看破する」
「…………」
「これをすじがねの術という」
二人の娘は真っ赤になっているが、瓦楽太郎、馬見印兵衛に至っては紫色に変ぜんばかりだ。先刻の首領の指摘が必ずしも根拠のないものではなかったことが明らかになったからである。
「次に、結婚後の健康じゃ。食物とか運動とかはまずおいて、われらの担当すべき交合の頻度《ひんど》問題じゃ。山高きがゆえに貴からず、交合多きを以て威張るに足らず、とくに武士たるもの、日中|顎《あご》で蠅《はえ》を追うていたらくに相成っては御奉公の儀もなりがたい。要するに、飯は腹がへって食ってこそ美味でもあり、血肉となると同様、交合も存分にたまるべきものがたまってから行うてこそ、濃厚|暢美《ちようび》、かつたねつけ[#「たねつけ」に傍点]の目的に叶う。しかるに、そのたまりかげんが本人によくわからん。無理しておることがはっきりしておる場合もあるが、自分でも天地|晦冥《かいめい》の場合も少なしとしない。これを外診によって測量する」
「…………」
「これをきんたまりの術という」
千也、おゆたの眼は次第に大きくなっている。どれだけ百蔵老の話がわかっているのか不明であるが、しかしよくわからなくても瞳孔散大を示さずにはいられない話であった。
「もう一つ、それでもきかぬ男には、妻女の方に忠告するほかはないが、女人というものは、この点、男に対していよいよ無理解であるのを常とする。されば、当方で、昨夜の回数を指摘して妻女を震駭《しんがい》させるよりほかはない。すなわち、過去一昼夜の交合回数を、ちゅうちゅう蛸《たこ》かいな、とこちらで測定する」
「…………」
「これを略して、ちゅうだこの術という」
「…………」
「最後に、いま一つ目下なお鋭意研究中の重大なる題材があるが、いまのところはまずこれまで。これだけの特技でも、充分商売にはなろう。少なくとも、おまえらのいう泥棒などいう愚行よりはるかに優雅な内職といえる」
数分にわたる唖然《あぜん》たる沈黙ののち、馬見印兵衛がいった。
「左様な術を、だれがやるので?」
「おまえたちがよ。――わしが教える」
「――へ?」
「しかも、一人一芸という忍び組の伝統に従い、一人に一術ずつ教える。いまのところ、馬見にはきんたまりの術、瓦にはちゅうだこの術、おゆたにはすじがねの術、千也には膜鳴りの術を伝授するつもりでおる」
「しかし」
と、瓦楽太郎がおぼつかなげにきいた。
「左様なことをわれらが心得たとして、果たして調査の依頼者がありましょうか?」
「わしが注文取りに歩く」
と、百蔵老はいった。
「旗本衆とか定府《じようふ》の武家衆とか町方とか。――すでに心当りも、二、三はある。なに、五十軒も百軒も回ることはない。やって見て、功徳《くどく》があれば、噂《うわさ》になって次から次へ相談にやって来る向きが必ずあるわさ」
三
服部百蔵の開発にかかる伊賀甲賀の新内職四部門についてさらに概説する。
まず甲賀のくノ一千也の担当する「膜鳴りの術」――すなわち、処女であるかどうかを看破する法であるが。――
百蔵老は、千也に一本の火吹竹のごときものを与えた。節《ふし》を打ちぬいた竹の筒であるが、尖端《せんたん》から三分の一近い位置の内部に膜様のものが張ってあるようだ。
「やさしゅう扱えよ。手荒に扱うと破れるぞよ。破れたら、ちょっと補充がつかぬぞよ」
と、百蔵老はいう。
日の光にかざしても、何だか正体がよくわからない。紙でも布でもないようだし。――
「これは何でございますか」ときいたら、百蔵は恬然《てんぜん》として、
「処女膜じゃよ」
と、答えた。
千也はぽかんとして、しばらく赤くなるのも忘れていたほどであった。何にしても、それをどういう具合にして、竹筒の内部のこんな位置に張ったものか。
「膜笛と呼んでおるがな……つまり、それが鳴るひびきで処女か否かをききわける」
どうするのかというと、この膜笛を、めざす女性の股間《こかん》にぴたりとあてる。べつに直接にではなく、大体十メートル以内の距離ならよろしい。そのうちに――甚だ恐縮であるが、対象の女性が放屁《ほうひ》をする。すると、その反響で、その女性の処女膜が鳴る。同時にこの膜笛が共鳴現象を起す、というしかけだそうだ。
「膣《ちつ》と直腸は、外肛門括約筋《がいこうもんかつやくきん》をへだてて隣合せじゃ。隣の音がひびかぬはずはない」
と、百蔵老はいう。
――では、めざす女性がいつまでも放屁をしなかったら?
そんなことは絶対にあり得ない。人間として放屁しないものは存在しない。少なくとも厠《かわや》においては、いつかは、やる。――それを十メートル以内の位置で、この膜笛を耳にあてて待っていればよいのである、という。
では、いつまで待っても無音の場合と、すでに処女膜を失った女との鑑別はどうするか。
「膜なき女も、やはり音を発する。それをききわけるのが、すなわちこの膜笛じゃ。膜なき女の音は、ボーというような、あるいはバフーというような、どこかとぼけた音で、それに対して膜ある女は、リリリリ……と、かそけくも妙《たえ》なる音が……いや、口ではいい現わせぬ。それをきかせるのが膜笛の膜笛たるゆえんであり、それをききわけるのが忍者の聴覚じゃ。おまえには、その耳があると信ずる」
実際、まもなく千也はそれをききわけるようになった。
そして彼女は、その「内職」に出動するようになった。べつに厠のちかくに待機している必要はない。対象たる女性の住む居室の天井裏に、ひねもす潜んでこの聴音器に耳をすませているような芸当は、もともと甲賀のくノ一の独壇場である。
需要はあったのである。あのヨボヨボの百蔵老がどれだけ歩いて注文をとって来たのかふしぎなようだが、彼がいった通り、ひそかな噂がひそかな噂を呼んだのであろうか、意外なほど女性の処女性を探る需要があったのである。百蔵老は「れっきとした侍の息女に、めったにふしだらな女がいるわけはないが」といったけれど、思いがけず大家から、そんな依頼が相ついだのである。
この現象に対して、百蔵老は憮然《ぶぜん》としてこんなことをいった。
「男が、女性の処女であることを求める。その意味は、いろいろあるがな。その最大の理由は、男の自信のなさじゃな。つまり、ほかの男と較べられるのをこわがっておるのよ。これが、ほとんどの男がそうなのじゃから、男というものは可笑《おか》しいなあ」
次に、やはり甲賀のくノ一おゆたの担当する「すじがねの術」――すなわち、男根が勃起しているかどうかを探知する法であるが。――
これは、道具は要らない。ただ鼻の色を見ればよいという。百蔵老の学説によると、男根が勃起するとはすなわち血液がそこに集中することで、その分だけ、男の鼻の頭の血色が変化するという。やや白くなる、というのだが、その色調が実に微妙で、とくにそのつや[#「つや」に傍点]また鼻息の変化が加わるから、この色度鑑別は常人にはむずかしい。
これについて、百蔵老は老体をおして、わざわざおゆた同伴で出動し、臨床講義をやった。
ちょうど夏であったが、彼はおゆたに「蝉《せみ》のはごろも」と称する特別の衣服を蔵からとり出してつけさせ、町の呉服店へつれていったのである。それは一見ふつうの着物だが、或《あ》る角度から見るとおぼろおぼろと肌《はだ》が透けて見える奇妙なものであった。
そして、その呉服屋で、おゆたにいろいろと反物を選ばさせているとき、百蔵老はいきなり、彼には珍しい、どこから出るかわからないような大喝《だいかつ》を発したのである。
「うぬらは、ふとどきなやつら。――」
とまわりでもみ手をしている番頭や手代や丁稚《でつち》をねめまわしていった。
「客に対して無礼千万」
「な、何でござりまする。何か粗相でもござりましたか」
と、番頭がめんくらったようにいった。
「客たる女に、あのような劣情を催すとは」
「えっ、そ、そんな、滅相な」
「その証拠に、先刻から、うぬらことごとく男根を立てておるではないか」
老人の手に、いつのまにか、針金の輪の束のようなものが握られていた。それが相ついで、三方四方に投げつけられた。
すると、それは呉服屋の番頭や手代や丁稚たちの股間にぴたっと吸いついて、その輪の中からにゅっと前垂れをかぶったまま直立しているもののかたちを露《あら》わに浮かびあがらせたのである。
「わっ」
彼らがそれをかかえて、狼狽その極に達しているあいだ、百蔵老はおゆたにささやいた。
「あやつらの鼻を見い。あの色じゃ、あのつや[#「つや」に傍点]じゃ」
それから百蔵老は、また一同をにらみすえた。
「越後《えちご》屋呉服店の奉公人たちは、客の女に男根を立てると江戸中に知られてよいかな?」
彼とおゆたが、輪を拾い集めて店を出かかると、真《ま》っ蒼《さお》になった番頭が飛んで来て、白い紙につつんだ切餅《きりもち》を盆にのせて捧げた。
「お願いでござります。まことにはや、何とおわび申しあげてよいやら言葉もございませぬが、何とぞこの儀は、御内聞に、御内聞に。――」
「おゆた、越後屋で何やら土産《みやげ》をくれるそうな。戴《いただ》いておけ」
と、百蔵老はいった。
店を出てから、彼はつぶやいた。
「……ま、瓦、馬見のいい出した泥棒よりはよかろ。早速、組の貧乏人に配ってやれ」
むろん、これは内職の番外である。やがて、男の鼻の色を鑑別し出したおゆたの仕事は、見合いの席などにそれとなく侍《はべ》って、女性と向い合った男性の鼻を観察することであった。
次に、伊賀の瓦楽太郎の担当する「ちゅうだこの術」――すなわち、男女が過去二十四時間以内に何度交合したかという測定であるが。――
これまた視覚によるものだが、百蔵老の教えるところによると、眼のまわりにその証拠が残るという。これは色にあらず、皺《しわ》にあらず、視覚とはいうものの、ふつうの視覚では見えない或るものが幻の月の暈《かさ》のごとく眼のまわりに生じ、その拡がり加減で回数がわかるというのだが、「口でいってもわからぬ」と百蔵老自身がいうくらいだから、ここに書けばいよいよわからない。
ともあれ、瓦楽太郎はこのちゅうだこの術を体得したのだが、これによって彼は面白いことを知った。それは男の大半が、回数について、友人間に法螺《ほら》を吹く傾向があるということである。特に老年になるほどそれが著しい。
「つまり、何じゃな、そんな回数のことなどが意識に上るのは、それだけじじいになったということじゃな」
と、百蔵老は苦笑しつつ、例の警句を吐いた。
「それにまた、じじいほど、そういう話を臆面《おくめん》もなくするがよ、その回数の相手が何者かということが問題じゃて。診察してみると、どうやらたいてい相手は老妻らしいが、まるで粗食を大喰《おおぐら》いしておるような気がするの」
自分はじじいではないような口吻《くちぶり》でいう。
しかし、むろん内職の依頼は、主としてその男たちの浮気の調査であった。いかにそらとぼけても、回数まで指摘されては、男たちはぎょっとして、表情で告白してしまうのである。
おしまいに、馬見印兵衛の「きんたまりの術」――すなわち、男にどれだけたまっているか、という測量であるが。――
これは、嗅覚《きゆうかく》だ。その人間の発する汗の匂《にお》い、体臭でわかる、と百蔵老はいう。これまた忍者でなくては不可能なその微妙な嗅覚を印兵衛は体得したのだが、彼もまたこの汗の中の分泌物の涸渇《こかつ》したやつほど艶笑談が大袈裟なことを知った。
「一見、お色気話は罪がないようじゃがの」
と、百蔵老が辛辣《しんらつ》な批評を加える。
「しかし、何じゃな、世に好色話の好きなじじいやばばあが多いが、やはりそういう話は、それをしゃべる当人の交合する光景を想像したとき、他人に醜悪感、滑稽《こつけい》感を与えない姿、年齢にかぎるようじゃな。人間、うぬぼれのかたまりじゃから、おのれを客観的に見ることは難しいが、ま、冷水を三杯ほどかぶって考えればわかるじゃろ」
いったいこの老人は、人間、色事がいちばん大事、などといったくせに、ほんとうに好きなのだか、そうでもないのか、よくわからない。――ただ、馬見印兵衛の測量したところによると、この首領に例の分泌物は全然ないことはあきらかであった。
ただし、お色気話も色事も大好きなくせに、一方ではおのれの体調も心配な老人は世に多く、従って往診をひそかに求める向きは次から次へとあった。
要するに、百蔵老のはじめた忍び組の内職は結構繁昌した。
そして、彼らの内職が、内職にとどまらない日がふいにやって来た。公儀忍び組の内職は突如として公事に変じたのである。
四
「隠密御用である」
早春の或る日、粛然として服部百蔵がいった。
呼ばれた四人は、はっとした。「隠密御用」――それは絶えて久しくきいたことのない言葉であったからだ。
「御大老からじゃ」
いうまでもない酒井雅楽頭《さかいうたのかみ》さまである。隠密御用といえばその命令の出どころはそれ以外にないが、四人の背中にぴいっと緊張が走らずにはいられない。
「ゆくさきは大奥」
四人は、顔をあげた。耳を疑ったのである。
「恐れながら、上様の御交合ぶりを探りたてまつれ」
「……あ!」
と、思わず知らず瓦楽太郎はさけび出していた。
いちいち書かないが、首領百蔵の老衰は日々刻々に甚だしく、ときには生きている人間かどうか首をひねることさえある。いま、驚くべき「隠密御用」を耳にして、四人は反射的に、首領の頭が完全にへんになったのかと思った。
「と申すは」
と、彼はいった。
「上様、おんとし四十にならせられるが、いまだに御世子がおわさぬ」
そのことは、いつかも百蔵はいった。――連綿とつづいて来た種の糸を断つという大罪を、恐れながら上様も犯しておわす。
「御大老は仰せられる。まだおんとし四十歳、みなそう思うておった。しかるに上様、ここ数年おん床に臥《ふ》せられがちにて――よいか、これは梵天帝釈《ぼんてんたいしやく》四大天王の真罰かけての秘事であるぞ――奥医師の診断《みたて》によれば、あと長くて一年、ひょっとすると半年以内にも御他界のおそれがあるそうな」
四人とも顔色が変っていた。
「いまお世継なくして上様御他界と相成らば、徳川の天下はいかが相成るか。思いやるだに眼の先が暗うなる、と御大老は仰せられる、いかにもその通りじゃ。――されば、目下、御世子をお一人なりとも残されるべく、御大老は懸命に相勤めておられる。いや、かんじんなのは上様じゃ。上様もまた右のことうすうす御覚悟あそばされて、日夜必死に御出精の由にもれ承る」
「…………」
「とはいうが、実相は果たして如何《いかん》? というのが御大老の危惧《きぐ》なさるところ。――」
「…………」
「すなわち、その御実相を探るが、われら忍び組に下がった御用じゃ。その夜、いくたび御交合なされしや、またおんたまりの状況いかに、さらに御|女性《によしよう》とりかえひきかえお勤めとのことであるが、それが処女でおわすときと、さにあらざるときの上様の御勃起の強弱|如何《いかん》。――それによって、いろいろと対策の考えようがあろう、と御大老は仰せられるのじゃ」
四人は顔見合わせた。
きけば重々もっともだが、それにしても公儀忍び組として、はじめて受けた隠密御用の対象が、将軍家の御交合ぶりとは?
「これをなすもの、わが服部組のほかはない。また、これを御下知なされた方が、ほかならぬ酒井雅楽頭さまじゃ。いわずともわかっておろうが、われら服部組の生殺与奪は御大老のおん手にある」
彼らはその命令に服した。何よりも、その命令者の名は圧倒的であった。
それにしても、あの内職用に修得した例の忍法が、てきめんにこんな役に立とうとは、まったく思いのほかであった。
――なお、将軍|閨房《けいぼう》の状況を監視するお添寝の御|中臈《ちゆうろう》とか御坊主とかいう公然たる制度が出来たのは次代の五代将軍の時からであるといわれる。
一ト月ばかりのち、彼らは江戸城大奥の床下から這《は》い出して来て、首領に復命した。むろんそのあいだ四人がそこに詰めっきりというわけでもなかったが、彼らが偵察の結論ともいうべき報告を出したのはその日のことである。
一、上様が必死の御努力をなされているということは、事実でもあれば、事実でもない。
二、事実でないというのは、交替でお伽《とぎ》の御用を勤める女性のうち、御三人を除いてはお手もお出し遊ばされぬからである。上様の御貯精はほとんどおん涸渇にちかいと測量する。
三、事実でもある、というのは右御三人の女性が御当番の夜だけは何とか御勃起に相成り、しかも事態の深刻性は充分自覚なされていて、おんみずから必死におんたねをおつけ遊ばそうとする形跡歴然たるものがあるからである。
四、その御三人とは、お圭《けい》の方、お千代《ちよ》の方、おまるの方である。とくにおまるの方の夜は、御勃起がいちじるしく、一方で御貯精が乏しいので、偵察していても、おいたわしいのを過ぎて不安に耐えぬほどである。
――以上、報告する四人の顔が、一ト月ほどのあいだにめっきりやつれて見えたのは、たんに将軍家御寝所の下に潜むという肉体的辛労のせいばかりではなかったろう。
「お圭のお方さま、お千代のお方さま、おまるのお方さま喃《のう》。……」
百蔵は考えこんだ。それから、
「いや、さもあらん」
と、うなずいた。
数日たって、四人はまた首領に呼ばれた。
「例の件じゃがの」
と、彼はいった。
自分たちの報告がどんな効用をもたらしたか、ということにはむろん重大な関心があったので、彼らはまだとれぬ疲労もものかはといった緊張した顔でやって来たが、百蔵の前に置かれたものを見て、眼をしばたたいた。
その前には、小|盥《たらい》と、火鉢《ひばち》にかけた鍋《なべ》と、山盛りの卵がならべられていたのである。よく見ると、盥に張られた水の中には無数のおたまじゃくしが泳いでいた。
「事態はいよいよ切迫した。……上様のおんいのち、あと一ト月二タ月もはかりがたい、と奥医師が申したとやら。――」
と、百蔵はふるえ声でいう。事柄もさることながら、このごろの彼の発音はたとえ組の者でも余人にはききわけられないほど衰えたものになっている。
「されば、せめてどの御側妾に御懐妊のことがあったか、それだけでも知りたい――と、御大老の仰せじゃ。むろん、御懐胎のことがあれば、の話じゃが」
上様がそのような状態にならせられて、なおこのことに死力をおしぼりなされなければならぬとは――また、それをおとどめするどころか、御大老もまた必死にそのことを御期待なされているとは。――
馬の種つけと同じことである。惨たり天下の将軍家、とは感ずるけれど、彼らもまた万やむを得ず、と、肯定しないわけにはゆかない。いま将軍他界して世子がなければ、まさに天下の一大事になると認めざるを得ないからだ。
「万一、どのお方でも御懐妊あそばされたことが、しかと相わかったら、それだけで幕閣のあらゆる雲ゆきが変る。いわんや、どのお方に御懐胎のことがあったかと判明すればなおさらじゃ。もとより、そのようなことがあれば、一ト月二タ月たてばだれにも知れるじゃろ。しかし、一刻も早うそれを知りたい――と御大老は仰せられる」
そして、百蔵は独語のようにいった。
「わしの思うには、それを知った者が天下の機をつかむと申しても過言ではない」
老人は頭をあげて、おちくぼんだ眼窩《がんか》を四人にむけた。
「そこで、これから、女人が懐胎したかどうか、ということを即座にききわける法を教える」
「――即座に?」
「おお、交合したときに」
四人は眼をぱちくりさせたが、まだよく意味を了解したとはいえなかった。
「しばしば申しておるように、交合の目的はただたねつけ[#「たねつけ」に傍点]以外に一つもない。それ以外のための交合は、全然無益なる浪費に過ぎない」
と、また百蔵老は、突忽《とつこつ》としてあらぬかたから説き起す例の癖を出しはじめた。
「従って、ある日の交合により、ある女人が受胎したとなれば、その日以後、その女人と交合することは一切|無駄《むだ》である。……この無駄を省かんとして孜々《しし》として研究を重ねたあげく――それ、いつぞや、目下鋭意研究中の重大なる題材があるといったじゃろが――ついにわしは受胎の音を鑑別するようになった」
「受胎の音?」
「すなわち一匹の精虫が一個の卵子に突入する音を」
いよいよもって、四人にはわからない。が委細かまわず――ほそぼそと百蔵老は語りつづける。
「本来ならば、これを実地にきかせたいところじゃが――受胎そのものは、わしといえどもまだ如何ともしがたい。通常男女は一生に三千数百回交合しても、生まれて来る子供は二、三人ないしは四、五人、それほど稀《まれ》な受胎の機会を待って、ひとさまが交合なさるそばにへばりついて、耳をすませておるというのは――だいいち、いまの事態に間に合わん。そこで速成教育として、それの擬音をきかせる」
百蔵老は、わきたぎった鍋に、次から次へと卵を放りこみはじめた。四人とも唖然としてそれを眺《なが》めている。
すぐに老人はそれを箸《はし》でとりあげて、ぽんと殻《から》を二つに割った。中は、まだ白身さえとろりとした半熟卵であった。
「一同、掌で耳にふたをせい」
四人は、催眠術にかかったように、いわれた通りにした。
「あっちっち」
と、いったようだが、その声は遠い。しかしともかくも百蔵老はその卵を左手に持ち、右手でヒョイと小盥の中のおたまじゃくしを一匹つまみあげ、卵の真上、三十センチばかりの空間にかざした。
「この音じゃ!」
右手を離すと、おたまじゃくしは半熟卵の上へ落ちて、プチン、というような音がした。まだふつふつと煮えているような黄身の中である。なんじょう、たまろう、おたまじゃくしはチリチリのたうちながら沈んでしまった。
「むろん実際の音はもっと微かに神韻ひょうびょうとして――いや、常人の耳に聞えるべくもないが、音質はまさしくこの通り」
と、百蔵老は卵をおいた。
「さあ、これより三日間、おたがいにこうやって、この音に耳を馴らさっしゃい。卵は千買おうと万買おうと、それくらいのものは御大老よりすでに頂戴《ちようだい》してあるわ」
やがて、日は三月を過ぎて、四月に入った。その四月なかばの或る夜明け方。
「――聞えましたっ」
と、四人は服部屋敷に駈け戻って、さけんだ。
「待望の御受胎の音が」
「おう」
さすがに百蔵老も眼をかがやかせた。
「昨夜は、どなたさま」
「おまるのお方さまでござりまする!」
五
伊賀組の瓦楽太郎と馬見印兵衛がまた服部百蔵老に呼ばれたのは、それから五日目の深夜のことであった。
やって来て、二人の若者は眼を見張った。このところ、日とともに弱ってゆくのを見ていた首領であったが、この夜の百蔵はまったくこの世の人とは思われぬ相貌《そうぼう》となっていたからである。
「お頭。……」
と、二人はさけんだ。
「心ノ臓がときどきとまる。うふ、うふ」
と、百蔵老はしかしうすく笑った。
「さきほど、御大老よりまたお使いをいただいた。今夜|子《ね》の刻、お屋敷に参るようにとのことじゃ」
「その御様子では」
と、瓦楽太郎は息をひいた。
「さればよ、もはや御用は勤まりませぬ、とお断り申しあげた。しかるところ――もし百蔵の都合悪しくば、このたびの件に実際働いた伊賀者なり甲賀者なりを代りに寄越せとのお申しつけであった。おまえらじゃ」
「して御用は?」
「天下にかかわる大事との仰せ、それ以外は行って見ねばわからぬわい」
世の人のだれもまだ知らぬとはいえ、将軍家御|寵姫《ちようき》のお一人はたしかに御懐胎なされた。――それが御男子か御女子かはまだ不明とはいえ――御大老の待ちに待たれた吉兆はここに現われたのである。この上ともなお御大老が忍び組を呼ばれるどんな御用があるのであろうか。
「そうと承っては、参らねばならぬ。わしなきあと、服部組の存亡は御大老の御方寸にあることを思えば。……ただし、せっかくの仰せじゃ、おまえらもゆけ」
と、百蔵はいった。
「いや、介添としていってくれい。……」
特に御大老からあの一件に働いた者の代人でもよい、という指定がなくても服部百蔵一人ではゆけなかったに相違ない。
子の刻。――深夜十二時ちかく、百蔵老を背負った瓦楽太郎と馬見印兵衛は、大手門下馬先にある大老酒井雅楽頭の屋敷の潜り門を入っていった。呼んだのだからあたりまえだが、雅楽頭はまだ起きていた。彼は縁先まで出て来た。案内して来た侍をも遠ざけ、ただ一人である。病弱な将軍|家綱《いえつな》のもとにあって、すでに十八年大老の職にあり、世に「下馬将軍」と称せられている人物である。
三人の忍びの者は暗い庭にべたとひれ伏していた。
「――ほ、これが大奥の隠密に入ったやつらか」
と、雅楽頭は、百蔵老の両側の若者を見下ろして、微笑した。あの大それた命令を出した本人のくせに自若たるものである。
彼は、百蔵老たちが三人で来たことも意には介せぬらしく、
「服部、その後、からだの具合はどうじゃ」
と、いった。
これに対して百蔵老は、さりげなく、別状のないようなことをいった。声の弱々しいのは以前からのことであるし、暗いので、老人の顔色などわからなかったらしい。それより大老はもっとほかの――おのれの思案に対して心を奪われているかのようであった。
「御用を申しつける」
雅楽頭はきっとなった。
「上様御他界までに、おまるのお方さまの御胎内にあるおんたねを流しまいらせよ」
「――あっ」
と、百蔵老も声をたてた。
死期迫る将車家が御世子をお残しあそばすことこそ徳川家御安泰のもと――と断じ、そのことをもっとも祈願し、そのために将軍家の御体調をひそかに調べたり、また御側妾御懐妊の事実があればいちはやくそれを知ろうとして、自分たちを大奥に忍ばせたのは御大老ではなかったのか。
「いかにもかつては御懐胎のことを望んだ」
こちらの心を読んだように雅楽頭はいった。
「数年前まではじゃ。さりながら、上様いよいよお弱りなされた近来は――上様がお焦りあそばすのを、実は暗然として見ておった。時すでに遅い、こう思ったのじゃ。うぬらに例の件申しつけたは、上様のあの御執念、ひょっとしたら――と、案じてのことじゃ」
「な、な、なぜでござりまする?」
「いま、御幼君をいただくことになって見よ、御連枝、御三家、諸大名みるみる鳴動して、徳川そのものがゆらぐようになるは火を見るよりも明らかだからじゃ」
「では、御世子なきときは?」
「いうまでもなく、大秘事であるぞよ。京よりさるやんごとなきお方を迎え、これを奉じてこの雅楽頭、断じて天下をびくともさせぬ確信がある。これこそは、十八年、わしの下知のもとに泰平を愉しんで来た侍や民衆のためじゃ」
雅楽頭は厳然といった。
「わかったか。――わからずばそれでよい。ただ、今申した用は果たせ」
「はっ」
「ただおんたねを流しまいらすについては条件がある。そのこと、何ぴとにも知られてはならぬということじゃ。御当人のおまるのお方さまさえも――おそらくはおまるのお方さまさえ、まだ御懐妊のことを御存知ではあるまい。先般、うぬからきいた服部組秘技の数々、あれに較べればかくのごときこと朝飯前のわざであろうが」
返事をも待たず、酒井雅楽頭はすっと立った。
三人の忍びの者は、黙々として、また深夜の江戸を組屋敷に帰った。来るとき百蔵老を負ぶっていた瓦楽太郎は首領のからだから死臭を感じたが、帰るときはそんな感覚も麻痺《まひ》していた。そんなものよりもっと恐ろしい、奇々怪々といっていい一権力者の思想に圧倒されていたのだ。
「危いな」
と、百蔵老はつぶやいた。もとの屋敷の座敷に坐らせられてからである。
「まかりちがうと、えらいことになる。胎《はら》の御幼君|弑虐《しいぎやく》の罪ということに。――」
「お、おやりになるおつもりで?」
と、馬見印兵衛が蒼ざめていった。
「やらずばなるまい、御大老の仰せ、あれで一理も二理もある。だいいち、叛《そむ》けば伊賀甲賀の全滅は大地を打つがごとし」
「しかし――御当人にさえ知られずして、おんたねを流す、そんな方法があるのですか」
「それは、御大老のお言葉ではないが、朝飯前じゃ。ただ、むろん、また大奥に忍び込まねばなるまいが」
「私たちがやるのでござるか」
「むろん!」
老首領はうなずいた。意志が定まったようである。
「しかし、思うところあって、これはおまえら両人だけの役目とする。千也、おゆたにも知らせてはならぬ。よいか。――」
二人の若者は、じいっと百蔵老の顔を見ていたが、ややあっていった。
「私たちははじめから、あの二人にあのようなことをさせるのに心進まぬものがござった」
「……甲賀組だからか」
「いえ」
「……惚《ほ》れておるからか」
「…………」
「うふ、うふ、うふ」
百蔵老は風呂の中の屁みたいな声で笑って、それから眼でさしまねいた。
「たねを水にする法を教える。寄れ」
まもなく、二人の伊賀者は去った。――心重げに、うなだれて。
六
服部百蔵は寂然と坐っていた。これまた首を垂れて、沈々と思いにふけっているように見えるが、ときどきぐらりとからだがゆれるところを見ると、居眠りをしているのかも知れない。――いや、からだをゆすってふりあげた顔は、もう死びとといっていい。彼はいのちの最後の炎をかきたてて、何やら思案を凝らしているようだ。
「これ」
彼が手を打って家人を呼んだのは、もう夜明けに近いころであった。
「甲賀の千也とおゆたを呼んで来てくれ。内密であるぞ」
やがて、二人の娘がやって来た。
この時刻に呼びつけられて、ただならぬものを予感していることは二人の顔色にあらわれていたが、それにもかかわらず首領のいい出したことは彼女たちを驚倒させた。
「おまるのお方さまを守れ」
死相の首領はそう命じたのである。
「おまるのお方さまの御懐妊なされたことを、この上なく残念がる向きがある。それが、おまるのお方さまを狙《ねら》っておる。――」
「――まっ、どちらの向きが?」
「――なぜでござりまする?」
千也とおゆたは同時にさけんだ。
「それは申せぬ、事実をいうのじゃ」
百蔵老は森厳にいった。二人の娘は顔をあからめた。そんな大それた人間があろうとは今まで夢にも思わず、それがいかなる筋か見当もつかないけれど、いわれて見ればそういうこともあり得ようとは、さすがに甲賀組に生を享《う》けた人間だけあって、理解出来ないことではない。
「おまえらならば、時と場合では大奥の女中衆にも化けられるであろう。……お守りするか」
二人は顔見合わせ、きっとして、
「はい!」
と、いった。守るとは、いかなることか、いまだ知らず。――
「敵は恐るべき曲者《くせもの》、大奥に忍び込んでおまるのお方さまに近づき、これに危害を加えるおそれがあるが、これを追い払い、事と次第では討ち果たす覚悟があるか」
「おまるのお方さまを――?」
千也はそういったが、すぐにふたたび、
「はい!」
といった。
「しかもじゃ。そのような騒ぎが白日のもとに晒《さら》されれば徳川家の恥となる。さればそのような曲者を発見した際は、なるべく隠密裡《おんみつり》に始末する必要があるが、出来るか」
おゆたは口をくいしばり、やや首をかたむけたが、みたび、
「はい!」
と、いった。
彼女たちの頭には、おまるの方の幻が浮かんだ。まざまざと近くでその姿を見たり、その声をきいたわけではない。姿としてはただいちど、夜の大奥の回廊を、雪洞《ぼんぼり》をささげた侍女とともに歩んでゆくのを遠望しただけであり、声としては褥《しとね》とたたみと床を通してきいただけである。
その声たるや――ほかの御側妾の場合は、きいていて耳を覆いたい場合が大半であったのに、おまるの方は、やはりからだじゅうを熱くさせるような思いをさせながら、気品と可憐《かれん》さ、また将軍家への人間としての愛情に溢《あふ》れ、いつしか、もしおんたねを身籠《みごも》らせ給うならば、この方に――と、千也とおゆたにひそかに祈らせたほどの女人であった。
そのおまるの方に危害を加えようとする大それた曲者があるという。ただ、公儀忍び組として当然な義務以上に、女として死を賭《か》けてもこれをお守りしたいという熱情が、二人の娘の胸に燃えあがったのは当然である。
「相手が何やつであろうと?」
百蔵老がしゃがれ声でいう。
「はい!」
「この御用、果たしてくれるな?」
「甲賀の名にかけて!」
二人は、思わずさけんだ。
この首領の前で、甲賀伊賀の派閥意識を出すことは禁句だが、この際、本能的にこの誇りの宣言がほとばしり出たのだ。
「よし、数日のうちに大奥へ忍べ。詳しくは、あとでいう。そのあいだ、しかと心の支度をすませておけい」
と、百蔵老はいった。
二人の娘は決死の覚悟に蒼ざめて、身ぶるいして、服部屋敷を去った。
蒼い夜明けの微光の中に、服部百蔵はまだ寂然と坐っていた。やおら。――
「伊賀が残るか、甲賀が残るか」
と、つぶやいた。
「いずれかは残る。……いずれかを残すのがわが義務である。種族を残すは、これ生物としての最大の義務。――」
きゅっと唇《くちびる》をまげて笑ったとたんに、彼はまるで枯木のようにぽっきりと前へ倒れた。刻々と明るくなってゆく春の暁光の中に、それっきり服部百蔵は動かなくなっていた。
七
忍び組首領服部百蔵が頓死《とんし》した。以前からのひどい老衰で、しかもこのごろは本人もしばしば心臓がとまるなど口にしていたから、来るものが来たというべきであろうが、さすがに忍び組の内部ではひとかたならぬ騒ぎとなった。
やがて、葬式もすんだ三日目の夜明け方。――
伊賀組屋敷の瓦楽太郎の住む家の戸をほとほとと叩《たた》く者があった。
瓦楽太郎はまだ起きていた。首領の急死に対しての驚きもさることながら、例の秘命について惑乱し、それでも前日の夕刻、馬見印兵衛とひそかに話し合って、首領の最後の指令だけは果たさねばならぬ、明夜より大奥へ忍び入ろうと約したが、それに関して、と思い、こう思って、まだ眠ることが出来なかったのである。
戸をあけて、彼は眼を見張った。千也が立っていた。
百蔵死後の取込みの手伝いに、甲賀組からも何人かの女が手伝いに来ていて、その中に千也の姿があったことは楽太郎の頭に明滅してはいたけれど、いま、この時刻、彼女がここに来ようとは思いがけなかった。
「どうなされた」
しかし、そういった彼の語韻に、こんな場合もっと甚だしかるべき驚きのひびきはなかった。驚いたことは驚いたが、その一方で彼は、自分が魂で千也を呼んだような気がしていたのだ。
「ちょっとお願いがありまして」
と、千也はいった。
「お願い? まあ、お入りなされ」
ためらいもせず、憑《つ》かれたような表情で千也は入って来た。その通り、千也は思いつめてやって来た。
馬見印兵衛と千也、この組合せがいちばん熱度があがる、と百蔵老はいった。しかし首領は老衰のために方向感覚が呆けていたのだ。千也がいちばん好きなのはこの瓦楽太郎であったのだ。
千也は今夜から大奥へ忍び入ろうと考えている。百蔵老のいったことは、あの晩老人が頓死してしまったのでまだよくのみこめないふしもあるけれど、とにかくおまるのお方さまを守らなければならない。そして首領でさえ恐るべき曲者といった敵とたたかわなければならない。……彼女は死を覚悟していた。
「願いとは何?」
と、瓦楽太郎はいった。
「わたしの伝授された膜鳴りの術をあなたに伝えておきたいのです」
「なぜ?」
「お頭が亡くなられましたから」
忍者が一人一芸であることは、服部百蔵の奇妙な方針であった。その首領は死んだ。……だからといって、たちまちそれを破ってよいということにはならない。千也はただ、死んでゆく身に、自身の伝授された秘技をこの瓦楽太郎に伝えておきたいという悲願にかりたてられたのである。
「左様か。――」
と、瓦楽太郎はうなずいた。彼もまた、千也のいうことが、その言葉だけでは理に合っていないことに感づかない。それどころか。――
「そうだ、では、おれも、この機会にそなたにちゅうだこの術を教えよう」
と、いった。
何が「では」だか、わからない。楽太郎もまた、ひょっとしたら死ぬかも知れない任務を果たす前に、例の術を千也に伝えておこうという心になったのだ。彼も千也を恋していた。理を超えた問答を交わし、それを意識しないのは恋の常である。そして、恋は恋としての理だけは通した。
つまり、千也が「膜鳴りの術」――処女膜の共鳴音をきく術を楽太郎に教え、楽太郎が「ちゅうだこの術」――過去形の交合回数を知る術を千也に教えているうちに、二人は交合の坩堝《るつぼ》に落ちてしまったのである。
もっとも、二人でおたがいに伝授するにはそれを実行するほかはないわけだが、そもそもこの夜千也が瓦楽太郎を訪れ、楽太郎が当然事みたいにこれを迎えた最大の心理機転は、このことにあったのかも知れない。――すなわち、決死の任務につく前に、恋する相手に肉体を与えておきたいという。――
それにしても、こんな場合における通常の恋人の交合に比して、これが熱烈過ぎたのは、やはり術の伝授しっこということがなければ、これほどではなかったに相違ない。
そして、ちょうど同じ時刻。――
おゆたもまた馬見印兵衛を訪れて、二人で術の伝授のしっこをやっていた。まったく同様の心理機転から、おゆたは相手の男根の勃起状態を知る「すじがねの術」を、また印兵衛は男の貯精量を測定する「きんたまりの術」を。
夜明け。――晩春というのに、それぞれの家を去り、また見送る四人の男女の乱れた髪を吹く風は秋のように寒かった。四人の顔は、それぞれ易水の荊軻《けいか》のように悲壮であった。
別れると、千也とおゆたはしかし甲賀のくノ一の顔に戻った。或る意味で、彼女たちのやったことは、甲賀のくノ一としては裏切りである。だから千也とおゆたはこのことをおたがいにいわず、従っておたがいに知らなかった。甲賀組に帰った二人は、その夜決然として出撃した。
八
瓦楽太郎と馬見印兵衛も出撃した。
その女に気づかれずして、流産させる法。――彼らが服部百蔵からきいたその法は、例によって甚だ奇怪なものであった。
女が熟睡している褥《しとね》の上の一隅に、水を入れた牛の膀胱《ぼうこう》を置く。同時にそれとは対角の位置に、床下から同様の膀胱をおしつける。そして同時に気息を合わせて、これを押えたり、離したりする。すると、この相呼応する作業から、一種の波動が夜具に伝わり、骨盤から子宮に伝わって流産現象を起すという。その二個の牛の膀胱を、百蔵は二人に与えた。そしてその精妙なる波動の起し方を伝授した。――もはや、楽太郎も印兵衛も、老首領の伝授に疑いは持たなかった。
ただ、大奥の寵姫の寝所と床下に忍び込んで、当人に知られることなくこんな作業をやるのは、忍者、しかも伊賀組切っての精鋭である二人をおいては、まず実行出来る者もないに相違なかった。
さみだれふりしきる夜である。両側に鉄網《かなあみ》のついた灯をつらねた江戸城大奥の回廊を、ひらひらと大きな蝙蝠《こうもり》みたいな影が舞っていった。
ときどき、何やらを捧げた女中が通る。それが遠くに見えると、その影は、ふうっと天井に舞いあがってしまう。何だか、色さえ薄白くなって、煙みたいにひろがるようだ。その下を通る女中は、まったくそれに感づかない。
いうまでもなく、おまるの方の寝所に近づく瓦楽太郎であった。彼は片手に水を満たした牛の膀胱をつかんでいた。――あと、目的の場所まで十数間。
そのとき、また一人、若い女中がやって来た。楽太郎はふうっと舞いあがって、一本の手と二本の足で天井に吸着した。女中は何気なくその下をシトシトと通り過ぎようとして、ふと立ちどまった。
じいっと上を見あげる。――
「や?」
あやうく楽太郎は天井から転がり落ちようとした。女は、おゆたであった。
「瓦どのか」
おゆたの顔も驚愕《きようがく》に硬直している。
「どこへ?」
「おまるのお方さまの御寝所へ」
と、答えてから、楽太郎はいぶかしみにたえぬ声を出した。
「そなた、なぜそのような姿を?」
「おまるのお方さまの御寝所へ、何のために?」
問いには答えず、おゆたは問う。
「御用じゃ」
「なんの御用?」
折れ曲った向うの回廊を、しずかに漂って来る二つ三つの灯が、雨を通して見えた。楽太郎は狼狽し、焦燥した。
「仔細《しさい》はあとできこう。こちらの仔細もあとでいう。ともあれ、天下のために、おまるのお方さまのおんたねは流さねばならぬ。おゆた、黙って行ってくれ」
「曲者は、おまえでしたか」
万感無量といった声で、おゆたはつぶやいた。――それから、決然として、
「そうならば、わたしはここを通せませぬ」
「なに?」
「――甲賀のくノ一として!」
と、彼女はひくくさけんだ。その片手が、帯のあいだに走った。帯には細い銀の針のようなものが、七、八本もさしこまれていた。――それを見つつ、その武器よりもおゆたの眼に、瓦楽太郎は射すくめられた。そんなはずはない。――
そんなはずがないとは、千也の同輩であるおゆたが自分の敵であるはずはない、という混迷もあるが、かりに敵にまわったにしろ、この女の眼に自分がおびえるなどということのあっていいはずがない。
回廊の灯は近づいて来る。
瓦楽太郎は、牛の膀胱を口にくわえた。手がこれまた手裏剣にかかろうとする。そのとき、おゆたがいった。
「楽太郎どの、おまえの精はからっぽじゃな!」
楽太郎の口から牛の膀胱が落ちた。彼の手がとまった。のみならず――数秒おいて、彼自身も天井から落ちた。驚きのためというより、指摘された事実を思い出したとたん、全身に虚脱感が甦《よみがえ》って、手足も萎《な》えたせいであった。転がりおちた瓦楽太郎の心臓部に、銀の長い針が走り、そのままおゆたの姿は、近づいて来る灯影とは反対の方角へ、風鳥《ふうちよう》みたいに翔《か》け去っていった。
――同じ時刻。
雨ふりしきる庭を、牛の膀胱を腰にぶら下げた馬見印兵衛が、おまるの方の寝所の床下に近づこうとして、石燈籠《いしどうろう》の蔭からすうと漂い出した影にはたと立ちどまった。
しばし、常人にはあやめもわからぬ如法闇夜の中に向い合って。――
「印兵衛どのではないか」
驚愕した声に、印兵衛もまた驚愕の声を返した。
「千也じゃな。何をしておる。――」
「おまるのお方さまをお守りするために」
千也は凜然《りんぜん》と答えた。彼女は、印兵衛とひとしく黒装束に身をかためていた。
「――なんじゃと?」
印兵衛は仰天して息をのみ、すぐに、おまるの方の寝所に忍び込む瓦楽太郎と時刻を合わせなければならぬことに焦《あせ》って、うめいた。
「わけは、あとできく。そこ通せ」
「――曲者は、おまえでしたか」
と、千也は嘆声を発した。
同時に、両者のあいだに、雨も凍りつくような殺気が満ちた。同じ忍び組、しかも、ほんのさきごろまで相協力して大奥を偵察した仲間――いや、いや、首領百蔵老の方寸によれば、やがては夫婦《みようと》ともなるべきであった二人が、――突如として、百年の宿敵伊賀と甲賀に相分れたようであった。
その凍結した闇を切り裂くように千也がいった。
「印兵衛どの、おまえはきのうの夜、七たび女と交合しましたね!」
とたんに馬見印兵衛は、牛の膀胱をぶら下げた腰が軽石になったような気がし、ふらっとよろめいた。間髪を入れず、その心臓部に銀の針がつき刺さり、手裏剣を握ったまま、馬見印兵衛はどうと雨の大地に崩折《くずお》れていた。
十数分ののち。
回廊の上と下で、おゆたと千也が惨たる顔を見合わせていた。
「ああ、わたしたちは。……」
「どうして、こんなことに。……」
二人のくノ一は、ひたと両掌を顔におしあてて嗚咽《おえつ》しはじめた。
九
それから二十日ばかりたった延宝八年五月八日、四代将軍家綱はこの世を去った。
その夜のうちに、幕閣では、御三家大老、若年寄らが綺羅星《きらぼし》の渦《うず》のごとく、輪となり、動揺しつつ深刻な評定に入った。むろん、後継者なき徳川家をいかにすべきか、という問題のためである。――
大老酒井|雅楽頭《うたのかみ》はいった。
神祖御定法によって、当然御三家のうちのいずれさまかが五代将軍家をつがせ給うべきではあるが、そのいずれを選んでもほかの二家には御異論があろうし、また雅楽頭の見るところ、その各おん家にそれぞれそうはなりがたい御内情がある。少くとも今の今、これを急いで決することは、のちに思わざるわずらいを残すもととなる。さればそのことは追い追い慎重に審議することとして、さしあたっていまのところは京より有栖川宮幸仁《ありすがわのみやゆきひと》親王を迎えてこれを新将軍と仰ぎたてまつりたい。――
そのことについては、かねてから雅楽頭の腹はきまり、そのための準備もすでに終っているかに見えた。「下馬将軍」と呼ばれ、これまでほんとうの独裁者であった雅楽頭の提案である。議はそのまま決したかに思われた。
しかるにこのとき、老中で雅楽頭の唯一の政敵と目されていた堀田筑前《ほつたちくぜんの》 守正俊《かみまさとし》が顔をあげて、意外なことをいい出した。
――四代さまのおんたねが、おまるのお方さまの御胎内におわす。
彼はそう発表し、かつそのことを、おまるのお方さまの実父にあたる旗本|沢木伝《さわきでん》右衛門《えもん》から報告を受けたことであるといった。
