山田正紀
贋作ゲーム
目 次
贋作ゲーム
スエズに死す
エアーポート・81
ラスト・ワン
贋作《がんさく》ゲーム
[#ここから2字下げ]
W・オイレングラス=ウィーンの画家。十七世紀後半に活躍したと思われる。経歴、生没年ともに不明なことから、謎の画家と呼ばれている。一九六三年、最初の一点がオランダの画商によって発見され、以後、ヨーロッパ各地で同じ作者の手によるものが九点発見されている。作者への興味もてつだい、近年、オイレングラスに対する評価はとみに高まりつつある。現存する作品があまりに少ないことから、職業画家ではなかったという説が有力である。
代表作、『パンを秤《はか》る女』、『マリアに蜜を運ぶ女』など。
[#ここで字下げ終わり]
1
──那谷貞夫《なやさだお》は怒り狂っていた。
いかに英国仕立のスーツに身をかため、爪をきれいにマニキュアしても、やくざの地金は隠せない。紳士の擬装が、容易にボロをだしてしまうのである。
ただし、那谷にも同情すべき点がないとはいえなかった。──那谷には、絵画に代表される芸術にいやしがたいコンプレックスがあったと思われる。だからこそ、多くの修羅場《しゆらば》を重ねた後、ようやくかちえた実業家の名で、絵画収集に乗り出したというわけなのだ。
が、海千山千の画商たちを相手にするには、那谷貞夫はやや鑑賞眼に欠ける|きらい《ヽヽヽ》があったようだ。当然のことながら、たちまちのうちに多くの贋作《がんさく》をつかまされるはめとなったのである。
たとえ鑑賞眼に欠けても、那谷がこの世界の常識をいくらかでも持ちあわせていれば、ロダンのデッサンを買い集めるなどというバカな真似はしなかったろう。ロダンのデッサンは、とりわけ贋作が多いことで知られているからだ。事実、一九六五年六月四日号の『ライフ』では、ロダンの最大の贋作者、アーネスト・デュリグの存在が暴露されている。
もっとも、那谷が自分一人で、ロダンの贋作デッサンを楽しんでいる分にはべつに不都合はない。それらのデッサンを、那谷コレクションとめいうって、画廊に並べたりするからトラブルが生じるのである。
そうなると、俺──狩野昭としても口をはさまざるをえなくなるのだ。
俺の職業は美術評論家、肩書きこそいかめしいが、陰謀、誇大広告、中傷、嫉妬の渦巻くこの世界で泳ぎまわる|うぞうむぞう《ヽヽヽヽヽヽ》の一人にすぎない。年収は三百万に少し欠けるぐらい……鑑定人の肩書きを持つ身としては、およそお話にもならないほどの低収入だが、人さまが大枚を払って買い込んだ美術品をかたっぱしから贋作と決めつけるのだから、貧乏もやむをえないところだろう。この商売をうまくやっていこうとするからには、たとえ贋作だとわかっていても、カタログに推薦文を寄せるぐらいの厚顔さが必要なのである。
俺は、来年は四十になる。独身……公式にも、非公式にも、子供はいない。今、気にかけていることといえば、タバコの吸いすぎぐらいだ。十数年前、パリで自分には画家の才能がないとさとって以来、人生にはほとんど情熱を持てなくなっている。
さて、那谷貞夫だが──彼のロダン・コレクションを、俺は某美術雑誌でことごとく贋作と決めつけた。ことさらに敵をつくるのは本意ではなかったが、正直者の美術評論家としてはやむをえないところだったろう。
その結果、こうして那谷の画廊に呼びつけられ、頭から怒声をあびせかけられることになったのである。
「俺になにか恨みでもあるのか」
つまるところ、那谷の怒りは|その《ヽヽ》一言につきるようだ。いかにも、やくざ上がりの実業家にふさわしい発想ではないか。──那谷は長身痩躯、そのよくゴルフ灼《や》けした肌とあいまって、気鋭実業家の印象が強い。ただ、惜しむらくは、実業家にしてはその眼がするどすぎる。感情が激すると、かつて人斬り貞と呼ばれた頃の獰猛《どうもう》さがフッとよみがえるのだ。
「別に恨みがあるわけじゃない」
俺は、そう説いてきかせなければならなかった。
「ただ、あんたが購入したロダンのデッサンは、まぎれもなく贋作なんだ。二十三点の作品がすべて贋作なんだから、俺とても黙ってはいられないじゃないか……」
「贋作のはずがない……」那谷はあくまでもかたくなだった。
「あれは、ニューヨーク五十六番街のM画廊から手に入れたものなんだぞ。M画廊といえば一流中の一流じゃないか」
「一流だからと言って安心はできない」
俺もいくらかは意地になっていたようだ。
「一流の画廊だからこそ、贋作と知っていて平然と売りわたすような真似ができるんだ。この社会では、贋作を売りわたすことは決して恥ではない。むしろ、賞讃されるぐらいだ。買った人間が、自分の鑑賞眼の不足を恥じるべきなんだよ……」
どうやら、那谷の痛いところをついてしまったらしい。那谷の顔が怒張し、──ついでその怒りを吐き出すように言った。
「しかし、二十三点がすべて贋作だなんて……そんなバカな……」
「例のない話じゃない」
俺は、ため息をついた。
「ハリウッドの女優で、メアリ・ピックフォードという女がいた。数百点からなるロダン・デッサンのコレクションが自慢のタネだったんだが……これが、すべて贋作でね」
「………」
どうにか、那谷を納得させることができたらしい。が、──自分のおろかさに向けられるべき怒りは、さしあたって俺に集中されることになったようだ。迷惑な話だ。
「あんたは利口だよ……」
那谷の声がひどく陰湿なひびきをおびた。
「さぞかし、得意満面のことだろうな。俺のことを、何も知らないド素人だと思っているんだろうな……」
要するに、からんできたわけだ。こういう場合は、相手にならないにしくはない。下手に逆らおうものなら、那谷の怒りになおさら火をそそぐ結果になるだけだからだ。
俺が口をとざしたままでいるために、那谷もおし黙るしかないようだった。しばらく、不機嫌そうに俺を見つめていたが、やがて手を振ると、こういった。
「出ていけ……」
ありがたい。その一言を待っていたのだ。
が、──那谷は容易に俺を解放しようとはしてくれなかった。ドアをあける俺の背中に、最後の一言を放ったのである。
「おぼえてろ……」
やくざの常套語だ。芸術愛好家の言葉としては、はなはだ創作意欲に欠けると言わねばならない。しかし──その一言が、俺を憂うつにさせたのもまた事実だ。俺はまたしても、新たな敵を一人つくってしまったようだ。
事務所を出ると、そのまま画廊に足を踏み込むことになる。二十坪ほどの小さな画廊だが、人がほとんどいないことが、その空間を実際以上の大きさに見せていた。この寂しさには、俺にもいささかの責任がある。展示されているロダンのデッサンがことごとく贋作である、というかんばしからぬ評判を立てたのは、他ならぬこの俺だからだ。
だが、画廊の人気《ひとけ》の無さに気をとめている余裕は俺にはなかった。画廊に足を踏み出すと同時に、俺の関心はすべてただ一人の男に向けられることになったからである。
男、──と呼ぶには、いささかためらいをおぼえる。まだ二十代なかばにも達していない、ほんの子供だからだ。痩せこけ、その油っ気のない長髪、どす黒い肌は、明らかに栄養不良の兆候を示していた。
この世界に身をおくかぎり、その|て《ヽ》の若者とはいやでもなじみにならざるをえない。芸術家をこころざし、世に受けいれられぬ憤怒と絶望に、四六時中身を焦《こ》がしている若者の一人なのだ。いや、ほかに例を求めるまでもなく、かつての俺もその一人だったのだ。パリ・モンマルトルの俺の安アパートには、そんな若者たちが世界中から集まっていたものだ。一夜、俺たちはおのれの才能にみきりをつけ、そして……。
が、──今は想い出に心寄せているべきときではない。青年がたんなる芸術家志望の一人だとしたら、俺もことさらに関心を寄せたりはしなかったろう。その挙動が俺の不信を招いたのである。
青年は、しきりに受け付けの女の子の様子をうかがっているようだ。女の子の方は、仕事に退屈して、ボンヤリと窓の外をながめている──大丈夫だと判断したのか、青年はゆっくりと窓際まで歩み寄っていく。あいにくなことに、事務所から出てきたばかりの俺の存在には気がついていないらしい。
青年が小脇に抱えているスケッチ・ブックから、小さな額縁を取り出すのを見たとき、俺には彼の狙いがはっきりとのみこめた。
俺はことさら靴音をひびかせ、青年に向かって歩いていった。青年はギクリと顔を上げ、俺の凝視を真正面から受け、その視線をはなせなくなった。
俺は青年のかたわらに立ち、顔を寄せてささやきかけた。
「俺にも昔、同じようなことを考えた憶えがあるよ……自分の才能はなかなか認められない。ところが大家の筆によるものとなると、どんな愚作でも高値がつく。それじゃ、その大家の贋作をつくって、作品にまぎれこませたらどうだろう。ろくでもない世間に復讐することができるんじゃないか……だが、止めたほうが無難だな、ここに並んでいるのは、いずれも贋作ばかりなんだ。もう一枚、贋作を加えたからといって、どうってことはないだろう……」
「………」
青年は、とっさには俺の言葉が理解できなかったようだ。たしかに、銀座の画廊に並べられているロダンのデッサンがことごとく贋作だという話は、純な芸術家青年には信じがたいことだったに違いない。
が、──次の瞬間、青年はサッと身をひるがえし、画廊から飛び出していった。受け付けの女の子がおどろいて立ち上がるほどの、慌てふためいた遁走ぶりだった。
俺はしばらく、青年が飛び出していったガラス戸を見つめていた。駆け出すまぎわ、青年が投げかけてきた憎悪をおびた視線が、奇妙に俺の脳裡に焼きついてはなれなかった。
俺が青年にいった言葉は、必ずしも|でたらめ《ヽヽヽヽ》ではなかった。俺がかつてパリで悶々《もんもん》としていたころ、青年と同じことを考えていたのは事実なのである。そして、俺は……。
俺はフッと苦笑を浮かべた。昔の自分とよく似た青年を見かけたことが、俺をいつになく回顧主義者にしているようだ。──俺はもう画家をこころざしている若僧ではないし、あの青年とも二度と会う機会はないだろう。何も、ことさらに思いなやむ必要はないはずだった。
那谷画廊を出た後も、なお俺は苦笑を浮かべたままだった。
もちろん、俺はまちがっていた。二週間後、俺はふたたび|あの《ヽヽ》青年と会うことになったのである。
──その日、俺はなじみの喫茶店で、原稿を書いていた。
ペラにして十枚ほどの原稿で、来月号の某美術雑誌に掲載される予定になっていた。俺は、周囲が適当にさわがしい方がよく仕事ができるタチなのである。
ふと、テーブルのかたわらに誰かの立つ気配が感じられた。
顔を上げた俺の視界に、|あの《ヽヽ》青年の姿が入ってきた。
「狩野昭さんですね……」
青年はやや切口上にいった。
「ちょっと、お見せしたいものがあるんですが……」
青年の登場があまりに唐突にすぎて、俺はとっさに返す言葉を失った。俺があっけにとられているのをいいことに、青年はさっさと正面の席にじんどってしまった。
「ぼくは、小泉四郎といいます……」
青年は一方的に話を進めていく。
「お察しのとおり、うだつのあがらない画家志望の一人でして……実は、狩野さんのところにお電話したら、留守番電話で|ここ《ヽヽ》を教えられまして……」
「待ってくれ」
俺はようやく、小泉と名のった青年の言葉をさえぎることができた。
「俺はいま仕事中なんだがね……」
「大して、お手間はとらせませんが……」
「時間のことを言ってるんじゃない。迷惑だと言ってるんだ……」
「………」
一瞬、小泉はひどく恨みがましい眼をして見せた。図々しいというのではない。自分にあまりに執着しすぎていて、相手の立場をおもんぱかる余裕《ゆとり》を失っているのだ。──一流の芸術家たらんと精進している若者たちに、共通している特質といえた。俺はまたしても若かった頃の自分を想い出し、その|ひるみ《ヽヽヽ》が小泉につけこむ隙を与えたようだった。
「見ていただきたいものがあるんですが……」
と、小泉はくりかえし、手にしていたスケッチ・ブックをひろげて見せた。
「こいつを見て……その……狩野さんのご感想をいただきたいと思うんですが」
「………」
俺はしばらく、小泉が示したデッサン画を見つめていた。
感想もなにもあったものではない。ロダン・デッサンの贋作……ただ、それだけの代物《しろもの》にすぎなかった。
描かれているのは、寝そべっている裸婦像だ。たしかに、非常に巧みな贋作といえた──ロダンの真作模倣を避け、しかも人眼をひくことのないポーズを選ぶという賢明さもそなえている。ロダンが好んで描いたペン・デッサンの水彩をとり入れているところも、まずは贋作の常道にのっとっている。多少、線の反復が多すぎる|きらい《ヽヽヽ》はあるが、素人……那谷貞夫のような素人の眼をだますのには充分のはずだった。
そう、非常に巧みな贋作だ。だが、それ以上の何物でもない。
「これがどうかしたのか……」
俺は、スケッチ・ブックから顔を上げた。
「ぼくが描きました」
「ほう……」
「それだけですか」
「誉めて貰いたいのか」
「………」
小泉の眼を怒りの色がかすめた。決して、好感の持てる青年ではない。傲慢《ごうまん》で、傷つきやすく、自分の才をたのむあまり、他者に対する礼儀を忘れてしまっている。そのうえ、たしかに体からは悪臭がにおってくるようだ。
かつての俺がこうだったのだ。また、そうでなければ、こんな不愉快な青年と鼻をつきあわしていることに耐えられるはずがない。
「使い物になりませんか」
やがて、小泉は気をとり直したようにいった。
「どういう意味だ?」
「那谷画廊のロダン・コレクションもそうとうにひどい代物だった。|あれ《ヽヽ》に比べれば、まだしも|こちら《ヽヽヽ》の方が……」
「贋作家になろうというのか」
そのつもりはなかったのだが、俺の語調はかなり激しいものを含んでいたようだ。
小泉はビクリと肩をふるわせた。一変して、拗《す》ねたような表情になった。
「いけませんか」
「そんな話なら、俺のところに持ち込むのはお門《かど》ちがいというものだ」
「ずいぶん、お上品な口をきくんですね」
「なんだと……」
「ぼくは知ってるんですよ。狩野さんがかつて贋作家だったってことを……」
「………」
一言もなかった。パリから帰った後、俺は自分の才に絶望するあまり、たしかに贋作に手をつけた時期があったのだ。印象派の贋造を二作……しかし、それだけで贋作からは手を引き、その二作ものちに買いもどしている。名誉な話ではないので、ことさらに口外するような真似はしなかったが、かといって秘密を守ることにさほど心を砕いたわけでもない。多くの美術関係者が、俺が贋作家だったことを知っている。
いずれにしろ、十年以上も昔の話だ。
「だから、俺が贋作を売りさばくことに精通しているとでも思ったか」
俺の眼は、さぞかし凶暴なものになっていたことだろう。
「あいにくだったな。とっくに、|そちら《ヽヽヽ》からは引退している。お役に立てなくて残念だが……とっとと消えちまってくれ」
小泉の体がこわばり、ついでくずれた。
「もう、ぼくは贋作をするぐらいしか仕方がないんだ……」
小泉は両の指で頭髪を掻きむしり、なかばうめくようにいった。
「ぼくの才能じゃ……とうてい画壇に登場することなんかできないんだ」
あつかいにくいことおびただしい。最初は脅しにかかり、次には泣き落としというわけだ。これがすべて演技だとしたら、小泉は天性の演技者というほかはない。他人を肥料にすることが性《さが》になっている者に共通した特質だ。
「そんなことはない」
しかし、俺はとりあえず慰めるしかなかった。
「このロダンの贋作は、たしかによくできている。贋作家になろうなどというヤケさえ起こさなければ、いつか必ず世に出られるはずだ。およばずながら、そのための協力だったら……」
「贋作はいけないことですか」
ふいに、小泉が挑むようにいった。
俺は大きく息を吸った。この社会では、必ずしも贋作が悪だという常識は通用しないのである。ルーブルのモナ・リザ≠ウえ贋作だという説があるぐらいなのだ。厳密に真贋を区別していけば、美術界そのものが崩壊することにもなりかねない。
「第一に、贋作はきみの才を殺すことになる」
俺はいつのまにかさとすような口調になっていた。
「第二に……やはり、贋作は恥ずべき行為なんだよ。たしかに、この社会には贋作が横行しているが、だからと言って……」
「狩野さんは、W・オイレングラスという画家を知っていますか」
突然、小泉が俺の言葉をさえぎった。
「………」
一瞬、俺は絶句した。もちろん、俺がオイレングラスの名を知らないはずがない。知っているばかりか、ある意味では、オイレングラスこそ俺の人生にもっとも深くかかわった画家だとすらいえるのだ。
「ある地方の美術収集家が、オイレングラスの宗教画を所有していました。それが今度、東京のM美術館に寄贈されることになったんだそうです……」
小泉は言葉をつづけた。
「ところが、そいつは贋作なんです。いいですか。贋作が堂々と美術館に展示されるんですよ。そんなことが許されるのなら、ぼくがロダンの贋作をするぐらい……」
小泉のわめき声は、俺の耳にはほとんど騒音としかきこえていなかった。そのとき、俺は暗い予兆に打ちのめされていたのだ──ついに、若き日の愚行をつぐなわねばならないときがおとずれた、という暗い予兆に……。
2
──決して、小泉の才能に心うばわれたというわけではない。たしかに、小泉に才能の片鱗をうかがうことはできたが、それはいまだ荒削りで、贋作に器用なところをみせるといった程度のものでしかなかった。
かといって、贋作家に道を踏みはずそうとしている小泉に、哀れをおぼえたわけでもなかった。第一に、俺は若者を善導するというタイプではないし、第二に、小泉は善導に値《あたい》するような殊勝《しゆしよう》な玉ではないからだ。むしろ、野心のみがいたずらに大きくて、他者をすべて踏み台とこころえているような青年といえた。
やはり、オイレングラスの、しかも贋作という言葉が、はなはだしく俺を動揺させたとしか思えない。くりかえすようだが、俺はオイレングラスとは因縁浅からぬ関係にあったのだ。
もちろん、俺は小泉の言葉を全面的に信用したわけではなかった。美術に関係する身として、小泉のような青年はいやというほど見てきているのだ。若いが、しかし純粋さとはほど遠い。小泉がオイレングラスをいわば餌にして、俺をなんらかの形で利用しようと考えているのは明らかだった。
小泉の狙いが何であるかはわからない。わからないが、それが何であるにせよ、うかうかと乗せられてしまうのはいかにも業腹《ごうはら》ではあった。しかし、──オイレングラスという名は、俺にはあらがいがたい吸引力をそなえていた。オイレングラスともう一人……小泉がもらした永積竜童《ながづみりゆうどう》という名もまた、強く俺を引きつけた。
永積竜童こそ、影の画壇≠ナその人ありと名を知られた贋作の実力者なのである。すでに故人になって久しいが、M美術館に展示される予定のオイレングラスの宗教画も、彼の筆によるものだというのだ。
俺は小泉の案内で、その日のうちに永積竜童の娘と会うことになった。
──青山通りの、間口二間ほどの小さなブティックだ。
どうにも、居心地が悪かった。ブティックに並ぶ小物も、たむろしている娘たちも、俺に無縁ということでは共通している。
小泉は店に入るなり、手近にいた女店員をつかまえ、小指をたてて訊いた。
「いるかい?」
いかにも世慣れた、しかし軽薄な|しぐさ《ヽヽヽ》だった。画家をこころざし、苦闘をかさねているうちに、タップリと世俗のあかにまみれてしまったようだ。なまじ才能があるだけに、なおさら嫌味に見えた。
女店員はうなずき、小泉は得意満面に俺をふりかえった。
「ありがたい。いるそうですよ」
「誰がいるというんだ?」
「嫌だな。竜童の娘に決まっているじゃないですか。このブティックの経営者ですよ」
小泉はわけ知り顔で、ブティックの奥の階段をのぼっていった。俺をうまく乗せたと思い、有頂天《うちようてん》になっているらしい。小泉という男を好きになるには、かなりの努力を要するようだ。
俺も小泉にしたがい、階段をのぼった。
階段をのぼったすぐの所に、瀟洒《しようしや》な白いドアが見えた。
小泉のノックに応じて、若い女の声がきこえてきた。
「どうぞ……」
小泉はドアを大きく開け、俺を招き入れる身ぶりをして見せた。俺は自分を、クモの網にからめとられていくハエのように感じていた。
十畳ほどの部屋だ。
全体を白で統一した、いかにも若い娘好みの部屋だった。
部屋の中央に置かれたソファから、若い女が立ち上がり、俺たちに向かって歩み寄ってきた。
「こちら、美術評論家の狩野昭さん……お父さんの絵のことについて、いろいろとご相談に乗ってくださるそうだ……」
小泉がうきうきと、俺たちをひきあわせた。
「こちらは、永積|美子《よしこ》さん……」
「よろしく」
永積美子と紹介された娘は、俺に向かって会釈《えしやく》して見せた。
骨細の、華奢《きやしや》な体つきをした娘だ。大きな眼に、長い髪がひどく印象的だった。一言でいえば、きわめて魅力的な娘だった。
美子の勧めにしたがい、俺は椅子に腰をおろした。お茶を淹《い》れようとする美子を、小泉が制した。
「ぼくが淹れるから、話をしなよ……」
小泉はキッチンに向かった。正直なところ、いささかがっかりした。小泉と美子がかなり親密な関係にあることが明らかになったからだ。
「なにか、W・オイレングラスの絵のことについてお話があるとか……」
俺が、会話のきっかけをつくった。
「ええ……」
美子は、どこまで俺に話していいものか迷っているようだ。しばらくためらっていたが、やがて思い決したようにいった。
「狩野さんは、飯沢コレクションに含まれているオイレングラスの絵のことはご存知でしょうか」
「『主の足を洗う女たち』ですね。K県在住の美術収集家、飯沢|保《たもつ》が一九七三年に高名な画商から購入したものときいています」
と、俺は答えた。
「日本では、唯一のオイレングラスの絵ということになる」
「それが違うのです」
美子の顔に、苦しげな色が浮かんだ。
「あれはわたしの父……永積竜童が描いたものなのです」
「ほう……」
俺は、さほどおどろかなかった。ごく無感動にうなずいていたようだ。
「そうですか」
「父はご存知のように贋作家でした……『主の足を洗う女たち』は、父が死の直前に描きあげた最後の作品でした。父にしても、会心の作だったと思います……」
「ただし、あくまでも贋作にすぎない」
「そうです……」
と、美子はうなずいた。
「父はその絵を、|自分の作品《ヽヽヽヽヽ》として非常に愛しておりました。贋作家の父としては、めずらしく手元に置いておきたいと願っていたようです……でも、その『主の足を洗う女たち』すら、画商との約束に応じて、手放さざるをえなかったのです。父は、それを死ぬまで無念に思っていたようです」
美子の声は低く、終始、抑制をたもっていた。死んだ父親のことを話すのに、感情の乱れをいささかも感じさせない。利口な娘というほかはなかった。
「父は生前、非常に多くの贋作をものしました。わたしはもちろん、父自身にすら|それ《ヽヽ》が何点にのぼるのかわからなかったようです……でも、父が本当に愛着をいだいていたのは、『主の足を洗う女たち』一点だけでした。それが自分の作ではなく、オイレングラスの作品《もの》として世に流布されているのを、死ぬまで心残りにしておりました……」
「そうですか」
俺はうなずくばかりだった。
泣かせる話だ。生涯を贋作家としてつらぬいてきた男が、死ぬ直前の作品に愛着をいだき、自分のものとして手元に置きたいと願う。泣かせる話だが、じゃっかん|むし《ヽヽ》のよさを感じさせないでもない。贋作家としてかなりの財を成してきた男が、名声までも欲しがるのは欲深にすぎるというものではなかろうか。──ただ、贋作家の心情を考えれば、ありえないことではない。ありえないことではないのだが……。
「父の死後、『主の足を洗う女たち』のことはずーっと気にかかっておりました。ですが、飯沢コレクションに含まれている間は、世間の眼にふれることもなく、また取り返す手段《すべ》もないとあきらめていたのです。ところが……」
「飯沢コレクションがM美術館に寄贈されることになった……」
「ええ……」
美子は唇を噛んだ。
「父の贋作が、ひろく世間の眼にふれることになるのです。自業自得といえばそれまでですが……それが、父が最も愛着をいだいていた『主の足を洗う女たち』であるだけに、なおさら不名誉な、恥ずべきことであるように思えて……」
沈黙が二人の間に充ちた。芝居でいう、間《ま》というやつだ。
「それで、私にどうしろとおっしゃるのですか」
やむなく、俺はそうたずねた。
「『主の足を洗う女たち』が贋作であることを発表していただきたいのです。美術雑誌かなにかに書いていただければ……」
「不可能ですな」
俺は首を振った。
「M美術館は、相手にまわすには大物すぎますよ。私がそんなことを書いたところで、黙殺されるのがおちですな。M美術館としては、鑑定家に調べさせようともしないでしょう。第一、そんなものを発表する舞台が与えられるかどうか……下手をすると、他人の財産を犯したということにもなりかねませんからね」
「それでは、あたしが自分の口から発表するのはどうでしょう? そのための場が提供されるように、ご手配いただけないでしょうか」
「それもむつかしい」
俺はふたたび首を振った。
「まず、効果はないと考えるべきでしょう。こういってはなんだが、永積竜童はそうとうにうさんくさい人物として知られている。その娘が、オイレングラスの絵は父親が描いたものだと発表しても、どこまで信用されるかどうか……過去に例のないことでもないですし……」
美子は途方にくれたようだ。その膝のうえに置かれた手が、スカートを強く握りしめている。
まことに残念だ。だが、俺としてもいかんともしがたかった。
「『主の足を洗う女たち』を盗み出すのを手伝ってくれませんか」
ふいに顔を上げて、美子がいった。
「狩野さんなら、いろいろな情報を入手するのに好都合な立場にいらっしゃる。あたしはなんとしてでも、父の悲願をかなえてやりたいのです。それに……父の贋作がオイレングラスの作品として、M美術館に展示されるのは、娘のあたしとしてはとうてい耐えられないことですわ。父の恥を後世に残すようなものですから……」
とっさには、美子の言葉が理解できなかったようだ。一瞬、俺は唖然《あぜん》とし、ついであわてて美子の申し出を断わろうとした。だが、──背後からきこえてきた小泉の声が、俺の機先を制した。
「まさか、嫌だとは言わないでしょうね」
小泉の声はしずかだったが、しかしふてぶてしい恫喝《どうかつ》をみなぎらせていた。
「狩野さんは、贋作は悪だと言った。贋作は悪だという論理で、贋作家になろうとするぼくをいさめたんだ……そんなご立派な狩野さんが、まさか贋作がM美術館に展示されるのをお見逃しにはならないでしょう」
「………」
なるほど、すべてが|ここ《ヽヽ》に帰結するための周到な罠だったというわけだ。狡猾《こうかつ》な、しかしいかにも世間知らずの若僧が考えそうな罠だった──小泉は自信過剰のあまり、俺が彼を贋作家にしないためには何でもすると信じているのだ。おそらく、小泉はこれまで人の善意を利用することで生きてきたわけなのだろう。
冗談じゃない。小泉が人殺しをしようと、野たれ死にしようと、俺の知ったことではなかった。また、贋作がM美術館に展示されるのを見逃すことで、倫理観に撞着《どうちやく》が生じたとしても、なんら痛痒《つうよう》を感じない。要するに、二枚舌は中年男の常なのである。
が──、
「わかった……」
俺は顔を上げて、キッパリとこう言い切っていた。
「盗み出すことができるかどうか、少し調べてみよう」
俺にもまた、オイレングラスがM美術館に展示されるのが嬉しくない事情があったのである。
3
──その翌日、俺はM美術館におもむいた。
窃盗《せつとう》は、素人には困難な仕事だ。狙う物が高価な美術品だとしたら、なおさらのことだろう。ぶっつけ本番にできる仕事ではない。事前に偵察しておくことは、最低限必要と思われた。
M美術館は、かつて桜木利為侯爵の所有だった四万平方メートルの敷地内に設けられている。戦後、駐留軍に接収され、司令官の官邸に使用されたのち、再び都に返却された建物なのである。赤レンガの美術館は、都には希有《けう》な大公園を背景にえて、新名所の一つとなりつつあるようだ。
俺は何度もM美術館をおとずれている。だが、それは美術評論家の立場でおとずれたのであって、もちろん窃盗の下調べでやって来たのは、今日が初めてのことである。立場を転じたことが、俺に多くの新たな発見をもたらした。
まず、──M美術館が盗難防止に万全の措置をこうじていることが俺をおどろかせた。ガードマンの配置は実に適切で、しかも人数が多い。公園内という立地条件も、泥棒にはあまりありがたくないようだ。見晴らしがよすぎて、逃走にははなはだ不都合だからだ。
美術館に足を踏み入れた。
ガードマンの姿がめだった。加えて、随所に設置されているテレビ・カメラがある。この建物で窃盗を働こうとする者は、百の眼にさらされることを覚悟しなければならない。
まっすぐ、飯沢コレクションが展示される予定になっている部屋に向かった。
コレクション到着を一週間後にひかえて、部屋はすべての内装を終えていた。四面に設けられたガラス・ケースがまばゆいばかりだ。おそらくハンマーをふるっても、容易には割れない強化ガラスだろう。『主の足を洗う女たち』も、そのガラス・ケースの一つに展示されることになるのはまずまちがいなかった。
部屋にガードマンの姿はなかった。監視すべきものがまだ到着していないのだから当然のことだ。鑑賞者も一人もいない。
俺は常に、天井の隅にすえられているテレビ・カメラを視界の端に意識していた。今、モニター・ルームでは、数対《すうつい》の眼が俺の姿をとらえているはずだった。
俺は大きく息を吸った。とにかく、窃盗の下調べだけは完璧を期さなければならなかった。多少の危険はおかしても、どんな盗難防止装置がセットされているのか知っておく必要があるのだ。
俺は、なにげない風をよそおって、ガラス・ケースに歩み寄った。そして、小脇に抱えていた美術館のパンフレットを、パサリと床に落とした。
俺の動きはなめらかで、疑惑を招く要素は何もなかったはずだ。いかにも、うっかりしたという調子で腰をかがめ、──パンフレットを拾う拍子に、わざと足をもつれさせて見せたのだ。
ほんの数秒、俺の肱《ひじ》は強くガラス・ケースに押しつけられた。それだけで、盗難防止装置を反応させるのには充分だったようだ。
美術館の静寂をつんざき、かんだかいサイレンの音が鳴りひびいた。まさしく、狂騒音と呼ぶにふさわしい。このサイレン音では、死者すらも棺から飛びだしてしまうだろう。サイレンは、ほとんど物理的な圧迫感をともなって、俺の鼓膜をふるわせていた。
あっという間に、俺の周囲には人垣ができた。ガードマンたちの背後には、一般の鑑賞者たちもまじっていた。
「いや……パンフレットを落としてしまって、拾おうとした拍子にバランスを崩してしまったんですよ」
俺は、弁解におおわらわだった。
「別に、ガラス・ケースにさわろうとしたわけじゃないんだが……」
「この人の言うとおりですよ」
と、俺に口添えしてくれた男がいた。モニター・テレビで、俺の動きを監視していた男にちがいない。
「これは、単なる事故だ」
顔見知りの美術館の事務員が、俺の身元を保証してくれるにおよんで騒ぎには|けり《ヽヽ》がついた。なにより、盗むべきものがまだ到着していないことが俺の潔白を強く証明してくれたようだ。
「うちの盗難防止装置が完璧なことを、いつか書いて下さいよ……」
その事務員が笑いながらいった。
俺は騒ぎをわびて、その場を辞した。
一つだけ、はっきりしたことがある。M美術館にひとたび展示されてしまえば、誰であろうと『主の足を洗う女たち』にふれることは不可能なのである。
──俺はその足で、有楽町のA新聞社屋に向かった。そこの文化部に、学生時代の友人が籍を置いているのを想い出したからだ。
友人の名は権藤《ごんどう》、久しく会わないうちに、またしても十キロちかく体重が増えたようだった。子供は四人、うらやましくなるほどの楽天家だった。
地下の喫茶店に、権藤は満面に笑いを浮かべて、せかせかと入ってきた。
お決まりの挨拶を交したのち、俺たちはしばらく共通の知人の噂話で時間をついやした。
「ところで、実は頼みたいことがあるんだが……」
会話が一拍とぎれたのをしおに、俺は本題に入った。
「飯沢コレクションのことなんだが……」
「なにかに書くのか」
「わからん。まあ、ちょっとした取材というところかな」
「そうか……」
権藤は、体を椅子に沈めた。
「俺もあまり飯沢コレクションにかんしてはくわしくないんだが……まあ、わかるかぎりのことで協力するよ」
「コレクションそのもののことじゃないんだ……今度、飯沢コレクションがM美術館に移されることになったのは知ってるな」
「ああ……」
「その移送ルートを教えてもらいたいんだ」
「………」
権藤は、いささかあっけにとられたようだ。本来、美術品がどう移送されるかなど、美術評論家の興味を寄せるべきことではないはずだからだ。
「そんなことを訊いてどうするんだ?」
権藤は大いに疑わしげだった。
「だから、取材だよ」
俺は、権藤の疑いをいなした。
「別に、他意はないさ」
「美術評論家ってのは、そんなことまでしなければならないのか」
「美術評論だけじゃ喰えないのさ」
どうにか、権藤を納得さすことができたらしい。自分もあまりくわしくはないが、という言葉を枕にして、権藤は飯沢コレクションの移送ルートを説明した。
要するに、貨車で運ばれることになるようだ。飯沢保が在住しているS市から、新宿駅までは列車速度にしておよそ四時間の距離である。途中、T操車場にて、貨車を転送させる以外はまったくのノン・ストップだという。美術品の積み降ろしの際、それぞれ警官たちの警備がなされることはいうまでもないだろう。
