角川文庫
おんな牢秘抄
[#地から2字上げ]山田風太郎
目 次
お奉行さまとその姫君
新入り
玉乗りお玉
紅蜘蛛
女囚巷に出る
自身番異変
蜘蛛を売る浪人
色指南奉公
江戸の袈裟御前
死顔の蝋兵衛
生ける埋葬
生首変化
怪異山伏寺
五つの予言
五たび血をながせ
娘占い師
八卦見八卦知らず
世は|情浮名《なさけうきな》の横町
|百足《ひゃくあし》あるき
冥土の呼び声
紅無垢鉄火
おんな牢酒盛
振袖女郎
丁字屋心中
夢竜初見世
闇中問答
江戸の何処かで
蓮ッ葉往生
山屋敷界隈
無作法御免
エホバの|剣《つるぎ》
三日のうちに
|小《こ》|筐《ばこ》の中の修道尼
竜の目ひらく
女人斬魔剣
お奉行さまとその姫君
|甍《いらか》を吹く春風に花びらがまじっているから、まるで花見の仮装人物が浮かれこんできたようにもみえるが、それにしては場所がちとおかしい。
表門の鉄金具もいかめしい|数《す》|寄《き》|屋《や》橋内の南町|奉行所《ぶぎょうしょ》である。
そのなかを、文金高島田の武家娘と、|乞《こ》|食《じき》男があるいている。武家娘――とはいったが、その髪にきらきらひかる|蒔《まき》|絵《え》の|櫛《くし》、花かんざし、稲妻あられの|振《ふり》|袖《そで》に|金《きん》|襴《らん》の帯――まるで芝居に出てくるお姫さまのようだ。が、おかしいのは、その姿よりもその言葉で、
「|大《おお》|番《ばん》|屋《や》から、すぐ|小《こ》|伝《でん》|馬《ま》町へぶちこみゃいいのに、ああ、めんどくさい。これからお奉行さまのおしらべとなるのかい」
「うるさい。うぬごとき、お奉行さまのお手をわずらわすことがあろうか。これから|入《じゅ》|牢《ろう》証文をとって、望みどおり、すぐ小伝馬町へたたきこんでくれる」
と、乞食は、|醤油《しょうゆ》いろの|頬《ほお》かぶりの中から|叱《しか》りつけた。
「これ、とっととあるけ」
「いたい、そう十手でこづかなくたっていいじゃあないか」
と、つきとばされたように足をはやめる娘に、さっと|花《はな》|吹雪《ふぶき》が吹きつける。庭の桜の大樹は、いままっ盛りであった。――その木蔭から、そのとき宙へひとすじの|縄《なわ》が舞いあがったかと思うと、するするとのびてきて、生物のように巻きついたのは、娘ではない。――乞食の方である。
「やっ、だれだ?」
乞食は|驚愕《きょうがく》して身をもがきながら、ふりむいてさけんだ。木の蔭から、だれか笑う声がした。泉のような、美しい、若々しい、ふくみ笑いである。
「やい、出て参れ、いたずらにもほどがある。出てこぬと、そのままにはすておかぬぞ」
「小伝馬町の牢にお入れかえ?」
桜の下から出てきた人の姿をみて、乞食はまえよりいっそう|狼《ろう》|狽《ばい》した。
「あっ、これは――お嬢さま」
あわてて頬かぶりをとろうとしたが、縄が手にからみついているので思うにまかせず、そのままの棒みたいな姿勢でおじぎをした。……五、六歩はなれたところにいた例のあやしいお姫さまも、眼をまるくして見つめたきりだ。
「なんて|恰《かっ》|好《こう》なの、|主《もん》|水《どの》|介《すけ》、その姿じゃあ、ちょっと|捕《とり》|縄《なわ》をなげたくなるわ」
笑ったのは、やはり武家娘だが、いまの桜が精となってあらわれたかともみえる、まるで|曙《あけぼの》に|匂《にお》うような清らかさだ。
乞食にまきついた縄をときながら、
「でも、たいへんねえ、せっかくいい男前がそんな恰好までして……同情するわ」
「お嬢さま、お奉行所へおいでなされましたは、何用でござります」
乞食は、頬かぶりをとった。頬に泥だか|煤《すす》だかをぬっているが、なるほど顔だちりりしい若侍だ。眼がきびしくひかって、
「ここはあなたのおいであそばしてよいところではございませぬ」
「父上さまにお話があるの」
「お奉行さまに?――しかし――」
「父上さま、ここのところ、ずうっと、十日ちかくもおかえり下さらないんですもの」
「何か、いそぎのお話でござるか」
「いそぎもいそぎ、大いそぎ」
「それは一大事、――いったい、いかなる――?」
「主水介との祝言よ」
主水介は、あっと口をあけたまま、二の句がつげられなくなってしまった。
奉行秘蔵の同心、|巨《こ》|摩《ま》|主《もん》|水《どの》|介《すけ》とこの姫君は、いつのころからか、たがいに恋しあう仲となってはいたが、身分がちがい、彼はつらい心であきらめている。――ところが、このお姫さまの方は、いっこうにあきらめないのだ。お奉行さまが「じゃじゃ馬娘」と苦笑するその活溌な性質を発揮して、だだッ子のごとく父にねだってやまないのである。それどころか、御用繁多で父が帰宅しないと、じぶんから奉行所までおしかけてきたとみえる。――主水介は赤面した。
「おやめなされ、女だてらに!」
思わずさけんだ。姫君はあどけない顔で、
「じゃあ、主水介、おまえが言ってくれる?」
「ぷっ、とんでもない!」
主水介は、姫がまだお奉行さまに|逢《あ》ってはいないことを知って背に|安《あん》|堵《ど》の冷汗をながしながら、しかし真剣な、深刻な顔をしていった。
「いいかげんになさらぬか。お奉行さまは、ただいま容易ならぬ大事件に、日夜骨身をおけずりあそばしてござる。色恋どころの|沙《さ》|汰《た》ではありませぬぞ!」
姫君は口を愛くるしくとがらせて、何かいおうとしたが、そのとき、
「まったくだ、みちゃあいられねえや」
と、つぶやいた声にふりむいた。さっきの伝法な、へんな姫君が、にくにくしそうにこちらをにらんでいた。
「主水介。……容易ならぬ事件って、このひともそう?」
主水介は吐き出すようにこたえた。
「いや、これはとるにも足らぬこそ|泥女《どろおんな》めにござります。わざわざ拙者の手にかけるほどの女ではありませぬが、|隠《おん》|密《みつ》|廻《まわ》りの拙者の|草《ぞう》|履《り》の緒にひょいとひっかかってきた次第にて――」
「やいやい、なにをいってやがる。泣く子もだまる八丁堀の鬼同心、巨摩主水介が逆にいままでなんどあたしのために地だんだふんで泣かされたか、勘定してやろうか」
と、女は満面を|牡《ぼ》|丹《たん》のように染めていきりたった。
「そのとんまかげんがふしぎでならなかったが、いまやっとわかったよ。お奉行所で、こんなすッとんきょうな娘といちゃついていちゃあ、いかれてくるのァあたりまえだ」
「だまれ、この無礼者、お奉行さまの御息女に、な、な、なんたる――」
巨摩主水介は|周章狼狽《しゅうしょうろうばい》して、
「うぬ、ゆけっ」
と、十手で女の腰をうった。
「待って」
と、ほんものの姫君の方が声をかけた。十手でうたれて、苦痛に顔をしかめつつ、なおまけぬ気をみせてひかる女の眼を、おそれげもなくじっと見入って、
「可哀そうに」
と、姫君はつぶやいた。
「あたしと、みたところ年もちがわないのに――」
「おまえさん、お奉行さまのお嬢さまだって?」
女賊は憎悪のために、しゃがれ声を出した。
「へん、しゃくにさわるほど|倖《しあわ》せそうな|面《つら》をしてるじゃないか。しかし、どっか、ぬけてるねえ。人間、あんまり倖せだと、妙に顔がぬけてくるものさ」
「こやつ、ぶッた|斬《ぎ》るぞ」
主水介は発狂したような声をあげてとびかかろうとした。
「お待ち」
と姫君はいった。
「このひとのいうことはほんとうよ。あたし、どっかまがぬけてるわ」
「何を仰せられる」
「だから、あたし、父上さまや主水介がふだん苦労してつきあってる利口なひとたちがどんなひとか、まえからいちど見たい、知りたいと思っていたのです。……あたし、ちょっとこのひとと、お話がしてみたいわ」
姫は童女のように無邪気な好奇心にかがやく|瞳《ひとみ》をむけて、
「あなた、なんて名前?」
「姫君お|竜《りゅう》」
「そう。あたしは|霞《かすみ》。よろしく」
「ね、あなたは、どんなわるいことをしたの? お話によっては父上さまにあやまってあげるから」
こういわれて、姫君お竜はまじまじと霞の顔を見つめていたが、やがて肩をゆすって、
「おふざけでないよ、お嬢さん、子供のいたずらじゃああるまいし」
と、舌うちをした。
「見そこなっちゃあいけない。これでも姫君お竜といえば、夜のお江戸でちったア人に知られた女だよ。あたしのやったこと、やってることをぜんぶお|白《しら》|州《す》で申しあげたら、お奉行さまの|胆《きも》ったまが二、三度宙がえりをして――」
といいかけて、
「あわわ! いけない! うっかりうまくひッかかるところだった。さすがはお奉行さまのお嬢さまだ。甘ったるい声で、ひとにかまをかけるのは堂に入ってるじゃあないか」
と、口をおさえて、毒づいた。主水介は|爛《らん》と眼をひからせて、
「うぬにかまをかけるほど、奉行所はひまではないわ。ふむ、きいた風なことをぬかしたな、よし、うぬこそ二、三度宙がえりさせて、泥を吐かしてやろう。……お嬢さま、おひきとり下されい。かような女、言葉をかわされては、お口のけがれとなりまする」
「そう、それじゃあ、父上さまのところへいって、あのお話をしてみるわ」
主水介は顔色をあかくしたり、あおくしたりして、
「ま、待って下され、その儀ばかりは――」
と、あわてふためいた。
「じゃあ、ここでこのひとと、もっとお話ししていいわね」
主水介は絶句したままだ。霞はにこにこしてむきなおって、
「ね、あたしは奉行の娘ですけれど、奉行ではありません。娘です。そして、あなた、おなじような娘が、どうしてそんなわるいひとになるのかわからないのよ。へんだと思うわ」
「へんなのは、おまえさんのあたまだよ。そりゃあね、お武家も江戸の町奉行になるほどの御大家に生まれて、|乳《おん》|母《ば》|日《ひ》|傘《がさ》で育てられりゃあ、おまえさんのようなノンビリしたお嬢さまにもなるだろう。あたしみたいに、おぎゃあとこの世に出てくるまえに、おやじが|盆《ぼん》|茣《ご》|蓙《ざ》の|喧《けん》|嘩《か》で死んで、七つのときにおふくろが、家主に身をけがされて首をつって――」
「…………」
「育ててくれた|叔《お》|父《じ》が、あたしがまだ十五というのに|狒《ひ》|々《ひ》みたいな金持ちの|爺《じじ》いに|妾《めかけ》に売りとばして――」
「…………」
「その|倅《せがれ》がまたさかりのついた馬みたいな奴で、あたしにへんなまねをしやがるから、横ッ面をはりとばしてとび出したが、ゆくさきがないから、夜、雨のなかをほっつきあるいてたら、酔っぱらいの折助どもにつかまって念仏講をやられてよ。あとはもうめちゃくちゃさ」
「柳原の土手で|夜《よ》|鷹《たか》に立ってたのをひろってくれた親切な男に、生まれてはじめてあたしから|惚《ほ》れていたら、こいつが泥棒ときてやがる」
いつのまにか、お竜の頬になみだがつたわっていたが、ふとじぶんをじっと見つめている霞のつぶらな眼に気がつくと、
「あ、むだなおしゃべりをしてしまったね! おまえさんの眼は、へんな眼だ。ふらっとひとに、何もかもおしゃべりさせちまうよ。でも、いっても、ほんとにみんなむださ。さあ、ひょうろく同心、棒みたいに立ってないで、さっさとどこへでもひっぱっておゆき」
「ちっともむだじゃあないわ」
と、霞はひくい声でいった。顔にいたましげな感動が、いっぱいにあふれ出ていた。
「やっぱりあなたはわるくはないじゃあないの」
「…………」
「わるいのは、男ばかりじゃあないの」
たまりかねて巨摩主水介が声をかけた。
「お嬢さま、|女狐《めぎつね》めの巧言にたぶらかされては笑いものでござりますぞ。ひかれ者の小唄に泣きごとがまじるのは、事珍らしゅうございませぬ。さ、参れっ」
「主水介、それでおまえは、なんの罪できょうこのひとをここへつれてきたの?」
「万引でござる。武家娘に化けて、日本橋の小間物屋で、|玳《たい》|瑁《まい》の|櫛《くし》を――」
「つかまったなら、とらなかったわけね」
「それで罪がきえるものではござらぬ。ましてや――先日も、おなじ姿でまんまと|珊《さん》|瑚《ご》|珠《じゅ》のかんざしを盗み去り、あとでさてはと気がついて、店の方で手ぐすねひいて待っていたところ、味をしめたこやつが、またぬけぬけとやってきて、ふたたび万引をしようとするところをおさえて、番屋につき出したものでございます」
「その珊瑚珠のかんざしはいくら?」
「二十五両という高価なものでござるとのこと」
「それはあたしが払ってあげるから。ゆるしておやり」
主水介はあきれたように霞をみたが、すぐ憤然として、
「それは相成らぬ!」
「どうして?」
「どうして、と申して――ゆるすか、入牢いたさせるか、裁きをつけられるはお奉行さまでござる。ただいまお嬢さまも、わたしは奉行の娘であって奉行ではないと申されたではございませぬか」
「ああ、ほんとうに!」
と、霞はびっくりしたように眼を大きくした。
それで、やっとこの世間しらずのじゃじゃ馬娘をとりしずめたと思っていたら、
「それじゃ、これから父上さまにおねがいしてきてあげるから、心配しないでまっててね」
と、お竜に笑顔でうなずいてみせたから、主水介はまた大狼狽した。ひとりでゆかれて、奉行にまたあの話をもち出されてはたまらない。
「あいや、お待ち下さい。拙者もお奉行さまに|御《ご》|下《げ》|知《ち》をねがうことがござれば、御一緒に参らせて下さりませぬか。ともかく、いま、しばらく御猶予を――」
「まあ、主水介といっしょ、それならいっそう勝手がいいわ」
と、霞は眼をかがやかせる。主水介はゲンナリしながら、
「では、お嬢さま、ここにおいでなされませ。さきにゆかれてはなりませぬぞ」
と、念をいれておいて、あらあらしく姫君お竜をひったてていった。
春光のなかに無数の|蝶《ちょう》のようにちる花の下に、霞はじっとあとを見おくって立っている。
「可哀そうだわ。……ほんとに可哀そうだわ……」
と、なんどもつぶやいた。
お奉行さまの|鬢《びん》には、そろそろ白いものがまじりかけていたが、顔はゆったりとふとって血色もよく、山積する書類を読み、書き入れ、割印を押してゆく手さばきには、機械のような正確さと、|絶《ぜつ》|倫《りん》の精力があった。――しかし、机上の書類とはべつに、よほど案ずることでもあるらしく、ときどき筆をやすめて、ものうい春の昼下りの庭になげる眼には、疲れでもなければ放心でもない、暗い、むずかしい思考の沈潜がみられた。
――無意識的にまた筆をとって、|反《ほ》|古《ご》のうらに、
「|山内伊賀亮《やまのうちいがのすけ》」
と、かく。その名を三度かいたとき、
「お奉行さま」
と、|襖《ふすま》の外で呼ぶ声がした。あわてていまかいた名を墨でぬりつぶしながら、
「だれじゃ」
「|巨《こ》|摩《ま》主水介でござります」
「入れ」
とこたえたまま、ふりかえりもしなかったが、入ってきた人間が、うしろに坐って、妙なふくみ笑いをたてたので、はじめて首をまわして、眼を大きく見ひらいた。
「霞」
両手をつかえたまま、娘がいたずらそうに笑っていた。その向うに、巨摩主水介がかしこまっている。泥や|煤《すす》をあらいおとし、|凜《りん》とした黒紋付の同心すがたにもどっているが、困惑しきった表情だ。
お奉行さまはなおじぶんの眼をうたがうようにまじまじと娘の姿をみていたが、おどろきのあまり、かえってしずかな声で、
「霞、なんの用があって奉行所へ参ったか」
「おねがいがあるのです、父上さま」
「公用か」
「私用です」
「たわけっ」
と、父は叱った。家では|曾《かつ》てみせたことのない|峻厳《しゅんげん》な声だ。さらに何かはげしい言葉を吐こうとして唇をふるわせたが、やがてまたおだやかな顔色にもどって、
「私用ならば、私宅できく。霞、かえれ。――主水介、おまえもいかがいたしたか、かようなものを案内して参るとは」
「いいえ、あたしが勝手におしかけてきたのよ、お父さま、主水介を叱らないで」
「霞、一刻も早う、ここを立ち去れ。ここは天下の公事をあつかうところ、去らねば法に照らして|仕《し》|置《おき》をいたすぞ」
「それじゃあ公用です」
「公用?――霞の公用?」
父は、ちょっと笑いかけた。おさえようとしておさえきれぬこの|天《てん》|衣《い》|無《む》|縫《ほう》の娘への愛が、ちらと一瞬のぞいたが、すぐ仮面のような謹厳な表情にかえって、
「申してみい」
「きいて下さいますか」
霞は生き生きと身をのり出して、
「いまね、そこで、この主水介がつかまえてきた泥棒の女のひとに|逢《あ》ったのです。話をきいてみたら、ほんとにきのどくなのよ。生まれといい、育ちといい、泥棒にでもならなけりゃ生きてゆけない事情だったらしいの。わるいのは、あのひとをそんな風にさせた男たちだと思うのよ。あたしね、女のひとで|牢《ろう》に入るようになるのは、よくよくのことだと思うわ。よく調べたら、罪をうける女たちは、ほんとうは同情された方がいいひとが大半じゃないかしら。お父さま、ね、よく調べてあげて、そう思ったら、かんにんしてやって下さらない?」
「霞」
と、父はおさえた調子でいった。
「おまえの他愛なさ、|頑《がん》|是《ぜ》ないまでの無邪気さは、ひとは何とでも申せ、父は愛らしいと思う。尊くも思うことすらある。じゃが、それは家庭の中に|於《おい》ての話だ。ここでは、その無邪気さはとおらぬ。気まぐれの慈悲はとおらぬ。人の性は善であるか、悪であるか、それは見るひとの眼によってちがおうが、わしは、かなしいかな、性悪説にかたむく。人間には、たしかに悪人がおる。女にも悪人がおる。悪人ならば、女とて、かんにんはならぬ」
「それは、|或《ある》いは父上さまのおっしゃるとおりかもしれませぬ」
と、霞はいって、ちょっと小首をかたむけた。
「でもね、それを裁くとき、公平だとお思いになっても、知らないで不公平になることがありはしないかしら――こんな世の中ですもの」
「こんな世の中、とはなんじゃ」
「男がつくった世の中です」
「な、なんと申す」
「天下のお仕置は、みんな、荒々しい、かた苦しい、もののあわれを知らぬ男たちがきめたことです。あたし、ずいぶん男の身勝手だと思うことがあるわ。それから、人の心をふみつけた、ばかばかしいきまり[#「きまり」に傍点]をつくったものだと思うこともありますわ。たとえば、男と女が、どんなにおたがいが好きになろうと――ちょっと家の身分がちがうと、縁組ができないなどと――」
ちらっとうしろの巨摩主水介の方をながし眼でみたが、父は気がつかず、
「ばかめ、そういうきまりあってこそ、天下の|静《せい》|謐《ひつ》が保たれるのだ。じゃが、それがおまえの、女をゆるせというたわごと[#「たわごと」に傍点]のよりどころに相成るのか」
「そうです。いまの世の中では、女はいいこともできないかわり、わるいこともできません。女はじぶんからは、何もできないのです。――そんな女を裁くのにもし女が裁くなら、もっとちがったお裁きができるのじゃないかと思いますわ」
「女奉行か!」
お奉行さまは笑おうとしたが、表情が凍りついていて、むしろ|憤《ふん》|怒《ぬ》の相に変った。主水介はじぶんのことのように恐れて、平伏したままおもてもあげられない。
「いわせておけば、何を申すやら――霞」
と、さけんで、あらあらしく机の上の書類をかきまわしていたが、やがてその一部をぬき出して、霞のまえになげ出した。
「ものの例えとして見せる。霞、女のおまえがこれを裁いて、ゆるせるか」
それは一連の調書であった。
「ここに罪を犯した六人の女がある。その|口《くち》|書《がき》じゃ」
霞はとりあげて、ふしぎそうにそれをめくり出した。
|昂《こう》|奮《ふん》のあまり、そんなことをしてからお奉行さまはちょっと後悔をおぼえ、といって、いまさらとりあげることもできず、いらいらと庭にしずこころなくちる花に眼をうつしたが、やがて辛抱しかねて視線をもどし、調書を熱心によんでいる娘のすがたに、ふだんの他愛ない娘ではない別人のようなへんな|靄《もや》がかかっているようなのに、ふっとその眼を大きく見ひらいたとき、
「この六人の女は?」
と、霞が顔をあげた。
「ただいま、小伝馬町のおんな牢に入牢中じゃ」
と、お奉行さまは厳然と、
「やがて、ことごとく打首にいたす。その裁きに、おまえは不服があるか?」
「もし、このお裁きがまちがっていたら?」
という返事に、さすが温厚な父も――いや、一世の名奉行|大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》は、さっと顔いろをかえてにらみつけた。霞は、しかしいつも家庭で|花《はな》|生《いけ》でもひっくりかえして父ににらみつけられたときと同様に、あどけなく、にっこりして、
「父上さま、あたしの私用をきいて下さいますか? げんまん」
新入り
小伝馬町の牢屋敷は、ぜんぶで二千六百十八坪あり、外廻りは土手と、忍びがえしをうちつけた二丈くらいの|総《そう》|練《ねり》|塀《べい》があって、その外側は掘割となっているという厳重なかまえだ。
このなかに、お目見え以上の武士を収容する|揚座敷《あがりざしき》、お目見え以下の|揚屋《あがりや》、一般庶民を入れる|大《たい》|牢《ろう》、無宿者の二間牢、百姓牢、おんな牢――の六種の牢と、|拷問場《ごうもんじょう》、死刑場などはもとより、牢奉行|石《いし》|出《で》|帯《たて》|刀《わき》の居宅、同心詰所、そのほか役人たちの番所など附属の建物が、複雑な土塀によってくぎられ、はめこまれ、牢をめぐってあらゆるところに障壁が立ちふさがり、監視の眼がひかっている。
牢屋敷の南側にズラリとならんだこれら、揚屋、大牢、二間牢にまじって、おんな牢があった。二間に三間というから、内部のひろさは十二畳くらいだろう。常時二十人前後の女囚があったという。――
夜であった。もとより牢内に|灯《ほ》|影《かげ》はない。
|闇《あん》|黒《こく》のなかで、あかん坊の泣き声がきこえた。乳のみ児をもった母親の場合、それをあずかってくれるものがなければ、いっしょに入牢させるのがならいなのだ。
「おお、よしよし、泣かないで、おねがいだから、坊や」
と、母親がいっしんになだめあやすが、あかん坊はいっそう火のついたように泣く。乳が出ないのであろう。
「やかましいねえ、毎夜毎夜」
老婆の声がした。
「どうせその子の星にゃケチがついてるよ。いまのうちくびり殺してやった方が、親の慈悲だよ。――」
そのとき、だれかが「あ、見廻りだ。――」とつぶやいた。夜中二時間おきに牢屋同心が、|提灯《ちょうちん》持ちの張番と、拍子木をうつ雇いをつれて、夜廻りにあるく規則である。
|牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の外は、また格子になっていて、そのあいだのほそい通路を|外《そと》|鞘《ざや》というが、その外鞘をあるいてくる話し声がきこえたから、いま見廻りといったのだが、しかし拍子木の音はきこえなかった。
格子の外に、提灯がとまった。
ふつうなら、立ちどまっても、異常がなければすぐにゆきすぎてしまうところだが、それがいつまでもうごかないので、女囚たちはみんな格子に眼をやって、はっとした。まだ眠っているのを、手あらくゆりおこした女もある。
三寸間隔にならぶ四寸角の牢格子のむこうに、灯におぼろおぼろと浮かんでいるのは、お|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》をかむった女の顔だった。いや、眼だけしかみえないが、大きな、まっくろな、よくひかる眼だ。
「主水介、あかん坊が泣いていますね」
「は」
と、そばで、同心がうなずく。
「あかん坊まで、牢に入れるなんて、ざんこくね」
「身寄りのものがおらぬとみえます。……ときどき、こういう例はござる」
「可哀そうに、あたしがやしなってやろうかしら」
これには、返事がなかった。女囚たちは、お高祖頭巾のあいだの好奇にかがやく|瞳《ひとみ》が、ふいにぼやっとうるんだかと思うと、キラキラとひかるものがあふれ出すのを見た。
「乳が足りないのだわ。張番とやら、重湯か何かつくってもってきておやり」
「罪人に、左様なことはかたく禁ぜられております」
「あかん坊は罪人ではありません」
りんぜんとしていった。
「おとがめがあるなら、あたしが受けます。もってきておやり」
「はっ」
そして、このふしぎな参観人は、しずかに去った。
その|跫《あし》|音《おと》がきえると同時に、女たちのあいだに、波のような私語がわきあがったのはいうまでもない。だれだろう? いまの女性はいったいどういう身分のひとだろう?
やがて、さっき命ぜられた張番が、|曲《まげ》|物《もの》に重湯を入れてもってきた。それをあかん坊にやるより、その母親は声をあげて泣きながら張番の手をつかんできいた。
「ね、いまの女の方はどなた?」
「あれは、お奉行さまのお嬢さまじゃ」
「えっ、大岡越前守さまの?」
女たちのあいだにひろがった沈黙は、張番がいってしまってからもつづいたが、やがてまた老婆のむりにせせら笑うような陰気な声がながれた。
「ふん、いい御身分さね」
牢|名《な》|主《ぬし》のお|紺《こん》である。胸に|天《かみ》|牛《きり》に似た赤い|痣《あざ》があるので、異名を|天《かみ》|牛《きり》という。――
一日おいて、このおんな牢に新入りがあった。
「南町奉行大岡越前守さまおかかりにて、武州無宿お|竜《りゅう》、十九歳」
牢屋同心の声に、
「はい、おありがとう。――」
と、天牛のお紺はこたえて、うしろをふりかえり、
「ほい、新入りだよ」
と、声をかけると、ニヤリとして乞食の女房が立ちあがった。
乞食の女房は、江戸市中の乞食の女房で、おんな牢|付《つき》|人《びと》といい、ふだんから予約してあって、一ト月交替で、女牢のなかに暮している。これが牢の外で、新入りの女囚をはだかにして、|法《はっ》|度《と》の品を身につけていないかどうかをしらべる。法度の品とは、|繻《しゅ》|子《す》、|縮《ちり》|緬《めん》、|羽《は》|二《ぶた》|重《え》、金銭、刃物などだが、これは一応の名目であって、黒繻子でも黒ぎぬといい、島縮緬でも島ぎぬといえば合格するし、刃物はともかく、金銀のたぐいは禁制品どころか、これを持ってこなければ牢内で半ごろしの目にあわされる。
そうして乞食の女房の身体検査がおわると、新入りははだかのまま、着物に、帯、腰巻、草履などをくるんで「はいれ」という声で小さな戸前口を入ろうとするところを、うしろからドンと|蹴《け》とばされ、つんのめったあたまへ、牢内で待っていた女囚が、ぱっと獄衣をかぶせ、むき出しのお|尻《しり》をキメ板で、ピシャリピシャリとなぐりつける。――これがおんな牢新入生の受くべき|荘《そう》|厳《ごん》なる入学式だ。
ところが、そのとき、声がかかった。
「あいや、乞食の女房、おまえの役はさしゆるす」
ふしぎなことに、牢屋同心とならんでいるのは、|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》の八丁堀同心であった。それが、異様にふるえる声でいったのだ。
「当|科《とが》|人《にん》は、とくに重大な一件の連類であるによって、さきほど|牢《ろう》|庭《にわ》火ノ番所に於て、われらがじきじきあらためた。もはやからだを調べることは無用である。なお、ちかく、いくどかお奉行さまおんみずから当牢屋敷に御出張あそばし、したしく御吟味に相成るはずであれば、牢内にて私刑その他禁を犯して科人のからだに傷などつけては、きっと|成《せい》|敗《ばい》いたすぞ」
すると、新入りの女が笑った。
「おや、ひょうろく同心、いやに気をつかうじゃないか。ふふん、三尺たけえ木の上でお|陀《だ》|仏《ぶつ》にするとき、きれいなからだの方が見世物になるかえ?」
そして、相手が口をもがもがさせているあいだに、
「はい、ごめんよ」
と、声をかけて、さっさと戸前口をくぐって、ひとりで牢の中へ入ってきた。
あっと、女囚すべてが息をのんだのは、その新入りの女の姿を眼前にみたときだ。それはあまりにさわやかな新鮮な美しさからであった。おそらく火ノ番所で、からだをあらためられたといったが、そのとき着かえさせられたのだろうか、彼女は純白のきものをきていたが、それはとうてい入牢者とは思われず、祭りか何かの儀式にえらび出された|神《こう》|々《ごう》しい処女のようにみえた。
それが、三歩あゆんで、ふりかえって、愛くるしいあごをしゃくっていったものだ。
「おい、同心、役目がすんだら、さっさとゆきなよ。さっき、あたしをはだかにして、よだれをたらしていやがったが、あんまりいつまでも|食《くい》|意《い》|地《じ》をはるんじゃないよ」
同心たちは、つきとばされたようにあるき出した。……女囚たちは、声もない。新入りの、顔に似合わぬあまりな不敵さに、きもをつぶしたのだ。
同心がいってしまうと、天牛のお紺は、やっと女たちの驚嘆のひとみに気がついた。牢名主だけあって、彼女がまずわれにかえった。
「おい、新入り、名はなんというえ?」
「お竜ってのさ、お婆さん」
「お婆さん? やい、お名主さんといえ。こいつ、牢内の御作法を知らねえな。おい、本役、シャベリをきかせてやれ」
|下《しも》|座《ざ》にすわっていた中年の女が、突然きんきん声で「シャベリ」はじめた。
「やい、|娑《しゃ》|婆《ば》からきやがった|磔《はりつけ》め、そッ首をさげやがれ。御牢内のお|頭《かしら》は、お名主さま、お隅役さまだぞえ。うぬのような大まごつきは、夜盗もし得めえ、火もつけ得めえ、|割《かっ》|裂《さき》のたいまつもろくにゃふれめえ。|櫛《くし》や|笄《こうがい》のちょッくらもちをしやがったか、まだまだそんなことじゃあるめえ。または堂宮、|金《かな》|仏《ぶつ》、橋々のかなものでもおッぱずしやがって、通り|古《ふる》|鉄《がね》買いへ、小安くおッ払いやがって二|文《もん》四文の読みがるた[#「がるた」に傍点]か、さつまいものくいにげか、かげま[#「かげま」に傍点]のあげ逃げでもしやがって、両国橋をあっちへこっちへまごついて、|大《おお》|家《や》につき出されてうせやがったろう。すぐな杉の木まがった松の木、いやな風にもなびかんせと、お役所で申すとおり、ありていに申しあげろ」
これが新入りに対する訓辞である。
お竜という女は、口をぽかんとあけて、シャベる本役の顔をみていた。すこしはこれでヤキが入ったか、と思って、ジロリと上眼づかいに見やると、お竜はいきなりぷっとふき出した。
「おもしろいわねえ。もういちどしゃべってちょうだい」
「な、な、なにを?」
お紺の顔色がさっと変って、|物《もの》|凄《すご》い悪相になった。歯がカタカタと鳴るが、とみには口もきけない。――が、息をこらして見まもっている女囚たちを見まわすと、ニヤリとして、
「このすッとんきょうなあま、なんにも知らねえの。お姫さまみてえな|面《つら》アしやがって、へんな奴が入ってきたもんだ」
「ふふ、あたし、姫君お竜ってんだよ」
「へえ、姫君、なあるほど!」
と、詰の隠居のぎっちょ[#「ぎっちょ」に傍点]のお|伝《でん》が思わずそういう嘆声をもらしたのは、よほど感にたえて胸におちたのだろう。お紺はにがりきった眼でお伝をにらみつけてから、
「お竜、いってえ何をしてここに入ってきやがった?」
「なあにたいしたことじゃない。|公《く》|方《ぼう》さまのお命を|狙《ねら》った一味でね」
ケロリとしていったが、みんなあっと息をひいたまま、硬直してしまった。なるほどそれなら、本人が三尺たかい木の上で往生することを覚悟しているのも道理。――それにしても、まあこんな可愛らしい顔をした娘が? しかし、さっきたしか八丁堀の同心もふるえ声で、「当|科《とが》|人《にん》は、とくに重大な一件の連類であるによって」といったし、「お奉行さまおんみずから当牢屋敷に御出張あそばし、したしく御吟味に相成る」ともいった。
「く、公方さまのお命を狙ったって? そ、それはまあどういう――」
と、さすがのお紺の声もわなないた。お竜は平然と、
「ききたいかえ? きかせてやってもいいけれど、かかりあいになるよ」
「いや、ききたかあねえ、そんな話は」
と、お紺はあわてて、
「それより、おめえ、それほどの大罪人なら、さだめしつる[#「つる」に傍点]もたんまりもって入ってきたろう。みせな」
「つる[#「つる」に傍点]」
「金づる、お|銭《あし》さ」
「そんなものが御牢内で、なんになるのさ」
しかし、地獄の|沙《さ》|汰《た》も金次第、というのがまさにそのとおりで、外界と隔絶された地獄なればこそ、その外界の甘美な匂いをたぐりよせるには、金の魔力以外にはなかった。牢番に金をわたせば、その四分の三をはねた残りで、酒でも菓子でもはこびこんでくれるのである。その仲介者をうごかすのに、他のものはいっさい役にたたないという点で、金が万能ということは、ふつうの世間以上徹底しているが、その金のもとはといえば、新入りから入手するよりほかに方法はない。
のちに――幕末、彰義隊の精神的な首領ともいうべき上野東叡山の学頭に、有名な|覚《かく》|王《おう》|院《いん》|義《ぎ》|観《かん》という傑僧がある。彰義隊がやぶれたのち捕われて、この小伝馬町の牢屋敷に入れられたが、西郷にも百万の官軍にも断じて屈せず堂々とじぶんの信念を吐いてしりぞかなかったこの豪僧が、牢に|金《つる》をもってゆかなかったばかりに、十日もたたないうちに悲鳴をあげ、あわてて牢番をとおして、外から|金《かね》を入れてもらって命びろいをしたという話がある。|以《もっ》て、牢内がいかに別世界であるか、また金の力がいかに強大であるかがしれよう。
「ふざけやがるな」
と、お紺は恐ろしい声を出した。
「おい、お竜、金はもってないのかよ?」
「同心にからだをしらべられたあたしが、そんなものをもってると思って? 一文もないわ」
すました顔である。お紺は、歯をかみ鳴らした。牢屋同心なら、新入りが金を身につけているのを大目にみてくれるどころか、まわりまわって結局じぶんのふところへも入ってくる金だから、暗にその必要性をほのめかすくらいだが、八丁堀ならどうかわからない。とくにこれほどの大罪人なら、いままでの新入りとはわけがちがうかもしれない。
と、|納《なっ》|得《とく》することは、承知したことではなかった。納得できれば、いっそうどうにもならない怒りにからだがひきつけそうになった。
「お名主さん、そんなに貧乏ぶるいして、たたみからおちるわよ」
と、お竜は笑ったが、ふとその眼がお紺のすわっている畳にとまり、またぐるりとまわりを見まわして、
「おや、へんだわねえ。ひとりでたたみをかかえこんで、ちゃっかりしてるわねえ」
といった。
牢内にたたみは入れてあるが、その配給は公平ではなかった。
牢には、男女をとわず|峻烈《しゅんれつ》な階級がある。名主を筆頭に、|曾《かつ》て入牢して名主をしたことがあるものを前官礼遇として隅の隠居、以下、詰の隠居、穴の隠居、一番役、二番役、三番役、四番役、五番役――と、このあたりまでを牢内役人といい、あとは|平《ひら》囚人だ。
これらは食事だろうが、差入れだろうが、まず優先的にとりこんで、のこったおあまりを平囚人が分配する。のみならず、夜、昼、肩はたたかせる、足はもませる、それどころか、平囚人のなかに若くて美しい女があれば、露骨に、言語に絶する|淫《いん》|猥《わい》なサービスを強要する。これに不服をとなえ、反抗するものは、|凄《せい》|惨《さん》きわまる|私刑《リンチ》にかけられて、なぶり殺しにあうのがならいであった。
いま、この牢内には二十二、三人の女囚がいるが、みたところたたみをしいているものは五、六人しかいない。しかも、牢名主のお紺は六、七畳つみあげたうえにすわっているのだ。あとの十六、七人は、あまった六|帖《じょう》くらいのひろさの板ノ間に、|雀《すずめ》おしにつめられているのだった。
「まあ、あかん坊をだいたひとまで板ノ間に坐らせて、夜もあかん坊を板ノ間にねかせるの?」
と、お竜はきっとお紺をにらんだが、急にまたぷっとふき出した。
「お婆さん、おまえさんもそんなたかいところにとまってちゃあ、じぶんが苦しいだろう。ムリしないで、おりておいでよ。よく夜おちないで、腰の|蝶《ちょう》つがいをはずさなかったもんだ」
「く、くっ」
と、お紺はうめいた。
「そのたたみを牢いッぱいひろげてさ、みんながそのうえに坐ってれば、おまえさんだってかえってらくじゃないか」
そして、ひとりごとのようにつぶやいた。
「せっかくたたみを入れてやりながら、お――お奉行さまは、何をかんがえてるのかしら? 奉行所でもったいぶって、そッくりかえってばかりいてさ、いちどもこのなかをのぞいたことなどないんだろうねえ」
天牛のお紺の|蒼《あお》|白《じろ》い顔は、ほとんど死灰のような色に変っていた。新入りが、こともあろうにお名主さまに文句をつける。ひともあろうにお奉行さまに不服をいう。なんたる|大《だい》それた奴だ!
「ううぬ。……」
お紺は、非生物的なうなりをきしり出させた。絶対専制の君主が、革命の兵士に|刃《やいば》をつきつけられたような狂的な激怒に身をふるわせて、
「このあま[#「あま」に傍点]、さっきからだまってりゃあつけあがりやがって、と、と、途方もねえことをいい出しやがる。格子の外でなに様のお首を狙った奴かしらねえが、格子の内じゃそうはさせねえ。ここはお紺さまの御支配地だぞ。こんな乳ッくせえあまッ子にそこまでなめられちゃあ、おんな牢のしめし[#「しめし」に傍点]がつかねえ。やい、お|伝《でん》、お|熊《くま》、お|甲《こう》、お|勘《かん》、そいつをつかまえて、仕置をしろ!」
「合点だ! といいたいのはヤマヤマだが、お名主さん、さっき同心が――」
「ええ、さっき同心は、この女のからだに傷をつけるなといったろう。傷さえつけなきゃいいんだろ。なまじ傷などつけるより、もっとききめのある仕置があるんだ。おれのいいつけをきかねえか!」
と、口から泡をふきながら、ガサガサとたたみのうえからはいおりてきた。
牢内役人たるお伝、お熊、お甲、お勘の四人は、立ちあがって、|或《ある》いはしゃも[#「しゃも」に傍点]のごとく、或いは山猫のごとく、或いはかまきり[#「かまきり」に傍点]のごとく、ジリジリとつめ寄った。そのまんなかに立って、あきれたように口をあけているお竜の顔を恐怖の表情とみて、ほかの女囚たちは思わず眼をつむった。
傷をつけない仕置――とお紺がいったが、みんなその例をみたことがあるのだ。いやじぶん自身に味わわされたこともあるのだ。四肢をおさえられたまま、へどをはくまでくすぐり責めをやられたり、口の中に汚物をつっこまれたり、さらにもっと悪どい、いやらしい拷問を、泣いてもわびてもきかばこそ、数刻にわたって執念ぶかくつづけられたり。――
四人の女は、いっせいにとびかかった。
「あっ」と、さけんだのは天牛のお紺であった。
姫君お竜のからだが沈んだかと思うと、白い手が旋風のようにまわった。同時に、四人の女は、|脾《ひ》|腹《ばら》をおさえて四方におよぎ、|悶《もん》|絶《ぜつ》していた。
「……なにしろ、将軍さまのお首を|狙《ねら》った女なんだからねえ」
と、ケロリとした顔でお竜はつぶやいた。
それから、女囚たちをふりむいて、
「さ、みんな立った立った、たたみを牢にしいて――」
あやつり人形みたいに女たちがうごき出しても、お紺は恐怖の相をこわばらせたまま、うごかなかった。お竜はニコリと|笑《え》みかけた。
「お名主さん、その四人は気絶しているだけよ。たたみがしけたら、水でも顔にかけておやり」
――形勢はまったく逆転した。女囚たちは、実に恐ろしい新入りが入牢してきたことを認めたのである。
しかし、これがそんなに恐ろしい女だろうか? 将軍の首をねらったと高言し、また四人の襲撃者をこともなげに悶絶させた手練をまざまざと見たにもかかわらず、お竜のあどけない顔をみると、それらは夢の中の出来事のようにしか思われないのだ。彼女はあかん坊をねかせるのに、やさしい声で子守唄をうたった。それはすべての女囚たちに、じぶんのための子守唄にきこえた。それから彼女はなお陰鬱にだまりこんですわっているお紺のそばへいって、他意のない笑顔で、
「お名主さん、肩をもんであげようか」
と、いったものだ。そして、うしろへまわって、勝手にお紺の肩をもみながら、まるで祖母にたわむれる孫娘みたいな甘ったれた声で、
「あのね、あたし、ほんとをいうと、少うしお金をもってるの」
「…………」
「お金があると、牢の中でも買い物ができるの? おもしろいわね」
「…………」
「何を買おうかしら。お酒? お菓子?」
「…………」
「そうだ、花を買いましょう。ね、桜の小枝を――世の中は、いま桜の花のまっ盛りよ」
玉乗りお玉
世間は花盛りだといわれても、信じられないくらい、牢の中はさむかった。
おんな牢は牢屋敷の南側にあるが、それはつまり光の入る庭の方角は北側だということで、しかも二重格子にはさまれた|外《そと》|鞘《ざや》をへだてているために、光は冬のごとく|蒼《あお》く、乏しい。
「ううっ、さむいの――」
と、牢名主の|天《かみ》|牛《きり》のお紺は歯をカチカチと鳴らした。新入りの女の入ってきたあくる日の朝のことである。
牢の朝は、午前四時に明ける。五時に見廻りがまわってくるのを、みんな起きて待っているのだ。そして、五番役が、「|朝《あさ》|声《ごえ》」と称する独特の言葉で囚人たちを点検する。
「つめろつめろ|羽《は》|目《め》通り、つめろつめろ役人衆、詰の御番衆。つめろつめろ夜があける、お牢内の|法《はっ》|度《と》|書《がき》、ありありとみえてはならんぞや。つめろつめろ総役人衆、お戸前の|鍵《かぎ》も鞘戸の鍵も、ちんや、からりと鳴ってはならぬぞや。つめろつめろ羽目通り、つまりました、つまりました、つまりました、夜があけたあ」
そして、牢役人どうしが朝のあいさつをかわす。
「これはおとなりの何番役さま、さてけさも結構なお天気につきまして、おらくに朝声はやばやと相かかりまして、よろこびお訴えとつかまつりまして、私の方、名主頭、お隠居、隅役隠居、わたし下役人つぶさに申しきかせました」
言っている本人たちにも、完全には意味がわからないだろう。とにかく天正以来二百年になんなんとする江戸の牢獄史に、いつのころからか生じたきまりのせりふだ。文字にかけばのどかでユーモラスですらあるが、それがこの陰湿なおんな牢のなかで毎朝くりかえされるとき、ぞっとするような|呪《じゅ》|文《もん》めいた印象をあたえるのであった。
食事は、朝の八時と午後四時の二回だけ、一日二合二勺のモッソウ飯と、|手《て》|桶《おけ》に入れてきた実のない|味《み》|噌《そ》|汁《しる》一|椀《わん》と、|糠《ぬか》|漬《づけ》の大根ときまっている。しかも、人数にあうだけの量は官給されても、張番があらかじめその三割のあたまをはね、のこりを名主以下の牢内役人たちが存分にくうから、あとの平囚人はまさに餓鬼道なのがふつうであった。
さて――その朝の食事をとったあとで、お紺がやせ|脛《ずね》をかかえていうのである。
「さむい。……牢内、妙な景色になりゃがってよ、年寄りは凍え死んでしまいそうじゃわ」
姫君お竜に、たたみを公平に分配されたことに、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な愚痴をこぼしているのだ。お紺は、まだお竜に心をゆるしてはいない。がお竜という女のえたいがしれないので、手が出せないのだ。いや、事実四人の牢内役人にとびかからせたのだが、あっというまに気絶させられたのだから、作戦をかえなくては、どうにもならない。しかし、きみがわるいのはお竜の「武術」より、入牢するなりじぶんたちから牢内役人の特権をはぎとってしまったその破天荒な革命ぶりだった。
しかも、それが|凄《すご》|味《み》のある毒婦型の女ならまだ話のつけようもあるが、本人は公方さまの首をねらった女だと大それたことはいったが、顔をみると|鞠《まり》でもつきそうなほど愛くるしくて、こっちから話しかける気力もくじけるうえに、向うのいうことなすことが、こちらとぜんぜんケタがはずれている。……
ともあれ、お紺はまだ屈服してはいなかった。きのう起ったことがまだ信じられないような気がするのだ。それに、こんなはたちにもならない小娘になめられてたまるかという牢名主の意地もあり、またこんな老婆で入牢するまでには、|錆《さ》びつくほどながい、そして光栄ある罪の暦ももっていた。
昨夜、へいきでスヤスヤ寝息をたてていたお竜は、けさ例の朝声でたたき起されてから、キョトンとして坐っている。モッソウ飯には手をつけなかった。
(ふふん、娑婆からきたてにゃ|嗅《か》いだだけで胸がわるくなるだろうが、いまに餓鬼みたいになりゃがるにきまってら)
と、お紺は心中にせせら笑った。そして、お竜の眼前で、ジワジワと牢の恐ろしさとお名主さまの権威を見せつけてやろうと思い立った。
「ええと、けさは、どいつだったっけ、おれをあっためてくれる奴は。たしか、お|玉《たま》と――」
と、ジロリと凍りつくような眼で牢内を見まわすと、ひとりの女がビクンと立ちあがり、またひとりの女がふらふらとすすみ出た。
「…………?」
お竜は眼をまるくした。
よび出されたふたりの女は、どちらもまだ若く美しかったが、それがあおむけになって、ならんで横たわると、そのうえにお紺がねそべって、|頬《ほお》|杖《づえ》をついたのだ。世にもあたたかな|肉《にく》|蒲《ぶ》|団《とん》にはちがいないが、乳房の谷間に枯木みたいな|肘《ひじ》のくいこむ苦痛に、ふたりの唇があわれにゆがむ。……しかし、こういう奉仕を拒否した場合の、身の毛もよだつ私刑を思いしらされている女たちは、声もたてず、眼をとじたままだ。
お竜が立ちあがろうとした。
そのとき、外鞘で声がした。
「お玉、浅草山の宿町|蓑《みの》|屋《や》|長兵衛《ちょうべえ》より届け物があるぞ。受け取れ」
「おありがとうございます」
と、お紺がこたえて、いままでのぶしょうな老婆とは別人みたいな|敏捷《びんしょう》さで、女のからだの上からすべりおりた。
届け物とは、差入れのことだ。牢屋下男が戸前から入れてくれたのは重箱だったが、それより女囚たちは、牢番がもう一つ入れてくれたものに、はっと眼をうばわれてしまった。満開の桜のひと枝だ。
「きのうお竜がたのんだ買物じゃ。それ」
姫君お竜がかけよって、うけとった。
重箱の方は、お紺がとった。そして牢番がいってしまうと、お玉には一言のことわりもなく、なかのむすびや卵やきにむさぼりついた。お熊やお伝やお甲なども、えんりょなく手をさし出す。むすびも卵やきも、ことごとく十文字に割ってあるのは、なかに牢ぬけの兇器などが入っていないか、牢役人が一応検査をするからである。
「まあ!」
「花よ――坊や、花よ!」
あかん坊を抱いた女をはじめ、女囚たちは夢中で花のまわりにあつまり、顔をよせた。
ひと枝の花がこれほどすばらしい感動をあたえるとは、飢えた彼女たちにも思いがけぬことだったろう。女たちは|恍《こう》|惚《こつ》と眼をとじ、|溜《ため》|息《いき》をついた。すすり泣きをはじめた女さえあった。それは|闇《やみ》にひらいた灯の花であった。
微笑してその光景をながめていた姫君お竜は、泣いているひとりの女をみて、ちょっとまばたきをした。さっきお紺の肉蒲団になっていた女のひとりだ。
彼女はそっとそのそばへ寄って、ささやいた。
「あんた、お玉さん?」
「…………」
「軽業一座の」
「――どうして、あたしを?」
「いつか、両国でみたことがあるの。ほんとに可哀そうに、あんな目にあって」
と、重箱にくらいついているお紺の方をちらとふりかえって、
「あれ、あんたへの御見舞でしょ? 蓑屋さんとかから――」
「蓑屋さんは、あたしの一座の|金《きん》|主《しゅ》だったひとなの。ほんとにひいきにして下すったばかりか、ここに入ってからも、まだあんなに親切にしてくれて……でも、あたしはもうだめ、そのうちお呼び出しになって、きっと|磔《はりつけ》か|斬《ざん》|罪《ざい》か……」
「そんなこと、まだわからないわ。お奉行さまのお取調べによっては――」
お玉は|蒼《そう》|白《はく》な顔をあげて、くいいるようにお竜を見つめたが、すぐにひきつけたようにのどをそらしてうめいた。
「いいえ、どう調べたって、あたしがふたりの人間を殺したのにちがいないもの! しかもそのうちのひとりは、あたしの亭主なんだもの!」
お竜はおののくお玉の肩を抱いて、ながいあいだ髪をなでてやっていたが、やがてやさしい声でつぶやいた。
「お玉さん、あたしにおまえさんのお話をきかせておくれでないか……」
お玉は玉乗り娘だった。
彼女は親も生まれたところも知らない。きっと、西も東もわからないころに軽業に売られたのにちがいない。とにかく、ものごころついてから、ずっとおなじ一座にいた座元の親方はひどく残忍な男だったが、その恐ろしささえも知らないほど、お玉の運命はその一座の|鋳《い》|型《がた》にはめこまれていたし、彼女は従順で楽天的な性質だった。まる顔の、器量はよかったが、玉乗りの運動神経は天性あまりそなわってはいなかったとみえて、よく親方から|鞭《むち》でなぐられたが、あまりかなしいと思わないで、旅から旅へまわっていた。
そのお玉の運命に第一の変化がきたのは、二年ほどまえ、名古屋の広小路神明で小屋がけをしていたときのことだ。一座の花形、|手《しゅ》|裏《り》|剣《けん》打ちの夫婦が、親方に|叛《はん》|旗《き》をひるがえしたのである。もっとも、それをそそのかしたのは、木戸番の|蓮《れん》|蔵《ぞう》という男だった。蓮蔵はそれより一年ばかりまえ、紀州でやとい入れた風来坊で、年もまだ二十二、三だったが、木戸番には|勿《もっ》|体《たい》ないくらい頭のよくきれる若者だった。もっとも軽業一座では、芸がなくては、いくら利口でも木戸番ぐらいしか使いみちがない――と思っていたら、案の定、この騒ぎの陰の張本人となった。
手裏剣うちの|車佐助《くるまさすけ》と|小《こ》|金《きん》夫婦について出たのは三分の一ほどの芸人だったが、そのなかにお玉がいた。というのは、彼女はいつしか蓮蔵のものになっていたからだ。
お玉は蓮蔵にむちゅうだった。利口なのにも感心していたが、片輪者めいた人間の多い一座で、これはまとも以上のきりっと苦味ばしった男まえだし、肌の白さなどどこでも吸いつきたいようで、その左腕に「蓮」と一字彫ってあるのを、もし本人の名と知らなかったら、かきむしってやりたいほどだった。
さて、あたらしく一座をつくったにはつくったが、あとはひどい御難つづきだった。とにかく、芸人の三分の一はついて出たものの、車夫婦をのぞいては、あまりたっしゃな奴がなく、あっても|曲手鞠《きょくでまり》とか|竿《さお》のぼりとか猿まわしとか刀の刃わたりとか地味な芸が多くて、いかに才人蓮蔵があせっても、客がよべなかった。
「とにかく、江戸へゆこう。江戸なら、目明き千人、|盲《めくら》千人、なんとか食えらあ」
と、蓮蔵がいい出して、江戸へきたのが一年前だ。
江戸で、芝神明社内の境内とか、|浅《せん》|草《そう》|寺《じ》境内とか、|葺屋町《ふきやちょう》|河《か》|岸《し》とか、深川八幡とか、あちこち小屋がけをしてまわったが、どこでもぱっとせず、食うや食わずのくらしが三月ほどつづいたが、去年の夏、お玉の運命に第二の変化がきた。
意外な金主があらわれたのだ。浅草山の宿町の薬種問屋の蓑屋長兵衛という金持がパトロンになってくれたのである。
このひとは、まえからちょいちょい中村座とか市村座とか森田座などの芝居興行の金主となるという道楽気があったが、芝居以外にも興行物は好きだとみえて、気まぐれに芝神明町にあわれな小屋をかけているお玉の一座を見に入ったという。そしてお玉を見た――
「あの玉乗りの女はおらんか。ちょっと|逢《あ》いたい」
と、楽屋へかけこんできた声に、お玉がびっくりしてむかえると、その福々しい老人は、くいいるようにお玉の顔をみて、
「ううむ、似ておる、死んだわしの娘に――」
と、うめいた。
そういう思いがけない原因から、蓑屋長兵衛はお玉の一座の金主になってくれたばかりか、あっちこっちつて[#「つて」に傍点]をもとめては新しいたっしゃな軽業師をひきぬいてきてくれた。一座は息をふきかえした。しかし、その親切が、お玉にとって幸福をもたらすよりも、大きな不幸を呼んだのだ。
長兵衛がつれてきた芸人のひとりに、|蝋《ろう》|燭《そく》|渡《わた》りの|美《み》|紀《き》|之《の》|介《すけ》という女がいた。十数本、蝋燭をつけたままの|大燭台《おおしょくだい》のうえを、矢大臣に|扮《ふん》した美紀之介が|右《め》|手《て》に弓、|左《ゆん》|手《で》に|傘《かさ》をもってわたってゆく芸はみごとなもので、しかも男装をしているくせにおそろしく肉感的な女だから、どっと人気がわいた。いままでの立役者手裏剣打ちの車佐助の影がうすくなるほどであったが、その|妖《よう》|艶《えん》さが、見物のみならず、いまは座元で左うちわの蓮蔵をもとらえてしまったらしい。
西両国の広小路に進出して、木戸銭三十二|文《もん》に中銭二十四文という高価にもかかわらず、毎日朝はやくから見物人がおしよせるほどの人気を呼んでいるさなか――お玉はついに、亭主の蓮蔵と美紀之介の密通の現場をみる破目になった。
実はその数日まえ、ときどきブラリと見物にやってくる長兵衛老人から、ふと、
「美紀之介を世話してやったのはいけなかったかな」
と、つぶやかれ、お玉がキョトンとしていると、
「あれは生まれつきの男好きじゃ。おまえも亭主によく気をつけたがいいぞ」
と笑われたので、さては、とこのごろの蓮蔵と美紀之介のあいだの妙な空気を思い出していたからだ。
ほれぬいている亭主だったから、お玉はのぼせあがった。|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》のすえに、彼女は、「もうこんな一座、蓑屋さんの金主をことわってやるから」と口ばしった。すると美紀之介は、乳房をまるだしにした矢大臣というメチャメチャな、そのくせ|凄《すさ》まじいばかりなまめかしい姿のまま、つんとそらうそぶいて、
「へん、あたしひとりがいりゃあ、一座は大船にのったようなものさ」
といったから、蓮蔵をのぞいて、みんないやな顔をした。|人《ひと》|気《け》もなかったはずの夕ぐれの楽屋だったが、この喧嘩さわぎに、どこからか芸人たちがあつまって、おもしろそうにのぞきこんでいたのである。
お玉がその翌日、玉乗りの玉からころがりおちて見物人の大笑いを買ったのは、決して芸が未熟だったせいばかりではない。楽屋にかえると、美紀之介が矢大臣の扮装をつけながら、むこうむきのままで、
「どいつもこいつもぶざまな芸をみせて、どうやら美紀之介一座とした方が無難だねえ」
といった。どうしたわけか、その日は、お玉のまえに車佐助もしくじって、戸板に|緋《ひ》の|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》ひとつで立つ女房の小金に、くびスレスレに手裏剣をうつべきところを、肩をかすって血をながさせた珍事もあったから、そうあざけったのだろう。
その夕方だ。お玉と小金は、つれだって小屋を出た。
一帯のおででこ[#「おででこ」に傍点]芝居や講釈場やその他の見世物などはみなはねて、|西《すい》|瓜《か》売りや|鍋《なべ》|焼《や》きうどんの夜店がならんで出はじめているのも、夏から秋への移りかわりを思わせる。
ふたりが出たのは、たまたまその日も小屋にきていた蓑屋が、|薬《や》|研《げん》|堀《ぼり》にいい外科があるから、お玉、小金をつれていってみてやるがいいと紹介状をくれたせいもあるが、|打《うち》|身《み》、切傷ばかりでなく、こころの同病相あわれむで、ふたりとも美紀之介への愚痴を大いにこぼしあいたいからだった。小金といえども、きょうこのごろの美紀之介の増上慢は決して愉快でなく、「うちのひともそうなんだよ。きょうしくじったのも、きのうからのあいつの高慢なせりふがふっとあたまをかすめたら、ついシャクにさわって手もとがくるったんだって」といったくらいだったからである。
小金の|怪《け》|我《が》はかるく、お玉も異常はなく、医者から出て薬研堀に沿ってかえる途中だった。ピチャピチャと小暗く鳴る堀をうしろに妙なものを路傍で売っている男に逢った。
「|紅《べに》|蜘《ぐ》|蛛《も》はいらぬかな。……」
|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》を伏せた浪人者なのである。疲れたように石に腰を下ろしている。
蜘蛛を売る?――蜘蛛など買ってどうするのだ?
きみわるそうに足早にゆきすぎかけたふたりの女は、しかし思わず立ちどまった。ちらとみた、浪人の足のあいだに置かれたふたつの|虫《むし》|籠《かご》――それは、見ていっそうきみわるいものであったが、ふたりの足を|釘《くぎ》づけにする力があった。
もう|宵《よい》|闇《やみ》はおりているのに、水あかりか、それとも、あとで思えば、何かこの世のものならぬ|妖《よう》|異《い》なひかりがさしていたのか、ぼうっと浮きあがった地上に、その虫籠の中は真っ赤だった。真っ赤なものが、ウジャウジャとうごめいているのだ。
深編笠は依然としてうつむいたまま、病んでいるようにかすかな|嗄《しゃが》れ声でいった。
「紅蜘蛛はいらぬかな。……」
ふたりの女は、ぞっとしてあるき出した。
十歩いって、お玉がいった。
「ね、見た? いまの真っ赤なもの――あれが蜘蛛?」
「あんな赤い蜘蛛って世の中にあるのかねえ。……何にするのかしら?」
「見てたのしむったって、松虫やこおろぎじゃあるまいし、蜘蛛なんか――」
小金が立ちどまった。
「お玉さん、あいつ……蜘蛛がきらいだったわねえ。……」
お玉も立ちどまった。それはほんとうだった。だれだって蜘蛛の好きな人間はあるまいが、だれにもまして、あのはなれ業をやってのけ、人を人くさいともおもわぬ美紀之介が、蜘蛛だけは病的にこわがるのである。いつか酔って横ずわりになったふくらはぎの下に、うっかり一匹の蜘蛛をしきつぶしたときなど、いっぺんに酒がさめてしまったのはむろんのこと、いくらあとで洗っても、まっ白なふくらはぎの皮膚に、蜘蛛のかたちをした|痣《あざ》が、三日間くらいとれないことさえあった。
お玉の眼が、うす闇にひかった。
「小金さん、あれを買ってゆこうか」
「え、何にするのさ」
「美紀之介のちくしょうに、いっぺんきもをつぶさせてやるのさ」
ふたりはもどっていった。紅蜘蛛を売る浪人はまだそこにいた。
「それ、一匹ちょうだいな」
と、おそるおそる一方の虫籠を指さすと、浪人は深編笠を伏せたまま、しゃがれ声で、
「そなた、人を殺したいのか?」
といった。お玉はぎょっとして、しばらく口もきけなかった。
「と、とんでもないよ。なぜそんなことをいうのさ?」
「それはな、そなたのさしたこちらの籠は、毒蜘蛛じゃ。一刺しで馬でも殺す。……そなた、人殺しがお望みなら売って進ぜるが、ちと高い。一匹十両」
「いらない、いらない、そんなおっかないもの――こ、こっちの籠は?」
「これは無毒じゃ。これでよろしいのか」
「いいよ、そ、その赤い蜘蛛で、ちょいとひとをびっくりさせてやるだけなんだから」
「これは安い。一匹十文じゃ。何匹所望」
「い、一匹でけっこうよ」
ほんとうに、美紀之介をびっくりさせて、赤恥をかかせて腹いせをしてやろうというつもりだけだから、一匹でたくさんだった。
浪人は|箸《はし》で紅蜘蛛をはさんで、紙につつんだ。
「だいじょうぶね? これは毒蜘蛛じゃないわね?」
「このとおりわしが紙につつんでも|仔《し》|細《さい》ない。心配なら、肌に|這《は》わせてみせようか」
「いえ、だいじょうぶなら、だいじょうぶ」
お玉は妙なことをいって、紙づつみをたもとに入れると、にげるように立ち去った。小金は終始一言もいわなかった。角をまわるとき、ちらっともういちどふりかえると、蜘蛛売りの浪人は、うす|蒼《あお》い水あかりを背に、やっぱり深編笠を伏せたまま、石のように坐っていた。
紅蜘蛛
「さて東西、いよいよ御覧にいれまするは、|太夫《たゆう》じゃ、太夫じゃ、おまちかね、矢大臣美紀之介の|不知火《しらぬい》わたり、もえる大|蝋《ろう》|燭《そく》は十本と七本、この大蝋燭を、一本も折らず消さずに、ゆらりゆらりとふみわたる千番に一番のかねあい、古今のはなれわざ、東西っ――」
|肩《かた》|衣《ぎぬ》だけをつけた座元兼口上言いの蓮蔵がそこまでいったばかりで、場内は、わあっというどよめきにつつまれた。両国広小路の軽業小屋である。
舞台の|袖《そで》に、いま手裏剣うちをすませてひっこんだ、車佐助と小金が立っていたが、佐助はあきらかにおもしろくない顔をしていた。美紀之介がくるまでは、彼らだけにあんな|喝《かっ》|采《さい》がなげられたものだが、いまでは義理のまばらな拍手はまだいい方で、はやくひっこめという|弥《や》|次《じ》の方が多いこのごろだ。色がくろく、やせてからすみたいな顔をした浪人が、紅だすきをかけているのだが、人気がおちてみると、はなやかなたすきがいっそう本人の貧弱さをきわだたせる。
しかし、小金は眼をひからせてふりかえり、そこに立っているお玉に、亭主にはきこえないようにささやいた。
「お玉さん、あれは?」
「絵日傘のなかに入れてやったわ」
と、お玉は|生《なま》|唾《つば》をのみこんで、じっと舞台の方を見つめる。
彼女は、きのう|薬《や》|研《げん》|堀《ぼり》で買ってきたあの赤い|蜘《く》|蛛《も》を、美紀之介の小道具の絵日傘に、さっき、そっと入れておいた。毒蜘蛛ではないときいていたからいいようなものの、それでもたたんだ細い傘のおくふかく、蜘蛛をつぶさないようにさしこんでおく仕事は、その蜘蛛のふとった感触、またそのぶきみな色彩と、それにちょいとした気のとがめから、あまりきもちのいいものではなかった。
そのお玉の不愉快さを帳消しにするのは、ただ美紀之介のあの|驕慢《きょうまん》な顔つき、いいぐさだ。――舞台で、三味線、太鼓、鼓、チャルメラの音がたかまった。
舞台には、人の背よりたかい|大燭台《おおしょくだい》に大蝋燭が、あかあかと灯をともしてならべられている。数はまさに十七本。
考証的にはだいぶあやしいところもあるが、ともかく|闕《けっ》|腋《てき》の|袍《ほう》らしきものを着、|巻《けん》|纓《えい》の冠らしきものをつけ、右手に弓、左手に剣のかわりにたたんだ絵日傘をもって、矢大臣に扮した美紀之介は、客席にえんぜんたる|媚笑《びしょう》をなげた。男姿だけに、まっかな唇からもる白い歯のきらめきの|妖《あや》しさが観客を|魅《み》して、またどっと歓声がわく。――当時のものの本に「日々えいとうえいとうの大入りは、まったく美紀之介の美しきかんばせに、色気をふくみしゆえなり」とあるとおりだ。
しかし、顔ばかりではなく、たしかに芸もみごとなもので、|囃《はや》しにあわせて一礼すると、美紀之介のからだが、ユラリと一本の燭台のうえに|飛翔《ひしょう》した。――とみるまに、ひらひらと舞いながら、蝋燭のうえをわたりはじめる。見物人をよろこばせたのは、そのたかい燭台、ほそい蝋燭が、ゆらめきつつも、一本もたおれず、一本も折れない妙技もさることながら、ふみわたる蝋燭の火が、いちど足の下できえて、矢大臣がとなりへうつると同時に、またぽうっと|不知火《しらぬい》のごとく白い炎をあげるふしぎさだ。これは|智《ち》|慧《え》の蓮蔵が考案したからくりである。
蓮蔵のとくいげな「|御《ご》|褒《ほう》|美《び》にどっとほめたりほめたり!」という声もまたず、客席から|怒《ど》|濤《とう》のような感嘆のどよめきがあがった。
九本目――ちょうどまんなかまできたときだ。
矢大臣はぱっと絵日傘をひらいて、みえをきった。――と、その絵日傘から、つーっと銀いろの糸をひいておちてきたものがある。いや、その糸までハッキリみたものはほとんどなかったが、美紀之介の顔のまえに、ぶらんと真っ赤な点みたいなものがゆれたので、「おや?」とみな眼をまたたいたとき、美紀之介もふとそれを見たようだ。
「あっ、蜘蛛じゃ!」
土間のかぶりつきから、だれかさけんだ。
美紀之介の眼が、かっとむき出された。蜘蛛がゆれたはずみに、そのしろいひたいに、ぽつんととまった。同時に、三本ばかりの燭台が前後左右にみだれて彼女はどっと舞台にころがりおちた。
お玉と小金は、ぎゅっと手と手をにぎりあわせた。あぶら汗とともに、ひきつった笑いをにじませたお玉の表情が、そのままうごかなくなった。
期待していた客席の|哄笑《こうしょう》はわかない。いや、たおれたまま、美紀之介がうごかない。――とみえたのも一瞬、たちまち彼女のからだは、人々の|叫喚《きょうかん》のつむじにふきくるまれた。まっさきにはしりよったのは、座元の蓮蔵だ。つぎに舞台の袖にいた佐助がかけ出していった。それから、かぶりつきにいた客のひとりがとびあがった。
「美紀之介!」
そうさけんだ声で、その客が、蓑屋長兵衛とわかった。金主の長兵衛は、客の評判をきくためもあろうが、ちょいちょい、こうして客席で一般にまじって見物している道楽があったのだ。
「あっ、いけない!」
と、佐助がさけんで、とびついた。美紀之介の美しい顔が、みるみる|藍《あい》いろの死相に変じてくるのをみたからであった。それからの混乱は、いうまでもない。不知火わたりの曲芸の最高潮で、一座の花形美紀之介は、突如として怪死をとげてしまったのだ。
「こ、こりゃ、どうしたってんだ?」
と、長兵衛がうめくと、蓮蔵も客のさわぎを制止するのもわすれて、
「お役人をよんでこい、だれか、お役人を――」
とさけんだ。
そのとき、異様な声で、車佐助がいった。
「妙なものがいたな、赤い虫――蜘蛛みたいなものが――」
波うっていた人々が、急にしーんとうごかなくなった。みんな、さっき目撃したものを思い出して、名状しがたいぶきみさにおそわれたのである。
蓮蔵のふるえる声がはしった。
「いまの蜘蛛はどこへいった?」
人々は、また騒然とした。
じぶんの|襟《えり》もとや袖口をみ、相手の背や肩をみ、また足もとを見まわした。しかし、あの赤い蜘蛛は、どこにもみえなかった。
舞台の袖では、お玉と小金が、棒みたいに立ちすくんでいた。
お玉が、色のない唇でささやいた。
「あの浪人は、あれは毒蜘蛛じゃないといったわね。……」
すると、小金は、どきっとするようなことをいった。
「ああ……あの男、|籠《かご》をまちがえたのかしら?」
それは、恐ろしいことだった。――お玉は、ただ美紀之介をびっくりさせて、亭主をぬすまれた|腹《はら》|癒《い》せをしたかっただけなのだ。それなのに、美紀之介が死んでしまった!
してみると、あれは毒蜘蛛だったのか?
あの蜘蛛を売る浪人は、坐りこんだ足のあいだに、二つの虫籠をおいていた。一方は無毒、一方は馬でも殺すとかいう毒蜘蛛だといったくせに、じぶんでまちがえたのだろうか? そういえば、みたところ、どっちもおなじように真っ赤な蜘蛛だったけれど。――
お玉は|狼《ろう》|狽《ばい》し、また逆上した。
彼女は小屋のさわぎにまぎれて、広小路からぬけ出して、薬研堀にかけつけた。あの浪人はいなかった。
彼女は待ちつづけた。どうしてもあの浪人にといたださなければならなかった。きのうとおなじような夕方がきて、薬研堀の水がくらくひかりはじめた。しかし浪人の姿はあらわれなかった。
「どうしたのかしら? まだはやいのかしら?」
そういう焦燥が、やがて、
「ひょっとしたら、きのうだけ、ここで売っていたのでは?」
といううたがいにかわり、さらに、めったに人通りもない寂しい路上をみているうちに、こんなところで物を売っていたのはへんだとはじめて気がついた。
――そなた、人を殺したいのか?
という、|陰《いん》|々《いん》たるしゃがれ声が耳のおくできこえる。きのう彼の坐っていた石をみると、そこにボンヤリとあの深編笠を伏せた影がうかんで、ふっときえてしまった。まぼろしであったが、お玉は水をあびたような思いがした。あれはほんとだったか。あたしの悪い夢じゃなかったか。それともあれは、この世のものならぬ|妖《よう》|怪《かい》ではなかったか?
お玉は、ころがるように広小路へにげかえった。恐怖のために、吐き気をかんじていた。
小屋でのさわぎはまだつづいていた。
客の大半は追い出されていたが、舞台にあかりをつけて、同心や目明しが|屍《し》|骸《がい》を検証し、関係者をとり調べているらしい。
小金が何かしゃべったのではないかと、お玉が|蒼《あお》くなってさがしまわると、小金はむしろ張りの楽屋で、ひとり酒をのんでいた。
「小金さん」
呼ばれて、あげた顔に、恐怖がはしった。しばらくお玉を見ていたが、またぐいと徳利をあおって、
「こわいから、のんでいるのだよ。お玉さん」
と、いった。お玉はうなずいて、声をひそめて、
「小金さん、あの蜘蛛のこと、お役人にしゃべった?」
「いいや」
と、くびをふって、
「おまえさん、どこへいってたの?」
「薬研堀に」
「えっ、では」
お玉は、小金のひざに子供みたいにわっと泣き伏した。小金はお玉の肩をゆさぶって、ふるえ声で、
「それで、あ、あいつは?」
「いないんだよ。いたらとっちめてやろうと待ってたんだけど、いつまで待っても、こないんだよ……」
小金はしばらくだまっていたが、やがてお玉の耳もとに口をよせて、
「お玉さん、あの浪人はいなかったことにしよう!」
と、ささやいた。お玉は顔をあげて、
「だって、いたよ。きのうは――あたし、万一のことがあったら、あの浪人をつかまえてもらうより、たすかるみちはないのだよ――」
「いいや、たとえいたって、|逢《あ》わなかったことにしよう。あんなもの、買わなかったことにしよう。だまってるんだ、お玉さん、ね、へんなことをいい出したら、それこそただじゃすまないよ」
「小金さん、それじゃだまっていてくれる?」
「あたりまえだよ。口がさけたって――」
お玉は唇をわななかせて、泣きじゃくりながら、
「かんがえてみりゃ、あの美紀之介だって可哀そうなことをしたわ、あたしがわるかったんだよ。ヤキモチをやいたのがいけなかったんだよ……」
「いけないことがあるもんか。あいつはあんな死にざまをするのが|恰《かっ》|好《こう》なみせしめさ」
「だから、あたしはつかまってお仕置をうけたってしかたがないと思うんだけど、ただ……あたし、ヤキモチをやいて美紀之介を殺したと、蓮蔵に思われるのがたまらないんだよ……」
それは、ほんとうだった。このさわぎのそもそもの原因が、亭主の蓮蔵の浮気にあるのに、世の女房のつねとして、お玉はそう思いつめた。ヤキモチで亭主の色おんなを殺したと知られるときは、夫婦の縁にとどめをさされるときだ。彼女は、まだ蓮蔵に|惚《ほ》れきっていたのだ。
さて、その蓮蔵だが――それ以来、彼はうさんくさそうに、一座の連中をにらみまわしはじめた。
役人たちは、|蜘《く》|蛛《も》のことは一笑に付した。人を殺すような蜘蛛が世のなかにあるはずはない。もしあればものの本にもかいてあるだろうし、ほかに被害者も出るはずだというのである。それももっともだが、それでは美紀之介の死因はというと、彼らにもよくわからなかったらしい。思案のあげく、とにかくかれらに危ない軽業をさせるのがまちがいのもとだ、おちるはずみにきっと打ちどころでもわるかったのであろう、以後気をつけろと|叱《しか》りつけられたから、蓮蔵はふくれかえった。
このころからちょっと後年になるが、明和年間に京都の手品師|生田中務《いくたなかつかさ》なるものが、あまりに幻妙な手品をつかったために、死刑になったことがある。
そういう時代だから、蓮蔵も抗弁はできなかった。とにかく役人にとっては、人心をさわがすことが一番恐ろしかったのである。
毒蜘蛛を黙殺したのも、そのせいかもしれないが、おかげで事件はウヤムヤになってしまった。――しかし、役人たちも、もし美紀之介の怪死をとげたときの様相を目撃していたら、とうていあの紅蜘蛛を笑いすてることはなかったであろう。
蓮蔵はウヤムヤにはしなかった。もともと頭のよくまわる男でもあり、ものごとをウヤムヤにはできない粘ッこさをもった性分なのである。一座の立役者をうしなったという打撃からの怒りも当然だが、それ以上に、いちずな、血まよった|復讐《ふくしゅう》欲が感じられた。
翌日はさすがに小屋は休んだが、その日いちにち、
「あの日傘はどこにあった?」
と、きいてまわったり、
「楽屋に入ってきたよそものはねえか?」
と、目明しそこのけに調べたりしていた。
はじめ彼は、じぶんの一座の大当りに|嫉《しっ》|妬《と》したほかの興行師の犯行ではないかとうたがったらしいが、きのうべつにあやしい人間が楽屋に入ってきた形跡はないことをつきとめるにおよんで、しだいにただならぬ眼を周囲にむけ出した。
お玉は胸をおしつぶされそうなおびえから、蓮蔵の異常な執念とも彼女にはみえる探索ぶりが、美紀之介へのみれんによるものであることを感じとると、「なにをのぼせてやがるんだ、ざまあみやがれ」という気になり、さらにいっそううちのめされて、ふぬけみたいになった。それから、蓮蔵にひどくわるいことをしたような弱気にとらえられた。
「お玉」
ふいに楽屋にぶらりと入ってきた影をふりかえって、お玉はびくんとした。
「妙にかんがえこんでるじゃねえか」
蓮蔵が、充血した眼をひからせて立っていた。
「おめえが、美紀之介にへんな細工をしたんじゃあねえかい」
お玉は口がきけなかった。
しかし蓮蔵はそうはいったものの、もっと、ほかに気がかりなことがあるらしく、いちどいまきた方をふりかえって、
「おい、ちょっときてみな」
「何さ」
「しいっ、声をたてるな」
お玉は蓮蔵のようすに異様なものを感じて、不安な表情でついて出た。
そして彼にいわれたとおり、むしろのすきまから、そっと裏をのぞいてみた。
裏の空地に秋の日が照っていた。やはりむこうの小屋のむしろ張りの背がみえ、なかから太鼓やチャルメラの音がわびしくながれてくる。
うごいているものとては、遠く蒼い空にはためく|幟《のぼり》のほかは、日光のなかを舞っている四、五羽の秋の|蝶《ちょう》だけだった。
――と、思いがけないことが起った。その蝶のむれへ、キラ――とひとすじのひかりの矢がはしると、蝶の一羽がヒラヒラとおちてきたのである。ひかりの矢は、文字どおり糸をひいていた。
地上にまずおちたのは、|紐《ひも》をつけた一本の|匕《あい》|首《くち》であった。
そして、それよりおそくおちてきた蝶の羽根は、みごとにきりとばされていた。
それまでみえなかったところから、ふいにひとつの影があるき出していった。その蝶をひろいあげた。車佐助だった。
蓮蔵がささやいた。
「おれがみたのでも、これで三羽めだ」
そして、佐助が、その羽根のない蝶を紙につつんで、たもとに入れるのをみるにおよんで、たまりかねたように蓮蔵はむしろをはねのけて、顔をつき出した。
「車さん、何をしていなさるんだ?」
車佐助はぎょっとしてふりむいたが、苦笑して、
「小屋が休みじゃと、腕がにぶってな」
といったが、蓮蔵が、ひものついた匕首をみているのに気がつくと、
「蝶をとるのに、わしにとっては網などふりまわすより、この方が手軽じゃて」
と、つけ加えた。
「蝶を何にしなさるのですかい?」
「なに、お子供衆にやるのじゃよ」
「へえ、羽根のない蝶をねえ」
「と、思って実はいたずらをはじめたのじゃが、そのうち――美紀之介がああなってみると、わしがひとふんばりせねば、小屋のゆくすえはどうなるか。そう考えると、心中|暗《あん》|澹《たん》とせざるを得ん。いろいろ思案のすえ、こんどは飛蝶の手裏剣うちを芸に加えたい、こう思いついて、さっきからいろいろ工夫していたのじゃ。なに、この蝶もその羽根のきれぐあいをあとで調べるためじゃが、親方、どうじゃ、これア見世物にはなるまいか?」
「ならんこともねえでしょうが。……」
車佐助はこそこそとどこかへきえてしまった。蓮蔵はひかる眼でそのあとを見おくって、
「おかしなまねをする先生だな」
「あれは、どういう――?」
「わからねえ」
蓮蔵ははき出すようにくびをふったが、やがてうめいた。
「蝶と蜘蛛……何だかかかわりあいがありそうだとは思わねえか? そのうち、きっとおれがつきとめてやるぞ。……」
お玉はどきりとした。蓮蔵はじぶんよりも佐助の方にうたがいをいだいているらしい。
あの怪浪人の赤い蜘蛛と、いまの車佐助の羽根のない蝶、そのあいだにどんな関係があるのか、全然見当もつかないことは御同様だが、佐助に妙な追求がむけられると、結局蓮蔵の眼はじぶんにまわってくるにちがいない。
佐助の女房の小金があの紅蜘蛛の秘密を知っているからだ。
お玉は|苦《く》|悶《もん》した。発覚の恐怖ばかりではなく、良心のいたみにもたえかねた。
そして彼女は、その日がくれてから、別の用件にかこつけて浅草山の宿町蓑屋長兵衛をたずねて、すべてを白状したのである。
じぶんを実の娘みたいに可愛がってくれるこの老人しか相談するものはいなかった。
「なに、あの紅蜘蛛は、おまえがしかけたものじゃと?」
老人はおどろいて、嘆息をついた。しかしやがてお玉をみた眼は、いつものように慈愛にみちた笑みをふくんでいた。
「ふんふん。薬研堀といえば、ここからもそう遠うはない。わしがそこの医者にゆかせたという負い目もある。うむ、わしが手をまわして、その蜘蛛を売る浪人をさがしてやろう。何分の知らせを使いでやるまで、軽はずみなまねはしないで待っておれよ」
しかし、蓑屋から使いがきたのは、その翌日だった。
あの浪人がみつかったのか!
とお玉はわくわくしたが、ふしぎなことに、使いはただ蓮蔵だけに|逢《あ》って何やら話しこんで去ったのである。
すぐに蓮蔵は、人々をよびあつめた。
人々――といっても、お玉と車夫婦と、輪ぬけの|琴之丞《ことのじょう》、綱わたりの|駒《こま》|太夫《だゆう》、曲手鞠の|三《み》|輪《わ》|丸《まる》、猿まわしの|亀《かめ》|吉《きち》と三味線の|平《へい》|八《はち》、つまり一座の幹部ばかり八人だ。
「美紀之介が死んだあと、小屋を|繁昌《はんじょう》させてゆくについて、金主の蓑屋さまからとっくり談合したいことがあるってよ。すぐにうかがおうじゃあねえか」
ということで、一同は出かけた。
それが、おそらくそれだけの話ではあるまいということを、お玉は知っている。
いったい蓑屋さまは、どうなさろうというおつもりだろう? トボトボとあるきながら、お玉は胸もふさがれるような思いがした。
蓑屋は大きな薬種問屋だった。いわゆる河原|乞《こ》|食《じき》にひとしい身分だから、裏のくぐり戸から案内されたのだが、とおされたのは、庭に面したひろいきれいな座敷だった。蓑屋の老人はしばらくあらわれなかった。店の方からながれてくるのか、それとも庭のどこかに薬草などをしまってある蔵でもあるのか、かぐわしいような、|黴《かび》くさいような、異様な|匂《にお》いがこの座敷にもただよっている。
腕をくんで坐っていた蓮蔵が、ふいにジロリと一同を見まわした。
「ちょっと、蓑屋さまがお出ましになるまえに、みなに話がある。――実は、あの美紀之介の|死《しに》|様《ざま》についてのことだ」
みんないっせいに、蓮蔵をみた。蓮蔵は顔をひきつらせつつ、
「みな知ってるように、おれはいろいろと調べてみた。そして下手人は、いいにくいが、一座のなかにいるとしか思われなくなった」
「なんだって!」
と、小金が金切声をあげるのを蓮蔵はおさえて、
「やましくない奴は、腹をたてちゃあいけねえ。それでな。おれはこれからおまえさんたちにききてえことがある。おれが呼ぶから、呼ばれた奴は、ひとりひとりあの離れにきてくれ」
立ちあがろうとする|袖《そで》を、そばの車佐助がとらえた。
「親方、なぜここじゃあきけないのだ?」
「あそこでお茶をのんでもらう。そのお茶に……人間なんでも素直にしゃべる薬が入れてあるんだ。実は、こりァ蓑屋さまも御存じのことだ」
というと、蓮蔵はニヤリとして立ちあがり、庭におりた。
|茫《ぼう》|然《ぜん》として一同が見おくる蓮蔵のゆくてに、なるほど茶室らしい一つの|数《す》|寄《き》|屋《や》がみえた。
女囚巷に出る
お玉は、全身、|麻《ま》|痺《ひ》したようになっていた。
これはいったい、どうしたことだ?
亭主の蓮蔵が、美紀之介殺しの下手人は一座の中にあるという。それをこれから、離れの茶室で調べるという。そこでのませるお茶に、人をベラベラしゃべらせる薬が入れてあるという。――ことごとく、思いのほかのことだが、なかんずく意外なのは、それがみんなこの家のあるじ蓑屋長兵衛承知のうえということだ。
眼をあげて、小金の方をみた。小金は蒼い顔で、じっと宙をみていた。おびえのためか、そのひたいに細かいあぶら汗がにじんでいた。
ふいにお玉はかっとした。そんな七面倒な、もったいぶった探索をこころみようとする蓮蔵にも腹がたったし、それとグルになった蓑屋にも腹がたったし、その蓑屋に甘えてすべてを白状したじぶんには、いちばん腹がたった。だいいち、下手人はじぶんだと長兵衛は知っているくせに、なぜこんな茶番をやるのだろう?
「ちょいとお待ち。おまえさん、そんな手間ひまをかけることはないよ! 下手人はあたしだよ!」
あやうく、そうさけんでふらふらと立ちあがろうとしたのである。――そのとき、|唐《から》|紙《かみ》があいて、蓑屋長兵衛が入ってきた。
ふだん、血色のいい老人が、蒼ざめて、首をたれて、
「ゆるしてくれい、みなの衆」
といって、|悄然《しょうぜん》と坐った。
みんな、老人が承知のうえで、一同をこんな嫌疑の座へさそいこんだことをわびたのだととったが、なかでもお玉は、蓑屋が入ってきたときにちらとこちらを見た眼で、とくにじぶんにいったのだと感じた。
こんな破目になって、いまさらあやまってもらったところでもう終りだ! とお玉は蓑屋をにらみつけたが、あきらかに老人は、困惑しきった表情であった。お玉はヤケになって、度胸をすえて、数寄屋の方をふりかえった。
その茶室から、ただならぬさけびがながれてきたのはそのときである。
「だれを呼んだ?」
猿まわしの亀吉がすッとんきょうな顔をあげたとき、もういちど「わあっ」という悲鳴があがって、
「|蜘《く》|蛛《も》だ。紅蜘蛛だっ」
と、こんどははっきりとそうさけぶ声がきこえた。
まっさきに縁側からとびおりたのは、車佐助であった。お玉は庭にころげおちて、そのまま土に|爪《つめ》をたてたが、だれかひき起してくれたものがあるので、ふりあおぐと蓑屋長兵衛だった。座敷で腰をぬかしたように坐ったままの小金をのぞいて、みんなはだしのまま、どっと殺到した。
数寄屋の庭にむいた窓には|連《れん》|子《じ》がはまっていたので、いちどそこにとびついた佐助は、あわててにじり[#「にじり」に傍点]口にまわったが、ひとめのぞいて、
「あっ」とさけんでしりもちをついた。つづいて三、四人がそこから顔をつっこんで、「親方!」と絶叫した。
炉のまえに、うつ伏せに蓮蔵がたおれている姿がみえたのだ。
なにしろ、高さも幅も六十センチくらいのにじり[#「にじり」に傍点]口だから、なかなか入れない。まっさきに入りこんだのが輪ぬけの琴之丞だったとは、さすがである。
しかし、このとき同時に勝手口の方から、蓑屋長兵衛がとびこんできた。
「どうしたのだ、蓮蔵!」
と、長兵衛は、老人とは思えない力で蓮蔵を抱きあげ、ひざのうえにあおむけにした。蓮蔵のからだが、大きくはねあがった。
長兵衛をのぞいて、みんなとびのいた。蓮蔵のかっとむき出した眼があまりにも|物《もの》|凄《すご》かったからである。うらめしげに、みんなをにらみつけるようなその眼が、急に白くなると同時に、顔いろが灰みたいに黒ずんだ。四肢をブルブルとふるわせると、そのまま彼はガックリとうごかなくなってしまった。|蝋《ろう》|燭《そく》わたりの美紀之介の断末魔とおなじ|死《しに》|様《ざま》である。
「蜘蛛だ。紅蜘蛛だ――とさけぶ声がきこえたな」
と、長兵衛老人が、ふうっと糸にひかれるように立ちあがって、つぶやいた。その眼がぐるっと一同を見まわして、お玉の顔にとまったのはむりもない。彼女が、あの紅蜘蛛の話を蓑屋に白状したのは、きのうのことだからだ。
恐ろしいものでもみるように、あわててお玉からそらした長兵衛の眼がふと天井にとまると、そのままうごかなくなった。
その表情が、あまり異様なので、みんなその方を見あげた。「ひいっ」とお玉ののど[#「のど」に傍点]のおくから、名状しがたいさけびがもれた。そこをつーッとはしったのは、一匹の真っ赤な蜘蛛だったからだ。手をのばせばとどきそうなひくい天井だったのに、みんな金しばりになっていたのは、いうまでもなく、それが死の蜘蛛だと知っていたからで、そのまま蜘蛛は、どこかにふっときえてしまった。
あの蜘蛛がいた! あの蜘蛛が、どこからかあらわれた!