そして、なおかついう。
「やがて御出生になるべきお方がもし御男子でおわせば、もとよりそのお方が五代さまたるべし。もし御幼君の儀にて心もとなくおぼしめさる向きあらば、御後見をおつけ申しあげればよろしからん。その御後見として、御三家におさしさわりあらば――と申すより、何ぴとよりもふさわしき方が現におわす。すなわち四代さまのおん弟君|館林《たてばやし》中納言|綱吉《つなよし》卿こそそのお方でござる」
一座は騒然とした。
「おまるのお方さまが御懐妊であると? 左様なこと、この雅楽頭、まだ耳にしたことがござらぬが。――」
と、雅楽頭は苦汁をのんだような顔でいった。
彼は、例の服部百蔵に命じたことが失敗に帰したことを知っている。大奥で二人の伊賀者の屍体《したい》が発見されたことによってである。一般の者は、なぜ伊賀者が二人そんなところで死んでいたか見当もつかず、また雅楽頭自身も、百蔵すでにこの世になく、かいもくそのわけがわからなかったが――今にしてあれを斃《たお》した者は堀田筑前の手のものではないかと疑われる――とにかくあのことに失敗した以上、やがてはおまるの方懐胎のことは公知のこととなるだろうと思っていた。もしそれが御幼君であれば、御後見として御三家か、おそらくは彼の最も恐れる館林綱吉が立つに相違なく、自分の大老の地はゆらぐであろう。しかし今、かねて意志相通の有栖川宮を迎えれば、依然自分がその独裁の権をふるうに支障はない。――彼はこう劃策《かくさく》して、いまのところはおんたねの件は知らぬ顔で、そのようなお膳立《ぜんだて》に従って強引に事態を進行させようとしていたのだ。
「それはまことか」
「事実ならば、事態はまったく変る」
「堀田筑前の申すことにも理がある」
争論ののち、とりあえずこの席におまるのお方さまをお呼び申しあげて、その実否をたしかめねば、この儀は決すべくもないということに落着いた。
その通りに事は運ばれた。
やがてその寵姫は、数人の侍女をつれて、しずしずとそこへ現われた。希望、失望、歓喜、不安――そして、何より事実か否かを探ろうとする無数の眼の中に、おまるの方はうなだれて坐った。身籠った女人とも見えぬその清純可憐の姿は、一瞬、二瞬、権力の座をめぐる男たちの非情の眼を讃嘆の靄《もや》でけぶらせて、
「……ああ!」
と、溜息《ためいき》をついた者さえあったが、やがて堀田の問いに、
「どうやら。……」
と、おまるの方は、はじらいながら、こっくりした。
「御大老、いかがでござる?」
と、堀田筑前はふりかえった。
酒井雅楽頭は茫然《ぼうぜん》として眼をひろげて、沈黙している。それはおまるの方に見とれているようであったが――実は彼の眼は、おまるの方のうしろに坐っている二人の侍女に吸いつけられていたのであった。どういうわけか、全裸の姿をなよなよとうずくまらせて見える白花《びやつか》のような姿に。
雅楽頭にとって、魔睡のような数瞬であった。だから、そのひざに、いつどこから飛来したのか、細い銀の輪が吸いついているのにも無感覚であった。それから、その輪に押えられて、まんなかの袴《はかま》からもっこり何やら持ちあがっているものがあることにも。
最初に堀田筑前がそれに気がついた。彼は眼を見ひらき、息をのみ、やおらさけんだ。
「御大老」
そして筑前守は、この座の争論を一挙に解決し、酒井雅楽頭を永遠に失脚させる宣言を発したのである。
「あわれ、何と遊ばされしや、かかる天下の大事を定める席において、不敬、無礼、大|破廉恥《はれんち》、あら恐ろしや御大老、ものもあろうに男根をお立て遊ばそうとは!」
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さまよえる忍者
一
――およそ世に、これほどばかばかしい睨《にら》めッこはあるまい。
相手の眼を睨《ね》めつけながら、滝川右近《たきがわうこん》はそう考えた。しかし相手は厳然と彼を睨み返している。彼は舌打ちした。
右近がそんなことを考えたのは、今がはじめてのことではない。きのうも、おとといも――いや、三年前、七年前から連綿としてそうなのだ。が、相手は冷然として、その間彼を睨み返している。彼はあくびをした。
右近が眺《なが》めているのは、ただ眼だけであった。眼球だけであった。――正確にいえば、三本の足のついた台の上にのせてある眼球そっくりの水晶の球であった。
それを凝視しているのが、彼の仕事なのだ。彼に課せられた最大の修行なのだ。
目的は右近も知っている。それが自分の任務となった由来も承知している。
幻眠の術。
伊賀《いが》組に、というより滝川家に古くから伝わる忍法で、その道具たる水晶球とともに幻眠秘法と称する書も伝来のものである。
その虫くいだらけの秘伝書によれば。――二度か三度は精読したこともあるのだが、何だか内容に支離滅裂なところがあってほとんど知識として脳中にたくわえられていないのだが、それでも右近の印象に残っている断片が、三、四ある。
「幻眠とは眠ることならず、よそより夢見させられて現《うつつ》に立居振舞いすることなり。……」
「はじめはかの水晶の球をひたと見つづくることによりて、このさまに入れども、のちにはただ忍法者の指図のみによりてそのさまとなる。……」
「女子供、心弱き男など幻眠にかかり易かれども、術至らばいかなる賢人豪傑といえどもこの術にかからざるなし。……」
「赤児《あかご》の哭《な》く声のみに目ざむる母親、水車の止る音のみに目ざむる粉|挽《ひ》きなどこの同類なり。またあくびが移るなどこれなり。人あまたなせること、真似《まね》したくなるもこれなり。忠義のためよろこびて死ぬるなどもこれなり。……」
記憶には残っているが、よく考えると、どれもよくわからない。
なかんずくわからないのは、水晶の球と自分との関係だ。
その球は、水晶とはいうものの、年代のためにうす濁って、何だか白痴の眼だまみたいにどろんとしていた。それを凝視していると、ふしぎにふっと軽い脳貧血みたいな気分になることもあるから、やはり何か魔力を具《そな》えているのかも知れない。しかし――自分の方が忍法者ではないか。自分がそれによって幻眠の術にかかった状態になってどうしろというのか。……
もっとも伊賀組首領|服部万蔵《はつとりまんぞう》の命令によると、その眼をだれか他人某々の眼と思えという。それを空想して日毎夜毎睨めつけているうちに、その某々のほんものの眼を睨めつけるとき、相手に対して、こちらが魔力を発揮することになるという。――そこがよくわからない。こんな訓練をしていると、ほんとうの相手の眼を凝視したとき、こっちが幻眠状態になってしまう道理ではないか。……
そう文句をいったら、服部万蔵もあいまいな顔をして、しかし強くいった。
「……とにかく、その通りにやっておりなされ。おまえさまの祖父《じじ》さまは、相手に幻眠の術をかけて、相手に乗り移るということをなされたそうでござるゆえ」
その秘伝書も水晶球も、実は伊賀組本来のものでなく、滝川家のものなので万蔵にもたしかな自信はないようであった。
滝川家は服部の家来筋ではなく客分ともいうべき家柄であったが、しかし先祖代々養われて来たという縁があることにまちがいはない。いわば相伝の食客である。で、滝川右近は、いわれた通り毎日、幻眠の術を体得すべくこうして水晶の球と睨めっこしているのだが――しかし彼が、ばかばかしいと思いつつその命令に従っているのは、義理や服従の精神からというより、生来の投げやりの気性からといった方が適当なように思われる。
右近自身は、自分が「かり[#「かり」に傍点]の姿」思想を抱懐しているからだと考えている。つまり、いまの自分の姿と行動はかり[#「かり」に傍点]のものだという観念で、かり[#「かり」に傍点]の浮世とか、浮世はかり[#「かり」に傍点]の宿とかいう人生観とはちょっとちがう。
とにかくいまの自分はかり[#「かり」に傍点]の姿だから、本気になれないのである。何でも臨時作業という気がするのである。
では、ほんとうの自分の姿はどんなもので、どこにある? ときかれても、それがわからない。――いや、ひとつだけわかっていることがある。それは自分がせめて十年ほど早く生まれるべきだった、ということだ。
十年早く生まれていたら、おれはちがっていたろう。少くともいまはかり[#「かり」に傍点]の自分だなどと思う考えにはとり憑《つ》かれなかったろう。
滝川右近にそう思わせたのはただ一人の女人であった。
名はお千賀《ちか》。ただし、彼より七つ年上の三十五歳。
同じ四谷《よつや》の伊賀組の組屋敷に住む女性だ。しかし彼女は、右近が十歳のとき、やはり伊賀組の鞍掛鞍兵衛《くらかけくらべえ》というひとにお嫁にいってしまった。
そのとき、右近は泣いた。十歳で? 嘘《うそ》をつけ、という人があるかも知れないが、それどころか彼は生まれてはじめてお千賀を見たときから好きだった。とかたく信じて疑わない。少くとも生まれてはじめて失恋の涙をながしたことはたしかで、そしてそれが彼の二十八歳の人生でたった一度の経験であったこともまた、たしかである。
むろん、お千賀はいまも人妻として組屋敷に暮している。なんと、十六になる息子まで持って。
十六の子があるとは見えぬ白梅のように清らかな彼女は、自分のこんな想いを知ったら果して笑うだろうか、怖れるだろうか。
何はともあれ、自分が喜劇的であることはまちがいなかった。が、彼には自分が笑えなかった。笑うとしても、甚《はなは》だ虚無的な笑いしか出て来なかった。
右近が、十年早く生まれて来るべきだった、と痛感するゆえんである。
十年早く生まれるべきであった自分が本来の自分で、いまの自分はかり[#「かり」に傍点]の姿だ、という観念が牢固《ろうこ》としてあるものだから、いまやっているすべてのことに本気になれず、何でも臨時作業だという気がするのだ。
ましてや、水晶の球睨みである。その修行によって他人に乗り移る、とかいうことが可能かどうか、そもそも怪しいが、よしや可能であったとしても、乗り移りたい意欲を感じさせる他人というものが、見まわしたところ一人もいないのだからどうしようもない。
で、けだるい梅雨のけぶる或《あ》る日。
右近は、仰むけに寝ころんでいた。のみならず、そのうち退屈まぎれに、というより無意識的に、台の上の水晶の球を両足の親指のあいだに挟《はさ》んで、おもちゃにしていた。
そこを、首領服部万蔵に見つかったのである。
「何をしておられる?」
最初はただ右近が修行を怠けていると見て、それでもかみつくようにどなったのだが、次に右近の両足の先に挟まれたものを見て、万蔵の顔色は変った。
「あっ……この万蔵ですら滝川家の重宝として手も触れず、おまえさまにまかせておったものを、いかに滝川家の子孫なればとて――いや、それなればこそ、いっそうこれは許すべからざる大|冒涜《ぼうとく》」
むろん、右近は驚いてはね起き、さすがに小さくなって膝《ひざ》をそろえている。その前に万蔵は岩みたいに坐《すわ》って、約一時間にわたり説教したのち、
「なまじこの伊賀組の組屋敷においておくがゆえに、こちらの遠慮が悪い目に出た。だいぶ前から思案しておったことじゃが、いま決心がついた。――甲賀《こうが》組へゆかれい。爾今《じこん》、甲賀の組屋敷の方で修行をされい」
と、いった。
幕府の忍び組は、伊賀一番隊、根来《ねごろ》二番隊、甲賀三番隊という組織になっていて、根来は別格だが、伊賀と甲賀は発祥の地が隣り合わせであることからして縁深く、それゆえに、ときには血で血を洗うような敵対意識を持ったこともあるが、徳川の泰平も二百年を越えて、事実上開店休業状態のいまの時勢では、もうそんな恩讐《おんしゆう》はなく、それどころか伊賀組の服部万蔵が名義上はいまは甲賀の頭《かしら》でもあった。
「かしこまってござる」
と、右近はいった。
べつに困ったとも、申しわけないことになった、とも思わない。彼は何でも臨時作業のつもりでいる。
二、三日のち、伊賀組の組屋敷を出るとき、一人の少年が追って来て、眼に涙を浮かべてすがりついた。
「泣くな。何も他国へゆくわけじゃないよ、鞍之進《くらのしん》」
と、右近はちょっと持て余した。
しかし、彼もちょっとほろりとした。伊賀組の男性のうち、彼がやや愛していたのはこの十六歳の美少年ただ一人といってよかったからだ。鞍掛鞍之進――お千賀の一子であった。
二
滝川右近は、駿河台《するがだい》の甲賀組の組屋敷に飄然《ひようぜん》と移った。――例の水晶の球をふところに抱いて。
「服部の方より話は承わった。責任を以てお預り申そう」
と、甲賀組の実質上の首領甲賀|空斎《くうさい》は歯のない口でいった。
空斎はもう八十を越え、白髪と白髯につつまれて――いや、空斎のことなどどうでもよろしい。特記すべきは、この甲賀の組屋敷にいたただ一人の女性である。この女性こそ、すべてを臨時作業と心得ていた右近の人生を決して臨時作業ではないものに一変させたのだから。
名はあだ[#「あだ」に傍点]という。
漢字なら、婀娜《あだ》とでも書くのか。女のなまめかしさの形容だが、ほんとうにこの女はなまめかしかった。美しいことも美しいが、それよりもまず名状しがたいほどのなまめかしさがまず男を圧倒した。霞《かす》んだような眼、いつも濡れているやや厚目の唇《くちびる》、やや肥り肉《じし》で白くくくれたあご[#「あご」に傍点]、蛇《へび》のように柔らかに屈曲する腰、くびれの入ったような指。――淫美《いんび》、と形容してもいい。
脳中、白梅のように凜《りん》としたお千賀の像を抱いている右近でさえ、最初の一瞥《いちべつ》で、はっと眼を大きく見ひらいたくらいである。
こんな女が、伊賀組以上に落魄《らくはく》の気が漂っている甲賀組にいたのか。――その素性をきいて、右近はまた意外の感に打たれた。
あだ[#「あだ」に傍点]はなんと、織田信長《おだのぶなが》の末孫であるという。といっても、信長に十数人いた愛妾の生んだ子の裔《すえ》で、それがどうして甲賀組に養われるようになったのか、その事情はよくわからない。――考えて見れば、そんな素性をたどれば信長の子孫も数百人いるかも知れないのだが、とにかくこのあだ[#「あだ」に傍点]の血統はずっとこの甲賀組の中で養われて来て、それがはっきりしているから、ここではちょっとした客分格であった。ちょうど右近が伊賀組でそういう立場にあったのと似ている。
「ほう」
ただ、そういったばかりでなく、右近がたしかに心に或る衝撃を受けたのは、彼がその信長の家来であった滝川|左近将監《さこんしようげん》の後裔《こうえい》だったからであった。ものの本にも「信長公のころは、天下の政道四人の手にあり。柴田《しばた》、滝川、丹羽《たんば》、羽柴《はしば》なり。滝川左近、武勇は無双の名ありて度々|関八州《かんはつしゆう》を引受けて合戦す。関八州の者は滝川の名を聞きても怖れしほどなりき」とある勇将である。その裔である右近が、どうして伊賀に養われていたかというと、滝川の出身が伊賀だからである。
とはいえ、むろん、そんな二百何十年も昔の主従の縁で、いまさら平伏する気はない。
いや、平伏するにも何にも――このあだ[#「あだ」に傍点]がおかしいのだ。
年をひとにきけば二十三という。この美貌《びぼう》とこの素性をもって、この年まで彼女がまだお嫁にゆかないのは、彼女が半白痴だからであった。彼女は自分がどれだけ男を悩殺するかまったく自覚せず、ただどろんねっとりと仄《ほの》びかる白い泥《どろ》のかたまりみたいに、甲賀家にかたまっているだけであった。
それが、異変を生じた。――滝川右近の出現によって。
いったい、どうしたのか、右近はあだ[#「あだ」に傍点]を見て瞠目《どうもく》したが、あだ[#「あだ」に傍点]も――精薄のあだ[#「あだ」に傍点]が、右近を見るやいなや一大反応を起したのだ。
最初右近を一目見たときから、このなまめかしい女性が、頬《ほお》にぽうと血をのぼし、舌で唇をなめて、ごっくり白いのどを動かしたのをおかしいとは思ったが――さてそれ以来、彼を見ると、ふらふらと糸に引かれるように寄って来ては、妙にからだをくねらせたり、袖《そで》を引いてこっちを見ろというしぐさを見せたり、はてはうっとりとしなだれかかるようになったのだ。
「……お? これはおかしな風の吹き具合」
これには甲賀空斎らもめんくらったようである。で、――
「いけませぬ、あだ[#「あだ」に傍点]どの」
制止はしたが。――
ききめがあると信じての制止ではない。何をいってもだめなことはいままでの体験で知れているし、半白痴のくせにその血統のせいか、わりに大事にされているらしいあだ[#「あだ」に傍点]であったし、それに歯なしの空斎でさえひるませる妖艶《ようえん》さがこの女人にあった。
「お願い申す。適当にあやしておって下され」
と、老人は苦笑していった。
そういわれても、滝川右近は狼狽《ろうばい》しないわけにはゆかなかった。
第一に、あだ[#「あだ」に傍点]はいつでも、どこにでもやって来る。この屋敷に来てから右近は急に例の水晶の球睨みに熱心になり「修行中でござるぞ!」と叱咤《しつた》してみるのだが、一向に受けつけない。第二に、あだ[#「あだ」に傍点]はあまりにも美しい。むろん精薄の美女をまともに相手にする気はないが、そういう理性をとろかせるような妖しさがあだ[#「あだ」に傍点]にある。第三に、先祖が主従であったからといってべつに平伏する気はないとは思うものの、やはり制約されるものがある。――
「いけませぬ、おゆきなされ」
彼は手をふった。――夏の或る夕方のことだ。
あだ[#「あだ」に傍点]はだれに与えられたのか自分で探したのか、半分からだが透き通って見えるようなうすものをまとっていた。肉体のくぼみくぼみが陰翳《いんえい》の渦《うず》をえがいて、まともには眼もむけられないような柔媚《じゆうび》さであった。
「忍法修行中でござるぞ!」
悲鳴のようにさけんだが、なお平気で――しかも肩で息をつきながらしなだれかかって来るあだ[#「あだ」に傍点]を、右近は必死の思いで、つきのけ、立ちあがり、睨みつけて、
「めっ」
と、いった。
そのとたんに、こんどは右近の方に異変が生じた。
その異変を知ったのは彼だけだが――実に奇怪な感覚であった。にらんだとたんに、頭がくらっと脳貧血を起したようになり、ふっとわれにかえると――何たること、そこに馬鹿みたいに口をあけて立っている彼自身を、彼は見たのである。
むろん、口をあけて立っている右近は、やはり口をあけて横坐りになっているあだ[#「あだ」に傍点]を見ている。――では、彼自身を見ている彼はどこにいるのだろう?
「こ、これはどうしたことじゃ?」
同時に、声が出た。立っている右近の口と、坐っているあだ[#「あだ」に傍点]の口から。
一方はもとより右近の声で、一方はあだ[#「あだ」に傍点]の声であったが――声を発したのは、右近一人にまぎれもなかった。
あだ[#「あだ」に傍点]が右近になったのだ。いや、右近があだ[#「あだ」に傍点]に乗り移ったのだ。――幻眠の術がついに実現したのだ!
そう思った。ただ、そう思っただけである。どうしてこういうことになったのか、さっぱりわからない。考えてわからないというより、それ以上考える力がない。彼は――二人の彼は、自分の頭が三日三晩不眠不休でいたようにぼやけ、しびれ、弱り果てていることを感じた。
――そこで作者が右近に代って、この現象を考えて見るのだが、これは彼が永年修行の甲斐があって、突然|開眼《かいげん》したということもあろう。それほど熱心に修行した覚えはないが、それでも服部万蔵に叱咤|鞭励《べんれい》されつつ、明けても暮れても眼球に似た水晶の球を睨みつづけていたという実績から、多少の異能は具えて来たと見える。しかし、それより大きな理由は、相手が精薄だったという点にあるのではあるまいか。幼児や女性は成年の男子にくらべて催眠術にかかり易いという原則が極端なかたちで現われたものとして。
ただ、この場合、相手が精薄ないし白痴であれば、だれでもこんなことが可能であったかというとそれは疑問だ。――これは、たとえ滝川右近が完全に本来の右近にもどったとしても果して想到するかどうかわからない事実だが、ひょっとすると彼は遺伝的に千載一遇《せんざいいちぐう》の相手にめぐり逢ったのではなかろうか。
右近の遠祖滝川|一益《かずます》はさきにいったように信長|麾下《きか》の屈指の勇将であったのだが、信長の死後数年のあいだに、まるで|※[#「角+力」、unicode89d4]斗雲《きんとうん》を失った孫悟空《そんごくう》みたいに神通力を失って落魄《らくはく》し、あげくの果ては越前《えちぜん》で野たれ死したという人物だが、これほどの転落ぶりはいくら戦国の世でも稀有《けう》というより神秘的ですらある。何やらその間に、自己破壊を起すほど彼の心を打ちのめす事実があったのではなかろうか。彼が唯一の憧憬《どうけい》の対象としていた織田家の女人がこの世から消え失せた、といったような。
すなわち、思い浮かぶのはお市《いち》の方だが――その先祖の血が右近の血に伝わっていて、やはり織田の血を伝えたあだ[#「あだ」に傍点]を見るや、知らずしてこれと一体化したいという潜在的願望が、かくもやすやすと彼女の白痴の脳髄にはいり込めた理由ではあるまいか。
そうとでも考えなければ、解釈のつかないこの幻眠の新現象であった。
そして、この怪現象から、つづいて自動的に第二、第三の変な事態がひき起された。
いまもいったように右近はあだ[#「あだ」に傍点]を、その意志なくして催眠術にかけたものの――滝川右近は茫としていた。相手を催眠術にかけたというより、まるで彼自身の脳髄を半分抜きとられたように。
幻眠の術が発現した! と知ったのも、ただ一閃《いつせん》の思考である。彼の頭は――二人の脳髄は濁り、けぶった。
意識が明晰《めいせき》なときには、あだ[#「あだ」に傍点]の妖艶さは認めつつ、いくらなんでも、これをどうしようという気はなかった。それから、まさかお千賀に対して貞節をつらぬく、というほどの決心でもなかったが、ともかくもそれに拘束されてはいた――。それがけぶり、濁ったのだ。
あるいは、さらにこの女人と一体化したいという本能につき動かされたのかも知れない。――
とにかく滝川右近は、ここであだ[#「あだ」に傍点]と交合してしまったのである。
実をいうと右近は童貞ではない。あまり頻繁《ひんぱん》にではないけれど、廓《くるわ》に通ったこともある。しかし、この交合はそれとは類を異にしていた。あたりまえといえばいえる。これは感覚に関するかぎり、雌雄同体のまじわりであったから。さらにいえば、右近は男女二人分の快楽を味わったわけだから。
異次元の交合が混沌裡《こんとんり》に終って。――
「……おう」
ふたたび、そしてこんどは、たしかにはっきりした意識を以《もつ》て――ただし、ひどい疲労感は伴っていたが――右近はわれにかえった。
「はてな」
首をひねって、彼は愕然《がくぜん》とした。
右近の意識を持っているのは、あだ[#「あだ」に傍点]としてだ、ということにはじめて気がついたのである。眼前に坐っているのは、口をあんぐりあけた、明らかに白痴的顔貌の右近であって、これを彼は他人として眺めているのであった。
――先刻脳髄の機能を半分ずつ分けた彼は、こんどは完全にあだ[#「あだ」に傍点]の肉体に乗り移ってしまったのである。
「……ううむ」
これには驚愕せざるを得ない。狼狽せずにはいられない。――いったい、おれはどうしたらいいのだ。これからさき、どう暮していったらいいのだ?
その夕方から翌朝にかけて彼を襲ったのは、ただ困惑と混乱の嵐《あらし》であった。夕方から翌朝にかけて、というのは、そのあいだ二人はその部屋にいっしょにじっと閉じ籠ったままであったからだ。
右近が特別の修行をしている客分だという立場にあったことと、あだ[#「あだ」に傍点]がいつも追っかけてはいられない天衣無縫の存在であったということが、みなの疑いを招かずにすんだ。
さて、その結果は――というと、明け方までに徐々に右近はもとの右近にかえり、一方のあだ[#「あだ」に傍点]はもとのあだ[#「あだ」に傍点]に戻ったのである。
この怪事はさしものものぐさな右近をも異常な好奇心で燃やした事件であった。彼はこれを確認し、さらに研究するために、それから十余日、幾たびかあだ[#「あだ」に傍点]との交合を実験した。
結論はこうである。
交合によって彼が完全にあだ[#「あだ」に傍点]に乗り移ることは事実である。ただ、乗り移ったのち、あとの自分が人間のぬけがらのごとく白痴化してしまうのは――たとえ一夜にしてもとに戻るとはいえ――甚《はなは》だ面白くない、と考えられた。それにしても、一夜にしてもとに戻るのはなぜだろう、ということを考究したあげく彼は、どうやらそれは放出した精汁がふたたびこちらに分泌蓄積されるせいではないか、ということを発見した。ということは、あだ[#「あだ」に傍点]の体内に移った彼の精汁が死滅するにつれてあだ[#「あだ」に傍点]ももとのあだ[#「あだ」に傍点]に戻るらしい、という見解に通じる。
すると――彼は、おのれの精汁に乗って魂が移動するのだ!
男性の一回の射精には数千万匹だかの精虫をふくむという。この精虫の一匹一匹が、すべて彼の遺伝因子をつつみ、一人の人間としてこの世に誕生する可能性を持ったものである。そのことによって、魂が乗り移るなどということも決してゆえなきことではない――とまでは分析推理しなかったが、とにかく事実として彼は認めた。
そこで彼は、数回その射精を――非常なる努力をもって――分断して見たのである。すると――果せるかな、その放出する量と残留させた量によって、九割方乗り移るとか、七割方とり憑《つ》くとかいうことが操作出来るということを発見したのだ。つまり、やりかたによっては、あとに残る右近も完全な白痴とはならず、幾分かでも意識を保持し得るわけである。
「忍法|傀儡精《かいらいせい》」
と、右近は名づけた。
彼には珍しく――いや、はじめてといっていいほど張り切ったあらわれである。
そして右近は大いたずらを考え出した。これまた臨時作業だ、と彼はひとりごとをいったけれど、とうていそうとは思えないほどの興奮をおぼえた。
女にとり憑《つ》く男。
外見の肉体はまさに美女だが、その内部の魂はべつの男であるという忍法。
かり[#「かり」に傍点]の姿思想はここに文字通り具体化した。あに、これを縦横に操って大いたずらを試みざるを得んや――と彼が思いついたのは当然だが、しかもこの忍法傀儡精はさらに彼にとっても意表に出で、いろいろ奇々怪々なものに発展していったことを、まもなく右近は知ることになる。
三
――はて、あだ[#「あだ」に傍点]どのは、少しまともになって来たのではないか?
甲賀衆の人々がそのことに気がついたのはまもなくのことであった。むろん、まだ少々はおかしい。或《ある》いはまともと見えた翌日はまたもとに逆戻りしていることもある。しかしたしかにあだ[#「あだ」に傍点]の態度、判断力に一大変化が生じたのである。
いうまでもなく滝川右近のなせるわざであった。彼があだ[#「あだ」に傍点]の体内に乗り移っているせいであるが、日によってあだ[#「あだ」に傍点]がちがうのは、彼が八割移ったり、五割移ったりする実験のためもあり、また彼の今後の行動に対しての予防線のためもあった。
「あだ[#「あだ」に傍点]どのの治療をしておるのです」
と、彼は空斎にいった。
「あの水晶の球を睨ませることによって、どうやら効果が生じるらしい。精神統一のため、あだ[#「あだ」に傍点]どのが私の部屋にいるときはどうぞ近づかないように皆の衆にお伝え下さい」
むろん、あだ[#「あだ」に傍点]に八割射精、五割射精などの試みを施している現場を見られては困るからである。
十割――完全に乗り移ることは少々危険であった。残った右近自身の脳髄ゼロという状態になってしまっては、その間に自分が何をやり出すか不安でもあるし、また火事その他の突発事が起った際処置ないことになる。七割方移っただけで、正常人の範囲内にあるあだ[#「あだ」に傍点]として充分行動出来るし、その程度の方があだ[#「あだ」に傍点]という女はかえって魅力的であるということにも気がついた。
甲賀衆は瞠目して、了承した。
かくて滝川右近は、あとにうすぼんやりと水晶の球を睨んでいる――他人の眼には修行に没入していると見える――右近の肉体を残して、第三者には疑われることもなく、婀娜たるあだ[#「あだ」に傍点]として自在に外部に行動出来るようになったのである。
さて、それで何をやるか?
相伝の書によれば、相手の眼を睨むことによって発現する術が、彼の場合、交合に介してのものと変っただけで、結果においてはその目的を似たかたちで達したことになるのだから、そのことを甲賀衆ないし伊賀組に報告してもいいわけだが、右近がそれを秘そうとしたのには理由がある。そんなことを打ち明ければ、むろん多数の知るところとなり、とどのつまりろくでもない御用を命じられるのがオチだ。自分のやりたいことをやるには、自分だけが知っているに限る。
では、自分のやりたいことは何か?
一言にしていえば、それは「無責任なる行為」であった。
彼の「かり[#「かり」に傍点]の姿」思想も、いまの自分のやっていることに責任は持てないという考えで、だからもともとそう責任感の旺盛《おうせい》な方ではないが、そんな彼でも自分を縛っている無数の有形無形の縄《なわ》は痛感している。身分いやしく貧しき伊賀組の居《い》 候《そうろう》として当然のことだが、たとえそういうものがないにしても、なお――いかなる人間でも――「自分」そのもの、良心、自尊心、虚栄心、などに束縛されている。そんなものからすべて脱却出来たら、人間いかに自由自在、天衣無縫、やりたい放題のことが出来るであろうか。
右近が小手調べとしてまず眼をつけたのは、四谷|大番《おおばん》町の石母田金三郎《いしもだかねさぶろう》という旗本であった。
なぜ右近が石母田金三郎を知っているかというと――元来、石母田は五百石の貧乏旗本で、柳営の諸門の番を命じられている伊賀組や甲賀組の監督として昔から縁はあったのだが、このごろは金貸しと借手としてつき合っている。
石母田金三郎は、右近より二つ三つ上の年配だが、十年ばかり前は、ほかの旗本より右近には好もしい性格に思われた。五百石の旗本といっても、体面上の費《ついえ》からむしろ伊賀組より貧乏に思われるほどであったが、なかなか義理堅いところがあり、それどころか勤めが終ったとき伊賀組の番卒にときどき酒をふるまうような思いやりも見せた。痩《や》せてとんがった顔をしていたが、いっしょに酒をのんで、政治のでたらめや世の堕落を慷慨《こうがい》する語気には、右近も当時は甚だ共感をおぼえたものだ。
ところが、途中からその人柄が変った。石母田はそれでも安房《あわ》あたりに猫のひたいほどの所領があったのだが、以前から米もとれぬ山間の荒地であったのに、そこから非常にいい庭石が採れ出した――というより、世の中のぜいたく化とともにそんな石の値がばかみたいに上った――ということから、みるみるそのふところが暖かくなった。そのころから彼は逆に、ひどく他人にきびしくなったのである。
役目として、いまでも門番の監督には出て来るが、決して伊賀者に酒などおごらなくなった。
「お互いに職務として相勤めるもの、左様なことは上司の気をつかうべきことでない。酒が必要ならば、酒代はお上より出るのが筋である」
と、いうのだ。
彼がけちんぼになると同時に、「筋を通す」という言葉を好み出したのもそのころからである。
そのうち彼は、ないしょではあるが、「金貸し」まではじめたが、これも筋を通す手段の一つだそうであった。
――あいつ、小金がふところに入っておかしくなったぞ。
――前は、貧乏ながら義理は欠かさん男じゃったが。
そんな噂に、金三郎は青筋たてて、
「おかしいのはあいつらじゃ。あいつらには、持てる者は持たざる者にただで分配して当然だという精神が根本にあるが、それは自分に分けるべき何ものもないということから来た、手前勝手な、虫のいい、無意識の計算に過ぎん」
なに、自分のふところだって、たかが庭石が元手でたいしたことはないのだが、大いに持てる階級のごとき口吻《くちぶり》で、
「たとえわしになにがしかのものがあったとしても、それはきゃつらのおかげではない。それをただでやるという筋は絶対に立たん」
とか何とかいって、その筋を通すために、貸すなら然《しか》るべき証文を入れろと金貸しをはじめたのだ。もっとも庭石が尽きたということもあるらしい。
もともと見ようによっては小心なところもある男だから、あんまり知り合いからの無心やたかり[#「たかり」に傍点]が多過ぎて開き直った趣きがあり、決して町人の金貸しみたいな高利をとるわけではないが、抵当《かた》は必ずおかせて、取立ての遂行は厳烈である。そしてまた金を貸すときに、必ず一言多い。
「抵当《かた》をとるのは、借りたものは必ず返すという人間交際の最低条件の筋を守らせるためだ。そうでなければ、怠け者を作ることになる。わしは惰民養成政策には賛成出来んのでな」
とか、置くべき抵当もないやつが来ると、
「それなら貧乏しておったがよかろう。だいたいわしは、万民鼓腹、所得倍増、揺籃《ようらん》から墓場まで何とやらなどいう桃源郷《とうげんきよう》は筋として成立不可能だという見解を持っておる。だれもがそうなってしまったら、肥汲みも隠亡《おんぼう》もやるやつがいなくなる。肥汲みや隠亡がいなくなり、万人|悉《ことごと》くが威張りくさったら桃源郷などあり得ないではないか。だから、貧乏人もそれだけの存在価値がある。そう思って貧乏に徹し、貧乏に瞑《めい》すべきだろう」
など、いう。
実は右近も、石母田が金貸しをやっているということをきき、住まいが同じ四谷でもあり、よんどころなく伊賀者の仲間と金を借用にいったことがある。むろん、こちらが伊賀者で、しかも抵当などあるはずもないからこてんぱんにやっつけられ、しかしふしぎなことに金は貸してくれた。右近は、石母田の痛烈な「富者の論理」もさることながら、彼の変りように驚いた。彼はますます痩せ、ますますとんがった顔をしていた。以前一種の気概の現われと見えたものが、ただ険悪の相と変っていた。
――やっこさん、むりしているな。
と、右近は感じた。一言多いのは、彼自身の心に対する弁明であると看破した。
この石母田金三郎が以前からの許婚者――石母田家よりさらに小禄の御家人の娘との縁談を破談にしたとかいう話をきいたのは、右近が伊賀組を出る十日ばかり前のことだ。
金貸しをはじめる前から、あまり女に縁のある相とも思えなかったが、それ以来石母田金三郎は、その元手となった奇岩が人間に化けたような顔をしていた。
――ようし、石母田さんに、一つものの哀れ[#「ものの哀れ」に傍点]ということを知らせてやるか。
よく考えると右近だってあまりものの哀れ[#「ものの哀れ」に傍点]を知る方ではないが――石母田にそれを知らせてやる手段として女を使う気になったのは、ほんとうのところは自分が女に化身出来るという術を心得たればこその発想であったろう。あだ[#「あだ」に傍点]という世にも稀なる女体をあの庭石の化物に腰かけさせたらどうなるか。
右近はとりかかった。
彼はあだ[#「あだ」に傍点]に七割傀儡精を注入し、七割あだ[#「あだ」に傍点]の体内に入った。七割とはいうものの、それは知能であって、外見はあだ[#「あだ」に傍点]そのままである。そして――秋の或る日、あだ[#「あだ」に傍点]として大番町の石母田金三郎を訪れたのである。
――甲賀組の娘でございます。何とぞ三両拝借させて下さいまし。
舌ったるい調子でこういったとき、まじまじと金三郎が瞳孔を散大させて見まもったのは、むろん素性を疑ったのではなく、そのなまめかしさに魂を飛ばしてしまったのだ。
実をいうと、右近の方がぶきみでもあった。女性として金三郎を挑発することがである。しかし面白さがそれに勝ち、かつそのきみわるさがかえって彼の演技をオーバーなものとして、ついに金三郎の理性を火に変えてしまったのだ。
――抱かしてくれるなら、金は証文なしで貸してやる。
彼はそう口走っていた。とんがった庭石はとろけて、夏の日の飴《あめ》みたいなものになってしまったのである。
その状態を精写すると面白いのだが、本編の主題はまたちがうところにあるので、割愛する。いや、そんなことを書いているいとまがない。
なんとなれば――。
要するに右近はあだ[#「あだ」に傍点]として石母田金三郎に身を捧げて見たのだが、その感覚たるや、最初のきみわるさにもかかわらず、右近があだ[#「あだ」に傍点]を犯すときの快感の数倍はあり、ははあ、女とはこういうものか、と感服したのがまさに火花の一瞬、そのとたんに右近は、あだ[#「あだ」に傍点]と交合するときと同様、意識不明になってしまったのである。
そして気がついたとき彼は、しどけないともあられもない姿で横たわっているあだ[#「あだ」に傍点]を茫乎《ぼうこ》として見下ろしていたのだ。
はっとした。最初に頭をかすめたのは、自分がまた右近の姿に戻ってしまったのではないかということであった。彼は狼狽してまわりを見まわした。さいわい、金三郎が抵当にとったらしい手鏡が近くにあった。彼はそれを鷲《わし》づかみにした。
そして、それをのぞきこんだときの右近の驚愕はいかばかりか。
なんと、彼は――彼の自覚を持つ者は――石母田金三郎の顔をしていたのである!
つまり自分は、あだ[#「あだ」に傍点]を介してまた石母田に乗り移ってしまったらしい、と悟るまでに数分を要した。
さあ、わからない。
あだ[#「あだ」に傍点]に乗り移ったときは、これはおのれの精汁に乗って移ったものであると理論づけたが、こんどは石母田金三郎の精汁を注入されたはずなのに、これまた相手の方に乗り移ったというわけが納得出来ない。
しかし、事実は事実だ。彼の催眠術が――滝川相伝のいわゆる幻眠の術が、彼の手に負えないほど神魔の域に達したものと見るほかはない。強《し》いていうなら、石母田のからだとあだ[#「あだ」に傍点]のからだをつなぐ一瞬の精汁の電線を通じ、精神力の電位の高い方から低い方へ流れたとでも解釈するしかない。
さて、これからどうなるのか。
「もし」
外で、声が聞える。
右近はうろたえて、魂のぬけがらみたいなあだ[#「あだ」に傍点]を抱きあげて、部屋の隅にあった葛籠《つづら》にかくした。
「坂部《さかべ》さまたち御三人がおいでになりました」
若党が障子の外からのぞいたが、こちらを見てもべつに異状は感じないらしい。――
「と、通せ」
と、右近はどもりながらいった。
やがて通されて来たのは、三人の若侍であった。それが、いっせいにべたべたと這《は》いつくばって、
「金三郎どの、生《しよう》 々世々《じようせぜ》のお願いでござる。われらの面目相立てるため、先日来お願い申しあげたる三十両、お貸し下され!」
と、たたみに頭をすりつけたのである。
そして、いっせいにあげた眼には、たんに卑屈を超えた凄《すさま》じいまでの迫力があった。
「あ、三十両」
右近はまたうろうろとまわりを見まわし、これは記憶のある枠鋲《わくびよう》打った銭箱を見つけるや、これをあけた。
「承知した」
二人の若侍はあっけにとられたように彼を凝視し、彼が眼をしばたたきながら三十両を紙につつんで投げると、いきなりおたがいにがば[#「がば」に傍点]と抱き合って慟哭《どうこく》しはじめた。やおら、また、信じられないもののごとくこっちに向き直って、
「これは、しかし、どうしたわけで。――」
「要らないのか」
「い、いえ、滅相もない、感謝感激雨あられでござるが。――」
「気が変るといけない。早く持ってゆきなさい」
と、右近があごをしゃくったのは、むろん長居されてぼろ[#「ぼろ」に傍点]が出ては万事休すだからであった。
彼らが金をつかんで、すっ飛んでいってしまってから気がつくと、証文も取っていない。――ずいぶん、無責任な話である。
無責任といえば。――
彼の欲したことがそもそも「無責任な行為」であった。そのために白痴美のあだ[#「あだ」に傍点]の肉体をかりてそれをやって見ようと思い立ったのだが、それ以上に――こうもまた別の男に乗り移れるとなると、これはますます以て好都合ではないか。
毎日、そうなのか、それとも偶然なのか、その日はまたむやみやたらに借金の客が来た。
彼は片っぱしから金を貸してやった。右近はそれまでに人に金を貸してやったことなどないが、およそ世の中で、人間が一番うれしそうな顔をするのは借金に成功したときではないかと考えたほどであった。人々に悦びを与えるという職業は、いろいろある。芸人も芸術家も遊女も宗教家もそうである。しかし、彼らといえども金貸しにははるかに及ばないのではないか。――もっとも、この場合のごとく、証文なし、無条件で、あいよあいよと貸してやったときに限るにちがいないが。
それにしても、気前がいい、ということは当人にとってもなんとまあ幸福なことであるか。ああ、人間とはさまざまの制約のために、いかにこの気前をよくするよろこびを禁じていることであろう、と彼は痛感したが、これまたこの感慨に含まれているごとく、この場合のように後顧の憂いがないということが条件かも知れない。
貸して貸して貸しまくり、銭箱を空っぽにしたあげく、さらに彼は、その日の夕方幽霊のようにやって来た二十七、八の貧相な女に、
「金三郎どの……いまさらお約束を反古《ほご》にされて、それで筋が通ると思われまするかえ?……ことわっておきますが、わたしはおまえさまが死ぬほど好きというわけでもありませぬ。……したが、庭石で小金が入ったばかりに捨てられた貧乏娘、と世間に笑われては生きてはおれませぬ。……したが、わたしもただではすませませぬぞえ。……きっときっと、生き変り、死に変って、化けて出ますぞえ。……」
と、陰気に、かつねちねちとかきくどかれて、
――あれだな。
と、察するやいなや、
「わかったわかった。武士の一言金鉄のごとし。石母田金三郎、絶体絶命、そなたと夫婦《めおと》となってやるわい!」
と、確約し、起請文まで書いてやったのである。
夜に入ってから彼は、あだ[#「あだ」に傍点]を葛籠から出して、甲賀組屋敷にかえした。そして彼は、石母田の家に腕組みをして坐っていた。……内心は期するものがあったが、実は少々不安でもあった。
しかし、結論からいえば、そのうち彼は喪神し、気がつくと朝の甲賀組屋敷で滝川右近として腕組みをして坐っていたのである。期待していた通りであった。おそらく同時刻、石母田金三郎もまた、文字通りわれに返って、しかもキョトンと狐《きつね》につままれたような顔をしていたことであろう。
四
それから石母田金三郎はどうなったか。
これはもと通り完全にあかの他人に戻ってからのことだから直接には右近は知らず、人づてにきいたことだが、金三郎は銭箱から金がぜんぶなくなっていること、かつそのわけが、まるで寝ぼけてやったことのように自分にまったく覚えのない行為にもとづいていることを知って驚倒し、狂乱し、ふぬけみたいになってしまったらしい。
右近が彼を往来で見たのはそれから数ヵ月ののちだが、金三郎は例の貧乏御家人の娘――ではない、あきらかに女房となったらしいその女と歩いていたが、その人相がまた変っていた。あの険悪さが消滅してしまっていたのである。
はじめ右近は、彼があのことで心の平穏をとり戻したのかと思った。右近は想像した。おそらく金三郎は一時はめんくらったものの、やがて道ゆく人々の敬愛の視線に心なごみ、金銭への迷妄から脱却したのであろう、と。――そうだとすると、人間も世の中も天下泰平だが、それにしても金三郎の顔は脱俗というより、やはり虚脱にちかい、雨に打たれた犬のような哀感がある。
それとなくきいて見ると、彼はかえって周囲からの敬意を失い、金を借りた連中も、彼を見るとそっぽを向くか、或いは居直って彼を睥睨《へいげい》するやつが多いらしい。証文なしで金を借りてしまった人間ほど世に強いものはない。……どうやら金三郎があの女と結婚したのも約を履《ふ》んでのことというより、虚脱状態のところへ押しかけられたもののようで、爾後も、すってんてんになってしまったことをはじめて発見した妻に大いに虐待されているらしいことは、往来を歩く夫婦のようすからも看取された。
とはいえ、石母田金三郎のことなど、右近はいつまでもかかわり合ってはいられない。すでにあだ[#「あだ」に傍点]を媒体として別の男へも乗り移れることを発見した彼は、もっともっとやりたいことをやりたいという意欲にかりたてられていたのである。
さて、こんどはだれにとり憑くか?