貨車を牽引《けんいん》しているのは高速貨物用列車で、平均時速は九十キロ。とうてい、列車強盗が可能な速度ではないし、野蛮な英国とことなり、日本は列車強盗そのものが成立しにくいお国柄だ。走行中の貨車から、『主の足を洗う女たち』を盗もうとするのはまずあきらめた方がよさそうだった。
かと言って、貨車に積み込む以前、あるいは貨車から降ろした後を狙うのは、なおさら困難なようだ。厳重な警備陣をつき破ることができると考えるほど、俺は楽天的な男ではない。
事態は、まさしく八方ふさがりの様相をていしはじめていた。M美術館に展示された後はもちろん、移送中も終始、『主の足を洗う女たち』に手をつけることはできないのだ。大体が、素人の俺たちが高価な絵画をうばおうと考えること自体、身のほど知らずというべきだったかもしれない。
──本当にそうだろうか……意識の地平になにかチカッと閃《ひらめ》くものがあった。俺は『主の足を洗う女たち』を奪う可能性、駱駝《らくだ》が針の穴を通るにも似た|ごく《ヽヽ》乏しい可能性に思い当たったのだ。
「これでいいのか」
権藤の声が、考えこんでしまっていた俺を現実に引き戻した。俺の沈黙に、権藤は不審をおぼえ、いささかいらだってもいたようだ。
「あ、ああ……」
俺はレシートをつかみ、あわてて椅子から立ち上がった。
「どうも、いろいろと参考になった……」
「なに──」
微笑を浮かべながら、権藤が最後に放った言葉が俺の胸に深くつき刺さった。
「なんだか、おかしいぜ。まさか、美術品泥棒でもおっ始めようというんじゃないだろうな……」
「………」
正直、笑える冗談ではなかった。俺はあいまいに首を振り、ほうほうの|てい《ヽヽ》で権藤から逃げ出した。
──青山に向かうタクシーの車中、俺はさっき頭に閃いた思いつきを、じっくりと吟味していた。アイディアの萌芽に過ぎなかったものに、検討を加え、さらには修正をほどこし、一つの作戦《ヽヽ》にまで育てつつあったのだ。
悪くなかった。『主の足を洗う女たち』を奪うという考えに、あまりに固執しすぎていた|きらい《ヽヽヽ》がある。要は、『主の足を洗う女たち』が贋作であるという事実を、広く世間に知らしめれば済むことなのだ。それには……。
運転手の声で、我にかえった。
いつの間にか、タクシーは目的地の青山通りに到着していたのである。美子のブティックからほど近い場所だった。
俺はタクシーを降り、美子のブティックに急いだ。
そして、足をとめた。
美子のブティックから、思いがけない人物が出てくるのを目撃したからだ。美術界では、それなりに有名な人物だった。郷崎一《ごうさきはじめ》──|あく《ヽヽ》の強い商法と、非合法すれすれの絵画売買とで、急速にこの業界にのしあがってきた郷崎画廊の経営者である。言葉を交したことこそなかったが、パーティーなどで何度もその姿を見かけたことがあった。
俺の口には、自然に苦笑が浮かんでいた。俺と同じく、郷崎もブティックにはおよそ縁遠そうな男だ。どうやら、小泉、美子の二人は、かなり周到に美術界に人脈の網を張りめぐらしているらしかった。
俺は郷崎が充分に遠のくのを待って、ブティックに足を踏み入れた。
案内を乞う必要はなかった。俺は女店員に手を振り、階段をのぼっていった。
「旅の支度をしろ」
俺は部屋にはいるなり、美子と小泉に声をかけた。
唐突な俺の言葉に、小泉と美子は顔を見あわせた。
「どこへ行くんですか」小泉がためらいがちに訊いてきた。
「T市だよ──」
俺は言った。
「『主の足を洗う女たち』は、T市の貨物駅を経由する……狙うとしたら、T市をおいてほかにない」
4
──T市は、群馬県南部の商工業都市である。
製粉、機械、金属鉄鋼などの活発な工業生産で知られ、信越本線、上越本線など、交通の要地としても有名な街だ。人口は二十万ちょっと、まずはにぎやかな地方都市といえるだろう。
が、街並の印象は、必ずしもかんばしいとは言いかねるようだ。小東京のおもむきが濃くて、総じてうるおいに欠ける。地方都市に特有の、あの埃っぽさだけが鼻につくのだ。
俺、小泉四郎、永積美子の三人は、市のメイン・ストリートに位置するTホテルに投宿した。もちろん、小泉と美子にはツイン、俺にはシングルをとった。
俺たちに、さほど時間は残されていなかった。飯沢コレクションがこの街を経由して、東京に運ばれるまで、あと五日を余すばかりだったからだ。
ホテルに入った|その《ヽヽ》日から、俺たちは活動を開始することになった。
まず、T貨車操車場の偵察から始めることにした。
T操車場は、いわゆる小山操車場《ハンプ・ヤード》の一つである。ハンプ・ヤードとは、押上線で一方の側から貨車を高さ四メートルほどの小山《ハンプ》に押し上げ、重力の力によって逆斜面の線路に走らせ、その貨車を転走、仕訳線に分解をおこなう操車場のことだ。飯沢氏が在住しているS市の駅でコレクションを積んだ貨車は、最寄の貨車操車場である|ここ《ヽヽ》T操車場で東京着の直行列車に仕訳されたのち、目的地に向かうことになる。
問題は、T操車場のハンプ分解機構がコンピューターに管理されていることである。貨車の重量、速度、通過時刻、はてはヤード内の風向風速にいたるまでが、ちくいちコントロール・センターのコンピューターに入り、転走貨車の速度、進路が完全に自動管理されているのだ。──要するに、ヤード・仕訳線のレール内に、約二メートル間隔で、油圧式ユニットが設けられているのである。転走貨車の車輪がそれらのユニットの頭部を踏むときの速度に応じて、抵抗力あるいは押し上げ力が働いて、貨車の転走制御が自動的に行なわれる仕組みなのだ。
ハンプ・ヤードにおけるコンピューター管理は、なにもこのT操車場にかぎったことではない。武蔵野、塩浜、北上ヤードなど……枚挙にいとまがないほどだ。その意味では、T操車場がコンピューター管理されているからといって、いまさらおどろく必要もないだろう。
おどろく必要はないが、しかし転走貨車をおそう身となると頭をかかえざるをえない。貨車をとめる、あるいは転轍機《ポイント》を用いて別のレールに引き入れる、さらには|その《ヽヽ》速度を遅くする程度のことでさえ、すべてコンピューターによって看破されてしまうのである。
だが、なお、『主の足を洗う女たち』をうばう機会があるとしたら、貨車が牽引列車から放たれた転走時──このときをおいてほかにはないのだ。貨車がハンプを自走し、仕訳線に入るまで、まったく監視の眼から解放されるためである。もちろん、コンピューター自動管理を除けばの話だが……。
しかし、可能なことなのか? 『主の足を洗う女たち』をうばうため、貨車の天蓋に飛び移ることさえ許されぬのだ。油圧式ユニットは、貨車の重量の変化を敏感にコンピューターに伝えるからである。
──ともあれ、俺は二人をしたがえて、T操車場の偵察におもむくことにした。
T操車場は、まずはその広さで俺たちを圧倒した。
みわたすかぎり、貨車の列がつらなり、広大な敷地を埋めつくしているのだ。全体に、灰色の印象が濃い。人の姿がまったく見えないことが、なおさら無味乾燥のおもむきを深めているようだ。
うねり、交叉している鉄路が、むきだしになった血管を連想させる。それも、硬化をきたした老人の血管だ。灰色に汚れ、動脈瘤のように醜くからみあっているのだ。
鉄道ファンも、この操車場にはなんら興味を覚えないだろう。SLはいわでもがな、牽引列車さえろくに姿を見せないのだ。動くものといえば、ただ貨車がゴトゴトと走り、鉄路の彼方に小さくなっていくだけだ──単調な、眼を楽しませるものの一つとしてない風景といえた。
だが、──この殺風景さが、俺たち泥棒にはさいわいしている。たしかに、コンピューター制御は悩みの種だが、少なくとも、人眼だけは気にしなくても済むからだ。
今しも、ハンプをのぼりつめた貨車が、ゴトゴトと車体を揺らしながら、転走路に向かいつつある。
俺は双眼鏡で|その《ヽヽ》貨車をとらえながら、片手に時計を握っていた。
貨車が転走線から仕訳線に向かうのをたしかめて、俺は時計に視線を移した。
「六分か……」
俺の口から、自然に言葉がもれていた。
「なにが六分なんですか」
小泉が口を尖らして訊いてきた。何も知らされずに、ここまで同行を強いられたのを不愉快に思っているようだった。
「誰からも見られることなく、貨車が転走線を走っている時間が、さ……」
と、俺は答えた。
「仕事は、昼間、もしくは早朝にやることになるだろうからな。すこしでも、誰かに目撃される可能性があるなら、断じて|それ《ヽヽ》を避けねばならない」
「つまり、六分の間に仕事《ヽヽ》をしなければならないというわけですか……」
小泉が、なにか喉にからんだような声で言った。
「そういうことだな」
俺は双眼鏡をポケットに収め、|きびす《ヽヽヽ》を返した。
「どうした? まさか、鼻歌混じりにできる仕事だと考えていたわけじゃないだろう」
「………」
小泉が、気を呑まれたように沈黙するのがわかった。小泉にしてみれば、さぞかし不審に耐えない思いだったろう。うまく乗せたつもりの俺が、いつしか計画のリーダーシップをとっているのだ。できれば、俺の肚《はら》をたち割ってでも真意を探りたいにちがいない。
しょせん、小泉ごときにわかることではない。俺には俺なりの、『主の足を洗う女たち』がM美術館に展示されては困る事情というものがあるのだ。
車では、美子が待っていた。T市での足として、レンタカーをかりたのだ。車のドアに手をかける俺に、小泉の声が追いすがってきた。
「だけど、六分の間に、『主の足を洗う女たち』を盗むなんて不可能ですよ」
「不可能だ」
座席に体を滑り込ませながら、俺は陽気に答えた。
「だから、盗み出すつもりはないよ」
──その夜、俺は計画の詳細をすべて二人に明かした。わが愛すべきカップルは、最初は俺の言葉をよくは呑み込めなかったようだ。俺の計画が、あまりに彼らの予想していたものと大きくくいちがいすぎていたからだ。
難色を示す彼らに、俺は|諄 々《じゆんじゆん》と説いてきかせた。たしかに、的はずれの作戦に思えるかもしれないが、これでも立派に目的が達せられること……このほかに、『主の足を洗う女たち』がM美術館に展示されるのを阻止する方法はないこと……文字通り、幼児に教え諭す忍耐心で、一からくりかえし説いたのである。
「わかりました……」
ありがたいことに、美子は小泉よりもいくらかは聞き分けがよかったようだ。
「それで、あたしはどうしたらいいんでしょうか」
「そうだな……」
俺は、鼻梁を指でつまみながら言った。
「まず、T操車場の総合指令室に出入りしているクリーニング屋の名前を調べてくれ。それから、総合指令室の職員たちが着用している制服の種類も、な……こいつは、早くしないと、準備が間にあわなくなる」
「でも、どうやって調べたらいいのかしら」
「別に、クリーニング屋の名前ぐらい秘密でもなんでもないさ。職員の誰に訊いても、教えてくれるだろう……」
「ぼくは、どうしますか」
それまでかたくなに沈黙をたもっていた小泉が、初めて口を開いた。ようやく俺の計画を認める気持ちになったようだ。それでこそ泥棒トリオといえる。正確には、カップルと一人だが……。
「トランシーバーの準備をたのむ。できるだけ、性能のいいやつを、な……それから、こいつはちょっとむつかしいかもしれないが、飯沢コレクションを積んだ貨車の正確なスケジュールをさぐってもらいたい。おそらくは、T操車場の近くに、職員たちが集まってくる飲み屋街があるはずだ。酒をおごって、職員の誰かをいい気持ちにさせて、なんとか聞き出すようにするんだ。粘れば、いつかは成功する。ただし、疑われないように、な……」
「………」
二人は完全に、俺に呑まれていた。こと作戦にかんするかぎり、彼らは俺の命にすなおにしたがうだろう。いつしか主従が逆転して、俺が作戦の推進者となっていることにもなんら不審をいだいてはいないようだ。俺は、完全に二人を掌握しきったのだ。
少なくとも、そのときの俺はそう思ったのだが……。
──その翌日から、俺たちが作戦の準備に忙殺されることになったのは言うまでもないだろう。やるべきことはあまりに多く、しかも時間は極端にかぎられていた。実際、時間に追われているような日々だったのだ。
作戦決行を二日後にひかえた夜──俺は街で買い物をすませ、ホテルに意気揚々と帰ってきた。買い物といっても、大したものではなかった。デパートの日曜大工コーナーから電気ドリルを、玩具コーナーからは玩具を二つほど買ってきただけのことだ。
ほかの二人の準備も、着々と進行しつつあるようだ。美子は、すでに総合指令室に出入りするクリーニング屋の名前をつきとめ、さらには職員たちがどんな制服を与えられているのかも、さぐりだしていた──T市は、衣料品の総合問屋が多いことでもよく知られている。その情報を頼りに、美子が目的の衣料品を探しだすのも決してむつかしくないはずだ。
順調にいっていることでは、小泉にかんしても同じだ。他者と強引に関係をむすぶことに、小泉は一種異常な才能を発揮する男だ。その図々しい、しかし巧妙な接近のし方は、すでに俺の場合で実証されている。事実、小泉はとあるバーで出会ったT操車場の作業員と、最初の晩から|おれおまえ《ヽヽヽヽヽ》で呼びあう仲になっていた。おそらく、今夜あたりは、その作業員から飯沢コレクション積載貨車の詳細なスケジュールをききこんでくるのではないか……。
俺は上機嫌だった。作戦準備が破綻《はたん》なく進行していることに、俺はほとんど快楽《ヽヽ》を覚えていたのだ。
しかし……。
俺は自分の部屋に入ろうとして、|ふと《ヽヽ》その足をとめた。
隣りの部屋の、ドアの隙間から明かりが、もれていることに気がついたのだ。隣りは、もちろん小泉たちがとっている部屋だ。
さして、不審にも思わなかった。たまたま、小泉か美子かのどちらかが早く戻ってきたのだろうと考えただけだ。俺はまったく疑念を抱くことなく、いとも無邪気に隣りのドアをノックしていた。
「どうぞ──」
きこえてきたのは、小泉の声だった。声と同時に、ドアが開けられる。
俺は部屋に一歩を踏み込み、──とたんに体の自由をうばわれていた。背後から、はがいじめにされたのだ。万力に挾み込まれたようなものだった。それこそ、体をねじることすらかなわない。
俺の耳の後ろで、ドアが音たかく閉まった。
俺は呆然としていた。
|その《ヽヽ》男を眼にしているおどろきに比べれば、はがいじめにされていることなどものの数でもなかった。
「久しぶりだな……」
その男──那谷貞夫が言った。
「え、おい、ずいぶん奇遇じゃないか」
──もちろん俺は、奇遇を喜ぶ気持ちにはなれなかった。那谷は、再会したからといって喜べるような相手ではない。
その場の情景も、およそ楽しめるようなものではなかった──部屋は乱れに乱れ、ベッドのうえでは小泉がうずくまっていた。その腫《は》れあがった顔を見れば、小泉がそうとう手ひどく痛めつけられたことはあきらかだった。俺の姿を見ても、口をきく気力さえ残っていないようだ。
嫌でも、那谷の前身を想い出さないわけにはいかなかった。
「この腕をはなしてくれないか」
自分でも意外だったのだが、俺の声はひどく落ち着いたものだった。
「それとも、俺も殴らせるつもりかね」
「………」
那谷は渋い顔をした。俺がうろたえなかったのが、お気に召さなかったらしい。あいにくだが、こちらにもプライドというものがあるのだ。
「はなしてやれ……」
那谷がドスのきいた声で、俺の背後の男に命じた。さすがに貫禄がある。那谷画廊の事務室にすわっているより、やはりこういう場面のほうが板についているようだ。
俺はようやく、体が自由になるのをおぼえた。あらためて、背後の男を見やる。凶悪|魯鈍《ろどん》な、やくざ面をした男だ。ものの三秒もあれば、俺を難なくのすことができるだろう。
しばらくは、しびれてしまった腕を撫でさすり、血の巡りをよくするのにおおわらわだった。まったく、男の馬鹿力たるやそうとうなものだったのだ。
「その男は、体こそさほど大きくないが、もとプロレスラーでね……」
那谷は、いかにも得意げにいった。
「何をするにも、|ほど《ヽヽ》ということを知らない。つい、全力をふりしぼってしまうのだ」
「なるほど……」
俺はベッドのうえでうずくまったまま、なお身動き一つしない小泉に視線を向けた。極度の苦痛を与えられたことが、彼を一時的な痴呆状態にしているようだ。
「たしかに、全力をふりしぼったらしいな」
「おぼえてろといったろう」
那谷は、椅子のなかで背を反《そ》らした。
「あのまま、無事に済むと思っていたのか」
「無事に済むもなにも……あんたの言葉など気にとめてきいてなかった。あれから、ずーっと俺を見張っていたのか」
「昔、極道をしていた頃から、俺を親父のように思ってくれる若いのが何人かおってな……そのなかの一人が、俺の顔がつぶされたって話をきいて、あんたの後をつけ回し始めたんだよ。そしたら、どうもあんたの様子がおかしい。何かたくらんでいるらしいって……俺に報《しら》せてくれたのさ。なあ、M美術館では、ずいぶんしゃれた真似をしたそうじゃないか」
要するに、報復のために、手下に俺を狙わせたというわけだろう。更生やくざともなると、脅し文句ひとつ言うのにも、あれこれと気を使わねばならないらしい。
「なぜ、あの男を痛めつけた?」
俺は、小泉に向かって顎をしゃくった。
「あんたが何をたくらんでいるのか知りたくてね……」
那谷はうすら笑いを浮かべた。
「丁寧にたずねたつもりだったが、ちょっと手がすべったようだ」
「それで、知りたいことはわかったのか」
「さあな……」
「………」
──しゃべった、と俺は直感した。小泉はおよそ、仲間のために苦痛を耐え忍ぶタイプとはほど遠い。彼の行動理念は、自分可愛さの一語につきる。いちじるしく、連帯意識に欠けるのだ。他者を踏みつけにすることこそあれ、他者のために犠牲を払うことなど考えられなかった。
「それで、どうするつもりなんだ?」
と、俺は訊いた。
「別に……」
那谷はなおもうすら笑いを浮かべながら、席を立った。
「別にどうするつもりもないさ」
男が身をひるがえして、俺の背後から消えた。那谷も俺のかたわらをすり抜け、悠然と部屋を出ていった。ドアを閉めようとすらしない無作法さだ。
俺はつかのま呆然としていた。
那谷の狙いがどこにあるのか見定める必要があった。俺たちが作戦に成功したのち、なんらかの手段を使って『主の足を洗う女たち』を手に入れようと考えているのか。それとも……。
那谷の狙いを知るためには、まず小泉がどこまでしゃべったのかたしかめなければならない。俺は小泉に向かって足を踏み出そうとし、──しかし、とつぜん部屋にとび込んできた美子によって、先をこされたのである。
「四郎さんっ」
美子は、小泉にしがみついた。
「どうしたの、何があったのよ……」
小泉は、大仰なうめき声をあげ始めた。美子はほとんど半狂乱になっている──小泉にとって、美子はまさしく救世主にほかならなかったろう。美子の出現によって、危うく俺の糺弾《きゆうだん》から逃れることができたからだ。
こうなっては、俺も手をこまねいているしかなかった。泣いている女をひきはがして、小泉にどこまでしゃべったかを問い糺《ただ》す気力はなかった。愁嘆場は眼に見えているからだ。美子に大声で泣きわめかれることを思うと、さしもの俺も気力が萎《な》えた。
「ちくしょう、あいつら……」
小泉がいかにも苦しげにうめいた。
「腕を……俺の右腕を折りやがった……」
美子の泣き声がさらに大きなものになった。
俺もまた、心中、絶望のうめき声をあげていた。真偽はともかくとして、小泉は右腕を折られたと宣言している。ということは、──作戦は俺一人の力で遂行しなければならないことになる。
5
──その翌朝、小泉は一時間ほど姿を消し、再びホテルに現われたときは、腕に添え木を当て、白く包帯を巻いていた。戦線離脱を声たからかに宣言したにひとしい。──いまいましいことに、美子はそんな小泉を、卑怯とも、怯懦《きようだ》とも思っていないようだ。惚れた欲目で、小泉の猿芝居を心底から信じきっているのだ。
小泉は、俺が想像していた以上に狡猾な青年だった。那谷が登場し、やや情勢が変わってきたと知ると、アッサリと危険な仕事から身を引いたのだ。同時に、那谷の暴力に屈したことを、俺から糺弾される恐れのない立場に身をおくことも忘れない抜け目なさだった。
大体、那谷が飼っているような暴力のプロが、被問者の口を割らせるのに、その腕を折ったりするはずがない。腕を折られた苦痛は、しゃべることを不可能にするからである。
が、──そのことを美子に納得させるのはあきらめなければならない。美子は、可愛い恋人の苦痛を訴える声に、理性をまったく喪失させていた。俺の言葉など、てんから耳に入らない始末だった。
よろしい。またしても、この俺が貧乏クジを引くことになった。男らしく、それは認めよう。だが、──実際問題として、一人で作戦を遂行することがはたして可能だろうか。
正直、疑問とせざるをえない。美子にも多くは望めなかった。しょせん、アシスタントの域を出ないのではなかろうか。
俺は、覚悟を決めるしかなかった。俺一人の力で、『主の足を洗う女たち』がM美術館に展示されるのを阻止するほかはないのである。
そして、──ついに|その《ヽヽ》当日がやってきた。
──少なくとも、小泉は与えられた仕事だけは完璧に成しとげていた。T操車場の作業員から、飯沢コレクションを積載した貨車が到着する正確な時刻をききだしていたのである。作業員は、コレクションに興味を抱く画家志望の青年という|ふれこみ《ヽヽヽヽ》を頭から信じ、小泉を疑おうとさえしなかったという。
くりかえすようだが、小泉はこの種のことにかけては、まさしく天才的な能力を発揮する青年なのである。
牽引列車は早朝五時に、T操車場到着線に入る。そして五時半には、東京直行の別列車が出発線を離れるのだ──要するに、その三十分の間に、飯沢コレクションを積載した貨車は、押上線で小山《ハンプ》をのぼり、転走線を自走し、仕訳線に入ることになる。仕訳線に入った後は、貨車を連結するための作業員が多勢いるから、俺たちにはどうにも手を出せない。貨車が転走線を走っているわずかな時間が、俺たちに与えられた乏しいチャンスなのである。
午前四時。
俺と美子はレンタカーを駆って、T操車場に向かった。
街は、まだ闇の底に沈んでいた。真夜中の、漆黒の闇ではない。朝がまぢかいことを示す薄闇のなかに、T市はその雑駁《ざつぱく》としたたたずまいを浮かび上がらせていた。
車を運転しているのは美子だ。そば目にも、彼女が緊張の極に達し、強いストレスにさらされていることがわかった。ハンドルを握っている|その《ヽヽ》指関節が、白くこわばりを見せている。正直、今にも事故を起こすのではないかという、危惧の念を禁じえなかった。
美子が、永積竜童の娘であることはまちがいない。俺にしたところで、その程度のことを調べるぐらいの人脈は、美術界に持ちあわせている。だが、──だからと言って、美子がこの計画の立案者だとは思えない。おそらくは、小泉が言葉巧みにもちかけたものに相違ない。惚れた弱味で、美子は小泉の申し出を拒むわけにはいかなかったのだろう。
その頼りの小泉が、骨折と称して、作戦に参加しない。俺はいささか、美子のことが気の毒になった。できうれば、美子も作戦から身をひきたいところだろう。
前方に、公衆電話のボックスが見えた。
「とめてくれ……」
と、俺はいった。
「そろそろ、電話しておいた方がいい」
俺は車を降り、ボックスに入った。
受話器をつかむ手が、汗でぬらぬらとしていた。非常に、気持ちが悪い。どうやら、極度に緊張しているのは美子一人ではないようだった。
メモを見ながら、ダイアルを回す。
『はい……T操車場・総合指令室です』
相手が出た。
「こちら、坂本クリーニングですが……」
俺は、美子があらかじめ調べておいた、総合指令室出入りのクリーニング屋の名を口にした。
『なんでしょうか……』
相手の声に、不審のひびきが含まれた。午前四時という時刻は、クリーニング屋が電話をかけるのにふさわしいときではない。
「実は、三日前にそちらに一括してお返しした、皆様の制服のことなんですが……」
これも、美子が調べあげたことだ。クリーニング業務が秘密厳守を要する仕事とは誰も考えないから、美子にしてもこの程度のことを調べるのはさほど困難ではなかったはずだ。
「ちょっとした手違いがありまして……もう一度、こちらで洗い直したいと思いますので、そのようにとりはからっていただけないでしょうか……その間のつなぎと申しては失礼なんですが、こちらで同じ物を準備いたしましたので……」
『………』
相手は、理解に苦しんでいるようだ。無理もない。クリーニング屋がいちど洗って納入したものを、ふたたび洗い直したいと電話してきたのだ。まさしく、破天荒の申し出というべきだろう。
『おっしゃってることがよくはわからないのですが……』
と、相手はいった。
『八時になりましたら、庶務課の者が出てきますので、その頃、もういちどご連絡をいただけないでしょうか』
「それが、一秒でも早く、先の制服を回収しなければならない事情がありまして……」
俺は、かんだかくなりかかった声を、かろうじておさえることができた。今が、作戦が成功するか失敗するかのわかれ道といえた。
「実は、お詫びを申しあげなければならないのですが……担当の者があやまって、あの制服を脱色用の酸に漬けてしまいまして……それをそのまま、そちらに返却いたしましたような次第で……なんとお詫びを申しあげていいやら、とにかくあの制服を着ておいでですと、肌に炎症を生じる恐れがありますので……こちらもつい先刻、それが判明したようなわけでして……お詫びはお詫びとして、なにはともあれ、回収しなければならないと存じまして……」
俺はいささかなりとも芝居心があるとは思えないが、このときばかりは、懸命にクリーニング屋を演じた。もちろん、本当にクリーニング屋が脱色に酸を使うかどうかは知っているわけがない。だが、それを知らないのは相手も同じだろう。
『………』
つかの間、電話の向こうに沈黙がみなぎった。
俺は祈るような気持ちで、それこそ折れんばかりに受話器を握りしめていた。相手がはたして俺の言葉を信じたかどうか──たとえ信じたところで、坂本なるクリーニング屋に電話を一本入れられれば、それで万事休すなのである。
実際には、ほんのつかのまのことであったのだが、俺にはほとんど永遠とも思える時間が電話ボックスに流れたような気がした。
『困るじゃないですか』
ふいに、相手の噛みつくような声がきこえてきた。
『国鉄じゃ職員の健康管理にこれつとめているというのに……もし、|うち《ヽヽ》の連中が肌に炎症を起こすようなことにでもなったら、あんたのところで責任はとってくれるんだろうね』
「………」
俺は、地の底に沈むような安堵《あんど》をおぼえた。とにもかくにも、相手を信用さすのには成功したらしい。
「のちほど、うちの責任者がお詫びに伺うと思いますが……今はさっそく、替わりの制服をお持ちしますから、とにかく着替えていただけないでしょうか」
『まったく、迷惑な話だ……』
相手はなおも、あれこれと嫌味を並べていたが、そのうち唐突に電話を切った。要するに、渋々承諾したというわけだろう──坂本なるクリーニング屋に対して、じゃっかんの罪悪感を覚えないでもなかったが、冤罪《えんざい》は明日にでも晴れる。さほど、気にする必要もなかったろう。
俺は電話を切り、時刻をたしかめた。四時三十分……急ぐ必要があった。
俺は電話ボックスを出て、意気揚々と車にもどった。
「どうだった?」
と、美子が訊いてきた。
「うまくいった……」
俺は答えた。
「急いでくれ」
美子は、車を発進させた。俺が電話をかけている間に、美子もやや落ち着きを取り戻したようだ。ハンドルさばきが、同一人物と思えないほど巧みになっていた。
T操車場までは、さほど遠くもない。五分もすると、自動車は右手に茫漠とした操車場を見ながら走るようになっていた。
前方に、総合指令室の建物が見え始めた。四階にコンピューター室、五階に総合指令室を擁する五階建ての建物だ。|あれ《ヽヽ》が、T操車場の頭脳を成しているのだ。
美子は、総合指令室の玄関に車をとめた。
二人とも、ま新しい制服を詰めたダンボールの箱を抱え、玄関に足を踏み入れた。受け付けには、事情が通じていた。坂本クリーニングの名を出すと、難なく入るのを許可してくれた。
俺たちが見知らぬ顔であることにも、興味を示そうとさえしない幸運さだ。察するところ、坂本クリーニングはかなりの大世帯のようだ。
他の部署には興味なかった。俺たちの狙いは、ただコンピューター・ルームだけなのである。四階に達するのに、ひどくエレベーターが遅いように感じられた。錯覚とはわかっていても、それこそ爪を噛みたくなるようなもどかしさだった。常に、全身を誰かの視線にさらしているような、圧迫感があった。
ようやく四階でエレベーターの扉が開いたとき、俺は掌に冷たい汗をかき、美子も蒼白となっていた。詐欺師の図々しさは、二人ともに望みうべくもない。しょせん、俺たちは素人の域を出ていないようだ。
エレベーターの正面に、大きなドアがあった。そこに記された『コンピューター室』の文字が、大きく俺の眼を射抜いた。
「あれ……」
美子が小さな声でささやき、ドアのかたわらを指差した。そこには、何枚かの制服が乱雑に積まれてあった。
俺は意を強くした。俺の電話は、全面的に信用されたのだ。それらの制服が、連絡を受けた職員たちが慌てて脱ぎ棄てたものであることはまちがいなかった。
俺はドアを押し開けた。
「あの……」
自分でも、声がふるえているのがわかった。
「坂本クリーニングから参った者ですが」
部屋にいる男たちが全員、視線を|こちら《ヽヽヽ》に向けた──思ったより、人数は少なかった。コンピューター制御には、さほどの人数を要さないからだろう。
男たちの|こちら《ヽヽヽ》に向ける視線は、お世辞にも暖いものとはいえなかった。肌に炎症をこうむる恐れのある制服を届けたときかされているのだから、その視線が怒りをたたえるのも当然だろう。
「新しい制服は、こちらに置かせていただいてよろしいでしょうか」
俺はダンボールの箱を部屋の隅に置き、美子もそれにならった。男たちは、なお沈黙をたもっている。実際、いたたまれない気持ちだった。
「どうも……」
俺は一礼して、コンピューター室を辞した。その際、マグネット装着の、超小型盗聴マイクをドアの脇のめだたないところに取り付けることを忘れなかった。
通信販売で、誰にでも買える代物だ。
ドアを閉めた後、俺は窓からなかの様子をうかがった。何人かが席を立ち、ダンボールの箱から新品の制服を取り出しはじめていた。
成功だ!
俺と美子は手早く、廊下に脱ぎすてられた制服を両手にまとめた。もちろん、古い制服が必要だからではなく、廊下に放置しておくと怪しまれるからだ。
「急ごう……」
俺は美子をうながした。
本来の作戦では、この仕事は小泉がなすべきはずだったのだ。俺はこの時間、ただ転走線の脇で待機していることになっていた。だからこそ、連絡用にとトランシーバーを購入したのである。だが、いまいましいことに、小泉はあっさりと戦線離脱した。俺は二人分の仕事を負わされるはめとなったのだ。間にあうかどうか、俺は全速力で転走線に駆けつけなければならなかった。
が、──それは車に乗ってからのことだ。ここでは、あくまでもクリーニング屋を装わなければならない。クリーニング屋が、廊下を駆け出すなどもってのほかなのだ。
脚が今にも、跳ね上がりそうな感覚があった。駆け出したいという欲望をおさえるのに、それこそ意志力を総動員する必要があったのだ。玄関を通るときなど、実際、俺は歯を喰いしばっていたことだろう。
車に乗った。
ことさらに、急げという必要もなかった。美子はセル一発で、自動車の排気音を鳴りひびかせた。アクセルを足が折れんばかりに踏み込み──次の瞬間、俺の体はガクンと座席に叩きつけられた。
美子の運転技術にかんしては判断を下すのはさしひかえたい。女が超スピードで走る車に同乗した場合は、とりあえず何か別のことを考えた方が賢明だ。なにも好んで神経を消耗して命をちぢめる必要はないからだ。
いずれにしろ、俺にはほかに考えるべきことはいくらでもあった。
俺はまず時間をたしかめた。思わず、口からうめき声がもれた。すでに、五時を数分過ぎているのだ。手早くやったつもりでも、意外に時間をついやしていたようだ。もう、飯沢コレクションを積載した貨車はT操車場に到着しているのである。
ついで、盗聴器のスイッチを入れ、ボリウムを最大にした。盗聴マイクは、ほとんど音をとらえていない。いや、コンピューター室そのものが無音にちかいのだ。ブーンというかすかな機械音、ときおりの靴音だけをかろうじて聞くことができた。
こんなはずはなかった。
「どうした……」
俺はつぶやいた。
「どうしたんだ」
「操車場を見てよっ」
ハンドルを操りながら、美子が切迫した声で叫んだ。
俺はなかば反射的に視線を転じ、──列車がゆっくりと貨車の列を小山《ハンプ》に押し上げているのを認めた。貨車は端から、頂上に押し上げられ、ガタガタと自走を開始する。一両また一両と転走線に切りはなされ、それぞれの目的地にそって仕訳されていくのだ。
すでに、夜とは呼べない明るさになっていた。うす明かりが大気ににじみ、風景を灰色に浮かびあがらせていた。そんな頼りない陽光のなかで、列車は着実に仕事を成しとげつつあった。
俺は、眼で貨車の数を数えた。
すでに、小山《ハンプ》には五両の貨車が残っているだけだった。いや……四両だ。五両めの貨車は今、小山《ハンプ》を昇りつめ、転走線に入った──小泉の調べたところによると、飯沢コレクションを積載した貨車は、前部から二両めのものということだ。目的の貨車が転走線に入るまで、後二両を余すのみだ。
時間がない!
