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かげろう忍法帖
山田風太郎忍法帖短篇全集 1
目 次
忍者明智十兵衛
忍者石川五右衛門
忍者向坂甚内
忍者撫子甚五郎
忍者本多佐渡守
忍者服部半蔵
『今昔物語集』の忍者
*
忍者帷子乙五郎
[#改ページ]
忍者明智十兵衛
一
沙羅《さら》が蒼《あお》い顔をして城からもどってきて、明智十兵衛《あけちじゆうべえ》という忍法者の話をしたのは、早春の或《あ》る夕方であった。
「なに、腕が生えておりましたと?」
と、書見台《しよけんだい》に向っていた土岐弥平次《ときやへいじ》はさけんだ。沙羅はうなずいた。
「ほんとうよ。ほんとうに斬《き》られた左の腕がちゃんと生えていたのです」
「作り物ではござるまいな」
「まさか。その腕で太刀もぬきましたし、裸になって見せもした。……肩のつけねに、赤い絹糸を巻いたような傷痕《きずあと》があったけれど、腕が生きた腕であったのにまちがいはありません。……それにしても、きみのわるい男……」
沙羅は身ぶるいしてつぶやいた。
弥平次は腕をくんだまま、なお秀麗な顔をかたむけていた。庭に梅は咲いているが、北国の春はなお寒く、一乗山や文殊山《もんじゆさん》から吹きおろす風は、腰からすうと底冷えさせる。
その明智十兵衛という四十ばかりの男が、この越前《えちぜん》一乗谷に、吹雪とともに飄然《ひようぜん》とあらわれたのは去年の暮のことであった。素性のしれない者がめったに一国の城下に入ることのむずかしい戦国の世にあって、彼がまもなく城主の朝倉義景《あさくらよしかげ》に目通りをゆるされたのは、重臣の中に彼を知っている者が少くなかったからだ。美濃《みの》国|明智庄土岐下野守《あけちのしようときしもつけのかみ》といえば、小なりとはいえ一国のあるじであったが、十兵衛はその一子であった。ただし、土岐下野守は七、八年前|斎藤道三《さいとうどうさん》に滅ぼされたが、そのとき彼はおちのびて、いままで甲賀の卍谷《まんじだに》という山中で、忍法の修行をしていたというのであった。
槍《やり》ひとすじで一旗あげようと諸国を放浪する男は雲ほどある。いろいろな兵法武術を宣伝して、その実、とんでもないくわせ者も少くない。それにしても、忍法を看板にするとは珍しい、と噂《うわさ》をきいて弥平次は苦笑した。むろん、くわせ者にちがいないが、それでも十兵衛がそのままひとかどの屋敷と五百貫の知行《ちぎよう》を朝倉家からあたえられたのは、十兵衛の系図以外の何物でもあるまい、そうかんがえると、弥平次はおなじ土岐の末裔《まつえい》だけに羨《うらやま》しかった。
土岐というのはもともと清和源氏《せいわげんじ》から出て、美濃の土岐こそいちじは守護職の地位をしめた名門で、明智十兵衛はまさにその正流であるが、弥平次の方は、土岐家がいつどこで分れたのか、系図もない生まれであった。彼自身は丹波《たんば》の小大名の家老の家来にすぎなかった。
ただ遠い先祖がおなじというだけの興味でみていた明智十兵衛が、ついに忍術をみせなければならない破目におちいったという話をきいたとき、弥平次は美しい顔に皮肉な笑いをうかべた。
十兵衛がどうしてそんな破目におちいったか、弥平次はよく知らない。しかし、忍法を看板にして仕官し、五百貫という知行をもらい、しかも本人がまだ年も四十になるやならずというのに頭の毛がうすくなりかかった、いかにも風采《ふうさい》のあがらない容貌《ようぼう》の持主ときては、城主の義景がいちどその術をみせよといい出したのもむりはない。忍術は修行したが、あれはあくまで下郎《げろう》のわざ、じぶんとしては別に軍学についても自信があるから、それによって御奉公したい、十兵衛はそういってやまなかったそうであるが、義景はきかずついに十兵衛が承知したのは、一ト月ばかりまえのことであった。
が、義景をはじめ、家臣や侍女たちをおどろかせたのは、ここにいたって十兵衛の吐いた言葉であった。
「殿のお刀を以《もつ》て、私の左腕をお斬りおとし下されい」
彼は影のうすい笑顔でこういったという。
「一ト月のちに、もういちどその左腕を生やしてごらんに入れる」
「たわけたことを――」
「とかげの尾、蟹《かに》の鋏《はさみ》はもがれてもまた生じます。とかげ、蟹に成ることが人に成らぬという法はござらぬ。……どうぞ腕を斬って下されい」
うす笑いしたその顔を見ていた義景は、ついにあごをしゃくった。小姓に佩刀《はいとう》をもてといったのである。
文弱という噂も他国にはあるが、何といっても、戦国大名にまちがいはない朝倉義景である。その一閃《いつせん》は水もたまらず、明智十兵衛は血けむりたててたおれた。左肩のつけねから断ちきられた腕は、どくどくと血を吐きながら、みるみる藍色《あいいろ》に変っていった。
腕は捨てて犬にでもくわせられたい。拙者のからだは長持に入れ、蓋《ふた》をとじ、一ト月ののちひらいて下されたい、そう注文したとおりに、失神した十兵衛はとり扱われた。
それから一ト月たった今日である。人々は城につめかけた。ふだん城に上らぬ重臣の女房娘も、これを見ることをゆるされた。家老|黒坂備中《くろさかびつちゆう》の姪《めい》で、その寄人《よりゆうど》たる沙羅までが城にいって、その奇怪な忍者の首尾を見とどけてきたのはそのためである。
そしていま沙羅は、悪夢でもみたような顔色で、一ト月ぶりに蓋をひらいた長持の底に、そのあいだ一滴の水すらとらなかった明智十兵衛が、やや痩《や》せて蒼ざめてはいたものの、まさに二本の腕をぶらさげて、にゅーっと立ちあがってきた光景が、悪夢ではなく現実のものであったと報告するのであった。
「そんなばかな。……それはこうではありますまいか。つまり、一ト月まえ、殿様が腕をお斬りなされたとみえたは、実はそうみえただけのまやかしであった。……」
「それでも、斬られた腕は血をながしながら、ほんとうに残っていたという。――」
と、沙羅はいった。土岐弥平次はだまった。なんと判断してよいかわからない。
しばらくまた、彼のただひとりの主人である美しい娘の顔を見つめていた弥平次は、彼女の顔色が、ただその忍者の腕への恐怖だけではないらしいことを感づいた。
「沙羅さま、まだほかに何かあったのではありませぬか」
「弥平次、そなたは近江《おうみ》小谷《おたに》の浅井備前《あさいびぜん》どのの御台《みだい》さまをご存じかえ」
弥平次は、沙羅があまり突拍子もないことをいうのでめんくらった。
「浅井どのの奥方、おお、織田弾正忠《おだだんじようのちゆう》の妹御で、去年の春十七で浅井へ輿入《こしい》れされたという方ですな。たしか、お市《いち》さまとか――話はきいておりまするが、丹波の城がおちてから、そのままこの越前へにげてきた私が、左様な方を存じておるわけがないではありませぬか。……それが何といたしましたか」
「そのお方に、わたしがそっくりじゃという。――」
「だれがそう申しました」
「明智十兵衛どのが」
「明智どのが、浅井家の奥方を知っておるのでございますか」
「ここへくるまえに、しばらく尾張《おわり》の清洲《きよす》にいたらしい」
弥平次はふしんな眼で、沙羅のおびえた顔を見まもった。
「あなたさまが、浅井|長政《ながまさ》どのの奥方に似ておる。――ふむ、それで?」
「あの明智という男は、ここの殿様と、もし腕が生えたら望みのものをいただくという約束をしたそうな。わたしはそれを知らなかった。あの男は長持を出ると、広間につめかけた人々のまえをあるきはじめた。が、そのわけをわたしは知らなかった。だから、あの男がわたしのまえに立っても、わたしはぼんやりとその顔を見ておった。すると、あの男の顔におどろきとよろこびの色がひろがって――この女性《によしよう》は浅井備前どのの御台そっくりだ、殿、御褒美にはこの女人をいただき申す! とさけんだのじゃ」
沙羅の顔がゆがみ、その眼にくやし涙がひかると、彼女はがばと弥平次のひざにつっ伏した。身をもんでいう。
「わたしは城にゆかなければよかった!」
弥平次は沙羅のうねる背中をなでさすった。さすがに一瞬|驚愕《きようがく》の表情となったが、すぐにおちついた声でいった。
「それで、あなたさまは何と申されました」
「わたしは、わたしには夫がありまする、と思わずさけんで、そこをにげ出した。あとのことは知らぬ」
若い女が泣くときは、甘い花粉に似た匂《にお》いがむれたつようだ。しかし、波うつその背をしずかになでる土岐弥平次のきれながの眼は冷静な三十男のそれであった。
背中をなでられているうちに、沙羅はふいにおとなしくなった。やがて、うっとりとあげた眼は異様なうるみをおびている。ふかい息をついていった。
「弥平次、わたしがそのような辱めをうけるのも……おまえがわたしと祝言せぬからです」
「沙羅さま左様に仰せられますが、あなたは主筋、私は家来」
「そんな他人行儀なことを――そなたというひとは、どうしてももちまえのかた苦しさがとれぬのか。じれったいひと! 主筋という、なるほどもとはそうでありました。しかし、わたしの父は討死した。わたしの主家の安見《やすみ》家そのものがもう三、四年もまえに滅亡している。いまのわたしは天涯の孤児のようなもの、主と家来どころか、わたしはそなただけをたよりにしている女ではありませぬか」
「あなたには御当家、すなわち北国に名だたる守護職朝倉家の御家老黒坂備中守様という伯父御《おじご》があらせられます」
「伯父とはいうものの、その寄人として、このごろ迷惑がられておることは、そなたも知っているではないか」
「備中さまが面白からぬお顔をあそばされるのも、あなたさまが伯父御の仰せられるさまざまの御縁談を片っぱしからはねつけられるからでございましょう」
「それは、わたしがそなたが好きだからじゃ」
「そのお心はもったいのうござるが、主従そろって黒坂家の食客たるわれら、しかもあるじたる沙羅さまが、家来の私、しかも十ちかく年のちがう私にかかずろうて、伯父御の仰せをおききなされぬ。備中さまが御不快に存ぜらるるはあたりまえ、まして、それを知りつつ、私の口からあなたさまとの祝言など、なんとして申し出されましょうか」
「……弥平次、どこかへゆこう」
「どこへ。この麻のごとき乱世のどこへ」
「わたしはそなたの才智を信じている。――弥平次は生まれたところがわるかった。丹波の小大名の家老の家来などとは泥中《でいちゆう》の蓮《はちす》、もし一国のあるじに生まれていたら、天下をとりかねぬ男――と、生前の父上がしばしば申されたことを沙羅は忘れはせぬ。そなたほどの兵学者なら、どこへいっても働き場所がありましょう」
「左様な野心を起すには、私、十年、年をとりすぎました。私はもう三十二でござります」
「まだ若いではないかえ」
「ふふ、沙羅さまがおからかいなさる」
土岐弥平次の名剣のような端麗な顔に、自嘲《じちよう》と哀愁をおびた苦笑がかすめた。
「わたしは剣にも槍にもさして自信はござりませぬ。ただ、仰せのごとく、大軍をうごかす軍法にかけてはいささか自負することもございます。さりながら、大軍をうごかす地位には、いかに戦国とはいえ、一足とびにつけるものではありませぬ。それには系図が要ります」
「系図?」
「されば、あの明智十兵衛どのがこの一乗谷に参られるやいなや、ただちに五百貫の知行をたまわったに反し、ここにきて三、四年にもなる私は、いちどとして殿に見参《げんざん》がかなうどころか、日蔭の花のようにこの黒坂家の居候《いそうろう》として、だれもかえりみるものがないではありませぬか。すべて、系図の有無です。あなたさまに縁故ある朝倉家にしてすらしかり、況《いわ》んや、他国に漂泊するに於《おい》てをやです」
「それでは、弥平次、そなたはこの一乗谷で朽ちてゆくつもりか。そなたといっしょなら、わたしはそれも本望であるけれど――」
「いや、私こそ、この青い磨鉢《すりばち》のような谷で孫子《そんし》など読みながら老いてゆくのは、或《ある》いは性にあっておることかもしれませぬが、あなたさまは」
沙羅は身もだえしてさけんだ。
「あの醜い明智十兵衛という化物の人身御供《ひとみごくう》になれといいやるか」
さすがに土岐弥平次は沈黙した。
二
丹波の城が三好勢《みよしぜい》に攻め落される前夜、弥平次の主人、すなわち沙羅の父は、どう思って沙羅を弥平次に託してひそかに落去させたのか。
むろん、愛する娘を死なせたくない慈悲心からにちがいないが、なぜそれを弥平次に託したのかとかんがえると、弥平次自身にもはっきりとはわからない。主人は、彼の前途を嘱望していた。彼の才能を買っていた。彼の人柄を信じていた。――そこまでは、うぬぼれでなく、彼にもわかる。しかし、沙羅の父は、じぶんを沙羅の夫として見込んだのか、また沙羅の騎士として見込んだのか。
もし後者として望んだのであったら、おれはまことにその負託にたえたものだが、前者として望んだのであったら、いかんながら落第だ、と弥平次は微笑する。沙羅の父の心事はさておき、いちばんわからなかったのは沙羅のこころだ。彼女は十ちかく年上の、身分のひくい弥平次をあきらかに恋しているのであった。
丹波から、彼女の伯父のいるこの越前一乗谷へおちのびてくるまでの苦難の旅、また伯父とはいえ、生まれてはじめて逢《あ》う人の多いこの国のこの家に住む心ぼそさから、ただ弥平次だけにすがる心が恋と変ったのか、はじめ弥平次はそう思った。しかし沙羅はちがうといった。落去の際、弥平次を供につけてくれと父にねがったのはわたしです、と沙羅はいった。
沙羅は丹波の城にいたころから、弥平次が好きであったらしい。粗野で、あらあらしいのみの丹波侍のなかにあって、ひとり書を読んでいる弥平次の端正で荘重なものごしが好ましかったのだ、という意味のこともいった。そして、家が滅んで、天の下にただ二人だけとなったのをむしろ倖《しあわ》せとするように、彼女は若いゆたかな肉体を弥平次の胸に、ともすれば投げかけようとするのであった。
落去の際、十九であった沙羅ももはや二十三となり、彼女はたわわな花か、熟れきった果実のようであった。――それを土岐弥平次は、さりげなくおしのける。端正に、荘重に。
そして、微笑とともにまたつぶやく。
「御家老さまが、おれを沙羅どのの騎士として託されたのなら、おれはこれ以上はない忠義者だろう」
北国の春は、くるのにおそく、すぎるのにはやい。――一乗山、文殊山はみるみる青葉に染まり、一乗谷は緑に黒ずむばかりの季節となった。そのなかに、城と町は絵のように美しく浮かび出してみえる。
狭い谷間の城下町だが、なんといっても足利《あしかが》以来百有余年、いまの義景で六世となり、そのあいだ管領|斯波《しば》家の守護代までつとめた名門朝倉家であり、百年以上もさかえた町である。城をめぐる町並は、ちょっと小京都を思わせた。
夕靄《ゆうもや》と青葉に、青ずんで薄れかかった離れの一室に、それも気づかぬ風で土岐弥平次は端然と坐って書見をしていた。すると、あわただしい跫音《あしおと》が庭をはしってきた。
「弥平次、こわい。あの男がやってきた」
縁先で、被衣《かつぎ》を波うたせてあえいでいる沙羅であった。
「いまわたしが外からかえってきて門を入ろうとしたら、往来を馬でやってきたあの男が、じっとわたしを見つめ、いきなり馬からとびおりて追ってきたのです」
「あの男とは?」
「明智十兵衛」
そのとき、庭のむこうから、おちつきはらってひとりの男があるいてきた。
「大事ない。ただ丹波からきた軍学者土岐弥平次とやらに逢いたいだけじゃ」
そういう声がきこえたのは、とめようとするこの屋敷の下男小者をしりぞけるためであったろう。
きっとむきなおった土岐弥平次のまえに、夕靄のなかに浮かびあがったのは、髪の毛のうすい、つやのない細ながい顔をした四十男であった。いつか沙羅は「醜い化物」といったが、醜くはない。しかし、影うすい貧相と評してもいいだろう。その異様な影のうすさに、妖怪《ようかい》じみた感じはたしかにあった。
顔よりも、弥平次はまず相手の左腕に眼をそそいだ。
「うたがうか」
明智十兵衛はぼんやりと笑って、左の腕をくねくねさせた。弥平次は狼狽《ろうばい》した。
「いや」
逆に十兵衛は弥平次の顔を見まもった。
「なるほど、噂にきいたとおりの美男子。……おれは、そなたが羨しい」
こんどは弥平次が微笑した。べつに美男子とほめられたのがうれしいわけではなく、十兵衛の嘆声がいかにも心の底からこみあげてきたようなひびきをおびていたのが可笑《おか》しかったのだ。直感的に、この男は好人物だ、と思った。あの奇怪な忍法が、どうやら事実らしい、と知るにつけて、ぶきみの感はいよいよ増すはずなのに、かえってこの男は人間としては悪い男ではない、と直感させるものがあった。
「何か御用でござるか」
「あ」
と、明智十兵衛はうろたえた。そして、向うからお辞儀をした。
「おれは明智十兵衛」
「拙者は土岐弥平次と申す」
「土岐とはなつかしい。おれは明智と名乗っておるが、美濃明智庄に住んでおったので、もとはおなじ土岐だ。そなたの系図はどこで分れたのか」
「系図も何もない。土岐の庶流です」
土岐弥平次はめずらしく赤面した。恥じではなく、怒りからであった。しかし、明智十兵衛は弥平次よりも沙羅に視線をうつしていた。沙羅は二|間《けん》もはなれて恐怖とにくしみにひとみをひからせてこの闖入者《ちんにゆうしや》をにらんでいる。十兵衛のほそい眼に気弱げなひかりがゆれた。
「なるほど、これほどの美男がそばについているとあっては、おれがきらわれるのはむりもない。……」
「御用はなんでござる」
もういちど、きびしい声で弥平次はききただした。
「あ、それは……これ、沙羅どの、左様にこわがられるな、おれはそなたを追ってきたわけではない。きょうは、ふとそこの往来で、この土岐弥平次というひとのことを思い出して入ってくる気になったまでのこと。姓もおれと同根、それに、うわさによれば、なかなかの軍学者だという。――」
弥平次は苦笑した。
「軍学者と申すほどのものではござらぬ。ただ、好きで読んでおるだけの兵法書、私自身はたんなる匹夫《ひつぷ》下郎です」
「いやいや、匹夫下郎の身を以て、兵書が好きとはいよいよ以て珍重するに足る。実はおれも兵学にはいささか興味がある。同志同学の士として、是非いちど、そなたと語ってみたい、そう存じてやってきたわけだ。弥平次、上ってよいかな」
けろりとしていう十兵衛に、弥平次は思わず、「どうぞ」とこたえてしまった。もっとも、相手が五百貫という知行取とあれば、一介の居候にすぎぬ弥平次がことわるわけにもゆかない。
沙羅の黒い炎のような眼は、不甲斐《ふがい》ない弥平次にそそがれた。すぐに彼女はぷいと顔をそむけ、足ばやに庭を出ていった。明智十兵衛はおどろいたようにそのうしろ姿を見おくり、悲劇的な溜息《ためいき》をついたが、すぐにのこのこと座敷にあがりこんできた。
弥平次はこの人物を、しだいに喜劇的に感じ出していたが、やがて話をしてみて、彼の兵法軍学に関する素養のふかいのに驚倒した。
明智十兵衛が義景に、忍法よりも兵学を以て奉公したいと願ったというのは、たんなる法螺《ほら》でも逃口上でもなかったのである。
同様に、十兵衛の方でも、弥平次にひどく感心したらしかった。
そして、軍法についてのふたりの意見、傾向は、実によくうまがあった。
十兵衛は弥平次を十年来の友人のような眼で見まもるのであった。話は兵法|咄《ばなし》から、当代の人物論にうつった。
奥羽《おうう》の伊達《だて》、関東の北条《ほうじよう》、北陸の上杉《うえすぎ》、甲斐の武田《たけだ》、上方の三好《みよし》、松永《まつなが》、中国の毛利《もうり》、四国の長曾我部《ちようそかべ》、九州の島津《しまづ》。――それらのなかで、最大の未来性をはらんでいるのは、尾張の織田|弾正忠信長《だんじようのちゆうのぶなが》だ、と十兵衛はいった。
「同感です」
と、弥平次はいった。さきに桶狭間《おけはざま》で今川《いまがわ》を撃破し、ついで美濃の斎藤を降服させた信長のただものでないことは、彼も認識していた。――すると、十兵衛は、ふと皮肉に笑った。
「ここの殿の名は出ぬなあ」
そして、ひとごとのようにつぶやいたのである。
「この古雅な一乗谷が、嵐のような織田の鉄蹄《てつてい》にかけられるのも、まずひいき目にみて十年以内だな。何もかも、古すぎる。いまだに、公方《くぼう》、管領、守護などと、滅んだ夢を追いまわしておるとは――信長はせっせと鉄砲を仕込んでおるというのに」
「あなたほどの方が、なぜ織田に仕官なされなかったのです」
と、弥平次はきいた。
「弾正忠は家系家門を無視し、まったく人材本位に抜擢《ばつてき》する大将だということですが」
「鉄砲隊をつくるのに全精力をあげている人物のまえに、忍術をひっさげてあらわれて、どうするな。……肌があわぬよ」
十兵衛はげらげら笑った。ちょっと、この男の神経はわからない。
「実はな、おれには或る妙な望みがあったのだ」
彼はふいに声をひそめた。
「おれは、弾正忠どのの妹御、当年とって十八歳の市姫に惚《ほ》れたのよ」
「おお、去年の春、小谷の浅井備前どのへ輿入《こしい》られたという。――」
「そのおん方が寺|詣《もう》でされるお姿を、清洲の城下でふとかいまみてから、ぞっとおれは恋風にとり憑《つ》かれたのじゃ。この年になるまで忍法と兵学に心血をそそいで、人間の牝《めす》など、とんと興味のなかったこのおれがよ。天魔に魅入《みい》られたとはこのことか」
三
ふかいふかい声であった。ほそい眼がうっとりといっそうほそくなって、銀のようなひかりをはなっている。弥平次の方もぞっとした。
「さるによって、もはや織田家に仕えても、お市さまのお顔は見られぬ」
「ならば小谷へ仕官の口をさがされたらよかったでござりましょうに」
「それがさ、おれもいちどはそうかんがえたが、浅井へ奉公すればお市の方はあるじの奥方さま、それを毎日、家来となって拝顔するのもこりゃたまらぬ。ひとつの地獄じゃと思うてなあ」
十兵衛はがらにもなく顔をあからめて、がらにもなく繊細な人間心理の予測をのべるのであった。そのあかい顔が、すっと黒ずんだ。
「ひょっとしたら、おれは謀叛《むほん》を起すかもしれぬ。――備前どのが憎うなって」
「まさか」
「いや、ほんとうだ。だからおれはこの朝倉家へ奉公することにした。そなたも知るように、浅井家と朝倉家はふるい昔から友邦だ」
「しかし、いくら仲のよい国でも、ここにおっては浅井どのの奥方のお顔は見られますまい」
「ここで出世をすれば、浅井へ使者としてゆく日もあろうよ。はは、まるで夢のような話じゃが」
十兵衛は恥ずかしがる少年みたいにからだをくねらせた。
「実は、何が何だかおれにも分からぬのよ。ひとまず浅井に縁あるこの朝倉に足がかりつくって――というよりほかに、いまのところ余念はない。ところがだ、たんに渡り鳥のかりのねぐらのつもりであったこの朝倉家に、思いがけなく、お市の方そっくりの女人《によにん》を見つけ出したではないか」
さっきからしだいに感づきはじめていたことであったが、弥平次は頬《ほお》からかすかに血がひくのをおぼえた。
明智十兵衛のからだがふるえ出した。
「こんなことをいいにきたのではなかった。おれはそなたと兵法|咄《ばなし》をするためにきたのであった。しかし、やはり、いってしまった。弥平次、おれは、小谷へゆけばおちるであろうと思った地獄に、思いがけずこの一乗谷で落ちてしまった!」
両腕を縄のようによじって苦悶《くもん》のていにみえる明智十兵衛を、土岐弥平次はまるで珍奇な動物でもみるようにながめている。
「わかっておろう、弥平次、それがあの沙羅であった。城でおれがあの人蟹《ひとがに》の忍法――切られてもその腕が、蟹の鋏《はさみ》のごとくまた生えるという忍法をみせたとき、夢でもみているのではないかと眼をうたがったのは、おれをみていた人々ではなく、その人々のなかに沙羅を見つけ出したおれであった」
「あなたは殿と、もしもその忍法をまこと見せるならば褒美は望みのままという御約束をなされたそうでござりますが、殿はなんと申されました」
「殿は……あれは朝倉のものではない、家老黒坂備中の寄人《よりゆうど》、せっかくだが、余のままにならぬ。女が望みなら、ほかの女をえらべと仰せられた。しかし、おれにとってほかの女は、石ころにひとしいのだ。また殿は、朝倉のものでない女ゆえ、余のままにはならぬが、そちがあの女と恋をするならば、それは自由だ、と仰せられた。すると、侍女たちがいっせいにどっと笑った」
弥平次のきれながの眼にも笑いがうかんだ。
「女どもが笑ったわけはよくわかる。風采《ふうさい》のあがらぬ、あたまのはげかかった四十男と恋という言葉のくみあわせが可笑《おか》しかったからだ。それ、そなたもそのように笑う」
「いや、これは」
「それは自信の笑いだ。おのれの美貌《びぼう》に自信のある男の笑いだ。女の心をしかとつかまえておる男の笑いだ、おれは、そなたが羨しい」
「何を仰せられます。ふらりとこの一乗谷にあらわれて、すぐに五百貫の知行を受けられた十兵衛さまが、寄人たる女人の、そのまた居候たる私を羨しいなどとは。……私など、生涯うだつのあがらぬ名なし草といえましょうか」
「恋し、恋される美しい女人ひとりをもてば、男はそれでよい!」
十兵衛はうめくがごとくいった。
「すくなくとも、それなくて何の栄達ぞや」
「恋し、恋されると申されたようでござるが、沙羅さまは私の恋人ではありませぬ。あのお方は私のあるじです」
「何を、おれにむかってそらぞらしい幕を張るか。あの女のそなたをみるときの眼をみるがよい。あれこそは、炎のような恋の眼だ」
「沙羅さまのお心はしらず、私は別に」
弥平次は、はっきりと笑顔になった。燈も入れぬ座敷に、墨のようにひろがり出した闇《やみ》を計算のうえであったが、あきらかにこの可笑《おか》しげな男をからかって、それを愉《たの》しむ表情であった。
明智十兵衛は、きょとんとしたようであった。
「弥平次、それはまことか」
「まことでござる。ふたりの仲はあくまでも主人と家来。いかに夫婦となりとうても、ここの伯父御さまが、左様なことをおゆるしになりましょうか」
「では」
と、十兵衛が息をひき、生唾《なまつば》をのむ音がきこえたが、すぐに両手であたまをかかえこんだ。
「だめだ! あれはそなたを恋しておる。そなたでなくてはだめだ。おれがそなたにならなければ。……」
ふいにその声がぷつんと闇に消え、しいんとした沈黙がきた。悶《もだ》えのあまり、この男は絶息したのではないかと思われるほどの静寂であった。弥平次はわれにもあらぬ恐怖に襲われた。
「明智さま、どうなされました、明智さま」
「弥平次、そなた、五百貫の知行取になる気はないか」
十兵衛はしゃがれた声でいった。弥平次は相手の言葉の意味を判じかねた。
「つまり、そなたは、おれという人間になる気はないかというのだ」
「わかりませぬ」
「いや、わからぬのは当然だ。おれがそなたという人間になるといった方がわかり易い。おれがそなたになる。つまり、土岐弥平次がこの世にふたりできることになる」
「わかりませぬ」
「おれの首を斬るのだ。そうすると、つぎに生えてくる首は、おまえそっくりの首だというのだ」
弥平次よりも十兵衛の方が、恐怖に凍りつくような声であった。
「指をきれば指が生える。腕をきれば腕が生える。しかし、首をきられても首が生えるか、おれはまだ験《ため》したことがない。おお、忍法人蟹、はたしておれの術が、その驚天動地の妙に達しておるかどうか?」
四
忍者明智十兵衛のいい出したことは、まさに驚天動地としかたとえようがない。それは狂人のうわごととしかきこえなかった。
彼自身、おのれのいい出した言葉が信じられないのか、ふるえ声で、自分にいいきかせるかのごとく陰々《いんいん》という。――
「大丈夫だ。手が生えて、首が生えぬという法はない、かならずおれは生きかえる。きっと首を生やしてみせる。……」
しばしの衝撃から弥平次はわれにかえった。かわりに強烈な好奇心にとらえられた。
「きった首がまた生える、よしそれが成ろうと、しかしそれはあなたの首ではありませぬか。私そっくりの首が生えてくるとは?」
「それは、首をきられるとき、未来|永劫《えいごう》、土岐弥平次になりたいと念力を凝集させて首をきられるのだ。左様さ、そのためには、あくまでそなたに代りたいと、おれを狂気のごとく鼓舞するものが必要だなあ」
「ところで、あなたさまの首はだれが斬るのでござる」
「そなたにたのみたいな」
「朝倉家の御家中の方を、浪人の私が斬っては、こんどは私の首があぶない」
「そのことは、殿におれから申しあげておく。そもそも、この世に土岐弥平次がふたり誕生するのだ。ふたりの土岐弥平次がならんでみせねば、殿も御信用なさるまい。しかし、それで五百貫の知行を頂戴《ちようだい》するのは土岐弥平次にあらずして、この明智十兵衛にまちがいないということを知っていただけるだろう」
しゃべっているうちに自信がついてきたのか、それともこの世のものならぬ夢想にとり憑かれたのか、恍惚《こうこつ》として十兵衛はいう。
「そして、美しい顔になった明智十兵衛は、朝倉家で栄達し、もうひとりの土岐弥平次は沙羅をつれてこの国を去る。おなじ顔をした人間がふたりおっては、諸人のみならず、かんじんの沙羅がこまるからの」
彼は笑い声すらたてていった。
「弥平次、わかったろう。朝倉家で栄達する明智十兵衛はそなたで、沙羅とともにこの国を去るのはおれだ」
「……沙羅さまが、それで満足なされましょうか」
嘲弄《ちようろう》の声ではない。魔法にかかったように相手の世界にひきずりこまれて、真剣にうち案ずる弥平次の声の余韻であった。
「そなたは沙羅に惚れてはおらぬといったではないか。おれは沙羅に惚れておる。おなじ顔をした男で、しかも惚れてくれる方をえらばぬ女があろうか。そなたの顔をもちさえしたら、おれも自信がある。きっと沙羅の心までさらってみせる!」
昂然《こうぜん》として十兵衛はいうのであった。
「弥平次、女をとるか、栄達をとるか?」
ながい沈黙ののち、闇のなかで土岐弥平次はしずかにこたえた。
「ものは験《ため》し――栄達をえらびましょうか」
三日のちの夜である。五月雨《さみだれ》がふっていた。
沙羅は伯父のきびしい叱責《しつせき》をうけて、離れにかえってきた。実はいつか城で、沙羅が「わたしには夫があります」と口走ったことが問題になって、それはあの明智十兵衛というきみのわるい忍法者からのがれるための口実であったと、そのときは伯父に弁解したのだが、すておけば世間の誤解をうけるからと、伯父の黒坂備中はまた縁談をもち出し、そしてとうとう沙羅は土岐弥平次を愛していることを告げたのであった。
伯父はむろん、そのことを感づいていた。だから先日も弥平次を呼んでひそかにきいたといった。
「すると弥平次は、なにしに以て主筋の娘御と祝言する気がありましょうや、といい、そなたがきれいな処女《おとめ》のままであることも金打《きんちよう》して誓言したわ」
はじめてきくことであった。そんなことを伯父に誓い、しかもじぶんには何もいわない弥平次を思うと、沙羅は怒りのためにからだがふるえた。
「伯父上が何とおっしゃろうと、わたしはどこへもお嫁にゆきませぬ。わたしは明日にもおいとまさせていただきます」
前後の分別もなく、雨にぬれるのも感じないで、沙羅は離れにかけもどってきた。
すると土岐弥平次は、短檠《たんけい》がひとつともっているのでむしろ暗いような座敷に、寂然《じやくねん》と坐って、何かをながめていた。彼の眼のまえの床の間に置いてあるものをみて、逆上していた沙羅もあっけにとられた。
それはたけ三尺以上もある大きな壺《つぼ》であった。黒ずんだ、無数のなめくじが這《は》いまわっているような、古怪な壺である。
「弥平次、それはなに」
「何だかわかりませぬ。……明智どのからあずかったもので」
「明智十兵衛から」
沙羅は怒りをとりもどした。そういえば、先夜弥平次があの男を追いのけるどころか、座敷にあげて、夜おそくまで親友のように話しこんでいたことも意外であったし、腹だたしいことであった。
「そなたが、なんの因縁あって、あの男からそんなあずかりものをしたのです」
「因縁? 実は沙羅さま、私は明智どのの御推挙で、ちかく朝倉家に五百貫で御奉公いたすことになりました」
壺にちかよろうとした沙羅は、思わずたちどまった。ふりかえろうとするからだを、ふいにうしろからむずと抱きしめられた。
「明智どのは、まもなくまた漂泊の旅に出立《しゆつたつ》なさる。そのあとがまに、軍学を以て、この弥平次が」
「それはほんとうか」
ふりむく頬に、弥平次のあつい息がかかった。
「それでは、そなたは五百貫取りのお侍」
「もはや備中さまも反対はなさるまい。伯父御のみならず私にとっても……ひくい身分が、あなたさまとのあいだをへだてる壁でござった。もはや、はれてあなたさまを私の女房にいただいても、自他ともにはばかるところはない」
沙羅はそれまでの怒りをわすれてしまった。自負心のつよい弥平次なら、そういうこともあろうと思った。ふれられた乳房のさきまで、よろこびの血が脈をうった。――明智の壺のことはむろんわすれていた。
「よかった、弥平次」
「沙羅さま、いちど」
あえぎながら、弥平次はいった。
「あなたのおこころはわかっていた。あなたがきらいではなかったのです。それどころか弥平次は、いちどこうしてあなたさまを抱きしめたいと、いくたび夢にみたことか」
足がふるえて、沙羅はずるずると坐ってしまった。それを抱きしめ、ゆさぶり、頬ずりして弥平次はいう。
「祝言まではまてぬ。今宵《こよい》弥平次の望みをかなえて下され」
沙羅の顔もからだも、心まで波のようにゆれていた。これほど昂奮《こうふん》した弥平次をみたことがなかった。弥平次は、情熱のない男ではなかったのだ。
「どうせ」
彼女は息づく肩から、きものがずりおちるのを感じた。
「そなたにささげるつもりのからだでした。どうなりと」
唇が重ねられるまえに、そういっただけで彼女の息はつまっていた。それにしても、なんという弥平次の情熱だろう。彼の手はかきむしるようにうごいて、沙羅の帯をとき、きものをおしひろげている。
熟れきった、恋する女のからだは一糸のこらずはぎとられた。唇を吸い、舌を吸い、乳房を吸いながら、待ちに待ちかねたこの一夜の幸福を惜しむのか、弥平次は、いつまでも彼女の声と息のむせびのみを愉しんでいる。……これがもし経験のある女であったら、耐えかねて怒り出すであろう。しかし処女《おとめ》の沙羅は脳髄まであつい白泥《はくでい》と化してにえたつようで、ただもだえにもだえた。
短檠《たんけい》のひかりのゆれる下で、嫋々《じようじよう》とうねり、はてはひきつるようなうごきをみせはじめた雪白の姿態に、さすがに弥平次もたまりかねたか、
「今……いま」
と、さけんだ。その刹那《せつな》、弥平次は女のからだをのこして、すうと立ったのである。
本能的に沙羅は両腕をさしのばした。二歩、三歩、女の指さきから弥平次はあゆみ去る。霞《かすみ》のかかったような視覚に、ふときらめくひかりをおぼえて、彼女は眼をあけ、弥平次が片手に白刃をひっさげているのをみた。
「ねたましや」
しゃがれたつぶやきがきこえた。沙羅は、弥平次の向うに――あの古怪な壺の口から、ひとつの首がにょっきりと生えているのにはじめて気がつき、ひいっとのどのおくでさけんだ。髪の毛のうすい、つやのない、ほそながい明智十兵衛の顔は、恍惚たる眼から銀光をはなって、彼女の裸身を凝視しているのであった。
「地獄におちようと、弥平次になり代りたい。永劫《えいごう》。……」
みなまできかず、弥平次の一刀はその首を薙《な》いだ。肉の音より、かっと頸椎《けいつい》を断つ音がひびいて、おどろくような血潮の量が天井へ奔騰した。赤い雨のようにふりそそぐたたみの上に、すでに明智十兵衛の首はころがっていた。
その首は、血の斑点《はんてん》にそまりつつにんまりと笑って、なお沙羅をほそい銀の眼で見つめているのであった。
五
凝然と死固したように立ちすくんでいた沙羅が、ぐらりとたおれかかった。土岐弥平次は刀をすて、身をひるがえしてこれを抱きとめた。
声が、物理的に沙羅の耳に鳴った。
「おどろかれるな。明智どのにたのまれたことです。……きられた腕がまた生えたあの忍法を思い出しなされ。……十兵衛どのはきっと生きかえる。きられた首はまた生えるという。……しかも、こんど生えてくる首は、この弥平次とおなじ顔だという。……そのためには、あくまで弥平次になり代りたいという念力が要る。……その念力をおこすために、恋する沙羅さまとたわむれておる弥平次をみせてくれと……みな十兵衛どのが望んだことです。……」
うすれかかった意識のそこで、沙羅はめざめた。弥平次の最後の言葉が、彼女を鞭《むち》うったのだ。
「しかも、これは殿様も御存じのことという。……一ト月のち、あの壺からもうひとりの土岐弥平次があらわれる。……両人ならんで殿のおんまえにまかり出る。……顔もおなじ、声もおなじ、軍学の知識もまたおなじ。……そして十兵衛どのは、殿にこの弥平次を推挙してこの国を去られる。……あの方はこの弥平次の顔が是非欲しいと仰せなさる。五百貫の知行は、顔をもらった返礼でござるそうな」
弥平次は、偽った。十兵衛がこの国を去るについて、ひとりの同伴者を要求したということをだまっていた。
しかし、沙羅の耳を刺し、心をかんだのは、弥平次の先刻の言葉であった。ふるえながらいった。
「それでは、いまの……あれは、あの男にみせるつもりの見世物であったのかえ」
「いや」
弥平次は狼狽《ろうばい》した。
「あれは弥平次、真実の心です。沙羅さま、おききなされ、系図もない素浪人の私が一国のあるじに見参《げんざん》する機会はめったにない。その機会をあたえてくれ、あとがまをゆずってくれる明智どのの願いごとは、これはきいてやらねばならなんだ。まして、あれをみせねば、十兵衛どのの忍法が成らぬという。――哀れな弥平次の立場をくんで下され。弥平次出世のために、女房として力ぞえしたと思うて下され」
女房として――荒天の海をながすあぶらのような言葉であった。彼女はぐったりとなった。
「なぜ、十兵衛どのが、そうまでしてあなたを推挙し、じぶんは知行をすててゆくのです」
「それがいま申したとおり、この弥平次の顔をもらった礼、一乗谷を出てゆくのは、左様、弥平次の女房となったあなたさまを見るのが辛《つら》いからだそうで……沙羅さま、この忍法者の恐ろしき試みのそもそものもとは、あなたさまにあるのでござりますぞ」
そういうと、もういちど弥平次は沙羅の口を覆った。男の唇には血の匂いがした。
彼女がわれにかえったのは、血なまぐさい恍惚の一瞬のあとだ。彼女は全裸のまま立って抱かれている自分と、妖光《ようこう》またたく短檠の下にころがっている明智十兵衛の首に気がついた。それから、ひっそりとしずまりかえっているあの恐ろしい壺。……
「弥平次、あのひとはほんとうに生きかえるであろうか、ましてそなたの首が生えるなどとは。……」
弥平次は、首と壺をみた。昂奮のさめた顔は、その死んだ首におとらぬ土気《つちけ》色を呈している。
「正直に申せば、実は半信半疑」
ぶるぶると身ぶるいすると、沙羅をおいてつかつかと床の間の方へあるいていった。
「が、ここまで乗り出した上は」
壺の蓋《ふた》をひろって壺の中をみずに、その口を封じた。それから、床の間に置いてあったもうひとつの巻物らしいものをとりあげて、短檠の燈にかざした。
「これが土岐正流の系図か」
眼はたたみにおちている刀よりもするどいひかりをはなっていた。
――座敷をよごした血をふきとる。庭の一隅を掘って明智十兵衛の首をふかく埋める。雨夜の幾刻《いくとき》かが、この惨劇のあと始末についやされた。まるで夢遊病者のようにきものをまとい、この作業に協力していた沙羅は、ふと思い出して、伯父と争って、明日にもこの家を出ると口走ったことを告げた。
「家出は一ト月あとにのばす、といいなされ」
と弥平次は歯牙《しが》にもかけない風でいった。沙羅が眼でなじると、あわてて彼は訂正した。
「ああいや、一ト月たったら、五百貫の知行取のところへ嫁にゆくといいなされ、わけあっていまはその名はいえぬが、それはちこうとな」
六
――壺の蓋をひらいてはならぬ、わが屍《しかばね》に光をあててはならぬ、忍者明智十兵衛はそういって、みずから首をきられた。
しかし、土岐弥平次と沙羅は、その壺の蓋をひらいてみずにはおれなかった。ただし、深夜の闇の中である。ふつうならみえぬ闇黒《あんこく》に、必死のふたりの眼は、壺のなかの変化を朦朧《もうろう》とみた。
七日めの夜である。本来なら、真っ赤な切断面が、もはやぬるぬると腐れ崩れているはずなのに、その頸《くび》の切口に肉がまるく、薄絹のような光沢で盛りあがっているのをみて、ふたりは息をのんだ。たしかに何事かが起りつつある。……
十五日めの夜である。蓋をとって、思わず弥平次はあっとうめいた。明智十兵衛の胴のうえには、大きな肉団子が発生し、その表面にヘンな数条のくびれが走りはじめていたのである。十兵衛の忍法人蟹は荒唐無稽《こうとうむけい》の話ではなく、いまや十兵衛自身すら「いのちがけ」の秘法の真髄を具現しつつある。……
二十三日めの夜である。蓋をのけたとたんに、ふたりはとびずさり、立ちすくんだ。肉団子はまだ髪も眉《まゆ》もなく、ぶよぶよとした輪廓《りんかく》であったが、たしかに人間の顔をととのえはじめていた。しかもふたりは、とじた眼――とがった鼻――くいしばった唇――そこに、まごうかたなき土岐弥平次の顔をはっきりとみとめたのである。
「殺して……あの男を殺して」
うなされたように沙羅はさけんだ。
「あの男は……まだ死びとです」
かすれた声で弥平次はうめいた。
「それに、あの男をどうして殺す? 首をきっても、また首の生える男を」
闇の中に、凝然としてふたりは顔を見あわせた。
三十日めの夜であった。
土岐弥平次は片手に縄をさげて、恐ろしい壺のそばにあゆみ寄った。その髪がさか立っているのまでが、赤いひかりにふるえてみえる。禁をやぶって火を点じた短檠をもった沙羅の腕が、風にふかれるかのようにおののいているのであった。
彼は、蓋をひらいた。燈がゆらいだ。
壺のなかには、土岐弥平次の顔があった。黒ぐろとした髪の毛が生えているが、眼をとじて、真一文字に唇をむすんで、それはなお死せるがごとく凝固していたが、まさに弥平次そのものであった。
「沙羅どの、気をしかと」
じぶんもよろめきながら弥平次はさけんで、足をふみなおして、ふたたび壺のそばに寄った。わななく手に、壺の中の弥平次の髪をひっつかんでひきずりあげる。首はにゅっと壺の上に出た。壺の外の弥平次は、義眼のごとく眼を見はってのぞきこみ、壺の中の弥平次の頸のまわりに、赤い絹糸のような輪がうかんでいるのをみた。
このとき、歯をくいしばりつつ沙羅が短檠をちかづけたのに、燈の色がぼやっと昏《くら》くなった。壺から一筋の妖気《ようき》がたちのぼったようである。そして壺の中の弥平次のまぶたが、ピクピクとうごきはじめた。……
わけのわからぬうめきをのどのおくからもらして、壺の外の弥平次は、壺の中の弥平次の頸に、赤い細い傷痕《きずあと》にかさねて縄をかけていた。床にたらした一方の端を足でふんまえ、もう一方の端を手にまきつけたとき、壺の中の弥平次のまぶたのほそいきれめから、にぶく銀光がひかりはじめた。
「生きてくる。……生きかえってくる」
うなされたように沙羅はつぶやいた。
「……おれは生きかえったらしいな。……」
吐息に似た声がながれた。
「……精妙なり、甲賀忍法|人蟹《ひとがに》。……」
きゅっと鎌《かま》みたいに唇が笑いかけた壺の中の弥平次のまえに、壺の外の弥平次は顔をさしよせた。歯をかちかちと鳴らしながらいう。――
「みごとだ、十兵衛どの。しかし、あまりにもみごとすぎた」
「……みごとすぎた?……」
「この土岐弥平次とそっくりおなじ土岐弥平次が、この世にいると思うと、私はがまんがならないのだ。やはり私はこの世にひとりでいなければならぬ」
「……弥平次、約束をやぶるのか?……」
壺の中の弥平次はいまやかっと眼をむいて、壺の外の弥平次をにらみつけた。その首が、にゅーっとのびあがろうとして、のどにからんだ縄にひきすえられ、しかもまだその壺を感覚しないようであった。
「……おれはこの国を去るのだ。沙羅さえもらえば、おれはふたたびそなたのまえにあらわれはせぬ。……」
沙羅はぎょっとしたように、ふたりの弥平次を見た。「沙羅さえもらえば?」唇はそううごいたが、声は出なかった。壺の外の弥平次は、ちらとそれに眼をはしらせていう。――
「沙羅は、あなたといっしょにゆくことはいやだという」
「……いや? そんなことはない。……おれは土岐弥平次だ。……沙羅、おれはこの弥平次に栄達の座をゆずったかわりに、そなたをもらう約束をしたのだ。……みろ、おれのどこが弥平次とちがう?……おなじ弥平次だ。おれといっしょに旅に出るな?……」
「殺して。……この男を殺して!」
身もだえしてさけぶ沙羅を、壺の外の土岐弥平次はぐいと片手で抱きよせた。歯ぎしりしながらいう。――
「きいたとおりだ。明智十兵衛。女のねがいどおり、殺してやろう」
そして、沙羅の唇に唇をかさねた。かっと眼をむいたままこれを見つめている壺の中の弥平次の顔が、このときむらさき色に変った。これみよがしに女の口を吸ってみせながら、壺の外の弥平次が、ぎゅーっと片手にからませた縄をひきしぼったのである。――縄は壺の中の弥平次のくびに、一、二寸もくびれこんだ。
「刀できってもまた生える化物め、しめ殺せば、もはや生きかえるまい」
女の口から口をはなし、肩で息をつきながら、壺の外の弥平次はいった。――壺の中の弥平次の顔は黒紫色になった。
もはや息の通ずる気管はないと思われるのに、このとき壺の中の弥平次は陰々とつぶやいたのである。
「……おれは死なぬ。明智十兵衛は死なぬ。……十兵衛は生きて、沙羅を追う。……お市の方さまを追う。……」
そして彼は、がくりと首をおとした。
この奇怪な忍者がよみがえったのも悪夢なら、彼がふたたび死んだのも悪夢のようであった。沙羅は、いまじぶんをめぐる出来事が、すべて悪夢のような気がした。
「ほんとうに死んだのだろうか?」
「こやつは、生きて、あなたを追うといったが。……」
不透明な声で、土岐弥平次はいった。
「こやつは、ほんとうにあなたを追うかもしれぬ」
「こわい、弥平次、わたしはこわい」
「そうはさせぬ。なぜなら、追おうにも、あなたはここで死ぬからだ」
硬直した沙羅のほそいくびに何かからんだ。いままで弥平次が足でふんまえていた縄であった。沙羅は、弥平次もまた悪夢の中の人間のような気がした。彼女の手から短檠が炎をひいておち、周囲は闇黒となった。
「何をするの、弥平次。……」
闇の中で、弥平次の遠い声がきこえた。
「私は最初から迷っていた。明智十兵衛の推挙した土岐弥平次として仕官すべきか、土岐弥平次の顔に変身した明智十兵衛として仕官すべきか、私は迷っていた。しかし、昨夜やっと決心したのだ。明智十兵衛そのひととしてこの世の波へ乗り出してゆくことを。――その方が好都合だ。その方がたかく売れる。その方がすっきりする。いま明智十兵衛を殺したのは、この世にふたりの土岐弥平次が存在するとこまるからではなく、ふたりの明智十兵衛が存在するとこまるからだ。――私には大望があった。そもそも、あなたの恋を受け入れることすら逡巡《しゆんじゆん》していたのも、たかが丹波に滅亡した小大名の家老の娘を女房として、生涯それにしばられ、一生それをひきずってゆくことをばかげているとかんがえたからだ。ましてや、私がまことは土岐弥平次であることを知っているとあっては、安心して私の女房にしてはおかれぬ。――私は土岐弥平次とそれにからまるものをすべて絶つ。あなたは、あなたをあれほど恋慕した男に、あの世でしかと抱かれるがよかろう。いいや、顔かたちだけはまぎれもない土岐弥平次に」
縄がしまり、沙羅の苦悶《くもん》する顔はひきよせられた。唇が冷たいものと合った。それが髪をつかんでのけぞらされた死びとの口だと気がついた瞬間に、沙羅は息絶えた。
夜をうずめるのは、ただ雨の音ばかりであった。恐るべき野心児土岐弥平次、いや、明智十兵衛|光秀《みつひで》は、死の縄をひきしぼったまま、これまた死びとのごとく闇のなかに立っていた。
一乗谷の城の大手門をたたいた土岐弥平次の顔をした男は、「自分は明智十兵衛である。殿にはすべて御存じのことだ」といった。はじめ彼を狂人だと思った番士も、この言葉にともかく朝倉義景に報告した。おちつきはらってまかり出た男をみて、義景もまたとみにはこれが明智十兵衛だとは信じかねた。しかしその男は、明智十兵衛自身でなくては知らないさまざまなことを、微に入り細《さい》をうがって知っていた。――そもそも、どちらが十兵衛かわからぬほどに義景の胆をぬかせるのが死んだ男の目的であったから、そこは周到にうちあわせてあったのだ。ながい雨が終って、夏らしい日がかっと照りつけた三日めの朝、一乗谷の入口にあたる阿波賀《あわか》の里の森の中に、ふたりの男女が縊死《いし》しているのを村人が発見した。その女が、以前から家出|云々《うんぬん》と口ばしっていた家老黒坂備中守の寄人《よりゆうど》沙羅であり、その男が家来の土岐弥平次であることがわかったとき、義景もついに眼前の土岐弥平次が、忍法|人蟹《ひとがに》によって再生した明智十兵衛であることをみとめざるを得なかった。
「さてもふびんや。……備中どのは、きまま娘の愚かな心中と仰せられたとのことでござるが、女は知らず、土岐弥平次がくびれ死んだのは、私があの男そっくりの顔をもったことによるような気がしてなりませぬ。罪ぶかい忍法人蟹は、もはやみずから封ずることにいたそう」
憮然《ぶぜん》として、明智十兵衛はつぶやいた。
彼が天稟《てんぴん》の将器たることは、まもなく諸人のまえに証明された。朝倉を長年なやましていた真宗一揆《しんしゆういつき》を潰滅《かいめつ》させて、朝倉家の勢力を加賀半州にひろげたのは、まさに明智十兵衛だったからである。彼の知行は七百貫となった。
しかるに、それから三年後、彼は朝倉家をすてて、織田家にはしった。美濃の土岐氏という系図と、朝倉の軍師としての実績を買われて、高禄《こうろく》を以て信長に迎えられたのである。さらに六年後の天正元年八月、織田の部将としてまっさきに一乗谷へ攻め入り、朝倉家を滅亡させたのは、実にこの明智光秀であった。
七
天正十年六月一日、丹波|亀山《かめやま》の居城から一万三千の兵をひきいて出た惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》光秀の顔は、星月夜にも鬼気をおびた相にみえた。
いや、彼の相貌《そうぼう》が陰鬱《いんうつ》を加えたのは、五月十七日、主君の信長から中国出動を命ぜられて、その準備のために京から亀山へかえることを命じられたとき以来であった。
重臣のめんめんは、光秀の顔色をあやしんだ。そして主人の気が鬱屈しているのは、曾《かつ》ては信長から、織田諸将中の第一とまで厚遇された主人が、いかなる風向きか、ここ数年急速に寵《ちよう》をうしなって、ときに衆人環視のなかで「気どり男よ」「腹に一物ある男よ」「猫の皮をかぶった奴め」と罵《ののし》られたりすることもあるこのごろの憂いか、さらに、曾ては下位にあった羽柴筑前《はしばちくぜん》の指揮する中国陣へ狩り出される憤りかと想像し、そのためかえって主人の沈鬱をなぐさめかねたのである。
一万三千の軍兵は黙々として、長蛇のごとく老《おい》ノ坂へすすんでゆく。馬上の光秀は、しかしその鉄蹄《てつてい》銀甲のひびきよりも、耳に鳴る奇怪な声をきいた。
「……おれは死なぬ。……明智十兵衛は死なぬ。……十兵衛は生きて、沙羅を追う。……お市の方さまを追う!」
恐ろしい声であった。その声を光秀は、二十年ちかくも忘れていた。それが突然耳によみがえったのは、こんど京から亀山にかえるとき、ふと或ることをきいて以来のことである。
江州《ごうしゆう》小谷の浅井長政が滅んでから十年、ことしまだ三十四歳の女ざかりを、ひっそりと清洲にかくしていた未亡人お市の方を、ちかく所望によって柴田勝家《しばたかついえ》に縁づかせるという話なのだ。
織田家に仕えてから光秀も、絶世の美女といわれるお市の方さまを、いくどかみる機会があった。それが若くして出世のためにこの世から消し去った沙羅という娘に似ているのに衝撃をおぼえたが、彼はつよい気力で動揺をねじ伏せた。すべては二十年のむかしに埋めてきた過去だ。いまは、自分は織田でも一、二を争う将星である。些細《ささい》にして無用な悩みやおびえに心をとらわれているときでないし、立場でもない。そして彼は、沙羅はもとより、お市のことも忘れた。
ただ、ふりすてようと思っても、ふりすてることのできないひとつの妖《あや》しい現象がある。ここ数年、戦塵《せんじん》のうちにとみに老いを加えるにつれて、彼の容貌に起ってきた変化だ。顔がながくなり、皮膚のつやがなくなり、そして信長から「きんかあたま」と嘲弄《ちようろう》されるほど髪の毛がうすくなり――それは、二十年のむかし彼が殺害した忍者明智十兵衛であった!
