山田風太郎明治小説全集11
ラスプーチンが来た
目 次
ラスプーチンが来た
怪男児
幽霊旗手
神道占
血妖
宣告
貴婦人
魔界
おどしっこ
地の果てより
残飯戦争
ラスプーチン来る
不死の僧正
浅草十二階
供物
劫火
凶徒津田三蔵
軍艦アゾーヴァ
関連年表
[#改ページ]
怪男児
明石《あかし》元二郎《もとじろう》。
最初に、この名前について御存知ない読者のために書く。
太平洋戦争敗北の日まで、三月十日は「陸軍記念日」であった。
それはちょうど、それより四十年前の日露戦争の最後の大会戦で、日本軍が勝利を占めて奉天を占領した日だからである。
この奉天会戦でロシア軍は潰走したのだから、日本軍が勝ったことにまちがいはない。
しかし、この戦闘に参加したロシア軍三十二万中、死傷者は九万。日本軍二十五万中、死傷者は七万。これはほとんど同率である。
特に真正面からロシア軍と激戦した、奥保鞏《おくやすかた》大将の第二軍、その第九師団(金沢)の死傷率のごときは六八・八%という惨烈さで、実に後年の第二次ノモンハン戦の七〇・三%に匹敵する。
敵の背後に迂回して退路を遮断する任務を命じられた乃木第三軍もまた、それまでの旅順戦で満身創痍、それに何より弾薬が尽き果てて、眼前を敗走するロシアの大軍を見つつ、みすみす手が出ないというありさまであった。
実にこの奉天戦に使った弾薬だけで、戦前に、全戦役に必要であろうと予測していた小銃弾の六〇%以上、砲弾の九〇%以上を使用したという消耗ぶりであった。
損害が同率であると、兵力の多いほうがあとの作戦に有利となる。
事実、敵の総司令官クロパトキンは、これは予定の退却であるといい、さらに後方のハルピンで日本軍を殲滅すると豪語した。
さらにロシア皇帝ニコライ二世は、日本軍はロシア領に一インチもはいっているわけではない。いままでの戦闘は主として極東軍をあてたものであって、これから本格的に在欧の大兵力を送ると声明した。事実彼はその意志であった。
その後五月二十七日、日本海海戦で東郷の連合艦隊はバルチック艦隊を全滅させ、大陸への輸送を確保したが、しかし日本には補給すべき兵士も弾薬も、もう涸渇しつくしていた。それまでの戦死及び入院以上の重度の戦傷者を加えると、陸軍の出征兵士の三四・二%に及ぶという状態だったのである。
日本はまさに、いわゆる「破断界」に達しようとしていたのである。
この瀬戸際にあたって、しかしロシアは急速によろめき出した。
それは敗戦そのものの痛手《いたで》より――それから触発されたものにちがいないが――国内の革命党の蜂起や、労働者のストライキや、水兵の叛乱や、当時ロシアの勢力下にあったポーランド、フィンランドなどの暴動が、手のつけられないありさまとなり、この上なお遠いアジアに軍隊を送っていると、ロマノフ王朝体制そのものがゆらぎかねない危険性をおびて来たからであった。
このロシアの内乱にあずかって力があったのが、当時ヨーロッパに駐在していた一人の日本の大佐である。その名を明石元二郎という。
彼は、ただロシアの内情、その軍隊の移動状況の探索などいう通常の諜報活動のみならず、アバズレスという変名で、ストックホルム、ロンドン、パリ、ジュネーヴなどに神出鬼没、それぞれの地にあるロシア革命党の党員――その中にはレーニンもいた――と連絡し、彼らの必要とする資金と武器を与えた。
逆に見れば、いかに革命を志すとはいえ、現在祖国が戦争しているのに、その敵国の将校から金や武器をもらうとは――と、日本人なら首をひねるにちがいない。事実このことに抵抗を感じる党員も少なくなかったのである。
しかし彼らの大半は、いかにロシアが敗れても、日本軍がロシアを侵略する力のないことは承知していた。敗れるのは、ロシア人民を虐《しいた》げ、植民地化したポーランドやフィンランドを弾圧しているロマノフ帝政だけである。ツァーを倒すのに必要な金や武器を与えてくれる者なら、相手をえらんではいられない、と彼らは判断したのである。
それにしても、明石大佐の行動は、刀の刃渡りのように冒険的なものであった。相手は、日本人の彼にとって、ことごとく化物といっていい連中ばかりであった。右に述べたように彼に釈然としない党員もあり、また革命党員と称してその実いかがわしい連中もあり、さらにこれら革命党には、当時オクラーナと呼ばれたロシア秘密警察の眼がひかり、中にはその一群の指導者と目されながら、実はオクラーナであるという二重スパイが存在していたくらいだから、彼の生命に別条がなかったのがふしぎなほどである。
その中で明石大佐は、みごとに任務を果したのである。
任務の性質上、明石はその行動について、ほとんど記録していない。ただ、任終えて帰国するにあたり、日本の参謀本部に出した手紙の末尾に、
「総ての罪悪|之《これ》を限りと致候《いたしそうろう》御一笑|被下度《くだされたく》候」
とあるのが、暗示的である。
むろん帰国後参謀本部に報告書を出したであろう。――彼はこの一年半ほどの諜報活動に百万円を使ったという。いまの金にすれば百億円にもあたるかも知れない。戦費の捻出に血をしぼる思いのしていた当時の参謀本部が、よくこれだけ金を出したものである。そのためにも報告書は出したにちがいない。
のちに、その報告書と、現実にロシアに起った事件とを照合した山県有朋が、
「明石という男は、怖ろしいやつだ」
と、嘆声を発したという。
その明石元二郎のやりかただが――日本人には珍しい凄味のあるその働きからして、読者はあるいは、007のごとき洗練された――ときには燕尾服を着て、あちらの夜会に出てもおかしくないような伊達《だて》男を想像されるかも知れない。
それが、そうではなかった。明石大佐はその正反対のタイプであった。むしろ正反対の、一見粗放とも思われるタイプであったからこそ成功したといえる。
断片的に伝えられる彼の諜報活動を通して、そこに見られる最大の特徴は、何よりもまず彼の放胆さである。
例えば、彼が全然知らない顔ぶればかりの革命党員らの秘密会合に平気で乗りこんでゆく。何者とも知れない向きからの呼び出しに応じて、平然と指定の場所に赴《おもむ》く。資金が要《い》るといえば、相手の素性がよくわからないのに、無造作に大金を渡す、といったたぐいである。
これをいちいち神経質に、その会合や人間を疑っていたら、おそらく成功しなかったろう。特に、時間的な制約のある戦時の工作に間に合わなかったろう。
彼のスパイ名アバズレスは、日本語の「あばずれ」からとったというのだから、人を食っている。
デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー共著の「日露戦争全史」にいう。「東郷提督と大山将軍が、ロシアの艦隊や地上軍部隊を撃破しようと努力している一方で、明石大佐は直接ロシアの心臓部に攻撃を加えた」
彼はヨーロッパにあって、ただ一人で一師団に匹敵する驚天動地の働きをした。
さて、日露戦争後、彼は何をしたか。――
彼は少将として、朝鮮駐在憲兵隊長となった。
日露戦争の勝利で、朝鮮を完全に勢力下においた日本は、着々併合へ鉄の足を進めてゆく。朝鮮はむろん、怖れ、苦悶し、憤激した。それは民衆あげての死物狂いの抵抗であった。
それまで、少将で憲兵といえば東京の憲兵司令官だけであったのを、彼ははじめて少将で駐韓憲兵隊長となった。まことに異例の任命であったが、いかに軍の上層部がこの任務を、余人をもってしてはあてがたいと見たかがわかる。
明石はこれにもよく応《こた》えた。
彼は、日本の憲兵一人に配するに、数人の朝鮮人憲兵をもって補助憲兵とした。作者の推理では、これは日本の昔の同心に岡っ引をくっつけたやりかたからヒントを得たのではないかと思われる。しかし、日本の岡っ引なるものが、その実いかがわしい連中であったのと同じく、その補助憲兵とした朝鮮人も市井の無頼漢のたぐいが大半であった。明石が、故意にそういう連中を選んだのだ。
それゆえに、日本に反抗を企む朝鮮人にとってこの補助憲兵は戦慄すべきものとなった。彼らは犬のごとく朝鮮人の抵抗の火だねをかぎつけ、それがまだ炎をあげないうちに片っぱしから踏み消していった。明石はまさに朝鮮にとって魔王のごとき存在となった。
これをいまの眼で批判するのは容易だが、彼を責めるとすれば、明治の指導者すべてを責めなければならないことになる。明石としては、大日本帝国を築いてゆくためには、阿修羅となることをいとわなかったものに相違ない。
――明石が朝鮮を失神状態においていた期間――明治四十二年秋、夏目漱石もこの地に旅行し、そのときの日記が残っている。さすがに漱石で「韓人は気の毒なり」という感想をもらしているが、それ以上のものではない。いわんや明治の一般の日本人にとって、朝鮮を日本の一部にすることは必然の歴史としか見られなかったのである。
当時の明石をよく知る徳富蘇峰は、彼を九州男児の最も良質を具えた「快男児」と評している。
さらにその後、明石は台湾総督となり大将になっている。彼は薩長閥に属せず、しかもいちども戦場で戦わずに大将になったのである。
要するに明石元二郎は、明治の軍人中の化物であった。
しかし、これから作者が述べようとするのは、壮年以後の彼の事蹟ではない。
この化物にも、青春はあった。
以下は、すなわち若き日の明石元二郎の物語である。この若い化物が、さまざまの化物と戦う物語である。
この化物たちの中には、実に驚倒すべき大化物もいた。――
明治二十二年二月十一日。
それは紀元節であると同時に、日本で最初の憲法が発布された日で、宮城では、午前八時から紀元節の祭式が行われたあと、十時から、正殿で、天皇皇后|出御《しゆつぎよ》のもとに、盛大な憲法発布の祝典がひらかれることになっていた。
前夜の雨は雪に変り、朝には十五センチくらいつもって、まだふりつづいていたが、宮城のみならず町々でもそれぞれの行事があることになっていたので、人々は忙しげにゆきかい、東京の道々はどこも朝から泥んこであった。
午前八時過ぎ、その雪と泥を踏んで、永田町にある文部大臣官邸に、小倉の袴《はかま》に黒八丈の羽織をつけた小柄な一人の青年が現われて、自分は内務省土木局に勤める西野文太郎と申す者ですが、大至急大臣にお伝えせねばならぬことがある、といった。
秘書の中川が、「大臣はこれから宮城の式典に参朝されるので」と、むずかしい顔をすると、
「実はさきほど、さる公衆便所にはいっていると、大学生らしき者数人が、小便をしながら、けさ参朝の森大臣を襲撃する計画についてしゃべっておるのを耳にしまして、驚愕して駈けつけて参った次第です」
と、西野はいった。
それが、ただならぬようすであったので、中川秘書官も動揺し、ともかくも玄関脇の応接室にいれ、大臣に随行するボディ・ガードの座田重秀にこのことを伝えた。座田も驚き、いそいで奥に仕込杖をとりにいった。
文部大臣|森有礼《ありのり》は、若いころイギリスに留学したこともあって、早くから大ハイカラで、国語を英語にせよとか、キリスト教を拡めよとか、お辞儀式礼法は廃して握手に変えよとか、猛烈な西欧化を唱え、以前から国粋派の間に、これに正比例する反感の火が燃えていることは、中川や座田も知っていたので、これはあり得ないことではないと直感したのである。
そのとき玄関に馬車が回され、二階から森有礼が下りて来た。彼は大礼服を着て、うしろに、見送りの夫人や家扶を従えていた。
彼は容貌までどこか西洋人くさい顔をしていて、このとし四十二歳であった。
それと見て、応接室から出た中川秘書官につづいて、西野も出た。そして、中川が報告しているうしろで、神妙に頭を下げていたのも数十秒、突如、
「伊勢神廟に不敬を働いた大逆森有礼に神罰を下すっ」
と、絶叫しながら森に躍りかかった。羽織の下にかくし持っていた庖丁《ほうちよう》が森の腹部につき立てられ、西野は森にかじりついたまま、それをえぐりまわした。
そのとき、仕込杖を持って引返して来た座田重秀は、これを見ると驚愕して西野に一刀を浴びせ、反射的に逃げようとしたこの凶漢にまた一太刀、さらに三刀目でその首を、皮一枚を残して切断した。――この時代に、まだこれくらいの使い手が残っていたといういい例である。
しかし、打ち倒れた森有礼の腹から背へ庖丁はつきぬけたまま残り、あふれ出した血まみれの腸が、のたうつ身体につれて床の上を這いまわった。
この凶変を前奏曲として、しかしその日の「千古不磨の大典」は、とどこおりなく行われた。
そして午後一時からは、このころようやく雪霽《ゆきば》れとなった青山練兵場に、天皇皇后の馬車は向い、四時ごろまでの観兵式に臨んだ。
このとき、宮城正門前に行列して天皇を送り出した帝国大学の教師と学生が万歳を三唱したのが、万歳三唱のはじめといわれ、これを発案したのが森有礼であったといわれる。――
夕暮、その青山の観兵式から、参謀本部次長、陸軍少将川上操六は、三宅坂の参謀本部に帰って来た。
自分の部屋だから、ノックもしないで、次長室のドアをあける。
すると、もう暗い窓にむいた自分のデスクに悠然と坐って、洋燈《ランプ》の灯の下で何か書き物をしている軍服の男があった。川上がはいっていっても気がつかない。
しばらく黙って見ていると、腰のあたりから何やら左手でとり出して、ポリポリと音をたてて食う。どうやら豆らしい。
「明石」
と、川上が呼ぶと、驚いて立ちあがり、それでも上半身をななめに倒して、
「あ、失礼しました。観兵式は終ったでありますか」
と、いった。
「参謀本部次長の部屋が自由にひらく。危険でありますな」
自分で勝手にはいりこんだくせに、ぬけぬけとまじめな顔でいう。相当な大男で、実に豪快な風貌をしているが、まだ若い。――明石元二郎はこのとし満二十五歳で、中尉で、まだ陸軍大学生であった。
「だいぶ待ったか」
と、こだわらずに川上少将は訊《き》く。話があるから、観兵式から自分が参謀本部に帰るころ、ここに来いと呼んであったのだ。
「いえ、十五分くらいであります」
と、いいながら、近づいて来る次長に、急に明石元二郎はあわてて、卓上の、何か書きかけの紙片をとって、ポケットにねじこんだ。
それも意とせぬ風で、川上はいままで明石の坐っていた自分の椅子にどっかと腰を下ろして、やおら葉巻に火をつけた。
「森どんは気の毒な事《こつ》じゃった」
と、ふうっと煙を吐いていった。
森有礼と川上操六は同じ薩摩出身で、川上のほうが一つ年下になる。
明石がいった。
「何でも犯人は、森閣下が伊勢神宮に不敬の行為をされたっちゅうことで、あの凶行に及んだそうでありますが」
「ほう、もうそんな事《こつ》を知っちょるか」
「は、大評判であります」
川上次長が、それについて何の意見も口にせず、しばらく葉巻を吹かしているのを見ながら、明石中尉は首をひねった。
「これは私も、以前から大疑問に思っていたことですが……伊勢神宮に大不敬を犯したといって……閣下、そもそも天照大神《あまてらすおおみかみ》の旦那さんは、何ちゅう人でありますか?」
「?」
「天照大神の皇孫ニニギノミコトが高千穂の峰に御降臨になったっちゅう話は聞いておりますが、お孫さまがおられりゃ、そのおとっつぁんやおっかさん、つまり天照大神のお子さんがあったにちがいない。その人の名を、閣下は御存知でありますか」
明石元二郎はいった。
「またお子さんを生まれた以上、天照大神には旦那さんがあったにちがいない。その人の名を、閣下は御存知でありますか」
川上操六は、葉巻を口から離して、
「明石、そげな話はせんほうがよか」
といった。
実際、ひとに聞かれたら、ただではすまない話だ。それをこの明石中尉は、平気でいう。
「どうもエタイが知れまっせん。そんな神様を祭った神社に無礼を働いたっちゅうて、大臣まで殺すやつが出て来るとは何たることか。どうも私は、理に合わん話は好かんですたい」
「そげな性質のお前を見込んで、きょう来てもらったのじゃ。その話はもうよせ」
と、川上操六はいった。本来なら、この相手の大不敬を怒らなければならないところだが、彼は怒らない。
「実は乃木少将についてお前に頼みたか事《こつ》があるんじゃ」
「え、乃木閣下のことで?」
「ふと聞いた事《こつ》じゃが、乃木の家に幽霊が出るっちゅう。――いや、家の中ではなか、外のどこかと聞いたが、とにかく子供が見たっちゅう。それを乃木が叱って。……」
川上操六は、暗然といった。
「乃木はいいやつだが、どうも家庭が暗くてな。詳しか事情は知らんが、そげな怪しげな話があるようでは、近衛歩兵旅団長の職を果すのも心許《こころもと》なか。あれはおいの親友じゃて、おいも心配するんじゃ」
川上操六はこの年四十二で、乃木|希典《まれすけ》はそれより一歳とし下のはずだが、この両人はおととしいっしょにドイツへ派遣され、一年半ばかり、ともにドイツの軍事学を学んで来た縁から、特に親しい関係にある、ということは明石も知っていた。
「で、お前にその幽霊事件を探ってもらって、乃木家のゴタゴタを鎮めてもらいたか」
「あの……乃木閣下を知らん、若輩の私が?」
「乃木を知っちょる者じゃ、かえっていかん。あれは私事|隠蔽《いんぺい》症のところがあって、親しかやつがそれに鼻づらをつっこもうとすりゃ、かえって激烈な反撥を起す。……それを、お前なら出来そうで、それでお前を呼んだ」
明石元二郎は、なお納得しかねる顔つきで立っていた。
参謀次長川上操六。――次長とはいえ、総長の有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王はお飾りだから、彼が実質上の総長にひとしい。このままで彼は五年後の日清戦争の作戦中枢となり、神算鬼謀、日本に勝利をもたらすのである。
この名将は、すでにこのころから陸軍の俊才異能を見いだすのに熱心であった。それで、陸軍大学の試験答案などもみずからいちいち見た。
その中で、もっとも川上の眼をひいたのが、第五期生――といっても十人だが――の中の、この明石元二郎だ。最初見たのは、「戦術」の答案であったが、「こりゃ何だ?」と川上は呆れ返った。用紙はあちこち破れ、真っ黒だ。まるで小学生の答案用紙みたいであった。いたるところ塗りつぶしたり、書き入れしたりした個所がある。鉛筆の跡のこすれかげんから、何か液体でも落ちたのではないかと思われる個所もあった。――のちに川上は、それが洟汁《はなじる》であったと知って憮然《ぶぜん》とした。
にもかかわらず川上は、その答案を読んで、そのみごとさに舌を巻いた。――それが明石元二郎のものであったのだ。
そこで、この陸大生を呼んで見る気になった。
実に何とも評しようのない青年将校であった。いったいこれが将校としていままで通って来たのか、と、ふしぎなほどなのである。
かなりの大男で、眼はギョロリと大きく、むしろ粗暴の印象である。ズボンはズリ落ちそうになって、靴のかかとでその裾《すそ》を踏みつけながら歩く。軍刀もガチャガチャとひきずりかげんで、その証拠に鐺《こじり》は磨《す》り切れている。注意しないと、帽子もあみだにかぶっている。その上、腰に小さな袋をぶら下げているので、それは何だと訊くと、煎り豆をいれた袋であった。
「腹がへってはいくさは出来ん、っちゅうこってす」
と、彼は澄ましていった。
空腹のときの用意かというと、何かといえばその袋に手をつっこんで、ポリポリと食っている。
明石は筑前黒田藩の士族、つまりいわゆる黒田武士の子で、十三のとき東京に来て陸軍幼年学校にはいったのだが、むろんまるきり故郷と縁の切れたわけではないので、ときどき筑前|訛《なま》りが出る。
人を喰っていることはたしかだが、意識してやっているのではないことを、川上はすぐに見ぬいた。上官に対しても、敬意を持つべきところには、ちゃんと敬意を払っている。ただ、遠慮とか恐怖心というものを、先天的に欠いた性質らしい。
この若者は、世の中の不合理、不条理、迷信、怪力乱神、杓子定規《しやくしじようぎ》、偽善、虚礼、カラ威張り、モッタイぶりなどを頭から馬鹿にしていた。
それはいいのだが、当然軍人として持つべき規律、清潔などの慣習にも全然無頓着である。そばに寄られると、冗談ではなく何か臭《にお》うような気もする。
それでいて、ヌーボーとした中に、何ともいえない愛嬌があって、友人たちはもとより直接の上司にも、彼の不精、不潔はもう容認されているらしい。
それでも川上操六は、この正月、彼の上官の一人たる陸大教官の東条|英教《ひでのり》大尉に逢ったとき、
「明石のズボラは何とか矯正出来んか」
と、いったことがある。
「いや、あれはもうどうにもなりません」
と、東条教官は、しょっぱい、というより絶望的な顔をして、首をふり、それから次のような話をした。
去年夏のある日曜日、所用があって赤坂|福吉《ふくよし》町の黒田侯爵邸を訪ねたとき、ふとそこの長屋に明石が寄宿していることを思い出し、そちらにまわって声をかけて見た。
すると明石は、ひるねでもしていた気配《けはい》であったが、やがて、それでも襦袢《じゆばん》に袴《はかま》をつけて外に出て来た。で、しばらく彼と立ち話をしたのだが、どうもようすがおかしいので彼をうしろ向きにさせたところ、なんとふんどしをつけただけでお尻はまる出しであった。――彼は袴に足を通すのを面倒くさがって、まるでお相撲《すもう》の化粧まわしのように、袴を前にぶら下げたままで自分と応対していたのである。――と、東条教官は話した。
東条英教は、明治二十二年には、英機という五つになる子供を持つ教官であった。
要するに、怪男児としかいいようのない明石元二郎であった。
川上は、しかしこの若者が甚だ気にいった。そこで、この名刀のような参謀次長も、いまや明石の天衣無縫ぶりを容認した上で、彼に接することになった。――
――で、いま、川上次長から、思いがけないことを依頼されて、明石はなお狐につままれたような表情をしていたが、
「は、では、ひとつやって見ます」
と、いった。
「乃木家の事件を調べるにゃ、どげんしても乃木に逢わんけりゃならんが……不用意に近づいてその事件の事《こつ》など訊《き》こうとすりゃ、頭から雷を落されるぞ」
川上操六はしげしげと相手を見あげ、見下ろし、
「だいいちお前の風態《ふうてい》じゃ、あの乃木が何ちゅうかのう」
と、自分から頼んだくせに、少々|心許《こころもと》ない顔をした。
「ところで、お前、いまここで何を書いとった」
明石元二郎は狼狽して、ポケットをおさえた。
「いや、まったくの退屈マギレのいたずらがきで。……」
「見せい」
次長に手を出されて、彼はしぶしぶ紙片をとり出した。
これも、例によって汚い。消したり、線をひっぱったり――おまけに二つ、三つ、ひげをはやした顔のポンチ絵が書いてあり、隅のほうには、毛のついた鼻糞がくっついている。
「何だ、こりゃ……大将中将連の名じゃなかか」
「そうであります」
「上にバツじるしのあるのは――ほとんどみなバツじるしがつけられとるが――こりゃ何じゃ」
明石中尉はしばらくモジモジしていたが、やがていった。
「は、これは私がいま陸軍大臣になったら、ただちにクビにする方々であります!」
そのころ――神田駿河台の丘の上に、異様な建物が建てられつつあった。
それはもう五年も前の明治十七年からとりかかっているロシアの耶蘇《やそ》教の教会で、最近になって、縦横《たてよこ》無数の足場の棒や板の中に、奇怪な二つのシルエットを浮かびあがらせて来た。一つは、巨大な玉葱《たまねぎ》をのせたようなかたちの建物で、もう一つは高い尖塔をつけた四角な建物である。やがて前者は大聖堂になり、後者は鐘塔になるという。――
吹く風に早春の光が感じられ出した三月はじめのある日曜日の午後、蒼く晴れた空の下に、その高い足場のあちこちでたくさんの大工や人足が働いているのが、まるで蝉《せみ》や蟻《あり》がとまっているように見えた。
その建築中の大聖堂の真下から、斜めにかけられた足場の板を、三つくらいの男の子の手をひいた、二十四、五の書生姿の青年が、ゆっくりと上りかかった。
「子供さんに気をつけて下さいよ、長谷川さん」
と、いままで話していた棟梁らしい老人が、あおのいていう。
「大丈夫、大丈夫、ほんのそこまでだから」
と、青年はふり返りもせずにいった。
その棟梁のところへ、踏みどころもないような工事現場を大股にまたいで、一人の青年将校がやって来て、これもつかつかと足場を上ってゆこうとする。
「あっ、軍人さん、いけません!」
と、棟梁があわててとめた。
「なぜいかんか」
と、ふり返ったのは明石中尉であった。無造作にマントを羽織り、帽子をあみだにかぶっている。
「あぶねえから」
「おれは、あぶなくない」
「それに造作《ぞうさく》に関係のねえ人は上らせちゃいけねえって、ニコライ大主教さまからかたく御禁制になってるんで――何しろ、こいつは大聖堂になるんでね」
「ばってん、あそこに子供連れで上ってゆく男がおるじゃないか」
「あれは大主教さまとお知り合いの人で」
「あのてっぺんにいるのは、その大主教と乃木少将閣下じゃろ?」
「へえ」
「おれはその乃木閣下に至急御報告することがあって駈けつけたんだ」
口をモグモグさせている棟梁を尻目に、明石は軍刀をガチャつかせながら、スタスタと足場を上っていった。
ふとっているくせに、さすがに軍人らしく俊敏な足どりであった。構造物が雄大なので、遠くから望むと箸みたいに見える足場だが、歩いてみると意外に広い。
彼はすぐに、先にゆく子供連れの青年に追いついた。
「やあ」
ふり返った青年に、人なつこく笑いかけ、
「あんた、ニコライ大主教とお親しいですってなあ」
と、話しかけた。
「いや、べつに親しいというほどでもありませんが、存じあげていることは存じあげておるのです」
青年は答えた。明石に負けぬ大柄の若者だが、どこか沈鬱な感じがある。――明石は、本能的にこの相手が自分と同じ年であることを感じた。
「あんた、ニコライ教の信者ですか」
「いえ」
「どうして知っとられるのか」
「この子のお祖父《じい》さんが信者だったんで……そのお祖父さんを知ってた縁で、ニコライさんともお近づきになったんです」
「というと、その子は、あんたの子じゃないのですか」
男の子もよくふとって、くりっと大きな眼をしていた。
「まさか。……この子の家が蠣殻《かきがら》町で大きな印刷所をやってて、僕の仕事の関係から知り合って、きょうもふとその印刷所へいったら、この子がどうしてもこの工事現場にいって見たいという――倖い、僕がニコライ大主教を知ってるので、それじゃ頼んでやろうと連れて来たわけです」
「あんたの仕事は何ですかな」
「いや、いまは僕は無職ですが、小説を書いたもんで、その出版社の用で――」
「何ちゅう小説を」
「……そんなことを軍人さんにいってもしようがないでしょう」
青年は、やっとわれに返った。
――彼はもともと口の重いたちで、いわんや名も知れぬ相手のこんな問いに、こんなに答えたことはいままでになかったのである。しかしこの若い軍人は、一見豪快な顔に童児のような愛嬌があって、知らず知らずつい応答させるふしぎな魔力の持主であった。
「さ、ジュンちゃん、もうここらでよかろう。ここで見て、あと下《お》りようね」
彼は、上って来た高さにも気がついたらしい。――そこはもう、ふつうの二階家の屋根の倍はある高さであった。
「そら、町がこんなにひろく見えるだろう? ああ、蠣殻町はどっちかな? ジュンちゃんの家はどこかな?」
と、それまでかたく手を握っていた子供を、いっそうそばにひき寄せようとした。そのとたんに、子供はぐいと将校の腕にしゃくいあげられてしまった。
「さ、坊や、せっかくここまで上ったんじゃけん、もっと高いところで見せてあげるよ」
と、明石は両腕で持ちあげるように子供を抱いて、トットと足場を歩いてゆく。大きく、稲妻型になった板の上を、さらに、上へ、上へ。――
青年は狼狽し、かつ少し立腹した顔で追っかけた。
「何するんです。あぶないじゃないですか!」
「ちっともあぶなくない」
明石は平気で、
「何ちゅう小説を書かれたのか」
と、上をむいたままさっきの問いをつづけた。子供に気をとられて、青年は息を切りながら、
「浮雲《うきぐも》。――あっ、あぶない!」
明石はふりむいた。
「浮雲? それなら私も読んだことがある。――二葉亭四迷、とは、あんたのことですか?」
明石元二郎の同期生たちは、明石が勉強するのをあまり見たことがなかった。むしろ、授業中でもよく居眠りをすることで評判の男であった。にもかかわらず成績は優秀で、中でも「戦術」と「数学」が抜群なのがふしぎ千万で――特に数学など、彼の性向や行状とあまりかけちがっているので――みんな、頭をひねっていた。
とにかく彼が、寝っころがって読んでいるといえば、新聞、それも市井のゴシップをのせた小《こ》新聞とか、町で売られている草双紙風の雑誌とか――明石でなかったら制裁されかねまじきたぐいのものが多かった。
で、二葉亭四迷著「浮雲」――そんな小説を、この豪快な風貌をした陸軍中尉殿は読んでいたと見える。
「ありゃ変った小説だが、面白かったばい」
と、明石はいった。
「それに、二葉亭四迷っちゅう名も変ってますな。雅号にしても変っとる。いったい何ちゅう意味ですか」
「クタバッテシメエ、という意味です」
「へえ? それは面白い。ばってん、だれが?」
「私が」
「自分が? どうして?」
「私がつまらない人間だからですよ」
青年二葉亭四迷は真っ赤な顔をしていった。怒っているからでも、登攀《とうはん》の努力で上気しているからでもない。彼は何より、ほんとうに恥ずかしがっているのであった。何を? 自分の書いた小説について、人にあれこれいわれることを。
「そいつは、ばってん、二葉亭さん。――」
「二葉亭はやめて下さい。それは小説本に印刷された作者の名だというだけのことだ。私は長谷川辰之助という名です」
怒っていないといったら嘘になる。登攀にあえいでいないといったら嘘になる。その両者もたしかにあって――
「軍人さん、とにかく子供を返して下さい。もうこっちはここらでいいんだ!」
と、怒鳴るようにいった。
「なに、おれは双眼鏡を持っとる。それで、坊やに見せてやろう」
と、明石はとりあわず、子供を抱いたまま、まだ足場を上ってゆく。
「坊や、いくつだね」
クリクリとふとった子供は、頼りなげに小さな親指を一本折って、あと四本をひらいて見せた。
「何ちゅう名かな?」
「タニジャキ・ジュンチロー」
「ああ、そうか、いい名前だね。それじゃ、いちばんてっぺんで、遠眼鏡で東京を見せちゃろう。いいね?」
子供はこっくりした。長谷川辰之助は気をもんだけれど、実は子供は彼に抱かれているより、その将校に抱かれているほうが安心した顔つきをしていた。
そして彼らは、ついにいちばん高いところに上りついた。
そこに三人の人間が立って、こちらを見ていた。一人は怖ろしく背の高い身体に黒い僧衣をまとい、垂れのついた黒いトルコ帽のような帽子をかぶり、胸に銀の十字架を下げた五十半ばの異国人で、これがニコライ大主教にちがいない。あとの二人は、いうまでもなく乃木少将と――その馬丁らしかった。
たちまち明石元二郎は敬礼して、
「陸軍中尉、陸軍大学生、明石元二郎でありますっ」
と、名乗った。名乗ったのはいいが、左腕には依然子供を抱いたままである。
「あなた、だれの許し得て、ここ、上ってきましたか」
と、ニコライ大主教が、にがい表情でいった。下半分は髯に覆われた面長の顔に、眼が碧い炎のように燃えて見えた。
彼は文久元年に箱館に来朝し、明治五年から東京に来ているので――つまり在日すでに二十八年に及び、明石などが生まれてからよりまだ長いので、日本語はむろん自由であった。ただ、アクセントが妙なのはいかんともしがたい。
「は、御存知の友人、この長谷川辰之助君に案内されて、上らせてもらいました」
と、恬然《てんぜん》と明石は答えた。
「長谷川君は、ニコライ宗の信者、蠣殻町の印刷屋の御老人を介してお近づきになったそうですな。私は長谷川君の小説の愛読者ですが、私も長谷川君を介してお近づきになりたいと思っとります」
たったいま、耳に拾ったばかりの知識の断片を利用して、ぬけぬけとそんなことをいう。
長谷川辰之助はあっけにとられた顔をした。そして、大主教に向って何かいい出した。
こんどは明石のほうがめんくらった表情になった。長谷川の唇から出ているのは、日本語ではなかった。ロシア語に相違なかった。
実際に長谷川辰之助は東京外国語学校に籍をおいたことがあって、その後退学はしたけれど、ロシア語には依然興味を持っていて、蠣殻町の印刷所「谷崎活版所」に出入りするようになったのは、印刷や出版の関係もさることながら、そこの老主人谷崎久右衛門が熱烈なニコライ派信者で、ニコライ大主教に愛されていることを知って、まさに、それを仲介に大主教に近づこうとしたためであった。目的はロシア語の会話をすることで、彼はほぼその目的を達していた。
が、彼は大主教とは近づきになったが、いまここへ上って来るについて大主教の許可を得たわけではない。大主教が建築中の足場の上にいると知って、下でウロウロしているうちに、いつか大主教と話しているのを見たことのある棟梁の老人が、まあ、ほんのそこまでならようがしょう、と、上ることを認めてくれたに過ぎない。
で、辰之助は、この軍人はたったいま偶然同行することになっただけで、別に友達ではない、と大主教に弁明したのである。
ニコライ大主教は不機嫌であった。それは、近衛歩兵第二旅団長という肩書で突然訪れたノギ・マレスケという陸軍少将から建築中の大聖堂の上に同行することを命じられ、その乃木から、この高さでは宮城を見下ろすことになると抗議を申しこまれ、それと論争していたからであった。
――高いといっても、出来上ってしまえば大聖堂の屋根で、信者が屋根の上に上るわけではありません。
――しかし、その屋根に窓らしきものがついておるではないか。
――あれは明りとりの窓です。信者からは高い天井の窓に見えるだけです。
――では、あっちの、もっと高い塔は何か。
――あれは飾りの尖塔で、その下が鐘楼になっているだけです。鐘つき男がそこに上るだけです。
――その鐘つき男が宮城を見下ろすことになるではないか。
――見下ろすといったって、これだけ遠い距離があるのですよ。
こんな問答がくり返された。ニコライ大主教は、この――ノギマレスケーというと、まるでロシア人の名前みたいにひびくが――頑冥無比の日本の将官にウンザリしていた。この人物が、のちに、ロシア軍と旅順で死闘の限りをつくすことになるのだから、ここで両者がジャブを交わし合ったのは虫の知らせか。
――もっとも、ここでニコライ大主教のために弁じておくと、彼はむろん日本人を愛していたのである。むしろ敬意を払ってさえいたのである。そうでなくて、たとえ布教のためとはいえ、生涯をこの国に捧げようと決めているはずがない。
すでに一八六九年(明治二年)彼が故国の――ドストエフスキーが「罪と罰」を連載した――雑誌「ロシア報知」に発表した「キリスト教宣教団の観点から見た日本」という論文がある。これを読んで作者は大変感ずるところが多大であったから、ここで紹介させていただきたい。
「――上からは絶対専制、下はひたすらの盲従、無知、愚鈍、そして同時に泰然たる自己満足と傲慢、その結果たる鈍重と停滞。――これが東洋の諸国家についてのわれわれの理解に必ずついてまわる概念である」
と、彼はいう。
しかるに、日本だけはそうでない。
「日本人は、あたかも古い着物を棄て去るように、それまでの文明を投げ捨てる。そして、臆面もなくと言いたくなるほどの大胆不敵な手つきで、ありとあらゆるヨーロッパ的なるものにつかみかかっている」「もし物理的に可能であったら、日本人全体の半分が外国へ学びに出てゆく。そう言っても決して過言ではない」
そして日本人は、現在のヨーロッパの民衆に比較してはるかに好条件の市民的権利を持っているのに、なおそれに不満をいだき、
「商人は、実際にはその税は決して重くないのに、あれやこれや税のことで不満を言い、農民は年貢《ねんぐ》の取り立てで愚痴を言う。また、誰もかれもが役人を軽蔑していて、『連中と来たら、どいつもこいつも袖の下を取る。やつらは碌でなしだ』と言っている」
「そして民衆はおしなべて、この国の貧しさの責任は政府にあると口をそろえて非難している。――それでいてこの国には、乞食の姿はほとんど見かけないし、どの都市でも、夜毎、歓楽街は音楽と踊りで賑《にぎ》わっているのである」(中村健介訳「ニコライの見た幕末日本」)
これがニコライの見た「幕末」日本であったかと聞くと驚かざるを得ない。
これは昭和後期の日本と同じではないか。――また「東洋諸国家」も、百年後、同じではないか。そして、ニコライの批判した東洋の特徴は、昔も今も、ロシアにも頑然と存在する特徴ではないのか?
――さて、ニコライ大主教は、いま無断でここに上って来た若い日本の将校を、とがめようとしてふりむいた。
すると彼は、乃木少将となれなれしく話をしていた。
「それはお前の子供か」
と、乃木が訊いている。
「いえ、長谷川君の知り合いの、ニコライ信者の子供であります」
「そんな小さな子供を連れて、こんな高いところへ上ってあぶないではないか」
「はっ。……実は双眼鏡で東京の町を見せちゃろう、と約束しまして」
なれなれしいのは彼のほうだけで、乃木少将のほうはニコリともしない。
「そこに双眼鏡を持っとるのか」
「はっ。長谷川君、ちょっと頼む」
と、明石はやっと子供を辰之助に返した。そして、マントの前をひらくと、そこに首にかけた双眼鏡が現われた。
「ちょっと貸せ」
乃木は受取って、眼をあてた。……十五年後、この姿で彼は二百三高地を望むことになる。このとし満四十歳の乃木の鬚はまだ黒く、精悍きわまる風貌であった。
ニコライは、やっと明石にいった。
「ここは、将来、大聖堂の屋根になる神聖な場所です。ふつうの人、上ってはいけません。早く、下りて下さい」
乃木が双眼鏡から眼を離していった。
「大主教、あなたは、あなたにとって神聖な場所に上ってはいかんとおっしゃる。しからば、私どもにとっても神聖な場所を見下ろしてはいけない、という私の主張をお認めになってもいいのではないか?」
ニコライ大主教は、不愉快な顔になって黙りこんだ。
乃木少将はまた双眼鏡を眼にあてて南のほうにまわしていったが、たちまち双眼鏡を離して、深く敬礼した。
「まことに恐懼《きようく》の極みである」
と、いった。
そして、双眼鏡を明石に返した。どうやら宮城が見えたらしい。
明石は双眼鏡を受けとり、自分の眼にあてたが、急にあわてて離して、双眼鏡のレンズを見て、それから何かを指ではじき飛ばした。
「何じゃ?」
と、乃木が訊く。
「はっ。……いや、ちょっと」
と、いって、また眼にあてる。
「宮城のほうを見てはいかんぞ」
「はっ」
明石は西のほうを眺めながら、
「閣下、乃木閣下は、一昨年、ヨーロッパにゆかれたっちゅうことでありますが」
と、尋ねた。
「知っとるのか」
「は。……ヨーロッパの町には、こんなでっかい建物がありますか」
「馬鹿なことをいうな。これよりもっと大きくて高い建物だらけじゃ」
明石はニコライ大主教のほうをむいて、
「それじゃ、やはり宮殿を遠くから見下ろすような建物もありますか」
「それは、ありますとも」
大主教は、彼をとがめるのも忘れてしまった。乃木を見て、
「将軍、ですから、この聖堂を高いといって怒るのは、文明的に非常識なことなのです。わかりましたか?」
さっきのしっぺ返しだ。こんどは乃木少将のほうが、にがい顔をして黙ってしまった。
長谷川辰之助が、子供を抱いたままロシア語で何か質問し、ニコライが何か答えた。それは、この建物の高さについて尋ね、大聖堂は一一五尺(約三十五メートル)、鐘楼は一二五尺五寸(約三十八メートル)と答えたのであった。
それを横目《よこめ》で見ながら、明石は声をひそめていった。
「閣下、われわれも将来にそなえて、ロシア語を学ぶ必要があるのではありませんか?」
「同感じゃ」
と、乃木も小声でいって、うなずいた。
「お前ら、若い連中は是非やってくれ」
人間は小声同士でしゃべると、ふしぎに仲間意識に陥る。
「それについて、いちどヨーロッパへ遊学された閣下のお教えをいただきたく……実は私、閣下と同じく赤坂に住んでおる者でありますが……この次の日曜日にでも、いちどお訪ねしたいと思いついたのですが、いかがでありましょうか」
「いや、わしはドイツにはいったが、ロシアは知らんぞ」
「それでも結構です。何かと参考になると思います。あちらの軍隊のことを是非承わらせて下さい」
乃木はしげしげと明石を眺めていたが、
「お前、陸大生といったな。……まあ、よかろう、来るがいい」
と、いった。
「ありがとうございます。では、長谷川君、下りようか」
明石元二郎は敬礼して背を見せた。ニコライ大主教の御機嫌があまりよくないことを察知した長谷川辰之助が、あわててあとを追う。
明石は、子供に双眼鏡で見せてやるなどいった約束はけろりかんと忘れている。だいいち、双眼鏡の間隔をいかにちぢめても、小さな子供の眼に合うことは不可能だったろう。明石にとっては、性|狷介《けんかい》といわれる乃木少将に、さりげなく近づきになることが目的で、子供はむろん、長谷川辰之助もその|だし《ヽヽ》に過ぎなかったのだ。
ありがたいことに、数え年四つとはいうものの、ほんとうはまだ二歳と八カ月であった谷崎潤一郎は、双眼鏡のことを思い出して請求する能力などあるわけもなく、この間ただ大空の雲と、黒衣の異人に、交互につぶらな眼をむけていただけである。
ましてや、自分がこの日――奇《く》しくも同年に生まれ、のちにロシア内部に食い入《い》ってその死命を制する運命を持つ青年と、ロシア文学を愛するあまりにロシアに深入りし、その地で死病を得る運命を持つ青年に、高い空の上で、鞠《まり》のように変りばんこに抱かれた記憶など、あとに残るすべもない。
幽霊旗手
次の日曜日の夕方、明石元二郎は、赤坂新坂町の乃木邸にやって来た。
乃木|希典《まれすけ》は、そのとき自分の書斎で漢詩を作っていたが、ふいに庭のほうで子供の笑い声を聞いた。――そして、それに混《まじ》る若い男の太い声に、しばらく考えて、ああ、あの陸大生か、と思い出した。
そういえば、この前ニコライ聖堂で、この次の日曜にうかがいたい、とかいったが、それにしても変な時刻に来るやつだ、と希典は舌打ちして、書斎から出ていった。
日曜日なのに、彼は軍服をつけていた。いついかなるときでも軍服のままなのが彼の習性である。
すると、西日のさした庭で、勝典《かつすけ》、保典《やすすけ》という子供が、二人とも袴姿のままで竹馬に乗って、きゃっ、きゃっという笑い声をたてていた。そのそばで、あの明石元二郎が、少しだらしのない軍服姿で、ニコニコして眺めている。座敷に出て来た乃木には気がつかない風だ。
この乃木邸は、当時|藁《わら》ぶき屋根の純然たる農家であった。畑もあるので乃木が気にいって、十年ばかり前からここに住んでいる。
後年、まさか自分が神さまとなり、ここに乃木神社なるものが建てられようとは本人も想像の及ぶところではなかったが――しかし、このころからこの家には、何か神社かお寺のような、森厳といえば森厳、寂しいといえば寂しい雰囲気がただよっていた。
農家ほどあって家だけは大きいが、住んでいるのは希典と、数え年で六十二になる母の寿《ひさ》子と、十一歳の長男勝典、九歳の次男保典と、津田という馬丁だけだ。
毎日、馬で軍務に出勤する希典は――いや、日曜でも、子供たちのそんな笑い声を聞いたことがない。のみならず、明石はいまやって来たものと思われるが、子供たちの馴れかげんは百年の知己《ちき》のようであった。
希典はしばらく首をかしげて、庭の光景を見ていたが、やがて、
「こら」
と、声をかけた。
明石元二郎はふりむいて、敬礼したのはいいが、
「やあ、閣下」
と、まるで友達みたいな気楽な声で呼んで、縁側に近づいて来た。
「お待ちになりましたか。明石中尉、参りました」
「待ってはおらん」
乃木は苦笑して、
「しかし、遅いではないか」
「は、申しわけありまっせん。あの竹馬を作っとったもんで、遅くなりました」
「なに、あれはお前が作って持って来たのか」
乃木はもういちど、二人の子供が夢中で竹馬に乗って歩いてる庭のほうに眼をやって、
「それにしても、お前、おれにあの年ごろの子供があることをよう知っとったな」
「は。……実は、小学校から帰られる途中をつかまえ、一、二度話をしたくらいで」
「下校中の子供を? お前どこに住んでおるのだ」
「ここから氷川《ひかわ》神社を越えたすぐ向うの、赤坂福吉町の黒田侯爵邸であります。私の出身が元黒田藩なので、そこのお長屋にお世話になっております」
「ほう、そうか」
いつのまにか、希典もやや気を許した言葉遣いになっている。気がつかなかったが、これがこの若い将校の奇態な能力であった。
「いや、ここで結構であります」
と、明石は軍帽をぬぎ、ポンと縁側に放り出し、軍刀を腰からはずして、投げ出すように置き、さてドッカと横坐りに腰をかけた。
乃木の顔が、またふきげんになった。何か明石にいおうとして、しかし顔を庭へむけ、
「こら、勝典、保典、遊ぶのはもうよい。晩飯まで勉強せい!」
と、叱咤した。
「まあ、いいじゃござっしぇんか」
と、明石がいう。
「竹馬は、昔、侍の子もあれで遊んだのじゃござっしぇんか」
「若僧《わかぞう》が……他家の子弟の教育によけいな口を出すな」
「恐れいりました。ばってん、子供は叱らにゃならんが……あまり叱り過ぎると、おびえた子供になりますばい」
「明石。――」
「あのお子さん……幽霊を見られたそうでござりますね」
そのとき、表のほうで、
「津田、帰りました!」
と、大声がし、子供たちの笑い声を聞きつけたか、声の主が庭のほうにまわって来た。
先日、ニコライ聖堂の屋根の上で見た乃木の馬丁であった。どうやら使いか買物にでもいっていて、帰って来たものらしい。
そして、そこに主人と話している明石を見て、驚いた顔をした。
乃木は、それにはかまわず、
「明石、だれからそんな話を聞いた」
「だれから聞きましたかな。いえ、ただ噂で」
しかし明石元二郎は、川上参謀次長から聞いたのである。川上は、あのとき、こんな話をした。
乃木の家では、子供の教育がきびしい。特に細君が姑《しゆうとめ》と折合《おりあい》が悪く、以前にもいちど別居して、その後、家に戻ったことがあり、乃木がドイツにいっている間は、結構姑と嫁といっしょに暮していたのに、乃木の帰朝後また、うまくゆかなくなって、現在ふたたび別居中であるという。
で、母親のいない二人の男の子は、何の緩衝物もなく乃木の武骨なしつけの難を受けることになった。子供たちにとっての祖母は健在だが、これが大変な気丈者の婆さんで、とうてい緩衝物になりそうもないということだ。なにしろ乃木が幼いころ、いたずらをすると、よく蚊帳《かや》の吊り手の紐つきの環を仕置道具にして、これでぶったというくらいのひとだから。
乃木は、二人の子を模範的な軍人に育てあげようと決心しているようだ。
そのために乃木は、彼にとって最善と思われるスパルタ教育をほどこす。
厳格なしつけの当然な軍人の家庭でも、あれはちとどうも、という評判を耳にするので、先日、ひそかに乃木に仕えている津田という馬丁を呼んで、実状を聞いてみた。
むろん津田はなかなか打ちあけなかったが、やがてハラハラと落涙して、乃木閣下は尊敬の極みのお方ではあるけれど、お子さまに対してのおしつけはあんまりだ、と思うことが少なくない。乃木閣下と御親友の川上閣下のお尋ねだから、この場かぎりのことにしていただけるなら申しあげます、といって次のような話をした。
なんでも長男の勝典は、小学校から帰ると週に何日か、ある書道塾にかよわされているが、去年の大みそか近いある日、夜になっても帰って来ない。で、津田が心配して見にゆくと、近くの町角にションボリ立っている。
聞いてみると、その日、途中で、凧をあげている友達につかまって、いっしょに遊んでいたらしい。それで、時間を見はからって何くわぬ顔をして帰ればいいものを、気の小さいところのある十歳の勝典は、自分がズルをきめこんだのがこわくなって、家に帰れなくなったのである。
津田は勝典を連れて帰った。そして希典に事情を話した。彼としてはそれから希典の寛大を乞うつもりであったのだが、みなまで聞かず希典は、桶に水を汲んで来いと命じ、津田がめんくらいながら命令に従うと、希典はいきなりその水を勝典に頭から浴びせ、一時間戸外に立っていることを命じた。……外で、津田が抱きしめていてやらなかったら、勝典は凍死したかも知れない。
また、去年の夏、七夕《たなばた》につかう幾本かの竹を、ある町の知り合いから分けてもらうことになっていて、それを八歳の保典が運んで来ることを命じられていた。ところが、あいにく当日は朝から嵐であった。しかし、その約束を破ることを希典は許さない。保典は出ていった。
あとで、津田が心配して見にいった。そして、雨と風の吹きたける往来を、小さな保典が、枝も葉もついた自分の何倍もある何本かの竹を、懸命にひきずって歩いているのを見た。希典に叱られることを怖れて、津田は手を出さず、ただそばについて励ましただけであったが、大雨の中の幼児の力闘ぶりは、見ていても涙がこぼれた。
時に、二人の子の心胆をきたえるために、庭に立たせて拳銃で空《から》撃ちしておどすこともあるという。常識から見て、半狂気の沙汰といわざるを得ない。
さて、その子供たちの胆だめしだが――去年の秋の終りごろから、乃木はさらに一つの方法を思いついた。
希典が在宅していることの多い日曜日の夜九時ごろだが、その時刻に、二人の子供を近くの氷川神社にゆかせるのである。そして、拝殿で鈴を鳴らし、将来りっぱな帝国軍人になることを祈願して来るように命じたのだ。
それは、希典から見ると、特に勝典のほうがひよわで臆病に見えるところから思いついたことらしかった。
それが毎日曜日の行事となった。
氷川神社はすぐ近いけれど、昼なお暗い森の中にある。夜、いくつか、ボンヤリと石燈籠の御神燈はともっているけれど、大人でもその広い境内にはいってゆくのは相当の勇気を要する。
手を握り合って帰って来た二人の少年は、むろん歯の根も合わぬ顔色をしていた。
それが、三、四回つづいた。日曜日というと、二人は朝から青菜に塩といった態《てい》でしょげていた。
十二月にはいって間もなく、二人は咳をし出した。風邪をひいたのである。希典は、下の保典はほんものらしいが、上の勝典のほうは仮病《けびよう》くさいと看破して大喝した。そして、やはりその深夜のお詣《まい》りに追い出した。風邪をひいている保典もである。
その次の週である。――それはことし早々の日曜日であった――その夜詣りから二人の子供が帰って来たが、まるで寒天みたいにふるえていた。訊くと、なんと幽霊を見たという。――
「なに、幽霊? 馬鹿なことをいうな」
「ほんとうなんです。……ほんとうにみたんです!」
勝典と保典は泣きながらさけんだ。
さっき、森の中の参道を二人、手をつないでゆくと――遠い神燈の蒼い光を受けて、古い拝殿の前にボンヤリと立っている影が見えた。
二人は遠くからじっとそれを見ていたが、ふいに、「こわい!」と保典が泣き出し、あと勝典はその手をひっぱって、夢中で逃げ帰ったという。
「どんな幽霊じゃ? 鬼か? 女か?」
「なんか……ヘイタイさんみたい」
と、保典がいうと、勝典も、
「ショーコーみたいでした」
と、つけ加えた。
「なんじゃと? 将校の幽霊?」
乃木は納得出来ない顔つきをした。
「私、いって見て参ります」
津田従卒が駈け出した。
正直なところ、津田もあまり気味がよくなかった。それでも、ともかく氷川神社へいって見た。しかし、そこには何の異常も見られなかった。
「嘘をついたな」
希典は一喝した。勝典はさけんだ。
「うそじゃありません。……うそじゃありません!」
次の日曜日、希典は子供たちの顔をにらみつけていった。
「幽霊が出るとは、胆力をきたえるのにいよいよ好都合じゃ。脇差を貸してやる。いって、その幽霊を退治して来い!」
勝典に脇差をわたし、子供たちを追い出したあと、乃木は津田従卒にいった。
「お前、あとをつけて、ようすを見て来い」
で、津田は子供たちを追った。
そして、氷川神社にいって、樹蔭から偵察したのである。――結論からいえば、何事もなかった。幽霊は出なかった。
ところが。――
さて、次の週、保典の風邪がなおったらしいのに、こんどは勝典がまた咳をはじめ、こんどはほんもののようであったが、むろんそれでも行事は中止されなかった。――その二人が、
「また、出たあ!」
と、泣きさけびながら逃げ帰って来たのだ。
「また軍人の幽霊か」
二人はガクガクうなずいた。
「その将校は、どんな顔をしておった?」
「顔は、みえません」
と、勝典がいった。
「見えん? 若いとか、ひげをはやしておったとかおらんとか、そんなこともわからんのか」
「グンキをもってて……そのハタをひっぱって、顔をかくしてるので……顔はみえませんでした。……」
「なに、軍旗を持った幽霊?」
そして勝典は、そういえばその幽霊は、この前もたしか軍旗を持っていたようだった、といった。
さすがの乃木も、思わず勝典を見つめたきり、しばらく黙りこんでしまった。ここまで子供が嘘をつくとは思えない。
さらに、それ以上に何か衝撃を受けたらしく、それ以来希典は、子供たちに夜の氷川神社詣りを強制しなくなった。――
「乃木の馬丁から聞いたのはそげな話じゃ」
川上操六はそういい、
「乃木にとって、軍旗は厄病神みたいなものじゃからな。乃木も怖《こわ》かろう」
と、複雑な笑顔を見せた。
そして、その幽霊事件の奇怪さもさることながら、そもそもそんな事件が乃木家に起るのは、乃木の家庭に問題があるように思う。おいの見るところでは、妻がありながら別居中である、というような好ましくない状態にもその原因があるように思う。とにかく黙って聞き過ごすには、子供たちがあまりにふびんじゃ。とにかくお前が乃木に近づいて事情を聞き、そんな妖雲《よううん》を吹きはらってくれまいか、と川上から依頼されたのであった。
川上操六も、明石元二郎が乃木に対してこういうアプローチのしかたをするとは想像もしていなかったのではあるまいか。
のっけから乃木家のドアをたたいてもだめだ、という川上の意見に従って、一応彼はニコライ聖堂の空でのんきな顔をして近づいたが、訪問の許可を得ると、ズカズカと乃木家にはいって来て、たちまち乃木家の「秘密」に参入しようとしている。
「私ゃ、幽霊退治に来ましたばい」
と、明石はニコニコしていった。
「幽霊? そんなものはおらん!」
「坊っちゃん、坊っちゃん」
明石は顔を庭にむけて、
「坊っちゃんは、たしかに幽霊を見なさったのう」
と、いった。
竹馬に乗ったままの、九つの保典はこっくりした。が、
「今夜、もいちどおじさんと氷川神社にゆこう。そこでまた幽霊が出たら、おじさんがこの刀で退治しちゃる」
と、明石にいわれて、ぎょっとした表情になった。
乃木は、そこでボンヤリ立っている津田に、
「子供を連れてゆけ」
と、あごをしゃくり、やっと正気《しようき》に戻ったように、
「刀で斬る?」
と、いった。
「明石、そこのお前の刀を見せろ」
と、いいながら、自分で縁側のところまで出て来て、さっき明石が投げ出すように置いた軍刀をとりあげた。乃木がふきげんな顔をしたのは、明石のその乱暴な刀の扱い方にあったのだ。
その軍刀を半分抜いて見て、
「ぷっ」
と、乃木の口は、芝居の役者が驚愕の際に示すような音をたてた。
いや、驚いたというより、果せるかな、といったほうが適当だろう。しかし、それにしてもあんまりだ。明石中尉の軍刀には、赤褐色の錆《さび》がまだらに浮いていた。――いわゆる赤鰯《あかわし》いというやつだ。
「明石っ、こりゃ何だっ」
と、乃木は大喝した。
「きさま、これでも帝国軍人かっ」
「は、左様であります」
「帝国軍人が、武士の魂たる刀を、かくのごとく赤錆びたままにして――」
「刀は刀、武士の魂は武士の魂でござります。そりゃ、別物で――」
「なに?」
「これからのいくさは、刀より銃器でありましょうな。いつまでも刀々と神器扱いにしとると、西洋人とのいくさが勝負にならんと明石は考えとりますが」
「こやつ、な、何をぬかすか。刀をもって武士の魂となす、こりゃ帝国陸軍の帝国陸軍たるところ――」
「閣下、ちょっとピストルを拝借」
「拳銃?」
「閣下はときどき坊っちゃん方を、ピストルの空撃ちで胆だめしされるそうで」
「きさま、何をするんじゃ」
「明石元二郎も武士の魂を持っとることをお目にかけます」
乃木は真っ赤になった顔を、次第に不審顔に変えて、
「おうい、津田、拳銃を持って来い」
と、大声で命令した。明石がつけ加えた。
「弾もですぞ」
数分後、もう家の中にはいっていた津田が、座敷の奥のほうから、これもけげんな表情で一挺のピストルを持って現われた。コルトであった。
明石はそれに弾をつめて、
「そうですな。おう、あいつを撃ってごらんにいれまっしょう」
と、軽く拳銃をあげて、庭の向うの欅の大木に立てかけてあった竹馬の方に向けた。――その竹の先に、ちょうど雀が一羽とまっていた。
銃声が鳴った。
雀は落ちた。明らかに命中したもので、雀はわけのわからないかたちになって、地に横たわった。
乃木も津田も唖然《あぜん》として、この一見鈍重にも見えかねない若い将校を見まもっている。
「失礼しました」
と、明石は笑顔でいった。それはいいが、その拳銃をそのままポンと津田に放り、津田はあわててそれを受けとめた。
「武術はあまり得意じゃないのですがな。私ゃ、どういうわけか、鉄砲撃ちと器械体操だけが上手ですたい」
乃木はしばらく黙ってこの陸大生をにらみつけていたが、
「それでお前、幽霊退治に氷川神社にゆくといったが……そんなもの出んぞ。いや、嘘ではない。たしかに子供は妙なことをいったが、いちどならず二度、この津田がそっとあとをつけて見にいったが、幽霊なんぞ出て来なかった」
「それは津田がつけていったからですたい」
と、明石はいった。
「今夜は、私がつけていって見ましょう。そのつけ方に工夫があるんです。そうすれば、出ます」
乃木は狐につままれたような顔をしていたが、
「氷川神社にゆくとして……そりゃ夜がふけてからのことじゃ。それまで、何をしとる?」
「そうですな。それじゃ閣下の御夕食の御相伴《しようばん》をしましょう。一杯飲ませて下さい」
乃木家の食事は質素を極めた。芋の煮たものと、野菜のゴッタ汁と、沢庵だけだ。女中はいないから、これは津田従卒が作ったものだ。
それぞれの膳が、正面に乃木の母寿子|刀自《とじ》、横に希典と明石、向い合って、勝典、保典といった配置でならべられ、末座にお給仕の津田がお櫃《はち》をかかえて坐っている。彼はあとでひとり台所で食事するのであった。
老刀自がしずしずと現われたとき――同じ家に住んでいるのだから、きょうはじめて逢うわけでもあるまいに、希典はむろん、二人の子供も、両手をついてお辞儀した。そして、希典は、夕食の座に招いた若い将校の素性を紹介した。と、明石が大声で、
「やあ、これが有名な嫁イビリの……」
と、いいかけて眼を白黒させ、あわてて膳の上の徳利を飯茶碗にいれて、ぐいと飲み、
「早速ですが、閣下、ドイツ軍の実情についておうかがいしたいのでありますが。……」
と、話しかけた。粗食ながら、それでも膳の上に酒は用意してあったのである。
母堂はもとよりニコリともしない。薄鼠色の被布《ひふ》を着て、眼も鼻も口も大きい面長《おもなが》の顔に、ちょっとみけんに皺《しわ》をたてて、粛然として箸をとる。まるで老|巫女《みこ》のような妖気がまつわりついている。
明石はどこまで知っているのか――いや、いまの言葉からして、評判は聞いているにちがいないが――乃木家の沈鬱|寂寥《じやくりよう》の気は、乃木自身からというより、この老刀自から発しているのであった。乃木のスパルタ教育も、実はこの母に学んだことなのである。
寿子が十九歳で嫁に来たとき、夫の希次《まれつぐ》は四十四歳で、長州藩|名代《なだい》の頑固者であった。それで藩の重役を直諫して閉門を命じられ、百石の禄を半減され、貧窮の極ともいうべき生活に追いこまれた。若いころ、そんな苦しみをなめただけあって、寿子は怖ろしい気丈者となり、子の希典に対するしつけも厳格をきわめた。幼い希典がいうことをきかないと、蚊帳の吊り手でぶつのを常とした。
それくらいだから、希典の結婚後、嫁の静子に対しても、することなすこと気にいらない。深刻ないさかいの果てに、刀自のほうがぷいと家を出たり、静子のほうが家出をしたりすることが繰返された。――で、いまも静子が別居しているという始末である。
いま刀自は家族といっしょに食事しているけれど、静子がいたころは、自分一人で食事をした。それだけならまだいいが、ときどき家族の食事に顔を出して、「おやおや、こちらには御馳走があるねえ」などいって、静子を泣かせるという大変な婆さんであった。
このありさまを見ながら、希典は何も母にいわない。ただ妻に対して、彼女の至らぬことを叱るばかりである。彼の精神はひたすら孝行の鎖で縛りあげられていた。
そして、とうとう妻が別居することになってしまったけれど、そのおかげで母といっしょに食事することが出来るようになり、かりそめの平和が戻っていることを、むしろよろこんでいる気配であった。
知るや知らずや、明石元二郎はパクパク食い、酒を飲み、大声で話しかける。
質問はむろんドイツ陸軍についてで、乃木はその編制、教育、武器の完備ぶりを讃《たた》えた。しかしその軍紀に至っては――ヨーロッパで最も厳しいといわれているが――それでもなおかつ、いまだしの感がある、と、乃木はいった。
軍紀こそ軍隊の根幹である。軍紀あっての戦術であり兵器である。それがなくてはいかに精妙なる戦術、完備した兵器があっても、ものの役にはたたぬ。――日本の軍隊はこの点において特徴を持ってこそ、ヨーロッパの軍隊に比肩し得る。
いま日本の軍上層部はヨーロッパの軍隊に眼を奪われて、その近代化に焦燥しているが、むしろこの際、改めて日本古来の武士道というものをかえりみる必要がある、という信念をドイツ留学の間にいよいよ固くした、と乃木はいった。
こんなことを語っているとき、乃木の顔は別人のように精彩をはなった。それに対する明石の質疑は適確で、次第に乃木は、この一見粗放な青年将校が、ただの若者でない、と認識して来たようだ。乃木の意見は、のちの日本陸軍の大和魂万能主義の根源となるものだが、明石はさっきのように、その発言に異は唱えない。両人の大音声《だいおんじよう》に、愉快そうな笑い声さえ混った。
そのうち乃木は、笑いながら明石が箸をのばして、隣りの自分の膳の上の芋の煮ころばしを食っているのに気がついた。明石自身は全然夢中の態《てい》である。さすが謹厳な乃木も可笑しくなって、
「軍紀のもとは、すなわち日本古来の武士道である! ワハハハ!」
と、笑うべからざるところで笑ったあとで、
「こら、津田、明石に芋のお代りをやれい!」
と、命じた。
――明石元二郎のこんな傍若無人ぶりは、一生なおらなかった。乃木家の芋くらいならまだいい。――七年後の明治二十九年、明石少佐は、参謀総長川上大将の東南アジア視察旅行に随員としてついていったが、一夕《いつせき》、シャム(いまのタイ)大官の招宴につらなったとき、川上がふと見ると、テーブルをへだてた向うの高官が眼を白黒させているので、怪しんでさらにのぞきこむと、その隣りに坐っている明石が、その高官の料理をパクパク食っているので、こんどは川上のほうが眼を白黒させた、という話がある。
笑いに吹き飛ばされたように、「妖婆」寿子刀自はいつのまにか消えている。
こんな雰囲気は珍しいと見えて、幼い勝典、保典も、津田に何か話しかけられて、まるいほっぺたをかがやかせて、ニコニコ笑っていたが――さて。
「さて、九時ですな」
と、柱時計を見あげて明石がいったので、ぎょっとして二人は顔見合わせ、たちまち青菜に塩の態《てい》になった。
「やはり、ゆくのか?」
と、乃木が、むしろあっけにとられたようにいう。
「そのために私が来たのですたい」
「幽霊は。……」
「今夜はきっと出ます」
と、明石は妙に自信ありげにいって、
「閣下もおゆきになって下さい」
「なに、わしも?」
「その眼で御覧になりゃ、坊っちゃん方のいったことが嘘じゃなかったとわかりますばい」
明石はいった。
「ただし、あまり近づくと幽霊は消えます。私たちは、遠くからこれで見るのです」
と、そばにおいたものを取りあげた。乃木は、はじめて明石が例の――ニコライ聖堂で見た双眼鏡を持参していることに気がついた。
こうして、とうとう乃木希典は、いつのまにやらこの若い将校の「魔術」に乗せられて、幽霊退治に出かけることになった。
三月とはいえ、夜になれば冬と同じだ。凍るような寒い風が、ぐわうと高い梢《こずえ》をざわめかせる。
森の中の細い参道を、二人の小さい兄弟は、手を握り合って歩いてゆく。
それをずっと遠い鳥居の蔭で、乃木と明石と津田は見まもっていた。この距離では、たとえ幽霊が動物の鼻を持っていたとしても気がつくまい。
ケケケケ……というような声が、どこかでしたのは、夜鳥の声か、小枝でも折れた音か。
と、勝典と保典がピタリと立ちどまった。御神燈の光がボンヤリさしている拝殿に近い石だたみの上であった。
「……あ!」
と、津田が絞め殺されるようなひくい声をあげた。
「何か、います。……」
「どこに?」
さすがに、水を浴びた思いで、希典が訊《き》いた。
「拝殿の前に。――」
「わしには見えんが」
「何か、煙のように――おう、軍旗を持った将校です! 畜生!」
津田が駈け出そうとした。
「動くな!」
明石がひくく一喝した。そして彼は、いままで眼にあてていた双眼鏡を乃木に渡した。
「閣下、御覧下さい」
そのとき、二人の子供は、わっとさけんでこちらへ逃げて来た。幼い金切声が、森の穹窿《きゆうりゆう》にこだました。
乃木希典の身体に、突然衝動が走った。子供たちが飛びあがってから、一、二分遅れてのことであったから、彼を驚かせたのはそれではない。彼は何かを見たのだ。
「あれは……あれは……」
と、彼はうめいた。
「あっ……あいつ、消えてゆきます。拝殿の向うへ消えてゆきます」
と、また津田が駈け出そうとするのを、
「いかん。ほうっておけ。それより、お前、子供衆を連れて先に家へ帰れ」
と、明石が命令した。
津田が二人の子供を連れてその場を立ち去るまで、そこに茫然と棒立ちになっていた乃木は、
「静《しず》じゃ!」
と、やがて驚くべき名前をうめいた。
「きゃつ、女のくせに軍服など着おって……悪ふざけにもほどがある。なんのために、きゃつ、こんな真似《まね》をするのか、ひっとらえて糺明せんけりゃならん!」
怖ろしい顔色でつかつかと歩き出そうとする乃木の前に、
「幽霊は消えてしまいました」
と、明石は立ちふさがっていった。
「逃げたところで、あいつのおるところはわかっとる」
と、乃木は歯をかみ鳴らした。
「三田に住んでおるんじゃ。……それにしても静は気でも狂いおったか。軍旗を持つ幽霊に化けるとは、な、なんたる痴《し》れ者。――」
彼は双眼鏡で、軍旗を持つ将校の顔が、おぼろげながらいま三田松坂町に別居中の妻静子であったことを認めたのだ。
いまにもその三田松坂町まで追っかけてゆきかねまじき乃木を、
「ま、まあまあ」
と、明石は抑えた。
「私にゃ信じられませんが……かりに奥さまであるとすると、奥さまがそんな大それたことをなさったのも、私にゃよくわかりますばい。……」
「なに? 何がわかる」
「たとえ別居なされておっても、母親の心が、幼い二人のお子さまから離れるわけがない。そのお子さまが、寒夜のお宮詣りをさせられる。風邪をひいててもやらされる。こりゃ生命《いのち》にかかわると心配しても、あの度外《どはず》れたガンコ者の夫がそれをやめてくれるわけがない。……失礼」
「………」
「どうしたらよかろう、どうしたらよかろう。悩みぬいたあげくの果ての幽霊ですたい。お化けに化けるとは、しかしふるってますなあ」
「なんじゃと? 静がそう考えたというのか。女の浅智慧、そんなものにひっかかる希典か。げんにわしは、子供が何をいおうとゆかせたじゃないか」
「いや、それが軍旗を持った将校の幽霊だと知ってから、あなたはおやめになりました」
明石元二郎は大きな眼で、ギョロリと乃木の顔を見つめた。
「軍旗を持った将校の幽霊。……閣下にとっちゃ、これほど気味の悪いお化けはありませんでしょうが」
乃木は何とも名状しがたい表情になった。
まさにその通りだ。――明治十年、西南の役に際し、乃木は小倉連隊長として出動したが、植木坂の戦いで、その連隊旗手河原林少尉は乱戦中に戦死し、連隊旗を薩軍に奪われた。
連隊旗はいちいち天皇みずから連隊に下賜されるもので、これに対しては大将|元帥《げんすい》といえども敬礼しなければならない。また一種の天皇旗ともいうべきものだ。
乃木は驚愕し、苦悶し、以来いくどか自決を志したが親友の児玉源太郎少佐に制止され、またいくどか弾丸雨飛の中へ飛び出したが、二度負傷したものの、死ぬことが出来なかった。――これが後年明治天皇崩御後、彼が殉死をとげる原因の一つになるのだが、それまでの生涯、絶えることなく彼を、夢魔のごとく悩ますことになる惨心の痛恨事であった。
おのれに対しては武士道のマゾヒスト、他に対しては武士道のサジストともいうべき乃木希典の生涯を決定したのは、彼の内部で怖ろしい鞭をふるいつづけるこの記憶であったといっていい。
いま、この若い陸大生は、その乃木の深奥の痛所にふれた。しかも恬然《てんぜん》たる口吻《こうふん》で。
「きさま……静の所業と関係があるな?」
はじめて乃木はそのことに気がついた。
「いつから――何のためにこんなことをした?」
「いや、いま申したのは、もしあれが奥さまだったとしたら、という仮定の話をしただけで、私はあれが奥さまだったとは断定出来んですたい」
ぬけぬけという。
「とぼけるな!」
と、乃木は一喝した。
「わしはいま、この眼で――この双眼鏡で見たのじゃ!」
「その閣下の眼があてになりませんので」
「なんじゃと?」
「閣下。――失礼ですが、閣下の左の眼はお見えにならんのではありませんか?」
乃木は、ぎょっとした。
「なぜ、きさまはそんなことを――」
「いえ、先日ニコライ聖堂の屋根の上で、この双眼鏡を閣下にお貸ししましたな。そのときに気がついたのでござります」
明石は不敵な笑顔でいった。
「あのとき、閣下のあとで、私も双眼鏡で東京の町を見ました。そのとき、双眼鏡の左のレンズに鼻糞がくっついておるのに気がついたのであります。いつ、くっついたものか、むろん私の鼻糞で、しかも超特大のやつで――それを閣下がお気づきにならんかったとすりゃ、閣下の左の眼はお見えにならんのにちがいない。……」
乃木は、鉄丸でものんだような顔になった。
実際に、彼の左の眼は見えなかったのである。――彼の母寿子のしつけがきびしく、少年時いたずらをすると、蚊帳の吊り手で仕置きをしたという話はさきに書いた。むろん、紐のほうでぶつのだが、あるとき、何のはずみか、よほど虫の居どころが悪かったのか、環のほうでぶった。それが希典の左眼にあたって、外見の傷は癒《なお》ったものの、それ以来彼の左眼は失明状態になってしまったのである。なお彼の後頭部にも、やはりこの環による傷痕が一生残っていたといわれる。ともあれ、この左眼が見えないということは、乃木の終生の大秘密であった。(黒木勇吉「乃木希典」)
「ですから、閣下の御覧になったものはあてにはなりません」
「き、きさま。……わしを愚弄するのか?」
「閣下の眼はね」
平然と、明石はいう。
「これが公けになると、閣下、大変なことになりますぞ。……戦争で片眼になったなら名誉の独眼竜っちゅうことにもなるでしょうが、はじめから片眼を隠して軍人になったなら、こりゃ詐欺です。女房を罰する資格などありまっせん!」
「きさま、わしを恐喝するのか?」
「恐喝します!」
明石は、大声でいった。
「閣下、奥さまがおうちにお帰りになることを許してあげて下さい」
「なに?」
「お母さんも大事でしょうが、同様に、幼い子供にとっちゃ母親が一番ですたい。なけりゃしょうがないでしょうが、せっかくあるのに別居とは……さっき拝見しましたが、ああ寂しい家庭じゃ、子供が片輪になりますばい」
「この若僧が……いらぬお世話じゃ!」
「若僧の眼から見ますと、あの婆さんは妖婆に見えますぞ」
「妖婆?……な、何をぬかす」
「閣下、奥さまを帰してやって下さい。そうでなけりゃ、やむを得ん。明石は、閣下が片眼であることを――片眼をかくして軍人になられたことを――参謀本部に告発しますぞ!」
ここ二、三日で、めっきり春らしくなった。
紅梅の咲いた庭に、いくつか傘がひろげて干してある。それにユラユラと陽炎《かげろう》がからみついているのが見える。
その庭先まで大八車をひきこんで、津田はいそいそと離れから荷物を運んでは積みこんでいた。いかにもうれしそうで、まじめな男が、いちど縁側に向って、
「まるでお嫁入りでございますな」
と、冗談をいった。
ここは乃木家ではない。芝の三田松坂町の岩崎という家の離れである。乃木夫人の静子はここを借りて住んでいたのである。
その静子は、縁側で明石と話している。彼女がいよいよ乃木家へ帰るのがちょうど日曜日にあたったので、彼もここへやって来たのであった。
「まあ」
津田にからかわれて、気品のある面長《おもなが》の顔をぽっと赤くした静子は、
「でも、明石さん、ほんとうにあなたのおかげでございます」
と、改めて礼をいった。彼女はまだ三十で、充分美しかった。
明石は、この日はじめて静子に逢ったのではない。これが二度目だ。
――実は明石元二郎は、その前に、小学校から下校する乃木の子の勝典に近づき、例の軍旗を持った幽霊の話を聞いた。やや神経質で人見知りするたちに見える十一の勝典が、十分もいっしょに道を歩いているうちに、心を許して話し出した。
それは、津田から出て、川上少将を介して聞いた話と大体同じであったが、おしまいごろ勝典は、妙なことをいったのだ。
「それっきり、父上は氷川神社にゆけといわないけどねえ。……僕、なんだか、もいちどいってみたい」
「どうして? 幽霊がこわくないかね」
「こわい。……こわいんだけどね。……」
勝典は、夢みるようなふしぎな表情をした。
「あとでかんがえると、あれ、母上だったような気がする」
「えっ?」
さすがに、これには明石も仰天した。
「軍旗を持った幽霊が、母上? なぜ?」
「なぜだか、わかんない。……」
勝典は急に弱々しく、自信なげにいった。
「ちがうかも知れない。……」
数分間、明石は判断を絶した表情で歩いていたが、やがて訊《き》いた。
「そのこと、父上にいったかね?」
「いわない、いわない。いったりすると、たいへんだよ」
どういう風に大変なことになるのか、改めて問いただすまでもない。子供の懸命な表情が、その大変ぶりを実感させた。それどころか。――
「おじさん、このこと、父上にいわないでね!」
と、勝典は必死に哀願した。……
明石元二郎は、この子供の直感はあたっているのではないか、と、これも直感した。
それで、その母上、すなわち乃木静子が三田松坂町に別居中であることだけを聞き出して、ここを訪れた。
そして、静子に問い、勝典の疑いが的中していることを探り出した。いや、勝典の言葉を伝えたら、突然静子は烈しく嗚咽《おえつ》しはじめたのである。
その結果――あの夜、三たび幽霊になって出現してもらうことになったのである。明石の依頼に、むろん静子は驚き、怖れ、かつ、子供を寒夜に氷川神社に参詣させないという目的はもう達したのだから、と泣きながらことわるのを、明石は説得した。
彼は、これを機会に奥さまの御別居を終らせる成算があるといった。お子さまのために、あなたは家にお帰りにならなければならない。その機会は今をおいてない、といった。そしてついに静子を承知させたのは、彼の弁論ではない。およそ弁論家とは正反対のタイプでありながら、ふしぎに人を乗せてしまう彼の例の「魔術」であった。
彼はときどき、三十代四十代のような顔をして、そんな年配の人間のようなせりふを吐くことがある。そのことを本人も気づいていない。若くないのではない。彼自身、若さなどというものを特に意識していないのである。
「もう二度と家を出ちゃいけませんぞ。お子さまのためです。どんなつらいことがあっても、辛抱しなさい」
いまも、そんな中年男みたいな口をきき、
「それでも、あのガンコおやじが何かいや、こっちにゃ伝家の宝刀赤鰯正宗がある」
「なんでございます?」
静子は、明石元二郎が夫を脅迫した内容はもちろん、その事実さえ知らない。ただ自分の所業を夫が憐れんで家に帰ることを承諾してくれたと聞いているばかりだ。
「いや、なに、こっちのことです」
と、明石はうす笑いし、
「それより、あのクソババアのほうが難物ですが、なに、そのうちほんとに幽霊の国へいってしまいますばい」
と、いった。
静子は、何と応答していいかわからない。ふしぎに好感は持てるが、この青年将校をどう理解していいのかわからない。
「ああ」
と、彼女は突然何か思いついたようにいった。
「あなたのような人が、もう一人います」
「へえ?」
明石元二郎は、めんくらった顔をした。
「どこに? 何ちゅう人が?」
「いえ、ちがうといえば大ちがいなんですけれど、ふしぎに、ある感じがね。……でも、やっぱり、別の人です」
と、静子はあいまいな表情で、わけのわからないことをいった。
「しかし、何ですな」
と、明石はまた中年男みたいな眼つきになって、静子をジロジロ見ながらいう。
「あの奥さまの兵隊姿はよかったな。ふつうにそうなさっておられる姿よりゃ色っぽく見えましたばい。いっそ、いつもあの姿で暮されたら、乃木閣下のお気にいりゃしませんか? あはははは」
乃木希典は、在宅時でも、私用でどこへゆくときでも、絶対に軍服をぬがない、ということをモットーにしている人物であったのだ。
「まあ、ひどいことを」
静子は、また赤い顔をした。
「ところで、奥さま、ちょっとおうかがいしたいことがあるんですが」
と、明石はいい出した。
「その奥さまが軍服を着て、軍旗を持った幽霊になって出るという智慧、こりゃ女はおろか、常人の頭にも出て来る智慧じゃないが……そもそも、そげなことを最初に思いついて、奥さまに教えたのは、いったいだれでござりますか?」
「………」
「奥さまに合わせた軍服を探し出し、ニセモノにしろ軍旗まで用意するとは、それだけでも容易ならんことじゃ。それを用意してくれたのは、いったいだれでござりますか?」
乃木静子はしばらく考えていたが、やがて顔をあげて、
「そのことでございます。……明石さんにお話ししようか、どうかと、実は迷っておりました」
と、いった。
「麹町平河町四丁目に、伊勢|神道占《しんとうせん》、という占いがあることを御存知でしょうか?」
「いや、知りませんな」
「稲城黄天《いなぎこうてん》というお方がやっていられる占いですけれど」
「知らんですたい」
「そのひとのお智慧であんなことをしたのですわ」
「ほほう?」
「……私は乃木家を出て、ここでひとりで暮して、悩んでいました。これから先どうなるのかしら、これから先どうすればいいのかしら? と。――そこへ、子供たちのあの寒夜のお宮詣りです。あれをとめさせるには、どうしたらよかろうか? あれやこれや、思い案じているときに思い出したのは、その伊勢神道占でございます」
明石元二郎は、ちらっと眼を横に移した。
いつのまにか、少し離れた縁側に、津田が手拭いで汗をふきながら腰かけている。もっとも、静子の荷物運びはもう終ったらしい。さっき彼は嫁入りのようだといったけれど、箪笥《たんす》と鏡台が一つずつ、夜具が一包み、行李《こうり》が二つ、そして三つ四つの風呂敷包みという簡素なものであった。
「その神道占のことは、前にある軍人さんの奥さまから聞いたことがありました。ほんとうによく|あたる《ヽヽヽ》ばかりか、どうすればいいか、というお教えがたしかで、将校の奥さま方にも信心なさる方が多い、というお話でした。それで、去年の秋、私はそこへいって見たのです」
静子は、はじめて打ち明ける。
「その方は……ふしぎな祭壇で占ってくれ……それが、ほんとうに|あたる《ヽヽヽ》のでございます。私が何もいわないのに、あなたは夫と別居している、とか、その原因は姑との不仲だ、とか、いま子供のことで苦しんでいなさるな、とか。……」
「ふうむ。……」
「その占い師の方が、子供の寒詣りをやめさせるには、軍旗を持った幽霊を出すにかぎると教えて下さり、そんなことを頼む人はいない、といったら、それじゃあ、と、私に合う軍服やらあの旗やらを用意して下さったのです」
「ははあ。……なるほど」
と、明石元二郎はうなずいた。
「それで、ともかく私の疑問は一つ解けましたが……こんどはまた新しい疑問が生じた。さっき奥さまは、そのことを私にいおうか、どうしようか、と迷っていたといわれましたな。そりゃどういうわけですか」
こういうところに、顔に似合わぬ明石の、油断もすきもならない鋭さが現われている。
「それは」
静子はまたいいよどんだ。
「実は、その目的がうまく果せましたので、謝礼のこともありますし、お借りしていた服や旗を返しにゆかなければなりません。ところが、それが何となく気味が悪いのでございます。それで、このことをほかの方にお頼みしようと考えたのですけれど、事情が事情だけに、お頼みする人もなく、また私がゆかなければいけないような気もいたしますし……それで、そうだ、明石さんにお願いしようか、と考えたのです」
「気味が悪いとは?」
静子はすぐには答えず、ただ、ほんとうに気味悪そうな顔をした。
「とても一口にはいえません」
明石はちょっと首をかしげて眺めていたが、それ以上は訊《き》かず、
「わかりました。その服と旗はここにありますか?」
「ございます」
「それじゃ、それを私があずかって、この次の日曜日にその易者のところへいって、ついでに謝礼の件もきいて来ましょう」
「明石さん」
「はあ?」
「さっき明石さんに似ているといったのは、実はその人なのです」
「その易者が、ですか?」
明石は、狐につままれたような表情になり、次に笑い出した。
「驚きましたな。ばってん、そいつは面白い。是非、いって逢って見よう」
「似ているといっても、顔じゃないんですよ。性質が……いえ、性質も正反対かも知れない。どういっていいか、私にもわからないんだけれど。……」
「いよいよ神秘的な話ですな。ま、逢って見ましょう」
しばらくして、明石は静子から受取った軍服と軍旗のはいった風呂敷包みを抱いて、大八車を曳いた津田といっしょにその家の庭を出た。
静子は家主《やぬし》に挨拶したりする用をすませた上、俥で帰ることになっていた。
――明石は、もういちど乃木家へゆくつもりはない。
ただ、こんど思いがけなく自分のお節介で、乃木夫人が乃木家へ帰ることになったのだが、果してあの人があの家へ帰って倖せになれるだろうか、と、ふっと気になった。おれは、要《い》らざるお節介をしたのじゃなかろうか?