車が大きくその角度を変えた。タイヤをすさまじく軋《きし》ませて、美子が車を操車場に乗り入れたのだ。無謀な運転だが、美子は十メートルでも二十メートルでも近く、転走線との距離をつめるつもりなのだろう。ヘッドライトを消しているから、列車の機関士に目撃される心配はない。
が、──いかに転走線との距離をつめても、盗聴器が沈黙をたもっている間は、どうすることもできない。コンピューター室に異変が生じない限り、貨車にはどうにも手のつけようがないのである。
今、四両めの貨車はすでに転走線に入り、三両めが小山《ハンプ》の頂上に達しようとしている。
だが、なお盗聴器は微音を発するだけで、コンピューター室の正常を伝えつづけてくる。
──失敗か……俺は、眼の前が暗くなるのをおぼえた。
そのとき、──ふいに盗聴器が、けたたましいわめき声を伝えてきたのだ。それも、一人の口から発せられたものではない。少なくとも、五人以上の人間がわめいていた。
『コンピューターが故障らしいです……』
なかでも|その《ヽヽ》わめき声が、俺の耳に心地よくひびいた。
こうなることを望んでいたはずなのに、いざ実現したとなると、とうてい作戦の成功が信じられなかった──俺たちがコンピューター室に運んだ制服は、巧妙に素材をかくして仕立てられているが、実はナイロン製なのである。美子がまる一日をついやして、ようやく問屋から探し出してきたものだ。
ご存知のように、ナイロンは容易に静電気を起こす。ナイロン製の上着ともなると、体の動きから静電気が生じる可能性はかなりたかくなる。そして、──この静電気こそ、コンピューターにとって最大の敵なのである。
静電気が大きい場合には、コンピューター・トランジスタのベースやエミッタが侵されることがままある。接点がとけてしまうのだ。コンピューターがこの世に生を享《う》けて以来、女性オペレーターのナイロン下着にまつわる笑い話が絶えたことがないぐらいだ。
まったく、運まかせのかなり博打《ばくち》的な作戦ではあったが、しかし|これ《ヽヽ》を除いて、コンピューターを不能にする方法は思いつかなかった。
ただ一つ、アースした銅線を織りこんだ絨毯《じゆうたん》が敷かれているのではないかという恐れはあったが、それもどうやら杞憂《きゆう》に終わったようだ。
コンピューターの制御をはなれた貨車は、どうにでもあつかえる。上蓋に乗るのはおろか、たとえ貨車をとめたところで、異常をコンピューターに伝える心配はないからである。
「やったっ」
俺がそう叫ぶのと、車がガクンと急停車するのとがほとんど同時だった。俺はかろうじてバランスをたもち、美子に向かってわめきちらした。
「どうしたっ、なぜ車をとめるっ」
「これ以上は無理よっ」
美子は負けずにわめきかえした。
「車がひっくりかえっちゃうわ」
なるほど、たしかに鉄路、枕木のうえを、全速力で車を駆るのは、美子の運転技術では不可能だったろう。が、──そのときすでに、飯沢コレクションを積載した貨車は、小山《ハンプ》を昇りつめようとしていた。
俺はなにも考えないで、行動していた。ほとんど反射神経のなす業だ。俺はリア・シートの荷物をひっつかむと、車から飛び出していた。
貨車は、転走線を降り始めていた。仕訳線に入ってしまえば、もろに作業員たちの眼にふれることになる。貨車が転走線を走っている間、それも作業員たちから死角になる六分間が勝負なのだ。
俺は走った。転走線と車との距離は、優に二百メートルを越えている。運動不足の中年男が全力疾走するには、かなり|きつい《ヽヽヽ》距離といえたろう。──事実、ものの数秒もたたないうちに、俺の肺は酸素を求めて金切り声をあげ始め、|ふくらはぎ《ヽヽヽヽヽ》が熱を持つようになった。
悪いことに、大きな荷物を持っている。ただでさえとぼしい体力が、さらにそがれがちなのだ。──頭のなかで血液が熱く煮沸している。心臓が苦しい。
だが、俺は赤くかすんだ視界に、転走線をひた走る貨車を必死にとらえていた。ただ、転走線にたどり着けばいいというものではない。貨車の前方に到着し、その通過を待つ必要があった。通過後に転走線の脇にたどり着いたとしても、もう俺には貨車の後を追うだけの体力は残されていない。
フッと意識が遠のく瞬間があった。あまりに急激な運動に、体が拒否しているのだ。たしかに、気を失ってしまえば、存分に休むことができるだろう。
だが、──俺はがんばった。目的とするものにたどり着いたとき、貨車とは二十メートルほど水を開けていたのだ。俺は──|その《ヽヽ》転轍機《ポイント》を力いっぱい押したおした。貨車はガタンガタンと揺れながら、俺の眼の前をゆっくりと支線にそれていった。
その支線は、操車場の片隅につづいている。そこならば、高価な美術品を積んだ貨車も、ほかのおびただしい数の貨車にまぎれてしまい、人眼をひくことがない。どんな細工をするのも、思いのままというわけだ。
これも、貨車がコンピューター制御からはなれたからこそ可能だったことだ。コンピューター制御中に貨車が支線にそれようものなら、ものの数分とたたないうちに、異常を知った作業員たちが駆けつけてくることになる。
これから先の仕事は、今までのことを考えれば子供だましのように、たやすいことだった。
俺は、ついに時間にうち勝ったのである。
──貨車は、百メートルほど走って、自然にとまった。
俺は貨車の屋根によじ登り、作業を開始した。
まずは電気ドリルで、屋根の中央あたりに穴を開けることからはじめた。むつかしい仕事ではない。ものの数分もたたないうちに、直径三センチほどの穴を開けることができた。
ペンシル・ライトと拡大鏡の組み合わさったのぞき眼鏡で、貨車の内部を見てみる。潜望鏡を応用したもので、子供の玩具だ。どこの玩具屋でも、『探偵七つ道具』と指定すれば、手に入る代物である。
『主の足を洗う女たち』は、扉と反対側の側壁にかかっていた。パラフィン紙でしっかりと包装されてあったが、大きさからいって『主の足を洗う女たち』にまちがいない。
俺はいつしか、微笑を浮かべていた。のぞき眼鏡をかたわらに置き、リュックのなかから|これ《ヽヽ》も玩具のエア・ライフルを取り出す。本来、ダーツ用のエア・ライフルだが、バネをとり替えるなどの改造をほどこせば、ちょっと重いものでも飛ばせるようになる。ダーツ用を選んだのは口径が大きく、なにかと便利だからである。
さらに、これは本物の注射器を取り出す。注射器には、青い絵具が入っている──俺は強靭なゴム輪を注射器にからめ巻きつけた。ゴムの自力で注射器はゆっくりと、本当にゆっくりとなかの絵具を針から押し出し始めた。
俺は、注射器をエア・ライフルの銃口に装填《そうてん》した。注射器の底部は布で保護してあるから、まずは発射の際の衝撃にも耐えられるだろう。注射器の先端ちかくに結びつけてある丈夫な絹糸を、腰のベルトに通しておくことも忘れない。
俺はもう一度、のぞき眼鏡で絵の位置を確認し、エア・ライフルの銃口を穴に突っ込んだ。そして、引き金を引く。──銃口を穴から引き抜き、のぞき眼鏡で射撃の結果をたしかめる。
みごとに、注射器は『主の足を洗う女たち』に命中していた。注射器はゴムの力で、パラフィン紙を通して、青い絵具を『主の足を洗う女たち』に注入しつつあった。
しばらく待ってから、俺は絹糸を引き、注射器を『主の足を洗う女たち』から抜いた。抜く際に針が折れないかと心配したが、どうにか無事に回収できたようだ。
俺がすべてを終わり、貨車からはなれるまで、ものの二十分とは要さなかった。
──俺が、小泉たちに打ち明けた作戦とは次のようなものだった。
『主の足を洗う女たち』は、全体に青を基調として描かれている。だから、少量なら、そこに新たな青を加えても、素人には見分けがつかないだろう。だが、──鑑定人の眼をごまかすのは不可能だ。
M美術館は、新たな絵を展示する際、いちおう鑑定人にチェックさせるのを慣習としている。必ずや、鑑定人は青い絵具に不審を抱くはずだ。そして、念入りに分析した結果、青の絵具に十七世紀後半には使われていなかった成分が混じっていることを発見する。つまり、注射器の絵具だ。そして、──『主の足を洗う女たち』が贋作であると結論づける。
子供だましのトリックだ。とうてい、現実には通用しそうもない。だが、俺はいっこうにかまわなかった。文字通り、子供たち──小泉や美子に通用するトリックを考えさえすれば、それで充分なのである。
もちろん、俺の真意は別なところにあった。
6
──その日の昼、俺と、小泉・美子のカップルは別々にホテルを出て、東京へ帰ることにした。俺がそう強く主張したからだ。俺はもう、二人と一緒にいることに耐えられそうもなかった。
美子は別れる際、俺にこう言った。
「あの『主の足を洗う女たち』が贋作ということがわかれば、バカな値がつくこともないでしょう。|つて《ヽヽ》をたどって、なんとか手に入れたいと思います。ようやく、父の願いをきき届けてやることができそうです。どうもありがとうございました……」
俺はもの憂くうなずいただけだった。もう、二人の芝居につきあっている気力がなくなっていた。小泉が出ていくとき、俺の胸にふいに悪戯心《いたずらごころ》がわいた。
「おいっ」
俺は小泉にそう声をかけ、タバコの箱を投げた。小泉はふりかえり、反射的にタバコの箱を右手《ヽヽ》で受けとめていた。
「どうした?」俺は皮肉に言った。
「急に、骨折が治ったみたいじゃないか」
小泉はしばらく俺の顔を見つめていたが、やがてニヤリと笑った。
「このタバコ、いただいときますよ」
小泉は悠々と部屋を出ていった。狡《ずる》い男だが、しかしさすがにみごとな居直りぶりだった。
俺はなおも部屋に残り、貨車の屋根に開けた穴のことを考えていた。いずれは|あれ《ヽヽ》も発見されるだろうが、しかしそのときには穴と飯沢コレクションを結びつけて考える者は一人もいないはずだ。──貨車が支線にそれた件も、コンピューター故障から生じたちょっとした事故ぐらいに解釈してくれるだろう。ナイロン製の制服のことだけは、悪質な悪戯として警察が乗り出してくるかもしれないが、めだった実害がない以上、さほど本腰を入れて捜査することはないにちがいない。
要するに、すべてがうまくいったわけだ。
十分後、俺もスーツ・ケースを持って、部屋を出た。
が、──まだすべてが終わったわけではなかった。フロントでチェック・アウトをしている俺の肩を、背後からたたく手があったのだ。
振り返ると、そこに那谷貞夫の顔があった。
「ちょっと話したいことがあるんだが……」
那谷はニヤニヤと笑いながら言った。
「そこの喫茶室で、お茶でもつきあってくれねえか……」
「あんたはだまされたんだぜ」
那谷は開口いちばん、そう言った。
「……そうかね」
俺は、ボンヤリと視線を喫茶室の窓に向けていた。
「そうだとも、だまされたんだ」
那谷はいかにも嬉しそうにうなずいた。
「あの小泉とかいう小僧から訊き出したんだが……あの『主の足を洗う女たち』は贋作なんかじゃねえ。立派な本物だとよ」
「………」
「どうした? あんまりびっくりしすぎて、口もきけなくなっちまったかい……美子の父親が永積竜童だったことから、小泉が思いついたペテンだよ。最初は、あんたを利用して、『主の足を洗う女たち』を盗み出して、知りあいの郷崎という画商に売り渡すつもりだったそうだが……あんたが『主の足を洗う女たち』が贋作だという証拠をでっちあげちまうという作戦に変えたんで、それなら郷崎に贋作《ヽヽ》の『主の足を洗う女たち』を安く買わせようという方針にしたそうだ。もちろん、ほとぼりがさめた後、|本物に戻して《ヽヽヽヽヽヽ》、外国で売るつもりなんだろうさ」
「なんでも知ってるんだな」
「だから、小泉からききだしたんだよ」
「なるほど、それで俺に手を出さなかったのか。後で、真実を知って口惜しがる俺の顔を見て、笑おうという肚《はら》だったんだな」
「そうともよ」
「………」
俺は、那谷画廊で初めて会ったときの小泉のことを想い出していた。たしかにあのとき、小泉は俺を憎悪していたようだ。これは、俺に対する、小泉の復讐だったのかもしれない。
俺の口には、ごく自然に微笑が浮かんできた。
「何がおかしい」
那谷の声が急転して、不機嫌なものになった。
「痩せ我慢はやめにしたらどうだ?」
「なに……あんたにも、小泉にも悪いことをしたと思ってね」
「なんだと……」
「『主の足を洗う女たち』は贋作なんだよ」
「よくわかっちゃいねえようだな」
那谷は酢を飲んだような顔になった。
「永積竜童は『主の足を洗う女たち』を描かなかったんだ。あれは……」
「だからさ」
俺は、那谷の言葉をさえぎった。
「だから、あれは俺が描いたものだと言ってるんだ……」
──そう、『主の足を洗う女たち』は俺が描いた。 いや、正確には、|俺たちがオイレングラスという人物をつくった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。
俺たち……パリの安下宿で、認められないまま悶々と毎日を送っていた俺たち画家志望のグループが、ある日、憤怒と絶望のうちに思いたったのが、十七世紀の画家を創造するという贋作だった。金を目的とした行為ではない。ろくでもない世間に対して、強烈なしっぺ返しをくらわすのが目的だった。若かったからこそできたことだ。
俺たちは、古いキャンバスを買い込んできた。たんに、古い布を買ってきただけのことではない。十七世紀の画家が使った古キャンバスを選び、その絵具とヒビを利用して、|俺たち《ヽヽヽ》のオイレングラスの絵を重ね書きしたのだ。
そうすれば、レントゲンでも容易に贋作が見破られないからである。
絵具にも神経を使った。十七世紀の画家が用いたのと同じ顔料を手でひき、油ではなく、昔ながらにアルコールで溶かして描いたのである。
俺たちは二月《ふたつき》の間に、九点のオイレングラスの絵を仕上げた。
それらの絵を、まことしやかな伝説と共に市場に出したのは、知りあいの画商だった。そして、──あっという間に、オイレングラスは才能を認められ、その絵の価値が急上昇していった。バカげたことに、俺たちはオイレングラスに嫉妬し、ついで芸術そのものに絶望をおぼえた。
俺たちはそれぞれ母国に帰り、そして互いに音信不通となった。
──オイレングラスの絵が個人に所有されているかぎり、俺はほとんど気にしなかった。気にしたからといって、どうなるものでもないからである。だが、──それが、美術館に展示されるとなると話は別だ。それは、はなはだしく芸術を冒涜《ぼうとく》することであるように思えた。
しかし、俺は焦燥を覚えながら、なお|ふんぎり《ヽヽヽヽ》をつけられないでいた。そんな俺の背中を一突きしたのが、小泉と美子だったのである。
「青い絵具を『主の足を洗う女たち』に注入したのは、鑑定家たちに|これ《ヽヽ》が贋作の可能性もあるということを示したかったからだ。ああでもしなけりゃ、一通りのチェックしかしないだろうからな……だが、いったん不審な点があるとわかった以上、彼らは徹底的に調べるだろう。おそらく絵画に含まれている白鉛から、制作年度を割り出そうとするんじゃないかな。そして、『主の足を洗う女たち』が十七世紀に描かれたものでは|ありえない《ヽヽヽヽヽ》ということが判明するわけだ……」
「………」
那谷は呆然としている。おそらくは、伏魔殿をのぞいたような気持ちになっているのではなかろうか。
「汚い世界だ……」
やがてそうつぶやくと、那谷はやおら席を立った。
「俺はどうやら本業に専念した方がよさそうだな」
その言葉を捨て台詞《ぜりふ》に、那谷はさっさと喫茶室を出ていった。
俺はため息をついた。那谷はまだしも幸運といえた。俺は美術界に籍を置くかぎり、多分、死ぬまで贋作ゲームからはなれられないのだ。
──どうして俺は、あんな方法で『主の足を洗う女たち』が贋作であることを示そうとしたのか……フッとそんな疑問が生じた。ほかにも、たやすい方法はいくらでもあったのではなかろうか。
もしかしたらと、俺は思った。もしかしたら俺は、あの小泉という青年に、贋作がどれほど割のあわない仕事であるのか教えたかったのかもしれない。
[#ここから2字下げ]
この物語を書くにあたって、瀬木慎一氏著真贋の世界=i新潮社)を参考にさせていただきました。
[#ここで字下げ終わり]
スエズに死す
75・5・19
一九七五年五月十九日……その日、俺は|まだ《ヽヽ》日本にいた。
警視庁特捜本部は待っていた。刑事・公安両部にわたる五百人の専従捜査員は、エリザベス女王が帰国する日を、それこそ一日千秋の思いで待ちかまえていたのだ。へたに行動を開始して、|奴ら《ヽヽ》が女王に難をおよぼすのをおそれたからである。
奴ら……東アジア反日武装戦線≠フ狼=Aあるいは大地の牙=Aさそり=B──昨年八月の三菱重工業本社にはじまり、いくつかの企業を爆破してきたアナキスト・グループだ。特捜本部は徹底したローラー作戦により、奴らの本体が、六五年に結成された東京行動戦線≠フ旧メンバーたちから組織されていることをつきとめていた。
判明した東アジア反日武装戦線≠フメンバーは七人……|その《ヽヽ》全員に、捜査員たちの監視の眼が光っていたことは言うまでもない。昨年十二月の鹿島建設内装センター、今年二月の間組《はざまぐみ》本社ビル爆破事件を防ぎきれなかったことが、なおさら捜査陣の監視を厳重なものにしていたようだ。
そして、五月十九日──特捜本部は、いっせいに奴らの逮捕に踏み切ったのである。罪状は、爆発物取締罰則違反。捜査員たちの意気は、いやがうえにもたかまった。
──当然のことながら、他の所属する『対・破壊活動班』も検挙に無縁ではいられなかった。何人かの班員が、現場に派遣されることになったのである。
が、俺たちの場合、意気軒昂というわけにはいかなかった。むしろ、警視庁のほかの部署の手前、渋々つきあったと表現したほうがより正確なようだ。
俺たちの興味は、東アジア反日武装戦線≠ノはなかったからである。
『対・破壊活動班』は、都市ゲリラに抗するために結成されたグループだ。一応の所属は警視庁に置かれているものの、警察官の資格を持つ者は一人もいない。自衛隊のレインジャー部隊、あるいは爆発物処理班に共通する性格をそなえたグループなのだ。
近い将来、都市ゲリラはさらに多様化、過激化することが予想される。現に、三月十二日、パレスチナ解放機関の軍事部門責任者は、日本およびアメリカ国内にあるイスラエル機関をも、テロの対象に加えることを宣言しているのだ。東京が、都市ゲリラたちの戦場と化す可能性も少なくないと言わねばならなかった。
俺たちは、その日のための、首相直属の傭兵であり、爆発物の専門家《エキスパート》なのだ。なんなら、体制の番犬と呼んでも、いっこうにさしつかえない。そんな言葉で動揺するような|やわ《ヽヽ》な奴は、『対・破壊活動班』には一人もいないのである。
最初は、俺たちも東アジア反日武装戦線≠ノ興味を寄せた。奴らの背後に、風≠ェいるかもしれないと思ったからだ。
風″にかんしては、日本人であるということだけしかわかっていない。風≠ェ、はたして日本赤軍のメンバーであるかどうかさえはっきりとはしないのだ。その存在は、ここ数年、それこそ風のように、わずかに俺たちの耳に入ってくるのみなのである。
だが、そのわずかな噂が、俺たち『対・破壊活動班』を大いに刺激することになった。どうやら、奴《ヽ》が爆発物の専門家《エキスパート》のようだからだ。それも、とうてい東アジア反日武装戦線≠ネどの比ではない。こともあろうに、風≠ヘ、ヨルダンの『|若き獅子たち《アシユパール》』の訓練所において、兵士たちに爆発物の操作を教えているというのだ。
三菱重工が爆破されたとき、俺たち『対・破壊活動班』はひどく緊張した。だが、事件の詳細が明らかになるにつれ、俺たちの緊張は大きくそがれることになった。事件の背後に風≠ェいるなら、『腹腹時計』などという初歩的なテキストが用いられるはずがないからである。
それに、──俺個人にかぎって言えば、とても東アジア反日武装戦線≠ネどに、気を配っていられる余裕《ゆとり》はなかったのだ。|ある事情から《ヽヽヽヽヽヽ》……。
──ともあれ、警視庁は異常な興奮のなかにあった。昨年以来の、マスコミの憎悪に充ちた筆致は、東アジア反日武装戦線≠|いわば《ヽヽヽ》「市民の敵NO1」にしたてあげていた。警視庁が、この大捕り物に興奮するのもしごく当然のことだったのだ。
だが、くりかえすようだが、わが『対・破壊活動班』だけは、いささかもその興奮にそまることはなかった。捕り物の応援にかりだされた班員以外は、すべてどこかへ|さぼり《ヽヽヽ》に出ている始末なのだ。そして、俺はといえば、──デスクに足を投げだし、翻訳のポルノ本に読みふけっていた。
俺の名は、柴田隆三。この『対・破壊活動班』の班長をつとめている。妻は八年前に癌で死に、娘が一人……来年には五十歳になるのだから、まあ、初老の口に入るだろう。髪にこそ白いものがめだち始めているが、まだまだ三十代の体力をそなえている自信がある。性格は、狷介《けんかい》孤高というところか。要するに、人から好かれるような男ではない。
俺の眼は活字を追っていたが、その内容はまったく頭に入ってこなかった。|あのこと《ヽヽヽヽ》が気がかりで、実際には、ポルノ小説どころではなかったのだ。あのこと……。
ドアがしずかに開き、班員の加納和《かのうかず》が入ってきた。
加納はまだ二十代の、いつも唇から微笑を絶やしたことのないような男だ。
「東アジア反日武装戦線≠フ荒井まり子の部屋から、爆弾の材料が見つかったそうですよ」
と、加納が言った。
「テキストの『腹腹時計』どおりですね。除草剤の『クサトール』だそうです。いずれは、クロレートソーダー、デゾレートなども発見されるでしょう……」
「………」
俺は、鼻を鳴らした。たしかに、高濃度塩素酸塩系除草剤は、塩素酸塩系・混合爆弾の原料にふさわしい。ふさわしいが、つまるところは代用品に過ぎないのだ。いやしくもプロであるなら、使用すべき爆弾とはいえなかった。
そう、風≠フようなプロなら……。
「ところで、井出官房長官が記者会見をはじめるそうです」
俺の無愛想な態度にも頓着《とんちやく》した様子を見せないで、加納が言葉をつづけた。
「おききになりますか」
「いや……」
俺は首をふり、席を立った。
「どうせ、臆面もない自画自讃だろう。きいたところで、眠くなるだけだ……俺は、しばらくうちにもどっている。何かあったら、連絡を入れてくれ」
「ほう……」
加納の眼が光った。
「ここのところ、連日、早引きじゃないですか。どこか、お体の具合でも悪いんですか」
「年だからな」
俺はそう言いすてて、ゆっくりとドアに向かった。背中に、強く加納の視線を感じた。
加納の、いかにもお坊っちゃん然とした風貌にだまされてはいけない。その微笑の裏には、爆発物処理班員に不可欠な、すぐれた洞察力と、強靭《きようじん》な精神力が隠されているのだ。実際、俺の部下のなかでも、もっとも優れた男と言っても過言ではないぐらいだった。
加納は、俺の身に生じている異変に、気がついているのかもしれない……。
──俺は、自由が丘の二DKのマンションに住んでいる。頑固な初老の男がひとりで住むには、いささか瀟洒《しようしや》に過ぎるマンションだった。
娘の聖子が選んだマンションで、俺の趣味ではない。かんじんの聖子が、ここ三年来、絵の勉強のためにパリ留学中とあっては、俺の居心地悪さはいっそうつのるばかりだ。小さな檻《おり》に押し込められた熊のようなものだった。
俺は、ボンヤリと部屋を見回した。
書籍が本棚からあふれ、部屋の壁をすべておおいつくしていた。ほとんどが、爆発物関係の本だ。日本のものはもとより、外国で出版されたものも、眼についたものはことごとく購入してある。爆弾の図書館としては、おそらく日本一ではないだろうか。
聖子がいたときとはちがって、俺一人ではとても整理がいきとどかず、うずたかく積まれた本は、窓すらもおおい隠していた。
俺はため息をつき、本の陰からテープレコーダーを取り出した。
スイッチを入れる。
最初は雑音が、ついで聖子の声がとびだしてくる。
『パパ……』
と、聖子は悲痛な声で呼びかけている。
『私は誘拐されました……現在は、イスラエルのテルアビブにいます。ギリシアに遊びに行った時、誘拐されたのです。アテネから船で、ハイファに連れてこられて……現在は、テルアビブのあるアパートに監禁されているんです。私を誘拐した男《ひと》たちは、|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》≠フコマンドだと名のっています。今のところ、みんな、とても紳士的にふるまっています……パパ、お願い、この男《ひと》たちを怒らせないで。この男《ひと》たちの言うとおりに行動してください。さもないと、私……』
ここで、聖子の声がとぎれる。膝に置いた俺の拳が、ぶるぶるとふるえている。テープがここまでくると、いつもふるえるのだ。
しばらくの沈黙ののち、うって変わって冷静な男の声がきこえてくる。
『私は風≠セ……』
と、男の声がいうのだ。
『パレスチナ・ゲリラの風≠セ|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》≠フコマンド、風≠ネのだ……不本意ではあるが、娘さんの身柄はわれわれが預かっている。現在、われわれはきみの技術を必要としているからだ。もちろん、きみがわれわれの命令にしたがえば、娘さんの体には指一本ふれないことを約束する……東京にも、われわれの同志は多い。このテープが手元に届いた時点から、きみには、毎日午後の三時から六時まで、自室に待機していてもらう。同志からの連絡を待つのだ。同志からの報《しら》せによると、きみの部屋は窓から丸見えだそうだ。常に、われわれの眼が光っていると思ってもらいたい。下手な小細工を弄すると……』
テープの声は、そこで終わりになる。耳ざわりなリールの回転音が、シューシューとつづくだけなのだ。
俺は、スイッチを切った。
このテープは、三日前にイスラエルから航空便で届いたものだ。以来、三時から六時までの時間を、俺はこうして部屋に閉じこもっているわけだ。風≠フ言いなりになるのはいまいましかったが、ほかにどんな術《すべ》もあるはずがなかった。
俺は、聖子の白い顔を脳裡に思い浮かべていた。父親の俺の目から見ても、美貌の娘といえた。母親譲りの大きな眼に、肌理《きめ》の細かい肌……だらしのない話だが、俺は聖子を溺愛していた。あまりに、甘い父親でありすぎたようだ。このマンションを購入したときもそうだったし、パリ留学を許したときもそうだった。
俺は、今、その|つけ《ヽヽ》を払わされようとしているのだ。
電話が、するどいベルの音を鳴り響かせた。
俺はなかばひったくるようにして、受話器を取っていた。
「はい、柴田ですが……」
俺の声はやや冷静さを欠いていたようだ。
「風≠フ代理の者だ……」おし殺したような声がきこえてきた。
「………」
俺は息を呑んだ。ついに、|奴ら《ヽヽ》からの|接 触《コンタクト》があったのだ。
「俺は、風≠フ代理だ……」と、声はくりかえした。
「東アジア反日武装戦線≠みごとに|はめ《ヽヽ》やがったな。だが、俺たちパレスチナ・ゲリラは彼らとは違うぞ。そうたやすくは、きさまら官憲の手にかからないからな」
「用件を話したらどうだ?」俺が言った。
「まさか、凄《すご》むために電話をかけてきたわけでもあるまい。第一、俺は警察の人間じゃない。おかどちがいだよ」
「元気のいい親父さんだ」
声が嗤《わら》った。
「いいだろう……これからすぐ、世田谷のK団地に向かえ。そこの公園に、ブルーバードをとめておく。トランクを開けて、なかの金属罐を取り出すんだ。金属罐のなかに、以後の指示いっさいを記した紙が入っているはずだ……」
電話が一方的に切られた。
「………」
俺は、しばらく受話器を見つめていた。受話器は悪意をひめ、鎌首をもたげた蛇のように見えた。
五分後、俺は支度をととのえ、部屋を出た。
──K団地は、東京最大の規模を誇る団地だ。
タクシーの車窓からのぞむK団地の夜景は、まさしく壮観の一語につきた。えんえんと連なる水銀灯、アパート群の明かりは、直截《ちよくせつ》に未来都市を連想させる。
俺のような人間には、どうしても好きになれない光景だ。
俺はタクシーを降り、まっすぐ公園に向かった。
公園もまた、俺の好みにはあわなかった。昔なつかしい、滑り台とか、ブランコのたぐいはどこにも見られない。今様の、プラスチックとチェーンで組み立てられたジャングル・ジムがいくつか置かれてあるだけだ。なにかしら、墓場のような|おもむき《ヽヽヽヽ》さえあった。
むろん、子供が外にいるべき時刻ではなかった。ちょうど、夕食|刻《どき》なのである。
ブルーバードはすぐに見つかった。車は水銀灯の下に醜い甲虫《かぶとむし》のようにうずくまっているのだ。
俺は車に歩いていきながら、さりげなく周囲に視線を走らせた。こちらを見張っているような人影はなかった。
もっとも考えようによっては、団地の窓すべてが格好の見張り窓となりうるのだ。たとえ見張りがいるとしても、俺の眼に姿をさらすような位置をとるはずがなかった。
ブルーバードのトランクに、鍵はかかっていなかった。トランクをあけると、飯盒《はんごう》ほどの大きさの金属罐が見えた。単なる通信文の容器と考えるには、いささか大きすぎるようだ。
そうでなくても、俺はプロなのだ。どんな爆発物でも、一眼で見わけられる自信があった。
俺を爆殺することが、|奴ら《ヽヽ》の狙いであるはずがなかった。『対・破壊活動班』の班長を爆殺するには、あまりに方法が安易すぎるからだ。──どうやら、俺は|ある種《ヽヽヽ》のテストを受けさせられることになっているらしい。はたして、俺がどれほど爆発物にくわしいか、たしかめてみようというわけだろう。
面白くなかった。プライドを傷つけられることおびただしい。
俺はトランクから上半身を起こし、四周にそびえる団地群をみわたした。連なる窓が、無数の銃眼のように見えた。今、この瞬間にも、俺の動きを双眼鏡で見張っている奴《ヽ》がいるにちがいないのだ。
いずれにしろ、俺に選択の余地はなかった。聖子のことがなくても、その爆弾に手を伸ばさざるをえなかったろう。爆発物処理は、俺にとって|いわば《ヽヽヽ》第二の天性のようなものだからだ。
金属罐から、かすかに時を刻む音がきこえてきた。過激派たちが好んで使うトラベル・ウォッチの音だ。俺は金属罐に指をのばし、──その指を途中で止めた。
頭の片隅に、警鐘が連打していた。どうして、|奴ら《ヽヽ》はわざわざ水銀灯の真下に、車をとめたりしたのか。警官にみとがめられるおそれのある水銀灯の真下にとめなくても、公園にはほかにいくらでもスペースがあるのだ。
俺は背広を脱ぎ、金属罐をくるみこんだ。さいわい、黒の背広だ。光をさえぎるには、充分役立つはずだった。
俺は背広の下から腕を差し込み、指先の感触だけで爆弾の解体にとりかかった。配線をたどり、起爆装置《ヒユーズ》をさぐり当てる。起爆装置を取り外す際には、どんなベテランの爆弾処理要員でも神に祈りたいような気持ちになるものだ。それが手さぐりの仕事だとしたら、なおさらのことだった。すべてが片付いた時、俺は額にうっすらと汗をかいていた。
ふたたび背広を着こみ、金属罐の蓋をあけてみた。思っていたとおりだ。蓋の裏側に、光電池がガム・テープでセットされていた。光にさらされたとたんに、爆発する仕掛けだ。トラベル・ウォッチは、単なる擬装《ダミー》にすぎなかったのである。
ダイナマイトが二本。その底に、大型封筒があった。
電話の男の、金属罐に通信文が入っているという言葉に嘘はなかったわけだ。
封筒のなかには、エール・フランスの航空チケットと、小さく折り畳んだ紙片が入っていた。航空チケットは、パリを経由して、テルアビブに向かうためのものだった。むろん、エコノミー・クラスである。
俺は、紙を拡げてみた。
テルアビブのロッド空港で、ガッサンというアラブ人が話しかけてくるのを待て。
紙片に書かれてあるのは、それがすべてだった。ほとんど走り書きにちかい。どうやら、敵は常に必要最小限のことしか|こちら《ヽヽヽ》に報せないという方針らしい。ゲリラ兵士としては、当然の用心だったろう。
俺は金属罐を小脇に抱えて、足早に車からはなれた。
すでに頭のなかは、いかに怪しまれずに、休暇をとるかの算段でいっぱいになっていた。イスラエルにおもむくとあれば、最低半月の休暇は必要となるはずだ。奴らの要求次第では、その休暇がさらにながびく可能性も出てくる……。
不意に、前方を黒い人影がさえぎった。
「こんな所で、何をなさっているんですか」
と、その人影が言った。加納和の声だ。
俺はあまりのおどろきに、凝然と立ちすくんでいた。
「抱えていらっしゃるのは、どうやら爆弾のようですね」
加納はさらに言葉をつづけ、皮肉な一言を放った。
「班長《ヽヽ》……」
加納の背後からゆっくりと男たちが姿を現わし、俺の両側に回りこんだ。あきらかに、容疑者の逃亡を阻止するための動きである。
男たちは、いずれも俺の部下だった。
本来なら、俺は部下たちの優秀さを喜ぶべきだったかもしれない。が、──俺の心境はおよそ喜びからほど通かった。
そのときから、俺は部下たちとはっきり敵対することになったのだから。
75・5・23 A
──ほかの乗客は、すべてパスポート・コントロールを通過していた。
俺と、|もう一人の日本人《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》だけが、空港ビルのコンコースに残されていた。カキ色のブラウス、ミニ・スカートを着た女性入国管理官は、俺たちのパスポートを持ったまま、どこかへ姿を消してしまっていた。上司へ、おうかがいをたてに行ったというわけだろう。
当然のことではあった。岡本公三たち三人の日本人が、空港で自動小銃を連射した事件は、イスラエル人の記憶にまだ生々しく残っているにちがいないからだ。
そうでなくても、テルアビブはヨルダンとは山脈ひとつしかへだてていないのだ。ロッド空港は、いわば敵地のなかの空港といえた。
ようやく、入国管理官が帰ってきた。
「あなたたち二人は友達なのか」
と、彼女は英語で訊いてきた。
「いや……」俺は首をふった。
「まったくの赤の他人だ」
「………」
俺の背後で、もう一人の日本人が息を呑む声がきこえてきた。おどろきと、いくらかは怒りの混じった声だった。
入国管理官は肩をすくめ、パスポートにスタンプを押すと、俺に手渡した。
パスポート・コントロールを出た俺を、日本語が追いすがってきた。
「ひどいじゃないですか」
加納和だ。
「班長、そこまで冷たくすることはないでしょう」
「冷たくされるのが厭なら、ついてこないことだ……」俺は言ってやった。
「そうはいきませんよ」加納は動じなかった。
「風≠ヘ、われわれ『対・破壊活動班』の共通の敵だ。班長ひとりに、まかせてはおけない」
「………」
何をかいわんやだ。ここまで部下を職務熱心に、強情に育てあげたのは、ほかならぬ俺自身なのである。だが、──ことは、聖子の命にかかわっている。なんとしてでも、加納をまく必要があった。
お供がいては、ガッサンなるアラブ人が接触してくるはずがないからだ。
俺はゆっくりと、空港ロビーを歩きはじめた。むろん、加納も俺にしたがう。正確に、二メートルの間隔をおいていた。殴りかかるにも、逃げ出すにも不都合な間隔だ。
実際、加納の職務熱心さは、賞賛に値《あたい》した。小判鮫《こばんざめ》の執拗さだ。外務省から、風≠捕えるべく俺をマークしろとの指令を受けて以来、片時もかたわらからはなれようとしないのだ。できれば、俺に手錠をかけたいような気持ちだったろう。
外務省は、加納を通じて、風≠説得できると考えているようだ。外国では警察権を行使できないのだから、「説得」だけが、唯一日本政府のとりうる道だったろう。「説得」の際の交換条件なども、いろいろ加納はきかされているらしい。
外務省の見解は、まさしく噴飯もの以外の何物でもなかった。|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》のコマンドのことを知らなさすぎる。PFLPは、敵が理解する唯一の言語は革命的暴力《ヽヽヽヽヽ》であるとまで宣言しているのだ。筋金入りのパレスチナ・ゲリラである風≠ノ、なまなかな説得など通用するはずがなかった。
『対・破壊活動班』の一員である加納が、外務省の見解を鵜呑《うの》みにするとは思えなかった。おそらく、俺を生き餌にして、風≠フ息の根を止めるぐらいのことは考えているにちがいない。『対・破壊活動班』にとって、面従腹背はお家芸の一つなのだから。
|それ《ヽヽ》が、俺には困るのだ。外務省のお偉方も、加納和も、聖子の安否などこれっぽっちも気にかけてはいないのである。
ヘブライ語がやかましく耳をつく。どうやら、どこかの国からの移民が集団で到着したようだ。
その喧噪《けんそう》のなかを、俺と加納はことさらにゆっくりとした歩調で歩いていた。正直、いらだちを禁じえなかった。加納は、機内以外では、トイレにも行かない用心深さなのだ。まこうにも、その|とっかかり《ヽヽヽヽヽ》がまるでない。
ふと、俺の眼がロビーの長椅子に吸い寄せられた。長椅子の上に、小さなプラスチックの人形が置かれてあった。なんの変哲もない人形のように見えた。誰もが、子供が置き忘れたものとしか思わないだろう。だが……。
俺は、長椅子に歩き寄っていった。俺のさりげない動きに、加納はなんの疑心も抱かなかったようだ。それまでと変わらず、俺についてくる。
俺は、人形のかたわらに腰をおろした。年を強調して、いかにも疲れきった様子を見せることに気を配った。加納もまた腰をおろそうと、なんの気なしに人形を持ち上げ、──そして、自分が手にしているものが何であるかをさとったのだ。
加納の顔は、一瞬のうちに蒼白と化していた。
「そうだ……」俺は、かみしめた歯の間から息をもらした。
「おまえが手にしているのはドル・ボンブだ」
「………」
加納の俺を見る眼が憤怒に燃えていた。それが可能なら、今すぐにでも俺をくびり殺したい思いにちがいない。
ドル・ボンブは、非戦闘員、とりわけ子供たちを対象とした爆弾だ。人形や玩具に爆弾が仕掛けられ、子供が|それ《ヽヽ》を拾い上げると炸裂《さくれつ》する。許しがたい非人道的な武器だが、今の俺には救いの神だった。
「俺がきいた話では、ドル・ボンブはイスラエル側がレバノンあたりにばらまくということだったが……」俺はため息をついた。
「どうやら、パレスチナ・ゲリラも|その《ヽヽ》戦法にならうことにしたらしいな。岡本公三のAK四七自動小銃につづいて、今度は爆弾がロッド空港を狙っているわけだ」
「………」
加納の耳には、ほとんど俺の言葉は入っていないようだ。その血走った視線を、しきりにロビーにさまよわせ、──ようやく、探していたものを見つけ出したらしい。トイレである。
「そうだ」と、俺はうなずいた。
「トイレで処理するのが最も賢明だな。あそこなら、水も豊富にある」
加納は俺を睨《にら》みつけながら、しずかに後ずさり始めた。人形を持った手を前に突き出し、腰を低く落とした|その《ヽヽ》姿は、さながらアヒルのようだ。『対・破壊活動班』随一のダンディである加納には、いささか気の毒な姿勢といわねばならない。
もっとも、爆弾にふっ飛ばされることを考えれば、姿勢の選《え》り好みなどはしていられないだろう。ドル・ボンブに無用の震動を与えれば、すぐさま炸裂することは確実だからだ。
「じゃあな……」
なおも後ずさりをつづける加納に向かって、俺は陽気に手を振り、長椅子からはなれた。
まずは、上役の貫禄を見せたというところか。
──空港から足を踏み出したとたんに、ガッサンと接触することになった。
「タクシーは必要ないかね」
フランスなまりの強い英語の声が、そう俺に呼びかけてきたのである。
フランス製のステーション・ワゴンの窓から、アラブ人の運転手が顔を突き出していた。茫洋《ぼうよう》とした、眠たげな顔をしている。鼻下に生やした髭が、ユーモラスな印象を与えていた。その肩が巌のように盛り上がっている。
「どうかね?」男は言葉をつづけた。
「シバタさん……」
俺は、低く腰をかがめた。男の顔を直視するためだ。
「ガッサンか」
俺がそう尋ねるのを無視して、男は猿臂《えんび》を伸ばし、車の後部ドアを開けた。
乗り込むしかなかった。
ワゴンは快調にスタートした。その眠たげな印象に反して、男はなかなかの名ドライバーのようだ。
むっとするような温気《うんき》が、車窓から吹き込んでくる。
「ガッサンか」俺は質問をくりかえした。
「そうだ」男の頭が上下した。
「どこへ行く? テルアビブか」
「エルサレムだ」
「エルサレム……」
俺は意外だった。なんとはなしに、風≠ヘテルアビブにいるものと決めこんでいたのだ──もっとも、エルサレムには七万人ちかいアラブ人が居住している。パレスチナ・ゲリラの風≠ェ身をかくすには、テルアビブなどよりも適した町かもしれない。
ガッサンが、肩越しに薄いノートを差し出してきた。その眼が、バック・ミラーに写る俺を凝視している。どうやら、ノートを読めということらしかった。
俺はよく事情が理解できないままに、ノートを受け取った。体をシートに沈め、ノートをひらいてみる。思いがけないことに、まったく思いがけないことに、日本の文字が眼に飛び込んできた。
『機雷、プッシー・キャット』
最初のページに、そう大きく記されているのだ。
爆発物は、常に俺の興味の中心にある。俺はページをめくり始め、しだいに『プッシー・キャット』なる機雷の記述に没頭していった。
──『プッシー・キャット』は、要するに磁針型の磁気機雷であるらしい。磁気機雷のメカそのものは、さほど複雑ではない……艦船の接近から、磁場の垂直分布の変化が生じる。|それ《ヽヽ》が、誘導電流の変化、増幅をうながし、ついには起爆リレーを作動させる。爆発。──ただ、それだけのことだ。
が、『プッシー・キャット』は単なる磁気機雷ではなく、ある種の|引き金《トリツガー》のような役割りも果たしているらしいのだ。『プッシー・キャット』が爆発すると、おびただしい数の機雷が水底係留部から解き放たれ、浮遊機雷と化して、次から次に爆発するというのだ。しかも、『プッシー・キャット』を係留している特殊強化プラスチック製の鎖は、わずかな衝撃にも敏感に反応して、爆発をうながすと記されている。
つまり、ノートの記述を信じるならば、『プッシー・キャット』は|絶対に排除できない機雷《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということになる。どんな爆発物でも処理できる自信を持つ俺が、かつて悪夢に見、あるいは憧れたことのある|完全な《ヽヽヽ》爆弾だ。
通常、磁針型の磁気機雷を除去する時には、大型コイルを船で引航し、垂直磁場を変化させて爆発をうながす。だが、『プッシー・キャット』にかんして言えば、それは多くの浮遊機雷の爆発にみまわれるという結果を招くだけのことなのだ。かと言って、『プッシー・キャット』の係留鎖を切断しようとすれば、──作業員の頭上で、当の『プッシー・キャット』が爆発するということになる。
しかも『プッシー・キャット』は、モーターボートの接近も許さぬ、とびきり敏感な機雷であるらしい。だからこそ、『|感度のいい女《プツシー・キヤツト》』という名前が冠せられているのだろう。
「面白いな……」
俺は口のなかでつぶやき、英語でガッサンに声をかけてみた。
「この『プッシー・キャット』が、俺になにか関係があるのか」
「………」
が、ガッサンは、俺の質問をきっぱりと無視した。こっちは、『|感度のいい女《プツシー・キヤツト》』どころか、まったくの岩石だった。
──エルサレムに到着したときには、夜になっていた。
|岩のドーム《オマール・モスク》=A嘆きの壁=c…エルサレムにかんする俺の予備知識は、せいぜいそんなところだ。たんなる観光客としても、怠惰な方に属するだろう。そんな俺に、車がエルサレムのどこをどう走っているのか、見当がつくはずもなかった。
車はいつしか、極端に狭い道へと入っていた。肉を焼くにおいが、公衆便所の悪臭とかさなりあい、一種異様なにおいをかもしだしていた。いうならば、生活のにおいだ。
道はわずかに傾斜していた。肉屋、八百屋、香料屋……下着だけの子供たちが、石蹴りのような遊びをしていた。痩せた犬が、子供たちのまわりを跳ね回り、いかにも嬉しげに吠えている。
あの独特な哀愁をおびたアラビア音楽が、どこからかきこえていた。ラジオから流れているらしく、雑音がひどい。
車がとまった。
三階建ての、なかば朽ちかけたようなビルの前だった。窓に鉄格子でもはまっていたら、まったくの牢獄だ。汚水をタップリと吸い、腐臭を放っていた。
ガッサンは車を降り、屋根から俺の荷物をおろし始めた。想像していた以上の、巨漢だ。彼の腕のなかにあると、俺の荷物がハンドバッグのように小さく見えた。
ガッサンは無言のまま、ビルのなかに入っていった。俺がその後にしたがったことは言うまでもない。
──安アパートは、どこの国でも共通しているようだ。薄暗い照明、赤ん坊の泣き声、食べ物のすえたようなにおい……壁に書かれた落書きも、女性の陰部を示した|それ《ヽヽ》だ。
ガッサンは、三階の突き当たりの部屋に俺を導いた。
ガッサンのある一定のリズムを持つノックに応えて、ドアがしずかに内側にひらいた。
ドアの脇に立ち、ガッサンは顎をしゃくった。ようやく、風≠ニの対面がかなうようだ。
俺は勢い込んで、部屋に第一歩を踏み込み──危うく、転倒しそうになった。一瞬、眼が馬鹿になったのである。部屋の暗さと、正面のスクリーンが放つ光が、俺の平衡感覚を狂わせたのだ。
馬鹿になった視力が、闇のなかに浮かぶもうろうとした人影をかろうじてとらえた。
「この八ミリは、わが同胞がシナイ高原で撮ってきたものだ……」
その人影が、日本語でいった。
「どうせ、みじかいフィルムだ。よかったら、一緒に見ないか」
背後に、ガッサンの閉めるドアの音が鳴りひびいた。
今の俺は退路を絶たれ、しかもあらがうことを許されぬ情況だ。見たくもない八ミリ映画でも、観賞につきあうしかないようだ。