どこからあらわれたのか、それに考えをめぐらす余裕はお玉になかった。ただただ彼女は恐怖した。蜘蛛よりも、じぶんの罪に。
「おまえさん、ゆるしておくれ!」
彼女はがばと蓮蔵の|屍《し》|骸《がい》にとりすがって、つッ伏した。
「あたしが、わるかった。あたしがヤキモチをやいたのがわるかったんだよ! あたしが美紀之介憎さに、変な浪人から蜘蛛を買ってきたのがまちがいのもとだったんだよ!」
「なに、蜘蛛を買ってきた?」
と、車佐助は大声をあげて、
「お玉さん、そ、それはどういうわけだ?」
お玉は泣きじゃくりながら、
「小金さんにきいてちょうだい。薬研堀でいっしょに変な浪人から買ってきたんです。毒蜘蛛じゃないといったから、おどすつもりで、美紀之介の絵日傘に入れたんだけど、それが毒蜘蛛だったらしいの。――」
「小金、そりゃほんとか!」
と、佐助はふりむいた。にじり[#「にじり」に傍点]口に|真《ま》っ|蒼《さお》な小金の顔がのぞいた。
ところが、小金の顔が、あわててはげしくふられたのである。
「知らない。あたし、知らない!」
「知らない? 小金ちゃん、だって、あたしといっしょに薬研堀の医者のところへいったかえり路――」
「あたし、知らないよ、そんなこと――お玉さん」
お玉は、あっけにとられた。すぐに、あのあとで小金が、「あの浪人はいなかったことにしよう、逢わなかったことにしよう、あんなもの、買わなかったことにしよう」と、ふるえながらいったことを思い出した。小金はかかりあいになることをこわがっているのだ!
「何のことだ、わしにはわけがわからん」
と、佐助がつぶやいて、もういちどお玉の方をふりむいたが、そのときその眼がぎょっと大きくひろがった。お玉はぽかんと口をあけたままだ。と――
「あぶない!」
ふいに大声がして、いきなり蓑屋長兵衛がお玉の肩から何かをはらいおとして、たたみの上におちたものを、あわてて炉の火に|蹴《け》こんでしまったが、その一瞬、お玉はそれが一匹の紅蜘蛛であったことをみとめた。
ほんのいましがた天井のどこかへきえたはずの紅蜘蛛が、あたしのからだにとりついていた! まるで買い主をしたうように。――
そう知ったとたん、お玉は失神した。
――女囚お玉の話は終った。
これが、|嫉《しっ》|妬《と》のあまり、どこからか毒蜘蛛を手に入れてきて、夫を寝とった女軽業師を殺し、つぎにそれを感づいた夫を殺して、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される女の物語であった。
うすぐらいおんな|牢《ろう》のなかに、くびもおれるほどうなだれたお玉のひざに、滴々と涙がおちている。
みずからの罪をみとめ、悔い、死を覚悟したその哀れな女の姿を姫君お竜はじっとながめていた。
「そう」
と、お竜はつぶやいて、ちょっと絶望的な|溜《ため》|息《いき》をついたが、すぐに顔をふりあげて、
「もうすこしききたいことがあるわ。お玉さん」
「なにを?」
「ね、蓮蔵さんは、ほんとに美紀之介を殺したのがあなたと感づいていたのかしら?」
「あのひとは、美紀之介殺しの下手人はたしかに一座の中にいるといってたわ。でもね、お竜さん、ほんとのことをいうと、あのひとがあたくしを下手人だとかんがえていたとは、どうしても思えないの。もしそうだったら、あのひとならあたしをつかまえてなぐりつけても白状させると思うわ。あたしに白状させるために、蓑屋さんの茶室まで借りて、あんな手数をかけるとは思えないわ」
「それじゃあ、いったいだれをうたがっていたのかしら?」
「それはわからない。なにしろ何もしないうちに死んじゃったんだし、実際美紀之介を殺したのはあたしのほかにないんだもの――」
「蓮蔵さんは、蓑屋さんと相談のうえでそんなことをしたんだといったわね。のむと何もかも白状させるお茶を蓑屋さんからもらったとか――」
「それがね、うそなんですって」
「うそ?」
「そんなお茶や薬があるものか、と蓑屋さんは苦笑いをしていなすったわ。蓑屋さんが両国の小屋に使いをよこしたのはね、あの蜘蛛を売る浪人は探したけれど見つからないし、ともかくあたしの話をうちのひとにつたえて、いろいろ相談したり、うちのひとをなだめたりしようと思って呼びにきたんですって。ところが、うちのひとの方から、逆に下手人について思いあたりがあるから、ちょっと茶室を貸してくれという話で、蓑屋さんの方は、それでこれは妙なことをいい出したと思い、あたしのことをうちあけるのは一応ひっこめて、しばらく様子をみようと考えて、あのひとのいうとおりにさせておいたんですって。――」
「そう、じゃ、蓮蔵さんは、そんなたねもしかけもないお茶で、みんなをひッかけようとしたのね。なるほど手品や軽業をみせる一座の座元らしい|智《ち》|慧《え》だ」
「あたしなら、そのたねもしかけもないお茶で白状したかもしれないわ」
「とにかく蓮蔵さんは、だれかに白状させようと考えて、その茶室に入って紅蜘蛛に殺された。――お玉さんは、その紅蜘蛛はどこから出てきたと思うの?」
「わからない、それがあたしにはわからない!」
お玉は髪の毛に手をつっこんで、もだえて、
「きっとね、あの美紀之介を殺した蜘蛛が、どこかにみえなくなったけれど、いつのまにかうちのひとのきもののどこかに入ってたにちがいないわ。ふしぎだけれど、そうかんがえるよりほかにかんがえようがないもの。――」
「蓮蔵さんのきものに?」
お竜はぐっとお玉の顔を見つめていたが、
「それにしては、うまく蜘蛛がとき[#「とき」に傍点]を見はからったものだ」
と、つぶやいた。
「お玉さん、蓮蔵さんが死ぬとき――そのまえ、茶室にあやしいものが出入りしたようなことはなかったかしら?」
「なかったわ。あとで調べたら、その茶室の南と東は壁になっていたし、あとの北と西だけに、窓や、あたしたちの入っていた小さな室や、蓑屋さんのとびこんだ出入り口があったけど、その二面は、庭ごしにこっちからまる見えだったもの」
「蜘蛛なら、入っていってもわからないでしょ?」
と、いって、お竜は苦笑した。
「蜘蛛が蓮蔵さんのからだにとりついてたというのもおかしいけれど、はじめから蓑屋さんの茶室にそんな蜘蛛がいたなんてことはあり得ないし、といって、遠くから蜘蛛をあやつって、その茶室にしのびこませるなんて出来ッこないわね」
「でも、あの蜘蛛は、ほんとに|化《ばけ》|物《もの》だわ。たしかに天井へきえたはずなのに、いつのまにかあたしの肩にとまっていたもの。――あたし、たいへんなもの買っちゃったのだわ。……」
お玉は身ぶるいして、またすすり泣きをはじめた。そのとき、お竜の眼が、ふいにキラリとひかった。
「お玉さん、蜘蛛は二匹いたんじゃないかしら?」
お玉はキョトンとしてお竜をみていたが、急にはげしく首をふった。
「そうとしか思われないけれど……あたしの買ったのは、たしかにたった一匹よ!」
お竜は、うなずいた。しかし、いまのじぶんの言葉の方にうなずいたような様子であった。それから、泣いているお玉の肩に手をかけて、やさしくいった。
「わかりました。お玉さん、あなたは蜘蛛を買ったかもしれないけれど、だれも殺す気はなかったのね。してみれば、わるいのはそんな毒蜘蛛を売りつけた浪人だわ。あなたがもしお仕置をうけるなら、そのまえにその浪人がつかまって、お仕置をうけなきゃてにをは[#「てにをは」に傍点]があわない。……」
「でも、そんな浪人がいたなんてことを、お役人はだれも信じてくれないんです。……」
「小金さんがあかしをたててくれなかったの?」
「小金さんは、かかりあいをこわがって、あくまで知らない、そんな浪人を見たことがないといい張るの。あたし、腹もたったけれど、しまいにはどうでもかってになれと思っちゃった。どっちにしたって、わるいのはあたし、あたしひとりが打首になりゃすむことなんだもの!」
そしてお玉は肩をゆすってヒステリックに笑った。
「どう? あたしのわるい女だってことが、よくわかったでしょ?」
「わからない」
と、お竜はくびをふった。
「あたしにはわからないことだらけだわ」
「あたしだってそうだけれど――」
と、お玉はいいかけて、急にくいつくように、
「何がさ?」
「まず第一に、その蜘蛛を売る浪人の正体が――第二に、人を殺す蜘蛛そのものが――」
何かいおうとするお玉をお竜は眼でおさえて、指おりかぞえ、
「第三に、車佐助という人が蝶をつかまえていたわけが――第四に、蓮蔵さんがだれをうたがっていたのかということが――第五に、一座のものをうたがって白状させようとするのに、なぜわざわざ蓑屋さんの茶室を借りたのかということが――第六に、その茶室でそんなにうまく蓮蔵さんが殺されたわけが――第七に、あなたが一匹買った蜘蛛が、そこに二匹いたらしいことが――第八に、小金さんがこれほどの騒動になっても、まだ浪人と逢ったことを知らぬ存ぜぬでとおそうとしたことが――」
それから、彼女はうすら笑いをうかべて、
「第九に――これほどわからないことだらけなのに、簡単にあなたをつかまえて、こんな牢に入れたお|奉行《ぶぎょう》さまのおつむ[#「おつむ」に傍点]のかげんが――」
いままで、きくともなくお玉の告白をきいていた他の女囚たちがはっとしたとき、お竜はさらに彼女らを|唖《あ》|然《ぜん》とさせるようなことをした。折りまげていって、最後に一本のこった指を口に入れたお竜が、ヒューッと口笛を鳴らしたのである。
すると――絶対にそんなことのあろうはずはないのだが――まるで、その口笛に呼ばれたもののように、|格《こう》|子《し》の外に一つの人影が立ったのである。
「武州無宿お竜、出ませい!」
と、その影は|峻烈《しゅんれつ》な声でさけんだ。みると、きのうお竜をひったててきたあの八丁堀の若い同心だ。
「奉行さま、じきじきに当牢屋敷に御出座あそばし、御吟味に相成る。早々|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ|罷《まか》り出ませい!」
姫君お竜が呼び出されたあと、女囚たちは顔を見あわせた。
しばらく、声もなかったが、やがて、
「いわねえことじゃあねえ」
と、牢名主の|天《かみ》|牛《きり》のお紺が、ふうっと溜息をついた。
「ふてえあま[#「あま」に傍点]がお奉行さまの御吟味にケチをつけやがるどころか、おつむ[#「おつむ」に傍点]まで何とやら、|大《だい》それたことをほざくからよ。――」
しかし、まさかいまのお竜のせりふがきかれたのではなかろうと思う。とにかくあの女は、公方さまのお命をねらった大陰謀に加わっている人間だ。きのう、あの同心が「いくどかお奉行さまおんみずから当牢屋敷に御出張あそばし、したしく御吟味に相成るはずであれば」といった、そのときがきたのにちがいない。
牢屋敷のほぼ中央に、穿鑿所がある。|笞《むち》打ち、石抱きなどはここで行う。そばに拷問蔵もあり、|海《え》|老《び》責め|釣《つり》責めなどの道具がそなえてあった。しかし、ふだんこれを執行するものは吟味方の|与《よ》|力《りき》であって、町奉行じきじきに出座することはめったにない。もって、いかにお竜が重罪の追求をうけているかが、思いやられるというものだ。――
「石を抱かされるなあ」
「あのあま[#「あま」に傍点]、何枚で|音《ね》をあげやがるか」
「二枚――三枚か」
お紺と、お甲やお伝、牢内役人たる老婆たちが、陰気な声でボソボソと話しあっている。――
石は、長さ一メートル、幅三十センチ、厚さ十センチ、一つで五十キロある。三枚で百五十キロ――それを|膝《ひざ》のうえにのせられるばかりではない。|尻《しり》をまくられて、むき出しになったその膝の下には、そろばん板という三角形の木をうちつけた板があるのだ。お紺も三枚で白状をした思い出がある。お甲やお伝は二枚で音をあげた。
やがて、あのひとをくったすッ|頓狂《とんきょう》なあま[#「あま」に傍点]も、血泡をふいてもどってくるだろう。きのうは、妙なわざ[#「わざ」に傍点]を知ってやがって、ひどい目にあわされたが、足腰たたなくなってかえってきたら、どうしてやるか?
病んだ女囚などをおさえつけて、その顔にピッタリ|濡《ぬれ》|雑《ぞう》|巾《きん》をかぶせ、その上に大きなお尻をのせ、またべつの囚人が胸や腹をドスンドスンと踏みつけてあの世へやってしまうのは、牢内でそれほど珍らしい行事でもない。そこまでしなくとも、うごけなくなった女なら、それをまないた[#「まないた」に傍点]にのせて、ありとあらゆる|辱《はずか》しめをあたえるのに、この老婆たちには智慧も根気も毒念も不足していなかった。――
からだも心もこわばって、まだお竜に釈然たるところがないばかりか、陰火のごとき|復讐《ふくしゅう》心にもえた老婆たちが舌なめずりして待ちかまえている一方で、なぜか罪を告白しただけでお竜が好きで好きでたまらなくなったお玉は、牢の隅で、そっと|両掌《りょうて》をくみあわせていた。
しかし、思いはそれぞれ、待っている女囚たちのまえに、どうしたのかお竜は、その夜も、そのあくる日も、そのあくる夜も、かえってはこなかった。――
お紺が、妙な顔をして、ひとりごとをいった。
「あのあま[#「あま」に傍点]、くたばりゃがったのかな」
ふしぎなことがある。
お奉行さまに吟味によび出されたはずの姫君お竜が、よび出された日、うららかな春日をあびて、江戸の町をぶらぶらとあるいていた。しかも、可愛らしい町娘の姿である。
彼女は、両国広小路の、美しく、汚ならしく、|妖《あや》しく、あさましく、すてきに面白い見世物町を、あっちに立ちどまり、こっちにひッかかって、春の太陽は永遠におちないかのごとく、のんきそうに見てあるいていたが、やがて一つの小屋のまえに立って、そこの|幟《のぼり》を見あげていた。
幟には、「手裏剣車佐助一座」とあった。
自身番異変
“幕揚げていまが太夫とちっと見せ”
“木戸番は愛想づかしの幕をさげ”
という古川柳がある。むかしから、見世物風景はおなじらしい。
木戸番のうしろのうす汚ない幕がスルスルとあがると、舞台で二本竹の軽業をやっているのがみえた。|袴《はかま》をつけた男が肩に中の字に組みあわせた青竹を立て、その青竹の上で扇を足にはさんだ娘が逆立ちをしている。――と、みえた一瞬、幕はバサリとおちた。
「おじさん」
と、お竜は木戸番を呼んだ。
「小金さんって、いる?」
木戸番の老人は、なれなれしく座元の女房をそう呼んだ娘を見下ろして、ふっと眼を大きく見ひらいた。|埃《ほこり》、|蓆《むしろ》、よごれきった幕――という見世物町の中に、ぱっと輝くような娘の美しさに、びっくりしたのだ。
「おまえさま。……」と、思わずさま[#「さま」に傍点]扱いにして、
「小金太夫を知っていなさるのか」
「知らないよ」
「へ、じゃあ、なんの用?」
「小金さんの弟子になりたいの」
木戸番はまじまじとお竜を見つめていたが、あわてて番台からとびおりた。軽業の自発的志願者は珍らしい。まして、こんな美しい娘が一座に入ってくるとは――これは充分、小金に報告するねうちがあるとにらんだのだ。
楽屋で、|衣裳《いしょう》をつけていた小金は、木戸番の知らせをきいて|眉《まゆ》をひそめたが、すぐうしろにつづいて入ってきた娘をみて、これまた眼をまるくした。
「なんだって? あたしの弟子になりたいって」
大声でさけんだ。――お玉の話で想像していたより美しく|溌《はつ》|剌《らつ》とした女だ、とお竜は思った。
たしかに小金は張りきっていた。美紀之介と蓮蔵が死に、お玉がつかまって半年――いまや彼女の夫車佐助が座元になり、一座の花形になったのだから、毎日が|生《いき》|甲《が》|斐《い》がある。
「軽業をやりたいといったって、何か芸を知ってるのかい? これからはじめようってつもりなら、おまえさんの年じゃあちっとむりだよ。もっとも、その器量なら、色っぽい踊りかなんかでもお客は呼べるだろうが」
「あの、あなたのように、手裏剣の的になるだけではいけないでしょうか」
「ばかにおしでない。これでもただ棒みたいに立ってるわけじゃないよ。手裏剣をうつ方とうまく息が合わなきゃ、とんだことになるんだよ。ほんとに紙一重のきわどい芸当なんだから――それで見世物になるというものさ」
そして、ふときいた。
「おまえさん、なんて名だえ?」
「お竜ってんです」
「どこの生まれだえ?」
「小伝馬町」
小金は、へんな顔をしてお竜を見た。小伝馬町は|牢《ろう》屋敷のある町だ。
「身寄りは?」
「姉がひとりいます。でも、もうすぐ死にそうですから、あたし、ひとりぼッちになっちまうんです。……」
「姉さん、病気なのかい?」
「いえ、打首になるんです。御亭主を|毒《どく》|蜘《ぐ》|蛛《も》をつかって殺したという罪で――」
小金の顔色が変った。ふるえ声で、
「名は?」
「お玉」
小金は息をひいて、眼前の娘をにらみすえた。しかし娘はおそれ気もなく、じっと小金を見かえして、
「小金さん、だから、あたしを助けて下さいな。……」
「おまえ、牢からきたね」
恐怖の表情から、からくも小金は立ちなおった。
「お玉から何かきいてきて、あたしをゆすろうっていうつもりかい?」
「ゆする? あなたを? なぜ?」
ふしんげに小首をかたむけられて、小金は|狼《ろう》|狽《ばい》した。唇がわなないて、必死のさけびがほとばしり出た。
「そ、そうなんだ。あたしはおまえなんかにゆすられるおぼえはちっともない。あたしは何もしやしない」
「あたしもそう思うわ。でも、あなたは何かを知ってはいらっしゃる」
お竜は小金の手をつかんだ。
「ね、おねがいです。あなたの知っていることを教えてくれたら、お玉さんは助かるかもしれないんです。姉といったのはうそでした。でも、人ひとり、無実の罪で死ぬのを見殺しにはできないんです」
「あたしが、何を知ってるってのさ?」
「お玉さんにあの紅蜘蛛を売った浪人がだれか、あなた、知りませんか?」
「知らないよ! そんなひと、知らないよ!」
「それじゃあききます。美紀之介さんが殺されたあとで、あなたの御亭主佐助さんが|蝶《ちょう》をつかまえていたとききましたけれど、あの蝶は」
小金はお竜の手をふりはなそうとしたが、|繊《ほそ》い柔かい手なのに、|膠《にかわ》みたいにはなれなかった。
「蜘蛛を飼うための|餌《えさ》だったのではありませんか?」
小金はうっとうめいた。全身から力がぬけた。ガックリとうなずこうとして、小金はふと、そのとき楽屋に入ってきた影をみると、きちがいのようにさけんだ。
「おまえさん、こいつをたたき出しておくれ!」
入ってきたのは、|羊《よう》|羹《かん》色の黒紋付に紅だすきをかけた、からすみたいに色の黒い、眼のするどい浪人者だ。鉢巻に四、五本の手裏剣をさしている。
「この娘が、あたしたちをゆすりにきたんだよ!」
「なんじゃ、うぬは!」
浪人はかみつくようにわめいた。小金はお竜の手をもぎはらって、その足もとにまろびより、
「あんな可愛らしい顔をして、お玉と小伝馬町で|相《あい》|牢《ろう》だった奴らしいんだよ。お玉から何をきいたか、あたしたちが美紀之介と蓮蔵を殺したっていいがかりをつけるんだよ!」
「そ、それで、おまえは――」
と、|物《もの》|凄《すご》い顔になる浪人に、
「車佐助さんですね?」
と、お竜は笑顔で、
「いまね、小金さんから、蜘蛛を飼うためにあなたが蝶をつかまえていたというお話をきいたばかりなんです」
「野郎!」
と、歯をむき出すと、車佐助の手が鉢巻にはしった。|間《かん》|髪《はつ》をいれず、一本の手裏剣が流星のような尾をひいて、お竜にとんでいった。
お竜の手があがると、その手裏剣はみごとにはねとばされて、そばの蓆につき刺さった。
お竜の笑顔はきえてはいなかった。
「こんな芸当じゃあ、お弟子になれないかしら? 小金さん」
|茫《ぼう》|然《ぜん》とそれをみていた車夫婦のうち、佐助の肩が大きくあえぎ出した。かっとむき出された眼には、まるで魔物でもみるような恐怖のひかりが浮かんできたのも当然だ。
お竜はあどけない笑顔のままで、
「蝶の意味はわかったけれど、まだわからないことがいっぱいあるの」
といった。佐助はじりじりとさがりながら、
「お、おれが人殺しというのか?」
「いまの手際じゃ、やりかねないわねえ。……ほ、ほ、ほ」
「なんのために、おれが美紀之介や蓮蔵を――」
「美紀之介には人気をうばわれ、ばかにされ、もと木戸番の風来坊にはいつのまにやら一座を乗っとられ――とくに蓮蔵には、美紀之介殺しの下手人はだれかということをつきとめられかけ、せッぱつまって――という見方もあるわねえ」
「ばかな! おれがやるなら、あんな手数はかけぬ!」
「あんな手数とは?」
佐助はくしゃくしゃと顔をゆがめて、泣き出しそうな表情になった。小金はがばとくずおれた。
「そりゃあね、あなたは手裏剣の名人だから、人殺しも簡単でしょうよ。けど、下手人がわからないようにするには、人間いろいろと工夫もし、手数もかけます」
そのとき、楽屋の外で、「太夫、出番――」という呼び声がきこえなかったら、ふたりは何をさけび出すかわからないような顔色になっていた。
「小金、出番だ」
猛然として車佐助は立ちあがり、小金の手をひったてた。
「えたいの知れぬ女の|世《よ》|迷《ま》い|言《ごと》をきいているひまはない。ゆこう」
もつれるようにして楽屋から出てゆくふたりを、お竜は見おくったが、べつに追おうとするでもなく、ひとりごとをつぶやいた。
「佐助はたしかに何かをやった。……小金はそのことを知っている。……だけど、あの男は、案外|智《ち》|慧《え》なしのかんしゃくもちらしいわ。……だから、美紀之介や蓮蔵にヤキモチをやいたこともうなずけるけれど、その智慧なしのかんしゃくもちが、あんな手数をかけて人を殺すかしら?」
舞台の方でチャルメラの音とともに何やら口上の声がながれると、|凄《すさ》まじい佐助のかけ声と、板に手裏剣のつき刺さる音がきこえはじめた。なお、|襟《えり》に手をさしいれてかんがえこんでいたお竜は、突然、はっと顔をふりあげて、
「あっ、あの気合は――いけない!」
と、さけんで、舞台の方へかけ出した。
そのとき、急に小屋の中の騒音がぴたっととまった。彼女は、じぶんの心臓もとまったかのような思いがした。次の瞬間、ふたたびわーっという|海嘯《つなみ》のようなどよめきがわきあがった。名状しがたい恐怖の叫喚だった。
お竜は、舞台の袖に立ちすくんだ。
反対側に、たたみ一畳大の厚板を背に、小金が大の字に立っている。その両腕は|虚《こ》|空《くう》をつかみ、顔はのけぞっている。全身蛇のようにくねり、のたうつなかに、中心の一点のみうごかなかった。のどぶえにつき立てられた手裏剣の一点だけが。――
舞台のまんなかにフラリと立っていた車佐助が、
「しまった」
と、うめくと、泳ぐように小金のところへまろんでいった。
「小金! ゆるせ、手もとが狂ったのだ!」
のどの手裏剣をひきぬくと、血の噴水が佐助の顔に散って、小金はどうと崩折れた。
|屍《し》|体《たい》となった女房を抱きしめ、血まみれになって佐助は身をもみながら、絶叫とも号泣ともわからない声をもらした。その|物《もの》|凄《すご》さに見物人たちはさわぐばかりで近よるものもなかったが、ひとりしずかに佐助の肩をつかんだ者がある。
「むざんなことをしたねえ、おまえさん」
顔をあげて、
「うぬか!」
と、佐助はさけんだ。
「うぬがつまらねえことをぬかすから、こんなことになったのだ。おれの女房を殺したのはうぬだぞ、さあいっしょに自身番にきやがれ」
お竜は|蒼《そう》|白《はく》な顔色になっていたが、淡く笑った。
「おまえさん、おかみさんの口がふさがれたら急に気がつよくなったね」
「なんだと?」
「いまにも白状しそうなおかみさんの口をふさぐために、こんなむごいまねをしたか。さっききいたおまえの矢声は、あれはたしかに殺気の声だった!」
|蒼《あお》|白《じろ》かった|頬《ほお》が紅潮し、たたきつけるように、
「ひきょう者!」
「なにっ、このあま!」
もうまったくのぼせあがって、手にしていた血まみれの手裏剣をさっとふりあげたとき――その手を背後からグイととらえられた。
ふりむいて、佐助の腕が急に|萎《な》えた。着流しに|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》、|博《はか》|多《た》の帯に|雪《せっ》|駄《た》ばきという|颯《さっ》|爽《そう》たる姿は、いうまでもなく八丁堀の同心だ。騒ぎをきいて入ってきたのか、それとも偶然見物席にいたのか――これは、佐助はむろん知らないが、南町奉行大岡越前守秘蔵の同心|巨《こ》|摩《ま》|主《もん》|水《どの》|介《すけ》であった。
「これ、神妙にいたせ」
「へい!」
と、佐助は手裏剣をとりおとし、顔をひきゆがめて、
「大変なことをいたしましたが、これアまったくこの女めの言葉がもとで、不覚にも心中|動《どう》|顛《てん》し、思わず手もとが狂ったのでござります!」
「この女が? 何を申したか」
「|旦《だん》|那《な》は、去年の秋、この一座で|蝋《ろう》|燭《そく》わたりの美紀之介と座元の蓮蔵が不慮の死をとげた一件を御存じでござりましょう」
「――存じておる」
「あの下手人はすでに|御《お》|縄《なわ》を|頂戴《ちょうだい》し、ただいま入牢中でござりますのに、その下手人と相牢だったらしいこの女めが、牢内で下手人から何をききましたやら、牢から出てきて拙者に妙ないいがかりをつけてゆすろうといたし、ために拙者、怒りのため平静を失い、思わずかかるまちがいをいたしました」
「きさまにいいがかりとは?」
「美紀之介と蓮蔵を殺したのは、事もあろうに拙者だと申す。……他にすでに下手人をとらえたお|上《かみ》の御明察をないがしろにいたす不敵な女、何とぞお調べ下さりませ!」
主水介はちらっとお竜をみた。姫君お竜――主水介は彼女を知っているはずだ。しかし、奇妙なことに、彼は何もいわなかった。ただ、背後に、ようやく騒然とあつまってくる小屋者や見物人をふりかえって、
「ともかく、両人、自身番に参れ」
自身番とは、いまの交番で、武家町では|辻《つじ》|番《ばん》という。町に犯罪が起ると、ひとまずここでとり調べて一応の調書をつくり、送るときまれば仮監のある大番屋というところへやり、ここではじめて入牢証文を作製して小伝馬町へおくる。
巨摩主水介は、まずいまの騒動について車佐助をとり調べた。事件は|明瞭《めいりょう》簡単だ。ただ佐助は手もとが狂ってのまちがいだというのだが、問題は彼の手もとを狂わせた原因であった。
そこで、当然、あの紅蜘蛛の事件が呼び起された。
「あれのお裁きに何の疑心があるのか」
ときく主水介は、むしろ|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうだった。佐助はお竜にむかって、
「おれが毒蜘蛛をつかったというのか!」
と、かみつくようにわめいた。
「おれがあのへんな紅蜘蛛をつかって美紀之介を殺したと、お玉がいったのか?」
「いいえ、お玉さんは、紅蜘蛛を美紀之介の|絵《え》|日《ひ》|傘《がさ》に入れたのはじぶんだといってたわ。ただ……」
と、お竜はくびをかしげて、
「その毒蜘蛛をお玉さんに売りつけた浪人が|誰《だれ》かということになると――」
「そんな浪人は、おれの知ったことか!」
「あたしはね、お玉さんといっしょにその浪人に|逢《あ》ったはずの小金さんが、あとで知らぬ存ぜぬで通そうとしたのが、かえっておかしいと思うわ」
「小金は、ほんとに知らなんだのだろう。それがなぜおかしいか。きさま、お玉のいうことは信じて、小金のいうことは信じないのか」
「だから、あらためて小金さんにきこうと思ってやってきたのに、小金さんは殺されてしまった!」
「きさまが、そんないいがかりをつけるからだ」
「いいがかり? だって、小金さんは、美紀之介殺しのあとでおまえさんが蝶をとるのに汗をながしてたのは、蜘蛛を飼う|餌《えさ》にするためじゃなかったかとあたしがきいたら、顔色がかわってうっとつまったよ」
「それがいいがかりと申すのだ。小金が顔色をかえたというなら、その証人を呼んでみせろ」
お竜はじっと佐助をにらんで、ためいきをついた。
「どこまで、|卑怯《ひきょう》な男なんだろう。女房を殺してまで、じぶんの罪をのがれたいのか」
主水介が声をかけた。
「よし、両人、そういい争っても、いつまでたってもきりがない。お竜とやら」
なぜか、伏眼になって、
「それでは、佐助が蓮蔵を殺したという疑いについて申してみろ」
そのとき、自身番のなかへ、ころがるように入ってきた老人をみて、
「あっ、|蓑《みの》|屋《や》どの!」
と、佐助がさけんだ。
「おう、いまそこの往来を通りかかってきくと、おまえの小屋で大変なことが起ったそうで、おまえは自身番にひかれていったというから、びっくりしてわけをききに来た」
「それもそうだが、蓑屋どの、わしは去年の美紀之介蓮蔵殺しにまであらぬ疑いをうけております。おまえさまのうちで起ったことじゃ。わしが蓮蔵を殺せるわけがないことを、おまえさま、証人になって申しあげて下され!」
「なに、蓮蔵殺し?」
はじめて老人は、そこに腰かけている同心に眼をやって、土間に膝をつき、
「おう、これは八丁堀の旦那さま。……わたくしは浅草山の宿町で薬問屋をやっておりまする蓑屋長兵衛と申すものでござります。いちじは、この車の小屋の金主をやっておりましたもので――」
「そのことは存じておる」
と、主水介はうなずいた。
「そ、それで蓮蔵殺しとは?――あれは、もう下手人が御縄を頂戴して――」
「それが、紅蜘蛛をつかったのはわしじゃとこの娘が申すのだ。だが、蓑屋どのはよく御存じであろう、蓑屋どのの茶室で蓮蔵の悲鳴があがり、わしたちがかけつけていったとき、すでに蓮蔵がたおれていたのを――」
「それでも、おまえさんが細工をしようとすればできたはずだわ」
と、お竜がいった。
「細工? どんな細工を?」
「お玉さんの話のなかに、蓮蔵さんが茶室へゆくまえに、おまえさんが蓮蔵さんの|袖《そで》をつかんで何かいったということがあったわ。あのとき、おまえさんが紅蜘蛛を蓮蔵さんのたもとに投げこんだとしたら?」
「なにっ」
だれより、|愕《がく》|然《ぜん》としたのは巨摩主水介だ。かるく、石を水になげるようにそういったお竜は、車佐助の表情にあがったしぶきにかえってはっとした。が、すぐに佐助に余裕をあたえず切りこんだ。
「そしておまえは、その罪をお玉さんになすりつけた!」
蓑屋長兵衛の顔色も変っていた。はげしく佐助の袖をつかんで、
「お、おまえ、あのとき、そんなまねをしたのか!」
車佐助は返事をしなかった。何かいおうと口をパクパクさせるのだが、言葉にならないのだ。
「蓑屋さんですか」
と、お竜はあいさつした。蓑屋はわれにかえり、けげんな顔でお竜をみて、
「おまえさんは?」
「お玉さんと相牢だった女泥棒でござんす」
「…………」
「牢のお玉さんにいろいろ親切にして下すってありがとう。お玉さん、蓑屋さんを仏さまのようにおがんでいましたよ。あたしね、お玉さんから話をきいて、どうもあのひと、だれかにうまく|罠《わな》におとされたような気がしてならなかったものだから、こうして女だてらにおせッかいにのり出してきたんです」
「あ、あれは元気でおりますかな。あの女はな、わしの死んだ娘によう似ておるものじゃから、金主にまでなってやったが、あんな大それたことをして、見そこなったと思い、またふびんにも思うておったが、しかし、なんじゃと? この佐助が下手人じゃと?」
「まだそれはわかりませんわ」
と、お竜はいった。長兵衛はあっけにとられたように口をあけた。
「だって、いま、おまえさんは!」
「まだわからないことがたくさんあるのです。あたし、蓑屋さんにおききしたいことがあるのよ」
「なにを?」
「蓮蔵さんが殺されたとき、あの茶室に紅蜘蛛は二匹いたことを御存じない?」
「な、なんじゃと?」
と、長兵衛は宙をみて、凝然と思い出そうとする表情になった。
やがて、
「そんなことはなかろう」
「いいえ、天井をはしってにげた紅蜘蛛と、お玉さんの肩にとまっていた紅蜘蛛と――」
「あっ、そういえば!」
と、突如大声を発したのは車佐助だ。狂的な眼色になって、ひしと蓑屋にしがみつき、
「蓑屋どの、思い出して下され、そうだ、たしかに蜘蛛は二匹いた。蓮蔵を殺した蜘蛛は、わしの飼っていた蜘蛛ではない――」
と、いいかけて、急に絶句した。思わずしらず白状したのに、はっとしたのだ。
猛然と立ちあがった巨摩主水介は、しかし次の瞬間、つぶやくようなお竜の言葉にまた|釘《くぎ》づけになった。
「けれど、わたしは、人を殺すような蜘蛛がこの世にあろうとは思われない。蓑屋さん、どう思います――?」
そのとき、蓑屋が、突然、土間の一点をさして、
「あっ、そこに赤い蜘蛛が!」
と、絶叫した。
お竜と主水介がさすがに、愕然として身をのり出して、佐助の坐っている方から、うすぐらい土間の隅へさーっとはしっていった赤い虫にぎょっと息をひいたとき、佐助が急に両腕をついた。
その異様な気配に、三人はっとしてふりむいた。
車佐助の顔色は紫いろになり、その全体がひきつれるようにうごめいた。とみるまに、たったいまわめきちらしていた佐助は、ものもいわずにガックリとつっ伏してしまった。
蜘蛛を売る浪人
「|化《ばけ》|物《もの》蜘蛛め!」
泳ぐように蓑屋長兵衛が立って、自身番の隅へかくれようとした蜘蛛にとびかかってつかんだが、すぐに「あっ」とさけんで手をふった。
「どうした?」
巨摩主水介がさけんだ。
長兵衛は恐怖の表情で、じぶんの掌をにらみつけたままだ。その掌は真っ赤だった。
すぐにそれは、彼がたたきつぶした蜘蛛だとわかった。しかし、恐ろしいのは、それをつぶした掌を染めているものだ。血としか思われないが、血の赤い蜘蛛が、この世にいるものだろうか。
いうまでもなく、車佐助の血であろう。佐助の血を吸った蜘蛛にちがいない。たったいま、「人を殺すような蜘蛛がいようとは思われない」とお竜がいったその口の下から、この怪奇な吸血蜘蛛はまた人をひとり殺したのだ!
「…………」
さすがの巨摩主水介も、佐助を抱き起そうとさしのべていた手をひっこめた。まだこの死人に毒蜘蛛が吸いついていないとは、保証できなかったからだ。死人――見ただけで、車佐助は完全に死人の顔色であった。
「紅蜘蛛――それじゃあ、蜘蛛の赤かったのは、人の血を吸ってそれが透いてみえたのかしら? それとももともと赤い蜘蛛だったのかしら?」
と、お竜がつぶやいたが、だれもこたえない。長兵衛の掌の蜘蛛はもはや原形もとどめていなかったし、彼は大いそぎで紙でぬぐいすててしまった。
そして、長兵衛はひざをついた。
「旦那さま。……恐れ入ってござりまするが、お玉めに再度の御吟味をおねがい申しあげまする」
「…………」
「やはり下手人はこやつでござりましたな。……この死様は、御糾明につまって観念したものとみえますが、自ら毒蜘蛛に刺されて死んだは、白状したも同然でござります」
主水介は苦々しげにうなずいたが、お竜はけろりと長兵衛に顔をむけて、
「蓑屋さん、さっきあなたにきいたことなんだけど――」
「なにか?」
と、蓑屋はふしんな|面《おも》|持《もち》だ。きかれることより、お玉と相牢だったというこの娘に、どう応対していいかわからないといった表情である。
「あなたのおうちの茶室に紅蜘蛛が二匹いたのではないかということ」
「そんなことはない」
と、長兵衛はきっぱりといった。
「でも、このひとは、いま死ぬまえに、蜘蛛はたしかに二匹いた、蓮蔵を殺した蜘蛛は、わしの飼っていた蜘蛛ではないと――」
「ばかな! あれは苦しまぎれの世迷い言じゃ。左様なことをいってにげようとしたが、とうてい逃げられぬと知ってこの自害ではないか。――またかりに茶室に蜘蛛が二匹いたところで、それがなんじゃ、こいつめが蜘蛛を売っていたとあれば――」
「じゃあ、あの蜘蛛を売っていた浪人は、やっぱりこの車?」
「そうでしょう。お玉のいっていたことを、わしは実は半信半疑できいておったが、いまになってみれば、蓮蔵はハッキリ打ちあけなんだが、どうやらこの佐助をいちばん疑っていたようなふしもある。わしのところの茶室でどうしようというつもりだったのかよくわからぬが、もし女房のお玉をあやしいと思っているのなら、そんな手間ひまかけることはない。相手が手ごわい佐助なればこそ、人を白状させる茶をのませるとか何とか、一工夫も二工夫もめぐらそうとしたのに相違ない」
「してみると――佐助は、一座の人気者美紀之介にヤキモチをやいてこれを殺そうと思い、蜘蛛売りの浪人に化けて毒蜘蛛をお玉さんに売り、首尾よくお玉さんに美紀之介を殺させたが、蓮蔵の探索がはじまったので、危険を感じて蓮蔵も殺し、その罪をお玉さんにぬりつけたのね。そして、わたしがしらべにやってくると、そのことを白状しそうな小金さんを殺したが、とうとうにげきれないで自害しちまったというのね?」
「そうかんがえるよりほかはあるまい」
「でもね。……もし佐助がはじめから毒蜘蛛をもっているなら、なぜそんなめんどうなことをしたのかしら? その蜘蛛でそっと美紀之介を殺したらいいでしょうに」
「いや、美紀之介が突然怪死をとげたら、お上のお取調べによっては、じぶんも疑いをうけるひとりになるからの。そんな面倒をさけるためには、別にお玉というちゃんとした下手人をつくっておいた方がよい――こう考えたのではないかな」
といって、長兵衛は急にむっとしたように、
「いやいや、こいつめの心などわしは知らぬわい。なんじゃ、こいつがあやしいと目をつけたのはお前さまではないか」
「あっ、そうだった!」
と、お竜はあたまに手をやった。それがあんまり愛くるしい身ぶりだったので、主水介はむろん、蓑屋長兵衛も失笑した。
が、すぐにまた車佐助の|屍《し》|骸《がい》に恐ろしげに眼をやると、
「それでは、わたくしはこのままひきとらせていただきまするが」
と、主水介に腰をかがめて、
「お玉のことはどうぞどうぞ御慈悲をおねがい申しあげまする。やれ、うれしや、あれが下手人でなかったとは、やはりわしの眼は狂ってはおらなんだ!」
と、眼をしばたたきながら、自身番を出ていった。
主水介はちらっとお竜をみた。お竜は何やら思案にくれている。主水介は何か言おうとして、うつむいて、ひとりごとをいった。
「ああ、これはこまったことになった。お玉が下手人でないとすると……御公儀の御威光にかかわるが」
奉行秘蔵の鬼同心も、なぜかひどく精彩がない。
「しかも、まことの下手人を眼の前で死なせたとは!」
「|木《こ》ッ|葉《ぱ》役人のクヨクヨしそうなことだ」
と、お竜がつぶやいた。
主水介はきっとして顔をあげた。お竜はくびをふって、
「けれど、まだこの死人がほんとの下手人かどうかわからない。……」
「えっ?」
「佐助は、小金の口をふさぐために小金を殺した。しかし、佐助も口をふさがれるために殺されたのでは?」
「なにっ」
「と、佐助の|死《しに》|様《ざま》がへんだから、あたしはそう考え出したわ。……それにしても、あの毒蜘蛛をよく恐ろしげもなく蓑屋がつかんだもの――」
そのとき、自身番にひとりの小僧がかけこんできた。
「あの……うちの旦那さまがここにいませんか。蜘蛛をとってきましたが」
と、息せききっていう手に、小さな紙包みをもっている。
「蜘蛛? 蓑屋は今しがたここを出ていったが、なんじゃ、きさま」
と、主水介はとびあがった。小僧は思いがけぬ同心の姿に顔色をかえて、
「あ! て、手前は蓑屋の小僧でござります。さっき旦那さまと、このちかくを通りかかって、知り合いの軽業小屋の女太夫が殺されたことをきき、旦那さまといっしょに小屋にかけつけましたが……」
「蜘蛛をとってきたとはなんだ!」
「旦那さまが手前に、どこからか一刻も早く蜘蛛を一匹つかまえてきてくれと申されましたので一生懸命さがしまわって、小屋の隅からやっと一匹つかまえてきたら、旦那さまはもうここの自身番においでになったということで――」
「その蜘蛛をおみせ」
と、お竜がいって、紙包みをひったくった。のぞきこんで、
「紅蜘蛛じゃない。ふつうの蜘蛛だわねえ。おまえ、蓑屋さんが、この蜘蛛をどうするつもりかきいたかえ?」
小僧はただならぬ相手の様子にだんだんあとずさりしながら、くびを横にふった。
「いいえ」
お竜はにっと笑った。
「あわてたものだから、どうやらとんだところで|尻《し》っ|尾《ぽ》を出したようだ。――けれど、まだわからない、ふつうの蜘蛛でどうして人を殺せたか。それから、このたくさんの人殺しのめあては何かしら?」
彼女はまた考えこんで、それから|突拍子《とっぴょうし》もないことをふときいた。
「小僧さん。おまえ、蓑屋さんのなくなったというお嬢さん知ってるかい?」
「知ってます。……」
「どんなひとだった?」
「そりアきれいなお方で、色が白くって、面長で、ナヨナヨとして――」
小僧の美人形容は単純をきわめたが、お竜の眼はひかった。彼女は急に彼女らしくない厳粛な眼で小僧を見つめていった。
「わかった。おまえ、この蜘蛛を自身番にもってきたと、御主人にいっちゃあいけないよ。そうでないと、おまえの命はない。……」
浅草山の宿町。――
この町は、いまは花川戸にふくまれているが、春の太陽がおちて、|藍《あい》|色《いろ》に染まってきたその大川端をもどってきた一|挺《ちょう》の|駕《か》|籠《ご》が、薬種問屋蓑屋の裏口から入ろうとして、ふととまった。
乗っていた人が、駕籠の垂れのすきまから、じっと何かを見ているようだ。駕籠かきもその方を見た。
暮れてきた川を背に、路傍に|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》の浪人がひとり坐っていた。
もし小伝馬町のおんな牢にいるお玉がそれをひとめ見たら、全身水をあびたような思いがしたに相違ない。浪人の足のあいだに、ふたつの|虫《むし》|籠《かご》がおいてあるのだ。しかもその虫籠の中は真っ赤だった。真っ赤なものが、ウジャウジャとうごめいているのだった。
まわりには、だれもいない。が、遠くから見ている駕籠に気がついたのか、浪人が深編笠を伏せたまま、
「|紅《べに》|蜘《ぐ》|蛛《も》はいらぬかな。……」
とつぶやいた陰気な声が、かすかにながれてきた。
駕籠はうごき出して、蓑屋の中に入っていった。
それからしばらくたって、蓑屋から出てきたひとりの手代風の男が、その蜘蛛を売る浪人のそばへよって何かささやいていたが、すぐに彼をつれて蓑屋の裏口から入った。あとは、とっぷり暮れた夜ばかりである。――
いや、その|闇《やみ》のなかに、もうひとつの影が|湧《わ》き出した。着流しに宗十郎|頭《ず》|巾《きん》をかぶったその影は、しばらく蓑屋の塀を見あげていたが、その上からのびた一本の枝をみると、ぱっと一条の|縄《なわ》がとんでそれにまきつき、彼はそれをつたって塀にのぼった。この行動以上にあやしいことは、星明りに立ったその男が口にくわえているのは、たしかに朱房の十手だったことだ。
蜘蛛を売る浪人が案内されたのは、例の庭の隅の茶室であった。
ふしぎなことに、そこに通されても、彼は深編笠を伏せたままだった。手代が去っても、彼はまえにふたつの虫籠を置いて、厳然と坐っている。
勝手口の戸が音もなくひらいて、蓑屋長兵衛が入ってきた。暗い眼でじっとその怪浪人をみていたが、やがて、しゃがれた声でいった。
「その紅蜘蛛を買いたい」
「何匹所望」
と、浪人はこたえた。その声をきいて、長兵衛の眼がかっとむき出された。ふるえ声で、
「虫籠ともに――百両でどうじゃ」
「…………」
「二百両」
「…………」
「三百両」
「何になさる?」
と、浪人はしずかにきいた。長兵衛はだまっている。深編笠の中で、ひくいふくみ笑いがきこえた。
「これは、ふつうの蜘蛛を、ただ朱にひたしただけのものでござるぞ」
「なに!」
「おどろくことはなかろう。おぬしが薬研堀で売った蜘蛛もそうだったではないか」
「わしが蜘蛛を売った? ばかな! あれは車佐助じゃ」
「車佐助は、小金から紅蜘蛛の話をきいて、美紀之介が殺されたさわぎのさい、あの紅蜘蛛をひろっただけじゃ。なんたるたわけか、その紅蜘蛛を毒蜘蛛と思い、下手人をお玉と思いこんだばっかりに、あいつの心に魔がさした。佐助はもと木戸番の蓮蔵に、いつのまにやら一座の頭株をとられたことを面白くなく思っておったにちがいないが、紅蜘蛛さえひろわなんだら、蓮蔵を殺しはせなんだであろう。たとえ蓮蔵を殺しても罪はお玉にぬりつけることができるとかんがえたればこそ、この茶屋へくる蓮蔵のたもとに紅蜘蛛をなげこんだのじゃ。あまつさえ、それをつきとめられかけると、あわてて女房の小金さえも殺してしまった。あきれかえった|卑怯《ひきょう》者じゃが、またあわれむべき愚か者でもある。紅蜘蛛は毒でもなんでもないのに――紅蜘蛛は、人の眼をくらますための|虚《きょ》の影であったのに――」
「あれは、毒蜘蛛じゃ! その毒蜘蛛をつかってお玉は美紀之介を殺し、佐助は蓮蔵を殺し、そして佐助は自害したのじゃ!」
「まだ左様なことを申しておる。その毒蜘蛛を、自身番で、ようおぬし、素手でつかんだな」
「あれは、夢中、とっさに――」
「はははは、あの蜘蛛は、軽業小屋からひろってきたものであろう。そして、ふところでみずからの胸を傷つけて血を出し、その血を蜘蛛にぬりつけたもの、その細工をした手をごまかすために、とっさに蜘蛛をたたきつぶした血とみせた!」
蓑屋長兵衛は、|物《もの》|凄《すご》い顔色になっていた。うめくがごとく、
「それでは、車佐助はなぜ死んだ?」
「それはおぬしにききたいこと」
「わしがどうして、車佐助を――」
「佐助が蜘蛛を売っていた浪人ではないということがばれそうなためだ。それから蓮蔵がこの茶室で殺されたとき、佐助のつかった紅蜘蛛のほかにもう一匹おぬしの放した紅蜘蛛がいたことがばれそうなためだ。――おぬしは佐助がつかまったことをきかなければよかったのだ。なまじ、きいたばかりに、何となく不安になり、様子を見に自身番にきたくなり、万一の用心に蜘蛛をつかまえてきて佐助の口をふさごうとしたことが、かえって疑惑をまねくいとぐち[#「いとぐち」に傍点]となった! そういえば、佐助の死んだときも、美紀之介の死んだときも、蓮蔵の死んだときも、蓑屋長兵衛がそばにいたではないか――と」
「…………」
「要らざることであった。車佐助とおぬしとは、あくまで無縁のままですませばよかったものを――美紀之介殺し、蓮蔵殺しがあまりにうまくいったので、ひょいとまたおなじ手をつかいたくなったのが、破滅のもとであったのじゃ」
「…………」
「蜘蛛で人を殺せるなら、必ずしもおぬしがそばにいる必要はない。おぬし、彼らをどうして殺した?」
「教えてやろう」
蓑屋長兵衛は大きくうなずいた。これがあの|好《こう》|々《こう》|爺《や》かと眼をうたがうような陰惨な悪相に変っている。
「よく、そこまで見ぬいた。まったく車佐助だけは、要らぬ飛び入りじゃった。――わしがきゃつらをどうして殺したか、教えてやるが、わしが仮面をとる以上、おまえもその笠をぬいだがよかろう」
浪人ははじめて深編笠をぬいだ。男ではない、髪こそあだっぽい|櫛《くし》|巻《まき》にしているが、珠のように愛くるしい女の顔があらわれた。
「ふむ、やはり自身番にいた女じゃな、名はなんという」
「姫君お竜」
「姫君お竜?――稼業はなんだ」
「女泥棒さ」
「女泥棒が、なぜこんな大それた探索にのり出した? ゆすりか、おどしか。金が欲しいなら言ってみるがいい」
「金? ほほほほ、欲しいけれど、そうはゆかないわねえ。|相《あい》|牢《ろう》だったお玉さんの命助けたさに乗り出した仕事なんだからね。ほんとの下手人、つまりおまえさんを御奉行所へつき出さなきゃ、お玉さんは助からない」
お竜は、伝法ながら、女言葉にもどって笑った。長兵衛の顔色はいちど暗灰色に沈んだが、すぐにぶきみな笑顔になった。
「そうか。何にしても女だてらに|胆《きも》のふとい奴だ。しかし、おれを下手人と知ってこの家に入ってきた以上、ぶじで出られようとは思ってはいまいな」
「そうともかぎらないよ、あたしはこうみえて――」
と、お竜は笑いながら、笠をすてて腰の大刀の|柄《つか》に手をかけた。
「うごくな!」
と、長兵衛はさけんで手をふりあげた。
こぶしにキラッとひかったものがある。針だ。ふといたたみ針だ。
「おい、ただの針だと思うなよ。ここは薬問屋じゃ。皮膚をかすめただけで馬一頭死ぬ毒がぬってあるのだ。おい、刀から手をはなせ」
と、一歩寄って、お竜のすてた笠を足でうしろへはねのけた。
飛びさがろうとして、お竜の背が壁にぶつかった。そこはせまい四畳半の茶室であった。たとえ刀をぬいたとしても、かえって邪魔になったであろう。なおわるいことに、うしろの出口は、かがまなければ出られないにじり[#「にじり」に傍点]口一つであった。さすがのお竜の頬から血の気がひいた。
もえるような眼でにらんで、
「その針で、美紀之介を刺したのか」
「その通りだ。あいつは蜘蛛にびっくりして|蝋《ろう》|燭《そく》からおちて気絶しただけだ。あれの蜘蛛をこわがることは普通ではなかったからの。わしが刺したのはそのあとだ」
「その針で、蓮蔵を刺したのか」
「その通りだ。蓮蔵に、人を白状させるお茶があるといわせたのはこのわしじゃ。この茶室で、蜘蛛だ、紅蜘蛛だとわめかせて、死んだフリをさせたのもこのわしじゃ。死んだ芝居をして、入ってきた一座の連中がどういううごきに出るか、それで美紀之介殺しの下手人がわかるとふきこんでやったのだ。蓮蔵の小利口さが、まんまとそれにひッかかった。死んだ|真《ま》|似《ね》をしてひっくりかえっていたところを、わしがとどめを刺してやったのよ。蜘蛛の|呪《のろ》いとみせかけて、わしが一匹はなしたあとに、もう一匹の紅蜘蛛があらわれてあわてたが、佐助めが蓮蔵のたもとに入れた奴が|這《は》い出したものとは知らなんだ」
「なぜ、美紀之介を殺したの?」
老人はぞっとするような笑いをうかべて、お竜を見つめた。黒紋付に大小をさした娘の姿は、なんとも名状しがたい奇怪な美しさだ。
「わしは、女好きでの」
「美紀之介にはずいぶん入れあげたが、あれはわしを裏切りおった」
「うそ」
「なに?」
「美紀之介を知るまえから、おまえは蓮蔵一座にちかづいていた。お玉さんがじぶんの娘に似ているなんて大うそをついて。――おまえの娘は面長の病身な美人だったが、お玉さんはまる顔のピチピチした女じゃないか。いくら芝居の金主をするのが道楽だって、軽業の金主までするのはおかしいと思ったが、そんなうそまでついて一座とつながりをつけたのは、何か目算あってのことだね」
「…………」
「美紀之介が原因で蓮蔵を殺したのじゃあなく、おそらく蓮蔵を殺すことがはじめからの目的だろう。美紀之介を殺したのは、その毒針のききめをたしかめたかったこと、それに、蓮蔵を殺した下手人がお玉だと、世間はもとよりお玉さん自身に思わせる下ごしらえだったろう」
「…………」
「きのうおまえが自身番で、人間ひとり変死をとげたら、まわりのものがみな疑われるから、それをのがれるためには、だれかひとり下手人をつくっておいた方がいいといったのは、思わず語るにおちたものさ。可哀そうにお玉さんは、じぶんが悪魔の|罠《わな》のいけにえにたてられたのも知らないで、おまえを一生の恩人だと思いこんでありがた涙にくれてるよ。罪もない女を死罪の|獄《ひとや》に追いこんでおいて、そしらぬ顔で届け物など送るところは、極悪人でなければできない仕業さね」
「お竜……おまえは、わしがこわくはないのか」
「こわいよ。こわいから、しゃべってるんだ。……ところで、江戸でも知られた薬問屋のおまえが、どこの馬の骨ともしれぬ軽業小屋の座元の若僧を、そんな手数をかけてまで殺したがったわけはなんだろう。さあ、そこがわからない」
「お竜、もう|骨《こつ》|箱《ばこ》を鳴らすな」
「これには、きっと、深い|仔《し》|細《さい》があるね? それを知りたいわ」
「それをおまえは知ることは出来ん。……この世ではな」
老人はまた一歩寄った。
片手でお竜の肩をつかみ、片手に恐るべき針をふりあげた。
「お竜、死ね」
ふりおろそうとしたその手くびに、その|刹《せつ》|那《な》、背後からとんできた一すじの|捕《とり》|縄《なわ》が、くるくるっとまきついた。
いつのまにか、勝手口にすっくと、宗十郎頭巾の男が立っていた。捕縄をつかんでいるのは、八丁堀の名同心、巨摩主水介であった。
お竜が、がっくり肩をおとしてつぶやいた。
「どうやら、女ひとり命を救ったようだ。……あたしじゃないよ。おんな牢のお玉さんだよ!」
色指南奉公
ひとりの女囚に腰をもませていた隅の隠居のお|熊《くま》が、何に腹をたてたのか、急にその女囚をはりとばした。
「こいつ! なめやがったな!」
若い女囚は、|頬《ほお》をおさえて、ふるえながら、
「とんでもない、わたしが、何を……」
「いいや、なめやがった。さっきから、おれの|仙《せん》|気《き》筋ばかりつねりゃがって……てめえ、侍の女房だったから、|柔《やわら》を知ってるにちげえねえ。それで、そしらぬ顔をして、おれに日ごろの仕返しをたくらんでやがるんだ」
「まあ、思いがけないことを――あっ、御隠居さま、どうぞおゆるしを……」
お熊はがばとはね起きた。とても仙気持ちにはみえない勢いだ。恐怖に唇をわななかせている女を見おろし、
「もうかんべんならねえ。みせしめにすこし仕置をしてやる。やい、おめえたち、こいつをつかまえて、手足をおさえてろ」
と、隅っこの女囚たちにかみつくようにいった。女囚たちは息をのんだが、言い出したらあとにひく|婆《ばば》あではない。もういちどどなりつけられて、六、七人の女がおずおずと、その女をおさえつけた。
女は抵抗もしなかった。つめたい床に大の字に釘づけになって、ただ胸の|隆起《りゅうき》を大きくあえがせ、涙をこめかみにながしている。
「それ、いいというまで、くすぐってやれ!」
お熊の命令に、女たちはうごめき出した。おさえつけた女囚のあごの下、わきの下、わきばら、へそ、足のうらなど、死物狂いにくすぐり出したのだ。
「ううっ」
と、この奇妙な拷問に、女はうめきはじめた。歯をくいしばっても、叫び声が出る。うごくまいと思っても腕をもがき、胴がくねり、二本の足がたかくはねあがろうとする。
「イッヒー、イッヒー、イッヒーッ」
もはや、獣の声であった。眼をつりあげ、犬のように舌をはき、まっしろな乳房も腹部もまる出しにして七転八倒する女を、お熊はむろん、牢名主のお紺も、お甲、お伝たち牢中役人の老婆たちは、|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》をむき出して笑いながら見ていた。
この女囚は、もと|御《ご》|家《け》|人《にん》の女房だったという。お|目《め》|見《みえ》以下の貧乏侍で、ここに入牢するまえ離縁になったということだが、それでももとは武家の|御《ご》|新《しん》|造《ぞ》さまにちがいないのである。色のぬけるほど白い、きよらかで気品のある女だった。――そこが、この世のどん底を虫みたいに這いまわって老いてきたこの婆さんたちの|嗜虐心《しぎゃくしん》をそそるらしいのだ。いまお熊がなんとかいったが、むろんそれは強引な言いがかりだ。この拷問は、とりすました武家の女房一般に対する兇悪な|復讐《ふくしゅう》欲の発現にすぎない。
「これこれ、何をいたしておる」
|牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の外で、声がかかった。お紺は平然として、
「牢法にそむきましたから、仕置をしております」
とこたえて、ふりむいた。
こう答えると、いかに牢内で無惨な私刑が行われていても、いつも牢屋同心は知らぬ顔をしているのがならいだ。
しかし、ふりかえったお紺は、ふいに眼を大きくむき出して、
「あ、お竜!」
とさけんだ。みんな、はっとして牢の外を見た。
|白《しら》|鷺《さぎ》のようなお竜の|白衣《びゃくえ》がみえた。そばに、お竜を呼び出した例の八丁堀の同心が、にがい顔で立って、のぞきこんでいる。
女囚たちは、お竜を見あげ、見おろした。幽霊かと思ったのだ。彼女がお奉行さまじきじきのお取調べに呼び出されてから、三夜を経た。おそらく|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》で拷問をうけていたにちがいないのだが、それっきりかえってこないところをみると、きっと責め殺されたにちがいないと、みんなで話していたのである。
それが、生きている。拷問場からかえってくる囚人は、たいてい血まみれになって、半死半生のからだを|釣《つり》|台《だい》にのせられてくるのだが、彼女は両足でちゃんと立っている。
お竜はしずかに戸前口をくぐって、牢の中に入ってきた。
「お竜さん……」
お玉が金切声をあげてしがみつき、ゲクゲク泣き出した。
「お玉さん。……」
肩を抱いて、お竜は奇妙ないたずらっぽい笑顔で、お玉の顔をのぞきこんだ。お玉は気づかず、
「あんた、死んじまったのかと思っていたよ! よく、よく生きていておくれだったねえ!」
「あたしが、死ぬ? どうして?」
「だって、お奉行さまの痛め吟味で――」
「何をいってるのさ、そんなに簡単に殺されてたまるもんか。お奉行さまは、とにかく名奉行といわれてる大岡さまじゃないか」
と、お竜はいったが、|狐《きつね》につままれているような周囲を見まわして、
「それにあたしを殺しちまったら、将軍さまを|狙《ねら》った一味の残党があとつかまらなくなるからねえ。そりゃあ御丁寧なお調べで、またあしたお呼び出しがあるわ。このぶんじゃあ、あたし、まだだいぶ生きていられそうよ」
と、笑った。それから、床のうえに顔を伏せているさっきの御家人の女房を見おろして、
「それより、あのひとにいま何をしていたの?」
「牢法にしたがって、仕置をしていたのよ」
と、お熊はそっぽをむいていった。
「どうせちかいうちに|磔《はりつけ》か獄門になる女さ。ここで責め殺される方が当人の望みかもしれないよ」
「磔か、獄門? なぜ?」
「御家人の御新造のくせに、|中間《ちゅうげん》と乳くりあってよ、|旦《だん》|那《な》にばれそうになったら、その中間をばらしちまったというたいへんな女さ」
「では、これが、あのお|路《みち》さん?」
名をよばれて、お路はふしぎそうに顔をあげた。お竜はちょっと|狼《ろう》|狽《ばい》して、お熊の方へむきなおって、
「ねえ、御隠居さん、あたしみたいな大罪人を、お奉行さまでさえなかなかお仕置になさらないのに、勝手に牢内でなかまをひどい目にあわせると、それこそいつかきっとお仕置をうけるよ」
「何をいやがる。牢法による仕置は、牢屋敷のならいだ」
「いいえ、天のお仕置が。――みんな可哀そうな女同士とは思わないかえ」
お熊は、つかみかかるような手つきをしたが、お竜にこっぴどくやっつけられたのはほんのこのあいだのことだから、歯をかみ鳴らしてうめいた。
「きいたふうのことをぬかしゃがる。……いまにみていやがれ。お奉行さまの御吟味から、いつも満足なからだでもどってこれるとはかぎらねえぞ。……」
――ところが、そういった当人が、その夜のたうちまわりはじめたのだ。持病の|胃《い》|痙《けい》|攣《れん》を起したのである。まさに天の仕置というべきだが、みんなおどろかなかった。いままで何度もあったことだからだ。
「あいたたたたた」
お熊は、牢中をころがりまわった。
「おれ、死ぬよう、いたい、いたいっ」
はじめ気のない看病をしていたお紺が、ついに|癇癪《かんしゃく》をおこしてののしった。
「やかましいね。この婆あ、寝られやしないじゃないか。おまえも月の輪のお熊といわれた女じゃないか。くたばるなら、みっともない|音《ね》をあげないでくたばりな」
「どうしてお医者を呼ばないの?」
と、お竜の声がきこえた。彼女はそれまで、お路という女囚と、しめやかに何やら話していたのである。
|天《かみ》|牛《きり》のお紺は笑った。
「ここは牢だよ。――」
それが、どういう意味か、すぐにわかった。そのとき、お熊の騒々しいうめき声をききつけて何事かと思ったのであろう、|提灯《ちょうちん》をかかげて牢番人が|外《そと》|鞘《ざや》にきたが、ちょっとのぞきこんで、舌打ちをしてすぐに去ろうとしたのである。
牢内で、病人、しかも重患が出ると、|溜《ため》という|病檻《びょうかん》に移す。江戸には溜が二か所あった。一つは浅草千束にあり、他の一つは品川にあって、それぞれ|非人頭車善七《ひにんがしらくるまぜんしち》、|松《まつ》|右衛《え》|門《もん》があずかっている。しかし、そこで死ななければまたこの牢内へもどすのだが、その手数がわずらわしいので、牢役人たちは知らない顔をしていることが多かった。ここで死ねば、|屍《し》|骸《がい》は家族へもわたさず、アンカにのせて千住に犬猫のごとく捨てにゆくだけだから簡単なものだ。
「お待ち」
呼ばれて、牢番は立ちどまった。お竜はきっとしてさけんだ。
「お医者を呼んどいで。そうするのが、おまえさんのお役目だろ? お医者を呼ばないと、明日にでもお奉行さまのお調べがあるときいいつけてやるから」
まもなく牢付の医者がきた。お熊のうなり声はやんだ。
お熊が手をあわせておがんだ|闇《やみ》のむこうで、お竜の事もなげな声がきこえた。
「それで、お路さん。あなたは――」
「わたしは……」
闇の中にも、御家人の妻が、恥ずかしさに息もつまらせている様子がわかった。お竜はやさしく、
「それから、どうして?」
飯田町に住む五十石の御家人|祖《そ》|父《ふ》|江《え》|主《しゅ》|膳《ぜん》は、妙な|中間《ちゅうげん》をひろってきた。
最初見たときから、ノッペリしたその顔と、からみつくような眼つきに、妻のお路は本能的に不安な予感をおぼえたが、|或《あ》る日、|十《と》|平《へい》|次《じ》というその中間の背なかに「色指南」という|刺《いれ》|青《ずみ》があるのを発見して、夫にいった。
「旦那さま、あの十平次と申す中間は、よほどお気に入りでございましょうか」
「なぜ?」
「なんだか、わたし、恐ろしい。……」
主膳は、じっとお路の顔を見つめて、|蒼《あお》|白《じろ》く笑った。
「ばかな、たかが渡り中間ではないか。それに、あれはいろいろなおもしろい穴を知っておる」
「穴?」
「ばくち場じゃ」
「まあ!」
主膳は、そんなところから十平次をつれてきたらしかった。
「それに、給金もろくにやれぬ安御家人のうちに、そう居ついてくれる中間のおらぬことはおまえも知っているではないか。十平次がきてくれる気になったのも、主従ばくちでウマがあえばこそじゃ。はははは」
|大《たい》|身《しん》の旗本などでは、十何人もの若党や中間をつかっているが、五十石の御家人では、せいぜい一人の中間しかやとえない。しかし、ふだんの庭の掃除、畑仕事、使いなどはむろん、これでも|直《じき》|参《さん》である以上、事あるときはどうしても供の一人くらいはいなければ|恰《かっ》|好《こう》のつかぬことがあるし、第一、客がきたとき玄関の取次をするものが女ではいけないという習いなのである。|知行《ちぎょう》取りの屋敷ならその知行所の百姓などにきてもらうのだが、|蔵《くら》|米《まい》取りの祖父江家では、口入屋から渡り奉公の中間をやとい入れるよりほかはなかった。
しかし何しろ貧乏で、年三両の給金でさえはらいかねるので、いままで何人もの中間ににげ出されて困っていたのである。
「それは存じておりますけれど……背に、何やら妙な刺青などをして……」
「あはははは、あれは、色指南――色ごと指南という意味だろう。人をくった奴じゃ。おまえも、少し指南をうけるがいい」
「何を仰せられます」
「怒ったか。ふふん、いや心配するな。あんなことを自慢たらしく彫る奴だけあって、いい色おんながおる。ときどきばくち場で|逢《あ》ったが、あいつにはもったいないくらい、ふるいつきたいほどの女だ。まず、おまえの百倍は色ッぽいな」
あごをなでながら、ぬけぬけとそんなことをいう夫を、お路はかなしそうに見つめた。こんなはずではなかった。こんな人ではなかった。三年まえ、ここに縁づいてきたころは、もっと立派な夫だった。腕もたち、頭もよく、|覇《は》|気《き》もあった男だったのだ。それがこの半歳ばかりまえから、急速にこんなになってしまった。酒びたりになり、|喧《けん》|嘩《か》をし、他家の中間部屋に出入りしてばくち[#「ばくち」に傍点]に日をくらし。――
それを、お路はとめることができなかった。みまわすと、夫の同輩は、まえからみんなそうなのだ。五十石、御家人、さびれきった飯田町の御家人町――未来|永《えい》|劫《ごう》その境涯から|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》ぬけ出すことのできないこの世のしくみであった。腕がたち、頭がよく、覇気があればあるほど焦燥し、絶望し、自暴自棄になる。……
夫に笑いとばされて、お路はそれ以上押して何もいえなかったが、案の定、それから屋敷に、眼をつぶりたいほどふしだらな空気が吹きこみはじめた。
十平次が、れいの色おんなを中間部屋にひき入れて、へいきで|痴《ち》|話《わ》|狂《ぐる》いを見せはじめたのだ。主膳にきくと彼女は「死顔の|蝋《ろう》|兵《べ》|衛《え》」というきみわるい名の人形師の娘だということであったが、どうして十平次とそんな仲になったのか、おそらくばくち[#「ばくち」に傍点]場にいっしょにあらわれるというくらいだから、もともとあばずれなのだろうが、まがりなりにも侍の家に入りこんで、あられもない声をあげられるので、お路は耳を覆いたいようだった。
主膳に告げるのもはばかられるほど恥ずかしかったが、門のすぐそばにある中間部屋では、近所のきこえもあるので、お路は或る日主膳にそのことを訴えた。
「きいたか、お路」
と、主膳は怒りもしないで、ニタニタ笑った。
「しかし、わしがあちこち他家の中間部屋の|賭《と》|場《ば》に出あるくのじゃから、あまり大きなことは申せぬな。――それより、あれほど大っぴらな声を出して、|羨《うらや》ましいとは思わなんだか」
トロンとした眼でお路の顔をみていたが、急に抱きよせてその口を吸おうとした。
「これ、たっぷり|唾《つば》のたまるように、ぐっと舌を出しての……」
「何をなされます」
お路は思わず夫の顔をつきのけて、とびのいた。|驚愕《きょうがく》にあえぎながら、はりさけるような眼で夫を見た。夫が十平次みたいな|下《げ》|郎《ろう》に変ったのではないかという恐怖と、それからひどく申しわけのないことをしたのではないかというおびえの色が、その眼にあった。
しかし、夫は蒼白い崩れた笑顔で追って、
「何をすると申して、おまえ、わしの女房ではないか。さ、こぬか」
「だって……」
ずるずると、またひき寄せられ、夫のひざに抱きあげられた。主膳はお路の耳たぶを口でくすぐりながら、
「侍の夫婦じゃとて、遠慮することはないわ。わしに十平次をあまり羨ましがらせてくれるな。それ、わしがここへ手をかけると、腰がかるくあがるだろう。うむ、ふとったようでも、かるいからだじゃ。……」
「あれ、わるい冗談を……それでは、どうも……」
夫の腕のなかで、お路は息をはずませ胴をくねらせながら、眼まいするような|昂《こう》|奮《ふん》と、なぜかひどくじぶんが堕落したような吐き気を感じた。それにしても、夫は、いつ、だれから、こんなしぐさをおぼえたのだろう?
何か、屋敷全体が甘美な|魔《ま》|窟《くつ》になったような数日がすぎた。
そして、突然、お路はとりのこされた。主膳が急に彼女によそよそしくなったのである。お路はキョトンとした。からだはまだ熱をもっているようなのに、内部がからっぽになったような気がした。
夫はいったいどうしたというのだ?
その理由をお路が知ったのはそれからまもなくであった。
その夕方、主膳は外出して、留守だった。どうしても十平次にたのまなくてはならない使いの用があって、お路は門のすぐ内側にある中間部屋へいった。するとなかで、なまめかしい女のあえぎ声がきこえたのである。
「ね、こうやって、背なかからしっくりと抱いておくれ。男はまた気が変っていいそうだけれど、女はどうも勝手がちがってじれったいわ。手のおきどころがないのにこまらあね。おまえさまのおかみさまは、よくあんなに鼻息もせずおとなしくだんまりでおいでなさる。ほほほ、いつか、そっちへいって、庭できいていたんだよ。まっぴるまから、雨戸をたててさ、にくらしい」
お路は、ぎょっとして立ちすくんだ。声はまさにあの十平次の情婦お|紋《もん》だが、おまえさまのおかみさまとは?
「わたしは言いたいことを言ってさわぐほどさわがないと、どうも身にならないようだ。よう、舌のありったけ口へ入れてよ……ああ! さげすむならお|蔑《さげす》み、あたし、もうせつなくって、せつなくって! え、あいつがくるって、イヤイヤ、もうだれがきたって、雷さまがおちてもはなさないから、覚悟して!」
そして、連続的な|濡《ぬれ》|紙《がみ》をたたくような音がした。
お路の眼前に、障子のはまった格子の窓があった。そこに小さな破れがある。しかし彼女はそこに眼をあてることはできなかった。武家の妻としてのたしなみのせいばかりではない。――見なくてもそのうす汚れた障子に、あのムチムチした白い肌と、厚ぼったく濡れた|真《しん》|紅《く》の唇をもつお紋の|淫《みだ》らな肢態をアリアリとえがくことができた。が、お路の両足を|釘《くぎ》づけにしたのは、それより実に恐ろしいことであった。
相手はだれだ?
男の声はきこえない。しかし、妻としての本能が。――
彼女の足が、立っていられないほどガクガクとふるえ出した。そんなことがあってよかろうか。あのひとは|外《そと》|出《で》からまだかえらないはずだ。……肩で息をつき、眼がくらんで、彼女はよろよろとたおれかかった。
そのとき障子の向うでは、ながく尾をひく女のさけび声がきこえた。
お路は耳を覆うと、よろめきながらにげ出した。一|刹《せつ》|那《な》、方角の感覚すら失って、思わず玄関を横に、空地の林のなかへかけこんだのである。
安御家人でも屋敷は三百坪ほどあったが、むろん正確には林というほどのものでもない。五、六本ヒョロヒョロと雑木林が生えているだけだが、ふとその中に立っている人影をみて、彼女は棒立ちになり、眼をかっと見ひらいた。
地にはもう|闇《やみ》が沈んでいた。が――|梢《こずえ》にかかる淡い夕月に、妙な光沢をおびた顔でこちらをじっと見つめているのは、なんと夫の主膳ではなかったか!
「旦那さま!」
お路はとびついていって、その胸に顔をうずめた。
「わたしは……わたしは……」
いま、途方もない考えちがいをしていたという訴えは声にならなかった。歓喜の激情が全身をおののかせ、背にまわされた夫の指の感触が火のように彼女の官能を|灼《や》いた。
「うれしい! 旦那さま!」
泣きじゃくるような声をあげながら、このつつましい妻は、めずらしくじぶんの方からまるいあごをあげて、唇を夫の口へよせていったのである。
その瞬間――彼女のからだを、|戦《せん》|慄《りつ》の冷たい|串《くし》がつらぬいた。夫の顔が死人のようなかたい冷たい光沢にひかって、ピクともうごかないのを見たのである。――が、その笑った眼にはおぼえがあった。
「おまえは!」
絶叫して、とびさがろうとした。が、彼女の背にくいこんだ指は、彼女のからだを|籐《とう》のようにたわませただけで、解けようともしなかった。
江戸の袈裟御前
「十平次!」
お路はさけんで、身をもみねじった。死物狂いにもがいて、相手をつきのけ、二、三歩にげたが、すぐにまたうしろから|羽《は》がいじめになった。
「わかりやしたかえ? 御新造さま」
やはり、|中間《ちゅうげん》の十平次の声であった。しかし、その手は無遠慮にお路の乳房のまろみをさぐっていた。
「何をするのじゃ、放しゃ、十平次!」
顔をねじむけて、彼女はまたぞっとした。
まちがいなく、ノッペリした十平次の顔である。しかし、ほんのいま、夫主膳の顔に見えたのはどうしたことだ? |面《めん》? 異様な光沢があったが、あんな、夫そっくりの――|眉《まゆ》、|小《こ》|皺《じわ》、皮膚のいろまでまざまざと似た面があり得るだろうか。
「へへへへ、あっしがもちかけたわけじゃあない。御新造さまの方から、いきなり抱きついてこられたのではござりませんか」
「おまえ……その身なりはなんじゃ」
やっとお路はそのことにも気がついた。十平次はいつもの紺の|半《はっ》|被《ぴ》に|柿《かき》|色《いろ》の三尺、|尻《しり》をはしょって、からっ|脛《ずね》に|草《ぞう》|履《り》をはいた中間姿ではなく、夫とおなじような――いやたしかに見覚えのある夫の黒紋付を|着《き》|流《なが》しに着ているではないか。錯覚したのは、たしかにそのせいもあったのだ。
「おまえ、そのような姿をして、あたしをだまそうとしたな」
「この姿? へへへ、これァきょう旦那さまから拝領したものなんで……ちょいとここでこれを着てオツな気分になってたところに、御新造さまが、うれしい、旦那さま! としがみついておいでになったじゃあゲエせんか。これァいよいよオツリキでゲスね」
「いやらしい、放さぬか、十平次、旦那さまに申しあげるぞえ!」
「御新造さま、あっしが、この御紋服を|頂戴《ちょうだい》したわけを御存じでごぜえますかえ?」
「…………」
「いま、中間部屋をのぞきなすったろう。お紋といい目をみていなさるのは旦那さまでゲシて――」
「もう御承知のことと思いやすが、お紋ってのアあっしの色おんななんです。てめえの色おんなを献上して、この|羊《よう》|羹《かん》|色《いろ》の御紋服を拝領するなんざ、十平次も見かけによらねえ忠義者でげしょう」
あえぐお路の顔すれすれに顔をよせて、十平次は笑ったが、お路は相手の顔さえ|靄《もや》の中みたいにぼやけて、脳貧血を起したようになっていた。
「忠義ついでに、御新造さまにも忠義をつくさせていただきてえもので――御新造さま、あっしといちど色をして御覧なせえまし。失礼だが、へへっ、旦那さまとはでえぶちがう――とァ、お紋のせりふで、たとえば、さあ」
というと、十平次はいきなりお路の小さな口を吸った。ふしぎなことに、お路はじっとしていた。いや、その実、衝撃のために半失神状態に陥っていたのだ。歯のあいだから、男の舌がおしこまれてきた。無意識のうちに、お路のからだをとろけるような感覚がつらぬいた。が、つづいて十平次の手が、一方でお路をあおむけにたおしかかり、一方で|両肢《りょうあし》のあいだをさぐりかけたとたん――彼女は、はっとわれにかえった。
「あっ」
と、お路はさけんだが、はやくも十平次はそのうえにのしかかっていた。
「さわがねえでおくんなせえまし、それ、これが十平次の色指南。……」
夕月ほのぐらい草の上に、|髷《まげ》のくずれたお路の髪が、からすへびのようにのたくった。ふいごのような男のあつい息から顔をそむけたお路の前に、髪からおちた|銀簪《ぎんかんざし》がキラリとひかってみえた。
夢中だった。彼女はそれをつかむと、いきなり男の顔をめがけてつきあげた。
「うわっ」
十平次は、のけぞって、はねあがった。とびのいて、顔を覆った|両掌《りょうて》のあいだから、月光に墨汁みたいなものがあふれおちた。
「や、やりゃがったな、やい、旦那もみんな承知のうえのことだぞ、それを、てめえ……」
うめきながら、ふたたびとびかかろうとする十平次の片眼からながれる血潮の|物《もの》|凄《すご》さをみると、お路は、恐怖のために夢中ではね起きて、にげ出した。
二、三度、立木にぶつかり、およぐようににげてゆくお路は、髪はみだれ、一方の肩はむき出しになり、まるで犯されたあとのようなむざんな姿であった。
玄関から座敷にかけこむと、彼女は|箪《たん》|笥《す》から懐剣をとり出した。追ってきたらただ一刺しと身がまえたのである。「――旦那さま!」その声が出かかったのは、そのあとだった。すぐにその主膳は、中間部屋でお紋といっしょだということに気がついた。いや、そのことがあたまにいっぱいだから、じぶんはここににげこんできたのだ。いったい、どうしてこんなことになったのか?
|跫《あし》|音《おと》はきこえなかった。夜の屋敷は、しーんとしていた。お路は世界じゅうに、じぶんひとりになったような気がした。そのとたん、すーっと全身から糸がひきぬかれたような感じがして、彼女はがっくりとまえにつっ伏してしまった。気力がつきはて、失神したのである。
お路は、悪夢のつむじ風に吹きまわされていた。
のしかかってくる十平次のノッペリとした顔だ。ふいごみたいな息づかいだ。それから、男と女のあえぎ声だ。「ああ! さげすむなら、お蔑み、あたし、もうせつなくって、せつなくって!」その声がいやらしい男の声に変る。「さわがねえでおくんなせえまし、それ、これが十平次の色指南。……」
お路は、無意識に舌をうごかせた。じぶんの口の中におしこまれてきた十平次の舌のぬるりとした感じがよみがえったのである。恐ろしいのは、それより、そのとき彼女のからだをはしった吐き気のするような|恍《こう》|惚《こつ》感だった。わたしはそんなに淫らな女だったのか、わたしは十平次に犯されたもおなじことではないか。彼女は夢の中でさけんだ。「おゆるし下さいまし、旦那さま。……」
十平次の幻影が、ふいに夫主膳の顔に変った。ああ、あのとき、一瞬ではあったが、暗い月のひかりに、十平次が夫の顔にみえたのはどういうわけだったろう? そして、十平次はたしかにいった。
「やい、旦那もみんな承知のうえのことだぞ。……」
夫の顔が、また十平次に変った。十平次がじぶんを抱き、夫がお紋を抱いて、もだえている。黒いつむじ風のなかに、四人の男と女が、白いはだか姿でからみあって、グルグルとまわっている。お紋を抱いているのは、十平次か、夫か。わたしを抱いているのは、夫か、十平次か。……
「助けて下さい、助けて下さいまし――」
旦那さま、という声は口の中できえたのに、お路は名を呼びかけられた。
「お路、お路」
彼女は眼をひらいた。そして|行《あん》|灯《どん》のそばに、腕をくんで気づかわしそうにのぞきこんでいる人の姿を見出した。それが夫の顔だったのに、彼女は恐怖の眼を見ひらいたまま、しばらく声も出なかった。
「どうしたのじゃ? いったい――」
お路は、じぶんが夜具の中にねかされているのに気がついた。
「どうした?――わたしは、どうしたのでございましょう?」
「それはこちらでききたいことじゃ。わしがかえってみると、そなたがここにたおれておる。びっくりして、寝かせてやったが、心配なので、ここにこうして坐っていたのだ」
お路は、はじめてじぶんがあの着のみ着のままの姿であることと、夜具の外に懐剣がおちていることに気づいた。しかし、ぎょっとしたのは、何よりもいまの夫の言葉だった。
「かえってきた? 旦那さま、いつ――」
「さあ、もう夜半近かったであろうか。|藤《ふじ》|井《い》どののところで|馳《ち》|走《そう》になっての、ほろ酔いきげんでかえってみると、この始末じゃ。お路、病気か、それとも何か変ったことでも起ったのか、中間部屋に十平次もおらぬが――」
お路はがばと起きなおった。みだれた姿もわすれて、
「旦那さま! 旦那さまは、ほんとに藤井さまのところへゆかれて、夜中にかえっておいでなされたのでございますか?」
「何をいっておる。そう申して家を出たではないか。うそだと思うなら、藤井どのにきいてみろ」
「けれど、けれど、夕方、旦那さまは中間部屋で――」
「わしが中間部屋で?」
「あのお紋という女と――」
「お紋と、わしが何をしていたというのか」
お路は、絶句した。主膳の眼がひかってきた。
「お路、そなたは何やら、ききずてならぬことを申す。わしが中間部屋でお紋といっしょに寝ていたとでもいうのか。そなたはそれを見たと申すのか!」
「いいえ、それは見ませぬが……」
お路は、急速に動揺してきた。じぶんは見なかった。しかし、何となくあれは夫だという感じがした。それから十平次も、「いま中間部屋で、お紋といい目をみていなさるのは旦那さまで――」といった。が、いまにして思えば、お紋のあの言葉づかいはどうしたものだろう? いかに安御家人でも、侍に町人の娘がおまえ呼ばわりするものだろうか? そういえば、あの十平次のいったことなど、とうていあてになるものではない。――けれど、それではあのとき、中間部屋にいた男はだれだろう?
「これ」
恐怖の眼を宙にすえているお路の肩を主膳はつかんだ。
「そなたは気でもどうかしたのではないか。何があったのじゃ、申せ!」
その顔は、この日ごろのどこか|無《ぶ》|頼《らい》の|匂《にお》いをおびた夫の顔ではなかった。ずっとまえの、まじめで真剣な夫の――厳然たる眼が、ひたとじぶんを見すえていた。ああ、あたしはやっぱり途方もない考えちがいをしていた! そう思うと、うれしさとくやしさが、全身をつきあげてきた。
「旦那さまがわるいのでございます!」
一声そうさけんで、彼女は夫のひざに身をなげかけた。童女のような|嗚《お》|咽《えつ》に背を波うたせながら、
「旦那さまが、あの十平次などをつれておいでになったり、紋服をおやりになったりなさったので、こんなまちがいが起ったのでございます!」
「紋服? あれはばくち[#「ばくち」に傍点]のかた[#「かた」に傍点]じゃ。しかし――まちがいとは?」
お路はぐいとひきあげられた。
「まちがいとは何じゃ。お路、そなたは十平次とどんなまちがいを起したというのじゃ?」
はじめて、お路は|愕《がく》|然《ぜん》とした。じぶんはもとより、夫もまた潔白であったという感動のために、当然受けなければならないそんな疑惑が念頭をはなれていたのである。しかし、貞節で、|或《あ》る意味では、|稚《おさな》い武家の妻としては、それは当然な心理であった。
主膳は、|凄《すさ》まじい眼で妻をにらみすえた。
「そうか、そうであったか。……そなたがここにたおれていたのを、はじめ医者を呼ぼうか呼ぶまいかと迷って、ついにやめたのは、実はそのことを案じていたればこそだ。……ううむ、|彼奴《きゃつ》、侍の女房を――」
「あなた、ちがいます!」
お路は悲鳴のような声でさけんだ。
「わたしは潔白でございます。十平次めは、あたしをとらえて理不尽なふるまいに及ぼうといたしました。けれど、わたしは身をまもりぬいたのでございます。それだけは信じて下さいまし!」
「その姿でか?」
主膳は口をゆがめて、血ばしった眼でお路のからだを見まわした。お路の一方の乳房はまる出しであった。
「彼奴、どこへ|逐《ちく》|電《てん》いたそうと、きっと見つけ出して、ぶッた|斬《ぎ》ってくれる!」
「斬って下さいませ! あの男を――けれど、|成《せい》|敗《ばい》あそばすまえに、あの男にきいて下さりませ! わたしの身の上に何のこともなかったことを――」
お路は、夫にしがみついて絶叫した。主膳はうめくように、
「十平次めは、にげた。そなた、何として身の|証《あか》しをたてる?」
「身の証し――ああ! それがたてられるなら、どんなことなりと――」
身もだえしながら、ふいにお路は、十平次に口を吸われたことを思い出した。悪寒が背すじを|這《は》った。思わず口ばしった。
「にくい、あんなことをして、にくいあいつ!」
この場合、そのさけびが、夫にどんな反響を起すかを、彼女は悟ることができなかった。ふいに、けがらわしいものをふりはらうように、夜具のうえにつきたおされたのである。
主膳は立ちあがって、妻の姿を見おろした。お路は、じぶんの胸も足もあらわになっていることを知っていたが、|哀《かな》しみと苦悩のために、ただあえぐばかりで、身づくろいする気力もなかった。
ふいに主膳の眼に、どんよりとした雲がかかった。片頬がピクピクとひきつり、唇がゆるんで、みるみるあの自堕落な、虚無的な顔に変ってきたのである。
「ふう――身の証しをたてられるなら、どんなことをしてもよいと申したな」
と、つぶやくと、お路のそばにかがみこんだ。
「これ、お路、あいつに口を吸われたであろう、この口を――」
といって、美しいお路の口の中へ指をつっこんだ。
「ふむ、この舌をしゃぶられたであろうがな」
お路は、ただ涙をながしているだけだった。主膳は依然としてどんよりと濁った眼でそれを見たが、
「そして、乳房もいじられたなあ。きゃつのことじゃ、そのくらいのことはしたであろうのう」
と、乳房をもみねじった。お路は悲鳴をくいしばって、ほそい胴をくねらせた。
「彼奴は、どんな手つきで腹をなでた? 教えてくれい、お路、十平次めから受けた色指南を教えてくれい。……」
妻のからだをもてあそび、いじくりまわしつつ、主膳は恍惚たる声だ。いつしか彼は夜具の上に坐ったまま、お路を抱きしめて、いつかのようにその口を吸っていた。
くやしい! 疑いもはらさないでこんなことを! というせつない絶叫が、しだいにお路の心の底で鈍磨してゆく。青い眉をしかめ、白い指を夫の背にくいこませ、彼女はくやしさと愛欲のいりまじったすすり泣きをあげた。
夫婦とはいえ、ふたりがこれほど狂熱的な|愛《あい》|撫《ぶ》をかわしたことはなかったろう。異常な設定と異常な心理からもえあがった情欲が、ふたりを獣のような|昂《こう》|奮《ふん》の|坩堝《るつぼ》に|熔《と》かしたのだ。|仄《ほの》かな行灯のひかりをあびて、ほとんど全裸にちかいお路は、白い蛇のようにのたうちまわった。じぶんの声が、中間部屋できいたお紋そっくりのあの恥ずかしい声であることを知りながら、お路はそれを天からふってくる音楽のようにきいた。
ほんとうにつつましやかなこの武家の妻を、こう変えたのは夫の力だけであったか。そうではなかった。結局あの十平次のせいだ。すくなくとも、あの事件のせいだったといえる。泥のようにつかれはて、しびれた官能の底で、お路は「十平次の色指南……」とつぶやいた。唇は笑い、彼女は|嵐《あらし》のすぎ去ったあとのようなけだるい幸福感に|睡《ねむ》った。
しかし、嵐は去りはしなかった。
それから、どれほどの時刻がたったであろうか。唇をまたやさしく吸われて、彼女はまどろみの中でかすかに舌さきをうごかせてそれにこたえたが、急にふっと眼をあけた。舌が異様に冷たいものにふれたような感じがしたからだ。
彼女はひしと夫にしがみついていた。ねむりにおちいったときのそのままの姿態であった。が、それは夫ではなかった!