右近の頭に、ふっと三人の若い旗本の姿が浮かんだ。石母田のところへ金を借りにやって来たあの連中だ。あのとき金を借りる理由もきかなかったが、借りる前の決死の形相といい、借りた後の男泣きといい、どうもただごとではなかった。
あの衆、何をやっておるのかな?――その好奇心である。
右近はこれを扱って見ることにした。
秋の或る午後、戒行寺という寺の裏、人気のない通りで、若い旗本坂部|平十郎《へいじゆうろう》は、見知らぬ美女に呼びとめられた。
「ねえ、抱いて」
「…………?」
「やさしく愛して」
「…………!」
「好きよ、好きよ、わたし、あなたが好きよ。――」
唄でもうたっているような文句と調子に坂部平十郎は、やっとこの娘がふつうでないことに気がついたが、しかしふつうでない美しさにも心を奪われた。
「そなた、どこの娘じゃ? どこへゆく?」
などきいているうちに、知らず知らず寺の境内に入って観音堂の裏手に二人で坐りこんでしまったのは、知らず知らずとはいったが、むろんあだ[#「あだ」に傍点]に蠱惑《こわく》されたせいである。またその娘が少しおかしいらしいと安心したせいもある。
とどのつまり、坂部平十郎はあだ[#「あだ」に傍点]と交わってしまったのだが――そこに至るまでに、彼は抵抗した。
あだ[#「あだ」に傍点]に対してばかりではなく、自分自身に抵抗した。
「おれは、こんなことをしてはいかんのだ。同志との盟約に叛《そむ》くのじゃ!」
とか、
「おれたちは、大事を遂げるまでは女を断つという誓いをたてたのじゃ。それを破戒しては漆山《うるしやま》らに相すまぬ!」
とか、
「そのためにわしは恋女房まで離縁したのじゃ!」
とか、彼は口走った。
それが決して照れかくしのうわごとではないようすであったが、それにもかかわらず彼が負けてしまったのは、いかにあだ[#「あだ」に傍点]の挑発が大変なものであったかがわかる。
照れかくしのうわごとどころではない。――あだ[#「あだ」に傍点]に化身した右近は知った。この坂部平十郎が容易ならぬ大事をたくらんでいたことを。
胡瓜《きゆうり》みたいな顔をしているが、どこか一脈剣気が漂っているように見ていたが、それも道理――彼及び何人かの若い旗本たちは、ひそかに老中田沼|主殿頭《とのものかみ》たちを暗殺すべく計画し、いつぞや石母田に借りにいった金もその企図のための軍資金であることを右近は知ったのである。
もっとも、そのすべてを交合のあいだに知ったのではない。――実は、例のごとくその直後に右近は坂部平十郎に七割乗り移ったのだが、その時点では平十郎たちが一味を作って幕閣の要人を襲撃するというような匂《にお》いを嗅《か》いだだけであった。だから願掛けとして女を断つというのだが、平十郎としては相手がうすばかの美女だからこそ洩《も》らしたことであり、しかもそれがうすばかでない右近であったからこそ嗅ぎあてたといえる。
正直なところ、右近は驚いたが、驚いたのちに、すぐさまこの企てをぶちこわしてやろうと思い立ったのは、彼らに対して悪意があったわけでもなければ、狙《ねら》われている要人に忠義立てしようと考えたわけでもない。
右近のつらつら見ているところでは、現在の腐敗した時勢は政治家の一人や二人殺して見たところでどうなるというものではなく、その濁った潮を変えようとしてみずから溺《おぼ》れる若者たちにむしろ憐愍《れんびん》の情を抱いたといえるが、それより何より、この企図を知った忍法傀儡精の体得者としてまず心に浮かんだのは、
「――裏切り、という行為をやって見たい」
という変な願望であった。
「無責任なる行為」への望みは、また「やりにくいことをやって見たい」という願いへ発展して来ている。裏切り行為は、人生においてなかなかやりにくいことである。
右近は、白痴に戻ったあだ[#「あだ」に傍点]を観音堂に放りこんで、坂部平十郎として寺の境内を立ち出でた。
彼は、大番町|界隈《かいわい》を探して、坂部平十郎がこの春ほんとに若い妻を離別し、あとに老母と当歳の女の子がいることをつきとめ、かつ先刻坂部が口走った漆山という名を頼りに聞いて歩いて、それがどうやら漆山|粂之丞《くめのじよう》という旗本だということを知った。
で、その漆山の家へ行って見ると――ほかに五人、平十郎よりもっと若い旗本ばかりが、まだ秋の日も暮れないのに、車座になって酒を飲んでいたのである。
「遅かったではないか。何をしておったのじゃ」
と、酒くさい息をはきかけられ、
「いや、きょうは何だか頭がもやもやしてな、いっそ不参しようと思ったが。……」
と、坂部平十郎の右近はいった。
みんな妙な顔をしてこちらを見たが、それ以上は疑う気配はない。世の中のだれだって、或る人間の顔と肉体を持った男の実体が別人だなどとは想像を超えている。
ここで右近は、はじめて坂部らの暗殺計画の全貌を知ったのである。ここにいる六人の中には、案の定、いつか石母田の家へ来た坂部以外の二人もまじっていた。
目的は想像以上に大きなもので、暗殺対象は田沼一門のみならず、それにつながる権臣、大名、富豪ら七、八十人に上り、かつもう一年以上も謀議されていたらしい。それなのにきいていると、計画は杜撰《ずさん》をきわめて支離滅裂なものがあった。それはあまりに大がかりなためと、謀議が永びき過ぎたために、かえって、ああでもない、こうでもないといじりまわして収拾がつかなくなったせいのようであった。例の軍資金もまだほかに同志を募るためらしかったが、結局一味はここにいる六人だけらしい。何もやらないうちから彼らは疲労し切った顔で、それをみずから鼓舞するかのごとく、議論だけはかん高い悲壮なものになった。失敗すればもちろん、成功したところで、みな極刑を免れないだろうからむりはないといえる。
「坂部」
平戸安兵衛《ひらとやすべえ》という若者がようやくこちらに注意を戻した。
「おぬし、変に黙りこくって意気上らぬようじゃが、どうした?」
と、猜疑《さいぎ》にみちた顔をむけると、漆山粂之丞も眼をひからせていた。
「この仲間で瘤《こぶ》つきはおぬしだけじゃが……いったん盟約に血判押した上は、いまさら脱落は許さんぞ」
瘤つきとは、平十郎のところのあかん坊のことだろう、と右近はすぐに知った。そしてそんな子があるなら、いよいよ以てこの企図をぶちこわさねばならぬと考えた。
「それが。……」
彼はわざと哀れっぽい眼で仲間を見まわした。
「わしはやはり、やめさせてもらいたい。……」
「なにっ」
一同はいっせいに飛び出すような眼つきをした。
「案の定、瘤にひかれたか!」
「ちがう。……女じゃ」
「女? 女はわれらみな断った――それどころか、このうち三人はまだ女を知らぬ――いやさ、おぬしは女房を離別したはず――それなのにおぬしは――」
二、三人、刀をつかんだ者さえあった。平十郎はのけぞり、壁をぬるような手つきをして、
「それを釈明するより、まずわしといっしょにさるところへ来てもらいたい。……」
と、いった。
そして、狐につままれたような一同をひきつれて、また戒行寺へ戻っていった。もう水のような秋の夕暮であった。
彼は観音堂に入って、そこに坐っている半裸のあだ[#「あだ」に傍点]を見せた。
「何じゃ、これは?」
「どうも伊賀者の娘らしい。そして、うすばかであるらしい。……ではあるが、この女の快味、女房を持っておったわしもまだ知らなんだほどじや。かかる快味、世にあるに、その世を捨てて死んでゆくのはあんまりじゃ。……」
「…………」
「と、わしが痛感したのをけしからぬと思うであろうが、それを怒るまえに、まずおぬしたちもその快味を知ってから怒ってくれ。……」
「…………」
「わしをあくまで斬るというなら、しかたがないが……おぬしたちも、この世に生を享《う》けた以上、この快味をいっぺん味わってから死んでもよいではないか。これがわしの、せめてもの、最後の友情じゃ。……」
みんな、珍しく黙ってあだ[#「あだ」に傍点]を見下ろしていた。こくりこくりと、のどを上下させた者もあった。平十郎の言い分より、この白痴という半裸の美女に魂を中天に飛ばしてしまったのだ。
「では、平十郎のいう通り、死出の土産《みやげ》に味わうか?」
と、平戸安兵衛がひきつったような顔で見まわすと、
「たった一度だけなら、これくらいのことは志士の受けるべき餞《はなむけ》として許されてもよいのではないか?」
と、漆山粂之丞も生唾《なまつば》をのんでいった。
――数十分後、全裸となったあだ[#「あだ」に傍点]を中心に、みんな尻餅《しりもち》をつき、あごで蠅《はえ》を追うように肩で息をしていた。立っているのは坂部平十郎だけであった。
「どうじゃな?」
と、彼はいった。
「わしを斬るか?」
「それは、またあとで考えよう」
と、だれかが細い声でいった。
五
結局、例の計画は雲散霧消《うんさんむしよう》してしまった。その日以来、あだ[#「あだ」に傍点]は観音堂から消え失せたわけだが、若い志士たちはこのことで女性に開眼したと見えて、その後漁色に耽溺《たんでき》して、要人暗殺のことなどどこへやらけし飛んでしまったようであった。
これはまあそんなことだろうと予想はしていたが、それより漆山粂之丞の家での集会につらなって見て、右近がはじめて知ったことがある。それは若者の無意識のエゴイズムということである。彼らの決死の陰謀は文字通り決死のものであって、それに関するかぎり純粋にちがいないが、簡単にいえばつまり瘤がないというエゴイズムと密着したものであることを感じた。
右近にしても若いのだが、これは彼が坂部平十郎に七分だけ乗り移ったればこそ得た感想であろう。三分あたりは平十郎の心境が残っていたからである。
べつにその連中を責めるほどのことではない、と右近は考えた。何にしても物騒《ぶつそう》な火だねが消えてみな無事にすんだのは結構なことだ、とも思ったが、首をかしげたのはそのあとのことだ。
これも数ヵ月後に偶然知ったことだが――坂部平十郎はあれ以来、元同志の若者たちの侮蔑《ぶべつ》のまととなっているらしい。
つまり、彼らの志の潰《つい》えたのは平十郎の堕落と裏切りによるものだとしたためだが、もとより平十郎はあとになってほとんど記憶がない。少くとも同志を崩壊させた記憶はないと本人も陳弁したらしいのだが、むろん、六人の仲間はそんなことは認めない。彼がいかにあがいても軽蔑の汚物にまみれることはついに防げなかった。しかも困ったことに、記憶がないといっても、全然ないとはいえないのだ。遠い夢のように微かに――正確にいえば三分だけ――憶えているような気もするのだ。彼はついにはうなだれざるを得なかった。
それは大いに気の毒ではあるが、まああんなことを実行して極刑にあうよりはましだろうと右近は考える。
ただ、右近は、ほかの六人の同志の軽蔑にもっと軽蔑すべきものを感じた。彼らは平十郎の誘惑の結果として生きながらえ、女色の愉しみを味わっている。そのことを自分たちも知っているからこそ、照れかくしに平十郎の裏切りをさげすみ、おのれらの良心の痛みとおたがいの非難を、その一匹の羊に転じさせている。
「ふん」
と、右近は鼻を鳴らしたが、しかしそれだけであった。彼らにもうそれ以上の興味はなかった。
そもそも右近があんなことをやったのも、ただ裏切りの快感を味わわんがために過ぎない。裏切りの言辞を吐くときの、まわりの驚愕と怒りの渦、またその裏切りによって起って来る動揺、さらに崩壊の経過、それを観察するときの背筋に何か流れるようなスリル、それはふつうには絶対に味わえない、ぞくぞくするような異様な快感であった。
そして右近は、忍法傀儡精第三の適用者を探した。やりにくいことをやるという条件、それを施す相手。――
当然の対象であったともいえるし、狂気の沙汰《さた》であったともいえる。
彼はお千賀を選んだのだ。――そして、想像もしていなかった失敗を招いてしまったのである。
考えてみれば、交合によって相手の女に乗り移ることが第一の意外事、その相手の女と第三の男と交合することによってまたその男に乗り移ることが第二の意外事で、すべて彼の計算外にあったことなのだが、二回成功したのを見て、彼は少し自信を持ち過ぎたといえるかも知れない。
ともあれ、お千賀の幻影を脳裡《のうり》にえがいただけで、彼はそれまで経験しなかった昂奮《こうふん》を感じた。昂奮というより、ぼっと頭の中に焼《しよう》 酎《ちゆう》の炎がともったような陶酔感であった。
右近はとりかかった。こんどのことに関するかぎり、人に憑《つ》くまえから彼の方がものに憑かれたようであった。
まず先例にならい、あだ[#「あだ」に傍点]に乗り移り、次にお千賀の夫、鞍掛鞍兵衛に乗り移った。――
この鞍掛鞍兵衛なる人物が、そのからだも岩のようなら、その心も岩のように謹直をきわめ、これを夜道に要して誘惑するということが一大難事であったが、結論的にいえば、とにかくこれに成功した。伊賀者の鞍兵衛が甲賀組の奥深く住んでいたあだ[#「あだ」に傍点]を知らなかったことはもっけの倖《さいわ》いであった。
そして、右近は鞍兵衛に乗り移ったのである。
このとき、右近がいままで知らなかった現象が起った。
交合したとたん、依然脳貧血状態になるのはどうしようもないが――さて、そのあと白泥《はくでい》のごとく横たわるあだ[#「あだ」に傍点]を見下ろす鞍掛鞍兵衛として立って――右近は――脳中に、なおきしるような物音をきいたのである。それは二人の人間の声であった。
「う、右近、どうしたのじゃ、これは?」
「あ……鞍兵衛どの、まだ醒《さ》めておられたのか、こりゃどうも。……」
「わしに何をする? 右近。……」
「眠って下され、鞍兵衛どの、この一夜だけ眠っていて下され。……」
「いかん、こんなことは、いかんぞ。……」
右近自身と鞍兵衛との問答であった。それはおそらく、強力な理性を持つ人間が、魔のごとき催眠術師に抵抗するものであったといえようか。しかし鞍兵衛の声は次第に弱々しく薄れて、消えてしまった。
頭をふって、やっと完全な右近の魂を持つ鞍兵衛として――正確には鞍兵衛の魂をねじ伏せた七分の右近として――彼は立っていた。
そして彼は鞍掛鞍兵衛の家へ赴いた。
「ただいま立ち戻った」
と、彼はいった。
「お帰りなされまし」
手をつかえた女人を見て、それをめあてにそんなことをしたくせに、彼は口もきけなくなった。外見沈痛な顔つきで、刀を手渡して奥へ入る。
「旦那《だんな》さま」
「…………」
「旦那さま」
「……お」
「あのお話はいかがでございました?」
「あれか。あれについては後日話す」
お千賀が変な顔をしているので、右近は苦悶《くもん》し、こんどは自分の方からいった。
「鞍之進はどうしたか?」
「あれは三日前からお頭《かしら》のところへ水座禅に参っておりますが。……」
「あ、あれか。なるほど」
右近はいよいよ狼狽《ろうばい》した。水座禅とは伊賀組の若い子弟が寒中に課せられる水中の修行のことであった。お千賀がいよいよ妙な表情をしているので、
「きょうは疲れてものを言いとうない。……まず、酒をくれ」
と、右近はいった。
お千賀はすぐに酒の用意をして運んで来た。やがてまずしい膳《ぜん》の前に坐って黙々と酒を飲みはじめた鞍兵衛を、彼女もまた黙々として眺《なが》めている。酒が好きで、黙って飲む鞍兵衛は右近も以前から知っていた。いつしかお千賀の眼からいぶかしみの表情は消え、むしろいとしげに彼を見まもっている。いつの場合でもそうだが、これ以上の疑惑は常識を超えている。
――ははあ、このひとは夫婦だけのとき、いつも鞍兵衛どのをこういう眼で見ているのか。
右近は甚だねたましく思った。常態でも不当な嫉妬《しつと》であるが、この場合は、自分をいとしげに見ているのに対してやきもちを焼いているのだから頗《すこぶ》る奇怪な錯雑した感情であった。――彼はいささか酔って来たのである。
いや、右近は酒を飲む前から酔っている。そして彼は、悪酔いした人間みたいに、すわった眼でお千賀を眺めた。
ああ、このひとを、こういう具合に眺めたい、という――右近自身の実感にすれば生まれて以来二十八年間の――夢はまさに果たされたのである。十年早く生まれたかった、と痛嘆した、その年配の男性として、それどころか、彼女の信頼し切った夫として、彼はここに坐っているのだ。
遠くから白梅のように見えたお千賀は、こう……夫婦として相対して見ると、さすがに紅梅のような色気があった。
「ぶふっ」
彼は感動のあまり酒にむせた。
「あの……どうなされたのでござります?」
お千賀は驚いていざり寄り、ひざに手をかけた。
「お千賀!」
右近は脳天から出るような声をあげて、ひしとばかり彼女を抱きしめた。
「あれ、あなたさまは、まあ。……」
お千賀は彼の腕の中で身をもがいた。これはむろんただ動顛《どうてん》したのである。こういうふるまいは、鞍掛鞍兵衛はあまりやらんらしい。
いや、鞍兵衛にかぎらず、どんな夫だって、十六になる息子まである妻に、突如として発作的にこんな風に抱きつくことはあるまい。ということはまだ結婚生活の経験のない右近だって推量しているが、この場合はしかたがない。がまんが出来ない。ゆくところまでいってしまうよりほかはない。――
で、ゆくところまでいってしまったのである。必ずしも、むりに犯したというわけではない。お千賀に挑んだのは夫であった。それにまた息子が不在であるということも彼女の心をひらかせたのだ。そしてお千賀は、心とともにその象牙のような四肢《しし》もひらいた。なぜか、彼女は泣いていた。
例の脳貧血が起る前に、右近は脳貧血を起しそうな気がした。が――白熱|恍惚《こうこつ》の一瞬後脳貧血どころではない、暗黒の海へ投げ込まれたような感覚に彼はもみしだかれた。
それが次第に氷海のような静寂に戻って――右近は自分を凝然と見つめているお千賀の姿を見た。同時に自分を凝然と見ている右近、いや鞍掛鞍兵衛の姿を見た。
曾《かつ》て、水晶球で練磨した幻眠の術であだ[#「あだ」に傍点]を凝視したとき、これに似た現象が起ったことがある。あのとき彼は自分の眼であだ[#「あだ」に傍点]を眺め、同時にあだ[#「あだ」に傍点]の眼で自分を見た。――しかしそういう術の段階はもう克服したはずであったのに。――
交合によって。
――しかるにいま、その交合によって同様の現象が生じたのである。
「ああ、おまえさまは鞍兵衛どのではない!」
と、お千賀が驚愕のさけびをあげた。
「右近どのじゃな」
「わ、わかりましたか。お千賀さま、わたしのことが。――」
右近は逃げようとした。しかし、次の瞬間――。
「逃げたとてもう遅い。うぬは大それた真似をしおった!」
と、右近自身がいって、見えない手でえりがみをひっつかまれたような動作をし、
「許して下され、おれはあなたさまが好きなばっかりに!」
と、お千賀がいって身もだえしたのだ。
二人は代る代るにいった。
「わしはおまえを殺してやりたい、この姦婦《かんぷ》め」
「わたしがかくまであなたを想っていた心を汲《く》んで下さりませ!」
「わたしを殺して!」
「わしが死にたい!」
この言葉がどっちの唇から出されたか、判別は難しい。鞍兵衛の姿をした男の口からもれるのは鞍兵衛の声であり、お千賀の口からしぼり出されるのはお千賀の声にまちがいはなかったが、しかし出る言葉はめちゃくちゃで区別がつかないのだ。同じ人間が、或いは相手を責め、或いは自分を叱《しか》り、かと思うといまいったこととは反対のことを口走るのだ。しかも、たんに右近とお千賀のみならず、ほんものの鞍兵衛までが登場して来て、その苦悶のせりふがまじっているようだ。
この怪事を推量して、説明すれば。――
どうやら交合によって、右近はまたお千賀に不可抗的に乗り移ってしまったらしい。しかも、それが完全にならばまだしも、これだけ次から次へ移動するともとの原液が薄まってお千賀に乗り移ったのは三分か四分の右近であったらしい。そして鞍兵衛の肉体を制圧していた右近の力が弱まると同時に、ねじ伏せられていた鞍兵衛までが勢いを回復して来たものと思われる。つまり右近はお千賀の肉体と鞍兵衛の肉体に分裂してしまったのだ。
夫と姦夫が一つの肉体に、妻と姦夫がまた一つの肉体に同居して、その二つの肉体同士のみならず、一つずつの肉体の中でまた、恋慕と憎悪と、謝罪と憤怒の炎を投げ合い、せめぎ合った。
――かかる地獄を味わった人間がまたとあろうか。
「夜明けよ、来い!」
右近はさけんだ。息絶え絶えにお千賀の唇から。
とにかくこの三角関係というか四角関係というか、収拾のつかない地獄からのがれるには、朝が来て、もとの自分に戻るのを待つよりほかはない。ということだけはかすかにおぼえていたのである。
発狂しなかったのがふしぎなほどの一夜は過ぎた。大慈大悲の時間だけは公平に経過して、その朝が来た。そして右近は、甲賀屋敷に、びっしょりと冷たい盗汗《ねあせ》をかいて日覚めた病人のごとく、茫然と坐っている自分を発見したのであった。
――さて、鞍掛鞍兵衛とお千賀はどうしたか。
右近は飛び立つほど探りにゆきたかったが、とうていそれだけの勇気がなかった。いまは何よりも、あの二人が覚醒して、しかも前夜のことを一切忘却していてくれるのを祈るばかりであった。
そして三日目。
右近はその前日、伊賀の組屋敷で、お千賀が懐剣で胸を刺し、それに死化粧を施したのち鞍掛鞍兵衛が切腹したということをきいたのである。
六
むろん、右近は脳天に一撃をくった思いがした。
鞍掛夫婦はなぜ死んだのか。いうまでもなくあのことと無関係だとは思われない。それではやはり、彼らにもあのことについて何か記憶が残っていたのか。――右近は身ぶるいした。――
何事でも臨時作業だと思っていた、その行為の果てが、臨時作業とはいえない恐ろしい破局を呼んでしまった。――そういえば、こんどのことに関するかぎり、自分も臨時作業と考える気を失っていたようだ。
「おかしな心中よの。夫婦で、しかも双方分別もある歳で――甲賀伊賀に、そのような話、今まできいたことがないぞ」
と、甲賀空斎も首をひねった。わざわざ右近を呼んで、この噂《うわさ》を伝えたのち、いったのである。
「この件、伊賀甲賀では内聞の話になっておる。しかし、おまえさまは伊賀組のお方、きょうあるという葬式にはいってやらずばなるまいが、内聞の話であることは心得ておかれい」
右近は蒼《あお》い顔でうなずいた。
葬式にゆくのは恐ろしかった。行って、自分がどうなるという恐怖以上の恐怖であった。しかし、空斎にそういわれたばかりでなく、その恐怖のためにかえって彼はそこにゆかずにはいられなかった。
考えてみると、しかしふしぎなことがある。
鞍掛夫婦が例の怪異のことを書置きするかまたはだれかに洩《も》らしでもしていたなら、必ず伊賀組の方からその不審をはらすために自分のところへ呼び出しが来るはずだ。それが何もない。ただ、噂としてきいただけなのだ。――そのことがうすきみわるく、かえって右近はじっとしていられなかった。
その日、右近は四谷伊賀町に帰っていった。雪のふる日であった。
わびしい組屋敷の一劃《いつかく》は、葬式が行われているとはだれの眼にも見えず、しかしちらちらと舞う雪片の中に、焼香の匂いはたしかに漂い、世をはばかるような読経《どきよう》の声がしめやかにながれていた。
「右近どの!」
突然、けたたましい声があがった。
そうっと入っていった彼の姿を見て、雀の子みたいに飛び立って来てしがみついた者があるのだ。鞍掛夫婦の一子鞍之進であった。一瞬あやうく悲鳴をあげて、右近は逃げ出そうとしたほどであった。
「右近どの、右近どの……父と母は気が狂ったのではありませぬ。きっと、あんな死に方をしなければならなかったわけがあるのです」
鞍之進は泣きじゃくった。
「わたしはそれを知りません。しかし、必ずそれをつきとめずにはおきません。そして、かたき討ちします。右近どの、どうか鞍之進を助勢して下さい!」
右近は何か、自分でもわからない声をあげかけたが、そのとき首領の服部万蔵が奥の方に坐っていて、じっとこちらを見ているのに気づくと、それっきり声も出なくなり、身をもんで嗚咽《おえつ》する少年に、ただがくがくとゆさぶられているだけであった。
「右近どの」
焼香がひとわたりすんで、何となく座がざわめいているとき、人知れず万蔵が呼んだ。
「ちょっとこちらへ」
そして万蔵は、雪の外へ、傘《かさ》もささずに右近をつれ出した。
「噂をきいて来てくれたものと思うが、ちょっと耳に入れておきたいことがある。それに先刻、鞍之進がおまえさまに何か訴えておったようでもあるし」
万蔵の声は沈痛であった。
「鞍掛のかような死にざま、公けになっては鞍掛の家が断絶する。それで、一応、両人とも病死として、鞍之進無事相続の手つづきをすませた。しかし――鞍之進はまだ知らぬが今後何かのはずみで親の死んだわけを知ると、大事が起るやも知れぬ。それは防ぎたい。――」
親の死んだわけ? 右近は聞き返そうとしたが、のどに鉄丸でもつまった感じであった。
「これはわしだけの知っておることじゃがな。――鞍兵衛は、浅草|蔵前《くらまえ》の札差法華屋伝兵衛《ふださしほつけやでんべえ》から借銭しておったらしい。この伝兵衛が世を世とも思わぬ傍若無人の女好きでの。その借銭返さねば、鞍掛の女房お千賀を――どこで見知ったものか――離縁して妻によこせといい出したらしい。それを怒ったか、恥じたか、それとものっぴきならぬ破目と相成ったか。――鞍掛夫婦の死んだのはそれだとわしは見ておる」
右近は顔をあげた。死びとみたいな頬《ほお》に、さっと血がのぼった。
「まことに憎むべきやつではあるが、しかし鞍之進がそれを知って、怒り狂って法華屋に何かするとじゃな、鞍之進のみならず伊賀組そのものが無事にはすまぬことと相成る。そのわけは、法華屋が田沼さまの銭箱ともいうべき縁にあるからじゃ。この意味、わかるな? このこと、よう心得ておいて下されいよ。……」
なお、くどくどといいつづける万蔵の声をうわの空にききながら、右近自身も空へ浮く心地であった。
――そうか、それで自分に出頭命令が来なかったのか。いや、事実そうであろう。鞍掛夫婦は、ほんとうはその話で窮地に落ち心中したに相違ない。……
「わかってござる。しかと、心得てござる。……」
うわごとのように右近はうなずいていた。
――それまでの懊悩《おうのう》がひどかっただけに、その反動も激烈であった。右近は怒ったのである。その蔵前の札差法華屋伝兵衛なるやつに。
人間の心理とは勝手なものだが――そして彼は、法華屋伝兵衛には眼をつむると約束したのだが――どうしても、その男を捨ててはおけぬ気持になった。
よし、鞍之進には知らさず、そやつに天誅《てんちゆう》を加えてくれる。いや、鞍掛夫婦の復讐《ふくしゆう》をせずにはおかぬ。
服部万蔵はいっていた。
「どうやら鞍之進はおまえさまを頼りにしておるようだ。それゆえ、かえって甲賀へまた帰られた方がよいと思うが」
「……は」
「ところで、水晶の球は睨《にら》んでおられるか」
「……へ」
「幻眠の術は、いささかものに相成ったか?」
「いや、もう少し」
右近はその日のうちに駿河台の甲賀屋敷に帰ったが、あくる日から浅草蔵前へ毎日出かけて、法華屋に眼をそそぎ出した。
どうしてくれようと思う。
結論はきまっているのだが、ただブチ殺してもあき足りぬ思いがする。それに――首領万蔵がわざわざ釘《くぎ》を刺したように、きゃつに誅戮《ちゆうりく》を加えたのが伊賀組であると知られてはならないのだ。いや、ひょっとすると、法華屋伝兵衛ももう鞍掛夫婦の死んだことは知っていようから、その一族の報復を怖れ、もし自分が不慮の死でもとげたら、それは伊賀町の方面からなどと家人にいいふくめているかも知れぬ。――
女好きだというから、こんどこそわが秘器あだ[#「あだ」に傍点]を使うべきときだとは思ったが、伝兵衛が夜道をひとり歩いていることもあるまいから、どう接触していいのかわからない。また法華屋に入るにしても、あとであだ[#「あだ」に傍点]が甲賀の女とわかったら甲賀が無事にすまぬことも明白である。
法華屋を見張っているうちに、伝兵衛が少くとも五人の妾《めかけ》を持っていることを知った。別宅に囲うならまだしも、これを妻といっしょに同居させているとは、まるで太閤《たいこう》さまそこのけで、万蔵のいったようにまさに人もなげなるふるまいである。
しかも、その妾たちが女中などをつれて外出するのを見ると、どの女もが町人の妻とは思われない気品に満ちた容貌《ようぼう》と姿態を持っている。右近は、それがことごとく旗本や御家人の娘という出身であることを知った。旗本の娘が町人の妾などになるについては、途中で他家の養女になるとか何とか一応の細工はしてあるらしいが、それにしても不敵な札差ではある。そしてまた右近は、法華屋伝兵衛がお千賀に執心したわけも知ったように思った。お千賀のような顔だちの女がこの町人の好みであるらしい。
では、その伝兵衛当人は?
或る日、右近はついに見た。駕籠《かご》にゆられて何処《どこ》かへ出かける伝兵衛を。――春が遠くないことを思わせる一日で、彼は駕籠の垂れをあげさせていた。
それはずんぐりした胴に、頸《くび》なくして直接頭をのせたような五十年配の男であった。その顔はまるで河馬《かば》そっくりであった。むろん右近は河馬を見たことはないけれど、彼をしていよいよ義憤――というより狂憤に近いものを抱かせるに充分であった。
――こやつか! お千賀どのに眼をつけ、ついに死に追い込んだやつは?
路傍に立って、右近ははたと睨んだのである。
河馬のような顔をしているくせに、存外感覚は鋭い――というわけではなく、おそらくその路傍の眼は、なんびとといえども、見つめられた人間をぎょっとさせるものがあったに違いない。法華屋伝兵衛はふっとこちらを見た。
眼が合った。
とたんに右近は、眼球に青い火花がきらめいたような気がした。
次の刹那《せつな》、彼は自分が駕籠にゆられており、向うの路傍にどうと倒れる若い武士の姿を見たのだ。それは彼自身であった。
「……ま、待て!」
と、彼はいった。口から出たのは彼ならぬ別人の――おそらく伝兵衛に相違ない声であった。
駕籠はとまり、ついていた手代らしい男がのぞきこんだ。
「旦那さま。……あのお侍さまはどうしたのでござりましょう?」
手代は、主人がそれを見て駕籠をとめさせたものと思ったらしい。のぞいた顔に不審の表情はなかった。
右近は驚愕をおし殺すために眼をつぶり――やがて、肩で一つ大きな息をしていった。
「あのお侍をうちへ運んであげな」
「へえ? お知り合いで?」
「うむ、むかし御恩になったお方の御子息らしい。……わしも、きょうはうちへ帰る」
やがて駕籠をめぐらしながら、右近は驚きの波しずまらぬ頭で考えた。
とにかく自分が法華屋伝兵衛に乗り移ったことにまちがいはない。――例の媒体あだ[#「あだ」に傍点]を使うことなく。
ただ、睨んだだけで。――一種の念力をこめたひと睨みで。
彼の祖父が凝視によって他人に乗り移ったという幻術、それが水晶の球の修行、また女体を介しての体験、それらの段階を経て、ついにその奥儀に達したものと見るべきである!
さて、法華屋に彼のからだ――失神状態にある右近自身を運んで帰って、人を遠ざけて調べて見た。
たしかに、息はしている。かすかにいびきさえかいている。しかし、いかにゆさぶっても目覚めることがない。まぶたをおしあけて見ると白眼だけ剥《む》いている。そのくせ、粥《かゆ》など与えて見ると、これは無意識ながらムニャムニャと食う。そして、まもなく気がついたことだが、小便もする。――事故のため頭部に損傷を受けて眠りつづけ、十数年生きているという人が現代でもあるが、まあ、あんな状態である。――しかし、そんな風になった自分自身をつっつきまわして点検しているのは、われながらぶきみ千万なものであった。
これはえらいことになった、と思った。
傀儡精ならば、一夜明ければ、乗り移った肉体において精虫の死滅、残った肉体における精虫の新生とともにまた自分に戻ることが出来たのであるが、これはただ睨んだだけで乗り移ってしまったのだから、これから先どうなるのかちょっと見当もつかない。
それでは自分は永遠に法華屋伝兵衛に乗り移ったままなのか? この醜悪きわまる肉体に?
「旦那さま」
と、そのとき心配げに一人の女が入って来た。
「いったい、どうなさったのでございます?」
妾の一人だ、とすぐわかった。どこかお千賀に似ている――と見て、乗り移るならせめてこの女に――と思って、じっと睨みつけたとたん、また眼に青い火花が散った。
「こりゃ何じゃい? この丸太ン棒は――」
法華屋伝兵衛が一声高く咆《ほ》え出した。――それを右近は見たのだ。
彼は、自分がその妾に乗り移ったことを知った。はっとしつつ、彼はふたたび伝兵衛を睨みつけた。二声目を発しさせることなく、彼はまた伝兵衛に戻った。
妾は茫然として立っている。
「どうしたのか知ら? ふらっとしたけど」
と、ぱちぱちまばたきをしたが、すぐにいまの頭のふらつきは気のせいだと思い直したらしく、
「どこのお侍さまでございます、それは?」
と、先刻の問いを繰返した。
右近は、或る念力を以て或る人間を凝視すれば、それだけで次から次へと自分が他人に乗り移る術を体得したことを知った。――最初の右近が失神したままなのは原発点だからやむを得ないとして、あと乗り移った人間の精神はただ制圧されて閉じこめられているだけで、第三者に乗り移ればただちにもとに戻るらしい。
何はともあれ、永遠に法華屋に乗り移ったままでいなくてもすむらしい。――
「このかたか」
と、彼は咳《せき》ばらいしていった。
「ふむ、だれかを呼んでの。この方を駿河台の甲賀組屋敷、甲賀|空斎《くうさい》どのかたへ駕籠で届けさせてくれい。待て待て、死んではおらぬ。粥ならば食う。安静に寝かしておけと、わしが一筆書こう」
手当法をよく指示しておかないで、放ったらかしにされたり埋められたりしては大変だ。とにかくいつかは自分のからだに戻れる時が来るだろう、それを待つよりほかはないと彼は覚悟をかためた。
さて、その日から彼は、法華屋伝兵衛としての生活をはじめた。――彼は、或ることを思いついた。それを果たすには、これまたその日を待つよりほかはないと方針を決定したのであった。
伝兵衛としての生活といっても、札差の仕事など何も知らない。それをごまかすために、彼は一室に五人の妾を集め、日に夜をついで逸楽に耽《ふけ》り出した。商売の出来ないことをごまかすためもあるが、しかしほかに目的もあった。
「伝兵衛は色きちがいになった」
という観念をみなに植えつけることである。
これは兵法のつもりであったが、兵法にしても色きちがいのまねは甚《はなは》だ面白いものである。なんとなれば、ふつうの自意識があればなかなかそんなまねなどやれるものではないからである。いや、まねではない、時にはふとかんじんの目的を忘れるほど右近はそれに熱中してしまった。五人の女を裸にし、同じしとねに寝かせ、およそ彼の空想力の及ぶかぎりの行為をほしいままにした。――もともとひとのからだだから、どんなに酷使しようと知ったことではない。
ところが驚いたことは、女たちが全然驚かなかったことである。
彼女たちは、彼の命じるいかなる行為にも耐え、それどころかまだもの足りないような顔をしていたのだ。あの気品高く虫も殺さぬ顔をして外を歩いていた女たちが。――
――伝兵衛はいつもこんなまねをしているのか?
あやうく右近はそう聞きかけたほどであった。それはあわれと口をふさいだのに、
「旦那さま……お変りなさいましたねえ」
と、女の一人がまといつき、腰をくねらせながら、唇を耳によせてささやきかけた。彼はぎょっとした。
「な、何が?」
「まだお弱りになるお年でもありませんのに――さあ、元気を出して!」
右近はゲンナリした。
女たちに恐怖すら抱いた。
このままでは死んでしまう。
――このからだで死んだら、おれはいったいどうなるのか?
冗談ではなく、彼がこんな怖れと疑問を抱きはじめたとき、やっと待ちに待っていた日が到来した。老中田沼主殿頭さまの御子息でやはり若年寄の田沼|山城守《やましろのかみ》さまから、向島《むこうじま》の別邸に法華屋をお招きの使者が来たのであった。
日は天明四年三月に入っていた。
七
法華屋を見張っているあいだに下調べをして、伝兵衛が以前から月に一、二度は向島の田沼別邸に呼ばれて、金銀その他の贈り物を献上することを知ったから、このことはもっと早くあるだろうと待っていたのだ。
彼は千両箱を一つ用意させて、向島に赴いた。
伝兵衛の変化を気づいた者が法華屋にどれだけあったか。例え気づいたとしてもそれをとがめる者などありっこのない絶対的の権威を持っている男であったし、また最近の挙動がおかしかったと気づかれることは、むしろあとになって彼のやったことを説明する何よりの伏線となるはずであった。
田沼山城守|意知《おきとも》。父の意次《おきつぐ》についで天下第二の権力者。
一方で――数十人の愛妾をめぐるのに、夏の夜、その間蚊に刺されるのを不満として、それら愛妾の部屋ぜんぶをぶちぬく長大なる蚊帳《かや》を作らせ、いったん入ってしまったら外へ出なくともその中を探せばどこかにその夜欲する愛妾がいるというアイデアを発明した人物である。さらに、大広間にびろうどの蒲団《ふとん》をしきつめさせ、女中たち一同をはだかにして相撲《すもう》をとらせ、勝った者に紅白のちりめん一台を賞品に出すというショーも思いついた人物である。
かくのごとく相当におかしい田沼意知も、その日やって来た法華屋伝兵衛が、まえに千両箱を投げ出すように置いて、舌なめずりしてあらぬ方を眺めているので、
「はて?」
と、首をひねった。
献上品を持参するのは恒例としても、こんな献上のしかたはないし、いつもはこれからいろいろと政財界の問題について、露骨にいえばいかにして町人百姓から巻きあげるかということについて――例えば先年新しく赤坂氷川《あかさかひかわ》に政府直営の遊廓《ゆうかく》をひらいたのも、ここから出た智慧《ちえ》だ――談合することになっているのだが、そんな用談にとりかかる雰囲気《ふんいき》ではない。
「法華屋」
意知はややかんばしった声で呼んだ。伝兵衛が意知の横にひかえている最近入手したばかりの美しい寵妾の方へ、ただならぬ眼をすえているのに気がついたのだ。
「そちは、もう酔っておるのか?」
そのとたん、伝兵衛は立ちあがって、どさどさと歩いて来た。――寵姫の方へ。
しかも、何たること、いきなりそのえりがみひっつかんで吊《つる》しあげるや、片手をぐいとその懐からふくよかな胸へさし込んだのである。あまりのことにあっけにとられ、一息、二息、のけぞったまま声もなかった田沼意知は、
「気が狂いおったか、法華屋伝兵衛!」
と、恐怖の絶叫をあげた。いかに肝胆相照らした政商とはいえ、この狼藉《ろうぜき》には意知の方も乱心せざるを得ない。
「斬れ!」
下知とともに、肩衣《かたぎぬ》はねて数人の家臣が走り寄って来た。
そのとき法華屋はふりむいて、意知をはたと睨《にら》んだ。――次の瞬間、彼ははじめてわれにかえったかのごとく、
「あっ……こりゃ、いったい、どうしたことで。――」
と、両手をふりあげたが、時すでに遅かった。――いや、その姿さえ怪異に見えて、三本の刀身が抜き打ちにその両肩と胴にくいこんだ。
恐ろしい血しぶきをあげて法華屋伝兵衛は倒れ、ひっくり返った海亀みたいに短い手足で虚空をかきむしった。
そのとき、じいっとそれを見つめていた意知が、だれがきいても不可解なつぶやきをもらしたのである。
「法華屋――鞍掛の恨み覚えたか?」
ニンマリと笑った意知を、たたみの上から見あげたまま、法華屋伝兵衛は息絶えた。
いうまでもなく、斬られる寸前に右近は田沼意知に乗り移っている。天下の若年寄による無礼討ちである。――これこそ彼が抱いていた復讐の法なのであった。
かくて滝川右近は、若年寄田沼山城守意知――天下第二の権力者にとり憑いた。
これは最初はもとより法華屋伝兵衛に天誅を下すための便法であったが、しかしこれを以て事終れりとなすべきではない。このこと自体、甚だ興味あることである。だいいち、帰ろうにも本体があのていたらくでは帰りようもないが、さればとてほかのだれに乗り移るよりも、この人物に乗り移ったままでいる方がましであった。
元来右近は、政治に野心などある方ではない。もっとも伊賀組に籍をおく身で政治を云々《うんぬん》してもはじまらないせいもあるが、そもそもいつぞやの「志士」連中の田沼暗殺計画をぶちこわしたくらいだから、政治家に対するいきどおりという点については、むしろ一般の青年よりも淡白な方であったといってよかろう。だいたい自分の生を「臨時作業」と心得ている人間が、時の政治に慷慨するはずがない。
むろん、田沼父子を尊敬すべき政治家とは思わなかったが、それでも、この場合、その一人にとり憑いた、ということの魅力の方が強かった。政治に興味があるというより、むしろ彼らが尊敬出来ぬ政治家であったがゆえに。
臨時作業としては面白いな。これは大臨時作業だ。いや、最後の臨時作業というべきかも知れん。
何となく、彼はそう思ってひざを叩いたのである。彼は気がつかなかったが、最後の、などいう観念がどこかにあったのは、いわゆる虫が知らせたというものかも知れない。
とくに馬鹿で聞えた山城守に乗り移ったことがありがたい。いかなるばかげたことをやろうと、だれも疑う者はないからだ。そこで――と、彼は考えこんだが、いくら考えても、本物の意知がやったという、愛妾全軍用の蚊帳とか、女中の大相撲とか、官営遊廓とか、それ以上にばかげたアイデアはちょっと浮かんで来なかった。
それよりも彼は、意知ごときを相手に――若年寄だから当然のことではあるが――陳情、取引、強請に来る人間たちのおびただしさ、政治家の多忙さに眼をまわした。
そして――ふん、ふん、ときいてはいたが――その人々のばかさかげんにウンザリとした。これはみな意知以上の馬鹿ではないかと考え出したほどであった。つまり、あまりにもみな虫がよ過ぎるのである。図々し過ぎるのである。欲張り過ぎるのである。鉄面皮過ぎるのである。
米代をあげろという。下げろという。報償金を下賜しろという。出すなという。何とかの工事をしろという、するなという。オランダの科学を取入れろという。取入れるなという。――要するに、みんな、自分のことだけは都合のいいほどいい、ほかのやつらは悪くなればなるほどいい、という業《ごう》つく張りばかりだということに帰着する。
いちど彼は、
「それでは日本はどうなるのか?」
と、さけび出して、そんなことをいちどもさけんだことのない意知の口から奇怪なせりふが飛び出したとして、そのとき周囲からふしぎそうな注視を浴びたほどであった。
こんなやつらと、まともにつき合っておられるか?
彼はそう思い、自分の「臨時作業」思想の正当性を改めて感じいった。
右近の心に暗愁ともいうべき想いが漂いはじめた。それは、彼がはじめた傀儡精《かいらいせい》の忍法使用以来知ったさまざまの人間どもの醜さ、滑稽さ、身勝手さ――さらにいま天下の権力者として存在する自分のまわりにひしめく人間獣たちの愚かしさから来る、「臨時作業」すら空しいという感情であった。
同時に、別の方から恐怖の念が漂い戻って来た。それは、あの鞍掛鞍兵衛とお千賀が死んだのは、法華屋伝兵衛のせいではなく、やはり自分のせいではなかったか、という疑いであった。それは理由もなく執拗《しつよう》に舞い戻り、また大いに理由があるように思われ、そして法華屋伝兵衛を成敗したことも、何だか罪を重ねたような罪の意識にとらえられた。
逃げたい。――
ひたすら彼は、そう思うようになった。
どこへ?
本体はまだ寝ているらしい。ときどき、それとなく甲賀組屋敷の方を探らせているが、右近はまだぐうぐうと眠りつづけているらしい。
――そうだ、あだ[#「あだ」に傍点]のところへ!