――いや、川上閣下の御意向じゃ。
と、彼は首をふった。
――後年、日露戦争に際し、明石はむろんヨーロッパにいたのだが、りりしい将校に成長した勝典保典が相ついで旅順に戦死し、これぞ武門の面目、と、うそぶく「武士道の化物」乃木に対し、夫人は「一生にいちどだけ、あの子たちに楽な日を味わわせてやりたかった」と嗚咽したという話を風の便りに聞き、氷川神社の夜の森を、手をとり合って歩いていた小さな兄弟の姿を頭によみがえらせて涙をもよおした。
さらに、明治天皇御大葬にあたり、乃木大将夫妻が殉死したとき、明石はそのころ朝鮮|駐箚《ちゆうさつ》憲兵隊司令官として京城にあったが、その報を耳にしてまず浮かんだのは、この明治二十二年の春、ふとのぞく機会を持った乃木の家庭の記憶であった。
自分は、あの家へ、あの夫人を追い返したことになるのだが――と、彼はそのときも、朝鮮の秋風の中にうなだれた。
神道占《しんとうせん》
明石元二郎は赤坂の乃木の家へゆくつもりはないが、自分の住所も同じ赤坂だから、津田の大八車といっしょに歩く。
「明石中尉どの」
と、黙々と車を曳いていた津田が話しかけた。
「津田はいま、はじめて中尉どののお働きがわかりました。……私からもお礼申します。津田はうれしいであります」
「あ」
と、明石はわれに返って、そっちを向いた。
津田は、しかし、あまりうれしそうな表情ではなかった。――
この馬丁は、中背だが、骨太のがっしりした体躯の持主で、頬骨と顎が張って、いかにも忠実でかつ頑固な容貌をしていた。年は三十半ばだろう。軍帽の下は五分刈りながら、|ひさし《ヽヽヽ》の下まで生えた髪が額《ひたい》を狭くし、一重瞼《ひとえまぶた》の、やや吊りあがった眼が、彼がものごとを思いつめるたちであることを思わせる。
あまりうれしそうな表情ではないといったが、心にもないことをいったのではなさそうだ。この顔は、どんなにうれしくても、うれしそうにはならない顔である。……それに、ほかに何か鬱屈するものがあるらしい。
「そこで、津田からも一つお願いがあるのでござります」
果せるかな、彼はそんなことをいい出した。
「さきほど奥さまから、伊勢神道占、とか、稲城黄天、とかいう名を聞いて、これは、と思ったのでござりますが」
「お、それがどうした?」
「中尉どのは、そこへおゆきになりますか?」
「きょうはだめだ。きょうはほかに用がある。この次の日曜にでもゆこうと思っとる」
「そのとき、津田もお供させていただけないでしょうか?」
「どうしたんだ」
「伊勢神道占、奥さまがそんなものの助けをかりてあんなことをされたとは存じませんでした。……私は驚きました。その名は、以前から私も知っておったからであります」
「ほう。……この件とは別にか?」
「左様であります」
「どういうやつなんだ、そいつは?」
「いえ、私は逢ったことはありません。そう簡単には逢えんお人らしいのであります」
津田は、ふいに顔をしかめた。春先きによく吹く風が、このころから急に強くなって、往来の砂塵《さじん》がまともに顔に吹きつけたからだ。
「それが、なぜ逢いたいかと申しますと……明石中尉どのなら大丈夫だと思って申しあげるのですが……」
風がおさまると、津田は話し出した。
「私はいま乃木閣下に御奉公申しあげておるものでありますが……生まれは伊賀の上野でござります。父は一応藤堂藩の藩医ということになっておりましたが、どうしようもない酒乱で、医者のくせに人を傷つけて永蟄居《えいちつきよ》を命じられたような男でござりました。そこへ御一新でござります。当時父はもう廃人同様になっていて、一家の赤貧洗うがごとく……すんでのことに餓死にも及ばんとしていたとき、たまたま所用あって上野に来られた伊勢神宮の御神官|竜岡《たつおか》左京というお方に救われたのでござります」
車を曳きながら、津田はしゃべる。
「そのとき私たちは十三でありましたか、十四でありましたか。……私たちと申すのは、実は私には双生児《ふたご》の兄がいるのでござります。その二人が拾われて、下男として伊勢で養われることに相成りました。……明治五年、十八になったとき、いつまでもお世話になってはおれぬと二人ともおいとまをいただき、兵隊になりましたが、それまで、下男とは申しながら、食うはおろか、読み書きまで教えていただいた竜岡さまの御恩は、一日として忘れたことはござりません」
思いがけない男が、思いがけない身上話をはじめたので、明石元二郎はさすがにめんくらった顔をしていたが、黙って耳をかたむけて歩いている。
「私は西南戦争で、乃木連隊長の下に配され、その御縁でいまも馬丁として召し使っていただいておるのでありますが、その乃木閣下の御恩にまさるとも劣らぬ御恩人は、竜岡さまでござります。……その竜岡左京さまが、去年、突然、御一家をあげて御上京なされました。ただいま、京橋の采女《うねめ》町にお住まいでござりますが。……」
「………」
「御一家をあげて、といっても、御当主の左京さま、雪香《ゆきか》と申されるお嬢さま、綱彦《つなひこ》と申される坊っちゃまの御三人だけで、奥さまはいらっしゃいません。奥さまは、私たちが伊勢へいったすぐそのあとからお嫁に来られ、それはそれは、この世のものではないほどお美しい方でござりましたが……その後、私たちがおいとまをいただいたあとから、なんと家出をなされたそうで」
「………」
「そういうわけで、竜岡家は御三人だけですが、さて御一家御上京の由を承わり、その後私も何度かひまを見ておうかがいしたのでござりますが……その御上京の御理由が奇態なのでござります。何でも御子息の綱彦さまが、何かのはずみで出血なさると、その血がなかなかとまらないという御病気をお持ちだとのことで、その御治療のためだということでござります」
「………」
「それが、東京に来ても、それを癒してくれる適当なお医者が見つからんそうで……竜岡さま御一家は御憂色に沈んでおられる。ところが……最近、それとは別の心配ごとに竜岡さまがつかまっておられることを、私は知ったのでござります」
「………」
「いま申した伊勢神道占の稲城黄天という人に、お嬢さまを巫女《みこ》に出せ、と申し込まれたとおっしゃるので。……」
「ほ?」
はじめて、明石元二郎は声をたてた。
「ふだん、私ごときものになかなかそんな御相談などされるお嬢さまではござりませんが、よほど御当惑になったものと見えます。何でも左京さまが、お子さまの御病気のことで御思案に余ったあげく、つい伊勢神道占などいう看板にひかれて、そこへゆかれたのがことの始まりだということで」
「………」
「その稲城黄天という人も、二、三度竜岡家へやって来たとかで、お嬢さまは、あんな人の巫女になどなりたくない、死んでもいや。……何とかこれをことわる法はなかろうか、と、おっしゃるのでござります」
「ことわれん理由でもあるのか」
と、元二郎が訊く。
「そうらしいのであります。左京さまも、はたの眼にもわかるほどお悩みになりながら、どうしてもことわることが出来んわけがあるらしいのであります」
「そりゃなんだ」
「左京さまも、お嬢さまもおっしゃいません」
「ふうむ。……」
「その稲城という人が、乃木閣下の奥さまとそんなかかわりあいがあったとは、はじめて知りましたが……中尉どの、お願いでござります。この竜岡さまのことにも一つ乗り出して、お嬢さまを助けてあげて下さらんでしょうか?」
「と、いって、おれがどうすりゃいいんだ?」
と、明石はいったが、ふと思い出したらしく、
「それに、おれはその稲城という男に似とるそうだぞ」
と、苦笑した。
そのとき、また一陣、春の突風が吹いて、明石の軍帽がうしろへ吹き飛ばされた。
明石はふりむいた。すると、十メートルほど向うで、十くらいの少女がそれをつかまえ、拾いあげ、こちらへ駈けて来た。
「や、ありがとう」
明石は腰を折って、頭をつき出し、少女にかぶせてもらった。
それっきりである。帽子の乗りかげんが少し変なのだが、そのまま平気で歩いている。実に呆れ返ったズボラぶりだ。
「よし、じゃ、この次の日曜の正午、赤坂福吉町の黒田侯爵邸のお長屋に来い。おれといっしょにその稲城という占い師のところへゆこう」
彼は津田の顔を見た。
「ところで、きさま、何ちゅう名か。いや、津田という姓は知っとる」
「はっ、私は津田七蔵と申します」
次の日曜日の午後、津田は赤坂福吉町の黒田侯爵邸を訪れた。
ここは昔、黒田家の中屋敷だったもので、侯爵自身は霞ヶ関の本邸に住んでおり、ここにはいま旧藩時代の家来たちを住まわせている。明石元二郎は、そのお長屋の一つを借りているのであった。
「いろいろ考えたのじゃがな」
と、いっしょに歩き出しながら、明石はいった。そして、小脇にかかえていた風呂敷包みをヒョイと津田に渡した。中には例の軍服と旗がはいっているにちがいない。
「稲城に逢う前に、その竜岡左京っちゅう人に逢って話を聞かんけりゃならん。そっちに先にゆこう」
「いや」
津田はうろたえた。
「突然、見知らぬ方に問われても、竜岡さまがお話し下さるか、どうか。……」
「ばってん、なぜ例の占い師に娘をさし出さなきゃならんか、そのわけを聞かんけりゃ、稲城に手の出しようがないではないか」
「そりゃ、そうでありますが……私がそのことについてしゃべったと知られると、私も困りますんで。……」
「なに、そのへんは何とかなるじゃろ」
歩きながら、腰にぶら下げた袋からとり出した煎り豆をポリポリと食う。
これがこの若い将校の子供のような習性であることを、いまは津田も知っているが。――
「中尉どの、昼のお食事はまだでありましたか」
「いや、食った。……これは消化剤だ」
「へえ? 煎り豆は消化剤になりますか」
「おれは胃酸過多でなあ。これにみんな余分の胃酸を吸収させて、糞にして外に出してしまう」
「なるほど。……そういう手もありますか。それじゃ、私もこれからせいぜい豆を食いましょう」
明石はじろっと津田を見たが、一語も吐かず、スタスタ歩いている。
彼は陸軍大学の同期生相手にも、これと大同小異のデタラメを――まじめくさって述べて、相手がうっかり乗せられて感心すると、「この馬鹿」といって背を見せることがよくあった。豆はただ好物だから食っているに過ぎない。
津田はまだ気づかず、ただこの頼もしい快男児が、ところきらわずよく屁をすることを思い出し、豆を食うのも考えものだ、と思い直した。
やがて二人は、京橋采女町に来た。
このあたり、旧幕のころは見世物小屋などが出ることもある采女ヶ原という原っぱであったところで、築地川に沿う場所にはハイカラな精養軒などいう西洋料理店もあるが、その一劃はあまり立派とはいえない|しもた《ヽヽヽ》家《や》ばかりであった。
その一軒の戸口に、十二、三の袴をはいた少年が立って、路地の向うを眺めていた。
「あ、坊っちゃん」
と、反対側から近づいた津田が呼びかけると、ふりむいて、駈け出して来て、
「七蔵、たいへんだ。お姉さまがいっちまった!」
と、津田の胸に飛びついて、泣きはじめた。
「え、雪香さまが?」
津田七蔵はのけぞり返った。
「あの占い師のところへでござりますか?」
少年はガクガクうなずいた。
「いつ?」
「さっき――三十分ほど前――」
「お父さまは?」
「家《うち》にいるけど」
問答はそれだけで、津田は駈け出した。あわてて、明石もそのあとを追う。走りながら、明石が訊く。
「稲城黄天はどこといったかな」
「麹町の平河町であります」
「竜岡左京ってぇ人は、家におるといったな」
「お逢いしている余裕がありません」
「すると、竜岡さんも承知の上のことだな。追っかけて、どうするのか」
「さ、それは。……」
津田の顔に、苦悶の色が現われた。この男が竜岡家に大恩があるといったのは先日聞いた。それにしても、と、明石が怪しんだほどの焦燥の形相《ぎようそう》であった。
津田は、明石の足に驚いていた。平静はノソノソとした動作なのが、ふだん乃木希典の馬について駈けることが多く、健脚を誇っている自分が、そのあとを追うほどだ。
春風の中に、津田の軍帽の下から汗が流れて来た。
それにしても、雪香お嬢さまが、きょう伊勢神道占のところへゆかれたという。一足ちがいだが――まだ、間に合うだろう、と七蔵は考えた。
もっとも、まだ、間に合うといって、こちらがどうすればいいのか、彼も知らない。
「いまの子供が、例の血のとまらんっちゅう子かね」
息も切らさず、明石がいう。
「はっ、左様でありますっ」
津田は、馬のようにあえいでいた。
黒い大きな冠木《かぶき》門に、「伊勢神道占」と書いた大看板がかかっていた。
そこをつかつかとはいりかけると、両側から、まるで待っていたように、白衣《びやくえ》に水色の袴をつけた二人の若い男が現われて、
「どこへゆかれる」
と、立ちふさがった。
「稲城さんに用がある。御存知の乃木少将夫人からのお返し物をとどけに来たんじゃ」
と、明石はいい、うしろの馬丁のかかえている風呂敷包みにあごをふった。
二人の若者はうなずき合い、
「これだろう?」
「これだと思う」
と、ふしぎなことをつぶやいた。
「いや、先刻、大占師《だいせんし》がお帰りの際、あとで来る者は必ず悪念の持主だから、門を通してはならぬといわれた」
「その悪念の持主とはあなた方であると思われる。お通し出来ません」
明石はキョトンとした。
「ダイセンシ?」
「偉大なる占いの師とかく。稲城先生のことだ」
「ダイセンシかシンブンシか知らんが。――通るぞ」
といって、足を踏み出したとき、一人の男が怪鳥《けちよう》のような声とともに、手にしていた白い筒様《つつよう》のものを、もう一人の男めがけて放った。――と、それは、幅五十センチ、長さ二メートルほどの布となった。しかもその布には、墨痕|淋漓《りんり》と、「天照皇大神」と書いてある。――
「馬鹿っ」
と、明石は一喝した。
と、見るや、その軍刀が一閃して、無造作にその布を切り裂いた。「皇」の字が二つに分れ、一方の男はあまりに強く引っ張っていたので、ひっくり返って尻餅をついた。
「こ、この大不敬。――」
「ぐ、軍人の身をもって。――」
二人の白衣の男は、どもって、口から泡を吹いた。
「なんだ、ふんどしかと思った。――津田、来い」
明石は軍刀をぶら下げたまま、玄関のほうへ大股に歩いてゆく。津田は眼をまるくしながら、そのあとを追った。
――実は、この家には、以前からゆすり、たかりのたぐいがよく来るので、その撃退用に案出されたのがこの幕で、これで通せんぼされてひるまなかった人間は一人もいない。みな、ぎょっとして立ちすくみ、当惑の表情になり、中には土下座してお辞儀して退散する者さえ少なくなかった。滑稽なことに、一度巡査が取調べに来たことがあったが、それさえこの幕に手も足も出ず、やんぬるかなといった表情で追い払われたくらいである。
それが……何たることか、平気で刀で両断するとは! しかも、いま、何といった? ふんどしといった!
二人の男は、尻餅をついたほうはそのまま腰がぬけたようになり、もう一人も身体じゅうがしびれ果てたようになって、ただ口を魚のように動かすばかりで、あとを見送っているばかりであった。
「通りゃんせ……通りゃんせ」
津田は、明石中尉が、変な音程で鼻唄をうたっているのを聞いた。
「ここは、どこの細道じゃ。天神さまの細道じゃ。……」
唐破風《からはふ》づくりになった玄関を、明石は土足のままはいる。手に抜身をぶら下げたままである。布は斬れたが、例の赤鰯だ。――その玄関にも、白い影が五つ六つ、いまの門の光景を見ていたらしく、騒然と動いていたが、闖入《ちんにゆう》して来たのが軍人で、しかも、ひっさげている軍刀が赤鰯だとは見わける余裕もなく、いっせいにどっと奥へ逃げこんだ。
それが明石たちにとっての道案内になった。
白衣のむれは廊下を走って、正面の杉戸の前でまた乱れたち、うしろからやって来る明石に狼狽して左右に逃げ散ったが、そのようすで、杉戸の向うに何かあることが察しられた。
明石は近づいて、その厚い大きな杉戸をひらき、一瞬、眼をむいて立ちすくんだ。
何という妖異な光景が眼前にひろがっていたことだろう。
そこは三十帖ばかりの広さの部屋で、二階の分まで吹き抜けになっていて、高い天井のまんなかに、半帖分ほどの四角な小さな窓があけられていて、そこから蒼い春の空が見えた。――のちに知ったことだが、それは一種の引窓になっていて、下から紐でガラス窓を動かして、開閉自在のしかけになっていたが、そのときはあけはなされていた。――
正面の壁に、巨大な祭壇がはめこまれていた。無数の蝋燭《ろうそく》の奥に「天照皇大神」の御神符が見えるところから、それはどうやら神棚らしいが、本来簡素であるべき日本古来の神の祭壇が、供物、祭具、いずれも蝋燭の炎に、重々しい金色のひかりをはなっている。
あとはすべて、まず朱色だ。それ以外の壁面も、天井も、床も、すべて厚い朱色の布に覆われている。
その中に真っ白なものが幾つかある。
それは、宏壮な部屋の中央に作られた、高さ三十センチ、大きさ二帖分ほどの台であった。その上に敷かれた敷蒲団|様《よう》のものが純白なのだ。
その四方、一メートルばかりの間隔をおいて張りめぐらしてある注連縄《しめなわ》から垂れ下がった無数の紙|四手《しで》もむろん白かった。
注連縄を吊る四本の柱のそばに、四本の蝋燭が立てられている。低いが巨大な、銅製らしい燭台の上に立てられたその蝋燭は、いったいどういう風に作ったのか、みな人の背丈ほどあって、それがいずれもゆらゆらと炎と煤《すす》をあげていた。――天井の窓ガラスがあけてあったのは、その炎と煤をはなつためであったとはのちに知れた。
そして、その大蝋燭の中間には、四人の巫女が、白衣に緋《ひ》の袴をはいて、寂然《じやくねん》と坐っていた。
いや、みんな坐っていたのではない。――明石が杉戸をあけて入口に立ったときは、その巫女の一人が、ある行動をやり終えたときであった。彼女は、入口とまんなかの台にかけて、巻いてあった白い布をさっと転がして、床にひとすじの道を敷いたのである。
さて、まんなかの台の上だ。
――以上は、むしろ明石元二郎が眼にいれていった順序とは逆の記述だといっていいかも知れない。彼がまっさきに見たのは、その台上の光景であった。
いま述べたように、それは四周の注連縄にへだてられて、最初にはとっさにわからなかったが――二人の人間が、台上に向い合って坐っていた。
一人はふつうの娘姿だが、その片手を片手にとって、じっと坐っているのは、白い頭巾をかぶり、白衣に白袴つまり全身白ずくめの男であった。
ただ、どういうわけか、娘は右手に短刀をぬきはなち、膝に立てて、そのきっさきを自分のほうに向けていた。
外界の騒ぎが聞えないはずはない。いや、いまあけられた杉戸に立っている将校が見えないはずはない。――
それなのにその男は、こちらに顔を向けもせず、娘のほうも、呪縛されたように動かない。まるで一種の塑像《そぞう》のような二人の姿であった。
明石は、いま巫女の一人が投げひろげた白い布を見た。幅一メートルほどの布で、それが台と自分の足もとをつないでいる。――それには、やはり天照皇大神という大文字が書かれてあった。
彼はその上を、靴のまま歩き出した。あとに津田は、タタラを踏んで立往生した。
はじめて台上の男はこちらに顔を向け、
「逆賊っ」
と、さけんだ。吹きぬけの天井にこだまするような大音声《おんじよう》であった。
明石は台上をとりかこむ注連縄の一本を、これまた赤鰯の軍刀で無造作に斬り離した。
「きさま、何者じゃっ?」
さすがに神官風の男は、娘から手を離し、狼狽して立ちあがった。
「陸軍中尉明石元二郎」
と、明石は答えた。
「陸軍中尉が、なぜ神聖なる御《おん》文字を土足で踏むか!」
「なに? ほう、何か書いてあったようじゃな」
明石はふり返って、
「逆さから見ると、何と書いてあるかわからんばい」
と、首をひねった。
「とぼけるな。いまきさまの踏んだ布には、かけまくもかしこき天照皇大神の御文字が書かれてあったのだぞ!」
「だれが見たって、あれは道だ。道になぜそんな文字を書くか。あっちこっち、まるで天照皇大神大安売りの旗だらけにしちゃ、せっかくの値打ちがなくなるばい」
明石は抜身を肩にかついで、白い台に片足をのせた。いま注連縄を切った時のはずみで、帽子が少しあみだになっている。
「いや、おれは乃木少将の奥さまからのお返し物をあずかって来たんだがね」
そういって、彼は笑いをおびた眼で、台上の神官をしげしげと見いった。そして、つぶやいた。
「ふうん。これがおれのどこに似とるのかなあ?」
明石元二郎と、稲城黄天という男と。――
どちらも堂々たる体格であり、やや面長の肉づきのいい顔を持っているが、といって、容貌に特別によく似たところがあるわけではない。それどころか、鬚などない元二郎にくらべて、黄天のほうは、口髭はもとより、頬からあごにかけてみごとな美髯を生やしている。
「おれはこんないかさま男じゃないが」
と、明石はつぶやいて、台に片足踏みかけたまま、改めて天井から四壁を見まわし、
「いかさま師ほどコケオドシの外形で人間をたぶらかそうとする」
といって、ニヤリとした。
すると。――
「人間は、存外、コケオドシの外形にたぶらかされるものじゃ」
と、稲城黄天はいって、驚いたことに、これもニヤリと笑った。最初、さすがに狼狽したようだが、たちまち態勢を立て直したと見える。もっとも、いちど立ちあがったのが、また坐った。
明石は、ちょっと考えて、
「なるほど、そうかも知れんたい」
と、感心したようにうなずいた。
「ところで、二つの用で来た」
と、彼はいった。
「一つは、いまいった乃木閣下夫人からのお返し物と、例の幽霊旗手の智慧を借りた謝礼はいかほどか、っちゅうことだがね」
「お返し物はいただく。謝礼はいらん」
「謝礼はいらん? それじゃ、どうして乃木さんの奥さんにあんなことを教えた。占い師にしちゃ出過ぎたことじゃないか」
「同情したからじゃ」
「軍旗を持った幽霊とは考えたな。乃木閣下の御経歴について、相当調べんけりゃ、あの工夫は出て来んはずじゃが」
「なに、特に調べんでも、あれは有名な話ではないか」
稲城黄天は、またニヤリとした。
「いま、人間は案外コケオドシの外形にたぶらかされるものだといったが――あんたは軍人だからいうが、軍人が軍旗に縛られるのもそのいい例の一つじゃて」
明石元二郎は、数瞬絶句したが、
「とにかく謝礼がいらんというのはいかん。タダほど高いものはない。軍人のおれがコワモテで使いで来たからそういうのか」
「うんにゃ。あの件については、はじめから謝礼ぬきのつもりでおった」
「ここへ来る前に、ちょっと調べたが、この伊勢神道占とやらは、貴族とか富豪とか名士、高級軍人などの家族を、好んで客とするそうだね。貴公、相当な野心家らしい。……乃木少将夫人にも恩を売るつもりか」
「ほう? わしの客は……そうだったかな?」
稲城黄天はとぼけ、かつ、ふてぶてしく肩をゆすった。
「毀誉褒貶《きよほうへん》はこの世の習い」
「よし、その件はまずそれですんだとして、もう一つの用だ」
明石は、台上の娘を見た。
「その令嬢を連れてゆく」
「おい、そのサーベルを何とかせんか」
と、黄天は一喝した。
「そんなものをかついでの談判では、どんな話でも応じかねる」
「ああ、そうか、忘れとった」
と、明石は苦笑して、肩にかついでいた赤鰯を鞘におさめた。
「そこで、おれの用をきいてくれるか」
「このお嬢さんは、お父上も御承知で来てもらった。――」
「なんのために?」
「わが神道占の巫女になってもらうためじゃ。見る通り、四人の巫女が要る。その中の一人が――それ、あの巫女じゃが――いま、孕《はら》んでおる」
黄天は、髯の中の厚い唇をなめて、妙な笑いをただよわせた。
「従って、近いうち、一人が欠ける。その補充として、竜岡雪香どのに来てもらうことになったのじゃ」
「で、いまここで何をしておったのか」
「雪香どのが、巫女にふさわしいか、どうか、占っておった」
「占った結果、どうだ」
「世にこれほどわが神道占の巫女にふさわしい女性はない。――」
「それで……お嬢さんは承知したのか」
「そもそも、承知したから、ここへ来たのではないか」
元二郎は、もういちど娘のほうを見た。
「お嬢さんが手に持っている短刀は何だ。あれもその占いの法か」
黄天は、苦笑に近い笑いを浮かべた。
「あれは向うが、勝手にあんなことをしたのだ。どういうつもりか、わしにもわからん」
この間、竜岡雪香は、短刀を握ったこぶしを膝におき、きっさきを自分にむけて端座している最初の姿勢のままである。
明石は雪香という娘をはじめて見たわけだが、女性に対する審美眼でも、大まかで荒っぽいところのある彼が、最初の一瞥《いちべつ》から、心中に驚倒した。日本人とは思えないほど色が白く、彫りが深く、その名の通り、まるで雪で刻んだ彫刻のようだ。いや、日本人とは思えないどころか、明石には、この世のものとも思えないほど清浄《せいじよう》で神秘的な美しさに見えた。
年は廿歳《はたち》前後だろう。髪は、鹿鳴館からはやり出した夜会結びにしている。
神秘的に見えたのは、彼女がいまいった姿勢のまま、動かないことにもあった。――これは変だ。この娘は、たしかに何かに呪縛されている!
明石の眼に浮かんだ不安の光が、やや怒りの光に変った。
「それでは、お嬢さんを連れて帰るぞ」
と、彼はいった。
「それでは?」
稲城黄天は、けげんな表情をした。いままでの問答とは何の関係もない相手の言葉だったからだ。
「本人も、本人の父親も承知の上のことだぞ。それを、あんたが何の権利で?」
「夫の権利でじゃ。こりゃ、おれの未来の妻ですたい」
黄天が唖然としている間に、明石はずかずかと台の上に上り、雪香の前に――黄天に尻をむけて、むずと坐った。
「雪香」
と、呼び捨てで呼んだ。むろん、わざとである。
雪香は、ボンヤリと彼の顔を見ている。美しい瞳孔が、散大している。元二郎はわめいた。
「お前の未来の夫が、助けに来たぞ!」
背後で、黄天の笑う声がした。それで、彼が顔を近づけたのがわかった。
そのとたん、元二郎は放屁をした。物凄い音響であった。
うしろで、黄天がのけぞったようだ。同時に雪香の手から短刀がポロリと落ち、視線が元二郎の眼にとまり、驚愕の表情になった。
「お迎えに来ましたばい。あそこに津田七蔵も来ております。ゆきまっしょう」
相手が正気に戻ったと見て、うっかり、先刻とは統一のとれない用語を使って、彼は雪香を抱きかかえるようにして白い壇を下り、例の天照皇大神の布の道を歩き出したが、十歩ばかり行ってから、
「稲城さん、しかし、お前さんは面白いところのある男だ」
と、ふり返った。
「マヤカシ野郎にきまっとるが、案外話せるところもあるような気もするばい。おれがあんたに似とるといった人があったが、なるほど、と思われるふしがないでもない。また話しに来るかも知れんぞ」
「そういうことになろうな」
と、稲城黄天はいった。意外に平然としている。
「だいいち、雪香嬢はまたここへ戻って来る」
「なに?」
「竜岡雪香は、必ずこの稲城黄天のところへ帰って来なければならん宿命の血を持っておるのじゃ」
血妖
「伊勢神道占」の門の前を通りかかった空俥《あきぐるま》に雪香を乗せ、その両側について歩き出してから、改めて明石元二郎は、自分の名と素性を名乗った。それにつけ加えて、津田が、明石に自分が助けを求めたことを述べた。
「竜岡さまの御内情を、縁もないお方に打ち明けて御助力を願うのは申しわけないとは存じましたが、あの占い師からお嬢さまをお守りするには、この方法以外にないと思いこみまして、どうぞお許し下さい」
と、津田はいった。
「しかし、明石中尉どのにお願いして、ほんとによかったと思いました。先刻の、あの赤い部屋のようすを見ては……あれほど怪しげなものとは知らんかったであります。こっちのゆくのがもちっと遅れたら、いったいどういうことになったか、冷汗が出るようで……お嬢さま、明石中尉どのは力になる頼もしいお方であります。どうか中尉どのをお信じになって下さい」
「ありがとう」
俥の幌《ほろ》の中で、雪香の声が聞えた。まだ、吐息のような声だ。
「そもそも稲城は、あそこで何してたんですな? 何をしようとしていたんですな?」
明石が訊いた。――だいぶいってから、雪香が答えた。
「あの台の上に坐らせられて、左手をとられていただけです。……」
「あなたが、もう一方の手に短刀をぬかれていたのは?」
「もし何か辱しめを受けるようなことがあったら、のどを突いて死のうと思いまして」
「……なるほど、それで?」
「あの人の眼を見ていると――見まいと思っても、見ずにはいられないのです――その眼が、まるで水晶の球《たま》みたいで――なんといったらいいでしょうか、そのまわりに雲が渦をまいているようで、その中に、水晶の球だけがキラキラひかって――そのうちに、何もかもわからなくなったのでございます」
「ふうむ。……」
「やはり、化物だ!」
と、津田がさけんだ。
「私どもが追っかけて来て、ほんとうによかった!」
明石は、乃木夫人が、神道占へ再度出かけるのが気味が悪い、一口にいえないほど気味が悪い、といったことを思い出した。乃木夫人も、あそこに坐らせられて、あの男に手をとられて御託宣を受けたに相違ない。……
しばらく歩いて、明石はまた尋ねた。
「で、あなたがそんな危険を感じるような男のところへ、なぜあなたはいったんですか?」
俥の中から、返事はなかった。――そのことについては口にすることが出来ないらしい、と、津田がいった通りだ。
「巫女にする、とか何とかいっておりましたな。かしこくも伊勢の大神官の令嬢を、町のいかさま占いの巫女にするとは……」
と、津田があらい息を吐いてうめいた。
「その巫女の一人が孕んだから、ともいった。そして、きゃつ、変な笑いを浮かべおった」
明石がいった。
「おれの見るところじゃ、孕ませたのはあの男だな。けしからんやつだ」
「いたるところ、天照皇大神の御文字を書きちらして……何かといえばひとを不敬扱いにしたがるようでありますが、あいつこそ不敬の極みではありませんか」
「しかし、人を食ったいかさま師だな。相当ないかさま師でも、むやみに天照皇大神など持ち出さんものだが……ああ真っ向から大上段に、ぬけぬけ振りかざすとはたいした度胸だ」
と、明石は舌をまいた。
――実際に、稲城黄天という、このころ市井の占い師をしていた男は、やがて次第に上流階級に帰依者を作り、のちには青山に大邸宅をかまえ、「青山の行者《ぎようじや》」と呼ばれ、隠然たる政界の黒幕にさえなるのだが、そのきっかけの一つになったのも、あるとき時の大実力者伊藤博文の前に出る機会があって、にこやかに彼を占い、ふいにまじめな顔になって、
「あなたはたたみの上では死ねないことになっております。剣難の相があります。すぐ伊勢神宮にお詣りして、お祓《はら》いをしてもらいなさい」
と、いったのに対して、博文が、うっかり、
「いや、せっかくだが我輩は、お伊勢さまだの穴守《あなもり》稲荷《いなり》だのは性《しよう》に合わんのでな」
と笑ったその言葉じりを電光のごとくとらえて、
「かしこくも伊勢大廟と穴守稲荷をいっしょにして笑うとは――あの、ここな大逆賊っ」
と、われ鐘のように叱咤した。――
伊藤ははじめて自分の失言に気がついて、顔色を変え、もしこのことを世上に公表されたら容易ならぬことになると考えて、稲城にこのことはなかったことにしてくれと頼み、それ以来、彼に尻っ尾をつかまれて頭が上がらなくなってしまった、ということがあった。――稲城黄天は、決して子供だましの域にとどまらず、いかんなく、いよいよ大胆不敵に伊勢神宮を利用したのである。
そんな未来は知らず、いま明石元二郎も舌をまいたが、同時に、ふっといつか自分が、「天照大神の旦那さんはだれか」という疑問を提出して、川上少将にたしなめられたことを思い出した。
はてな、稲城黄天とおれとは、なるほどどこか似ているところがあるかも知れないぞ。……とはいえ、おれには、あそこまでは出来ん。
「きゃつ、雪香嬢はまた戻ってくる、必ずこの稲城黄天のところへ戻って来る宿命の血を持っておる、とか何とかぬかしおった」
と、明石はその言葉を思い出した。
「大《おお》時代なことをいうやつだが、何だか気味がよろしくない。……お嬢さん、どうです、何か心当りがありますか?」
これにも返答はない。
明石元二郎は鼻の頭をなでた。それは、どこからか飛んで来た桜の花びらがくっついたからであった。世の中は、まったく春だ。あくまで明るい光の中に、しかし明石は、あやかしの世界を歩いているような気がした。
「それにきゃつ……おれたちがいったとき、あの弟子どもが、あとで来る者は必ず悪念の持主だから、門を通してはならんと命令されたとかいった。悪念の持主とはだれのことだといいたいが、とにかくおれたちがゆくことを予知しておったらしい。それがわからん。きゃつには、やはり妙な占いの能力があるのか?」
ひとりごとのようにつぶやき、明石はふいに俥の向うの津田に大声をかけた。
「おい、津田、いったい、あの稲城黄天という男はいくつくらいだと思う?」
「さ、それは」
と、津田はとっさに当惑した声を出した。明石は首をひねりながらいった。
「もったいぶった髯など生やしおって、おれははじめ、おれより少なくとも十は上、と見ておったが、何だかおれと同年くらい、ひょっとしたら、おれよりまだ下かも知れん、と感じて来た。それにしちゃ、あの落着きぶりが腑に落ちんが……あいつの年、よくわからんなあ」
――結局、この物語の終るまで、明石は稲城黄天の年齢について、ついに不可解のままということになる。
京橋采女町の家で、改めて明石元二郎は竜岡左京に逢った。
帰って来た雪香を見て、左京は驚愕とよろこびの表情になったが、やがて憂いの翳《かげ》が面上にひろがっていった。――津田七蔵が大体の経過を説明し、明石を紹介し、左京は礼を述べたが、その憂色は依然として消えない。
それでも、明石と津田は座敷に通されて、対座した。
津田はもういちど平河町の神道占の異様な光景を述べ、もし自分たちの追跡があと少しでも遅れたら、あるいはお嬢さまをとり返しにいったのが明石中尉どのでなかったら、お嬢さまがどんな目にあわれることになったかわからない、と、懸命にいった。
「ありゃ、いかさま師ですたい」
と、明石はいった。左京は浮かぬ声で答える。
「しかし、占いはよく当るようで。……」
「当っても、そりゃまぐれ当りにちがいない。とにかく、あの仰々しいコケオドシの部屋の作りから見ても、いかさま師としか思われん。……お嬢さん、そうでしょうが」
と、顔を横に向けた。
そこに坐っていた雪香は、顔をあげたが、しかし、うなずかなかった。
「私もそう思います。……けれど……」
その眼には、依然恐怖の光がゆれていた。
その膝にまつわりつくような姿で、弟の綱彦が坐っていた。髪はお河童《かつぱ》にして、キチンと袴《はかま》をはいて、姉に似て驚くべく美しい。先刻いちどちらっと見たが、改めて眺めて、明石はまるでかげろうの精でも見るような気がした。透《す》きとおるような顔色をしていたせいもある。
年は十二、三に見えるから、姉が伊勢神道占とやらへいったのを、どう解釈しているのか。――いや、さっきのようすでは、それは決していいことではないと、少年も知っていたにちがいない。それだけに、姉が帰って来たことが、いかにもうれしそうに見える。
父の左京も、端正な容貌である。人柄も、もの静かだ。五十にはまだとどかない年齢に見えるが、いまべつに神官の服装はしていないけれど、明石にはどう見てもやはり神官としか見えなかった。
もっとも、左京の背にある神棚に、やはり天照皇大神の文字が見える。……この家をおびやかす者と、おびやかされる者が、同じ護符をかかげているのは何だか妙な気がする。
「いったい、どうしてあんな男と知り合いになられたんですかな」
と、元二郎は尋ねた。
「通りがかりにあの伊勢神道占の看板を見られて、それにひかれなさったのか」
「あ、いや」
左京は不透明な声をもらし、男の子のほうを見て、
「綱彦。お前はあっちへゆきなさい。きょうまだランプを掃除しておらんだろう」
と、命じた。
綱彦は「はい」といって、あわてて立ちあがり、部屋を出ていった。それを見送ってから、
「いや、べつに通りがかりではなく、これのいっている桃夭女塾《とうようじよじゆく》での評判を聞いて、わざわざ出かけたのです」
と、雪香を見やって、左京はいった。
「桃夭女塾?」
「雪香のいっておる麹町一番町の塾です。私たち一家は息子の病気治療のため上京したのですが、雪香の修行のためにもいい機会と思い……その女塾にいれたのであります。宮中に仕えておられる下山宇多子というお方のやられておる、若い娘のための塾ですが、その下山先生とあの稲城黄天は同郷で、親しいおつき合いがあるらしい。塾に来ておるのは大半上流階級の令嬢らしいが、その間でもあの神道占はよくあたる、という評判が高く、それを聞いて、私のほうから稲城さんのところへ、わざわざうかがったのです」
「ははあ。……」
「と、いうのは、その息子の病気というのが……あの子は何かのはずみで出血……たとえば、子供のことですから鼻血を出すとか、いたずらで切傷すり傷などを作って出血すると、その血がなかなかとまらない。いつまでもジクジクと流れ出ているというふしぎな病気を持っていて、そのために幼いころから何度か死にかけたことがあります。いや、この雪香と綱彦の間にもう一人男の子があったのですが、それも同じ病気で亡くなったくらいで……それで何とかこの際、綱彦の病気をなおしてもらいたいと、大決心して上京したのですが。……」
「あの……お嬢さんは大丈夫なのですか?」
と、元二郎がふと訊いた。
「娘のほうは何でもないのです。私もそんな病気は持っておりません」
と、左京はいい、そのとき一種異様な表情になって、
「いま、家におりませんが……子供たちの母親、これにも、そんなことはなかった。ただ、男の子だけがそうなので。……」
と、いった。
「で、東京に来て、いわゆる名医の噂の高い諸先生のところを回ったのですが……どこでも、しかとした治療法を教えて下さらぬ。それどころか、大半は、そんな妙な病気は聞いたこともない、とおっしゃる始末で……そこで、いま申したような桃夭女塾での評判もあり、あの稲城先生の門をたたいたわけであります」
「それで、御子息の治療をやってくれましたか」
「は。……それは、自分は医者じゃないから、病気の治療はやらんと」
「そりゃ、そうでしょうな」
「しかし、もし将来子供が出血したら連れておいで。ひょっとしたら神道占の祈祷でなおるかも知れん……と申されたのですが、いかにも自信満々としたお顔でありました」
「それだけでござりますか」
「いまのところ、そういうことになっております。わざと子供に出血させることも出来ませんので」
「あなたは、稲城を信じたのですか」
「信じました」
左京は一息ついて、つけ加えた。
「あの人には、何かたしかに力があるようです。少なくとも、人を信じさせる力が。――」
明石はしばらく考えこんでいたが、やがて、
「たしかにあいつには変な力がありますな」
と、つぶやいて、薄く笑った。
「しかしあいつの神通力を、私は屁で破ってやりましたばい」
「え?」
「いや、こっちのことです。……その後、稲城はこちらへ、何度かうかがったそうですな」
「は、それは……この娘を、巫女として使いたいという御用件で」
「それをあなたは承知された」
明石はいった。
「それが私にゃわからんですたい」
「何がです?」
「あなたは、かけまくもかしこき伊勢大神宮の御神官、あっちは、しょせんは町の……どう見てもいかがわしい占い師です。それが、御令嬢を巫女に出されるとは」
「いや、べつにいかがわしいお人じゃありますまい。下山宇多子先生をはじめ上流階級にも信用される方々が少なくないお方ですから」
「しかし、お嬢さんはきらっておいでなさる」
明石はちらと雪香のほうを見た。
「よかですか。お嬢さんはあそこへいって、変な祭壇みたいなものにのせられて、稲城にあやしげな術にかけられようとしていなさった。お嬢さんは危険を感じて、短刀を用意して自分ののどへ向けておられたほどだ。……そんな男のところへ、なぜ娘さんをやられたのか」
「それは」
竜岡左京の顔に動揺の波がわたった。
「どうしても、倅の病気をなおしていただこうと――」
「しかし、その件についちゃ、あっちの反応は実にあいまいなものじゃござっしぇんか」
「いや、それは万一の際――」
「嘘ですたい」
と、明石は怒鳴《どな》った。
「お嬢さんをあそこへやられたのは、ほかに何か理由がありますな。お嬢さんを連れて帰るとき、稲城は妙なことをいいました。竜岡雪香嬢は、またここへ戻って来なけりゃならん宿命の血を持っておる、など、ぬかしよりました」
左京の顔は蝋色になった。
「インチキ野郎の捨てぜりふにしちゃ、何か意味がありそうだ。……あなたは、何かかくしてますな。あいつに何か弱味を握られてますな。そりゃ何ですか」
左京は、身をふるわせてさけんだ。
「そんなものはない。……かりにあっても、あなたにいう必要はない!」
「それを知らんけりゃ、お嬢さんは助けられんですたい」
竜岡左京は、沈痛きわまる眼つきでいった。
「娘を救ってくれと、あなたにお願いしたおぼえはない。……津田の言葉ゆえ、ここまで事情を打ち明けたが……それも要らざることでした。はっきりいえば、きょうのことも、私にとってはありがた迷惑、というところもあるのです」
明石元二郎は、相手を黙って見つめていて、それから一つ大きな屁をした。
明石と津田は、采女町から銀座のほうへ歩いていった。
「中尉どの、申しわけありませんでした」
「いや」
「竜岡さまがあんなことを申されようとは。……」
「こりゃ、いよいよ面白くなったばい」
「えっ?」
「竜岡さんがお嬢さんを人身|御供《ごくう》に出せといわれても、いやとはいえん事情は何じゃろ? 何か稲城に容易ならん弱味を握られとるにちがいない、っちゅうおれの推測は誤っとらんと思うが、さて、その秘密は何じゃろ?」
「それは、例の坊っちゃんの病気のことではありませんか」
「万一のとき、なおしてもらうってことかね? しかしそりゃあてにならん話だし、その代償に娘を巫女にさし出すっちゅうのはおかしいぞ」
「いえ、その病気のことを世間に知られるのがおいやで」
「ちがう。げんにそのことをこっちに告白したじゃないか。竜岡さんが隠しておることは別の何かじゃ。それは竜岡さんとあの稲城との間だけにある秘密じゃとおれは思う」
「はあ? しかし、中尉どの……竜岡さまは去年の夏御上京になったばかりで、しかもあの占い師と知り合いになられたのは、たしか去年の暮ごろからのことだと聞いております。それ以来の短いつき合いで、お嬢さまを人身御供にさし出さなけりゃならんほどの秘密を、あの男につかまれるとは……津田は想像もつきません」
明石は腰の袋から豆をつかみ出して、口に放りこみながら歩いている。
「それに竜岡さまは、この前申しあげた通り、縁もゆかりもない私たち兄弟をお救い下さったほど慈悲心のあるお方で、そんないかさま占い師にゆすられるような弱味をお持ちのはずがありません」
明石は津田のほうへ顔をむけた。
「お前……竜岡さんの奥さんが家出をしたといったな。なぜ家出をし、どこへいったのか知っとるか」
津田は意表をつかれたようだ。
「いや、存じません、この前申したかどうか忘れましたが、そりゃ私どもが竜岡さまのお家からおいとまをいただいたあとの事件で――」
彼は眼を宙にすえ、指おり数えた。
「あの坊っちゃんがまだ赤ん坊のころで……もう十年以上、左様、十二年くらい前の話ですよ。なぜいまごろ、そんなことが?」
「なに、あの野郎の、宿命の血、とか何とかのせりふが何かひっかかるからさ。フ、フ、おれも案外、コケオドシに弱い。あいつに笑われるかも知れん」
明石はにが笑いした。
「やっぱり、ちがうかのう。……うん、さっきいったが、あの稲城というやつ、おれとたいして年はちがわんと思われるふしがある。とすると、十年以上も昔のことなら、まったく子供のころじゃからな。その奥さんの家出とは関係ないだろ。だいいち、母親が家出をしたからといって、十何年か後、娘が巫女にならんけりゃならんという法はない」
笑ったが、なお気になるらしく。――
「しかし、そのこととは別に、奥さんの家出の理由を知りたいもんだが、あの竜岡さんのけんまくじゃ、教えてはくれんだろな。といって、伊勢まで調べにゆくわけにもゆかんしのう」
と、つぶやいた。津田がいった。
「私の兄貴が向うにいますが、何なら調べさせましょうか」
「お前の兄が? 向うに?」
「兄貴といっても、双生児《ふたご》の兄弟ですが」
「おう、そんなことをいったな」
「それがいま滋賀県で巡査をやっとるんです。滋賀と伊勢じゃ場所ちがいですが、いや、その件についちゃ、実は私も以前から気になってたもんで、兄貴も同様でしょう。手紙でいってやれば、改めて調べてくれると思います」
「しかし、妙なことになったのう」
明石は首をひねった。
「こんなに深入りしようとは思わなんだよ。乃木家の事件にゃ、川上次長の御依頼もあったからやむを得なんだが、こりゃお前から頼まれたことで、しかも、縁もゆかりもない伊勢の神官一家のことだが……何だか、このままじゃすまん気がする」
「申しわけありません」
「あやまることはない。乃木さんの事件より、おれは身がはいるよ」
そして明石は、ふしぎな笑いを浮かべた。
「そりゃね、あのお嬢さんが美人だからだよ。あんな神々しいほど美しい娘は、いままで見たことがないな」
津田は急に不安な顔になって、
「明石中尉どの」
と、呼んだ。
「中尉どのはさっき神道占のところで、お嬢さまは未来の妻、とか何とかいわれたが、ありゃ本気でありますか」
「方便じゃよ。……だいいちあのおやじさんが承知するわけはないじゃないか」
そのとき、津田はうしろをふりむいて、
「あ」
と、さけんだ。
あとから追っかけて来たのは、雪香であった。ちょうど三原橋の上だ。
「明石さん」
走って来たので、雪香の頬は薄紅《うすくれない》に染まり、息はずませていた。
「せっかく助けていただいたのに……父を許して下さいませ」
「いや、なに」
どんなにえらい人でも、大きな眼でまともにギロリと見てたじろがない明石元二郎が、珍しくまぶしいように眼をそらした。
そういったが雪香は、欄干に手をかけて、しばらく三十間堀川の水をのぞきこんでいた。ただあやまりに来たのではなく、何か話があるらしかったが、まだ迷っている風だ。
が、やっと決心したように、
「あの……このことをいうと、父から叱られるかも知れませんけれど……やはり明石さんには申しあげたほうがいいと思います。七蔵にも聞いてもらったほうがいいかも知れません」
と、いい出した。
「なぜ、私たちが、あの稲城という人のいうことをきかなければならないか、ということです」
「おう」
と、明石はうなり声をあげた。
「……この二月十一日、森文部大臣が殺されたことを御存知でしょうか?」
雪香があまり突拍子《とつぴようし》もないことをいい出したので、二人はあっけにとられた。
明石はちょうどあの日、三宅坂の参謀本部で川上少将と逢い、そのときこの事件を話題にしたことを想い出した。
「あれが……何か……」
「あの事件と関係があるんです」
「えっ……竜岡さんが……それは、どういう――」
「森文部大臣を殺したのは、内務省のお役人の西野文太郎とかいう人でした」
「そ、そうでしたな」
「なぜそんなことをしたのかというと、おととしの暮に大臣が三重県の学校を視察においでになった際、神宮に御参拝になって、そのとき社殿の御帳《おとばり》をステッキでかかげるという不敬をなさったから、その大不敬に対して罰を加えるためだとかで。……」
「そ、そうでしたな」
あの朝、暗殺者の西野が、「伊勢神廟に不敬を働いた大逆に神罰を下す」云々と絶叫して凶刃をふるったということは、その日のうちに、明石の耳にさえはいっていた。
その後の新聞報道によると、おととしの十二月二十八日文部大臣森|有礼《ありのり》が外宮《げぐう》に参拝したとき、森が拝殿にかかった白布の御帳をステッキでめくったという噂があり、かねてから無際限な西洋崇拝の評判の高い森有礼のことだから、充分あり得ることだと憤慨した西野がこの凶行に及んだという。――
「そのとき、大臣さまを御案内した禰宜《ねぎ》が父だったのでございます」
「やあ」
と、元二郎は眼をむいた。
「そ、それで……森さんは、ほんとにそんなことをやったのですかな」
「いいえ、ちがいます」
雪香は首をふった。
「そんな噂は嘘だ。私が大臣を御案内してそばにいたから知っている、と、父は申します」
「ふうむ。……それが、稲城のおどしを受ける原因になったとは、どういうことです」
「森大臣がお亡くなりになった何日かあと、たまたま父は稲城さまと逢う機会がありました。そのとき父は、雑談として、ふとそのことを稲城さまに話したということでございます。そして、西野が信じたという不敬事件は嘘だ、自分が知っている、と申したそうでございます」
「………」
「それからまた何日かして、稲城さまが妙なことをいい出されました。実は西野文太郎は自分の知人だ。自分があなたから――父でございます――聞いた森大臣の不敬をあいつにしゃべったのが、あのとり返しのつかない事件のもとになったのは残念だ。……」
「………」
「父は驚きました。父がいったのは、不敬事件などなかったということなのです。そう申しますと、稲城さまは、いや、自分はたしかにあなたから聞いた。神宮に参拝し、拝殿の前に進まれたのは森大臣とあなただけ、そのあなたの証言だからまちがいないと信じた、とおっしゃるのだそうでございます」
「………」
「父はまた、かりに私が話したとしても、それは大臣が殺されたあとのことだ、と申しました。それに対しても、いや自分はその前に聞いた。聞いたからそのことを西野に話し、西野があんなことをやったのだ、とおっしゃるのだそうでございます」
この驚くべきいきさつを聞いたとき、明石元二郎はちょっと感心した。小耳にはさんだ、といっていい何でもない話を、一瞬に怖ろしい凶器に変えてしまう稲城黄天の才能に対してである。――実は明石自身に同じような潜在能力があったから、それについて無意識的な共鳴現象を感じたのかも知れない。
「こうして父は――もし稲城さまが公けになさると――森文部大臣暗殺事件をそそのかした人間ということにされてしまったのでございます」
「あんな人間のいうことを、信じる人間がおるでしょうか」
「いいえ、あの方は、上流階級の方々をたくさん知っておいでになります」
「畜生!」
と、津田七蔵がうめいた。
「そんなこと、お嬢さま。……どこへひき出されようと、ほんとうの話はこうだと申し立てられりゃ。……」
「父がひき出されることはないわ。法律も父をどうするわけにもゆかないでしょう。……それで、かえって父も弁解するすべがないの」
雪香はあえぐようにいった。
「かりに弁解したところで、ほかの人が父の言い分を信じるでしょうか。世の中の人は、稲城さまのいうことのほうを信じるにちがいないわ。父から聞かなくて、だれが森大臣の不敬など知る法があるか、と稲城さまはおっしゃるのですもの」
その通りだ、と、元二郎は考えた。森文部大臣はかねてから、仏教はむろん神道を未開の宗教とし、日本は将来キリスト教国となるべきだ、という説を唱えていると伝えられ、僧侶神官の憎しみを買い、さらに、それまで日本の暦は伊勢神宮の専売であったものを、森が暦の編纂《へんさん》を帝大に命じたことで、特に神宮の恨みの標的になっているということは、明石も噂に聞いたことがあった。
そのしっぺ返しに、伊勢の神官たる竜岡左京が暗殺者を教唆《きようさ》するという陰険な法に出た、という説は、たしかに世人の耳にはいりやすく、かつ左京が法的に罰せられなければ、いよいよ世間の憎しみを買うに相違ない。
竜岡左京のいわなかったことを、いったという。しかも、その時日を繰りあげる。その馬鹿馬鹿しいスリカエで、事は決して馬鹿馬鹿しいものではなくなった。
「あ、あの野郎」
津田が、馬のようにあらい息を吹いた。
「おれがこらしめて来ます」
「やめて頂戴」
雪香がはげしく首をふった。
「もしそんなことをすれば、稲城さまはこのことを公けになさいます。たとえ法律的に罰せられなくても、竜岡左京の名はけがれます。父は、神宮の禰宜の家名に傷がつくことを、何より怖れているのです。……それ以来、父はひどい鬱病になって、いちどは死ぬことを考えたことさえあるようです。けれど、死ぬと、あと綱彦がどうなるか、ということが心配になったのと、自分が死ねばそのあといよいよ何をいわれるかわからない、という不安で死ぬことをやめたようなのです。……」
雪香は、ワナワナとふるえていた。
「これで、巫女になれといわれて私がことわれなかったわけも、私が助けられてもかえって迷惑だ、など父がいったわけがおわかりでしょう。……」
まさに、蜘蛛《くも》の網にかかった蝶の一家だ。
「悪いやつじゃのう!」
と、明石はうめいた。もう感心は消えている。これはほんとうに怒らざるを得ない。
「中尉どの、何とかしてあげて下さい」
津田は歯ぎしりした。――雪香がさらわれた、と聞いたときに彼が見せたのと同じ、いや、それ以上の――怒っている明石が、異様に感じたほどの形相であった。
「何か、あいつを退治するいい手はありませんか、中尉どの!」
さしもの明石が、うなり声をもらしたきり、返答のしようがなかった。
証拠のない空論を怖るべき武器にしている相手だ。おそらく、そういう法を商売にしているやつだ。説得しても無効、おどしても無益。……殺しても、こっちにトクになることは一つもあるまい。
しかも明石は、彼をいかさま師と呼び、かつそれを信じているが、一方であの男に、何やらたしかに常人外の力がそなわっているらしいことも認めている。
ふつうの人間なら、同じおどしをかけても笑殺出来るかもしれないが、あの男なら、そのおどしが容易ならぬ迫力を持つだろうことは想像出来る。
「屁も効《き》かんな」
「え?」
明石はいった。
「お嬢さん。……こだわるようですが、もういちどお尋ねします。あいつが、あなたはまた戻って来る宿命の血を持っているといったのは、どんな意味です」
「そんな……それは、私にもわかりませんわ……」
「そうですか。それじゃあれは、やはり無意味な言葉だったんですな。それからもう一つ、ついでだからお訊きしたいことがある。お答えになりにくかったらよろしいが……十二年前、お母さまが家出をなさったと聞きましたが……そりゃどういうわけですか」
「なぜそんなことをお訊きになるの?」
雪香はけげんな顔をした。
「それはこんどのことと関係がありませんわ。……」
「関係ないとは思っていますが、何か気になるもんですから」
「私……そのわけを存じませんの。父が申しませんから」
「お母さまが家出をなさったとき、あなたはおいくつでしたかな」
「九つでございました」
「それじゃ、お母さまのことも少しはおぼえておられますな」
「はい。……夢の中のように」
と、いったとき、雪香の眼に涙がひかりはじめた。
「私、いまでもその顔を夢にまで見ますの。……」
「それなのに、いまでも、お母さまの家出の理由をお父さまはおっしゃらん。あなたもお訊きになろうとはせん」
「訊くのがこわいんです」
「なぜですな」
「……なぜでも」
雪香が偽《いつわ》っているとは見えなかった。その清純な眼に、名状しがたい怖れと哀しみがあった。
「どんな理由があったにしろ、父にうれしい記憶ではないでしょうから」
「では、お母さまはどこへゆかれたのかっちゅうことも御存知ない」
「はい。……」
「いま、生きておられるか、どうかっちゅうことも?」
「生きていたら……そして母が家にいたら……こんどのようなことが起きたとき……どんなに頼りになるかと考えたこともあります」
涙が頬につたわり、明石はもうこれ以上、訊けなくなった。雪香はつぶやいた。
「生きていれば、それでも母はまだ三十八だと勘定したこともありますけれど……もう死んだでしょう」
「そうですか。いや、わかりました」
明石は、こんどは雪香の眼をのぞきこんでいった。
「それじゃ、こんど稲城黄天から呼び出しがあったら、あなたは……私には、陸軍中尉明石元二郎という許婚者《いいなずけ》がある。それの許しを得んけりゃならん。それがいやなら、どうとでも好きなようにしろ、といってやって下さい」
「はい。……」
明石は津田をふりむいた。
「いまのところは、とにかくそれしか法はない。……津田、それでいいか?」
津田は、実に複雑な――のどに鉄丸でもつまったような顔をした。
三原橋で、雪香と別れて、二人はまた歩き出した。二人とも黙っている。ときどき何かいい出そうとして相手を見たが、相手が考えこんでいるので、また黙って歩いた。
ただし明石は、しきりに鼻糞をほじって、ときどき指で飛ばしている。
銀座通りに出た。
明治五、六年ごろ、ロンドン、パリにも匹敵する町を、と意気ごんだ政府の手によって建設された煉瓦造りの銀座は、出来上ってみると、パリ、ロンドンとは似ても似つかぬ矮小化《わいしようか》されたものになった。それでもなお異和感をおぼえる民衆から敬遠され、十年近く、見世物小屋の町みたいな観を呈していたが、明治十五年、ここを鉄道馬車が通るようになったころから、並木、ガス燈の風情《ふぜい》も加わって、ようやく東京一のハイカラな繁華街の姿を描き出しつつあった。
尾張町で、数寄屋橋のほうへ渡ろうと、馬車、人力俥の切れ目を待って立っていた二人の眼の前に、ちょうど一台の黒塗りの馬車がとまり、中から一人の軍人と若い女性が下りて来た。
そのまま馬車は、数寄屋橋のほうへ駈けていったが、窓にちらっとボンネットをかぶった貴婦人らしい顔が見えた。
下り立って、こちらに歩き出した将校と眼が合って、明石は敬礼した。
「森教官どの」
呼ばれた軍人は、明石にくらべれば小柄だが、髭《ひげ》をピンとはねあげ、俊敏きわまる容貌の将校であった。
「陸軍大学の明石元二郎中尉であります」
「やあ。……あの豪傑か」
と、森林太郎《もりりんたろう》軍医大尉は白い歯を見せた。
森林太郎は、明石元二郎よりわずか二歳の年長だが、すでに四年間のドイツ留学を終え、去年の秋帰朝したあとは、陸軍軍医学校教官を命じられていたのみならず、陸軍大学教官をもかねていた。
むろん軍医学校のほうが主な勤務だが、陸軍大学のほうにも、何度か、軍隊における衛生学総論など講義に来たことがある。
なにしろ満十二歳で東京医学校――二年後に東京大学医学部となった――に入学した稀代の秀才だという評判は聞いていて、もとより明石のほうは、ただの軍医大尉ではないと承知しているが、森のほうも、陸軍大学の変な名物男、明石元二郎の名を耳にとめていたと見える。
「えらい立派な車で。……」
と、明石が馬車のゆくえを見送ってつぶやくと、
「華族女学校の下山宇多子女史だ」
と、森はいい、
「これは妻《さい》だ」
と、そばの若い女性を眼でさした。明石は知らなかったが、これは海軍中将男爵赤松|則良《のりよし》の令嬢で、この三月に結婚したばかりの登志子であった。
「妻が歌を習いたいというので、下山女史の女塾へ入門をお願いにゆき、帰りは銀座に買物に寄るといったら、ちょうど女史も鹿鳴館のバザーに出かけられるとかで、ついでに馬車に乗せていただいたんだ」
一見しただけでも冷徹な森が、珍しく照れたように早口に説明し、
「じゃあ」
と、妻を眼で促《うなが》して歩きかけた。
「森大尉どの」
明石はふと何かを思いついたように呼びかけた。
「こんな場所で何ですが、ちょうどよい機会だから、ちょっとうかがいたいことがあるんですが」
「なんだ」
「私の知人の息子に、妙な病気を持った子供がおります。鼻血とかすり傷とか、とにかく少しでも出血すると、その血が、とまらなくなるっちゅう奇病の持主で。――」
「ほう」
森はちょっと首をかたむけた。
「そりゃ、ヘモフィリーという病気じゃないか。非常に珍しく、そういう病気があるということは知っとるが、おれは診たことがないな」
「それじゃあ、治療法は?」
「知らん。……たしか、なるべく出血せんように注意するということ以外に、治療法はない、ということになっとると思うが――待て待て」
森は考えたあと、
「ドクトル・フォン・ベルツを知っとるか」
「お名前だけは知っとります」
「おれの師匠だ。あの先生なら、御存知かも知れん。……ただし非常に多忙なお方なので、のっけに訪ねていっても逢えんだろう。おれが紹介状を書いてやるから、それを持ってゆけ。紹介状は、あさっての火曜、正午に軍医学校に取りに来い。いいな?」
「は。――ありがとうございます」
敬礼する明石をあとに、森大尉夫妻は、春の銀座の雑踏の中へ歩み去った。
宣告
明石と津田が、ベルツ博士に逢うことが出来たのは、五月にはいってのある夕方であった。
ライプチヒ大学の医学部の助手であったエルウィン・フォン・ベルツが、明治九年日本にやって来たのは、内科の教授として招請されたからであったが、指導をかねて臨床治療をはじめたら、たちまち名医の名が高まって、本格的な診療に――内科のみならず、時には産婦人科、外科まで――忙殺される羽目になった。
ただし彼は、患者が十五人に達するか、達しなくても午後五時になれば、診療を打ち切る。それで、赤門の前には朝暗いうちから番号札をもらうための行列がつづき、この冬などは毛布にくるまって地面に寝て待つ者が出たほどであった。
五時になると、彼は池之端茅町にある屋敷に帰る。そこには愛妻のお花が待っている。とくにその妻が最初の子を身籠って、この月のうちにも生まれそうなので、五時になると矢のように彼は帰る。
そういう状態のベルツに、明石と津田は逢った。外光は夕日に染まりかけているが、ガラス越しに、まだ銀杏《いちよう》の新緑の青味が沈んでいる帝国大学医学部の、ベルツの診療室だ。
「モリは元気ですか」
と、ベルツはちらと机上にひらかれた紹介状に眼をやっていった。それはドイツ語で書かれてある。
森林太郎は彼の教えた学生の一人だが、その俊才ぶりは彼もよく認め、四、五年前、いちど賜暇《しか》を得てドイツに帰省したとき、たまたま当時ライプチヒ大学に留学中の森林太郎を訪ねて、何回か御馳走したり激励したりしてやったほどであった。
その話を、ベルツはドイツ語でちょっと話した。ただし、そばに立っている助手の入沢《いりざわ》達吉に対してである。
このとしベルツはちょうど四十歳、青い灯のような眼と、両頬からあごをうずめる堂々たる髯と――早く用をすませたい、という内心はともあれ、悠然とし堂々たる偉丈夫ぶりであった。
「さて、おたずねの病気――ヘモフィリーについてです」
ベルツはすぐ明石に眼をもどしたが、また入沢のほうをむいて、
「これを日本語で何といったらよいか」
と、尋ねた。
「さあ、それをさっきから私も考えていたのですが、おっしゃるような遺伝現象が見られるなら、血の相関を意味するために、血友病とでも訳したらどうか、と思うのですが」
と、入沢助手は答えた。
――ベルツは後に天皇の侍医となるが、入沢達吉はさらにその後をつぎ、明治天皇の崩御を看《みと》ることになる。
「ケツ、ユー、ビョウ」
ベルツはうなずき、
「それがいいかも知れない。あなた方、聞きましたね?」
と、明石たちにいった。アクセントに、妙なところはあるが、来朝以来十数年、日本人の妻を持つベルツは、日本語に不自由はなかった。
「あなた方の友達の子供が、その血友病だといわれる。そして、その治療法をきかれる。……結論からいえば、大変お気の毒ですが、その病気をなおす法は、まだ見つかっていません」
森大尉から聞いていたが、明石は落胆せずにはいられなかった。
「小さな原因でも出血し易く、出血したらとまりにくい。だから、この病気を持って生まれた子は、たいてい思春期以前に死にます」
明石は、この前、竜岡左京が、雪香と綱彦の間にもう一人男の子があったが、その病気のために幼いころ死んだと話したことを想い出した。
「ふしぎなことに、この病気は、男の子だけがかかります」
「へえ?」
「神さまは妙なところで慈悲ぶかい、といおうか。女にはこの病気、ありません。女に、出血したらとまらない、という現象があったら、大変でしょう」
数秒考えて、明石はその意味を了解した。
「ところで、血友病、には、もっとふしぎなことがある。この病気を子に伝えるのは、女だけである。ということなのです」
「え。――」
明石は眼をしばたたいた。
「いま、女にこの病気はない、と聞きましたが」
「正確にいえば、そういう症状は現わさない、ということです。女は、自分は症状を現わさないで、血の中に素質を持っていて、子供に伝えるのです」
「……?」
「男の場合は……たとえば、あなたの知っている血友病の子供が、もし無事に大人になって結婚して子供が出来たとしても、その子は男女を問わず血友病にならない。しかし、あなたの知っている男の子に、もし姉か妹かがあるならば、彼女たちは血友病を現わさないにもかかわらず、結婚して子供が出来れば、その子は……男の子なら血友病を現わし、女の子なら、現わさないで、また次の子に伝えるのです」
ものに動ぜぬ明石元二郎の顔色が変っていた。
「すると……すると……」
彼がベルツを見つめたまま口ごもると、ベルツは、そのあとをつづけた。
「大変いいにくいことですが、その子供さんのお母さんが、その素質を伝えたのですね」
それから、宣告した。
「ですから、その血を持った女のひとは、結婚してはいけないのです。永遠に処女であることが望ましいのです」
――この物語では余談になるが、人間の運命というものは、親と子という関係、すなわち時間という縦《たて》の関係の視点だけから見てもたんげいを許さない、という例として、ここでベルツ博士の子供について書いておこう。
ベルツ夫人のお花は、この月の終りに男の子を生んだ。
子供は徳之助と名づけられた。そして成長した徳之助は、十二年後父母とともにドイツにゆき、やがて、トク・ベルツという名でドイツ軍将校として第一次大戦に出征する。このとき彼は、母からもらった日本刀をひっさげていったという。――トク・ベルツの場合は、無事復員したが、さらにその三人の男の子たち――ベルツとお花の孫たちは――こんどは第二次大戦でヒトラーのもとに戦い、三人とも戦死するのである。
――ついでにいえばそのヒトラーは、奇しくも、日本の暦では、この明治二十二年四月二十日に生まれている。
「……驚きましたな」
と、津田がつぶやいた。
夕日がななめにさす帝大構内を、赤門のほうへ二人は歩いていった。
「実は竜岡さまの奥さまの家出について、兄貴に調査を依頼したのでありますが、まだ返事をくれません。……しかし、これで事情はわかりましたな。奥さまは自分がそんな血を持っているのを恥じて家出をされたのにちがいありません」
「おれもあのときそう思ったがな。ばってん、そりゃ少しおかしいぞ」
明石は考えに沈んだ顔をうつむけていった。
「何がでありますか」
「おい、そのお母さんの名は何ちった?」
「たしか……水香《みずか》さまとおっしゃいました」
「その水香さん、がじゃな。自分がそげな血を持っとると、どうして知ったのじゃ?」
「だって、男の子が、一人は亡くなられ、次の一人も同じような病気持ちとあれば。……」
「ばってん、雪香さんは何でもない。そげな場合、母親だけが家出をするほど責任を感じるじゃろうか。女だけがその血を伝える、などっちゅうことは、われわれにしろたったいまベルツ先生によってはじめて知ったこっちゃ。いまから十何年も前に、伊勢の神官の妻に、そげな知識があったとは思えんのじゃが」
「そういえば、そうでありますな。……」
「ばってん、現実にそんな病気――妖病といってよかろうな――を持った男の子が二人生まれりゃ、わけはわからないなりに母親には|こたえ《ヽヽヽ》たかも知れん。お前のいう通りかも知れん。……要するに、まだわからん」
二人は赤門を出た。
「それから、もう一つ不可解なことがある。……例の稲城の捨てぜりふだ。あいつもまさか、血友病の知識を持っとるとは思えんのだが、どげなつもりであげなことをいったのか?」
本郷通りを歩きながら、明石はいった。
「それはそうと、津田。――お前、妙にはればれとした顔をしとるな」
じろっとふり返られて、
「へっ? そ、そんな。……」
と、津田七蔵はあわてて、頬をなでた。
「私がはればれした顔をしているわけがないではございませんか。どうして、そんなことを。――」
「いや、ベルツ博士からあげな話を聞いて――雪香さんにとっちゃ、絶望的な話を聞いて、お前さんが何だかほっとしたような顔をしとるから、おれもふしぎに思っとるんだ。津田、このことを、お嬢さんには告げんほうがいいぞ。一生、お嫁にいっちゃいかんなんて、無惨な話たい」
「まったくお気の毒であります。しかし、中尉どの」
「何だ」
「そのことをお嬢さまに知らせてあげんけりゃ、それを知らずにお嬢さまが将来お嫁にゆかれることになりはしませんか?」
「ううん。……」
明石はうなった。しばらく歩いて、
「お前は、お嬢さんがお嫁にゆけんことを望んどるように見えるが」
と、いった。津田はみるみる赤黒い顔になって、
「そ、そんな!」
と、さけんだきり、絶句した。
「永遠の処女、とかいったな」
明石はつぶやき、
「お嬢さんが、お嫁にゆけるかどうか、なんちゅう心配はまたのこっちゃ。その前に、当面の問題は、あの稲城黄天の魔手をどげんしてふせぐかっちゅうことじゃ。……いまのところ、それにゃ二つの法がある。その法しかない」
と、いって自分でうなずいた。
「へっ? それは?」
「一つは……あいつの、のっぴきならん弱味を握るこっちゃ。竜岡さんが握られとる弱味以上のな。ただしかし、あいつ、最初からいかさま承知、裸になってもともとだっちゅう、八方破れのところがある男で、意外にこいつ難しいかも知れんぞ。……」
「もう一つは?」
「もう一つは……あいつ、いかさま師っちゅうものの、たしかに妙な力を持っとる。人の弱味をつかまえる能力もさることながら、それ以外に、たしかに人を呪縛するような力を持っとる。あいつのその力に負けん力、少なくとも雪香さんをこっちに縛りつけておく力を持つことじゃ」
彼は空を見あげて、笑顔になった。
「津田。そのためにおれは雪香さんに惚れて見ようかと思う。あ、は、は、は」
そして、彼は、また一発大きな屁をした。
「それは中尉どの、やめて下さい!」
津田七蔵は前にまわってさけんだ。
明石元二郎は、めんくらった顔をした。
「どげんしたんじゃ?」
「お嬢さまを、方便のために誘惑することなど、絶対にやめて下さい!」
「ああ、そうか」
明石はうなずいた。
「それじゃ、本気で惚れてもいい」
「それもいけません。お嬢さまは結婚出来ない身体を持っていらっしゃるっちゅうことは、いまあなたもおっしゃったじゃありませんか。それを……」
あごがカタカタ鳴らんばかりの――ふつうの人間ならまともに見てはいられないような津田の形相を、明石はしげしげと見いって、
「津田、お前に女房があるのか」
と、尋ねた。
「ありません。持ったこともありません」
「どげんしてだ」
「ただ何となくです」
「欲しくなかったかな」
「いえ、私はただいま乃木閣下にお仕えしているだけで満足しております。しかし、中尉どのは、なぜそんなことをお訊きになるのでありますか」
「お前……雪香嬢に惚れとりゃせんか」
「ば、馬鹿なことをおっしゃるな!」
津田は躍りあがらんばかりになった。あまり大声なので、向うから来かかった二人の書生が足をとめて、口をあけてこちらを見まもったくらいであった。
「私は当年三十六であります。一従卒であります。しかも、かつて竜岡さまに大恩受けた男であります。だれが、そんな、身のほど知らず、恩知らずの、たわけた邪心などいだきますか。……明石中尉どのを見そこないました!」
さすがの明石が、相手のけんまくに怖れをなして、ふとい頸をちぢめた。
「いや、ごめんごめん」
「ごらんになってもわかるでしょうが。……あのお嬢さまは、伊勢の森と五十鈴《いすず》川の流れから誕生された……何といっていいか、おう、あの異人医者はうまいことをいった……永遠の処女、とか。まさにあの雪香さまは聖処女であります。結婚してはいけない、というお身体にしても、それはふしあわせではなく、神さまがあの方を聖処女に保つためにそうされたのではないか、と津田は考えたほどでございます。それを、何たる、下司な、けがらわしい……」
「参った、参った」
「中尉どの、このたびは竜岡家の件について、津田が御助力をお願いしましたが、もう結構であります。あの外道《げどう》占い師が何かいってくれば、津田が天誅を加えます」
と、腰の短いゴボー剣を握りしめた。
「中尉どのは手をひいて下さい!」
「それはそういかんたい」
と、明石はいった。
「この件は、おれ自身、気がはいっとるからのう」
「なにっ?」
と、津田がさらにただならぬ――正気を失ったとしか思えない表情になったとき、明石の眼がふと前方に動いて、
「おや」
と、いった。津田もふりむいた。
たったいま、そこに立ちどまっていた、小倉の袴をはいた二人の書生のうち、一人がふいに路傍にしゃがみこんで、はげしく咳《せ》きこみ、口をおさえたかと見るまに、たしかに赤いものを吐くのが見えたのだ。
「どうしたんだ、おい、どうしたんだ?」
と、もう一人の書生は狼狽して、のぞきこんだ。
明石と津田は近づいた。
「お前、ハンケチを持っとらんかな、もし」
しゃがみこんだ書生がいった。友人は袂をさぐったが、ないようであった。
「おい、これを使え」
と、明石はポケットから大きな一塊のハンケチをとり出して、渡した。
「ありがとう」
と、書生は受けとって、口をぬぐおうとしたが、ふと手にふれた異物に、
「こりゃなんですかな、もし」
「なに? ああ、そりゃおれの洟汁《はな》じゃないか」
明石元二郎は、一見彼らしくもなく、いつも大型のハンケチ五、六枚をポケットにねじこんでいた。それは彼が大変な汗っかきであるのみならず、よだれ、洟汁と、馬鹿に液体分の多い体質だからであった。
そいつを、一枚ずつではなく、いつもひとつかみにして使う。だから一塊のハンケチといったゆえんだが――そのどこかに、手にふれて異物と感じられるまでしたたかに、洟汁がくっついていたと見える。
「わっ」
書生はさけんで、そのハンケチのかたまりを放り出すとともに、またはげしく咳きこみ、そのとたん、こんどは地上に飛び散るほどに喀血し、四つン這いになってしまった。
「肺病か。君たち、学生か」
と、明石が訊いた。
「第一高等中学の生徒です。こりゃいかん、俥で運ばなきゃ」
と、友人の学生がウロウロと往来を見まわした。あいにく、通りかかる空俥はない。
「これじゃ帰ってもしかたなかろ。医者へ連れてったほうがいい」
と、明石はいい、ふりむいて、
「おい、津田。――まだベルツ先生は大学におられるだろう。いま、喀血した学生を連れてゆくから、至急お手当願うと頼みにいって来い!」
と、命令した。
津田は、最前までの雲ゆきを忘れて、赤門のほうへ走っていった。
友人の顔が土気《つちけ》色になっているのを見て、もう一人の学生は、「俥を探して来ます」と、これも駈け出そうとした。
「なに、ほんのそこまでじゃ。それに、こげに血を吐いた客を乗せてくれる俥はないよ」
と、明石はいい、喀血した学生の両腕をひっつかむと、ぐいと背に背負った。軍服の肩のあたり、血がくっつくのにも平気な顔をして、大股に歩き出した。
すると、しばらくして、背中の書生が礼をいったあとで、うしろに話しかけた。
「卯の花をめがけて来たか時鳥《ほととぎす》……という句が出来たが、どうだ、夏目?」
いま、血を吐いたことを句にしたものだろうが。――
「のんきなやつだなあ、正岡」
と、うしろに、心配そうについて来ていた書生が、呆れたような声を出した。明石中尉には、何のことだかわからない。
ただ、彼も向うにわからないことをつぶやいた。
「この男、血友病でなくてよかったばい」
明石中尉にとって、この二人の書生との接触はこれだけであり、彼はこんなことはすぐに忘れてしまったが、二人にとっては、この明治二十二年五月は、のちに深い意味を持つ月となった。正岡という学生がのちに子規と称すようになったゆえんの、彼の最初の喀血はこの月のことであり、夏目という学生がまた自分の漢詩にはじめて漱石の号を用いたのも、またこの月であったからである。
日は初夏から夏へ、夏から秋へ移っていった。
この間、明石は、竜岡家のその後をつまびらかにしなかった。当主の左京からはありがた迷惑、といわれ、最初の依頼者津田七蔵からは手をひいてくれ、といわれては、彼もどうするわけにもゆかない。
ということもあるが、彼自身、陸軍大学の卒業を十二月にひかえて、最後の「大試験」もあり、実は甚だ多忙だったのである。
明石が、幼年学校、士官学校、陸大から以後の軍人生活で、日常決して勉強家ではなく、授業中、会議中、よく居眠りをすることで有名であったし、ふだんでもポカンと口をあけて放心状態でいることが多かったのに、成績優秀、任務完璧であった秘密は、他面における彼の没入性にあったといわれる。自分にとって無用と思われる勉強や会議は居眠りで放棄し、自分にとって必要と思われることに対しては、一意専心、猛然として全力を注ぐ。――エネルギーの効率的計算というより、そういう先天的な能力が、明石を明石たらしめたのである。
いまや明石は、「大試験」に向ってその能力を発揮すべきときであり、彼もそのことはよく自覚していて、このときばかりは意識的に努力しようとした。
ところが、三日にいちどは、ふっと一つの顔が幻のように脳髄に浮かぶ。
雪香の顔だ。伊勢の森と五十鈴川の流れが生んだ聖処女、といった津田の、津田らしくもない文学的な言葉が、もっともらしく頭によみがえる。永遠の処女、という、ベルツ博士の声も、神秘のこだまを発して耳に鳴る。
あれから、どうなったろう?
