[#表紙(表紙.jpg)]
くノ一紅騎兵
他六篇
山田風太郎
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へうと飛びゆく雲は冬
鶴に身をかる幻術師
白秋「海豹と雲」
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目 次
くノ一紅騎兵
忍法聖千姫
倒《ちよう》の忍法帖
くノ一地獄変
捧げつつ試合
忍法幻羅吊り
忍法穴ひとつ
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くノ一紅騎兵
泰平の日につけ、戦国の世につけ、色町の栄えないときはないのが地上の人間相だが、なかでもいちばん殷賑《いんしん》をきわめるのが、戦乱の前夜だろう。
慶長《けいちよう》四年春。
人は明日のことさえわからない。ましてやこの翌年の「関ケ原」を知る者のあろうはずがない。にもかかわらず。――
故|太閤《たいこう》の寵臣《ちようしん》石田|三成《みつなり》が、内府徳川|家康《いえやす》を襲おうとしたとか、大坂の重鎮前田|大納言利家《だいなごんとしいえ》がこの世を去ったとか、あるいは豊臣《とよとみ》方の武将党がこんどは三成を殺そうと追いまわしたとか――それらの事件が何を意味するのか、だれが敵やら味方やら、天地|混沌《こんとん》とした中に、しかし人々は雷鳥《らいちよう》みたいに遠からぬ風雲を予感して血をざわめかしていた。
で、その血のざわめきに駆りたてられて、女に走る。おまけにどこから溢《あふ》れ出すのか、おびただしい銭が飛び交う。――大坂三郷の遊女町などでは、それに加えて喧嘩沙汰《けんかざた》で血のながれない日はないという噂《うわさ》さえ伝えられた。
――しかし、さすがに京である。しかも、春。
ちょうど十年前に太閤が万里小路《までのこうじ》二条、俗に柳馬場というところに作らせた柳町の廓《くるわ》の傾城屋《けいせいや》の朱格子は柳になぶられ、軒々の暖簾《のれん》に花びらさえもたわむれて、すべての権威が大坂に移ったあとは、京における桃山の豪奢《ごうしや》はむしろこの一劃《いつかく》だけに残っているかとさえ思われた。ゆきかう客は武士が多く、その髯面《ひげづら》やふとい刀に慶長の殺伐《さつばつ》さは覆《おお》えないが、これを彩る京の遊女のやさしさは、ほかの土地とはちがう京独特の華やかな雅《みやび》やかな傾城町の風物詩としてしまう。
宵《よい》というのに、笛、鼓にまじって、どこからか蹴鞠《けまり》の音さえするところはさすがに京らしい。それに、琉球《りゆうきゆう》から渡来して、このごろ急速に流行しはじめた三絃《さんげん》の音はひときわ高く、酒歌|嬌声《きようせい》はもとよりのことであった。
その絃歌の海原《うなばら》の中で、いちばん宏壮《こうそう》な扇屋の奥座敷に――まるで奇妙に凪《な》いだ沼のような一劃があった。
一刻ほど前からやって来て、酒も女も遠ざけて深沈と語り合っていた五人の武士であったが、やがてその一人が、
「よし、談合はこれにて終った。いざ、飲もう!」
と、手をたたいた。
その座敷をめぐって、周囲はみな無人にして空《あ》けてあったが、それでも遠くに坐《すわ》って耳をすましていた者があったと見える。
「へえい。もう、およろしゅうおますか?」
と、女の声が応《こた》えた。
「よい。酒を持って来い。樽《たる》で持って来た方がよいかも知れぬぞ。肴《さかな》は、山ほど」
と、こちらは吼《ほ》えた。――いままで酒がなかったのがふしぎなくらいの面《つら》 魂《だましい》ばかりであった。年は四十から五十、大半は髯をはやし、中には面上に刀傷さえあるが、いずれも豪快無双、かつ大身どころか将に将たる器《うつわ》をそなえた五人であった。一人、入道頭もいる。
「女も――」
と、いいかけて、
「おう、先刻ちらと姿を見せたこの扇屋の娘分の女があったの。あれもよこせ」
と、べつの一人がつけ加えた。
「すぐにだぞ。――」
やがて廊下を、酒や肴の膳《ぜん》を捧《ささ》げた女たちが、ちょっとした行列ほどにつらなる。それが座敷一杯に並べられたころ、一人の娘の手をひいた扇屋の亭主《ていしゆ》が現われた。
改めて挨拶《あいさつ》する亭主もうわの空に、
「……ふう!」
五人の武士は、娘の顔を見まもって、うなった。
先刻挨拶にまかり出たときにちらと見た。そのとき大事な談合をひかえていたにもかかわらず、この娘の印象がただならぬものがあったからこそ、いま特に呼んだ。しかし改めて、おちついて注視して、だれもが、ああ、と嘆声をあげざるを得ない。
霞《かすみ》のような眉《まゆ》、星がまたたいているかと思われる双眸《そうぼう》、紅もつけていないのに露にぬれた朝の花のような唇《くちびる》、ふくらんだ胸といい、たおやかな腰といい――いちいち描写するまでもない。彼らはいままで、これほどういういしく清純で、けぶっているような美しさを持った女を見たことがない。
「……これは、名作」
「扇屋が養女にするだけはある」
「養女にしてはもったいない。……太夫じゃな」
「むろん、そのつもりでもらったのじゃろ」
「いや、太夫にしても、もったいない。――」
口々に、うわごとみたいに呟《つぶや》いたのち、一人がわれに返ってきいた。
「これ、名は何という?」
「陽炎《かげろう》と申しまする」
と、娘は手をつかえたまま、銀の鈴をふるような声で答えた。
「年は?」
「十八に相成りまする。……」
「亭主」
と、別の一人がやっと眼《め》を離してきいた。
「どこから拾って来た。これほどの尤物《ゆうぶつ》を養女などに――いや、どこから戴《いただ》いて参ったか」
「は、は、さるお大名の元御家臣で――いえ、上杉さまの御家中なればこそ申しまするが、実は大谷家を御|牢人《ろうにん》なされたお方の娘御でござりまする」
「ほう? 大谷|刑部《ぎようぶ》の……さもあらん」
と、一人が論理に合わないことを、腑《ふ》に落ちたようにいった。論理に合わないというのは、大谷家の牢人の娘というだけで、何も大谷刑部の姫君というわけではないからだ。が、みな同様にのみこみ顔でうなずいたのは、その旧主の名に対する敬意のためか、あるいはそれほどの主人を持った者の娘なら、かかる名花も当然事と思ってのことか。――やはり、論理に合わない。
「で……それほどの者が、たとえ牢人したとはいえ、とにもかくにも傾城屋に娘を養女に売って……父は何をしておるのか」
「父は、去年亡くなりました」
「ほ?」
こんどは、論理に合った視線をみながその娘に集めたとき――廊下の方で、何やら騒がしい物音がした。制止するさけびにまじって、
「そこどけい、上杉家の直江山城《なおえやましろ》どのとお見かけたてまつり、是非お願いの儀あって参上したのだ」
と野ぶとい声が聞えた。
――はて?
五人の武士はちょっと顔見合わせて、ゆるりとした動作ながら、それぞれいずれ劣らぬ豪刀を引きつけた。
「おう」
膳を運ぶために開けはなされていた障子のあいだに、一人の男があらわれた。一目で牢人とわかる風体だが、なるほど、これでは傾城屋の女や男衆が制止し得なかったのもむりはない。筋骨ふしくれだった大兵《だいひよう》の男であった。
「直江山城どのは――?」
と、いいかけて、けげんな表情になり、
「はて、山城どのはおわさぬようじゃが――これは上杉家の御会合に相違はないな?」
と、亭主の方へ顔をむけた。だれも答える者はない。男は狼狽《ろうばい》した。
「いや、これは見まちごうて失礼つかまつった。何ともはや、御無礼を。――」
一礼して、ひき返そうとする。はじめて気がついたが、よその部屋に上っていたらしく、すでになかば酔った顔色であった。
「待て」
と、中の武士の一人が呼びとめた。
「うぬは、上杉家の直江どのを存じあげておるのか」
「は。……いえ、いつぞや伏見街道《ふしみかいどう》を馬上往来さるるお姿を、あれが名高い直江山城守どの、と人に教えられただけでござるが」
「ここに山城どのがおわしたら、何といたす? うぬはいったい何者じゃ」
首ねじむけていた男は、また完全にむき直り、がばと両ひざついた。
「実は随身のことをお願い申しあげようと存じたのでござる。あいや、山城守さまおわさぬとても、上杉家の御会合に相違はあるまいとお見受けして改めてお頼み申しあげる。拙者、恥ずかしながら元|明智《あけち》の流れをくむ一人にて斎藤天鬼と申すもの、天下に武名高き上杉家とお見かけたてまつってお頼み申しあげる。何とぞ、馬一匹買うとおぼしめされて、御奉公の儀を。――」
「腕に覚えはあるか」
と、入道がきいた。
「は、それだけはいささか――それなればこそ、わざわざ上杉家に。――」
「ここにおる顔ぶれをだれかと知って、腕に覚えがあると申すか」
「あ。――」
改めて、一座を見まわし、
「いや、御無礼つかまつった。いずれまた」
へどもどと、また逃げ出そうとした。
「待て!」
低いが腹まで通る一|喝《かつ》を投げたのは、この中でただ一人|無髯《むぜん》の、またいちばん尋常な容貌《ようぼう》をした武士であった。
「うぬは大坂方か、江戸方か」
「――えっ?」
「奉公願いに強引にここをのぞきに来たは、われら出入《でいり》のときの編笠《あみがさ》に焦《じ》れ、いまこの座にある顔ぶれをじかに見ようと望んでのことと見たはひがめか」
男はふりむいたまま、雷《らい》に打たれたように動かなくなった。それでなくてさえ獰悪《どうあく》な顔が、一瞬、凶相に変っていた。と、見るや、いきなり魔鳥のごとく座敷に躍り込んで来た。
「――や!」
座にいた武士のうち二、三人が大刀ひっつかんでどどと立つ。が、斎藤天鬼はそれには眼もくれず、いきなり扇屋の亭主のそばに坐っていた陽炎という娘を横抱きにした。
「あれ」
一声、娘の声を残したまま、天鬼はもとの廊下へはね戻《もど》ると、
「うぬら、動くな。追って見よ、この娘、おれの頸《くび》より細いこの胴を絞めあげて血へどを吐かせるぞ!」
右手には大刀をひきぬいて、そのまま庭へ飛び下りると、地ひびきたてて築山の方へ駈《か》け出した。そこから眼かくしだけの低い塀《へい》は、彼の跳躍台となるだけのものに見え、そう思いつつ、この掠奪者《りやくだつしや》のかかえている美しい人質《ひとじち》のため、座敷にいた者すべてがとっさに金縛りになっていた。
しかるに――庭の中央で、斎藤天鬼がふいにはたと立ちどまったのである。
それが、自分の意志からの動作のようではなかった。まるで見えない糸に引かれて、ぐいと大地に釘《くぎ》づけにされたようであった。
「……おうっ」
野獣の――しかも罠《わな》にかかったようなうなり声をあげて大刀を取り直そうとする。その右手くびに白い細いものがのびているのを、人々ははじめて見た。ついで、それが女の腕であることを。
片腕だけで胴絞めに絞め殺すと脅された女が――その前にすでに失神しているかに見えた女が、その繊手をのばして、大刀ひっさげた斎藤天鬼の腕をヤンワリとつかんでいるのであった。
それを必死無謀の抵抗と見て、
「危い、よせ。――」
と、扇屋の亭主が腰を浮かせ、やっと二人の武士が庭へ飛び下りた。
そのとたん、ぴしっと妙な音がして、刀をつかんだ天鬼のふとい右腕はだらんと垂れている。それのみか、痛苦に耐えかねるように、彼はどうと両膝《りようひざ》を地についていた。むろん、もう一方の左手に抱いた女は横に放り出したまま。
風にひるがえる花のように、女はフンワリと大地に坐っていた。
一瞬、われに返り、はね起きようとした天鬼の左腕と胸に、駈けつけた髯侍の一人がぐいと両足踏みかけた。
「うぬは、何者じゃ。……もはやいつわりは許さぬ」
「……ほ、本多佐渡守《ほんださどのかみ》さまの。――」
男は苦鳴を発した。もはやいつわりをいう余裕を失っているらしい。凄《すさま》じい胸部の圧迫のために。
「徳川か。……なんのために?」
「蒲生《がもう》……佐竹の向背を知るために……」
縁側から、先刻この徳川の密偵を看破した武士が、「丹波《たんば》どの、待て」とさけんだが、遅かった。丹波と呼ばれた髯侍の足の下からあばら骨のへし折れる凄じい音がして、斎藤天鬼と名乗る――おそらく偽名の男は、自分の方が血へどを吐いて即死している。
縁側の武士は憮然《ぶぜん》とした声を出した。
「血へどを吐く前に、もう少し泥《どろ》を吐かせればよかったに」
「早まったか。どうせ生かしては帰せぬやつと思ってのことじゃが、しもうたの」
と、髯侍はあたまをかいた。――廊下座敷に満ちていた遊女や廓者は、春の夕《ゆうべ》というのに凍りついたように動かない。
ほかに駈けつけた入道頭は、徳川の密偵の方には眼もくれず、坐っている陽炎という娘のそばに近づいて、
「おまえは。……」
と、いったきり、絶句した。むろん、いま見た怪事に心奪われ、それどころかおのれの眼をまだ疑っているのだ。またそれを疑わせるかのように、娘はつつましく両手をついたままであった。
「亭主をのぞき、みなゆけ!」
と、縁側の武士がわれに返ったようにいった。
「いま見聞きしたこと、命惜しくばだれにも語るでないぞ。――また。さきほどのごとく人払い、頼むぞよ」
もはや、宴《うたげ》どころではない。数分ののち、まだ手もつけていない酒や膳のものの中に、陽炎と亭主を囲んで、五人の武士が狐《きつね》につままれたような眼を集めていた。
「おやじさまをお叱《しか》り下さいますな」
と、陽炎の方からまずいった。片頬《かたほお》のえくぼを、幾分申しわけなさそうに扇屋の亭主の方へむけながら、
「おやじさまは、何も御存じないのでございます。わたしのここへ養女に来た目的を」
「――な、何が目的?」
「上杉家の御家老直江山城守さまに御奉公申しあげたいという望みでございます」
――いま、そこに血へどを吐いて死んでいる徳川の密偵と同じようなことをいった。しかし、五人は眉に唾《つば》をつけるのも忘れている。
「とはいえ、わたしが大谷家の牢人の子であることまでは偽りではございませぬ。上杉家御用のこの扇屋のおやじどのに、それまで嘘《うそ》はつかしませぬ」
と、こんどは米粒のように白い歯をちょっぴりこぼれさせて笑った。亭主は、ぽかんと口をあけたままだ。自分が養女としたこの娘が思いもかけぬ鬼子《おにご》であったことをはじめて知って仰天しているようすであったが、彼が驚くのはまだ早かった。――
「ただ、わたしが養女に参ったころから、山城守さまいちどもこの扇屋へお越しのことなく、しかも承りますところによれば、近く御帰国とのお噂もあり、やむなくせめてあなたさま方のお手引によって御奉公の儀|相叶《あいかな》えられますようにと」
陽炎は五人を見わたし、小首をかたむけて、またにいっと笑った。清純な顔に似合わぬどこか人を小馬鹿《こばか》にしたような媚笑《びしよう》であったが、むろん五人はそれに心とろかす余裕を失っている。
「おそらくここにおわす方々の御推挙ならば、直江山城守さまもお聴き入れ下さるでござりましょう」
「それでは、わしたちの名と素性《すじよう》すべてを知っておるのだな」
「はい、やはり上杉家御家老の千坂民部《ちさかみんぶ》さま」
と、髯のない、最も尋常な顔をした武士の顔を見る。
「それから、前田|咄然斎《とつねんさい》さま」
と、入道頭を見る。
「もう一人、上杉家の上泉|泰綱《やすつな》さま」
この三人は――この娘に逢《あ》うのははじめてだが、――以前からちょいちょい上杉家御用のこの扇屋に来て酒談したり、また遊んだりしたことはある。
「それから、あちらは蒲生家の岡野|左内《さない》さま、佐竹家の車《くるま》丹波守さま。――」
「な、なぜおまえはそんなことを。――」
亭主が呆《あき》れたような声を出した。いま徳川の諜者《ちようじや》が探りに来ただけのことはある。扇屋の亭主でさえ、今宵《こよい》の客のうち、いま陽炎がいった最後の二人はその名も知らなかったのである。
陽炎はまた笑《え》んだ。
「天下で名を知られた豪傑で、わたしが知らないお方がありましょうか?」
まさに、豪傑にはちがいない。――
このうち千坂民部だけは上杉家本来の家老で――後年の千坂|兵部《ひようぶ》の数代前の御先祖さまだ。上泉泰綱と前田咄然斎はよそから来て上杉家に召し抱《かか》えられた人物だが、前者は剣聖上泉伊勢守秀綱の一族でやはり剣名高い人、後者はこれこそ名さえきけば天下に知らない者はない前田慶次郎|利太《とします》の後身。
実に家康と並び称された前田大納言利家の甥《おい》である。大変な豪傑のくせに、大変ないたずら者で、えらいにはちがいないが終始煮え切らぬ伯父《おじ》の利家にかんしゃくを起して、冬の一日、利家を冷水の風呂《ふろ》に入れ、そのまま前田家の名馬松風に乗って逃げ出して――上杉家に仕えた。ただし、前田家を憚《はばか》って、それ以来頭を剃《そ》って、馬田|穀蔵院咄然斎《こくぞういんとつねんさい》と号した。穀蔵院とはこくぞう虫をもじったつもりで、すなわち穀《ごく》つぶしの意味だ。
上杉家に仕えても生来の大いたずらはやまず、謙信在世当時から藩の信仰|篤《あつ》い或《あ》る名僧と碁を打ち、負けた方が頭をたたかれることを賭《か》けさせた。和尚《おしよう》は冗談だと思って、自分が勝ったとき咄然斎の頭をちょっと指ではじいた。ところが咄然斎が二局目に勝ったときは、和尚が鼻血を噴いて昏倒《こんとう》するほどなぐりつけ哄笑《こうしよう》して立ったという。また大風呂に入るのに刀を抱えて入り、衆人みな怖れてやはり刀を持って入ったのに、やおら彼は竹光をぬき出し、澄まして脚の垢《あか》をかきはじめたという。
戦場に出ては、背に「大ふへん者」と書いた白絹の旗差物をひるがえし、同僚が武名高き上杉家にあって「大武辺者」とは面憎《つらにく》やとなじったのに、おれは妻なく子なく日ごろ不便を重ねているから「大不便者」と書いたのだと一蹴《いつしゆう》し、さてこの旗の下、斃《たお》した敵にはきっと小便をひっかけて駈け去ったという。
岡野左内。――宇都宮《うつのみや》の蒲生家の家来である。
平生|甚《はなは》だ吝嗇《りんしよく》で、これまた妻をめとらず、毎月のみそか座敷に大判小判を敷きつめ、金光|燦爛《さんらん》たる中にひとり坐ってニタニタ笑っているのが唯一の趣味という人物であったが、あるとき朋輩の私闘をきいて駈け出し、三日間奔走して、あけはなしの家に並べた金は顧みるところがなかった。
しかも、一方では、曾《かつ》て戦場で伊達政宗《だてまさむね》と、それとは知らず血戦し、とり逃したあと政宗と知って痛嘆し、そのとき政宗の一太刀受けた朱の陣羽織の裂け目を金糸でかがり、以後これを着て疾駆するところ敵がなかったという大豪の士だ。
車丹波守。――常陸《ひたち》の佐竹家の家来である。
これは翌年の関ケ原に主家の佐竹とともに西軍に加担し、敗れたのちも執拗《しつよう》に徳川家に抗したこと、またついに捕えられて彼が誅《ちゆう》されたのち、弟の車善七なる者が三度まで将軍秀忠を鉄砲で狙《ねら》い、捕えられたのち秀忠がその勇を惜しんで仕官をすすめたのを辞して、みずからすすんで江戸の非人頭となったという事蹟《じせき》などで有名だが、しかし関ケ原以前のこのころから、剛力無双と鉄砲の名人として知られた車丹波守であった。
旗差物は火の車をえがき、名まで猛虎《たけとら》とは豪傑らしい。
さて――これら、一くせや二くせどころか、大へそまがりばかりの五人の豪傑を、おそれげもなく見やっている陽炎という女を眺《なが》めて、逆に五人の方が眼をぱちぱちさせた。
「な、なにゆえ、直江山城守どのに――?」
と、やおら千坂民部がいった。
直江山城守はおなじ上杉家の家老ではあるが、千坂などとは一段二段も上の別格といっていい。上杉家の大智謀である上に、主家の会津《あいづ》百二十万石にくらべて実に米沢《よねざわ》三十二万石という――こうなれば、もはや一家老というより大大名だ。
「謙信さまの御遺風をおしたい申しあげるからでございます」
と、陽炎はいった。
五人は顔を見合わせた。――謙信公の遺風をしたうから上杉家に奉公したいというのならわかる。しかし、直江山城守に仕えたいとは?
「直江どのをふくめ、上杉家ではな」
と、千坂民部はいい出した。
「武勇の男ならばよそより召抱えるにやぶさかではないが――女は困る」
そのとき、陽炎がまた微笑《ほほえ》んだので、彼はいよいよ動揺した。上杉家と女、これが氷雪の中の花というように、まったく相容《あいい》れぬ関係にあることを、この女は知っているのか?
「それにしても、女の身を以て、上杉家――上杉家の一門に奉公したいとは、よくぞ、よくぞ。――」
「わたしは、女ではございませぬ」
と、陽炎はいった。
「な、なに? 女ではない?」
「そ――そんな、ばかな!」
みな、いっせいにすっ頓狂《とんきよう》なさけびを発した。五人のみならず――扇屋の亭主までが。
いかにも彼らは先刻、この陽炎が繊手をもって徳川の逞《たくま》しい密偵の腕をへし折るのを見た。見たからこそ、それを怪しんで、このようにとり囲んで訊問《じんもん》しているわけだが、しかし、何だと? これが女ではないと?
見るがいい、この柳町に嬌名《きようめい》高い太夫たちにも劣らぬ窈窕《ようちよう》たる美しさを。――いや、むっちりとふくらんだ胸を。くびれた胴を。まるみをおびた腰を。
茫乎《ぼうこ》とした彼らの眼の前で、陽炎は動いた。下半身だけ、うねるように動いた。春の日の日はすでに暮れて、灯《ひ》を運ぶ者もない座敷はもうなかば藍色《あいいろ》のたそがれを沈めている。
その中で、陽炎は――なんと、あぐらをかいた。
精霊のような美女の大あぐら――これを怪奇な構図と見て、眼を見張るのはまだ早かった。割れた裾《すそ》のあいだから、真っ白なふとももがのぞいたのも一瞬、さらにそのあいだからニューッと持ちあがって来たふとい肉色の筒を――彼ら五人の豪傑でさえ唖然《あぜん》とするような大男根を、彼らはたしかに見たのである。
いや、彼らはほんとうにそれを見たのか? 次の瞬間、六人の男は、そこにもと通り両腕をつかえ、つつましやかになよやかに坐っている陽炎を眺めていたのであった。嬌《きよう》 羞《しゆう》にぼうと頬《ほお》さえあからめているあえかな美女の姿を。
「ううむ。……」
「これでも男。……」
「美女に化けた美少年?」
あえぎにちかいうめきをもらす五人の豪傑を、上眼《うわめ》づかいにちらっと見た陽炎の眼は、しかしもういたずらっぽく、そしてしずかにいった言葉は不敵きわまるものであった。
「わたしは上杉様のおきらいな女[#「女」に傍点]ではありませぬ。上杉様のお好みあそばす強い男[#「男」に傍点]でございます。恐れながら、失礼ながら――ここにおわす五人の方々と太刀討ちしても、必ずしも童《わらべ》のようには負けはせぬと思うほどの――そうときいて、いよいよ直江山城守さまに御推挙下さるのをお怖《おそ》れなさりまするか?」
名は、大島|山十郎《さんじゆうろう》というそうな。――
このもっともらしい名前をきいて、その女姿を見れば、いよいよ奇っ怪至極な女だ。――いや、男であったか。
見ても、考えても、頭がくらくらして、脳髄が一回転するような気がする。ともあれ奇っ怪至極としかいいようのない大島山十郎であった。
それが、ウットリとして、いよいよ奇っ怪至極なことをいう。
「わたしは不識庵謙信さまが好きなのです。……だから、直江山城守さまが好きなのです」
上杉家ゆかりの五人の豪傑をとらえたのは、しかしこういったときの大島山十郎の眼であり、また常識では連結しないこの言葉そのものであった。
文字通り女にも見まがう美少年、という妖《あや》しさはさておいて、本来なら、いかに彼が望めばとて、その願いをきいてやる筋はなかったろう。とうてい直江山城守に紹介出来はしなかったろう。
事実、あとで千坂民部だけは、
「あれには、何か下心《したごころ》があるぞ。めったには話に乗れぬ。だいいち、大谷の牢人|云々《うんぬん》というところがくさい。――」
と、胡乱《うろん》くさい顔をした。ところが、あとの四人は、「面白い、きいてやれ」といった。――
ただし、数日かかって千坂は調べて、大谷刑部吉隆の筋に大島という牢人があって去年病死したこと、その男の子供に美しい姉弟があったこと、娘が父の旧友の手引で扇屋にやって来て、将来|傾城《けいせい》になることは覚悟の上で養女にして欲しいと頼み込んで来たこと、扇屋の亭主が何も知らずただその美貌《びぼう》を見込んで承知したこと――などはたしからしい、と探り出した。
「ははあん、その弟か」
と、前田咄然斎はいった。
「いずれにしても相手は天下の直江山城どのじゃ。めったにたぶらかされることもあるまい。いや、山城どのをたぶらかせるものなら、いちどたぶらかしてやりたい」
ニヤニヤと、この年になってもいたずらな眼玉をむいて笑う。
「じゃが」
民部がなおためらったのは、実はこの時点に於《おい》て、彼らは遠からぬ風雲にそなえて――翌年の関ケ原の根まわしをやっていたからであった。むろん、例の徳川の諜者の焦った行動を見てもわかるように、注目の人直江山城は、このごろ世間の表面に姿は現わさないけれど、その黒幕は山城に相違なく、千坂はその代役に過ぎない。そしてこの慶長四年春において大谷刑部は、三成とならんで故太閤の寵臣《ちようしん》であったことも事実だが、また徳川家康に最も信頼されている人物でもあるという、よくいえば端倪《たんげい》すべからざる、悪くいえばあいまいな存在なのであった。
「しかし、山十郎の不識庵さまへの信心は、ありゃほんものだぞよ」
と、岡野左内、車丹波もいう。
「左様さな」
これには千坂民部もうなずいた。
この五人の豪傑たちは、ひとかたならぬへそまがりのくせに――他藩の岡野左内、車丹波をもふくめて――熱狂的な謙信ファンであることは共通している。それはむしろマニアにちかい。それだけにあの大島山十郎の「わたしは謙信さまが好きなのです」といった言葉が、たんに心うれしいばかりでなく、その眼つき、息づかいから決してにせものではないことを感得《かんとく》したのだ。
そしてまた、それなればこそ、「だから山城守さまが好きなのです」といった言葉も、さもあらんと納得できるのであった。
「おれが責任を持つ。山十郎を見たら、山城どの、これは末頼もしい弟子が来たと、存外大悦されるかも知れんぞ。あはははははは」
という前田咄然斎の哄笑がすべてを押し切った。
数日後、千坂民部は陽炎を――いや、若衆姿にもどった大島山十郎を、伏見にある上杉屋敷へつれていって、直江山城守にひき合わせた。
ただこの途上、民部がしきりにくびをかしげたのは、前髪に戻した山十郎が、むろん女にも珍しい美貌で、かつふっくらとしているけれど、やはり少年としか思われないりりしい清爽《せいそう》さを漂わせていることであった。胸でさえ、スッキリとしまっている。
「――ほ?」
直江山城が山十郎を見た眼はさすがにちょっとかがやきを帯びた。
「これが、あれか」
すでに扇屋での会合の報告のついでに、この件もまた話してあったのである。平生、深沈として水のような山城守が、人や物を見て眼をかがやかすことは珍しい。――
直江山城守|兼続《かねつぐ》。
いま家康が、日本で恐ろしい人間を五人あげろといわれたら、おそらくその中にこの人物が入るのではあるまいか。ただ上杉家の大家老ときいてさえ、信じられない。――
優雅端麗な風姿の持主で、この年いまだ四十歳。
にこと笑って、ただいった。
「ふむ、よかろう。――置いてゆけ」
そして、
「民部、詩を作った。見てくれ」
と、経机から墨の香も匂《にお》やかに書いた紙片を取って来た。千坂民部は藩中でも聞えた学者で、山城守はいつも彼に詩を添削してもらっていたのである。
「春雁われに似たるかわれ雁に似たるか
洛陽城裏《らくようじようり》花にそむいて帰る」
民部は読んで、――
「不識庵さまの雁の御絶唱にゆめ劣らざるおん出来栄えと存ずる」
と、ほめた。愛想ではなく、心から感嘆したまなざしであった。不識庵謙信の詩とは、例の「霜は軍営に満ちて秋気清し、数行の過雁月三更」をさす。
「では、いよいよ御帰国で?」
「おおさ、天下をこころざす大芝居じゃ。舞台作りにとりかからねばならぬ」
と、山城守は快然《かいぜん》と笑った。そばにえたいの知れぬ美少年がいることなど、とんと顧みる風もない。――
人も知るように、この翌年の関ケ原は、まず東に上杉|景勝《かげかつ》が兵をあげ、ついで、西に石田三成が動き出すという徳川|挟撃《きようげき》のかたちではじまったのだが、この戦略を打ち出したのがこの直江山城であったのだ。見ようによっては、関ケ原の張本人は三成ならず、景勝ならず、三成景勝はただ東西のコマであって、さし手はこの兼続ではなかったかと思われるふしがある。系図によれば彼は、木曾義仲《きそよしなか》の四天王の一人|樋口次郎兼光《ひぐちじろうかねみつ》の裔《すえ》であるという。
彼が千坂民部らを頤使《いし》して、常陸の佐竹や宇都宮の蒲生の豪傑連と、京の傾城屋でひそかに談合させていたのは、むろんその日にそなえての地固めのためであった。
ただ、こんな大戦略家たる本領をあらわさない前から、彼のその姿にも似合わしからぬ驍勇《ぎようゆう》ぶりは世に聞えている。謙信がこの世を去ったのはもう二十年ばかりの前のことだが、そのころから謙信の馬にぴったりくっついて戦場を馳駆《ちく》する直江山城の武者ぶりは花に似て、しかも鬼神のごとく怖れられた。
その人もなげなる豪快の気象をあらわす逸話が、ほんの最近にもこの京で起った。可笑《おか》しい話である。
去年の夏のことだが、山城守の下郎が、伊達家の下郎と居酒屋で酒をのんでいるうち喧嘩《けんか》となり、伊達家の下郎が死ぬという事件が起った。相手につき飛ばされたとも、自分で転んだとも、見ていた連中にもよくわからない酔いどれ騒ぎの結果である。
山城守は相手側に多額の金品を送って慰撫《いぶ》して事を収めようとした。ところが伊達家の下郎仲間が、「どうしても死んだ当人を生かして返せ」と、再三、繰返し押しかけて、容易に示談を承知しなかった。いまでも交通事故のときなどにありそうな話だ。
すると山城守は、或る日強談に来た伊達家の下郎三人をいきなり斬《き》って、その首をひとまとめにして送り返した。それに一通の書状をつけて。
読んで、みんな、あっといった。いわく。――
「いまだ御意《ぎよい》を得ず候えども一筆啓上せしめ候。伊達家下郎何某、不慮の儀にて相果て候につき、朋輩ども歎《なげ》きて呼返しくれ候ように申し候につき、すなわち三人の者迎えにやり候。かの死人お返し下さるべし、よろしく獄卒|御披露《ごひろう》。恐々謹言。
閻魔《えんま》大王様
[#地付き]直江山城守」
――さて、自分がつれて来たくせに、山城守がそれを受取ってあまりに悠然《ゆうぜん》としているので、ほっとしたような、何だか不安なような気持で千坂は帰る。
あとで――直江山城守はしげしげと大島山十郎を見まもった。感にたえた表情である。
「わしのところへ来たいとな」
やおら、いった。
「何が望みじゃ」
「衆道《しゆどう》の法」
「なんじゃと?」
さすがの山城守があわてた声を出した。
大島山十郎は、花のようにかぐわしく、にいっと笑った。
「神将不識庵謙信さまがまたなく御寵愛なされたと承りまする直江山城守さま、世にこれほど大いなる御恋童がありましょうか。そのあなたさまからおん手ずから衆道の秘法御伝授たまわるのがわたしの生《しよう》 々世々《じようせぜ》までの願いでござりまする。……」
直江山城守は絶句した。
しかし、それは事実であった。
戦国に武将と寵童のロマンスは珍しいことではない。それは後世で想像されるような不潔なものではなく、真に男性的な豪傑と、りりしい美少年との清爽なる天上の恋であった。その例は無数にあるが――しかし、さればとて謙信のような例は少ない。なぜなら謙信は、ただ少年のみを愛し、女性に対しては生涯不犯《しようがいふぼん》であったからだ。そして謙信が最後に、また最高に寵愛したのがこの勇壮無比の美少年直江山城であったことは知る人ぞ知る。
かくてこそ、「謙信公が好きだから山城守さまも好きだ」という大島山十郎の言葉が意味あるものとなり、かつまた「面白い、山城どののところへやれ、やれ」といたずら者の前田咄然斎がけしかけたのも腑《ふ》に落ちる。
直江山城は、しかしやがて片頬にえくぼを淀《よど》ませて、山十郎に見いっていった。
「ふうむ。おまえがわしに、衆道の法を喃《のう》。……」
まもなく直江山城守は京を発って米沢に帰る。
やがて夏、大坂にあって太閤死後、その五大老の一人として遺孤秀頼を安泰ならしむべく種々奔走していた上杉景勝も会津に帰って来る。
君臣は相会して、奥羽の天地に一大風雲を醸すべく動き出した。――実はその主役は、家老の直江山城の方である。彼が、大坂に脇役《わきやく》としてあった主君景勝を奥羽の本舞台へ呼び返したといった方がよい。
「しょせん、指をくわえて大坂を見ておる内府ではござらぬよ」
と、山城はいう。
その徴候があきらかであったればこそ、もはや大坂にあって政治的に動いてみたところで効なしと見て、山城のいう通り会津へ帰って来た景勝であったが、さればとて家康の恐ろしさをよく知っているだけに、やがて三成と呼吸を合わせてこの家康を打倒しようという――それこそ謙信公以来の上杉にふさわしい壮挙だといい切る直江山城の、城を作る、砦《とりで》を構える、道を繕《つくろ》う、橋を架ける、武器、軍糧、牢人《ろうにん》を集める等の大車輪の戦争準備を見ている景勝の眼《め》に、どこかまだ決断し得ない憂鬱《ゆううつ》な迷いが見られた。
謙信を二つに分けたら、景勝と山城になるだろう。すなわち両者合してはじめて上杉をいままで大国として保持して来ることが出来たということは景勝にもわかっているので、今さら山城守のやることに異存はないのだが。――
上杉景勝。――不犯の謙信に子がなかったので、甥たる彼がそのあとを嗣《つ》いだ。
謙信の機略は山城にまかせ、彼は謙信の剛勇の分身であった。それから何より謙信の分身というに足る習いがもう一つ。
すなわち、ことし四十五になる彼にもまた子がない。若いころ武田家から迎えた奥方はあるが、まだいちどとして接したことがない。つまり彼は、崇拝してやまぬ叔父《おじ》謙信の女ぎらいの習性をかたく受け嗣いだのだ。
景勝のゆくところ、それにつき従う美童のむれは、むしろ謙信のときよりおびただしかった。
さて会津に帰ってまもなく、その小姓たちの中に、新たにもう一人加わった者のあることを、むろん景勝は知っていた。それは直江山城が推挙したもので、女にも稀《まれ》な美貌の少年であることも認めた。しかし景勝はいちどちらとそれを見て、ほ、兼続らしゅうもない、と思ったばかりで、あとそれを顧みるところがなかった。なぜなら、その少年はあまりにも「女」らしかったからである。景勝の愛するのは、あるいは愛したいのは、叔父謙信が兼続を愛したごとく武勇にたけた美童であったからである。
しかし景勝がその小姓にふたたび眼をそそいだのは――いや、眼を吸われてしまったのはそれから間もない初秋の或る日であった。
その日、会津城では刀術の試合が行われた。
それを、景勝も、山城守も見ていた。――むろん泰平の御前試合ではない。
山城帰国以来、上杉家では、いまいったようにおびただしい牢人を召し抱えた。その中にはもう正式に、蒲生家から上杉家に籍を移した例の岡野左内などもいたが、むろんだれもがこれほど名ある豪傑ばかりというわけにはゆかない。で、果して実戦に役立つか、役立つとすれば雑兵《ぞうひよう》から侍大将までの間のどこらあたりかと、荒っぽいが厳重な審査が行われたことはいうまでもない。
景勝らが見ていたのは、その審査を一応通って、或る線に達した十数人の牢人であった。
べつに試合までする予定はなく、それぞれ槍《やり》をしごいたり、鉄砲を操作したりするのを観察していればよかったはずなのだが、どうしたことかその中で、ふいに短い口論が起ると、いきなり見るからに凶暴無比の顔をした牢人の一人が、木剣を持って吼《ほ》え出したのである。
「殺し合いは、力じゃ! 術やわざは二の次、つべこべと新陰流の講釈など片腹痛や」
相対しているのは審査の城士だが、剣法師範上泉泰綱の高弟の一人であった。怒りのために彼も満面を朱に染めた。
「おれはともかく新陰流の悪口はきき捨てならぬ。よし、それでは新陰流とはいかなるものか、ほかのやつらの修行のためにも目にもの見せてくれるわ」
まだ上泉泰綱の剣祖たる伊勢守秀綱の名前どころか、剣法という名さえぴんと来ない者の多い時代であった。
で、木剣を以てにらみ合ったのだが――勝敗は一瞬にして決した。その山気《さんき》を帯びた金剛力士《こんごうりきし》みたいな牢人の木剣は、上泉流の城士のそれを一撃のもとにへし折ったのみか、その肩をも打ち砕いたのである。鮮血まで飛んで、倒れた方は地上をのた打ちまわっていた。
「どうじゃっ、理屈剣法よりも力じゃということがおわかりか。この鍬形丈兵衛《くわがたじようべえ》を侍大将になされ、それで会津はどんないくさでも勝ったも同然じゃぞ!」
ここまではいたしかたなかったが、血に逆上したか、それとも野の郷士らしい叛骨《はんこつ》を禁じ得なかったか、
「名だけは承っておる。上杉家の上泉泰綱どのとやら、そこらにおわしたら顔をお出しなされ、出羽|月山《がつさん》に聞えた鍬形丈兵衛の荒わざ、したたかにお見せつかまつるわ!」
とまで吼えられては、その上泉泰綱が知らぬ顔はしていられない。
「面白い。――使うてやれ、泰綱、かまうな」
と、景勝は笑ったが、泰綱はすっと立ちあがった。
「出羽の山奥で、山伏か猟師相手に天狗《てんぐ》になったものと見えます。いや、お召し抱えになるにしても、このままではかえってあとの患いになりましょうぞ」
そのとき、
「わたしが」
と、傍でいい出した者があった。
スルスルと滑り出して白い手をつかえた例の「女」のような美童を見下ろして、景勝も泰綱も、彼が――何を「わたしが」しようというのか、とっさに見当がつかなかった。
「よかろう、上泉、木剣を貸してやれ」
平然と声をかけたのは直江山城であった。
みな、あっとのどの奥で叫んだ。このあえかな小姓が、いま会津でも名だたる使い手を倒した山のけだものみたいな男と試合をしようというのだ。
だれもとめなかったのは、直江山城が許したばかりではなく、あっけにとられたからであった。しかし、彼らは数瞬ののち、またあっとさけび、さらにあっけにとられた。
血はふたたび飛んだのである――。脳漿《のうしよう》さえも。
飛んだのは、鍬形丈兵衛という牢人の頭からであった。その木剣のうなる中に、まるで飛燕《ひえん》のごとく無造作に進んだ小姓は、かるく相手の頭部を打ったかに見えたのに、実にいかなる力が加えられたのか、鼻口からの血はおろか、眼球まで飛び出し、頭蓋骨《ずがいこつ》は卵のカラみたいに砕かれてしまった。
それらの血や脳漿をいとうように小姓は飛びのいて、数メートルも離れたところで木刀をおいて、両腕をつかえていた。――相手の巨体が倒れるのと同時にである。
「あれは……あれは……」
景勝はかっと眼をむいた。
「あれは何と申したか。――」
「大島山十郎と申しまする」
と、直江山城は悠然と答えた。
この夜から上杉景勝は大島山十郎を閨《ねや》に侍《はべ》らせた。
――そもそもその発端を作り出したのは自分のくせに、いやそれだからこそ、千坂民部は落着かない。どう考えても、大島山十郎の正体がよくわからないからである。しかし、それ以上に不可解なのは直江山城守の心事とやりかたであった。民部としては山城に周旋しながら、半信半疑であったのだ。その山城守は平然としてあの少年を主君の小姓に組み入れたのみならず、それをいま恋童として送り込んだのを、どうやらわが意を得たりとニンマリとしているかに見える。――
「……だ、大丈夫でござりまするか?」
不安な眼で、民部はささやいた。山城は民部を眺めつつ、ほかの或る世界を見ているようなウットリとした眼をしてつぶやいた。
「わが殿とあの少年……その夜を想《おも》え。思うだに、そのふさわしさ、その美しさに心も痺《しび》れるようではないか。民部、おぬしは痺れはせぬか?」
曾《かつ》ては謙信公の愛童、と承知してはいるものの、現実のいまの直江山城を見て、ただ大いなる智将《ちしよう》、と崇敬している千坂民部であったが、こういったときの山城には、改めてこの人物が自分などとはまったく異次元の世界の人ではないか、という感じがして、民部はぞっとせずにはいられなかった。
しかし、そういわれて思い見れば、謹直な千坂民部の脳裡《のうり》にも、主君景勝とあの大島山十郎の或る構図が浮かび出て、なるほどぼっと妖《あや》しい霧が立ちこめて来るような気がする。――
景勝は、謙信と較《くら》べればともかく――いや、その風姿においては、小柄でややちんばの気味もあった謙信以上に、さらに威風あたりを払う戦国の剛将の相貌《そうぼう》があるに相違なかった。とくに、裏面ではおのれの家を保つのに汲《きゆう》 々《きゆう》として豊臣徳川の間に女のようなかけひきをめぐらしている他の武将連に比して、景勝の小利を顧みない、太閤が評した「律義者《りちぎもの》」詩的にいえば「侠《きよう》」を解する真一文字の性格は、家臣として見ても惚《ほ》れ惚れせずにはいられない。謹直の一面|老獪《ろうかい》なところもある千坂民部でさえ、この主君にとことんまで殉じようと思い切らせるいいところが、たしかに景勝にはあるのだ。
その主君とあの美少年とのおん契り――いかにもこれは、想像しても痺れざるを得ない。――
――そして、事実において、景勝も痺れていた。
女はきらいだが、強壮な武将として精力乏しいわけがない。それどころかあまりの旺盛《おうせい》さに相手が耐えきれず、景勝のそのための小姓群がほかの同趣味の大名にくらべて一頭地をぬいているゆえんだ。が、こんどばかりは、彼の方が痺れた。相手は無限の深淵《しんえん》のようであった。しかも彼にまた無限の放出を強いるのだ。痺れつつも、景勝はこの世のものならぬ陶酔にひきずりこまれた。そして痺れ果てた。
少年そのものの肉体的魅惑もさることながら、景勝はまた相手の技術に舌をまいた。
「だ、だれから学んだ。かようなことを?」
あえぎあえぎいう。
「だれからも」
と、少年は腰をくねらせて笑う。そのなまめかしさとりりしさの異様に溶け合った笑顔は、立派な髯《ひげ》を生やした景勝の壮美な顔をとろとろにしてしまう。
ふっと、これは直江山城のつれて来た小姓だと思う。ふしぎなことに、いままで山城守とこの道について語ったことはなかったが――それは謙信の秘事をうかがうような気がして――改めて山城守が偉大なる恋童であったことを想起し、相手が否定しても、この技術は山城から伝授されたのではないかと思う。いままで山城が寵童など推挙したことはなかったし、では、彼はなんのために? と、ちらと首をかしげたが、すぐに相手の魅惑と技術に溺《おぼ》れはて、けぶるような頭で、さすがは山城だ、という感謝の心がかすめ去るのが精一杯であった。
直江山城と衆道について語るのが謙信の秘事をのぞくような気がして避けたといっても、この道に関して景勝が恥じていたわけではない。それは普通人が憧憬《どうけい》する英雄の房事を知ることを遠慮するのと同様の心理だ。それどころか景勝は、いわゆる男女の交合などよりはるかにこの方が清浄で、神聖だと信じている。――その姿態においてさえも。
景勝の美的観念はともあれ、常識的にはそれは奇態なもののはずであった。しかしこの場合は――この大島山十郎と景勝の構図にかぎり、ひょっとしたら常人が見ても、ああ、とうめいて、これこそ天上の愛のすがただと認めたかも知れない。
ともあれ。――
景勝にとって忘我の二ヵ月ばかりが過ぎた。
「殿。……わたし疲れました」
と、秋の終り、山十郎がいった。やっとのことで景勝も、山十郎がやつれて、最初見たときのほのぼのとした印象から凄艶《せいえん》ともいうべき顔に変っているのを認めた。
「しばらくお休みを下さりませ。それにどうやら城の内外《うちそと》で――とくに或る向きからさまざまの声を耳にしないでもなく、山十郎気にかかってなりませぬ」
「或る向きとは――?」
と、茫然《ぼうぜん》としてきいたが、景勝も察した。奥向きからだ。――いちども契ったことはないのに、奥方がただならぬ殺意にさえみちた眼を自分にむけているのを景勝も気づいていた。これまでそんなことはなかったのだから、それほど耽溺《たんでき》が人の眼についていたのかと、これは彼も認めざるを得ない。
あたかも時を同じゅうして、直江山城守が厳然たる顔をして現われた。
「殿……下野《しもつけ》方面のかくし砦《とりで》の配備はかようにつかまつりましたが」
と、彼は大絵図をさし出した。
景勝が夢みるようなふた月ばかりを送っているあいだに、山城の手によって戦備は着々と進捗《しんちよく》していたのである。
それについての談合が終って――前を退《さ》がるとき、直江山城は微笑していった。
「殿。あの大島山十郎の話をおきき遊ばされたか。拙者もきいて、もっともと存ずる。しばらく、拙者の屋敷にひきとりましょうぞ」
「――え」
「なにここしばらくのことでござるよ。上杉家の運命かけたいくさ騒ぎが終るまで」
景勝はふいに掌中の珠《たま》を奪われたような気がしたが、こういわれてはそれに抗《あらが》うすべもなかった。
実際、事態は、さしもの景勝も渦《うず》まく風雲に身を挺《てい》して立ち向わねばならない様相になっていたのである。石田方の連絡、徳川方の懐疑、そして千差万別の思惑《おもわく》を持つ大名たちからの打診、忠告、教唆《きようさ》。――そのたびごとの軍議、軍議、軍議。
ついに大坂の家康から正面切った詰問状が到来したのは、その翌慶長五年四月に入ってからであった。
「昨年来の景勝の国元にての行動不審なり。もし異心なきに於ては、景勝ただちに上洛して陳弁せよ。いまならば遅くはないぞ。上杉家の興亡このときにあると覚悟せよ。――」
と、いうのだ。
そんなことは前からわかっているはずであったのに、景勝はこの書状に接してさすがに水を浴びたような面色になっていた。理屈ではない。家康を知る人間なら、その家康からこのような詰問を受ければ、だれだってこれくらいの反応は起さずにはいられない。そしてまたのちの関ケ原とその後のなりゆきを思い見れば、この時点において上杉の当主たる景勝が、彼自身も予期していなかった動揺にとらえられたとしても笑うわけにはゆかない。――
「いそぎ、山城を呼べ、けさ白河方面より戻《もど》っておるはずじゃ」
直江山城守は例によって悠然とやって来た。
その姿を見て、だれもが――景勝さえも狐《きつね》につままれたような顔をした。山城守は白い綸子《りんず》につつまれた一人のあかん坊を片腕に捧《ささ》げるように抱いていたからである。
「なんじゃ、それは、山城。――」
景勝は、上方からの飛状も一瞬忘れて、不審な眼を投げた。
山城守はにこと笑って答えた。
「上杉家のおん嫡子《ちやくし》でござりまする」
「なに? だれの子と申した?」
「殿の――すなわち、上杉百二十万石の御世子でござりまする」
「何じゃと?」
「いやまことに拙者としたことが、何ともはや恐れ入ったる失態、なんと上杉家の御世子は七日前に御出生になっておるのに、それを知らずしてけさ帰り、このことを知って仰天また歓喜、いそぎおん父子御対面のためとりあえずおつれ申した次第でござる。――」
「わしの子? わしが子を生むわけはない。な、何を荒唐なことを申しておるか、山城」
「殿のお子さまであるか、ないか。殿――とっくりと御覧なされませ」
山城守はちかぢかとそのあかん坊をさし出した。
怪夢を見るがごとくのぞきこんで――景勝はうなった。
何者かは知らず、七日前に生まれたというその子は、はっきりした輪廓《りんかく》さえもまだなかったが、それにもかかわらず景勝は天啓のごとく衝撃に打たれていた。
彼は父として、まさにおのれの子がここに忽然《こつぜん》として出現したことを知ったのだ。
「恐れながら、これは殿より不識庵さまのおん面影をとどめておわす。はははは……殿、およろこび下され、これ、まさしく上杉家の嫡々でござるぞ。――」
白綸子の中で、あかん坊は両足ふんばり、勢いよく泣き出したが、直江山城守は快笑した。
その顔を茫乎《ぼうこ》としてにらみつつ。――
「だ……だれが……どこの女が、この子を生んだと申すのじゃ、山城?」
呆《ほう》けたような声でいう。
「おんたね頂戴《ちようだい》いたしたは、かの大島山十郎でござりまする」
「ば、ばかな! さ、山十郎――また何たる世迷い言を――山十郎は男ではないか」
「男子でも孕《はら》むことがござりまする。快美|恍惚《こうこつ》の涅槃《ねはん》境においては」
「山城、景勝を白痴《こけ》にするか。――」
「いなとよ、なんじょうこの山城が、かかる厳粛なることに冗談《わやく》を申しましょうや。殿、衆道の世界のきわまるところ、背孕みということがあるのでござりまする。……」
山城守は声をひそめてものものしくいい、ふいにまわりを見まわして、
「いや、殿がお疑いあそばすのは御無理もござらぬ。何しろ拙者にすら思いがけぬことでござりましたゆえ――突如、かかることを公けにしても城の内外、信ずるはおろか、あらぬたわけた噂《うわさ》も立つでござろう。こりゃ、然《しか》るべき手順を踏んでから諸人に示すようにちと細工せねばなりませぬ。いましばらく、この山城がお預りつかまつりましょうぞ」
といって、あかん坊をあやし、飄然《ひようぜん》として退がっていった。――景勝は阿呆《あほう》のように見送っただけである。
家康の詰問状などケシ飛んでしまった。
――あかん坊というものは女でなければ生めないものであることは、いかな景勝でも知っている。では大島山十郎は女であったのか。
それが、景勝には思い当るところがない。あれほど悦楽の淵に両者もつれ合って纏綿《てんめん》したにもかかわらず、彼は山十郎が女であるといちども思ったことはなかった。ひたすら寵童として遇したはずであった。
――にもかかわらず、あのあかん坊は何だ?