しかし、光秀はその恐怖もふりすてた。これは偶然の一致だ、たんにおれが年をとったための変貌だ、そう思った。わけもわからず、信長の寵をうしないはじめたのが、その変貌と時をおなじゅうしているらしいことに気がついて、ぎょっとしたこともあったが、これも偶然だとばかり迷蒙《めいもう》をふりはらった。
しかるに、なんたること、いまにいたって、耳に、忘れていた声が、忘れていた人を呼ぶとは!――「おれは死なぬ。……明智十兵衛は死なぬ。……十兵衛は生きて、お市の方さまを追う!」
突如として光秀は、おのれの胸をお市の方の姿が占めていることに気がついた。じぶんがあの哀艶《あいえん》な未亡人を死ぬほど恋していることを知った。「……十兵衛は生きて、お市の方さまを追う!」
天の川の下を、剣甲をきらめかして粛々と軍馬は行進をつづけている。いつしか光秀は、口に出して、ぶつぶつとつぶやいていた。
「お市の方さまはひとにやらぬ。おれはお市の方さまをわたさぬ。屍山血河《しさんけつか》をえがき出そうと、あの女性《によしよう》をこの腕に奪う!」
馬上にうなだれて、闇を見つめる彼の眼が、しだいに銀光をはなってきた。彼は肩で息をしていた。まるで彼の内部から、まったく別の人間が、皮膚を破ってはじけ出したようであった。
「明智十兵衛は、お市さまを……」
「殿、何と仰せられましたか」
そばに老臣の斎藤|内蔵介《くらのすけ》が馬を寄せてきた。不安げに兜《かぶと》の下をのぞきこんだが、あたりを見まわし、すぐに笑った。
「老ノ坂でござる。右すれば備中――右へゆけと申されたのでござりますな。もとよりそれは下知《げち》してござりまする」
明智光秀は銀色の眼を、左のゆくてはるかに模糊《もこ》として横たわるうす白い帯になげた。それは京をへだてる桂川《かつらがわ》であった。
彼は憑かれたような声でいった。
「左へ――京の本能寺《ほんのうじ》へ」
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忍者石川五右衛門
一
「淀《よど》の川瀬の水ぐるま、
たれを待つやら、くるくると」
小鼓《こつづみ》、太鼓とともに、さっきの美少年群にかわって、こんどは娘たちが踊り出した。少年たちの、紅梅の小袖《こそで》に金襴《きんらん》羽織をつけ、いらだか[#「いらだか」に傍点]の数珠《じゆず》をくびにかけ、腰に白鮫鞘《しらさめざや》の太刀《たち》を佩《は》いて、いっせいに金扇《きんせん》をひらめかす扇《おうぎ》の舞いも見物の女たちの胸にとどろをうたせたが、こんどの、紅摺《くれないず》りのくびり[#「くびり」に傍点]帽子をかぶり、秋草を摺った小袖に箔絵《はくえ》の太帯をむすんでかけ、芙蓉《ふよう》の造花をさしかざしていりみだれる娘たちの姿は、いならぶ侍たちのきもをとろかした。
「わが恋は、
月にむらくも、
花に風とよ」
笛に鉦《かね》の音《ね》が加わった。囃子方《はやしかた》はみな男たちである。
数年前、出雲《いずも》の巫女《みこ》あがりの阿国《おくに》という女が京の四条河原にあらわれて、念仏踊りという新しい群舞でひとびとを魅了した。踊り子は女ばかりで、調子が軽快で、きわめて官能的であったので、民衆はむろん公卿《くげ》大名まで夢中になったが、その結果、当然これの亜流が数多くあらわれて、なかでも佐度島正吾《さどがしましようご》とか村山左近《むらやまさこん》とか幾島丹後《いくしまたんご》とか、男名前の遊女の歌舞団の名がきこえ、それぞれのひいきをもったが、これもそのひとつ、甲賀織部《こうがおりべ》の一座であった。しかも、ほかの少なからず品のわるい一座とちがい、この甲賀織部の踊りのどこか気品のあるところが、とくに身分のたかい公卿や大名たちにひいきの多いゆえんであった。それは娘ばかりでなく、少年たちも加えたこと、また囃子方の男たちが、能楽《のうがく》の本格的な素養があって、ひょっとすると武士あがりではないかと思われる雰囲気をもっていることにもよったであろう。
「光明|遍照《へんじよう》、十方世界、
念仏|衆生《しゆじよう》、摂取不捨《せつしゆふしや》、
なむあみだぶつ、なむあみだ」
いま、その一座の座長にあたる甲賀織部が舞っていた。名は男名前だが、はたちにも足りぬとみえる美少女であった。黒髪は兵庫髷《ひようごまげ》にゆいあげているが、純白の小袖、袴《はかま》すがたに雲竜をえがいた羽織をひるがえし、太刀をひらめかして獅子《しし》とたわむれている。獅子は白髪朱面の獅子がしらをかむっているので顔はわからないが、六尺におよぶ屈強の男だ。舞い狂う獅子のまえにとび、うしろにとぶ織部は、軽がると音もなくその獅子の頭上をこえた。
珠《たま》のような頬《ほお》、黒い花の咲いているような瞳《ひとみ》、真紅《しんく》の唇、まごうかたなき美しい娘でありながら、その全身からたちのぼる生気、人間業ともみえぬみごとな乱舞は、まるで女豹《めひよう》に似た野性があって、女たちはもとより武士たちも盃《さかずき》をとりおとして茫乎《ぼうこ》として見とれるばかりだ。
はや、ながい晩春の暮れが庭にちかづいているのにも気づかぬ見物の男女は、笛太鼓の交響のなかに恍惚《こうこつ》として、正面にいたこの城のあるじ「淀《よど》の方《かた》」さまが、いつしか姿をけしていることすら知らなかった。ましてや、横笛を吹いていたこの一座の若衆のひとりがきえていることに眼をとめる余裕はない。
唄《うた》にもある水ぐるまの音もものうい、文禄《ぶんろく》三年晩春の淀城である。
二
淀のお方がつれづれのままに、この甲賀織部一座を城によんで見物したのは、去年の秋ごろから、これで六、七度になるだろう。最初は、やはり太閤《たいこう》の側妾《そばめ》のひとりである三条《さんじよう》の局《つぼね》から紹介されたのだが、それがたちまち夢中になってしまったのは、この一座のおもしろさもさることながら、囃子方のなかに、水もしたたるばかりの美青年を発見したからであった。
去年の夏、太閤のたったひとりの子「お拾《ひろい》」をうんで、絶世の美貌《びぼう》にくわえ、太閤がまったく惑溺《わくでき》している第一の寵姫《ちようき》だが、彼女はたしかに浮気ものであった。二十八という爛熟《らんじゆく》の年でもある。一方、太閤も名だたる女好きだが、なにしろもう五十八だ。大坂城、淀城、また京の諸所においてある「松《まつ》の丸《まる》どの」とか、「加賀《かが》の局《つぼね》」とか、「三の丸《まる》どの」とかいう側室のあいだをかけずりまわっているが、一方では壮大な伏見《ふしみ》城を築いてこの春|竣工《しゆんこう》したばかりであり、さらに朝鮮では泥沼のような戦争をやっている。いかに大英雄といえども、淀の方ばかりにかかっているわけにはゆかない。彼女が欲求不満の状態におかれたのは当然のことであった。しかも、その天性もあり、生まれもあって、彼女はほかの側室のように決しておとなしく隠忍してはいなかった。先年も淀の方は、出雲の阿国一座をよんで、阿国の情人|名古屋山三郎《なごやさんざぶろう》とおだやかならぬ風評をたてられたことがある。これは実はなんの根もないことであって、むしろ淀の方のほうでわざとそんな風評をながして太閤への警報を発したのだが、太閤はけろりとして、そんなうわさにとりあう様子はなかった。うぬぼれのほうも英雄的なのである。
それで淀の方も、とうとう、こんどは浮気の実行にうつった。太閤への抵抗もあるが、たしかにその若者の美しさにたましいがしびれたせいもある。はっきりと、その若者の方でも彼女に秋波をおくっていた。彼女がその横笛を吹く若者を寝所にまねきいれたのは、このまえに一座をよんだときが最初だ。なんといっても皺《しわ》だらけの太閤とはちがう青春の香気が、彼女にもういちどという欲望をいだかせた。
信貴城之介《しきじようのすけ》という若者に、淀の方がふたたび豊艶《ほうえん》なからだをまかせたのは、実に、その乱舞がおこなわれている大広間と襖《ふすま》一枚をへだてたとなりの座敷であった。大胆でも突飛でもなく、彼女がそうしたのには次のようなやむことを得ない理由がある。
もとより、淀の方が浅井長政《あさいながまさ》の娘として江州《ごうしゆう》小谷の城に住んでいた幼少時代からの老侍女二、三人のみが知っていて、ひそかに膳立《ぜんだ》てをととのえてくれたことである。閉じきって、わざと灯ひとつおかない部屋の豪奢《ごうしや》な夜具のなかに、絶世の美姫《びき》と笛吹きの美青年はからみあった。
女のようにすらりとしてみえても、はだかになってみれば、青年らしくきりりとしまった筋肉であった。そのかたい弾力でさえ、太閤とは雲泥の差なのに、そのうえこの若者は、なんといっても遊芸の一座の男のゆえであろうか、女のあつかいかたが、とろけ心地になるほどうまい。薄明《うすあ》かりのなかに、淀の方の四肢をのこるところなく愛撫《あいぶ》しつくしながら、容易に手を下さず、淀の方があえぎ、のぼせて、はては半狂乱になって、
「城之介……城之介……」
と、うめいた口をおさえた。となりでは笛と鉦と鼓との囃子が最高潮であった。
「お方さま、こんどこそは、例のものを――」
城之介は淀の方の耳たぶにあつい息を吐いてささやいた。
「そなたが、強いてのぞむゆえ――」
と、淀の方は、この場合になお頬にくれないをちらしてうなずいた。
それから淀の方は、何が起ったのかわからなかった。いや、城之介のために、骨も肉もしびれわたる悦楽の頂点にはこばれたことはおぼえている。城之介自身も、このまえにはもらさなかった快美のうめきをあげたのもおぼえている。そして、ひくい獣《けだもの》めいたふたりの声と、浮きたつような念仏踊りの囃子をぬって、閨《ねや》のおくから――いや、彼女の肉体のおくから、この世のものならぬ微妙な音が、珠をころばすような甘美なひびきをたててながれ出したのもおぼえている。そのあとがわからないのだ。
どれほどのときがたったか。――淀の方は眼をあけた。
「もし、お茶々《ちやちや》さま」
「お方さま!」
その呼び声がいちどうっとりと耳にしみこんでいって、つぎに思いがけぬ不快感がからだじゅうににじみ出した。まるで何かわるい酒でものんだあくる朝のようなきもちであった。横をみると、あの美しい若者信貴城之介はいない。
「あれは……どうしやったえ?」
と、淀の方はかすれた声でいった。老女たちは不安そうにいった。
「あれは、甲賀織部の一座とともに、もはや一刻もまえにお城を下ってございます。お方さまにはようお眠りあそばしておりますゆえ――と、申してゆきましたが」
「さりながら、いつまでもここに御寝《ぎよし》なされておりますわけにはまいらず――」
淀の方は、このとき何となくいままでとちがう感覚を肉体のおくにかんじて、閨のなかでおそるおそる手を下腹部にのばし、ふいに愕然《がくぜん》として起きあがった。
「あ、……」
幼女時代から育ててくれた老女たちのまえとはいいながら、二十八になる一城のあるじともいうべき美姫が、あまりにしどけなく、はしたない狼狽《ろうばい》ぶりであった。しかし、彼女は、恥ずかしさも醜くさも一瞬にけしとぶほどの驚愕にうたれたのだ。
「ばば……あの楊貴妃《ようきひ》の鈴がない!」
悲痛な声であった。老女たちの顔も土気《つちけ》いろにかわった。
「あのお鈴が失《う》せておりますと?……どこぞそこらに――」
「いいえ、そんなにむやみにころがりおちるようなものではありません。指さしいれてとらねば……」
その言葉の意味する凄《すさま》じい淫猥《いんわい》さを、淀の方も老女たちも意識しなかった。それどころではない。老女のひとりがふるえながらいった。
「殿下は、七日のちにお成りあそばしまする」
七日のちに、太閤がやってくる。そのとき、楊貴妃の鈴が紛失しているのに気がついたら?――いや、気がつかないはずはない。太閤はその鈴の音をたのしみにやってくるのだ。
「城之介め……あ、あやつが――」
と、淀の方は眼を宙にこらし、歯をくいしばってうめいた。あの最中《さなか》に気がとおくなったこと、いまのからだにのこるうすきみわるいけだるさ――あの笛吹きの若者は何かけしからぬ薬でもかがせたものに相違ない。
「いかにあの鈴を欲しゅう思ったとはいえ――いかに芸人風情とはいえ――大胆な!」
ふいに狂気のようにさけび出した。
「あの男を斬《き》ってたも! あの男をとらえてたも! 楊貴妃の鈴をとりかえさねば、わたしのみならずそなたらも、首をならべて殿下の御成敗《ごせいばい》を受けねばなるまいぞ!」
「何という大《だい》それた――あの若者が――」
と、老女たちはなお茫然《ぼうぜん》としていたが、すぐにわれにかえった。女主人のいうとおりだ。曾《かつ》ての名古屋某との笑話に似たいたずら細工ではない。あの鈴をとられたということは、淀の方の密通をさらけ出すことであり、同時にこの女主人のだだッ子に似た不貞を、たとえ心すすまずとはいえ、じぶんたちが手助けした以上は、じぶんたちが太閤からうけるとがめは、淀の方をこえる酷烈なものであるとは容易に想像されることであった。
それにつけても、いかにふだんから貴顕堂上に出入りしている舞楽の一座とはいえ、かんがえてみればその素性をよくも知らなかったことが、いまにしてくやまれる。これはあの若者の出来ごころか。一座のものの知らぬことなのか。そうでなくて、もしも別の――ほかの御側妾《おそばめ》からまわされた手による行為であったとすると――老女たちの背に、戦慄《せんりつ》がはしった。
うろたえて立ちあがりながら、はたととまどったのは、この女主人の罪ふかい大秘密をめったな者に知られてはならぬということだ。しかも、ことは一刻の遅延もゆるさぬ。
「だれか、腕におぼえのある者どもを――」
「丸目七兵衛《まるめしちべえ》……小松蔵人《こまつくらんど》……宇多伴蔵《うたばんぞう》……松田十郎左《まつだじゆうろうさ》……寺西孫助《てらにしまごすけ》、などか」
「よし、その五人にいそぎ追わせましょう」
「そして、ぶじにとりかえして参ったら、ふびんながらみなに一服盛って、口なしにしてつかわすよりほかはござるまい」
老女たちは口から泡を吐いてささやきかわし、つんのめるように四方にかけ出していった。あとに淀の方はこめかみを両掌《りようて》でおさえて、致命的な不倫の匂《にお》いののこる閨につっ伏した。
彼女が、乱舞狂楽の大広間と襖一枚をへだてた座敷を密通の場所にえらんだのは、実に「楊貴妃の鈴」をつかい、しかもその音《ね》を踊りの交響のなかに消し去る目的以外の何ものでもなかったのである。
三
茫々《ぼうぼう》たる水の上に、春のおぼろ月がかかっていた。みわたすかぎり、幻のようにゆれているのは蓮の葉であろう。水を吹く風には、泥の匂いがした。
このあたり――古来から桂川《かつらがわ》、宇治川《うじがわ》が合して生み出した巨椋池《おぐらのいけ》という一大湖沼地帯を、太閤秀吉が埋めたて、東西南北に分断して、大和《やまと》街道をつくり、淀堤《よどづつみ》をきずいたのは近年のことだから、美しい風物ながら、どこかまだ荒涼たる気配もある。桂川を西南にながすために、巨椋池のあいだにきずいた大坂街道にも、なまぬるい泥の匂いが吹いていた。
「おおおいっ」
呼び声が風にのってきたのは、左の桂川、巨椋池からきりはなした右の横大路池にはさまれたその大坂街道を、うしろから追ってくる蹄《ひづめ》の音をきいて、甲賀織部一座がふとたちどまって、しばらくたってからであった。総勢四十数人――その大半は、例の美少年や美少女ばかりだ。
「しまった」
ふりかえって、狼狽した態《てい》にみえたのは、信貴城之介だ。
「淀の奴らだな。ねむり薬のさめかたが早すぎた。もう、京から迎えにくるはずだが、まにあわぬ、にげよう」
とみなをふりかえったが、一座がなおふしんげに耳をすませてたたずんだままなのに、いらだって、二、三歩じぶんだけさきににげかけたが、すぐにかけもどってきた。
「これ、織部、わしといっしょににげてくれ。あの追手につかまると命はないぞ」
「なぜでございますか。あなたは淀のお城で、何をなされたのでございますか」
と、一座の座がしら、甲賀織部はおちつきはらっていった。座がしらとも見えぬていねいな言葉づかいであった。
「主命により、淀どののいのちより大事なものを盗んできたのだ」
「主命? とは、北条《ほうじよう》家の?」
そう織部がきいたのは、この信貴城之介が以前からの仲間ではなく、半年ばかりまえに横笛一管をもって一座に加えてくれるようにたのみにきた男で、そのときたしか秀吉《ひでよし》にほろぼされた北条家の浪人だといったからであった。
「北条ではない。ええい、いま左様なことを話しておるいとまはない。とにかく、織部、わしといっしょに京へにげるのだ」
と、織部の手をつかんだが、そのとき蹄の音はもうすぐうしろに迫り、おぼろ月に五つの影が砂塵《さじん》のなかにうかんできていた。
「おおおい、待て――そこの一同」
あわてて左右にひらく一座のなかにつっこんできた馬はみな泡をかんでいる。
「やはり、甲賀一座だな」
「信貴城之介という笛吹きはおるか」
これも息せききっていう五人の武士のまえに、信貴城之介は月に蒼白《あおじろ》く観念した顔をあげてすすみ出た。
「城之介はわたしでござります」
「うぬか。――これ、うぬが先刻お城より盗みとったものをかえせ」
「わたしが、何を」
「白《しら》ばくれるな。楊貴妃の鈴と申す天下の重宝だ。よくも、よくも――これ、織部、うぬはこの若僧が淀のお城から大それた盗みをはたらいてきたことを承知の上か」
「いいえ、これは、このごろ一座に入ってきたばかりの男でございますゆえ」
と、織部はおどおどして首をふる。
「ええい、それにしても、うぬらにもあとでかならずおとがめがあろうぞ。やい、城之介、うぬはこのごろ京洛《きようらく》をなやます大盗|石川五《いしかわご》右衛門《えもん》の一味でもあるか。さもなくて出来心とあれば、いのちだけはたすけてとらす。早う、その鈴を出せい!」
と、わめいた宇多伴蔵の馬が急に竿立《さおだ》ちになって、伴蔵がどっと地上にころがりおちた。城之介がいきなり馬の両脚を一刀でなぎはらったのである。伴蔵が地上におちると同時にこれに斬りつけ、それとみていっせいに馬からとびおりた四人のうち小松蔵人をそのまま地に這《は》わせたのは、顔に似合わぬ信貴城之介の手練であった。
「こ、この曲者《くせもの》――」
「もはや、容赦はせぬぞ!」
のこる三人の武士は、憤怒《ふんぬ》に満面を黒ずませ、三方から城之介をとりかこんだ。さすがに淀城からとくにえらび出された剣士だけはある。油断さえしなければ、いまの不覚は二度とみせなかった。凄《すさま》じい矢声とともに、刀身と刀身がかみあった次の刹那《せつな》、城之介のみだれた鬢《びん》からひとすじの血がしたたり、三人と一人、討手は前後挟撃の位置にかわっている。
「助勢――だれか、助勢をたのむ」
池を背にして左右に血ばしった眼をくれながら、信貴城之介はうめいた。甲賀一座はひっそりとかたまって、この死闘をみているばかりだ。城之介がそうさけんでも、仲間のよしみに助けに出る様子はなく、彼が盗みをはたらいたからときいても、淀の城士に加勢する気配もない。芸人一座だから、気死しているのかもしれない。
「死ね」
南側のひとりが絶叫すると同時に、北側のふたりが猛然として刃《やいば》をあげかけて――ふいに、はっとしてうしろをふりかえった。
京の方角から、また鉄蹄《てつてい》の音をとどろかせて疾駆してくるものがあるのだ。しかもそれは五騎や七騎ではない。海鳴りのような地ひびきであった。
「迎えがきた! 迎えがきた!」
信貴城之介は狂喜してさけんだ。うろたえた南側の丸目七兵衛が、思わず刃を動揺させたのに、びゅっとその頬へ刀身をおくってくる。小豆《あずき》をたたくような音とともに七兵衛がのけぞるのをみて、北側のふたりが、もはや騎馬のもみあう影のみえる方角へはしりかけたのは、よほど動顛《どうてん》したものであろう。
「そやつをのがすな、斬りすてろ」
と、城之介がさけんだ。
躍りかかってきた先頭の馬のまえに、血けむりと砂けむりがあがり、淀の城士寺西孫助と松田十郎左の姿は消え、馬のむれは相ついでとまった。三十騎はたしかにいたろう。そのなかから二、三人ばらばらととびおりて、
「信貴どの、例のものは?」
「たしかに頂戴《ちようだい》した」
と、城之介はにっと白い歯をみせて、甲賀一座の方をするどい眼でふりかえった。
「おい、この半年ばかり、よう世話をしてくれた。もはや察するように、わしは浪人者ではない。関白秀次《かんぱくひでつぐ》公の家臣だ。そなたらも世上の風聞で知っておろう、わが殿秀次さまと太閤殿下のおんなかにこのごろおだやかならぬ雲のかかっておることを。しかと殿下のおんあとつぎとして、すでに関白をすらゆずりうけられた秀次さまを、なにゆえいまさら殿下が遠ざけられはじめたか。申すまでもない。それはお拾君《ひろいぎみ》を生んだ淀の方のせいだ。なにゆえ殿下があれほど淀の方におぼれあそばすか。それは淀の方の体内にある楊貴妃の鈴の魔力だと、ようやく知った。それをうばうことによって、淀の方の寵《ちよう》はおちる。しかも淀の方は、いかにして鈴をうばわれたか天下に公けにするわけにはゆかぬ。ただ殿下のみはそのゆえんを知って、あの女狐《めぎつね》を成敗あそばさずにはいられまい。そしてお拾君の出生にさえ、疑惑の目をむけられることは必定《ひつじよう》であろう。要するに、これで天下はふたたび関白さまのものにもどる。――その大事の奥底に鳴る楊貴妃の鈴、それを盗みとりたいばかりに、権門に出入りするそなたら甲賀一座の隠れ簑《みの》をしばし借りたのだ。いや、あの女狐に鈴をつかわせるのに、一座の囃子が入用であったことまで、役にたった、礼をいうぞ」
半顔をそめる血をぬぐって、またにっとしたのがおぼろ月にぞっとするほど凄艶《せいえん》であった。
「礼は申すが、ここまできかせた以上、きのどくだがおぬしら一同、もはや生きて京へかえすわけにはゆかぬ。死んでもらわねばならぬ。迎えの三十騎は、実はそなたらを冥土《めいど》におくるためのものであったよ。場所も場所、蓮の生いしげる池のそばだ。屍骸《しがい》はことごとく蓮の底に沈めてやろう。ただ――織部ひとりをのぞいては」
このあいだ騎馬隊のなかばは、茫然たる甲賀一座のまえを南へとおりぬけて、はやくもその方角をふさいでいた。城之介は自信にみちた美しい笑顔で、
「織部、きやれ、そなただけは殺しとうない。いいや、わしといっしょにくらすのだ。わしほどのものをぞっこん惚《ほ》れさせたそなたは倖《しあわ》せ者だ。楊貴妃の鈴をうばった手柄にこれを頂戴し、そなたの体内にいれて末ながく可愛がってやろう」
「そうは参らぬ」
織部ではなく、そのうしろから錆《さび》をふくんだ声がして、ひとりの男がすすみ出た。騎馬隊がどよめいた。その男はいつのまにか獅子がしらをかぶっていた。
城之介はちょっと口をあけた。しかし、すぐそれが、淀の城で織部と乱舞した男――一座の名こそ花形甲賀織部をつかってはいるが、その実この一座のまことの座がしらともいうべき甲賀|丹波《たんば》という男であることを見ぬいた。
「丹波か」
「いや」
「なんだと?」
「おれの名は、石川五右衛門」
四
信貴城之介は、あっとさけんで棒立ちになっていた。石川五右衛門とは、この数年間、京洛、大坂、奈良、堺《さかい》などにかけて、かならず大名屋敷、神社仏閣、富商のみを襲い、しかも名のみきこえて、だれもその姿をみたもののない稀代《きだい》の群盗の首領だったからだ。
甲賀丹波がふしぎな男だということは感じていた。若々しく陽気な甲賀一座のなかにあって、実質上の統率者とはいえ、まるで黒い巌《いわ》みたいに重厚で寡黙な男である。髪もながく月代《さかやき》をのばし、あごは青あおとして、年は三十七、八であろうか、どうしてこの男がこんな面白おかしい一座をくむ気を起こしたのか、そのなりゆきがふしぎであった。しかし城之介は、この丹波が座がしらの織部という娘をみるときだけ慈父のような眼になり、またそのものごしがこういう賤《いや》しいなりわいにかかわらず、まるで姫君に対する家臣のようなところすらあるのをみて、おそらくこの織部はむかしひとかどの武士の娘で、丹波はその家来筋のものではあるまいかとみていた。興亡浮沈ただならぬ戦国の世に、あてどもなく漂泊し、底しれず落魄《らくはく》していった名家の子女は数しれぬだけに、このなりわいの着想と丹波の態度に、むしろ感じ入っていたのである。もっとも城之介はくわしくそうと探ったわけではない。探ることは、探られることだ。彼はただ横笛の名手としてころがりこんだだけで、じぶんの素性を知られたくはなかったし、それに目的さえ達すれば、いかに感服しようと、この一座のものどもすべて討ち果たすつもりで、それまでの縁だとかんがえていた。丹波もほとんど城之介と口をきいたことはなかったが、ふだん口数のすくない男だったからそれをあやしみもせず、むしろありがたいことだと思っていたのだ。
その甲賀丹波が、凶悪無惨の大盗の首領であったとは!
いままでこの一座と居《きよ》をともにしていながら、城之介は夢にも気づかなかった。かんがえてみれば、居をともにしていたからこそ、かえって眼をくらまされていたといえる。丹波は夜な夜なこの一座のうちの数人、十数人をたくみにぬきとって、群盗の一団を編成していたものに相違ない。それにしても、じぶんほどのものに、まったくそれを感知させなかった神出鬼没ぶりに舌をまくと同時に、じぶんだけには感知させなかったこの男の心事に想到して、城之介はぎょっとした。――この男は、最初からおれの素性、目的を読んでいたのではないか?
「そのとおりだ」
獅子がしらは、いままさに城之介の心を読んだようにいった。
「それはな、うぬに淀の方から楊貴妃の鈴を盗みとらせるためだ。いかな五右衛門も、太閤第一の寵姫《ちようき》の女陰から盗み出すのははばかられての」
声が、笑っている。
「ようはたらいてくれた。礼をいう」
「斬れ、斬れ!」
恐怖と怒りに信貴城之介は美しい顔をねじれさせて絶叫した。
水にはさまれたひとすじの大坂街道、その前後をふさいだ騎馬隊がいっせいに抜刀してうごきかけて、このとき先頭の馬がいなないて、大きく前脚をあげた。人のみならず、馬もその眼をうたがったに相違ない。――街道の上にひとかたまりになっていた四十人あまりの人影が、まるで月光にけぶる霧のようにながれた。東へ――水の上へ。
「あっ」
彼らは水の上をあるいてゆく。散ってゆく。その足が、横大路池に浮かぶ蓮のまるい葉を飛石みたいに軽がるとふんでゆくのが、うすぐらい月のひかりにみえたか、どうか。たとえみえたとしても、関白一派の侍たちの喪神《そうしん》ぶりはかわらなかったにちがいない。
甲賀丹波と甲賀織部だけが路上にのこっていた。ぽかんと口をあけた信貴城之介をはさんで。――織部がつぶやいた。
「忍法、浮寝鳥《うきねどり》。――」
むずと丹波が城之介の手をつかんでいった。
「楊貴妃の鈴をもらおうか」
城之介は憑《つ》かれたようにふらふらと、ふところからとり出したものをわたした。それをうけとって、丹波が、これまたすうと水の上にすべり出したのをみると、ふいに愕然《がくぜん》とわれにかえって、甲賀織部にむしゃぶりつき、ふりかえって、
「鉄砲、鉄砲はないか!」
といった。鉄砲までは用意してきていなかったが、騎馬隊もはじめて喪神からさめたようにどよめきかけた。
このとき甲賀丹波は、まるで水をのむ獅子のように獅子がしらをかたむけていたが、ふたたびあげた金色の歯のあいだに、蓮の葉を一枚くわえていた。それが口のなかに吸いこまれると、例の錆《さ》びた声が、
「もとより、楊貴妃の鈴がわれらの手に入ったと知られては、これからさきの用が果たせぬ。きのどくだが、おぬしら一同、もはや生きて京へかえすわけにはゆかぬ。死んでもらわねばならぬ」
気がつくと、その左右にいずれも獅子がしらをつけたむれが、獅子の一族のごとくその口に蓮の葉をくわえていた。
「場所も場所、蓮の生いしげる池のそばだ。屍骸はことごとく蓮の底へ沈めてやろう」
その声のきえ去らぬうち、口から蓮の葉が虚空《こくう》にとんだ。同時にほかの獅子の口の蓮もひらひらと怪鳥のつばさのごとく風にのって、もみあう馬の顔に、人の顔に、ひたとはりついた。凄じい悲鳴があがった。人も馬も、顔がもえたかと思われる灼熱《しやくねつ》のふたをされたのだ。甲賀丹波の陰々《いんいん》たる声がながれた。
「甲賀忍法、天華往生《てんげおうじよう》。――」
いななきと苦悶の絶叫のうちに、馬影は狂奔して、水しぶきをあげて池におちた。もがきぬくその人馬の頭上へ、白鷺《しらさぎ》のような影が水をすべってきて、閃々《せんせん》と刃をひらめかした。あの美少女のむれである。たちまち、月光にも一帯の水面が血と泥に黒くかわった。
名状しがたい声をあげて、この夢魔の世界からにげ出そうと身をひるがえす信貴城之介の袖《そで》を、甲賀織部がつかんだ。
「そなたはわたしを助けたがったが」
城之介の顔すれすれに織部の眼が黒い炎のようにひかり、笑う息が匂った。
「わたしはそなたをゆるさぬ。よう甲賀織部をだました気でおったな。笑止なたわけよ」
そして、或《あ》るときにはじぶんに恋しているのではないかとうぬぼれたこともある城之介の美しい顔を、この女豹《めひよう》のような娘は一太刀のもとに真一文字に斬りさげて、あともふりかえらず水の上へすべり出た。
一瞬に死のしずけさにもどった街道とそのほとりの池から、くらい月光の下を妖々《ようよう》と、水煙のごとく巨椋池《おぐらのいけ》の方へわたってゆく一座のなかで、ただ歓喜にみちた織部の声がいちどきこえた。
「五右衛門、とうとう楊貴妃の鈴を手に入れたな。おまえはそれをどう使う?」
その返事は、水の音のなかによくきこえなかった。
五
唐《とう》の白楽天《はくらくてん》は、月白き秋夜、江心をただよう琵琶《びわ》の弾声をきいた。孤舟に琵琶をいだく一女人の指が、その絃《いと》をかるくおさえ、ゆるやかにひねり、つまんではまたはねるにつれて、絃はすすり泣きはじめ、しだいに高潮していった。――
大絃《たいげん》ハ|※[#「口+曹」、unicode5608]々《そうそう》トシテ急雨ノ如《ごと》ク
小絃ハ切々トシテ私語《しご》ノ如シ
※[#「口+曹」、unicode5608]々ト切々ト 錯雑《さくざつ》シテ弾《ひ》キ
大珠 小珠 玉盤ニ落ツ
間関《かんかん》タル鶯語《おうご》 花底ニナメラカニ
幽咽《ゆうえつ》スル泉流《せんりゆう》氷下ニナヤメリ
氷泉ハ冷渋《れいじゆう》シテ絃ハ凝絶《ぎようぜつ》シ
凝絶シテ通ゼズ 声シバラク歇《や》ム
別ニ幽愁ト暗恨ノ生ズルアリ
コノトキ声ナキハ 声アルニマサル
銀瓶《ぎんぺい》タチマチ破レテ水漿《すいしよう》ホトバシリ
鉄騎突出シテ刀槍《とうそう》鳴ル
曲オワリ撥《ばち》ヲオサメテ心《むね》ニアタリテエガク
四絃ノ一声 裂帛《れつぱく》ノ如シ
この『琵琶行《びわこう》』が女人のからだで奏でられる。女陰のなかに繊細な絃が張られているかにきこえる「楊貴妃の鈴」――まさしく楊貴妃がこの鈴をつかったかどうかはわからないが、たしかに名はそれにふさわしかった。事実|支那《しな》からわたってきて、足利《あしかが》家に代々つたわったものというから、あの応仁《おうにん》の大乱をひきおこした妖姫日野富子《ようきひのとみこ》などはたしかにこれをつかったものに相違ない。そして戦乱のうちにこの鈴は転々とながれて、いつのころからか甲賀に住む一族甲賀|兵部《ひようぶ》の家につたえられた。しかし――
今を去る十二年前――天正九年九月、天下|布武《ふぶ》の大望にのり出した織田信長《おだのぶなが》の鉄蹄のもとに、甲賀、伊賀に住む数十の豪族は、必死の抵抗もむなしく徹底的な蹂躙《じゆうりん》をうけてほろび去った。そして、甲賀兵部の家とともに、「楊貴妃の鈴」もいずこかへ消えうせた。
それが、いま太閤第一の寵姫淀の方のもとにある。それを甲賀丹波と甲賀織部が知ったのは二、三年前のことである。丹波は甲賀兵部の遺臣であり、織部は兵部の娘であった。
いま京洛のうららかな昼に舞い、暗澹《あんたん》たる夜、群盗の女首領として刃をひっさげて大路をひた走りつつ、織部はときどき甲賀の山々をうっとりと恋しがることがあった。重畳《ちようじよう》たる山岳をながれる白い雲や、ひょうひょうと草に鳴る風の声を。
その自然のなかで、丹波と彼をめぐる遺臣やその子たちの恐ろしい鍛練がおこなわれた。猿《ましら》のように樹々《きぎ》をわたる。滝壺に身をおどらせる。野火や雪のなかをはだかで走る。――そして、森のおくに、外部からは絶対にそれとみえぬように築かれた砦のなかでは、水をふくんだ唐紙《とうし》の上をあるいたり、あるくにしたがって畳をはねあげていったりする術が教えられた。いずれも甲賀、伊賀にふるくからつたえられる忍法の基礎訓練である。
それから、もっとすすんで、彼らの練磨は呪術魔法ともいうべき超人的な技の域に入った。まさに血汗をしぼる苦行の連続である。死んだものは、からすの餌になった。
それはそのときにはじまった修行ではない。甲賀、伊賀の忍法者の家では、その難易方法の如何《いかん》をとわず、以前からおこなわれてきたことである。ただそれが凄惨ともいえるまでに酷烈の度をましたというだけであった。そして、家がほろんだとき七歳であった織部は、それを凄惨とも酷烈とも思わなかった。幼い肉体はその修行を天然のものとして受け入れたし、幼い魂は甲賀丹波の力づよい愛護のまなざしにくるまれていたからだ。彼女は丹波を家来とはかんがえなかった。きびしい父とも思い、やさしい兄とも思っていた。
数年前、彼らは山を出た。そして念仏踊りの一座としてしばらく諸国を放浪したのち、京洛に入り、昼は歓楽の一座、夜は大盗の一団となった。なんのために盗みをはたらくのか。うばいとった財宝をひそかにおさめていたのは最初のうちだけで、まもなくそれはこれまたひそかに窮民にばらまいてゆくようになった。丹波の方針である。だから織部は、はじめは家再興のための盗みかと思い、あとでは復讐《ふくしゆう》のための賊かと思った。天下をすべる太閤は、甲賀をほろぼした織田の一部将であったからだ。彼女にとってはどうでもよかった。織部はじぶんの乱舞に酔い、そしてひとの血に酔った。どちらかといえば、あとのものの方に魅惑をかんじていた。
六
――いま、甲賀織部と丹波は、巨椋池《おぐらのいけ》のほとりにたたずんで、深夜の伏見《ふしみ》城をあおいでいる。もとより彼は、獅子がしらをすてている。配下はすでに京のねぐらに去って、あたりに人影はなかった。黄金を鑠《と》かしてぬったといわれる大天守閣の甍《いらか》が、おぼろ月の下に幻のように微光を発してうかびあがっていた。
「丹波、楊貴妃の鈴をどう使う?」
織部はもういちどきいた。丹波は依然としてだまって、暈《かさ》をかぶった城を見あげたままだ。ややあってこたえた。
「あれはもともと甲賀家のもの、それをとりかえしたまででござる」
「それでは、わたしのものか」
「左様でござります」
「それではわたしが使ってもよいのか」
丹波は織部をふりむいて苦笑の顔がふっと苦渋の顔にかわった。その表情をどうとったか、織部は丹波の肩に白い手をなげかけ、全身をすりよせてあつい息でいった。
「おまえがわたしに使っておくれ」
「…………」
「わたしをおまえのお嫁にしておくれ」
「…………」
「踊りもたのしい。人を殺すのもたのしい。けれど、おまえの花嫁にしてくれなければ織部はたのしゅうない。この鈴は、いつものように貧しい人にあたえてもしかたがあるまい。いったいなんのために、おまえはこの鈴を欲しがったのじゃ?」
大盗石川五右衛門の一党は、好んで、公卿、大名、豪商の奥方、娘、愛妾《あいしよう》などを犯した。織部はしばしばそれを目撃していた。しかし、首領の丹波がみずからそのふるまいに出たのをいちども見たことはない。それのみか、丹波はいっさい女を断つという悲願をたてているかのようであった。とはいえ、織部はしばしば男と女の秘戯を見た。それはむしろ凄愴《せいそう》の感をあたえる場合が多かったが、それゆえにその印象は織部の野性をゆさぶり、赤い血をどよめかした。犯された女をあとで刺し殺すのはたいていの場合は彼女だった。ただ織部がいままで処女でいられたのは、むろん彼女をめぐる男が家来ばかりだったせいもあるが、それより織部がいつしか丹波を愛するようになっていたからである。七歳の童女であった織部は、十九の娘に成長していた。
そして、なんのはずみか――石川五右衛門のつぎに狙っているものが「楊貴妃の鈴」であることを知り、それがどんな鈴であるか、配下のひとりにむりにせがんできき出してからは、彼女は勝手に、丹波が女人《によにん》を断つのはその鈴を手に入れるまで、その鈴を手に入れたらじぶんに使ってくれるのだと妄想しはじめたのであった。
「丹波……丹波……」
若々しい、生気にみちた息吹《いぶき》から、からくも顔をそらした丹波の眼には苦悶の翳《かげ》があった。織部のひとみは女豹《めひよう》のように青くひかった。
「丹波、おまえはわたしがきらいか」
「なにしにもって!」
思わず丹波はさけんだ。が、すぐにもちまえの青銅のような表情にもどって、
「織部さま、あなたは丹波の望みをきいて下さりましょうか」
と、ひくい声でいった。
「きく。なんでもきく。おまえのためとあれば、織部、五体を裂かれてもいとわぬぞ」
うなずいた織部のまなざしは可憐《かれん》なばかりに純粋な恋の炎にもえあがった。丹波の頬にまたかなしみに似た奇妙な翳がただよった。
「あなたさまは、拙者がなにゆえ盗賊などをはじめたかご存じでござるか」
「甲賀家再興の軍用金をつくるつもりであろう」
「はじめはそのつもりでおりました。それどころか、十幾年かむかし、甲賀の山上では天下をとる夢さえ見ました。いまの太閤といえども、もとは野武士の小童《こわつぱ》だったと申すではございませぬか。それが――」
「それが?」
「そのために、富家豪商に押し入るにつれ、彼らの豪奢《ごうしや》とちまたの庶民とのあまりなちがいが眼に灼《や》きつくようになりました。町人百姓どもは太閤の朝鮮役、大名らの城づくりに虫のごとく這《は》いまわって苦しんでおります。それゆえ、一方では太閤大名らをおびやかし、一方では百姓町人を救い――」
「それはわかっておる。わたしにはおまえのすることはなんでもよいわ」
「そしてとうとう太閤を斃《たお》さねば、民のこの塗炭《とたん》の苦しみはきえることはないと思うようになりました」
「太閤を殺すことなど、おまえには赤子《あかご》のくびをしめるようなものであろう。そしておまえが天下をとればよい」
「ところが、太閤を殺したとて、民の苦しみはきえぬ。太閤が死ねば、世はいよいよ乱麻《らんま》の巷《ちまた》となり申す。天下をすべるものは、やはり太閤一人あるのみ。――そのことが丹波、ようよう相わかってござる」
「…………」
「太閤の人間をかえねばならぬ。太閤の心をうごかさねばならぬ。この朝鮮役、この大土木をやめさせねばならぬ。もしこれをなせば、甲賀丹波の男一代、生まれて甲斐《かい》あるものとすら考えるようになりました」
「丹波、どうして太閤をうごかす?」
「――女でござる。やさしい女の魂でうごかすのでござる。すでに淀の方は太閤をうごかしておるではございませぬか。京に聚楽第《じゆらくだい》あり、大坂に大坂城あるに、なおこの地上の竜宮《りゆうぐう》ともいうべき伏見城を築いたは、大坂の城に住む北政所《きたのまんどころ》にくらべて淀の城の小さいに不服の淀どのが、太閤にせがんでつくらせたものと申すではありませぬか」
「それでは淀の方にたのむのか」
「いや、あの女はいよいよ民を苦しめる天性の妖姫《ようき》でござる。それよりも――」
甲賀丹波は声をのんで、織部の顔を見まもった。さっき笛を吹いてみずからおどった愚か者を唐竹割りにしたともみえぬ、天使のような顔である。じぶんの声を音楽でもきくようにうっとりときいて、その真意にはまだ気がつかぬあどけない表情であった。
「三日のち、京の三条の局《つぼね》のところへ一座が招かれており申す。たしか、その日太閤もそこへ参るはず」
三条の局は、やはり太閤の側妾《そばめ》のひとりだ。しかし丹波の言葉のすじが急にかわったので、織部はあっけにとられたように眼を大きく見ひらいたが、すぐに、
「淀の城の件は大事ないか」
「大坂街道には討手と笛吹きの屍《かばね》が相討ちのごとくころがっているだけでござる。こちらにかけあってきたとて、とんと存ぜぬとそらとぼけても、盗まれたものがもの、淀の方はあたふたするよりほかはござるまい。それで、三条の局のところで、織部さま、どうぞ当日肌の透《す》いてみえるほどな薄衣《うすぎぬ》をまとって舞って下されい」
「薄衣を――それで?」
「それで、あなたさまが、太閤の眼にとまりまする」
織部は面上を鞭《むち》でうたれたようにとびさがった。凝然と丹波の顔を見つめていたが、やがていった。
「わたしに太閤の側妾になれというのか!」
「左様、天下のために」
甲賀丹波は、しぼり出すような声でいった。
「あなたさまには太閤をうごかしていただきたいのでござる。いいや、太閤をうごかす女人はあなたさまよりほかにないと、丹波は見込んでござる」
これほどいのち[#「いのち」に傍点]にあふれた美少女がどこにあろう、と丹波は思った。それはこの一、二年、織部が花粉の匂いのむれたつような娘になってから、彼の魂をひたしてきた思いである。そして丹波は、この織部なら、かならずあの鈴が鳴るだろうとも信仰にちかい見込みをつけていた。「楊貴妃の鈴」はどの女にも鳴るわけではない。いかなる美女であっても、微妙芳烈きわまる肉体の所有者でなければ、あの悩ましい琵琶の音《ね》を奏でないのであった。太閤が淀の方だけにつかって、そして淀の方の寵《ちよう》がもっともふかいのはそのゆえであると知っていた。
「そして、太閤にその鈴をつかって下されい」
織部がだまっているので、丹波の方がたまりかねてまたいった。
「その鈴をどこから手に入れたかと太閤にきかれたら、関白の家臣|信貴《しき》某より踊りの纏頭《はな》にもらったと申されい。その一言で、妖姫淀の方と殺生《せつしよう》関白は両|成敗《せいばい》になるは必定、それよりもあなたさまが、鈴の力によって理も非もなく太閤第一の寵姫《ちようき》となられるのは必定でござります」
織部はかけよってきて、いきなり丹波の頬をうった。丹波は銅像みたいに動かないでいった。
「丹波の望みはこれでござる」
織部はよろめき、沈黙し、ふるえながらいった。
「それで、おまえは男として生まれてきた甲斐《かい》あることになるのか」
「さ、されば――」
織部は顔をあげた。その眼と頬と唇は涙にぬれ、城よりも妖《あや》しいひかりをはなち、丹波ほどの男に恐怖をさえ抱かせた。しばらく天地は暗い水の音と蘆《あし》を吹く風の声ばかりであった。やがて織部は眼を天守閣へあげてつぶやいた。
「わたしが太閤の心を盗む。――そしてほんとうに天下を盗むものは、丹波、おまえになるのじゃな」
七