十平次だ。十平次が|枕《まくら》をならべて、じっと眼を――傷つけられたはずの眼には一点の血のあともなく、冷たく笑うように眼を細めた顔を彼女にむけていた。
世の中でいちばん恐ろしい怪談は、お化けに|逢《あ》って狂気のごとくにげ出した人が、だれかに逢ってそのお化けの話をしたら、相手が「それはこんな顔をしていたか」といって顔をつるりとなでると、それがさっきのお化けだったという怪談だそうだが、そのときお路の受けた恐怖と衝撃は、まさにその怪談以上だったといってよい。
何をさけんだのかわからない。裸体のまま、彼女は夜具の外へとび出した。
十平次はけろりとした無表情のままそれを見つめて、なお大胆に寝たままであったが、お路がたたみの上の懐剣をつかむのをみると、さすがに|狼《ろう》|狽《ばい》して立ちあがり、背をみせた。
ふすまを|蹴《け》たおして次の座敷ににげこむのを、夢中で追う。|闇《あん》|黒《こく》のなかで凄まじい|跫《あし》|音《おと》がもつれあったあと、雨戸にぶつかる音をきくやいなや、彼女はなかば狂ったようなからだをたたきつけた。懐剣がねもとまでつきとおった|手《て》|応《ごた》えと同時に、雨戸と、十平次と、お路は三重にかさなって、庭にころがりおちた。
そのまま、お路の気が遠くなってしまったのもむりはないが、しかし、こんどはその時間はみじかかった。全裸の肌をなでる夜気の冷たさに、彼女は意識をとりもどしたのである。
十平次は、身を横にねじったまま、死んでいた。夫とおなじように、これまた裸だが、まちがいなく十平次のノッペリした顔が、|苦《く》|悶《もん》に眼と歯をむき出して、月光にさらされていた。
お路は裸身の冷えるにまかせて、それこそ氷の彫像みたいにそこに坐ったままであった。意識をとりもどしたといっても、なお理性の|麻《ま》|痺《ひ》がとけなかったのを、だれがむりだと思おう。彼女は気がちがう一歩手前だといってよかった。
血まみれの懐剣が、彼女と十平次の|屍《し》|体《たい》のあいだに|凄《せい》|惨《さん》なひかりをはねている。――そのむかし、京の|袈《け》|裟《さ》|御《ご》|前《ぜん》はおのれに邪恋をしかけた男に、じぶんを夫と錯覚させて殺害されたが、この貞節な江戸の袈裟は、おのれに邪恋をしかけた男を夫と錯覚して、身を汚されたあげく殺害してしまったのである。
何かが狂っている。――何が? それは彼女自身であるというよりほかに解釈のしようがない。
なぜ十平次を夫と錯覚したのか。あの秘戯に狂った人間が十平次だったとは信じられない! 信じられないが、もしあれがほんとうの夫であったなら、それがいつのまに十平次に変っていたのか。そして、見よ、十平次の片眼からは――きのうじぶんが|簪《かんざし》でつき刺した傷からは、凄まじい血しおがながれおちて、黒々とこびりついているではないか。――
お路は、いまは恐怖すらもおぼえなかった。昨夜のことも、きのうのことも、いやいや、ずっとまえ十平次が中間としてこの屋敷にあらわれたことすらも、すべてこの世に存在しない恐ろしい夢だったような気がした。そして、眼前に横たわっている一個の|屍《し》|骸《がい》さえも。
「おうい、十平次、十平次はおらぬか。――」
遠くからの呼び声に、彼女はわずかにあたまをあげた。
「御主人さまの御帰館だぞ。女房どの、お路」
主膳だ。酔っぱらった夫の声であった。|跫《あし》|音《おと》が、|蹌《そう》|踉《ろう》と門からこちらに入ってくる。
お路はもはやおどろきもしなかった。そんな強烈な機能はもう彼女の心から失われていた。彼女は黒髪をみだした全裸のまま、全裸の男の屍骸のそばに、ボンヤリとうずくまりつづけていた。
――女囚お路の話は終った。
これが、夫の不在中、|女蕩《おんなたら》しの折助の誘惑にまけて密通し、夫の帰宅にあわてて|姦《かん》|夫《ぷ》を殺してしまったという罪で、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される御家人の妻の物語であった。
もう夜明けにちかい。やがてまた例の「朝声」がかかることだろう。微光のさしてきたおんな牢のなかに、くびもおれるほどうなだれたお路のひざに、滴々と涙がおちている。
みずからの罪をみとめ、死を覚悟したその哀れな女の姿を、姫君お竜はじっとながめていた。
「そう」
と、お竜はつぶやいて、ちょっと絶望的な|溜《ため》|息《いき》をついたが、すぐに顔をふりあげて、
「もうすこしききたいことがあるわ、お路さん」
「なにを?」
「それじゃああなたは、二度旦那さまと思ったひとが、実は|中間《ちゅうげん》だったという変な目にあったわけね?」
「はい、わたしはどうしてそんなことになったのかわからないのです。……」
「そして、一度めに中間の眼を簪で刺したのに、二度めに見た中間の眼はぶじだった。……」
「でも、三度めに見た死顔は、やっぱり眼から血をながしていたのです。わたしの眼がどうにかなっていたのです。いいえ、あたまも……」
「それで、旦那さまはやはり何も御存じないの?」
「はい。……もし人殺しなどしなければ、何とか内輪で事をおさめてつかわしたものを、と泣いてくやんでくれました。去り状をいただいたのも、わたしから申し出たことです」
「そのお紋という女のひとは?」
「どうなったのか、存じません」
「お紋さんのお父さん、何ていったっけ? 何だか変な名だったわね?」
「死顔の蝋兵衛。……」
お竜はまただまって考えこんでいる風だった。――朝がきて、例の餓鬼地獄のようなモッソウ飯のうばい合いのさわぎにも入らず、ひとり羽目板にもたれて坐りつづけていたが、やがて、指を口にいれて、ヒューッとひくく口笛を鳴らしたのである。
すると――格子の外に、あの八丁堀の同心の影が立った。
「武州無宿お竜、早々|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ|罷《まか》り出ませい!」
死顔の蝋兵衛
「あの、人形師の蝋兵衛さんのお宅はこちらでしょうか」
上野の寛永寺にちかい御切手町の、とある長屋の一軒を、こういってたずねてきたひとりの町娘がある。
そこにたどりつくまえに、ちかくの家で彼女は三度ばかり、その蝋兵衛の住居や人柄についてきいてきた。
最初にきいた大工は、その長屋の場所をおしえたのち、
「へえ、死顔の蝋兵衛さんのところへゆく? おまえさんみたいな若い娘があの仕事場に入ると、眼をまわすぜ。そりゃあ、うすッきみのわるい人形がならんでるから」
と、くびをすくめていった。
次にきいた|桶《おけ》|屋《や》は、あたまをかしげて、
「爺さん、いるかな? もともと恐ろしい飲んだくれだが、娘がお旗本のお|妾《めかけ》か何かになって、その方から銭が入るとみえて、去年の秋ごろからもうしらふ[#「しらふ」に傍点]でいるのを見たことがねえぜ。人形が註文なら、よしたがいい。だいいち、今は作ってはいねえようだ」
と、吐き出すようにいった。
三番めにきいた|煎《せん》|餠《べい》|屋《や》のおかみさんは、
「さあ、爺さんはいるかいないか。そうそう、さっき娘のお紋ちゃんがジャラジャラした身なりで|駕《か》|籠《ご》からそこで下りたから、ひさしぶりにかえってきたのだろう。用があるなら、その娘さんに逢ってみな」
と、七輪を|団扇《うちわ》であおぐ背を見せたままいった。
そして、その女は、蝋兵衛の家のまえに立ったのである。「人形師の蝋兵衛さんのお宅はここか」ときかれて、奥からくびを出したのは、当人ではなくて二十四、五の女だった。まるで|掃《はき》|溜《だめ》におりた|孔雀《くじゃく》みたいに|濃《のう》|艶《えん》な女だが、どこか|頽《たい》|廃《はい》の色がある。
「何か用?」
「あの、人形を作っていただきたいのです」
「おあいにくさま、いまは仕事はよしているのさ」
客を客とも思わない、けんもほろろの応対だったが、その註文にきた町娘のあまりの美しさに、ふいと好奇心をうごかしたのだろう。
「人形って、どんな人形?」
「あたしの人形なんです」
「え?」
「あたしそッくりに似た人形。蝋兵衛さんはその名人だときいてきたんですけど」
「そんなものを作って、何にするのさ」
「あたしね、ちかいうちにお嫁にゆくんです。それをかなしがって、死にそうなひとがひとりいるものだから、代りにあたしそっくりの人形をかたみ[#「かたみ」に傍点]に残していってあげようと思って――」
蝋兵衛の娘がニヤリとしたとき、奥で舌のもつれた老人の声がきこえた。
「お紋、酒はどうした。もうないぞ」
徳利をふってわめいている気配だ。
「あいよ、いますぐ――お父っさん、客がきてるんだよ」
「客? 仕事はしねえぞ、追っぱらえ」
「わかってるよ、ね、おまえさん、おききのとおりだ。お奉行さまの御註文ならともかく、もう人形は作らないってのが、お父っさんの口ぐせなの。わるいけど、あきらめてかえっておくれ」
「お奉行さまの御註文ならともかく?――なぜお奉行さまなら?」
「なに、この冬酔っぱらって|鑿《のみ》で人をひとり片輪にして町奉行所のお|白《しら》|州《す》にひっぱり出されたとき、大岡さまが大目に見て下すったからさ。だからそんなことをいうんだけれど、まさかお奉行さまが人形を註文なさるわけもないから、つまりもう仕事はしないってことさね」
「そう。……わかりました。残念だけれど、それじゃあかえります」
と、娘はがっかりした様子でかえっていった。
その翌日である。この長屋に驚天動地の|椿《ちん》|事《じ》が|出来《しゅったい》した。
路地の外に豪華な|鋲打黒漆《びょううちくろうるし》の駕籠がとまったのである。それに|紺《こん》|看《かん》|板《ばん》|梵《ぼん》|天《てん》|帯《おび》の|中間《ちゅうげん》が三、四人ついているばかりか、黒い紋付の|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》に、刀とならべて朱房の十手をさした八丁堀の同心が従って、小|銀《いち》|杏《よう》にゆったあたまをさげると、乗物の中から、ひとりの姫君があらわれた。
あっとばかり眼をむいて、猫まで長屋の中へにげこんだ路地のあいだを、その姫君は、同心をさきに、中間をしたがえて、しずしずと奥へあゆんでいく。
そして、秀麗な同心は、人形師蝋兵衛の|陋《ろう》|屋《おく》の戸をたたいた。
「たのむ」
出てきたお紋は、はっと顔色をかえて、両手をつくのも忘れ、ワナワナとふるえ出した。
「いや、恐れるでない。われらが参ったのは、蝋兵衛に人形を作ってくれるよう、依頼に参ったのだ」
腰がぬけたようにお紋がひざをついたとき、奥で呼ぶ声がした。
「お紋、客か、どんな客でも追っぱらえ」
「お父っさんは、あの始末で――」
と、おろおろとお紋がわびにかかるのを、
「御依頼に相成るのは、大岡越前守さま御息女|霞《かすみ》さまであらせられる。そのため、姫君おんみずから、当家へおはこび遊ばしたから左様心得ろ」
「なにっ、大岡越前守さま?」
すッとんきょうな声とともに、奥からひとりの老人がかけ出してきて、そこにベタリと腰をついてしまった。もう髪はまっしろで、かまきりみたいに|痩《や》せた老人だ。
同心のうしろから、しずかに姫君がすすみ出た。
「越前守娘、霞です」
お紋の表情といったらなかった。偽眼のように眼をひらき、口をあけて姫君の顔を見たっきり、卒倒せんばかりの様子だ。
霞はすました顔で、
「両人、左様に恐れ入っては、かえって痛み入る。霞はただの客としてきたのです」
といって、愛くるしく笑った。蝋兵衛は肩で息をしながら、
「して、御用の趣きは?」
「わたしそッくりの人形を作ってもらいたいのです。蝋兵衛はその名人ときいて参ったのじゃ」
「姫さまそッくりの人形?」
「されば、わたしは近いうち縁づかねばならぬ。それゆえ、かたみにわたしそッくりの人形を父上さまにさしあげてゆきたいのです」
蝋兵衛は、顔をあげて、じっと姫君を見つめた。しぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくに、徐々に青い|燐《りん》のようなひかりがともってきた。
「あい、ようがす!」
と、彼は大きくうなずいた。
「あなたさまの人形――たとえ大岡さまの姫さまでなくったって、あなたさまなら作って進ぜます。いや、作らせて下さりませ! おお、ひさしぶりに、これほど美しい娘御をみて、どうやら仕事をしたいという心が、むらむらとわいてきた!」
そして、お紋をふりかえった。
「やい、お紋、酒を片づけろ、そして、汚ねえが、姫さまを仕事場にお通ししろ。お顔の型をとらなきゃならねえ!」
その声には、いままでの酔ったしどろなもつれはあとかたもないばかりか、生き生きとした壮者のひびきすらあった。
中間たちを外に待たせ、姫君は同心をつれて、人形師蝋兵衛の仕事場に入った。
仕事場――といっても、二部屋しかない家の六畳を板敷にして、本人が汚ないといったとおり、破れたあぶら障子からこぼれる西日に、浮かびあがった|床《ゆか》は、|惨《さん》|澹《たん》たるものであった。
かたくなった粘土のかたまり、何やらの形が半分ばかり出来た木彫、絵具皿、筆、|鑿《のみ》、小刀、|砥《と》|石《いし》、紙きれ、布のきれはしから髪の毛までちらばって、それにいたるところ|蝋《ろう》|涙《るい》がおち、ながいあいだ仕事を休んでいた証拠はいかにも歴然として、おそろしい|埃《ほこり》がたまっている。
しかし、姫君と同心は、壁ぎわをみて息をのんだ。そこに等身大の人形が三つ四つならんでいた。町娘と坊主と老人だが、その皮膚の色、|皺《しわ》から|眉《まゆ》|毛《げ》まで、もしそれが埃をかぶっていなかったら、まったく生きている人間としか思えなかった。人形ばかりではない、壁に七つばかりの|面《めん》がかかっていた。その面もまたまるで人間の顔をはぎとってきたようにみえる。しかし、そのなかに一つ、お紋の顔があったが、そのお紋がそこに|茫《ぼう》|然《ぜん》と立っているのをみればわかるように、みんな細工物なのである。
それは、かえって生きている人間よりも恐ろしい|観《み》|物《もの》であった。いや、おそらくもっとぶきみな|死《し》|人《びと》は数々見てきたであろう同心が、さすがに顔色を|蒼《あお》くしたくらいだから、死人よりも気味がわるかったといえる。
「おう、神わざじゃ。……」
と、霞は口の中で、恐怖と感嘆の声をもらした。
「蝋兵衛工夫の蝋細工でござります。……」
と、老人は誇りにみちた表情で、うす笑いをうかべた。
蝋細工――現代でも、医科大学や博物館や飾窓の標本や模型で、それがあまりにも真に迫っているためにわれわれをはっとさせるあの蝋細工の、蝋兵衛は江戸のかくれたる創始者であり、研究者であり、達人だったのである。元来彼の本名は|呂《ろ》|兵《べ》|衛《え》というのだが、しばしば死人のデスマスクをとったので、人々はいつしか死顔の蝋兵衛と呼んだ。もっとも彼は、現代の蝋細工で使う|石《せっ》|膏《こう》のかわりに寒天を使用して型をとった。しかし、大量生産は出来ないかわり、それははるかに精妙な作品を生んだ。
顔の型をとられたあと、霞はもういちど壁ぎわの人形を見つめていった。
「蝋兵衛、そなたはそれほどの腕をもちながら、なぜ仕事をしないの?」
蝋兵衛は、じろりとうしろのお紋を見てこたえた。
「左様でござります。蝋面を悪用する奴がござりまして」
「なに、蝋面の悪用? どんな?」
この姫君のあどけない魅力は、ふっと人の口を素直にとく魔力のようなものをもっている。うっかりこたえて、老人ははっとしたらしい。
「いや、ここまでくるには、いろいろと……それに、ごらんのように年もとりましてな、だんだんと|根《こん》がなくなってきたせいもござります」
「そう。でも、もったいないわね」
と、姫君はあっさりといった。
「毎日、使いのものをよこして、仕事の様子を見にこさせるから」といって、姫君の一行が立ち去ったのは、もう|黄《たそ》|昏《がれ》のころだった。
家のまえの地べたにひざをついて見送った蝋兵衛|父《おや》|娘《こ》のうち、お紋の顔色は鉛のように変っていたが、路地の外の乗物があがって、消えると、フラフラと立ちあがった。
じっと立ってかんがえていたが、老人が家の中へ入ったとき、やっと、
「はてな」
と、つぶやいた。
「あれは、どうみても、きのうの町娘。……でも、お奉行さまのお姫さまがあんな身なりをしてやってくるわけもなし、といって、まさかいまのがお姫さまのにせものであるはずがない。それに、いくら|大《だい》それた人間でも、八丁堀の同心まで化けさせるなんて……」
そして、|裾《すそ》をからげて、足早やに往来へかけ出した。
お奉行さまの姫君をのせた乗物をかこむ一団は、しばらく山下の方へすすんだ。下谷広小路の方へ出るのかと思っていると、途中でふいに左に折れて、細い路地に入った。そして、|幡《ばん》|随《ずい》|院《いん》だの広徳寺だのいうお寺がたくさんならんでいる寂しい土塀のあいだにとまった。
「…………?」
塀のかげにかくれて、お紋はじっとこれを見ていた。何のこともない。駕籠はすぐにあがって、もとのように同心や中間にかこまれて、向うへきえていった。しかし、そのあとに、|忽《こつ》|然《ぜん》と|宵《よい》|闇《やみ》からわき出したように立っている影がある。
影はしとしととこちらにあるいてきた。お紋はにげようとしたが、あまりの奇怪さに足がすくんで、うごけなかった。それに数歩の位置まで近づいたとき、相手が女だとわかったので、にげるのをやめた。もともとお紋は、娘のころから父親泣かせの不良少女だったのである。
|黄《たそ》|昏《がれ》のひかりに、土塀の角ではたと顔をあわせ、
「あっ、おまえは!」
と、お紋はさけび声をたてた。
相手は二、三歩身をひいて、お紋をみたが、あまりびっくりした様子もなく、にっこりして、
「まあ、蝋兵衛さんとこの……」
と、いって、おじぎをした。
「きのうはどうも」
しゃあしゃあとした顔だ。みればみるほどいまのお姫さまとおなじ顔だが、しかし全然別人のようにも思われる。あたまは文金高島田から|櫛《くし》|巻《ま》きになり、きものも町娘風に変っている。だいいち、おなじ人間で、こんなにケロリとしていられるものではない。――とお紋はひどい混迷をおぼえながら、おし殺したような声で、
「おまえさん、いまここを町奉行の娘の駕籠がいったのを見たろう?」
「へ? あれが町奉行の駕籠?」
「町奉行の娘の駕籠だよ!」
「なんだかしらないが、駕籠がきたので、あたし土塀の根ッこにかがんでかくれてたんですよ。へえ、あれがそうですか」
お紋は、穴のあくほど娘の顔をにらんで、
「かくれた? なぜさ?」
娘はからだをくねらせて、
「実はあたし、小伝馬町の|牢《ろう》から出てきたばかりなので、まだ風の音にもおっかなびっくりっていう始末なの」
「なんだって、小伝馬町の牢から?」
お紋はかんだかい声をはりあげた。事はいよいよ意表に出る。
「それじゃあ、きのううちへきて、お嫁にゆくから身代りの人形をつくってくれといったのは、ありゃあうそだね?」
「あっ、ばれちゃった! すみません、実はそうなんです」
「じゃあ、なんのためだい?」
「ひともうけの口なんですよ」
「うちのお父っさんの人形が、どうして?」
「蝋兵衛さんのことを、|相《あい》|牢《ろう》だった女のひとからきいたの。蝋兵衛さんに、人間そっくりの蝋面か蝋人形をつくってもらってね、飯田町の祖父江主膳という|御《ご》|家《け》|人《にん》のところにもっていって、この人形に色指南をしてやって下さいとたのんだら、向うじゃあきっとその人形の代金の倍はよこすからって――」
「相牢だった女――」
「あのひと、たしか、お路といったわ。……」
夕闇のためよく見えなかったが、お紋の顔色こそ見ものであった。
しかも、この恐ろしいことをさも面白そうにしゃべる女の、なんと底ぬけに愛くるしいことだろう。こいつは、どこまで知っていて、わたしにむかってこんなことをしゃべるのか。わたしという女が、祖父江の|妾《めかけ》であることを知らないのか?
「でも、蝋兵衛さんのおことわりをくっちゃって、がッかりしたわ。ね、あなた、蝋兵衛さんのおうちの方でしょ。もういちどおねがいしてみて下さらない?」
お紋は歯のカチカチと鳴るのを必死でおさえようとしたので、妙にひらべッたい声を出した。
「おまえさん、なんという名前なの?」
「おはずかしいけれど、姫君お竜っていいますのさ」
「姫君お竜――」
お紋のあたまを、すうっとまたさっきの町奉行の姫君の姿がかすめた。なんだかよくわからないが、全身が冷たくなる感じである。
「女泥棒ですよ」
お竜はにっとして、
「と、ここまで打ちあけた上は、ね、あたしのおねがいをきいて下さるの、下さらないの。それがだめなら、いそいでほかにかせぎの口をみつけなくちゃあ、今夜のおまんまにもさしつかえる境涯でござんすからね、見込みのない仕事に、いつまでもみれんたらしくかじりつかないのがあたしの気性で、それじゃあ、ここでおさらばと――」
「待って」
と、お紋はあわてて、お竜の|袖《そで》をひきとめた。
「あたし、その祖父江って御家人を知っている。蝋人形など、うちのお父っさんにたのんだら、いつのことだかわかりゃしない。それより、手ぶらでいいから、あたしといっしょに飯田町へいって、いまの話をすりゃあ、それだけできっとあいつ金をよこすよ」
こういうせりふが、一種の白状になっていることをお紋は感づかない。いや知っていても、焦燥のためによくかんがえてはいられない。この女をにがしてはたいへんだ、首に|縄《なわ》をつけてもひっぱってゆかなければならないという意識のために、お紋は必死だった。
「おまえさん、すぐにこれから飯田町へゆかないか?」
女風来坊は、あやしむそぶりもみせず、にこにこしていった。
「へ、あなたもいっしょにいってくれるんですか? そしてすぐお|銭《あし》になるの? ありがたいわねえ」
まだ春というのに、祖父江の屋敷は夏のように|蓬《ほう》|々《ほう》たる草につつまれて、どこかで|梟《ふくろう》が鳴いていた。
お紋は、お竜を一室にとおすと、主膳のいる座敷にかけつけた。お紋が案内もこわずに家にあがりこんでいったのをどうかんがえたか、お竜はのんきな顔で待っている。(こいつ、すこし脳のよわい女だな)と、お紋は、彼女をまんまとつれこんだ|安《あん》|堵《ど》|感《かん》から、そう思った。それにしても一大事である。
「おまえさん、たいへんだよ」
「お紋、かえってきたか」
主膳はひとり手酌で酒をのんでいた。|月《さか》|代《やき》はのび、|無精髯《ぶしょうひげ》ははえ、みるからに陰惨な、まるで蛇寺庵の|伊《い》|右衛《え》|門《もん》みたいな姿である。
「おまえさん、へんな女をひとりつれてきた」
「へんな女?」
「おまえさんのおかみさんと小伝馬町で相牢だった奴を」
「な、なんだと?」
主膳は、|盃《さかずき》をとりおとし、がばと|片《かた》|膝《ひざ》をたてた。
お紋は声をひそませて、きのうその女が実家の蝋兵衛をたずねてきたこと、きょう大岡越前守の娘がきて、おなじような依頼をしたこと、それを追っていったら、幡随院裏でまたその女が|忽《こつ》|然《ぜん》とあらわれたこと、そしておんな牢でお路から異様なそそのかしをうけてきたというのを、とりあえずだましてここにつれてきたことを物語った。
「お路が左様なことを知っているはずはない!……しかし、あいつまだ打首にもならんで、牢に生きておったのか!」
と、主膳はうめいた。のびた月代も逆立たんばかりの|形相《ぎょうそう》だ。
「それじゃあ、お竜という女は、なぜそんなことをいい出したのかしら?」
「さてそれは……ううむ、あやしい女じゃな。そいつは、みんな知っておるぞ。おまえが、おれの妾だということも知ってのことにちげえねえ」
「やっぱり、そうか。けれど、いったい何者かしら?」
「おそらく、町奉行の娘と名乗ってきた奴と同一人じゃ。駕籠のなかで髪をとき、櫛巻きにし、きものをかえて幡随院裏でおりたのだ」
「では、やっぱり越前守の娘なの?」
「うむ、大岡に年ごろの娘がひとりいるということはどこかできいたことがあるが……まさか?」
「すると、にせもの?」
「わからぬ。大岡ほどの人物が、まさか娘をつかって妙な探索にかかろうとは思われねえが、しかしにせものとすれば、町奉行の娘をかたるほどの奴、同心もにせものとすれば仲間もあるはず、容易ならんしたたかものだ。よし、すぐに|逢《あ》ってみよう」
「それがどうみても、それほどしたたかな女にはみえない――どこか、ぼうっとした娘にみえるんだけど、そこがくわせもののところなのかしら? おまえさん、しッかりして、一杯くわされないようにおし」
「|面《つら》にだまされるおれか! よしやそいつが大岡の娘であろうがあるまいが、ここに|胆《きも》ふとくのりこんできやがったのが運のつきじゃ。何をたくらんでおろうと、ぶじにはかえさねえ。お紋、庭に穴をひとつ掘っておけ。……どうせちけえうち、大名屋敷にひっ越す身だ。|仔《し》|細《さい》はねえ」
祖父江主膳はふしぎな――しかし恐ろしい言葉を歯のあいだから吐いて、はげちょろけの大刀をひッつかんで、ぬっと立ちあがった。庭に穴を掘っておけとは、もとより人間の屍骸を一つうずめる用意をしておけということだ。
生ける埋葬
荒れはてた座敷に、お竜はひとりひっそりと待っていた。
そばに、破れた|行《あん》|灯《どん》が、はだかのあぶら火を、めらめらとゆらめかしている。
祖父江主膳が入ってきた。大刀を片手に、|凄《すさ》まじい眼色だったのが、坐っている娘の顔をみて、思わず二、三度まばたきをした。
お紋からきいてはいたが、あんまり相手があどけない顔をした娘なので、拍子ぬけを禁じ得なかったのだ。
「お竜とはおまえか」
と、主膳は呼んで、坐った。
「当家のあるじ、祖父江主膳じゃ」
「ああ、お路さんの|旦《だん》|那《な》さま。……」
主膳はけむったそうな表情をしたが、
「お紋からきいたが、小伝馬町のお路が、そなたにいろいろと世話になったそうじゃな」
「べつに、それほど世話はしないけど――」
「ああいや、いまおまえは、わしをお路の旦那と呼んだようだが、あいつは入牢前、当家よりひまをつかわしたとは申せ、もとはわしの女房じゃ。礼をいう」
|陰《いん》にこもり、もってまわった礼のいいかたに、
「じゃあ、いまの御新造さまは、お紋さん?」
と、お竜はケロリといった。主膳はへどもどして上眼づかいに見やったが、この相手が、どういうつもりで言ったのか、見当もつかない。そうだ、いったいこの女は、何をお路からきいてきたのか。何を、どこまで知っているのか?
「たわけ、あれは妾じゃ」
うっかり、言った。
言って、はっとしたが、お竜は意外とした様子もなく、のみこみ顔にうなずいて、
「道理で、ここへへいきで上りこんだわけだ」
「お紋のことはよい。ところでおまえ、お路から妙な伝言をきいて参ったそうじゃな」
「ああ、死顔の蝋兵衛さんという人形師から、あたしに似せた人形をつくってもらってここへもってきたら、きっとお金はくれるからって……でも、あっさり断わられちゃったよ。娘のお紋さんに、門前ばらいさ。そしたらお紋さんがね、そんなものをつくらなくたって、そう旦那に話しさえすればお金はまちがいなくくれるっていったけど、ほんとうかしら?」
周囲を見まわして、
「そんなお金があるかしら? 御家人は貧乏だってきいてたけど、なるほど相当なもんだわねえ」
主膳は苦笑した。じぶんでお紋をたしなめたくせに、だんだんこの娘に対する警戒心をといてきていた。これが大岡越前の娘かもしれないなどいうばかげた疑いは、まったく脳中からぬぐい去られている。
「無礼なことを申すな。こうみえて、金はあるぞ。話によっては、やらんでもないが」
「あら、そう、話によってはね」
「おまえ、お路はいかなる罪人か知っておるのか」
「なんだっけ、間男を殺しちまったんだって……旦那もボンヤリしてたもんねえ、そういえば、女房に間男されるような顔だよ」
主膳はまた苦笑した。はじめて逢った娘なのに、腹のたたないのがふしぎである。
「ああ、そうだった! その間男は|中間《ちゅうげん》で、たいした色指南の達人だったってねえ。……」
「中間も中間じゃが、お路も武家の女房にあるまじきたわけものじゃ。祖父江の家名に末代までの恥辱をあたえおった!」
お竜はぷっと吹き出した。
「旦那もずいぶんコケンをおとしたわけねえ」
「されば、この|面《つら》に終世ぬぐうべからざる泥をぬられたも同然じゃ」
「泥――|蝋《ろう》じゃない?」
主膳は、ふっとお竜の顔をみた。
「なに、何と申した?」
「そうじゃない? 泥をぬられて、おきのどくさま。けれど、ぬけぬけと色指南などと|刺《いれ》|青《ずみ》した男には、とてもかないっこないわね、まして女の方は――お武家の御新造さまだもの、あたしみたいなあばずれとちがって、赤ん坊の手をねじるようなものだったにちがいないわ。かんべんしてあげておくんなさいよ。ねえ、旦那、……」
いまのはききちがいかと、主膳はほっとして、
「お竜、おまえは、そんなことをお路の口からきいてきたのか」
「え、ちょっとだけどね、でも、お路さん、その中間のことを話すとき、ウットリした眼つきだったよ。……」
「ぷっ、左様にたわけた女じゃ。何を申そうと、とりあげるに足らぬ女であることは、それでわかる。……お竜、かえれ、といいたいところじゃが、せっかくお紋がつれてきたのじゃ。今夜はここにとめてやる。そこでじゃ……」
主膳の声は、猫なで声だ。お竜の声もふくみ笑いをまじえた甘美な声だし、夜ふけのしじまを縫うささやきは、まるで|喋々喃々《ちょうちょうなんなん》たる恋の語らいともきこえる。――そうなのだ。|灯《ほ》かげにおぼろに浮かぶ娘の顔がこの世のものならぬほど美しいことを発見したとたん、主膳の心に妙な雲がむらむらとかかってきた。相手がふうてん[#「ふうてん」に傍点]だ、なんとなく、そんな気がしてきたせいもある。――
「先刻から、おまえ、わしをしきりに気の毒がっておるが、そうばかにしたものでもないぞ。ふむ、十平次の色指南か。十平次めがお路にどのようなことをしたか、それもお路はしゃべったのか。……」
ひざをすすめ、お竜の手をとらんばかりに、
「蝋兵衛の人形などどうでもよいわ。わしはほんもののおまえの方がずんと気に入ったぞ。……」
そのとき、|襖《ふすま》の外で、ちえっと舌うちの声がきこえて、だれか立ち去った気配がしたが、主膳は気がついたのか、意にも介しないのか、
「これ、娘、わしの指南が十平次より下手か上手か、見せてやろう……」
「旦那、蝋面をつけなきゃ、きぶんが出ないよ。……」
「なに、蝋面?」
「そらっとぼけちゃいやだよ、主膳さん。お路さんが、蝋兵衛さんの細工物をここへもってゆけといった意味がわかったよ。あの蝋兵衛の仕事場を見りゃ、だれだっておッたまげらあ。見ない人間にゃ思いもよらない、あたしだってまさかと思ってたが、あの蝋兵衛の蝋面は、生きている人間そっくり。……」
「わしが、蝋面をどうしたというのか?」
「はじめに十平次におまえさんの顔の蝋面をつけさせて、お路さんと密通させようとし、それにしくじったら、こんどはおまえさんが十平次の顔の蝋面をつけて、お路さんをびっくりさせたろう。十平次はお路さんが殺すまえに、おまえさんが殺してたのさ。そして|闇《やみ》の中のドタバタで、おまえさんは十平次の屍骸をお路さんに刺させて、じぶんは逃げてしまったのだろう」
主膳は白くつりあがった眼で、お竜をにらんでいた。ふうてん[#「ふうてん」に傍点]どころではない、ということがやっと思い知らされたのだ。
が、片頬をゆがめて、彼はニヤリとした。
「おい、それだけ知っていて、うぬァどうしてここへ入ってきたのだ。そんなせりふでゆすりをやって、恐れ入るおれと思ったか」
「おまえさんがどんな人間か、今夜逢うまで知るはずがないじゃあないか。もっとわからないことがたんとあったのさ」
「な、なんだ」
「どうしてそれほどまでにして、じぶんの女房を罪人にしたかったのか。――」
そのとき、襖の外で声がした。
「おまえさん、何やらずいぶん話がはずんでるようだが、穴はゆっくりでいいのかい?」
|嫉《しっ》|妬《と》にジリジリしているお紋の声だ。主膳ははっとして、
「穴か。――いそぐぞ!」
片膝たてると、|鞘《さや》|鳴《な》り|一《いっ》|閃《せん》、びゅーっと横なぐりに光流がはしった。手応えはない。お竜の姿はさっとうしろへ飛んで、すっくと立っている。
「へただなあ! これじゃあほんとに出世の見込みはない」
「くそっ」
主膳は逆上した。おどりかかる|剣《けん》|尖《せん》から、|飛《ひ》|燕《えん》のように身をひるがえすお竜の手に、きらっと|匕《あい》|首《くち》がひかるのをみると、祖父江主膳の眼はくらんで、
「この野郎!」
侍らしくもない叫びとともに、かっと|斬《き》りこんだ――のは、行灯。
しかし、そのため座敷は闇と化して縁先の月光がぱっと浮かびあがった。逃げるつもりか、それともはじめて入った屋敷で闇は勝手がわるいと考えたのか、お竜はつつと月明りのなかへ泳ぎ出る。――とたん、
「あっ」
彼女のからだが崩折れて、どうと庭へころげおちた。あばら家の縁の板が腐っていたのを踏み破ったのだ!
「ざまをみろ!」
のしかかって斬りおろす大刀の下で、青い火花がちる。受けは受けたが、匕首がとんだ。つづく第二撃の|刃《やいば》の下で、お竜の声がつっぱしった。
「主水介、来るんじゃないよ。――」
祖父江主膳は刃をとめた。凶刃を宙にとらえる力が、いまのお竜の奇怪な叫びにあったのだ。
「何と申した?」
「何としよう、斬るんじゃないよ――といったのさ」
お竜ははね起きたが、わるびれずあぐらをかいて大地に坐る。笑っている。主膳はぐるっと周囲を見まわしたが、月明のなかにうごくものの気配もない。それにもかかわらず、主膳はこの娘の不敵さに、きみがわるくなった。
刀身をお竜の胸に擬したまま、何を思ったか、
「お紋、帯かしごきでこいつを縛れ」
「お|陀《だ》|仏《ぶつ》にして、穴にほうりこむのじゃないのか」
と、縁側まではしり出て、立ちすくんでいたお紋が、ふるえながら、むごいことを言う。
「うむ、そのまえに、ちょいとこいつを調べてえことがある。お紋、穴は掘ったのか」
「掘りかけたが、よしたよ。いやだよ、このひとは――ほんもののおまえの方がずんと気にいったゾとか何とか、手なんかにぎってさ――気にさわるったらありゃしない」
「あはははは、きいておったか。怒るな怒るな、あれもこいつの素性をたしかめる手だ」
「へん、どうだか、――ほら、そんな眼をしてさ、助平!」
あぐらをくんだお竜の白いはぎに眼を吸いつかせていた主膳は、あわてて、
「ばかめ、はやく縛らねえか」
縛って、座敷にひきずりあげて、柱にくくりつけてから、
「おまえさん、何をしらべるのさ。弓の折れでももってこようか」
「待て。――これお竜、こいつがこんなことをいっている。いたい目にあいたくなかったら、素直にこたえろ」
「何を?」
「てめえ、ほんとに牢から出てきたのか」
「そうよ、それでなくって、どうしてお路さんから話がきけるものか」
「ふむ、そりゃそうだ。いってえ、おれをさぐって、どうしようってんだ。お路が、おれのところへ蝋兵衛の細工物をもってゆけば金になるというはずはねえ。お路は蝋兵衛のことァ知らねえはずだし、おれに金のねえことも知ってるはずだ。何をたくらんでやがるんだ?」
「そういわれるとね、主膳さん、金がめあてじゃないよ。実はお路さんの無実の|証《あかし》をたてるためさ。相牢だった女のよしみだよ――」
「くそくらえ、そんな酔狂な奴がこの世にいるものか。おい、神妙にぬかせ、これァおめえひとりの|智《ち》|慧《え》じゃあねえな。仲間がいるな。――」
そこまでいって、主膳はふっと、この女が奉行の姫君として蝋兵衛の家へのりこんでいったとき、その駕籠の前後をまもっていたという同心、若党たちのことを思い出して、ぞうっとした。まさか、まさか、まさか――この大あぐらをかいた女が、謹厳を|以《もっ》て鳴る大岡越前守の娘とは、想像も絶しているが、しかし、それならあの同心たちは何者だ?
「やい、てめえ、大岡越前の娘に化けたそうだな」
「大岡越前の娘? へ、あたしが?」
「しらばっくれるな、さっきてめえは、あの蝋兵衛の仕事場を見るまではまさかと思っていたが蝋面を見ておッたまげたといったろう。てめえはお紋に門前払いをくったはずだ。仕事場に入ったのは、越前の娘。――」
「あ!」
お竜は、やられた、といった顔で口をあけた。
「ふてえあま[#「あま」に傍点]だぞ、うぬは――恐れながらと訴えて来たら、どっちが大罪かわからねえ」
「主膳さん」
と、お竜はニンマリとして、
「あたしが、ほんとに越前の娘だったらどうするの?」
「な、なんだと?」
祖父江主膳はどきんとした風で、じっとお竜をにらみつけた。笑おうとしたが、頬が硬直して笑えない。大岡越前守が恐るべき人物であることは、安御家人の彼も|噂《うわさ》にきいているからだ。お紋の顔色も変っている。ふるえる腕で主膳にしがみついて、
「お、おまえさん。……」
「うそだ、そんなことは!」
「も、もし、ほんとだったら?」
主膳はうめいた。
「それなら、いっそう生かしてはかえせねえ」
しかし彼は、急に深刻な表情になってかんがえこんだ。そこに坐りこんで、腕をくみ、ときどきお竜を不安そうな上眼づかいににらみ、ときどき「うぬ」とうなり、はてはお紋が何を話しかけても返事もしないほど|懊《おう》|悩《のう》のていである。
月がかたむいて、柱にくくりつけられたお竜を照らし出した。彼女はスヤスヤとねむっていた!
「お紋、てめえ、こいつを見張ってろ。おれはちょっと出てくる」
と、主膳が立ちあがったのは、あくる朝のことであった。
「どこへ?」
「こいつが町奉行の娘かどうか、さぐってくる。何にしても、こいつの仲間がほかにいることァまちげえねえのだ。そいつらの正体をあきらかにしねえうちは、|枕《まくら》をたかくしてねられねえ。それまでの、|大《でえ》|事《じ》な人質よ。事としでえによっては、むこうからさわぎ出すまで飼っておかなきゃならねえかもしれねえ。……どっちにしても、どうせ生かしてはおけねえあま[#「あま」に傍点]だ。おれの留守中妙な奴が入ってきたら、かまわねえから刺し殺せ」
「そ、それは承知したが、お、おまえさん……へんな奴がきたら、こいつを殺して、あ、あと、あたしはどうなるんだよ?」
「なあに、おめえなんかどうなったって……ええい、そうやっておどしてやるのさ、そのうちおれがかえってきて始末をつけらあ」
朝早く出かけた祖父江主膳がかえってきたのは、もう|黄《たそ》|昏《がれ》の時刻であった。腕ぐみをしたまま入ってきたが、おぼえのある柱のそばに、お竜もお紋も姿がないことに気がついて|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「お紋! お紋!」
かんだかく呼びたてると、ふいに縁先で笑い声がした。ひくいが、どこか狂ったような声だ。が、お紋の声にまちがいはない。
「旦那、おかえんなさい」
「どうした、お紋。――」
お紋は、縁側にうずくまって、庭の方をみていた。庭のまんなかあたりに、|桶《おけ》が一つ伏せてある。お竜の姿はどこにも見えない。
「これ、お竜はどうしたのだ?」
お紋は立ちあがって、|下《げ》|駄《た》をつっかけて、その桶のところへあるいていって、桶をとりあげた。そこに、女の首がひとつあった。
「やつ?」
お竜の首だ。さるぐつわをはめられている。
「だれかくると、こわいからさ」
といいながら、お紋はそのさるぐつわをとった。すぐに首は生きていることがわかった。お竜は大地に全身をうずめられて、首だけ地上に|曝《さら》されているのだ。
「どうせ墓穴にほうりこむんだろう? ねえ、旦那。……」
いかに留守をまもる恐怖のあまりとはいえ、惨酷なことをやるものだ、とさすがの祖父江主膳もお紋のしごとに|茫《ぼう》|然《ぜん》とした。しかし、これなら、どんな捜索者が|闖入《ちんにゅう》してきて家さがししても、お竜の姿は発見できまい。
「なるほど、かんがえたものじゃな。……」
――すると、あきれたことに、美しい首も、片眼をつむって、ニッと笑ったものである。
「主膳さん、首だけで|御《ご》|挨《あい》|拶《さつ》、ごめんなさい」
「むう。……てめえ、この屋敷へ入ってきたのが身の因果だと思え」
「それで、あたしは大岡越前の娘なの? 探索の結果はどうでござんした?」
主膳は、下唇をつき出した。
「てめえ、にせものだ!」
「へへえ、やっぱり、ね?」
「しらべてみたが、南町奉行所も赤坂にある大岡の上屋敷も、静かなること林のごとし――奉行の娘が行方不明というのに、あんなにしずまりかえってるはずはねえ」
「ちくしょう」
と、にくにくしげにつぶやいたのはお紋だ。そういわれればそうにちがいないが、きのう御切手町の家でこの娘をお奉行さまの姫君としてむかえたときのじぶんの|恐懼《きょうく》ぶりを思い出すと、|地《じ》|団《だん》|駄《だ》ふまずにはいられない。
「よくもひとを――旦那。そのままスッパリやりなよ」
「まあ待て」
と、主膳はお竜を見つめたままいった。どこか顔に迷いの影がある。
いま言ったことはほんとうだ。しかし、だからといって、これが絶対に奉行の娘ではないと断定できないのだ。音にきく越前守が覚悟をきめて娘をつかったとしたら?――そう主膳には疑心暗鬼をいだく理由があった。それはお路の事件だけではない。もっと巨大な或る犯罪の影[#「もっと巨大な或る犯罪の影」に傍点]を彼が背に負っているからであった。それに、たとえこの娘が女賊であるにまちがいはないとしても、仲間がいることは依然として否定できないのだ。
主膳の顔を、怒りと恐怖と、それから血の匂いのする陰惨な波がゆらめきわたった。
「おまえさん、何をかんがえてるのさ?」
「お紋」
ふいに彼は、お紋の肩に手をまわして、その口を吸った。
「あれ」
と、お紋は主膳のだしぬけの行動にめんくらって、身をくねらせて、
「急に何さ。あいつが見てるじゃあないか」
「お紋、ここへ夜具をもってこい。……あいつに色指南をしてやろう」
「なんだって?」
「あいつは、おれがなぜあんな苦労をしてお路をおんな牢に追っぱらったかがわからねえといいやがった。みんなおめえのためだということを見せてやろうよ。この世の見納めに、男と女の極楽図をみせて、そのあげくにぶった斬ってやれば|成仏《じょうぶつ》うたがいなしじゃ。……あんなきれいな面をしゃがってよ、いまにその眼がうつつになり、口からよだれをたらして見とれるにちげえねえぜ、なあ、お紋。――」
祖父江主膳は、実に妙な趣向をかんがえ出した。急に酔ったように舌ももつれ、お紋の両肩に手をかけて、その顔に顔をすりつけるようにして言うその眼には、狂的な、凶暴な肉欲がもえている。
「ああ、おまえさん。……」
お紋も、ふいに奇怪な欲情にとらえられた。もともとふつうの女ではないところに、主膳の眼の|妖《あや》しい炎は、この官能のかたまりみたいな女を、完全に異常な愛欲の心理につつみこんでしまった。
「おい、お竜……そこは地獄だが、ここは極楽、いいかえ? この世の見納めに、とっくり見物しなよ。……」
日はまたくれて、|甍《いらか》に春のおぼろ月がかかった。
屋根のうえの暗い半面に声があった。
「旦那……|巨《こ》|摩《ま》の旦那。……」
「しっ、ここだ、銀次、あれは出来ておったか」
「出来てはおりやしたが、蝋兵衛は殺されやした。……」
「なにっ、な、何者に?」
「わかりません。あっしがいったら、蝋兵衛は仕事場で|袈《け》|裟《さ》がけに――もっとも、あっしの戸をたたく物音に、下手人はあわててにげていったらしく、とどめを刺すひまがなかったとみえて、蝋兵衛の息はございましたが……」
「ううむ、で、下手人の名は何といった?」
「それが申しませぬ、ただ、仕事場の隅に出来ている蝋面を指さしただけで、こときれました。……」
しばらく沈黙があって、やがて|憮《ぶ》|然《ぜん》たる|呟《つぶや》きがきこえた。
「きゃつ、とうとうあたまに来たな。いや、その殺し[#「殺し」に傍点]のことじゃあねえ、殺し[#「殺し」に傍点]をやってかえってきたその足で、死人の娘とトチ狂うなんざ、どうみたって正気の人間じゃあねえ。あまつさえ、それを見せつけようとする奴も奴なら。……」
吐き出すように、
「首だけになって、見るつもりになった、ひ、ひ、姫君――お竜もお竜だ。あれァいってえ、どういう気かな?」
生首変化
月は、縁側ちかく|蒼《あお》|白《じろ》い炎のようなひかりをなげている。
そこにわざわざ運んできた|閨《ねや》の|枕《ちん》|頭《とう》に酒をおいて、かわるがわるのみながら、祖父江主膳と妾のお紋は、見物つきの秘戯図をくりひろげた。
「旦那……あとで、あいつを斬るんだろうね、きっと、斬るんだろうね。……」
「斬る。斬る。……きっと、斬る。……」
うわごとのようにくりかえしながら、ふたりは戯れつづける。何とも恐るべき伴奏だ。
露出欲というのは、人間だれにもある異常心理だが、その見せる相手が美しい女で、しかもそのあとで殺してしまうとなると、むしろ|嗜虐《しぎゃく》の快感に|煽《あお》られ、こうまで恥しらずになれるものか。酒ばかりではなく、ふたりはすでに血の匂いに酔っぱらっているようだ。
「お竜、見ろ、これ、眼をあけて見ろ。……」
主膳は、地上に首だけ出して、眼をとじているお竜を見て、狂的に笑った。
そもそも、こういうことを思いついただけで、彼のあたまは狂っていたといってよい。昨夜ほとんど眠られず、きょう一日、外をかけずりまわり、あまつさえ……蝋面の秘密を封じるために、実はこのお紋の父親、蝋兵衛を手にかけてきた。その恐怖と疲労に、ともすればガックリゆきそうな頭に、一本冷たい|錐《きり》のように刺さっているのが、このお竜という女だ。
斬る。斬らねばならぬ!
それはわかっているが、彼女がいったい何者か、なんのためにこの屋敷に入って探索しようとしたのか、背後に何者がいるのか、それをつきとめるまでは、殺すに殺せない人質なのだ。
もはや|髷《まげ》もくずして、まるはだか同然の姿でのけぞりかえって身もだえているお紋に馬乗りになったまま、
「お竜、うぬの素性さえうちあければ、その地獄から掘り起こしてやる。言え!」
と、うめいたが、その実彼こそ焦熱地獄にさいなまれる亡者であった。これは破滅を意識した狂乱のあがきだ。
「どうだ、お紋のこの姿は――お竜、おれが女房をこの浮世から消したわけがわかったろう」
「わからない」
と、お竜は眼をつむったままいった。
「それほどおまえがお紋さんに|惚《ほ》れているなら、お紋さんをそんな目にあわせはしない。……」
「な、なに?」
「それに、そんな恥しらずの男なら、お路さんがきらいになったら、あんな手数をかけずにたたき出すだろう。なんのために、お路さんを人殺しの罪人にまでおとしたのか――」
「…………」
主膳は酒をあおって、のどを鳴らした。
「首だけになって、風に吹かれて考えてたせいか、だんだんわかってきたよ」
「何がだ?」
「おまえさん、はじめからそのつもりで、色指南の十平次を屋敷につれこんだね」
「なんのつもりだ?」
「おそらく、御新造さまを十平次の|牙《きば》にかけさせて、ふたりを重ねておいて四つにしようという――が、さすがの十平次も二の足をふんだ。そこでおまえの方からお紋さんに手を出して、十平次にも手の出し易いようにしてやった。――」
「たわけ」
「たわけはそっちだよ。ところが、御新造さまが、おちない。そうもあろうかと見越していたおまえは、お紋さんの父親が蝋面作りの名人であることを知って、まえからじぶんの蝋面や十平次の蝋面をつくらせていた。そして、十平次を殺し、じぶんが十平次に化けて、あとは御存じのとおりのはこびさ」
主膳の手から|盃《さかずき》がおちた。
「なぜ、そうまでしてお路さんを罪人にしたがるのかとそればかり考えていたからわからなかったのさ。おまえの望みは、十平次を殺すことだったんだ。けれど、いくら|中間《ちゅうげん》でも、人を殺してはじぶんが罪人になる。お路さんは、可哀そうなその身代りだね」
「うぬ」
主膳は、はねおきて、よろめいた。お竜は眼をあけていた。
「あたったらしい。けれど、こんどは、どうしておまえさんが十平次を殺したがったのかわからない。――」
主膳は大刀をつかんだが、ガクリと伏した。脳貧血を起したのだ。
「わたしが殺す」
そうさけぶお紋の声を遠くききつつ、彼は気を失った。
お紋はとび起きた。彼女はいまのお竜の声をきいていた。彼女は惑乱した。主膳がそういうつもりでじぶんを手なずけたものとは知らなかった。彼女は牛を馬にのりかえたつもりだったのだ。中間よりはまだ御家人の方がいい。まして主膳は、ちかいうち、ひどく出世するようなことをいう。――ふたりがいっしょになるために、お路と十平次をこの世から追いはらおう、そういう主膳のそそのかしに乗ったのだ。とはいえ、お紋はお竜のおしゃべりを信じたわけではなかった。いずれにせよ彼女はひどくしゃく[#「しゃく」に傍点]にさわった。
「こいつ――首だけになってるくせに、よくまあ勝手なことをしゃべりゃがる。旦那より、もうあたしがかんべんしない」
お紋は、わずかに|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》が肌にまといついたような姿で、主膳のつかんでいた大刀から、スラリと抜身だけぬきとって、縁側から地上におりた。青い月光に、刀身と眼を|燐《りん》のようにひからせて、大地にうずめられたお竜のそばにあゆみ寄る。
祖父江主膳は、うっすらとわれにかえった。
疲労と酒と|苦《く》|悶《もん》に、脳が|糊《のり》みたいになっていたところへ、お竜から|鉄《てっ》|槌《つい》のような推理の一撃をうけて、思わず喪神したのだが、かすかに意識をとりもどすや否や、ぶるっと大きく身ぶるいして、「不覚!」とうめくと、そばの大刀を手さぐりにつかんだ。
「おまえさん」
耳もとでささやく女の声がした。
「おお、お紋か」
「御切手町のお父っさんを殺したんだってねえ」
「なに、ど、どうして、それを――」
「ひどいことをしゃがる。もとの|間《ま》|夫《ぷ》を殺され、お父っさんを殺され、あたしをどうするつもりだえ?」
「お紋、ゆるせ、い、いまにおまえを大名の御前さまにしてやるから――」
突然、お紋がふき出した。その笑い声にはっとして主膳がふりかえり、おぼろに浮かぶお紋の異様な無表情をみると、判断を絶した顔つきになった。
が、そのとたん、お紋がつつとうしろにさがり、|袖《そで》を口にあてて、
「おまえさん、殿さまになるのかえ? そのわけは、南町奉行所のお|白《しら》|州《す》できこう。どうやら手がまわったようだ」
「なんだと?」
|愕《がく》|然《ぜん》として立ちすくむ主膳の眼前に、お紋と入れかわって、宗十郎頭巾の影があらわれた。その手にかがやく十手を見るや否や、
「お紋、裏切ったなっ」
思わず、そう叫んだ。いまお紋の声と表情に抱いた疑惑も、この大破局に忘れはてて、
「ううむ、木ッ葉役人がきたところをみると、さてはお竜とは、やっぱり大岡の――」
といいかけて、いきなり縁側から横ッとびに大地へとんだ。月光に、依然首だけのお竜は眼をとじている。
「こうなったら、やぶれかぶれだ。見やがれ!」
――あっ、待って! と座敷で女の声が追いすがったが、ときすでにおそし、兇刃|一《いっ》|閃《せん》して地上からどぼっと|烏《い》|賊《か》の墨みたいな黒い霧が立つと、お竜の首は横にころがった。
「あはははは、あはははははは!」
祖父江主膳の狂笑がふとやんだ。
ころがったお竜の首から蝋面がおちて、お紋の顔があらわれた。お竜の蝋面――それは、死顔の蝋兵衛最後の傑作であった。
主膳はのけぞった。驚愕のせいばかりでなく、うしろからおどってきた|捕《とり》|縄《なわ》のためだ。
縄をつかんだ八丁堀の同心巨摩主水介のうしろから、お紋が出てきて、蝋面をとると、お竜のかなしげな顔があらわれた。
「いきなり斬るとは思わなかった。……」
お竜は、もうひとつ蝋面をつけているのではないかと思われるような顔色でつぶやいたが、やがて主水介に視線をうつして、
「でも、これで小伝馬町の方は、ふたりめの女の命を、どうやら救えたようだわね。……」
巨摩主水介は、にがい顔をしている。
小伝馬町の牢屋敷では、冬の四か月は毎月三度、そのほかの月は毎月四度囚人に入浴させるというのが規定だが、実際は二十日に一度がいいところであったらしい。
当時二十人前後のおんな牢はともかく、男の方は、大牢、無宿牢、百姓牢、|揚屋《あがりや》、揚座敷も、総人数三百人から四百人くらいもいるのだからたいへんだ。むろん|風《ふ》|呂《ろ》場らしい風呂場が設けてあるわけではない。東西に二か所、|外《そと》|鞘《ざや》の外に|湯《ゆ》|遣《やり》|場《ば》というものがあり、そこに五人から十人くらい、いちどに入れる|大《おお》|樽《だる》が置いてある。内庭にあつめられた囚人たちは、裸のまま、監視つきで順を待ち、からすの行水みたいにからだをぬらしてゆくにすぎない。それでもともかく|牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の中から外へ出たという|昂《こう》|奮《ふん》から、いちど裸の大群が暴動を起しかけたことがあって、それ以来、番がくるまで囚人たちは、湯水の運搬係のほかは、ことごとく縄手錠をはめられることになった。
それでも一種の戦争状態を呈するが、これが女囚となると、たとえ二十人内外としても、やはり別種の壮観であった。
老婆、年増、娘、やせたのや、こんなところにいてもムッチリふとったの、白い肌、浅ぐろい肌、それが中庭に群れて、さすがにその姿は男牢の方からみえないはずなのだが、|甘《あま》|臭《ぐさ》い体臭が花粉のように空中に|瀰《び》|漫《まん》して、野獣みたいに鋭敏になっている男囚たちの|嗅覚《きゅうかく》を刺激するらしく、ならんだ牢の格子のあいだから、名状しがたいうなり声がもれる。むろん、あちこちから野卑な奇声がとび、それにまけずに女囚たちが|淫《みだ》らなからかいの叫びをなげかえす。それを|叱《しか》りつけながら、ニヤニヤして見物している牢屋同心や張番たち。――
とはいえ、若い新入りの女囚などは、むろん|湯《ゆ》|浴《あ》みのよろこびなど味わえる余裕はない。大樽に入っている湯は、遠い|賄所《まかないじょ》から|天《てん》|秤《びん》棒でになってくるのだが、熱いといっては水をはこび、冷たいといっては湯をはこばせられる。本来下男の役なのだが、いつのまにか囚人のつとめとなって、これは女の身で、しかも栄養の足りないからだには、なかなか重労働だ。はだかになれば、いかに牢獄の太陽とはいえ、ひかりは肌にいたく、樽に入れば入ったで、名主以下隠居たちの背から足まで流させられる。
「やいっ、お|関《せき》、これアなんだ」
|嬌声《きょうせい》のなかだから、湯遣場からはなれたところではきこえなかったが、ひくい声でそうさけんだのは、詰の隠居のぎっちょ[#「ぎっちょ」に傍点]のお伝だった。手に一本のかんざしをにぎっている。
「あっ、それは!」
はだかになって、おずおず樽に入りかけていたまだ十七、八の若い娘がふりむいて、あわててお伝の手にすがりついた。
「てめえ、まえから何かかくしてやがるとにらんでいたんだ。こんなものを、お名主さまにないしょでもっていやがって、ふてえあま[#「あま」に傍点]だ」
と、にくにくしげに笑った。そのとおり、この若い女囚のふだんのものごしから、たしかにそうにらんでいたので、きょうの風呂を機会にやっとそれを見つけ出したのである。金銀はもとより、化粧道具などは、表面上|法《はっ》|度《と》の品であった。
「かんにんして……それは、あたしの大事な品なんです」
「大事な品なら、なぜお名主さまにとどけねえ。ふん、なまいきに、これア銀だね。これで|酒《たんぽ》がいくら買えるか。――」
牢名主たちにとどければ、そういうことにつかわれるのはわかっているから、いままでかくしていたのだから、
「おねがいです。どうぞかえして――」
「かえさねえ。それどころか、牢法にそむいた奴、きっとあとで|折《せっ》|檻《かん》してやるぜ」
争うはずみに、お伝のふところから、もうひとつ、ころころとおちて日にひかったものがある。
それがあまり異様なものだったので、遠くでみていた牢屋同心の眼をひいた。かけつけてくるその姿をみて、お伝があわててそれをひろったが、おそかった。
「なんじゃ、それは?」
「旦那。……」
お伝は、お伝らしくもなく顔をあかぐろくして、せいいっぱいの笑いをつくった。
「どうぞ、お目こぼしを……」
「これ、いまのものを出せ」
にらみすえられて、しぶしぶとふところからとり出したものをみて、牢屋同心が眼をまるくした。それは「|京形《きょうがた》」だったからである。京形とは、京で作られる|張《はり》|形《がた》の一種だ。つまり、べっこう製の男根模型で、表面はきわめてうすく、波形のひだが彫ってあって、内部は|空《くう》|洞《どう》になっている。これは湯を入れると、その触温は全然本物とおなじになるといわれ、そのためにお伝がここへ持ってきていたにちがいないが、|藪《やぶ》をつついて蛇を出す、お関という女囚がないしょで持っていたかんざしをとりあげようとしたばかりに、じぶんの方がとんでもないものを見つけ出されてしまった。
「旦那には用のねえもので……二つは要らねえでしょう、ね、旦那、この銀かんざしで、どうぞ御内聞に……」
ひどい奴もあるもので、ひとからふんだくった品を交換におしつけるのを受けとって、牢屋同心がわざとそっぽをむいたのは、いままでなんどもこういう経験があるからだろう。
わるいことに、そっぽをむいた反対の側から、声がかかった。
「おや、何をしているの?」
ふりかえって、牢屋同心もお伝もびっくり仰天した。いつのまにか、そこに姫君お竜と八丁堀の若い同心が立っていた。
三日ばかり|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ呼び出されていたお竜だが、相かわらず|責《せめ》|苦《く》のあともみえない、けろりとしたきれいな顔だ。しかしその胸には南町奉行所専用の紺染めの縄がかけられ、その縄じりを八丁堀同心が厳然とにぎっている。
「あっ、巨摩どのか」
と、その巨摩主水介の眼がじぶんの手の銀かんざしにそそがれているのをみると、牢屋同心は大|狼《ろう》|狽《ばい》のていで、
「けしからぬ女どもでござる。かようなものを内密に牢内にもちこんでおったのを、拙者ただいま発見して、きびしく糾明しておるところです」
「へへえ、なんだかその銀かんざしをもらったように見えたけど――」
と、お竜がいって、お伝の手にぶらさげられている異形の物に眼をやった。
「それ、いったいなあに? 旦那、それはもらわないの?」
「ぷっ、あいや、そのものは拙者、生来すでに所持しておる」
と、牢屋同心はへどもどして、
「実にふとどきな女どもで、いずこより、いかにしてかような|大《だい》それたものを牢内にもちこんだか、断然、つきとめねば相成らぬ。さっ、穿鑿所に参れっ」
お竜はにこにこ笑った。
「それを、断然、つきとめたら、そっちがこまりゃしませんかえ?」
「なんと?」
「|金《つる》さえあれば、牢内でどんな買物でもできるってことは、旦那、知らないといったら、かえって牢屋同心の恥ですよ。おそろしく高くつくのが難儀だけれど、それで牢内、いのちがあるっていってもいいんです。まあさ、ここはほこりをたてないで、眼をつぶった方が、おたがいのためでござんしょうよ」
牢屋同心は顔をまっかにしたが、巨摩主水介の森厳な表情をみると、こんどは|蒼《あお》くなった。
「あっちへゆかれい」
と、主水介は犬でも追いはらうようにあごをふっていった。あわてて立ち去ろうとする同心に、お竜が声をかけた。
「ちょいと、その銀かんざしをもとの持主にかえしてゆかなくちゃだめですよ」
――入浴がすんで、おんな牢にかえってきた女囚たちのうち、お竜にすがりついたのは、お玉お路のふたりだった。そのむこうにひれ伏しているお伝をみて、お竜は笑った。
「お竜さん、おかげでたすかったよ。……でも、おまえさん、たいした度胸だねえ」
お竜はこたえず、首をよこにふったが、お伝のそばで泣いて銀かんざしを抱いているお関をみると、声をかけた。
「あなた、お関さん?」
「ええ、お竜さん、ありがとう」
「いらっしゃい。そしてあたしとお話ししましょう。まあ、あなたみたいに可愛らしい町の娘さんが、どうしてこんなところに入ってきたの?」
――月のない夜空を、ほととぎすがぶきみな声で鳴いて飛んだ。
そのあと、真っ暗な風が、森をごうと鳴らすばかりの|白《はく》|山《さん》|権《ごん》|現《げん》の深夜だ。いわゆる|丑《うし》|三《みつ》|時《どき》の、|魑《ち》|魅《み》すらねむる境内に、ふと|妖《あや》しい火がうごいた。それさえ恐ろしいのに、もしだれかあってその正体を見とどけたら、いよいよぞうっと全身に水をあびたような思いがしたに相違ない。
女なのである。それがあたまに三本のもえる|蝋《ろう》|燭《そく》をはちまきでゆわえつけ、口に銀かんざしをくわえ、腰に白い布をまいてあるいている。両手には五寸|釘《くぎ》と|金《かな》|槌《づち》をにぎりしめていた。
ピタ、ピタ、ピタ……土をふむはだしの音、腰にまいた布は地面すれすれにひるがえりつつ、彼女は神社をめぐる林の中へ入ってゆく。その奥に一本の|大樟《おおくすのき》があった。その幹に一つの|菅《すげ》でつくった人形が打ちつけてあった。
彼女はそのまえに立つと、口の中でぶつぶつと何やら|呪《じゅ》|文《もん》をとなえた。そして、その人形に釘を打ちこみはじめた。
いわゆる「|丑《うし》の時参り」だ。この人形に年齢と氏名をかき、恨みをこめて神社の木に釘づけにすれば、満願七日めに、|呪《のろ》いをかけた本人が死ぬと信じられた呪法である。――
愚かにも恐ろしい迷信であるが、この当時として、これは決して珍らしい例ではない。ただ、そのほとんどすべては|嫉《しっ》|妬《と》に狂った中年女だ。しかしこれは、蝋燭の火でみれば、恋さえ知っているかどうか疑わしいほどの、あどけない十六、七の小娘だった。それゆえに、そのひたむきな顔は、いっそう恐ろしかった。
実は、これで六日めなのだ。いよいよ明日は、満願の夜だ。ただ、このあいだ、この姿をほかのだれかに見られると、「丑の時参り」の呪いは破れる。――
娘は人形に釘をうちおわると、林から出てきた。あたりをじいっと見まわして、「うれしい、だれも見てはいなかったわ。――」と、つぶやく。
それから、あたまの蝋燭をぬいて火をけし、はちまきも腰の白布もとりのぞいて、それらに蝋燭や金槌をくるんで、ふつうの町娘の身なりにもどると、ぬいでならべてあった下駄をはいて、石段を下りていった。
白山権現の下は、人家の密集した門前町であったが、さすがにこの時刻である。往来に人影もなかった。
娘はからころと下駄を鳴らして、白山前の|辻《つじ》までやってきた。
そこに一つ|提灯《ちょうちん》がともっていた。提灯には「心易占、|乾《けん》|坤《こん》|堂《どう》」という字がかかれていた。
そのむこうに居眠りでもしているような人影がみえたが、娘はちらっとそれを見ただけで、通りすぎようとした。そのとき。――
「あ、もし――」
と、ふいに声をかけられた。いつのまにか、易者が眼をあけて、こちらをみている。
「ちょっとお待ちなさい、娘御。――」
「あの、あたし、いいんです」
「いや、よろしくはない。少々わたしの心眼をかすめた不吉な影がある。だまって見すごしにはできん」
娘はおびえたように立ちすくんだが、もういちど、
「|占《うらな》って進ぜる。銭はいらない」
と、しゃがれた声でいわれて、糸にでもひかれたようにちかづいた。
提灯のひかりでみると、細長い、ねむそうな顔をした占い師である。商標みたいにどじょうひげをたらしている。
「これは奇怪じゃな、そなたのように罪のない娘御に、あんな呪いの雲がかかっておるとは」
と、彼はいぶかしそうに彼女の顔を見あげ、見おろし、それから、サラサラと|筮《ぜい》|竹《ちく》をおしもんでいたが、ふいにいった。
「そなた、とある|女性《にょしょう》に呪いをかけてこられたな。白山権現の方から、この深夜ひとり歩いてきたところをみると、丑の時参り――」
「あっ」
「ううむ、これは容易ならぬ。そなたが呪い殺そうと望む女性は、そなたの母御。――」
怪異山伏寺
「おっかさんじゃあないわ」
と、娘はさけんだ。
「あの女だわ!」
しかし、恐怖と狼狽にみちたその表情から、乾坤堂は眼をはなさなかった。
「それでは、そなたが権現さまに丑の時参りをしてきたというのはほんとうか」
娘は、片手の白いつつみに視線をおとした。
「ふむ、そのつつみの中には、呪いの釘や蝋燭が入っているのじゃろう?――ははあ、あたッたな。娘御、いったい、だれを呪おうとなさった。あの女とは?」
「――おっかさんのあとから、うちにきたひとなの」
「おっかさんのあとから? 後妻か。それではやっぱりわしのいったとおり、おっかさんではないか」
と、乾坤堂はニヤリとした。娘は袖を眼にあて、むせびあげはじめた。
「娘御、それは世間にもよくあることじゃが、しかし当人にとってはよくよくのこと、継母じゃとて、みれば十六、七のうら若い娘が、丑の時参りをしてまでうらめしいと思うには、さぞいろいろと|辛《つら》いこと、かなしいことがあったことじゃろう。きかせておくれ。わしは人の身の上を占うて見料を|頂戴《ちょうだい》する大道易者じゃが、年だけはそなたよりだいぶ上じゃ。すこしはいい|智《ち》|慧《え》をかしてあげられるかもしれんぞ」
肩に手をかけられて、娘はいっそうはげしく泣き出した。やさしくいわれたせいばかりではない。いまのみごとに的中した占いに、彼女はすっかり屈服している。
娘は話し出した。――
彼女はお関といって、駒込片町の|塗《ぬ》|師《し》|屋《や》の娘であった。塗師屋というのは、|駕《か》|籠《ご》のぬりかえである。ふつうの辻駕籠ではない。大名のお駕籠を専門にぬる商売だ。
|漆《うるし》をぬるのも三度塗、四度塗、|丹《たん》|精《せい》も技術も容易なものではないが、ものがものだけに、職人のうちでもちょっとした格式がある。
お関は幸福に育ったが、去年の秋、母親が死んでから、つらい日を送るようになった。父がまったく働かなくなってしまったからだ。毎日、朝から酒ばかりのんでのらくらしている。店の評判はわるくなり、注文もへってきた。――しかしお関がいやだったのは、父の怠惰より、いっしょに酒をのんでふざけている二度めの母だった。もとは|玄《くろ》|人《うと》で、しかもあんまり素性のよくない水から出てきた女で、どうやら死んだおっかさんが病気をしているころから、父と関係があったらしい。いや、おっかさんが病気になったのも、あの女のせいかもしれない、とお関は思う。
とにかく、家じゅうが、途方もなく自堕落になってしまったのだ。何よりお関が、吐き気のするようなきもちになったのは、父とその女とが、人目もかまわず抱きあったり、口を吸ったり、ときにはそれよりもっとあさましい姿をみせて、へいきだったことだ。お関ははじめてそれをみたとき、あたまがクラクラとし、父親を殺してやりたいような激情に襲われた。
それまでお関は、継母を「おっかさん」と呼ぼうとつとめていたのだが、それ以来、一切その言葉を口にしなくなった。「あの女」と呼び、せいぜい「あのひと」と呼ぶ。当然、その女とお関の仲はみるみるわるくなり、このごろでは、|折《せっ》|檻《かん》をうけることもめずらしくない。世間によくある――とくにこの時代では――家庭悲劇だ。
「ふうむ」
と、乾坤堂はあごひげをしごいて、溜息をついた。
「それでこの丑の時参りか」
暗然と、お関をみつめたが、
「そなた、こんなことを|誰《だれ》にきいたのかい。丑の時参りをすれば、呪った女が死ぬなどと――」
「お|杉《すぎ》婆やから。お杉は、死んだおっかさんの里からついてきた婆やなの」
「なるほど」
「でも、やりかたはきいてきたけれど、婆やはあたしがそれをやってることは知らないわ。あたし毎晩、だれにも気づかれないように、そっと忍び出してくるんですもの」
「お関さん、おまえさんはそうやって、ほんとにききめがあると思うかね」
「はじめはそれほどにも思いませんでした。ただ、あの女がにくらしくって、にくらしくってたまらないからで――けれど、きょうで六日、毎晩やってるうちに、ほんとに――いいえ、きっとききめがあるような気がしてきたわ」
娘のおさない顔はピクピクとわななき、涙のかわいた眼はうすきみわるくひかっていた。
「いよいよ、あしたが満願の夜なの」
「じゃがな、お関さん、きのどくといってよいかどうかわからんが、おっかさんは――いや、あの女は、あしたの晩は死ぬまいよ」
「えっ」
お関は息をのんで、
「なぜ?」
「易者のわしがいうのは妙じゃが、丑の時参りなどというのは迷信じゃからの」
お関はキョトンとして、提灯のかげの天神ひげをみていたが、急にきれぎれにさけび出した。
「何をいうの? まあ、ひとを呼びとめて、何をいうのかと思ったら……いい智慧をかしてやるなんていってさ……あのひとは、きっと死ぬわよ!」
|闇《やみ》の中にざわめく森、ぶきみな鳥の羽ばたき、頭にさした蝋燭の火に、ゆらゆらとゆらめく奇怪なものの影、ピタピタと鳴るじぶんの|跫《あし》|音《おと》、釘をうつひびき、婆やから教えてもらった呪文の言葉。――お関はまざまざとそれを思い出し、また恐怖の|酩《めい》|酊《てい》ともいうべき|恍《こう》|惚《こつ》感を思い出した。あんなにまでして、わたしの思いが権現さまに通じないことがあろうか?
「何さ、そんな天神ひげ……おまえさんのことなんか、あたるもんか!」
「わしの占いはあたるよ」
と、乾坤堂はふかい声でいった。くぼんで、人がよさそうで、ややおどけた眼が、厳粛にひかって、お関の口から声を消してしまった。
ただ立ちすくんで乾坤堂をにらみつけたとき、背後で「あっ」という声がきこえて、跫音がひとつかけよってきた。
「お関さん、こんなところにいなすったんで?」
「まあ、|千《ち》|代《よ》|吉《きち》!」
はたちになるかならないかの、職人風の若者だった。
「今夜はじめておまえさまがうちにいないことに気がつき、婆あが、もしや、といい出したので、それをきいてびっくりして探しにきたのでさあ。婆あもわるいが、あなたもばかだ。ばかなことはしねえで、はやくかえっておくんなせえ」
婆あといったが、千代吉はお杉の|倅《せがれ》だ。お関はあわてもせず、
「千代吉、それであたしがいないことを、ほかのひとも気がついたの?」
「ばかなことを! おまえさんが、おかみさんを呪い殺そうと丑の時参りにいったなんてことを、だれにいえますものか」
「ああよかった。それじゃあ、明日一晩だまっていておくれ」
「えっ」
「明日、満願の夜なの」
「そ、そいつあ――いくらおかみさんがむげえひとだって――」
「いいかえ、だまって明日の晩をみてるんだよ。――」
と、お関は眼をひからせていった。
そして、千代吉といっしょに立ち去ろうとしたとき、乾坤堂がよびとめた。
「娘さん、もしわしのいったことがあたったら、それから、もしわしという占い師を思い出したら、いつかもういちどここへおいで」
お関の胸には、もういちどつぶやいた乾坤堂のひとりごとがのこった。
「いいや、おまえさんは、きっともういちどわしのところへやってくるよ」
――十日ばかりたった|或《あ》る夕方、お関はまた白山前の辻にやってきた。
乾坤堂は、もう縁台を出していたが、客はなく、初夏の夕風に、のんきそうに天神|髯《ひげ》をそよがせていたが、お関がまえにションボリと立ったのを見あげると、ニヤリ笑った。
「あたったろう」
お関は、うなだれた。
あの女は、満願の夜に死ななかったのだ。死ぬどころか、父と酒をのんで、ふだんよりもっと大胆に|嬌態《きょうたい》をほしいままにしたあげく、翌朝は上機嫌で起きてきて、お関にやさしい言葉をかけてさえくれたのである。
それが気まぐれだとわかっているから、それだけで後悔したのではないが、お関は昨夜継母に変ったことが起らなくってよかったと思った。お関はその夜一晩、緊張しすぎて、朝になってからはまるで|狐憑《きつねつ》きがおちたようにキョトンとした感情になっていたのだ。それはつまり、彼女がふつうより少々迷信的で|且《かつ》激情的な性質ではあるものの、決してわるい娘ではなかったということなのだが、といって、事態がそれですっかり解決したわけではなかった。
二、三日たつと、またもとどおりのいざこざがはじまり、彼女はいっそう絶望状態におちた。あの丑の時参りが、思いつめた行動であっただけに、そのききめがなかったとなると、張りつめていた糸がきれたような失望感と、失望感ばかりではなく「まあ、よかった」という|安《あん》|堵《ど》感と、それがこんがらがり、彼女はまえよりずっとやりばのない悩みにつきおとされたのである。いったい、どうしたらこんな地獄からぬけ出せるのか?