それがまさしく自分の子であることを景勝は直感した。彼はそれまで世子のないことを大して意に介せず、謙信のあとを自分が嗣《つ》いだように、自分のあとも然るべき一族の子にゆずればよいと思っていたのだが、そのあかん坊を一目見た刹那《せつな》から、まったく予測しなかった一種異様の父としての感情がほとばしるのを彼は感じた。
だが、それを男の山十郎が生んだと? ほかに思いあたる女など一人もいない以上、そうとしか思いようがないが、しかしいくらなんでもそう思えるか。
山城め、奇妙なことを申しおった。「背孕み」とか。――そのようなことが、この世にあり得るのか?
その直江山城が、彼にもあるまじき周《しゆう》 章《しよう》 狼狽《ろうばい》の相をあらわにして駈け込んで来たのは、その翌日のことである。
「……しもうた! 殿、若君を奪われ申した!」
「なに? だれに?」
「その母に――いや、父と申すべきか――何やら拙者にもよくわかり申さぬが、あの大島山十郎に」
「えっ? 山十郎がどこへいったのじゃ?」
「けさ未明、白馬にてみどり児《ご》を抱き、疾風のごとく会津を西に駈け去った者ありとの知らせに、白馬といえば直江家名代の白馬|白蓮華《びやくれんげ》、もしやと思うて山十郎と若君の部屋をのぞきましたるところ、なんとかかる置手紙あり。――」
彼は一通の書状をさし出した。
「拙者――この直江山城ほどのものが、こんどばかりはもののみごとに計られ申した!」
その手紙には、水ぐきのあとうるわしく、驚倒すべきことが書き残されていた。すなわち大島山十郎は信州上田の真田《さなだ》に仕える者であるが、存ずるところあって上杉家のおん嫡子をお預り参らせて上田に帰るという。――
「真田|昌幸《まさゆき》でござりまする。……いまにして思えば、昌幸の一子|幸村《ゆきむら》の嫁は大谷家から参ったもの、かくのごとき縁に結ばれた両家でござれば、あり得ること。――ただし大谷の方はいまだ石田か徳川か帰趨《きすう》を明らかにせぬとは申せ、真田の方はこりゃ石田に輪をかけた反徳川の大立者。……殿、まんまと上杉家のあとつぎを、真田の人質に取られ申したわ!」
たたみを叩《たた》いて嗟嘆《さたん》する直江山城を見つつ景勝は――こやつ、すべての黒幕はこやつではないか――と思ったが、しかしそんな疑いを圧倒する大自失のために、一語も声は出なかった。
――のちにすべてのことを知った前田咄然斎が、呆《あき》れて「こりゃ山城どのを見そこなった。おれも三舎を避ける大いたずらもの」と評した。
この人質のためかどうかは知らないが、それまで迷いの翳《かげ》のあった上杉景勝が、ついに乾坤一擲《けんこんいつてき》の挑戦へ踏み切ったのは事実である。
家康の詰問に対して直江山城が返した答書は痛烈を極める。
「太閤さまおん置目《おきめ》に相叛《あいそむ》き、数通の起請文反古になし、御幼少の秀頼さま見放し申され、たとえ天下の主《あるじ》になられ候とも悪人の名のがれず候」
と、家康を罵《ののし》り、景勝上洛などは以てのほかと一蹴《いつしゆう》し、
「内府さま御下向の由、万端は御下向次第につかまつるべく候」
すなわち、来るなら来れ、相手になってやるぞと、家康のみか天下をあっといわせる挑戦状をたたきつけたのである。
かくて、その六月、家康みずから大坂を発し、徳川及びそれに加担する東軍は怒濤《どとう》のごとく会津めがけて殺到することになる。
七月、徳川の大軍が上杉勢と下野《しもつけ》において相対したとき――上方より石田ついに起《た》つとの急報が至った。それは直江山城の期して待つところであったが、同時に家康もまた期待していたことであった。このとき家康は一子|結城秀康《ゆうきひでやす》に大軍を託して命じた。
「上方の軍勢は何十万騎ありとて何ほどのことかあらん。上杉は謙信弓矢をとって天下に肩を並ぶものなく、その子景勝また軍《いくさ》に長《た》け、いま彼に向ってたやすういくさするもの少しとおぼゆ。さればおことここに留りて上杉といくさするは、弓矢とっての面目、また何ごとの孝行かこれに過ぐべき。――」
そして、家康は上方に軍を返した。
直江山城の期待に反し、せっかく起った石田の軍配ははかばかしからず、すべてが水泡《すいほう》に帰したことは、「関ケ原」の戦史に見る通り。――
さて下野にあって結城秀康の大軍と上杉軍が、上方での戦状を遠く見つつ、たがいに偵察戦、前哨戦《ぜんしようせん》、遭遇戦を――一歩誤れば一方が潰滅《かいめつ》にみちびかれるほどの激しさを以て――繰返している秋、会津城に忽然として、白馬に乗った一人の若武者がやって来た。それが、何と一人のみどり児を抱いて、うしろに黒髪長く垂らして。
「大島山十郎です」
と、名乗り、驚いて迎えた景勝に、
「おなつかしや、殿。……」
涙浮かべてすがりついたところは曾《かつ》ての寵童を思わせたが、やがてきっとして、
「天運ここに決し、上杉家の御世子を上杉家にお返し致すべきときが参りました」
と、愛くるしくなったみどり児を景勝の腕にゆだね、さて、
「真田が忍び組の秘命とは申せ、武勇天下に聞えた景勝さまを白痴《こけ》のごとくあざむき参らせたる罪をつぐなわんがため、かつはかかる変幻の媚術《びじゆつ》によって御誕生あそばしたる若君を未来うしろ指ささせぬため、大島山十郎、いのちをかけて上杉家一代のいくさに参じとう存じまする」と、いった。
景勝はこの挨拶《あいさつ》にもぽかんとしていたが、やっとのことで、
「おまえ、男か、女か。――」ときいた。
山十郎は景勝を見つめた。
「わたしは女として、殿をお愛し申しあげておりました」
と、いい、にいっと笑って、しずかにその胸をかきひらいた。そこから雪のような乳房が二つあらわれると、彼は――いや、彼女はその一つを愛児の口にふくませて、
「おぼえていてや、そなたの母の名は陽炎《かげろう》。――」
と、哀切な涙の笑顔で見いった。
最後の授乳を終えると、彼女は景勝の前にもう一つ、生きているとしか思われない一本の肉筒を残し、夢みるような景勝をあとに――いや、会津城の人々をあとにゆらりと白馬白蓮華に打ち乗った。何を知らずとも、その姿のゆくところ、見た者はだれもこれを夢幻の中の武者と思ったろう。白馬に乗った黒髪ながきその姿は、淡紅の具足をつけ、背の旗差物もまた淡紅、それに六連銭をえがいたものをひるがえし、疾風のごとく駈け去った。
時あたかも那須《なす》から鬼怒川《きぬがわ》にかけての戦線で、上杉軍は次第に増加して来た徳川の大軍と交錯し、これを指揮する直江山城も敵の重囲におちて死闘していた。
その敵がふいにどよめきながら、崩れはじめたのを山城守は望んで、黄葉紅葉舞うかなたの林の中に白馬を乗りいれ、むらがる敵を虫のごとく蹂躙《じゆうりん》している淡紅の武者があるのを見た。
「女だ、女だ。――」
騒然たる動揺の声が波打って来た。
ただ一騎で崩れる敵であるはずはないが、その騎馬武者のあまりの美しさと、そしてあまりの強さのアンバランスに仰天したものであろう。のみならず、その怪異さにも。――
遠望ながら直江山城は、その馬上、すでに具足も旗差物も斬り裂かれた武者の胸に真っ白な乳房が一つ見えたような気がして、はっとした。
「あれは……あれは……」
乳房は白くなかった。馬も白くなかった。もはやそれはから紅《くれない》であった。それがこちらを見て、
「山城さま。――」
と、笑みさえふくんで呼びかけて来た。
「背孕《せばら》みの秘法、その愉《たの》しさ、陽炎《かげろう》、あの世まで忘れはしませぬ。お礼申しあげまする。おさらば。――」
そして、その妖しき紅騎兵は、那須野の地平線にひしめく雲霞《うんか》のごとき大軍の中へ、真一文字に駈け、駈け、幻の天馬のように消えてしまった。
「奥羽永慶軍記」にあるこの話を、南方熊楠《みなかたくまぐす》は「婦女を|※[#「女+交」、unicode59e3]童《こうどう》に代用せし事」という随筆でいろいろ考証し、さしもの碩学《せきがく》もやや当惑の態に見えるが、作者は、衆道の技術によっては可能であると思う。ただし、それも乳房の膨縮自在の女忍者と、天下第一の※[#「女+交」、unicode59e3]童直江山城の合作によってはじめて可能なテクニックであったかも知れない。
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忍法聖千姫
「坂崎|出羽守《でわのかみ》家来、御馬格兵衛《おんまかくべえ》、針ノ木|銅貫《どうかん》、小豆玄七郎《あずきげんしちろう》と申すものでござる」
「何とぞ千姫さまに御意得たい」
江戸城竹橋御門内のいわゆる千姫屋敷の門前に立った三人の武士がこういったとき、警衛の侍たちが、その用もきかず、また一言のもとに拒否もせず、転がるように中へ走っていったのにはそれだけの理由があった。
すぐに玄関の方から押っ取り刀といったようすで、これも三人の侍が駈《か》け出して来た。
「坂崎家の御馬格兵衛だと?」
「針ノ木銅貫とはおぬしか」
「小豆玄七郎とはどちらじゃ?」
文字通り、色めき立って問うて来た。むろん、刀のつかには手をかけて。
推参した三人は、一人は青銅で作った金剛力士みたいで、一人はまだそれほどの年ではないのに髪が薄く、薄いというより巨大な後頭部まで禿《は》げていて、いかにも入道といった感じの男で、もう一人は狼《おおかみ》みたいに痩《や》せた顔とからだを持った、しかし妙にしなやかな長身の男であった。
こちらの問いには答えず。――
「千姫さまにお目通り願いたい」
「じかに申しあげねばならぬことがあるのでござる」
「さなくば、容易ならぬ天下の一大事となる。――」
と、三人はいった。むしろ沈痛な調子であったが、それだけにいっそう凄味《すごみ》がある。もともとこの三人が、ぶらりと立っているだけで一種異様の凄惨《せいさん》の気を漂わせている印象の持主であったが、とくにいま、何やらただならぬ覚悟でやって来たことはあきらかであった。
「なに、容易ならぬ大事? それ申されい」
「じゃから、千姫さまにじかに申しあげるといっております」
「ここできかねば通されぬ」
「すると、大事が起るといったのを信じられぬか?」
堂々めぐりの押問答が、火花のように旋回したあと、恐ろしい沈黙と殺気が両者の間にたちこめた。
「柳生衆《やぎゆうしゆう》か」
と、入道がうめいた。
「おう、千姫さま御守護のため特に派遣された柳生の者、その名にかけて、おぬしらここを通せぬ。――やるか!」
最初からつかに手をかけていた刀のこじりが、ぴいっと鶺鴒《せきれい》の尾みたいに上ろうとして――三人の柳生侍は、いっせいにまばたきした。
思いがけないことに、推参した坂崎家の家来と称する三人が顔見合わせ、腰の大小を鞘《さや》ごめに抜きあげ、くるくるっと下緒《さげお》で束《たば》にするや、
「お渡しいたす」
ぽうんと、そこにいた門番たちの方へ投げたのだ。
「何なら、裸にでもなり申そうか?」
にやっとしたが、すぐそのあとで、
「しかし裸で千姫さまに見参するわけにも参るまいな」
と、つぶやいたところを見ると、千姫さまに逢《あ》うという目的はどうしても通すつもりと見える。いや、それを信じて疑わないかに見える。――
が、柳生侍たちは、その人をくった強引さに改めて怒るのも忘れた。それよりも相手の大胆さにあっけにとられた。
なぜなら――最初に報告を受けたときから、ついにきゃつらが来たか、と全身の毛穴をしめつけて駈け出して来たほどのその三人の名であったからだ。
青銅の金剛力士みたいな小豆玄七郎。
入道頭の肥満漢御馬格兵衛。
狼《おおかみ》が人になったような顔をした針ノ木銅貫。
むろんこの風貌《ふうぼう》と名の結びつきはあとでわかったことだが――ただし、三人の柳生侍はついに永遠にそれを知ることが出来なかったが――剽悍《ひようかん》無比で聞えた坂崎出羽守一門のうちでも、柳生が特に注目していた名前であった。むしろ、この三人の名に備えて、とくに柳生から自信のある剣士を供出したものであったといっていい。
つまり、まだ戦場でのいわゆる豪傑が云々《うんぬん》されていたこの元和《げんな》の時代に、特に剣法というものに特別の工夫を凝らしていたいわば同好の士なのだ。ただし柳生の新陰流よりはるかに古い、南北朝のころに興った中条流の道統をひくという。――
その三人が、いまみずから刀を投げたのを見て、三人の柳生侍は拍子ぬけがすると同時に、かえってこれを斬るはおろか、彼らの願いをむげに斥《しりぞ》けることさえ出来なくなった。
「では、千姫さまに御無礼は働かれぬな?」
「はじめから、そんなつもりはない」
御馬格兵衛がいえば、小豆玄七郎もいう。
「お気づかいならば、お目通りいたすわれわれ三人のうしろに、それぞれおぬしら刀を擬してひかえられるがよい」
「そうまでいうなら」
と、柳生侍三人は顔を見合わせて、
「では、参られい。――」
と、うなずいた。
三人の坂崎の剣士があるき出すうしろに、彼らはぴったりついて、「いざ」とあごをしゃくった。――
発端はもとより例の大坂城の一件である。
去年元和元年五月八日、坂崎出羽守は炎の中から千姫を救い出した。なお狂乱して秀頼を恋う千姫は、その一年後すべて大団円で死んだ祖父大御所の断末魔に於ける唯一の憂いであったようだ。
「早う嫁《かた》づけてやれい。あれを鎮めるにはそれにかぎる」
と、いやになるほど現実的な大御所はいい、さらにその再婚のさきを桑名《くわな》の城主本多忠政の嫡男|忠刻《ただとき》にみずからきめた。忠刻は有名な平八郎忠勝の孫にあたるが、同時に家康自身の曾孫《ひまご》でもあった。しかも、本多家は姫路に移して、千姫の十五万石の化粧料を加えるということまで、去年のうちに家康が手配した。
それが途中で大御所が死に、この夏を迎えてもまだ実現のはこびに至らなかったのは、なお千姫が心進まぬといい張るのと、そして坂崎出羽守の邪魔のためであった。
彼は申し出た。
「あのとき、千姫さまお救い申しあげた者に姫をつかわすとは、大御所さまのお約束でござる」
いかにも、そのとき家康は身をおしもんでそういった。そしてその時点に関するかぎり、それは真実の声であった。
しかし、救った坂崎出羽守は五十を幾つか出ているのである。先年妻は亡くしているけれど、いかになんでも二十歳の千姫を正気で恩賞の対象に考えるとは意外であった。
はじめ、右の縁談を一切坂崎とは談合なく進めたので、へそ[#「へそ」に傍点]を曲げたのであろうと思い、あわてて懐柔にかかったが、出羽守は常識を超えておのれの主張に頑強《がんきよう》であった。――ふりかえれば、元来彼は偏執狂的なところのある男なのである。
もともと彼は備前|宇喜多《うきた》家の家老職の家柄であったが、ほかの家老と争い、ついに大々的に私闘を起そうとしたので、喧嘩《けんか》両成敗で双方とも宇喜多家を追われた。そのことを深く根に持って、のちに関ケ原で宇喜多秀家が西軍の総帥《そうすい》となるや、わざわざ徳川方に参陣し、この元主家に最も激烈な攻撃を加えてその恨みをはらしたという人間なのだ。
しかも、大坂城の炎をくぐった出羽守は半面|火傷《やけど》に焼けただれている。千姫を与えるなど、とんでもない!――とはいえ、理は彼にある。
「武士の一言金鉄のごとしと申す。武士の棟梁《とうりよう》たる大御所さまの御約定は何に譬《たと》え申そう?」
幕府から繰返し説得にやられた柳生又右衛門|宗矩《むねのり》に、出羽守は熱するがごとく、冷笑するがごとくこういって、あとは口をへの字に結ぶばかりであった。
――出羽を斬《き》れ、という声はむろん出たが、こうまでこじれると世評もあって、上意討ちも暗殺も出来ないのである。そしてまた、坂崎の方でも防備おさおさ怠りなし、といったありさまとなり、さらに逆に幕閣の方で、
――出羽め、血迷うて何をやるかわからぬ。
と疑心暗鬼にとりつかれて、かくて柳生から交替で、えりぬきの剣士が日夜千姫屋敷に派遣されることとはなったのだ。
千姫の諾をも待たず、本多家への輿入《こしい》れは九月ときまり、その準備は着々と進行中であった。坂崎出羽守の横槍《よこやり》が風評にささやかれているために、かえって徳川家の威を示す必要から、事は強引に進められるなりゆきとなったのだ。
何かが起る。――
だれしもこう予感していたところへ、果然、この八月の一夕、坂崎出羽守家中の名だたる剣客が千姫屋敷を訪れた。
そしていま、相手の剣士の警戒裡《けいかいり》に、無腰で千姫の住む一劃にみちびかれてゆく。――むろん、うしろからも、大勢の人数が低くどよめきつつ追ってゆく。
大坂から帰って来た千姫のために――しかも断じて江戸城の本丸そのものに入ることを肯《がえん》じない千姫のために――急遽《きゆうきよ》去年この竹橋御門内に作った建物であった。大御所さまおん孫姫の住居にふさわしい重々しい作りではあるが、むろん規模は大きくない。
「何処へ参られる?」
「それ以上、御通行は相成りませぬ」
と或《あ》る小さな門を入って庭に入りこんだとき、向うから風鳥《ふうちよう》みたいに二人の侍女が飛んで来ておしとどめた。
柳生侍たちはいった。
「坂崎家家中の者、姫君さまに是非とも言上の儀ありとて推参つかまつった」
「刀も投げて、その様子ただごとならず。――」
「万一、不審なる徴候あらば、御覧のごとくわれらたちどころに斬り捨てまする。ともあれ御遠方なりとも、お目通り願わしゅう存じまする」
むろん、門前の騒ぎは、もう千姫の耳にも達しているはずだ。――しかし、侍女は首をふった。
「ただいま、姫君さま、おん湯浴《ゆあ》みなされております。おひきとりなされませ」
「――待ちゃ」
庭の向うの母屋から、銀鈴をふるような声が聞えた。
「湯からは出た。……坂崎のものが、ここまでおしかけて参ったと?」
夏のこととて、回廊の向うの障子はあけはなされていたが、空気はすでに蒼味《あおみ》を帯びはじめ、座敷の中は薄暗かった。――あとで思うと、そのひとは、こちらの騒ぎをきいて、侍女の手をふりはらい、ひとり、その座敷まで出て来たところであったらしい。
「何のために柳生から来ておる?」
「はっ」
柳生侍たちはうろたえた。
「成敗せぬか」
「ま、待たれい!」
針ノ木銅貫がかん高い声をふりしぼった。
「斬られるのは、いつでも斬られる。……まず、拙者どもの口上、おきき下されい!」
そのとき、「姫さま! 姫さま!」と狼狽《ろうばい》した声とともに、座敷の中に雪洞《ぼんぼり》が一つ入って来た。ふいに女あるじが湯から出てこちらに向ったと知って、あわてて侍女が灯《ひ》を持って追って来たらしい。
「申せ」
薄闇《うすやみ》の中から、腹立たしげな声がひびいた。――いや、そのひとの姿が朦朧《もうろう》と浮かびあがった。
それを十メートルばかり離れたところで眺《なが》めつつ、庭にはしばし声もなかった。息をする者さえないようであった。
「申さぬか」
と、千姫はくり返した。
棒立ちになっていた三人の坂崎党は、ふいにべたべたと膝《ひざ》をついたまま、まだ数十秒何やら肩で息をしていたが、そのうちまず御馬格兵衛が、いちど「――けくっ」というしゃっくりみたいな声を出していい出した。
「一大事でござる」
「何が?」
「出羽守、死を決しております」
「於千《おせん》の知ったことではない。勝手に死ね」
「あいや、出羽守の覚悟はほんものでござる。大御所さまの御誓約、また侍の意地、などによるのみならず、まったく、大坂の炎の中でいだきまいらせた姫さまのおん柔肌《やわはだ》忘れがたく。……」
「――爪《つめ》を切ってたも」
と、千姫がいった。雪洞をかこんで不安げに坐《すわ》っている二、三人の侍女にである。
「――されば、この九月、千姫さま播州《ばんしゆう》へお輿入れ遊ばすこと、いのちをかけてもおん邪魔立てつかまつらねばならぬ。……」
「――やっ?」
と、柳生侍たちが動揺した。
御馬格兵衛はここまでふるえる声でいって、それから、「おまえ、言え」と横の小豆玄七郎にいった。たんなる恐懼《きようく》で口がきけないのではないらしい。――で、小豆玄七郎がいう。
「五十を過ぎた出羽守の恋、それを狂気の沙汰《さた》と知ればこそ、家来一同、ふびんにしてかえって見逃しがたく、かくて藩中の同志数十人、そのときは東海道を上るおん輿、途中で斬り込んで、たとえ死びとの山を積もうと必ず奪いたてまつる計画でござる」
「出羽を討て。……」
柳生侍の一人がさけんで、駈け出そうとした。
「待たぬか、ここで騒げばとり返しのつかぬ破綻《はたん》となるぞ。終りまできけ」
と、小豆玄七郎が横柄《おうへい》に叱咤《しつた》した。が、千姫の方をふたたびふり返った顔は、かすかにあごさえふるわせて、
「いまさら押しかけても、出羽はすでに死ぬ覚悟。その上、右の同志はもはや坂崎家を逐電して、東海道それぞれ所定の場所へむけて散っております。――銅貫、申せ」
と、息を切った。
「ここに於て、われらが参ったは。――」
と、針ノ木銅貫がいい出した。
「右の企て、もとより失敗に帰そうとも、徳川家にとっては天下に顔むけならぬ大恥……何とぞこれだけはとどめたく、われら三人苦心|惨澹《さんたん》、血を吐かんばかりの諫言《かんげん》の末、ようやく主人出羽守を説き伏せてござるが。――」
――なんのことだ、などいう者は、こちら側には一人もない。計画だけでもまさに身の毛もよだつ大事というしかない。それに、そういった針ノ木銅貫の声がなぜかまたおののいている。
「ここに於て出羽、申し出でましたるは」
と、銅貫はいった。
「千姫さまのおん唇《くちびる》を頂戴《ちようだい》いたしたく。――」
侍女に爪を切らせていた千姫の動きがふととまった。
「いやさ、おん唇の紅《べに》のあと、ここに持参いたしましたる坂崎の定紋打ったるこの旗に頂戴いたせば、出羽夜々それを抱いて寝よう。それ以上のことは大坂落城の炎に消えた夢であったとあきらめよう、と申しまする」
ふところから一旒《いちりゆう》の旗をズルズルとひき出した。
「坂崎の旗に、将軍家御息女のおん唇のあとを戴《いただ》くなど、実に恐れ入ったる儀には存じあげまするが、右のごとき大事がこれにて止まりまするならば……あいや、大御所さまのあの御約定にくらべまするならば。……」
声が途中で消えた。
銅貫のみならず、あと二人の使者も、口をあんぐりとあけて座敷の方を見ている。彼らはいま自分たちの要求したことさえも忘れそうであった。いや、しゃべっているうちに、全精魂を吸いとられてしまった。……はじめて見る千姫さまに。
彼らが千姫さまを見たのはこの日がはじめてであったが、柳生侍はもとより、それを取り巻いている屋敷の人々も、今宵《こよい》のような千姫さまの姿ははじめて見た。
何の道具であろう、千姫さまはゆらりと腰をかけていた。それが湯浴みからいそぎあがって、侍女の手もふり払って来たものらしく、ただ純白のうすぎぬをまとっているだけなのだ。しかも、からだもなかば濡《ぬ》れたままであったのではあるまいか。うすぎぬはぴったりとまといついたまま、半透明に人魚のような姿態を浮きあがらせている。――半面を照らす雪洞に、おぼろおぼろと。
それにしても、そもこれは、人間の女人なるものであろうか。
まだ湯浴みに濡れているとしか思われない長い黒髪、この場合にも眼《め》をあげずうす蒼い翳《かげ》をおとす睫毛《まつげ》、この世の空気を他とひとしく呼吸しているとも見えぬ蝋細工《ろうざいく》のような鼻、柔い花弁を二枚重ねたような唇、象牙《ぞうげ》色の光沢を仄《ほの》かに照り返す頸《くび》、そしてうすものをフンワリと盛りあがらせている二つの玉椀《ぎよくわん》を伏せたような乳房、なよなよとくびれたまるい胴からむっちりと張った腰。――
江戸城の姫君から七歳にして大坂城に嫁し、天下一の栄華と、そしてその祖父と父から夫を殺されるという最大の悲劇を経《へ》た女人――その記憶もまだなまなましく、なお何かに怒り、何かに訴え、何かに耐えているような魂の白炎が、その清麗妖艶《せいれいようえん》をきわめる女体から立ちのぼっているようだ。
しかもいま。
千姫はそのうすぎぬから雪白の足を横に出して、侍女に爪を切らせている。無邪気といおうか、傍若無人といおうか。――あきらかに決死の覚悟で乗り込んで来た坂崎の三剣士を、声もふるわせ、肩で息するばかりのありさまにおとしたのは、実にこの世のものならぬ幻影のごとき姿なのであった。
「参りゃ」
と、千姫はいった。
三人はおろか、柳生侍その他も口をぽかんとあけた。
「その旗を持って来や」
三人ののどから、またけくっというような声がもれると、彼らはその方へさまよい出た。
「あれを」
と千姫は侍女にあごをしゃくった。
侍女はためらいつつ、縁側に三匹の犬みたいに手をかけている坂崎党からその旗を受取って、千姫のところへ持って来た。
「その切った爪を、拾い集めて、あのものどもにつかわすがよい」
と、千姫はいった。
侍女はその通りにした。幾片か、爪ののせられた旗を受け取って、三人は茫然《ぼうぜん》としてそれを見下ろしている。――
千姫は微《かす》かに笑った。
「それを煎《せん》じてのめと出羽に告げよ。ほ、ほ、ほ」
その刹那《せつな》、何やら見えない殺気のようなものを感じて、柳生侍たちは夢から醒《さ》めたように殺到した。
しかし、三人の坂崎の武士たちはふりかえるはおろか、微動だもしない。――かみつくように首をまげて、旗の上を凝視している。
「これが……」
「あの……」
「千姫さまのお爪か……」
つぶやくと、小豆玄七郎が酔ったように手をのばして、その爪を拾って口に入れた。すると、反対側から御馬格兵衛も、ガツガツとそれをつまんで、これも食った。――まんなかで旗をひろげていた針ノ木銅貫は、あわてて旗をふるい、さて暗い地上に落ちた爪の残りを、これまた鶏みたいについばんだ。
これは千姫にも思いがけない行為であったと見えて、彼女も美しい双眸《そうぼう》を大きく見開いてこの光景を眺めている。――
「けけけけけ」
だれの声かわからないが、三人のうち、たしかにこんな怪鳥みたいな声をたてて笑った者がある。――それから三人は、はっとしたように、きょろきょろまわりを見まわした。
「はてな?」
「明るい。――」
「夜が明けたようじゃ」
そして三人は、うしろに呆《あき》れたように立っている柳生侍たちを見た。
「ふうむ。これが柳生か」
「でくのぼうじゃな」
「われらを斬ると? けけけけ。……」
柳生侍たちは勃然《ぼつぜん》、というより愕然《がくぜん》としていた。彼らはこの坂崎の使者たちが発狂状態におちいったと思ったのだ。
「姫。……成敗つかまつる!」
千姫の反応をも見ず、一人、猛然と抜刀して――小豆玄七郎に斬りつけた。小豆玄七郎はすれちがい、あっというまにその刀を奪い取って、よろめく相手から血しぶきをたてさせた。ほかの二人の柳生侍も、それこそこちらが発狂したように、それぞれ御馬格兵衛と針ノ木銅貫に躍りかかったが、白刃は宙に舞っただけで、一人は鼻ばしらを鉄拳《てつけん》で殴りつけられ、一人は股間《こかん》を蹴上《けあ》げられて、これまた血へどを吐いて転がった。
一瞬の音響のうち、庭はしーんとしていた。
あまりの物凄さに、眼を疑ったのだが――千姫屋敷の奉公人たちは、自分の頭まで疑った。大地にちらばっているのは、音に聞えた柳生家が特に選びぬいた剣士たちであったはずだ。それをこの男たちは、いま宣言したごとくまるででくのぼうを相手にするように、素手で粉砕してしまった!
だれも動かない。動いたところでどうにもならないが、動こうにも動けない。――
動いたのは、坂崎の剣士たちの方であった。
三人は、また縁側のふちに犬みたいに手をかけて、凝然と立つ千姫を見あげ、酔っぱらったようにもつれた舌でいった。
「これが柳生……ふっ、ものの役に立たぬこと、御覧の通りでござる」
「これより坂崎の方で……いったん出奔したやつばら……当御屋敷に推参するおそれあり、その相手は拙者どもにおまかせを。……」
「われら、全身全霊を以て、千姫さまを御守護つかまつる。……」
怪事だ。まかりまちがうと、刺客にもなりかねなかった坂崎出羽守からの使者が、寝返ったとしか思われない。――
彼らはどうしたのか。彼らの心事に何が起ったのか。
それは怪事ではあったが、事実であった。それっきり三人は、千姫屋敷に腰をすえてしまったのである。
しかし、柳生家から派遣された面々を斬殺したということは容易ならざることである。その上、彼らがそのとき口走ったことは外へもれて、いままで出羽守に対し一抹《いちまつ》の気おくれの感のあった幕府もついに踏み切った。その数日後、出羽守が死んだのである。その詳細は不明であるが、ひそかな風評によると、坂崎の家老|牧野勘兵衛《まきのかんべえ》なるものが、出羽守の泥酔《でいすい》しているところを刺し殺したとも、行水しているところを殺害したともいう。また牧野勘兵衛をそう使嗾《しそう》したのは柳生|宗矩《むねのり》で、その目的を達するや、宗矩は勘兵衛を討ち果してしまったという。――
そういうことをきいても、千姫屋敷の例の三人は、
「ははあ?」
と、ひとごとみたいにいっただけで、平然としていた。口さえあんぐりとあけて、まったく次元のちがう白昼夢を見ているような眼つきをしている。
怪事はほかにもあった。
彼らを滞在させて、千姫が平然としていたことだ。これでは、攻撃組と守備組が逆転したようなものである。むろん、いくどか「坂崎の手の者追い出されるように」という慫慂《しようよう》は上からあったのだが、千姫は、「その必要はあるまい」とはねつけて、全然とり合わなかった。幕府の方では彼女の心理にくびをひねったが、不可解なのはいまさらのことではなかった。大坂から江戸へ来て以来、すねているのか、自暴自棄になっているのか、大御所でさえ手を焼いた行状だ。幕府がもてあまし、はばかっているのは、実は坂崎出羽守よりも千姫さまの方なのであった。
さらに、何ともいいようのない怪異がある。
御馬、小豆、針ノ木などは、たしかに寝返った。どう見ても異心ありとは思われず、千姫さまの姿を遠望すれば、それだけでへたりこんで恍惚《こうこつ》とよだれをながし、近づけば犬のように這《は》いつくばるというていたらくであったが――この三人と千姫のあいだに、それ以上の妙な交渉が起ったのだ。
いちど、散策中の千姫が彼らの前に立って、
「わたしの爪が食べたいかや?」
と、うす笑いして問いかけたとき、
「は。――おん髪でも、おん耳垢《みみあか》でも」
と、答え、
「それでは、これはどうじゃ?」
と、千姫がいきなりその一人の面上に唾《つば》を吐きかけると、その男はまるで癲癇《てんかん》みたいにひっくり返って、口から泡《あわ》を噴きはじめた。そして、まるで女のような喜悦のうめきをあげてころがりまわったのだ。「――拙者も!」「――拙者も!」と、ほかの二人も顔をつき出した。ややめんくらいつつ、千姫は同じく唾を吐きかけた。するとその二人も、あきらかに恍惚状態におちいって地上を輾転《てんてん》反側するのであった。
これがはじまりだが、いちどにとどまらず、さらに唾どころではない。――そのうち彼らは、さらにいとわしくも可笑しい行為をやりはじめた。
千姫が湯浴みしたあとの湯を流そうとした侍女は、ふとうしろにこの三人が瓢箪《ひようたん》を持って立っているのを見出したのである。
「それ、たまわるまいか?」
と、小豆玄七郎がおずおずといった。――青銅の金剛力士のような顔に、犬みたいな媚《こ》びの笑いがあった。
侍女があっけにとられているあいだに、御馬格兵衛が躍りあがって、その湯を瓢箪に汲《く》み出した。そして、いきなりそれをごくごくと飲みはじめた。負けじと玄七郎も瓢箪をつっこみ、針ノ木銅貫に至っては、湯槽《ゆぶね》のふちにあごをおしあて、狼が血をすするようなぺちゃぺちゃという音をたてて湯垢《ゆあか》をねぶっているのであった。
さて、彼らはこの瓢箪をいつも腰にぶらさげて、持薬のごとく服用する。
「……美味《うも》うござるか?」
と、そのころ少しは話もするようになった老|中間《ちゆうげん》がこうきいたことがある。
「ああ、美味《うま》い! 美味い! 天の甘露とはこのことじゃ」
小豆玄七郎はその瓢箪の栓《せん》をとり、ささやくように、
「それに先日、ひたいに頂戴いたしたおん唾をな、あわててぬぐってこれに入れてから、その甘さ、そのコク、えもいわれぬ香味を加えた。……」
惜しそうに、ちょっとすすっただけで、すぐに栓をとじ、
「うぬにも賞味させてやりたいが、めったなことではこの珍味は人に味わわせられん!」
と、それだけで酩酊《めいてい》したような眼つきになって、瓢箪をかかえたまま、逃げるようにいってしまった。
むろん、ただ味覚ばかりではない。――どうやら精力剤、強壮剤、さらに肉体的諸機能増進剤としてもばかにならぬ効能があるらしい。
最初に千姫さまの爪を食ったときから、
「――はてな? 明るい。夜が明けたようじゃ。――」
と、つぶやいて、まわりをきょろきょろ見まわしていたが、あれはただ気のせいばかりではなかったのだ。
もとよりそんなことになるとは、彼らも予想外で、あの行為はただ千姫さまの美しさに衝撃を受けたことから発した無我夢中の発作であったことはたしかで、さればこそ自分の眼を疑うようなそぶりを見せたのだが、さていったんこの現象に気づくと、彼らはいっそう狂喜した。
庭の石燈籠《いしどうろう》を移動するのに、常人なら五、六人かかりそうなやつを一人で軽々と運ぶ、目ざわりな藪《やぶ》を、鍬《くわ》は面倒だと、草のごとく竹を手でひっこぬく。不要な樹《き》を、少くとも直径三十センチはあるやつを、蜘蛛《くも》みたいにひらべったくなり、地上すれすれに一刀両断するという離れわざを見せる。――
これらのわざが、それ以前から体得していたものでなく、さまざま試してみて、みずから驚いていることは、彼らのようすを見てもわかった。その実験ないし誇示の極まるところ、針ノ木銅貫などはいちど女中たちが見ていると承知の上で、からだに似て妙に細長い男根をあらわにし、数メートル離れた石の上にとまっている赤|蜻蛉《とんぼ》を射精によってうち落すという悪戯《いたずら》を展覧に供したことがあったほどである。
また、それ以上に滑稽《こつけい》とも恐ろしいともいいようのない挿話《そうわ》もあった。
右のような傍若無人な行為をにがにがしく思った侍女の一人が、千姫さまのおん湯垢と見せかけて、自分の湯垢を御馬格兵衛に与えたのである。すると――彼は一口のむや、「がふっ」と怪声を発して吐き出し、
「ちがう。……ちがうぞ!」
と、舌を吐いてわめき出した。まるでひどいアレルギー症が知らずしてそれを与えられてもたちまち激烈な反応を起すのに似た現象であった。
さて、彼らはもとよりこれら新しく賦活《ふかつ》された力やわざを、そんな庭働きや悪戯のみに発揮したのではなかった。
そもそも千姫に恨みをいだく坂崎党の者が千姫の護衛者になるということが不可解ないきさつであったが、事実彼らは千姫の強力無比な護衛者になったのである。
あれ以来、千姫屋敷にはいくどか襲撃者が潜入したが、彼らはそれをことごとく討ち果たした。――
暗夜、いつのまにか庭に忍び入った六、七人の男を、その夜当番にあたっていた小豆玄七郎が、文字通り鼻をつままれてもわからない闇の中で、まるで据物《すえもの》を斬《き》るように一人残らず斃《たお》したことがある。また、庭の一|隅《ぐう》の高い銀杏《いちよう》の樹の上にとまっていた曲者を、だれも気がつかないのに、ふいに針ノ木銅貫が、数十メートルも手裏剣をとばして、これを討ち落したことがある。さらに、これは自暴自棄というしかないが、竹橋御門から闖入《ちんにゆう》をこころみた十余人の決死隊を、御馬格兵衛ただ一人、閂《かんぬき》をふるってことごとくたたき潰《つぶ》したことがある。
屍体《したい》を見て、
「ははあ?」
いずれの場合も、彼らは思い当ったような顔をした。
つまり、それは同じ坂崎家の残党であったのだ。そうと知っても、三人の表情に特別の感慨の浮かんだようすはなかった。彼らはそれとはまったく無関係の世界に生きている人間のように見えた。
しかし、坂崎党は、千姫さまよりこの三人の裏切者を狙《ねら》っている形跡が濃厚であった。右の襲撃者たちが断末魔に、
「ううぬ、玄七郎、裏切者め」
「気でも狂ったか、御馬格兵衛。……」
「無念っ、坂崎の恨みは永劫《えいごう》なんじらの上にあるぞ、針ノ木銅貫。……」
などうめいてこときれたからである。
――して見ると、たんなる護衛という役目を果たすのみならず、襲撃者たちの憎悪をおのれに吸いつけるという意味で、いよいよ千姫にとっては有効な護衛者となったといえたかも知れない。
ただし、千姫自身が、はじめからそんなことまで考えて彼らの滞在を許したとは思われない。彼女の心は不可解であるが、さらに不可解な――幕閣にとってぞっとするような噂《うわさ》がまもなく伝えられた。
「わたしの汚ないものを、それまでに好む男たち。……女の冥利《みようり》とはいえまいか?」
彼女がそうつぶやいたというのだ。
「いっそあの男たちにこの身をまかせたら、徳川幕府とやらいう人でなしの爺《じい》どもは、どういうであろう喃《のう》。……」
「――夕波《ゆうなみ》、おれはやはり柳生《やぎゆう》の人間であったよ」
と、柳生|童馬《どうま》はいった。
珍しく腕組みなどをして思案している彼を、遠くから坐って眺めていた娘は、それには答えず、ただまばたきして彼を見まもった。
「おれは、千姫さまのお屋敷に投文《なげぶみ》をした」
「…………」
「三日後、柳生童馬、柳生を代表してお屋敷に推参いたす。坂崎党三名との立合い、お許しを願う、とな。つまり、果たし状だ」
そして、白い歯を見せてにこっとした。――名の通り、どこか童顔だが、しかしきれながの眼に若い叛骨《はんこつ》のひかりがある。
そして相手の娘の方は、これは完全に、からだの大きな童女のようであった。こんな娘がこの屋敷に生まれたのがふしぎである。すなわち、ここは江戸|麹町《こうじまち》御門外の服部半蔵《はつとりはんぞう》の屋敷で、これはその半蔵の娘の一人、夕波という。
「おまえもこの家の娘なら、あそこの話をきいているだろう」
童馬はきいた。
「千姫さまお屋敷におる奇怪な坂崎の三剣士。――あれを外に出せ、放逐《ほうちく》せよと何度もお上からおすすめがあった。それに対して千姫さまはお笑いなされて、あれにまさる護り手はない、あれにまさる剣士があるならばそれに従おう、これに叶《かな》う使い手があると申すなら、千姫のまえで勝負して見せい。ただし挑戦者は三人以内にかぎる――こう御返答なされたそうな」
「…………」
「十日ばかり前の話だ。それに応ずべきか、応ずべからざるか、幕閣ではひそかに御談合中であるというが、その結果を待たず、柳生の方では色めきたって、それにさしむけるべき使い手をいそぎ銓衡《せんこう》中であるときいた」
「…………」
「さなきだに柳生の三人が、そやつらに討たれているのだ。そのときから柳生の方では切歯扼腕《せつしやくわん》、一騒動があったというがそれも当然、ただまさか千姫さまのお屋敷に柳生が斬込むことはならぬと叔父御《おじご》が抑えられた。――叔父御らしいな」
叔父とは柳生家の当主|宗矩《むねのり》である。童馬はその亡兄柳生五郎右衛門|宗章《むねあき》の倅《せがれ》であった。
「のみならず世評では、柳生又右衛門は自分では坂崎出羽守を討てず、坂崎の家老を以てだまし討ちさせ、あとでその家老の首をはねて口を封じたと――事実は、坂崎の家老を以て出羽守を討たせられたのはお上の御方針であるし、家老を成敗したのも叔父御ではないが――とにかく、そのような噂にも、叔父御はじっと耐えておいでなされた。とにかく、あのお人はえらいのか、えらくないのか、おれにはよくわからん」
「…………」
「しかし、事ここに至っては――例の三人と勝負する剣士を出せ、といわれては、柳生たるもの、もはや隠忍してはおれぬ。万が一、他家からそれを選ばれては、剣を以て仕える柳生家の面目いずこにありや、ということになる」
「…………」
「そこで柳生で、俄然《がぜん》、その剣士を選ぶのに騒いでおるときいたが――おれの見るところでは、先に討たれた三人、あれを討ったほどのやつに立ち合って、自信の持てるやつはまずいないな。なぜなら、あの三人は、柳生の道場でも、文字通り五本の指のうちに入る面々だったからだ」
「…………」
「自信のある者が、ただ二人ある。その一人は、叔父だ。柳生又右衛門宗矩その人だ。――こうなったら叔父御が立たれるだろう、とも思う。一方では、いやしくも一大名たる叔父御が、かかるばかげた――ともいえる決闘に出られるだろうか、そもそも、幕閣でそれをお許し相成るだろうか、とも思う。おれが考えてさえ難しい話だから、いまごろ叔父御のお苦しみはいかばかりか」
「…………」
「かくと知っては、柳生家を追放されたこの童馬ももはや知らぬ顔はしておれぬ。おれぬどころか、いままで立場上、出しゃばっては悪かろうと自分を抑えて来たのを、自分で感心しておる。――で、柳生には無断で、柳生の者として昨夜、千姫さまのお屋敷に投文をした」
柳生童馬が柳生家を出たのは、叔父の宗矩とそりの合わない叛骨のせいもあったが、直接の原因は、この服部家の娘夕波と恋をしたことにあった。
徳川家忍び組の首領服部半蔵の娘――それとの結びつきを、なぜか、童馬があっけにとられるくらい宗矩は峻拒《しゆんきよ》したのである。一家の主権者の意志が絶対的であるこの時代に――しかし童馬は従わず、この服部屋敷へ身をあずけた。
が、こちらでも半蔵がそうと知って二人の祝言を許さなかった。ただし、童馬に悪意があってのことではなく、宗矩の意志に遠慮してのことで、「――しばし待たれい、又右衛門どののお心が解けるまで。そのうちわしからゆるりと説いて進ぜるほどに」と童馬をなだめて来たのであった。
「だれにも黙って向おうと思ったが、おまえだけにはいっておく。あとで半蔵どのによろしゅう伝えてくれい」
夕波はすっと立って来て、童馬の前に坐った。
「あなたなら、お勝てになれますか?」
「だから、いま、自信のある者が二人あるといった。その一人が、このおれだ」
ちょっとくびをかしげて、
「ただ、今いう通り、乗り込むのはおれ一人。相手は三人。勝負のなりゆきではどうなるかわからぬ――といっておいた方が正直だろう。しかし、柳生の血を受けた男として、おれはゆかねばならぬ」
また、にこっと笑った。
しかし、童女のように愛くるしい夕波は笑わなかった。
「一人対一人でも危ないのではありますまいか?」
といった。
「なに?」
「わたしは、あの三人を見て来たのです」
「なんだと? いつ?」
「三日前の夜」
「おまえが……何のために?」
「童馬さまのお心を読んで。――ここ七日ばかり、わたしはじっとあなたを見ておりました。そして、ひょっとするといまのようなことを言い出されはせぬかと思ったのです」
柳生童馬は、自分がいまのようなことを言い出したとき、またしゃべっているあいだ、ふだん忍者の娘とは思えないほど明るいこの娘が、特別の反応も見せず、なぜかただ憂わしげにじいっと自分を見まもっていたことにはじめて気がついた。
「それに父が……千姫さまのお屋敷にいるその三人の剣士について――われらもちょっと手が出せぬ恐るべきやつら――などと話しているのをききましたので、わたしは心配になったのです」
夕波はひくい声でいった。
「あの男たちは、どうやらなみの人間では及ばぬ或《あ》る力を具《そな》えているようです」
忍び組の首領服部半蔵が、千姫屋敷の怪剣士に眼をそそいでいたというのはわかる。しかし、それとは無関係にその娘の夕波がどうして?――というより、いかにしてそこへ忍び込むなどという大それたことをやったのか。
夕波が服部半蔵の娘であると承知していることはいうまでもないが、またこの服部屋敷で半蔵|麾下《きか》の忍者たちが種々怪異としか思えない忍法を日夜修行していることも見聞しているが、この夕波が――彼の恋人が、そんな忍びのわざを心得ているとは、いままで想像をしたこともなかった。この父の娘として一応の基礎訓練くらいは受けたことがあるかも知れないが、それ以上のものではあり得ない、と童馬は思っていた。ことさらきくにも及ばない。明るい、愛くるしい顔や動作を見ただけで、そう童馬は信じていたのだ。
それが、千姫屋敷にいかにして?――ときくまえに、いま童馬は、夕波の口走ったほかの言葉にまずひっかかった。
「きゃつらが、なみの人間の及ばぬ力を具えておると?」
「つまり、からだの働きが」
「それは承知しておる。柳生の三人を斬ったくらいだから」
「いえ、あなたはまだよく御存知ではありません。しかもそのとき、あの男たちは素手だったというではありませんか」
「その話もきいておる。しかしおれは信じない。話が大袈裟《おおげさ》になったのだ」
「服部の調べでは、偽りではありません。しかも、あの男たちはそのときよりもっと恐ろしい力とわざの持主になっています」
「きゃつら、いったいどうしたのか。そもそも坂崎家を裏切ったのが奇怪千万だ」
「千姫さまのためです」
「千姫さまのためとは?」
夕波は童馬をじっと見た。
「童馬さま、あなたは千姫さまを御覧になりましたか」
「いや、あのお屋敷深く籠《こも》っておいであそばす高貴の御|女性《によしよう》――まだいちども拝顔したことがない」
夕波は深い声でつぶやいた。
「あの千姫さまを御覧になれば、出羽守どのが徳川家に叛《そむ》こうとなされ、坂崎の剣士たちが出羽守どのを裏切ったわけがわかります」
「ほほう。……」
「それからまた、あの男たちがあそこへ参ってから別人のようなわざを心得て来たわけも」
「それは、どういう意味だ?」
「あの三人の男は、千姫さまのおん垢を食べるとか。――」
「なんだと?」
童馬は眼をむいた。
「そのほか、お爪やおん髪《くし》やおん唾などを、まるで天来の甘味のように。――それが、あの男たちの力の根源になっているのです」
「なんじゃ、そやつらは。――その話はまことか。まるで蚤《のみ》か虱《しらみ》みたいなやつらではないか」
童馬は笑いかけて、笑いを消した。
「というと、千姫さまの――そのようなものに何か特別の力があるのか」
「そうかも知れません。――少くともあの男たちにとってはそうなのです。父も、そういうことはあり得るとうなずいておりました」
「ほ、半蔵どのが? おれにはまだよく意味がわからんが」
「つまり、世にあり得ないほど或る女人をあがめ、また恋いしたっている男で、しかも世にあり得ないほどからだの働きを高めたいと思いつめている男が、その女人のそのようなものを食べたときは、それが呪術《じゆじゆつ》的な神薬ともいえる力をあらわすことはあり得る。――」
「ははあ。……」
童馬はしげしげと夕波を見つめていたが、急に腕をのばして、彼女をぐいと抱き寄せ、その頬《ほお》をぺろぺろとなめた。
「あれ。……」
「唾をくれ」
童馬はいって、女の唇《くちびる》に吸いついた。
一吸い、二吸い、三吸い。――唇を離して、
「これでおれも強くなったぞ。同じことではないか。なんのきゃつら化物に負けるものか!」
夕波は頬を染め、うるんだような眼で童馬を見あげていたが、やがて哀《かな》しそうに首をふった。
「いいえ、ちがいます。……」
「何がちがう?」
「いまいったようなことは、いまいったような条件が一つちがっても、ちがって来るのです。……」
「だから、どこがちがう? 何とかいったな、世にあり得ないほど或る女人をあがめ、恋いしたう男が。――」
「わたしは千姫さまとちがうのです。……」
「そんなことはあたりまえではないか。ばかに千姫さまにこだわるな。それなら、おれにとっておまえは千姫さまだといったら安心するか。……」
「あなたは……千姫さまをまだ御覧になっていません。……」
「なんだか、おまえの話はよくわからん。堂々めぐりをしているばかりではないか」
驚いたことに、このとき夕波の眼から涙が溢《あふ》れ出した。夕波のいっていることはとにかく重大なことではあるらしいのだが、童馬には、いま自分でも表白したごとく何だかよくわからないところがある。――なかんずく、現在ただいまの夕波の心理状態が不可解である。
「童馬さま」
「な、なんだ?」
「あなたはわたしをいとしいと思って下さいますか?」
「いまさら、何をいう」
「それは夕波の心でしょうか、顔でしょうか?」
「みんな、ひっくるめてだ」
「では、もしわたしの顔が、あの坂崎出羽守どのみたいに焼かれでもしたら?」
「そんなばかばかしい想定には答えられん」
「では、いますぐにでも出来ることとして――もしわたしが……あの、ここで……はばかりに入っていると同じ姿をあなたに見せたら?」
夕波のいうことはいよいよ出でて、いよいよ奇だ。ほとんど夕波の唇から出て来た言葉とは思われない。童馬はあっけにとられて相手を眺めていたが、ふいにげらげら笑い出した。
「見せてくれ。ますますおまえが好きになること疑いをいれん」
しかし、むろんこんなことは冗談である。決闘の件を切り出したつもりが、その筋がどこかで切り換えられて、妙な話に変ってしまった。そうだ。果たし合いだ。あんな話をしたものだから、こいつ思いつめて、頭がへんになってしまったのだろう。
彼は、もういちど夕波を抱きしめた。
「安心しろ、おまえの顔がどう変ろうと、おまえがどんな姿をしようと、心変りしてなるものか。絶対、おまえを捨てはせぬ。――」
そして、ちょっと首をかしげて、
「とはいうものの、おれのいのち、三日のちにはどうなるか、保証のかぎりではないが。……いや、この話はもうこれですんだとしよう。夕波、せめて半蔵どのの娘らしく、その日には笑っておれを見送ってくれい。……」
そしてまた唇を吸おうとすると、こんどは夕波はあやういところでそれを手でへだてた。
「童馬さま、もういちど、あなたにおききしとうございます。わたしを好きなのは、わたしのかたちか、心か」
話は支離滅裂なのに、どうしていまのいま、こんなことにこだわるのか。――童馬はややかんしゃくを起してさけんだ。
「くどいな。――心だ!」
「では。――」
夕波は彼の腕をおしのけて、すっと立った。
うなだれて、座敷を出ていった。――
童馬は狐《きつね》につままれたように唖然《あぜん》として見送っていたが、五分たっても、七分たっても彼女の姿は現われず――いちど、「何じゃ、あれは? けっ」と舌打ちしたが、十分くらいたってから、ともかくもばかげた声で呼んで見た。
「夕波」
すると。――
「はい」
思いがけずすぐ隣室から夕波の声がして、ふたたび唐紙があいて、女が一人入って来た。――女は女だが、夕波ではない。この服部屋敷に古くから奉公する老女だ。
「はてな、夕波はどうした?」
老女はしかし近づいて来て、彼の前によたよたと坐《すわ》った。
「童馬さま、夕波です」
「なんだと?――ば、ばかな!」
「わたしが夕波です」
声はたしかに夕波のものであった。そして――皺《しわ》につつまれた老女の黄色っぽい眼の奥に、たしかに夕波らしい瞳孔《どうこう》を見出して、童馬はぎょっとしていた。
「こうなっても、童馬さま、わたしの口を吸って下さいますか?」
褐色《かつしよく》の唇と欠けた歯が近づいてきたとき、童馬は悲鳴のような声をあげて立ちあがっていた。事実、二、三歩逃げかけて――からくも踏みとどまったのは、ここが忍者屋敷という認識がよみがえったからだ。
彼は恐怖の眼でふりかえってうめいた。
「夕波――夕波と称するやつ――こ、これは何のまねだ?」
「ああ、やはり。――」
老女は、こんどは老女の声でつぶやいて、巾着《きんちやく》をすぼめたようにきゅっと笑い、
「ともあれ、御覧なされませ」
と、立ちあがって、もと来た隣室の方へよたよたと歩き出した。悪夢を見ているような眼つきで、童馬はそれを追う。
一歩入って、童馬はまた立ちすくんだ。
そこにもう一人、老女が立っていた。しかも、しなびた乳房はたれ下がり、醜悪正視するにたえぬ全裸体だ。それが、棒立ちになっている。文字通り、正真正銘、棒のようだ。つまり生色はそのままながら、生きている人間とは思われない。――
童馬をつれて入った老女は、このとき衣服をぬぎはじめた。裸になると、これも瓜《うり》二つ――しかもしなび果てた瓜二つといっていい浅ましさであった。それが、ぬいだ衣服を、棒立ちの老女に着せるのを、童馬は茫然《ぼうぜん》として声もなく眺めている。
動く老女は、動かぬ老女の両手を把《と》った。
「忍法、女人滅幻。――」
そんな風のようなつぶやきが聞えた。
すると――動かぬ老女が、依然動かず、もとのままに見えて――たしかにいのちを吹き込まれたような感じに変って来た。同時に、動いていた老女が、これも動かぬままに――徐々に輪廓《りんかく》が変り、色が白くなり、つやつやとひかりはじめ、そして――あきらかに若い女の姿に戻って来た。
「夕波!」
童馬はさけんだ。それっきり、息も出ない。――
こはそもいかなることか。この娘がこのような奇怪|幻妖《げんよう》の忍法を体得していようとは!