雪洞《ぼんぼり》のひかりにまるく浮かびあがった格天井《ごうてんじよう》に織部のひとみはむけられていたが、その五彩をちりばめた華麗さをまったくみてはいなかった。金襴《きんらん》のへり[#「へり」に傍点]をつけた猩々緋《しようじようひ》のたたみ、骨は黄金で、紙のかわりに紅紗《こうしや》を張った明り障子、朱金で彫刻した柱、金地に狩野《かのう》派の濃絵《だみえ》をえがかせた襖《ふすま》――すべて彼女の眼には入っていなかった。
夜の伏見城、太閤の寝所である。異様なばかりの静寂《せいじやく》にみちた大奥に、どこからか自鳴鐘《とけい》の美しい音がながれてきた。
織部は豪奢な閨《ねや》に雪のような肉体を横たえて待っていた。すべて、丹波がたくらんだとおりだ。三条の局の屋敷で、太閤は彼女の踊りをみて、きれいな菓子をみた子供みたいな――むしろ狂的な眼になった。そして、その日に彼女を伏見城につれてきた。そして彼女はいま閨のなかで待っている。太閤を――いや、丹波を。
太閤が寝所にやってくるのは四つ半(十一時)のはずであった。それを織部は丹波に五つ半(九時)とおしえた。丹波も彼女に同伴して、この城に入ることをゆるされたのである。ただし、それはむろん本丸ではない、遠い侍屋敷の供侍《ともざむらい》部屋であった。そして彼は四つ(十時)にこの寝所にしのんでくるはずであった。それは丹波に最後にあったときにおしえた。声はなく、唇をかすかにうごかせただけだが、丹波がその唇を読みとったことはいうまでもない。
三条の局の屋敷にゆくまえに、織部が泣いてたのんだことがある。
「――丹波、きいてもやろう。そうきけばおまえのために織部はどうでもなろう。けれど、そのまえに、いちどだけおまえの手で鈴を鳴らしてくれぬか?」
「そ、そうはなりませぬ。あなたさまが、処女《おとめ》であってこそ、太閤の心をとらえることができるのでござります。そうでなくとも、太閤は鈴をくれた信貴某を一応うたがうに相違ないのでござります。それゆえ――」
「わたしが処女であるか、ないか、そんなことが太閤にわかるのか」
丹波はこたえなかった。ただ絶対に彼女は処女であって欲しいとくりかえすばかりであった。そこで織部は、せめて太閤がきたあとで、丹波にいちど抱きしめてくれとせがんだ。羞恥《しゆうち》をしらぬ忍者の娘――というより、なにか思いつめた、だだッ子のような眼であった。
「太閤はどうなさる」
と、丹波はきいた。
「ねむらせておく」
と、織部はこたえた。催眠術の文字どおり、ひとを眠らせるのは忍者にとって易々《いい》たることだ。丹波は苦笑して、うなずいた。それだけで丹波がかならずじぶんのところへきてくれると信じた。
織部は太閤に処女をあたえる気はなかった。じぶんをみて眼を赤くかがやかし、皺《しわ》だらけの唇を舌でなめた猿のような顔をみるにおよんで、いよいよ吐気《はきけ》がした。丹波にやる。丹波に女にしてもらう。そのあとは死んだつもりになって、丹波の願いのままになろう。彼女はからだをあつくして四つを待った。丹波を待った。
丹波はこなかった。五つ半になった。閨が氷のようになり、彼女のからだは恐怖と怒りにだんだん冷たくなっていった。やがて、四つ半になる。ほんとうに太閤がやってくる。――織部は絶望した。
四つ半がちかづいたとき、彼女はみずからの手で処女《おとめ》の膜をやぶった。するどいいたみに全身をのけぞらしながら、彼女は声もなく狂的に笑った。そして「楊貴妃の鈴」をおし入れ、息をとめた。敵にとらえられたとき、忍者がみずからのいのちを絶つための「自縛心《じばくしん》の術」であった。
喪神《そうしん》してゆきつつ、彼女の脳膜は、恋する丹波によって鳴りさやぐ「楊貴妃の鈴」の音をきいた。四つ半、彼女はうっとりと微笑したまま息絶えた。
四つ半、太閤はこなかった。それは疾風|怒濤《どとう》をくぐりぬけてきたこの英雄の天才的な危機感の知らせによるといえようが、もっと簡単にいえば、太閤は三条の局邸でみた向日葵《ひまわり》のように野性にみちたこの娘が、それゆえに眼を洗われるような思いがしたのに、城につれてきて以来、別人のごとく沈んでいるのに気がついたからである。たんなる肉欲の祭壇にささげられる処女の不安以上に、そこには異常に凄味《すごみ》をおびた陰気さがあった。はて、きゃつの素性は何者か? そのうたがいが、この一夜、彼の欲望の足をとどめさせた。彼は家臣たちに警戒を命じた。
深夜九つ(零時)、すでにまったく絶命した美少女を冷やかに照らす雪洞《ぼんぼり》の暈《かさ》のなかに――格天井に、黒い蜘蛛《くも》のような影が朦朧《もうろう》とあらわれた。
甲賀丹波ははっきりと織部の願いをきいたつもりはなかった。織部は処女のまま太閤の祭壇にささげねばならぬ。途方もない着想のようであるが、それが天下|蒼生《そうせい》の苦しみをすくうただ一つの路《みち》だ。この悲願をはたすのに涙をそそいではならぬ。ひとたび太閤の側妾《そばめ》におくりこんだ女を、そのあとなぐさめにゆくなどばかげている。
そう思っていた。
しかし、織部がいった五つ半がちかづくにしたがって、彼の心は動揺してきた。じぶんは途方もないかんがえちがいをしているのではなかろうか、それまでにいくどかかすめたこの懐疑が、いま刻々と黒いつばさをひろげてきたのだ。それからの三時間は、彼にとって、半生の忍法の苦錬よりももっと恐ろしいものであった。黒いつばさは荒れ狂う雲となり、そのなかにあのもえる黒い花のような瞳や、生れてはじめてすすり泣いた可憐な唇のまぼろしが明滅した。
丹波ははじめて織部を愛していることを知った。いつごろかまでは、主君の姫君としてそれをおさえていた。いつごろかからは、じぶんの大望のためにそれをおさえた。いまやその悲願の達せられるときだ。彼はあぶら汗をながし、歯をくいしばってそれに耐えた。しかし、すべてが終ったいま、彼は織部を主君としてでもなく、道具としてでもなく、女として愛していることを知ったのである。この知覚の痛みは、この剛毅《ごうき》な男の大きなからだをしらずしらずに浮かびあがらせた。
わびるためではない。なぐさめるためではない、ほとんど理性をうしなって、甲賀丹波はゆらりと蝙蝠《こうもり》のごとく宙に浮きあがっていた。音もなく、影もおとさず、彼は大奥の方角へただよっていった。惨たる心のどこかに、今夜の異様なしずけさを、本能的にあやしみつつも。――
九つである。そして彼は、閨のなかの白蝋《はくろう》のような織部のなきがらを見下ろしたのである。
まるで破幻《はげん》の術でもかけられたように、甲賀丹波は格天井《ごうてんじよう》からおちていた。物音をたてなかったのは無意識の忍者の技《わざ》だ。彼は織部を抱きあげて、そのからだがまったく冷えきっているのを知った。
大事が去った、とは思わなかった。太閤がそばにいないことをふしぎに思ういとまもなかった。ただ、
「ふびんや。……」
声もなくつぶやいた。男の涙が、死んだ女の頬におちた。彼女は太閤の獣欲にふみにじられて、たえかねたにちがいない。おのれの哀れさに生きる気力をうしなったに相違ない。
「ゆるして下され、おれが来てやらなんだことを。一刻まえに来れば、おれは生きているあなたをひっさらって、この太閤の城からにげていったものを。……」
それから、丹波はなにをしたか、氷の塑像《そぞう》のごとく抱きしめていた数分ののち、彼はひたと織部のからだの上に重なったのである。
彼女の体内に鈴があるかどうか、それは意識の外にあった。たとえあったとしても死んだ女の体内で鳴るはずはない。それは男の力のゆえではなく、男の力によって、うるおい、うねり、もえあがる女の肉のひだによって鳴るのであったが、それも意識の外にあった。
それが、鳴ったのだ。死んだ女の冷たいからだの奥で、「楊貴妃の鈴」が鳴りはじめたのだ。
大絃は|※[#「口+曹」、unicode5608]々《そうそう》として急雨のごとく、小絃は切々として私語のごとし。※[#「口+曹」、unicode5608]々と切々と錯雑して弾き、大珠、小珠、玉盤に落つ。――その微妙甘美なひびきは、はじめむせぶようにひくく。やがてうれしげにたかく鳴りもやまず、しかし甲賀丹波はこの鈴の魔力に憑《つ》かれたように恍惚《こうこつ》として、宿直《とのい》の武士たちがみだれ入ってきたときも、なおその姿勢でいた。
八
文禄三年春、石川五右衛門と名乗る巨盗は太閤第一の秘宝を盗んだ罪で、三条河原で釜《かま》ゆでにされた。彼が「自縛心の術」によってみずから命を絶たなかったのは、彼のみ知る死んだ女への贖罪《しよくざい》のこころからであった。「楊貴妃の鈴」を盗まれた淀の方は、盗んだものが変幻の大盗とあって、あいまいのうちにゆるされたが、太閤がそれ以後めっきりと老衰の足どりを早めて、死期へいそぎはじめたことはたしかである。
[#改ページ]
忍者向坂甚内
一
伊賀《いが》組の頭領|服部半蔵《はつとりはんぞう》が、江戸を荒らす群盗を詮議《せんぎ》せよと、とくに家康から命じられたのは、次のようなわけがある。
慶長《けいちよう》十八年の春、駿府《すんぷ》の大御所が出府したとき、家康は町奉行の嶋田弾正忠《しまだだんじようのちゆう》から妙な話をきいた。
一つは、盗賊の話である。江戸には盗賊が多かった。それは江戸が新開地として、武士や商人を集めるとともに、当然盗賊や売笑婦の集まるのをふせげなかったと同時に、まだ諸法度《しよはつと》がかたまらず、治安が確立していなかったためである。群小の盗賊のなかで、ここ十年あまり、とくに町奉行の手をやかせている一団があった。押込む先は大名町人をとわず、人数はいちどに少なくとも十人以上、同夜同時刻二か所を襲うこともあったのに、これが一団とみられるのは、押入る先に内応者があるのではないかと思われるほど、その手口が鮮やかで正確であったことと、もうひとつそれほど劫掠《ごうりやく》ぶりが痛烈で、抵抗するものは片っぱしから大根のように斬《き》ってすてる非情さをもつにもかかわらず、女を犯すことがほとんどなかったからであった。町奉行は、彼らを捕えることはおろか、その正体をつきとめることすらできなかった。
他の一つは、この数年、ときどき江戸の府中に見出されるふしぎな屍体《したい》の話である。埋立地の葦《あし》の中や、寺の境内の松林の中などに、時をおいて、しかし今にして思いあわせればもう十数人、おなじ特徴のある男の屍骸《しがい》が発見された。風態は牢人《ろうにん》風であったり、雲水《うんすい》であったり、虚無僧《こむそう》であったり、それが、縊死《いし》、割腹、それからとくに多かったのは糸のようにやせほそった餓死で、死にかたはさまざまであったが、彼らはことごとく盲目であった。それから、どれほど恐怖がひどかったか、彼らはすべて口をぎゅっとくいしばって、あとでこじあけようとしても不可能であった。
この二つの奇怪事につながりがあることが、ちかごろになってようやくわかった、と町奉行は家康に報告したのである。
「それは」
と、家康はきいた。嶋田弾正忠はこたえた。
「押込みの盗賊は、むろん眼ばかりのぞかせた頭巾《ずきん》をかぶっております。それがこの冬、松倉長門《まつくらながと》どのの屋敷に推参した一味のうちに、片眼を刀痕《かたなきず》でつぶされた曲者《くせもの》がひとりござりました。それをみていた女中のひとりが、先日、とある橋の下に変死人が見出されたさわぎの場に通りあわせ、のぞいてみたところ、その死びとがこの冬にみた盗賊であることに気がついたと申します」
「死んだ男も片眼であったか」
「いや、それはいま申した通り、両眼をとじたままでござりましたが、その一眼をふさぐ刀痕のかたちからまちがいないと申すのでござります」
「片眼の男を、両眼つぶしたのじゃな」
「左様にごさります。が、ほかの屍骸と同様、いかなる手段を以《もつ》て盲目としたものか、まったくわかりませぬ。切り傷も、刺し傷もない。――指でおしあけようとしても、ひらきませぬ。が、このことで、いままでの屍骸も、その風態から、あるいは盗賊の一味ではなかったかと思いあたった次第でござります」
「だれが、何のために」
「一切《いつさい》相わかりませぬ。のみならず、そう申したてた松倉どのの女中が、その夜のうちに盲となり、口もひらかなくなってしまったのでござります」
「どこで」
「松倉家の屋敷内で、しかも朋輩《ほうばい》も枕をならべておる寝部屋で」
「ふうむ」
「口がひらかぬゆえ、物いうこともならず、盲目ゆえ筆談もかないませぬ。それのみか、口がひらかぬということは物を食べることも飲むこともできぬということにて、その女中は数日のうちに相《あい》果てたそうにござりますが、朋輩どももわけがわからず、この怪事が手前どもの耳に入ったのは、ずっとあとになってからのことでござります」
家康もしばらく判じかねた風で、嶋田弾正忠の顔をみているばかりであったが、やがて、
「半蔵を呼べ」
と、侍臣に命じた。
伊賀|者《もの》の頭領服部半蔵が伺候《しこう》した。家康はいまの町奉行からの報告を話したのち、じいっと半蔵の眼をみていった。
「忍者だな」
「……左様に心得ます」
「その盗賊のうちに、妖《あや》しき忍法をあやつる者がおる。ただでさえゆるしがたい盗賊の一味、それがそのような幻怪の忍法をつかうとあれば、いよいよ以て捨ておけぬ。おまえでのうては、探索も召し捕りもかなうまい。半蔵、おまえの手でその盗賊を捕えよ」
家康はしばらく爪をかんでいたが、やがていった。
「捕えたならば……半蔵、成敗するはしばらく待てい」
服部半蔵が、大御所お声がかりで大盗詮議にのり出したのは、右のようなわけからであった。
服部半蔵は、春から夏にかけて、影のようにうごいた。
彼はわざと輩下の二百人の同心をつかわなかった。ただひとりで、奉行所の方で調べあげたその盗賊に押込まれた大名、町人たちを訪ねあるいた。
むろん、襲われた方で、盗賊の正体を知るはずがない。気がついたときは、曲者はすでに屋内に忽然《こつねん》とつっ立っており、よほどの例外でないかぎり、灯をつけさせず、声ひとつたてない。しかも、あらかじめ建物の配置、間取り、金のあり場所まで知っているかのように、闇《やみ》の中を一糸みだれず行動し、目的を達すると迅速にひきあげてゆく。きいただけで半蔵は、かつて甲斐《かい》の武田がひるがえしていたという「疾《はや》キコト風ノ如ク、侵スコト火ノ如ク」云々《うんぬん》という旗の文字を思い出したほどであった。
大名の屋敷でさえ、その手際の凄まじさに胆をつぶして、大半は無抵抗であったらしく、まれに刃向った者があると容赦なく斬り伏せられ、いずれにしても外聞をはばかって、あまり探索に協力的でない被害者たちから、しかし半蔵は、やっと共通したある事実をつかんだ。
それは彼の調べた七十八軒の家のうち、その三十一軒がある傾城《けいせい》屋から遊女を呼び入れており、六十五軒が古着買いを呼びこんでいることであった。いずれも盗賊に襲われる以前数か月以内である。曲者があまりに家の中のことをよく知っていることに不審をいだき、そのまえに外からやってきた人間はいないかと、執拗《しつよう》に追及して、やっと探しあてたことがらであった。
二
「古着。――」
錆《さび》をおびた声が、暮れなずむ夏の夕空をながく尾をひいて右にながれると、
「買おう。――」
と、左でのどかな声が尻下《しりさ》がりにうける。
両側の家並の軒の下を、長い袋を肩にかけた古着買いが二人あるいてゆく。一方は背がたかく、一方はずんぐりしているが、おなじような鼠色の頭巾をかぶり、鼠色のたっつけ袴《ばかま》をはいた男であった。
町家をはずれ、大名屋敷らしい長い練塀《ねりべい》のあいだに入ってきたとき、向うから二人の武士があるいてきた。二人の古着買いは、片側の塀に身をよけた。
「古着買い」
ゆきすぎかけて、二人の武士がたちどまって、ふいに話しかけた。
「儲かるか」
「へえ、おかげさまで」
「昼間古着を買うて払った銭の何万倍か、夜、盗賊をはたらいてとりもどす。儲かるはずだ」
二人の古着買いは塀の下に立ったまま、じっと二人の武士を見た。眼はほそく、顔も細く、背もヒョロリとながい方が、ニヤリと笑った。
「うぬら、奉行所の役人だな。いまごろ、やっとわかったか」
突然、背のひくい方が、猛然と武士の方に殺到した。二本の刀身がひらめいた。蒼《あお》く澄んだ夕空に、鮮血が奔騰《ほんとう》した。
「あっ」
さけんだのは、二人の武士の方であった。二条の刀身は、一本は古着買いの脳天からのどぼとけまで、一本は肩からみぞおちまで斬りこんだが、そのまま鉛にくいこんだようにうごかなくなってしまったのだ。その古着買いが、われと身をなげ出して斬られながら、斬られた瞬間ぎゅっと筋肉を収縮させて刀身をくわえこんだと知ったのは、その刹那《せつな》であった。
狼狽《ろうばい》の色が、墨汁みたいに散ったふたつの顔が、柘榴《ざくろ》のように砕けた。もうひとりの古着買いの投げたマキビシのためだ。マキビシとは、四方にねじくれた釘《くぎ》を突出させた鉄金具で、忍者が逃走するとき追手とのあいだにばらまくのを通常の使用法とする。
「お頭《かしら》、早く」
斬られた古着買いがうめくよりはやく、長身の古着買いは、そのまま横っとびに逃げようとした。
そのうしろを、顔面を両眼もろとも粉砕された二人の武士は、ツツと追った。その手に小刀がきらめき、背後に二本の大刀をくいこませたまま、どうと乾分《こぶん》がたおれるのをみると、ようやくこの武士がただものでないことに気づき、古着買いははじめて恐怖の相になって、ふりかえりざま、手をふった。無数のマキビシが、二人の胸にうちこまれ、ついにたまらず折重なって路地にうち伏すのは眼にも入れず、彼は宙をとんで逃げた。
「まだマキビシはあるか」
かけてゆく前方から、そう呼ばれた。
ばねにはじかれたようにとびさり、ふところに手を入れた古着買いの顔が、こんどは狼狽にひんまがる番であった。マキビシはもうなかったのである。
前方に仁王立ちになった武士は、山岡《やまおか》頭巾をかぶっていた。
「大盗|鳶沢甚内《とびさわじんない》」
と、呼んだ、うすく笑った。
「名まで知っておるのだ。神妙にせよ。おれは公儀伊賀同心の頭、服部半蔵」
そう名乗られるまえから、鳶沢甚内は、おのれの輩下が身を以て二人の武士の刃をあつめ、じぶんを逃がそうとしたように、二人の武士もまた最初から死ぬる覚悟でこちらの武器を消磨《しようま》させたことを知っていた。伊賀者ならではの凄烈《せいれつ》な兵法である。
敗北感が全身を萎《な》えさせ、彼ががくと路上にひざをついた。
「安堵《あんど》せい、心ばえ次第では成敗しようとはいわぬ」
服部半蔵は、鳶沢甚内のそばに立った。
「もうひとり、仲間があるな。荒井|宿《じゆく》の傾城屋西田屋の亭主甚内。そこにおれをつれてゆく気があるか」
東海道を往来するたびに、当然この傾城屋のまえを通り、品川の海の色に染まったような風をうけて柿色《かきいろ》ののれんがひるがえり、のれんがひるがえるたびにその先につけた鈴が鳴り、鈴が鳴るたびに白粉《おしろい》をぬった女の顔がのぞくのは見聞きした。のみならず、たしか二、三年前、大御所さまがこのあたりにお鷹野《たかの》にお成りの際、この店にたちよって茶か酒を召しあがったという話さえもきいている。この遊女屋が江戸をさわがす大盗の根城《ねじろ》のひとつだとは、こんどはじめて知って、つきとめた服部半蔵自身が、実は最初|茫然《ぼうぜん》としたくらいである。
荒井の宿《しゆく》というと、すぐ東に鈴ヶ森をひかえた宿駅で、この慶長年代の東海道では、六郷《ろくごう》の渡しと大井の宿との中間にあった。
夜更けのことで、星月夜の下には人影もみえず、ただ海ばかりが蒼いひかりをゆすっていた。遊女屋にちかづきながら、半蔵がいった。
「甚内、見えるか」
「何がでござる」
「あの傾城屋をめぐり、服部一党の外縛陣《げばくじん》が張ってある。庄司《しようじ》甚内はのがれようとしても、もはや袋の鼠だ。さて、そうしておいて、おれはおまえを捕まえにいったのだ」
伊賀者による監視網が張りめぐらされているという意味であろうが、さすがの鳶沢甚内も、何者の姿もみることはできなかった。
「それと申すのも、先刻いったように、おれはおまえたちを誅戮《ちゆうりく》するつもりで捕えようとしているのではない。なるべく穏便《おんびん》におまえらと話しあいたい。談合がまとまらず、一刻以内におれがあの家から出ぬと、伊賀者が鉄環のごとくとりつめることになる」
「仰せの趣《おもむ》き、相わかってござる。それがしより、とくと庄司甚内に申しきかせましょう」
三
吉原がまだないころの話である。江戸市中にも、いたるところ遊女屋の小集落はあったが、それよりこの江戸の入口にあたる荒井宿の西田屋の方の名が売れていた。この店ののれんに鈴がつけてあったので鈴ヶ森という地名が起ったという伝説や、大御所が鷹狩りの際立ちよったという挿話があることからでも、それは推察される。――
西田屋はもう大戸をとじていたが、一歩中に入ると、まだ灯は華やぎ、あちこちで三絃《さんげん》や酔うてうたう声がながれていた。若い者の知らせで出てきた亭主の庄司甚内は、三十七、八のまるまるとふとった愛嬌顔の男であったが、悄然《しようぜん》とした鳶沢甚内から、
「これは御公儀伊賀同心のお頭服部半蔵さま、ちとわれらと談合のことがあると仰せられ、おつれしてきた」
と、いわれて、面上ひと刷毛《はけ》、さっと蒼いものが走ったが、すぐにまわりを見まわし、おちついた声で、
「何でござりましょうか。……ともあれ、こちらへ」と奥へ招じた。
半蔵がこの傾城屋に入ったのははじめてだが、夜ながら、木口にぜいをつくした普請、数寄《すき》をきわめた庭など、京の柳町の遊女屋にも劣らぬことをみとめた。
奥座敷に通ると、鳶沢甚内のほうからまたいい出した。
「庄司、おぬしがしばしばおれにいい、おれがしぶっていた盗賊廃業のときがいよいよきたようだ。御公儀の伊賀御一党に眼をつけられたとあっては、もうだめだ」
鳶沢甚内は、服部半蔵からきいた――遊女と古着買いの出入によって探索の糸がさぐられた話をした。
庄司甚内は、もはや度胸をきめたらしく、ふてぶてしい表情をくずさなかったが、不審の色は覆えず、
「して、それがしらにお話と仰せなさるは」
と、半蔵の顔をみた。
「さればよ、おまえらの所業はにくむべきではあるが、成敗するには惜しい能をもった奴、ひとつ徳川家のために働いてみる気はないかとの大御所さまの仰せじゃ」
庄司甚内はだまってかんがえこんでいたが、やがていった。
「われらを盗賊と知りつつお助け下さろうというお志はありがとうござるが、服部さま、実はもうひとりの甚内があります」
「なに、もうひとりの甚内?」
「それこそ、われらの盗賊の張本《ちようほん》ともいうべき男、味方ながら恐ろしい男、そやつがはたしていうことをきくか、どうか?」
「それは何と申す奴だ」
「向坂《こうさか》甚内」
盗賊稼業をやめようと思っても心がしぶり、先刻服部さまからせっかくのお言葉をきいても気がかりであったそもそもの原因は、その向坂甚内だ、と鳶沢甚内もいった。二人の話はこうであった。
鳶沢甚内、庄司甚内、向坂甚内。――彼ら三人は北条家の浪人であって、長年盗賊をはたらいてきたのは、主家再興の軍資金を調達するためであった。
「すでに二十三年前に滅んだ北条家の再興など笑うべきことに思《おぼ》し召そうが、それがしらは決してそうは思ってはおりませなんだ。……まだ、西に大坂城というものがござる」
「江戸と大坂が、いつまでもいまのまま無事をつづけおろうとは思いませぬ。遠からずひと悶着《もんちやく》がおこり、手切れになった際。……成行次第では、北条家が武蔵にふたたび一旗あげることは夢ではない、そうみておったのでござります」
両人はこもごもいった。
「ただ、ちかごろになって、たとい手切れはあろうとも、徳川どのの天下にまちがいはあるまい。北条家がふたたび坂東《ばんどう》の主《あるじ》となることは、所詮《しよせん》夢だ、とかんがえるようになったのでござります」
と、鳶沢甚内がいった。彼が服部半蔵にとらえられて、意外に唯々諾々《いいだくだく》として屈服したのは、実はそういう下地があったのだ。鳶沢甚内の見解には、庄司甚内も同感であった。むしろ、そんな幻滅感は庄司甚内の方から先に告白したというのがほんとうだ。ただひとり、向坂甚内のみはきかない。――
「おなじ盗賊稼業の一味には相違ござりませぬが、実を申すとこのごろでは、それがしは諸家に呼ばれる遊女から、その間取りや人数をきくのが役目、むろん、遊女どもは何も存ぜぬことでござるが」
「それがしは古着買いと称して外からうかがい、忍び入る口、立ち退《の》く口を見とどけるのが役目、輩下をひきいて押入るのは、たいてい向坂甚内でござります」
「しかも、われらのうち、もっとも年少ながら、その気性もっとも酷烈、きゃつの忍法は紅《べに》蜘蛛縫《ぐもぬ》いといい、味方すら怖気《おぞけ》をふるっております」
そして、このとき鳶沢甚内と庄司甚内の顔色までやや変り、もし向坂甚内が承諾しなければ、半蔵のすすめは水泡に帰するよりほかはないといい、所詮ここまでうちあけた以上、それがしら捕われて御成敗を受けてもやむを得ないというのであった。
「忍法紅蜘蛛縫い。――いままで一味の者で、眼も口もとじて殺されていたのは、向坂甚内の仕業《しわざ》か」
「まさしくあの甚内の飼う紅蜘蛛の仕業でござる。その蜘蛛の這《は》うたあと、蜘蛛糸を以て口も眼も縫いとじてしまうのでござります。いままで殺された奴らは、甚内の意向に叛《そむ》いた酬《むく》いでござるが……眠っておるまにどこからともなく這い寄ってくる蜘蛛、これをふせぐすべは、われらとて存ぜぬ」
「その忍法をだれより学んだのか」
「われら三人、もとは風摩《ふうま》の一族でござりました」
半蔵は思わず二人の顔を見まもった。
戦国のころには、どこの大名も乱波《らつぱ》と称する忍び組をつかっていたが、なかでも北条の乱波風摩一族の幻怪|剽悍《ひようかん》の技はきこえていた。北条家が滅亡してから、その一類が群盗と化して、武蔵|相模《さがみ》一円を荒らしまわり、人々を恐怖させたが、徳川家の必死の追及と時のながれで、いつしか風摩の名を耳にしなくなっていた。が、いまきいてみれば、なるほどさもあらんと思う。
「しかも向坂は、風摩の残党中、ひときわ手練の忍法者でござる」
「向坂甚内はどこにおる」
「それが、われらにもよくわかりませぬ。用あれば向うより出むき、またこちらより急報があれば、合図を以て、あの男を呼びます」
「どこにおるかわからぬものを、いかにして」
「ただひとり、さる女人《によにん》の吹く横笛で」
「当家にあずかりおりまする北条の姫君|桐《きり》姫さま」
四
三甚内が、北条家再興など夢みていたのは、夢みるだけのたねがある。この西田屋の庭の離れに、北条家の遺孤《いこ》が住んでいるというのであった。
天正十八年北条滅亡の際、父の氏政《うじまさ》は切腹を命じられたが、子の氏直は命ゆるされて高野山《こうやさん》に放たれ、翌十九年に病死した。時に年三十である。桐姫は氏直の妾腹《しようふく》で、父の死後に生まれた娘だというのであった。
「桐姫……どの、とやらも、おぬしらの盗賊を知っておるのか」
「決して、左様なことは」
と、庄司甚内はきっぱりといった。
向坂甚内に用があるとき、桐姫に笛を吹いてもらう。桐姫は何もしらず、ただひとつの節調で吹くだけである。すると、その笛の音のとどくかぎりに向坂の輩下がいて、この笛の音を受けてまた笛を吹き、これを波紋のようにひろげていって――向坂甚内がどこにいようと、数時間内に忽然《こつねん》とここに現われるという。
盗賊はおろか、桐姫はここが傾城屋であることすらも知らぬはずだ、と庄司甚内はいった。風のようにうごく向坂甚内の足手まといになるため、じぶんがあずかってはいるものの、向坂は姫が傾城屋の淫風《いんぷう》にふれることを最もきらい、とくに彼がえらんだ三人の輩下を以て彼女を護らせている。盗賊の輩下とはいうものの、もとは北条家の家柄の老人で、桐姫に真に北条の姫君にふさわしい教養をさずけるのに余念がないというのであった。
服部半蔵はぶきみさと苦笑を同時におぼえながらいった。
「ともあれ、その笛で向坂甚内を呼んでもらおう」
傾城屋とは思えぬくらい、庭の奥は深かった。樹立《こだち》の向うに土蔵すら三棟もみえるのは、遊女屋商売と古着買いで儲けた金が、いや、盗賊稼業で荒かせぎした財宝が収めてあるのかもしれない。
庭がつきたかと思うと、冠木《かぶき》門があり、また庭がつづいていた。ただしこれは夏樹立と夏草の生いしげった山中のような一面だ。その向うに、灯影がみえた。ちかづくと、小さいながら夜目にも風雅な一屋《いちおく》であった。
「ここにてお待ち下され。お声はたてぬように」
とある樹蔭《こかげ》に半蔵を待たせて、庄司甚内と鳶沢甚内はその離れ家に入っていった。
しばらくののち障子があいて、ひとりの若い娘が出てきた。座敷に、いま入っていった二人の甚内と三人の老人がうやうやしい顔でひかえているのがみえた。
桐姫は縁に坐《すわ》り、手にした一管の横笛を口にあてた。笛の音は、呂々《りよりよ》と星空へながれはじめた。
音よりも、半蔵は、横笛を吹く娘の顔にみとれた。二十二年前に死んだ北条氏直の遺腹とあれば、年もそのころのはずである。白いからだは熟れて、顔だちは豊艶《ほうえん》といってよかろう。――半蔵の眼は、猫のように闇でもみえた。しかし、桐姫全体の印象は、豊熟という感じに遠かった。純潔といおうか、清浄といおうか。
もとより北条家の血をひく姫君である。しかし、いまは大盗に養われ、傾城屋に住む娘のはずであった。にもかかわらず、半蔵はいままでに、どこの大名、どこの公家の姫君にも、これほど玲瓏《れいろう》たる女人をみたことはない。それは完全に無菌状態に育てられた処女のみがもつ月輪のような美しさであった。
笛は淙々《そうそう》とせせらぎのように夜空を翔《か》けわたり、ふとわれにかえった服部半蔵がふりあおぐと、頭上にそのせせらぎが懸《か》かったかとみえる天の川があった。
どこからきたか。向坂甚内はあらわれた。
むろん、服部半蔵と二人の甚内は母家にかえっている。頭巾をとった向坂甚内をみて、これが両甚内の恐怖したほどの大盗かと、半蔵は眼をうたがった。
年は三十ぐらいの美丈夫だ。たんに美貌《びぼう》であるのみならず、まるで清僧のような透明な冷たさがある。が、そこに坐っている半蔵を、ちらとふしんげにみた一瞬の眼光に、さすがの半蔵が背すじに水のはしるのをおぼえたくらい酷薄で非情なものがあった。
「向坂、呼んだのはおれたちだ」
と、庄司甚内と鳶沢甚内はいった。
そして、鳶沢甚内が庄司甚内にしたように、こんどは両人が向坂甚内に、服部半蔵を紹介し、もはや逃れられぬことを説き、それをいままでの所業に眼をつぶるのみか、さまざまの特典を以て召しかかえようと仰せ下さるとは望外の幸運であると説いた。それは熱心というより、必死のようであった。
ききおえて向坂甚内はいった。
「その話以前に、ここ数年うすうす感づいていたことだ。庄司甚内、おぬしは傾城屋稼業に身を入れすぎたな。鳶沢甚内、おぬしも古着買いの商売が有卦《うけ》に入りすぎたようだ」
そして、氷のような美しいうす笑いをうかべると、すっと立った。
「庄司、鳶沢。――そんな用で、あの笛でおれを呼んだところをみると、その御仁《ごじん》に桐姫さまのことを教えたな」
ふたりの顔から血の気がひいて、返事もないのに、
「どれ、それではひさびさに姫の御機嫌をうかがってこようか」
と、向坂甚内は冷たい風をひいて去った。
庄司甚内と鳶沢甚内は、ほとんど思考力を失ったように坐っていた。ややあって「……万事休す」と、鳶沢甚内がうめいた。ふいに庄司甚内が愕然《がくぜん》と顔をふりあげた。
「服部さま、もしかすると向坂めは、桐姫さまをつれて逃亡するやもしれませぬ」
「左様なこともあろうかと、すでにあの離れを外縛陣でつつんであるわ」
おちつきはらっていう半蔵に、庄司甚内はくびをふった。
「余人でない、あれは向坂甚内でござる」
半蔵は何かに襲われたように立ちあがったが、しかしすぐに自信の眼をとりもどした。
「服部一党の伊賀組を、そうばかにするものではない」
三人は走り出た。
あとになってみれば、両甚内の恐怖はなかばあたっていたのである。
離れをとりまき、内部から出る者は一歩も出さぬと監視の網を張っていた七人の伊賀者は、服部一党でも最精鋭の者であったのに、七人のこらず両眼と口を縫いとじられて、芋虫のように悶死《もんし》していたのである。
向坂甚内が桐姫をつれて冠木門まで出てきたとき、その門のあたりで声がした。
「向坂、うごくな」
同時にあたりがくゎっと明るくなった。五人の頭上を覆う樹々の枝が、いっせいにもえあがったかと思われたのである。向坂甚内は桐姫をかばってきっと見上げ、その枝々に無数の黒衣の男が松明《たいまつ》をかざしているのをみた。
「鉄砲か。撃ってみろ」
と、彼は嘲笑《あざわら》った。
「いや、そうでない」
門の下で、服部半蔵はいった。
「うぬの踏む大地は焔硝《えんしよう》だ。松明をなげれば火の海となるぞ」
足もとをみて、その一帯が黒い砂のようなものに覆われているのを知ると、さすがの向坂甚内もたちすくんだ。
やがて、蒼白《そうはく》な仮面のような顔で、
「姫、うごきなさるな」
というと、自分だけつかつかとあるき出した。うごくなといわれた甚内が焔硝の砂漠をつきぬけてゆくのをみても、桐姫がうごかないので、樹上の松明は狼狽し、浮動するのみであった。
半蔵はさけんだ。
「甚内、それ以上ちかづくと、火を投げるぞ」
「まけたよ」
向坂甚内はニヤリと笑った。同時にその位置で大地をたたくと、黒い影は冠木門の屋根にとんだ。
「桐姫さま、向坂甚内はきっとお助けに参る」
虚空《こくう》に声だけをのこし、その影は門の上から銀河の中へ、ふっと消えてしまった。
五
一夜じゅう、土蔵に入れられた桐姫の胸には、たえず半蔵の匕首《あいくち》がつきつけられていた。半蔵は桐姫を囮《おとり》に、何とかして向坂を徳川の忍者に加えたいという望みのみれんをなお断ちきれなかった。
しかし、朝になって、その土蔵の外を護っていた十数人の伊賀者がことごとく両眼と口を縫いとじられて、声も出せず米俵みたいにころがりまわっているのを見たとき、ついに彼は恐怖と憤怒のさけびを発した。
「向坂甚内。……もはやゆるさぬ」
しかし、もはやゆるさぬ、と歯がみしたところで、彼をとらえるすべはない。それどころか、如法闇夜《によほうあんや》を、どんな微小な隙間《すきま》からでも這い寄ってくる紅蜘蛛の襲撃を思うと、半蔵は全身が鳥肌になるのを禁じ得ない。
すると、おなじ土蔵に入って、不安の眼を見かわしつつ、ヒソヒソと何やら語りあっていた庄司甚内と鳶沢甚内が、ふいにはたとひざをたたき、半蔵を蔵の隅に呼び、思いがけぬことを話しかけてきた。
「服部さま、色いろ案じましたに、向坂を捕える法はひとつしかござりませぬ」
「なんじゃ」
「きゃつには奇病があります。服部さまは、向坂一味が押込みをはたらいた際、女人には決して手を出さぬということを御存じでありましょう。きゃつが輩下を誅戮《ちゆうりく》するのは、その輩下がきゃつのこの禁令を犯したときなのでござります」
「それが奇病か」
「されば、向坂は、女陰をみると瘧《おこり》を発するのでござる」
さすがの半蔵も唖然《あぜん》として、ふたりの顔をみまもった。
「瘧を発すると、四肢おののいて、まったくの金縛《かなしば》りと相成る。この奇病あるがゆえに、きゃつは手下の女犯《によぼん》をにくむのでござる」
「……生まれながらの病か」
「いや、そうではござりませぬ。いま両人話したのでござりまするが、あれは七、八年前でござろうか、たまたま、きゃつがあの桐姫さまの行水をつかっておいであそばすのをかいまみてよりのことです」
半蔵は、ちらと蔵の中央に蝋《ろう》人形のように座っている桐姫をみた。両甚内の小声がきこえるはずはない。
「そのとき、はじめて瘧を発し、おのれみずから怪しんで語りました。それ以来、女陰をみると、かならず瘧を発するようになったそうにござる」
ややあって、半蔵はいった。
「きゃつをおびきよせて、それを見せるか。倖《さいわ》い、ここは傾城屋だ。見世物にはこと欠くまい」
「さて、そのおびきよせること、見せることが大難事でござる。向坂はおのれの奇病をよく知っており、うかと罠《わな》にかかるような男ではござりませぬ。大胆不敵の男ながら、恐ろしくかん[#「かん」に傍点]がよく、罠ありと知れば、うかと寄っては参りませぬ」
半蔵は、じっと桐姫をながめていた。しだいにその眼が、異様なひかりをおびてきた。
桐姫は夢遊病者のように傾城屋をめぐった。それは二重の意味で、彼女にとって悪夢であった。
彼女は服部半蔵という男に、背なかに匕首をつきつけられてあるいている。抵抗しようにも、彼女はなんのためにじぶんがそんな目にあわされるのか、まだよくわからないのだ。
恐ろしいことは、自分たちの姿が、ほかのだれにも見えないらしいことであった。廊下をゆきかう遊女や客は、二人がそこにいるとも眼中にない様子で、まっすぐにやってきて、二人がよけると、そのままふりかえりもせず、通りすぎてゆくのであった。
そればかりではない。廊下や庭のすれちがいばかりではない。彼女は半蔵とともに、各部屋をめぐった。そして、さまざまの男女のさまざまの秘戯を見せられた。それもまた、白い蛇のようにからみあい、うめき、もだえる遊女と客は気がつかない風なのであった。
桐姫には、生まれてはじめてみる光景であった。彼女の眼には火華《ひばな》がちり、耳鳴りがし、全身にはあぶら汗がにじみ出した。はじめ恐ろしさにふるえ、吐気がし、いまにも崩折《くずお》れそうになりながら、しかし、彼女は、しだいに脳膜がぼうと白い霞《かすみ》につつまれ、酔ったように息が匂《にお》い、はては乳房のさきまでうずいて、しびれてくるのをおぼえた。
「こういう人間の世界がある」
耳もとで、声がささやく。
「人がこの世に生まれて、だれしもが味わう恍惚《こうこつ》の法悦境だ」
ひくい声がつづける。
「それを、あなたは知らぬ。知らされなかったのだ。向坂甚内のために。――きゃつは、女がこわい。こういう世界をみると、瘧を起す。それゆえ、こういう男女をにくむ。あかの他人の男女をにくむばかりではない。家来でありながら、あなたがこのような世界の主人公となることを怖れ、にくんでいる。あなたをあの離れ家にとじこめておくのはそのためだ」
声は、蜜蜂《みつばち》の羽音のようにものうく鳴る。
「そして、向坂甚内の生きているかぎり、あなたはこの法悦境に入ることはゆるされないだろう。見られい、あの女の顔を――女の倖《しあわ》せにとろけ、しびれわたっておる顔を。……向坂がついておるかぎり、あなたは、あのような女の倖せを味わうことはできぬ。桐姫さま、向坂甚内からのがれたいとは思わぬか?」
数日後の真昼、桐姫は笛を吹いた。
服部半蔵は、一切の警戒をといた。伊賀者をすべてかえし、おのれは両甚内とともに土蔵に入っていた。彼らはたったひとつあけた網戸の窓に耳をすませた。
数刻ののち、真昼の樹立を、一陣の風のようなものが吹きすぎていった。しかし三人は、それが吹く風とは向きがちがうことを聴きわけた。
時を見はからい、彼らは離れ家にかけつけた。
向坂甚内はあらわれていた。
全身|寒天《かんてん》のようにふるえながら、床上を輾転《てんてん》する甚内を、壁際に立って、喪神《そうしん》したように見下ろしている桐姫は、一糸まとわぬ真ッ白な裸体であった。
罠の疑惑を抱きつつ、桐姫の笛にひかれて忍び寄り、罠のないことを見すまして、いまこそ姫君を助け出す好機とばかり離れ家に一歩入った向坂甚内は、たちまち瘧《おこり》を発したのだ。――それは服部半蔵らの予期していたことであった。
彼らが立ちすくんだのは、そこに鮮血がとびちっていたことだ。向坂甚内のおののく手には小柄がにぎられ、血の海のなかに一つの眼球がころがっているのに気がついて、三人があっとさけんだとき、向坂甚内はふるえ声で笑った。
「こわがるな、見るとおり、瘧の上におれは眼をえぐった」
とじられた両眼からは血の網がながれおちていた。
「見るべからざるものをみて、うぬらの罠におとした眼に成敗を加えたのだ」
「甚内、蜘蛛は? 紅蜘蛛は?」
入口から一歩も入らず、庄司甚内と鳶沢甚内は絶叫した。
それにはこたえず、向坂甚内は見えない眼を白い桐姫にむけてうめいた。
「こやつらの罠はわかったが、桐姫さま、これは強《し》いられてのことでござるか。それとも、知らずして遊ばしたことか?」
たちすくんでいた桐姫は、このとき気力の糸がきれて、壁の下にゆらゆらと裸身を横たえた。
六
大盗向坂甚内が処刑されたのは、慶長十八年八月十二日のことである。
彼が桐姫の女陰を見たときから瘧になったというのは、精神分析学的にいえば、彼の忠節の目標であった女人に強烈な色欲をおぼえ、聖母を姦淫《かんいん》する妄想にひとしい心理の相剋《そうこく》から発したものであろうか。
彼が磔《はりつけ》になったのは、浅草|鳥越《とりごえ》橋の刑場であったが、それ以来その手前の橋が甚内橋と名づけられ、死後ちかくに九尺二間、庫《くら》造りの祠《ほこら》が建てられた。瘧をなおす神様ということであったが、ほかの病気でも一切瘧として願かけをすればなおるといわれ、ながく繁昌したという。
これはのちの話で、処刑前ひきまわしの際、炎天の沿道にあつまる群衆の眼は、ただ憎悪と好奇のみにかがやいていた。
庄司甚内と鳶沢甚内は、彼を恐れ、じぶんの心におびえて、さすがに見物にこなかった。
――のちに庄司甚内が、家康のお声がかりで、江戸中の遊女屋をすべてあつめて廓《くるわ》をつくることをゆるされ、吉原の開祖となったことはだれでも知っているし、鳶沢甚内がこれまた江戸じゅうの古着買いの総元締となり、その市をたてる町を鳶沢町というようになったが、その名はいまも富沢町《とみざわちよう》と変って日本橋にのこっている。
群衆のなかに、服部半蔵と桐姫がまじっていた。
桐姫がどうしても向坂の最後の姿をみたいといってきかず、やむなく半蔵がつれて出てきたのである。
ひきまわしの行列が、ふたりのまえにさしかかったときである。半蔵がとめるまもなく、桐姫が走り出した。
「甚内、甚内」
と、泣きさけびながら、裸馬にとりすがった。向坂甚内はとじた眼で見下ろして、
「桐姫さまか」
と、いった。
「甚内、ゆるして下さい。わたしがわるかった。あれはわたし自身からの発心《ほつしん》でした」
甚内の驚愕《きようがく》の色がひろがった。桐姫は泣きむせぶ。
「わたしは女になりたかった。それでおまえを裏切ったのです」
「――左様でござったか」
甚内はうなずいて、顔を痙攣《けいれん》させたが、浮かんだのは冷たい皮肉な笑いであった。
「おれは、おれを嗤《わら》う」
と、彼はつぶやいた。
番卒たちは何かさけびながらかけてきた。うしろ手にくくられた甚内は、馬の背に身をかがめてささやいた。
「姫、おれの右眼を、切り裂いて下され。もういちど姫のお顔がみたい」
「切り裂いて、何とするのじゃ、わたしがみえるのか」
「蜘蛛に縫わせたまぶたでござる。左眼はえぐりとったが、右の眼球《めだま》はのこっておるはず」
桐姫は甚内の右眼のまぶたを懐剣で横に切り裂いた。――中には、何もなかった!