お関の耳に、ふっとあの声がよみがえった。「いいや、おまえさんは、きっともういちどわしのところへやってくるよ」――あの占い師の、やさしそうな眼もまぶたにうかんだ。しかもその眼が決していいかげんなものでないことは、最初じぶんをひとめ見たときから、じぶんが丑の時参りをしてきたことを見やぶったことでもわかる。――
そうだ、あたしはどうしたらいいのか、あのひとに相談にゆこう。
こうかんがえて、お関は白山前の辻にもういちどやってきたのであった。そして彼女は、ここで乾坤堂から「|玄々教《げんげんきょう》」という宗門の存在をきかされたのである。
娘からあらためて「人生相談」をうけた乾坤堂は、天神髯に似合わぬまじめな表情になって思案した。そして、かんがえればかんがえるほど、お関の家庭のことや、お関の悩みを解決する方法がむずかしい。正直にいって、じぶんにはこうすればよいという断定が下せないといった。
「お関さん、いちど、あの玄々教という宗門の戸をたたいてみないか」
「玄々教。――」
「きいたことはないか。吉祥寺裏にある――このごろ評判の宗門じゃ。不可思議の法力を|以《もっ》て、諸人の病気や悩みや迷いを消してくれるという――わしは別に信者ではないが、実をいうとな、以前にいちどすこぶるこまったことが|出来《しゅったい》して、知り合いにさそわれてあそこの加持を受けにゆき、たちまち悩みを散じたことがあるのでな」
占い師が悩んで、よその神さまだか仏さまだかの助けをかりるという|可《お》|笑《か》しさは、本人も気がつかないらしかった。お関もそこまで気をまわさない。
実は、宗門の評判は、お関もいままで耳にさしはさんだことがあった。ここからほど遠くない吉祥寺裏の|荒《あら》|寺《でら》にこもる山伏の一団だが、その|加《か》|持《じ》|祈《き》|祷《とう》が奇妙な効験をあらわすということで、いままでのぞきにゆかなかったのが、偶然だが、かえってふしぎなくらいだ。
「いい智慧をかしてあげられるかもしれんといったが、どうしたらお関さんがしあわせになれるのか、正直にいってわしには判断がつかん。せめて玄々教のことをおしえてあげるのが、いい智慧かもしれん。いやならしかたがないが、どうじゃ、ものはためしだ、ゆくだけいってみたら」
お関は好奇心にかられた。乾坤堂は、そうすすめた手前、彼女を吉祥寺裏の玄々教へつれてゆかなければならないことになった。
吉祥寺は、|西《さい》|鶴《かく》や|紀《きの》|海《かい》|音《おん》のかいた「八百屋お七」の恋人吉三郎の寺として有名だが、事実はそうではない。吉三郎の寺は谷中の感応寺だ。吉祥寺は八百屋お七とは関係はなく、|曹《そう》|洞《とう》宗の|巨《きょ》|刹《さつ》だったが、門前町の一方をのこし、あとは|畠《はたけ》で、そのなかにあちこち建っているのは、いくつかの小寺ばかりであった。
そのなかに、名もしれぬひとつの廃寺がある。ここにふしぎな山伏の一団が住みついて、加持祈祷をはじめたのは、去年の暮れからだった。
いってみて、お関はびっくりした。
「ああ、これは!」
古びて、崩れかかった本堂の廻縁の周囲はもとより、鐘楼、山門、石段のあたりまでいっぱいの人間で、しかもことごとく|蜘《く》|蛛《も》みたいにひれ伏しているのだ。そして彼らはつぶやいている。口の中で、|喉《のど》の奥で、うわごとのように何やらとなえている。アビラウンケンソワカ――アビラウンケンソワカ――アビラウンケンソワカ――|南《な》|無《む》|蔵《ざ》|王《おう》|権《ごん》|現《げん》。……
「おう、これは、しばらく見ぬあいだに、えらい|繁昌《はんじょう》じゃな……」
と、乾坤堂もあきれたように見まわしたが、本堂のまえの異様なものに眼をそそぐと、お関の手をひき、群衆のあいだをその方へちかづいていった。
そこに、四隅に青竹をたて、|注《し》|連《め》|縄《なわ》をはり、約一坪ばかりのひろさに、松の|薪《たきぎ》がもえていた。薪はもう|燠《おき》となって、メラメラと|焔《ほのお》をあげていた。
内陣の奥で、遠く|金《きん》|鈴《れい》をふる音がきこえた。――と、本堂の階段のうえに、|頭《ず》|巾《きん》をつけた白衣の|修《しゅ》|験《げん》|者《じゃ》があらわれて、しずしずと地上におり立った。
人々は呪文をとめた。一帯におちた沈黙の中に、修験者は浄火のまえにすすみ、ぱっと戒刀で注連縄を切りおとすと、九字をきり、そのままはだしの足をあげて――悠然と熱火のうえをあゆみはじめた。一歩、一歩、踏みわたる足の下から、まっかな焔がゆらめきのぼる。
ほーっとふかい|溜《ため》|息《いき》にも似たどよめきの中に、修験者はこともなく焔をわたりきると、|仁《に》|王《おう》立ちになり、のどをあげて高らかに|法《ほ》|螺《ら》|貝《がい》を吹きならした。
と、夕焼の空から、一羽の|白《しろ》|鳩《ばと》がまいおりて、彼の右肩にとまった。鳩はゆっくりと群衆を見わたし、それから山伏の耳にくちばしをさしいれて、あたかも何ごとかをささやくようにみえた。
山伏は大きくうなずくと、声を張ってさけんだ。
「津軽どの御家中、|朱《しゅ》|巻《まき》|貝《かい》|右衛《え》|門《もん》どの――」
ひとりの女がふらりと立ちあがって、夢遊病者みたいに土下座の中をあるいてきた。
「御妻女でござるな?」
修験者がいった。
「はい。――」
女はわなわなとふるえながら、
「倅が病気でございまする。何とぞおかげをもちまして、|玄妙坊《げんみょうぼう》さまの御祈祷を。――」
「承った。さらば、参られよ。――」
身をかえした肩から鳩が舞いあがって、はたはたと、ふたたび矢のように夕焼空の果てへ去っていった。
「あれは、あれは?」
と、お関は見送ってあえいだ。
「あれはな、見るとおり、|呪《じゅ》|殺《さつ》、|調伏《ちょうぶく》、その他の願いごとを望む信者が多い。まずだれの祈祷をかなえてやろうか、それをきめる神鳩らしい。しかし、これァ加持をたのむのも容易ではないぞ」
と、乾坤堂は嘆息したが、
「お関さん、しばらくここで待っていておくれ。とりあえず申し込んでおこう」
と、いって、|何《ど》|処《こ》かへあるき出した。お関は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、そのあとを見送った。
――しかしお関は、いまの光景をみて、かえってしりごみをした。あんな恐ろしい山伏に「あの女」を呪殺させる――じぶんで丑の時参りなどしたくせに、彼女はおじけづいた。
乾坤堂が祈祷を申し込んでかえってきたとき、
「あたし、もういいわ」
と、彼女はくびをふった。
「何が?」
「人を呪い殺すなんて……」
「いや、何も玄妙坊の祈祷は呪殺ばかりではない。息災、増益、敬愛、修法はいろいろとある。要するにお前さんが|倖《しあわ》せになれるように祈ってもらうのだ。しかし、いやならむりにはすすめない」
たよりない娘心を知っているのか、乾坤堂はべつに不服な顔もみせず、ぽくぽくあるきながら、
「どうもお前さんは、なぜか他人ではないような気がする。無縁の娘のはずじゃが、どういうわけかいとしくて、気にかかる」
そしてまたひとりごとのようにいった。
「お関さん、やっぱり心におさえかねることがあったら、またわしのところへおいで。……いや、お前さんはきっとまたやってくるよ。……」
――そのとおりだった。五日めにお関は乾坤堂のところへかけつけた。がまんのならないことが起ったのだ。お関が死んだ母のかたみの帯がないことに気がついて、さがしていたら、それを義母のおれんがつけてしゃあしゃあとしていることがわかり、それからまた売言葉に買言葉の口論のはてに、おれんは死んだ母の|位《い》|牌《はい》を庭へほうり出してしまったのだ。
その日の夕方、お関は、吉祥寺裏のあの山伏寺で、修験者に手をひかれて、階段を上り、外陣に入っていった。乾坤堂につれられてやってきたら、偶然、その日に祈祷の申込みがゆるされたのである。
背後で、ギギギギ……と重々しく|唐《から》|戸《ど》がしまり、身ぶるいして立ちどまった彼女は、そこに外で想像していたことの数倍もの|妖《よう》|異《い》な光景を見出したものである。
灯火窓もとじて、外陣はひえびえとほのぐらい。しかし、ひかりはある。
壁際に、仏具のかげに、そして空中に、青白い|燐《りん》|光《こう》が陰火のごとくトロトロともえあがり、ぶきみな渦をまいてふっと消え、また|忽《こつ》|然《ぜん》ともえあがって、四方のふとい円柱が、蛇のうろこのようにテラテラと浮かびあがる。
「――浄土は遠きにあらず――|勤行《ごんぎょう》すれば道場になり――神明は外になし――|恭敬《きょうけい》なればすなわち祭席にあらわる。……」
ふと、ささやくような声がながれてきた。
陰火を追うて、恐怖の視線をさまよわせていたお関は、その声の方へおもてをむけて、次の瞬間、われしらずのどのおくで「ひーっ」とさけんだ。
三|間《げん》ばかりをへだてた一つの台の上に、女の生首がひとつのっていた。
首――ほんとうに、首だけだ。台には三つの脚があったが、その空間には胴がみえなかった。いや、胴のあるべき宙にはひとつの香炉が浮いて、そこから沈香の|匂《にお》いとほの|蒼《あお》いけむりが、よこに|縷《る》|々《る》となびいて、しずかにきえてゆくのであった。
「これは、玄妙法印の修法により、|黒《くろ》|縄《なわ》地獄の底から救抜された女の首じゃ」
と、白衣の山伏はいった。耳の下に小さな|瘤《こぶ》のある男だった。
「見よ、法印が呪法のありがたさ、恐ろしさを――」
と、彼はお関の顔をふりかえってから、身をかがませてそばの経机から一つの|碁《ご》|笥《け》をとりあげた。ふたをはらうと、いっぱいにつまった黒白の石があらわれた。
山伏はお関に、はじめに|右《みぎ》|掌《て》で、つぎに左掌で、彼女の思うままをつかみとらせた。
お関はそっと右掌をのぞいて、ほの蒼い燐光に、その数が黒石七つ白石二つであることをみた。
「南無、|金《こん》|剛《ごう》|薩《さっ》|[#特殊文字「」は「土(つちへん)」+「垂」Unicode=#57F5 DFパブリ外字=#F6ED]《た》、大聖歓喜天」
と、山伏がさけんだ。
「右方の石数を告げたまえ。――」
遠い女の生首は、眼をふさいだまま、たちどころにこたえた。
「南無、金剛薩[#特殊文字「」は「土(つちへん)」+「垂」Unicode=#57F5 DFパブリ外字=#F6ED]、大聖歓喜天、黒七つ、白二つ。――」
お関はふるえた。――何の気もなくつかんだ石、じぶんでさえ掌をひらいてはじめて知った石の数を、このほの明りに、あの遠さでどうしてあの女の首は知ったのだろう? 彼女は左掌をはんぶんひらいて、こんどは黒石四つ白石六つであることをみた。
「南無、|迦《か》|婁《る》|羅《ら》天、青面金剛、左方の石数を告げたまえ。――」
山伏の問いに、女の首は眼をふさいだまま、
「南無、迦婁羅天、青面金剛、黒四つ、白六つ。――」
山伏はおごそかにお関をかえりみて、
「すべてこれ、法印が御力の顕現である。ゆめ疑うな、迷うな、ただ、信じに信じたまえ。――」
「はい!」
お関は、掌から石をこぼし、思わずひざまずいた。
そして彼女は山伏にみちびかれて内陣に入っていったとき、そこにくりひろげられている幽玄|凄《せい》|壮《そう》な光景に、全身が麻酔にかけられたような気がした。
|麝《じゃ》|香《こう》か|竜脳《りゅうのう》か|薫《くん》|陸《りく》|香《こう》か、おそろしい、快い骨のずいまでとろけるような匂いがただよっている。そして|須《しゅ》|弥《み》|壇《だん》のあるべき奥に、円形の|護《ご》|摩《ま》|壇《だん》が設けられ、それをかこんで十数人の白衣の人々が、ひざに経巻をひらき、ひっそりと首をたれて坐っているのをみた。
案内の山伏が平伏して、お関の素性と願いをつげる声を、地獄からのささやきのようにきいていた彼女は、突然、たたきつぶさんばかりの力でひきすえられた。
「玄妙法印の御祈祷をたまうっ」
|凄《すさ》まじい修験者のさけびと同時に、壁の、青地に四印|曼《まん》|荼《だ》|羅《ら》をかいた旗の下に坐っていた童子がすっくと立って、大威徳天のまえにゆらめいている浄火から火をうつし、|護《ご》|摩《ま》|木《ぎ》に点じた。
ぱっともえあがる炎に明るくされて、護摩壇の下からしずかに白衣の人が身をおこした。それが|役行者《えんのぎょうじゃ》の再来といわれる玄妙坊であった。
しかし彼は眼だけのぞいて、あとは真っ白な頭巾にあたまをつつんでいた。
五つの予言
|鏘《そう》|然《ぜん》と、金鈴が鳴った。
|蹲《そん》|踞《きょ》|座《ざ》をくんだまま、玄妙坊は白い頭巾のあいだからみえる眼をつむっていたが、やがて塗香を三度いただいて、ひたいと胸へぬりつけ、音吐朗々と祈りはじめた。
「東方|阿《あ》|闍《じゃ》|如《にょ》|来《らい》、金剛|忿《ふん》|怒《ぬ》尊、赤身大力明王、|穢《え》|跡《せき》忿怒明王、月輪中に|結《けっ》|跏《か》|趺《ふ》|坐《ざ》して悪神を|摧《さい》|滅《めつ》す。満天破法、十方の|眷《けん》|属《ぞく》、八方の悪童子、こたびの呪法に加護|候《そうら》え。――」
青い|護《ご》|摩《ま》|木《ぎ》の|火《か》|焔《えん》、壇上の|蓮《れん》|華《げ》|火《か》|炉《ろ》からたちのぼる紫の香煙、はらわたにしみとおり、心臓をしめつけるようなしずかな、恐ろしい呪法の声。
「南無金剛|夜《や》|叉《しゃ》明王、南無金剛|蔵《ざ》|王《おう》明王、南無一大威徳王――大峰に入る七度、|那《な》|智《ち》の滝にうたるる三度、二世の|悉地成就《しっちじょうじゅ》して|金《こん》|伽《が》|羅《ら》|誓《せい》|多《た》|伽《か》両童子|摩頂印可《まちょういんか》をこうむりたる|勤行《ごんぎょう》の効むなしからんや。諸大明王の|本誓《ほんじょう》をあやまらんや。権現金剛童子、天竜夜叉、八大竜王猛風をふきどよもしたまえ。……」
そして、まわりの山伏たちが、いっせいにとなえはじめた。
「のうまく、さんまんだぼだなん、まか、むたりや、びそなきやてい、そばか。……」
「なむ、にけんだ、なむ、あじゃはた、そばか。……」
「なむ、あじゃらそばか、いんけいいけい、そばか。……」
――突然、お関は立ちあがり、耳を両手でおおい、眼をすえてさけび出した。
「よして! よして! よしてちょうだい!」
さっきから見せつけられたさまざまの怪異に、だんだん気がへんになってきていたのが、ここにいたって、とうとう半分狂乱してしまったのである。
「もういいの! あたし、もうかえる!」
しかし、その肩はうしろから、鉄のような力でおさえつけられた。彼女の絶叫は、内陣にどよもす修験者たちの|物《もの》|凄《すご》いコーラスにかき消された。
「なうまり、さらば、たたきやていびやり、さらばた、せんだ、うんき、ききき。……」
「なうまり、さんまん、ばさらたん、せんた、まかろしゃた、さばたや、うんたらた、かんまん!」
お関の脳髄に、妖しい霧がたちこめてきた。いつのまにかかけられた|頸《くび》の|数《じゅ》|珠《ず》を、カチカチと歯をかみ鳴らしながらにぎりしめていたお関は、その数珠がきれてとぶと同時に、散乱した珠のうえにがっくりとうつ伏して、気を失ってしまった。
「お関さん、これ」
遠くから呼ぶ声に、お関は意識づいた。
眼をふっとあけたつもりだが、四界はまっくらだった。その|闇《あん》|黒《こく》の天で、奇怪な呪文の声がどよめきわたったように思い、はっと眼を起したが、すぐにそれは風の音だとわかった。
「お関さん、気がついたか」
肩を抱いてくれた人を見あげて、
「乾坤堂のおじさん!」
と、お関はさけび、しがみついて、ゲクゲクと泣き出した。
「いったいどうしたのだい、お前さんは気絶して、山伏たちにかつぎ出されてきたぞ」
気がつくと、そこは内陣ではなく、草の上である。まっくらな夜空に、本堂の影がそそり立ち、その下に、ぶきみな赤い火が、チロチロと浮かんでみえた。
「お、おじさん、あれは何?」
「あれは、ひるま山伏がはだしで踏みわたった例の浄火じゃ」
してみると、ここはひるま大群衆がむれていた広場らしい。あたしは、いったいどうしたのだろう。あたまがズキズキといたんだ。鼻孔にも、あのきみわるい香煙の匂いが、まだネバネバとしみついているような気がする。あの内陣の怪異、|祈《き》|祷《とう》の物凄さを思い出すと、身ぶるいがした。
「か、かえろう。おじさん」
「うむ、かえるよりしようはないが……玄妙法印には祈ってもらったのか」
「もういいの、よせばよかったわ。……こわかったわ!」
「ああ、あれか。あの呪殺の儀式が恐ろしかったか。わしも前にああして拝んでもらったぞ。しかし、あれでこそききめがあるのじゃが。……」
「もう、おっかさんを呪殺なんかしてもらわなくったっていいの。……」
乾坤堂はちょっとめんくらったようにお関をみたが、
「それは結構」
と、いって、ニヤリと笑った。それを見越して、この恐ろしい祈祷所へつれこんだようなわが意を得たりといった人相になった。
しかし、すぐにくびをかしげて、
「それはそれでわしは結構だと思うがな、お前さん、玄妙法印に何かいわれはせなんだかの?」
「え、あの山伏に? 知らないわ、あたし気を失ってしまったのだもの」
「そうか、さっき気絶したお前さんをはこび出してきた瘤のある山伏がな、妙なことをいっておったぞ」
「何を? どんなことを?」
「うむ、この娘には、もはや呪いの雲がかかっておると玄妙法印が申されたが、ここに祈祷にくるまえに、何ぞ呪殺に類するまねはせなんだかときいた」
「…………」
「わしもきみわるくなっての。やむを得ず、あの白山権現の|丑《うし》の時参りのことを言った」
「――そ、それで?」
「すると、その山伏が顔色をかえて、ああ、それはわるいことをした、道理で、護摩のけむりが不吉の相をえがいたわけじゃ、それは、その|呪《のろ》いの人形をとりのぞかねば、かえって当人が死ぬか、または当人がいちばん殺したくない大事な人間が死ぬぞといったが」
「お、おじさん、あたし、これからあれをとってくるわ、ね、いっしょにいって――」
お関はぞうっとして、あわてて立ちあがった。乾坤堂はくびをふって、
「いや、それをきいてわしも|吐《と》|胸《むね》をつかれての。それではすぐに拙者でもいってあの人形をとって参ろうと申したらな。やはりこちらの山伏殿に|魔《ま》|除《よ》けの祈祷をしてもらって除かねば何にもならぬという返事であったが」
お関はたちすくんだ。もういまの山伏に祈祷をしてもらうのはたくさんだった。しかし、それをしてもらわなくては、たいへんなことになる。――
途方にくれている娘の肩を、乾坤堂はたたいた。
「とはいうものの、わしもどこまでそれを信じてよいやらわからん。お関さん、とにかくかえろう。そして今夜は何もかも忘れて寝るがいい。明日また権現前の辻においで。そこで、もういちどわしと相談してみようじゃないか」
しかし、お関はその夜、乾坤堂と別れてから、ひとり白山権現の森に入っていった。
キキキキ……と夜の鳥が鳴く。森が遠くから、重々しくざわめいてくる。そのたびに彼女は、全身を棒みたいにして立ちどまった。恐怖のために、口から何か吐き出しそうだ。まえに、ここに白衣を着、あたまに|蝋《ろう》|燭《そく》をともして、ひとりで七日間もかよってきたじぶんが信じられないほどであった。あのときは、いっしんに思いつめていたから、その恐怖を感じなかったのだ。
しかし、お関はいまも思いつめている。そういう彼女の性質なのだ。けれど、きたのはまえとはちがう目的だった。というより、あの丑の時参りの罪を消すためだった。あの人形をとり除かなければ、じぶんが死ぬか、大事な人が死ぬといった。大事な人とは、父だろうか。それとも大好きな千代吉だろうか。その人形をとり除くときに、あの山伏の祈祷が必要だそうだが、それはいやだ。だいいち、一刻も待ってはいられないというのが、十七歳という娘の考えだった。そのくせ彼女は、あの玄妙法印がそういったという言葉を信じていたのである。あの祈祷の|凄《すご》さに圧倒されたせいもあるが、そもそも丑の時参りをするくらいだから、そういうものをひどく信じ易いたちだったのだ。――それで彼女は、恐ろしいのをねじ伏せて、ふたたび森の中へやってきた。
このまえ来たころは、月がなかったが、いまは満月にちかい。木の間をもれる|蒼《あお》|白《じろ》い月光に、見おぼえのある|樹《き》の幹に浮かびあがった|菅《すげ》の人形をみつけ出したとき、お関は顔を覆って、いちどかがみこんだ。
しかし、やがて彼女は立ちあがって、それをはぎとるのにかかった。が、それは無数の釘で打ちつけた人形だ。釘ぬきももってこない彼女は、力ずくでそれをむしりとろうとしたが、やがて|生《なま》|爪《づめ》をはがして、指さきを血まみれにしてしまった。それも気がつかず、夢遊病者みたいにその作業をつづけているお関の耳に、どこからか、ぶきみな声がきこえてきた。
「のうまく、さんまんだぼだなん、まか、むたりや、びそなきやてい、そばか。……なむ、にけんだ。なむ。あじゃはた、そばか。……」
はじめ、じぶんのあえぎのためわからず、次に耳鳴りか、それとも錯覚かとぎょっとなり、最後にうしろをふりかえって、お関はほとんど気絶したようになった。
そこに、いたのである。何者かが――白い人間の姿が。――
それは、ひるまのあの白い頭巾をかぶった玄妙法印その人であった! よろめいて、木にぶつかり、そのままうずくまってしまった娘を、じっと見たまま、白い修験者は、重々しくとなえつづけた。
「なうまり、さらば、たたきやていびやり、さらばた、せんだ、うんき、ききき。……」
声が、しみいるように|止《や》んだかと思うと、彼はソロソロとあゆみよってきた。そして、呪いの人形のまえに立つと、いきなり、その手から白いひかりがほとばしって、人形はばさっと二つに裂けた。戒刀でぬきうちに切ったのである。
「娘。……」
と、彼は呼んだ。呪文以外にはじめてきく|陰《いん》|々《いん》たる声音だ。お関は、声もない。
「ひるま、うぬのつきそいの男に、わしが申しつたえさせたことをきかなんだか?」
「き、ききました。……」
「きいて、なにゆえ、断りもなくかようなまねをしたか」
「ゆ、ゆるして下さい、あたし……」
「かようなこともあろうかと、きてみればこうじゃ、わしがいま祈ってやらなんだら、うぬが抜く釘は、たちどころにうぬののどぶえに刺さったところだぞ」
お関はかっと眼を見ひらいて、玄妙法印を見つめたままだ。さすがに、たったいちど祈祷の依頼にいったばかりの、あたしのような小娘に、どうしてこう執念ぶかく――いや親切に、この|謎《なぞ》の山伏がつきまとうのかという疑問がわいた。
すると、玄妙坊は、その心中を見すかしたように笑った。いや、その顔は頭巾につつまれていたし、月を背に、森の中でははっきり見えなかったが、あざ笑うような声の調子で感じられたのだ。
「娘、不審に思うか。それはうぬが玄々教の|功《く》|力《りき》の|宏《こう》|大《だい》無辺なことをまだ知らぬためじゃ。ひとたびわが門をくぐったものは、すべて玄々教の信者、その数が幾千幾万あろうと、一人一人にわしの眼ははなれぬぞ。その信者にかかる迷い、呪い、悲しみの雲がはれるまではな」
「…………」
「おまえには、まだ不祥の雲がかかっておる」
声が急にやさしくなったが、かえっていっそう恐ろしい余韻をおびた。
「それは、丑の時参りをしたり、また勝手にその呪いの人形をとりのけようとしたりしたことから起ったのではない。それ以前から、おまえの頭上に悪い星が出ておるのじゃ。母親が死んだのもそれ、父が|《らん》|惰《だ》になったのもそれ、むごい継母がきたのもそれじゃ」
お関は、ふるえ出した。そうか、あたしの|不倖《ふしあわ》せはそうだったのか。――
「ど、どうすればいいのです?」
「されば、その星をわしが追いはらってやろうとしたのじゃが、お前が要らざることをしたせいで、兇星はなおしばらくお前の運命からはなれぬ。――」
「…………」
「娘、わしを信じるか?」
「し、信じます」
「信じるなら、いおう。これから十日ばかりのあいだに、お前の身辺に五つの事件が起る。お前の愛し、信じるものが、四たび血をながす。いや、案じるな、決してだれも死にはせぬ。ただ五度めには――」
白頭巾は、くびをかしげた。しばらく沈黙していたが、ややあって少し困惑したような声で、
「五度めにも血はながれるが……これは生命にもかかわるかもしれぬ」
「それは、だれです。何が起るのですか!」
「わからぬ。わしにも、今はわからぬ。待て」
といって、玄妙法印は月をあおいで、また例の妖しい呪文をとなえはじめたが、やがてふりむいて、厳粛な声でいった。
「いいや、それを避けてはならぬ。恐れてはならぬ。五たびめも血をながせ!」
「え?」
「その血をながすことによって、お前はまったく悪い星からのがれることができるのじゃ。その血をながすものが、よし|誰《だれ》であろうと……娘、おそれずに、その人間から血をながさせろ。……」
そして、茫然と立ちすくんでいるお関のまえから、その奇怪な山伏の祈祷者は、|妖《よう》|々《よう》と|木《こ》の|下《した》|闇《やみ》へ消えてしまった。
ほととぎすが、月明りの空を鳴いてすぎたとき、彼女はわれにかえった。いままで、悪夢をみていたような気がした。しかし、はっとわれにかえっても、やはり真夜中の森の中だ。そして、あの|菅《すげ》の人形は、まっぷたつに切れている。夢ではない。――突然、お関はこけつまろびつ、逃げ出した。
じぶんの身辺で、五たび血がながれる。しかも、じぶんが愛し、信じるものの血が。――
そんなことが、ほんとうに起るのか?
お関は、息をこらして待った。それなのに、一番めの事件が起ったとき、しばらく彼女はそのことに気がつかなかった。
その予言をきいてから三日めの夕方、可愛がっている飼犬のフクが、かなしげな鳴き声をあげてかえってきたのである。千代吉がそれを見つけて、抱きあげて腹をたてた。
「どこの小僧だ? ひでえことをしゃあがる!」
「千代吉、フクがどうして?」
「ごらんなせえ、片眼をつき刺されていまさあ、ちくしょう、いたずらにしてもむごすぎる。これ、フク、下手人の名を言え、おれがかたきをとってやるから、よ!」
「まあ、フク、フクや可哀そうに!」
かけよっていったお関は、犬を抱きしめて、声をあげて泣き出した。
犬の片眼からながれる血潮で、彼女の手はすぐに真っ赤になった。――その血に気がついて、突然ぎょっとしたのである。あの山伏の声が、耳をかすめたのだ。血をながす。お前の愛するものが血をながす!
彼女は、フクをつきのけ、顔色をかえて立ちあがっていた。人間ではなかったから、とっさには気がつかなかったが、ひょっとしたら、これがあれではないか?
千代吉はびっくりした。
「ど、どうなすったんで?」
お関は、ケタケタと笑い出した。
「人間ではなくってよかったわ。これからの四つも、こんなことかしら? まあ、人間だとばかり思ってたから、あたし、どんなに心配したか。……」
「な、なにをいってなさるんだ。人間じゃないからよかったって? じょうだんじゃねえ、犬だってこんなむげえ目にあわされちゃたまらねえ」
と、千代吉は顔をまっかにしたが、ふっとけげんそうにお関をみて、
「これからの四つも? そりゃなんのことですね?」
お関はまだ笑いがとまらなかった。そして、あの山伏のことを千代吉にいう気になった。実はあれからまた乾坤堂をたずねたことや、山伏寺へいったことや、その夜のことなど、千代吉にいうとひどく怒られそうで、いままでだまっていたのだが、ひとり胸のなかでなやんでいるにはあまりにも恐ろしく、それでなくてさえ訴えたくてたまらなかったところに、いま予言どおりに起った一番目の流血事件が、意表に出てばかばかしいものだったので、つい笑いとおしゃべりがこぼれ出したのだ。
あきれたようにお関の白状をきいていた千代吉は、はたせるかな、怒り出した。
「な、なんて、ばかげた――」
「でしょ? ほんとにあたし安心したわ。二番めは猫で、三番めは鶏かもしれない」
「ばかげてるのはお前さんですよ。お前さんはほんとにいい娘さんだが、妙なことを真顔で信じるくせだけァいけねえ。こないだあっしが、あれほどよくいってきかせたのに、まだそんなことをしていなすったのか」
「え、だって、その……玄々教って、ほんとに大したものよ。お前、いっぺんのぞいてきてごらんよ、あたしが気にかけたのもむりはないと思うから」
「まだあんなことをいってなさる。へっ、玄々教のことァあっしもきいてまさあ。どうせ世間の馬鹿から金をまきあげるインチキ野郎どもだと思っていましたよ。それにしても、寺でおがむだけならまだしも、こんな娘さんのあとを白山の森の中まで追っかけて、縁起でもねえ世迷い言を吹きこむたァ、とんだ執念ぶけえ野郎だな。こりゃ、なんかほかに目あてがあってのことだな」
「ほかに目あて? あたしをつかまえて、どんな目あてがあるというの?」
千代吉はまたお関をみて、不安らしい表情になり、それからくびをかしげてひとりごとをいった。
「それァわからねえが、とにかく、捨てちゃあおけねえ。……」
それから三日ばかりたって、二番めの予言が的中した。千代吉が血まみれになって、戸板でかつぎこまれてきたのである。
「千代吉! 千代吉!」
ふたりが恋し合っている仲だということを、公表するにひとしい声をお関ははりあげた。継母が眼をひからせるのがわかったが、お関は意にも介しなかった。
「千代吉のばか! だれと|喧《けん》|嘩《か》してきたの、千代吉!」
「へえ、山伏とね」
血だらけの中から、千代吉はニヤリと白い歯をみせた。
「えっ、お前、山伏寺へいったのかい?」
「あんまりひとをばかにしやがるからね。きょう吉祥寺裏へいって、西も東もわからねえ娘さんに、妙なまじないをかけるなあよしてくれと談じこんだら、ちくしょうめ、そんな娘は知らねえとそらッとぼけやがる」
「あたしを知らないって――あの玄妙さまが」
「玄妙だか玄米だかしらねえが、あっさり白状すりゃいいものを、あんまりぬけぬけと強情をはりゃがるから、つい腹をたててね、ぽかりとやったら、いや怒り出したのなんの、ほかの|鴉天狗《からすてんぐ》どもをよびあつめやがって、よってたかってのあげくのはてがこのざまでさあ」
怒るのも、泣くのも、千代吉を介抱するのも忘れてお関は宙に眼をすえていた。
これもまた玄妙法印の予言のとおりの出来事だろうか。二番めに血をながしたものが、玄々教自身の手によるとは、あんまりではないか。
しかし、彼女の心をうばっているのは、そんな原因よりも、ただこの事実そのものだった。そうだ、ほんとうにじぶんの愛するものが、またもや血をながした! しかも、犬でも猫でもない、こんどはたしかに人間が。
それじゃあ、三番めに血をながすものは、いったいだれだ?
五たび血をながせ
三番目に血をながしたのは、実に意外な人間であった。
お関は、山伏寺のくずれかかった山門の外で、その人間があたまをおさえ、その手から顔にダラダラと血をながしながら、よろめいてくるのを、|真《ま》っ|蒼《さお》な顔で見つめていた。
――千代吉の事件があったあと、彼女は思いあまって、白山前の|辻《つじ》にいって、乾坤堂に相談した。乾坤堂は、あの晩お関がひとりで権現さまの森の中へいったことはむろん知らないから、話をきいて、眼をまるくした。
「なに、玄妙法印が森にあらわれて、おまえにそんなことを言ったと?……そして、五度血がながれると予言したと?」
彼はくびをかしげた。
「|解《げ》せぬ。お前さん、夢でもみたのじゃないか?」
「そ、そんなことはありません。そしてそのとおり、フクが片眼を刺され、千代吉が血だらけになってかえってきたんですもの!」
「フクは犬じゃろ? 千代吉は当の玄々教のために|袋叩《ふくろだた》きになったのじゃないか」
「だって、血のながれたことにまちがいはないんです」
「そういえば、そうじゃが……もし、それがほんととすると、わしはお前さんをえらいものにつれていったわけじゃな。玄妙法印がそんなことをしたり、いったりするとはとうてい信じられんが、いや、こんなことをくりかえしていてもきりがない。よし、わしがたしかめにいってこよう」
「乾坤堂のおじさん、あの山伏さまを、どうぞ怒らせないで……」
「なに心配するな、千代吉とはちがう、わしにも責任がある。まことならば、それはとんでもない、邪教じゃ」
そして彼は、それにしてもあれほど|帰《き》|依《え》者が雲集していては、きょうこれからは近よりがたい。明日早朝にいってみよう。それにしても、念のため、お父っさんによく気をつけてあげるがいい――といいかけて、
「そうだ、玄妙法印は、お前さんの愛するもの、信じるもの五人が血をながすといったとな。まあお前さんのいうとおり、そのうち犬と千代吉がそんな目にあったとする。それ以外に思いあたる者は?」
お関は、じぶんの愛するもの、信じるものをさがした。
「お父っさんのほかには、思いあたるひともないけれど……」
「それごらん。それだけでも、玄妙坊のいったことはだいぶあやしい。ともかくあしたいってみよう」
こういうわけで、その翌日の朝はやく、乾坤堂とお関は山伏寺をおとずれたのである。
「お前さんはここで待っておれ。わしがまずかけあってみる」乾坤堂にそういわれて、お関は山門の外で待っていた。
そして彼女は――まだ信者があつまらず、白じらとした境内に――その乾坤堂が、あたまをおさえ、顔を血にそめてにげ出してくるのを目撃したのである。
「やられた! やられた!」
と、乾坤堂は、お関のそばにくると、はじめて悲鳴をあげた。
「恐ろしい奴じゃ! わしは見そこなった! にげよう、はやくにげよう」
と、彼はお関の手をつかんで、石段をかけおりた。
そして吉祥寺前の大通りに出てから、やっと|手《て》|拭《ぬぐ》いであたまをおさえ、
「|斬《き》られたのではない、あの|瘤《こぶ》山伏めに、|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》でなぐられたのじゃが、これァひどい血じゃな。……うんにゃ、玄妙法印はおらぬとよ、あれは毎晩、この寺には寝ず、朝よそからかえってくるそうじゃ。白山にあらわれたは、まさしく玄妙坊に相違ない。……お関とは、祈祷中に気を失ったあの娘か、と瘤山伏はいって、きのうきたあの理不尽な若僧も、うぬとおなじようなことをいっておった。魔天をおそれぬ|不《ふ》|埒《らち》者めが、きのうはきゃつのために呪殺の護摩を|焚《た》いたが、うぬもおなじ目にあいたいかっと、|咆《ほ》えおった。……」
乾坤堂は、話の前後もとぎれとぎれに、|昂《こう》|奮《ふん》してしゃべった。
「えっ、千代吉を、呪殺……」
「それで、あんまりじゃから、わしものぼせてな、このような邪教はお|上《かみ》に訴えてやる。玄妙坊が夜な夜などこへ出かけるか、それもわしの占いでわかっておるぞ、むやみに善男善女をおどすのをだまってみてはおれんと申したら――」
「おじさん、玄妙さまがどこへ出かけるのか知ってるの?」
「そんなこと、知るものか。そういってやったら、向うは真っ蒼な顔色になって、いきなり、があん、じゃ。わしは腹をたててな、やりおったな、もうこうなったら、あくまで玄妙坊に話をする。もし、話をしたければ、当の玄妙坊がわしのところへわびにこい――といってやった」
「そ、それで?」
「すると、むこうは金剛杖をおさめて、うぬのうちはどこじゃときくから、今夜|丑《うし》の刻、白山権現の森の中へこい、そこでとっくり談合じゃ、とわめいたとたん、はじめてあたまからながれてきた血に気がついて、急に恐ろしくなってにげてきたのじゃ」
お関は、このときはじめて、乾坤堂があの予言の三番めにあたるのではないか、と気がついたのである。これほど親切な町の占い師、これこそあたしの愛し、信じる人のひとりではないか!
「もし玄妙法印が、わしの伝言をきいておったまげたら、きゃつはきっと今夜白山権現にくる。きたら、それだけで、きゃつがまやかし者であることを白状したも同然じゃ。わしがうんととっちめてやる。……」
乾坤堂は、ひとりでりきんだ。
「お関さん、今夜丑の刻、白山前の辻においで。わしといっしょに権現さまの森へいってみよう」
鉛色の顔になっているお関に気がつく余裕もなく、彼はうめいた。
「しかし、痛いのう。ううむ、ちくしょうめ、だんだん痛みが加わって、あたまがわれそうじゃ。……」
そして乾坤堂は、路ばたの草の朝露の中に、ペタンと坐ってしまった。
またお関は、権現の森の中へ、やってきた。――
きたくなかった、それは吐き気をもよおすほど、こわかった。けれど、お関はこずにはいられなかった。
ひとつには、その日かえってみたら、千代吉が高熱を出していたためである。袋叩きになってもどってきたときには、案外元気に口をきいたのだが、その日になって高熱を出したということは、打身の特徴かもしれないが、お関は山伏寺の呪殺を思わずにはいられなかった。
ふたつには、乾坤堂が待っているかもしれないという責任感のためである。あんなにひどい目にあったおじさんが、せっかく玄妙坊にかけあってくれるというのに、こわいからといって、じぶんがゆかないわけにはゆかない。――とはいえ、ほんとうのところは、お関がすでに玄妙坊の予言に、完全に|憑《つ》かれてしまっていたのである。
その証拠に、待っていてくれるはずの乾坤堂が辻に姿をみせなかったのに、彼女はひとりで白山権現に上ってきた。だいぶ待ったが、待ちくたびれて、朝、乾坤堂があたまをかかえてひどく痛がっていたのを思い出し、ひょっとしたら、おじさんはのびてしまったのかもしれないとかんがえて、トボトボとひとり森の中へさまよいこんできたのである。
丑の刻はすでにすぎていた。――果然、玄妙坊は、白い幻影のように立っていた!
「ほ、お前がきたのか?」
と、彼は例のしゃがれ声でいった。
「|玄《げん》|光《こう》|坊《ぼう》からきいた。あの乾坤堂とか申す|売《ばい》|卜《ぼく》|者《しゃ》はどうしたか」
玄光坊とは、あの瘤のある山伏のことだろう。お関はふるえながらこたえた。
「知りません、どうしたのか――きっと、いっしょにきてくれるという約束だったのに」
「きて、わしに何をいおうとするのか。……玄光坊からきいたところによると、乾坤堂は、玄々教を邪宗だの妖教だのと|雑《ぞう》|言《ごん》申したそうじゃな。乾坤堂のみではない。うぬはそのまえにも職人態の若者をよこして、わが宗門に|強請《ゆすり》がましきふるまいに及んだな。まだ乳くさい小娘の身を以て、さりとは見かけによらぬ不敵な奴」
「いいえ、いいえ、千代吉も乾坤堂のおじさんも、あたしがたのんでゆかせたのじゃあありません!」
お関はあとずさりしながら、必死にさけんだ。
「娘」
白頭巾の怪教祖は、音もなく二歩三歩あゆみ寄った。
「七日まえ、わしがここで予言したのをお前は信じないのか」
声が笑った。
「お前の身のまわりで、五たび血がながされるということを。……すでに一番め、犬が血をながした。二番め、千代吉が血をながした。三番めには、乾坤堂が血をながした。……」
「ゆるして下さい。……だから、あたし、あやまりにきたんです」
「あやまる? わしにあやまって何になる。それはお前の運命じゃ。それとも、あれはみんな、わしの仕業とでも申すのか。犬の眼を刺したのも……」
お関はぎょっとした。玄妙法印の言葉も言葉だが、それよりもその声の調子がなぜか急に破れたような感じに変ったのに、本能的な恐怖をおぼえたのである。
「四番めにも、血はながれるぞ!」
白頭巾の腕が、ヌーッとのびてきた。
「あっ、たすけて!」
半分すでに気を失ったようになっていたお関が悲鳴をあげたのは、その腕がくびにまきついたということより、もう一方の腕が彼女のきものの|裾《すそ》にかかったからであった。
「これ、あばれるな、ほう、もう一人前の|乳《ち》|房《ち》をしておるではないか」
それから何が起ったか。――十七のお関を、いままでのどんなに|辛《つら》い、恐ろしいことよりも――継母の|折《せっ》|檻《かん》、丑の刻参り、山伏寺の祈祷、それからあとのさまざまの怪事件よりも幾千倍かの、想像も絶する|驚愕《きょうがく》にみちた出来事が襲った。
恐れていたくせに、この玄妙坊がそんな行為に出ようとは、まったく予想もせずにひとり深夜の森へやってきたのは、やはり十七という|稚《おさ》なさのせいであったろうか。|凄《すさ》まじい抵抗は、男の凶暴な力で、むざんにふみにじられた。残忍きわまるふるまいに出ながら玄妙法印はとなえつづけていた。
「おん、はばまく、のうぼばや、そわか。……おん、ばさら、ぎに、ばら、ねんばたな、そわか。……」
そしてお関は、下腹部に異様な|疼《とう》|痛《つう》をおぼえた瞬間から、気を失ってしまった。
――しかし、あとでかんがえると、それでも彼女はかすかにおぼえているのである。
「どうじゃ、四番めにながれた血を、とくと見ておけ……」
そういって、ゲラゲラ笑いをあげながら、|朽《くち》|葉《ば》をふんで遠ざかっていった男の|跫《あし》|音《おと》を。――
お関が気がついたとき、彼女は全身|蒼《あお》い冷たいひかりにぬれていた。明けやすい初夏の朝が、森の中へせまっていたのだ。彼女はまるで高いところから大地へたたきつけられたような姿で横たわっていた。――身をうごかせて、下腹部にまた火傷のような疼痛をかんじたとき、彼女はあの吐き気をもよおすような山伏の笑い声を思い出したのである。
お関は、がばと身を起した。蒼いひかりのなかに、二本の足はむき出しになって、白い|雌《め》|蕊《しべ》のようにおしひらかれたままであった。そして彼女は――そのあいだにながされた「四番めの血潮」を、うなされたような眼で見出したのである。
まだ|人《ひと》|気《け》もない夜明けの町を、お関は半病人みたいにかえってきた。
「お関さん」
ふいに呼びかけられて、顔をむけ、お関は眼を見はった。家の門口に、ボンヤリと千代吉が立っていた。
「またお前さんがいねえと婆あがいうんだ。心配でならねえものだから、ここで待っていたんだが……」
その顔の蒼白さは、心配ばかりではない。たしか千代吉は、お関がうちを出るまえ、高熱でウンウンうなっていたはずだ。――しかし、そのこともわすれて、お関は夢中で、わっと泣きながら、千代吉の胸にとびこんだ。
「お関さん、どうしたんだ」
「千代吉、くやしい!」
身もだえするお関の髪はみだれ、きものはズタズタに裂けている。むき出しになった蒼白い肌を抱いて、ためらうよりも、千代吉はふるえ出した。
「こ、この姿は――お関さん、ど、どこへいってたんだ」
「あの、山伏のところへ」
「そ、そして、何をされたんだ?」
「ち、千代吉! あたし、死にたい!」
しがみつくお関を、千代吉はいきなりつきとばした。あおむけにひっくりかえったお関は、生まれてはじめて千代吉の恐ろしい顔をみた。しどけないお関の姿を、かっとにらんでいる千代吉の眼は、憎悪の火にもえていた。
「ち、ちくしょう!」
彼はうめくと、身をひるがえして、家の中へとってかえし、すぐにとび出してきた。その手に、|出刃庖丁《でばぼうちょう》がにぎられている。
「あたしを殺すの、千代吉、ええ殺して!」
「お前さんを殺すのは、あいつをやっつけてからあとのことだ」
裾をまくってかけ出す千代吉のうしろ姿を、|茫《ぼう》|然《ぜん》として見送っていたお関は、すぐに「あいつ」とは誰のことかと気がついて、
「あ、待って!」
と、さけびながら、そのあとを追った。
待って、といったのは、玄妙坊を殺すなという意味ではなかった。千代吉の|憤《ふん》|怒《ぬ》をみて、彼女の心にも炎のような殺意がたぎってきた。そうだ、殺しておくれ、千代吉、あいつを殺しておくれ!
ところで、千代吉が|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》みたいにはしってゆくのは、白山権現とは逆の吉祥寺の方角だった。これはまだお関が白山にいってきたとはいっていなかったから当然で、お関はそのことに気がついたが、すぐに玄妙法印がもう権現の森にいるわけはない、きっと寺にかえっていると考えた。
その玄妙法印を見出したのは、あの山伏寺の石段の下であった。どこからかかえってきた|駕《か》|籠《ご》がそれとは気づかず、千代吉は石段をかけあがろうとしてよろめき、肩で息をしたとたん、その駕籠から出てきた人間の姿に眼をやって、彼は立ちすくんだのである。
真っ白な|頭《ず》|巾《きん》をかぶった男――玄妙法印その人にまぎれもない!
「いやがったか!」
絶叫して、千代吉は出刃庖丁をふるっておどりかかった。
突然のことで、玄妙坊は「あっ」と悲鳴をあげて身をそらしたが、ふりおろした庖丁にかすめられて、頭巾がさっと裂けた。が、頭巾を裂いただけで、千代吉は駕籠にぶつかった。庖丁は駕籠の屋根にくいこんだ。
千代吉が庖丁をぬくのと、うしろから駕籠かきのひとりが、「野郎っ」とわめいてくみついたのが同時であった。庖丁は千代吉の手からはなれて、大きくうしろへとんだ。
「なんだ、うぬは――」
駕籠かきがねじ伏せた千代吉を、もうひとりの駕籠かきが、|息《いき》|杖《づえ》でなぐりつけた。千代吉はもがいたが、すぐに地に|這《は》った。彼はまだ高熱のある病人だったのだ。
「狂人か?」
玄妙坊は、あきれたようにその姿を見おろして、
「たわけた奴じゃ。自身番へつき出せ」
と、冷たくいいすてて、片手で裂けた頭巾をおさえ、石段をのぼりにかかった。
十|間《けん》ほどおくれてはしってきたお関が、その庖丁をひろいあげた。しかし玄妙坊も、千代吉をなぐりつづけている駕籠かきも気がつかなかった、いや、跫音にふりむいたが、そのときお関は庖丁を|袖《そで》のかげにかくしていたし、十六、七の小娘なので、意にも介しなかったようだ。
じぶんをちらっと見ただけで、そしらぬ顔で石段をのぼってゆく玄妙坊に、お関の血は逆流した。そのくせ、あの声が、あたまのおくを暴風のように吹きすぎたのである。「五たび、血はながれる。……その血をながすことによって、お前は悪い星からまったくのがれることができるのじゃ。その血をながすものが|誰《だれ》であろうと……娘、おそれずに、その人間から血をながさせろ。……」
石段を四、五段のぼった玄妙坊は、はしりよってくるお関をもういちどふりむいて、
「うぬも、何じゃ」
と、いったが、こんどは身をかまえもしなかった。そのわきばらに、お関はいきなり出刃庖丁をつきとおした。
「わあっ」
ひっ裂けるような声をあげ、玄妙法印は石段の下にころがりおち、のたうちまわった。血の海のなかに、頭巾がいっそう大きく裂けて、顔がむき出しになった。
ふたりの駕籠かきは、あっけにとられたようにこれをみていたが、玄妙坊の顔がみるみる|藍《あい》|色《いろ》に変ってゆくのをみると、奇声をあげてとびあがり、
「人殺しっ……人殺しだあ」
と、さけびながら、息杖もほうり出し、こけつまろびつにげていった。
それをちらっとみて、お関はつぶやいた。
「これでよかったんだわ。……千代吉が人殺しにならなくって、よかったわ。……あたしが殺すのがほんとうだったんだわ。……」
その手から、血まみれの庖丁がおちた。
「きっと、これからいいことがあるでしょう。……」
夢遊病みたいなまなざしで、お関は見おろした。玄妙法印は息絶えていた。
意外なばかりに若い顔だ。まだ二十代だろう。しかし総髪にして、|頬《ほお》|骨《ぼね》のとび出した顔は、みるからに|奸《かん》|悪《あく》そうで、そして――おのれの予言のとおり、五番めに血とともに|生命《いのち》をもながし出してしまったこの教祖のひたいには、「玄妙」と彫った|刺《いれ》|青《ずみ》の文字があった。
――女囚お関の話は終った。
これが、|淫祠邪教《いんしじゃきょう》にまどわされ、身をけがしたあげく、正気をうしなってその教祖を殺害し、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される迷信ぶかい少女の物語であった。
「それで、千代吉はどうして?」
と、お竜がきいた。
「死んだの」
「え、死んだ?」
「熱があるところに、またひどくぶたれて……それより、あたしが人殺しになってつかまったので、それがひどくこたえたらしいの。医者もうけつけず、御飯もたべず、やせおとろえて、あたしがつかまってから三日ほどのち、お関さんのばか、お関さんのばかといいながら、死んじまったそうよ。……あたし、ほんとにばかだわ、五番めの血がながされても、星はちっともよくならなかったけれど、それがあたりまえだわ……」
|夕《ゆう》|闇《やみ》のせまってきたおんな牢のなかに、くびもおれるほどうなだれたお関のひざに、滴々と涙がおちている。
「あの銀かんざしは、いつか千代吉が買って、そっとあたしにくれたものなの。……」
おさない悲恋の想い出のみを|可《か》|憐《れん》な胸にいだき、死を覚悟したその哀れな少女の姿を、姫君お竜はじっとながめていた。
「そう」
と、お竜はつぶやいて、ちょっと絶望的な|溜《ため》|息《いき》をついたが、すぐに顔をふりあげて、
「可哀そうに、お関さん。……でも、それで死罪や|斬《ざん》|罪《ざい》になるのは、すこしあんまりじゃない? わるいのは、あなたを迷わせ、乱暴をしたその玄妙法印なのだから、それをお奉行さまはくんでくれなかったのかしら?」
「それが、玄妙法印はあたしに何もしなかった――するはずがない――と、弟子の玄光坊がお白州で申したてたの」
「え、どうして?」
「あたしが白山の森の中であんな目にあった夜、玄妙法印はずっとよその|或《あ》るうちにいた――というんです」
「どこに?」
「よそにお|妾《めかけ》がかこってあったというの」
「へえ? そりゃへんだわね、それがほんとだとしたら、たいへんなことだわ、それは……」
「あたしには、そんなことは信じられない! でも、それどころか玄光坊は、最初あたしを|祈《き》|祷《とう》したこと、千代吉がわけのわからぬいいがかりをつけにきたことはおぼえがあるが、あとは、あたしなど、いっさい知らないと申したてたんです」
「すると――森の中の予言はもちろん、犬を刺したり、乾坤堂を金剛杖でぶったことも知らないというのね」
「そうなの……ひどいわ……」
「それじゃあ、乾坤堂さんに|証《あか》しをたててもらえばいいでしょ? 乾坤堂さんはどうしたの?」
「それが、あれっきり姿をあらわさなかったんです。あのとき、ひどく苦しがってたから、病気になったのか、それともあたしが人殺しなどしてしまったので、かかりあいになるのがこわくなっちまったにちがいないわ」
「それだって……それもあんまりだわ」
「しかも乾坤堂とあたしがそんな縁だったということを、ほかに知っているのは千代吉だけだったんです。その千代吉は死んじまって、この世にいない。……」
お関はたえいるように泣いた。
「あたしが、最初、おっかさんを呪い殺そうとした娘だということが、お奉行さまのお心をすっかりわるくしてしまったらしいの。あたしのいうことは、何も信じてくれないの。……それに、何にしても、あたしが玄妙法印を殺したことにまちがいはないのだから!」
お竜はだまって、波うつお関の背をなでていたが、ふっと、
「それで、玄々教はその後つぶれてしまったの?」
「いちじ、しずかにしてたそうだけど、こないだ入牢してきたお|縫《ぬい》さんにきくと、こんどは玄光坊をかしらにして、また山伏寺で祈祷をしているらしいわ」
「そう」
お竜は、壁にもたれて、かんがえていた。
――その翌朝、女囚たちは、美しい口笛の音をきいた。そして、牢の外に、同心の姿がまたあらわれた。
「武州無宿お竜、|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ|罷《まか》り出ませい!」
娘占い師
――山伏寺の庭には、白日の下にえんえんと|薪《たきぎ》がもえていた。
その炎のまわり――本堂の廻縁のあたりから、鐘楼、山門、石段まで群衆がにえこぼれて、みんな|蜘《く》|蛛《も》みたいにひれ伏している。それが、いっせいに、のど[#「のど」に傍点]のおくで、|蜂《はち》のようなうなりをあげている。アビラウンケンソワカ――アビラウンケンソワカ――アビラウンケンソワカ――|南《な》|無《む》|蔵《ざ》|王《おう》|権《ごん》|現《げん》。……
――一年前とおなじ光景である。去年の初夏のころ、この寺にこもる玄々教の教祖玄妙法印が、|市《し》|井《せい》の一少女の発作的兇行で不慮の死をとげ、それを機に彼が町に妾をかこっていたことがばれたり、弟子たちが奉行所によび出されて糾明をうけたりして、いちじ信仰の火もおとろえて門前|雀羅《じゃくら》を張っていたのが、また一番弟子の玄光坊を二代目の教祖として、以前とおなじ不可思議な法力をみせたり、|凄《せい》|絶《ぜつ》な|呪《じゅ》|法《ほう》を行うようになってから、また信者のむれが雲集しはじめたのだ。
「ええいっ」
突然、大きな声がして、もえる松の薪をかこむ|注《し》|連《め》|縄《なわ》がぱっと切りおとされた。
|折《おり》|頭《ず》|巾《きん》をかぶり、鈴掛をき、|袈《け》|裟《さ》のうえから|念《ねん》|珠《じゅ》をたれた|修《しゅ》|験《げん》|者《じゃ》は、戒刀を|鞘《さや》におさめると、おごそかに九字をきり、はだしの足をあげて、熱火の上をふみわたりはじめた。去年まで、これは左耳の下に小さな|瘤《こぶ》のある玄光坊の|行《ぎょう》であったが、彼が新教祖になってから、いまはべつのもっと若い、しかし同様に|精《せい》|悍《かん》な山伏がこの恐るべき法力の具現者であった。
――突然、炎の上の修験者の足がとまった。ほんの二、三度まばたきするほどのあいだであったが、
「|熱《あつ》っ」
彼は|灼熱《しゃくねつ》の鉄板であぶられるいなご[#「いなご」に傍点]のようにはねあがって、浄火の中からむこうへとんだが、そのまま足をかかえて、うずくまってしまった。
何百人かの信者たちは、はっと眼を見はったが、だれも身うごきしなかった。こんなことはいままでになかったし、判断を絶したのである。それに波のような呪文のコーラスがながれていて、いまの悲鳴をきいたものもほとんどいなかった。さらにまた、彼は次の瞬間、ばね[#「ばね」に傍点]みたいに立ちあがって、いつものように|法《ほ》|螺《ら》|貝《がい》を口にあてていたからでもある。
しかし、信者たちには気づかれなかったが、山伏の顔は、苦痛と|驚愕《きょうがく》のためにひんまがっていた。
彼をおどろかせたものは何か。それは浄火のゆくてにひざまずいていたひとりの武家娘だ。いや、信者のなかに武家の子女も少なくないが、彼女の帯のあいだにキラリとひかったものが、彼をびっくりさせたのだった。その女が懐剣のかわりに帯にさしているものが、朱房の十手であることに気がついたとたん、「熱っ」とさけんで彼は炎からとんでいたのである。
これは一種の反射的行為であったが、次の|刹《せつ》|那《な》、彼をもういちどとびあがらせたのは、娘がひざまずいたまま、小声でいった言葉だった。
「お立ち、|鳩《はと》をお呼び。……玄々教の行者がやけどをしたと諸人にみられては都合がわるかろう」
――そして、法螺貝を吹き終った彼の足もとで、ひくい声がいうのである。
「炎を踏んでわたるのを、町の人々がみればおどろくであろう。けれど、もえる松の薪をふみわたるのは、はたでみるほどむずかしいものではない。松炭は灰がたくさんできるものだから、足のうらに砂などしたたかまぶしてこれをふめば、灰と砂をへだてて火はきえかかる。足をあげればまたもえあがる。――その熱さは、あの日にやけた本堂の|瓦《かわら》とさほどかわるまい、いささか修行さえすれば、眼に見たほど難いことではないときいたが、まことかや」
ちょっと応答の声もでない山伏の肩に、|碧《へき》|空《くう》からとんできた一羽の鳩が、はたはたととまった。そして、耳にくちばしをさしいれて、あたかも何ごとかをささやくかのようであった。
「よう飼いならしたな。耳の中には豆が入っておろう」
と、娘がいった。山伏は思わずうめいた。
「うぬは何物じゃ」
「玄光法印の|御《ご》|祈《き》|祷《とう》をうけたい。わたしは八丁堀同心巨摩主水介妹お竜」
山伏は、ぎょっとして足もとをみた。高島田にゆった娘の顔に、春の日があたっていた。素性をきいて、まばたきしたくなるような可愛らしい、あどけない顔だ。それが、にこっとして、
「はやく、わたしの名を呼ばぬと、鳩が豆鉄砲をくったような顔をしているではないかえ?」
それより、山伏は、やけただれた足の裏のいたみにたえかねていた。ふるえ声で、
「八丁堀同心、巨摩主水介どの――」
と、呼んだ。娘はつつましやかに立ちあがった。
「妹御でござるな?」
「はい。――」
本堂にあゆみ出すふたりのうしろに、どよめきが起った。去年あんな騒動があったのに、いまは八丁堀同心の身内の者まで祈祷をたのみにきたのかという感動のためである。
しかし、山伏の心は|動《どう》|顛《てん》している。八丁堀同心の妹が祈祷の依頼にきたことはさておき、さっき鳩や浄火わたりの秘密をといてみせたのは、いったいどういう意図あってのことか。だいいち、帯にはさんでいる朱房の十手はなんのためだ?
「き、祈祷とは、何の?」
山伏はきいた。お竜は平然と、
「|呪《じゅ》|殺《さつ》」
「なに、だれを?」
「去年、ここの玄妙法印を無智な娘に殺させた|傀儡《くぐつ》|師《し》を」
「こ、ここで待っておれ、うごいてはならぬぞ」
と、外陣の外にお竜を待たせて、さきにかけこんでいった山伏は、なかで、何を相談したのか、ややあって、ふたたびあらわれた。
「参れ」
と、呼んだ声も、勢いをとりもどして、のしかかるような|凄《せい》|烈《れつ》さがあった。
ぎぎぎぎ……とうしろで|唐《から》|戸《ど》がしまる。ほのぐらい外陣のなかに入って、お竜はぐるっとまわりを見まわして、空中にもえあがる|陰《いん》|火《か》をうけて蛇の肌みたいにうすびかる円柱のかげに、じっとこちらを見ているものと眼があった。
三つ脚の台にのっている美しい女の生首だ。脚のあいだには、香炉がるる[#「るる」に傍点]とけむりをはいていた。
「これは、玄光法印の修法により、黒縄地獄の底から救抜された女の首じゃ。見よ、法印が呪法のありがたさ、恐ろしさを。――」
と、山伏はお竜をふりかえってから、そばの経机にのっている|碁《ご》|笥《け》のふたをひらいて、なかに黒白いりまじってぎっしりとつまっている碁石を、まず右手で、次に左手で、思うままにとるようにお竜に命じた。
お竜は右手をひらいて、その石の数が、黒六つ、白三つであることを見た。
「|南《な》|無《む》、青面|金《こん》|剛《ごう》、天竜|荼《だ》|枳《き》|尼《に》|天《てん》、右方の石数を告げたまえ。――」
「南無、青面金剛、天竜荼枳尼天、黒六つ、白三つ。――」
と、みごとにいいあてた。
お竜は左手をひらいて、黒二つ、白五つであることを知った。
「南無、|鬼《き》|子《し》|母《も》|神《じん》、|氷《ひ》|迦《か》|羅《ら》|天《てん》、左方の石数を告げたまえ。――」
「南無、鬼子母神、氷迦羅天、黒二つ、白五つ。――」
山伏が、どうじゃ、という表情で、
「すべて、これ、法印の御力の顕現でござる。――」
と、おごそかにいいかけたとき、お竜はくつくつ笑い出した。
「そんな法力なら、わたしもちゃんともっているぞえ」
「な、なに?」
「青面金剛とは六つ、天竜荼枳尼天とは三つ、鬼子母神とは二つ、氷迦羅天とは五つの合図であろう。神仏の名を以て数の隠語とし、こちらでおまえがのぞきこんでむこうに知らせれば、御苦労にはるばる黒縄地獄の底からくる人を待たいでも、だれにでもわかります」
かるく言ってのけられて、山伏が口をぱくぱくさせて眼をむいたままなのを、ふりかえりもせず、お竜は手にしていた碁石をピューッと投げた。
――と、生首ののっていた台の脚のあいだに、何やらもののくだける異様な音がひびいて、ぱっと香炉がきえ、同時にキラめく破片が四方に散乱した。そして、そのかわりに、台の下にかがんでいる女の胴があらわれた。
「おほほほほほほ」
笑うお竜の眼のまえで、女の生首はニューッと宙に舞いあがって――いや、台に穴をあけ、そこから首だけのぞかせていた女は、|狼《ろう》|狽《ばい》して立ちあがって、にげかかる。首の下に台をつけたその|恰《かっ》|好《こう》をみれば、お竜ならずとも笑わずにはいられないが、山伏の|形相《ぎょうそう》は笑うどころではない。
「あっ、こ、こやつ、何をいたすっ」
「鏡をこわしてみただけです。三脚の台にあのとおり穴をあけて首を出させ、その脚に三面の鏡をはれば、鏡はあらぬかたの暗い壁と香炉をうつし、遠目にはまるで胴なしの首とみえようが――それにしても、こんな子供だましのからくりで、町の人々をまどわし、その魂と財宝をまきあげるとは、それこそほんとに地獄におちる罪とは思わぬかえ」
山伏はとびかかろうとしたが、足の裏のいたみによろめき、ふいに背をみせて、内陣の方へはしった。
「各々――お出合い下さい! 無法者でござる!」
と、こけつまろびつ、唐戸にしがみついて、
「法印どの、仰せのごとくとりはからいましたが、きゃつ、心服いたすどころか、破壇のふるまいに出てござる。お出合い下さい!」
と、絶叫した。
ふつう内陣外陣のあいだに仕切りはないが、この山伏寺では、|或《あ》る必要からそれが設けてあった。すなわち内陣でもえる護摩の炎が、鏡の秘密を暴露することをおそれたのである。その唐戸がひらいて、護摩壇のうえにすっくと白頭巾が立ちあがるのがみえた。まわりの修験者たちも、いっせいに騒然となる。
「八丁堀同心の妹と申したな」
と、白頭巾が、ふるえ声でいった。
「うぬはいったい何しにきたのか。祈祷をねがって入りこみ、わが玄々教の聖壇をけがすに|於《おい》ては、そのままには捨ておかぬ。たとえ町奉行といえども、|調伏《ちょうぶく》の修法にかけるぞ!」
「おおこわい、左様にお奉行さまにつたえておこう」
と、お竜は胸を抱いて笑った。
「こんなこけおどしの邪教、大山師どもの宗門を、大目に見のがして下されたお奉行さまにつたえたら、さぞくしゃみをなさることであろう。それほど玄々教をごひいきあそばすお奉行さま、なかなか調伏になどかけてすむものか、きけ、去年不慮の死をとげたまえの玄々教祖の玄妙法印の下手人を、一年御探索の|甲《か》|斐《い》あって、このたびそなたらにおしえてやれと、わたしをさしつかわされたぞえ」
「なんじゃと? 玄妙法印殺害の下手人?」
白頭巾はすっとんきょうな声をあげた。
「それは|塗《ぬ》|師《し》|屋《や》の小娘とわかっておるではないか」
「おお、いかにも玄妙法印を刺したのはお関じゃ。しかし、刺させたものはほかにある。うしろであやつった|傀儡《くぐつ》|師《し》がある以上、だれがあわれな人形のしわざを責められよう」
「傀儡師? それは、なんのことじゃい」
「されば、迷信を信じ易いたちのお関をおどして、五つの予言とかを吹きこみ、さまざま苦肉の策を|弄《ろう》してそのうち四つまでかなえ、五番めに玄妙坊を殺させる破目においこんだ人間のことじゃ」
「なに、それではおまえは、白山権現の森とやらにあらわれた玄妙法印を――」
「あれは、にせもの、ふだん白頭巾をつけておる玄妙法印を利して、べつの人間が化けた。あの白頭巾には、|瘤《こぶ》もつつまれていたろう」
「瘤? ぷっ、すりゃおまえは、あの小娘のいったたわごとをほんとうと思ったのか。いやはや、あきれかえったうつけ者、わしが玄妙法印をあやめて何とする。法印亡きあと、ふたたび玄々教をもりたてるため、骨をけずり、心血をそそぎ――」
「その苦労の|甲《か》|斐《い》あって、おまえがまんまと二代目教祖になりおわせたではないかえ」
「いや、|誣《ぶ》|言《げん》もここにきわまる。わしが左様な|大《だい》それたことをして、なんで町奉行がみのがそうか」
「証拠がないからです。お関のいう言葉のただひとりの証人――大道易者の乾坤堂が、ふたたび姿をみせなんだのも、かんがえてみればいぶかしい。もしかしたら、おまえが乾坤堂をこの世から消してしまったのではないか。――」
「乾坤堂? 左様なものは知らぬわい。いや、言わせておけば図にのって、何を申しつのるやら――同心身内のものというゆえ、いささかまじめにとりあってやっておったが、わしが玄妙法印に化けたとやら乾坤堂を殺したとやら、思いもかけぬいいがかり、さてはうぬも、あの塗師屋の娘同様の狂人じゃな」
彼はふりかえって、そばの護摩木をつかんで、灯明にさしこんだ。ぽうっともえあがる炎に、お竜の姿がうかびあがる。
「ううむ、かんがえてみれば、同心ならしらず、同心の妹が朱房の十手をもって、不敵な探索面してひとりのりこんできたのも|解《げ》せぬ、それこそそっちがにせものか、狂人か、ゆすりか、他宗のまわし者か――いずれにせよ、かくまで玄々教に大それた|雑《ぞう》|言《ごん》申した奴に、魔天の|冥罰《みょうばつ》下らずにすもうか。いいや、呪殺もまどろい。|斬《き》れ、片腕か、片足か、斬って片輪にして追いかえせ!」
声に応じて、護摩壇の周囲の山伏たちがどどっと立つ。一瞬、なおためらったのは、朱房の十手におそれたのではなく、相手が娘ひとりということに一種の混迷をおぼえたのだ。
「大事ない。にせものだ! やれっ」
|撃《ひき》|鉄《がね》をひかれたように、修験者たちはお竜に殺到した。いっせいにぬきつれた戒刀が、護摩木の|火《か》|焔《えん》にまっかにかがやく。
戒刀の旋風のなかに、お竜はくるくると|胡蝶《こちょう》のように身をひるがえした。|鋼《はがね》と|鋼《はがね》が鳴って、火花とともに一本二本刀身がとびちったのは、お竜の十手にたたき折られたのだ。右へ、左へ、みごとに胴をなぎはらわれて泳ぎ出す山伏をくぐり、ふとい円柱を|盾《たて》にして、彼女は外陣へのがれようとする。
「こやつ!」
「女だてらに!」
「やるなっ」
いまや完全に、修験者たちは狂乱した|狼群《おおかみぐん》と化した。追いつめられたお竜の背後に、重い唐戸がしまっている。
兇暴なわめきと乱刃が、お竜の頭上に|奔《ほん》|騰《とう》した。――そのとたん、うしろのないはずのお竜が、ふいにたたたとあおのけざまに遠ざかっていったのである。
唐戸はひらかれていた。いや、何者かに外から大きくひきあけられたのだ。
「あっ」
山伏たちは雷にうたれたように、タタラをふんで棒だちになった。のけぞっていったお竜をうしろから、がっしと抱いて受けとめているのは、着流し|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》の八丁堀同心の姿ではなかったか。そればかりではない、外陣の壁のいたるところに浮かびあがった御用|提灯《ぢょうちん》。――その下にうごめいているのは、いうまでもなく|捕《とり》|方《かた》の影にちがいない。
同心に抱かれたまま、お竜はおもしろそうに周囲の壁を見まわしていた。
「なるほど、あれが鬼火の正体なの」
提灯に照らし出された壁のあちこちには、ぬれ腐った木の枝が|紐《ひも》でつるされていた。|柊《ひいらぎ》である。朽ち腐った柊は、|闇中《あんちゅう》によく|燐《りん》|光《こう》を発するものだが、これが人々をおそろしがらせた陰火の正体なのであった。
立ちすくんでいる山伏のむれのなかから、白頭巾がよろめき出した。
「御役人衆っ」
と、かすれた声をあげて、べたと坐ると、
「お手むかい仕らぬ。なにとぞ、御慈悲を――」
「頭巾をとれ」
と、巨摩主水介はいった。
あわてて白頭巾をとると、耳の下に瘤のある、泣き出しそうな顔があらわれた。床にひたいをこすりつけ、ふいにふりむいて、
「これ、みな、御慈悲をおねがい申さぬか。――」
と、いった。山伏たちは刀を投げ出し、土下座して、|鴉《からす》が種をほじくるように、いっせいに|叩《こう》|頭《とう》しはじめた。
巨摩主水介は拍子ぬけしたようにこれを見ていたが、やおら厳然と顔色をあらためて、
「玄光坊――去年、|塗《ぬ》|師《し》|屋《や》の娘お関をたぶらかして、玄妙坊を殺害させたのはその方か」
「え、玄妙坊を――ああ、まだ左様なことを仰せあるか!」
と、悲鳴のような声をあげたが、
「すりゃ、この御出張は、玄々教のからくりをあばくためではござらぬのか」
と、問いかえしたときには、息に安堵のひびきがこもっていた。
「それでは、貴殿も、拙者が玄妙坊に化けていたとお考えか。あの小娘を白山権現の森で犯したのは拙者だとお思いか」
「もとよりじゃ」
玄光坊はすっくと立つと、なに思ったか、くるくると衣服をとき出した。――「あっ、これ、待て!」と主水介が制止するまもなかった。瘤のある山伏は、みるみる前をはだけ、下帯までとってしまったのである。
玄光坊の声は一種哀感をおびた。
「これだけで、あの娘の申すことが根も葉もないことがおわかりでござろう」
巨摩主水介はあわててお竜のまえにたちふさがったが、まばたきをして、思わずうなり声をあげてしまった。
主水介のうしろからちらっとのぞきこんで、お竜は息をのみ、立ちすくんだ。何ともいえない溜息とともに。
「――しまった」
白山前の辻に縁台を出し、ひとりの大道易者が、晩春の風に吹かれていた。はじめ、あんまり客がなく、|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》を伏せて、易者はいつも居眠りでもしているようだったが、そのうち急に|繁昌《はんじょう》し出した。
――その理由が、なんとも妙な話だが――その易者が女だという|噂《うわさ》かららしい。実際、何も知らないで、偶然そのまえに立った客は、深編笠のなかからきこえてくる声と|筮《ぜい》|竹《ちく》をおしもむ手の美しさに、口をぽかんとあけるのである。
そのあきれた顔を笠越しにみて、
「父上が御病気なので、わたしが代って出てきたのです。あたらなかったら、ごめんなさい」
と、笑う。してみれば、浪人|売《ばい》|卜《ぼく》者の娘なのであろうが、笑い声はそれらしくもなく快活で、なるほど筮竹をならべる手つきはあやしいが、
「あなたはいまお金のことでこまっているでしょう」
とか、
「あなたは、ふたりの女のどっちをえらぼうかと迷っていますね」
とか、その占いのよくあたること――そして、
「そんな|旦《だん》|那《な》さまには、七日間ほど御飯をやらないで、壁にむいて坐っていらっしゃい」
とか、
「そんな男にみれんはさっぱり捨てるのですね。え、捨てられない? そこをがまんして、ふりきるのです。すると、きっとその男があなたを追っかけてきますから」
とか、その忠告の適切なこと。――
三日――四日――五日――だんだん商売が繁昌してくるのに、おかしいことにその深編笠の中の声が、逆に曇ってきた。占いもなんだか少々乱暴になって、いちど折助が、その娘占い師の手をとろうとしたら反対にやんわりとにぎりかえされて、それがどうしたのか折助は三尺もとびあがったし、また|狐《きつね》みたいな中年女がしつこく何やらたずねていたら、「あなたが占いなど信じないようになったら、はじめて|倖《しあわ》せになれるでしょう!」とめんどうくさそうに言いすてて、そっぽをむいた。
七日めの夕方、ぶらりとまえに立った医者風の男が、とうとうあきれたように、
「お前さん、これアもぐりの易者じゃな。その筮竹のならべ方は、まったくでたらめじゃ」
と、さけんだ。
「どれ、貸してごらん」
と、筮竹をとる。――細長い、ねむそうな顔をした男だった。もっとも少し酔ってもいるらしい。しかし、いかにも|馴《な》れたその手つきから、笠越しに、娘はしずかに眼をあげた。
「お恥ずかしゅうございます。父が重病で、よく教えてもらえなかったのです。どうぞ、御指南下さいまし」
「はははは、これア逆じゃ。お前さん、教えてやるが、見料をもらうよ」
「はい、どうかわたしを占って下さいまし」
「お前さんの、何を?」
「探しびとでございます」
「探しびと?」
「はい、|乾《けん》|坤《こん》|堂《どう》という易者のいどころを」
男は筮竹をとりおとして、とびのいて、縁台の布にかかれた文字を見た。それは「心易占、乾坤堂」という文字であった。
八卦見八卦知らず
「乾坤堂とは、おまえさんのことではないか」
「いいえ、わたしは二代目」
こんな問答がかわされたあと、奇妙な沈黙があった。ふいに相手は笑い出した。
「乾坤堂――とか、天命堂とかいう名は、江戸の易者に何十人いるかわからぬ。いかなわしでも、まえにここにいた乾坤堂とやらが、いまどこにおるか、そりゃわからぬわい」
「まえの乾坤堂がこの|辻《つじ》にいたということをよく御存じでございますね」
酔いが急にさめたような顔色をした相手のまえで、娘占い師は筮竹をひろいあげて、さらさらとおしもみ、縁台にならべた。
「ほほほほ、おひとのわるい――初代乾坤堂は、あなたではございませんか」
あまりに平然といってのけられて、男は二の句もつげず立ちすくむ。――娘占い師は、深編笠をとった。
はんぶん逃げ腰になっていた男は、その顔をみて、ふみとどまった。ようかん色の黒紋付ながら、浪人風の姿をしたふしぎなその娘の顔の、なんという愛くるしさ――真っ黒な眼が、いたずらっぽく笑っている。
「そうではない、とおっしゃらないところをみると、どうやらわたしの占いがあたったようですね」
「――いかにも、わしはまえに乾坤堂といったが」
と、男はいった。娘の単刀直入ぶりと、しかも童女のようなあどけなさが、とっさに抵抗を不可能にしたのと、それより好奇心が彼の足をしばってしまったのだ。――どじょうひげはおとしているが、まさにこれは乾坤堂であった。
「おまえはいったい何者じゃ。なんの用があって、わしを探す?」
このとき娘は、れいの黒真珠みたいな眼の一方をつむって、にっとした。乾坤堂はなんのことかわからず、ヘドモドした。だから、遠い路上でこちらをみていたひとりの御用聞風の男が、|脱《だっ》|兎《と》のごとくどこかへ駆け去ったのを知らなかった。
「実は、お関さんにたのまれて」
「お関?」
「ええ、この駒込片町の塗師屋の娘さんで、去年山伏寺の玄妙法印とかいう人を殺したひと。――知ってるでしょ?」
乾坤堂はじぶんをじっと見つめている娘の眼に、二、三度まばたきをして、
「それは知らぬではないが……しかし、お関坊とおまえさんとはどんな縁があるのかい」
「牢で、いっしょだったんです」
「牢――あの、小伝馬町の」
乾坤堂は、この可愛らしい娘がそんなところから出てきたのか、とあきれた顔になったし、また不安そうな表情にもなった。しかし、口から出た言葉は、当然|横《おう》|柄《へい》な調子になっていた。
「おまえ……牢に入ってたのか」
「ええ、女泥棒のお竜っていうんです。どうぞごひいきに」
「ば、ばかな――それより、お関坊のたのみとはなんだ」
「乾坤堂さん、あなたは、お関さんがどうして玄妙坊を殺したか知っていますね」
「うむ、あの五つの予言のことじゃろ? それはお関からきいた。それで山伏寺へわしがかけあいにいったくらいじゃ。しかし、むこうの、なんといったかな、|瘤《こぶ》のある山伏めにゆすり呼ばわりされて、いや、さんざんな目に|逢《あ》った。|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》でなぐられて、わしは二、三日寝こんだくらいじゃ。……そのあいだに、あの娘は、えらいことをしてしまった!」
「乾坤堂さん、けれどあなたは、お関さんがつかまったとき、どうして名乗り出て下さらなかったんです」
「わしが名乗り出てなんになる? あの娘が山伏を殺したことにまちがいはないじゃないか」
「でも、玄妙法印がお関さんをおどし、迷わし、そしてそのはてに|操《みさお》までうばったことの|証《あか》しがたてられたら、もっともっと罪がかるくなったのじゃあありませんか」
「いまになればそう思うが……わしはあのときは、ただこわかったのじゃ。はじめにお関坊を玄々教へつれていったという負い目もあるしの。お奉行所に呼び出されるのも、玄々教ににくまれるのも、考えただけでふるえが起りそうでの。……」
あたまをかかえる乾坤堂を、お竜ははげますように、
「いまからでも、おそくはないわ。お関さんをたすけてあげて――」
「うむ、じゃが……わしは、玄妙法印がお関に五つの予言をしたとか、操をうばったとか、そんなことは知らんぞ」
「あなた、それをお奉行さまのように、みんなお関さんのでたらめだと思いますか?」
「わからん……わしには、何も言えん。……」
「でも、あなたは玄光坊とかから、|丑《うし》の時参りの|魔《ま》|除《よ》けに、どうしても|呪《のろ》いの人形をのぞかなくっちゃいけないときいたじゃありませんか。だから、お関さんは白山の森へいって、そこで五つの予言をきいたんです。それからあなたはまた玄光坊に、今夜玄妙法印に白山へこいといったじゃありませんか。だからお関さんは森へいって、そこで操をうばわれたんです。お関さんのいうことが根も葉もないものじゃあないことは、あなたなら信じてくれるでしょう――そうお関さんがいうものだから、わたしはあなたをさがしていたんです」
「わ、わしは、あの娘が好きじゃった。責任もある。信じてやりたい。しかし、お奉行さまは――」
「そう、大岡さまほどのお方が、お関さんのいうことをおとりあげにならなかったのは、お関さんに乱暴したという玄妙法印が、おなじ夜、おなじ時刻、よそのお妾のところに泊っていたことが、はっきりお調べがついたからなんです」
「それなら、やっぱり――」
「けれど、わたしはふっと思った。お関さんのいうことはほんとうだ。白|頭《ず》|巾《きん》はたしかに白山の森にあらわれて、五つの予言をし、お関さんに乱暴をした。ただ、それは玄妙法印ではなかったのではないか。――」
「なんじゃと?」
「そういったらね、お関さんが妙なことをいうんです。あの晩、乾坤堂のおじさんも、白山の森へきてくれたのじゃなかろうか。そしてあたしがひどい目にあっているのを、どこかで見てたのじゃなかろうか。なんとなく、そんな気がする。――」
「お関が、そんなことをいったか。……」
「乾坤堂さん、あなたをさがしたのは、そのためもあるんです。あなたは見ていたにちがいない。けれど、こわがって、だまっているんです。あなたは、あの白頭巾が、だれだか知っている。――」
「玄光坊だ!」
と、乾坤堂はさけんだ。
「そういわれれば、白状する。ありゃ玄光坊だった! しかし、か、かんべんしてくれ、わしはあいつがこわかったのだ。あいつの金剛杖、あいつの|妖術《ようじゅつ》がこわかったのだ!」
そのとき、うしろの往来をはしってきた|駕《か》|籠《ご》がとまった。御用聞がひとりそばについている。しかし乾坤堂は気がつかなかった。
「あいつは、きっとお関という迷信によわい娘を見こんで|罠《わな》にかけ、頭領の玄妙法印を殺すように追いこんだのだ。それは、あとで、あいつが山伏寺のあるじになったことでもわかる。そう思ってみると、いよいよあいつの底しれぬ悪智慧がおそろしい。もしそんなことを訴えて出たら、あとで配下の山伏たちに、どんな目にあわされるかわからない。――|臆病《おくびょう》なわしがこう考えたのを、どうぞもっともだと思ってくれ!」
「そんなにこわがることはありません。玄光坊には、もうお縄がかかっています」
「え、玄光坊に――」
「うしろをごらんなさい、乾坤堂さん」
お竜は立ちあがった。乾坤堂はふりかえって、顔色をかえた。駕籠から出てきたのは、あの耳の下に瘤のある玄光坊にまぎれもなかった。
「お関さんの操をうばったのは、この男ですか?」
お竜の声に、乾坤堂はわれにかえって、もういちど玄光坊を見すえた。玄光坊は|悄然《しょうぜん》として、うなだれている。その手はうしろにまわされて、岡っ引が縄をにぎっている。
乾坤堂はうなずいて、玄光坊を指さしてさけんだ。
「こいつだ! こいつだ! こいつがお関坊を犯して気絶した姿を見おろして、白頭巾をぬいで汗をふいたのを、わしははっきりとこの眼でみたのじゃ!」
お竜はだまって玄光坊のそばに寄り、その|襟《えり》をぐいとかきひらいた。乾坤堂はふいに絶句して、棒みたいに硬直してしまった。
玄光坊の胸には、ふたつの隆起した乳房があった。
――この、男よりもたくましく、男よりも|獰《どう》|悪《あく》な、みにくい瘤のある修験者は、まごうかたなき女だったのである。
お竜が笑った。
「乾坤堂さん、おまえさんは、たしかにこのひとが、女を犯すのを見ましたか?」
ふいに乾坤堂は、ぱっと横にはねとんだ。
「野郎、にげるか!」
玄光坊の|縄《なわ》|尻《じり》をすてて、御用聞の銀次がそのうしろにまわる。乾坤堂はくるりと反転した。こちらにみせた顔の、いままでとうってかわった兇悪さに、本能的にお竜は身をしずめる。その頭上を、びゅーっと鎖が|薙《な》いですぎた。
|玉鎖《たまくさり》という、くさり|鎌《がま》から鎌をとった奴、ふところ|或《ある》いは手中から、鎖だけがかなぐり出されて、その|尖《せん》|端《たん》の|分《ふん》|銅《どう》が、相手の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》を粉砕する。――相手がまったく警戒していないだけに、ふいをくらうとおそろしい。げんに、身をしずめたものの、お竜の足がよろめいた。
「罠にかけたな、この女!」
わめきつつ、腕をかえすと、よろめくお竜めがけて、うなりをたてて鎖が|捲《ま》きかえる。――その|刹《せつ》|那《な》、鎖は空中で|戞《かっ》と音をたてて何やらにまきついた。どこからか飛んできた朱房の十手だ。尖端の重さと形が変化して、思わず手のくるった鎖が、縁台をうちくだいて、筮竹が散乱した。
「乾坤堂、御用だ!」
銀次とは反対の向うの天水|桶《おけ》のかげから、疾風のごとくかけつけてきた影が、どうと乾坤堂を|蹴《け》たおすとみるまに、はやくもそのからだに縄がかかっている。そのはしを口にくわえて、キリキリとしめあげた姿は、八丁堀同心巨摩主水介であった。
「妙なものをつかうねえ。おまえさん、やっぱりただの|鼠《ねずみ》じゃないね」
お竜は|裾《すそ》をはたきながら、ちかよった。
「罠にかけたのはどっちだ。おまえさん、はじめからこの辻で、丑の時参りをする女――そんな迷信を信じ易い女に、網を張ってたんだろ? 犬の眼を刺したのもおまえさんなら、玄光坊にぶたれたとうそをついて、じぶんのあたまに傷をつけて血をながしたのもおまえさんだ。罪のない娘を、あれだけ念入りに罠にかけて、玄妙法印を殺させたわけはなんだえ?」
地べたからふりあげた乾坤堂の満面は、泥と鼻血によごれ、それより|憤《ふん》|怒《ぬ》と絶望のためにひきゆがんで|惨《さん》|澹《たん》たるものだった。うめくようにいった。
「玄妙坊は……わしが子供のころからさがしていた親の敵だ!」
「でたらめもいいかげんにおし。玄妙法印は、おまえさんの年の半分くらいじゃないか」
乾坤堂はふるえながら沈黙した。
辻にはいっぱい人がたかってきた。そのなかに顔を知っている手先を二、三人見つけると、巨摩主水介は、
「銀次、この二人をひとまず自身番にたたきこんでおけ。あとで拙者が参って泥を吐かしてくれる」
と、いった。
銀次と手先が乾坤堂と玄光坊をひきたてて去ったあと、お竜は人々の好奇の眼を深編笠でふせいで、のこっている手先に声をかけた。
「おまえさん、その縁台と筮竹をかたづけて、それも自身番へとどけておいておくれでないか。大事な借物だからね」
おちついたものだ。そして、主水介とならんで、春の夕風のなかをぶらぶらあるき出した。
「でも、罠にかけたのは、やっぱりこっちかもしれない」
くすっと笠の中で笑う。
「ここに乾坤堂の看板を出して、うまくかかってくれるかどうか、少し心配だったわ。とにかく江戸八百|八丁《やちょう》のどこへいっちまったかわからない男を見つけようというんだから。――乾坤堂はちょっと酔ってたようだけど、やっぱりふらふらとひっかかってきたよ」
魚釣りの話でもしているような浮き浮きした声だ。
「ひっかかってきてから、もういちど――ヌラリクラリにげる奴を、玄光坊がお関坊になんとかしたなど、それこそ見てきたようなうそ[#「うそ」に傍点]をつかせて、急所をおさえるまでがさあたいへん」
ふっと、深編笠をかたむけて、
「女の子を犯し、人殺しをさせ、いざとなりゃ身代りの|傀儡《くぐつ》|師《し》まで用意してた乾坤堂はわるい奴にちがいないけれど、玄光坊の方は可哀そうだわねえ。女人禁制の山伏に化けて、いくらあの顔でもラクじゃなかったと思うわ。もっとも女人禁制といったって、|熊《くま》|野《の》の山伏が破戒の果てに生んだ娘だそうだけど、可哀そうでもあれば、おかしくもある。人々をだましていたのはいけないけれど、なんとか大目にみてやれないかしら? 手下の山伏たちも大峰かどこかに追いかえして、それでかんにんしてやったらいいと思うわ。……ついでに、あのお関坊も、無罪放免とはいかないの?」
だまっている主水介の頬を、白い指でかるくつついた。
「何をむずかしい顔してかんがえてるのさ。そんな石みたいなあたまだから、こんなことになる。いくら大岡越前さまの秘蔵の家来だって、石あたままで|真《ま》|似《ね》することはないよ」
巨摩主水介はいよいよ苦りきった表情であった。お竜は笠の中から美しい口笛を吹いて、また言った。
「とにかく、お関坊は打首にはなるまいねえ。どうやら、これで三人めの女の命を救えたようだ。……」
小伝馬町のおんな牢に、陰湿な|黄《たそ》|昏《がれ》がしずみはじめたころ――お竜がかえってきた。
恐ろしい|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ呼び出されて十日ちかくになる。いよいよこんどこそ責め殺されたにちがいないと、みんな話しあっていたその当人が、けろりとして入っていったのだが、ふしぎなことに、この夕方までお竜のことを心配して泣いていたお玉、お路、お関までが、彼女にすがりついてはこなかった。
牢の中に、みんなの心を奪うような|或《あ》る異変が生じていたのである。もっとも、おんな牢で、いままでに決してなかった出来事ではない。出産である。ちかごろ入牢してきた女囚――お|万《まん》という女が、|巾着切《きんちゃくきり》というしゃれた罪名にも似げなく大きな腹をしていたが、この夕方、とうとうあかん坊を産みはじめたのであった。
「懐胎にて入牢いたし候女は、臨月にいたり牢内にて出産させ候事|也《なり》」と「牢獄秘録」という本にあるように、それはめずらしいことではないが、お万の場合にかぎって、いままでの例とはちがう様相をみせた。
「ほうっといておくれ、手を出さないでおくれ!」
うめきつつ、彼女はそうさけび出したのである。
「あたしゃ産みたくないんだ。死んで生まれた方がいいんだよ!」
それでも、新しい生命は、このふとどきな母の門を、全力をあげておしひらきつつ、この世に出現しようとしていた。彼女はもだえ、号泣した。しかも、まわりに寄ってくる女たちを口ぎたなくはねつけるのだ。こんな|罰《ばち》あたりな出産は、|娑《しゃ》|婆《ば》はもとよりのこと、牢内にだってざらにはない。
わるいことに、この女はふだんからひねくれて、牢内役人の老婆たちに、むろん面とむかってさからいはしなかったが、決して心服しているのではないという様子がありありとみえたので、とくに三番役のお勘という婆さんににらまれていた。先天的に虫がすかないらしいのだ。
「放っといておやりよ、本人がそういうんだから」
と、お勘がそっぽをむいていう。
「かまってやることはない。どっちも死にゃ、それだけ牢内の風通しがよくならあ。なんだ、大きな腹をつき出しゃがってよ、ずいぶん|目《め》|障《ざわ》りだったよ」
産婦はもうやりかえす余裕もなく、激烈な陣痛に、動物的なうめきをあげていた。あたりにながれる血と羊水のなかに、自然とひらき、むき出しになった両脚がぶるぶると|痙《けい》|攣《れん》し、|鞠《まり》のような腹部の隆起が下にさがってゆく。
……さすが罪の血にまみれた女囚たちも、|凄《せい》|惨《さん》の気にうたれて、声をのんで見まもるばかりだ。
「ええ、やかましい!」
と、耳に手でふたをしていたお勘が、とうとうかんしゃくをおこした。
「おれがあの餓鬼を殺して、ひきずり出してやる!」
とぬっと立ちあがったとき――そのとき、お竜が入ってきたのである。
彼女はけげんそうにお万のところへあゆみより、立ちすくみ、すぐに、いまじぶんをつれてきてそのままひきかえそうとしていた牢番を呼びとめた。
「待ちな。……こんなに苦しそうな声がきこえるのに、だまっていっちまう番人はないだろ。産婆を呼んどいで」
そういうひまにも、血まみれの|股《こ》|間《かん》に、黒ぐろとぬれたあかん坊の髪がのぞいてきたのをみると、さすがにおちついたこの女があわてふためいて、
「だれか――だれか――あかん坊をとりあげたひとはこのなかにいないの」
「あたしが――」
ひとりの女が眼をあげた。四十にちかい、やさしい、美しい顔だちの女だった。
「ああ、あなた、お|半《はん》さん」
と、お竜はこの半月ばかりの牢屋暮しにその名をおぼえていて、
「それじゃあ、おねがい、はやく何とかして――」
と、手をあわせた。
お万は泣きさけびながら、手をふってはねのけようとした。
「ほうっといて……あたしゃ産みたくない! 生まれてこない方が、この子のために|倖《しあわ》せなんだ!」
「ばかなことをお言いでない」
と、お竜は|叱《しか》りつけた。ピーンと牢内にひびきわたるはげしい声であった。
「生まれてくる子に、なんの罪があるものか、ここまできて、生まれてきた方がいいかわるいか、そんなことをきめるほどおまえさんはりっぱな母親か!」
お万はびっくりしたようにちょっとだまったが、すぐにまた床に爪をたてて絶叫した。
「母親――あたしが母親――あたしはわるい女だ! 父親も悪党だ! 血が悪いんだ。こんな悪い血をもって生まれた子供が、どうせまともに育つものか。きっとあたしか、あの男みたいな人間になるにきまってるよ! おねがい――殺して!」
「父親――この子の父親は?」
「いままでだまっていたが、きけばおまえだってあたしのいうことをもっともだと思うだろう。この子の父親は、去年の暮れに獄門になった、|雲《くも》|霧《きり》|仁《に》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》だよ。……」
牢内には、はたと沈黙がおちた。黄昏が濃くなった。
その沈黙をまずやぶったのは、力づよいあかん坊の|産《うぶ》|声《ごえ》だった。それから――お勘の号泣する声だった。
「雲霧仁左衛門――そりゃあ、おれの子だ。ここ十年も逢ったことはねえが、仁左衛門なら、おれの|倅《せがれ》だ!」
ふいにお勘は、骨を鳴らしてお竜にしがみついてきた。
「お、お、お竜さん、ありがとう。すりゃこの子はおれの孫だ。この女は、おれの嫁女だ。よく、よくおれを孫殺しにしないでおくんなすった!」
あっけにとられていたお竜は、すぐにお勘をひきはなして、
「お婆さん、あたしよりも、はやく孫のほうを抱いてあげなよ」
新生児は、もうお半の手で、牢の隅におかれてある飲み水用の四斗|樽《だる》のなかへつけられていた。お勘はうれし泣きの声をあげながら、その方へまろんでいった。
――底ぶかい感動のどよめきと、笑い声が、いつはてるともなくつづいて、それでも|闇《やみ》とともに|静寂《せいじゃく》にもどったおんな牢のなかで、ひっそりとささやく声がきこえた。
「お半さん」
羽目板にもたれかかったお竜である。
「どうみてもこんなところに入ってくるとはみえないあなたが、どうしておんな牢にいるのかしら? ふしぎだわねえ。……」
世は|情浮名《なさけうきな》の横町
さっきまで、どこかでものうげな爪びきの音がきこえていたが、それも夢のようにきえて、あとはからぁんとした日盛りのなかに、すべてが午睡に入ったような昼下りの裏町。――日本橋の新|和泉《いずみ》町南横町、俗にいう|玄《げん》|冶《や》|店《だな》。
むかし|岡《おか》|本《もと》玄冶老という御医師が拝領した町屋敷だったので、そういう名がついたのだが、すぐちかくに芝居町たる|堺《さかい》町|葺《ふき》|屋《や》町があるので、このあたりには役者や芝居者がたくさん住んでいる。それ以外にも、お約束どおり、船板塀に見越しの松とかまえたお囲い者が多く、路地路地にときどき鳴る|風《ふう》|鈴《りん》の|音《ね》|色《いろ》さえ、心なしかなまめかしく、|小《こ》|粋《いき》にきこえるようだ。
――と、ふいにその風鈴がいっせいに鳴りはじめたかと思うと、犬があちこちで|吠《ほ》え出した。空が急に暗くなった。――と、思うまもなく、さーっと白い雨脚が屋根屋根をぬらしてきた。
「おっ、こいつぁいけねえ」
雨に追われて、と或る軒先にかけこんできたふたりの男がある。ひとりは三味線をかかえて、|手《て》|拭《ぬぐ》いは吉原かぶり、|藍《あい》|微《み》|塵《じん》の|素袷《すあわせ》に、そろばん絞りの三尺――というと、ひどく|粋《いき》なようだが、その実、すりきれた|草《ぞう》|履《り》の足はほこりだらけ、袷は|垢《あか》だらけで、みるからに|尾《お》|羽《は》打ちからした|門《かど》|付《づけ》|芸《げい》|人《にん》だ。
あわててにげこんだが、ふいの夕立ちにもうびっしょりになって、うらめしそうに軒にしぶく雨を見あげながら、
「兄貴、こりゃあ泣きっ面に|蜂《はち》だなあ」
「|大《おお》|谷《たに》|広《ひろ》|次《じ》のところへいったって、このざまじゃあ野良犬あつかいで追ん出されるぜ」
しゃべっている背後から、ガラリと戸があいて、十七、八の娘が顔を出した。
「へへっ、どうも軒を借りたうえに、騒ぎたてて恐れ入りやす」
と、若い方の男がふりむいて、にっと笑った。
娘はあわててピシャリと戸をしめかけたが、ふと思いなおした様子なのは、その若者が思いがけなくいい男だったせいか、それとも、もちまえの親切な性質だったのか、
「あら、おきのどくに――」
といって、しばらくはげしい雨脚をみていたが、
「このぶんじゃ、ちょっとやみそうにないわね。まあずいぶん|濡《ぬ》れて――いっそうちへ入って、かわかしてから出てった方がいいわ」
と、いった。ふたりの門付芸人はためらいもせず、|図《ずう》|々《ずう》しく、
「兄貴、それじゃあ、すこし休ませてもらうか」
年とった方は、しばらく娘の顔を見ていたが、やがてくびをかしげて、
「そうよなあ、まったくこのざまじゃあ、先へゆけねえ」
と、のこのこと家の中へ入ってきた。
「おっかさん、おっかさん、手拭いもってきて! それから、水を入れた|桶《おけ》かなんか――」
騒々しく呼びたてる声に、奥から三十七、八の美しい女が出てきて、とっさにその様子をみてとって、ちょっと|眉《まゆ》をひそめたが、
「お|波《なみ》、雨がやんだらすぐ出ていただくんですよ」
といって、すぐに奥へひきかえしていった。
若い芸人はじろじろと家の中を見まわして、鼻をくんくんいわせた。
「娘さん、このおうちはおっかさんとおふたりだけでござんすかい?」
「なぜ?」
「女ッくせえばかりで、男ッ気がちっともねえ」
こういわれても、娘にまったく警戒の表情があらわれないところをみると、よほどのんびり育てられたのか、それとも男というものを全然知らないせいだろう。
「え、そうなの、うちはおっかさんとふたりだけなの」
と、|天《てん》|真《しん》|爛《らん》|漫《まん》にこたえたとき、奥からまた母親が出てきて、
「お波、知らないひとと、むやみにおしゃべりするものではありません」
と、たしなめた。手に手拭いと手桶をさげていた。
若い方の芸人は、大袈裟に礼をいって、先ず顔をあらった。袖を肩までまくりあげると、左の二の腕に白い布をまいているのがみえた。それから足を洗おうとして――
「おい、兄貴、洗わねえのか」
娘は、彼の顔に見とれた。さっきもちょっと眼を見張ったが、さっと水で洗っただけで、まるで役者のようないい男だ。ただ少々自堕落な感じがあるが、そこがまた|凄《すご》いような魅力でもある。
「洗わねえ」
と、もうひとりの男がいった。依然として、|不精髯《ぶしょうひげ》のはえた垢だらけの顔に、手拭いを吉原かぶりにしたまま、じっと母親の方を見つめている。
「洗わねえ? どうして?」
「洗えねえんだ」
母親の方は、本能的な不安をおぼえたらしく、
「雨もやんだようです。すぐ出ていっておくれ」
男は急に手で顔を覆って、上り口に坐ってしまった。
「おい、兄貴、どうしたってんだよ」
「おら、恥ずかしい。面ア洗わなくって倖せだった。おい、|秀《ひで》、ゆこう」
と、悄然として立ちあがる。母も娘も、その異様なようすにあっけにとられていたが、やがて母親の方がそばによって、
「おまえさん、何が恥ずかしいの?」
と、のぞきこんだ。男のなおそむけた手拭いの下から、妙におし殺した声がきこえた。
「お半さん」
「え」
「いやさ、お半、久しぶりだなあ」
「そういうおまえは」
「おぬしゃあ、おれを見忘れたか」
と、彼は手拭いをとった。お半はなおじっとそのうす汚ない顔をみていたが、急に息をひいて、
「まあ、|弥《や》|五《ご》|郎《ろう》さん!」
とさけんだ。|蒼《あお》|白《じろ》い|頬《ほお》に、さっと血潮がさした。若い芸人はくびをひねって、
「な、なんだ、兄貴、これァ」
「秀、お恥ずかしいが、このお半は、二十年|前《めえ》のおれの|色《い》|女《ろ》だよ!」
そして、|舐《な》めるように娘のお波を見て、
「実はな、最初この娘さんを一目みたときから、はっと思った。二十年前のお半さんがあらわれたのかと思ったのよ」
「お、おっかさん! こ、このひとのいうこと、ほんとなの?」
と、娘に金切声でいわれて、お半は唇をふるわせて何かいいかけたが、声にならずうつむいた。
秀が口ずさんだ。
「|神《かん》|無《な》月、しぐれふるらし小松原、|他生《たしょう》の縁の雨宿り、一河の流れ水まして、あれ|蓑《みの》|笠《がさ》をとりにゆく……チン、ツン」
弥五郎という男は、お半を二十年まえの色女だといった。ちょいと神経にひっかかる言葉ではあるが、恋人だったというのなら、ほんとうだ。
思えば、それはお半がちょうど、娘のお波の年ごろでもある。彼女は浅草の水茶屋の看板娘だったが、そこで蔵前の札差しの手代をしている弥五郎と熱い仲になった。恋というと、彼女の一生でそのときがただいちどではなかったかと思う。しかし、そのうちお定まりの|愁嘆場《しゅうたんば》がやってきた。親のために彼女はどうしても|或《あ》る男のところへ|妾《めかけ》にゆかなくてはならないことになったのである。いちど自殺さわぎまで起した|悶着《もんちゃく》があって、彼女は運命にしたがった。
妾にいったのは、弥五郎の奉公している家ではなかったが、やはり蔵前の札差しだった。弥五郎がぐれたのは、そのせいもあったろう。彼がじぶんの奉公している店の金をくすねたか、盗んだかして、|放《ほう》|蕩《とう》にふけり出し、自身番へつき出されたのはそれからまもなくだった。これはあとで主人の方からとりさげたらしいが、しかし弥五郎はそのままどこかへ姿を消してしまって、その行方もしれなくなった。
妾にいってから存外幸福だったお半の胸に、ときどきふっと水の泡のようにうかびあがって、切ない想いに沈ませたのは、ただこのことだった。――けれど、時はすべてをおしながす。彼女の胸からは、やがて弥五郎の想い出も遠くなり、消え|失《う》せた。時のせいばかりではない。いまいったように、お半は思いのほか倖せに暮せたからだ。妾にいった主人が、道楽者ではあっても案外愛情のふかい男だったし、お波という娘も生まれたし、その主人は三年前に亡くなったけれど、本宅の|内儀《おかみ》がこれまた珍らしくできた女で、お半をお払い箱にするどころか、|妾宅《しょうたく》もそのまま、月に一度は人を介して娘へという名目で|仕《し》|送《おく》りさえつづけてくれたからだ。この美談にこたえて、お半も、まるで正式の未亡人みたいな、ひっそりとつつましやかな日々を送っている。――
――そのお半|母《おや》|娘《こ》のところへ、さて、或る夏の昼下り、|驟雨《しゅうう》とともに、はからずも遠い青春の日の恋人が舞いこんできたのである。彼のもたらしたものは、よろこびか、悲劇か。
二十年の歳月がながれたとはいえ、いちどは自殺さわぎまでおこして別れた恋人だったのに、再会してもしばらく気がつかなかったほどの弥五郎の変りようだった。
いったい、そのあいだに何をしていたのか、相棒の若い|秀《ひで》|之《の》|助《すけ》という男の素性は何か、きいても、「いやはや、お話にも何にもならねえよ、これ以上恥をかかせねえでくんな」というばかりだし、また、きかなくっても、だいたいの推量はつく。
彼らが訪ねてゆこうとしていたのは、役者の大谷広次だった。去年中村座で「八陣太平記」を舞台にかけたとき、江戸ではじめて「せり出し」というからくりをみせて評判になった役者だが、大坂でふと広次の知遇を得たようなことをいっていたから、彼らが|上《かみ》|方《がた》を放浪していたことはうたがえない。
この玄冶店に、広次の妾宅があるということで、そこに何をしにゆこうとしていたのか――くわしいことは口をにごしていわず、まもなく弥五郎と秀之助という相棒は、雨のあがったお半の家を出ていった。
「弥五郎さん、ゆくところがなかったら、当分あたしのうちにいてもいいんだよ」
思わずお半がうしろで呼びかけたのは、むろんもう色恋の|沙《さ》|汰《た》ではなく、尾羽打ちからしたその背へのあわれみ以外の何ものでもなかった。
ところが、その言葉に甘えたか、ほんとにどこにもゆくところがなかったのか、ふたりはまもなくのこのこと舞いもどってきたのである。どうやら、訪問の目的は不調に終ったらしい。
「けっ、役者なんて、薄情なもんだなあ、あのときゃ、江戸へきたらどうぞたずねておいでなんて、うめえことをいやがってさ。こっちがこのざまだと、けんもほろろで、あとで塩をまきゃがる。人間、おちぶれたくはねえものさ!」
と、弥五郎がぶうぶう悪口をたたいたのが、|双《もろ》|刃《は》の剣でお半をしばる|縄《なわ》ともなり、そのままふたりの男は、なんとなく日蔭の母娘の家へ坐りこんでしまったのだ。
とんだおしかけ|居候《いそうろう》。――もっとも、ふたりとも、いそいそと水をくんでくれる。|薪《たきぎ》を割ってくれる。あのうす汚ない弥五郎でさえ、ひげをそり、顔を洗うと、急に男前があがり、若々しくもなって、お半にふいと二十年前のことを思い出させた。
とはいえ、お半はそんなロマンチックな想いにふけってはいられなかった。やはりこの二人には、一日もはやく出ていってもらわなくてはならない。――そう気をもんでいるうち、三日め、案の定、とんでもない事件が起った。
どちらかといえば、ひよわなたちのお波が、その夕方急に熱を出して、お半が新乗物町の知り合いの医者へかけつけて、薬をもらってかえる途中、夕立ちにあった。しばらく、と或る家の軒下に雨をさけていたが、こうしてもいられないと雨の中へ出たとき――
「あっ、こんなところにいなすったか」
と、|傘《かさ》をななめに、裾をまくってはしってきた秀之助がさけんだ。一方の腕に、もう一本の傘をかかえている。迎えにやってきてくれたのである。
「あ、ありがとう、秀さん」
と、お半はほっとしてならんであるき出した。
そして、息せききってかけもどってきたとき、家の中でただならぬお波のさけび声をきいたのである。
「おっかさん、助けて――おっかさん!」
夢中でかけこんで、お半はくらくらと眼まいがした。
床についていたお波のうえに、弥五郎がのしかかっている。それでなくてさえ、夏の宵だ。お波の髪はみだれ、肌はむき出しになり、わが娘ながら眼をそむけたくなるような姿だった。しかも、それを獣のようにおさえつけているのが、人もあろうに弥五郎とは!