映写機の作動音が、にぶくつづいている。
映画の内容は、無残の一語につきた。カメラは、ただただ猛威をふるうブルドーザーの姿を追っているのだ。そのブルドーザーは、果樹園を蹂躙《じゆうりん》し、多くのアラブ人たちを追い蹴ちらしていた。ブルドーザーの後には、銃を構えたイスラエル兵たちが立っている。
実際、今にも女子供の悲鳴がきこえてきそうな、凄じい画面だった。
「これは、植樹祭のときの光景だよ」ふたたび、日本語がきこえてきた。
「何十万というイスラエルの学童が植樹をした同じ日……シナイ半島北東端のラファーでは、多くのアラブ人たちがこうして先祖伝来の果樹園から追い払われていた。ユダヤ人移民が定住するために、ね……」
画面のなかで、ブルドーザーはさらに獰猛《どうもう》さを増していた。明らかに|それ《ヽヽ》とわかる小学校を、そのキャタピラにかけ、今は回教寺院《モスク》に向かって突進しようとしているのだ。逃げまどうアラブ人たちの姿は、眼をそむけたくなるほど非力に見えた。
「住民を追い出した後、イスラエル政府は彼らアラブ人たちに土地を売るよう強制した」
その声が、わずかに濡れたようなひびきをおびた。
「拒否したアラブ人たちには、さまざまな制裁が加えられた。逮捕、解雇、アメリカ慈善団体CAREからの食糧援助の配給停止……七二年には、ラファーの地に、一万四千ヘクタールものアラブ人立ち入り禁止地区ができていた。立ち入り禁止地区は、厳重に鉄条網で囲まれている……。
第四次中東戦争の際にも、イスラエルは許しがたい犯罪行為をおこなっている。ラファーに出撃したイスラエル兵が、ハサン・アリ・アルサワルカ部族長を逮捕、千人もの部族民を追放した。その結果、イスラエルはさらに三万六千ヘクタールもの土地を……」
「おまえが風≠ゥ」
不意に、俺の口から言葉がほとばしった。
「答えろ、おまえが風≠ゥ」
一瞬、重い沈黙が闇に充ちた。ついで、映写機のリールが回転を止め、明かりがともされた。
俺は、眼を瞬《またた》かせた。
一人の日本人が、俺を見つめていた。
まだ、若い男だ。長髪に、精悍《せいかん》な浅黒い肌、その眼が強靭な知力を示してぎらぎらと光っていた。どちらかというと小柄だが、引き締まった、実にいい体をしている。
「あの八ミリを見ても、何も感じないのか」
と、日本人青年がおどろいたように言った。
「本当に、何も感じないのか」
胸をつかれるようなひびきをおびた声だった。
「いや……」俺は首を振った。
「何も感じない」
「………」
青年は、けおされたように沈黙した。
たしかに、さっきの情景には対岸の火事の一言では片付けられないものが含まれていた。並の神経を持った者なら、なにがしかの怒りをおぼえずにはいられないだろう。
が、俺は『対・破壊活動班』のリーダーなのだ。この世の予盾にいちいち目くじらを立てていて、務まる仕事ではない。必要とあらば、いかなる感情をも圧殺することに慣れている。
それに、──今の俺には、千人のアラブ人の命より、ただ一人の娘の命の方が気がかりだった。
「答えろ」
俺はくりかえした。
「そうだ」青年はうなずいた。
「ぼくが風≠セ」
「聖子は……」不覚にも、声がかすれた。
「聖子は無事なんだろうな」
「約束は守る」
青年の口調は断乎としたひびきに充ちていた。何人《なんぴと》といえども、それ以上の疑いを許さぬ口調だ。
「会わせてもらえるのだろうな」
「まだだ……」
「まだ?」
「あんたが、ぼくたちの要求をのむまでは会わせるわけにはいかない」
怒りも、当惑も覚えなかった。当然、予期していた言葉だからだ。
「要求は何だ?」
「『プッシー・キャット』のことは知っているな」
「ああ……」
「『プッシー・キャット』がスエズ運河に仕掛けられている」
「………」
「スエズ運河は、六月五日に再開されることになっている」風≠フ喉仏がゴクリと上下した。
「それまでに、なんとかあんたの力で『プッシー・キャット』を除去してもらいたいんだ」
5・5・23 B
膝がなえるような感覚があった。日銀の金庫を襲えと言われた方が、まだしも衝撃が少ない。|あの《ヽヽ》『プッシー・キャット』を排除するには、それこそ奇跡の力を必要とするのだ。
「不可能だよ」俺の声は奇妙にしずかだった。
「そんなことは不可能だ……」
「困難なことは認める」
と、風≠ヘうなずいた。
「だが、不可能だとは思えない。いや、たとえほかの人間には不可能でも、あんたにならできるはずだ。あんたは、『対・破壊活動班』のリーダーだからな」
「買いかぶらないでくれ。俺はたしかに爆発物処理のプロだが、魔法使いじゃないんだ。『プッシー・キャット』には、とても歯が立たない」
「そうでもないだろう。あんたの手にかかって、処理されない爆発物はないときいたぜ」
「………」
俺はため息をついた。昔ながらの、パラドックスだ。どんな矛《ほこ》にも、やぶられることのない盾と、どんな盾をもつらぬく矛と……。
「すわってくれ」風≠ェ言った。
「詳しいことを説明する」
日本語がわかるはずもないのだが、ガッサンが椅子を引き、俺をうながした。以心伝心というやつだ。察するに、風≠ニガッサンとのつきあいはそうとうに長いようだ。
俺が腰を降ろすと、風≠ヘ机の上に地図を拡げた。スエズ運河を中心にして、シナイ半島、エジプトを収めた地図だ。
「七三年の第四次中東戦争のときだ……」
風≠ェ、殺したような声で言った。
「ぼくたち|若き獅子たち《アシユパール》≠フ有志コマンドは、|ここ《ヽヽ》に『プッシー・キャット』を設置した」
風≠フ指先が、スエズ運河南部のリトル・ビター湖を叩いた。スエズ湾まで、ほぼ三十キロという地点だ。
「あんたたちが設置したのか」俺は意外だった。
「そうだ……」
「なぜだ?」
「だから、第四次中東戦争のときだと言ったろう。エジプト軍の進撃に、イスラエル軍は苦戦していた。苦戦していたが、それでもエジプト軍の中央を突破して、スエズ運河の西岸まで迫っていた。|奴ら《ヽヽ》は逆渡河作戦≠ノ打って出ようとしていたんだ。|浮き桟橋《ポンツーン》、渡河用いかだ、高射機関砲……イスラエル軍は、スエズ運河を渡ろうとしていたんだ。だから……」
「『プッシー・キャット』を設置したのか」
「結局、その必要はなかったようなものだが、な……」
「設置しておいて、自分たちの力だけでは除去もできないというのか」
「なにしろ、|完全な《ヽヽヽ》爆弾だからな」風≠ヘ、その頬に苦笑を刻んだ。
「たしかに、みっともない話だよ」
「スエズ運河を再開するために、エジプトは徹底的な機雷撤去を行なっているというじゃないか」
と、俺は訊いた。
「なにも、あんたたちが乗り出すこともないだろう」
「ところが、ぼくたちが『プッシー・キャット』を設置した地点は、本来、機雷が仕掛けられているはずのないところなんだ……」
風≠フ苦笑は、さらに大きなものになった。
「運河が結んでいる紅海と地中海とでは水位に落差がある。だから、リトル・ビター湖以南を航行するには、微妙な舵取りを必要とされるんだ。なにしろ、運河内の航行速度は十四キロと定められているぐらいだからな。それ以上のスピードを出すと、船の波で両岸の砂嚢《さのう》がくずれるおそれがある……つまり、機雷の設置場所も、おのずとかぎられているわけだ。スエズ運河そのものを崩壊させるわけにはいかんからな。ところが、ぼくたちはこともあろうに、最も運河のもろいところに『プッシー・キャット』を設置してしまったんだ……」
風≠フ苦笑は、なかばは自嘲のようだ。自分の失態に、諧謔《かいぎやく》を覚えている|ふし《ヽヽ》さえあった。たしかに、あまりに完全な機雷を設置したために、当の本人もそれを撤去することができないという情況は、かなり喜劇的ではあった。
俺は、自分が風≠ノ好意をいだきはじめているのを知って、軽いおどろきを覚えた。本来なら、娘の聖子を人質にして、困難な仕事をしいる風≠ヘ、憎んでも余りある相手のはずだ。だが、──風≠ヘ、狂信的で、攻撃性に充ちた男という俺の予想に反して、あまりにさわやかな青年でありすぎた。俺のような職業の人間にとって困るのは、敵と目すべき相手に、ごく魅力的な男が多いということだ。
一つには、俺が『プッシー・キャット』に興味をいだきはじめているということもあったかもしれない。爆発物処理を仕事とする男にとって、てごわい爆弾を相手にするというのは、倒錯的な夢なのである。
「第四次中東戦争以後、アラブ・イスラエル間のパワー・バランスは、わずかにアラブに有利に働いている……」
風≠ェ言葉をつづけた。
「エジプトのサダト大統領は、これを好機として、なんとか中東和平を実現させたいと願っているようだ。アラブの大勢が、イスラエル承認≠ノ傾きつつあることは事実だからな。もっとも、イスラエルが和平を承認するはずはないがね……憤りをおぼえるよ。アラブ大国は、パレスチナ人民を切り捨てようと考えているんだからな。
スエズ運河再開、シナイ半島とゴラン高原の国連軍駐留期間延長は、サダト大統領にとって、いわば和平の切り札なんだ。その意味では、なにもぼくたちパレスチナ・コマンド≠ェ彼の政策に協力する必要はないんだがね。サダト大統領は、しょせんは政治家《ヽヽヽ》に過ぎないのさ……。
ところが、困ったことには、|パレスチナ解放機関《PLO》のなかにも、サダト大統領の支持者がけっこう多くてね。いや、今や現実派がゲリラ勢力の九割を占めるにまでいたっているんだ。要するに、イスラエルを承認して、パレスチナ国家の建設に力をつくそうというグループさ。強盗《ヽヽ》のお情けにすがって生きようという輩《やから》だ。彼らも、いずれは自分たちの認識が甘かったことをさとるだろうが……。
とにかく、今はあの『プッシー・キャット』に爆発してもらっては困るんだ。ぼくたちは、どちらかというと|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》にちかいところに位置しているんだが……|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》は、ゲリラ勢力のなかでは孤立しがちでね。『プッシー・キャット』が爆発したら、それこそ敵対することにもなりかねない。イスラエルのラビン首相は、スエズ再開を評価して、軍隊をシナイ半島から後退させている……こんなときに、『プッシー・キャット』が爆発したら、世界の非難が|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》に集中することは眼に見えている……」
「そちらの事情はわかった」
俺は、風≠フ言葉をさえぎった。少々、風≠フ饒舌に退屈してきたのだ。政治的なプロパガンダは、常に俺の耳には空しくひびく。
「具体的には、どうするつもりなんだ? 『プッシー・キャット』を撤去する手筈は考えてあるのか」
「もちろん、実際の作業はあんたに一任することになる……」
風≠ヘ、打てばひびくように答えた。
「ただ、それまでのおぜん立ては、こちらでととのえさせてもらったよ。遊牧民《ベドウイン》に協力してもらうんだ……」
「遊牧民《ベドウイン》に……」
「そう……ぼくの考えではこうだ。『プッシー・キャット』に接近するのには、ゴム・ボートを使う。ゴム・ボートだけが、唯一、『プッシー・キャット』に接近できるものだからね……。ゴム・ボートを使用するとなると、それほどの距離は望めないから、『プッシー・キャット』設置点二キロほど北から、進水することになると思う。できるだけ、距離を短縮することは、エジプトの哨戒艇に発見される危険を少なくするという意味からも望ましい。設置点南からの進水は、さっきも言ったように、流れが激しいから、ゴム・ボートをあやつるのが困難だ……つまり、そのゴム・ボートおよびほかの機材を、遊牧民《ベドウイン》たちにスエズ運河まで運んでもらおうというわけさ。ぼくたちが運んだ場合、シナイ半島のイスラエル兵に発見される危険性が非常に大きいからね。その点、遊牧民《ベドウイン》なら……」
そのとき、壁にかかっている電話が、するどいベルの音を鳴りひびかせた。ガッサンが受話器を取り、二言、三言しゃべると、無言で風≠ノ差し出した。
「失礼……」
風≠ェテーブルをはなれた。
正直、俺の気持ちは暗澹《あんたん》ととざされていた。どう考えても、とほうもない話だ。『プッシー・キャット』撤去の困難さもさることながら、仕事をとりまく諸条件の悪さが頭痛のタネだった。どうやら、風≠ヘエジプト側にも秘密裡に|こと《ヽヽ》を運ぼうとしているらしい。つまり、イスラエル軍だけではなく、エジプト軍もまた、仕事の障害となりうるのだ。
「柴田さん……」
受話器を置き、風≠ェふりかえった。その顔が蒼白となっていた。
非常に、いやな予感がした。
「事情が変わった」風≠フ舌がわずかにもつれていた。
「事情が変わった?」
「ああ……機材を運ぶ予定になっていた遊牧民《ベドウイン》が、全員、イスラエル兵に逮捕されたそうだ。なにか、戦車兵たちとトラブルを起こしたとかで……」
「………」
予感は、今や現実の悪寒となって、俺の体をふるわせていた。このうえ、さらにもう一つ、悪条件がかさなろうというのか。
「それでも、やるつもりなのか」俺は、声をふりしぼった。
「まだ、やるつもりなのか」
「延期はできない」風≠ヘ、頭を昂然ともたげた。
「スエズ運河が再開される六月五日までは、あと二週間たらず……作戦を延期するわけにはいかないのだ」
「そうだろうな」
俺は肩を落とし、ため息をついた。風≠ェ俺の思っているとおりの男なら、そう答えるに決まっているのだ。
75・6・1
──俺がイスラエルに着いてから、一週間あまりが経過していた。
そのうち最初の三日間を、俺はもっぱら部屋にとじこもって過ごした。むろん、いかにして『プッシー・キャット』を処理するか、考えあぐねていたわけである。
考えれば考えるほど、『プッシー・キャット』が難物に思えてきた。正直、俺一人の手には余る感じだ。電子装置《エレクトロニクス》を装備した爆弾処理班が、総力をあげていどむべき仕事なのである。
鉄の接近をいっさい許さぬ超高感度の磁針型・磁気機雷。──そんな機雷を撤去するためには、とりあえず爆発させてしまうしか方法がない。子供機雷が危険だというなら、ヘリコプターからでも大型コイルを吊るして起爆させれば、それで|こと《ヽヽ》はすむ。
むろん、風≠ェいかに実力者であるにしても、ヘリコプターを調達することはむつかしい。むつかしいが、問題はヘリコプターの調達にあるのではなく、『プッシー・キャット』の存在を他者に知られてはならないことにあった。他者、とりわけエジプトにである。
|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》をこれ以上アラブ世論から孤立させないために、『プッシー・キャット』を撤去するのだ。『プッシー・キャット』、およびおびただしい数の子供機雷をはでに爆発させでもすれば、かえって逆効果のおそれがあった。それこそ、スエズ運河の再開に反対する過激派ゲリラがテロ行為に出たという、無用の誤解を招きかねない。そんなことにでもなれば、|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》は、強い支持層であるインテリたちの信頼をもうしなう結果になるだろう。
『プッシー・キャット』を爆発させるわけにはいかない。あくまでも、コッソリと持ち去る必要があるのだ。
ひとつだけ、疑問があった。スエズ運河を再開するにあたって、多くの浚渫船《しゆんせつせん》がその航路を往復しているはずだ。それらの浚渫船の一艘が、どうして今まで『プッシー・キャット』を起爆させなかったのか……。
「それは、リトル・ビター湖からスエズ湾にいたる潮流の激しい区間の、なかでも航行のむつかしい場所に、『プッシー・キャット』が仕掛けられているからだ」
と、風≠ェいった。
「イスラエル軍は、伝統的に電撃作戦《ヽヽヽヽ》が好きな軍隊だからね。そんな困難な場所をあえて選んで、渡河しかねないと思ったからだよ……しかし、六月五日のスエズ再開のときには、まちがいなく『プッシー・キャット』は爆発するよ。スエズ運河の安全をデモンストレーションする意味をかねて、サダト大統領みずからが乗りこむエジプト海軍の駆逐艦『十月六日』、同じく駆逐艦『フーリア』、輸送船『シリア』、『アイーダ』の四隻が、ポートサイド湾から運河を南下することになっているんだ。起爆しないはずがないよ」
風≠フ言葉で疑問はとけたが、その分だけ、焦燥感が強くなったようだ。俺が『プッシー・キャット』の撤去に失敗した場合、サダト大統領が爆死するという事態を招く危険さえあるのだ。そうなれば、中東紛争はさらなる泥沼のなかに突入することになるだろう……ある意味では、中東の運命は|俺の手《ヽヽヽ》に握られているのだ。
俺は苦悶した。
苦悶しながら、この俺が|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》のために働いているという運命の皮肉さに、ふっとおかしさをおぼえることがあった。まったく、人生というやつはわからない。俺は今、これではまるで、警察官が泥棒のために働いているようなものではないか。
聖子のことは、ふしぎなほど気にかからなかった。一つには、『プッシー・キャット』を処理するアイディアを捻出することに熱中していたため、もう一つには、風≠フ言葉にまったくの信頼を置いていたためだった。
風≠ェ聖子の身は保障すると言った以上、くよくよと思い悩むのはおろかというべきだった。パレスチナ・ゲリラは、異常なほど同胞意識が強い。彼らがハイ・ジャックをしたとき、決まって、要求項目に仲間たちの釈放を入れるのはそのためだ。そして、──『プッシー・キャット』の撤去作戦に協力しているかぎり、俺はまちがいなく風≠フ同胞なのである。
──グレート・ビター湖の方角から、ゴム・ボートで機雷設置点に向かうという風≠フ案は、再考の要があるようだ。たしかに、潮流はいくらかおだやかかもしれないが、あまりに人眼がありすぎるのだ。なにしろ、六七年の第三次中東戦争以来、ここに立ち往生している貨物船、漁船は、英国、西独、ポーランド、アメリカなど、計十四隻に達しているのである。
ノンビリとゴム・ボートで進みながら、かつ外国人船員たちの眼をかいくぐることは、俺には不可能としか思えなかった。
かといって、機雷設置点からボートを進水させることはできない。現在、その辺りで、イスラエル軍の架けた橋を撤去する作業が行なわれているからである。
潮流はあらいかもしれないが、南から機雷設置点におもむくのがもっとも賢明であるように思えた。とすると、ゴム・ボートは使用できない。ゴム・ボートに替わるもので、しかも『プッシー・キャット』を刺激しないもの……。
どんな難解な代数式も、ひとつの数字が明らかになれば、後は解答が比較的容易になるものだ。三日めの夜、ゴム・ボートに替わるものを考えだしたときから、作戦の全体が見通せるようになった。いわば、峠を越したのである。それから先は、順を追って考えていくだけのことだ。
翌朝には、作戦のすべてが、その詳細にいたるまで完成されていた……。
その日の朝、俺の様子を見に、風≠ェ部屋までやって来た。
「ゴム・ボートが調達できたよ」
部屋に入ってくるなり、風≠ヘそういった。
「後は、そのゴム・ボートをどうやってスエズ運河まで運ぶかを考えればいい。むつかしいよ。なにしろ、シナイ半島にはイスラエル兵たちの眼が光っているからね……」
「………」
しばらくは、風≠フいっていることが理解できなかった。ゴム・ボートのことなど、とっくに俺の頭から消えていたのである。
「もうゴム・ボートは要らなくなった」やがて、俺は苦笑を浮かべた。
「ボートは現地で調達するよ」
「現地調達……」風≠ヘ眼を丸くした。
「バカな……どうやって、調達するつもりなんだ? イスラエル軍から盗もうとでもいうのか。それこそ、気違い沙汰だぞ」
「そんなつもりはないさ……」
俺はテーブルをはなれ、窓のブラインドを上げた。
徹夜つづきの眼には、朝の光はいささか強すぎるようだ。俺は、眼に刺されるような痛みをおぼえた。
遠くに、オマール・モスクのドームが見えた。ドームは、朝の陽光に、金色の輝きを放っていた。
疲労で、俺はつかのま呆然としていたようだ。
「柴田さん……」風≠ェ気がかりそうな声をかけてきた。
「あ、ああ……」俺は掌《てのひら》で顔を撫でおろし、風≠ふりかえった。
「これから、忙しくなるぞ。そろえてもらいたいものが、だいぶある……」
風≠ェ表情を変えた。スイッチを切り換えたように、その眼がするどさをおびた。有能|熾烈《しれつ》なゲリラの眼だ。
「作戦ができあがったのか」風≠ヘ念をおすように訊いてきた。
「ああ……」うなずいて、俺はいった。
「そろえてもらうものを言う。あとで、リストにして渡すから、できるだけ早くかき集めてくれないか……まず、過酸化水素に、過マンガン酸カリウム、それぞれ容量は……」
「過酸化水素に……」
風≠フつぶやきが、俺の言葉をさえぎった。かなり、俺の言う|そろえてもらいたいもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が意外だったようだ。おそらく、武器のたぐいを予想していたのではないか。
「これは、何に使うのですか」と、風≠ェたずねてきた。
「その……『プッシー・キャット』を係留している強化プラスチックの鎖を、酸か何かで溶かすつもりなんだろうか……」
「………」
俺は、しばらく風≠フ顔をみつめていた。そして、おもむろに首を振った。
「いや……作戦の説明は、あとからする。今は、とにかく集めてもらいたいものを言うよ……大型の魔法ビンに、ライターのガス・ボンベ、水中銃に……」
風≠ヘあきらめたように、ただうなずきつづけていた。
──六月一日、俺はとあるスポーツ用品店をおとずれた。
その店の主人はユダヤ人だが、イスラエルのシオニズム政策には反対、むしろアラブ人に同情的だという。風≠ノ紹介されたのだから、案外、|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》のシンパの一人かもしれない。
奥の応接室で、俺は主人と向かいあっていた。
「水中銃の方は、どうやらご注文どおりのものを見つけることができました」主人はゆっくりとした英語でいった。
「ですが、もう一つの方は、後、二、三日待っていただけませんか」
「三日は待てません……」と、俺はいった。
「二日でお願いします」
「二日ですか」
主人はため息をついた。
「むつかしい。非常に、むつかしいです。たしかに、素材はウエット・スーツを利用することができますが……種類によっては、かなりの断熱性がありますからね。ですが、ご注文のような品物をつくるのは……今、|うち《ヽヽ》の技術者に大車輪でつくらせてはいますが……」
「二日でお願いします」
俺はくりかえした。
──スポーツ用品店を出て、俺はタクシーを拾った。「|西 の 壁《ハゴルテ・ハマーラビ》」へ行ってくれ、と、運転手に告げる。「西の壁」……すなわち、「嘆きの壁」のことである。
すでに、時刻は午後の二時を回っていた。約束の時刻に間にあうかどうか、いささか心配だった。
タクシーは旧市街に入り、|獅 子 門《ライオンズ・ゲート》をくぐった。俺は、適当なところでタクシーから降りた。
「嘆きの壁」の前には、あいかわらずラビと、観光客の姿がめだった。観光客のなかには、日本人も幾人か混じっていた。だが、──俺の眼には、ただ一人の日本人しか入らなかった。|むこう《ヽヽヽ》も同様だったようだ。
その男は、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくると、しずかに声をかけてきた。
「どうも、しばらくですね。班長《ヽヽ》……」
加納和だった。
──俺たちは、「嘆きの壁」近くに位置している、小さなカフェ・ショップに入った。主に、アラブ人たちが利用しているらしい店で、アラブ・コーヒーのあのドロリとした匂いが店に充ちていた。
「おどろきましたよ」
加納の口調には刺《とげ》があった。
「あんな手段を使ってぼくをまいた班長が、日本大使館を通じて連絡してくるとは、ね……どうした、風の吹き回しですか」
「たしかに、風の向きが変わった……」いまさら、俺が加納の皮肉などに動揺するはずがなかった。
「おまえの力をかりる必要がでてきたんだ」
「ぼくの……」加納は、歪《ゆが》んだ笑いを浮かべた。
「それはまた、|むし《ヽヽ》のいい話ですな」
「黙って、聞け」
俺は、風≠ニ、『プッシー・キャット』のことを話しはじめた。
ハエの糞に黒く汚れたファンが、俺たちの頭上になま暖かい風を起こしていた。
──話が終わった時、加納は全身に汗をかいていた。すえたような臭いが、鼻孔をつく。過剰に、アドレナリンがまさった汗だ。加納はあきらかに興奮していた。そして、おそらくはいくらか怯《おび》えてもいるようだった。
「その仕事を、ぼくに手伝えっていうのですか」やがて、加納が極端に感情を殺した声で訊いてきた。
「そうだ……」俺はうなずいた。
「爆発物のプロが俺一人では、なんとしても心もとないからな」
「風≠ェいるじゃないですか」
「あ、ああ……」俺は言葉をにごした。
「とにかく、おまえの力をかりたいんだよ」
「|むし《ヽヽ》のいい話だ」加納はくりかえした。
「そりゃあ、たしかに、お嬢さんのことはなんとかしてさしあげたいと思いますが、ね……正直、命を張るほどの義理はないですな。班長に協力して、ぼくにどんな見返りがあるというんですか」
「風≠セ」俺はズバリといった。
「『プッシー・キャット』の撤去に力をかしてくれたら、俺が責任を持って、風≠引き渡す」
「………」
俺の言葉は、加納の意表をついたようだ。加納は、しばらくただ俺の顔をみつめていた。
「いいでしょう」やがて、おもむろに顎を引いた。
「引き受けましょう」
「部屋で、ゆっくりと話をしよう」
席を立つ俺に向かって、加納は一種不可解な微笑を投げかけてきた。
「『プッシー・キャット』に、イスラエル軍、エジプト軍……どうも、生きて帰れそうにもないですな。ねえ、班長、墓には何と書いたらいいんですか」
「この男──」
俺はいった。
「スエズに死す……」
75・6・4
──さながら「戦車の墓場」のようだった。
ヘッド・ラィトの光芒のなかを、次から次に戦車の残骸がよぎっては、消えていく。まれには、破壊された軍用車なども混じっているようだ。
無名戦士の墓も、砂漠のそこかしこで眼についた。一様にヘルメットをかぶせた墓は、戦争が停止してもなお、待機をつづけている兵士たちのようにみえた。イスラエル兵、エジプト兵をとわず、墓は奇妙に|かたくな《ヽヽヽヽ》で、孤独な印象をおびていた。
面積一万三千平方キロ……シシリー島の約半分に当たる広さを持つシナイ半島は、戦火の絶えることのない三角地帯だ。現在も、ファントムやスカイ・ホークが上空を飛びかい、イスラエル軍が実弾演習をつづける緊張地帯なのである。
六月三日の未明……俺たちを乗せた幌《ほろ》トラックは、砂漠をゆっくりと走っていた。乗っているのは俺、加納、風=Aガッサンの総勢四人だ。『プッシー・キャット』を撤去するには、必ずしも充分な陣容とはいいがたい。むしろ、不安が先にたった。
メンバーの相互理解にも、かなり問題があるようだ。加納と、風=Aガッサンの二人とは、徹底的に反目しあっていた。水と油の印象が強い。たがいに、必要最小限なこと以外、一言半句もしゃべろうとしないのだ。加納は、風≠スちと親しく口をきくことから、風≠スちは加納をメンバーに加えたことから、それぞれ俺に不信の念をいだいていた。
まったく、すばらしい仲間たちだ。このメンバーでは、『プッシー・キャット』を撤去することはおろか、畑から西瓜《すいか》を盗むのさえおぼつかなかった。
トラックは、さほど大型ではなかった。アラブ人の農民から借りてきたものとかで、いつもは野菜を運ぶのに使われているらしい。およそ軍用トラックとは印象がほど遠い、走るのがふしぎなような代物《しろもの》だ。
事実、荷台には、パレスチナ・ゲリラが機雷撤去におもむくことを連想させるものは、何ひとつ積まれていなかった。さまざまな液体を入れた、金属製のミルク容器が並べられているだけだ。そのミルク容器を見るかぎりでは、農民のピクニックとしか思えなかったろう。
トラックは、ガッサンが運転していた。加納は、ガッサンと共に運転席にすわっている。さぞかし、気のあうパートナーとなっていることだろう。残る俺と風≠ヘ、荷台に乗っていた。
「ラビン首相が、スエズ運河東岸二十〜三十キロに駐留しているイスラエル軍の半数を、後方に引き揚げることを発表したそうだ」
トランジスタ・ラジオを耳に当てながら、風≠ェつぶやくようにいった。
「スエズ運河の再開を保証するから、イスラエル船舶の航行を認めてくれということらしい」
「結構な話じゃないか」と、俺。
「ああ……」風≠ヘいかにも憂うつそうにうなずいた。
「イスラエル軍の引き揚げ部隊に、ぼくたちがぶつかりさえしなければ、ね……」
「………」
もっともな、危惧というべきだった。一応は、日本のジャーナリストであることを証するI・Dカードを持参してはいる。スエズ運河再開を取材するために、急遽《きゆうきよ》日本から駆けつけてきたというわけだ。だが、……偽造のI・Dカードが、イスラエル兵たちの眼をだましおおせるとは思えないし、なにより取材のために夜のシナイ半島をトラックで走っているのだ、という説明が不自然にすぎた。
もちろん、戦うなどと考えることさえおろかしい。イスラエル軍の戦車に比して、こちらには自動小銃一挺すらないのだ。十秒とたたないうちに、メンチにされてしまうことは眼に見えていた。要するに、イスラエル軍と遭遇した時には、作戦は失敗したものと思わなければならないのである。
俺は、自分の見解を風≠ノ述べた。風≠ヘ、ますます憂うつそうな顔になった。
──ふいに、トラックが軋《きし》みを発してとまった。ミルク容器が、危うく倒れそうになったほどの急停車だ。
「何があったんだっ」
風≠ェするどい声をあげた。
すでに、エンジンが切られていた。幌《ほろ》の布地が暗転する。ヘッドライトも消されたのである。
そして、静寂がたちこめた。神経を消耗させる、緊迫感に充ちた静寂だ。俺たちの吐く荒い息だけが、闇のなかにきこえていた。
ばしっと何かをはじくような音がした。風≠ェ長靴から引き抜いたスイッチ・ナイフをかまえたのだ。──風≠フ姿は、パレスチナ・ゲリラの徹底した戦闘訓練をうかがわせた。ナイフが、まさしく牙《きば》のように|その《ヽヽ》手に収まって見えるのだ。
一分、二分……俺のなかで緊張がしだいにたかまっていき、ついには強い圧迫感をおぼえるようになった。現実に、胸に痛みを感じたほどだ。こんな時、人はわれ知らず、叫び、わめいてしまうものなのである。
自分でもそうと意識しないまま、俺の体は動いていた。むしろ、緊張感につき動かされたと形容した方がより正確なようだ。
「どこへ行く……」
風≠フするどい声を背後にききながら、俺はトラックから飛び降りていた。荷台を回りこみ、前方に視線を投げた。
何がトラックをとめたのかわかった。闇のなかに、闇よりさらに黒く、人影が浮かび上がっているのだ。その人影は、身じろぎもせずに、|こちら《ヽヽヽ》を凝視しているように見えた。
正直、気持ちが臆した。その人影がイスラエル兵なら、とつぜん発砲してきたとしても、文句のいえないところなのだ。だが、──俺の足はなかば吸い寄せられるようにして、人影に向かっていた。
なんらかの予感が働いていたのかもしれない。人影は、あまりに動かなさすぎるように思えたからだ──俺は人影のかたわらに立ち、しばらくは安堵《あんど》が体のなかに拡がるままにまかせておいた。安堵はやがて現実の笑い声となって、俺の喉をふるわせた。
俺の笑い声が、ほかの三人をも招き寄せた。
「なんだ……人形じゃないですか」
加納が拍子抜けしたようにいった。
そう、人形なのだ。緩衝地帯の国連緊急軍、たとえばインドネシア部隊などでは、ミサイルに兵士の人形をすえつけることがあるという。おそらくは、そんな人形の一体が放置されたものなのだろう。
俺たちは声を合わせて笑いかけ、──次の瞬間にはその声をのみこみ、そろって砂地に身を伏せていた。
かすかに、地鳴りがきこえてくる。イスラエルに滞在すれば、いやでも|なじみ《ヽヽヽ》にならざるをえない音だ。キャタピラが地を噛む音。戦車が|こちら《ヽヽヽ》に驀進《ばくしん》してくるのだ。
俺たちの伏せている地面が、しだいにはっきりとした震動を伝えるようになった。地に耳を当てると、戦車のキャタピラの軋《きし》みさえ伝わってきそうだ。
俺たちはなす|すべ《ヽヽ》もなく、ただ身をすくめていた。できれば、このまま岩になってしまいたいほどだった。戦車は、ただ一発の砲撃で、俺たちすべてをふっとばすことができるのである。
キャタピラの轟音が、地軸を震わさんばかりになった。今、確実に、戦車は俺たちのごく近くを通過しているのだ。闇が、|その《ヽヽ》武骨な姿を覆いかくしてはいるものの……。
キャタピラ音が小さくなっていき、やがては完全にきこえなくなった。
俺たち四人は、そろって死んだようになっていた。極端な緊張から生じた反動が、俺たちの筋肉をだらしなく弛緩《しかん》させていたのだ。今の俺たちは、赤児も同然の状態といえた。
結局、俺たちは信じられないほどに幸運だったのだ。|あの《ヽヽ》人形と出会ったおかげで、ヘッド・ライトを点《とも》したトラックに乗ったまま、戦車とぶつかるようなことにならずにすんだのだから。
──俺たちはその日のうちにギジ峠を越え、夕方には目的地に着いていた。リトル・ビター湖から南方に数キロをへだてた、スエズ運河沿いの荒地である。
スエズ運河再開を二日後にひかえ、なおこの荒地には人影はなく、|しん《ヽヽ》と静まりかえっていた。残照が荒地を紅く染め、砂漠を断ち切って横たわる運河に、一面の金粉をまぶしていた。奇妙に、気持ちが沈んでくるような風景だった。
その荒地に、小屋がポツンと建っていた。
ガッサンが見つけだしてきた小屋だ。ガッサンの言によると、六七年までは、遊牧民《ベドウイン》が土地の人間と交易を行なうために用いていた小屋だそうである。われわれの仕事のためには、まさしく格好の場所といえた。
俺たちはトラックを薮《ブツシユ》にかくし、それぞれに鶴嘴《つるはし》とスコップを手に持った。俺たちに、休んでいる暇はなかった。俺たちは、すぐにもボートを現地調達する必要があったのである。
持参したノートに記された寸法にあわせて、俺は砂地に線を引いた。俺が一歩退がるのと同時に、ガッサンが鶴嘴をがっしとふりおろした。
物凄い力だ。炸裂したかのように、砂の塊が八方に散った。風≠ニ加納がシャベルを入れ、砂地を掘りはじめた。俺もシャベルを拾い、作業に加わった。
柔らかい砂地だ。掘ること自体は、さほど困難な作業ではない。むつかしいのは、砂が崩れないようにすることだった。俺は、バケツに速乾性のセメントをつくりはじめた。砂地に染みこませ、穴を補強するためである。
「本当にこんなことで|できる《ヽヽヽ》のか」穴を掘る作業に息を弾ませながら、風≠ェ疑わし気に訊いてきた。
「完全なものはできない」俺は答えた。
「完全なものが欲しかったら、木枠を組み立てる必要があるからな。だが、ごく大雑把《おおざつぱ》なものだったら、これで充分役に立つはずだ」
「………」
風≠ヘなお疑わし気だった。無理もない。発案した俺にしてからが、半信半疑なのだ。
──一時間後、砂枠が完成した。
俺たちの舟の、いわばネガだ。流線型というより、やや箱型にちかい穴である。安定性を考慮してのことだ。これでも、三人の成人男子が乗るスペースは充分にあるはずだ。
俺たちは、次の作業にとりかかった。穴の側面、底面に、ハケでワックスを塗りにかかったのである。ワックスは、離型剤の役をはたす。舟を、枠から取り外すときのためのものだ。
ワックスを塗り終わったときには、すでに暮色が濃くたちこめていた。
風≠ノ懐中電灯を持たせ、残る三人が仕上げともいうべき作業についた。
ガッサンが、トラックからバケツに入れた水飴のようなものを運んできた。ゲルコートである。ポリエステル樹脂を主成分にした溶液だ。
同時に、加納が一メートル幅ほどのガラス繊維を巻いたものを三束、両脇に抱えて持ってくる。
俺が鋏《はさみ》で|その《ヽヽ》ガラス繊維を切っている間、加納とガッサンはゲルコートを穴の底面に塗りかさねはじめた。俺が鋏で切ったガラス繊維をゲルコートの上におき、二人はさらにその上にハケでゲルコートを塗りかさねる。鉄筋コンクリートを例にとればわかりやすいだろう。いわばガラス繊維は鉄筋、ゲルコートはコンクリートに当たるのである。
俺たちは、即席に舟を製造しようとしているのだ。即席だからと言って、バカにしてはいけない。ガラス繊維とゲルコートから造られる舟は、ファイバー・ボートの名のもとで立派に商品化されているのである。
もちろん、われわれが造る舟は、とうてい市場に出せるような代物ではない。舟の名に値するかどうかさえ疑問だった。安定性と、耐久性にひどく欠けるのだ。が、──われわれの舟は、機雷設置点までのほんの数分を持ちこたえてくれれば、それで用は足りるのだし、なにより金属がいっさい用いられていないという利点があった。
いかに敏感な磁気機雷でも、ファイバー・ボートの接近を察知するのは不可能だ。
さらにもう一つ、──ファイバー・ボートを造ることの利点は、眼をみはるほどの|その《ヽヽ》速乾性にある。実際、条件さえととのえば、ものの数十分もあれば硬くなってしまうのだ。化学反応が、高熱をひき起こすのである。
われわれの舟は、大いに設計に難がある。誰一人として、ボートがバランスをたもつための造船知識をそなえてはいないのだから。──だが、今度の仕事では、ボートが転覆する危険など、ほんの些事《さじ》にすぎない。命にかかわる危険が、ほかに数えきれないほどあるのだ。
明日の朝には、ファイバー・ボートを砂枠から抜くことができるだろう。
明日、六月四日の朝には……。
──四日の昼間は、作戦の準備で忙殺された。
風≠フ持つトランジスタ・ラジオが、刻々とスエズ運河再開のときが近づきつつあることを報じていた。イランのパーレビ皇太子を始め、外国の代表もほぼ全員が集まったという。日本からは、小此木彦三郎運輸政務次官が参列する予定になっているらしい。
苛酷な太陽の下、暑さにあえぎ、焦燥感に追いたてられながら、俺たちは作業を急いだ。俺だけにかぎらず、ほかの三人の頭にも、サダト大統領が爆死するという悪夢があったに違いない。俺たちが『プッシー・キャット』の撤去に失敗した場合には、中東情勢に手痛い致命傷を与えることにもなりかねないのだ。
俺は、ファイバー・ボートに取り付けたエンジンの点検に余念がなかった。むろん、ガソリン・エンジンであるはずがない。通常のガソリン・エンジンは、まちがいなく『プッシー・キャット』を反応させることになるからだ。
およそ、エンジンらしからぬ構造をしている。主たる構造は、パイプとバルブから成り、外観を見た限りでは、冷蔵庫の内部となんら変わるところがない。|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》のシンパたるアラブ人工場経営者が、風≠フ特別発注に応じて、大車輪で造ったものである。──材質には|耐熱磁器ガラ《パイロセラム》スが用いられてある。パイロセラムは、内部に細かい結晶が存在する磁器ガラスだ。天火の鍋に使われてあるものと説明すれば、誰もが納得するにちがいない。赤く焼いた後に水に浸けても、割れることのない材質だ。
「動くなっ」
ふいに、するどい加納の声がきこえてきた。
顔を上げた俺の眼に、水中統をかまえている加納の姿が映った。銃口は、ぴたりと風≠ノ向けられている。
とっさには、情況を把握しかねた。この場におよんで、加納は怖《おじ》けづいたのか。『プッシー・キャット』撤去にのぞむことなく、風≠逮捕しようとでも考え直したのだろうか。
「加納っ」
俺がそう叫ぶのと、水中銃がなにかを断ち切るような音を発するのとがほとんど同時だった。銛《もり》は一直線に飛び、風≠フ足元にぐさっと刺さった。加納の狙いは正確だった。今しも風≠フ足を刺そうとしていたサソリは、もののみごとに地に縫いつけられたのである。
数瞬、その場の空気は凍りついたようだった。
俺は、サソリのもがき苦しむ姿に吐き気をさそわれた。赤く、いやらしい虫。その尾端の針で、人間を苦悶の極に追い落とす虫……。
「ありがとう……」
風≠フその一言が、緊張した空気を柔らげた。
「ああ……」
加納は、はにかむような笑いを浮かべた。
俺の知るかぎりでは、加納と風≠ニの間に、多少なりとも個人的な会話が交されたのは、これが最初のことだった。もしかしたら、俺たちの作戦は成功するかもしれない……俺はふっとそんなことを思った。
が、加納はすぐに笑いを収め、いつもの皮肉な表情にもどった。
「ねえ、班長……」と、加納はいった。
「『プッシー・キャット』はきちがいじみて敏感な特殊機雷だということですが……まさか、水中銃に反応することはないでしょうね。もし、反応するとしたら……ぼくたちは全員、命がないですよ」
そう、|それ《ヽヽ》が俺にとっても、心配の種だったのだ。水中銃だけは、ほかの何を替わりに使用するわけにもいかなかったのだ。まさかとは思うが、もし『プッシー・キャット』が水中銃に反応したら……。
俺には、いうべき言葉は一つしかなかった。
「祈るんだな」俺の声はなかばささやくようだった。
「俺たちの幸運を祈ることだ」
そして、──ついに、六月四日の夜がやってきた。
──スエズ運河の水面は暗く、重油のようによどんでみえた。かすかに、潮のにおいがするようだ。
俺、加納、ガッサンの三人は、ファイバー・ボートを水面に降ろし、運河の中央まで、しずかに櫂《かい》でこぎ出た。全員が黒のウェット・スーツで身をかため、シュノーケル、足ヒレを装備していた。風∴齔lが、別行動をとることになっていた。
正直、櫂を捨ててしまうのにはためらいがあった。櫂で漕ぐぶんには、少なくともボートからふり落とされる危険はないからである。
機雷設置点までの数キロを、エジプト兵に見つかることなく、櫂で漕ぎ進むのはまず不可能だろう。振り落とされる、あるいはボートそのものが裂ける危険はあっても、パイロセラム・エンジンを使うしかないのだ。
「すぐに、|すむ《ヽヽ》はずだ……」
俺は英語でいった。
「ほんの短い時間、ボートにしがみついていればいいんだからな」
そう、すぐにすむ、片が付くはずだった。目的地にたどり着くまでの時間もさることながら、作戦全体がほんの短時間で片が付くはずなのだ。|それ《ヽヽ》は、われわれが準備についやした時間と、汗を考えれば、あまりにあっけないショーといえるだろう。実際、ことここにいたれば、そのショーのフィナーレが派手な花火で終わらないことをひたすら祈るだけだ。
「いくぞ……」
俺は、操縦桿を握りしめた。操縦桿といっても、釣のテグスを結んで、せいぜいが舵の角度を変えることができるだけだ。一枚の強化プラスチック板でしかない舵が、はたしてものの役に立つかどうかさえ疑問だった。
ふいに、すべてがバカげた冗談でしかないように思えた。いい年をした大人が、玩具遊びに|うつつ《ヽヽヽ》を抜かしているのだ。だが、──これが冗談だとしても、笑うにはもう遅すぎる。
ガッサンがパイロセラム・エンジンのレバーを引いた。
凄じい爆発音が耳を圧した。体が宙に浮くような衝撃をおぼえた。激しい空気擦過が身を灼《や》き、窒息感に肺が悲鳴をあげた。
今、ファイバー・ボートはほとんど空を飛んでいた。
当然ではあったろう。ボートは、|ロケット《ヽヽヽヽ》・|エンジン《ヽヽヽヽ》で推進しているのだから。
──第二次大戦中、ドイツはME163なる無尾翼ロケット戦闘機を開発した。考案者はアレクサンダー・リピッシュ博士、製作にはメッサーシュミット社があたっている。ME163の真にユニークな点は、|液体ロケット《ヽヽヽヽヽヽ》・|エンジンを搭載《ヽヽヽヽヽヽヽ》していることにあった。
燃料には、メタノールと水酸化ヒドラジンを配合したC液が用いられる。C液に酸素を供給するT液は、過酸化水素とオキシキノリンを配合したものだ。この二液を混合し点火することが、液体ロケット・エンジンの原理のすべてである。
記録では、ME163は時速一〇〇四キロまで出したことになっている。
俺の造った液体ロケット・エンジンは不完全きわまりないものだった。不完全なものだが、とにかく液体ロケット・エンジンは、バルブとパイプがあればなんとかなるという利点がある。俺は、たんにそれに点火ヒューズをセットしただけなのである。
パイロセラム製液体ロケット・エンジンで推進するファイバー・ボート……たしかに、これなら『プッシー・キャット』に感知されることはない。感知はされないが、そんな代物に乗った人間はたまったものではない。
数分後、俺は胃液を吐きちらしながら、ボートからふり落とされていた。なかば、失神状態だった。ほかの二人がどうなったか、見さだめる余裕などあるはずがなかった。
水の冷たさが、俺の意識にかつを入れた。極端な酸欠状態が、よみがえった意識をきりきりと容赦なくしめあげる。胸部を万力ではさまれる苦しみだった。
俺は必死にもがいた。水面までが、無限の距離に思える。肺が、灼熱感でいっぱいに充たされた。
水面から首を突き出したとき、俺はあやうく溺死しそうになった。あまりに激しく咳込《せきこ》んだために、全身に痺《しび》れが生じたのだ。
苦痛にかすんだ視界に、紫灰色の薄い煙りを吐いて沈んでいくファイバー・ボートが映った。
そのファイバー・ボートの背景に、照明がにじんでいた。イスラエル軍・軍事用架橋を撤去するための工事現場だ。スピーカーから、女性歌手の唄うアラブ音楽が流れていた。
とすると、|ここ《ヽヽ》は……。
俺はシュノーケルをくわえ直し、ふたたび水に潜った。その際、ポケットから、ペンシル・ライトを取り出すのを忘れなかった。
鈍い明かりが水中を移動し、──巨大な機雷をとらえた。
『プッシー・キャット』だ!