「一刻の間、変れば、わたしは一年老います」
と、もはやはっきりと夕波の姿で、夕波はつぶやいた。溜息《ためいき》にちかい、全念力をこめて何かをやったあとの人間の消耗しつくした声であった。
「……おや、お嬢さま、これはどうなされましたことで?」
と、呆《あき》れたように老女がいった。
キョトンとして、眼前の夕波を眺めている。いま、自分の身に何が起ったのか、いや、経過した時間さえまったく意識にない顔つきであった。
瞳《ひとみ》を散大させたまま、童馬も夕波を見つめている。恋人ながら、全裸の夕波を見るなど童馬にとってもはじめてのことながら、その世にも稀《まれ》なる美しさにもかかわらず、色情はおろか讚嘆《さんたん》の念を起す余裕もない。
かかる忍法がいかにして可能なのか。さらにまた夕波がいまこんなことをして見せたのは、いったいどういうつもりか。――それさえ童馬はきく意志を失っている。
「でも、わたしは」
夕波もまたおのれの裸身も童馬の存在をも忘れたかのごとくつぶやいた。
「そうしなくてはならない……」
九月に入ったばかりの雲のはやい或る夕であった。
果たし合いの支度をしてすぐ来るように、という千姫さまからの下知を伝えられて、御馬格兵衛、小豆玄七郎、針ノ木銅貫の三人は勇躍して指定された庭へ向った。
彼らも、三日前、柳生家からこの屋敷へ果たし状が投げ込まれたという話はきいており、その日取りや相手方の名も人数も知らなかったが、あれだな、とすぐに思い当ったのである。
かつて味方であった坂崎党を何ら斟酌《しんしやく》なく撃滅して来たくせに、主人出羽守をだまし討ちしたとかいう噂のある柳生又右衛門には不快の念を禁じ得ず、柳生方の三人をたたきつぶしたとはいえ、まだそれでは足りない気がする。いや、そんな討ちつ討たれつの縁から来る懸念よりも。――
ござんなれ。柳生一門!
もともと流れを異にする剣法者としてただならぬ関心のあった相手である。関心どころか、又右衛門宗矩、刀術を以て幕府に出仕したと称し、ほかの大名から弟子などを取って、天下の剣宗たらんとするかに見える――と思うと、何を小癪《こしやく》な、と以前から片腹痛がっていたのだ。
庭は例の庭であった。蒼味を帯びて来た初秋の大気の中を、ハタハタと蝙蝠《こうもり》が飛びめぐっている。――そこへ急ぐ三人の面貌《めんぼう》には、たたかわざるにすでに凄絶《せいぜつ》な剣気と、ぶきみな凱歌《がいか》の笑いがあった。
「大儀《たいぎ》」
と、座敷から、銀鈴《ぎんれい》のような声がかかった。
彼らはひざをついて、それから顔をあげて座敷を見あげてまばたきをした。――そこにいるのは、千姫ひとりである。夕暮でもないのに薄暗く、しかし雪洞が半身を浮かびあがらせている。侍女の姿は見えない。
「柳生から来た果たし状のことはきいておるであろうの」
と、千姫はいった。
「へへっ」
「酉《とり》の上刻に来るそうな」
午後五時ごろ――あと、二、三十分くらいであろうか。
「一人じゃ」
「えっ」
「柳生童馬と申す男。又右衛門の甥《おい》にあたるという。――」
「柳生童馬? いつぞやふと耳にしたことはござりまするな」
御馬格兵衛がうめいた。
「なかなかの使い手であるとはきき申したが、しかし、たった一人で?」
「一人ときいて、於千《おせん》はかえって不安になった。――よほど自信あるものと見える」
「不安?――けっ」
小豆玄七郎は肩をゆさぶったが、
「千姫さまが不安と仰せある。――」
と、ふいに狂喜にちかいさけびをあげて、バタバタと縁側へ駈《か》け寄った。
「われらのために不安と仰せある。――やれ。うれしや、かたじけなや!」
格兵衛も銅貫もそのことに気づき、かつ――ふだん、あまりいい気になって許しなく近づくと、「臭い! 下郎、寄るな」と犬みたいに追い払われることが少くないのに――千姫がにいっと笑《え》んだのを見ると、これも喜悦の声をあげ、負けじと縁側にとりついた。
もっとも、そんな理論的歓喜からというより、本能的に吸い寄せられた気味もある。最初に見たときから彼らはまばたきしたのだが、千姫さまはこの日、まさか湯浴みなされたわけでもあるまいに、いつぞやのように純白のうすぎぬをまとっただけで――しかも、なかば透いて見えるその白い肉体に、妙な姿勢をとらせているのである。
あのときも腰を下ろしていたが、きょうも何やらに腰かけている。しかし、あのときとはちがう――三人にはいままで見たこともない、しかしそれが何であるかがわかる道具に。
平安朝のころ、貴人や貴女が夜帳台のかくしどころに置いたり、また外出のとき檳榔《びろう》車に携えていった御虎子《おおつぼ》。それは漆《うるし》を塗ったり、紫檀《したん》に螺鈿《らでん》をちりばめたり、金銀|白鑞《はくろう》をさえ使ったものであったというが、つまり携帯用便器なのだ。
ただし、それが平安のころとそっくり同じ形態のものであったか、どうかはつまびらかでない。ともあれ、両側に踏台さえ置いて、腰かけ式になっているが、あきらかに千姫さまは便器に腰を下ろしているのであった。
――しかも、真正面に、優雅ながら、凜然《りんぜん》として。
「ここまで飼えば、おまえたちでも――おまえたちに勝たせたい」
と、その姿で千姫はいった。
「ところが、おまえたちは、わたしのからだから出たものを食せば強うなるという。鬼神の力を帯びるという。――今日の相手は、いま申した通りの容易ならぬ強敵じゃ。――されば、特別を以て、ただいまより於千の屎《まり》をつかわそうと思う。――食して、たたかうかや?」
――あっという声もない。
三人の剣士は縁側に手をかけたまま、身動きもしなかったが、やがてその姿勢のまま、名状しがたい陶酔がその全身にからまりはじめた。
「よいかや?」
たちまち、雪洞の灯影《ほかげ》もけぶるその翳《かげ》のあたりから異臭が漂い出した。
いや、これは異香というべきか。――たしかにそれらしき香りをふくみながら、えもいわれぬ甘い、かぐわしい匂《にお》いが、三人の鼻孔をしびれさせて来たのは、果して彼らだけの錯覚であったか。
「寄れ」
と、千姫は呼んだ。
「持ってゆきゃ」
針ノ木銅貫が這《は》いあがっていって、平蜘蛛《ひらぐも》みたいにその下から取って来た。抽出《ひきだ》し式になっている螺鈿の筥《はこ》を。
「食して、苦しゅうないぞえ」
「――へへっ」
彼らは縁側の下に鼎坐《ていざ》して、その筥を見下ろしていたが、やがてそれぞれ、コミあげる感動を禁じ得ずといったうめき声をしぼり出した。
「われら、断じて千姫さまの騎士たらん!」
「ただいま拝領なせしこの御祝儀」
「かちぐり、こんぶにまさるわれら出陣の宴《うたげ》であるぞ!」
そして、三つの顔を近づけて、
「…………?」
瞬間的にけげんな表情を走らせ、同時に座敷の方をふりかえったが、そこに厳然と立っている千姫さまを見ると、
「…………!」
安心したようにうなずき合い、たちまち、或いは手づかみで、或いは犬のように鼻をつっこんで、何びともきくだに流涎《りゆうぜん》を催さずにはいられないような、くいちぎる音、すすりあげる音、舌なめずりする音も凄《すさま》じくこれを食いはじめた。……
「――ふ!」
「や?」
「おおっ」
突如三人は奇声を発して、おたがいの顔を見合わせた。――彼らは下腹から全身にたばしるような異常な熱感と力を感覚したのである。
それをみずからたしかめるかのごとく。――
三人は抜刀した。小豆玄七郎がその一刀を揮《ふる》い出すと、閃光《せんこう》旋舞して本人のからださえ見えぬほどになった。針ノ木銅貫の刀はまるで飆風《ひようふう》のようなうなりを発した。御馬格兵衛に至っては、昂奮《こうふん》のあまり飛びあがったが、それは巨大な鞠《まり》のごとく人の背丈《せたけ》の二倍は跳躍した。
「鎮まれ、三人の者」
千姫さまの声が聞えた。
「果たし合いのはなむけとして、於千をとくと見せてやろうぞ」
乱舞していた三人の剣士は、静止して、ふりむいて、眼をむき出した。
千姫さまは縁側まで出ていた。うすものすらもかなぐり捨てて、その全裸の姿を秋の日にさらして、仁王立ちになっていた。――あの悲劇にうちのめされた姫君が、これほど壮美な裸身を持っているものであろうか。その全身からは白光が放射されているようだ。それは男はおろか天をも地をも睥睨《へいげい》する絶世の美女の肉体であった。
三人の魔剣士の足は大地に釘《くぎ》づけになった。眼はこの「はなむけ」に釘づけになった。――そして、その眼球が、徐々に、文字通りふくらんで見えるほど飛び出した。
彼らが千姫さまを千姫さまとして見たのは一|刹那《せつな》である。それから三人は、別のものを見た。正確にいえば、別々のものを見た。――
まず、針ノ木銅貫は。
彼は千姫さまの唇に眼を吸いつけたつもりであった。が、視界いっぱいに、赤い、ぬらぬらした肉がひろがった。それを濡《ぬ》らす粘液の中には、微細な虫とも菌ともつかぬものが幾千万となくウジャウジャとうごめいていた。その巨大な赤い肉が飴《あめ》みたいな糸をひきつつひらくと、その間から淡黄を帯びた白い墓石のようなものが現われた。墓石はずらりと並んでいるようで、そのあいだには細いすきまがあって、そこには黄色い物に褐色の物がまじった汚ならしい物質がびっしりとまぶれついていた。その墓石がまた上下にひらき、中に赤い巨大な爬虫《はちゆう》類みたいなものがのたくって、それがいまにもぬるぬると這い出して来そうなのを見ると、銅貫は全身金縛りになっているにもかかわらず、心中、ぎゃっというさけびが出そうになった。……
要するに、針ノ木銅貫は、女の口の幾千倍かの拡大図を見たのである。――
次に、小豆玄七郎は。
彼は千姫さまの乳房から腹にかけて眼を吸いつけたつもりであった。その真っ白な皮膚がふいに透き通って、その向うから赤いような紫色のような管や、袋や、びらびらした膜や、およそ人智の及ばぬ奇怪な形態をしたものが、重なり、ひしめき、くっつき合って浮かびあがって来た。その中には、重々しく縮み、ふくらみ、波打っているものもあった。それがまた徐々に透き通って来ると、さらにその中に動いているものが――とろけ、どろどろになったものが見えて来た。嘔吐物《おうとぶつ》みたいなものがこねくり返されて粥《かゆ》状になり、次第次第にぶきみなかたちをえがきつつうねってゆくうちに、何やら記憶のある色と形態のものに変ってゆく。――この記憶のあるものを、ほんのいま太牢《たいろう》の滋味のごとくむさぼったくせに、玄七郎は、これも全身|麻痺《まひ》したようなのにもかかわらず、心中、げえっといううめきが出そうになった。……
要するに小豆玄七郎は、女の腹腔《ふくこう》の内部の透視図を見たのである。――
最後に、御馬格兵衛は。
彼は玄七郎よりもさらに下方に眼を吸いつけたつもりであった。そこには、おどろおどろとした海藻《かいそう》状のものが覆いかぶさる下に、巨大な二匹のなめくじか貝みたいなものが見えて来た。その間から、ちらっちらっとうす赤いような紫色を帯びたような舌状のものが隠顕《いんけん》していた。すべてが濡れ、動いていないのに動いているような――まるで海底に生き残った前世紀の爬虫類みたいなぶきみな迫力があった。それは狂人の頭でも思い浮かばないような醜悪奇怪な一匹の怪物としか見えなかった。……
要するに御馬格兵衛もまた拡大図を見たわけだが、それが突如、口をあけたように見えた。――
「見たか?」
どこかで遠く声がしたのを、格兵衛は、そのものが赤い口をあけてさけんだような錯覚をおぼえたのである。格兵衛ほどの人間が、あやうく恐怖の悲鳴をあげるところであった。
「おまえたちの礼拝する於千をとくと見たか?」
声はさらに遠くなった。
いつのまにか、三人の剣士の見ていた恐ろしい幻影は消えていた。
彼らはわれに返ったという意識なくわれに還《かえ》り、縁側にも座敷にも千姫さまの姿が見えないことを知った。知ったが、なおそこからうなされたような眼は離れず、放心虚脱の彫刻みたいな姿をまだ釘づけにしている。からだじゅうからあらゆる力が「滅幻」したようであった。
そのとき、これははっきりと門の方で、男のさけぶ声が聞えた。
「かねて申し越したる柳生童馬なるもの。約によって推参つかまつったとのことでござりまするが、いかがとりはからいましょうや?」
秋の日が、一瞬、二瞬、雲間から鮮やかに赤い光を投げる庭に、鉢巻《はちまき》、たすき十文字、袴《はかま》のももだちとった柳生童馬は、刀身を抜き払ってすっくと立って、一礼した。
座敷にしずしずと千姫さまが入って来るのを見たときにである。同じくそれを見て、坂崎の三剣士は、いちどびくんとからだを痙攣《けいれん》させたが、それだけで腑抜《ふぬけ》みたいに棒立ちになっている。
「柳生童馬、約定によりなんじらと雌雄を決せんがために参ったり。新陰流の正剣勝つか、叛臣坂崎に伝えらるる中条流の邪剣勝つか。――今こそ千姫さまのおん眼に御見《ぎよけん》に入れる。いざっ」
柳生童馬の名乗りとともに決闘が開始された。
決闘はただの一瞬であった。坂崎の三剣士は、三本の大根みたいに無造作に斬り伏せられたのである。
――これが彼らの異常に増進し過ぎた視覚のなせるわざであったか、それとも彼らをとらえた大幻滅のせいであったかはだれにもわからない。いや、童馬自身はもとより、見ていた者すべてわけがわからず、どうしてかかるばかばかしい果たし合いになったのか、狐《きつね》につままれたようであった。
そこに入って来たときから、どこか夢みるようなまなざしをしていた千姫さまは、勝負が終ってから、ようやくその眼に光をともした。
「柳生童馬とやら」
と、彼女はいった。――
「さすがに柳生の名にそむかぬ手並みの若者じゃ、ついては――於千、江戸におるのがいよいよいやになったゆえ、まだ心はきめかねておれど、ともあれ播磨《はりま》へゆこうと思う。――その方、於千守護の剣士として、これよりわたしに奉公する気はないか?」
そこに算を乱して伏している坂崎の三剣士など眼中にない表情であった。
それを、地にひざまずいたまま、柳生童馬は見あげている。――決闘に出て来るときからこの屋敷の門を入るときまで、彼の気にかかっていた一つの面輪《おもわ》、どこへ消えたかついに自分を見送らなかった夕波の面影は、このとき忽然《こつぜん》ときれいに消え失せていた。
彼は薄闇《うすやみ》の中に、光の精のごとく浮かびあがっている千姫さまをひたと見つめ、ふいに胴ぶるいしてさけんだ。
「――かしこまってござりまする。柳生童馬、いのちをかけて!」
――日の落ちた千姫屋敷の大屋根の上に、じっと一羽の白鷺《しらさぎ》みたいに佇《たたず》んでいた女の頬に、涙がしずかにつたい落ちたのを、柳生童馬は永遠に知らない。――屎《まり》を喰わせた千姫は彼女であった。彼女は、ひとたび千姫さまを見た童馬がその奴隷となることをちゃんと知っていたのである。
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倒《ちよう》の忍法帖
家康《いえやす》はふしぎな人だ。英雄の性情行為、すべてふしぎでないものはないといえばそれまでだが、家康の場合のその一例は、この人に果して父性愛があったかどうかということである。少くともその現われかたのいぶかしさである。
家康がその長男|信康《のぶやす》を、信長《のぶなが》の命じるままに腹切らせたいわゆる「築山殿《つきやまどの》事変」は、家康最大の悲劇として知られている。つまり徳川家存続のために万斛《ばんこく》の涙をのんで敢《あえ》てしたことだと解釈されている。大いなるもののために、凡俗の父性愛をふりすてる英雄の悲劇。
それはまあそれとして解釈できるが、次男|秀康《ひでやす》に対する父性愛の現われかたはどうも納得できない。秀康は後年|秀吉《ひでよし》の養子にやられたために不遇の人生を終えた人だが、しかし生まれたときからその顔がギギという鯰《なまず》科の魚に似ているといって、家康は顧《かえ》りみようともしなかった。
それから六男の忠輝《ただてる》に対しても同様だ。新井白石《あらいはくせき》の「藩翰譜《はんかんぷ》」にいう。――
「介《すけ》どの(忠輝のこと)生まれ給いしとき、徳川どの御覧じけるに、色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐ろしげなれば、憎ませ給いて捨てよとの仰せあり」
ひどいものだ。大いなるもののために凡俗の父性を殺すどころではない。顔が可愛くないから捨ててしまえとは、凡俗の父性も敢てしない小人的、ヒステリー的感情である。少くとも、われわれがふつう知っている家康像とは正反対の現われかたである。
「七歳にならせ給うとき、このお子|賢々《さかさか》しくましますことどもきこしめされ、いかにや生《お》い立ちぬらんとて召さる。つくづく御覧じ、恐ろしき面《つら》だましいかな。三郎が幼なかりしときに違《たが》うところなかりけりと仰せけり」
三郎とは長男三郎信康のことだ。
これで長男信康の容貌《ようぼう》も類推できる。してみると、家康が信康を切腹させたときの心情も、果して世に伝えられるごとく熱鉄の涙をのんだかどうか疑われる。
とにかく、ばかに子供の容貌にこだわるところが家康らしくないが、しかし秀吉の上淫趣味が彼の出身コンプレックスにあったように、コンプレックスを持たない代表的英雄家康の唯一のひそかなるコンプレックスが、子供の容貌という点にはしなくも露呈したものと見られなくもない。この三人、いずれも母は別々だから、責任は家康にあることはほぼ分明だ。
そしてこの三人の子が、いずれもその性格が強烈なことで共通しているのは一奇であった。よくいえば英邁《えいまい》で、豪快だが、一歩あやまると、或いは見方によっては奇矯《ききよう》凶暴とさえいえる行状となる。
この物語は、その六男|上総介《かずさのすけ》忠輝の、英邁で豪快で奇矯で凶暴な行状からはじまる。
――慶長十九年。
誕生したとき父に捨てられかけた忠輝も、いまは越後《えちご》六十万石の太守となっていた。捨てられるどころか、長ずるに従って、その頭脳の鋭敏さ気力の精悍《せいかん》さは、さすがの家康にも無視できぬものとなり、武蔵深谷《むさしふかや》一万石、下総佐倉《しもうささくら》四万石、信濃松代《しなのまつしろ》十四万石と累進し、かくて越後の太守となったのだ。大御所家康の第六子とはいえ、長子信康、次男秀康、四男|忠吉《ただよし》、五男|信吉《のぶよし》すでにこの世になく、事実上、秀忠についで次男の位置にあるといっていい。世に「介どの」正しくは松平|上総介《かずさのすけ》どのという。このとし二十三歳。
このときまでに、すでに上総介の英邁奇矯な性向のあらわれた事件がある。
慶長十四年、というから彼がまだ松代の大名であったころ、十八歳のときの話だが、老臣の皆川|山城守《やましろのかみ》、山田|長門守《ながとのかみ》、松平|讚岐守《さぬきのかみ》が連名で、「上総介さま、おん行跡荒あらとして言語に絶する」むね数か条を駿府《すんぷ》の大御所に訴え出たことがあった。「荒あらとした行跡」がいかなるものであったかつまびらかではないが、これら三人はいずれも忠輝が幼少のころから傅育《ふいく》の任にあたり、その後もとくに幕府から忠輝の後見役としてつけられていた老臣であったから、よくよくのことであったと思われる。
しかるに、上総介は開き直った。この訴えにより秀忠から詰問の使者としてさしむけられた高畠伊織《たかばたけいおり》なる旗本に彼はいった。
「いっておく。皆川らは余の家来であって、公儀の臣ではない」
彼らがこのたびの訴えは分際をわきまえぬ所業だ、といったのである。
「それから、もう一ついっておく。余もまた大御所さまの子だ。一大名となったのは、ただ兄のあとで生まれたからに過ぎぬ」
それから、不敵にニヤリと笑った。
「おまえ、うまく将軍にとりなしておいてくれ」
高畠伊織は江戸に帰ったが、とうてい復命できる内容ではない。そのまま家に籠《こも》って懊悩《おうのう》すること三日、老中土井|大炊頭《おおいのかみ》の督促にやむなくその屋敷に向ったが、ただ上総介の口上を一紙片にしたためたものを提出しただけで屠腹《とふく》した。
大御所もこの復命書を読んだが、しかし沈思の末、彼は命じた。
「この老臣ども、腹切らせい」
私情におぼれる家康ではない。まして生まれたころから、またこの後に於《お》ける忠輝に対する仕打ちを見てもわかるように、彼がこの息子にさほど愛情を持っていたとも思われない。
この場合、事情はともあれ忠輝の言い分を至当と認めたというより、その迫力にさしもの家康も打たれたとしか見えないのだが、ともかくも英雄の心事は測《はか》りがたい。
で、結局、若い主君にお灸《きゆう》をすえようとした老臣たちは誅《ちゆう》され、上総介のほうはその翌年、かえって越後へ、いよいよ本格的な大名として転封されてしまった。
越後の福島(いまの直江津《なおえつ》)にあること数年、ここは水災が多いため、彼は高田へ居城を移すことを願い出て、慶長十九年三月から築城を開始した。それまでこの地はただ菩提《ぼだい》ケ原《はら》と呼ばれた荒野であったもので、後年の新潟県高田市はこのときにはじめて誕生したのである。
この築城はむろん幕府の許しを受けたもので、前田、上杉、伊達、蒲生《がもう》、最上《もがみ》、村上、佐竹、南部など北陸奥州の十三藩が普請《ふしん》お手伝いを命ぜられたほどであるが、このときに上総介の行状の異常なことが明らかになった。
もっともそれ以前の松代時代から、あの老臣出訴事件以外にも風評はあった。それが訴えの箇条にあったかどうかは不明だが、非常な好色と、そして放浪の一剣客を城にとどめて刀術の修行をしているという。後者は大名として非難されるはずはないのだが、その修行のしかたが何とも異常で、仕官志望の牢人《ろうにん》などを、極めて研究的に斬《き》るという。――その剣客の名は、伊藤一刀斎といった。
さて、この高田城築城にあたって、その行状の異常ぶりが世に知られたのは、その異常ぶりもさることながら、彼がそれらお手伝いの十三大名に自分から宣伝したせいもある。
すなわち彼は、毎日普請中の城の現場に出張してこれを指揮する一方、領内の土民を日に三百人ずつ引見して、面接試験をやりはじめたのだ。
「土下座無用」
とは、事前にかたく触れてある。
面接試験とはいっても、ほとんどゾロゾロと上総介の前を歩かされるだけだ。ときどき呼び出してものをきくこともあるが、ほんの二、三語。
これが連日つづいた。十歳以上の男女はことごとく出でよ、との布告で、当時この一帯の領民が何万いたか、何十万いたか見当がつかないが、日に三百人としても、十日に三千人、百日で三万人という計算になるが、とにかくこれを飽かずくり返す。
のみならず、そのたびに「天」「地」「人《じん》」と宣告して、いちいち近習にその名とその位をつけ合わさせてゆく。
たまたまこれに立ち合った最上侯とか佐竹侯とかの疑問に答えて、
「人間の優劣を調べておる」
と、上総介はとくとくといった。
「大ざっぱなものではあるが、まず利口か普通か馬鹿《ばか》か、一見しただけで見当はつくであろう。ただこれに面とからだの強弱をも勘案するので、はじめはいささか時を費《ついや》したが、このごろは一日五百人でもほぼ評定《ひようてい》ができると思うておる」
乱暴なのは、この検定法ではなく、検定の結果であることを大名たちはまもなく知った。
天と鑑定された者は後日城が出来上り次第、ふたたび召し出されるであろうといい渡される。地はそのまま何のこともなく帰らせられる。そして人《じん》と判定された者は、そのまま工事に――しかも生命の危険すらあるこわい仕事か、或いは奴隷《どれい》的重労働かに追いやられるのであった。
「土民には限らぬ、天地人は侍どもの中にもある。追い追い入れ替えるつもりである。とくに優れた少年たちには、特別の教育を施そうと思う」
「人《じん》の奴《やつ》らは?」
「絶滅の方針じゃ」
「えっ、絶滅?」
「そもそもこの世に於て、災《わざわ》いをもたらすものは阿呆《あほう》にまさるものはない。人に不幸をもたらすものは奸佞《かんねい》なる悪人よりも、暗愚によるもののほうがはるかに多い。人はしばしば、強い奴、利口な奴が、弱い人間、愚かなる人間を、だまし、しいたげ、搾取《さくしゆ》するという。が、余の見解によると、強い人間、賢明なる人間が、おのれの足に重い鎖をつけて、弱い奴、愚かな奴を営々とひきずって生きておる。換言すれば、愚かで弱い虫けらどもは、強くて賢い人間たちのおかげで食わせてもらっておるのじゃ」
「なるほど。――」
「虫けらどもはたんに無益なる存在であるのみならず、この世の進歩を邪魔する有害の手枷足枷《てかせあしかせ》でもある。従って、愚鈍劣弱、無能、無責任の奴らは、追い追い絶滅の方向へ持ってゆく」
二十三歳の青年大名は、恬然《てんぜん》冷然としていうのであった。うす笑いすら浮かべて、
「そればかりではない。余は前向きにもすすんで強い男と美しい女、有能な男と賢い女のみを組み合わせ、この国を、強くて美しくて賢くて有能な子孫ばかりで満たしてゆこうと思う。――見よ、数十年のうちに、この越後は天下に冠たる精鋭の一国となるであろうぞ」
――あとで大名たちの語り合ったことであるが、この徳川の御曹子《おんぞうし》にこのような思想、理念を吹きこんだ者はだれだろう、ということが問題になって、期せずして、それは大久保《おおくぼ》長安であろう、ということに意見が一致した。
大久保|石見守《いわみのかみ》長安はこの前年死去して、死後その旧悪が露見して一家処刑されたという人物だが、生前は大御所秘蔵の能吏として、また鉱山開発の大ベテランとして天下に喧伝《けんでん》された。死後明らかになったところによると彼は切支丹《キリシタン》とも関係があったということであるが、そういうことは知らなくても、生前からその知識の近代的なこと、行政のやりくちの水際立っていること、それだけで妖気《ようき》をすら放ち、日本人ばなれした異和感を人々に与えた人物であった。この長安を大御所は、佐渡の金山への往復、必ず松代や越後に数ヵ月滞在させて、若い上総介の政治の指導をさせていたのである。
上総介にこの破天荒の人的資源養成計画を吹きこんだ者が、大久保長安であるか否かは知らず、
「これはたんに余一人の野心とか、越後一国の問題ではない。日本の将来にかかわる。余の眼《め》から見ると、脳中ただ徳川と豊臣《とよとみ》しかない大御所さまのおん小ささに言い分があるが、それはまずおくとして、おのおのがた、余のこの信念に賛同ならば、国へ帰って同様の仕置《しおき》をされい。余はこれをすすめんがために、あえてこの実施ぶりを参観に供したのだ」
昂然《こうぜん》としていった。
いかにも二十三歳の御曹子大名らしい着想であった。
彼のこの着想がたとえいかに純粋で合理的であろうと、これを実行した場合、容易ならぬ摩擦、混乱、動揺が起ることは当然で、それは越後に一種の恐慌状態さえひき起した。
まずこの賢愚の判定法に問題がある。賢と評定《ひようてい》されたほうはまずいいとして、愚ときめつけられたほうはかなわない。見方によってはこれは強きを助け、弱きをくじく政策で、しかも上総介はその理念を正義と信じて推進する。それに、本人の意向はともあれ、第三者からはいかにも典型的暴君と見える行為も混った。
女の場合が問題であった。上総介はあきらかに、これを賢愚強弱によらず、美醜の視点から選んだように見えたからだ。
本人はそれも承知していて、
「女の場合、それが最大の座標となる」
と、平気でいった。
「美しゅうない女は、あれは女ではない」
ともいい、さらに、
「美しい女というものは、ただ存在するだけでこの地上の快楽の源泉となるからの」
と、眼をほそめてつぶやくのであった。なるほどこれも、強きを助け弱きをくじく理念の適例には相違ない。
そして彼は宣言し、かつ実行した。美女をえらんで、優れた男に与えるのである。人間の改良交配である。それはいいが、その前に――その美女が果して優良種であるかどうか、またいかなる男にかけ合わせるのが適当か、判断のよすがとするためと称して、彼自身が試験的に交合してみる。
これで問題が起らなかったらどうかしている。果然、無数の悲劇は起った。無能と判定されて農工商におとされた武士階級の悲劇、恋愛関係どころか夫婦関係さえ強引に裂かれ、強引に結び合わされる悲劇、これは当然として、実に意外であり、かつ最大の悲劇は、ひとたび上総介の犠牲となった女たちが、爾来《じらい》、ほかの男に賦与《ふよ》されることに、千人が千人、きわめて抵抗するという現象であった。むろんこの抵抗はゆるされないが、それこそ泣く泣くといったありさまである。なぜか。――
七月に城は一応|竣工《しゆんこう》した。
動機は何であったか、その木の香の匂う大手門の前に、或る朝、三人の武士が「上」と書いた訴状をくわえて屠腹していた。
何が書いてあったかわからないが、上総介の政策に変更はなかった。
それからまもなく、彼が新しい城下町を検分しているとき、その乗物を五人の武士が襲った。乗物から現われた上総介は、護衛の侍を制してみずからこの暗殺者たちに相対した。
「余が刀は、なんじらごとき虫けらどもを斬るために帯びてはおらぬ」
と、彼はいった。
「いや、わしは無刀の術を念願としておってな。ちょっと試みる」
そしてこの徳川の御曹子は、驚くべきことに素手で五人に立ちむかい、そのことごとくを斃《たお》したのだ。無刀の術――にはちがいない。しかしその拳《こぶし》と足の走るところ、五人の男の四肢《しし》は折れ、脳骨は砕け、血へどはぶちまかれて、刀による殺戮《さつりく》よりはるかに酸鼻であった。
大名としては稀有《けう》の手練であったが、このことで人々ははじめてこの主君が松代にいたころ、伊藤一刀斎という漂泊の老剣士に酷烈なばかりの指南を受け、その成果を、仕官希望の牢人などに試みていた実績を思い出したのである。その一刀斎は、その後|飄然《ひようぜん》と去ってこの越後にはいないが、たしかにそのたねはここに武術の巨木として残った。
そして上総介は何を思ったのか、その大手門の前に大高札を立てた。
「わが千年の大計に不平のやからは遠慮なく余が命を狙《ねら》え。
余はただ一国のためのみならず、天下のために不退転の決意を以てわが政策を推進している。余がたんに私の欲望を以て暴逆をほしいままにしているのではない証《あか》しに、余は特に無刀の極意を以てあらゆる妨害者を慴伏《しようふく》せしめるであろう。天下、われと思わん者は見参せよ」
いや大胆といおうか、勇猛といおうか。――この意味の布告を見ただけで、夜の野の虫のごとく鳴きしきっていた越後の士民の声は、これ以後しばらくぴたと止まったくらいであった。
行状も前代未聞だが、しかしこの家康の六男は、肉体的にも珍しい男性であった。
いまも諏訪《すわ》の菩提寺貞松院に残る上総介愛用の草履《ぞうり》は力士のそれにまごうほどのものであり、「猩《しよう》 々盃《じようはい》」と名づけられる盃《さかずき》も巨大なもので、直江津の漁師の冗談には、二升以上|呑《の》む男を忠輝公と呼ぶという。そしてまた信濃越後一帯では彼をオコリの神様として、マラリアに罹《かか》った人間がその墓に詣《もう》でるといわれるが、これは上総介が大久保長安からでももらったキニーネを所持していてマラリア患者を癒《なお》してやったというような事蹟《じせき》があったのかも知れないが、しかしそれより、彼の体格容貌があまりに魁偉《かいい》であって、それを一目見ただけでオコリも落ちたというようなことから発した信仰であろう。
「美女こそ女、それこそは地上の快楽の泉」
と、ウットリとつぶやいたこの松平上総介忠輝は、実に背は一メートル八十センチを越え、筋肉は金剛力士のごとく、そして生まれたとき「色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐ろしげなれば」家康をさえ恐怖させた面貌《めんぼう》を巨大化し、さらに精悍なものとしていた。
それは魁偉というより怪異と評したほうが至当なほどであったが、それにもかかわらずその全身から吹き出す颯爽《さつそう》の気は、何びとをもとらえずにはおかない。――女たちをとらえたのも、まさにその気魄《きはく》であったろう。
「――半蔵」
と、家康は深沈たる眼で見まわした。
「これが伊賀名代の手練《てだ》れの者どもよな」
「は。――一応、最も武術にたけたる者の相手には――と、仰せのごとく、この三人を」
徳川忍び組の頭領|服部半蔵《はつとりはんぞう》はかえりみて、
「名乗れ」
と、命じた。
「我孫子監物《あびこけんもつ》にござりまする。刀法をいささか」
「轡《くつわ》左平次と申しまする。槍《やり》を修行つかまつってござる」
「平賀|蔦兵衛《つたべえ》。鎖鎌《くさりがま》」
三人は平伏した。伊賀組のうち、最も武術に長じた者三名を駿府につれ来たれ――という大御所の命に応じためんめんにしては意外と陰々滅々たる声音であった。
「これらの者どもの姓名、但馬守《たじまのかみ》どのも御存じありますまいが」
半蔵も低いおちついた声でいった。
「半蔵の見るところでは、こやつどもと太刀討ちできる御仁は、柳生の道場にも三人とはあるまいと存ぜられまする」
「ほう」
と、家康は三人の男に、一人一人じゅんじゅんに視線をそそいでいったが、やおら反対の側に眼を移して、
「これが伊賀の誇るくノ一どもよな」
と、いった。
「は。――仰せに従い、いかなる堅固酷烈の男をもとろかす媚術《びじゆつ》を体得しておるくノ一三人」
そして半蔵はみずから紹介した。
「右より、お唐《から》、お綱、お麦と申す女どもにござりまする」
三人は平伏した。いかに半蔵のいう「媚術の体得者」とはいえ、これが伊賀者かと眼を疑うほど美しい女たちであった。
「媚術とは、いかなる――?」
と、家康はいいかけて、ふと眼を女たちの背後にやって、
「あの男は? 半蔵」
ときいた。そこにもう一人、若い男が坐《すわ》っていたのである。
家康は、武芸練達の男三人、色道至妙の女忍者三人を選抜引率し来たれと服部半蔵に命じたはずだが、この男がもう一人加わっていて、しかも女の側にいる。
「あれは雪ノ外記《げき》と申す男でござりまするが」
「雪ノ外記」
「くノ一どもの師匠で」
「なんの師匠」
「房術の」
もういちど改めて家康はその男を見つめた。
髪かたち衣服から男とは見えるが、顔と姿態からはまったく女だ。美男にはちがいない。しかしふつうの美男ではなく、それこそ女としか見えない柔らかさ、ナヨナヨした感じがあって、それどころか、女以上に女らしい妖気、さらにいえば無気力、影の薄さ、哀れっぽさが全身にからまりついている。
それが何か口の中でいって、それもいい終えず、ただ頬《ほお》をぼうと染めて、からだをくねらせながら平伏したのを見て、さすがの家康も、
「……きみの悪い男よの」
と、眼をしばたたいた。半蔵も苦笑した。
「実はこのたびの御諚《ごじよう》を承《うけたま》わり、是非とも申しあげたいことがあると申し、本人がまかり出たものでござりまするが、ふだんろくに口もきけぬ男ゆえ、あのありさまでござりまする」
「ほ、あの男が、わしに何をいいたい?」
「本人に代って申しあげますれば、要するにこのたびの――剣か女か――という御諚に、いかなる御用かは存ぜず、もしその両者いずれを御採用遊ばすか、いまだ御決着なされぬとあれば、是非くノ一をお使い下されまするよう、お願いに推参つかまつりたいと申したて。――」
「房術の師匠とな。――」
家康も、決して笑うべからざる用件で呼んだはずなのに、この場合、いささかニンガリとせざるを得なかった。
「伊賀はそのような専門家をも養うておるか」
「くノ一のわざは重う見てはおりまするが、この雪ノ外記の場合は天性のもので――つまり、この外記、幼少時より女に似て、あのほうのことばかり興味を抱く、拙者から見ても奇態な男でござりまする」
三人の男は、外記をジロリと見て、声もなく笑った。明らかに大|軽蔑《けいべつ》の笑いであった。すると外記はたたみにひたいをつけたまま、小さく――いとも女性的な声でいった。
「剣か女か――というような御用ならば、女のわざが勝つにきまっております。いえ、剣を以てせねばおさまりのつかぬと思われることでも、女を以てすれば、はるかにたやすう事がおさまるもので、これは私の信念でござりまする。何とぞこのたびの御用、くノ一にお申しつけ下されたく。――」
「信念とぬかした」
我孫子監物がついに声をたてて笑った。
「外記の口から、はじめてそんな言葉をきいた」
「このたび、なんでまた突如として発憤しおったか。――」
と、轡左平次と平賀蔦兵衛もあざ笑った。半蔵が叱《しか》った。
「これ、御前であるぞ。ひかえおらぬか」
「いや、剣のわざか、女のわざか、それきかぬ前ならともあれ、房術は武術にまさる、などと途方もない広言を耳にした以上、われら面目にかけてひかえてはおれませぬ。何とぞ、このたびの御用、拙者どもに。――」
「――して、いかなる御用でござりましょうや」
と、半蔵に見あげられて家康は、
「それが、わしとしたことが、まだ迷うておる」
と、重くいったが、すぐにきっとなって、
「越後の上総介のことよ。あれの行状、半蔵もきいておるであろう」
と、いった。半蔵は粛然とした。
「これより申すこと、いうまでもないが伊賀者ゆえきかせることじゃ」
「……はっ」
「思えば、あの倅《せがれ》、数年前老臣どもが訴え出たときに成敗すべきやつであった。……そのとき、ふと、見どころがないでもない、と買いかぶったことを、いまにしてわしは悔いておる」
半蔵は、心中、戦慄《せんりつ》した。時と場合では骨肉をわけた人の処断をも辞さぬ大御所とは承知しているけれど。――
「信康、秀康、そしてあの忠輝と、わしにはヒョイとあのような鬼子が生まれる。いかなればこのわしの子に、かかる凶暴の血を持つ者が出るかと、わしはふしぎでならぬ」
と、家康は長嘆息した。しかし、これは、天下の何びとの眼にも寛仁大度の長者と見えるこの大御所のからだに、たしかにどこか混っている血脈なのだ。
「さて、いま越後に於て介《すけ》のしておる仕置、まことに呆《あき》れはてたる暴挙、正気の沙汰《さた》とは思われぬ。本来ならば、わが子とはいえ、徳川のためにわしみずから赴いて成敗すべきところじゃが」
考え考え、家康はいう。
「いま、きゃつを大っぴらに討つことはさしさわりがある。大坂の手前」
大坂とは、豊臣家のことだ。この年十月、わずか二、三ヵ月あとにいわゆる冬の陣がはじまったのだから、この時点に於て家康の懊悩《おうのう》は察するにあまりある。
「さればとて、介の処置をあとに廻《まわ》すことのならぬわけがあるのじゃ。きゃつのこのたびの行状、たしかに天性もあるが、またあれは以前より、わしが大坂と事を構えるのに反対しておる。捨ておけば自潰《じかい》する大坂に手を出すのは愚の骨頂と申すのだが、しかしいまに至って左様な異論を唱えても徳川に何の利もないことは百も承知のはず。それよりもきゃつ、上方とのいくさを眼前に北国で騒ぎを起こし、徳川を動揺混乱させ、あわよくば一旗あげんと狙うておるのかも知れぬ。あれは、将軍とはそりが合わぬ。そのような大それたこと、発心しかねぬやつだ」
老いて、残り少ない奥歯が、ぎりっと鳴った。理も非も超えて生涯《しようがい》の大事の総仕上げをしようとしているこの父に、いま背後からわけのわからぬ騒ぎを起している子に対し、その眼にあるのはいらだちと憎しみの光のみであった。
「とくに、介が城の大手門外に立てたという高札、越後のためにあらず天下のためにこれを行うという文言は、あきらかに越後の士民を相手にいっておるだけの文言ではない。邪魔をするやつは無刀を以て慴伏するという言葉も、あれは大坂の事についてわしを諷《ふう》しておるのじゃ」
暗くひかる眼が、三人の忍者を見すえた。
「討てるか、介を」
さしもの三人も、頭髪が逆立つ思いであった。この大御所は、おん子を討てるかと仰せられているのだ。
「きゃつ、わしがかような暗殺の刺客を向けるかと、それまで承知しておるぞ。天下、われと思わん者は見参せよ、という広言がそれじゃ。あれは公儀に挑戦しておるものとわしは見る」
三人は頭をふりあげた。
「大御所さまの御下知とあらば、例え相手が摩利支天でおわそうと」
「――とは一応、ほぞをかためたが」
と、家康はふいにまた伏目になった。
「もとより、得べくんば避けたい。いや、その前に打つべき手はないか――と、わしは思案した。それが、女じゃ」
と、こんどは三人の女のほうに眼をやって、
「おまえら、介をとろかす自信があるか」
といった。
女たちは黙っていたが、家康はならんだ三つの顔の眼に、ぱっと六輪の妖花がひらいたような気がした。
「とろかして、介に果して叛意《はんい》があるか、それともたんに増上慢が過ぎての乱心沙汰か、それつきとめい。――おお、いまのところ、このほうが先決じゃな」
迷っていた大御所も、ようやくおのれの心を定めたらしい。
「その探索次第で、きゃつの処置も決めるが――きゃつが、おまえらの媚術とやらに溺《おぼ》れ、とろけつくして阿呆にでもなったほうが、むしろこの際徳川家のため――できるか?」
三人はこっくりとうなずいた。
「半蔵、くノ一をやるぞ」
「かたじけのうござりまする!」
服部半蔵よりも、雪ノ外記がくねくねと腰をくねらせていざり出た。
「おん骨肉の上総介さまをお手にかけられるなど、左様なむごいことは、承わるも恐ろしや。まず、まず、まず。――」
と、息せき切っていうのを、三人の男の忍者たちは片腹痛げに、無念げににらみつけたが、自分たちに命じられかけた御用が御曹子暗殺という驚天の大事だから、いまそれを強引におしのけて主張する勇気はさすがにない。
雪ノ外記は、この場合に、実に色っぽい流し目で三人の女を見やっていった。
「わしが丹精した伊賀のくノ一の本領、奥の手をふるうはこのときにあると思うてくりゃれ。男の衆にうしろ指さされて笑われてはならぬぞえ」
妙高にはまもなく雪が来るだろう。――その北麓《ほくろく》から日本海へかけて流れる荒川の流域、すなわち頸城野《くびきの》はいま秋のさかりであった。
ここに忽然《こつぜん》として出現した城下町、高田。――侍町はもとより、寺院、神社、町家などすべて福島や春日山城下から強制的に移住させられたもので、しかしこの新しい町の建設者が江戸の将軍の弟だから、そのさかんな槌音《つちおと》にも特別の活気がある。
この町そのものの移転という大事業も、例の蟻《あり》の世界の職蟻とサムライ蟻のごとく奴隷の大群と監督者に分かたれた人間たちによって行われたのだが、これが領主みずからの認定の結果で、しかもこの領主の威令は骨身に徹しているから、秩序整然ときわめて能率的に行われた。
移動はなお継続中であるが、いまは少くとも外面的には、民に嘆きの色はない。若い太守の豪快さが心理的に伝染したということもあるが、具体的にはこの新しい町の建設の景気をあてこんで、諸国から無数の芸人たちが入りこみ、路傍や辻々《つじつじ》で鉦《かね》や笛をはやしたてるのが、働く人々のなぐさめともなり、はなやぎともなっているからであった。
その中に、踊りの一座があった。このごろ京や江戸ではやっている阿国《おくに》かぶきのながれをくむものであろう。一座といっても、踊るのは女三人、あと四人の男は囃子方《はやしかた》だが、そのたった三人の踊り子のたぐいまれなる美貌《びぼう》が人々の眼を見張らせた。
日々、城外に出てみずから町づくりの采配《さいはい》をふるっていた上総介の眼にこれがとまった。
それでなくても、男女を天地人に分けて、「天」の女はすべて城に入れていた上総介が、これを見のがすわけがない。かくて、七人のかぶき者は、否やはいわせず城へつれこまれた。――七人の伊賀者は、まんまとめざす高田城に入ったのである。
第一夜。
上総介の閨《ねや》には、お綱が侍《はべ》った。
まことに自然な手順で、これを日輪の運行のごとく当然と心得ているらしい上総介の顔つきに対し、お綱はついつりこまれて、かすかな抵抗やはじらいの演技を、自分の理性に思い出させるのに苦労した。
その抵抗とはじらいの演技を完全に無視して、上総介は両手でぐいとお綱の襟《えり》をひらいた。くつろげるといった程度ではない、腹までまるだしになるほどかきひらいたのである。
「ふうむ。……」
まなじりのさかさまに裂けた眼をほそめて笑った。誕生のとき家康を恐怖させた先天的の例の眼だ。まなじりが逆に裂けるとは、常人は上瞼《うわまぶた》がかぶさりかげんに眼尻《めじり》が切れているものだが、これはそれが上下反対に切れ上っているので、ちょうどアイラインをそのように引いた眼のかたちであろう。
「天じゃな」
「は?」
「越後で子を生めや」
「は?」
「越後に住めや。その美しい顔、このみごとなからだ。是非、越後の国に伝えたい。――」
やっとお綱は上総介の例の交配政策を思い出した。
「殿さま。……」
「なんじゃ」
「越後とはいわず、わたしはこのお城で殿さまのお子が生みとうございまする。……」
これは半分本気であった。遠望すれば恐ろしい顔だ。近くで見ればいよいよ恐ろしいはずだが、こう手に手をとって相対すると、切れあがってぎらぎらとひかる眼、厚ぼったくぬれている唇《くちびる》、黒いあぶらを塗ったような皮膚、無数の瘤《こぶ》から出来上っている筋肉が、女にとって酒を燃やした炎を吹きつけられるような快感を与える。
が、あとの半分は、いかにも旅の踊り子らしい無恥の演技と――そして、むろん、自分の美貌と肉体に対する絶大な自信だ。
お綱は活気にみちたよくうごく眼と唇と、そして女豹《めひよう》のような強靭《きようじん》な肉を持っていた。乳房など、たたけば鼓に似た音を発するのではないかと思われた。
その肢体で、彼女は倍ほどもある上総介《かずさのすけ》の巨躯《きよく》にからみつき、ひき倒した。
「ううむ。……」
一気に入って、上総介はまたうなった。
「よく、詰《つま》っておる。……」
この感覚の表現は、お綱にはよくわかって、彼女は嬌《きよう》 笑《しよう》をあげた。
ふつうの形容を以てすれば、まさに豊潤《ほうじゆん》甘美としか譬《たと》えようのないその肉と粘膜は、さらに異様な機能を持っていた。世にいわゆる巾着《きんちやく》と称せられるものだが、それに加えてこのくノ一は、全身の筋肉に自在に弛緩《しかん》と緊張の波をわたらせるのだ。乳房さえも、その容量を倍の差で交代させた。そして。――
すばらしい絞搾力《こうさくりよく》を持った女は必ずしも稀《まれ》ではないが、しかしこれを発揮する場合、全身の筋肉もまた緊張しないわけにはゆかない。しかるにこのくノ一は、それを逆にした。一方でゆるめば一方でしめつけ、一方がしめつければ一方がゆるんだ。いや、からだじゅうの肉が、数十個所にわたり、緊張と弛緩の変幻自在の無数の渦《うず》をひろげ、交錯させているようであった。かくて男の全身の触感は応接にあえぎ、惑乱し、翻弄《ほんろう》され、酩酊《めいてい》したようになってしまう。
「おおっ――おおっ――おおおっ」
上総介はけものに近い声をあげた。
お綱はこの夜を以て、永遠にこの殿様を肉の虜《とりこ》とするつもりであったが、快美に悶絶《もんぜつ》せんばかりになっている上総介に、今夜のうちに探索の手を入れてもいいのではないかと思った。そもそも彼のこのたびの政策は、たんに大名としてやりたい放題の所業か、それとももっと大事を企んでのことか。――
「殿さま」
「なんじゃ」
「お好きでござりまするかえ?」
「なにが」
「女が」
「あたりまえだ。世に女のきらいな男があるか」
「あの、御領内の美しい女をみんなお召し抱えになるというのは、ただそのおためでござりまするか。それとも、もっと大きな望みのために。――」
「やりたいから、やるだけじゃ」
「…………」
「わしは、やりたいことをやる。人のこの世に生まれて来た甲斐《かい》は、やりたいことを我慢することにはない。やりたいことをやるにある。わしのやっておることは大名なればこそやれることだとは百も承知じゃ。だから、大名だからやれることは、やる。――色道《しきどう》に於《おい》てもじゃ、余はその深淵《しんえん》をさぐりあててみたい。剣の道もそうであった。その奥義をきわめつくし、無刀の極意を会得したことから、人間、その気になればやれるものだという自信がついた。これを女色に於ても試みたいというのが、余の念願である。――」
いっていることは本心らしいが、お綱のききたい壷《つぼ》からはちょっとそれているようだ。
「おまえ、しかしただの女ではないな」
「え?」
「越後に、おまえほどの名器を持っておる女は一人もなかったぞや。――」
そのことか、と安堵《あんど》するとともにお綱は、どうやらこの殿さまは、ただ女色をほしいままにしようとする放恣《ほうし》放逸の暴君にすぎないらしいと判断し、ともあれ今宵《こよい》のうちに、完全に虜にしようと、絞搾機能にうねりを起し、豊潤甘美の波をわたらせた。
「……あうっ」
さけんだのは、お綱のほうであった。
輪走する筋層が絞搾しようとしたものが、突如倍以上に膨脹《ぼうちよう》した。ひょっとしたら力学的反動でそう感覚されたのかもしれない。――いや、たんなる感覚ではない、はずみというものは恐ろしいもので、その刹那《せつな》、輪走筋が縦に断裂した!