あの稲城が、あれきりおとなしく黙っているとは思われないが。――
何かあったら、津田七蔵が駈けつけて来るだろう、と考えたあとで、いや、あいつはおれを拒否した。来るはずがない、と、首をふった。
それにしても、あの津田という男は妙なやつだ、と思う。
最初にあいつを見たのは、いつだったか知らん。そうだ、ニコライ聖堂の屋根の上で、乃木少将のうしろに影のように立っていただけであった。それが変なことで知り合うようになってみると、一見陰気だがまた大まじめな一馬丁と思われたのが、意外な手応《てごた》えを――事と次第ではとんだ爆発を起しかねない剣呑《けんのん》な性格を内包している男らしい。
いや、津田には限らない。兵営で蟻の大群みたいに行進している兵隊たちだって、あの一人一人を知ってみれば、それぞれ相当にうるさい性格と、彼を中心としたそれなりの人生|曼陀羅《まんだら》があるにちがいない。
芝居なら知らず、ほんとうの人間の世界には、脇役というものはないもんだな、と明石は改めて感心した。
しかし、津田はともあれ、何か事があれば雪香が連絡して来そうなものだ。おれの住所は津田に聞けばわかるだろうし、少なくとも陸大生だということは知っているはずだ。
彼は雪香に、また稲城から呼び出しが来たら、「自分には陸軍中尉明石元二郎という許婚者《いいなずけ》がある。その許しを得なければ応じられない」といえ、といい、それに対して雪香が「はい」と答えたことを思い出した。
むろん、方便としていったのだから、雪香もそのつもりで答えたのにちがいない。
おれがああいったのは、しかし、方便か?
方便だ。方便であるべきだ。彼女は結婚出来ない血を持っているではないか。自分もいつかは結婚することになるだろうが、軍人としては男の子が欲しい。が、血を出せばそれがとまらない男の子が出来るとあれば、普通人に倍してこれは絶体絶命の禁断の花だ。
にもかかわらず――三日にいちどは、「はい」と答えたときの雪香の顔が、あの涙にうるんだ眼が、幻のごとく浮かぶ。
彼女からは、何の連絡もない。連絡のないのが、かえっていぶかしいとさえ思う。彼は何度か、京橋の采女町へ足を向けたい衝動にかられた。
しかし、彼はそれをがまんした。明石は日常生活は甚だルーズなくせに、いまのところだれも信じないが、一面怖ろしい克己《こつき》力の持主でもあったのだ。
彼は毎日、以前と同じように陸軍大学にかよっていた。陸大はこのころ和田倉門内にあり、校長は児玉源太郎少将であった。こわい校長である。
十月十八日のことである。霞ヶ関の外務省に馬車ではいりかけた大隈重信外務大臣に爆弾をなげつけたものがあった。この二月に森文部大臣が暗殺されたのにつづく大臣の遭難である。
その翌日、ちょうど日曜で、昼近く明石元二郎は、赤坂の黒田屋敷の長屋で、寝っころがって新聞を読んでいた。
「大隈大臣爆弾を投ぜらる。
昨日閣議後、大隈外務大臣は午後四時過ぎ霞ヶ関の官邸へと帰られし折、馬車の砂煙をあげて外務省正門へと入らんとせしに、たちまち堂と響きて一発の爆裂弾飛び来る。爆裂弾は馬車の腰掛部の角に当ると見え、轟然天地も崩るるばかりの音を発して四辺は白煙|濛々《もうもう》として咫尺《しせき》も弁ぜずなりたり。
ただし爆裂弾は馬車のホロに当りて外れたるが、その破片の一は馬車の中腹をつらぬきたり。このとき伯は車中にて右足を左足の上にあげて曲げおり、その破片は伯の右膝口を痛く打ちたるが、それ以外には何らの怪我もなき由なりしはせめてもの幸なりというべきか。
その他破片は前輪の泥除《どろよけ》、前の洋燈、馭者《ぎよしや》台等を打ち砕き、さらにその破片は正門の石柱に当りなどして四方に飛び散り、たまたま通行中の者にて四、五人負傷せるものもありし由。
凶行者は来島恒喜《くるしまつねき》と称する久留米人にして、四方を覆いたる爆煙に事《こと》仕逐《しと》げたりやと思いけん、ただちにみずから短刀を以て気管をえぐり、煙のはれたる地上にその屍骸を残せしのみ」云々《うんぬん》。
長屋の戸口に人影が立った。
「中尉どの、お助け下さい!」
津田七蔵であった。
「竜岡さまの坊っちゃまが、爆裂弾でやられました!」
「なんじゃと?」
唖然とした。
「爆裂弾とは、大隈さんに投げたやつのことか?」
「左様であります」
「そんな……霞ヶ関の爆裂弾が、どげんして京橋采女町まで飛んでいったのじゃ?」
「きのう、坊っちゃまと雪香さまは、霞ヶ関の通りを歩いておられたのであります」
「おう!」
明石はムクリと身を起した。
「ちょうど日比谷ヶ原で菊花品評会がありましたので、それを午後から見物にいって帰られる途中、ちょうどあのあたりを歩いておられたとき、その爆裂弾事件が起って……」
「そ、それで?」
「いや、爆裂弾とは方角ちがいだったということでありますが、何か石のようなものが飛んで来て坊っちゃまの左のふとももにあたり、おうちへ俥で運んで手当したのですが、傷らしい傷もないのに血がジクジクと出てそれがとまらんそうであります。医者を呼んだがそれでもとまらず、だんだん元気がなくなり……たまりかねて竜岡さまが平河町の神道占に相談に駈けつけられたところ、稲城は坊っちゃまとお嬢さまだけ来るように、と申したそうで……そこへ、たまたま私がゆき合わせた次第であります」
津田は歯をカチカチ鳴らしていた。
「で、お嬢さまは坊っちゃまを連れてお出かけになりましたが、そのとき私に……明石さまにこのことをお知らせしておくれ、とおっしゃいましたので……中尉どの、どうか助けて下さい!」
右翼の玄洋社系の壮士来島恒喜が大隈外相に爆弾を投じたのは、大隈が進めている条約改正の方針に不満で――というより、欧米に条約改正を認めさせるための大隈案が売国的であると臆測しての行為であったことや、この事件によって大隈が隻脚となったことは、後に知られたことだ。
明石元二郎は、津田から雪香の急を聞くと、黒田屋敷に飼ってある馬車用の馬を借りて、それにまたがり、駈け出した。そばに津田が、いつも乃木少将にそうしているように――きょうは死物狂いの顔でくっついて、走っている。
秋晴れの空の下を、彼らは駈けていった。
明石元二郎がこんなに昂奮した表情と態度を見せるのは珍しい。彼は腰に拳銃のサックさえぶら下げていた。
平河町の「伊勢神道占」の門をはいると、果然、この前のように白衣《びやくえ》の若者たちが、七、八人も駈け出して来た。棒はおろか、仕込杖さえ持っている者がある。
明石は、ひらいた門の扉の閂《かんぬき》に馬をつなぎ、それらを無視して玄関のほうへ歩いていった。門人たちは口々にわめきたてたが、その若い将校の迫力に押されて、仕込杖を抜くことさえ出来なかった。特に、それにくっついている馬丁の顔の凄さといったらない。ねめまわす眼球と、むき出した歯が、それだけ顔面から飛び出して食いついて来そうなけんまくであった。
明石は、「勝手知ったる」通路を歩いて、例の杉戸をひらいた。
そして、あの赤い部屋の、大蝋燭と注連縄《しめなわ》と巫女にかこまれた白い祭壇の上に、稲城黄天と、雪香と綱彦が、奇怪な構図で坐っているのを見た。――ただし、いつか四人いた巫女は、三人になっている。
入口に立った明石を、黄天と雪香はふりむいた。
その刹那、雪香の顔はぱっと花のように紅潮し、黄天の顔はさっと暗色に彩られた。むろん前者は、「ああ、間に合った!」という歓喜の表情であり、後者は、「こいつ、また来おったか!」という不快の表情である。
台上の三人の構図を見て、怒りのために津田は|のど《ヽヽ》の奥で怪声を発した。
「あれはおれにまかせろ。お前は追っかけて来るやつをいれるな」
と、明石はささやいて、腰のピストルをはずして津田に渡した。
「ただし、撃っちゃいかんぞ」
津田はピストルをかまえて、廊下側にむいて仁王立ちになった。果せるかな、そこまで追って来た神道占の門弟たちはこれに金縛りになった。
明石は白い壇のほうへ歩いていった。きょうも天照皇大神の布が敷いてあったが、それを平気で踏んで歩く。
注連縄の外に立って尋ねた。
「雪香。――何しとるのか」
稲城黄天が重々しく答えた。
「御令息の血をとめようとしておるのじゃ」
「ふうん」
さっき津田が|のど《ヽヽ》の奥で怪声をもらし、いま明石が、決して馬鹿にしたのではない、名状しがたいうなりをあげたのも、台上の三人の構図を見ては無理もない。
前に述べたように、この赤い部屋のまんなかにある台は、真っ白な夜具と布につつまれているはずだが、その上部から半ばにかけて、真っ赤であった。血だ。血がにじみひろがっているのだ。
それは明らかに、台上の少年竜岡綱彦の、着物をまくりあげて、むき出しに投げ出された左のふとももから流れ出していた。その姿勢で、首を垂れて坐っている綱彦を、雪香がうしろから抱いている。そして、その雪香をあぐらの上にのせて、そのままうしろから抱いているのは、白衣総髪の稲城黄天であった。
――実は、こういう構図が組まれたのは、この十分ほど前からのことだ。
雪香と綱彦がここへ来てからかれこれ一時間ぐらいにもなるが、それまで黄天は、綱彦を抱いた雪香を自分が抱いて祈る、という途方もない祈祷のポーズを提案し、それにむろん雪香は抵抗したが――その間、依然滴々と血をながしてやまない弟に、ついに彼女が屈服して、この姿勢をとったのだ。
すでに昨日の午後四時過ぎ、たまたま通りかかった外務省前での奇禍以来、二十時間以上たつ。あのとき、そこをはいろうとしていた一台の馬車を、突如轟音と白煙がつつみ、そこから十メートル以上も離れたところを歩いていた雪香と綱彦は立ちすくみ、やがてそこに起った混乱から逃れようと、急いでひき返そうとした。――そのとき、綱彦がはたりと膝をついたのである。
左のふとももが痛いというので、その場で調べてみると、握りこぶし大の紫色の痣《あざ》が浮かびあがっていた。綱彦は、さっき何かが飛んで来て、そこにあたったようだ、という。雪香もあの一瞬、砂けぶりのようなものが満面を吹いたのを知っていたから、門の石柱のかけらでも飛んで来てあたったのだろう、と考えた。
そして、とりあえず空俥を見つけて乗せ、京橋采女町へ帰る途中から、綱彦は出血しはじめたのである。痣はついたが、別に傷はないようなのに、その個所から細かい血の滴《しずく》が赤い汗のようににじみ出しては、なれ落ちる。
ふつうなら出血しないような何でもないことで出血しやすく、出血したらそれがとまりにくい。――その竜岡家の悪夢となっている少年の妖病が、ふせぎ切れない原因で、最悪のかたちで発現したのである。
そして、いまや綱彦は蝋細工の人形のようになり、それを癒してやるという稲城黄天の言明の前に、その条件たる、ぶきみな構図をとることを余儀なくされて、綱彦を抱いた雪香は黄天に抱きかかえられたのであった。
「高天《たかま》の原に神鎮まります皇神《すめかみ》たちの前に申さく。……」
その姿勢で、稲城黄天は祈り出した。
「天《あま》つ罪は、串刺し、生け剥《は》ぎ、生膚《いきはだ》断ち、死膚《しにはだ》断ち……国つ罪は、おのが女犯せる罪、おのが子を犯せる罪、畜《けもの》犯せる罪。……」
なんのことだかわからないが、とにかくものものしく怖ろしい声だ。
「天の下|四方《よも》の国に、罪という罪はあらじと、科戸《しなと》の風の天の八重雲を吹きはなつがごとく、朝《あした》の御霧《みきり》夕べの御霧を、朝風夕風の吹きはらうごとく。……」
雪香のくびにうしろから吹きかけられる息は熱風のようだ。……そのうちに雪香は、自分の坐らせられている稲城黄天のあぐらに、異様な触覚を感じはじめた。
「遺《のこ》る罪はあらじと、祓《はら》いたまえ、浄《きよ》めたまえ。……」
反射的に逃れようとして、かすかに身をもがく雪香の胸は、黄天の腕で、粘っこく抱きしめられている。厚い掌が、乳房をワングリとおさえている。
「動いてはならん。心を鎮めて、ただ綱彦の血のとまることを祈れ。……」
その間にも、綱彦のふとももから、血の汗は湧き出して、台の白布にしたたり落ちる。布が白いだけに、血の真紅《しんく》はいよいよ夢魔的であった。綱彦はグッタリとして、身体も徐々に冷たくなってゆくようであった。
抱きしめた弟への不安と、抱きしめられた背後の男への恐怖と――雪香は吐気のようなものをおぼえ、そのうちに自分は喪神するのではないかと思った。
そういう状態が十分ほどつづいたところへ、明石元二郎が駈けつけて来たのである。
「……血はとまらんじゃないか」
と、明石はいう。
意外におだやかないいかたなので、稲城黄天ちらっと横目《よこめ》で見た。
明石元二郎は、怒りの表情というより、心配そうな顔つきをしていた。――むろん彼は、怒髪天をついて駈けつけて来たのだが、いま白い台の半ばを染める血友病の怖ろしさを現実に見て胆を奪われ、少年の生命への不安に魂をとらえられてしまったのである。
「つづけてくれ。そのまま、つづけてくれ」
と、彼はいった。そしてそこに佇立《ちよりつ》したままで待った。
また十分ばかり経過したのち、おそるおそる訊いた。
「稲城さん。……いったいどげな原理で血がとまるのじゃ」
「原理! ふ! それは、わしの念力じゃ」
「お嬢さん……いや、雪香を抱かねばいかんのか」
「直接わしが子供を抱けば、子供はおびえる。令嬢を通してわしの念力が子供に伝わる」
「しかし、血はとまらんようじゃないか」
相手が哀願的な調子であることを見ぬいて、突如|威丈高《いたけだか》になった。
「邪魔がはいったからじゃ! 血はとまりかけておった。ところがそこへ、貴公が闖入《ちんにゆう》して来たので、わが念力に乱れが生じたのだ。外道《げどう》、しりぞけ!」
「どっちが外道だっ」
赤い部屋の天井が、わわんと鳴ったほどの明石の声であった。
彼はまた軍刀をひっこぬいて注連縄を切りはらい、ズカズカと台上に上って来て、
「このいかさま師、どけ!」
と怒鳴ると、黄天のえりがみひっつかんで、うしろへひきずった。
ひき離されて、雪香は綱彦を抱いたまま前へ片手をつき、稲城はうしろに両手をついて、ぶざまに白足袋の足をはねあげる。
一目《ひとめ》見て、明石の顔は凄じい形相になった。なんと黄天は、袴を下ろし、男根をむき出しにしていたのである。
明石の軍刀があがった。錆びているのが、いっそう物凄い。
「わっ」
危険を感じて、黄天は股間に屹立していたものをかばおうとする。
が、明石はその軍刀をグサリとそばに突き立て、
「こら、じっとしとれよ。逃げると、ぶッた斬るぞ!」
と、大喝しておいて、大あぐらをかいて坐り、その膝の上にぐいとまた雪香を抱きあげた。
「綱彦君を離しなさるな。おれが念力を伝える。必ず、血をとめちゃるけん」
と、いった。
彼はそのままムンズと雪香を抱き、あぐらを船のようにゆさぶりながら、
「あんたは天照大神じゃ。天壌無窮《てんじようむきゆう》の女神じゃ。おれは……天照大神の旦那さんじゃ。名は知らん。うんにゃ、アカシモトジロノミコトという。二人が念力こめれば、子供の血くらいとまらんはずがない」
そして、うなり出した。
「祓《はら》いたまえ、浄《きよ》めたまえ。……血をとめたまえ、アーメン! アッラー! 南無妙法蓮華経!」
十分ばかりの間に、彼の満面は汗にひかって来た。憑《つ》きものがしたように、彼は唱えつづける。
「祓いたまえ、浄めたまえ、血をとめたまえ!」
「……とまりました」
遠いところから、声が聞えた。
「血が、とまったようです。……」
雪香であった。
「明石さん、血がとまりましたわ!」
「なんですと?」
明石は、雪香の肩越しにのぞきこんだ。少年綱彦の投げ出したふとももに、汗みたいに噴《ふ》き出していた血は、あきらかに粘っこく凝固していた。
「とまったなあ!」
明石は自分で感嘆の声をもらした。
雪香がはじめて身をずらし、赤い顔をした。
なお数分、少年のふとももを眺めていた明石は、稲城黄天もノコノコ這い出して来て、首をつき出しているのを見た。
厚かましいことも厚かましいが、ユーモラスといえばユーモラスな姿だ。
つき出したその首に、明石は一発放屁した。黄天はのけぞり返った。
「津田!」
と、明石は叫んだ。
「この二人を連れて、俥に乗せて家に帰してあげろ、出来たら、二人乗りがいいな」
津田がはいって来て、雪香と綱彦を台から助け下ろし、綱彦を両腕で抱いて歩き出した。しかも右手になおピストルを握ったままだ。
部屋を出るとき、雪香がわれに返ったようにふりむいて、
「明石さん、ありがとう。……雪香は、あなたを信じていましたわ!」
と、さけんだ。
明石は台の上に銅像みたいにつっ立っていたが、大感動の顔であった。が、彼はこのとき、いっしょにふりむいた津田従卒が、何とも異様な表情をしたのを眼のはしにいれている。
三人の姿が消えたとき、稲城黄天がうす笑いしてつぶやいた。
「しかし、あの娘はまた帰って来るぞ。……」
「なにっ」
明石は吼えて、台に突きたてていた軍刀をひきぬいた。
黄天はまた尻餅をついて、両手をつき出し、
「こっちのことだ。……どうも貴公は殺伐でいかん」
と、いった。
「そっちのことじゃない。雪香がまた帰って来るとは、お前さんの例の森大臣不敬事件についての脅迫のことか? あげなタチの悪か虚偽をもって脅迫の道具とするとは……今後またやって見ろ、おれが承知せんぞ」
「ほ? 聞いたか? しかしあの事件は、わしが口外せんでも、天知る、地知る。――」
「奸物のいいのがれは許さん。噂がひろがったら、その根源はお前だと認める」
「そんな、乱暴な。――」
黄天は困惑した表情になり、また上眼づかいで明石を見あげて、
「それじゃ、いっておこう。あの娘が必ずまたわしのところへ帰って来るというのは……あれに淫蕩《いんとう》の血が流れているからじゃ」
と、いった。
「なに? 神道《しんとう》の血?」
「いや、淫蕩、淫らな血」
明石元二郎は、しばしあっけにとられていたが、ふいにまた、
「ば、馬鹿っ」
と、高い天窓のガラスが砕け落ちそうな大音声をあげた。
「相手にことかいて、あの雪香嬢に淫らな血が流れとるなどとは――」
「いや、雪香嬢がまたわしのところへ戻って来たとき、あんたが妙な邪推をしてあばれこんで来ちゃ困るから、それは雪香嬢のみずから望んだことだと、いまのうちにことわっておくんじゃ」
と、ふてぶてしく稲城黄天はいった。
明石は、急に不安そうな顔になっていた。
――彼は、ドクトル・ベルツがいった血友病の奇怪な遺伝を思い出したのだ。あのことを黄天はいっているのか? しかし、ベルツ博士しか知らない――少なくとも、あの博学な森林太郎大尉さえよく知らなかった妖病の秘密を、こんなやつが知っているはずはないが。――
「血のとまらん病気に関係があることか」
と、探りをいれて見た。
「いや、そりゃあの弟の病気で、雪香嬢とは関係ない」
果せるかな、稲城黄天はこう答えた。が、何ともいえない気味の悪い笑顔で、
「とにかく、あの娘はああ見えて、本人もどうしようもない宿命的な淫蕩の血を持っておる。それが、わしにはわかる」
と、くり返した。
明石は黙って見つめている。実は相手のいうことがあまり思いがけないので二の句がつげなかったのだが、黄天はそれを、自分の自信にみちた予言に毒気をぬかれたものと思い、
「では」
と、立ちあがって、白い袴の帯をしめ直すのにかかった。
「どこへゆく」
「はばかりじゃ」
「待て、もう少し訊きたいことがある。……どげんしてそげなことがわかるか、教えてくれ」
「理屈はいえん、神道占の稲城黄天にしてはじめてわかるのじゃ。かつ、その占いに、雪香は必ず戻って来ると出ておる。……そのときになって悪く思うなよ。……」
「貴公、いま摩羅を出しておったな」
「あ、これか。――」
黄天は袴の帯に眼を落し、
「心配するな。雪香の着物をへだてておる。あれは、気がつかなんだろう。……が、これをもって念力の脈搏を伝えておったのじゃ」
きゅっと、口をまげて笑った。
明石はいった。
「ばってん、おれの念力のほうが勝ったじゃないか」
「なに、九分九厘、わしの念力が効をあらわしていたんじゃ、そこへ、たまたまお前さんが来たに過ぎん。しかし、あれはあれで、とにかく血がとまって結構だった。……こんどは、本来の役目に戻って、小便させてもらう。失礼」
「待て、小便するなら、ここでやれ」
「なんじゃと? 馬鹿なことを!」
「さっき、ちらっと見たが、何やら気になる。ここで小便してくれ。――やらんか!」
いっとき、雑談的な調子にもどって、このまま煙にまかれて退散してくれるかと思われたこの中尉は、またただならぬ形相になっていた。むろん、彼の憤怒は最初からつづいていたのだが、怒ると、かえって妙に物静かな声を出すくせが明石元二郎にあった。
さっき、黄天が、貴公は殺伐でいかん、といったが、いまは殺伐どころか、凶悪と形容して然るべき炎が、全身から立ちのぼっている。――
黄天はうろたえて、もういちど袴の紐をといた。――袴はずり落ち、さっき出していたものがまた現われた。
「ふふん」
と、明石はまた変な嘆声をもらした。変な、というのは、感心したようでもあり、失望したようでもある、としかいいようのない声であったからだ。
「さっきは、もちっと大きく見えたがなあ」
黄天は口をとがらせていった。
「わしは小便したいのじゃ。勃起して小便するやつがあるか」
「なるほど。……そげなわけか」
さっき、ちらっと見たとき、それはラムネ瓶大に見えたが、いまはそれほどでない。――とはいうものの、常人の二倍はたしかにある。
「では、小便をせい!」
「ここでか。馬鹿をいえ、ここは神聖なるわが占座《せんざ》、森厳なるわが祭壇で。――」
「やらんか!」
軍刀がうなりをたてて、黄天の尻にふり下ろされた。ただしそれは赤錆びた刀面部をもってで、ぴちゃっというような音であったが、それだけに大きな音であった。
「ひゃっ」
黄天は悲鳴をあげた。
「やる、やるわい」
と、横のほうに筒先をむけ、
「これ、そこをどけ、かかると悪い」
と、巫女の一人に声をかけた。一メートルばかり離れた注連縄の外に坐っている巫女に対してである。
それまで、あっけにとられていたのか、あるいはいかなる異常事が起っても無反応であるようにしつけられていたのか、身動きもせずに坐っていたその巫女が、はじめてあわてて立ちあがると、あとの二人も誘われて、いっせいに部屋の端に逃げていった。
「見ろ!」
と、稲城黄天はいうと、尿《いばり》の白い虹をえがきはじめた。驚くべき太さであったが、その上、さっき巫女がいたところより、もっと遠い――一メートル半はたしかにある距離で、それは盛大なしぶきをあげた。
――見ろ、といったのは、あらかじめそれを誇ったのに相違ない。
考えて見ると、大人にしては相当に可笑しい心理であり、せりふだが、明石元二郎は笑わない。厳然たる顔で、また軍刀の抜身でピタピタと黄天の尻をたたいて、
「あっちへやれ」
と、いった。
やむなく黄天は尻をまわす――その方向へ、床に敷いた「天照皇大神」の布があった。それにあやうくかかりかけて――小便はとまった。
「もっとやれ」
「もう出ん」
明石は首をつき出して、
「ばってん、|はね《ヽヽ》が少しかかったな。大不敬だぞ」
と、いった。
黄天が何かいおうとすると、
「こんどはおれがやる」
と、明石はまた刀を台に突き立て、股ボタンをはずし出した。
のぞいて、
「ふふん」
と、こんどは黄天が大軽蔑の鼻息をもらした。彼のものは常人の二倍はあったのに、それはせいぜい一倍半大であったからだ。が。――
「見ろ!」
と、明石は怒鳴《どな》ってやり出したが、その白い虹はなんと二メートル以上の弧をえがいて颯然たるしぶきをあげた。
「どうだ! おれの念力のほうが勝ったわけがわかるじゃろ?」
と、明石は威張って、そっくり返った。
そのとき部屋の入口に津田従卒が帰って来て、この光景にめんくらって立ちすくむのを見ると、明石は股ボタンをかけて、
「こら、いかさま師、もちっとこらしめるつもりじゃったが、きょうはこれくらいでかんべんして、おれは帰る。竜岡雪香の婿になる明石元二郎はこげな男じゃとわかったか。わかったら、これからはそのつもりでやれ」
と、いい、軍刀を鞘におさめて台から下りかけ、ふり返って、
「しかし、きさま、悪いやつにきまっとるが、ばってん、案外面白いところがある男だな。ワハハ」
と、哄笑して、大股に入口のほうへ歩いていった。
あとに、稲城黄天は、袴をずり落したまま、ものものしい髯の中から、口をポカンとあけて見送っている。――
「二人は無事帰ったか」
「はあ、ちょうど具合よく二人乗りの俥が通りまして」
津田は答えて、もういちど部屋をふりかえった。
「何をやっておられたのでありますか」
「小便くらべをしちょった」
津田は眼をパチクリさせたが、
「で、あの占い師は、これで放免してやるのでござりますか」
「うん、相当に威圧しておいたから、当分は大丈夫じゃろ。おれの判断では少なくともきゃつのほうから、もう手を出すことはないと思う」
明石は笑いながら廊下を歩き、玄関へ出てゆく。まわりに門弟たちが群れているが、ただウロウロしているばかりだ。
明石は門から馬を離したが、乗らずに歩く。あとを追って来る者もない。
津田は話しかけた。
「しかし……中尉どの、中尉どのは大変な方でござりますな」
「何が」
「坊っちゃんの血がとまったじゃありませんか」
「うん、ふしぎだな」
「中尉どのは、たしかに大した念力をお持ちなんじゃありませんか」
「そう思いたいが。――」
明石は苦笑した。
「おれは元来念力なんてものを信じんのが主義でね」
「しかし、実際――」
「おれもうっかりおれの念力のせいじゃないか、と思いかけたが、ほんとうのところは、稲城もいったが、九分九厘まで天然自然にとまりかけていたのじゃなかろうか。……これまでだってあの子供は何度か出血した。ばってんとにかくとまったから、いま生きているんじゃろ? こんどは少し大事《おおごと》だっただけで、やはりとまるべきときが来たに過ぎんとおれは思う。……いま稲城と念力合戦みたいなことをやったが、本気になると、あいつの世界に乗せられるわい」
馬をひいて歩きながら明石は話した。
二人は、向うの角に華族女学校のある永田町の辻まで来た。明石は立ちどまり、そこで何やら迷っている風であった。
日曜なので、いつもこのあたりを群れて歩いている、袴に靴という女学生たちの姿はないが――秋の日ざしの中を、いましも、その門から一台の馬車が出て来て、いま明石らがやって来た平河町の方角へ駈けていった。
「ほう、きょうは日本髪か」
と、明石がつぶやいて、見送った。
「何のことでござりますか」
「いまの馬車に乗ってた婦人じゃ。あれはたしかに下山宇多子女史だった」
「御存知でありますか」
「なに、この春、銀座で見かけただけだが――お前も知っとるはずだ。森軍医正どのを乗せて来たじゃないか」
「あ。――しかし、私はお顔まではどうも。大変な記憶力でありますな」
「うふ、美人は、すぐに憶《おぼ》える」
明石はふいに何かを思い出したように、
「はてな、もひとつ妙なことを思い出した。同じあの日、竜岡さんから聞いたことじゃが、雪香さんはあの下山宇多子女史の塾へかよっとるとか。――」
「はあ、下山先生はいま華族女学校の教授をしておられますが、以前から私塾もやっておられて、お嬢さまはそっちのほうへ」
「そうか。――あのとき、竜岡さんはいった。その下山先生と稲城黄天がたしか同郷で、親密で、その縁でこっちも稲城っちゅう男を知ったと」
彼は首をひねった。
「いくら同郷でも、才色双絶の評判はおれも聞いとる下山宇多子女史と、あのいかさま野郎の稲城が親密とは解《げ》せんのう」
それから、馬の顔を見た。
「さて、西へゆこうか、南へゆこうか、実はおれは迷っとるばい」
「へ?」
「赤坂へ帰ろうか、京橋へゆこうかとな。あの綱彦君がその後どげんしたか、心配でな」
「中尉どの、竜岡さまのところへゆくのはやめて下さい」
明石はふりむいた。軍帽の下の狭い額、そしてやや吊り上がった一重瞼の頑固な顔はもちまえだが、何やら思いつめ、思い決した表情がそこにあった。
「どげんしてか」
「あなたはやはり、ある力を持っておられます」
「……じゃったら、なぜ竜岡家へいって悪いか」
「中尉どのは、何度も、雪香の婿はおれだとおっしゃる」
「またその話か。ありゃ、口から出まかせといったじゃないか」
「しかし、お嬢さまもさきほど、雪香はあなたを信じていたとおっしゃった。……」
「ああ、そういったな。おれは感謝したぞ」
「それは甚だ危険だ、見方によってはあの占い師より危険だ、と津田は考えるのであります。これ以上、竜岡家に近づいて、どうなさるおつもりでありますか」
「こら、おれを呼びに来たのはお前じゃないか」
津田の顔がのびちぢみした。明らかに理性を失った表情であった。
「はっ……そこで私は苦しいのであります。私は頭が混乱して……さっき、俥に乗せる前、お嬢さまに申しあげました」
「な、何を?」
「お嬢さまは結婚出来ないお身体であると」
明石は雷に打たれたようになった。
「男のお子が出来れば、それは血がとまらない――そんな素質を伝えるのは女だと、帝国大学のベルツ博士がおっしゃった。お気の毒ですが、お嬢さまはそんなお身体の持主でいらっしゃる、と――綱彦さまには聞こえないように申し上げました。これはあくまで、お嬢さまの御保護のためであります」
「馬鹿っ」
近くを歩いていた、二、三人の通行人が、びっくりして立ちどまったような声であった。
津田は、殴られることを覚悟したように直立不動の姿勢になり、眼をつむったが、明石がそれっきり硬直しているので、眼をあけていった。
「ああ、それから思い出しました。いつか滋賀県で巡査をやっとる兄貴に照会した、竜岡さまの奥さまの家出の原因ですが、その返事がこの夏やっとありました。どうやら奥さまはお身持が悪くて離縁になられたらしい、というのであります」
「お身持?」
この場合に、明石はけげんな顔をした。
「身持ちが悪いとは……不貞でもしたというのか」
「そういうことになりますか。……」
「しかし、雪香嬢も綱彦君もお父さまによく似とるじゃないか。ああそうか、子は実子でも、不貞ということはあり得るか」
「とにかくそういう噂がある。しかし、十年以上も前のことで、詳しいことは今となってはよくわからない、ということであります」
明石は、かすれた声で訊いた。
「お前、そのことも雪香嬢にいったのか」
「いえ、いえ、滅相な。そんなことは、口が裂けても申しません!」
意外に明石は、それっきり数分黙って空を仰いでいたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「津田。……せっかくだが、おれは本気であの人に惚れたばい。おれはあの人が、可哀そうで可哀そうでならんのじゃ」
貴婦人
……しかし明石元二郎は、それからしばらく竜岡雪香に逢うことがなかった。
逢いにいって、どういう挨拶をしていいかわからなかったからである。それに一方では、いよいよ陸大の最後の「大試験」が迫って来たからだ。
それでも、三度ばかり、采女町をのぞきにいった。いずれも日曜のせいもあって、偶然三度とも、外で弟の綱彦に逢った。
一度目は、あの事件から半月ばかりたった晩秋の午後で、綱彦はいつかのように、戸口にもたれてボンヤリしていた。
少し離れたところに立ちどまり、手招きしたら近づいて来た。はじめけげんな顔をしていたので、彼がさきごろ自分に救われたことに記憶がないらしい、と明石は判断した。しかし、この春、竜岡家を訪問したときの記憶があったらしく、かつ、それがある事実と結びついたようで、
「あっ……このまえ、僕を助けてくれた軍人さんは、おじさんですね?」
と、さけんで、可愛い顔をかがやかせた。あのあとで、雪香から聞いたと見える。
「お姉さんはいるか」
声をひそめて訊くと、少年は答えた。
「はい、病気で寝ています。ずーっと」
「えっ、病気? なんの病気?」
「わかんない。でも、もうそろそろいいんです。お姉さんにいってこようか?」
「いや、いいんだ。それどころか、おじさんが来たこともいわないほうがいい」
明石は珍しく気をつかい、しばらく考えたあとでまた尋ねた。
「稲城黄天って人は、あれから来るかね?」
「いいえ」
名を聞いただけで、怖ろしそうに、しかし、綱彦は首を横にふった。
それだけで明石は、采女町を立ち去った。
雪香が病気だというのは、あの事件のショックのせいにちがいない。しかも、あの事件というより、そのあとの津田七蔵の怖ろしい告知のせいにちがいない、と明石は考えた。そして、彼らしくもなく暗澹とした気持になった。
それにしても、あのとき息たえだえだった綱彦が元気になったらしいのはよろこばしい。稲城があれ以来近づいて来ないというのも結構なことだ。
十二月九日に、彼は陸軍大学を卒業した。
卒業成績は三番である。ただし、この明治二十二年、同期生は十人しかいない。
この成績を知ったとき、彼は、「ふふん」といっただけであったが、明石がクラス中一番勉強家でないことを知っている――しかも、「大試験」にかかっても何か放心状態にあったのを見ていた仲間は、はじめ「さすがは明石だ」と舌をまいたが、あとで、「どうやら明石はあれで不満だったらしい」と気がついて、顔見合わせた。
ついで彼は、歩兵第四連隊付となる。
完全な将校となったわけだが、第四連隊の所在地は麻布だから、赤坂からそこへ往復する点は、それまでの生活と変らない。
二度目に采女町を訪れたのは、暮近い一日であった。
この日は、綱彦は、同じ年ごろの少年三人ばかりと、風花の舞う往来で石けりをして遊んでいたが、明石の姿を見ると駈けて来た。
「お姉さまは起きて働いてます――あいますか?」
明石はあわて、赤銅色の顔になって訊いた。
「お父さまは?」
「お父さまは御用でお留守」
明石はほっとして、うなずいた。
「それじゃ、明石中尉が来たといってくれ」
綱彦は家へ駈けこんでいった。そしてなかなか帰って来なかった。明石は、陸大の「大試験」よりも胸がドキドキするのを感じた。やっと綱彦が現われた。
「あのね、すみませんけれどね」
と、少年は間《ま》がわるそうにいった。
「きょうはお逢いしたくありませんって。……お姉さまは、あおい顔していいました」
「そうか。いや、わかった」
明石は、うなだれて去った。
なぜ雪香がそんなことをいったのか?
常識なら、自分でいうのも可笑しいが、この前弟を救ってもらったのだから、ひとことくらい礼をいいに出て来てもおかしくないし、げんに彼女は、あの日、この明石を信じているといった。――
それなのにいまそんな挨拶を弟にさせるとは、あのあと津田が告げた事実が彼女の拒否反応となって現われたにちがいない。ベルツ博士の言葉だといった以上、その事実を聞き出して来たのはこの自分だということも彼女は知ったにちがいない。
そのことを雪香は怒っているのか。恥じているのか。――
明石はクヨクヨと考えて、すぐに、こりゃどうもおれらしくない、と苦笑し、
「何にしても、こりゃ不毛の訪問じゃて」
と、ひとりごとをいった。
逢えない、という事実以前に、逢ったところで何にもならない――たとえあっちに気があっても、どうすることも出来ない「禁断の花」であることは冷厳な事実であった。
それに、津田のいった、雪香の母は身持が悪くて離縁になったそうだ、という言葉が浮かんだ。稲城黄天がいった、あの娘には淫蕩の血がながれている、という声が耳に鳴った。それをどこまで信じていいかわからないが、とにかく魔性《ましよう》の匂いのする花に相違ない。――
それなのに明石は、もう一度、早春になってからいった。しかも、鳩が一羽はいった大きな竹の鳥籠をぶら下げていった。
おりよく、外でまた友だちと独楽《こま》をまわして遊んでいる綱彦を呼ぶと、
「綱彦君、君は鳩を飼う気はないかね」
と、尋ね、少年が歓喜の表情でうなずくと、
「じゃ、これを飼ってくれ」
と、籠をつき出した。
その鳩は、頸に筆の鞘《さや》のような細い竹の管《くだ》をぶら下げていた。
「これを、ここから空に放すと、きっとおれの家まで飛んで来るんじゃ。もしおれに何か大急ぎの用があったらこれを飛ばしてくれ。用件を紙に書いてこの竹筒にいれてもいいが、鳩が飛んで来ただけでおれはやって来る」
それは三年ほど前から陸軍で使いはじめた伝書鳩であった。
明石は甚だ興味を持って、不精《ぶしよう》な彼が、赤坂の黒田屋敷の長屋で、門番の子供と二人で何羽か飼っていた。ふだん日中彼はいないけど、これが飛んで来たら麻布の連隊に連絡してくれるように、その子に頼んでおくつもりであった。
「そうでないときは、おれはもう来んから」
と、明石は笑いながらいって、鳩の籠を綱彦に渡し、数歩いってからまたひき返した。腰の豆袋をはずして、
「忘れちょった。餌《えさ》はこれだ。なくなったら、同じものを買ってやっちょくれ」
と、いって手渡した。
ふつうの土鳩とはちがう、うす青い頭に赤い眼、くちばしの上に白い瘤《こぶ》がくっついた鳩だが、綱彦は別に気がつかない。
ボンヤリ見送った少年は、去ってゆく明石中尉がつぶやくのを聞いた。
「そういや、同じものを食って、鳩が屁をするのを聞いたことがないが、ふしぎじゃのう……」
綱彦から鳩の籠を見せられ、それが明石中尉からもらったもので、明石がそんなことをいったという弟の報告を聞いて、雪香は立ちすくみ、五分間ばかり身動きもせず佇《たたず》んでいた。
それから、突然、外へ駈け出した。路地を走り、大通りの出口まで出て、
「明石さん!」
と、雪香は呼んだ。
しかし、大股で歩く明石は、もう遠くへいってしまったのか、あるいは路地を曲ったか、あの軍刀を地面にひきずるような姿はどこにも見当たらなかった。
雪香がしばらく病んだのは、まさしく津田七蔵の教えたベルツ博士の宣告のゆえであった。
あれ以後、再度詳しく七蔵に問いただしたのだが、綱彦の妖病は、母から伝えられたものだという。男の子の血がとまらない病気は母が伝えたものであり、そしてまた、自分は何でもないのに、娘だけがまたその子に伝えてゆくという。そして、いまのところ、有効な治療法も、その遺伝のふせぎようもないという。
聞いても信じられないほどの妖病のからくりであったが、津田がそんな大それたでたらめをいうわけもなく、げんにそれは明石元二郎がベルツ博士のところへいって教えられたものだといった。
では、自分のこの身体に、そんなうす気味の悪い血が流れているのか。――そのまがまがしさ、いまわしさに雪香は打ちのめされ、悶え、そして病んだのである。
どうしよう? 私はどうしよう?
雪香は、父に相談することも出来なかった。綱彦の病気をなおすために上京したほどの父に、この絶望的な――弟の運命のみか、自分までそれに加えた怖ろしい事実を、どうして話せよう?
津田七蔵は忠実な男だ。しかし彼もまた「お嬢さま、あなたは一生お嫁にゆけないお身体なのです。お嘆きなさるな、それどころか、それほど清いお身体だとお考え下さりませ」といった。なぐさめてくれたにはちがいないが――そして、そんなことをいう七蔵の誠実性を疑わないが――どこか、なぜか、うす気味悪いところがある。
そしてまた明石中尉は?
明石中尉がベルツ博士のところへ訊きにいってくれたのは、自分が最初に救われたあの春の事件のすぐあとだったという。それっきり、秋、二度目に救われたとき、津田が打ち明けるまで、あのひとは自分に何もいわなかったのだ。いや、いまに至るまで明石は黙っているのだ。
その沈黙に、事柄の重大性と、顔に似合わぬ彼のいたわりの心を感じる。
それだけに、自分のほうからこの話を明石に持ち出す勇気はなかった。
何よりも、自分がそんな身体の持主であることが、明石中尉に恥ずかしかった。
明石中尉を想うと、雪香の血がざわめいた。――二度救われて、彼女は明石というムサくるしい将校に、ただならぬ力をおぼえるようになっている。しかし、そういうことがあったから、明石に一種の感情をいだくようになったのではない。
実は、何も知らない最初から――明石元二郎が、磊落《らいらく》を超えて天衣無縫な人間であることなど知らない最初の日から、雪香は漠然と運命の出逢いを感じていたのであった。
そして、自分が恋する資格のない女だ、ということを自覚した刹那から、彼女は自分が明石元二郎を恋していることをはっきり自覚した。
しかし、だめだ。自分は文字通り、血のけがれた女だ。
自分は、明石さんに、二度と逢ってはいけない。――
雪香が、明石のせっかくの訪れを、一度は拒絶し、二度目もためらったのは、この悲しい決心からであった。
――お母さま!
世界が薄暗い霧につつまれたようで、その霧の底から、雪香は呼んだ。
――雪香はこれからどうして生きてゆけばいいのです?
母のいない少女時代を過した雪香は、ひどく困ったとき、何度かこれに似た声を虚空に投げたことがあったが、こんどはそれと比を絶する――苦悩の極致ともいうべき地獄的事態からのさけびであった。
母に対して雪香は、自分でも不可解ないくつかの思念をいだいている。
第一は、自分が九つの年に、自分たちを捨てて家を出ていったという母にまったく恨みを持っていないことだ。九つまでの記憶でも、母は美しかった。父母の仲は春のようだった、そして母は自分を愛してくれたという印象が、そのころも太陽が存在していたということと同様に疑いないものとなって心の中にあった。
第二は、そのくせなぜ母が家を出ていったか、ということを、父や親戚の人にいまだかつて尋ねようと思わなかったことだ。どういうわけか、それを訊くことが彼女はこわかった。少なくとも父をひどく苦しめることになると感じていた。だから雪香は、いまだにそのわけを知らない。……
第三は、それから母はどこへいったのか、彼女はそれも知らない。生死のほどもさだかではない。これは父もだれも、ほんとうに知らないらしかった。尋ねたこともないけれど、何となくそれはわかったのだ。――にもかかわらず、彼女は漠然と、どこかこの地上に母が生きているような気がしてならなかった。
――いま、その第二の不可解は解けた、と雪香は思った。
母の家出は、怖ろしい血のせいだったのだ。自分のあとで生まれた男の子が、血のとまらない病気で死に、そして次の綱彦にも同じ病気が現われた。母は驚き、怖れ、悲しんで、父のもとから去って、どこかへ姿を消したにちがいない。……
雪香は自分もどこかへ逃げてゆきたい、と考えた。どこへ? 逃げるとすれば、この地上以外のところしかなかった。――
しかし彼女は、死ぬことさえ出来なかった。あととり残される父と弟を思うと、そして、自分が死ぬことが何の解決にもならないことを思うと、死ぬことも出来なかった。
秋から冬へ、冬から春へかけて、雪香は苦しんだ。父の左京は、それは稲城の家での事件から受けたショックのせいだろうと考えているらしかった。
彼女は、その苦しみを訴えるべき人が一人もいないことを知った。また、だれに訴えても、だれもどうすることも出来ない、と思った。
雪香の心に、一点の灯のように、ある人の姿が浮かんで来たのは早春のころになってからであった。
なんと、それはすぐ手近かにいたのである。
桃夭《とうよう》女塾の師、下山宇多子女史。――
下山宇多子女史はげんに華族女学校の学監兼教授だが、一方、水曜日と土曜日の午後だけ、そういう名の私塾をひらいていた。――そこへ、上京以来、雪香はかよっていたのである。
そうだ、私はどう生きていったらいいのか、下山先生におうかがいしよう。
雪香は、次の水曜日、久しぶりに麹町一番町にある桃夭女塾へ出かけていった。塾は午後一時からはじまるのだが、去年の秋から休んでいたことについてのおわびをいうためとその個人相談のため、その日早目に桃夭女塾についた。
女書生が出迎えて、
「あら、竜岡さん、お病気がよくなりまして?」
と、眼をまろくした。女塾には病気届けを出してあったのだ。
雪香は、おかげさまでといい、きょうは授業の前にちょっと先生に御相談申しあげたいことがありますので、私だけ早目にうかがいました、といった。すると女書生は、気の毒そうに、いま先生はお客さまとお食事中なのです、といい、でも、そう先生に申しあげましょう、といって、奥へはいっていった。
そういえば表に俥が一台とまっていたが、あれは客のものだったにちがいない。
やがて雪香は、玄関にちかい控えの間で、ひとり坐って待っていた。
ここは昔旗本の屋敷だったという。奥庭に築山などがあるから、相当大身の旗本であったろう。――丸窓の障子をとおして、梅の香がただよって来るような気がした。
この宏大なお屋敷にお住まいなのも、ただ先生おひとりの力によってのことだったのだ、と改めて雪香は、師の下山宇多子の偉さを想い、その履歴を考えた。
下山宇多子。――もとの名は平尾|鉐《せき》。岐阜県恵那郡岩井の生まれと聞く。
代々岩井藩では、禄こそ低いが国学漢学をもって知られた家柄で、お鉐は幼いころから神童の噂が高く、五歳のときに、
「元旦はどちらむいてもおめでたい 赤いべべ着てひるも酒のむ」
という歌を作ったという。
六歳で、「夕立のはれてうすぎりたちこめてくもゐにみゆる山のみねかな」七歳で、「白雪のふりつもりたる深山路《みやまじ》をふみわけてゆくけさの旅びと」と詠《よ》んだという。
さて、御一新となって、禄を失った父は上京し、ようやく神祇官《じんぎかん》布教師の職を得、一家を呼びよせた。明治四年、お鉐は十七歳であった。が、なお家貧しくして、お鉐は提灯《ちようちん》や凧《たこ》の絵をかいて家計を助けたという。
たまたまそのころ、新しい宮廷の御歌所などには国学者で奉仕する人が多く、その中に、特にお鉐の祖父をよく知っている人があって、その縁で彼女が宮内省十五等出仕という身分で召出されることになったのが翌年のことである。
それは婢《はしため》にちかい地位であったろうが、彼女のたぐいまれな美貌と才気はたちまち宮廷の注目するところとなった。
その翌年、皇后から与えられた「春月」という御題の詠進歌に、彼女の、
大宮の玉のうてなにのぼりても
なほおぼろなる春の夜の月
手枕は花のふぶきにうづもれて
うたたねさむし春の夜の月
という歌を見て感嘆された皇后は、特に彼女に宇多子という名を授けられた。ただ歌のみならず、その美しさと聡明さは、やがて皇后の寵愛のまととなった。明治の清少納言、東京《とうけい》の紫式部と呼ぶ者さえあった。
宮廷での出世は期して待つべきものがあったのに、明治十二年、二十五歳のとき、平尾宇多子は謎のような結婚をして宮中を退《しりぞ》いた。
なんと、下谷警察署で剣術を教えていた下山|猛雄《たけお》という市井の一剣客の妻となったのである。爾来彼女の名は下山宇多子となる。
これはその名のごとく当時勇猛をもって聞えた剣客であったが、大酒飲みで、酒乱で、結婚していくばくもなく胃病で病床についてしまった。
夫のみならず、老いた父母や弟を養う生活はすべて宇多子にかかることになった。そこで彼女は、思案の末、自分の私塾をひらいたのである。
塾の名を桃夭女塾とつけた。桃夭とは詩経に出て来る言葉で、嫁入りどきを意味するという。教えるのは、和歌はもとより、漢学、国文学、書道、さらに行儀作法などであった。
その上――明治四年に岩倉使節団に連れられて七歳でアメリカへ留学し、約十年後帰国して間もない津田梅子女史まで呼んで英語を教えてもらうようにした。
このアイデアは成功した。そのころ、長唄とか三味線とかお針とかはともかく、この年ごろの娘にこういうことを教える学校はまだなかったからである。特に、すでに宮中での彼女の評判を聞いていた貴族の子女が――中には若夫人までふくめて――続々とやって来るようになって、たちまち桃夭女塾は、それまでの手狭な元園町の家から、麹町一番町の広い家に移るまでになった。明治十七年には、病夫がこの世を去った。
結婚生活としては失敗というしかなかったが、宇多子はそれ以来ふたたび上流社会に羽ばたいて飛び立つようになる。その翌年――おそらく彼女の成功に触発されたものか――華族女学校が創立され、宇多子はその教授を命じられたからだ。
華族の子弟のための学習院はすでに作られていたが、当時これは男子のためのみのものであって、令嬢のための学校はこれが最初であった。さらにその翌年、彼女はその学監に任じられた。
で、彼女は毎日、馬車で華族女学校へゆく。
ただしかし、それは華族の令嬢のための学校だから、華族でない家の子女は困る。そこで、その方面からの切なる願いと、それまでのゆきがかりから、特別許可を得て桃夭女塾も縮小してつづけることになった。こちらは水曜日と土曜日の午後だけひらくことにした。
それは華族ではなくても、一応の身分や家柄の子女にかぎられた。
――明治十九年、当時数え年十五歳であった樋口一葉がこの塾にはいろうと思ったが、父が警視庁警視属という下級の身分であったためあきらめた、ということを、のちに一葉自身が日記に書いている。竜岡雪香も、伊勢の神官の娘ということで入門を許されたのであった。
高等官五等下山宇多子、この明治二十三年満三十六歳。いまもしばしば参内して皇后さまのお歌のお相手を承わると聞く。
――以上、下山宇多子のすべての経歴を詳しく雪香が知っていたわけではない。
かいなでの知識だが、しかしどこから見ても感嘆に値する前半生を持つ大才女にちがいなかった。
それに、これほど学問があり、かつ教育家だと、えてして狐のようにとんがった顔をしていたり、男性と区別のつかないいかめしい人柄だったりするものだが、なんという美しさだろう。
まるで、白日に咲きゆらぐ牡丹のような豊艶さだ。
「下山女史の出世は、歌よりもあのあで姿のせいだ」などいう声を聞いたことがあるが、それも悪口とは思えないほどだ。ただし、もっとたちの悪い「伊藤伯や井上伯が、ことあるごとに女史を追いかけまわしている」などいう世の戯《ざ》れ言《ごと》は、雪香には信じられないが。――
少なくとも女史が、権勢にあこがれている人とは思えない。
それなら以前いちど結婚したとき、すでに一代の才媛という名を宮廷に得ながら、もういまの世の中にはやらない剣術家などを相手にえらぶわけがない。
下山女史の唯一の失敗であった結婚さえ、雪香には彼女の偉大さを現わすものと思われた。
とにかく、それほどの資質を持ちながら、苦労の味もなめた人だ。一方では、そんな悲劇も、自分の資質で克服した人だ。あくまでたっぷりと豊艶でありながら、その聡明と意志力と気品を失わない、これこそほんとうの貴婦人と思われるのが下山宇多子女史であった。
それほどの女性を師としながら、それまで雪香がひとりで懊悩《おうのう》していたのは、師とはいうものの、何百人かの令嬢たちと共通の師で、その多忙さを承知していたからであった。かつまた、だれに相談してもどうにもならない運命ではないかという絶望のためもあった。
が、いま雪香は、その人にすべてを打ち明け、これから生きてゆく道の教えを仰ごう、と決心したのだ。
――と、二十分ほどして、奥から大きな跫音《あしおと》が聞こえて来た。
「いや、昼酒はいかん。あれだけでも酔う」
声を聞いて、雪香ははっとした。
「どうじゃ、赤いか。こんな顔は生徒たちに見せられんのう。あはは」
稲城黄天の声だ。女書生が何か小声で答えている。――客というのは、稲城であったのか。
身をかたくしている雪香の耳に、襖越《ふすまご》しに控室の前から玄関のほうへ、稲城黄天の濁った笑い声が通っていった。
そうだった! 下山先生と稲城黄天は知り合いなのだった!
そもそも父がはじめて稲城のところにいったのも、自分がここで稲城の占いや祈祷の評判を聞いて、そのことを父に話したのがきっかけではなかったのか。
どうしてそのことに思い至らなかったのだろう。ここしばらく稲城と縁が切れていたせいもあろうが、やはり自分の頭は変になっていたに相違ない。
これは、私の血のことなど、下山先生にはしゃべれない!
雪香が愕然としてそう考えたとき、女書生が襖をあけた。
「竜岡さん、先生がお逢い下さるそうです。どうぞ」
雪香は反射的にフラフラと立ちあがった。
奥の客間に、下山宇多子は坐っていた。丸髷をゆい、黄八丈に黒繻子の昼夜帯をしめた姿は、とうてい華族女学校の学監とは思えないほど粋であったが、知性にみちた気品はさすがである。ただ卓《テーブル》の上の食事のあとはきれいに片づけられていたが、彼女はぼっと頬を赤くして、雪香がいままで見たことのないほどなまめかしく見えた。
――まあ、先生はあの男と、いっしょに酒を飲まれたのかしら?
意外の感が一瞬胸をかすめて過ぎた。
雪香はひっそりと坐って、風邪で休んでいたことをわび、宇多子は、よくなったのなら結構だ、と、にこやかにいい、さて、私に何か相談があるって、それは何? と、やさしく尋ねた。
「それは」
雪香は口ごもったあと、
「あの……女は結婚しなくても、倖《しあわ》せに生きてゆく道があるでしょうか?」
と、訊いた。
彼女は下山先生への相談の内容を変更したのである。
雪香は、尊敬する下山先生とあの稲城黄天の間に交際があることをふしぎに思っていた。同郷だと聞いて一応納得したが、納得出来ないふしもあった。特に稲城が、あんなぶきみな、どこかけだもののような感じのする人間であることを知ってからは、いよいよ奇怪に思った。
しかし、思い出してみると、最初、別に下山先生から稲城の神道占を推薦《すいせん》されたわけではない。ただ稲城がいかにも親しそうにときどき桃夭女塾に姿を見せ、朋輩たちから彼の占いや祈祷があらたかだという評判を聞いて父に話したのが発端となったに過ぎない。で、もういちど思い出してみると、下山先生は彼に対してむしろ冷淡に、あるいは迷惑そうに、ときには厳然として応対なさっておられたようだ。――そして、なるほどそれが当りまえだと思う。
が、それにしても、とにかく二人の間には交際があるのである。
彼女は、下山先生に、自分のまがまがしい血の遺伝のことについて告白するのはやめることにした。稲城がそのことを知っているかいないかはわからないけれど――もし知らなかったとしたら――下山先生からそれを聞けば、また何か脅迫のたねに使うだろう、と考えたからだ。
まして、いま、二人でお酒を飲んでいたとは?
これを意外に思う心の波と、下山先生をなお尊敬する心の波を胸に交錯させながら、ともかくも雪香は、あのことにはふれないで教えを仰ごうと決心した。――
「それは、どういう意味ですか?」
と、宇多子は訊き返した。
雪香はどもりながら、自分が、ある事情である人と結婚出来なくなったのだが、その人以外の人とは結婚しようとは思わない。それで一生独身で過してゆこうと思うのだが、そんな場合は、女は何をして、どういう心づもりで、生きてゆけばいいのだろうか、と尋ねた。
「……あなた、失恋したの?」
と、宇多子がいった。
「え。……まあ」
と、雪香は頬をあからめた。ごまかしたつもりだが、これはごまかしたことになるだろうか?
「風邪というのは嘘ね。そのことで休んでいたのではありませんか?」
宇多子は笑った。
「あなたのようなきれいな人を失恋させるような男があるのかしら。信じられないわ。でも、あったのね。私、そのひとを見たいわ」
「………」
「そのひとを見たいけれど……けれど、竜岡さん、男はたいていみかけだおしですよ。実体を知って見れば、ほんとにくだらない男が多いものよ」
なぜか、彼女は浮き浮きしていた。雪香は、この先生がどこか昂奮しているのを、酒のせいではないらしい、と気がついた。
「結婚生活なんてつまりませんよ。それに失敗した私がいうのだからどうかと思うけれど、客観的に見ても、結婚した女の七、八割までは、天賦の才能や本来の生甲斐を、たった一人の男という鎖に縛られて一生を終ることになると思うわ。……そう考えることね」
「それは、先生のように御才能ゆたかなお方は別世界の方で……」
「いいえ、才能の有無ではありません。とにかく、あるだけの自分の才能を何かに捧げる。その何かは、特定の男以外の何でもいいのです。私はそれを教育事業に捧げました。でも、教育以外の……たとえば、慈善事業などでもいいと思います」
下山宇多子は自信にみちていた。
「竜岡さん、私はあなたを、ほんとにいいお嬢さんだと思っていました。で、いま、突然思いついたことだけど、あなた、私の臨時秘書になって下さらない?」
「まあ、そんな大それた――」
「いえ、学校の仕事じゃないの。それ以外の、私の……いっては悪いけど、雑用の秘書」
表のほうが、ざわめき出した。娘たちがやって来はじめたらしい。
鹿鳴館で、下山女史主催の大バザーがひらかれたのは四月半ばのことであった。
人も知るように、鹿鳴館は、明治十六年、外国の賓客接待用として、内幸町の元薩摩屋敷跡(いまの帝国ホテル南側あたり)に建てられたもので、それ以来、しばしばここで大夜会や舞踏会が催された。政府の大官や貴族の夫人令嬢たちが、燕尾服やコルセットや、着なれぬ礼服をそれぞれ着用に及んで、西洋音楽の奏楽でダンスをし、ときには仮装舞踏会までやって、世に話題をまいた。
それというのも、条約改正を願うあまり、西洋人に日本の欧化ぶりを見てもらうための道化芝居であったが、いかに熱演してもその願望は容易に果されず、一方この狂態に対しての世の非難が高まり、明治二十年に至ってこのフィーバーの炎もみるみる消えてしまった。
で、ここ二年ばかりは、かつて窓々に白熱灯をともした舞踏会も、ほとんどひらかれたこともない。
ただ、せめてもの施設利用をかねて、ときどきここで貴族の夫人たちのバザーが催される。
慈善を目的としたものが多かったが、こんどは――すでに華族女学校が設立された以上、「下婢養成所」なるものも作らなければならない、という下山女史の提唱による、その養成所設立基金の一部にあてるためのバザーであった。
白亜の建物の、左右にヴェランダをつらねたアーチ型の正面入口をはいり、ホールのつきあたりの大階段を上ってゆくと、ここにまた大ホールがある。かつて人々が舞踏したのがこの二階大ホールだが、バザーの会場がここにあてられた。
二十近い店が出ている。店といっても、大きな卓《テーブル》と棚を組合わせたものだが、それらに美しい品々がならべられている。
手袋、靴下、手巾、半襟、巾着、レースなどの店いくつか。
糸鞠、帽子、花かんざし、押絵の羽子板などの店いくつか。
人形、造花、竹細工、麦わら細工などの店いくつか。
傘、岐阜提灯、団扇、扇子、屏風、衝立《ついたて》などの店いくつか。
それに、手製の和菓子、西洋菓子の店。
端のほうには、これは客が食べる菓子に茶店、ラムネ、アイスクリームの店まで出ている。
しかも、各店に坐っている出品者の女性たちがたいしたものだ。
「あれが鍋島夫人……西郷夫人」
「こちらが井上夫人」
「あちらはどなたさま? まあ、大山夫人」
「ごらんあそばせ、伊藤夫人、榎本夫人もおいでになってますわ」
春の川のように、店々の間をながれる雑踏の中のざわめきは、一様に、
「でも、おえらいわねえ。あれだけの方々をお集めになるんだから……あの下山宇多子さまは!」
という嘆賞に終るのを常とする。――結構、正装した男たちの姿も少なくない。
その下山宇多子は、奥まった場所のテーブルで、有栖川宮《ありすがわのみや》の姫君と話している。姫君のほうがへりくだって、宇多子女史のほうが、あくまで礼を失わないなりに、悠然としているように見える。きょうは優雅な洋装だ。
「ほんとうにおえらい方だわ。……」
端っこの机に向って、売上げの計算をつけながら、心から雪香もそう感じずにはいられなかった。
彼女はこの早春から、下山女史の「秘書」として、貴顕の夫人たちのところへ使して、このバザーへの賛同、出品などの交渉に毎日を暮していたのである。どこでも、夫人のみならず、大官その人が逢ってくれた場合でも、「ああ、下山さんのなさることなら……」と、一議に及ばず承知してくれた。
一方、華族女学校、桃夭女塾と、それだけでも大多忙な女史が、こんな「下婢養成所」設立などいう、思いがけない教育機関を思いつき、企画し、実現してゆくその余裕とたくましさにも、ただただ感嘆のほかはない。
……ふと雪香は、首すじに視線のようなものを感じてふりむいた。
すると、うしろの人混みの中に、稲城黄天が立って、こちらを見ていた。彼は、いつものような神官姿ではなく、羽織袴をつけていたが、すぐにそ知らぬ顔で歩き出した。そして、近くの若い夫人たちの中に知った顔を見つけたらしく、笑いながら話しかけている。――
――まあ、あの男も来るなんて!