『プッシー・キャット』の印象は、無気味の一言につきた。直径二メートルほどもある黒い巨丸が、なにか意志あるもののごとく、ゆらゆらと水に揺れているのだ。その尾部から伸びている強化プラスチック製の太い鎖は、さしずめ怪獣の尻尾《しつぽ》というところか。
俺は、自分の幸運が信じられないような気持ちだった。厳密には、幸運という言葉は当てはまらないかもしれない。──液体ロケット・エンジンの持続時間は、お話しにならないぐらい短い。その持続時間の短さに、パイロセラム・エンジンの消耗度を考慮に入れて、俺は自分たちがふり落とされる場所が、ちょうど『プッシー・キャット』の設置点にちかくなるように、あらかじめ出発点をさだめたのである。
『プッシー・キャット』の向こうに、遠く二つの明かりがただよっていた。深海魚を連想させるような明かりだ。むろん、スエズ運河に深海魚が棲息するはずがない。加納とガッサンも、ほどよい場所に振り落とされたというわけだ。
俺はそれだけをたしかめて、ひとまず水面に浮かび上がった。水中メガネ、シュノーケル、足ヒレを装備していても、す潜りであることに変わりはない。潜水時間には、おのずと限界があった。
本来なら、アクアラングをつけてすべき作業なのだが、圧縮空気タンクが『プッシー・キャット』を刺激するのを恐れたのだ。
俺は背中の小さな防水リュックから必要なものを取り出すと、ふたたび体を逆転させた。ペンシル・ライトは捨てた。運河岸の工事現場からの明かりと、加納たちが持つライトとがあれば、作業には不自由しないはずだった。
潜水は、加速度的に苦しさを増していた。水が巨大な二本の腕となって、俺の体をおし返しているようだ。常日頃の喫煙量の多さが、潜水をはばんでいるのだ。いやでも、自分の歳を意識せざるをえない。
体力がつきかけているのがわかった。次に浮上すれば、もう潜ることはできないだろう。今回が勝負なのだ。
『プッシー・キャット』の強化プラスチック鎖に、かろうじてとりつくことができた。
俺は、|それ《ヽヽ》を鎖に取付け始めた。ウェット・スーツの胴の部分だと思えばいい。現実に、材質には発泡ゴムも使用されてあるはずだ。断熱効果抜群の袋なのである。あのスポーツ店の親父に特注して造らせたものだ。
|それ《ヽヽ》を鎖に巻き、縦のチャックを閉じ、上端、下端の紐を引く。ちょうど、鎖が五十センチほどの服を着た形になる。内側《ヽヽ》に噴出する圧縮空気が、袋をふくらまし始めた。
自動的にふくらむ、救難用のボートと原理は同じだ。ただ、空気を噴き込むボンベに、ライター用のプラスチック・ボンベが使われてあるのと、不完全なものながら、ごく簡単な吸引器が取り付けられてある点が、ゴム・ボートとは異なっていた。
袋は、風船のようにふくらんだ。圧縮空気が上端部、下端部から水を追い出し、さらにその空気を吸引器《バキユーム》が吸い込む。水が出たと思われた時点で、俺は上端部、下端部の紐をかたく閉め、袋をほぼ完璧に密封した。
これで、真空状態にちかい袋が、鎖を完全に包んだことになる。すべてが終わるのに、ものの三十秒とは要さなかったはずだ。
が、すでに俺の頭蓋で血液は熱く煮沸し、肺はぜいぜいとあえぎをくりかえしていた。誰かが、俺の頭から爪先までを、内側《ヽヽ》から全力で蹴りつけているようだ。
ふっと気の遠くなるような瞬間があった。遠くに、ちらちらと移動する加納たちのライトが見えなければ、俺がはたして意識をたもてたかどうか疑問だった。
つづく俺の動作は、なかば夢遊病者の動きのようだった。まったく、意志力は関与していない。反射運動にも似た、純粋に肉体的な動きだ。
防水リュックから、魔法ビンを取り出す。魔法ビンに故障はないようだ。水面にあれだけ強くたたきつけられたことを考えれば、奇跡のようなものだろう。
魔法ビンの上口部には、先端にするどいメスを取りつけた噴射器《ノズル》が装備されている。俺は|その《ヽヽ》メスを、ズブズブと袋に突き刺し、スプレーを噴射させた。俺の手のなかで、魔法ビンが悍馬のように跳ねた。
十秒とは耐えられなかった。肉体的な苦痛と、それに倍する「死」への恐怖が、俺の体を反転させ、鎖からはなれさせた。
必死に、足ヒレを掻く。一メートルでも、五十センチでも、鎖から遠くはなれる必要があった。
魔法ビンの中身は液体窒素《ヽヽヽヽ》だった。沸点が零下百九十六度の液体窒素で、鎖を一瞬のうちに凍らせてしまおうというのだ。だからこそ、断熱効果のすぐれた袋で、鎖を密封する必要があったのだ。
俺の体のすぐ脇を、泡を立てて銛《もり》が通過した。加納が鎖を狙って水中銃を発射したのだ。
加納の言葉が、脳裡によみがえる──はたして、水中銃は『プッシー・キャット』を反応させないか……いや、それより、鎖の反応を心配すべきだった。本来、鎖はどんな小さな衝撃も敏感に伝えて、『プッシー・キャット』を起爆させる造りになっているはずだ。それが、液体窒素に凍らされただけで、大人しく砕かれるままになっているだろうか……。
五秒、十秒……俺は浮上しながら、耐えきれず後方をふりかえった。
俺の眼に最初に飛び込んできたのは、ズタズタに破れた袋をまといながら、水中にただよう鎖の端だった。『プッシー・キャット』には、巨大な人影がとりついていた。ガッサンが運ぼうとしているのである。
作戦は成功したのだ!
浮上した俺の眼に、岸辺の工事現場に燃えさかる赤い炎が映った。風≠フ仕業《しわざ》だ。俺たちが、エジプト兵に見つからずに逃げることができるよう、風≠ェちょっとした騒ぎを起こして、連中の注意を引き寄せてくれているのだ。
俺の生涯において、そのときの炎ほど美しい色を見たことはない。
俺は、ゆっくりと泳ぎ始めた。
──俺と加納は、土嚢の上に横たわっていた。指一本動かす気力すら残っていない。マグロさながらに、長々と体を伸ばしきっているのだ。
『プッシー・キャット』設置点から、北へ数キロヘだてた地点だ。グレート・ビター湖に停泊しているどの外国船からも、死角となっている。縦二十五キロ、横十三キロのグレート・ビター湖は、まだまだ不逞なゲリラをかくまってくれる余地を残しているのだ。
俺と加納は、ここで風≠ニ再会するてはずになっていた。
ガッサンは、すでに姿を消していた。『プッシー・キャット』を車に積んで、どこかへ走り去ってしまったのだ。彼の超人的な体力は、まさしく賞賛に値した。
俺と加納は、ただの一語も言葉をかわさなかった。もちろん、疲れていたからであるが、それ以上に、このあとに待ちかまえている仕事の困難さが俺たちを暗く寡黙にしていたようだ。
俺たちは、いよいよ風≠ニ対決しなければならないのだ。
土嚢を踏む、湿った靴音が頭上から聞こえてきた。
頭を上げた俺の眼に、岸を降りてくる二つの人影が映った。一人は風≠ナあり、もう一人は……そうと意識しないまま、俺はゆっくりと身を起こしていた。
「パパ……」
と、もう一つの人影が言った。かすれた、奇妙に悲しげなものを感じさせる声だった。
聖子である。
「ああ……」俺は、かろうじてうなずくことができただけであった。
俺の知っている|あの《ヽヽ》聖子ではなかった。たくましく、成熟した女となっている。自分ひとりで、運命を切りひらいていける女だ。ジーンズとシャツだけのラフな服装がよく似合っていた。もう、父親とは別世界に住む女なのだ。
俺は万感迫る思いで、聖子をみつめていた。
「お嬢さんをお連れした」風≠ェ平板な声でいった。
「約束は守ったよ」
「もうひとつの約束も、はたしてもらう時がきたようですな」
俺の背後で、加納がしずかにいった。
「風≠フ身柄は、ぼくにわたしてもらいますよ」
俺に、加納の要求を拒む資格はなかった。俺は脇に身をしりぞき、加納が一歩を踏み出した。「待てよ……」俺は言わねばならなかった。
加納が憤ったように、俺を睨みすえた。一歩もしりぞかぬ決意をみなぎらせていた。じゃまする者は、たとえ俺であろうと、断乎排除するつもりでいるのだ。
「じゃまをする気はないよ」俺は首をふった。
「ただ、まちがいを正してやろうと思ってね」
「まちがい?」加納は眉をひそめた。
「ああ……」
俺は、苦渋に充ちた言葉を吐き出した。
「風≠ヘ、その男じゃない。聖子が、風≠ネのだ……」
75・6・5
──四人のうえに、ひとしく沈黙がのしかかっていた。時間が氷結してしまったかのようだ。土嚢に押し寄せるスエズの波だけが、うつろなひびきをくりかえしていた。
その沈黙を、聖子の一言が破った。
「どうしてわかったの?」
言葉の意味よりも、その口調が、俺の胸を激しくかき乱した。聖子の口調は、あきらかに他人《ヽヽ》に対するときのものだった。
「送られてきたテープを聴いた時から、おかしいとは思っていた」
が、俺の口調も、娘に対するものとしては、よそよそしすぎたようだ。
「あのテープは、いつも見張りが窓を通して、俺を見張っていると|いった《ヽヽヽ》。だがな、それは不可能なことなんだよ。窓は、本でふさがれているからな。聖子……女手がないってことは悲しいもんだな。おまえがいたときとちがって、本の整理もろくにいきとどかない……あのテープの台詞《せりふ》を考えだせたのは、三年前の部屋を知ってるおまえしかないんだ……。
それにな、あの『プッシー・キャット』は、あまりに俺が日頃から口にしていた完全《ヽヽ》な爆弾に、イメージがちかすぎたよ。門前の小僧、習わぬ経を読む、だ……俺と一緒に暮らしているかぎり、爆弾の参考書にはこと欠かなかったろうからな。聖子、正直、『プッシー・キャット』を造ることができるほど、おまえが爆発物にくわしいとは夢にも考えていなかったよ……。
最後に、そこの男……名前は知らないが、そこの男はあまりに爆発物に無知でありすぎた。いやしくも、爆発物のプロであるなら、ロケット・エンジンのT液とC液のことを知らないはずがない。その配合液を聞かされたら、ピンときて当然なのだ……」
俺の胸はひどくうつろだった。俺は今、実の娘を告発しているのだ。
「それで?」と、聖子がいった。
「どうするつもりなの……」
もう、俺の娘ではない。そこに立っているのは、パレスチナ・ゲリラの筋金入りの女闘士なのだ。
「それを決めるのは俺じゃない」
俺は、加納をふりかえった。俺の視線を真正面から受けて、加納はややたじろいだようだった。
「そうですね……」この男にはめずらしく、加納は気弱げにつぶやいた。
「そうだとしても、やむをえませんね」
要するに、加納は聖子を風≠ニしてとらえようというのだ。加納は重い足どりで、聖子に向かって足を進めようとした。
「そうはさせない……」
男《ヽ》が、聖子をかばうようにして立ちふさがった。
「誰にも、聖子には指一本ふれさせない」
その言葉に込められた気迫が、男と聖子の関係を如実に物語っていた。
男と加納は激しく睨みあった。男は愛を、加納は仕事を、それぞれ|その《ヽヽ》視線に賭けているのだ。
「戦うがいい……」
俺の胸に、勃然《ぼつぜん》と怒りに似た感情が湧き起こってきた。
「どうせ、俺たちは戦うことでしか、この世を渡っていけない人間なんだ。現代には、とうてい適応できない人間だ……加納は、いわば俺の教え子だ。聖子も、俺の教え子という点では変わりないだろう。あんたが聖子の恋人なら、同じく俺の教え子だ。俺たちは、爆弾という共通点で結ばれた同胞なんだよ……爆弾はな、結局、扱う人間を腐蝕《ふしよく》していくもんなんだよ。精神をひどく荒廃させる。すべてが、ヒューズに点火することで片が付いてしまうような錯覚におちいるんだ。時代遅れどころか、しょせん害しか与えない人間なんだ。ここにいる全員が、精神的な奇形でしかない。そんな人間たちがたがいに殺しあうなら、これほど結構なことはないさ……」
俺はつづく一言に、すべての怒りを凝縮させて叫んだ。
「戦えっ」
その叫びにはじかれたように、加納と男はパッとはなれ、それぞれに身がまえた。男の手のなかで、あのスイッチ・ナイフがするどい光をはしらせた。加納はといえば、いつのまに引き抜いたのか、腰のベルトを拳に固く巻いていた。ベルト一本といっても、バカにしてはいけない。充分に訓練された男なら、ベルト一本で三人の男と互角にわたりあえる。そして、──加納はまがうことなくプロなのだ。
さすがに聖子は、修羅場を見てもうろたえることはなかった。すばやく数歩さがって、|こと《ヽヽ》の成り行きをみつめている。むろん、加納が倒れることを望んでいるのだ。
二人の男の間にみなぎる空気が、しだいに緊張を孕んでいき、ついには爆発寸前にまで達したそのとき、──ふっと加納の体から力が抜けた。なにか、憑物《つきもの》が落ちたような瞬間だった。
「よしましたよ」加納は一種不可解な笑いを浮かべていた。
「あんたを殺すつもりなら、どだいサソリを殺したりはしない……それに、なんといっても、班長の娘さんを風≠ニして日本に連れ帰るのはねざめが悪いんでね……」
それだけを言うと、加納はクルリと背を向け、ゆっくりと土嚢を登りはじめた。後は、すべて俺に一任するという意思表示なのだ。
さすがに、男は安堵の色をかくしきれなかったようだ。聖子が、背後から男の肩に手を置いていた。
「二度と日本には帰るな」
俺は、聖子の眼を真正面からとらえていった。
「日本に帰ってきたら、警察に逮捕させないわけにはいかないからな」
「パパ……」
聖子が、感激に耐えかねたように声をもらした。その瞬間だけ、俺のかつて知っていた娘の表情が、聖子の顔によみがえったようだった。
「もう十二時をとっくに回っているだろう」
俺はことさらにゆっくりとした口調で言った。
「記念すべき六月五日だ。今日の十時には、スエズ運河再開の祝典がとり行なわれるはずだ。もう問題はひとつもない。ただ……」
「ただ……?」
男がそう問いかえしたとき、俺の拳が正確に|その《ヽヽ》顎をとらえていた。
「俺の肚《はら》の虫が収まらない」
充分にウェイトのかかった、われながらうっとりとするような|きれい《ヽヽヽ》な一撃だった。男の体は文字通りふっ飛び、頭から運河に落下していった。
「何するのよっ」
聖子は俺にむしゃぶりつき、ついでその身をひるがえした。
「あの男《ひと》は泳げないのよ」
男を救けるために運河に飛び込んだ聖子を見たとき、俺のうちで笑いがはじけた。どうにもあらがいようのない、肚の底からの笑いだ。
俺は笑った。笑いつづけながら、自分の孤独と、老いをふかく感じていた。
エアーポート・81
[#ここから2字下げ]
大作、傑作、B級映画、愚作、失敗作、とにかくありとあらゆる映画に愛と感謝をこめて。
[#ここで字下げ終わり]
モチーフ
流行歌にかんしていえば、むかし港でいまエアーポート、なのだそうだ。
昔ながらの涙、別れに変わりはないが、要するにその舞台が大きくなったということだろう。
たしかに、空港の夜景には心うばわれるものがある。誘導路上にきらめく赤い衝突防止灯、遠くにみえる着陸進入灯……そして、その光の海のなかに、さらに着陸灯をくわえて、轟音とともに降りてくるジェット機。──
流行歌ファンならずとも、つい感傷にさそわれるのもふしぎはない。どうかすると、昔の女のことなど想いだしそうになって、精神衛生上よろしくないのだ。
だが、俺はもうそんな段階はとっくに卒業した。なにしろ、ここのところ毎月のように、空港を訪れているのだ。どんなに魅力的な光景でも、その魅力がいいかげん鼻につきもするではないか。
もちろん、俺の職業を考えれば、これは好ましくない傾向といえる。仕事がら、俺はいつでも素材《ヽヽ》を新鮮な眼で見ることを要求されているからだ。
俺は藤田|泰郎《たいろう》、職業はカメラマン──といっても、雑誌のグラビアなどで活躍している景気のいい方のカメラマンではなくて、斜陽産業を仕事の場にしているムービィ・カメラマンの方だ。俺としては、ムービィ・カメラマンなどという|しゃれた《ヽヽヽヽ》呼称よりは、活動屋と呼ばれたほうが体にしっくりとなじむ感じだが。
歳は三十五、顔だちはきわめて平凡、自信があるのは視力ぐらいなものだ。同棲経験はあるが結婚歴はなし、今は渋谷のアパートで一人で暮らしている──まあ、さえない中年男というところだろう。
俺は、大手の映画会社にはいっさい関係していない。修業は東洋映画でさせてもらったのだが、業界が不況になるにつれ、しだいに仕事の場がせばめられていき、気がつくとろくに息もできない状態になっていたのだ。制約のなかでいい仕事をつらぬくという生き方は、それなりに立派だとは思うが、俺としてはとりあえず好きな映画を撮りたかった。
タイミングのいいことに、俺が師とあおぎ、映画人としても最高の敬意をはらっている福本達児監督が独立プロを結成し、俺にも声をかけてくれたのだった。福本監督とは何度も仕事をともにし、気ごころも知れている。俺は一も二もなく福本監督のさそいにのり、福本プロのカメラマンとなったのである。
それが三年まえ──正直、独立プロが映画界でまがりなりにも生き残るのには、血のにじむような苦難をのりこえなければならなかった。
金がない。有名俳優が出演をこころよくO・Kしてくれない。配給がなかなか決まらない──とにかく、苦労の連続だ。
この三年の間に、わが福本プロが完成させた映画は一本だけというさびしさだ。ある無名SF作家が発表したゴッド・ハンティング≠ネる小説を映画化したのだが、評論家からは酷評され、客の入りもさんざんだった。俺の個人的な意見だが、これは原作の選択をあやまったからではないかと思う。
いずれにせよ、これがほかの監督のプロダクションだったら、俺はためらうことなくとびだしていたはずだ。福本達児のプロダクションだからこそ、がまんできたのである。
福本達児──日本映画界では、まずトップ・クラスに位置する監督といえる。映画における人工美の探究に情熱を燃やしつづけ、あくまでも娯楽性に固執する監督として世に知られている。完全主義者として有名だが、いざどたんばになると、なんとか帳じりをあわせてしまう映画人特有のふてぶてしさもかねそなえた人物だ。
この点、完全主義に執着するあまり、なかなか|みこし《ヽヽヽ》を上げようとしない某大監督とは大きなちがいといえた。
俺が福本監督を尊敬しているのは、どんな悪条件のもとでも、とにかく五十数本にもおよぶ映画を撮りつづけてきたということだ。もちろん、なかには正視にたえないような愚作も混じっているが、福本監督がいつもなんらかの実験をこころみ、しかも娯楽性を重んじるのを忘れなかったという事実は残る。
福本達児を評して、思想なき映像作家≠ニいう批評家も少なくないが、俺は|つくりもの《ヽヽヽヽヽ》に情熱を燃やす彼の生き方を、映画監督としてまちがっていないと思う。いや、そんなことより、福本監督が映画に対していだいている愛情に、俺はまず感服させられてしまうのである。
さて、──俺がこうしてエアーポートを臨むホテルのラウンジに腰をおちつけているわけだが、福本プロが製作を予定しているエアーポート・81≠フカメラマンとして、カメラ・ポジションを研究する必要に迫られてのことなのである。もっとも、ここにすわっていなければならない俺の|個人的な事情《ヽヽヽヽヽヽ》もあるにはあったが……
エアーポート・81≠ヘ、ハイジャックに航空事故をからませた一種の航空映画だ──映画に多少なりともくわしい方ならご存知だろうが、ユニバーサルが製作している映画にエアーポート・シリーズ≠ネるものがある。最初は七〇年に製作された大空港=A七五年にはエアーポート・75=Aついでエアーポート・77≠ニ、計三本が発表されている。
映画そのもののできはともかくとして、飛行中のボーイングに穴を開け、自家用の747を海にもぐらせる、その徹底した見せ物精神には、同じ映画人としてみならうべき点が多い。ハリウッドの資本がバックにあるからこそ製作できる映画だと肩をすくめるのはかんたんだが、わが福本監督はがぜん|この《ヽヽ》シリーズにファイトを燃やしたのである。エアーポート・81≠ネる航空映画を製作し、アメリカに逆輸入させようという壮大なこころみにふるいたったのだ。福本監督が六十にちかい高齢であることを考えれば、その情熱の若々しさには驚嘆を禁じえないだろう。
福本プロのプロデューサー氏が、この映画の実現にこぎつけるまでにどんなに苦労したかは想像にかたくない。あるレコード会社をたきつけて、製作費を出させることを決意させるまでには、涙ぐましいほどの紆余《うよ》曲折があったときいている。どうペテンにかけたのか、日本を代表する国際航空会社の協力約束もとりつけることができた。
だが、──シナリオの段階で、エアーポート・81≠ヘ暗礁にのりあげてしまったのである。要するに、福本監督は超大作ということで、肩に力を入れすぎたのだ──シナリオ・ライターの佐和道也と九段下の旅館にみずからカンヅメとなり、三日を費やして仕上げたシナリオが、どうにも気にいらないというのだ。
そのシナリオは某映画雑誌に発表されたのだが、たしかに俺なんかの眼から見ても、できの悪いシナリオだった。さすがに人間のさばき方は堂にいったものだが、ハイジャックの描写に無理が多く、その結末も陳腐に思われた。
ハイジャックは描きつくされた感があり、新手口をみつけるのはなかなかむずかしい。とりわけ、空港の金属探知器をくぐり抜けて、いかにして機内に武器を持ち込むかが、シナリオ・ライターたちの苦心惨憺するところである。現実には、なんとなく武器を持ち込む例も少なくないようだが、|現実のようなご都合主義《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、フィクションの世界には許されない。
エアーポート・81≠焉A機内に武器を持ち込む手口と、犯人が機外へ逃げだす方法が、なんとはなしに安っぽかったのだ。
シナリオ・ライターの佐和道也は、若手のなかでは異能作家として知られている男だが、その才能も超大作のまえでは、充分に実力を発揮できなかったようだ。
ともあれ、エアーポート・81≠ヘこの三カ月というもの坐礁しっぱなしで、俺はむなしく空港にかよい、頭のなかでカメラ・アングルを考えるしかなかったのである。
──また一機、ジャンボ機が滑走路に降りてきた。厚い窓ガラスをへだてていても、その轟音が鼓膜にビンビンと伝わってくる。
俺は水割りの替わりをもらおうと、視線をラウンジにさまよわせた。
俺の視線が、今しもラウンジに入ってこようとしていた福本監督の姿をとらえた。
福本監督は軽く手をあげ、俺のテーブルに近づいてきた。
「どうでした?」
俺はきいた。
「だめだ──」
福本監督は掌でブルンと顔をなでた。「どうにも、イメージがかたまらない」
いわゆる、シナリオ・ハンティングというやつだ。もうひとつはかばかしくないシナリオに苦しんで、福本監督は何度も現地を訪れているのだが、やはりいい結果は生まれてこないようだ。
しかし、その表情をみるかぎり、福本監督がシナリオづくりに四苦八苦しているようには思えない。その眼はおだやかで、いつも微笑をたたえている。渋い、実にいい顔をした人物なのだ。若いころに大病を経験したとかで、体はハリガネのように痩せていた。
ただし、現場における福本監督の大声は、ほかのどの監督にも|ひけ《ヽヽ》はとらない。
「シナリオのことは忘れて、二、三日、休養なさったらいかがですか──」
俺は勧めた。「佐和くんだって一生懸命にやっているんだし、思いきってまかせちまったらどうです?」
「そうもいかない」
福本監督は苦笑しながら、近づいてきたボーイにトマト・ジュースを注文した。
福本監督は酒が好きだ。その酒好きな彼が、トマト・ジュースを注文するところをみると、どうやら苛立《いらだ》ちがこうじて、胃を悪くしているようだ。
ラウンジは、深海のように蒼い照明に染まっていた。陳腐なたとえかもしれないが、そのなかを歩きまわる男女の姿は深海魚を連想させた。俺は断言するが、ここの男たちの半数は胃を悪くしているはずだ。
それが、都会の男性における顕著な特色なのである。
俺もまた、その例外ではなかった。
「トマト・ジュースには、レモンをたらした方がいいですよ」
俺はいった。「胸のむかつきがだいぶ楽になる」
「それは、二日酔いの治療じゃないのかね」
「同じことですよ。とにかく、胃があれていることにちがいはないのだから」
「胃が痛いのなんか気にもならない。仕事がうまくいけば、すぐにも治ってしまうのはわかっているからね」
「シナリオのことは忘れられませんか」
「忘れられないね」
「二、三日でいいんですがね」
「むりだな」
「どうしてもですか」
「駄目だろうな」
「………」
福本監督は苦労人だ。俺が本気で体のことを心配しているのがわかれば、嘘でも静養しようといってくれるはずだ。その程度の気づかいもなくしているということは、福本監督が本当に心身を消耗させている|なにより《ヽヽヽヽ》の証拠だった。
俺は、いまさらのように福本監督の健康が気になりはじめた。
俺はもう少し強硬に、福本監督に静養を勧めるべきだった。だが、福本監督のあげた声が、俺の機先を制した。
「きみの恋人がきたよ──」
俺はふりかえり、入り口に根岸杏子の姿を認めた。杏子も同時にこちらに気がついたらしく、足早にちかづいてきた。
「それじゃ、私は失礼するかな」
福本監督は席を立った。「若い人たちのじゃまはしたくないからね」
|若い人《ヽヽヽ》という言葉に、きつい皮肉が込められているようで、俺には耳が痛かった。
根岸杏子は、エアーポート・81≠フ取材の際に知りあった国際線のスチュワーデスだ。福本監督は、俺が彼女を電光石火|もの《ヽヽ》にしたと信じているらしいが、実は俺たちはそんな関係ではないのだ。
俺は高慢ちきなスチュワーデスという人種がきらいだし、杏子もうだつのあがらないカメラマンを恋人に持つほどバカではない。俺たちの関係は、純粋にビジネスのうえでのことにかぎられていた。
だが、俺は福本監督の誤解をあえてただす気にはなれなかった。ビジネスの内容が、あまり誉められたものではないからだ。
俺がこのラウンジにすわっていなければならない個人的な事情というのは、そのビジネスにかかわることなのである。
福本監督はすれちがいざま、杏子に会釈して、ラウンジを出ていった。
「大変なことになったのよ──」
席につくなり、杏子が発した第一声がそれだった。
たしかに、杏子の様子はふつうではない。杏子は、三十分ほどまえに着陸したロスアンゼルスからの便を降り立ったばかりなのだが、いつもの彼女だったら絶対《ヽヽ》に私服に着替えることを忘れないはずだった。それが、今夜の杏子はユニフォームのままなのである。
顔もあおざめていて、せっかくの美貌が三割がたそこなわれていた。
「何を飲む?」
俺はきいた。
「それどころじゃないわよ──」
杏子は苛立たしげに首をふった。「フィルムが盗まれてしまったのよ」
「………」
俺はさほどおどろかなかった。杏子を最初に見たときから、そんなことではないかという察しがついていたのだ。
「わかってるの──フィルムが|盗まれて《ヽヽヽヽ》しまったのよ」
杏子が念を押すようにくりかえした。
「わかってるさ」
俺はため息をついた。「よかったら、どんな情況で盗まれたのか説明してくれないか」
「情況もなにも……フライトを降りて、トイレに入っているうちに、トランクが消えてしまったのよ」
「それだけか」
「それだけよ」
「ほう……」
「なによ、それ──」
「いや、無用心な話だと思ってね」
「被害者はわたしなのよ」
杏子の表情に怒りの色が浮かんだ。「トランクには、わたしのスーツが入っていたわ」
「フィルムも入っていた」
俺の一言で、杏子は怯えたように口をつぐんだ。
──この際だからうちあけるが、俺のビジネスというのは海賊商売≠ネのである。
もちろん、ラム酒を飲んで、七つの海をあらしまわるあの海賊ではない。海賊放送、海賊出版のほうの海賊《ヽヽ》だ。
売るのは新作映画のコピー、顧客はフィルムのコレクターたち。──俺は昨年、ある配給会社にたのまれて、新作映画の日本向け宣伝スポットを撮りにハリウッドへおもむいた。そのとき知りあったのが、この海賊商売≠フボスだったというわけである。
海賊《ヽヽ》たちがプリントを|盗む《ヽヽ》手口は、たとえばこうだ。
ある作品が完成すると、必ず配給業者たちのために試写会がおこなわれる。試写が終われば、再びプリントをスタジオの金庫に保管すべく、メッセンジャーが使われるのだが──海賊は、そのメッセンジャーを抱きこむことがあるのだ。つまり、メッセンジャーはスタジオに直行せずに、海賊の息のかかった現《ラ》像|所《ボ》にたちよるわけである。
ものの一晩もあれば、何本もコピーをとることができる。オリジナルのほうは、翌朝、メッセンジャーたちの手によって、きちんとスタジオにとどけられる。
もちろん、ものによってちがうが、コピーの相場は一本が一〇〇〇ドルというところらしい。なかには、新作をワールド・プレミアの前に見るのが生きがいというコレクターもいて、封切りの一カ月以前に、ジャッカルの日≠ェポルトガルで上映されていたという話は有名である。
俺は海賊商売≠フ日本支部を開設するにあたって、顧客を細心の注意をもって選び、五人にしぼった。いずれも映画狂いの、プリント蒐集狂──蒐集品《ヽヽヽ》を誰に見せなくても、ただ持っているだけで満足し、一人で見ることに無上の喜びをおぼえるといった連中だ。
利はうすいが、俺は五人以上に顧客を増やそうとはしなかった。下手に商売をひろげて、|やくざ《ヽヽヽ》にでも介入されることになったら、それこそ身の破滅だからである。
プリントは税関を通すわけにはいかない。やむをえず、俺はスチュワーデスの杏子を仲間にひきいれることにしたのだ。利益の三〇パーセントをとられるのは痛いが、安全料だと思えばがまんもできる。
大急ぎでことわっておくのだが、俺はこの商売を自分のためにはじめたのではない。著作権を侵害されることは、映画屋にとっては死活問題にもなりかねない。本当に映画を愛している者なら、誰が好んで海賊商売≠ネどはじめるものか。
福本プロの経済状態が非常によろしくないのだ。エアーポート・81≠ェ坐礁すると同時に、母船たる福本プロも難破の憂きめにあったというところか──俺は福本プロをたすけるために、いや、尊敬する福本達児のたすけにいくらかでもなればと思い、やむなく海賊商売≠ノ乗りだしたのだった。
そのプリントが盗まれた。
──杏子を怯えさせるのは、俺の本意ではなかった。
それに、事実、怯えなければならないほどの問題ではなかった。
「五十万ちかく損をしたわけだが、まあ、やむをえないだろうな」
俺は微笑を浮かべた。「それにしても、泥棒の奴、おどろいたろうな──」
「どうして?」
杏子がきょとんとした。
「だって、今度のプリントは、リンダ・ラヴレーヌのディープ・スロート≠セぜ。しかも、無削除版だ──奴《ヽ》が、スチュワーデスという職業にかんして、偏見をいだくことになるのはまずまちがいないね」
「いやだ──」
杏子は両手で顔をはさんだ。「本当だわ」
そして、俺たち二人は声をあわせて笑った。まわりの人間がふりかえるほど、俺たちの笑い声はたかく、ほがらかなものだった。
だが、──実際には笑いごとではなかったのだ。まったく、それどころではなかったのだ。
「藤田さんだね──」
そんな声が電話口からとびだしてきたのは、夜も三時を過ぎたころだった。
「ああ……」
俺は無愛想に返事をした。
俺は|よいっぱり《ヽヽヽヽヽ》のほうだが、だからといってこんな時刻に電話をかけられるのは迷惑な話だ。つい一時間ほどまえにアパートに戻ってきて、これからシャワーでもあびようかと考えていたやさきだったのである。
相手の声にもきき覚えがなかった。
「今日はとんだ災難だったな」
声が笑いを含んだ。
「なんのことだ?」
「プリントのことだよ。ディープ・スロート≠セ」
「………」
「きいているのか」
「きいてるさ」
俺はようやく答えた。「あんたが、|あれ《ヽヽ》を盗んだのか」
「そうだ。最初の方だけ映してみたがね。さすがに無削除版だな。興奮したよ」
「いいから、そのまま興奮してろよ。俺に、ことわることはないさ」
俺は、相手の真意をはかりかねていた。とにかく、プリントを盗んだのが、単純な泥棒でなかったことだけはたしかなようだ。
「いいのか。返してもらいたくはないのか」
「頼んだら、返してくれるのか」
「条件によるが、ね」
「金をだすつもりはないよ」
俺は笑ってやった。「まあ、五万円どまりなら、話にのってもいいがね──警察に密告するとおどすのも無駄だ。プリントの海賊商売≠ネどたいした罪にもならんはずだからな」
「金がもらいたいとはいってないさ。あのプリントそのものが、五十万そこそこだろうからな……だが、福本達児の名誉がかかっているとなると、あんたも少しは俺の話をきく気になるんじゃないかね」
「どういうことだ」
俺は頭のなかがスッと冷たくなるのをおぼえた。
「たとえば、こんな記事が新聞に載ることを想像してみたらどうだ」
相手の声がするどさをおびた。「福本達児、ポルノ商売で検挙される。無削除の外国ポルノをひそかに国内に持ち込み──」
「それは嘘だ……」
俺はうめいた。「こいつはポルノ商売なんかじゃない」
「だが、俺の手元にあるのはディープ・スロート≠セ。ちがうかね」
「………」
俺は沈黙した。
奴《ヽ》のいうとおりだ。こいつがポルノ商売ではないと証明することも、これには福本監督が関係していないと反駁することも、非常にむつかしいにちがいない。俺は福本監督の片腕として知られており、悪いことに海賊商売≠フもうけはすべて福本プロにつぎこまれているのだ。
俺の失態が、尊敬する福本監督の名誉を地におとすことになるのである。おそらく、福本監督はカムバックが不可能なほど、泥にまみれることになるだろう。ポルノ商売で稼ぐことは、ポルノ裁判で官憲とたたかうこととは次元が大きくことなるのだ。
奴は、たしかに切り札をにぎっていた。俺は福本監督の名誉を守るためなら、悪魔に魂をうりわたすのも辞さないだろう。
「どうすればいい」
俺の声には無念のひびきが充ちていた。
「エアーポート・81≠フシナリオを読ませてもらったよ。面白い話じゃないか」
「なんの話をしてるんだ?」
俺はあっけにとられた。
「だから、エアーポート・81≠フシナリオが面白かったといってるんだ」
かすれた笑い声がきこえた。「というのも、俺もハイジャックに興味を持っているからなんだけどね……どうだい? あんたエアーポート・81≠製作するんで、空港関係者なんかとコネができてるんだろう? あんただったら、本当にハイジャックをするのもかんたんじゃないのかね」
「いってることがよくわからんが……」
俺は額に脂汗がにじむのをおぼえた。実際には、奴のいってることが、おぼろげにわかりはじめていたのだ。しかし、いくらなんでも、まさかそんなことを……
「わからないことはないはずだ」
奴はそう決めつけた。「よくできたハイジャックのシナリオは、実際のハイジャックの計画書としても使えるはずだぜ。あんたには、エアーポート・81≠サのままにジャンボ機をのっとってもらおうというわけだ。もちろん、俺もつきあうがね──」
「本気でいってるのか」
「冗談でいってるようにきこえるかね」
冗談でいってるようにはきこえなかった。
「ハイジャックの目的はなんだ」
俺は大きく息を吸い、それを吐きだすようにしてきいた。
「それは、あんたが知る必要のないことだ」
奴の声は冷淡だった。「くわしいことは、二、三日うちに連絡する──よく覚えておくんだな。あんたがハイジャックに協力しないと、福本達児は社会的にほうむられることになるんだぜ」
「待て、まだ切るな」
だが、俺の言葉はむなしかった。奴は容赦なく電話を切り、後には受話器をにぎったまま、呆然と立ちすくんでいる俺だけが残された。
|くしゃみ《ヽヽヽヽ》がたてつづけにでた。
ようやく、夜の寒さが俺の身に沁《し》み始めたのだ。
撮影台本《コンテニユイテイ》
──睡眠薬を飲んで、その晩はどうにか眠りにつくことができた。
カラーの夢を見たようだが、あまり感心できるショット処理ではなかった。|俯瞰ショッ《B・E・V》トで、空港を逃げまわる俺がえんえんと撮られていたのだ。
眼をさましたときには、寝汗でパジャマまでグッショリと濡れていた。
寝起きのタバコは、馬糞紙のような味がした。すぐにそれをもみ消し、つづけてくわえた二本めのタバコは、ふしぎなことにいくらか|まし《ヽヽ》な味になっていた。
しばらく、昨夜の電話での会話を頭のなかで反芻《はんすう》してみた。
なにもかもが気にいらなかった。
罠にはまったことが肚立《はらだ》たしく、罠にむざむざはまった自分の間抜けさ加減にも愛想がつきる思いがした。
エアーポート・81≠フシナリオは映画雑誌に発表されている。たんにストーリーを知っているということから、奴を映画関係者だと断定するわけにはいかないのだ。
盗まれたプリントがたまたまディープ・スロート≠セったのも不運といえる。あれがハード・ポルノでさえなければ、まだしも福本監督をかばって、当局に対してどうにでもいいひらきができるのだ……
そこまで愚痴をならべたてたとき、なにか意識の地平にちかっと閃くものがあった。
「待てよ」
俺は声にだしてつぶやき、べッドに上半身を起こしてから、もういちど口のなかで小さくつぶやいた。「待ってくれよ」
考えているうちに、俺のなかにしだいに活気がよみがえり始めた。
藤田泰郎、三十五歳──悪にたちむかうという|がら《ヽヽ》ではないが、福本監督の名誉をまもるためとあらば、照れてばかりもいられないだろう。
俺はベッドをぬけだし、手早く外出の支度をととのえた。
アパートを出たときには、もう午後二時を回っていた。
──代々木公園を抱きこむようにして、巨大な白亜の城が建っていた。
ロビーに入るのにも、足がすくむような豪華マンションだ。サラリーマンがローンでようやく購入する安マンションとは|けた《ヽヽ》がちがう。そのなかでは、空気さえもどっしりと重厚にかまえているように思えた。
スチュワーデスの給料がどれほどのものかは知らないが、とうてい|この《ヽヽ》マンションをあがなうにたる額とは思えない。おそらく杏子にはパトロンがいるのだろうが、彼女の私生活は俺の興味の外にあった。
女に金を使うやつの気が知れない。俺なら、その金を好きな映画を撮るための資金に積み立てるのだが。──
杏子の部屋は四階の四〇二号室だった。
俺は四〇二号室のドア・チャイムを鳴らし、しばらく待ってから、今度はやけのようにドアをたたいた。
どういうわけか、杏子が不在かもしれないという可能性はまったく考えなかった。
ドアが細くひらき、杏子が顔をのぞかせた。
「まあ、あなたなの」
「そう、|あなた《ヽヽヽ》だ──」
俺はうなずいた。「話があるんだが、ちょっと入れてくれないか」
「なんのお話かしら」
「例のプリントのことだ」
「………」
杏子はためらっているようだった。俺たちはお互いに部屋を訪問しあうような仲ではなかったし、杏子にしてみれば、盗まれたプリントのことなど想い出すのもいやだったにちがいない。
「わたし、外出しなければならないんだけど……」
そう杏子がいいかけるのを、俺はいちはやくさえぎった。
「手間はとらせない」
「………」
一瞬、杏子の顔に怒気が浮かんだが、すぐにあきらめたようにチェーン・ロックを外しにかかった。