うつろな眼窩《がんか》から、血とともに赤い蜘蛛のようなものがしたたりおちたのを、だれよりも服部半蔵がみて、「あっ」とさけんでかけつけてきた。
彼がひっさらうように桐姫をひきずりもどしたあと、番人の怒号とともに行列はすすみ出した。
砂塵《さじん》の中で、向坂甚内の乾いた笑い声がした。
「未来|永劫《えいごう》、処女《おとめ》のままでおって下され、桐姫さま。――」
蜘蛛はどこへ? と狂気のように土けぶりのなかを探していた服部半蔵は、突如ぎょっとして、桐姫の方を見た。
炎天の下を非人にかつがれた白木の磔柱《はりつけばしら》が通っていったとき、何かの苦痛にたえるように蒼白になって立ちすくんだ桐姫の両足のあいだに、一滴の血の花が咲いたように、ポタリと赤い蜘蛛がおちた。
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忍者撫子甚五郎
一
慶長《けいちよう》五年九月十五日午前二時ごろ、雨の中に篝火《かがりび》の連なり燃える濃州赤坂《のうしゆうあかさか》の本営に、黒衣黒馬《こくいこくば》の三騎が駈けこんだ。
「服部半蔵《はつとりはんぞう》でござる。大殿にいそぎ御目通りを」
すぐに彼らは寝所《しんじよ》に通された。家康《いえやす》は粗末な夜のものの上にすでに起きなおっていた。
「半蔵か、待っておった。近う寄れ」
「はっ」
徳川家|乱波組《らつぱぐみ》の頭領《とうりよう》服部半蔵は、ぬれた衣のままヒタヒタと膝行《しつこう》して、
「おめがね通り、西進した敵は、関《せき》ヶ原《はら》一帯に布陣しはじめてござります」
「そうであろう。治部《じぶ》としては、そうでなくてはならぬ。大垣《おおがき》の城を守って、佐和山《さわやま》を狙われては、治部にとっては、手を保たんがため、首を失うも同然じゃからの」
家康は笑った。昨日ひるごろ、岐阜からこの赤坂に軍を進め、深更まで軍議をこらして、しばしまどろんだばかりとは思えない。――いや来年は六十の声をきこうとは思えない,精気にみちた笑顔であった。
「於《お》えい」
家康は陣中の女房をふりかえり、
「平八郎《へいはちろう》、兵部《ひようぶ》を呼べ。それから、於《お》かず、湯漬けをもて」
と、命じた。二人の女房は走り去った。
服部半蔵は報告した。
昨夜七時ごろ、前面の大垣城を捨てた敵は、石田《いしだ》隊、島津《しまづ》隊、小西《こにし》隊、宇喜多《うきた》隊の順で西へ四里、関ヶ原まで退《さが》り、石田は北国街道を扼《やく》する小関《こせき》村に、島津はその南|小池《こいけ》村に、以下小西、宇喜多と中山道《なかせんどう》まで、目下|柵《さく》を二重に植えて、陣地を構築中であると報告した。
家康は湯漬けを食べながら、ふむ、ふむ、とうなずいて、ときどき眼をじっと宙にすえる。関ヶ原一帯の地図を脳中に描いているのか、凄《すさま》じい眼のひかりであった。
物見の報告をしながら、いまさらのように半蔵は、この老いたる軍神《いくさがみ》のような主君の手腕におどろかざるを得ない。
江戸から大兵をひきいて東海道をおし上って来た徳川方をむかえて、数刻まえまで西軍は総司令官の宇喜多|秀家《ひでいえ》、事実上の首謀者石田|三成《みつなり》をはじめとして、大垣城に拠《よ》っていた。これと真正面から一戦をまじえるべきか、また敵の逆をついてこれを牽制《けんせい》しておくのみで、大坂へ兵を進むべきか、昨夜の軍議はそれであった。前者は池田《いけだ》、井伊《いい》らの主張するところで、後者は福島《ふくしま》、本多《ほんだ》らの進言するところだ。家康はただ耳をかたむけているだけで、未だ決定を下さなかった。
むろん、数日前から遠く敵の背後に潜入して、家康の或《あ》る密命を果たしていた服部半蔵は、そんな軍議の内容は知らない。しかし彼は、最初から家康が関ヶ原を決戦場と決めているらしいことを承知していた。
敵の全軍が立て籠《こも》っている城を攻めるのは容易でない。これに手間暇《てまひま》をかけているうちに、豊臣恩顧《とよとみおんこ》の大名を多くかかえている東軍にも、何が起るかわからない、と見た家康は、この数日、麾下《きか》の乱波組服部一党をひそかに敵の背後に放って、関ヶ原付近に放火させたのである。三成はその手にかかった。彼は、家康が大垣城を見捨てて、ただちにじぶんの本城|江州《ごうしゆう》、佐和山を衝《つ》き、大坂へ進軍するものと見たのだ。三成が急遽《きゆうきよ》全軍をうしろにひいて関ヶ原に布陣したのは、ここが東軍を扼《やく》するにもっとも適当な地形だと判断したからに相違ない。が、野戦となれば両軍とも五分と五分。いや、西軍を一挙に潰滅《かいめつ》させる場所はここをおいてないと、関ヶ原をえらんだのは家康の方なのだ。
軍監《ぐんかん》本多|中務《なかつかさの》大輔《たゆう》忠勝《ただかつ》と井伊|兵部少輔直政《ひようぶのしようゆうなおまさ》が駈けつけてきたとき、家康はすでに女房衆と坊主に手伝わせて具足をつけようとしていた。
「殿、いずれへ」
まだ服部半蔵の報告をきかぬ本多忠勝が、せきこんできくのに、
「敵のおる方へ」
と、家康は快然《かいぜん》と笑った。
「平八、敵は関ヶ原に陣をかまえ出したというぞ。ただちに全軍に進撃をつたえろ。きょうこそは、治部の首を検分してくれるわ」
「はっ」
と、平八郎忠勝は躍りあがって、鎧《よろい》を鳴らして馳《は》せ去った。たちまち赤坂の陣営は、さけび声、刀槍《とうそう》のひびき、馬のいななきと、凄愴《せいそう》な戦気にふくれあがりはじめた。
「兵部、いまごろ夜の明けるは何刻《なんどき》であったかの」
具足をつけ終った家康はきいた。具足といっても、独特の軽装である。下腹のつき出したまんまるい体躯《からだ》に小袖《こそで》を着、胴だけつけて、上に黒広袖《くろひろそで》の陣羽織を羽織ったばかりだ。
「はっ、まず卯《う》の刻(午前六時)でござりましょうか」
と、井伊兵部は答えた。
「さりながら、この雨が朝になっても霽《は》れるとも思えず、さらにこのごろこのあたり、毎朝霧が冷たくたちこめます。まず敵味方の見分けがつくは、それより半刻《はんとき》も遅れましょうか」
「よし、勝敗は巳《み》の刻(午前十時)までにつける」
家康は決然とうなずきかけたが、ふとその首がうごかなくなった。
「兵部、金吾中納言《きんごちゆうなごん》の内応はたしかであろうの」
「その件については、小早川《こばやかわ》の家老衆、それに浅野《あさの》どの黒田《くろだ》どのより、八幡《はちまん》まぎれなしと誓紙がござります」
「他人の保証はあてにはならぬ」
家康はふいにはげしい声でいった。
「浅野、黒田を信ぜぬというわけではないが、しかと知りたいのは当人の腹じゃ」
「中納言どのには、そのためにわざと石田らと行を共になされて大坂城に入られず、松尾山にひかえられております」
「松尾山といえば関ヶ原を一望に見渡す場所」
家康の顔には、突如としていままで影もみえなかった雲がかかっていた。
「いざ、関ヶ原が天下分目のいくさ場《ば》に決したとなると、そこにいる中納言の向背が急に気になって来たわ。そりゃ、中納言が、心ならずも西軍に入ってはおるものの、心は東軍にあるとは、かねてからきいておる。黒田、浅野も仲に入って承《う》け合ってはおる。さりながら、眼下に十余万の軍勢が、日本を二つに分け、ここを先途《せんど》とたたかうのを見ておれば」
雲のかかった顔に、眼だけが異様にひかり出していた。半蔵が、はじめて見る家康の不安の眼であった。
「一|刻《とき》、二刻のあいだに、西軍を破ればよい。余はそのつもりでおる。が、いくさの勝敗は、ときとして人智を越えることがあるものじゃ。万一、鍔《つば》ぜり合いが長びけば、中納言の天秤《てんびん》がどうかたむくか知れたものではない。ひとは、だれでもわが身が可愛いものじゃ……兵部」
家康はきっと井伊兵部直政を見た。
「小早川の腹をさぐれ」
「はっ、それはすでにいくたびか糺《ただ》し、中納言どのの、返忠《かえりちゆう》は、万《ばん》まちがいなきことと」
「小早川は、石田にも同じことをいっておるかもしれぬ。いや、中納言が徳川に返忠いたすことがそれほど明らかならば、石田がいままで手をつかねておるはずはない。――もういちど探って、しかとたしかめろ」
「殿、いくさは夜の明け次第はじまると申しますのに」
「それゆえ、ギリギリの土壇場、向うのまことの腹をさぐるのに、最もよい時であろうが」
「しかし、夜明けまでに松尾山に上り、探索し、かえってくることは」
「そこにおる奴《やつ》を使え」
家康は半蔵を見た。冷酷といっていいほどさしせまった眼であった。半蔵がはっとしたとき、家康は、こんどは直接に、
「半蔵、伊賀の忍者のほこりにかけて探ってこいよ。余は徳川の運命をかけて待っておるぞ」
といい、片手に陣刀、片手にのくち[#「のくち」に傍点]の塗笠《ぬりがさ》をもって、つかつかと本営の外に出ていった。
二
小早川中納言|秀秋《ひであき》は、太閤《たいこう》夫人、いまは高台院《こうだいいん》と呼ばれているひとの甥であったが、幼くして太閤の養子となった人物である。
のちに小早川|隆景《たかかげ》の養子に迎えられたが、この縁だけでいうなら、むろん彼は西軍につくのが当然であるのみならず、そのなかにあって大立物たるべき存在だ。事実、現在ただいまのところでは、表面的にはそうなっている。
しかし、内部の事情は必ずしもそう簡単ではなかった。第一に、彼の叔母たる高台院が家康党である。彼女は、東軍側についた豊臣恩顧の大名たちと同様、石田三成こそ豊臣家を滅ぼす元凶であり、家康を信頼してこそ豊臣家の命脈を保ち得ると深く思いこんでいる。むろん、淀君《よどぎみ》に対する反感もある。
第二に秀秋は、石田三成と不仲である。さる朝鮮役で、彼は総司令官として渡海したが、その地にあってのふるまいが、総司令官たるにふさわしくないとして秀吉《ひでよし》の叱責《しつせき》を受け、筑前《ちくぜん》五十二万石から越前《えちぜん》十五万石に落された。この移封《いほう》が実現しないうちに秀吉が薨《こう》じたので、この咎《とが》めは沙汰止《さたや》みになったものの、秀秋は、この件についてはすべて秀吉の懐刀《ふところがたな》石田治部少輔の讒言《ざんげん》にあるものと信じている。
こんどの変に、彼はゆきがかり上西軍に属したが、あきらかにその腹に一物《いちもつ》あるらしく見えた。一万三千の兵をひきいて東軍迎撃のため美濃《みの》まで来ながら、石田三成らとともに大垣城に入らず、四里背後の松尾山に上って、ぶきみに静まりかえってしまったのである。
「大殿の仰せながら、それはむずかしゅうござる」
と、服部半蔵はさけんだ。
「いや、夜の明けるまでに関ヶ原の松尾山にゆき、小早川の陣営にしのびこみ、はせもどってくる。――そのことではござりませぬ。それはできましょう。むずかしいのは、小早川がきょうの合戦に、はたしていずれの側に立つか、それを見分けることです。いまにいたって、なお大殿さえ迷われることが、われらごときに即刻見分けのつく道理がござらぬ」
「もっともだ。しかし」
徳川四天王の一人といわれる井伊直政も、緊張のため鉛のような顔色になっていた。
「殿はあのように御意《ぎよい》なさる。御意なさることに、なるほど一理も二理もある。一つは、開戦を数刻ののちにひかえて、小早川の陣営をみれば、いかになんでもその旗色がはっきりするであろうと思われるし、また一つには、松尾山にある一万三千の兵の向背がわからねば、こちらの陣立てのしようもない」
「それゆえに、われらには見分けがむずかしいと申すのでござる。医師《くすし》は、わが子の重病なるときは、その診立《みた》てがつかぬというではござりませぬか、兵部さま」
「いくたびか、いくさのたびに物見《ものみ》して来たその方《ほう》一党ではないか」
「このたびだけは、いままでのいくさとはちがいまする」
「よい、その方らの物見して来た通りを申せ」
「その診立てが万一まちがっていたら、と考えると、総身よりあぶら汗のしたたる心地がいたす」
「半蔵、わしはおまえを信じておる。そのおまえが、おまえ自身を信ぜぬのか。乱波の技《わざ》にかけては音にきこえた伊賀の忍者を――殿も、伊賀の忍者のほこりにかけて探って参れと申されたではないか」
「伊賀の忍者の誇りにかけて」
服部半蔵は鸚鵡《おうむ》がえしにつぶやいて宙を見つめ、それからうしろをふりむいた。そこには、二つの影がうずくまっていた。さっき、彼に従ってきた配下の二人だが、井伊兵部には、黒|頭巾《ずきん》をかぶったその顔がはっきりせぬのは当然として、その全身までがおぼろおぼろと半透明にみえるような気がした。
「おお、大殿の御下知《ごげち》に従いましょう」
と、ふいに半蔵はうなずいた。眼がただならぬかがやきをおびてきた。
「半蔵、何か目算《もくさん》がついたか」
「いかにも、いま稲妻のように或《あ》る人間のことを思い出しました」
「或る人間?」
「されば、やはり伊賀出身の忍者にて、波《なみ》ノ平法眼《ひらほうげん》と申す男でござります。時がござりませぬゆえ、手短かに申しまする。波ノ平法眼は、私の父先代服部半蔵と莫逆《ばくぎやく》の友の由にて、父の生前、拙者もいくどか逢《あ》ったことがござりまする。例の天正伊賀の乱で、伊賀者らが諸国に分散いたしたのち、父は三百人の配下とともに徳川家に奉公し、法眼もまた配下をひきいて諸大名を渡り歩いておりましたが、十年ばかり前から、法眼は石田治部に仕えております」
「何?」
「このたび治部と敵《かたき》となる以前――父死してもう五年以上もめんとむかっては逢ったことはござりませぬが、おそらく石田の忍びの者として働いておることでござろう」
「おまえの父と莫逆の友だといったな」
「もとより、ただいまは敵です。そのつもりでおります。従って、いま思い出したのは、波ノ平法眼のことではなく――父からきいた法眼との約定《やくじよう》で」
「どんな約定」
「もし伊賀者全体を、滅亡か否かという運命の見舞うときは、両人、いかなるとき、いかなるところにあろうと呼び合って、とくと談合しようと。――思うに、いまがそのときでござる。伊賀者全体の運命というにはちと大形《おおぎよう》ながら、服部一党波ノ平一党は、伊賀者中の精鋭。それが――きょうの合戦に徳川方が勝てば、波ノ平一党はもはや生存の道はござるまい。同様に、もし石田方が勝てば、われらも滅亡のほかはござりませぬ」
「その通りじゃ」
「いま気がついたことでござりまするが、法眼とて同じことを考えておりましょう。同時に、拙者思いまするに、石田方もまた鵺《ぬえ》のごとき小早川の存在に疑心暗鬼、その向背のめどをつけるに焦燥《しようそう》しておるのではありますまいか」
「そうかもしれぬ。で、いかがいたす」
「拙者、法眼と逢います」
「逢えるか」
「逢う方法は、父より、いろいろと伝授されております」
「逢って、どうする」
「法眼一派よりも、忍びの者を松尾山に入れさせ、双方の物見の内容をつきあわせ、それにて結論を出しましょう。双方の意見が一致すれば、おそらくその見込みに狂いはござりますまい。もし一致しなければ――それもまた参考の一つになろうと存ずる」
「左様な談合を、その法眼とやらがきくか」
「話の風の向け具合では」
「半蔵」
兵部の眼がぎらとひかった。
「敵の忍者の探ったこと――探ったと申すことを、そのまま信じてよいか。敵が黒と見たことを白というかもしれぬ。それにもとづいて、いかなる判断を下しても、それはあてにならぬぞ」
「よう仰せなされました。もとよりいまは所詮敵の忍者同士、左様な細工はいたしましょう。――おたがいに」
半蔵はうすく笑った。
「実は、拙者の思いつきましたは、いまのべたような敵味方共同の物見ではござらぬ。それを利用し、さらにそれを上廻るたくらみです。……うまくゆけば、それだけできょうの合戦に西軍を総崩れにさせるような」
「何? そのたくらみとは?」
「そのまえに」
と、半蔵はもういちどうしろの二つの影をかえり見た。
「事の首尾が悪ければ……いや、最初より談合がまとまらなければ、或《ある》いはこの者どもは生きてふたたび帰らぬかもしれませぬ。軍監たる兵部さま、何とぞこの両人をお見知りおき下されい」
おぼろおぼろとあげた二つの顔のうち、頭巾のあいだからのぞいた一つの顔の色の白さに、
「女か」
と、井伊兵部はさけんだ。
「小笹《こざさ》と申しまする。またもう一人は浮舟伴作《うきふねばんさく》」
と、半蔵はいって、たのもしげに微笑した。
「御存じのごとく、服部組一党は、ここ数日来ことごとく関ヶ原から江州へかけて出払い、私のみ、傍《そば》にあったこの伴作小笹両人をひきつれて、いそぎ御注進にかけ戻って来たのでござりまするが、偶然ながら、よい者をつれて帰りました。この両人ならば」
幕屋の外の雨の音がきこえなくなった。止《や》んだのではない。遠く近く、怒濤《どとう》のような地ひびきの音がうねり出したからであった。家康の下知一下、一帯に夜営していた七万五千の東軍が、関ヶ原へ向って進撃を開始したのだ。
半蔵は立ちあがった。
「この両人ならば、拙者のたくらみ、かならずとげてくれましょう」
三
関ヶ原に於《おい》て、天下分目の一戦を交えることは、三成にとって最初から予定していたことではなかった。それはあわただしい作戦会議の結果で、その実、家康の思惑に乗ったことを彼は知らない。
三成は、もとより関ヶ原の曠原《こうげん》で東軍を粉砕することを確信していたが、それにしても、その場所を予定していたわけではなかったので、急ぎ柵《さく》や土塁《どるい》を設ける必要がある。その時間を稼ぐために、九月十四日午後七時ごろ、大垣から関ヶ原へ退《ひ》きはじめた西軍は、兵馬に枚《ばい》をふくませて、極力隠密行動をとろうとした。
九月十四日は、いまの暦で十月二十日にあたる。闇黒《あんこく》の中に秋雨は蕭条《しようじよう》とふりしきり、ぬかるみの山峡を四里進むうちに、兵馬の肌は濡《ぬ》れつくし骨まで凍るようであった。
午前一時ごろ関ヶ原についた石田三成は、盟友|大谷刑部《おおたにぎようぶ》と何やら協議したのち、わが陣と決めた小関《こせき》村に来て、冷雨の中に陣地を構築している兵士たちを指揮していたが、ときどき何やら気にかかるらしく、南の方の空を見た。
深夜の天は、惨として暗い。その暗い夜空にひくく、点々と赤い炎が浮かんで見える。二十余丁の距離をおいて、そこには松尾山があるはずであった。松尾山の山上にもえている篝火《かがりび》なのだ。三時ごろである。
「殿はおわすや」
雨をついて、黒衣黒馬の三騎が小関村に馳せ入って来た。
「波ノ平法眼よな、余はここにおるぞ」
待ちかねていた三成は、みずから声をあげて呼んだ。三人は馬からとびおりて、泥濘《でいねい》の中にひざをついた。物見のために、三成があとに残してきた乱波のうちの三人である。
「おめがね通り、東軍は赤坂をひき払い、続々西進を開始してござります」
「その先鋒《せんぽう》が赤坂を出たは、何刻《なんどき》ごろか」
「先鋒の福島、黒田が出たは丑《うし》の刻、つづいて加藤《かとう》、細川《ほそかわ》、藤堂《とうどう》の順につづいております」
「では、敵の関ヶ原到着は、まず夜明けじゃな」
「御意《ぎよい》」
「よし、勝敗は巳《み》の刻までにつける。きょうこそは、家康の首を検分してくれるわ」
「……殿」
波ノ平法眼と呼ばれた地上の声は、雨の中に冷たく、しかし、乾いていた。老人らしく、しゃがれた声であった。
「東軍の総勢は七万五千。お味方は、どれくらいでござりましたかな?」
「七万七千じゃ。数に於ても、西軍はひけはとらぬ」
「七万七千、それは小早川中納言さまの一万三千を加えてのことでござりましょうが」
「もとよりだ」
「中納言さまは確かに、お味方でござろうか?」
「何を申す」
三成は怫然《ふつぜん》とした様子であった。
「いかにも、金吾中納言さまには、さまざまの取沙汰がある。高台院さまの、関東へのお取持《とりも》ちやら、中納言さまがわしに御不快の念をもっておわすとやら。……しかし、中納言さまは、豊臣家とお血つづきのおひとであるぞ。世上の風聞は、あくまで風聞にすぎぬとわしは信じておる。げんに中納言さまは、さきごろの伏見城攻めに加わられ、ひとかたならぬお働きをなされたではないか。いや、豊家《ほうけ》との御血縁やら御恩やら、左様なことより、この土壇場になって、裏切りなさるなど、もののふの面目にかけて――」
三成は、平生の冷哲|聡明《そうめい》を失ったように絶句した。
「それより、法眼、そちは何をいいたいのか。何か新しゅうきいたことでもあるのか」
「いえ、拙者はこのところしばらく、御下知のまま東軍へ乱波に入っておりましたゆえ、そのことについてはべつに新しゅうききこんだことはござりませぬ。仰せまでもなく、拙者も中納言さまを信じとうござる。しかし……夜の明け次第、この関ヶ原で天下分目の大合戦がくりひろげられるとなれば……あの松尾山は、何としても気にかかり申す」
法眼は頭をあげて、南の夜空の篝火をふりかえった。黒い頭巾でも、山法師などが面をつつむ袈裟《けさ》頭巾に似ている。どうやら、頭はまるめているらしい。
「万一、合戦の勝敗容易に決せぬときは、あの山上の向背は、たとえ五百、千の兵であっても運命にかかわりましょう。ましてや、それが一万三千の大兵とあれば」
「法眼」
「妖《あや》しき風聞のあるお方が陣を占められるにはあまりにも重大な山でござる」
「法眼。――実は、わしもあの篝火《かがりび》は気にかけておった」
と、三成はいった。先刻、怒ったような声を出したのは、おのれのその不安を指摘された狼狽《ろうばい》もあったのだ。
「それゆえ、先刻、この関ヶ原につくと、すぐに刑部《ぎようぶ》と話し、刑部に松尾山に上って、中納言さまのお心をしかとたしかめるよう依頼して来た。刑部はいま松尾山の麓《ふもと》に陣を張りつつあるが、それが終り次第、すぐ山にのぼるはずじゃ。やがて、その報告が参ろう」
「お心をしかとたしかめる? 中納言さまが刑部さまに、たとえ豊臣家へ御忠節の確約をなされたとて、それがどこまであてになることでござりましょう」
「しかし、いまとなっては、それよりほかにたしかめるすべがない。本音《ほんね》を吐けば、余みずから糺《ただ》しにゆきたいと心ははやっておるのじゃが……余に隔意《かくい》ありと噂《うわさ》ある中納言さまゆえ、わざと刑部にたのんだのじゃ」
「裏切りのお噂ある御当人に糺すよりは」
ふいに法眼はそういいかけたが、そのまま黙りこんだ。三成はじっとそれを見おろした。
「法眼、何かよい智慧《ちえ》があるのか」
「されば、あまりに突拍子もないことゆえ、しばらく思案しましたが」
波ノ平法眼はいった。
「むしろ、東軍の内部を探った方が、よい手応《てごた》えがあるかもしれませぬ」
「東軍を探る。――東軍中に、中納言さま裏切りの音《ね》をきこうというのか」
三成は眼を見ひらいてさけんだ。
「いかにも、それは一策じゃ。しかし、法眼、もはやそのいとまはあるまい。いまのいま東軍はこの関ヶ原めがけて進みつつあるのだぞ」
「ただ一つ見込みがござります。――敵の忍びの者と逢うことでござる」
「何、敵の忍びの者と?」
「おそらく、中納言さまの御向背には、敵もまたいたく心を悩ましておることでござりましょう。たとえ中納言さまが内々裏切りの御確約をなされたとて、一抹《いちまつ》の疑心暗鬼は捨てかねましょう。ために、これまで乱波が必死にはたらいたことと存ずる。その乱波に、直接逢って、その顔色音声からつきとめるのでござる」
「敵の乱波に――即刻逢えるのか」
「徳川に服部組と申す忍びの党がござります」
「おお、服部半蔵、存じておる」
「ただいまの半蔵は二代目にて、先代の服部半蔵は五年前死去してござりますが、その先代半蔵とは、伊賀におったころ、拙者莫逆の友でござりました。そして、彼と約定したことがあるのでござる。曾《かつ》ての天正伊賀の乱のごとく、伊賀の忍者に大難あるときは、かならず両人逢って談合しようと。――この約定は、先代半蔵より倅《せがれ》の半蔵にも伝えられておるはずでござる。服部のひきいる伊賀者と、この法眼のひきいる伊賀者とは、ともに伊賀忍びの者の精鋭。思うにこのたびの合戦は、天下取りの争いのみならず、伊賀の忍者を二つに分けるいくさと申してもようござろう。されば、その約定通り――」
と、いいかけたとき、「やっ?」と三成が空を見た。
雨に満ちた夜空を、このとき赤い炎がすじをひいて飛んだのだ。それは東南から飛んできて、彼らの頭上を横ぎり、西北の伊吹《いぶき》山の方へ飛び去るようにみえたが、ふいにぱっと火の粉をまきちらしながら、闇《やみ》の地上へ舞いおちていった。
「おお、伊賀の梟火《ふくろび》!」
と、波ノ平法眼もさけんで立ちあがった。
「何、伊賀の梟火? あれはなんだ、法眼」
「思いはおなじか、服部半蔵。殿、半蔵の方より拙者に会見を申しこんで参りました」
その夜空の怪火は、ほかに目撃した兵も少くなかったのであろう。遠いうしろで柵を結んでいたらしい兵が、数十人、その山地の方向へ乱れ走ってゆく足音がきこえた。
「追ったところで、焼け死んだ梟《ふくろう》が一羽おるばかり」と、法眼の声は笑った。
「あれは梟に、秘伝の焔硝《えんしよう》をしかけたものでござる。雨にも風にも消えず、或るところまで飛べば、運んだ梟にも火が移って燃えおちまするが、その落ちた場所と逢うべき人間を結んだ線を、逆の方向にその距離だけたどると、逢いたいと望んだ人間が待っておるのでござる。……半蔵は、ここから東南の、左様、十九女《つずや》ヶ池《いけ》のあたりに立っており申そうか」
「服部半蔵が、おまえに逢いたいと望んでおると?……逢うか、法眼。しかし半蔵はそも何の目的で?」
「おそらく、半蔵も、拙者とおなじ悩みのためではござりますまいか」
「逢《お》うて、大事ないか。かえって敵の手にはまるのではないか、法眼」
「先代の服部ならば知らず、なんの若輩《じやくはい》の小倅ごときに」
波ノ平法眼はうすく笑った。
「それより、殿。拙者はいま……小早川中納言さまの向背を知るいとぐちのみならず、それを利して、きょうの合戦に東軍を総崩れにさせるたくらみを思いついてござる」
「何、そのたくらみとは?」
「そのまえに」
と、法眼は、はじめてじぶんのうしろにうずくまる二つの影をかえりみた。
「そのたくらみ、やりそこねれば、或いはこのものどもは生きてふたたび帰らぬかもしれませぬ。西軍の大柱石たる石田治部少輔さま、何とぞ、この両人をお見知りおき下されい」
おぼろおぼろさしあげた二つの顔のうち、頭巾のあいだから覗《のぞ》いた一つの顔の色の白さに、
「女か」
と、三成はさけんだ。
「撫子《なでしこ》と申しまする。またもう一人は弥勒甚五郎《みろくじんごろう》」
と、法眼はいって、たのもしげに微笑した。
「波ノ平一党は、御下知のごとく、みな東軍の進みようを物見に参り、やがてつぎつぎと敵の陣くばりを注進に参るはず。拙者のみ、傍にあったこの甚五郎撫子両人をひきつれて、とりあえずかけ戻ってきたのでござりまするが、偶然ながら、よい者をつれて帰りました。この両人ならば、拙者のたくらみ、かならずしとげてくれましょう」
四
闇黒《あんこく》の大地に巨大な皿があって、うすうすと蒸気をたてているように見える。関ヶ原の東南に横たわる十九女ヶ池であった。ひろい水面が、激しい雨にしぶきをあげてけぶっているのだ。
その十九女ヶ池の北側に、ぼうと三つの影があらわれた。ふつうなら闇夜に見えぬ黒衣の姿だが、水面のしぶきに、墨痕《ぼつこん》のにじむように浮かびあがったのである。
「波ノ平党か」
声がきこえた。池の南側から、水面をわたってその声がながれてくると同時に、そこにも三つの黒影がにじみ出た。
「服部じゃな」
しゃがれた声がこたえる。
「半蔵しばらくじゃな。若輩を以て、あの内府の下で、乱波稼業の苦労はなみたいていではあるまい。まずさしたる手落ちもなく奉公しておるとすれば、死んだ親父《おやじ》の半蔵も、さぞ草葉のかげでよろこんでおるじゃろう」
しばらく相手は、何かを自ら制するかのごとく沈黙していたが、すぐに決然として、
「御老人。いまは懐旧の挨拶《あいさつ》をしておるときではない。急用でござる。拙者が先刻、伊賀の梟火《ふくろび》で御老人を呼んだわけを御存じか」
「ズバリいえば、松尾山の旗風のなびき具合であろうが」
「さすがは、波ノ平の御老人」
うめくように服部半蔵がうなずくと、波ノ平法眼は笑った。ただし、苦味をおびた笑いであった。
「おだてるな、半蔵。――してみると、そちらも松尾山の鵺殿《ぬえどの》をもてあましておるとみえるな」
「されば、あの一万三千の向背は、文字通り天下の分れ目」
「半蔵、その一万三千の向背がわかったか」
「正直、かぶとをぬぎ申した。そちらは?」
「うふふ、わからぬからこそ、そちらの用件を知りつつここに来たのじゃわ」
「御老人、実は事はいそぐ。おたがいの腹のさぐり合い、とぼけ合いは、おたがいによすとしよう。いまはたしかにそちらにも、中納言の腹はわからぬと信じて話をすすめる」
「おお、それこそ、こちらの望むところだ」
「で、松尾山の向背は天下争奪の争いにつながると同時に、服部党、波ノ平党の命運にもつながる。それで、おれはいまは敵の法眼どのに来てもらったのだ」
「――正直、合戦の起る前に、おれも知りたい。伊賀者の誇りにかけて喃《のう》」
「その通りでござる。法眼どの、伊賀者の誇りにかけて、その一件に関するかぎり、波ノ平、服部、共同の物見をやってみる気はないか」
「敵味方共同の物見。――古今にきいたことがないが、鵺をつかまえるためには、それも妙策かもしれぬ」
「一方の物見だけでは、私情がまじる、空頼みがまじる。こんどだけは、それが恐ろしい」
「共同の物見。それはよいとして、誰《だれ》がゆく」
「それでござる。ちと考えることがあって、服部の方では、ここにおる浮舟伴作《うきふねばんさく》という男と、小笹《こざさ》という女をつかわしたい」
「こりゃふしぎじゃ。おれも実は、ここに弥勒甚五郎《みろくじんごろう》、撫子《なでしこ》というふたりの忍びの配下をつれてきた」
「それは好都合。おれは、談合成れば、御老人にひとまず小関村に帰っていただいて、二人の忍者をえらび出してもらおうと思っておったが、それならこの場からただちに松尾山に上ってもらえる」
「半蔵、この四人の物見の結果が悉《ことごと》く一致すればよいが、別々ちがっておったらどうするな」
「おれも、それを考えてござる。四人が一致するかもしれぬが、三人同じで一人がちがうかもしれぬ。二人と二人、異なるかもしれぬ。それを、おれと御老人がここに待っておって、よく勘考しようといちどは思索したが、御老人」
「ふむ」
「そちらの忍びの者が、中納言の裏切りはまことだと物見してかえってくるとする。中納言が裏切れば、きょうのいくさは西軍の負けじゃ。西軍が負ければ、おのれらの命はない、まことにつらい物見で。――それを逆にかえせば、こちらも同様」
「それは忍者の宿命として、やむを得ぬ」
「やむを得ぬが、そもそも、波ノ平党の忍者が、物見の結果、この半蔵の前で、おのれのまことの見解を偽りなく申したてるであろうか?」
「その疑心はおたがいさまじゃ。だいいち、そこまで疑えば、共同の物見というやつの意味がなくなる」
「そこでおれは、また考えた。物見に出た者が、万いつわらぬ方法を」
「どう考えた」
「おれの配下二人、もしくは一人、もし中納言の裏切りなしと思えば、西軍に走れ。それをそのものの判断の結果と見る」
「そして、おれの配下二人、もしくは一人、もし中納言の裏切りありと思えば、東軍に走れ、というのか?」
「左様。要するに、おのれの勝つと信じる方へ走るのでござる。服部組が徳川に、波ノ平組が石田へ帰ってくれば、それでもともと、われらはただその物見の結果をきくだけでよい。黙ってきくよりほかはない。しかし、それぞれの両人、もしくは一人、敵陣に走った場合――その判断があやまってその陣が敗れれば、これは自業自得というべし、もしその判断的中して、その軍が勝てば――ふつうなら、勝てばとて元来は敵方の乱波、ただではすまぬところじゃが、このたびにかぎって、この半蔵、そちらの法眼どの、おのれの手柄にかえて抱き入れるとしよう。――こう考えた。御老人、いかがでござる」
「――よかろう。もし、おれのところの甚五郎、撫子が徳川に走って、徳川が勝ったとしてもおれはにくむまい。実はこの両人、殺すに惜しい奴とは思うておった。万一この両人が、中納言の裏切りありと判断して徳川に走り、その通り石田が敗れても、両人が服部組に入ってそれぞれの忍法をつたえてゆくと思えば、おれも笑って眼がつぶれる。この思いは、そちらも同様だろう。その心をくんで、若《も》しそこな伴作、小笹とやらが石田方にくれば、波ノ平党、両手をひろげて迎えてやるぞ」
「談合は成った! これで梟火で法眼老を呼んだ甲斐《かい》があったというもの」
むしろほがらかな笑いをふくんだ声が、水の上を交流した。――この夜、数刻ののち、日本を二つに分ける一大|修羅場《しゆらば》と化すべき関ヶ原の闇の曠野《こうや》で、水をへだててこのように妖《あや》しい会見が行われたことを、敵味方十五万余の戦士のうち何人が知っていたろう。
「それにしても、法眼老、おれの談合を快くきかれてかたじけない。――ひょっとしたら、御老人、そちらもおれとそっくりのことを考えてこられたのではないか?」
「うふふ、血のせいよ。おなじ伊賀の血が山彦《やまびこ》のごとく応じたのよ」
「伊賀の――血」
ふたりの笑いは、同時にとまった。十九女ヶ池の波も雨しぶきも、一瞬静止したかと思われる沈黙ののち、波ノ平法眼と服部半蔵の凄愴な声が同時にきこえた。
「ゆけ、撫子、弥勒甚五郎」
「小笹、浮舟伴作、ゆけ!」
五
関ヶ原の西端は火光に染まっていた。いまや大々的に篝火で照らし、東軍迎撃の陣地構築に懸命なのだ。
が、その東軍がまだ関ヶ原の東端に姿もあらわさぬ午前四時ごろ、松尾山にある小早川中納言秀秋の陣営を、大谷刑部が訪れた。
松尾山は三百メートル足らずの小山だが、山頂に平坦の地あり、少し山を下ればまた数か所の平地がある。ここは以前|信長《のぶなが》の部将|不破淡路守《ふわあわじのかみ》が嘗《かつ》て城を築いて浅井《あさい》氏とたたかったところで、いまは城はないが、いたるところに崩れ残る石垣がその趾《あと》をとどめている。これに盾《たて》をならべ、柵を植え、幕を張って、一万三千の小早川兵は陣を設営していた。もとより雨の中に、ここにも篝火が燃えしきっている。
それでも板屋根を急造した本営の一画に、大谷刑部は通された。一行といっても、四、五人の家来を従えただけである。
「殿にはいまだ御寝《ぎよしん》中でござれば、しばらくお待ちを」
小早川家の老臣|平岡頼勝《ひらおかよりかつ》が出て、こう挨拶した。いかにも迷惑を露骨にみせた顔であった。
刑部の家臣たちの眼がひかったが、主人の刑部はわずかにうなずいただけで、その表情はわからない。わからないのは当然だ。この戦《いくさ》上手できこえた三成唯一の盟将は、癩《らい》の末期で眼もみえぬほど白布で顔を巻いているからだった。
ほど経て、侍女のひとりが静かにあらわれて、
「刑部さまのみ、こちらへ。わたくしがお手をひいて御案内いたしまする」
と、うながした。何かいおうとする家来たちを手で押え、刑部ひとり立ちあがる。雨の中を歩み、別の陣営の一室に通されたが、そこがどこか、瞳《ひとみ》もつぶれた刑部にはわからぬ。金吾中納言は、しかし重臣と協議でもしているのか、なかなかそこに現われなかった。
「刑部だ。――刑部が中納言と逢《お》うておる」
高い樹《き》の茂みで、呟《つぶや》くような声がきこえた。
「中納言の姿はみえぬが、刑部の顔がみえる。いや、布で顔を巻いておるから、口だけがみえる。――ええ、雨脚がじゃまだ」
いったい、彼はどういう方法で見ているのであろう。小早川中納言の陣屋は、壁こそなけれ、もとより板で囲ってある。すぐ外に、槍《やり》をかまえて警戒している数十人の鎧甲《よろいかぶと》の護衛兵すら、内部の様子は見えないのに。――その声のきこえるのは、そこからさらに百メートルもはなれた一むらの杉木立の中なのであった。
「刑部がしゃべっておる。……何々、このたびの戦いに豊臣家に御忠節あるときは、秀頼《ひでより》さまが十五歳になられるまで、関白職をおゆずりなされる淀のお方の御所存だと? ううむ、これで相手はまさに中納言だときまったが、刑部め、まるで自分が太閤《たいこう》のような口をききおる」
すぐ外の兵士すらきこえぬ声を、彼はきいている。あきらかに彼は読唇術できいているにちがいないが、しかし、それにしても、どこから刑部の唇がみえるのだ?
「まだいっておる。今までの筑前筑後はもとよりのこと、播州《ばんしゆう》一円、また江州に於て十万石をやるともいっておる。いや、吹きも吹いたりな」
「伴作どの、そこまでいわれたら、しかし中納言とて心がうごくのではありませぬか」
すぐ下の枝で、女の声がきこえた。
「ふむ、三成としたら、それできょう中納言の裏切りをくいとめたら、まだ安いものだろうが――しかし、これはあんまり焦りをあらわに見せすぎて、中納言も子供だましときくだろうが」
「もしっ、伴作どの、わたしも見たい。そのあぶら虫眼《ちゆうがん》を、わたしの眼にもさして下さいまし。何とかして、中納言の顔色を見たいもの――」
「いや、この位置では、中納言の顔はみえぬ。それにこのあぶら虫眼を眼にさしては、八町さきの針まで見える代りに、すぐ鼻の先のものもみえぬ。もし波ノ平組の弥勒甚五郎、撫子のふたりに逢うたら何とする。いや、何としてでもきゃつらをつかまえねばならぬが、あのふたりの始末は、おぬしにまかせてあるのだぞ」
あぶら虫眼とは人の眼を千里眼とする油のようなものであろうか。その通り、服部組の浮舟伴作は、遥かな秀秋の陣屋の羽目板のほんの僅《わず》かな割れ目を通して内部を見ているのであった。
「そうだ、あのふたりもこの松尾山に物見に入っているにちがいないが、どこにいるのか?」
と、小笹が樹上から地上の灌木《かんぼく》を見わたしたとき、浮舟伴作が、
「刑部が消えた。席を立ったらしい。……ううむ、まこと中納言の顔が見たい」
と、いった。その樹上に声が絶えて「――はてな」という名状しがたい疑惑にみちた伴作のつぶやきがきこえたのは、数分ののちであった。
「刑部があんなところに立っておる」
「どこに?」
「陣屋を出たところだ。篝火がもえて、番兵はすぐ近くに槍をもって睨《にら》みまわしておるのに気づかぬと見える。はてな、刑部は五人の家来をつれて山に上って来たのに、いま女と二人づれだぞ」
「女と」
「陣中の女房らしい風態をした女だ。それに刑部が話しておる。……中納言の心はすでに豊臣家にない、裏切りは必死と見たぞ、撫子と――あっ、あの女は、顔ははじめて見るが、撫子という波ノ平組の忍者だ。してみれば、おお、きゃつ大谷刑部ではない。弥勒甚五郎だ!」
「まあ、ほんものの刑部が、癩を病んで顔を布でまいているのにかこつけて――いつのまに入れちがったのか。それにしても刑部に化けて、じかに中納言の心をたたくとは何という不敵な」
「ふたり、悠々とこちらに歩いてくるぞ」
「伴作どの、では、あの両人、徳川方にくるつもりでしょうか」
「いや待て、甚五郎がまた撫子にしゃべっておる。――さて、かくときまったからは、あの浮舟伴作と小笹と申す両人を討ち果たさなければ、松尾山を下るわけにはゆかぬが、きゃつら、どこへいった?――と、おい、吐《ぬ》かしたりな」
「やっぱり、こちらと同様」
「いかにも十九女ヶ池の約定は約定。きゃつらただであの約定に従う手合ではない。やはり、お頭《かしら》の命令通り、討ち果たさねばならぬ」
「伴作どの、いっそ、石田の忍びの者が大谷刑部に化けて入ったと大声でさけんでやったらどうでござりましょう」
「いかぬ。それはならぬ。弥勒甚五郎撫子が、小早川の手のものに討たれたと波ノ平法眼に知られては全てぶちこわしだ。きゃつらはあくまで秘かに始末せねばならぬ。そうであってこそあの二人が徳川方に走ったと法眼が考えるのだ」
「しっ、伴作どの、近すぎてもう見えませぬか。ふたりがついそこまで来ましたので、もうお黙りなされまし」
小笹の声は低かったが、殺気にみちていた。
六
数分のちである。杉木立の下を急ぎ足で通りかかった二人は、ふいに頭上から、「波ノ平組」と、呼ばれて、はっとあげた顔を雨にうたれた。いや、顔を白布で巻いた弥勒甚五郎はべつとして、小早川の陣中女房に化けた撫子の方は、顔をあげたとたん、雨のようなものが眼に入るのをおぼえ、思わず「あっ」と顔を手で覆っていた。
忍者は闇中にも見える練磨をしている。一瞬頭上から薙《な》ぎおとされる数条の鎖を見たのを最後に、撫子はその視力を失った。眼に入ったのは雨ではなく、油のようなものであった。眼のないふたりは、鎖に両足を巻かれた。とみるまに、まるで蓑虫《みのむし》みたいに宙に逆吊《さかづ》りになった。
「おい、声をたてるな」
頭上の声が笑った。
「どうやら、刑部の偽者《にせもの》があらわれたことが、今頃やっとわかって、陣屋の方でも騒ぎ出したようだ。声をたてて見つかると困るのはうぬらだろう。とくに撫子とやらいう女の方は生き恥かこうな。裾《すそ》が逆さに垂れて、ここから見ると」
「服部組の奴らだな」
闇の空中で、逆さにゆれながら、弥勒甚五郎はうめいた。
盲目の大谷刑部を、あらぬ一室に案内してむなしく待たせたのは、小早川の侍女に化けた撫子であり、その刑部に化けて顔を白布でつつみ、秀秋に会見したのは弥勒甚五郎であったのだ。
浮舟伴作はいった。
「その通りだ。これ、刑部に化けて、駄法螺《だぼら》を吹いて、中納言の心がうごいたか。どうやらうまくゆかなかったようだが、どうじゃ、きょうのたたかいは必敗とみて、うぬら徳川家に走るか」
「そういう約定だ」
「約定は約定だが、ただ頭を下げて徳川家に走る気ではあるまい。さっき俺達《おれたち》を討ち果たすと吐《ぬ》かしておったな。これ、何をかんがえておる」
「…………」
「ええ、きかぬでもよい。うぬら、頭を下げてきても、服部組には異物は入れぬ。どうせ誅戮《ちゆうりく》するなら、ここで始末してやる。ここで始末しても、波ノ平法眼が、うぬらが徳川家に走ったと見るは同じだ。四人、ひとりも石田方へ走るものがなければ、きょうのいくさに金吾中納言の裏切りは必然。――そう思っても、西軍がいまさらこの松尾山を攻めるには時期がおくれた。東軍はすぐそこに迫っておるからだ。おい、撫子、裾をかきわけて、東の方を見ろ、うぬの眼に入ったあぶら虫眼は、三尺先のものもみえぬ代りに、八丁先のものでも三尺先のもののようにみえるはずだ。東軍の先鋒が、雲のように関ヶ原の東に湧《わ》き出したのが見えるだろうが」
ケ、ケ、ケ、と杉木立の中の声は、怪鳥のように笑った。
「きょうの戦《いくさ》に、松尾山一万三千のために、西軍も一万三千をさいて備えるか。備えれば、西軍は五万四千、東軍は五万五千に逆に一万三千を加えて六万八千。敗北は必至だな。その戦いの前に、伊賀服部組は伊賀波ノ平組に完勝するのだ」
浮舟伴作の声は凱歌《がいか》と殺気にみちた。
「よし、小笹、鎖をたぐれ」
鎖を投げたのは小笹であった。
宙吊りの二人のからだが寄り、もつれあって、鎖は三尺たぐりあげられた。
そのとき、闇天《あんてん》で悲鳴があがって、樹上の二人が大地に転がりおちた。それよりさきに、やはり地上におちた弥勒甚五郎と撫子が、鎖を足に巻いたままよろめき立ったとき、浮舟伴作と小笹はからだを海老みたいにして、苦悶《くもん》していた。
その喉笛《のどぶえ》に一本ずつの指がくいこんでいる。彼ら自身の指ではない切断された白い指だ。
「波ノ平忍法、鷹の爪。――」
笑った撫子の左手の指は一本もなく、そこから五条の血のすじがおちた。逆吊りになったまま、彼女は懐剣で、己の左手の指をみな切った。鎖がもつれた瞬間に、彼女はそれを弥勒甚五郎に渡した。顔の白布を掻き分けた甚五郎は、五本の指を逆に樹上の二人に投げた。女の指の爪はマキビシよりも恐ろしい毒の爪であった。
「波ノ平組の勝ちだ」
鎖をといて、甚五郎と撫子は、すでに絶命している伴作と小笹のそばに歩み寄った。
甚五郎はうす笑いしてつぶやいた。
「波ノ平組は、約束を守って徳川家に走る」
ふたりはしゃがみこんで、伴作と小笹の屍骸《しがい》の喉笛から毒の爪をぬきとった。
それから――闇の世界で何が起ったか。
ふりそそぐ雨の中に、彼らはきものをぬぎすてて裸体となり、またふたつの屍骸も同様の姿にした。そして、弥勒甚五郎はあおむけの小笹の両腿をじぶんの両膝ではさみ、双腕の掌を小笹の両|脇腹《わきばら》にあてがった。一方、撫子も伴作の屍骸に対しておなじ姿勢をとった。
ふたりはつぶやき出した。
「交合|転生《てんしよう》。……」
「交合転生。……」
くりかえすこの声とともに、両掌《りようて》を屍骸の胸廓《きようかく》におしつける。弾《はじ》くようにはなす。またおしつける。この運動は、一分間約十四、五回の間隔で反覆された。
現代の人間がこの光景を見たら、かならず人工呼吸法を思い出したであろう。いかにも、死者の上半身に加えられる働きはそれに似ていた。しかし、それ以外に――同じリズムで、下半身に加えられるもう一つの働きがあったのだ。
「交合転生」
「交合転生」
十分……二十分……三十分、撫子と甚五郎の声は、呪文《じゆもん》のごとく恍惚《こうこつ》とたかまり、香煙のごとく妖しくもつれ合い――うちたたく冷雨に、そのからだからは、たしかにしぶきではない蒸気が白じろと立ちのぼりはじめた。
いや、生命を燃焼させているふたりだけではない。――見よ、草に横たわったふたりの死びとの肌からも、これまたたしかに雨しぶきではない、白い蒸気のようなものが、うすうすと立ちのぼり出している。
そも、これはどうしたことか。死せる伴作と小笹は、眼をほそく――雨の下に、まばたきもせずにひらいていた。はじめ、星眼|朦朧《もうろう》といった感じであったのが、しだいに銀色のひかりをはなち出した。そしてふたりの両腕は、いつのまにか、それぞれ馬乗りになった撫子と甚五郎の腰にあてがわれて、かえってこれを支えるかたちをとっていたのである。
「交合転生!」
「交合転生!」
声がさけんだ。その声は、死者の口から出た。
同時に、馬乗りになった甚五郎と撫子のからだが、硬直したように棒立ちになったかと思うと、のめるように前に伏した。男女それぞれ、二つに重なり合おうとして、かぶさってきたからだをふりおとし、小笹と伴作はむくりとはね起きた。
「首尾よう、転生になりましたな」
と、伴作がいった。しかしそれは撫子の声であった。そのまま彼は――いや彼女は、雨にぬれつくした浮舟伴作の装束を身にまといはじめている。
「のど[#「のど」に傍点]の傷は、かくしておいた方がよいかもしれぬ」
と、小笹がいった。しかしそれは甚五郎の声であった。そのまま彼女は――いや彼は、先刻巻きすてた顔の白布をちぎって半ばを相手にわたし、残りの布をじぶんのくびに巻きはじめている。
交合転生。――まさに交合によって、弥勒甚五郎は小笹に転生し、撫子は浮舟伴作に転生した。
正確にいえば屍姦《しかん》だ。――死者へながれこむ生命の精、しかし、ふつうならば、この生命と死との交流からは何物をも生み出さぬ。しかるにこの場合、生命は移動した。同時に魂も、生者から死者へ移動した。弥勒甚五郎から小笹へ、さらにおどろくべきことは、本来なら受身であるべき女の撫子から男の伴作へそれが移動したのである。一見それは、死せる浮舟伴作が甦《よみがえ》り、死せる小笹が甦ったようであった。
「では、東軍へ走ろう」
伴作と小笹はすっくと立ちあがった。そして、服部組の忍者の顔をしたふたりの男女は、にっと笑《え》んだ顔を見合わせたのである。
「波ノ平忍法は、天下分目の合戦の勝敗をもくつがえすぞ」
女が男を背負った。それは浮舟伴作の眼が、まだあぶら虫眼のため、地を走ることがむずかしいためであった。そしてふたりが、疾風のように松尾山を駈け下っていったあと、雨と闇の世界に、弥勒甚五郎と撫子の顔をしたふたつの屍骸だけが残された。
七
服部半蔵のもとへ馳《は》せもどった浮舟伴作と小笹は、
「小早川中納言さまは、相違なく東軍にお寝返りなされまする。その時刻は、きょう巳の刻《こく》(午前十時)とつきとめてござる」
と、報告した。半蔵はきいた。
「波ノ平組はどうした」
「きゃつらも、この物見は一致してござるが、御推察の通り、きゃつら東軍に身を寄せる気なく、われらを討ち果たし、われらが西軍に走ったように思わせ、同時に中納言さまが西軍につかれるものと思わせるように謀《はか》る態《てい》に相みえましたので、御指図のごとくきゃつらを討ち果たしました」
「左様か。でかした。や、うぬら、そのくびの白布は!」
「波ノ平の奴らに、吹針で吹かれた傷のあと――さしたることはござらぬ」
快報を受けたよろこびのあまり、さすがの服部半蔵もそれ以上疑わなかった。
両人をひきいれ、半蔵は家康のところへ駈けた。
家康は関ヶ原東端の桃配山《ももくばりやま》に本陣を進めていた。慶長五年九月十五日の夜は明けつつあった。
「十五日、小雨ふる。山間なれば霧深くして五十|間《けん》さきは見えず、霧あがれば百間も百五十間さきもわずかに見ゆるかと思えば、そのまま霧下りて、敵の旗少しばかり見ゆることもあるかと思えば、そのまま見えず。
家康公おん馬立ちさせられ喉ところと、石田治部、小西|摂津《せつつ》、大谷刑部陣場とは、そのあいだ一里ばかりなり。鉄砲の音は霧の中にておびただし。
御馬廻り若者ども、われもわれもと馬を乗りまわし、御備えしかと定まらざるとき、野々村四郎《ののむらしろう》右衛門《えもん》と申すもの、家康公御馬へ馬を乗りかけ申し候。おん腹立ち候て刀を抜きお払いならせられ候えば、野々村には御刀あたらず、御刀抜かせられ候におどろき、野々村走り逃げければ、お腹立ちのあまり、お側《そば》の者|門奈長三郎《もんなちようざぶろう》と申すお小姓の指物《さしもの》を、筒《つつ》の際《きわ》より切られ候えども、身にあたらず」(慶長年中|卜斎記《ぼくさいき》)
これほどいらだっていた家康も、半蔵の報告に愁眉《しゆうび》をひらいた。「思いのほかに悦喜《えつき》あり」と、当時の記録にある。しかるに。――
関ヶ原の合戦は、霧まだふかい辰《たつ》の刻(午前八時)から火ぶたを切っておとした。
勝敗は容易に決しなかった。とくに午前十時に小早川の裏切りを期待していた東軍は、それゆえにかえって、この期待のむなしいことを知ったとき、動揺を禁じ得ず、いちじは危く潰乱《かいらん》状態におちいろうとした。
「この日辰の刻にいくさはじまり、巳の刻に及びてもいまだ勝負分れず、ややもすれば味方追いなびけらるるようになり。金吾中納言秀秋、かねて裏切りすべき由、うすうす聞えしが、いまだそのさまも見えず、家康公の家臣|久留島孫兵衛《くるしままごべえ》、先手より御本陣に駈け参り、金吾が旗色何とも疑わし。違約せんもはかりがたしといえば、御気色《みけしき》にわかに変じ、しきりにおん指をかませられ、さては倅めに欺かれたるかとの上意なり」
家康は若いころから、味方が危いときは指をかむ癖があった。彼の狼狽《ろうばい》と懊悩《おうのう》は察するにあまりある。――
「半蔵!」
鉛色の顔で、家康はさけんだ。十一時ごろであった。関ヶ原一帯、突撃し、逆襲する鉄蹄《てつてい》の下に、すでに数千の屍体が算をみだし、吹きつける風に血の色があり、死臭があった。
服部半蔵が駈けてきて手をつかえたが、もとより家康に劣らぬ死相を呈している。
「うむ一党の物見はどうしたか」
「はっ、実に、何とも――いまいちど、拙者が松尾山に物見に――」
「たわけっ、もうおそいわ。半蔵、うぬの成敗《せいばい》は追ってする。いま、いつわりの物見をもたらした奴らの首を、うぬみずからの手で刎《は》ねい!」
服部半蔵が、高手籠手《たかてこて》にしばりあげられた浮舟伴作と小笹のうしろに立って陣刀をふりあげたとき、家康の本陣の外でつむじ風のような叫喚が巻き起った。いうまでもなく西軍の一隊がそこまで突入して来たのだ。
「小笹、伴作――お味方がかかる窮地におちたのもうぬらのため、服部一党の名は泥にまみれたぞ!」
半蔵が絶叫したとき、小笹がくびをうしろにねじむけ、ニヤリとした。
「おれは服部一党ではない。波ノ平の弥勒甚五郎よ」
ひくいが、あきらかに男の声であった。服部半蔵は棒立ちになり、次の瞬間、恐怖の突風に吹かれたように、その首を斬りおとした。
その血しぶきを半面に受けつつ、浮舟伴作も文字通り血笑《けつしよう》の顔を仰《あお》のかせた。ほそい女の声でいった。
「見よ、東軍は敗れつつある。――わたしは、波ノ平の撫子《なでしこ》――」
みなまでいわせず半蔵の刃がその身首を断《た》った。
小早川秀秋が実際に裏切ったのは、正午過ぎであったが、しかし関ヶ原の一隅に、血と泥にまみれてころがった波ノ平組のふたりの忍者の首には、たしかに勝利の死微笑が刻まれていた。
[#改ページ]
忍者本多佐渡守
一
慶長《けいちよう》十六年十月六日、家康《いえやす》は放鷹《ほうよう》のため、駿府《すんぷ》を発し、江戸にむかった。供奉《ぐぶ》するものは、本多《ほんだ》上野介《こうずけのすけ》、安藤《あんどう》帯刀《たてわき》、成瀬隼人正《なるせはやとのしよう》ら、帷幄《いあく》の愛臣である。
十月九日、一行は小田原についた。城主の大久保《おおくぼ》相模《さがみの》守忠隣《かみただちか》がこれを迎えた。本来ならば、忠隣も大御所《おおごしよ》に従ってそのまま江戸へゆくはずであったが、折悪しく一子の加賀守忠常《かがのかみただつね》が長らく病んで、きょうあすをも知れぬという状態にあったため、このことは廃した。
大久保は徳川譜代《とくがわふだい》中の名門である。このことは、家康が江戸をひらく以前、関東の覇府《はふ》であった小田原にこれを据えたことでもわかるし、また忠常の妻に孫娘をあたえたことでもわかる。
家康が若い日、まだ三河《みかわ》の一土豪にすぎなかったころ、領内に一向一揆《いつこういつき》が起こり、宗教がからんでいるため、家臣団が蜂《はち》の巣をつついたように分裂し、ほとんど家康を死地におとした叛乱《はんらん》となった。このころから大久保一族は、迷いなく、わきめもふらず家康に節をささげた。爾来《じらい》、忠隣は、姉川、三方《みかた》ヶ原《はら》、長篠《ながしの》、長久手《ながくて》と、徳川の運命決する合戦には、つねに家康と馬を並べていた。
家康はふかく彼を重んじ、老職として秀忠《ひでただ》につけて江戸においたのが、子息の忠常が病んだため、三年前から小田原にかえっていた。いかに彼が世に重んじられたかは、
「忠隣、ひさしく国家の政事をとり、威望甚だたかし。忠常度量人に絶す。ゆえに父子の門前、毎日|輿馬群《よばむれ》をなす。その来《きた》り問う者に|各※[#二の字点、unicode303b]《おのおの》飲食を設く。その面《おもて》を知らざる者といえども、入って座に列すれば、すなわち膳《ぜん》をすすめざるなし。江戸小田原のあいだ往還|絡繹《らくえき》たり」