雪香は顔色を変えたが、下山女史の知人ならここに来てもふしぎではない。とにかく上流階級の夫人や令嬢に占いの客を持とうとし、また持っている男だから、きょうのバザーを恰好の顔つなぎの場所としてここに現われたのはあたりまえかも知れない。
彼女は、下山女史のほうを見た。すると、宮様の姫君と話しながら、下山女史がふと顔を動かした。たしかに稲城を見たようだ。が、これも冷然とそ知らぬ顔をしている。
そのとき、大きな声がした。
「馬鹿馬鹿しい。こんなバザーは、実際馬鹿げたことです!」
華やかな人々の中に、白いカラー、黒い洋服を着た、三十くらいの男が立っていた。こんな場所にそぐわない質朴な姿だが、いっしょにいる二十半ばの洋装の女性は、雪香も知っている英語の津田梅子女史だ。
「だいたい下婢養成所とは何です。奴隷養成所と同じような意味ではありませんか。それを作るためのバザーを、七面鳥のように着飾った貴族夫人連がひらく。これがいかに人間侮辱の催しであるかということに気づく人もないらしいのは馬鹿げておる!」
そばの津田女史に話しかけているようだが、そうばかりとは思えない大声だ。――一帯がピタリと静粛になった。
下山女史が立ちあがって、そのほうへ歩いていった。
「津田先生、この方はどなたですか」
と、尋ねた。津田女史は当惑した表情で答えた。
「第一高等学校の内村鑑三先生とおっしゃいます」
「ああ、アメリカからお帰りになった…耶蘇《やそ》の……」
と、下山女史はうなずいた。逢うのははじめてだが、名は知っていたらしい。
「私がこのバザーを主催いたしました下山宇多子です」
と、向きなおり、
「お言葉でございますが……奴隷養成所など、そんな大それた悪意はまったくございません。アメリカは知らず、日本ではまだたいした産業も発達いたしませず、若い女性の職業というものがほんとうに乏しゅうございます。その中で、下婢は実際に貴重な職業でございます。けれど、貧しい階級の娘が突然御大家に奉公しましても当人も戸惑うことが多く、使用いたしますお家《うち》のほうでも大変困るわけでございます。またそれを考え、それを怖れて引込み思案になる娘も少なくないでございましょう。そこで、下婢希望者に一応の教育を与え、行儀作法を教える、そのための学校を作るのが、どこが馬鹿げているのでしょうか。それを人間侮辱とは、失礼ながらお考え過ぎではございますまいか」
下山女史は、よどみなく、堂々といった。
「そういう有用無用の理屈をいっているのではありません」
内村は答えた。
「それ以前の問題として、貴族階級が下婢養成所を作るという、その根本の発想が人間侮辱だというのです」
噛んで吐き出すような語調だ。
彼はおととしアメリカの神学校から帰って来たばかりだが、留学生として先輩の津田梅子女史からふとこのバザーのことを聞き、憤然としてやって来たのだ。津田女史にはいわなかったが、はじめから下山宇多子という高名な女性に一撃を加えるべく、心をきめて乗りこんで来たのであった。
「そんな目的のバザーをひらくより、まずあなた方に現実の貧民階級を見よと申しあげたい。――」
下山宇多子はいった。
「待って下さい。私だって貧乏の味は知っています」
「あなたの味わった貧乏の味などとはちがう貧乏です。貴族の下婢になるなど、想像も及ばない極貧の世界が存在するのです」
内村はいった。
彼は大きな口髭をはやし、どちらかといえば醜男《ぶおとこ》に近い容貌なのに、まるで西洋の哲学者みたいな厳粛苛烈な印象を与えた。
「現実にこの東京のあちこちに、これが天皇のおられる都の一劃かと疑われるような貧民街がある。あなたはそれを御存知ないでしょう。見たことがないでしょう」
錆《さ》びた、沈痛な声だが、よく透《とお》る声量であった。鹿鳴館の二階は、しいんと静まりかえった。――雪香も、魂の底までゆり動かされるような感じがした。
「下山さん、まずいちどためしにそれを見におゆきなさい。いって、それを見てから、下婢養成所設立とか、そのための鹿鳴館のバザーだのが頭に浮かぶかどうか、もういちどためして御覧なさい!」
シャンデリアの下がった高い天井に反響だけ残し、二十九歳の内村鑑三はお辞儀もせずに背を向けると、スタスタと舞踏室を出ていった。
事は異様に発展した。
三日ほどたって、雪香は下山宇多子に相談した。
「先生。……わたし、内村鑑三先生のお弟子になりたいと思うのですけれど、いけないでしょうか?」
「内村先生。――」
下山宇多子は変な表情をした。
「あの方の、お弟子になるって? 弟子になって、何をなさるの?」
「何をするか、あの先生におうかがいしたいのです。先生のやれといわれることは、何でもしようと思います」
雪香は、「あのこと」を忘れられるなら、ほんとに何でもしようと思っていた。自分の全身全霊をあげて奉仕出来る仕事を探していた。
で、下山宇多子の秘書になって、いちおう懸命に働いて来たけれど、さしあたって命じられた「下婢養成所」のバザーなど、実は彼女も異和感を禁じ得なかった。それを、あの内村鑑三の雷声で鞭打たれたような思いがしたのだ。
彼女は、その三日の間に津田梅子女史を訪ね、内村鑑三とはどういう人かということを訊いて、いよいよその決心をかたくしたのであった。
あの方こそ、わたしを救って下さる方かも知れない。少なくとも、わたしの一生を捧げる仕事を与えて下さるに相違ない。
あんなことがあったあとで――華やかな鹿鳴館の紳士淑女の前で、内村先生にいわば赤恥をかかされたといっていい事件のあとで――内村先生の弟子になるといえば、下山先生は変なお気持になられるにちがいない、とは思ったが、そこまで考えてはいられない、というほどの雪香の激情であった。――これは、相談ではない。彼女にとってはお別れの挨拶のつもりであったのだ。
「それはいいかも知れません」
下山宇多子は、彼女らしからずボンヤリとうなずいたが、やがていつものよくかがやく眼をとり戻していった。
「その前に、あなたにお願いがあります」
「何でございましょう?」
「この間の内村さんのお叱りはごもっともです。下山はほんとに一大痛棒を受けた思いです」
と、宇多子はいった。
「私は、内村さんのおっしゃった貧民街を見なければいけません。見る義務があります。見て……いつか皇后さまに御報告したいと思います」
「は。……」
「あなた、内村先生のところへいって、そう申しあげて下さらない? あのお口ぶりでは、あの先生はその貧民街とやらをよく御存知だと思います。どうかそこへ、いちど下山を御案内して下さらないか、とお願いにいってほしいのです」
――さすがは下山先生だ、と雪香は思った。あのことを恨まないで、反省して、率直に相手の要求通り、そんなことを志願されるとはやはりおえらい方だ。
「あなたもいっしょにゆきましょう。お弟子になるのは、そのあとでいいじゃない?」
「はい。……」
その翌日、雪香は、小石川の上富坂町にある内村鑑三の家を訪ねていった。――
ちょうど日曜なので内村は家にいたが、雪香が下山女史の言葉を伝えると、内村は、はじめけげんな顔をし、次に驚きの眼になり、さらに感動の表情になった。
実は彼が、ある機会から、東京の最極貧街を見たのは最近のことなのである。彼はそれを見て、甚だしく心を打たれた。たまたま津田梅子女史から鹿鳴館のバザーの話を聞いて勃然《ぼつぜん》と腹を立てたのは、その衝撃の反動といってもいいほどであった。
で、ああいう演説はしたけれど、まさか当代の貴婦人下山宇多子が、自分のいった通り、その極貧街を見にゆきたいといい出すとは期待していなかった。――そこへ、こんな申し込みがあったので、驚き、かつ感動した。彼女は、実状を皇后さまに報告したいともいっているという。
「よろしい、御案内しましょう」
と、内村は大きくうなずいた。
「東京には、極貧街というべき場所がいくつかあります。下谷山伏町から万年町、神吉町へかけての一帯、芝浦の新網町、佐竹ヶ原の新開町、四谷|鮫《さめ》ヶ橋など。……どこでもいいが、それじゃ四谷鮫ヶ橋へいって見ましょう」
そういって、彼は首をかしげた。
「実にこれは、人間の世界ではない。まず大丈夫とは思うけれど、とにかく女性を――しかも宮廷に出入される下山宇多子女史を御案内して、万が一のことがあると、私の責任になる。そのために、用心棒を同伴したほうがいいかも知れない。それも荒くれ男を何人も連れていっては、かえって藪蛇になります。せいぜい二人、いや出来たら一人、何事が起っても頼りになりそうな男を連れていったほうがいいと思うが、だれか心当りの人はありませんか?」
自分がゆけといったくせに、内村鑑三は少なからず心細いことをいい出した。
「そういう場所だが、それでもおゆきになるかと、念のため下山女史にたしかめていただきたい」
魔界
約束の日の午後五時ごろ、彼らは約束した四谷見附に集まった。
その中に、雪香も混《まじ》っていた。――「あなたもいっしょにゆきましょう」と下山先生にいわれたせいもあるが、決して心楽しい見物ではないけれど、この世に奉仕する人生を過そうとするなら、東京の最底辺の貧しい人々の町を自分も是非見にゆかなければならない、と決心したのである。
ただ、内村鑑三は、「万一のために、何事が起っても頼りになりそうな男を、一人か二人連れていったほうがいい」といった。雪香の頭に、ちらっと明石元二郎の姿が浮かんだが、その日は日曜ではなく、軍隊勤務の明石に来てもらうわけにはゆかなかった。
それに下山先生も、「用心棒は私が連れてゆきます。あなたは私の家へ寄ることはありません。約束の時間に四谷見附にいって下さい」といったので、彼女は念のため一本の短刀と、それから、考えた末――鳩の籠をぶら下げていった。
――この早春、明石が、「もしおれに用があったらこれを飛ばしてくれ」と、弟の綱彦に渡していったものである。
――つまり、彼の代用だ。
それから、内村にあらかじめ注意されて、彼女はお高祖頭巾《こそずきん》をつけていった。
――実は、内村が夕方五時という時間をえらんだのも、下山女史や雪香が顔をあらわにしてそんなところを歩くわけにはゆかないし、この季節、白昼お高祖頭巾をかぶるのも異様なので、それをつけてもまあおかしくない黄昏《たそがれ》ちかいその時刻にしたのだ。
四谷見附にいってみると、黒い山高帽に黒い詰襟の洋服を着た内村鑑三がすでに待っていて、その鳩の籠を見て、変な顔をした。
「おや、それはどうしたのですか」
「はあ、弟に頼まれていたものですから。――ここへ来る途中、ふと小鳥屋で見かけましたので、忘れないうちにと思いまして」
と、雪香は答えた。
「私たちはこれから妙なところへゆくのだが。――」
「承知しております。こうして持って歩きますわ」
「あなたも、のんきなお嬢さんですな」
内村は苦笑した。
まもなく、やはりお高祖頭巾をつけた下山宇多子もやって来た。用心棒を連れて――二台の俥で。
下り立ったその用心棒を見て、雪香は息をつめた。それは稲城黄天であった。
彼は雪香にはちょっと目礼しただけで、内村に、
「下山先生に辱知《じよくち》を願っておる稲城という者です」
と、挨拶した。
内村は、「やあ、まあ心配はないと思いますがね」といっただけである。稲城黄天をまだ知らないらしい。大兵《たいひよう》で、漆黒の髯、黒紋付にふといステッキをついた稲城は、なるほど用心棒然として見えた。
下山宇多子も、雪香の鳩を見て、内村と同じ問いを投げ、雪香は同じ返事をした。
「鳥籠を下げて貧民窟見物にゆく人なんかはじめてだろうと思うけれど、でも、あなたらしいわね」
と、宇多子も笑った。
やがて四人は、内藤新宿の方角へ向って歩き出し、途中から左へ折れて裏町にはいっていった。
ゆくにつれ、家々は次第に貧しげになり、そのうち、両側は板ぶき屋根に、軒なみ日覆いの葭簀《よしず》をかけた家ばかりになった。
店らしい店もないのに、狭い道に結構ゆきかう人影がある。それが、若い職人風の男ばかりだ。そして、
「チョイト、チョイト」
「ねえ、寄ってゆかない」
と、その葭簀の向うで、女の声がする。よく見えないが、幾つかの窓があって、その一つ一つに女が坐っているらしい。
「あら何サ、女のくせに」
「女がこんなところに何しに来たのサ」
そんな怒ったような声もする。笑い声もまじる。
雪香はぶきみな世界にはいったことを知った。――稲城黄天は妙なうす笑いを浮かべて歩いている。
「ここは何ですか」
と、下山女史が、声をしのばせて内村に訊いていた。
「私娼窟です」
内村鑑三は答え、きびしい顔をいよいよきびしくした。
「ここがもう鮫ヶ橋ですか」
「鮫ヶ橋は鮫ヶ橋ですが、これからゆこうとしている貧民街ではありません。それはこの先です」
と、内村が足を早めたとき、その灰色の葭簀の連なりの間から、ノッソリと出て来た半纏に麦わら帽子をつけた若い男が、内村を見て、はっとしたように立ちどまった。
内村はちらと見たが、とっさにはその顔におぼえがなく、そのままゆき過ぎようとした。すると、向うから声をかけて来た。
「内村鑑三先生ではありませんか」
もういちど見て、
「ああ」
と、内村はやっとかすかな記憶を呼び戻した。
彼は第一高等中学の教員をしていたが、自宅にも志ある若者を集めてキリスト教の伝道をしていた。その集会に、去年の夏ごろ、見知らぬ青年が現われた。彼は、内閣官報局の雇員《こいん》、長谷川辰之助と名乗り、内村に、「人間が生きることの意味」について尋ねた。内村は自分の信仰を語ったが、彼はそれっきり集会に顔を見せなかった。
そういうたぐいの若い訪問者はほかにもあったから、そのこと自体に不愉快はおぼえなかったが、ただこんな場所で挨拶をされるのは迷惑であった。
相手も、めんくらった顔でいう。
「先生がこんな魔界にいらっしゃるのですか」
「いや、この奥の貧民街にゆくつもりなのだ」
と、足をゆるめず内村がいうと、青年は、
「ああ、あそこ、なるほどねえ。しかし、見れば御婦人もいらっしゃるようですが、大丈夫ですか」
「念のために用心棒の方にも来てもらっておるが」
長谷川辰之助はちらっと稲城のほうを見て、
「それじゃ、私もいっしょに参りましょう。私はあそこを、一週にいちどくらいは徘徊します。私のほうがお役に立ちます。御案内しましょう」
と、いって先に立った。
稲城にまさるとも劣らぬ大きな、頑丈な長谷川辰之助であった。内村鑑三は断わることも出来なかった。
「君のような人間がこんな魔界に来るのか――とは、君に訊きたい」
歩きながら、内村はいった。
彼はやっと、もう少し詳しく思い出したのだ。「人生の意味」についての質問もさることながら、それを尋ねるこの青年のようすが、ふつうの他の若者とちがって、一種の重厚さと深みを持っていたことを。
――が、この青年がいま自分のほうから名乗り出たくらいだから、こんな場所で再会したことを恥じていないのはたしかだ。
「たしか内閣官報局とかのお役人といってたね」
「いえ、お役人なんていえたものじゃないです。臨時傭いの雇員というやつで。――」
「それをやめたのかね」
「いえ、まだやっております」
「それが、そんな風態《ふうてい》でこんなところに出入りする。――」
内村は相手の浮浪者みたいな姿を見やった。
「言葉は何だが……性欲の処理なら、ほかに場所もあるだろうに」
「先生、私は実はここで童貞を失ったのです」
「えっ?」
長谷川の声については、のちに漱石が、「非常な呂音《りよおん》で、大変落ち付いて、緩《ゆつく》りした、少しも逼《せま》る所のない話し方をする」と、表現している。呂音とはバスのことだろう。その声と話し方は、若いころからそうであった。
その調子で彼は話した。
「――去年の秋のことです。私はいま、ここからすぐ近い四谷荒木町の女写真師の二階に下宿しているんですが、ついふらふらとここへやって来たのです。すると、六十くらいの婆さんが路地に現われましてね、旦那、若いきれいな女がいますが御案内しましょう、というのです。で、ある一軒の小さい家に連れこまれると、汚れた蒲団がしいてあり、枕もとに小さいカンテラが燃えていました。婆さんは、それじゃ女を連れて来るといってどこかへ出てゆきました」
一方で、黄天は下山宇多子に、こんなことを話していた。
「ここへ来るというので、ちょっと調べたんですがな。ここは江戸時代から溝《どぶ》ッ蚊《か》女郎で知られた場所で、ハナチル横町といわれておったそうです。鼻落ちる町を花散る里にひっかけたものでしょうな」
で、そのうしろの雪香には、長谷川の声は聞えなかった。
「しばらくすると、婆さんが一人で戻って来て、旦那、お気の毒ですが、その女が見当りません。私ではお気に召しませんか? と欠けた歯で笑いかけました。……その婆さんで私長谷川辰之助は、二十六歳で童貞を失ったのであります」
内村鑑三は応答の言葉を失っていたが、ややあって尋ねた。
「君はそれで満足したかね」
「私は、ああ、これが人生だ、と思いました」
長谷川辰之助はいった。
「人は何のために生きているのか、というのが、私の知りたいことでした。ふつう、人は、出世するため、名声を得るため、金がほしいため、等々の目的で生きているようですが、私はそんなものが人生の目的だとは思われないのです。よしやそれが、その人々にとっては生きるに値するものであっても、私にはそんなものをめざして生きる才能も気力も欲望もない。……そして、どうやらこの地上には、私同様、そんなものとは無縁の人々が、ボーフラのごとく無数に存在しているのではありませんか。しかし、そこにも人生はあるのです。私はそれを見たくて、知りたくて、こういう場所をうろついているのです」
内村は、この青年がすでに二葉亭四迷という名で、「浮雲」という小説や「あひびき」などいうロシア小説の飜訳を発表していることを知らなかった。長谷川はこの前、そんなことを口にしなかったのである。
しかし、沈んだ声でこんな告白をする長谷川辰之助に奇妙な誠実性を感じ、心中いささか見直すところがあった。この青年が、|おくて《ヽヽヽ》なりになお苦悶の青春彷徨をつづけていることはたしかだ。
「君は人生がわかったといった。それで悩みから解放されたかね」
「いや、人生がわかったなんて夢にも思いません。ただ、これが人生だ、と感じる世界を見たというだけで……人間が生きる目的など、ますますわからなくなりました」
と、長谷川はいった。そして苦笑した。
「しかし、人間は生まれた以上は何かしなければならない。何か生きる目的を見つけなくてはならない。実は先生、こりゃ大まじめな考えなのですが、私は自分の器量からして――また、何とかロシアの新聞を読めるくらいの才能しかないので――まあせいぜい、こんな場所で働く女たちを集めて、ウラジオストックあたりに露人相手の女郎屋でも開くのが適当じゃなかろうか、と、このごろ考えているんです」
「君、もういちど私のところへ来たまえ」
と、内村はいった。
「イエス・キリストですか?」
長谷川辰之助はつぶやいた。
「私をみちびいてくれるのは、神さまより悪魔じゃなかろうか、と私は考えています。いや、いま私は『罪と罰』というロシアの小説を飜訳しているんですがね、どうもその主人公が、このごろの私に乗り移っているようなあんばいで。……」
彼は、ふとまわりを見まわした。
「ああ、ここが鮫ヶ橋の貧民街です!」
――四谷見附に集まったのが午後五時であったから、それは六時ごろになっていたろうか。
晩春の季節だから、太陽はまだ西にはいっていない時刻だ。事実、その町――町といっていいかどうか、わからないが――の景観はよく見えた。にもかかわらず、あとになって雪香には、すべて夜の世界のような印象を残したのがふしぎである。
いや、晩春の落日の光が、東京のほかの町同様、そこにもふりそそいでいたということがあり得ないもののように考える。
それはまさに異次元の世界であった。
――このころ、二葉亭四迷と仲のよかった松原岩五郎という青年があった。彼は四迷の下層社会放浪につりこまれ、彼もまた東京諸所の貧民街を探険し、そのルポルタージュを「最暗黒の東京」と題して、二年後の明治二十五年に「国民新聞」に連載したが、それにこの四谷鮫ヶ橋の魔界をまず評していう。
「――東京第一と言わんよりはおそらく日本第一の最暗黒の怪窟として、士君子の口にはその名称を唱うることをはばかれたる旧世界の遺跡存在し、しかしてその怪窟たるや、およそ世にありとあらゆる悪心の結晶体、生活の犠牲、魔物の標本、誘惑の神、肉欲の奴隷等が、心中の争闘をもって活動する混合洞窟にして、東京中の秘密と言わんよりは、むしろ日本国おそらくは世界中の秘密の集まり来って爆発する最後の大戦場」
オーバーな表現だが、外部からはじめてはいった人間の衝撃ぶりはかくのごときものであった。
また、彼はいう。
「――この貧街は、荒地に蒸気客車をならべたるごときものにて、裏もなければ表もなく、往来として人道の完全なる通路もなく、卍《まんじ》あるいは巴《ともえ》のかたちに地面をすかして家を建てつらねたるものなれば。……」云々。
いわば難民部落の中の迷路である。
いま、その迷路へ、五人ははいってゆく。
荒地に岡蒸気の客車をならべたような、とは|ほめ《ヽヽ》過ぎだ。まあ、棟割《むねわり》長屋に属するものではあろうが、長屋というのも僭越だ。
屋根は板ぶき、または焼けブリキで、ただ雨露をしのぐだけ、それにも足りないだろうと見えるが、とにかくそれを支える柱はある。柱というより、ほんとうに支えるだけのつっかい棒だ。それに板が囲ってあるのはまだましなほうで、中にはボロだたみをたてかけ、古|毛布《ケツト》を張っただけのものもある。
だから、一軒一軒の内部もよく見えるが、実に二坪三坪ほどの|むしろ《ヽヽヽ》敷きの上には、人間が充満していた。それが、みんな何かやっていた。――
「あれは、たいていマッチの箱貼り、葉煙草のばし、団扇《うちわ》の骨けずり、楊枝《ようじ》けずり、下駄の歯入れ、鼻緒縫い、紙屑えりなどの内職をやっておるのです」
と、長谷川辰之助がいった。
「ごらんのように、女、子供、老人ばかりで、亭主は外で、土方、俥夫、売卜者、按摩、いかけや、蝙蝠《こうもり》直し、祭文語り、大道商人、辻芸人、屑拾いなどやってる者が多い。あとは、病人ですな。肺病、皮膚病が多いが、中には癩病もいる」
彼らは路地から路地へ歩いてゆく。
むろん、路といえるようなしろものではない。右のような小屋と小屋とのすきまだ。
その上、至るところの軒下? に、欠け鍋、欠け茶碗、古着、古瓶、破れ傘、破れ草履《ぞうり》、屑紙など、およそ人間の使う物品で、古、屑、欠け、破れなどの形容詞をくっつけて然るべき状態になったものがことごとくつみあげてある。
しかも、そこを往来する人間が多い。特に子供が多い。
雑巾《ぞうきん》のようなボロをまとったのはまだいいほうで、大半は裸だ。その中に、外から帰って来たところか、三味線をかかえた幼い姉妹や角兵衛獅子の姿も見える。十くらいの男の子が赤ん坊を背負わされていたが、赤ん坊は生後一年ほどと見えるのに、こぶしにひっつかんでしゃぶっているのは鰯の頭であった。
「あまり、シゲシゲと見ないで下さいよ」
と、長谷川は注意した。
「動物の世界とおなじで、眼が合うと、飛びかかって来ないという保証はない」
彼は笑った。
小屋の中の人間も、すれちがう人間も、ちらっとこちらを見て、一瞬眼を大きくするが、すぐに知らない顔に戻る。
「いや、動物なんていっちゃ相すまん。しかし、別世界なんですな。彼らは、われわれ外部の人間を無視しています。ちょうど彼らが外に出たとき、そこでは完全に無視された存在であるように。――あ、いけません!」
と長谷川は、急に下山宇多子の手を押えた。
お高祖頭巾をかぶっているのに、宇多子が白いハンケチを鼻のあたりに持ってゆこうとしたからだ。一帯にたちこめている異臭のせいであった。
それは糞臭はもとより、魚臭、獣臭、何やらすえたような臭い、腐っている臭い、その他もろもろの臭いの混合であった。
ふしぎなことに、この貧民街の中に、なお店があった。居酒屋がある。一膳飯屋がある。うどん屋がある。木賃宿がある。貸し蒲団屋がある。そして、何と寄席《よせ》まであった。――むろん、外界の同種の店とちがって、そう説明されて、はじめてそうか、と、わかるような店だ。
なかんずく壮観は、残飯屋であった。
これも家は傾いて、つっかい棒で支えてある態《てい》のものだが、中はわりに広い土間になっており、また店の前にも空地があって、そこには大小の樽、桶、壺、笊《ざる》のたぐいが散乱状態にならべられ、それに、汁にまみれた飯、パンの食いきれ、沢庵のきれはし、魚の残骸、はては馬鈴薯をむいた皮までが山盛りに盛られている。
そして、そこに老幼男女がひしめいて、
「これ二銭ちょうだいな!」
「あれを三銭分いれてくんろ!」
など、わめきながら、手に手に持った笊や鍋をつき出しているのであった。
「あれは町から――主として兵営や士官学校などの残物を払い下げてもらって来るんだそうですがね」
と、長谷川は説明した。
「これがたくさん出る日を豊年と呼び、少量しか出ない日を饑饉というそうで――空車に空笊をつんで帰って来て、きょうは饑饉だぞ! と、さけぶと、その前からここに集まって待っている連中の口から、あああ! と、いっせいに嘆きの声があがります」
「こんな人々が、こんなにたくさんいようとは思いませんでした」
と、下山宇多子がかすれた声でいった。
「いったい、ここに何人くらい住んでいるのでしょう?」
「わかりませんな。警察も知らないでしょう。私は少なくとも一万人はいるんじゃないかと思いますが、とてもそんな数じゃないかも知れない」
「みんな社会の落伍者でしょうか」
「それもよくわからんのですが、私の感じでは、そういう連中は二割ぐらいのもんでしょう。一割は、田舎から出て来て、湯屋の三助、米|搗《つ》き、出前持ち、商家の飯炊きなどの口を探して待機している連中で……あと七割は、落伍もへちまもない、はじめからここに生まれ、ここで死んでゆく人々じゃないかと思います」
長谷川は気がついて、うながした。
「立ちどまって、見物してちゃいけない。歩きましょう」
彼らはまた歩き出した。
「ああ!」
と、内村鑑三は、嘆声を発した。
「ここと接して、すぐ南隣りに赤坂離宮がある。天皇陛下は御存知なかったのか。何を見ておられたのか。……」
――明治六年五月、皇宮炎上して天皇はその赤坂離宮に移られ、おととし明治二十一年十月、新宮城成って帰られるまで、約十五年間、天皇はそこにおられたのであった。
「いや、天皇を責められない。私も知ったのは最近のことだ。……私は、東京のだれよりも、まずこの人々に福音を伝える義務がある」
「内村先生、お言葉ですが、ここの人々の魂は、大体において健全ですよ」
長谷川辰之助はにがい笑いを浮かべていった。
「私はいつぞや、わざわざここの木賃宿に泊って見たのですがね。そこで、こんな光景を見たのですよ」
彼は話し出した。
「宿泊代は三銭でした。二十帖くらいのむしろ敷きに、相客は十何人。襦袢《じゆばん》一枚をひっかけた立ちん坊に、ふんどし一本の土方、煮しめたような着物を着た飴売りの爺さん……といったたぐいの連中で、灯といえばまんなかの柱に打ちつけたブリキの箱の中のランプ一つ、五寸くらいに切った杉丸太を何だと訊くと、それが枕といったありさまです。そこにはいりこんだ私は、十分もたたないうちにわき腹のあたりに何かムズムズするのを感じ、手で探してみるともう虱《しらみ》がとりついていることを知りました。
そこに、蝙蝠《こうもり》直しの夫婦がはいって来ました。三つか四つの男の子を連れています。亭主のほうは肺病らしくしきりに咳をしていましたが、女房のほうはまったく屈託《くつたく》がなく、まず一座を見まわして、『マア、たくさんこと、おじさんが』と、子供に笑いかけました。
そしてみんなに挨拶してその中に坐りましたが、その御面相たるや、色黒く鼻ひくく唇あつく、とても女とは見えない醜貌です。それでいて、何ともいえん愛嬌がある。
そばで日雇《ひよう》取りらしい一人の若者が、破れた襦袢の袖を縫おうと苦心しているのを見ると、彼女は冗談をいいながらその針を奪って、たちまち縫ってやりました。
その全然ものにこだわらないようすを見ていて、私は、ひょっとしたらこの女は、牢屋にはいっても、たちまち周囲の者にこんな姉弟《きようだい》のような親切をつくすのじゃないかと思いました。
子供はだれかから桃を二つもらってはねまわり、だれかれの区別なく首ったまにかじりついています。その冬の世界にはたちまち春風が吹きはじめました。ふと見ると、その醜い女房の顔がいつのまにか美しくさえ見えるのです。大袈裟にいえば、マリアさまのように。……」
聞いていて、雪香はふるえていた。
いや、彼女はここにはいって来たときからふるえつづけている。しかし、先刻までは文字通りの戦慄であったが、これは感動のおののきであった。
「この世界にも、そんな人間がいる……というより、私の見るところによると、ここの人間は、大半、外の世界よりいい人間が多いようですな。彼らは、俥夫、三助、米搗き、下男、下女、屑拾い、とにかく社会の下段にいることを天命と覚悟して、それ以上の希望は持っておりません。身を粉にして働いた賃金ですら、多きをむさぼりません。……彼らは、健全な人々ではないでしょうか?」
決して寡黙《かもく》家ではない内村鑑三も、黙って歩いている。両側はまた例の難民部落のごとき掘立小屋の行列であった。
「いや何、そういったからといって、ここに住んでいる連中が、みんな君子《くんし》や仙人であるはずがありません。ここは極楽じゃありません。それどころか、ごらんのごとく地獄にちがいない。彼らはやむを得ず、地獄を変てこな極楽に変えているのです。それが何かのはずみで業火《ごうか》に照らされて、やっぱり地獄であることを知らされたとき、彼らは暴動を起すか、魂の救いを求めるか……それは私にはわかりませんが、ここにその火を持って来るものは、耶蘇教じゃないような気がします」
長谷川辰之助はつぶやいた。
「その火を持って来るのは、きちがいじゃあるまいか、と、なぜか私は思います。怖ろしい邪教的人物がはいって来たとき、はじめて彼らは動かされる。……それでどういう状態になるか、見当もつきませんが。……」
迷路のせいか、この集落は、東京のある一区劃ではなく、無限の拡がりを持つ魔界のように思われた。
その一つの路地を曲ると、すぐ眼の前のどんづまりの小屋にぶつかって――彼らははたと足をとめた。
その小屋はちょうど真西に向っていたと見えて、真っ赤な夕日を受けていた。――
夕日はそれ以外の場所にも同じようにあたっていたはずだが、ふしぎなことに、先に述べたように、あとになると雪香にはすべてが夜の世界のように記憶されたのだが、その中で、この小屋だけが、まるで燃えあがる炎の中の絵のように印象されたのだ。
はじめ、それが何だかわからなかった。ただ人間の手足が蛇のようにもつれ合っているとしか見えなかった。
数十秒後、その怖ろしい絵の正体がわかって、五人は息をのんで棒立ちになっていた。
なんと、横たわった一人の女に、三人の男がとりついているのだ。
女は――一人の男が口を重ねているので顔はよく見えないが、肌から見て若い。肌から見てというのは、着物はまとっているけれど、事実上全裸といっていいありさまだったからだ。もう一人の男は、乳房の一つに吸いつき、もう一方の乳房をひっつかんでもみねじっている。そして、最後の一人の男は、おしひらいた女の両足の間にあぐらをかき、烈しく腰を前後にゆすっているのであった。
その三人の男は、ボロを着ているものの、これまた裸に近く、いずれもたくましいが、毛だらけ、髯だらけ、垢だらけで、それどころか、どうやら吹出物らしいものが、身体のあちらこちらにテラテラとひかっていた。
「あ、ありゃ何だ?」
と、内村鑑三はうめき、
「やめさせなくちゃいかん、やめさせなくちゃ!」
と、つかつかと歩き出そうとした。
その両腕を、うしろからぐいとつかまえた者がある。稲城黄天であった。
「先生、あぶない」
といって、内村の背後から首をにゅっとつき出して、その光景を眺めている。
「あぶないなど、いっておれるか。あれは誘拐した女を犯しているのではないか。早く、救わなくちゃいかん、こら、手を離せ」
内村は身をもがいたが、稲城は怖ろしい怪力で、
「もう少し、ようすを見ようじゃありませんか」
と、離さなかった。――変な用心棒もあったものだ。
この日の稲城黄天は、内村にはばかってか、彼らしくもなく黙々とついて歩いていたが、このときやっと持ち前の図々しさをとり戻すどころか、内村を荷物みたいに押えて、眼をギラギラとひからせて前方をのぞきこんだ。
そのとき、女の口に吸いついていた男が、頭をずらして頸すじあたりに牛のような舌を這わせはじめ、そのために女の首を抱き直したので、がっくりのけぞった女の顔が見えた。
美しい。あきらかにここの女ではない。
凄艶無比のその女は、乱れた黒髪を垂らし、眼をとじ、口をあけている。奇怪なことにその表情は、恐怖ではなく苦痛ではなく、恍惚と陶酔の極致にあるかに見えた。
「――ああ、わかった!」
と、長谷川辰之助がうめいた。
「あれは、さっき通った私娼窟の女にちがいない。……」
「なに、あそこの女?」
内村が顔をふりむけた。
「それが、どうして、ここへ?」
「話には聞いていました。あそこの女の中で、一、二を争うきれいな女で、わざわざこの貧民窟へ来て強姦してもらうのを趣味にしている女があると」
「………」
「もともとが、ちゃんとした商家の妻だったのが、好きであの私娼窟に落ちて来て、それでもまだ満足出来ないで、ときどきここへはいりこんで、あんな目にあわされてはじめて満足するらしいのです。あれがその女にちがいない。……」
「………」
「ああ、世に不可解な女もあるものですなあ。ごらんなさい、女はヨダレをたらしています!」
雪香はしゃがみこんで、鳩の籠を地面に置いた。それまで立っていて、これだけの動作をするのが精一杯であった。次の瞬間、彼女は視界が暗くなり、何もかもわからなくなった。
地に倒れた雪香に気がついて、
「ほ? だいぶ刺戟が強過ぎたようだ」
と、つぶやいたのは稲城黄天である。そして、彼もしゃがみこんで、ゆさぶって、雪香が完全に失神しているのをたしかめて、
「いかん、こりゃ重症じゃて」
と、あわてた顔をふりあげた。
「抱いてゆきなさい。……ゆきましょう」
と、嗄《か》れた声でいったのは下山宇多子だ。彼女は、片袖の袖口を指先でつまんで、お高祖頭巾の前にかざしていたからよく見えなかったが、頭巾の間からのぞいた眼のふちは、ぽっと赤らんでいるようであった。
そのまま宇多子は、よろめきながら歩き出した。……そのいまわしい光景を見てから、三分とたっていなかったろう。
「いや、これはえらいものをお見せしました」
と、長谷川辰之助も狼狽の態であったが、
「が、まあ、いまいったようなわけで、あれは犯罪じゃないのです。次元を異《こと》にした世界の、次元を異にした出来事だと思って、先生、見のがして下さい」
と弁解した。
内村鑑三は、ただうなり声を発しただけであった。
女を強姦している三人の男たちも、ようやくこちらに気がついたようだ。が、別に驚いたようすもなく、恥じたようすもない。顔が見えたが、毛だらけ髯だらけで、一見もの怖ろしいようだが、よく見ればいずれも愚鈍善良な容貌であった。
「あっ、そっちはちがいます!」
急に長谷川は、向うの角をフラフラと曲りかけた下山女史のほうへ追っかけていった。彼女が反対に回ろうとしたのに気がついたのだ。
「いや、先生」
黄天は、軽々《かるがる》と両手の間に雪香を抱きあげながら、内村をふりむいた。
「いちど下山女史など見学する義務がある、とおっしゃったそうだが、なるほどお言葉の通りです。……いや、皮肉ではありません」
大まじめな顔で、
「貴婦人は、ああいう光景も見学する義務がありますわい」
これにも内村鑑三は、またうなり声をあげただけであった。
彼らは、来た方角とはちがう伊賀町のほうへぬけて、やや広い通りに出た。黄天は雪香を抱いた上に、右手に鳩の籠をぶら下げている。
まったく、とんでもない見学になったものだ。――弁解はしたものの、長谷川辰之助も間の悪そうな顔をして、気をもんで大通りを駈けまわって、空俥をまず二台呼んで来た。
一台に、下山女史が乗り、次の一台に黄天が乗る。黄天は、まだ気を失った雪香をわんぐりと膝に抱いたまま乗った。
「……大丈夫かね?」
いままで口をきかなかった内村が、不安そうに声をかけた。
彼はその娘を下山女史の秘書と心得ているばかりで、彼女がひそかに自分の弟子になりたいと望んでいたことなどは知らない。が、たったいちど自分のところへ使いに来たその娘を、いかにも清純で、しかも内部に烈しいものを秘めているらしいことを感じていた。――そしてまた、きょうはじめて逢った下山女史の用心棒なる男を、正体は知らないながら、その肌に半獣神的なものを嗅いで――それで、思わず、そんな言葉を投げたのであった。
「大丈夫でごわす」
と、稲城黄天は、俥上で悠然と、西郷さんみたいな口をきいた。
そういわれれば、何もいうことはない。そこへ、長谷川がもう一台、空俥を呼んで来た。それに乗ると内村鑑三は、一語の挨拶もせず、これはニーチェみたいな深刻無比の顔つきで先に駈け出した。――彼の心中は知らず、ほうほうの態とはこのことだ。
黄天は、雪香の胸のあたりを無遠慮になでまわし、
「ほ、こんなものを持っておる」
と、つぶやいて、一本の短刀をとり出し、自分の帯にさしこんだ。
それから、ちらっと下山女史の俥のほうを見て、
「麹町平河町四丁目へ。――」
と、いった。
日は沈んだものの、まだ黄昏の光の残る町に、あと、とり残された長谷川辰之助は、それぞれの俥のゆくえを見送っていたが、ピシャリと自分の頬をたたいて、
「やっぱりおれは、クタバッテシメエ、か。……」
と、沈痛な声でひとりごとをいった。
……自分が空中を泳いでいる。
空中ではない。水の中だ。――いや、もっと粘っこい何かが満ちている世界だ。その中を、うつ伏せになったり、仰むけになったりして、もがきながらただよっている。苦しい。のがれたい。しかし、自分をつかまえているものがあって、のがれられない。眼には見えないが、乳房あたりと膝のあたりを、ふとい縄のようなものが縛っているようだ。
くるりくるりと身体がまわる。うつ伏せになったときに見た。――下界から、何千匹という黒い蛇がかまくびをもたげて、海藻のようにゆらめきのぼっているのを。
そのかまくびが吐く赤い舌が、ともすれば自分の身体にふれようとする。と――その蛇が、ただの蛇でなく、うねる胴にみんな黒い毛がはえているのに気がついた。そのいやらしさに吐気をおぼえたとき、蛇がめらめらとどす黒い煙に変った。煙ばかりではない。下界のほうに赤い火が見える。
みるみるそれは、地の下から天へかけてどよめきのぼる紅蓮《ぐれん》の炎となった。その炎が、ついに自分の下半身をチロチロとなめはじめ、そのあたりに灼熱の痛みをおぼえ、
――明石さん、助けて!
と、彼女はさけび――さけんだつもりで、雪香は眼をひらいた。
身体が熱病のように汗ばみ、まだ息があえいでいた。眼はあけたが、視界は暗い。――彼女は、自分がまだ夢を見ているのかと思った。
が、やがて自分が夜具の中に横たわっているのを知って、ここが現実の世界だと知った。
――私はいったいどうしたのだろう?
雪香は、身を起すとともに、あの怖ろしい光景を思い出した。そうだ、自分は鮫ヶ橋の貧民街で気を失った。――あれから、自分はどうなったろう?
われに返って見まわすと、四界は闇黒ではない。ふしぎな微光がさしている。
足もとのほうの壁に、四角な青白い光がある。どうやら三尺四方ほどの障子で、その向う側は夕闇の外界らしい。日のいちばん長い季節で、まだ四方にかすかながら光が残っているのだ。
枕もとのほうを見ると、そちらの壁から小さなまるい赤い灯が浮かんでいる。その光で、枕もとに鳥籠が置かれて、その中に静かにとまっている例の鳩が見えた。鳩の籠もここに運ばれて来たのだ。
――ここは、どこだろう?
雪香は、その枕もとのほうの、赤い灯のほうへ歩いた。するとそれは壁ではなく、杉戸らしいものにあいた刀の鍔ほどの小さな丸い穴で、しかも透かし彫りの鍔のようになっていて、灯はその向うからさしていることに気がついた。
それに眼をおしあてて、彼女は息をのんでいた。
忘れてなろうか。――そこには、二度呼びつけられたことがある。それはあの神道占の赤い祈祷室であった。
天井も壁も真っ赤なその部屋に、四本の大蝋燭が燃えしきっている。そのために雪香のいる部屋のほうへ、赤い光がさしこんでいたのだ。
いつもいる巫女たちはいない。しかし、見よ――中央の白い祭壇に抱き合っている男と女がある。
男は女をあぐらの上に抱いて、あおむけにした女の口を吸っている。こちらに身体をむけているのは稲城黄天だ。女はしばらくだれかわからなかったが、それを下山宇多子と知った刹那――雪香は、四本の大蝋燭の火がいっせいに紅蓮と化したかと思った。
彼女はのけぞるように穴から眼を離した。
――あれは何かしら?
――いえ、これはさっきの悪夢のつづきじゃないかしら?
雪香はもういちど夢か現実かをたしかめようとして、穴に眼をあてた。台上の景は、ますます信じられないものになっていた。下山先生が、さっきの姿勢のまま真っ白な腕を黄天の頸に巻きつけ、その裾がひらいて、一方のふとももがむき出しになっているのだ。
そのとき黄天が、口を離して顔をこちらに向けて、ニタリと笑った。
雪香はふたたび、穴から飛びのいていた。
――あの男は、自分がのぞいていることを知っている!
雪香は薄闇の中に棒立ちになり、瘧《おこり》にかかったように全身をふるわせていた。
稲城と下山先生のこともわからないが、いったい自分がどうしてこんな立場におかれたのかも不可解だ。
とにかく自分は、鮫ヶ橋の貧民街で気を失って、その間に、いかにしてかこの平河町の神道占の道場に運ばれて来たことは明らかだ。
このまま、ここにはいられない。
彼女はまわりを見まわした。穴の灯影があるので、部屋の中は朦朧《もうろう》と見える。闇に眼がなれて来たということもある。
穴のあいているのは杉戸だが、それをあけるわけにはゆかない。一方に、これも杉戸の面があったので、そこへ駈けよってひいたが、微動だもしなかった。もう一面の窓らしい三尺四方の障子をあけると、外には櫺子《れんじ》がはまっていて、これまたビクとも動かなかった。最後の一面は壁だ。
自分が外からここへ連れこまれたことはたしかだが、何のためか外へ出られないように閉じこめられていることを彼女は知った。
反射的に、懐にいれていた短刀を探ったが、それはなかった。
雪香は、鳥籠の鳩を見た。それから、部屋の隅に机があり、机の上に洋燈《ランプ》と硯《すずり》箱が置かれているのを見た。ここは時によって、ふつうの座敷にも使えるようになっているらしい。
彼女は惑乱した眼で、あれを見、これを見ていたが、ふいにその机の上に駈け寄り、たもとからハンケチを出し、歯でひき裂いて細い布とし、硯箱の筆を噛んで、
「しんとうせん。ゆきか」
と、その布に書いた。
ついで、籠の中から鳩を出し、細い足についた竹の管《くだ》に、筆の先でそれを押しこむと、さっきの櫺子窓のところへ寄り、鳩を押し出した。――
格子のすきまは、腕も通らないほどの間隔であったが、鳩はフンワリと外へ出た。
鳩という鳥は、毛や羽根で外見はあの大きさに見えるが、実体は意外に小さいものである。雪香は何度か抱いて、それを知っていた。手品師が帽子の中から鳩を出す奇術は、その錯覚を利用したものだ。
鳩は軒をかすめて、ハタハタと舞いあがった。
――もし何かあったらこれを飛ばしてくれ、と明石元二郎が弟に渡していった鳩を、念のために貧民街探険に伴っていったが、それをいま、こんなところで放とうとは!
しかし雪香は、実は伝書鳩の知識はなかった。雪香ばかりではない。わずか三年ほど前、はじめて陸軍で内々試みはじめた伝書鳩だ。そのころの人間はほとんどそれについて知らなかったろう。
鳩が夕闇の空を飛ぶものか、果して赤坂の黒田屋敷へ飛んでゆくものか――彼女には、何の確信もない。
雪香は、あの怖ろしい穴に背をむけ、冷たい夜具の上に崩折《くずお》れるように坐り、胸に指を組んで、あえぐようにつぶやいた。
「……明石さん、助けに来て!」
おどしっこ
高等官五等、華族女学校学監下山宇多子は、いかがわしい町の占い師稲城黄天に犯された。――
こういうと黄天が、肩をゆすって笑い出すだろう。なに、そっちが飢《かつ》えて、おれの尻にくっついて来たのだと。
たしかに、さっき鮫ヶ橋で、論外の凄惨凄艶な光景を見物したあと、下山宇多子のようすが異様なものになったのを看破したのは彼だけだ。彼は、宇多子から匂い出したある体臭まで嗅ぎあてた。
俥に乗ってから、それをちらと見て、黄天は、「平河町四丁目へ――」といった。自分の屋敷だ。それに対して宇多子は何もいわず、黙ってここへやって来た。
自分で望んでこうなったのだ、と黄天はいいたいところだろうが、しかし彼にとっても待望かつ望外の一夜となったことは疑えない。高い樹の枝でゆれていた豊熟の果実が、時ならぬ一陣の風で、下で口をあけていた自分の腕に落ちて来た思いである。
事ここに至るまでには、一人の野心的な女と、一人の野心的な男との、本人たちにとっては真剣な、第三者にとっては少々可笑しみもある、長い攻防があった。――
前にも述べたように、下山宇多子は岐阜県恵那郡岩井の生まれだが、稲城黄天がまた同じ岩井の出身であった。
少年時、彼はその岩井の寒窓寺という寺で小僧をやっていたという。おそらく百姓か何かの子であったのではあるまいか。
それが、二十歳になるかならないかで東京に飛び出して、京橋南八丁堀にあった私立小学校の教師になった。当時、十四、五歳で地元の小学校の教師となる、などいう例は別に珍しくない時代であったが、それにしても岐阜の田舎から出て来てすぐに東京の小学校の先生になるとは、彼がただの青年ではなかったことをうかがわせるに充分だ。
この私立小学校の名は、鈴木小学校という名であったが、面白いことに、ここで役者の初代中村吉右衛門、二代目市川左団次、日本画家の鏑木清方などが、七つ八つのころ、彼の教え子となっている。
その教え子の一人は後年回想していう。
「この先生が始めて教室に顔を出した時は、そのころ一般に嫌がられた壮士のようで、怖《こわ》らしい先生が来たと思ったが、慣れるにつれてその野性的な、山出しの書生ッポという様子が、却って生徒に親しまれて、いつか人気のある先生になった」
稲城黄天の野性味、荒っぽさ、そして一種の人なつっこさは、すでに廿歳《はたち》前で子供たちの眼に、その通りに映《うつ》ったのである。
彼はそれに加えてまた、稲城先生が自分たち数人の子供を連れて、富士見町あたりの、やはり同郷の先輩大島健一という軍人のところへ遊びにいったことを述べている。
大島健一はのちに陸軍大臣となった人物だが、このころは砲兵中尉であった。清方らはその家で自分たちとは二つ三つ年下の男の子を見たはずだが、その子供こそ、後年昭和期に駐独大使となり、熱狂的なヒトラー信者となり、日本を日独伊三国同盟という亡国の運命にひきずりこんだ大島浩である。
薩長閥とは縁のない美濃岩井藩の出身としては、砲兵中尉も郷党の出世組であったかも知れない。それにしても、そこへ教え子とはいえ幼い子供たちをだしにして連れてゆくとは。――この話は、稲城黄天がその若さで、いかに自分も頭をもたげる手蔓を求め、かつそのためにはいかに臆面もない若者であったかを物語る。
これが、明治十七、八年ごろの話であったろう。
彼が小学校の先生などになったのは、まったく上京直後のいっときの腰かけであったが、それでも彼は、たとえ子供相手にしろ、とにかくもったいぶって人に説教するというテクニックだけは身につけたものと思われる。
それから、一、二年、どこへいって何をしていたかわからない時期があって、明治二十年ごろから、忽然《こつぜん》と平河町四丁目に、「伊勢神道占」の大看板をかかげ、荘重な白衣白袴《びやくえしろばかま》に、年のほども知れぬ黒髯をはやして鎮座する姿を現わしている。
このころから晩年に至るまで、客の前で大喝一声、白刃を素手でしごいて相手の胆をうばう芸当をよく人に見せたというから、それまでどこかで行者か修験者の修行でもしていたのかも知れない。
彼はしかし、一介の市井の占い師として終るつもりはない。
藩閥、身分、武功、政略、財力、学問などの力で、いまの世に権勢をふるう地位についた人々と同じクラスに――さらには、彼らを自在に支配する存在に昇ろうという、途方もない野望をいだいている。
黄天は、いつのまにか、自分が人を信じさせるある力を持っていることを自覚していた。自分の占いにさえ、ある自信を持っていた。この二つの能力はたがいに相関している。
ただしかし、占い商売だけでその目的を達せられると彼は考えていない。彼はそれに、ハッタリ、ホラフキ、コケオドシが必要であると確信し、かつそれを図々しく、大胆不敵に実行した。これは意志的だが、彼の天性のユーモア、野獣性、神経のずぶとさがこれを可能とした。
さて、稲城が神道占なるものの客に、なるべく上流階級や軍人家族をえらぼうとしたのも右の願望からだ。
いわんや、同郷の出世組を利用しない手はない。すでに小学校教師時代、大島中尉にさえ近づいたくらいだから、その後、下山宇多子という、華族女学校の学監で、皇后陛下の歌のお相手までやっている女性が、同郷人だと知って、その門をたたくのにためらいのあるはずがない。
最初いちど逢ってくれたが、次からは門前払いをくわされた。いくら同郷でも、身分ある宇多子が、相手がえたいの知れない町の占い師だと知って、出入りをゆるすわけがない。知的で優雅な下山宇多子と、どこかうさんくさい、下品なところのある稲城黄天とは、だれが見ても不つり合い至極なものと思われた。
が、そんなことでひるむような黄天ではない。蛙のつらに水で、おめずおくせず何度も手土産など持って訪れて、とうとう桃夭女塾へ出入りするようになった。そのうち宇多子も、やっとこの男に一種の可笑しみと面白味をおぼえ出したようであったが、それでもどちらかといえば当惑顔であしらっていた。
その二人の関係に、ある変化が生じたのは、去年の二月になってからのことだ。
その契機が、なんとあの森文部大臣暗殺事件なのである。
――それを語る前に、下山宇多子に一人弟があったということを述べなければならない。六つ年下で、|※[#「金+帝」]蔵《ていぞう》という。これが姉とちがって全然無能力で、おまけに姉に似て美貌の持主であったのがかえって災《わざわ》いして、若いころからの遊里がよいの行状がおさまらず、借金の山を作る生活からのがれられない男であった。一家のためもあるが、宇多子はこの弟を何とかまともな人間にひき戻そうと努力した。――このあたり、何やら後年昭和時代、演歌の女王といわれたある女性歌手を思わせておかしい。
さて宇多子は、借金を解消するためと弟の身をかためるために、小学校の教科書の検定制度というものが施行された明治十九年、みずから全九冊の「小学読本」を著述し、その発行者を弟平尾※[#「金+帝」]蔵とした。
才気煥発の彼女は、英語を国語とせよとまで提唱した時の文部大臣森有礼の持論を考慮にいれて、一年生の読本に英語を入れた。「いぬ・Dog」「をとこ・Man」「をんな・Woman」といったぐあいである。
これが、彼女にとっては意外千万にも不採用となった。
宇多子の努力は水泡に帰し、弟の借金を返してやるどころか、知る人ぞ知る世界では、彼女自身二万円の負債を負う羽目になったと伝えられた。――
それはともかく稲城黄天が、桃夭女塾を訪れて、思いがけぬことをいい出したのは、森大臣の横死後十日目くらいであった。
「下山先生、えらいことになりましたな」
「何ですか」
「森閣下の御遭難の件でござります」
「森閣下? 森文部大臣のことですか。それは大変なことですけれど……それがどうかしましたか」
「はあ、あの刺客の西野文太郎という男ですな。あれは私の神道占に興味があるといって、以前から私のところへ出入りしておった者で」
「まあ、それはほんとうですか。……どんな人だったのですか」
「一言でいえば、怖ろしく昂奮し易い男で……」
「そうでしょうねえ」
「それからもう一つ、どういうわけか、いや、あなたがどこかへ馬車でゆかれる女官姿をかいま見たと申しておりましたが、大変あなたにあこがれておった男で……まるで天上の花のように」
宇多子はまばたきした。
ついで稲城は困ったような表情でいった。
「いま私は後悔しておるのでござりますが、そこで私、つい、あれに下山読本のことを話したのです」
「下山読本……ああ、あのことですか。それが何か関係があるのですか」
「いや、何の関係もありません。先生のあの読本が教科書として御採用にならなんだことと、森大臣の死とは何の関係もござりません。しかし、とにかくその読本のことをあいつにしゃべってから、三日目にあの事件が起ったので、私は妙な気がするのでござります」
「なぜ?」
「それを世の中に知られると、ですな。その件であなたが森閣下に非常な御不満を持たれ、その御不満が私を介してあの西野の庖丁に変ったのではあるまいか、と――」
「馬鹿なことをおっしゃい!」
宇多子はさけんだ。
「だれが、そんな途方もないことを! 私は西野という人など知らないではありませんか」
「ですから、私を介して、と申しておる。いや、あなたが西野を御存知ない、という証明も世にはつかない。で、そのような途方もない、馬鹿げたことをいい出すやつが出たら困る、と私は心配しておるのでござります」
黄天は髯をしごいた。
「花に嵐のたとえもござる。この世の中には、すぐれたもの、美しいものに対しては、理も非もなくヤキモチをやき、それをひきずり落し、泥まみれにしてやることをもって何よりの快とする連中が少なからず――それはすでに、あなたの御才媛ぶりを妬《や》いて、伊藤伯やら井上伯やらが、眼じりを下げて、あなたのお尻を追いまわしておる、などいうあられもない噂をたてるやつがあることで、あなたも御承知ではござりませんか?」
下山宇多子は、黙って、この相手を見つめたきりであった。
いっていることの内容もさることながら、その顔つきで黄天が自分を脅迫していることを彼女は知った。
そして宇多子は、あとになればなるほど、この脅迫が一笑に付すべき性質のものではない、と考え出したのだ。
たしかに「下山読本」一件は彼女にとってひどい打撃であり、本音を吐くと森有礼に対して不快であり、大袈裟にいえば殺意に近い感情をいだいたこともある。それを外部に見せたことはないつもりだが、稲城はやはり看破していた。――
そのことに驚くよりも、ほんとうに世間はそういう自分をみな見ぬいているかも知れない。もし森有礼を殺した男が自分と相知の縁にあったという風評がたてば、あの暗殺が自分のそそのかしたものであったといいたてられても、自分はどうすることも出来ない。
そして、暗殺者が自分と関係があったかなかったか、ということは、事実とは別に、稲城黄天のおしゃべり一つによって決せられるのである。彼はすでに上流階級の子女を身のまわりに集めている。――
それを承知で、あの痴《し》れ者は、自分をおどしたのだ。
――なんぞ知らん、稲城黄天は、同じ森大臣暗殺事件を、伊勢の神官竜岡左京一家を脅迫するたねにも使っていようとは。
まったく無関係な事件を自分用の怖るべき武器に変えるという彼の手はここでも発揮されたのである。
宇多子は最初稲城を見下していた。近づいて来られることに、迷惑顔をしていた。が、そのうち彼の臆面のなさに、これはこれで面白いところもある男だと笑い出すようになり、いまでは軽蔑感と親愛感と、半々というところであった。
それが突如として、この男は実にたんげいすべからざる怖ろしい男だ、という認識に変った。
稲城黄天は脅迫している。森大臣暗殺事件の教唆《きようさ》者は、文部省によって下山読本を拒否されたこの下山宇多子だ、というデマで脅している。それを防衛する法があるか。――ない、という結論に彼女は達した。
むろん法律的にどうこうという問題ではない。しかし、その噂をたてられたら、それは瘴気《しようき》のごとく世の中にひろがってゆくだろう。法律的処罰以上の害悪を自分にもたらすだろう。
彼女は――ちょうどあの竜岡左京と同様の――社会的地位からすればはるかに重大な恐怖の影の中に自分が投げこまれたことを知った。
しかし、さすがに下山宇多子だ。
ただ脅されてすくみこんではいない。彼女は彼を使いこなす決心をした。
後年、下山宇多子と稲城黄天の間の醜関係が執拗に伝聞された。
稲城が、いわゆる「青山の行者」として、山県有朋、桂太郎、田中義一、松方正義、犬養毅、原敬、後藤新平、頭山満らまで手玉にとる政界の黒幕的存在となったのは、宮中に深く参入する宇多子の情報で、彼ら政治家がおたがいに知らない政官界の機微をつかみ、それをいかんなく利用したからだということである。
これは主として、明治四十年に「日刊平民新聞」に連載された「妖婦下山宇多子伝」の曝露記事によるもので、明治十二年彼女がまだ宮中に仕えていたころ、伊藤博文によって犯されるところなども講談調で書いてある。それ以来彼女は上流社会における稀代の妖婦と化し、井上、山県らをもおのれの肉の奴隷にしてしまう、というお話だ。
――これが連載されてから三年後、明治四十三年、「平民新聞」の主筆幸徳秋水が大逆事件の罪に問われたのは、右の記事に深怨をいだいた宇多子が稲城を使って、大逆事件に連座した一味の奥宮健之を罠にかけて、その事件をデッチあげるいとぐちを作った。――つまり大逆事件は下山宇多子の復讐だ、という説すらある。
「平民新聞」は無政府主義者の発行するものだから、ためにする悪意のスキャンダルだといわれてもしかたがないが、報知新聞記者松本米次郎著の「密書を手に入れるまで」にも、宇多子が稲城に送った手紙の一つを写真入りで紹介しているが、その中に、「かの御あたりの消息は不及乍《およばずなが》ら力の限り悦びて尽し申す可《べ》く……」などの文句がある。「かの御あたり」とは宮中をさしている。宮中で得た情報は出来るだけ教えるという意味だ。
また明治四十年に宇多子は、乃木学習院院長によって学習院教授を罷免《ひめん》されるのだが、これについて牧野伸顕はその「回顧録」で、「下山女史は(中略)金銭及び品行の問題でとかくの評判が伝わり、教育者として気遣われていたが、遂に乃木院長がその罷免を決心するに至ったのである」と、書いている。
「平民新聞」といっても部数はきわめて少なく、当時一般にはほとんど知られていなかったから、それで乃木希典が左右されたということはあるまい。右の文章の中の「とかくの評判」は、ほかの筋からも聞えて来たものにちがいない。
げんに、すでに明治二十年に、当時貴族院議員であった尾崎三良が、その四月十七日の日記に「……此頃の舞踏政略により在朝人の内に種々の醜行を伝播《でんぱ》するものあり、或は下山宇多子が伊藤の私生児を生みたりとか、(中略)或は某伯の妻を姦したりとか、実に聞くに堪《た》えざること多し」と書いている。
下山宇多子の艶聞は早くから有名だったのだ。
宇多子は自分の才気とともに、その美貌を充分意識している。そして、それをいかに魅力的に利用するかということを、いつも計算している。しかし、むろん娼婦的な手管《てくだ》を使うことは彼女のプライドが許さない。
宮中や華族女学校で、彼女は政治や学問の会話をするのだが、それが牡丹のような豊艶さなので、相手になる男性は一種の惑乱をおぼえるらしい。しかも、たっぷりと愛嬌をたたえているので、ついふらりとなみの美人に対するような態度を見せると、たちまち凜然冷然とやっつけられる。――豪放ぶった政客や謹厳な学者が、自分の放つ七彩の光で、赤くなったり青くなったりするのを、彼女は甚だ興味をもって観察した。
伊藤博文が宇多子に手を出したかどうか、山県らが悩殺飜弄されたかどうか、は永遠の謎である。
が、彼女について伊藤は、「下山さんは大臣になる器《うつわ》があります」と保証し、山県は「清少納言、紫式部以来、あんなにえらい女性は生まれなかったろう」と感服し、いいたい放題の大隈重信も、「その大胆なところ、図々しいところ、真に女傑だ」と、妙な太鼓判をおしている。
その一代の才女下山宇多子にも、しかしだれも見ぬくことの出来ない、不可思議なる、ある深層心理があった。
それは野獣のような荒々しい男に抱かれたい、という願望であった。
それならすべての女の望みで、べつに深層心理というほどのものではあるまい、という人があるかも知れない。
しかし宇多子には、一方で雲上の世界に身をおいて、ジェントルマンと呼ぶにふさわしい男たちと対等の交際をしたい、いや彼らにも尊敬されたいという望みも切なるものがあったのだ。そして彼女には自信があった。その望みと自信は甚だ強烈であったから、獣のような男に犯されたいという願望は、足で深く深く押し沈めなければならなかった。――彼女にとっては深層心理というゆえんだ。
かつて、いちどこの心理が噴き出したことがある。
彼女が二十五のときの結婚がそれであった。
まだ身分は低かったとはいえ、その美しさと聡明さは宮廷に聞え、すでに皇后から宇多子という名まで与えられた彼女が、市井に道場をひらく下山|猛雄《たけお》という容貌魁偉の一剣客の妻となったことは、人々を唖然《あぜん》とさせたものだ。
あれほどの才女なら、然るべき家柄から降るほどの縁談もあったろうに、と、みないった。そして彼女の無欲にだれもが感心した。――
ところが宇多子から見ると、然るべき家柄の子弟に、自分の好ましい男は一人もいなかった。みなヘナヘナのお坊っちゃんばかりであった。政府の中枢にいる大官の中には、意外に野獣性を感じさせる人間もあったが、それらにはいずれももう奥方があった。
実は宇多子は、そんな夫を持っても、やがてまた宮廷に帰参する自信があった。その結婚に対する周囲の讃嘆も予測していた。
しかし、そんなことより何より、彼女はその時点において、下山猛雄という髯と筋肉のかたまりのような男にひかれたのであった。彼女の深層の渇望の対象として、彼よりふさわしい人間はなかった。
で、宇多子は結婚した。
その結果、失望した。
髯と筋肉のかたまりは、文字通り張り子の虎であった。剣術が強かったのは事実だろうが、これが宇多子を怖がるのである。怖がるだけならまだいいが、そのくせ甚だ女性的にヤキモチをやくのである。
猛雄は酒にのがれ、溺れ、胃潰瘍になった。五年間、寝たり起きたりしたあと、夫は死んだ。
すでに宇多子は夫から反転し、桃夭女塾をひらいている。夫の死後の翌年には華族女学校の教授になっている。宮内省御用掛として再出仕している。
宇多子は男にはコリた。彼女は、その才能と全精力を貴婦人としての生活の上昇にむけた。――
そして、盛名世を圧するようになったところへ、同郷の後輩稲城黄天なる男が、海坊主のようににゅっと頭をつき出して来て、とんでもない脅迫をはじめたのだ。
さて、彼女は彼を使いこなす決心をした。
使いこなす、といっても、どうするか。
宇多子は、自分を見る黄天の眼に、好色の光があるのを認めた。もっとも大官などで、ときにそんな眼で自分を見る男もある。しかしこれは、うさんくさい素性の人間で、しかもこちらより十は若いやつが、厚かましくもそんな大官よりもっと無礼な眼で自分をのぞきこむのだ。
あれの望みはわかっている。それを利用するよりほかはない。
けれど、大官には不可思議なる媚笑で応ずることが出来る。しかし――いつわりにせよ、まさかこんな男に同じ笑顔で応ずることが出来るだろうか。
いちどそう思ったとたん、宇多子は突然自分でもわからない酔いをおぼえた。
ああいう男こそ、私が求めていた男ではなかったか、と思いあたったのだ。町道場の剣客などえらんだのは、まだ自分に遠慮があったのではないか。あのいかがわしい、人を喰った、下品な――そして、たしかに獣の匂いのする男こそ、自分の願望の化身《けしん》ではなかろうか。
――数瞬、彼女は黄天に犯される自分を妄想して、血のどよめくような恍惚に沈んだ。
しかし、それ以後、まだその事態は実現しなかった。――やはり、知性の抵抗があったのだ。華族女学校の学監の自分と、巷の売卜者との醜聞が知られたりなどすれば、すべては破滅だ、という恐怖があったのだ。
黄天が自分に野心を燃やしていることは明らかだが、自分には自分のべつの野心があるのだ。
おどしたあとで、稲城は以前より足しげくやって来る。そして、例の件をほのめかす。
それに対して宇多子は、お芝居でも笑顔で応対しなければならない。
そのうちに黄天は、図々しくそばに寄って来て、手まで握るようになった。宇多子は叱りもせず、抵抗もしなかった。実は彼女は、そんなとき麻痺的な快感に襲われていたのだ。
彼は、いよいよ相手はおどしの罠にかかったと思いこんで、さらに胆ふとく――この早春のある日など、桃夭女塾で酒と飯を要求し、そのあげく、ふいに宇多子を抱擁してついに接吻までした!
――竜岡雪香が「人生相談」にやって来てかいま見たのは、その直後の下山宇多子なのであった。
両人のじゃれ合いはつづいた。それでも宇多子は、まだ不敵な黄天とたたかい、自分の深層心理とたたかい、そしてプライドという観念とたたかっていた。――野心的な女と、野心的な男との危険な遊びは、もう臨界に達しようとしていた。
そこに、その日、はからずも宇多子は、四谷鮫ヶ橋であの光景を見た。闇黒の世界で、美しい女が野獣たちに犯される光景を見た。――
聞くならく、漱石すらも尊敬した独身貞潔のある有名な哲学者は、夜々ひそかに稚拙にして猥褻《わいせつ》なる秘画をかくのを趣味としていたという。それにも似た宇多子の痴夢が、絵どころか、凄艶無比の現実として眼前にもつれるのを見て、彼女は忘我の境におちいった。
雪香のごとく失神しなかったのがふしぎである。
平河町の神道占の家へ連れて来られ、赤い祈祷室の白い祭壇で抱かれたのも夢うつつである。
そこで彼女は犯された。――
いや、犯されたといったようなものではない。
抑圧していた蓋《ふた》が異常に強いものであっただけに、燃えあがった炎はまさに天に沖した。
――前々からの彼女の計算によれば、この巷の占い師が色情をもって自分に対するなら、それに応ずるがごとく応じないかのごとくあしらって、結局うまく使いこなすつもりだったのだが、その計算は、思わざる一陣の魔風によって崩壊した。
そもそもが、あらゆることに精力旺盛であった彼女が、どうしてその欲望の弱いはずがあろう。それが、飢えていたのだ。それどころか、いまだかつてほんとうの満足というものを味わったことがなかったのだ。
伊藤博文から「大臣の器」と評された下山宇多子は、いま牡丹のような豊艶な身体を、稲城黄天のなすがままにまかせた。まかせるのみか、この高等官五等の貴婦人は、あられもない声をあげ、みずからの白くあぶらづいた四肢をその町の占い師に巻きつけ、全身をうねらせ、のた打たせるのであった。
「ほ。……ほ!」
何度も黄天の、分厚い、章魚《たこ》みたいにまるくした唇から怪声がもれた。
笑ったのではない。かけ声だ。――もっとも、大悦の相貌であることはいうまでもない。
かけ声とともに彼は、大臣の器をひろげ、裏返しにし、肩にひっかけ、こねまわす。荘重な髯をはやしてはいるものの、実際は若いことはわかっているが、まったく超人的な精力だ。この男は、鉄棒のごとき無限の筋肉力を持ち、無限の体液を持っているかと思われた。
前に述べたように、この祈祷台には白い夜具が敷いてあるが、宇多子にはそこが蜜の沼と化したような気がした。
周囲が真っ赤な壁と天井で、それに四本の大蝋燭が燃えているのも、ここは異次元の世界のつづきだと錯覚させ、彼女の狂乱を、主観的にも客観的にも人間離れしたものにした。
魔酔のような幾ときかが過ぎた。――時間の経過のほども知れなかった。
彼女は頭上に星を見ていた。――いまはじめてそれを見たのではない。この赤い部屋には窓がなく、天井の三尺四方ほどのガラスの天窓から光をいれる。しかも大蝋燭の出す煙をのがすために、冬か雨の日以外はあけてあるという。そこからのぞく晩春の夜の星を、さっきからそれも魔界の天象《てんしよう》のように見ていたのだが、いま――その星は彼女を現実にひき戻した。
何ということをしたのだろう? 宇多子は、熱くなった身体に、足のほうから氷のさざ波が這い上って来るのをおぼえた。
「……そろそろ、御満足かな」
顔の上に、黄天の顔がかぶさり、なまぐさい息がかかった。
それをおしのけようとしたが、手に力がはいらなかった。涸《か》れはてて、ではない。身体じゅう、稲城の体液でふくれあがり、水死人になったような感じで、突然、稲城の体臭すらゲップをもよおしたくなった。
――実はこの感覚は、のちになれば反覆してまた麹《こうじ》のように発酵してよみがえり、彼女が半永久的に稲城に吸いよせられ、「力の限り悦びて尽し申す可く……」といったような手紙を書かせる根源になるのだが、ともかく今の時点では、彼女をムカつかせ、ついで戦慄させた。
「帰ります」
宇多子はそういい、やっと身を起し、ノロノロと身づくろいをはじめた。着物はちゃんと着たままでそこに坐ったはずだが、半裸にちかい姿になっていて、改めて裸になってやり直さなければならないほどのていたらくだ。
ニタニタ笑ってそれを見ている黄天を、宇多子はきっとにらんだが、相手の不謹慎な顔に、はっと気がつくものがあったらしく、
「このこと、だれにもいってはなりませぬぞ」
と、きびしい表情で注意した。
すると、稲城は急に神妙な顔になって、心配そうに部屋の一方をふりむいた。
「何ですか」
「あそこに、杉戸がごわしょう」
この赤い部屋には、内側を朱塗りにしてあるが、二面にそれぞれ二つの杉戸があった。一つは彼らが廊下からはいって来たものだが、それとは別にもう一面に、やはり戸らしいものがある。どっちも内部から、大きな|かきがね《ヽヽヽヽ》がかけてある。
家に帰って来たとき、稲城は弟子たちに何か命じて追いやり、宇多子だけを連れてここにはいったあと、廊下からの杉戸の|かきがね《ヽヽヽヽ》を黄天みずからかけて、
「いや、いつぞや乱暴な闖入者があって、それ以来こういうものをつけました。これをかければ、外からはいって来るものはもうござらぬ」
と、いったのを宇多子は思い出した。
「もう一方の杉戸です。あの向うには部屋が一つあります」
と、黄天はいった。
「あの二枚の杉戸の引手が、実はのぞき窓になっております」
「……それが?」
「さっき、秘書の御令嬢を運びこんだのがその部屋なので」
気を失った雪香を一つの部屋に運びこみ、弟子に夜具をしかせて横たえたのは、宇多子も知っていたが、向う側の入口であったので、それがここの隣室とはいままで考えなかった。
「……それが?」
「いや、万一気がついて、そののぞき窓からのぞかれていたりなどすれば、こりゃ一大事というわけで」
身づくろいなかばで宇多子はぎょっと息をひいていた。
黄天は祈祷台から下り立ち、そのほうへ歩いていった。
その杉戸の引手が、何のためにそんなしかけにしてあったか。それは、客としてまず台上に待たせた女性を、あらかじめ黄天がつらつら観察するため――ときには、その客を黄天がきょうの下山宇多子のような目にあわせ、べつの女性にそれをのぞき見させるためののぞき窓なのであった。さらにそれは何のためかというと、それはいうまでもない。
黄天は|かきがね《ヽヽヽヽ》をはずし、杉戸を左右にひらいた。
こちらの灯がながれこんで、そこの夜具の上にうなだれている娘の姿を朦朧と浮かびあがらせた。
黄天ははいっていって、それをひきたて、赤い部屋に連れて来た。
「見たか?」
と、ささやいた。――もっとも、最初からその引手のほうを、ちらっちらっと見ていた彼は、むろん雪香がそれをいちどのぞいていたことはちゃんと知っている。
「あなたの先生じゃ。御返事なされ」
と、彼はいった。
雪香は顔をあげ、台の上の宇多子をながめ、みるみるその頬が紅《くれない》に染まった。
宇多子は全身が石になったような思いがした。見られたのである。天地も裂けよ、自分がこの下賤な男と悪夢のような痴態をくりひろげたのを、この清純な弟子に見られたのである。――
「どういたそうかな?」
と、黄天がふりむいた。
宇多子は唇をふるわせただけで、口がきけなかった。本音《ほんね》を吐かせると、冗談ではなく、この娘を生かしては帰せない、というほどの思いであった。が、まさか殺せともいえないが――それなら、自分が生きては外に出られない。
「ただ一つ法があります」
と、黄天は落着きはらっていった。
「それは、この令嬢御自身も、いま見た光景そっくりの目にあわせてさしあげることです。そうすれば、口はふさがれる」
「私は……私は何も申しません!」
顔ふりあげ、雪香はさけんだ。
下山宇多子は、ひくい、しゃがれた声でいった。
「では、そうしてやりなさい」
「お前さんは見た」
雪香を羽がいじめにしたまま、黄天はいう。
「いまの、のぞき穴からだけではない。先刻、鮫ヶ橋でも見た。……あれは地獄ではない。極楽の図じゃ。男と女が、からみ合い、吸い合い、肉をこすり合い、腰を打ち合う。地上いちばんの極楽世界があそこにある。いや、極楽とは仏教か。わが神道においても……」
熱風のような息が首すじを這って、
「うんにゃ、伊勢神官の令嬢なら、お前さんも知っとるじゃろ。イザナギノミコトがイザナミノミコトに、わがナリナリテ、ナリ余レルトコロを、あなたのナリ合ワザルトコロに刺し塞《ふた》いでやろう、と申されたことを……あれこそ高天原《たかまがはら》のお祭りじゃ。……」
と、息が笑った。
「こわがることはない――と、お前さんにいうのは可笑しい。お前さんはその法悦をもう知っとる。味わう前に、その味を知っとる。さっき悶絶したのは、あれを怖れてのことではない。快美のきわみに女が悶絶する、その至境にお前さんが達したからじゃよ。なぜなら、お前さんの身体には、世にもまれなる淫蕩の血が流れておるからの。……」
そういっている間にも、芋虫みたいに先のふくれあがった、大きくて短い指が、十本総動員でグリグリと雪香の乳房をもんでいる。雪香はのけぞり、身をかがめ、またのけぞって悶《もだ》えた。
「その血が呼ぶ。その血がうずく。その血が……燃える!」
呪文のごとく彼はいい、
「そうりゃあ!」
と、わめいた。
雪香は死物狂いに身をひきはがして、逃げ出した。――
「や、こりゃしまった!」
黄天は、弁慶の六法のごとくそれを追いかける。――実際に彼は、そんな手つき、足つきをしたのである。
彼は着物を一枚羽織っているが、あとは丸裸だ。弁慶どころか――その姿で駈けると、それは大《おお》蝙蝠《こうもり》そっくりとなった。
メラメラと燃えあがる大蝋燭が、赤い部屋を逃げる雪香と、それを追う稲城黄天の影を躍らせるのを、下山宇多子はややあっけにとられて台の上から眺めている。――実は黄天は、しまったといったけれど、わざと逃がした気味がある。この鬼ごっこをたのしむためにだ。彼はわざと舌を吐き、手をひろげ、餓鬼大将そっくりの笑い顔をしていた。
と、その途中で、黄天は、ふいに厚い耳たぶを動かせた。馬の蹄《ひづめ》の音を聞いたからだ。
去年の秋、雪香の弟を餌に雪香をここに呼んだとき、あの明石という中尉が馬で乗りこんで来たことがある、と、ふっと思い出したのだ。――しかし、馬は表の塀に沿う往来をそのまま遠ざかっていった。
ちがったようだ。
馬で往来を通る人間は少なくない。それに、鮫ヶ橋で失神した雪香をここに連れて来たことを、あの明石中尉が知るわけがない。――とはいえ、黄天は、やや本気になって追いかけた。
雪香にしてみれば、恐怖のきわみの鬼ごっこだ。そんな戸外の音は耳にもはいらず、それどころか、息もきれ、足ももつれ――とうとう、つかまった。
「わははは! わははははは!」
黄天の声が、赤い四壁にこだました。
とらえられ、両腕に抱きあげられても、もうまったく抵抗力を失って、解けた髪をたらし、弓なりになった身体の乳房をあえがせている雪香を、捧げるようにして、黄天は台上にのぼった。
それを仰むけに横たえて、
「よろしゅうござるかな?」
黄天は、雪香の頭のほうに、ふぬけみたいに立っている宇多子に念をおした。
宇多子は見下ろし、ふたたび眼が粘っこくひかりはじめた。彼女はうなずいた。
「では」
と、黄天は雪香の両足首を握って左右に割り、持ちあげた。――雪香が死力をしぼってあばれると、裾はいよいよ乱れた。
「下山先生、そっちを押えて下され。――」
と、黄天がいったとき、頭上でシューッというような異様な音がした。
ふり仰いだ黄天と宇多子の口から、あっという声があがった。天窓を一人の人間の身体がふさいでいたのだ。
前に述べたように、その天窓はあけてあった。そのガラス戸のあけたては、天井を這い、壁を這う綱によって行うのだが、いまの音はその綱を凄じい勢いでたぐりあげた音であった。
と、見るまに、その人間は綱をしごいて垂直に下りて来て、まだ空中にいる間に稲城黄天の頭を蹴り、足をひらいて雪香をまたいでつっ立ち、
「明石元二郎だ!」
と、大喝した。
黄天はもとより、下山宇多子までが台上からころげ落ちていた。
この前のことに懲《こ》りて、杉戸にはこちら側から頑丈な|かきがね《ヽヽヽヽ》がかけてあったのみならず、念のため十人ほどいる弟子たちにも、みな門を見張らせてあった。
もし暴力的に闖入《ちんにゆう》して来る者があれば、暴力をもってしても阻止せよと命じ、数本の仕込杖さえ渡してあったのだが、それは実は弟子たちを追い出すための口実であって、まさか今夜ここに押しかけて来る者があろうとは思わなかった。
それが――そいつが、明石元二郎という乱暴者が、忽然《こつぜん》、天窓から隕石《いんせき》のごとく落下して来ようとは!
こいつはどうして今夜のことを知ったのだ? たとえ屋根に上ったにしろ、まず門からはいるほかはないが、弟子どもはどうしたのだ?