「……や」
と、上総介がさけんだ。
「しまった、壊したか、せっかくの名器を。――」
とび離れた上総介を鮮血が追い、お綱は褥《しとね》に弓のように反《そ》って苦悶していた。――上総介は慨然としてつぶやいた。
「ああいかん。つい無刀試合の極意が出てしまったわ。――」
第二夜。
上総介の閨にはお麦が侍った。
お綱が廃人となったことは承知しているが、上総介がすべてを看破してそうされたのかというと、お綱は否定する。そうとは思われないが、ただ色道にかけては魔人ともいうべきお方ゆえ、そこはよう心得や――とお綱は息たえだえにいうのであった。たとえいかなる危険を予想されても、任務とあれば敢然としてかけむかうのが伊賀のくノ一の本領である。そうときいては、いよいよふるい立たざるを得ない。――
「ふうむ、これも天」
上総介は全裸のお麦を見て、眼をほそめた。入った。
これは世に印伝《いんでん》と珍重されるものであった。まるで羊の皮をなめしたような感触――しかも、お麦の場合、これが全身にわたってそうなのだ。なめし皮というより、柔かい蝋《ろう》のようで、それが熱せられるとともにトロトロと、上総介のうちももや、わきの下まで、ふつう触れ得ないはずの部分までまつわりついた。
「おおっ――おおっ――おおおっ」
上総介は忘我のうめきをあげた。
その上下するのどぼとけにお麦の唇がひたと吸いつけられた。二枚の貝のような唇のあいだから、舌が微妙にのどをくすぐった。
「殿さま」
お麦の声は二つの鼻孔からもれる。唇、歯は動かさないで、彼女はいった。腹話術に似ているが、ちとちがう。……伊賀忍法「風こだま」
「殿さまの女好きは、ただ女が好きなだけでござりまするか? どうぞ、御本心を明かして下さりませ」
唇が吸い、舌が押した。上総介ののどぼとけを。
「ほ、本心か。――」
と、上総介はいった。
「風こだま」の真髄はたんに術者の声を鼻からもらすにとどまらない。それは相手にもものをいわせる。ただ法悦に夢見心地になって本心を吐露するのではなくて、舌と唇の微妙なふるえが、相手の声帯を動かせて、いかに抵抗してもその本音を吐かせずにはいないのであった。
「本心は」
と、あえぐような声がいった。
「上総介さまの御本心を探るにある」
声はお麦の鼻から出た!
なんたること――風こだまは逆にお麦の口から鼻へ吹きぬけたのだ。上総介ののどぼとけの起伏は、彼女の唇と舌を動かせて、思わず知らず彼女の本心を声としてもらしはじめたのであった。
「わたしは駿府《すんぷ》から来た伊賀のくノ一」
上総介は両腕で松葉型に女の上半身をひき離した。
「ふうむ。……これは驚いた」
恐怖にそれこそ白蝋みたいにかたまってしまった女をつらつら眺《なが》めいって、まなじりのさかさまに切れ上った眼をほそめて、にたっと笑った。
「そうとは知らなんだ。してみると、いまのおまえの所業は忍者の極意か。道理で、余の無刀の極意が触発された。相手の武器、武技を逆に使って勝つという。――極意には山彦《やまびこ》のごとく極意を以て対す。ふうむ、余のわざも、どうやら無想の域に入ったわい。……」
みずから大感服のていで長嘆した。
「駿府からかような使者が来るかも知れぬとは覚悟しておったことだ。考えてみれば驚くことでもない。……そうと知れば、いっそう面白い。西瓜《すいか》をな、塩をつけて食うといよいよ甘いようなものだ」
いったかと思うと、いきなりふたたび、ぐいと抱きしめた。
「女、正体知った上で、もういちど味わわせてくれ」
それから一夜、どのような光景がくりひろげられたか。翌朝になるとお麦は――発狂してしまっていたのである。
快美のあまり脳細胞が蕩揺《とうよう》しつくして分解し、脳神経が白熱し切って燃えつきたので、これを迎えた伊賀者たちが何をきいてもニタニタ笑い、精神状態のみならず、動作も姿態も何かとろけかかった白蝋みたいに弛緩していた。
「あのお方は天」
「…………?」
「てん、てん、てん」
「…………?」
どういうわけか、お麦はこれを鼻からの発音でつぶやきつづけるのであった。
お綱といい、お麦といい、ただごとでないことが起ったことは明らかなのだが、さて上総介は何もいわない。彼ら一行を見る眼も、それまでと同じような活気があって、しかもさほど特別の興味も警戒心も持っているとは思われない。――召されれば、お唐《から》を捧《ささ》げねばならぬことは、最初からの軌道の通りであった。
「どうする? 外記」
「くノ一のざまはなんじゃ、あれは」
「うぬの信念とやらはどうした」
三人の男の忍者に嘲《ちよう》 笑《しよう》されて、雪ノ外記は頭をかかえ、うなだれて、懊悩のていであったが、やおら、一人、城からどこかへ出ていった。
数刻にして帰って来て、お唐《から》を呼び、
「やはり、露見したにまちがいはない、とのお頭の御見解じゃ。もはや、やむを得ぬ、上総介さまを空《から》になし参らせよ――との、おゆるしが出た。召されれば倖《さいわ》い、上総介さまを空印籠《からいんろう》の忍法にかけやれ」
と、必死の顔でいった。
第三夜。
上総介は平然としてお唐を召した。
お綱のピチピチした鮮烈さ、お麦のねばっこい幽艶《ゆうえん》さにくらべると、美貌という点ではこのお唐が一歩をゆずるかも知れない。ただしそれは一見のことだ。何分もじっと見つめていれば、百人の男が百人、必ずこのお唐をえらんだであろう。えらぶというより、男は吸引されずにはいられない。――まるで食虫花に対した虫のように。
いちばん特徴的なのは、ややまくれかげんの、ふっくらと濡《ぬ》れた唇で、それを見ているうちに、男はくらくらと目まいがして、全身が吸い込まれそうになる。唇のみならず、実に彼女は世に蛸壷《たこつぼ》と称せられる名器の所有者であった。巾着は絞めるが蛸は吸う。そして吸いつくのみならず、男の精を事実上からからになるまで吸いあげて、はては血液を吸いとられてもなお男は逃れることを忘れているというのは、これは明らかに忍法以外の何ものでもなかった。
「や……これまた天。いや天の上の天。なぜ最初におまえを呼ばなんだか?」
入って、彼はいった。
「伊賀のくノ一、おまえはいかなるわざを見せる?」
お唐ははっとした。
「いや、気にすな、気にすな」
と、上総介はいった。
「お綱とやらお麦とやら、あれも余の知らざる一|乾坤《けんこん》を味わわせてくれた。それを思うと、おまえらをよこした駿府のおやじどのに心から礼を申したい。おまえの味わわせてくれるのはいかなる極楽じゃ。余は死ぬ覚悟で剣を学んだ。同じく道のため、色道の至境に至りつくしてたとえ魂をあの世へ飛ばそうと、また本懐とまで思うておる。……おおっ――おおおっ――おおおおっ」
彼は突如として異様なうめき声をあげ出した。
驚愕《きようがく》はしていたが恐怖のひびきはなく、すぐにそれは悦喜歓喜そのものの咆哮《ほうこう》に変った。――お唐は、いまの上総介の言葉をきくまでもなく、最初からこの太守を乾しあげるつもりでいる。
忍法空印籠――それはたんに一時的に男をいわゆる腎虚《じんきよ》の状態へおとすのみならず、その精嚢《せいのう》の組織をすら破壊し、爾後《じご》彼を廃人化させてしまう。肉体ばかりでなく、思考力も白痴にひとしいものにし、さらにその挙止を何やらグニャグニャと女性じみたものに変えてしまうのであった。
「……あうっ」
さけんだのは、お唐のほうであった。
吸いあげたものが逆流するのを彼女は感覚した。たんに逆流したばかりか、それにひきつづいて彼女自身が吸引された。何が吸われたのか、女に吸われるものがあるのか、それは彼女も知らない。とにかく子宮のあたりから脊髄へかけて、凄《すさま》じいばかりの快美を伴った流出感がつらぬくと、次の瞬間、お唐は脳髄までがからっぽになってしまった。
ただそう感じたのみでなく、事実お唐はそれっきり虚空をつかんで魂を失っていた。――死んだのである。
「……や、また出たか、無刀の極意。――」
身を離し、この女の姿を見下ろした上総介の眼には、率直《そつちよく》に驚きの色があった。それがしだいに哀惜の思いにかげっていった。
「無念残念、こやつは越後に子を残させたかったに。……」
一人目は廃人と化し、二人目は狂人となり、三人目に至っては落命してしまったくノ一たちの運命をまざまざと見て、四人の伊賀者が恐慌状態に陥ったのは当然である。
「こ、殺しなされたとは!」
最も恐怖の動顛《どうてん》を見せたのは雪ノ外記であった。
「われらの正体、見破られたとは覚悟しておったが、とうとうお唐を殺しなされたとは、恐ろしいお方、みなの衆、城を出よう。城を出て、お頭と談合しよう」
伊賀のくノ一の本領を発揮するはこのときにある、男の衆にうしろ指さされるな、と女たちを鼓舞した言葉はどこへやらだ。
三人の伊賀者もうなった。逃亡は忍者の恥とはならないが、この場合は逃げられない。目的を一切果たしていないからだ。
それに上総介がけろりとした顔をしているのがその心事不可解であるし、知っていて知らない顔をしているのなら、いよいよ以て無意味無計算には逃げられない。
お唐の傷のない屍体《したい》が返されてから三日目。――立往生している彼らのところへ、果然、上総介からお召しの声がかかった。
三人の伊賀者は顔見合わせたが、雪ノ外記が顔色変えてワナワナとふるえているのを見ると、
「参ろう」
と、うなるように、しかし決然とうなずき合った。
三人は決死の思いをさりげない表情に沈め、一人はこれはありありと屠所《としよ》にひかれる羊のごとく上総介の座所に赴いた。どこぞ、然るべきところに然るべき武士どもが埋伏《まいふく》しているはず――と、からだじゅうの毛を立ててみたが、何の剣気をも感知し得ない。
松平上総介は、縁側に大きな円座を敷いて、あぐらをかいて、庭に乱れる秋草を見ていた。
案内して来た小姓に、
「少し内密の話がある。退がってよい」
と、いう。――小姓が退がると、
「その方がよかろうが。伊賀者」
と、大きな歯を見せて、にたっと笑った。
四人の伊賀者は、縁側に少し離れて、二列になって、ぴたっと平蜘蛛《ひらぐも》のごとく伏していたが、そのうち三つの背中に、眼に見えぬ波のような殺気がわたった。――ついに上総介は、彼らの正体を名ざしで呼んだのである。
「駿府の大御所から、何をきいて来たな?」
と、上総介はいった。
我孫子監物《あびこけんもつ》がしずかに顔をあげた。
「恐れながら、ただいまの御行状お改め下さらぬときは。――」
そして、いちばんうしろに平伏していた雪ノ外記など、たまぎるようなさけびをあげたいほどの言葉を、監物は発した。
「御命頂戴《ぎよめいちようだい》つかまつれと。――」
これは必ずしも命令逸脱ではない。くノ一を以て上総介の真意をたしかめる、或《ある》いは色呆《いろぼ》けとする。これが失敗したときは、伊賀者の匕首《ひしゆ》を以て処理することはやむを得ぬと、これは首領半蔵が家康から確約をとり、さればこそ彼らがくノ一とともに越後にやって来たのだ。
むろんこれを実行に移すには、城外にいる半蔵から改めて許可を受けるのが順当であろうが、しかしいまの場合、それと連絡をとるいとまがない。
そして、我孫子監物が独断でついにこの語をはなったのは、しょせんこの行動に出るより、この場をのがれる法はない――と見きわめたからであった。いや、上総介の心は知らず、どうみても上総介一人しかこの座にいないいまこそ、使命を果たすべき絶好の機会である。――
監物がいったとたん、並んでいる平賀|蔦兵衛《つたべえ》が座敷の方へ、そのうしろに雪ノ外記と並んでいた轡《くつわ》左平次が庭の方へ、一瞬飛び移る態勢を見せた。――三方から上総介をとり包もうとしたのである。
それがそのまま静止してしまったのは、自若たる上総介から発する豪宕《ごうとう》無比の迫力であった。
「おやじは、そこまで申したか。ふうむ」
と、いった。いささか憮然《ぶぜん》たるおももちで考えこんでいる。
その首をめぐらして、
「やるか」
と、うす笑いしていった。
あまり恐怖というものを感じたことのない三人が――しかもいまみずから挑戦した三人が、その背に水のようなものが走るのを覚えた。
「ところで、相談がある」
「……は?」
「一人ずつにしてくれぬか?」
「……は?」
「実はな、余は先年来、伊藤一刀斎なる一剣客から剣法を学んだ。そのおりその者から、刀術の至境は無刀にある、そのほうの工夫をなされといわれてな。爾来《じらい》、いろいろと工夫を重ねて、このごろに至って、ようやくみずから極意らしきものをつかみかけたように思う。……であるから、その方らにも無刀を以て相手する」
「……は?」
「だいいち、あの高札の広言の手前にも、刀はとれぬわな。ただし、正直にいって、まだまだ至らぬところがある。なお工夫したい気持があるのじゃ。で、一人ずつと申したのは、その方らを一人ずつていねいに扱ってみて、修行の資にしたいのじゃ。もっとも、これは余の望みであって、その方らがどうしても三人でかかりたいと申せば別、相談というのはここのところじゃ」
うす笑いは浮かべているが、さればとて決して人を小馬鹿にした顔ではない。
きわめて真率《しんそつ》な、熱心な表情である。いったいにこの上総介にはそういう熱中性があって、そこが勇猛無比の相貌《そうぼう》と合わせ、人に一種名状すべからざる迫力を与えるのであった。
三人は顔見合わせた。――いっせいに、
「かしこまってござる!」
といった。
まるで子供のようだが、彼らとしても上総介の迫力に打たれたにはちがいないが、決して恐怖ではなく、むしろ彼らにも同様に研究熱心な性状があるために、思わず共鳴現象を起したといえる。忍者に武芸上の面目はタブーだが、無刀を以て相手するといわれれば、もともと自信満々たる彼らだけに、むろんこの場合、いやだといえるものではない。――
「ようきいてくれた。――では、庭がよかろう」
上総介はぬうと立った。
「どやつが一番手じゃ」
「拙者が」
すでに庭へ向う姿勢にあった轡左平次が、片膝《かたひざ》立てると、腰にさしていた尺八を抜きとった。
尾端を押すと、そこから同寸の竹がスルスルと出、それをしごくとさらに同寸のものが内部から三重、四重に出て、みるみる二メートル以上もの棒となると、その先端に、錐《きり》のように細いがたしかに五十センチあまりの穂先がキラリとつき出した。
「ふうむ」
上総介は感心したようにそれを眺めた。
「妙な道具を持っておるの。……しかし、使いよいか」
ちらっとこんどは座敷の長押《なげし》に眼をあげて、
「使い勝手がよければよいが、何ならあそこに村正があるぞ」
といった。
村正といったが、槍《やり》である。村正が打った槍である。しかし――刀ではないにしろ、村正は徳川家に祟《たた》りをなすという伝説はすでにこのころからささやかれていたが、その村正の槍を平然と長押にかけておくとはいかにも上総介らしい。
轡左平次はおのれの忍び槍を見、長押の槍を見た。
「しからば、拝借」
というと、そこへ走りかかってその槍をとった。忍び槍はしょせん間に合わせの、奇具であって、この相手に対しては本身《ほんみ》の槍を以て正攻法をとるにしかずと判断したものであろう。――鞘《さや》を払うと、まさに村正たるを疑わせない妖光《ようこう》がギラと発した。
本身の村正をかかえて、左平次は庭へ飛び下りた。
上総介はそれを追ってこれも庭へ下り立ち、秋草の中を歩き出した。ゆっくり歩を運んでいるのに地ひびきをつたえる巨体であった。
「ここらでよかろう」
立ちどまる。まさに無手である。
これに対して轡左平次はピタと槍をかまえた。――承知はしていたが、さすがに怒りに満面さっと朱を刷《は》いた。
忍び槍が奇具であるように、伊賀の槍法にも奇道がある。しかしそれはむろん槍術の基本を踏まえてのことだ。正法奇法おりまぜての忍者の槍には、なみの武士よりもっと凄絶《せいぜつ》な、ただちに彼我《ひが》と死の核心に入る勁烈《けいれつ》さがあった。
しかし、相手は無手である。奇道奇法もない。槍を真っ向からかまえて、
「きえーっ」
人間の声か槍のうなりかわからない音響であった。槍は逃げもかわしもならぬ電光の速度で、上総介ののどもとへのびた。
ぴしいっと異様な音がした。
槍の穂は上総介の両掌《りようて》で拝《おが》み取りにはさみとられていたのである。
穂の作り込みは正三角形であったが、むろんその角度は六十度ずつ。これでも物に触れれば充分に切断する村正の鋭さだ。それを両掌をまるめてはさみこんだ上総介は、くるっとねじった。
ねじったことがわかったのは、轡左平次だけであったろう。手がすべりかけて、反射的にねじ戻《もど》そうとする。その刹那《せつな》、槍はふたたび逆にねじ返されて、しかも彼自身の方へビューッと押し戻された。これが一瞬のことであり、しかも突きかけた槍と同じ速度であった。
腕一杯のばした槍の石突きは、左平次の胸の前にあった。その石突きが、彼自身の力をも利用して、旋風のごとく回りつつ戻って来たのである。――反動の恐ろしさ、それは左平次の胸をめがけて、石突きが背に見えるばかりにつらぬき通った。
上総介は手をつき離した。どうと仰向けに倒れた轡左平次の胸に、村正の槍はゆれつつ宙天に立ち、すぐにまっすぐに動かなくなった。――穂の光を秋の蒼天《そうてん》に篏《は》めこんだように。
「うまくいったな、無刀試合。……」
と、上総介は両掌をのぞきこんだ。ちらと血の色が見えた。さすがに穂を回旋させるとき掌の肉を破ったらしい。――それも意に介《かい》さぬ風で、
「二番手は?」
と、こちらに顔を向けた。
「――拙者が」
我孫子監物《あびこけんもつ》が縁側から下り立った。
腰にさした短い脇差《わきざし》に手をあてがって歩いてくるのを、上総介は見やって、
「それでよいか。余が刀を貸してやろうか」
と、いった。
「いや、拝借のものは――」
監物はくびをふりかけて、ちょっと考えこんだ。眼には見えなかったが、結果から見ていまの左平次の敗北は、三角槍をねじられたと見るよりほかはない。あれが平三角の槍ならねじられることはなかったろう――と思ったが、刀ならば刃をねじられるなどということはあり得ない、と判断した。
彼はいい直した。
「あいや、恐れながら拝借いたしましょうか」
上総介はいとも無造作に腰の大刀を抜きとって、ぽんと投げた。
おしいただいてから、監物は抜き払い、鞘を地におき、左手に持ちかえた。それから右手をおのれの脇差の柄《つか》にかけた。
「……ほ」
見て、上総介の面《おもて》に苦笑がわたった。
「余の刀に細工があると思うたか。……さすがに忍者は疑《うた》ぐり深いの」
あきらかに監物は、借りた刀を予備に使おうとしている。――が、べつに彼はそこまで疑ったわけではない。
自分の刀に対して上総介がどう出るか、無刀を以て立ち向う以上、ともかくも相手は何らかの法で自分の刀を受けとめるよりほかに考えられない。げんに上総介は両掌で左平次の槍さえはさみとめている。まさか刀を槍のように掌の中で回転させるわけにはゆくまいが、万が一、止められたとき、間髪を入れず第二の襲撃を送れるように――彼が上総介から刀をもらったのはそのためであった。
「伊賀者我孫子監物。――大御所さまの御諚により、お手向いつかまつる!」
彼は刀の柄に手をかけたまま、ジリジリとにじり寄った。左腕のこぶしはその鍔《つば》もとにあてられて、上総介の大刀はななめ横にニューッとかまえられている。
「二刀を使うか、伊賀者」
上総介はくびをかしげた。ひどく研究的な眼色で、
「二刀は余も試みてみたが、結局一刀の力を半減することになるぞ。……さればこそ、わが刀法をわざわざ一刀流という。――」
と、いった。
が、我孫子監物の全身から放射される剣気はただものではなかった。人間というより動物的なそれであった。おそらく抜刀術のわざも、なみの剣士をはるかに超えているであろう。――決して傲《おご》らぬ服部半蔵ほどの者が、あえて大御所の前で、これに太刀打ちできる者は柳生道場にも三人とはあるまいと保証した我孫子監物の刀術であった。
「くわっ」
引っ裂けるような声がした。
そのたっつけ袴《ばかま》をはいた足が地を蹴《け》り、秋草の上を二メートルも翔《か》けて、宙天から彼は上総介に躍りかかっていた。むろん、空中で腰の脇差から銀蛇《ぎんだ》がほとばしっている。
ピーン。
異様な手応えを脇差のきっさきに感覚し、それが停止したのを知覚した刹那、彼の左手の大刀は上総介めがけて横薙《よこな》ぎに送られていた。
これまた宙で止まった。これは彼の生命が失われたからであった。監物の脇差は下から叩《たた》きあげられて、逆に円光をえがき、峰の方ながら剣尖《けんさき》でおのれの頭を割りつけていたのだが、何がどうしたのか、生きているあいだついに彼にもわからなかったろう。
二つになった投頭巾《なげずきん》と血しぶきをまいて草の中へ転がりおちた我孫子監物を見下ろして、
「何とかいったな、無刀試合。……」
と、上総介はつぶやいて、じぶんの右手の親指の爪《つめ》を見ていた。
彼は監物の剣尖をその爪ではね返したのである。実に何といっていいかわからないほど凄じいわざだが、はね返された監物の一刀は、まさに監物自身の頭を、かぶっていた投頭巾もろとも斬り割ってしまった。――
「三番手」
と、いう。爪の先から、血がしたたり出した。
「……心得てござる。平賀|蔦兵衛《つたべえ》」
蔦兵衛は庭へ下り立った。
さすがにやや顔が鉛色《なまりいろ》に変っていたが、その動きになんら逡《しゆん》 巡《じゆん》のようすの見えないのは、徳川名代の忍者としてあっぱれなものだ。僚友二人の死を眼前にして、その姿にはかえって血ぶるいするような闘志が見える。
帯のあたりから、黒い縄《なわ》のようなものをスルスルとたぐり出した。金属的なひびきがした。それが分銅をつけた鎖であることはすぐにわかった。腰にさしていた一本の太鼓の桴《ばち》をとった。パチンという音がすると、それは一丁の鎌《かま》になった。鎌の柄に、さきの鎖をとりつける。――
彼の手に忽然《こつぜん》として鎖鎌が出現した。
曾《かつ》てこの平賀蔦兵衛は、むろん修行にはちがいないが、この鎖鎌を以て轡《くつわ》左平次の槍、我孫子監物の刀を破ったことがある。地を疾走する犬や猫《ねこ》ですら自在にとらえる彼の鎖であった。
その鎖と鎌をとって立って、はじめて蔦兵衛の顔に狼狽《ろうばい》のさざなみが走った。もとより彼はこの御曹子が実に思いもよらなかった大達人であることを、まざまざと目撃している。そしてまたいま、この相手が特別奇怪な構えを見せたわけではない。――
蔦兵衛を狼狽させたのは、実にそのことであった。動く剣、動く槍、動く肉体に対しては、彼の鎖はそれこそ生けるもののごとく追う。しかるにこの相手は、ただ巨大な丸太ン棒を立てたように地につっ立っているだけなのだ。こんなばかげた物体を対象に、まだ彼は鎖をあやつったことがない。
が、むろん動揺は一瞬のことだ。
「恐れながら上総介さま、御《み》首級《しるし》をさずけ給え。――」
左手に鎌をふりかざし、右手の空に鎖がうなりはじめた。
そしてその鎖は、一陣の黒風のごとく大気に紗《しや》を張ったかと思うと、それが一本の黒縄《こくじよう》となり、上総介の胴に両腕こめてくるくるっと巻きついたのである。
同時に殺到する蔦兵衛の眼に、くるくるっとからだを回転させる上総介の姿が見えた。
と見るや――鎖は宙に解け返った。そこから分銅がうなりをたてて飛び戻って来た。それが、いまや相手の首をかき切ろうと左手の大鎌を横にのばした――つまり、あけっぱなしの彼の姿勢と実にみごとなタイミングで、真っ向から彼のひたいを打撃することになった。――
平賀蔦兵衛の眼に天地が裂けた。彼自身の作った速度にはちがいないが、その分銅はいかんなく彼の脳骨を粉砕したのである。
「……うまくゆくものじゃ喃《のう》。……」
と、上総介は両腕をなでさすった。葵《あおい》の紋服が胸から背へ、ところどころ裂けていた。
相手の槍を以て相手を刺し、相手の剣を以て相手を斬り、相手の鎖鎌を以て相手を打ち砕いたこの無敵無刀の剣豪大名は、なお精気躍動してふり返った。
「四番手。――」
返事がないので、縁側の方へ歩み寄ってみると、四番目の男は失神していた。
手を出しかけて、ひっこめ、縁に上って、足でその顔をかるく蹴る。――雪ノ外記はうす眼をあけた。
「おまえは、何をやるな」
「わ、わたしは。……」
外記はふるえ出した。
「わたしはもう負けております」
「いつ?」
「くノ一のときに」
上総介の眼に不審の色が浮かんだ。それはこの男の言葉も意味がわからなかったが、それよりこの男が、果して男であるかという疑惑であった。その恐怖ぶりのみならず、その顔だちや姿態からである。
ぐいと胸に手を入れて、それでも男であることをたしかめると、
「奇態なやつだ」
と、くびをひねった。
ついで、この美しい伊賀者が、先夜のくノ一たちの「房術」の師匠であったという白状をきいて、ついに上総介は哄笑《こうしよう》した。
やおら笑いがとまると、
「斬《き》るか」
と、ひとりごとをつぶやき、また、
「いや、余は無刀を信条としておる」
と、くびをふり、さていった。
「伊賀者、うぬのいのちは助けてとらす。その代り、駿府へ帰っておやじに言え。――余は無刀を以て天下をとることを理想としておる。従って、大御所の大坂攻めには反対である。さりながら、あくまでもこの策、強行なさるとあれば、もとよりおとどめいたす力はない――と思うておった。しかるにいまや、忍びの者を以て余を暗殺なされんとまで覚悟をきめておられることを知った上は、しょせん、余は徳川の天下に生きてゆくことはならぬとほぞをかためた。ただし、いまの余の政治を改める気は断じてない。――と、大御所に告げい。それだけでよい。あとは大御所が考えるだろう。――それに対して、余は無刀を以て、全力をあげてたたかう。どうなるかは知らぬ。とにかく、余の人生は面白うなった。――」
上総介は恐ろしい笑顔を見せた。
「ゆけ、伊賀の房術師」
「そ、そんなことを駿府にいって申せば、わたしのいのちはありませぬ」
雪ノ外記は上総介の足にすがりついた。
「あ、あの、いまいちど」
「いまいちど、何を?」
「くノ一とお手合わせ願えませぬか? も、もう一人、わたし秘蔵のくノ一を呼んで参りまする。わたしの房術の精髄のような女を」
外記は大変なことをいい出した。虫がいいといおうか、この場合、図々しいといおうか、このような提案をする敵の「刺客」があるものではない。――しかし、この半くノ一みたいな男は、自分の非常識も意識しない風で、涙をこぼし、胴ぶるいしながら嘆願するのであった。
「伊賀のくノ一の名にかけて――いいえ、――わたしの房術の面目にかけて――いまいちど、テ、テ、天下無双の松平上総介さまとお手合わせを!」
城外には雲水に身をやつした伊賀組首領服部半蔵が、首をながくして連絡を待っているはずだが、そんなものは、すっぽかして、雪ノ外記は江戸へ走った。
松平上総介とのいきさつを報告すれば、駿府へゆく前に半蔵の手で首が飛ぶであろうが、外記はそこまで思いをめぐらす余裕はなかった。ただただひたすら、おのれの房術とあのスーパーマンとの決戦ばかりに魂を奪われていた。
彼は伊賀者として生を受けながら、天性、武芸その他忍者に必要な荒あらしい特別訓練がきらいで、恐ろしくて、ただ女だけが好きであるのみならず、女のことすべてがひたすら好きなのである。
ふつうの武士の家に生まれず、忍者の一党に生まれたのが彼の倖せであった。ほかの忍者たちから大軽蔑《だいけいべつ》の眼で見られながら、首領の半蔵からはその存在価値を認められたからである。天性好きな道ではあり、かつは上役から勧奨もされ、かくて外記は「房術」の名人となった。その新しいアイデアの独創力、技術の開発に於て彼は天才的であった。お綱、お麦、お唐などの媚術《びじゆつ》はすべて彼の指導によるもので、彼女たちは彼の最も優秀な弟子のはずであった。
いまや彼女たちは、ことごとく敗れ去った。――
そこで彼が思い出し、最後の武器として持ち出そうとしたのは、なんと彼の妻なのである。
彼にも、妻があった。これが服部半蔵の妻の姪《めい》にはあたるが、直接伊賀組とは関係のないふつうの武家の娘なのであった。彼自身の信ずるところによれば、房術意識を介在させずして欲した唯一の女性であって、この縁談に半蔵は首をかしげたが、姪のほうが外記の美男ぶりにくびったけになってしまったから、いかんともすることができなかった。
さて、外記の妻、お貞、これが全然忍法なるものを知らない。外記がことさら教えなかったからだ。教えるのを避けたからだ。これだけは、仕事のことを家庭にもちこむことをきらう世間一般の男の心理に通じるものがあったろう。それどころか、外記はことさら彼女を貞潔な存在として崇拝しようとした。それがかえって、外に出ての彼のその道に於ける研讚《けんさん》の努力の泉となるのであった。
お貞は、彼女自身忍法を知らないのみならず、夫の忍法も知らなかった。ただ彼女は、夫が同輩からなぜか軽蔑の眼で見られていることを感じて、憂鬱《ゆううつ》になり、気をもんだ。
「あなた、もっと強くなって下さいまし」
しょっちゅう彼女はいった。夫が甚《はなは》だ女性的なことは、彼女も焦《じ》れていたのである。
「御一党の中には、女の忍びもいらっしゃるのではござりませぬか。もしできますなら、わたしも加えて下さいまし。わたし、死ぬ覚悟で修行いたします。ね、二人力を合わせて努力しましょう」
彼女はこうまでいった。
外記がこのたびの大御所の密命にふるい立ったのは、彼自身の生存意義もあるが、この可憐《かれん》にして真率《しんそつ》な妻の期待に添おうという心もたしかにあったのである。
そして、まことに意外ななりゆきであったが、ついに彼はこの愛すべき妻をおのれの忍法の祭壇に捧げるほかはない破目に追い込まれた。外界的事情というより心理的な必然性で。
越後高田から江戸まで七十二里。
江戸麹町の伊賀の組屋敷にひそかに帰ると、外記はお貞にこのたびの秘命と破局を語り、そしてお貞の出動を請うた。
「わしが考案して、いまだ試みたことのない新忍法、これを以てすれば必ず上総介さまは敗れる。このたびの大役の任は果たせる。それのみか、雪ノ外記の名は、ながく伊賀組に――いや、徳川の歴史に刻まれるであろう。お貞、どうぞわしを助けてくりゃれ。……」
お貞は驚愕し、恐れ、そして泣いた。
しかし、彼女はついにうなずいた。――そして、その忍法が成るか成らぬか、ただちに試験してみたのである。その結果。――
「ゆこう、外記!」
夫の名を呼びすてにするほど、凜然《りんぜん》としてまず立ったのは妻のお貞のほうだったのである。
「越後の上総介のところへ!」
二人は越後へ馳《は》せ返った。
往還百四十四里。これを往きの外記と合わせて十日間ですませたのは、外記はそれでも伊賀組の一員だから納得できるとして、お貞がともかくも達成したのは、そもいかなる魔力が吹きこまれたせいであったろう。
「ほう。……この女人の房術」
三人のくノ一を見たときよりも、松平上総介は眼を見張った。
雪ノ外記がつれて来た女が、美女にはちがいないが、一見しただけで貞潔の化身のような香気を放っていたからであった。
「この女人が、いかなる術を使う?」
「忍法|倒蓮華《ちようれんげ》と申しまする」
外記は以前よりますますグニャグニャとからだをくねらせながらいった。
「倒蓮華、だから、それはいかなる――?」
「それは、おためしのあとで」
「おお、左様か!」
「ただ、これにより殿さまがまだこれまでにお覚えのない世界へお入りであらせられませなんだら、両人ともに首さしのばしてお手討ちを受けまするも苦しからず。――」
「おお、左様か!」
上総介は心ここにないといった態で、舌なめずりした。
全然、「敵」といった感じではない。事実上総介はこの両人を敵とは思っていない。歯牙《しが》にもかけず、それどころか、何やら奇態な快楽を与えてくれる道具と思っている。ただ、このまなじりのさかさまに裂けた眼は、ぎらぎらとかがやいた。剣の道とひとしく、色道に於ても、新しい一|乾坤《けんこん》を味わいつくせるならば、魂魄《こんぱく》飛ばすもまた男児の本懐、というのは彼の人生の信条である。
が、やがてその女がとらせた姿態に、上総介は鼻を鳴らした。「なんじゃ、茶臼ではないか」といった。つまりそれは女性上位にすぎなかったからだ。
しかし。――
やがて上総介の知った世界こそ、まさにいまだ曾て彼の知らなかった一乾坤であった。波はうねりを呼び、うねりは波を呼び、彼は巨大な腰をくねらせはじめた。ちがう。いつもとはちがう。いかにしてこのようなことになったか。彼の男性は彼自身の肉体に固定されず、相手のほうに固定された感じで、それが熱鉄のごとく彼の体内をたたき、こねまわすのであった。無限に相つぐ快美の波濤《はとう》に、彼はあえぎ、嫋《じよう》 々《じよう》たるむせびをもらし、そしてまさに魂魄が天上に飛び去るかと思われた。
「それが女人の味わう世界でございまする」
その外記の遠い声が、ふいに「あっ」というさけびに変った。
女は、なお上総介を固定したまま、全裸の上半身をすっくと起した。片腕をのばして、上総介の刀をとり、鞘を払うのが見えた。上総介は驚愕《きようがく》したが、下半身とろとろにしびれつくして、動くこともできない。――
女はぬぎすてた衣服の袖《そで》で、その刀を逆手《さかて》につかんだ。
「見たか、伊賀忍法倒蓮華!」
そう叫ぶと、彼女は颯爽《さつそう》として、そのままの姿勢で立ち腹を切った。……
城外の野で、雲水の服部半蔵に、雪ノ外記は報告した。
「な、なに、お貞が死んだ? なぜ死んだ?」
「おそらく、男《お》ごころのきわまるところでござりましょう。――」
「男ごころ? わからぬ。それより、なぜいっそ上総介さまの御命を頂戴《ちようだい》いたさなんだか!」
「それも、男ごころのあらわれでござりましょう。上総介さまは、もはや御懸念《ごけねん》には及びませぬ。あのお方は、これより女《め》ごころの持主におなりあそばされました。――」
雪ノ外記は、なお半蔵には不可解なことをいって、ナヨナヨした手つきで懐剣をとり出した。
「わたしがお貞のあとを追うも、わたしの女ごころのゆえでござります」
そして外記はおのれの白い細いくびをつらぬいて、白すすきとともにしずかに伏した。
猛勇松平上総介忠輝の後半生こそ奇怪である。
その一ヵ月ばかりあとからはじまった大坂の役《えき》冬の陣に際し、こころみに家康が出動を命じると、案に相違して唯々諾々《いいだくだく》と越後から出て来たが、その巨躯《きよく》が妙に女らしくナヨナヨとしてものの役に立つとは見えず、家康はくびをかしげてそのまま江戸で留守を申しつけた。彼はこれまたおめおめと服従した。夏の陣には思い直して、大坂へ出陣を命じたが、この天下を決するたたかいで、事実まったくものの役に立たなかった。
「介《すけ》どのには、大和路《やまとじ》の大将軍承わらせ給えども、然《しか》るべき首一つも参らせず」(藩翰譜《はんかんぷ》)
「家康公御気色重くして仰せにいわく、忠輝はその性勇健にして心も猛《たけ》ければ、諸将に勝《すぐ》れてひとかど働きあるべし、とかねて思いしところに相違し、敵の旗をも見ざること何事ぞや」(元寛日記)
大坂の役終るや、松平上総介はやがて伊勢の朝熊《あさま》に配流《はいる》を命ぜられたが、これまたすごすごと従っている。
後半生、というが、この人の後半生はばかばかしいほど長い。長いも長いも、やがてまた飛騨《ひだ》の高山へ、さらに信濃《しなの》の諏訪《すわ》へ配流されたが、それ以来れんれんとして、実に九十二歳まで生きていたからである。
家康には第六子松平上総介以外に十人の男子があったが、上総介をのぞけばその平均寿命は三十五歳であったのに、この人物だけは、特別例外の長生きをした。――長生きは女性的特徴の一つである。
[#改ページ]
くノ一地獄変
「近江国甲賀《おうみのくにこうが》より来れる隠形《おんぎよう》者、城中に入らんと欲し、夜々忍び寄る。しかれども城中一人の西国語ならざるはなし。かつ切支丹《キリシタン》宗門の称《しよう》 名《みよう》、聞いてしかも知るを得ざる者|甚《はなは》だ多し。このゆえに城中の賊と交居するを得ず」(島原天草日記)
島原の乱における甲賀者の失敗を物語る記録である。すなわち甲賀者が島原城の一揆《いつき》軍に潜入しようとしたが、九州弁を知らずまたキリシタンの祈祷《きとう》を知らないので、どうしようもなかったという。――
もしこの寛永《かんえい》十五年まで籠坂《かごさか》新五郎が生きていたら、幕府は少くとも彼一人によってこの歎《なげ》きを見ることはなかったであろう。
その六年前――つまり、寛永九年夏の話である。
九州から帰って来た甲賀者の籠坂新五郎が、首領の服部半蔵《はつとりはんぞう》に復命した。いや、彼が九州におけるキリシタンの動静について詳細な報告をしたのはもう十年前になる。彼はその隠密のために、完全にキリシタンの中に入り、当時なお深山秘峡に残って布教していた幾人かの南蛮の伴天連《ばてれん》たちに近づいたというから、彼さえ生きていたら、さぞ島原のいくさに役に立ったろうというのだが、その体験談はこの物語とは直接関係がないから省略する。
服部半蔵は、公儀忍び組の伊賀甲賀両組を統率しているが、本来はその出身を見てもわかるように、伊賀組の宗家である。で、その日も三人の従者をつれて、四谷《よつや》伊賀町の別邸から――本邸はいわゆる「半蔵門」の前にある――駿河台《するがだい》の甲賀町《こうがちよう》へやって来て、籠坂新五郎を含む三人の甲賀者と雑談していたのだが。――
「どうも、日本人は女性的な民族ではありますまいか?」
と、突然新五郎がいい出したのである。九州の伴天連の話をしていたのだが、この言葉は突忽《とつこつ》としていた。もっとも、一見それまでの話とは無縁に思われる話題の持ち出しかたはこの男のくせでもある。
「なんじゃ? 日本人が女性的?」
半蔵よりも、新五郎の同僚の車川天童《くるまがわてんどう》が顔をふりむけた。彼は太い眉《まゆ》と厚い唇《くちびる》とあぶらぎった顔を持ち、毛だらけの筋肉のかたまりを幾百となく積みあげたような巨漢であった。
「このおれも女性的か」
「個人的な例をいっておるのではない。また、外見のことをいっておるのではない」
と、新五郎は冷静に答えたが、半蔵も不審げにきいた。
「どこが女性的であると申すのか」
「心情的にいうのであります。第一に、ものの考え方や現わし方があいまいであること。第二に、思考が一の矢でとまって、二の矢、三の矢まで及ばぬこと。第三に、感情的にすぐ一方に偏《かたよ》ってのぼせあがること。第四に、性格的に一見きまじめで勉強家ではあるが、瞑想《めいそう》と諧謔《かいぎやく》のゆとりがないので、のび[#「のび」に傍点]が効《き》かないこと。第五に、従って全然空想力ないし独創力を欠いていること。……」
「おまえのいうことはよくわからんが」
と、半蔵はやや顔をしかめた。
「なるほど女にはそういうところもあるようじゃな。男にくらべてはだ。そして、そういわれれば日本人もその通りじゃが、さて誰《だれ》にくらべてのことじゃ」
「異国の伴天連にくらべてです。あの伴天連たちに接して見て、つくづくそう思い知るところがあったのです」
「ほう……」
「第六に、盲従性、雷同性の強いこと。第七に、それとつながる性質ですが、長いものには巻かれろ式な適応力に富んでいること。第八に、秘密が保てない、すなわちちょっと一杯|呑《の》ませると、すぐにこれはおぬしだけとの話だが――と誰にもべらべらしゃべってしまうこと。されば諜者《ちようじや》に対して最も弱く、かつまた諜者に不向きなこと。……」
ちらっと半蔵の従者の方を見たようだ。
「第九に、要するに以上のごとく薄手《うすで》なくせに、片腹痛いまでに自分を神秘化して考えること。そして第十に、それらすべての性癖の結果として、奇怪なばかりに楽天的であり、虫がよくて、いい気なものであること。……」
とても忍者のようではない。
事実籠坂新五郎は、党中切っての理論家である。しかも相当口の悪い学者である。ただ、ほかの忍者には全然反響がない。きゃつ、変なやつだ、ということになって、評価はそこで止まっている。
なかなか辛辣《しんらつ》な毒舌を吐くのだが、それでも余り怒る者もないのは、その表現が奇警というよりほかの連中には難解であること、そのため悪口であることに気づくのは数日後などということが多いので怒るタイミングを失ってしまうこと。さらに新五郎が――蒼白《あおじろ》い皮肉な容貌《ようぼう》をしているくせに――存外その口吻《こうふん》に毒気が感じられないこと、などの理由によるものだろう。
ところが、珍しく車川天童がこの日は怒った。遠まわしの皮肉にはいちばん鈍い天童が。――
「要するに、わが日本人は劣っておるといいたいのか。木乃伊《ミイラ》取りが木乃伊となり、うぬは伴天連を探索にいって伴天連にいかれ[#「いかれ」に傍点]たな」
「いや、別にそういう意味ではない。ただ日本人は女に似ておると感想をのべただけじゃ。これはわれながら斬新《ざんしん》な――」
「たっ、たわけ!」
天童は眼を怒《いか》らせた。
「神武以来この弓矢をもって第一とする日本人が! 唐天竺《からてんじく》、いや紅毛の国がいくつあるかは知らんが、天下にこれほど武勇の国があろうとは思われぬ。――」
「籠坂」
と、もう一人の甲賀者が声をかけた。ふっくら、ほのぼのとした美男、というよりまだ少年の香《か》がどこかに残っているような雲雀野竜助《ひばりのりゆうすけ》という若者であった。
「おぬし、つまるところ、女の悪口をいいたいのだろうが」
「あ、いや。……」
籠坂新五郎はかすかに狼狽《ろうばい》した。
服部半蔵がつれて来た三人の伊賀者の従者は、いずれも女であった。それが甲賀組にも見たこともない美女ばかりで、「はて?」とけげんな顔をした彼らに、半蔵はさりげなく、「これは伊賀組秘蔵のくノ一じゃ」と紹介した。彼女たちは先刻から、そこにしとやかに並んでいる。どう見ても、半蔵が誇るような女忍者とは思えない。――
「だいたい、貴公、女といえば目の敵にするが――いまいった女の特性、おぬしは悪口のつもりか知らんが、おれから見ればいよいよ女とはうれしいものだなあ、という気がしてならぬ。――」
「こいつの方が女の腐ったようなやつじゃ」
と、車川天童はまた大声でいった。
「九州での探索御用みごと相勤めたは御同慶の至りじゃが、どうやら身がいり過ぎてキリシタン伴天連にたぶらかされたようじゃ。……持前のわざさえどうなったか知れたものではない。ひとつ、点検してやろうか」
籠坂新五郎はまた冷たい眼をとり戻《もど》して、しずかに同僚を見ていたが、
「やるなら、真剣でだぞ」
と、容易ならぬことをいった。
「なに?」
車川天童もさすがに一息ひるんだようであったが、たちまち首領服部半蔵の方をふりむいて、
「やって、よろしゅうござろうな。お頭。――」
と、畳を叩《たた》いた。
服部半蔵は黙然《もくねん》として二人を見くらべていたが、やおらうなずいた。
「よかろう」
――雲雀野竜助はあっけにとられていた。もとは何でもない座談であったし、そもそもが自分をも加えて甲賀の三|天狗《てんぐ》として最も相許し、相結んだ仲であったからだ。
両人、ばかに昂奮《こうふん》しておるな、とその異常ぶりに気づき、かつ、ひょっとしたら、こりゃきょうここへ来たあの三人の伊賀組のおんな衆のせいではないか、あれにいいところを見せたがっているのではないか――と笑おうとしたが、首領半蔵がけろりとして、むしろ何やら決然として両人の「決闘」を許した心がさあわからない。
何んの声も出ないうちに、車川天童と籠坂新五郎は夏の庭に下り立っている。夏というのに一木一草もなく、ただ乾いた大地に白い炎のゆれているような日ざかりの下へ。
まさに決闘にちがいない。――げんに車川天童は、彼の「武器」を持ち出したからだ。
彼はふだん、それを腰にたばさんでいる。前から一見したところでは普通の両刀のようだ。しかし背後から見ると、それは一本の妙なかたちをした長い革鞘《かわさや》におさまっている。
天童は庭に立って、籠坂新五郎をにらみすえたて、それを抜き出した。
なんと、長大な――植木鋏《うえきばさみ》様のものなのだ。植木鋏の二本の柄《え》の先端の部分だけが通常の刀の柄のように柄糸《つかいと》で巻いてあるが、ひらくと刃渡り六、七十センチもありそうな鋏になっているのだ。
それを、しかし天童はひらかず、二本の柄《え》を一本の棒としてつかんだまま、槍《やり》のように構えた。やや短いが、鋏もまた閉じて、それはまさに奇怪なかたちをした一種の槍としか見えなかった。
「よいか。――」
といって、ちらっと座敷の方を見た。
首領半蔵の方ではなく、伊賀のくノ一に、「よう見ておりなされよ。――」と念を押したのだということが、竜助にはよくわかった。天童にいかに綽《しやく》 々《しやく》たる余裕があるかという証拠だ。
これに対して、
「ようござるか。――」
と、これまた籠坂新五郎も座敷を見た。
これは明らかに半蔵にきいたのだ。竜助はさっと肌《はだ》に粟《あわ》を生じた。天童に万一のことがあってもよろしいか、と新五郎がたしかめたことが感得されたからだ。きゃつ、本気だ!