と、「続|本朝通鑑《ほんちようつがん》」にあるのを見てもわかる。
だから家康は、小田原に一泊した夜、忠隣にきいた。それは表むき鷹狩《たかが》りと称しているこんどの出府の真の用件に関してであった。
「倅《せがれ》が死にかけておるというのに、かようなことをそなたに問うは心痛むが、そなたが江戸にゆけぬというからここできく」
と、家康はことわって、さてたずねた。
それはちかく大坂にしかけて、一挙に豊臣《とよとみ》を滅ぼすべきか否かということであった。家康はその春、二条城で会見した秀頼《ひでより》が、思っていた以上にたくましい青年に成長しているのを見て、捨ておかばさきざき容易ならず、という不安を抱きはじめていたのである。
「相模、忌憚《きたん》のないところをいえ」
「それでは、いつわりのない存念を申す」
大久保忠隣は、このとき六十一歳であった。幼少時代から家康のために戦塵《せんじん》をあびつづけてきた肉体は、鍛えぬかれた鉄のようで、その精悍《せいかん》な肌つやは、毫《ごう》も衰えをみせていない。剛毅《ごうき》で、一本気で、思ったことをズケズケといってはばからない忠隣であった。
「大殿《おおとの》のお心はようわかっておりまするが……拙者は大殿の御意向に反対であります。豊臣家はいま討つべきではござらぬ」
家康は何もいわなかった。
「第一に、千姫《せんひめ》さまをいかがあそばす御所存か。あわれ、おんとし十五の後家をお作りあそばしてよろしいか」
まず相模守が千姫のことをいい出したのにはわけがある。八年前、七歳の千姫が大坂城に入ったとき、このあどけない小さな花嫁の輿《こし》のそばに、はるばる彼がついていったからだ。
「第二に、豊臣家は滅ぼさずとも、天下はもはや徳川家のものでござる。それをいま、むりむたいにいくさをしかけて、うら若い秀頼さまを殺されては、かえって大殿のおん名に傷がつきましょう」
「……相模は、左様にかんがえるか」
家康は平静に、そううなずいたばかりである。
この諮問《しもん》の座に、ほかにいたのは家康の秘書ともいうべき本多上野介ひとりであったが、彼もまた影のようにひそとひかえているだけであった。
翌早朝、大久保加賀守忠常は死んだ。享年三十二歳である。家康はくやみの言葉をのべて、江戸へむかった。
江戸からは逆に人々の馳《は》せつけてくる波がひきもきらなかった。その中には、大御所を迎えるために、将軍秀忠がつかわした本多|佐渡守《さどのかみ》や、安藤|対馬守《つしまのかみ》などの人々もあったが、それ以上に、大久保加賀守忠常の病|篤《あつ》しときいて見舞にゆく者が多かった。
十月十六日、家康は江戸城に入った。
数日を経て、例の件について密議があった。座につらなる者は、秀忠をはじめとし、金地院崇伝《こんちいんすうでん》、南光坊天海《なんこうぼうてんかい》ら、いわゆる黒衣の謀僧、秀忠の補佐役、本多佐渡守、土井大炊頭《どいおおいのかみ》、それに酒井《さかい》雅楽頭《うたのかみ》、井伊《いい》掃部頭《かもんのかみ》、本多上野介らの幕府の主脳であった。ここで何が決しられたかは、いうまでもないことであろう。
家康は、その後一ト月あまり、武蔵野《むさしの》で放鷹して、十一月半ば駿府にかえった。
二
土井大炊頭|利勝《としかつ》が本多佐渡守に呼ばれて、その邸《やしき》にいったのは、それから数日ののちであった。
土井大炊頭も、本多佐渡守も、とくに大御所からつけられた将軍秀忠の補佐役である。禄高《ろくだか》からいえば、大炊頭は三万二千石余、佐渡守は二万二千石だが、ふたりの立場は逆であった。年もちがう。佐渡の七十四歳に対して、大炊頭はまだ四十前の若さである。おなじ補佐役といっても、佐渡は秀忠の後見役だが、大炊は秘書にすぎない。すべてにおいて、佐渡は大炊の大先輩であった。
本多佐渡は、大炊頭を愛した。もっとも、だれを愛しているのか、いったい人を愛するという感情があるのか、見当もつかない能面のように無表情な老人だが、陰に陽に、若いじぶんを鍛えよう、ひきたてようとする気持のあることは、茫洋《ぼうよう》とした外貌《がいぼう》をもった大炊頭も、心ではよくわかっている。
しかし、大炊頭は、その日、佐渡に呼ばれた用件をあらかじめ知らなかった。
案内されてゆく方角も、いつもの書院ではない。――と、或《あ》る座敷に通されたとき、さすが、ものに動じぬ大炊頭も、思わず眼を見はった。
「ようお出《いで》。……かようなありさまで、失礼する」
と、本多佐渡はこちらに首をねじむけて笑った。
彼は、閨《ねや》の上にあおむけに横たわっていた。その枕の両側に、ふたりの娘が坐っている。どちらも、息をのむほど肉感的な美貌《びぼう》であった。その一方が――頭をかたむけると、老人の顔に顔を重ねた。
――はじめ、口を吸っているのかと思ったのである。が、すぐに、老人のやせたのどぼとけが、ごくりごくりとうごくのを見て、彼が娘の口から何かをのんでいることがわかった。
大炊頭は眼をうつした。佐渡の夜具のしりの方に、本多上野介が腕をくんで坐っていた。
本多上野介は佐渡守の子で、大御所の寵臣《ちようしん》だ。彼が大御所とともに駿府にかえらなかったことは知っているから、いま父の邸にいることはふしぎではないが、しかし――「これは、そもどうしたことでござる?」と眼で問う大炊頭に、彼はただにがい表情で父の方をながめているだけであった。
女は顔をはなした。口と口とのあいだに透明な粘液が糸をひいて、きれた。
「女の唾《つば》をのむ。……これが、わしの不老の薬で」
佐渡はいった。
「いま、しばらく待たれい」
すると、こんどはもう一方の女が、頭をかたむけて、おなじように老人に唾を口うつししはじめた。そのあいだ、いま唾をのませた女は、小さな唇をつぼませ、頬《ほお》をうごかせている。唾をためているらしい。――
女の唾を不老の薬とする。――それは、そういうこともあり得るかもしれない、と大炊頭もかんがえた。げんに、佐渡守は七十四歳だというのに、異様に若い。実によく似た父子で、ノッペリと長い顔だが、髪の白いことをのぞけば、父の方が、たしか四十六、七の上野介よりも、皮膚があぶらびかりにつやつやしているようだ。
そうか、佐渡どののお若いのは、このような養生のせいであったか、と大炊頭は納得すると同時に、またふしぎに思った。
事実はいま眼前に見るとおりだから事実にちがいないが、ふだん克己《こつき》の化身のような佐渡守の養生法がこのようなものだとは、やはり思いがけないことであり、さらにもうひとつ、佐渡守がどうしてこのようなあさましいといってもいい姿を、きょうわざわざじぶんに見せつけたか、という疑問であった。
「まさか、かような姿までお見せすることはありますまい。と申したのでござるが、いや、きょうは大炊殿に、ありのまま見せる、といってきかぬのでござる」
と、上野介はようやく苦笑を浮かべていった。
「その通り、わしもかような養生をせねばならぬほど年がよった。これからさき、わしがどれほど生きても、さきは知れておる。わしのあとをついで、上様をお守りしてもらわねばならぬ大炊どのじゃ。きょうお呼びしたのは、わしの心得、わしのやりよう、わしのすべてを大炊どのに相伝《そうでん》するためじゃ」
「わたしに、相伝?」
そのとき佐渡は、またも侍女から唾をのみはじめた。
将軍家補佐役としての心得は、何くれとなくこの老人から教えられている。しかし、「相伝」とはまた妙な言葉をつかう、と思って、上野介に眼をうつすと、上野介は、あらためてきびしい表情にもどっていた。能面みたいな父とちがって、鋭さが鋼鉄のように浮き出している上野介だが、このとき彼の全体にはぞっとするほど森厳なものがあらわれた。本多佐渡は、女の唾をのみおえ、起きなおると、身支度をととのえて、たたみの上に出てきて坐った。
「さて、大炊どの」
と、彼はいった。
「大殿の御意《ぎよい》には、大久保相模は徳川家にとって、もはや害をなすものと見る、とのことでござる」
土井大炊頭は愕然《がくぜん》とした。大久保――それは譜代中の最右翼ともいうべき家柄だ。それは青天|霹靂《へきれき》のような発言であった。
ややあって、彼はきいた。
「大御所さまが、左様に仰せられましたか」
「徳川家発祥以来、影の形にそうがごとくつくして参った大久保家じゃ。なんで左様なことを大殿が仰せ出《い》だされよう」
と、しずかに本多上野介がいった。
「が、口には仰せられぬが、その御意はしかとそれがし承わった」
「大殿の御意を、鏡にうつすがごとく承わる奴《やつ》でのうて、なんで大殿がおそばにお使いあそばそう」
満腔《まんこう》の自信を以《もつ》て佐渡はいった。
土井大炊はなおしばらく沈思していたのちにいった。
「大坂のことでござるか」
大久保相模守が、豊臣家を滅ぼすという大御所の意志に反対意見を表明した、ということは、すでに先日の密議で披露《ひろう》されたことであった。しかし、佐渡はくびをふった。
「いや、そうでない。あれも千姫さま、また大殿さまを思えばこその忠言、左様なことをおとがめなさる大御所さまではない。――むしろ、相模が、大坂討つべからず、と申したことは、相模をとりのぞくためのじゃまになっておる」
「…………?」
大炊は判断に苦しんだ。
「というわけはな、相模の娘のひとりが、大坂方の片桐市正《かたぎりいちのかみ》の甥《おい》に嫁《かた》づいておる。もとより、左様な私縁で、相模が大坂攻めに反対したわけではない。しかし、相模の意向がそうと人に知られているうえは、もしいま相模をしりぞければ、徳川家は大坂を滅ぼすつもりでおる、と天下に知られるでござろう。それで、かえって、ちとこまる」
「では、大御所さまは、何ゆえ大久保殿を徳川家に害をなすものと御覧なされたのでござる」
「――まず第一に、相模どのが、息子の加賀どのが病気のため、江戸のお勤めをみずから辞して、勝手に小田原へかえられたること」
と、上野介は指を折った。
「第二にあれほど徳川家の運命決する重大な御評定に、子息が死なれたからとて、江戸へ参られざりしこと」
大炊頭は、心中に、ああ、とうなった。
「第三に加賀どのの御病死に、江戸の旗本どもが御公儀のゆるしを得ず、とるものもとりあえず小田原へかけつけるありさまを御覧あそばしたこと」
佐渡がいった。
「すべて、相模どのの、しらずしらずの思い上りが根《ね》でござる」
乾いた、深沈《しんちん》とした声であった。
「譜代は、その血、その肉、その魂の一片一滴までも徳川家へささげまつるべきもの。――これをすておかば、大久保家はさきざきかならず徳川家にとって害をなすもの、と大殿がおかんがえなされたわけを、大炊どの、おわかりか」
土井大炊頭は、茫洋として本多父子を見ていたが、心の中で戦慄《せんりつ》した。
三
本多父子の大久保相模守に対する弾劾は、至当でもあり、奇怪でもあった。
この父子の徳川家に対する態度は、完全に「滅私」であった。それは大炊頭がげんにこの眼で見ていることであり、またさまざまな挿話を人からきいて、みとめざるを得なかった。あれほど人間性の機微にわたって恐るべき炯眼《けいがん》をそなえている大御所が、ながらく佐渡守を懐刀《ふところがたな》とし、のちには将軍の補佐とし、またいまじぶんは一子の上野介をそば近く召使っているのも当然といえる。
それは「伝説的」とすらいえる忠誠物語であり、君臣譚であった。
本多佐渡が、大炊頭よりも禄高がひくいというのは、特別な事情がある。
「正信《まさのぶ》、人となり深沈胆略あり。明察果断一時比なし。家康その才を知り、政を任せり。正信つねに帷幄《いあく》に侍し、謀議に参預《さんよ》す。家康の天下を定むること、その功大なり。家康、正信を見ること朋友のごとく、秀忠には長者を以て待《たいし》たる」
そのころ、何びとにもこう見られた佐渡守だ。曾《かつ》て家康は、彼に六万石の大禄を恵もうとしたのである。
そのとき、正信は辞してこういった。
「わたくし、富んではおりませぬが、べつに貧しくもありませぬ。一生の生計はいまで充分でござります。弓箭打物《きゆうせんうちもの》とっての功名もありませぬし、年もとりました。もはや、何のお役にもたちませぬ。わたくしに賜わるものがありますれば、何とぞそれを以てほかの勇力の士にあてがわれませ。わたくし、いまとなっては、心しずかに老を送らせていただくのが何よりの御恩でございます」
実際に、彼の生活は質実であった。
その邸もいかにも質素であり、万事かまわないようにみえた。夜具などはすべて木綿《もめん》であり、槍《やり》の鞘留《さやどめ》も紙縄《かみなわ》をつかっていた。出入りの者が瓜茄子《うりなす》のたぐいを贈れば、手ずからその一つだけをとり、「芳志は受ける」といって、残りはみな返した。
そのころやって来た新イスパニアの使節ヴィスカイノの報告書にも、
「将軍の顧問会議長たる佐渡ドノを訪問し、羅紗《らしや》、玻璃器《はりき》、石鹸《せつけん》その他の品物を贈ったが、彼は謝意を表してこれを受け、しばらくしてのち、廉潔にその職をつくさんがために、他人より贈物を受けたるためしなき旨をのべ、贈物をみな返した。――つぎに後藤庄三郎《ごとうしようざぶろう》ドノの家を訪ねたところ、彼は金銀六百万を所有する人であるにかかわらず、一行を大いに歓迎し、羅紗その他の贈物を、躊躇《ちゆうちよ》するところなく受領した」
とある。
その一面、こんな話もある。
駿府で二、三年きびしい倹約令の出たことがある。そのとき佐渡は奉行を承わったが、その年の城の門松は例年より大きくして、正月の間|毎《ごと》にともす蝋燭《ろうそく》も例年より太くした。大御所は彼を呼んできいた。佐渡はこたえた。
「かような御儀式のことを立派に仕るために、かねて倹約をいたして参ったのでござる」
大御所は微笑した。
「弓箭打物とっての功名はない」と、佐渡みずからいった。しかし彼の智恵は百万の大軍にまさるといわれた。曾て、煮ても焼いてもくえぬ奸雄《かんゆう》といわれた松永弾正《まつながだんじよう》が、若い日の佐渡を見て、「わしは徳川の侍をたくさん見たが、おおむね武勇の輩だ。ひとりあの正信は、強からず、柔らかならず、いやしからず、必ず世の常の人物ではない」と評したということだが、その眼に狂いはなかった。
江戸城の築城に、その縄張りで大御所がもっとも議することの多かったのは佐渡だ。
また慶長三年、石田三成《いしだみつなり》が、いわゆる豊臣の七将に追われて、逆に伏見《ふしみ》城の家康のところへ逃げこんだことがある。
そのとき佐渡は、伏見の城にいそぎ上ったが、すでに夜の十一時ごろであった。家康は床についていた。佐渡はうち咳《せ》きうち咳き、「今夜は早う御寝《ぎよしん》なされた」といった。家康は、「佐渡よ、いまごろ何事で参ったか」ときいた。佐渡は、「別のことではござらぬ。石田のこと、いかに思召《おぼしめ》す」といった。「さればよ、わしもいまそのことを思案しておる」と家康がこたえると、彼はにことして「さて安心仕った。もはや佐渡の申すことはござらぬ」とつぶやいて、さっさとひきあげていった。
三成という人物が徳川にとって危険人物であることは、それまでのいきさつから周知のことであったから、本来ならばこれを好機に首と変えて、豊臣七将にわたすべきところだ。それを家康が思案しているのは、将来もっと大きな道具に三成を使うことをかんがえているということで、それを見ぬくというより、おのれの深謀と山彦《やまびこ》のごとくひびき合うのを知って、佐渡は莞爾《かんじ》として退去したのである。この夜の、伏見城におけるこの君臣の姿には、妖琴《ようきん》の絃《いと》と撥《ばち》を見るような凄味《すごみ》がある。
関《せき》ヶ原《はら》以後なお降らぬ信州上田の真田《さなだ》安房《あわの》守昌幸《かみまさゆき》を、ついに開城させて紀伊《きい》の九度山《くどやま》に追いやったのは佐渡の一片の舌であった。この役《えき》に敗れた西軍の総帥浮田中納言秀家《そうすいうきたちゆうなごんひでいえ》が薩摩《さつま》にかくまわれていたのをたくみにさそい出して八丈島に放《はな》ちやったのも彼であった。さらに、なお西南に虎《とら》のごとくうずくまって毛を逆立てている島津《しまづ》を、いつのまにやら手なずけて猫と変えたのも、彼の謀計であった。
反対に、東軍について大功をたてた武将のうち、加藤嘉明《かとうよしあき》があった。家康がこれに五十万石の大封《たいほう》をあてようとしたのを、佐渡はとめた。嘉明は怒《いか》って、彼をうらんだ。佐渡は平然とその邸にいって、「あなたは武勇智謀たぐいまれなるお方で、また豊臣家の恩の深いお方であります。もしいま大国を領したまわば、必ず人の疑いを受けましょう。いま領国の少なきに、いささかのうらみなくおわすならば、恩遇かならず御子孫にいたりましょうぞ」といってかえった。嘉明は一言もなかった。
また当時、諸大名のうちには、なお徳川など眼中になく、あらあらしく驕慢《きようまん》なものが多かった。それをきびしくとりしまることを家康が思いたったとき、「いや、まだお早い」と佐渡はとどめていった。
「いまより御三代将軍までに、ソロリソロリと真綿で首をしめるがごとく遊ばされませ。いまはただ捨ておかるべし」
佐渡守が大御所と対したとき、じぶんで納得できないときは、ただ居眠りをしていた。心に得るものがあったとき、はじめて眼をひらいて、「よく候、よく候」とうなずき、やや度がすぎると思われるほど大御所をほめた。
――以上は、土井大炊頭が、いままでとくと見聞したことの一端だ。手に手をとって教えられなくとも、すべて大炊にとって、補佐役の師表たらざるはない。軍師学の典型たらざるはない。一言でいえば、本多佐渡は大御所の「影」であった。
四
その佐渡が、いま大久保をブラック・リストにのせた。
いままでのような外様《とざま》大名が対象ではない。譜代中の重鎮である。――いや、しかし、思い起せば、譜代にして消えたいくつかの名家の背後にも、この父子の手がうごいたのではないか。という陰微な噂《うわさ》のあったことを大炊頭は思い出した。
天正十八年、それまで大御所の下で第一の謀臣といってよい存在であった石川伯耆守数正《いしかわほうきのかみかずまさ》が、突如、徳川を去って秀吉のもとに奔《はし》り、忘恩のそしりを受けてそのまま落魄《らくはく》してしまったが、あれは石川の自発的な裏切りではない、寝返らざるを得ない破目に佐渡守が追いこんだのだという風評があった。また徳川四天王の一といわれた榊原康政《さかきばらやすまさ》が、関ヶ原後功賞にあずからず、「康政|腸《はらわた》が腐って死に申すと殿に言上《ごんじよう》あれ」とさけんで憤死した悲劇の背後にも、佐渡の意志がはたらいていたという私語もあった。
さらに、いま問題になっている大久保相模守が小田原に退身した原因も、決して愛児の病気によるものではなく、佐渡の手によって片づけられたのだという噂すらあった。
いちじ大久保忠隣は佐渡とならんで秀忠側近の重臣であったが、あるとき佐渡が忠隣に忠告したという。
「相模どの、上様には、われらが用もなきに、たえずお側《そば》に近侍しておるにいささか窮屈におぼえるとの御内意でござる」それで忠隣は、なるべく遠慮を心がけた。そのうち秀忠が他の侍臣にいった。「相模はこのごろ何やらよそよそしい男になりおったの」そして疎《うと》くなった君臣の間は、ついにもとにもどらなかったという。――
これは嘘《うそ》だ。おなじ近侍である大炊頭は知っている。佐渡守は大策師にはちがいないが、そんな子供らしい策をめぐらす人ではない。しかし、世にこの人を評して「佞者《ねいしや》」という語のあるのは、見ようによっては或《ある》いはあたっていないこともないのではないか、彼はちらとそうかんがえた。
いまその人が、じぶんに対してだけにしろ、公然と大久保|貶斥《へんせき》のことを口にした。――それが大御所さまの意志であることは、八幡《はちまん》、まちがいのないところであろう。
しかし、それにしても奇怪としかいいようのないのは、本多佐渡と大久保家の関係をかんがえたときであった。
佐渡守は若いとき、忠隣の父の忠世《ただよ》に日ごろから可愛がられ、塩、味噌《みそ》、薪《まき》にいたるまでもらい、大《おお》晦日《みそか》と正月の飯はかならず大久保家で食うというほどの深い縁であった、ときいていたからである。
しかも、いま佐渡はいう。――
「徳川家のおんためには、相模に消えてもらわねばならぬ」
冷たいが、しかし「私心」の曇りは一点もない、澄みきった老人の眼であった。
「いかに譜代なればとて、いや譜代なればこそ、増上慢のきざしでも仄《ほの》見えたときは、その芽のうちに摘まねばならぬ。まずこの大殿の御意は、しかと胸に刻んでおかれよ。――大殿の御意は鉄のごとくうごかぬが、さて、いかにして相模を消すか、わしのやりようをこれより大炊どのに相伝《そうでん》いたそう」
そのとき、家来がやってきてつたえた。
「駿府より、波太郎《なみたろう》帰ってござります」
「おお、それはちょうどよい。ここへ通せ」
「むさくるしき姿をしておりますが」
「かまわぬ、通せ」
と、佐渡はいった。それから大炊頭に話した。
「さて、いかにして相模を消すか。――いま申した大殿御不興の条々を以て、相模をとがめることは相成らぬ。ことが倅の病死に関しておるだけに、まかりまちがえば大殿御無情のそしりを下々《しもじも》にたてさせることになるのでな」
大炊はうなずいた。
「と、申して、ほかに相模にさしたる罪はない。むりむたいに罪におとせば――それ、先刻いった相模の大坂攻め反対のことがかんぐられて、大坂方を素破《すわ》と総立ちさせるきっかけにならぬともはかりがたい。――要するに、じかに相模当人をとがめ立てすることはかんがえものじゃて」
「――では?」
「世人も、相模自身も、よくわからぬ罪で相模を消す。しかも、それがむりとは思わせぬ法がある」
「…………」
「それは、相模ではない。大久保一族のほかの誰かの罪で相模をひっかけることじゃ」
大炊頭は、心中にまたうなった。罪九族におよぶのが普通といっていい当時の法では、なるほどこれは一手段である。
「大久保一族の、だれを?」
「石見《いわみ》、石見」
と、佐渡はいった。面白げにさえみえる眼色になっていた。
「山将軍大久保|石見守長安《いわみのかみながやす》」
そのとき、座敷にだれか入って来たものがあった。ふりかえって、大炊頭は眼を見はった。
そこにきちんと坐って、おじぎをしたのは十二、三の少年であった。それが、雀《すずめ》の巣のようなあたまをして、浮浪児としかみえない風態なのだ。その少年が、おじぎをすませると、だまってふところから三つの蜜柑《みかん》をとり出して、前にならべた。
「長安めを料理するのでござるよ」
と、少年にうなずいてみせただけで、佐渡守がまたいうのに、大炊頭はふいに不安な表情をした。さっきから気にかかっていたことである。例の美しいふたりの娘は、しとやかにそこに坐っている。それに立ち去るように命じもせず、そこにまた、えたいのしれぬ怪少年が闖入《ちんにゆう》して来たというのに、佐渡は実に恐るべき秘計を口にしているのであった。
「これか」
と、佐渡は気がついたようであった。
「このものどもは大事ない。――わしの犬でござる」
「犬?」
「飼犬同然のものどもでござる。こやつらは、天地が裂けようと、わしを裏切ることはない。ゆけと命ずれば、水火の中へでもゆくでござろう。左様に、仕込んである。――四人|姉弟《きようだい》のうち三人でござるが」
そういわれて、あらためて少年をふりかえると、垢《あか》と埃《ほこり》に覆われているが、つぶらな眼だけは、姉たちと同様に美しい光をはなっている。しかし、それ以上のことは、まだ大炊には見当もつかなかった。
「大炊どの。……この娘どもの唾が不老の妙薬じゃと先刻申したな。若い女の唾が、すべて不老の薬になるかどうかはわしにも請け合えぬが、この娘どもの唾がそれだけの精をもっておることは請け合う。これは、ただのものどもではない」
「……何者ですか」
「根来組《ねごろぐみ》」
「根来組?」
「と申す忍者のたぐいでござる」
「忍者」
と、大炊頭がさけんだとき、佐渡は「これへ」と、はじめて少年に声をかけた。
少年は、起《た》っていって、三つの蜜柑を佐渡守の前においてさがった。
本多佐渡は、その蜜柑の一つをとって、皮をむいた。大炊頭のすぐ眼前である。佐渡はたしかにその皮をむいた。が、その中からあらわれたのは、蜜柑のふさではなく、一塊の白いものであった。それをひらくと、何やら墨でしたためた一片の白絹となった。
佐渡は読んで、上野介にわたし、二つめの蜜柑の皮をむきはじめた。あらわれたのは、やはり一つめと同様のものである。
完全に天然のままとしかみえぬ蜜柑――なんたる奇怪な秘状の容器であろうか。三つめの皮をむいている本多佐渡の手もとを、さすがの大炊頭も、かっと眼を見ひらいて凝視したきりであった。
五
三つめの蜜柑から出てきた、三つめの絹の秘状を読みおわると、本多上野介は、三つをまるめて、そばの青銅の大火鉢の、よくおこっている炭にかざした。青い炎がぽっとうつって、絹はもえあがった。
浮浪児のような少年が駿府からもたらしたものだということは、いまきいたが、何者からの手紙か知れぬ。何がかいてあったか、もとよりわからない。
「これよ」
と、本多佐渡はふりむいて、ふたりの娘にいった。
「もうよい。さがれ。……波太郎を洗ってやれ」
ふたりの侍女は、波太郎をうながして去った。顔だちはみなちがうが、姉弟と教えられれば、なるほどそれらしいそぶりであった。
しかし土井|大炊頭《おおいのかみ》は、それよりも、いまの秘状をくるんでいた蜜柑の皮を、なおまじまじとながめている。
「手品ではない。……根来流の忍法でござる」
と、佐渡は微笑した。
「いずれ、彼らは、あらためて大炊どのにひき合わせ、大炊どのの手足となるように仕込むつもりでおる」
「根来流と仰せられたな」
と、大炊頭はいった。根来組なら、彼も知らないではない。
紀州根来山にふるくから伝わる新義|真言宗《しんごんしゆう》の根来寺という寺があったが、いちじは堂塔二千七百余坊を数えるほど栄え、おびただしい僧兵を擁して、宛然《えんぜん》一国をなす観があった。この僧兵は鉄砲をあやつるのがたくみで、信長《のぶなが》の天下|布武《ふぶ》の鉄鞭《てつべん》にすら頑強に抵抗し、秀吉の手を待ってはじめて征伐された歴史を持つ。いまを去ること二十六年前の天正十三年のことだ。
寺を焼かれ、追いはらわれた僧兵は、流浪《るろう》の末、家康にすがった。家康はそのうちの数十人をえりすぐって召抱え、重臣の成瀬|隼人正《はやとのしよう》にこれをゆだねた。この一党は、前身が僧であったため、ことごとく総髪という異形《いぎよう》の風態で、且《かつ》、鉄砲の名手ぞろいとはきいているが、彼らが忍法の体得者でもあったとは、はじめてきいた。
「根来衆は、忍法者でもござるか」
「みながそうではないが、そういう奴もおるらしい」
と、佐渡はひとごとみたいにうなずいた。
「ただし、わしの知っておる忍法は、隼人正のところの根来組ではない。根来のものどもが太閤《たいこう》に滅ぼされるはるか以前……ある縁で、根来流の忍者父子を知りましてな。両人とも、わしに身命をささげる誓いをなし、その通り、わしのために果ててくれたが……いまの娘どもは、その孫、子供たちでござるよ」
それで、大炊は、ふと、この本多佐渡の過去を思い出した。
この老人が妖気《ようき》をおびて見られるのは、ただ恐るべき権謀の人といわれるゆえばかりではない。その過去のせいもある。
いまでこそ佐渡は、大御所の「影」のような存在であるが、この佐渡が、かつては大御所に叛《そむ》いたことがある。例の一向一揆の指導者が、若き日の佐渡、すなわち本多弥八郎《ほんだやはちろう》正信であったのだ。一揆がねじ伏せられたのち、弥八郎はひとり三河を逐電《ちくてん》し、ゆくえを絶った。永禄《えいろく》七年、弥八郎二十七歳のときである。それから彼が、どこで何をしていたのか、誰も知らない。大炊も佐渡守から、きいたことがない。ただそのあいだ、畿内、東海、北陸のあたりを漂泊していたらしい。松永弾正が、彼を「ただものではない」と評したというのも、このころのことであろう。
弥八郎が、家康のまえにふたたび姿をあらわしたのは、それから実に十九年目のことであった。天正十年のことである。弥八郎は四十代の半ばに達していた。そのあいだに何があったか、彼は右足がちんばになっていた。
このとき、家康は信長に招かれて上洛《じようらく》していた。たまたま突如として本能寺《ほんのうじ》の変が起り、家康は堺《さかい》に立往生した。と知るや、正信は郷士《ごうし》一党百人ばかりを集めて木津川のあたりに篝火《かがりび》の陣を張り、いかにも家康がここを通ってひきあげるように明智の兵に思わせ、そのすきに家康に伊賀《いが》を経て三河へぶじ帰らせたという話がある。
いったいそれは、佐渡が家康に再会した直後のことなのか、それともこの働きで帰参がゆるされたのか、佐渡は手柄話を一切しない人だし、何しろ大炊頭が十か十一のころの話なので、そのへんは漠としている。いずれにせよ、いちど叛逆《はんぎやく》した男が十九年ぶりに帰参した前後に、家康の運命を決する大事件が勃発《ぼつぱつ》したということは、いかにも劇的である。
このいきさつも、大炊頭にとって伝説的であったが、かんがえてみれば、その以後のことの方がもっと神秘的だ。この十九年ぶりにもどったかつての叛臣が、爾来《じらい》、大御所の分身ともいうべき帷幕《いばく》の謀臣となったのだから。――こんな例は、ほかの重臣を見まわしてみても、ひとりもない。いや、生まれてから、家康のために粉骨砕身してきたその重臣たちでさえ、この人物の手によって何人かしりぞけられるほどの存在になったのだから。
いまにして思うと、一向一揆ののち、彼がひとり三河を逐電したのも、家康としめし合わせてのことで、以後諸国の形勢をうかがっていたのではあるまいかとさえ疑われる。それにしても、叛乱そのものは若い家康を死地におとすほど凄《すさま》じいものであったときいているし、さらに十九年の漂泊というのも長すぎるが、とにかく彼が、いまの娘たちの父や祖父――根来の忍者を相知ったのは、その謎《なぞ》の空白時代のことであろう。
ほんとうにそのころ、佐渡は何をしていたのか。その忍者とはどんな関係があったのか。……あらためて大炊頭は、この老人にくわしくききたい衝動をおぼえたが、しかし彼は抑制した。いまにいたるまで、幕閣のだれもが、そのことについて漠たる知識しかもっていないということは、それだけの理由があるからだ。つまり佐渡が誰にも語りたがらなかったということだ。それをきいてはならぬ、大炊はそうかんがえた。色白の、ふくよかな顔をしている大炊頭には、それだけの克己心があった。
「いまの少年は、駿府の大久保石見守の邸から来たものでござるよ」
「ほう」
「あれたちのいちばんの姉が……三年前から石見の妾《めかけ》になっておりましてな」
「ほう」
大炊頭は、馬鹿みたいに二度うめいた。
実際、おどろいて、馬鹿みたいな返事をするよりほかはなかったのだが、頭はクルクル回転して、佐渡の言葉の意味するところをとらえようとしている。先刻佐渡は、大久保相模守を失脚させるために、その縁戚《えんせき》の大久保石見守を狙《ねら》うといった。そこに三年前から、佐渡の手から妾を入れてあるということは――すでに三年前から大久保一族を葬ると決っていたということだ。
上野介の方がいい出した。
「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ、と申す。……さて、その馬の石見じゃが、あれは相模とちがって、徳川家譜代の家来ではない。したがって、あれを除くことには相模ほど気に病む必要はないが、何しろ石見も稀代《きだい》の才物でござる。御存じのようなあれの奢《おご》りぶりも、かねがね大御所さまはにがにがしく思召しておられたが、いままでともかくもなすがままに捨ておかれたのも、あの金山《かなやま》掘りにかけては魔法使いと思われるほどの怪腕のゆえでござった。しかし、あれのおかげで、いまの徳川家には、天下取りのいくさを起すだけの軍費は充分たくわえられてござる。もはや、石見は、無用とはいわぬが、捨ておかばこれまたかえって徳川家の障《さわ》りとなる男。……それに、才物だけに石見には、相模とちがって隙《すき》がある。すでにわれらの手から三年前に女を――しかも忍者たる女を妾として入れてあるのを、まだ気がつかぬほどの油断がある。石見を罠《わな》にかけておとし入れる下ごしらえはすでに成った。と申してよいのでござるが……」
「さて、大炊どの」
佐渡は、大炊頭の眼をのぞきこむようにしていった。
「大久保石見を罠にかけて罪し、その罪を大久保相模に及ぼす。この秘策、これはこれでよいのでござるが、それだけでは足りぬのじゃ」
くぼんだ眼窩《がんか》のおくで、眼が老猫《ろうびよう》のごとく琥珀《こはく》色にひかった。
「何が足らぬか。それは、いまはいうまい。……大炊どの、本多父子のやりようを、ここ一両日のあいだ、ようく見ておりなされよ」
何が足らぬか、それどころか大炊頭には、事のすべてがよく了解できない。
何よりわからないのは、そもそも本多父子がなぜ、きょうじぶんを呼び、なぜこのような陰謀をじぶんにうちあけたか、ということであった。――ただし、陰謀とはいうものの、この父子の恣意《しい》にあるものではなく、その背後に大御所の影があることは疑いをいれない。それだけに、この計画には、いっそう身の毛もよだつ恐ろしさがある。
佐渡はしずかにいった。
「実は、それが眼目《がんもく》でござる。事を起すに先立って大炊どのをお呼び立ていたしたのは、さきになって、いま佐渡がかようなことを申したのを、ようく思い出して、失礼ながら胆に銘じていただきたい存念からでござる」
六
いわゆる「岡本大八《おかもとだいはち》事件」というものが起ったのは、その翌年の三月のことである。
駿府にいる本多上野介の家来に岡本大八という男があった。上野介が大御所の秘書ともいうべき存在であったが、この岡本大八は上野介の秘書役のひとりであった。剃刀《かみそり》のような上野介にくらべて、非常に愛嬌《あいきよう》がよく、如才がなく、陽性の人間なので、上野介はかえってそこを買ったとみえて、主として大名への使者、接待役――いまの言葉でいえば、渉外係として使っていた。
その大八が、ここ数年、主家の本多家にゆくよりも、やはり駿府にある金山総奉行《かなやまそうぶぎよう》大久保石見守長安の邸にいることの方が多いようになった。
いちど、そんな噂をきいた縁戚の大久保相模守が長安に注意したことがある。
「おぬしのところに、上野《こうずけ》のところの岡本大八がしょっちゅう出入りしておるということではないか。上野という男は、腹の底に何を抱いているかわからぬ男、よう気をつけられいよ」
これに対して、長安は剛腹に一笑した。
「私にも、人を見る眼はある。大八は左様な心配をするほどの男ではござらぬ。むしろ、きゃつを近づけておる方が、上野介の首根ッこをおさえるのに、何かと便宜で」
大久保長安には自信があった。
まず第一に、いかに猜疑《さいぎ》の眼を以てしても、岡本大八という男が、それほど警戒すべき人間とは思われない。長安自身が派手好きで享楽家だから、同類感覚でよくわかる。大八もまた天性の女好みで、快楽家なので、大八の主人が冷徹で厳格な本多上野介であることは、彼にとって救いのない悲劇である。長安の邸は、駿府における一大社交場であった。長安は、上野介のようにきびしくは垣を設けなかったから、そこには、大名、旗本、学者、富商が日夜参集した。岡本大八は別にこれといった用もないのにやってきて、その豪奢《ごうしや》な宴《うたげ》に、まんまるい顔となめらかにうごく赤い唇をいつも見せていた。あの疑いぶかい上野介のことだから、あるいは大八に、この社交場から何かと情報をとるように命じたのかもしれないが、大八自身にとっては、まったくこの邸が居心地がいいのだ。
第二に、相模守が何をかんがえているかしれないが――そして、たしかに本多上野介が、おなじ幕閣の同僚にすら深沈たる監察の眼をそそいでいる人間であること、とくにじぶんには、何となく性格的にけぶったい存在であることは承知しているが――じぶんに、痛くもない腹をさぐられるおぼえはちっともない。ぜいたくなのは、もうずっと以前から大御所さまご黙認のことだ。
第三に、長安は、たとえばほかから見て、じぶんにどんな欠点があろうと、それに数倍する功績と必要性が徳川家に対してあると自負している。じぶんが徳川家の金山奉行となってから、石見、佐渡、伊豆《いず》などの鉱山は、まるで魔術のごとく金銀を吹きはじめたではないか。この方面にかけてのじぶんの手腕がなかったら、いまの徳川はなかったろうとさえ思う。徳川家のためにじぶんが生み出した財宝の量にくらべれば、少々のじぶんのぜいたくなどは、まさに九牛の一毛にもあたらないほどである。――
――もっとも大久保長安は、べつにこれほど深刻な疑惑の眼をもって、いつも岡本大八を見ていたわけではない。ただ大久保一族の宗家《そうけ》たる相模守からふと注意されて、ちらとこんなことをかんがえて見ただけだ。
むしろ彼は、本多上野介の家来である大八を、じぶんのまわりにうろつかせておくことは、決して不利ではないと判断していた。消極的には、ことさら彼を拒否する理由もないが、積極的には、相模にこたえたように「上野介の首根ッこをおさえる」ためにである。――どうみても、まるまっちい岡本大八はたいへんな好色漢で、欲がふかくて、うすっぺらな道化役者であった。こちらにその気があれば、彼は大久保家にとってよりも、本多家にとって危なっかしい人間とみる方が適当な人間であった。
果せるかな、岡本大八がおかしな行為をしているという噂を、長安が耳にしたのは慶長十七年の年があらたまってまもなくのことである。
大久保家に直接関係したことではないが、大久保家に集まる名士連を相手に、彼が詐欺行為をやっているらしいというのだ。なんでも大御所側近の主人上野介にうまくとりなしてやるという口実で、何人からか金品をまきあげたらしい。ただし、それほど大がかりなものではない。長安はこのことを上野介に知らせてやるほど、上野介に親愛の情をおぼえなかった。
長安は、ひそかに大八の身辺を探った。そして大八が去年の暮ごろから、ひとりの若い妾を手に入れて、この妾がすばらしい美女で、かつ、なかなかのぜいたく屋であることをきいて苦笑した。大八の犯罪のもとはそれだ。
長安は、大八から身をはなした。一方で、眼をそそいだ。そして、つかずはなれずの姿勢をとったことを、大八自身に気づかれないように注意した。
やがて、事件が起った。
七
大久保石見守の邸を訪れるもののなかに、有馬修理大夫晴信《ありましゆりだゆうはるのぶ》という大名があった。肥前日野江《ひぜんひのえ》四万石の城主である。
慶長十四年、晴信は家康の命令で、伽羅香《きやらこう》を求むべく朱印船を占城《チヤンバ》(いまのベトナム)に送ったが、船はその途中|媽港《マカオ》に泊した。そのとき、その乗組員と在留ポルトガル人とのあいだに喧嘩《けんか》が起り、相手の数人を殺害した。ポルトガル人は大挙して仕返しにやってきて、朱印船の乗組員五人が殺され、貨物を掠奪《りやくだつ》された。
晴信は大いに怒り、復讐《ふくしゆう》の日を待っていた。果然、その年の末、ポルトガル船が長崎に入港した。晴信は兵船八|艘《そう》をもってこの黒船を襲い、のがれ去ろうとするのを海上に追い、火壺《ひつぼ》を投げかけ、乗り移って、火焔《かえん》の中に乱闘し、ついにポルトガル船は、船員二百余名をのせたまま海底に燃え沈んだ。
このときに本多佐渡が、将軍秀忠の命により、晴信にあたえた奉書が残っている。
「大御所さまより仰せつけられ候黒船、御成敗候て、参府ならせられ候ところ、大御所さまよろこびに思召《おぼしめ》され、おん腰物手ずから御拝領、なおさら黒船の荷物以下まで下しおかれる由《よし》仰せをこうむり候。まことにひとかたならぬおん事、謝し申しがたく候。その通り将軍さまへ披露つかまつり候ところ、大かたならず御祝着《ごしゆうちやく》に思召され、一段のおしあわせともに御座候。委曲は後音の時に期し、一二する能《あた》わず候。恐惶《きようこう》謹言
慶長十五年正月二十二日
有馬修理大夫様 本多佐渡守正信」
この晴信が、この慶長十七年正月駿府にいって、大久保邸を訪れたとき、岡本大八がちかづいた。そしていった。
「さる年、あなたさまのポルトガル船焼打ちのことは、大御所さま御感《ぎよかん》あさからず、ちかくさらに御褒美をあたえたいと、主人上野介に内々仰せられたそうです。所領の地など望みたまうところはございませぬか」
晴信はよろこんでいった。
「左様ならば、望みを申す。いま鍋島《なべしま》の領地となっておる藤津《ふじつ》、彼杵《そのき》、杵島《きのしま》三郡、あれはもともと有馬家累代の所領であった。そなたのはからいにより上野介どのに申して、この三郡をお返し下さるならば、晴信のよろこびこれにまさるものはない」
そして晴信は、その斡旋料《あつせんりよう》として、相当の金銀や綾羅《りようら》のたぐいを贈った。
その後|音沙汰《おとさた》がないので、晴信は使いをやって、あの件はどうなったかときいた。大八は追いつめられて、一通の文書を見せ、これが例の三郡をあて行われる御教書《みきようしよ》の草案でござる、大八、苦心のすえ、上野介さまのおん居間から写しとってきたものゆえ、人に語られな、ただおとなしゅう、いましばらくお待ちあるよう、といった。さらに大八は、このことを首尾よく成就せしめるには、なお閣老級の人々に贈り物をする必要があるといい、白銀六千両ばかりを晴信から乞《こ》いとった。
そのあとで、晴信がどうしても不審に思い、内々本多上野介にききあわせたところ、上野介は愕然として、何もあずかり知らぬむねをこたえたことから、一切が曝露《ばくろ》したのである。
岡本大八は召し捕られた。そして有馬晴信と大八は、駿府の大久保石見守の邸で対決させられた。三月十八日のことである。
これが大久保邸で行われたということは、大八の犯罪の発端がここを舞台としたというので、長安がその証人となる意味もあったが、もう一つ理由があった。本来なら、駿府で起ったこういう事件は、大御所の司法長官ともいうべき本多上野介がとりあつかうところだが、何しろ被告が彼の家来なので、長安に裁きがゆだねられたのである。長安は、証人と裁判官をかねた。そしてまた幕府の蔵相兼通産相ともたとうべき人物にこのような役割があてられたというような点が、いかにも職分のまだはっきりとしない草創の時代を思わせる。
理非は明らかであった。
「有馬修理大夫、愚人のためにたばかられたは、まったく私欲にまなこくらみしによる。ましてやそのために、大八に金銀を贈るとはもってのほかのふるまい、よって修理大夫を甲州に配流《はいる》申しつける」
大久保長安は断獄した。
「岡本大八は安倍川《あべかわ》において磔《はりつけ》罪」
長安は、いい気持そうであった。何より彼は、清廉の権化みたいな顔をしている本多上野介の側近から、こんな大汚職者が出たことに、皮肉な微笑を禁じ得なかったのである。
本多上野介に罪は及ばなかったが、彼は当分謹慎せざるを得なかった。
三月二十一日、岡本大八は駿府市内を引廻しになったあと、安倍川のほとりで磔に処せられた。たまたま土井大炊頭は所用あって駿府にあり、これを見た。
八
道化者岡本大八の最期に対して、天はそれにそぐわない、分《ぶん》にすぎた二つの花で飾った。
一つは自然の花であった。旧暦で三月二十一日といえば、桜の盛りであった。安倍川の堤には、桜並木が満開をすぎて、すでに花びらを春風にとばしていた。
一つは人間の花であった。もうひとり、大八とならんで磔にかけられた女があったのだ。大八の妾のお万《まん》という女であった。捨札《すてふだ》には、大八をそそのかし、大八を罪におとした妖婦《ようふ》として彼女を責める墨痕《ぼつこん》がつらねられていた。
事件が曝露されたとき、だれしも大八の強欲をにくむとともに、その犯行の無謀さにあきれたのである。しかし、彼に罪を犯させたというその妾を見たとき、だれもがまた「ああ」と納得の嘆声をあげた。それはどんな男でも、無軌道な愚行に追いこみ、底なしの地獄におとさずにはおかないだろうと、ひと目見ただけでもうなずかせるほどの肉感的な美女であった。
陽炎《かげろう》たつ水を背に、白い河原に立てられた二本の磔柱の上で、岡本大八は何やら吼《ほ》えていた。風にのってくるその獣のような絶叫は、はじめ恐怖と呪《のろ》いとみれんの悲鳴かときこえたが、耳をすますとこうさけんでいた。
「おれはおまえを恨みに思わぬ。おまえのために、おまえといっしょに死ねるなら本望だ」
花が、もう一本の磔柱を吹きめぐった。引廻しのあいだにみだれたか、女の一方の乳房はむき出しになって、それは象牙のようにひかった。大八の叫び声をよそに、彼女は象牙のように冷やかであった。
ある予感から、土井大炊頭は編笠に面《おもて》をつつんで、微行できて、竹矢来《たけやらい》をへだて、群衆にまじってこれを見ていた。予感はしていたが、やはり胸をつかれた。その女は去年の秋、江戸の本多佐渡の邸で逢ったあの姉妹のひとりであったのだ。
果せるかな、この事件の背後には、本多父子の意志がある。岡本大八もまた直接その意志によってうごいた傀儡《かいらい》であろうか。そうは思われぬ。それならば、あの女は必要がないからだ。彼は、あの女によってうごかされた哀れな愚かしい道具にすぎない。しかし、女はあきらかに本多父子の意志のもとにうごいている。
本多上野介が江戸からつれて来た女を、自分の放った女とは感づかれないで、どうして大八の妾としたか、その女がどんな風にして、大八を肉欲と物欲の餓狼《がろう》にしたか、それはわからぬ。しかし、あの上野介の手際と、女の美貌をもってすれば、それは易々《いい》たるものであったろう。
それにしても奇怪なのは、この結末を知りつつ、いやみずからこの結末を作りつつ、あえて死の座に上って、冷然平然としている女の心であった。大炊頭の耳に、佐渡の声が虫の羽音のように鳴った。「飼犬同然のものどもでござる。こやつらは天地が裂けようと、わしを裏切ることはない。左様に仕込んである……」
さらに奇怪なのは、本多父子の意志そのものだ。彼らは大久保石見守を罠にかける、といった。しかしこの岡本大八事件が、どうして石見守を罠にかけることになるのか。傷がついたのは、大八の主人本多上野介の方ではないのか。
数人の槍手《やりて》が歩き出した。まず女の磔柱の方であった。
「先にゆくか、お万――三途《さんず》の川で待っておれ。そこでおまえの美しいからだを洗って、血をおとしてやろうぞ」
と、大八がまたさけんだ。
二本の槍の穂先がひかって、女の両わきから胸へ刺しこまれた。
そのとき大炊頭は、すぐそばで、小さくうなるような声をきいた。見下ろすと、腰のあたりに、雀の巣みたいな頭があった。はっとして、二、三歩はなれ、大炊頭はもういちどその姿を見まもった。
本多佐渡の邸で見たあの少年だ。やはり浮浪児然たる風態で、垢だらけのこぶしで竹矢来を痺《しび》れるほどひっつかみ、眼をひからせて向うの光景を凝視していた。
「これは」
思わず大炊頭は、嗄《か》れた声をかけた。少年はびくっとふりむいた。
「あれは、おまえの姉ではないか?」
少年は爛《らん》と白くひかる眼で大炊頭をにらんだが、たちまち大きな尻切草履《しりきれぞうり》をはねあげて、むささびのように群衆のかなたへ駈け去った。
九
それから約一年ばかりのあいだは、大久保石見守長安の波瀾《はらん》にみちた生涯のうちでも、その豪奢ぶりが夕映えのごとくもえかがやいた日々であったろう。
そもそも彼は、徳川家譜代の家臣ではなかった。
元来彼は、甲州|武田《たけだ》家の猿楽師《さるがくし》で、大蔵藤十郎《おおくらとうじゆうろう》といった男だ。それが天性鉱物や植物に興味を持って、しかもそれを産業化するのに特異な能力をもっていた。彼に茄子や瓜でも作らせると、百姓よりも大きくて美味なものを生み出し、金銀の製煉《せいれん》をやらせてみると、旧来のものとは面目一新するほど有効な独創的な方法を案出した。信玄《しんげん》はそれを見込んで、甲州金山の奉行とした。
信玄死後、彼は甲州をすてて徳川家に走った、時勢のうごきを見るにも鋭敏であったのだろう。その経済的才能はたちまち家康の嘱目《しよくもく》するところとなり、彼を重臣大久保忠隣にあずけた。彼が大久保と結んだ機縁のはじめである。やがて彼は、大久保一族の女を妻とし、大久保|十兵衛《じゆうべえ》と名を改め、租税検地などにずばぬけた能力を見せ、石見、佐渡、伊豆などの金山奉行、八千石の大久保石見守長安と名乗る身分に成りあがった。
長安は、鉱山の採掘経営については古今独歩の天才であった。彼の手のふれるところ、廃坑にひとしい鉱山は、錬金術師の息吹《いぶき》をあびたように燦爛《さんらん》たる光をはなち出した。
いかに彼が家康のためにおびただしい金銀を生み出してやったかは――たとえば、慶長十二年、家康が駿府に隠退したとき、江戸の西城にあった黄金三万枚、銀一万三千貫をそっくり将軍秀忠にわたしていったにもかかわらず、十年後、彼が死んだとき、駿府にはまた新たに黄金九十四万両、銀五万貫がたくわえられていたということでもわかる。そのすべてが長安の献上したものでないにしろ、その大部分が彼の魔術によったものであることは、家康が金山奉行たる長安を江戸に置かず、じぶんの膝下《ひざもと》に置いたことからでも分明だ。
当然、彼は奢った。――当時の見聞録にも「日本一のおごり者」という言葉がある。
「佐渡、石見、諸国金山へ上下するに、召使いの|女掾sじよろう》女房を八十人、その次あわせて二百五十人、そのほか伝馬人足いくばくという数をしらず、ひとえに天人の如《ごと》し、さらに凡夫の及ぶところにあらず」
万事地味な徳川の家風の中の一大異彩だ。派手で、ぜいたくやで、豪快で、快楽家で――ひとの思惑《おもわく》など、歯牙《しが》にもかけないといったところがあった。
ただひとり、何となくけぶったいのは本多上野介であった。こちらにやましいところはないが、天性、合わないのだ。人間、ひと皮むけば、みんな肉欲と物欲のかたまりだという信念をもっている長安にとっては、その点で、少くとも鉄甲に身を鎧《よろ》って、まったく隙《すき》のないかにみえる上野介という存在は、実にとり扱いにくいものに思われた。
その上野介が、はじめてしくじった。家来の岡本大八の大汚職によってだ。
彼はそれ以来、ひそと邸に垂れこめたままであった。大御所の不興を買ったというより、みずから恥じ、みずから責めているようであった。
気がついてみると、大御所は、長安に対して「経」のみならず「政」についても、何かと相談するようになっていた。
さらに大御所は、しばしば大久保邸に赴いて、遊んでゆくようになった。長安は趣味の一つとして果物つくりの名人で、厖大《ぼうだい》な邸の一部に実験的果樹園を設けていた。家康は、これは趣味ではなく、殖産の見地から、やはりそういうことに関心をもっていて、長安のみごとな栽培ぶりを見に月に一、二度来たことがあったが、その年から翌年にかけて、葡萄、西瓜、柿、蜜柑などの出来栄えを見に、数度もその邸に臨んだのである。そのときも、以前には影の形にそうように従っていた本多上野介の姿は見られなかった。
当時「大久保十兵衛どのは天下総代官」と形容したものがある。その羽振を見るべきである。いまや彼の実質的な権勢は、宗家の大久保相模守をすらはるかにしのいで見えた。
なんぞ知らん、この栄華の背に、しずかに、しかし着々と、うす暗い死と破局の翳《かげ》がしのび寄っていようとは。――まして、それが彼自身を目標としたものですらなく、他のまことの目標をたおすための道具に見立てられていようとは。
十
鷹狩りに出ていた大御所が、帰城の途中、ふいに大久保長安の邸に立ち寄った。
長安がおどろいて迎えると、
「いや、かまうな。おまえに逢いに来たのではない」
と、家康は手をふった。大御所には珍しく洒落《しやらく》な笑顔であった。
「西瓜畑を見に来たのじゃ」
座敷に上ろうともしないのである。いよいよめんくらっている長安をうながして、そのまま、西瓜畑の方へ案内させるのであった。慶長十八年の初夏のことである。
しかし、これは驚天動地というほどのことではなかった。大久保長安が果樹栽培の趣味をもち、大御所もまたそれに少なからぬ興味をよせていることは、前にのべた通りだが、とくに西瓜というのは、当時の珍果だ。いまの観念とはまったくちがう。
元来熱帯産の果実で、しかも渡来してまだ間もない果実であった。家康もこの歳《とし》になるまで、それほどしばしば賞味したことがない。しかし、ただ珍しいというのみで、大してうまいとも思われなかったのだが、ここ数年、大久保石見から献上した西瓜は、まるで別の果物ではないかと思われるほど美味であった。
「殿……大殿……しかし」
長安はあわてていた。
「まだ召しあがるには、いま少しお早うござります」
「ほ、左様か。まあよい、見るだけでも見てゆこう」
宏大な屋敷の一部が、長安自慢の果樹園であった。その中に、西瓜畑があった。数十条のうねに藁を敷き、それを青い葉や蔓が覆っていたが、いたるところ、もう人間の頭より大きな西瓜がごろごろとのぞいて見えた。
これほど大きな果実は、それまで日本ではほかに見られなかったものだ。いかにもこれは、ただ見るだけで、その値うちはある。
「あ、これは」
長安はまた狼狽した。
西瓜畑の中から、ふいに立ちあがったいくつかの影がある。それを愛妾《あいしよう》のお蓮《れん》とその侍女たちだと気がついて、彼はあわてたのだ。
ちょうど日が沈んで、夕風がたちはじめたころであった。涼を求めて、彼女たちはそこを逍遥《しようよう》していたらしい。大御所さまがお成りになったということすらも唐突で、家人のことごとくにまだそのことが徹底して知れわたらない事態であったが、さらに大御所さまがこんなところにおはこびになろうとは、まったく想像のほかであった。
彼女たちは、ふいにあらわれた鷹狩り装束の一団を迎えて、あっけにとられたようにこちらをながめていた。
「ひかえおれ、大御所さまであるぞ!」
長安はさけんだ。女たちは、雷に打たれたようにいっせいに地にひれ伏した。
「石見」
と、家康がいった。
「あれはだれじゃ」
「はっ、当家の女中どもにございまするが、まことに以て……」
「いや、あのまんなかのひときわ美しい女よ」
大御所のいうのが、妾のお蓮をさすことはあきらかであった。一瞬、蒼味《あおみ》をおびた夕風の中に沈んだ女たちのなかで、お蓮の姿は玻璃燈籠《はりどうろう》が崩れおちたように見えた。
「あれは」
さすがの長安が、かすかに赤面した。