稲城黄天は、尻餅をついたきり、口をパクパクさせているばかりであった。
明石が知ったのは、むろん伝書鳩によってだ。この平河町四丁目から、黒田屋敷のある赤坂福吉町までは、街路は知らず、直線距離では千三百メートルか千五百メートルに過ぎない。伝書鳩は一分間に千二百メートルは飛ぶ。文字通り分秒の飛翔である。
明石元二郎は、麻布の連隊から帰っていた。戻って来た鳩を抱いて門番の子が駈けて来、その足に結びつけられた布文字を読むと、彼はまさに怒髪《どはつ》天をついて、馬で飛んで来た。
いちど門の前にやって来て、そこに男たちが集まっているのを見ると、彼はそのまま通過した。さっき黄天が聞いたのは、その蹄の音であった。そして、塀を曲ると、彼は馬上から塀の上に乗り移った。馬は空《から》の鞍《くら》を乗せたまま駈けていった。
神道占の弟子たちは、夜の光ながら明石の姿を見てむろんどよめき、数人追って来たが、闇のかなたへ蹄の音が遠ざかってゆくのを聞いて、拍子《ひようし》ぬけの舌打ちと吐息をもらしながらひき返した。
明石は塀の内側に飛び下りて数分歩きまわり、裏手のほうで梯子《はしご》を探し出した。そして、同じ方角から屋根に上った。玄関にまわれば男たちに見つかると判断したからだ。彼の頭には、例の天窓が残っていた。
いつのまにか彼は靴をぬぎ、紐を結んで首にかけていた。肥り気味の大男なのに、瓦を踏んでゆく動作は意外に軽捷だ。彼はいつか乃木希典に威張ったように、拳銃と器械体操の名手であった。
かくて明石元二郎は天から落下して来たのである。
「明石さん!」
明石が足を踏み替えて、自分の身体の横に立つと、雪香ははね起きて、その足にしがみついて泣き出した。
いま一瞬に見た光景は、こちらの予想を超えたもので、さすがの元二郎もしばし言葉を絶し、ただ満身怒りにふくれあがって仁王立ちになっていた。
軍刀に加えて拳銃も腰にぶら下げて、それはよろしいが、首から二つの大きな靴がぶら下がっているのは可笑しい。
いちばん最初に理性らしきものをとり戻したのは下山宇多子であった。彼女は身を起して、
「稲城さん。……これはだれ? これはだれ?」
と、訊いた。
「これは明石元二郎という陸軍中尉で……雪香嬢の許婚者《いいなずけ》じゃと自称しておりますが」
と、稲城も立ちあがって答えた。
「ああ、これがあの――」
宇多子は眼をひからせていった。
「竜岡さんが、結婚出来ないといった相手の――」
その意味をどうとったか、
「左様、この娘が結婚出来るわけがない」
と稲城は彼なりのひとり合点の断言をした。
「貴公、どうしてここに現われた? 何にしても重ね重ねの闖入は無礼だぞ。これは伊勢神道占の巫女となる儀式じゃ。……その娘は、わが神道占の巫女となるよりほかはない娘なのじゃ!」
彼は威丈高にいった。着物を羽織っただけの丸裸の姿である。
「儀式?」
元二郎はしゃがれ声でいった。
「儀式じゃ! その娘の淫蕩な血を浄めるための神道占の儀式じゃ! こら明石、わしの予言力にかけていうが、竜岡雪香と結婚などすれば、それはお前の身の破滅じゃぞ。……」
黄天は吼え、次にその声を重々しくひそめて、
「貴公、わしをイカサマ師扱いにしとるのう。信じなけりゃ、信じんでもええ。ただ、いっておく、今夜のことはあとで口外せんほうがええぞ。これが厳粛なる儀式であることには証人がある。その証人は……そこにおられるのはだれだと思う?」
「下山宇多子女史だろう」
と、うなるように明石はいった。
宇多子は、はっとしていた。――どうせ雪香の口から知れることだ、と覚悟してこれを持ち出した黄天もいささか狼狽し、ついで体勢を立て直して、
「さればだ。華族女学校学監の下山宇多子女史だ。わが郷党の先輩という縁で、その儀式にお立ち合いを願っておったのじゃ。……貴公がどう思おうと、ヤリクリ中尉|風情《ふぜい》のいうことと、怖れ多くも皇后陛下御寵愛の下山宇多子女史のいわれることと、どっちが世に信ぜられるか、考えるまでもなかろ」
と、いって、ニタリと笑いさえした。
「それにな、下山女史は宮中ばかりじゃない。大臣諸公、どころか陸軍の親玉山県大将閣下の御信任もまた厚い。めったなことをしゃべると、貴公、将来の出世の見込みはまずないと承知しておれ。……」
「将来――?」
と、宇多子は黄天を見て、うわごとのように、
「そんな先のことより。……」
今夜のことをしゃべられたら? という恐怖が、彼女を船酔いのような気持にさせた。
いつからその陸軍中尉に見られていたか。さっきは天窓に星空しか見えなかったから、それは今――少なくとも何とか自分が身づくろいしたあとだろうと思うけれど、しかし竜岡雪香には見られているのだ。このことをもししゃべられたら、完全な身の破滅だ。
すがるように黄天を見た眼は、この二人をこのまま帰すのか、帰してもよいのか、という狂的な眼であった。
黄天はそれを読んだ。彼にしてもこれは一大事だ。
下山宇多子をあんな目にあわせたのは、むろん彼の肉欲によるものにはちがいないが、しかし彼には、それだけではない、余人のたんげいを許さないしたたかな大野心が――つまり上流階級の僧正たらんとする大野心があって、下山宇多子はそのために絶対必要な道具であったのだ。いまそのきらびやかな道具がこわされてしまっては、モトもコもない。
一方、竜岡雪香もその清浄美が彼の好色の対象にはなったが、これとてその清浄美をただ汚してやりたいという変質的な欲望によるものではない。
その娘が実に淫蕩な血を持っている、ということは彼のふしぎな本能の告げるところであったのだ。自分のそんな能力に――その能力を拡大して人に見せるハッタリもあった――黄天自身、妙な確信を持っていた。雪香の件はともかく、彼のそんな自信が、すでにいままで神道占に、相当多数の信者を吸引していたのだ。
その二個の美しい道具を、今夜いよいよ一つは完全に手にいれ、もう一つをあわや手にいれようとして、思わざりき、とんだところへ、とんだやつが飛来して来ようとは。
道具としては、むろん雪香のほうが軽いが、そのために重いほうの下山宇多子を破壊されてはまったく勘定に合わない。
合わないが、さてこの邪魔者をどうしよう? この乱暴無比と見られる将校は、実に彼の手に負えない。文字通り大臣大将でさえ籠絡する自信のある黄天も、この明石だけには本能的な辟易を意識せざるを得ないところがある。
「雪香……」
と、黄天は呼んだ。同時にみずからの気力をも、死物狂いに呼んだのだ。
「お前もいらざることをしゃべれば、母親の恥をさらすことになるぞ。――」
雪香はもとより、明石の面上に愕然たるものが動いた。
「稲城、そりゃ、どういう意味じゃ?」
素早くその顔色を見て、黄天は心中しめた、とさけび、しかしふてぶてしく、もったいぶった調子で、
「それは雪香の血に聞くがいい」
と、いった。
実はこの時点において黄天は、雪香の母の血友病の遺伝のことまでは知らなかった。そんな知識はなかった。
ただ彼は、彼の信じる雪香の淫蕩な血は、その母から伝わったものだろうと推測していた。彼は以前何度か竜岡家にいって、その母が十何年か前に家出をしたことをかぎつけた。そして、それが、ひょっとしたら、彼女のその血のせいではないか、と、かんぐっていた。
実は黄天の推測はそれまでだ。しかもあてずっぽうの推測だ。
が、雪香と明石の顔に動いたものを見て、この両人を縛るのはこれよりほかはない、と彼は直感した。一を十にも利用するのは彼の特性である。――
「どうじゃ、そこで明石、おたがいに黙るということで手を打たんか?」
「いや、おたがいにしゃべるということで手を打とう」
と、明石元二郎はいった。
稲城黄天と下山宇多子は、あっけにとられた。
「この大馬鹿野郎っ」
明石は怒号した。
彼がいままで数分黙っていたのは、激怒のために口がきけなかったからに過ぎない。
「何だと? 今夜のことをしゃべると、おれが出世せんと? 出世なんか眼中にないといいたいが、おれはいわん。おれは必ず大将になるわい。何だと? 雪香嬢と結婚したら身の破滅となる? その原因は雪香嬢のおふくろにあると? 雪香嬢はおふくろとは関係ない。おれはおふくろと結婚しようとは思っとらん、雪香嬢と結婚するんじゃ」
首からぶら下がった靴が、猛烈にゆれた。
「こっちはやりたいことをやる。そっちもやりたいことをやれ」
腰の拳銃に手がかかったのを見て、黄天は仰天して飛びのいた。
「もったいぶったオドシをかけおって――明石元二郎を見そこなうな!」
手にした拳銃が轟然とはためくと、黄天は尻のあたりに火の風を感覚した。
相対していたはずなのに、前からピストルで撃たれて尻が熱くなったとはおかしいが――台上から撃たれた弾丸は、黄天の両足のあいだをくぐりぬけ、羽織っていた着物の裾をつらぬいて、尻のうしろの床に命中したのだ。
「わっ、タ、タ、タ――」
と、黄天はあごを無意味に鳴らし、両手を空にあげた。この中尉のオドシは本気だ!
「動くな」
明石は怒鳴り、拳銃をサックにおさめると、こんどは軍刀をひっこぬき、いま自分が滑り下りた縄をバサと切った。そして、切った縄を握って、台の上から飛び下りて来た。
台の下の注連縄を無造作に破って黄天のそばに立つと、その赤錆びた刀で尻をピタピタたたき、
「歩け」
と追いたてて、一本の大蝋燭に近づいた。――前に述べたように、この部屋には、人の背丈ほどある四本の大蝋燭が燃えていた。
「おい、蝋燭を抜け」
「な、何をするんじゃ」
「抜けといったら、抜けっ」
尻をたたく軍刀の角度が変った。着物をへだてているのに、実際黄天の尻からは、何かヌラヌラと流れ出した。彼は悲鳴をあげながら、青銅の大燭台から蝋燭を抜きとった。
蝋燭が何しろ大きいから、自然とそれを抱く姿勢になった。すると、こんどは、
「背負え」
という命令が下る。
また尻を乱打されて、黄天はついにそれを背にまわした。
と、明石は、軍刀を床につき立てたかと思うと、片手の縄を黄天の肩にかけ、腋の下にまわして、その大蝋燭を十文字に背に縛りつけてしまった。
「あっ、熱っ」
黄天はさけんだ。抵抗しようとしたはずみに、すぐ頭上で燃えている蝋燭から蝋涙《ろうるい》がこぼれて、頭やえりくびにふりかかったのだ。
「下山先生、下山先生、ちょっと来て下さい」
明石は呼んだ。
さっきからのこの将校の行為を、茫然と見ていて、下山宇多子は、これは野獣か狂人にちがいないと思った。しかし、逃げるわけにはゆかない。放任するわけにもゆかない。
「あなた、何をするのです、馬鹿なことはやめなさい!」
と、いいながら近づいて来た。
明石はその背後にまわると、軍刀の先でその裾をぐいと持ちあげた。
「あっ」
つんのめると、前の黄天にどどとぶつかり、また蝋燭がふりかかって、「熱っ」と、黄天のみならず、宇多子も頭をかかえた。
うしろへ飛びのくと、また軍刀が裾をかかげて、
「さあ、行進じゃ!」
と、明石が怒鳴った。
「雪香さん、ゆこう。……前へ、進め!」
号令したが、黄天も宇多子も動かない。すると、宇多子の裾を持ちあげた刀が横にくじられ、宇多子のふとももの内側に触れ、宇多子は悲鳴をあげた。
その悲鳴に仰天して、黄天が歩き出した。とたんに明石が大きな屁をした。
「進軍ラッパじゃ。それ進め!」
軍刀のきっさきに追われて、下山宇多子も歩き出す。
「戸をあけて外へ出る」
黄天は、杉戸の|かきがね《ヽヽヽヽ》をはずして、あけた。こうなったら、もうなすすべもない。廊下に出ると、黄天は自分の頭上で燃えている蝋燭の炎が天井にうつりはしないかと恐怖して、かえって急行軍した。
さっき明石が一発ピストルを撃ったはずだが、厚い杉戸にさえぎられ、また廊下が幾曲りかしているために、外にはよく聞えなかったらしい。
門に屯《たむろ》していた門弟たちは、内側の玄関に現われた一隊に気がついて、唖然《あぜん》とした。
まず燃える大蝋燭を背負った大占師稲城黄天、これが着物を羽織っただけのまる裸という姿で、次なる下山宇多子女史の歩き方が鵞鳥のようだ。それがうしろから抜身で裾をまくりあげられているせいだ、ということはのちにわかったことだが、着物はともかく丸髷《まるまげ》は乱れ落ちたままで、まるで気がふれた女ではないかと思われる。
それより何より信じられなかったのは、その背後にいる二人だ。さきほど気を失ったまま運びこまれた雪香という娘が回復したらしいのはともかく、刀を抜いておどしているのが、あの腕白大坊主のような将校だとは?
きゃつ、いったい、いつ、屋敷にはいっていたのだ? 首からぶら下げた靴は何だ?
あまりのことに、眼をむいて立ちすくんでいる一団も眼中にないかのごとく、
「進め、進め」
と、明石はいいながら、軍刀を左手に持ち替え、またピストルをとり出して、ズドーンと夜空に威嚇発射をして、
「これから、市中行進じゃ」
と、そっくり返った。
「大占師、しゃべるなっちゅうなら、おれはしゃべらんよ。ただ、その姿を世間に見てもらおう」
「明石中尉、もういい、わかった」
黄天は金切声をあげた。頬っぺたに、涙みたいに蝋涙がかたまっていた。
「もう、雪香嬢にはコリゴリした」
「ほんとうにそうか」
明石はうなずいた。
「それじゃここらで手を打ってやろうか。……仏の顔も三度というが、おれがここにこげな用で来たのはこれで三度目じゃ。もしまた同じようなことがあったら、おれは鬼になるぞ」
「……今でも鬼じゃ」
「あははは」
明石は笑って、弟子たちにあごをしゃくった。
「おい、どいつか、俥を探して来てくれ」
「何を。――」
と、弟子たちがわれに返ってどよめくと、
「俥を呼んで来い!」
と、黄天がさけんだ。さけんだとたん、また熱い蝋の滴がふりかかって、彼は悲鳴をあげた。
弟子があわてて駈け出した。
「それじゃ、縄を解いてやろう」
明石は軍刀をとり直し、黄天の背と綱の間にこじいれると、綱は切れ、大蝋燭は地に落ちて倒れた。
その炎が消えるのを見すまして、
「明石中尉、しかしな」
と、黄天は顔をなでまわしていい出した。
「わしが呼ばんでも、令嬢のほうでまた来たらどうする?」
「きさま――まだそげなことをいっとるか!」
「いや、いや」
黄天はあわてた。
「ま、そんなことはあるまいが。――」
弟子が、俥を一台、連れて来た。
明石はそれに雪香を乗せた。
「では、また」
と、いいかけて、破顔した。
「逢いたくないのう」
軍刀を鞘におさめ、俥に添って遠ざかってゆくのを、さすがに虚脱したように稲城黄天は見送ったが、やがて、
「それはこっちのいいたいことじゃ」
と、つぶやいた。
同じく虚脱していた下山宇多子が、突然全身をふるわせてさけんだ。
「あれを追っかけて――あれをつかまえて――あれを帰しちゃいけない!」
おう、と、うなり声をあげ、仕込杖を抜いて駈け出そうとする四、五人を、
「待て、待て」
と、黄天は抑えた。
「きゃつ、ピストルを持っとる。あれはほんとに撃ちかねん」
「けれど、しゃべられると。――」
「しゃべらんと、約束しました。乱暴者ですが、あいつ、そんなところは信用出来るような気がするんで、しばらくようすを見ましょう」
黄天はうめくようにいった。
「いや、えらい目にあわせおった。ムチャクチャなやつで、まったく手に負えん。それだけに、あいつを退治するにゃ、よく肚《はら》をすえてかからんけりゃならん。腹を立てておるのはわしもあなた以上です。必ずあいつをとっちめ、ギャフンといわせてやります。どうか、わしにおまかせを。――」
「……いったい、どげんしたことです?」
歩きながら、元二郎が訊いた。
ゆくての屋並の上に、晩春の月がのぼっている。彼はまだ素足のままで、靴は首からぶら下げたままだ。
明石は稲城黄天をおどしたものの、稲城と下山宇多子が何をしたのか、実は知らない。ただ、二人が雪香に何やら怪しげなふるまいをしようとしていたのを見たばかりだ。もっとも、それだけで充分驚くに足り、怒るに値した。
特に、あそこに下山女史がいたことは驚くに足りた。ただし、黄天も弁解したが、下山女史が稲城と同郷人であることは、以前から明石も竜岡左京から聞いていたので、まるきり不可解な現象とは思わないが――それにしても。――
「どげんして、また、あそこへ?」
雪香は黙っていた。
「下山女史に連れられてゆきなさったのか」
「はい……いいえ」
やっと、雪香はあいまいな声を出した。
以前あんな目にあった家へ、どうしてまたノコノコいったのか、と明石がふしぎがっているのはよくわかったが、どうしていったのか、彼女自身にもよくわからないのだ。あえて説明しようとすれば、きょうの魔界探訪のことから話さなければならないが――あそこで見た光景のことなど、とても話せない。
そして、伊勢神道占に来て以来のことも、雪香には何が何だかわからないのだ。
彼女は例ののぞき穴から、稲城黄天と下山宇多子が抱き合い、口を吸い合っているのを見た。――それだけでも驚くべき光景で、彼女は恐怖して、明石に救いを求める鳩を放った。しかし、そのあとは見ていない。
とにかく雪香は、なぜあの下山先生が、稲城をそそのかし、みずからも手をかして自分をあんな目にあわせようとしたか判断を絶し、いま思い出しても悪寒《おかん》がよみがえって来るようであった。
何にしても、雪香は今夜のことについて明石に話すことは、羞恥のきわみであった。
それを察して、よく事情がわからないなりに、明石はそのことについてなお問いただすことはやめた。――しかし、彼の耳から、うすきみ悪い黄天の言葉を払いのけることは出来なかった。
「わしが呼ばんでも、令嬢のほうでまた来たらどうするな?」いや、きゃつは前にもいった。「竜岡雪香は必ずまたこの稲城黄天のところへ帰って来なければならん宿命の血を持っておるのじゃ。……」
――それで雪香は、今夜ここへひき寄せられたのか?
――そしてまた、これから先も神道占にひき寄せられるのではあるまいか?
彼は悪夢の中でお化けに追いかけられているような気持になり、
「とにかく、鳩が飛んで来てよかった。……またあとで、あの鳩をとどけますばい」
と、いった。
雪香もまた明石を眺め、悪夢を払いのけるように、
「いえ、いえ! もう二度とあそこにはゆきません、決して!」
と、さけんだ。
「下山先生のところへも。――」
卒然とこのとき胸にひらめいたものがあり、明石元二郎は俥上の雪香を見あげた。――彼女を救う道はただ一つ。――
彼はいった。
「竜岡さん。……おれの嫁さんになって下さらんか?」
幌《ほろ》の中で、雪香の眼が蛍《ほたる》のようにひかった。あえぐような息の音さえ聞えた。――しかし、しばらくいって雪香は答えた。
「明石さん、雪香は……お嫁にいってはいけないのです!」
明石元二郎がりきんで何かいいかけたとたん、彼の尻から不可抗力的に出た一発の屁が、春の月さえかかったせっかくのこの悲恋の場面をブチコワし、それっきりにしてしまった。――もっとも、首からぶら下がった二個のドタ靴からしても、はじめから彼は悲恋の主人公といったガラではない。
「や、馬が帰って来た」
と、彼は顔をあげた。さっきの馬が、どういう次第でか、空《から》の鞍を乗せたまま往来をトコトコ走って来るのと、うまくゆき合ったのである。
地の果てより
同じ明治二十三年晩春、すなわち一八九〇年四月二十八日、モスクワから一人の作家がシベリアに向って旅立った。――
「この旅行はまったく偶然に考えられたものです」と、彼の弟ミハイルはのちにいう。「彼は、突然、予期もしないのに、極東に旅立つ決心をしたのです。それではじめは、本気でいっているのか、冗談なのか、わかりかねたものです」
「何の目的で、彼は遠い遠い国へのあのつらい旅に出かけたのでしょう?」と、彼の妹マリアもいう。「アントン・パヴロヴィッチには、たえずどこかへ移動したい情熱、新しい土地への旅にひかれる心がありました。いつも彼は、どこか遠くへ出かけ、まだ彼の知らない新しいものを見、観察したいと思っていました。……」
彼の名を、アントン・パヴロヴィッチ・チェーホフという。
チェーホフはこのとし三十歳であった。彼はすでに「大草原」その他の短篇を発表し、ロシア文学のホープと目されてはいたが、まだおのれの本領を確実につかんでおらず、新しい地平線を発見するために、はじめてシベリアへの旅に出かけたのであった。しかも、目的はその果ての樺太《サハリン》であった。右の妹マリアはいう。
「サハリンは、当時は、真にヒューマニスチックなロシア人なら、だれでも恥ずかしさと身震いなしには発音出来ない怖ろしい言葉でした」
というのは、そもそもシベリアが流刑の大地であったが、サハリンはそれこそ完全な囚人のみの島であったからだ。天性ヒューマニズムに満ちたこの作家は、この時点において、どうしても、ロシア人にとって恥ずかしい、身震いさせるその島を見ておきたいという、本能的な衝動にとらえられたのだ。
四月二十八日の午後八時、アントン・チェーホフは、モスクワのヤロスラフスキー駅から、シベリアゆきの夜汽車に身を投じた。
彼は長靴をはき、毛皮帽に軍人用の防水皮外套という姿で、大きな不恰好なトランクをぶら下げ、万一にそなえて狼ともたたかうために短剣さえ用意していた。
シベリアには、なおみぞれまじりの雨がふっていた。五十年ぶりの大雨とかで、いたるところの大河は氾濫していた。
鉄道はとぎれとぎれで、ヴォルガ河やカマ河は船で渡るのであった。全シベリア鉄道の起工式は来年に行われると聞いていた。
ウラルのチュメーニ以東はガタクリ馬車でゆかなければならなかった。そこを出発したのが五月三日のことだ。
彼は書いている。
「……こうして乗ってゆくのはつらい。実につらい。だが、このみっともない痘痕《あばた》だらけの地の帯、この黒痘痕が、ヨーロッパとシベリアをつなぐ唯一の動脈であるのを思うとき、心はいっそう暗くなる」
穴ぼこだらけの道のことをいっているのだ。
「トムスクからクラスノヤールスクまで五〇〇露里(一露里は一・〇六七キロ)。
深い泥濘、私の荷馬車は濃いジャムの中に落ちた蠅のように泥の中に沈んだ。何度馬車がこわれたことだろう。顔や手足や衣服がどれほど汚れたろう。私は乗物に乗っていったというのではなく、泥の中を水音をたてながら歩いたのである。私の脳は思考することをやめて、悪罵するだけだった」
そのうちに、シベリアは急に夏になった。
「クラスノヤールスクからイルクーツクまで一五六六露里。暑さ、森林火災の煙と埃、口といわず鼻といわず、まるでメーキャップした人のようだ」
その途中にエニセイの大河があった。
「私は生まれて以来エニセイほど壮大な河を見たことがない。……エニセイにとって、その両岸は狭苦しいのだ。高くない波のうねりが、たがいにおし合いへし合い、螺旋状の渦を巻くありさまを見ていると、この河が岸を崩さず底をうがち抜かずにいるのがふしぎに思われる」
そして、エニセイを越えると、有名な密林帯《タイガ》がはじまる。
「密林帯《タイガ》の迫力と魅力は、亭々とそびえる巨木にあるのではなく、底知れぬ静寂にあるのでもない。渡り鳥ででもなければおそらくは見通せまいその果てしなさにあるのだ。
はじめの一昼夜は気にとめない。二日目、三日目になるとだんだん驚いて来る。四日目、五日目になると、この地上の怪物の胎内からはいつになっても抜け出せまいというような気がして来る。
森に覆われた高い丘に上って、東への道のゆくてを眺める。見えるのはすぐ眼下の森林、その先の鬱蒼とした丘、そのまた先の同じく鬱蒼とした丘、さらにその先に第三の丘……こうして限りはない」
途中で、流刑囚の行列にも追いつく。
「手枷《てかせ》の音をたてながら、三、四十人ほどの囚徒が歩いてゆく。両側には銃をになった兵士がつきそい、うしろから馬車が二台ついてゆく。囚徒も兵士もみなぐったりしている。道は悪いし、歩く気力もないのだ。……」
こういう旅をつづけて、イルクーツクを過ぎ、バイカル湖を過ぎて、チェーホフが、ブラゴヴェシチェンスクに着いたのが、六月二十六日のことであった。モスクワを出てから約二カ月目だ。
ブラゴヴェシチェンスクはアムール河(黒竜江)北岸にある。砂金が出るので人が集まって町となった土地で、この地方の一中心地だが、殺風景で荒涼とした町だ。彼はここに二日ばかり泊った。
チェーホフはここで、イヴァン・イヴァーヌイチという、ある砂金密輸業者と知り合い、レストランでいっしょに昼食をした。彼は、ロシア政府から輸出を禁じられている砂金を支那人に売っている男だが、熊みたいに毛だらけのこの男が、自分の小説を愛読していると聞いてチェーホフは恐縮した。
さて、食後、その男と町を散策していて、彼はふしぎな女たちを見た。
「それは、大きな、妙な髪を結い、美しい胴と、僕の見るかぎり短い足を持った、小柄なブリュネットで、美しく着飾っていました。……」と、あとで彼が故国への手紙に書いたその若い女たちは、日傘をさし、そのとき二人連れであったが、こちらを見ると、
「こんにちは。イヴァーヌイチさん」
と、ロシア語で呼びかけて、手をふりながら通り過ぎた。
「あれは、何という種族ですか」
と、チェーホフは尋ねた。
「ああ、あれは日本の女です」
「ほう、日本の……日本の女が、こんなところまで来ている……何をしに?」
「娼婦ですよ」
「娼婦。――」
「日本の女郎屋があるんです」
「君に挨拶していましたね」
「いや、どうも。あ、は、は、は」
イヴァン・イヴァーヌイチは、髯の中で照れ笑いをした。
「こんなところにいると、ほかに愉しみとてありませんのでね。特に女は少ないし……採鉱場へ人を集める必要上、政府もああいう種類の女が来るのを歓迎し、なかなか優遇しているのですよ。日本の娼婦はおとなしくて、やさしくて、ほかの民族の商売女よりずっといいですよ」
「なるほど」
チェーホフは、日本髷に日本のキモノを着て遠ざかってゆく二人の女をふり返って、
「私はサハリンを調査したら、船でロシアに帰るつもりです。そのとき、出来たら日本へも寄ろうかと考えているんだが。……」
と、つぶやいた。
その夜、チェーホフの泊っている安旅館の部屋のドアを、遠慮深げにたたくものがあった。
ドアをあけ、そこに立っている人影を室内のランプの光に見て、チェーホフは口の中で思わず声をたてた。それは大きな髪を結い、異様な衣服をまとった小さな二人の女性であった。
「助けて下さい」
「病気の重い人がいるのです」
と、彼女たちはカタコトのロシア語でいった。
チェーホフは、やっとそれが、昼間往来で見た日本の売春婦だということに気がついた。
彼女たちは深々と頭を下げて、また訴え出した。――いまカタコトのロシア語といったが、実際はロシア語ともいえないほどひどいものであったが、それでもチェーホフは何とか了解した。
彼女たちの仲間に病気の女がいる。血を吐く病気で、もう一ト月余りも寝ている。――今夜、イヴァーヌイチの旦那から聞いたところによると、あなたはモスクワの大学を出たえらいお医者さんだということだ。――この町にはろくなお医者もいず、いても診に来てくれない。――どうかその仲間を診に来て下さい。今夜は特に悪いようなのです。
すみません、この旅館も、イヴァーヌイチさんから聞いたのです。
チェーホフはうなずいた。
「それじゃ、いって見よう」
それは医者としての職業的義務心より、彼自身の温雅なヒューマニズムと、何より彼だけが持つ旺盛な好奇心のためであった。
トランクの中から、念のために用意して来た聴診器や応急の薬品をいれた鞄をとり出し、彼は二人の小さな日本の娼婦に案内されて、夜のブラゴヴェシチェンスクへ出ていった。アムール河のほうから、強い風の吹く夜であった。
きのうの夕方着き、きょう昼間ちょっとぶらぶらしただけで、まだ町のようすは見当もつかず、どこをどう通っていったかわからないが、やがて一つの家にたどりついた。
夜のことで、ほとんど見えなかったが――彼はこのシベリアの旅の途中、トムスクの町で女郎屋を「見学」にいったことがあるが、どうやらそれに似た構えで、しかももっとひどい建物らしかった。
入口にさす灯《あかり》に、ウオツカの匂いをたてながら出入りするロシア人や支那人と、それを迎えるキモノ姿の女の影が見えたが、チェーホフが連れてゆかれたのは、その入口からではなく、建物の裏手の家畜小屋のような小さな建物であった。
そこへ近づきながら、女たちがいった。
「その病人は……あたしたちよりずっと年上なのに、もっとはやる人でした。いえ、店でいちばんのかせぎ手でした。それで病気になったのです」
「その病気は人にうつるからといって、病気が重くなると、自分からあんな小屋にはいってしまったのです」
扉をあけて、チェーホフのみならず、二人の女も立ちすくんだ。
狭い小屋の中の、向うの板壁の下にベッドがおかれ、その上に女が一人、壁にもたれるように坐って、ひざの上で何か書いていた。枕もとの台には、煤けた小さなランプが燃えていた。
「まあ、姉さん、そんなことをして!」
と、娼婦がさけんだ言葉はチェーホフにはわからなかったが、彼は、まず女の羽織っているキモノの美しさに眼を見張り、次に女が白い短い棒のようなものに何か書いていることをふしぎに思い、さらにその女の美しさに驚いた。
「姉さん、お医者さんを連れて来たわよ!」
と、もう一人の娼婦がいって、部屋の中にはいっていった。
女は筆をおき、白い棒のようなものから紙片をはぎとった。それは日本の巻紙であった。彼女はお辞儀して、
「イヴァーヌイチさんから聞いたお医者さんですか。……」
と、ロシア語でつぶやいた。完全にちかいロシア語であった。
チェーホフはベッドのそばに近寄って、聴診器を手にとった。
「横になんなさい。診察します」
「いいえ、それはもうよろしいのです。私はすぐに死にますから」
と、女は静かにいって微笑した。
チェーホフはいま女の美しさに驚いた、といった。しかし、それはふつうの意味の美しさではなかった。――女は、まだ四十になってはいまい。肩や腕は、蝋を削《けず》ったようにやせている。襟のあたりにも、鎖骨や肋骨の一部が浮いて見える。顔はそれほどでもないが、それでも眼のまわりに青い隈があった。そして、なぜか肌は半透明に見えた。
それはすでに亡霊の美しさであった。チェーホフは、診察しない前から、その女が肺病であることを知っていた。しかも彼自身が結核だったから――この旅行中もすでに一、二度小喀血したのに、ふしぎに彼は自分が肺病だとは認めていなかったが――他人のその病気の症状には甚だ敏感であった。で、彼は、その女の死期が極めて切迫していることを直感した。
「ただ……先生は、これから日本へゆかれるそうですね?」
と、女は訊いた。チェーホフはめんくらった。
「え?……イヴァーヌイチは、そんなことまでいいましたか?」
「だったら、この手紙を日本へとどけていただけまいか、と思いまして。……」
女は、いま裂きとった紙片を封筒にいれ、また筆をとって宛名を書き出した。
「ここから日本へ手紙を出しても、ほとんどとどいたことがないと聞いています。……そこへ、日本へゆかれる方があると聞きまして、出来たらとどけていただけないだろうか、と。――」
「ああ、いや」
と、チェーホフはまごついた。
日本へゆくつもりだ、とはイヴァーヌイチにいったが、それはたしかなことでなく、ゆくとしてもだいぶ先のことになるはずだったからだ。
「私が日本にゆくのは、しかし……そう、三カ月も先のことかも知れませんよ」
女は、大きな眼をひらいてチェーホフを眺めていたが、
「それでもいいのです。どうせ私が死んだあとになるのですから」
と、いった。
「で、日本のだれに?」
「私の娘にです」
彼女は封筒を眺めて、自分の書いた宛名を小声で読んだ。
「竜岡雪香。……」
その眼に涙が盛りあがり、頬につたい落ちた。
「ああ、雪香。……綱彦。……」
と、女はあえぐようにいった。
「あのとき、雪香はまだ九つ、綱彦は二つでした。二つといっても、まだ乳から離れないころで……それを私は捨てて、家を出て来たのです」
これは日本語だ。ベッドの上で、壁にもたれ、女はつぶやく。
「そのころ私は、雑仕《ぞうし》の男と密通しているところを見つかりました。それでも夫は許してくれました。それからしばらくして、こんどは野良で二人の百姓とたわむれているところを見つかりました。それでも夫は内聞にしてくれました……」
チェーホフには、女が何をいっているのかわからない。意味のわかるはずの二人の娼婦も、あっけにとられた顔で立っていた。
「それどころか夫は、そのことが世間に知れないように、必死に手をつくしてくれたのです。けれど、それからまたしばらくして、私が古市《ふるいち》の女郎屋――それもいちばん下等な女郎屋で客をとっているのを知ったときは、とうとうサジを投げました。……いいえ、私が勝手に家を飛び出したのです。夫はもうそれをとめませんでした。……」
チェーホフは、彼女が高熱に浮かされて、何かうわごとをしゃべっているのだろう、と思った。しかも、宙にすえたその眼から、相当に厳粛な内容のうわごとにちがいない、と思った。
「古市の女郎屋へは、私がふいにおしかけて、一晩でも二晩でも働かせてくれと亭主に頼んだものでしたけれど、私はそれから大阪の女郎屋にいった。……いつのころからか、私は獣のような男に抱かれたい、いえ、出来るだけ下等な、いやしい男に息たえだえになるまで汚《けが》されたい、という夢に憑《つ》かれるようになって、それを考えていると、血がざわめき、頭が熱くドロドロになり、そのあとは自分が何をしているのかわからない、といったありさまになるのです」
「………」
「何という血を持って生まれたのでしょう? こんな女が、ほかにもこの世にあるかしら? 男の子が、血が出たらとまらない、という病気を持って生まれたのは、わけがわからないけれど、やはり私の腐った血のせいだとしか思われない」
「………」
「私はそれから函館の女郎屋に流れてゆき、異人相手の女郎になり……そして、とうとう、シベリアのこんな町に来た。そして、いま、こうして死んでゆく。……」
「………」
「自業自得《じごうじとく》です。でも、つらかったかといわれるなら、私は愉《たの》しかったといいたい。私は、こうなるよりほかはなかった。……けれど、雪香と綱彦だけには申しわけないと思います。ああ、あの二人の子に逢いたい! 顔が見たい!」
彼女が烈しく咳き、それがやっとおさまると、またいった。
「あの子供たちは、いまどうしているだろう。雪香はもう二十一、綱彦は十四……私のことを、どう思っているのだろう? 私のことを恥じ、さげすんでいるにちがいない。……」
「――彼女は何をいっているのかね?」
チェーホフは、二人の娼婦をかえりみた。
それを、その病人のほうが理解し、われに返ったようだ。
「ああ、先生、申しわけありません!」
といって、しみいるような微笑を浮かべた。
「私は、これでも日本に二人の子を残している母親なのです。でも、子供から見れば、生きていることを知ったら、そのことだけでおびえずにはいられない悪霊のような母親なのです……」
とぎれとぎれのロシア語であった。
「この手紙には、その母が死んだ、と書いてあります。これを受取ったら、子供たちはほっと安心するでしょう。……生まれてはじめての子供への手紙、こんな手紙を書く母親があったでしょうか?」
彼女は声をたてて笑いかけた。と、また烈しく咳きこみ、その口から血があふれ出した。二人の娼婦は悲鳴をあげ、それを受ける容器を探して眼をウロウロさせた。
「いいの、いいの」
女は涙と血にまみれた顔で、
「先生……日本へおゆきになったら……どうかこの手紙を宛名のところへとどくように……お願いします。それだけ、お願い!」
と、さけび、壁にもたれたまま、がくんと首をたれた。
医者チェーホフは、ついにいちどもその手をとることもなく――いま彼女が息をひきとったことを知りつつ、ただ茫然として、戸をたたくアムール河からの暗い夜風の音を聞いていた。
その翌日、チェーホフはブラゴヴェシチェンスクを船で出発し、六月三十日、ハバロフスクに着き、さらにアムール河を下った。そして、七月五日、シベリア東端の町、ニコラエフスクにたどり着いた。
それから海へ出、韃靼《タタール》海峡(間宮海峡)を渡って、ついに樺太《サハリン》西岸のアレクサンドロフスクに着いたのが七月十日のことであった。
「シベリア探訪は、重い長い病気に似ていた」
と、彼は書く。
モスクワを出てから、八十日に近かった。
アレクサンドロフスクに着いたのは夜であった。
「八時過ぎ錨《いかり》が下ろされたとき、海岸ではサハリンの密林《タイガ》が五ヶ所で山火事を起して燃えていた。闇と、海面になびいている煙とで、波止場も見えず、ただ赤い、うす暗い監視所の灯を見わけることが出来ただけだった。闇、山のシルエット、煙、炎、火の粉によって描き出された絵は、怖ろしい、幻想的なものに思われた。……山のかげから空高く、遠い火事の真っ赤な炎が立ちのぼっている。まるでサハリン全島が燃えあがっているようだった」
それはこの囚人の島の不吉な象徴的な序曲であった。
彼は九月十日まで北サハリンのアレクサンドロフスクにとどまって、囚人たちの調査をしたが、それについての沿アムール州総督が役人に出した命令書が残っている。
「医師チェーホフに、サハリン島における懲役及び移民に関する文学的著作のために必要なる資料を蒐集することを許し、監獄及び移住地を視察する権利を与える。ただしチェーホフが、国事犯、政治犯の懲役人といかなる接触も持たないように監視することを命じる」
こういう制約のもとに、彼は囚人たちの出身や宗派や罪名や刑期、病気の種類や罹病率、死亡率などについて調査し、統計表を作った。
九月十一日、船で南サハリンにむけて出航し、宗谷海峡に面するアニワ湾のコルサコフに着き、ここでも同じ調査をつづけた。
獄吏について、彼は書いている。
「僻遠の地、少い給料、頭を剃った囚人たちがたえずそばにいること、手枷《てかせ》、足枷、いざこざ、退屈、周囲の悪に対して自分が完全に無力であるという意識――これらをいっしょにしたものが、獄吏の勤めをつらい魅力のないものにしている。……そして彼らもやはり泥棒をし、かつ情け容赦なく囚人を鞭打つようになる。……」
「私の心は、腐った油をなめたようなにが味を味わっている。サハリンは私にはまったく地獄のように思われる。……」
彼は、獄吏たち同様の荒涼たる心境におちいりかけた。
そんな日々の中で、彼は特記すべきふしぎな人間に逢った。
九月下旬のことである。「怪我人が出た。すぐ来て下さい」と、チェーホフは呼ばれた。
もう身を切るような風の吹く日であった。チェーホフがいって見ると、ある地区の樹林を伐採するために駆り出された囚人たちのうち、一人の男が斧で足枷の鎖を切って逃亡しようとして、焦ったあまりに自分の足頸を切ってしまったというのだ。足頸の半ばまで切りこんでいて、老人の監獄医もどうしようもないありさまであった。
名門モスクワ大学の医学部を出たチェーホフも、処置のしようがなかった。それに彼は内科医であって、外科医ではない。
すると、そのとき囚人たちがどよめきをあげた。チェーホフは、農夫のような一人の男が近づいて来るのを見た。
男は、怪我をした囚人のそばにひざまずき、骨ばった大きな手で、血まみれの足頸を乱暴に握った。
数分間で、苦悶していた囚人の顔に安らかさが現われ、紙のような色をしていた頬に赤味がさして来た。
さらに数分間で、いままで、いかに緊縛してもとまらなかった流血が――足頸の半分まで切りこんだ傷からの血がとまったのを、チェーホフはたしかに見て、思わず口をあけていた。
その男は、怪我人に何かささやき、ちょっとチェーホフのほうを見た。監獄の人間ではないと直感して、いぶかしく思ったのだろう。
彼は、農夫の着る粗《あら》いリンネルの上衣に粗末な皮帯をしめ、大きな馬丁用の長靴をはいていた。やせてはいるが、肩幅のひろいがんじょうな体格の持主で、モジャモジャとのびるがままにした赤茶けた髪は、まんなかから分けられてたれ下がり、口髭も赤茶けていたが、透《す》けて見えるほどまばらであった。一見したところでは、まったくの百姓、それも怖ろしく粗野でうす汚い百姓としか見えなかったが、一瞬こちらを見た、ふとい眉の下のおちこんだ眼窩《がんか》の奥の青味をおびた灰色の眼に、チェーホフはなぜか魂までつき刺されたような気がした。
「これで足はつながるだろう」
と、その男はいった。そして、そのまま北風の精のように去っていった。
「あれはいったい何者ですか」
チェーホフは老医に訊いた。老医は首をかしげつつ答えた。
「去年の暮ごろからここにやって来て、森の中に小屋を立てて住んでいる男でな。何でもシベリアのチューメンあたりからやって来たとか聞いたことがある」
「何をしに、ここへ?」
「それがよくわからんのじゃよ。自分じゃ坊主といっとるが?」
「坊主?」
「私は、あれはフルイスティじゃないかと思う。本人は否定しているそうだが」
フルイスティというのは、ロシアでも邪宗門扱いにされている異端の僧だ。
「とにかく、いま御覧のように、ふしぎな力を持っておる。私の力ではどうにもならない病気を癒すのじゃ。それであの男を信じる連中がだいぶあって、そのほうのお布施《ふせ》で生活しているらしい」
「何という男です」
「グリゴリイ・エフィモヴィチ・ラスプーチン。……」
チェーホフにとって、彼の旅行記に特記すべき人間は、そのほかにもあった。それは一人の人間ではなく、日本人のグループで、日本領事館の人々であった。
十月はじめのある北風の強い日、日本領事|久世原《くぜげん》と書記杉山次郎が訪問して来た。チェーホフが部屋の寒さをわびると、彼らは「とんでもない、大変暖かです」と、見えすいたお世辞をいった。
しかし彼らは、チェーホフに好印象を与えている。
「彼ら二人は、モンゴル型の顔をした、中背の日本人である。領事は四十前後で、あご髯はなく、口髭もほとんど眼につかないくらいで、がっしりした体格をしている。書記のほうは十歳ほど若く、青い眼鏡をかけており、どうやら結核――つまりサハリンの気候の犠牲者のようだ。彼らは洋服を着、ロシア語も大変うまい」
それ以前に、チェーホフのほうから何度か日本領事館を訪ねたこともあるらしい。
「領事館を訪ねた際、彼らがロシア語やフランス語の本を読んでいるところによくゆき合わせたものだ。戸棚にも本がぎっしりならんでいる。彼らはヨーロッパ風の教育を受け、洗練された鄭重《ていちよう》さを身につけている。繊細で、感じのいい人たちだ。
――ここのロシア人の役人たちにとって、日本領事館は、監獄や懲役関係の仕事の煩労からのがれ、休息することの出来る、暖かな、ありがたい場所となっている」
さて、この日、チェーホフは彼らから一つの情報を聞いた。
「チェーホフさん、あなたはお国の皇太子が、近く日本を訪問されることを御存知ですか?」
と、久世領事がいったのである。
「えっ、ニコライ皇太子が、日本へ?」
チェーホフは眼をまろくした。この春、自分がモスクワを発つとき、そんな話は聞いていなかった。
「本国からの連絡によりますと、皇太子はこの秋ギリシャにゆかれ、そのあと軍艦で、スエズ、印度洋経由で日本を訪問される。――」
「近いうちに、ですか?」
「いや、近いうち、といっても、ギリシャ御滞在がながく、日本においでになるのは来年四月ごろの御予定だということですが、とにかく日本では――日本の東京には、いまお国のニコライ大主教が大会堂を建設中でしてね。それが来年春に落成する。間にあえばその開堂式に臨席される行事をふくめて、一カ月以上も御滞在になるそうです。そのあと、ウラジオストックにゆかれて、シベリア鉄道の東端からの起工式に臨まれる御予定だそうで。――」
「へへえ」
「チェーホフさんは日本にゆかれるはずでしたね。それじゃ、そのころになすったらどうです。日本じゃ朝野をあげて、ニコライ皇太子殿下を歓迎申しあげる準備に大わらわだということですし、そのころはちょうど新緑に爽やかな風が吹いて、日本ではいちばん美しい快適な季節で。――」
チェーホフはだいぶ食指が動いた。
彼はロシア宮廷の政治に甚だ感心していなかったから、皇太子そのものに興味はなかったが、しかしそれが東洋の一島国を訪れて、一カ月余りも滞在するという。はじめてわがロシアの皇太子を迎えるその桜の国の民衆の反応には、やはり好奇心が動かないわけにはゆかなかった。
チェーホフは、しかし一方で、ロシアにとってもさいはてのこの地にとどまることには、もう限界を感じていた。
ましてこの樺太《サハリン》でこの冬を過すことは、考えただけでも耐え切れなかった。
日本領事とそんな話をして間もない十月五日、彼は母宛に手紙を書いている。
「何しろこの三ヶ月もの間、僕は懲役人か笞《ち》刑のことしか話さない連中のほかにはだれにも逢っていないのですから。――早く日本へゆき、それからインドにゆきたいと考えています」
サハリンには、もう粉雪がちらつく日が、二度ばかりあった。
サハリンを去るのなら今だが、しかし来年の春まで日本にとどまるのは何としてもなが過ぎる――と思案しているうち、日本ではいまコレラがはやっているという話を聞いた。日本ばかりでなく、ウラジオストックにも上海《シヤンハイ》にもインドにもコレラが流行していると聞いた。
もうどこにも寄らず、一路、ロシアに帰ろう。皇太子なんかどうでもいい、と彼は決めた。モスクワを出てから、六カ月目にはいっている。何よりチェーホフをとらえたのは、突然の、はげしい望郷の思いであった。
むろん、シベリアのもと来た道を帰るなどということは頭から御免だ。海路を帰るのだ。で、ヨーロッパゆきの船を探すと、十月十三日に、ペテルブルグ号という船がコルサコフを出ることになっていた。
この船は日本には寄港しない。ウラジオストックから東支那海へぬけてゆく。――十月五日に母にあんな手紙を書いたのに。彼がその船に乗ることに決めたのは、いかに彼の発心が急で、かつ矢も盾もたまらないものであったかを物語る。
と、十日の午後に、思いがけない人物がやって来た。
チェーホフはコルサコフで、警察秘書のフェリドマンという人の家を宿としていたのだが、ここにサーシャという若い女中がいて、そのサーシャが連れて来たのである。
ドアがノックされたとき、チェーホフは消えかかったストーヴに石炭をいれかけていたが、サーシャといっしょにはいって来た人間を見て、ちょっと息をのんだ。それはあのグリゴリイ・ラスプーチンという男であった。
「あんた」
挨拶もせずに、ラスプーチンはまずいった。
「日本へゆくんだってね」
「いや、やめたんだ」
めんくらいつつ、反射的にチェーホフは同じような言葉遣いをした。
「え、ゆかないの?――サーシャからそう聞いたんだが」
サーシャは混乱した表情で赤くなった。この間、夕食のとき主人のフェリドマン夫婦にこんな話をしたのを、サーシャは聞いていたのだろう、とチェーホフは思い当った。
そして、このえたいの知れぬ男は、他家の女中を、自分の女中のような眼で見ている。ああ、この娘はこの男の信者だな、と気づくとともに、チェーホフは、この娘が信者以上の関係でこの男に結びつけられていることを直感した。
「私はこの十三日にも船で出発するつもりだが、それは日本へは寄らずヨーロッパへゆく船なんだ。私はまっすぐにオデッサに帰る」
と、チェーホフはいった。
「私が日本にゆくとすると、どういう用があるのかね」
「いや、いっしょにゆこうと考えていたんだが……」
と、ラスプーチンは残念そうにいった。
話しながら、チェーホフはふしぎな思いがした。この相手の正体がよくわからないのだ。氏素性ではなくて、人間が、である。向い合って数語会話を交せば、たいていどういうたちの人間か、少なくとも馬鹿か利口か一瞬に見ぬくことの出来る彼が、この相手はまったく見当がつかないのだ。
だいいち、この男はいくつなのか?
チェーホフはこのとき三十歳であったが、はじめ彼はこの男を自分より年上だ、と考えていた。渋紙色にあせた頬、ひたいにときどき刻まれる深い皺《しわ》、パサパサした髪や赤茶けたまばらな髯――などからである。が、そのうちに、そのうす青い眼にただよう粘っこい光や、全身からむっと吹きつけて来る獣のような匂いに、これは自分よりもっと若い男ではないか、と感じはじめた。
コーリン・ウイルソンの「ラスプーチン」によれば、「ラスプーチンの生まれた正確な日付ははっきりしない。まあ一八六〇年代の末、チューメン県のトボリスクの近くポクロフスコエという小さな町で生まれたと見てよいだろう」とある。だとすると、彼はこの年二十歳をわずかに出たくらいの年齢ということになるが。――
――ちょうどいま話に出ている日本で、同じころ明石元二郎が稲城黄天の年齢について不可解の首をひねっていたが、ラスプーチンという男に対して、それと同様の混迷をチェーホフはおぼえたのであった。
苦行《くぎよう》者めいた感じが老《ふ》けた第一印象を与えるが、よく見ると髯の中の唇がひどく肉欲的で、とにかく年齢など鑑別のつかない外貌だ。
ぶきみさと同時に、しかしチェーホフはこの男に対して、奇妙な親近感をおぼえた。
彼は朴訥な百姓言葉がきらいではなかった。なぜなら彼自身、父は小商人であったが祖父以前はいわゆる農奴だったからだ。しかし彼は、むろん粗野は好まない性質であった。ところがこのえたいの知れぬ男は、粗野を通り過ぎて無礼に近い言葉だというのに、むしろ天衣無縫ともいうべき魅力を発散しているのだ。
「何をしに日本へゆくんだね?」
チェーホフは尋ねた。
「皇太子がゆくって話じゃないか」
と、ラスプーチンは答えた。その話もサーシャから聞いたらしい。
「ひとつ、彼に逢いたいと思ってね」
「皇太子に逢う? 君が?」
チェーホフは、うす汚いどころか、濃い体臭のほかに、たしかに垢の匂いのする相手を見あげ、見下ろした。
「いくら旅行中だって、そう簡単には逢えないだろう」
「そう思うが、日本でなら、ひょっとしたら逢えるかも知れないと思ってね」
「皇太子に逢って、どうするんだ」
「いや何、お近づきになりたいと思ってるだけだ」
ラスプーチンの青灰色の眼は笑っていた。しかし、異様な光を放っていた。
この問答の途中から、ふっとチェーホフは、これは馬鹿ではないかと思ったが、その眼を見て、これは馬鹿ではないと知った。いや、頭のよしあしではない。この男は、実に奇怪な力の持主なのだ!
「それなら、私がゆこうとゆくまいと関係がない。君一人でいったらいいじゃないか」
「じゃあ、このひとでも連れてゆくかね」
そういいながらラスプーチンは、無遠慮にサーシャのお尻をなでた。サーシャは顔を赤くして身をくねらせたが、その眼が喜悦にかがやいた。彼女は真に受けたらしい。
「日本にいって――知り合いがあるのかね」
「ない」
ラスプーチンはぶっきらぼうに答えた。
「が、ニコライ大主教が東京に大会堂を建てているそうだから、そこへいって見ようと思う」
「なるほど」
チェーホフは、ラスプーチンが、坊主――異端派にしろとにかく修道僧だと老獄医がいったことを思い出した。それについて、やはり訊かずにはいられないのは、先日この男が見せたあの怪異な出来事であった。
「ところで君は、この間、足を切った囚人の血をとめたね。あの囚人は、あれから癒ったよ。半分切れた足の傷がふさがって、無事つながってしまったんだ。まったく驚いたことだ。あれはどうしたのかね?」
「どうするもへちまもない。私が祈れば血がとまるんだ。たいていの病気は癒る」
と、ラスプーチンは平然といった。
「それじゃ、私の病気も癒してくれ。私はときどき血を吐くし――胃からだと思うが――それに、痔疾もある」
ラスプーチンは、穴のあくほどチェーホフを見た。
「あんたはだめだ」
「どうして?」
「神を信じないから」
無神論者のチェーホフは、苦笑するより、めんと向ってはきょうはじめて逢ったばかりというのに、自分の本質を見ぬいた相手の炯眼《けいがん》に戦慄した。
「あれを見なければ、私は信じなかったろうが、いまは信じる」
「あの出来事だけ信じてもだめだ」
チェーホフは辟易しながら、とにかく質問をつづけることにした。
「生まれたときから、あんな能力を持っていたのかね?」
「どうだか自分でもわからない。ただ、去年の春、生まれ故郷のポクロフスコエ村の野良で働いていて――おれはシベリアの百姓の倅なんだ――空中に、聖処女マリアさまの姿を見た。マリアさまは、ふつうの聖像のように長い衣裳を着ていないで、まる裸だった。が、たしかにマリアさまにちがいなかったよ。……そして東のほうを指して何かいいたげだったが、それっきり消えてしまった」
チェーホフは、口をぽかんとあけて聞いている。
「家に帰って親父《おやじ》にその話をすると、気がふれたのかこの馬鹿といった。おれは村から十露里離れたヴェルホトウレの森に住むフルイスティの隠者マカルイにそのことを話しにいった。……」
フルイスティ――チェーホフは、それがロシアの古くからの邪教だということを知っていた。
信者は自笞《じち》苦行者ともいわれ、自分を鞭打つことによってキリスト性を得ると信じ、またしばしば森の中などで、焚火《たきび》にかけた水甕《みずがめ》のまわりをおたがいに鞭打ちながら踊ってまわり、その回転と舞踏は次第に早くなり、鞭打ちは次第に烈しくなり、疲労と苦痛の果てに血まみれになって倒れ、最後には半失神状態、痙攣状態で男女が交合する。交わる相手はキリストであり、マリアである。すなわちその恍惚と法悦の極みで神と一体になると信じている――そんな奇怪な宗派だということを聞いていた。
「君はフルイスティなのか?」
「私はそうじゃない。ただそのマカルイ隠者は尊敬していた。予言がほんとうにあたるんだ。……するとマカルイ隠者は、お前は神によって偉大な仕事をするために選ばれたのだ。マリアさまの指さされたほうへ――東へゆけ。東へいって、そこで苦しんでいる者を救え――その果てに、最もお前に救われて然るべき人間が現われて来るはずだ、と、いった。で、おれは東へ巡礼の旅に出て、シベリアの町々の教会を訪ね、やがてこのサハリンに来た。人の血をとめ、病気を癒す力のあることを知ったのは、その旅の途中からだ」
決して人をかついでいる表情ではない。もったいぶった重々しさはない。ラスプーチンは、自分の見た村芝居の話をする百姓のように、無邪気であけっぱなしの顔でしゃべった。
「その皇太子の話を聞いたとき、それがおれにいちばん救わるべき人間じゃないか――と、おれは思った」
「ニコライ皇太子か? なぜ?」
「なぜでも」
ラスプーチンは、このとき突然身体をふるわせた。
「この部屋は少し寒いね」
チェーホフは、ストーヴに石炭をいれかけてやめたことに気がついて、あわてて立ちかけた。すると、ラスプーチンが手をあげて、
「面倒くさい、待ちなさい」
と、いって、ストーヴの前に立ち、ストーヴをじっと見つめた。
一分ほどして、もう黒くなっていた石炭投げ入れ口がぽっと赤い炎をあげたのを見て、チェーホフは眼を見ひらいた。さらに一分たつと、消えていた石炭がふいごのような音をたてて燃えしきりはじめた。……
数分間、ラスプーチンはいかにも気持よさそうに腹をあぶっていたが、
「さよなら」
といって、つかつかと部屋を出てゆこうとした。
――この理性では到底理解不可能な出来事を、うなされたような表情で見まもっていたチェーホフは、やっとこのとき、
「待ってくれ」
と、声をかけた。
「それじゃあ、君は日本へゆくね?」
「ああ、船があれば。……」
「来年の春にかね?」
ちょっと考えて、
「いや、日本をよく知らないから、なるべく早く、船さえあれば明日《あした》にでも」
「それなら、こんどはこっちから頼みがある」
「何だね」
「実は、手紙を一通とどけてもらいたいんだが」
チェーホフは、デスクの抽出《ひきだし》からそれをとり出した。
「日本は日本でも東京じゃないらしいんで、東京に着いたら切手を貼って郵便函へ投げこんでくれればいい。数日前に私が日本にゆかないと決めてから、こちらの領事館にでも頼もうかとも思ったんだが、どうもそういう機関を通しちゃまずい性質の手紙でね」
「と、いうと。――」
「ブラゴヴェシチェンスクまで流れて来た日本の売春婦から、故国に残した二人の子供へとどけてくれと依頼されたんだが。――彼女は死んだ。哀れな死に方で、これは子供への告別の手紙だ。どうかとどけてやってくれ」
チェーホフはあの夜のことを話し、ラスプーチンにそれを渡した。
十月十三日、チェーホフは樺太《サハリン》コルサコフを出るペテルブルグ号という船に乗りこんだ。そして、十一月一日、黒海のオデッサに着き、翌日の夕方モスクワの駅にたどりついた。約六カ月に及ぶ彼のアジアの旅はこれで終った。
文豪アントン・チェーホフを、すんでのことで迎えるはずであった明治二十三年の日本は、コレラと、突然の彼の変心で、その実現を歴史からとり逃がしたのである。
しかし、彼の代りに。――
残飯戦争
チェーホフが樺太《サハリン》を去った十月中旬、日本では、まだ残暑めいた暑さがいつまでも残る秋であった。
そんな西日がかんかんさしているある夕方、麻布連隊の裏手の往来で、陸軍中尉明石元二郎は、ふと異様な光景を見つけて立ちどまった。
そこに桶や笊《ざる》を積んだ荷馬車や大八車が、三、四台ならび、それをはさんで、二十人近い男たちが口論しているのである。
いや、口論といったようなものではない。――
一方のむれは、裸にちかい、ボロをまとった連中であったが、これが地面に坐って、
「お願いでござります。それをいただかせて下さりませ!」
「それをいただいて帰らんと、今夜食うものがござりません。……」
「どうか、どうか、お願い。――」
と、頭をすりつけんばかりにしているのに対し、一方のむれは人足風、中にはやくざ風の連中で、これが、
「うるさい。これはこっちにいただくということにきまっておるんだ」
「やい、そこどけ」
「どかねえと、車でひき殺すぞ!」
と、わめきたて、中には天秤《てんびん》棒を振ってすごんでいる者もあった。
そちらのほうの荷馬車や大八車の桶や笊には、残飯のたぐいが山盛りになっていた。――どうやら兵営から出たもので、その奪い合いらしい、と知ったが、そんなものを取りっこする人間がこの世にあろうとは思いもかけなかったので、明石元二郎はあっけにとられて眺めていた。
と、騒ぎを聞いて裏門から、二、三人の兵隊が出て来たが、これも憮然たる顔と、可笑しげな顔をならべて見物していた。
明石は近寄った。
「どげんしたんじゃ」
兵隊たちは敬礼した。炊事掛りの下士と兵士であった。その下士の一人がいう。
「は、残飯の取りっこであります」
「そりゃ、わかっちょるが」
「あっちが、四谷鮫ヶ橋の貧民どもで、あの連中が以前から連隊の残飯をもらってゆくことになっておったのでありますが」
「ふん」
「こっちが、それ、例のいろは牛肉店の奉公人たちであります。それがこの夏ごろから、ここの残飯を集めに来ることになりました」
「どげんして、牛肉店に残飯が要るんじゃ」
「いろは牛肉店では、三田飼育場とかで牛や豚や鶏を飼っとるそうで、その餌《えさ》にもらいたいっちゅうことで」
「なるほど」
「そう変改になったときもひと騒ぎでありましたが、一応鮫ヶ橋のほうはあきらめて、それ以来来なくなりましたが、どうやらあきらめきれずまたやって来て、いろは組と喧嘩になったようであります。ひとつ、とめてやりましょう」
兵隊たちが歩き出しかけた。
「おい待て」
明石はいった。
「とめるっちゅうて……どう裁くんじゃ」
「そりゃ、残飯はいろは組に出すことに決ったんで、鮫ヶ橋組を追っぱらってやります」
「ふうん。人間と豚が、残飯のとり合いとは驚いたな。……待て待て、そりゃしかし、どっちも欲しいなら、人間のほうにやるのが順当じゃろうが」
「いえ、それが……この夏、横浜でコレラがはやりまして、それ以来、方針が変ったのであります。万一、その残飯を食った連中にコレラが発生してはいかん、っちゅうことで。――」
「なるほど。ばってん、コレラ騒ぎはもうおさまったんじゃないか」
「いえ、まだ完全におさまっとらんようで――何にしても、衛生上の見地から、残飯はいろはのほうに出すっちゅうことに決まったのであります。それは上のほうから来た御命令なのであります」
こちらのこんな問答は耳にもはいらない風で、いろは組の連中は、このとき鮫ヶ橋組を蹂躙《じゆうりん》し、追い散らし、意気揚々と荷馬車や大八車をひいて引揚げていった。
彼らは、いろはの奉公人というより、飼育場か処理場の人間だったにちがいない。そのあとに、こっちは空の笊をのせた大八車と、腰がぬけたように坐っている裸ん坊のむれがとり残された。
次の日曜日の昼、三田四国町の牛肉店いろは本店に、ぶらりと明石元二郎が現われた。
いろはの支店は、赤坂|榎坂《えのきざか》町にもあり、麻布六本木にもあって、明石はそのどっちにもいったことがあるが、舶来《はくらい》の五色ガラスを市松模様に立てまわした二階家で、追いこみの座敷に、銘仙の着物にたすきがけ、紺足袋をキリリとはいた銀杏《いちよう》返しの女中が、たちまち焜炉《こんろ》や牛肉、ザクなどを運んで来るという様式は、ここも同じだ。
ここは本店だけに、赤坂や麻布の店より一段と大きい。それが、座敷はほぼ満員に近かった。
牛肉が来ると、明石は、
「おい、大王はおるね。――いや、表に赤い俥が停《とま》っとるのを見たばい。おるにきまっちょる。ちょっと呼んでくれ。おれは第四連隊の明石中尉だ」
と、女中にいった。
このいろは牛肉店の経営者木村荘平は、東京じゅうにいまのところ二十数軒の店を出しているが、毎日朱塗りの人力俥に打ち乗って、各支店を督励と集金のために駈けまわる、ということでも有名であったのだ。その二十数軒の支店長はことごとく彼の妾である。――荘平はこの支店長たちに、のちに総計して三十人の子供を生ませることになるのだが、これも明治ならではの化物の一人だろう。
どんな客が呼んでも参上するというわけではなく、おそらく怖《こわ》らしい軍人が呼んだというので気にかかったのだろう。しばらくして、その木村荘平が現われた。
大きな身体をフロックコートにつつみ、みごとな関羽髯を生やしている。なるほど、いろは大王の異名をつけられるにふさわしい偉丈夫だ。年は五十前後と見えた。
客たちが気づいて、眼を集めてざわめくのに向って、
「やあやあ、みなさん、おおきに、おおきに、よう来ておくんなはった。ありがとうござります。ありがとうござります」
と、髯の中から愛嬌をふりまいた。
もっとも、女中に案内されて彼が来たとき、呼んだ人間はその座にいなかった。――
「おや」
キョロキョロしていると、若い軍人が股ボタンをとめながら戻って来た。
「や、失敬。小便にいっとった」
見て、豪放な荘平もにがい顔をした。その軍人は、便所の草履《ぞうり》をはいたまま、座敷を歩いて来たからだ。
「あんたが有名な木村荘平さんか」
どっかりとあぐらをかこうとして、はじめて足の草履に気がついて、煮えている鍋の上に足を持ちあげてそれをぬいだ。バラバラと埃が鍋の中に散った。
「いちど、じかに逢って見たいと思ってね」
「それだけの御用でっか」
と、荘平はにがり切っていった。
明石は平気で鍋の中の牛肉を箸でつまんで、口にほうりこんだ。――座敷を草履で歩く、などいうことに、彼は風馬牛《ふうばぎゆう》である。それどころか彼は、よその家の便所の草履をはいたまま家に帰って、翌朝靴がないのではじめて自分の失敗に気がついたことが、二、三度ある。
「いや、実はほかにも頼みたいことがあるんじゃ」
と、明石はいった。
「あんた、麻布の連隊の残飯の払い下げを受けて豚を飼っとるそうじゃね。聞くと、市ヶ谷の士官学校の残飯ももらっちょるそうじゃが」
「は、東京じゅうの軍関係の残飯は、みんなこっちで頂戴することになっとりますのや。それがどうかしましたかい」
「それ、ひとつやめてくれんか」
「……と、いいはりますと?」
「あれはな、以前は四谷の貧民街の住民の飯のたねで――残飯が飯のたねというのも可笑しいが――いのちのたねで、あれを持ってゆかれると大困り、どころじゃない、それ以来、日によっては餓死者も出そうなありさまじゃというんじゃ」
明石はそれを、あの兵営の裏で、鮫ヶ橋の残飯屋から、涙ながらに聞いたのであった。
「じゃから、あれはやっぱり人間のほうに譲ってやらんか。――お節介じゃが、気の毒で、見るに見かねておれからお願いする」
「ああ、そのことでっか」
木村荘平はうなずいた。最初からの仏頂面のままで、
「あれはしかし、こっちがお頼みしたんやないんで、ある方から勧められたことなんで――そりゃ、あの残飯はこっちも大助かりでごわすが、その代り、その方とちゃんと契約書を交し、それによって然るべき代金もお支払いしておりますのや」
「なんじゃ? 残飯の払い下げの代金を?」
実は明石は、あのあと炊事場のほうを調べて、残飯処理についての新しい方針は、ずっと上層部のほうから来たことを再確認している。
「軍のだれかが代金を取っとるっちゅうのか」
「いえ、それは稲城黄天というおひとで」
「な、なに? 稲城黄天?――あの神道占の――」
「御存知でっか」
明石は眼をむいていたが、やがていった。
「あの易者と軍とは、何の関係もないじゃないか」
「しかし、あの方のお口ききにちがいないんで」
「ひとのフンドシで相撲《すもう》をとる、っちゅうが、あいつはよその残飯で金をもうけちょるのか。けしからんやつだ」
「しかし、商売のほうから申しますと、そんな見返りはあたり前で、私ゃべつにけしからんとも思いませんが」
「いくら払っとるんじゃ」
「年に千二百円。つまり、月に百円ですがな。それで軍関係の残飯を一手に払い下げてもらえりゃ安いもんで……半年分ずつ、前金で払う、という約束で、最初の半年分六百円はもうお渡ししてありますのや」
明石元二郎は、またうならざるを得なかった。中尉の自分が月俸十九円というのに、軍隊とは縁もゆかりもないあのイカサマ野郎が、軍の残飯で月に百円ずつ巻きあげているとは。――
「そういうわけで、それをどうしてもけしからんとおっしゃるなら、稲城さんのほうへいっていただきたいもんで……あっちが、それはもうやめる、前金は返す、ということなら、手前のほうは手をひきますよって」
と、木村荘平は不愛想にいった。
「しかし、稲城さんがそんなことをいうわけはごわすまいなあ。……」
「ううん」
「いや、中尉さん、お若いから、あんたはんのお気持、わからんでもごわせん」
荘平は、はじめてニヤリと笑った。――彼は薩摩|訛《なま》りの大阪弁ともいうべき奇怪な言葉を使い、それがまた変な凄味をおびた。
京伏見の生まれだが、若いころ薩摩藩大坂屋敷出入りの御用達《ごようたし》をやっていた縁で、維新後、薩人の初代警視総監川路|利良《としよし》に東京に呼ばれ、その委嘱で官営処理場をあずかったことから、やがて牛肉店経営の道をひらいた木村荘平は、いまも薩閥とのつき合いの多い一種の政商であった。――
「しかし、そりゃやめなはれ」
「どげんしてな?」
「わしも最初、稲城さんからそんな話を聞いたときは、どうして稲城さんがそんな口ききが出来るのかふしぎに思いましてな。こっちが妙な顔しとるので、あっちが説明してくれはりました。あの人は、下山宇多子っちゅうえらい女官と同郷でお親しいそうで、その下山女史から山県総理大臣に話してやるっちゅう話で。――」
「………」
「この残飯の件は、総理大臣お声がかりのことごわすぞ。わかりもしたか。わはははは!」
――三日ほどのちの朝だ。
平河町四丁目の伊勢神道占の前の往来で、大変な騒ぎが出来《しゆつたい》した。
何やら大声でわめく声がするので、神道占の弟子が二、三人、門から飛び出して見ると、一台の大八車の前に一人の軍人が大手をひろげて怒鳴っていた。
「こら、その残飯どこから持って来た」
大八車をひいていた男と、うしろから押していた男が、ニョゴニョゴと何かいった。どっちも怖ろしいボロをまとった男だ。
「なに? そりゃいかん、そりゃいかんぞ!」
咆えている将校を見て、神道占の弟子たちはぎょっとした。それはあの明石中尉であった。
「東京の軍関係の残飯にはみな山県総理大臣の息がかかっとる。人民が勝手に売買したり運搬したりすることは御禁制になっとるんじゃ。これからとり調べる。ここで待っとれ。……こらっ、動かしちゃいかんちゅうのに!」
と、腰の軍刀をひっこぬいた。
「わっ」
梶棒を握っていた男が、手を離して飛びあがると、大八車の前方は高くはねあがって、満載していた大桶、大|笊《ざる》のたぐいが、いっせいにうしろになだれ落ち、地上でひっくり返った。
男たちは、こけつまろびつ逃げていった。
「おいっ、こりゃ御禁制品じゃ。縄を張って証拠保全しちょってくれ。――頼んだぞ!」
明石中尉は、神道占の弟子たちのほうに顔をむけていい、
「待てえっ」
と、赤鰯《あかいわし》の軍刀をふりまわしながら駈けていった。
あと、門前の往来いっぱいに散乱したものを見て、弟子たちは息もつけなくなった。すえたような飯、魚の骨、何やらの臓腑、沢庵のしっぽ、菜っぱ。――それに何やら、実際に糞臭までする。まさに鼻をつままずにはいられない悪臭の爆発であった。
――あくる朝のまだうす暗いころ。
「わっ、またやられたっ」
神道占の門前で、また途方もない大声がとどろきわたった。
「こら、逃げるな、待てえっ」
銃声さえもした。
弟子たちが、ほんとうにおっとり刀で飛び出すと、往来にひとり明石中尉が仁王立ちになっていた。そばに薄汚い大八車が、車輪もはずれてななめになり、そこから崩れ落ちたらしい桶や笊が地面にひっくり返り、その一帯に、また例の残飯が盛大にちらばっている。
「おれの姿を見ると、一目散に逃げおった!」
弟子たちを見ると、明石は眼をむいてさけんだ。
「ちぇえ、とり逃がしたか、残念な。――」
片手に抜身、片手に拳銃をぶら下げている凄じい姿だから、みんな毒気をぬかれて棒立ちになり、しばらく近づく勇気もなかったが、一人、年かさの弟子が、カチカチ歯を鳴らしながら声をかけた。
「貴公、きのうから何をしておるのだ?」
「じゃから、いった。東京の軍関係の残飯はすべてこれ山県総理のしろしめしたまうところじゃ。しかるにこのごろ、その残飯が横流れしちょる! 盗み出したものか、密売か、まだわからん。――それを調査せよという命令を、この明石が受けた! おれは帝国陸軍残飯追跡特別機関員じゃ!」
彼は、湯気の出んばかりの形相《ぎようそう》でいった。
「そうだ、きのうの証拠品、保存を頼んでおいたが、ありゃどげんした?」
「残飯を保存しろったって――いつまでたっても取りに来んから、やむを得ずこっちで始末した」
と、こちらはウンザリした顔で答えた。
いや、その始末の難儀なことといったら――かたづけながら嘔吐して、汚物の量をさらに加えた者さえあったほどだ。といって、放っておけば門前の通行もなりかねぬどころか、悪臭が家の中まで吹いて来るから、泣き泣き始末した。――
「だれが始末しろといったか。……よしっ、きょうのこれは保全しとけよ、おれはこれから追跡にとりかかる」
武者ぶるいして駈け出そうとするのを、
「待てっ」
二、三人が進み出た。
「嘘をつけっ、きさま……わが神道占にイヤガラセをしとるつもりだな?」
それはきのう、この将校が駈け去ったあと、稲城黄天が出て来て、報告を聞いて、
「――きゃつ、イヤガラセをしおったな?」
と、うめいたことから、みな思いあたったのだ。
彼らは口々にさけんだ。
「こんなところを、残飯|車《ぐるま》がなぜ通るのじゃ?」
「それも、これで二度目」
「偶然、それがここでひっくり返るということがあるか!」
すると、明石元二郎は、つかつかと戻って来た。弟子たちは、あとずさりした。
「おう、それはこっちから訊きたい。どげんしてここを残飯車が通るか、それこそこっちが知りたいこっちゃ。じゃから、つかまえちゃろうと、追いかけまわしとる。ばってん、それより――」
と、満面を朱に染めていった。
「ここのあるじに訊いたほうが早わかりかも知れんたい。稲城を出せ。稲城黄天をここへ出せ!」
逆効果になって、みんな鼻白み、顔見合わせた。
「出さんか、こら呼んで来いっ」
と、いうと、明石はピストルを轟然と発射した。まるでキチガイだ。
目標は、往来の向うに一つ鎮座している桶であったが、みごとに弾が命中したと見えて、しかしどういうはずみか、タガの一つがはね飛ぶと、桶板が四散して、中から残飯が黄色い花火みたいに飛び散った。
「わっ」
みんな、頭をかかえて飛びのき、一人が、
「大占師は、きのうから御不在で。――」
と、悲鳴のようにいうと、
「そうか、それではまた来る。それまでこの残飯は厳重に保全しておけよ!」
と、おめきさけんで、明石中尉は軍刀とピストルをふりかざし、アシュラのごとく暁闇の路上を駈け去った。
「――きゃつ、また来るにちがいない」
と、七面鳥みたいに顔を赤くしたり青くしたりしながら、稲城黄天は弟子たちにいった。
どうしてあの明石が、突発的にあんな馬鹿げたイヤガラセをはじめたのか見当がつかないが、そもそもあの若い軍人が手に負えないのは最初からのことだ。
「――とにかく、あの残飯を運搬して来るやつらがあるのだから、明石が現われる前に、そいつらをつかまえてぶちのめせ」
そう命令されて、弟子たちは、その夜は交替で寝ずの番をして、朝まで門内に待ちかまえた。
ところが、その朝はやって来ない。
ほっとすると同時に、拍子《ひようし》ぬけもして、朝まで待機していた連中が寝につこうとしたところ――麹町一番町から急報が来た。
「大変っ、どうしたことか、塾の前は残飯の海でござります。早く来て下され!」
桃夭《とうよう》女塾の老下男であった。
それから一時間ばかりのち、下山宇多子は、桃夭女塾に駈けつけた稲城と話していた。
「いったい明石は、どういうつもりでこんな乱暴をはじめたのでしょう?」
と、宇多子は、身もだえしていった。
門前の汚物はなんとかかたづけ、洗い流したはずだが、まだ異臭がここまでにおって来るようだ。
「軍の残飯をいろはに払い下げる、ということをかぎつけたのでごわしょうな」
と、稲城はいった。
「その仲介をしたのが、あなたと私、ということを知っての狼藉《ろうぜき》ね」
「そうでごわしょうな」
「なぜ?」
稲城は答えなかった。
この春、鮫ヶ橋の貧民街で残飯屋を見て、彼はあれを儲けのたねにすることを思いついた。知り合いのいろは牛肉店の木村荘平に払い下げさせて、その口銭をとるのである。
――まことに常識を超えた、えげつない思いつきだが、政界の黒幕といわれた後年にいたるまで、彼はこのたぐいのアイデアの原型を、もっと大がかりにしたあれこれの口で巨利を得ている。べつに彼ばかりを責めるにはあたらない。政治家なら――ことに現代の政治家なら――だれでも思い当ることだ。
彼はその大義名分を衛生の見地に求め、下山に、山県へいってくれるように依頼した。いろはからコミッションをとることなどは口をぬぐってである。
下山宇多子は、彼女も金銭的に迂闊な女ではなかったが、そこまでは思い及ばず、ただ単純に衛生的見地からそれに賛成し、稲城の希望を叶《かな》えてやった。――
「あれは、上のほうからいった指図で、しかも、もっとも千万な理由があるのに、たかが中尉の身分で横紙破りな。――」
「聞くところによると、ありゃ大将中将連も持て余すメチャクチャなやつだそうで」
黄天は嘆息した。
「むしろあの――同郷の大島大尉でもいてくれりゃ何とかなると思うんですがな、折悪《おりあ》しく、あれはいまドイツに留学中で――」
「とにかく、その残飯の件で、あれが鋒先《ほこさき》をこちらに向けて来たところを見ると……あの男は、私たちの鮫ヶ橋視察の日のことを頭に浮かべてのことにちがいない。……」
宇多子の顔は、不安と苦悩にわなないていた。
鮫ヶ橋視察の日のこと、といったが、彼女の怖れの対象は、あの夜のことだ。彼女はあの夜の痴態を明石に見られたと思っている。少なくとも、明石が雪香から聞いたと思っている。
が、それっきり世にそんな噂はひろがらないようだ。噂のことだから直接こちらの耳にははいりにくいだろうが、いわゆる地獄耳の稲城の知るところでも、あの件についてはべつに何の噂もないという。華族女学校でも、格別の反応は見られない。
竜岡雪香は、あれっきり桃夭女塾へやって来ない。あたりまえだがそれも気になり、ひそかに黄天に探ってもらうと――雪香はあれからずっと家の中で家事をやっているらしい。ほとんど外出せず、また外から明石らしい軍人が訪ねて来るようすもないという。
では、それで安心かというと――宇多子はなお悪夢にうなされる思いから解放されなかった。
なんとかしなければならない。雪香と明石をなんとかしなければならない。
で、いくどか稲城に然るべき対策をせっついていたのだが、稲城ははかばかしい返事をしない。女を金縛りにすることだけなら自信もあるが、それにくっついている明石という中尉が難物だという。へたに手を出すと、藪蛇になる怖れがあるという。
さすがの稲城もホトホト持て余しているようだが、宇多子とてこれはという工夫もないので、やむなくそのままにし、いまはただ、あの夜のことがその二人の男女の脳髄から消え去ってくれることを祈るばかりであったのだ。
そこへ、こんどの明石の奇怪な行動だ。
さあ、その意味がわからない。ただ貧民のための残飯を奪ったということで、彼がこんなお節介なイヤガラセを始めたというのならまだいいが、それ以上の動機にもとづくものだとすると――と、薄れかかっていた例の夢魔が、ニューッとまた現われて来たような思いであった。
よく考えると、あの秘事を握っているはずの明石中尉が、そのことにはそ知らぬ態で、まったく別の軍の残飯の一件で、こんな馬鹿馬鹿しい、突拍子もない騒ぎをひき起した理由が不可解なのだが、すねに傷もつ身としては、これがあれとは何の関係もない行為だとは思われない。何かあるという疑心暗鬼にかられずにはいられない。
で、いま、その明石中尉から、悪夢が現実化したような「残飯戦争」の奇襲を受けて、「同盟国」たる稲城黄天に改めて対応策を迫る彼女の眼には、恐怖と怒りと焦燥の火が燃えていた。
ひざに手をかけて、ゆさぶられて。――
「そうだ。……よしっ」
それまで、顔を蛸《たこ》みたいにのびちぢみさせていた稲城が、突然はっしと別のひざをたたいた。
「いま、天照皇大神より御神示があった!」
「ええ、なに?」
「そもそも、あの残飯処置の件は、貧民どもを、悪疫からふせいでやるという、人道的な配慮から出たものでござった。そのわれらの慈悲心を、天照皇大神かしこくも見そなわしたまいて、いま絶妙の御神示を下されたものと見える。……」
「なな、なんと。――」
宇多子は黄天につりこまれた。もっとも両者の心理的地位は、いつのまにやら逆転している。
「飛んで火にいる夏の虫、いや、残飯にたかる秋のハエと申そうか。……あの明石が騒動のたねに使う残飯を逆手にとって、きゃつをとっちめる工夫が浮かんだのでございます。それで今夜、あの乱暴者を永遠に金縛りにすることが出来るでござろう」
「そ、それは――」
黄天は、宇多子の耳に何やらささやいた。
「えっ、でも……コレラは、もう……」
と、いぶかしげに問い返したのに対して、
「いやいや、まだ出ておると、数日前の新聞で見ました」
と、黄天はいった。
「とにかく、それよりほかに法はござらぬ。それどころか、これぞまさしくありがたき天照皇大神のお告げ。――」
「………」
宇多子が不安げな眼で見あげると、稲城はそれをぐいと抱きしめて、その熟《う》れ切った豊艶な唇にムシャぶりついた。
口の中を這いまわる牛のように分厚《ぶあつ》な舌を感じながら、当代の大女官は、たちまち全身しびれ果て、やがてこちらから狂乱して、その愛撫に応えている。たったいま、自分たちの醜聞におびえていたというのに。――
いかなる秘策成ったか、稲城黄天は弟子たちを自宅のみならず桃夭女塾にも配し、いざや神変明石中尉|来《きた》れと待ち受けた。――
ところが、その翌日は来ない。翌々日も来ない。
来ない、となると、こちらの準備が困る。ただ寝ずの番や早起きが無益になるばかりではない。ほかにも困ることがあったのだが、そのわけはあとで述べる。
そしてまた、三日目の朝も現われない。――
「はてな? きゃつ……やめたのか?」
ずぶとい稲城黄天も、さすがに動揺といらだちの色を面上に見せた。その日、果然、明石中尉は襲来した。
それが、意表をついて、夕刻である。来たのは平河町の神道占のほうであった。
しかも、長い荷車を二頭ずつ二列の馬に曳《ひ》かせ、その一頭に明石みずからが打ち乗っている。しかも、その荷台の上には、例の桶、樽、笊、甕《かめ》などを何十個か、天にもとどけとピラミッド状に積みあげ、それにまた十人近い裸ん坊や、ボロをまとった男たちがしがみついている。
それらの桶や樽には汚物がまみれつき、汁がしたたり落ちている。
後の世の大戦車も、これほどもの凄じい外形は呈していないだろう。怪奇、異形《いきよう》、汚穢《おえ》、醜悪そのものの城がゆらぎ出して来たようだ。前世紀、いや異次元の国からやって来た大怪物だ。
それが、四つの車輪をきしませて、往来を通り過ぎるどころか、この日は堂々と門からはいって来たが、黄昏の光にふちどられたあまりの壮観? に、そこにいた、二、三人の弟子は――ほかの連中は、みんなくたびれて、待機を解いていた――あっといったきり、数分間、制止する者もなかった。
「やあやあ」
と、馬上から明石は呼んだ。
「待たせた、待たせた」
と、彼は白い歯を見せ、
「帝国残飯軍元帥、稲城黄天閣下に、管轄《かんかつ》軍用物資をおとどけに参上した。受領のハンコを持って御検査にお出まし願うと伝えてくれ」
と、弟子たちにいうと、赤鰯の軍刀をひきぬいて高だかと宙にあげ、
「それっ」
と、大音声《おんじよう》をはりあげた。
と、荷台の上の男たちは、まわりに桶や樽や笊を、獅子奮迅の勢いで突き落し、放り投げはじめた。――
汁にまみれた飯、骨だけになった魚、何かの臓腑、腐った野菜、果物の食いかす、芋の皮――それが馬四頭で曳いて来たほどの量だ。おまけに、そんな食物の残骸ばかりでなく、明らかに汚物、さらにはっきり固形物のかたちさえ見せた糞汁さえある。
「待て待て」
馬から下り立った明石が手をあげた。
「せっかく運んで来た軍資じゃ。いっそ家の中まで運んだほうが、親切というものじゃろ。裏のほうに梯子《はしご》がある。それをこっちに持って来い。ちょうど屋根に穴があいとるから、そこから放りこむと便利じゃて」
そこへ、玄関から、弟子たちに囲まれて稲城が現われて、その大音声は聞いたはずだが、しばし、一帯の惨状に茫然と立ちすくんだ。
が、二、三人の裸ん坊が裏手のほうへ駆け出すのを見て、やっとわれに返って、
「ま、待ってくれ!」
と、さけんだ。
口をあけただけで、|のど《ヽヽ》の痙攣を起しそうな悪臭だ。
「明石中尉、こりゃなんだ?」
と、眼をむいて訊く。
「何のためにこんなまねをする?」
「おう、稲城さん、お久しぶりじゃね」
と、明石は破顔した。
「お前さん、東京じゅうの軍の残飯の総|元締《もとじめ》になっとるそうだね。いや、軍の残飯を一括処理することになったのは知っていたが、お前さんがその総元締として山県閣下からお墨付をもらっとることまでは知らなんだよ。迂闊なことで、失礼した」
「そ、そりゃ、衛生上の立場から――」
「うん、それも聞いて、結構なことじゃと敬意を表する。で、それなら軍関係以外の残飯も同じ理由で、みんなお前さんが統轄《とうかつ》するのが至当と思い、それをこっちに届けようと発心したんじゃが、軍以外のところからこれだけ集めるのには、実に苦労したよ」
苦労したというのは、意外にほんとであった。
ここ二、三日姿を見せず、きょうやっと現われた明石が、のっけに「待たせた、待たせた」といったが、これは稲城のほうの待機を見すかしての愚弄ではなく、いま見るような大量の残飯を集めるのに、ほんとに骨を折ったことから来た溜息であったのだ。
しかし、集荷させたのが鮫ヶ橋の住民であったことを見てもわかるように、もとよりこれは貧民の食を奪った強欲漢への膺懲の共同作戦だ。
面白いことに、彼のこの行為は、先日兵営裏で見た光景から触発されたもので、いつか稲城たちを震駭《しんがい》させたあの夜の事件とは直接関係がない。彼が鮫ヶ橋の貧民街へいって助《すけ》ッ人《と》を頼んだのも、連隊裏でいろはの連中に土下座して哀願していたのがそこの住民だと知ってのことで、そもそもそれ以前、稲城たちが雪香といっしょに鮫ヶ橋へいった話など、雪香から聞いてはいないのだ。
ただ、残飯掠奪の親玉が稲城黄天だと聞いて、明石が武者ブルイして起《た》ったのには、むろん、この悪党の蛸入道め、という、それ以前からの葛藤《かつとう》があったればこそだ。
「おう、そうだ、総理大臣のお墨付どころじゃない」
と、明石は怒鳴《どな》った。
「ここには天照皇大神がお祭りしてある。それ、山の幸《さち》海の幸を大神に奉献せい!」
「待て、待て、待ってくれ!」
両手をつき出して、稲城黄天は悲鳴をあげた。
「参った、参った」
と、この男がべそをかいて、
「明石中尉。……これには黄天、降参した。いさぎよく白旗をかかげる。――」
「なに?」
「もうかんべんしてくれ。貴公の横紙破りにはかなわん。……軍の残飯からは手をひく。いろは牛肉との契約は破棄する。それで了承して、もうひきとってくれ。……」
と、土下座するような手つきをした。
四谷鮫ヶ橋の貧民街にコレラが発生したのは、それから数日後のことである。
江戸で二十万人が死んだという安政の大コロリにさかのぼるまでもなく、明治から大正、いや昭和前期に至るまで、コレラは日本でいちばん怖ろしい伝染病であった。
患者は、米のとぎ汁のような猛烈な下痢と、また同様に白濁した嘔吐をくり返し、数日にして、中には数時間にして、しゃりこうべみたいに枯れ果てて――いわゆる「コレラ顔貌」になって――死んでゆく。死亡率は当時七〇%といわれた。
それがコレラ菌という菌によるものであることが、ドイツの大医コッホによって発見されたのも、この物語のこの時点よりわずか七年前の明治十六年のことで、それでとにかく病原菌は患者の排泄物――糞便、吐物――中に存在することが判明したが、それはたちまち人間の手、衣服、食物のみならず、一帯の井戸水、蠅などによってひろがり、しかもこれといった治療法はなく、ただ患者群を隔離するか、あるいは発生地域を外界から遮断して、自然の終熄《しゆうそく》を待つよりほかはないありさまであった。
このコレラがこの年の夏の終りごろから横浜に大発生してひと騒ぎとなり、秋になって何とか鎮静した気配であったが、それが突然残り火が飛び火したように東京の四谷鮫ヶ橋の貧民街に発生したのである。この時期には珍しいが、十一月上旬のことであった。
発生してから三日で、もう十人くらいお陀仏になった。――どうやら住民がよそから集めて来た残飯が発生源らしい――コレラより警官に驚いて、隣接する私娼窟の女たちが四散し、それがコレラをかかえているかも知れないので、また警察が狼狽している――など、当時特有の残酷さとユーモアに満ちた筆致もまじえて報道した新聞を読んで、さすがに明石元二郎はショックを受けた。
彼は、その日の連隊の勤務が終ると、すぐに四谷に駈けていった。
鮫ヶ橋の貧民街にはいるどの入口にも警官が立ち、マスクをした役人風の男たちが、桶から消毒液を溝などにまいているのが見られた。石炭酸の匂いが、あたり一帯にたちこめていた。
「いかん、立ち入り禁止です」
そう止められて、明石が茫然と立っていると、
「中尉」
と、うしろから呼ぶ者があった。
ふり返って明石は、大通りに人力俥がとまって、その上で笑っている稲城黄天の顔を認めた。
「えらいことになったな。残飯がコレラのもとじゃったとな」
と、いった。
明石はさけんだ。
「軍にコレラ患者が出たとは、聞いちゃおらんぞ!」
――あれ以来、軍の残飯はやはりもと通り、貧民街の連中がもらってゆくことになったのだ。
「そうか。はて、それではどこでくっついたか。……とにかく、わしが役人に聞いたところでは、発生源が残飯だということはまちがいのない事実だというこっちゃ。ああ!」
と、鯨が潮を吹くような声で長嘆した。
「やはり何だな。残飯はいろはの豚にまかせたほうがよかったのう。あはははは!」
長嘆したかと思うと、不謹慎な大声で笑い、笑ったかと思うと、ギロリと眼をひからせて、
「しかしまあ、わしにもいくらか責任はある。貴公のイヤガラセに負けたという責任がな。で、明石中尉、残飯のゆくさきが変った事情については、武士の情けで黙っていてやる。それで、アイコにしよう。……何もかも、じゃぞ」
おしぶとくいうと、黄天は俥夫をうながし、そっくり返って俥を走らせていってしまった。
明石は、口をあけて見送っている。彼には、相手のいった意味がよくわからない。――しかし稲城が自分を金縛りにしようとしているらしいことはわかった。
そして彼は、自分がたしかに封じられたことを知った。
それにしても、なぜ残飯からコレラが発生したのか。その残飯を払い下げた軍のどこからも患者が出たという話は聞いていないが。――
ところで明石は、コレラはコレラ菌によるという知識はあるにはあったけれど、それはまだ漠然としたもので、自分があれほどお節介をやいた残飯ながら、あんなものを食えばコレラにならないほうがふしぎだ、と思う心もあった。稲城に責められる前から、まったくいらざることをしたものだ、と悔いる心があった。どう稲城にとっちめられてもいたしかたがない。
彼は、稲城が横浜にいって――数日前そこにまた再発生した患者の排泄物をひそかに手にいれ、次に鮫ヶ橋にいって例の残飯屋の桶や笊にいたるところそれをなすりつけたことは知らなかった。
明石が来ないと困るといったのは、そのコレラのききめがうすれて、黄天にしても決死のその作業が無効になる心配があったからだ。
――実にどうも、ひどいことをするやつもあったもので、そのアイデアを天照皇大神からの御神示だとは、稲城黄天は、人を喰うどころか神様も喰ってしまう、人間離れした破戒無慙の男だといわなければならない。明石元二郎だって、実は事と次第では、薬にもなれば猛毒にもなる素質の持主であったが、このときはまだそこまで想像出来なかった。
それに、何といっても明石はまだ若かった。――
ふと彼は、路地のほうをふりむいた。
すると、そこから担架をかついだ一組が出て来た。前を持っている男はマスクをかけているが、うしろはボロをまとった老人で、歩きながら涙を流している。
さしもの明石が、反射的にそこを逃げたい衝動をおぼえた。しかし、彼はそのほうへ近づいた。
マスクの男が、あわてて制止した。
「来ちゃいけません。あぶない」
明石はそれにはかまわず、なお近づいてのぞきこんだ。青竹にむしろの担架にのせられているのは、猿のミイラみたいにちぢんでいるが、まだ五つくらいの男の子の死骸であった。
爺さんはそれを見下ろして、口を四角にして号泣している。その足がよろめいた。
「どこへ運んでゆくのかね」
と、明石は尋ねた。マスクが答えた。
「あそこの空地へ。――死骸がある数まとまったら、大八車で焼場へ運ぶんで」
「それじゃ、おれが手伝ってやろう」
「軍人さん、こりゃコレラですぜ」
「わかっちょる、大丈夫じゃ」
明石元二郎は、老人から担架を奪い、もううす暗くなりかかった秋風の中を、黙々と子供の死体を運んでいった。
ラスプーチン来《きた》る
――地上の人間|曼陀羅《まんだら》図は神だけが知っていることだが、それから四、五日たったある夕方であった。
神田紅梅町のロシア正教神学校の廊下のベンチに坐って、長谷川辰之助は窓越しに、駿河台にそびえる基督《ハリストス》大聖堂を眺めていた。
明治十七年春から工事にとりかかった煉瓦作りの大聖堂は、まる五年半かかって、ようやく足場をとり払い、巨大な全容と壮麗な外装を浮かびあがらせていた。来年の春には開堂式のはこびになるという。その玉葱のかたちをした大ドームを、真っ赤な夕日が染めていた。
しかし、内部はまだ未完成なので、創建者たるニコライ大主教は以前からの通り、この神学校の「本館」と称する西洋館の一室に住んでおり、長谷川はそれを訪ねて来たのである。
はじめから待たされているのではない。さっきいちど逢って、こちらからの依頼を述べている途中、司祭がはいって来て、何か告げた。
新しい訪問者が来た気配であった。しかもそれは大主教をきわめて不審がらせたようで、
「それじゃ、逢って見よう。……あなた、あなたは少しそこで待ってて、下さい」
と、大主教は長谷川にいった。
「そのあとで、また、お話、ききましょう」
というようなわけで、長谷川は部屋から出されてしまったのだ。
廊下にベンチがあるのも、べつに客用ではなく、とにかく手狭《てぜま》なので、いろいろの道具がゴタゴタと積んであるものの中の一つだ。
そのベンチで待っている長谷川辰之助は、やがて司祭に案内されて前を通ってゆく一人の男を見た。――
それは――赤茶けた髪を、はえるがままのように無造作に分けてたらし、ひざまである黒い粗末な上衣に――おそらくルバーシュカというのだろう――すり切れた皮帯をしめ、泥のかわいた長靴をはいただけで、異人には珍しくうす汚い男だという印象であった。それが、司祭に連れられて大主教の部屋に消えたあと、ただ「影」がはいっていったような気がした。
司祭だけが廊下をひき返していった。
長谷川辰之助が大主教を訪ねた目的は、ウラジオストックに渡って商売をやりたいのだが、だれか地元の有力者に紹介状を書いてもらえないだろうか、と頼みこむ用件であった。
彼がここに来たのは、はじめてではない。以前からチョイチョイ姿を見せ、大主教とも何度か話を交している。そのうちこの青年が宗教心から自分に近づいて来たのではないと大主教も察したが、それでもべつにいやな顔をしなかったのは、この一見暗闇の牛のように鈍重な若者が、名利以外の何かを求めている――ということが感得《かんとく》されたからであった。
その彼が、ウラジオストックで商売をやりたいという。――ニコライ大主教は不審な眼で見まもった。
「あなたが……そこで何をやろうというのです?」
問い返されても、長谷川は相当に返事をしぶっていたが、それを知らないで紹介は出来ないといわれ、ついに投げ出すように答えた。
「実は、女郎屋を」
ウラジオストックに、日本の女を連れていって、大きな女郎屋をひらきたい。――
長谷川辰之助は、そういい出したのであった。
「それはロシア人に、日本人とは愛すべき民族だ、ということを知らせるいちばん手っとり早い法であり、また日本人に、ロシア人は決して怖ろしい種族ではない、ということを知らせる第一歩になると思います」
大まじめに長谷川辰之助はこう述べたのだが、ニコライ大主教はあっけにとられ、次に笑い出して、
「いけない。そんなことはいけない」
と、手を振った。それから真顔になって、何やら説教をはじめようとしたときに、新しい訪問者の来訪が告げられたのであった。
長谷川はベンチで考えに沈んだ。
彼は元来志士的な肌合いがあって、そもそも彼がロシア語を学んだのも、ロシアこそ将来日本の「深憂大患」になる、という思想から発したものであった。そのためにロシア文学を読み出し、次第に国家を離れて深入りしはじめ、ついには文学そのものにとり憑かれるようになり、自分で小説や飜訳を書き出した。――
「秋九月中旬のころ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことが有《あ》つた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生《な》ま煖《あたた》かな日かげも射《さ》して、まことに気まぐれな空《そ》ら合ひ。……」
おととしの夏に発表したツルゲーネフの「あひびき」の訳だ。
ところが彼は、自分の不器用な文才に愛想をつかしていた。去年の夏、創作「浮雲」第三篇を書くには書いたが、そのまえがきに、「因《も》と此《この》小説はつまらぬ事を種に作ツたものゆゑ、人物も事物も皆つまらぬもののみでせうが、それは作者も承知の事です」と、わざわざことわったくらいだ。――こんな情けない自己否定をみずからかかげる作家というものがあるだろうか。
ことしの一月に発表された森鴎外の「舞姫」という作品を読んで、彼はますます自信を喪失した。かくのごとき神来の名文を書いた人は、軍人だそうで、しかも自分よりわずか二歳年長の人だという。
それで彼は、とうとう、小説の筆を折ることにした。
右の「あひびき」の飜訳を現代のいま読めば何でもない。――しかし、当時としてはこの文章は革命的なものであったのだ。いま何でもないのは、われわれがその後四迷の文章に倣《なら》ったからである。
――二葉亭四迷は、自分が、不器用ながら、それゆえに清新きわまる口語体の文章を最初に創作し、日本文学の世界に、「舞姫」などよりもっと歴史的な偉業をうち立てたことを、いたましくも自分では、知らなかったのである。
といって、役人の下働きで一生を終りたくない。そこで思いついたのが、女郎屋商売だ。もっとも、いくら何でも日本でそんなことをやる気はなく、やれもしない。ただ、海外でなら――と、考えた。
辰之助としては、それも海外雄飛の一つの形であり、一方では、ロシアの民情探索の役にも立つと思った。もっとも、そんなことはニコライ大主教にはいわず、ただ日露親善のためといったが、それもあながちまったくの口実でもない。
それこそ、自分のやるべきことだと思った。何事でも、思いつめるとそれに固着してしまうのが彼の性格で、ニコライ大主教に女郎屋開業の斡旋者になってもらおう、など突拍子もないことを考えたのもそのせいである。
「いけない、そんなことはいけない」
のっけから大主教はそういって、追い出したのだが。――
やはりだめか。だめだったら、徒手空拳、ひとりでウラジオストックに渡ろうか。もしそれも見込みがないとなると、自分は何をして一生を過すべきだろうか?