一瞬、立ちすくんだきり、声も出ないお半のうしろから、猛然と秀之助がとび出した。
「兄貴、何するんだ!」
と、肩をひっつかんでおしのけると、弥五郎はぶざまにころがって、
「野郎、じゃまするな!」
と、はねおきかける横ッ面を、秀之助は弟分とは思えない勢いで張りとばして、
「兄貴、お波ちゃんのおっかさんに恥じねえか!」
と、どなりつけた。
はじめて弥五郎は、|閾《しきい》のところのお半の姿に気がついて、|狼《ろう》|狽《ばい》してひざをそろえると、あたまをがっくりたれた。
「お半……すまねえ、お波ちゃんに、ふいとむかしのおめえを思い出したんだ。……」
お半はころがるようにお波のところへかけよっていった。お波は母にしがみついて、わんわんと泣いた。お半はその背もおれよと抱きしめて、血の気のひいた顔で弥五郎をにらんで、
「出ていって! 弥五郎さん、出ていって!」
弥五郎は口をぱくぱくさせたが、そのままうなだれて、しばらくたってからうらめしそうな顔をあげた。
「すまねえことをした、お波ちゃん、かんべんしてくんねえ。……お半、しかしおれァおめえに裏切られたおかげで、こんな男になっちまったんだぜ。……」
|袖《そで》をぐいとまくると、その左の二の腕に、「一代無法」という|刺《いれ》|青《ずみ》の文字がみえた。
|悄然《しょうぜん》として出てゆく弥五郎の姿を見、抱きあっているお半母娘を見、困惑したようにもぞもぞしていた秀之助が、
「みっともねえことをしてくれやがったなあ、いい年をしゃがって……しかし、あれでもおいらの兄貴分だ。お半さん、お波ちゃん、礼もしねえでこんなおいとまごいは|辛《つれ》え|次《し》|第《でえ》だが、やはりおいらもここらでおさらばさせておくんなさい」
とつぶやいて立ちかけるのを、お波が呼んだ。
「待って、秀之助さん。……あなたはここにいて! そうじゃないと、あたし、こわい! またあのひとがくると、あたし、こわい!」
お半は、どういっていいかわからなかった。
「秀之助さん、こんやお星さまに、何をおねがいする?」
「へ? さあ」
「こんやお星さまをおがむと、願いごとはみんなかなうのよ!」
「それじゃあ、お波ちゃんがもっと丈夫になるように――お波ちゃんは?」
「あたしはね、あたしは……」
口のなかで、何かつぶやいて、お波はくっくっと笑った。
|七《たな》|夕《ばた》の宵である。せまい庭のまんなかに葉竹をたてて、お波と秀之助はせっせと色紙を糸でむすびつけていた。長い夏の日はくれなずんで、まだ庭はほの明るく、若いふたりの姿は青い竹と五色の紙に彩られて、絵のようにみえる。
ただひとり、暗い座敷に坐って、お半はしずかに|団扇《うちわ》をうごかしながら、それをみていた。その眼に微笑が横ぎるかと思うと、ほっと重い吐息をつく。
あの恐ろしい夜から五日目――まだ秀之助はこの家にいる。美男だけに、ほんの先日、|乞《こ》|食《じき》みたいに迷いこんできたのとは別人のように、なんだか若旦那然とさえみえる。その|美《び》|貌《ぼう》と、危難を救われたという感動のためか、お波の心が急速に秀之助に吸われてゆくのを、母のお半はありありと見てとった。
恋――娘が恋をしている!
|愕《がく》|然《ぜん》とするとともに、お半は、お波の甘美な声にききとれた。決して|不倖《ふしあわ》せに育ててきたとは思わなかった子だが、いままであんなにはずんだ幸福そうな声をたてたことがあったろうか。やっぱりあの子はさびしかったのだ。そう思うと、はじめてこの二十年の暮しの|翳《かげ》りがお半の胸をしめつけた。あたしの暮しはまちがっていたかもしれない。……
あの子だけは倖せに生きていってくれるように! ふいにもえあがるような心で、お半はそう思った。そして、女の幸福は、倖せな恋からはじまるのだと。
けれど――お半は、ここで吐息をつく。お波の恋があの秀之助とは!
いまは彼女は、弥五郎をひたすらにくんではいなかった。
弥五郎があのとき、「おれがこんな人間になったのも、おまえに裏切られたせいだ」といった言葉は、いまでも彼女の心を刺す。けれど――娘のこととなると別だ。秀之助は「こんな人間」あの弥五郎の相棒だった若者ではないか。
彼らふたりがどんなことをして生きてきたか、それはまあ問わないことにしよう。実際、秀之助という若者は、最初の印象がまちがいじゃあなかったかと思われるようなふしもある。
しかし、そうかといって、やっぱり彼はえたいのしれない男だった。まだはたちを一つか二つこえたくらいだが、親の目からみるせいでなく、ねんねのお波にくらべて、はるかにおとなだ。夢みごこちのお波を、どこやら薄笑いしてながめているようなところがある。――
庭には、いつのまにか、となりの三絃の師匠の十になる女の子があそびにきていた。
「ねえちゃん、色紙が足りないとは思わない?」
「そうね、そういわれると、ちょっとさびしいようね」
「それじゃあ、すこし買ってこようか」
「え、いっしょにゆきましょう」
秀之助が、「おいらもゆこうか」といったら、女の子が「あらいやだ、男のひとが、女の子といっしょに色紙買いにゆくなんておかしいわ」と笑ったので、彼はあたまをかいてだまってしまった。
お波と少女はゆかたの袖をひるがえしながら出ていった。
秀之助はボンヤリと葉竹を吹く夕風になびく五色の糸を見あげていたが、ふいにこちらをちらりとみて、つかつかとあるいてきた。
「お半さん」
いままでとちがって、妙に沈んだ声だった。
「なにさ」
「実は……」
と、秀之助はなおいいよどんでいたが、
「えい、やっぱりいっちまえ。いうつもりじゃあなかったが、おまえさんのやさしい気性、お波ちゃんの罪のなさ……あんた方ふたりのこの暮しをみていると、ドスをかくしてのりこんできたおいらたちが、つくづくあさましくなっちまった。……」
「秀さん、何をいい出したの?」
「お半さん、実はこないだの弥五郎の乱暴はみんなぺてんでさ」
「えっ」
お半の手から、団扇がパタリとおちた。
「うんにゃ、はじめこの家に雨宿りしたときから|狙《ねら》いをつけてきたんで……大谷広次のうちへいったなんてみんなでたらめの皮でさあ。なんとかしてこのうちへ入りこみ、おいらがお波ちゃんをものにする。弥五郎に乱暴させておいらがたすけるってのァ、はじめっからそのために仕組んだ中村座の役者もはだしでにげる狂言でござんしたよ」
|百足《ひゃくあし》あるき
あまりな秀之助の白状に声もないお半に、秀之助はさすがにくびすじをかきながらいうのだった。
「あの弥五郎という男たあ、そんなに|深《ふけ》えつきあいじゃござんせん。ほんのこの春ごろからの知り合いで、もと何をしていたのか、それも知らねえくれえなんです。へ? あっしゃあ、浅草のやくざでさあ。それがね、こんな二人組を組んだそもそものはじまりってのア、|或《あ》る|賭《と》|場《ば》なんでさ。そこであいつがすッてんてんになりやがってね、あっしに、まあ、ちょいとした借りが出来たってわけで――」
「…………」
「そのときに、あの野郎がいい出した。秀、借りは返さなきゃあならねえが、ちょいと談合してえ一件がある。それに片棒かつがせてやるから、うまくいったら借りに棒をひいてくれねえか、いいや、こんなみみっちい借りなんざ、吹きとばすくれえのうめえ話だよ。それであっしが、それアどんな話だときいてみると、実は、おれがむかし――二十年もむかしに|色《い》|女《ろ》だった女が、いま玄冶店に住んでいる。――」
「…………」
「おれを袖にして、蔵前の札差しの妾になっちまいやがったが、罰もあたらねえで、いまは十七、八になった娘といっしょに、玄冶店でぬくぬくと暮しているらしい。らしいどころじゃねえ、こないだそっと様子を見にいったら、旦那に死なれて、ふたりっきりの世帯だが、むかしにまさる色ッぽい年増になりゃがってよ、娘がいるから浮気もできめえが、それだけにあれじゃあきっと男の肌恋しさにもやもやしてるぜ。娘のお波がまた、すこしなよなよしているが、むかしのお半そっくりのいい女――どうだ、何とかしてあの家に|入《へえ》りこんで、おれはお半、おめえはお波を手に入れて、おもしろい目を見ようじゃあねえか。――」
「…………」
「そして、あの日の雨宿りとなった|次《し》|第《でえ》で――おまえさんもお波ちゃんもえらく親切なひとで、存外やすやすとこのうちにゃもぐりこめたものの、さて、おまえさんの様子から、どっこいそのあとがらくに事がはこびそうにねえ。わるくすると、そのうち追ん出されてしまいそうな気配だ。こいつあいけねえってんで、弥五郎のかんがえ出したのが、あの乱暴でさあ。弥五郎がお波ちゃんに乱暴しかけて、おいらが助けていい子になる。そしてお波ちゃんをおいらが手に入れてここにでんと坐りこみさえしたら、あとはこっちのもの、やがてまた弥五郎もひきいれて、お半さんにくっつける。いっときあいつがにくまれ役になるのア、借りのてめえしかたがねえ、はじめはお半さんも怒るかもしれねえが、なんてえたって、むかしの仲だ。そのうち二組ともいい具合にゆくだろうってんで――」
お半の顔色といったらなかった。……弥五郎がろくでもない人間になっていることは思い知らされてはいたが、それほど悪党だとは思わなんだ!
|夕《ゆう》|闇《やみ》の中に白く、凍ったようなお半の顔をのぞきこんで、秀之助はニヤリと白い歯をみせた。
「ああサッパリした。おいらもこれでおわかりのように、悪事にかけちゃあ海千山千だが、こんどほど|気色《きしょく》のわるかったことアねえ。それというのも、お半さんとお波ちゃんが、あんまり罪のねえひとで、さすがのおいらも気がさしてしかたがなかったんだ。さあ、これだけきいたら、あっしをお|上《かみ》へつき出しなさるか、それともこのままおさらばした方がようござんすか」
「待っておくれ」
と、お半はのどに何かからまったような声でいった。
「それじゃあ、またあのひとがこのうちにやってくるの?」
「へ、おいらが、もういいようというまで、あいつあどこかで眼かくしして待ってるはずで――なに、おいらが、もう罪な鬼ごッこはよしたっていやあ、なんとかなるでござんしょう」
そうだろうか。たとえ秀之助が手をひいたとしても、あたしたちがここにこうしていることをかぎ出した弥五郎が、これからさき姿をあらわさないだろうか?
お半は全身がつめたくなった。じぶんのむかしの恋人だっただけに、いまの弥五郎の|変《へん》|貌《ぼう》ぶりが、|妖《よう》|怪《かい》のように感じられた。そして、じぶんよりも――お波のために、あの破廉恥な男の再来をおそれた。
「秀さん、よくきかせてくれました」
と、彼女はふるえ声でいった。庭の空にわずかにのこるひかりのなかに、カサカサと|青《あお》|笹《ざさ》が鳴り、五色の紙がひらめいていた。
「けれど、おまえさん、おまえさんは、もうちょっとこのうちにいておくれ。……それに、あの子は、すっかりおまえさんを信じています」
それから数日後の、やはり或る日の夕方だった。
秀之助は朝から留守であった。こうして弥五郎を待っているより、やはりこちらから出かけて話をつけてきた方がいいといって出かけたのに、日がくれてもかえってこないので、お波が心配して、
「おっかさん、秀之助さんはこのままかえってこないのじゃあないのかしら」と泣きべそをかく。それならそれでもいいとお半はかんがえたけれど、ともかく家の外へ五、六歩出てみたのである。
「あ、秀さん。――」
夕闇のなかを、こちらにかえってきた影に、お半は思わずほっとしてさけんだ。が、その男が、すぐまえに立ちどまったとき、彼女はぎょっとした。
|黄《たそ》|昏《がれ》にふとその姿を見まちがえたが、顔を見れば中年の――あの弥五郎だったのである。
うちにいるのはお波ひとりだ。秀之助はいない。――お半は眼をひからせて立ちふさがった。ふたりはしばらくだまってにらみあった。
「悪党」
と、やっとお半はひくい声でいった。弥五郎はニヤリとした。
「悪党? ああこないだのことか。実アあのことであらためてわびにきたんだ」
「あのことじゃあない。みんな秀さんからきいたよ」
「なにっ、秀に?」
「おまえ、秀さんに|逢《あ》わなかったの?」
「逢わねえ、秀が何といったって?」
「おまえ、はじめからあたしのうちへおしかけ婿にくるつもりでたくらんだってね、ほ、ほ、ふざけるのもいいかげんにおしよ、お半は二十年まえのお半とはちがうんだよ」
「――秀の野郎が、そういったか?」
弥五郎はうめくようにいった。さすがに狼狽した顔色だ。
「ううむ、あの野郎、うらぎりゃがったな。おい、秀はどこにいる?」
「だから、おまえを探しに出ていったといってるじゃあないの」
「すると、秀はいねえというわけか」
そううなずかれて、お半はさっとまたからだをかたくしたが、弥五郎は腕ぐみをしてかんがえこんだきり、しばらく顔もあげなかった。
「そうか、そんなことだろうと思った。道理でいままであいつがおれのところにこなかったわけだ」
と、やがていった。
「畜生、飼犬に手をかまれたとはこのことだ。あいつなら、やりそうなことだ」
「そうわかったら、かえっておくれ」
「お半さん、秀のいったことアだいたい見当がつく。おそらくその九|分《ぶ》通りまでほんとうだ。だが、一|分《ぶ》がうそだね。そのうその一分を信じたら、たいへんなことになる――」
「えっ、一分のうそ?」
「おまえさんの顔色を見れアわかる。おまえさんたちは、すっかり秀を信じているらしいな。うまく|罠《わな》にかかったもんだ。なるほど、はじめこの玄冶店の家のことをおしえてやったのアまさにおれさ。しかし――え、秀はこういったろう、おれがこのうちを乗っ取ろうと|悪《わる》|智《じ》|慧《え》を出したとね。そうだろう?――ちがうね。そのたくらみをもち出したのア、あいつだよ。一分のうそってのはそこだ。そして、よく知っておくがいいぜ。あいつこそ途方もねえ悪党だってことをね。おれをそそのかしてあんな真似をさせたくせに、途中でてめえひとりでうめえ汁を吸おうってんで、約束の裏をかいておれをほうり出そうとしゃがるんだから、血が冷てえといおうか、えげつねえといおうか――」
「そんなこと……おまえがいうだけで、あたしゃ信じられないわ。わるだくみをうちあけたときのあのひとの様子からかんがえても」
「けっ、そこが狙いの逆手だったにはちげえねえが……うまくはめやがったものだなあ。こちとらアあきれて二の句がつげねえや。いまにさんざん骨までしゃぶられたあげく、母娘そろって|羅生門《らしょうもん》河岸の百|文《もん》女郎にたたき売られたって知らねえぞ。おい、お半、おれのいうことがうそだと思ったら、浅草のデブ|亀《かめ》親分――こいつあ|香具師《や  し》の親方だがね――のところへいってきいてみねえ、あの泣く子もだまる親分が、あいつの悪党ぶりだけにア舌をまいてるんだから」
お半はだまりこんだ。彼女は何を信じていいやら、わからなくなった。
べつに弥五郎の言い分を全幅的に信じたわけではないが、彼女自身秀之助に不安をかんじていたことは否めないのだ。
「……へんなことをしたら、お上に訴えてやるから」
「何といって?」
秀之助はまだ何も悪いことを事実の上でやってはいないのである。いや、やろうと思ったがとりやめたとわざわざ申し出たのである。
「ああ、あたし、どうしよう。どうしたらいいのかしら」
「だめだ、あいつに|眼《がん》をつけられたら、|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》にげられねえ」
まるでこちらの苦しみをたのしんでいるような言いぐさに、お半はきっとにらみつけたが、弥五郎の顔は恐怖の色さえうかべていた。
「あんな役者みてえなきれいな面アしてやがってよ、それアおっかねえ男だぜ。片っぱしから女をつくっては、あくびをして捨ててしまう。……おい、お半さん、ひょっとしたら……おめえかお波ちゃんか、もう……」
「ばかなことをお言いでない」
といったが、お半の顔が|蒼《あお》くなった。お波のことを思い出したのである。
どうしよう、ほんとうにどうしよう? こうなると秀之助がかえってくるのもこわい。といって、この弥五郎にたよるのもいっそうこわい。
「お半、心配するな、おれが助けてやる」
と、弥五郎はおし殺したような声でいった。
「あの野郎が裏切ったのなら、おれも義理はねえ。あいつをつかまえて、もう二度とここへ来ねえようにしてやるよ」
「殺すの?」
「お望みなら」
「そんなこと、だれが望むものか。ただおまえも秀さんも、二度とうちへちかづいてくれなきゃいいんだよ」
弥五郎はお半の言葉もきいていない風で、何やら考えていた。夕闇のなかに、それはなぜかぞっとするほどぶきみな姿にみえた。やがてニヤリとして、ふところに手を入れた。
「おれはな、実はこういうものを持っているんだ」
小さな紙包みからとり出したのは、ふたつの|蛤《はまぐり》である。その一つの貝のふたをあけると、まっしろな|練薬《ねりぐすり》みたいなものがあらわれた。
「|百足《ひゃくあし》あるきという――」
「え、百足あるき?」
「味もなく匂いもねえが、これをのませるとな、百足あるいて死ぬ――それもな、ひどくのどがかわいて、水が欲しくなって、河でもありゃじぶんでとびこむんだってよ。実はおれも使ってみたことはねえが、いっぺん使ってみてえものだとは考えていた。――」
そして、ふっとお半の顔をみて、
「おい、お半さん、これを一つやろう」
「そんなきみのわるい薬、いらないよ」
「なに、効かねえかもしれねえよ。おれはな、これから秀の野郎をとっつかまえるつもりだが、ひょっとしてゆきちがいになって、あいつまたここにもどってくるかもしれねえ。そしてな、おれがいったとおり、おまえかお波ちゃんに妙なまねでもしたら、ためしにこいつをのましてみねえ」
むりにお半の手におしつけた。
「秀に逢えなかったら、あした様子を見にまたくるから」
|蝙《こう》|蝠《もり》みたいにいってしまった。
百足あるき――妙な名前の妙な薬を手にして、|茫《ぼう》|然《ぜん》とたたずんでいるお半のうしろで、そっと戸があいた。
「おっかさん」
蒼い顔のお波であった。
「きいていたわ」
そしてかけよって、ひしとお半にとりすがった。
「秀之助さんはそんなわるいひとじゃないわ。まえはどうだったかしれないけれど、いまは決してわるいひとじゃあないわ。……おっかさん、あのひとを追い出さないで!」
急にお波は恐怖に凍ったように夕空をあおいだ。
「もし、あの男が秀之助さんを殺したら?」
その夜、秀之助はとうとうかえってこなかった。
朝になって、お半は、お波の頬がゲッソリとこけているのを見出した。一晩じゅう眠らなかったのだと気がついて、お半は何ともいえないきもちになった。もしや……もしや……もしやすると、秀之助は弥五郎のためにどうかされたのではあるまいか?
その日も秀之助は姿をみせず――夕方になって、やってきたのは弥五郎であった。
「お半……もう安心するがいい。あの野郎はもう二度とここへ来ねえぞ」
舌がもつれて、顔が|狒《ひ》|々《ひ》みたいだった。酔っているのである。手には一升徳利をぶらさげていた。
「どうだ、ほっとしたろう。祝いの酒をもってきた、ひとつつきあえ」
「…………」
「いいや、二十年ぶりに、おめえの酌で一杯やりたくってよ。さあ、にっこり笑って酌をしてくれ」
「…………」
ふたりとも、声も出なかった。弥五郎がのこのこと上りかけたとき、はじめてお半ははっとして、その胸をおしもどしながら、
「弥五さん……おまえ、秀さんをどうしたの?」
「どうした? へ、どうしたかな、へへへへ、なんでもいいじゃあねえか、あいつはもう金輪際ここへはこないよ」
突然、うしろで物音がきこえた。お波が失神してたおれたのだ。
「お波! お波!」
狂ったようにかけより、お波を抱きあげて、お半は血ばしった眼でふりかえり、
「人殺し! かえっておくれ!」
とさけぶと、お波を抱いて、奥へ入っていった。床をとってお波を横たえると、お波はかすかに眼をひらいて、
「おっかさん、あたしも死にたい。……」
といった。その眼から、泉のように涙があふれおちた。
そのとき、茶の間に、だれかいる気配がした。さては、と出ていってみると、はたして弥五郎がそこに入りこんで、ちゃっかりと長火鉢のそばに坐り、|湯《ゆ》|呑《のみ》|茶《ぢゃ》|碗《わん》に徳利をかたむけて、ひとりでぐびぐびとのんでいた。
「お半、|御《ご》|馳《ち》|走《そう》はねえか」
顔をあげて、ニヤリと笑い、亭主みたいな口をきいた。胸毛まで朱色に染まって、テコでもうごく気配はない。
お半の|瞼《まぶた》に、いまのお波の涙がうかんだ。突然、彼女の胸にあの貝に入った薬のことがよみがえってきた。蒼白い風のようなものが、さっと面を吹きすぎた。
じいっと弥五郎をにらんでいたお半は、ふいに、
「あいよ。……ほんとにしかたのないひとだねえ」
と、ゆがんだ笑顔をつくって、そばにちかづいた。
「それじゃ何かつくってあげるけれど、おまえさん冷やは毒だよ」
――しばらくののち、|胡瓜《きゅうり》もみ、冷やっこなどのお半の手料理で、弥五郎はいよいよ御満悦で酒をのんでいた。
「お半、二十年前を思い出すなあ」
「ほんとにそうねえ」
「二十年前に、おめえと世帯をもってこうして暮していりゃあ、おれももうすこしまっとうな人間になっていたろう。おれの一生を棒にふらしたのアおめえだぜ」
「すまなかったと思うよ。あたしだって、お妾などになりたかアなかった。あのとき、あたしはいっぺん首をつりかけたほどなんだよ。でも、しかたがなかった。……」
「わかってるわかってる。いまになれアわかる。こんどのことも、悪智慧を出したのア秀の野郎だが、おれもついつい乗ったのア、いちどでいいから、おめえとこうして見たかったからよ、かんべんしてくんねえ」
「おまえさん……ほんとに秀さんを殺しちまったの」
「秀のことをいうのはよせ、せっかくの酒がまずくならあ」
「だって……」
「いいよ、いいよ、おめえたちに迷惑はかけねえ。それより、お半――」
と、いうと、弥五郎はいきなりお半の手をとって、グイとひきよせた。
「あれ」
と、もがくのもかまわず、片手を背にまわし、片手でお半のあごをぐいともちあげた。|熟柿《じゅくし》くさい息が顔にかかったかと思うと、お半は口を吸われていた。
「う……」歯をくいしばると、弥五郎の一方の手は、はや背からお半の乳房にのびる。
お半は身もだえした。
「お半、旦那に死なれてから、さびしかったろう。……相手は昔なじみのおれだ。遠慮することアねえぜ」
「お波がいるよ、おまえさん。……」
「だったら、おとなしくして、これ……」
と、もうお半をたたみにねじ伏せにかかる。夏の宵だけに、それだけのもみ合いで、お半はもうまるはだかにちかい姿になった。まっしろな二本の足のあいだへ、毛だらけの弥五郎の足がわりこんできたとき、お半はたまりかねて大声をあげようとした。――
そのとき、弥五郎がふいにうごかなくなった。
「…………」
彼の眼は、白くドンヨリとして宙をみていた。唇が枯葉のそよぎのような音をたてた。
「みず。……」
と、いったようだ。
そして、急にお半のからだから手をはなすと、そばの茶碗をつかんで、かぶりつくようにのんだ。しかし、それは例の酒だった。――おかんをして、なかにあの「百足あるき」を溶かしこんだ酒である。
「水。……」
と、もういちどいった。
弥五郎はあるき出した。ペロペロと舌を出して唇をなめ、あごがカタカタと鳴っている。――そのまま、およぐように茶の間を出ていった。
あまりの薬の効きように、お半はあっけにとられて、いまの危機をのがれたのもわすれたように、しどけない姿のまま半身をおこして見送っていたが、戸のあく音とともに、はっとして身づくろいしてかけ出した。
外はもうとっぷりと日がくれていた。十五夜ちかい月が空にある。その月の下を、弥五郎はふらふらとあるいてゆく。
路地を出て、堺町の方へあるいてゆく、百歩――いや、百歩はもうとっくにこしたが、彼はたおれない。たおれそうな姿勢だが、ふらふらと|親《おや》|父《じ》橋の方へあるいてゆく。
この堺町あたりは、明暦のはじめまで、いわゆる元吉原だった。
それ以前はただ|葭《あし》のおいしげった沼地だったが、ここに|遊《ゆう》|廓《かく》をひらいた|庄司《しょうじ》|甚《じん》|右衛《え》|門《もん》が客を通わせるために作った橋なので、親父橋という。――
その橋の上に、弥五郎は立ちどまった。そして、欄干をつかんで、じっと水面を見おろしていた。とみるまに、ぐらりとそのからだがかたむいて、石のように川へおちていったのである。
「あっ」
われしらず、お半は悲鳴をあげた。彼女は橋の上にかけつけて、水をのぞきこんだ。しかし、月に|蒼《あお》くひかる水面は、もうもがく姿もみえず、波紋さえもなかった。
「弥五さぁん」
お半はさけんだ。ふいに彼女は、たもとに入っていたあの蛤の薬を思い出し、恐怖のあまりそれを川へ投げすてると、一目散に玄冶店ににげかえった。
そのあくる朝であった。お半は、親父橋のすこし下流の思案橋に、ひとりの男の水死体がひっかかっていたという|噂《うわさ》をきいた。左の二の腕に「一代無法」と|刺《いれ》|青《ずみ》を入れた男の土左衛門だという。
冥土の呼び声
――その水死人は、河におちるとき|杭《くい》か何かにぶつかりでもしたのか、人相はむろん年のころさえよくわからないほど顔が|潰《つぶ》れていたという話であったが、それがだれか、お半だけは知っていた。
昨夜のさわぎをきいていたとみえて、お波も察したようだ。|母《おや》|娘《こ》は蒼白い顔を見あわせた。しかし、どちらも、何も言わなかった。
思案橋のたもとに、その|屍《し》|骸《がい》があげられて、|菰《こも》をかぶせられてあるという噂であったが、彼女たちは見にゆかなかった。罪の発覚をおそれるというより、だいいち、土左衛門となった弥五郎を見る度胸はなかった。
しかし、内心、おそろしいつむじ風が去ったような気がしたことも事実だった。弥五郎に殺された秀之助のことを思うのか、お波はそっと泣いていたようだが、それでもその弥五郎を母が殺したという一種のショックのために、そのかなしみも塗りつぶされたようであった。
|嵐《あらし》は去った。――日蔭の母娘は、|腑《ふ》|抜《ぬ》けみたいに坐っていた。そして、ともかくこの玄冶店の路地の奥に、以前のとおりのしずかな暮しがもどったように見えた。
――ところが、そうではなかったのである。しばらくたってからふたりをぎょっとさせるようなことが起ったのである。
五日めの朝、お半は台所へいって、何気なく流しのうえをみて、ふと息をのんだ。そこにひとつの蛤がころがっていたからだ。
「お波、お波、おまえ、蛤を買ったかえ」
と、思わずかんだかい声をはりあげると、
「いいえ」
と、奥でお波が返事をした。
その返事をきくまえに、お半の胸は|動《どう》|悸《き》をうっていた。たとえお波が買ったとしても、たったひとつ、蛤がそこにあるということはおかしなことだからだ。いったい、いつ、だれがこんなところにおいたのだろう?
「おっかさん、なあに?」
立ってくる物音に、お半はあわてて、
「いえ、なんでもないよ」
と、その蛤をたもとにかくしてしまった。彼女はあの「百足あるき」の蛤を思い出していたのである。しかし、わたしのもらったあの蛤は、たしかに親父橋から河へなげこんだ。もうひとつは、死んだ弥五郎がもっていたはずだ。
物蔭にいって、そっとその蛤をとり出してみると、なかはからっぽだった。見れば見るほど、大きさといい色といい、おなじ蛤のようだけど……しかし、蛤などというものは、どれだって似たようなものだろう。だれかのいたずらだ。何かのまちがいだ。――お半はそうかんがえて、その蛤を|塵《ごみ》|箱《ばこ》にすててしまった。
ところが、そのあくる日のことである。庭にたてた七夕の青竹ももう枯れはてたので、お波がそれをとりはらって焼きにかかったとき、突然異様な悲鳴をあげた。
「どうしたの、お波!」
「あれ、あれ、おっかさん」
と、お波は竹を指さした。
枯れた竹の葉は、すでに蒼いけむりをあげていた。そのなかに、あちこちと色紙がもえている。色紙は雨にうたれて、みんな色あせていた。ただ――お波の指さしたのは、それにまじって毒々しいほど朱色の色紙だった。数枚ある。お半はかけよって、それをひきちぎって、眼がくらくらとした。
その|朱《あか》い色紙には、ことごとく「一代無法」という字がかかれてあったのだ。
それは、たしかに弥五郎の刺青とおなじ文字だった。そして、お波が竹にむすびつけた色紙のなかには、そんなものは決してなかったのである。……
「――どうしたんだろう?」
「――どうしたのかしら?」
ふたりは唇の色を失って、つぶやいた。お半にいたっては、歯をカチカチと鳴らしていた。きのうの蛤のことが胸によみがえり、吐き気をおぼえ、お波さえいなかったら、わっとさけび出しそうだった。
その夜、雨がふった。そのくせ、むし暑い夜であった。床をならべた母娘は、じっとりとながれる汗も意識せず、蒼い|蚊《か》|帳《や》の天井に眼をむけていた。そしてお半は、眠ったつもりでもないのに、いつしか悪夢にうなされていたのである。
酒と獣欲にまっかな顔色になり、眼をぎらぎらとひからせて、じぶんに襲いかかってきた弥五郎の夢だ。口を吸われ、乳房をいじられ、|両腿《りょうもも》のあいだにおしこんできた毛だらけの足の感触。――全身が火みたいにあつくなって、彼女はあえぎ、夢のなかで|虚《こ》|空《くう》をかきむしった。
――と、宙がその手で幕をひいたように暗くなって、月明のなかを弥五郎があるいてゆく。そして、橋の上に立って、水を見おろしている|夜鴉《よがらす》のような姿が。……
夢のなかの弥五郎は、現実の弥五郎よりもさらに恐ろしく、
「ゆ、ゆるしておくれ! 弥五さん!」
と、彼女がさけんだとき、ふいにその肩をつよくつかまえられた。
「あれ!」
と、お半はほんとうに悲鳴をあげた。
「おっかさん、おっかさん」
お波の声だ。
「おっかさんも、あれをきいたの。……あの声を……」
「えっ?」
雨はなおざあざあとふっていた。母の肩を|爪《つめ》のくいいるほどつかんで、往来の方へ顔をむけているお波の眼は、蚊帳ごしにさす|芯《しん》をほそくした|行《あん》|灯《どん》の灯にとび出すようだった。
そして軒にしぶく雨音のなかに、ぼそぼそとつぶやく声がたしかにきこえたのだ。
「――そうよなあ、まったくこのざまじゃあ、先へゆけねえ」
しばらくたって、だれと話をしているのか、力のない陰気の声が、
「――二十年前に、おめえと世帯をもってこうして暮していれア、おれももうすこしまっとうな人間になってたろう。おれの一生を棒にふらしたのアおめえだぜ。……」
急にお半の眼が白くつりあがった。そして、たまぎるような悲鳴をあげるお波の腕のなかで、彼女は気を失ってしまった。
――女囚お半の話は終った。
これが、二十年ぶりに再会したむかしの情人を女らしいやさしさから家に入れたばかりに、まったくごろつきになりはてたその男にだに[#「だに」に傍点]みたいに苦しめられ、娘の恋人を殺された|敵《かたき》を討つためと、じぶんの貞操をまもるために、とうとうその男を殺してしまったという罪で、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される女の物語であった。
|闇《あん》|黒《こく》のおんな|牢《ろう》のなかに、くびをおれるほどうなだれたお半のひざに、滴々と涙がおちている。
「そう」
と、お竜はつぶやいて、
「それであなたは、その弥五郎という男の亡霊につきまとわれて、こわさのあまり自首して出たのねえ?」
「ええ、いまから思うと、あんな薬をのませるのじゃなかった。……あのひとはむかしわたしに裏切られて身をあやまり、そのはてにわたしに殺され……わたしを恨んで迷って出たのもあたりまえかもしれない。わたしはいまでも、ときどき、あの力のない――そうよなあ、まったくこのざまじゃあ、先へゆけねえ――という声にうなされるんです。……」
「けれど、お半さん、なるほどあなたは弥五郎を殺したかもしれないけれど」
と、お竜はいった。
「いまきいた話じゃあ、殺された者にも罪があるわ。それでお奉行さまがあなたをまさか死罪とか|斬《ざん》|罪《ざい》とかにすることはないでしょう」
お半はだまりこんだ。
「弥五郎は秀之助にその百足あるきとやらをのませろとあなたをそそのかしたんだから、人を|呪《のろ》わば穴二つといっていいんじゃないの。それどころか、じぶんで秀之助を殺したんじゃないの。だからあなたはお波さんのために敵を討ったんじゃあないの?」
「秀之助さんのことは、お奉行さまに言わなかったんです」
「えっ……どうして?」
「秀さんのことをいうと、お波もお|白《しら》|州《す》へひき出されるようになりはしないかと、それがこわかったのです。あの子は心もからだもよわい子だから、なんどもお取調べを受けたりなどすれば、死んでしまうかもしれません。わたしがこんな話をしたのは、お竜さんがはじめてなんです」
「――お波さんはどうしたの」
「蔵前の御本宅のおかみさまにあずけてあります。いえ、まえから旦那さまの忘れがたみだから、ひきとらせてくれないかというお話もあったのです」
お竜はまじまじとお半の姿を|闇《やみ》の中にすかしてみていたが、
「お半さん、それじゃあお波ちゃんをかばうために、いまあたしがきいた話から秀之助のことをのけて、お奉行さまに白状したという――わたしはどうしても|腑《ふ》におちない」
「何が?」
「ただそれだけのことで、秀之助のことをかくそうとしたわけが」
「どうして?」
「というより、いまの話だけで、あなたが弥五郎を殺す気になったわけが」
「だって――」
「お半さん、あなたはわたしに、まだかくしていることがありますね?」
お半は、ぎょっとした気配である。しばらくだまっていたのち、お竜がかなしそうな声でいった。
「秀之助の敵を討とうとしたのは、お波ちゃんですね? つまり、弥五郎ののんだ酒に百足あるきを入れたのは、お波ちゃんですね? それだから、あなたは秀之助のことをお奉行さまに申し上げられなかった。――」
ふいにお竜は、お半にひしとしがみつかれた。恐ろしい力であった。
「ああ、おまえさんにしゃべらなきゃよかった! おまえさんにどういうわけか、ふとしゃべりたくなったのがまちがいだった! お竜さん、お奉行さまに申しあげないで! わたしを下手人にしておいて! お波を……お波を、こんなところに来させないで!」
「だれがそんなことをほかにしゃべるものか。あたしはここにいる女のひとたちとおんなじ身の上、奉行所の犬じゃあないわ。……」
と、お竜はあわててこたえて、|膝《ひざ》につっ伏したお半の肩をなでたが、暗然とした。
果然、この女囚は娘の身代りなのだ。娘を罪におとさないためにみずから下手人と名乗り出たかなしい母であった。
しかし、それならば奉行所での彼女の陳述があいまいをきわめ、おそらく奉行者の心情をわるくしたことも当然だ。彼女が二十年ぶりにたずねてきた古い情人を、たとえ多少のいざこざはあったにせよ、非情に殺害してしまった下手人と目されてもいたしかたはない。「百足あるき」などという妙な薬で、弥五郎がじぶんから河にとびこんだということも信じてもらえず、彼女が弥五郎を水につきおとしたと断定されたのかもしれない。いや、「百足あるき」などいうものは、お竜にさえ信じられない。……
「でも、そんなへんな薬ってあるかしら?」
「それは、ほんとうです!」
と、お半はさけんだ。ひくいが、必死の声だった。
「わたしでさえ、あの薬の効き方にはびっくりしたんだから、ひとは信じてくれないけれど、でも、それはほんとうですよ!」
「そう……それで弥五郎は死んだ……けれど、幽霊なんてほんとにあるかしら?」
こんどは、お半がだまった。しかしそれはお竜の疑問に同感したせいではなく、疑うひとにはどうしようもないという絶望の気配がありありと感じられた。
「お半さん、あなた……弥五郎の|屍《し》|骸《がい》をみにゆきました?」
「いいえ」
「ああ、台所に|蛤《はまぐり》がひとつころがっていたのは、五日めのことでしたね。|七《たな》|夕《ばた》の竹にへんな色紙があらわれたのがそのあくる日、雨の軒下で妙な声がきこえたのがその夜――屍骸はもう始末されていたろうし、そうでなくっても真夏のことだから、顔も崩れちまっていたろうし――あ、屍骸の顔は、はじめから|潰《つぶ》れていたといいましたね?」
お半は、お竜が何をかんがえてそんなことをいい出したのかわからないので、だまっていた。
「お半さん、弥五郎は、ほんとに秀之助を殺してきたといいましたか?」
「二度とうちへは来させないようにしてやったと言いました。だからお波は……」
お竜はうなだれていたが、やがてひとりごとのようにいった。
「まさか|与《よ》|力《りき》や同心が、刺青と墨でかいたものとまちがえるはずがない。死人に刺青はできないはず……」
急にはっとして、
「お半さん! 秀之助の左の二の腕に白い布がまいてあったといったようだけれど……」
「お竜さん……あなたは、まさかあの水死人が秀さんだというのじゃあありますまいね?」
お半も|愕《がく》|然《ぜん》としてさけんだ。
「ちがいます。秀さんの二の腕にもたしかに刺青の文字がありました。いえ、あたしは見たわけじゃあないけれど、お波が見たそうです。秀さんが行水しているときに見たといっていましたけれど、それはたった一字、法、という字が彫ってあったそうで……」
「法?……妙な刺青」
お竜はくびをかしげていたが、
「弥五郎の素性はわかっているけれど、秀之助とはどういう人間だったのかしら? そうだ、浅草のやくざものだとかいいましたね?」
「ええ」
「あ――さっきあなたは、秀之助がどんな悪党か、浅草のなんとかいう親分のところへいってきけと弥五郎がいってたと言ったじゃあないの?」
「そう、あんまりおかしい名だったのでおぼえていたんです。|香具師《や  し》の親分、デブ亀親分。……」
お竜は、吐息をついてつぶやいた。
「……それほど手数をかけて、じぶんを世の中から消して、さてどういうつもりなのだろう?」
――その翌朝、お竜のところへかけてきたお関が、
「お竜さん、お竜さん、いったいどうしたの。十日ちかくも牢にかえってこないから、もしかしたら――と思うと、あたし、心配で、心配で――」
「玄々教に祈っていてくれた?」
と、お竜に笑われて、お関は顔色をかえた。恐ろしい想い出なのである。お竜は冗談がすこし過ぎたと|狼《ろう》|狽《ばい》して、
「お関さん、町じゃあ、どうやら玄々教のお手入れがあったらしいよ。ずいぶんいかさまな宗門で、いろいろむかしの悪事も出てきたらしい。まえの玄妙法印もたいへんな悪党だったとわかったようだから、あなたの罪もかるくなるんじゃないかしら?」
「まあ! それ、ほんと?」
お関はぱっと眼をかがやかしたが、
「お竜さん、あなたは町へ出たの?」
お竜はいよいようろたえたが、やっと、
「ああ、|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》でちょいといためつけられたものだから、品川の|溜《ため》へいってきたんだよ」
といった。溜とは、牢内で重患が出た場合にうつす病棟だ。
「え、溜?」
「じゃ、|娑《しゃ》|婆《ば》のようすはどうだったい?」
それをきいて、ガヤガヤと女囚たちがあつまってくる。囚人にとって、どんなに浮世の風が恋しいか――おそらく辛い悲しい世間であったろうに――それは|渇《かつ》えたものが水の音をきくにひとしかった。この牢内からも、ときどき奉行所または火附盗賊改役所へ召喚されて取調べをうけにゆくことがあるのだが、たとえいって拷問を受けることがわかっていても、なお呼び出しを受けたものが|羨《せん》|望《ぼう》の眼をあびるほど、途中の風物は彼らにとって無上の魅惑であった。
お竜はひどくこまった表情で羽目板におしつけられていたが、ふいに口笛を吹いた。――ややあって、例のごとく牢格子の外に、同心の姿があらわれた。
「武州無宿お竜、早々穿鑿所へ|罷《まか》り出ませい!」
|浅《せん》|草《そう》|寺《じ》境内――五重の塔と大|銀《いち》|杏《よう》にあかあかと初夏の夕日がさしている。
その奥山に立ちならぶ水茶屋、見世物小屋、また、大道講釈、居合、|独《こ》|楽《ま》廻し、刀の刃わたり、麦湯売り、薬売りなどの香具師のまわりに群れている人々――ここばかりは、いつも縁日のようだ。
「やいやい、この|婆《ばば》あ」
突然、大きな声がした。むしろをしいて、竹でつくった|蛍籠《ほたるかご》を十ばかりならべた老婆のまえに、いなせな|哥《あに》いが、三人|仁《に》|王《おう》立ちになっていた。
「だれにことわって、このショバをとりゃがった?」
婆さんは耳が遠いらしく、
「はいはい、ありがとうござります。孫娘がながの患いでな、薬を買う銭がねえので、この婆が夜なべに作ったものでござります。不細工なものを、これはまあ、おにいさん方、御親切さまに――」
「なにをいってやがる」
「おれたちにことわって、ここにコミセを出したかってきいてるんだよ!」
「――へ、三つ買って下さるので?」
キョトンと|巾着《きんちゃく》みたいな顔をあげる婆さんの眼のまえで、いきなり三人は足をあげて、ばりばりと蛍籠をふみつぶしにかかった。
――その一瞬、うしろからびゅっと飛んできたひとすじの|縄《なわ》が、三人ひとまとめに、くるくるっとしばってしまった。
「あっ、畜生」
「だ、だれだっ」
と、身をもがきつつ、三つの首をふりむけると、
「|三岐大蛇《みまたのおろち》、この珍物を三|文《もん》で売ろう、だれか買うものはないか?」
と、ひとりの武家娘が、笑いながらあるいてきた。縄じりをとって、|颯《さっ》|爽《そう》たるものだが、顔は童女のごとく愛くるしい。
「て――て――てめえ、なんだ?」
と哥いたちは狼狽した。武家娘というのにも面くらったし、それにいまの手練の縄さばきにはいっそう|胆《きも》をつぶした。
「この老婆の孫はわたしです」
と、娘はにこにことして、人をくった返事をする。
「ここに店を出すのに、おまえたちにことわらなくちゃいけないの? おまえたちは、観音さまの家来?」
「えっ、おれたちが観音さまの家来?――こいつあ参った。降参だ」
「そんなことをいうと、|罰《ばち》があたるぞ」
娘はとうとう吹き出した。
「それでは地獄の|牛《ご》|頭《ず》|馬《め》|頭《ず》か。そうであろう、さればによって不動の|羂《けん》|索《さく》で縛ってつかわした」
あっけにとられていた群衆が、やがて面白がってぞろぞろあつまってきたので、三人はあわて出した。りきんでみたが、縄はゆるまばこそ。
「何でもいい、とにかくこの縄をといておくんなさい」
「あっしたちゃ、何もこの婆あを非道にいじめようってんじゃあねえ。この境内に、コミセ、三寸、コロビ、ボクヤ、ごと[#「ごと」に傍点]師、ぬけ打ち――|香《て》|具《き》|師《や》はいっさいうちの親方の御支配を受けることになっているんだ」
武家娘は、縄をといてやりながら、うなずいて、
「その親方とは?」
「仁王門のデブ亀親分ってんでさ」
「それじゃあ、そのデブ亀のところへ、わたしをつれていっておくれ」
「へ、お娘さんを――なんの用で?」
「三岐大蛇を売りたいゆえ、親分のおゆるしを得たいのじゃ」
「まだ、あんなことを――」
と、ひとりが眼をむくのに、もうひとりがその横ッ腹をひどくついた。ふりかえって、眼顔でおしえられて、気がつくと、そばにいつのまにかひとりの八丁堀同心が、腕ぐみをして立っている。いまの問答をきいていたにちがいないが、一言もいわない。
三人はいよいよこの武家娘の素性がうすきみわるくなった。
「デブ亀は、どこに住んでいるの?」
「|蛇《じゃ》|骨《こつ》長屋で――」
「左様か、それではそこへ案内しやい」
ふらふらとあるきかかるうしろから、娘は声をかけた。
「お待ち、このお婆さんに、籠代をはらっておゆき。おまえたちの踏みつぶした分だけ。――一つが一|分《ぶ》」
「そ、そんなばかッ|高《たけ》え蛍籠があるもんか」
「わたしはこのお婆さんの孫だから、ねだんは知っています。あ、六つも踏みつぶしたね、それではぜんぶで一両二分」
紅無垢鉄火
蛇骨長屋という名は神秘的だが、むかしここから蛇の骨が出てきたからというだけのことで、長屋の名称ではなく、地名だ。いまの田原町の一部にあたる。――
ここに住む|香具師《や  し》の親方、仁王門のデブ亀は、三人の若い女を|侍《はべ》らせて、酒をのんでいた。仁王門とはいうが、背は五尺あるかなし、ただし、デブの名にはそむかず、|臼《うす》か|樽《たる》のようだ。眼は恐ろしく大きく、鼻はあぐらをかき、なかなか迫力がある。
|香《て》|具《き》|師《や》というものが、決してばかにできない力をもっていることは、その世界に無縁なはずの現代のわれわれでも、尾津組とか安田組とか極東組とか芝山一家などという名を知っていることからでもわかる。
親分のことを帳元といい、その下に、|帳脇《ちょうわき》――世話人――若衆と、厳然たる階級があり、縄張りのことを庭場といい、その統制のきびしさは、|博《ばく》|徒《と》にまさるともおとらない。
さて、デブ亀帳元のまわりに侍っている三人の女は、いずれも二十歳前後、そのうちふたりは、どっちもズングリムックリ、眼だけ出目金のごとく巨大で、鼻はあぐらをかいているところをみると、親分の娘で、姉妹だろう。あとのひとり、酌をしているのは、蚊とんぼのごとくほそい女で、これは親分の後妻――というより、|妾《めかけ》だ。
やがて、帳脇が、庭場から召しあげてきた|場代《あがり》をもってくる時刻だ。――と思っているところへ、ばたばたと三人の|哥《あに》いがとびこんできた。
「親分」
「な、なんだ。なんだ」
「お客人だ」
「なに、客人?」
ふりかえるデブ亀の眼に、哥い連中のすぐあとから、つかつかとひとりの武家娘が入ってくるのが映った。デブ亀の眼はぐるりとむき出され、鼻の穴はいよいよひろがった。その武家娘が――
「敷居うち、御免なすって下さいまし」
といって入ってくると、三足すすんで一足とまり、また三足すすんで、こんどは半歩ひくと、両ひざをまげ、まげたひざに両手をついて、
「これは御当家の親分でござんすか。おひかえねがいます」
といったからデブ亀はとびあがった。|狼《ろう》|狽《ばい》しつつも反射的に、やはりおよび腰になり、ひざに手をあてて、
「客人、|旅《たび》|法《ほう》もございましょうが、おらくにお着きなさいまし」
「お言葉にしたがいまして、着かしていただきます」
というと、娘は右ひざをつき、親指を内におりまげた右手をたたみについて、デブ亀をひたと見つめ、
「|無《ぶ》|様《ざま》がひきつけまして、失礼さんにござんす。御当家の親分さんならびにお|姐《あねえ》さん、かげながらおゆるしをこうむります。むかいまする|上《かみ》さんとは、今日はじめて|御《ぎょ》|意《い》を得ます。したがいまして、手前生国は江戸にござんす。江戸と申しましても、いささか広うござんす。江戸は八丁堀――」
あっけにとられていたデブ亀は、このときはじめてわれにかえった。じろっと|乾《こ》|分《ぶん》のほうをみて、
「おう、こりゃいってえなんだ。きちがいにしても、そもそも、どこのどなたさまだえ?」
若いものたちが口をもがもがさせているあいだに、娘は一気につづける。
「手前、兄と申しますのは、八丁堀同心巨摩主水介でござんす。名前の儀はお竜と発します。しがないものでござんす。お見知りおかれまして、万端よろしくおたのみ申します」
「な、なに、巨摩の旦那」
デブ亀はすッとんきょうな声をはりあげたが、すぐ恐ろしい顔になって、
「こいつ、いよいよとんでもねえ|女《あま》だ。巨摩の旦那に妹さまがあるかねえかは知らねえが、八丁堀同心の妹さまが、こんなふざけた真似をするものか。やい、おれは巨摩の旦那とァ|親《しん》|戚《せき》づきあいをしてる男だぞ。人を|白《こ》|痴《け》にするのもいいかげんにしゃがれ」
「――ところが、仁王門の、ふざけてはおらんのだ」
と、座敷の外で声がして、ぶらりと入ってきたのは着流しに捲羽織――音にきこえた八丁堀の|伊《だ》|達《て》姿だったから、デブ亀は息をのんで、絶句した。
「こ、これア巨摩の旦那!」
「久しぶりだな、仁王門の――親戚づきあいをしているお方へ、|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》をして相すまなんだ」
「そ、そんな……旦那、そうからかわないでおくんなさい」
と、デブ亀は眼を白黒させて、
「旦那、いってえ、これアなんてことです?」
「実ア、ちょいとおめえにたのみがあるんだ」
デブ亀はちらっときみわるそうに娘の方を見たが、あらたまった顔色の巨摩主水介に、
「承りますでございます」
と、膝がしらをそろえた。
「仁王門の、おめえ、秀之助って野郎を知らねえか?」
「秀? 秀を御存じでごぜえますか!」
と、さけんだとたん、デブ亀は|凄《すさ》まじい形相になった。
「旦那、秀のいどころを御存じなら、おしえて下せえ。あの野郎、見つかったら、たたッ殺してやんなきゃならねえ」
主水介はめんくらった。
「仁王門の。秀がどうしたんだ」
「あの野郎は……ちょいと見込みのある奴だと、おれも眼をかけてやりやしてね。若衆から世話人へ、世話人から帳脇へと、身内の奴らの苦情もふみつぶしてとりたててやったあげく、うちの姉娘の婿にして、仁王門の一家をつがせてやろうとまでしたんだが、あの野郎、無断でずらかってしまいやがった」
恐ろしい鼻息がもう一方から噴出される音に、主水介はふりかえった。ズングリムックリした|臼《うす》みたいな娘がふたり、怒りに顔をまっかにして、鼻の穴をひろげていた。ははあ、これでは秀之助とやらが逃げ出すわけだ、と主水介は苦笑して、
「それはふとどきな奴だな。しかし、そんなふとどきな野郎を、婿にしねえでかえって倖せだったろう」
「旦那、それが……恥をいうようでござんすが、あん畜生、娘に手をつけてからずらかっちまったんで――姉の方ばかりじゃねえ、妹の方まで……」
主水介はあきれかえった。これは、相当ないかものぐいだ。なんにしても、それではデブ亀が怒るのも当然で、ふたりの|臼娘《うすむすめ》が|鼻嵐《はなあらし》を吹くのもむりはない。
「それはいつのことだ」
「去年の|梅《つ》|雨《ゆ》どきのことで――旦那、秀はどこにいます?」
「それをききに、ここまで来たのだ。が、いま話をきくと、おまえも秀の行方は知らねえ様子。――それじゃあ、弥五郎って奴あ知らねえか?」
デブ亀は急に興味をうしなったように肩をおとした。
「弥五郎? きいたことがねえな、うちの身内じゃあねえ」
と、乾分をふりむいて、
「おい、てめえら、弥五郎って知らねえか?」
「弥五郎……あいつじゃねえかな?」
と、|哥《あに》いのひとりがいうと、もうひとりが、
「親分、秀之助の兄貴は、去年の春ごろから、たしか|賭《と》|場《ば》で知った弥五郎ってえ男と、ちょいちょい酒などのんでいましたぜ。そういえば、あの弥五郎ってえ野郎も、兄貴がいなくなったころから、どこの部屋の賭場にも姿をみせねえようだ」
主水介はしばらく考えていたが、
「では、おまえたちは、弥五郎という男はあんまり知らねえんだな」
「へえ、とにかく|香具師《や  し》の仲間じゃねえようですから」
「――秀ってのア、どこの生まれだ」
「たしか紀州だってききました。ああ、それから三つちげえの妹が国元にいるとかいってたっけ。……そのほかにゃ、むかしのことアあんまりいいたがらなかったようです」
「では、そっちへ飛びでもしたかな。そうなると、ちょいとつかまえられねえな」
「旦那……秀が、何をしたんで?」
「さて、それが、秀之助があらわれなきゃあ、わからねえ」
と、主水介が腕ぐみをしたとき、いままでだまってきいていた武家娘が声をかけた。
「主水介、わたしは、秀之助か弥五郎か、うまくいったら穴から追い出せる法が一つあると思う」
主水介の妹と名乗っていた娘が、主水介と呼び捨てにしたので、デブ亀は大きな眼をいよいよまんまるくして、
「旦那……こ、こ、このお嬢さまは?」
「亀、余人にはあかさぬという誓いをいたすか」
「へ、口はばってえようだが、旦那、香具師にはね、五本の指にかけて、仲間の秘密は金輪際あかさねえっていう|掟《おきて》があるんです。――」
「ならば、申す。これは南町奉行大岡越前守さま御息女霞さまであらせられる」
わっとさけんで、|平《ひら》|蜘《ぐ》|蛛《も》のようになってしまった一同――いや、デブ亀およびそのふたりの娘は、ふとった芋虫然ところがってしまったが――そのまえで、町奉行の御息女は、澄ました顔で、
「さっそくおひかえ下すって、ありがとうござんす。お見かけどおりの若年者でござんす。今日からお見知りあって、御引立のほどをお願い申しあげます」
その夜のうちに――江戸の香具師、博徒、|丁半《ちょうはん》好きの旦那衆、渡り中間などのあいだに、ふしぎな風評が立った。浅草の香具師の大親分仁王門のデブ亀が、三日のちに大鉄火場を開帳するというのである。むろん、主だったものには正式の廻状がまわったのだろうが、|噂《うわさ》によると、そこに百両もった女がくるというのだ。それはデブ亀のもと乾分秀之助の妹だとかいうことでその女が何か念願のことがあって、一世一代の大ばくちをやりたいといっているというのである。しかし、その女が、どうして百両などという大金を|賭《か》けにつかう気になったのか、その念願とはどんなものか、その点はあいまい|模《も》|糊《こ》として、いっそう人々の好奇心をそそった。
三日めの夜――浅草寺裏あたりの|或《あ》る料亭の二階に、廻状をもらった人々が続々とあつまった。
階段下の受付で、仁王門一家の若い衆が客をさばく。廻状を受けない人間でも、顔で通されるものもある。その受付に若い衆にまじって、ひとりの美しい娘が坐っていた。蒼白い、病身そうな娘が、妙にひかる眼で客の顔をのぞきこむので、人々は、それがデブ亀の娘でも妾でもないから、さてはこれが例の秀之助の妹か――と思った。
しかし、それはちがった。いよいよ賭場がひらかれると、あっと息をのむほど美しい別の女が登場したからだ。その美しさが――彼らのいままで知っているどんな美女ともまったく性質を異にする。身なりは|婀《あ》|娜《だ》たる|姐《あね》|御《ご》|風《ふう》だが、その顔は、|玲《れい》|瓏《ろう》と白光をはなって、まるで百万石の大名の姫君のような気品すらある。
「――お……あれか」
「秀にあんな妹があったのか」
「秀も役者のようないい男じゃああったが、これア人間ばなれがしておるの」
そんな嘆賞のうめきをもらしているうちに、あの女なら百両はおろか千両もっていてもおかしくはなく、その百両を賭けようと、捨てようと、どんなとっぴなことをしようと、あたりまえみたいな気になってくるから、ふしぎな魅力をもった娘だ。
――けれど、当人にどんな魅力があろうと、|骰《さい》|子《ころ》ばかりは無情であった。それに彼女は|素《しろ》|人《うと》らしい。……
夜がふけ、賭場が白熱してくるにつれて、彼女の紅潮した頬にほつれ毛が散り、その愛くるしさと気品に|凄《せい》|艶《えん》さが加わって、なんとも名状しがたい|妖《あや》しいばかりの雰囲気がかもし出されてくるのを遠眼にみつつ、
「あの秀の妹、もとは女泥棒だったってよ。――」
「姫君お竜とかいう。――」
というおどろきを秘めたささやきがながれるようになったが、そんな素性の女にしては、おそろしく丁半のカンがわるい。
たたみ三枚をつらねた通し|盆《ぼん》|茣《ご》|蓙《ざ》、一方に十人あまり|丁座《ちょうざ》のものがならび、そのまんなかに貸元のデブ亀が坐っている。反対側にやはり十人くらいの半座のものがならび、まんなかに中盆と|壺《つぼ》|振《ふ》りが坐っている。
ガラガラッと壺が伏せられると、中盆が、
「どっちも、どっちも――」
と、|丁方《ちょうかた》、|半《はん》|方《かた》のコマ数を見くらべながら、
「丁方ないか、ないか。ないか丁方っ」
と、上ずった声をあげる。
「コマそろいやした」
「よし、勝負っ」
壺振りがぱっと壺をあけて、
「丁!」
――姫君お竜のくいしばった唇のあいだから、「ちっ」というようなうめきがもれた。彼女は半に賭けたのだ。彼女の百両はすでにあらかたなくなったと、一同は見ていて、非情の鉄火場ながら、暗然とした。
お竜は眼をすえて、丁方の連中をながめわたしていたが、ふいになに思ったか、
「貸元」
と、呼んだ。
「むむ、なんだ?」
と、デブ亀が近づくと、お竜はその耳に口をよせて、ひそひそとささやいた。
デブ亀親分のあぐら鼻が大きくひろがって、しばらくまじまじとお竜の顔をみていたが、やがて大きくうなずいて、
「おれが丁方にまわりてえくれえだ」
と、つぶやいて、もとの席にもどった。ぐるっと一同を見まわして、
「お竜のからだに百両賭ける奴あいねえか?」
と、ニヤリとした。あっとみな口をあけたきりである。
一両で米五石が買えた時代だ。百両をいまのねうちに換算すると、約六百万円にもなるだろうか。これだけ負けも負けたりだが、その金額にじぶんのからだを張るとは――とうとうこの女、のぼせあがったとみえる――とかんがえた男たちは、しかしひとりもなかった。
のぼせあがったのは、男たちの方であった。見るがいい、すでに|髷《まげ》もガックリくずれ、一方の袖を肩までまくって、大あぐらをかいているお竜の形容を絶する|妖《よう》|艶《えん》さ、|絖《ぬめ》のような|雪《せっ》|白《ぱく》の肌、吸いついたら弁慶でもこたえられそうにない唇がにっと|笑《え》んで、珠のような歯がひかっている。
しかし、それにしても百両とは! だいいち、それだけひとりで持っている奴がない。
「おまえさん、どうだえ?」
と、お竜は、まえの丁座に坐っている男をのぞくように見て笑った。
恐ろしく人相のわるい男だ。左眼がつぶれ、右半面はうすぐろい|痣《あざ》があって、それがぐいとひきつれている。この怪物みたいな男のまえに、勝った三十両あまりの金がつまれているところをみると、勝負の神は、人相には不感症とみえる。
「金がねえ」
と、彼はうなるようにいった。しかし、一つ眼が異様なひかりをおびて、じいっとお竜の姿をなめまわしているところをみると、怪物、大いにみれんがあるらしい。
お竜はまるで珍らしい動物でもみるように、へいきでその男を見返していたが、ふいに、
「いいよ、その金で」
と、いった。
「なに?」
一同が、どっとどよめく。お竜は何と思って、そんなことをいい出したのか?