長安はこのとし六十五であった。お蓮を側妾《そばめ》としてからもう四、五年になるが、彼女はまだ二十六にしかならない。しかし見たところでは、花盛りの二十前後といっても誰も疑わぬお蓮の美貌である。それを妾としていることをべつに恥じるような長安ではないが、このときばかりは相手が大御所さまだけに、さすがの長安もとっさにそうとは白状しかねた。それに、いままで何度も大御所がこの邸を訪れたが、むろんいちどもお目通りさせたことがない。
「あれは、私の遠縁の女でござります」
「左様か。珍しい美形じゃ……。どうじゃ、長安、城にあげぬか」
家康は笑っていた。これこそ珍しい好色の相《そう》にみえて、長安はどきりとした。
「はっ、かたじけのう存じまするが、あの女、ちとからだが弱うて、御奉公が相かないまするか、どうか」
長安はそういって、ふいにうずくまると、いきなり足もとの西瓜をたたいた。
「大殿、おききなされませ、この音はまだ澄んでおりましょう。これはまだよう熟しておらぬ証拠でござりまする」
「ほ、音でわかるか」
「されば」
彼は短刀をぬいて、その西瓜を切った。果せるかな、それはまだ未熟の薄緑色の肉をみせた。
「この通りでござる、熟すれば、もっと濁った音を発しまする」
しかし長安は西瓜よりも、お蓮から大御所の注意をそらすのに精いっぱいであった。
「恐れいってござりまするが、あと半月お待ち下されまし。よう熟して無類の美味と相なりましたるものを献上いたしますれば」
「あと、半月か。……いや、またわしの方から西瓜畑を見物に来ようぞ」
と、家康はいった。
「あの女人《によにん》に切らせた西瓜を賞味したいのじゃ。どうじゃな、石見」
からかうような口調であったが、こんな種類の諧謔《かいぎやく》はめったに口にする大御所さまではないだけに、どこまで本気か見当がつきかねて、大久保長安もとっさに返答のしようがなかった。
十一
半月のちにまた来ようといった大御所の言葉がどこまで本気か、それをたしかめるに至らぬうちに、大久保石見守の邸では、思いもかけぬ惨劇が起った。
石見守の娘の一人が嫁入った先に、服部伊豆守正重《はつとりいずのかみまさしげ》という者があった。父はいわゆる服部党という徳川家忍び組の創始者たる服部半蔵である。その初代半蔵も慶長元年に歿《ぼつ》し、長子の源左衛門正就《げんざえもんまさなり》もある事情から失踪《しつそう》したので、いま服部家をついでいるのは、次子のこの伊豆守正重であった。通称を、父とおなじく半蔵という。
その娘婿たる服部半蔵が、悍馬《かんば》に鞭打《むちう》って江戸から駿府の大久保邸に急行してきたのだ。深夜であった。
「何か、半蔵」
お蓮と枕をともにしていた長安も、きもをつぶして起きて来た。
「お人ばらいを願いたい」
半蔵ははずむ息をおさえていった。
「きく者はだれもおらぬ。どうしたのだ、半蔵」
「お蓮どののことでござるが」
「なに、お蓮のこと?」
「石見さまには、あのお方をどこで見つけて、お側に召し使われましたるや」
「あれはもう四、五年もまえになるか、伊豆|大仁《おおひと》の庄屋の家に泊った際、そこの養女分の女にて、たまたま給仕に出たのをそのままもらい受けたもの。それはそなたも知っておることではないか。爾来、かげひなたなく、よう年寄りのわしに仕えてくれる。そのお蓮が何とした」
「そのお蓮どのが……本多佐渡の手よりはなたれた密偵にて、根来《ねごろ》流の忍者であるとしたら?」
「何だと? あれが佐渡の密偵?」
「忍びの宗家たる拙者も、まったく気づきませなんだ。佐渡守さまが、まさかおなじ徳川の重臣たる当家に乱波《らつぱ》を入れようとは――拙者いまだに信じられぬようです」
長安は、まだ唖然《あぜん》とした顔で半蔵を見ていたが、やがて笑い出した。
「ばかな――いや、どのような陰謀を張りめぐらすかわからぬ本多ではあるが――あのお蓮にかぎって、佐渡の廻し者などとは――よいか、あれは二十歳《はたち》すぎからわしの手許《てもと》に使うておる女であるぞ。それほど若い奴に、そこまで鼻毛を読まれて気づかぬわしか。ばかも休み休み申せ。そもそも、佐渡が何を探ろうとて、探られて痛む筋は当家にはない。それは、わしは君子ではないから、大御所さまのお気に染まぬところは多々あろうが、それは先刻御承知の上の行状だ。いまさら恐れはばかるところがあってたまるか」
彼はせきこんだ。
「そも、半蔵、そなたは左様なことをどこからきいたのか」
「それが……」
半蔵は口ごもった。
おとといの夜のことだ。彼は冷やした真桑瓜《まくわうり》を食った。瓜の中から妙なものが出て来たのだ。
実におどろくべきことであるが、あとで調べてみても、瓜は完全な天然自然のままの瓜であった。黄色い皮には剥《は》いだときの刃物のあと、白い果肉には割ったときの刃物のあとのほかに、一痕《いつこん》の傷も見られなかった。それなのに、まんなかの髄《しん》の部分がきれいにくりぬかれて、その中に小指ほどの青竹の筒が入っていたのであった。
竹筒からは、さらに一枚の紙片が出て来た。それにはこう書いてあった。
「十兵衛どのの妾、蓮なるものは、本佐の乱波、根来の忍び者なることを存ぜられ候や」
十兵衛とはこの場合、いうまでもなく大久保十兵衛長安、本佐とは本多佐渡守をさすことはあきらかだ。
服部半蔵は、大久保長安といまいったような関係があるから、もとよりお蓮という女性を以前から知っている。本来なら、むろん一笑に付すところだ。その笑いを凍らせたのは、何とも幻妖《げんよう》、その眼で見ながら、なお信じられないこの瓜の中の密書という怪事であった。
その瓜がどこから厨《くりや》の瓜にまぎれこんできたか、家人を調べてみても、まったくわからない。ただ、そういえば、その夕刻門前を乞食《こじき》のような十四、五の少年がウロウロしているのを見た者があるという。――その怪少年のゆくえや、瓜の経路を探索するいとまもなく、とるものもとりあえず、ともかく半蔵は駿府に急行して来た。
――いま、そんな情報をどこから得たか、と長安にききかえされて、しかし半蔵はつまった。瓜の怪異をのべても、信じてもらえそうにない、ということばかりではない。
この怪異から、密書はとうていいたずらとは思えないが、もし事実とするならば、じぶんのような忍者の宗家が大久保家の縁つづきにありながら、いままでついぞ気がついたことがないというのは大不覚であるし、さらにこの密書を送った者の正体がかいもくわからない、ということは、さらに恥の上塗りだ。
「それは、服部組をうごかしてつかんだことでござるが」
と、彼は体面をつくろった。
「ともかくも、お蓮どのをここへ呼んでいただきたい」
先刻、いちどは笑殺したものの、服部半蔵ほどの人間が江戸から駈けつけ、いまそそけ立ったような顔色をしているのに、大久保長安もようやく事態ただごとならずと感じはじめたとみえて、動揺した表情で手をたたき、お蓮を呼ばせた。
お蓮があらわれた。ほんのさっきまで長安とおなじ褥《しとね》でみせていた妖艶《ようえん》たぐいない寝みだれ姿はさすがにぬぐい去り、身ずまいをあらためて、
「何の御用でございますか」
と、手をつかえ、不安げにやや小首をかたむけてふりあおいだ顔は、さしもの半蔵がおのれの疑惑を疑ったくらいのあどけない美しさであった。
しかし、半蔵は眼光と意志を凝集させた。
ふいにさけんだ
「佐渡のくノ一」
はっとして、お蓮は立ちあがっていた。
くノ一とは女のことだ。女という字を分解すればくノ一となる。とくにこれは、女を以て探りを入れる忍法の陰語だ。ふつうの人間は、もとより意味も知らぬ。――それなのに、お蓮は立った。いや、鳥の羽ばたくように裳裾《もすそ》をひるがえして天井に舞いあがった。
「おおっ」
服部半蔵はおどりあがり、手をふった。天井に霰《あられ》のような音がして、いちめん、黒い星座が散った。マキビシだ。四方八方に釘《くぎ》がねじくれ出した忍者独特の武器だ。
天井に逆さにぶら下がる――というより、そのまま大地を歩むがごとく逃げ去ろうとしたお蓮の足は、一瞬それに封じられた。
「蓮」
驚愕《きようがく》の眼をむいて、長安はさけんだ。
「うぬはまことに佐渡の忍者であったか。あざむきおったな」
「いま、おわかりか」
逆さになったまま、にっと笑った愛妾の顔が、その刹那《せつな》、長安には妖怪《ようかい》のように見えた。――夢中で彼は、右手につかんだ刀を鞘《さや》ばしらせ、横に薙《な》いでいた。
血しぶきが立った。いや、滝となって降った。お蓮の首はたたみに落ちた。それからも、なお一息か二息、首のない胴は、しかと足で天井に結びつけられているように見えた。が、たちまちそれは真紅《しんく》の妖花のように舞いおちて来た。
「しまった」
服部半蔵はうめいた。
「とらえて、佐渡どのの御意図を吐かせるのでござった」
マキビシで彼女の行動を封じようとしたのは、そのつもりであったろう。しかし大久保長安は、いまのじぶんの狂的な成敗を、早まりすぎたと悔いる余裕も失っている。血の海の中に、美しい身首を異にした愛妾の死骸《しがい》を、まるで悪夢にうなされたような眼で、茫乎《ぼうこ》として見おろしているだけであった。
十二
大御所がふたたび長安の邸を訪れる。という前触れを使いがもたらしたのは、実にその翌朝のことである。
訪問の目的は、なんと先日約束した通り、西瓜を食いにゆきたいというのだ。長安にしてみれば、そんなのんきな応対をしている場合ではないが、相手が大御所さまだけに、もとより拒むことなどできなかった。
「佐渡がわしに忍びの者を? よし、これを機会に大御所さまにそのことを言上しようか」
使者の去ったあと、長安は半蔵に相談した。半蔵は思案したのち、くびをふった。
「いや、いまとなっては何の証拠もござりませぬ。しばらくお待ち下されい。拙者、江戸にて服部組の力の及ぶかぎり探って見ましょう」
そして半蔵は、馬を飛ばせて江戸へはせ帰っていった。
お蓮の屍骸は、夜のうちに仮の埋葬をしておいた。座敷の血を洗いおとし、何くわぬ顔で長安は大御所を待った。何くわぬ顔といっても、さすがに長安の眉宇《びう》には陰鬱《いんうつ》なものがあった。それは本多佐渡への怒りと恨みの翳であった。
午後、家康が来た。
侍臣のなかに、珍しい顔があった。土井|大炊頭利勝《おおいのかみとしかつ》である。彼が数日前から駿府に来ていることを知っていたが、まさか大御所の西瓜食いの訪問に同行して来ようとは思わなかった。
「いや大殿が、大炊も長安どのお手作りの西瓜を食べてみよ、とおすすめ下さるのでな」
と、大炊は笑っていった。
長安は、昨夜の一件をひそかに大炊に打明けようかと思った。おなじ将軍補佐役でも、佐渡とちがってこの土井大炊頭には、若いが茫洋としたあたたかみがあって、長安には好意がもてる。しかし、再考してみるのに、この人物は佐渡の同僚である。それにここ数年、佐渡がじぶんの後継者として、何くれとなく大炊をひきたてようとしていることは、長安も感づいていた。それで、長安はこのことをやめた。すべては、婿の服部半蔵の報告をきいてからのことだ。
――土井大炊頭には、しかし或るぶきみな予感があった。それは、こんど江戸をたつとき、本多佐渡守から、「駿府へゆかれたら、大御所さまが西瓜を食べに長安のところへお成りあそばす。そのときは、きっとお供なされい」と笑顔でささやかれたからである。むろんこのたびの駿府|行《こう》はそれが目的ではないが、彼が大久保邸に来たのは、あきらかに佐渡のすすめによるものであった。しかし大炊は、この邸で何が起るか知らない。
家康は、また西瓜畑を見にいった。そして長安に教えられて、たたく音でその熟未熟を鑑別する遊びに興じた。そして、やがてひとつの大きな西瓜を指した。
「石見、これはどうであろうか」
「これならば、熟れきって、さぞ美味でござりましょう。長安が保証いたしまする」
「では、これを冷やしておけ」
その西瓜は、うやうやしく運ばれて、井戸に吊《つ》るされた。
座敷にもどって、数刻の座談ののち、家康がいった。
「西瓜はもう冷えたであろう」
「御意《ぎよい》。ただいま、切らせて持ちまする」
「いや、切るな、長安、所望《しよもう》がある」
家康はにこにこと笑っていた。
「いつぞやの美女。あのものの手にて、ここで切らせい。さぞ西瓜の味もいや増すであろう」
長安は狼狽していった。
「大殿、もったいなき御諚《ごじよう》ではござるが、かのもの、ここ数日、気分すぐれず、ただいま伏せっております」
「なに、病んでおるとや」
大御所はやや失望した表情をした。
「それでは、是非もない。またのおりとしよう。誰でもよい。西瓜を切らせい」
夏の夕ぐれである。広い庭園からは青い風が吹いた。庭は豪奢な緑の饗宴《きようえん》のようであった。……そのなかに、チラとうごいたものがある。
土井大炊頭だけが気がついて、はっとした。苔《こけ》むした石燈籠《いしどうろう》のかげにしゃがんでいる小さな影がある。その影というより、灌木《かんぼく》のしげみからのぞく異様にひかる二つの瞳《ひとみ》に、大炊はあやうく声をたてようとした。それは去年安倍川の処刑場でみた例の怪少年波太郎の眼にまぎれもなかった。
そのとき、家康の面前では大俎《おおまないた》に例の西瓜がのせられて、白だすきをした小姓が、ものものしく庖丁《ほうちよう》をあてようとしていた。
「あーっ」
突如、凄じい悲鳴があがった。座にいたもののすべての絶叫であった。小姓は庖丁をもったまま、一|間《けん》もうしろへ飛んで尻《しり》もちをついている。
西瓜はぽっかりと二つに割れて、左右にころがっていた。中に赤い果肉はなかった。それは巨大な胡桃《くるみ》みたいに、皮だけの空洞であった。
そして、俎の上に鎮座しているのは、一個の女の生首であったのだ。みだれかかる黒髪のかげから、恨めしげにじいっと長安の方をながめている白蝋《はくろう》のような顔をみて、長安は息も声も出なかった。いうまでもなく、埋葬したはずの愛妾お蓮の首だ。
「――石見っ」
腰を浮かせ、立ちすくんでいた家康はさけんだ。
「これがわしへの馳走《ちそう》か。いいや、わしへの皮肉か!」
「と、殿!」
家康がとんでもないかんちがいをしていることに気がついて、大久保長安は仰天して、その足にとりすがった。
「このものは、本多佐渡どのの諜者《ちようじや》にて、昨夜成敗したものでござります」
「佐渡の諜者? 佐渡がおなじ徳川の奉行に諜者を入れることがあるか。それともうぬら、佐渡から諜者を入れられるような秘密があるか。いやさ、たとえ諜者としても、それをかような無惨な首として、わざわざ余の眼前に披露する理由があるか。石見っ、乱心いたしたな」
家康は、どんと長安の胸を蹴《け》かえした。
「のけ、城に帰る」
家康はあともふりかえらず、つかつかと歩き出した。
大久保長安は見送る余裕も失い、蜘蛛《くも》みたいに這《は》いつくばったままであった。めったに怒ることのない大御所さまだがひとたび怒ると恐ろしい。まして、これほど激怒の相を見せたことは、わが身にはもとより、ほかの家来に対してもおぼえがないほどであった。――しかも、とっさにこの事態をいいとくことはむずかしい。いや、おちついて考えても、その釈明を正気のものとして受け入れてもらうことはむずかしい。
そも、じぶんは正気であろうか。これは現実のことであろうか。昨夜から突如としてじぶんにふりかかって来た霹靂のごとき異変は、夢魔の世界のことではなかろうか。――うなされたような視線を廻すと、愛妾お蓮の首は、依然彼を凝視している。それが、にっと笑ったような気がした。
「…………」
名状しがたい恐怖のうめきを発し、長安はまたがばと面《おもて》を伏せてしまった。網膜についで脳膜に、墨色《すみいろ》の霞《かすみ》がかかってきた。彼は喪神した。
大波のひくような座敷に、このときまでただひとり残っていた人間が、音もなく立ちあがった。土井大炊である。
彼は石燈籠のかげの二つの眼が、いつのまにか消え失《う》せていることを知った。――いまごろあの少年は、江戸の本多佐渡のもとへ韋駄天《いだてん》のごとく駈けていることであろう。
いかにして、あの女が昨夜大久保長安に成敗されたのか、大炊は知らぬ。しかし、それがどんななりゆきであろうと、女は覚悟の上でじぶんの首を斬られたに相違ない。大炊頭は本多佐渡のささやきを思い出した。すべてはあの老人の意図のままだ。
そして大炊頭は、さらに恐るべき事実に想到して、背に水が走るような思いがした。それは妖琴の絃と撥のごとく、きょうの大御所さまの訪問は、佐渡の意図と符節を合わせたるものであるということであった。
十三
その夜その日の衝撃のために、大久保長安は寝ついてしまった。
それでも大御所さまに対し、謝罪と弁解の使者を向けようとしたが、大御所はこれを受けつけなかった。その絶望のために、長安はほんとうの病気になった。
長安が灯の消えるように死んだのは、それからまもなくのことである。例の西瓜首の一件がひそかに巷《ちまた》にもれ、狂死したとか自殺したとかいう風説も伝わった。
彼が死ぬと同時に、役人たちが大久保邸に乱入した。そして彼の寝所の床下を調べた。すると、そこに二重になった石櫃《いしびつ》が置かれ、中に切支丹《キリシタン》関係の十字架、磔像《たくぞう》、祭具、文書などが充満しているのが発見された。
――さてこそ、と人々はうなずいた。
「……あの西瓜首も、伴天連《バテレン》の妖術であったという」
「……いや、あの金銀を湯水のように湧かしたのも切支丹の魔法であったというぞ」
実際大久保長安の才腕には、人々にそう噂させるもむりからぬような妖気があり、その豪奢な驕《おご》りぶりには、人々の反感をひき起すだけの傍若無人《ぼうじやくぶじん》なところがあった。
まさに槿花一朝《きんかいつちよう》の夢だ。長安一族への追罰は疾風迅雷、厳酷《げんこく》をきわめた。
その子息、大久保|藤十郎《とうじゆうろう》、外記《げき》、権之助《ごんのすけ》、内膳《ないぜん》、そのほか越後、播磨《はりま》に住んでいた息子まで、合わせて七人、ことごとく切腹を命ぜられ、彼に使われていた下役人三十余人は打首獄門の仕置を受けた。その余波は、彼の娘を妻としたものたちにも及び、例の服部半蔵も、弟に家督をゆずって浪々の身となるの余儀なきに至った。
ところで、長安の一族には、別格の大物があった。長安の一族というより、大久保の宗家ともいうべき小田原の城主大久保相模守|忠隣《ただちか》である。
さすがに彼には、しばらくなんのとがめもなかったが、しかしまったくこの騒動の圏外に置かれたというわけではない。
「大久保相模守もその縁者たればお咎《とが》めあるべきなれど三河以来無双の忠臣たれば別条なしといえども、こんどの一儀も忠隣知らざることはあるまじきに、一向注進の沙汰なきは心得ずとの御不審のおぼしめしありしゆえに、何とやらん御気色《みけしき》ありげに見えけるとぞ」
その年の暮、大久保相模守は、京の切支丹制禁のため、上洛を命ぜられた。一族の長安が切支丹であったという嫌疑で罰せられたあとのことである。さすが剛腹な相模守も、なんの異議もなく、唯々《いい》として急ぎ京に上った。
果然、彼に対する処分は、それに追い討ちをかけた。
小田原領五万石を召し上げ、城は没収し、相模守を追放に処するという厳刑である。
かくて、徳川家の世臣《せいしん》であって、譜代中の譜代、重臣中の重臣たる大久保忠隣も、一朝にして流竄《るざん》の身に落ちた。
土井大炊頭は舌を巻いた。
本多佐渡の矢は的《まと》に中《あた》った。的は大久保相模守忠隣である。彼は傲岸《ごうがん》であった。この傲岸さは、将来徳川家に禍《わざわい》をなすものと目された。しかし彼はまた忠節であった。むしろその傲岸さは、おのれの忠節を自負するあまりから発した。大御所の意志を知りながら、ひとり大坂城攻めに反対を表明したのもそのあらわれである。
大久保忠隣をたおすには、彼はあまりに堂々としていすぎた。無理にたおせば、世はその意図にかならずや不審を抱くであろう。そして彼が大坂城攻め反対論者であるという事実が、必要以上に強く浮かび出してくるにちがいない。
そこで佐渡は、忠隣をひとまずおいて、その親族の大久保長安に狙いをつけた。この人物は、見ようによっては忠隣以上の大物であったが、ともかくその処世に於《おい》て八方破れの弱点があった。たとえどのような死に方をし、死後いかなる秘密が曝露されても、人々に「さもあらん」とうなずかせるような妖《あや》しいふしがあった。――長安の死後、その寝所から発見された邪宗門の祭具は、あれは佐渡の「くノ一」お蓮がしかけておいたものに相違ないが、しかし人々は長安と結びつけて毫も不自然なことに思わなかったろう。長安が死んだのはますますもっけのさいわいだが、長安が死ななくとも、必ずや彼はあの一件を以て遠からず誅戮《ちゆうりく》されたにちがいない。
佐渡は、長安を槓杆《てこ》として忠隣をたおした。しかしもはや人々は、忠隣のたおされたことをあやしまなかった。罪九族に及ぶという法観念のゆきわたった時代だから、他人はもとより大久保一族、いや当の忠隣自身ですら、その失脚を納得したのであろう。
土井大炊頭は、ああ、とうなった。
この騒ぎが一応おさまったころ、彼は本多佐渡に逢った。
「――おわかりか」
と、佐渡は笑っていった。
「わかりました」
と、大炊は素直にうなずいたが、またいった。
「しかし、わからぬこともござる」
「何が」
「上野介どのの家臣岡本大八の一件です。岡本大八を大久保石見の手であばかれ、処断されたため――その恨みを以て、本多御父子が長安を葬り去られた――と噂するものが世にあります。あの一石《いつせき》は、あなたにとっては有害無益なものではござりませなんだか」
「それよ」
本多佐渡は厳粛な顔になっていった。
「あれは、世に左様な噂をたてさせるためでござる」
「なぜ?」
「大御所さまのおんために」
佐渡は能面のような顔でつぶやいた。
「君のため、恨みを一身に集む。――大久保一族のうちには、必ずやこの佐渡を恨んでおるものも多かろう。大炊どの、胆に銘じておかれよ。主君に傷をおつけせぬためには、そのかたわらにあって、奸物《かんぶつ》、佞臣《ねいしん》とそしられる人間が要るのでござるよ」
大坂の陣が起ったのは翌慶長十九年のことであった。
十四
大坂の陣に於《お》ける本多父子の権謀はだれでも知っている。
二十万の東軍は大坂城を攻囲したが、いわゆる「冬の陣」では落ちず、いったん和睦《わぼく》となり、その条件として大坂城は外濠《そとぼり》を埋めることになった。
「上野介あらかじめこの策をきき、相約すらく、某壁《ぼうへき》より某壁にいたるまではこれをこぼち、某壁より某壁にいたるまではこれをうずむ。すでに和してのち、衆をしてこれを埋めしむ。大坂の使者|来《きた》りて曰《いわ》く、破るところすでに約に過ぐと。上野介、軍にあり。病と称してあえて答えず。使者しばしば来り、しきりに請《こ》う。上野介帳内にあり、熱大いに発すと称して、ついに出《い》でて使者を見ず。すでにして日をかさね、諸軍多く集まり、塁《るい》をならし、わずかに存するところは本城のみ」(羅山《らざん》文集)
「淀《よど》どの、この由《よし》をききたまいて、お玉《たま》といえる女房に大野|主馬《しゆめ》そえて京都にのぼせ、本多佐渡守にその由をいえば、佐渡守承わりて、上野介がうつけにて侍《はべ》れば、ものの下知《げち》するさまをも知らぬ不覚さよ、ただいまこの由を大御所に申さめど、二、三日風に感じて悩まされぬ。薬をも服しぬればやがて平らぎ候らわんほど待ちたまえ。よく申すべきにはべるとてうち過ぎぬ。
とかくするほどに、堀は本城まで埋めぬときいて、大御所大いにおどろきたまい、佐渡を大坂に下さる。佐渡守、かほどまで埋めじとこそ思いしに、かかる奇怪なることはなし、この上はせんかたなし、わが子上野介をはじめその罪軽かるべからず。いそぎまかり帰りてこの由申さんとて帰る」(白石紳書《はくせきしんしよ》)
子供だましといえば子供だまし、辣腕《らつわん》といえば辣腕、とにかく家康、佐渡、上野介三者一体の共謀である。
二十万の大軍で力攻しても落ちなかった大坂城は、たちまち「夏の陣」で落ちた。
天下は完全に徳川のものになった。家康の「天職」は終った。
それは同時に、本多父子の天職も終ったことであった。――そのことを本多佐渡守はどの程度に知っていたろうか。
大坂の役《えき》ののち、ある日、佐渡守が将軍秀忠に「正信が奉公の労を忘れたまわで、ながく子孫の絶えざらんことを思召《おぼしめ》さば、嫡男上野が所領いまのままにてこそ候べけれ。かならず過分に賜うべからず」と訴えたという話から、佐渡がそのことを漠然とながら知覚していたことはたしかである。
大御所が本多父子をどういう眼で見ているか、本多父子が大御所の眼をどういう風に感じていたか。――土井大炊頭は何も知らなかった。
彼は以前の通り、茫洋とした顔で、しかし謹直に、将軍秘書としての役目に精励していた。
いったい土井大炊頭はどんな人柄であったか、こんな逸話がある。――
大炊頭が、勘定奉行|伊丹順斎《いたみじゆんさい》と同道して江戸城内をあるいていると、台所の小者が鶴《つる》を盗み、箱に入れて持ち出してくるのとゆき逢った。小者がおどろいて、逃げるはずみに箱をおとし、鶴があらわれた。伊丹順斎は大いに怒って台所奉行を呼び、小者を死罪に行うことを命じた。大炊頭はこれをきいていて、順斎にいった。「お腹立ちはもっともながら順斎老、死罪に行うほどのことはありますまい。われらの家でも鶴こそ盗まずとも、多少こういうことはありましょう。お上の鶴は、われらの雀《すずめ》より軽うござる。われらの台所で、雀を盗んだからとて、よも人一人を殺すわけにはゆきますまい。堪忍しておやりなされ」順斎は服した。
年少の家光《いえみつ》を教えるのに、その補佐役|青山伯耆守《あおやまほうきのかみ》はすこぶる剛直で、家光に少しでも過失があると、その場をたたず、面《おもて》を犯して諫言《かんげん》した。大炊頭は温柔の人であって、伯耆に叱《しか》られた家光のきげんがややおさまったとき、従容《しようよう》として、「さきほど伯耆が申しあげたことを、いかにきこしめされましたか。このことが父上さまのお耳に入ったるときは、あなたさまはいかがあそばしますか。とにかく伯耆にあれほど苦労をかけられましては、伯耆の身命もつづきますまい。ちと、ふびんに思うてやって下されませ」などいう言い方をした。
松平伊豆守信綱《まつだいらいずのかみのぶつな》は大下戸《おおげこ》であった。大炊頭は大上戸《おおじようご》であった。伊豆守は、天下の老中《ろうじゆう》で大酒をのむのはいかがであろう、と、その点だけは大炊頭に一言があった。ある日、いっしょに神田橋を通っているとき、ひとりの酔っぱらいがいて、よろめき歩く姿がきわめて見苦しかった。伊豆守は、時こそきたれ大炊頭をひとつとっちめてやろうと思い、「大炊どの大炊どの、向うをごらんなされ、みごとなる伊達歩《だてあゆ》み」といった。大炊頭はいった、「あれ見て伊豆どのも少しは酒をたしなみなされ。下戸の酔うた奴ほど見苦しいことはござらぬ」さすがの伊豆守も、なんの挨拶《あいさつ》も出なかった。
堀田正盛《ほつたまさもり》が大身《たいしん》になったとき、大炊頭の邸にやってきて、座談中に、「いったい目付《めつけ》になる人柄は、どんな者がよろしかろうか」ときいた。大炊頭はうなずいて「よいことにお気づきなされた。それは、たとえて申さば、私どもが他家に呼ばれていろいろ馳走を受けるときに、台所から人がきて、その汁には蠅《はえ》が入りました。この膾《なます》には蚊が入りましたといったなら、害にはならぬこととは知りながら、気にかけずにはいられないでしょう。それと同じことでござる。――もとより、毒の入った食物を見のがしにされてはこまる。役人の汚職はこの毒とおなじで、これを早く見つけて報告するのが目付の役ではありますが、さればとて、料理に蠅や蚊のとまったような瑣細《ささい》なことまで申したてる目付は、世に万全の人間などあるものならず、一事すぐれたところがあれば大事に使うべきことを知らぬものだといえましょう」といった。
大炊頭のところへ、はじめて老職に命じられた人が来て、「思いもよらず重職に加わることに相成りましたが、まず大体の心得をおきかせ下さるまいか」ときいた。大炊頭は、「べつにむずかしいことはござらぬ。丸い棒で四角な器《うつわ》をかきまわすようにしておられればよろしい」といった。隅々まで探索するようなことはするな、と教えたのである。
松平信綱がいった。「私は智慧伊豆《ちえいず》などいわれているが、決して智者ではない。なぜかというと、私はまずさしあたって思いついたことは、あとでいくら思案しても、それ以上の工夫の出たためしがない。それにくらべると、大炊頭どのは、きょうはきのうにまさり、日を経て案ずれば案ずるほど、よい御思慮がわき出してくるように見える。大炊頭どのこそ、まことの智者というべきである」
――これらの逸話から、寛大で、従容としていて、ものにこだわることのない彼の温容がまざまざと浮かび出してくるであろう。
この土井大炊頭を、大御所や本多佐渡がどう見ていたか。――実に彼自身がおどろくような秘事を、この底の知れぬ二老人から託されたのは、大坂の役の直後のことである。しかもそれは死にあたっての遺言ともいうべきものであった。
十五
大坂の役の終った元和《げんな》元年の秋、大炊頭はまた本多佐渡に呼ばれた。
戦後処理のことなど、あれこれと雑談したのち、佐渡はふといい出した。
「実は、大炊どのにお頼みしたいことがござってな」
「なんでござろうか」
「用件というより、人間でござる。――いつぞや、ちらと申したことがあるが、お忘れか」
大炊頭がかんがえこんでいると、佐渡は手をうって侍臣を呼び、さらに「あのものども、来るように申せ」と命じた。
ふたりの人間が、しずかに座敷に入って来た。ひとりは若い女で、もうひとりは少年だ。
女は、いつか――といっても、もう五年ばかりも前になるが、この邸で佐渡に口うつしに唾をのませていたあの娘の一人であり、少年はその弟であった。あの唾が、七十をこえた佐渡にとっては不老の薬になるといった。それはともかく、いまその女を見て、五年前とほとんど変らぬ若さに大炊はびっくりしたが、それより、少年が大きくなっているのになお眼を見張った。
あのころ十二、三の小童《こわつぱ》であった。その翌年の春、駿府の安倍川のほとりで彼を見たことがあるが、そのころから四、五年たっているのだから、この変貌《へんぼう》は姉とちがって当然といえる。もう十七、八になったろうか。かつて見た雀の巣みたいな髪はりりしい前髪《まえがみ》となり、もはやそれは少年というより、青年であった。ただ、よくみれば、眼のひかりも頬の線にも、その年齢にはふさわしからぬ凄味と冷やかさがある。――
「例の根来組の姉弟でござる。姉をお才《さい》といい、弟を波太郎と申す」
「……思い出しました」
胸中の感慨をおさえて、大炊頭はいった。
「これを、それがしに頼むと仰せられるのは?」
「このものども、きょうより佐渡の手をはなして、大炊どのにまかせたいのでござる」
ふたりの若い忍者は、いまはじめてこの言葉をきいたらしく、さすがに衝動を受けた表情を佐渡にむけた。佐渡はふりかえりもせず、
「徳川家に対するわしの役目は終った。年も老いた。やがて大炊どのが佐渡に代って、天下の枢機《すうき》をつかさどるおひととなる。――そのとき、こやつらは必ずお役に立ちましょう。まず、飼って見なされ」
「お言葉ですが、それがし、忍びの者のごときは要りませぬし、また使う自信もありませぬ」
「徳川家のために要り申す、また使わねばならぬことを、きっと思いあたられるであろう」
大炊は、佐渡がこの若い根来者を使って大久保長安をたおし、大久保一族を葬り去ったことを思い出さずにはいられなかった。しかも、その経過を刻々とじぶんに見せたことを思い出さずにはいられなかった。あれがじぶんに対する「教育」であったことを、いまは大炊も知っている。
「しかし、このものども、私に従いましょうか」
「佐渡が命ずれば、そうします。これ、いまきいた通りじゃ。お才、波太郎、うぬらきょうかぎり、佐渡をはなれて、この大炊どのの御下知に従え」
ふたりの姉弟は、あきらかに不満と哀《かな》しみの眼色をしていたが、たちまち蒼白《あおじろ》い無表情にもどって、両手をつかえた。
「では、一応、この両人、頂戴《ちようだい》いたす」
大炊頭はこたえたが、またいった。
「しかし、佐渡どの、先刻老いたと仰せられたが、上野介どのがおわす。上野介どのこそ、あなたに代ってやがて天下の枢機をつかさどらるる方、また上野介どのこそ、このものどもを使わるるにふさわしいお方と存ずるが」
「それが、そうでない」
はじめて本多佐渡の顔に苦痛に似たものがあらわれた。
「あれは鋭どすぎる。我《が》が強すぎる。――上野ひとりが忍者を使うことは、徳川家にとって禍がある。従って、上野介自身にもわざわいをもたらすようになる」
佐渡は大炊頭を見た。この理性の怪物ともいうべき老人の眼に、大炊ははじめて弱々しい哀願の翳を見たような気がした。
「わしは、あれを押えて来た。大炊どの、佐渡に代られよ。上野介のことも、佐渡に代って押えられよ。それが本多家のためじゃ」
佐渡はいざりより、大炊頭の手をとった。「大炊どの、くれぐれも上野介をよろしく頼み申すぞ」
――本多家を大炊頭は辞した。馬上にゆられながら思案していた彼は、ふと馬の両側に黙々と従ってくる根来姉弟に気がついた。
「波太郎と申したな」
呼ばれて波太郎は冷たい眼をあげた。
「おまえら、姉ふたりを殺したの。……ふびんな奴《やつ》ら」
じっと大炊頭をふりあおいでいた少年波太郎の眼に、内部の稚《おさ》ない激情が、薄い玻璃《はり》を破ったように、涙となってあふれ出した。
――おそらく、ふびんな奴、という一語すらかけてもらったのは、いまがはじめてではあるまいか、と大炊頭は理解した。
本多佐渡は、この根来流忍者の姉弟を、幼ないころから人間でないものにする教育をしていたのであった。
馬上からしずかにふたりを見まもる大炊頭の眼には、深いあわれみがあった。
土井大炊頭は、本多佐渡が、どうしてあれほどじぶんに、異常なばかりに嘱望《しよくぼう》するのか、うすきみ悪いほどであったが、もうひとり、さらに恐るべき人物が、じぶんにただならぬ使命を託そうと眼をそそいでいたとは、その日まで知らなかった。それを知ったとき、さしも沈毅《ちんき》な彼が、顔色|蒼白《そうはく》となり、全身に冷汗がにじみ出すのを禁じ得なかった。
大御所である。病める家康であった。
家康は、元和二年一月二十一日夜半に発病した。原因は食あたりであったが、七十五歳のからだにそれが致命の病となった。いや、それより、大坂城を滅ぼしたという安堵《あんど》が、彼の気力を完全に奪い去っていったからであろう。家康の「天職」は終ったのである。
病状は一進一退をつづけ、日とともに重くなっていった。将軍秀忠、勅使、公卿《くげ》大名、旗本らは続々として駿府に参集し、城は憂色にとざされた。なかでも、その病床を去らず、もっとも沈痛な顔色をしていたのは、寵臣《ちようしん》本多上野介であった。
三月に入ったある日、やはり駿府に来ていた土井大炊頭は家康に呼ばれた。そのとき、なんのはずみか、病床のあたりには、ほかにひとりの影もなかった。
「甚三郎《じんざぶろう》、近《ちこ》う寄れ」
大御所は大炊の通称を呼び、
「その方に、たのみがある」
と、かすかな声でいった。大炊頭は身をふるわせて、傍《そば》へいざり寄った。
家康はあたまを枕につけて、暗い天井に眼をすえていた。はげしい下痢のため、木乃伊《ミイラ》みたいに小さくなって、かつて大炊が知っている大御所とは別の人間のように見えた。いや、それはすでに人間ではない。醜い、恐ろしい置物のようであった。
「わしは死ぬ」
と、家康はいった。大炊頭はうめいた。
「何を仰せられます。大殿……」
「あとのことじゃが。……」
かすかな声で家康はいった。
「ただ一つ、案じておることがある。……本多よ」
「――は?」
「わしなればこそ、使い馴《な》らした。しかし、秀忠には、……」
家康は首をうごかして、大炊頭を見た。褐色の隈《くま》にふちどられた眼であった。
「大炊、本多を始末せよ」
土井大炊頭は全身がしびれてしまった。それから、骨まで鳴りはじめてくる思いがした。
大御所はいま何と仰せられた。吐息のような声であったが、たしかに本多を始末せよときこえた。徳川が天下をとるまで、ほとんど全智能、全生涯をあげて忠節をつくして来た本多父子を。――
しかし、大炊頭は一瞬ののち、大御所が決して瀕死の妄想から口ばしった言葉ではないことを了解した。そして彼は、数か月前にきいた佐渡守の「徳川家に対するわしの役目は終った」というつぶやきが耳に鳴るのをおぼえたのである。まるで妖琴の絃と撥のように。
彼は大御所の眼を見た。死の翳にふちどられた恐ろしい神秘的な眼であった。大炊はみるみる自分が石か氷かに変ってゆくような気がした。
「……大殿」
しかし、ひれ伏した土井大炊頭の姿は、それまでとおなじ、従容たるものであった。
「何とぞ、お心安らかにおわしませ」
大御所の小康を見すまして、江戸にかえった大炊頭が、お才をつれて本多佐渡の邸にいったのは、その数日後であった。
「せっかくお預りしましたが」
と、彼は微笑していった。
「この女人、どうしてもなつきませぬ。ふしぎなもの、御老人のおそばにおらぬと生きておるような気がせぬと申す」
けげんな表情で迎えた本多佐渡は、じろりとお才を見ていたが、哀艶《あいえん》な女の眼に、珍しく和んだ――しかし、外見にぶきみとしか見られぬ笑いをにじませた。
「忍者をつかうのも大炊、苦手でござるが、それは女とあっては、ますます扱いに窮《きゆう》します。だいいち、私のそばにおくには、あまりにも色っぽすぎて」
大炊らしくない用語に、佐渡はついにかわいた声をたてて笑った。
「左様か。では、死水とってもらうため、女だけはお返しいただこう。しかし、波太郎の方はよろしく頼みますぞ、大炊どの」
十六
大御所がこの世を去ったのは四月十七日であった。七十五歳である。
それから五十日後の六月七日、本多佐渡守正信も死んだ。七十九歳である。
大御所の死は、幕府を震撼させるものであった。その余震の中に、さしも帷幄の臣本多佐渡の死もかげうすく、駿府にあって大御所死後のさまざまの公務に忙殺されていた上野介も、見舞うことはおろか、その死水をとることもできないほどであった。
多くのひとは、佐渡が病んでいたとさえきかなかった。通夜にきたのも、在府の親族のうち少数だけである。――あとで、佐渡の死をきいたものの多くは、
「大御所さまの影として生涯すごされた人じゃ。御本体が失《う》せられて、影もまた消えたのであろう」
と、死をすらほとんどともにした君臣の交わりを感嘆した。
ひっそりと消えた佐渡の死が、しかし実に凄惨《せいさん》なものであることを知っていた人々がある。その死顔を見たもののほかに、大久保一族がそれであった。
前にのべたように、大久保一族は佐渡にはかられてまんまと没落させられたから、彼に対して深讐《しんしゆう》ともいうべき特別の眼をそそいでいたことはいうまでもない。したがって、そういう情報を得るのに、余人にもまして敏感であったと見える。一族の大久保|彦左衛門《ひこざえもん》は書きのこしている。
「因果は皿のはたを廻るといいけるが、さもあらんか。佐渡は三年も過ごさずして、顔に痘瘡《とうそう》を出かして、片頬《かたほお》崩れて奥歯の見えければそのまま死す」(三河物語)
三年といったのは宗家大久保相模守失脚後三年という意味である。因果応報、ざまを見ろと快哉《かいさい》をさけんでいるのである。
しかし、彦左衛門といえども、佐渡の死因の恐ろしさを、ほんとうには知らなかったであろう。
本多佐渡が、じぶんのからだに異常をおぼえたのは、二月の終りであった。唇に硬結《こうけつ》が生じたのである。それが消えたかと思うと、一ト月ばかりして、全体に淡紅色の発疹《はつしん》があらわれた。それは環となってつながり、さらにてらてらとひかる赤銅《しやくどう》色の豆のようなものが皮膚に出来た。口のはたがただれて、乳白色の汁がしみ出して来た。さらに一ト月ばかりたって、高熱と頭痛と骨痛が、波のように襲うようになった。この苦しみのため、彼は大御所の死さえ、夢うつつにきいたほどである。
この奇怪な病気が、どこからとりついたか。――佐渡がそれを知ったのは、五月の半ばすぎであった。このころ、彼のからだは、すきまもないほど赤銅色の結節に覆われて、それが崩れて、血と黄白色の膿《うみ》をしたたらせていた。
「お才。……うぬは」
突然、彼は気がついたのである。
「わしに唐瘡《とうそう》を移したな」
お才は顔色も変えず佐渡を見た。彼女自身はそんな病巣を抱いていようとは夢にも思えない象牙《ぞうげ》みたいにきれいな顔をしていた。
「左様でございます」
と、平然といった。
唐瘡とは、いまでいう梅毒《ばいどく》のことである。本来なら、第一期の初期硬結、第二期の薔薇《ばら》疹、第三期のゴム腫《しゆ》など、早くて三年、遅くて十数年かかる経過が、佐渡の場合は三か月のあいだに来た。
「な、なにゆえ、うぬは……手塩にかけたこの佐渡を」
「殿さま、いつか殿さまは、きょうよりわしの手をはなれよ、と仰せられました。いま、お才の主人は、ほかのおひとでござります」
佐渡は病床で氷結したようになった。
「でも、つらいことでございました。殿、これにてお才の役目は果たしたようでござります。……お才、冥途《めいど》の道案内をいたしまする」
なよやかにお辞儀をして、しずかに去ってゆく女を、佐渡はほとんど意識に映さず、まるでそのまま絶息したようであった。
まもなく、人々のさわぎ声がきこえ、家臣のひとりが駆けこんで来た。
「殿、お才どのが自害なされてござりまするぞ」
「駿府の上野に使いをやれ」
佐渡はさけんだ。
「お才のことではない。本多家の一大事じゃ」
家来がうろたえて立ちかけると、佐渡はまたいった。
「いや、待て、……もはや及ばぬ。使者の要はない」
そして、この老人が発狂したのではないかと、家来がぎょっとしたような、ぶきみなしのび笑いを彼はもらしはじめたのである。
「やりおったな。うふ、たしかに師匠に勝《まさ》る弟子。わしの見込んだ通りじゃ。いかにあがこうと、上野、おまえの運命はきまったわ。うふふふふふふ」
それ以来、本多佐渡守は、一子上野介に使者を出すはおろか、上野介の名すらいちどももらさず、半月ばかりののち、ひっそりと死んだ。
ただ、片頬崩れ、奥歯のみえる恐ろしい形相で。
したがって、大久保一族のみならず、本多上野介もまた父の真の死因を知らなかった。それどころか、彼は大御所の柩《ひつぎ》を守って、余念がなかった。
その柩を久能山《くのうざん》に葬ったとき、彼はわらじをつけてこれに従い、柩をかつぐ武士たちが休めば、「大殿、上野ここにおりまする」といい、またかつぎあげれば、「大殿、上野がおん供申しあげておりまする」とささやき、あたかも生ける家康に仕えるがごとく、きく者ことごとく声をのんだという。
十七
三年後の元和五年、本多上野介は、それまでの小山《おやま》三万三千石に、十二万二千石を加え、宇都宮十五万五千石に封《ほう》ぜられた。
彼は、父が生前決して加増を受けることなかれと戒めた言葉を忘れたのではなかったが、大御所さまの御愛臣として、他とのつりあいがとれぬという老中《ろうじゆう》土井大炊のすすめに、つい従ったのである。
これが彼にとって、とりかえしのつかぬ禍《わざわい》のもととなったことはのちにわかった。加増はともあれ、宇都宮という土地が、妖雲《よううん》をはらんで彼を待ち受けていたのだ。
それまで宇都宮は奥平《おくだいら》家の所領であったが、領主|家昌歿《いえまさぼつ》して、七歳の忠昌《ただまさ》があとをつぐことになったため、あまりに幼君であるという理由で古河《こが》に移封され、本多上野介がこれに代ることになったのである。
しかるに、この忠昌の祖母は、秀忠の姉の亀姫《かめひめ》と呼ばれたひとで、かつ亀姫の娘の一人――すなわち忠昌にとっては叔母にあたる――が、かつて大久保相模守の一子忠常に嫁した女人であった。
亀姫は加納殿《かのうどの》と呼ばれ、なお健在であった。おのれの所領を代って受けるものが本多上野介であると知って、その眼がただならぬひかりをおびた。彼こそは、じぶんの愛娘《まなむすめ》に亡家の歎《なげ》きをみせた怨敵《おんてき》である。――そこで彼女は、せめてもの腹いせに、移封にあたって、宇都宮城にある家財道具ことごとくを古河へ運んで、上野介には一物も残さないようにした。これは幕典《ばくてん》としては許されない違法行為である。本多上野介は、面目にかけて途中でこれをすべて押えさせた。
理は彼にあった。しかし、相手は将軍秀忠の姉であった。そして、法によって彼をかばってくれる大御所はすでにこの世になかった。――秀忠と上野介のあいだに加納殿がたちふさがってヒステリックにさわぎたて、いつしか秀忠と上野介はよそよそしいものになった。
元和八年四月、将軍秀忠は日光御社参の途次、宇都宮城に一泊することになった。そのために、将軍を迎えるべく、上野介は公儀から派遣された根来組同心を使って、昼夜兼行で新御殿の造宮にとりかかった。
根来組というのは、紀州根来寺の僧兵の末で、忍びの術を以て家康に召し抱えられ、はじめに成瀬隼人正の手に属して活躍していたが、世が泰平となるにつれて、伊賀《いが》組、甲賀《こうが》組とおなじく、江戸城の警備、また土木普請のことに従っていた。――その根来組のはたらきで、新御殿は完成した。
四月十四日、将軍秀忠はこの宇都宮城に泊り、日光に上っていった。歓待した上野介とのあいだには、世上風聞されるようなこだわりは何もなかった。
帰途、十九日、この日も秀忠はまた宇都宮に泊るはずであった。げんにその前駆たる老中土井大炊頭の手勢は、その郊外まで到達した。しかるに大炊頭はそのままそこに停止してしまい、秀忠は今市から別街道を通って、宇都宮を避け、壬生《みぶ》の宿《しゆく》に泊《はく》して江戸へむかうことが伝えられたのである。
さすがの上野介も、この思いがけぬ突発事には狼狽した。なぜ、そんなことになったのか、判断を絶した。面目にかかわると腹も立ったし、加納殿の悪意は承知しているだけに、不安にもなった。
「そもこれはいかなるゆえか、土井大炊にきいて参れ」
命を受けて走り出していった家来が、顔色をかえてはせもどって来た。
「殿。大炊頭さま仰せには、当城に詰めおる根来同心の一人より、御座所に奇怪なからくりあれば、上様二度とお泊り遊ばすべからずとの密告ありしゆえ――と申されておりまする」
「なに?」
上野介は耳をうたがった。寝耳に水とはこのことだ。
「根来同心を呼び集めろ。いや、余の方で御座所に参る」
血相かえて彼はさけんだ。それからまたいった。
「鉄砲の者に支度させて、御座所の庭のしかるべきところに伏せさせておけ。事と次第では成敗してくれる」
――新御殿の庭に、根来同心たちが招集された。縁に立って、上野介は人数をかぞえた。一人も欠けた者はない。彼はいよいよ不審な表情になりながら、大炊頭の疑いをのべ、この中にそのような事実無根の密告をした者があるか、ときいた。
すると、根来同心のひとりがしずかに縁に上ってきて、そこの遣戸《やりど》のどこかに手をかけると、その板が半びらきにクルリとひらいた。――遣戸というのは、閾《しきい》によって左右にひきあげられる戸のことである。それが、周囲一寸ばかりのこして、内部の板が扉式に外にひらいたのである。
彼は、次々に、そうした遣戸をひらいていった。
「ま、待て」
上野介は眼をむいてさけんだ。
「か、かようなことを、何のためにした?」
「地震などの場合、家がかたむいて戸のあかぬことがございます。その用心のため、かくは仕りました」
「余に無断で、要らざることを――要らざるのみか、かようなからくりをしかけては、御公儀よりあらぬお疑い受けるのも当然のことじゃ」
その二十四、五歳の若い総髪の根来者は平然としていった。
「なお、忍びの者をふせぐため、御座所の床下に、一面剣を植えてござりまする」
「忍びの者?」
かすれた声でいって、その白面の美青年を見つめていた上野介は、突如、愕然《がくぜん》としてさけんだ。
「うぬは!」
「お忘れではござりませなんだか。その昔、御恩をこうむった根来波太郎でござりまする」
息をのみ、立ちすくんでいた本多上野介は、やがて軋《きし》るようにうめいた。
「大炊に命ぜられたか」
「昔は、命ぜられたままに駈けまわる犬でござった」
根来波太郎は声もなく笑った。冷たい、美しい、凄惨な笑いであった。
「しかし、大炊頭さまは私を人間としてお使い下されました。このからくりのことは、人間として私がかんがえた、上野介さまへの御恩報じの仕事でござる」
「――撃て」
上野介は逆上して、絶叫した。
銃声があがって、根来波太郎はがくと遣戸に背をぶっつけ、しかし上野介にむけた凱歌《がいか》の笑いを消さず、ズルズルと崩れおち、庭にまろびおちた。
その夏八月、出羽国最上《でわのくにもがみ》家は内紛のため改易《かいえき》せられ、本多上野介は城受取りのため山形へ赴いたが、果然その出先へ、本多の所領没収、上野介自身出羽に配流《はいる》せらるるむねの上意が追い討ちをかけた。
罪状は十一ヶ条にわたっていたが、その中で、宇都宮城|作事《さくじ》の不審と、公儀派遣の根来同心殺害の罪がもっとも重いものであった。
この罪状はともかく、本多上野介は、このやり方が、かつて大久保相模守を京へつかわしてその留守中に鉄槌《てつつい》を下したじぶんのやりかたと、寸分変らぬことに気がついて、陳弁の語も忘れ、「ああ」とうめいたきりであった。
土井大炊頭に愛されていた若い御小姓組番頭松平|長四郎信綱《ちようしろうのぶつな》が、大炊頭に微笑してきいた。
「本多上野介どのの一件、そもそも宇都宮に大封を賜ったときから、大炊頭さまの御遠謀であったと申すものがございまするが」
大炊頭は、眠たげな茫洋とした表情でこたえた。
「信綱どの、胆に銘じておかれよ。上様をお護《まも》りするためには、そのかたわらにあって、奸物、佞臣とそしられる人間がかならず要るものでござるよ」
[#改ページ]
忍者服部半蔵
一
座敷に一つ燭台《しよくだい》がもえているが、油煙をあげる灯《ひ》は暗く、庭は墨にぬりつぶされたようであった。
ただ、そこに畳大の白木の板が置かれて、ふたりの人間がならんで坐《すわ》っていた。男と女だ。生きているとも思われないほど身うごきもしなかったが、そのふたりが、墨のような庭一面に、さらに数十人の人間がいて、じぶんたちをじっと凝視していることを知っている。梅雨《つゆ》の季節で、雨こそふっていなかったが、もう夏のようにむし暑く、風のない夜であった。
燭台からまっすぐに立ちのぼっていた油煙の糸がかすかにゆらいで、座敷にひとりの男があらわれて、庭にむかって坐った。
「五条周馬《ごじようしゆうま》」
やおら錆《さび》をおびた声で呼んだ。庭の男は、若い顔をあげた。
「お香《こう》」
と、つづけて呼ぶ。女はわずかに身じろぎしたが、うなだれたままだ。
「服部党《はつとりとう》の掟《おきて》に従い、これよりその方らを糺《ただ》す。掟に叛《そむ》いたことが分明《ぶんみよう》なる場合、または偽りを申しのべた場合は、両人ともに成敗を受けるものと心得よ」
荘重で厳粛な声であった。若い男は蒼《あお》ざめたが、しかしきっと首をたてたままだ。まだ二十前後であろう、美少年といっていいやさしい顔だちに、死物狂いの緊迫感があふれた。
「周馬は、さきごろこの世を去った五条船之進の弟。またお香は船之進の妻。その両人が密通しておるということはまことか」
「何しに以《もつ》て!」
と、五条周馬はさけんだ。
「われわれがなんで左様な人倫に――いや、掟に叛いたことをいたしましょうや。それはあらぬ噂《うわさ》、濡衣《ぬれぎぬ》でござります」
「お香は?」
女は、はじめて顔をあげた。年は二十七、八であろう。紅梅のように凜《りん》としたなかに熟れきったなまめかしさをたたえた女であったが、これまた必死の眼をあげて、
「周馬どののいう通りでござります。くやしいお疑いでござります」
さけぶと、がばと身を伏せてしまった。
「左様か」
座敷の男は、さほど動じた様子はない。仮面に似た無表情で、
「しかし、一党中にそのような風評があるうえは、その方らのそれだけの弁明でゆるすわけには参らぬと思え。しからば、半蔵みずから墨検断《すみけんだん》をいたす」
あごをしゃくった。すると、そこに人ありとは見えなかった暗い縁のかげから、二つの影がつと湧《わ》き出して、五条周馬とお香の方へ歩いて来た。
座敷の服部半蔵も立ちあがった。彼は服部党の頭領であった。
伊賀から出て家康《いえやす》に仕えた服部半蔵|正成《まさなり》は、いわゆる伊賀同心を支配して、伊賀の忍者を徳川家|名代《なだい》の乱波《らつぱ》部隊、隠密組として組織した功績者であった。彼はそれによって八千石の知行《ちぎよう》を受けたが、十八年前の慶長元年、五十五歳にして歿《ぼつ》した。長男の源左衛門|正就《まさなり》があとをついだが、慶長九年、ゆえあって家康の勘気を受けて逐電《ちくてん》した。このとき服部家は禄を削られて三千石となり、次子の正重《まさしげ》に伝えられた。
いま、みずから半蔵と名乗ったのは、この正重である。伊賀組の支配者はすべて半蔵の名をつぐことになっており、彼はその三代目にあたる。このとし、慶長十八年、彼は四十二歳の壮年であった。
特殊任務に服する一党として、その訓練や規律は、苛烈《かれつ》厳格をきわめていることはいうまでもない。とくにその掟は、源平時代から伊賀の豪族であった服部家の家憲を原型として、むしろ怪奇的な錆さえつけていた。とくに首領服部半蔵の権威は絶対である。
絶対的な支配者として、三代目半蔵、それにふさわしい相貌《そうぼう》をしている。いつもほとんど無表情だが、彫刻的な顔だちや、つよく張った青いあごや、あぶらをぬったような皮膚は、常人でない凄味《すごみ》と精力と意志をあらわしていた。
さて、ここに、その支配下にある一党の中に、死んだ伊賀者の後家と、その義弟とが密通しているという報告があった。一般の武家でさえ、金輪際《こんりんざい》ゆるされぬ関係である。ましてや、鉄の掟をもつ服部組だ。噂のふたりは召喚された。
たんに、少々ききたいことがある、という口上で、べつべつに呼び出されたふたりであったが、この庭でおたがいの顔を見合わせたとたん、もとより審問の目的を思い知らされた。しかも、もはやあきらかにふつうの審問ではない。周囲の闇《やみ》を埋めて凝視しているのは、たしかに一党の幹部たちであり、ふたりがひきすえられたのは、白木の大俎《おおまないた》であった。
服部半蔵は、みずから燭台をとって、庭に下りて来た。
さきに、被告の前にちかづいた二つの影は、周馬とお香の前に一枚ずつ紙を置いた。何のへんてつもない白紙であった。ひとりは、持って来た硯箱《すずりばこ》のふたをひらいて、墨をすり出した。
――墨検断?