半蔵の反応はかえりみるにいとまなく、竜助はただ新五郎がスラリと一刀を抜きはなつのを見た。それが――これまた妙な構えである。刀身は片手青眼にして、左手の掌《てのひら》はなんと左|頬《ほお》にピッタリとあてている。――
妙な構えではない。これが籠坂新五郎の独特の構えなのである。――その姿が、さっと身の毛もよだつ殺気に彩られた。
「参るぞ!」
車川天童の鋏がビューッとのびた。
ぱっとうしろななめに籠坂新五郎は飛びずさった。飛びずさりつつ、頬にあてた片掌《かたて》がピッと上にすりあがった。それは竜助が、知っているからこそ見えたので、知らない者は、その頬と掌のあいだから、ひとすじの細い銀線が中天に昇ったのさえ眼《め》に見えなかったかも知れぬ。
新五郎はまた飛びずさった。二度追いすがろうとして、天童ははたと立ちどまった。その眼前に空から一直線に落ちて来たものが、ぶすっとつき刺さった。畳針のような長い針であった。
おそらく天童がなお一歩前に出ていれば、それは脳天か肩をつらぬいていたろう。いや、天童もまたそれを知っていたからこそ間一髪避けることが出来たのだ。その針は、新五郎の頬と掌のあいだから出た。彼は剣でたたかいつつ一方で針を中天に飛ばして――一瞬後の敵の位置と動きに合わせてその針を落下させる恐るべき技術の持主なのであった。
たんに奇論を弄《ろう》する蒼白《そうはく》の変物ではない。服部半蔵が、三人の中でも特にえらんでさきごろ九州へ隠密御用に派遣したほどのことはある。――敵に合わせて針を飛ばすというより、針の落下地点に敵を誘い込むといってもよい。
早くもピッとまた掌が頬を擦《す》りあげ、銀光が空へ――そして、逆に飛びずさる車川天童の頭上から、それはうなりをたてて落下している。掌に伏せられている針は一本だけではないのだ!
「たはっ」
身をそらした天童へ、籠坂新五郎の片手なぐりの一刀が斬《き》り込まれている。それは戛《かつ》と鋼《はがね》の音をたてて受けとめられた。受けとめたのは、天童のひらいた巨大な鋏であった。
青い火花を散らしながら、天童の鋏は新五郎の刀身の鍔《つば》もとまで擦った。相手の刀を垂直にはね戻しつつ、天童の鋏はふたたび七分《ななぶ》まで閉じられて――そのまま、二本のきっさきはまっすぐに新五郎ののどぶえにのびていた。
開閉自在の鋏なればこそのわざである。相手を封ずる構図がそのまま攻撃の構図となる。
「首鋏《くびばさみ》!」
「剣雹《けんぴよう》!」
同時に二人はさけんだ。三本目の針は天童の頭上にあった。
凄《すさま》じい音がした。組み合わさった三本の刃《やいば》を下からはねあげ、そのまま天童の頭上の針を横にはねのけた黒い風があった。
黒い風は一本の縄《なわ》となり、スルスルと座敷に坐《すわ》っている服部半蔵の袂《たもと》におさまった。普通の縄ではないようだが、それにしてもさすがは伊賀甲賀の首領の驚くべき縄《じよう》 術《じゆつ》ではある。
「それまで」
と、彼はいって、竜助をふりむいた。
「おまえも、やるか」
「――はっ」
躍然と、竜助はひざを立てた。何のためにやるかは知らず、いま見た二人の妙技に彼はまさに血|湧《わ》き肉躍るの感を禁じ得なかったのだ。
「どっちと?」
「どっちでも」
と、竜助はいった。彼の得意とするのはただ一刀だけであった。忍者として甚だ芸がないようだが、しかし決闘そのものに関するかぎりよけいな混り物のない方が、文字通り単刀直入に勝ると、彼は自負して疑わない。――音に聞えた柳生一門の何ぴとにしても、命のやりとりになったらおれに敵するものはあるまい。いわんや天童、新五郎輩ごときをや。――
「拙者は、いやですな」
と、籠坂新五郎は刀をしまい、針を拾って、苦笑しながら歩いて来た。
「かんじんのところでお頭から止められるような勝負はいやでござる」
「何を――おかげで、うぬの首はチョン切られずにすんだのではないか」
と、車川天童は吼《ほ》えた。
「待て待て、もう喧嘩《けんか》すな。本来、敵ではない」
服部半蔵はいった。そして、何やら考えているようであったが、やおら背後の三人のくノ一の方をふりむいた。
「見たか」
「はい。――」
三人の女は、やさしい声でうなずいた。べつに眼を見張っている様子もない。
「見た通りじゃ。もう一人この雲雀野《ひばりの》竜助、これはたんに剣を使うだけじゃが、その腕の程はいまの両人に勝るとも劣らぬことをわしは保証する」
それから、
「やれるかな」
と、女たちに妙なことをいった。
「やれましょう」
と一人が細い声で答えた。
竜助、新五郎はもとより、何やら不服顔で戻って来た車川天童も眼をぱちぱちとしばたたいた。
「何の話です?」
「まさか。……」
「その伊賀のおんな衆が、われらに対して……?」
半蔵ははじめて笑顔になった。
「ま、上って坐れ。――話があるのじゃ。そもそもきょうわしがこの女たちをつれて来たのは、もとよりおぬしらの剣技忍技を見るためではない。別にちょっと思うところあってのことじゃ」
三人は狐《きつね》につままれたような表情で坐った。さて、半蔵はいう。――
「おぬしら、いかにわしが期待しておるかはおぬしらの知っておる通り。剣技忍技において群をぬき、その点は絶対に信頼しておるが、隴《ろう》を得てまた蜀《しよく》を望むはこれ人間の習い。……百尺|竿頭《かんとう》一歩をすすめて、完全無欠の大忍者になってもらいたいと望むこと切なるものがある」
「完全無欠の……忍者?」
と、いったのは竜助で、
「はて……何が足りないのでござろうか」
と、首をかしげたのは新五郎だ。
「色じゃ」
「へ?」
「女じゃ」
と、半蔵はいった。
「それというのはな。……ひょっとすると遠からぬ将来、おぬしらにまた出動を乞《こ》わねばならぬことがあるかもしれぬ」
「とは?」
「それがわからぬ。長年のわしのかん[#「かん」に傍点]じゃ。もしそれが容易ならぬ御用であるとすれば――この際、おぬしらを、いかなる敵、いかなる事態に対しても完璧《かんぺき》の忍者に仕立てておきたい」
「女と申されましたな」
と、籠坂新五郎が向き直った。
「女とは、つまり色の道に迷う、ということでござりましょう。それなら拙者は大丈夫です。先刻ちょっと愚見の一端を開陳いたしましたるように。……」
「わかっておるわかっておる。おまえだけは大丈夫と思うが……あとの二人がな。これ天童、おまえ女が好きで好きでたまらんであろうが」
「その通り」
と、車川天童は頭をかいた。
「それだけが、拙者の大弱点だと自覚しております。ただし、矯正《きようせい》したくない大弱点で。――」
「竜助、おまえは? 正直に申して見ろ」
「そうですな、きらいではありませんな。……拙者は女人をいささか尊敬しておるようです」
「それが忍者の場合、とりかえしのつかぬ破綻《はたん》のもととなる」
と、半蔵はもっともらしくうなずいた。
「であるから、今日、おぬしらに、女というものを知らせたい」
「女を? いまさら、そんなものを……けっ」
と、新五郎が大軽蔑《だいけいべつ》の顔でいった。
「おれが知らせてやる、といっておるのじゃ」
半蔵は厳粛な調子で新五郎を封じて、
「では、籤《くじ》を引け」
「いったい、何をやるのでござる?」
「この三人のくノ一とおぬしらと、一人ずつ組み合わせて忍び蔵に入ってもらおう。そこで女とはいかなるものか、心魂に徹して知ってもらおう。……ああ新五郎、おまえはまず大丈夫とは思うが、せっかく三人のくノ一をつれて来たのじゃ。ついでにやってもらうがいい」
口をぽかんとあけている三人の前に、くノ一の一人が観世よりの籤をさし出した。
「あ、車川天童さま。……あなたの係りはわたしでござります。伊賀のお染《そめ》と申しまする」
と、豊艶なくノ一がいった。
「籠坂新五郎さまは、わたし、朱実《あけみ》でござりまする」
と、珠《たま》を刻んだようなくノ一がいった。
そして最後に、これでも女忍者かと眼を疑うような、初々《ういうい》しいくノ一が、雲雀野竜助を見あげた。
「お塔《とう》と申しまする。よろしく」
駿河台甲賀屋敷の忍び蔵。
夏というのに、ヒンヤリと水底のような冷気に、何やら異臭がまじっている。厚い壁の内側一面に黴《かび》が生えているが、黴の匂《にお》いばかりではないようだ。あちこちに何やら――古い血痕《けつこん》としか思えない黒ずんだ斑《まだ》らがある。壁に這《は》う棚《たな》にずらっとならんでいるのは、木製、革製、金属製の、えたいの知れぬ道具で、これが高い小さな窓から金網越しに落ちる蒼白な光線にぶきみな光沢《こうたく》をはなっているが、これまたよく見ると、それぞれに黒いしみ[#「しみ」に傍点]がしみついている。
ここに車川天童とお染は入った。二人だけである。あとに、重い土戸がとじられた。
天童はキョトンとしている。
「いったい、何をやろうというのかの?」
お染は黙って彼と向い合い、天童の両手を握っていた。――あっけにとられて、その顔を見ているうち、天童は次第にふるえ出した。
むろん、きみが悪いからふるえ出したのではない。女のあまりな美しさのためである。ほかの二人にくらべて、ややふとり肉《じし》の女であった。その肉が、薄明りの中に真っ白なつやをはなって浮きあがって、黒い眼と赤い唇が妖艶《ようえん》な花としか見えない。――
その黒い花と赤い花が、にいっと笑った。
「お、女を知らせる、とかいったな」
彼は逆に女の手をつかみ直して、ひきずり寄せようとした。しかし指にくびれの入った女の手は、しっとりと濡《ぬ》れた軟体動物のように逃げた。そして彼女は一メートルばかりあとへさがった。
「どうした?」
天童はあえいだ。
「おぬしのからだを知らせてくれぬのか?」
「知らせましょう」
といって、お染はスルスルと帯をとき出した。
天童はゴックリ唾《つば》をのみ込んだが、次に女は奇妙なことをやりはじめた。帯しろ裸のまま、また近づいて来ると、といた帯やら細紐《ほそひも》やらで、天童の両手くびを縛り、さらに足くびまで縛り出したのである。
「な、何をいたす」
「お頭の御命令でございます」
「おれを縛れと? うふ、おれを、こんなもので縛ったとて。――」
天童はそれをひきちぎろうとした。――が、剛力を自負する彼が、はじめ何気なく、次には満面朱に染めて力をこめてみても、女の縛った美しい紐はちぎれなかった。……
その前に、ニンマリと笑って、彼女は残りの衣服もぬぎすてた。
そこに一糸まとわぬ豊麗な裸形《らぎよう》がゆったりと立った。
天童はふいご[#「ふいご」に傍点]みたいな息の音をたてた。ただでさえ、「女は拙者の大弱点」と自認する天童である。巨大なからだじゅうの血は鳴りどよもし、湧き返って、いまにもどこからか噴出せんばかりになった。
「ううぬ、もうたまらん」
うめきつつ、その方へ眼も吸われ、足も吸われ――縛られているものだから、大音響たてて前へころがった。たとえ足くびを縛られていても、本来ならこんなぶざまなまねをする天童ではないはずだが。――
「忍法大陰体……いかが?」
笑いながら、お染がいうのが聞えた。
天童はころがったまま、床から頭を持ちあげた。
立っている裸のお染をななめ下から仰ぐかたちになる。上方に豊かにつき出した二つの乳房のために顔もよく見えない――と思ったのは一瞬のことであった。ただ立っているのではなく、彼女は反りかえったようだ。二本のむっちりした足がたわんで菱形《ひしがた》にひらき、その向うに彼女のからだが見えた。なんと、お染は背の方へ完全にからだを二つに折ったのである。
このとき、彼女の肉体は奇怪なものになった。たんに、からだを屈曲させたばかりでなく、それはそのまま巨大な別の肉塊に変じてしまったのである。真っ白で、また淡紅色やうす紫の部分もあって息づく肉の一|団《だん》に。――
「お、おう!」
と、天童はさけんだ。
二本の足はすでに微妙な色をした肉の襞《ひだ》と化し、その奥は朦朧《もうろう》とけぶりつつ何やらあやしげなものを陰顕《いんけん》させ、上方には毛髪のごときものが、そよいでいるようであった。しかもこの怪物は、依然柔らかく息づきながら、貝のように濡れている。えたいの知れぬ形相《ぎようそう》を呈しているくせに、それは凄じいほど淫麗《いんれい》で、むせかえるような花香をまつわりつかせていた。
「こ、こりゃ。……」
天童はまたうめいた。彼は気づいたのだ。
――いま、たしかに大陰体とかきいた。それは実に女性性器を人間の下半身大にまで膨隆させたものであった。すなわち大陰部そのものであった。
それが、海底の前世紀の爬虫類《はちゆうるい》みたいに、そろっと動き出して、徐々に近づき、転がったせいよりも、恐怖のために動けなくなった車川天童の方へ迫って来た。彼は頬に何やら異香を伴う熱気が――息のようなものが、はっはっとかかるのさえ感覚した。
「た、助けてくれ!」
さけんだつもりだが、声にはならない。
事実それは、仰むけになった彼の顔にぺたりと吸着し、なまめかしさの極致をつくした顛動《てんどう》を示しつつ這《は》い上っていって、ついには彼の顔の上にどしんと鎮座してしまったのである。
――約半刻。
忍び蔵から、お染と天童が現われた。いっしょに――ではない。さきにお染がたゆたゆとした豊麗な足どりで出て来て、数分おいてから車川天童が姿を見せたのだが――どうしたのか、眼をつぶっている。
「どうしたのだ?」
「め、眼でもつぶれたのか?」
と、籠坂新五郎と雲雀野竜助が声をかけた。
「見るのがこわい。――」
と、天童はいった。
「何を?」
「女を」
声のみならず、天童は、こんにゃくのお化けみたいにふるえていた。顔は――あの岩のようにいかめしい顔は何だかふやけた水死人みたいにふくれあがって、土気色の皮膚のあちこちに、どうしたのかなめくじ[#「なめくじ」に傍点]の這ったようなあとがある。
「参られまするか?」
もう一人の女がすすみ出た。
あっけにとられたように車川天童を見ていた籠坂新五郎は朱実《あけみ》に眼をうつし、それからもういちど天童を見て、肩をゆすった。
「ゆこう!」
二人は、忍び蔵の中に入っていった。
そして背後に土戸がしめられ、新五郎と朱実は向い合って立った。
「怖うござりますか?」
と、朱実がいった。
「なんの」
新五郎はいってから、
「しかし……天童ほどのものが、何をされたのじゃ?」
「わたしのすることは、お染とはちがいます」
「何をやる」
「ただ、あなたと交合することでございまする」
そういって、朱実はこれまたスルスルと衣服をぬぎはじめた。たちまちそこへ、珠を刻んだような裸身が浮かびあがった。
――ただ交合する。なるほどまさに「女を知らせる」ことにはちがいない。しかしこの場合、これは自分の問いの答えにはなっていない、と考えるより、ほかの理由で新五郎は口をつぐんだ。いうまでもなく、それは朱実の美しさであった。これがほんとうに伊賀のくノ一か。突飛な想像だが、京のさるお公卿《くげ》さまの落し胤《だね》でもまぎれこんだのではないか――と思われるほど玲瓏《れいろう》たるその凄艶《せいえん》さであった。そして、その気品にみちた唇からもれたいまの宣言との異和感からであった。
「武器は何もありませぬ」
彼女はぬれた米粒のような歯を見せた。
「おいや?」
「なんの」
さりげなく一笑したつもりだが、息が乱れているのを新五郎は自覚した。それを恥じて、彼は敵愾心《てきがいしん》をふるい起した。
「いう通りにしてやるが」
と、こんどはいい感じで、皮肉な笑顔が作れた。
「しかし、おれはおぬしに負けぬぞ」
「とは?」
「交合はするが、おれは絶対に漏らさぬ。そう思え。……漏らしたら、おれの負けとする」
朱実は微笑《ほほえ》んだ。
「それは、どうでもよろしゅうございます」
「よし! 参れ!」
凄絶な声とともに、この女性軽蔑論の忍者は、しっかと裸形《らぎよう》のくノ一と組み合った。
むろん彼は、女なるものを軽んじているだけで恐怖しているのではない。充分、相手の美醜を区別し、その美を鑑賞するだけの能力はある。むしろ他に比して面食いの傾向は甚《はなはだ》しく、さればこそいま朱実の姿に見とれたくらいだが――しかし一方、その美しい女を自分の力とわざで輾転《てんてん》させつつ、自分は冷眼にそれを観察する余裕を持っているつもりであった。とくにこの場合、女が臈《ろう》たけているだけに、その悩乱ぶりは津々《しんしん》たる興味を誘うに相違ない。――
「うっ、ううむ」
新五郎はうめいた。
右のごとき意志は抱いていたのだが――それにしてもこの伊賀のくノ一の快美さは、これはまた何としたことであろう。彼がこれまでに体験した幾十人かの女とは比倫を絶する。
「なんの、なんの」
彼は耐えた。
ただ防戦一方ではついに敗れるしかない。攻撃は最大の防禦《ぼうぎよ》であるという戦理はかかるたたかいにも動かぬ、と彼は考えている。で、その信念により、新五郎は満身の気力をこめて猛烈に攻撃した。その蒼《あお》いひたいには汗の玉がひかり出した。
女の唇から、声がもれはじめた。最初ばかに落着きはらっていた朱実はのけぞり、彼の背に指をくいこませ、全身を蛇《へび》のようにくねらせた。
「うっ、ううむ!」
新五郎はうめいた。
そして、最大限の念力を以て、自分を襲った潮をからくも封じた。
勝った。危機は去った。
もう大丈夫だ――と、彼が確信したとき――ふたたび彼の体内を潮が襲った。それが、自分の体内からではなく、相手のからだからである。
熱いものがひとすじ、彼をつらぬいて、深部にしぶきをあげたような気がした。熱い、と感じる一方で、それはまた夏の、渇き切ったのど[#「のど」に傍点]に甘く冷たい水を細い麦藁《むぎわら》で吸い込んでいるような恍惚感《こうこつかん》もあった。
「伊賀忍法、卵液逆流《らんえきさかなが》れ。……」
と、女の唇がうわごとみたいに動いた。
「ら、卵液?」
「女の持つ卵が、愛液とともに男へ逆流れしているのでございます。一ト月に一つずつのものが、あとからあとからかぎりもなく。……」
よくわからないが、たしかにそれはまだ流れつづけている。一瞬の男の場合とちがい、いつまでも、細く、長く。――
「そのたびに女は老いるのでございます。……」
新五郎ははっとした。女はあきらかに二十歳《はたち》前後から三十女の顔に変っていた。
「ば、化物。――」
さすがに恐怖して、身を離そうとしたが、離れなかった。いまや女はウットリとして、それほど力をこめて新五郎を抱いているわけではないが、両者の体内をつらぬく冷たい飴《あめ》の糸が、まるで神経線維みたいに二人を結んで離れないのであった。
女はもう四十女から五十女の顔に変っていた。
「かような忍法は使わずとも……しょせん、女はこうなるのでございます。……」
これを朱実は、なお恍惚のあえぎをまじえつついうのだ。そしてまた新五郎も依然として恍惚感に縛られているのだ。
女の髪に白いものがまじり出した。ひたいや頬に皺《しわ》が這いはじめ、しみみたいなものが浮かび、色あせた唇の中の歯は、なんとあちこち欠けていた。自分を抱いている腕さえ冷たく乾いて骨ばっている。――新五郎は自分が、六十か七十の老婆を抱いていることを知った。
「た、助けてくれ!」
ついに新五郎は、人にはきかせられない――彼にしても生れてはじめての悲鳴をあげた。
――と、彼をまとう女のからだが、ふっと柔らかくなり、やがてふくらみ出した。髪から白いものがひとすじずつ消えてゆき、皮膚はなめらかに、唇には徐々に朱の色がもどって来た。
――半刻もたったであろうか。
忍び蔵から朱実と新五郎が出て来た。さきにつんのめるように新五郎がよろめき出して来て、次にシトシトと優雅に朱実が現われたのである。
「ど、どうしたのだ?」
足もとにころがって来た籠坂新五郎に手をさしのばしかけて、雲雀野竜助はそれをひっこめた。長身だが痩《や》せ気味で、それゆえ凄味《すごみ》と飄逸味《ひよういつみ》を漂わせていた籠坂新五郎が、なんだか水ぶくれしたような感じになっているのに、ぎょっとしたのである。
「さ」
と、うしろでもう一人の女が声をかけた。
「わたしたちの番です」
そしてお塔は、茫乎《ぼうこ》たる竜助の手をとって、忍び蔵にみちびいた。
二人の背で土戸がしめられ、竜助とお塔は向い合って立った。
「天童、新五郎は、何をされたのでござる?」
と、竜助も同じことをきいた。
お塔は黙って竜助を見つめている。竜助はドギマギしたように眼をそらし、次にまた眼を吸い戻された。
「信じられないなあ」
と、嘆声を発した。
「何がでございます」
「おぬしが忍者であることがだ。……そんなやさしい、可愛い顔をして、お頭が伊賀組秘蔵のくノ一となされるなぞ。――」
実際そのお塔という女は、曙《あけぼの》に匂い出した桜の精のようであった。竜助はためいきをついた。
「どうやら、天童、新五郎は何かは知らずおっかない目に逢《あ》ったようだが……おぬしがおれに何をしようと怖ろしいことはありそうにない」
お塔はかすかに笑った。
「ただ一つのことを除いては」
「何でござりますか」
「おぬしと……交わることだ。おれは、女を知らないから」
「――えっ」
「理論的には知っている。だから、ほかのやつらにも、知っているような顔をしている。また知ろうと思えば知る機会はいくらでもあった。しかし、ほんとうのところはおれは知らない」
彼は頭をかいた。
「なぜかというと……おれはどうも女を尊いもの、崇《あが》めるべきものだという考えからぬけ切れんので、到底そんなことが出来ない。まして……おぬしのように清らかな美少女をだ」
「そこにお坐りなさりませ」
と、お塔は傍の鎧櫃《よろいびつ》を指さした。
「わたしはやめました」
「何を?」
「お頭の御下知なされたことを行うことを」
「だから、何を?」
「口では申せませぬ。申すも恥ずかしいわたしの忍法でございます。……だから、それはやめて半刻ばかりの間、ここでお話ししておりましょう」
彼女は竜助を鎧櫃の一つに坐らせ、自分も別の鎧櫃にならんで坐った。
お話ししましょう、といっても別に話すことがない。たとえ同じ首領のもとにある伊賀、甲賀にしても、組の内情はもとより自分の履歴などしゃべることは厳重なタブーになっているのだ。だからきょうまで、こんな女たちが伊賀組にいることも知らなかったのである。
二人は黙って坐っていた。
黙っていても、竜助はちっとも退屈しなければ、苦しくもなかった。――いや、苦しさはあった。何やら体内に昂《たか》まって来て、息をつめても抑え切れないような苦しさが――そのたびに竜助はふりむいて、
「あなたは美しいなあ」
と、いった。いつのまにやら、あなた、になっている。
「まるで天上の女人のようだ」
実際そのように竜助は感じたのだ。そうリフレインのようにくりかえしつつ、彼はただこの薄暗い蔵の中を春の日の温室みたいに感じて幸福感にひたっていたが、はじめこれまたウットリしていたお塔の方は、時間の経過とともにだんだん困惑した表情になって来た。
四半|刻《とき》もたったとき、彼女はつぶやいた。
「困ったわ。……」
「何がです?」
「この蔵から出ていったとき、あなたがけろりとした顔をなされていては、お頭がお疑いになりまする。何もしなかったのではないかと。――」
「それはそうだ」
と、竜助もわれに返った。
「お頭のお申しつけには死すとも叛いてはならぬ掟《おきて》じゃ。お疑いではすまぬ」
彼はあわて出した。
「もっとも、何をやるのか拙者にはわからぬが……とにかく申しつけられた通り、やられたがよかろう。何をされても拙者は抵抗せぬ。反抗せぬ。あなたにははじめから全面的に降伏しておる。さ、御自由に何なりとやられい。……」
「そうおっしゃられると、わたしはいよいよ困ります。……」
竜助は声をひそめた。
「女を知る、ということになると、やはり交わらねばならぬか?……まことに不本意で、かつ心苦しいが、万《ばん》やむを得なければ……この際、女神《めがみ》を冒涜《ぼうとく》するようであれど。……」
「万やむを得なければ、なんて!」
お塔ははじめて、やや怒ったようにいった。それから宙に眼をすえてじいっと何やら思案している風であったが、やがてあえぐようにいい出した。
「たとえ、そのようなことをいたしたとて……ただそれだけでは……お頭が期待なされているあの男の衆のやつれた、助けてくれという言葉が嘘《うそ》ではないありさまになり果てる、ということにはなりますまい。ええ、いっそ。――」
彼女の頬には血潮がのぼっていた。
「そのまま、おひざをひらいて、お坐りになっていて下さりませ。どんなことがあっても動かれてはなりませぬ。……」
そしてお塔は、竜助の袴《はかま》のひもをとき出した。
「な、何をなされる?」
「黙って――動かないで!」
竜助は青くなり、赤くなった。彼の童貞はお塔の柔らかな掌上にあった。
それをお塔はまるで尊いものでもおしいただくように捧げていたが、やがて徐々に曙《あけぼの》の桜の精のような顔を近づけていった。――
……それが四半刻つづいたのである。竜助は自分の体内から糸が無限に吸いとられていって、自分自体がただ一本の糸になったような気がした。
「……よう、御辛抱下さりました。もうよろしゅうござりましょう」
お塔は、離れた。
「こ……これが伊賀の忍法か?」
竜助は肩で大息をつき、かすれ声でいった。
「いいえ、ちがいます。これは世にありふれたことと承わっております。……」
――しかし、竜助はどう考えてもこれは伊賀のくノ一の妖法《ようほう》としか見えなかった。男を打ち倒すのにこれ以上の大忍法は考えられなかった。
忍び蔵を出る。かっとまぶしい夏の日を浴びて彼はくらくらとなり、よろめいて、危くお塔の腕に支えられた。このカップルだけがいっしょであった。
かねて打合せのごとく、
「た、た、助けてくれ!」
と、竜助は声をふりしぼった。
が、なお夢幻境をさまよっているような心理とは別に、その憔悴《しようすい》した顔貌《がんぼう》、蹌踉《そうろう》とした足どりから見て、よもやその悲鳴にいつわりがあろうとはだれにも思われなかった。
――甲賀組の某々に、服部半蔵から密命が下り、命ぜられた者が駿河台の甲賀屋敷からぽつりぽつりと姿を消しはじめたのは、その翌年の初夏のころからであった。五月に二人、六月に一人、七月に三人、という風に。
それは隠密御用にきまっている。どこへ、何のためにゆくのか、半蔵はもとより命ぜられた者も、それ以外の他人には一切口外せず、かつまたこのことについて組の中でまったく話をしないのが伊賀甲賀の掟《おきて》である。
それなのに、こんどばかりは甲賀組でもひそやかながら或《あ》る噂《うわさ》が流れ出した。なぜなら、この初夏から出動していった者で一人として帰って来る者がなかったからである。――噂はこう伝えた。ゆくさきは、上州らしい。駿河大納言《するがだいなごん》のおわす高崎らしい。――
――さてこそ。
きいた者は、だれしも心中の動揺を表情に現わした。
駿河大納言|忠長卿《ただながきよう》――現将軍家の弟君である。幼時よりその資質兄にまさると伝えられ、いちじは将来三代将軍たるべきはこの君かと目された人である。のちに駿遠五十五万石の主《あるじ》となったが、突如三年前、大逆不道の罪名を以て甲斐《かい》に蟄居《ちつきよ》を命ぜられた。大逆不道の実否は知らず、それまではとかく勇猛の行状の多かった忠長卿も、それ以来深く身をつつしんで音もたてず、かくてこのことはつつがなく終るかと見えたのに――去年十月、またも上州高崎安藤|右京《うきようの》 進《しん》のもとへお預けになったのである。
それ以来、江戸と高崎のあいだにいくどか使者の往来があった。
その詳細は知らず――この逆境の君を預る安藤右京進がばかに大納言に肩入れして、江戸からの使者が不首尾で引返すなどいうこともあったと噂された。安藤右京進重長、彼は大坂の陣でも当時すでに五万六千六百石の大名のあとつぎでありながら敵の兜首《かぶとくび》二つあげたほどの剛将であった。
そこへ徳川忍び組の服部半蔵が甲賀者をやり、その甲賀者が一人も帰って来ない。――この謎《なぞ》を知らぬながらに、甲賀組の方では「――さてこそ」とうなずいたのである。
甲賀の三|天狗《てんぐ》に新たな密命が下ったのは、その年の秋ももう冬にちかい十一月の半ばであった。
半蔵の方から甲賀組へやって来たのである。そして三人だけひそかに呼んだ。
「やはり、おぬしらに高崎へいってもらわねばならぬことになった」
と、いった。三人はとみには答えず、じっと首領を見あげている。
「これまでに高崎へいってもらった甲賀者はすでに十人――その一人も帰還せぬが――彼らの運命については今のところ何もいいたくない」
と、半蔵はいった。
「このたび、おぬしらの出馬を望むゆえんは。――」
「……大納言さまを」
と、車川天童が嗄《しわが》れた声でいった。
「殺《あや》めたてまつることでござりまするか?」
顔色が変っていた。――彼らは、いって帰らぬ朋輩《ほうばい》を案じつつ、それに伴う使命の恐ろしさを想像していたまでで、あえてこちらから半蔵に問うということをひるんでいたのだ。
「ちがう」
と、半蔵はいった。
「少くとも、おぬしらに頼みたいことは、ちがう。――左様なことをすれば、天下大乱のもととなる」
「――では?」
と、籠坂新五郎がきいた。彼もまた意外な表情であった。
「これを大納言さまにお手渡ししてもらいたいのじゃ」
半蔵はふところからうやうやしく一通の書状をとり出した。
「内を見ることはならぬ。御大老土井|大炊頭《おおいのかみ》さまの御書状である」
「や。――」
「これを大納言さまの御見に入れさえすれば、大納言さまは御自害あそばす。――御自滅ならば、だれしもこれについて異を唱える者はない。――すなわち天下|静謐《せいひつ》のためである」
三人はしばしその書状に眼を落したまま黙っていたが、やがて雲雀野竜助が不審げにいい出した。
「お頭、ただそれだけの御用ならば。――」
「それが難しい」
と、半蔵はいった。
「かかることもあらんかと、大納言さまのおん身のまわりは鉄壁の護りとなっておる。そのために――御大老の御書状をおとどけするというのはこのたびがはじめてのことじゃが――いままで十人の甲賀者が死んだ」
「しかし、たかが安藤家の侍など。――」
「いや、護っておるのは伊賀の――よいか、このこと口が裂けても他に申すでないぞ。――」
半蔵は声をひそめた。
「伊賀のくノ一――例の三人じゃ」
「あっ」
さしもの三人も驚愕《きようがく》の声を発した。
――例の三人、忘れてなろうか、伊賀のお染、朱実、お塔、その三人に相違ない。
ふしぎなことに去年の夏のあのこと以来、三人はいちども彼女たちのことについて語り合わなかった。その名を口に上せないということが、彼らの念頭から去らない証拠だ。それどころか、彼らは変った。その変りようが彼らのショックをいかんなく物語っている。
好色を自認する車川天童も女性軽蔑論者の籠坂新五郎も、女性讚美の雲雀野竜助も、彼女たちの名はおろか、一切ほかの女のことも口にするはもちろん、かえりみるところがなくなった。ただ何やら夢みるような竜助はともかく、天童は女を見るとゲーと嘔吐《おうと》を催すような声をたて、新五郎は蒼白《そうはく》な顔がいよいよ蒼白になって、ひたいに汗さえにじみ出させるという始末である。
そして一切の記憶をふり捨てるために――或いは恐怖を抑圧するために――彼らの忍技修行はいよいよ凄絶《せいぜつ》をきわめ、このごろでは天童、新五郎のごときは、ついにあらゆる妄念《もうねん》を断って、彼らなりにどこやら一種の苦行僧めいた趣きさえ具《そな》えはじめたというのに。
「な、なぜ、あのおんな衆が高崎へ。――」
と、竜助がどもりながらきいた。
「やったのはわしじゃ。その仔細《しさい》はいえぬ」
半蔵はいった。
「ともあれあの女たちには、死をかけて大納言さまを護れと申してある。そしていまわしはおまえらに、死をかけてこのたびの御用を果たせという」
三人は、判断力|昏迷《こんめい》して一語もない。――
「やれるか」
三人は水を浴びたような顔色になっていた。
「やれるな」
服部半蔵は三人の皮膚を通してその心までのぞきこむような眼つきをした。それから、いった。
「おぬしらには、出来るはずじゃ」
「――デ、デ、出来まする! なんの、伊賀のくノ一ごとき。――」
と、車川天童と籠坂新五郎は絶叫するようにいってひれ伏した。
まるでマッチとポンプである。
あとで三人は語り合ったのだが、いくら考えても服部半蔵の心がよくわからなかった。甲賀の自分たちと伊賀のあの女たちを敵味方に配したことである。
その運命を去年の夏から半蔵は見通していて、あのようなことをさせたのであろうか。しかし大納言さまが高崎へ籠《こも》られたのはそのあと十月のことだから、まさかあの時点においていまのようななりゆきを予測していたとは思えない。ではやはり忍者の総帥《そうすい》としての恐るべきかん[#「かん」に傍点]か。――
忍者の総帥としての恐るべきかん[#「かん」に傍点]といっても、よく考えるとこれを敵味方に配したのは彼自身なのだからよくわからない。特に、いまやあきらかに将軍の敵としか見えない駿河大納言を伊賀のくノ一をして護らせているということが不可解である。それは彼自身の考えか、それとも別にまた指令するものがあるのか。――
「それについて思い出すことがある」
と、学者の籠坂新五郎がいい出した。
「三郎|信康《のぶやす》さまと先々代半蔵どののことじゃ」
「お。――」
もう五、六十年も昔の話である。大御所家康の嫡男三郎信康は武田と内通しているという嫌疑《けんぎ》を信長から受け、ために家康は断腸の思いを以て信康に自刃を命じるのやむなきに至った。死の使者に立ったのは初代服部半蔵である。彼は信康を切腹させたが、腹に刃をつきたてて、「半蔵|介錯《かいしやく》を頼む」という信康に、ついに手を下しかねた。
のちになって家康は、自分が命じたことなのに、
「半蔵、鬼といわれたおまえも主人の首は討ちがたかったか」
と、いった。どういうつもりで家康がそんなことをいったかは知らず、半蔵はこのことを思い出して絶えず戦慄《せんりつ》したという。
すなわち服部家は、主命といえども主家の血を血で洗うような事件への介入を恐怖すること、他家にまさる因縁があったのである。
で、いまの半蔵が、伊賀組を以て駿河大納言を護らせ、甲賀者を以てこれを攻めさせるという奇怪な行動に出たのは、その家憲のためか、血のおびえのためか。――それともほかに何かの理由があったのか。
三人は右の信康事件のことを想起したものの、その真相はついに知ることが出来なかった。また知ろうと知るまいと、この場合、彼らが高崎へ向うことに何ら変更の余地があるわけではない。
「ううむ、それにしても、きゃつらがおれたちの敵とは、――」
一応も二応も長嘆せずにはいられなかった。
三人はあの日のことを思い出すとともに、またなにゆえ半蔵があの日の試練を行ったかを考えずにはいられなかった。
「あれはお頭の恐れ入ったる深謀遠慮」
と、新五郎がいった。
「万一の際――このような事態の際――われらを、きゃつらの投げかける幻術から救われんがためじゃ」
「幻術。――」
と、つぶやいて天童は、うっ、とまたのどの奥から怪声を発した。
「天童、またかかりそうか」
「なんの!」
と、車川天童はうめいた。
「もはやあれで憑《つ》きものはおちたわ。そもそもあれ以来、女というものに対して、おれは酔いざめした人間が酒を見たような心地でおる」
「おれもただ、幻滅、というしかない。――もっともそれまでも、もともと女とはあんなものだと承知はしておったが」
と、新五郎は吐き出すようにいって、竜助をのぞきこんだ。
「おぬしはどうじゃ。おぬしの女を相手にして。――」
雲雀野竜助は夢から醒《さ》めたように眼を見ひらき、武者ぶるいしてさけんだ。
「参る!」
三人が高崎へ向って出立したのはその数日後であった。見ることを禁じられた大老土井大炊頭の秘状を抱いて。
その秘状を大納言さまにお手渡しすることなど何かあらん、と思っていたが、これが案外に難しかった。凍りつくような濠《ほり》の水に身をひたす。あるいはその石垣《いしがき》にとりつく。――それだけで、闇夜《やみよ》のことなのに。
「おおいっ」
という絶叫が城のどこかで聞え、
「警戒警報発令。――」
「曲者の匂《にお》いがするとよ。――乾門《いぬいもん》のちかくじゃというぞっ」
そして、駈《か》け寄って来る跫音《あしおと》が地をふるわせて来るのである。
どうやら、常人でないものの眼がどこかにあって、指令を発しているらしい。三人ははじめてさきに潜行した甲賀者たちが帰って来なかったゆえんを知った。
いうまでもなく、伊賀のくノ一たちに相違ない。彼らは、あのお染、朱実、お塔が、いかにしてか高崎城の奥深く、公式には幽閉というかたちで住んでいる大納言忠長卿つきの侍女になっていることまでつきとめている。
彼らが予想外の苦心ののち、ついに城内に入ったのは、十二月五日の夜であったが、そのいきさつは略す。とにかく三人は、その夜ようやく大納言の御座所ちかくの大広間に達し、そこで例の伊賀のくノ一たちと相対したのである。
これはいまの暦で一月四日にあたる。高崎城にしずかに雪のふる夜であった。
雪の夜らしく、高崎城は寂莫《じやくまく》として――ということは、その夜だれにも発見されなかったということだが――目ざめている者さえないかに思われる静けさの中に、彼らは向い合った。
とにかく、そこへ音もなく入った三人の甲賀者は、ゆくてに左右離れて二つの雪洞《ぼんぼり》が置いてあり、そのほかに何の人影もないと見えたのに、その間に次第に三つの影が朦朧《もうろう》と浮かびあがって来たのを見て、とみには声も出ず、息をひいてそこに棒立ちになっていただけであった。
三つの影は、伊賀のくノ一たちであった。
「おまえさまがたでしたか」
「いいえ、入って来ようとしているのはおまえさまがただということが、今夜わかったのです」
「それなら、いままであんなに邪魔をするまでもありませんでしたのに。――」
三人は笑って、しずかにこちらに歩いて来た。
これを甲賀の三人は声もたてず――もっとも声をたてればこちらの身の破滅となるばかりであったが――動きもせずに迎えた。
お染と朱実がいった。
「おなつかしゅうござりました。……」
「あれ以来、いくどもおまえさまがたのことを想《おも》い出しておりました。……」
眼前一メートルのところまで歩み寄られて、ようやく車川天童と籠坂新五郎はわれに返った。あれ以来、ときいて、あの日のことが魔の炎のごとく頭によみがえったのだ。
天童は腰の「首鋏《くびばさみ》」の柄を――新五郎は懐の「剣雹《けんぴよう》」をつかんで――ひくく叱咤《しつた》した。
「それ以上、寄るな、化物。――」
「二度と、あのような目には会わぬぞ!」
お染と朱実は微笑んだ。
「……あのような術をいま使って、何になりましょう?」
「……ただ、ふつうの女として抱いて下さりませ。さまざまな話はそれからでよいではござりませぬか?」
まことに人を子供扱いにしたいいぐさだ。
然《しか》るに――車川天童と籠坂新五郎は、これに対して、馬鹿《ばか》みたいに口をぱくぱくさせているばかりであった。天童のごときは何やら口のまわりをなめまわすように舌なめずりし、新五郎は「うふう」と息を吐いて腰を浮動させた。
オイ、どうしたのだ、車川天童、籠坂新五郎。――
彼らは女に対するあらゆる執着、渇望《かつぼう》、傾倒、嘆美、煩悩、法悦から脱却したはずであった。それに対してはただ幻滅と悪寒《おかん》だけがあるはずであった。それなのに。――
眼はとろんとしている。肩が大きくあえいでいる。――相手が何もしないのに、すでに何やら妖しの蒸気に吹きくるまれたかの観がある。
実際、彼らはあっけなかった。ここに潜入するまでの彼らの苦心、いや、そもそもこの物語の第一章からの記述が――彼らが女人地獄の迷蒙《めいもう》から蝉蛻《せんだつ》した由来の紹介が――ぜんぶ無駄《むだ》、無意味ではなかったかと思われるほどだらしがなかった。
「おれは……やっぱり女が好きじゃ! もうたまらん!」
と、車川天童は吼《ほ》えた。
「なんのなんのといいたいが、おれも……案外であった!」
と、籠坂新五郎もうめいた。もはやほかに物音をきく人もあらばこそであった。
どちらが、あと一メートルの距離を縮めたのか。一瞬ののち、天童とお染、新五郎と朱実はしっかと組み合い、その場にころがって、激烈な交合をはじめていた。相手は何者か、今宵《こよい》の使命は何であったか、すべて忘却のかなたにあった。実際この雪の夜に、そのゆえか、女たちの柔媚《じゆうび》なからだは火のように熱かった。
彼らの誇る首鋏、剣雹はどこへいったのか。――
そんなものは必要ない。彼女たちは大陰体にもならないし、卵液逆流《らんえきさかなが》れも行わない。
二人の女はただ正常の、ひたすら豊艶凄艶《ほうえんせいえん》の美女として、そしてまた正常の、ひたすら甘美|芳潤《ほうじゆん》の交合を以てこれを待遇した。――それが、どれほどの時間を経過したか。
――いや、首鋏、剣雹は忘れられてはいなかった。
それはいつのまにか――首鋏は車川天童の頸《くび》をうしろからはさみ、剣雹は籠坂新五郎のうなじのうしろに迫って――両人が、
「あな心地よや!」
「魂が極楽へ飛ぶ!」
と、盛大に、大々的に放泄《ほうせつ》したとたん、それぞれの首をチョン切り、その延髄をつらぬいた。血しぶきの中に、巨大な鋏と長い針から離れた白い美しい四本の手はさまよっている。
「――御大老の御密書はどこへ?」
「――あれを大納言さまにお渡ししてはならぬ」
その手の一つが、籠坂新五郎の懐からついに密書を探し出した。
同時に、二人の女は血潮の中に崩折れた。――背後に、懐剣をにぎったお塔が立っていた。その眼から頬に銀色の涙の糸をひきながら。――
終始一貫して雲雀野竜助は、腰がぬけたようにそこへ坐《すわ》り込んでいる。
まるで夢魔の世界にでもいるような数刻か――いや、数瞬か。
時間の感覚などあろうはずがない。竜助は見たのだ。そこに倒れたくノ一の一人が、のけぞるどころか背中側に二つになったと見るや、くるくるっと一団の肉塊、しかも恐るべき外形を呈した怪物に変っていったのと、もう一人のくノ一が畳に指をくいこませて痙攣《けいれん》しているうちに、みるみる白髪の老婆に変っていったのを。――
――彼女たちの断末魔とともに、どうしてこういう現象が起ったのか。内部に秘めていた或る念力が肉の苦悶《くもん》と血の流出のために自動的に発現したのか、それともそもそも、これが彼女たちの肉体であって、これまで美女の魔粧で身を覆っていたのか。――作者にもわからない。
いわんや、雲雀野竜助に――この怪異の原因はおろか、この事実そのものがこの地上の光景とは思われない。
それにしてもお塔は? お塔はなぜあのようなことを――同僚を刺すなどという行動に出たのか?