「おまえさんの|面《つら》が気に入ったよ、あたしが勝ったら、足りないぶんだけ、おまえさんに裸踊りでもしてもらおうか」
「そんなことアたやすい御用だ。だが、それでいいのかね。今夜はおいらアついてる、おめえはついてねえ。おれが勝つのアわかってら。おれが勝ったら――」
歯が、カタカタと鳴った。お竜は艶然と、
「ああ、あたしのからだを抱かしてあげるよ。煮るなり焼くなりどうとでもしておくれ」
怪物は、きみわるい声をたてて笑ったが、だれも笑わなかった。その男のいうとおりだ。賭けごとというものは、つかないとなったら、金輪際つかない。お竜の敗北は、火をみるよりもあきらかであった。しかし――この怪物に、この美女を自由にさせる! その夢魔的空想は、人々の心をかきむしらずにはいなかった。
「それでは、やるか!」
怪物は、一つ眼を火にして、|咆《ほ》えた。お竜は、きっとなった。
「壺っ」
と、デブ亀みずからわめいた。
壺振りの若いいなせな男が、|湯《ゆ》|呑《のみ》|茶《ぢゃ》|碗《わん》ほどの|籐《とう》であんだ壺皿に|骰《さい》|子《ころ》を二つ入れ、ガラガラッとふって、ばっとふせ、左の掌をこっちへむけて、扇みたいにひらいた。なんのいかさまもないというしるしだ。
「丁」ドスのきいた男の声。
「半!」りんりんとひびくお竜の声。
鉄火場に、息のつまるような静寂がおちた。
「勝負っ」
壺振りは、さっと壺をあげて、同時に、作法どおりいままで向うむきにしていた左の掌を、ひらとかえして、壺のわきへついた。――男の一つ眼が、かっとむき出された。
「半」
賭場に、うなるような|溜《ため》|息《いき》がながれた。骰子の目は、一と二、まさに半! おのれの美しい肉体を賭けた大ばくちで、お竜はみごとに勝ったのである。
「その金をもらおうか」
と、お竜はしずかにいって、かすかに笑った眼で相手をみつめ、
「それから、約束どおり、裸おどりをみせてもらうんだね」
男は、無念の形相ものすごく、なおみれんげに盆茣蓙のうえの骰子をながめている。はじめて、笑い出したものがあった。壺振りの男だ。それにつられて、みんなどっと笑ったのは、たんに緊張がとけたせいばかりでなく、美しいものがまもられたという|安《あん》|堵《ど》感からであったろう。この怪物の裸踊りなど、だれも見たくはなかった。――ところが――
「やい! 裸にならねえか!」
凄まじい声で、デブ亀が大喝した。男はとびあがり、あわててきものをぬぎ出したが、なおあっけにとられたふくれっ面で、
「何もそうどなるにア及ばねえじゃあござんせんか。へっ、おどれァいいんでしょう」
と、ぬっとはだかで仁王立ちになった。
お竜の眼が、キラリとひかると、ふりかえった。壺振りの男が向う鉢巻をとって、背後の一升徳利に手をのばすと、ざぶっとその|手《て》|拭《ぬぐ》いにかけて、つかつかとその裸男の|傍《そば》にあるいてきた。
「おい、おめえ、死んだはずじゃあなかったかえ?」
と、壺振り男にいわれて、彼はキョトンとして、
「おれが、死んだ?」
「一年|前《めえ》――親父橋の下で――」
「な、な、なんのことだ」
「水死人の左の二の腕にあった一代無法の|刺《いれ》|青《ずみ》――それとおなじものがてめえのここにある!」
ぐいと左腕をつかむと、もう一方にさげていた手拭いで、力いっぱい怪物の顔をぬぐった。
あまりにも思いがけない壺振りの行為に、鉄火場にいたものすべてが息をのんで見まもるまえで、裸の男は、|忽《こつ》|然《ぜん》とべつの顔になっている。つぶれていた片眼はひらき、痣はとれ、半面をゆがめていたひきつれも消え|失《う》せていた。
おんな牢酒盛
「これアだれだえ?」
と、お竜がふりかえると、そのうしろからひとりの娘があゆみ出た。さっき階段下で、いちいち客の顔をのぞきこんでいた病身そうな娘だ。
「どうもそうらしいと思って、廻状にない客で通した人のひとりだけれど」
と、つぶやきながら、その娘はそれでも信じられないような|茫《ぼう》|然《ぜん》とした眼を、まじまじと相手にそそいで、
「おまえは、やっぱり弥五郎さん。……」
といった。
グロテスクなメーキャップをぬぐいとられた弥五郎は、ふしぎな壺振りの男に腕をとられたまま、棒のようにつっ立ったきりであった。――その顔をみて、お竜が笑った。
「ははあ、これが弥五郎ってえ男の顔かえ。江戸のどこの泥ンこにもぐりこんじまったかわからないその|泥鰌面《どじょうづら》を、うまくしゃくい出す網にはちょいとこまったよ。おまえの殺した秀之助の妹が、一世一代の大ばくちをやると噂にきいて、思わずふらふら網にかかってきたくなったろう。それでも万一のことをかんがえて、それだけ|煤《すす》やら|膠《にかわ》やらをこすりつけてきたのア感心だ」
一歩二歩あゆみよって、
「おい、弥五さんとやら――二十年まえに別れて、いまはひッそりと日蔭にくらしている女のうちにおしかけて、妙なからくりをして人間ひとりを殺し、あろうことかその罪をおっかぶせようとア、あんまりひどい仕打とは思わないかねえ? 百足あるきだの、七夕の短冊のいたずらだの、雨夜の軒下のひとりごとだの――いくらお半さんだって、お波ちゃんのことがなけれアひッかかりはしなかったろうが、お波ちゃんがおまえに百足あるきをのませて、親父橋でおまえがとびこんだのをみて、すっかり病人みたいになっちまったので、そのこわがりようが母親のお半さんにうつっちまった。お波ちゃん可愛さの一心で、よくもかんがえないでお半さんは自首してしまったのだけれど、そんな母親の情愛をちゃんと勘定にいれて|罠《わな》にかけるとア、なんて畜生なんだろう」
笑ってはいるが、怒りに顔が紅潮している。
「秀之助の刺青は法の一字、おまえの刺青は一代無法。……おまえ、秀之助の刺青の上に、一代無しとつけ加えて彫りゃがったな。が、死人にまともな刺青はできねえはず。おそらくおまえをさがしに出た秀之助をつかまえて、法の字の上にむりに三字を彫り、生きながら顔をたたきつぶして思案橋の下へほうりこんだろう。いつか、お半さんが|夕《ゆう》|闇《やみ》のなかで、秀とおまえをひょいと見まちがえたように、からだつきだけアふたりよく似ていたのも眼のつけどころだった。――かんがえただけでも、身の毛のよだつむごい仕草だ」
「おい、秀之助にどんな恨みがあったんだ」
と、壺振りの男がいった。
弥五郎は口をぱくぱくあえがせていたが、きしり出すように、
「秀に恨みがあったんじゃあねえ。お半に恨みがあったんだ。二十年めえ、おれを裏切りゃがった恨みがよ。……」
「うそをつけ。世のなかに、二十年まえにふられた女に恨みをはらすのに、あれほど手数をかけるすッ|頓狂《とんきょう》な男があるもんか」
と、お竜がたたきつけるようにさけんだ。
「彫物の痛みはなみたいていのものじゃあないという。秀に法の字の刺青があるのをみて、じぶんに一代無法の刺青を彫ってちかづいたのア、よほど秀に|曰《いわ》く因縁があった証拠だ」
「泥鰌、八丁堀の水で洗って、泥を吐かしてやろうか」
壺振りの男がいった。八丁堀の同心だ! とはじめて気がついたとき、弥五郎はたったいまの丁半がいかさまであったことを知った。
八丁堀の同心が、あれほど水際立ったいかさまばくちのやれるわけがない。うまく教えた奴があるな――と、はっとして見わたすと、仁王門のデブ亀が、ぶきみな笑顔でこちらをにらんでいる。
「おい、秀の|敵《かたき》だ。旦那にお手数をかけることアねえ。ふんじばれ」
あごをしゃくると、どどっと周囲に|乾《こ》|分《ぶん》がうごく。万事休す。
そのとき、人間とは思われないようなさけびをあげて、ふたりの娘がとび出してきた。いずれおとらぬ|盤《ばん》|台《だい》|面《づら》が、手にすりこぎ様のものをもって殺到してくる凄まじさは。――
「わっ」
とさけぶと、弥五郎は夢中で壺振りの――いや、巨摩主水介の腕をふりはらってとびのいていた。床の間につまずいて尻もちをつくと、手が偶然にその隅に置いてあった油徳利にふれた。彼ははねおきた。
秀之助の敵と知って、狂乱したようなデブ亀の二人の娘が、思わずはっとして立ちどまったとき、弥五郎はもう一方の手に、そばの行灯をつかんでいる。
「やい、みんなそこをどけ」
彼は歯をむき出した。
「それとも、みんな|火《ひ》|達磨《だるま》になりてえか? こう油をまいて――」
一代無法の腕がおどると、油は雨のように、ざあっとふたりの娘の頭上にふりかかる。
「次に、この行灯をなげつけると――」
「あっ、待ってくれ!」
と、デブ亀が恐怖のさけびをあげて両手をのばした。一瞬の油断で、形勢が逆転したのだ。大広間にいる一同は、みんな|土《つち》|気《け》|色《いろ》になってしまった。
「みんなおとなしくしろ。――いいか、おれが階段のところにゆくまでジタバタする奴があったら、行灯をこのふたりのデブ娘にたたきつけるぞ。――やい、ほかの奴はうごくな、二人だけ、おれのまえをあるけ」
せせら笑って、弥五郎が悠々と、二歩、三歩、あるき出そうとしたとき――ふいに彼は、行灯を抱いたまま、あおむけにひっくりかえった。胸の上で、ぽうっと炎がもえあがる。
「てめえが火達磨になるがいいや!」
さけんだのは、お竜だ。彼女は稲妻のようにかがむと、弥五郎ののっていた三|帖《じょう》つらねの|盆《ぼん》|茣《ご》|蓙《ざ》をいきなりひいたのである。
巨摩主水介のからだが飛び、デブ亀の乾分たちが|雪崩《なだれ》のように殺到した。
弥五郎がさんばら髪のままとりおさえられたとき、そばにころがってもえている行灯を、ていねいにふみ消していたお竜がふりかえって、にっこりした。
「旦那。……」
主水介は、しかししぶい顔であった。
「どうやらこれで、おんな|牢《ろう》の四人めの女の命を救えたようだ……」
そして、ふと気がついたらしく、|蒼《あお》い顔で立ちすくんでいるばくちの常連の旦那衆たちにおじぎをした。
「旦那方、そんな泥人形みたいなお顔をしないでおくんなさいまし。今夜の鉄火場は大目にみるどころか、この捕物にみんな一役買っていただいて、お奉行さまから|御《ご》|褒《ほう》|美《び》が出るそうでござんすよ。おやかましゅう。――」
「やい」
小伝馬町おんな牢のなかで、穴の隠居のお甲がどなった。――女囚たちがからだをかたくして、声もなく見まもるなかで、おせんという若い女がふるえている。
例によって、おんな牢独特の私刑がはじまろうとするのである。原因は実にくだらないことだ。お甲が、おせんに髪を|梳《す》かせているうちに、|櫛《くし》がお甲のあたまにできていた|腫《はれ》|物《もの》にさわったというだけのことだ。
「だいたいこの腫物も、こないだてめえが櫛をたてやがったのがもとだ。おれにどんなうらみがあるのかしらねえが、牢内役人様に妙な意趣がえしをしようとアとんでもねえあま[#「あま」に傍点]だ。もうかんべんならねえ」
と、サンバラ髪をふりたてて、
「おせん、のまねえか?」
と、いった。
おせんのまえに、汁もっそう[#「もっそう」に傍点]が一つおいてある。
「やい、穴の隠居のいうことがきけねえというのか!」
おせんはあわててその汁もっそう[#「もっそう」に傍点]をとりあげて、口へもっていったが、一口のんだだけでもっそう[#「もっそう」に傍点]はふるえ、汁がこぼれた。これはただの汁ではない。にがいほどの濃い塩汁なのだ。
「こいつ、なんてもってえねえことをしゃがる。牢内じゃひと|杓子《しゃくし》の塩だってなみたいていの苦労じゃ手に入らねえんだぞ。礼をいってのめ。……おう、ありがた涙に手がふるえてひとりじゃあのめねえというのか」
と、いうと、うしろをふりかえって四、五人の女囚にあごをしゃくった。
「てめえら、のませてやれ」
女囚たちは、一瞬ためらったが、もういちどわめかれて、はじかれたようにおせんのまわりにあつまった。
ひとりが、おせんをうしろから抱く。ひとりが顔をあおむけにさせる。ひとりが|椀《わん》を口のそばにもってゆく。――
「やい、こぼしゃがると、こぼした奴にも塩汁をのませるぞ。まだこの|面《めん》|桶《つう》にたっぷりとあるんだ」
やむなく、ひとりが「おせんさん、かんにんして――」と小声でいうと、おせんの鼻をつまんだ。苦しげに、おせんの口がひらく、そこへ、がぶっと塩汁がながしこまれた。
「どうだ、うまいだろう、もう一杯のめ」
お甲は笑った。
牢名主の|天《かみ》|牛《きり》のお紺も、お路に肩をもませながら、ニヤニヤしてこの無惨な風景を見物をしている。私刑というより、これは牢内の娯楽である。いまではすっかり神経が異状になって、|娑《しゃ》|婆《ば》にもこれほどぞくぞくするようなたのしみはあるまいと思う。
これから、まだまだ面白いことがつづくのだ。しばらくたつと、おせんはきっと水をもとめてもがくだろう。水をもらうためには、どんな恥ずかしいまねでもやるだろう。さんざんじらして、こんどは逆に、おさえつけてでも、白い腹がさけるまで水をのませてやる。すると、その次には。――
そのとき、牢の外で声がした。
「これ、何をしておる?」
「御牢法によって、牢内のお仕置をいたしております」
と、お紺がへいきでこたえると、役人は、
「左様か」
と、うなずいて、
「|牢入《ろうにゅう》がある。泉州無宿お|倉《くら》、五十七歳!」
「おありがとうございます。――」
と、お紺がきっとなってこたえると、牢内役人たちはおせんなどほうり出して、いそいでそれぞれの部署につく。
やがて――|乞《こ》|食《じき》の女房にはだかにむかれたひとりの老婆が、貧乏のしみついたようなくろいからだを、尻からけとばされて、戸前口からころがりこませてきた。
待っていたひとりの女囚が、ぱっとあたまに獄衣をかぶせると、例のごとくキメ板で、そのやせた尻をピシピシとたたく。老婆はひいひいと泣いて、かまきり[#「かまきり」に傍点]みたいに手足をもがかせた。
あたまにかぶせられた獄衣をとられたところへ、下座に|坐《すわ》っていた本役が、例のシャベリを洪水のようにあびせかける。老婆はふぬけたようにそれをきいていたが、ふと穴の隠居のお甲の顔に視線がとまると、
「まあ、おまえもこんなところに――」
と、奇声を発した。
こちらでもどこか見おぼえがあったとみえて、まじまじとお倉をのぞいていたお甲が、ふいにぎょっとして顔をそむけたが、新入りの老婆は眼をまんまるくして、
「へえ、やっぱり……|岡《おか》っ|引《ぴき》の女房でも、牢に入るのかねえ!」
「なんだと?」
お紺の眼が、ぎらっとぶきみにひかって、お甲の顔にはしった。
「お甲が、岡っ引の女房だと?」
女囚たちは、恐怖のさけび声をたてた。お甲の顔色は鉛色にかわっていた。
女囚たちが恐怖のさけび声をたてたのは、岡っ引の女房であるお甲を恐ろしがったのではない。そのつぎにお甲の身の上におこることを予想して、ふるえあがったのである。
|天《かみ》|牛《きり》のお紺は、じろっと新入りのお倉に眼をもどして、
「おい、てめえ、お甲を知ってるのかい?」
「はい。もう十年もまえのことでごぜえますが――大坂でな、このひとは、まむしの|金《きん》|八《ぱち》という御用聞の女房でごぜえましたよ。青大将のお甲といわれてな。町じゅうのきらわれもので、あたしなんかどんなに泣かされたことか。――」
「お甲、それアほんとうかえ」
お甲の髪の毛は、恐怖にさか立つようだった。
「へ、へえ――けれど、亭主はもう五年もまえに死んじまって――」
「ええ、ほんとうかときいてることに返事をすれアいいんだ。そうか、岡っ引の女房だったのか。てめえ、|身性《みじょう》をかくして、おれにうそをついていやがったな」
「お、お名主さん!」
この恐ろしい女が、手をあわせて、お紺をおがんだ。
――理非善悪にかかわらず、岡っ引は、|御判行《ごはんぎょう》の裏をゆくものの敵である。とくにこの牢に入ってくるようなものは、かならずその手にかかって縛られたものである。しかも、当時のならいとして、その取調べは相当手荒いものであったから、罪人の岡っ引に対するうらみは骨髄に徹していた。そこで、坊主にくけりゃ|袈《け》|裟《さ》までにくいということわざどおり、もし牢へ入ってくる岡っ引などあろうものなら、たとえ本人たちがその岡っ引とはなんの関係もなかろうと、うらみを全体におよぼして、凄まじい|復讐《ふくしゅう》がその岡っ引のうえにあれ狂う。この世のものとは思われないほどむごたらしい私刑がくわえられたあげく、四つン|這《ば》いにして、|濡《ぬれ》|雑《ぞう》|巾《きん》を顔にあて、|陰《いん》|嚢《のう》を|蹴《け》って息の根をとめてしまうのが常道となっている。それをまた町奉行所や牢屋敷の方で知らぬ顔をしていた形跡があるのは、世の岡っ引に対して、当人が、入牢しなければならないような悪事をしないように、いましめの意があったからだろう。したがって、岡っ引が牢に入るときは、死物狂いでその素性をかくし、またかくしてくれることを牢役人に哀願した。――
女の世界に、岡っ引はない。しかし、岡っ引の女房はある。そこで、このおんな牢では、岡っ引の女房が、復讐の祭壇にささげられる。
天牛のお紺は、すうっとたちあがった。――ぎっちょ[#「ぎっちょ」に傍点]のお伝をニヤリとふりむいて、
「これアめずらしい客だ。|御《ご》|馳《ち》|走《そう》してやらざあなるまい」
と、あごをしゃくった。
お伝はうなずいて、いまおせんがのまされていた塩汁のお椀から、汁をぱっとなげすて、その椀をもって|雪《せっ》|隠《ちん》へ立っていった。まもなく、もどってきて、
「お|膳《ぜん》が出来やした」
と、いう。その両手には、黄金いろのものを山盛りにした椀がのり、|杉《すぎ》|箸《ばし》が二本つッ立っていた。
「お熊」
と、お紺がよぶと、お熊が「おう」とこたえて、お甲にとびかかり、|落《おち》|間《ま》にひきずってゆくと、あらあらしくその衣服をはぎとってひきすえると、髪をうしろから手にまきつけて、顔をあおのけにした。そこにお伝がしずしずとちかづいた。
「お勘」
と、またお紺がよぶと、お勘はキメ板をとってお甲のうしろに立つ。お伝がおごそかにいった。
「これ、神妙にいただけよ。遠慮をすると、おかわりを申しつけるぞ。やい、口をひらきゃがれ」
――さっきお甲が、おせんに強要したのとおなじ言葉を、こんどはお甲じしんがきく破目になった。
お甲のあごはカタカタと鳴り、それだけでもうむせかえっている。これは決して一椀ではすまない。たとえ涙をこぼして一椀たべたところで、牢名主が「お客も充分のようすだから、おかわりはやめてやれ」といわない以上、またこの|饗宴《きょうえん》の献立にとりかかるのである。そのあげく、あとで御馳走の御礼まわりとして、名主をはじめ役々へ|挨《あい》|拶《さつ》してまわらなければならないのが牢の慣習だ。そして、にくしみとさげすみに笑っているお紺の眼は、決して二椀や三椀でとめてくれそうにないことを物語っていた。――
「そうれ!」
うしろのお勘がキメ板をふりあげて、お甲の背なかをどやしつけようとしたとき――ふいに、だれかがさけぶ声がした。
「お竜さん」
そして、お半やお玉やお関が、ばたばたとかけ出していった。
|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ呼び出されたまま、この三、四日もかえってこなかった姫君お竜が、戸前口をくぐって入ってきたが、牢内の異臭異変に気がついて、妙な表情で見まわした。
「どうしたの」
天牛のお紺は、さっといやな顔をした。――このおかしな女め、穿鑿所でどんなお調べをうけているかしらねえが、はやくくたばってしまえばいいのに、いつものほほんとした顔で舞いもどってきやがる。そのたびに女どもがやけにうれしそうな声を出して迎えるのも、|業《ごう》|腹《はら》だ。――お紺は、だんだん女囚たちの人望がお竜にあつまり、牢内の雰囲気がかわってゆく様子なのに、頭もいたくなるほどイライラとしていた。
「すてておいてくれ、牢法だ」
と、お紺はしゃがれた声をしぼった。
「牢法?」
「そのお甲は、岡っ引の女房だ。大牢ならば岡っ引、おんな牢なら岡っ引の女房にこう御馳走をして、娑婆で受けた恩の礼をかえすが牢法だってことよ」
「へえ、お甲さんが――」
と、お竜は、眼を白黒させているお甲を見、またお椀をみて、
「よしな。あきれたひとたちだねえ」
と、苦笑いした。――すると、それだけで、いままでたけりたっていたお熊やお伝やお勘が、急に猫みたいにおとなしくなって、照れたようにキメ板やお椀をかくしてしまったのである。
「やい、なぜそんなあまのいうことをききゃがる?」
と、お紺がわめくのに、お竜はとりあわず、
「ちょいと、|旦《だん》|那《な》」
と、|牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の外に立っている影によびかけた。気がつくと、お竜をつれてきたらしい八丁堀の同心が、格子のすきからこちらをのぞいている。
「ねえ旦那、牢法じゃあ、岡っ引の女房にはごらんのような御馳走をするんですってさ。岡っ引の女房でこんな|頬《ほ》っぺたのおちそうな御馳走をしてもらうのじゃあ旦那などはどうもてなしていいか途方にくれちまうわ。まあ、入って、旦那も|御相伴《ごしょうばん》にあずかりなさいよ」
「たわけ」
と、同心は|叱《しか》って、椀をかかえているお伝をにらんで、
「これ、左様なもの、はやくすててこぬか」
お竜はにこにこと笑った。
「まあいいじゃないの。せっかくおんな牢でつくった御馳走だもの、こんど穿鑿所へゆくとき、お奉行さまにお|土産《みやげ》にもってゆこう」
お伝があわてて雪隠へはしってゆくと、急にお甲がばったりとまえにたおれた。たおれたかと思うと、這いよって、お竜の足にすがりついた。
「お竜さん、あ、あ、ありがとうごぜえます。……」
――ひとしきりのざわめきがやがてしずまって、おんな牢にまた|黄《たそ》|昏《がれ》がただよいはじめたころ、姫君お竜はひとりの女囚とならんで、羽目板にもたれかかって、ひそひそと話をしていた。
「――それで、おせんさん、おまえさんはどんなわるいことをして、この牢に入ってきたの?」
振袖女郎
おせんは、|源《げん》|氏《じ》|名《な》を|千《せん》|弥《や》という吉原の遊女であった。|花《おい》|魁《らん》ではない、江戸町の|丁字《ちょうじ》屋の花魁|誰《たが》|袖《そで》の妹女郎、いわゆる|振《ふり》|袖《そで》新造とよばれる女郎であった。
むろん、単独で客もとるが、振袖新造には、花魁とはちがった|或《あ》る特別の役目がある。それは|名代《みょうだい》という役だ。つまり、花魁に|馴《な》|染《じみ》の客がきて、また別の客がきた場合――花魁にかわって二番目の客を一夜もてなさなければならないのである。だから、その花魁が売れっ子であればあるほど、名代の役も多くなる。
その名代をしなければならない客のなかで、千弥が身の毛もよだつほどきらいな客がひとりあった。
なんでも大坂の材木問屋の番頭だか、手代だかで、|門《もん》|兵《べ》|衛《え》という男だ。店では|読経《どきょう》の旦那と妙な|綽《あだ》|名《な》で呼んでいるが、屋号は|対《つ》|島《しま》屋というらしい。だいぶ江戸にながく滞在している|塩《あん》|梅《ばい》だが、言葉にはたしかに上方なまりがある。
なんのために江戸にきているのか、きいたこともあったが、千弥はわすれてしまった。あらためてきく気にもなれない。それほどいやな客だった。まだ三十前だと本人はいうが、まるで四十男みたいにあぶらぎって、厚い唇はいつもベトベトぬれている。しつこくて、|図《ずう》|々《ずう》しくて、金はけっこうつかうのだが、ふしぎに|吝嗇《りんしょく》という感じがつきまとって、読経の旦那ときいただけでゲンナリとした表情になるのは、千弥だけではない。
ましてや、お名ざしの花魁誰袖は、丁字屋一の|豊《ほう》|艶《えん》さを自他ともにゆるしているだけに、よく相手が腹をたてないとふしぎなくらい門兵衛をふりとおした。何十回かかよってきたのに、|枕《まくら》をともにしてやったのは、よほど他にのがれみちのない日で、五度か六度であったろう。彼がかえると、誰袖は|嘔《おう》|吐《ど》をついた。文字どおり、嘔吐をついたのである。
「あれは人間ではありんせん」
と誰袖はいった。獣か、それ以下だというのだ。
そのわけを千弥だけは、ほんとうにみぞおちを|逆《さか》|撫《な》でされるような思いで実感していた。彼女がほとんどいつも名代をいいつけられていたからだ。
花魁でさえ、十度にいちどは寝てやらねばならぬ。まして振袖新造の千弥にそれを拒否するすべはなかった。
ただ――名代というのは、本来ならたんに|同《どう》|衾《きん》するだけである。それ以上の行為は、なんの義務もないどころか、かえってきびしく禁ぜられているのが|廓《くるわ》の|掟《おきて》だ。おなじ店で、ちがう花魁の客となることさえ禁じられているのだから、まして名代が姉女郎の客をうばうということは、花魁に恥をかかせるものとして|大《だい》それた行為になっている。
“振袖を質にとってるけちな晩”
“名代は|狆《ちん》にあずける菓子のよう”
“名代は背中あわせてほととぎす”
“おいらんが叱りなんすと貞女めき”
などと、川柳のいうとおりだ。けれど、この客にかぎっては、最初から花魁のおゆるしが出た。出たどころか、「あの客はおまえにあげんすよ」と片頬をひきつらせていった誰袖の言葉が、どれほどひどいものであったかを、千弥は身をもって知った。
はじめて名代に出た晩――なんとなく虫のすかない客だとは思っていたが、しかたがないから、門兵衛のかたわらに身を横たえた。そのときはじめてこの客の胸に、「読経無用」という|刺《いれ》|青《ずみ》のあることも知ったのである。彼が読経の旦那と呼ばれる理由は、この刺青であった。町人のくせにそんな刺青をしていることもいよいよきみがわるく、そのわけをきくと、
「なあに、おれが死んでも読経も念仏も要らねえってことさ」
と、黄色い|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》をむき出して笑っただけで、それはどういうわけか、またどうしてそれをわざわざ刺青に彫ったのか説明はきけなかった。
野暮天のようにみえて、床入りまでのふるまいには案外さばけたところもみえ、廓の法はよく知りぬいているようなことをいい、それにこの醜怪な男の口から出るのは、誰袖へのあこがれ、執着、みれんばかりであったから、千弥は安心して――むしろ、|可《お》|笑《か》しみを伴った好意すらもって、背中あわせに寝入ったのである。
寝るまえに、門兵衛はこんなことをいった。
「千弥、誰袖はおれをきらっているのだろう。それアおれもよく知っている。こんな御面相じゃあ、誰袖でなくったって、どんな女だって――おまえも、おれがきらいだろう」
「そ、そんなことはありんせん。どこに客のえりごのみをする女郎がありんすものか。そんなことをしたら、|御《ご》|亭《て》さんに叱られんす」
「ふ、ふ、ふ、語るにおちたとはそのことだ。亭主に叱られるのがこわくって、おれの相手になっているのだろう。――おい、いつか誰袖にいってくれ。この江戸町二丁目の大兵庫屋で、|籠《かご》|釣《つる》|瓶《べ》が血の雨をふらしたのア、おととしのことじゃあねえかとな」
千弥は、ぎょっとした。まさにおととし上州佐野の大百姓であばただらけの|佐《さ》|野《の》|次《じ》|郎《ろう》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》が、大兵庫屋の花魁|八《やつ》|橋《はし》にふられぬいた腹いせに、とうとう籠釣瓶という兇刀をふるって八橋を惨殺し、大屋根の上まであばれまわって吉原じゅうにえくりかえるような大騒動をひきおこしたのは、まだ記憶になまなましい事件であったからだ。
「|主《ぬし》さん、な、なんということをいいなんす」
「ふ、ふ、ふ、とまあ、これくらいのことはいいたくなるじゃあないか」
顔をみたら、この|醜男《ぶおとこ》の眼が涙ぐんでいたので、一瞬に恐怖はきえ、千弥は可笑しくなった。
「なあに、おれはそんな名刀なんぞもってねえ。材木屋だから、丸太ン棒でもふりまわすよりほかはねえが。――まあ、夢のなかででも、誰袖花魁をぶち殺してやろうかい」
――その夜、千弥は門兵衛に犯された。女郎が客に犯されたというのは妙だが、名代の掟ということを別にしても、まさに犯されたというよりほかはないような|手《て》|籠《ご》めにあったのである。
気がついたときは、彼女は門兵衛の肉の下にあった。そういうことには|馴《な》れているはずの千弥が、声も出ないほどの兇暴さであった。彼女は、殺されるのではないかと思った。この怪物のような商人は、彼女を|熟《う》れきった果物みたいにしゃぶりつくし、白い泥のようにこねくりかえした。|嵐《あらし》のようないっときののち、千弥は腰も足もしびれ果てて、ただ「ひい、ひい」とうごめいているだけであった。
そして半分死んだようになって、四肢をばたりとなげ出している千弥は、じぶんのからだのいたるところを鼻嵐が吹いてまわりながら、「誰袖……誰袖……」とうめいている声をきいたのである。
ふいに彼女はわれにかえり、吐き気をおぼえた。狂気のごとく起きあがろうとしたが、門兵衛は鼻でおさえつけたまま、うごかさなかった。「だ――だれか、きて!」千弥はたまりかねて、遊女らしくもない悲鳴をあげた。廊下をあるいていた不寝番の若い者がのぞきこんで「へっ」といったきりすぐに障子をしめてしまった。
――あくる日、千弥は誰袖のまえにうなだれて、首をのばして、ヒステリックな姉女郎の|煙管《きせる》を待った。しかし、誰袖は美しい顔をニヤニヤとくずして「気にすることはありんせんにえ、あのお客はおまえさんにあげるといったではありんせんか」といっただけであった。
運命――というほどのことではないが、事のなりゆきというものは、皮肉なものだ。
誰袖が、門兵衛はいうまでもなく、このごろほかの客だれにでもつんけんとしはじめたのは、|或《あ》る理由があった。彼女はすばらしい情人を得たからである。
どこから迷いこんだのか――まったく、迷いこんだとしか思えないほどの美少年が、誰袖の客になったのだ。最初は貧乏旗本の子弟ばかり四、五人で登楼してきたのだが、いささか不良少年じみた連中のなかで、その|南条外記《なんじょうげき》という若侍だけは、場ちがいな感じであった。白鳥のように清麗で、ういういしい。
|驕慢《きょうまん》ともいえる誰袖の方が、夢中になってしまった。どんな金持の客も|羨《うらや》ましいとは思わないほかの花魁たちも、これだけはよだれをながして誰袖を|嫉《や》いた。金持の客はほかにもうんといるが、こういう人肉の市に、これほどきよらかでういういしい美少年の客などめったにあるものではない。
むろん、丁字屋一の誰袖が腕によりをかけるのだから、外記の方も夢中になったらしいのは当然だが、さて貧乏旗本の子弟として、|大籬《おおまがき》のお職花魁を張りとおせるほどの軍資金のあろうはずがない。それでも誰袖は彼をゆめはなそうとはしない。つまり外記は、誰袖の|間《ま》|夫《ぶ》同然になってしまったのである。間夫というより、いまの言葉でいえば、ペットだろう。
そして、或る秋の一夜、誰袖が客をみんな断わったことから問題がおこった。彼女は、その夜南条外記がくるという約束であったので、他の客を断わってひたすら待ちうけていたのだが、どういうわけか、外記は姿をみせなかった。そこで丁字屋の亭主とはげしい口論になったのである。遊女屋の亭主にとって、金にならない女郎の間夫こそは最大の敵である。ふだんからこのことについては苦虫をかみつぶしたような顔をしていたので、ここぞとばかり誰袖をせめた。そこでさすがわがままな誰袖も進退きわまり、逆上し、やけになって――相手もあろうに、いくら断わられてもみれんげになお丁字屋にねばりついていた例の門兵衛を客にとってしまったのである。それは亭主へのあてつけ[#「あてつけ」に傍点]でもあり誇りたかい女の自虐でもあった。
ところが、引け四つちかくになってから、南条外記がはしりこんできたのだ。――いかになんでも、もはや門兵衛ととりかえるなどいうことはゆるされなかった。誰袖は泣く泣く、千弥を名代とした。
はからずもこの美少年とおなじ|閨《ねや》に身を横たえて夢見ごこちになった千弥を、だれが責めることができようか。彼女は、夜具そのものが芳香に染まったような感じがした。
くるりと背をむけたまま、千弥は全身をかたくして、じぶんの心臓の音ばかりひびくのに、ひどい恥じらいと|狼《ろう》|狽《ばい》をおぼえていた。まあ、わたしとしたことが、|生娘《きむすめ》のように、なんということだろう。
「千弥、こっちをむいてくれ」
その肩に手をかけられた。やさしい手であったのに千弥はしびれたようになって、人形みたいに向けかえさせられた。
外記の白い顔が、すれすれのちかさにあった。それが、まっかに上気した千弥の顔をしげしげとのぞきこんで、
「まえから、言おう言おうと思っておった」
と、いった。
「…………」
「そなたは、わしの姉に似ておる」
「え、わたしが、おまえさまのお姉えさまに」
「左様、この春に亡くなったが……年もそなたとおなじくらい。……」
外記の美しい|瞳《ひとみ》に、涙がキラキラとかがやいた。われをわすれて千弥は外記の肩を抱いた。
「かわゆい。……」
と思わずいって、はっとして、
「可哀そうに!……でも、わたしのように汚れた遊女が、おまえさまのお姉えさまに似ているなどとは」
「いいや、そなたは、きよらかなわしの姉そっくりじゃ」
千弥は、外記の肩にまわした白い腕をあわててはなそうとした。
「千弥、たのむから、このままわしを抱いていてくれい。姉はよくわしを抱いてねてくれたものであった……」
千弥はもういちど抱いた。
「こ……こうでおざんすかえ?」
外記はこっくりして、涙ぐんだ顔を遊女の胸にうずめて――故意か、はずみか、いつしか千弥の乳首は、外記の口のなかにあった。彼女の全身に甘美な|戦《せん》|慄《りつ》が波うち、眼は|恍《こう》|惚《こつ》となった。
香ばしい息はあごをくすぐるのに、妙に遠いところで、外記のつぶやくような声がきこえる。
「千弥……ほんとうは、わしはそなたが好きであった。……」
「あれ。……」
千弥は、外記をおしのけようとしたが、手が|萎《な》えた。
「花魁に叱られんす。そんな名代ではありんせん。……」
「わしは誰袖がきらいじゃ。いや、きらいになったのだ。あれはしつこい。わしをつかまえて、一夜じゅうこんなことをする。……」
そういったかと思うと、千弥の顔に外記の顔が重なり、舌がチロチロと千弥の舌にからみついてきた。手は蛇のように女の腹をすべり、まさぐっていた。彼女はあえぎ、身もだえしながら、
「お……おまえさまは、わ、わたしにこんなことを。……」
「みんな誰袖がおしえたのじゃ。けれど、あの女とこんなことをするのは、わしにとってはいまは地獄じゃ。おまえとするなら――これ、だまっておればよい。誰袖にはないしょで、千弥、|喃《のう》、それ、もうこんなになっているではないか」
処女のような恥じらいと快美感に彼女はそりかえり、もはや地獄におちようと、なるがままになれと没我の陶酔におちいっていった。千弥は白い炎と化した。
南条外記は、朝早く去った。――
そっと見おくって、もとの|閨《ねや》にもどると、千弥はまだしびれたような手足をなげ出した。白い炎は、なおそこらいちめんにもえているようだ。
あたまの深部に、ひどい疲れとかなしみがあった。恐れは誰袖に対する気のとがめからにじみ出し、かなしみは、二度ともはやこのような一夜はこないだろうという絶望からながれ出した。けれど千弥は、それらをドンヨリと深いところに沈めて、ただ|刹《せつ》|那《な》の歓喜の余韻をたのしもうとした。
「千弥」
ふいに声をかけられた。枕もとにすっくと誰袖が立っていた。その|蒼《そう》|白《はく》な顔をふりあおいで、千弥はどきっとした。
「わたしの|主《ぬし》さんはかえりなんしたかえ」
「え、お待ちなんしとおとめ申しましたけれど、花魁のお客にわるいからと皮肉な笑顔をつくりなんして――」
それは、外記との打ちあわせによる弁解の言葉だった。誰袖は片頬をねじれさせた。
「わたしの顔を見たくなかったのでありんしょう」
「花魁、主さんはほんとうに怒ってかえりなんしたえ」
「千弥、いいかげんにおしなんし。女郎をだまそうなどとは、身のほどしらずの男ではありんせんか。まして、妹女郎が姉女郎の……」
声がワナワナとふるえた。
「客をとったあげく、そのうえ、だ、だ、だまそうとは……」
千弥はがばとはねおきた。はやくもばれたのかと|驚愕《きょうがく》したのである。しかし、だれにも知られていないことのはずなのに、どうしてわかったのだろうか。いちど、さっと全身が|爪《つめ》のさきまでそまり、それからみるみる血の気がひいてしまった。
「千弥、廓の法をやぶった女は、どういうみせしめをうけるのか、覚悟のうえでありんしょうね」
誰袖もまた青い美しい鬼女のようであった。おし殺したようにいった。
「ついてきなんし」
千弥は、ふらふらと誰袖について廊下に出た。廊下に出ると、門兵衛がだらけきった姿で、ボンヤリと立っている。
「ははあ、おまえさんか。あの色男と乳くりあったのは。花魁、こいつはまったくつまみ食いの好きな女だよ」
と、彼はこびるようにいったが、その鉄面皮に、千弥はやりかえす気力も失っていた。誰袖は一言も口をきかず、さきにあるいてゆく。
途中で、|禿《かむろ》に手をひかれて、亭主がやってきた。
「花魁、なんだって? 千弥が名代の掟をやぶったと、おまえさんに投げ文をしたものがあったって?」
とおろおろして誰袖と千弥の顔を見くらべてから、
「だれだい、そんな奴は?」
「知りんせん、とんだ|金《かな》|釘《くぎ》流で、まさかと思っていいしたに、どうやらほんとらしゅうありんす。千弥の顔をみておくんなんし」
「そうかえ? まあさ、しかしあの客は、あんまりたちのよくねえ客だから……」
「|御《ご》|亭《て》さん、それは外記さまがわたしの間夫だからという意味合いでおざんすかえ。……それなら、間夫をとられて、いっそうこの誰袖の顔が立ちいせん」
そして、千弥の顔をみてあごをしゃくった。千弥は幽霊のようにあとに従う。
|折《せっ》|檻《かん》部屋に入ると、千弥はくずおれた。病気で死んだ女郎たちの遺品や心中のあった夜具などがごたごたとつんであるうすぐらい部屋だ。窓の格子には|蜘《く》|蛛《も》の巣がかかり、壁はまだらに|剥《は》げおちている。けれどたたみがジットリとなかば腐ったようなのは、たんなる日蔭の湿気か。それともここに入れられた何十人何百人かの遊女たちの涙と血のせいであろうか。
誰袖は|物《もの》|凄《すご》い眼でしばらく千弥を見すえていたが、そこにまだついてきていた門兵衛をみると、
「だれか……その女をしごきで、あの柱に|吊《つ》って下さんせいなあ」
と、つぶやくようにいった。
「おおさ、合点だ」
門兵衛は、千弥にとびかかって、彼女自身のしごきをといてうしろ手にしばりあげた。だぶだぶしたからだが、妙に喜々としてはずんでいるのは、誰袖の命令に奴隷のごとく従うのに無上の歓喜をおぼえているのか、それともこの男に、天性このようなことを好む兇暴な血がながれているのか。
八尺の高さに、ちゃんと鉄環がひとつついていた。下には、|皮《かわ》|鞭《むち》が一本さげられてある。これが悦楽の讃歌にわきかえる花の不夜城のどん底の一室であった。
そのまま、きりきりとつりあげると、門兵衛は、
「花魁、ぶつのかえ」
誰袖はうつろな眼でわずかにうなずいた。
ぴゅっーと皮鞭がかびくさい空気を切ると、ぱしっと千弥の肉に鳴って、彼女は空中で回転した。帯のない|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》が、ぱっとはだけて朱色の花が白い奇怪な花となる。
「こ、殺しておくんなんし。……」
千弥は泣きさけんだが、恐怖と|疼《とう》|痛《つう》のなかに、どよめくようなよろこびをもおぼえていた。
「死にたいのはあたしだよ。……」
と、ひろがった瞳で見あげて、誰袖はつぶやいた。この声にも恐ろしい真実性があった。
上と下と、火花をちらすふたりの女の|敵《てき》|愾《がい》の気流に、狂ったかのように門兵衛はめちゃくちゃに鞭をふるった。口は歯をくいしばっても、肉体そのものからあふれ出る悲鳴が、血のしずくとともに上からふりおちる。
そのとき、部屋の入口をガラリとあけて、
「千弥!」
と、ひとつの影がとびこんできた。
「あっ、外記さま!」
と、千弥は|血《ち》|声《ごえ》をしぼる。
「|土《ど》|堤《て》を半分までいって、何だか胸さわぎがするからもどってきたら、果せるかなこのありさまだ。誰袖、なんという無惨なまねをする」
南条外記は肩で息をしながらいった。
誰袖は|蒼《あお》|白《じろ》い炎のもえているような眼で、美少年の紅潮した顔をにらんだ。
「主さん、胸さわぎがするとは、やはり気のとがめからでおざんしょうね。むごいのは、どっちか。主さんはわたしを殺しなんした」
「なに?」
「誰袖はもう恥かしゅうて、廓じゅうの花魁にむける顔もありんせん。いいえ、そんなみえ[#「みえ」に傍点]よりも、わたしの心はもう死人も同然。……」
「やいやい」
と、そばで門兵衛がほえ出した。
「てめえ、廓の法をやぶりながら、よくもぬけぬけと舞いもどってきゃがったな。この吉原で掟をやぶれば、こらしめの罰は女郎同様客にもあるってことを知らねえか。|桶《おけ》|伏《ぶ》せ、待ち伏せ、|散《ざ》ン|切《ぎり》、|晒《さら》し――どれが望みだ。それともおれが、千弥とならべて吊してやろうか」
もともとこの男が、誰袖の間夫として外記をひどくにくんでいたことは容易に想像できるが、それにしても、かりにも武士にむかってこの|雑《ぞう》|言《ごん》は、どうみてもただの町人ではない。――もっともこの廓というところは、大名も|大《おお》|門《もん》外で|駕《か》|籠《ご》をおりねばならず、武士も二本の刀を店の入口でおいてこなければならない別天地ではある。
「おお、おまえら、わしも千弥とおなじ目にあわせたくばあわせるがよい。それが本望じゃ」
と、外記はいって、どっかとそこに坐ってしまった。
陰惨な遊女屋の折檻部屋に、四人の男女はじっとにらみあった。――どうしても、このままでぶじにすみそうにない、恋とにくしみの四すくみだ。
丁字屋心中
「主さん、おまえさんも、千弥とおなじ罰をうけたいといいなんすか?」
と、誰袖はおし殺したような声でいった。眼が、異様なひかりをおびている。南条外記はちらっと柱の上の千弥を見あげて、蒼白い顔でこっくりした。
誰袖の眼にたまりかねたような涙がたぎって、
「主さん! おまえさんは、わたしより千弥の方が好きでありんすかえ?」
「ああ、好きだ。千弥の方が好きだ。おまえは、しつこくてきらいだよ」
と、外記は大声でいった。やけくそになった子供のような表情だ。
折檻部屋の戸はあいて、そこからほかの|花《おい》|魁《らん》や新造や|禿《かむろ》たちが花のようにざわめいてのぞきこんでいた。
事情はすでに知れていたし、|丁字屋《ちょうじや》一の花魁のやることだから、うしろの方で亭主ややりて|婆《ばば》あもおろおろとして見まもるばかりだ。
その見物人たちのまえで、ハッキリと「おまえはきらいだ」といわれて、恥辱のために誰袖は完全にのぼせあがった血相になった。
「対島屋さん、それじゃあ望みどおりにしてあげなんし!」
そういわれて、門兵衛は、そばの|葛籠《つづら》のふたからこぼれていたしごきをきゅーっとひきぬいたが、さすがに背後の見物人たちに照れたらしく、
「おい、廓の掟破りだ。面白そうに見てねえで、おまえたちも手伝わねえか」
と、ちかよった。女たちはあわてて逃げ出す。門兵衛はピシャリと戸をしめて、にやりと笑った。
やがて、外記はあらあらしく縛られて、柱につりあげられた。門兵衛は見あげて、舌なめずりして、
「やい、覚悟はいいか?」
「よい」
と、外記は観念した様子でゆがんだ微笑をうかべた。その美しい微笑を宙に近ぢかとみて、千弥は、このひととここで死にたい――と心にさけんだ。
「そうか。こいつあ花魁のいいつけだぜ。それにおまえもいいという。わるく思うなよ。――」
と、門兵衛はせせら笑うと、皮鞭をふるって、外記をなぐりつけた。
「ううっ」
さすがに痛苦のうめきをあげて、外記は空中で身もだえする。
鞭の乱打に、しごきはもつれて、外記と千弥は一つになってキリキリとまわった。
「これでもか! これでもか!」
ふたりの髪はみだれて蛇のごとくからみあい、宙にもがく四本の足もまた縄のごとくからみあう。
「――よしておくんなんし!」
ついに悲鳴をあげたのは、責められるふたりよりも、責めることを命じた誰袖の方だった。肩で息をつき、下から見あげた眼は散大し、いまにも失神しそうだ。
「よせ?」
と、門兵衛もあらい息を吐きながら、
「もういいのかい、花魁、間夫に仏心がおきたのかえ――そうはやくおまえさんの方で仏心を出しちまっちゃあ、廓のしめしがつくめえ。え、みんなのみているまえで、おまえは赤ッ恥をかかされたんだぜ。あれほどみんなの後指さすのを承知のうえでたてひいてやってよ、そのあげくに、おまえはしつこいからきらいだ、千弥の方が好きだ――とやられたとき、見物の花魁たちのなかでニヤニヤしていた顔があったぜ」
と、けしかけた。誰袖は怒りにワナワナとふるえながら、
「いいえ、そのにくい口をきいた男と、わたしの手をかんだ|牝《めす》|犬《いぬ》が、あのとおり一つになっているのが、わたしにゃ辛抱できないのでありんすよ」
「あ、そうか。それではとりおろして、別べつに――」
「もうようありんす。もうぶたないで――」
「それじゃ無罪放免か。そうもゆくめえ」
「え、千弥の仕置はあとでゆっくりかんがえるとして、主さんだけは廓に二度とこないように追い出して――」
と、いうと、|空《くう》で外記の声があった。
「廓を出すなら、千弥も出せ、わしがつれてゆく」
「へっ、これアあきれた御執心だ。おい、ここの女を出すにゃあ、|禿《かむろ》だって三宝に山吹色をつまなきゃならねえことを知らねえはずはあるめえ」
「ああ、|伯《お》|母《ば》上にたのんで、何としても身請けの|金《きん》|子《す》は作ろう」
「な、なんだって――こっこいつ――いままで銭がねえ、銭がねえと、鼻紙代まで誰袖花魁に苦労をかけていたのア、ここの亭主ばかりかおれだって、とんだ厄病神だとあきれていたんだ。それをいまになって、よくもよくもそんな口がきけたもんだ。やい、若僧、そんな虫のいい言い草は、たとえ花魁がいいといったって、この門兵衛がゆるさねえ。廓の法を知らねえにもほどがある」
「それなら、わしもこのままここに置いておけ」
誰袖はうなずいて、氷のような声でいった。
「あのふたりを、ここへおろしておくんなんし」
「どうするんだ?」
「どうしてやっていいか、わかりいせん。……ここで二、三日|干《ひ》ぼしにしてやって、そのあいだ主さんと寝物語に仕置の法をかんがえて……」
門兵衛の兇悪な顔を、ぱっと歓喜の血潮がドス黒く染めて、
「へ、おれと、寝物語に?」
と、ひたいをたたくと、ふたりを宙からひきおろした。誰袖はにくにくしげに、縛られたままのふたりを見おろしていたが、やがてくるりと背をみせて、
「主さん、おいでなんし。わたしをめちゃめちゃに酔わしておくんなんし」
と、ふるえ声でいって、あるき出した。こんど主さんと呼ばれたのは、あきらかに門兵衛のことだ。
門兵衛は鞭をほうり出し、かっと外記の顔に|唾《つば》をはきかけて、
「ざまあみやがれ」
と、|罵《ののし》って、犬のように先にはしって、折檻部屋の戸をあけかけたが、やけに頑丈な戸はびくともうごかなかった。
ここの戸は、しめたら内側からはひらかないのであった。しめるとともに、外側から、大工用語でサルという木栓が|閾《しきみ》の穴にはまりこむのだ。これはふつう雨戸などにつかってある戸締りの法だが、おそらくここは折檻部屋としての目的から、監禁した人間が外へにげないように、こんなしくみにしたものだろう。そして窓には、むろんふとい格子がはめてあった。
「おい、|誰《だれ》かいねえか?」
と、戸に口をあてて呼ぶと、
「あい」
と、すぐ外であわてた声がして、サルをあげる音とともに戸がひらいた。まだ禿や遊女が七、八人そこにかたまっていたのは、きっといままで立ちぎきしていたものだろう。
誰袖がうしろ手にはたと戸をしめると、サルはコトリとおちた。
「だれも、ここをあけてはなりんせんよ」
と、きびしい声でいって廊下をあるき出す誰袖のうしろを、門兵衛は意気揚々と追いながら、
「酒だ、酒だ、|幇間《たいこ》もわんさと呼んでこい。きょうはおれが大盤ぶるまいをするぞ。――」
と、わめいていた。
その翌朝、誰袖の部屋で、誰袖と門兵衛が死んでいるのが発見された。門兵衛は左胸部を一刺し、夜具の中で|朱《あけ》にそまり、その右手にはしッかと|匕《あい》|首《くち》をにぎりしめて絶命していたし、誰袖は|鴨《かも》|居《い》にしごきをかけて藤の花のように首を吊って死んでいた。その足の下には、|蹴《け》かえした鏡台がひっくりかえり、もう一本のしごきが、切れて、そのうえにのたうっていた。
丁字屋が蒼白い人間たちの暴風に吹きくるまれたことはいうまでもない。
その死の部屋から|業《ごう》|火《か》がもえ出したように、人々は上を下への混乱の波をうって、そして急にしんとなった意味不明の静寂のなかに、だれかが、
「あれだ」
と、さけんだ。
だれしも、はじめ心中とはかんがえなかった。それはこの吉原でも指おりの美女と、この醜悪な男とを、いくら花魁と客の仲とはいえ、心中という観念でむすびつけることに抵抗をおぼえたためであり、また、他人に殺された――とわけもなく考えたとき、ただちに思いうかぶふたりの人間があったからだ。
「あれだ」――だれかがそうさけんだ意味は、電撃的に人々を打った。人々は|雪崩《なだれ》のようにはしった。そして――折檻部屋の戸をあけようとして、
「あかないぞ」
「あわてるな、サルがおちてるんだ」
と、さわいでいるうち、あっと思ったのだ。この中の人間は、外へは出られない!
戸をあけてみると、外記も千弥も、縄でくくられたままころがっていて、人々の|跫《あし》|音《おと》に蒼白くおびえた顔をあげた。人々は|茫《ぼう》|然《ぜん》として窓をみた。格子にむろん異常はなかった。
てっきりそうだと思いこんでいた人間が下手人でないとわかると、ほかに下手人を雲の中からさがし出すより、はじめて心中という考えが人々の胸をしめた。
「そういえば、読経の旦那は、じぶんの手に匕首をにぎっていたじゃねえか」
「そうだ。それに、夜中寝ねえでさわいでる人間だらけのうちだ。他人が殺したのなら、そのさわぎをだれもきかねえという法はねえ」
「とくに読経の旦那が――いくら読経無用ったって、猫みてえにおとなしくお|陀《だ》|仏《ぶつ》になるわけがねえ」
不寝番や二階番や|風《ふ》|呂《ろ》|焚《た》きや――いわゆる若い者がさわいでいるうしろから、|幇間《たいこ》の|孝《こう》|八《はち》が幇間らしくないまじめな思案顔をあげて、
「――というと、心中ってえわけか?」
と、つぶやくと、|禿《かむろ》のひとりが金切声で、
「花魁が――この読経の旦那と――いえいえ、そんなことはありません!」
と、さけぶように言った。
むろん人々は、だれもが合意の心中とはつゆ思わなかった。無理心中である。そしていうまでもなく、門兵衛の方からしかけた無理心中である。
「そういえば、きのうの晩、花魁は酔っぱらって、旦那のほっぺたをピシャピシャぶちのめしていなすったなあ」
「わたしの主さんをひどい目にあわせなんしたにくい奴と、まだ間夫にみれんのある口をきいていなすった」
「ぶたれてもへいきで、ニタニタ笑いながら、しまいにはむりむたいに花魁をおんぶして部屋へつれていってしまったが、床に入ってもまだあれじゃあ、旦那も気のたってる日の夜だから、ついかっとして――」
そのとき、|見《み》|世《せ》の入口の方から、重苦しいざわめきとともに、
「お役人の御出張だ」
「八丁堀の旦那だ」
と、ささやく声がきこえたかと思うと、丁字屋全体がしーんとして、やがてまたかるいささやきの波がながれた。遊女たちの|溜《ため》|息《いき》である。
「まあ、いい男前――」
「なんて名前かしら?」
「巨摩主水介といいなんすとか――」
丁字屋の亭主、番所の|四《し》|郎《ろう》|兵《べ》|衛《え》などにみちびかれて、巨摩主水介が岡っ引の銀次をつれてやってきた。
ふたりの|屍《し》|体《たい》をしらべる。かたわらで亭主が、これはお客さまの方からの無理心中で――といいかけると、
「心中ではない、|相《あい》|対《たい》|死《じに》じゃ」
と、美男に似合わぬきびしい声で訂正した。
心中という言葉が、|元《げん》|禄《ろく》以来急速にロマンチックな色彩をおびて、はてはこの語感に酔って心中する若い男女がふえてきたのをみてとった大岡越前守は、さきに心中という言葉を禁じて、相対死といわせたのである。そして、双方情死をしそんじたものは三日間|晒《さら》しものにしたうえ|非《ひ》|人《にん》に下し、一方が生きのこれば下手人として断罪し、双方死ねばはだかにむいて野外にすてるという|峻烈《しゅんれつ》な|法《はっ》|度《と》を出した。丁字屋の亭主が、客からの無理心中だといったのは、誰袖にこの恥をみさせまいという下心もあったのである。
それから主水介は、一言のもとに、
「客からの仕業だと? 両人同時に首をつる無理心中――無理相対死はめずらしいな」
と、笑殺した。
「切れたしごきが下に一本おちている。それからみると、男が首をつりそこねて、あとで匕首で自害したかにみえるが、それより男が先に胸を刺して死んで、あとで女が首をつったと考えた方が自然じゃな」
「えっ、誰袖があとで――」
「左様、男は自分で胸を刺したというより、刺し殺されたのだ」
「な、な、なぜでござります!」
「見よ、男は|心《しん》ノ臓をつらぬいておるではないか。自分で心ノ臓をつらぬけば、もはや匕首をぬき出すことはかなわぬはず。にもかかわらず、男は投げ出した右手に匕首をにぎっていたと申すではないか。すなわち|何《なに》|人《びと》かに刺されたあと、その匕首を手ににぎらせられたのだ」
「で、では、誰袖が――?」
と、亭主は息をのんだものの、そういわれればそのとおりだが、誰袖を知るものにとっては、亭主のみならず、彼女が読経の旦那などに無理心中をしかけようなどとは、だれもが|納《なっ》|得《とく》できなかった。とくに遊女たちのなかには、誰袖にベタ|惚《ぼ》れのこの醜い男が、あんまり手ひどく振りつづける誰袖をどうとかこうとかしてやると口ばしったのをきいたものも少なくないだけに、なおさらであった。
「誰袖がやったとは言わぬ」
と、主水介は冷静にいって、鴨居からおろした誰袖の眼や|頸《くび》のあたりをじっとのぞいていたが、急にふりむいていった。
「おい、けさから客、女、ひとりも外へ出しちゃあいめえな」
「へい、番所からすぐきていただきまして、四郎兵衛さん相談の結果、旦那方が御出張になるまではそうせざあなるまいと、お客さま方におひかえをねがっております。けれど旦那……外から入ってきてにげた奴だとすると、こいつああたしにもわかりません」
――その夜泊っていた客は、いつづけの対島屋門兵衛をのぞいて十三人であった。当時のことであったから、正確な死亡時刻はわからない。けれど、門兵衛と誰袖が大一座でドンチャンさわぎをやっていたのが引け四つ(十二時)ごろまでで、そしてけさ五つ(八時)に発見されたときにはすでに冷たくなっていたのだから、深夜から夜明けまでに起った惨劇であろう。
いや、それよりもっと範囲をせばめた証言がある。それは、禿のりん|弥《や》という子が|厠《かわや》に立ったとき、廊下のむこうをへんなものがあるいてゆく。小山のようなものが遠あかりにきらめきつつヒョロヒョロとよろめいてゆくのだ。それが誰かが花魁をおぶってゆくのだと気がついて|可《お》|笑《か》しくなり、ちかづいてみると、それは誰袖の部屋に入っていった。遠あかりではあったが、そのうしろ姿、|裲《うち》|襠《かけ》の模様からしてたしかに負ぶわれていたのは誰袖花魁だったと思うし、従って負ぶっていたのは読経の旦那で、おそらく酔い|痴《し》れた花魁を厠へでもつれていってやったかえりではあるまいか。花魁が酔っぱらったからといって、厠まで負ぶってゆく客はあんまりないけれど、あの読経の旦那ならやりかねない。げんに昨晩部屋へひきとるときにもじぶんで負ぶっていったくらいなのだから、よほどそれが気に入ったのにちがいない。そのとき仲の町の方から、「八ツでござい」という夜廻りの声と拍子木の音がきこえたから、それからふたりのあいだにあの悲劇が起ったとしても、八つ(二時)から夜明けまでのことだと思う。――というのであった。
とはいえ、そのあいだの客、女郎たちのアリバイはというと、むろんそれがハッキリしているものはほとんどない。少なくとも一方が寝ているか、起きていたといったところでそれがどれほどあてになることか、しれたものではない。
ただこのなかで一番アリバイのたしかなのは、折檻部屋にとじこめられていた南条外記と千弥だけだという結果になったのは、皮肉であった。
けれど、客や遊女で、門兵衛と誰袖を殺さねばならぬ動機のあるものは、さしあたりひとりもないようにみえた。
またふたりを――|或《ある》いはそのいずれかを殺すのに、叫び声ひとつたてさせなかったというのも考えられないことだ。
では、やっぱり心中か。しかも主水介のいうように、門兵衛がひとの手によって殺されたとすれば、誰袖はそのあとで首を吊ったということになるのだから、誰袖の方からしかけた無理心中なのであろうか。
「下手人は、拙者かもしれませぬ」
腕をくんでいる主水介のうしろから、沈んだ声でいうものがあった。
ふりかえると、ほつれ毛を頬にちらした水の精のような美少年だ。――折檻部屋から出された南条外記であった。
「――かも知れぬ。と申すと?」
と、問いかえして、主水介はしかし外記のうしろにうなだれている千弥という遊女が、異常なばかりにふるえつづけているのを見ていた。
「花魁を、門兵衛を殺し、あとで自害をするほどのきもちにおとしたのは、この拙者かもしれぬという意味です。……わたしは花魁に恥をかかせました。そのときは恥をかかせるつもりではなく、はじめは|廓《くるわ》の|掟《おきて》をやぶって名代の千弥と妙なことになったうしろ暗さからの強がりもあり、のちにはあまりに千弥がひどい目にあわされるゆえ、ついかっとなり、花魁がこの吉原で笑いものになるような|雑《ぞう》|言《ごん》を申しました。まさか、こんなことになろうとは思いもかけませんでしたが、しかしいまにして思うと、あの誇りたかい誰袖のこと、のぼせあがってかような始末に立ちいたったのも、むりはないと拙者ならわかるのです。……」
「ところがな、門兵衛は誰袖に刺されたものではないのですよ」
と、巨摩主水介はうす笑いしていった。|愕《がく》|然《ぜん》としたのは、外記ばかりではない。周囲にいたものすべてに、衝撃的な波がわたった。
やがて、亭主が声を殺して、
「旦那……おそれながら、あたしには旦那のおっしゃることがわかりません。さっき旦那は、対島屋の旦那を刺し殺したあとで、誰袖が首を|吊《つ》ったといいなすった。……」
「誰袖がやったとはいわぬと申したではないか」
「しかし、なぜ誰袖が下手人ではないのでござる?」
と、外記がいった。
主水介はしずかに、
「誰袖がもし匕首で男を殺したのなら、なぜかえす刃でじぶんの胸を刺さなかったものか」
「何を仰せられる。人の死にようにはさまざまござる。誰袖は門兵衛を匕首で殺したものの、血の色をみてからじぶんは首を吊って死ぬ気になったとかんがえて、どこが不審です」
「なるほど、そうもいえるな。しかし、あとでじぶんも死ぬ人間が、門兵衛の手に匕首をにぎらせて、自害の|態《てい》にみせかけたことこそはみのがせぬ不審」
「…………」
「のみならず、切れたしごきなど一本ほうり出して、はじめ門兵衛が誰袖とおなじく首を吊ろうとした形跡をみせようとした小細工もある」
「…………」
「下手人は、迷ったのだ。門兵衛が誰袖に無理心中をしかけたのか、誰袖が門兵衛に無理心中をしかけたのか、どっちにみせたら人が自然に思うだろうと迷ったのだ。人の推量をあてにしてのことだから、迷ったあげく、どっちにも人がとれるように小細工をしたために、どっちもおかしくなってしまった。惜しいなあ」
「御役人。それじゃあ、だ、だ、だれが下手人だとおっしゃるのか」
「誰袖をも、門兵衛をも、声ひとつたてさせずに殺せる人間。――」
「――と、おっしゃると」
「ふたりが、殺されるまで安心している人間ということです」
しんとした沈黙が、身の毛もよだつ冷気とともに一同をつつんだ。亭主が|生《なま》|唾《つば》をごくりとのんで、
「旦那さま、それは、ここにいるもののなかに?」
主水介はうなずいて、みなを見まわした。
「おそらく」
夢竜初見世
「それはだな、誰袖と門兵衛とひどく親しい人間だな」
と、主水介は言った。眼はじっと南条外記と千弥を見つづけていた。千弥の顔は|蝋《ろう》のようであったが、外記は|勃《ぼつ》|然《ぜん》と顔を紅潮させて主水介をにらみかえし、
「お役人、なぜ拙者をそう御覧になる」
とさけび出した。
「わしは誰袖とは親しかったが、門兵衛とは仲がわるかった。もしお役人の仰せられるように、下手人が門兵衛を声ひとつたてさせず殺せるような親しい人間なら、拙者はちがう。仲がわるくて殺したといわれるならまた別だが、残念ながら、わしは昨夜ここにとじこめられたままでござったわ」
「折檻部屋の戸はあいた」
「なに? ばかな? あなたは、あの戸を調べられたのか。あの戸が外からでなくてはあけられないことをおためしではなかったのか?」
「戸は外からあけられたのだよ!」
「外から? だれが?」
「誰袖が」
みんな、あっとさけんだ。しかし、外記と千弥は、息をひいたまま、声もなかった。
「と、まあ考える手もあるさ。廓で花魁がひらいちゃいけないといった戸を、禁をやぶってあける度胸のあるのは、まあ当の花魁とみるのが順当だなあ」
「――な、なんのために?」
「そこまでは知らねえよ。もういちど、お前さんたちを折檻する新しい手でもかんがえついたのか、それともやっぱりお前さんにみれんがのこって、ふびんがつのって、仲なおりにやってきたのか――とにかく、あかずの戸をあける理由はいろいろと考えられようさ」
「そこで、拙者が誰袖をしめ殺したとでもおっしゃるか。たわけたことを!」
たたきつけるように外記はさけんだ。
「廓の禁制をやぶって折檻されたのをうらんで、花魁を殺すほどみれんな男なら、拙者ははじめからこの丁字屋へもどってはこぬ。折檻をうけるのは、かくごのまえ。――」
「立派だ」
と、主水介は笑った。外記は笑われたのも意識しない様子で、
「わしは誰袖をちっともうらみには思ってはおらぬ。それどころか、売言葉に買言葉できらいだと言ってのけはしたものの、わしは誰袖を――殺すほどにくいとは思ってはおらなんだ」
「というのは、お前さんの言いぶんで、わたしにゃ何ともいえない。廓の禁制をやぶって|名代《みょうだい》とくっつくほどの男なら、何をし出かすか知れたものではない――と考えられても、いたしかたがない立場ですよ、お若いの」
主水介の語気には、しかし皮肉とともにどこかあいまいなところもあった。眼を宙にあげて、ひとりごとのように、
「あそこには首も吊れる柱の環があったし、|禿《かむろ》がみたという、誰かに背負われた誰袖ってえのは、ありゃ|屍《し》|骸《がい》じゃなかったか?」
寒い風がぞうっと吹いて、一同の顔を鳥肌にした。亭主があえぐように、
「だ、旦那……それじゃあ、花魁は折檻部屋で絞め殺されて、部屋にはこばれたとおっしゃるのでございますか?」
「絞め殺された……とは言わねえ」
と、主水介はくびをふって、かんがえこんで、
「あれア首を吊った屍骸だな。……頸にくびれこんだしごきのあとが、のどの下から耳のうしろへななめにはしっているし、そのくびれに血のにじんだあとがまったくねえ。ふつう人の手で絞め殺せば、殺される方はあばれるし、絞めた力に波ができるからどうしたって血のにじみ出ることが多いもんだ。……」
「そのとおりでありんす。花魁は夜中に折檻部屋に入ってきなんした!」
突然、千弥がさけび出した。おさえにおさえた恐怖が|堰《せき》をきったように、手は宙をつかんで、
「そして、わたしたちへのあてつけに、首を吊って死になんした」
「これ、千弥!」
愕然として、外記はその|脇《わき》をとって制しようとしたが、千弥はなかば狂乱したように、
「花魁は、じぶんで首を吊りなんした。けれど、それを人にみつけられては……わたしが殺したものと見られんす。いいえ、手をかけて殺したとまでは見られなくとも、わたしが花魁の客をとって、花魁に死恥かかせたものと思われんす。そこでわたしは……」
「千弥、とりみだすな、それ以上何も申すな!」
「いいえ、折檻部屋の戸をあけたのは花魁とまで見ぬきなんしたこの旦那、このままお調べがつづけば、主さんもひょんな目にあいなんす。まだお若い、お武家さまの主さんが人殺しの罪にかかりあっては、わたしは天にむける顔がおざんせぬ」
「何をいう。千弥、だまっておれ、証拠がないのだ。花魁が戸をあけたという証拠さえないのだ。まして、門兵衛を殺したのがだれかなどとは――」
と、狼狽していって、急にはっと口をとじた外記に主水介はニヤリとして、
「門兵衛を殺したのは、新造かえ?――そこで、どうした?」
千弥はいざりよって、|嗚《お》|咽《えつ》しながら、
「わ、わたしはわるい女郎でありんす。花魁に死なれてこまりきったわたくしは、ともかくも花魁の屍骸ばかりはどこかへはこばなければ、と|焦《あせ》りんした。さいわい折檻部屋から外へは出られるとはいうものの、見世のどこへはこんだらわたしがたすかるのかわかりんせん。いいえ、どこに屍骸を置こうと、花魁が死になんしたというだけで、わたしをみる人の眼はおなじでありんしょう。……わるい|智《ち》|慧《え》が起りんした。これをのがれるには、花魁と読経の旦那が心中したようにみせかけるよりほかはない。旦那が花魁に、無理心中をしかけたようにみせるがいちばんだと考えんした。そこで、花魁の裲襠をきて、部屋に入り、ねぼけまなこの読経の旦那に花魁と思わせて、ゆだんをみすまして、旦那をこの手で刺しんした。……」
主水介はうなずいた。
「それから、花魁の屍骸をはこび、いちどふたりが首をつって心中しようとし、旦那だけしごきがきれて、あとで匕首で胸を刺したようにみせかけんしたが、わたしが刺した気のとがめから、旦那の手に匕首をにぎらせたは、ほんに女の浅智慧、見やぶられたも当然ながら、これこそ天のお裁きでありんしょう。……」
「そして折檻部屋へもどって、戸をしめれば、外から自然にサルがおちる。それから、もとどおりしごき[#「しごき」に傍点]にしばられたままの姿にとりつくろったか」
茫然として、うつろな眼で千弥の顔をみていた外記は、急にはっとわれにかえった面もちで、がばと主水介のまえに手をつかえて、
「御明察、恐れ入りました。さりながら、もとはと申せば、誰袖の自害、その誰袖を自害いたさせたは拙者、あれが死んであてつけようとしたのは千弥ではなく、このわたしに相違ありませぬ。したがって、門兵衛を殺したのは、よし千弥にせよ、拙者も同罪。たとえそれが千弥をすくう唯一の手段と存じたとは申せ、千弥の大それたしわざを坐視した罪もござれば、なにとぞ拙者にもお縄をかけられい」
「何をいいなんす。人殺しはわたしでおざんす。人を殺さぬ人が、罪をきる理由はありんせん」
千弥はさけんで、主水介にとりすがった。
「旦那、いま申しあげたとおりでありんすにえ、打首獄門はわたしだけ、この外記さんはお家の名も出ぬように、どうぞこのままゆるしておくんなんし」
「いや、おまえばかりは殺さぬ、拙者も、なにとぞ、なにとぞ――」
さきを争って断罪の|笞《しもと》を待つこのふしぎなふたりの「恋人」を、鬼同心はあきれたように|黙《もく》|然《ねん》と見くらべていた。
――女囚おせんの話は終った。
これが、姉女郎の客をうばい、彼女を憤死させ、それをあばかれまいとして、彼女の屍体を心中とみせかけるためにほかの客を殺害したという罪で、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される遊女の物語であった。
|闇《あん》|黒《こく》のおんな牢のなかに、くびもおれるほどうなだれたおせんのひざに、滴々と涙がおちている。
「それで、そのお役人はどうして?」
と、姫君お竜がきいた。
「親切な旦那でした。……」
「というと?」
「つかまって、牢に入れられたのはこのわたしだけ、それはあたりまえですけれど、ほんとうなら、外記さんもお叱りの程度じゃすまないところを、さわぎを大きくしたくない|御《ご》|亭《て》さんのねがいもあって、何とか内輪にことをすませて下さいました。……」
おせんは顔をあげた気配であった。
「お竜さん、そのお役人が、おまえさんを|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へよび出しにくるあの旦那なんですよ!」
「へ?」
「おまえさんはどんなお調べをうけているかしらないけれど、なんどお呼び出しをうけてもこのとおり元気でかえってくるところをみると、きっとお調べに御慈悲があるのにちがいない。ね、ほんとに親切な旦那でしょ?」
「あのひと、親切かしら? あたしにゃ、ちょいとのろまにみえるわ」
「まあ、そんなことをいうと|罰《ばち》があたりますよ。もしおまえさんが大それたことをしたというのなら、あの旦那だけには素直に白状しなさいよ。決してわるくはなさらないから」
「わるくはしないって――あなたをこうしてつかまえた同心じゃないの?」
「わたしがつかまったのは当然なのです」
闇のなかに、おせんの声が一種異様の|昂《こう》|然《ぜん》たるはずみをおびた。むしろ歓喜と満足にちかいひびきをききとって、お竜は妙な顔をした。
「あなたは牢に入って、まさかよろこんでいるのじゃないでしょうね」
「よろこんでいるわけはないわ。ここは廓より、もっと恐ろしい。――」
あたりまえだが、それだけに廓というものが、遊女にとって、どんなにかなしいところであるかを想像させた。
「でも、お竜さん。……」
と、おせんはなおはずんだ声で何かいいかけて、
「おまえさんをこのあいだから見ているのだけれど、ふしぎなひとだ。なんでもしゃべってみたくなるひとだ。でも……よそう」
「おっしゃいな、おせんさん、どんなこと?」
「あのね、あたし、小さいときから|不倖《ふしあわ》せで、女郎に売られて、そのあげく牢に入って、どうせちかいうち|斬《ざん》|罪《ざい》になるのだろうけれど、いまは――牢に入るまえより、倖せに思ってるんです」
「へえ、なぜ?」
「だれもわたしを、ほんとうに好いてくれたひとはなかった。……けれど、どんなにじぶんがひどい目にあっても、わたしを救おうとしてくれたおひとを知ったから」
誰のことをいっているのかすぐにわかった。夢みるような声であった。
お竜は顔をあげた。
「外記さんは、いま何をしています?」
「知らないわ」
と、おせんはいった。
「知らなくてもいいのです。あのひとは、あれで女というものにこりてしまったか。……いいえ、あれだけきれいで|侠気《きょうき》のある殿御なら、女の方でほうってはおかないでしょうけれど、それはかまわない。わたしはあの晩、丁字屋の折檻部屋にかけもどってきて、わしを千弥とおなじ目にあわせるがよい、それが本望じゃ、といってくれたひとこと、またお役人のお取調べに、門兵衛を殺したのは、よし千弥にせよ、拙者も同罪、といってくれたひとことだけで、もう死んでもいいのです。……」
「おせんさん、わたしにはわからないことがあるわ」
と、お竜はしずかにいい出した。
「|間《ま》|夫《ぶ》をとられて、つらあてに死ぬほどのたかぶった|花魁《おいらん》なら、あなたか外記さんを殺してからじぶんも死ぬでしょうに――可愛い男がにくい女とひとつになって縛られているまえで首をつる女があるでしょうか」
「あるでしょうかって……実際、あったのだから……お竜さん、わたしはあなたにしゃべらなきゃあよかった……おまえさんはいったいなぜそんなことをきくのです?」
「あ、ごめんなさい。ほんとうにそうだ。相手があなたたちを殺さないでじぶんひとりで首をつったといって、あなたを責めてもしようがないわねえ。――けれど、あなた方ふたりは、花魁が首をつるのをだまってみていたんですか」
「わたしたちは縛られていたんです。花魁が柱の環にしごきをかけるのをみて、必死にとめようとしたのだけれど、どうにもしかたがなかったのです。からだが自由になったのは花魁が死んだあとだったんです」
「折檻部屋に灯はあったの?」
「い、いいえ、そうだ、だから花魁が、これからふたりの一生にいつまでもとり|憑《つ》いてやるからといっても、まさかと思ってだまっていると、花魁はほんとに首を吊ってしまったのです……」
「それじゃあ、まっくらだったのね? それならわたしはいっそう花魁のきもちがわからない、いくら眼のまえだって、灯のない|闇《やみ》のなかで死んじゃあ、つらあてのききめがないと思うんだけど――」
「…………」
「おせんさん」
「な、なに?」
「花魁は、折檻部屋で首を吊ったのじゃあありませんね?」
「ど、どうして?」
「わたしが花魁のきもちになったとして――どうしても、あなたたちのまえで死ぬ気にも、まして闇のなかで死ぬ気にもなれそうにない」
「おまえさんと花魁とはちがうわ」
と、おせんは別人のようにひくい、ふとい声を出した。怒りと恐怖と|軽《けい》|蔑《べつ》と後悔と――ひらきなおった気配が、闇のなかにもあきらかであった。
「おまえさんに、花魁がどんな気で死んだかわかるものか。いつもいっしょに暮してたあたしにだってわからないのだから――けれどそんなことが、いまのわたしに何だというの? わたしは読経無用の旦那を殺した罪で牢にきたのですよ」
「そ、それはそうにちがいないけれど――」
と、お竜は急にうちのめされたように吐息をついたが、やがてまた小さい声でつぶやいた。
「もうひとつ、まだわからないことがある。――」
怒ってしまったおせんは、もうものもいわなかったが、きいてもお竜にはこたえなかったろう。
夜明け――女囚たちは例の口笛をきいた。格子の外に例の同心の姿があらわれた。
「武州無宿お竜、穿鑿所へ|罷《まか》り出ませい!」
|弥《み》|陀《だ》の|毫《ごう》|光《こう》のように髪にさした|玳《たい》|瑁《まい》の|櫛《くし》や、|珊《さん》|瑚《ご》の|笄《こうがい》、|牡《ぼ》|丹《たん》に|唐《から》|獅《じ》|子《し》を金糸銀糸で縫った|裲《うち》|襠《かけ》を、青あらしがさっと吹いてすぎる。――
|定法《じょうほう》どおり、|鳶《とび》の者が金棒を鳴らしており、若い者が、定紋のついた|箱提灯《はこぢょうちん》をさげてゆくあとから、|長《なが》|柄《え》の|傘《かさ》をさしかけられた花魁は、素足にたかい|駒《こま》|下《げ》|駄《た》をはき、|悠《ゆう》|揚《よう》として八文字をふんであるく。そのうしろに、|禿《かむろ》ふたり、|振《ふり》|袖《そで》新造、番頭新造、三味線もちの少女、夜具持ちの若者などがしたがっている。
「お、あれは京町扇屋の|花扇《はなおうぎ》ではないか」
「いま全盛の――いっそ鳥毛の|槍《やり》のほしいほど尊く見えるのう」
「まるで|普《ふ》|賢《げん》か、|楊《よう》|貴《き》|妃《ひ》のようでござる」
まだ真昼なので、仲の町の往来には、屋敷の門限のある勤番の武士が多い。そればかりではなく、美女三千とほこる吉原でも、抜群に美しいといわれる花魁花扇の茶屋入りであったから、ここに住むほかの|見《み》|世《せ》の男女たちまでが、往来にたちどまって、どよめいて、この|絢《けん》|爛《らん》たる道中を見物した。
その人ごみのなかで、ふいにすッとんきょうな声がした。
「お、これは番町の旦那ではゲエせんか」
「なんだ、孝八か。久しぶりだな」
「久しぶり――まったく、よくこちらをお見かぎりで」
「なに、わしもこのところ吉原へは、ほんとに足を向けなかったのだ。おまえにさんざん毒づかれたように、御存じの|素《す》|寒《かん》|貧《ぴん》でな」
「へ、へ、御冗談を――」
幇間の孝八は、|扇《せん》|子《す》でピシャリとひたいをたたいた。呼びかけられたのは、匂うような美少年だ。口をきいて相手にはなっているが、かがやく眼は、じっとまえをとおりすぎる花扇の道中を見つめている。
「旦那、あのとおり、花扇さまはお茶屋入りでゲス。今夜はいけませんよ」
「ばかなことを申すな。わしごときが、全盛の花扇にどうしようと思ったとて、どうにもならぬ」
「ところが、旦那と花扇さまとは、このごろ|廓《くるわ》のえらい評判で――」
「どんな評判だ」
「へへへへ、また|刃傷沙汰《にんじょうざた》でも、起りゃしねえかって――」
恐ろしい皮肉だが、美しい若侍はそれもうわの空らしく、往来の方をボンヤリと見おくっていた。
これは、南条外記だ。――去年江戸町一丁目の丁字屋で起った兇変は、文字どおり吉原を話題の|坩堝《るつぼ》にたたきこんだ。ひとりの花魁が、名代に間夫をとられたのを恥じて自殺し、名代の遊女がその自殺の|暴《ばく》|露《ろ》をおそれて、ほかの客を殺害して心中を偽装させたのがあばかれて、牢に|曳《ひ》かれていった事件だが、問題は、あとにのこされたその間夫である。奉行所の方では、事件をあらだてまいとしてか、それとも|微《び》|禄《ろく》ながら男が旗本の子弟であることを考慮してか、男の方はおかまいなしということになったらしいが、あと吉原では、この男が、下手人の遊女にもまして、いつまでも|毀《き》|誉《よ》|褒《ほう》|貶《へん》のまとになった。――というのは、彼がまた吉原に姿をみせるようになったからである。
むろん、彼は、あの騒ぎのあと、二、三か月はつつしんでいたらしかった。勘当されたという|噂《うわさ》もあった。しかし、すべての若者とおなじように、この|魔《ま》|魅《み》の不夜城にいちど足をふみ入れた以上、断ちきれぬ|煩《ぼん》|悩《のう》と|愛執《あいしゅう》の糸にからみつかれるのであろうか。彼はまたこの吉原にふらふらとあらわれるようになった。その姿は依然として美しく|初《うい》|々《うい》しかったが、どこか|哀《かな》しげな、さびしげな|翳《かげ》をひいていたのは是非もない。
茶屋や|妓《ぎ》|楼《ろう》の亭主、おかみ、やりて|婆《ばばあ》、|幇間《たいこ》など、金一点ばりの連中が彼を遠ざけようとし、悪口をたたいたのは当然だが、逆に遊女たちには、好意的な興味と好奇心の対象になった。その姿が、名代とくっついた多情な間夫、そんな悪意をとうていもてないほどはかなげで初々しく、かえって|淫《みだ》らな女郎|蜘《ぐ》|蛛《も》の網にかかったいけにえの白い|蝶《ちょう》のような印象をあたえたこともその理由だが、事件の真相がつたわるにつれて、こんどは一種の英雄にもなってきたのである。
「あのひとは、千弥とともに殺さば殺せと、|俎《まないた》の上の|鯉《こい》のようにいさぎよく、いっしょに|折《せっ》|檻《かん》の|笞《しもと》をうけられたといいなんすにえ」
「お役人に、いっしょにお|縄《なわ》をかけろともいいなんしたとか――」
「まあ、あんなに美しい顔をして、やっぱり男でおざんすねえ」
「|誰《たが》|袖《そで》さまが、ふられて死ぬほど|惚《ほ》れなんしたこころも、ちっとはわかるようでありんす」
――当然、彼をひいきにするのは、新造以下の遊女に多かった。千弥に決して同情をもっていないくせに、千弥について花魁にたてついたというのが、彼女らの内心に|溜飲《りゅういん》をさげさせたのだ。相変らず金もないらしいのに、外記がちょいちょい吉原にやってこられるのは、その遊女たちのひいきのせいもあったにちがいない。
ところが、ここ一、二か月のあいだに、こんどはそれとちがって、吉原でも一、二を争う扇屋の花扇が彼を可愛がっているという評判がぱっと立ったのである。あでやかな姿にふさわしく|驕慢《きょうまん》、いや、その姿にも似げなく豪放とまで噂される花扇であったが、そういう気性だけに、ふっとこの奇妙な立場にある男に手を出してみたくなったのであろう。――そして、たちまち、彼女の方でひどく身を入れはじめたのである。扇屋の亭主は|狼《ろう》|狽《ばい》して、去年の秋の誰袖のことをしきりに耳に入れているが、彼女は一笑にふしてとりあわないほど夢中だという。――
ところで――いま、その花扇の道中をながめて南条|外《げ》|記《き》の眼が、じっとそそがれているのは、当の花扇ではなく、そのうしろに従っている新造のひとりであった。
「おい、孝八、あの新造は――」
「え、どれでゲス?」
「あの三味線持ちのまえにいる女――」
「ああ、あれでゲスか。ありゃなんでも三日ほどまえに扇屋から出た新造の|夢竜《ゆめりゅう》という女だそうで――廓にきて三日で太夫の道中のお供をするほどの新造になるたあえらい出世だが、しかし扇屋ではよほど買ってるらしゅうゲスぜ」
「夢竜――もう|太夫《たゆう》にするつもりの名ではないか。美しいな。新造にはもったいない。名ばかりでなく、あれなら花魁でおし出してもりっぱにとおる」
と、外記はウットリとしていった。孝八は不安げにのぞきこんで、
「旦那、大丈夫でゲスか。また――」
といいかけたが、ふと首をかしげて、
「ありゃ妙な新造でゲスぜ。初見世以来、|大《たい》|身《しん》らしい覆面のお武家が通いづめで、一夜としてまだほかの客で買ったものがねえとか」
「そうか」
と、外記はうなずいて、胸の底から息を吐いて、
「そうだろう。あれは花扇より美しい」
と、つぶやいた。
――その夜、南条外記は扇屋にいって、花扇の様子をきくと、禿がその返事をつたえた。今夜は、すまないけれど、名代でがまんをしてくれまいか。
「名代? 名代はだれだえ?」
「夢竜さん」
闇中問答
「夢竜」
と、|閨《ねや》のなかで、南条外記は呼びかけた。
夢竜は|絹《きぬ》|行《あん》|灯《どん》のかげに、うなだれて坐っている。外記は、さっきからなんどもまばたきをした。その名の夢のように、ほのぼのと消え入りそうな女郎のふしぎな美しさ――外記はこの吉原で、何十回、何十人の女とあそんだかしれないが、こんな清麗な感じの遊女をみたことがない。
「ここへ、こぬかえ?」
われにもあらず、声がふるえた。こんなきもちになったのも、はじめてだ。
夢竜は、|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》だけになっていたが、ふっくらともりあがった乳房、なだらかな腕、ほそくくびれた胴から腰のまるみ、名作の|雛《ひな》のように|完《かん》|璧《ぺき》の曲線をえがいて、しかも、ふしぎなことに、遊女にあるまじきおかしがたい|凜《りん》とした気品すらある。
――心のなかで、おや? と外記は思った。この女は、|生娘《きむすめ》ではないか?