杏子は女だ。
ドアの内と外で押し問答しているのを誰かに見られて、変にかんぐられてもたまらないと思ったのだろう。
部屋に足を踏み入れて、俺は意外の感にうたれた。
部屋は広いワン・ルームだが、その広さに比してあまりに調度の数が少ないように思えたからだ。セミ・ダブルのべッドとライティング・デスク──後《あと》は小さなテーブルに、椅子が二脚置かれてあるだけなのである。
これなら、俺の部屋のほうがまだしも家具がそろっている。
テーブルのうえの食べかけのカップ麺が、なんともこの部屋には不釣合なものにみえた。
杏子は坐れともいわなかった。
「手間はとらせないといったわね──」
杏子は腕を組み、俺を真正面から睨みつけた。「話をさっさとすませてちょうだい」
喧嘩ごしの度がいささか過ぎているようだった。こんな態度をとったのでは、なにかうしろめたいことがあるとかんぐられてもしかたないだろう。
「誰なんだ?」
俺はずばりときいた。
「え……」
「誰に、プリントを渡したのかときいているんだ」
「なんの話をしてるのよ」
杏子が動じなかったといえば嘘になる。その眼を、ちらっと怯えに似た色がかすめた。
「話をはやくすませようといったのはきみだぜ──」
俺はつとめて声を平静にたもった。「だから、尋問ごっこはいっさいとりやめにしようというんだ。きみは、どこの誰にプリントを渡したのかいえばいいんだ──」
「頭がおかしくなったんじゃないの」
杏子は後ずさりながらいった。
「|きちがい《ヽヽヽヽ》──」
「昨夜、どこかの誰かから、盗まれたプリントにかんして取り引きを持ちかけられた」
俺のとりえの一つは、非常に忍耐づよいことである。「そのとき、奴《ヽ》は五十万というプリントの値段を口にした。こいつが奇妙なんだな。俺は、あのプリントにいくら払ったのか、昨夜、きみにしゃべったのが初めてだったんだからな。ほかの人間は誰も知らないはずだよ」
「………」
杏子はさらに後ずさろうとしたが、椅子にさまたげられた。
その顔が真っ青になっていた。
「どうなんだ?」
俺はしずかにきいた。
「わかったわよ」
杏子はそうつぶやき、ふてくされたように唇をとがらした。「たしかに、プリントが盗まれたというのは嘘よ。なにさ。たかがポルノを盗まれたぐらいで大騒ぎすることもないじゃないの」
「誰に、あのプリントを渡したんだ」
「知らないわ」
「………」
「本当に知らないのよ」
俺の表情がよほど恐ろしかったのか。杏子の虚勢がはがれ、一瞬、泣きべそをかいているような顔になった。
女をおどすのは本意ではないが、この際、多少のこわもてはやむをえなかった。
「本当に知らないのよ」
杏子がくりかえした。「今度のフライトの前日に電話がかかってきたのよ。プリントを指定の場所に収めてくれたら、その──お礼をするからって……あなたには、盗まれたことにすればいいからって……」
「礼というのは、金のことなのか」
杏子はこっくりとうなずいた。
「冗談じゃない」
俺は苦笑し、首を振った。「スチュワーデスの給料以外に、海賊商売≠フ|あがり《ヽヽヽ》もある。このうえ、金を稼ぐ必要もないじゃないか──拝見したところ、けっこうな暮らしのようじゃないか。このマンションは、親ごさんにでも買ってもらったものなのか」
「それこそ、冗談じゃないわよ」
杏子は自嘲するようにいい、椅子に腰をおろした。「このマンションはね。頭金を必死に貯《た》めて、ようやく買ったものなのよ。ごらんのとおり、食生活はいたって質素、もっぱらカップ麺だわ」
「分不相応な買い物だ」
「うるさいわね。あなたの知ったことじゃないわ」
「だから、金が要るというわけか」
「………」
杏子はもう返事をしようともしなかった。俺から顔をそむけ、ひたすら窓の外を見つめている。
窓の外には、なるほど、女の子があこがれそうな華やかな街並みがひろがっている。殺風景な部屋の様子とは格段の差だ。杏子は虚栄心から、分不相応なマンションを購入し、なんとかその落差を埋めようとしたにちがいない。そして、毎日、カップ麺を食べている……
俺は、急に杏子が哀れな娘のように思えてきた。
「プリントを指定の場所に収めろといわれたんだっけな」
俺がきいた。「その場所というのはどこなんだ」
「………」
杏子はかたくなに沈黙している。
意地になっているのか、それとも秘密《ヽヽ》をついしゃべってしまった自分自身に肚を立て、もう一言も口にしないと誓ったのか。もちろん、秘密というのはプリントのことではなく、分不相応なマンションのことである。
俺はため息をもらした。最後まで、手間をとらせる娘だ。
「きれいな壁紙だな」
俺は部屋を見回しながら、背広の胸ポケットからゆっくりと万年筆を取り出した。「こういう壁紙にインクの|しみ《ヽヽ》なんかつくと、拭きとるのは大変だろうな」
杏子はギクリと体をこわばらせ、俺が手にしている万年筆を凝視した。
俺は万年筆のキャップをとり、こころみに二、三度振ってみた。黒い飛沫がとび、カーペットをすこし汚した。
「やめて……」
杏子は眼を閉じ、かすれた声でいった。
「場所はどこだ?」
俺はすかさずきいた。
「|AFS《ヽヽヽ》の事務所よ」
杏子はかたく眼をとじたままだった。「私はAFSにお友達がいるから、その人にたのんで、事務所の金庫に保管してもらったの……そうしろといわれたのよ」
「AFSか──」
一瞬、俺は虚空に視線をすえた。思いがけないようだが、しかし改めて考えてみれば、AFSの事務所ほどプリントの隠し場所としてふさわしいところはなかった。
木の葉を隠すには森がいちばん、というではないか。
「|わかった《ヽヽヽヽ》──」
俺はうなずき、きびすを返した。「迷惑をかけたな」
杏子は出ていく俺に、眼もくれようとしなかった。キッチンに駆け込んでいったところを見ると、急いでカーペットの掃除にとりかかるつもりにちがいない。
俺は杏子のためにカーペットの|しみ《ヽヽ》がきれいにとれることを願わずにはいられない。
──AFSは、エアー・フィルム・サービスの略である。要するに、ジャンボやエア・バスで上映される映画の手配を主な業務としている会社だ。
もちろん、AFS一社で機内上映のすべてをとりしきっているわけではない。
航空会社からの受注、作品選定などは、それぞれ別のサービス代理業者、広告代理店などが行なっている。また三十五ミリのフィルムを十六ミリにやきなおす仕事などは、某大手現像所にまかせられている。
AFSの仕事は、たとえば十二巻もののフィルムをワン・ロールにしたり、実際に映画を空港に運び込むことなのである。プリントを保管しなければならないこともあって、AFSのビルは空港のすぐ近くに設けられている。──さらに蛇足をつけくわえれば、機内映画は地上整備の際にセットされることになっている。
俺が、木の葉を隠すには森がいちばん、といったわけがおわかりいただけたろうか。
AFSは、プリント保管を業務とする会社だ。その事務所の金庫に見知らぬプリントが入っていたとしても、誰一人としてふしぎに思う者がいるはずがない。
ディープ・スロート≠俺の手からひっさらった奴は、なかなかの策士のようだ。
だが、──俺は敵《ヽ》の知略に感心してばかりもいられなかった。福本監督の名誉を守るためには、なんとしてでもディープ・スロート≠AFSの金庫から盗む必要があったからである。
杏子の部屋をでた俺は、とりあえず空港に直行することにした。
AFSの金庫からディープ・スロート≠盗むために、入念な準備をととのえている余裕はない。奴《ヽ》は、二、三日のうちに連絡してくるといったのだ。今晩にでも、プリントを奪いかえさなければならなかった。
──AFSの三階建てのビルは、巨大な空港管理ビルの右手にうずくまるようにして建っていた。
どことなく学生寮といった|おもむき《ヽヽヽヽ》だ。空港管理ビルに圧倒され、影がうすく、汚れてみえる。
人の出入りも少ないようだ。
泥棒にとっては、はなはだ都合がいいといえた。隣接する空港が二十四時間、人波でごったがえしているのも歓迎すべき条件だ──木の葉を隠すには森がいちばん、という言葉は泥棒の場合にもまた当てはまるからである。
夜になるのを待った。
夜になった後も、さらに十二時をすぎるまで待った。
万が一にも、誰かが残っているビルに忍びこむような真似はしたくなかったからだ。
俺は、暴力沙汰には極端によわいタイプの人間だ。誰かにみつかれば、その場でとりおさえられるに決まっている。相手が六十の爺さんだったら、まあ、逃げられるかもしれないが、正直、それも自信のほどは怪しいものだった。
だから、十二時がすぎるのを辛抱強く待った。その間《かん》に、コーヒーを三杯、ビールを二本飲み、トイレには四回いった。
十二時二十分──俺はいよいよ行動を開始した。
俺のように映画に関係していていいことは、まずたいていのものは小道具から調達できるということだ。たとえば、ガラス切りのたぐいも難なく手に入れられるのである。
俺はAFSのビルの裏手にまわり、眼についた窓を切りにかかった。
むつかしい作業ではない。犯罪映画を見ている人間なら、誰でも熟知している作業だった。窓ガラスを丸く切り、その穴から手をさしいれて、鍵を外すという|あれ《ヽヽ》である。
五分後には、俺はもうAFSのビルのなかにいた。
俺は懐中電燈で足元を照らしながら、ゆっくりと闇のなかを歩いた。
常識的に考えれば、一階、二階が執務室、金庫のある事務所は三階に位置しているはずだった。
階段がきしんだ。
きしむたびに、俺は心臓が喉までせり上がってくるような思いをしなければならなかった。
泥棒商売≠ヘ心臓に悪い。海賊商売≠謔閧ワだ悪い。
ようやく、懐中電燈の丸い明かりのなかに、事務所≠フ三文字がかかれたドアが浮かびあがってきた。
さいわい、ドアには鍵がかかっていなかった。
俺は事務所に足を踏み入れ、窓にブラインドがおりているのをたしかめてから、明かりのスイッチを押した。
俺の眼に、まっさきに金庫がとびこんできた。
金庫は部屋の中央に位置し、鈍色《にびいろ》の光沢を放っていた。そのなかに、福本監督の名誉を地におとしかねない危険物《ヽヽヽ》、ディープ・スロート≠ェ入っているのである。
誤解されては困るが、俺には金庫破りの経験はまったくない。
経験はないが、その種の映画はいやになるほど見ている。映画の知識が、はたして現実にどれぐらい役に立つものか、この際、ためしてみるのも悪くないだろう。
俺は金庫のまえにうずくまり、しばらくダイヤルを観察することにした。
ほとんどダイヤルに眼を接するようにして、ようやく6、9、2、8、5の五つの数字がほかより汚れていることをたしかめた。つまり、この五つの数字がもっとも人の手にふれているわけで、まあ、金庫をあけるキーナンバーと考えてもさしつかえないのではなかろうか。
非常に乱暴な推理だということは承知しているが、なにぶん朝までの勝負だ。金庫破りのセオリーを学んでいるだけの余裕はないのである。
後はキーナンバーの組みあわせが問題となるわけだが、これは順にためしていくほかはない。決して、組みあわせ数は少なくないが、キーナンバーが五つにかぎられているだけでも|まだしも《ヽヽヽヽ》としなければならなかった。運さえよければ、朝までに金庫をひらくことも可能なはずだからだ。
俺は、アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンが共演した、さらば、友よ≠想いだしていた。あの映画のなかで、アラン・ドロンがやはり金庫を破ろうとするシーンがあった。アラン・ドロンはソロバンを片手にして、ダイヤル数字の組みあわせを順にためしていくわけだが……彼には数日間の余裕が与えられていた。俺には一晩の余裕しかないが、そのかわり五つのキーナンバーがわかっている。
俺とアラン・ドロンの、どちらがより幸運といえるだろうか。──
結論から先にいってしまえば、どちらも幸運ではなかった。
さらば、友よ≠フなかで、アラン・ドロンは金庫をあけると同時に、自分が罠にかかったことを知ったし、|罠にかけられた《ヽヽヽヽヽヽヽ》という一事にかんしては、俺もかの美男スターと同じだったからである。
電話が鳴ったのだ。
反射的に俺は身をすくめ、電話のベルを|やりすごそう《ヽヽヽヽヽヽ》とした。
だが、電話は執拗に鳴りつづけ、真夜中の事務所をうちふるわせていた。
俺はなにか追いつめられたような気持で、受話器をとった。
「やはり、そこにいたのか」
奴《ヽ》がいった。
俺はうめいた。その声が忘れられるはずがなかった。
「俺がわかるな」
「………」
「どうなんだ」
「ああ……」
俺はかろうじてうなずいた。
「わかるんだな」
「ああ……」
「結構──」
奴の声が笑いを含んだ。「要点だけいってしまおう──俺はあのスチュワーデスを信用していなかった。いずれは、あんたにしゃべるだろうと思っていた。しゃべってもらわねば困るところだった。わかるな」
「罠にかけたな」
「あんたがAFSのビルに忍びこむ現場はちゃんとカメラに収めてある。これで、ますますあんたは不利になるわけだぜ。あんたはAFSのビルに忍びこんで、ディープ・スロート≠金庫に収めたということになるわけだ……」
「俺が今、そのディープ・スロート≠奪いかえしたらどうなる?」
「ディープ・スロート≠ヘもうその金庫には入っていないよ」
「なに……」
俺は思わず大声をはりあげそうになり、あわてて|その《ヽヽ》声を圧《お》さえた。「今、なんといったんだ」
「どうも、筋書きがよく呑みこめていないようだな」
奴はますます上機嫌だった。「明後日のC航空62便に、ディープ・スロート≠ェセットされているんだよ。俺があんたとハイジャックする予定でいるのもその便なんだが、ね。ハイジャック計画は、エアーポート・81≠フシナリオをそのまま実行する……わかるだろう? あんたにはもう選択の余地はない。62便をハイジャックしないかぎり、ハード・ポルノが堂々と機内上映されてしまうんだ」
「………」
俺はうめくばかりだった。
「ディープ・スロート≠ェ機内上映されれば、当局も動きだすことになる──そこで、俺はあんたがAFSのビルに忍びこもうとしている現場写真を警察に郵送する。写真をみたかぎりでは、これがいつ撮ったものであるかわかるはずがないからな。当然、警察はこう考える──あんたが、ポルノ商売をしている。そして、そのプリントをAFSの事務所に隠し、それがなんらかの手違いで、地上整備の際にジャンボ機にセットされてしまった……あんたは破滅、福本監督の名誉は泥にまみれる、とこういうわけだ」
「………」
「心配することはないさ──」
奴の声が急に優しくなった。「すべては、あんたがハイジャックに協力してくれれば問題ないわけだからな。まさか、ハイジャックの最中《さなか》に映画が上映されるはずもないからな。ところで、あんたにはまず拳銃を手にいれてもらおうか。その方法だが……」
「………」
俺は、奴の勝手な言い草を歯をくいしばってきいているほかはなかった。
俺に無力感がまったくなかったといえば嘘になる。奴は、非常な速戦で俺を追いつめ、いわば王手をかける寸前まで迫っていたからだ。
だが、俺はまだ王手をかけられてしまったわけではなかった。
スタッフ編成
男はギョロ眼を動かして、店に入っていく俺を見すえていた。
その巨大な眼といい、いかつい体つきといい、和製アーネスト・ボーグナインといった感じがある。笑うと、優しくなるどころかなおさら奇怪な顔になるのもボーグナインそのものだ。
俺は、ポセイドン・アドベンチャー≠竅A北国の帝王≠ネどで活躍したアーネスト・ボーグナインを、ジョージ・ケネディとともに二大怪優としてたかく評価している。
ただし、今、俺の眼の前にいる|ボーグナイン《ヽヽヽヽヽヽ》は俳優ではない。繁華街で銃砲店を経営している男なのだ。
俺が、男の名前を知っている道理はなかった。俺は、奴《ヽ》に電話で命じられたままに、ただここへ拳銃を受けとりに来ただけなのである。
正午。──俺がAFSのビルに忍びこんでから、およそ十二時間が経過していた。
さいわい、店内に客の姿はなかった。この時刻、人は銃砲店にではなく、レストランに足をむけるのに忙しい。
「なにか、おさがしですか」
と、男がきいてきた。
「藤田という者だが……」
俺は名のった。
店内に並べられている猟銃やハンティング・ナイフのたぐいが、俺をいつになく動揺させていた。いざ実際に拳銃をわたされれば、今度は俺自身が銃砲店になったようで、なおさら落ち着かない気持にさせられるはずだった。
くりかえすが、俺は暴力沙汰が苦手な人間なのだ。
「ほう……」
男はしばらく俺を見つめていたが、やおら上半身をかがめて、カウンターの陰に姿をかくした。
俺はギクリと体をこわばらせたが、ふたたび男が姿を見せたとき、その腕にはライフルではなく、猫が抱かれていた。
片一方の耳がちぎれた、いかにも意地悪そうな猫だった。
「猫だって名前ぐらいは持っている」
男はいった。「あんたが人間なら、なにか身分証明書のようなものを見せてくれなくちゃ……」
「運転免許証でもいいですか」
「写真が貼ってあればなんでも結構──」
俺はペーパードライヴァーだが、免許を持っているとこういう場合に都合がいい。
男はしばらく写真と俺を見くらべていたが、やがて|怖く笑って《ヽヽヽヽヽ》、運転免許証を返してくれた。
「どうも失礼しました」
男はさらに愛想よく、さらに怖い顔になった。「なにぶん、仕事が仕事なもんですからね。つい……」
そこで、男の顔からすっと笑いが消えた。同時に、背後からスウィング・ドアの開閉する音がきこえてきた。
振り返った俺の眼に、もっさりと立つ一人の男の姿が映った。
なんの変哲もない、小柄な中年男だ。その顔だちも、どちらかというと貧相と形容するにふさわしい。灰色の背広に同色のネクタイと、全体にくすんだような感じだが、ただその白いハンチングだけが鮮烈な印象を与えていた。
ボーグナイン氏の、男を見る眼が緊張していた。銃砲店の親父が客を見る眼ではなかった。
俺はカウンターからはなれ、しばらくハンティング・ナイフを物色しているふうをよそおった。
白いハンチングの男は一方的に親父になにごとか告げると、|きびす《ヽヽヽ》を返して、そのまま店を出ていった。
男は極端に小声でしゃべり、耳をすましてもその内容をききとることはできなかった。
親父はホッとため息をもらし、なにか意味ありげに俺に視線をすえた。ギョロ眼で見つめられていると、非常に居心地が悪い。
「どうしたんですか」
やむなく、俺はきいた。
「今の男が誰か知っているかね」
親父の口調は俺を咎めているようだった。
「知ってるはずがない」
「じゃあ、知っておいたほうがいいな。正確な身分は知らないが、なんでも公安方面に関係している刑事だそうだ。最初にこの店にきたとき、名前をきいたが忘れた──」
親父は太い指で鼻の脇をぐいぐいとこすった。「主にハイジャックを担当している刑事だそうだ。同業者からきいた話だが、凄腕の狙撃屋だということだ。五十メートル先のフット・ボールをふっとばすというんだから只者《ただもの》じゃない」
「それが、俺とどんな関係があるというのですか」
俺は笑いを浮かべようとしたが、もう一つうまくいかなかったようだ。
「関係ないかね──」
「ありませんね」
「それならいいんだ。あんな男とは関係しないにこしたことはない。凄腕の狙撃屋に狙われたら、もう死んだも同然だからな」
親父は真顔でいった。「なに、あの男はハイジャックがちかく起こりそうだという情報が入ると、いつもああやって都内の銃砲店を回るもんだからね。知らない人間に銃を売ったことはないかときくために、ね」
「………」
俺は言葉もなかった。
親父は油紙の包みをゴトリとカウンターにおくと、そっぽを向いていった。
「用がなくなったら返すんだ。もう一度使おうなんてさもしい了見を起こすんじゃない。同じ拳銃を二度使えば、必ず足がつくことになるからな」
「多分、一度も使うことはないと思う」
俺がうなずき、油紙の包みに手をのばしたとき、親父の腕からスルリと猫が逃げだした。
「あ……ミミちゃん、どこへ行くの。逃げたらだめでしょう」
親父は慌てて猫のあとを追った。
──|ミミちゃん《ヽヽヽヽヽ》だと……俺は呆然と頭のなかでつぶやいた。とても、ボーグナイン氏が口にする言葉とも思えないではないか。
──俺は奴《ヽ》の命じるままにハイジャックを決行するしかなかったが、その脅迫に全面的に屈するわけにはいかなかった。
プライドが許さないなどという高尚な問題ではない。福本監督の名誉を守るためなら、俺のプライドなどたいしたことではないし、第一、海賊商売≠始めたときからそんなものは忘れている。
単純に、俺は監獄にいきたくないだけなのである。
なるほど、俺はたしかにエアーポート・81≠通じて、ハイジャックのことには多少くわしいし、空港関係者に顔がきかないこともない。だが、それだけの理由で、奴が俺を共犯者に選んだとは思えない。
奴は、俺を主犯にしたてあげるつもりだと思うのだがどうだろう。
そうとでも考えなければ、奴がこれほど用心深く顔を見せない理由がうなずけないではないか。
俺はこう推理する。
エアーポート・81≠フシナリオそのままの方法で、機内に銃を持ちこむのは俺だ。しかし、シナリオにかかれている方法で機外へ脱出するのは、奴一人にちがいない。
残された俺は、警察に逮捕されるか、そうでなければ狙撃されてあえない最期をとげるというわけだ。──逮捕されたとしても、俺は事情をありのまま警察にしゃべるわけにはいかないのだ。しゃべれば、海賊商売≠フことを黙っているわけにはいかず、結局は福本監督に迷惑をかけてしまうことになるからである。
非常に、面白くない。
進むもならず退くもならずという状況で、俺に唯一残された道は、奴をペテンにかけることだけだった。
いわゆる面従腹背というやつで、さいわい|その《ヽヽ》コツは東洋映画に在籍していたときに充分勉強させてもらっている。
俺にとって有利なのは、奴が雑誌に発表されたエアーポート・81≠欠陥シナリオだとは知らないことだ。すべてが、あのシナリオそのままに運ぶと信じこんでいるにちがいない。
そうはいかない。
俺が、あのシナリオに新たなドンデン返しをつけ加えてやる。
──だが、俺は一介の映画屋で、悪にたちむかう一匹狼という|がら《ヽヽ》ではない。
現実《ヽヽ》のエアーポート・81≠ハッピーエンドに終わらせるためには、ながく同じ釜の飯を食ってきた仲間たち、福本組と呼ばれている映画スタッフたちの協力を得る必要があった。
事情をうちあければ、快く協力してくれるにちがいない。いや、エアーポート・81≠フ頓挫《とんざ》に意気消沈している連中だ。現実のエアーポート・81≠フ準備に、むしろカタルシスを覚えるかもしれないのである。
俺は昨夜のうちに、福本組に招集をかけておいたのだ。
──福本プロの名義で、横浜にスタジオを持っている。
スタジオといっても、倉庫に毛のはえたような代物で、大掛かりなセットを組むほどの広さはない。ほとんど室内シーンを撮るために使うだけだが、それでも自由に使用できるスタジオということで、けっこう調法する場合が多い。
たとえば、今回がそうだ。
俺がスタジオに入ったとき、すでに福本組のスタッフが何人か集まっていた。主に、装置、小道具の連中だった。
俺は、彼らの全員に事情をうちあけたわけではなかった。明日、実際に動いてもらう連中には、それとなく事件の輪郭を話したが、残りのスタッフにはただエアーポート・81≠フためとしか知らさなかった。くわしい事情を話したところで、たんに彼らの負担が大きくなるだけのことだからである。
「セットはできたかい」
俺はスタッフの一人にきいた。
「ああ……」
彼はニヤリと笑って、顎をしゃくった。
福本組のスタッフは実に優秀だ。
スタジオの中央に、木材で枠をくみ、板を張った巨大な円筒形のセットがつくられてあった。外観をみたかぎりでは、たんなるベニヤのバラックにすぎないのだが、いったんその中に足を踏み入れると──そこにはスーパー・トライスターのコクピットが完璧に再現されているのだ。
コクピットは、すべてが実物と寸分ちがわぬ精密さでつくられていた。ベニアに色をぬっただけの計器が、金属の質感すらそなえているようにみえるのだ。
「いちばん苦労したのは窓ですよ」
スタッフの一人が言った。「いちおう、トライスターと同じ硬質のアクリルを三枚かさねてみましたが、ね……なにしろ、適当な厚さのが見つからなくて……実物は、きっと強いと思いますよ」
「カプセルのほうを工夫すればいいさ」
俺は充分に満足していた。
エアーポート・81≠フ準備がかなり進んでいたとはいえ、よくぞ半日でこれだけのセットを組むことができたものだ。
「俺だ──」
セットの外から声がかかった。「ちょっとこちらへ出てこないか」
シナリオ・ライターの佐和道也の声だった。
佐和道也は茫洋《ぼうよう》とした、熊のように大柄な男だった。シナリオ・ライターとしての才能は非凡だが、実生活にはまるでだめな男で、いまだに自分でガスの火をつけることができないという噂があった。
「昨夜はおどろいたな──」
佐和はニヤニヤと笑いながらいった。「とつぜん電話をかけてきて、エアーポート・81≠フ結末をこんなふうに変えてくれないか、だものな。おかげで、今日は寝不足で……」
「できたのか」
俺は佐和の言葉をさえぎった。
「………」
佐和はズボンの尻ポケットから、丸めた原稿用紙をとりだした。
「よく書けている」
原稿を走り読みして、俺はうめいた。「だが、現実にこううまくいくかな……」
「どうしてだい」
佐和は自信タップリだった。「俺は映画と現実がちがうなどと少しも考えたことがないぜ」
「………」
俺は苦笑せざるをえなかった。佐和も、現実にハイジャックを決行しなければならない|はめ《ヽヽ》となったら、映画との相違に思いをはせないわけにはいかないだろう。
「だが、おかしなことになったな」
佐和が声を低めていった。
「ああ……」
「俺はあんたのアルバイトも知らなかったし、そんなふうに脅されてるとも知らなかった」
「昨夜までは、誰も知らなかったさ」
「福本さんもか」
「知るはずがない」
「そいつはよかった──」
佐和はしんそこホッとしたような表情になった。福本監督を敬愛していることでは、佐和は俺と同じ、いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。
「よくはない」
俺はまたしても苦笑しなければならなかった。「福本さんに知らせなかったから、今、俺がこんなに苦労しているんじゃないか」
「自業自得という言葉を知ってるかね」
佐和は平気な顔でいった。
俺がやりかえそうとしたとき、背後からスタッフの声がかかった。
「雷管の用意ができましたよ」
俺はふりかえり、
「ところで、ライト・バンのほうの準備は進んでるだろうな」
きいた。
「ええ──」
彼はうなずいた。「今、|それらしく《ヽヽヽヽヽ》仕上げているところですよ」
俺はうなずき、ふたたびセットに視線を戻した。
俺の頭のなかで、映画と現実との奇妙な混乱が生じていた──実際に、これまでの経過が、映画創作のプロセスをすべて踏襲しているように思えた。モチーフを与えたら、どうにか撮影台本も完成し、スタッフの編成もおわった。いよいよ、これからが製作に入るというわけなのである。
そう、明日はクランク・インなのだ。
クランク・イン
さすがに、ハイジャック決行の前夜はよく眠れなかった。
酒を飲みたかったが、アルコールが翌日に残ることが心配で、酒瓶に手をだす気にはなれなかった。二日酔いのハイジャッカーでは、さまにならないにちがいないからだ。
だが、俺は心残りのないように、思いきり飲んでおくべきだったかもしれなかった。俺の作戦が失敢すれば、酒の夢をみながら、ながく刑務所で暮らすはめにもなりかねないからである。
もちろん、俺の作戦とは、ハイジャック計画とはまた別なものだ。俺自身を救うための作戦なのである。
眠れないままに、いろいろと奴《ヽ》のことを考えた。
声の調子からすると、まだ若い男のように思われた。
ディープ・スロート≠C航空62便にセットしたという話は眉つばだ。機内上映のプリントは、地上整備の際に係員がセットすることになっている。誰でもができるという仕事ではないのだ。──しかし、俺はその話を嘘くさいと思いながら、嘘だと断定することはできないでいた。AFSのしくみを知っていることから、奴《ヽ》が映画関係者だということも考えられたからだ。
奴のハイジャックの目的が、政治的なものなのか、それとも単に金めあてなのかはわからない。ただ、機内に武器を持ち込むことができ、ハイジャックの後、機外へ脱出するというエアーポート・81≠フシナリオにとびついてきたところをみると、国外逃亡の意志はないようだった。
──いずれにしろ、と俺は思った。明日には奴と会うことができる。明日にはすべてがはっきりするのだ……
それでも、明け方、いくらかトロトロとしたようだ。
朝、コーヒーだけの食事をすませ、俺は福本組の面々に確認の電話をかけた。心配するな、と佐和がいった。警察につかまるようなことがあったら、差し入れにいってやるから……差し入れは、いなり寿司でいいか。──
「くそくらえ」
俺はそういい、電話をきったが、気持ちがかなり楽になっていた。
そして、持っていくべきものをすべてととのえ、俺は部屋を出た。
──俺が、指定された晴海の倉庫についたときには、すでに十二時をまわっていた。
いちおう倉庫という名はついているが、雨さえろくにふせげない倉庫で、むしろ屑の集積場と呼ぶほうがふさわしかった。
事実、金網をはりめぐらした敷地には草が生い茂り、冷蔵庫やテレビの残骸がいたるところに積み上げられていた。倒産した某繊維会社の持ち倉庫だったというが、スレートの屋根は破れ、窓ガラスは割れて、昔日の面影はどこにもなかった。
高台に位置しているらしく、倉庫の背景に東京湾がみえた。
ただ、身を置いているだけで、気持ちが滅入ってくるような場所だった。ただし、たしかに人眼につかないという利点はある。
待つほどもなく、幌をかけた小型トラックが敷地に入ってきた。
俺は、緊張で全身がキュッとこわばるのを覚えた。いよいよ、奴と会うことができるのである。
トラックがとまり、運転していた男が身軽におりたった。
奴だ。
若い男だった。いかにも神経質そうな、秀才らしい面長の顔だちをしていた。濃いサングラスをかけていて、どんな表情なのかはわからない。趣味のいい濃茶の背広を着ているが、その黒い革手袋がなんとはなしにうさんくさい感じだった。
いまいましいことに、俺より十センチは背丈がたかそうだ。
「|あんた《ヽヽヽ》か」
俺がきいた。
「そうだ──」
と、男はうなずいた。「例のものは持ってきたろうな」
俺は背広の前ボタンを外し、ゆっくりと拳銃をとりだし、奴につきつけた。
「やめておくんだな」
男は面白くもなさそうにいった。「俺を殺せば、福本監督が大変なことになるぞ。それに、あんたには拳銃は使いこなせない」
「使いこなせない人間に、どうして拳銃をとりにやらせた」
「あんたには拳銃を持ちこんでもらうだけでいい。ハイジャックを実行するときには、俺が拳銃を持つ」
「むしのいい話だな。危険な仕事はすべて他人にやらせるというわけか」
「頭がいいからさ」
男はニヤリと笑った。「あんたも頭がよかったら、こんな罠にひっかからないですんだはずだ」
「なるほど……」
俺はうなずいたが、必ずしも男の言葉に納得したわけではなかった。男はしきりに利口ぶっているが、本当に利口であるかどうかはこれから明らかになるだろう。
「カーゴ・サービスは出発の一時間三十分まえには貨物の積載を始め、三十分まえにはすべてを終える──」
男がいった。「C航空62便は、午後六時に台北に出発するからあまり時間がないぜ」
C航空の62便は、台北、香港を経由して、マレーシアを最終の目的地とする。所要時間は十時間あまりだが、俺たちのハイジャックが成功すれば、飛びたって一時間もしないうちに日本に戻ってくることになるはずだった。
当然、空港は警官、機動隊員で埋めつくされることになる。ハイジャックが成功した後、その大勢の監視の眼をくぐり抜けて、いかにして機外へ脱出するかがエアーポート・81≠フ、いわば売り物の一つとなっているのだ。
もちろん、これはシナリオの話だが、現実にエアーポート・81≠サのままにハイジャックを行なうとなると、やはり同じ問題に直面することになる。衆人環視のなか、しかも密室性がきわめて濃いジェット機から、いかにして脱出をはかるか。
そのむつかしさを考えれば、機内に武器を持ちこむ方法など子供だましに思えてくるほどだった。
「コンテナの用意はできてるだろうな」
俺がきいた。
「トラックの荷台に積んである」
男はうなずいた。「ごく普通の型だよ。LD─3といったかな」
問題ない。LD─3はハーフサイズのコンテナで、ワイドボディ・ジェットの床下貨物用として、全機種に共通していた。もちろん、スーパー・トライスターの床下貨物用にもこれが用いられているはずである。
|俺たち《ヽヽヽ》のコンテナを、いかにしてC航空62便に積載するかは、俺の心配すべきことではなかった。男の俺を脅迫した手口からして、荷の積み降ろし作業にあたるランプ・クルーをだますぐらいは造作ないことであるはずだからだ。一般に、貨物の積み降ろし、機内清掃業などは、契約などによって、下請け会社などが代行している場合が多い。
また、コンテナのなかをあらためられる心配もない。貨物のチェックは爆発物検査ぐらいで、時限爆弾かダイナマイトでも探知されないかぎり、まずコンテナがあけられることはありえなかった。
俺はトラックの荷台にまわり、幌のなかをのぞいてみた。
たしかに、荷台を大きく占めて、横幅二メートル、たかさは人間の腰ほどのコンテナが置かれてあった。
LD─3だ。
俺はこのLD─3のなかに入って、大空たかく舞い上がることになる。ワイドボディ・ジェットは、床下貨物室も予圧されているから、窒息する心配はない。ただ、床下貨物室から客室にぶじに潜入することができるかどうかが問題だが……
「そのコンテナはなかからも開くようになっているだろうな」
俺は確認した。
「もちろんだとも」
男はやや苛立ちはじめたようだ。「万事、手抜かりはないさ。さあ、早くトラックに乗ってくれないか──」
「わかったよ、|シシリアン《ヽヽヽヽヽ》……」
一瞬、男はけげんそうな表情をしたが、そのまま何もいわずに、トラックの運転席に乗り込んでいった。
俺の冗談が通じた様子はなかった。シシリアン≠ヘジャン・ギャバン、アラン・ドロンが共演したフランス映画で、公開当時、その大掛かりなハイジャックが話題になったものだった。もちろん、ハイジャックは成功するのだが、結局、ギャングたちは殺されたり、逮捕されたりする|はめ《ヽヽ》となる……
俺もまた|シシリアン《ヽヽヽヽヽ》にしたがって、トラックの助手席に乗り込んだ。
男は、トラックを発進させた。
──C航空の碁礎をつくったのは、払い下げのDC─3で輸送事業を行なっていたアメリカ人とオーストラリア人の二人のパイロットだった。設立が一九四六年──それが五九年には東京、六〇年には大阪、六五年には福岡へ乗り入れるようになった。
C航空は、主に東南アジアにネット・ワークをのばしている。
なんといってもC航空のユニークな点は、長距離型L─一〇一一、いわゆるスーパー・トライスターを使用していることだった。
トライスターは全日空の主力機であり、大体が国内用のエア・バスとして開発された機種である。それが、燃料容量、最大離陸重量ともに増して、国際線用として使われ始めたのがスーパー・トライスターだった。
全日空がトライスター採用を決定する際には、ご存知のような騒ぎがあったのだが、それを別にしても、たしかにこの機にはエンジン騒音が低いという利点があった。それに、トライスターはアメリカの大型機のなかでも最も遅れて開発されただけに、自動操縦装置などに優れており、完全自動着陸までもできるということだった。
だが、──床下貨物室のコンテナに身をおいているかぎりでは、必ずしも乗り心地がいいとはいえなかった。貨物運搬車にゴトゴトと揺られ、コンテナローダーで|転がされ《ヽヽヽヽ》、いいかげん胸がむかついていたのだ。実際、トライスターが離陸、上昇していったときには、吐かないようにするのが精いっぱいだった。
乗客が座席ベルトを外しにかかったころ、俺もまたコンテナを脱け出していた。
床下貨物室には十台ばかりのコンテナと、二枚のパレットが積まれてあった。コンテナは貨物室の半分、いわゆるハーフ・サイズのLD─3だから、なんとか移動することができるのだ。
従来のジェット機では、絶対《ヽヽ》に貨物室から客室に移動することはできなかった。しかし、このスーパー・トライスターは客室を多く確保するため、床下に調理室を設けており、貨物室から調理室に入ることが可能なのだ。
もちろん、かつてのスーパー・トライスターなら床下調理室《アンダー・ギヤレー》を採用していても、おいそれと貨物室からの侵入など許そうとしなかったのだろうが、最近になって改良《ヽヽ》がほどこされ、B─七四七やDC─一〇の一部の機体がそうであるように、サービス・カートを貨物室から直接に床下調理室へ搭載するという方式にかわったのである。
サービス・カートとは食品を積んだコンテナのことだが、車輪がついていて、そのまま客席へ引きだすことができるようになっている。
トライスターは揺れ、足元がおぼつかない感じだったが、俺はどうにかサービス・カートを押しだし、調理室に足を踏み出すことができた。
俺はついていた。
調理室にスチュワーデスが一人もいなかったからである。ただ、冷蔵庫、オーブン、おしぼり用オーブン、コーヒー沸かし器などが清潔な光を放っているだけだった。
俺はついに、機内に武器を持ち込むことに成功したのだ。
──ここまでは、エアーポート・81≠フシナリオそのままだった。
つまり、|シシリアン《ヽヽヽヽヽ》の思うままにことが運んだのだ。これからが俺の独壇場、いかにシナリオをかえていくか、腕のみせどころといえた。
とにかく、客室に出なければならない。
身づくろいをととのえ、俺はリフトに乗った。
リフトから出たとたんに、スチュワーデスとはちあわせすることになった。
俺は思わず声をあげそうになったが、スチュワーデスのほうではいっこうにおどろいている様子はなかった。まさか、客が床下調理室から現われたなどとは、想像すらしていないのだろう。
「何かご用でしょうか──」
と、その日本人スチュワーデスは声をかけてきた。
「う……」
俺は口ごもり、それでもようやくいうことができた。「冷たい飲み物をもらえないだろうか」
「かしこまりました」
彼女はまことに優雅におじぎをした。「お客様のお座席までお持ちいたします」
「たのむよ」
俺は座席のほうにいきかけ、ふと思いついて、そのスチュワーデスにきいてみた。「映画はやるんだろうね」
「ええ……」
スチュワーデスの微笑は、規格品の上品さをたもっていた。
「当然のことをきくようだが、機内上映のプリントはすべて十六ミリだったよね」
「いいえ……」
「──そんな三十五ミリだなんて……そんなバカなことが……」