突如としてそう思いついた。いままで、そう思いつかなかったのがふしぎなほどである。あだ[#「あだ」に傍点]のからだに帰ればよいではないか。――今や、彼の心に、あの白痴の美女こそ母なるふるさとのごとく、あたたかく懐しく思い出された。
「甲賀組屋敷、甲賀空斎のところへ寄食いたすあだ[#「あだ」に傍点]なる女人、今日じゅうにもここへ呼べ」
厳命を下して、彼が屋敷をあとに登城したのが、天明四年三月二十四日である。
そして、この日、はからずも彼は殺害された。かねて田沼に意趣をいだいていた佐野善左衛門《さのぜんざえもん》なる者が突如殿中で刃傷《にんじよう》の一刀を抜き払い、驚愕する意知を刺し殺したのである。
八
――がばとして滝川右近は起き直った。
甲賀組屋敷で彼はよみがえったのである。乗り移った人間の死によって、はじめて幻眠の術は破れる――彼自身もとにもどる――もと通りの滝川右近になるということを発見するまでには相当の時間を要した。
彼はよみがえったのか。
いや、彼は死んでいた。正確にいえば魂は死んでいた。少くとも、これから何として生きてゆこうという意欲を失っていた。
七日ばかり前。――ここ数十日、空しく眠りつづける右近に粥を与え、大小便の世話をし、またゆさぶったり頬ずりしたりしては泣きつづけていたあだ[#「あだ」に傍点]が、風邪がもとで突然死んだということを知ったのも大衝撃であったが、そのことがなくても或いは彼の魂は同じ状態であったに違いない。
それから右近はどうしたか。それを書くだけの余白が許された枚数にないが、書いても無益である。なんとなれば、それは無限の地獄を書くにひとしいから。
要するに右近は、鞍掛鞍之進《くらかけくらのしん》に討たれてやろうと思い立ったのである。あの少年によって、この世をおさらばするのが最も自分にふさわしい天命であると悟ったのである。
そして。――
「鞍之進! この滝川右近こそそなたの父母を死に至らしめたかたきであるぞ。みごとわしを討って、父母の迷える魂に回向《えこう》をせよ!」
花散る夕、甲賀組屋敷の近くにある馬場でそうさけんで仁王立ちになり、それでも茫乎《ぼうこ》として動かぬ少年をはたと睨んだ右近は、その刹那、鞍之進に乗り移ってしまったのである。そして、みごと一刀をひらめかして、そこに転がった右近自身の胸を刺しつらぬいたのだが。――
彼は鞍掛鞍之進の中でよみがえっていたのだ。
滝川右近の肉体は死んだが、彼は鞍掛鞍之進として生き残ることを防げなかった。そして鞍之進のその後の運命を書きつづけていってもきりがない。要するに彼は死なない生命を得たことになる。
それこそは彼の罰であった。おのれのなす所業をすべてかり[#「かり」に傍点]の姿とするがごとき思想を抱いた人間は、永劫に生きて空しき倦怠《けんたい》の罰を受けなければならなかった。あの「さまよえるユダヤ人」のごとく。――
「さまよえる忍者」は、だから、今も生きているにちがいない。しかも彼は曾《かつ》て七分乗り移ったり三分乗り移ったりすることも体得した忍者だ。理論的には幾百千にも分裂して乗り移ることも可能で、事実そうなったかも知れない。彼は、いまのおのれの仕事を「臨時作業」だなど考えている人々の脳髄すべてに棲《す》んでいるように思われる。少くとも、かかる忍法小説を書いている作者の脳髄にも。
[#改ページ]
怪異二挺根銃《かいいにちようこんじゆう》
――津軽忍法帖――
一
長《ちよう》 享《きよう》 二年というと、長い応仁の乱が終って約十年ばかりたったころ、京における応仁の乱はともかく終ったとはいうものの、さらに国じゅうが長い長い戦国時代にそのまま入ってしまったところである。
その春、陸《りく》 中《ちゆうの》 国《くに》 鬼《おに》 柳《やなぎ》の駅で、大浦元信《おおうらもとのぶ》という若い貴人が殺された。
その由来たるや、さらにさらに古い。
大浦一族は平安朝の昔から津軽《つがる》の豪族であったが、室町期に入って南部の豪族いわゆる南部《なんぶ》家の圧迫を受けるようになり、八代目の秀則《ひでのり》は南部家の姫君と結婚させられ、心ゆるしていたところを幽閉され、餓死させられた。その子九代|則信《のりのぶ》もまた南部の姫君を妻とし、一夜その妻がぬけ出したあと襲われて殺された。
その子が十代元信である。
元信は幼少から人質同様に南部家に養われて育ったために、祖父、父ともにこんな死にかたをしたとは知らなかったが、長ずるに及んでまたも南部家からその姫君を妻とするように命ぜられたとき、さすがに大浦家の家臣が反対した。そのわけを聞いて、はじめて右のいきさつを知ったのである。
大浦元信は悲憤した。そこでわずか十三人の家の子郎党をひきつれて南部を脱走し、京へ上って将軍に訴えようとした。ただこのとき、別にすでに何人か持っていた側妾のうち、最も愛していた妾一人も同行した。
そして、南部から仙台に入る境の鬼柳まで逃げて来て、夜明方、南部の追撃隊に襲われたのである。この小人数の従者では、しょせん逃れられぬところであったろうが、それ以外にも彼らを万事休させたことがあった。
かんじんの元信が、そのとき愛妾と交合していて、しかも二つのからだが離れないという始末であったからだ。元信が背中から刺し殺されて、やっと二人は離れた。
「一人足りぬぞ」
屍体《したい》の数を勘定した南部の追跡者たちは騒いだ。たしかに完全に宿を包囲してからの凶行であったのに、一人だけ逃げたやつがある。
「そんなはずはない。もういちど探せ!」
彼らは血まなこになって狂奔したあげく、ついにあきらめて引揚げた。女――元信と一体となっていた愛妾を輿《こし》にのせて、とり囲んで。
「……そうであったか」
その魔群のうしろ影を見送って、つぶやいた者がある。宿場を流れる北上川《きたかみがわ》のまんなかあたりからである。
むろん、河面《かわも》はずっと見張られていたし、春なお氷のごとき流れの中に、そんなに長時間もぐっていられるはずはないが、しかし、まさに追手が引揚げるころに至って、はじめてそこから頭だけ出したのは――河童《かつぱ》というより饅頭《まんじゆう》を踏みつぶしたような異相の男であった。甚《はなは》だ突飛な連想だが、現代の人が見たら、そう、ボブ・ホープを思い描いたろう。
「あれは虜《とりこ》のようじゃない。味方だ」
と、彼は頭から水をしたたらせながらうなずいた。――いま、つれてゆかれた女のことだ。その女に対する南部勢の扱いのことだ。
「はじめから、南部の廻《まわ》し者だったのだな」
顔がぬれているのは、水ばかりのせいではあるまい。
「三代……みんな、女にしてやられたことになる。ことに、こんどはひどい。――たった一本のおん魔羅《まら》を女にとられているばかりに、あの非業《ひごう》の御最期とは!」
鼻もわななき、唇もわなないている。滑稽《こつけい》なるべき面相がこの際醜怪にさえ見えたのもいたしかたがなかろう。
「二本あればなあ!」
と、ふいにしぼり出すようにさけんだ。
それから、そのまま何やら考え込む表情になったが、ふいにはっとわれに返った風で、
「おお、こりゃこんなことをしてはおられぬ。盛岡《もりおか》には光信君《みつのぶぎみ》がおわす。いまはただひとりのおん忘れがたみのお命、お救いせねば、大浦家のおん血筋が絶える!」
光信は、元信がほかの愛妾に生ませた幼君であった。
彼はそのまま抜手を切って泳ぎ出した。春先の北上川を、上流へ――驚くべし、その迅《はや》さは、川沿いにゆく騎馬隊よりも早かった。
大浦家十一代の光信はこうして救われることになる。
のみならず、大浦光信は長じてのちに南部家からも独立し、いわゆる津軽家の遠祖となる。すなわちそれより、盛信《もりのぶ》、政信《まさのぶ》、守信《もりのぶ》と経て為信《ためのぶ》となったとき、大浦改めて津軽と称し、津軽一円の太守となったからである。――
さて、この功労者のボブ・ホープに似た男だが。
彼の名は、恩名呪楽斎《おんなじゆらくさい》。大浦家の忍びの者であった。
室町時代から忍者があったかって? それは、あった。室町時代どころか南北朝のころ、伊賀《いが》の服部《はつとり》に妹を嫁にやった楠木正成《くすのきまさしげ》が忍びの者使いの名人であったことは有名だ。戦争あるところ、諜者は要《い》る。いや平和時だってスパイはある。
ただこの恩名呪楽斎はただの諜者ではなかった。
それは北上川を泳いで盛岡まで遡《さかのぼ》ったことでも明らかだが、そんな肉体的技術よりも、もっと大変な忍者であった。
彼は、もし男に男根が二本あったら? と着想したのである。
むろん、主君が悲惨な死をとげたとき、氷のような水の中で、水ぶるいしながらふっと思いついたことがそのはじまりだ。
もっともあの際、元信があんな状態になって――あれを医学用語で「陰茎捕虜」という――たとえ二本あったとして、ただ一本だけ捕虜になったとしても、とかげ[#「とかげ」に傍点]の尾みたいにそれだけ切って逃げるわけにはゆくまいし、だからといってどうにかなったわけではあるまい。結果は同じだったに相違ない。
それよりも、「もし男根が二本あったら」という前人未到の着想こそ貴重なものであった。そもそもニュートンの力学が林檎《りんご》に端を発したように、物事の大発見というものは、一見くだらない、ときには非合理な機縁によることが多いのである。
医学的にいわゆる「陰茎捕虜」になったとき、二本あってもどうにもならないことはいまいった通りだが――だいたい一本だけのとき、すなわち常態では、常態の交合がその時間だけ女に捕虜になったようなものだ。女も、そのあいだは男を捕虜にしていると思うだろう。
この心理状態こそ重大である。ここから女の男に対する或《あ》る種の優越感が生まれ、男の女に対する或る種の劣等感が生まれる。男が女でしくじるという現象は、つきつめるとこの心理状態から発する。
元信公最期のいきさつはともあれ、それ以前からすでに元信公は女に捕えられていたのだ。そのおん祖父、おん父君の場合も同様だ。
そこに、二本あったらどうなるか。
たとえその一本を捕えても、同時にもう一本が遊んでいると意識したら、女は決して色仕掛で、男をどうかしよう、あるいは愛によって縛りつけようなどいう気は、はじめから起すまい。すなわち女は、決して男をナメないであろう。――
そもそも、一本しかないということがおかしい。
「からだの器官は――少くとも外部的器官はたいてい二つあるじゃないか」
と、呪楽斎は考えた。
手、足はもとより、耳だって、眼だって二つだ。鼻は一つに見えるが、穴は二つある。おっぱいだって授乳だけならまんなかに一つあればよさそうなのにこれも二つある。口は一つではないかという人があるかも知れないが、これは食道、胃、腸とつづく一本の管の入口だから、出口たる肛門《こうもん》と同様、これだけはやむを得ない。とにかく以上の見地から、陰茎が二本あっても決しておかしくはない。
しかし、二本ならんで生えていたら、見たところおかしくはないか、という意見があるかも知れないが、それは一本を見なれているからだけの話で、逆に女の乳房がまんなかに一つだけつき出していたらさぞ気味が悪いだろうと思うのと同じことで、要するに馴《な》れの問題である。
それより、一本というのは機能的にもおかしい。
あれは、排泄《はいせつ》と生殖の両作用をつかさどる。こりゃ、いくらなんでも神さまがひどいと思う。このやりくりは、皮肉というより愚劣過ぎる。
もっとも神さまは甚だエコノミックで、一つの器官に二つ以上の用をかねさせていることが多い。耳は聴覚と平衡感覚をかね、鼻は呼吸と嗅覚《きゆうかく》をかね、口は食物摂取とおしゃべりをかね、皮膚は被覆、発汗、触覚をかねる。一器官で一作用というのは、眼と肛門だけである。
「眼の重大さはわかるが、尻《しり》の穴は少し待遇がよすぎるな」
と、恩名呪楽斎はそのとき考え、ふいに、はたとひざをたたいた。
「だから、もう一つの役をやらせるのは当り前か」
衆道愛好癖のある彼は、ここでこの道の学界に発表したいほどの大発見をした気持になった。
ともあれ、たいていの器官が両用をかねるといっても、その一つは副次的なもので、平衡感覚とか嗅覚とかおしゃべりとか触覚とか、たとえそれが失われたとしても、困ることは困るけれど、即座には、個体の生命にも種族の保存にもさしつかえはない。しかるに、排泄と生殖とは、そのいずれにもかかわる至大至重の作用ではないか。
これを一個で兼用させるというのは、どう考えても任務過重である。尻の穴でさえ、一つの役目で涼しい顔をしているではないか。
これは断然一本一役とするのが正当である。この見地からしても男根は、絶体絶命二本あるべきである! そもそも、その一役のほうにすら、睾丸《こうがん》はこれまた二個待機しているではないか。それなのに、一本でべつに小便までさせるのはあんまりだ。
自分でさえそう考えるのに、では神さまはなぜ一本しか与えられなかったのであろう?
呪楽斎は深刻に考究した。その結果、そりゃ女のほうも一つしかないからだ、という結論に達して苦笑した。
一本が所定の役目を果たしつつあるとき、そばで一本が手持|無沙汰《ぶさた》にぶらぶらしていれば――その余裕こそ女の優越感をゆるがせるものではあるけれど――やはり、邪魔になるだろう。
では、なぜ女は一個しか持たないのか。それは子宮が一つしかないからだ。子宮が二つあって、もし二つとも孕《はら》んだら、一つでさえあれほどの偉観を呈するのだから、腹は裂けてしまうだろう。
それで女陰が一個しかない理由はのみこめたが、それに合わせて男のほうも一本ですませろというのは、合理的なようでやはり納得出来ない。女の腹を裂けさせないために無理に一本に制限されるというのは、男からすればどう考えても不公平だという感を禁じ得ない。
「女は、女だ。女のほうまで気をつかってはいられない」
と、呪楽斎はつぶやいた。
すなわち彼は、しゃにむに、男に二本備えさせたいという悲願にとり憑《つ》かれたのである。
が、二本とりつけるといっても、実際問題としてどうするか。ほかの男のものを持って来てくっつけるなどということは、医学的にも不可能だし、だいいち、たった一本しかないものを奪うというのは、ヒューマニズムにも、そもそもこの悲願の初心にもそむく。
あたりまえのことだが、呪楽斎は立往生してしまった。
立往生して考え込んでいるうちに、彼はほんとうに往生した。では、この破天荒の夢は、彼が地上から消えるとともに消えてしまったのか。
そうではなかった。
いったい進化の要因についての学説に、適応や淘汰《とうた》や廃化や特別使用、突然変異などはあげられているけれど、その中に「念力」が認められているかどうか。
時去り時来って、それから三百数十年、その間、この念力は恩名代々の血脈に必死の思いで伝えられたのであろう。
徳川期も、文化文政のころに至って、忽然《こつぜん》、恩名の一忍者に、忍祖呪楽斎の怪異なる幻想が体現されることとなる。――
二
時間的に進化をとげた忍者の世界も神秘的だが、平べったいこの俗世に繰りひろげられる欲と権謀の図もそれに劣らず怪奇的だ。
事は、南部と津軽にからまる。
南部藩と津軽藩はまだアラブとイスラエルのごとく宿怨の糸につながれていたのである。
大浦光信が南部から独立したといっても、まだその勢力下におかれ、いわば自領を持つ家老格といった立場にあったことはいたしかたなく、それから三代を経て為信に至り、こんどこそ完全に対等となった。
天正年間のことで、天正十八年|秀吉《ひでよし》の小田原《おだわら》城攻囲に際し、奥羽諸藩とともになお南部家が向背に迷っていた時に、大浦為信はいちはやく一人小田原に走って秀吉によしみを通じ、ここではじめて津軽一円の領主たることを許されたのである。爾来《じらい》その家は津軽家と名乗り、この為信を初代とすることになる。
南部としては、まったく出し抜かれたのだ。それどころか、こちらから見ると、裏切り、叛臣《はんしん》の行為である。津軽からすれば、それ以前の代々の恨みのしっぺ返しだ。
かくて両家が、ことあるごとにいよいよいがみ合うことになったのは是非もない。
そして文化文政のころに至って、津軽にその九代津軽|越《えつ》 中《ちゆうの》 守寧親《かみやすちか》という奸雄《かんゆう》とも評すべき辣腕《らつわん》の人物が出て、両家の争いは最高潮に達した。
津軽方が、実に巧妙に南部藩との国境《くにざかい》の土地や山を自領にとり込む――ひそかに目じるしとなる石標のたぐいを南部領に埋めておいて、数年後、あるいは十数年後境界争いを起し、そこで偶然この石標を掘り出したかのごとくに事を運んで、南部藩を沈黙させてしまうというような手まで使ったという――のみか、江戸城内における家格としては上であった南部藩と同列になろうとして、莫大な賄賂《わいろ》を当路の大官に贈るという運動をはじめた。
「北辺守備のお役目に、南部藩とならんで兵を出している以上、同格でなくては士気の上でも不都合を生じる」
というのが、その理由であった。
幕府は困惑した。
まったくその通りで、そのころオロシヤがしきりに千島蝦夷《ちしまえぞ》をおびやかし、松前《まつまえ》藩とともに、南部、津軽にも守備隊を出してもらっていたのだが、一方が格が上だと威張っていては他方は不平をいだく。といって津軽を上げれば、もともと主筋であった南部としては我慢が出来ない。
根本は、両家の深刻な不和にある。なんとかして、この際、その凝結した不和を溶く法はないか?
苦慮のあげく、幕府はついに一策をひねり出した。
徳川御三卿の一つ田安《たやす》中納言|斉匡《なりただ》は将軍|家斉《いえなり》の弟にあたるが、この斉匡卿に双生児の姉妹があった。年は二十歳《はたち》で、金姫、銀姫という。
そして一方、津軽越中守の世子に二十六歳の雅之助《まさのすけ》があり、南部|大膳《だいぜん》太夫|利敬《としのり》の世子に二十二歳の吉次郎《よしじろう》があった。いずれも未婚である。
この津軽雅之助|信順《のぶずみ》に金姫を、南部吉次郎に銀姫を輿入れさせては如何《いかん》、両家の奥方が双生児の姉妹であることによって、すべてが一挙に氷解するとはいえないまでも、そのはじまりになりはしないか。――
いや、これ以外にその法はない。これぞ天来の妙案! ということになり、将軍の命をもって――むろんまだ内命であったが――この旨、田安家に伝えられたのであった。
田安家は困惑した。
たしかに金姫銀姫という姉妹はある。絶世の美女といっていい双生児だ。――ところが、これが問題なのであった。
まったく瓜《うり》二つ、親の眼から見てもどちらが金姫でどちらが銀姫だか判別出来ないほどだが、性質もそっくりだ。読み書きなどはむしろ尋常以上だが、そのくせ――どこか白痴のようなところがある。決して白痴ではないのに、何かそんな微妙な感じがあるのを父の斉匡も気づいていたが、しかし少女のころはたいして気にもしていなかった。白痴のような感じの姫君はこの二人にかぎったことではない。たいていの大名の息女に多少そんなところがあったから。
外観の印象のみならず、二人の、あらゆるものに対する好み、喜怒哀楽もおなじであった。一方が朝からふさいでいると、もう一方も憂鬱《ゆううつ》そうだ。これも双生児にはよくあることである。
――そのうち、それぞれ嫁にやって離してしまえば、これほど目に立つまい。そうなったほうが、二人のためにもよいかも知れぬ。
田安中納言はそう考えて、ふつうの父親よりも娘たちに早くその日が来るのを待ち望んでいた。
ところが。――
十五歳を過ぎるころから、この二人の姫君に異常が現われた。
江戸城ほど大がかりではないが、どの大名の家庭にも表と奥はあり、いわゆる深窓の姫君というやつで、彼女たちもめったに侍たちを見ることはなかったのだが――むろん、たまには見る。そして、見ると歓喜の表情になり、行ってしまうとひどく物哀しそうになる。その変りようが、ふつうでない。
――はてな?
と、見ているうちに、この徴候は年とともにいよいよ甚だしくなった。
若侍を見る機会があると、二人とも眼がうるみ、頬《ほお》にぼうと紅をさし、小鼻がせわしく動き出し、ついにはあえぐように口をあけるという始末だ。
そして二人の姫君は、とうとう運命的な一人の男を見つけた。近習《きんじゆ》の塔《とう》ノ辻無近《つじむこん》という若者であった。
斉匡が病んで奥に伏せっているとき、或る大事な、人に知られてはならない事件が起って、しばしばこの無近が奥へ報告にかようのやむなきに至ったのが事の始まりで、彼が去ると病人の仲間にこの二人の姫君も加わるというありさまになった。
斉匡が驚き、叱《しか》り、途方にくれたことはいうまでもない。
世に恋わずらいという言葉があるが、これはまさに病気である、と側近の者すべてがやがて認めた。姫君たちはみるみる衰弱してゆく。――
その結果、秘密ながら君命をもって、塔ノ辻無近に奥勤め、しかも姫君のお相手を命ずるということになったのである。
塔ノ辻無近は困惑した。
「姫君さまがたのお相手と申されましても、拙者に何を?」
「さて、喃《のう》?」
と、家老と老女も返答にこまる顔を見合わせた。
「かるた[#「かるた」に傍点]なり、双六《すごろく》なり、羽根つきなり」
「拙者は剣以外は知らぬ男なのですが」
と、無近は嘆息した。
彼は美男であった。しかし、颯爽《さつそう》といおうか精悍《せいかん》といおうか、黙って坐《すわ》っていてもまさに剣気が全身から立ちのぼっている。それも当り前だ。塔ノ辻無近は、このころ江戸で名高い四谷伊賀《よつやいが》町の荒道場「兵原塾《ひようげんじゆく》」で、師たる大剣客|平山《ひらやま》兵原から免許皆伝を保証されたほどの男なのであった。天なり命なり、その男性美こそが主君の姫君姉妹から見込まれた禍《わざわい》? のもとであったのだが。――
家老はいった。
「わかる。よくわかっておる。ただしかし、姫君さまがたはお前を見ぬと死んだようにおなりなされる。お前を見ると生き返られる。お二人のお命にかかわる始末じゃ。これも忠義と心得て、どうぞお役目をひき受けてくれい」
塔ノ辻無近は、ただ、がばとひれ伏したきりであった。
かるた[#「かるた」に傍点]、双六、羽根つき――これは子供の遊びだけでなく、大名の姫君の遊びといえばまあこれくらいのものであったろう。しかし、やがて事はこれですまなくなった。
金姫銀姫が、無近に両側からとりすがり、名状しがたい眼で見あげて、よだれをたらしたり、はては代る代るその膝《ひざ》に顔をうずめて、妙に腰を波打たせたりするようになったのだ。
しかも、このところみるみるなまめかしくなって来た姉妹であった。田安中納言の息女といわれればそれらしい気品もないではないが、しかし、一見したところ恐ろしく肉感的だ。肉は白くあぶらづき、眼も唇《くちびる》もぬれ、からだは蛇《へび》のようにしなしなとしている。
つきとばすわけにもゆかず、無近が歯をくいしばって耐えていると、そのうち二人はいよいよいい気になって、膝にうずめた鼻をくんくんいわせたり、そのあたりを白い指でかきさぐるようになった。――
塔ノ辻無近は悲鳴をあげて逃げ出し、家老に訴えた。
「……かくかくの次第で、もはや拙者にはこの御用相勤めかねまする。何とぞお許し下さりますよう」
家老もさすがに諒として、無近の奥向きへの出仕をとめてやると――さあ、大変だ。金姫銀姫は夢遊状態で、
「無近。……無近はどこ?」
と、さまよい歩くようになり、しまいにはどういうつもりか、部屋に火をつけようとしてあやうく発見されるという騒ぎになった。
――これは完全に色きちがいである。
単なる形容ではなく、二人の姫君がこの点における異常者であると改めて周囲は診断しないわけにはゆかなかった。
いったいこれをどうすればよいのか? しかも、処置は急を要する。
斉匡をはじめ老臣たちの懊悩《おうのう》の談合の結果、またも塔ノ辻無近に、彼の難行《なんぎよう》さらに百尺|竿頭《かんとう》一歩をすすめた秘命が下されたのである。
すなわち、無近の全肉体をあげて姫君に奉仕せよという。――
「すりゃ、拙者を……金姫さま銀姫さまの肉の奴隷たれと仰せられるのでござるか」
無近は仰天した。
家老は沈痛に答えた。
「いかに思案しても、それよりほかに法はない、ということに相成った」
「拙者、武士の面目にかけても左様なお役目、腹を切っても御辞退つかまつる」
たたみを叩《たた》き、歯ぎしりして訴える無近を、家老は厳しい眼でにらんだ。
「無近、なんのための武士か」
「は?」
「ただこれ、主家に対して忠節を捧げるためではないか」
「へ。――」
「おまえがそのお役目を果たすことによって金姫さま銀姫さまが御安泰でおわす。殿もそれで安堵《あんど》なされる。それ以外の忠義がどこにある?」
塔ノ辻無近は、ただ、がばとひれ伏したきりであった。
彼はこの秘命について、ただ二人の人だけに相談した。
一人は、師の平山兵原である。もとは幕府の伊賀者の出身だが、文武両道の奥義をきわめ、四谷伊賀町に大道場を構えている。食事は味噌《みそ》をつけた生魚《なまざかな》に生米《なまごめ》をかじり、寒中にも水風呂に入り、書見するときは三間四方の木板に坐り、わざと窓をあけて寒風に吹きさらされながら本を読む。そして、いまだかつて蒲団《ふとん》に寝たことがないというストイックな超人だ。彼の編み出した剣法を忠孝真貫流という。一生妻帯しなかったのみならず、ついに童貞でさえあった。
この師に無近は教えを請うた。
童貞の老師は、頭から飴湯《あめゆ》をかぶり、口からせんぶり[#「せんぶり」に傍点]でも飲まされたような表情をした。無近をはたとにらんだきり、五分間くらい黙り込んでいたが、やがて、
「忠孝をもって真貫せよ!」
と、腹の底からしぼり出すようにうめいた。
もう一人、無近が相談したのは、同じ田安家の家臣の娘お阿佐《あさ》であった。彼の恋人だ。――しかし、もうこのときは相談といったかたちではなく、悲痛な通告であった。
「おれは君命に従う。……お阿佐どの、こう決めたおれを、どうかさげすみ、あきらめてくれ」
お阿佐は蒼《あお》ざめた。むしろ二人の姫君より気品のある娘であったが、その清麗な顔に黒い眼をいっぱいに見ひらいて、しばらく無近を眺《なが》めていたが、
「わかりました。無近さま、さげすむどころではありませぬ。家来として、当然のことでございます」
と、いった。
「でも、それはいつまででしょうか?」
無近は、詰《つま》った。当面の任務だけで胸がいっぱいで、それがいつまで続くかなどいうことは考えたこともなかった。
「さ、それは……姫君さまがた、いつまでもお家におわすことはあるまい。いずれどこかにお輿入れになる日が来ると思われるが、しかしおれにはもう肉奴《にくど》としての刻印が打たれている」
「お阿佐はその日まで待っておりまする」
と、お阿佐は歯をくいしばっていった。
こうして塔ノ辻無近は金姫銀姫の「肉奴」となったのである。
いったい、いつ、どこで、この高貴にして妖《あや》しき姉妹はこんなことを知り、かつ、おぼえたのか。決して無近のほうから教えないのに、彼女たちのほうから彼に肉の花をひらいた。無近の抵抗力を飛散させる、熱い、かぐわしい、花粉と花汁にまみれつくした二つの花であった。
たくましい一個の男性の肉体にからみつきながら、二人は決しておたがいに嫉妬《しつと》を見せなかった。あらゆるものが――達するまでのリズムの回数、時間、そして盛大にあげる声のオクターヴまで同じであった。
そして、日常における彼女たちから狂乱の影は消え、その生活は通常なものになった。
――こういう田安家の姫君であったのだ。
むろんこういうことを永遠につづけてよいとは斉匡も考えていない。どこか輿入れさせなくてはならぬと焦燥している。事実またこれまでにもあちこちから縁談があった。ところが、金姫銀姫は、
「お嫁にゆく必要はありません」
と、首を横にふる。
「もし、どうしてもゆけとおっしゃるなら、二人いっしょにして下さい。二人が別れるということは、二人が死ぬことです」
「二人いっしょに同じ男のところへ嫁にゆくなどということは出来ない」
「だから、ゆきたくないといっているではありませんか」
二人は、無近に満足し切っているのだ。これは、塔ノ辻無近を与えたのが、いよいよ悪い破目となったか? という勝手な悔いが、ちらと斉匡の頭をかすめたほどであった。しかし、むろん再考するまでもなく、あの際はあれよりほかにどうしようもない事態ではあった。
これが、田安家の姫君姉妹が二十歳になってまだどこへもお嫁にゆかないという、当時、外から見れば相当にふしぎな、内からは万やむを得ない大秘事のいきさつなのであった。
そこへ、上意をもって、二人に南部と津軽へ輿入れせよという命令が下ったのである。
三
「いやよ」
「いやです」
と、金姫と銀姫はいった。
田安斉匡は、こんどこそ、そういうわけにはゆかないということを、こんこんと説いた。たんに将軍家の上意であるというだけでなく、その上意にのっぴきならぬ理由のあることを。日本の防衛のためには、南部と津軽の和解が絶対に必要で、そのためには将軍の弟たるわが家の双生児が両家に縁づくよりほかに名案はないということを。
「その南部吉次郎どのと津軽雅之助どのは、そっくり同じひとですか?」
と、金姫はいった。
「それなら、お嫁に参ります」
と、銀姫はいった。
「そんな無理なことをいってはいけない」
と、斉匡はひざのこぶしをふるわせて叱りつけた。
「南部と津軽がちがうのはあたりまえのことではないか」
「なら、だめです」
「わたしたちは同じおもちゃでないと、気が変になってしまうのです」
「おもちゃとは何じゃ。田安家の存在意義にかかわり、日本の安危にもつながる大事であるぞ――」
「わたしたちには、日本は関係ないわねえ」
「日本がどうなったって、無近一人いればいいわねえ」
と、双生児姉妹は、顔見合わせてけらけらと笑った。
斉匡は赤くなり、また青くなり、ただ二人をにらみつけているばかりであった。とにかく今までこの二人の娘に一人の家臣を与えるという世の常ならぬ待遇をして来たのだ。いまさら国防を持ち出して叱るのが、客観的に見れば可笑《おか》しいようなものであった。
やはり人の道にはずれたことをした酬《むく》いがやって来たか? 斉匡は頭をかかえたが、しかしそこが殿さまで、責任は家臣のほうへ持ってゆく。あのとき、なまじ塔ノ辻無近のような男がそばにいたから悪かったのだ、と、いつかちらと考えたことがまたぶり返した。
幕府への、いやとはいえない返事のさしせまっている焦燥もあって、彼は無近を呼びつけて、おまえの責任において金姫銀姫を説得せよ、と厳命した。
「しかし、殿。……」
ひれ伏していた無近は顔をあげた。
「姫君さまがたがおいやであれば……かえってその御縁組、御不幸のもとと相成りはしませぬか?」
彼の顔はげっそりやつれて、悽愴《せいそう》の印象に変っている。その点に不安を持っているだけに、斉匡はかえってかっとした。
「そちは、金姫銀姫に好かれておると思うておるのか。好かれておるのは、おのれ一人とうぬぼれておるのか?」
「いえ、滅相な」
「それならそれで、いっそうそちに責任があるぞ。二人の姫の将来のためにも、そちの責任においてこのたびの縁組、二人に承諾させい」
塔ノ辻無近は苦悩して、また兵原塾に相談にいった。
平山兵原先生はおりあしく旅行中であった。その前日に、海防のために房総《ぼうそう》の巡見に出かけたという。
その夜、兵原塾に泊り込んだ無近は、夜明け方、道場でおのれの男根を切り落した。
うめき声にのぞいた弟子の一人が、羽目板にもたれて坐っている無近の股間《こかん》にひろがった鮮血に、てっきり切腹したものと思って、仰天して師範代の下斗米秀之進《しもとまいひでのしん》を呼んで来た。
「どうしたのか、塔ノ辻。――」
無近は喪心しかかった唇でうめいて、
「や、下斗米か」
と、眼を大きく見ひらいた。
しばらく自分を抱きかかえた下斗米秀之進を凝視していたが、ふいに愕然《がくぜん》と何かに気がついたように、
「人を寄せるな、おぬしだけに話したいことがある。――」
と、さけんだ。
下斗米秀之進は、師をのぞいてはだれよりも無近の尊敬している男であった。剣も強い。無近がいかに修行しても、三本に一本勝てるのがやっとのことだ。ひょっとしたら近世の剣豪といわれる師の兵原先生より――兵原先生の若いころより、さらに強いのではないかと無近には思われるほどであったが、しかしそれより尊敬するに値するのは、その自由自在の闊達《かつたつ》さであった。
実はそもそも自分が主家の姫君の肉奴たらんとして師に教えを請うたとき、彼はこの兄弟子にも相談しようかと考えたくらいだ。
しかし、下斗米がまだ三十を越えたばかりの若さで、しかも持ち前の気性からげらげら笑い飛ばしそうで、それが恥ずかしかったし、そもそも事は自分のみならず主家にかかわる大秘事なので、そのときはやめたのだ。
が、いま、忽然としてこの下斗米秀之進が南部藩の出身であるということに気がついたのであった。
下斗米は無近の傷の応急手当をして――といっても、切断されたものはどうしようもないから、ただ出血だけだが――さて、かたちを改めて、無近がこんな所業に及んだわけを聞いた。
「迷う。……おぬしに打明けていいか、わるいか、おれはまったく迷う!」
傷の痛みよりも心の乱れのために、無近は苦悶《くもん》のうめきをもらした。いま、下斗米の顔を見たとたん、この兄弟子だけに打明けてその判断を仰ごうという考えが頭にひらめいたのだが。――
しかし、無近は覚悟をきめてやはりしゃべり出した。
田安家の奇怪な双生児の姫君のことを――自分がその性奴となったやむを得ぬいきさつを――そして、このたび幕閣から、南部、津軽に輿入れを命じられたことを――それから、自分に対する主君の厳命を。
はじめ眼をまるくし、途中で笑いかけた下斗米も、南部と津軽が出て来るに至って、こんどは彼のほうが愕然となったことはいうまでもない。
「そりゃ、まことか、無近」
「嘘でこんなことが出来るか」
無近は自分の股間を見下ろした。
「おれはそのような役目を申しつけられたが、いつの日か姫君がたのお輿入れのことがあろう、そのときまで待つといってくれた恋人があったのだ。それなのに、その日が来たというのに、おれとしてはこうするよりほかはない仕儀に立ち至ったのだ!」
さすがに彼は声涙ともに下った。
「先生ならばこうせよといわれるに相違ない。――おぬしはなんという?」
「そういう姫君を南部へ下されるというのか」
と、下斗米はいった。無近に同情する前にそのことへのにがにがしさが口からまず洩《も》れたのは、南部の家来筋として是非もない。
「それをいわれると、おれもつらい。が、あえておぬしにこんなことを打明けたおれの心情を察してくれ」
「わかった」
下斗米はわれに返ったようだ。実際自分を信じてくれなければ無近が白状するはずのないことだ。無近が打明けてよいか悪いかに苦悶する、といったことが、なるほどとよく了解された。
「断わろう」
と、彼はつぶやいた。南部家のほうから断わらせようという意味だ。
「むろん、おぬしが今いったようなことは口が裂けても洩らさぬ」
「南部さまのほうから、それとなくそうしていただくとありがたい」
と、無近はつぶやいた。
「そうなると、当然自動的に津軽のほうも沙汰やみになるだろう。……」
下斗米は変な顔をして眺めた。
塔ノ辻無近は、姫君をお嫁にやるために自分の魔羅を切ったのだろう。それなのに、縁談先から断わられるとありがたいというのはどういうわけか。むろん、切ったのはこちらとそんな話をする前のことだが、少くとも彼の意志は矛盾している。もっとも、彼が苦悩しているのはその矛盾の自覚があるからだろう。
「という理由の一つに……あのかたたちはどこへゆかれてもお倖せではないだろうと考えるからだ。またお相手もお倖せでない。――」
と、無近はいって、下斗米を見た。この場合に、眼におどけたような光が浮かんだ。
「お二人はまったく御一体のようだ。あれをひき離すのは、一体をちぎるようなものだ。しかも――その一人一人が、お好きであられ過ぎる。おそらくふつうの男では持つまい。……」
下斗米が知る道理はなかったが、無近が斉匡に、「姫君がたにおいやなお輿入れをさせても御不幸のもとになる」とあえていったのは、そういう意味であったのだ。
下斗米は改めて――いつごろからか気づいてふしぎがっていた――無近の異常なやつれぶりに眼をとめて、ぞっとするような実感を味わった。
「塔ノ辻、おぬしは」
と、下斗米は聞いた。
「その姫君たちを愛しているのか?」
「最初はそうでもなかったが」
と、無近は答えた。
「このごろはつくづくと、世にもおいたわしい女性だと思うようになった――」
「では、なぜ魔羅を切ったのじゃ?」
「以上、申したのは私情だ」
塔ノ辻無近は面《おもて》を改めていった。
「公情の立場に立てば、この際おれは切らねばならなんだ!」
彼は、道場の武者窓にさす蒼白い夜明けの先に、惨とした眼をあげた。
「しかし、この縁組壊れれば壊れたで、これからあの金姫さま銀姫さまがどうなされることか?」
四
兵原塾の師範代下斗米秀之進が、田安家の侍長屋の塔ノ辻無近をひそかに訪れて、驚くべき談合を持ちかけたのは、それから三日目の夜のことであった。
無近はさすがにまだ横になっていて、あわてて起き上ろうとするのを、
「そのまま、そのまま」
と、下斗米はとめて、枕もとにむずと坐った。
「あれから、どうした」
「殿にはお話し申しあげた。拙者のお役目は終りましたと。……殿も驚かれたようであった」
「それは、そうだろう。だれだって驚く。姫君がたのほうは?」
「まだお目にかからぬ。殿から、それ見せるのはしばらく待て、と仰せつかったからだが、どうやら姫君がたは、無近を呼べとまた半狂乱の体でおわすらしい」
「そうか」
下斗米はいたましげに無近を眺め、しばし考えていたが――やおら意外なことをいい出したのである。
「無近、先日の話じゃがな。……やはり、姫君は南部へ頂戴《ちようだい》しようと思う」
「――えっ?」
「そのわけは――こないだおぬしは私情公情といっておったが――まず公事から述べるとな、将軍家からあのような大義の目的をもって仰せつけられる御縁談、南部としてはやはり御辞退はいたしかねることであろうと思う」
それはそうだろうが。――
だから、下斗米にすがったのではないか。
「そしてまた南部としても決してイヤイヤ受け入れるわけではない。これは南部家の私事だが――実はいまの御主君大膳太夫|利敬《としのり》さまはいまお国元におわすが久しく病みたまい、おそらく今月中もお危《あや》うかろうということだ」
「ほう」
「従って、遠からずお若い吉次郎さまがいよいよあとをつがれることになる。しかるに津軽は――南部の宿敵たる津軽越中守さまはいよいよ辣腕をふるわれ、例の御昇格の件、近く公儀もお認めになるよりほかはあるまいということになったと聞く」
「ふうむ」
「このときに当って、南部が津軽に負けまいと思えば――田安家の姫君を頂戴するよりほかはない。かくてはじめて南部が津軽に対して優位を保つことになる」
「待ってくれ、下斗米、姫君のお一人は、しかし津軽家にも下される。それがこんどの御縁談の大眼目ではないか?」
「いや、姫君御両人ともに南部にいただく」
「な、なに?」
「おぬしは、金姫さま銀姫さま、お二人をひき離せば、お二人とも死んだようになられるといったではないか?」
「それはその通りだが、田安家の姫君お二人を、いっしょに南部の御世子の奥方にするなど、そんな馬鹿なことが出来るか。げんに南部には、銀姫さまということに。……」
「むろん、公然とは出来ぬ。公式には、吉次郎さまのところへ銀姫さまがお輿入れなさるというかたちになるだろう。しかし、御姉妹の御愛情断ちがたく、金姫さまもしばらくお話相手として南部家でお暮しに相成るということにする」
「お話相手ですむ金姫さまではない。――」
「金姫さまも同じ御待遇をする」
「ば、ばかな!」
無近は泡《あわ》をふいた。
「何より先に、あの金姫銀姫さまお二人を、一人の男をもっておあしらい出来るか。それはまったくあの御両人がいかなるありさまにおなりなされるか。知らぬからのたわごとだ」
「だから、こちらもお二人で」
「なんだと?」
「実は吉次郎さまはな、南部家の御世子ではあるが、大膳太夫さまの御実子ではない。殿にはお子がお生まれ遊ばさず、御一族の三戸信丞《さんのへのぶすけ》さまのお子じゃ。
ところで、やはり御一族の三戸|信浄《のぶきよ》さまのお子に駒五郎《こまごろう》さまというおかたがある。吉次郎さまと駒五郎さまとは御|従兄弟《いとこ》の御関係でおわす。これが御同年、しかも見たところ――金姫さま銀姫さまほどではあるまいが――そっくり同じ、御気性まで実によく似ておられるのじゃ」
「というと――金姫さまは、その駒五郎さまがお相手なさるというのか」
「そういうわけだ」
「しかし」
なかば茫然となりながら、この途方もない下斗米の意図に異議を申し立てた。
「それでは同じということにはならぬ。南部家のあるじはやはり吉次郎さまで――駒五郎さまは陰のお人ということになるではないか。そんなことでは金姫さまがあまりにお気の毒。――」
「そこでじゃ。南部家のおあとをおつぎになるのは吉次郎さまのお名前をもってする。ただし吉次郎さまは、御相続の条件たる将軍お目見《めみえ》をまだすまされてはおらぬ。だから、駒五郎さまを吉次郎さまとして、将軍お目見の儀に御登城願い、そのあと、実際は駒五郎さまをもって南部をお仕置願うこととする。ただし、名目はあくまで吉次郎さまじゃ。これにて御両者ほとんど同じ条件ということになるではないか?」
「そ、それにしても」
無近はあえいだ。
「そういうことになれば、国防のために南部と津軽が縁つづきになるという例の眼目が。――」
「もしこのことが行われたならば、津軽は要らぬ。南部は蝦夷千島に、津軽の分も――藩の全力をあげて守備隊を派兵することを承知させよう。そのほうが国防の目的にもかえって効果的だろう」
むしろ凜然《りんぜん》といった感じで下斗米はいった。
「以上はむろんおれの個人的な着想だが、田安家のほうで受け入れてくれるなら、おれは全力をあげて藩を説こう。説得する自信はある。もとよりすべては秘密に事を運ばねばならぬが、田安家のほうでも、そのように御公儀に話をされることを期待する」
彼はつらぬくような眼で無近を見つめた。
「だいいち、おぬしが魔羅を切ってしまった上は、もはや金姫さま銀姫さまのおんためにも、それよりほかに法はないのではないか?」
それから下斗米は、
「吉次郎さまは御在府だが、駒五郎さまは南部におわすゆえ、それにおいで願うまでには多少日にち[#「にち」に傍点]がかかる。それまでによく考えておいてくれ」
と、いいおいて、侍長屋を立ち去った。
塔ノ辻無近は、一昼夜、自失の体で坐っていた。えらい話を持ち込んで来たものだし、大変なことを思いついたものだと思う。下斗米秀之進の津軽に対する敵愾心《てきがいしん》に――彼にかぎってそんな宿怨から脱却していると思っていた――改めて舌をまいたが、とにかく自分が彼に話したことが、思いがけない方向へ飛躍したのである。
しかも――考えれば考えるほど、下斗米の着想より事態を解決する法はないのだ。とくに彼が最後に釘《くぎ》をさした通り、金姫さま銀姫さまのこれからの御人生を思えば。――
三日前、魔羅を切ったときは、それよりほかに自分としてとるべき行動はないと信じていたが、それがまたとりかえしのつかない結果を生んだことは疑いない。
塔ノ辻無近は、怖る怖る老臣に目通り願い出た。
それから田安家から幕閣に対していかなる相談が持ちかけられたか。――
なんと、下斗米秀之進の破天荒の着想は、その通りに実現されたのである。すなわち、まもなく南部大膳太夫利敬は病死し、そのあとを世子吉次郎がついだが、まことは従兄弟の駒五郎であり、彼が実際上の南部藩主として立ったのである。
そんな馬鹿なことが――と、だれでもこれが嘘《うそ》だと思うだろう。しかし南部藩史の史実がこの通りなのである。そして、このこととともに、藩の大小役人は大移動を命ぜられたといわれる。――何にしても、こんな馬鹿げたことが通ったということは、幕府もそれを認めていたということになる。そして幕府が認めるには、それだけの理由があったと見なければならない。
すなわち幕府は、南部藩一手で北辺の防備に当ってもらうための見返りであったのだ。そして南部藩はかくのごとき無理をあえてしてまで津軽を見下したかったのだ。それから田安家は――金姫銀姫の処置に窮して、すすんでこのからくりに加わったのだ。
この世に繰りひろげられる欲と権謀の図の怪奇さは、忍者の世界も及ばないといったゆえんである。
ところが――実は、この図はえがきそこなわれた。
偽者の南部の世子すなわち駒五郎が奥州から出府し、将軍にお目見の儀を行うという離れ業をやるについては、たとえ幕府の黙認があったとはいえ、少なからず混乱を来たしたものであろう。事の順序が前後を誤ったのである。あるいは、この儀以外のことを顧みるいとまがなかったというのがほんとうのところかも知れない。――
「吉次郎どのと駒五郎どのは、ほんとうにそっくりかえ?」
父斉匡と男根を切った無近に、泣かんばかりに説得されて、ようやくこの陰謀の片棒――というか、両棒というか、とにかくそれをかつぐことを承知した金姫と銀姫が、そういい出したのは、南部家の世子のお目見がすんで間もなくのことであった。
「輿入れの前に、わたしたちにそれを見せておくれ」
もっとものことである。
さすがにこの点はたしかめてあった。吉次郎と駒五郎は、いかにも金姫銀姫のように一卵性双生児的にはゆかないが、きわめてよく似た印象を持つたくましい貴公子同士であった。
これを姉妹に見せることには自信はあったが、この「お見合い」をする場所にちょっと困り、結局下斗米の周旋により兵原塾が使われることになった。異例のことだが、そもそもが異例のことなのである。そのとき平山兵原先生はまたも三浦《みうら》半島の海防巡見に出かけていて留守であり、かつ事は、夜、すべて秘密裡《ひみつり》にとり行われることになった。
二人の姉妹と二人の従兄弟はかくて相対した。
「まあ」
「よく似ていること」
金姫銀姫はさけんだ。
「わたしはこっち?」
「あっちがわたし?」
「どっちでもいいわ!」
みちのくの貴公子たちは、大いにめんくらったようだ。しかしこの姉妹の比類を絶する妖艶さとあどけなさに、どっちもだらしないほどの笑顔になった。
ところが、次に。――
「ほんとうにどこまで似ているか、あれを見せて」
という意味のことを、金姫銀姫がいい出した。
ひともめしたのち、結局この要求は聞き入れられることになった。そして――同じようなたくましい体形の二つの股間をのぞき込んだ二人の姫君は、たまぎるようなさけびをあげたのである。
「まあ、どっちも小さいこと!」
「しかも、一方はふとみじかくて、一方はごぼうみたい!」
「ちがう、ちがうわ!」
「これじゃあ、とってもだめだわ!」
五
幕閣、南部家、田安家、苦肉の合作たるこの大がかりな縁組は、ここまで事を運びながら、いっぺんに水泡に帰してしまった。
あと――何と説いても威嚇してもききめがない。
結局成立したのは、替玉が南部の殿さまになったということだが――それを承知で将軍にお目見させたのだから、あとどうしようもない、というところがこのころの徳川時代らしいが――しかし、何のためにそういうことをやったのか、わけがわからないことになってしまった。
しかも、事がこれで終ればまだよかった。
異常に端を発した事態は、さらに異常な方向へ曲った。――津軽がこの一件をかぎつけたのだ。
当主の越中守もしたたかな人物であったが、その江戸家老|笠原八郎兵衛《かさはらはちろべえ》という人物がなかなかの凄腕で、津軽家の昇格運動の采配をふるっているのもこの笠原であったが、彼がこの一件を探知して――かねてから昇格の件で当路に鼻薬をきかせてあったので、その方面から耳打ちされたのかも知れない――内密ながら老中に談じ込んだのである。
「津軽に田安家の姫君をお二人頂戴いたしたい」
こういうのだ。
「南部と同じ話があったれど、あちらがお気にいらず御破談となった由もれ承る。津軽は誓って左様なことはござらぬ。――」
「お二人とも? どうするのじゃ?」
と、うろたえながら聞き返すと、
「南部にも、そういうことであったと承る。公式には金姫さまを雅之助にいただき、銀姫さまは金姫さまのお話相手ということに。――」
と、笠原は微笑していい、
「その代り、蝦夷千島の防衛は津軽一藩でお引受けいたすでござろう」