「見ないで下さいまし。……」
お塔はいって、竜助と向い合って坐った。その声も動作も、虚脱したようであった。
「わたしがあんな姿になるのを、あなたに見せたくはありませんでした。……」
と、彼女はまたつぶやいた。
それから、哀《かな》しげな顔をあげて竜助を見た。
「雲雀野さま。……眼をつぶって、いつかの蔵の中のことを想い出して下さい。……二人、黙って坐っていたあの蔵の中のことを……あれは、わたしにとってただいちどの、愉《たの》しい、なつかしい想い出でした。……」
竜助の眼を――眼はひらいているのに、魔睡が襲った。彼はまさしくあの蔵の薄暗がりの中の数刻を思い出した。それに伴う甘美法悦の感覚を。――
さらに、どれほどの時間がたったか。――
「この御書状を、大納言さまにお渡しするのですね?」
お塔の遠い声に、竜助は眼をあげて、「――あ!」と声を発した。お塔は片肌《かたはだ》ぬいで、左の乳房をあらわにしていた。その乳房の下に例の書状が一本の針で刺しとめられていた。針はその長さから推して半ば以上刺し込まれて、そこからひとすじの鮮麗な血潮が真っ白な肌を下へつたわり落ちていた。
「どうせわたしは生きていられないのです。……わたしは朋輩を殺し、やがてこの御書状によって大納言さまを失い参らせることになります。……わたしは伊賀組を裏切ったのでございます。……」
彼女はしずかに立ちあがった。
「ただ、こうしてお塔は死んだとお頭にお伝え下さいまし。……そして竜助さま、ときどきこの伊賀のくノ一のことを想い出して下さいまし。……わたしはいつまでもあなたさまを見守って、おりまする。……おさらば」
そしてお塔は、にいっと哀艶な笑顔を残すと、そのまま背を見せて、大納言の居所の方へ歩み去った。
――雪ふりしきる中仙道《なかせんどう》を、雲雀野竜助は南へ走っていた。
江戸へ――首領服部半蔵へ報告するために。すでに彼は、自分が高崎城を去ってからまもなく、大納言忠長が謎のような自刃をとげたことを知っている。しかし、その報告よりも、ただ彼の脳髄は妖雲に吹きまくられているようであった。
向うから三人の旅の女がやって来た。
「……げっ」
と、彼はさけんで、棒立ちになった。むろん、あの伊賀のくノ一であろうはずがない。眼をつぶって、そのまま走り出す。
また一人のふとった百姓女がやって来た。
「……うわっ」
彼はその女がまんまるくなって、一個の大陰体と化したような気がした。それを錯覚だと知って、また走る。
街道《かいどう》の村の辻《つじ》で、雪がふっているというのに、数人の女の子たちが輪を作って、雪に口をあけて唄っていた。
「……た、助けてくれ!」
竜助は顔を覆い、頭をかかえた。そしてまた、こけつまろびつ走り出した。
ゆくてにむらがる冬の乱雲と身をつつむ雪つむじの中に、ありとあらゆる女、三千世界の恐るべき女の無数の幻影を見つつ――それが幻影でなく、これから一生、女というものを見るたびに、自分がこの世のものならぬ恐怖にうなされるであろうことを予感しつつ。
[#改ページ]
捧げつつ試合
人間のからだのどの器官、どの機能をとっても、かんがえてみればふしぎなくらいうまくできているが、なかんずく神秘的なのは精虫であると思う。
わずか〇・〇五ミリのからだに無限といっていい遺伝|因子《いんし》をつつんでいるとか、それが一回の射精で数億匹もふくんでいるとかいう事実もさることながら――それが男性の肉体を離れると、鰻《うなぎ》みたいな頭をふりたて、細いしっぽをくねらせて、完全に独立した一匹の生物として泳いでゆくということが奇怪であり、製造者の意志とはまったく無関係にうごくこのような虫を、製造者の意志とはまったく無関係に製造する男性のからだそのものが、そもそもぶきみ千万ではないか。
この虫はまた、人工授精で知られるように、特別製の人工|膣《ちつ》にたくわえ、冷蔵庫に入れておけば、数日間も独立して生きている。
これくらい神秘的な精虫をはなつふしぎ千万な男性の肉体だから、それがどんなはたらきを発揮しようと、いまさらおどろくにはあたらないかもしれないが――そこまで医学的知識のないおふうは、胆《きも》をつぶさんばかりにおどろいた。
甲賀《こうが》大八が、おのれの男根をスッパリ切りはなし、
「おふう、これをもって江戸へ帰れ」
と、手わたして、しかもそれが数分おいても熱気を保って脈|搏《う》っているのを知ったときである。
天和《てんな》元年秋。
上野国《こうずけのくに》沼田藩は、領主|真田伊賀守《さなだいがのかみ》の苛斂《かれん》 誅《ちゆう》 求《きゆう》と飢饉《ききん》に苦しんでいた。
沼田藩三万石は、利根《とね》郡、北勢多郡、吾妻《あがつま》郡、合わせて百九十九方里、すなわち現在の群馬県の北半を占める。しかし広さはともかく、この国は大半寒冷の山また山で、ほとんど不毛の地であった。この土地の米の収穫は、上野国南半のおなじ面積にくらべて、じつに十三分の一にもあたらない。
この土地がここ数年飢饉状態にある上に、去年ごろから藩のとりたてがきわめて苛烈《かれつ》になった。それは領主の伊賀守がみずから願い出て、江戸の両国橋|架《か》け替えの工事を請負《うけお》ったからであった。その費用約三千両。
しかも、その費用|捻出《ねんしゆつ》のための酷烈《こくれつ》な年貢《ねんぐ》のとりたてのみならず、領民にはべつに恐ろしい課役《かえき》がかけられた。樫《かし》の大木さがしとその搬出《はんしゆつ》である。
なんでも両国橋を架け替えるには、長さ十間、末口《すえくち》でも三尺の巨木をそろえなければならぬらしく、その要求に対して、
「そのような木は、城下より三、四里の山に麻を立てたるようにござる」
と、伊賀守が胸をたたいて受け合ったらしいのである。
実にばかなことを承知したもので、なるほど沼田藩には上信越をわかつ千古|不鉞《ふえつ》の大森林はあるが、巨木といえば檜《ひのき》であって、そんな樫の大木は千本に一本も発見することがむずかしいことがはじめて判明したのだ。しかも藩主が胸をたたいて確約してしまったのだ。
そのうえ、その捜索《そうさく》に狂奔《きようほん》するのについで、見つかった場合の搬出の苦労がまた容易ならぬものであった。道なき大山中から、機械力というものを一切持たない人夫が運び出すのだ。一本について延数千人を要するといっても大げさではない。それを利根川まで運び出し、筏《いかだ》にくんで江戸に送る。この費用と労力はすべて沼田藩の負担である。
加うるに、元来の不毛と年来の飢饉。――沼田領内の男女老若をあげてこの苦役にあえぎ、しかもことごとく飢えて生色がなかった。
もとより、苦痛にたえかねて領外に逃亡しようとする者がある。が、沼田藩をめぐるのは夏さえ白雪をいただく大山脈だ。それをうがつ街道《かいどう》には、狩宿《かりやど》、大笹《おおざさ》、猿《さる》ケ京、大戸などの関所がある。かくていまや沼田藩は一大|牢獄《ろうごく》と化し、住民はそこにつながれた奴隷《どれい》であった。
いったいなぜ真田伊賀守がこんな身のほど知らずの大役をひき受けたのかというと――要するに、その前年襲職したばかりの新将軍綱吉に対する阿諛《あゆ》からである。
綱吉は将軍に立つやいなや、鉄血の大老|堀田筑前守《ほつたちくぜんのかみ》をふところ刀とし、かねてからとかくの噂《うわさ》のある幕府の重職や諸大名を、快刀乱麻《かいとうらんま》を断つがごとく粛清しはじめていた。――真田伊賀守のこのあがきは、それに対する畏怖《いふ》からであったのだ。
――にもかかわらず。
公儀からすでに隠密《おんみつ》が入った。実に真田伊賀守の努力にもかかわらず、大老堀田筑前守の眼は冷厳にひかって、去年のうちに三人の隠密をこの国に潜入させていたのである。
公儀|甲賀《こうが》組。甲賀大八、布目万《ぬのめまん》右衛門《えもん》。――そして、このおふう。
おふうは藩境の大戸の関ちかい茶屋の娘として暮していた。ここを北へゆけば、街道は東西二つにわかれ、東すれば沼田へ、西すれば草津へゆく。――彼女は草津の叔母《おば》をたずね、その叔母がこの世を去っていたためにゆきくれたみなし児《ご》という体《てい》につくろって、この山中の茶屋に拾われたのだ。親切な茶屋の老婆は、まさかこの愛くるしい娘が公儀隠密組の一員だとはゆめにも知らないが、彼女の役目は、大戸の関所役人と顔見知りの仲になることであった。
――その早朝、ふいに甲賀大八がこの茶屋に入って来たのだ。彼はおふうの兄たる布目万右衛門とともに、沼田の家老の家に若党として奉公していた。
彼は全身|朱《しゆ》をあびたような姿であった。
「……あっ、大八さん!」
おふうは狂気のように駈《か》け寄った。
土間の水甕《みずがめ》に張っていた薄氷《うすらい》を割っていた老婆は、びっくりして柄杓《ひしやく》をとりおとした。泳ぐように入って来た甲賀大八は、恐怖に立ちすくんでいる老婆のそばに寄り、ものもいわずこれを袈裟《けさ》がけに斬《き》ると、じぶんもどうと土間にたおれた。
「若さま! 大八さま!」
おのれを失い、禁じられていた呼びかたで呼んでとりすがるおふうに、大八はあえぎながら、
「素姓を見ぬかれて、逃げて来た」
と、いった。おふうは歯をカチカチと鳴らしてきいた。
「兄は?」
「探索書を持って、間道を逃げた。逃げたはずだ。……追手は五人、三人|斃《たお》したが、おれもやられた。沼田藩の忍者だ。いまにここにくるぞ。だから、ふびんだが口封じに婆を斬った。おふう、ここを逃げてくれ」
「いいえ、大八さまを残したまま逃げられませぬ。大戸の関のお役人は知っております。こんなときのために、おふうはここにいたのです。いっしょに逃げましょう」
「いや、おれはもうだめだ。ただ、おまえに頼みがあってここまで来たのだ」
そういうと、大八は土気色の顔にふっと大きく眼《め》を見ひらいた。おふうではなく、何もない宙を見ていた。――死ぬのではないか、と、おふうが息をのみ、つぎに何かさけび出そうとしたとき、
「お頼どの」
と、大八がつぶやいた。
そしてこの場合に、夢みるような笑いを浮かべると、おちていた血まみれの刀身を杖《つえ》によろよろと立ちあがり、壁に背をつけたまま仁王立ちになり――さて、ふるえる手で例のものをつかみ出し、スッパリ切りはなし、
「おふう、これをもって江戸へ帰れ」
その切断面を口にあて、唾《つば》で封をするような動作をみせたのち、おふうのまえにつき出したのである。
「これをおまえに頼もうと思って、おれはここに来た」
おふうは受けとらなかった。立ちすくんできいた。
「これはなんでございます?」
「甲賀秘伝、忍法はぐれ雁《がり》。……」
と、大八がいった。
「これを女人の体中に置けば、その女人は懐胎《かいたい》する。根来《ねごろ》家のお頼どののところへ持ってゆけ。おれは死んでも、おれの子は残るだろう。……」
依然として夢みるようにいうと、大八はそれをおふうの手におしつけ、ずるずると壁の下に崩折《くずお》れた。
「――いや、いやでございます。大八さま!」
甲賀大八は、若い美しい死相の顔をわずかにあげて、
「徳川家忍び組に、甲賀直系の血を残すためだ。……おふう、江戸のお頼どのにわたすまで、それを手から離してはならぬぞ。女の手でしっかと握りしめて、そのぬくみで護《まも》っていてもらわねば、それは死ぬ。……おふう、甲賀一族のためにたのんだぞ!」
そういうと、彼はがくりと首をたれてしまった。
一|刻《とき》のちだ。
「……や、血だ。血のしずくがここにあったぞ」
「おう、あの茶屋へつながっておる!」
そんな声が外できこえると、野羽織《のばおり》を着た三十年輩の侍が二人、その茶屋に駈けこんで来た。――そして二人は、土間にたおれて死んでいる若党姿の男と老婆を見出した。
「きゃつだ!」
ふたりは精悍《せいかん》な眼を大八の死骸《しがい》にすえてさけんだ。
この大戸の関の裏山には間道がある。後年|国定忠治《くにさだちゆうじ》が関所破りをして磔《はりつけ》になったというのも、実はこの間道を通ったということなのだ。むろんそこには物見番所があるが、沼田から来た二人の若党はもののみごとにその眼をくらまして抜けようとした。――が、すでにその二人の素姓を看破《かんぱ》して沼田から追って来た五人の武士は、ついに彼らを捕捉《ほそく》した。
しかし夜明け前の山峡《やまかい》でくりひろげられた物凄《ものすさま》じい格闘ののち、二人の「江戸隠密」は追撃隊を三人まで斃して、いちどはばらばらに逃げたが、その一人は山中に追いつめられてやっと討ち果たされた。その懐中から沼田藩内の惨状と百姓の不穏《ふおん》な動静をつぶさにしるした報告書が出て来た。そして逃げた手強《てごわ》い方のもう一人もまた深傷《ふかで》を受けていることはたしかであった。
その血のあとを猟犬みたいに嗅《か》いで、彼らはついにこの茶屋にたどりついたのだ。
「この茶屋に娘がひとりいたの。……どこへ失《う》せたか?」
一人が気づいた。
「あれは婆の娘ではない、旅の娘だといつかきいたことがあるぞ」
「それにしても、その婆を殺したとは。……」
二人は顔を見合わせた。さっと何やら一つの疑惑がその面上を吹きすぎたようだ。
「あの娘……ひょっとしたら?」
歯のあいだから、同時にただならぬうめき声を発した。
「――ならば、江戸へゆかしてはならぬ!」
彼らは寒風をついて、それ自身一陣の魔風《まふう》と化したかのように大戸の関の方へ馳《は》せのぼっていった。
北から吹きつけるからっ風に追われて、おふうは高崎へ出て、中仙道をひた走った。
なんの苦もなげに歩いているようで、実に風に乗っているようなはやさだ。ゆきかう旅人は、すれちがって、あっというようにみな口をあけた。
しかし、その娘の細い腰にさされた一|挺《ちよう》の鎌《かま》にまで気づいた者があったか、どうか。
おふうはくノ一であった。甲賀大八、布目万右衛門とおなじ甲賀組の女忍者であった。ただし、正確にいえば公儀隠密組の一員ではない。このたびの沼田藩探索の手伝いのことは、彼女自身が大八に願い出たことである。
そもそも甲賀大八の隠密御用が、上から下ってきたものではなく、彼の方から願い出たものだ。
公儀隠密の主流派は伊賀者であった。幕府|草創《そうそう》のころ、それとならんで編制された甲賀組、根来組は、職制こそもとのままだが、実質的にはいつしか影のうすい存在になっていた。しかるに五代将軍綱吉が立つや、局面が一変した。大老堀田筑前守が、先代までの実力者の手垢《てあか》のついた伊賀者をしりぞけ、しかもどういう見解からか、根来組をおのれの手足として使いはじめたからだ。
甲賀大八は、根来組のお頼という女と恋し合っていた。大八は甲賀組の首領の裔《すえ》で、お頼は根来組の副頭領の娘であった。不遇の一族どうしで、かえってこの縁はふさわしいものに見えた。
ところがここに、根来組だけに日があたったとなると、めでたいことのようで大八はいささか憮然《ぶぜん》たらざるを得ない。――彼がお頼の父を通じて、大老に、沼田藩の隠密御用を願い出たのは、こんな事情からきた一種の焦燥によるものであろう。それは、ききとどけられた。
大八の内面の心情はともあれ、これは甲賀組を再認識させる貴重な機会であった。大八の忠僕的存在であった布目万右衛門が勇躍して行を共にしたのは当然であり、また妹のおふうがその手伝いを志願したのも、彼女にとっては必然のことであった。
上州にあること約一年。
任務は終った。――しかし、甲賀大八は命を落した!
風に乗って駈けながら、おふうの胸にも風はかなしいひびきをあげている。胸にあるのは大八の死ということだけだ。逃げたという兄の安否《あんぴ》などはない。あるとすれば、なぜ兄が死んで大八さまを逃がさなかったかという恨《うら》めしさだ。
いや、大八さまは死んではいない。
高崎から一里十九町、倉ケ野まで駈けぬけてきたとき、おふうはやや人心地にもどった。ふところに入れたまま、左手でしっかりと握っているものの熱い脈搏《みやくはく》が呼びもどしたのである。――ここに大八さまは、この通り生きていらっしゃる。
忍法「はぐれ雁《がり》」――
おふうはいままでこんな忍法は知らなかった。はじめて目撃して胆をつぶしたけれど、いままで知らなかったということは怪しまなかった。忍法相伝は、それぞれの家の口伝《くでん》である。しかも甲賀大八は甲賀忍び組の宗家すじの人間だ。あるいは兄の万右衛門ならきいて知っていたかもしれないが、じぶんなどが知らされていなかったのは当然だ。それにおふうは、世の中のだれよりも甲賀流忍法に対して絶対無限の信仰を抱いていた。――
これを江戸へもってゆけ、と大八さまはおっしゃった。
江戸のどこへ?
根来組のお頼さまのところへ。
ながれるように走りつづけていたおふうの足が、ふいに街道の土が泥《どろ》と変ったようにゆるやかになった。
これをお頼さまのところへもってゆけば、お頼さまは大八さまのお子を生みなされる。そのことについて、彼女はいままで疑いを持っていなかった。むろん、かすかな抵抗はあった。大八にそう命じられたとき、思わず「いやでございます」とさけんだのは、その抵抗の声だ。彼女はたしかに大八を恋していた。しかし、ひとに知られたらそれは一笑に付されるであろうことも承知していた。大八とじぶんは主従だ。が――いまおふうは、江戸へゆく足が大地にねばりつくのをおぼえた。
わたしがそれをしなければならないのか?
それをしなければ、大八さまに叱《しか》られるだろう。――が、大八さまはもう死んで、いない。
いえ、大八さまは生きていらっしゃる。掌《てのひら》の脈動がそれを伝える。
おふうはふところの中で、大八の「はぐれ雁」をにぎりしめていた。大八の声が耳に鳴っていた。「それを手から放してはならぬぞ。女の手でしっかりと握りしめて、そのぬくみで護っていてもらわねば、それは死ぬ。……」
ズッキ、ズッキ……とそれは、独立した一個の生物《いきもの》のように熱く脈|搏《う》っている。……走るそのことより、そのなまなましい感触は、彼女の心臓にひびいてくる。
しだいにおふうは、お頼という女性にたえがたい嫉妬《しつと》をおぼえて来た。いままで抑圧していた意志、大八とお頼が結ばれるのはじぶんのどうすることもできない天意であるという諦念《ていねん》が、その脈動のためにつきあげられ、波うって、薄紙みたいに破れそうになって来た。
……いやだ、わたしはいやだ!
そう胸のうちでさけぶ声をききながら、しかしおふうは駈けている。足はためらいつつ、しかも常人の速度の三倍はあった。
まだ日は天中にのぼらないのに、彼女ははやくも武蔵《むさし》に入り、本庄の宿場を走りぬけていた。「江戸へ二十一里十四町」とかいた街道わきの道しるべがうしろへながれすぎた。
南へゆくにしたがって、上州の山の寒風はあかあかとした秋の日ざしに変り、おふうの顔を上気させてくる。おふうの血は鳴り、あたまの中で燃えしきった。
炎の中で声がきこえる。
「これを女人の体中に置けば、その女人は懐胎する。――」
本庄から二里二十五町|深谷《ふかや》の宿《しゆく》。
深谷から二里二十七町|熊ケ谷《くまがや》の宿。
渺茫《びようぼう》とした武蔵野の中を走る中仙道の風物も、ゆきかう旅人も眼には入らず、彼女はただひとつの幻想を見つめていた。くらくらするほど恐ろしくて、しびれるほど恥ずかしい幻想であった。
「これをおまえの体中に置けば。――」
大八の声はいつのまにか変っていた。
「おまえは懐胎する」
声は息づく乳房に密着したこぶしの中からきこえてきた。掌は熱く、汗でぬらぬらとねばりついていた。
最初につかんでふところに入れたときから、おふうはそれを見ていない。見るのが恐ろしかったのだ。……それは力づよく、ズッキズッキと脈搏ちつづけている。このふしぎなものを、もういちどよく見たい、しだいにおふうはその強烈な誘惑にとらえられて来た。
おふうは足よりも、腰のあたりがだるく、解体しそうになっているのを感覚した。彼女はいつしか走るのをやめ、歩いていた。
「鴻《こう》ノ巣《す》。江戸へ十五里三十四町」
そんな道標が街道のわかれ道に立っているのが見えた。わかれ道とは、ここから中仙道とはべつに、日光への裏街道が出ているからだ。
街道のわきに黄ばんだ草が秋の風にそよいでいる河原がひろがっていた。元荒川だ。さすがに秋の日もいつしかかたむきかかっていた。
……おふうは街道からそれて、河原に下りた。ながい枯草をかきわけてゆく彼女の足どりも酔ったようなら、そのぼっとうるんだ眼も熱病人のようであった。
元荒川――その昔|氾濫《はんらん》して人々を悩ました荒川を、元和年代、このあたりの郡代|伊奈備前守《いなびぜんのかみ》が改修したあとだが、それでも漫々《まんまん》として氷原のようにひろがっている。その水際ちかくまでいって、おふうは立ちどまり、ふところに入れたこぶしをぬき出そうとした。
そのとき彼女は忍者としての第六感でいきなりふりむいた。街道の方から、二人の深編笠《ふかあみがさ》、野羽織の武士が駈け下りてくるのが見えた。
沼田藩子飼いの忍者であった。
当時どの藩にもこんな特殊任務に従事する者がかかえられていたとは思えないが、この藩は信州真田の支流であるだけに、曾《かつ》て鳴らしたその一派の技能が相伝されて残っていたものであろう。
彼らは大戸の関にゆき、そこの役人から茶屋の娘が出たということをきくと、さてこそと眼をいからせた。しかし関所役人たちは、その娘がふだんから関所にやって来て、花や餠《もち》などを置いてゆき、いつしかすっかりなじみになっていたので、まさかそれが公儀の隠密だとは夢にも思っていなかったのである。
……しかし、おそらくは、死んだ隠密の一味だ。その娘が逃げたということは、隠密の一人から最後の連絡を受けとって江戸へ走ったのだ。
疑惑はしだいに確信となった。彼らはまなじりを決して追跡した。その娘を、江戸へやってはならぬ。
常人には想像もつかぬ速歩であった。彼ら自身、もうその娘を追いぬいて見失ったのではないかといくども疑った。そして、ついにもういちどひき返そうとしたとたんにおふうを発見したのである。
むろん、それをおふうと知ったわけではない。前の方を歩いていた娘が、ふいに街道から河原へそれていったので、さては、と気がついたのだ。
「……あれだ」
「茶屋の娘だ!」
大戸の関にちかい山中の茶屋に彼らが立ち寄ったのは三、四度だが、まさにひなにはまれな美少女であったので記憶に残っていた。――彼らはその娘が、じぶんたちをまいて逃げようとしたものと判断した。
「待て、そこの娘」
ちかづいてくる二人の武士を、おふうはふりかえって迎えた。彼女は彼らが何者かまだわからない。まさか?
「うぬは……女だてらに江戸の隠密か」
「わたしは」
と、おふうは唖然《あぜん》とした表情を見せてこたえた。
「上州の……さる茶屋の娘でございますが」
「けさ上州の大戸を越えて来た女が、日はかたむいたとはいえいまの時刻、十数里離れたこの鴻《こう》ノ巣《す》あたりを歩いているとはただ者ではあるまいが」
はっとした。同時にそれは、この追跡者もただ者ではないことを告げる言葉であった。おふうの耳に大八の声がよみがえった。「追手は五人、三人斃したが、おれもやられた。沼田藩の忍者だ。……」
おふうの全身をさっと彩《いろど》った殺気に、もはや問答無用とみとめた沼田藩の二人の忍者は深編笠をとって、枯草の中へ投げすてている。
きらっ、きらっと二すじの赤い刀光が夕日をはねた。
反射的に一|間《けん》もとびずさり、おふうはちらっとうしろを見た。背後は川であった。逃げられないというより、彼女のあたまには大八の言葉がひらめいた。「女の手でしっかりと握りしめて、そのぬくみで護っていてもらわねば、それは死ぬ。……」
とびずさった足が草についたとたん、おふうは腰の鎌をぬきとろうとして、背に水の走るのをおぼえた。
くさり鎌だ。
くさり鎌は一方の手に鎌を持ち、一方の手に分銅のついた鎖を持つ。――その一方の手、左手に彼女は大八の「はぐれ雁《がり》」をにぎっているのだ!
おふうの顔に狼狽《ろうばい》と苦悶《くもん》の波紋がちった。
しかし、次の刹那《せつな》、彼女はがっきと鎌の刃をくわえ、右手だけで鎖をにぎった。
「――やるか」
「けなげなり、くノ一っ」
さけんで、つつと寄ろうとして、一瞬二人はためらった。彼らがふつうの人間でないだけに、鎌をくわえた娘の奇怪な構えに、かえって疑心暗鬼にとらわれたものであろう。
その寸秒の躊躇《ちゆうちよ》が一人の死となった。まるで黒い爬虫類《はちゆうるい》みたいにたぐり出され、巻きあがった鎖は、その尖端の鉄分銅を彼の鼻柱にたたきつけた。鮮血がとびちり、彼は崩折れた。
「――こやつ!」
凄《すさま》じい形相で躍りかかって来たべつの一人の凶刃から、おふうは横にまた一間も飛んでいる。
ふだんのおふうなら、到底できぬわざを彼女はしてのけた。おそらく大八の「はぐれ雁」を江戸へ送りとどけねばならぬという責任観念が、彼女に異常な能力を発揮させたのであろう。いや、おふうは左手ににぎりしめているものから、この世のものならぬ神秘な力が伝わってくるのを感じた。
「のがしはせぬぞ!」
間髪を入れず跳躍してくる武士をめがけ、
(――護らせ給え、甲賀はぐれ雁!)
祈りをこめて、おふうはまた鎖をふるった。彼女の唯一の武器はそれだけであった。
分銅は相手の刀身をなかばからたたき折り、さらにのびてきりきりっとその頸《くび》に巻きついた。
「……ううむ!」
相手は仁王立ちになった。その顔が朱色に染まった。常人なら一瞬に絶息するところだ。しかし彼は苦悶に眼を白くむき出しながら、両足をふんばり、片手になかば折れた刀身をふりかざしている。それをおふうに投げつけようと狙《ねら》っているのだ。
おふうの左手がふところから出ようとした。左手で鎌さえとれば、何が飛来しようと受けられるのだ。――しかし、彼女の手はそのままであった。
ピーンと張られた一条の鎖、その一方に頸椎《けいつい》まで折れよと絞めつけられながら、なお刀を投げつけようと狙っている男、一方にその鎖をにぎってはいるものの、左手を封じられている女。男の満面は紫藍色となり、女の顔も蒼白《そうはく》に変っていた。
この死闘の中に、沼田藩の忍者は、ようやく女の左手が封じられているらしいことに気がついた。ちかづいて恐ろしいのは鎌であったが、その危険はないと判断した。ふいに彼は、刀をふりかざしたまま、たたたたと寄って来た。
おふうはのけぞるようにまたとびずさった。片足が水に入った。踏みとどまり、独楽《こま》のように右のこぶしをまわして鎖をおのれの手くびに巻きつける。鼻腔《びこう》と口から血をほとばしらせながら、相手はさらに寄った。その悪鬼のような顔がおふうの眼前に迫ると、
「ぎゃあ!」
苦悶の悲鳴にちかい声をあげて、彼はなかば折れた刀身をふるった。形容しがたい凄惨《せいさん》なひびきをたてて、おふうの右腕はその肘《ひじ》から斬りはなされていた。さすがに彼女の口から鎌が離れた。
身をくねらせて、彼女は水ぎわを横に数歩走って逃げている。あとに鎖をつかんだままの一本の腕を残して。
それのおちたところから水にひろがった血の輪をちらし、沼田藩の忍者は鎖をひきずってそのまま川へ入ってゆき、いちど反転しようとしたが、すぐに水けぶりをあげてつっ伏した。
凝然《ぎようぜん》と水ぎわに立っているおふうの眼の前で、彼は左手をあげて頸に巻きついた鎖をかきむしったが、そのままがくりと頭部を水中に沈めてしまった。
おふうの手はなお「はぐれ雁」をにぎりしめたままであった。
鴻ノ巣から一里三十町桶川。
桶川から二里三十町大宮。
秋の日は暮れた。――闇《やみ》の底を女忍者はゆく。疾風《しつぷう》とも見えたその歩みは、常人よりも遅くなった。まるでよろめいているようであった。いや、それどころか、いくども街道にひざをついた。それでも彼女は、這《は》うように進んでゆく。
むりもない、彼女は片腕を失ったのだ。まるでからだじゅうの血はなかばなくなったのではないかと思われるほどおびただしい流血であった。
出血を或《あ》る程度とめる法は前に兄からきいていた。しかしその処置をするにはもう一方の手のはたらきを必要とした。それが使えない彼女は、ほとんど自然の止血作用に待つよりほかはなかった。……片腕を切断されて、それを放置したままなおつづける歩行は、忍者なればこその念力《ねんりき》によるものであったろう。いや、或る目的についての女の祈りからであったろう。
(――護らせ給え、甲賀はぐれ雁《がり》。……)
それを護るためにじぶんが片腕を失うはめになった、とはおふうは思わなかった。じぶんが大八の頼みに叛《そむ》き、甲賀の掟《おきて》に叛いて、恥ずかしい、大それた望みを起したばかりにその罰《ばち》があたったのだとかんがえた。
掌の中の「はぐれ雁」の搏動《はくどう》は、彼女が衰弱《すいじやく》してきただけに、いっそう熱くいっそう力づよくなったように感じられた。大八が鞭打《むちう》っているようであった。
「徳川家忍び組に、甲賀直系の血を残すためだ。……おふう、甲賀一族のためにたのんだぞ!」
大宮から浦和へ一里十町。
浦和から蕨《わらび》へ一里十四町。
おふうは、羽根をもがれた美しい昆虫《こんちゆう》みたいに夜の街道を這っていった。蕨から江戸まで四里十六町だ。道標は見なくても、彼女はそれを知っていた。――いままでなら四里内外ならひと息だが、いまはそれが無限の距離に思われた。
「わたしは死ぬ。……」
闇の底でうすいあえぎをあげながら、おふうは微笑んだ。死ぬことはなんでもない、わたしは大八さまのところへゆける。……
すると、掌の中の「はぐれ雁」が彼女を鼓舞《こぶ》し、彼女をわれにかえらせた。
「いえ、わたしは死んではいけない。……江戸へつくまでは」
おふうは、じぶんが死ぬことよりも、じぶんが死ぬことによって、こぶしの中の「はぐれ雁」が死ぬことを恐怖した。
もはや夜もふけて、人通りもない蕨の宿《しゆく》のはずれ、問屋場のそばを通りすぎてから、おふうは板橋の方角からやって来た一挺の駕籠《かご》をみとめた。どうやら空駕籠のようで、客を送って帰ってきたところらしかった。
おふうは呼びとめた。寄って来た駕籠かきは、この寒い秋の夜にふんどしひとつの裸虫《はだかむし》であった。毛むくじゃらの肌《はだ》からは酒の匂《にお》いがした。駕籠の棒には一升|徳利《どつくり》が縄《なわ》でゆわえつけられていた。もう仕事じまいで、そこで一杯ひっかけてきたのだから御免こうむりたいというのを、病人だからと哀願して、おふうはその駕籠に身を投げこんだ。
江戸へむけて走り出した駕籠の中で、彼女は失神した。
「おい、お女中、出ておくんなせえ」
呼ばれて、おふうは気がついた。いつのまにか駕籠は地におかれ、垂れがひきまくられ、そこから酒の匂いが吹きつけた。
「もう江戸につきましたか」
「ついた。ここは板橋だが……」
「板橋ではならぬ。牛込《うしごめ》までいって下され」
「ゆく。ゆくがそのまえにちょっと話があるんだ。出ておくんなせえ」
ただならぬ気配をおぼえ、おふうはからだを折りまげて外に出たが、よろめいて、あやうく駕籠にもたれかかった。
板橋ときいたが、おふうには見当もつかない場所であった。黒ぐろとした庚申堂《こうしんどう》とそれをとりまく杉木立の蔭《かげ》の中だ。利鎌《とがま》みたいな秋の月が、その梢《こずえ》にかかっていた。おふうは、駕籠かきのほかに、まだ三人の同じような風体《ふうてい》の男がふえて、そのひとりは駕籠の棒先にもたれて一升徳利を口にあててのんでいるのを見た。
「酒手《さかて》かえ?」
と、おふうは息をつめていった。
「それは気のすむまであげるから、はやく牛込へつれていっておくれ。こんなところにとめてどうするのです」
「おめえさん、手をどうした?」
と、ひとりが、三日月のひかりをすかして顔をつき出した。
「病人ときいたが……おめえさん、両手がねえね。おかしいな、うすっきみのわるい女じゃあねえかって話してたんだ。あるなら、手を出して見せな」
「……手があろうとなかろうと、おまえたちの知ったことではない。さ、はやくいっておくれ。ね、おねがいだから。――」
「それが、両手のねえ、美しい女って奴《やつ》あ、野郎に妙な気を起させるんでね。きみがわるいが、おまえが美しい女だってことにまちげえはねえんだ。美しい女なら、たとえ化物だって――」
そういいながら寄ってきて、いきなり抱きつこうとした一人の駕籠かきが、ふいに股間《こかん》をおさえてまるくなってころがった。おふうの片ひざがはねあがってこれをつきあげたのだ。
「あっ、このあま!」
「しゃらくせえまねを!」
一升徳利がほうり出され、男たちは息杖《いきづえ》をとっておふうをとりまいた。地をうずめていた枯葉がぱっと舞いあがった。
駕籠を背にして立ちすくんだおふうの肩は大きく波うっていた。たいへんなことになった。わたしはどうすればいいのだ?
こんなけだもののような奴らに! と思うと、吐気《はきけ》がし、身の毛がよだった。そしてまた彼女にとっては、虫ケラのような男たちであった。左手さえ使えるなら。――
おふうの右腕は肘からなかった。しかし左の腕は残っていた。それを使えるなら、たとえ五人いようとたかが駕籠かき風情《ふぜい》の男どもに血へどを吐かせることはさして難事ではないと思われた。
「あま! 痛え目をみてからおもちゃになりてえか?」
「おとなしくいうことをきくなら、いのちだけは助けてやるぞ」
凶暴なこがらしのような喘《あえ》ぎが枯葉とともに吹きめぐり、輪がちぢまってきた。おふうの眼は血ばしり、左手がふところから出ようとした。こんなけだもの、虫ケラどもにけがされてなろうか、誇りたかい甲賀のくノ一が。――
しかし、彼女の指は「はぐれ雁《がり》」から離れることができなかった。ズッキ……ズッキ……脈搏つ「はぐれ雁」は彼女の掌の中でさけんでいた。「おふう、それを手から放してはならぬぞ。……甲賀一族のためにたのんだぞ!」
「――いうことをきけば」
おふうは肩で息をつきながら、歯をくいしばっていった。
「ぶじに江戸へ送っておくれか?」
市谷《いちがや》に住む直参《じきさん》の山名|膳三郎《ぜんざぶろう》は、牛込から根来組与力の娘お頼を花嫁として迎えた。山名膳三郎はいわゆる二十五騎組の組頭であって、これは甲賀組、伊賀組、根来組とならんで、公称鉄砲百人組の一つであった。
祝言がすみ、真夜中の初寝《ういね》の床《とこ》に、山名膳三郎は年若い花嫁を見て微笑した。彼はおととし妻を失った男で、このお頼という娘には以前から眼をつけていて、上司に猛烈な運動をしてまでこの祝言を渇望《かつぼう》したのである。彼は四十を越えてはいたが、評判の使い手でまた美男であった。
膳三郎は、恥じらって消えもいりたげな花嫁にやさしく言葉をかけ、彼女の心を柔らげたのち、しずかに愛撫《あいぶ》しはじめた。おちついて、決してあせらず、むしろ事前のこの愛撫そのものを愉《たの》しんでいるのではないかと思われるほどであった。やがて花嫁がたかぶって、たえきれぬようになったのを見てとると、花心《かしん》をさぐるようにそのからだを褥《しとね》の中にひらいた。
そのとき、音もなく裾《すそ》の方の唐紙がひらいた。彼はがばと起きあがり、さすがに水をあびた思いがした。入ってきたのはひとりの女であった。髪はみだれ、きものも帯もズタズタに裂けて半裸の姿であった。
彼女は山名膳三郎の存在に気がつかないようにお頼の方にちかづいた。膳三郎は身をひるがえして刀架《とうか》の刀をつかんでさけんだ。
「だれじゃ」
「甲賀組のおふうという女でございます。隠密御用の旅からただいまたち帰り、根来組のお頼さまに御挨拶《ごあいさつ》に参りました」
奇妙な女で奇妙な言葉であったが、あまりに尋常なものごしであったので、膳三郎は刀の柄《つか》に手をかけたまま静止し、ひと息ついてまたさけんだ。
「甲賀組の隠密がお頼に挨拶? なんのために――」
「甲賀組隠密、甲賀大八からの使いでございます」
おふうの眼に魅入《みい》られて、お頼は恥ずかしい姿態のまま、褥に釘《くぎ》を打たれたようであった。いちど身を起そうとしたが、この言葉をきいてまた凍《こお》りついた。
「御用を果たし、非命にたおれた大八最後の口上には」
と、おふうはいった。膳三郎はその女の両腕がないのにやっと気がついた。
「これを以て、徳川家忍び組に甲賀の血を残せと」
はじめておふうは左手を出した。
「これを女人の体中に置けば、その女人は懐胎しよう。……」
その顔に凄惨な、邪悪ともみえる笑いがよぎって、彼女は左掌ににぎっていたものを、呪縛《じゆばく》されたようなお頼の体中に置いた。
くびをのばしてのぞきこみ、意味のわからぬさけびをあげて、山名膳三郎は抜き打ちに女を斬った。ばさと音をたてて、女の左腕は打ちおとされた。
そのままおふうは壁ぎわにとび、天を仰いで、
「甲賀忍法はぐれ雁。……」
と、つぶやいた。
もはや邪悪の翳《かげ》もない、きよらかな満足の笑顔を、じっと褥の上の女にむけていたが、やがてこの使命を果たしたくノ一は、どうと前へうち伏した。
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忍法幻羅吊り
天明《てんめい》ごろの江戸、吉原《よしわら》の廓《くるわ》で雪隠《せつちん》にからみ妙な迷信があった。妙な――というよりも、怪奇といおうか、滑稽《こつけい》といおうか、ちょっと常人の頭からは出て来そうにない風習である。
まず長い長い紙縒《こよ》りを縒《よ》る。これを遊女が自分の月経にひたして乾かす。そして深夜|厠《かわや》に入って用をすませたあと、その尖端に火をつけて、穴から垂らす。それは小さな赤い炎をあげつつ徐々に燃えのぼって来るそうである。すると、厠の暗い水面に――さまざまのものが浮かんだ模糊《もこ》たる闇《やみ》に、一つの男の顔が朦朧《もうろう》と照らし出されて来るという。つまり、夜ごとの万客のうち、自分にいちばん惚《ほ》れている男の顔が。
おたがいのらち[#「らち」に傍点]もない手練手管《てれんてくだ》の中に、真実の愛を求め、しかも厠以外に孤独の思いをこらす場所とてない遊女が縒り出した、これ以上はない哀《かな》しい占いといえるかも知れない。
これを「月の恋占い」といった。はじめは肥《こえ》占いといったらしいが、いつしかこんな現代の歌謡曲みたいなばかに美しい言葉に変った。
――この「月の恋占い」について、面白い話がある。
或るとき吉原で一、二をうたわれた太夫が、やはりこの恋占いをやった。すると、雪隠の下界に、一つの顔が浮かびあがって来た。それを見て太夫は、驚きのあまり思わず燃える紙縒りをとり落してしまった。なぜなら、その男は、廓の外の或る八百屋《やおや》に奉公するうす馬鹿《ばか》の顔だったからである。燃える紙縒りは火の粉をまきちらしつつ、その顔にもろに落ちた。
さて数日後、彼女はその八百屋の下男が顔に大《おお》火傷《やけど》をした話を耳にした。きいてみると、思い当るあの一夜、納屋《なや》かどこかに寝ていたその下男が、真夜中、わけもわからないのに火傷をしたというのだ。――下男も驚いたろうが、太夫も驚いた。驚きがしずまると、彼女は襟《えり》に手をさし入れて考えこんだ。
そして、やがてまもなく年季があけたあと、ひく手あまたの縁談をふり捨てて、彼女はそのうす馬鹿の恋女房となり、一生いそいそと大根や人参を売ったという。――ただし、これはそんな話がまことかどうかわからない、この物語よりも数十年の昔。
さて、天明のころの物語。
或る春の夕《ゆうべ》、吉原江戸|町《ちよう》二丁目の赤蔦屋《あかつたや》に、蔵前《くらまえ》の札差《ふださ》しがやって来て、ひるすぎからだだら遊びをやっていた。呼んだ六人の花魁《おいらん》は、見世でも上位の美しい女ばかりであったが、これにとり囲まれて、酒をのみ、御馳走《ごちそう》を食べ、幇間《たいこ》に踊らせ、それから、おででこ[#「おででこ」に傍点]双六《すごろく》をしたり、藤八拳《とうはちけん》をやったり、拳《けん》相撲《ずもう》をしたり――あげくのはてに、妙な遊戯をはじめた。
二人が向い合い、口をくいしばって、下《した》 唇《くちびる》の下に紙縒りをはさみ、先を折り曲げて、やはり紙縒りの小さな輪のとりっこをするという――他愛もないものだが、美人の珍相はそれなりに可笑《おか》しく、みな転がりまわって笑った。
その中で、ひとり仲間に加わらなかった遊女がある。
「小式部《こしきぶ》」
札差しの山吹屋万兵衛《やまぶきやまんべえ》が声をかけた。
「おめえは、やらねえのかえ?」
「え」
小式部は、顔をあげた。なるほど彼女は、ちょっと離れてこの遊びを見ていた。いや、何やら考えこんでいて、呼びかけられてわれに返ったという態《てい》であった。
むろん、万兵衛はちょっと気を悪くして言ったのだが、その顔を見たとたん、
「あ、いいや、いいからおまえは見物していな」
と、いってしまった。気品があって、あどけなくって、世にもまれなる美貌《びぼう》に、そんな珍芸をさせるに忍びなかったのだ。
そして、ほかの遊女と遊びながらも、つくづくと、何という奇妙な女郎だろう、小式部というやつは――と考える。こういう遊びの席には出て来るが、彼はまだ小式部を敵娼《あいかた》にしたことがない。そして今では、自分ばかりではなく、どんな客でも彼女と寝た人間は一人もないことを知っている。
赤蔦屋の亭主《ていしゆ》にきくと、去年の秋ごろ、自分で志願してやって来た女だそうだ。素性は赤蔦屋にもよくわからないが、その口のききかたや立居ふるまいから、どうやら浪人《ろうにん》の娘ではあるまいかという。そして、三ヵ月は客をとらないで見習いをさせて欲しいという意味のことを依頼した。妙な女だと思いながら、その条件をともかくも赤蔦屋がきき入れたのは、むろん彼女が珍しい上玉であることへの欲目と、それから彼女自身の持つ、どんな男にどんな用を頼んでも、どうしてもいやとはいわせないふしぎな気品であった。
そして三ヵ月目が来たとき、約束通り客をとり出したかというと、ちがう。事態が変った。亭主も文句をいうことが出来ないような、彼女の特殊技能が現われ出したのだ。
まず第一に、小式部は客をとらないけれど、客との遊びの席には出る。この赤蔦屋は川柳《せんりゆう》にも「暖簾《のれん》まで秋に染めたる赤蔦屋」と詠《よ》まれたほど有名な妓楼《ぎろう》で、来る客も富商や通人が多かったが、それの相手になって、この女ほど相手をそらさない女はない。はじめから吉原の遊びに通暁しているというわけではないが、どんな遊びでもたちまち覚えてしまう。しかもべつに利口ぶっているのではなく、実に無邪気で愛くるしいのだ。
そして、客との会話のあいだに、その客はもちろん家族から友人たちの人柄、趣味、その他微妙な逸話まで知らぬまに聞き出して、それを自分の会話に役立てるのみならず、実によく記憶していて、朋輩《ほうばい》の女郎たちに教えてやる。いまの言葉でいえば、天性のホステスともいうべき能力の持主であった。
もう一つ、これもあまり意外で、亭主も唖然《あぜん》としたのだが。――
小式部は、なんとほかの女郎に対して性技の指導を行うのだ。
いまもいうように、彼女は自分では客をとらない。それどころか、こういうことでは恐ろしい炯眼《けいがん》を持っている傾城屋《けいせいや》の亭主から見ても、どうしても処女としか判断出来ない。――どうやら、ここに来てからの見聞によるものとしか思われないが――驚くべきことに、それが千軍万馬の花魁たちに教える。
実をいうと、亭主はその実景を見たことがない。小式部は、遊女の一人をつれて一室に入る。そこで、どんなことをやるのか、やがて出て来た遊女はなぜか何も語らない。小式部は上気した美しい顔で笑う。
「そんなこと、殿方が知りんしては……たとえ御亭《ごて》さんでも、術が破れんす」
一方の女郎の顔はどうだろう。これまたのぼせ上って、肩で息をして、なお半びらきの口から舌さきが見えるほどあえいで、眼《め》は恍惚《こうこつ》と霞《かす》んでいる。数十年、女郎のそんな表情ばかり見て来た亭主だが、しかしこれほど淫《みだ》らで、これほど美しい女の顔というものを見たことがない。
……いや、正確にいうと性技の伝授ではないだろう。小式部のいう「術」はその日の一夜で破れるからだ。つまり、一夜だけ、その女郎と寝た客は心身とろとろにとろけ果てるのだが、翌日になると、もとのありきたりの遊女に戻《もど》ってしまうのである。どうやら技術よりも肉体そのものが異様に芳潤《ほうじゆん》なものに変えられるらしい。その一夜、客の方は脳天までもしびれはて、遊女のどんなけたはずれのねだりにも、馬鹿みたいに応じてしまう。
それなら、毎日でもこの術を施してもらえばいいようなものだが、
「そんなことをしていたら、女郎衆のいのちがちぢみんす」
と、小式部はいう。
「だいいち、わたしの方がつづきんせん」
事実を見れば、だれだって、さもあらんと思う。
そしてまたこんな小式部の才能を知っては、さすがの亭主も彼女に対して、「客をとらない遊女」というあり得べからざる特権を認めないわけにはゆかなかった。むろん、大金を積んでも小式部と寝たいという客はあまたあるのだが、それにもかかわらず彼女の拒否の前にはどうしようもなかった。
要するに、この小式部はぴんからきりまで謎《なぞ》の遊女であったのだ。
「さてと、小式部、何をして遊ぼうかな?」
かえって、山吹屋万兵衛の方から媚《こ》びるような顔をむけられて、
「そう、だだら遊びも飽きんしたね」
小式部は笑顔でちょっと考えこんで、
「すこし、お話をきかせておくんなんし」
「どんな話を」
「主《ぬし》さんのお友達のお噂《うわさ》でも」
「わしの友達?」
「そうでありんすね。……いつか、二、三度おつれなんしたお客さま、内船《うちふね》さまや柿坂《かきさか》さまなど、それっきりおいでなりんせんが、お変りはありんせんか」
「ほ、おまえらしい、よく憶《おぼ》えておるの。あの組か、あれは――わしの友達ではない。それぞれ、れっきとしたお武家衆じゃが」
「それはよく知っておりんす。でも、そのときみなさま、ほんとうに好いたらしいお方ばかりだと。……」
「お、これはおまえらしくもないせりふじゃ。あはは、しかし、おまえが好いたらしいという、ふうむ、あの衆が喃《のう》。……」
「是非、もういちどつれて来ておくんなんし」
「いや、あの衆はむずかしい」
「え、なぜ?」
「しかし、おまえがそういったときいたら、およろこびなさるぞ。ふむ、おまえがそういったといったら、ひょっとすると、おいでにならんでもない。――」
「ああ、忘れんした。塙《はなわ》さまはどこの御藩でありんしたえ?」
――こういう問答を、ほかの遊女たちはおとなしくきいていた。こんな風にして小式部が社交的知識を採取することはしょっちゅうのことであり、そのおかげはいつも蒙《こう》むっていたからだ。だいいち彼女たちは、このころ完全に小式部にいかれていた。
そして札差し兼金貨しの山吹屋万兵衛も――この吉原へ営業上招待する客は、仲間の富商や侍や大百姓など無数だが――その中の一組について、小式部にきかれたことを、べつに変ったこととも思わず、いつもの通り機嫌《きげん》よくこれに応じた。
そのとき同座していたのは、野分《のわき》、染衣《そめぎぬ》、雛菊《ひなぎく》、薄雪、紅梅という、赤蔦屋のお職花魁ばかりであったが、その五人の遊女に小式部が妙なことを話しかけたのは、それから数日後のことであった。むろん、同一日のことではないが。――
「紅梅さん、つかぬことをききんすけれど」
「何でありんす?」
「このごろのおまえのお客の中で、好きで好きでならないお客はどなたさま?」
「わたしのいちばん好きな客。――」
紅梅は考えこんだ。
「そう、それは石町の津軽屋《つがるや》さんでありんしょうか。……」
有名な白粉屋《おしろいや》の息子で、店の油壷《あぶらつぼ》からぬけ出したような美男である。
「ああ津軽屋の千之助さま。……それで、あなたは……千之助さまのものを御覧になりんしたか?」
「千之助さまのもの?」
けげんな眼で紅梅が見ると、小式部はぼうと頬《ほお》を染めていた。
すぐに紅梅は了解した。商売柄、こっちは顔もあからめない。――ただ、彼女はいつもこの小式部についてふしぎに思う。小式部が自分に「術」をかけるとき、あんな大胆なことをするのに、一方で驚くべく何も知らないことをである。色事について、思いがけず他愛ないことを、子供のように自分にきくことがある。そしてまたもう一つそれ以上にふしぎなことは、そんな場合小式部がこんな風にういういしく顔をあからめることであった。
「それは……見ることもありんす」
「ほかのお客とはちがいんすかえ?」
「いえ。……やや白くて、細めの方。……」
さすがに紅梅は笑い出した。小式部は笑わない。
「それで、千之助さまの方は紅梅さんをどう思っていんすえ?」
「あのお方は、道楽者でありんすゆえ。……このごろ、ちっともお見えになりんせん。……」
紅梅はちょっとさびしそうな顔をした。小式部はまた妙なことをいい出した。
「あの月の恋占いをなされたことはありんすか」
紅梅はまごついた。小式部はきく。
「そのとき、千之助さまのお顔は現われんしたか」
「いえ。……にくらしくもあり可笑しくもあり、現われるのはまったくべつの顔。――千之助さまなど、いちども現われたことはありんせん。……」
例の月の恋占いは、女の方をいちばん思っている男の顔が現われるというのだから、こういうことになるわけだ。――もっとも、ほんとうのことをいうと、紅梅はどんな男の顔も見たことはないのだが。
小式部はいった。
「千之助さまをお呼びしてあげんしょうか?」
「え?」
「必ず千之助さまがあなたに引かれてここに現われんすように」
「ど、どういう風に?」
「文字通り、引きずり寄せるのでありんす」
「だ、だから、どうして?」
「ようありんすかえ? こんど紅梅さんのさわり[#「さわり」に傍点]のあいだ、お手洗《ちようず》にゆきんすとき、そしてわたしがいいといったとき――例の月の恋占いをして見なんし。そのとき、あなたは千之助さまのお顔ではなく、念力こめてあのお方のものを考えなんし。……すると、下にそのもののかたちが浮かんで来んす。……」
「……ま?」
こんどは小式部の方が笑顔になっていた。
「それを……あの紙縒《こよ》りでひき寄せるのでありんすよ」
「…………」
「その紙縒りはわたしが縒りんす。それは、さきが輪にしてありんす。燃えても、燃え落ちんせん。……その紙縒りの輪で、そのものをひっかけて、ひきあげるのでありんす。……」
「…………」
「すると、同じ時刻、千之助さまは突然あなたのことを思い出し、あなたが恋しゅうて恋しゅうて、いても立ってもいられなくなり、ものに憑《つ》かれたようにこの赤蔦屋に駈《か》けつけて来《き》んす。……」
紅梅は茫然《ぼうぜん》と相手の顔を見守っている。――ふつうなら笑い出すような話だが、しかし彼女は笑わなかった。この小式部が奇妙な術を体得していることは、身を以て知っているからだ。
小式部は首をかしげた。
「でも、久しぶりの術ゆえ……いえ、はじめて試みる術ゆえ、うまくゆくかどうか、わたしにも保証は出来んせんけれど、まあ、ものはためし。……」
――それで、とにかくやって見た。紅梅が次のさわり[#「さわり」に傍点]の際、小式部はさきを輪にした紙縒りを作って、それを紅梅にわたしたのである。それは晩春のまひるのことであった。
紅梅はそのへんな紙縒りに火を点じて、下に垂らした。そして、いわれた通り、津軽屋千之助のものを頭にえがいたのである。
すると――春の日がどこからか微《かす》かにもれている、うす暗い、怪しげな下界に、朦朧とそれが浮かんで来た。そんなことがあり得るだろうか、と半信半疑であった紅梅も、それがまさしく「やや色白で細め」な千之助のものにまちがいないことを認めた。
素破《すわ》、と色めき立って、燃える紙縒りでそれをひっかけようとする。これは、そのものを思い浮かべるより難しい作業だと思っていたが、驚いたことにその紙縒りの輪は、もう完全に灰になっているのに、崩れるどころか、まるで生き物みたいにうねって、その[#「その」に傍点]ものの幻影めがけてからみついていった。
「しゃくいなんしたかえ?」
戸の外で、小式部の声がした。むしろ厳かな調子であった。
「え、火が」
と、紅梅はあわてた声を出した。
「火は手もとで消えんす。そのまま、それを吊《つ》って、いとしい思いをこめてよく見ていなんし。やがて千之助さまが駈けつけて来なんす」
「え、石町から? それまでわたしはここで?」
「しかたがありんせん。わたしがここに番をしていんす」
幻影の男根を灰の糸で吊っている遊女。本人もこの世の出来事ではないような気がしている。その感覚を強いて現実のものに例えれば、まあ無重力状態の宇宙船の中で何かを吊り下げている飛行士みたいな心理だろう。
とにかく、津軽屋千之助は駈けつけて来た。
「紅梅はおるか」
ふだん少し冷たい色男で、女との行為中でも、皮肉な眼で女の顔を見ているような千之助が、股間《こかん》をかかえ血相を変えている。
「早く、早く」
やっと紅梅が現われた。うれしさに抱きつくべきところを、彼女は少し蒼醒《あおざ》めた顔色をしていた。あまりに術の効験があらたかであったので、かえっておそれをなしたのである。
「さ、やろう、早くやろう」
地団駄《じだんだ》踏まんばかりの千之助に手をとられ、ふいに紅梅は困惑した表情になった。
「あの、主さん、わたしはいま。……」
「なんだ」
「……おさわり[#「さわり」に傍点]」
「へえっ?」
千之助はやや興ざめた顔をした。いや、非常に微妙な差だが、いま紅梅の告白をきく寸前から、急速に憑き物が落ちたような表情になっていた。――首をふってつぶやいたのである。
「……はてな、おれはどうしてここへすッ飛んで来たのだっけ?」
みるみる持前の冷淡な顔に戻ってゆくのを見て、紅梅は狼狽《ろうばい》し、こんどは彼女の方からしがみつき、
「あなたさえ、かまわなければ。……」
と、口走ったが、さらに、「これからわたしはどうすればいいの?」という風にうしろの方をふりかえった。
小式部は柱にもたれかかって、高い櫺子窓《れんじまど》を仰いでいた。……もうこのあとのなりゆきに興味はない、というよりも、何やらほかの想念にとらえられているようであった。
ともかくも彼女は、この怪術を紅梅以外の遊女にも次々に試みたのである。――ほかの四人、野分、染衣、雛菊、薄雪にも。
そして、しばらくは花魁たちがどんなにせがんでも、「……いのちをちぢめんす」といって取合わなかったが、それをふたたび試みる日がやって来た。
しかし、この幻の魔羅吊《まらづ》りを再現する前に、彼女はべつのことを右の五人の朋輩《ほうばい》に施行した。例の女を妙陰に変える術だが、しかしこれを同時に――といっても順々にだが――やってのけたというのははじめてだ。はじめてだが、そのこと自体を、遊女たちはべつに怪しまなかった。
その日に、札差しの山吹屋万兵衛がやって来た。むろん事前に知らせはあったのだが、いつぞや小式部がせがんだ例の五人の武士たちをつれて。
内船金弥《うちふねきんや》。
柿坂達《かきさかたつ》右衛門《えもん》。
野《の》ノ市波伝《いちはでん》。
塙又八郎《はなわまたはちろう》。
七塔寺|一骨《いつこつ》。
――万兵衛から、小式部の依頼を改めて披露《ひろう》されて、「いや、かたじけない」「光栄の至りじゃ」「おまえのこと、実ははじめのときから忘れるどころか」などお愛想をいい、それでも、「おまえが客をとらぬとは。さても奇ッ怪残念|至極《しごく》」と、そのことは承知していた。
そして、にぎやかに遊んだあとで、五人の侍はそれぞれ右の五人の花魁を敵娼《あいかた》にして泊った。どの女も、吉原でも目立つ美人ぞろいであったから、それはそれとして不満はなかったはずである。
そのとき、小式部は、五人の女にささやいた。
「よく、お相手のあれをおぼえていておくんなんし」
さて、小式部が魔羅吊りの幻術を試みたのは、それからまた数日後のことであった。
まず第一番、花魁野分。
五条藩江戸詰の野《の》ノ市波伝《いちはでん》は困惑していた。
――蔵前の山吹屋万兵衛や四人の仲間に、ときどき廓につれ出されることである。
山吹屋の方はまだいい。彼は自分を浪人から五条藩への仕官口を世話してくれた男だし、いまの御留守居役の下僚という職務ともつながりがあるし、だいいち彼は自分の過去を完全には知らない。困るのは、ほかの四人の仲間――正確にいえば、旧友たちといっしょだということであった。
ほんとうは逢《あ》いたくない旧友たちだ。おそらく内心では、みな同じ思いなのではないかと想像もされるが、しかし逢えばみなさりげなく談笑している。また、もしときどき逢わなければ、かえって不安になるだろう。逢うことを避けた、というようにとられることさえ危険を感じる。彼らは何をするかわからない。
彼らとこうしてときどき旧交をあたためているということは、自分の将来にいつかあまりよくないことを招くのではないかというおそれはあるが、しかし、さしあたってはべつにどうということはないだろう。一人の破綻《はたん》はまたすべての破綻となるからだ。そのためにも、やはりこうしてときどき逢って、さりげなく談笑している方がいいのではないかとは思っているのだが。――
野ノ市波伝が改めて困惑したのは、こんど赤蔦屋へいって、久しぶりに女体の妙を味わったことであった。右にいったごとく、江戸へ来てから吉原へはじめていったというわけでもないのだが、いったいどうしたのか、このたび寝た野分という遊女には、まるで芳潤の美酒に酔い痴《し》れたような思いをさせられた。はて、女とはこれほどよいものであったか? と心中|瞠目《どうもく》したほどだ。
――過去にこんな思いをさせた女は、たった一人しかない!