俎の上のふたりは、そういう言葉を思い出そうとした。しかし、いままでにきいたことがなかった。おなじ服部党の一員でも、服部につたわる秘法のすべてを知っているわけではない。それがまたこの一党の特徴でもある。
服部半蔵はじぶんのまえに燭台をおいて、ピタと黒い土に坐った。
「周馬、お香。おれの眼を見ろ」
と、半蔵はいった。ふたりは首領を見た。
五条周馬の眼にも、お香の眼にも、半蔵が双面をもっていてじっとじぶんをにらんでいるように見えた。と、その前の灯が、依然まっすぐにほそい煙をあげていたのに、それがぼうっと光の糸となり、環《わ》をえがき出した。灯の環の中に、首領の眼だけが深沈たるひかりをはなって、じぶんを凝視している。――その瞳光《どうこう》に吸いこまれそうな感覚と、それに抵抗しようとする努力のために、ふたりのひたいからあぶら汗がながれはじめた。
「両人、紙をとれ」
と、しみ入るような声がきこえた。
「両手で紙のはしをおさえるのだ。そして、まことの存念を書くのだ。ただし、紙から両手をはなしてはならぬ」
ふたりのまえの紙の上に、筆をもった腕がぬうと出て来た。
半蔵は一本ずつの筆をにぎった両腕をつき出している。墨をふくんだ筆は紙すれすれに、しかもその腕は微動だもしない。……と、その筆の先から、ぽとっと墨がおちた。同時に、紙にするすると文字が書かれはじめた。半蔵が書いているのではない。彼のこぶしは依然静止している。周馬とお香が、おさえた紙をうごかし、それによって字が書かれてゆくのであった。
周馬の紙には、
「それがし、お香どのと交合いたしとうて、まこと密通つかまつり候」
お香の紙には、
「わたくし、周馬どのと交合いたしとうて、まこと密通いたし候」
二
筆が紙からはなれた。半蔵がうしろに投げすてたのだ。
「墨検断、かくのごとし。うぬら、おれを偽ったな」
ふたりは、水をあびせられて夢からさめたように眼前の文字を見て、蒼白《そうはく》になった。――一息おいて、周馬が狂ったようにさけび出した。
「おゆるし下されい、お頭《かしら》。偽ったのは悪うござります。さりながら、偽ったのは、拙者成敗されるのが恐ろしゅうてのことではござらぬ。お香どのを殺しとうなかったゆえでござります。まこと拙者、兄を失ってさびしげに見える嫂上《あねうえ》をお気の毒に見ておるうちに、恋慕の心つのり、ついに手籠《てごめ》同然にして犯したのがことのはじまりでござります。嫂上に罪はござらぬ。拙者はいかなるお裁きをも受けまする。お頭、お香どのだけは助けてあげて下されい」
「不義の罪、偽りの罪、いずれも両人同罪」
と、服部半蔵はいった。沈んだ声音《こわね》だが、周馬のさけびを断ちきる鉄槌《てつつい》のような重いひびきがあった。それっきり、沈黙がおちた。
「さりながら」
ややあって半蔵はつぶやいた。仮面に似た無表情にかすかに迷いの翳《かげ》がにじみ出した。
「五条周馬、いかにもうぬは、伊賀者のうちでも珍しいほど忍者の素質をもった奴《やつ》、殺すに惜しい気がせぬでもない。事と次第では、とくにゆるしてお香と祝言《しゆうげん》させ、五条の家をつぐようにとりはからってやりたいとも思う。……一党のものどもを立ち会わせたは、そのためじゃ」
彼はふりむいた。
「一同、いかに思う?」
すると、闇の中で、数十人とも一人ともつかぬ声が風のようにながれた。
「われら、お頭のお心次第でござる」
燭台の灯に、みるみる血色をかがやかせた五条周馬の顔を、半蔵は見下ろしていた。
「ただし、うぬのわざによる。百度|詣《まい》りのわざによる」
「百度詣り。――」
服部一党の忍者はそれぞれ独特の個人技を持っているが、それはすべての者が修練し、体得しなければならぬ忍法の一つであった。女人を御《ぎよ》する法の一つであって、接して洩《も》らさぬこと、常人には数倍する耐忍力を要求されるものだ。
「それを、ここにてお香を相手に見せい」
服部半蔵は淡々といった。
若い周馬の顔から血の気がひいた。あきらかに苦悶《くもん》の表情となった。しかし、首領の命令は絶対である。のみならず、これはじぶんの――いや、お香の命が助かるか、否かの瀬戸際の試練であった。
「お香どの、忍法修行の一つと思われよ。――」
と、彼は嗄《か》れた声でいった。
もともと、こういうことに忍者は羞恥心《しゆうちしん》はない。とくにこの百度詣りは、服部組の忍者必修の課目として、先輩の鞭《むち》のもとに鍛えぬかれる技術であった。
五条周馬の姿には、むしろ厳粛なものがあらわれた。彼は袴《はかま》をとき、嫂《あによめ》のそばにすべり寄り、抱き、横たえ、もすそをひらき、折り重なった。この動作にもはやためらいはなく、機械のような流動感があった。――そして、寂《じやく》と見まもる首領と数十人の幹部の注視の中で、一本の燭台の下で、白木の大俎の上で、嫂を犯しはじめたのである。
忍法百度詣り。――それは女人を御する法にはちがいないが、それ自身が目的ではない。女人を完全におのれの薬籠中《やくろうちゆう》のものとして、或いは味方の密偵とし、或いは敵を裏切らせるのが目的だ。それだけに、そのわざは精妙をきわめ、この場にあって、お香はついにおのれを失ったような声をたてはじめ、白い二本の雌《め》しべのような足を、義弟の腰に巻きつけた。
突然、周馬がうめき声をもらし、お香の肩に顔を伏せた。
「五十度詣りか」
あざけるような半蔵の声がきこえた。
「お香の忍法|小夜砧《さよぎぬた》に及ばざること遠いの」
服部党では、忍者の妻もまた忍法の修行を課せられていた。逆に肉欲の奴隷となって敵の密偵となり、味方を裏切ることのないように、これは当然の防衛術であったが、そうでなくとも夫の百度詣りに耐えるため、自然とそのわざは磨かれざるを得ない。しかし、この場合、お香はべつに忍法小夜砧をつかったわけではない。――さすがに若い周馬は、死をかけたこの試験に、極度の緊張のため、思わざる早漏現象を起したのである。
「未熟者め、起《た》て」
と、半蔵はさけんだ。声は勁烈《けいれつ》なものに変っていた。
「左様な弱腰で不義密通をしようとは笑止千万、所詮《しよせん》、服部組にあっても役にはたたぬ奴、やはりここで成敗してくれる」
五条周馬はすでに死相と変った顔をわずかにあげかけて、ふいにがばと起きなおった。
「お頭、それは不当でござる。拙者が服部党の掟に叛いたことはまことでござるが」
ことここに至って、なおこのように未練がましい抗議をした者は、服部組に曾《かつ》てない。半蔵は眼を見ひらいた。
「周馬、狂ったか」
「狂いはいたしませぬ。以前からかんがえていたことです。拙者は忍者だ。しかも、先刻お頭もみとめられたように、これでも同輩中では、誰にもひけはとらぬほど修行に刻苦した人間です。にもかかわらず、忍者であるがゆえに、拙者は御成敗を受けねばならぬ。――」
「掟だ」
「では、あの仁《じん》は?」
周馬は指さした。半蔵はふりかえって、眼をむいた。
さっきまで彼がいた座敷に、べつの人間がつくねんと坐っている。それを弟の京八郎とみて、彼は怒りの声を投げた。
「京八郎、うぬのくるところではない。ゆけ」
「それでござる。いま、お頭は、うぬのくるところではない、と仰せられた」
と、周馬はさけんだ。
「なぜ、お頭は、京八郎どのを除外なさる。おなじ服部の一族、しかもお頭の弟御《おとうとご》でありながら、忍法の修行もせず、ただ自堕落《じだらく》に好き勝手なことをなされておる京八郎どのを、なぜおゆるしなされておられるのか」
「ゆるしておるわけではない。見すてておるのだ。きゃつには、忍者としての素質も意欲もない。――京八郎、ゆけ、ゆかぬか!」
半蔵の叱咤《しつた》に、座敷の影はあわてて腰を浮かし、フラフラと消え去った。半蔵は舌うちしてむきなおった。
「周馬、服部一党に籍をもち、忍者として殺されるのは誇りと思え」
「いや、誇りとは思いませぬ。忍者として素質のない人間は、はじめから掟からまぬがれる。なまじ、忍者として修行したために、掟にふれて殺される。これは不当でござる。拙者はともかく、お香どのまで――」
人間とは思われぬ五条周馬の絶叫は、そこでぷつんときれた。
お香をひきずりあげるように片手に抱いて立っていた周馬は、それっきり硬直した。その足もとに墨汁のようなものが飛び散った。周馬とお香ののどぶえに、キラとひかるものが突き出している。背後から闇を裂いて飛び来《きた》った二本の|※[#「金+票」、unicode93e2]《ひよう》が、うなじからのどぶえへ突きぬけたのである。
ややあって、この掟に叛いたふたりの不義者は、白木の大俎の上に、折り重なって崩折《くずお》れた。
三
服部半蔵は、弟の京八郎を何とかせねばならぬと決心した。
いまはじめて思い立ったことではない。――この数年、彼の心をいちばん悩ませてきた問題だ。彼からみれば実に不肖の弟であった。名を、京八郎正広という。父の晩年の子でことしまだ二十三にしかならない。
服部一党に生まれた者は、男女をとわず、幼少時代から忍者としての手ほどきを受ける。そのテストは、年齢とともに高度のものになってゆく。――宗家たる服部の血をひいた京八郎に、この義務が課せられないわけがない。事実、京八郎も、幼いころから余人にましてきびしい教育を受けたのである。それが、いつのころからか、逸脱してしまった。
思いかえすと、それは長兄の源左衛門が罪を受けて、服部家が八千石から三千石へ削られた事件の前後からではなかったか。京八郎が十四、五歳のころである。
服部一党に生を受け、いかに修行をつんでも、だれもが忍者となれるとはかぎらない。極力、忍者としての能力の育成につとめ、またうまくしたもので、それぞれ適応力を発揮しはじめるが、なかには先天的に、どうしてもだめな奴がいることはいうまでもない。そういう奴は、結局、忍者党としての名を傷つけるから、追い追い排除されていって、伊賀者の表向きの職分たる江戸城大奥の守衛役だけにとどめられる。これは服部一党に籍をおく者としては恥ずべきことであって、実際このグループに入れられた者は、忍者組のエリートたちには生涯あたまがあがらない。
服部京八郎は脱落した。それなのに、この落第生は、恬然《てんぜん》としていた。他のだれよりも恥じ入ってしかるべきなのに、服部家の三男坊に生まれたのをいいことにして、とくにここ二、三年は、ろくに家にもいないで、外を遊びあるいているようであった。
それをにがい眼で見ながら、兄の半蔵がこのごろ訓戒することもなくなっていたのは、弟の忍者としての才能に、とっくにあきらめをつけていたことのほかに理由があった。
まず第一に、父が晩年に生んで、眼に入れてもいたくないほど愛した子であったということで、兄の彼からみても、父子ほど年がちがう。私情を圧殺せねばならぬ忍者宗家の家長として、断じてあってはならぬことだが、半蔵の心の内部に、父が子をみるような、したがって不肖な子ほど可愛いといった感情がうごいていたことはいなめなかった。
第二に、その反面に、彼はこの弟がどうもうす気味がわるい。自堕落で、野放図で、軽薄なところすらあるこの柔弱者《にゆうじやくもの》が、逆にまったく異質な存在として、手においかねる気がするのだ。落第生のくせに、京八郎は、服部一党の忍者としての酷烈な任務、悲壮味をおびた修行ぶりを、皮肉な、からかいの眼で見ているように思われる。
実際に、京八郎は、半蔵のまえでぬけぬけと批判したこともある。
服部組の忍者たちは、それぞれ個性に合った忍技を体得していたが、そこにいたるまでに、独特のアイデアを考案したり、修行の方法について工夫したりする義務があった。
その中に、「水《みず》蜘蛛《ぐも》」というものを着想した奴がある。下駄のまわりに円形の木のウキをとりつけたもので、これを履いて水上を歩こうという器具である。この器具の材質や、寸法など、何十種類、何十回となく実験し、心血をそそいでいる忍者を見て、京八郎は笑った。そんなものを履くより、泳ぎを練習した方が早いというのだ。
また、「毒鉄砲」というものを考案した奴がある。口に毒液をふくみ、決闘の際、相手の口に吹きつける。むろん毒であるから、口にふくむ方は、ふつうならまずじぶんの方が命がないが、それに対する耐域量《トレランス》をたかめるために、はじめ稀薄《きはく》なものから徐々に濃度を加えてゆくというのだ。しかし、この修行の過程で、生体実験を受けた忍者数名が死んだ。京八郎はまた、そんなことより、決闘に至るまえに、相手に毒をのませる算段をした方が利口だとさかしら口をきいた。
また、跫音《あしおと》をたてぬ歩行法を工夫した奴がある。そのために、四つン這《ば》いになって、まず右手を出してそれに右足をのせ、次に左手を出してそれに左足をのせ、交互にこれをくりかえしてゆくというのだが、この奇怪な歩行法になれると、これを水でぬらした襖《ふすま》の上で試みる。しかも、襖の内部にみじかい釘を一面に植えてあるのだ。いくども失敗し、血まみれになっている忍者をみて、京八郎は、ばかばかしい曲芸だ、大道でやったら犬や猫《ねこ》が銭をはらって見物するだろうといって、腹をかかえて笑った。
また、飢渇丸《きかつがん》ともいうべき丸薬の製造に精魂をかたむけた奴がある。人参《にんじん》やら蕎麦粉《そばこ》やら梅干やら山芋やら鶏卵やら鰹節《かつおぶし》やらをこね合わせるのだが、さらにこれに犬の血とか猫の生胆《いきぎも》などを加えるのだ。これまたその生体実験で、数人の忍者が激烈な下痢症状を起して悶死したり、或いはこればかり食べているうちに、ほんとうに餓死してしまった。京八郎はこれに対しても、そんなもので人間みんなが食ってゆけるなら、この世にいくさの起るわけがない、と評して、それから半蔵がぎょっとするような見解をつけ加えた。つまり、いくさがないなら、忍者の必要もなく、従って服部一族は扶持《ふち》ばなれになるほかはあるまいといったのである。
本来なら、斬って捨てるべきところだ。それを半蔵がそうしなかったのは、やはり骨肉の愛と、そんなことをケロリといってのける京八郎の顔がいかにもいけしゃあしゃあとして、怒り出すきっかけを妙にそらしてしまうところがあるからであった。それで、せめて彼を、服部一党の忍法修行の場にちかづくことを禁じただけで、いままでは終った。
しかし、やはり捨ててはおけぬ。服部半蔵はついに決意した。
掟に叛き、成敗された五条周馬の断末魔の抗議から思い立ったことだ。彼の不服はともあれ、ほかのものへのみせしめのためにも、この際、弟に何らかの処置をとらねばならぬ。
四
半蔵が、京八郎を呼び出したのは、その翌日の夜のことであった。
「京八郎、うぬはおれの制禁にもかかわらず、なぜ昨夜あのようなところへ迷い出た」
「いや、周馬の裁きに、なりゆき次第では、百度詣りという忍法を試みさせられる、とふと耳にしたものですから」
と、京八郎はあたまをかいた。
背はたかいが、きゃしゃである。色白で、面長で、うすっぺらな愛嬌にみちた美貌は、浮世の女からはちやほやされるかもしれないが、どうみても忍者には縁の遠い顔である。
「五条周馬は同年輩、それにあいつは、忍者にしてはまず話せる方の男でした。それが、あとで、やはり成敗を受けましたとか。――可哀そうなことをしましたな」
重厚な兄が、しばらく黙っていると、またペラペラとしゃべり出した。
「あのとき、周馬が死物狂いに不服の叫びをあげておりましたな。忍者の掟に。――まったく同感です。好き合った男と女、しかもおなじ一党中の男と女なのですから、そう掟だの法度だのかた苦しくしゃちほこばらんで、いっしょにしておやりになればよかった。そもそも、お香の亡夫、五条船之進が、例の飢渇丸で餓え死した男ではありませんか。まあ、一種の討死で――私からみればばかげた殉職だが――ともかく犠牲者です。したがって、お香もきのどくな犠牲者で、せいぜい大目にみてやるのが人間の――」
「だまれ、京八郎、うぬに服部の掟についての批判はゆるさぬ」
「いや、そのつもりでしたが、友人の周馬まで殺されたとあっては、豈《あに》一言なかるべけんやです。だいたい私は、服部党の掟のみならず、忍者の修行、その存在するゆえんまで疑問がある」
「何を。――」
「あの修行ぶりは、理屈に合わない。人間には、からだの出来具合から出来ることと出来ないことがある。それなのに、見ていると、金輪際出来っこないことを、敢《あえ》てしてのけようとのたうちまわっているようで、自然に背理すれば犠牲者の出ることはあたりまえですな。愚劣のきわみで」
「こやつ。――」
「それに、たとえさまざまな奇怪な術の神技に達したところで、それが何です。何の役に立つのです。兄上は、いくさのため、徳川家のためとおっしゃりたいのでしょうが、私はいくさのために、忍者がそれほど貢献するものとも思えない。一軍の将で忍者たるものは、一人もないではありませんか。忍者はただ闇の中をコソコソと這いまわり、闇の中で人しれず死んでゆくばかり。――」
「それが忍者の宿命だ。それが忍者の光栄だ」
「と、本人だけが思っているから、悲惨をすぎて滑稽ですらある。そのように身命はもとより、名すら捧げる相手はというと、何か当方にちょっとしたしくじりがあれば、たちまち遠慮会釈もなく八千石を三千石に切り下げるほど非情ではありませんか」
半蔵はまた黙りこんだ。
納得したからではない。怒りの熱度が過ぎて、かえって水のようにしずまりかえり、弟のいうことが長兄源左衛門の事件をさすことや、あの事件が当時少年であった京八郎に想像以上に深い衝撃をあたえたことを、憐愍《れんびん》の情を以て了解するだけの余裕が生まれていた。
彼は重々しくいった。
「さればよ、それほどの失態を犯した服部家じゃ。われわれとしては、その罪をあがなわんがためにも、ますます忍法に苦練してお役に立たねばならぬ。なお三千石を下し賜わったは、お上の御慈悲と思え。――のみならず、大御所さまが、当代の権家《けんか》大久保と縁組みをゆるされたは、いかに服部を大切なものと思われておるかということよ」
徳川家の重臣に、大久保|石見守長安《いわみのかみながやす》という人物がある。金山奉行《かなやまぶぎよう》として、山将軍という異名があるほどで、まず大御所第一の寵臣といっていい。半蔵の妻は、その大久保長安の娘であった。それをいったのである。
このとき、京八郎はふと白い歯を見せた。この兄が、大久保石見守の娘を妻にもらうために、なみなみならぬ奔走をしたことを思い出したのだ。惚れたからではあるまい。そんな可愛気のある兄ではない。つまり、兄のいう通り、服部の家名回復のための手段だろうが、それよりこの兄は、娑婆《しやば》から超絶して闇中《あんちゆう》に活躍するのを本分とする神秘的な人間のようにみえて、これで存外なかなか俗界に野心的なところもあるのだ、とかんがえて可笑《おか》しくなったのである。
不謹慎な弟の笑いに、半蔵はまたかっとなった。
「つべこべ申さず、京八郎、まいちど忍法を修行せよ」
と、さけんだ。
「一党のものどもへの手前もある。思うところあって、兄が最後の勧告だ」
「――いやだといったら?」
「討ち果す」
京八郎は半蔵の顔を見た。ちと、やりすぎたか、とあわてたが、それでも、
「百度詣りの忍法なら、修行してもよろしいが」
と、へらず口をたたいたのは、いままでなんども説教されたときの経験から、まだこの兄をなめているところがあったせいだが、ついでに、
「しかし、あんなものは無駄です。私の知っている女どもなら、服部一党の忍者たち、百度詣りはおろか、三十度詣りくらいで降参させますな」
と口走ったのは、彼らしい軽率であった。
「うぬの知っている女ども? それは何だ」
「いや、あわわ」
舌をもつれさせて、京八郎は手をふった。たんに返答につまったからではなく、兄の眼に恐ろしい殺気をみとめたからだ。半蔵の手が傍においた刀にかかったのをみて、はじめて彼は、これはいままでとちがう、事態容易ならず、と感得した。
「兄上」
「ふびんじゃが、一党にうぬの首を見せる」
「忍法、習います」
「なに」
半蔵は、刀をつかんだ拳《こぶし》をたたみに置いた。
「やるか」
「やります」
一息おいて、兄の顔色をうかがい、
「それには、条件があります。それをきいて下さるなら」
「――なんだ」
「私に妻をもらって下さるなら」
「うぬに妻を?」
「それが、服部一党の女ではありませんが、そこを何とか」
「いかなる女だ」
「市井《しせい》の女です。……しかし、これをききとどけていただけるなら、京八郎、心を入れかえて忍者修行をいたします」
半蔵は弟を凝視した。京八郎はあかくなり、あおくなり、しかしこれまたはじめて真剣な表情で、唇をふるわせていた。
「よし、きいてやろう」
と、半蔵はいった。
「えっ、きいて下さるか。それなら、もっとはやくこのことをいえばよかった」
「しかし、それにはこちらも条件がある」
「何です」
「うぬの妻になるなら、すなわち忍者の妻だ。忍者の妻なら、小夜砧《さよぎぬた》の忍法を体得せねばならぬ」
「……小夜砧、それは大丈夫です。いや、私が教えます」
「その忍法が体得できるか、できぬか、それをおれがまずたしかめる」
「兄上が、たしかめられる、とは?」
「その女と、おれが交合するのだ」
京八郎は息をのんで、兄を見まもっていたが、やがて悲鳴のようにさけんだ。
「それはいけません。いくら、何でも」
「京八郎、うぬはいま忍者となると申したではないか。忍者たらんとするならば、まず常人の心を捨てねばならぬ。……それに、服部一党の女ならばともかく、たんなる市井の女ならば、果して将来忍者の妻たり得るか、どうか、頭領のおれがためさねばならぬ」
さしたることでもないように、淡々というこの兄が、はじめて京八郎に、世にも恐怖すべきものに見えた。――いかつい巌《いわお》のような半蔵の顔が、ふいににっと崩れた。
「京八郎、しかしうぬのいうごとく、いかにもこれはうぬに耐えがたいことであろう。では、もう一つ、うぬの方に条件をあたえてやろう。おれと立ち合え」
「えっ、兄上と」
「うぬと通常の立ち合いをする気はない。うぬは刀を持て。おれは武器を持たぬ。それで立ち合って、もしおれのからだにかすり傷でもつけることが出来たら、うぬにその妻もらってやろう」
唖然《あぜん》として兄の顔を見ていた京八郎の眼に、次第に殺気にちかいものが仄《ほの》びかってきた。
「兄上に――かすり傷でもつけたなら」
「しかし、それすらかなわいで、うぬが負けたら、その女、おれが犯すぞ。しかもなお、小夜砧のできる女とみとめたら、はじめてうぬの女房としてやる」
五
京八郎は承知した。
実は彼は、このことは以前から苦慮していたことだ。彼の愛している女は、兄には市井の女といったけれど、遊女なのであった。
庄司甚右衛門なる者が、江戸に吉原を作り出したのは元和《げんな》三、四年ごろのことだが、そのゆるしを甚右衛門が幕府に願い出たのは慶長十七年のことで、傾城町《けいせいまち》はそれ以前から江戸に散在していた。京八郎の女は、その一つ柳町《やなぎまち》で指折りの美しさをうたわれた夕波《ゆうなみ》という遊女である。
道楽者の京八郎も、この女だけには惚れた。そして、夕波も、決して遊女の手練手管ではなく、しんそこ彼をいとしいものに思っている風であった。
しかし、この結婚は、とうてい成立しない。いちじはふたり、大まじめに心中を相談したほどである。
とはいえ、京八郎にそれほどの勇気がなく、このごろは少々やけ気味でただ夕波と愛欲にふけっていたところであった。むやみに兄に反抗の姿勢をみせていた理由の一つは、この絶望的な恋からも来ている。
ぞろっぺいのくせに、ばかにぬけめのない一面もあって、きわどいところで京八郎は兄にじぶんの切ない望みを訴えた。どうあっても忍法を修行させたいらしい兄に、交換条件としてこの女の問題を切り出したのだ。兄の警告をきかなければ、ほんとに成敗されそうな恐怖もさることながら、もし夕波を妻にもらってくれるなら、当分忍法修行に精を出してもいいと決心したのは真実であった。
あろうことか、兄は、その女が小夜砧の忍法を修得し得る素質があるかどうか、じぶんでためしてみるという。いかに遊女とはいえ、兄に恋人をためされるということは、京八郎とて辟易《へきえき》せざるを得ない。冗談ではない、といいたいが、冗談などは薬にしたくもないといった顔をしている兄だから、大まじめに考えているのだ。
さすがの京八郎も、熱風が頭を吹きめぐるような感じで思案した。そして、あの服部党の掟のきびしさをかんがえると、やはりこれくらいの試練は当然かもしれぬ、と観念した。
いや、観念するまえに、兄は実に人をくった妥協条件をつけてくれた。おれに武器をもたせ、じぶんは徒手空拳で立ち合って、もし兄にかすり傷でもつけることができたら、こちらのいうことをきいてくれるという。――ばかにするのもいいかげんにするがいい。いかにおれでも、いちじは剣法に身を入れたことがある。いや、忍法をすらまったく修行しなかったわけではない。よし、弟が女房にしたいと望んでいる女を、いちどじぶんにためさせろなど、そんなたわけたことをいう兄、必ず眼にものみせてくれるぞ。
思案ここに至って、京八郎はかえってふるい立ったが、さて夕波にこのことを告げて、同意を求めるには往生した。
はたして、夕波はこのことをきいて、新月のような眉《まゆ》をひそめた。きっぱりと、いやだといった。
「では、どうする」
「…………」
「はれて、ふたりが夫婦となるには、これ以外に法はないぞ」
「…………」
「おまえに服部の家まで来てもらうについては、兄の口上を伝えねばならぬからいったまでだ。いま申したように、ただで兄に抱かれろというのではない。そのまえに、兄は素手でおれの刀と立ち合って、兄にかすり傷でもつけたらゆるすといっている。それすらできぬと、そこまでおまえはおれを見くびっているわけではあるまい」
「…………」
「万が一――おれが負けたときの条件がいやだとおまえはいいたいのだろう。しかし、忍法小夜砧、何も忍法を知らなくっても、おまえはもうその達人だよ。おれでさえ、七十も砧をうったらもうだめだ。あのお澄ましやの、くそ面白くもなさそうな女房を持っている兄貴など、おまえ相手なら三十度くらいで落城するかもしれん」
みるみる夕波の瞳《ひとみ》に涙が浮かんできたので、京八郎は狼狽し、なおつづけていおうとのどまで出かかっていた言葉をのんだ。兄貴というのがちとこまるが、もともとおまえは千人の者に手枕《てまくら》させる遊女じゃないか、それほどもったいぶることもなかろう、つかって減るものじゃあるまいし――と、いおうと思ったのだ。その代り、こんなことをいった。
「いや、夕波、つらかろう。しかし、こんなことをおまえにたのむおれの方がもっとつらいと察してくれ。まさに、恋女房を狒々《ひひ》に人身御供《ひとみごくう》にあげる思いだ。そのおれのつらさをくんでくれて、これくらいの犠牲は我慢してくれる気はないか?」
「承知してござります」
と、夕波は涙の眼でうなずいた。
「でも、そんなことを承知して、あなたはわたしをお捨てになりませぬか?」
「ばかな! おれがたのんだことではないか。第一、いまもいう通り、兄におまえを捧《ささ》げることなど万が一にもあり得ないことなのだ」
京八郎は夕波を抱きしめてささやいた。彼はこのときほどこの恋人を、けなげに、いとしいものに思ったことはなかった。
彼は夕波を一日借りて、服部屋敷につれて来た。場所は、数日前、五条周馬とお香の血で染められた庭であった。
どんよりと曇って、やはりむし暑い夕《ゆうべ》のことである。忍法修行の道場として、灰色の土塀にかこまれているだけで、一本の木もない庭は、冥府《めいふ》の一景のように荒涼としていた。その一隅《いちぐう》に、例の白木の大俎が置かれ、そこに夕波は坐らせられた。
座敷から下りて来た服部半蔵は、じろっと夕波を見て、
「……これか」
と、うなずいて、うすく笑った。笑いとも見えぬ笑いであったが、夕波はぞっとした。何か恐ろしい予感にうたれたのである。
半蔵は、弟が最初に女のことをいい出したときから、それが遊女のたぐいであることを見ぬいていた。それは、ゆるされない。しかし、ただゆるさぬとあたまから拒否しないで、わざと面倒な条件をつけたのは、その過程を通じて、軽佻浮薄な忍法批判者たる弟に、伊賀忍法の恐るべきことを心根《しんこん》に徹して思い知らせ、その覚醒をうながすためだ。――女はもとよりそのあとで、百度詣りで悶死させるつもりでいる。
「では」
と、半蔵は京八郎の方にむきなおった。ダラリと下げた彼の両腕は素手であった。
兄が夕波を見て浮かべたうす笑いに、何とはしれず吐気《はきけ》のするような悪寒《おかん》をおぼえ、京八郎は殺気にみちた眼で兄をにらんで、腰の一刀に手をかけた。
「兄上、約定《やくじよう》によって」
と、さけんだ。
「よろしいな」
「よい」
半蔵は両腕を前につき出した。十本の指がひらいた。
京八郎は、この兄が人間ではないもののような人間に変ったときをおぼえている。幼いときに知っていた兄は、重々しいが、平凡な、やさしい男であった。それが長兄源左衛門の事件のころから――つまり、服部家を相続したころから、みるみる人が変ってきた。責任感もあったろう。威厳をつくるためもあったろう。それにしても、京八郎から兄をみると、あんまりものものしくて、大時代的で、呪文をとなえ九字の印でも切りそうで、かえって滑稽な感じがしていた。
その兄が、ただ素手をじぶんのまえにつき出してひらいている。――と見えたのは一瞬である。京八郎の眼に、その掌がぐうっと大きくなって、二つの車輪のようにみえてきた。
「おれを斬るつもりで斬れ」
声がきこえたとき、その車輪の向うにちらっと兄の笑顔が見えた。蒼白い顔に、口がニンマリと耳まで裂けて――それに大時代的な滑稽感をおぼえるどころか、この世のものならぬ妖怪をみるような恐怖感をおぼえ、京八郎は夢中で抜刀した。その刹那、兄の顔は手の向うに消えた。ただ銀灰色の靄《もや》の中に、十本の指だけが巨大な車輪のように廻った。
「ええいっ」
のどをつん裂くさけびをあげて、京八郎は斬りつけた。
ぴしいっと鞭打《むちう》つような音がして、その刃《やいば》が空中でとまった。まるで粘土に斬りこんだような感覚で、しかもそれは腕もしびれる強烈な手応《てごた》えを以て静止したのである。
「忍法|網代木《あじろぎ》」
兄の声がきこえた。京八郎はじぶんの刀身が、兄の右掌《みぎて》の人差指と中指のあいだに挟みとめられているのを見た。
「指の股までとどけば、いかなるわしでも斬られる。指のあいだに刀が入ってきた瞬間に、指をとじて挟みつけてしまうのだが、修行だな、見ろ」
いうと同時に、その刀身はピーンとへし折られて、半蔵の指のあいだに残った。
「ふつうならば、間|髪《はつ》を入れず、このまま投げ返して、相手の息の根をとめる」
京八郎は鉛色の顔で棒立ちになったままだ。理屈は理屈として、兄の超絶的な神技に胆をひしがれてしまったのだ。
「では、もう一つの約定通り、うぬの女をためすぞ」
指を口にもっていって、折れた刃を口にくわえ、半蔵はスルスルと袴《はかま》をとった。京八郎は、はじめて兄の男根を見た。それは息をのむばかり巨大で、瘤々《こぶこぶ》して、黒びかりしていた。
それをあらわしたまま、兄は夕波の方へちかづいてゆく。何かさけぼうとしたが、京八郎は声も出ない。
白木の大俎に坐った夕波は、魔に魅入られたように眼を見ひらいたまま、身うごきもしなかった。
夕波の前に立った半蔵は、口にくわえた刃をまた指間に挟みなおし、夕波の帯をすっと薙《な》いだ。帯がハラリとふたつに切れておちた。
そのとき、庭の一隅の潜《くぐ》り戸《ど》にあわただしい跫音が起って、まろぶようにだれか駈《か》けてきてさけんだ。
「お頭! 今朝《けさ》、駿府《すんぷ》の大久保石見守さま御逝去に相成ったそうにござりますぞ!」
服部半蔵は、雷《らい》にうたれたようであった。
六
駿府の大御所第一の寵臣として権勢をふるった大久保石見守長安が死んだのは、慶長十八年四月二十五日のことである。
彼の死は、それだけにとどまらず、死後容易ならざる私曲があばかれたために、その一族ことごとく誅戮《ちゆうりく》されるという事件となった。長安一族のみならず、宗家にあたる徳川家きっての功臣大久保|相模《さがみの》守忠隣《かみただちか》まで失脚するという波紋までえがき出したのである。
長安の娘を妻としている服部半蔵には、まだ直接なんのとがめもなかったが、彼はみずから門をとじて恐懼謹慎《きようくきんしん》の意を表した。突如として霹靂《へきれき》のごとく服部家にふりかかった、思いがけぬ不幸であった。
夏に入った一日、駿府から服部家に使者が来た。半蔵にではなく、弟の京八郎にいそぎ出頭するようにという、大御所の上意であった。さすがの京八郎も動顛《どうてん》し、とるものもとりあえず、倉皇《そうこう》として駿府へ急行した。
京八郎は大御所に会った。
元服したとき、将軍|秀忠《ひでただ》にお目見《めみえ》をしたことはあるが、それ以前に駿府に隠退してしまった大御所に、じかに目通りをゆるされたことは、京八郎にもそれがはじめてであった。
もう深更であったが、相かまわぬ、いそぎ参れということで、彼は駿府城に上り、奥深く通された。そもいかなる凶運が服部家を見舞うのか、とさしもの京八郎も心臓をしめつけられる思いでみちびかれていった。
その一室に通されたとき、京八郎は平《ひら》蜘蛛《ぐも》のように伏したまま、しばらく頭もあげられなかった。
「服部京八郎、面《おもて》をあげよ」
荘重な声がきこえた。
わずかに顔をあげると、大御所がじっとこちらを見すえている。はじめて相対する大御所であったが、一瞬に彼はその皺《しわ》の中から発する神秘的な瞳光に射すくめられてしまった。
「ほう」
と、家康はいった。思いのほかにおだやかな声であった。
「若いころの、初代半蔵によう似ておる。よい忍法者になるであろう。……なつかしいぞや」
ふしぎなことに、京八郎の体内に異様な感動がみちひろがり、つきあげてきて、涙となってあふれ出しそうで、それをおさえるのに、彼はワナワナとふるえ出した。
「京八郎、今日《こんにち》ただいまより」
と、先刻、面をあげよ、といったのとおなじ声がいった。大御所の右手に坐っている人物で、これは京八郎も知っている大御所|帷幄《いあく》の重臣本多|上野介《こうずけのすけ》であった。
右手をみると、ひとりの老僧が寂《じやく》として坐っている。「黒衣の宰相」といわれる天海|僧正《そうじよう》である。刀をささげた小姓のほかに、その座敷にいるのはそれだけであった。
「ゆえあって服部半蔵においとまつかわされ、代ってなんじ京八郎正広に服部家の家督相続仰せつけらる」
――あ、と思ったきり声も出ず、彼はまたがばと這《は》いつくばってしまった。
「なお、今日より、なんじの名をあらためて服部半蔵正広と名乗れ」
それから、座敷には、妙に凍りつくような静寂のときがながれた。
「半蔵」
ややあって、本多上野介がいった。
「これで、兄半蔵は浪々の身となる。ただの旗本ならば、それにてかまいはないが、あれは伊賀者頭領たる忍法者だ。ところで、これは大秘事じゃが、関東と大坂の手切れはここ一両年のあいだに迫っておる。このときにあたって、兄半蔵ほどの忍者を、ただで手放すことはならぬ。……半蔵、兄半蔵を討ってとれ」
背骨をひとすじの冷刃で、じーんと刺し通されたようであった。
「出来るか」
天海が笑みをふくんだ声でいった。
「なんじの父、半蔵|正成《まさなり》は、大御所さまのお申しつけとあれば、おのれを捨てた。人間も捨てた。御嫡男三郎|信康君《のぶやすぎみ》をすら失いまいらせた。いかなる破天のわざでもしてのけた男であった。なんじはその血を受けた子じゃ。出来る喃《のう》」
全身空洞と化した京八郎の体内に、ふたたび何かがみちあふれ、刻々に細胞を染めかえてゆくような感覚が起った。
「半蔵、近う寄れ」
と、大御所がいった。見えない糸にひかれるように、スルスルと京八郎は這い寄った。
眼と眼が逢《あ》った。最初、射すくめられるように感じた大御所の眼は、春の海にも似たふかいやさしさで彼をつつんだ。
「家康は、服部一党を、余の片腕とも思っておるぞよ」
服部京八郎は嗚咽《おえつ》しながらうめいた。
「御諚《ごじよう》、かしこまってござりまする」
七
灼《や》けつくような庭に、服部一党の幹部数十人がひれ伏していた。そのまえに、ひとり服部半蔵が坐っていた。
「御上意」
と、服部京八郎はいった。
彼のみが、座敷にいた。大御所の上意というのだから、兄の半蔵といえども土下座せざるを得ない。そも京八郎は、駿府からどのような下知《げち》を服部家にもたらしてきたのか。――さすがの半蔵も、緊張に全身の毛穴がしまる思いであった。
「大御所さま仰せには、今日、服部半蔵にながのいとまを申しつける。さるによって、服部家の家督はこの京八郎が相続し、京八郎を四代目服部半蔵と改めよとのことじゃ」
四代目半蔵は重々しくいって、唇をへの字にむすんだ。
三代目半蔵はぽかんと口をあけて、それを仰いでいた。――弟の様子が変っていると感じたのは、彼が江戸に帰府したときからのことだ。しかし、それは大御所さまの上意を受けてきたのだから、そのせいだろうと思っていた。が、いまマジマジと見まもれば、ただそれだけではない。たしかに弟の人間は一変し、荘重厳然、呪文をとなえて九字の印でも切りそうな妖気《ようき》すらはなっている。――
と、みたのは一瞬である。三代目半蔵は、弟の顔に、依然、天性の軽佻な稚《おさな》さを看破した思いで、
「――ば、ばかな!」
と、さけんで、肩をゆすって笑った。
「うぬが服部家をつぐと? 京八郎、暑さで逆上したのではないか」
「御朱印状はここにある。半蔵正重、無礼であろうぞ」
たかだかとかかげた朱印状に、三代目半蔵はぎょっと身をひきかけたが、たちまち猛然と地を蹴《け》って立った。
「よしそれがまことの朱印状であろうと、半蔵はお受けせぬ。いや、家督にみれんがあるのではない。半蔵浪々の身となろうと、だれを恨みにも思わぬが、うぬに服部家をまかすことは承服できぬ。ただの旗本ではない。忍者の宗家たる服部家を、うぬごとき未熟の青二才にゆだねるなどとは――服部家のみならず、徳川家のおんためにならぬのだ。おれがそう思うばかりではない。一党のだれしもそう思う。一同、同感であろう?」
彼はふりむいた。
配下の忍者たちはひれ伏したまま、こたえなかった。真っ白な庭に、墨汁がひろがったように沈黙しているきりであった。――三代目半蔵は焦《いらだ》って、歯ぎしりした。
「なぜこたえぬ? 服部一党の頭領たり得るものはだれか。一同の見るところ、はっきりとこやつにきかせてやれ」
「――われら、大御所さま、御下知次第でござる」
という声がかえってきた。数十人ともきこえ、一人ともきこえる陰々たる声であった。
三代目服部半蔵は立ちすくみ、蒼白になり、ひたいからあぶら汗をしたたらせた。
「京八郎」
嗄《か》れた声でいった。
「うぬがこの半蔵に代り得るか、代り得ぬか。――ふびんながら、忍法のわざを以て一同に見せてやるぞ。いや、うぬの首を駿府に持参して、大御所さまの御見《ぎよけん》に入れよう」
「大御所さま御諚には」
と、四代目半蔵はいった。
「この半蔵に、逆臣大久保石見の婿たる三代目半蔵を討ち果せとのことじゃ」
刀をとって、すっと立ち、シトシトと彼は庭へ下りてきた。ぱっと三代目半蔵はとびすさった。――彼のいた位置に、四代目半蔵が立った。何か酔ったように全身をユラユラさせて、じいっと兄を見すえている。
なぜともしれず、三代目半蔵の背すじに悪寒が走った。こやつ、憑《つ》きものがしておる――と感じた刹那、彼のからだじゅうの毛穴から、何かがけむりのごとく発散してゆくような気がした。代りに、名状しがたい脱力感と恐怖が体内にひろがって来た。
白日の下に、服部兄弟は、しばし凝然《ぎようぜん》とむかい合っていた。
同時にふたりは抜刀し、まんなかの中天めがけて躍りあがった。
ぴしいっ、という音が空中で鳴った。
「忍法|網代木《あじろぎ》!」
どちらが絶叫したのかわからない。おそらく、どちらも同時に発した叫びであったろう。
血しぶきが白光《びやつこう》の中に奔騰《ほんとう》した。三代目半蔵は左手を以て四代目半蔵の刀を挟もうとし、その指の股から手指まで断ちわられたのみか、脳天からあごまで切りさげられ――そして、四代目半蔵は、三代目半蔵の刀を、左手の二本の指でピタと挟みとめていた。
大地を血に染めて伏した兄の屍骸《しがい》を見下ろしもせず、四代目半蔵は庭をじろりと見わたして、
「爾今《じこん》、服部一党の指揮はこの半蔵正広がとる」
と、厳然といって、懐紙で刀身の血をぬぐい、鞘《さや》におさめて、スタスタと座敷に上っていったが、ふと立ちどまり、向うむきのまま、乾いた声でいった。
「それからの、柳町の遊女夕波なるもの、服部一党の秘事を知るものゆえ、生かしておいてはならぬ。だれぞいって、ひそかに討ち果たせ」
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『今昔物語集』の忍者
一
荒唐無稽《こうとうむけい》の忍術小説を書き出したら、「どういうはずみであんなものをやり出したのだ」とよくきかれる。
どんなきっかけで、時代錯誤な忍術物語を書きはじめたのか、じぶんでも忘れてしまったが、いまくびをひねって思い出してみると、どうやら「水滸伝《すいこでん》」を私流に書いてみないかとすすめられたことが端緒となったような気がする。
ずっとまえ、私は中国四大奇書の一つといわれる「金瓶梅《きんぺいばい》」を推理小説化した「妖異金瓶梅《よういきんぺいばい》」という作品を書いたことがあって、そのつながりから、やはり四大奇書の一つ「水滸伝」をなんとかしてみないかといわれたようである。
それで、「水滸伝」を読んでみた。ご存じのように、これは百八人の豪傑が中国四百余州をあばれまくる波乱万丈の物語だが、これをそのまま私流に書くにしても、または日本の風土に植えかえるにしても、もう少し近代的に再構成しなければ、いまこと新しくとり扱う甲斐《かい》がない。まず第一に、少なくとも登場する豪傑の武器武術を百八種類に書きわけなければ面白くないとかんがえた。
ところが「水滸伝」は、いかにも中国大陸の面目躍如として、登場する豪傑は百八人だが、その武器武術は百八種どころか、二、三十種にも足りないのではないか。だいたい豪傑そのものも、ほんとうに読者の印象にのこるのは、それくらいの人数で、あとはただ仰々《ぎようぎよう》しい名がつらねられているだけではないか。――そのへんは、実に大まかなものである。
そこで私は、腕をくんで考え出した。刀、弓、槍《やり》、薙刀《なぎなた》、鉄砲、杖、棒、縄、網、鎖鎌《くさりがま》、馬、犬。……と、それでも四十何種類かならべあげた。しかし、そこで尽きた。これがせめて百ちかくまでいったのなら、あとは死に物狂いにしぼり出すという元気も出るだろうが、百八種という目標に対して、四十何種ではもはや絶望的だ。
「そんなに神経質にならんでもいいではないか」と、いってくれる人もあったが、これはだめだ、と私はサジを投げ、シャッポをぬいで、「水滸伝」はあきらめていた。実は、少々ばかばかしくもなっていた。
それで、この件については打ち切ったつもりであったが、だいぶたってから、忍術だけで水滸伝を書いたらどうだろう、と、ふっと思いついたらしい。以前考えた武術の中に、当然忍術という一項目のあったのが、頭のどこかに残っていたとみえる。
忍術を、たんに一種とかぎることはないではないか。これを一種類とし、いままで存在した武術ばかりを数えあげれば、百八種類もないにきまっている。忍術を対象に、じぶんが新しい術を創造すれば、いくらでもあるではないか。
そこで、はたとひざをたたいて、忍術物語のシリーズを書き出したのである。
むろん最初から百八種類のアイデアがあったわけではないが、書いてゆくうちに、ふと気がついてみたら、いつのまにか百八種類どころではない、百数十人の忍者を作り出していた――というわけである。
合理と非合理という両極端のちがいはあるが、それ以外の点では、これは推理小説のトリックを考えるのとおなじだな、と書きながら私はしばしば思った。なるべく奇抜なアイデアであることが望ましいこと、いちど使ったアイデアは二度使いたくないこと、うまいアイデアは理づめに出てくるものではなく、忽然《こつねん》として天からふってくるがごとく思い浮かぶこと、などがそうである。
推理小説のトリックには、自他ともに、ずいぶんムリだなあ、と思われるものがあるが、忍術小説のアイデアにも、それはまぬがれない。いくら荒唐無稽の物語にしても、まさか雲にのって三千里走るとは書けない、それにはそれなりの限界というものがあるのである。
私の場合にも、書きながらしぶい顔をしたり、あとで読んでじぶんで吹き出したりしたことがしばしばあった。
凍った湖の上にいる敵を、水中からカステラを切るがごとく氷を切っておとす、などいうのは、われながらムチャであった。そんなことをするあいだ、人間が無呼吸でいられるかどうかはべつとして、氷がそう簡単に切れるものなら、氷屋が大ノコギリをふりまわしてゴシゴシやることはないわけだ。また、金縛《かなしば》りになった忍者が、じぶんの下アゴをむしりとって投げつけ、敵にカミつくという描写をしたことがあるが、よくよく考えてみると、下アゴだけでかみつくというのは、物理学的に至難なことのように思われる。――しかし、そこはまあ「なにしろ忍術小説ですからな」と、そらっとぼけて澄ましていることにしたい。
しかし、ともかくも百数十の忍術をかきわけると、たいていの人がおどろくとみえて、「よくまあ、あれだけばかげたことが次から次へと頭に浮かぶものですな」と、妙な眼つきで私をながめ、一応こちらが正気であるらしいとたしかめると、次によくその発想法をきかれる。当方としては、「ただ苦しまぎれで」とお答えするよりほかはない。
そのなかで、「あなたは今昔物語《こんじやくものがたり》からヒントを受けているのではないか」といった人が二、三あった。
これは私には意外であった。ずっと以前、拾い読みしたこともないではないが、そういわれるまで、私は「今昔物語集」のことなど念頭になかったからだ。そういわれて、はじめてあらためて読んでみる気になった。
二
「今昔物語集」は、平安朝末期《へいあんちようまつき》に作られた説話物語である。著者は宇治大納言隆国《うじだいなごんたかくに》とつたえられるが、それもさだかではない。
この物語集を直接読まなくても、現代の人びとは、芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》の「羅生門《らしようもん》」「鼻」「芋粥《いもがゆ》」「往生絵巻」「藪《やぶ》の中《なか》」「好色」「六の宮の姫君」などの短編や、谷崎潤一郎《たにざきじゆんいちろう》の「少将|滋幹《しげもと》の母」などで、その一端にふれたことがあるはずだ。これらはすべて「今昔物語」から材料をとり、少なくとも暗示を受けたものである。
読んでみて、私はこの約九百年ほど前の物語の近代性におどろくとともに、右の大作家たちの材料の採取の巧妙さ、それからひろげていった空想力構成力のみごとさに感じ入らざるを得なかった。
これから材料をとった、右にあげたような作品以外にも、こんな話がある。
≪今は昔、初午《はつうま》の日に、稲荷詣《いなりもう》でに京じゅうの人が集まった。
そのとき、数人の舎人《とねり》が、酒や弁当をもってやってきたが、ふと群衆の中に、美しい被衣《かつぎ》をかぶった女を見出した。
彼らが来かかるのを見ると、女は道をゆずって樹立《こだ》ちのかげにかくれようとする。そのようすがなんとも愛らしいので、男たちはゆきもやらず、腰を折りまげて顔をのぞきこもうとしたり、ふざけて淫《みだ》らな声を投げかけたりした。なかでも、舎人のひとり茨田《まつた》の重方《しげかた》はすこぶる女好きの男であったから、そばへよってじっくりと誘惑にとりかかった。
女はいう。
「奥さまもおありでしょうに、いたずらなことをおっしゃっても、きく耳をもちません」
その声のなまめかしさに、重方はいよいよぞくぞくとして、
「いや、ほんとうのところ女房はおりますが、その顔ときたら猿同然《さるどうぜん》、心は物売りの女同様。まえから別れたい別れたいと思っているのですが、着物のほころびを縫ってくれる人間がいないとこまるから、いっしょにいるまでで、いい人があったらとり変えたいと夢みているわけです」
とかなんとか、うまいことをいって、両手をすり合わせてふしおがみ、はては女の胸に烏帽子《えぼし》をさしあてて、「のう、助けたまえ、情《つれ》なきことを仰《おお》せられるな」という、その烏帽子越しに、女は片手で髻《もとどり》をひたとつかみ、もう一方の手で音ひびくばかりに平手打ちにした。
「な、なにをなさる」
と、顔をふりあげて、重方は仰天した。被衣の中の顔は、じぶんの妻であった。
さてそれから重方はさんざんにとっちめられ、それにも一々ご尤《もつと》もご尤もと平身低頭したが、妻は一向にゆるさず、