相当な|女蕩《おんなたら》しになってしまった彼が身につけた本能的な感覚だ。
きょう仲の町で、花扇の道中のなかにこの女を発見したときからぞくっときて、今夜この夢竜が花扇の名代になるときいて、心中、しめた、と思うどころか、そもそも最初から花扇に客があるのを承知のうえで、この女を|狙《ねら》ってやってきたのだが、いざ、自分はなまめかしい夜具に身を横たえながら、のどがからからになるようで、われながら奇妙なことに、手が出せない。
しかも、遊女屋の遊女が生娘などということのあろうはずがない。
だいいち、幇間の孝八が、初見世以来毎夜客があるといったではないか。
「そなた……そなたのお客は、今夜はこなんだのか?」
「はい。……」
声まで夢のように甘美で、はかない。
「それはしあわせ。……」
と、うっかりいって、あわてて、
「いや、それはきのどく。――初見世以来、そなたのところへ通いづめじゃとな。どういう客だ」
「知りません。いつも覆面をしておいでなんすから」
「なに、おまえと寝ても覆面か」
「はい。……」
「それでは、口も吸えぬのう。いや、これは冗談、それはしかしおかしな客だな。ただものではないぞ。お奉行所に訴えた方が後難がないのではないか」
夢竜の灯を受けぬ半面に、名状しがたい淡い笑いがはしったが、それは外記にはみえなかった。
「どうもそなたは、ここの女のようではない。してみれば、わしはそなたに二度めの客じゃが、わしはそんな|胡《う》|乱《ろん》な人間ではないから、安心するがいい」
「わたしはあなたをまえから知っておりんした。……」
「なんだと?」
外記はおどろいた。
「まえからとは?」
「誰袖さんとおまえさんが評判のたかかったころから」
「えっ……そなたは……吉原にきたのはついこのごろだというじゃあないか」
「誰袖さんの生まれなんした深川の家が、わたしの家のとなりでおざんした。誰袖さんは、わたしの小さいころから、姉のように思っていたおひとでありんした。もしわたしが身売りしたのが一年はやかったら、わたしは誰袖さんのところへいったでありんしょう」
外記はまじまじと夢竜の顔をみつめたまま、とみには言葉もない。けぶるように美しい眼が、じっと外記にむけられて、
「おまえさまは、その誰袖さんをきらいなさんしたとか……」
「きらったわけではない。あれは事のはずみじゃ、あれは、いまでも誰袖にすまぬことをしたと気がとがめておる。決してきらったわけではない。……」
外記は狼狽して、
「ま、死んだ花魁の話はもうよそう。夢竜、ここへきて寝るがよい」
「寝たら、誰袖さんのお話をして下さんすか」
夢竜は、まじめなまなざしであった。
「するよ、どんな話でもしてやるよ」
と、外記は夢中でいった。
夢竜はしずかに、閨のなかに入ってきた。外記は、夜具そのものが芳香に染まったような気がした。じぶんの心臓の音ばかりひびくのに、彼はひどい恥じらいと狼狽をおぼえていた。
どうしたのだ。おれともあろう色男が、いったいどうしたのだ。
「さあ、誰袖さんのお話をしておくんなんし」
夢竜の白い顔が、すれすれのちかさにあった。外記はしびれたようになって、
「さっきから、言おう言おうと思っておった」
「…………」
「そなたは、わしの妹に似ておる」
「え、わたしが、おまえさまのお妹さまに」
「左様、この春に亡くなったが、……年もそなたとおなじくらい。……」
外記の美しい|瞳《ひとみ》に、涙がキラキラとかがやいた。――ここで、甘えたようにひしと抱きついてこない女はない。
ところが、夢竜はただためいきをついただけで、
「可哀そうに!……でも、わたしのような汚れた遊女が、おまえさまのお妹さまに似ているなどとは」
「いいや、そなたは、きよらかなわしの妹そっくりじゃ。わしは妹をよくこのように抱いてねてやったものであった。……」
といって、夢竜の肩に片手をまわし、片手で胸をかきひらいて、その乳房を吸おうとした。
――ところが夢竜は、頬で肩にまわされた手をおさえ、片手で胸をかきひらこうとする外記の手をつかんだ。いたくもなんともないが、ふしぎに彼は身うごきできなくなった。
「あれ。……花魁に叱られんす。そんな名代ではありんせん。……」
「わしは、花扇がきらいじゃ。いや、きらいになったのじゃ。あれはしつこい、わしをつかまえて、一夜じゅうこんなことをする。……」
そういったかと思うと、外記はろくろ首みたいに首をさしのばして、夢竜の唇を吸おうとしたが、香ばしい夢竜の息はあごをくすぐるのに、もうちょっとのところで、どうしてもとどかない。
「外記さん」
「なな、なんだ」
「おまえさま、そうやって、千弥さんとやらをおとしなんしたかえ?」
「千弥? どこの女だ?」
「まあ、その名をおわすれなんしたか。誰袖さんがそのために死ぬほど、おまえさまが|惚《ほ》れなんした女ではありんせんか」
南条外記は、さすがにやや興ざめた表情で、夢竜を見つめた。
「おまえ……そんな女のことまで知っておるのか」
「まあ、ひどい|主《ぬし》さん、わたしでさえ、あの騒動の話をきいて、その千弥とやらをにくい女と思っていいしたに。……あの美しい誰袖さんを、あんな死に方をさせるほど、その千弥さんという方はいとしゅうおざんしたかえ?」
「けっ」
と、外記は鼻を鳴らして、
「なあに、あれはゆきがかりだ」
「ゆきがかりとはえ?」
「わしは、誰袖が好きだったのだ。その誰袖が、せっかく約束どおりわしが丁字屋へいったというのに、ほかの客をとってねておる。そこで、わしも意地を張って、それならあの名代の女郎でしッぺがえしをしてやる、といきりたったのだ。……」
「それじゃあ、朝になって、千弥さんが名代の|掟《おきて》をやぶったと、誰袖さんのお部屋に投げ文をしていったというのは、主さんでありんすか」
「あ、そんなことまできいているのか。ま、そういうことになるが……」
「まあ、主さん、こんなかわゆいお顔をしいして、わるいおひとでおざんすねえ。でも、それも、誰袖さんが好きなばっかりのいたずらでありんしたか。……」
「そ、そうだ。だから、そのことがもとで、あれほどの事件になろうとは、ゆめ思わなかったのだ」
「主さんが、ほんとうは誰袖さんが好きだったときいて、わたしもほっといたしんした。……でも、あなたは、またあとで丁字屋へひきかえしてきて、かさねがさね誰袖さんの悪口をいいなんしたとか」
「あれはだな、実は誰袖にあやまろうと思ってかえってきたのだが、誰袖があの門兵衛とやらといっしょになって、千弥を|折《せっ》|檻《かん》しているのをみて、また意地になったのだ。この|狒《ひ》|々《ひ》のような男とねたかと思うと、かっとして……まったく、ことのはずみで、あんなことになってしまった。……」
「そうでありんしたか。けれど、ことのはずみにしては、あとあとまで恐ろしい尾をひきんしたねえ。いくらにくいといっても、その門兵衛さんとやらまで殺してしまうとは……」
「まってくれ、殺したのは、わしではない。千弥だ」
「千弥さんなら、いよいよのことでおざんす。けれど、千弥さんが、なぜ?」
「あれは、おそろしい女だ。そういうわけで、ことが逆に逆にとまがっていって、誰袖がわしにあてつけて眼のまえで死ぬと、あいつあわて出しての。誰袖がわしたちにあてつけて死んだとみられると、もうこの吉原にもいられない。あの門兵衛を殺して心中にみせかけたら、こっちへの非難がそらせるのではないかといい出した。……」
急に外記ははき出すような顔つきになって、
「門兵衛や千弥のことなど、どうでもよい。夢竜、そんな話はもうよそう。これ、花扇にはないしょで、いいではないか。……」
「あれ、外記さん、そんなことをいいなんして、千弥さんとおなじように、これもあとで、ことのはずみ、ゆきがかりといわれては、わたしの立つ瀬がおざんせん。……」
「ことのはずみではない。わしは本気じゃ。……」
「いいえ、信じられません。それより、今夜は、しみじみと、誰袖さんの話を――」
身もだえする夢竜の肉体のなんという絶妙のなまめかしさ。
外記は狂気のようになって、
「ききたければ、もっと誰袖のおもしろい話をきかせてやる。しかし、それはあとで、な、な。……おい、ともかくこの手をはなしてくれ。へんにしびれてきたぞ」
「え、こうでおざんすか?」
と、うっかりはずしたところへ、外記はぱっとのしかかった。
そのとき、部屋の障子が音もなくひらいて、声がかかった。
「夢竜」
はっとして顔をあげると、花扇が|蒼《そう》|白《はく》な顔で立っていた。
「なにをしているえ?」
美男にも似げないみにくい姿で、外記がはねのいたあと、夢竜はしずかに身をおこして、みだれた長襦袢をなおした。
「わたしの主さんと何をしようとしていたえ? 名代の掟をやぶれば、廓でどんな目にあうか、わたしがおしえてあげたではありんせんか」
すると夢竜は、夢みるような眼をあげて、外記があっと口をあけたようなことをいったのである。
「|花《おい》|魁《らん》、わたしはこのひとが好きになりんした。……」
「まあ!」
「もし掟をやぶった罰に折檻をうけたら、このひとをわたしにおくんなんすか?」
花扇はあきれたように夢竜をみつめていたが、やがて外記の方へ顔をむけて、
「外記さん、おまえさまは、この夢竜のいうことに承知でありんすか?」
外記は狼狽した。
「い、いや、わしは……」
と、いいかけると、夢竜よりも花扇の方が、皮肉な笑みを片頬によどませた。
「花魁よりも新造をひいきにするというおまえさまの評判は、やっぱりほんとうでおざんしたねえ。その評判を承知でおまえさまに|達《たて》|引《ひ》いたわたしは、もう恥かしゅうて、廓じゅうの花魁にむける顔もありんせん。……」
いったい、いつごろから花扇は、この部屋の外に立っていたのか。花扇ばかりでなく、そのうしろからは数人の新造や|禿《かむろ》たちが、眼をかがやかしてのぞきこんでいた。
――外記は観念した。
「ええい、勝手にしろ。……わしは、夢竜が好きじゃ」
と、いって、夢竜の横顔をみて、うす笑いをうかべた。
妙にふてぶてしいような、また真剣なような表情があらわれた。
花扇はおそろしいさけびをあげた。
「くやしい! だ、だれかこのふたりを、折檻部屋へつれていっておくんなんし!」
――しばらくののち、南条外記と夢竜は、扇屋の、まるで地下|牢《ろう》みたいな折檻部屋の柱に、背中あわせにしばりつけられていた。
「だれも、ここをあけてはなりんせんよ」
と、花扇がきびしい声でいって、|手燭《てしょく》をもって折檻部屋を出ると、サル戸がおちて、部屋は|闇《あん》|黒《こく》になった。
|闇《やみ》のなかに、外記はしばらくだまっていたが、やがてつぶやいた。
「夢竜……こんなことになってしまったが、さっきはおどろいたよ。いや、花扇のあらわれたこともそうだが、そなたが、わしを好きだといいきったことが……」
「…………」
「おまえ、あれアほんきかえ?」
「…………」
「いいや、あれがたとえうそにしても、そんならいっそうおまえという女は変った女だ。わしは生まれてはじめて女に惚れた。……」
「誰袖さんは?」
「ええ、また誰袖か。惚れていなかったといったら、おまえは怒るかもしれないが、おまえにくらべれば、惚れていなかったと白状するよりほかはない。夢竜、おまえ、わしとこの吉原をにげ出さぬか?」
「え、ここをにげ出せるのでおざんすか。どうやら戸の栓がおちたような。……」
「あれは、外からひらくのだ。外からだれか入ってくれば、にげられる。――」
「だれかが入ってくるのでありんすか」
「花扇がくる」
「えっ、花魁が!」
「さっき、ここにひかれてくる途中、わしはあいつに耳うちしたのだ。わしがわるかった、ゆるしてくれとな。ほかに新造たちもいるから、あの場でわしだけ放免してくれるわけにもゆかなかったろうが、花扇はきっともうじきやってくる。あいつは、わしにぞっこん惚れているのだ。惚れているからこそ、気にかかって、わしたちの部屋の外で立ちぎきしていたのだ」
「花魁が、来なんしたら?」
「きたら、わしが話をつける。おまえを身請けするなり、つれてにげ出すなり……」
「身請けの金がここにおざんすかえ?」
「いまはない。いまはないが、ちかいうちにきっと大金の入るあてがあるのだ。それもめんどうなら、このまま、おまえをつれて|廓《くるわ》をぬける」
「ぬけても、廓の追手がかかりんしょう」
「ふっ、吉原の追手など――しばらく身をひそめておれば、夢竜、わしは吉原の追手はおろか、奉行所の追手さえ手の出せぬ身分となるのだ」
「えっ、それはどういうわけでおざんすか」
「まあ、そんなことはいまはどうでもよい。これ、夢竜、わしといっしょににげてくれるな」
「外記さん、どうしてもあの気のつよい花魁が、そんなことを承知するわけがありんせん」
「ええ、くどい奴だ。わしはまえにもおなじ手で、誰袖をだまらせたことがあるのだ」
「だまらせた?」
ふいに闇のなかに、恐ろしい沈黙がおちた。外記は、うっかりいって、はっとしたらしい。が、夢竜がいつまでもだまっているのに、外記の方がたまりかねて、
「夢竜」
と、呼びかけた。別人のようにふとい声であった。
「これは、いってもよい。いっても、わしは罪にはならぬ。誰袖は、あの晩ここに入ってきて、わしをつれ出した。そして、わしと心中してくれとせまったのだ。こうまでみなのまえで恥をかかされては、もう生きてはいられないと申すのだ。あの花魁の――もっとも、この吉原じゃあどの花魁もそうだが――のぼせあがったうぬぼれの思いつきそうなことだ。そこで――わしたちは――心中した。――」
「…………」
「そして、誰袖だけが死んだ」
「…………」
「わしは生きのこった。それは、|空《あ》いている千弥の部屋であった。そして、折檻部屋にもどって、千弥と相談した結果、あれの智慧で、あいつが門兵衛を殺して、誰袖と心中したようにみせかけてくれることになったのだ。わしと心中をはかったことがばれれば、生きのこったわしが下手人同様と見なされる定めだからの。千弥が誰袖の|裲《うち》|襠《かけ》をきて門兵衛の部屋に入りこみ、首尾よく殺したあとで、わしが誰袖の|屍《し》|骸《がい》をその部屋にはこんで、|鴨《かも》|居《い》からぶらさげたのだ。……」
「夢竜、何をだまっておる? ああ、おれはこんなことをいうのじゃなかった。花扇くらいどうとでもなるということをいうつもりであった。なんだか、妙なことになってしまったが――いや、いってもよい、わしは誰袖を殺したわけではない、門兵衛を殺したのは千弥だ」
「いいえ」
と、はじめてお竜はひくい声でいった。
「それじゃあ誰袖さんを殺したのは、やっぱりおまえさまではありんせんか。むこうから心中をしかけてきたとおまえさまはいいなんすが、死人に口なし、それはどっちがそそのかしたのかわかりいせん。そして、たとえ誰袖さんがいい出しなんしたとしても、どうやらあなただけはくびがしまらないようにして、うまく生きのこりなんしたとは、誰袖さんを見殺し――殺しなんしたのも同様、また、門兵衛さんを殺したのも、千弥さんの智慧だとはいいなんすものの、おそらく、おまえさんの智慧でおざんしょう。……」
「――夢竜、おまえは、そう思うか?」
「それなら外記さん、いま花扇さんが入ってきなんしたら、また心中をもちかけるおつもりでおざんすか?」
外記は、ふてぶてしく笑った。
「いや、二度もそうはゆくまい。何なら、この手でしめ殺して、つかまれば、わしとおまえと二人がかりで殺したと申したててもよい。おまえと|磔《はりつけ》の上で、心中するなら、本望じゃ」
「まっ」
「おまえのいうとおり、わしは恐ろしい男だ。ここまでしゃべったのははじめてじゃが、ここまできかれた以上、おまえも同罪にひきずりこまずにはおかぬ。とはいえ、大望あるわしに磔心中をも辞せぬ気を起させたおまえは実にふしぎな女。夢竜、もうわしの手からにげられぬぞ。みるがいい」
みるがいいとはいわれたが、闇の中だ。しかし、その闇のなかで、南条外記が身をくねらせると、するりと|縄《なわ》からぬけ出す気配がわかった。
「道楽の途中、手品をおぼえてな。縄からぬけ出すのも、もとどおり縄に身を入れるのも、自由自在じゃ」
笑った声は、縛られた夢竜のまえできこえた。
「ああ、それでは……それも、あの晩のための用意でおざんすね」
「用意――」
「そう、おまえさまが、名代の千弥さんに手をつけなんしたのも、いっしょに折檻をうけなんしたのも、いいえ、そもそものはじめから誰袖さんにちかづきなんしたのも、みんな、ふたりの女をあやつるための用意。――」
「ふたりの女をあやつる?――な、なんのために、わしが女をあやつったと申すのだ」
「千弥さんに惚れなんしたのも、誰袖さんを殺しなんしたのも、どっちも|納《なっ》|得《とく》がゆきいせんと思っておりんした。おそらくそれは、対島屋門兵衛を殺すための――」
「なにっ」
「おのれの手を下さず、千弥さんに――ひとの手で門兵衛を殺させて、じぶんはこのように|何《ど》|処《こ》ふく風とすましておられるための念入りの用意。――とはいえ、おまえさまが、なんのために門兵衛を殺したがったか、ただの恨みや腹立ちで、それほど念の入ったたくらみをするはずはおざんせん。そのうらには、きっと何か|仔《し》|細《さい》がおざんすね。……」
「夢竜! うぬは何者だっ?」
と、外記の全身が|驚愕《きょうがく》におののきぬいているのが声でもわかったが、しかし次の瞬間、あの美少年とは思われぬ兇暴な息づかいにかわった。
「えい、うぬが何者であろうと、おれの知ったことか? そこまで知られたうえは、もはや生かしてはおけぬ。が、うぬを殺すまえに――」
闇黒のなかに、外記のあつい、ねばっこい息が夢竜の鼻口を覆い、しばられてムッチリともりあがった乳房を、けだものじみた手がつかんだ。
「ここからは、にげられぬぞ、夢竜、しばられたままの女を犯すのは、吉原で鳴らした南条外記大いに不本意じゃが、うぬがおとなしくなるまで、なぶって、なぶって、なぶりぬいてくれる!」
江戸の何処かで
そのとき、ふいに戸がひらいた。外記は身を起した。
遠あかりを背に、それを|花《おい》|魁《らん》の姿とみたとき、外記は音もなく夢竜からはなれて、|闇《やみ》のよどみにとけこんでいる。
「外記さん」
花扇の声だ。二、三歩あるいて、のぞきこみ、
「夢竜」
柱にちかづいたとき、うしろでひくいよぶ声がした。はっとしてふりかえると、いま入ってきた入口に、黒い影が立っている。
「あっ、外記さん。……」
いつのまにか、そこにまわっていた南条外記は、かがみこんで、|閾《しきみ》のうえに何か細工でもしているようであった。やがて立ちあがって、ピシャリとその戸をしめた。
「栓が落ちないようにしたのだよ。あとで逃げ出せないとこまるからな」
と、笑った声は、闇のなかだ。花扇は息をのんで、
「外記さん、おまえはどうして――?」
「花扇」
しばらくかんがえこんでいて、外記はいった。
「おまえ、夢竜の仕置にきたのだろう?」
「おまえが、夜中にこいといったから――」
「仕置をしたいなら、遠慮なくするがいい。|鞭《むち》でぶつなり、毛をむしるなり、なんならくびり殺すなり――」
花扇はだまって、彼の顔をうかがっているらしかった。これはあたりまえだ。そういう外記だって、夢竜と同罪のはずだからだ。
「外記さん、ほんとはわたし、ふたりをゆるしてやりにきたのでおざんすにえ」
「もうおそい」
外記はせせら笑った。
「何がおそいのでありんす」
「実はなあ、花扇、それがわしの|狙《ねら》いだった。わしがこの夢竜に惚れたといったのア、ずんと本気だ。おまえにたのんで、こいつを請け出すか、きいてくれなきゃ、手に手をとって廓を脱けてもいいとさえかんがえていた。――しかし、いまはちがう、おい、花扇、この夢竜たあ何者だえ?」
「何者といって――わたしの|名代《みょうだい》」
「ふふん、そらとぼけているのか。それともほんとにおまえは知らねえのか。いいや、めんどうくさい、どっちでもかまわぬ。こいつがわしの秘密を知ったからには、どっちにしても生かしてはここを出せぬのだ」
「え、主さんの秘密とはえ?」
「去年の丁字屋の偽心中よ。わしに惚れた名代が、花魁を殺して、他の客と心中にみせかけた騒動よ」
「あれが?」
「あれァ、実のところ、|諸《しょ》|葛《かつ》|孔《こう》|明《めい》もはだしでにげるわしの色軍略だ。まず誰袖を夢中にさせ、つぎに名代の千弥をのぼせあがらせて、誰袖の仕置をうける。それから誰袖に心中をもちかけて、わしだけ生きのこる。――いや、われながら感服するきわどい芸当だったが、それ以上にみなに感服してもらいたいのはそれからだ。心中して一方が生きのこれば、下手人として死罪になる――ってのが、大岡ってえわからずやの町奉行の野暮な|法《はっ》|度《と》だが、それを逆用したのだ。つまり、わしを下手人にしたくないために、名代の女郎は、誰袖をべつの客と心中したようにみせかけようとした。――ふ、ふ、ふ、あいつはわしの|手《て》|管《くだ》にのぼせあがり、いっしょに仕置をうけたことでいよいよ信心きわまり、ふらふらと|操《あやつ》り人形みたいに誰袖の客を殺しにいったよ。――」
「外記さん。……おまえは……」
「まあ、きけ、むろん、そうしたには、大丈夫、誰袖と客が心中したかにみせかけられるとわしがいったからだ、わしたちは、中から出られぬ折檻部屋におったのだからな。しかし――奉行は大岡だ。万一ということもある。それで、万一それが心中でないと見破られたさい、千弥のみが下手人として名乗り出るように、事をはこんだ。いいや、わざと見破られるように、胸を刺した|匕《あい》|首《くち》やら、くびをつりそこねたしごきやら、小道具をとりそろえておいたのだ。もっとも、こいつは、当の千弥でさえ、それが見破られるもとだとは気がつかなかったくらいだから、ふつうの人間には、なんのことかわからないはずだったのだが――あの同心め、さすがだ。いいや、わしの二段構えの|罠《わな》に、すっぽりはまりゃがった!」
まるでうれしいことでも思い出しているような声だ。
「外記さん、おまえは、なんのためにそんなことを――」
「ふ、ふ、ふ、なんぞ知らん、一見、とばっちりを受けたかにみえるその男の死が、わしのそもそもの目的だったとは!」
「…………」
「もっとも、誰袖にふられぬいていた客というだけで、それまでわしとなんの縁もなかった男を、わしがそれほど殺したがっていたとア、あの馬鹿同心はもちろんお|釈《しゃ》|迦《か》さまでも気がつかなかったろう!」
「…………」
「花扇、ところでわしが、なんのためにこんなことをしゃべったかわかるか?」
「わ、わ、わかりんせん。……」
「きかせても、大丈夫と思ったからだ」
「大丈夫とは?」
「おまえもここからにげられぬ」
「えっ」
「もうおそいといったのアそのことだ。いまわしのしゃべった秘密をこの夢竜めが知った。知った以上、これからこいつを絞め殺さねばならぬ。絞め殺した以上、下手人がなければならぬ。その下手人におまえがなるのだ」
「あっ、よしておくんなんし!」
花扇は、腕をつかまれた。じぶんのペットとしていた美少年が、これほど恐ろしい怪物であったと知って、その肌は闇にも|粟《あわ》|立《だ》っていた。
「むろん、おまえも死ぬ。――間夫をとった夢竜を殺して、じぶんもくびれ死んだとみえるように――ふたつの|屍《し》|骸《がい》は、これからおまえの部屋にはこんで、鴨居にぶらさげておいてやろう。わしはまたここにもどって、戸をしめきり、縄に入っていることにしよう」
片手で、花扇を抱きすくめながら、南条外記は、片手で彼女のくびにしごきをかけようと、あつい息を吐いていた。
「こ、これをかけて……もう一方に、夢竜のくびをかけて……あの柱の環に、いっしょに|吊《つ》りあげてやろう!」
その外記のくびに、闇からもう一本の腕がまきついた。
「もうよかろう」
と、思いがけぬ男の声であった。
「あっ、な、何奴だっ」
|驚愕《きょうがく》して花扇のくびからはなしてふりまわした両腕を、うしろからねじあげられ、キリキリと縄がかかった。――いまこの部屋に入ってきた人間ではない。はじめからこの闇の中にひそんでいた男であることはあきらかであった。
「はかったな、花扇!」
「おまえほど、人を罠にはかけぬ。|人《にん》|非《ぴ》|人《にん》!」
どうと|蹴《け》たおすと、その影は柱のかげにかがんで、かちっと火打石を鳴らした。古|行《あん》|灯《どん》にぼうと灯が入ると、その男が|頭《ず》|巾《きん》に|面《おもて》をつつんだ武士だということがわかった。彼は柱の下にいって、夢竜をしばったしごきをときにかかっていた。
「あれは、あれは……」
床にまろんだまま、美しい|獣《けもの》のように髪ふりみだして外記はあえいだ。
「あれはわたしの今夜のお客でありんすにえ」
と、花扇がいうと、夢竜が立ちあがって、|艶《えん》|然《ぜん》と笑った。
「ほんとは、わたしを初見世以来買ってくれたお客さまでありんすけれど、今夜おまえが花魁のところへきなんしたゆえ、代っていただきんした。もったいない、花魁に、わたしの名代になってもらいんした。……」
外記の胸を悩乱させたのは、その意外事よりも、いまきいた覆面の武士の声であった。いつか――どこかで――たしかにきいたことがある。
「うぬ、き、きさま、何者だ?」
「さんざんおまえに悪口をいわれて、恥ずかしゅうていままで顔も出せなんだ男だ」
武士は笑いながら、頭巾をとった。
「外記、丁字屋以来だな」
八丁堀の巨摩主水介であった。
南条外記が、会所に待っていた目明しの銀次にしょっぴかれてつれ去られてからまもなく――もう大引けちかい深夜というのに、扇屋の新造夢竜を、急に身請けしていった武士があった。
扇屋の亭主、花魁花扇をはじめ、ほかの新造、|禿《かむろ》たちが|大《おお》|門《もん》まで見おくったが、みんな眼に涙をたたえていたのは、わずか三、四日暮しをともにしたばかりなのに、去りゆく夢竜という新造に、それほど愛される何かがあったのだろうか。
見返り柳の下で、夢竜は|駕《か》|籠《ご》にのり、主水介はそのそばについて、たったとあるき出す。|衣《え》|紋《もん》|坂《ざか》をのぼると、まんまるい月が南風に吹かれていた。
「みんな泣いていた。――わかれるとなると、わたしもかなしい」
駕籠のなかでつぶやく声がきこえて、それから笑い声になった。
「などといっては、せっかく身請けをして下さんす|主《ぬし》さんにはわるうありんすけれど」
主水介は苦い顔で何かいいかけたが、駕籠かきをちらっとみて、口をつぐんで八丁土手をひたすらあるく。
「まあ、廓の空は、まひるのような――不夜城というのはまことでありんすねえ。あの下に、あのように恐ろしい、またかなしい魂がうごめいているとは――」
駕籠のなかから、ふりかえって、
「かわいそうに、千弥さん、たった一夜の情けにほだされて、あんな罪を犯したとは、ほんとうのことを告げる勇気もないほど哀れではありんせんか。それにつけても、その哀れな女ごころにつけこんであやつった男がにくい。――でも、そうとわかれば、まさかお奉行さまは、千弥さんを死罪にはしなんすまいね?」
主水介は、おもいあごでうなずいた。
「ありがとう。どうやらこれで、おんな|牢《ろう》の五人めの女の命を救えたようでおざんす。……でも、ほんとうにあぶないところでありんした。八丁堀で鬼といわれた主さんでさえ、人形つかいを見のがして、人形の方をつかまえなんしたくらいでありんすもの」
「あの場合、千弥がそう言いはる以上、いたしかたがなかった。……」
と、ひくい声でうめいたが、すぐにみずからいきどおるもののごとく、
「それにしても、まさかほんとうの狙いが対島屋門兵衛にあろうとは夢にも気づかなんだことこそ、|慙《ざん》|愧《き》|汗《かん》|顔《がん》のいたり。……きゃつ、そもそも、なんのために門兵衛を殺さねばならなんだのか?」
「奉行所へいってから、とくとお調べなんし」
「しかし、か――お竜――」
「駕籠かきがきいていなんす。夢竜と呼んでおくんなんし」
「そ、その|廓《くるわ》言葉は、どうも背なかにみみずの|這《は》うような――いや、夢竜、そなたは、どうして外記があやしいと感づいたのか」
「外記が、急に千弥さんを好きになったというそのこころに納得がゆかなかったのでおざんす。また、誰袖さんが、ふたりのまえで首を吊ったということにも不審がありんした。そして、ききただしているうちに、どうやら、眼のまえで誰袖さんが首をつったというのはうそだ、千弥さんは誰袖さんが死んだのを見てはいなかったのではなかったか――と思いはじめたのが、そもそものもとでおざんした。……」
夢竜は、また|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「それにしても、外記がまたぬけぬけと廓へあそびにこなんだら、なかなかつかまえられなかったでありんしょう。ほんにこわいのは、色の道でありんすねえ」
身請けされてきた遊女がそんなことをいうから|可《お》|笑《か》しい。月光におぼろなその顔をみると、童女のように愛くるしくまた|神《こう》|々《ごう》しく、いよいよ奇妙だ。主水介はちらりとそれをのぞきこんで、|唐《とう》|辛《がら》|子《し》をなめたような表情になった。
夢竜は、肩や|袖《そで》に虫でもついているようにはらいながら、
「こわかった。……いままで、いろいろこわい目にもあいんしたが、今夜ほどこわかったことはありんせん。名代のまねにしろ、外記に抱きつかれたときほど――」
巨摩主水介はだまっていた。彼は、その三夜、スヤスヤとあどけなくねむる夢竜の|枕《ちん》|頭《とう》に坐って、腕をくんでその寝顔を見つづけていたときの名状しがたい|戦《せん》|慄《りつ》を、いまも胸も苦しくなるくらいに思い出していた。
|廓《くるわ》の灯が、しだいに月明りに|霞《かす》み、遠ざかっていった。
その翌日である。|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》の武士が、ひとり扇屋をおとずれた。夢竜という遊女にあいたいというのである。
深編笠をかぶっているので、顔はわからなかったが、服装はみるからに|大《たい》|身《しん》らしく、声は扇屋の亭主も記憶がなかったが、中年すぎの荘重なひびきをもっていた。
夢竜は昨夜身請けをされたむね、亭主はおそるおそるこたえた。
「なに、昨晩身請けされた? どこの、何者に?」
と、武士は|愕《がく》|然《ぜん》としたようであった。亭主はそらとぼけた。
「さあ、それが、事情があって何もきくなと仰せられ、そのお武家さまはいつも覆面でおいであそばしましたゆえ、お顔もわかりませぬ」
武士は深編笠をかたむけたが、その笠越しの見えない眼光に、亭主はなぜか背すじまで冷たくなるような思いがした。
しかし、武士はそれ以上何もきかず、だまって去った。なにか、ひどく思案にしずんでいるような背にみえた。
江戸の|何《ど》|処《こ》かで。――
|誰《だれ》も知らず、こんな問答をかわしたものがある。
「――一足ちがいだ。夢竜という女は、身請けされていったとやら」
「なに、いない? それは残念」
「きけば、昨夜、外記が縄にかかってから、すぐに駕籠で吉原を去ったらしい。深夜、身請けをされたというのが不審だ。やはり、そうだ。……」
「そうだ、とは?」
「身請けをしたのは、覆面の武士という。きっとそやつは、八丁堀の同心に相違ない。……外記をとらえたから、もう吉原に用はなくなったのだ」
「ううむ。……」
「もっとも、外記がつかまったことをきいたのが、けさだ。それから――さては――と気がついたのだから、みすみすにがしたのも是非がない。……」
「さては――と気がつくのが、おそかったかなあ」
「蓑屋長兵衛がつかまえられていったということをきいたとき、まだその女のことには気がつかなかった。なぜ長兵衛がつかまったのかわからなかった。ただ、あとになって、そのまえに車佐助一座の小屋へ、小伝馬町のおんな牢から出てきたお竜という女がたずねていったことをきいた。――しかし、それが長兵衛の縄にかかったこととつながっていようとは、まったく思いおよばなんだ。……」
「…………」
「祖父江主膳のとらえられたときも、そのまえに、お竜と名乗る女が、死顔の|蝋《ろう》|兵《べ》|衛《え》のところをおとずれたときいたのは、あとのことだ。そして、その翌日は、奉行の娘に化けて、同心をひきつれてやってきたという。あの同心はほんものだ。お竜は同心とつながりがあるのだ。……」
「…………」
「白山下で|乾《けん》|坤《こん》|堂《どう》が縄にかかったとき――その光景を往来でみていたものの話によると、その場に娘占い師がおったという。これもそのお竜とやらいう女だったにちがいない。……」
「…………」
「浅草寺裏で弥五郎がつかまった鉄火場にも、またそのお竜という女があらわれておったという。それなのに、この女の影に気がついたのは、まだあとのことだったのだから、わしともあろうものが、お話にならぬ。……」
「気がついたとき、外記にすぐ知らせてやればよかったなあ」
「それが――わしが、よい、というまで、われわれとは連絡をするな、時節到来するまで名乗って出てはならぬときびしく命じてあったのがたたって、彼らがつかまったことすら、しばらくこちらは知らなんだのじゃ」
「彼らは、白状したろうか」
「いいや、白状はしておらぬはずだ。ああみえて、わしが一人一人見込んだだけの奴らだ。だいいち白状すれば、わしたちがここでこうして無事におるわけがない。それに――たとえおなじ牢に入れられても、きゃつらはおたがいに知らぬ。つかまったのは、じぶんひとりと思っておる。わしはひそかに手をまわして、それぞれに、いましばらくがまんせよ、わしたちはすでに堂々と江戸へのりこんでおる。牢からときはなすはおろか、大名暮しも眼前じゃとつたえさせ、力づけておいた。――」
「しかし、それにしても、そのお竜とは何者だろう?」
「おんな牢からきた女という。たしか、姫君という異名があるという。――おそらく、同心につかわれておるのだな。毒を|以《もっ》て毒を制す、むかしから、|御判行《ごはんぎょう》の裏をゆく連中を探索するのに、よくつかわれる手だ。――しかし、たとえその背後に八丁堀がおるとはいえ、いままでの手ぎわからみると、女自身も相当なしたたかものだな」
「もうひとり――六人めのあいつ[#「あいつ」に傍点]にはやく知らせておかねばまた二の舞いどころか、六の舞いをふませることになるが、|手《て》|筈《はず》はしたか」
「それが――時節到来するまで、つながりを断てと申しておいたものだから、まだあいつ[#「あいつ」に傍点]のいどころがしれぬ。それよりも――その女だ。そいつをさきに始末しなければならぬ。その女をとらえれば、八丁堀がいかなる意図で、どこまで手をまわしておるかが判然とする。――」
「その女をとらえる。――われわれには、その顔も知れぬのだ。一刻も争うが、うまくとらえられるかの」
「姫君お竜という。江戸の闇の世界にさぐりを入れれば、かならず釣れる。その女をまず|俎《まないた》にのせるのが|焦眉《しょうび》の急じゃ。三、四日待て、きっとひッとらえてみせる。すでにわしは、その方に手をまわしておる。――」
荘重な、自信にみちた声であった。むしろ笑いすらふくんで、
「おい、|宝沢《たからさわ》、おめえがくだらねえ奴らとつきあって妙なちぎりをむすぶからよ。あとの始末に、これほどわしが苦労をしなければならぬ」
「ゆるせ、ゆるせ、まだおめえを知らねえ以前のことだ。まったく若気のいたりだった」
と、閉口した声がまだ若気のいたりをぬけきれぬひびきをおびて、
「しかと、あと始末をたのんだぜ」
「ふむ、おまえ、この二、三日よくねむれねえらしいが、|胆《きも》が小せえぞ、大岡越前にキリキリ舞いをさせるほどのおれだ。こんな小事、気にかけねえで、大船にのった気でいるがいい」
蓮ッ葉往生
桜がちり、ほととぎすの声をきいたかと思うと、もう気のはやい江戸ッ子は|袷衣《あわせ》をきてかけあるく。江戸の風物詩は廻り|灯《どう》|籠《ろう》のようにまわって、五月も末になると、もう両国の川開きのうわさが、人々の心をいさみたたせる。――
江戸で、川開きは五月二十八日ときまっていて、その夜は恒例の花火をうちあげる。ひきつづいて涼み船の出る八月の終りまで、花火は二、三度うちあげられるが、むろんその盛大さは川開きの夜にはるかにおよばない。
この夜は――いうまでもなく――両岸と橋上は人にうずまり、料亭水茶屋の灯はあふれ、川は川で、水面もみえないほどな屋形船、そのあいだを酒や水菓子を売るうろうろ船にみちて、夜空にあがる五彩のひかりと|轟《ごう》|音《おん》もうすれんばかりだ。
「|玉《たま》|屋《や》あ」
「|鍵《かぎ》|屋《や》あ」
例によって例のごとき声をはりあげる雑踏のなかで、あちこち「あっ、財布がない!」「スリだ!」というさけびがきこえるのも、例によって例のごとしだ。そのさわぎをあとに、まるで水をすべる魚のように群衆のなかをかけぬけていった影が、ふりむいて、
「ちくしょう」
と、つぶやいた。
はっとあたりを青く染めた花火に浮かびあがったのは、お|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》をかぶった女である。そのまま、ふたたび水にもぐる魚のように、群衆の中にとけこんでゆく。
その影から、十メートルばかりあとを、これはあらあらしく人々をかきのけ、つきとばして追う男に、「な、何をしゃがる!」「よしゃがれ!」と|肩《かた》|肘《ひじ》張って押しかえそうとした連中も、からだに触れた冷たいかたいものを十手と知って、あわてて身をはねのけた。
川沿いからはなれると、人はしだいにまばらになる。そのあいだを縫って、いっそう足をはやめた女は、いきなりだれかにどしんとぶつかった。
「急病人だ。はい、ごめんよ!」
身をひるがえして、横にはしろうとするお高祖頭巾を、また赤い花火が彩ってきえた。ぶつかられた人間よりも、そばに立っていたもうひとりの|頬《ほお》かぶりした男が、はっとした。
「案の定、ここにいやがった」
「あれが、お竜か?」
見送ったのは、深編笠の武士である。
「へい、頭巾はかぶっていやすが、あの姿かたちはまぎれもなく――あいつが、スリのかき入れどきの今夜、ここに現われねえわけはねえと思っていやした」
「追われているようじゃな」
「あ、あそこを|岡《おか》っ|引《ぴき》らしいのが息せききって追っかけてゆきやす。うふっ、ころびやがった。あれじゃあお竜はつかまらねえな」
「よし、|直《なお》|助《すけ》、あそこの|辻《つじ》|駕《か》|籠《ご》を呼んで、あれを追え」
「合点だ」
頬かぶりの男は、|脱《だっ》|兎《と》のごとくかけ去った。
お高祖頭巾の女は、向両国を東へはしりながら、もういちどふりかえって、「しつこい野郎だ」と舌うちした。
すぐゆくてに、|回《え》|向《こう》|院《いん》がみえてきた。そのとき、また両国橋の夜空たかくひらいたひかりの花に、|風鳥《ふうちょう》のようにかける彼女の姿が、ぱあっと照らし出された。うしろから、地ひびきたてて岡っ引が追ってくる。
すると、回向院の土塀のかげから、急にあらわれた一|挺《ちょう》の駕籠があった。ふらふらと往来に出て、女と目明しのあいだをさえぎると、
「これへ入れ」
ひくい声とともに、女はふいにうしろから抱きかかえられ、うごいている駕籠の中へなげこまれた。駕籠はそのまま、くるりとまわってあるき出す。
「待てっ」
追ってきた岡っ引は、その棒先きをつかまえ、ゆくての|闇《やみ》をすかした。|跫《あし》|音《おと》はない。また花火があがったが、往来はほかに猫の影もなかった。
「おい、いまここへ女がひとりにげてきたろう?」
「何奴じゃ?」
と、駕籠のそばで、深編笠の武士がききとがめた。目明しはじろっと見あげて、
「御用筋のものでごぜえます。にげた女スリを追っております。この駕籠のなかに不審がごぜえますが、ちょいと拝見させて下せえまし」
「この駕籠に不審? 無礼なことを申すな」
高びしゃにおさえつける調子ではない。おちついて、|錆《さび》をふくんだ声だ。
「|下《げ》|郎《ろう》、こんど花火があがったら、わしの|袖《そで》をみろ」
花火があがった。岡っ引は反射的にその武士の袖をのぞきこんで、はっとした。その袖に浮かびあがったのは、まごうかたなき|葵《あおい》の紋であったからである。――岡っ引はとびのいて、土下座せんばかりの姿勢になった。
「よい、よい。御用のものとあらば、とがめぬ」
と、武士はうなずいて、
「女スリを追っておると? 大儀じゃ。――女かどうかはよく見なんだが、いまこの駕籠をかすめた影は、そっちの路地へかけこんでいったようじゃが」
すると、その路地の暗がりで、急にまたあわただしい跫音が起って、向うへかけていった。
「あ、御無礼をいたしやした! どうぞひらに御勘弁を――」
と、キリキリ舞いをして、目明しはその方へすッとんでゆく。
深編笠の武士は見おくって、笠の中でちょっと笑ったようであった。そのまま、駕籠屋に、「やれ」と命じたが、回向院の門のまえまでくると、
「いや、ここでよい」
と、すぐにとめて、
「女、やはりこの駕籠屋はあぶない。おりろ」
と、声をかけた。
お高祖頭巾の女が|茫《ぼう》|然《ぜん》と出てくると、武士は駕籠かきに|駄《だ》|賃《ちん》をあたえたが、その手ざわりから、駕籠屋は「ひえっ、これは一両!」とたまげた声をあげた。
「かまわぬ。そのまま、はやくゆけ」
追いはらって、女をうながすように深編笠をまわすと、さきに立って回向院の中へ入ってゆく。
回向院は、明暦の大火の焼死者、|溺《でき》|死《し》者二万二千人を葬った墓穴の上にたてられた|伽《が》|藍《らん》だ。由来が由来であるうえに、ここには小伝馬町の牢死者、小塚原の刑死者などの幽魂を追福するために建てられた三仏堂などもある。二町四方の境内は、すぐちかくの浮世の大叫喚を、幻の壁で断ちきッたようにしずまりかえっていた。
ただ、たかい夜空の花々の遠あかりが、門を入ってすぐ右手にある池の|蓮《はす》を明滅させたが、その蓮池もなにやらこの世のものならぬ|凄《すご》|味《み》をおびてみえた。
武士は、その池のそばの石に腰をかけた。
「お竜」
笠の中で呼ぶ。女はまだボンヤリと夢みるように立ったままだ。
「姫君お竜というか?」
「あい、たすけられたおひとなら、|嘘《うそ》をつくわけにもゆきますまい。わたしはそういう名でござんすが、お武家さまは?」
「さっきわしの紋をみたか」
「はい。あの岡っ引は――あれは|伊《い》|皿《さら》|子《ご》の銀次という腕ききの目明しでござんすが――あのような高貴な御紋をつけたお武家さまが、あたしのような女をかばうわけがないと思って、あわててとんでゆきましたが、わたしもわけがわからない。いったい、どこのどなたさまでござんす?」
「紋の手前、名乗れぬが」
「それにしても、どうしてわたしのようなものを?」
「ききたいことがあるのは、わしの方じゃ。そのために、おまえをここにつれこんだ」
「わたしにききたいこと? な、何を?」
「あの目明しはなぜおまえを追うのか」
「ぷっ、さっきおききになったじゃあござんせんか、にげた女スリを追っかけてるって――」
「きゃつは、おまえが奉行所の犬であることを知らぬのか」
お竜はだまりこんだ。それをどうとったか、武士はうなずいて、
「いや、そうであろう。八丁堀の同心が探索につかう女賊を、いちいち目明し手先におしえるわけがない」
「なんのことだか、ちっともわかりゃしないよ」
武士は、急に、ひくい、恐ろしい声を出した。
「お竜、とぼけるな。おまえを岡っ引からたすけてやったのは、おまえの命をたすけるためではないぞ」
「――へ?」
「返答しだいでは、|斬《き》る」
「そいつあ、お侍さん、むりですよ。わけのわからないいいがかりをつけちゃあ、返答のしようもないじゃあないか」
「よし、あくまでシラをきるなら、いおう」
深編笠のなかから、夜目にも|凄《すさ》まじい眼光が、お竜の面上にすえられたようであった。
「うぬは、男装して浪人者に化けて、浅草山の宿町の蓑屋長兵衛なる町人を公儀の手にわたした。二番めに、小伝馬町の|牢《ろう》から出てきたといって、飯田町の御家人祖父江主膳に縄をかけた。三番めに、大道易者に化けて八|卦《け》|見《み》の乾坤堂をとらえた。四番めに、ばくち打ちに化けて、弥五郎という男をつかまえた。五番めに、吉原の遊女に|扮《ふん》して番町の南条外記を奉行所へおくりこんだ。――何に化けようと、その正体がうぬという女、姫君お竜であることはすでに調べがついておるのだ」
「――わたしが?」
「むろん、うぬだけの|智《ち》|慧《え》であろうはずがない。うしろで八丁堀の巨摩主水介という同心があやつっておる?」
「巨摩主水介!」
はじめてお竜は、はっとしたような声をたてた。
「見ろ、ぎくりときたろう」
と、深編笠は冷笑した。
「うぬが、この春、その同心の縄にかかったことも知っておる。それにもかかわらず、すぐに奉行所から、ときはなたれたことも知っておる。お竜、そのとき、巨摩とやらいう同心の犬になったな?」
お竜はだまりこんで、夜空をあおいでいた。
「もうひとりのわたし――」
と、つぶやいた。それから、深編笠に眼をうつして、
「あいつら[#「あいつら」に傍点]が――おまえさんの何なのさ?」
「おれの手下だ」
「手下――おまえさん、いったい、だあれ?」
こんどは武士が沈黙した。みえない闇のなかで、四つの眼が火花をちらした。やおら、|陰《いん》|々《いん》と、つぶやくように、
「どうやら、まだおまえはわしを知らぬようだな。いや、知らぬはずだ。きゃつらが、殺されても白状するわけがない。……」
「知ってるよ、知ってるよ。ふふん、ちゃあんと、知ってるよ。――」
「なんだと? 何を知っておる?」
「天下を|狙《ねら》う|大《おお》|伴《とも》の|黒《くろ》|主《ぬし》。――」
がばと武士はたちあがった。|鯉《こい》|口《くち》をぷっつときる音がしたが、お竜はにげない。花火の遠あかりに、ひきつるように笑った顔がうかびあがった。
「へん、あてずッぽうをいったが、|中《あた》ッたね?」
「お竜――おまえの探索はここまでだ。ところはよし、無縁塚のある回向院、ここでうぬの探索の糸は、命ごめに断ちきってくれる!」
本能的に身をひるがえそうとして、次の|刹《せつ》|那《な》、何をかんがえたのか姫君お竜は、ひらめく刀身にわれとわが身をぶっつけていった。肩から|袈《け》|裟《さ》がけに――一瞬、棒立ちになったが、たちまち片足を池にふみこんで、水けむりをあげて、お竜は崩折れていた。
「|所《しょ》|詮《せん》、斬らねばならぬ女であった。――まず、これでよし」
深編笠は、なお|痙《けい》|攣《れん》するお竜の足をつかんでひきずりよせようとしたが、そのとき門のあたりに御用|提灯《ぢょうちん》の灯がひとつあらわれたのをみると、はっとして身を伏せ、そのまま、奇怪な|蜘《く》|蛛《も》みたいに、つつつつ、と境内の地面を|這《は》いさがっていって、ふっと闇にきえてしまった。
「銀次、たしかに直助だったな」
そう話しかけている声は、巨摩主水介である。
しかし、その声はもうお竜にはきこえなかった。お高祖頭巾は水にとられて、大きな蓮の葉のうえに、彼女は|白《はく》|蝋《ろう》のような顔をのせていた。
「姫君お竜が、悪い奴をつかまえる探索にのり出している。……あの野郎、その糸を断ちきるといいやがった。わたしを殺して、断ちきったと思ってるだろう。……けれど、そうは問屋がおろさないよ。……姫君お竜は死ぬけど、生まれてたったいちど受けたやさしい心へ御恩がえしに死んでゆく、……何が何だかわからないけれど……」
かすかに笑いをうかべた顔が、蓮にのったまま、|水泡《みなわ》をたてて沈んでいった。
波紋のひろがる音をきいて、主水介と銀次がかけてきた。
――巨摩主水介と伊皿子の銀次がこの回向院にやってきたのは、お竜がここへつれこまれたと知ったからではない。
まんまととりにがして、銀次が歯がみをしながら両国の方へもどってゆくと、ばったり巨摩主水介に|逢《あ》ったのである。話をきいて、やっぱりその駕籠があやしい、と主水介は断定した。姫君お竜もさることながら、葵の紋をつけたその怪人物の出現に、彼はひどく職業意識をつきうごかされたらしかった。それで、ふたりはいそいで回向院の方へやってきたのである。
そして、その門のところで、中をうかがっているひとつの影を花火のひかりで発見したのだ。こちらの気配に感づいて、ふりかえった顔は|手《て》|拭《ぬぐ》いで覆われていたが、一瞬に銀次はその正体をみぬいた。
「あっ、直助っ」
さけびとともに、その男は|蝙《こう》|蝠《もり》みたいに宙に舞いあがった。いや、そう見えた。まるで闇の天に飛び立ったかのように、彼は|忽《こつ》|然《ぜん》と消えてしまったのである。
主水介と銀次がさがしていたのは、お竜ではなく、その直助というお尋ね者であった。――しかし、その男は、そのまま、ついに彼らの眼から姿を没してしまった。
――|謎《なぞ》の深編笠にたのまれて、姫君お竜のいどころをおしえたのは、その男である。さっき、路地でわざと影の跫音をひびかせて、銀次をあらぬ方へはしらせたのもその男である。彼はむろんたっぷりと深編笠の武士から謝礼の金をもらっていたが、さてその依頼人の正体がよくわからないので、禁じられていたにもかかわらず、一応銀次をまいてしまうと、またこの回向院にもどってきて、そっと中をうかがっていたものであった。
――この夜こそまんまとにげおわせたが、のちに彼は巨摩主水介の手で縄にかかることになる。もと深川万年町の医師|中島隆碩《なかじまりゅうせき》の下男で、主人夫婦を殺害して財物をうばい、いまなお|逐《ちく》|電《てん》中のこの直助は、またの変名を|権《ごん》|兵《べ》|衛《え》といった。この男を、|南《なん》|北《ぼく》はのちの文化文政の時代に登場させて|凄《せい》|惨《さん》な「四谷怪談」を創作したが、事実はこの|享保《きょうほう》のころ、大岡越前守の手で処刑された犯罪者のひとりである。すなわち、江戸の闇に巣くう悪党のひとり、世にこれを呼んで直助権兵衛という。――
小伝馬町のおんな牢で、牢名主の天牛のお紺は、妙なことをはじめた。
牢内の掃除は三日に一度だ。むろん囚人がやらされるので、その|都《つ》|度《ど》十数本の|草箒《くさぼうき》が投げこまれる。掃除がすむと、あとでこれをかえすのだが、お紺は一度に一本ずつごまかして、三本を牢内にかくしたのだ。
|或《あ》る夜――獄衣を裂いて、お紺が、この三本の箒の柄をかたくむすびはじめたのをみて、お甲とお伝が不安そうにのぞきこんだ。
「お名主さん」
「むむ、何だ」
「何をしているのだえ?」
「牢を出るのさ」
「えっ」
さすがのお甲お伝も、のけぞるばかりに|驚愕《きょうがく》した。――おんな牢はおろか、男の無宿牢でも、この小伝馬町から破獄したものはかつてない。――しかし、お紺は平然として、
「どうせ、みなにゃいわなきゃならねえと思っていた。……わたしゃ、急に|娑《しゃ》|婆《ば》に出たくなったんだよ」
「そりゃあ、だれだってそうだが……」
「お名主さん、|磔《はりつけ》獄門も、まだ追っつかないことになるよ。――」
「どうせ、おれはあんまりながくはないよ」
と、お紺はうす笑いした。
「このごろ、ひどくからだがいたんでな。腹をおさえると、かたいしこりみてえなものがある。――おれのおふくろがな。死んだときにやっぱり腹にかたいしこりができて、まもなくおそろしい苦しみ|死《じに》をしたがな。おなじことが、おれにもきたようだ」
実際、この一、二か月のあいだに、お紺はひどく|憔悴《しょうすい》していた。もとから青黒く、やせこけていたのが、いまはまったく|骸《がい》|骨《こつ》のようだ。気のつよい婆あだけに、いままで痛いといううめきをきいたこともなかったが、そういわれてみると、いかにももはやこの世の人間の顔ではない。
「けれど……ど、どうして、そんなに急に娑婆へ出たいんだね?」
「孫に|逢《あ》いとうてのう」
「へ――お名主さんに孫があったのかい?」
「|倅《せがれ》があれア、孫はあるわさ。その倅は、天牛の|弥《や》|太《た》|郎《ろう》というばくちうちで、ずっとむかし鉄火場で死んでしまったがの」
「天牛の弥太郎――というと、やっぱり倅にも、お名主さんとおなじように、胸に赤い天牛みたいな|痣《あざ》があったからかい?」
「そうよそうよ。それにしても、倅をそんな人間にしたのア、まったくおれのせいだ。痣までつたえた母親じゃというのに、おれアよその男と駆け落ちしたのじゃからな」
「お名主さんが、かけおち?」
「妙な顔をすることアねえ。そのころア、このおれだって、すてた女ぶりじゃあなかった。その――駆け落ちした男が――いちどかかわりあったら女をむちゅうにさせずにはおかねえ男じゃああったが、同時に獣みてえな悪党でな」
「ふうん」
「それで、おれがもとの亭主や倅のところへもどったりしようものなら、おれはいうまでもなく、亭主も倅もたたッ殺してやるなどとおどして――また、ほんとにやりかねない男でもあったから、おれはとうとうこんな女になっちまったが、それでも、なんどかその倅をよそながらみたこともあった。倅が嫁をもらって、やがて生まれた孫を――そうだ、孫はまだ五つか六つのころじゃったが、いちど深川八幡の境内でな、母親といっしょにきたその孫に、なにげなくちかづいて、この手に抱いてやったこともあったぞい。それアきれいな眼をした可愛いらしい女の子であったが、おお、その胸に、やっぱり天牛みたいなかたちをした赤い痣があったぞい」
お紺の声はふるえた。
「おれは、そのときぞっとしてあわてて母親の手にかえしたがの――いま思えば、むしょうにあの赤い痣のある孫がいとしい。逢いたい。――とはいうものの、ほんのこのあいだまで孫のことなど思い出しもせなんだのじゃから、これアやっぱりおれに|末《まつ》|期《ご》がちかづいてきた証拠じゃわい」
「お名主さん、それでそのお孫さんのいまのいどころを知っていなさるのか」
「知らねえ。どんな女になって、どこに、どんな暮しをしているのかも知らねえ」
「それじゃあ、探しようがないだろ?」
「いいや、おれは探す。名はお|蝶《ちょう》、それで胸に天牛のような痣のある娘を、おれは一念かけてさがし出す。――|倖《しあわ》せにくらしているなら、遠くからながめただけで死のう。不倖せになっていたら、それアおれのせいだ。おれは両手をついてあやまる。――」
お紺は宙に眼をすえて、つぶやいた。もとから恐るべき老婆であったが、その姿には、みなを凍りつかせるような鬼気があった。
「いまさら、磔獄門をおそれるおれか? どうせ、ちかいうちに死ぬのじゃ。やりたいことをやりとげて死なねば、おれは死んでも浮かばれぬぞい。みんな、だまってみていてくれ。それとも――」
と、お紺は、氷のような眼を、牢の片隅にむけた。
「お竜――おめえ、お役人に告げ口したかったら、告げてもいいぜ」
ひとりの女囚と話をしていたお竜は、かなしげな眼をお紺にむけて、しずかにかぶりを横にふった。
お竜――姫君お竜は、依然としておんな牢のなかにいる?
お勘が、ふるえ声でいった。
「それで、お名主さん、牢を破るのに、そんな草箒を何にするのだえ?」
山屋敷界隈
「赤猫を出すのよ」
|天《かみ》|牛《きり》のお紺はひくい声でいって、じっと手につかんだ|草箒《くさぼうき》を見つめた。かたくむすび合わされた草箒は、四メートルちかい長さになっている。
それから、眼をあげて、|牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の方をながめた。格子の外は、幅一メートルの|外《そと》|鞘《ざや》になっていて、そのむこうはまた格子になっている。つまり、牢格子は二重になっているのだ。その外鞘から、さらに二メートルもはなれて、ボンヤリと釣り|行《あん》|灯《どん》の灯がともっている。
「赤猫。……」
お勘もお甲もお伝もお熊も息をのんだ。
「赤猫」とは、牢の隠語で、火事のことをいう。――お紺は、放火して、破牢をしようというのである。いかにおんな牢の、老いたる女王のごとき天牛のお紺とはいえ、なんたる恐怖すべきことを思いついたものか。
しかも、お紺は、おちつきはらっていうのだ。
「牢が火事になれア、罪人はみんな解きはなされる。そして、おれがみんなをひきつれて、本所の回向院へたちのくことになっているのだが、そのひまもなけれア、みんなバラバラに打ちはなしになる。とはいえ、そのままずらかってしまっちゃあ、あとで草の根わけても探し出され、その身はおろか、罪のない親子兄弟まで獄門になる。神妙にかえってくれア、罪一等はへらされるのが習いだから、みんなおとなしくかえってこなけりゃいけねえぞ。……おれア、逃げるがの。みんな、おれが何をしていたか、火をつけるまで知らなんだと申したてるがいい。おれア、逃げて、娘をさがして一目逢やあ、あとは|磔《はりつけ》、火あぶりも覚悟のめえだ。……」
お紺は、そろそろと草箒をとりあげた。――二重の格子のあいだからさし出して、箒のさきに、釣り行灯の火をうつすつもりらしい。
「いいかえ? みんな焼け死なねえように、うまく逃げろよ。……」
「待って!」
と、さけんだのはお竜だ。じろっとお紺はふりむいて、
「――やっぱり、おめえは、おれに刃むかうかえ?」
「いいえ、夜廻りがやってきます」
「なに、夜廻り?――拍子木の音はきこえねえぞ」
「でも、|跫《あし》|音《おと》がちかづいてきます」
お紺は、ぎょっとして、耳をすませた。なるほど、遠くから、しとしとと跫音がちかづいてくる。しかも、相当な早足だ。
そして、外鞘に黒い影が立った。
「武州無宿お竜、急に不審の儀|出来《しゅったい》せるにつき、早々に|罷《まか》り出ませい!」
その声から、例の八丁堀の同心であることがわかった。
しかし、いかに重罪人とはいえ、この夜中に急な呼び出しは、それこそ不審だ。だいいち、あれだけ何度も取り調べながら、いまさら不審もないだろうと思う。――お竜自身もふしぎそうに、ぽかんと口をあけて牢の外をみていたが、調べとあれば、やむを得ない。いそいで立ちあがり、お紺のそばをとおるとき、
「お名主さん、おねがいだから、わたしのかえってくるまで、火はつけないでおくんなさいよ――」
口早に、耳もとにささやいて、出ていった。
お紺はさすがに|狼《ろう》|狽《ばい》して、草箒をひざの下にしいて、そのうしろ姿を見おくった。
「ちくしょう」
と、つぶやいたのは、お竜をののしったのか、同心を|罵《ののし》ったのか、わからない。
ともあれ、彼女の破天荒の冒険は、いちじ|頓《とん》|挫《ざ》したことはあきらかであった。このまま火事を出したところで、もしお竜が出火の原因を役人に告げたら、はたして慣例どおりに囚人一同が打ちはなしになるかどうかは疑問だ。それどころか、いまにも役人たちが|雪崩《なだれ》をうってここへおしかけてくるのではないか。――さっきお竜は、牢破りの計画を訴えはしないといったけれど、お竜に反感をいだいているお紺としては、その言葉を信じきれないのもむりはなかった。――お紺は、歯をくいしばって、闇を刻む時に、おのれの胸をも刻んでいた。
しかし、お竜がもどってきたのは、わずかに二、三十分を経てからだ。
お竜ばかりではない。四、五人の役人があとにつづいて、しかも、妙なものといっしょだ。何者か――たしかに戸板にのせられた人間が、外鞘に置かれたのである。
「…………?」
「…………?」
いっせいに、けげんなおももちで見まもる女囚たちの眼に、まず戸前口から、お竜が入ってくるのがみえた。彼女は、だまって、まっすぐに天牛のお紺のまえにあるいてきた。
「お竜」
なんとなく、お紺は不安の思いにかられて、
「あれア何だえ?」
「新入りだよ」
「なに――病気か」
「名は、姫君お竜という。――」
「えっ」
「あたしの|偽《にせ》|物《もの》さ。――そう名乗っていた女が見つけ出されたので、あたしが呼び出されたのさ。偽物にきまっている。なぜなら――」
「なぜなら?」
「いま、|屍《し》|骸《がい》の胸をみたら、乳房のあいだに、天牛のようなかたちをした赤い小さな|痣《あざ》がある――」
「な、なにっ、屍骸だと? 胸に痣があると?」
立ちあがるお紺のまえに、戸板にのせられたその「新入り」の女がはこびこまれてきた。
「牢番、灯をもってきな。――」
と、お竜がいった。釣り行灯がはずされて、牢格子の外へちかづいた。
戸板にあおむけに横たわった女の顔が、格子の|縞《しま》にふちどられて、|蒼《あお》|白《じろ》く浮かびあがった。かたく、うごかぬ、うら若い顔――それが、なぜかにんまりと笑って、ぞっとするほど美しかった。まさに、死んでいた。
お紺は、その顔から、胸へ眼をうつした。お竜が、しずかにその上にぬれた|襟《えり》をかきひらいた。これまた格子の影にくぎられて、|象《ぞう》|牙《げ》細工みたいにひかる双の乳房のあいだを恐ろしい|斬《き》り|傷《きず》がはしっていたが、血は洗われて天牛のような痣がみえた。どうしたことか、きものはぐっしょりとぬれ、片手に|蓮《はす》の葉を一枚にぎっていたが、お紺はそれはみなかった。ただ、もういちど、くいいるように女の顔をみた。
ふいにお紺は、がばとその屍骸にしがみつき、
「お蝶!」
と、絶叫した。お竜は息をひいて、
「やっぱり、そうか?」
「お蝶じゃ。わしの孫じゃ! こ、この顔に、深川八幡でみた幼な顔がのこっておる。おお、お蝶、おまえは、いってえ、ど、ど、どうして――」
「お名主さん、おまえさんが、本所の回向院へにげてゆく気を出したのア、虫が知らせたんだ。……このひとは、回向院の蓮池のなかで殺されていたとか。……」
お紺は屍骸を抱きあげて、頬ずりしながら|凄《すさ》まじい眼をあげて、
「だ、だ、だれがこんなことをしゃがった?」
「わからぬ。……」
と、巨摩主水介が、沈んだ声でいった。
「|旦《だん》|那《な》、お蝶はなぜこんな目にあったのでごぜえます。お蝶は、何をしていたんでごぜえます……」
「わからぬ。……」
主水介、苦しそうだ。
「わからねえ? お、お蝶は、姫君お竜と名乗っていたとかいいやしたね。それはいってえどういうわけだ。そこのお竜と、どんな関係があったんだ?」
お竜も、はっとしたらしい。口をおさえて、しばらく返事もないのに、お紺は獣のようにとびかかって、そのくびをしめつけた。
抵抗もせず、お竜はしめつけられていて、やっとさけんだ。
「ま、待っておくれ、お名主さん」
「言え!」
「三日たったら。――」
「なに?」
「三日たったら、お竜さんを――いや、お蝶さんを殺した奴を教えてあげる」
「なぜ、三日待たなきゃならねえんだ」
「実は、知らないのよ」
お紺は、|唖《あ》|然《ぜん》として、お竜の顔をみた。「ふざけるな。――」といおうとして、その頬にたれるふたすじの涙をみると、急になぜか手の力が|萎《な》えた。
「おめえは、まったくわからねえ女だ。……」
「すみません、もう何もきかないでおくれ。ただ……このひとは、あたしのために死んだにちがいないと思う。あたしの名を|騙《かた》ったばかりに、こんなむごい目にあったんだと思う。……このひとを殺した奴は、あたしにとっても|敵《かたき》だ。お名主さん、三日のうちに、お蝶さんの敵はきっと討つ!」
巨摩主水介は、じっと三本つらねた草箒に眼をおとしていた。その足もとに、急にお竜がひれ伏した。
「旦那、おねがいです。……このひとは、回向院の無縁塚に葬むるんでございましょう。……」
「そういうことになるが、ねがいとはなんだ」
「このお名主さんを、一日でいいから牢から出して、その手で埋めさせてやっておくんなさいまし。……」
主水介は、屍骸にしがみついて泣いている老婆の姿を見つめ、お竜をながめ、まばたきをして、
「|牢奉行《ろうぶぎょう》に、そう願っておいてやろう」
と、うなずいた。
お紺は、がばとふたりのまえにひれ伏して、すすり泣きながらいった。
「ありがとうごぜえます。おれは、もう、お蝶といっしょに回向院の無縁塚に入りとうごぜえます。……」
「お名主さん、そんな気の弱いことをいわないで。――お名主さんがいないと、おんな牢は|闇《やみ》だよ。……」
「何をいう、おめえこそ、この牢のおてんとうさまだ。お竜、わたしゃ、おめえに負けた。今夜から、おめえ、牢名主になれ。……」
「とんでもない、お名主さんじゃあないと、とてもみんなのおさえがきかないわ。――それに、あたしゃ、もう一つ、ほかに用がある――」
しばらくののち、お竜は例のごとく羽目板にもたれかかって、ひとりの若い女囚にやさしく話しかけていた。
「お|葉《よう》さん、あなたはどうしてこんなところに入ってきたの?」
「わたしは、御主人を殺したのです」
「御主人とは?」
「御旗本、|石《いし》|寺《でら》|大《だい》|三《ざぶ》|郎《ろう》さま。……」
「え、御旗本を? なぜ?」
お葉という女囚は、しばらく返事をしないで、じっとお竜を見まもっていたが、やがてふるえ出して、
「お竜さん、それはきかないで下さい。……」
「それは、話したくないだろうけれど、でも、ほかの――お玉さんだって、お路さんだって、お関さんだって、お半さんだって、おせんさんだって、みんな身の上話をきかせてくれたわ。あなた、わたしが、きらいなの?」
「いいえ、そうじゃあありません。それどころか、あなたがここに入ってきたときから、わたしはあなたが好きでした。……それが、こわいのです。あなたには、何もかも、しゃべってしまいそうで……」
「なぜ、わたしに何もかも、しゃべるのがこわいの?」
「何もかもわかると、たいへんなことになるのです。ああ、もうわたしは、こんなことをいってしまった。……」
「たいへんなことになるって、お葉さん、あなたは、ほうっておくと|斬《ざん》|罪《ざい》になるのよ。それ以上にたいへんなことがあるものですか」
「わたしの殺されることくらい何でもありません。それより、もっと恐ろしいことが……」
一見、ただ|可《か》|憐《れん》で愛くるしいこの娘に、殺されるよりもっと恐ろしいこととは何だろう? さすがのお竜が判断を絶した表情で、娘の眼をのぞきこんだ。その眼は、さざなみのように動揺していた。
どんな大罪を犯してきたにしろ、入牢以来、ひそと音もたてなかったこの娘に、その犯罪や処刑に対する|怯《おび》えがあろうとは思われなかった。すくなくとも、彼女が|或《あ》る覚悟をきめていることはあきらかであった。その|悶《もだ》えは、あの――どんな女や男もが、見つめられるとそれだけでふらふらと白状したくなるというふしぎなお竜の眼と、それに対する抵抗から|醸《かも》し出されるものであったに相違ない。
「お竜さん、もしわたしがほんとうのことをお話ししても、ほかのだれにもしゃべりはしないでしょうね?」
ついに、お葉はいい出した。
「わたしが、ほかのだれにしゃべるというのです」
と、お竜はしずかにこたえた。
「お葉さん、わたしの眼をごらん。そして、わたしを信じて――」
お葉は、|小《こ》|日《ひ》|向《なた》|切《きり》|支《し》|丹《たん》|坂《ざか》の下、旗本の石寺家に下女として奉公して、石寺家の人々が、変物ばかりなのにびっくりした。
奉公して、はじめて知ったのだが、まず当主の石寺大三郎が、座敷牢の住人である。なんでも、先年大坂の城の番士を仰せつかって、数年、|上《かみ》|方《がた》にいっていたそうだが、そこですっかり身をもちくずしてしまったらしい。旗本には、一般の大名の藩士とちがって江戸勤番ということはあり得ないが、そのかわり、交代に大坂城や京都の二条城に詰めさせられるのである。そこで、ひどい道楽をおぼえて、帰府をすると、すぐに|小《こ》|普《ぶ》|請《しん》入りを命じられた。小普請組は、非役である。しかも、彼の場合は、いわゆる「しくじり小普請」という奴だ。
むろん、本人は謹慎あいつとめなければならないのだが、これでいよいよやけになって乱暴をはたらくので、組支配からにらまれて、あやうく処分されそうになったのを、本家の|伯《お》|父《じ》が奔走して、しばらく彼を座敷牢にとじこめることになったということであった。
「おおい、|源《げん》|兵《べ》|衛《え》、酒をもってこい。――」
「お|松《まつ》、何か、うまいものはないか。――」
毎日、彼は格子のなかでこんなことをわめいて、いばっている。お葉が奉公してから、むろん食事は彼女が運ぶ役になったのだが、たちまちふるえあがって、にげかえった。座敷牢のなかにひきずりこまれそうになったのだ。
ぶしょう|髭《ひげ》をはやした大男で、酒のために眼はいつもあかくただれ、まるで|狒《ひ》|々《ひ》か何かにつかまえられたような気がした。
死物狂いににげもどって、台所で泣いていると、|中間《ちゅうげん》の源兵衛とお松という婆さんがよってきて、|溜《ため》|息《いき》をついたが、しかし、それが奉公というものだ、と|叱《しか》りつけた。
そのとき、ぶらりとそこに入ってきた大三郎の弟の|小《こ》|四《し》|郎《ろう》が、
「いや、兄貴のところへゆくのはかんべんしてやれ。若い女には、まるできちがいだ。お葉がこわがるのもむりはない」
と、とりなしてくれた。源兵衛とお松はそっぽをむいた。
この小四郎は、しかしほかに家族もいないのに、この屋敷ではひどく冷遇されていた。――のちに知ったところによると、彼は大三郎の異母弟で、つまり|妾《めかけ》の子で、一年ほどまえこの屋敷に入ってきたばかりだということだ。この屋敷に何十年も奉公している源兵衛とお松が、露骨に|軽《けい》|蔑《べつ》的な態度をみせて、何かといえば、かげで、
「やはり、お育ちが、お育ちじゃ。――」
「とても、石寺家の若さまのようではない」
「大三郎さまのおしくじりから、妙な慾を起さしゃっても、わしたちがそうはさせない」
と、悪口をいったり、りきんだりするのもそういう素性の青年だからであった。
しかし、この兇暴な座敷牢の主人をひたすらまもっているだけに、この源兵衛とお松もやっぱり少し変っていた。忠義というより、じぶんたちの子供みたいな気がするらしい。ばかな子ほど可愛いという、それとおなじ心理かもしれない。婆さんは大三郎のいいつけたものを、何はおいてもすぐにもっていって、座敷牢の目的を半ばぶちこわしにしているし、反対に|爺《じい》さんは大変厳格である。それも、三日めごとに検分にやってくる本家の伯父殿の手前というより、一日もはやく大三郎にまともになってもらいたいという熱意からだということは、あきらかにみてとれた。
ただ、このふたりが小四郎をきらうのは勝手として、妙な疑心暗鬼をいだくのは少々見当ちがいだと、お葉には思われた。つまり、|無《ぶ》|頼《らい》の兄が隠居でも命じられることを望んで、そのあとがまを狙っているのではないかと源兵衛たちは心配しているのだが、小四郎はまったくそんな気はないようであった。
ぶらりと台所に入ってくる態度をみてもわかるように、|洒《しゃ》|脱《だつ》で、庶民的で、そしてやさしい。非常に学問が好きだとみえて、庭を|逍遥《しょうよう》しているときでもふところから書物がのぞいている。それから小半日地面にかがんで土に何やらすじをひっぱったり、円を描いたりしてかんがえていることがあるかと思うと、終夜星を仰いでいたりする。
「変ったおひとじゃ」
と、源兵衛とお松が、じぶんたちのことを棚にあげて、そのうしろ姿にささやくのに、
「あの方は、学者なんだわ」
と、お葉は、胸のなかでつぶやいた。
「それに、小四郎さまは、どこへも出かけられないことはたしかなのに、どこをさがしてもいらっしゃらぬことがある。奇妙な方じゃ」
と、老人たちが、首をかしげることがあった。それだけは、お葉にもわからなかった。
ひょっとしたら、たしかにあのお方がこのうちで一番変っていらっしゃるかもしれない――そう思い出したにもかかわらず、彼女は、この詩的で夢想的な日蔭の青年に、しだいに好意をおぼえてくるのを、どうしようもなかった。
――ところで、この変物兄弟の家へ、さらに|錦上《きんじょう》花をそえるがごとき人間の飛び入りがあることを知ったのは、この春のことだった。
突然、庭でけたたましいさけびがあったので、かけつけてみると、草むしりをしていたらしい源兵衛が大手をひろげてはしりまわり――それに追われつつ、けらけらと笑っているのは、見知らぬひとりの若い娘であった。しかも、それが、まっぱだかなのである。
笑っている顔は、あきらかに正気を失った表情であったが、美しい娘だ。その肌は、まるでひかっているように白かった。それが|羚《かも》|羊《しか》みたいに庭をかけまわっている光景に、お葉は眼をまるくして、息をのんだ。
「こいつ――春になったら、また色気づきゃがって!」
爺さんは泡をふいてののしりながら、やっと彼女をつかまえた。そして、ひきたてつつ庭の一方へまずつれていったので、気がついてみると、そこに彼女がぬぎすてたらしい華やかな衣類がある。
あらあらしく投げつけるようにそれをまとわせると、源兵衛はその奇怪な女をひきずって、門の方へあるいていった。
「ああ、またあの女が来おったかいの」
と、すぐそばで、溜息がきこえた。ふりかえると、お松である。
「お松さん、あのひとは――」
「この坂の上の山屋敷の牢番の娘でな。きちがいじゃ」
――山屋敷とは、切支丹牢のことだ。
もと宗門奉行|井《いの》|上《うえ》|筑《ちく》|後《ごの》|守《かみ》の下屋敷を改造したもので、外まわりの石垣は一丈二尺、土塀のたかさが一丈二尺、さらに八寸の忍びがえしの|釘《くぎ》がひかって、その陰惨なかまえは、この家の庭からも遠く仰がれて、お葉の心を冷たくした。――すでに百年にちかく、そのあいだ何百人の切支丹が、ここに投獄され、血と涙のなかに殉教したり、転宗したりしたことであろう。また――ここに|囚《とら》われた|伴《ば》|天《て》|連《れん》ジョバンニ・シドウチを審問した|新《あら》|井《い》|白《はく》|石《せき》が、その結果獲得した知識から「西洋紀聞」を著したことでも、日本史上忘るべからざる山屋敷だが、しかし江戸の人々にとって、これこそは小伝馬町の大牢にもまさる恐怖の城であった。
「そのひとが、どうしてこのお屋敷へはだかでくるんですか?」
「きちがいのきもちはわからないよ。恋しゅうてくるのか。憎うてくるのか。……」
「――というと?」
「あの――お|市《いち》という娘はの、まえにここに下女にきておった。二年ばかりまえ、旦那さまが大坂からかえっておいでになってまもないころのことよ。……そのとき、旦那さまのお手がついた。……」
「えっ――それで――気がちがったんですか」
「いいや、妙になったのは、それがもとじゃない。ちょうどそのころ、あれの父親の牢番が、|切《きり》|支《し》|丹《たん》|牢《ろう》の切支丹に、逆に|妖術《ようじゅつ》にかけられて切支丹になりおっての。それが発覚して、お仕置になった。それから気がふれてしまったのだよ」
「では、あれは切支丹の娘――」
「いまは、となりの牢番が養ってくれて、ふだんは家にとじこめておいてあるはずなのが、春になると浮かれ出して、このお屋敷にあんな姿でもぐりこんでくる。こまったことじゃが、大きな声ではいえないけれど、うちの旦那さまにも罪がないとはいわれない。けれど、その旦那さまも座敷牢にいさっしゃるとァ、これァ因果な話さね」
無作法御免
まるはだかになって、座敷牢の男をたずねてくるきちがい娘。――
むろん、それを面白がる年ごろでもなければ、好奇心をいだく立場でもない。お葉はただ、無惨、という印象でこの事実を受けとったが、お葉自身が、それとあまりちがわない無惨な目にあいかけたのは、それから数日ののちであった。
その夕方、お葉は小四郎に、そっと物蔭によばれた。
「お葉、ちょっとたのみがある」
「はい、なんでございます?」
「これから、兄上のところへ婆やが夕食をもってゆくのだが――今夜は、おまえにはこんでもらいたいのだ」
お葉は、まじまじと小四郎の顔をみた。このまえのことがあってから、大三郎の身の廻りの世話をするのは、やっぱり婆さんにきめられて、お葉は胸をなでおろしていたのだが、しかし小四郎にそういいつけられては、いやだといえる身分ではない。しかし、そのことより、お葉は小四郎の不安そうな表情に|眉《まゆ》をひそめた。
「それは、もって参じますけれど……どうかなすったのでございますか」
「実は、座敷牢に妙なものがある」
「妙なものとは?」
「|十《ク》|字《ル》|架《ス》じゃ」
「くるす?」
「切支丹の護符だ」
「切支丹。……」
お葉はさっと|蒼《あお》ざめた。小四郎のささやく声もふるえている。
「おそらく、あの山屋敷の狂女――お市がはこんだものではないか。それを兄上が、どういうおつもりで手もとにとっておかれるのか、そのお心は判断に苦しむが、万一、本家の伯父上にでも見つけ出されたら、一大事、なんとしてでも、あれをとり出しておかねばならぬ。と申して、ふだんゆかぬわしがゆけば、兄上も用心するだろう。お松、源兵衛|爺《じい》でも心もとない。というより、あれたちにこのことを知られたくない。まかりまちがうと、兄上のいのちがなくなるばかりではない。この石寺家そのものがおとりつぶしになりかねぬ」
「……わかりました。若さま、わたしがそれをとってまいります」
と、お葉はこっくりした。恐怖よりも、小四郎にそれほどじぶんが信頼されたのがうれしかった。いや、ふだんあまり世話をやかせない小四郎に、用を命じられたことだけでも心がはずんだ。
――そして夕方、お葉は夕食の|膳《ぜん》をもって座敷牢に入ったのである。
「お……おまえか」
と、|髯《ひげ》だらけの大三郎は、顔をあげてニヤリとした。
「お松はどうした?」
「お松さんは、ちょっと気分が悪うて……」
「酒は忘れはすまいな。これ、ついでに酌をしてゆけ」
お葉は、いまにもにげ出したかったが、むりに笑顔をつくって、お膳のまえに坐った。大三郎はとびつくように、つがれた|盃《さかずき》をあおり、また盃をつき出し、たてつづけに三杯ほどのんでから、はじめて生きかえったように大きな息をふうとついて、上眼づかいにお葉をみた。
「若い女の酌で、酒をのむのはしばらくぶりじゃ」
と、右腕の|袖《そで》をぐいとまくりあげると、また盃をつき出して、
「つげ。ふむ、可愛い顔をしておるの」
お葉はそのとき大三郎の右腕に、へんなものがあるのに気がついた。|刺《いれ》|青《ずみ》である。――それは「無作法御免」という文字であった。もっともお葉には読めなかったので、意味もわからなかったが、それにしても、お侍で、しかもれっきとしたお旗本で、刺青をするのは珍らしい。おそらく、大坂で、無頼な暮しをしているときに彫ったものではあるまいか。これでは、なるほど座敷牢に入れられるのもむりはない。――
「これ、ふるえるな、酒がこぼれる。――お葉、もうすこしここにいてくれるであろうな」
「はい。……すこし、お身廻りをきれいにいたしましょう」
と、お葉は眼をそらして、|寝《ね》|臭《ぐさ》い夜具や、ちらかった黄表紙や、灰のこぼれた|煙草《たばこ》盆などを見まわした。――あの十字架とやらはどこにある?
「左様か。それでは、酌はよい。そこらをかたづけてもらおうか」
と、大三郎は案外おとなしくいった。
お葉は、ほっとして隅の方へゆき、ぬぎすてたままの寝巻などをたたみながら、眼をあたりにはしらせた。十字架――銀の棒を十字にくみあわせたものだと、小四郎さまはおっしゃったが――しかし、どこへかくしたか、そんなものはみえなかった。
「お葉、何をしておる?」
ふいに、すぐうしろで、酒くさい息が吐きかけられた。
「まるで|枕《まくら》さがしでもしておるようだが、座敷牢の囚人に金はないぞ」
はっとしてふりむいたとたん、いきなり両腕をつかまえられた。ちかぢかと寄った大三郎の眼が、酔いと狂暴な欲望に、ぶきみに赤くひかっている。
――お葉は、声も出なかった。
「あははは、掃除は、あとでよいわ。それより、わしをよろこばせてくれ、のうお葉」
「あっ――ゆるして下さいまし!」
やっとさけんで、身をもんでのがれ出る。しかし、外へは格子がへだてていた。小さな出入口で、身をかがめようとしたところを、帯をつかまれた。
「待て、これ、よいではないか」
帯がとけた。お葉はひきもどされ、くるくると回転しながら、夜具のうえに投げ出された。そのうえに、|熊《くま》か|狼《おおかみ》のように大三郎が襲いかかる。もがけばもがくほど、帯のないきものはみるみるはぎとられて、空気までがいたいような処女の肌が、大三郎のあらあらしい腕にもみしだかれた。
「旦那さま!」
「えい、おとなしくしろ、これも忠義じゃ」
胸毛を乳房のあいだに感じると、お葉はくらくらと眼まいがした。――そのとき、何者か、黒い影がそばに立ったようであった。
「兄上! なりませぬ!」
「や、小四郎か、じゃまするな」
猛然とたちあがる大三郎の足に|脾《ひ》|腹《ばら》をけられて、お葉は|悶《もん》|絶《ぜつ》した。
――お葉は、ヒリヒリする皮膚のいたみにわれにかえった。
「お葉」
耳もとで、ささやく男の声がきこえた。
「あ。……」
「これ、声をたてるな」
しかし、彼女は恐怖のあまりもういちど声をたてようとして、その口を手でふさがれた。
「小四郎だ。たのむから、しずかにしていてくれい」
何が、どうなったのかわからない。ここがどこかも知れなかった。ただまわりは|漆《うるし》のような|闇《やみ》で、その闇がひどく狭い感じであった。彼女は、男に抱かれて横たわっていた。男も重なるように身を横たえている。――お葉は、じぶんがまるはだかなのにはじめて気がついて、またうなり声をたてかけた。
「お葉、おねがいだ。さわがないで――」
小四郎がいう。息をころし、必死の声が耳もとで、
「そのままで、きいてくれ。――おまえは、兄上に身をけがされようとした。それをわしが救い出して、ここにつれてきたのだ」
お葉は、血が逆流するような感じで、さっきの恐怖を思い出した。
「若さま。……ここは、どこでございますか?」
「わしの部屋の下だ」
「え。……」
「この下には、兄上の座敷牢がある」
そういわれて、お葉は、大三郎の座敷牢の二階が小四郎の居室になっていることを思い出したが、しかしそれではここがどこか、いっそうわからない。
「つまり、座敷牢の、天井裏なのだ。――さっき、おまえをたすけ出して、庭へとび出したら、庭のむこうからだれやら走ってくる跫音がきこえた。これはいかぬと、あわててわしの部屋に抱いてにげのぼったのだが、おまえははだかのままじゃ。走ってきたのが爺やか婆やか、いずれにせよ見つけられては要らざる騒ぎのもとともなり、また――下の座敷牢に、その人間が入っていった様子なので、何か見てやろうと、ここに入りこんだ。――」
お葉は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として周囲を見まわした。眼がだんだんなれて、闇のなかにおぼろに柱がみえてきた。まさに、天井裏だ。しかし、その一|画《かく》だけ板でかこってあり、下には音をたてないためか、夜具がしいてあった。立ってはおれないほどひくい空間に、しかし本や筒のようなものや、四角な包みがいっぱいおいてある。
「お葉、だれにもいってはならぬぞ。わしは切支丹ではないが、西洋の学問をしておる。本心では、天地に恥じないつもりだが、|姑《こ》|息《そく》な人間どもにはどのようなかんちがいを受けるかもしれぬ。ひそかにあつめた本や器械を、伯父上や源兵衛にみつけられては面倒なことになるとかんがえて、こんなかくし場所をこしらえた。……実は、下の座敷牢をつくるとき、その騒ぎや物音にまぎれて、こんな穴蔵をつくったのだ」
はじめてお葉は、いままで小四郎がえたいのしれぬ消失をした|謎《なぞ》を知ったのである。押入れとか、物置とかではあぶない。なるほど、ここなら――だれが二階と一階のあいだに、こんな秘密の場所がつくってあると想像できるだろうか。
「お葉。……おどろいて、たかい声をたててはならぬぞ。座敷牢に入っていったのは、源兵衛でもお松でもない。――ここから、そっとのぞいてみろ」
小四郎は、わずかに|布《ふ》|団《とん》をまくった。すると、そこに小さなふし穴があらわれた。お葉は、まるで魔法の眼鏡でものぞきこむように、その穴に眼をあてた。
「あ。……」
「しっ」
――いかにも、真下は座敷牢であった。それは、上からみえた。
そこには、ふたりの人間がいた。ひとりは、主人の大三郎だが、もうひとりは――はだかの若い女だ。それがあの山屋敷の狂女であることは、ひと息かふた息ついたあとでわかった。
「お市じゃ。座敷牢の|鍵《かぎ》はあけたままになっておったから、やすやすと入りこんだものであろう。……」
小四郎がうめいた。
はだかの狂女は、ぴったりと大三郎のひざに抱きすくめられていた。くびをのけぞるようにしてあおのけ、男に口を吸われながら、片腕を男のくびにまきつけている。男の手があらあらしく乳房をもむたびに、くずれた|髷《まげ》のからす蛇のような髪が、ゆさゆさと夜具を|這《は》った。
「まっ。……」
お葉は、ピタリとふし穴を手でふさいで、顔をそむけた。息もつけなかった。
「お葉、見るのだ。けがらわしいが、がまんして見ていろ。そのうち、ふたりが妙なことをはじめるから。いや、けしからぬ、|淫《みだ》らなふるまいではない。そのあとで、ふたりはえたいのしれないふしぎな儀式をはじめるから。……それから、恐ろしいことが起る。……」
と、小四郎はささやいた。その声の厳粛さに、お葉はまたおそるおそるふし穴に眼をあてた。が、またあわてて顔をそらして、こんどは肩で息をした。そこには、まるで黒い獣と白い獣との凄まじいばかりのからみ合いがみられただけであった。
「まだ、ふたりはあの儀式をせぬか。……」
と、小四郎が、お葉の肩に手をかけた。
「儀式とは?」
「わしはな、あの狂女が、ほんとうにきちがいかどうかうたがっておる。……」
「え。……」
「あのけだものとしかみえぬ淫らさをみると、正気の女とは思われぬ。しかし、あとであれは十字架をとり出して、ひれ伏して、さもかなしげに泣くのだ。……」
「あのひとは、なんどもこの下の座敷に入ってきたのですか?」
「いいや、今夜がはじめてじゃ。しかし、|格《こう》|子《し》の外にしのびよって、格子越しに兄上に、筆舌につくしがたい姿で挑む。それに応ずる兄上は、兄上の方が狂人ではないかと思われるくらいじゃ。しかも、そのあとで、兄上も例の十字架をとり出して、ひれ伏して、かなしげに泣く。――わしは、ここからそれをいくどか見た。しかし、そのことをだれにも言えなんだ。人にはいえぬ恐ろしいことが、そのあとで起るからだ」
「恐ろしいこととは?」
「女は泣く。兄上も泣く。泣きながら、何やら祈りのごとき言葉をつぶやく。なんでも、エホバ、エホバ……という言葉がしばしばきこえるところをみると、エホバとは、邪宗門の神の名ではあるまいか。するとな――どこからともなく、うなるような声がきこえるのだ」
お葉は水をあびたような思いにうたれて、われしらず小四郎にしがみついた。
「兄上の声ではない、むろん女の声ではない。――この世のものとは思われぬ声だ。しかも、それが地の底からきこえるようでもあり、暗い天井からきこえるようでもある。といって、屋敷で、ほかにだれもきいた様子はないから、座敷牢の中か、|或《ある》いはすぐ外でうなる声だ。ところが、それらしい姿もみえなければ、なんの気配もない。その声が言う。――大三郎、大三郎、牢より出でよ、きよく名乗り出て、まるちり[#「まるちり」に傍点]を受けよ、ただ肉のはらいそ[#「はらいそ」に傍点]にふけるのみならば、かならず天の剣が下ろうぞ。――」
「…………」
「それとなく、山屋敷の役人にきくと、まるちり[#「まるちり」に傍点]とは切支丹の言葉で殉教、はらいそ[#「はらいそ」に傍点]とは極楽ということだそうな。――思うに、あの狂女のうしろには、奇怪な魔神エホバがついておる。エホバが、あのお市をつかって、兄を邪宗門にさそいにくるのじゃ」
「…………」
「お葉、のぞいてみろ。ふたりはまだ十字架を拝んではいないか?」
お葉は、三たびふし穴に眼をあてた。――しかし、そこには、処女の正視し得ぬ光景が、いつはてるともなくくりひろげられているばかりであった。ただ無頼の侍と、狂える女が、白い炎につつまれて、髪ふりみだし、息も絶え絶えに、身もだえしてからみあい、のたうちまわっているだけであった。
「‥……なぜ……なぜ……」
お葉の声はかすれた。
「そんな恐ろしいことを、お上にお訴えなさらないのです?」
「兄上を|磔《はりつけ》や火あぶりにしてよいというのか?」
「でも、このままでは……」
「だから、わしは苦しんでいるのだ。このことは、偶然おまえにみせ、また打ちあけることにはなったが、みせてはならぬ、知らせてはならぬ石寺家の大秘密ではあった。しかし、正直なところ、おまえにでもみせて、きいてもらわねば、いてもたってもいられないきもちになったのだ。このことを、万一、公儀に知られたならば、断罪をうけるのは決して兄上だけではない、いままでの例から、一族すべて魔性のものにとりつかれたものとして、家名断絶、人も屋敷もいもち[#「いもち」に傍点]にかかった稲のように焼きはらわれてしまうであろう」
「ああ。……」
「お葉、なぜかわしはおまえだけは信じた。石寺家のためにわるくはしてくれぬ娘と見た。……わしはおまえが好きであった。……」
「小四郎さま。……」
もう、何をきいているのか、じぶんが何をいっているのか、お葉ははっきり意識していなかった。|瞼《まぶた》には、下界の光景が|火《ひ》|華《ばな》となって|灼《や》きつき、身体はせまい穴のなかにひしと男に抱きしめられて、全身が熱病におかされたような感じであった。
若いふたりの唇は、ひたと合った。
その夜、魔神エホバの声は、ついにきくことができなかった。
というのは、それよりさきに、お松婆さんがやってきたのである。お松は、むりに夕食をはこんでいったお葉が、なかなかかえってこないので、不審に思って座敷牢をのぞきにきて、なかの様子をのぞきこんで、金切声をはりあげたのである。その声におどろいて、源兵衛もとんできた。
「あっ、わりゃあ、またどうしてここへ?」
はだかのままひきずり出された狂女は、縛りつけようとする源兵衛をつきたおすと、怪鳥のようなさけびをあげてにげていった。
大三郎はふてくされて、そッぽをむいていたが、お松婆さんは、そこにぬぎすてられたままのお葉の衣類をみて、またすッとんきょうな声をあげた。
「これは、お葉の――お葉はどこへゆきおった? 旦那さま、お葉をどうなされました?」
「わしが、可愛がってやったのよ」
と、下唇をなめて、大三郎はうす笑いをうかべた。
「あとは、小四郎にくれてやったさ」
源兵衛とお松が、あわてて二階にかけのぼってくると、座敷のまんなかにお葉は、夜着をかけられてあおむけに横たわり、枕もとに端然と小四郎が坐っていた。
「若旦那さま、こ、これアいったいどうしたことでござります?」
「これが兄上につかまって、すんでのことでひどい目にあうところだったから、わしが救い出してやったのだ」
「へ、それじゃあ、からだだけはぶじで――」
と、ふたりは顔を見合わせたが、すぐに源兵衛がかみつくように、
「救い出して、はだかでここへ――とんでもないことをなさる。わたくしどもにどうしてお知らせ下さりませなんだ」
「はだかで気絶している娘をかついでゆけるか。気がつくまで、ここに寝かしておいてやったのだが――どうやら気がついたらしい」
お葉は、天井をむいたまま、ぼうと夢みるような眼をしていた。
源兵衛はそのそばにきものをなげて、
「若旦那さま、下で起っていたことを御承知ではなかったのでござりますか」
「いまのおまえのさわぐ声ではじめて知ったよ。どうやら、またお市がきておったらしいな」
泰然自若としていう。
この若者のもちまえの態度だから、それ以上怒りもならず、源兵衛とお松は、ただキナくさいような表情をして、
「お葉、若旦那さまのお部屋で、いつまで何をしておる。はやくこれを着て、ひきとるがいい」
といった。小四郎は気軽に|起《た》って、
「おお、きものがきた。はやく着かえれ」
と、いいすてて、ぶらぶら階段をおりていった。
――さりげなく、この場はごまかしたものの、石寺家の秘密が、いつまでも秘密のままですみそうもないことは、小四郎とお葉自身がいちばんよく知っていた。そして、その危機は意外にはやく、次の日にきた。朝から源兵衛がいないと思っていたら、ひるごろかえってきて、明朝早々本家の|伯《お》|父《じ》御がくることになったということを小四郎は知ったのである。きのうの騒動にあきれかえった源兵衛が、とりあえず本家に相談にいったらしいのだ。
「……こまった」
と、小四郎は顔色をかえた。
「伯父がきて、さわがれると、なんのはずみであの十字架が見つけ出されないともかぎらぬ」
あの十字架は、あんな始末でまだ発見されなかったのである。
「兄上が、どこにかくしておるか……持っていることはたしかなのだ」
「わたしが、もういちどさがしてきます」
と、お葉がいった。声は決然としていたが、眼はウットリとしていた。一夜のあいだに、彼女は、小四郎のためなら、小四郎の命令なら、火のなかへでもよろこんでとびこんでゆく女になっていたのである。
「たわけ」
と、めずらしく小四郎はこわい顔になって叱った。
「兄とはいえ、あれは魔物に|憑《つ》かれた獣じゃ、そなたを、二度と獣のところへはやれぬ」
お葉はうつむいた。しかし、胸は歓喜で爆発しそうであった。そうだ、小四郎さまとわたしとは、もはや他人ではない。――
その夜、彼女はひそかに座敷牢へしのび寄った。ふところに格子の錠の|鍵《かぎ》をもち、帯に、万一のために|出刃庖丁《でばぼうちょう》をはさんでいた。
むろん、それはあくまでも|防《ぼう》|禦《ぎょ》用のもので、なんとか大三郎をうまくなだめて、あの十字架をさがし出すつもりであった。
松に三日月のかかった庭をなかばやってきて、ふいに彼女は、うしろにけらけらと妙な笑い声をきいて、息もとまるばかりにびっくりした。
ふりかえると――いつのまにあらわれたのだろう、ひとりの女が、お葉のまねをした及び腰で、足音しのばせてついてきているのであった。はだかではなかったが、まごうかたなき山屋敷の狂女だ。
しかし、そのうしろに、もうひとつの丈たかい影があった。月がくらいのでよくわからなかったが、|合《かっ》|羽《ぱ》であろうか、|吊《つり》|鐘《がね》みたいなかたちをした黒衣を羽織って、頭はさきのとがった|頭《ず》|巾《きん》で、すっぽりつつまれていた。
「お葉……お葉……」
妙な調子で、その怪物がいった。
「聖なる十字架を盗まんとする盗賊に、エホバの|呪《のろ》いあれ。……」
その手があがり、三日月に、十字のかたちをしたものが|物《もの》|凄《すご》いひかりをはなつと、風をきって、お葉のあたまにふりおろされた。
エホバの|剣《つるぎ》
お葉は、ズキズキするあたまのいたみにわれにかえった。
「お葉」
耳もとでささやく男の声がきこえた。
「あ。……」
「これ、声をたてるな」
しかし彼女は、恐怖のあまりもういちど声をたてようとして、その口を手でふさがれた。
「小四郎だ。たのむから、しずかにしていてくれい」
お葉は、ひしと相手にしがみついた。――たった一夜で、このお葉の動作だけ、昨夜とちがっていた。
それ以外は、きのうの夜と、まったくおなじことなのである。彼女は、狭い、|漆《うるし》のような闇のなかに、男に抱かれていた。――しかし、彼女は、ここがどこか、相手がだれか、きかないでももう知っている。
お葉は、じぶんの動作が昨夜とちがっていることを意識しなかった。それにもうひとつ、きのうの夜とちがっていることもあった。この下の座敷牢で大三郎に襲いかかられたときもこわかったが、今夜は別の――もっと恐ろしい、えたいのしれぬ怪物に襲われたのである。
「小四郎さま、恐ろしい魔物が、このお屋敷に入りこんでいます。……」
「――お市がきていることは知っておる」
「いいえ、そうではないのです。もうひとり。……」
「なに?」
と、小四郎はきっとなった様子で、
「お葉、いったい、おまえはどうしたのだ? さっきわしが、星を見ようと庭に出てみたら、おまえがたおれている。はっとして、兄の座敷牢の方をのぞきこむと、お市がまたやってきておった。そのとき――」
小四郎の声はふるえた。
「わしは妙なものをみたのだ。軒下から――まるで|蝙《こう》|蝠《もり》みたいな、しかも羽根をひろげると五尺か六尺もありそうなものが、三日月の空へ舞いあがったようにみえたが――」
「えっ、蝙蝠が?」
「それが、黒いような、また煙みたいに|透《す》きとおってみえるような――まばたきすると、もうそれはみえなくなっていたから、わしは何かの見まちがいかと思った。しかし、われにかえるとおまえはやっぱりたおれているし、これはただごとではないと思って、あわててここへはこびこんで、さっきから下をのぞいておったのだ」
「大きな蝙蝠ですって?――小四郎さま、わたしはさっき庭で、お市といっしょにあらわれた、黒い|合《かっ》|羽《ぱ》をきて、さきのとがった頭巾をつけた化物のようなものに襲いかかられたのです。……」
「それァ、なんだ?」
小四郎は、思わず大声をたてかけて、あわてて息をひそめた。ふたりはだまりこんだ。濃い春の闇のなかに、抱きあって横たわっているふたりの背に、そんな状態にそぐわない冷たいものが、すうとながれたようであった。
「そういえば、ふしぎなことがある」
と、小四郎はつぶやいた。
「いま、下にお市がきているのだが、あれがどうして、座敷牢に入ったかだ。錠の鍵を、あれはもってはおらぬはず。――」
お葉の眼は闇になれて、あの|柩《ひつぎ》みたいに板でかこった天井裏と、そのなかにしいた布団、それから、そこに積んである本や、筒のようなものや、四角な包みがしだいにみえてきた。それは小四郎がひそかに作ったり、手にいれた西洋の学問の器具であるという。――
「それから――お葉、まず下をのぞいてみろ」
小四郎が何かをとりのけると、小さな穴がぼうとひかった。
お葉は、それをのぞきこんだ。――そこには、昨夜のとおり、みるも血のたぎるような黒い獣と白い蛇のからみあいがくりひろげられていた。大三郎とお市は、顔と顔をぴったりくっつけたまま、おたがいの指が肉にくいいるほどに抱きあって、上になり下になりしてころがりまわっていた。――と思うと、ふたりは、何をしているのか判断もできないような奇怪な姿勢になった。もし昨夜のことがなかったら、お葉には、それが人間であるとさえわからなかったろう。なぜなら、その光景を照らすひかりは、まるで|靄《もや》のかかっているように暗かったから。――