「八ミリですわ」
スチュワーデスは社規でさだめられ、きっちり許されているだけの笑い声をあげた。「映画技術が進歩して、三十五ミリを八ミリに縮小して、上映することができるようになったんですわ。重量軽減のためには、八ミリのほうが好ましいですものね──もちろん、まだ十六ミリを映写する機体のほうが多いんですけど、このフライトでは八ミリが映写されることになっています……」
「………」
俺は心中うめき声をあげていた。
機内上映のプリントは十六ミリと頭から決めこんでいた自分のうかつさが、なんとも肚立たしかった。たしかに、映写効果、映写時間に多少の難はあっても、八ミリが映されるという可能性が残っていたのだ。
だとしたら、十六ミリのディープ・スロート≠この便にセットしたという奴《ヽ》の話は、まったく成り立たなくなる。
やはり、奴は嘘をついたのだ。そして、その嘘に、おろかにも俺はおどらされてきたのである。
「ありがとう──」
俺は、心からスチュワーデスに礼をいった。
「どういたしまして」
あいかわらずの職業的微笑だが、俺にはそれがこよなく美しいものにみえた。
俺はスチュワーデスからはなれ、シシリアンの姿をさがした。
ロールスロイス社製エンジンBR二一一が、かすかなひびきを足元に伝えてくるようだった。天候がいいらしく、ほとんど揺れを感じない。
ファースト・クラスを考慮にいれても、乗客は二百人というところか。満席という状態にはほど遠かった。
すでに、眠りこんでいる乗客が多かった。
「藤田さん──」
通路をうろついていた俺に、かたわらから声がかかった。
シシリアンだ。
「成功したんですな……」
シシリアンはつとめて声を圧さえていたが、驚嘆のひびきをかくしきれないでいた。自分でも成功を疑っていた作戦に、俺を追い込みやがったのだ。
さいわい、シシリアンの隣りは空席になっていた。
「そうともかぎらない」
俺は腰をおろしながら、そういった。
「え……」
シシリアンは、俺の真意をさぐろうとするように視線を向けてきた。その濃いサングラスが、なんとはなしに滑稽なものにみえた。
「上映される映画はすべて八ミリだそうだ」
「………」
「ディープ・スロート″のプリントは十六ミリだ」
「……なるほど」
「そう、|なるほど《ヽヽヽヽ》だ」
俺は声がたかぶるのを圧さえることができなかった。「とりあえず、俺はこの件からは手をひかせてもらうよ」
「ディープ・スロート≠ェこちらの手にあることにかわりはないはずだ」
「かわりはあるさ。俺は、こうしてあんたと会うことができたんだからな」
「どうするつもりだ」
俺は拳銃を引き抜き、すばやくシシリアンの脇腹に押しつけた。左手でクッションをつかみ、拳銃を隠す。──映画でよくみるシーンだ。
「バカなまねをするな」
シシリアンの声がふるえていた。
「ハイジャックとどちらがバカなまねだと思う」
「それは──主観の問題だ」
「俺の主観では、ハイジャックのほうがバカなまねだ」
俺たちの会話は終始、ささやき声で交わされていたが、ここにいたって、シシリアンの声がややたかくなったようだ。
「考えてもみろ」
「声がたかい」
「考えてもみろ」
シシリアンは極端な小声でいった。「あんたは不正乗客だぜ。どうやって、この機から降りるつもりなんだ」
「こんなこともあろうかと、パスポートは用意してきた。搭乗券はなくしたとでもいえばいいさ──台北でおりて、なんとかいいひらきをするつもりだ。それだって、ハイジャックをするよりはましだ」
「しかし……」
シシリアンはなにかをいいかけ、その言葉を途中でのみこんだ。そのサングラスが、俺の肩ごしに|視線をすえて《ヽヽヽヽヽヽ》いた。
俺はふりかえった。
十二歳ぐらいの男の子が立っていた。よく肥って、眼鏡をかけた男の子だ。甘いものが好物なのか、顔いっぱいに吹き出物ができていた。眼鏡の奥の意地悪そうな眼が、ギラギラと輝いて、クッションに向けられている。
制止する暇《いとま》もなかった。
俺たち二人がアッと腰を浮かしかけたときには、もう男の子は腕をのばし、クッションをはらいのけていたのだ。
「ハイジャックだよ」
そして、いかにも嬉しそうにわめきたてやがったのだ。
「この小父さんたちがハイジャックしようとしているよ」
クランク・アップ
俺は、かねてより子供を映画館に入れるのには強い制約を設けるべきではないか、という持論を持っている。
子供は大声で泣くし、狭い通路をバタバタと走りまわる。そして、のべつまくなし「ねえ、どちらが悪いほうなの」と親にききたがるのだ。
まことに、子供は小さな野蛮人で、他人の楽しみをさまたげるのに天才的な技量を発揮するのである。
だが、俺はこの際、その持論に新しい条項をつけくわえたいと思う。──子供をワイドボディ・ジェットに乗せるときにも、その子がよい子≠ナあるかどうか資格検査を受けさせなければならない……以上が、俺の持論にくわえられるべき新しい条項である。
とにかく、子供がさわいだおかげで、俺たちはハイジャックに踏み切らざるをえなくなった。なにしろ、俺たちは拳銃を持ちこんでいるのだ。いえ、そんなつもりはありませんといったところで、とうてい通用するはずがなかった。
一瞬、俺は呆然とし、気がついたときにはシシリアンに拳銃をもぎとられていた。
「ハイジャックだ──」
シシリアンはさけびざま、席を立ち、拳銃をかまえた。
機内が騒然となった。
女たちは悲鳴をあげ、男たちの何人かは座席から腰を浮かしかけた。
だが、シシリアンの拳銃がすべてを制した。いったんは立ち上がりかけた男たちも、拳銃を眼にすると、フウセンがしぼむように座席に腰をもどしたのだ。
やむなく俺も、用意してあったサングラスをかけ、席を立った。
そして、いった。
「ハイジャックだよ」
われながら、間が抜けたハイジャッカーぶりだった。
シシリアンが俺に視線をはしらせ、うすい笑いを浮かべた。さぞや、俺の挫折に胸のすく思いを味わっていることだろう。
眼鏡をかけた子供は、その場につったったまま、俺たちのハイジャッカーぶりを子細に観察していた。恐れている様子はさらさらなく、それどころか|こと《ヽヽ》のなりゆきに満足しているようだった。
「まず、スチュワーデスを呼ばなきゃ」
そして、ませた口調でいった。「コクピットに入らなきゃ、ハイジャックをしていることにならないよ」
俺はうめき、なかば悲鳴をあげるようにいった。
「どなたか、この子の保護者はいらっしゃらないのですか」
男の子は唇をとがらし、俺たちの座席からはなれた。
「別に、じゃま者あつかいしなくても、いつでも消えてやるのにさ……まあ、しっかりやんなよな」
「………」
つかのま、シシリアンは気勢をそがれたように沈黙していたが、やがて大声をはりあげた。
「スチュワーデスはいないのか。スチュワーデスはどこだ」
通路をとんでくるようにして、スチュワーデスが俺たちの前に現われた。
例の、上品で優雅なスチュワーデスだったが、今はもうすべての職業的訓練を忘れているようだった。
「大声をあげなくたってきこえるわよ」
と、彼女がいった。「大声をあげれば相手が怖がると思ってさ──最低よ」
「たのみたいことがあるんだ」
「誰がいうことなんかきくもんか、バカ」
「ちょっとしずかにしてくれないか」
「この野蛮人」
「………」
シシリアンは大きく息を吸い、その息を吐くようにしていった。
「俺はたしかに最低で、バカな野蛮人かもしれないが……たのむから、拳銃を持った野蛮人だということを忘れないでくれないか」
「この……」
スチュワーデスはなにかいいかけ、かろうじてその言葉をのみこんだ。これ以上、シシリアンを刺激することのおろかしさを、ようやくさとったらしかった。
シシリアンばかりではなく、俺もまたスチュワーデスが沈黙したことにホッとしていた。とにかく、そのスチュワーデスの悪口は強烈で、きいていると|こちら《ヽヽヽ》の頭がズキンズキンと痛みだしてくるのだ。
「いいか──」
俺がいった。「きみたちの役目は、乗客をおとなしくさせることだ。さわがなければ、誰にも怪我はさせない」
「どこへ行くつもりなのよ」
スチュワーデスは疑わしげにきいた。「北朝鮮に行くつもりだったらおあいにくだわ。今は、そう簡単にハイジャッカーの入国を許してはくれないんだから……かといって、アラブへ飛ぶだけの燃料は積んでいないし」
「どこへも飛ぶつもりはないよ」
俺は自然になだめるような口調になっていた。「日本へ戻るんだ──さあ、いいからほかのスチュワーデスに乗客の世話をするように伝えてくるんだ。ファースト・クラスの連中には今のところ黙っていたほうがいいな。どうせ、そのうち騒ぎだすだろうから、そのときに説明しても遅くはない」
「………」
まだ、なにかいいたげなスチュワーデスを、シシリアンが拳銃で追っぱらった。
「さあ、行けっ」
スチュワーデスはツンと鼻をそらして、仲間たちの許に戻っていった。その背中に、シシリアンが声をかける。
「おわったら戻ってくるんだ。まだ、やってもらうことがあるんだからな」
もちろん、スチュワーデスの返事はなかった。
乗客たちは総じておとなしかった。拳銃にさからっても意味はないし、なにより日本に戻るとスチュワーデスに告げられたことが彼らに安心をもたらしたようだった。
なかには、イヤホーンでコントロール・ボックスから音楽をきいている剛の者さえいたのである。
あの男の子の忠告にしたがうわけではないが、俺たちはコクピットに入る必要があった。
俺は例のスチュワーデスに命じて、相互連絡《インターカム》でコクピットに連絡させた。
「われわれをコクピットに入れるんだ」
俺はいった。「さもないと、乗客が思わぬ怪我をすることになるぞ」
いやな脅し文句だが、ハイジャックの決行に踏み切った以上、いやだからといって誰も脅さないわけにはいかない。
俺としては誰にも怪我をさせたくない。ただ、なんとか無事に逃げだしたいというささやかな願いがあるだけなのだ。
数分後、俺とシシリアンはコクピットに入っていた。
「すでに会社と管制塔にはハイジャックを報告した」
いかにも律義そうな中年の機長が、声に怒気をみなぎらせていった。「東京へ戻ればいいんだな」
「そうだ」
俺はうなずいた。
「そんな拳銃一つでスーパー・トライスターをハイジャックするつもりか……」
若い副操縦士がつっかかるようにいった。「いい度胸だな」
「そうでもないだろう……」
シシリアンがため息をつきながらいった。
「拳銃一つあれば窓を射ち割ることができる。機内の気圧が下がれば、それこそ墜落しないともかぎらないじゃないか。下手に、拳銃をうばおうなんて考えないほうがいいよ。暴発でもしたら、|こと《ヽヽ》だからね……それに、俺たちは二百人の乗客を相手にしようとは思っていない。あくまでも、このコクピットにとどまるつもりさ──」
俺はシシリアンの言葉に苦笑を禁じえなかった。
まったくの盗用だ。シシリアンの科白《せりふ》は、エアーポート・81≠フシナリオと一言一句かわらぬものだったのだ。
だが、さすがにシナリオ・ライター佐和道也のかいた科白は迫真力にとんでいた。正副両パイロットは、シシリアンの言葉に気圧されたように沈黙したのだ。
チンチンと鳴って、チーフ・パーサーがコクピットに顔をのぞかせた。シシリアンの持つ拳銃に視線を走らせ、一瞬、塩をなめたような顔になった。
「お客さんたちが騒ぎはじめています」
チーフ・パーサーは慎重に言葉を選びながらいった。「その……そちらのハイジャッカーの|かた《ヽヽ》がコクピットにお入りになったまま、様子がかいもくわからないものですから……なにか、機内アナウンスなさったほうがいいんじゃないかと思うんですが」
「わかりました」
シシリアンがおだやかにうなずいた。「どうも、ご苦労さま」
チーフ・パーサーは反射的に微笑を浮かべてしまい、微笑を浮かべるべき相手ではないことに気がつき、おのが軽率さに肚を立てながら客室《キヤビン》にもどっていった。
「どうした」
シシリアンが機長にいった。「今の話をきいたろう」
「………」
機長はしばらくシシリアンを睨みつけていたが、やおら顔をそむけると、客室用のマイクを手にとった。
「こちらは機長です。ご存知のように、当機はハイジャックされてしまいました。犯人たちの要求にしたがい、当機はただいまから東京に帰還いたします──現状からみて、事件は早期解決を望めると思います。乗客の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、どうぞ搭乗員の指示にしたがい、沈着な行動をお願いします」
「そのとおりだ」
シシリアンが機長をほめた。「さすがは機長だ。たいしたものじゃないか」
「………」
機長はかたくなに前方を見つめている
副操縦士も機長にならい、俺たちのほうを見向きもしない。機関士にいたっては、俺たちがコクピットに足を踏み入れて以来、しきりに飛行日誌に何事か記入しているだけで、一言も口をきこうとしない。──悲しいことだが、俺たち二人はみんなに嫌われているのである。
エアーポート・81≠ノ関係したおかげで、俺もジェット旅客機の操縦のことなら多少はわかっているつもりだ──現在、62便は規定高度三三〇〇〇フィートをたもち、一路、東京に向かっている。マッハ計は〇・八一八、真速度計は五〇一ノットを指示している。
順調だ。
トライスターは、自動航法装置、安定増強装置、速度制御装置、自動操縦装置を組みあわせた|自動飛行制御システム《AFCS》を採用している。とりわけ自動航法装置にかんしては、従来の慣性航法装置より一歩進んだエリア・イナーシャル・ナビゲーション・システムをとりいれ、システムの自動化をさらにおし進めているのである。──要するに、トライスターは飛行はもとより、離陸滑走、上昇、降下、着陸進入、はては着陸にいたるまでのいっさいが自動化されているのだ。
だからこそ、俺は機長たち三人にこんな乱暴なことをいえたのだ。
「すまないが、ちょっと客室《キヤビン》のほうに出ていてくれないか」
「………」
一瞬、三人のクルーは、いや、シシリアンを含めて四人の男が、俺の言葉に唖然《あぜん》としたようだった。
「バ、バカな──」
ふいに、機関士が座席からとびあがるようにしてわめいていた。「燃料やエンジン推力のチェックは……室内温度や圧力のチェックはいったい誰が……」
「ほんの数分のことだ」
俺は機関士の言葉をさえぎった。「問題はないさ」
なおも抗議しようとする機関士を、機長がやんわりと皮肉をこめて制した。
「|こういう《ヽヽヽヽ》連中にものの道理を説明しても始まらん。怪我をするだけ損というものだよ。ほんの数分のことだったら、たしかに問題もないだろう」
さすがに、コクピットにおける機長の言葉は絶対だった。機長にしたがい、二人のクルーはいかにもいまいましげに、しかし大人しくコクピットを出ていったのだ。
「どういうことだ」
シシリアンがきいてきた。
「もう話してもいいだろう──」
俺には、奴の質問に答えている余裕《ゆとり》はなかった。「あんたの目的はなんだ?」
「金だよ──」
シシリアンはニヤリと笑った。「C航空と政府に二億ばかり要求するつもりだよ」
「やはり、金か。気の毒だが、金持ちになるのはあきらめたほうがいい」
「バカなことをいうな。なんのために苦労していると思っているんだ」
「無駄骨におわっても、しゃばにいるほうがいいとは思わないか」
「捕まりゃしないさ」
「たいした自信だな──」
「エアーポート・81≠フシナリオにしたがって、ここまで成功したんだ」
シシリアンはいささかも動じる色をみせなかった。「これからも、あのシナリオにしたがえばうまくいくさ」
「哀れな奴だな」
「なんだと」
「あのシナリオにはまちがいがあるんだよ」
俺は噛んで含めるようにいった。「あのシナリオのとおりにしていたら、空港に戻っても、絶対に機外へは脱出できないんだ。金をもらって、さっさと逃げるというわけにはいかないんだな」
「なぜだ──」
シシリアンの声はかすれていた。
「なるほど、たしかにトライスターにはコクピットからブラック・ボックスを抜けて、下腹部に通じている穴がある。コクピットの脱出ハッチとはちがい、さほど知られてはいないから、人眼をひくこともない──俺たちはそう考えた」
正確には、福本監督と佐和道也がそう考えたというべきだった。だからこそ、エアーポート・81≠フシナリオに|それ《ヽヽ》を使ってしまったのだ。しかし……
「エアーポート・81≠フシナリオでは、犯人たちは金を受けとった後、クルーをコクピットから追い出して、推力レバーを押す。つまり、トライスターを地上滑走させて、国外脱出をはかると見せかけ、その穴から滑走路へ逃げだす……そういう段どりなんだが、こいつは不可能なことなんだな」
「なぜだ」
「第一に、穴はあるにはあるが、もっぱら整備士《メカニツク》が地上整備の際に用いるもので、コクピットからはまず入れない。第二に、たとえその穴から滑走路にとびおりたところで、まちがいなくノーズ・ギアに轢《ひ》かれることになる」
「………」
シシリアンは沈黙していた。いっさいの虚勢がはげおち、気弱な若者の表情があらわになっていた。どうやら、この男もねっからの職業的犯罪者ではないようだ。
「俺たちもそのことを知ったときには気をおとしたものだな」
俺はいった。「機外脱出の方法としては、抜群のアイディアだと思ったんだがね」
「どうすればいい」
シシリアンが声をふりしぼるようにしてきいてきた。
「金をあきらめろ」
「あきらめればどうなる?」
「逃げることができる」
「少しでもだめか」
「一銭たりとも持ちだそうとしてはいけない」
「それなら、あきらめる」
シシリアンは思いきりよくいった。「俺はまだ若い。刑務所暮らしじゃ運動不足になってしまう」
「よし──」
俺はうなずき、背広の前ボタンを外しながら、脱出方法の説明にとりかかった。
──数分後、俺たちはふたたびクルーをコクピットに呼び戻した。
管制塔とのあわただしいやりとりがあった後、機長は62便を降下させた。三分後には高度は二四〇〇〇フィートまで下がり、速度はマッハ〇・七八八を示していた。
さらに高度が下がっていき、副操縦士はフラップを下ろしながら、電波高度計の読みを開始した。
今、62便は完全にILSの電波に乗り、着陸態勢に入った。
機体が激しく揺れる。坐ることのできない俺たちハイジャッカーにとっては、いささか不安をおぼえる瞬間だ。
ギア・ダウン、そしてフル・フラップ。
滑走路が、視界に迫りつつあった。黄色の誘導灯、赤、青……そして、オレンジ色の滑走路灯があざやかに浮かび上がっていた。
地上十一メートル。
機長は62便の機首をあげ、タッチ・ダウンに入った。
足元をふるわすギアのひびきが、確実な大地の感触を伝えてきた。
ブレーキ、逆推力装置、スポイラーと一連の操作がおわり、機はタクシング速度まで下がった。
だが、62便がスポットに入ることはない。その巨体は、滑走路にとどまったのである──もちろん、俺たちが機長にそう命じたからだった。
「いっぱいおしかけているぜ……」
シシリアンがなかばつぶやくようにいった。
空港には、警察、機動隊の車があらゆるところにとまっていた。今、62便は強烈な照明の十字砲火に身をさらしているはずだった。
何百、何千、いや、おそらくテレビ中継が行なわれているだろうから何十万もの人間が、われらがスーパー・トライスターを注視しているにちがいないのだ。
俺たち二人は、このおびただしい視線のなかで、機外脱出をはからねばならないのである。
──しばらく、コクピットのなかには沈黙が充ちていた。
三人のクルー、二人のハイジャッカーはともに、空港の警備のあまりの物々しさに度肝をぬかれてしまったのだ。実際、東京の警官、機動隊員がすべてこの場にはせ参じたかと思われるほどだった。
「………」
シシリアンが俺に視線を走らせた。
俺はうなずいた。
俺たちはコンソールの前に坐り、それぞれにヘッド・フォンをかぶった。今回、拳銃をかまえて、クルーたちを見張るのは俺の役目だった。
しゃべるのは、シシリアンにまかせた。
管制塔からの通信が入ってきた。
『こちら管制塔──私は石村運輸政務次官という者だ。ハイジャッカー諸君との話しあいを希望する。どうぞ』
シシリアンがマイクのボタンを押した。
「こららハイジャッカー、貴君を政府代表と考えてもさしつかえないのか。どうぞ」
『私は運輸相から全権を委任されている。政府代表と考えてもらってさしつかえない……諸君の要求をうかがいたい。どうぞ』
シシリアンは大きく息を吸った。これから、おそらく生涯で最大の賭けにのぞもうというのだ。シシリアンでなくても、緊張して当然だったろう。
「十億円をいただきたい──」
シシリアンがいった。「古い紙幣でお願いする。これから三十分後に、62便までとどけてもらいたい」
『………』
のっけから大金を要求されて、相手は狼狽したようだ。
こういう場合、ハイジャッカーは所属する組織名、あるいは政治的なスローガンをとうとうとまくしたてるのが普通だからだ。たぶん、俺たちのことをおそろしく欲ボケしたハイジャッカーだと感じたにちがいない。
『待ってくれ──』
数秒の間をおいて、相手は悲鳴をあげるようにいった。『三十分だなんてとても無理な話だ。十億円は右から左にそろえられる額ではない』
「交渉にはいっさい応じられない」
シシリアンの口調は冷静で、いっさいの抑揚を欠いていた。「紙幣ナンバーを記録されるのはごめんだからな──三十分後に、十億円をとどけるんだ。さもないと、誰かクルーが死ぬことになる。以後、三十分おくれるごとに、一人ずつ射殺していくからそのつもりで」
「なんてことを」
機関士がわめき、座席からとびあがった。
俺がかろうじて拳銃で制したからよかったものの、そうでなければ、激怒した機関士は、シシリアンにつかみかかっていたろう。残る二人の男も、怒っていることでは機関士にいささかも劣らない。三人ともに、獣を見る眼で俺たちを見ていた。
管制塔の石村運輸政務次官殿も、俺たちのあまりの冷酷ぶりに交渉の言葉を失ったようだった。
相手が沈黙しているのをいいことに、シシリアンと俺はヘッド・フォンを外した。以後の交渉は、いっさいお断わりするというわけである。
「どうだった」
シシリアンがきいてきた。
「ああ……」
俺はうなずいた。「よかったぜ」
「なにがよかっただ。人非人め……」
機関士が吐きすてるようにいった。
人非人呼ばわりされるのも当然といえた。俺たちは人質の命をたてにして、相手がとうてい呑めそうもない要求を持ちかけたのだ。常識で考えても、わずか三十分の間に、古い紙幣で十億円をそろえることができるはずはなかった。──俺たち二人は、それこそ最低の卑劣漢とののしられても抗弁のしようがない立場なのである。
だが、それが俺たちの狙いなのだ。俺たちは相手を追いつめ、ぎりぎりの窮地に立たせる必要があったのだ。
「双眼鏡をかしてくれないか」
俺は機長にいった。
機長は無言のまま、コンソール・ボックスから取りだした双眼鏡を俺に手渡した。指がふれるのすらおぞましいと思っているにちがいない。その表情に嫌悪感があらわだった。
いまさら、機長に嫌われたところで気にするはずがない。俺たちは栄誉ある市民の敵NO・1なのである。
俺は拳銃をシシリアンにわたし、双眼鏡をのぞいた。
気がめいる眺めだ。
滑走路の端には、それこそ警官があふれんばかりになって待機している。サーチライトのなかを、機動隊の武骨なトラックが右に左に移動している。どうやら、給水センターの脇には消防車までがとまっているようだった。
現在、この空港は閉鎖同然の状態になっているらしかった。離着陸する航空機がいっさい見えないのだ。ただ、報道陣のヘリコプターが、いかにも忙し気に行き来しているだけだった。
空港管理ビルの屋上も、報道陣でひしめいていた。そのなかには、たしかにテレビ・カメラも加わっているようだ。──彼らの報道によって、俺たちはまちがいなく極悪非道の大悪人にしたてあげられているだろう。
すべてが現実感を欠き、なにか遠い夢の情景のように思えた。これだけの人数が、俺たちのために集まってきたとはとうてい信じられない。
俺は索然とした思いにかられていた。
現実は、いつも俺にはよそよそしい。映画館の暗闇がなつかしくなるのは、決まってこんな時だった。
俺は、それでも五分ほどは双眼鏡をのぞいていたろうか。ようやく眼に痛みをおぼえ、双眼鏡を下ろそうとしたそのとき──|そいつ《ヽヽヽ》の姿が視界に入ってきたのだ。
|白いハンチングの男《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
高倍率の双眼鏡なればこそ、かろうじてとらえることができた姿にちがいない。
男は、南ウィングの屋上に腹這いになっていた。ゴルフ・バッグのようなものから取りだしたなにかを、しきりに組み立てているようだ。
なにか? ……もちろん、赤外線スコープを装着したライフルに決まっているではないか。
俺の脳裡に、|あの《ヽヽ》銃砲店の親父の言葉がくりかえし|こだま《ヽヽヽ》していた──凄腕の狙撃屋に狙われたら、もう死んだも同然だからな……五十メートル先のフット・ボールをふっとばすというんだから只者ではない……
情況は容易に想像できる。当局は、俺たちのあまりの凶悪さに業を煮やし、ついに最後の手段にうったえることを決意したにちがいない。三十分ごとに一人を殺すという俺たちの凶悪ぶりは、たとえ射殺したところで、国民たちをうなずかせる説得力を充分にそなえているからだ。
もちろん、狙撃員は一人ではない。おそらく、空港随所に配置されているのだろう。──俺は肚の底が冷たくなるのをおぼえた。俺はもしかしたらとんでもない計算ちがいをしたのかもしれないのだ。
「明日に向かって撃て=c…」
無意識のうちに、俺の口からそんな言葉がもれた。──実際、情況はあの映画とはなはだしい相似を示していた。ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードふんする二人の主人公は、|白い帽子の男《ヽヽヽヽヽヽ》に追いつめられ、ついにはハチの巣のようになって息絶えるのである。
似ている。
もしかしたら、二人の男が射殺されるのまで似てしまうのではないか。
「おい──」
俺は双眼鏡を下ろし、シシリアンに声をかけた。
「………」
俺の声がよほど緊迫したものだったのだろう。シシリアンはなにかに気づいたかのように、座席からなかば腰を浮かしかけた。
そのとき──コクピットの風防パネルにピシッと弾痕がうがたれた。
一発や二発ではない。つづけざまに弾痕がうがたれ、一瞬のうちに風防パネルを白い亀裂がおおったのだ。
もちろん、俺に何発撃たれたか数えている余裕があるはずはなかった。
俺は悲鳴をあげながら、床に倒れていったのだ。
視界の隅に、胸から赤いものを迸《ほとばし》らせながら、床にくずれ折れていくシシリアンの姿が映った。
胸を圧さえた俺の手も、またグッショリと赤く染まっていた。
激しい苦痛のなかで、俺は機長がマイクに向かってこう叫んでいるのをきいていた。
「ハイジャッカーたちが狙撃されました」
機長の声は興奮し、喜悦に充ちていた。「きこえますか。ハイジャッカーたちが狙撃されました。くりかえします──」
最終編集
俺は眼をひらいた。
視界に、福本組のスタッフの顔がとびこんできた。シナリオ・ライター佐和道也の顔も混じっていた。
「うまくいったじゃないか」
俺は担架のうえにムックリと体を起こし、いった。「まったくうまくいった。信じられないぐらいだ」
車輪の回転がゴトゴトと腰に伝わってくる。いいかげんスプリングがいかれているようだが、この車はいわば俺の救い主だ。文句をいっては、罰があたるというものだろう。
要するに、中古のライト・バンにすぎないのだが、福本組スタッフの手によって、完壁に救急車に擬装されているのだ。担架に、救急箱を一式とりそろえ、福本組の面々もいかにもそれらしく、白い上衣を着こんでいる。これなら、誰が見ても、緊急病院にかけつける救急車だということを疑いもしないはずだった。
「今、どこら辺を走っている?」
俺がきいた。
「品川だ──」
運転している男が応じた。「この近所に、懇意にしている中古車屋がいる。そこのガレージで、この車は化粧をおとして、普通のライト・バンにもどるというわけさ」
俺の傍らでは、シシリアンが呆然と腰をおろしていた。サングラスをとったその顔は、意外に幼かった。
「どうだ」
俺はシシリアンに声をかけた。「うまくいったろう」
「あ、ああ……」
シシリアンはうなずいた。
──俺たちが無理難題をふっかけたのは、当局にハイジャッカー狙撃に踏みきらせるためだった。狙撃手たちが空港に姿を見せなければ、俺とシシリアンが62便から脱出するのは不可能だったからだ。
映画屋なら誰でも知っている簡単なトリックだった。
俺は、62便に乗り込む際、掌に乗るほどの小型プロテクターをいくつか持ち込んでいたのである。プロテクターには、電池で発火する小型雷管がセットされてある。こいつがシャツの下で爆発すれば、シャツ、上着ともに破れて迫力満点というわけだ。
プロテクターのうえに、人工血液を入れたうすいゴム袋がとめてあるから、雷管の爆発とともに、赤い飛沫がとびちることになる。雷管を爆発させ、演技よろしく倒れれば、どう見ても射殺されたとしか思えない。
俺はクルーをコクピットから追い出したときに、こいつのあつかい方をシシリアンに教え、プロテクターを装着させたのだ。
むつかしかったのは、タイミングだ。
滑走路の端にとめた擬装救急車から、福本組スタッフが|カプセル《ヽヽヽヽ》を62便の風防パネルに射ち込んだ。これも、映画のトリックによく用いられる手で、エア・ボンベで発射される一種の空気銃が使用される。つまり、ガラスに射ち込まれたカプセルが割れ、なかに入っている着色ゼラチンによって、いかにも弾痕のような痕跡が残されるのである。実際に、ガラスに穴があくわけではない。
飛距離がながいのが難点だったが、それもスタッフが空気銃を改良して、なんとか間にあうようにした。
要するに、狙撃手が俺たちを狙うという情況が必要だったのだ。俺たちが|射たれた《ヽヽヽヽ》後、すぐに擬装救急車がかけつけ、誰に何をいわせる暇も与えずに、遺体《ヽヽ》を運びだしてしまったというわけだ。
後は、ひたすら遁走あるのみだった。
現場が混乱していたからこそ可能だったことだ。──混乱するのも当然だったろう。なにしろ、命令もくださないうちに、誰かおっちょこちょいの狙撃手が引き金をしぼってしまったのだから。
つまり、これが、エアーポート・81≠ノはない、俺が用意したドンデン返しだったのである。
「映画屋だけだよ──」
佐和がニヤニヤ笑いながらいった。「こんなバカなことを本気で実行するのは」
「ちがいない」
俺はすわり直そうとして、苦痛にうめいた。
「どうした? どこか痛むのか」
「倒れたときに、肩をひどく打ったんだ」
俺は顔をしかめた。「それに、悪ガキが一人いやがってな。担架で運びだされるときに、俺が本当に死んでるかどうか、傘の先で突ついてたしかめやがった……」
いうまでもないだろう。あの眼鏡をかけたガキである。
「ききたいんだがね」
佐和がいった。「どこから、こんな手を思いついたんだ?」
「スティング≠ウ」
俺はそういい、青い顔をしているシシリアンに向き直った。「さて、あらいざらいしゃべってもらおうか。こいつは、あんた一人の知恵じゃないはずだ。誰に入れ知恵されたのか、吐いちまいな──」
──空港を臨む、いつものホテルのラウンジだ。
昨夜のハイジャック騒ぎなどすっかり忘れたかのように、ジャンボ機がエアーポートに離着陸をくりかえしていた。
昨夜の今日だ。さすがの俺も、グッタリと座席に体を沈めていた。
夜のエアーポートをながめる元気など、どこにも残っていない。
「おかしな話だな──」
と、福本監督がいった。「どうして、きみ宛ての郵便物が私の家のポストに投げ込まれてあったのか、かいもく見当もつかない」
「そうですな……」
俺はつぶやいた。「おかしな話だ」
テーブルのうえには十六ミリのプリントが置かれてあった。もちろん、|あの《ヽヽ》ディープ・スロート≠ナある。
だが、──べつだんおかしな話ではなかった。野心家の映画青年を陰であやつり、エアーポート・81≠サのままのハイジャックをやらせようとしたのは、ほかならぬ福本監督だからである。
俺はそのことを知っており、俺がそのことを知っているのを福本監督も承知している。ただ、お互いにいまさら騒ぎたてるような野暮な真似はしないだけの話だ。
福本監督はなぜあんなことをしようとしたのか。
一つには、エアーポート・81≠フ資金を確保したかったこともあるだろうが、やはりシナリオの行き詰まりが最も大きな理由になっているのではなかろうか。
福本監督はハイジャッカーが機外へ脱出する方法を考えあぐね、ついに誰かを実際にその情況に立たせることを思いついたにちがいない。福本監督としては、脱出の必要に迫られた人間がどうやって逃げだすかを見たかったのだろう。その|誰か《ヽヽ》に俺が選ばれたのは迷惑な話だが、まあ、それだけ買いかぶられているのだといえないこともない。
ハイジャックを思いついた時点で、福本監督はエアーポート・81≠フシナリオを全面的に破棄することを決意したようだ。ただ、純粋にクリエイターとしての興味から、はたしてハイジャッカーがスーパー・トライスターから脱出できるかどうかを知りたかったにちがいない。
俺はいったはずだ。
福本監督は完全主義者として有名だが、いざどたんばになると、なんとか帳じりをあわせてしまう映画人特有のふてぶてしさもそなえた人物だ、と。──
べつに、シシリアンをしめあげるまでもなく、事件の背後に福本監督がいることは最初からあきらかだったのだ。この俺が、福本監督の名誉を守るためならハイジャックも辞さない人間だということは、誰よりもよく福本監督本人が承知しているはずだからである。
ひどい話だが、ここまでひどさが徹底すると怒る気にもなれない。
苦笑あるのみだ。
「エアーポート・81≠ヘ全面的にシナリオを改稿しようと思う」
福本監督がいった。「スーパー・トライスターをやめて、ボーイング七四七にしようと思うんだが、どうだろうかね」
「そうですね……」
俺は窓の外を見た。
実害はなかったというものの、ハイジャックはハイジャックだ。あの手口からして映画関係者だということははっきりしているし、いつかは警察の手がのびてくることになるかもしれない。だが、俺にはなんとでもいい逃れができる自信があった。──そんなことをクヨクヨと思い悩むより、映画をつくっていたほうが賢明というものではなかろうか。
「一つだけ、おねがいしたいことがあるんですが……」
俺は監督に向き直った。
「なんだね?」
「子供だけはださないでください」
俺はいった。
「子供はもうこりごりなんです」
[#ここから2字下げ]
映画の海賊商売にかんしては、『管理会社をあざむく犯罪カタログ』ロバート・ファー著・宇田道夫氏訳・白金書房を参考にさせていただきました。また、AFSは実在の企業とは関係ないこと、スーパー・トライスターの構造が一部現在のものとは変えてあることをそれぞれおことわりしておきます。
[#ここで字下げ終わり]
ラスト・ワン
AM9・30
──こんな時刻に、真名瀬《まなせ》祥子と会うのははじめてだった。
だいたい、朝の九時にめざめていることじたい、きわめて異例なのだ。
早起きもたまにはしてみるものだ。
朝の光に、祥子は五歳は若がえったようにみえた。青果市場から着荷したばかりの水蜜桃《すいみつとう》のみずみずしさだ。思わず手にとり、歯をあてたいような魅力をそなえていた。
ただし、まだ|祥子を食べる《ヽヽヽヽヽヽ》ことはできない。おあずけをくった犬の情けなさがよく理解できた。ことが成功するまで、祥子の体に指一本ふれることも許されていないのである。
そして、祥子はもちろん、俺自身も作戦の成功をおぼつかなく思っているのだ。
俺は祥子に会うと、すぐに地下の喫茶店にさそった。
イシス≠ニいう名の喫茶店だ。仕事のうちあわせなどで人と会うとき、もっぱら利用している喫茶店だった。
イシス≠ノ入る前、祥子にことわって、通路のトイレに行った。
俺がトイレから出て、イシス≠ノ足を踏み入れたとき、祥子は窓際の席に坐って、ボンヤリと外を見ていた。
窓の外には、日本庭園があった。
遠近法の錯覚を利用して、いかにも広々と見えるように造られているが、実際には十坪ほどのスペースしかない。しかも、日本庭園には天井があって、そのうえを多くの人が歩いているのだ。
「この庭園はきみのようだな──」
席につくなり、俺はそう言った。「すべてにわたって人工的だ」
「………」
俺のどろくさい皮肉に、祥子がいまさら動じるはずはなかった。コーヒーを一口含んで、すこし顔をしかめると、シュガーを一匙《ひとさじ》入れる。そして、しずかに言った。
「どうしても、どんな計画か明かすつもりになれないの」
「なれないね」
俺はかぶりを振った。
「一人じゃ成功しっこないわ」
「どんな計画かも知らないのに、どうして成功しないと断言できる?」
「この仕事はとてもむつかしいと言ったのはあなただわ」
「そうだ──」
俺はうなずいた。「人数が多くなればたやすくなると言った憶えはない」
「………」
祥子は俺の眼をのぞきこんだ。能面のように無表情な顔だった。
「誤解しないで」
祥子はいった。「別に、あなたのことを心配してるわけじゃないわ。ただ、あなたが不用意な失敗をしでかすと、仕事がなおさらむつかしくなるから言ってるのよ」
俺たちの間に誤解はない。祥子がこちらの身を案じてくれると考えるほど、俺は自惚《うぬぼ》れてはいないつもりだ。その意味では、俺たちの相互理解は完璧といえた。
俺は、そんな誤解はしていないといった。
祥子の追及は執拗だったが、しかし|その声《ヽヽヽ》に苛立ちのひびきはなかった。祥子は決して度を失うことのない女だ。常に冷静で、感情をあらわにすることを好まないのだ。──俺はときおり、彼女をくすぐって、笑いころげさせてやりたいという欲望にかられることがある。
もちろん、それを実行する勇気はない。俺はふんべつある三十男で、そのうえまずいことに祥子に惚れているのである。
「金庫のタイム・ロックが作動するのは十一時半よ──」
祥子はことさらのように腕時計に視線をおとした。「あと二時間とちょっとしかないわ」
「二時間あればいろんなことができるさ」
俺はそういい、席を立った。
「それまで、ここを動くんじゃないぞ。いいか。絶対《ヽヽ》に動くんじゃない──」
「………」
祥子はうなずいた。
しかし、祥子が約束を守るという確信は俺にはまったくなかった。
──地上にあがったとたんに、カッと強い陽光が俺の眼を射った。
街の喧噪《けんそう》が津波のようにおそいかかってきて、視界が人、人、人で埋まった。自動車の排気ガスがあくどく鼻孔をうつ。
俺はサングラスをかけ、しばらく新宿西口の景観をながめていた。
やはり、京王プラザホテル、三井ビル、住友ビルの超高層ビル群は圧巻というべきだった。権力と資本力を誇示し、この街をはるか高所から見下しているのだ。