「あなたは、あなたの好きな女のひとのところへいらっしゃればいいでしょう。あたしのそばへ二度とお寄りになると、こんどは蹴《け》とばしますよ」
と、颯爽《さつそう》として向こうへ歩いていってしまった。……≫
なんとまあ現代的な風景ではないか。また、
≪今は昔、藤原《ふじわら》の朝臣《あそん》為盛《ためもり》が越前守《えちぜんのかみ》であったとき、諸国の租税が集まらなくて、下級の官吏たちに給料の払えなかったことがあった。そこで官吏たちはみな怒って、天幕や腰掛け持参で、為盛の家におしかけ、家人の出入を断《た》って督促した。
夏の暑い盛りのころである。未明から午後三時ごろまで烈日《れつじつ》に照らされて、彼らはうだりきっていたが、交渉が成立するまでは帰れない、とがんばっていた。すると、門を細目にひらいて、家老が首を出し、
「殿がこう仰せでござる。早速みなの衆と会って話したいとは思っているのだが、こう恐ろしいけんまくで押しかけられては、女子供がおびえて泣いているありさまで、いますぐには会えない。それにしても、こう暑い日に立ちづめでは、のどもかわいたであろうし、空腹になったでもあろう。ともかく門内に入って、飢渇《きかつ》をおさえられては如何《いかん》、かように申されまするが」
そこで、あごを出しかけていた一同が、ぞろぞろと中に入ると、中門の北の廊下に机をながくならべて、その上に、鯛《たい》に塩をした干物《ひもの》、塩鮭《しおさけ》、鰺《あじ》の塩辛《しおから》などが盛ってあった。酒が出た。その酒はすこし濁って、すっぱいようであったが、のどがかわいていたので、みな机の上のものを肴《さかな》に、がぶがぶと飲んだ。飯はまだかと思っていると、飯は出ないで、熟しきって紫色をしたすももが山盛りになって運ばれて来た。
やがて、為盛が出てきて、簾《すだれ》越しに、租税の集まりのわるい実状をくどくど弁解しているうちに、一同の腹が鳴りはじめ、猛烈な便意をもよおし、それを押えるのに全身が痙攣《けいれん》するようになった。やがてひとりが、「ちょっと用を足して参る」ととび上がったのをきっかけに、みな折り重なるようにして駆け出したが、走りながら、水をくつがえすように糞《くそ》を垂れはじめた。
しかも、この惨状を呈しながら、「なにか、なにか、やられるな、とは思っていたが、まんまとうまくしてやられた」と、みな笑い涙をこぼした。……≫
現代のピケラインにこの痛快無比の奇策が通じるやいかに。また、
≪今は昔、源頼光《みなもとのらいこう》の家来に、平貞道《たいらのさだみち》、平季武《たいらのすえたけ》、坂田《さかた》の金時《きんとき》という三人の豪傑があった。いずれも豪胆無比の偉丈夫《いじようふ》であったが、賀茂《かも》の祭りからの帰途、いちど車というものにのって紫野までのしてみようではないか、ということになった。
それで、生まれてはじめて車にのってみたところが、車はゆれにゆれて、あるいは板に頭をぶっつけ、おたがいに頬《ほお》をぶっつけ、ひっくりかえったかと思うと前につんのめる。はてはへどを吐きちらし、虫のような声で、そう車を急がせるな、ゆっくりゆけ、ゆっくりゆけ、と哀訴する始末になった。……≫
などという、平安朝のタクシー奇譚《きだん》もある。また、
≪今は昔、三条の中納言という人があった。まるでお相撲のようにふとっていたが、あるとき医者を呼んで、
「こうふとっては、身うごきするのも苦しくてしようがない。なんとか痩《や》せる法がなかろうか」
と相談した。そこで医者が、
「冬は湯漬け、夏は水飯《すいはん》を食べるようになされ」
と、教えた。ちょうど食事どきであったので、ではといって三条の中納言は水飯を食べはじめた。
見ていると、第一の膳《ぜん》には三寸ばかりの干瓜《ほしうり》を十ばかり盛り、第二の膳には大きな鮨鮎《すしあゆ》を三十ばかり盛ってある。さて巨大なお椀に飯を山盛りにして水をぶっかけ、干瓜を三つ食い、鮨鮎を五つ六つ食い、それから水飯をかきこみはじめたが、二口ばかりで空《から》にして、「また盛れ」とお椀をつき出した。……≫
現代でも低カロリーの食餌《しよくじ》療法をめぐって、こんな珍談がありそうだ。また、
≪今は昔、筑前《ちくぜん》の前司藤原章家《ぜんじふじわらのあきいえ》の家来に、頼方《よりかた》というものがいた。髯《ひげ》ながく、眼は爛々《らんらん》とした勇士であった。
ある日、章家をとりかこんで、侍たちが食事をした。主人が食べ残したものは、家来たちが頂戴《ちようだい》して、じぶんの皿に移して食べることになっている。そのうち、頼方は、主人の皿を回されたが、なにをうっかりしていたのか、じぶんの皿には移さないで、そのまま食い出した。ほかのものが気がついて、
「どうした。それは殿のおん器《うつわ》であるぞ」
と注意したところが、頼方ははっと気がついて、食っていたものをまたその皿に吐き出した。あわてていたので、それが髯などにかかって、みるからに汚ならしく、主人の章家は苦い顔をし、侍たちは笑いをかみころした。
いったい、頼方はなにをぼんやりしていたのか、もとは思慮もあり、武勇の侍であったのに、この事件以来、することなすことへまをやって、武勇のわざにかけても劣るようになったことはふしぎである。……≫
こんな話も、人間心理の微妙なところをついていて、いかにもありそうに思われる。――
「今昔物語」は、九百年前の物語とは思われない、こういう面白いショート・ショートにみちみちているが、三十一巻にわたる厖大《ぼうだい》な説話の中で、私の忍術の参考になりそうなものは、存外なかった。
ただ、この中に、「外術《げじゆつ》」というものが出てくる。幻術と同じことで、外道《げどう》のわざという意味をふくんでいるらしい。
その「巻第二十」に、こんな話がある。
≪今は昔、京に外術ということを好みて役とする下衆法師《げすほうし》あり、履きたる足駄、尻切《しりきれ》などを犬の子などになして這《は》わせ、また懐《ふところ》より狐《きつね》を鳴かせて出し、また馬牛の立てる尻より入りて、口より出づなどすることをぞしける≫
そういえば、谷崎潤一郎の「乱菊物語」に、三条の河原にあらわれた幻阿弥法師《げんあみほうし》という妖《あや》しき坊主がこの術を行なう場面が出てくる。
≪「さあ、よいかな、皆さん、愚僧は詐欺や騙《かた》りではない。するといったことは必ずする。依《よ》って唯今此《ただいまこ》れなる馬の尻から這入《はい》って、腹の中を通り抜け口から現われる。此《こ》の一番が今日の打ち止めじゃ。首尾よく行ったらお慰み、ごまかされないように、よッく気をつけて御覧《ごろう》じろ」
そういったかと思うと、緋毛氈《ひもうせん》の鞍覆《くらおお》いをはずして、それを頭からすっぽりと被《かぶ》って、馬の後脚のあいだへしゃがんだ。
馬は意外に大きな物体が尻の穴から侵入したので、苦しそうな声をしぼってひんひん[#「ひんひん」に傍点]啼《な》いた。途端にぱらり[#「ぱらり」に傍点]と緋毛氈が落ちた跡には、もう法師の姿はなかった。わずかに尻の穴の端に、痩《や》せた片一方の足の先だけ残っていたのが、それも見る間にするすると吸い込まれると、蛇が蛙《かえる》を呑《の》んだように、馬の腹が一遍にふくれ上がった。中で法師の身をもがいているのがはっきり分る。だんだんかたまり[#「かたまり」に傍点]が腹から胸へセリ上がって頭の方へ来る。馬は人間がはき気を催した時のように口を開いて切ない息をし始めたが、
「わッはははは」
と、その口の中で法師の笑う声が聞こえた≫
わずか、「馬牛の立てる尻より入りて、口より出づなどすることをぞしける」という一行の文章から、これだけの情景をまざまざと描き出す手腕には嘆ぜざるを得ない。
さて、右の「巻第二十」である。
≪この外術をたしなむ法師の隣に若い男が住んでいて、是非これを習いたいとたのんだ。法師は、
「このことをたやすく人に伝うることにもあらず」
とことわったが、なお切願すると、
「では、ほんとうにこのことを習いたいとお望みなら、七日間|精進《しようじん》し、そのあとで新しい桶《おけ》にチマキを入れて、あるところへ参ろう。私はお教えすることはできぬ。ただそこへおつれするだけでござる」
といった。
七日間の精進ののち、男はいわれた通り新しい桶にチマキを入れて、法師とともに家を出た。そのときに法師がくりかえしくりかえし、「よいかな、きょうはゆめゆめ刀など持ってゆかれることは御無用ですぞ」といった。しかし若者は、そうきくとかえって不安になり、心中に、「この法師がこういうのは怪しい。万一のことがあったとき、刀がなくては万事休すだ」とかんがえて、ひそかに小刀《しようとう》を懐《ふところ》にしのばせた。
未明に出立《しゆつたつ》して、歩きつづけ、ついにどことも知れぬ遠い山中についたのは午後三時ごろであった。
そこに小さな僧房があった。法師が木柴垣《こしばがき》の外にかしこまって、咳《せき》ばらいすると、障子をあけて、睫毛《まつげ》のひどくながい老僧が出て来た。「どうして久しく来なかったのだ」「どうもひまがございませんで、御無沙汰《ごぶさた》いたしました」というような問答ののち、法師は若者を紹介し、その望みをつたえた。すると、老僧はじっと見つめて、
「ところで、この若者は、刀など持ってはおるまいな」
と、いう。若者はかぶりをふった。
すると老僧は、人を呼んで、彼の懐をさぐるように命じた。そのようすの物凄《ものすご》さに若者はおびえ、たまりかねて、突然懐の刀をとり出して老僧にとびかかった。そのとたん老僧も僧房も忽然《こつねん》と消えてしまった。
気がついてみると、見知らぬ大きな堂の中に座っている。そして、そばで例の法師が、「なんというばかなことをしたものだ。なにもかもむだになってしまったではないか」と泣いていた。若者は一言もなかった。
あとで知ったところによると、その寺は西の洞院《とういん》にある大峰寺《だいほうじ》という寺であったが、恐ろしいことに、その外術法師は、家に帰ってから二、三日で急に死んでしまったということである≫
それから、「巻第二十八」には、こんな話がある。
≪今は昔、七月のころ、大和国《やまとのくに》からたくさんの馬に瓜をつんで、下衆《げす》のむれが京へ上ったが、宇治《うじ》の北に、ならぬ柿《かき》の木という木があって、彼らはその木陰に休んで、馬につんだ瓜をとって食っていた。
すると、平足駄をはき、杖をついたよぼよぼの老人がやって来て、下衆たちの瓜を食うのをながめていたが、やがて、
「私にもその瓜をひとついただけますまいか。どうものどがかわいてしかたがありませぬ」
と、たのんだ。下衆たちが、
「いや、この瓜は私物ではないから、ひとに食わせることはならん」
と、ことわると、老人はかなしげに、
「あわれ、情けのない方々じゃ。それでは私が瓜を作って食うといたしましょう」
と、うなずいて、そこらにころがっていた木ぎれで地面を掘りはじめ、そこに下衆たちの食いちらかした瓜のたねをばらまいた。
すると、そこからたちまち青い芽が出、するすると茎がのび、花が咲いて、瓜がなった。うまそうによく熟した瓜であった。老人はそれを食べ、にこにこして、
「ごらんの通りじゃ。さあさあみなさん、遠慮なくお食べなさい」
と、いった。下衆たちはみんなこれを食い、さらに道ゆく人びとをも呼んで食わせた。
「では、ごめん」
と、老人が笑いながら、飄然《ひようぜん》と立ち去ったあと、下衆たちは、「さて」と立ちあがり、馬のそばに寄ってあっと眼をむいた。馬の背の籠《かご》の中にあったたくさんの瓜は、一つのこらず消え失《う》せていた。……≫
これに似た話は、「聊斎志異《りようさいしい》」にもある。中国から伝来した話であろう。
だいたいこの外術というものが西域《せいいき》から中国へ伝わったものらしく、「漢書《かんじよ》」という千年ほど前に書かれた書物にも、右の牛馬の腹を通りぬける術は「馬腹術」と称し、瓜のたねを即刻生やす術は「生花術」と称して出ているということである。また、みずからの手足をばらばらに解体し、あとでつなぎ合わせる「屠人戮馬《とじんりくば》の術」や、地にえがいて川となす「画地成川《がちせいせん》の術」なども記載されているという。
しかし、これらの術は、いかになんでも現代の忍法話には転用しがたい。少なくとも、私にこれを再現する意欲を起こさせなかった。
ところが――たった一つ、「今昔物語」の中に、それがあった。それどころか、平安時代に私の先祖が、私と同じ顔をして生きていたのではないかと思われるほどの話があった。
巻第二十「陽成《ようぜい》の院の御代《みよ》に、滝口《たきぐち》、金《こがね》の使いにゆきたること第十」がそれである。
三
今は昔、陽成院の天皇のころ、道範《みちのり》という滝口の武者があった。滝口とは、蔵人所《くろうどどころ》に属し、禁中の警衛にあたった武士のことで、清涼殿《せいりようでん》の東北方に御溝水《みかわみず》の落ちるところがあって、そこを詰所《つめしよ》としていたから、こう呼ぶ。
その滝口の道範が、宣旨《せんじ》をうけて、陸奥《むつ》へ黄金《こがね》を受け取りに下る旅の途上、信濃《しなの》のある村に宿った。郡《こおり》の司《つかさ》が待ちうけていて丁重にねぎらった。
さてその夜、道範はなんとなく眠りがたく、起きあがって、ひとり家の内外をぶらぶらとあるいていると、ふとかんばしい香《こう》のかおりがただよってくるのをおぼえた。そこでその方へちかづいてゆくと、ある部屋に二十《はたち》ばかりの女がひとり眠っているのを見出した。きよらかにたたみをしき、屏風《びようぶ》、几帳《きちよう》などを立てまわし、二段になった厨子《ずし》などが飾ってあるところをみると、郡司《ぐんじ》の妻に相違ない。几帳のうしろにともされた灯をたよりに、あらためてしげしげと見入ると、実に夢幻の中の人ではないかと思われるほどの美貌《びぼう》である。
道範はあたりを見まわしたが、ほかに何者の影もない。彼は情欲にたえがたくなって、やおら遣戸《やりど》をひらいて中に入った。
あれほど親切に歓待してくれた郡司の妻にこんなことをするとは――と、いちどはみずからを制しようとしたが、閨《ねや》のそばにうずくまって見下ろすと、ちょうど晩夏のころであったから、女は薄着をしていて、ただ紫苑《しおん》の綾衣《あやぎぬ》を一重《ひとえ》まとっているばかりである。それを透かして息づく白く柔らかい肌を見ているうちに、道範はついに自分を失って、きものをぬぎすて、女のそばによりそって寝た。
女は眼をあけたが、声はたてなかった。口を覆い、わずかにかるく抵抗するようなそぶりをみせただけで、そのまま道範に抱きしめられた。
すると、そのとき道範は、ふいにじぶんの摩羅《まら》がかゆいような気がした。手をやってみると、毛ばかりあって摩羅がない。
「あながちに捜《さぐ》るといえども、すべて頭の髪を捜るがごとくにて、露あとだになし」と、もとの文章にある。
道範は仰天して、がばとはね起きた。そのとき、女は横たわったまま、にっと微笑《ほほえ》んだようであった。
道範はぞっとして、一陣の妖風《ようふう》に吹きとばされたように逃げ出した。じぶんの寝所に逃げもどって、もういちどたしかめたがやはりない。――なんとも奇々怪々の異変だが、さればとて、郡司の妻のところに夜這《よば》いにいったじぶんの行状を思うと、大声をあげてさわぎたてるわけにもゆかない。
道範はそっとひとりの郎党を呼んで、そうとは告げないで、「おい、しかじかの方角に、実にすばらしい美女が寝ておるぞ。実は、おれもいまいって来たのだが、ひとりで味わうにはもったいないほどの尤物《ゆうぶつ》であった。おまえもいってみるがよい」とけしかけた。
郎党は悦《えつ》にいって、さっそくに這っていったが、やがて帰って来た。みると、首をひねり、キョトンとしている。「さては、こいつもやられたな」と道範は思い、さらにほかの郎党七、八人をも、つぎつぎにやった。つぎつぎに彼らは帰って来たが、どの男も天を仰ぎ、すこぶる心得ぬ顔つきをしている。
夜が明けた。いくらかんがえても、このことはぶきみ千万である。そこで道範一行は、家人にも知らせないで、とるものもとりあえず、その家を早々に出立した。
七、八町ゆくと、うしろで「おおーい、おおーい」と呼ぶものがある。ぎょっとしてふりかえると、ひとりの男が馬を馳《は》せてちかづいて来た。郡司の家来で、昨夜食事の給仕をしてくれた男であった。
馬から下りていう。
「けさ、お食事のご用意をしておりましたのに、いそいでお立ちになりましたので、こんなものを落としておゆきになりました。ひろい集めて持って来ましたが」
と、白い紙につつんだものをうやうやしく捧《ささ》げた。
「どうしてかようなものを捨てておゆきなされたか、はやく追いかけていって奉れ、と主人が申しまする」
茫然《ぼうぜん》として受け取ってみると、なんだか松茸《まつたけ》をつつんだような感触である。八人の郎党を呼びあつめ、紙をひらいてみると、九本の摩羅がそこにあった。
使いの男は、なにごともないかのような顔で、馬にとびのり、駆けもどっていった。……
この話には、まだあとがある。
滝口の道範は、陸奥からの帰途、またこの信濃の郡司の家に寄って、恥をしのんでいつぞやの怪事をただした。郡司は笑いながら、
「あれは、私の若いころ、この国の奥の郡に老郡司がおりまして、その妻が非常に若く美しかったので、つい忍んでいって、例の摩羅おとしの術にかかり、その老郡司に謝って伝授された外術です」
とこたえた。
道範は多くの黄金《おうごん》をあたえて、その相伝を請うた。郡司は承諾した。
しかし、その奥義《おうぎ》を体得するには、さまざまの恐るべきテストがあって、道範はついにその何課程めかに落第した。
郡司は天を仰いで、「あなたはとうてい摩羅おとしの術をおぼえるところまではゆきません。ほかのもっと他愛ない術をおぼえるのがせいいっぱいのところです」といった。
道範は残念に思ったが、しかたなく、もっと初歩の外術をならってかえった。
京にかえってから、彼はときどきそれを見せた。草履を小犬に変えたり、わらじを鯉《こい》に変えたりする術であった。
ところが、それでも人びとの眼をうばうに十分であったらしい。評判を陽成天皇がきかれ、道範を召して、この外術をおならいになった。日本には、忍者の天皇が実在したのである。
――しかるに、世の人びとは、このことをよくいわなかった。帝王の御身を以《もつ》て、かかる外道の術をなしたまうとは、以てのほかの罪ふかいことであるとそしった。そしてまた陽成天皇は、のちについに発狂されたという。
「今昔物語集」はおごそかにいう。
≪それたまたま人界に生まれて仏法にあいたてまつりながら、仏道をすてて魔界に赴《おもむ》かんこと、これ宝の山に入りて手を空《むな》しくして出《い》で、石を抱いて深き淵《ふち》に入りて命を失うがごとし。しかれば、ゆめゆめとどむべきことなりとなん語り伝えたるとや≫
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忍者帷子乙五郎
一
江戸城大奥|御広敷《おひろしき》伊賀者の帷子《かたびら》乙五郎《おとごろう》は、へんな奴であった。同僚がそう思うばかりでなく、乙五郎の伯父にあたる添番《そえばん》の帷子|兵左衛門《へいざえもん》もそうみとめざるを得なかった。
後宮《こうきゆう》の美女三千人といわれる大奥であるが、やむを得ない役目で勤務する男たちも若干はある。表からの公用の取次をする役人、御用商人をさばく役人、お庭の手入れ、また警衛をする役人、台所役人など――ただし、彼らは大奥のなかでも御広敷《おひろしき》という一劃《いつかく》のみにつめていて、女ばかりの奥向きとは、ただ一カ所「下《しも》の御錠口《おじようぐち》」という通路をのぞいて厳重に隔離されていた。御広敷伊賀者は、このうちお錠口を通る人または物の検査役で、添番はその監督官である。
伊賀者というのは、天正のむかし、伊賀の豪族服部半蔵が徳川家に召しかかえられたとき、いっしよにつれてきた二百人の忍者の末裔《まつえい》であったが、それから二百数十年の泰平を経て、はたして忍法の素養のあるものがどれだけあったか。とくに、この大奥御広敷に代々勤務する伊賀者は、後宮の警察官というより、みな一様に、いじけた、陰湿な宦官《かんがん》みたいな蒼白い皮膚をしていた。
そのなかで、乙五郎は、まずその風貌から異彩をはなっている。背はふつうだが、筋肉は黒びかりして、顔もまた黒い金太郎のようであった。眼からして、ちかごろの旗本御家人にはめったにみられない野性の精気をおびている。それは最初から御広敷の諸役人の眼をひいていて、
「あれは江戸育ちか」
と、伯父の帷子兵左衛門にだれもがきいた。兵左衛門は憮然《ぶぜん》としてこたえた。
「江戸生まれにちがいないが、この五六年、伊賀へいっておった」
「なに、伊賀へ?」
伊賀こそ彼らのふるさとだが、伊賀者がそのふるさとへかえらなくなってから何十年になるであろう。
「伊賀のどこへ」
「鍔隠《つばかく》れという所じゃ。十七の年、忍法修行のためと申して、勝手に出奔していった男じゃが」
「それで、乙五郎は忍法を修行して参ったのか」
「忍法を修行してきたかと申しても、にやにやしておるばかりで、はかばかしい返事もせぬが」
と兵左衛門はにがりきっていった。少年の乙五郎が、いまの伊賀者にあきたらぬむねの置手紙をのこして家出をしたという話をきいた当時は、内心でかしたと思っていたが、こんど呼びもどした乙五郎が、伯父たるじぶんをどこか馬鹿にしているような気配があるのが気にいらないのである。
ただ、心中、ひとつ舌をまいていることがある。こんど、兵左衛門の弟、つまり乙五郎の父親が死病にかかったとき、兵左衛門はあわてて伊賀へ人をやった。乙五郎を至急呼びもどすためである。乙五郎はかえってきた。そのかえってきたのが、いやに早い。「伊賀から江戸まで何日かかったか」ときくと、「三日かかりました」という返事であった。兵左衛門は唖然《あぜん》とした。伊賀から江戸までは百二十里はあるだろう。それを三日できたということは、一日に四十里走ったということになる。しかし、それから二十日以上たってからやっとかえってきた使いの男に、乙五郎の伊賀を発った日をきくと、乙五郎の返事がいつわりでないことが知れた。
さて、乙五郎は、亡父のあとをついで大奥御広敷に勤務するようになったが、やはり場ちがいといった感じがある。上役の伯父ばかりでなく、だれしもが馬鹿にされているように思った。江戸城の、しかも、もっとも作法のきびしい大奥で、彼はまったくコンパスがあわないのだ。はじめ馬鹿にされているように感じたのは思いすごしで、たんに野人と化した乙五郎の習性にすぎないとわかったのはまもなくであった。彼の起居ふるまいは、まったく傍人をはらはらさせた。彼自身の危険をじゅうぶん予測させた。
伊賀の山から出てきた乙五郎は、大奥の女性たちに対して存外関心をいだかなかったらしいが、そのかわり食い物には大いに興味をもったようであった。
大奥の食膳は、すべて御広敷御膳所《おひろしきおぜんしよ》で調理する。調理がととのうと、御台所頭《おだいどころがしら》から、御広敷番頭にそのむね報告する。御広敷番頭は御用達添番《ごようたしそえばん》をともなって御膳所に出張する。そこで、お懸盤《けんばん》なるものへ料理した十人前の品をのこらず盛り添番がまずこれを一箸ずつ味わい、つぎに御広敷番頭が味わい、しりぞいて相対座し、しばらくにらみあってから、たがいに目礼していう。
「よろしうござろう」
かくて、九人前となった料理のうち、汁は真鍮《しんちゆう》の鍋にいれ、煮物は春慶塗りの重箱に盛って、御舟《おふね》と称する舟型の容器につみこんで、御膳所の小役人がこれを奉じて御錠口にはこぶ。いちどの食事に五舟も六舟もあるのを常とする。
御錠口で御舟をうけとった女中は、これを奥御膳所にはこび、ここでまた女官の毒味をうける。
「よいでありましょう」
かくて八人前となった料理のうち、一人前だけ、葵の紋、金蒔絵のお懸盤にのせ、お次とよばれる女中控所にうつし、お次が御休息の間《ま》まではこぶと、御中臈《ごちゆうろう》がうけとって、ようやく将軍|乃至御台《ないしみだい》さまの御前にはこぶ。そして将軍乃至御台さまは、ふたりの御小姓、御年寄、中年寄、御中臈などの熱心な注視のうちに食事をするのである。
お肴《さかな》は一箸、他の品は二箸つければ、ただちに、
「おかわり」
と、御年寄がさけび、御中臈がすすみ出て、目八分にささげた三方《さんぼう》にそのお下《さが》りをうけ、もとの座にかえると、うしろの敷居|外《そと》にひかえたお次の者へ、
「何々のおかわり」
と、申しつける。お次はまたべつの女中に命じて、奥御膳所に待機させてあるのこり七人前の料理のうち、必要のものを運ばせるのである。このものものしい大機構を知って、「上様はおきのどくだな。それに少々……」と、乙五郎がつぶやいたのはむりもない。
「少々」の次の「馬鹿げてもいる」というつぶやきをのんだのは、いくら乙五郎でもそれくらいの遠慮はあったとみえる。
さて、帷子乙五郎が、或る日、のこのこと御広敷|御膳所《おぜんしよ》にあらわれた。
二
むろん所管外の場所で、本来彼のくるべきところではないが、そもそもこの御膳所は、御膳奉行のもとに、御台所頭《おだいどころがしら》二人、組頭《くみがしら》三人、御賄調役《おまかないしらべやく》三人、御賄吟味役三人、御台所人三十人、御小間《おこま》役三人、御賄方四十人、六尺《ろくしやく》五十人、合計百三十余人が火事場のごとくはたらいているのだから、そのときだれにも気づかれなかったのである。
ついでにいうと、これとはべつに表御膳所の方でも、六七百人の台所役人がはたらいていたというから、以て江戸城の規模を知るに足る。しかもその材料たるや、魚は中程のみのみを切りとってあとはすて、鳥はささ身のみを用い、鰹《かつお》ぶしは二三度けずったのみで、味噌は一鉢二貫目につき五百匁ははねのけるといった、ぜいたくさであった。もともと魚にしても青物にしても、毎日役人が市場《いちば》に出張して、欲するものを欲するだけ「御用」とさけんで召しあげる。それがただ同然の価であったから、公儀にとってはいたくもかゆくもないのである。それでも明治になって、市場にゆき「幕政のころよりだいぶ楽になったであろう」ときいたところ「なに、税のない昔の方がよほど楽でござんした」と異口同音にこたえたという。
十帖、二十帖、或は三十帖の各係役人の詰所にめぐらされた御膳所の中央には、六つの大かまど[#「かまど」に傍点]がならび、かまど[#「かまど」に傍点]のうしろから左右にかけて、銅を張った檜《ひのき》の火屏風がたてまわしてある。また長さ二間半、幅一間の石造りの大囲炉裏のある四十坪ばかりの板の間の天井も銅《あか》張りで、井戸のある二百坪の板の間は、天井のかわりに金網張りだ。湯気や煙やさけび声のなかに、粗末な肩衣《かたぎぬ》をつけた百人ちかい御台所人や賄方《まかないかた》が、或いは野菜をきざみ、鳥を煮、菓子をならべているのは壮観だが、その隅っこで、やはり肩衣をつけた味噌すり役人が、直径三尺もある石のすり鉢に二貫目の味噌をいれ、四尺五六寸の摺粉木《すりこぎ》おっとって、一心不乱にすりたてている光景はおかしかった。
「ああ、いけねえ」
縦四尺、幅二尺五寸の大俎《おおまないた》に鰹をならべて、刺身をつくりにかかっていた賄方のうしろで、ひとりの老人が大声でさけんだ。肩衣をつけているのに、向う鉢巻をしている。
「といだばかりの庖丁をつかっちゃ、味がおちる。ひと晩水につけておくもんだ。きのうといだ庖丁はねえのか」
「なぜだね」
と、ふいにその横で乙五郎がいった。
「なぜ、といだばかりの庖丁をつかうと味がおちるんだ」
老人は、ちんまりしたまげ[#「まげ」に傍点]は真っ白だが、つやつやしたあから顔をむけて、すこし妙な表情をしたが、
「金気《かなつけ》がつくんでさあ」
と、こたえた。
「金気――なるほど。しかし、金気なら三日まえといだ庖丁でもやっぱりつくだろう」
「それあ、しかたがござんせん。木刀で刺身をつくるわけにもゆかねえ」
なんとなく、みなもったいぶった台所役人のなかで、この老人はいま河岸《かし》からきたように伝法《でんぽう》な言葉づかいであった。乙五郎はにやりと笑った。
「わしなら、紙で切れるな」
「へっ、紙で?」
乙五郎はふところから懐紙をとり出した。その一枚をぬいて、三つに折った。
「どれ、みせろ」
と、賄方をおしのけて俎のまえにすわると、鰹の切身をおさえもせず、すっすっすっとその懐紙で切っていった。
紙で魚肉をきるふしぎさもさることながら、なんというみごとな手練だろう。そこにあらわれた厚みの寸分かわらぬ刺身の美しさに、ふたりはあっと息をのんだまま、眼をむいたきりであった。
「刺身をつくったのははじめてだが、どうだ、うまいだろう」
と、彼はまるい鼻をうごめかして、ふと眼をあげて、向うにつみあげられた西瓜《すいか》をながめた。
「西瓜にしても、庖丁できれば金気はつくだろう。あれをひとつもってきてごらん」
賄方は、まじまじと乙五郎の顔をみていたが、彼が何をしようとしているかを知ると、唇をゆがめて、そのひとつをはこんできた。
乙五郎はそれを俎の上においた。まわりの賄方が「なんだなんだ、何をしようってんだ」と十数人寄ってきた。乙五郎はへいきでみなを見まわしながら、手の紙でかるく西瓜をなでた。まさに、なでたとしかみえぬうごきであったのに、彼がもう一方の指でとんとたたくと、西瓜は真っ赤な切口をみせて、左右にぽっかりわれてころがったのである。
この変な庖丁をくるくるとまるめて捨て、手をはたいて、笑いながらゆきかかる乙五郎をあわてて老人がつかまえたとき、やっと賄方たちの口から異様なうめき声があがった。
「だ、旦那。あたしゃ、これでも魚料理にかけちゃお城第一、いいや、江戸一番とうぬぼれていた男です。本音をはくと公方《くぼう》さまにほんとにうめえものを食わしてあげられっこのねえこんなお城づとめの料理人は気に染まねえが、ひょんなことで娘が大奥に御奉公にあがる破目になった縁でひっぱられてきたんだが、いまの紙の庖丁にぁ、すっかりきもをつぶしました」
と、老人は肩で息をしながらいった。
「旦那、その紙の庖丁さばきは、どこの板前の伝授で? 日本じゃありますめえ、韓《から》か、唐人か――」
帷子乙五郎はけろりとしていった。
「これは、忍術じゃ」
「へっ、忍術?」
みながすっとんきょうな声をあげたとき、やっとこのさわぎに気のついた御台所|頭《がしら》が、眼をむいてかけつけてきた。
三
その帷子乙五郎が恋をした。まったく女などに興味はなさそうだった乙五郎がいつ、どんなはずみで、その女を見染めたのかわからない。
彼はひところ、御膳所いりびたりであった。料理よりも、あの台所人の老人、それでもお城につとめるとあれば御家人待遇で苗字《みようじ》がついて、ただしじぶんでかんがえたとみえて俎《まないた》銀兵衛という爺さんと、ひどくうま[#「うま」に傍点]があったらしいのだ。伊賀者が御膳所に出入することはむろん異法だが、あの日鰹の刺身を召しあがった上様と御台《みだい》さまが「これほど美味な鰹をたべたことはないぞよ」とおほめのお言葉があって、おふたりで五人前もおかわりを所望されたという事実があったのでそれ以来、御台所頭たちも黙認するほかはなかったのである。もっとも彼は、料理そのものにはだんだん興味をうしなって、ただ傍若無人にそこらのものをぱくぱくとつまみ食い――つまみ食いではない、つかみ食いで、しかも彼は魚でも野菜でも生《なま》のものが好物らしかった。鳥なども毛をむしったままのやつを、ばりばりと骨まで食ってしまうのである――その食欲のみの満足のために出入している案配であったが、やがてそれにも飽きてきたらしく、あまり御膳所にあらわれないようになった。そのため、こんどは好奇心が女にむけられたのか或いは女を思いつめるあまり、食欲が忘れられたのかそこはどっちだかわからない。
相手が悪かった。それは「下《しも》のお錠口」につとめるお使い番の女中であった。
将軍が出入りする「上《かみ》の御錠口」につめるいわゆる御錠口衆は高級の女中だが、それ以外の世間とのただひとつの通路たるこの「下《しも》の御錠口」に待機している使い番はお目見《めみえ》以下の下級の女中であった。杉戸一枚で、内側をこのお使い番がまもり、外側を添番と伊賀者がまもる。午前六時のお太鼓で杉戸をひらき、午後六時、双方提灯をそこへおき、一礼してしめる。夜はむろん交替で不寝番に立つ。この二|間幅《けんはば》の黒塗り縁《ぶち》の大杉戸のまえには、
「これより男入るべからず」とかいた札《ふだ》がかかげてあった。
この「男禁制」の外の番人の男が、内の番人の女に恋をしたのだ。
しかも、帷子乙五郎らしく、堂々と付文《つけぶみ》をした。そして、よほどのぼせていたのであろうか、忍者にあるまじきへま[#「へま」に傍点]をやったもので、たちまち現場をおさえられたのである。
天守閣の空に鳶の舞っている秋の或る午後、ちょうど、いちばん風紀にうるさい滝川という御年寄が外出さきからもどってきて、奥へ入ろうとしていたときであった。「お通りあそばす」という声とともに、杉戸の内側にひれ伏していたお使い番の女中に、杉戸の外に平伏している伊賀者の手がにゅっとのびて、何やら手紙らしいものを袖に入れたのを、五六歩ゆきすぎた滝川が、ひょいとふりむいて見つけたのだ。
彼女はたちもどってきた。
「とね、それは何じゃ」
「はい。……」
とねという女中は、薄あかりのなかに耳たぶをそめて、顔をふせたままであった。そのふるえをみると、乙五郎もふるえてきた。滝川よりも、じぶんの失態よりも、彼女の恐怖を恐怖したのである。彼は娘が、きぬごし豆腐みたいにふるえくだけはすまいかと案じたほどであった。思いがけぬ恐怖の伝染に、実ははじめてこのとき、じぶんがどれほどこの娘を恋しているかを知って、彼は慄然としていた。
「いま、そこの伊賀者のわたした文《ふみ》をみせや」
とねがなおうつむいたままなので、滝川はかがみこんで、むりに娘のたもとからいま見たものをとりあげた。何も知らなかった添番の帷子兵左衛門はきょとんとしている。
滝川は、手紙をよんだ。
「おれは帷子乙五郎。こんど宿下《やどさが》りの節は、四谷伊賀町の組屋敷《くみやしき》にきて下され」
帷子兵左衛門は、あっとさけんだ。土気色になって、乙五郎をふりかえる。乙五郎は声もない。
「それは」
と、娘が顔をあげた。円顔で愛くるしく、羽二重のように繊細な皮膚をした娘であった。
「父が乙五郎どのから是非庖丁の秘伝をうけたいと申し、乙五郎どのがわたしを通じて伝授してやろうと仰せられて、その日どりのうちあわせでございます」
「そなたの父というと?」
「御広敷御膳所に御奉公いたしまする御台所人俎銀兵衛と申すものでございます」
こんどは乙五郎が、口のなかであっとさけんでいた。付文をするほど惚れていながら、迂闊《うかつ》にも彼は、とねがあの俎銀兵衛の娘だとは、いまのいままで知らなかったのである。
「帷子乙五郎に、庖丁の秘伝をうけたいと。……おゝ、あの伊賀者か」
滝川も、ようやく、曾ての話を耳にしていて、思い出したらしい。乙五郎をふりかえって微笑した。
「左様か。しかし、ここは大事な御錠口、お使い番と伊賀者が、わたくしごとの口をきいてはなりませぬぞえ。こんどのことは大目にみてつかわすが、以後気をつけや」
滝川は文《ふみ》をかえして、しずしずと奥へ去った。
乙五郎は平伏したまま、伯父の兵左衛門がいやというほど肘でわき腹をついたのにも、恐ろしい眼をしてにらみつけているのにも無神経でいる。いや、とねのとっさの智慧に心がとろけるほど感服したのであった。
四
そのとねが、四谷伊賀町の組屋敷の乙五郎を、ほんとうにたずねてきたのは、それから数カ月をへた冬の日のことであった。乙五郎は狼狽し、また有頂天になってよろこんだ。
「こ、これはようおいでなされた。まるで夢のようじゃ。いつぞやは……」
と、湯気のたつほどまっかな顔をして、
「よういいぬけられたな。いや、あの折はまったく冷汗三斗の思いで」
「あれだけのお文《ふみ》でよろしうございました。御年寄さまから読みあげていただかなければ、わたくしもどう申してよいやらわからなかったに相違ございませぬ」
とねは微笑んだ。ちらと乙五郎と眼があうと、利発げな言葉に似あわず、ういういしく頬がはにかみの薄紅をちらした。その血のいろがやがてひくと、まじめな表情にもどって、
「きょうは、乙五郎さまにおねがいがあってうかがったのでございます。あのおり、御年寄さまに、とっさにいいのがれいたしましたことが、まことのことと相成りました」
「なに、わしにねがいとは?」
「庖丁のことで、お救いいただきたいのでございます」
乙五郎はすこし失望したが、すぐに熱心な眼いろで、それを見まもった。
「乙五郎さま、あなたは、ちかく御前に披露いたしまする、表御膳所と御広敷御膳所の生作《いけづく》り試合のことをお耳になすっていらっしゃいますね」
「いや、存ぜぬが」
とねの話したことはこうである。
十日ばかりまえ、上様は表で鯉の生作りを召しあがって、いたく感心あそばした。上様が表で御食事をなさるときは、もとより表御膳所の調理によるものだ。それで、そのあと奥にお入りになったとき、その料理人の川澄助八なるものをたいへんおほめになって、いちど大奥専門の御広敷御膳所にまねいて鯉か鯛の生作りを食べさせてやりたいと御台《みだい》さまに仰せられたところ、御台さまは、いいえ、奥にも俎銀兵衛という庖丁の名人が奉公しておりますとおこたえになったことから、はからずも表と奥の庖丁さばき争いの企てが生じたというのである。
のんきな話とみるのは他人のことで、当人にとってはいのちをかけた試合で、当人のみならず御膳所全体の名誉にかかわり、はては上様と御台さまの御面目にもつながるとさえ思いこませる雲ゆきとなってしまった。むろん銀兵衛は、自信満々としてこの話をうけた。ところが。――
「ところが……おとといの夜のことでございます。父は、ふいに箸をとりおとしました。ひろいあげても、またころがりおちます。右腕がかすかにしびれていることに気がついたのは、そのあとでございます。知らせるひとがあって、わたくしはあわてて宿下りをとらせていただいて、家にかえりました。父は中風の気をおこしたらしいのでございます」
とねは、蒼ざめた顔色であった。銀兵衛はふいに軽い脳出血に襲われたのである。それはむろんこのさい狼狽すべき突発事であったが、いっそうわるいことはそれが軽いということであった。他人の眼には、それほど支障があるとはみえないのである。だから、いまになってこの庖丁争いにお断りを申し出れば、臆病風にふかれたものとみられ、試合しないうちから試合にまけたことになる、と銀兵衛は身をもんで懊悩《おうのう》しているというのであった。
「そして、ふと、あなたさまのことを思い出し、おれの代りに相手にひけをとらぬ生作りをつくれるのは、あの帷子さまのほかにはない、といい出したのでございます」
乙五郎はいった。
「拙者でも、よろしいのか」
「それは、お目見《めみえ》以下の台所人が、上様や御台さまの御前に参ることはかないませぬ。また料理の御前試合など、表むきにごらんあそばすはずもございませぬ。ただ双方のつくった生作りをおん眼にかけるだけで、もともと父はこのごろじぶんでめったに庖丁をとったこともございませんから、父の指図でつくったということになれば、おなじことなのでございます。……乙五郎さま、お武家さまに身のすくむようなもったいないおねがいでございますが、お助け下さいましょうか」
「武家といっても、台所のあぶら虫のような伊賀者です」
と、乙五郎は笑って、きいた。
「試合は、いつでござる」
「三日のちでございます」
三日のち、将軍と御台《みだい》さまのまえに、海の水をたたえた盥《たらい》が、うやうやしく二つもち出された。
将軍さまのまえの御膳には、美しい魚肉をならべた皿がおかれていた。「表御膳所の台所人川澄助八めの庖丁にかかるものでございまして、そのお刺身は、おんまえのお盥《たらい》をおよいでおりまする鯛のものでございます」と、老女が説明した。
将軍は盥をのぞいて、声をひくくうなった。盥の中には、頭と尾だけ、あとは骨ばかりの大きな縞鯛がくねり泳いでいたのである。
「どうじゃ、これは」
と、将軍はややあってふりかえって、鼻をうごめかした。御台さまはすこし狼狽した。そのまえのお膳にはやはり大皿があるが、魚の身らしいものは何もなかったからである。
「俎銀兵衛の生作りはどうしたのじゃ」
「そのお盥のなかにあるそうにござりますが」
と、老女はこたえたが、彼女も先刻から妙な表情をしている。盥のなかの水底には大きな伊勢海老がうごいているが、それは海の中にいるものとおなじで、どこが生作りなのか判断がつかないのだ。
「あ、海老が……」
御中臈がふいにさけんだ。
その海老が盥のふちによじのぼってきたのだ。とみるまに、それはたたみにすべりおち、ながい触角をふりふり、樹枝状の足をうごかしてがさがさと膳の方へ這ってきた。ぬれた栗色の甲から、海の匂いがした。そして、御台さまの膳の下にくると、ひとはね大きくはねて、大皿にのったのである。
同時に、その甲が、鎧でもぬぐようにはねのけとれた。みな、かっと眼をむいたまま、声も出なかった。みずから甲をはねのけた海老の内部は、四五分《しごぶ》の厚さにぶっきられた透きとおるような刺身となっていたからである。
五
帷子乙五郎がとねを花嫁にもらうことをやっと伯父の兵左衛門に承諾させたのは、その冬の終りであった。むろん兵左衛門は猛烈に反対した。伊賀者は軽輩であるが、なんといっても天正の服部以来譜代の一門という誇りがある。それにくらべて、とねの父親は、名目こそ士分だが、しょせん素性は料理人だ。――
「くだらぬことを仰せある」
と、苦笑する乙五郎に兵左衛門はいよいよ立腹したが、乙五郎が、「ならば、わたくしは伊賀者の身分をすててもよろしゅうござる」といい出すにおよんで、ぎょっとした。この変な甥には、そんなことを実際に敢行する野人性と、いや、それよりももっと恐ろしいこともやりかねぬ野戦性の匂いを、ようやくこのごろ兵左衛門もかぎとっていたのである。
春になったら、とねがおいとまをいただいて、婚礼をあげようという内輪の相談がまとまったとき、乙五郎は子供みたいにひっくりかえってよろこんで、兵左衛門を「このたわけめ」と呆れさせた。
とねが、非番でひとり組屋敷で春に遠い空模様をあおいでいた乙五郎をたずねたのは、早春の雪のふる日のことであった。
「とね。……もうおいとまをいただいたのか」
乙五郎の眼はかがやいた。とねの顔色は日かげの雪よりしずんでいた。
「乙五郎さま、たいへんなことになりました」
とねのいったことは、乙五郎をのけぞらした。
ふだんほとんど上様のお身まわりにちかづいたおぼえのない下級の女中のとねが、いつ、どこでお目にとまったものか二三日まえ、ふいに御年寄の滝川さまから、ちかくお庭お目見えをいたすようにというお申しつけがあったというのである。お庭お目見えというのは、将軍のそれとなくみている庭前を、島田振袖であゆむことで、これが愛妾登用の一儀式であることは乙五郎も承知している。
音もなく牡丹雪のふりしきる軒先に、はや薄暮がせまりかかっているのに、灯もつけず、いつまでもふたりは、だまって顔を見あわせていた。おたがいの顔が蝋の面のように見えた。
「とね。……どこかへにげようか」
と、乙五郎はうめいた。
「おれは以前から、伊賀者のいまの仕事のくだらないのにあきれていたのだ。野心にもえて伊賀にはしり、野心にもえて江戸にかえってはきたが、あまりばかげた日常に、野心などは、春の淡雪のように溶けてしまった。恋などしたのも、そのせいかもしれぬ……」
彼は苦痛にみちた苦笑いを頬に彫った。とねの唇はわなないた。
「病気の父をのこして、ふたりで逃げ出すことはできませぬ。また、日本のどこへにも、にげきれませぬ」
とねは、男の胸に身をなげかけた。
「乙五郎さま、いっそ死にましょう」
乙五郎は、とねを抱きしめた。はじめて抱きしめる淡雪のようなとねのからだであった。彼はその乳房をおしつぶし、その頬に頬ずりし、いのちを吸いつくすようにその唇を吸った。吼《ほ》えるようにいった。
「このやわらかい胸、この黒い眼、このいとしい唇……これを余人にわたせるか。いいや、わたせぬ、おれはわたさぬ、たとえ相手が公方さまとても――」
しかし、彼はふるえた。いかに野生化しようと、それは二百数十年にわたり、公方の犬として飼育されてきた血のおののきであった。
「死ぬか、とね、死ぬかくごがあるか?」
「殺して下さいまし、乙五郎さま、とねはその方がうれしうございます」
ふいに帷子乙五郎の眼は爛とかがやいた。この場合に、とねのからだに水のようなものがながれたほど、それはぶきみなひかりを放った。
「死のう、とね、そうだ、生甲斐のなかったおれに、死甲斐ができた」
「死甲斐とは?」
「上様にはすでに十七人の御部屋様がある。当然のこととして、それをみてきた。むしろ、御部屋様になりとうて、みな、うじうじしてなったものとみてきた。しかし、いまにして思えば、あの中にはおれやそなたのような哀しみを味わった女がきっとある。また、これからさきもつぎつぎとおなじ運命の女があらわれるだろう。ひとりのおひとが、ひとしずくの甘露を味わいなさるために、おびただしい涙や汗の海を必要とする。あのばかげた御膳所のしくみとおなじことだ。……それを身を以て、おれたちが、おれたちで止める」
眼のいかりは頬にながれおち、あとに乾いた火のようなものが凄惨にゆれた。そして、帷子乙五郎はからからと笑ったのである。
「おれは忍者として死ぬる。とね、そのまえにそなたは、忍者の妻として死んでくれ」
六
大奥の御寝所で、将軍とお添寝の御中臈は、おじょう[#「おじょう」に傍点]畳の上にしいたお納戸縮緬の夜具にうずもれていた。
「来ぬな」
と、将軍は舌なめずりしていった。お添寝の御中臈は、作法どおり背をむけたまま、
「処女《おとめ》でございますゆえ」
と、こたえて、ひさしぶりに胸をどきどきさせていた。となりの御小座敷《おこざしき》にじっとうなだれている新しい御中臈――正確にいえばこれから御中臈になる女――の可憐な姿を思いうかべたのである。
将軍が寝につくとき、御用の女とお添寝の女と、ふたりが両側に侍るのが大奥の慣習だが、今宵御用の女が処女であることは、お添寝当番の彼女にもはじめての経験で、これから数刻のことをかんがえると、はやくも胸があえぎ、血がざわめく思いであった。
「とね、参れ」
将軍はようやくいらだって、声をかけた。
唐紙《からかみ》が音もなくあいて、白鷺のような影がうかび出た。総|白無垢《しろむく》に髪を櫛巻きにされた娘は、春灯のかげに立って、なお立ちよどんでいる。それがどうしたのか――しずかにその白無垢をぬぎすてて――一糸まとわぬ姿となった。将軍とお添寝の御中臈は、がばと身をおこした。はじめて御用の女に、裸となったものは曾てない。
が、娘のおぼろな顔は哀しげに微笑んでいる。それがなまめかしい全裸の姿態と混合して醸《かも》し出した名状しがたい妖気に、ふたりが息をのんで何かをさけび出そうとしたとき、女の両腕の肉が、重い音をたててたたみにおちた。おちると同時に、それは血のしぶきをあげていくつかの肉塊となった。つづいて、両足の筋肉が真綿をぬぐようにすべりおちていって、これまた血まみれの腓腸筋《はいちようきん》や外股筋《がいこきん》や内転筋《ないてんきん》や臀筋《でんきん》の堆積《たいせき》となった。
この世のものならぬ悪夢をみる思いで、かっとむき出された将軍とお中臈の恐怖の眼に靄《もや》がかかった。靄のなかに、露出した骨だけの足で立った女の乳房や腹や腰の肉のかたまりがまるで万華鏡の花の破片が崩れるように――みるみるそれはうす暗い血の霧の底へ、女体の刺身と化してかさねられていった。
〈編集部付記〉
本書は、ちくま文庫のためのオリジナル編集である。
本書のなかには、人種・民族や風習・風俗、職業、また精神的・身体的障害などに関して、今日の人権意識に照らして不当・不適切な語句や表現がある。これらのことについては、著者が故人であること、また作品の時代的背景にかんがみ、そのままとした。
山田風太郎(やまだ・ふうたろう)
一九二二年、兵庫県養父郡の医家に生まれる。一九四九年「眼中の悪魔」「虚像淫楽」で第二回探偵作家クラブ賞受賞。一九五八年、忍法帖の第一作「甲賀忍法長」の連載を開始。その後も数々の風太郎忍法≠生み出し、一九六三年から「山田風太郎忍法全集」を刊行、忍法帖ブームをまきおこす。一九七三年より『警視庁草紙』『明治波濤歌』『エドの舞踏会』など独特の手法による明治もの≠発表。『戦中派不戦日記』『戦中派虫けら日記』などの日記文学、『人間臨終図巻』『あと千回の晩餐』などの死を見つめた作品等著書多数。一九九七年第四五回菊池寛賞を受賞。二〇〇一年、尊敬する江戸川乱歩と同じ七月二八日逝去。
本作品は二〇〇四年四月、ちくま文庫の一冊として刊行された。