彼は、ここ二、三年の、汚らしい悪魔とたわむれているような陰鬱な日々を思い出し、吐気がした。
――で、彼はそこのベンチに茫然と腰を下ろしていたのである。
向うのドアがひらいて、さっきの男が出て来た。一人だけだ。
そして、ベンチにいる辰之助など眼にもはいらないかのように、廊下をもと来た方へ歩いていった。
また「影」のように。――いや、そうではない。その姿が見えなくなってから長谷川辰之助は、何か怖ろしいものが通り過ぎていったことを感じた。なぜかわからず、しかしたしかに強烈な人間が。
またドアがあいて、ニコライ大主教が姿を見せた。
これも彼の前を、五、六歩ゆき過ぎ、またひき返し、つぶやきはじめた。
「ああ、あれを離してはいけない。……しかし、ここにとどめておくわけにはゆかない。……あの男は、どこへゆくのだろう? 日本には、だれも知る者がないといった。……彼は何をしに日本へ来たのだろう?」
大主教は、迷う心を、言葉と足どりに見せたが、あっけにとられている長谷川と、ふと眼が合うと、
「君、あの男を追っかけて下さい!」
と、いった。辰之助は尋ねた。
「あの人はだれです。御存知の人なのですか?」
「いや、はじめての男だ。樺太《サハリン》から、きょう横浜にやって来たという。グリゴリイ・エフィモヴィチ・ラスプーチンという名だそうだが。……」
大主教はいった。いったいどういう話をしたものか、珍しくこの人が、恐怖の表情さえ浮かべていた。
「異端僧だ」
「異端。――」
「ただそれだけではない。あれが、いかがわしい、怖ろしい男だということは、私だけにわかる。危険人物だ。とくに、あれを放置すれば……私は、日本人がロシア人を怖れていることはよく知っている……必ず日本人のロシア人に対する悪い印象を濃くするだろう。……あれはつかまえなければならない」
「つかまえて――ここへまた連れてくるのですか?」
「いや」
大主教は狼狽した。
「連れて来なくてもいい。いまのところは、ただ、どこへゆくのか、それをつきとめて、私に報告してくれればいい。……そのあとで、事情によっては私のほうから、日本の警察にお願いして強制送還の手続きをとってもらうことになるかも知れない」
日本人の眼には、荘厳というより怪異と見える基督《ハリストス》大聖堂が、東京の町に長い長い影を投げている。
「ラスプーチン……師……」
呼びかけられて、駿河台の坂の途中で、ラスプーチンはふりむいた。
追っかけて来たのは、ヨレヨレの袴をはいた日本の青年だが、これがロシア語で、
「あなたは、どこへゆかれるのです?」
と、訊いて来た。
ラスプーチンは、さすがに驚いた顔をした。
「お前さんは、ロシア語がしゃべれるのかね?」
「ダア」――はい。
と、長谷川はうなずいて、
「あなたのことを、いまニコライ大主教から聞いたのです。あなたがこれからどこへゆかれるのか、つきとめてくれ、ということでした」
「私には、わからない」
「日本人にだれか知り合いがあるのですか?」
「ない。……しかし、私は一人でも生きてゆかれる」
「お金はあるのですか?」
「ない。……私は十日間食べないでも平気だ。人の捨てたものでも食べれば、それ以上生きてゆかれる」
ラスプーチンは平然といった。
「何しに日本へ来たのですか」
「……ある人間にめぐり逢うために」
「え? しかし、いま日本人に知り合いはいないとか。――」
「それはお前かも知れない」
青味をおびた灰色の眼が笑った。
「それがだれか、私にもわからないのだ。……いまのところ、そうとしかいえない」
謎のような言葉だ。長谷川は首をひねったが、しかしこの言葉の意味のほんとうの怖ろしさを感づくべくもなかった。
「で、いつまで?」
「さあ。……来年の四、五月ごろまでいたいと思っている。そのころ私の国の皇太子が日本に来られるようだから」
「ああ、それを見物してから帰るんですね?」
と、長谷川はさけんだ。
「しかし、それまであなたはどこで暮すつもりなんですか?」
「だから、私にもわからない、といっている」
問答は最初と同じものになった。
これが、やはりキリスト教の僧だって? まったく、変な坊主だ。そうだ、大主教は、異端の僧だといった。いかがわしい、怖ろしい、危険人物だといった。あれはどういう意味だろう?
はじめ「影」のように見えて、次にふしぎな力を放射している男だということを、大主教にいわれる前に、長谷川は直感している。
そして、大主教から追跡を依頼されたのだが、同時に長谷川も、自分から接触を望む心があることを知った。それどころではない。――これは大主教よりも興味ある人物だ。少なくとも自分のあの願望を叶《かな》えてくれるのは、この男かも知れない、という直感がひらめいたのだ。
長谷川辰之助が声をかけたのは、そういう心理からであった。
それに、たったこれだけの問答を交したのに、しかも相手はひどくぶっきらぼうなのに、彼はこの男に対して――大主教のいったのとは反対に――きわめて人間的な、というより素朴で無邪気な子供に対するような、ふしぎな親近感をおぼえている。
「実は、私もロシアにゆきたいと思っているんですが。――」
と、歩きながら彼はいい出した。
「あなたが御帰国のとき、いっしょに連れていってくれませんか?」
ラスプーチンは、じろっと見た。
「ロシアのどこにいって、何をしようというのかね」
「それが。……」
しばらく、ためらって、
「ウラジオストックにいって、日本人の女郎屋をやりたいと思ってるんですがね」
ラスプーチンはなお長谷川を見ていたが、このときまばらな髯の中から、にやっと笑った。汚いくせにどこか神々《こうごう》しいような感じもあったのに、この瞬間ひどく下卑《げび》た、肉欲的な表情になったので、長谷川はちょっと意外な感じがした。
「私はサハリンから来たのだが。……」
と、彼はいった。
「ウラジオストックは知らない」
「サハリンでもいいんです。あっちに、日本の女郎屋をひらいてもいいような町がありますか?」
「ないね。あそこは囚人ばかりの島だ」
困惑した表情の長谷川を見て、ラスプーチンはいった。
「しかし、私はサハリンに帰るつもりはない。ウラジオストックにゆくかも知れない。……そのとき、その気になれば、お前を連れていってもいい。……ところで、お前は何という名前かね」
「ハセガワ・タツノスケ。……」
うっかり長谷川が日本流にいうと、
「ああ、タツノスキーか」
ラスプーチンはうなずいて、
「お前は、興味ある男だ。ひょっとすると、私が探している男になるかも知れない」
と、また妙なことをつぶやき、突然思い出したように、
「ああ、あれがあった!」
と、さけんだ。そして内かくしから、一通の手紙らしいものをとり出した。それがどうやら日本語の宛名らしいので、長谷川は眼をまろくした。
「これをあずかって来たんだが」
のぞきこんで、長谷川はびっくり仰天した。
三重県宇治山田、云々《うんぬん》という住所はともかく。――
「竜岡雪香どの!」
彼は大声をあげた。
「その人なら、知っています!」
彼はこの春、例の魔窟探険のとき、同行した二人の婦人がふしぎにたえないので、歩きながら内村鑑三に、あれはだれかと訊いたのだ。内村は、下山宇多子とその秘書竜岡雪香の名を教えた。ふつうなら秘書の名など忘れてしまうのだが、それがあまり美しい娘であったのと、あとであんな出来事があって、彼女が失神してしまうようなことがあったので、その名をおぼえていたのであった。
「お前が、知っている?」
「知っています。宛名は三重県、とありますが、その人はいま東京に住んでいるんです。……ちょっと、裏を見せて下さい」
裏には、
ロシア国シベリア、ブラゴヴェシチェンスクにて、母、水香《みずか》より。
と、あった。――
辰之助は、いよいよ判断を絶した。
「その人のところへゆくと、泊めてもらえんかね?」
と、ラスプーチンはいい出した。
「いや、それは」
長谷川はまごついた。この人物に親近感をおぼえてはいるが、それは余りに途方もない思いつきに思われた。
「それは難しいと思います。まだ若い娘さんですから。……それに、私はその人の正確な住所も知らないのです。むろん、調べればわかりますが。……」
「若い娘。――」
ラスプーチンはつぶやいた。辰之助は少々うす気味悪くなり、
「これが、あなたの探している人ですか?」
と、尋ねた。
「いや、ちがう」
ラスプーチンは首をふった。
「これは、ただ手紙をあずかっただけだ」
「それじゃ、私がとどけてやりましょうか」
ラスプーチンはしばらく考えこんでいたが、
「いや、その娘さんが東京にいるなら、私のところに取りに来てもらおう。話したいこともある。……そう伝えてくれ」
と、答え、手紙をまた内かくしにしまいこんで、
「さて、私はどこにゆけばよい? タツノスキー」
と、長谷川の顔をのぞきこんだ。二人は、夕日の神田の雑踏の中にいた。
「ロシア!」
「ロシア!」
「ロシア・バテレン!」
かん高い声がして、町の子たちがまわりに集まって来た。
駿河台に、青い水母《くらげ》の化物みたいな――傍若無人、ともいうべき大建築がそそり立ってゆくにつれ、この界隈《かいわい》にロシアの聖職者が多く見られるようになっていたことと、こちらのルバーシュカ姿が結びついて、彼らはそう呼んだらしい。
しかし、必ずしも親愛の呼びかけではない。むしろ好奇心に恐怖のまじった声であり、顔であった。それは子供たちばかりではない。その向うの大人たちも、ほとんどそれと同様の顔であった。中には、壮士めいた青年の、殺気に満ちた眼もいくつかゆれ動いて見える。
「さあ、どいとくれ、どいとくれ!」
笑顔で、そんな連中をかきわけながら、長谷川辰之助は、この人物をどこへ連れてゆこうかと苦慮している。
来年の春、ロシアの皇太子が来日するとかで、その巡遊地はほとんど日本全国の都市に及ぶ予定で、各地では早くも歓迎の趣向に腐心しているというような記事を新聞で見たが、日本人の恐露思想は幕末のオロシャ時代から、実はあまり変っていない。むしろ、近くシベリア鉄道の大工事にとりかかるというので、いよいよ脅威感は高まっているようだ。歓迎は恐怖の裏返しだ、と長谷川は見ている。彼自身、ロシアを日本の「深憂大患」とする思想から人生の行路をきめたようなものだから、その国民心理がよくわかるのだ。
皇太子は知らず、そんな日本人の巷《ちまた》へ、一介のロシア人を放り出して、大丈夫という自信はない。幕末|流行《はや》った異人斬りの伝統もある。
長谷川は、自分の足がいつのまにか九段のほうへ向っているのに気がついた。自分は九段を通って四谷に帰るつもりなのだろうか? 彼は四谷荒木町の女写真師の二階に間借りしていた。
そんなところへ、この怪・異国僧を連れてはゆけない。家主が承知しないにきまっているし、貧乏な自分が、金がないとみずからいっているこの人物を、来年四、五月ごろまで養えるわけもない。
改めて、心中にうろたえ、しかもどこへ連れていっていいかわからないままに、その方向へ足を運んでいると――突然、
「消えて失せろ! ロシア乞食《こじき》!」
という呂律《ろれつ》のもつれたさけびとともに、何か飛んで来た。
それがビール瓶だとわかったのは、自分たちをかすめた物体が、通りに面した店の格子《こうし》にぶつかって、路上に落ちて砕けたのを見てからのことだ。人混みの向うを、職人らしい男が逃げていった。
びっくりしたのは、こちらより、そこにいた二、三人の子供であった。瓶の砕ける音に、反射的に逃げ出そうとして、一人が転んだ。
「酔っぱらいです。かんべんしてやって下さい」
と、長谷川はいった。
「いそいでゆきましょう」
「ちょっと待って」
と、ラスプーチンは立ちどまったままで、地上を見下ろした。
転んだ子供は起き上ったが、膝から真っ赤な血があふれているのを見ると、けたたましい声で泣き出した。
そのただならぬ声に、すぐ近くの店から飛び出して来たおかみさんが、あわてて抱きあげ、子供の膝小僧がパックリ割れているのを見ると、
「何しやがったんだ、この毛唐っ」
と、血相変えてわめいた。母親らしい。長谷川は手をふった。
「ちがう、ちがう。酔っぱらいがビール瓶を投げて、そのかけらに転んだのだよ」
「お医者を――」
と、さけぶ母親のそばに、ラスプーチンはしゃがみこみ、
「子供を貸しなさい」
と、いった。
そして、長谷川が通訳する前に、子供をぐいとひったくって、
「プリィナァシィチェ、ヴォドウ」――水を持って来なさい。
と、母親にいった。
これまた長谷川がそう伝えるより早く、母親が何の不審顔も抵抗も見せず駈け出したのが、あとになればふしぎ千万であったが、そのときは長谷川は、ラスプーチンの腕の中の子供に注意を奪われた。
六つくらいの男の子であったが、出血がひどいので紙のような顔色になって、髯をはやした異国人に抱き移されたのに、泣き声をとめて、黒い眼をひらいて、じいっとその顔を仰いでいる。
しかし、血はなお流れつづけ、膝まであるラスプーチンの上衣の裾は赤く濡れた。
母親が、水をこぼしながら手桶を持って来た。
ラスプーチンはその桶に手をひたし、濡れた手をふって滴《しずく》を子供のひたいにふりかけたあと、その手で子供の膝をワングリつかんだ。
まわりはちょっとした人だかりの環《わ》になっていたが、どうしたことか、さっきまでの騒々しさを嘘のように消して、みんなしいんとしてこれを眺めている。ただの好奇心ではなく、子供の母親と同様、その異人から放《はな》たれる異様な雰囲気にのまれたようだ。
二、三分か。――五、六分か。
ラスプーチンは手を離し、また桶の水で、子供の膝をザブザブと洗った。
血はとまっていた。――のみならず、さっきパックリひらいていた傷はふさがって、そこに薄赤いひとすじの傷痕を残すのみであった!
「癒《なお》った」
ラスプーチンは母親にロシア語でいって、その腕に子供を渡した。そして、自分の手を無造作にルバーシュカにこすりつけてぬぐい、
「チェペエリ、イッチイ」――さあ、ゆこう。
と、長谷川をうながして、スタスタと歩き出した。
――大主教は、「あれは、いかがわしい、怖ろしい、危険人物だ」といった。いまの出来事がその言葉に必ずしもあてはまるとは思えないが、長谷川が心中に一種の恐慌を起したことはいうまでもない。
「……どうして、あの子の血がとまったのです?」
彼が訊いたのは、神保町の雑踏をやっとぬけて、九段に近づいてからであった。
「私にもわからない。いつもあんな風にゆくとは限らないが……とくに子供の場合は、たいていは癒るのだ」
と、ラスプーチンは答えた。
「それより、さっきだれかが私めがけて瓶を投げたのは、どういうつもりかね」
「べつにたいした意味はないでしょう。あなたが外国人で、しかもだいぶようすが変っているから、つい異物排除の反応を起したのでしょう」
攘夷を、長谷川はそんな風にロシア語に訳した。
「だいいち酔っぱらいのしたことですよ」
「何か悪口をいったようだね」
「ああ」
長谷川は思い出した。というより、あまり奇抜な罵声だから耳に残っていたのだ。
「それは、まあ、いわないほうがいいでしょう」
「いってくれ」
「実は、ロシア乞食、といったのです」
ラスプーチンは、ニタリとした。
「うまいことをいう。なるほど私は、ロシアの乞食だ」
その刹那に、長谷川辰之助の頭に、あることがひらめいた。
彼とならんで、九段坂を上りながら、ラスプーチンが尋ねた。
「日本人はロシア人に反感を持っているのかね、タツノスキー」
「べつに、そんなことはないでしょうが。……」
「わが皇太子が来るのだが、危険はないかね」
「それは、決して!」
長谷川辰之助は、大声で答えた。これはお愛想でも挨拶でもなく、ほんとうに彼はそう信じていた。
――ただ、その確信は、ロシア皇太子の訪日に、日本人が歓喜しているからではない。日本人はロシアが怖《こわ》いのだ。だから、その皇太子におかしなことをしたら、日本が大変なことになる、ということを、全国民が以心伝心、いじらしいまでに思いつめているからだ、と彼は知っていた。
それはともかく長谷川は、このロシアの怪僧に怖れをおぼえつつ、さればとて放り出して逃げるわけにはゆかないことを感じている。だいいち、あのふしぎな手紙の件もある。
「ラスプーチン師」
と、彼は呼んだ。
「あなたの住むところですが……貧民街じゃいけませんか?」
「貧民街?」
「皇太子は大丈夫ですが……しかし、ふつうのロシア人に対しては、ああいう異物排除反応が起らないとは、やはり自信をもって言えないところがあります。ただ、私の知っている貧民街なら、異物だろうが異人だろうが、平気で受け入れてくれるでしょう」
それがさっき彼の頭にひらめいたことであった。
さっきニコライ大主教は、事と次第では日本の警察に知らせて、強制送還したほうがいい人間だ、といった。長谷川はもう大主教に、この男のゆくえを報告する気はないけれど、とにかくそんな運命からこの男を保護してやるには、あそこにいれるよりほかはない、とも考えた。
「あなたはお金がないといわれる。人の捨てたものを食べても平気だといわれる。それなら、そこをかりのねぐらにされても大丈夫でしょう。それでよければ、これから案内しますが……その貧民街は、この方角にあるのです」
ラスプーチンはべつに何の反応も見せずに歩いていたが、やがて、
「貧民街、結構」
と、うなずいた。
この人物の落ち着き場所をやっと思いついた、という安堵と、その場所の奇想天外さに、長谷川辰之助は自分で感心して微笑しかけたが、ふいにその笑いがとまった。
「ああ、いけない!」
「どうしたのかね」
「その貧民街には、十日ばかり前、コレラが発生して……それがおさまったか、どうか。……」
「コレラ?」
訊き返したが、ラスプーチンの歩みはいままで通りであった。
「コレラなど、私は平気だが。……」
四谷鮫ヶ橋にコレラが発生してから、もう十日ほどたっていた。最初の三日間くらいで十人ほど死に、その後二人ほど死人が出て、ここ一両日、新患者が出ない――という状態であった。
その間、当局のやったことは、死亡者を運び出し、あと石炭酸をまき、その貧民街から出る四方の出口に警官を立たせて、外界と遮断しただけである。
医者も長くはとどまっていられないような汚穢《おえ》と不潔の沼のような地域だが、それ以上爆発的にひろがらなかったのは、何といっても季節が十一月にはいっていたせいだろう。
もっとも、ほんとうにはまだ終熄《しゆうそく》したわけでもなかったのである。
長谷川とラスプーチンが、南伊賀町のほうからはいるその入口の一つに着いたときは、どういうわけか、その見張りの警官もいなかった。――実は、ちょうど十分ほど前、貧民街からまた患者が出たという知らせを受けて、巡査が驚いて、近くの病院に設けてある市の防疫本部に報告にいったあとだったのだ。
知らぬが仏で、そこに巡査が立っていないことにも不審をいだかないで、二人は路地をはいっていったのだが――そうはいうものの、むろん長谷川としては甚だ気味がよろしくない。コレラが鎮静したというたしかな情報を聞いたわけではないから、当然のことである。
それでも彼は、ノロノロと歩く。いまさらこの怪人物をほかに連れてゆくところもなかったし、こうなっては、さっきたしかに見たこの男の魔力を信じるしかない。
――鮫ヶ橋貧民街は、死の世界のようであった。
ここはここなりに、見ようによっては外の世界より活気に満ちていたのだが、いまは変にシーンとしている。
ちょうど日が沈んで間もない時刻であったせいかも知れない。例のごときブリキ屋根に突っかい棒をしたような小屋小屋の中に、住民は内職もせず、みな影のように坐っていた。
あとになって見ると、それはコレラそのものの恐怖のためというより、外界と遮断されて、一種の酸欠状態となっていたからであった。魔界といっても、ここもやはり外との往来がなければ窒息してしまうのだ。
歩いてゆくのは、長谷川とラスプーチンだけだ。明らかに外から来たと見えるのに、しかし小屋の中の人々は、みなボンヤリと黙って見送っている。
いや、わずかに声のある一劃があった。
それは、新しくコレラ患者の発生した家であった。
ちょうど例の残飯屋前の空地に面した一軒で、一人の中年の女が白い下痢と嘔吐をはじめ、先刻、その亭主が巡査に知らせにいった。あと、子供たちが、患者のまわりで泣き声をあげていたのだ。
ここでは最大の雑踏地だった残飯屋前の空地はコレラ発生以来、ただ暗い空間と化している。
その空地に現われた二つの影を見て、戸口でウロウロしていた一人の娘が走って来て、
「あらっ、お医者さんじゃないの?」
と、落胆のさけびをあげた。何も知らぬ長谷川が訊いた。
「どうしたんだ?」
「コレラ……おっかさんが、コレラになったの。さっき父《とう》ちゃんが知らせにいったから、お医者さんが来てくれたと思ったの。……」
「コレラ!」
長谷川辰之助は仰天し、反射的に逃げ腰になった。
「待て」
ラスプーチンはそれを制した。
「コレラが出たんだね?」
と、いった。その言葉だけはわかったと見える。
「その病人をここへ連れて来るようにいいなさい」
と、ラスプーチンはいった。
「それから……甕《かめ》のようなものがあったら、新しい水をいれて持って来なさい」
と、ラスプーチンはつづけた。
長谷川辰之助は、この命令にいぶかしさはおぼえなかった。さっき神田で彼の奇蹟を見たばかりだったからだ。しかし。――
「しかし、大丈夫ですか。コレラですよ」
と、念をおさないわけにはゆかない。
「早くしなさい。あの病気は、一刻を争う」
そういわれて、長谷川は娘に、母親と、水をいれた壺をここへ運ぶように伝え、
「この人は、どんな病気でもなおすロシアのお坊さまだ」
と、紹介した。
娘は駈けていった。
数分後、亭主らしい男と少年が、中年女の頭と足を持って運んで来た。こちらを疑うようすはみじんもない。ロシアの坊主だろうがアラビアの魔法使いだろうが、すがらずにはいられない場合であったにちがいない。
地に横たえられた女は、蒼白な顔を横にしたまま、米のとぎ汁のようなものをまた吐いた。眼はおちくぼみ、鼻はとがり、頬骨は飛び出している。はじめからそんな顔をしているのではない。この病気は、怖ろしい嘔吐と下痢の連続で、数刻のうちにこうなるのだ。
ついで、さっきの娘が壺を持って来た。そのころは、この異変に気がついたらしく、あっちこっちから駈け出して来た貧民たちが、みるみる大きな環《わ》を作った。
命じられて娘が地に置いた汚い壺には水がたたえられている。
ラスプーチンは、一メートルほど離れたところに立ち、壺を見下ろした。
垂れ下がったまばらな髯の中で、ぶつぶつと何かつぶやいた。これは長谷川にもよく聞えなかったが、どうやら祈りの声のようであった。
――と、五分もたったであろうか。長谷川は、ぎょっと息をのんでいた。地上の壺が、すうっと白い蒸気をあげはじめたのだ。
十分ばかりで、壺の水は、あきらかに沸きたち出した。長谷川のみならず、そこにいた群衆すべてが、かっと眼をむいてそれを見まもった。なんの火の気《け》もないのに、壺の水は沸騰したのだ。
ラスプーチンはしゃがみこみ、瀕死の女を膝に抱いた。右手をのばして、その壺をとり――煮えたぎっているとしか見えない壺の口に手をかけて――それをかたむけて口にふくんだ。
そして、女の口に自分の口をつけた。ほんのいま、白い吐物を吐いたコレラの女の口にだ。
もう秋の夕闇が地に沈んでいたが、その中に、二人の口から――いや、肩から胸にあふれる液体は、あきらかに熱湯の蒸気をあげている。にもかかわらず、二人が火傷《やけど》したようすはない。
のみならず、さらに数分して、いままで閉じていた女の眼が、ボンヤリひらいた。その眼は、自分をのぞきこんでいる異人の顔を凝視している。逃げようとする反応はない。ついで、その土気色の頬に血の色が――夕闇のせいで血の色までは見えなかったが、たしかに生色が浮かんで来た。
「エタア、ジェンシチナ、アジィヴィラシ」――この女はよみがえった。
と、ラスプーチンはいった。
長谷川辰之助は、まるで夢魔の世界でも見るように、この光景を眺めていた。この異国僧の怪異を二度まで見せられるに及んで、彼は恐怖に襲われずにはいられなかった。これは魔人だ、と改めて感じないではいられなかった。
少なくとも、この人物が、ウラジオストックに女郎屋をひらきたい、などいう自分の夢を叶えてくれる人間ではない、これは別世界の化物だ、ということを知った。
われに返ると、壺の水は湯気をあげていなかった。――近づいて、そっと手を触れると、それはやはり冷水であった。
ラスプーチン。
その名は聞いていても、それがどういう人間であったか御存知ない読者があるかも知れない。そこで、ここで彼の生涯についてざっと述べておく。
グリゴリイ・エフィモヴィチ・ラスプーチンがロシアの歴史に登場するのは、一九〇五年十一月――日本でいえば明治三十八年、つまり日露戦争終結直後のことで、この物語のこの時点よりちょうど十五年後のことになる。
それ以前、彼がどこで何をしていたかは、すべて伝説の煙につつまれている。
前にちょっと述べたように、一八六〇年代の後半、シベリアのチューメン県のトボリスクに近いポクロフスコエという小さな町、町というより村に、百姓《ムジーク》の子、正確にいえば馬喰《ばくろう》の子として生まれたといわれている。
学校にはほとんどゆかず、ただ馬で草原を駈けまわってあばれている餓鬼大将であったが、十代の終りごろから彼に奇妙な能力が見られるようになった。
一つは、「第二の視力」ともいうべきもので、たとえば村で馬が盗まれると、すぐに馬泥棒はだれか、その名をいいあてるのだ。――そのくせ、彼自身馬泥棒もやったというのだからおかしい。もう一つは、怖ろしい性的放縦で、村の若い女を総なめにしかねないばかりであったという。美少年にはほど遠く、体格も鞭のようにしなやかではあるけれど、むしろ痩せ気味であったのに、彼には女に魅入る力と、彼女たちを吸いつけて離さない力があったらしい。
そのころとしては故郷であまりいい想い出を残していない。なかんずく村の人々を笑わせたのは、彼がよく「おれはロシアの魂の皇帝になる」と、誇大妄想的な放言をしたことであった。
その彼が、一八九〇年前後ふっと村から姿を消した。すなわちこの物語の前後である。
二年ほどして彼は村に帰って来たが、その間どこへいっていたのか正確なところはわからない。彼の口からもれた断片から、ヨルダンへいっていたとも、ギリシャへいっていたとも、シベリア東部へいっていたともいわれる。とにかくそれ以後彼は人々に「巡礼《スターレツ》」と呼ばせるようになった。
この言葉には、師僧という意味もふくまれている。実際ラスプーチンは、この巡礼の間に、ふしぎな力を得て帰って来たのである。
それは、相手の心をすぐに読んだり、未来を予見したり、遠い場所に起っていることを同時に知覚したりする能力もあったが、中でも人々をひきつけたのは、病気を癒す力であった。彼が手をふれただけで、怪我をした人間の流血が急速にとまっていったり、ころがりまわるほどの痛みがぬぐったように消えたり、麻痺した手足が動き出したりした。むろん、みんながみんなというわけではないが、女、子供、老人に対しては特に効験があらたかであった。
それなら大評判になりそうなものである。事実大評判で、彼の祈祷所には近郷から病人がおしかけた。また信者も生まれた。
が、一方でひどいマイナス面もあった。
それはラスプーチンが、教会に籍はないのに、やはりキリストやマリアの像の前にひれ伏し、人々に教義らしいものを述べるのだが、それが、
「罪に落ちたことを悲しむな。罪に落ちることを怖れるな」
と、いい、また、
「自分を罪の子と思わないで、どうして神に近づくことが出来よう? 神は罪ある子こそ愛《いと》しいものに思われるのだ。神に愛されようと望むなら罪を犯せ」
という怪論理にもとづくものであったからだ。
みずからいう通り、彼は際限なく酒を飲み、近づいて来る女を手当り次第に犯した。まさに酒神《バツカス》であり半獣神であった。
ただ、ふしぎなことは、いかに泥酔していても必要があればただちに正気に戻り、犯された女が、一人として彼を恨むどころか、敬意さえ失わないことであった。
それにしても彼は、全然身のまわりをつくろわず、汚らしくて、かつ言動も粗野であった。その地方のいかなる高僧や大官に対しても百姓言葉で応対し、お前さん呼ばわりをした。従って、この向きからは嫌悪された。
彼を、そのころ邪宗門視されていた異端のフルイスティ――自笞《じち》苦行者の一人ではないか、という者もあった。彼はそれを否定したが、この異端派はみずからは否定する者が多かったので、この疑いははれなかった。
要するにラスプーチンは、そのころ広大なロシアのいたるところに存在したおびただしい迷信の対象、いかがわしい底辺の呪術師の一人に過ぎなかったのだ。
それも、故郷に定住していたのではない。また何年間もどこかへ出かけ、ぶらりとまた村へ帰って来る、といった状態であった。
さて、そのラスプーチンが、一九〇五年に至って、突如歴史に姿を現わす。それはこの年の十一月に、彼が露都ペテルブルグの宮廷に招かれたからである。
どうしてそんなことになったのか。
常識として、あり得ないことだが――こういうわけだ。
当時の皇帝ニコライ二世とアレクサンドラ皇后の間には、四人の王女と、その弟に一人の王子があった。このアレクセイ皇太子は一九〇四年七月、つまり前年、アジアにおける旅順戦いまやはじまらんとするころ生まれたもので、このときまだ一年四カ月であったが、すでに異様な体質の持主であることがあきらかになっていた。
まだヨチヨチ歩きのころだから、当然転がる。何かにぶつかる。すると、実に簡単に出血し、その血が容易にとまらない。また外部に出血しなくても、あきらかに強い内出血症状を呈して、苦痛に泣きさけぶのだ。もっとも愛くるしいこの時期にその苦しみを見ることは、どんな親でも自分の肉や骨を締木《しめぎ》にかけられるよりつらいことであった。
「これは血友病と申す病気でございます」
と、侍医たちは暗然といった。
「お姫さまのほうには現われなくて、王子さまだけに現われる妖病でございます。いまのところ何の治療法とてなく、ただ自然治癒を待つよりほかはござりませぬ」
その症状がまた現われた。しかも、重かった。
このときの挿話として伝えられるものが劇的である。
息たえだえになってゆく幼い皇太子を、万策つきて、ただ両手をねじりあわせて見まもっているしかない皇帝と皇后に――その皇帝の耳に、女官長アンナ・ヴィルボワが、ふと溺れる者が縄を見つけたようにささやいた。
「なに、奇蹟の行者と呼ばれる男? それがいまペテルブルグに来ておると?」
ニコライ二世は問い返し、ついでその男の名を聞いて、
「グリゴリイ・ラスプーチンというか。――」
と、つぶやき、何かを思い出すように宙に眼をすえて、
「あの男か!」
と、さけんだ。
「その名は知っておる。おう、あの男なら知っておる。――」
そして、あわただしく家来に命じた。
「あれなら癒してくれるかも知れぬ。――ペテルブルグに来ておるというのなら、すぐここへ呼べ!」
皇帝の使者が、その行者を探しあてたのは、その日の真夜中であった。
なんと彼は、ネヴァ河畔の貧民窟、ジプシーのキャンプで、飲めや歌えの大乱痴気騒ぎの真っ最中であったのだ。
「グリゴリイ・エフィモヴィチ・ラスプーチンなる者がここにおるか?」
と、使者はさけんだ。
ラスプーチンが名乗り出た。あきらかに泥酔していた。
使者は即刻、自分の馬車に同乗してある高貴な邸へゆくように、といった。
「いやだ」
と、ラスプーチンはにべもなくいい、ジプシーの娘を抱き寄せ、
「もっと踊りだ!」
と、みなにさけんだ。
使者は近づいて、ラスプーチンの耳にささやいた。
「皇帝の御命令だ。皇太子の出血がとまらない、お前を至急連れて来いとの仰せである」
――「彼をジプシーの焚火の明りで見た人々は」と、「ラスプーチン・新しい判断」の著者ハインツ・リープマンは書いている。「……宮廷からの使いを受けるや、彼に変化が起った、と口をそろえて語っている。彼の両眼はギラギラかがやき出して、まっすぐ前方の空間を凝視した。……」
待っていた、その日がついに来た、という反応であった。
ついで、ラスプーチンはひざまずいて、祈り出した。無言で見まもるジプシーのむれの間に、あきらかに一種の戦慄が波打った。
やがて、ラスプーチンは立ちあがって使者にいった。
「……わしは皇太子のために祈ってやった。危機は過ぎ去った。彼は回復に向ったろう、……さあ、ゆこう」
実際、あとで判明したことだが、この時刻から、宮廷で泣きさけんでいた皇太子は、ふいに静かになり、こんこんと眠りはじめていたのである。
馬車は宮廷に着き、ラスプーチンは皇太子の病室に案内された。彼は、そこに佇《たたず》んでいる皇帝を見て、
「お久しぶりだね」
と、いった。
これが皇帝に向っての態度だろうか。――まるでごく親しい百姓仲間に逢ったような挨拶であった。
「いま馬車の中で指を折ったのだが……あれから十五年ぶりだ」
「とにかく、アレクセイを診《み》てやってくれ」
と、ニコライ二世はいった。これも皇帝が、いやしい巷《ちまた》の祈祷師にはじめて投げる言葉ではなかった。
「お前さん、なぜもっと早く呼ばなかったんだね」
「いままで、思い出すきっかけがなかったのだ」
そんな妙な問答を交したのち、ラスプーチンは、皇太子のベッドの横にひざまずいた。くぼんだ眼窩の中で眼はとじていたが、その汚い顔には実に力強い緊張の色があったので、皇帝と皇后はひとことの言葉も話しかけられないほどであった。
やがて、ラスプーチンは立ち上り、
「母|御《ご》よ」
と、皇后にいった。
「あなたの息子さんは、もう癒って、安らかに眠っている。……」
アレクサンドラ皇后は、ベッドの中の皇太子の頬に血の気がよみがえっているのを見た。
その日の日記に、ニコライ二世は書いた。
「きょうトボリスク地方出身の神人グリゴリイと逢った。彼の祈りにより、アレクセイは確実な死から救われた」
こうしてラスプーチンは、ロシア宮廷にはいった。
以後、彼は、皇帝ニコライと皇后アレクサンドラの魂をつかんだ。
幼い皇太子がすべったり、ころんだり、ガラス窓に鼻をぶっつけたりして、血友病の症状を現わすたびに、彼は呼ばれた。彼が皇太子を抱き、話しかけ、あるいは部屋にはいっただけで、皇太子の病気は軽快した。
しかも、ただ、この奇蹟のためばかりではない。ほかにも彼の持つふしぎな能力――読心術、未来予知能力、さらに、その強烈なカリスマ的体臭が、美しく善良だがもともと迷信ぶかい皇后と、ロシアのことより皇后のことばかり気にしている凡庸な皇帝を圧倒し、鷲づかみにしてしまったのだ。
彼は少年皇太子のベッドに横すわりになり、「坊や」と呼び、シベリアの森や動物の話をした。シベリアの村々に伝わるお伽噺《とぎばなし》をした。シベリアの子供たちのいたずら遊びの話をした。それは皇太子の眼をかがやかしたのみならず、皇帝や皇后をも聞き惚れさせた。
ラスプーチンは、宮廷の中でも、それまでの外のラスプーチンと同じ態度であった。
いわば、ロシアの農民気質まる出しだ。よくいえば素朴で、無邪気で、人なつこくて、天衣無縫だが、悪くいうと、無遠慮で、粗野で、下品で、傍若無人で――そして、好色的であった。
彼は宮廷内を酔っぱらって歩き、大官をつかまえてお前さん呼ばわりをし、女官に対しても、平気で抱きよせて、親愛のキスをした。ときには、皇后に対してさえキスをした。
ラスプーチンが皇帝と皇后の寵を得ている、と知って、彼のところには、利権、猟官、その他さまざまの目的を持った男女が雲集した。彼は手当り次第に女たちを犯し、男たちから賄賂《わいろ》をとった。――少なくとも、そんな評判が立った。
いや、評判ではない。実際に彼のところへ財宝が集まったことはたしかで、それはラスプーチンが、自分のところへ物乞いに来る貧民たちに、片っぱしからそれを与えたことでもわかる。
そして、このままの状態が、彼が宮廷に出現した一九〇五年から彼が殺される一九一六年まで、約十年間つづくのである。
それは同時に、ロマノフ王朝最後の十年間でもあった。
ラスプーチンはかねてから、自分が死ねば王朝は滅びるだろう、と予言していたが、まさしく、彼が死んだ翌年、ニコライ皇帝一族はボルシェビキのためにみな殺しの運命を迎えたのである。
その予言は、彼の異常能力によるものであったかも知れない。しかしまた、彼を狙う暗殺者たちへの脅しであったかも知れない。
なぜなら、右のごとく宮廷を蹂躙《じゆうりん》するラスプーチンに対して、聖魔、怪僧、妖僧、半獣神、悪逆無道の司祭、などいう声は次第に高くなっていたからである。
いや、実際にラスプーチンはしばしば殺されかかった。
彼に犯された女、犯された女の夫、彼をあてにした欲望が叶えられなかった男、彼に面目を踏みつぶされた高官、彼を異端者として憎み、恐怖する宗教関係者、そして、彼こそ政治をメチャメチャにし、宮廷を腐敗させた根源であると信じる連中――ラスプーチンのいのちを狙う者にはこと欠かなかった。
吹雪の夜のペテルブルグを歩いていて、ふいに現われた橇《そり》にひかれかかったことがある。馬車で誘拐する、崖から河へつき落す、などの陰謀がめぐらされたこともある。実際に、精神異常になった女に、腸が出るほどナイフで腹を刺されたこともある。
しかし、彼は死をまぬがれた。それらのいずれもが、神意というべきか、偶然というべきか、あやうく事前に難を避けることが出来、あるいは暗殺者同士の猜疑で計画がおじゃんになり、あるいは皇太子の例の病気で彼に手が出せなくなるというなりゆきをたどり、事実凶行を受けても、異常な生命力によって回復した。
しかし、その不死身のラスプーチンも、ついにいのちを奪われる時が来た。
彼を悪徳の元凶と信じ、その存在そのものに嫌悪感を持つフェリックス・ユスポフ公爵が、暗殺計画の中心人物であった。
一九一六年十二月二十九日夜、ラスプーチンはユスポフ公爵邸に招かれた。そして地下室の食堂で、青酸カリをいれた葡萄酒と、同じく青酸カリをいれた菓子を食べた。ユスポフによれば、ラスプーチンは、致死量の八倍、一オンスほどもその葡萄酒を飲んだという。
しかし彼は平気な顔をして公爵に、ギターをひいて歌でも歌わないか、といった。ユスポフは昏迷しながら座をはずし、ピストルをとりにいった。公爵がひき返して来ると、ラスプーチンは椅子に坐ってうなだれていたが、
「何だかのどが焼けるようで気分が悪い。これからジプシー女たちのところへ遊びにゆかないかね。私は心に神を持っているが、身体は人間でね」
と、笑いかけた。
そして彼がちょっとうしろの棚においてあった水晶の十字架の置物をふり返ったとたん、ユスポフはピストルを撃った。ラスプーチンは倒れた。
ユスポフの仲間が駈けこんで来た。その中に医師がいて、ラスプーチンが息絶えていることを確認した。
一同は一応上階にいったが、しばらくしてユスポフ公爵は何となく気にかかり、また地下室に下りていった。そして、仰向けに倒れているラスプーチンの身体にさわってみた。すると、いつのまにかラスプーチンの眼がひらいて、じいっと自分を見つめているのに気がついた。ユスポフは水を浴びた思いになり、悲鳴をあげて上階へ逃げ上った。
ラスプーチンはニューッと立ちあがり、階段を四つン這いになって追いかけて来た。そして中庭に出るドアのところまで来ると、下りていた鉄の錠を手でひきちぎって、庭へよろめき出ていった。上階から駈け下りて来た一味の一人が、その背中めがけてピストルを撃った。弾は二発命中し、ラスプーチンはまた倒れた。
こんどはほんとうに死んだその屍体を、しかし念のため両腕をしばって馬車に乗せ、彼らは小ネヴァ河に運搬していって、氷結した河に穴をあけて投げこんだ。
ところが――数日後、その屍体が発見されたとき、縄は消失し、ラスプーチンの右手は十字を切ろうとするように、胸の前で三本の指を立てていたという。――
ともあれ、こうしてラスプーチンは殺された。殺されたとはいうものの、ほとんど不死身の人間というしかない。
そして、前に述べたように、翌年ロマノフ王朝は崩壊する。
ところで、いったいラスプーチンは、なぜ宮廷にはいったのか。宮廷からのお召しがあったとき、なぜあれほど歓喜の姿を見せたのか。
彼は人が持って来た金は遠慮なく受けとったが、その手でみんな人にやってしまった。何の地位も求めなかった。むしろ王族や大臣たち権力者を愚弄した。
コーリン・ウイルソンはいう。
「おそらく最初から彼の眼は皇室にすえられていたのであろう。……彼はふつうの意味での野心家ではなかった。金を追い求めなかったし、政治的権力さえも求めなかった。が、ラスプーチンは奇妙なかたちの成り上り者であり、ある種の俗物であった。
彼は、だれよりも自分が強いことを知り、ロシアのだれもがそれを認めることを望んだ。皇室への接近を希望したのは、彼の個人的な力が皇室の政治的な力と結び合わされるのが筋道だったからである」
前に述べたように、ラスプーチンが宮廷にはいるきっかけになったのは、皇太子の血友病のおかげだが、それにしても、それ以前からニコライ皇帝が彼に記憶を持っていたからである。
その名を耳にしたニコライは、
「あの男か! その男なら知っておる。――」
と、さけんだ。
ニコライ二世にそうさけばせた記憶とは何か?
不死の僧正
さて、物語は、ラスプーチンが殺された一九一六年から二十六年前の明治二十三年の初冬にかえる。
ラスプーチンは、日本の「最暗黒の東京」鮫ヶ橋の貧民窟の一屋《いちおく》に住みついた。
いったいにここの住民は、外部から訪れる者には無関心か警戒的だが、ここに住んでしまった者には、いかなる人間であっても仲間として遇する。――が、それにしてもこれはあまりに奇妙な異国人だが、しかしこの異国僧は、あの驚くべき奇蹟を現わして見せたのだ。瀕死のコレラの女を、口づけして甦《よみが》えらせるという、信じられないような行為をして見せたのだ。
彼らはたちまちこの異国僧への信仰者となった。
それ以来、つめかけて来る貧民たちの願い、質問、挨拶などを、いちいちとりついでやったのは長谷川辰之助であった。彼はほとんど毎日、四谷荒木町の下宿からここへかよって来たのである。
それはラスプーチンから通訳してくれと頼まれたからでもあるが、むろんこの怪異のロシア僧に対する好奇心のためだ。
この好奇心には恐怖がまじっている。それは半々といっていい。もっとも正確には、両者合体しているといったほうがいい。
これは、人か、魔か。こんな人間が地上にあり得るのか。
それより、いったいこの人物は、何をしに日本に来たのだろう?
そうだ、あの手紙――シベリアからの手紙を持って来たといった。しかし、まさかその手紙をとどけるだけのために日本にやって来るはずがない。
いや、ある日本人にめぐり逢うためだといった。が、その日本人がだれかというと、それがわからないという。お前かも知れない、などいって笑った。
――もっとも、その後、何かのはずみに辰之助がこのことについて再質問したとき、ラスプーチンはじろっとこちらを見つめて、
「それはお前さんではない」
と、いったけれど。――
要するに、えたいが知れない。
まあ、来年の春、ロシアのニコライ皇太子が来朝することになっているから、それを見物に来たというのが常識的な解釈だろう、と長谷川辰之助は考えた。
大貧民街で、この異国僧はみるみる住民の神となった。ただ、病気をなおすばかりではない。――彼は、住民たちといっしょに焼酎《しようちゆう》を飲む。残飯をつまんで口にいれる。そして、手拍子打って歌う。言葉は通じないのに、彼は貧民たちとウマが合い、そのことを住民たちも肌で感得《かんとく》しているらしい。
「これは……|あれ《ヽヽ》ではあるまいか?」
突然、辰之助は、自分自身の言葉を思い出した。
「――ここがやっぱり地獄であることを知らされたとき、彼らは暴動を起すか、魂の救いを求めるか。……それは私にはわかりませんが、ここにその火を持って来るものは、耶蘇教じゃないような気がします。その火を持って来るのは、きちがいじゃあるまいか、と、なぜか私は思います。怖ろしい邪教的人物がはいって来たとき、はじめて彼らは動かされる。……」
いつぞや、彼は内村鑑三にそんなことをいった。それはあのときはじめて思いついたことではなく、以前からこの魔界を見ていて感じて来たことだが――自分の言葉が、あまりにもそっくり具体的なものとしてここに現前したのではないか?
自分の予言が的中して、かえって彼はぎょっとした。
|あれ《ヽヽ》とは邪教的人物だ。この異国僧ほどそれに叶う人物はないのではないか?
「この怪僧は、ロシアの間諜《かんちよう》ではあるまいか?」
ついで、彼の頭にはそんな疑惑がひらめいた。
前に述べたように、長谷川辰之助のロシア語の勉強は、もともとロシアへの警戒心から発したものだったからだ。来年の春、ロシア皇太子一行が来日するのは、日本の国情を身をもって探るためだとの一部の巷説を、あながち否定出来ない心情の持主でもあったからだ。
そう考えると、心なしかラスプーチンのほうも、ただ貧民たちと無目的につき合うというよりは、それを通して何だか日本人を観察しているようにも思われる。
が、ロシアの間諜が、こんな魔界の王様になって、さてどうしようというのか。まったく見当がつかない。
「いずれにせよ、だれかにこのことを相談しなければならない」
と、彼は考えた。
いまのところ、警察に通報する、などいう気にはなれなかった。彼は天性、警察などいうものが好きではなかった。
が、だれがこの怪僧に近づいて、その本性本体をたしかめてくれるだろう? そんな日本人があるだろうか?
――ふっと、ある人の姿が浮かびあがった。
内村鑑三の森厳な顔であった。
自分があんなことをいった相手が内村だったからではない。いちど逢って話を聞き、二度目にあんなたわけた椿事《ちんじ》があったにもかかわらず、内村の持つ宗教的な強烈な個性は、辰之助も充分認めている。ただこの人の思想が、自分の求めているものとは少しちがう、と感じてあれ以来近づかなかっただけだが、この強烈な異国の怪僧に対等に立ち向えるのは、いまのところあの人しかいないように思う。
が、内村を連れて来て、さてどうしようというのか。
「タツノスキー、あの手紙の宛先の人の住所はわかったかね?」
ラスプーチンがふと尋ねたのは、十二月上旬のある日のことであった。
「いえ」
と、辰之助は首をふった。
実はそのことも気にはなっていたのだが、相手はちらとかいま見ただけの女性だし――それにラスプーチンは手ずからその手紙を渡したいといい、それなら相手をここに連れて来るほかはないが、それがあんな事件が起ってあの娘を失神させた場所だ。
あの娘を思い出すと、そのことが果していいか悪いか判断しかね、何よりラスプーチンがさしあたっていまの生活に熱中し、かつこちらもそのラスプーチンを観察するのに心を奪われていて、ついあのままになっていたのである。
しかし、放ってはおけない。それにあのふしぎな手紙の意味を知りたい。――その望みは辰之助をとらえた。
「調べればわかります。訊いて来ましょう」
辰之助はうなずいて、その日の午後おそく、麹町一番町の桃夭女塾――下山宇多子邸を訪ねた。
彼がそんなところを訪ねたのははじめてだが――偶然、宇多子は馬車で帰って来たところであった。しかも典雅な女官姿であったところを見ると、宮中から退がって来たのにちがいない。
あの夜のことを思い出すと、いまちらっと見た下山宇多子の姿とあまりにも異和感があり過ぎて、辰之助は少なからずひるんだが、しばらくして、かくてはならじと勇気をふるって玄関に立った。
「こちらで秘書をやっていらっしゃる竜岡雪香さんにお逢いしたい。もし御不在なら、その御住所をうかがいたいんですが」
と、申し込むと、女書生が妙な顔をして素性を訊く。
「内閣官報局に勤めております長谷川辰之助という者です」
と、名乗り、それではいよいよものものしいと考えて、
「いつぞや、内村鑑三先生や、こちらの下山先生と、四谷鮫ヶ橋に御一緒した者ですが」
と、いいそえて、また、これはまずかったかな、と首をかしげた。
女書生は奥へはいった。数分して、下山宇多子が出て来た、まだ女官姿も解かないままで、顔色が変っていた。
「やあ、あの節は」
と、辰之助がお辞儀すると、宇多子はみるみる顔を染め、それを見ると辰之助も赤面した。
「竜岡雪香さんの住所ですって?」
と、宇多子は、あの夜のことにはふれず、そう問い返した。
「あの方は、うちの秘書をおやめになったのですけれど。……」
「はあ、そうですか、住所はわかりませんか」
「住所はわかっておりますが……何の御用でしょう?」
ただならぬまなざしで訊いた。――無理もない。彼女にとってもあの夜は悪夢の一夜で、その夢魔の中に竜岡雪香もまじっているのだ。
あの夜の前半の鮫ヶ橋見物に同行したこの男が、なぜ雪香の住所などを尋ねにやって来たのか?
その夜の後半は知らず、長谷川辰之助は下山宇多子の顔色に気圧《けお》されて、
「実は、ロシアからあの人へ手紙をことづかって来た人がありますので」
と、答えないわけにはゆかなかった。
「えっ、ロシアから? それは、どういう――」
「事情は私にもよくわからんのですが、あの人のお母さんかららしいのです。その手紙を持って来た人はロシアのお坊さんで、それがいま――例の鮫ヶ橋に住んでいるので――」
宇多子の表情は、妖怪譚でも聞いている表情になった。
「その人が、直接お渡ししたいというので、竜岡さんに連絡したいのです」
宇多子は、京橋|采女《うねめ》町の地名を教えた。長谷川辰之助は一礼して走った。
下山宇多子は奥へはいった。
そこに、稲城黄天が坐っていた。彼は宇多子の帰宅前からやって来ていたのである。
宇多子がいまの話をすると、黄天も狐につままれたような顔になった。
「あの娘の母親がロシアにおる?」
首をひねって、
「その手紙を持って来たロシアの坊主があの鮫ヶ橋におる?」
しばらく宇多子の顔を見ていたが、
「何とも理解を絶した話ですな。明日でも、私が鮫ヶ橋へいって見ましょう」
と、眼をひからせていった。
ただの好奇心ではない。――コレラ騒動で明石元二郎は一応封殺したつもりだが、竜岡雪香は両人にとってまだ気にかかる存在だったのである。
――長谷川辰之助は、その足で采女町にいった。もう夕暮であった。
その家へ近づいてゆくと、入口の前で、娘と少年がしゃがみこんで、何かをしているのが見えた。娘が竜岡雪香であることは、一目でわかった。どうやら一羽の鳩を別の籠に移し、もう一つの籠を掃除しているようだ。
その少年は弟らしい、と見て、伝える用件が相手にとってあまりに重大なので、二人にのっけから話すことを辰之助はためらった。
「竜岡さん」
と、少し離れたところで呼んだ。
雪香はふり返り、立ちあがり、けげんな眼で長谷川を見ていたが、ふいに驚きの表情になった。思い出したらしい。
「ちょっと話があります」
と、辰之助はいった。
しばらくためらったのちに、雪香は小走りに駈けて来た。
「いつぞやは失礼。私は内閣官報局に勤めておる長谷川という者ですが――」
彼はここでも改めて名乗り、
「突然、妙なことを申しあげてお信じになるかどうかわかりませんが……あなたのお母さんから手紙が来ております」
雪香は全身硬直した。
「それが、何とロシアからなのです。お心当りはありますか?」
雪香はかすかにかぶりをふった。最初長谷川を見たとき、ぱっと赤くなった顔が蝋色に変っていた。
「そ、それを見せて下さい」
「いえ、ここには持って来ておりません。あるところにあって、そのことだけを伝えてくれというので、お知らせに来たのです」
雪香はかすれた声で訊いた。
「それには何と書いてあるのでございます?」
「いえ、内容は知りません。ただ封の裏に、ロシア国、シベリア、ブラゴヴェシチェンスクにて、母|水香《みずか》より、とありました」
「シベリア。……」
「その手紙をことづかって来た人は、ロシアの坊さまで、いま四谷鮫ヶ橋におります」
「え、鮫ヶ橋。……」
「逢って、手紙を見る気がありますか? あるなら、私が御案内しますが」
雪香はなお数分、茫然自失の態《てい》であったが、やっとわれに返り、長谷川辰之助を見て、ふるえ声でいった。
「明日《あした》……日曜日ですが、昼過ぎに父が出かけますので、参ります」
「時間を教えていただけば、私が迎えに来てあげますが」
雪香は家のほうをふり返り、首をふった。
「いえ、実はその話、いま父に知られたくありませんので、私一人で参ります。いつか鮫ヶ橋に御一緒したとき、はいっていった入口のあたりで待っていて下さいますか? 午後三時ごろ。……」
あくる日は、ちょうど日曜日であったが、その午後三時ごろ、長谷川辰之助は、甲州街道から鮫ヶ橋にはいる例の私娼窟の町の入口で待ち受けた。先月、貧民街にコレラが発生して、ここの女たちも逃げ出してしまって、コレラはその後|終熄《しゆうそく》したものの、そこはまだ無人の灰色の町であった。
竜岡雪香は一人の男を連れて来た。――兵隊である。
それは、津田七蔵であった。――この魔の町にふたたび来るについて、雪香はやはり不安を禁じ得なかったところに、たまたま昼過ぎに津田が訪れて来たので、事情を詳しく打ちあけないままに、彼に同行を頼んだものであった。
その兵隊の素性は知らないけれど、雪香が護衛者らしい男を連れて来たわけは、長谷川にもわかる。
どういうわけか、雪香は鳩をいれた籠をかかえていた。
彼らは貧民街にはいり、例の残飯屋前の広場にいった。――ラスプーチンの住む小屋は、その広場からはいる小路の一つにあったのだ。
すると。――
広場に出るその小路の入口に、木の椅子をおいて、ラスプーチンが坐っていた。もっともこれは、このごろの彼の習慣だ。そして――実はさっきまで、長谷川は小屋でラスプーチンと逢っていたのだが、そのときにはいなかった一人の男がそばに立っていた。
すぐ前に、焚火が燃えている。そのまわりには、七、八人の男女がうずくまっている。ラスプーチンの信者たちだ。むろんこの貧民街の住人で、火にあたっているくせに裸に近い襤褸《ぼろ》をまとった風態の連中ばかりだが、その中に、髪は総髪、羽織袴といういでたちなので、すぐに眼についたのである。
「あ!」
と、津田七蔵が低い声をあげた。雪香も足が釘づけになった。
そして長谷川辰之助も――数瞬ののち、それが、いつか下山宇多子の用心棒としてここにやってきた男だと思い出して、眼をパチクリさせた。
もっとも、彼の記憶はそれだけだ。
で、雪香たちの驚きをそれ以上のものとは思わず、彼はまた歩き出して、ラスプーチンのそばに近づいた。顔見合わせたものの、二人はオズオズとあとについて来る。
「師僧《スターレツ》、これがあの手紙の受取人であるユキーカ・タツオーカです」
長谷川がそう紹介する前から、ラスプーチンは異常にくぼんだ眼窩《がんか》の奥から、じいっと雪香に眼をそそいでいた。
奇妙な沈黙の数分であった。長谷川は、この妖僧がこんな眼で一人の日本人を見つめているのを見たことがなかった。
「グラシィヴァ」――美しい。
と、赤茶けた髯の中の唇がつぶやいたのを、彼は聞いた。
ラスプーチンは――長谷川のそんな紹介だけで信用したのであろうか――拍子ぬけするほど簡単に内かくしから例の手紙をとり出して、雪香にさし出した。
雪香は地に籠をおいて、それを受けとった。
そして、封の表がきを見、裏を見たのち、中身をひき出した。
手が瘧《おこり》のようにふるえている。
手紙には、こうあった。――
恋しいわが娘雪香よ。母はどうしようもない運命のままに、日本の各地を流れさまよった果てに、いまシベリアのブラゴヴェシチェンスクというさいはての町で死んでゆこうとしている。それは自分の持つ「腐った血」のせいで、だれを恨むことも出来ない。
ただ心からわびたいのは、夫とお前と綱彦だ。特に綱彦の業病《ごうびよう》は、私の「腐った血」のためにちがいない。生きていれば十四になるはずだが、おそらく生きていないだろう。だからこの手紙はお前宛に書く。
お前もことし二十一になるはずだが、眼に浮かぶのは、九つのお前と二つの綱彦の姿ばかりだ。お前だけには、私の「腐った血」が伝わっていないことを祈る。
悪夢の精のような私という母がここに死んでゆくことは、かえってお前たちに安心だと思って、この手紙を書き出したのだけれど、かえってこれはお前を苦しめることになるかも知れない。けれど、最後にどうしてもお前にわびなければ、気がすまない。どうかこのことだけは許しておくれ。そして、私という母は、はじめからいなかったものと考えておくれ。……
――むろん、候文だ。「腐った血」は「腐れし血」と書いてある。
雪香は、母の手紙など見るのははじめてであった。内容にも、よくわからないところがある。しかし、これが母の手紙にまちがいないことを、彼女は直感した。
ふしぎなことに、シベリアの風景など、写真でさえいちども見たことはないのに、彼女の頭には、一望の曠野が浮かんだ。空が暗いのに、地が白いのは、雪がふっているからだ。みぞれに近い雪が、茫々とななめにふりしきっている。
その中を、母が歩いてゆく。一人で、うなだれて。――それは、自分が幼い日に知っている母の姿であった。そして、そのずっとうしろから、幼い日の自分が追いかけてゆく。――
音のない、しいんとした世界であった。
実は、このとき、周囲はひどい喧騒の渦であった。
雪香らの到着するすぐ前に、町から残飯車が幾台も帰って来て――残飯集めは再開されていた――それを求める例の騒ぎがはじまっていた。ラスプーチンが毎日の夕方、この広場の一隅に椅子を出すのは、その光景を見物するためであった。日本のウオツカ――焼酎を飲みながらである。
雪香の「護衛兵」たる津田七蔵は、むろん雪香のそばにくっついて眼をひからせていたのだが、この広場の物凄い眺めには、はじめて見るせいもあって、思わず数分、そのほうに眼を奪われていた。
寂寞《じやくまく》の世界にいた雪香は、ふと頬にかかる息を感じた。
うしろから稲城黄天が手紙をのぞきこんでいた。
「あっ、この野郎!」
気がついて、津田七蔵が飛びかかろうとし、黄天は飛びのいた。
津田はいきまいた。
「このいかさま野郎、どうしてこんなところにおるんじゃ?」
――実は稲城黄天は、ここにロシアの怪僧がいるということ、彼がシベリアから竜岡雪香の母の手紙を持って来たということに、これ以上はないといっていいほどの好奇心を燃やし――あわよくば、その手紙を巻きあげたいと考えてやって来たのだが、いざ来て見ると――先刻から、二、三語、その怪僧に話しかけて見たのだが、何しろ日本語が全然通じないようなので、さすがの彼もなすすべを知らず、それでただウロウロしていたのだ。
「なるほど」
と、彼は雪香にいった。
どこまで読んだのか、あるいは彼は、雪香より早くその手紙を読みとったのかも知れない。
「これでわかった」
と、うなずき、ラスプーチンに向って、
「この手紙を書いた女は……シベリアの町の、娼家で死んだのですな? ブラゴヴェシチェンスクなどというところには、日本の領事館はないはずだ。外交官の妻でなければ、日本の女がそんなところにゆくとは、常識としてそれ以外に考えられんが」
と、問いかけた。相手が日本語を解しないのも忘れた風であった。
雪香と七蔵は、氷の鞭で打たれたような表情になっている。
よく事情はわからないなりに、長谷川辰之助も衝撃を受けた。彼が反射的にいまの黄天の言葉を通訳したのは、その衝撃のためであった。
「その通り」
と、ラスプーチンは答えた。
「その女は、ブラゴヴェシチェンスクの日本の娼家で死んだ」
そうロシア語でいいながら、彼はなおしげしげと雪香を見まもっている。それから逆に、ふしぎなことを尋ねた。
「その娘に、好きな男がいるかどうか、訊いてくれ」
長谷川が通訳した。雪香は答えない。そんな言葉など、耳にはいらないようだ。
「答えません」
「あるだろう、そんな美しい娘に恋人がいないはずがない」
と、ラスプーチンは薄く笑った。
「どうじゃ、おれのいうことは当ったろうが」
と、稲城黄天も雪香を見すえて、牛のようにうなり出した。
「お前は、淫蕩の血を持っておる。それは母親からもらったものじゃといったろうが」
どよめくような怖ろしい声であった。
以前から彼は、そういって雪香をおどしていた。稲城黄天は、決して無能力な男ではない。ある種の本能的直感――心眼を持っていることは前々から述べている通りで、それに彼一流のハッタリが加わっていたのだが、いま彼は、自分の心眼がみごとに的中していたことを――彼自身驚きをもって――知ったのである。いや、以上のような下地があったから、雪香の母のたどった運命をズバリと推察したのである。
「さあ、ゆこう」
黄天はまた近づいて来た。
「わしだけが、その腐った血を浄《きよ》めてやれる」
立ちふさがろうとする津田をじろっと見て、
「竜岡雪香の母親がシベリアの娼家で死んだことを、世間に知られていいか?」
と、いった。
津田は立ちすくんだ。
黄天が無遠慮に雪香の手をつかんだとき、ラスプーチンが長谷川に訊いた。
「彼らは何をしておるのかね?」
長谷川にも事態はよく理解出来なかったが、
「どうも、あの男が、あの娘を連れてゆこうとしているらしいです」
と、答えた。
「いや、あの娘は私のそばにおく」
と、ラスプーチンはいった。
長谷川辰之助は、いまの男が雪香を連れてゆくより、このほうにぎょっとした。
「な、なんのためにです?」
「私が教育してみたい」
ラスプーチンは平然といった。
「あの娘を教育する?――しかし、言葉が――」
「私がロシア語を教える。それも教育の一つだ。……あの男と娘にそういってやってくれ」
一息おいて、ラスプーチンはつづけた。
「私は、あの娘の母の死んだありさまを知っておる。それを聞きたくはないか、とあのユキーカにいってくれ」
長谷川は戸惑いながら、そう伝えるほかはなかった。
「なに?」
黄天はさけび、それからつかつかとラスプーチンのところに近づいて、その顔をにらみつけた。
「このロシア坊主め、何を途方もないことを――」
二人の眼が合った。ラスプーチンの眼と、稲城黄天の眼が。――ロシアの化物と、日本の化物の眼が。
その刹那、黄天は自分の両眼が吸い出されるような感覚をおぼえた。
――のちにラスプーチンを苦心惨澹してやっとのことで殺害したユスポフ公爵が、彼に催眠術にかけられたときの奇怪な体験を次のように書いている。
「……私は感覚が麻痺して来た。私は口をきこうとしたが、舌がいうことをきかなかった。私は何か強い麻酔薬の下で眠りつつあるようだった。しかもラスプーチンの眼は、一種の燐の光のように私の前でかがやいていた。そこから二条の光線が放射して、おたがいにまじり合って、かがやく円になった。この円は私から離れたかと思うと、次には近づいて来た。それが近づいたとき、私は彼の眼だとわかったが、次の瞬間、それはまた円となり、やがて遠ざかっていった。……」
黄天は、この眼で見られたのだ。――黄天自身、一種の催眠力を持っていることは前に記した通りだが、その彼が、いま深淵の中の円い妖光に魅入られて、動けなくなってしまったのであった。
「娘よ、おいで」
ラスプーチンはいった。
ロシア語であったが、雪香はそのほうを見て――彼女もまたその眼に捕えられた。
いや、捕えられようとして雪香は、眩《めま》いするような恐怖を意識し、からくも足もとの籠のそばにしゃがみこんだ。そして、夢中で鳩をとり出して、空に放《はな》った。
飛べ! 明石中尉のところへ!