そう思い出したとき、野ノ市波伝は蒼ざめたものだが。――
その女は、もうこの世にいない。忘れたいと努力して来た感覚であり、こんど味わった快美はそれを甦《よみが》えらせ、同時に不可抗的に波伝に、
――あの娘は、あれほどの味を持っているであろうか?
という懐疑心を呼び起した。
あの娘というのは、いま自分が奉公している五条藩江戸御留守居役の娘である。彼はその娘の花婿の候補者に目《もく》されているのであった。これが出戻りで、将棋の駒《こま》みたいな顔から見ても、あんな味の所有者であるはずがない。
いっとき、波伝の胸に動揺が起った。いっそ今の扶持も御留守居役の娘も捨てて、あの女郎を身請《みう》けしようか、という途方もない誘惑にさえとらえられたのだ。
が、その身請けの金はどうする? と考えて、それには江戸屋敷にある藩の金を拐帯《かいたい》して――と考えて、やっとわれに返って戦慄《せんりつ》した。
「……いや、女はこわい」
ややあって、彼は苦笑した。
「……あの事件も、もとはといえば、女だ。女のことで頭がくらんであのような愚行を犯し、いまに至るまで夢魔に襲われるような思いからのがれられないのだ。――もう、女は懲《こ》りた」
やがて自分の妻となるかも知れない御留守居役の娘は、女とは思っていない。少くとも自分は当分のあいだ、そういう快楽の泉としての女というものから思いを断たなくてはならぬ。……ともかくも、今は出世だ。何者が自分をおびやかそうとびくともしないだけの位置を占めることだ。
そう決心した野ノ市波伝は、一見冷静典雅で、学者のような風貌《ふうぼう》の持主であった。実際彼は学者であって、ちかく江戸屋敷の姫君に論語の講義をすることになっている――だれがこの波伝が一夜吉原に遊んだあと、右のような煩悶《はんもん》を抱いたことを、外部から想像出来るだろう。
ましてや彼が、八年前、あんな事件を起した人間の一人だとは、いまだれが知っているだろう。
いや、その当時から五人――正確にいえば七人――以外には、だれも知らない事件であった。
八年前、彼は葛城藩《かつらぎはん》の藩士であった。或る日、友人の内船金弥と柿坂達右衛門と七塔寺一骨がやって来てささやいた。
「野ノ市、おぬしは初狩杖馬《はつかりじようま》がにくうはないか」
これに対して波伝は返事もしなかったが、にくしみの情は満面に現われた。――それだけ、まだ若かったのだろう。
「塙のごときは、何とぞしてきゃつを斬《き》ってやりたいといっておる」
三人の顔も憎悪にふくれあがっていた。
初狩杖馬――同じ藩士だ。剣をとれば皆伝の腕で、学問のたしなみも深いばかりか、爽《さわ》やかな美男で、闊達《かつたつ》で、だれが見ても葛城藩の希望の星と認める若侍であった。この朋輩に対して嫉妬《しつと》の気持がなかったといえばうそになるが、それまで野ノ市波伝は、それよりも心からなる敬愛の念を抱いて交際していた。それまで――というのは、初狩杖馬が数ヵ月前、恋女房をもらうまではだ。
名は千羽《ちわ》という。城下で、香取屋《かとりや》という大きな袋物屋の娘だ。これが、なんといっていいか、この世のものではないような美女であった。かがやくような華麗さと奇妙な哀愁が溶け合い、息をのむような肉感と清潔な神秘感がまつわりついている。
どんな男も彼女の前に出ると、かえって絶望感におちいってしまい、いったいあの娘はどんな男のところへお嫁にゆくのだろう、という話題を口にするよりほかはなかったが、それが初狩杖馬ときまってみると、みなあっと口をあけ、また、そうか、あの男がいたか、なるほど――とうなずいた。
あっと口をあけたのは、杖馬の家も格式があり、その老父がまたそんなことにうるさい方で、将来のためにも藩中の然《しか》るべき名門の息女をもらうだろうと、だれも考えていたからであった。
とにかく、杖馬と千羽は祝言をあげた。絵のように美しく、蜜《みつ》のように甘い仲であった。――それを、指をくわえて見るほかはなくなってからのことである、野ノ市波伝の心に毒が生じたのは。
「それで野ノ市、おぬしの智慧《ちえ》を借りに来た」
「なんかいい工夫はないか」
柿坂と七塔寺がいう。
「なんの工夫」
「だから、塙が斬りたいといっておるのだが、まさか千羽を嫁にしたからといって斬れんだろう。なにか、喧嘩《けんか》を吹きかける大義名分はないか。杖馬に弱味はないか。――」
と、内船も息を短く吐いていったが、次には自分で長嘆した。
「あいつには何もないなあ。そんな大義名分はないなあ」
「――考えて見る」
と、野ノ市波伝がつぶやいたのはどういう心理であったか。相談に来た男たちの心事の陋劣《ろうれつ》さを感じるいとまもないほどであった。
……数日後、波伝は四人を呼んだ。その日は、藩で初狩杖馬とならび称せられる使い手の塙又八郎もやって来た。
「おい、千羽は香取屋の実の娘ではない。連れ子だということを知っておるか」
「え。――そういえば、あの女の、母親は香取屋の後妻だとかきいたことがあるが――ほう、あれは連れ子であったのか」
「生まれて間もないころであった上に、その母親も先年亡くなったから、知らない者が多いが――あの香取屋にあれほど美しい娘が生まれたのは面妖《めんよう》じゃと思ったのがきっかけで、調べてみると次のような意外な事実がわかった」
「なんだ、まだあるのか」
「その女親というのがな。――ゆきだおれに近いありさまで香取屋に救われ、しかも乳飲児をかかえて香取屋の内儀にまでなったのは、珍しいほどの美人であったせいらしいが――その素性《すじよう》がわからぬ」
「ほう。……」
「いかに調べても、それがわからぬ。芸人か、ちがう。巡礼か、ちがう。無宿者か、ちがう。……それが、くさい! 香取屋の方でも、これだけは絶対にかくしているところがくさい……」
「何じゃろ? 何だと思う?」
「だから、わからぬといっておる。――それを利用するのじゃ」
と、波伝は声を殺していった。
「千羽の素性を知っておる――知っておる者がある――と初狩家に投文《なげぶみ》してみるのじゃ。さすれば、きゃつがどういう反応を示すか」
「ふむ」
「まず、その結果を見よう」
波伝は、自分の探索の手応えから、その細工による初狩家の反応は決しておだやかなものではないだろうことを推測した。このときまでは、まだ杖馬の狼狽や煩悶を見ればよい、という程度であったのだ。
しかるに、杖馬の反応は思いがけず激甚《げきじん》であった。その投文をした数日後、なんと彼は千羽の手をひいて、葛城藩をかけおちしてしまったのだ。
置手紙はあったが、逐電《ちくてん》の理由はあいまい模糊としていた。数日後に彼を勘定奉行に抜擢《ばつてき》しようとしていた藩主は激怒し、その逮捕を塙又八郎に命じた。
「拒否すれば、討ち果たしてもようござりまするか」
と、又八郎はきいた。立腹症の殿様は一息おいて、よい、といった。又八郎はさらに、四人の朋輩の同行を求めて許可を得た。
「どうしたのじゃ、これは?」
この騒ぎのもとを作った野ノ市波伝自身が呆《あき》れ顔をしていた。あまりに対象の反応が異常過ぎてめんくらったのだ。が、すぐに彼はいった。
「しかし、これによって見るに、きゃつにはいよいようしろ暗いところがあったのだ。してみればわれわれの放《はな》った矢は、それなりに正当性があったのじゃ!」
かくて、彼らは初狩夫婦を追い、勇躍して藩を出立した。
ここまでは、まだ罪は浅かったといえる。それからあとに起った惨劇にくらべれば。
――ぶるっと波伝は身ぶるいした。脳髄に甦って来る八年前の記憶をことごとく振り捨てるように。また、それとつながって自分を突如動揺させた廓《くるわ》の女の影をかなぐり捨てるように。
「とにかく論語じゃ」
と、彼はうめいた。
波伝は数日のうちにも、主君の姫君に論語の講義をすることになっているのであった。――彼の学殖のなかなか深いのを見込んだ江戸御留守居役の推薦にかかるものであり、ちょうど在府中の主君もそれを聴くことになっている。その出来|如何《いかん》で御留守居役は波伝を自分の婿とする決心をかためるつもりらしいが、波伝としてはそれどころではない、ゆくゆくは藩儒として大成する野望を抱いていた。
さて、その日が来た。
江戸藩邸の大書院に、姫君と野ノ市波伝は端坐《たんざ》して向い合った。正面には主君御夫妻が坐《すわ》り、また両側には重役たちが重々しく居ながれている。御留守居役の腹づもりをもう知っていて、それほど見込まれたこの新参の藩士の学力また人物を見きわめんとするがごとく。――
姫君は十五歳。殿さまが眼に入れても痛くないほどに、また世子たるその兄君よりも買っているほどに、愛くるしく、また利発な姫であった。顔は少年のように凜《りん》としているが、さすがに女性としてのあけぼのは、もうその胸もとあたりに匂《にお》いはじめている。
「子《し》のたまわく、不義にして富みかつ貴きは、われにおいて浮雲のごとし。……」
彼はやりはじめた。
まず、十五歳の少女にわかり易《やす》いところからはじめる。――最初のうちは緊張して、やや声も脳天のあたりから出ているような気がしていたが、その講義に入ってから、姫君のみならずみな大まじめで耳をかたむけ、やがて感服の表情に変ってきたのを見ると、次第に音吐朗々として名調子になった。
「子のたまわく、内に省《かえり》みて疚《やま》しからずんば、それ何をか憂え何をか懼《おそ》れん。……」
――ふっと波伝は、股間に異様な感覚をおぼえた。
何かみみずのようなものがからみついた感じである。彼は、かすかに腹をうごめかした。――が、それでもその感覚はとれない。――はて、これは何であろう?
「君子は下流におることをにくむ。天下の悪、みなここに帰す。……」
みみずはぴったりとまといつき、柔らかにうねり動いた。自動的に彼のものはしだいにのび、硬直してゆく。のみならず、袴《はかま》をもたげて起立しはじめたが、なんたる怪異、それは自動的というより、眼に見える空中から上へ吊りあげられているような感じがある。――
厳かな顔を書見台にむけたまま、彼は袴のあいだに手をさし入れたい衝動を抑えるのに苦しんだ。――のは、数分である。眼の下限に、その袴の中央部が持ちあがって、ぴくっ、ぴくっと波打つのを見ると、たまらず彼は片手を袴のあいだからさし入れた。
必死に指をうごめかせて、探る。――触れた。おのれのものに。が、そこには何もなかった! 怒脹《どちよう》したおのれのもの以外には。
にもかかわらず、その感覚はなおつづいている。いまは柔らかくのたくるどころか、なまめかしくしごくように。――野ノ市波伝の眼は充血し、肩で息をして来た。いまにも何かが溢《あふ》れ出しそうであった。
「……はて?」
一同が、彼のようすの変化に気づいて、首をかしげて見まもっている顔さえ、もう彼の視界にははいらなかった。彼はいつぞやの遊女野分の眼をとじてあえぐ顔を見ていた。すぐ眼の前に。
「曾子いいていわく、鳥のまさに死なんとするや、その鳴くこと哀《かな》し。……」
何をいっているのか、自分でもわからない。突如、彼は書見台を押し倒し、前へ膝《ひざ》でよろめき出していった。
「人のまさに死なんとするや、その言うこと善《よ》し!」
彼は幻影の女体《によたい》にしがみついた。むろん幻影ではなかった。それは十五歳の姫君であった。
遠くで殿さまと奥方のさけぶ怪鳥《けちよう》のような声がし、一瞬のうち、白刃をぬきつれて走りかかって来る家臣たちの姿があったが、しかし野ノ市波伝は何も聞かず、何も見てはいなかった。
宇陀藩《うだはん》江戸詰の柿坂達右衛門は苦悩していた。
べつに吉原の一件によってではない。――あの事件についてだ。あの事件以来、それについて最も苦しんだのは、五人の中で彼が一番であったろう。なぜなら、彼が最も「解脱《げだつ》」などいうことに興味を持つたちであり、かつまた最も罪ふかい所業をしていたから。
まったく魔に憑《つ》かれたとしか思えない。どうしてこの自分が、あの前後あんな行為をしたのかわからない。
……ひっきょう、そのもとは、やはり女だ。千羽という女。
そのころ柿坂達右衛門は、葛城藩の勘定方に勤務していたが、その性質が勤直であるのを認められて、勘定奉行から絶大の信任を受けていた。少々だらしない奉行から御金蔵の鍵《かぎ》さえ自由にまかせられていたほどであった。
達右衛門はしばしば香取屋に袋物を買いにかよった。主として城中の女性たちのためだが、それにしても買い過ぎた。そのことに気がついて、自家用にも買った。ただし、城用とひとしく甚《はなは》だ高価なものを。――いつしか彼は、御金蔵の金に手をつけていた。あとで思うと正気の沙汰《さた》とは思われないが、そのうち彼は、あの女を自分のものにするには金をためなければならない、という観念にとり憑かれてしまったのだ。で、ないしょでせっせと取り込んだ。
しかるに、突然、その美しい悪夢はうちくだかれた。千羽は初狩杖馬の花嫁となってしまったのだ。
のみならず――まもなく、杖馬が勘定奉行になるという。若くして異例の重用で、その下僚にならねばならぬとはいかなる達右衛門でも憂鬱《ゆううつ》であったが、ことは憂鬱ではとどまらなかった。彼は驚愕《きようがく》し、狼狽した。
自分の使い込み、――それはそのうち何とかして帳尻《ちようじり》を合わせるつもりであったが、杖馬が来るならば――その明敏さとはりきりかげんから、たちまちすべてが剔抉《てつけつ》されることは火を見るよりも明らかであった。達右衛門はそう信じた。
「――杖馬を何とかしろ」
彼が七塔寺一骨や内船金弥とともに血相変えて野ノ市波伝のところへ駈けつけたのは、嫉妬だけではなく、このための焦燥《しようそう》もあったのだ。
そして。――
初狩夫婦を追撃した五人は、国境《くにざかい》の峠で、ひとりふらふらとさまよって来る千羽にめぐり逢ったのである。彼女はただ一人であった。
「……お?」
五人は棒立ちになり、あたりを見まわした。杖馬の姿はどこにも見当らない。――
「お千羽……どのではないか?」
「どうしたのじゃ?」
「杖馬はどこにおる?」
彼らは口々にさけんだ。
千羽の方も、彼らを見て立ちすくんでいたが、やがてひくい声でいった。
「あなたさまがたは?」
「――上意討ちだ!」
と塙又八郎が吼《ほ》えた。
千羽は電撃されたようであった。
「やはり、そうでございましたか?」
と、一息おいて、沈んだ声でつぶやいた。
「きっと追手がかかるだろうと思っておりました。だから、わたしは帰って来たのです。……」
「なに?」
千羽はふいに駈け寄って来た。
「お助け下さいまし。どうか、お願いでございます。――」
「千羽どのを?」
内船金弥が猫《ねこ》なで声でいった。
「あなたは罪がなかろうと思うが。――」
「いえ、夫を」
千羽はさけんで、坐った。両掌《りようて》を合わせた。
「その代り、わたしを殺して下さいまし。わたしが悪いのです。こんどのことは、みなわたしがもとでございます。わたしのために夫は逃げる気になったのでございます。……」
「あなたが夫の命乞《いのちご》いにひき返したことを、杖馬は知っておるのか」
と、野ノ市波伝がきいた。
「いえ、知りません。知らないはずです。わたしは先へいったように見せかけましたから、夫は先を探しておりましょう。……どうぞ、夫をあのまま逃してやって下さいまし」
「ふうむ」
一同は先を見て、顔見合わせ――それから七塔寺一骨がいった。
「お千羽どの、あなたのために杖馬が逃げたとは……あなたの素性をかくすためか?」
「は、はい。――」
といいかけて、千羽はぎょっとしたように五人を見あげた。
「どうしてそれを御存知なのでございます?」
その問いをねじ伏せるように波伝がいった。
「あなたの素性はなんだ?」
「…………」
「あなたの素性――というと、あなたの母御《ははご》の素性ということになるが、それは何だ?」
「それはきかないで下さいまし」
千羽はいった。苦しげにいったのではない。沈黙は天からの使命のごとくしずかにいったのだ。
「申してはならないことになっているのです」
「いわねば、杖馬は許せぬ」
と、塙又八郎がまた吼えたが、しかしすぐに精悍《せいかん》なあごをつき出した。
「お千羽どの、それきかずとも、杖馬を許す道がただ一つある」
「それは?」
「あなたが、ここでわれらに身をまかせることじゃ」
千羽は蒼白《そうはく》になった。いや、もとから蒼白であったから、透《す》き通るような顔色になった。……短いのに、永劫《えいごう》とも思われる数瞬が過ぎた。
「若《も》し」
と、彼女は嗄《か》れた声でいった。
「そうしたら、わたしの素性をきかず、夫を許して下さいますか?」
「誓う!」
五人はいっせいにうめき出した。この刹那《せつな》ばかりは、ほんとうにそうしてもいいという熱情に燃え立ってさけんだ。
「では、身をまかせるか、お千羽どの!」
「わたしは死ぬつもりで帰って来たのです」
千羽は立ちあがった。それから、うなだれて峠の横の林の中へ歩んでいった。
五人はもういちどひかる眼を見合わせて、おたがいの顔を獣そのもののように見た。が、すぐに獣のようにそのあとを追い出した。
ちょうど晩秋の季節であった。林の中の地面は紅葉と黄葉のしとねとなり、木洩《こも》れ日にまた紅《くれない》と黄金《きん》の雨のごとくに落葉が散った。その中で――五人は、憧憬《どうけい》の女、華麗と哀愁と清浄と肉感の結晶をうちくだいた。
「ああ」
――と、柿坂達右衛門の頭にいまその光景がよみがえり、彼は歯ぎしりした。
歯ぎしりするわけは二つあった。一つはそのときの快美を思い出しただけで反射的に歯が鳴ったのであり、一つは罪の恐ろしさに歯をきしらせずにはいられないのであった。
地上からも舞いあがる落葉の中に、獣の牙《きば》に噛《か》みちぎられたようにきものは裂け、やがてむき出しになった真っ白な肉体は――男たちに思うがままに胴をたわめられ、手足をねじまげられ、腰を打ちたたかれながら、しかもすでに死びとと化したように、いつまでも冷たかった。そしてその冷たい肉の醸《かも》し出す快楽《けらく》はほとんどこの世のものとは思われなかった。
「汚せ! 汚せ!」
達右衛門のごときは、いちど犯したあと――かくも自分をしびれ果てさせながら、なお氷で出来ているかに見える肉体に異様ないらだちと欲情をおぼえ――次の男に犯されているその肉体を、外部からもういちど汚したくらいである。
「けがせ! けがせ!」
――そのおのれの声が、いまもなお耳にひびいて、夜中がばと起き直ることさえあった。
さて、かくも柿坂達右衛門が隠蔽《いんぺい》を望んだ御金蔵事件は、ついにばれずにすんだ。それがこの奸謀《かんぼう》のおかげではなく、それから数ヵ月後、突然べつの事情で葛城藩そのものが改易になって、一藩めちゃくちゃになってしまったせいであったのは皮肉である。
暴風が吹き過ぎて、一介《いつかい》の浪人として放り出されたあと、しばらく虚脱状態になっていたが、やがて彼は罪の意識にさいなまれ出した。
おれは何をしたのだ?
おれは色欲と物欲の狂人であった!
三年ばかり前、久しぶりに江戸で旧友の一人、野ノ市波伝と逢ったとき、波伝の方で別人かと見まちがえたほど彼はやつれはてていた。やがて山吹屋万兵衛に引合わされ、その紹介でいまの宇陀藩江戸屋敷に仕官の口を見つけることになる。
このあいだ彼はちかくの或《あ》る寺に蛸庵《たこあん》という高僧がいるのを知って、これに帰依した。そして和尚の「善人すら往生す。いわんや悪人をや」という説教にはじめて一道の光を認めた。
一年ばかり前から、彼は出家して和尚の弟子になりたいという望みを切に抑えがたいようになった。
「なぜじゃ? おのしはせっかく奉公口を得たばかりではないか。そう手軽にそれを捨てては、主家にも、奉公口を世話してくれた衆にも悪かろうが」
「その通りでござるが、どうあっても菩提《ぼだい》を弔ってやりたい者がござりまして」
「はて、それまでして? それはおのしとどんな因縁のある人間じゃ」
達右衛門は答えられなかった。懺悔《ざんげ》するにはあまりにも恐ろしい過去であった。
「いかん!」
和尚は一|喝《かつ》した。
「おのしにはまだ隠れておる欲がある。――」
「はっ?」
「その欲を隠したままこの寺に入ったらば、それは早晩必ずぱっくり口をひらいて、あたり一面を血膿《ちうみ》で汚すことになる。――」
「へっ?」
「当分また娑婆《しやば》で修行して来い。たとえ傷口をひらいても血膿の流れんようになるまでの」
「ふっ?」
そのときは鉄槌《てつつい》で打たれたように恐れ入ったが、さて具体的にはどう修行していいかわからない。また数ヵ月、ひとりで座禅《ざぜん》を組んでみたり水垢離《みずごり》をしてみたりしたあげく達右衛門は、ほとんど自殺の寸前までいって、豁然《かつぜん》として、
「そうじゃ、おれはあえて浮世の俗にまみれ、それによっても心動かされぬ境地にまで達するほかはない」
と、ひざをたたいた。
で、いちじ奉公先でも変人と目されていたこの男が、急にまわりと猥談《わいだん》など談笑するようになり、またそのころ次々に相会《あいかい》することになった葛城藩当時の旧友とのつきあいにもいやな顔もせずに応ずるようになった。彼としてはすべて解脱のための修行のつもりであったのだ。ただ、いかに猥談を交しても盃《さかずき》をかたむけても、達右衛門の身辺には何となく脱俗高潔の風韻が漂いはじめたのはだれしもが認めた。かくて。――
春の一日、赤蔦屋の花魁《おいらん》と一夜を共にする破目になったとき、それを辞退するどころか、実は彼としては――例え遊女と同衾《どうきん》しても色情を動かされない――という実験意欲にかられ、しかもそれに成功する自信があるまでになっていたのである。
しかるに。――
染衣《そめぎぬ》という遊女と寝た達右衛門は、心動かされぬどころか、まるで酩酊《めいてい》したように狂いまわったのである。実に一夜に交わること七回。解脱どころか虚脱状態になって朝を迎えて、彼は仰天した。文字通り、がっくりと天を仰いだ。
数日後、菩薩の化身みたいな姿で、達右衛門は寺に現われた。
「和尚、はじめて拙者、おのれの業《ごう》の深さを知りました」
と、彼は庭の地べたに両腕をついていった。
「曾《かつ》てそのために――罪なき二人の男女を無間《むげん》地獄に堕《おと》した拙者の業、これはやはり常人の埒外《らちがい》のものであることがわかり申した!」
あえぐようにいう達右衛門は、しかしどこか清らかに笑っていた。ただならぬ或る意志と、また逆に狂喜の交錯している顔を見下ろして蛸庵和尚はぎょっとした。
「これ、達右衛門、何を思いついたのじゃ?」
柿坂達右衛門は袴のひもをといて、おのれのものをつかみ出していた。それは疲れてはいるが、黒びかりして見えた。一方の手で彼は小刀をひきぬいた。
「拙者、解脱するには、この欲の根源を断つよりほかはござらん!」
大喝《たいかつ》すると、彼はすっぽりとそれを切り落してしまった。
この男に、これだけ赤い血があったか――とふしぎなくらい赤い血が地上に噴出したのを、蛸庵和尚は、この名僧がこれだけ蒼《あお》くなるものか――と怪しまれるほど蒼ざめて見ていたが、
「でかした、達右衛門!」
と、さけんだ。
「それにておのしは解脱したぞ。同時に、おのしが過去にいかなる罪を犯したか知らぬが、これでおのしは救われた。わしが承合《うけあ》う! おのしはたしかに――」
といいかけて、和尚は息をのみ、かっと眼をむき出した。
そのとき地上の鮮血の中にころがった男根が、ヒョイ、ヒョイとかまくびをあげ出し、それから立ちあがって、ふらふらと踊りはじめたのを見たからだ。同時に。――
「おう……だめだ、拙者は――まだ煩悩の火が消えぬ。莫妄想《まくもうそう》――いや、だめだ!」
柿坂達右衛門がうめき出した。のみならず、妙に腰をうごかし出した、と思うと立ちあがり、地上の「こびとの舞踏」には眼もくれず、山門の方へ歩き出した。
「た、達右衛門、どこへゆく?」
「吉原へ」
「こ、これ、おまえは――」
「かくのごとく立っております。脈を打って、はやっております」
達右衛門は何もない血まみれの股間を指さして、ケタケタと笑い出し、腰を振りながら駈け出していった。あとになお血の帯を曳《ひ》きながら。――
内船金弥《うちふねきんや》はまだ浪人であった。浪人をしているのに、仲間のうちではいちばん気のきいた身なりをしていた。役者のような美男で、おしゃれで、またその容姿を飾るに足るだけの収入《みいり》があったのだ。
むしろその収入のためには、彼の場合浪人をしている方が好都合であった。というのは、町の娘や後家《ごけ》やら好き放題につき合って、何となくその方から算段がついて、色にも金にも全然不自由をしなかったからだ。
吉原に遊んだ一夜の朝帰り、日本堤で彼はうしろから呼びとめられた。
「おい、内船、待ってくれ」
「や、塙《はなわ》か。――」
塙又八郎は、いつもの殺気走った表情が消えて、妙に恍惚《こうこつ》とした眼をしていた、口さえだらしなくゆるんで、唇《くちびる》のはしによだれがにじんでいる。
金弥は反射的に口をぬぐった。それをまた横目で見て、又八郎は笑った。
「なんじゃ、内船、まるで内裏《だいり》から出て来た公卿《くげ》のように澄ましおって」
「ふむ」
「おまえはつまらんかったか。おれの花魁はな、いや、吉原へは何度も来たが、あのような絶妙の佳境にははじめてめぐり逢《あ》った。たしか、紅梅とかいったな。……」
「ふむ」
「おまえの方はさしたることもなかったようじゃな。何という女であった?」
「塙、すまぬが、その話はもうよしにしてくれ」
金弥は神経質にいって、
「では、おれはここで失礼する」
と、袖《そで》を払って、スタスタと土手から横道に入っていった。あっけにとられたようにあとを見送って、
「廓で遊んだことを、けがらわしいことをしたような面《つら》をしておる。相変らずの気取り屋め。けっ……しかし、あの紅梅は?」
と、また思い出し笑いをした。
――ほんとうは内船金弥は、これまた昨夜しとねを共にした薄雪という遊女の与えてくれた陶酔境に、実は愕然《がくぜん》としていたのであった。いまもいったように彼は女に不自由するどころか、いささか飽きかげんで、正直なところ吉原へ来るのもあまり気がすすまなかったくらいなのだが。――
「なんという女がいるものだ」
一人になってから、彼はつぶやいた。
そして、自然と想《おも》い出す眼《め》つきになった。
「おれは不感症ではないかと思っていたが……考えて見れば、あんな思いをさせてくれた女が、たった一人あったな。してみると、おれはやはり不感症ではないのだ」
しかし、陶然たる眼が、ふと暗いひかりにけぶった。――その過去にたったいちど、自分の魂を天外に飛ばした女が「あの女」で、そのときの情景が「あの情景」であったとは。
「おれだ、おれが一番だ!」
あのとき、まず絶叫したのは金弥であった。
峠の雑木林の中で、横たわった千羽のまわりに五人がむらがったときである。そんな場合にも彼は神経質であった。ほかの四人の仲間に汚しつくされたあとの順番を待つのは耐えられなかった。
そして、そのときその通りになったのは、あとで考えるとふしぎである。なぜなら、五人の中で彼がまず第一番に千羽を犯すという権利は何もないはずだからだ。思うにそのころから彼は女|蕩《た》らしの評判が高く、女にはまず金弥という概念が期せずしてみなの頭にあったせいと、そしてそのときの彼のけんまくが、あまりに真剣なのでみな圧倒されたものであったろう。
さて、五人の男は千羽を犯した。
……しばし、惨麗ともいうべき女の姿を見下ろして、なお五人はしびれ切ったようにふらりと佇《たたず》んでいたが――まず、われに返ったのは塙又八郎であった。
「杖馬を追わねばならぬ!」
彼は躍りあがった。
死んだようになっていた千羽は、眼を見ひらいた。
「約束がちがいます!」
「御上意だ!」
又八郎は刀のつかを押えて、獣のように駈《か》け出した。残りの連中もつき動かされたようにそのあとを追おうとして、なお迷っていた内船金弥だけが、突如驚愕の声をあげた。
ふりむいて、みな眼をむき出した。裸身の千羽は左の乳房の下におのれの懐剣をつかまで刺しこんでいた。
彼女は眼をとじ、むせぶようにつぶやいた。
「あなた……千羽を許して下さいまし。……」
そして彼女はこと切れた。苦悩と痛恨の彫刻のごとく。――黄葉と紅葉の雨の中に。
――いい記憶ではない。考えてみると、それ以来金弥がもてあそんだ女は何十人かわからないほどだが、彼自身はほとんどしんそこからの肉感をおぼえたことはない。その「不感症」はこの記憶から発した報いかも知れない。
それを、突如として女体の快美を味わって、かえって彼は惑乱した。――こういうことがあり得るとすれば、おれのいま考えていることは、実にむなしい、ばかばかしいことかも知れないぞ。……
「いや、ちがう」
彼は男には珍しい撫《な》で肩をゆすった。おれの人生は、いままでの計画以外にはない。昨晩の花魁の記憶はふり捨てなければならない。廓にいったことさえも感づかれてはならない。そういう汚らわしいことにはひどく敏感な女性なのだ。あのお阿季《あき》は。
一年ほど前から、内船金弥は江戸でも指折りの或る香具屋《こうぐや》に出入りしていた。そこの娘に歌道を伝授するためである。
山吹屋のあっせんでそこに出入りしはじめたころ、娘はただ一人であった。お阿季という。これが人間の香具のように上品な娘なのだ。顔かたちも玲瓏《れいろう》としているが、本人の性質も夢みるようなところがあって、一面病的に清潔好きである。きいてみると、その亡母は京の公卿のおとし胤《だね》であったという。――天明のころには、公卿のおとし胤が江戸の町家の妻になるということもあったのである。――その娘と、彼は恋愛した。
主《あるじ》はその少し前から病床についていて、店は老番頭が指図していたから、そのままならばゆくゆくは金弥が婿になるという可能性もないではなかったろうが――しかし、そういうことを考えるいとまはなかった。彼がその家に出入りしはじめてから二、三ヵ月後に、お阿季の姉が離縁になって帰って来たからである。
――ちらときいた話によると、旧友の野ノ市波伝も上役の出戻り娘の婿に擬せられて、波伝はべつにそれをいやがってもいないようであったが、金弥の場合は辟易《へきえき》した。もっともべつにそのお索《さく》という姉娘の婿になれといわれたわけではないが。
とにかく、これが難物《なんぶつ》であった。いや、怪物であった。
きけば、これはその香具屋の主人が裸一貫で江戸に来たころの、先妻の娘であるという。道理でお阿季とは似ても似つかない。人間の女とは似ても似つかないといってよろしい。赤ちゃけた髪、河馬《かば》にうわばみの唇をつけたような顔、からだはまるで力士のようで、風呂《ふろ》ぎらいというわけでもないのに、へんに垢《あか》じみて、いつもぬらぬらした脂《あぶら》に覆われているようで、強烈なわきがの匂いがする。
そして、持て余ますのは、そんな容姿よりもその行状と性格であった。
これでは離縁になるのもあたりまえ、いや、そもそもどこかへ縁づいたのが奇ッ怪千万に思われるが、日常、へいきで人前で洟《はな》をかみ、楊子《ようじ》で歯をせせる。汁《しる》はふいごみたいな音をたててのみ、そして猥談が好きである。馬鹿かというと、頭だけはよく回り、支配の意志は強烈だ。父親が半身不随で寝ているせいもあって、老番頭などはねのけて店の采配《さいはい》をふるう。自分は無神経のくせに、ひとのすることなすことには大いにうるさく、万事押しつけがましく、その上猛烈なやきもちやきで、竜吐水《りゆうどすい》のごとく悪口の洪水《こうずい》をあびせかける。
ちかくに寄っただけで、金弥は悪寒《おかん》をもよおした。――もしお阿季という娘がいなかったら、むろん彼はその店の閾《しきい》をまたぐどころか前も通らなかったろう。そもそも彼は世の中で醜い女というものが一番きらいであった。
「お姉さまをどう思われる?」
彼はお阿季にささやいた。
お阿季は答えず、ただ全身で嫌悪《けんお》と軽蔑《けいべつ》をあらわした。――また、べつの日に、
「これからどうなるのでござる?」
と、彼がおびえたようにきいたとき、
「わたし、このままだと死んでしまいそう。……」
と、お阿季は息も絶え絶えにつぶやいた。――二人の間には哀切の風がながれた。
二人の仲を店の人々に知られることを警戒しているつもりであったが、まずそれをお索が嗅《か》ぎつけた。こういうことには恐ろしく敏感で、ひょっとしたら二人の間に何もなくても彼女の鼻は何か嗅いだかも知れない。
「おまえ、あのどこの馬の骨とも知れない浪人とくっつくつもりかえ?」
と、にくにくしげにお阿季にいい、また、
「歌のお師匠さんとやら、おまえさん、この店を乗っ取ろうとでもいう野心を持ってるのかい?」
と、牡牛《おうし》のうなるように金弥にいう。
ここで放り出されては万事休すだ、と内心歯をくいしばって金弥が近づき、御愛想をいってみると、これでも美男の愛嬌《あいきよう》は感ずると見えて――いや、それどころか常人以上に恐悦すると見えて、たちまち眼をほそめ、舌なめずりし、彼の細い手をぐいとつかんで、
「……ほんとうをいうと、いっぺんおまえさんを可愛がって見たいよ。……」
などと――もっと露骨なことをいう。金弥は想像しただけで失神しそうであった。
そしてまた、そんな光景をお阿季は見ていないはずなのに、こちらはこちらで微妙に繊細で、
「お師匠さま、きょうはいやな匂い。――」
などと顔をそむけるから、まごつかざるを得ない。
そして、とどのつまり、三ヵ月前から、二人の間に或る計画が語られるようになった。
お阿季は京へ逃げるというのである。祖父の公卿のもとへいって、あちらで暮すというのである。あとの交渉は京からかけ合ってくれるだろうが、京へゆくまでは金弥が手引きをする。いや――そのまま、二人で京に住もう。
金弥の眼には、もう寺々の塔影が浮かぶ京の月の下で、回廊にあえかなお阿季とならんで、烏帽子《えぼし》か何かかぶって横笛を吹いている自分の姿まで浮かんで来た。一見ばかに子供じみた空想だが、しかし検討すればするほど、それほど空想的な計画とは思えなかった。――何だかその世界に逃げこむことによって、今もときどきうなされる過去の悪夢をも完全にふり捨てられるように思う。
するとまた。
驚いたことに、そんな相談を絶対きかれたはずはないのに、お索がお阿季に胡乱《うろん》くさい眼をむけ出したのである。そして――「おまえに妙な虫がついてはいけない」とか何とかいって、一ト月ほど前から、お阿季の住むところを格子で囲ってしまったのだ。つまり、座敷牢《ざしきろう》だ。
といって、金弥が歌の教授に来るのを禁じたわけでもない。どうやら彼女自身も金弥を見るのは心|愉《たの》しいらしい。――とはいえ、もはや事は急を要した。
内船金弥が、一夜ふらりとなった遊女の幻影をふり払い、吉原を急ぎ足で立ち去ったのは右のようないきさつからであった。
いよいよ出奔を決行すべく、その支度がととのったのは、それから七日ばかりあとのことだ。彼は何くわぬ顔をして、いつものように香具屋を訪れた。
そしてお阿季を座敷牢から出した。彼女は裏口から、彼は表から出て、某所で落合う計画である。そこまではうまくいった。
ところが――天なり命なり、お阿季の姿が消えたとたんに、表の方からお索が現われたのである。
「おや、妹は?」
と、彼女は座敷牢の中をのぞきこんだ。
「は、お手洗《ちようず》で」
狼狽《ろうばい》をおしかくし、金弥は答えた。そして――ことここに至っては、一足でも遠くお阿季を逃がすにかぎる。自分の方は何とか出られよう。この際、この化物をいっときでもここに釘《くぎ》づけにしておくにしくはない――と、早鐘《はやがね》を打つような胸で思案をめぐらした。
「ま、お入りなされ」
艶然《えんぜん》という。
「格子越しの桜の眺《なが》め、また変った構図でござるぞ」
お索は入って来た。――巨体を、先刻までお阿季の坐《すわ》っていた場所にどっかと構えて、桜の方は見ないで、金弥の顔に、小さな、しかしぶきみにひかる眼をそそぐ。
「ほほ、ここに二人はこうして向い合って、人こそ知らねかわくまもなし、なんてやってるんだねえ」
河馬さながらの顔が、笑うたびにふいごみたいな息を吹きつけて来るのに、金弥は吐気をもよおし、反射的にからだをずらそうとした。
そのとき彼は、股間に異物のまといついたのを感じた。
はてな? という表情になる。思わず眼前の存在を忘れて、息をつめて耐える。が、それから彼を襲い出した快美の感覚は、もはや描写するまでもない。怪しむべし、数瞬のうちに、内船金弥は向い合った大女体を、ただ巨大な美の女神のような幻覚にとらえられたのである。
「うひゃあ!」
そんな喜悦の怪声も、彼の耳にはあの薄雪の嫋《じよう》 々《じよう》たる泣き声と聞えた。
全身をつつむむせ返るような異臭も夢幻のごとく、頬《ほお》から口へ強烈に吸いついて来る粘膜も痛快をきわめ、そして、いかに放射してもかぎりなくつきあげて来る快絶感はいったいどうしたものであろう? それがどれほどの時であったか。――
「……あっ」
たまぎるような一声が、はじめて彼の理性を呼び戻した。
ちらっと格子の外に、口をあけ、眼を見張ったお阿季の顔が見えた。どうしたわけか、彼女はここへひき返して来たのだ。驚愕《きようがく》の表情がみるみる凍りつきそうな嫌悪と軽蔑の表情に変っていった。
どうしてここへ? 金弥の頭にはそんな疑問を浮かべる余地はない。それどころか、どうして自分がこんな風になってしまったのか、いや自分がいま何をしているのかわからない。ただ、自分の胴をねじまげ、手足をへし折らんばかりに荒れ狂っているのが、河馬とうわばみのあいの子みたいな顔をした、脂にべとべとした、臭い、醜悪な怪物だということは認識した。
彼の放出はつづいた。口からも――嘔吐《おうと》として。
しかも彼自身の動きはやまず、相手も静止を許さなかった。内船金弥は自分が絶息するまでこの地獄の陶酔がつづくであろうことを感じた。
生駒藩《いこまはん》に仕える塙《はなわ》又八郎は、吉原で紅梅という遊女から無上の悦楽を与えられたことを、おのれの果たし合いのための何よりのはなむけだと思った。
数日後、剣を交えなければならぬ塙が、決して自分が勝つという自信の持てないほどの人間であることを思うと。――
……考えてみると、彼には以前同様の経験がある。八年前。
峠の道を獣のようにまっさきに駈け下ろうとした塙又八郎は、突然はたと立ちどまった。そして。――
「あの首、持ってゆこう」
と、いい出したのである。
内船金弥がいった。
「だれの首を?」
「お千羽の首をだ」
「――えっ」
みな、これには胆をつぶした。
「な、なんのために? 首は杖馬のものだけでよかろうが」
「そのためにお千羽の首が要るかも知れぬ。……一骨、おぬし斬《き》って来い!」
……しばらくののち、袖でつつんだ西瓜《すいか》のようなものを小脇《こわき》にかかえた七塔寺一骨を混えて、五人は改めて駈けていった。
ほど遠からぬ或る村はずれで、彼らはついに初狩杖馬に逢った。杖馬は平常心を失った顔で、彼らを見ると、
「おいっ、おぬしら、千羽を見かけなんだか?」
と、まずきいてきたものだ。逐電以前の朋輩《ほうばい》に逢ったもののように。
「見ぬ」
と、塙又八郎が答えた。
「やはり、そうか。先へいっても見当らず、ひょっとしたらと思ってここまで駈け戻《もど》って来たのだが――千羽、おまえはどこへいった?」
杖馬は不安と焦燥《しようそう》にみちた顔をかしげたが、自分のまわりに輪を作って凝然と立っている五人を見ると、はじめてはっとわれに返ったようであった。
「おぬしらは。――」
「杖馬、神妙にせよ。御上意だ!」
又八郎は吼《ほ》えた。同時に四人は抜刀した。
――ただ一人、袖の包みを持たせられた内船金弥を除いて。
初狩杖馬はしかしこのときはもう落着いて、五人を眺めやった。秋の蒼い空にきららのようにちぎれ雲がひかっていた。
「そうか。……しかし、恐れ入るが、刃向わせてもらう」
沈痛な声であった。しずかに刀を抜き払った。
「千羽を逃がすまでは……千羽の安否を知るまでは、おれは死ねないのだ」
「なぜ、そうまでして女房を逃がす?」
「それはおぬしたちの知ったことではない」
「それほど女房の素性はかくさねばならぬものか」
杖馬の眼が爛《らん》とひかって、又八郎を見すえ、またぐるっとまわりを見回した。
「わかった。……陰険な投げ文をしたやつは……おぬしらじゃな」
「いまわかったか。それだけ知って死ね!」
塙又八郎がさけんで躍りかかろうとしたが、足を痙攣《けいれん》させただけで動かなかった。杖馬の一刀に抑えられたのだ。その横や背後に三人抜きつれているのに、彼らもまた動けなかった。
葛城藩で奇剣を使うことで評判高い塙又八郎が――道場では杖馬と相討ちになることが多い又八郎が、いま三人もの味方を持ちながら、じりっ、じりっとあとずさってゆく。彼を押しひしいでいるのは杖馬の怒りと、そして恋妻のゆくえをたしかめるまではという執念であった。
「金弥……金弥っ」
悲鳴のように又八郎はさけんだ。
「その包みをといて……杖馬に投げつけろっ」
数メートル離れたところに立っていた内船金弥は、包みを腕に抱いたまま、その袖をかきひらいた。中から、千羽の美しい生首が現われた。
「……あっ」
胸廓《きようかく》にひび[#「ひび」に傍点]の入ったような杖馬の絶叫であった。
「千羽!」
又八郎には眼もくれず、杖馬は全身を隙《すき》だらけにしてその方へ駈け寄ろうとする。えたりや、とばかり、その背へびゅっとうなりをたてて送られた又八郎のきっさきに、杖馬は本能的に身を避けたが、及ばず、ばさと左腕を肘《ひじ》から斬り落された。
杖馬はふりむいた。なおその右腕に刀は握られ、その眼からほとばしる凄惨《せいさん》の迫力は、追いすがろうとした又八郎の足をもつれさせたほどであった。――斬れば、杖馬は又八郎を斬れたであろう。――しかし、次の刹那《せつな》、その眼の光は消え、からだじゅうから殺気も消えた。
「千羽……」
彼は弱々しく、哀《かな》しげにつぶやき、刀さえとり落し、また首の方へ歩み寄った。金弥は逃げようとして足がすくみ、首を投げつけようとして手もしびれた。
「やるなっ」
又八郎が飛びかかってその背を袈裟《けさ》がけにしたあとは、四人、餓狼《がろう》のごとくもつれ合って、乱刃の下に杖馬の姿は膾《なます》のようになっていた。
「……しまったなあ、片腕打ち落したところで一応つかまえるのであった。とうとう、どちらからも千羽の素性をきくことは出来なんだ。……」
と、又八郎が舌打ちしたのは、一息ついてからのことであった。しかし本来なら彼らすべて討たれかねない相手であっただけに、そんな余裕のなかったことはむろんである。――ともあれ、万一の場合にそなえて、杖馬を衝動させるために千羽の首を持って来るという塙又八郎の兵法は図に当ったわけである。
「上意討ちの目的はみごと果たしたわけじゃ!」
うめき出すように、柿坂達右衛門がいった。
「われらの所業、なんら天地に恥ずるところはない……」
――それを、いま塙又八郎は思い出したのだ。こんどは、首こそ関係ないが、しかし強敵との決闘の前に、あまり体験したことのないほどの交合の法悦境を味わったという点は同じだ。さいさきがいいとは、このことをいうのであった。
相手は生駒藩の剣法師範の雲見竜膳《くもみりゆうぜん》という男だ。ふだんは在国《ざいこく》しているが暮から所用あって出府して来ていた。
このころ江戸屋敷では、すでに新参の塙又八郎の剣名が高かった。果然、又八郎の召し抱えた若党と雲見家の若党が、おたがいの主人の手並を誇り合い、塙の若党が雲見の若党を殴り倒した。たまたまそれを見ていた竜膳がこれを無礼討ちしたのである。
実際、塙の若党は口が悪く、その雑言をきいた者はだれでも腹を立てずにはいられないほどであったが、表面的には、負けた家来の敵討ちに主人が――しかも一藩の剣法師範が飛び出したのだから、雲見の方が具合が悪かった。
新参の塙又八郎の方が果し状をつきつけても、だれもが「……やむを得ぬ次第じゃな」と肯定せざるを得なかったのである。それに両者ともに鋭利凶暴の風があって、将来必ず両立しまいと思われるふしがあったし、いずれが倒れてもあまり同情の感じとれない人柄ではあった。
――時や至る。
むろん最初から計算したわけではないが、塙又八郎は願ってもない機をつかんだつもりであった。生駒藩の正式の剣法師範となるためにだ。
彼は自信を持っていた。葛城藩から浪人して以来、諸国や江戸の道場を経《へ》めぐって、彼はさらに長足の進歩をとげたと思っている。
しかし、自信はあっても、むろんそれは大地を打つようなものであるはずはなかった。調べると、相手の実力は侮るべからざるものがあった。最初又八郎は自分と相手を七・三と計っていたが、いまでは六・四に修正した。そして、少くとも向うも同じ割合でおのれを有利に見ているらしかった。
吉原で旧友と交歓しても、塙又八郎はこのことをだれにもいわなかった。彼の一種の傲岸《ごうがん》さの現われである。しかし、内心はやっぱり――決闘以前の交合のめでたさ、などいう縁起をかつぐところがあったのもまたやむを得ない。
そして、そのあげく。――
こんどは首はないな、と思い当って、それについて考えているうち、彼ははたとひざを叩《たた》いた。よし、もういちどあの手でゆこう。首を作ろう。
決闘の前夜、彼は死んだ若党の弟で、田舎から出て来た若い百姓を呼んだ。彼は兄の弔《とむら》いに田舎から出て来て、自分も敵に一太刀――一|鎌《かま》なりと加えてやりたいと又八郎に願い、又八郎からそれはならぬと拒否された男であった。
「平作、おまえはやはり敵討ちをやりたいか」
「もちろんでごぜえます」
「死んでもよいか」
平作はちらっと又八郎の顔を見た。
「旦那《だんな》さまもお立ち合いになるのでがんしょう」
「しかし、わしも討たれるかも知れぬ」
「それなら、おらも死んでもようごぜえます。けんど、まさか旦那さまが負けるなんて。――」
「先日はついて来ることはならぬといったが、では、ともかくもつれていってやろう」
「ひえっ?」
「万一のために書置きを書いておけ。実はおれも書いておる」
「ふえっ?」
約定《やくじよう》の日の約定の時刻、その少し前に又八郎は約定の或る無住の荒れ寺に、平作をつれて赴いた。しかし約定はむろんどちらも助勢なしということであった。
崩れた庫裡《くり》のかげで、又八郎はいきなり平作を袈裟がけに斬り捨て、その首を切り取って風呂敷《ふろしき》に包んだ。
それをぶら下げて所定の境内に置き、傍の岩に腰打ちかけて煙草《たばこ》をのんでいるところへ、凄愴《せいそう》の剣気をみなぎらせて雲見竜膳がやって来た。
一言の口もきかず、じろっと睨《にら》み合っただけでお互いに抜刀したのは、いかにも殺風景な二人らしい。が。――
「おう」
剣を向け合ったとき、又八郎が声をかけた。心中に相手を、「……出来る! これは予想以上だ!」と認識したとたんにである。
「忘れていた。御師範に拙者のかたみを持参いたした。ちょっと御覧になるか?」
「なんじゃ?」
「御免」
又八郎はスルスルと移動すると、例の風呂敷包みのうしろに回り、すっと刀でその結び目を薙《な》いだ。布がぱらりと切れひろがると、そこに断末魔の恐怖にみちた平作の生首が現われた。
「?」
又八郎を追って歩をつめて来た雲見竜膳は、その首をのぞきこんで、「やっ?」と息をのんだ。彼はそれが、自分の斬った若党の弟だとは思わなかった。ばかなことをした、とその後も彼を悔いさせた、寝ざめの悪い死びとの首がそれだと見ると――半月も前に殺した男の首が、どうしてそんなに生々《なまなま》しくそこにあるかという疑いを起す以前に――竜膳の構えにひどい動揺が走った。
――ここだ!