と、胸を張り、さらに、
「なお御不安ならば、御結婚後は、半年たってから御姉妹を田安中納言さまとおひき合せいたし、そのとき金姫さま銀姫さまのいずれか、津軽はいやじゃ、田安へ帰るともし仰せられるようなことがあったら、津軽藩そのものを御公儀にさしあげても苦しゅうござらぬと誓書をいれても結構でござりまする」
と、いい切った。
各藩の江戸家老の中でもきけもの[#「きけもの」に傍点]として知られた笠原八郎兵衛である。その懐柔と威嚇をないまぜにした陳情は巧妙をきわめた。さらに莫大な賄賂《わいろ》が送られたことはいうまでもない。――津軽は南部を蹴落《けおと》す決定的な機をつかんだと見たのだ。
だらしないといおうか、身勝手といおうか、幕府も田安家もこれを受入れてしまったのである。
幕府も南部の件を持ち出されると津軽に否とはいえない弱味があるし、田安家としても姫君の始末にいよいよ困惑していたのだから、それどころかそもそもの目的がやっとこれで何とか片がつくと胸|撫《な》で下ろしたというのがほんとうのところかも知れない。
かくて田安中納言の息女金姫が、津軽侯世子雅之助|信順《のぶずみ》のもとへ下ることになった。――このことは、津軽藩の史実にもちゃんとある。
いちばん驚愕したのは下斗米秀之進であろう。
彼の大胆不敵な着想は、まったく裏をかかれた結果になったのである。津軽方から見れば、人を呪《のろ》わば穴二つ、と笑いたいところであったろう。――とにかく責任は自分にある、と彼は判断しないわけにはゆかなかった。
元来下斗米は、少年時から南部の麒麟児《きりんじ》といわれ、十八歳のとき江戸に遊学を許され、平山の兵原塾で修行して来た人間で、声名高い兵原先生の秘蔵弟子でもあり、その意見は南部藩でも重きをおかれていた。だから、あの思い切ったアイデアが採用されたのである。そしてそのことが彼自身を追いつめる結果となったのである。
彼は起《た》った。
そして南部藩から離れて浪人というかたちをとり、名も変えた。――相馬大作《そうまだいさく》と。
南部を悩ます元凶津軽越中守|寧親《やすちか》を狙《ねら》うためであった。
ときあたかも越中守は参勤交代で本国の津軽へ帰ろうとする。――その道程で、大作はこれを斃《たお》そうとした。ちょっと、ぬきさしならぬ宿怨の、イスラエルの要人を狙うアラブの刺客に似ている。
時に文政四年四月二十三日。
相馬大作は、やはり南部藩浪人の関良助《せきりようすけ》ほか十人余の同志と、秋田藩から津軽へ入ろうとする羽後《うご》の矢立《やたて》峠で、峠を上って来た津軽藩の行列の駕籠《かご》を銃撃した。
弾はたしかに駕籠に命中し、供侍たちは乱れ立った。
しかるに。――
「はてな?」
大作は山上の樹立ちの間からくびをかしげた。
成功と見たら、むろんただちに姿をくらますつもりであったのだが、たしかに命中したにもかかわらず、何やらくさい感じが彼をとらえたのだ。すでに津軽藩の侍たちはこちらを見あげて騒いでいる。
「首尾をたしかめねばならぬ。関、ゆくぞ!」
彼は山を駈《か》け下った。つづいて、同志もあとを追う。
津軽方の行列は、意外に小人数――二十余人で、人数はつづら折れの山道のまだあとにつづいているものと思われた。それにしてもこれに斬り込むのは無謀と思われたが、はじめから死を決した刺客行である。事の成否をたしかめねば、こんなことをやった甲斐《かい》がない。
四月二十三日といえば、いまの暦で五月末、羽後では晩春の季といってよく、山は鮮やかな緑につつまれている。片側は峡谷となった山道で、この緑に血の雨がふった。
大作は、七、八人斬った。江戸の荒道場で第一人者たる名にそむかない凄じさであった。そしてまた同志関良助も、おなじ兵原塾で修行した有名な使い手であった。この二人のゆくところ、津軽方は赤い木の葉の一片と化して谷に散り落ちた。
ところが、津軽の供侍の中にただ一人、頑《がん》と踏みとどまって、大作のほうの同志を粉砕しつつある男があった。
「や?」
大作は立ちどまって、その男をにらみつけた。
実に異風の相手だ。服装も大名の供侍のようではない。蓬々《ぼうぼう》たる髪をただうしろにたばね、たばねた先はばさ[#「ばさ」に傍点]と背に吹きなびいている。まるで山着のような着物にたっつけ袴《ばかま》をはき、なんたること、両腰に一本ずつ同じ長さの豪刀を落し差しにして――両腕には一本ずつの、当然同じ長さの刀を握っていた。ほかに見たこともない、完全な[#「完全な」に傍点]二刀流なのだ。
それが、もののみごとに刺客方の二人を斬って捨てたのを見て、
「ひけ。――逃げろ」
と、大作が絶叫した。実に容易ならぬ相手、と見てとったのだ。
「そやつは、おれが斬る」
「斬れるかな」
と、その男は笑った。顔は、実に可笑しい顔をしている。ボブ・ホープに似ている。――にもかかわらず、凄惨としかいいようのない獰猛《どうもう》な殺気が、その笑顔からも、動物的に精悍《せいかん》な肉体からもたちのぼっていた。
のみならず――大作はぎょっと眼を見張った。
その男の袴の両側から――ちょうどズボンのポケットにあたる位置に――何やらぶら下がっているものがある。それはだらんとしてはいるが、たしかに巨大な男根としか見えなかった。二本ともにだ。
「うぬは何者じゃ」
と、息をのみながら大作はさけんだ。
「ふふ、どうせうぬのいのちはないのじゃから教えてやろう。冥途《めいど》の土産《みやげ》に聞いてゆけ、おれは津軽代々の忍びの者、恩名捨楽斎《おんなしやらくさい》。――」
「なに、忍びの者?」
異風の忍者は、かたわらに置きざりになっている駕籠を――津軽侯が乗っていたはずの駕籠をわらじの足をあげて蹴倒した。駕籠ははじめて中の大きな石塊を見せながち、谷へころがり落ちていった。
「うぬも名乗れ」
「おれは、奸物津軽越中に天誅《てんちゆう》を志した天下の浪人相馬大作――」
「実は、南部の下斗米秀之進というやつだろう。南部には、おれの先祖のころから、こっちこそ恨みがある。――来いっ」
吼《ほ》えたが、恩名捨楽斎は山を背に谷のほうを向き、大作に対しては横向きに、仁王立ちになったままだ。もっとも、反対の方向からは、関良助がじりじりと詰め寄って来る。
この二人に対して、津軽の忍者は、ズーイと横になり、同寸の大刀をつきつけて――その一本に、大作ほどの剣客が、まるで眼の中にそれを突っ込んで来られるような思いがした。
これはまったく大剣人と、正面から向い合っているのと同じだ! いや、兵原塾でもこれほどの使い手を見たことはない。横なりに構えているだけに、まあフェンシングの剣士と相対しているようなもので、正常よりはるかにこっちに都合が悪い。とくに一方が谷の場合には。
怨敵越中の襲撃の裏をかかれたことは明らかだが、すでにこちらの本名まで知られている以上、逃げるわけにはゆかないし、そもそも大作に逃げる気はない。それどころか、大強敵と見れば、いよいよいのち知らずになるのが兵原塾の真髄であり、彼の本領でもある。
「関っ、そやつの腰の妖物を刺せ!」
絶叫すると、大作は、斬りかからずに相手の腰をめがけて刺突《しとつ》の跳躍をした。おそらく関良助も同じ攻撃に出たのであろう。――
これにはさすがに狼狽《ろうばい》したのか、それともはじめからそのつもりであったのか――恩名捨楽斎は、くるっと一回転した。そして、両側から躍りかかって来た二人の頭上から、二本の豪刀を殴り落した。
「あっ。……」
本能的に避けて、その片足が絶壁からはずれたと見るまに、相馬大作と関良助は、二人ともに底知れぬ矢立峠の谷深く、もんどり打って二個の石みたいに落ちていった。
六
塔ノ辻無近が、相馬大作とめぐり逢ったのは、その年の九月半ばの或る夜のことであった。
すでに相馬大作なる南部浪人が羽後で津軽侯を襲い、事前にこのことを察知した越中守が空駕籠であざむいて逃れたという話も、その大作はこの夏ごろから江戸に帰って、なお津軽の世子ないし江戸家老を狙っているらしいという話も、彼に対して津軽家が捜索隊をはなち、かつ公儀にその逮捕を依頼したという話も、江戸の巷《ちまた》にはながれている。
無近はこれらの噂《うわさ》を、手に汗にぎる思いで聞いた。
自分の男根を切り落した傷あとから流れ出した血が奥州の果てまでも飛んで、そこに血しぶきをあげているのを遠望しているような思いであった。そして、いまもまだ無縁のことではない。――
げんに、金姫さまの津軽への輿入れはこのところしきりに急がれはじめている。
当主がたとえ替玉にせよ狙撃された事件で、いちじは津軽藩も上を下への大騒ぎであったらしいが、やや落着くとともに、この婚儀を督促しはじめた。
「かかる不逞《ふてい》のやからの凶行をふせぐためにも、田安家の姫君を早く頂戴する必要がある。御世子の奥方が将軍家の姪御《めいご》さまとあっては、どんなきちがいも、もはや津軽家に手は出せまい」
という判断で、かつ、
「もしお輿入れのときは、蝦夷へ向う津軽兵の士気を鼓舞するために、津軽へお下りたまわりたい。江戸屋敷にあられては、銀姫さまのこともあり、とかく風評のたねになり易く、いかなる馬鹿者が飛び出して来て何をやるか、藩邸としても心もとないものがある。是非、世子とともに当分こちらにお暮し下さることをお許し相成りたく、御安全については津軽一国、鉄の城と相成ります」
と、笠原八郎兵衛が老中に申し込んだという。――
本来なら大名の奥方、世子やその奥方は人質として江戸に置くのが習いだが、この際これを例外とせよというのだ。しかも、それは認められることになったらしい。元来、徳川一門の姫君だから幕府にとって人質にはならぬ上に、田安家がこうなったらどうでもこうでも二人の姫君を雲煙のかなたに置きたかったらしいのだ。
で、そういうことになった。それならみちのくに雪の来ないうち――というわけで、いよいよこの九月末にはその行列が出立することになる。
夜も昼も、その支度で騒然としている田安家へ――その姫君の嫁入り先の津軽が血まなこで探している当の相馬大作が、一陣の魔風に乗って忽然《こつぜん》と現われたのだから、しばし無近は口もきけなかった。
大作は、夏のはじめから江戸にいるといった。――ただし、兵原塾に寄りつかないことはいうまでもない。
「で、いま、どこに?」
「隠れ場所はどこにでもあるさ」
と、大作は一笑した。江戸市民の人気は、たしかに彼の上にあった。
「おぬしをかくまってやれないことを、深くおれは遺憾《いかん》とする」
頭を下げる塔ノ辻無近に、大作は首をふって「津軽家の奥方の実家たるべきこの屋敷に、南部の男をかくまうわけにはゆかんことはわかっているさ」と、また笑い、
「実は、そのことで話しに来たのだ」
と、厳しい顔になっていい出した。――
彼は羽後の矢立峠での失敗を話し、危うく逃れたのち、敵の捜索の目をのがれつつ、いちどは大胆にも津軽領内にも潜入したことを語った。
「越中は依然討てなんだが、一方で実に大変なことを知った」
津軽の世子雅之助|信順《のぶずみ》は廃人にちかい人物である、と大作はいった。
それならすでに世間にもその評があるだろうに、一般にはまだ知る人がないのは、その廃人ぶりが一風変っていたからだ。つまり空間的すなわち物体的にはべつに異常はない。少なからず遊び好きの傾向はあるけれど、一見したところではどこにもある大名の若殿と同じだ。ただ時間的におかしいところがある。――
すなわちこの津軽雅之助は、昼間はただグタグタと寝ているばかりで、夜になるとパッチリ眼をあけて元気がよくなるというのだ。――「津軽藩史」を読んでいて、ここに至ったとき、作者は思わず笑い出した。
「なんだ、これは僕とおんなじ殿さまじゃないか」
徳川時代にも「夜型」の人間はいたのである。それがこの若殿の場合とくに強烈で、昼間むりに起して何かやらせてもものの用をなさない。これで将来、父のあとをついで江戸城に上らなければならなくなったら、殿中でどんなまちがいをしでかさないとも限らない――と、越中守も老臣たちも、頭痛のたねにしているという。将来どころか現在でも、家来はこの若殿とつき合うのに大弱りのありさまだというが、常人は夜寝て昼起きているのだから、その困惑ぶりは思いやられる。
承るところによると、故|内田百閨sうちだひやつけん》先生も、夜中じゅう酒をのんでいる人で、奥さまはこのお相手をなさらねば相成らず、ただ座蒲団に仮眠されるだけで、先生死後、はじめてふつうの蒲団に寝られたら、かえって寝つきが悪くてまた座蒲団のごろ寝に戻られたという。三畳のお住まいながら殿さま型の百鬼園先生だからこそ通ったことだろうが、これがほんものの殿さまとなるともっと大がかりになって、家来の閉口は察するに余りあり、これだけで一篇の小説が出来上りそうである。
「こういう世子のところへゆかれるのだぞ」
と、大作はいった。
「昼間は廃人でも、夜元気ならいい、というかも知れないが、こんな男が果たして金姫さま銀姫さまとまともにたたかえるか」
「しかし、津軽家では、半年たってもし御不満なら一藩献上もあえてする、とばかに自信を持って申し入れたということだが」
「それだ、ひょっとしたら――と、思いあたることがある」
大作は話をつづけた。このとき彼ほどの男が、肌《はだ》は粟立《あわだ》ち、頭髪も逆立たんばかりの様相を示していた。
そして無近は、はじめて津軽の妖忍恩名捨楽斎のことを耳にしたのである――。
「信じられないだろうが、まあ聞いてくれ」
大作は、その男根をからだの両側に二本持ち、完全な二刀流をあやつる忍者のことを語った。
彼は矢立峠で完敗し、その後津軽の城――弘前《ひろさき》城に迫りながら、ついに越中守に一指もかけることが出来なかったのも、その男への恐怖あればこそであった。
のみならず、その地で「大変なことを知った」というのは、その男が恐るべき色餓鬼で、同時に二人の女を相手にし、その女たちことごとく色餓鬼に変えてしまうらしい、という噂のあることだ。
「どういう具合にもてあそぶのか知らんが、男根が二本ある以上、理論的にはあり得ることだと思う」
ニコリともせず、大作はいった。
「ひょっとしたら津軽は、そやつをもって二人の姫君をあしらうつもりではないか?」
「まさか……将軍の姪御さまを……そんなことがあとでわかったら……」
「しかし、お二人とも色餓鬼に変じてしまえば、真相はわからなくなるだろう」
「色餓鬼といえば、お二人ともいますでに色餓鬼であらせられるが……」
冗談ではなく、甚だ真実味をもって無近はいった。
「それなら、なおさら津軽の思う壺《つぼ》にはまることになる」
相馬大作は無近を見つめた。
「金姫さま銀姫さまが、そんな化物にそんな目に逢わせられる――かも知れぬ――ということを知って、おぬし黙っておれるか?」
無近は全身石と化したようであった。
大作は笑った。
「むろん、おれは両姫の津軽お下りに反対だ。それどころか全力をあげて阻止せねばならぬと思っておる。ところが、このおれも、まさか直接に姫君がたの御行列に手を出すわけにはゆかないのだ。だから、おぬしにこんなことを告げに来た。つまり、おれの仕事をおぬしの肩にのせにやって来たのだが……しかし、こういうことを思いつくのも、おれにやき[#「やき」に傍点]が廻った証拠かも知れん」
外で騒がしい物音が起った。戸のあいだから見ると、おびただしい提灯《ちようちん》のむれが屋敷のほうへ歩いてゆく。どうやら御|用達《ようたし》の町人が、姫君のお嫁入り道具の何かを運び込んで来たらしい。――大作は立ちあがった。
「ただ、もういちど念のために申しておく。その津軽の忍者は、剣のほうでも恐るべきやつだ。おれの見るところでは、あの両側にぶら下がっておる二本の男根でからだの拍子をとっているように思われる。それから発する動きは魔力的で、どうしてあれを破るか、おれにもいまちょっと工夫がない」
そして、相馬大作は、来たときと同じように、風みたいに夜の中へ消え去った。
七
おれにもやき[#「やき」に傍点]が廻ったのかも知れん、と大作がいったのは、たしかに虫の知らせであったようだ。それから二十日ばかりたった十月六日、江戸に潜伏中の彼は、関良助とともについに奉行所の手によって逮捕されたからである。
「忠孝節義相馬大作」という本があるが、考えてみると妙な話で、相馬大作は偽者の主君のために血みどろになって働いたことになる。もっとも彼のつもりでは、数百年来の津軽との抗争のために殉じたのだというだろうが。――
そのとき、田安家の姫君の嫁入りの行列は、もうみちのくを北へ、津軽へ向って進みつつあった。むろん、二身同体の銀姫さまもいっしょだ。
のみならず、これに津軽の世子雅之助|信順《のぶずみ》の帰国の行列もくっついていた。特別に幕府からこのことを許されたのである。津軽家と田安家の侍が護っているのだから、おそらく大作が無事であっても、これは手が出せなかったろう。
この行列の中に、塔ノ辻無近も加わっていた。――
彼としては、実に複雑怪奇なる心境だ。
彼はいちど津軽の忍者についての怪異を斉匡卿に訴えようとした。しかし、それはよした。その妖説の出どころが南部の相馬大作だということが出来ないし、そんな話を主君に信じてもらえそうにない。そもそも彼自身が、大作が「信じられないだろうが、嘘はいわない」といったけれど、いまだに半信半疑なのだ。
とにかく、津軽へいってたしかめなければならぬ。
たしかめて、事実であったら――「その化物から姫君がたをお救いせねばならぬ」と考えた。
まずはじめにそう確信し、あといささか動揺するものがあり、その動揺の内容に複雑怪奇なるものがあるのだが、とにかく最初の確信に促されて、彼はこの道中にお供を願い出たのである。
しかし、これにお阿佐も加わった。――
これこそ無近には、自分よりもわけのわからない女の気持で。――
むろん彼のかつての恋人は、彼の男根がもうないことを知っている。あのあと、しばらくたって、一応了承を求めにいったら、「……家来として当然のことでございます」と、お阿佐は万感こめた表情でいった。
そしてこのたび無近が、彼女だけに津軽の怪奇について打明けたら、
「わたしも参らせていただきます」
と、いい出したのだ。
「あなたのため、ひいては姫君さまがたのおんために、わたしも何かお役に立つことがあるかも知れませぬ――」
「忠孝節義」とは、大作よりも無近よりも、お阿佐のことをいうべきか。――
こうして、花嫁と花婿の行列は津軽に入った。
そして、やがて塔ノ辻無近は、相馬大作の語った津軽の妖忍の話がまさに事実であることを知ったのである。――
恩名捨楽斎の双根は、忍祖呪楽斎の念力の発して凝ったところのものであった。
彼は、そういう肉体を持って生まれたのである。
両|下肢《かし》の大腿《だいたい》上部の側面に――ズボンのポケットにあたる部分から、一本ずつの陰茎が垂れ下がっている。奇妙なことに、それに随従しているはずの陰嚢《ふぐり》はなく、これは股間《こかん》のふつうの位置に、通常の一倍半くらいの大きさでぶら下がっていた。恩名代々の念力は睾丸《こうがん》まで思いが及ばなかったと見えて、これはとり残されたらしい。
もう一つ、呪楽斎としてはおそらくいささか不本意なことがあった。たしか呪楽斎の念力の発生原因の一つに、男根が一本で生殖と排泄を担任しているのは不当で、これは分離させるべきだということもあったはずだが、この捨楽斎のものは、やはり双方ともに両作用をかねていたからだ。
右のやつが生殖をつかさどり、左のやつが排泄をつかさどるということになったら、睾丸や膀胱《ぼうこう》の位置も移動させねばならず、全身の均衡にもかかわるので、神はそこまでの分離には応じなかったのであろう。
さらに作者が思うのに――そもそも呪楽斎が、男根一本で生殖と排泄をかねさせるのは不当だと考えたのはまちがっている。これが二本あって、別々の作用を営むとしたらどうなる。生殖に関係のない――生活力がないからそんなことに気を使ってはならない――未成年時、無用なその一本を眺《なが》めて、いったいこれは何だと必ず疑問に思うだろう。ところが一本で兼用している子供はあれを「ただ小便をする道具なり」と信じて、べつに何の疑いも持たないのである。神さまは無邪気な子供のために、実にうまいカムフラージュを思いつかれたものだ。
それはともかく、恩名捨楽斎の二挺《にちよう》男根の場合のメリット、デメリットはどういうことになるか。
具合の悪いのはやはり排泄のほうだ。これはやはり、両方から出る。もっともその分だけ時間は半分ですむ。――神さまは予備の目的もあって内臓にも肺とか腎臓《じんぞう》とか二つそなえさせられたものがあるが、これなどきっと前立腺《ぜんりつせん》肥大なんかの場合好都合だろう。ただとくに排泄が大小をかねる場合など、三方にその受入れ装置が必要なわけで、まったくこれは常人用に出来ている設備が悪いのである。ただし捨楽斎は、三方にはねちらしても意としない野性の持主であったし、まあ困るといえばそれくらいのものだ。要するに馴《な》れの問題で、彼から見ると常人は、よくあんなものを真正面にぶら下げて平気なものだとふしぎに耐えない。まるで両腕がなくて、一本だけ胸から生えているのを見るような気がする。
生殖作用のほうは、これはもう何もいうことはない。
つまり両側に二人の女を横たえて同時に交合するのだが、一方が送《そう》のとき他方は抽《ちゆう》となり、一方が阿《あ》と息を吐くとき他方は吽《うん》と息を吸う。力学的にロスがない上に、彼は阿吽抽送《あうんちゆうそう》の両感覚を同時に味わえるのだ。労働量は同じで、快楽の濃度は二倍となるのである。
ただし、男の彼だけは仰向けないしうつ伏せに寝て、両側の女性は横なりに――まあ、縦《たて》の姿勢をとらなければならない。その恰好《かつこう》が可笑しいといってはいけない。男と女が、いい年をして、上下とっくみ合いのかたちになるほうがよっぽど不細工で可笑しい。二挺根銃にもとづく構図のほうがはるかにエレガントだ。
思うに、一夫多妻こそ人間の生物学的原理である。これこそこの原理に叶《かな》ったかたちであり、原理に叶ったかたちのほうが美しいのは当然ではあるまいか?
そして、エネルギーの消費に無駄《むだ》はないといったけれど、それでも神さまは彼に、二人の女性と同時に交合出来るだけの体力を与えられたのであろう。彼の精力は絶倫であった。
その絶倫の精力は、一方で恩名捨楽斎を無比の剣人たらしめた。
彼は両腰に同寸の大刀を帯び、二刀を完全にあやつる。一刀だけでも一流の使い手以上なのに、たたかうときは彼は相手に対して横なりになる。相手からすると、まったくやりにくい。
実は――だれも知らなかったが、捨楽斎の弱点は正面なのである。思うに陰茎は、あれは前方からの危険に対して睾丸を防備している役を持っているのだ。だから男が恐怖すれば、睾丸はちぢんでいよいよ肉の盾のかげに隠れようとし、またこの肉筒が挙上されて背後をあけっぴろげにするということは、相手の女性に対して警戒を解いたという信号でもあるのだ。――何だか作者は、このあたりの器官の機能や配置のメカニズムについて、ここまで考究した者は世界にもまたとあるまいとうぬぼれて来た。――とにかく、その防備がないのだから、捨楽斎は正面に弱い。
その弱味を、彼はしかしかえって長所に変えた。敵に対して横向きでたたかうというかたちを、本能的に崩さないのである。敵が移動すれば、彼も回転する。その回転の呼吸は神魔的で、それも二本の男根が二つの振子的作用をなしていたのかも知れない。実際彼は、回転でないふつうの運動も、この二本の肉筒のゆれかげんをバロメーターとして調子をとっていたのである。さすがは兵原塾の高弟だけあって、相馬大作はよくこの妖忍の剣技の秘密を看破していたといえる。
津軽藩が珍重したのは、むろん剣の魔人としての恩名捨楽斎である。そのために肉の魔人としての彼のさまざまな面《おもて》もそむけるような傍若無人の所業に眼をつむって来た。
しかるにこのたび、はからずも津軽藩は、肉の魔人としての恩名捨楽斎を珍重せざるべからざる事態に立ち至った。
相馬大作の推定はこれも的中していた。
八
まだ日暮れには間があるのに弘前《ひろさき》城内の一室には、両側の壁沿いに、七つずつの雪洞《ぼんぼり》が燃えて白昼のようであった。
二十畳あまりのその部屋のまんなかに大きな緋《ひ》の夜具が敷かれて、そこに三人の人間が裸で横になっていた。まんなかは、恩名捨楽斎である。両側は若い美しい女である。
「では。――」
と、捨楽斎が、床の間のほうへ顔をむけていった。
彼のくびに両側からなよやかな腕が巻きついた。彼は両腕で二人の女の胴を抱いた。彼の両足は一本ずつ、女たちの両足のあいだに入っていた。青銅色の獣体に、二匹の白蛇《はくだ》がからみついた図といおうか。毛むくじゃらの獣肢が二輪の白花《びやつか》をひっつかんだ図といおうか。
仰むけの捨楽斎は、腰をリズミカルに左右に動かした。二本の大男根は、二匹の蛇体ないし二輪の花の中に埋没した。
そして合計十二本の手足はウジャウジャともつれ合いつつ、うごめき出した。序、破、急と。――もっとも、捨楽斎は軽やかに腰を左右にふっているだけだ。が、次第に女たちの白いからだはさくら色に染まり、ついでヌメヌメと汗にひかりはじめた。
黒髪は乱れ、喘《あえ》ぎ、さらに彼女たちのなまめかしい口から声が洩れ出した。捨楽斎は間歇《かんけつ》的に首を左右にまわして、代る代る女のあえぐ口を吸う。厚い大きな唇に吸盤みたいに覆われると、そのほうの女体は悶《もだ》えて、狂気のように四肢を捨楽斎に巻きつかせ、すりつけ、のたうちまわる。吸盤が離れると、のどの奥から笛のようなさけびがほとばしり、それが一方の女の官能に交響し、夢中の天界に舞いあげる。現実には何やら泥《どろ》の中を二本の足で忙しく、踏んでゆくような音があがっていたが、それがどこから発するのかよくわからない。
それは白昼のような光の下のこの世のものならぬ夢幻境とも見え、朱《あか》い大地に描き出された凄艶無双の地獄図とも見えた。
「ああ。……」
金姫と銀姫はさけんだ。
彼女たちは床の前に、雛《ひな》人形みたいに坐っていた。
その間に、津軽雅之助が、これは木偶《でく》人形然と坐っている。――というのは、首を垂れ、上半身を前後にゆらゆらさせているのが、木偶《でく》のように変てこな動きかただというのだ。眼前にくりひろげられている光景が見えないはずはあるまいに、いや、だれでも見ずにはいられない光景なのに――彼は半睡半醒の状態にあるらしい。なるほど夜だけは元気づく彼にとって、いまは睡眠期のまだ昼のうちである。
もっとも夜だけ元気のいいはずの雅之助も、その夜《よる》に撃退された。一度ならず、金姫銀姫を抱こうとはしたのだが、たちまち彼女たちに笑殺されたのである。
そこで、ついに今日のこととはなった。――最初からの計画通りでもある。
超人恩名捨楽斎の夢魔的実演を見せて、この二人の姫君を狂わせ、そのまま夜に入ったところで、いまいちど雅之助とかけ合わせる。――いや、それどころか、その前に捨楽斎をもって彼女たちを色餓鬼に変えてしまう。
どうせ雅之助がもたないことはわかっているから。――そしてまた、両姫の脳髄を狂気の朱色に染めてしまえば、もはや津軽から離れぬ、江戸には帰らぬというにきまっている確信があるから。
要するに津軽藩にとって、この将軍家の姪二人を虜《とりこ》にしてしまえば、それで南部の上に立つという目的は達せられるのだ。
果たせるかな。――
やがて腰を大きくひねって、両側の二人の女をふり落した恩名捨楽斎が、これは息も乱さず、
「ござれ。――」
と、姫君たちのほうに顔をむけて、しゃがれ声で叫んだとき――金姫銀姫は、ふらふらと立ちあがり、夢遊病みたいにそのほうへ歩き出した。眼は霞《かすみ》がかかったようになり、ひらいた唇からはあごに涎《よだれ》がながれている。
「裸におなりなされ。――」
と、捨楽斎が呪文のようにいい、金姫銀姫はわななく手で、憑かれたようにかいどり[#「かいどり」に傍点]をぬぎ、帯をとき、衣服をみずから剥《は》いで、もう薄紅色に染まった――しかしなおこの地上のものとも見えぬ雪白の裸形《らぎよう》を浮きあがらせた。
そのとき。――
「もうし、恩名捨楽斎どの」
どこかで、声がした。
床の間とは反対側の唐紙《からかみ》があいて、そこに一人の侍女風の女が坐ってこちらを眺めていた。
「南部の相馬大作の友人とか申すお人が来られて、是非捨楽斎どのにお目にかかりたいとそこのお庭で待っておりまするが」
「なにっ、相馬――」
捨楽斎ははね起きた。
そして、夜具のそばの二本の大刀をひっつかむと、姫君をもふくめて女たちには眼もくれず、どすどすとそこを出ていった。――この間、津軽の若殿さまは、依然、正体なく舟をこぎつづけている。
この魔人には、寒さも恥ずかしさもないと見える。まっぱだかのまま、ただ両腕に二刀をひっさげ、回廊を歩き、恩名捨楽斎は庭へ出た。
ふしぎな気候であった。一刻ほど前からふり出した雪は、なお低くたれた雲から霏々《ひひ》と吐き落されつづけている。にもかかわらず、西方の雲の一ヵ所だけが断《き》れて、そこから真っ赤な斜光が地を染めていた。
その下に――庭の一角に、たしかに一人の男が立っていた。すでに鉢巻《はちまき》をし、たすき[#「たすき」に傍点]をかけ、袴のももだちをとり、手に一刀を下げている。
「相馬か、相馬の友人か。――」
と、捨楽斎は嗄《か》れた声で呼びかけた。
「相馬大作の友人だ」
と、相手は答えた。
「同時に、田安家の家来でもある。なんじ津軽で下賤の身分をもって、恐れ多くも田安中納言さまの姫君がたをおん犯したてまつろうとは――田安の臣として見逃しはならぬ。それどころか、やがてこのこと判明すれば津軽家も無事にはすむまいが――その前に、まずなんじの僭上《せんじよう》の首、成敗してくれるわ」
つづいて、うしろから声がかかった。
「わたしも田安家の侍女、ともに刃《やいば》をつらねて津軽の不臣を討つ!」
さっき捨楽斎を呼び出した女であった。――それが、どうしたのか、そう呼ばわると、スルスルと衣服をぬいで裸になり出した。彼女は、たったいま見た妖美の景に憑《つ》かれたのか、それとも気が変になったのか。
「なんじゃ、おまえは?」
捨楽斎はキョトンとそれを見まもったが、すぐに、
「しゃらくさいっ」
と、吼えた。
「いずれにせよ、その口上聞いた上は、もはや両人とも生かしては帰せぬ、来いっ」
そして彼は、二人に対して例の横向きの構えになり、つばさをひらいた妖鳥のごとく、二本の豪刀をピタと左右にひろげた。――
二人の男女はいうまでもなく塔ノ辻無近とお阿佐である。江戸の兵原塾では五指の中に入る無近だが、それでも師範代の下斗米秀之進には及ばなかった。その下斗米――相馬大作がついに破る方途がないと長嘆した怪忍恩名捨楽斎である。
もとより決死の挑戦だが、たとえお阿佐の助太刀があるとはいえ、女の痩《や》せ腕を加えたくらいで、無根の無近、果たしてこの双根の大剣鬼を破る方途ありや?
一糸まとわぬ全裸で大刀を構えたお阿佐を片眼で見て、捨楽斎はにやっと笑った。嘲笑《ちようしよう》もあるが、それよりこの女の裸身の清浄無比の美しさに瞠目《どうもく》し、これを両断する快味に歓喜した笑いの眼でもあった。
……つつ、つつ、と雪を散らして無近とお阿佐が庭に円を描いた。それに応じて、捨楽斎はからだを廻して、
「――や?」
というように、一瞬、みずからを怪しむ表情になった。
彼はこの回転に際し、おのれのからだの均衡が平生の通りでないことに気づいたのである。その根源は、腰の両側の二つの男根にあった。男に対する一本は垂れ、女に対する他の一本は隆々とそびえ立っていた!
ほとんど彼自身しか感覚しないはずのこの心身の動揺を、死をも直視している塔ノ辻無近の眼は読んだ。
「えや――っ」
突撃して来るその影に、捨楽斎の豪刀がふり落される。わずかに狂い、宙を切ったその腋《わき》の下に無近の一刀がなかばまでメリ込み、間髪をいれず逆の方向からお阿佐の一刀が胴を反対側までつらぬいて、雪と夕焼の妖異な空に、血しぶきが二条たちのぼった。
雪が凪《な》いで美しい日和《ひより》の津軽路を、二挺の駕籠をつつんだ侍たちがゆく。
雪が来るまえにこの国に入って来たときの行列の半分だ。それは反対の南のほうへ歩いてゆく。田安家の両姫を護って江戸へ帰る行列であった。
その二つの駕籠の中から、絶えまなく泣き声が洩《も》れていた。
「あんなうれしい男を殺すなんて。……」
「江戸へ帰って、どうするの?」
すぐうしろをトボトボと歩きながら、塔ノ辻無近は、身も世もあらぬ顔をしていた。
ああ、おれはとんでもないことをしたのかも知れない。津軽へ来るお供を決心したとき、その決心の目的に動揺するもののあるのを感じたが、その迷いにはもっともなものがあったのだ。おれは、とりかえしのつかないことをしたのかも知れない。……
「ああ、これからさき、いったいどうなるのだ?」
無近はうなされるようにつぶやいた。
「これから先?」
うしろから声がした。いっしんに雪の中を歩いてついて来るお阿佐であった。
「生《は》えます」
「なんだって?」
お阿佐は無近にひたむきな美しい眼をすえ、夢みるようにいった。
「あんな男でも念力で二本生やしたそうですわ。あなたが念力をこめてお祈りになれば、たった一本くらい生えないことがありましょうか? いいえ、わたしが念力で、きっと生やしてあげますわ!」
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呂の忍法帖
一
「ああ、長崎へゆきたい。――」
というのが、京《きよう》 丸《まる》 兵太郎《ひようたろう》のこのごろの口ぐせであった。
彼が長崎へゆきたいというのが出島《でじま》のオランダ医者から医学を学びたいという意味であることは、お洋も知っている。
はじめお洋は、そんなことをいう兵太郎がふしぎであった。何よりふしぎなのは、兵太郎がこの波切《なきり》藩の古い忍びの一族に生を受け、しかもその首領という家の息子で、内部では近来の麒麟児《きりんじ》と評されている人間であったことだ。それが、まあ紅毛人の弟子になって、医術の修行をしたいという。――
「忍びの術は、そんなに無力なのでしょうか」
お洋は心ぼそげにこうきいたことがある。心ぼそいのは、いかにも忍び組が長年波切藩に於《おい》て無用でかつ影の薄い存在であるという自覚から来るものであり、また万一ほんとうに兵太郎が長崎へいってしまったら自分はどうしようという怖《おそ》れから来るものでもあった。
「無力だな」
と、兵太郎は吐き出すようにいった。
「だいいち、あれほど人間の生理を無視した修行をして――それもお家のためだが――かんじんの殿のお病気一つ癒《なお》せぬではないか」
殿さまのお病気――なるほど主君の波切|志摩守《しまのかみ》は蒼《あお》んぶくれたからだをして、たしかに病んでいるようだが、べつに臥床《がしよう》しているわけでなし、この国元だけにも御愛妾は七人も侍《はべ》らせているし、どこが病気なのか、お洋は知らない。
「殿さまはどこがお悪いのですか」
「ふん」
と、いったが、兵太郎はその問いに対しては答えなかった。ただ沈痛な顔色でいった。
「とにかく、殿さまがお癒りあそばさぬと、ゆくゆくは波切藩の命運にもかかわる。そう思うと、一日も早く長崎へゆかねばと、いてもたってもおられぬ気持なのだ」
「オランダ医術を修行すると、殿さまの御病気とかが癒るのですか」
「それはわからん。しかし、忍法よりはましだろう」
お洋は思わず兵太郎の顔を見た。これが忍者一族のホープのいう言葉か。――しかし、お洋はべつに気を悪くしなかった。兵太郎が決して虚無的な無責任な若者ではなく、恐ろしくまじめで誇り高い哲学的青年であることはよく知っていて、彼女が惹《ひ》かれているのも兵太郎のそういう点であったからだ。
「おれも、命ぜられるままに、死身になって忍法を修行した。おかげで、組の中では何とかいわれるまでのわざを種々体得した。さて、そこでつらつらとこのわざを点検してみると、まったく非論理的で、非体系的だな。あくまで当人の素質、正確にいえば異常性にかかわる個人技だな。肉親といえども秘密というのが掟《おきて》だからそなたもよく知らんだろうが、なにだれに見せたって真似《まね》られるようなものじゃない。それはまったく荒唐無稽《こうとうむけい》なものだ。……」
こういうときの兵太郎の顔は、にがにがしさを越えて苦しげであり、憤懣《ふんまん》にたえないかのようであった。
「日本人は何事に於ても名人芸というやつを尊しとする。一見立派なようだが、孤絶的でケチくさい。加うるに口伝《くでん》とか門外不出とか秘法とかいってもったいをつける。一方では占いだの、精神力だの、非学問的な怪しげな療治法などを安易に信仰する傾向がある。知能低級な未開民族の域を脱せんな。おれがオランダ医学を修行にゆきたいというのは、たんに波切一藩のためではない。ただ主君のおんためばかりではない。きくところによると、西洋医学には論理的組織がある。名人芸や個人技ではない。何千年にわたる実験と研究に耐えて来た系統的なものだということだ。学んだ医者当人はくだらんやつでも、その知識にはそれだけの内容が圧縮されているのだ。それがほんとうの人間の知恵というものだ。……」
こういうときの兵太郎の顔は、夢みるような熱情にもえて、お洋はほんとうに美しいと思った。
「それで、長崎へゆけるでしょうか?」
「まず、だめだな」
兵太郎は落胆した表情でくびをふった。
「なみの藩士でもむずかしかろう。いわんや忍者に於てをやだ」
もし自分に出来ることなら、どんなことをしても長崎へゆかしてあげたい――と思うと同時に、お洋は彼がこの波切藩に縛られていることに心からほっとした。
こういう話が、ここ二、三年断続的に交わされて来て、忍び組でも認めた二人の仲だが、兵太郎の眼がうつつに長崎へそそがれているので、祝言《しゆうげん》に踏み切るところまでゆかなかったのだが、最近になって彼もついにあきらめ、いよいよという日取りまで内々話が進められはじめたころから、ふいにまた兵太郎の心境が変った。
波切藩に新しい事態が生じたのだ。
おととし、主君の波切志摩守が帰国した際、江戸からつれて来た赤法華輪天《あかぼつけりんてん》という僧がある。これが加持祈祷《かじきとう》に効験あらたかであるのみならず、その思想や哲学に、志摩守がすっかり心酔してしまった。やがてふたたび出府の期が来ても、輪天はなおこの波切にとどまって、何やらひそかに研究している。そのうちに藩士の中にも続々と信仰者が出て、いまでは赤法華なくてはこの国の日も夜も明けぬといったありさまになった。まず波切のラスプーチンといったところである。
――兵太郎の心境が変ったというのは、この事態に対してであった。いろいろの噂《うわさ》もきき、かつ彼自身、赤法華輪天が城下の菩提寺《ぼだいじ》境内の一隅に建ててもらった僧堂を訪れて見聞した結果、
「波切の天地に妖雲現わる」
と、彼はこう断定した。
「あの坊主の言い分は不合理のきわみであり、その修行しておることには魔性《ましよう》の匂《にお》いがある。捨ておけば、波切藩にとって途方もない祟《たた》りをなすぞ。……」
この見解から、お洋との祝言がまたあいまいになってしまったのは、波切藩でも下級の忍び組の一青年としては突飛だが、それには以前からの彼の例の意見が裏打ちされているのだ。つまり、消えかかっていたあの望みにまた火がついて、「祝言どころの騒ぎではない」という思いにかられたのだ。
「ただ、あの坊主には常人でない力がある。あれを破るには、忍法ではつとまらぬ。殿の御信仰を破らねばならぬからだ。その力は――あの坊主以上の力は、オランダ医学よりはほかにはない」
というのが兵太郎の結論であった。
忍び組には無縁な藩中の大半がその名を知る者もない若者としては、気負った発想であり、事実また誇りたかい兵太郎ではあるが、しかしまた自分の立場や存在の弱さを自覚しているだけに、いっそうの焦燥にかりたてられたのであった。
だからといって、そんな抱負を主君に開陳する機会もなければ、それがききとどけられる見込みもない。それどころか、組の中でさえ、彼がこんないいぐさをもらすと、「しいっ、余人にきかれたら何とする。この僭上者《せんじようもの》め」と顔色変えて、一喝《いつかつ》せられかねまじきありさまであった。彼の望みに望みのないことは、依然として同じであった。
ところが、突如、思いがけないことで、彼の前に立ちふさがった壁に穴が生じたのである。その穴のかたちは、実に奇怪で、可笑《おか》しくて、恐ろしいものであったが。――
二
「どうじゃ、椀《わん》に一杯、余の糞《ふん》を食したら百石加増すと申したら食するか」
と、或《あ》る日――このころ、また帰国して在城していた波切志摩守がいい出したのである。
相手は、たまたまそこにいた小姓たちであった。志摩守にはいわゆる稚児趣味はないが、豪毅質朴《ごうきしつぼく》よりも美を好むたちで、ちょうど六人、いずれも二十歳どまり、藩中切っての美しい若衆ぞろいであった。
「どうじゃ」
と、志摩守は返答を催促した。やむを得ず一人が答えた。
「それはどうも」
「三百石ではどうじゃ」
「そ、それにいたしましても。――」
「五百石と申したら?」
ばかげた質問に、志摩守は妙にしつこい。
この殿さまはいかにも無気力で、かつ気まぐれなくせに、変に凶暴なところもあり、かつ偏執狂的なところもある。だれが見ても暗君である。――この志摩守は正腹だが、実は妾腹《めかけばら》の兄が一人あって、これが完全な白痴でずっと幽閉状態になっているが、してみると遺伝の関係もあるかも知れない。
で、別の小姓がおずおずといった。
「お言葉でござりまするが、茶碗一杯には何としても閉口いたします。せめて、箸《はし》の先でなめるほどなら――その代り三十石でがまんいたしまするが。――」
みな、笑い出した。この算用が可笑《おか》しかったせいもあるが、しかし笑いにまぎらわして殿さまの提案を吹き飛ばしてしまおうという気持が期せずして働いたことも事実であった。この殿さまのいい出したことに悪くかかずらい、変にこじれると、途方もない災難がふりかかりかねないことを、彼らはこれまでの経験から知っている。――
「では、美女の場合ならどういたすな。その美女の糞を食したならば、その美女を一夜抱かせると申したら?」
小姓たちは顔見合わせた。いくら美女でもそればかりは御免こうむりたいといいたいのだが、だんだん殿さまがふきげんになって来た気配なので、いくらか相槌《あいづち》を打って話を合わせなければなるまいとは思う。さはさりながら、さりながら。――
「これよ、金弥《きんや》」
と、ふいに志摩守は呼んだ。
「お錠口へいって老女に会い、妾どもをここへ寄越せと申せ」
「――は?」
「七人ぜんぶじゃ」
小姓たちはどよめいた。奥のお部屋さまがたがこの表書院へ出てくるということが珍しい、というより、はじめてのことではないか、と思うにつけて、殿さまが今お言い出しになったことが、どうやら冗談ではないらしいと知って一大恐慌を来たしたのである。
しかし、とめることはできない。金弥という小姓が奥へいった。江戸城と同じくここにもやはりお錠口というものがあって、そこが表と奥との唯一の連絡口で、そこに控えている老女に主命を伝えるためである。
だいぶ時間がたって、老女に案内させて七人の愛妾たちが入って来た。
「そこへ」
と、志摩守に書院の一方へあごをしゃくられて、ちょうどもう一方の小姓群と相対する位置にみな坐《すわ》った。まるで花畑が生まれたようである。
志摩守はいつまでも黙っている。何やら考えている顔で、小姓たちは至極おちつかないが、愛妾たちも、わけはわからないなりに、一種の動揺を起しているようだ。対面しているのが、名だたる美童ばかりだからだ。
やがて、その一人が志摩守の方へ顔をむけた。
「何の御用でございます」
自分たちの動揺を感づかれないためか、ひどく乾いた声であった。
「どうじゃ」
と、志摩守は小姓たちにまた問う。ニコリともしない。変に真剣な表情である。小姓たちは何とも返答のしようがない。
すると、志摩守はなにを思ったか、
「これ、裸になれえ」
と、愛妾たちにいった。
ふだん、実に突発的に思いつきを口にする人物で、愛妾たちも馴《な》れているだろうが、しかしさすがにショックを受けたようで、みなしばらく志摩守の正気を疑うように見つめている。
「これには深い仔細《しさい》のあることじゃ。……波切家の命運にかかわる大事じゃと思え」
この人らしくもなく、重々しい沈痛の声調でいった。
「それだけ申せばわかるであろう。裸になれえ」
全然わからない。――しかし、波切家の大事、という言葉はたしかに彼女たちに何物にもまさる圧力を与えたようであった。
むろん、それからも数分間、「そればかりは」「いくらなんでも」というような逡《しゆん》 巡《じゆん》の私語や、はじらいのあえぎの波が渦《うず》まいたが、そのうち最も活発な顔をしたお梅《うめ》の方という愛妾が、「えい」というようなかけ声とともに、うちかけから帯と、順々にぬぎすて、解き去りはじめると、或いはやけのように、或いは眼をとじ歯をくいしばって、みんなそれにならうよりほかはなくなった。――そして、そこに紅潮し、くねくねとたゆとう白い肢体《したい》の一群が出現した。
「そこへ一列にならべ」
と、志摩守は命じた。人間離れした無機的な声である。それからまた小姓たちをかえりみた。
「その方ら、それぞれ最も好む女をえらび、やはり一列にならべ」
小姓たちは息をのんで坐っていたが、志摩守の何やら思いつめたようすから、もはや抵抗しても無益と観念したのであろう、まず金弥がまっさきに飛び出してお梅の方の前に坐ったのをきっかけに、みなバタバタと――途中からはまるで一番うまい料理を人にとられてはかなわない、という風に見えかねない勢いで、みるみる一列横隊にならんでしまった。
二、三、尻《しり》の横で押し合う混乱が見られたが、しかし坐ったあとは、べつに不満な表情はない。女が七人、小姓が六人だから、女が一人余ることになるが、最後の小姓は二人の女の前のちょうどまんなかあたりに坐った――道理だろう、この愛妾たちは、面喰《めんく》いの志摩守が精選しぬいた美女ばかりだ。……いわんや、それがみなまるはだかになっているのだ。
円顔もある。面ながもある。雪のように真っ白な肌《はだ》もある。チーズ色にねっとりとした肌もある。切れ長の眼、つぶらな眼、まくれあがったような唇《くちびる》、ふっくらとまるみをおびた唇。椀を伏せたような乳房、円錐形の乳房、ややふとりじしのからだ。蜂《はち》みたいにくびれた胴、むっちりとしたふともも、しなやかにたわんだ胸、くびれの入った指。……たんなる羞恥《しゆうち》ではない、眼前にいるのは波切藩で名だたる美青年美少年のむれだ。あきらかに昂奮《こうふん》して、それは息づき、ゆれ、起伏し、ふるえ、濡れ、発散し、全体として数十匹の白い蛇がもつれ合っているように見えた。
小姓たちも、天然自然に息づき、ゆれ、起伏し、ふるえ、濡れ、発散していた。肉体的変化は、心境の変化をひき起した。
志摩守がまたいった。
「どうじゃ?」
たちまち歯さえカチカチと鳴らし、かすれた声が、いくつか答えた。
「お、仰せのままに」
「食すか」
「は、はい。――たとえ、椀に一杯なりと」
「二人の女の前に坐っておるやつがあるが」
「せ、拙者は、に、二杯分でも。――」
笑い出すかと思ったら、志摩守は黙りこんで、ふきげんな顔になった。
「その方ら、余が糞をくらうは拒否して、女の糞ならくらうか。――あのここな不忠者どもめが!」
これだから、この殿さまは助からない。
いったいこの場の処置をどうするのか、このなりゆきはどうなるのか。――小姓たちも愛妾たちも、おのれの手足の置きどころ、口のききように苦しんでいたとき、もう一人の侍臣が来て伝えた。
「ただいま大膳《だいぜん》さま、赤法華輪天《あかぼつけりんてん》どの御同道にて御登城なされてござりまする」
三
「なに、大膳どのが?」
志摩守は意外な表情をした。
「輪天が今明日に参ることは承知しておったが、兄上もごいっしょだと? はて?」
くびをかしげたが、すぐに、
「これへと申せ」
といい、また、ややあわてた風で、愛妾と小姓群を見まわして、
「きょうはこれまで、早々にこの場をはずせ」
と、命じた。
愛妾たちは上を下への騒ぎで衣服をつける。それを眺《なが》めつつ小姓たちは、やれ助かったと、一息つくとともに、何だかひどく心残りな気もした。もっとも殿は、「きょうはこれまで」と仰せられたが、してみると、まだ例の件が打切られたというわけでもないのであろうか?