雪香は具体的に、まだ何の危難にあったわけでもない。にもかかわらず彼女は、本能的に、この場に明石を呼ぶ――呼ばなければ大変なことになる、という衝動にかられたのだ。
鳩は空へ向って飛び立った。
そのとき、異様な声が流れた。
「イヤーッ」
そう聞えたが、実際には何といったのか、それはラスプーチンの声であった。同時にその一本の腕はまっすぐにあげられて、鳩を指さした。
と、――すでに小さくなっていた鳩は、まるで弾丸に撃たれでもしたように、真一文字に落ちていって、貧民街のどこかに消えた。
みな、その方向に眼をやって、茫然自失の態《てい》だ。しばらく、その一劃で動いているのは、地上からメラメラと這いのぼっている焚火の炎だけであった。
「プリイハァディ、プリイハァディ」――来い、来い。
と、ラスプーチンが、またいった。
ふり返った雪香は、こんどこそ不可抗力的なその眼に捕えられた。彼女はヨロヨロとそのほうへ歩き出した。
そのとき、猛然と津田七蔵が飛び出した。その手に抜き出したゴボー剣がひかっている。みんな、あっと眼をむいた瞬間、剣はラスプーチンの脇腹に半分近くもつき刺さっていた。ラスプーチンは、椅子とともに仰むけに倒れた。
剣はそのままに、津田七蔵は雪香をひっかかえるようにして逃げ出した。
広場の残飯買いの騒ぎは依然続いていて、この椿事に気づいた者は少なかった。――いや、まわりの七、八人はそれを見たが、何よりラスプーチンの遭難に仰天して、そのほうへ駈け寄った。稲城黄天も長谷川辰之助も同様である。
しかも、そのあと、彼らに下手人を追うことを忘れさせた怪事が起った。
倒れた被害者は、脇腹に半分ほど刺さった剣を、自分の手で抜きとったのである。一瞬、凄じい血が噴き出したが、そのあと彼は手でその傷をおさえた。稲城と長谷川の眼には、そのとき、その個所からうすい煙が立ちのぼったように見えた。そして――血はみるみるとまった!
長谷川は、その妖僧がつぶやくのを聞いた。
「私の探していたのは、あの男かも知れない。……」
浅草十二階
内村鑑三の生涯で特筆すべき「勅語不敬事件」が勃発したのは、年を越えた明治二十四年一月九日のことである。
前年の十月三十日、いわゆる教育勅語が発布され、その一月九日、内村の奉職する第一高等中学(後の一高)でもその奉戴式が行われた。
それが講堂でうやうやしく奉読されたあと、真正面に飾られた御真影と勅語の箱の前に、教授や学生が順次すすんで最敬礼する儀式が行われたのだが、内村の番が来たとき、彼は敬礼せず、ちょっと立ちどまっただけでそのままゆき過ぎてしまったから、大変な騒ぎになった。
彼は天皇を尊敬していた。教育勅語にも賛成であった。しかし、神として、あるいは儀式として、その写真や勅語に礼拝することは、剛直無比のクリスチャンとしてとうていがまん出来なかったのだ。
この時代にこの抵抗は、破天荒の自爆行為、といってもまだいい足りない事件であった。――内村鑑三もまた明治の化物の一人に相違なかった。
教授や学生は、いれ代りたち代り、彼の家におしかけて来て詰問した。おりあしく暮から風邪気味で、事件のあとから肺炎となり重態となった彼の枕もとに、往来から石が投げこまれた。
むろん新聞は逆賊として筆誅し、彼は職を奪われた。
二月はじめのある日曜日の午後であった。乃木少将の馬丁、津田七蔵は何年ぶりかで、兄の津田三蔵に逢った。場所は浅草の凌雲閣《りよううんかく》の十二階であった。
それは六区興行地のすぐそばに、去年の十一月オープンされたばかりの、高さ五十五メートルの赤煉瓦作りの八角塔で、東京の新名物だ。のちに、俗に十二階と呼ばれるようになる。九階までの各階には、呉服屋、小間物屋、菓子屋などが店を出し、十階は大休憩場で、十一階十二階は木造の展望塔になっている。日本最初の「エレベートル」つきであった。
七蔵が兄の三蔵から手紙を受けとったのは、三日ばかり前のことだ。それには、逢う時日と場所も指定してあった。
凌雲閣の十二階には、八方に大きなガラス窓があり双眼鏡と望遠鏡がそなえつけてあった。番人の老人がいて、双眼鏡は二銭、望遠鏡は四銭の料金をとる。
むろん七蔵も、開館してまもないころ、いちど見物に来たことがあるが、そのときは押すな押すなの客で充満していたが――おそらく、その日が真冬で、しかも雨がふっていたせいだろう、その展望室に客はまばらであった。
七蔵がはいってゆくと、ちょうど窓から下界を見ていた男がこちらをふりむいて、
「おう」
と、いった。
一目見て、七蔵はぎょっとした。まるで、鏡にうつった自分を見る思いがしたからだ。兄とはいうものの、二人は一卵性双生児であったのだ。
顔も体格もそっくりなことは、幼いころから承知していたけれど、何年間も逢わないでいて、久しぶりにその顔を見ると、やはりぎょっとせざるを得ない。
同じように頬骨と顎《あご》が張り、額がせまく、一重|瞼《まぶた》の眼が吊りあがった顔だ。――ただし、服装だけは彼は兵隊姿で、相手は巡査姿であった。
二人は手をとり合った。
幼年時からひどい貧乏を味わい、他家に養われ、十八のときに別れて、それぞれ下積みの人生を歩み、一方は兵隊となり、一方は巡査となる。住んでいるのも東京と関西だ。ときどき文通を交すことはあるものの、職業上、めったに逢ったこともない双生児の兄弟が何年ぶりかに相まみえて、心中それなりの感慨はあったろうが、とにかくその邂逅《かいこう》の光景は武骨きわまるものであった。
「病気で休暇をもらった、と手紙にあったが、病気とも見えんが」
と、七蔵は相手を見まもった。
「どこが悪いのじゃ」
「脳だ」
と、三蔵は答えた。
「えっ……脳の」
「そう申したてて、休暇をもらった」
「というと、嘘か」
といいながら、七蔵は依然不安そうに兄を見て、それから笑殺しようとした。
「あはは、何にしても、ちょうどいい、東京見物をしてゆけ。いや、そっちがこの凌雲閣に先に来ておるくらいだから、おれからいうまでもあるまいが。……」
「うん、向うの新聞にもここのことは大きく出ておったからな。いちどは見物したいと思っとった」
三蔵はいった。
「しかし、脳が変なのはほんとうだぞ。このごろ腹の立つことが多く、腹が立つと頭に血がのぼって、ズキンズキンと痛む。……」
その傾向は七蔵にもある。ふだん謹直であろうとし、事実謹直なのだが、ときどきかっとのぼせ、われを忘れることがある。
その彼が、幼年時からの記憶では、そんな性質はいまさらのことではなく、そのころからこの兄貴のほうが甚しいと思う。――その熱狂が烈しいのみならず、粘っこいのだ。
「おい、あそこの爺いから双眼鏡を借りてくれ」
と、三蔵はいった。
「それを見ながら話をしよう」
七蔵が妙な顔をして、いわれた通りにすると、その双眼鏡の一つを眼にあてたまま、三蔵がいった。
「実は七蔵、お前をこんなところに呼び出したのは、ある理由があるんじゃ」
「なんだ?」
「おれは、人をひとり、殺そうと思って上京して来たんじゃ」
「えっ」
七蔵は眼をむいて、ならんだ兄のほうを見た。
「だれを?」
「内村鑑三という教師じゃが……その名を知っちょるか?」
「ああ!」
と、七蔵はさけんだ。
「知っちょる。あの不忠不敬の国賊教師じゃろ?」
「新聞で読んだろう。……おれも読んで、三日間、寝れなんだ」
その事件については、七蔵もほとんど同じ感情であった。この兄なら、充分あり得る心情だと了解した。――いや、自分や兄だけではない。あの件に関しては、日本人ならみんな同じ思いだろうと考えた。
が、いま兄の三蔵の吊りあがった眼の光を見ると、さすがの彼もいささか恐慌を来《きた》して、
「わかる。その気持はわかるが……兄貴、人をひとり殺すとなると、大変なことだぞ」
と、いった。
「お前、かりにも巡査じゃろ? 巡査が人殺しをすれば、いよいよ大事《おおごと》になる。お前ばかりじゃない、それが新聞に出て、犯人は津田三蔵、などいう名が出ると、おれも無事じゃおれん。こっちの名が津田七蔵じゃから、知らん顔ではすまされん」
三蔵は失望と嘲笑の眼で見た。
「おれは、お前がたちどころに共鳴して、手伝ってくれると思っちょったが。……」
「あ、いや……しかし兄貴、おれはかまわんとして、お前も知っちょるように、おれは乃木閣下の馬丁じゃ。乃木閣下に御迷惑を及ぼすようなことがあったら大変じゃ」
「うん、その乃木閣下じゃが……あの不敬事件に対して乃木閣下はどうお考えかな?」
「そりゃ知らん。そりゃ閣下も御立腹のことと思うが、そんなことをおれなどにもらされるはずもないし、またこっちがお尋ねする立場でもない。……しかし、兄貴、お前が変なことをすれば、やっぱり困る」
「それについて、七蔵、話がある」
三蔵の低い声は、いよいよ低くなった。
「いわれるまでもなく、実はおれのほうも、おれが妙なことをすると、滋賀県全部の警察に迷惑がかかることになる。この五月来朝するロシアの皇太子が滋賀県にも来るっちゅうので、目下県をあげてその警備の準備に大童《おおわらわ》じゃからね。いまここで署長たちの首が飛ぶようなことがあっては大騒動じゃ」
「ほう、ロシアの皇太子が――」
「じゃから、おれが殺人罪などでつかまっては困る」
「そうじゃ、その通りじゃ」
「で、おれは工夫《くふう》をした」
「工夫? 兄貴、お前は、まだ――」
「おれが上京したとはだれも知っとらんが……たとえ、何かの手ちがいで、その国賊教師を殺したのがこの津田三蔵らしいという疑いがかかるような事態となっても、その時刻におれがよそにおったということが証明されれば、おれの無実は完璧になるんじゃ。そこで、詳しい計画は改めて練る必要があるが、要するにおれそっくりのお前が、同じ時刻、ほかの場所に、巡査姿でだれかの眼につくところにブラブラしておって欲しい。まったく念のための用意で、お前はそれだけやってくれたらよい。――」
七蔵は唖然とした。その件はひっこめたと思っていたら、まだあきらめてはいなかったのか。――三蔵はいう。
「おれはそのために上京したんじゃ。この工夫がついたから、上京して来たんじゃ」
「いかん! いかん!」
七蔵は顔色を変えて首をふった。
「そんなことをしたら、おれはいよいよ共犯になってしまうじゃないか。津田七蔵はお前の弟じゃが、同時に乃木閣下の馬丁じゃ。そんな真似は出来ん。兄貴、やめてくれ!」
「やはり、承知してくれんか」
「それより兄貴、一刻も早く滋賀県に帰って、勤務についてくれ」
津田三蔵は答えず、黙ってまた双眼鏡を眼にあてた。しばらくして、
「あの円い大きな屋根が、ロシア寺《でら》か?」
と、いった。
津田七蔵も双眼鏡でのぞいた。
晴れた日なら、八方の窓から、眼下の浅草寺、甍《いらか》の波の向うの隅田川はもとより、品川の海から房総の山々、また遠く富士まで見えるはずなのだが、いま雨の天空は灰色に茫々とけぶって、そのかなたに例の駿河台のニコライ堂の青い球体だけが、妖怪のように浮かんで見えた。
高さだけなら凌雲閣のほうが高いかも知れないが、向うは山の手の高台にあるので、またちがう空から見れば、それは充分|拮抗《きつこう》し、他にくらべるものもない東京の二巨人と見えたろう。――いや、建築期間わずか十一カ月という速成の十二階にくらべて、足かけ八年の歳月を費していま完成しようとしているニコライ大聖堂は、長い間おなじみになっていた足場もとりはらわれ、遠目で見てもはるかに重量感を持つ偉容をドッシリと据えている。
「よその国の首都に、あんな大きな寺を傍若無人に作るとは、ロシアは怖ろしいな」
と、津田三蔵は溜息をついて、ふりむいた。
「七蔵、ロシア皇太子の来朝じゃが、おれは、ありゃ日本の国情探索のためじゃと思っとる」
「そういう説があるのう」
兄の話が人殺しから離れたようなので、七蔵は胸撫で下ろした。
「しかし、皇太子がものものしく練り歩いて、それで探索出来るかのう。間諜なら、もっと間諜らしく潜入せんけりゃ役に立たんじゃろうが」
「そりゃそうじゃが、皇太子でなくちゃ見れんものもある。げんにこんどのニコライ皇太子の御予定を見ると、東京での観兵式、横須賀での観艦式をふくみ、御視察先はほとんど日本全土にわたっておる。一行の中にゃ向うの武官がまじっていることはたしかじゃから、その眼で見れば、日本の国力や兵力がどれくらいか一目瞭然じゃろ。みすみすそれがわかっとるのに、それを見せなきゃならんとは残念じゃ」
「ロシアは日本に攻めて来るつもりじゃろか」
「おれはそう思っとる。シベリア鉄道をウラジオストックまで延ばす。その起工式に臨むついでに日本に来るという言い分じゃが、鉄道をそこまで延ばせば、あと日本へ勢力を延ばしたくなるのは国家の自然じゃないか」
「なのに、その歓迎の準備ぶりの大袈裟なことは――」
「みんなわかっちょるんだ。みんなロシアが怖いんじゃ。じゃから、ロシア皇太子のごきげんをそこねちゃならんと、国民すべてが気をもんどるんじゃ。この日本国民あげてのいじらしい心情を考えると、おれは涙がこぼれるわい」
ほんとうに津田三蔵の眼にはうすく涙がひかって来た。
「それがわかっちょるのに、このおれも警備陣の一員として職務につかんけりゃならん。……脳がクサクサして来たのは、そのせいもないではない」
「兄貴。――」
七蔵は変な声を出した。
話が変ったのはありがたいと思っていたのだが、ロシアの話となると、彼の頭には、ある怖ろしい事件が浮かんで来ないわけにはゆかなかった。
「まったくだ。ロシア人っちゅうのは妖怪だ」
「何か、思いあたることがあるのか」
「うん。……そうだ、それについて話がある。いつぞやは竜岡さまの奥さまの件についての問い合せに、いろいろ調べてくれてありがとう」
「あ、そうじゃったな。いまごろ妙なことを訊いてくると首をひねったが、調査して見ておれも驚いた。あれはどうしたことだ」
「いや、ある人から頼まれたんじゃが。……」
三蔵のほうも異様な表情になっていた。
「あの奥さまが、身持が悪くて離縁になられたとはなあ。……関係者がそのことについてあまり話をしてくれんので、詳しいことはわからんかったが、それだけはたしからしい。それだけで、おれは何ともいえん気持になった。――それはそうと、七蔵、竜岡さま御一家は東京へ出られて、お前も出入りしちょるそうだが、みなさまお達者か」
「お達者だ。お嬢さまも坊っちゃまも成長されて……お嬢さまはたいへんな美人になられとる」
七蔵はいった。
「兄貴、その竜岡家を離縁されて、家出された奥さまから……こんど雪香さまに手紙が来たんじゃ」
「ほほう。……」
「それが、ロシアから」
「えっ?」
「シべリアから、ロシアの坊主がそれを持って来た。……」
ここで七蔵は、暮の鮫ヶ橋貧民街での事件を話した。
そして、最後にいった。
「ところが、その日もあくる日も、警察から何も調べに来ん。それでおれのほうが翌日の夕方、怖る怖る鮫ヶ橋をのぞきにいって、胆をつぶした。――その、おれが突き刺した坊主がじゃ。やっぱり木の椅子に坐って、焼酎を飲んどるじゃないか。……」
「な、なんだと?」
「あれは、化物だ!」
三蔵もその魔界に連れこまれたような表情になって、なお問いただし、また改めて、その手紙はシベリアの遊女屋から送られて来たものらしいと聞いて、いよいようす気味悪そうな眼つきになった。
「それにしても、そのロシア坊主は何者じゃろ? 何をしに日本に来たんじゃろ?」
「わからん」
「ひょっとしたら、そりゃロシアの間諜じゃないか?」
「間諜? あんなところで、何を探ろうというんだ」
「いや、探るというより、日本にロシアの切支丹バテレンの法を拡める。……」
七蔵はなお首をかしげていたが、
「それじゃ、やっぱり殺しちまったほうがよかったか」
と、つぶやき、また首をひねった。
「しかし、あいつは、ゴボー剣を半分腹に突き刺しても死ななんだ。……」
ややあって、三蔵はいった。
「だが、お前もやるじゃないか。お前のほうが先に人殺しになるところじゃなかったか」
「あれは、あの際、のぼせたあまりじゃ。計画して人殺しは出来ん」
と、あわてて七蔵はいった。
「それにしても、それっきり向うが何もいって来んのが解《げ》せん。このままじゃ終らんと思っとる」
「ともあれ、それほど怖ろしいロシア人じゃ。その怖ろしいロシアの、しかも皇太子が探索に来るのに、日本はそれを拒否出来んどころか歓迎せんけりゃならん立場にある。この弱い日本を護るものは何か? それは日本魂じゃ! 日本魂だけじゃ!」
三蔵はまた昂奮した。
「その日本魂のないやつは制裁せんけりゃならん。公然と、天皇陛下を無視した不忠者は、今にしてみせしめのために天誅を加えんけりゃならん! 七蔵、お前も苦労したろうが、こっちも何のために生きとるか、自分でもわからん人生を送って来た。しかし、いまこそおれは、これをやるために生まれて来たのだと知った。おれはやるぞ。七蔵、さっきの案を手伝え」
七蔵は当惑していった。
「兄貴、おれは、いまいった雪香さまを、そのロシア坊主から護るために命が欲しいのじゃ。……」
結局、押問答の後、
「七蔵、おれも考えるから、もういちど逢ってくれ」
と、兄がいい、
「それじゃ逢うが、それまでに何もするなよ」
と、弟がいい、この双生児の兄弟は、一応十日後の再会を約して別れた。
――十日後に、同じ場所で逢ったとき、三蔵は拍子《ひようし》抜けしたようにいった。
「内村はあれ以来、インフルエンザとかで寝とるらしい。仮病《けびよう》じゃなく、ほんものの重態らしい。重態の人間を殺すわけにはゆかんのう……」
「天罰で死ぬかも知れん。ほうっとけ。そして、おぬし、もう上方《かみがた》に帰れ」
と、七蔵はほっとしていった。
津田三蔵は迷った顔で、しかし重々しくつぶやいた。
「せっかく出て来たんじゃから……もう少し待ってみる」
供物
ニコライ大会堂が完成して、その成聖式が行われたのは三月八日のことであった。
それに参列する者は、信徒をはじめ日本の高官、各国公使ら無慮三千人と伝えられたが、むろん堂内にはいれずただ見物にやって来た市民はそれ以上だ。
駿河台へ上る群衆、下りる群衆は、その印象について波のようにささやき合っている。
生方《うぶかた》敏郎の「明治大正見聞史」にいう。――
「……ニコライ(大会堂)に至っては、ほとんど東京中のどこからも見えるかの如く、恐ろしく大きく、その高いキュポラは全東京を睥睨《へいげい》するかの如く、駿河台の丘の上に天を摩して屹立《きつりつ》していた。人の噂には、ニコライは露西亜《ロシア》の国事探使(機関)であって、日本の行動を偵察するために露西亜政府が建てたのだということだった」
これはすこしあとになっての感想だが、この開堂式を見物に来た民衆のざわめきも、驚異とともに、これと同じ声が多かった。――
「タツノスキー、この人々は何をいっとるのかね?」
神田に下る坂の途中で、そんな声がした。
その日の午後おそく――やや永くなった日ざしも茜《あかね》さすころであった。肩と肩がふれるような人混の中で、それはロシア語であったが、ふりかえる余裕のあったのは、そのまわりの五、六人だけだ。
「みんな、すばらしい、たいしたものだ、と、いっています」
と、長谷川辰之助もロシア語で答えた。
「そうかね。それにしてはどの顔も大変憂鬱そうに見えるがね」
と、ラスプーチンはつぶやいた。長谷川はいった。
「日本人は、うれしいときも悲しそうな顔をし、感心したときも陰気な表情をしているのです」
ずっと鮫ヶ橋に住んでいたラスプーチンも、さすがにこの大聖堂の開堂式風景は一見したかったと見える。もっとも式そのものに呼ばれたわけではなく、当人も、ただ外から見るだけで満足したようだ。そして三人は、いま帰ってゆくところであった。
三人というのは、長谷川のほかにもう一人お供がいたからである。稲城黄天だ。
「この開堂式には、ニコライ皇太子殿下が御臨席になるとか聞いておりましたが、皇太子殿下の御来朝は少し遅れますようで、その点は残念でございますなあ」
と、うやうやしくいい、次に辰之助に向っては横柄《おうへい》に、
「通訳してくれ」
と、いった。――
黄天はあれ以来、ほとんど連日のように鮫ヶ橋にやって来て、ラスプーチンの住まいにへたりこんでいる。そして、この大きな男が、こまめに火を焚いたり、水を汲んで来たり、食事の用意をしたりする。すっかりこのロシア僧にいかれてしまって、弟子気取りだ。
長谷川も、いまはこの男が、平河町に「伊勢神道占」という、怪しげな、しかし盛大な門戸を張っている有名な祈祷師であることを知っている。そして、黄天が近づいて来たのは、どうやらラスプーチンの「魔術」を学びたいという望みかららしい、と察している。
ただ、いかんせん黄天は言葉が通じない。どうしても長谷川の通訳を待たなくてはならない。で、長谷川を通じて、二、三度そういう希望をもらしたこともある。長谷川自身もラスプーチンの妖術についてはむろん絶大の好奇心を持っているので、この願いをとりついだが、ラスプーチンはじろっと黄天の顔を見て、「ふふん」と鼻を鳴らしただけであった。
「ニコライが来るのは、いつといったかな?」
いま、稲城黄天の言葉を通訳すると、ラスプーチンがつぶやいた。
「ええと、たしか四月二十七日、長崎に御来航になると聞いています」
と、長谷川が答えると、ラスプーチンは指を折って、
「あと五十日か。それでは、もうそろそろユキーカを呼んで来たほうがいいかも知れないな」
と、いった。
長谷川辰之助は、ぎょっとしていた。
――あの娘と兵隊を連れて来い。
十二月のあの事件――あの娘の護衛者らしい兵士が、ラスプーチンの腹に剣を刺して逃げて以来、ラスプーチンは、これも二、三度、そう長谷川に命じたことがある。
しかし長谷川は、それを聞かないふりをしていた。いちど、あの娘はその後、病気で寝ているらしいです、といった。
彼は竜岡雪香という娘と二度逢っただけだが、その清麗さには打たれている。二度もあんなところへ連れてゆくことになった自分の行為を罪悪のように思っているくらいだ。あの娘の母親が、シベリアの娼家で死んだらしい、という事実に、名状しがたい不可解さと衝撃をおぼえながら、それだけに雪香がいっそう哀れで、ここへまた連れて来るなどはとんでもない、と感じている。
ラスプーチンは、しかし、どうしてあの娘に特に目をつけたのか?――ただその母親の手紙をことづかってきたという縁からばかりではないらしい。
――あれをそばにおいて教育してみたい。
と、ラスプーチンがいったのは何のためなのか?
ただ、ラスプーチンのその要求は、それほどさしせまったものではなかったと見えて、その後、そのことは忘れたように見えたが――いま、突然、ラスプーチンはまた口にした。
「あの娘をあまり長期間あの貧民窟におくのは可哀そうなので、いままで待っていたのだが、もうよかろう」
と、ラスプーチンは群衆の中を歩きながらいった。
長谷川は、そのことについてラスプーチンが決して忘れていたわけではなく、ただ時を待っていただけだということを知って、いよいよどきりとした。
「皇太子が日本を去るのはいつかな?」
「ああ、それは、たしか御滞在は約一カ月と聞いていますから、五月末ごろでしょう」
「では――こちらは四月中旬でもいいが。……」
ラスプーチンは奇怪な勘定をつぶやき、
「とにかく明日《あした》にでも呼んで来なさい。それから、あの兵隊もな」
当惑している長谷川を、横からのぞきこんで、
「タツノスキー、お前はこのことをいやがっているね。お前がいやなら、そっちの男に頼む。その男にユキーカを連れて来させるよ」
と、いった。
長谷川はいよいよ狼狽した。彼はこの怪僧が一種の読心術を心得ていることを知っている。
「何といっとる? おれのことだな、おい、師僧は何といわれた?」
と、黄天が口を出した。ラスプーチンが自分の顔を見ながらいったので、わかったようだ。
「あの竜岡雪香嬢を呼んで来いといわれとるんだが。……」
やむなく長谷川はそう伝え、
「いやなら、稲城さん、あんたに頼むという。しかし、あの娘をあそこに連れてゆくことは、私はどうも賛成出来ない。よくないことが、きっと起りそうな気がする。あんたも同感だろう。あんたのほうも、それは出来んとことわってくれ」
と、早口でいってから、心中に、しまった、とさけんでいた。
同じ日本人として助勢を頼んだのだが、この男もどうやらあの雪香にとって好ましくない関心を持っているらしい、ということを思い出したのだ。
が、すぐにまた、それならばこの際いよいよもってラスプーチンの命令に不賛成の意を表するはずだ、と考えた。
「稲城さん、いやだ、といって下さい。なに、首を横にふって、ニエット、といってくれればいい」
「ほほう。……わしにあの雪香を連れて来いと?」
しかし黄天は、辰之助の意に反してそんな言葉をもらし、満面の笑みをたたえてラスプーチンに頭を下げて見せた。
「お安い御用です。師僧がそうおっしゃるなら、二、三日中にでもわしがあの娘を連れて来ましょう。……」
長谷川辰之助は、雑踏の中に立ちすくんだ。
突然、頭上から、カーン、カーンと鐘が鳴り出した。はじめて聞く耳には――日本人の耳には、それがニコライ聖堂の鐘楼から降って来る八個の鐘の音とは思えない、霹靂《へきれき》のような怖ろしいひびきであった。
「おい、津田――津田じゃないか」
十日の夕方であった。濠《ほり》の水もやっとぬるみはじめた桜田門の前の通りを歩いていた津田七蔵はふりむいた。
明石中尉が三宅坂の方角から、相変らず帽子をアミダかげんにかぶり、軍刀をひきずるようにして大股に近づいて来て、
「久しぶりだな」
と、笑いかけた。
「何の用で、こんなところをウロウロしとるか」
「は、乃木閣下の総入歯を、歯医者のところに取りに参りました」
敬礼して、七蔵は答えた。
「なんじゃと?」
明石はさすがにめんくらった顔をした。
「乃木閣下は総入歯なのか」
「左様であります」
「閣下はおいくつだったかな」
「こうっと……たしか四十三になられると思いますが」
「四十三で、もう総入歯か」
「左様であります」
「そんなものを、御本人じゃなくて、ひとにまかせて大丈夫なのかね」
「は、実は閣下の総入歯がだめになりましたのはこの二月のことで、連隊で馬上指揮をなされておりましたところ、号令をかけられたはずみに入歯が落ちまして、折悪しく馬がそれを踏みつぶしてしまったので、この外桜田の歯医者に新しくあつらえられたのであります」
明石は、通行人がびっくりするほどの大声で笑い出したが、七蔵は大まじめである。
「それがやっときょう出来《しゆつたい》しまして、いま受け取って参りました」
「や、もう受け取ったのか」
さっき、久しぶりだな、といったが、まったく久しぶりだ。たしかおととしの秋、この近くの平河町の「神道占」から、いっしょに竜岡雪香を救い出して以来のことだ。
あのとき、両人相協力してたたかったのはいいが、そのあと――津田が雪香に、その妖血の秘密を伝えたことを告白し、明石が「馬鹿っ」と怒鳴りつけ――何となく気まずい別れ方をしたのだが、いま明石の顔にこだわりはまったく見られない。
「中尉どのは、どうしてこんなところへ来られたのでありますか」
と、こんどは津田のほうから訊いた。明石の住所は赤坂、勤務先は麻布連隊だということを知っていたからだ。
「うん、おれは参謀本部出仕を命じられたんじゃ」
と、明石は答えた。
「この一月十三日付でな。それでいまは毎日こっちに来る」
この乱暴な将校がエリートコースに乗っていることを、津田も認めた。
「それは、おめでとうござります」
「いや、なに、それよりお前の顔を見て思い出したが。……」
明石は急に声をひそめ、顔をつき出した。
「お前、いまでも竜岡家へいっとるのかな?」
「はあ」
七蔵は警戒的な眼になった。
「中尉どのは、あれ以来、お嬢さまとお逢いになったことはないのですか?」
「うん、まあ」
明石は、あいまいな返事をした。七蔵があれ以来、といったのは、おととしの秋の事件以来、の意味だが、実は明石はあれ以後、去年の春、もっと壮絶な雪香救出作戦をやってのけ、そのあと二羽目の伝書鳩をとどけている。しかし、それ以後雪香に逢ってはいない。――
津田七蔵はそのことは知らないけれど、明石がここ一年近く雪香と逢っていないことだけは知っている。雪香に明石の名を聞かせることに何となく危険性をおぼえて、意識して口にはしないが、何となくわかるのだ。
明石元二郎は、彼らしくもなく何かためらっている風であったが、
「お前、これから采女《うねめ》町にゆく気はないか」
と、オズオズと尋ねた。
「は、いえ……きょうは私、急いで総入歯を乃木閣下のところへ持ってゆかにゃなりませんので」
「そうか。それじゃ、おれだけでもいってみるかな」
津田は狼狽した。自分の眼のとどかないところで、明石中尉と雪香さまに逢ってもらいたくない。
「いや、では私もいって見ましょう」
「それはありがたい。いっしょにゆこう」
明石元二郎は、ひとりで雪香を訪れるのを、まだ照れているのであった。
――と、明石と津田が銀座をつっ切って、築地へ近づいたときだ。
ふいに津田が明石の袖をひっぱった。
明石元二郎も、津田の眼の方角を追って、はっとした。
向うの三原橋の上で、ゆき交う人々とは別に、向い合って立っている二人がある。欄干に背をつけるようにしているのはまぎれもなく雪香であったが、それに何か話しかけている男のうしろ姿は、どうやら稲城黄天のようだ。
あきらかに、雪香の顔は恐怖にわなないている。――
二人は駈け出した。
跫音にふりむいて、さすがに黄天はぎょっとした。
「うぬら……また現われたか!」
と、さけんだ。
「そういいたいのは、こっちのことじゃ」
と、明石元二郎はいった。
「きさま、まだ竜岡さんにつきまとっとるのか」
「大事な話があるのじゃ」
「なんじゃ」
「それをいっていいかね? 雪香。――」
と、黄天はふり返った。雪香は蝋色の顔をしたまま答えない。
「それじゃ、よそう。……しかし、いまの話、承知してくれたか。承知してくれたなら、そのむね、あっちに伝える。よろしいね?」
黄天はそういった。歩き出そうとした。わざと悠々とした足どりだが、その顔には、明石と津田に見つかって、あきらかに恐慌状態を来《きた》している表情が浮かんでいた。
「待て」
と、明石はその前に立ちふさがった。
「何の話じゃ?」
「おい、中尉」
「なんだ」
「お前もおれに大きな面《つら》は出来んぞ。去年の秋、鮫ヶ橋に発生したコレラはお前のせいだ、と、おれが訴えて出たらどうするか。――お前は人殺しとなる」
明石元二郎は、うっと息のつまった顔をした。
「それから、そっちの兵隊。お前が乃木少将の従僕であることも知っとるぞ」
黄天は津田に眼を移して、
「おおそうだ。お前ももういちど鮫ヶ橋に来なけりゃならん。師僧のお呼びじゃ」
と、いった。
「いやとはいわせん。きさまも去年の暮に、あのロシア僧を刺したのう。さいわいあちらが不可思議の神通力の持主であったから大事には至らなんだが、乃木少将の従僕たるお前が、ロシア僧に傷害事件を起したということが新聞にでも知られて見ろ――いま、国をあげてロシアに戦々|兢々《きようきよう》たる時にあたって、いかなる大衝動を巻き起すか。乃木少将もただではすまんぞ」
津田も、棒をのんだような表情になった。
「いいか、いっしょにお前もわびに来い。それから、明石中尉、おれのいうことをおとなしく聞いたほうが、天下泰平というもんじゃ。わかったか。あははははは!」
稲城黄天は肩をゆすって、明石のそばを風を切っておし通り、早足で銀座のほうへいってしまった。明石と津田は、気をのまれた風で、口をあけて見送っただけである。
「雪香さん、どげんなすった?」
と、明石がやっと息をもらした。
「はい。……ここまで買物に来たら、待っていたようにあの人が現われたのです。……」
と、雪香は答えた。まだ身体がはげしくふるえている。
「そして、何をいったのです?」
「鮫ヶ橋のロシアの坊さまのところに来い、と。――」
「鮫ヶ橋のロシアの坊さま? そういえば、いまあいつ、津田にそげなことをいったな。そりゃ何のことだ?」
明石は狐につままれたような顔で津田をふりむいた。
「七蔵、話してあげて」
と、雪香は小さな声でいった。
「明石さんには何を話してもかまいません」
津田七蔵は、苦汁《にがり》をのんだような表情で、去年の十二月の事件を話し出した。
ロシアから母の手紙をことづかって来たロシア僧があると聞いて、四谷鮫ヶ橋の貧民街に出向いたこと。そこにその異国僧と稲城黄天が待っていたこと。その異国僧が雪香を手もとにおきたい、といい出し、しかも雪香が催眠術をかけられたようになったので、七蔵がその僧をゴボー剣で刺して、からくも逃げ出したこと。剣は半分その腹に突き刺したのに、そやつは翌日、平然と椅子に坐って酒をのんでいたこと。――
聞いて、明石はうなった。
「そげなことがあったのですか。……なぜ、おれに知らせて下さらなんだか」
「その鮫ヶ橋で……」
と、雪香が口をそえた。
「いただいた鳩をまた飛ばそうとしたのですけれど……空高く舞いあがった鳩は、そのロシアの坊さまの一声で、石みたいに落ちていったのです。……」
「その坊主が、あなたにまた来いという――そんなにあなたに執心するのは、どういうわけです」
「わかりませんわ。……」
「呼んで、何をしようというのです」
「わかりませんわ。……」
「ゆかないと、何をするとおどしたんです」
「母が。……」
雪香の唇はわなないた。
「シベリアのお女郎屋で死んだ、ということを、故郷の伊勢にいって、一族の者に告げる、と申しました。故郷どころか、私は、そのことを父にさえ知らせたくないのです」
明石は、またうなった。何たる奸悪なおどしの手か。――
「あなたのお母さんが……シベリアの女郎屋で……そ、そりゃ、ほんとうですか?」
「ほんとうだと思います。……」
明石はほとんど判断を絶して津田をふりかえった。津田は暗い眼でうなずいた。
明石の頭には、いつか津田が、雪香の母の家出の原因は不身持にある、といったことがよみがえった。それから黄天が、「雪香は淫蕩の血を受けておる」といったことが、山彦のように鳴った。
雪香はまたいった。
「そして、母が死んだときのようすを、そのロシア僧が話したい、といっているというのです。私はそれを聞きにゆきたいと思います。……」
「いってはならん!」
悲鳴のように明石は制した。
それきり、しばらく三人は黙っていた。
ややあって、明石がいった。
「津田、お前にも来い、といったのはどういうわけかな」
「あの傷害事件について、あやまれ、ということでしょうか?」
「それだけかな?」
七蔵も判断に苦しむ表情をしていたが、頭をふって、
「中尉どの……中尉どのもあいつにおどされましたな」
「うん」
「そりゃ、どういうことでありますか」
そこで明石は、あの残飯戦争の話をした。自分が鮫ヶ橋に世話した軍関係の残飯から去年の秋のあそこのコレラ騒ぎが発生した話をした。そして、その責任が自分にあることを知っているのは稲城黄天だけだ、といった。――
二人は当惑の眼を見合わせた。
「中尉どの、どうしたものでありましょうなあ」
「負けてはならん」
と、明石はいった。
「帝国陸軍参謀本部の軍人の妻が、ロシアの化物坊主に負けてたまるか。いわんや、あのイカサマ野郎なんぞに――」
「えっ、参謀本部の軍人の――何といわれました?」
「雪香さん」
と、明石元二郎は向きなおった。
「もういちど申し込みますが、おれの嫁さんになって下さらんか?」
雪香は明石を凝視した。その大きな眼から涙がひかりながら溢れ落ちた。
「明石さん。……でも、雪香には怖ろしい血が流れているのです。あの病気の血に、もう一つ、いまお聞きになったような、あさましい母の血が。……」
「それをみんな承知で申し込むのですたい」
明石はいった。
「はい、といって下され。頼む、頼む」
「――はい!」
と、雪香は答えた。うたうような声であった。
口をかくんとあけてこれを見ていた津田七蔵が、このとき一歩歩み出した。
「中尉どの……しかし、あいつらに対して、どういう風に――」
「ことは決った!」
明石もまた、うたうようにいった。
「あいつらはこれから、日本の陸軍参謀本部を敵とするわけじゃ。そのつもりでやれ、とおれがいってやる」
明石元二郎は、「お父上はいらっしゃるか」といい、雪香がうなずくと、「お父上にもお話ししよう」といって、彼女を抱くようにして采女町の家へいった。
父の左京は――彼は一年ほど前から内務省の造神宮使庁という庁に主事の職を得ていたが――勤めを終えて、帰宅していた。
明石は身分を名乗り、お嬢さまを妻に下さるまいか、と切り出した。
「あなたは?」
左京は眼をパチパチさせた。
「は、たしかおととしの春、お嬢さまと稲城黄天の件でいちどうかがったことがありますばい」
元二郎は笑った。
「あの節、お節介するな、とあなたに叱られましたが……こっちはあのときお嬢さまに一目惚れして、それ以来二年間、夜の夢、昼のうつつにも忘れられず、たまたま先刻、そこでお嬢さまにバッタリお逢いしたのをきっかけに、お嬢さまにお嫁に来て下されと申し込みましたばい」
あれ以来のことを、雪香が父に報告していないということをたしかめた上での大嘘だ。
父は娘をふりかえり、雪香がみるみる顔をあからめたのを見た。
まさか、それだけの話ではあるまい。いままで自分の眼のとどかないところで、この二人の間に何かあったな、と左京は察したが――いくらなんでも、あんな波瀾万丈のいくつかの事件があったとは想像のしようもない。
左京は、明石の氏《うじ》や生まれや、いま出仕している参謀本部第一局について問いただしたが、やがて、
「では、ふつつかな娘ですが、もらって下さるか」
ということになった。
少し型破りな感はあるが、明石元二郎の豪快な印象は、この場で娘の婿とすることを決めるのに、父親にためらいを与えなかったのである。
「可哀そうな娘です。よろしくお頼みいたします」
左京はそういって頭を下げたが、可哀そうな、とは母親のいないことを意味したらしく、彼はそれ以上、自分自身一家の――その母に関する大秘密はまったく知らない風であった。
結婚は一応来月半ばごろときまった。
津田七蔵は、こんな話の末座に、一言の口もさしはさまず、影のように坐っていた。
あくる日の夕方、勤務を終えた明石元二郎が、ブラリと鮫ヶ橋に現われた。
彼はあのコレラ騒ぎのとき、ここに来た。貧民街そのものにははいらなかったが――さすがの彼も、思い出すと参らざるを得ない記憶であった。
いま、そこにはいって、明石は中央の広場に来た。広場は例のごとく残飯買いの時間であった。明石は眼を見張り、それから、その隅に焚火が燃え、その向うの椅子に坐っている――赤茶けた髪を蓬々とはやした異国僧を見た。
彼はノソノソとそのほうへ歩いていった。
「あっ……来たっ」
異国僧のそばに立っていた稲城黄天がまず発見して眼をむいて、あわてふためいたようすで、そこらの住民に、
「おいっ、用心しな、ラスプーチンさまに敵意を持つ人間が現われたぞっ」
と、わめき、前に出て来た。
「こら、明石、きのうのわしのいったことを忘れたか?」
「いや、その返事に来た」
と、明石は答え、
「ははあ、その男がロシア坊主か」
と、いった。
「おい、どけ、坊主に話があるんじゃ。……と、いって、この坊主、日本語がわかるのかね?」
「この男はだれだ?」
ラスプーチンがいった。
そう訊かれた長谷川辰之助は、しかし茫然として明石を見つめている。彼はそこに、いつかニコライ大聖堂の足場の上で逢った将校を見いだしたからだ。あまりに風変りな軍人であったので、いまでも記憶に残っていたのである。
そして、明石のほうでも思い出したと見えて妙な顔をしている。
「や、あんたはロシア語が出来るんでしたな、二葉亭四迷さん」
と、いった。長谷川はあわてていった。
「あんたはだれだ、といっています」
「おれは明石元二郎、日本陸軍参謀本部付きの陸軍中尉だといって下さい」
つづいて、いった。
「何でも竜岡雪香っちゅう女性をお招きのようだが、あれは一ト月後にもおれの妻になる女性じゃから、それには応じかねる、といって下さい」
「き、きさま。――」
稲城黄天はうめいた。
「いやしくも帝国軍人が……シベリアへ流れていった女郎の娘を妻にするなど……そんなことが陸軍で許されるか!」
「その件についちゃ、川上参謀次長から御承認を得とる。いや、それどころじゃない、稲城さん、大変なことがある」
「なんだ」
「あの竜岡水香という名を聞かれてな。次長はちょっと待て、と別室へゆかれたが、やがて戻って来られて、その名の女性はシベリア探索のために軍が依頼した国事探偵じゃ、といわれた。――」
「な、なに?」
稲城黄天は眼をむき、絶句した。
「実は、ここだけの話じゃが、支那、満州、シベリアなどにいっとる日本の女郎たちの中にはな、ひそかにわが陸軍の諜者の任務を受けとる者が少なからずおる。竜岡水香という名も、ちゃんとその名簿に登録してあったということじゃ」
途方もないデタラメを、とうていデタラメとは思えないような分厚《ぶあつ》な顔でヌケヌケといって、明石元二郎は長谷川のほうに向きなおった。
「あの手紙は暗号じゃが、さてそれをとどけてくれたロシアの坊主は、そのことを知っとるのか、知らずの使者か。そりゃ急ぎ参謀本部のほうでたしかめんけりゃならん、と次長はいわれた。――二葉亭さん、ちょっと待て、以上は通訳してもらっちゃ困る」
明石は手をあげて制した。
「ただの手紙運搬役ならいいが、そのあと――竜岡雪香をまた呼ぶというのがただごとじゃない。ひょっとしたら、日本人の売国奴を求めに来たロシアの探偵かも知れん――という容疑は充分ある」
ギロリと稲城黄天を見た。
黄天は眼を白黒させた。――彼としては、自分が雪香を手に入れるより、惜しいけれどもロシアの怪僧に周旋して、あの妖術の伝授を受けたほうがはるかに賢明――同時に雪香の口を封じる目的にも叶《かな》う――と判断していたのだが、いま思いがけずロシアの国事探偵の嫌疑を持ち出されては、ただ、うならざるを得ない。
「それはそれとしてさしあたっての話じゃが、こんどせっかくロシアの皇太子が御来朝になるっちゅうのに、ここでロシアの探偵騒ぎを起しちゃ一大事ですたい。そこで、いまおれから訊きたい。――二葉亭さん、以下通訳を頼む。いったい、何のために竜岡雪香を呼ぶっちゅうのか? 一応そっちの言い分を聞こう」
長谷川は仰天した。しかし実は彼も同様の疑いはいだいていたのである。――彼は、この軍人は日本陸軍参謀本部の将校だが、あのユキーカと来月結婚するといっている。そして師僧《スターレツ》がユキーカを呼ぶ理由について尋ねている、と通訳した。
ほほう……と、いうように、ラスプーチンは改めて明石を見た。
その表情のさざなみも見過ごすまいと、明石元二郎もその怪僧を見つめた。
二人の眼は合った。――そのとたんに、明石元二郎は眩《めま》いを感覚した。
「それは……ロシアと日本の親善のために――」
と、ラスプーチンはいった。
明石は、二つの青い燐のような光を見ている。それが二本の筋となって、自分の瞳孔に飛びこむような気がし――次に、それがゆれて交わり、円になった。かがやく円は遠くなり、近くなった。
「あの娘をニコライ皇太子に献げたい」
長谷川辰之助は、はじめて先日のラスプーチンの日勘定《ひかんじよう》の意味を知った。――何という途方もない話だろう。
驚愕しながら長谷川は、しかし通訳した。――通訳というより、声が不可抗力的にのどの奥から飛び出して来る感じであった。
明石元二郎は奇怪な脳の麻痺感に襲われて、足がふらっとよろめき、あやうく仁王《におう》立ちに踏みとどまって――そのとたん、物凄い放屁をした。
光の輪がかき消えた。
「馬鹿あっ」
と、明石は大喝した。広場の喧騒が、一瞬しんと消えたほどの怒号であった。
「そげなことを、ロシア皇太子が受けいれられるかっ」
が、そのあと彼はケロリとして、
「尻も笑ったばい。以上」
と、いうと背を返し、軍刀の|こじり《ヽヽヽ》をひきずって、大股に去っていった。
追う者もなかった。さしもの黄天もあっけにとられて、追うことを命じることも忘れていた。
「あれが、ユキーカの恋人かね?」
ややあって長谷川は、ラスプーチンのつぶやく声を聞いた。
「そのようです」
と、長谷川は答え、このときふと、ラスプーチンがはじめて雪香を見たとき、「その娘に好きな男があるか訊いてくれ」といい、「そんな美しい娘に恋人がいないはずがない」といったことを思い出した。
その男は、あの軍人であったのだ。
しかしラスプーチンは、なぜそんなことにこだわるのだろう? いや、いま彼は、雪香をニコライ皇太子に献上するといった。これは実に奇想天外な話だが、とにかくそれであの娘に恋人があるかどうか、気にしたのだろうか?――しかし、それにしても、いまさらなぜ、そんなことにこだわるのだろう?
「じゃが、あれは私の探している男ではないようだ」
ラスプーチンはまたいった。
「あの男の理性と意志はあまり堅牢過ぎる。――」
はじめて長谷川は、ラスプーチンが来た目的は、ロシア皇太子に献上する娘とその恋人を探すことらしい、と知った。が、前者はともかく、後者はいったい何のためだろう?
ここまではひとりごとのようにつぶやいていたラスプーチンは、ふと顔をあげて、
「タツノスキー、あそこに私を刺した男がいたことを知っていたかね?」
と、いって、すぐ近い葭簀《よしず》のかげを指さした。
「えっ、あの兵隊が?」
「いまはいない。もう逃げていってしまった。兵隊の姿もしていない。ここの住民と同じようなボロを着て、汚い布を頭から頬にかぶっておったが」
ラスプーチンはいった。
「やはりあの男のほうが、私の探している男かも知れない。……」
長谷川はすっかり昏迷におちいってしまった。言葉のわからない稲城黄天は、さらにキョトンとして棒立ちになっている。
劫火
暦は四月にはいった。東京では、桜とともに、岩谷天狗《いわやてんぐ》と村井商会のサンライスとの煙草合戦が、巷《ちまた》の面白|可笑《おか》しい話題になっていた。
地味な竜岡家にも、何となく華やいだものがちらつき出した。父の左京があつらえた嫁入り支度の品が持ちこまれる。故郷の縁戚からも、人が羽織袴でぽつぽつ来る。
明石の注文で、式は十五日、黒田家の長屋で質素にやることになった。十日に、新しい桐箪笥が竜岡家に運びこまれた。
それらの道具や品を、津田七蔵が大八車で赤坂の黒田屋敷に運ぶことになったのが、妙にうそ寒い十三日の日曜日の午後だ。
この婚礼二日前という日に、異変が起った。
その箪笥を、外の大八車にのせるために、津田と、雪香の弟綱彦が協力して運び出そうとした。箪笥そのものは空《から》であったが、新しい品なので、中学生になっていた綱彦にも手伝わせたのである。それが――玄関の式台を下りるとき、綱彦の手からはずれて、箪笥の下端が綱彦の右足の甲に落ちた。
「ああ、しまった! 空《から》だから軽いんで、つい坊っちゃんの手を借りたのでございますが。――」
と、七蔵は頭を打ちたたいた。
箪笥の角には金具《かなぐ》がついていたけれど、それにしてもふつうならたいしたことのないこのアクシデントが、例によって大事となった。金具による小さな傷はもとより、そのまわりに出来た大きな内出血が、ジワジワと血を滲《にじ》ませはじめ、やがてそれは下に受けた小盥《こだらい》に、容易でない流血として滴《したた》り出したのだ。
そして、夕刻には、綱彦は半死の状態となった。
「綱彦! 綱彦!」
必死にさけんでいた雪香は、ふいに立ちあがった。
「七蔵、相乗り俥を呼んで!」
「どこへゆこうというのじゃ」
と、これもオロオロしていた父の左京が驚いて訊いた。
「この血をとめて下さる人があるんです。その人しか、この血をとめて下さる方はありません」
「え、ど、どこの、どなたが?」
雪香は答えず、
「七蔵、早くして!」
と、いった。
じいっと雪香の顔を見ていた津田は、飛びあがって、駈け出した。
雪香はさしせまった息づかいで、さらにいった。
「お父さまはおいでにならないで下さい。お父さまがいらっしゃると、その人の術が効《き》かない心配があるのでございます」
相乗り俥が来た。
雪香はそれに綱彦を抱くようにして乗り、蹴込みに小盥《こだらい》をおき、家の入口に茫然と立っている父には聞えないように、
「四谷鮫ヶ橋へ――」
と、俥夫にいった。
俥は駈け出した。津田七蔵だけがついて来た。
が、銀座をつっ切ったころ、彼の姿はふっと消えていた。
しばらくして雪香はそれに気がついたが、意に介した風もない。彼女の心は、ただ抱いた弟の流血だけにあった。
雪香は、これは天が罰を下したのだと思った。
自分は明石元二郎の求婚を受けいれた。しかし、すべての雲が消えてはればれと承諾したわけではない。あの母のこと、あの血のこと、それから自分が家を去ったあとの弟のこと――それらに眼をつぶって明石の腕に飛びこもうとしたのだ。
明石元二郎の愛に疑いはなかったけれど、彼女の心はやはり不安であった。その不安が、いま弟の妖血としてまざまざと現われた。しかも、自分の嫁入りの箪笥によって。
これは神さまの罰だ、と彼女はおののき、そして、どんな犠牲をはらっても自分はこの弟を助けなければならない、と決心したのであった。
津田七蔵は赤坂へ走っていた。彼は明石元二郎の救援を求めるつもりか。まだ明るい春の夕暮に、その姿はなぜか魔物が翔《か》けるように見えた。
その日も猥雑《わいざつ》をきわめる夕暮の貧民広場を、雪香と綱彦は歩いていった。
俥が貧民街の入口まで乗せてくれたのが精一杯で、そのあと血まみれの少年をかついで運んでくれるどころではないと。さればとて雪香の手には余るから、やっと弟の手を肩にまわし、よろめきながら広場の奥の異国僧のところへ進んでいった。
「おう」
ラスプーチンのそばから、稲城黄天が出て来た。
「助けて下さいまし。弟がまた怪我をしました」
その前に、二人もつれ合いながら坐ると、雪香は顔をあげていった。
「どうぞ、この子の血をとめて下さいまし」
黄天は近づいて、倒れている綱彦の足の傷――傷よりも、その血と、死人にちかい顔色を見て、ひるんだ表情になった。
「明石中尉はどうした?」
と、ともかくいった。
「結婚はどうした?」
雪香は、はげしく首をふり、
「やめました。それより、早く、弟を――」
と、さけんだ。
「雪香は、おっしゃることを、何でもいたします!」
黄天はふり返った。
「師僧、この女は、この少年の血を早くとめてくれと哀願しています。いかなる命令にも従うといっています」
ラスプーチンは動かず、ただじいっと、いたましい姉弟《きようだい》を見つめている。
黄天の言葉がわからなかったのか。――その日は、どういうわけか、長谷川辰之助がそばにいなかった。しかし、事態は、眼で見ただけでわかったはずだ。
ラスプーチンは、例によって焚火のそばで――残飯類の中から黄天が探して来た牛の骨や豚の足などを、その火であぶって食う――剥《は》げた大きな椀で焼酎を飲んでいたが、その椀を持ったまま、椅子から立ちあがって、
「プリナァシイ、マイニ、クロヴァティ」――私のベッドを持って来てくれ。
と、いった。
ロシア語はまずわからない黄天だが、クロヴァティは、ふだんそばにくっついているだけに、彼のおぼえたロシア語の一つであった。彼はすぐに路地へ駈けこんでいって、それを夜具とともに運んで来た。ラスプーチンのベッドは、竹を組合わせただけの、実に粗末な軽いものであったからだ。
ラスプーチンは、手で、少年をそこに横たえろ、と命じた。
その通りにした。気がついたまわりの七、八人がそれをとり巻くと、次から次へと集まり、残飯以外念頭にない貧民たちも、何かがはじまると知って、みるみる巨大な輪を作った。
ラスプーチンは、ベッドの少年の顔の上に顔をさし出し、何か話しかけた。――
言葉が通じるはずがない。にもかかわらず綱彦は、それまでとじていた眼をあけて、かすかに二度、三度うなずいたようだ。
ラスプーチンは、手にした剥《は》げ椀の焼酎をみんな飲みほし、少年の左足のほうへ顔を移し、滝のように吹きつけ、ぐいと両手で足首をつかんだ。
数分過ぎた。広場は、へんに静まり返った。
春の日は暮れかかっているが、まだ蒼みがかった光がある。その底に沈澱した汚泥《おでい》のような群衆に、白いものが降った。こんなところへ、どこから飛んで来るのか、葉桜から離れて風に乗って来た幾百片かの花びらであった。
その構図の妖しさに気づいた者があったか、どうか。――蹄《ひづめ》の音が聞えて来るまで、人々は異国僧の魔術に眼を吸われていた。
蹄の音は、路地の一つを近づいて来た。
その馬は広場にはいって来て、そこの人間の大きな輪にめんくらったように馬をとめた。
乗っていた軍人は、徒歩でついて来たもう一人の従卒にいそいで手綱をわたし、輪の中に歩いて来た。
明石元二郎だ。軍刀のほかに、腰に拳銃までぶら下げているのが見える。
彼は一直線に進んで、寝台に横たわった少年を見、ラスプーチンを見、雪香を見た。
「明石中尉」
数十秒の沈黙ののち、稲城黄天が歯をむき出した。
「弟を助けるためには、雪香はすべてこちらの命令に従う、何でもするといっとる」
雪香は立ちすくみ、明石を見たまま、ただ唇をわななかせた。明石はいった。
「血はとまったのか」
「まだだ」
黄天は、少年の足のあたりをのぞいてからいった。
「じゃから、この子の生殺与奪《せいさつよだつ》はラスプーチンさまの手中にある。そのピストルなぞふりまわしてみろ、綱彦のいのちはないぞ!」
「そうは思わん」
明石はいった。
「おれが血をとめて見せる」
「なに?」
黄天の顔に動揺が走った。彼はいつか、明石が――どういうわけか、理屈を超えて――綱彦の出血をみごとにとめたことを思い出したのだ。
「坊主、そこのけ」
明石は近づき、ラスプーチンの手をつかんで離し、代りに自分の手を綱彦の足に置いた。
ふしぎなことにラスプーチンは、抗《あらが》いもせずに身をひいた。しかも彼は明石ではない方角へ眼をむけていたが、ふいに何かさけんで遠い群衆を指さし、ついでさしまねいた。
だれを指さしたのか、数瞬わからなかったが、その男は見物人の輪をかきわけて出て来た。津田七蔵だ。
その津田の顔は異常にひきつり、痙攣していた。そして、明石を指さし、凄じい声でさけび出した。
「おおいっ、みんな聞け、去年の秋のコレラ騒動のもとはそこの将校だぞっ、コレラで死んだ者の下手人は、あの軍人だぞっ」
明石は、そのほうへ、キョトンと顔をむけていた。
彼は津田が発狂したのかと思った。この世が裏返しになったのかと思った。
先刻、津田は、赤坂の黒田屋敷に息せき切って駈けこんで来た。そして竜岡綱彦の事故と、その出血をとめるために雪香ともども鮫ヶ橋の異国僧のところへいったことを急報した。そして、厩《うまや》から馬をひき出す明石につづいて、津田もまた肺が空《から》になるまで駈けつづけていっしょに乗りこんで来たのだ。
この行為のどこから、津田のいまの自爆的な絶叫が出て来たのだろう?
口を四角にして彼はさけびつづける。
「あのコレラで死んだ子の親はおらんか! あれで死んだやつの兄弟はおらんか! あの軍人を殺せ! あいつを殺せ!」
なんぞ知らん、この絶叫こそ、この日の津田七蔵の行為の目的なのであった。
彼は雪香を明石のところに嫁《とつ》がせたくなかったのだ。
それを嫉妬といったら、彼は激怒するだろう。恋といっても身ぶるいするにちがいない。しかしこの律儀《りちぎ》で、頑固で、偏執的なところもある独り者の「老兵」にとって、清浄たぐいない主家のお嬢さまは、金輪際、雲のかかってはならない天上の月なのであった。
いつから、そんな心情になったのだろう。ひょっとしたら、それは少年時代に仕えた彼女の母の美しさが深層心理にしみついていたのかも知れない。とにかく、いつのころからか、雪香は彼の唯一の生甲斐となった。彼の気持では、それはけがらわしい願望を超えた存在であり、彼女は「永遠の処女」でなければならなかった。結婚してはならない彼女の血さえ、彼にとっては無上のよろこびであったのだ。
その雪香さまが、明石中尉のところへお嫁にゆく!
あらゆる障害に眼をふさぎ、二人は結婚するという。彼から見ると、それを防ぐ手段はないかに見えた。
七蔵は憂悶の末、一つの法を見出した。
綱彦といっしょに運搬中の箪笥を落したのは、彼の故意である。それを故意と思わせず、綱彦の足に落すくらいは容易なことであった。
果せるかな、少年はあの神秘の異国僧のもとへ運ばれることになった。
そしてまた自分の急報によって、明石は鮫ヶ橋へ駈けつけた。そこで自分の曝露によって明石を死地に落す。――それこそが彼の狙いであったのだ。
それなら、最初から、明石にみずから危害を加えたほうが簡単なようだが――それは出来ない。明石がたやすく危害など加えられそうにない人間に見える上に、心理的に出来ない。津田もまた自分の心にやましい自覚はあったのである。
人間は自分の望みに不正なもののあることを自覚したとき、その望みをかくし、それをとげるために奸悪とも評すべき手段をとる。
津田七蔵は、あきらかに悪魔になったのである。
むろん、明石が鮫ヶ橋のコレラ騒ぎの張本人であると知ってから思いついた智慧だ。いや、実はあの翌日――鮫ヶ橋の異国僧のところへ、自分の結婚宣言に乗りこんだ明石を、どうにも気にかかるまま、身をやつしてまで追跡して一部始終を偵察し、そのとき明石に怖れをなした稲城黄天が、貧民たちをケシかけようとしたのを見てからの発想だ。
こんな企みを頭にめぐらしながら、しかし津田は、あくまで自分を隠蔽《いんぺい》しようと欲していたのである。特に雪香には知られたくないと望んでいたのである。
それが、ここに至って暴発してしまった。これはまさしく自爆であった。
それは、いま明石がコレラ騒ぎの張本人であることを曝露しなければ機会を逸する、しかもそれには大声で知らせるよりほかに手段はない、と思ったこともあるが、それより、ラスプーチンが群衆の中の自分を指さして何かさけび、さしまねいたのに、意味はわからぬなりに仰天し、恐怖し、一種の錯乱状態におちいってしまったのだ。――が、ひょっとしたら津田七蔵は、雪香と明石の婚約以来すでに錯乱していたのかも知れない。
で、彼は、いま悪鬼そのものの形相《ぎようそう》で絶叫しつづける。
「あの男を殺せ! あの軍人を殺せ!」
「そうだ! こいつだ!」
稲城黄天もさけび出した。
「去年秋、コレラで、ここから十何人か死人が出た。あれはこの男が世話した残飯から発生したのじゃ。それはここの貧民を一掃するためじゃ。嘘ではないぞ。明石、嘘だというならそう言え。どうじゃ、いえまいが。――」
明石元二郎の唯一最大の弱点をつかんでいながら、こういう利用のしかたを教えられて、黄天は怪鳥のように躍りあがった。
二、三人、走って来た。
「ほんとうか」
「お前さんがやったのか」
また四、五人、駈けて来た。
「おれの孫は、あのコレラで死んだ!」
その声の主は、その子の屍体を運ぶのに明石が手伝ってやったあの老人であった。さすがの明石も答えようがなく、棒のように立ちすくんでいる。
と、見て、四方から黒山のように群衆がおし寄せて来た。
明石は、ぱっと飛びずさって、腰の拳銃をサックから抜こうとした。
「いけません! 撃たないで下さい!」
帛《きぬ》を裂くようなさけびをあげ、雪香はふり返り、ラスプーチンの足もとにひざまずいた。
「助けて下さい! あのひとを助けて下さい!」
彼女はラスプーチンの膝にすがりついた。
明石は貧民の波に巻かれ、もみくちゃになっている。もうピストルを一発や二発撃っても、何の効果もなかったろう。
奇妙なことにラスプーチンは、この騒ぎをよそに、べつの方角を――さっき津田七蔵を発見したのとはまたべつの方角を眺めていた。
言葉がわからないのでこの事態が理解出来ないのか、と雪香は焦りながら、その足をゆさぶった。
「何でもします。私はあなたのおっしゃるままにします。あの人を助けて下さい!」
そのとき、だれか飛び出して来て、ロシア語でラスプーチンに何かいった。
長谷川辰之助であった。いままで、いなかった長谷川が現われて、雪香の言葉をそのままラスプーチンに伝えたのだ。
長谷川だけではない。そのうしろに、あの内村鑑三先生までくっついている。内村は、眼をむき、口をポカンとあけていた。
実は、二人はいまここに到着したのである。
――長谷川辰之助は、先日、明石という陸軍中尉が雪香との結婚を宣言しにここへ乗りこんで来、ラスプーチンが雪香をロシア皇太子への供物にすると応じたやりとりを聞いて、これは大変なことになったと思った。結婚の件はともかく、供物云々は荒唐無稽の話のようだが――ラスプーチンという人間を見ていると、あながちそうともいい切れない。そして明石中尉も、どう見ても異常な軍人だ。少なくとも、ほうっておけば――何が起るかわからないが――ただごとではすみそうにない。
そう判断したが、自分の力ではどうにもならず、そこでまた思い出したのが内村鑑三であった。
ラスプーチンと対決し得る力を持っているのは、あの先生しかいない。対決してどういうことになるか見当もつかないけれど、とにかく予感される異変を防ぐには、内村先生をひき出すよりほかはない。
長谷川はそう考えたが、まだとつおいつ迷っているうちに、内村の「勅語不敬事件」が起った。長谷川もはじめは不愉快をおぼえたが、そのうち内村の剛毅に感心するようになり、一応ほとぼりのさめたころ、おそるおそる訪ねていったら、内村はひどいインフルエンザでまだ寝ていた。先月もういちどいってみると、こんどは看病していた夫人が感染して病床にあった。
そういうわけで、やっときょうになって内村鑑三を連れてここにやって来て、この騒ぎにぶつかったのである。――内村は不敬事件以来、外出したのはこれがはじめてであった。
むろん、わけはわからない。わからないなりに長谷川は、怖れていたことがついに発生した、と直感した。それで飛び出して、ともかく雪香のさけびを通訳したのであった。
どこか、よそを見ていたラスプーチンは、
「ザマルチイ」――静かにしろ。
と、手をあげていった。
「ザマルチイ」
言葉はロシア語だし、声もそれほど高いものではなかったのに、それは荒天の海に流した油のような作用を現わした。
騒ぎが次第におさまるのをよそに、ラスプーチンは、こんどは足もとに眼を落して、
「マアルチイク、ウミェル」――少年は死んだ。
と、いった。
長谷川辰之助は通訳しなかった。それにもかかわらず――雪香も、黄天も、寝台の上に眼をやって、全身を硬直させていた。
白蝋を刻《きざ》んだような顔で、あきらかに竜岡綱彦は息絶えていた。
「綱彦! 綱彦!」
たまぎるようなさけびをあげて、雪香が寝台に駈け寄った。
軍帽も飛び、肩章もとられ、ボタンも二つ三つ落ちた姿で、明石もこちらへ急ぎ足でやって来たが、途中で、
「明石中尉。――綱彦が死んだのは、お前のせいだぞ!」
という稲城黄天のわめき声に、はたと立ちすくんだ。
「じゃからラスプーチンさまにまかせておけばよかったのじゃ!」
数十秒たって、しかし明石はまた歩き出そうとした。
それまで弟の死骸にしがみつき、胸をえぐるようなむせび泣きをつづけていた雪香が、このとき顔をあげて明石を見、それからまた別のところを見た。
その眼が、この場合にも異様な感じであったので、明石はその方向をふりむいて、はっとした。
ゆれ動いている人波の中を、津田七蔵が歩いて来る。このころ、広場にはようやくうす闇が漂いはじめていたが、その中に津田の姿は、まるでもののけのような印象であった。
――のちになって明石元二郎は、この夕方の一連の事件を思い出して、どうしても現実にあったこととは思えない、狂気の支配する世界の出来事だという感じをぬぐい切れなかったのだが、この時点においても、まず何より狂人と認めないわけにはゆかなかったのは津田七蔵にまちがいなかった。
先刻の途方もない背信の怒号も狂気の沙汰だが――その彼が歩いて来るのを見て、明石がはっとしたというのは、津田がゴボー剣を抜いてぶら下げていたことで、しかも、向って来るのが自分のほうではなく、ちがう対象をめざしているようにも見えたことだ。
それは、やや離れたところに茫然と立っている、詰襟に山高帽をかぶった人物のように思われた。明石は知らないが、それは内村鑑三であった。
本来なら、さっきの件でたちまち首根っ子をつかまえて糺明すべきところだが、相手が見も知らぬ人間に、明らかに殺意をもって近づいてゆくので、数瞬明石が、あっけにとられて見まもっていると――そのとき、スルスルと走り出した別の人間がある。
雪香であった。
雪香は音もなく、風鳥《ふうちよう》のように走り出すと、津田のうしろに追いすがった。
夕闇の中に、白い光がちかっときらめいた。
絶叫をあげてのけぞった津田の背中に、短刀が柄《つか》までつき刺さっていた。そのまま倒れた津田を見下ろしもせず、雪香は明石をふり返ってさけんだ。
「明石さん、雪香は人を殺しました。……」
彼女自身が死人のように妖しくも美しい姿で、
「私を忘れて下さい!」
これが雪香の、裏切り男への制裁と、自分への訣別の行為であったと明石が知ったのはのちになってのことである。
あまりのことに明石は、この刹那は脳髄が麻痺したようになって、棒立ちになっている。
広場全体が、しいんとしていた。
――と、そのとき、ラスプーチンが動き出した。ちょうど雪香はふらふらと地上に崩折《くずお》れようとするかに見えたが、その腰に手をまわして、頭上から覆いかぶさるようにして何かささやいた。
何をいったのか。――次の瞬間、この赤茶けた髪と髯の、うす汚い異国僧は、ひたと雪香の口を吸ったのである。
いったいラスプーチンは何をささやいたのであろう。それに対して、雪香は抵抗するようにも見えなかったが、いったい彼女はどうしたのであろう。
そのまま片腕で抱いて向うへ歩き出すロシアの怪僧に、雪香はしがみつくようにして運ばれてゆく。
四界は薄墨色に浸《ひた》り、その二人の姿だけが赤く照らし出された。広場に燃えているのは、あの焚火ひとつだ。それが、そこまで、またその二人だけとどくわけはないのに、だれの眼にも、その怖ろしい「誘拐」の姿は、真っ赤な劫火《ごうか》の中に浮かびあがったように見えた。
ラスプーチンは片手をあげた。
すると、一頭の馬が、群衆の中をトコトコと駈けて来た。それは先刻明石が乗って来たもので、津田に渡したものを、いつかひとりになっていた馬であった。
愕然として駈け出した明石の耳に、ラスプーチンの怪鳥のような声が聞こえた。と、それにつづいて、
「追って来ると、雪香は死にますよ!」
という雪香のさけびが流れて来た。
ラスプーチンは、雪香を抱いたまま、その馬に乗った。ここにいる者はだれも知らないが、彼は元来|馬喰《ばくろう》の子で、シベリアの草原を馬で駈けまわって成長した男だ。そのまま、二人を乗せて馬は路地を駈け去った。
遠ざかってゆく蹄の音のゆくえを、明石元二郎はもとより、長谷川辰之助、内村鑑三、そして稲城黄天もそれぞれの場所に、口をあけて見送っているばかりであった。
広場の闇の底には、少年綱彦の美しい屍骸と、津田の醜い屍骸がとり残された。
凶徒津田三蔵
この出来事に立ち合った関係者たちが――何も知らない見物人たちはむろん――一様に、驚愕、当惑、恐怖、五里霧中、さらには判断停止の心理状態におちいったことはいうまでもなく、その点、稲城黄天も、ほかのだれにも劣らないが、ただ彼だけにはちょっぴり他と異る感情があった。
「残念といえば残念だ」
翌々日の朝、黄天はつぶやいた。桃夭女塾の、下山宇多子の閨《ねや》の中でである。
「もう少しすれば、あのラスプーチンの妖術の伝授を受けたものを。……」
それもさることながら、雪香という娘を失ったのも惜しい。はじめはただ好色から眼をつけただけであったが、その母がシベリアで女郎をして死んだ、などいう事実を知るに及んで、自分の本能的なカンの的中していたことについての満足感とともに、あの娘に対していっそう不可思議な魅力を禁じ得ない。あの最後に見た、ラスプーチンに抱かれていったときの凄艶さは、すでにこの世のものとは思われなかったが。――
「それにしても、あれからどこへいったろう?」
と、放心したようにつぶやいた。
「だれのこと?」
と、鏡台にむかって、肌ぬぎで化粧しながら、宇多子が訊く。
黄天はあわてて答えた。
「ラスプーチンのことだ」
「その男もそうだけど、雪香はどうなってしまったのかしら?」
「ううん」
黄天はうなったが、
「何にしてもあの娘がいなくなったのは、こっちにとってはありがたいところもありますな。その点、とんびに油揚をさらわれたような気持になったのはあの明石中尉にちがいない。いい気味だといいたいが、こっちからすりゃ、まだ足らん。あの事件をたねに何かもひとつ、こんどこそはあいつをとっちめてやらんけりゃ。……」
夜具の中から枕もとの煙草をとり、鼻からふとい煙の棒を吹きはじめた黄天を、宇多子はふり返り、
「もう帰って頂戴。ひとに見られると困ります」
と、いった。
昨日、黄天は前日の鮫ヶ橋の怪異を話しにやって来て、それっきり泊りこんだのだ。もっとも彼の夜具は別室にとらせたはずなのだが。――
「なに、きょうは塾に生徒は来ん日でしょうが。……とにかくこれからは枕を高くして寝られるんじゃから、昨夜の疲れもあり、これからもうひと眠り。――」
と、図々しくまた仰むけになるのを、
「いいかげんになさい!」
と、宇多子はついにがまんの緒が切れたような声をあげて、蒲団からひきずり出した。
叱られても、平気で、朝飯にも一本つけさせる。いい顔色になって、黄天は玄関でなれなれしく下山宇多子の頬をつっついた。
「実に、腰のぬけるほど気持のいい、こんな朝帰りははじめてで」
玄関を出た。
すると、まだ早く、しらじらとした往来から門を、つかつかと二人の兵士がはいって来て、
「稲城黄天か」
と、鋭い声をかけて来た。
「即刻、東京憲兵隊司令部へ来てくれ」
黄天は仰天した。
「憲兵隊司令部……私が? 何の用で?」
「ロシアの軍事探偵と共謀の容疑だ」
玄関で、下山宇多子の顔からも血の気《け》がひいていた。
稲城黄天の拘引を報告に来た憲兵隊の将校が敬礼して出てゆくと、参謀次長川上操六は――彼は去年の六月中将になっている――、明石中尉をふりむいて、
「ま、こらしめのため、その稲城っちゅうやつを少々痛か目に合わせてやるのはよかが、しかし、おいにはそのラスプーチンがロシアの間諜などとは思われんが」
といった。
「では、きゃつは何者で、何しに日本に来たのでありましょうな」
「おはん……そのロシア坊主は、日本の美《よ》か女子《おなご》をこんど来朝するニコライ皇太子に献上するためだといったといったじゃなかか」
「そういいました。ばってん、まさかそげな馬鹿なことを……ニコライ皇太子がそげなものを受けられるでござりましょうか」
「受けられんじゃろ」
川上はあっさりといって、
「ひょっとすると、その坊主は、皇太子に近づく方便としてそげな手を使うつもりじゃなかか?」
「そげな手で、皇太子に近づけますか?」
川上は首をかしげて黙りこんだが、やがて、
「こんどロシア皇太子がおいでになったらな。おいも日本側接伴員として関西にゆかんけりゃならん事《こつ》になっちょる」
と、いった。
「ほほう?」
「そげな怪しげなものを近づけはせんが、何にしてもあのロシア坊主をつかまえるのが先決じゃ」
「それが、つかまりません。少なくとも昨日の捜索では。……ただ一日の捜索でも、あげな異風のロシア坊主と日本娘が、どこへ消えてしまったのか?」
これは、報告ではなく、つぶやきだ。この二日間に、明石元二郎の頬はゲッソリとそげ落ちている。
「次長、お願いがござります」
彼は熱病のような眼をむけた。
彼は川上次長に、妖僧ラスプーチンについて知るかぎりのことは報告したが、自分と、さらわれた娘との関係についてはまだ何もいっていない。――いつか稲城黄天に、竜岡水香は日本の参謀本部の意志を受けた探偵だ、などいったが、むろん口から出まかせの大ボラだ。
「そのロシア坊主は私も探偵とは思いませんが、しかし何の目的もなく日本に来たとは思われません。ただ日本の娘をさらうために来たものとも信じられんのです。放っておくと、何か途方もないことをしでかしそうに思われます。私にゃ、警察にもまかせておけんような気がします」
明石はいった。
「しばらく、私個人に、そやつをとっつかまえるための特別行動をお許し下さらんでしょうか」
川上はじっと明石を見つめてうなずいた。
「よか」
これが四月十五日――本来なら元二郎と雪香の結婚式の行われるはずの日のことであった。明石はその日に、さらわれた自分の花嫁を探しに飛び立たなければならなくなったのである。
明石中尉は敬礼して、参謀次長室を出ていった。
ことと次第では、あのロシア坊主を射殺しても雪香は救わねばならぬ、と彼は覚悟した。が、三宅坂を大股に下りながら、その明石の胸に、ふっと妖煙のようなものが走った。いつぞや津田が話した――津田ばかりではなく雪香からも――その怪僧が、腹を剣で刺されて平然としていたという事実を思い出したのである。
あのロシア坊主は、殺して死ぬのだろうか?
ロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチが、従弟《いとこ》にあたるギリシャ王子ジョージ殿下とともに、五隻の随行艦をひきい、巡洋艦アゾーヴァ号で、インド洋を経て、長崎に到着したのは、それから十二日後の四月二十七日のことであった。
――後年、日露戦争で、この随行艦のうち巡洋艦ツジギットは旅順で、巡洋艦ナヒモフとモノマフは対馬《つしま》沖で撃沈されることになるが、この当時においては、いずれも日本にない大型の鋼鉄《スチール》製の装甲艦で、この六隻だけで日本の全海軍力に匹敵した。
長崎港に到着したのは四月二十七日のことだが、ニコライは五月四日まで八日間、軍艦の中にいた。これはロシア正教の復活祭の行事を行うためであったが、このことも、いったい何をしているのかと日本人にぶきみな感じを与えた。
五月四日、やっと上陸して長崎を見物した。
以後、鹿児島に回航したあと、北上し、関門海峡から瀬戸内海にはいり、神戸に上陸、京都、大津、大阪、奈良を見、ふたたび神戸港から横浜へ、それから東京ではじめて天皇と会見し、観兵式を行い、その後、鎌倉、箱根、熱海、日光、仙台、盛岡、そして五月三十一日青森着、というのが予定のコースであった。
青森で、先行して待ち受けていたアゾーヴァ号に乗り、艦隊とともにウラジオストックにゆき、そもそもの目的たるシベリア鉄道の東端からの起工式に臨もうというのであった。
巡遊の各地方における歓迎行事の予定は最大級のものであった。結局は無駄になったこともあってその一々は述べないが、例えば京都ではまだ五月なのに、例の五山の送り火をともして皇太子に見せたことでも類推されよう。宿泊地の都市ばかりではなく、沿道すべて日の丸とロシア国旗の波にゆれ、万燈の洪水に満たされるはずであった。
これはむろん役場、警察、学校などを通しての政府の指導によるものにちがいないが、ただ強制ばかりではなく、国民すべてがみずからすすんでこの行為に参加したふしもあった。
といって、彼らがロシアに親愛の情を持っていたわけではない。前にも述べたように、それは恐怖の照り返しの行為であった。熱狂的歓迎は、まったく日本人総出演の、涙のこぼれるようなお芝居であったのだ。
さてニコライ皇太子一行は、予定通り神戸に上陸し、京都の常盤《ときわ》ホテル――現在の京都ホテル――に二泊した。
そして、五月十一日、実に驚天の大事件が勃発した。皇太子の遭難である。
この日、皇太子は、随行員を従え、有栖川宮威仁《ありすがわのみやたけひと》親王以下日本側接伴員たちとともに京都を出て、俥で大津に向い、沿道にロシア、ギリシャ、日本の小旗を打ちふる民衆や小学生たちに迎えられ、午前中、琵琶湖をわたる爽やかな微風になぶられながら、三井寺、三保ヶ崎、唐崎神社などを遊覧し、正午前、滋賀県庁に着いた。
ここで昼食をとったあと、午後一時半、一行は京都への帰路についた。ロシア側随行員、日本側接伴員、その他滋賀県側の奉送者合計百台を越える大行列であったが、このとき参謀次長川上操六中将も、日本側接伴員の一人としてニコライ皇太子から八番目の俥でつづいていた。
ニコライ皇太子は二十二歳であったが、美しい髭をはやし、縞の背広に山高帽をかぶり、うしろのジョージ殿下もそれとほぼ同様の軽装であった。
一行は湖畔に沿う京町通りを、県庁から約三百メートルの下小唐崎《しもこからさき》町あたりに来た。沿道には十|間《けん》ごとに護衛の巡査が直立してならんでいた。
その巡査の一人が、前を通過するロシア皇太子に頭を下げたあと、突如抜剣し、走り寄り、俥に飛びつくようにして皇太子に斬りかかったのである。
サーベルのきっさきが皇太子の頭にきらめき、悲鳴をあげる皇太子に、つづいて二太刀目が薙《な》ぎつけられた。皇太子は俥から転びおちた。
巡査が第三撃目を見舞おうとしたとき、次の俥に乗っていたジョージ殿下が飛び下りて、手にしていた竹鞭で巡査の肩をたたきつけた。それは県庁の物産陳列所で買ったばかりの草津名産の竹の根で作った強靭な鞭であった。つづいて、ジョージ殿下の俥の左あと押しをしていた俥夫が巡査の脚にタックルし、巡査がつんのめって投げ出したサーベルを、やはりジョージ殿下の俥の右あと押しをしていたもう一人の俥夫が拾いあげて、倒れた巡査の後頭部と背中に斬りつけた。
血潮の中にはね起きようとした巡査に、先導の俥に乗っていた警部たちが、飛び下り、殺到し、これをおさえつけた。――
いわゆる大津事件である。
現場の混乱はいうまでもない。混乱と重なって、麻痺が来た。麻痺的な衝撃はたちまち日本じゅうにひろがった。
――おそらく明治以来、日本がこれほど全国的な憂色に覆われたのはこの事件がはじめてではあるまいか。これ以後も、それに似た現象が見られたのは、明治天皇崩御の際と太平洋戦争敗北の日くらいなものだと思われるが、あとの二例はしかし、みなあらかじめ覚悟ないし予感を伴ったものであった。それにくらべると、これは規模は小さいけれど、驚愕は大きかった。
いや、規模が小さいというのは結果論で、そのときはこの突発事につづいて予想される大国難に戦慄したのである。
ただ一般国民が戦慄したばかりではない。大臣大官のすべてが同じことを考えて狼狽その極に達した。
ニコライは近くの民家で侍医から応急手当を受けたのち、繃帯を頭にまいた姿で午後四時ごろ汽車で京都に帰り、常盤ホテルにはいったが、十三日夕刻には神戸に碇泊していたアゾーヴァ号にひきあげた。
この三日の間だけに限っても、日本政府と民衆のパニックぶりは筆舌につくしがたい。
事件の起った十一日の午後四時四十五分には、天皇の名代としてただちに北白川宮が見舞いに差遣された。これもすでに発車した汽車を新橋駅に呼び戻して乗るという騒ぎであったが、翌朝の六時半には天皇みずから特別列車で西下し、伊藤博文、黒田清隆らの重臣も続々あとを追った。
民衆の驚駭もこれに劣らない。全国の神社仏閣は露国皇太子の平癒を祈祷し、学校も謹慎のために休校するところが多く、会社や商店も同じ意味で休業した。
それだけに、犯人に対する怒りは大変なものであった。ロシア皇太子への同情というより、自分たち総がかりの芝居をぶちこわした馬鹿者への怒りであった。――しかもそれが警護のための日本の巡査であったとは!
まさに、朝野をあげての憤激に、さらに新たな火が点じられたのは十八日になってからだ。
いや、一杓の冷水といおうか。
当時、当然死刑をもって処断するつもりであった政府と、それ以外念頭にない国民の前に、冷然、頑然として大審院長(いまの最高裁長官)児島|惟謙《いけん》が立ちふさがったのである。
日本の法律には、この犯人を死刑にすべき明文がない、と彼はいった。
いかにも刑法第百十六条には、「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加エ又ハ加エントシタル者ハ死刑ニ処ス」とあるが、天皇とは日本だけの存在であって、外国の皇族に対して危害を加えた者は死刑に処す、という条文はどこにもない、というのだ。
しからば、この犯人は処刑出来ないのか、という問いに、それは通常人に対する謀殺もしくは故殺未遂の罪名しかなく、まず無期懲役が精々であろう、と児島大審院長は答えた。
政府首脳は仰天した。
松方首相、西郷内相らは、「この際犯人を死刑に処せなければ、ロシアとの間に重大な問題を惹起《じやつき》する怖れがある。戦争という事態さえ生じないとは保証しがたい。さすれば日本は破滅だ。国家を破滅させて何の法律か」と、さけんだ。これに対して児島は厳然といった。「法を破ってまで存在する国家は国家の名に値しない。それを要求して戦端をひらけば、ロシアのほうが無法となる。そのときは、不肖児島も一兵卒として参加することにやぶさかではない。しかしながら現在ただいまとしては、司法の人間として、断乎《だんこ》法を護るより私のなすべきことはない」
ほとんど狂乱にちかい政府と国民の怒号の嵐の中に、この「護法の神」は冷然としてつっ立っていた。
しかも、児島惟謙が大審院長の任についたのは、この五月六日――事件勃発の五日前なのである。それはあたかも、天が、日本の政治家に「超法規」は許さないという使命を果させるべく、彼を地上に下したかのようであった。
しかしながら、政府が恐慌をきたしたのは、必ずしも枯尾花を幽霊と見るたぐいではなかった。日本の法律にないという弁明がたとえ通用したとしても、それ以前に、時の外相青木周蔵は駐日ロシア公使シェーヴィッチに、もしロシア皇太子に危害を加えた者が出た場合は、刑法第百十六条を適用する、と誓約していたのである。
時はまだ欧米の侵略政策が堂々とまかり通っていた十九世紀だ。この日本の頬かぶり的違約をたてに、ロシアが日本に戦争をしかけてもどこからも異議の出ない情勢にあったのである。これが奇跡的に無難に過ぎたのは、ただニコライの父、当時のロシア皇帝アレクサンドル三世の特別例外的な平和主義によるものであった。
ただロシアそのものの歴史的膨張欲は別である。
客観的に見れば、日本はまさに累卵の危機にあったのだ。
明治には、後代の常識からすれば、政治家、軍人などに、暴勇、暴挙の評を与えて然るべき決断や行為が数々あった。にもかかわらず、その大半がふしぎに禍を呼ばず、かえって栄光をもたらした。国家が勃興する時は、そういうものである。
児島惟謙のこのムチャクチャな護法行為もその一例だ。彼もまた明治の化物列伝中の一人には相違ない。
ただし、この児島の戦いは、時間的にはこの明治の化物たちの物語の終ったあとから始まるのだが。――
露国皇太子襲撃さる。犯人は滋賀県守山署巡査、津田三蔵。
この報に、常人に倍して驚いたのは明石元二郎であった。
彼は、大津の皇太子見物の群衆の中にいた。
明石は、長崎以来、ロシア皇太子一行を追って来たのである。彼は髯の生え放題の顔になっていた。
雪香を連れたラスプーチンはどこへいったか。最初の一日の捜索だけでも彼らがつかまらないことがふしぎであったが、さらにその後に至っても、二人のゆくえは杳《よう》として絶えたままだ。
元二郎の頭には、あの怪僧が雪香をロシア皇太子に捧げる、といった言葉が、最初聞いたときとちがって異様な迫力で明滅した。
それで彼は、川上次長の許可を得ると、ロシア艦隊の長崎入港の数日前に長崎にいったのである。しかし、ラスプーチンと雪香の消息はなかった。
ニコライはやがて神戸に来た。元二郎はそれを追った。向うは軍艦だから、ふつうなら間に合わないが、ニコライはいちど鹿児島に寄ったりしたので、やはり船だが、明石のほうは長崎から直行して先廻りすることが出来たのである。
神戸から京都へ――ロシア側一行の中に、依然としてラスプーチンの影などはない。あんなうす汚い坊主など、とうてい混《まじ》りこめそうもない金ピカの一行だ。それを迎え、送る日本の見物人たちの中にも見当らない。
そして、大津でこの事件に遭遇し――変事そのものは目撃しなかったが――ついで、その犯人の名を知るに至ったのだ。
津田三蔵! 津田三蔵!
その名は雷電のごとく明石の頭を打った。
ただ、知り合いの津田七蔵の名に似ているからだけではない。――
思い出せば、最初に津田七蔵に逢ったころであった。七蔵の身の上話の中に、彼に双生児の兄がいると聞いた。本来ならそんなことは忘れてしまってもいい話だが、その後、その兄が滋賀県の巡査をやっていると聞き、またその縁で雪香の故郷の伊勢で、母の水香のことなど調べてもらったことがあるので、その存在が頭に残ることになった。
名まで記憶はないが、津田三蔵。――まさしくそれは津田七蔵の兄にちがいない!
津田七蔵は先日自分をあんな目にあわせ、雪香に殺されてしまったが――思い出しても不可解と不快の印象を残した事件であった。その兄の津田三蔵が、ここでまたそれに倍する不可解と不快に満ちた大事件を起すとは?
ロシアの怪僧を刺した津田七蔵。
ロシアの皇太子に斬りつけた津田三蔵。
そのつながりが、双生児同士という関係以上にいかなることを意味するかは混沌としているが――またラスプーチン捜索のことはさておいて――明石は犯人の津田三蔵に逢ってみたくなった。いや、逢う必要があると思った。
津田三蔵は、逮捕されたあと俥夫に斬られた創傷の手当を受け、すぐに膳所《ぜぜ》監獄に送られたという。
この重大犯人に、簡単に逢えるわけがない。――
明石は首をひねって考えこんだが、すぐにはたとひざをたたいた。彼はその足で滋賀県庁を訪ねた。それは事件のあった日の夕方のことで、そこにまだ日本側接伴委員の川上操六中将がいると知っての行動であった。
まだ煮えくり返るように騒然としている県庁の一室で、彼は川上次長と逢った。川上は明石の出現とその髯面に眼をまろくして、それでもロシアの坊主は見つかったか、と訊いた。明石は首を横にふった。
「お前は心配しとったが、これじゃ皇太子に日本娘献上どころの騒ぎじゃなくなったな」
と、川上は冗談どころではない深刻な表情でいった。
「その件でござりますが」
と、明石はいった。
「犯人の素性や動機はわかりましたか」
「素性は守山署の巡査じゃ。動機は、露国皇太子は日本の国力を探偵に来たものじゃから斬った、とか何とかいっとるそうじゃが……詳しか事《こつ》はまだよくわからん。その報告を我輩は待っとるんじゃ」
「閣下……閣下は、乃木閣下の馬丁を御記憶でありますか」
「乃木の馬丁?」
「それ、いつぞや閣下は、乃木閣下の御家庭の怪事について、乃木閣下の馬丁から訊き出したとかいわれましたね」
「おう、そげな事《こつ》があったの」
「その馬丁の名を御記憶でありますか」
「うんにゃ、忘れたが」
「津田七蔵っちゅうのでござります。そして、こんどの事件の犯人が津田三蔵」
「や!」
「三蔵は七蔵の兄であります。実は二人は双生児なのでござります」
さしもの川上が、息をのんで明石を見つめた。
「おはん、そげな事《こつ》を知っちょったのか?」
しばらくして、
「で、両者の関係はそれだけか?」
と、いった。
実は明石は、その津田七蔵が殺されたことを、まだ川上にいってなかったのである。それは七蔵を殺したのが、雪香だからであった。
「いえ、私も詳しくは知らんのです」
と、明石は首をふった。――実際に彼は、津田三蔵がこの二月ごろから上京していた事実があったことさえ知らない。
「二人は双生児で、一方は乃木閣下の馬丁となり、一方は滋賀県の巡査となったこと……両人、ときどき文通くらいはあったものの、最近はあまりつき合っていなかったらしいこと、くらいしか知りません」
彼はいった。
「ただ、何とも気になりますので、是非とも今回の犯人津田三蔵に逢ってみたい。そこで閣下から膳所《ぜぜ》監獄署長に一筆紹介状を頂戴したいのでござります」
「どげな紹介状?」
「閣下から、この明石を通して、とり急ぎ一、二、訊きたいことがある、と。……」
川上は数十秒考えていたが、
「よか」
と、うなずいた。
彼は、この放胆無比の部下に全幅の信頼を持っているようであった。
いくら参謀次長の紹介状をもらっても、これだけの大事件を起した犯人のところへ、さすがに当日と翌日は寄りつけない。
自分のサーベルで頭部と背中を傷つけられた巡査津田三蔵は、戸板に乗せられて大津町東郊の膳所《ぜぜ》監獄に送られたが、そこには、即刻、大津地裁から判事や検事が急派されて、日に夜をついで取調べがつづけられていたのである。
明石が膳所監獄署長に面会することが出来たのは、十三日の昼過ぎであった。
署長は川上参謀次長の紹介状を見て、顔色を改めた。川上操六が陸軍切っての実力者であることはだれにも知られていたのである。
署長はいちど部屋の外へ出ていった。おそらく判事たちに相談にいったものと思われる。やがて、戻って来て、
「では、十分間ほどでよろしければ」
と、いい、さらに、
「ほかに立合人がおりますが」
と、ことわって、明石が承知すると、先に立った。
「実に憎むべきやつです」
廊下を案内しながら、署長はうめいた。
「畏れ多くも天皇陛下も、きのう京都へ御西下になったというではありませんか。これだけお国を苦しめる大罪を犯しながら、一切口をきかんのです」
「一口も、ですか」
「いや、昨夜陛下のことを申したところ、はじめて、申しわけないことをいたしました、と身体をふるわせ、なぜ巡査ともあろう者がそんな申しわけないことをしたか、という問いに、やっと、ロシア皇太子が天皇陛下にお会いする前に日本のあちこち見てまわるのは、不敬無礼だと憤慨したからだ、というようなことをいいましたが、まるできちがいです」
明石の頭に、あの津田七蔵の不可解な裏切りがよみがえった。この双生児は、どちらも狂人の素質を持っているのではあるまいか。
「実際にこの二月ごろから、脳が悪いといって賜暇《しか》をとり、四月二十日ごろ帰って来たそうで。……」
「ほ? 帰って来たとは……どこかへいっておったのですか」
「どこかへ静養にいってたというのですが、それがどこであったか家族にもよくわからんそうで……。家族を訊問したところ、前々から大変な愛国者、というより少々きちがいじみた国家主義者で、なんでも東京で例の勅語不敬事件を起した内村鑑三とかいう教師に天誅を加えんけりゃならんと、熱病のようにいっていたというのですが。……」
「なに、内村鑑三」
と、明石はさけんだ。あの事件のあと、彼は内村を長谷川辰之助から紹介されたのである。
「内村鑑三氏に怒った男が、どうしてこんどはロシア皇太子を襲う気になったのか、そのあたりを糺《ただ》しても何も答えません」
わかるようでもあり、わからぬようでもある。
「家族にいわせると、旅から帰って来たあとは、前よりもっとようすがおかしかった、と申したてておるんですが、それはいまになって判明したことで、守山署のほうでも病気が癒ったと見て勤務させたという。しかし、そんな男を警護の任務にかり出すとは……実に痛恨の至りです」
「旅。……本人はどこへいっとったか、告白せんのですか」
「いや、いま申した通り、天皇陛下の御宸襟を悩ましたてまつったことについて、そのとき動機らしいものをはじめて口にしただけで、あとは歯をくいしばって緘黙《かんもく》しておるのです。それどころか、ここへ来てから三日になりますが、一切飲まず、食わず……まったく手を焼いております」
彼らは一つの監房に来た。おそらく重罪犯を収容する牢だろう。物凄い頑丈な格子と、錠つきの扉のついた一室であった。
そこに、医者らしい白衣の影もふくめ、五、六人にとりまかれて、粗末なベッドがおかれ、津田三蔵は横たわっていた。
外は真昼なのに、そこは夕暮のように暗かった。
立っているのは、判事や検事にちがいない。すでに監獄署長から知らせを受けて、明石の素性や紹介者を知っているはずで、黙礼して道をひらいたが、みんなけわしい表情であった。
犯人は頭部を繃帯で巻かれ、裸にされた上半身もまた繃帯で巻かれていた。俥夫に斬りつけられた傷のためだ。――彼は眼をつぶっていた。
「津田!」
と、明石は呼びかけた。
犯人は、眼をひらかない。頭も動かさない。しかし、頬のあたりの筋肉がピクッと痙攣したように見えた。眠っているのではない。
「きさま、何てことをしたんだ?」
「おや、この男を御存知なのですか」
と、検事らしい男が訊いた。
「あ」
明石はあわてた。うっかり、そこに横たわっている男を津田七蔵とまちがえて呼んだことに気がついたのだ。
うっかりではない。そこにいる男は、何と七蔵に似ていることだろう。双生児の兄だということは、いまのいままで承知していてここにはいって来たのだが、一目見たとたんに、われ知らず津田七蔵だと錯覚したのであった。もっとも、よく見ると七蔵より痩せて、さらに凄惨な顔つきをしている。
「いや、まちがえました。私の知っとるのは、この男の弟ですたい」
と、明石はいった。検事たちは顔見合わせたが、すぐに、
「なに、津田に弟があるのですか。それははじめて聞きました」
「どこにいて、何をしている男です」
二人ほど、かみつくように訊いて来た。
「東京で……近衛歩兵第一旅団長乃木希典少将の馬丁をしとる男で……」
明石はいって、思わず顔をしかめた。その男が死んだことを思い出したのだ。そのことをここで、いうべきか。いわざるべきか。
いや、それより前に、この男は弟の死を知っているのか、どうか?
「で、川上閣下の仰せにはじゃ。弟は、こんどのお前の行為を知っとるか、それだけを訊いて来てくれということだった」
それこそ明石の訊きたいことであった。正確にいえば、津田七蔵がラスプーチンを刺した行為と、津田三蔵がロシア皇太子を傷つけた行為との関連性である。
「私は弟と、ここ何年か、逢ったこともござりません。……」
津田三蔵はいった。
検事たちは驚いた顔をした。――さっき署長が明石にいったように、この大犯罪者は、ここに収容されてから、天皇西下の報を聞かされたときわずかに陳謝と動機の弁を述べただけで、これまでまったく口をきいたことはなかったからだ。
「しかし、手紙のやりとりくらいはしたろう?」
三蔵は返事をしなかった。明石はいった。
「おれは七蔵から、お前から手紙をもらったことがあると聞いたぞ」
三蔵のまぶたが、とじたままでピクピクとふるえた。彼はいった。
「それは私事《わたくしごと》であります」
「私事?」
「むかし、われわれがお世話になったお家の件についてであります」
明石はぎょっとした。
彼が七蔵から聞いたのもその通りだ。しかし、検事たちが聞いている前で、あのことを持ち出されるのは藪蛇であった。
彼はこの津田三蔵が、自分にとって何か重大な事実を知っているような予感でここへ来たにもかかわらず、ふいに狼狽した。何を訊いたらいいか、わからなくなった。
「津田、眼をあけたらどうだ?」
と、検事が叱咤した。明石はふりむいた。
「眼はあくのですか?」
「むろん、あきます。いままであいてたんです」
「こんどの事件と弟とは関係ござりません」
三蔵はいった。依然眼をとじたままだ。
「川上閣下が、どういうおつもりでそんなことをお訊きになるか存じませぬが……左様、お伝え下さい。それどころか、私の弟が乃木閣下の馬丁をしていることが世間に知られただけで……乃木閣下の御困惑を思って、弟は死ぬかも知れません」
――その七蔵は死んだのだぞ、お前、知らんのか?
そうさけびかけて、明石は声をのみ、いよいよ狼狽した。死んだ七蔵はともあれ、いかにもそのことが世に知られたら、あの乃木少将は退役くらい申し出るかも知れない。
「そうか、わかった」
と、彼はいった。
「そう、川上閣下に御報告しよう」
「あ」
と、三蔵はさけんだ。
「弟は手紙で、こんなことを申しておりました。……その大恩あるおうちのお嬢さまが、ロシア人に狙われとる。――」
「なに?」
と、さけんだのは検事の一人だ。明石のほうが、三蔵の口をふさぎたくなった。
「お嬢さまをお護りしたいが、そのロシア人が殺しても死なないふしぎな術を心得ておって、どうにもならない。どうしてお護りしたらええか苦慮しとる。もし自分に万一のことがあったら、あとは兄貴よろしく頼む、と。――」
「なんのことじゃ、それは?」
と、検事たちがベッドに近づいて来た。
「なんのことか、私にもわかりませぬ。詳しいことはあとで知らせる、と書いてあっただけで、それきりになってしまいましたが……弟との関係は、そんなことがあったくらいでござります」
「よし、何ならその件について、東京の弟に聞いて見よう」
と、明石はいい、判検事に向って、
「その弟に関しては、奉公先の乃木少将の御身分にもかかわりますので、川上閣下のお許しがあるまで外部に発表なさらんようにお願いいたします。どうやら、こんどの事件とは関係ないようです」
と、いった。そして、狐につままれたような幾つかの顔に、
「失礼しました。では」
と、敬礼して背を見せようとした。
彼としては、衝動的にここへ来たものの、結局何のために来たかわからない心情であった。
が、そのとき明石は、津田三蔵が薄暗がりの底から、はじめて眼をあけてこちらを見ているのに気がつき、その刹那、ずうんと眼に針を刺しこまれたような気がしていた。
軍艦アゾーヴァ
――あれは津田七蔵だ!
突風に背を吹かれたように膳所《ぜぜ》監獄の外に出て、なお夢遊病者のような足どりで歩きながら、さすがの明石元二郎の顔が衝撃のために蒼ざめていた。
それは夢魔的な直感であった。
最初彼は、津田三蔵を七蔵だと思った。すぐにそれは錯覚だと知ったのだが――最後にまた三蔵の眼を見た瞬間、彼はやはり津田七蔵だと直感したのである。
いや、津田七蔵は殺された。たしかに息のとまった屍体も見た。
あれが生き返ったのか?――彼の頭に、殺されても死なないロシアの怪僧が浮かんだ。では、その妖術が津田七蔵に乗りうつったのか――そんなはずはない。七蔵と三蔵は双生児なのだから、あれは津田三蔵にまちがいない。
にもかかわらず、あれは津田七蔵だというこの直感をどうしよう?
きゃつ、ずっと眼をつぶっておった。傷を受けたとはいうものの、それまでは眼はあけていたらしいのに、自分がはいってゆくと、その眼をとじてしまったのはどういうわけか。明石元二郎という男がやって来る、とは、事前に署長の報告で知ったはずだ。それは自分と眼が合うのを怖れたからではないか。
つまり、あれがおれと知り合いの津田七蔵だったからではないか?
しかし、七蔵はたしかに死んだ。
混沌と渦を巻くような脳髄に、あの夜の鮫ヶ橋残飯広場の光景が浮かんで来た。ゴボー剣をぶら下げ、殺気に燃えて歩いてゆくもののけのような津田七蔵の姿が。――
同時に、明石の頭には、あのとき自分が感じた異様な印象もよみがえった。七蔵は自分をめざしては来なかった。その直前のあの怒号からして、彼が憎しみの標的としているのはこの自分であることは明らかなのに、彼はこっちを見てはいなかった。だから、自分のすぐ前にいた雪香が走り出してうしろから刺すまで気がつかなかったのだ。
津田七蔵の狙っていたのは、ちょっと離れた場所に立っていた詰襟洋服に山高帽の男――あとで知ったところによると、内村鑑三という教師ではなかったか?
さっき監獄署長は、津田三蔵がこの二月ごろから脳が悪いといって四月まで賜暇をとって行方不明になっていたといった。不敬事件を起した内村鑑三に対する憤激の言葉をもらしていたといった。
彼のゆくさきは東京で、その目的は内村鑑三に誅戮を与えることではなかったか。
おう、あれは津田七蔵ではなく、津田三蔵ではなかったか!
明石元二郎は棒のように湖畔につっ立っていた。眼は美しい五月の湖にむけられているのだが、網膜は何もうつしてはいなかった。
内村を殺そうとして上京して、はからずも雪香に殺されたのは、津田三蔵ではなかったか。――むろん、雪香はそうとは知るまい。あれはあのとき巡査姿ではなく、七蔵そっくりの兵隊服を着ていた。そこがよくわからないが――いや、彼が東京で双生児の七蔵と逢っていたとすれば、七蔵に化けていたこともわかる。――それでもまだわからない点はあるが、とにかく七蔵と何らかの交渉があったのだ。だいいち三蔵が上京して、双生児の七蔵に逢っていないはずがない。
では、「殺されなかった」七蔵は、どこへいった?
七蔵は、兄三蔵に化けて来た。双生児である上に、このごろようすが変であったので、家族もついごまかされた。
そして、巡査津田三蔵として、ロシア皇太子に凶刃をふるった!
なぜ? なぜ? なぜ?
明石はぎょっとして、空を仰いだ。
きゃつ――雪香を救うためにあんなことをしたのではないか? と思い当ったのだ。
いまや明石は津田七蔵の心情を明確に知っている。もはや不可解ではない。彼が自分を裏切った動機を了解している。
ラスプーチンは、雪香を皇太子に献上するといった。そして雪香を連れて行方をくらました。あれからどこへいったのかわからない。七蔵もそれを追っていったのであろうか。そして、見つけたか。見つけられなかったのか。いずれにせよ彼は誘拐者が「不死の僧正」であることに気づき、それよりいっそ献上の当の相手たるニコライ皇太子を襲撃するにしかず、と思いついたのではあるまいか?
いかにもそれは、雪香の献上をふせぐ目的をとげるには最上の手段だ!
きゃつだ。きゃつだ。きゃつならやりかねん。
そうであってこそ、これほど全日本人が「歓迎」に熱中しているロシアの皇太子に、政府の巡査が斬りつけるなどいう超常識の行為がはじめて腑におちる。つまり、あれは巡査津田三蔵ではなく、双生児の津田七蔵であったのだ。七蔵にしてはひどく痩せて見えたが、それはここ数日の絶食のせいに相違ない。
彼は二太刀斬りつけたにもかかわらず、皇太子の傷は意外に浅かったという。それは不幸中の倖いであったが――しかし、ひょっとしたら七蔵は、それも計算していたのではあるまいか。
殺害もしくは重傷なら、それこそ日本にとってとりかえしのつかない大事となる。この場合軽傷であっても、彼の目的を達するには充分であったとはいえまいか。――
漠然と、津田三蔵と津田七蔵の「接点」を求めて、大津事件の犯人に会見を申しこんだ自分のカンは当っていた。――
いま、その事実をほぼつかんで、明石の眼は爛《らん》とかがやいた。それはしかし、恐怖のかがやきでもあった。
もしこれが真実とするなら、ひとたび驚倒した日本人は、こんどは卒倒してしまうかも知れない。
――しかし、これはあくまで推定だ。九分九厘まちがいないと思われるが、断定は出来ない。
明石は、湖から背を返し、二、三歩、監獄のほうへ歩いて、また立ちどまった。
彼は、最後にあの男が眼をあけたことを思い出したのだ。自分と眼が合うことを怖れて――としか思えない――とじていた眼を、あいつはなぜあけたのか?
あいつはいった。「私の弟が乃木閣下の馬丁をしていることが世間に知られただけで……乃木閣下の御困惑を思って、弟は死ぬかも知れません」
弟どころか、ロシア皇太子襲撃の犯人が乃木少将の馬丁そのものであったと判明したら、乃木閣下は切腹しかねないだろう。
監獄に戻って真実をたしかめることは恐怖すべきことだ、と明石は身ぶるいした。乃木少将のためばかりではなく、自分の推測が当っているとすれば、犯人の――決してただの錯乱ではない――「動機」も明らかとなる。
あいつはいった。「お嬢さまをお護りしたいが……どうしてお護りしたらええか当惑しとる。もし自分に万一のことがあったら、あとは兄貴よろしく頼む。――」
あれは津田三蔵の津田七蔵への言葉ではない。津田七蔵の自分への言葉だ。いちどは三蔵として化け通そうとした七蔵が、最後に白眼をあけて自分を見て、この明石元二郎に依頼したのだ!「自分を殺した」女性のために。――
彼はついに思い当った。
そうだ、おれは七蔵の依頼に応《こた》えんけりゃならん。いや、七蔵のためではない。おれ自身のためだ。そもそもおれはそのために西下して来たのだ。
いったいラスプーチンと雪香はどこにいるのか。それを思うと、この捜索の旅の途上でも、明石の心臓は締木《しめぎ》にかけられるようであった。
いまやロシア皇太子は負傷し、ラスプーチンの口走ったような怪事が行われる見込みはまずないと思われるが、しかし、だからといってこのままではすみそうにない、と彼は考えた。
湖に沿う道を、人力俥が一台走って来た。空俥《からぐるま》であった。
「京都へいってくれ」
明石は呼びとめて、飛び乗った。
大津事件の犯人は津田三蔵であったか、津田七蔵であったか。――明石元二郎の推測はあくまで推測である。
さらに、三蔵と七蔵は、果して東京で逢ったのかどうか、逢ったとすればどういういきさつで、三蔵が七蔵同様の兵隊姿をして、あの日鮫ヶ橋の貧民街に現われたのか。そのあたりはまだ妖煙にけぶっている。
のちに明石は、いくどもこれをたしかめたいという衝動にかられた。
しかし、いわゆる「津田三蔵」が膳所《ぜぜ》監獄から曳《ひ》き出されて、無期徒刑の判決を受けたのは、半月後の五月二十七日のことであった。
まさに疾風迅雷のような裁判であったが、「護法の神」はついにその信念をおし通したのである。
判決後、三蔵はただちに北海道の釧路《くしろ》集治監に送られた。そして九月二十七日、俄かに死亡した、と伝えられた。
公式の発表は急性肺炎ということであったが、判決以来わずか四カ月後に彼は地上から消えてしまったのである。
明石はついに、右の疑惑も、この早すぎる死の謎もたしかめる、いとまも機会も、そして勇気もなかった。
「凶徒津田三蔵」は、明石にとって、永遠に疑問符をくっつけた名となった。
明石が京都に着いたのは、もう夕暮であった。
俥が鴨川を渡って七条停車場に近づくと、そのあたりを流れる群衆の数と雰囲気にただごとでないものを、彼は見てとった。すれちがいざまに、「ああ、お可哀そうに、天皇さまは」という声を聞くと、ついに俥をとめて飛び下りた。
彼は、群衆の一人をつかまえて、驚くべきことを聞いた。おとといの遭難以来、常盤ホテルで治療していると伝えられたロシア皇太子が、神戸港に碇泊しているロシアの軍艦にひきあげるべく、さっき――午後四時ごろ、ホテルを引払って汽車で神戸に向ったというのだ。そして、昨夜おそく見舞いに駈けつけられた天皇も、それに同乗されていったという。――
そこを流れる人々の顔もみなそうであったが、明石も衝撃を受けた。
あの遭難に日本人すべてが驚愕したことはいうまでもないが、その後皇太子が受けた頭部二カ所の負傷は意外に軽いと聞いて、みな愁眉をひらいていたのである。
明石があのまま大津にとどまって、「津田三蔵」に逢おうなどいう気を起したのも、あちらはまず安心、という気持があったせいだといえなくもなかった。――そして大津に流れて来る情報でも、皇太子御一行は、しばらく静養後、また予定のプログラム通り、日本の巡遊をはじめられる、ということであったのだ。
それが、ロシアの軍艦にひきあげてしまったとは。――そして、天皇もそれに同行されたとは!
その一帯に群れ、散ってゆくのは、この事態に心痛めて停車場に集まった人々にちがいなかった。どこよりも美しいはずの京の初夏の夕《ゆうべ》に、それは冥府の亡者のむれをすら思わせた。
その中に、明石はふと知り合いの顔を一つ見つけた。
軍人だ。士官学校のころの同期生で、阿木という男だ。同僚らしい将校二、三人と、やはり陰鬱な表情で歩いている。
「阿木」
明石は呼びかけながら近寄った。
阿木中尉はこちらを見て、驚いた顔をした。
「おう、明石。……きさま、どうしてこんなところに?」
「川上閣下のお供じゃ。いま大津から来た」
面倒だから明石はそう答え、「きさまこそ、どげんして?」と訊き返した。
阿木は、いま自分は名古屋第三師団憲兵隊に勤務しているが、おとといの事件で急遽出動を命じられ、先刻まで常盤ホテル界隈の警戒に当っていたことを述べ、同僚に、
「ちょっと待っててくれ」
と、いい、横に五、六歩歩いた。
「明石、挨拶は抜く。どうも大変なことになった。きさま、いま大津から来たのなら、さっきの停車場の光景は見なかったろう。おれは遠くでちらっと見ただけじゃが、汽車に乗られたニコライ皇太子がタバコをくわえられると、天皇陛下がただちにマッチをすられてさし出されたのが、窓から……」
阿木中尉の声は泣声になった。
「お供する伊藤卿ら日本側の重臣連も、まるで屠所にひかれる羊のごとく……」
「それより、阿木」
明石はせいた。
「どうしてニコライ皇太子はひきあげられたのか。……御負傷は軽いっちゅうことじゃなかったのか?」
「そう聞いとった。天皇陛下の御懇願で、皇太子も御巡遊を再開される運びになったっちゅうことで、みんな胸を撫で下ろしとった。ところが、きょうの昼前、妙なロシア人が現われて、それからようすが変った」
「妙なロシア人とは、御一行の者じゃないということか」
「うん、何でも前から日本に滞在しとるロシアの坊主じゃという――」
明石元二郎は息をのんだ。
「そ、そいつは何ちゅう名じゃ」
「知らん。……おれもその話を耳に聞いただけだ。何でも、その前に東京から、ニコライ大主教という方がお見舞いに来られて退出された。そのすぐあとにそのロシア人が来て、大主教のお供をして来た者だが、ちょっと皇太子にお目にかかりたい、といった。これがえらい汚い服装をしておったっちゅうことだが、それでもあちらの僧侶だとかで……とにかくその男を皇太子のところへ連れていった。それから様《さま》変りになったっちゅうことじゃ」
「どげなわけで?」
「何でも、皇太子の傷は浅いが、このままではすまん。日本の土だか風だかには毒がある。まもなく皇太子に悪い徴候が起るだろう、といったそうな。そしたら、午後になって、いままで異常のなかった皇太子が、悪寒《おかん》、頭痛を訴えられはじめた。――」
憂色にみちて、阿木中尉はいう。
「しかも、つきそいの向うの侍医が、薬を献じても御軽快なされぬ。――そのうち侍医が、何か重大な御病気の徴候があるといい出したそうで、それで急遽、神戸のロシア軍艦におひきあげのことがきまったちゅう」
「そ、そのロシア坊主はどこへいったか」
「そんな妙なことをいうと、そのまま飄然とホテルを出ていってしまったそうで、どこへいったのかわからん。……ただし、こりゃいまいったように、洩れ承わった噂だぜ」
「そいつは一人じゃったか。女を連れてはおらなんだか」
「一人だったらしい。おや、きさま、そのロシア坊主を知っちょるのか?」
阿木は明石を見てさけんだ。
「明石。――どうしたか?」
明石元二郎は雑踏の中に、銅像のように立っている。
ついにラスプーチンは現われた。いままでどこにいたのかは知らず、彼はやはりロシア皇太子の前に姿を現わしたのである。
が――彼は一人であったという。まさか、負傷した皇太子に日本娘献上の話でもあるまいが、では雪香はどうしたのか。どこへいったのか?
「明石。……おい、明石、どうした?」
呼ばれても、明石は答えない。
阿木中尉はいぶかしそうに明石を見ていたが、五、六メートル向うに佇《たたず》んで待っている同僚を見ると、「それじゃ」とつぶやいて、そのほうへ立ち去った。
明石はなお、頭も身体も麻痺したように立ちつくしたままであった。
こうして皇太子一行は、またロシアの軍艦に乗ってしまった。
これが五月十三日夕刻のことで、天皇はそれを送って神戸まで来たが、それ以上どうすることも出来なかった。
天皇はその足で京都にひき返した。十四日には、二条離宮で、伊藤、黒田、大山、西郷らに、青木外相、三好検事総長らを加えて御前会議がひらかれた。議して決したのは、まず何よりもニコライ皇太子に日本巡遊の再開を請うことと、ついでロシアに謝罪の特使を派遣することと、犯人津田三蔵を極刑に処することであった。
翌十五日、北白川宮|能久《よしひさ》親王が、ロシア軍艦――皇太子の乗っているアゾーヴァ号を訪れて、再巡遊を切願した。
これに対してロシア側は、言葉は鄭重だが謝絶した。またそれなりの理由もあった。
それは、皇太子が右こめかみに受けた九センチと七センチの切創そのものは軽傷だが――いや、軽傷だと見ていたが、十三日から悪寒《おかん》と頭痛を発し、そのうち顔面にかすかながらこわばりの症状が起って来たので、医療設備の整ったアゾーヴァ号に御帰還のこととなった。しかもその後に至って症状はさらに進行し、いまでは破傷風の徴候が認められる、というのであった。
北白川宮は動顛し、むなしくひきとった。日本側の恐慌はぶり返した。
が、それ以来十五日、十六日、十七日、と三日経ても、アゾーヴァ号をふくむロシア艦隊は、神戸港に碇泊したままであった。
さすがの明石元二郎ものたうちまわった。
ラスプーチンはどこへいったのか。雪香はどうしたのか。いや、ラスプーチンがロシア皇太子のところへいったというのは何のためなのか?
あえぐような思いで、知りたいのはそれらのことで、それはロシア側に訊けばわかるだろうと思われるが、むろん訊きにゆくわけにはゆかない。だいいち、彼らは軍艦の中にいる。といって、手をつかねて待つわけにはゆかない。きょう明日にもロシア艦隊は錨《いかり》をあげて出てゆきかねないからだ。皇太子が乗ってから数日、まだそこにいるのがふしぎなくらいなのだ。
そのおそれについて日本側が懊悩したのとは別に、明石も苦悩した。
十七日の夕刻、彼は麩屋《ふや》町|柊《ひいらぎ》屋に川上次長を訪ねた。あれから川上もすぐに京にはいってそこに泊っていることを知ったからだ。
さすがに川上は、もっと高度の――怖ろしいといっていい――情報を得ていた。
「おはんの来るのを待っちょったんじゃ。おい、例のロシア坊主がまた現われたっちゅうぞ」
と、彼のほうからいい出した。
「その坊主が皇太子を見舞って、いまはつつがなく見えるが、まもなく悪くなるじゃろう。医者も困る事態になったら自分を呼んでくれ、といって立ち去ったっちゅう」
「呼んでくれ? なぜあいつは立ち去ったのでありましょうか」
「それがじゃ。詳しか事《こつ》はよくわからんが、その坊主は、向う側にもえたいの知れん男で、本来なら皇太子にお目通りなど出来るはずはなか。まったくあの騒ぎの中で、その直前にお見舞いに来た東京のニコライ大主教の供の者と錯覚して通したんじゃが、一見しただけで乞食のようなやつで、しかも実に無礼粗野な口をきく。側近も不審に思い、名と素性を訊き――本人が立ち去ったっちゅうより、事実は即刻追ン出されたらしか」
「ほほう」
「さて、そのあとで皇太子がおかしくなられて、神戸の軍艦に移られる事《こつ》になった。そして、向うの軍医の発表によれば、破傷風の疑いがあるっちゅう」
「破傷風。――」
「名は知っちょったが、それが傷からはいったバイキンのせいじゃとわかったのは、ここ五、六年前の事《こつ》じゃげな、頭痛、悪寒にはじまり、そのうち顔がひきつり出し、歯をくいしばって口がひらかんようになり、ついで全身が硬直してそり返る。そして痙攣の発作が起ると、筋肉はひきちぎれんばかりになって息も出来ず、大の男も痛みのあまり吼えたてるげな。バイキンがはいってから一週間くらいで症状を起したやつは、まず百人中九十人以上は死ぬっちゅう。いまのところ治療法もなか怖ろしか病気っちゅう事《こつ》じゃ」
「それは。――」
「いや、なに、皇太子がいまその状態にあられるっちゅうわけじゃないらしか。――しかし、もう日本御巡遊の御予定は、とり消されたにもかかわらず、皇太子が乗艦されてから五日にもなるっちゅうのに、アゾーヴァ号が神戸の沖から動かんのは、やはりそのせいじゃなかか? ほかに理由は考えられん」
「とどまって……どうされるおつもりでござりましょうか」
「その坊主を待っとるのじゃなかか?」
「えっ?」
「それ、坊主が、医者も困る事態になったら自分を呼んでくれ、といったっちゅうじゃろ。いちどは追い出したものの、あとでその言葉が重大なものになったのじゃなかか。――」
明石はじいっと川上次長を見つめていたが、
「すると……その皇太子の御病気は、ひょっとするとラスプーチンが、どうかして起したものではござりませんか?」
と、いった。
「まさか。だいいちそげな事《こつ》が出来るものかな。……それに、おいのいまいった事《こつ》も、じかに日本側が見た事《こつ》じゃなか。あれから、御滞留を願う談判の間に、向うから洩れた話をまとめたもので、ほんとうの事《こつ》はよくわからんのじゃ」
「いや、いや、あいつならやりかねません」
「そもそも、その坊主はなんでまたそげな事《こつ》をしたっちゅうのか」
「皇太子にお近づきになるためじゃござりませんか」
明石はいった。
「きゃつ、ロシアの宮廷にとりいる野心を持っちょるのじゃござりますまいか? 占い師とか祈祷師などの中には、えてしてそげな大望をいだく者があるようで……といって、ロシアのことはよくわかりませんが……一介の乞食坊主が、本国でそう簡単に宮廷にはいれるとは思えません。近づくことさえ出来んでしょう。しかし、皇太子が異国を御旅行とあれば、旅先でその機会がつかめるかも知れん。そう思って、きゃつは日本に来た。――」
明石の眼が、ギラギラとひかって来た。
「そして、こんどの事件のドサクサにまぎれ、まんまと皇太子に近づいて――もし大怪我ならきゃつの術のふるいどころであり、もし浅傷《あさで》なら破傷風にかからせてまた術をふるい、それによって皇太子の知遇を得ようとする。――」
「何を馬鹿な! そこまでは、いくら何でも」
「いや、あいつは、血友病っちゅう血のとまらん病気も癒《なお》し、それどころか以前、コレラの女の口を吸って癒してやったっちゅう話さえある怪術の体得者なのでござります。……ああ、これであの化物が日本に来た理由がわかりました。このほうが、少なくともロシアの探偵などいう疑いより私にゃ腑におちます」
明石はさけんだ。
「それ、閣下も先日申されたではござりませんか。その坊主は、皇太子に近づくために日本の美《よ》か女子《おなご》を――」
いいかけて、ふいに黙りこんだ。
ラスプーチンが宮廷にとりいる下心があるという推理をしたのは、まさに、彼が日本娘を献上する、などいった事実から出て来たものであったが。――
川上次長が尋ねた。
「その娘はどげんしたか?」
「わからんですたい!」
元二郎の顔は苦痛にゆがんだ。
それから――ふいに、その表情に恐怖の色がひろがって来た。
「あ、――」
「どうした?」
「ひょっとすると?」
「何じゃ」
「ラスプーチンがその娘をさらっていったのは、皇太子に献上するなどいう馬鹿げたことではなく――」
川上中将にいうのではなく、これは彼自身へのうめきであった。眼は空中に深淵を見るようにすわっている。
いま、明石元二郎は気がついたのだ。
ただ、ロシア皇太子の奇禍に乗ずるばかりではない。――その災厄そのものが、きゃつの作り出したものではなかったか。すなわち、津田七蔵に皇太子を襲わせるために、雪香をさらったのではなかったか!
その企図のためにあの妖僧は、目的に叶《かな》う男と女を探し求めていたのだ。そして津田七蔵と雪香が選ばれたのだ。
まことに迂遠な企図のようだが、皇太子に近づくためにはほかに法はなく――少なくとも彼はそう考え――津田七蔵という偏執狂的な人間を思うと、その可能性は充分ある。ラスプーチンはそう見ぬいたのだ。
明石の頭に、このとき閃光に照らされたように、あの残飯広場のある光景がよみがえった。――自分がそこにいって、竜岡綱彦を救うべくラスプーチンのそばに近づいたとき、ラスプーチンがどこかを見て何かさけび、だれかをさしまねいたことを。
すると――津田七蔵が泳ぐように群衆の中から出て来て、あの怖ろしいさけびを怒号しはじめたのであった。
その意味が、いまわかったように思う。ラスプーチンは七蔵を自分の傀儡《かいらい》に選んだのだ!
しかし、もし津田の凶刃が皇太子の命を奪うようなことになったらどうしたか。――いや、津田七蔵はそんなことはしない。ただ軽傷を与えるだけで彼としては目的を達する、ということはこの間推定したことではないか。
――何にしても、雪香はラスプーチンの目的のための道具に過ぎない。
いまきゃつは、皇太子を襲わせるという目的だけはみごとに達した。雪香は不用になったわけだ。げんに、常盤ホテルに現われたラスプーチンは一人だったという。――
元二郎の顔色は鉛色に変っていた。
雪香はどうしたか?
――そのためにも、あのロシア坊主を捕えねばならん!
「閣下。……ラスプーチンは、医者も困る事態になったら自分を呼んでくれ、といったと申されましたな」
あえぐように明石はいった。
「で、きゃつはもうロシアの軍艦にいったのでありましょうか」
「よくわからんが、まだいっとらんと思う」
「呼べといって……軍艦から、どうして呼ぶのでござりましょうか」
「それもわからん。なにぶん、伝聞の話じゃからな」
「しかし、何はともあれ、ラスプーチンがアゾーヴァ号に現われることはたしかですな。……おう、こういっている間にも、きゃつ、現われとるかも知れん!」
うわの空の顔でお辞儀する明石を、
「待て」
と、川上は呼びとめた。
「そのロシア坊主をつかまえたとしても……殺したりしてはならんぞ」
「は?」
「もしこちらの推定が当っとるとすれば、そやつはロシア皇太子のお命の紐《ひも》を握っとることになるからの」
明石は雷電に打たれたように硬直した。
そのとき、女中の声がし、唐紙《からかみ》があいて、そのうしろから従卒が膝行《しつこう》してはいって来て、一通の封書をさし出した。
川上はそれをひらいて黙読したが、その表情がみるみるきびしいものになっていった。
「困ったことじゃ。……」
「何でござりますか」
「東京の大審院長が、犯人の津田七蔵を死刑には出来んといい出してきかんっちゅう。外国の皇族を傷つけて死刑にする法律は日本になかっちゅうんじゃ」
「ほう。……」
「この事《こつ》は、事件直後から伝えられちょったが……国滅ぶとも法は破るべからず、とまでさけび、廟堂処置に窮して色を失っちょるという」
「そ、それは。……」
川上操六はふと宙を見て、それから、にこっと苦笑した。
「まことに当惑すべき事《こつ》じゃが……しかし、この児島っちゅう大審院長、裁判官としちゃ度はずれたえらかやつじゃな。国が滅んでもおのれの筋は通す――裁判官としてばかりじゃなく、人間として、こっちのほうが正しかかも知れんぞ。……」
虫が知らせたのにちがいない。――
明石元二郎が神戸に着いたのは、もう夜にはいってからであったが、彼はとにかく港へいった。そこで衝撃的な事実を知ったのだ。
暗い波止場一帯には、おびただしい人々が群れていた。みんな、黙々と海の向うを見ている。彼らは沖合いのロシア艦隊を眺めているのだ。
明石はもう何度か神戸に来て、こんな光景は眼にしているが、夜もこれほどの人々が沖を眺めているのを見たのははじめてであった。――日は暮れているが、水明りと、そして百メートルほどの沖にゆれるいくつかの灯が、ぶきみに五、六隻の軍艦の影を浮かびあがらせていた。
と、その群衆の中を歩いていて、ふと彼は、
「けれど、皇太子さまはお怪我なさっとるっちゅうのに、日本の娘なんぞ呼ばれて、たいしたことないのやないか」
「ま、あれほどきれいな娘に介抱してもろたら、怪我もなおるやろ」
と、いう声を聞いた。
はっとして立ちどまり、そのひとむれの中に彼は凄じい髯面をつき出した。
「お、おいっ。……そ、そりゃ、どういうことじゃ?」
そして彼は、うす汚い異人が一人の日本娘を連れて軍艦へ運ばれていった事実を聞いたのである。それはいまから三十分ほど前のことであったという。
いや、その前に――と、一人が口を出した。
その怪しい異人は、赤いカンテラをここでふりまわしていた。そこで沖を見ると、軍艦の一隻からも同じように赤い灯の輪がまわされているのが見えた。どうやら、軍艦のほうから合図があって、それにこちらが応《こた》えているようだった。――するとまもなく、海のほうから短艇が近づいて来て、その異人と娘を乗せてまた海へ走っていった。――
そして、また別の一人がいう。
どうやら、その異人は、きのうの夜もおとといの夜も――そのときは一人だけであったが――そこに立っていたようだ。――
きゃつだ!
阿木中尉はむろん川上中将も知らなかったが――思うにラスプーチンは、皇太子が必要とするならもういちど自分を呼べ、といいおいたとき、その呼び方についても指図したにちがいない。おそらくそれは、夜になってから軍艦で赤い灯をまわす。それを認めたらこちらでも赤い灯をまわす。そうしたら、軍艦からボートで迎えに来る、ということであったにちがいない。
川上次長は、軍艦のほうでラスプーチンを待っているのではないか、といったが、それがきょうまでかかったのは、おそらくほんとうのところは呼ぶのをためらい、しかしとうとうたまりかねて呼ぶことにしたのではないか。
とにかくその|こと《ヽヽ》は実現したのだ。
ああ、しかし、それに雪香が同行していたとは。――
雪香は生きていた! それはめくるめくような感動であったが、ついで彼女が連れ去られたという事実は、彼の頭に鉄槌を打ち下ろした。
では、では、雪香をロシア皇太子に献上するという話はやはりほんとうであったのか。まさか、まさか、まさか?
が――たとえそれが、ラスプーチンの恣意《しい》による行為であったとしても――雪香がロシア軍艦に乗せられてしまったという事実に変りはない。
しまった! 一足おくれた!
だれに訴えても、この際それをとりあげてくれる者のあるはずもなく、オーバーな形容だが、日本の全海軍をあげても彼女を奪還することは出来ない。
万事休す!
夜の海風に髯を吹きみだして暗い沖を見つめる明石元二郎の眼に、遠いいくつかの灯は、たったいままでの眺めとはこと変り――いまやこの世のものならぬ魔界の妖光のように見えた。
明石がさらに絶望的な情報を聞いたのは、その翌日のことであった。
明十九日夕刻、ロシア皇太子はついに去る。日本の再巡遊は中止し、艦隊はウラジオストックへむけて出航する。その前に、最後の陳謝のため、正午前後、天皇陛下がアゾーヴァ号にみずから出向かれる、というのだ。
――えっ、天皇さまがロシアの軍艦に?
――なんちゅう、おいたわしいこっちゃ。
――それどころやない。もしロシアの軍艦が、仕返しに、天皇さまを乗せたまま出ていってしもたら、どないするんや?
そんな、蒼ざめた神戸市民のささやきの中を、夢遊病者のように歩きまわっていた明石元二郎は、ふと血ばしった眼に菊の模様を見た。
蒼空にはためいている何本かの幟《のぼり》に、菊の花が描かれていた。その下に、水の流れらしいものがある。さらにその下に「楠公桜井の別れ」という文字が躍っている。
また別の幟に、「川上音二郎一座」とあった。
それは神戸の町のある芝居小屋の屋根の上であった。
五月十九日午前七時ごろ。
アゾーヴァ号の水兵たちは、陸のほうから近づいて来る一艘の舟を見つけた。
舟そのものは、大津事件が起るまで、軍艦のまわりに物売りにやって来ていた艀《はしけ》に類するものらしかったが、それが三本ばかり幟を立てている。海風にひるがえるその白い布には、何か花のような模様が書いてあった。その下に、十数人の人間がならんで坐っていた。
「あれは何だ」
水兵たちは眼を見張った。
「あの旗に書いてあるのは、あれは日本の皇帝の紋章だ!」
と、双眼鏡を眼にあてていた一人の将校がさけんだ。
艀には、十何人かの男が厳然と坐っている。それがみんな、いままで日本のあちこちで見た白衣《びやくえ》の神官風の装束を着ていた。そして、舳先《へさき》近い場所に、肋骨のついた軍服を着た、みごとなあごひげをはやした人物が、軍刀を右手について厳然と立っている。そのうしろには、軍服に赤い陣羽織をつけた若い男がつき添っている。
「おう」
と、別の双眼鏡でのぞいていたもう一人の将校がさけんだ。
「すると、あれは……日本の皇帝ではないか」
「そんな馬鹿な……日本の皇帝が来るのは正午前後の予定だぞ」
「いや、しかし、あれはたしかに皇帝ムツヒトだ」
そういったのは、ニコライ皇太子に従って上陸し、事件後謝罪に来た日本の天皇を見たことのある将校であった。
「皇帝があんな小舟で来るのか」
「だが、あの旗の紋章を見ろ。それに、お供している連中も、みな日本古来の礼装だぞ!」
不審と狼狽に騒然としたアゾーヴァ号の下に小舟はついた。
それに乗っている男たちが、迎えいれてくれるのを当然事のごとく落着きはらっているので、舷からタラップを下ろさないわけにはゆかない。
やがて彼らは、それをのぼって甲板に立った。
「あなた方はだれですか」
と、ロシア側の一人の男が、眼をパチクリさせながら訊いた。こんどの皇太子の日本旅行のために、東京から呼び出されたロシア公使館のネボガドフという日本語の出来る書記官であった。
彼らはもう、そこにのぼって来た軍服の男が、その面長《おもなが》でよく肥った顔だちといい、立派なひげといい、天皇にどこか似たところがあるが、ずっと若い別人だということを知っていた。
「これは、悪魔退散を祈る日本の祈祷師です」
と、赤い陣羽織をつけた男が、重々しくいった。
ネボガドフはキョトンとした。
「悪魔退散?」
「この艦《ふね》に、おとといの晩乗りこんだお国の法師があったでござりましょう。……あれに悪魔がとり憑《つ》いておるのでござります」
「ああ、スターレツのことですか」
ネボガドフはうなずいた。
「あなた方、あの人を知ってるのですか」
「知っております。あれは日本に来て、数々の妖術で人をたぶらかし、とうとう日本の娘一人を誘拐して姿をくらましました。……おう、あの人を、とおっしゃったところを見ると、その妖僧がこの艦に乗っちょることは事実でござりますな」
赤い陣羽織を着ているのは、むろん明石元二郎であった。それは、壮士芝居の川上音二郎から借りたのだ。――
そのうしろに、軍刀をついて立っているのが川上音二郎で、白衣の神官風の男たちは一座の連中であった。
雑誌などをよく読んで、軍人にしては世上の流行事などに知識を持っている明石は、このごろ関西に勃興した壮士芝居なるものがあることは聞いていたが、その一派川上音二郎について特別に知っていたわけではない。
ただ前日、苦悶の彷徨中に、ふとその一座の幟を見て――正しくはそこに書かれている菊水の紋を見て、突如途方もない着想を得たのだ。それは楠公の紋で、おそらく「桜井の別れ」の芝居の宣伝用の図柄であったろう。そこから、その壮士芝居の連中に頼んで、いっしょにアゾーヴァ号に乗りこむということを思いついたのであった。
――雪香は何としても救い出さなければならぬ!
――そのためには、何はともあれロシア軍艦に乗りこまなければならぬ!
ほとんど狂人の妄想のごとくその思いに固着しながら、さすがに彼は、アゾーヴァ号に乗りこむことはふつうでは不可能だ、ということを知っていた。ほかの場合ではない、あの大事件のあとのロシア軍艦だ。ひとりでボートで近づいて、向うがおいそれとひきあげてくれるわけがない。
が、もしこちらの姿を、曰《いわ》くありげなものものしい装いにしたら?
先日来、日本側では皇族や顕官が相ついで見舞いに訪れている。いや、きょうは天皇陛下までおいでになるというではないか。
それにまがうかたちで近づいたら、あるいは向うがかんちがいして、艦に乗せてくれる可能性がある。――それに、あの川上音二郎一座を使うのだ。
鬼面人を驚かす癖《へき》のある明石元二郎だが、それにしても、壮士役者たちを神官風に仕立てるのはいいとして、菊水の旗をカムフラージュとし、川上音二郎さえ相手に何やらと錯覚を与える風に見せかけようとは、相当以上に人を喰っているといわなければならない。
もっとも、明石自身はこの奇策果して成るや、と心中手に汗にぎっていたのだが――この謀計はまんまと成功した!
第一の関門は一応突破した。第二は、むろん雪香を奪還することだが。――
「その坊主と娘をここへ出しなされ!」
と、彼はいった。
ネボガドフ書記官は答えた。
「スターレツは、皇太子の怪我、直しました。悪魔など憑《つ》いてはいません」
「その病気直しが妖術なのです」
「あなた方、日本政府の人ではありませんね。それでは艦《ふね》から下りて下さい」
書記官はけわしい顔をして、水兵たちをふり返り、ロシア語で、
「退艦させろ」
と、命じた。
明石元二郎は、これもうしろをふり返った。
すると、神官風の連中が、いっせいに低く神秘的な声をあげはじめた。
日本語の出来るネボガドフにも、はじめて聞くメロディで、理解出来ない呪文のような言葉であったが、それは「ケンリーコーフクキライナヒートーニ――ジユウトーヲバノマセタイ――オッペケペ――オッペケペ――オッペケペッポーペッポーポー」という文句を謡曲調でうなり出したのであった。
明石は溺れる者はわらをもつかむ心境で、見さかいもなく壮士芝居に眼をつけたのだが、もしほかの一座であったなら、はじめから受けつけなかったにちがいない。
川上一座のめんめんも、飛びこんで来た明石という陸軍中尉から、ロシア坊主による日本娘誘拐の話を聞いて義憤には燃えたものの、それを奪還するために露艦に乗りこむ手助けをしてくれ、という依頼にはさすがに尻ごみした。が、結局引受けることになったのは、まさか殺されはすまい、それよりいま満天下を衝動させている露艦を相手にこの際一芝居を打てば、一座を売り出す絶好のチャンスになるだろう、と見た御大《おんたい》音二郎のメチャクチャなハッタリ性にほかならない。
乗りかかった船とはまさにこのことだ。――で、彼らは内心おっかないのを押しかくし、それだけに舞台以上の迫真力をもって、おごそかにでたらめの呪文をとなえている。
ロシア水兵たちは摩訶不思議な表情を見合わせたが、こちらの妖術のききめは数瞬しかつづかなかったようだ。
水兵たちは呪文の素性など知らないが、いま乗艦して来たのが日本の天皇などではなく、とにかく変な連中だということはわかって、どっと動き出そうとした。
このとき明石元二郎が甲板の向うを見やって、
「ラスプーチン!」
と、さけんだ。
それっきり明石は絶句し、立ちすくんだ。そのようすがあまりに異様であったため、動きかけた水兵たちが思わず静止して、これも同じ方角をふりむいたほどであった。
ラスプーチンは、一人の将校に何か話しかけた。将校はこちらを見ながらしゃべっている。
いま一声呼んだが、明石はラスプーチンより、彼に手をとられた雪香に眼を吸引されていた。彼女もこちらを見ているが、その顔に感情は見えない。……ロシア軍艦の上に、時ならぬ日本の美しい幽霊を見るようであった。
ラスプーチンは事情を聴き、将校は説明したのだろう。
そして、ラスプーチンは歩み寄って来た。依然として雪香の手を握っている。
「雪香。――来い」
と、明石は嗄《か》れた声でいった。
「迎えに来た。帰ろう」
雪香は答えず、蝋人形のように立ちつくしたままだ。
「ラスプーチン、その手を離せ!」
明石はさけんだ。
「お前にゃ、その娘はもう用はないはずじゃ。お前はお前の目的を達したはずじゃ」
彼はラスプーチンが日本語を解しないということを忘れている。いや、この艦に上ってからの段取りについてもいろいろ策を立てていたのだが、そんな心算は一切ケシ飛んでしまった。
「おれにゃわかっとるぞ。お前の目的は、皇太子に近づくことじゃったろ。そのためにお前は、一人の日本人を狂わせて皇太子を怪我させた。雪香は、その日本人を狂わせるための道具じゃったろ。もうその目的は果したはずじゃ。雪香を返せ!」
このとき、ラスプーチンのうしろに寄り添っていた雪香が一歩進み出た。
「私はシベリアにゆきます」
と、いった。海風の中に、銀の糸のように細く澄んだ声が流れた。
「お母さまの眠るシベリアに――」
そして、蝋細工みたいな顔が、ふいににいっと笑んで、そばのラスプーチンを見あげた。
明石元二郎は、妖艶ともいうべきそんな雪香の表情をはじめて見た。――彼は眼がくらみ、脳髄もまたくらんだ。
「通弁聞け!」
と、彼はネボガドフのほうに顔をむけて吼えた。
「悪魔はそのロシア坊主だ。あの坊主は日本の娘を奪ったのみならず――将来、ロシア皇帝のためにも必ず魔性《ましよう》のものとなる。日本の陸軍中尉明石元二郎、神明にかけて予言する」
彼は電光のごとく赤い陣羽織のかげからピストルをとり出した。
「じゃからここで射殺する!」
轟然たる音がとどろいた。
その響きのあと、艦上には異様な静寂が落ちた。――その数瞬の出来事及びこれを目撃した明石元二郎の心理をどういう順序で述べたらいいであろうか。
明石は、いまはじめて錯乱してこの凶行に出たのではない。万事休すればこのロシアの妖僧を殺す。その意志をいだいて拳銃を用意して来たのだ。
むろん、死はもとより、この行為によるいかなる処罰も覚悟している。あの大事件のあとそんなことをすれば、いよいよ国をあげての大騒動になることは百も承知している。
しかしラスプーチンなる怪僧がロシアのためにならぬ化物であることは、神も照覧あれ、万に一つのまちがいはない。――みずからかえりみて直《なお》くんば千万人といえども我ゆかんという、児島大審院長という見本が現実にあった!
実は彼は、川上参謀次長宛の、それについての趣意書と辞表を宿に残して来た。
が、それはむろん万事休すればだ。雪香を返してくれればそれ以上のことはあえて問うまい。
しかし、万事は休した。彼の望みを打ち砕いたのは、あろうことか雪香自身であった。彼がいろいろと想定していたかけひきを飛散させ、この暴発ともいうべき行為に踏み切らせたのは、そのことへの驚愕であった。
弾はまっすぐにラスプーチンの胸に命中した。その証拠に、そこにかけられていた小さな十字架が飛び散った。
にもかかわらず、のけぞったのはそばの雪香であった。
ラスプーチンはとっさに片手で彼女の胴を抱きかかえた。
「あーっ」
いっせいに、名状しがたいうめきがあがったのはその数秒後だ。
仰天したのは川上一座の連中で、明石中尉が日本娘を救いにゆく談判に同行することは承知したものの、まさかピストルまでふりまわすとは予想もせず、いまの狙撃にかっと眼をむいたままであったのだが、はじめてやっと声がほとばしり出たのだ。
硬直していたロシア水兵たちの口からも声が出たのはこのときであった。
彼らはどっと明石に殺到しようとした。
ラスプーチンが何かさけんだ。それは「待て」といったのであったが、それより水兵たちは、眼に見たものに恐怖してふたたび全身が麻痺してしまった。
ラスプーチンの左手に弓のようにたわんでいた日本娘の胸に、ラスプーチンは右手をおしあてていた。むろん、血の花はその手の下からひろがっている。足もとにもしたたり落ちている。それが――その娘が、徐々に身を起して来たのだ。
川上一座、ロシア水兵たちが、うなされたようなどよめきをあげたのは、身を起した日本娘の生命の匂い立つような感じを認めたからであった。
どういうわけか弾が命中したのは彼女の方であった。彼女はたしかに撃たれた。撃たれる以前から蝋色をしていた頬には、いま薔薇《ばら》のような赤味がさしていた。あきらかに、それまでしたたっていた血はとまっていた。
「エタア、ジェンシチナ、アジィヴィラシ――」
と、ラスプーチンがつぶやいた。――この女はよみがえった。
棒立ちになったままの明石をじろっと見、彼は水兵たちに何か命令した。われに返り、短剣を抜き、拳銃を持った水兵たちが明石をとり囲もうとした。
雪香はのびあがり、ラスプーチンの耳にささやいた。その姿態はむしろなまめかしくさえあった。
と、ラスプーチンはうなずいて、水兵たちにまた命じた。
「明石さん、帰って下さい。このままひきとって下さるなら何もしないと師僧《スターレツ》はおっしゃっています。これ以上、日本の人々を――いいえ、私を苦しめないで下さい」
と、雪香はひくい声でいった。
「私はこの方とごいっしょにシベリアに参ります」
ラスプーチンが、赤茶けたひげの中で、ニヤリと笑ったように見えた。
明石元二郎は、蒼白になって立ちすくんだきりであった。
――正午前、天皇はアゾーヴァ号に臨み、別れの午餐にことよせて最後の陳謝をし、午後二時過ぎ艦を辞去した。
天皇を見送ると、アゾーヴァ号と供奉《ぐぶ》の五隻は――砲艦コレーツだけは五月十三日、先立ってウラジオストックへむけて出港していた――いっせいに煙をあげはじめた。
六隻のロシア艦隊が抜錨したのは、午後四時である。神戸の港の岸壁一帯には、数万ともいえる日本人がこれを見送った。
危機が去った、と考えた者はおそらく一人もなかったであろう。ややかたむいた太陽を受けて、その無数の顔はことごとく恐怖と不安に凝りかたまっていた。
「ラスプーチン」
その中に銅像みたいに立って明石元二郎はうめいた。
「いずれ、ロシアで逢おう」
それは、彼には珍しく祈りをこめた言葉であった。――必ずおれは、お前とふたたび戦ってお前の妖術を打ち破ってやる。
誓いは固かったが、それはいつの日になるであろうか。また、その日まで、あのひとは?
海の果てに煙が消えたころ、もうだれもいない岸壁から明石は立ち去った。その髯面は名状しがたい哀愁に満ちていたが、あとには一発の大きな屁の音が残された。
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〈関連年表〉
年           出来事
明治元年(一八六八)   明治維新
明治四年(一八七一)   十一月、岩倉具視視察団の渡米
明治十年(一八七七)   西南戦争
明治十四年(一八八一)  十二月、木村荘平のいろは牛肉店第一号店オープン
明治十六年(一八八三)  コッホによるコレラ菌の発見
明治十九年(一八八六)  五月、前年よりのコレラ再び全国的に大流行
明治二十年(一八八七)  二葉亭四迷『浮雲』
明治二十一年(一八八八) 十月、新宮城完成、天皇、赤坂離宮より戻る
二葉亭四迷訳『あひびき』(ツルゲーネフ)
明治二十二年(一八八九) 二月、明治憲法(大日本帝国憲法)の発布
同日、文部大臣・森有礼刺殺事件
十月、来島恒喜が大隈重信に爆裂弾を投擲し自刃
明治二十三年(一八九〇) 十一月、浅草に十二階(凌雲閣)がオープン
森鴎外『舞姫』
チェーホフ「シベリアの旅」発表
明治二十四年(一八九一) 三月、ニコライ堂成聖式
四月、ロシア皇太子視察のため来日、長崎に到着
五月、大津事件
六月、川上音二郎、東京で壮士劇を興行
明治三十六年(一九〇三) チェーホフ「サハリン島」発表
明治三十七年(一九〇四) 二月、日露戦争開戦
明治四十三年(一九一〇) 六月、大逆事件、幸徳秋水ら逮捕さる
大正元年(一九一二)   九月、乃木希典夫妻の殉死
大正五年(一九一六)   十二月、ラスプーチン暗殺さる
大正六年(一九一七)   ロシア革命、帝政ロシア最後のロマノフ王朝崩壊
[#地付き](作成・日下三蔵)
山田風太郎《やまだ・ふうたろう》
一九二二(大正十一)年一月、兵庫県養父郡関宮町の医家に生れる。三六年中学に入学、その頃の仲間の渾名が雲太郎、雨太郎、雷太郎で、筆名・山田風太郎の契機となる。四九年、「眼中の悪魔」「虚像淫楽」で第二回探偵作家クラブ章を受賞。五〇年、東京医科大学を卒業するが、医師の道を進まず、作家として身を立てる決心をする。
『甲賀忍法帖』『くノ一忍法帖』を初めとする、風太郎忍法を生み出し、忍法ブームをまきおこす。さらに四八年より『警視庁草紙』『幻燈辻馬車』『明治波濤歌』など、独自の手法による明治もの≠発表、ファンをうならせる。他に、『人間臨終図巻』『あと千回の晩歌』など死をみつめた作品もある。二〇〇一年、尊敬する江戸川乱歩と同じ、七月二十八日没。
本作品は一九九七年一〇月、ちくま文庫として刊行された。