「くらい。……妙なひかりだろう?」
と、小四郎がささやいた。座敷牢に、|行《あん》|灯《どん》はともっている。それは見える。それなのに、ふつうの行灯のひかりとはどこかちがう。昨夜にくらべて、へんにきみのわるいうす暗さなのだ。しかも、それが水のようにゆれる。|灯《ほ》|影《かげ》のみならず、もつれあうふたりの男女の姿までが、水底の人魚のようにゆらめくのだ。
お葉には、しかし、それがじぶんの魂のゆらめきとしか感じられなかった。息があつくなり、みているだけで手足の指がかがまり、全身が湯に浮いているようなきもちになった。――心臓が破れそうに|動《どう》|悸《き》をうつのにたえきれず、顔をそむけると、小四郎の顔が重なった。柩のような狭い空間だけに、ふたりの姿勢こそ、階下の男女におとらず怪奇なものであった。
顔をはなして、小四郎はまた穴をのぞきこんだが、
「や。……」
と、ふいに息をもらした。
「お葉、いま、妙な声がきこえはせなんだか?」
お葉は、ただじぶんの息づかいと、血の鳴る音をきいているばかりであった。
「どう。……」
「――エホバ――エホバと――」
お葉は、ぎょっとして、穴に眼をあてた。
座敷牢の陰火にけぶるようなおぼろなひかりのなかに、大三郎の背がみえた。まるで彼ひとりうつ伏せになっているようだが、それから手足が八本もつれ出てみえるので、その下にお市がかくれていることはあきらかであった。その手足が――妙にふるえている。まるで、|痙《けい》|攣《れん》でもしているようだ。そして、モクモクとうごいている大三郎の背の波も、ただごとでない。いや、彼はうごいてはいない。下のお市だけが、もがいているのだ。大三郎の右肩のところに、お市の顔がみえた。眼をかっとむき、口をひらいて|苦《く》|悶《もん》の|形相凄《ぎょうそうすさ》まじい狂女の顔が。――
大三郎の右の背に、キラリとつきぬけたひかり――刀のきっさきに気がついたのはそのときである。とみるまに、そこから血の花がぱあっと咲きひろがった。
「あっ」
と、さけんで、眼をはなす。
「どうした?」
と、小四郎が顔をよせてきたとき――どうしたのか――まるで天井裏がかたむいたように、お葉の腹ばっていた布団がぐぐっと浮きあがった。思わず布団に顔をうちつけたお葉の口は、その布団が妙にぬれているような感じがした。遠く、どこからともなく、「くるす[#「くるす」に傍点]の敵に、エホバの|剣《つるぎ》の|呪《のろ》いあれ。……」という地にしみいるような声をきいたのはそのときだ。お葉の脳がしびれ、吐き気がし、彼女は失神した。
それから、どれほどのときがたったか。――気がつくと、彼女は、うすぼんやりと行灯のともった部屋にねむっていた。みまわすまでもなく、小四郎の居室である。それでは、きのうの夜のように、二階の床板とたたみをあげて、小四郎がはこび出してくれたものとみえる。しかし、小四郎はいなかった。
お葉は、その下に何が起ったか。いまそこに何があるのかを、|閃《せん》|光《こう》のように思い出した。恐怖にかられて彼女ははね起き、|這《は》うようにして階段をおりた。
そのとき、庭の方から二つ三つの影がはしってきた。避けるまもなかった。彼女は、その影のまえにさらされた。ひとりは小四郎だが、あとのふたりは源兵衛とお松だ。
「あっ、お葉。――」
というお松婆さんのさけびにつづいて、
「わりゃあ、なんでここにいる?」
かみつくように源兵衛が眼をむいたが、お葉はもとより、小四郎も|吐《と》|胸《むね》をつかれて棒立ちになったままであった。
悪夢ではなかった。座敷牢のなかに、石寺大三郎とお市は死んでいた。
|中間《ちゅうげん》の源兵衛老人が、狂気のごとく本家へはしっていったあと、三人はしばらくそのふたつの|屍《し》|骸《がい》のそばに坐っていたが、あまりの恐ろしさに、だんだんといざり出ていって、格子の外にならんでしまった。
屍骸の様子は、お葉がみたときとだいぶちがっていた。お葉が気をうしなったあと、二階からかけおりた小四郎がいちど座敷牢にとびこんで兄を抱きあげたということだし、源兵衛とお松も、半狂乱にしがみついたからだ。
大三郎とお市は、血の海のなかにならんであおむけに横たえられていた。大三郎は左胸部に、お市は右胸部に、それぞれ背までとおる刺し傷があった。その兇器は、いまたたみのうえに、黒血もかわいて、ころがされていた。
「あれが……エホバの剣……?」
お葉は、にぶくなったあたまでかんがえた。実際、あたまはまだ悪い酒にでも酔ったようにいたみ、しびれていた。
あの刀が、エホバの剣なのだろうか。しかし、それは|柄《つか》も|鍔《つば》も、ふつうの日本の刀にすぎなかった。――それが、|忽《こつ》|然《ぜん》とあらわれて、下からお市と大三郎さまをふたりいちどに|串《くし》|刺《ざ》しにしてしまったのである。
「奇怪だ。……魔神の呪いが石寺家にとり|憑《つ》いたとしか思われぬ。……」
と、小四郎は、腕ぐみをして、いくどもうめいた。
「あの刀がどこから出てきたか。どうしてふたりを串刺しにしてしまったのか?」
泣きくたびれていたお松婆さんは、|梟《ふくろう》みたいな眼でお葉をみて、
「お葉、おまえはここに何をしにきておったのじゃ?」
と、きいた。
これもいくどもきかれた言葉である。が、お葉は、歯をくいしばって返事をしなかった。最初小四郎に、「お葉、あのことはだまっていてくれよ」とささやかれたからだ。あのこととはふたりが天井裏にひそんでいたことか、十字架やあの魔人やエホバの剣のことかわからなかったけれど、いずれにせよ、それは小四郎の大事であり、石寺家の大秘事に相違なかった。彼女は、小四郎を信じていた。じぶんはあのとき小四郎さまと天井裏にいたのだ。そのことは、じぶんが小四郎さまが下手人であり得るわけはないと知っているのと同様に、小四郎さまも御存じだ。
東の空が、やや|蒼《あお》|味《み》がかったころ――本家の伯父が、騎馬でかけつけてきた。別当は外に待たせ、彼だけ源兵衛にみちびかれて、眼をひからせて座に入ってきた。もう七十にちかいが、石寺|左京《さきょう》といえば、|曾《かつ》て目付として在職中は、その|峻厳《しゅんげん》を以て旗本八万騎をふるえあがらせた老人であった。
「何にせよ」
と、あるきながら、源兵衛を|叱《しか》りつけるように、
「座敷牢などに入れるまえに、腹切らせるべきであったわ。|所《しょ》|詮《せん》、ろくな死にざまはすまいとみておったのを、石寺の名にひかれていままで見のがしておったのが、このような不始末のもとじゃ」
と、口早にさけんでいる語気でも、その人柄のきびしさは知れた。
小四郎はおじぎをして、事件発見のいきさつを語った。むろん、天井裏からふたりの死を目撃していたなどとは言わない。ただ、異様なさけびをきいて二階からかけおりてみたら、兄とこの女が、ここで死んでいたと報告をしたのである。
老人は屍骸の枕もとに|仁《に》|王《おう》立ちになって見おろしていたが、
「この刀は、だれのものか」
と、きいた。
「当家には見おぼえのないものでございます。……刀は女の手のそばにおちておりました。思うに、この狂女が刀をもって侵入し、兄を刺し殺して、じぶんも死んだものではございますまいか」
左京の眼が、|爛《らん》とひかった。
「小四郎、わしをたばかろうと思うなよ」
「は?」
「女の傷を見るがよい。女は背から胸へ刺しつらぬかれておるのではないか。おのれのもつ刀で、背から刺せるものか。このたわけめ」
小四郎はうっとつまった。果然、この目付であった伯父の眼は、容易にくらませるものではなかったのだ。
「このざまはなんじゃ。両人とも、まるはだかにちかいではないか。こいつら推量するに、あられもない姿で抱きあっておったな。そこを一太刀、上から串刺しになったとみえる。……」
「上から?」
お葉は、思わずつぶやいた。そんなことは決してありませぬ! とさけぼうとして、あわてて口をつぐんだ。左京がじろっとお葉の顔をみたとき、いままで縁側の方をうろうろしている源兵衛が、
「やあ、床下に妙なあとがある」
と、わめいた。
「なに床下に?」
「何やらものをひきずって出たような土のあとがござります。お待ち下さいまし。ただいま|提灯《ちょうちん》をもって参ります」
と、源兵衛はかけ去った。左京はいちど縁側に出て、その下をのぞきこんでいたが、すぐにもどってきて、
「床下から刺したというのなら、わからぬ傷ではない。しかし、床下から刺した刀がここにあるとは、どういうわけじゃ。小四郎、そちの申し分には不審がある。いつわりを申すに|於《おい》ては、|甥《おい》とは申せ、わしにも存分があるぞ」
小四郎は、がばと両手をついて、
「伯父上」
と、いった。しばらくそのまま、だまっていたが、ふりかえって、「お松、しばらくあっちへいっておれ。源兵衛にもくるなと申せ」と命じて去らせてから、例の十字架のことと、ときどききこえたエホバの呪い|云《うん》|々《ぬん》といううなり声、またお葉が襲われたという黒衣の魔人のことをはじめてうちあけた。
あの座敷牢の天井裏の密室の一件をのぞいては、お葉の知るかぎり、それは真実であった。――しかし、石寺左京のかたい|頬《ほお》は、ピクリともうごかなかった。
「何をいうかと思えば、ばかなことを」
と、老人は吐きすてるようにいったのである。
「おまえは、まえから少し変った奴じゃと思っていたが、左様な他愛もない怪異を申したてて、それで他の人間も信じると思っておるのか」
「伯父上――けれど、それはまことでございます」
「その怪物が、何を目的でかようなむざんなまねをしたというのか」
「――おそらく――そやつは狂女お市を|囮《おとり》にして、兄上を邪宗門にひきいれようとしたのではありませぬか。ところが兄も女も、ただ肉欲に狂うのみで、そやつの思うままにならぬのに|業《ごう》をにやして。ついに今夜――」
「左様な化物がどこに住んでおると申すのだ」
「山屋敷に。――」
「たわけ、いま山屋敷に、|伴《ば》|天《て》|連《れん》はひとりもおらぬ。最後の伴天連ジョバンニ・シドウチとか申す奴が死んでからも、十何年かを経ておる。ほかに|切《きり》|支《し》|丹《たん》が五人や十人あそこの牢につながれておろうと、それを山屋敷の鉄の壁が、ゆめおろそかに出すわけはない。――」
小四郎は沈黙した。
「小四郎」
「はい」
「子供だましのことをいってのがれようとすな。ありていに申せ」
「ありていに申しあげたつもりでございます」
「ふむ。この家が欲しかったとは申さぬのか?」
小四郎はじいっと伯父の顔をみていたが、ふいにさびしい笑いが片頬をかすめると、いきなりふりむいて、そばのお葉をぴったりと抱きしめた。それどころか、この鉄でできたようなこわい伯父御のまえで、熱烈にお葉の口まで吸ったのである。
「な、なにをいたす」
と、さすがの左京が|狼《ろう》|狽《ばい》した。
「伯父上、これは拙者の女房にするつもりの女です」
「なんじゃと?」
「いま、この大事をうちあけるのに、源兵衛お松を遠ざけ、この娘のみをここにのこしたことからも、それを信じて下されい」
「…………」
「そんな野心をもつ拙者なら、どうしてかような下女とちぎりましょうや。わたしはむしろ、ちかいうちにこの屋敷を出て、この娘と|市《し》|井《せい》のうちへかくれようと思っていたくらいです」
「…………」
「その決心がつきかねたのは、ただ兄上のお身の上が気づかわれて、去るにも去れぬ心地であったればこそ。――もしわたしがこの家をのっとりたければ、兄上が切支丹屋敷の狂女を屋敷にひきこみ、十字架などをもてあそんでいたことをお公儀に訴えれば、それで足りたのではございませんか? そのことを秘しかくそうとして、わたしがどれだけ悩んだか。……」
無念さのあまり、声がわなないた。
「さ、左様なことが公儀に知れれば、おまえがあとをつぐどころではない。この石寺家は断絶じゃ……」
と、うめいて、さすがの左京の顔色が動揺した。まさに、小四郎のいうとおりだったからである。
お葉は、泣いていた。火のようなものが全身をあれ狂い、その感動と同時に、われをわすれた声がほとばしり出ていた。
「大旦那さま。……御主人をあやめたのは、このお葉でございます」
「何をいう」
と、小四郎の方がうろたえて、その口をおさえようとしたが、彼女は泣きさけんだ。
「わたしは……まえから、御主人さまのお手がついておりました。そのことは、源兵衛さんやお松さんにたしかめて下さればうなずくにきまっています。それなのに御主人さまは、このようなきちがい女をもひき入れて、わたしのしのんできた眼のまえで、|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な姿をおみせあそばしました。わたしは、つい、かっとして……かような大変なことをしでかしてしまいました。どうぞわたしを、御主人をあやめた大罪人として、お上につき出して下さいまし!」
「お葉! でたらめをいってはいけない」
と、小四郎がお葉の肩をつかんだが、お葉は涙の眼で微笑したままであった。
「よし」
と、左京はうなずいた。
「事は左様にきまった!」
「伯父上」
「小四郎、もうきかぬ。大三郎がたとえ心中いたしたのであれ、何者かに殺されたのであれ、このまま届け出ては、石寺家のおとりつぶしは必至じゃ。そなた、この家のあとをつげ、大三郎は素行を恥じて自裁したように届けるのじゃ。……ただその山屋敷の女の|屍《し》|骸《がい》だけは、|如何《いかん》ともしがたい。だれか、下手人が必要じゃ。庭に入ってきたところを、この下女が刺し殺したとでも申したてておけ」
「なりませぬ。それは――」
「いいや、きかぬ、きかぬぞ。小四郎、このことが公けになれば、この家のみか、本家の方もぶじにはすまぬのだ。石寺一族のため、もはや、そちはだまっておれ!」
|老《ろう》|獪《かい》とも鉄血の面ともみえる無表情に、あらゆる感情はおろか、ひとりの下女の命のごとき、虫同然に圧殺してみじろぎもしない恐るべき「封建」の|権《ごん》|化《げ》の迫力があった。
あきれたようにそれを見あげていた小四郎が、急にはげしく首をふった。
「伯父上、それではこの女をしばらく下手人としてさし出しましょう。さりながら、拙者がこの家のあとをつぐことだけは、まっぴら御免をこうむります」
「そちがあとをつがいで、だれがつぐか」
「伯父上の御次男なり、御三男なり――」
「なに?」
「拙者は宮仕えには不向きでございます。浪人が望みです」
老人は、しばらく小四郎のかがやく眼をにらみつけていたが、
「勝手にさらせ!」
と、さけんだ。小四郎はお葉をふりむいて、ひくい声で、しかし力づよくいった。
「お葉、しばらく目をつむって、石寺家の|犠《いけ》|牲《にえ》になっていてくれい。わしが決して捨ててはおかぬぞ。この怪事のうしろには、かならず何かのからくりがある。そのからくりは、あの山屋敷にあるとわしは見るのだ。わしは自由な浪人になってそれをさぐり出し、きっとそなたを救い出してやるほどに。……望みを失わいで、わしの助けを待っておれよ。……」
お葉は、石寺家の犠牲だなどといわれたくはなかった。小四郎さまのためだといいたかった。
「小四郎さま、どうぞおあとをおつぎになって。……」
――源兵衛がやってきて、縁の下に入ってみたが、なるほどその床の下に何者かが出入りしたらしいあとはあったが、|曲《くせ》|者《もの》の影などはむろん、ほかに何の遺留品もなかった。石寺左京は、そのことに冷静というより、むしろにがい顔をしていた。この「家」だけしかない本家の老人にとって、|極《ごく》|道《どう》|者《もの》の分家の甥が死んだことは、それがどんな死にざまであろうと、内密に事がおさまるうえは、かえってありがたいことだったのである。
三日のうちに
――女囚お葉の話は終った。
これが、座敷牢の主人と密通し、この|無《ぶ》|頼《らい》な主人が狂女をひきいれて痴態をみせつけるのにかっとなり、その狂女を刺し殺したという罪で、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される女の物語であった。
「そう」
と、姫君お竜はうなずいて、
「けれど、お葉さん、それで死罪とは? あなたは御主人さまを|殺《あや》めたことにはなっていないでしょう? そのきちがい女を殺しただけの罪なのでしょう? その女は、気がちがっていて可哀そうだけれど、でも夜中旗本の屋敷にしのびこんでそんなことをしていたのでは、たとえ殺されてもしかたがないと、お奉行さまはおかんがえにならなかったのかしら?」
「それが――表むきは、旦那さまは御切腹ということになってはおりますけれど、いつかお調べのとき、同心の旦那が、主人を殺したふらち者め――と口ばしりなさったことからみて、内々は旦那さまもわたしが殺したものとお奉行所の方ではみていらっしゃるにちがいないのです。……でも、どう思われようと、わたしはかまいません。石寺家さえ、ぶじにのこってくれるなら。……」
「石寺家は、ぶじにのこったの?」
「ええ。御本家の御三男さまが養子としてお入りになったとかきいております。わたしは、小四郎さまがあとをおつぎになるものとばかりかんがえておりましたけれど。……」
「その小四郎さんは?」
「わたしが奉行所へひかれてから、すぐにおうちを出られて、そのまま行方もしれずにおなりになったとかいいます。ほんとうに欲のないお方ですし、本家の大旦那さまにあんなお疑いをかけられては、そのまま居すわるようなお方じゃありません。……いまごろは、どこか遠いお国で、しずかに星でもながめていらっしゃるでしょう」
「でも、そのひとは、きっとあなたを救いにくるといったのでしょう。まだなんの|音《おと》|沙《さ》|汰《た》もないの?」
「ええ」
――真夜中のおんな牢のなかに、くびもおれるほどうなだれたお葉のひざに、滴々と涙がおちている。
「あのお方だけがわたしに罪のないことを御存じです。その|証《あか》しをたてるには、とどのつまり石寺家の秘密――切支丹とかかわりがあったということを申したてずにはすみますまい。それは、口がさけてもできないことですわ。――お竜さん、わたしはあなただけに、こんなことを打ちあけたのです。打ちあけただけで、せいせいしました。わたしは本望なんです。お竜さん、どうぞこのことは、あなたのお耳だけにとどめておいて下さいね。……」
「切支丹の秘密。――」
と、お竜はつぶやいた。
「邪宗門の魔法。――」
と、もういちどくりかえして、
「わたしには、わからない。座敷牢のなかできこえたエホバ、エホバとやらいうきみわるい声、あなたを気絶させた黒い|蝙《こう》|蝠《もり》みたいな男――なんのことか、わたしがわからないばかりじゃなく、たとえお奉行さまがきかれたところで、あのお奉行さまなら、何をたわけたことを、と笑いすてられるにきまっているわ。……ただ、大三郎さんとお市の殺されたのは、やっぱり床下から刺されたものと思うけれど、……」
「でも、お竜さん、たたみにも床板にも、刀のあとなどなかったのです」
「床板とたたみの合わせ目から突きあげたら?」
「そこにうまく旦那さまとお市さんが重なっているものと、床下からわかるでしょうか?」
「…………」
「お竜さん、あなたが信じてくれないのはかなしいけれど、ほんとうをいうとわたしでさえ何が何だかわからないのです。あれは切支丹の魔法にちがいないわ。あの光景を小四郎さまといっしょに天井裏からのぞいていたときから、この世のものではないものを見おろしているようなきもちでした。あの奇妙な暗いひかり、水の底みたいにのびちぢみしてみえたふたりの姿、そしてふたりが殺されたあと、わたしの耳にきこえた、くるすの敵に、エホバの剣の呪いあれ、というきみのわるい声。それから、天井全体をつきあげてわたしの気を失わせてしまった恐ろしい力。――」
「…………」
「お竜さん、そして、あとでかんがえたら、もっとふしぎなことがあるのです」
「いまきいたことより、もっとふしぎなことが?」
「ええ。――旦那さまとお市の殺されたときの姿は、この牢に入ってからなんども夢にみました。あたまに|灼《や》きついて、夢の中まで吐き気のするような恐ろしい姿です。背なかに刀のさきがつきぬけて、もがいている旦那さま。――その旦那さまのむき出しになった左腕[#「左腕」に傍点]に、あの|刺《いれ》|青《ずみ》があったのです。……」
「刺青のことは、きいたわ」
「いいえ、お竜さん、わたしのいったのは――旦那さまの右腕[#「右腕」に傍点]に刺青があるといったのでした。……」
「えっ」
お竜は、思わずたかいさけび声をたてた。いままでのうすきみわるい話をきいたときより、もっとぞっとさせるものが、たしかに背すじをはしった。
「お葉さん、それほんとなの?」
「こんな|嘘《うそ》ついて何になります。あとでそのことに気がついて、わたしはこの牢のなかでも、まだ|切《きり》|支《し》|丹《たん》|伴《ば》|天《て》|連《れん》の魔法にかけられているのではないかと思ったくらいです」
「大三郎の腕には、両方とも刺青があったんじゃないの?」
「いいえ、右腕だけでした。げんに屍骸の右腕だけに、あの刺青がありました。……」
お竜は沈黙した。まったくこれは判断をこえる奇怪事だ。
闇のなかで、苦しげなうなり声がながれてきた。お竜はその方へ顔をむけた。声は牢名主のお紺だ。
「お竜……お竜」
「お名主さん、またいたみますか?」
「うんにゃ、こんないたみなどはなんでもない。それより、お竜、三日のうちに孫の敵を討ってくれるといったなあ」
と、うなりながらいった。
「お名主さん、まだそんなことをかんがえてるの?」
「おや、おめえはかんがえていねえのか。あれは口から出まかせか」
「いいえ、決して!」
「それよ。おれはおめえを信じている。けれど、この小伝馬町の牢の中にいるおめえが、どうして何者ともしれねえ孫の敵を討ってくれるのか、おれはさっきからいくらかんがえてもわからねえ。――どうして討つ?」
「…………」
ひとりの老婆は|瀕《ひん》|死《し》の痛みにうめきつつ彼女の背を|鞭《むち》うち、ひとりの娘はみずから無実の罪に身をなげこんで、彼女にくつわをはめようとする。――お竜は、闇のおんな牢にじっと立ちすくんだ。
夜明け前。――女囚たちはまたあの美しい口笛をきいた。牢格子の外に、例の八丁堀の同心がやってきた。
「武州無宿お竜! 早々に|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》に|罷《まか》り出ませい!」
お竜はたちあがった。彼女はなお思案にくれるように、うなだれていた。
牢屋敷の穿鑿所は、西大牢のまむかいに白壁の背をみせて、反対側に入口がある。白壁とはいうものの、灰色にさびて、しみついたまだら模様のぶきみさは、風雨のためというより、内部から血がにじみ出してきたようにみえる。
巨摩主水介がお竜をつれて、そのまえの|埋門《うずみもん》をくぐって入ると、なかはせまい砂利の庭となっていて、穿鑿所の土戸はそのむこうにみえた。土蔵なのである。この拷問蔵と|白《しら》|州《す》の庭をめぐって、忍び返しをうちつけた黒い塀がとりかこんでいた。
土蔵の土戸をあけて、ふたりは中に入った。たかい明り窓から|幽《かす》かな朝のひかりがふりそそいで、天井からつりさがった|縄《なわ》や、壁にかけられた鞭や、石抱きの石や、|尖《とが》り木馬などが、おぼろおぼろと浮かびあがってみえる。そのいずれもが黒血にひかり、閉めきった土の壁のなかに、むっと血なまぐさい|匂《にお》いが満ちていた。
お竜は、重ねられた石のうえに腰をおろした。
「六人目の女の話をきいたわ」
と、主水介を見た。この恐ろしい場所にひきたてられたようでない――さっき、牢を出たときとは、別人のような明るい|瞳《ひとみ》であった。この陰惨な背景に、それはふたつの日光のようにみえた。
むしろ|悄然《しょうぜん》として、|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうな顔は、同心の巨摩主水介の方であった。
「切支丹坂の石寺家の下女でござるか」
といって、この女囚のまえにひざをついた。
「そう、お葉という女。――おまえさん、あのときに死んだ石寺大三郎の腕に、刺青があったのをお知りかえ?」
「承っております。たしか右腕に、無作法御免、とあったとか。侍にはめずらしいこととして記憶しております」
「やはり右腕か」
「何か、また妙なことを気づかれましたか」
「そんな気がするが――いいえ、あの娘をいくらおまえさんが責めても、お役人にはほんとうのことは言いやしない。それで、あの事件だけれど、わたしはもうひとりべつの人間の口からききたいことがあるの。おまえさん、あの石寺大三郎の弟の小四郎という男のいどころをお知りでないか」
「はて、左様な男がおりましたか」
「そんなまのぬけたお調べで、女ひとりを死罪にしようってんだから、つかまった方はたすからないね。――その小四郎とやらにいそいで|逢《あ》いたいのだけれど、いまきいたら、その男はあの事件後石寺家を出て行方もわからないという。――」
「いや、たってその男が必要とあらば、江戸じゅう|虱《しらみ》つぶしに探って――」
「行方もしらぬ男をさがすのに、まえに乾坤堂とか弥五郎とかをつかまえるのには、あいつらを誘い出すうまい|罠《わな》があった。しかし、こんどはそんな罠はないし、罠をかけても、その男はかからないかもしれない。それにもうひとつ、べつにわたしは大変いそがしいことがあるの。三日のうちに、わたしを殺した男[#「わたしを殺した男」に傍点]を見つけ出さなけア、お名主さんに約束がはたせない。ぐずぐずしてはいられないのさ」
といって、お竜はここで奇妙な笑顔で主水介をのぞきこんだ。
「ところで、おまえさん、今度の事件をふくめて、いままでの六つの事件に、どれも似たおかしなことが、一つだけあるのに気がつかなかったかえ?」
「なに」
主水介は、|愕《がく》|然《ぜん》としていた。
「いままでの六つの事件に共通なこと――」
と、お竜の顔を見つめたまま、思い出すように、
「お玉の事件――お路の事件――お関の事件――お半の事件――おせんの事件――お葉の事件――下手人がみんな女だということ、いや、女たちが下手人にしたてられたということでござるか」
「ばかなことをおいいでない。おんな牢を|要《かなめ》にした事件だもの、下手人と女に関係があるのは、はじめからわかってらあ」
と、笑われても、主水介は一語もない。しかしお竜は急に笑顔を消して、|羞恥《しゅうち》のくれないを頬にのぼした。
「いいえ、ひとのことは笑えない。このわたしだって、たったいま、この穿鑿所へくる途中にそのことに気がついて、あっと思ったのだから」
「それは――?」
「それは、女たちでも、女たちをあやつった男たちでもない。殺された男たちのことだけれど、殺された蓮蔵、十平次、玄妙法印、秀之助、対島屋門兵衛、石寺大三郎の六人に、みんな刺青があったということさ」
「お。……」
と、主水介も瞳をつかれたような表情になったが、すぐにくびをふって、
「いや、それは拙者も存じておる。さりながら、刺青などをするのは世の無頼な男どものありふれた習い、べつにめずらしいこととも思えぬが――」
「その刺青が、雲でも花でも|水《すい》|滸《こ》|伝《でん》でもなく、そろいもそろって文字ばかりであったのは、めずらしいこととは思わないかねえ?」
「文字。――」
「そう、蓮蔵の左腕には『蓮』の字の刺青」
「…………」
「十平次の背中には、『色指南』の刺青」
「…………」
「玄妙法印のひたいには、『玄妙』という字の刺青」
「…………」
「秀之助の左腕には、『法』の字の刺青」
「…………」
「対島屋門兵衛の胸には、『読経無用』の刺青」
「…………」
「石寺大三郎の右腕には、『無作法御免』の刺青」
「蓮、色指南、玄妙、法、読経無用、無作法御免」
「そのなかで、きいたようなおぼえのある文字をさがし出してごらん」
お竜は白い指を折った。
「蓮――南――妙――法――経――無」
「南無妙法蓮華経!」
と、巨摩主水介はさけんでたちあがっていた。
お竜はしずかにかぶりをふって、
「いいえ、華、がない」
「…………」
「華の文字を彫った男が、もうひとりこの世にいる。いや、それもまた、わたしたちの知らないところで殺されたか、それとも――」
と、主水介を見あげて、
「蓑屋長兵衛、祖父江主膳、乾坤堂、弥五郎、南条外記たちは、なぜあんな人殺しをしたか、白状したかえ?」
「いや、それぞれ、|嫉《しっ》|妬《と》やら、恨みやら、欲やら、もっともらしいことを申したて、それに不審はあるが、きゃつら見かけによらぬ強情者ばかりで、いかに責めても白状はいたしませぬ。それに――いままでとり調べたところによっても、またみたところでも、きゃつらのあいだに何らかのつながりがある風には感じられませぬが。――」
「そう」
と、お竜はうなずいて、
「もしかしたら、あいつらは、おたがいに何も知らないのかもしれない。――あいつらが女をあやつったように、もうひとり、あいつらをあやつった影があるのかもしれない。それは、あいつらの口を封じるほどの恐ろしい奴か、それともあいつらに途方もない望みをもたせるほどの|大《だい》それた奴にちがいない。……」
「何と? もうひとり、べつにきゃつらをうごかした影があると?」
「|若《も》しかしたら――というのさ。ただ、わたしにそんな気を起させたのは、あの姫君お竜が殺されたからなの。あの女は、姫君お竜があのいくつかの事件の探索に一肌ぬいでいるということを知って、あわてただれかに殺されたような気がするの。そのかんがえから、まだべつの影の男がほかにいるのじゃあないか、という|智《ち》|慧《え》が出て、それからひょいと、殺された男たちに刺青が共通している――と気がついたのさ」
「別の男、それは何者でござろう?」
「それはわたしにもわからない。ただね、もうひとつ、殺された男たちに共通した|或《あ》ることがあるわ。それはねえ、興行師の蓮蔵は、もとは紀州からやってきた男だった。玄妙法印の一行は、熊野の山伏のなれの果て、秀之助も、大坂をほっつきあるいていたことがあったようだし、対島屋門兵衛は大坂の材木問屋、そして石寺大三郎もまた、まえに大坂の城の番士をしていたことがある。十平次だけはどこからきた男かきかなかったけれど、渡り|中間《ちゅうげん》という商売から推して、そっちをながれあるかなかったとはいわれない。――まず、みんな上方――紀州――大坂あたりに関係があった連中ということが奇妙だとは思わないかえ?」
主水介は、思わずうめいた。ごくりとのどを鳴らして、
「それで?」
「だから、ひょっとしたら、たった一語で|牡《か》|蠣《き》みたいに強情なあいつらを――あいつらの一人でも――とびあがらせて泥を吐かせるようなききめのある言葉があるかもしれない。人の名前でねえ」
「人の名」
「ほら、紀州、ときいて、おまえさん、胸にドキリとくるものはないかえ。ないはずはない。紀州、それこそ、お――お奉行さまが、いまあせりにあせり、血まなこになって、人をやって調べさせているところ――一方、そのお奉行さまをあざわらうように、その上方から江戸へのりこんで、いま品川|常楽院《じょうらくいん》で金ピカ御紋をひからせて、江戸ッ子のきもをでんぐりかえらせている一行がある。その一行と、これらの事件と、なにかの関係はなかろうか?」
巨摩主水介は両こぶしをにぎりしめ、顔は|蒼《そう》|白《はく》に変じていた。
「あたったら、おなぐさみ」
お竜は笑った。
「品川に、眼をつけてみな。男の手柄のたてどころだ。うまくいったら――お奉行さまがお姫さまをおまえのお嫁にくれるかもしれないよ。――」
すでに、猛然と四、五歩はしりかけていた主水介はふりかえった。お竜はうすあかい顔をして、しかし生き生きとした眼をかがやかせて彼を見送っていた。
「あなたは、これからどうなさる?」
と、主水介はいった。お竜はわれにかえったように、
「そうだ、その常楽院から出る人、|駕《か》|籠《ご》にいちいち眼をつけて、そのゆき場所をつきとめておくれ。そのすじをたどると、そこにわたしの探し人がいるかもしれない」
「探し人とは」
「石寺小四郎さ。その男をしらべて、六番めの女、お葉を救わなくっちゃあ、あたしの眼がひらかない」
「あなたの眼」
「竜の瞳がひらかない――この捕物の絵巻がしあがらないってことさ」
雑木林に夕月がかかり、青い麦畑に|靄《もや》がうすく|這《は》っていた。一望の野と林に、点々とみえるものは、寺か、農家の|藁《わら》|葺《ぶき》屋根だけの|巣《す》|鴨《がも》村である。
その一軒の――おそらく豪農であろう――白い壁の離れなどもすぐちかくにみえる裏木戸をあけて、ふたつの影があらわれた。ひとり、黒い|頭《ず》|巾《きん》で面部をつつんだ方が、林のかげにつないであった馬の方へあるきながら、一帯を見まわして、
「いや、江戸もはずれ――ここまでひそめば、探し出すのに苦労をかけたわけじゃ」
と、苦笑の声をもらした。もう一方はうやうやしく一礼して、
「それならば|挨《あい》|拶《さつ》にまかり出た方がようござったな。何せ、事が成るまで姿を見せるなとの仰せでございましたので、このようなところで、一日千秋の思いで待っておりました」
「うむ、しかしもう安心じゃ。いよいよ明朝晴れの登城というだんどりと相成った。――いま話したように、いささか|胆《きも》をひやしたような事もあったが、お竜とやらいう奉行所の犬も|斬《き》ってすてたゆえ、手がかりがぷっつりきれて、|越《えち》|前《ぜん》も断念したとみえる。いままで当方になんの沙汰もないところをみると、もはや事は成ったも同然じゃ。そなたの大名暮しも目前に迫ったと申してもよいな。はははは」
と、笑った。これは、本所の回向院の|蓮《はす》|池《いけ》で、姫君お竜を斬った|謎《なぞ》の深編笠のかげからきこえたのとおなじ声であった。
馬の|鞍《くら》に手をかけると、もういちどふりかえって、
「とはいえ、用心にしくはない。わしがよいというまでかまえてここからあらわれてはならぬぞ。よいか」
「承知仕ってござる」
と、相手がふたたびお辞儀をするあいだに、頭巾の武士はひらりと馬にとびのった。
「おお、明夜の月は千代田城でみるか。――」
快笑すると、ピシリと|鞭《むち》をくれ、その騎馬姿はしだいに早く薄月夜の野路を江戸の方へかけ去った。
それから数時間ののちである。離れ屋の戸をあわただしくたたくものがあった。
「小四郎さま、小四郎さま」
この家の主人、老農夫の声だ。呼びたてられて戸をあけてのぞいた顔――石寺小四郎の顔は|手燭《てしょく》とともに不安にゆらめいて、
「なんじゃ」
「山屋敷より、お迎えの方々が参られました」
「なにっ、山屋敷?」
そう話しているあいだに、もう庭にぞろぞろと十人ちかい人影があらわれて、空駕籠のまわりをとりかこんでいるのは、ぶっさき羽織に黒うるしの|陣《じん》|笠《がさ》をつけた武士たちである。
「やあ、石寺小四郎どの、おひさしいな」
と、呼びかけられて、ぎょっと顔をむけると、切支丹坂に住んでいたころ、よく西洋の話などかわした若い役人である。へらへらした、なつかしそうな笑顔で、
「いや、貴公がこんなところに住んでおられると知るまでに、えらい骨を折ったぞ」
「――どうして、知られた?」
「どうして知ったかと――いや、それどころでない。すぐこのまま小日向にきてもらいたい。貴公の智慧をかりなくては、どうにもとけぬふしぎなことが|出来《しゅったい》した」
「山屋敷に、何か?」
「数日まえ――ひとり切支丹の女をとらえたのじゃが、それが何とも判断をこえる奇怪な魔法を行うのじゃよ」
|小《こ》|筐《ばこ》の中の修道尼
ついこの夕刻、「――わしがよいというまで、ここからあらわれてはならぬぞ。よいか――」と、念をおされたばかりなのである。
その潜伏場所から外に出る。――しかし、石寺小四郎は、そのことにそれほどの不安はおぼえなかった。もし乱世ならばたしかに一世に風雲を呼ぶ大軍師たるべき人物だと、彼が圧倒的に心服している「あの人」は、みずからの手で奉行所からの探索の糸をぷっつり切ったと断言したではないか。そう思いかえすより何より――最初、戸をあわただしくたたかれたときの衝撃が、いいようもなく大きかっただけに、それが奉行所からではなく、山屋敷からの迎えだと知ったときの|安《あん》|堵《ど》感は、|膝《ひざ》もがくがくするほどであった。
山屋敷ならば、彼もなんどか見学にいったことがある。そこに勤務する役人のうち、若い数人とは意気投合といってさしつかえないほどの仲だ。それは|或《あ》る種の「学問」を通じての親しさであった。というのは、山屋敷のなかには、伴天連から没収した十字架や|数《じゅ》|珠《ず》や聖母子像などの聖具にまじって、さまざまの南蛮渡りの器械や書物や薬品などを入れた官庫があって、そこに出入りする役人のなかには、それらの神秘な知識に、いつしか酔ったものも少なくはなかった。実際は、酔ったのではなく、|醒《さ》めたのだ。医学、算法、暦法、天文学、博物学――など、はるかに進んだ西洋の知識が、それにちかづいたものを、魅惑せずにいるわけはない。むろん、世間に知られてはならぬことだ。しかし山屋敷の内部では、それほど人の耳をはばかるほどのことでもなかった。切支丹の禁制は不変だが、西洋の学問の扉をひらくことに|於《おい》て、実用的な|吉《よし》|宗《むね》はその栄誉をになう最初の将軍だったからだ。|蘭《らん》|学《がく》の|曙《あけぼの》がひそやかながら暗い江戸の空におとずれようとしている時代なのであった。
石寺小四郎は、そういう器械や書物をみる機会はなかったので、それを見た役人をとおしての知識であったが、しかしそれを解くあたまにかけては、役人たちにひそかに|畏《い》|敬《けい》させるに足る若者であった。げんに、いま彼を呼びにきた役人などもそのひとりであり、それに「山屋敷に奇怪な魔法をつかう|切《きり》|支《し》|丹《たん》の女があらわれた。是非とも貴公の智慧をかりたい」といわれても、そんなことはいままでに幾十回かあったので、小四郎が疑心をいだくどころか、ふと得意な笑顔になったのも当然だ。
だいいち、うむも否やもいわせない急ぎようなのである。
「では、ちょっと用意をする」
と、彼がいちど離れにひきかえして衣服をあらため、念のため或るものをふところに入れて出るや否や、そのまま迎えの駕籠に投げこまれた。
「おいっ」
夜風をきる駕籠のなかから、波のようにゆられつつ、
「切支丹の尼僧と申されたな? 信者といわないで、尼僧とはどういう意味だ? 日本の女か?」
返事はきこえたようでもあり、きこえなかったようでもある。途中に馬が待たせてあったのに侍たちがとびのったので、飛ぶ駕籠のまわりは、ただ人馬のとどろな音ばかりだ。
「それにしても、わしが巣鴨村にいると、なぜわかったのかっ」
依然として応答はなく、小四郎はとうとう問いをあきらめた。
――ここを切支丹の|牢《ろう》屋敷ときめてから、すでに八十余年の星霜がたつ。
その四千余坪の屋敷をめぐる外壁が、一丈二尺の石垣、さらに一丈二尺の土塀と忍び返しから成っていることはまえにかいたが、その門から入ってゆくと、屋敷のなかに、またおなじようなもの恐ろしげな土塀にかこまれた一|劃《かく》があって、牢獄と官庫とをはめこんでいた。
役人が何かさけぶと、番人があらわれて、|錆《さ》びついた内門の錠をあける。
「石寺、まず入れ」
と、役人がいった。こんな陰惨なところに勤めているくせに、いたって平凡な、むしろ陽気な男なのに、うしろに従うふたりの番人のもつ手燭の炎にゆらめくその顔は、別人のように|妖《よう》|怪《かい》じみてみえた。
小四郎の背を、すうと冷たいものがながれた。予感ではない――彼にしても、この内門の中には、はじめて入るのである。
「このお蔵の向うが、牢獄になる」
と、役人が、すぐまえにならんだふたつの土蔵を見あげていった。
「そこに、その切支丹の尼僧とやらがおるのでござるか」
「いや、事情があって、このお蔵の中に入れてある」
「事情とは?」
「牢のなかで祈りをささげる声が、ほかの切支丹囚をとらえて、ころばせぬからだ」
「ほう。……その女は何者で、どこでとらえられたのです?」
「小伝馬町――」
「え?」
「いや、そのことはあとで申すとして、とにかく一刻も早くその女のみせる怪異の謎をといてもらいたい。実は、その尼僧の所持していた銀の|筐《はこ》じゃが……それをみてもらいたい。切支丹の魔法などいうものはあり得ない。一見そう思われるものでも、それにはことごとく相応の理があり、からくりがある、と、まえによく貴公と話していたとおりの説を宗門改役に公言しただけに、このたびのことをきかれて、わしははたと困惑した。そのときに、ふと貴公のことを思い出したのじゃ。貴公なら、きっとそれを解いてくれる。――」
役人はそういいながら、また番人に命じて、右の土蔵をあけさせた。血と|黴《かび》と|埃《ほこり》のまじりあったような匂いが、むっと鼻孔にからまる。番人の手燭が、そのなかに鈍くひかるさまざまの邪宗門の祭具をうかびあがらせた。しかし小四郎には、あれが切支丹の十字架、あれが僧衣、あれが洗礼の鉢、あれが数珠――と、いちいち見わけられる。
その暗い天井の一角に、ぽっと灯のさした四角な穴があった。だれか、土蔵の二階に灯をともしているものがあるのだ。
「だれだ?」
「例の尼僧じゃ」
と、役人はささやいて、
「番人、|梯《はし》|子《ご》をかけろ」
と、命じた。番人のひとりが、下から梯子をあげて二階の穴とつないだ。
役人はさきにその梯子に這いのぼって、あたまが穴のふちに達すると、そこで足をとめて、
「石寺、あれだよ」
つづいてのぼった小四郎も、彼と重なるようにして、その肩ごしにあたまを穴からのぞかせた。
塗り|籠《ご》めの二階のむこうに、金色の壁が、一本の燭台にゆらめいている。それは異国風の祭壇であった。祭壇のまんなかに、|磔《はりつけ》にかかったはだかの男の像が安置されていた。
そのまえにひれ伏していた影が、梯子のきしむ音に、しずかに身を起して、ふりむいた。若い女だ。炎を半面にうけて、その顔は蒼白く、かなしげで、そしてぞっとするほど|気《け》|高《だか》い美しさが、小四郎の眼を大きく見ひらかせた。
「――あれが、切支丹の尼僧か?」
と、彼はささやいた。――伴天連の風俗なら、彼も画像で見せられたことがある。しかし、切支丹の尼僧の姿は、はじめて見た。あきらかに日本の女ではあったが、それは日本の尼とはまったくちがっていた。頬とあごの下を純白の布がふちどって、頭上から黒くながい布をたらし、彼女は指を胸のまえにくんでいた。
いちどその尼僧はこちらをみたが、すぐにまた祭壇にひれ伏して、ひくいきれいな音楽のようにつぶやきはじめた。
「あわれみのおん母……この涙の谷になげき泣きて、おん身にねがいたてまつる……あわれみのおん眼を、われらの身にめぐらせたまえ。……」
――役人は、からだをずらせた。そしてつぶやいた。
「実はな、石寺、わしは魔法の|筐《はこ》より、あの声のほうが恐ろしい。切支丹牢の囚人ばかりではない。――あれをきいておると……ふっと、わしまでが切支丹になりとうなる。……」
小四郎も、おなじ強烈な誘惑にとらえられた。しかし、彼の方が、さきに冷静にかえった。
「それで、その魔法の筐とは?」
「とりあげて、もうひとつの官庫においてある」
ふたりはそろそろと梯子をおりた。下に立つと、番人が梯子をはずした。ふたりは外に出た。うしろに土戸がしめられて、錠がおろされたが、小四郎の眼底には、いまの尼僧の姿が幻の花のように消えなかった。
「こちらだ」
役人と小四郎は、左の土蔵に入っていった。ここもまたさっきの官庫と同様、錆びついた祭具の博物館であった。しかし、こんどは天井の一角に灯影はなく、全面|闇《あん》|黒《こく》だ。
「それは、ここにある」
と、役人はふるえ声でいって、そのまま隅にあゆみより、床上に置かれた黒い布をはらった。すると、そこから銭ほどの大きさのひかりがぼうとさした。
「や。……」
それは銀でつくられた小さな筐で、そのふたに穴があいているのだ。ひかりはその中からもれてくるのであった。
「石寺、のぞいてみろ。……」
小四郎は、そのひかりの穴に眼をあてて、「あっ」とさけんだ。
その小さな銀の筐の中に、別天地があった! 一本の燭台がともり、大きな四角の土の壁をてらし、壁ぎわに鈍く|黄《き》|金《ん》色の祭壇がひかり、そのまえに黒衣の修道尼がひれ伏していた!
「こ、これは……」
うめいて、小四郎は狂気のごとくその筐をとりあげようとしたが、筐は|釘《くぎ》づけにされたように床からはなれなかった。
彼はまた眼を穴にあてた。尼僧が顔をあげて、こちらをみて微笑した。まるで、彼がそこからのぞいていることを知ったようだが、まぎれもなく先刻の尼僧だ。
小四郎はふとそれを、土蔵の二階に穴でもあって、そこからのぞいているような錯覚におちいって、その尼僧が右の土蔵の二階にいたことを思い出し、背に水のはしるのを感じた。――じぶんたちは、左の土蔵の階下にいるのである!
「こ……この下に、また何かあるのでござるか?」
と、彼は思わずさけんだ。
「たわけたことを、下は土だ」
「しかし、下にもあの尼僧が……」
「それだ、奇怪なのは――きゃつはとなりのお蔵の二階におる。下におりる梯子もはずしたし、土戸もしめて錠をおろした。なのに――石寺、拙者が魔法の筐と申したのは、とんと|腑《ふ》におちたか?」
と、おののきつつ、小四郎の手をつかんで、
「おぬしにも、この小筐の|妖《よう》|異《い》がとけないか?」
小四郎は、一歩さがって、その筐をしばらくにらんでいたが、やがてはっとしたように、
「さては!」
と、さけんだ。
「石寺、わかったか!」
「からくりだ! わしには、このからくりの謎がとけた!」
「お、さすがは石寺、呼んできた|甲《か》|斐《い》があった。石寺、筐のからくりとはなんだ?」
「しかし――しかし――」
と、彼はなおうめいて、
「こんなからくりが、あの尼僧ひとりに出来ようか? いいや、できぬ。だれか、この山屋敷の役人か番人のうちに、きっと切支丹がおる。そやつが手伝わねば、あの女ひとりにその細工はかなわぬはず。――」
「なに、山屋敷に切支丹の役人?」
「おお、まず、来られい。拙者がこの小細工とあの尼僧の|面《めん》|皮《ぴ》をはぎとってくれる!」
と、いうや否や、彼は役人の手をひいて土蔵からとび出した。
その土蔵からとび出すと、小四郎はとなりの土蔵にはせよった。
「案の定だ」
と、彼はその外壁の角にそって上下にはしる長いふとい竹をなでて、
「灯をたのむ。――」
と、地にかがんだ。役人は眼をまるくして、
「石寺、どうしたというのだ。それは|樋《とい》ではないか」
「左様、樋のようにみえます。しかし、樋ならば、下に水を吐く切口があるはず、それが、御覧なされい。地中にめりこんでおる」
「えっ……なるほど、これァ気がつかなんだ! これはいったいどういう――」
「待たれい。御番人、もういちど、この土蔵の戸をあけていただきたい」
と、小四郎の上ずった声に、番人はあわてて土戸の錠をはずす。小四郎は中にとびこむと、じぶんの手で梯子をかけて、二階にかけのぼった。
祭壇のまえに、尼僧は依然としてひざまずいている。|跫《あし》|音《おと》にふりむいて、立ちあがった。
「わかったぞ! 邪宗門の女!」
と、小四郎はたたきつけるように、
「うぬの小細工は即座に解けた! いかにも宗門の法力らしく、子供だましのからくりで諸役人を|畏《い》|服《ふく》させようとしたとみえるが、そうは問屋がおろさぬ」
小四郎は、二階の天井をみた。|梁《はり》の|翳《かげ》がはしっていて、よくみえないが、そこに何やら|微《かす》かにひかっているものがあるようだった。
「鏡が、あそこにある」
と、彼は指さした。
「おそらく、屋根と壁のあいだを樋がつらぬいておろう。樋の上下にも、また鏡がとりつけてあろう。樋は土蔵の外をはしり、地中に入って、こんどはとなりの土蔵の床下にもぐりこみ、上に折れて銀の小筐のなかに入っておる。そのあいだ、いたるところに小さな鏡がとりつけられて、次から次へとうつしてゆくのだ。この土蔵の二階の光景をな。――それはだんだん遠くなり、小さくなる。それを大きくするのが、最後の銀の小筐の穴にはめこんだ遠眼鏡のぎやまん[#「ぎやまん」に傍点]だ」
ひといきに解いてのけた石寺小四郎のまえに、尼僧は凝然として、美しい彫刻のようにうごかない。
「これだけの仕事に加えて、その途中、ところどころに|蝋《ろう》|燭《そく》をともして、鏡を明るくせねば、あそこまでとどかない。その蝋燭はうつらぬように、鏡の角度を工夫せねばならぬ。――小細工とはいったが、これァなかなかの苦労だ。それだけのことが、うぬひとりに出来るわけはない。ほかに手伝った役人か番人かがあろう、神妙に申せ、その名を!」
「ああ」
と、尼僧はかすかに嘆声をもらした。
「神は天にいまし|給《たも》う。これで無実の罪に泣く六人めの女囚のいのちは救われた。――」
「なにっ」
「あなたは、|曾《かつ》て|獄《ひとや》にひかれてゆく哀れな女に申された。――わしは決して捨ててはおかぬぞ。この怪事のうしろには、かならず何かのからくりがある。そのからくりは、あの山屋敷にあるとわしは見るのだ。わしは自由な浪人となってそれをさぐり出し、きっとそなたを救い出してやるほどに、望みを失わずに、わしの助けを待っておれ――と申された。そのお約束のとおり、あなたはこの山屋敷にきて、いまみごとに鏡と遠眼鏡のからくりをあばかれました」
こんどは石寺小四郎が、電撃されたようにうごかなくなった。
「即座に解けるも道理――これはあなたのかんがえたからくりとおなじですもの」
「うぬは――うぬは――」
と、小四郎はあえいだ。
「おれをなぜおれと知っているのか?」
「|切《きり》|支《し》|丹《たん》|伴《ば》|天《て》|連《れん》の魔法により」
と、尼僧は笑った。|清《せい》|楚《そ》な頭巾のなかの顔が、はっと息をのむほどあでやかな花になった。
「あなたは石寺家の座敷牢の上に、箱のような秘密のかくれ場所をつくって、わざとお葉さんをそのなかに入れておやりになりました。それから二度めには、こんどは座敷牢の床下にその箱をはこびおろして、そのなかにお葉さんをはこびこんでおやりになりました。けれど、そこに入れられるときも、出されるときも気絶させられていたお葉さんは、やっぱりそこを天井裏だと思いこんだ。――床下にはらばって、穴から下をのぞきこんだら、まるで天井裏から見おろしているようにみえたのが、つまりいまの鏡とぎやまん[#「ぎやまん」に傍点]のからくり」
「…………」
「そこまでいえば、あとはもうその鏡にかけてみるようなもの――兄上さまの座敷牢に十字架があったとか、それをお市とふたりで礼拝するとか、エホバの声がきこえるとか、みんな|嘘《うそ》。お葉さんを気絶させた|蝙《こう》|蝠《もり》のような男は、つまりあなたとおなじ人間で、兄上さまの殺されたのをみたあとで、お葉さんを、ふとんにしみこませた|睡《ねむ》り薬でまた気絶させたとき、エホバ、エホバ――何とかと、妙な声がきこえたというのも、それはつまりあなたののど[#「のど」に傍点]から出るものとおなじ声だったのです。お葉さんが、天井裏がうごいたとかんちがいしたのは、ふとんの下に戸板でもあり、戸板の下に丸太でもあり、その戸板のはしをあなたがふんだのでしょう」
「…………」
「鏡で兄上さまとお市の位置を上から見ながら、あらかじめ床板とたたみのすきにさしこんでおいた刀を下からつきあげる。よしやその場では殺せなくとも、あとで座敷にかけこんでからとどめを刺すこともできたでしょう。すべてが終ってから、床下のからくりを始末し、お葉を二階にはこんでおいて、さて|中間《ちゅうげん》を呼びにはしっていった。――」
「…………」
「わたしが思うのに、お市は単なる色きちがい、兄上さまは、そんな女でもやってくればよろこんで夢中になるほどの、これまた半狂人にすぎなかったのです。そんな人間が殺されるのはかえって世のためになるかもしれないけれど、にくいのは、その殺人の下手人に、無実の娘をしたてあげたこと」
「…………」
「あなたにとって、お葉は、鏡とぎやまん[#「ぎやまん」に傍点]のからくりにだまされて、あなたがその殺人の下手人ではないと信じてくれる証人にだけなってくれれば、よかったはずです。いいえ、あなたは最初はそのつもりだったのかもしれない。しかし、もっとじぶんが安心できるように、あの純真な娘のからだと心にも細工をして、よろこんで石寺家とあなたのための犠牲に立つような女になさいましたね」
「…………」
「しかもなおわるいことに、あとできっと助けにゆくなど、口から出まかせのことをいって、あの娘にかなしい望みを抱かせて、本人は巣鴨の奥でのほほんと、お葉の死罪を待っていらっしゃった。その|奸《かん》|悪《あく》無惨な魂にこそ、エホバの|剣《つるぎ》の|呪《のろ》いあれ!」
石寺小四郎の顔は、鉛色にかわっていた。|瞳《どう》|孔《こう》がひろがって、ほとんど相手の姿もみていない表情には、しかし惨として痛恨のいろがある。おそらく、この|夕《ゆうべ》――「外に出るな」と、あれほどかたく足どめを命じられたにもかかわらず、ついうかうかと釣り出されたことへの悔いであったろう。――ようやく、
「何を、勝手な|妄《もう》|想《そう》を――」
と弱々しくつぶやいた。笑うような声がはねかえる。
「妄想ではありません。それは――兄上さまの|刺《いれ》|青《ずみ》は右腕にあったのに、殺されるときには左腕にあったというお葉の言葉でした。そのことから、わたしは鏡のからくりに気がついたのです。鏡にうつり――うつり――うつってゆくうちに、最後に右左が、最初の鏡とおなじく逆になってうつったにちがいないのです」
ふっと小四郎は、相手の声が、相手の口から出ていないという感じにとらえられた。奇怪な感覚であったが、それこそ彼が衝撃の自失から|醒《さ》めた証拠であった。彼はふところにふれた。巣鴨からもってきたものが、そこにあった。
「おいっ、おまえはだれだ?」
尼僧の唇がうごいた。なぜか声はきこえなかったが、その唇のかたちで、彼は耳にだけきいていた実に意外な名を読んで、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「うぬか! うぬは……うぬは、|死《し》|人《びと》のはずだ!」
「それが、切支丹伴天連の魔法により――」
と、相手がのけぞって笑った|刹《せつ》|那《な》――小四郎のふところから、短銃がたぐり出された。
相手がのけぞったのか、それとみて避けようとしたのか、燭台を消そうと泳いだのか、それともすでに血の花を黒衣の胸にちらす寸前の姿勢であったか。――
小四郎にはわからなかった。すべては一瞬のことである。燭台はきえ、土蔵の二階は闇黒になった。しかし、同時に|轟《ごう》|然《ぜん》たるひびきとともに、弾は|狙《ねら》い狂わずに尼僧の胸のまなかへ、火の糸をひいて飛んでいった。
竜の目ひらく
|闇《やみ》の|彼方《かなた》で、何かがくだけるような大きな物音がした。
その音の大きさと性質から、それが何であるかを直感した瞬間、小四郎はじぶんの全身までがばらばらに散乱したような思いがした。――鏡なのだ! さっき、相手の声がその口からでていないような感じがしたのも道理、彼は鏡のなかの尼僧と話をしていたのだ!
――それでは、きゃつはどこにいる?
|狼《ろう》|狽《ばい》しつつ二、三歩ふみ出したが、二階は|漆《うるし》の闇だ。その闇のなかで、すぐちかくで、たからかな女の笑い声がした。――彼女は、|梯《はし》|子《ご》の上り口の側に立っていたのである。笑い声をたよりにふたたび短銃をその方へむけたとき、その短銃はうしろからたたきおとされて、
「石寺小四郎、神妙にしろ!」
と、男の声がした。いつのまにか、上り口にのぼって|仁《に》|王《おう》立ちになっている影が、階下にさわぐ手燭のゆらめきに浮かびあがってみえる。――はかったな! と思うと、その黒い影に、あのへらへらした役人の顔が、小四郎の胸で、激怒とともにむすびついた。
ふりかえりざま、抜きうちにその影を|薙《な》いだ。かっと青い火花がちって、刀身ははらいおとされている。そのままよろめいて、からだをひらいた相手をかすめ、小四郎は、どどどど、と梯子段をころがりおちていった。
下で、なだれかかった番人たちのなかに、あの役人の顔をみて、乱髪と鼻血のなかに小四郎が眼をむき出したとき、梯子の上からふたつの影がゆるゆるとおりてきた。ひとりは|捲《まき》羽織の八丁堀同心で、もうひとりはむろんあの修道尼であった。
「兄殺しの大罪人め、|天《てん》|網《もう》はついにのがれられなんだと知れ」
と、同心が|叱《しっ》|咤《た》した。
「知らぬ、知らぬ!」
全身のいたみも忘れて、小四郎はもがいた。両手はうしろにねじあげられていた。
「みんな言いがかりだ。鏡だの、遠眼鏡だのは、うぬらのかんがえたからくりではないか。おれの知ったことではない!」
「あれほどのからくりが、ひとめ見ただけで即座に解けるものか。それを解いたということは、すなわちうぬのかんがえたからくりだからでなくて何だ」
「証拠がないぞ! おれがかんがえたという証拠をみせろ!」
「小四郎、巣鴨村の、うぬの借りていた離れの天井裏からな――天井裏の好きな、|鼠《ねずみ》のような男だ。――」
と、同心は|嘲笑《ちょうしょう》したが、小四郎は息もとまってしまった。
「遠眼鏡やら南蛮の眠り薬やら、そのほかたしかにもとはこの山屋敷のお蔵にあったものが見つけ出されたぞ。二年ばかりまえ、ここの牢番をしていたお市の父親が切支丹になってお仕置を受けたが、そのとき紛失したままになっていたものと同じものが|喃《のう》。狂女お市をうしろであやつっていたうぬだから、お市の父親がどこかに埋めておいたものを探し出す機会もあったに相違ない。げんに――いまうぬがもっていたこのいすぱにあ[#「いすぱにあ」に傍点]短銃がそうではないか?」
小四郎は同心の手にぶらぶらしている短銃をみて、ただ口のはしから泡をふいた。
「おれが、な、なんのために兄を殺す? 家督にも何にも望みのないこのおれが――捨てておいただけで、兄は隠居を命じられるにきまっていたものを――」
「そうだ。ふしぎだのう。あれほど手のこんだ細工で兄を殺して、あと|武蔵《むさし》|野《の》で|高《こう》|風《ふう》の隠士然と春の雲をながめていたおまえの心というものは――わしなど、それにあやかって、すこし修業したいものだ。どうじゃ、その心事をきかせてくれぬか?」
「だ、だから、わしが兄を殺す道理がないと申しているではないか!」
「きかせてくれなければ、わしの方からいってやろうか」
「なに」
「石寺家などより、もっと大きな望みがあるとしたら?」
「うっ。……」
「その望みをうぬに抱かせた人間の名も教えてやろうか。――」
|手燭《てしょく》のひかりは赤くゆれるのに、小四郎の顔の|陰《いん》|翳《えい》は、デス・マスクみたいにうごかなくなった。
「主水介、もうよいではありませんか」
と、そのときうしろから黒衣の修道尼が呼びかけた。
「これよりあとの取調べは、この小日向よりも小伝馬町の牢屋敷の方がよかろう」
「では、左様に――おい、銀次、こいつを小伝馬町へつれてゆけ」
「へい!」
と、手燭をもっていた番人がうなずいて、
「立て、さあ、きやがれ」
と、小四郎をひったてた。
縛りあげられた石寺小四郎をとりかこんで、どやどやと一同が去ったあとに、修道尼と巨摩主水介だけがのこった。
「これで、どうやら、おんな牢の六人めの女のいのちを救えたようだ。……」
と、尼僧はつぶやいたが、銀次から受けとった手燭を片手に、彼女はなぜかこの山屋敷の切支丹蔵を去りがたい|風《ふ》|情《ぜい》にみえた。しずかに壁に沿うてあるき、そこに陳列された聖像や聖具などをみてまわっている。
「さ、もうゆこうではありませぬか」
と、主水介は心いそぐ様子だ。
「主水介、これが切支丹の神々ですか? この美しい母と子の画像も……」
「されば、たしかマリアと申す。……」
「まあ、なんという気高い顔……わたしには、こんなに美しい母や、気高いきりしと[#「きりしと」に傍点]やらを神とする切支丹が、とうてい邪宗門とは思われぬ。これは、お|上《かみ》の何かのお考えちがいではあるまいか?」
こんどは主水介が、さっきの石寺小四郎みたいな表情になった。――この女性の天真|爛《らん》|漫《まん》な唇から、彼の心胆を宙がえりさせるような言葉が、こともなげにもれるのは、いままでにいくどかおぼえがあるが、これはあまりといえば、身の毛のよだつ見解であった。
「と、と、途方もないことを――」
と、いいかけて、彼はしかし絶句した。恐怖のゆえではなかった。手燭の円光のなかにマリアをあおいでいる修道尼の、そのマリアにまさるともおとらぬほどの気高い美しさにうたれて、そのまま声が出なくなってしまったからであった。
江戸の|何《ど》|処《こ》かで。――いや、南品川の常楽院という寺だ。
以前は荒れさびれた山伏の寺にすぎなかったのに、去年の秋から急に大がかりな修築をはじめ、寺というより大旅館といった感じの建物になったとみていたら、この一ト月ばかりまえに、|上《かみ》|方《がた》から下ってきた二百何十人という大集団がここにのりこんだ。品川|界《かい》|隈《わい》はおろか、江戸八百|八町《やちょう》を|震《しん》|駭《がい》させた一団である。
昨夜は、|徹宵《てっしょう》、能楽の鼓をうつ音がきこえていた。とくに作らせた能舞台に、|金《こん》|春《ぱる》|太夫《だゆう》、|観《かん》|世《ぜ》太夫も呼ばれて舞ったらしいのである。鼓の音が、ようやく|止《や》んだあとでも、酔った声、笑う声、それにざわざわと寺を出入りする人々の跫音はいつ果てるともなく、ついにしらじら明けがおとずれた。
その夜明け前。――常楽院の奥ふかく。
「鶴。――ながせ」
と、ざあっという水音とともに、若い声がした。――湯殿の中だ。
|高《こう》|麗《らい》|縁《べり》の八畳につづいて、また八畳の流し場は、天井ともすべて|総檜《そうひのき》、|風《ふ》|呂《ろ》も|白《しら》|木《き》造りで、竹のたが[#「たが」に傍点]がはまっている。これはそっくり将軍家のお湯殿を模したものであった。
その風呂からあがってきた青年は、四尺四方の|栗《くり》の台に腰をおろし、背をむけた。初夏の暁とはいえ、まだ満天は星で、冷えているせいか、湯殿のなかは湯けむりでいっぱいであった。
うしろから、|裾《すそ》をたかくとり、たすき[#「たすき」に傍点]をかけた若い女が、|糠《ぬか》ぶくろをもって|甲《か》|斐《い》|甲《が》|斐《い》しくよりそった。――青年は、遠く近くきこえる院内のざわめきに耳をすませて、
「いよいよ、父上と晴れの対面じゃ。酒の気のふッきれるまで磨いてくれよ」
と、あおのいて、眼をつむった。
女は、うやうやしくその背をこすり出したが、若者はふとけげんそうにふりむいて、
「いかがいたしたのじゃ、鶴」
「鶴ではございませぬ」
「なんと?」
と、彼はむきなおった。ひざまずいたままの女は、湯けむりのなかにおぼろおぼろとしてはっきりわからないが、顔色は雪のように白く、美しい。
「御家老さまが、わたくしごときもののことをいちいち申しあげられるはずもございますまいが、昨夜お召しにあずかり、これより御対面の御用意をお手伝い申しあげます|花《はな》と申す女でございます」
「花。――」
と、若者はつぶやいて、
「家老とは、|伊《い》|賀《が》のことか」
「はい、石寺小四郎という名を御存じでございましょうか。小四郎の妹でございます。きのう、御家老さまにつれられて、巣鴨村から参上仕りました」
「――さては、伊賀め――鶴を|斬《き》ったな、女は口さがなきものと――」
「え?」
「いや、こちらのことだ。おお、小四郎の妹か。あれの妹ならば、大事あるまい。しかし、|垢《あか》すりはへたじゃの」
「申しわけございませぬ」
「よい。よい。それより、そなた、美形じゃのう。垢すりなどより、もそっとこちらへ寄れ」
と、白く柔かい手くびをつかんでじぶんのはだかの胸へぐいとひきよせた。
彼は、きのうまでこの湯殿付きの|湯《ゆ》|女《な》をしていたお鶴という女にも、この湯殿で手をつけていた。それがいなくなった――おそらく、この世から永遠に――ということは、思い出すとふびんであるが、しかし消えた女を思い出すには、新しい女はあまりにも美しすぎた。夜をとおしての酒盛りの酒も、まだ体内にのこっていたのである。
「これ、花と申すか――余がお城に入ったならばの、そなたをお湯殿の中老に――いやいや、石寺小四郎の妹とあらば、余の|側《そば》|妾《め》といたしてやっても苦しゅうないぞ」
「あの――御召物の御用意もございますゆえ――」
「まだ、時はある。おお、可愛い口をしておるではないか。酔いざめの水よりうまいは美女の口、これ、じっとして、いちどその口を吸わせろ。――」
そのとき、湯けむりの彼方から、
「若君、何をしておいであそばします」
と、男の声がした。若者が狼狽して手をはなしたはずみに、女はとびのいて、そのまま、
「御免下さりませ」
と、御上湯――浴室つきの脱衣室――の入口に立ってのぞきこんでいた影のそばをすりぬけて、小走りににげていった。
「日もあろうに、朝もあろうに――いよいよ御生涯の運命決する日のあした、あまりと申せばおつつしみなき――」
と、その影が吐き出すようにいうのに、若者はあたまをかきながら、
「ゆるせ、ゆるせ、まだ祝いの酒がすこし残っておる。それに、はじめての女ゆえ、ちょっとからかってみたのじゃ」
「はじめての女?」
「さらば、昨晩、そなたが巣鴨村からつれて参ったというではないか?」
相手は沈黙した。霧のような湯けむりに、その影は、雷にうたれたようにうごかなくなっていた。
突如、彼はふりかえって、背後にひざまずいていた幾人かの武士たちにさけんだ。
「追え! いまの女を!」
どどっと床をふみ鳴らしてみだれ立つ影に、
「また、お鶴もさがすのだぞ!」
と、|鋼《はがね》のような声で追いうった。そのまま、なお凝然とつったったままなのに、はだかの貴公子はあっけにとられて、
「伊賀、どうしたのじゃ。いまの女は、そなたの――」
「知らぬ女でござる!」
「な、なにっ」
貴公子はのけぞった。ワナワナとふるえ出した。相手はあたりに人影もないのを見すますと、すうと湯殿に入ってきた。
「おい、宝沢」
と、言葉づかいが変って、
「どうやら、うまくしてやられたようだ」
「い、伊賀。……」
「ふるえるな。おちついて返事をしろ。いまの女は、何と申したと?」
「石寺小四郎の妹で、昨夜、おめえと巣鴨村から同道したといった。おれはてっきり、手まわしのいいおめえが、おれの秘密を知るお鶴を始末して、同志の身よりの女にかえたのかと思ったのだよ。……」
「石寺小四郎――その名まで知っていたか? その女の名は?」
「たしか、お花と――」
「ううむ、宝沢、まんまと見られたなあ。きょう登城のけさ、もはやしすましたりとゆだんのゴタゴタさわぎに、うまくまぎれこんできたらしいが、それもおめえの裸を見るのが狙いにちげえねえ。――このぶんじゃあ、巣鴨村の石寺も、やられたな。……」
「伊賀! あ、あいつはだれだ?」
「いまの女がだれか。……まさか、あいつのはずはねえが……」
「そうだ、おめえは、あの女を斬ったといった。だから、おれは安心していたんだ。まさか、殺された女がこの湯殿の中へ、のこのこと平気で出てくることはなかろうじゃねえか。それとも、あの女は死ななかったとでもいうのか?」
「そんなはずはねえ。邪魔が入って、とどめこそ刺せなかったが、あの|深《ふか》|傷《で》じゃあ……だいいち、あの女を斬ったのがちょうど三日まえ、たとえ生きていたとしても、ここに出てくるわけはない……」
宝沢は、この相手が、これほど|惨《さん》|澹《たん》たる顔色になっているのを見たのははじめてであった。
やや|面《おも》|長《なが》、色白で、学者のような重厚さに満ち、しかもはや登城の用意のためか|裃《かみしも》さえもつけたその堂々たる押出しは、|曾《かつ》て|九条《くじょう》関白家に仕えて|稀《き》|代《だい》の才物といわれた評判にたがわず、また百万石の家老とみても不足はない、その荘重な風姿から、べらんめえ調が出てくるのが、名状しがたい|凄《すご》|味《み》をあたえる。
――何にしても、その姿に曾て動揺の波がわたったことがなく、その唇から曾て弱音が吐かれたことのないのを、宝沢は知っていた。いかなる不可能な局面に相対しても、|奸《かん》|智《ち》といってもしかるべき縦横の機略をふるい、いかなる危地におちいっても、ふてぶてしい微笑を消したことのないこの男が、いまほとんど|茫《ぼう》|然《ぜん》としてなすところもない顔色なのに、若い宝沢は恐怖のあまり口をぽかんとあけた。
「伊賀、おめえはおれに大船にのった気でいろといったじゃあねえか?」
「そういった。たしかに波はさばいた。越前め、紀州の方に同心をかけまわらせて素性洗いに血まなこになったらしいが、そんなことにぬかりのあるおれか。――とせせら笑っておった。げんにきょう晴れの登城ときまったほんの先刻まで、越前はこの常楽院に打った|葵《あおい》の金紋に指一本さすことは出来なんだ。……ところが、船に穴をあけられたよ。えたいの知れねえ、女のほそい指でなあ。……」
まるでおのれのからだの一部に穴でもあけられたような、痛苦にみちた声だ。
宝沢は、まだ事態の重大さを、それほどはっきり意識しなかった。それより、この絶望を知らぬはずの男の絶望ぶりに恐怖して、
「伊賀、そんな穴、なんとかふさげねえか? 大器量人のおめえなら――」
「|若《も》し、いまの女をとらえることができたならばだ」
そのとき、二、三人の武士がまろぶようにかけもどって、
「無念ですっ、はや門外へのがれ出たか。いずこを探しても見あたりませぬ!」
「――お鶴は?」
「お鶴は、昨夜より姿を消しておるそうにござります」
「――いまの女が、うまくいいくるめて、のがしたな?」
と、うなずいてうめいたが、このときから伊賀の表情には、ふしぎに清朗快活なものがあふれてきた。
「宝沢、もうあきらめな」
「な、なんじゃと?」
そこに、やはり|裃《かみしも》をつけてもったいぶった顔をした中年の武士たちや、紫の衣をまとった|和尚《おしょう》がかけつけてきた。
「ど、どうなされたというのだ、このさわぎは?」
「おい、|大《だい》|膳《ぜん》、|右《う》|門《もん》、|天忠《てんちゅう》、この伊賀が、なぜかしらぬが、もうあきらめろというのだ」
「ぷっ、突如として何を申される。まさか、大事成らんとするよろこびのあまり乱心なされたわけでもあるまい」
「ふふん、正気だ」
と、伊賀はそらうそぶいた。
「正気、それはいかなるわけでござるかっ」
伊賀はそれにこたえず、
「宝沢、おれがこういっても、あきらめねえかえ」
「あきらめるものか! すでに門外には|供《とも》|揃《ぞろ》いもはじまっている物音、おめえの心配がるようなくだらねえ理由で、いまさらひっこみのつく場合か。伊賀、おめえらしくもねえぞ。たとえ、いま|尻《しり》に帆をかけたところで、とうてい逃げおわせることじゃあねえ。たとえ、少々妙なことがあったって、こうなりゃ、やるよりほかはねえ、なあ、一同!」
「もとよりでござる! 何が何やらさっぱりわからぬが、とにかく出陣のまえの|臆病《おくびょう》風は大禁物、断じて行えば鬼神もこれを避く。――」
伊賀は、みんなの血相を見まわして、うす笑いをした。
「えらい、やるがよかろう」
と、大きくうなずいた。
「それにな、上手の方から水のもったとはこのことか――あの女を消したと思って安心したこと――念のためこっちから巣鴨村へいったこと――が、逆に敵の|罠《わな》にはまったような|塩《あん》|梅《ばい》だ。おれのしくじりから起ったこの|破《は》|綻《たん》だ。おれがおめえたちにあきらめろというのァ、ちっとむげえ話かもしれねえ」
「そうだ、伊賀、むげえ、むげえ。たのむから、ばかげたことァ言い出さねえでくれ!」
伊賀は明るく笑った。
「よし、おれはもういちど考える。出門の時刻まで、わしはじっくり思案をしてみるが、それまで、かたくおれの座敷をのぞいては相ならぬぞ!」
いままでに、いくどか|老中《ろうじゅう》や町奉行の呼び出しに、すわ[#「すわ」に傍点]と一同が色めくたびに、こういって一室にとじこもって沈思し、秘策妙案成ったとみるや決然として出むいて、みごとに難関をきりぬけてきた男であった。
|従容《しょうよう》として立ち去る伊賀を、一同は|愁眉《しゅうび》をひらいて見送った。
「|先《さき》|箱《ばこ》はどこにおる」
「|陸尺《ろくしゃく》はそろったかっ」
「馬々、馬はこちらに――」
境内から山門へかけて、|潮《しお》|騒《さい》のごとくたかまってゆくどよめきをよそに、彼は一室に端坐して、朝の日光に眼ざめるような奥庭を見わたした。池の|蓮《はす》が、いま花ひらいたとみえて、水のなかから香が立ってくる。
「まぬけめ」
と、彼は遠い騒音に耳をすませて|嘲《あざけ》ったが、やがて肌をおし|拡《ひろ》げ短刀をぬき放つと、ニンマリとして、
「いや、天下一の大まぬけ、|山内伊賀亮《やまのうちいがのすけ》、ここにまぬけの年貢を納める」
ぶつりと腹につきたて、キリキリとひきまわした。
「越前、おめえがこの幾月か、夜は夢、昼はうつつにまでおれの姿をみて、歯ぎしりしたことを知っている。そのおれが、おめえの|縄《なわ》にかかるまえに、ここであっさり死んだと知ったら、おめえはさぞ|地《じ》|団《だん》|駄《だ》をふむだろう。ざまアみやがれ。……」
がばとひれ伏す一瞬に、伊賀亮の眼に、ふいに庭に立ったひとつの影を見た。それは庭の蓮池から、氷滴をきらめかして立ちあがったようにみえた。
「伊賀亮、伊賀亮」
と、美しい女の声に、彼は|瀕《ひん》|死《し》の顔をあげて、
「――うぬか!」
と、うめいた。裂いた傷口からほとばしるような声であった。
「伊賀亮、回向院の蓮池から|冥《めい》|途《ど》の迎えにやってきた」
「――お、おいっ、おまえはだれだ? おまえには負けた。おれほどのものが、おまえだけには|翻《ほん》|弄《ろう》された。――いくらからかわれても一言もないが、もはや、からかわれておるひまもない。――山内伊賀亮、いまわの願いだ。おまえの正体をおしえてくれ。……」
女は、伊賀亮のそばにひざまずいて、その耳にささやいた。それから、きっと立ちあがって、
「さらば伊賀亮、わたしが題目をとなえて進ぜる。本懐と思うて死ね。――|南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》。……」
山内伊賀亮の全身をいちど|驚愕《きょうがく》の|痙《けい》|攣《れん》が波うったが、すぐにその満面はきゅっと死微笑をきざんだまま、がっくりとたたみにうち伏した。
女人斬魔剣
「若君さま御登城。――」
おごそかな声がながれると、玄関さきから、境内、門外にまであふれてざわめいた|供侍《ともざむらい》たちが、ぴたりとしずまった。
もと山伏寺であったのが、改築して旅館のように、しかも大本陣のように豪壮な建物にかわった常楽院だ。
その|唐《から》|破《は》|風《ふ》造りの玄関の式台に、しずしずと、ひとりの貴公子があらわれた。うしろに、紫ちりめんの|袱《ふく》|紗《さ》につつんだ銀の|佩《はい》|刀《とう》をささげて、うやうやしく小姓がしたがっている。
その若者は、|白《しろ》|綾《あや》の|小《こ》|袖《そで》の下に、|柿《かき》色綾の小袖五つをかさね、紫|丸《まる》|絎《ぐけ》をしめ古|金《きん》|襴《らん》の|法眼袴《ほうげんばかま》をはき、上は|顕《けん》|紋《もん》|紗《しゃ》の十徳をき、手には金の中啓をもっていた。|漆《しっ》|黒《こく》の総髪の下には、おっとりとして気品のたかい顔があった。その顔がほとんど|蒼《そう》|白《はく》にみえるのも、彼の色白なのを知っている家来たちは、たんなる緊張のためであろうとあやしまなかった。
――去年の春ごろ、紀州から大坂に出てきて、いまの将軍の|御《ご》|落《らく》|胤《いん》だという評判がたちはじめたころのこの若者の周囲には、まだ十人くらいのおつきの者がいるだけであったが、それが大坂城代、また京都所司代から「御証拠にまぎれもなし」という早打が江戸へ立ったという|噂《うわさ》がひろまってから、われもわれもと上方の豪商たちが御用金を献じ、人々は雲集し、やがてこの春、威風堂々と東海道を下ってきたときには二百何十人という大名行列そこのけの供侍をしたがえ、途中ゆきあった|播州姫路《ばんしゅうひめじ》十五万石の|酒《さか》|井《い》|雅楽《うたの》|頭《かみ》など、|駕《か》|籠《ご》からおりて土下座したとさえいわれる。
それ以来、数度、町奉行、老中などと往来があったが、この常楽院にうたれた|葵《あおい》の金紋はいよいよかがやきをまし、ついにけさ、江戸城に上って、将軍と|親《しん》|子《し》御対面の晴れの日が到来したのだ。当人が緊張するのもむりはない。
ただ、式台にいながれる近侍の人々のなかに、当然いるべき御落胤さま第一の重臣山内伊賀亮の姿がみえないのに、ふとけげんな思いをした者が数人ある。それはちかくの数人だけであったが――主人を蒼白にさせたものは、実にその「いない伊賀亮」なのであった。
彼は、ほんの先刻、ひとり|屠《と》|腹《ふく》している伊賀亮の姿を発見して、愕然としたのだ。この|期《ご》におよんで、あれほどの男がなぜ死んだ?――大地もゆらぐ思いであったが、立ちすくむいとまもなかった。登城の時刻は切迫していたからである。――けれど、人形のようにものものしい|衣裳《いしょう》をつけられてゆくうちに、彼の度胸はすわった。伊賀亮は気が狂ったのだ。みよ、事は予定のごとく進行してゆくではないか。みよ、一帯にみちみちる乗物、馬、先箱、|槍《やり》、|傘《かさ》、そのいたるところに葵の紋はきらめき、供侍は足ぶみしているではないか。……
|飴《あめ》|色《いろ》|網《あ》|代《じろ》|蹴《け》|出《だし》|黒《くろ》|棒《ぼう》の乗物は、すでに式台にかつぎあげられて待っていた。――いちど、波のごとく平伏する供侍たちを、にっと微笑して見わたし、彼がその乗物の方へ、二歩、三歩あゆみ出したとき――
「――天一坊、待てっ」
と、どこかでさけんだものがある。
みんな、大地からはねあげられたようにあたまをあげ、次に幻覚かとふたたび伏せようとしたひたいのまえを――門の方から、たたたた、と何者かがはしりぬけていった。この場合に、|袴《はかま》もつけぬ着流しに、|雪《せっ》|駄《た》をはいた|粋《いき》な足であった。
いっせいにどよめきわたる供侍たちをしりめに、玄関のまえに、その男はりんとして立っていた。羽織をまいて帯にはさみ、片手ににぎった朱房の十手も|燦《さん》として、
「その駕籠待った! 南町奉行大岡越前守配下の同心巨摩主水介、なんじに不審の条あり、取調べにまかり越した。神妙にいたせ!」
と、さけんだ。
天一坊は、|雷《らい》にうたれたように立ちすくんでいたが、
「やあ、無礼であろうぞ、不浄役人、なんじ乱心いたしたか。余は当将軍家の落胤、徳川天一坊――」
「とは、よくも化けたな、天一坊、いやさ山伏宝沢。――」
「な、なに!」
「なんじの素性を知る六人の男。数年前大坂でなんじと悪事をほしいままにした無頼の六人、彼らに|闇《やみ》の手をのばして殺害した一味の下手人どもはことごとくとらえられ、すべて白状いたしたぞ。もはや悪あがきするな、天命ついにつきたと知って神妙にお縄にかかれ」
天一坊は、蒼白をとおりこして|土《つち》|気《け》色になり、歯をかちかち鳴らしていたが、
「やあ、|誣《ぶ》|説《せつ》|雑《ぞう》|言《ごん》にもほどがある。左様な男ども、余は知らぬ。なんの証拠あってかかる|大《だい》それたいいがかりをなすか」
「殺害された六人の男には、一人一字、法華の題目の|刺《いれ》|青《ずみ》があった。それがなんじと同類であった証拠は――」
巨摩主水介は、つつつ、と式台にかけのぼった。
身をひるがえして、にげようとして小姓にぶつかった天一坊は、あわててその佩刀をひっつかんで、抜きうちの|閃《せん》|光《こう》をうしろに|薙《な》いだが、刀身は十手にまかれて大きく侍臣たちの頭上にとんだ。このときまで気絶したように身をこわばらせていた侍臣たちが、名状しがたい絶叫をあげ、猛然と式台を鳴らして|起《た》とうとする。――
「さわぐな! あれ見よ」
と、主水介は|叱《しっ》|咤《た》した。ふりかえる一同の眼に、門から潮のようになだれこんでくる捕吏のむれがうつった。
主水介は天一坊をむずととらえると、片手をのばして、いっきにその十徳をひき裂き、|襟《えり》もとをおしひろげた。
「もったいなや、将軍家御落胤ともあろうおん方が、あたら玉のおん肌に――」
口から泡をふき、身をもみねじる天一坊の胸に、朱色に彫られた「華」の一文字。
「南無妙法蓮華経。……」
「南無妙法蓮華経。……」
小伝馬町のおんな牢では、朝からむせぶような合唱がながれつづけていた。
牢屋敷では、囚人に死罪が執行されることがつたえられた場合、牢内で同囚たちがいっせいにこの題目をとなえはじめるのだが、ふしぎなことに、「南無|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|仏《ぶつ》」とはとなえない。念仏は、|法《はっ》|度《と》になっている。念仏ではそのまま往生するが、題目ならば日蓮が|竜《たつ》ノ|口《くち》でこれをとなえて命びろいしたように、|断《だん》|刀《とう》から助かるという迷信からきたともいうが、さりとて念仏を法度にまでする理由はよくわからない。
題目の輪のなかで、六人の女囚がうなだれていた。――けさ、未明のことである。町奉行所から牢奉行の|石《いし》|出《で》|帯《たて》|刀《わき》のところに、六枚の半紙がおくりとどけられた。この紙には、死罪に行なわれる人間の名と生国がかいてあるのが例だ。ふつうなら、それは執行の前夜にくることになっていて、これを牢役人がすばやくかきうつして、朝になってから非公式に牢名主にわたし、当人に覚悟をうながすことになっているのだが、こんどにかぎり、異例にその断罪の告知状が未明にきて、かきうつすひまがなかったので、ただその紙の数から、六人の囚人が死罪になるということしかわからなかった。しかも、それはきょうのうちに行なわれるらしく、牢屋敷東北隅の死刑場では、もう公儀おためし御用の|山《やま》|田《だ》|浅《あさ》|右衛《え》|門《もん》が到着して、執行のだんどりを指図しているという。――六人、という人数をきいて、さてこそ、と女囚たちがいっせいに六人の女をみたのは当然だ。お玉、お路、お関、お半、おせん、お葉、このおんな牢にいる死刑囚に、そっくり数は符合する。
「南無妙法蓮華経」の題目の声がながれはじめたのは、それからであった。
六人の女は、うなだれていた。覚悟はしていたが、その白い肌はそそけ立っていた。……ただいちど、いちばん年少のお関が、
「ごいっしょに、あの世へゆけるなんて、せめてものしあわせね」
と、みなを見まわして、かすかににっと笑ってみせただけである。そのとき、天牛のお紺がはいずってきて、
「おれもいっしょじゃ。|三《さん》|途《ず》の川で鬼が出てきたら、おれが追っぱらってやろうぞい」
といった。昨夜も、うなりつづけのお紺であった。すでに死相は|蒼《あお》くその顔をくまどっている。この恐ろしい牢名主に、|冥《めい》|土《ど》までくっついてこられるのは、ありがたいようでもあり、迷惑なようでもある。だれも礼もいわず、ののしりもせず、ただだまったままなのに、お紺は、
「しかし、それにしても、あのお竜はどうしたかの」
と、ひとりごとをいった。
「三日のうちに、孫のかたきをとってくれるといった。その三日めはきょうなのに……わしも、きょうじゅうに、くたばりそうじゃというのに。……」
「――お竜さん――――」
六人の女はつぶやいて、いっせいに顔をあげて宙をみた。
彼女らの話をやさしくききとってくれ、なぐさめ、力づけてくれたお竜だ。お竜が彼女らを救ってくれるという見込みはなく、またそんなことはまったく期待も希望もしなかった彼女たちであったが、ただしかし、断罪の場へひかれてゆくまえに、なぜかひとめでも|逢《あ》ってゆきたいひとであった。――しかし、お竜は三日まえ同心に呼び出されたっきり、まだこの牢へかえってこない。……
日は、中天をまわった。ただ北むきのこのおんな牢は、真昼も、依然として夕ぐれのようだ。
「おんな牢!」
|凜《りん》|烈《れつ》たる声が、|外《そと》|鞘《ざや》にひびいた。外鞘に、|鍵《かぎ》役、牢屋同心、牢番、下男などの黒い影が入ってきた。
「御仕置物がある。お玉、お路、お関、お半、おせん、お葉――早々にまかり出ませい!」
「へい!」
と、声をしぼったのは牢名主のお紺だ。はたせるかな、名指された六人の女囚のうしろから、お熊、お伝、お甲たちがふるえ声で、
「南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経!」ととなえ出した。
「なお、南町奉行大岡越前守さまの|御諚《ごじょう》には、このたびにかぎり、みせしめのため、女囚一同、死罪の様子を見物させいとのことじゃ」
はっとした。みんな、水をあびたような顔色を見あわせる。――が、牢屋同心の声はのしかかるように、
「一同、|罷《まか》り出ませい!」
牢からひき出されると、|藁《わら》|縄《なわ》をふたすじよりあわせた死刑囚だけにつかう切縄を、六人の女に張番がかけた。ふつうなら、このあと、
「おんな牢、ほかに|御《ご》|沙《さ》|汰《た》はない。――」
と、鍵役が知らせると、はじめて囚人一同が、
「ええい」
と、よろこびの声をあげるのだが、きょうにかぎって、ひとりのこらずぞろぞろと追い出された。死罪は六人だけということはわかっているのだが、それでも、三歩、五歩、十歩、あゆんでゆく足が地にめりこむような思いを禁じ得ないのは、当然な恐怖感情であった。
火ノ番のまえにくると、例の八丁堀同心が厳然と待っていた。さすがのお紺も、この場合、「お竜はどうしましたえ?」と、きくのもわすれた。六人の女はここで|面《つら》|紙《がみ》をあてられた。面紙とは、奉行からきた死刑の宣告状であって、この半紙をたてに顔にあて、細い藁でひたいにしばり、紙のなかばを前にかえして眼かくしする。それから、|槍《やり》をつらねた|非《ひ》|人《にん》のむれが、|鉄《てっ》|桶《とう》のごとく女囚一同をつつんであるき出した。くぐってゆく|埋門《うずみもん》は、死罪場へつながるので、牢屋敷ではこれを「地獄門」という。――
女囚たちが死罪場に入ると、いっせいにどよめきがあがった。眼かくしされた六人の女には何もみえなかったが、それだけでここに相当な人数がつめかけていることが判断された。おしひしがれたように、女囚たちはだまりこんでいる。――実は、彼女たちは、この場に入って、思いがけないものを発見して、はっと息をのんだのであった。
牢奉行石出帯刀、その左右にならぶ検使、見廻り与力、牢役人、非人たちが周囲をかこむ死罪場のまんなかで、刀をあらっている異様に|凄《せい》|惨《さん》の気をたたえた武士は、あれが|首《くび》|斬《き》り浅右衛門だろう。彼は、弟子らしい若侍がつぎつぎにさし出す刀身を、せっせと水で洗っていた。台にのせられた刀は、みんなで六本あった。おそらく、あちらこちらの大名や旗本から依頼された新刀であろう、彼はこれをもって罪人をためし斬りにして、その報酬をうけるのである。
しかし、女囚たちが息をのんだのは、その風景よりも、浅右衛門のそばに大きな穴が掘られ、その穴のふちにひきすえられた六人の男であった。彼らは、いずれも六人の女囚とおなじように切縄をかけられ、眼かくしされている。――
「用意相ととのってござる!」
と、浅右衛門がふりかえっていった。
そのとき、お紺の口から、何とも形容のできない声がつっぱしった。
「あっ……お竜!」
その声に、六人の女囚は身をもがいた。
「えっ、お竜さんが……どこに? みせておくれ、あたしたちにもみせておくれ!」
すぐうしろにいたお勘やお熊やお甲も、口をぱくぱくさせていたが、夢中でその面紙をめくりとってやった。
「いいえ、それをとってはなりませぬ。――」
むこうで、美しい声がきこえたが、まにあわなかった。六人の女死刑囚は、まぶしいばかりのひかりのなかに、死罪場を見た。検使席から山田浅右衛門の方へあるいてくるひとりの女を見た。――文金高島田にきらめく|櫛《くし》とかんざし、稲妻あられの|振《ふり》|袖《そで》に|金《きん》|襴《らん》の帯――その帯に、なぜか一本長刀をおとしざしにした姫君の姿を。
「お竜――あれは、たしかに姫君お竜――」
と、なおお紺があえぐと、そばの牢屋同心が叱りつけた。
「ひかえい、あれは南町奉行、大岡越前守さまの――」
「えっ」
「御息女でいらせられるぞ!」
姫君は、たちどまって、
「越前守娘、霞です」
と、りんとして名乗った。そして――
「浅右衛門、その六人の男の縄をきれ、眼かくしをとれ」
と、命じた。
浅右衛門は、六人の男の縄をきり、眼かくしをとった。六人の男は、かっと眼をむき出して、霞の姿を見まもったが、それ以上にのけぞりかえったのは、六人の女死刑囚であった。いっせいにその口から、わけのわからない絶叫がほとばしり出た。
「あっ蓑屋さん!」とさけんだのはお玉で、「旦那さま!」といったのはお路で、「乾坤堂さん!」とあえいだのはお関で、「弥五郎さん!」と息をひいたのはお半で、「外記さん!」と身もだえしたのはおせんで、「小四郎さま!」と|帛《きぬ》をさくような声をあげたのはお葉だ。それらはひとつにもつれて、むしろ悲痛のひびきをおびて、刑場の大気を裂いた。
「だから、眼かくしさせておいたのに――」
と、霞はなげくようにつぶやいたが、
「いいえ、やはり見させなくてはならぬ。見なくてはならぬ。黒い眼を、しっかりあけて、この|卑怯《ひきょう》な男どもを――」
といって、うつむいてふるえている男たちを見わたした。
「おまえたち、あの女たちのかなしげな声に恥じぬかえ?」
――六人の女囚は、無我夢中で刑場にまろび出ようとしていた。非人が死物狂いにこれを抱きとめていた。
霞はかなしそうな顔でふりむいて、これをみていたが、ふいに、
「きくがよい、女たち」
と、呼びかけた。
「そなたらへのふびんさと、この男たちへの怒りに胸もさけるようだけれど、やはりいわねばならぬ。この男たちは、そなたらの思っているような善人ではない。それどころか、天下を|狙《ねら》う大陰謀団の一味。――」
「えっ」
「一介の山伏崩れの身分でありながら、将軍さまの御落胤といつわって、あわや|御《ご》|親《しん》|子《し》御対面をまではこびかかった陰謀はけさ破れた。その首領は、もと大坂で六人の無頼な男たちと、義兄弟のちぎりをかわし、南無妙法蓮華経の刺青をからだにきざんで、よからぬことにふけった悪党であった。それがこのたびまんまと御落胤に化けて江戸城にのりこみ、ゆくゆくは将軍さまにもなろうかという大野心を起したについて、じゃまになるのは古い悪事の仲間――蓮蔵、十平次、玄妙法印、秀之助、門兵衛、大三郎の六人」
女たちは、金しばりになった。
「お城に入れば、もはや顔をみられることもあるまいが、何のはずみで、おのれの胸に彫った|華《はな》の刺青が、|巷《ちまた》のうわさにたたぬでもあるまい。そのとき、これらの仲間が、もしや――と、うたがいを起さぬために、彼らをこの世から消し去るたくらみがめぐらされた。その殺し手が、この陰謀の軍師に命じられた六人の男であったのじゃ。――ただ、その刺客でとどまりさえしたら、野心に|憑《つ》かれたあわれな男として、まだゆるせもしたであろう。けれど、江戸で人が殺されれば、かならずその下手人をつかまえずにはいぬ名奉行さまがある。そのお奉行さまの眼をのがれるには、べつに下手人をたてるにしかず――と、この男たちはそれぞれ策をめぐらした。その白羽の矢をたてられたのが、そなたたち六人の女であった」
なげくがごとくひくく、しかも澄んだ姫君の声はつづく。
「ふびんなのはそなたらの純情、にくむべきはその純情につけこんだこの男たちの|奸《かん》|悪《あく》――|或《ある》いは恩人面をし、或いは親切顔をし、或いは恋人、或いは夫でさえありながら、娘の、妻の、母としての女のこころをあざむき、もてあそび、まんまと無実の下手人につくりあげた!」
霞は、きっとなって、六人の男を見すえて、
「これ、そなたらに男の性根があらば、刀をとれ!」
と、いった。
男たちは、|愕《がく》|然《ぜん》として、台上の六本の刀をみる。
「霞、あの六人の哀れな女にかわり、いいえ、この世の女すべてにかわり、女の敵として、そなたらの|頭《こうべ》をうちおとしてくれる。|起《た》てっ」
蓑屋長兵衛は、ぐいっとまわりを見まわした。長槍をたてつらねた牢役人のむれは、すでに|蟻《あり》のはい出るすきまもなくとりかこんでいる。
「どうせのがれられぬ運命じゃ。――やれっ」
さけぶとともに、六人は土を|蹴《け》たてて台上の刀をうばいとった。とみるまに、まず長兵衛と弥五郎が、獣のごとく反転する。
ふたりのあいだを、稲妻あられの振袖がひるがえったあと、長兵衛と弥五郎は、おのれの血の散った刑場の土をつかんでいる。
その血潮を吸った姫君の刃は、すでにがっきと石寺小四郎の刀とかみ合っていた。とみえた一瞬、小四郎の刀身はひッぱずされて、うしろにながれる霞の|一《いっ》|閃《せん》に、しのびよった乾坤堂は胴を|薙《な》ぎはらわれて、横に四、五歩およいでどうところがり、あとを追うようにつんのめっていった小四郎の背に銀蛇の光流がはしった。
そのまま、身をひくくした霞の頭上で、かっと祖父江主膳と南条外記の刀が青い火花をちらした。花かんざしがきらめきつつまわってとびずさるのを、
「地獄でうぬももてあそんでやろう」
「死ね!」
追いすがる二条の|剣《けん》|尖《せん》が、|霰《あられ》のごとくたたき折られると、そのまま主膳は|袈《け》|裟《さ》がけに――旋風のごとくまわる|破邪顕正《はじゃけんしょう》の姫君一刀流、みごとに南条外記の美しい顔を|唐《から》|竹《たけ》割りにした。
それはまさに、血潮とひかりに狂いとぶ一|颯《さつ》の花|吹雪《ふぶき》をみるような一瞬であった。
茫然として、口をあけたままの人々のまえで、霞さまは刀をなげすて、何事もなかったかのように、シトシトと女囚たちの方へあるいていった。
「牢名主さん」
地に|這《は》いつくばった天牛のお紺は、蒼い顔をあげたが、声も出ない。
「いうのがおくれましたが、あなたの孫のお蝶さんを殺した男は、けさ死にました。……やがて、役人がその首を見せにくるはずです。それで心が安まったら、元気を出して、もっと生きて――牢の中でいばって下さい」
それから、微笑の眼で六人の女死刑囚を見わたした。
「お玉さん、お路さん、お関さん、お半さん、おせんさん、お葉さん」
六人の女もみな地に両腕をついて、顔をあげて霞さまをあおぎ、みひらいた眼から涙をながし、口はあえぎつつ、言葉にならなかった。
「あなたたちはみんな無罪です。父上さまもきっと御承知なさいます。おんな牢を出て、町でもういちど|倖《しあわ》せな暮しができるでしょう。もし、心の傷がふさがらないで、さびしかったら、遠慮なく霞のところへあそびにいらっしゃい」
|白《しら》|州《す》にうつるような青葉の南町奉行所を、|捲《まき》羽織に|雪《せっ》|駄《た》の八丁堀同心と、|風鳥《ふうちょう》のようにあでやかな姫君が入ってゆく。――
「主水介、ね、父上さまに申しあげてね」
「――何をでござる」
「もう身分ちがいなどと、父上さまはおっしゃらないわ。おまえは、天一坊をつかまえるというたいへんな大手柄をたてたんだもの。あたしのことなど、父上さまは御存じないのだから、だいじょうぶ」
「――それが、こまるのです。……」
主水介は、すくなからず|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうだ。姫君はあどけない眼を見張って、
「どうして?」
「どうして――と申して、あなたは拙者よりもお利口で、勇気があって、強すぎる。――」
「いや、いや、いや!」
と、姫君はいきなりとびついて、主水介にしがみついた。
「いやよ、恥ずかしい! あれもこれも、みんなおまえの花嫁になりたいあまり、一生懸命、死物狂いの霞になったからだわ。ああ、思い出すと、恐ろしい。――」
「御冗談はおやめなされ」
「冗談なものですか。ほんとう、主水介、おねがい、ね、あたしをおまえの女房にして――あたし、こうしてたのむから」
と、霞さまは白州のうえにべたりと坐ってしまった。主水介はうろたえて、あたりを見まわし、
「な、なんというもったいない――お|起《た》ち下され、はやく、お起ち下され」
「女房、起て、といってくれたら、起ちます」
「――女房、起て。……」
霞はよわよわしく、主水介によりすがって起った。そのままからみついて、童女のように甘い鼻息で主水介の頬をくすぐりながら、
「主水介、それじゃあ、もう父上さまに申しあげてくれるわね。……」
「――も、申しあげるでござる」
「げんまん」
南町奉行所の美しい青葉のおくへ、|粋《いき》な同心姿とはなやかな姫君姿が、もつれあいながらかくれていった。
おんな|牢《ろう》|秘抄《ひしょう》
|山《やま》|田《だ》|風《ふう》|太《た》|郎《ろう》
平成13年3月9日 発行
発行者
角川歴彦
発行所
株式会社
角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
 Futaro YAMADA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『おんな牢秘抄』昭和59年3月25日初版発行
平成11年1月10日24版発行