一同が去ると、赤法華輪天ともう一人の人物がやって来た。
輪天はむろん頭をまるめ、墨染めの衣をまとっている。ふくろうみたいな眼と、鷲《わし》のような鼻を持ち、恐ろしく長い顔をして、ひょろりとした長身であった。ただしその眼には異様なかがやきがあり、唇は常人の二倍の厚みを持ち、そして痩せているにもかかわらず、その皮膚は青いあぶらをぬったようにつやつやしている。
その輪天は、しっかともう一人の男の手くびをつかんでいた。
これは威風堂々、相貌魁偉《そうぼうかいい》、まさに天下の大豪傑のおもむきがある。ただし、魁偉ではあるが、凜々《りんりん》とはゆかない。どこか眼がうつろで、顔面筋肉もゆるんだところがある。――これが志摩守の異母兄波切大膳その人だが、完全な白痴で、ふだん城下の某寺に幽閉してある人物だ。
それを赤法華輪天はつれ出し、城へつれて来たのだが、はてどういう所存であろう? しかも、見れば大膳は小脇《こわき》に大盥《おおだらい》を一個かかえている。――
まず挨拶《あいさつ》をのべる輪天に、
「いかがいたした、例の肉輪の件は」
と、せかせかときいた。
「は」
と、輪天は厚い唇をなめたが、なかなか次の言葉を発しない。挙止荘重なのがこの坊主のもちまえで、ただしいったん或る目的を以《もつ》てしゃべり出したら、燃える油のごとく説ききたり、説き去って、何者もとめることができない。
「それに、兄者はどうしたぞ」
「それでござる」
と、輪天はいった。
「肉輪の研究はついに完成いたし、しかもさらに一歩進んで波切家のために、ますます万全の妙策を発見してござりまする」
「や、完成いたしたか、……しかもさらに万全の妙策とな。――」
志摩守は思わずはずんだ声を出した。
赤法華輪天の肉輪の研究とはこうだ。
実は――波切志摩守は、国元だけでも七人の愛妾を召抱えているにもかかわらず、知らないものはだれも信じないだろうが、全然女に興味がない。いや、酒の飲めない男が、本心は飲めるなら飲みたいと思っている程度には興味があるのだが、いざとなると受けつけないのである。昂奮しないのである。
酒なら飲めなくていいが、大名としてこれは実に困ったことであった。いや、困るどころではない。世子が生まれなければ、波切家断絶のほかはないのである。年齢から、切実にそのことを考えるようになると、彼はいても立ってもいられないほど焦《あせ》った。で、実は江戸にも奥方のほか七人の愛妾を置いてあるのだが、懦夫起《だふた》たざるを如何《いかん》せん。
そこへ現われたのが赤法華であった。
彼はその名のごとく「輪《りん》」の哲学の信奉者であった。太陽は永遠に同じ軌道を回り、海は蒸発して雲となり、雨をふらしてまた海となる。人獣は植物を食べて生をつなぎ、死すればその屍骸《しがい》またはその排泄物《はいせつぶつ》を摂《と》って植物はしげる。――さらに彼は論をすすめる。理窟《りくつ》からいえば、十七文字の発句というものはついに限度に達し、三百六十一の目を埋める碁にもやがて新しい棋譜は成立し得なくなるであろう。従ってこの天地の物質に限りがあり、万象の流転はその物質の転変にすぎない以上、永劫《えいごう》の未来に於て、現在の人、現在の運命はふたたび回帰して来る――と、彼は説いた。仏教のいわゆる「輪廻《りんね》」で、これは相当に戦慄《せんりつ》すべき思想である上に、彼の風貌《ふうぼう》と説法ぶりが妖炎《ようえん》のごとき物凄《ものすご》さを持っていたから、志摩守をはじめ江戸屋敷の上層部にも心酔するものが輩出した。
で、彼はあらゆるものを「輪」で説く。本人も輪天と称するほどである。そして世に存在する不幸はことごとく「輪」が不完全な場合に起ると説く。
例えば子なき場合である。
「たんなる交合は輪のかたちをなしておりませぬ。男が女へ注ぐばかりの一直線でござる。強《し》いていえば、エの字でござる。万象ことごとく輪をなす自然の理にそむくゆえに自然の罰を受けて、子が出来ぬのでござる」
「交合に於て輪を作るとは?」
「精を注ぐとき、必ず男が女の口を吸うことでござる」
「そんなことか。――」
「いや、それほど簡単なことではござらぬ。そのとき、女の体内を通しておのれの精汁《せいじゆう》を吸いもどすくらいの力で吸わねばならんのでござる。……人間五十年、交合すること幾千回か、しかも子をなすはせいぜい四、五人、つまりそれだけの吸引力を発揮できるのは、男一生に四、五回ということでござる」
……そういわれてみると、きく者だれもが、子供ができたときは必ず猛烈に接吻《せつぷん》していたような気がして来たからふしぎである。
「拙者はいつもやっておるが……しかし、子は一人しか生まれぬが。……」
などとくびをひねるやつが現われても、
「それは吸いようが足りぬか、未熟なのでござる」
と、一喝されると、急に自信を喪失した顔で黙りこんでしまった。
「輪天坊どの」
と、ひとりが真剣なような、懐疑にみちたような顔でひざをすすめて、
「では、御坊はその方面で相当の域に達しておられると推察いたす。いちどその模範を拝見いたしたいが。……」
というと、赤法華はうなずいた。
「では」
と、いうなり、たまたまそこへ茶を運んできた腰元の手くびをつかんでひき寄せて、いきなりその口に吸いついた。それまでの重々しい挙止とは別人のような、電光石火の動作であった。
むろん、腰元は仰天し、両手をつっぱねてはねのけようとする。――それが、離れないのだ。腰元がのけぞるのを、輪天は覆いかぶさるわけでもなければ、手で抱きしめるというわけでもない。手には中啓《ちゆうけい》をもてあそんでいるのに、腰元の顔は怪僧の顔に吸着して、どうしても離れないのであった。
……ほとんど五分も経過して、中啓がパチリと鳴ると、顔が離れ、腰元は崩折れた。
「呂の術と申す。……この通り」
と、輪天はいった。常人の二倍はある厚い唇はニコリともしない。……ようやく腰元が身を起したが、その唇は椿《つばき》の花のようにふくれて、咲きひろがっているようであった。みな、茫然《ぼうぜん》としてこれを見まもっているばかりである。
呂の術とは、口と口とをつなぐという意味であろうか。とにかくこれで赤法華の「輪」の哲学は、理論のみならず具体的な技術の裏付けもあることが認められるに至った。……ところが。
ひそかに、かつ無気力に志摩守は告げたのである。
「輪天。……わしは輪にならぬ。……」
「そのようなことはありませぬ。呂の術、拙僧が御伝授いたす。いや、拙僧の口を以てあらかじめ処置しておけば、何びとにも容易に出来ることでござる」
「呂の術を会得《えとく》してもなんにもならぬ。――その方、たんなる交合は一直線に注ぐのみ、強いていえばエの字をなすばかりと申したが、余はその一直線が成らぬのじゃ。従ってエの字が書けぬのじゃ」
「いかにも、エの字と呂の術と相|俟《ま》たねば輪のかたちをなしませぬが……殿、それはなにゆえに?」
――で、志摩守はおのれのエの字の不成立のゆえんを告白したのである。
かくて輪天坊は、いろいろと志摩守のからだを点検した結果、ついにこれは根本的に体質から改善しなければだめだ、という結論に達した。その方途については、先年来自分のつづけている研究の成果如何によっては目算なきにあらず、ともいった。
――赤法華輪天が、志摩守の帰国にくっついて波切《なきり》へ来て、そのままとどまっていたのは、この研究をつづけるためである。
その研究の内容はきいていた。その成果を今明日中に報告するために輪天が登城してくるという通知も受けていた。――今きけば、その成果に、さらに何やら加わるものがあるという。――
「されば」
と、赤法華はいった。
「肉輪の件、これはこれで完成したつもりでござりまする。これを以て殿の御体質を根本から改善いたすには三年かかり申す」
「なに、三年間」
志摩守は眼をむいた。
「三年間、ひとの尻に吸いついておらねばならぬのかや」
「……第一、それでは江戸へ御参勤なされることも相成らぬ。それどころか、肉輪のままでは東海道の道中も成りがたく……この点について拙僧大いに苦吟いたしたる結果、殿の御体質改善よりも単刀直入、そもそもの原料を工夫すればただちに効果を発揮し得るという方法を開発いたしてござる。……」
「輪天、そちの申すことがよくわからぬが。……」
赤法華輪天は衣をまさぐって懐紙と矢立《やたて》をとり出し、図を書いた。
(画像省略)
「はじめの拙僧の肉輪構造式はこうでござった。かかる順序にて若き男女の体内を通過したものを殿が受けられ、これをくり返せば、必ず殿の御体質は若返りなされるは必定《ひつじよう》と。――ただ、人間のからだを成す全細胞の一新さるるは三年かかりまするゆえ、これを三年間継続せねばならぬのが難点でござる」
「三年はこまるぞ。それはこまる」
「そこで拙僧の開発いたしたる新型の肉輪構造式はこうでござる。つまり、大が一つ加わったのでござる」
(画像省略)
「大? とは何じゃ?」
「すなわち、ここにおわす大膳さま」
と、赤法華は、はじめて傍の波切大膳どのをかえりみた。
大膳どのはもう腕をとられていなかったが、そこに大あぐらをかいたまま、動こうともしない。弟の志摩守を見るでもなく、二人の問答をきくでもなく、ほらあなみたいな眼をして、鼻をピクピクさせて、巨大な口はニタニタ笑っている。鼻だけはこの書院に残る何かの匂いをかぎとっているらしい。
「この大膳さまの御精汁を原料といたす」
「……なに?」
「それならばこの肉輪を七回めぐるのみにて、ただちに殿に効験あることを保証いたします。……しかもその原料は、もとこれ波切家の精汁に相違なし。……」
「これ待て輪天、それなれば生まれる子は兄の子ではないか」
「そこがわが肉輪の神秘なところでござる。大膳さまと呂じるしが直接にはつながっておらぬことをとくと御覧なされ。七たび、若き男女の体内をながれ、漉《こ》されるにつれ、次第にそれは個性を失い、七たび目、殿に達したるとき、殿と大膳さまとの連鎖を断ち切れば、それは殿にて静止し、かつ殿の御器官を殿の御精汁として満たすのでござる」
「七たびめ……それが七たびめぐった、どうしてわかる?」
「そのものが各人を通過するたびに、女は叫声をあげ、男は屹立《きつりつ》いたすはず。それを六回、七回と勘定すればよいのでござる」
「ふうむ」
志摩守は改めて紙に書かれた肉輪構造式を眺めいったが、ふと顔をあげていった。
「すると、兄者から次なる女へ精汁が伝わるのは、いかがいたす」
「なみの移動形式にては、それは懐胎というかたちで次の女にて停止してしまうおそれがありまするゆえ、この方式にては、やはり大膳さまに御自身のものをまず胃の腑《ふ》へ移していただくことに相成ります」
「つまり、飲むのか。……そ、そのような器用なまねが、人間、出来るか」
これに対して答えた輪天の方法は、幻怪きわまる肉輪の濾過《ろか》方式を創造したと称する人物にしては、これはまた恐ろしく単純なものであった。要するに一応持参の盥《たらい》に排出させ、次にそれを胃へ移動させるというだけで、前半はひどく原始的な手法によるものだが、後半はしかし赤法華の呂の術がちょっぴり適用された。
「せっかく盥を持参いたしたれば、一応御覧に入れまする」
呂の術をちょっぴり適用、といっても、これは相当以上に怪奇的なものであった。輪天は大膳どのと接吻したのである。……よほど肉輪の研究に憑《つ》かれている人間でなければ出来ることではない。
さて、それから大膳どのをして排出させたのだが、これがまた驚倒すべき量で、「――天は二物を貸さずと申すが、殿に伝わるべきものを、大膳さまがみな取ってさきにお生まれなされたものではありますまいか」と輪天がニタリとしたくらいであった。それをたたえた盥に大膳どのの顔を近づけると、彼はそれを飲みつくし、はては盥の底に吸いついて離れないという騒ぎになった。
赤法華輪天は数珠《じゆず》をおしもんだ。
「諸行無常、会者定離《えしやじようり》、喝《かつ》!」
大喝すると、その数珠が切れた。同時に、大膳どのの口ははじめて盥の底から離れた。
波切志摩守は茫然として声もない。いつぞや江戸で腰元を相手に呂の術を見せられたとき以上の震駭《しんがい》ぶりであった。
「さて、殿」
「うむ。……」
「かくて殿の御器官が常態に復し給えば、次はそれを試みたもう相手、すなわち本構造式に於ける呂じるしでござるが」
「うむ。……」
「ただいまこのお城におわす御部屋さま方はことごとく肉輪の濾過器として使わせらるる以上、当分御懐胎のお元気を消耗なされておりまする」
「うむ。……」
「さればによって、おん子を生ませらるる女人は、別に新しゅう求めねば相成りませぬ」
「うむ。……」
志摩守は甚《はなは》だ意気上らない。
「輪天」
と、思い余ったようにいった。
「どうしても余は、兄に吸いつかれねばならぬか?」
肉輪のことはかねてきき、彼も覚悟はしていたが、さっき見せられた新しい図解によると、自分の後方の連鎖は白痴の兄であるらしい。つまり自分はあの兄の大なまずのような唇に吸いつかれなければならぬらしい。
「波切家の御精血を伝えるためでござりまするぞ。その御精血が殿に乏しきゆえの輪天の苦労ではござりませぬか!」
赤法華は声をはげました。それはわかっているけれど。――
「されば」
と、輪天はひとりでうなずいた。
「殿がかかる御難儀をあえて忍ばれるに足る女人を求めねばなりませぬな。いや……この輪天の研究をみごと完成するためにも、呂の術を行うにも快く、またいかにも子だねのよく着《ちやく》 牀《しよう》しそうな女人を、輪天、かならず探し出して参る!」
四
――お洋ともども急ぎ登城せよ、という命令を受けたとき、京丸兵太郎は狐《きつね》につままれたような思いがした。
忍びの者など殿がお召しになることはめったにない。いや、ここ数十年、忍び組の一人でもお目通りゆるされた者はないときく。――それに、お洋までお召しとはいったい何事であろう?
二人は、不安にみちた顔で登城した。
志摩守の傍には、赤法華輪天が坐っていた。――兵太郎の胸騒ぎはいよいよはげしくなった。
「おう」
二人を――いや、お洋を見るなり、志摩守は眼をかがやかせた。
「これは美女。……ほう、かように水際だった美しい娘がわが波切藩にあったかや。忍びの一族ゆえ、眼にとまらなんだと見える。輪天、よう見つけたな」
「や、お気に召したか。それは大悦の至り。――」
「待て、輪天、これならば」
「なんでござる?」
「ひょっとすると、例の肉輪を用いずとも……」
この問答の意味はまったくわからず、自分から離れぬ志摩守の眼に、お洋はなぜか悪寒《おかん》のようなものを覚えた。
ふいに輪天がにたっとした。いわゆるせせら笑いというやつだ。
「いや、だめでござろう。……いつぞや拙僧の拝診した模様にては、いざとなればとうてい。……」
志摩守は急に自信を失った表情になった。輪天はくびをふった。
「これで大丈夫なほどならば、赤法華、かほど心血をしぼりはいたしませぬ」
そして、兵太郎の方をじろっと見た。
「きょう両人を呼んだのは余の儀でない。――そこなお洋をこのたび殿の御側妾《おそばめ》として城にあげたいと思うてな。その了承を得んがためじゃ」
――いかなる不安も胸騒ぎも超えた事態が突如として到来したことを兵太郎は知った。両手をついたまま、自分の顔色が変るのを彼は感じた。
しかし、いまきいているとこれは赤法華輪天の推拳によるらしいが、いったい輪天は、いつお洋に眼をつけたのであろう? 案の定、ゆだんのならぬやつだ、と思うとともに、いつか自分がそれとなく赤法華の僧堂をのぞきにいったことなどがその機縁になったのではあるまいか、と自分の行動を悔いた。
「どうじゃ、承知か、兵太郎」
と、輪天がいった。
兵太郎は顔をあげた。
「承知か、とおきき下さるならば、不承知とお答え申しあげねばなりませぬ」
「なぜじゃ、兵太郎、余の申しつけがきけぬのか」
かっとしたように志摩守はさけんだ。
「それほど、そちはその娘を愛しておるのか?」
語気に、泣きたくなるような愚かしさがある。――これまた、そうきかれるならば、こう答えざるを得ない。
「愛しておりまする」
兵太郎の唇から発せられる最初の言葉であった。――きいていてお洋は、今死にたい、と思った。
志摩守はかん高い声をはりあげた。
「それならば、その娘の糞を食すか」
「?」
キョトンとした。
「まことに愛しておるならば、その女の糞を食するもいとわぬはずじゃ。……もしその方がその娘の糞を食すれば、余も考えてやらぬでもない」
この主君がすこしおかしいことは前々から承知していたが、ここに至って兵太郎は、その正気であるかどうかを疑った。
「どうじゃ、食すか、どうじゃ、どうじゃ」
「御免こうむりまする」
と、兵太郎はきっぱりといった。
「なに、食せぬとかや?……その方の心底見えた。ならば、娘を捧げい」
さっぱり論理が通らない。じかにお目通りしたのはきょうがはじめてだが、いくらなんでも以前はこれほどではなかったと兵太郎は思い、この錯乱ぶりはおそらく赤法華が御身辺に近づきはじめてからのことに相違ない、いやそれにきまっている――と思うにつけて、兵太郎は或る決心をした。
ちょうどよい機会だ。妖僧輪天を放逐せらるべし、この諫言《かんげん》をするときはいまだ。――と、きっとして輪天を見た兵太郎は、じいっと自分を凝視している輪天の眼に、逆に射すくめられる思いがした。精神力などいうものを認めたくない兵太郎だが、たしかにその力が世には存在する。――
しかも黙ってこのやりとりをきいている輪天に、救いを求めるように志摩守はふりむいた。
「糞もいや、妾にするのもいやという。たかが忍び組の青二才の分際で、さりとは身勝手なやつ。そもそも都合をきくことは要らなんだ。輪天、なぜこやつを呼べと申した?」
「兵太郎」
と、しゃがれた声で輪天がいった。
「知る通り御当家にはまだお世継ぎがおわさぬ。万が一、このままに過ぎるならば、波切藩は断える。ひょっとしたら、その御大切な御世子を、お洋が生みまいらせぬとも限らぬ。さすれば、たんに当人の出世のみならず、また波切藩にとっての守護神ともなる。……かかることを承知で、うぬは左様な口をきいたのか」
「お洋を御側妾にあげたればとて、決しておん子は生みますまい」
「なぜ?」
「恐れながら、そのもとは殿におわしまする」
「やっ?」
と、志摩守は仰天した声を出した。
「こ、こやつ、いかにしてそのような秘事を知っておる?」
「波切藩の忍び組でござれば」
しずかに、しかし昂然と兵太郎はいった。
「わが御主君のおん身について知らざることあれば、これぞ大不忠。――」
「殿」
赤くなり青くなりしている志摩守を輪天は見た。
「かかるやつゆえ、一応念書をとっておかねば後日いかなる祟《たた》りをなすやはかりがたし、と輪天は見ぬいたればこそ、きょう、ともに召した次第でござる」
「むう。……」
「兵太郎、ばかに自信を以て申すが、しかし殿は大丈夫じゃ。その娘を側妾となせば、必ずおん子を生ませらるることを、この赤法華が保証するわ」
「えっ?――と、申されると?」
「ふふ、殿のおん身について知らざることなし、と高言するその方が知らぬのか」
輪天は冷笑した。兵太郎の背に、じわんとぶきみな汗がにじみ出した。――こやつ、お洋に何をしようとするのか?
「そうときいて、なおうぬはお洋を波切家のおん母公となし参らせるのに不承知か」
「殿」
兵太郎は必死の顔で這《は》い寄った。
「お願いでござりまする。この怪僧を御放逐下されい。この坊主がいかなるからくりを弄《ろう》するやは知れず、まさに天魔|波旬《はじゆん》のわざに相違ござりませぬ。かかるものに惑わされては、それこそとりかえしのつかぬ波切家の悲劇、何とぞおん目をさまされて、この妖雲をのがれさせ給え。――」
「妖雲、とはよう申したな」
輪天はまた笑った。
「兵太郎、わしは知っておるが、その方ら忍びの一族に伝わるわざも、相当に荒唐無稽のわざであるぞ。――」
「それを拙者は捨てようとしておるのだ!」
と、兵太郎はさけんだ。そして志摩守にすがりつかんばかりになった。
「殿のただいまのお苦しみをお救い申しあげるのは、この赤法華ごときものの妖《あや》しのわざではござりませぬ。ただ……長崎のオランダ医学のみと存じまする。拙者をどうぞ長崎へやって下さりませ。必ず殿をおん治癒なし参らせる術を学んで帰って参りまする!」
「長崎へ。――」
と、志摩守はいった。ふっとその眼に正気の灯が一点ともったようだ。
「オランダ医学、とな。ふうむ」
「やあ、こやつ、こちらの申しつけは一切拒否し、わざわざきいてやった親切をあだに、さかさまに途方もないことを願いおる。殿のお病気が、輪の原理以外のなまじの法で癒るものかは。――殿、おとりあげ下さるな、これはこやつの、この場をのがれんとする狡猾《こうかつ》の遁辞《とんじ》でござるわ」
「待て、輪天。これはちょっと験《ため》してみる必要があるぞ。――」
と、志摩守は赤法華を制して、兵太郎を見た。
「何年かかる」
「は? それは、いまだ拙者には。――」
「それ、そこが遁辞というのじゃ。五年、十年、その間に殿に万一のことがあったらなんとする」
と、輪天があざけった。
「まさか、五年十年はかかり申さぬ。左様、一年でもよろしかろうか。それだけ修行させていただいて、なお殿をお癒しできぬとあれば、兵太郎、この首をさしあげても否やは申しませぬ」
「ほう、それほど長崎へゆきたいか。……長崎へゆかしてやると申したら、お洋を献上するか」
兵太郎は真っ向から一|鞭《むち》あてられたような表情になった。輪天も志摩守もうす気味悪くなったくらい、苦悶にみちた顔でしーんと黙りこんだ。
……うしろで、ふるえるような声が聞えた。
「兵太郎さま、いっておいでなされませ」
お洋であった。彼女も蒼白になって、
「お洋は」
といったきり、口をつぐんだ。あとはきかないでも、兵太郎にはわかった。彼女は死を決意している。
「よし、長崎へゆくことをゆるすぞ」
と、志摩守がいった。
珍しく断乎《だんこ》たる口調であったのは、輪天の制止を封ずるためだ。――といって、べつに兵太郎の誠意に打たれたわけでもなければ、それほどオランダ医学に期待したわけでもない。本音を吐くと、志摩守はどうしても例の肉輪の中の大膳どのの一件に対する辟易《へきえき》を禁じ得なかったからである。
「……しかし、殿はあと六ヵ月で江戸へおたち遊ばすぞ」
と、輪天がまた口を出した。彼も志摩守の語気に、もはや及ぶべからず、と感じたのか、それともほかに何か思うところあってか、ともかくもあきらかに怒りのこもった圧服的な声でいいわたした。
「それまで待つ」
「半年ではだめか?」
と、志摩守がおそるおそるきいた。兵太郎は往還の日数を胸中でかぞえ、それからお洋の方にむかって、決然といった。
「……それまでに、兵太郎はきっと帰って来る」
五
京丸兵太郎が長崎へ、文字通り走り去ってから三ヵ月目で、約束は破られた。赤法華輪天が急ぎ登城して告げたのである。
「大膳さま、このごろ御脳もおからだもますます御異常が甚だしゅうござる。もし万一のことあればとりかえしがつき申さぬゆえ、例の件、くりあげて実施いたしたいと存ずる」
「ほ、大膳どのが? 病気は何じゃ」
「お食べ過ぎでござる。昼夜間断なく、ひたすら食べに食べておられ申す。おからだは倍ちかくなられ、この分にては御吸引力も、肉輪の正常なる運行を破壊するに至るやもはかりがたく。――」
志摩守は、いよいよ以て助からぬ、といった顔をした。
「どうあっても、大膳どのでなくてはだめか」
「やはり波切家の御精血でのうては」
「――しかし、輪天、あの京丸兵太郎との約定《やくじよう》はまだあと三ヵ月あるぞ」
「なんの、きゃつごとき下郎との約定など。たとえきゃつが帰国いたして来てもなんの役にも立ち申さぬことは拙僧断言いたしてよろしいが、万が一それが成功したとすれば、その功に免じてあのお洋をきゃつにくれてやらねばならぬことに相成りましょう。殿、あの娘におん子を生ませられとうはござりませぬか?」
「いかにも喃《のう》。……しかし、輪天、あのようないやしき身分の娘に、あのように美しく気品ある娘が生まれるとはふしぎなものよの。血はわれらの方が代々高貴なはずじゃが、兄はあのごとく、余はかくのごとし。……」
志摩守は憮然《ぶぜん》とした。
「すべて輪の理によるものでござる」
と、赤法華輪天は厳粛にいった。何が輪の理なのだか不明である。
「拙僧、一日も早く殿とあの娘と呂の術でつながれ、輪のかたちをなしたお姿を見とう存ずる」
そういわれると志摩守も、ほんとうにあの娘とそんなかたちをとりたくなった。……もともと志摩守は輪天に逢っていると、蛙《かえる》が蛇《へび》に魅入られたような、或いはそれこそまるで妖雲に包まれたような感じになる。
波切城の奥ふかく、言語に絶えたる大肉輪が現出したのはその翌日のことであった。
まさに言語に絶してはいるが、しかし書かねばなるまい。少くとも説明しなければなるまい。
その日、お洋はそこに呼ばれて、あっと眼を見張った。――大広間に一糸まとわぬ裸身の男女がウヨウヨしていたからだ。それがなんと、主君の御側妾七人とお小姓六人と、そして主君の兄君大膳さまも同様の姿であることを知るに及んで、彼女は息もつけなくなってしまった。
化物じみているほど肥った大膳どのは、すぐ前に置かれた大鉢の芋を裸のまま余念もなく食っていた。
ほかにむろん志摩守はいた。これは衣服をつけていた。それから、きょうは緋の衣をまとった赤法華輪天がいた。
その輪天がおごそかにいうのである。
「お洋どの。……これより波切家おんたねつけの輪《りん》の儀を行う。つつしんで、そこに坐って拝観していやれ」
お洋どの、とはじめて敬称をつけたのがぶきみである。彼の言葉に至っては理解を超えている。――お洋はもしものことがあったら、舌をかんで死のうと覚悟していた。いったい何が行われるのであろう?