なんでその好機を見逃そうぞ。いや、これこそ待っていた罠《わな》だ。又八郎の顔は、音もなく口が耳まで裂けて、しかも刀は迅雷《じんらい》の勢いを以て、全身に破綻《はたん》を見せた雲見竜膳の脳天へ飛ぼうとした。――その刹那《せつな》。
彼は股間にまといつくみみずを感覚したのである。
「――はて?」
又八郎よりもその表情をあらわにしたのは竜膳の方であった。一瞬、二瞬、彼はキョトンとして、刀よりも腰に魂を集めたかとしか思われぬ敵の奇怪なうねりを見つめていたが、たちまちこれもきゅっと口を耳まで裂いた。
「くわあっ」
迅雷の勢いを以て、生駒藩師範の豪刀は、あけっぱなしの塙又八郎の脳天へ振り下ろされていった。
やはりいまも浪人をしている七塔寺一骨を、完全に、五人の一味だということは、ほんとうは正確ではない。
なぜなら――あのとき彼は、ほんとうは千羽を犯さなかったからだ。実は一骨は、三番目のくじ[#「くじ」に傍点]に当ったのだが、一番目の内船金弥と二番目の野ノ市波伝を見ているうちに、昂奮《こうふん》その絶頂に達し、ひとりでに破裂してしまって、自分の番になったとき、軽くなった腰をくねらせて地団駄《じだんだ》を踏んでいるばかりであったのだ。
いや、そうではない。それだけに彼は怒り心頭に発して千羽をさいなんだ。千羽を最もむごく取扱ったのは彼だといっていいかも知れなかった。だから――やっぱり彼を五人の一味に数えることは正確かも知れない。
千羽を汚したことにまちがいはなかった。また初狩杖馬に凶刃を加えた一人にまちがいはなかったからだ。
……しかし一骨は、その凶行そのものを悔いるよりも、自分がいちばんつまらない、ばかげた役割を与えられたような気がして、そのことを残念がっていた。
第一に、右にもいったように彼は、千羽を犯してはいない。
そして第二には、それっきり彼は不能になってしまったのだ。千羽の件以前には、その猛烈なことで女を呆《あき》れさせたものだが。――
どうしてそんなことになったのかわからない。それが罪の酬《むく》いというのなら、ほかの連中にも同じ現象が起ってよさそうなものだが、どうやら自分だけがそんなからだになり果てたらしい。
あまり業腹《ごうはら》なので、彼はこのことを仲間のだれにもいっていない。廓に呼ばれれば何くわぬ顔でやって来る。しかし事実は、一夜じゅう女郎にしがみついて鼻風を吹いているだけで、下半身は死んだまぐろと同様なのであった。
いつのころからか、彼は口ぐせみたいに次のような言葉をつぶやくようになった。
「立つべきときに立たざれば。……」
はじめは苦鳴であったが、あまりしょっちゅう口ずさむので、このごろはいささか無意識的な鼻唄じみて来た。それでも一、二度、野ノ市波伝などにききとがめられて、
「なんのことじゃ、それは、一骨?」
と尋ねられたことがある。一骨はきしり出すようにいった。
「男の覚悟のことじゃ!」
……さて、この七塔寺一骨が、この冬から途方もない或る陰謀に関係することになった。同じ長屋に住むやはり一人の浪人が、ふと一骨のこのつぶやきをきいて、ひそかにささやきかけたのである。
「七塔寺うじ、おぬしを隠《かく》れたる志士とお見受けして語らうわけでござるが」
「……ほ、拙者を、志士とな」
「実はわれら、天下の大奸《たいかん》に天誅《てんちゆう》を加うべく計画をすすめておる」
そして打ち明けられたところによると、彼及びその一味は、いまや天下に権をふるっている田沼父子を狙《ねら》っている。その人もなげなる栄華は世の何ぴとも知るところだが、その上、彼らの主家はすべて田沼の気まぐれによって改易となり、かくは浪々の身の上とはなった。――
「失礼じゃが、七塔寺うじはどこの御藩だったので?」
「葛城藩じゃが」
「あ! それなら、おぬしもまた田沼の犠牲者の一人でござるぞ」
「な、何じゃと? いや、ちがう、葛城藩が改易になったのは、主君が江戸城中で将軍家の御不興をお招きなされたのがもとであった。――」
「どんな御不興」
「それは、何しろわが殿も、相当なかんしゃくもちであらせられたから」
「いや、原因は屁《へ》でござる」
「屁? だれの?」
「葛城豊肥守どののおん屁。それは改易の理由としてはそうも申せぬから、いろいろ尤《もつと》もらしいことがあげてあったのでござろうが、事実は屁です。一日、将軍家と数人の大名衆が御歓談の際、何者なるか無音の放屁をなされたお方がある。そのときは火もとはだれやら相分らなんだが、その実は葛城豊肥守どの。――」
「あ?」
「と、たまたまそのいちばん近くに坐っておった側用人の田沼が、将軍家にあとで知らせた。かくて、改易です。おそらく豊肥守どのは胸に思い当ることがおありでござったろう」
「や、そう申せば家臣一同、突然の改易に、それこそ鳩《はと》が屁をくらったようにあっけにとられたものであったが、殿ばかりは奇妙にもの静かにその下知をお受けなされたが、そうか、そうであったか。――」
七塔寺一骨はひざをたたき、眼を宙にあげた。
「しかし、左様なばかばかしきことで一藩を路頭に迷わすとは。――」
「されば、すべて田沼のさしがねでござる」
「ううむ。……ところで、おぬし、なぜそんなことを知っておられる。われらすらいまはじめて知った政治の秘事を」
「いや、拙者ども、怨念《おんねん》のあまりに田沼に関する秘事悪事、細大|洩《も》らさず調べあげたのでござる。――さて、七塔寺どの、いよいよ以てこれはおぬしにとってひとごとではのうなったようでござるな。まさに、男、立つべきときに立たざれば。――」
「待て待て、それにしてもおぬしら、大変なことを考える。では田沼父子を刺そうとでもするのか」
「いや、それはちと大ごとすぎる。実は拙者らの企てておるのは」
そして浪人は、いよいよ出でていよいよ奇なるたくらみを打ち明けた。すなわち、向島に田沼の別邸があり、ここに山城守|意知《おきとも》の十人あまりの妾が栄耀《えいよう》をつくしている。この別邸に忍び込んで、その愛妾たちをみな犯そうというのだ。その屋敷には、やはり主家をつぶされた娘が数人奉公していて、これが手引をするはずになっているという。
「これはいかな田沼も、ことを荒げるわけには参るまい。これぞまさしく天誅――。いかがでござる七塔寺どの!」
「ううむ。……」
七塔寺一骨はうなっていたが、やがて持前のきしり出るような声でいった。
「承知した。いや、妾を犯すことはさておいて……拙者、見張りなり万一の際の防ぎなり、何なりと快然《かいぜん》としてお手伝いしよう。まさに天下の義挙じゃ!」
もっともらしい一骨のうめきの真意は知らず、浪人はなおささやいた。
「実は、われらの同志いまだに五人。妾を犯すにはちと数が足りぬ。で、もし貴殿のお知り合いの中に、やはり立つべきときには立つ志士あらば、何とぞお誘いのほどを。――」
だから一骨は、ほんとうならこの一挙を例の仲間のだれかに相談してもよいところであった。ちょうどそれで数も合うのだが、それをあえてそうしなかったのには、次のようなわけがある。
それから数日後、浪人は彼をつれて向島に下見に出かけたのだ。そのとき一骨は、偶然乗物から下りて門の方へ歩いてゆく女人を見たのである。むろん数人の侍女にとり囲まれて、やはり、田沼の愛妾の一人だという。
遠くからそれを隠れ見して、一骨はうなった。それはあの千羽と瓜《うり》二つの女であった。――と、最初はそう思ったが、よく見ると、ちがう。千羽の持つあのふしぎな哀愁と清潔さはない。ただ華麗さと肉感が似ているだけである。しかもさらによく見れば、いささか白痴的な美貌《びぼう》でもある。しかし。――
「……あのような女がおるか。――ようし!」
はじめて一骨は武者ぶるいした。
気性のはげしい一骨は、自分を不能にした――と思われる千羽を、盗人《ぬすびと》たけだけしくも今は恨めしくさえ思っていたのである。一種の復讐《ふくしゆう》意識から彼は歯をキリキリと鳴らして、
「ううむ、立つべきときに立たざれば。……」
とまたうめいた。
彼がこのことをほかの四人に打ち明けなかったのも、また右の感情とつながる復讐意識からであった。あのとき思いのたけをはらしたやつらに、またいい思いをさせてなるものか。
しかし、待てよ、おれはいい思いをすることが出来るのか?
いや、立つべきときにほんとうに立つのか?
七塔寺一骨の腰骨をかきむしるのはこの不安であった。しかるに――たまたま呼ばれた吉原の一夜、雛菊《ひなぎく》という花魁《おいらん》が敵娼《あいかた》になって、むろん彼はいつもの恐怖感を以て同衾《どうきん》したのだが、なんとその夜、八年ぶりに彼の不能は氷解したのであった。
不能どころか、氷解どころか、一骨は曾《かつ》ての猛烈ぶりを再現し、からだじゅう炎となって燃えあがるかと思われた。
なぜその夜そんなことが起り得たか、自分でも五里霧中であったが、とにかく彼は全身もまたふるい立つのを感じた。手の舞い足の踏むところを知らずといった心境であった。
かくて、新春の一夜。
六人の浪人組は、向島の田沼の別邸を襲った。
事実は、邸内の数人の女性の手引で、闇夜《やみよ》、ぬき足さし足で忍び入り、木戸木戸を通って、それぞれ六人の愛妾のもとへ這《は》い込んだのである。四|半刻《はんとき》――約三十分――は保証するから、そのあいだに、というのが手引者のささやきであった。
一骨はまた武者ぶるいして、心中に詠《うた》った。
「風|蕭《しよう》 々《しよう》として易水寒し。……」
いったん彼女たちの枕《まくら》もとに立ってからは、大刀をたたみに刺し込んで、声も立てさせない荒わざでなければならなかった。
むろん七塔寺一骨もそうした。おそらく目覚めた女たちが見た曲者のうち、公平に見て最も一骨の姿が凄《すさま》じい迫力を具えたものであったろう。――念を入れてたしかめてあったおかげで、彼の足もとの豪奢《ごうしや》な夜具に横たわっていたのは、あの千羽に似た愛妾であった。
しかるに――何たること!
「ああ!」
一骨は、やはり不能であったのだ!
焦り、うめき、悶《もだ》え、転がりまわっても、彼の下半身は死んだまぐろであった。無念さに彼は嗚咽《おえつ》した。号泣した。――そのために、約束の四半刻が過ぎて、すでに退散したほかの五人から解放された愛妾たちの知らせで、宿直《とのい》の侍たちが駈けつけて来る跫音《あしおと》も彼の耳にははいらなかった。
背から刃《やいば》をつらぬかれ、七塔寺一骨は女のからだから転がり落ち、仰むけになった。はね起きようとしたところを、乱刃で彼は膾《なます》になった。
死ぬ前にこの曲者は長い息をひいていった。
「立つべきときに立たざれば。……」
宿直の侍たちが恐怖の声をもらして立ちすくんだのは、曲者が絶命してから数分後である。
屍体の股間に何やらうごくものが見えたのだ。ぎょっとして見張ったいくつかの眼の下で、死人の男根が――それだけが、徐々にかまくびをもたげ、そして鉄筒のごとく屹立《きつりつ》していった。
どこで噂《うわさ》をきいたか、晩春の夕ぐれ、老中田沼|意次《おきつぐ》の使者が赤蔦屋《あかつたや》にやって来た。ここに客をとらぬ花魁小式部なるものがおるという。特別の思《おぼ》し召しを以て、ただちに田沼家へさし出すようにとの口上であった。
飛ぶ鳥落す大権力者からの命令である。赤蔦屋の亭主は蒼惶《そうこう》として、小式部の部屋に駈けつけて、あっと立ちすくんだ。
そこにはきらびやかな五人の遊女……野分、染衣、雛菊、薄雪、紅梅のうしろ姿があったが、小式部は見えなかった。その代り、彼女たちの前には、黒頭巾黒装束の影がすっくと立っていた。
「ありがとう、みなさま。……わたしの用はすみんした。おかげさまで、だいたいみなうまくいったようでありんす」
黒頭巾の中から洩れているのは、小式部の声にちがいなかった。声は、くすっと笑った。
「ただ、中にはちょっと時間の測定が狂ったような例もあったようでありんすけれど、かえってそれでうまくいったとも言えるでありんしょうね。ありがとう。……では、さようなら」
亭主は両腕さしのばし、鶏の絞め殺されるような声を出した。
「……こ、小式部!」
「御亭《ごて》さん、いろいろお世話になりんした。お礼を申しあげるいとまもありんせん。わたしはこれから帰りんす」
「ど、どこへ?」
小式部は答えず、ただ一礼したかと思うと、反対の方から廊下へ出、人の背の二倍はあるかと見える高い櫺子窓《れんじまど》へその影が舞いあがっていったかと思うと、その格子が紙のように破られて、窓の外へ消えた。
おぼろ月が浮かんでいるためにかえって茫々《ぼうぼう》と霞《かす》んでいる赤蔦屋の大屋根の甍《いらか》の上に、黒装束の姿が立ったが、だれの眼にもそれは見えなかった。
「終りました。腹ちがいの姉上さまの千羽さま、それから、甲賀《こうが》の掟《おきて》を破って谷を追われた千羽さまの母上さま、ようこそ、甲賀の忍びの一族という素性は明かすなという掟だけは護りぬいて下さいました。あなたたちの知らない腹ちがいの妹、いえ甲賀の娘としてお礼を申します。地獄へ堕《おと》された姉上さまとお気の毒なその旦那《だんな》さまの復讐はこれで終りました。どうか安らかに成仏《じようぶつ》して下さい。では、わたしは甲賀卍谷へ帰ります」
そして、その鼠色《ねずみいろ》の姿が鼠色の大空へふっと溶け、あとはただ春のおぼろ月を、妖々と一|朶《だ》の薄雲がかすめ過ぎただけであった。
[#改ページ]
忍法穴ひとつ
――どこかで横笛の音が、春のおぼろ夜を縫っていた。
やや能面じみてはいるが、美男といっていいだろう。が、この当時としては美男という概念にはあたらないかも知れない。その長い顔が常人より大きく、かつ眼がひかり過ぎ、そして顔のみならず全身の皮膚がぎたぎたとあぶら切っている。
その男を前にして、
「平九郎」
と、公儀忍び組の服部《はつとり》百蔵は呼んだ。
「まことに重大で、異な相談がある。……実は若年寄の田沼|山城守《やましろのかみ》さまからのお話じゃがの」
そうきいても、江袋《えぶくろ》平九郎はほかの考えごとでもしているように、長い大きな首をややかたむけたまま、返事もしない。
「この一件、処理をするには伊賀組《いがぐみ》のほかにない、との仰せである。そしてまたわしが思うのに、伊賀組の中ではおまえの力をかりるよりほかはない」
平九郎はまだ、相手の話をきいていないような顔だ。もっとも服部百蔵がもう七十を越えていて、声もいささかもつれ、ふつうの耳にはよくききわけられないところがある。
「事は柳生《やぎゆう》家のことじゃがの」
――そのとき、笛の音が止んだ。
「は?」
と、はじめて平九郎は首をまっすぐにした。いままで、その笛に耳をすましていたらしい。
「おまえも知っているであろうが、いまの柳生家には嗣子がない。ただ息女がひとりあるばかりじゃ」
「たいへんな美人だそうで」
と、これには返事をした。
「で、どこぞから御養子をもらわねば家がたちゆかぬ。いや、げんにその御養子はきまっておる。松前|周防守《すおうのかみ》さまの六男で帯刀《たてわき》というお方が」
「おう、あの松前帯刀さまが」
と、さけんだところを見ると、平九郎は松前帯刀を知っているのであろう。
「非常な御美男ながら、大名方のおん曹子《ぞうし》ちゅうではなかなかの使い手だという噂《うわさ》じゃ。で、この方を柳生家に迎える――という内約になっておった。しかるに。――」
と、服部百蔵はさだかならぬ呂律《ろれつ》でつづけた。
「このたび突然、九州の細川家から、柳生家の御養子の候補者として一人の剣士を推挙して参ったという。細川家では、松前帯刀さまのことは知らなんだらしい。その剣士の名は、宮本|土佐《とさ》というそうなが」
「え? 細川家の宮本?――すりゃ?」
「いかにも、その昔の武蔵《むさし》の子孫じゃという」
百蔵はきゅっと歯のない口で笑った。
「もっとも武蔵には実子がなかったというから、血はつながっておらぬだろう。――しかし、強いことは、恐ろしく強いという」
「ははあ」
「細川家の方では、柳生家は天下の剣法の宗家、どうせ御養子をおとりになるならば、この際家柄などより、実力に於ても無双と見られる男にあとをつがせられては如何《いかん》、と御進言あったらしく、その意見にはからずも幕閣に於て共鳴なされる方々が出来た」
「ふうむ」
「いかにも柳生家はたしか五代の備前《びぜん》さま以来、ふしぎに御男子なく、六代七代八代といずれも他家から御養子をおとりなされ、そのたびに徐々にそのわざ衰え、いまや剣法宗家の名は飾り物に近いものになっておる。で、このたび、思い切って新しいたくましい野の血を入れるもよろしからん。――」
「なるほど。――」
「ところがの、そういう次第でその宮本土佐なる剣士、さきほど九州から出府した。いかにも強い! 旗本連、各藩士のうち一応の面々をひそかに立ち合わせたところ、ことごとくこの土佐に敗れ去った。その敗れ方が凄《すご》い。木剣試合じゃが、そのほとんどが片輪《かたわ》になったという。――」
「ほほう」
「しかも、この土佐、妙なくせがあって、勝利を得たあと、かならず相手に尿《いばり》をひっかけるという。――」
「へえっ?」
さすがに江袋平九郎も眼《め》をまんまるくした。
「その話をきいて、幕閣も驚かれたらしいが、それでもなお――井伊兵部少輔《いいひようぶしようゆう》さまなどが、その昔の前田慶次郎|利太《とします》どの、すなわち前田利家公の甥御《おいご》で上杉家に仕えられた大豪傑《だいごうけつ》じゃが、この人が戦場で敵を斃《たお》すときっと小便をかけて駈《か》け去ったというけたはずれの武勇譚《ぶゆうたん》を思い出され、それはいよいよ以て痛快無比の人物ではないか、と面白がられるお方も出たという」
――また呂々《りよりよ》と笛の音がながれはじめた。
「じゃが、田沼山城守さまは――何といっても柳生家は将軍家御師範の家柄、左様に奇怪な男があとをつぐことになっては甚《はなは》だこまる、と仰せられる。これももっとも千万じゃ。ところが、もはやその話は、御閣老どうしのおん意地もからんで、いまさら取消しとは参らぬなりゆきになっておるそうな」
「――で?」
「で、伊賀組へのお頼みじゃが――何とぞしてその宮本土佐なる剣士が、みずからその候補から身を引くようには出来ぬか、との仰せなのじゃ」
「…………」
「それでわしからおまえに頼む。おまえ以外に、この役目果たせる者は伊賀組におらぬ」
「…………」
「この役、しとげたら、平九郎、おあんをやるぞよ」
――ふっと、笛の音が止んだ。距離から考えて、笛を吹く人がこの問答をきいているはずはないが。
「ともかくも、その宮本土佐なる人間に逢《あ》って見とうござるな」
と、やおら江袋平九郎はいった。
「何とかなりそうか」
「何とかしましょう」
もとから自信満々たる面貌《めんぼう》であるが、それにしても平然たる承諾ぶりであった。――頼もしげに見やって、服部百蔵老は手をたたいた。
「茶が冷えた。おあん。そこにおるなら、茶を持って来てくれい」
「はあい」
返事は聞えたが、姿はいつまでも現われない。それどころか、また笛の音がながれ出した。
「お上手でござるな」
苦笑いして、平九郎がいう。百蔵老人はあいまいな顔をして、
「甲賀|卍谷《まんじだに》に修行にやった際、おあんめ、笛だけをおぼえて来たらしい。――あれは卍谷から帰ってから、わしにもよくわからん娘になりおった」
と、つぶやいた。おあんは、彼のただ一人の孫娘であった。
江袋平九郎が帰ったのち、服部百蔵は笛の音のするところへ入っていった。
おぼろ月のさした縁の障子をあけ、柱にもたれかかったまま、おあんは横笛を口にあてていた。十尾の白魚が躍るように指が七つの穴を閉じたり開けたりしている。けぶるような月光のせいもあって、わが孫娘ながら、ぞっとするほど妖《あや》しい美しさに見えた。
「おあん、平九郎がきらいかな」
しばし見とれたあげく、百蔵老はきいた。
おあんは笛をやめて、祖父を見あげた。
「きらい」
「なぜじゃ? あの男は、伊賀|鍔隠《つばかく》れ谷へいって、刀術ばかり修行して来たらしいが、それだけに剣に於《おい》てはとにかく強い。からだも強壮じゃし、面相とて男前じゃ。それに、あの手のつけられないほどの自信、これが男には何よりじゃて。――まさに、男の中の男。――」
「しょってる[#「しょってる」に傍点]、といった方がいいでしょう。あの男は、鍔隠れ谷から帰ってから人が変りました。うぬぼればかりが強くなって、人を小馬鹿《こばか》にして、とくに女に対して失礼です。あの男の口ぐせをお祖父《じい》さま、おききになったことがありますか。いうのも恥ずかしい――女は穴じゃ――というのです」
「うふ、おまえにかかっては、男の中の男もさんざんじゃな。それは平九郎が女にもてるからじゃよ。あいつは、いまいった強さ、男前、自信以外にも、何やら女に対して吸い寄せるような力を持っておるらしい。女ぐせはたしかに悪い。しかし――女ぐせの悪いような男でなければ、伊賀組は」
「吸い寄せられる女もあるでしょう。わたしはきらい」
「やれしまった、おまえを甲賀卍谷へ、平九郎を伊賀鍔隠れ谷へやったのが悪かったか。――それほどの平九郎が、しかしおまえだけには、ばかに敬意を表しておるぞ。……平九郎を抑えるのは、おまえ次第じゃ」
「抑えるよりも、あの男はいちど懲《こ》らしめる必要があるかも知れないわ」
百蔵老は、大いにまごつき、困惑したようすを見せた。
「これ、実はな、或《あ》る用を果たしたらおまえをやるとわしは約束したのじゃ。――冗談ではないぞ、柳生家どころか、おまえがいつまでも婿をとってくれねば、それこそ服部家が滅びる。その婿として、あれは」
「服部家の婿?」
おあんはちょっと考えていたが、すぐにうっすらと笑った。
「お祖父さま、平九郎はもっと野心家ですよ」
「……まっ」
――声ではなく、「……ほっ」というような息の音であったかも知れない。しーんとして寂莫《じやくまく》の気のみちていた道場だけに、その聞えるべからざる女たちの息づかいがはっきりと聞えた。
宮本土佐がおのれの男根をあらわしたときにである。
正面に坐《すわ》っていた柳生|能登守《のとのかみ》は、きっとしてそちらを見た。横の方を細くあけて、侍女たちの白い顔が、五つ、六つ、縦にならんでいたが、あわててひっこんだ。
その中に娘のお景の顔があったかどうかをたしかめるいとまもなく、ひっこんだそれらの顔がまたにょきにょきと出て来たのを意識しながら、もはや顧《かえり》みるにいとまあらず――能登守は道場のまんなかへ眼を吸われてしまった。
さて、宮本土佐は倒れた男のうしろに仁王立ちになって、常人の三割はたしかに大きいものを出して、ふとい放尿をあびせ出したのである。――琥白《こはく》色の洗礼は、二メートルも距離のある敗北者の失神した顔に凄《すさま》じいしぶきを散らしはじめた。
寂莫たる夕暮の道場にはただその水音だけがひびいて、能登守とは反対の方角の羽目板の下に、十数人の侍たちが坐っていようとは思われないほどであった。みな「……ううむ」と息をのんだきり、吐くことも忘れた顔、顔、顔である。
――きょうの午後、柳生能登守に招かれてやって来た宮本土佐である。その真意は知らず柳生家の口上は、春《しゆん》 宵《しよう》一刻の剣談を交わしたいということであった。宮本土佐はやって来た。
肥《ふと》っているどころか、むしろ骨ばっているのだが、みごとな体格である。ものにかまわないたちらしく、月代《さかやき》も剃《そ》らず蓬々《ほうほう》とそよがせて、眉《まゆ》ははねあがり、頬骨《ほおぼね》は張り、妙に三角形に見える眼は金茶色であった。――血のつながりはないときいてはいたが、その昔の新免武蔵に落し胤《だね》があって、事実その末孫ではないかと思われるほどの――野性というより凶暴の気が放射されていた。
病身のせいもあり、本来の刀技はともかく剣の理論については一家言を持つ柳生八代の当主能登守であったが、この相手の寡黙《かもく》ぶりにはもて余した。決して能登守のおしゃべりを嘲《ちよう》 笑《しよう》する調子ではないが、最後に「剣は身体でござる」と、鈍重につぶやいただけである。それで話はなくなった。
で、まず道場でも見ていってくれということになり、道場でちょうど稽古《けいこ》中の弟子たちを参観しているうち、その高弟の一人が「宮本どのとひとつお手合せを」といい出し――その結果がいま見る通りであった。
土佐は、やるならば竹刀《しない》ではなく木剣で、といった。高弟は面目上ひるむわけにはゆかなかったし、それに彼は柳生家の姫君の花婿候補者にはだれであろうとひどい憎悪をおぼえる人間であったし、そもそもこの試合の申し込みそのものが、実は内々能登守から慫慂《しようよう》されていたのである。宮本なる男の手並を測定せよ、もし出来るなら打ちのめしてもさしつかえないと。
一撃のもとに打ちのめされたのは、柳生の高弟の方であった。木剣とともに彼は腕と肋骨《ろつこつ》をへし折られて悶絶《もんぜつ》した。
――さて、その敗北者に宮本土佐は小便をかけ出したのだが、それは見ている人々を寂莫とさせてしまった。むろん呆《あき》れはてたのだが、それ以上に、見る者の驚き、怒りを冷えさせてしまう何かがあった。
この悪癖のことをきいただれかが、「痛快無比」と評したそうだが、決してそんなものではない。しかしふしぎなことに、この土佐が試合前にすら放っていた凄惨《せいさん》凶暴の感じが消失して、まるで苦行僧の儀式でも見るような厳粛さがそこにあり、それがかえって人々に鬼気をおぼえさせたのである。
何にしても非常識な凱歌《がいか》の祭典は終った。
そしてまた、何にしても雄偉なる放出器であり、驚くべき放出量であるという印象は人々の脳裡《のうり》に刻まれた。
「では、きょうはこれにて」
宮本土佐はちょっと頭を下げ、もとの寡黙鈍重の顔に戻《もど》って、道場を出ていった。もはや柳生能登守も呼びとめる勇気を失い、弟子たちもただ唖然《あぜん》として見送るだけであった。
ただ。――
土佐が柳生家を出てしばらくして、夕暮の木挽町《こびきちよう》の往来で、うしろから呼びかけた者がある。
「……しばらく、宮本どの」
背は土佐よりもいくぶんか高い程度だが、顔の恐ろしく大きく長い美男であった。にたにたと笑っている。一瞬反射的な殺気を放ってふりむいた土佐は、ちょっと意外な眼つきをした。
追って来たのは武士であったが、そのそばに、芸者風の女もひとりいたからだ。
「ただいま、柳生家の道場にて拝見していた者でござるが」
「……女も?」
と、土佐はいった。
「いや、これはいまそこで逢った女でござる」
宮本土佐はもういちどちらっと女に眼をやった。肉感的な、むしろ白痴美といっていい女であったが、すぐにそれから眼を男の方に戻して――改めて殺気がみるみる全身にみなぎりはじめた。
彼はこの相手にただならぬものを感じはじめたのである。剣の奥儀に到達した者のみが知る同じ波長を。
「江戸ではじめて見た」
と、つぶやいた。江戸ではじめて剣士の名に値する人間を見た、という意味であることを――江袋平九郎は理解した。
「はて、貴公のような人間が、あの道場にいたか?」
と、くびをかしげて、
「やはり、柳生どののお弟子か」
「実は柳生家のあとつぎの候補者の一人で――土佐どのと御同様」
相手は、ぬけぬけという。自分に対して、こんな態度をとる人間は珍しい。
「ところで、先刻拝見しておったが、驚くべきものでござるな」
「試合か」
「いや、そのあとのことで」
「ふん」
「あの質量、それにあの射出力」
「ふん」
「ちょっと、拙者のものも見ていただきたいが」
これには宮本土佐もめんくらった顔をした。
「おい、ちょっとあそこに立って、見せてくれ」
と、江袋平九郎は委細かまわず、芸者にあごをしゃくった。芸者はゆらゆらと片側の土塀《どべい》の下へ歩いていって、こちらに向き――なんと、左褄《ひだりづま》どころか、両裾《りようすそ》とって――帯のところまでまくりあげたのである。
おぼろおぼろとした春の夕靄《ゆうもや》の中に、蛙《かえる》の腹みたいなものが浮かびあがった。
「……お!」
土佐は、三角形の眼をむいた。反対の土塀の下に立ったこの変な男が、その対象に向って、自分のものをあらわにしたのである。
それは土佐自身のものより、さらに三割は大きかった。しかもそれが――男が対象を凝視するにつれて、にゅーっと屹立《きつりつ》して来たのだ。
と、見るや。――
「喝《かつ》!」
うめくとともに、そこからビューッとほとばしり、対象にしぶきを散らしたものがある。
土佐は二メートル飛ばしたが、これはたしかに三メートルは飛んだ。しかも、土佐にまさる量であり、その上――なんとそれは乳のごとく白濁した液体であった。
「……な、なんじゃ、あれは?」
重厚な土佐らしくもない、頓狂《とんきよう》な声を彼はあげた。
「わが精汁《せいじゆう》でござる」
と、相手は答えた。
そして、おのれの砲身をぬぐって収《しま》い、目標にも格納を合図した。
「いずれ、また道場でお目にかかることになると思うが、きょうはこれにて」
と、ちょっと頭をさげ、この男が芸者をうながして往来を立ち去ってゆくのを、宮本土佐はそこに立ちすくみ、口をあんぐりとあけて見送ったままであった。
数日後、江戸から宮本土佐の姿がかき消えてしまったことが伝えられた。
「おまえのやったこと、あれも伊賀鍔隠れで学んで来たことかな」
と、服部百蔵老はきいた。
「刀術でござるか」
と、遠くから聞えて来る横笛の音に耳をかたむけていた江袋平九郎は顔をむけた。
「いや、刀術はべつに、使わなんだというぞ、そのあとのことよ」
「ははあ、深川の方からきかれたな」
――宮本土佐が逐電したということはもうあきらかになっていた。ただし、そのわけを知っている者はあまりほかにないはずだ。
実は江袋平九郎は、宮本土佐なる剣士についていろいろ調べるにつれて、武術に関するかぎり、これが風評にたがわぬ恐るべき人間であることを知った。で、彼は忍法的兵法を練ったのである。
柳生能登守にすすめて、高弟の一人に土佐に試合を挑《いど》ませたのはその第一石であった。
果せるかな、土佐は一撃にして弟子を粉砕し、そして噂の通りあの変な洗礼儀式を行った。たんなる病的悪癖か、何か故事か信念かにもとづく行為か、とにかく土佐はあれを以て仕上げをしなければ満足できず、そのことによってはじめて勝利の陶酔感を確認するらしい。それも想定の通りである。
しかし目撃した土佐の刀術は、ききしにまさるものであった。平九郎は心中「ああ、われ及ばず」と正直に測定した。
そこで。――
そういう場合のために、忍法的兵法の第二石として、かねてから知り合いの深川の芸者を外に待たせてあったのだ。平九郎は実際好色だし、多淫《たいん》だし、かつ女に持てる。で、あたるをさいわい、素人玄人《しろうとくろうと》の女をつまんでは捨てるのだが、捨てても捨てても、女はべたべたにくっついて来る。その芸者も、美しいが少し頭がおかしくて、ほかの女にもまして彼の一指頭で何でもやる女の一人であった。
そして、その女を実験台として、あの怪技を土佐に披露《ひろう》して見せたのだ。あれにはさしもの怪剣士も、大ショックを受けたらしい。――
平九郎の兵法としては、そのショックを与えることによって、その後に想定されている自分と土佐の剣法試合に心理的に優勢の地を占めようという考えであったが、ショックの効用はそれどころではなく、たたかわざるにあの剣豪を雲を霞《かすみ》と逃走させてしまった。――
「きくところによると、深川の女、あれだけでゆくところまでいってしまったというぞ」
さすがの伊賀組の頭領も、ただ嘆賞のほかはないといった表情だ。
「あれも鍔隠れ相伝か。……わしは、この年になってまだきいたこともないが、近来あちらで開発された忍法かな」
「いや、あれは天上天下、拙者独自のものでござる」
平九郎は大きな顔の面積を、いよいよ大きくした。それを百蔵老はほれぼれと眺《なが》めて、
「またきくところによると柳生家では、例の試合、嘘《うそ》かまことかは知らぬが御息女も御見物なされておって、あの宮本土佐、婿に迎えてもよいような……お口ぶりであったというぞ。剣の強さもさることながら、土佐の雄大なのを見て、ふらふらとされたのではないかという噂じゃ。むろん、土佐がいなくなる以前のこと、もし御息女がおまえのものを見られたら」
「あ!」
と、平九郎は、ふいにひざをたたいた。
「ちょっと、急用を思い出してござる。いずれお頭の御閑談はそのうちにゆるりと。――御免」
そして、彼は立ちあがって、出ていった。
以前には見られなかった、無礼ともいっていい態度であったが、服部百蔵はそれをとがめるようすもない。ただただ敬意を以て見送った。
やおら立って、笛の音のするところへ来る。
「惜しい。いよいよ惜しくなった。服部家のために。――おあん、あまりおちついておるな」
おあんは横笛をきれいな唇《くちびる》から離して、
「お祖父さま、あの男がこのごろ勝手に田沼さまのところへ出入しているという話を御存知ですか」
「へ? 知らぬな。何のためにな?」
「さあ? それはそれとしてお祖父さま、お祖父さまのお考えになっていることとはちがいますけれど、おあんもあの男を、天下の柳生家の花婿になどしたくないわ」
「えっ、きゃつが、柳生の――?」
「そんなことになると、かえって伊賀組の恥ですもの」
おあんは、なぜかにこと笑った。いたずらッ子みたいに。――そして彼女はまた横笛の穴に、白魚のような指を踊らせはじめた。
伊賀者江袋平九郎が、柳生道場でひそかに松前周防守の六男帯刀と試合を行ったのは、それから半月ののちであった。そういう運びになったのは、若年寄田沼山城守の運動がずいぶんあったという。――
松前帯刀といえば、識者にはさる者ありと聞えた美剣士であったが、この試合では、無惨なばかり、ただ一撃で江袋平九郎の木剣によってその腕を折られてしまったという。――のみならず、いったいどういうつもりであったか平九郎は、
「柳生家婿取りには、これが儀式となっておるそうな」
と、つぶやき、岸に打ちあげられて動かなくなった若鮎《わかあゆ》のような松前帯刀の顔に、三メートルの距離から放尿したという。これは、いばりにまちがいなかったらしい。
内々の風聞ではあるが、ともかくもかかる破天荒な行為を行った江袋平九郎に対し、こんどは田沼山城守がばかに声援を与えた。
閣議で山城守は、「いや、痛快無比の男ではござらぬか」と井伊兵部少輔などにいい、また「この際、剣法宗家の柳生に新しい強力な血を注入することが断然必要ではござるまいか」など力説したという。
つまり、柳生家のあとつぎに伊賀者江袋平九郎を以てしては如何、ということで、もし身分上の支障があるならば、自分が身許《みもと》保証人になってもよい、とまでいったという。
前々からの雲ゆきから、だれもが理論的には反対できぬ破目となり、かつこのころまでに田沼一門は、柳営のかなめを握る勢力を持ちかけていた。そこにもしこのことが実現するならば、柳生は田沼家にとって一大親衛隊となって加わるであろうと噂された。
そして、この話はとうとう現実化してしまったのである。服部百蔵老は、歯のない口をぽかんとあけたままであった。
「平九郎どの、わたしをいちど抱いて」
横笛をひざに置いて、おあんは江袋平九郎を見あげた。
平九郎は別れの挨拶《あいさつ》を了《お》えて、立ちかけたところであった。
その別れの言葉をのべているあいだ、おあんは笛を吹いている。にもかかわらず――自分でもふしぎなのだが――「これは伊賀組のためでもござる。見ておりなされ、これからは田沼さまの天下、その第一親衛隊に、この平九郎が婿入りすることによって柳生家がなる。同時に、必然的に伊賀組も第二親衛隊となる。――」など弁解がましいことが口から出て、それでも知らん顔をしている女よりも、自分自身に腹をたてていた平九郎は、この思いがけぬ言葉に、
「――は?」
と、めんくらった眼で見下ろした。
「おまえの婿入りのお祝いにわたしをあげる」
ききちがいではなく、そういったおあんの顔は、いままで見たこともないほど哀艶《あいえん》であった。
もともと惚《ほ》れていた女である。ふらっとなりかけたのを、辛《から》くも抑えて平九郎は、「――ふむ、離れようとすると追っかけて来るのは女のならいじゃて」と心中につぶやいた。急に、ざまを見ろ、という表情になって言った。
「遅うござったなあ、おあんどの」
わざとこちらも切々たる調子を作った。
「もう遅い。たとえおあんどのを抱いても、拙者は柳生家に参らねばならぬ」
「それでもいいの。いちどだけ、おまえに抱いてもらったら、おあんはうれしいの」
柳生家婿入りの強引な運動をしたことが、ふいに悔いられたくらい、魅惑《みわく》的なおあんの挑発であった。――もともと多淫好色の平九郎だ。
「よしっ、さまでいわれるなら、御熱望に応えて」
と、いって、彼はついにおあんを抱いた。
交わって、その快美|妖艶《ようえん》の肉体に驚倒し、彼は腹の底で、「……そうだ、柳生へいっても、この女をお部屋さまとして迎えるという手もあるな」と図々しい天来の案を思い浮かべ、「それならば、この女が二度とおれから離れぬように」と、全能力をあげた。
「笛をとって」
あえぎながら、おあんがいった。
「?」
「声が出そうだから」
「?」
おあんは、横笛を拾って、口にあてた。
あっけにとられていた平九郎は、すぐに彼女のふしぎなふるまいの意味を了解し、さらに狂喜した。
百人千人の女を知った彼にもはじめての体験だが――誇り高いおあんは、自分がはしたない声をもらすことを恥じて、それを笛の音に変形昇華させようとしたのだ。
「おおっ――これは何たる愉楽の世界!」
おのれが女体に快楽の打撃を与えるたびに、切々としてむせぶがごとく、|※[#「口+曹」、unicode5608]々《そうそう》として急雨のごとく笛は鳴った。
ピッ、ピッ、ピイヒャララ。……
笛の音は泉のように地を這《は》い鶯《うぐいす》のように天を翔《か》け、ついに七孔の一声、裂帛《れつぱく》のさけびをあげたときいて――声をあげたのは、しかし不覚にも自分であったことを、そのあとになって平九郎は知った。
柳生家に婿入りした夜、江袋平九郎はしかし半分ほどに憔悴《しようすい》していた。
あれ以来彼は妙な――妙どころか、恐ろしい肉体的異変に悩まされていたのである。
つまり、彼の放尿は、ことごとく精汁であった。一日数回、尿意をおぼえるのは常人の通りだが、そのたびに、その全量ことごとくそれであっては、いかな江袋平九郎とてたまったものではない。
――やられた! おあんめに。
服部家へ駈けつけたが、おあんは甲賀卍谷へ旅立っていってしまったという。――
で、意地になって、彼は柳生家婿入りの式だけはあげた。そしていま、褥《しとね》の上にすくんで、ふるえている花嫁を、はったとにらんで念力をふりしぼった。
「花婿参上いたしてござるぞ。――」
景姫さまは恐怖そのものといった顔で、糸のような悲鳴をあげた。
「助けて、帯刀さま!」
その声で平九郎は、いつぞやの自分の示威運動が全然功を奏せず、この姫君がなお松前帯刀を恋うていることを知った。
知ったとたんに彼は反動的に肉欲をおぼえ――そして、同時に強烈な放出欲をおぼえた。一息の余裕もあらばこそ。
「あっ……ま、待ってくれ!」
おのれにさけんだが及ばず。横をむいたのがせいいっぱいで、ビューッと彼は唐紙に放出した。――純粋な尿《いばり》を。
どうとおのれの尿の上によろめいて、坐ってしまった江袋平九郎の頭に、白魚のごとく踊って七つの穴を閉じたり開いたりしている指の幻影が満ち、かつむせぶがごとく、笑うがごとき横笛の音《ね》が高まった。
ピッ、ピッ、ピイヒャララ。……
生殖器と排泄器《はいせつき》――かくも詩的|頌歌《しようか》を受けるに値する器官と、かくも途方もなく汚ない肉体的機能――を同一器官においたとは、何たる大自然の愚かしき経済学とメフィストフェレス的皮肉であろうぞ。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『くノ一紅騎兵』昭和54年10月10日初版発行