「その方ら」
と、志摩守が小姓たちにいった。
「この前、惚れた女人なら、その糞を食するもいとわぬ、と申したな?」
小姓たちはみな瞳をうつろに茫然とあけている。いかにも以前、あわやというそんなことがあった。その後、べつになんの音沙汰《おとさた》もないので、あれは主君のいっときの乱心であったか、と胸なで下ろしていたのに、きょうまた突然呼び出されてこういう姿になることを命じられたのだが、この前にまさる主君の狂的な眼に恐怖その極に達している。
「では、ただいまよりそれを施行する」
「殿、それは。――」
たまりかねたように愛妾の一人お梅の方が声をあげたのに、
「波切家の存亡にかかわる大事でござるぞ!」
と、赤法華輪天が大喝した。みな、見えない縄で縛られたようになった。
「まず、そなたとそなた。……ここへ参られえ」
輪天はお梅の方と小姓金弥をさしまねき、自分の方からも歩いていって、まずお梅の方をとらえて立たせ、次に金弥をそのうしろに立たせた。
それから、何をするのかと思ったら――美童金弥の顔をはさんで、いきなり接吻したのである。一分ばかりたってそれを離すと、
「ぺっ、な、何をなさる」と口をぬぐっている金弥の頭をおさえて、ぐいとその顔をお梅の方の尻に――まるで鼻が二つの大円球のあいだにめりこむほどにおしつけた。
――と、金弥の顔は、お梅の方の尻から、それっきり離れなくなってしまったのだ。
「……いやっ」
というような声をお梅の方はたてた。
手をうしろに回してはねのけようとする。離れない、腰をふる。離れない。離れないどころか、妙な姿勢のまま、くっついた顔を左右にふられて、金弥の顔は名状しがたい苦悶の表情に波打ったが、苦悶の声は出ない。口が吸いついているからだ。ただ、その苦悶にたえかねて、彼はお梅の腰に両手をまいた。
「……いやあ」
と、お梅の方はまたさけんだ。
さけびというよりあえぎだ。彼女もまた尻をつき出し、しかも上半身のけぞるような姿勢となり、あごをのけぞらしていたが、その顔には実に奇妙な表情が浮かんでいた。たんなる不快、嫌悪ではない、ふしぎな、むしろ快感とさえ見えるわななきだ。「いやあ」と聞えたのは、厭《いや》という意味ではなく、単なる感嘆詞であるらしかった。……そして彼女はそのままのポーズで動かなくなった。
そして、それ以上に奇々怪々なのは小姓金弥の顔つきであった。はじめその美しい横顔が猿みたいにゆがんだが、そのうち――外見的には、陶酔というべき表情に変った。
「……お梅のお方さまほどの美女のお腹にあるものじゃ、さぞ美味であろう」
と、赤法華輪天はつぶやいた。厚い唇からはよだれがしたたらんばかりであった。
――小姓たちは、いつぞや志摩守が女の糞を食するも辞せざるや、ときいた意味をはじめて知った。
どよめくいとまもなく、
「そなたとそなた」
輪天がもう一組の愛妾と小姓を指さして近づき、同様の行為をし、同様につないでしまった。
みな、まるで魔界の中をさまよっているような思いになって、逃げることをも忘れた風で、みるみるそこに六組のつがいが現出した。みんな男たちののどが、グビリグビリと動いている。
残っているのは、大膳どのともう一人の愛妾だが、輪天はこれは組み合わせなかった。
お洋は両手で顔を覆った。いったいこれはどうしたことであろう。……自分もあのような目にあわされるのだろうか。もしそんなことがあったら、自分は舌をかんで死ぬ。
「輪天」
と、志摩守が呼んだ。これはひとりなのに、のどがやはりグビリグビリと動いている。
「死にはせぬか?」
「なんの、豚《いのこ》はあれを餌《えさ》として肥《ふと》るほどでござる。畜生のみならず、その昔、漢の呂后は、夫の高祖が歿するやその愛妾|戚《せき》夫人をとらえ、厠《かわや》の中に飼っておったと申す。……」
と、赤法華はひどいことをいった。が、――
「むろん、事は急がねばなりませぬ。まことは捨ておけば双方のいのちにかかわりましょう。では、殿!」
ふらふらと志摩守が立ちあがり、衣服をぬぎはじめ、お洋ははっと息をつめたが、しかし志摩守はもつれるような足どりでもう一人残ったお桃の方という愛妾の方へ近づいていった。
「殿、いましばらく――お待ち下され」
と、輪天は制して、猛烈な勢いで次の行動を起した。小姓をくっつけた愛妾たちを一人ずつつかまえて、凄じい音をたてて接吻したかと思うと、別の組の小姓の尻にその顔をおしつけたのだ。こんどはそれぞれ尻に男をくっつけているので、いよいよ逃げることなど思いもよらなかった。
最後に残ったお桃の方を最後尾の金弥に接合した。
で、あれよあれよといっている間に、そこに十三人の男女がかわりばんこにつながった長い蛇が生じたのである。長蛇は右へ左へ苦しげにうねった。
次に輪天は、そこに泰然自若として坐って芋を食べている裸の大膳どのをとらえ、芋をとりあげはじめからそこに用意させた三つの大盥の一つの前に尻をむけて立たせた。それから大膳どのに呂の術を施し、お桃の方に接合した。
「きゃあ」
とお桃の方は悲鳴をあげた。
が、たちまち彼女は、仲間の中でいちばんけたたましい――しかも決して嫌悪や恐怖ではない快美のさけび声をあげて腰を左右にくねらせはじめた。
ともあれ長蛇はこれで十四人となり、その最後尾は大膳どのということになったわけである。
十数分を経て、大膳どののうしろの大盥へ、音たてて何やらおちはじめたものがある。大膳の毛だらけの尻からかぎりなく溢《あふ》れおちるそのものは、その場所から出る物質にまぎれもなかったが、しかし決して一人や二人の分量ではない。――大盥に満ち、盛りあがらんばかりの黄金の堆《たい》となった。
まるで蛇が鱗《うろこ》を波うたせるように、みんなの腹部に波がわたったが、なかんずく最先頭のお菊の方という愛妾は、これは口が残っているだけに、それを大きくひらいて、かなしげなあえぎ声をあげた。――
大膳どのの排出が終るのを見すますと輪天は、盥の一つにたたえた水でていねいに洗い、最先頭のお菊の方を強引に大膳どのの尻に接合した。お菊の方は、さっきのお桃の方以上の悲鳴をあげたが、結局のがれることはできなかった。
さて、次に輪天は、
「諸行無常、会者定離!」
と唱えて数珠を一ヵ所切り、お桃の方の尻から大膳どのの口を離した。それから。――
「では、殿。――おそれながら呂の術を!」
と、さけぶと、輪天は志摩守の背骨も折れんばかりに抱きしめ、接吻した。――離されると志摩守は、
「……。ブ、ブ、ブ」
というような音声を発した。
無礼者、といおうとしたのではないらしい。彼の唇が章魚《たこ》みたいになっていたから、そういう音響が出たらしい。そのまま彼はくびねっこをつかまえられて、お桃の方の臀部《でんぶ》におしつけられた。
ふたたび長蛇ができた。こんどは全員十五人の人間から成る大行列が。
一応しげしげとこの行列を眺めいった輪天は、最後に残った盥を、行列の最先頭に立った大膳どのの前に置き用手法を以てその盥に大膳どのの精汁を採取すると、いつかのようにこれを彼自身に吸引させたのである。
それから、改めて、
「呂の術をもういちど!」
とさけんで大膳どのと接吻したのち――その口を志摩守に接合した。
かくて、この複雑なる操作ののちはじめて十五人からなる奇怪な人間の輪が出現した。
「天地創造、肉輪循環!」
輪天は数珠をおしもんだ。切ったはずの数珠はいつのまにかまたつながっていた。
それをお洋は見ていたが、彼女は身動きもできなかった。――異臭は空中に満ちているのに、汚穢《おわい》感はなかった。人々の姿態は人間侮辱のかぎりをつくしているのに、悲哀感もなければ滑稽感もなかった。……いやそれよりも、彼らを踏んまえるばかりに立った赤法華輪天の姿は、そんな常識的な感覚をケシ飛ばさんばかりの、魔王さながらの物凄さであった。
いまや彼の、みずから心血をそそいだと称する第二次設計の肉輪図がここに具象化し、輪の原理が現実に動きはじめたのだ。
しかし、彼の信じるところによると、第一次の肉輪のシステムを以てしても、人は相当長期にわたって生存し得る。呂の術を施された口によって、彼らは前方の人間の生命を吸いとり、これが輪状に無限につづくからである。そして、生命力は平均化され、いちばん劣悪な肉体を持った人間は根本的にその体質が改善される。――
ともあれ、ここに生じたのは第二次の肉輪であった。肉輪をつらぬく生命の管を通るのは、波切大膳の精汁だ。それがさらに十三人の若き男女に賦活《ふかつ》され、はじめから全然からっぽの波切志摩守に注入される。……或る時点に於て、志摩守と大膳をたちきれば、それは志摩守にたまったままになる。――これ赤法華輪天独創の大原理。
或る時点とは、これまた彼の想定によると、七循目だ。それを彼は、男性に於けるそのたびごとの一過性勃起、女性に於ける間歇《かんけつ》的叫声によって判断するつもりであったが、前者はまさにその通りであったが、後者は見込みちがいであった。なんとなれば、彼女たちの口は対象物を封じ、同時に対象物に封じられていたからだ。しかし、声こそたてられなかったが、精汁の通過するたびに、女たちの白いからだに鮮烈な波がわたるのはたしかに看取された。
一循。
二循。
これが、相当に長い時間である。いったい人が口に入れたものを排出するのは、固型物の場合、最短十二時間はかかる。これが十五人をめぐるのである。ただしこの場合は液体質である上に、各自の滞留消化をゆるさぬ強烈な吸引力を伴っているので、それは粘体のながれるがごとき速度であったが、それにしても――その日は暮れ、そして夜は沈々とふけても、なお、四循、五循という経過であった。
しかしお洋は、時間の過ぎるのを知らない。興味|津々《しんしん》、などいうことのあるわけはないが、彼女はすでに時間どころか空間も超越した魔界に縛りつけられている。
六循が終った。
「お洋のお方さま。――」
と、赤法華輪天が呼んだ。夜は明けかかっていた。
「御用意なされ」
なんの用意かわからない。しかしお洋はそれを怪しむ判断力さえ失っている。――そして彼女が動かないのを見て、輪天が歩いて来て、彼女を裸身に剥きはじめても、舌をかむどころか、茫然として口を半びらきにしたままであった。
「見よ、殿は男をとりもどしなされた。――」
と、輪天はにっとしていった。
その通りだ。波切志摩守の体内を大膳の精汁が通過するたびに、その徴候が、ほかの男と同様に現われる。それは一循ごとに、はっきりとたくましくなる。……それが彼自身にも感覚されるとみえて、そのたびに彼は力士のように足ぶみをした。
「七循目を殿が迎えられたとき、この肉輪を殿のおん前で解くであろう。そのあとでござる。お洋のお方さまが波切家のおんたねを頂戴されるのは、――」
いま、その七循目は大膳を離れ、女、男、女と進んで、小姓としては最後の金弥のからだを通過しつつあった。
そのとき。――
六
「申しあげまする」
この大広間の戸の外で声がかかった。宿直《とのい》の侍らしい。
「忍び組の京丸兵太郎と申す者が長崎より帰国いたし、いそぎお目通り願いたきむね。――」
「なにっ?」
と、赤法華輪天はさけび、ふりかえって、夢から醒めたように逃れようとするお洋の手くびをつかんだ。万力《まんりき》のような力である。
「京丸兵太郎が――そんなはずはない。あれが帰国するまでには、まだ三ヵ月あるはずじゃ」
「は、しかし。――」
「にせものであろう、追い払え」
「しかし、たしかにほんものでござりまするぞ。その証拠に。――」
というと、その戸がひらいた。――肉輪の秘儀を行うために、ほかの出入口はもとより、その厚い板戸も内側から栓《せん》が下ろしてあったのだが、その内側の栓がコトンとひとりでに動いて、すうと戸があけられたのである。
「あっ」
三つの声が同時にあがった。
そこに立っているのは、まさに京丸兵太郎であった。二つの声は驚愕《きようがく》した輪天とお洋のものであったが、もう一つの声はこの広間の光景に胆をつぶした兵太郎のものであった。
「……虫が知らせたとはこのことであったか。ううむ。約定《やくじよう》破りの恥知らずめ。それにしてもこのありさまは――おおっ、殿っ」
とさけんで、兵太郎は走り寄り、志摩守をひき離そうとしたが、志摩守は離れない。全身が怒りと痛みにのた打った。
「吸いついたら離れぬ呂の術じゃ。離れるものかは」
われにかえった赤法華輪天はあざ笑った。
「肉輪の秘儀はいま完了しようとする。見よ、大膳さまの御精汁はいま金弥を通過しつつある。そのしるしが見えるであろう。それがお桃のお方さまを経て殿に至れば、殿にもあのしるしが起こるのじゃ。オランダ医者にもかほどの奇験ある法があるか。あるはずがない。――」
「ある!」
と、兵太郎はさけんだ。
「なに、ある?」
「おお、それを見せよう。――」
「待て、いま見せる必要はない。殿はわしの肉輪の儀を御執行中じゃ。――」
しかし、兵太郎は馳《は》せ寄った。――志摩守が吸いついているお桃の方のところへ。
「ゆるせ、お洋――」
と、彼はいった。なんのために、離れたお洋にそんなわびごとをいったのか。気でも狂ったのか、と輪天は眼をぱちくりさせたが、それから兵太郎のやりはじめた所業を見るに及んで、完全に胆を奪われた表情になった。
電光石火のごとく袴《はかま》をぬぎ、兵太郎はお桃の方を犯しはじめたのである。――いかにもこの方は空《あ》いているけれど、なにしろお桃の方は志摩守に吸いつかれているという態勢だから、兵太郎の姿勢も常態ではあり得ない。すなわち両手をついてしかも仰向けになり、両足はお桃の方の尻に巻きつけて、彼自身のからだは宙に浮動しているといった、「医心方《いしんぼう》房内篇」も三舎《さんしや》を避ける曲技であった。
「――あっ」
ふたたび、これは輪天だけの絶叫であった。
大膳どのの精汁はまだ金弥から完全に去っていないしるしは見えるのに、志摩守にそのしるしが――ほとんど天をつかんばかりのしるしが現われたのだ。
同時に、志摩守は、お桃の方と大膳どのから離れた。――図解すれば、次のようになる。
(画像省略)
「……やっ?」
と、兵太郎もさけんだ。
彼としてはただかかる天魔|波旬《はじゆん》のわざによって主君を男にするよりも、それ以前におのれの生命力で――と思い、ただし主君の肉体の両端はふさがっているから、その直前の女人に残る管口を利用しただけだが、しかし空虚であったものが満たされた圧力の関係からか、思いがけず自動的にその二ヵ所が分離したのである。
「うおっ」
大膳どのはさけんだ。大なまずみたいな唇がぱくぱく動いた。
愕然として志摩守を見やったまま立ちすくんでいた赤法華輪天は、ふいにうしろから大膳どのにしがみつかれてどうところがり、つかんでいたお洋の手を離すとともに、その手くびから数珠まで遠く飛んだ。
「な、何をいたすっ」
輪天らしくもなく声が乱れ、さらに緋の衣まで乱れた。――なんと大膳どのは、その衣の裾《すそ》をまくりあげ、輪天の尻をむき出しにして、その尻に吸いついたのである。大膳どのに施された呂の術は、まだ欲求不満の炎をあげていたのだ。ぴしゃっというような痛烈無比の音がした。
「わっ、わっ」
と、輪天は身をもがいて離れようとしたが、離れない。――彼は顔をひんまげてさけんだ。
「諸行無常、会者定離!……いや、だめじゃ、数珠がのうては……そこの数珠をとってくれえ、その破輪の数珠を。――」
声をしぼったが、だれもかえりみる者はない。波切志摩守はおのれの男性をはげしく振り立てながら狂喜乱舞しているし、京丸兵太郎はひしと裸身のお洋を抱きしめているのであった。
「兵太郎さまっ、おみごとです、オランダ医術……」
と、兵太郎の腕の中で身もだえし、お洋がうっとりとあえぐのに、兵太郎は狼狽《ろうばい》した。
「ちがう、これはオランダ医学じゃない。オランダ医学の修行なかばにして、おれはそなたを思い出し、矢も楯もたまらなくなって帰って来たんだ。……」
赤法華輪天は、いましがたの波切大膳どの同様、砂の中のうなぎみたいに口をぱくぱくさせていた。それはこのまま大膳どのの巨大な唇に吸いつかれていたら、ついには自分はからっぽになってしまうという恐怖であった。
それを救うには、例の肉輪構造式によらねばならぬ。――
輪の原理につき動かされ、彼はがばがばと二メートルばかり這って、そこにうごめいているお桃の方の尻に吸いついた。新構成による肉輪が出現した。
「長崎へいって、おれはほんとうにそなたを愛していたことを知った!」
兵太郎はお洋の唇を吸った。
魂まで吸いあげられるような強烈な口づけののち、お洋がいった。
「……波切忍び組の呂の術?」
兵太郎は赤面して答えた。
「……いや、ちがう。これはオランダ商館で学んだクッスの技術だ。――」
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忍法小塚ッ原
一
小塚ッ原。
江戸|浅草《あさくさ》の北方に千住大橋《せんじゆおおはし》がある。橋の南を下宿《しもじゆく》といい、ここから山谷にかけての一面の原野をいう。ここに高さ三メートルばかり、周囲六メートルほどの塚があり、上に獅子の鼻に似た石を囲んで三本の榎《えのき》が生えているが、この塚からこの地名が生まれたらしい。
有名な処刑場であり、また刑屍《けいし》の埋葬場である。
江戸時代には、ここと品川《しながわ》の南にある|鈴ヶ森《すずがもり》が二大刑場であって、鈴ヶ森が東海道方面の犯罪者、この小塚ッ原が中仙道、奥州街道方面の犯罪者を処理したという。
そしてまた、首を斬る処刑にも二種類あって、一つは「斬首《ざんしゆ》」、これは一般庶民の場合で伝馬《てんま》町|牢《ろう》屋敷で斬り、べつべつになった首と胴を、四斗|桶《おけ》または空俵に入れてこれらの場所へ運んで埋葬する。もう一つは「死罪」、士分以上の者で、これは直接刑場で斬られる。磔《はりつけ》とか火あぶりなどはもとより、梟首《きようしゆ》も刑場の分担だ。
もっとも江戸時代すべての法規がそうであるが、これらの分類分担はすこぶるあいまいでいいかげんなところがあって、安政六年十月に処刑された吉田松陰《よしだしよういん》などは長州出身で、むろん士分であるのに牢屋敷で斬られ、しかも屍体はこの小塚ッ原に運ばれている。
小塚ッ原に於《お》けるこの松陰の屍体についての凄惨《せいさん》な記録がある。
松陰の処刑をきいた桂小五郎《かつらこごろう》、伊藤俊輔《いとうしゆんすけ》(博文《ひろぶみ》)ら四人の弟子が小塚ッ原に至ったところ。――
「幕吏もまた至り、回向院《えこういん》の西北方なる刀剣試験場そばの藁《わら》小屋より、一つの四斗桶を取り来りて曰《いわ》く、これ吉田氏の屍なりと。四人環立して蓋《ふた》をひらけば、顔色なお生けるがごとく、髪みだれて面にかぶり、血ながれて淋漓《りんり》たり。かつ体に寸衣なし。四人その惨状を見て憤恨禁ずべからず。髪をつかね、水をそそぎて血を洗い、また杓柄《しやくえ》を取りて首体を接せんとしたるに、吏これを制して曰く、重刑人の屍は他日検視あらんも測られず、接首のこと発覚せば余ら罪軽からず、さいわいに推察を請うと」
杓柄を以て接せんとしたとは、そこにあった柄杓の柄だけを切りとって、首と胴に刺しこんで接ごうとしたというのであろう。
松陰以外にこの小塚ッ原で処刑されたり埋葬されたりしたことが判明している有名な連中には、八百屋《やおや》お七《しち》、直侍、鼠《ねずみ》小僧、相馬大作《そうまだいさく》、橋本左内《はしもとさない》、頼三樹三郎《らいみきさぶろう》、桜田の変の浪士たち、高橋《たかはし》お伝《でん》、夜嵐《よあらし》お絹《きぬ》などがある。
鈴ヶ森の方は知らず、江戸時代ここで受けつけられた刑屍だけでも実に二十余万人に上るという。年平均千四、五百人処理されたという。江戸時代というのは世界でも類のない長年月の泰平期だが、しかし裏面でそれを支えるかかる恐るべき事実があったのだ。
二
安政のころ、ここに奇怪な首斬り役の男がいた。名を鉈打天兵衛《なたうちてんべえ》という。
奇怪なというのは、首斬り役ではあるが、この男が果して役人か、ということになると、だれも首をかしげるからだ。
もっともこういう人物は、伝馬町の牢屋敷の方にもいた。有名な山田浅《やまだあさ》右衛門《えもん》だ。一人ではない。代々首斬りを職業としたが、これが幕府の役人ではない。本来は市井《しせい》の浪人である。ただ首斬りなどいう仕事は役人もいやだと見えて、いつのころからか、この浪人がその役を承ることになった。しかも浅右衛門の方から役人へ謝礼の金一封を出していたというから奇妙な習慣だが、これは彼が大名や旗本から新刀の試し斬りを依頼されていたからで、その礼金の一部をさいてそうしていたのである。ほかにまた屍体の胆《きも》などを干して薬として売っていたともいう。
この鉈打天兵衛も、小塚ッ原の首斬り浅右衛門にあたる者か。事実、右の松陰死屍の記録にあるようにここにも刀剣試験場があって、彼がそこの主みたいな存在であったことはたしかだ。しかし彼は浪人ではなかった。さればとて奉行所や牢屋敷から派遣された役人でもないらしい。――
むろん奉行所や牢屋敷の首脳部は、彼の素性を知っていたであろう。しかし小塚ッ原に勤務する下級役人たちは知らなかった。ただ天兵衛が何十年も前からこの役をやっているということを承知しているだけだ。
そしてこの仕事に於ける彼の熟練ぶりを見ると、その素性などは何でもよく、それどころかただこの仕事をするために生まれて来た人物ではないかと思う。生まれながらの首斬り男ではないかと思う。
斬罪では、囚人の顔を二つ折りにした半紙で覆って、落ちないように細い藁縄《わらなわ》で頸《くび》に結《ゆ》わえ、うしろで結ぶ。目かくしだ。喉《のど》には縄をかけてある。これを斬り場に敷いた莚《むしろ》ないし空俵の上に坐《すわ》らせる。すぐ前には血|溜《だ》めの大穴が掘ってある。
さて、そこで着物の襟《えり》をひき下げ、両肩ぬがせ、前かがみに首を穴の上につき出させる。喉縄をはずすと同時に、首斬り役の刀身|一閃《いつせん》して首を穴に斬り落す。そのあと、斬り口から血が出つくすまで屍体の足を押えている。血は約一升五合流れ出るという。
さてそのあと屍体を四斗桶或いは空俵へつめるのだが、このとき首は屍体の腕に抱いて持たせる。恐ろしいポーズだが、何やら滑稽《こつけい》の感がないでもない。そして埋葬場に運ぶ。これが浅い穴に、ただ薄く土をかけただけというあしらいで、とくに夏など一帯に腐臭ただよい、銀蠅《ぎんばえ》が飛び交い、またしばしば野鼠野犬がむらがって凄《すさま》じい牙音をたてていたという。
小塚ッ原に於《お》ける死罪も同様で、ここでは罪囚に眼かくしさせず、また屍体運搬の距離も短い、というよりそこが埋葬場なのだからいっそう簡単だ。
そして、何より簡単なのは、首斬り役の妙技であった。鉈打天兵衛の手練であった。
年ははっきりしないが、四十半ばだろうか、馬のように長い、間のびした顔をしている。いつも居眠りしているようにまぶたが垂れ下がり、唇はいつもだらんとあけている。ただし、馬鹿《ばか》には見えない。何だか虚無的な哲学者みたいに見える。
伝馬町の山田浅右衛門でさえも、ときに斬りそこね、二刀、三刀でやっと首を斬り落すことがあるという。囚人がもがいたり、あばれたりするからである。しかるにこの鉈打天兵衛の場合はいつもただ一太刀であった。
ふしぎなことがある。彼に斬られる囚人は全然騒がないのだ。死の座にすえられる前に、彼は長い顔をななめにかしげて囚人を眺《なが》めているが、このときから囚人はぴたっとしずかになってしまう。まるで死神に魅入られたようだといおうか。それからさらにふしぎなことは、彼のふるう刀が人間の首を切断するときに、ほとんどそれらしい音をたてないのだ。人の首が斬られるときは濡手拭《ぬれてぬぐ》いをはたくような音がするが、彼の刀は豆腐でも切るように通りぬける。囚人の頸椎《けいつい》が軟骨化したのではないかと思われる感じである。
処刑の日、雨がふっていたことがある。しばらく待っていたが、だんだんひどくなるばかりだ。雨がふるからといって、処刑を明日にのばすというわけにはゆかない。
「やろう」
と、天兵衛は重々しくいった。雨の中に罪人がひき出された。小屋の中でそれを見ていた天兵衛は、煙管《キセル》をしまい、傘《かさ》をさして出ていった。
「お持ちしやしょう」
と、非人が寄って来た。傘のことだ。
「いや、よろしい」
と、天兵衛はいって、左手に傘の柄をもったまま、囚人のうしろに立った。傘のふちから銀の簾《すだれ》を張ったように雨がながれ落ちている。
水の紗を破って刀身がひらめき、囚人の首は落ちた。片手斬りだが、このとき人々は彼のさした傘からながれ落ちる水の糸が、微風に吹かれるほども動かなかったのを見たという。――またそのあとで、天兵衛の腕も袖《そで》も一滴の雨にも濡れていないのを知ったという。
また、或る日。
そのときの囚人は女であった。三十ばかりだが、こういう刑を受けるような罪を犯したのが信じられない、美しい、やさしい顔をしていた。彼女はしきりに念仏を唱えていたが、例の穴のふちの莚に坐らせられたとき、
「お願いでござります。西の方をむいて死にとうございます」
といった。
穴は彼女の東側に掘られていた。だからといって断罪の座を反対側に移すなどいうことは許されなかった。しかし天兵衛はうなずいた。
「よろしい」
そして、女の首を押えていた非人にその手をはずすように命じた。女は首を穴の上にさし出さず、まっすぐに立てた。その刹那《せつな》、光流が走った。女の白い頸に赤い絹糸みたいなものが浮かび出た。
「西方を誦せ」
と、天兵衛がいった。
すると女はゆっくりとうしろをふり返った。見ていた人間があっと眼をむいたのは、その女の首が赤い絹糸の上から完全に反対側に回転したからである。のみならず、その唇がうごいた。念仏を唱えたようである。唇がとじられると同時に首は西側に落ち、首のない胴は東の穴の方へばったりと伏した。絹糸のあった部分が真っ赤な切口になって、そこから血を吐きつつ。
この断頭の術、まさに人間のわざではない。――
鉈打天兵衛は何者か。その素性を知ったただ一人の人間がある。それは天兵衛の弟子で、香月平馬《こうづきへいま》という若者であった。
三
一年半ばかり前、遊女を殺した浪人が、天兵衛の手で斬られた。その屍骸を受取りに来たのが友人と称するこの若者で、彼はその首の斬り口をじいっと見ていたが、
「凄《すご》いものだ、この斬り手は」
と、うめいて、天兵衛に弟子入りを申し込んだのであった。
その場に天兵衛は居合わせていたわけではなかったが、それをきいて、「ふむ、斬り口を見てか」と彼はつぶやき、「逢うてやろう」といったのみならず、逢って、その首斬り役志願の若者をじいっと見つめていたが、やがて「よろしい、弟子にしてやろう」とうなずいたのである。
「おまえには、見込みがある」
と、彼はいった。
自分で志願したくせに、平馬はめんくらった顔をした。
「何を見て、見込みがあると申される」
「剣気」
きいていた役人たちがまばたきをした。平馬は、女にもまがう――美少年といっていいあえかな姿を持っていたからである。香月平馬も妙な表情になって首をひねっただけであった。
天兵衛は眠たげにつぶやいた。
「何の変ったこともないのに、ふだん人を殺せる気を包んでいるという人間は、世にないではないが、貴重な素質である」
ともかくも、平馬は天兵衛の弟子となった。こういうことが出来たのも、天兵衛が正式の奉行所の役人ではなく、かつこんな役の志望者が将来ともめったにありそうにないという理由からであったろう。
実際このごろばかに仕事がふえて、例の大獄の余波で、江戸市中から狩りたてた有象無象の不逞《ふてい》の浪人どもを斬るのに、直径何メートルかの大穴を掘って、いっぺんに処刑をするといった日がしばしばあり、いかな熟練工でも鉈打天兵衛一人では間に合わず、いやいやながらほかの役人も手伝わねばならぬといった場合があったのだ。
そういうわけだから、新参にかかわらず、香月平馬もわりに早く実務につかせてもらったが、首の座にすえられた人間を斬るということが、想像を超えてうまくゆかない。往生際の悪いやつは悪いやつで、また虚脱状態になっているやつはまたそれなりに、かえってこちらの気がひるみ、なかなか仕事がきれいにゆかない。――いわんや、鉈打天兵衛の域に達するに於てをやだ。
或るときなど、香月平馬は、半分頸を切った老婆が、いきなりふりむいて血だらけになったまましがみついて来て、数人の非人にやっとひっぺがしてもらうという醜態を演じたこともある。
そういう平馬を見ながら、天兵衛は何もいわなかった。手をとって教えるということもない。
平馬が刀さばきの教えを請うと、
「剣術は教えることが出来るかも知れんが、その方はおまえの方が上だろう」
と、例の眠たげなまぶたをわずかにあげてつらつら眺め、
「首斬りの方は、ただ数をこなすよりほかはないな」
と、いって、あとはだらんと口をあけたきりであった。
そして、眠たげに、口をだらんとあけて罪人の首を斬る。夜毎《よごと》、日毎、斬る。――数ヵ月たって、平馬はまたきいたことがある。
「私、お弟子にしていただきながら、かようなことをおたずねするのはどうかと思いますが、お師匠さまはいったいどういうおつもりで毎日こんなことをやっておられるので?」
「おまえは、どういうつもりで志願した」
天兵衛がそんなことをきいたのもはじめてだ。
彼は平馬の動機はおろか、その過去についてもいままで何もたずねたことがない。とくに意識してきかないというより、そんなことはどうでもいい、全然興味がないといったようすであった。
「は。――私はやはり、その、悪を誅戮《ちゆうりく》する、という業務に参加し、いくぶんでもそのお手助けになればと存じまして」
「わしもその通りじゃよ」
その通りかも知れないが、この天兵衛という人間を見ていると、ただその通りだけではないように見える。もっと何か深遠な理由があるように思われる。だから平馬はきいたのだ。
「けれど、私は」
と、平馬はいった。
「実際にやって見まして、中にはやはりかかる惨刑を与えるのはちと酷ではないか、と思われるやつもなきにしもあらず。――」
「そんなことはない」
天兵衛はくびをふった。
「人助けじゃよ、みんな」
「人助け?」
「当人のためにも、他人のためにも」
「よくわかりませぬが」
「生きるに甲斐《かい》ある人生を持っている人間というものは、そんなにない」
「はあ?」
「その証拠に、人にして、それまでの人生をそっくりそのままもう一度繰返せといわれたら、身の毛をよだてて、それだけはお許しをと願わぬやつがあろうか。もしあるとすれば、そやつは阿呆《あほう》だけじゃ」
「しかし、ともかくも人間は生きたがっております」
「また当人は生きたがっても、人に迷惑にならぬやつは一人もない。どんな人間が死のうと、他人にとっては痛くも痒《かゆ》くもない。ふん、そうか、というだけじゃ。それどころか一人が死ぬと、かりに五人泣く者があるとすれば、少くもその十倍の五十人はせいせいするやつがおる。それは人間、一生に何かよいことをしたとすると、必ずその十倍は罪深いことをしておるせいでもある。――」
ちょっと長い顔をかしげていった。
「ただ、この世に存在する値打ちのある者がないでもない。それは若い美しい女じゃ」
この人物にしてこの言辞があるか、と感ぜざるを得ない。
「しかし、その美もいいところ十年で消え失せる。あとはこの地上に於て最も醜悪なる、若くない女という動物がいつまでも長生きして他人を悩ますばかりじゃ」
奇怪にたえぬかのようにつぶやいた。
「実際、人は、なぜこう生きたがるか喃《のう》。……」
笑うべきことではないにもかかわらず、この恐ろしい首斬り哲学者の表情には、ふしぎにユーモラスなものがあった。
「先生、生きるに甲斐ある人生を持っている人間はそんなにない、と仰せられましたな」
と、平馬はいった。
「では、先生はどうです」
「わしにはない」
「はあ?」
「わしも実は何のために生きておるかわからぬよ」
笑いもせずにいった。こんどは逆に、こちらが笑おうとしても声がのどの奥で凍りついてしまうような厳粛なものが、靄《もや》のようにこの首斬り名人の姿にからみついているのを平馬は感じた。
そして鉈打天兵衛は、まるで機械みたいに人の首を斬る。
四
人間は不可解なものだ。まもなく平馬は、天兵衛のとんでもない趣味を発見した。――発見したのではない。天兵衛の方から平馬にそれを告白したのである。
「平馬、おまえ、吉原《よしわら》を知っておろうが」
ふと、或る日、天兵衛がいい出した。
「いつぞや、おまえの友人が吉原の女郎を殺してわしの刃にかかった。おまえも、廓《くるわ》は知らぬことはあるまい。――」
「それは、知らぬでもありませぬが」
「そうだろう。知らぬどころではない。おまえに恋着して夢中の遊女がたんとおったに相違ない。――」
「それが……どうかいたしましたか」
「つれて来られぬか」
「廓の女郎を、小塚ッ原へ?」
「もし心当りの女がおるなら、廓の亭主にはわしから話す。むろん、揚代もつかわそう」
遊女はめったに廓から外へ出られぬことになっている。しかし小塚ッ原から指示すれば、それを拒否する女郎屋はまずなかろう。距離もほんの一足でもある。もっとも、首を斬らぬという保証あってのことだが。
平馬はしかし狐《きつね》につままれたような顔をした。
「つれて来て、何をするのです」
「交合してくれい」
「へ?」
「わしは、それを見る。……なるべく若く、なるべく美しい遊女がいいな」
この人は、こんな趣味を持っていたのか。――はじめて知ったというのはこのことだが、まじまじと相手を見たまま、平馬はしばし声もなかった。天兵衛はニコリともせず、まじめな顔をしている。
しかし、驚くべきことを知ったのはその次であった。
「そんなものを御覧なされて、何をなさるのでござる」
という平馬の問いに、
「まず見ろ」
天兵衛は小屋の棚《たな》から一本の徳利をとり出した。その徳利に栓《せん》がしてあるのを、はじめて平馬は見た。
天兵衛はそれを口にあてた。――酒ではないらしい。しかも極めて少量らしく、それが垂れて口のところまで来るのになかなか時間がかかり、天兵衛はしきりに頬《ほお》をくぼませた。やがて、それは何とか口中に入ったらしい。唇のはしににじみ出したのは、ねっとりとした半透明の粘液のようなものであった。
彼は脇差《わきざし》をぬいた。刀身をかざし、それをめがけて口をすぼめた。すると――何であろう、白い蜘蛛《くも》の糸みたいなものが、ビラビラビラ……と噴き出された。彼はまんべんなくそれを、刀身の鍔《つば》もとからきっさきまで、両面に噴きつけた。
それから――平馬は、あっとさけんだ。
天兵衛が床におのれの左手の掌《てのひら》をひらいてつき、その刀を振り下ろして、親指をまんなかからぷつりと切断したのを見たからだ。
「見ろ」
天兵衛はもういちどいって、切り離された指を平馬につきつけた。
それはまるで粘土を切ったようになめらかで、骨を中心に切断面を見せていたが、血は流れていなかった。それどころか、その切断面はうす白いものに覆われている。平馬はそれが無数の粘糸をなすりつけたようなものであることを知った。白い――と見えたのは一瞬で、みるみるそれは真ッ赤に染まった。
「この小塚ッ原で解剖《ふわけ》なるものが行われたのは明和八年というから、かれこれ八、九十年も昔のことになるが」
と、彼はつぶやいた。
「いまもちょいちょい蘭《らん》学者が来てやっておるが、血の通る管には動脈と静脈と、それをつなぐ毛細管なるものがあるそうな。これは、その毛細管の役目をしておる。つまり、切られた動脈の血が、これをつたって静脈に移るのじゃ」
平馬にはよくわからない。――掌に残った親指の切断面にも同様の現象が起っているのを、眼を見張って見つめているばかりである。
「従って、切られた指は死なぬ」
天兵衛は落ちた指を拾いあげて、二つの切断面をぴったりくっつけ、じっと握りしめること数十秒。――押えていた手を離した。
指はつながっていた!
ただ、よく見れば、そのまわりに赤い絹糸みたいなすじがある。――しかし指は、ヒラヒラと動いた。天兵衛はにたっと笑った。
「どうじゃ?」
平馬は瞳孔を拡大させたままである。
「斬った刃にしかけがあったことはいま見た通り。もっとも、斬り手がわしでないと出来んことじゃが」
「そ、その……刃に塗られたのは何でござる?」
「淫水《いんすい》」
「へ?」
「女陰中から採取したもので、男の精汁と女の愛液の混合物」
平馬はまた絶句した。――もと通りのまじめな顔に戻って天兵衛はいう。
「うそではないぞ。げんに見た通りじゃ。精汁愛液、ともに――これも蘭学者からきいたことじゃが――いずれも無機物ではない。それは生きておる液じゃ。とくに精汁の方には、女の愛液に賦活されて一滴の中にも何万匹かの虫がうじゃうじゃとうごめいておるはず。――血くらい運んでなんのふしぎがあろうか」
「し、しかし」
と、平馬はあえいだ。
「せ、先生は。――」
「おまえじゃから、知らせておこう。べつに特にかくしておることでもないが」
天兵衛はしずかにいった。
「わしは伊賀《いが》者じゃ」
「はあ?」
伊賀者の名は知っている。それは江戸城諸門の警衛にあたる卑賤の職である。が、記憶の水底から気泡《きほう》がたち昇って来るように、これが元来は忍びの術を心得ていたいわゆる忍法者の後裔《こうえい》であることを思い出すまでには数十秒の時間を要した。時は安政のころの話なのである。
「わしは生甲斐はないといった。しかし、まあ、あるとすればこれじゃな。……この人間|接木《つぎき》の術をもうすこし研究してみたい。そのためにはもっと大量にその接着剤、すなわち淫水が、しかも出来るかぎり生命力の強い若々しいやつが欲しい。すなわちおまえに依頼するゆえんじゃ。わかったか」
のちになって、平馬はくびをかしげたことがある。それはこのとき、つまり最初に使用して見せた徳利の内容を、いったい天兵衛はどこから採取したものであろうか、ということである。が、その疑問はもとより。――
「では、では――先生が私を弟子にして下されたのは、そんな目的からでござるか」
という問いに、
「まず、そんなところだ」
と天兵衛が恬然《てんぜん》として答えたのにも、むっとするどころか、そんな理性や感情はすべてかなぐり捨てて、
「作りましょう、そのもの[#「もの」に傍点]を」
と、平馬はさけんでいた。全身を燃えあがらせる驚異と好奇心であった。
「やってくれるか。わしの見込んだ通りであるな」
「心得てござりまする。しかし、先生、そのもの[#「もの」に傍点]を大量に得て、どういう風に研究なさるのでござる」
「首をつないで見ようと思う」
「――ひえっ」
「人間なるものに、わしは以前からふしぎに思っておることが二つある。いや、それは数々あるが、当面問題にしたいのは次の二つじゃ。一つは、いつかもいったように――当人もさして幸福に思わず、どう見てもさして値打ちがあるとは見えぬ人間が――つまり、二度と同じ人生を送りたくないと考えておるにふさわしい人間が、なぜああもむやみやたらに生きたがるかということじゃ」
「そ、そんなことは当り前で――いかに値打ちがなくても不幸でも、自分のいのちは一つでござるから。――」
「もう一つはじゃ。もしかりに生まれ変ることが出来るとするならばだれに生まれ変りたいか、というと、その不幸で値打ちのない人間がじゃな、空想ではともかく現実では、それならあの人に生まれ変りたいという具体的人物像が、まあそこらには存在しない、ということじゃ。つまり、どこまでも自分にこだわるところがわけがわからん」
「そ、そんなことは当り前で――他人に生まれ変ったところで、それは他人でござるから。――」
「とにかく、後者の矛盾した願望を止揚するのに、前者のこれまた矛盾してはおるがどうしても生きたいという執念を利用したい」
と、この首斬り哲学者は荘重にいった。
「すなわち、斬った首を他人の胴につないでやるといったら、そやつはどうするか」
「――えっ」
「それならば、他人に生まれ変っても、自分は自分」
平馬は何度めかの唖《おし》になったが、ややあっておずおずといった。
「先生」
「なんだ」
「他人に生まれ変っても自分は自分、とおっしゃいましたが……たしかにその通りにちがいありませんが、その生まれ変ったのは胴体の方で? それとも首の方で? つまり、主体性はどちらにあるのでござりましょう?」
「さあそれじゃ。世にへそから下は人格がないという言葉がある。つまりその方の責任は持てないということで、してみると、首の方に主体性がありそうじゃが、果してそうかな? つらつらわしの考えたところによると、必ずしもそうではないな。からだの都合で頭の方が変るということがたしかにある。頭と胴体と、強い方が相手を制するのではないかと思われるふしがある。――」
――こんなところで作者が顔を出して恐縮ですが、この鉈打天兵衛の思想には一考に値するものがあるように思われます。
たとえば人相のごとき、これは位置的には首に属するけれど、脳髄と肉体とに分類すれば、あきらかに肉体に属する。すなわち骨格と筋肉の組合せに過ぎない。しかし、この外面がいかに内面に影響するか。たとえば保守党と革新党の代議士の顔は、そのレッテルを見ないうちからはっきりわかるほどだが、あれをそれぞれの思想がそれぞれの容貌《ようぼう》を作ったと見るより――どう見てもそれほど強烈な作用を持つ思想の持主とは思われない――それぞれの容貌がそれぞれの思想を作ったと考えた方がむしろ中《あた》っているように思われる。むろん例外ということは何にでもあるけれど、大体に於て、ああいう顔をしたやつはああいう思想を抱くものだと見た方が無理でないように思われる。思想は一夜にして変るが、容貌はおいそれとは変らない。この方が重い。四十になったら顔の責任は自分で持てといわれるけれど、四十までの顔がその思想を決定するのではなかろうか。肉体が思想を支配する好例は、いまの学生騒ぎである。試みにいま保守党代議士と全学連をタイムマシーンに乗せて江戸の小塚ッ原へ運び、鉈打天兵衛の刀光一閃、その身首をかえて――それが可能であったとして――そしてまたふたたび現代の東京へつれ帰ったとしたら、代議士の胴体を持った学生の顔は必ず酢をなめたようにニガニガしげに舌打ちをし、代議士の首をのせた学生の胴体の方はきっとゲバ棒ひっかかえて駈《か》け出すことを、作者は信じて疑わない。
「ふむ、それも面白い研究の主題じゃな。同一個体ではどちらが影響したか不明確なことも、べつべつに交換してみると、その点がはっきりと把握《はあく》出来るであろう」
と、処刑場の哲学者はうなずいた。
「ともあれ、首と胴をとりかえる、という再生の法によるなら、人間はたとえなかば他人になっても生まれ変ることを欲するか。――」
「そ、それならば、だれしも生まれ変ってもよいと思うでござろう。――少くとも、死ぬよりは」
「そのためには、それ、例の淫水が要る」
と、鉈打天兵衛は論をもとに戻した。
「平馬、それをわしにたっぷり供給してくれるか」
「いたします。いたします」
と、平馬はこぶしを握りしめてさけんだ。
「一|升《しよう》なりと、一|斗《と》なりと。――」
五
雨の夜など、ときどき青白い燐火《りんか》が燃える小塚ッ原。
ちょうどそんな夜、鉈打天兵衛のものときめられている詰所で、問題の接着剤或いは動脈静脈結合糸の採取が行われた。
採取用の生体はむろん近くの吉原からつれて来られた遊女であったが、たとえ小塚ッ原からの命令があったとしても、つれ出したのが香月平馬でなかったら、決して承知しなかったにちがいない。ここのところさっぱり姿を見せなかったが、平馬はひととき吉原の女たちすべての胸を躍らせたもので、とにかくその平馬と一夜|契《ちぎ》りを結ぶのが条件だときいた上、たっぷり謝礼が出るとあっては、小塚ッ原だろうがどこだろうが志願者のむれがどよめきたったのは当然で、ただ一人選抜されたその遊女に対して、みな羨望《せんぼう》の吐息を吹き送ったほどである。
だから、むろん若くて美しい遊女であった。
遊女ではあるが、場所が場所だ。それに、そばにもう一人、見物の男がいるのには辟易《へきえき》しないわけにはゆかない。これがまた馬みたいな長い顔で、口をだらんとあけて、しかも何やらうす気味のわるい男とあっては、辟易どころではない。――ただ、その彼女を、ともかくも抱かれる気にさせたのは、抱いてくれるのが憧れのまとであった美しい香月平馬だからであった。
それにまた平馬が、廓へいったときの倍の努力をした。何しろ、男の力の及ぶかぎり多量の精汁を注入し、女のからだの許すかぎりの愛液を湧出《ゆうしゆつ》させ、両者相合して極力盛大に淫水を製造しようというのが目的なのだから。
その念力に巻きつつまれ、遊女はついに場所も忘れた。そばに坐っている男も忘れた。そしてついに「失神」状態におちいった。
遊女の意識を吸い戻したのは、その後の痛烈な感覚ではある。痛烈であるが、先刻の平馬との交合の三倍くらいの快感であった。女にして、彼女は放出した。いや、吸いあげられた。肉はおろか、骨の髄まで。
先刻の平馬?――さっきべつの男が坐っていたところに平馬が坐って、腕組みをして、あっけにとられた顔で眺めていることに気がついたのはそのときである。気がついたが、酔眼朦朧《ようがんもうろう》といったありさまの彼女はどうすることも出来なかった。では、わたしをこんな気持にさせてくれているのはだれだろう、という疑問を抱く能力さえ彼女は失っていた。
平馬は、遊女が先刻の五倍くらいの長さで笛みたいな声の尾をひくのに、茫乎《ぼうこ》として鼓膜《こまく》をしびれさせていた。
「頼んだ甲斐があった」
鉈打天兵衛は壺《つぼ》に何やら吐きながらいった。
実験室の化学者みたいな手つきで、慎重にそれを徳利に移す。
「かたじけない。これで当分はつとまる」
六
神田|鍋《なべ》町の薬種問屋|叶屋銀兵衛《かのうやぎんべえ》、御家人|赤瀬源次郎《あかせげんじろう》。
これが小塚ッ原で同罪で斬首されることになったのは実に面妖《めんよう》なきっかけからであった。
銀兵衛は六十を越えているのに、金にものをいわせて妾《めかけ》を五人も囲っていた。ただし、この五人を別々にではなく、同じ一軒に置いていたのは、金にものをいわせて、というけれど、町人らしい算盤《そろばん》からか、それとも相当な悪趣味からか。ともかく、肥ってはいるけれど、背ひくく、水ぶくれしたようにだぶだぶした老人であった。
これが御家人の赤瀬を、妾たちの用心棒に傭った。赤瀬はまだ若いのに、家族を十余人かかえ、赤貧洗うがごとくで、そのためともかくも徳川の禄を食《は》む者が、内職ながら町人の妾の用心棒になるという情けない破目になった。
女のための用心棒というのは、わりとその選定が難しい。用心棒だから或る程度強くないと困るが、一方ではひとの妾の用心棒になるようなやつにろくな男がいるわけはないから、うっかりすると飼犬に手をかまれる――守るべき義務のある女に牙《きば》をかけるということにもなりかねないからだ。
その点、この赤瀬源次郎は甚《はなは》だ適性であった。若くていいからだをしているが、二、三代前から叶屋に借銭があって、絶対に頭があがらない。とにかく、先祖から叶屋に頭の下げ通しなのでもうそれが遺伝になって、一町さきからゆき逢っても、いや姿が見えないうちから本能で嗅《か》ぎつけて、反射的にお辞儀をするほどである。これなら決して裏切る心配がない。
それでも銀兵衛は、彼を決して妾の家には入れなかった。ただ日夜、その家のまわりをパトロールさせるだけであった。そして事件が起ったのだ。
銀兵衛が用心棒を傭ったのは、虫の知らせ――というより、何やら気にかかることがあったからで、その予感は的中した。
或る夜その家に忍び込んで、忍び出た男が殺された。殺したのは赤瀬源次郎である。彼は、盗賊だと思い、捕えようとしたら抵抗したのでやむを得ず斬り殺したと申したてた。しかし調べて見ると、殺された男は浅草の絵双紙屋の息子で、決して泥棒《どろぼう》に入るような人間ではないことが明らかになったので、きびしく追及したところ、男は叶屋の妾の一人のもとの恋人で、その女に招かれて忍び込んだものであり、源次郎は叶屋の用心棒としてその義務を果したものであることが判明した。そして、その殺人の動機はともあれ、御家人にしてそんな内職をしていたということの方が罪が重く、源次郎は斬首の刑に処せられることになったのだ。
叶屋は御家人を傭ったということで、「急度叱《きつとしかり》」というお咎《とが》めを受けただけであった。――事件はそれで落着したように見えた。
「それが妙なことになった」
身首交換実験第一号について説明したとき、鉈打天兵衛《なたうちてんべえ》が平馬にいうのである。
彼は伝馬町牢屋敷へいって、収獄中の赤瀬源次郎を見た。近く小塚ッ原へ送られて来る人間の下見をしたのである。それから、何思ったか、鍋町の叶屋を訪ねた。
天兵衛はもともと叶屋と知り合いであったのだ。首斬り人と薬種問屋がどうして知人であったのか、天兵衛は平馬に説明しなかったが、例の研究途上止血剤でも探しにいったのか、ひょっとしたら山田浅右衛門のごとく刑罪人の肝《きも》でも売る取引先の一つであったかも知れない。
叶屋の「急度叱」のお咎めはもう解けていた。そこで天兵衛が、「このたびはどうも」と挨拶《あいさつ》したのか、「ばかなことをしたものだ」と苦い顔をしていったのかわからないが、とにかく、
「赤瀬を生かしてやりたいが。――」
と、相談したのである。
いったん刑の決った者をそんなことが出来るのか、と眼をきつくした銀兵衛に、天兵衛は例の人体接着のことを打ち明けた。そしてまたも自分の指を斬って、ふたたびくっつけて見せてやった。それから、この件について特別の許可は、内密ながら必ず奉行所からとれるはずだといった。
「これを赤瀬に試みて――しかも別の人間の首ととりかえて見たいと思う」
と、天兵衛はいった。
「ただ首となると、相当に当人の念力が関係して来ると思う。もっと生きたい、死にたくないという意志が旺盛《おうせい》でないとうまくゆかぬと思う。それはだれでも生きたい、死にたくないと思うだろうが、案外判決を受けたとたんもう半分死んだ人間のようになってしまう手合が多い。ところで、きょう赤瀬を見ると、牢《ろう》の中でひたすら泣いておる。泣いておる罪人も少くないが、赤瀬の泣き方が少し異常なのでよくきいてみると、女を知らぬ自分が、ひとさまのお妾を守るために死ぬのが残念至極、という。――」
「わたしを恨んでおりましたか。この事件で、わしはあの男の家への貸金をぜんぶ棒引きにしてやりましたが」
「いや、それはありがたがっておった。何もおぬし個人を恨んでおるわけではない。あれは自分の役目としてあたりまえのことだといまでも悔いてはいない。悔いは、おぬしのことなど超えた自分の運命にある、といったが、その気持はわからんでもない」
天兵衛はこのとき妙な笑いをにじませた。
「おぬし、妾宅で五人も相手にして何をしておった。赤瀬は夜な夜な女の声に耳をすませておったらしいのだ。貧しいので嫁の来手もなく、女も買いにゆけなかったあの若者は、その声をきき、その習いが性となって――御覧なされ、と見せた」
「何を?」
「立っておった」
「何が?」
「牢に入っても、斬罪の宣告を受けても、立ち通し、ということじゃ。それが常態となったらしい」
「ほほう」
銀兵衛にもわかったらしい。
「それを見て、あれをその実験の対象にしてやりたいと思い立ったのじゃ」
「……しかし、首のとりかえっこというと、もう一人の人間が要りましょうが」
「さ、その相棒はこれから探す。それだけの執念の持主を見つけるのはちと骨じゃが。……とにかく赤瀬の一件については、おぬしの了承を得ておきたいと思ってやって来た次第」
銀兵衛は質問しはじめた。眼がぎらぎらとひかり、その好奇心はただならぬものがあった。彼もまた、もしそれがうまくいった場合、新しく組み合わされた人間を支配するのは首か胴か、ということを疑問の対象にした。それは、強い方が支配するだろう、と天兵衛は答えた。やがて銀兵衛は、
「その交換の相手をわしにして下さるまいか?」
と、意外なことをいい出したのである。
――結論からいえば、彼は若返りたい熱望にとり憑《つ》かれたのであった。自分はこのごろ耳鳴りがしたり、眼がくらんだり、息切れがしたりするが、少くとも若い赤瀬源次郎の胴体を得たなら、それだけ長生きの可能性があるというのであった。もしそれが出来るなら、財産の半分はあの赤瀬に与えてもいいとまで彼はいった。
「しかし、今の指斬りを見てもわかるように、その接着は早いにかぎる。むしろ即刻でないと予後が保証出来ぬ。が、おぬしを小塚ッ原で斬るわけにはゆかんじゃろうが」
と、天兵衛がくびをかしげるのに、銀兵衛は膝《ひざ》を乗り出した。
「いや、例の赤瀬の事件には、わしはもっと深い関係があるので」
「とは?」
「偶然、赤瀬が間男を見つけ出したのではなく、ほかの妾の密訴でわしが知って、赤瀬に教えて待伏せて殺させたので。――赤瀬は、借銭棒引きであとの家族が助かると思って、それはお上に申しあげなんだのでござりますが」
「それが事実であるか、どうかは知らぬ。――」
と、これは鉈打天兵衛が平馬にいったのである。
「とにかくこれで叶屋銀兵衛も改めてつかまって斬罪申しつけられたのじゃが――黙っておれば叱だけですんだことを、これはいわば斬首の志願者。これだけの熱意があれば、きっとうまくゆくであろうと思う」
実験用の二罪人の入手の顛末《てんまつ》だ。
「むろん、赤瀬は承諾した。しかも、万止むを得ず承諾したのではない。え、わたしに叶屋のお金を半分下さると? それなら胴のみならず首もさしあげてもかまわぬほどでござる、といったが、それでは財産をもらっても何にもならぬではないかと申したら、あ、それはいかにも、と頭をかいておったが――ともかくも、これで人間なるものは、必ずしも全部が自分でなくても、事と次第では半分他人に変ってもいいと考えるものであることを発見した。つまりそれほど自分を貴重なものに値踏みしておらんわけで、この自己評定は正しい。事と次第では――むろんそれによって、その方が倖《しあわ》せになると思うてのことじゃろうが――さて倖せになれるか喃《のう》」
この天兵衛がひとごとみたいにいうのは少々無責任のきらいなしとしない。
さて天兵衛が平馬にこんな話をしてから数日ののち、小塚ッ原にこの二人の罪人がひき出された。公示もなく、数人の役人以外は見る者もない夕暮のことであった。
「赤瀬さん」
妙な再会の挨拶ののち、銀兵衛は相手をにらみつけていった。
「わ、わしは三代前からおまえさんの家の面倒を見ている人間ですぜ」
「は。――わかっております」
赤瀬源次郎は直立不動の姿勢になっていった。それまでの収獄生活で髯《ひげ》はのび、垢《あか》だらけになっているのにもかかわらず、凶悪とは見えず、愚直さがありありと浮き出した若者であった。同時に、それ以前からの大貧乏というものもあるはずなのに、実にいい体格をしている。垢でひかっているのまでが、内からにじみ出た肉のあぶらそのもののように見える。
「金輪際《こんりんざい》、わしに弓をひいちゃあいけねえ」
「はっ」
この期《ご》に及んで何を威張って恩を売るのだろうと平馬がくびをかしげていると、天兵衛がいった。
「叶屋、いまあまりおどして、この若いのの気勢をそいじゃあ、あとでさしさわりがあるかも知れないよ」
ああ、そうか、と思いあたった。叶屋銀兵衛はいまから源次郎の胴体を制圧して置こうとしているのだ。――叶屋は狼狽《ろうばい》した。
「ちょっと、おまえさん、見せておくれ」
「は?」
「鉈打さまからきいたが、おまえさんは、その、どうなっても気勢ってやつをあげてるそうだね」
まだ何のことかわからないらしかったが、天兵衛に耳打ちされて源次郎は垢だらけの顔をあからめ、やがて、出した。平馬は眼をまるくした。いかにもそれは斬首場に来ても意気屈していない。
叶屋銀兵衛は飛びつくような眼をし、さらにそれを細くした。
「安心した。おまえさん、それをいつまでもつづけていてくれたら、叶屋の金、たしかに半分さしあげますぜ。そのつもりでな、しょげちゃいけねえ」
自分の支配できる肉体でなければこまるが、さればとてあまりに卑屈な肉体でもこまる。かねあいの難しいところだ。
「さ、鉈打さま、では早いところやってもらいましょうか!」
鉈打天兵衛は、二人を草の上の莚に坐らせた。
しずかに一刀を抜きはらう。平馬がさし出す例の徳利を口にあてて中身をふくむ。口をとがらすと、ビラビラビラ……と白い蜘蛛の糸みたいなものが噴きつけられる。たしか口にふくんだのは粘液のはずなのに、これが糸に変るところは、まるで蚕みたいな忍法としかいいようがない。
キラ、キラ、と閃光が二度走った。
同時に莚の上の二刑囚はそれぞれかすかに痙攣《けいれん》したが――それっきりだ。べつに何の異常もない。
……いや、やがてその頸《くび》のまわりにいずれも赤い絹糸のような赤いすじが浮かんで来た。やはり、斬られたのだ。それなのに、首が落ちないどころか、胴が倒れもしないのだ。実に驚くべき手練であった。
「交換」
と、天兵衛がいった。そして刀をおいて、叶屋銀兵衛の首を両掌ではさんだ。
平馬もがくがくする掌で、これは赤瀬源次郎の首をはさんだ。首は常人よりもむしろ熱いように感じられた。
「よっこらしょ!」
天兵衛の声もろとも、二人は首を持ちあげ、あとに真っ赤な――しかしこまかい血の泡が沸騰しているだけの切り口へ――たがいに別の胴へ、大急ぎでのせた。背の高低はひどくちがうが、銀兵衛が肥満しているため切断面の直径がぴったり同じであったことは甚だ好都合であった。
「角度を狂わせるな」
その点については、事前にもよく注意された。いつもななめを向いている人間ではこまる。
平馬は天兵衛と同じ手つきで、赤瀬の首を銀兵衛の胴体につないだまま、うしろから絹糸の部分に沿って、しっかりと掌をあてがっていた。
――約十三分。
「もうよかろう」
その天兵衛の声をきく前に、平馬は、自分の押えている頸が、ピク、ピク、と脈を打ちはじめ、それどころか、頸がいまにもうしろをにゅーっとふりむきそうな手応《てごた》えを、生々しく感じて、さけび出しそうであった。
これまでの経過はもとより、やがてその首を交換した二刑囚が何か水母《くらげ》が水面に浮かぶような感じで立ちあがるまで、一語もなく、うなされたように見ていた数人の役人と非人が、はじめて声を発したのは、若々しい大きなからだに乗った叶屋銀兵衛の首と、ぶよぶよしたふとみじかい胴に乗った赤瀬源次郎の首が、たがいに顔見合わせ、
「うひひひひひ」
「けけけけけ。……」
うれしくってたまらん、という風に笑い出したときである。
どういうわけか役人や非人たちは、いっせいにしゃっくりのごとき音をのどの奥から発しはじめたのだ。
――さて、かくのごとくみごとに首の交換に成功した二人が、町へ帰っていって、どういう事件が起ったか。平馬はよく知らない。むろん強烈な好奇心があって、刑場勤務の休みをもらって追跡調査にゆこうと思っているうち――わずか三日目に、叶屋銀兵衛が死んだということをきいたのである。
「卒中を起したらしい」
と、天兵衛はいった。声は沈痛であったが、やがて苦笑がにじみ出た。
「あれ以来、叶屋は夜昼交合のし通しであったということじゃ。老人の首を持っておらんでも、だれだって卒中くらいは起すじゃろう。叶屋にも似合わぬばかなまねをしたものだ」
翌日、赤瀬源次郎が小塚ッ原に現われた。歩いて来る足もとに、ふところから美しいひびきをたてて小判を落しながら。
「お役人。……もういちどやって下されえ」
と、彼はいった。
「いえ、首を斬るのではござらぬ。首だけ残して胴を斬り離して下され。この胴はもう死んでおります。……」
「――えっ」
平馬の方がぎょっとした。源次郎は風みたいな声でいう。
「いえ、きけばこの胴はずっと以前から死んでおったそうで……妾は五人あれど、何の役にもたたぬ胴体で……女たちの声は、ただ丸太ン棒みたいな胴体を持てあました歎《なげ》きの声だったそうで……ああ、拙者は金さえあれば世の中の悩み悲しみ苦しみは九分九厘までなくなると、日ごろより信じ切っておりました。あとの一厘は何か、よくもわからずただ何となくそう申したのでしたが、金があっても何にもならぬその一厘が、やっと氷解出来申した! 叶屋は日ごろより、人間金が出来たときはもう終り、とうなっておったそうでござるが、あの老人の……いいや、あの老いぼれのその言葉、いま胆に銘じて相わかった。お、お願いでござる。あの胴体を返して下されえ」
「おぬし、まだ知らぬのか。叶屋はきのう死んだという。――」
と、天兵衛は憮然《ぶぜん》としていった。
「従って、もうあの胴も死んでしまったろう」
黙ってこちらを見ていた赤瀬源次郎の顔が、このときすうと白ちゃけた。たんに蒼《あお》ざめたという程度ではない。
平馬が息をのんだのは、それが源次郎の顔はそのまま、みるみる、だぶだぶと皺《しわ》ばんで、水死人みたいに変って来たからだ。――次の瞬間、彼はごろんとそれこそ丸太ン棒みたいにころがった。
「先生」
と、駈け寄って、その鼻孔に手をあてた平馬は顔をふりあげた。
「死んでしまいましたよ。――」
「胴の方の老いぼれ心臓がとまったのじゃな」
天兵衛はいった。べつに驚いたふうでもなく、じいっと屍体に眼を落したまま思索的な表情をしている。
「やはり、人間は、若い胴に若い頭、老いぼれたからだに老いぼれた頭を持つべきか喃。……」
あたりまえだが、この人物がつぶやくと、ひどく深遠な意味を持っているかのように聞える。――
「この男には気の毒なことになったが、しかしいま死んでくれてかえってよかったかも知れぬ。世の中には、老いぼれた胴体に頭だけはばかに若がる爺《じじ》いがおって、これこそ天下を悩ます根源となっておるのが多いのじゃから。……」
――歎くがごとき述懐であったので、もうやめたのかと思っていたら、鉈打天兵衛はまたやった。
七
西国某藩士の板津玄心《いたつげんしん》と同藩浪人の芦立蝋之介《あしたてろうのすけ》。
この二人が実験の第二号であった。
両人、同じ斬首となったのは悪縁だ。――それはいわゆる敵討ちの敵味方同士なのであった。ふつうの敵討ちはあまりはやらなくなった時勢ではあったが、その代り妻敵《めがたき》討ちというやつがふえた。これはその例だ。
妻敵討ちというのは、妻が姦通《かんつう》したとき、その妻と間男を成敗するということだが、この両人の関係は少からず変っている。芦立蝋之介が同藩なにがしの妻と密通して、手に手をとってかけおちしたのは事実だが、夫がそれを恥じたのか、人生に絶望したのか、ともかくも首|吊《つ》って死んでしまった。そこでその妹のお左衣《さえ》なるものが、兄に代って敵討ちに出た。といって女一人では心もとないので、兄の友人であった板津玄心がその助ッ人として同行したというケースである。
甚だ悲壮また義侠《ぎきよう》の仇討《あだうち》行だが――そのはずなのだが、それが妙な結果になった。数年にわたる苦難の旅ののち、やっと江戸に潜伏していた姦夫姦婦をお左衣が見つけ出し、さて相手を或る寺の境内に呼び出して、晴れの敵討ちとなったのだが。――
やって来たのは、この姦夫姦婦だけではなかった。ほかにも七、八人の女がくっついて来た。それが泣きさけんで、芦立蝋之介をかばうのだ。しかもいったい、どういうことになっていたのか、その女の中にかんじんのお左衣までが加わっていたというのだから、わけがわからない。
根津玄心は大いに怒った。
そして怒りの太刀をふるって斬り倒したのが三人の女で、その中には姦婦がいたのはいいとして、お左衣がまじっていたのが悲劇である。これでは何のための敵討ちかわからない。しかも、当の敵の芦立蝋之介はまんまととり逃がしてしまった。――蝋之介の方はすぐに奉行所につかまったのだが、もはや敵討ちの筋が立たぬということになって、彼は斬罪を仰せつけられた。それは当然の処置であるが、さて玄心の方も甚だ不覚の至りなりとして、これまた首をはねられるということになったのである。
「それは、芦立の方はよろしいとして、板津玄心はちと気の毒ではありませぬかなあ?」
「わしもそう思ったが、きいて見るに玄心は……そのとき当の芦立よりも、女の方を専心追いまわしておったということじゃ」
「ほほう。その芦立をかばった女どもというのは何者でござります。またお左衣なる女は、何ゆえに敵の芦立を。――」
「女どもは芸者やら町娘やらじゃが……そしてお左衣が見つけ出してから敵討ちの段取りに至るまでに半年ほどの日があったというから、そのあいだに何かあったのではないか? とにかく、そのわけは、蝋之介を見ればわかる」
天兵衛と平馬との問答である。
さて、小塚ッ原にまた二刑囚がひき出された。――
芦立蝋之介をひと目見て、香月平馬は眼を見張った。天兵衛が、見ればわかるといった意味を了解した。つまり蝋之介はそれほどいい男であったのだ。平馬だって女にまがう美男だが、しかしこんな職場を志願するだけあって、よく見れば、天兵衛が評した剣気ともいうべきものが、たしかにどこやらに漂っている。しかし蝋之介は徹底的になよなよとして、女の方が抱きしめてやりたくなるような弱々しさがある。これでは、敵討ちの場で、自分の代りに斬られる女を捨てて、一目散に逃げ去ったというのもむりからぬことと同情される。
――それがいま、雨に打たれる梨《なし》の花のようにふるえている。むろん、この場に臨んでふるえない罪囚はめったにないが、それにしてもふるえ方がひどすぎる。
「……おまえさん、それでももとはお侍さまだったんで?」
と、非人までが妙な顔をしてきいたほどだ。
しかし、むりもない、と平馬は少し理解した。やはり縄でくくられた板津玄心がそばに曳《ひ》かれて来るのを見たときにである。これは蝋之介を討とうとして討ちそこねた男だ。
むろん、玄心は歯がみしていた。
「ううぬ、天道、是か非か。げえっ」
――ひと目見て、これまた平馬は眼を見張ったのだが、何という顔をした男だろう。これほど醜男《ぶおとこ》というのも世にあまり類がない。からだだけは堂々たる豪傑だが、眼小さく、口大きく、鼻の穴ひらき、黒い皮膚にぶつぶつがあり、まるで人間のいぼ[#「いぼ」に傍点]蛙《がえる》だ。――それが、しぼり出すようにうめいて、にらみつけた。
「人の運命《さだめ》はさまざまとはいえ、げえっ、うぬと同じ断罪の場に坐らせられようとは!」
天兵衛がいい出した。
「おお、そのことについて、ちと話がある。……この件については、お奉行所より特別のおゆるしを願うてあることじゃが。……」
「あの。……」
突然、蝋之介が身もだえして、かぼそい声でいい出した。
「お願いがござります。わたしの耳に栓《せん》をして下されませぬか?」
「なに、わしのいうことをききたくないというのか」
「いえ、めっそうな、お役人さまのことではありませぬ。その板津の――げえっ、という声がいやなのでござります。お左衣がそう申しておりましたが、いえ、昔、藩におったころから、私もいやでいやでたまりませんでしたが……それをききながら死にとうはありませぬ。それだけが最後のお願いでござります。……」
そういえば先刻から、板津玄心はげえっという妙な声をもらしているようだが、それはこの刑場にひき出されてからのことではなく、以前からのこの男のくせであったのか。
「太平楽《たいへいらく》を申すな!」
と、さすがに天兵衛は一喝《いつかつ》した。
「ここをどこと心得ておる?」
場所柄をわきまえぬわがまま、といった顔色ではなかったが、さすがに芦立蝋之介は沈黙して、ただ身ぶるいした。弱々しいと同時に、病的な神経の所有者でもあるらしい。――
「あと、十も数えぬうちに、うぬの首はそこの血|溜《だ》めの穴に転がり落ちるのだぞ!」
「――げえっ」
と、板津玄心がまた妙な声を出した。しかしそれが驚きや恐怖のためではなく、この男のくせであることはいま判明した。
「というはずであったが――いま申した通り、特別のおゆるしを以て、両人のいのち相助ける」
「――ひえっ」
これは芦立蝋之介の方の声である。
「信じたくなければ信ぜずともよいが――両人の首を交換してもよいというなら、死んでもいのちがあるようにはからってやる。小塚ッ原でこのごろ新しく開発した断頭の法じゃ」
天兵衛はいった。ふつうなら冗談としか聞えない言葉だが、この首斬り役の男の語韻には決して冗談には聞えない深沈として厳粛なひびきがあった。
「ただし、そのあとまた敵の仇《かたき》のとの争いを起さぬことが条件じゃ」
「首の交換? 新断頭法? あの、拙者の首が、蝋之介の首に変るのでござるか」
「その通り」
玄心は蝋之介の顔を見て、また、げえっといった。
「いやか」
あぐらをかいた鼻ふくらませ、黒い顔を充血させて板津玄心は沈黙した。煩悶《はんもん》の表情になったのも当然だろう。自分がつけ狙《ねら》った怨敵の首に変るというのだから。
しかし、数秒ののち、玄心の発した言葉はいささか思いがけないものであった。
「拙者の首がきゃつに変るとなると……変った人間はそりゃだれでござる? 芦立ではござらぬか?」
「その代り、おぬしの首はあちらの胴に乗る」
「おれの首が、あのかぼそい胴体に? そ、それならおことわり申す!」
「おぬしがおぬしとして、蝋之介の顔に変るならよいのか」
「……それなら、まあ」
と、玄心はいった。――生きのびる可能性があるなら、という単なる譲歩ではなく、彼は、まんざらでもない、といった顔をした。
「そういうこともあり得る」
「あり得る? とは?」
「つまり胴体の方の生命力が、首のそれより強いならば、その主体性は胴体が持つことになる」
「へえ?」
玄心は考えこんで、
「何にしても、拙者の顔がきゃつの顔に変るなら」
と、いった。よくわからなかったらしいが、ともかくもこの点についてはよほど執心であるということはこれで明らかになった。
天兵衛はにやりとした。
「そんなに自分の顔に懲りたか」
「懲りたわけでもござらぬが。……」
と、一応は痩我慢《やせがまん》を張ったが、
「しかし、何はともあれ拙者の肉体にきゃつの首が乗れば、女に対して天下無敵。――」
これは他人への表白よりもおのれにいいきかせる痛切のつぶやきに聞えた。……おそらく、助太刀の旅に出てさえ女に袖《そで》にされた悲運から醸された述懐であったろう。
「そちらはどうじゃな?」
と、天兵衛はかえりみる。
「おぬしの首が、こちらの胴体に乗る件。――」
「おお、それこそ私の望むところ。――」
と、意外にも、芦立蝋之介は眼をかがやかせた。
「拙者はあのような肉体の所有者になれたら、と、そればかりを夢みておりました。……」
「しかし、おぬしはそのからだで、結構女にもてたのではなかったか。いや、結構もてた、どころではない。同輩の妻とはかけおちする、それどころか、敵討ちに来た女さえふらふらにしてしまったというのじゃから」
「いや、それはいずれも、向うから追いかけまわされたので。……私が、いやだいやだと申しても、寄ってたかって押えつけて、私を自由にしてしまう。あまり好ましからぬ女にも左様な目に逢わされるのは、決してラクなものではござらぬ。しかも、それに抗《あらが》うすべもない私の体力の情けなさ。もしここにいやな女どもははね飛ばし、踏みにじる肉体さえあればと、いくど歯ぎしりしたことか。……」
「羨《うらや》ましいのう」
と、板津玄心は敵同士であることも失念したような表情で、よだれをたらさんばかりに相手の顔を見ていたが、
「ちょっと待て、はてな」
くびをかしげて、
「や、うぬはおれの胴体を乗っ取る所存であるか!」
と、さけんだ。
――平馬も変だと思っていたのだ。言い分をきいていると、両人ともに蝋之介の首と玄心の肉体を希望していることになる。哀れなるかな、といいたいのは蝋之介の肉体と玄心の首だが。――彼も天兵衛にきいた。
「こりゃ、どうなるのでござる?」
「さればよ、それはいま申した通り、首と胴の念力の強い方が勝つ」
と、天兵衛はいった。
「それなら、おれが勝つ! うぬごときへらへら男に、この胴体乗っ取られてたまるかや」
「いや、その胴欲しい。この念力にかけて!」
二刑囚はもと通りの仇敵に立ち戻ってにらみ合った。
鉈打天兵衛が、すっと立ちあがった。
「いずれが勝つか。いま、しかと見とどけてくれる。いざっ」
――数十秒ののち、快刀一閃して両人は斬首されたのだが、しかしその前に天兵衛は平馬にも手伝わせて、この前の実験ではやらなかった手数をかけた。それは例の徳利の中の液体を掌にこぼし、二人の頸のまわりに塗りつける作業であった。
さて、斬首して、交換した。
そのときに平馬は、なぜ天兵衛が右のごとき手数をかけたのかそのわけを知ったのだが、両人の頸の太さがちがう、玄心の大きな首は蝋之介の細い頸に乗ることになり、蝋之介の小さな首は玄心の太い頸につながることになる。当然そこにくいちがいが生ずる。ところが――例の血のにじみが、塗られた液に溶け込むと、そのあたりの筋肉と皮膚がとろとろと蝋みたいに柔らかくなって、ともかくも二つの首はぶじに接合したのである。ただし、少々段になってくるのはやむを得ない。
十三分経過した。
二刑囚は立ちあがった。ふらりとよろめきながら。
が、どちらにどちらの魂が入っているのか、わからない。――平馬が点呼をとった。
「芦立蝋之介!」
「――はっ」
蝋之介の首が、蝋之介の声で、しかし颯爽《さつそう》として答えた。あたりまえの話のようだが、その体格は、首が小さいだけに壮大といっていいほどに見えた。いちどふらついた足はしっかりと大地を踏まえている。
「板津玄心!」
「――ほっ」
これは吐息であった。板津玄心の醜い巨大な首は細いからだの上に乗って、悲哀そのもののようにわなないていた。
――平馬はそのあと、声も出なかった。慰めの声が。
時と場合では胴の方が頭を支配することもある、と天兵衛はいったけれど、やっぱり玄心の胴体は蝋之介の首を制圧し得なかったのだ。蝋之介の「玄心のような肉体が欲しい」という念力もただならぬものがあったせいだろう。
「勝ったぞ!」
蝋之介が咆哮《ほうこう》した。
「げえっ、どうだこの肉体!」
そして筋肉隆々たる両腕を折り曲げ、さらに天空へつき上げるのを見て、板津玄心はその肉体をとり戻そうとでもするように、二、三歩歩み出たが、頭が重すぎてよろめいた。
「やるかっ」
蝋之介は猛鳥のごとく身構えた。
「やるなら、やろう、げえっ、返り討ちだ!」
いや、もう、手がつけられない。
天兵衛がにがにがしげにいった。
「もはやそのような争いはせぬと誓約したのを忘れたか。あまり有頂天になると、またひっくくって仕置にかけるぞ」
「へっ」
と、芦立蝋之介は軽蔑《けいべつ》したような息を洩《も》らしたが、すぐに、
「いや、あのへなちょこさえ手を出さねば、こちらは喧嘩《けんか》しようとは思わぬ。金持喧嘩せずで。――げえっ」
と、いった。――いかにもそういう諺《ことわざ》を持ち出したくなるような結果になったが、それにしても芦立蝋之介がときどきもらす、げえっという言葉は何だろう? あれは板津玄心のくせではなかったのか。
「よし、約定によっておぬしら両人を解き放す。これよりいずこへいってもよいが、左様、五日目ごとにめいめいの近状を飛脚を以《もつ》て、小塚ッ原鉈打天兵衛あてに届けよ。それがおぬしら両人がたがいに刃傷沙汰《にんじようざた》に及ばず無事であるという証明にもなる」
と、天兵衛はいった。
「ゆきなさい」
五日目の芦立蝋之介の手紙の要約。
「――ああ、この美貌《びぼう》にこの隆々たる肉体! 女どもは虫けらのごとく集まって参ります。それは昔の通りですが、しかし昔とちがうところはこちらに選択する力があることであります。で、片っぱしから虫けらのごとくつまんでは捨てております。望月の欠けたるものもない人間にしていただいたことを厚く感謝いたします。……」
同じく板津玄心の手紙の要約。
「――西国へ向ってひとり旅をしております。まったくの孤独の旅であります。以前はそれでもお左衣どのの眼を盗んで茶屋の女の手を握ったりしたものですが、こんどは女が全然寄りついて来ないはおろか、まちがって女とぶつかっても往来でころんでしまうような旅であります。……」
十日目の芦立蝋之介の手紙。
「――少しふしぎなことがあります。一つは心理的なことで、何だかもの足りないのです。世の中すべてひどくつまらないような気がするのですが、とくに女がもの足りない。こちらがもの足りないのみならず、まわりの女ことごとくが、だれ一人ほんとうには私を愛してはいないような気がするのです。……まあ、それはいいのですが、もう一つ肉体的なことでひどく気にかかることがあります。それはしきりにげえっという妙な声が出て、それがどうしてもとまらないのです。この玄心の肉体が持って来た嫌悪《けんお》すべき癖の一つにちがいありませんが、この自分でもどうすることも出来ない声が、少なからず私を苦しめます。……」
同じく板津玄心の手紙。
「――幾山河越え去りゆく孤独の旅の味わいがようやくわかって来ました。寄りついて来ない人々すべてなつかしく、また永遠に相寄るすべもない、いまは亡き人々のありがたさのみ偲《しの》ばれます。とくにお左衣どのなど、私との旅で、つっけんどんながら、それでもときにいかに女らしいしぐさを見せたか、私のような男に対して、と思うと、ただただ涙がこぼれるばかりであります。私は芭蕉《ばしよう》翁の心境がだんだんわかって来たような気がします。……」
十五日目の蝋之介の手紙。
「――人生ただ虚。あるはただ、げえっ、のみにてはあまりに荒涼たり。突然ですが、私自殺をいたします」
同じく玄心の手紙。
「――ふしぎなことが出来《しゆつたい》いたしました。旅で知った巡礼ですが、一人の女人が私を好きになってくれたのです。私は孤独こそ愉しく、いまのところただうなだれて、トボトボと歩いておりますが、そのひとは黙って、しかしどこまでも私を追って参ります。寂しい中にも私の心は何やらほのぼのと明るいのでございます。……」
平馬がきいた。
「いったい、この両人、どうしたのですかなあ?」
黙然として二人の手紙を見くらべていた天兵衛がつぶやいた。
「人間、首も胴体もあまり劣等感がなさすぎるとかえって不幸になるということか。そして、その逆もまた真なりということか喃《のう》。……」
八
そのあいだにもその後にも、平馬はふつうの罪人の首を斬りつづけている。
その方はだいぶ上達したが、次第に鉈打天兵衛の至芸に倣《なら》わんとして、一足飛びに首交換とまではゆかずとも、せめて同一の個体でいちど斬った首をまたつなぐことは出来まいかという野心を起し、いちど詰所から例の徳利を盗み出したが――半ばはわが物にちがいないが、日を経たせいか、何とも形容すべからざる異臭がして、辟易《へきえき》してこれはあきらめた。
あらためて新しく製造するにしても、その採取の手順を思い、次にまたそれを刀身に噴きつける技術を思うと、それだけでげんなりとせざるを得ない。
そして、それらの技術の裏付けとなる鉈打天兵衛の人生観となると――そもそも何らかの恐るべき人生観がなくてあんな術の開発を思いつくはずがない――まだ平馬にはよくわからないけれど、何となく星のない夜の無限の空を仰ぐような戦慄《せんりつ》を禁じ得ないのだ。たんなるわざ[#「わざ」に傍点]の研究ではないにちがいない。事実彼は、人間なるものを研究するためだといっているが、すでに二回、四人の人体実験を経て、その人間観はどれほど凄味《すごみ》を加えたであろうか。
さて、そのうちに第三の実験対象が現われた。つづいて第四の対象も現われた。そして、この二つの実験はやがて合体して第五、第六の実験へ発展してゆくことになる。
いきさつはこれから順次述べるが、合体というよりその混合ぶりは、最後には平馬も何が何だかわからなくなったほどである。
こんどは罪人ではなかった。罪人でない人間が、みずから志願して小塚ッ原へやって来たのだ。如来寺隼人《によらいじはやと》という旗本であった。
旗本といっても三十俵二人|扶持《ぶち》の小十人組という最下級に属する者で、
「傘《かさ》をとどける用で浅草《あさくさ》まで来たついでに、ひょいと思いたちまして」
と、ここへ来たわけを説明したところを見ると、内職に傘張りでもしているのであろう。しかし、むろんそれだけが見知らぬ鉈打天兵衛を訪れた理由ではない。
「つかぬことをうかがうが、こちらで首の取り換えを扱っておられるそうで」
と、思い決したようにいい出したのである。
「それがまことなら……ひとつ、拙者に試みては下さるまいか?」
さすがに鉈打天兵衛もややぎょっとして相手を見まもった。むろん奉行所の許可を得てのことだが、そうだれにも知られてよいことではない。
「だれからきかれた?」
「は。――親戚の者から。では、やはりまことのことでござったか」
「御親戚?」
「従兄弟《いとこ》にあたる御家人でござる。これはたしか赤瀬と申すやはり御家人の男からふときいたと申しておりましたが……もっとも本人もあまり本気にはしてはおらぬような話でしたが、拙者先般来ほとほと思いあまることあり、もしそれがまことのことならばと、かくは御相談に参った次第です」
貧しげだが、しかし誠実で沈着で、どこか勇壮の趣きすらある容貌を持った男であった。訥々《とつとつ》としていう。――
「やむを得ずとは申せ、そちらさまのいわば御内密のことをこの口から申しあげた上は、こちらもまだお上の方から内聞にというお達しを申さねばなるまい。というのは、近く御公儀では旗本の一部を以て京洛機動隊なるものを新たに編成して、その名の通り京へ上らせられるお手筈《てはず》になっております」
「京洛機動隊」
「もとより相手は京に蠢動《しゆんどう》いたすいわゆる志士と称する餓狼ども。――これの鎮圧でござるが、どうやら相当|手強《てごわ》い御用らしい」
「ふうむ、それで?」
「従って、お上の方でも旗本連のうち、たとえ身分は軽くても、さきざきの見込みある者ばかりとくに選ばれた由」
「と、御内示を受けられた上は、貴公もその御一員ですか」
「ま、はばかりながらそのようで。――尤《もつと》も、たとえ選ばれずとも、血書してもみずから志願いたしたい御用でござるが」
武者ぶるいして、男らしい白い歯を見せた。
「ところで、それに加わるにはちと困惑することがあるのです。恥ずかしながら、留守中の暮しと妻のこと」
「御支度金は出ないのですかな」
「とうてい、これまでの借銭を皆済にするというにも遠く――何しろ一家一族、みな貧乏人ばかりで、つまり働く拙者というものがおらぬと、たちまちみな干乾しになるといったありさまなのでござる」
「それはそれは。――で、奥さまはどういわれております」
「これは京へなどいってくれるな、とただ泣くばかりなのです。しかし、拙者とすれば、是非ゆきたい。せっかくのお選びに入ったことでもあり、はじめての登竜の機会でもあり――要するに、拙者のからだが二つ欲しいというところなのでござる」
「なるほど、出征する兵士の御心境じゃな。――で、ここへ来られたのは?」
「実は、せめて腕なりと女房と取り換え、女房に内職させようと――いや、お笑い下さるな、傘張りにも相当の技術を要し、それにまた女房を見ていただくとわかるが、これがまたぜんぜんだめな女なのでござる。まことにたわけた望みながら、せっぱつまった拙者の苦衷何とぞお察し下されい――」
「相わかった!」
と、天兵衛はさけんだ。
「それは出来る」
「え? 出来ますか、そんなことが」
「ただし腕だけというのはこまる。腕は腕だけで勝手に動いておるものではないからの。いっそ胴を奥さまと取り換えられい。つまりあなたは奥さまの胴体にあなたの首を乗せて京へゆかれる。あなたの胴体は奥さまの首を乗せてこちらで内職をやる。――」
その言葉よりも、重いまぶたをおしあげて、ぎらぎらぴかり出した眼が隼人をとらえた。ひとたび或る意志を発したとき、理を超えて相手を縛ってしまう鉈打天兵衛の魔力の眼であった。
「京にゆく奥さまのからだは貴公の頭で訓練なされい。それにまた、江戸に残る貴公の胴体も、おそらく奥さまを支配出来る。貴公ならば――それほど壮烈な御意志を持っておられる烈士の貴公ならば!」
あとで平馬はきいたのだが、実は天兵衛をとらえたのは、この胴体を以て頭を制するという――天兵衛の確信によれば必ずそういうこともあり得るはずなのに、いままでうまくゆかなかったこの命題を、もういちど試みる恰好《かつこう》な実験対象が現われたという昂奮《こうふん》なのであった。
まあ、それが何とかうまくいったとしたら、江戸に残る組合せはいいとして、京へいった妻女の胴体は果して京洛機動隊として活躍出来るだろうか?――その点は保証する、と天兵衛は力説したけれど、その弁論以前に如来寺隼人は天兵衛に呪縛《じゆばく》されてしまったようであった。
数日後、妻をつれてもういちど小塚ッ原へ来ることを約して、隼人は去った。
ところが、その日がまだ来ないうちに、はからずも第四の実験対象が現われたのである、しかもそれが女であった。
やはり小十人組の安旗本|桑取半助《くわとりはんすけ》の妻お秋《あき》という。――貧しさは覆えなかったが、しかしどこか凜然《りんぜん》たる趣きのある美しい女であった。これが、
「つかぬことをうかがいまするが、こちらで首の取り換えを扱っていらっしゃいますそうで」
といったのには、天兵衛と平馬は顔を見合わせた。
「だれからきかれた?」
「赤瀬と申す方から、夫がきいたそうでございますが」
天兵衛は平馬に眼くばせをした。果然、先日、如来寺隼人をここへ来させたもとはこっちだ。
さて、このお秋なる女がいう。もしそんなことが出来るなら、わたしと夫と、首と胴を取り換えては下さるまいか? 大変なお願いではあるけれど、よくよく考えあぐねての思いつきだから、何とかきいていただきたい。――
「どうして……また、そんなことを?」
という問いに、お秋は堰《せき》を切ったようにしゃべり出した。
わが夫ながら桑取半助は、ほんとうにもうどうしようもない無能力者である。武芸の心得はおろか、酒屋の小僧より文字を知らない。内職をさせてもすぐに飽きて、ひるねばかりしている。起きあがると、どこかへふらふら遊びに出かけて、だれにたかったのか物乞いしたのか、酒だけは常人以上にくらって帰って来る。これまで自分が髪ふりみだして内職をし、親戚じゅう走り回って借金をして、何とか暮しを立てて来た。――
「それがこのごろ、いちばんよく迷惑をかけた夫の従兄弟の家では、こんど御主人が京へ上ることになったということをききました。もうお金も借りにゆけません」
と、お秋はいった。あれだな、と二人は眼顔でうなずく。
それは、そうとしてどういう御用かは知らないけれど、こんど京へ上る方々は特別にお上のお眼鏡《めがね》にかなった人々で、帰府のあとの出世は約束されているという。然《しか》るに夫には何の沙汰もない。従って、いつまでたってもうだつ[#「うだつ」に傍点]のあがる見込みはない。
彼女はじりじりした。
「あたりまえです。でも本人がけろりとして、眼をつけられなくて助かったよ、なまじ軽々しく京へいって苦労するより、ここでこうして寝そべっている方がらくちんだよ、としゃあしゃあとしているのを見ては」
彼女はきりきりと歯の音をたてた。相当に気丈な、男まさりの女らしい。
「如来寺の――それが従兄弟の名なんです――爪の垢《あか》でも煎《せん》じてのみなさい。いままでだってあのひとは、貧乏しても必死に働いて、一家はおろか親戚じゅうの面倒を見ているじゃあありませんか。そんなところを、お上はちゃんと見ていらっしゃるんです。というと、おまえ、ほんとうは如来寺へお嫁にゆきたかったんだろ。おまえもあてがはずれたろうが、おかげでおれまでとんだ飛ばっちりをくうことになっちまった。おまえを女房にする破目になったことがよ、とうす笑いしている始末です」
あなたは最低の男だ、というと、男の最低が女の最高とちょうど釣《つ》り合うってよ、とぬけぬけという。うちもその通りでよかったわね、というと、そんな皮肉は通じないで、
「ところがな、最高の男ってえのは、えてして最低の女をえらぶんだから可笑《おか》しいやなあ。また最低の女ってえのがたまらなくいいんだから」
と、へんな思い出し笑いみたいな笑いを浮かべる。――とにかく、もうがまんの緒が切れはてた。それに、このままでは八方ふさがりで、自滅のほかはない。しかも、どんなに忠告しても、半助には馬の耳に念仏である。
「そこで、ふと思いついたんです。こちらの話を。――もしそんなことが出来るなら――わたしと夫が入れ替ったらどうか知ら? と。口はばったいようですが、わたしは夫よりもずっと学問を心得ているつもりです。武芸さえもわたしの方が上かも知れません。もっと若いころから、どうしてわたしは男に生まれなかったのだろうと、残念で残念で夜眠れない思いをしたこともあったくらいですから」
「で、もし御|亭主《ていしゆ》と首と胴を入れ換えたら、全般的にどういうことになるとお考えで?」
「さあ」
と、彼女はやや困惑の表情になった。
「わたしが夫の顔を持つ男であったら、わたしならもっと働くのに。もっと出世をしてみせるのに! と考えただけで、それ以外どうなるか、まだ詳しく考えたことはありませんが。……」
本人は才媛《さいえん》を自負しているらしいが、あまり緻密《ちみつ》とはいえないようだ。しかし鉈打天兵衛の眼がまたぎらぎらひかり出したのを平馬は見た。
「よろしい。よくここを訪ねておいでなされた。たしかにその御亭主、そのような人間改造を試みねば何ともならんぐうたららしい。御亭主さえつれておいでになれば、拙者たしかに首を取り換えて進ぜよう。御貞女のために!」
数日後、小塚ッ原に如来寺隼人が妻をつれてまたやって来た。
隼人はいいとして、果してその妻女がこんなところへ現われるだろうか、と平馬は疑問に思っていたが、お郁《いく》というその妻女を見たとたん、彼女が唯々諾々と夫について来たことも、また隼人が妻はぜんぜんだめな女でござる、といった意味を了解した。ぼってりとふとって、支えてやる者がないとだらりと白く溶けてしまいそうな、ばかに肉感的な妻で、どうやら頭にも霞《かすみ》のかかっているようなところがある。しかし隼人はこの妻に、子供でも見るような不安と愛情の眼をそそいでいるようであった。
しかし、いよいよ以てこの女性の胴体で京洛機動隊とは?
鉈打天兵衛は、そんなことはかまっちゃあおれん、といった顔で、いとも無造作に二人をならべて斬った、ただ、斬る前に彼は隼人にささやいた。――あとで拙者が指でつついたら、右眼をつぶって下されよ、と。
さて、斬って両者の首を交換する。
そのあとで平馬はあっと思ったのだが、鉈打天兵衛は、お郁の首の乗った隼人の胴体をチョイと指でついた。すると、お郁の首は、にいっと媚笑《びしよう》ともいうべき笑いを浮かべて右眼をつぶって見せたのである。
断頭直前にそれをきいた隼人の首はお郁の胴に乗って、そのとき向うで、草の中から一本の錆び刀を拾わせて、びゅっ、びゅっと打ち振っていた、つまり天兵衛の指の合図など全然見てはいなかったのだ。
しかし、こちらのお郁の首が隼人の胴に対する合図に応じたということは何を意味するか。
それは隼人の胴体がお郁の首を制したということではないか。天兵衛の理論はここに実証されたのだ!
「では、御妻女の脳髄はどこへいったのでござる?」
と、平馬はささやいた。
「どこかにあるじゃろ」
と、天兵衛は恬然《てんぜん》として答えた。少々無責任でもあるようだ。
その翌日のことであったが、こんどはお秋夫婦がやって来た。夫の桑取半助は爪楊子《つまようじ》をくわえて、ふところ手をして、そのぶらぶらの袖をひっぱるようにしてお秋がつれて来た。話にきいたような横着者が、これまたよく小塚ッ原へ来たものだ、と思うけれど、見ていると、なるほど横着者にはちがいないけれど、お秋に叱《しか》られるたびに、へいへいと頭を下げているところ、どうやらふだんからそんな慣《なら》いになっているらしい。
「え? 小塚ッ原の役人が金を貸してくれるって? どうせおれみたいなやつは先ゆきここでお陀仏《だぶつ》になるから、先に首代をもらっておけというわけか。何でもいい、金を貸してくれる人間がありさえすりゃあ。……」
彼はにたにたと笑っていた。脳も半分崩れたような相好《そうごう》で、以前この男が首の交換のことをきき込んだ最初の人間らしいのに、いまはそんなことをまったく忘れているようだ。
さすがにしかしこの場合は、二人ならべて斬るわけにはゆかず、かねてからの手筈の通り、平馬が半助をひざまずかせて金をやるようにことを運んで、その瞬間、うしろから天兵衛が斬った。
このときお秋もならんで坐っている。――これまた斬られて、首が取り換えられるあいだ、半助が両手を出して金を受取ったままの姿勢であったのは、例によって例のごとしとはいいながら、鬼気迫る鉈打天兵衛の手練である。
さて、このあとで。――半助の首の乗っているお秋の胴をチョイとつついて、
「お秋」
と、天兵衛が呼ぶと、半助の首がにいっと笑った。――これまたお秋の胴が半助の首を制圧したのである!
平馬がつぶやいた。
「半助が消えちまいましたな」
天兵衛が答えた。
「ぐうたらが一人消えたのは、ま、世のためじゃろ」
これで、この二組の実験は成功したわけだ。
同時に、これをみずから志願した如来寺隼人とお秋の目的もどうやら果されたことになる。――
と、思っていたら。
事はこれですまなかった。――数日たって、この四人がまた駈《か》け込んで来たのだ。
以下に書く名前の人間は、上が首、下が胴体であると思っていただきたいが、お郁・隼人は隼人・お郁の手をとらえ、半助・お秋はお秋・半助の手をとらえて。
「な、何が起ったのでござる?」
鉈打天兵衛はややめんくらった顔でこれを迎えた。彼ら二組には、別の他の組のことはいずれも知らせていないはずだが。
「み、密通しているのがわかったのさ」
と、半助・お秋がいった。
「だれが?」
「お郁と半助が」
と、答えたのは、お郁・隼人だ。
「しかも、相当以前から」
「それが、どうしてわかったのでござる?」
「胴と胴とが求め合って」
あっと平馬は思った。つまり、そのときはわかったような気がしたのだが、さてあとになって考えてみると、どの胴とどの胴が相求めたのかよくわからない。ともあれ、二組の夫と妻が半々にくっついていれば、それぞれの密通は何らかのかたちでたちどころに曝露《ばくろ》されるにはちがいない。
ましてやこの場合、主体性はそれぞれの組とも、隼人とお秋にあるらしいから――もっとも主体性が隼人とお秋にあるらしいのに、半助とお郁が密通しようとしたというのがまたわからないが。
「もういちどやって下されい」
と、お郁・隼人がいった。
「何を?」
「首の取り換えっこ」
「もとの通りにでござるか?」
「いや、お郁と半助が、二度と左様な真似《まね》をいたさぬように」
「というと。――」
天兵衛は数学の難問題を解くような顔になって考えこみ、ややあっていった。
「というと、顔はお郁どの胴体は半助どの、もう一つ、顔は半助どの胴体はお郁どの、というやつを作ればよいことになるか喃。……」
「それそれ」
と、お郁・隼人がいった。
「それならば、同じ人間の頭と胴体が姦通《かんつう》出来まい。それをやってもらおうか」
平馬はくびをひねった。何だか天兵衛の解答はおかしいような気がするが、しかし彼もまた頭が混乱して、さればとてどれとどれを組合せたらいいか、とっさに判断がつきかねた。
四人、ならべて斬った。
そして、新しく、お郁・半助と、半助・お郁が誕生した。
これは自動的に、べつに隼人・お秋とお秋・隼人が誕生したことを意味する。
さてここで平馬はやっとそれまでの錯覚に気がついたのである。お郁・半助と半助・お郁は、なるほど同一個体で半分ずつになっているが、その両個体相互が姦通しようとすれば自由自在ではないか。
天兵衛もそこではじめて自分の失敗に気がついたらしく、
「これは」
と、困惑したようにこの両個体を眺《なが》めやった。
「まちがったなあ」
と、お郁・半助が自分で頭をかいた。その声の調子に天兵衛はいよいよぎょっとしたようにきいた。
「ところで、あなたはいったいどなたで?」
「わしは、如来寺隼人」
と、お郁・半助がいった。
「おれにも、だれがだれやらわからねえっと」
と、つぶやいたのは桑取半助の声だが、なんとその姿はお秋・隼人なのであった。
――しかし、半助が半助としての意見を述べたところを見ると、いちど存在の怪しくなっていた彼の脳髄が、斬ったり取り換えたりしているあいだに、またぞろそこへ出現して来たらしい。――
驚くべきことがわかった。
如来寺隼人の首にお秋の胴、これを支配している魂はお郁。
お秋の首に隼人の胴。これを支配しているのは桑取半助。
お郁の首に半助の胴。これを支配しているのは隼人。
半助の首にお郁の胴。これを支配しているのはお秋。
いちど隼人やお秋の胴体が、お郁や半助の首を制圧したことから起った混乱らしい。
彼らのみならず、鉈打天兵衛も香月平馬も、天地|晦冥《かいめい》の顔をおたがいに見合せた。……
この混乱した組合せがさらに一大悲喜劇を生んだことが明らかになったのは数日後のことである。
如来寺隼人にいよいよ京洛機動隊としての出動命令が下ったのだ。
江戸から京へ押し上ってゆく、だんだら染め、揃《そろ》いの羽織を着た精悍《せいかん》な隊士たちに混っている隼人は、顔こそ隼人だが、胴体はお秋で、ほんとうはやや精薄的なお郁なのであった。
このころから、桑取家には借金取りの攻勢がいちじるしくなった。
その矢面《やおもて》に立ってばったのようにお辞儀しているのはお秋のほかになかったが、顔はお秋でも、胴体は隼人で、ほんとうはぐうたらの半助なのであった。
泣き顔をして出陣してゆく如来寺隼人――その実お郁を見送っているお郁は、からだは半助で、ほんとうは烈士隼人自身なのであった。
悲鳴をあげてお辞儀しているお秋――その実半助を、寝ころんでひとごとみたいに眺めている半助は、からだはお郁で、ほんとうは貞女のお秋自身なのであった。
隼人とお秋はそれぞれ胸の中でつぶやいた。
「はじめて知った境涯だが、なるほどこの方がらくちんだ」
その感慨をきいた鉈打天兵衛は、また深遠な哲学を平馬に披露《ひろう》した。
それはちょうど、安政七年三月に入ったばかり、小塚ッ原にも時ならぬ雪がチラチラ舞いはじめた夜のことであった。
「平馬よ、人は何のために強く、賢く、美しくなろうとあくせくするのか。いかに求めても美しさはすぐ消える。弱い人間をだれしも嵐の中へひきずり出そうとする者はない。そして賢い人間はいつの世も、馬鹿どもをひきずって、営々と働くばかりではないか。人間というものは、弱く、醜く、馬鹿であるほど長生きをし、幸福でさえあるのではないか?」
九
「その通りです」
と、香月平馬はいった。
「それでも、人間は、どうしても美しく、賢く、強くなろうとします。たとえそのためにどんな嵐を受けようと。――私もそうありたいと念じておるのです」
「ばかなやつだ。平馬、なんのためにおまえはわしのところへ弟子入りをし、いままで何を見て来たのか」
「首を斬る修行をするために」
「それはわかっておる。覚えたのはそれだけか」
「それだけで結構です。私の場合は」
平馬はいった。
「さるお方の首を斬るために。――先生、その時が到来したようです」
「なに?」
平馬は立ちあがった。
「と打ち明けたことを怖れはしませぬが、その方《かた》のおん首|頂戴《ちようだい》したあと、私や私の同志が万一捕われてこの小塚ッ原で斬られるようなことにでもなった際、先生の恐ろしいわざでまた首を他人のものと取り換えられては一大事。されば――」
刀の柄に手をかけた。
「一見、忘恩に似たれどお許しあれ、大義のために先生のおん首頂戴つかまつる!」
「た、た、助けてくれ!」
鉈打天兵衛は驚愕《きようがく》して小屋の入口へ飛びのいて、戸に背をすりつけ、両腕さしのばした。
あの眠たげな相貌はどこへやら、恐怖に眼も飛び出すようなその形相を見て、平馬の方が一瞬あっけにとられた顔をした。
「お抜きなされ、鉈打先生! 先生ともあろうお方が、そのざまは。――」
「いや、わしは抜かぬ。斬るのも斬られるのもいやだ。た、助けてくれ、これ、いのちばかりは!」
そのひきつるような声をきくに忍びぬ、といったように顔をふり平馬は片ひざつき、一刀を横に薙《な》ぎ払った。斬頭の名人は大根のように無造作に、戸とともに首と胴ばらばらに外へ倒れ出した。
「……はて?」
平馬はふしぎそうにその傍にしゃがみ、無意識的に片手をのばし、ヒョイとその首と胴をくっつけようとしたが、
「いや、もはや香月平馬の仮名と修行は捨てたのだ」
とつぶやくと、血笑ともいうべき笑顔で立ちあがり、刀身を雪でぬぐって鞘《さや》におさめ、なお霏々《ひひ》と雪ふりしきる小塚ッ原を江戸の方へ駈けていった。
安政七年、この月十八日改元して万延となる。すなわち万延元年三月二日雪の夜の話。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『伊賀の聴恋器』昭和55年1月15日初版発行