これらの超高層ビルは、いわゆる新宿副都心計画の要《かなめ》のような役割りを果たしている。新宿副都心計画は、首都整備計画の一環として策定されたもので、昼間人口三十万人のビジネスセンターを誕生させることをねらいとしている。そして、──地上二十八階、およそ百メートルの|わが《ヽヽ》倉石ビルも、この新宿副都心の一翼をになっているのである。
俺は、倉石ビルにはいささか愛着を感じている。
俺──伊丹謙介は、倉石ビル建設の際に一役かっているからだ。
諸君《あなた》が多少なりとも建築関係にくわしい方なら、どこかで俺の名をきいたことがあるかもしれない。
斎藤吉造門下では、まず俺の名が筆頭に挙げられてしかるべきだろう。新鋭建築家としては、日本よりもむしろ海外において高い評価を与えられている。長野県に建設したコンサート・ホールは、俺の名を不動なものにし、建築史を飾る傑作だといわれているぐらいなのである。
ただし、どうも業界における評判はかんばしくないようだ。
俺は一匹狼のひねくれ屋で、自惚れが強すぎるという定評があるらしいのだ。俺は、自分のことをこれほど謙虚な男はないと思っているのだが、まあ、自他の評価が大きくくいちがうのは仕方ないだろう。
たしかに、俺は大手建設会社の設計部に在籍できるような|がら《ヽヽ》ではない。数えきれないほどそんな話はあったが、いつもむこうからことわってくるのだ。仕事を限定されるのを覚悟で、自分で設計事務所を経営するしかなかったのである。
倉石ビルの設計チームに加わることができたのは、恩師斎藤吉造先生がそんな俺を心配して、声をかけてきてくだすったからである。──そして、俺は倉石ビルの空気調和、エレベーターシャフトを手がけることになった。
思えば、それがそもそも今回の災難の始まりだったのだ。
どんな災難かは、これからおいおい説明していくことになる。もっとも、二時間あまりの余裕しか俺には残されていないのだが……
三年前、俺は女房を交通事故で失っている。子供はいない。再婚は考えていないこともないのだが、相手から色よい返事がもらえなくて困っている。その相手というのが、真名瀬祥子というわけだ。
事態ははなはだ悲観的な様相をていしているといわざるをえない。
以上が俺──伊丹謙介の自己紹介のすべてである。
──俺は陸橋をわたって、青梅街道に出、倉石ビルに足を踏み入れた。
倉石ビルは全体が一つの大きなビジネス街のようなものだ。出入りする人間は多く、その職種は雑多をきわめている。
俺の作戦には好都合だった。
俺はまず地下二階の中央管制室におもむいた。
中央管制室は、室内温湿度制御、ビル内機器の運転制御をつかさどっている、いわば倉石ビルの心臓部である。
たとえば室温を例にとっても、そこには微妙な制御が必要とされる。
ビルは大規模になればなるほど、各スペースの温度条件が大きくくいちがうようになる。外壁に接しているペリメーター部分、そうでないインテリア部分との温度条件はまったく異なるのである。しかも、各スペースは東西南北にわかれているのだから、そのすべてを快適温にたもつのは、それこそ至難の業だ。
当倉石ビルでは、ペリメーター、インテリア、さらには使用時間の|ずれ《ヽヽ》によるゾーニングを考慮し、ゾーンごとに空気調和機、給気ダクトを別にするいわゆる単一ダクト方式を用いている。室温調整誤差はせいぜいがプラス・マイナス二度とされているのだから、これがいかに大変な仕事かわかるだろう。要するに、そういったことをすべて制御、監視しているのがこの中央管制室なのである。
「ああ、伊丹さん──」
俺が入っていくと、中央管制室の職員たちが一様に笑いかけてきた。
「やあ……」
俺も挨拶する。俺は、倉石ビルの空気調和を担当した男だ。中央管制室の連中とは顔見知りになっていた。
さほど、広い部屋ではない。
プロジェクト・スクリーン型中央管制装置が部屋の中央を占めている。
系統選択ボタンによって、必要とされる部位の系統図をスライド・スクリーンに映し出し、その系統内の監視、または操作を可能にする電子装置である。
ただし、その危険性が考慮されて、熱源装置だけはグラフィックパネル形をとり、常時監視が行なわれている。
「どうした風のふきまわしですか」
職員の一人がきいてきた。「伊丹さんがこんなところに姿を見せるなんてめずらしいですね……」
「今日は設定値変更の日だろう」
俺が言う。「うまくいってるかどうか気になったものだからね」
「大丈夫ですよ。万事好調……」
「そうか」
俺はうなずいた。「それならいいんだが……」
外気温度や天候の変化によって、自動制御の設定点をときどき変えてやる必要がある。つねに快適な状態をたもつためには、新たな自動制御回路が必要とされるわけである。──年に数度、設定値変更の日がもうけられている。今日が、たまたま|その《ヽヽ》日なのである。
俺が、自動制御の設定値変更を気にかけるはずがなかった。多少、やっかいな仕事にはちがいないが、設定値変更そのものには何の問題もないからである。
自動制御の設定値変更の際には、すべての調整が手動にゆだねられる。そして、手動調整の場合には、自動制御に比して、空気調和の精度が非常にあらいものとなる。──要するに、俺はまちがいなく手動調整に切り換えられているかどうかを確認しに来たにすぎないのだ。
俺の作戦は、自動制御のもとでは遂行が困難だからである。
俺はふたたびみんなに挨拶し、中央管制室を後にした。
急いで、次の目的地に向かわなければならない。
なにしろ、俺には時間が極端に不足しているのだ。
──二十五階、青梅街道をはるか下方に見下ろして、塚田金融事務所≠ェある。
二十八階の規模とはいえ、ひっきょう倉石ビルはテナント権を売る雑居ビルの一つにすぎない。借り主の評判が多少かんばしくなかろうと、その人物にしかるべき金力さえそなわっていれば、フラットを何のためらいもなく提供するのである。
さよう、塚田金融事務所¥樺キ、塚田雄策の評判は決してよろしくない。いや、最悪とさえいえる。
塚田雄策は四十代なかば、──業界における|その《ヽヽ》群を抜いた台頭ぶりから、金融界の秀吉≠ニまで評されている人物である。なんでも七、八年ほど前、ヒッソリと町の金貸しからスタートしたのだが、もちまえの|あく《ヽヽ》の強さ、嗅覚のするどさを最大の武器として大躍進をとげ、いつしか財界ですら無視できないほどの大物にのしあがったという。
塚田雄策をうらむ人間は数多く、おそれている人間はそれに倍して多いときいている。
彼の容貌、経歴などは俺の知ったことではなかった。
俺は塚田雄策と会ったことはかつて一度もなく、別にこれからも会いたいとは思わないからだ。
それにもかかわらず、彼と一勝負うたなければならない|はめ《ヽヽ》となったのも、要するに恋心のなすわざにすぎない。
──塚田金融事務所≠ヘ、ちょっとしたホテルのロビーほどの広さをそなえていた。
まちがっても、虎皮の敷物などしかれてはいない。あくまでも重厚、かつ上品な雰囲気をただよわせていた。実際、ぶ厚い絨毯《じゆうたん》のうえを靴音をしのばせて行き来する男たちの姿は、とうてい金貸し連中とは思えなかった。
事務所の最奥部に位置している、壁にはめこまれた大金庫だけが、かろうじて|ここ《ヽヽ》が金融事務所≠ナあることを示していた。
金庫をおおう厚さ数センチの鉄板は、たとえミサイルをぶちこまれてもビクともしないという噂だ。
しかも金庫はタイム・ロックになっていて、午前十一時半にひらく以外は、誰にも絶対《ヽヽ》にあけることができない。その十一時半にも、一ダースにおよぶ屈強なボディガードが、周囲をかためるという念の入りようだ。
金庫には札束が山積みになっている。十一時半に金庫がひらくのは、見せ金という意味もあるだろうが、要するに塚田雄策の示威行為であるらしい。おのれの金力を誇示して、悦に入ろうという肚《はら》なのだ。
つくづく、塚田という男はゲスな野郎だと思う。そう思うが、しかし金庫を|攻める《ヽヽヽ》身としては、塚田を軽蔑ばかりもしていられない。金庫が非常な難物であるということは、まぎれもない事実だからだ。塚田は鼻もちならない自信家だが、その自信はかくとした根拠に裏打ちされているのである。
俺は、そうそうに塚田金融事務所≠退散することにした。
ここには、偵察に来たにすぎないのだ。下手に長居をして、ボディガードにあやしまれでもしたら|こと《ヽヽ》だった。
俺は廊下に出て、無意識のうちに額の汗をぬぐい、そして──ニヤリと笑った。
塚田金融事務所≠ヘすでに|充分に暑かった《ヽヽヽヽヽヽヽ》。
どうやら、空気調整はとっくに手動に切り換わっているようだった。
俺は通路に足を踏みだしかけ、慌ててその足をとめた。
眼の前に一人の男が立ちふさがったからである。
若い男だ。
飢えたような表情に、皮肉な眼をしている。その薄い一重|瞼《まぶた》はナイフのようにするどく切れ、口元にいかにも酷薄そうな笑いをうかべていた。──サマー・スーツにかくされた筋肉は強靭で、しかもしなやかな弾力を誇っているようだ。
名前を、比留間《ひるま》清という。むろん、本名ではない。本名は知らない。もしかしたら、誰も知らないのではないかと思う。比留間は本名を明かすのをはばかるべき種族に属しているからだ。
比留間は、職業的犯罪者なのだ。さまざまな犯罪をビジネスとして成立せしめた、数少ない|その《ヽヽ》道の成功者なのである。
危険な男だ。
俺にとっては、二重の意味で危険な男だった。この男の放埓《ほうらつ》で緻密な性格は、女にはあらがいがたい魅力となっているようだ。あの冷静な祥子も、比留間には少なからぬ興味を抱いているらしいのである。
つまり、比留間清は俺の恋敵なのだ。
「本当にやるつもりらしいな──」
恋敵がせせら笑った。「どんな作戦を思いついたかは知らないが、あんたにあの金庫の金を奪うことはできないぜ」
「だろうな──」
俺はあっさりと比留間の言葉を認めた。「しかし、まあ、見ててくれ」
「何をたくらんでいやがる」
一瞬、俺の真意をさぐるように、比留間は眼をほそめたが、すぐにうす笑いを浮かべた。
「いいだろう。お手並拝見といこうか……ただし、ことわっておくが、あんたが仕事に失敗したら、俺は自分の好きにやらせてもらうぜ」
この男なら、ライフルをかまえて塚田金融事務所≠襲うぐらいのことはやりかねないだろう。それは、とりもなおさず、真名瀬祥子も犯罪者となってしまうことを意味している。
俺の未来の花嫁を犯罪者とするわけにはいかない。
だが、俺にはこの男の行為をはばむべきどんな力もないのだ。
「承知している──」
俺はそううなずくしかなかった。「だが、今《ヽ》は俺の出番だ。とりあえず、そこをどいて、俺を通してもらおうか」
「………」
比留間はうす笑いを浮かべたまま、すっと傍らに身を寄せた。
俺はゆっくりと比留間の脇を通り過ぎていった。
こうして、俺の作戦が開始されたのだ。
AM10・05
──比留間のうす笑いが、いつまでも頭に残った。
比留間は、金庫破りを専門とする職業的犯罪者だ。恫喝《どうかつ》を唯一の生業《なりわい》としながら、数をたのみにして、この世をおしわたる暴力団員とはそもそも格がちがう。
入念な下調べと、緻密な計画のもとに、金庫にアタックするいわば職業人だ。必要とあらば、銃火器を手にすることもあるが、絶対に他者を傷つけない金庫破りのプロフェッショナルといえた。
真名瀬祥子が比留間を仕事の相棒に選んだのは、当然すぎるほど当然だったのである。
塚田金融事務所≠フ金庫は、その比留間でさえ難色を示したほどの代物なのだ。
比留間のうす笑いは、素人の俺が非力をかえりみず、金庫破りにいどもうとしているのを哀れんだ、いわば憫笑《びんしよう》と考えるべきだった。
だが、今の俺にはあれこれと思いわずらっている余裕はない。
すでに、時刻は十時を過ぎようとしている。塚田金融事務所≠フ金庫がひらくまで、あと一時間三十分をあますばかりなのである。
──この不況時に、着実に収益をあげているのは保険業界だけだ。
倉石ビルの二十四階に一歩足を踏み入れれば、そのことがよくわかる。M保険会社は二十四階をすべて占拠し、しかもそのほとんどを倉庫に使用している。もちろん、税金対策をねらいとしているのだ。
しかし、俺には二十四階のひと気のないのがありがたい。ここを作戦の拠点にさだめれば、人眼をさほど気にせずに仕事を推し進めることができ、いたずらに神経を消耗しなくてもいいからだ。
塚田金融事務所≠フ在る二十五階と一階層しかはなれていないことも利点の一つに数えられる。
俺は、廊下の端に位置するトイレに足を踏み入れた。
最奥部の個室ドアに、故障中≠フプラスチック札がかかっている。
俺はためらうことなく|そこ《ヽヽ》に入り、ドアに鍵をおろした。
ためらうはずがない。故障中≠フプラスチック札は、あらかじめ俺がドアにぶらさげておいたものだからだ。
便器のうえに紙袋が載っていた。これも、俺が用意しておいたものだ。
俺はさっそく着替えを始めた。
黒いシャツに黒いズボン、腰部と肱《ひじ》部にそれぞれ革のプロテクター。プロテクターには充分にグリスをしみこませる。あとは、ランプつきのヘルメットをかぶり、ズックに履きかえて、器材の入ったリュックを背負えば、すべての準備が完了するわけだ。
俺は、換気口の蓋をはずした。前もって、蓋のネジがゆるめてあったことはいうまでもない。
ダクトが黒い口腔をのぞかせた。
口腔とは、まったくわれながらいいえて妙だ。顔に感じる湿り気を帯びた微風は、さながら気管を伝わってくる息吹きのようだった。その臭気にも、人間の口臭とあい通じるものがあった。
その口腔に身をさし入れたとたん、頭を噛み切られるのではないかという子供じみた恐怖にとらわれた。
暗闇のなす業だ。
太古、原始人は暗闇に恐れおののき、ひたすら朝が訪れるのを待った。その、原始人をおびやかしたのと同じ恐怖が、今、二十世紀人たる俺の身をすくませているのだ。
ヘルメット・ランプをつけた。
もう、巨人の口腔ではない。亜鉛鉄板の角ダクトがえんえんとつづいているだけだ。ボルトとナットで締められ、ブラケットで支えられているなんの変哲もない角ダクトだった。
俺は懸垂の要領で体を引き上げ、一気にダクト内に身を滑り込ませた。
そして、匍匐《ほふく》前進を開始した。
匍匐前進はかんたんなようでも、長時間にわたると、いちじるしく体力を消耗する。新兵が訓練でまっさきに音《ね》をあげるのは、この匍匐前進だときいたことがある。──俺はこの二週間、タバコと酒を断ち、体力をつけることにひたすら努めたが、それがどれほどの効果があったか疑問だった。なにしろ、それ以前には、二十年にもおよぶ不節制の歴史があるのだから。
だが、グリスをしみこませたプロテクターは確実に役に立ってくれた。これがなければ、ものの数十メートルも進まないうちに、俺の肱と膝は痛みはじめることになったはずだからだ。
俺はひたすら前進した。自分が人間大のネズミになったような気がした。それだけ、快調な前進ということだ。事実、息も切れていないし、体のどこにも痛みをおぼえない。
視野が四方向にわかれた。
はるか頭上に青空が見えた。
屋上の外気取入口だ。
俺は体をくねらし、排気ダクトから通風ダクトに頭を入れた。とたんに、全身から汗がふきだしてきた。通風ダクトを通過する風は、ボイラーで熱せられた生《ヽ》の風だった。およそ、快適温とはいいがたい。
俺はすこしあえぎ、思いきって全身を通風ダクトのなかに突っ込んだ。そして、ふたたび前進を開始する。
サウナ・バスのなかで身もがいているようなものだ。ほんの一分とたたないうちに、俺は自分の汗のなかでのたうつ|はめ《ヽヽ》となっていた。
眼がくらみ、喉がひりつく。汗に濡れたシャツは、狭窄衣《きようさくい》のように俺の体を締めつけはじめていた。
だが、なお温風は耐えがたいほどのものではなかった。
それが、耐えきれない熱さになったとき、俺はようやく異常に気がついた──変だ。いかに手動調整だとしても、これほど風が熱いはずはない……
俺は頭のなかに、ダクトの青写真を想い起こし、──そして、うめき声をあげた。
二十一階に大レストランがある。
そのレストランの調理室が、開店にそなえてフル操業を開始したにちがいない。キッチンのうえに設けられたフードがすべての熱を集め、回転する排気ファンが、その熱をダクトに送り込んでいるのだ。どういうわけかわからないが、通風ダクトは排気熱を集めて、耐えがたい熱さと化しているのである。
収容人員三百名の大レストランだ。その調理室から吐きだされる熱量は膨大なものであると見なさなければならない。
俺はあえぎ、あえぎながら、前進をつづけるしかなかった。俺はもうネズミではない。生きながら灼《や》かれる人間ブロイラーだ。実際に、頭髪がチリチリと音をたてて焦げはじめているのだ。
俺は熱風に灼《や》かれながら、俺をこんな地獄に追い込むことになった真名瀬祥子の顔をしきりに想いだしていた。
──俺は、三年前に妻をなくしている。
夜、俺が運転していた車がガード・レールに接触し、同乗していた妻を死なせてしまったのだ。
たしかに、つれあいをなくすということは、人生の最大の不幸の一つに数えられるだろう。だが、──夫が運転していた車が事故を起こし、その結果、妻を死なせてしまうという例は世間にないわけではない。事故はまちがいなく夫の胸に傷を残すことになるが、それも歳月が癒《いや》してくれない|たぐい《ヽヽヽ》の傷ではないのだ。
人は生きていこうとするかぎり、さまざまな不幸に遭遇するのを避けられない。メロドラマならぬ、現実の世界に生きている人間には、すべての不幸を背負いつづけるのは不可能であり、無意味なことといわねばならないだろう。
人は事故を忘れていき、俺もまた妻をなくした痛手《いたで》から回復するはずだった。
だが、事故はむごい後遺症を俺に残していったのである。
音なのだ。
俺の車は大破し、しかも路上に横転した。
俺と、妻の死骸が車から引きずりだされるためには、車体をハンマーでたたきこわす必要があったのだ。その音が、俺の耳に執拗にこびりついてはなれない……
たとえば、道を歩いていて、建築現場などから杭《くい》打ちの音がきこえてくると、とたんに一歩も踏みだせなくなってしまうのだ。歯をくいしばり、その場にうずくまることになる。
日常生活にさほどの支障はきたさないというものの、これではいかにも困る。
あげくの果てに、主に在日外国人を相手にしている精神カウンセラーの許に、週に一度かよう|はめ《ヽヽ》になった。
そして、その夜は必ず赤坂のバーで飲むことになる。たしかに、精神のよどみをあらいざらいカウンセラーにぶちまけることは、それなりにストレスを解消させる効果はあったが、その後に必ず自己嫌悪を残した。自分が地上で最低の意気地なしになったような思いがするのだ。
最初、赤坂のバーで真名瀬祥子の姿を見かけたときには、ほとんど彼女のことを意識しなかった。ただひたすら、泥酔の淵に下降しつつあったからだ。
次の週、なにげなく祥子と目があい、|あちら《ヽヽヽ》から目礼してきたときに、俺はようやく彼女の存在を意識に刻みつけたのだ。
どうして、|そのこと《ヽヽヽヽ》に気がつかなかったのかと俺は自分がいぶかしかった。どこがどうと指摘することはできないが、彼女の一挙手一投足がことごとく妻をほうふつと想い起こさせるのだ。指を頬に当てるなんでもない|しぐさ《ヽヽヽ》までが、生前の妻とそっくり同じだった。
俺は理性を失った。
気がついたときには、俺は祥子のかたわらに腰をおろし、自分が怪しい者ではないこと、彼女が死んだ妻と感じが似ていることなどを、くどくどとしゃべりつづけていたのだ。
こうして、俺は祥子と知りあい、急速に気持ちを彼女に傾けていくことになる。
彼女は電話番号を教えてくれはしたものの、俺が部屋を訪れることを決して許してはくれなかった。家族構成、職業などもあかしてくれない。
週に一度、彼女と赤坂のバーで会い、ホテルに誘うことが俺の日常となった。俺の無器用な誘惑は一度として成功した試しはなかったが、それはそれでまた楽しいものだった。俺は本気で祥子との結婚を考えはじめていたからだ。
俺が最初かさねあわせた妻のイメージは、急速に彼女から消え去っていき、真名瀬祥子ははっきりと一個の人格をそなえはじめていた。その変化があまりに急だったため、一度でも祥子と妻が似ているなどと感じたことが、とうてい信じられないほどだった。──祥子は非常に冷静な女だった。そして、すべてにわたって、謎めいた印象をそなえていた。極端に口数がすくなく、プライベートなことにかんしてはまったくしゃべろうとしないのだ。
バカな話だが、俺はそんな祥子の謎めいた部分になおさら惹かれるものをおぼえていたようだ。
われながら、実にたわいもない。
祥子が俺の仕事、とくに倉石ビルの設計にかんして、なにかにつけてききだそうとしていることに、もっと早く不審を抱くべきだったのだ。
だが、俺はおめでたくも祥子とのデートをかさね、ホテルに誘っては断わられることを、一種のアバンチュールのような気持ちで楽しんでさえいたのである。
そして、俺の甘い蜜月時代は、とつぜん破局を迎えることになる。
すべてがあきらかにされるときがきたのだ。
──俺はふるえていた。
肱掛けをしっかとつかみ、両足を床にふんばることで、かろうじてわめきだしたいという衝動を圧《おさ》えていたのだ。実際、そのときの俺の姿は、不時着を余儀なくされたジェット・パイロットといったさまだったろう。今にも、地に激突しかねないという様子だ。
実は、俺をかよわい小鳥のように怯えさせていたのは、テープ・レコーダーから流れる単調な音響にすぎなかったのだ。
板金工場で録音したもので、鉄をたたく音が絶え間なくきこえてくる。それが、俺の病んだ神経には、おのれの棺を釘打つ音のように恐怖に充ちたものにひびくのだった。
「やめてください……」
俺は噛みしめた歯の間から、息をもらすように言った。「これ以上は、耐えられそうにない」
テープのスィッチを切る音がきこえて、部屋に静寂がよみがえった。
俺はあえいでいた。いかにあえいでも、胸を締めつけてくるこの圧迫感からは逃れられそうになかった。
「………」
精神カウンセラーはため息をついた。雨に濡れたムク犬のように、いつも悲しげな顔をしている中年男だ。
「よくなっています」
そして、気をとり直したようにいう。「まちがいなく、よくなっている。以前は、このテープを十秒とはきいていられなかった」
要するに、治療の効果ははかばかしい進捗《しんちよく》をみせていないということだ。
俺は力なく、うなずくばかりだった。
部屋には、気まずい沈黙がたちこめた。やがて、その沈黙を無理やり破ろうとするかのように、カウンセラーが口をひらいた。
「ところで、最近どうですか? 真名瀬祥子さんとの間はうまくいってますか」
「………」
俺はおどろいて、顔を上げた。
祥子のことは誰にも話していない。子供っぽい羞恥心から、今しばらくは自分だけの秘密にしておこうと考え、ごく親しい知人にもうち明けてはいなかったのだ。それを、どうしてこのカウンセラーが知っているのか……
「いや──」
カウンセラーは照れたような笑いを浮かべた。「先週、あなたが真名瀬さんとご一緒のところを、赤坂でお見かけしたものですから」
「彼女をご存知なのですか」
「もちろんですとも」
今度は、カウンセラーのほうがおどろいたようだった。
「彼女はわたしのところでアルバイトをしていた学生ですよ。といっても、ほんの一週間ほどのことですが……なんでも、卒論のデータに使いたいとかで、とつぜん|ここ《ヽヽ》にやって来ましてね。無報酬でいいから、働かしてくれということだったんで……それで、カルテの整理なんかしてもらったんですがね。いや、たすかりましたよ……なんだ、私はてっきり、伊丹さんは|うち《ヽヽ》で彼女と知りあったとばかり思っていましたよ」
「いや──」
俺は首を振り、きいた。「彼女の身元は確認なさいましたか」
「学生証を見せられたんで、そのまま信用したんですがね……」
カウンセラーは眉をひそめた。「なにか彼女に不審な|ふし《ヽヽ》でも?」
「いや──」
俺はふたたび首を振った。
その実、俺の胸には祥子に対する疑惑が暗雲のように湧き起こっていたのである。──頭を強く一撃されたように、俺はようやく自分がいかにおろかな男だったかを思い知らされていたのだ。
彼女のしぐさがことごとく妻に似かよっていたのは、俺に接近するための演技だったにちがいない。彼女は卒論のためと称し、この精神カウンセラーのもとに潜り込み、俺にかんするカルテを熟読したのだろう。俺がどんな女に興味を寄せるのか、充分に研究しつくしたのだ。そして、祥子の目論見《もくろみ》はまんまと成功し、俺はおめでたくも彼女との結婚を本気で考えはじめたというわけだ。
だが、|何のために《ヽヽヽヽヽ》?
いったい、真名瀬祥子は俺の何をねらっているというのか……
しかし、さしあたってはそんな疑問を検討する余裕《ゆとり》もなく、俺は愛する娘にだまされていたという事実にただ呆然としていた。
足元から地盤が崩れていくような喪失感があった。
挨拶もそこそこに、俺はカウンセラーの部屋をとびだした。
──その夜も、赤坂のバーで祥子と会う約束になっていた。
いつものようにカウンターにすわり、祥子が現われるのを待った。
水割りを三杯あけるだけの時間、タップリ待った。
約束の時刻を三十分は過ぎていた。
祥子は、いまだかつて約束に遅れた|ためし《ヽヽヽ》のない女だった。冷静鋭利な彼女は、生活全般にわたって厳しく自分を律していた。私生活を語ろうとしないことは自己規制の最たるものであろうし、時間厳守もそのうちの一つに数えられる。
俺はたまりかねて、祥子のもとに電話を入れた。
受話器から伝わってくるのは、単調な呼び出し音だけだった。
俺は電話を切り、しばらくその場に立ちつくしていた。
説明のつかない焦燥感が俺の胸を灼いていた。今、行動を起こさねばとりかえしのつかないことになるという強迫観念。──祥子が執拗に倉石ビルの設計図のことをききたがっていたのが、なにか得体の知れない不安となって迫ってきた。
俺は、すべての書類を事務所のロッカーにしまっている。今だったら、俺が不在なのはわかっているのだから、祥子はいとも容易に倉石ビルの設計図を盗みみることができるはずだ。
俺はあわててバーをとびだし、タクシーをとめた。
二十分後、事務所の窓に明かりがついているのをたしかめた俺は、息せききって階段を昇っていた。
そして、事務所のドアをあける。
案の定、真名瀬祥子は俺の事務所にいた。ロッカーの前にうずくまり、設計図のファイルをめくっていたのだ。──こちらを振り向いた祥子に悪びれた様子はまったくなかった。いつもながらの、冷静な、人を射るような視線だった。
俺は何事かわめきたてながら、一歩を踏みだし、──そして、背後の気配に気がついたのだ。
祥子のことでもそうだが、俺は何かにつけて気づくのが遅すぎる。気づいたときにはもう、固く重い衝撃が俺の後頭部をおそっていたのだ。
おそろしく、正確で、適確な一撃だった。
俺はうめき、ガクリと膝を折った。
急速に、意識が闇に呑みこまれていく。
数瞬、俺は床を見つめていたが、ついに耐えきれなくなり、すべてを闇にゆだねることにした。
俺の頭が床に当たって、ゴトンという乾いた音をたてたのを覚えている。
AM10・45
──俺は眼をあけた。
回想のなかの俺がではなく、今、ダクトのなかを這いずりまわっている現実の俺が眼をあけたのである。
いつのまにか熱風は、ずいぶんとしのぎやすいおだやかな温風に変わっていた。
手動調整にしても、まったくの役立たずというわけではないのだ。どこかの室内サーモスタットがダクトの異常高熱を中央管制室に伝え、職員が温風暖房器のバーナー調節を指図したにちがいない。
俺は文字通り、一息ついたというわけだ。
顔に火ぶくれができているようだ。とんでもない熱風のなかをしゃにむに突き進んだのだから、いわば当然の報いだったろう。顔が二倍に膨れあがったとしても文句はいえないところだ。
さいわい、大した火傷ではない。軟膏を塗ってものの二、三日もすれば、完治する程度の火傷だった。
俺は匍匐前進をつづけた。
ダクトに、仄《ほの》明かりがみえた。
最初の目的地点に到達したのだ。
保険会社の二十四階フラットの中核をしめる部屋だ。もっぱら会議室に使われているということだが、この時刻には誰もいないはずだった。
この部屋にかぎらず、倉石ビルのほとんどの部屋の空気吹出口には、いわゆるパン形吹出口と呼ばれる型のものが使用されている。天井面に穴を開け、空気が真下へ吹き付けないように板でおおった、吹出口としてはもっとも構造が簡単なものである。──仄明かりは、そのパン形吹出口からダクト内に洩れてくるものだった。
俺はリュックから必要な道具を取り出し、パン形吹出口の風量調節用ダンパーに細工を加えはじめた。もちろん、ダクトとの接続部がじゃましているから、直接、吹出口の風量調節用ダンパーに手をふれることはできない。だが、──俺はこのビルの空気調和施設を設計した担当者だ。それなりの方法はこころえていた。
風量調節用ダンパーに細工を加えながら、俺はふたたび回想のゆったりとした流れのなかに身をひたしはじめていた……
──脳震盪《のうしんとう》を起こしたというより、あまりの激痛に気が遠くなったと見たほうが正確なようだ。
脳震盪を起こしたにしては、あまりに意識の回復が早すぎたからだ。俺が気を失っていたのは、時間にしてわずか数分のことだったと思う。
眼をあけてからもしばらくは、自分の身に起こったことが信じられなかった。後頭部をなぐられ、気絶するなどということは、しょせん映画のつくりごとにすぎないと思っていたからだ。あんなに都合よく人が気絶するものかと、そんな場面を見るたびにせせら笑っていたのだ。
だが、──それが俺の身に現実に起こったことは疑いようもない。後頭部のうずくような痛みと、なにより俺の前に立ちはだかっている一人の男が、|それ《ヽヽ》が現実であったことを如実にものがたっていた。
若い、痩せた男だ。
仕立てのいい青いスーツを着こみ、若手商社員といった雰囲気をただよわせている。しかし、もちろん若手商社員は人を気絶させるのにあれほどあざやかな手際は見せない。むだんで、他人の事務所に押し入ることもしない。
男は、人を小バカにしたような笑いを浮かべていた。自分の力量に自信を持ち、なすべきことを充分に心得ている男の笑顔だった。
残念だが、俺なんかがとうてい歯の立つ相手ではない。そうでなくても、俺は喧嘩沙汰にはまったく自信のない男なのだ。
「立ったらどう?」
男の背後からそう声がきこえ、俺の視界にぬうっと真名瀬祥子が現われた。
俺は恨みがましくうめいてみせ、それでもどうにか立ち上がることができた。足元がなんともおぼつかない感じで、すぐにソファに腰をおろしてしまう。
「どういうことだか説明してくれるんだろうな……」
そして、きいた。
真名瀬祥子はそれには何も答えず、しばらく俺を見おろしていた。
ガラスをへだてて、昆虫を観察しているような視線だった。無機的で、いっさいの共感を拒んでいるのだ。──女のそんな視線にさらされながら、なお彼女が自分に愛情を抱いているのではないかと考える男がいたら、そいつは弁明の余地もないおろか者だ。
俺はおろか者ではないかもしれないが、さほど賢明ともいえないようだ。祥子にだまされたことを知りながら、彼女に対する恋情を断ちきれないでいるのだから。
俺は質問をくりかえした。
「どうして事務所に戻ってきたの」
祥子が言った。
「ここが、俺の事務所だからだ」
「わたしと会う約束だったわ」
「約束をすっぽかしたのは俺ばかりじゃないだろう」
「………」
祥子はため息をつき、すこし考えてからいった。
「いいわ。事情を話してあげる」
「………」
祥子の背後に立っている男が、わずかにみじろぎするのが見えた。男が、彼女の決意におどろいたのはあきらかだった。だが、結局は、男はうす笑いを浮かべて、|あの《ヽヽ》すべてに無関心なような超然とした表情にもどった。
「塚田雄策という男を知ってる?」
祥子がきいてきた。
「名前だけは」
俺はそううなずき、思いだしてつけくわえた。「たしか、倉石ビルの二十五階にも事務所をひらいたはずだ……」
「そう──」
祥子はうなずき、テーブルの端に腰をおろした。「それじゃ、その塚田雄策が悪党だという話はきいたことがある?」
俺はきいたことはないが、そうではないかと思っていたと答えた。俺の救いがたい偏見によれば、金融業者で、かつ成功者という|やから《ヽヽヽ》は例外なく悪党なのである。
「そういう意味じゃないわ」
祥子は苛立たし気に首を振った。「あの男は犯罪者だと言ってるのよ」
「どんな犯罪を犯したというんだ?」
「強盗よ」
「………」
「八年前、仲間一人と一緒にK県の地方銀行を襲って、二千万もの大金を奪っているの」
「くわしいじゃないか」
「当然だわ」
一瞬、祥子の声が抑制の箍《たが》をはずしたように乱れた。「その仲間というのは、わたしの父だったんですからね」
俺は絶句した。
俺は祥子から男《ヽ》に眼を向け、男がうなずくのをたしかめて、ふたたび祥子に視線をもどした。
「でも、わたしの父は|つぐない《ヽヽヽヽ》を済ませたわ」
祥子が圧《おさ》えた声でいった。
「刑務所に入り、獄死したの……父は首犯じゃなかったのよ。それなのに刑が重かったのは、相棒の名前を言わなかったのと、盗まれたお金がとうとう出てこなかったからなの」
「塚田雄策は逮捕されなかったのか」
「逮捕されなかったわ」
祥子は鼻にしわを寄せた。「銀行員を怪我させたのは塚田のほうなのに……結局、相棒の名を白状しなかったから、その罪もひっかぶる形になってしまったの。わかる? 父はたしかに悪党だったけど、昔かたぎの悪党だったのよ。筋を通して、相棒の名を警察にいうのをがんとして拒みつづけたのよ」
「………」
「その間、あの塚田雄策はどうしていたと思う? 父が刑務所のなかで苦しんでいるのに、着々と金融業者としてのしあがっていたのよ。|あいつ《ヽヽヽ》には、獄中の相棒をたすけようなんて気持ちはこれっぽっちもなかったんだわ」
「塚田は、その二千万を資本金として使ったわけか」
「そうじゃないわ」
祥子は|かぶり《ヽヽヽ》を振った。「盗まれた紙幣のナンバーは記録されていたの。塚田は一円たりとも使っていないはずよ──あの男は、その二千万を見せ金として使っただけだと思うわ。金融業者にとって、大金を持っているということを客に示すだけで、商売をそうとう有利に運べるはずよ……そうね。その意味では、たしかに二千万を資本金にしたといえるかもしれないわ」
「塚田は、絶対に使わない金というのを持っているそうだ」
ふいに、男が口をはさんだ。「なんでも、それがかなりの大金で……塚田は常々、その金は自分の守り神だと周囲の人間に言っているということだよ」
「………」
俺にはもう一つ話の筋道がよくのみこめなかった。二人の男が地方銀行を襲い、一人はつかまり、一人は金融業者として成功を収めた。よろしい。それはわかった。だが、──だからどうだというのだろう? 祥子は塚田に対して、復讐でもしようというのか。しかし、塚田は祥子の父親を裏切ったわけでもなく、また二千万を一人占めにしようと画策したわけでもなさそうだ。
祥子の父親が獄中で苦労している間、塚田は娑婆でのうのうと暮らしていたというが、それは要するに第三者の勝手な推測にすぎない。塚田がどんな気持ちでいたか、他人にわかるはずがないからだ。
だが──
「不公平だわ」
祥子が吐き捨てるように言ったその言葉には、傍観者たる俺の考えをみじんに砕く力がこもっていた。
「不公平よ──」
祥子は声をおとし、そうくりかえした。「わたしは、ね……父が刑務所に入ってからは、叔父に面倒を見てもらっていたの。いい叔父だったわ。わたしを大学にまで入れてくれたんですからね。その叔父がいつも言ってたわ。不公平だって……」
「………」
俺は沈黙するしかなかった。
祥子の言葉はまったく論理性を欠いていたが、その欠陥を指摘してみても始まらなかった。祥子は娘らしい潔癖さで、この世の不公平を本気で憤っているのだ。そこには、俺なんかの忠告が介入する余地はなかった。
「叔父は一年前に死んだわ……」
祥子は言葉をつづけた。「叔父は死ぬまぎわに、塚田のことを教えてくれたの。その話をきいたとき、わたしは決心したのよ……塚田にも|つぐない《ヽヽヽヽ》をさせなければならない、って──」
「どうしようというんだ?」
俺はしずかにきいた。「警察に密告でもしようというのか」
「密告しても無駄だわ……八年も前の事件を、しかも何の証拠もなしに、警察が再捜査してくれるはずがないわ。塚田を犯罪者だと告げるからには、それなりの証拠が必要よ」
「どんな証拠だ?」
「盗まれた紙幣よ。なによりの証拠だわ」
「………」
俺はすこし考えたが、考えるまでもなく結論はあきらかだった。それまで無秩序にすぎなかった回線が、ここにいたってようやく一つの回路をつくったのだ。
「倉石ビル塚田金融事務所≠フ金庫を襲うつもりだな」
俺はうめいた。「あの金庫のなかに、見せ金が収められているという話をきいたことがある。その見せ金が、地方銀行から奪ったとかいう紙幣なんだろう?」
「そう──」
と、祥子はうなずいた。「紙幣ナンバーは記録に残されているわ。わたしはその紙幣を塚田の金庫から奪って、それを警察に送りとどけるつもりよ。そうなれば、警察だって塚田逮捕に踏み切らざるをえないはずだわ」
「あの金庫を破るのは、ダイナマイトでも不可能だぜ。タイム・ロックで一日一度ひらく以外は、誰にも絶対にあけることはできないときいたことがある。参考のために、なかの紙幣をどうやって盗むつもりなのかきかせてもらおうか」
「………」
祥子は、男《ヽ》に視線をなげかけた。
男はそれまで、第三者としての姿勢をあくまでもくずそうとしなかった。だが、祥子の視線は、男が金庫襲撃の主役として活躍すべく、予定されていることを雄弁にものがたっていた。
「倉石ビルのダクトだよ」
男はものうい声でいった。「金庫の天井に排気口があるときいている。ダクトを通じて、その排気口にたどりつければ、なんとか方法はあるはずだ」
「なるほど」
俺はうなずき、まっすぐ真名瀬祥子に視線をすえた。「だから、俺に接近してきたというわけか。もともと倉石ビルの設計図を盗むことだけが狙いだったんだな」
俺は祥子に何を期待していたのか。ちがうといってほしかったのか。それとも、始めのうちはそうだったが、今はちがうと叫んでもらいたかったのか。わたしはあなたを好きになってしまった。だましているのがとても心苦しかった……しかし、俺の注視にも、祥子はいっさい表情を変えようとしなかった。一言の弁明もなく、ただ冷淡に見返しているだけだった。
祥子が俺に対して、どんな感情も抱いていないのはあきらかだった。
「残念だったな」
俺はため息をついた。「その計画はあきらめたほうがよさそうだぜ」
「そうかね──」
男はいささかも動じなかった。「よかったら、この計画のどこに無理があるのか教えちゃもらえないだろうか」
「たしかに、金庫には排気口がついている。だが、単に金庫内が異常高温になるのをふせぐためのもので、わずか十五センチ四方のものだぜ。しかも金網ではなく、鉄格子がはまっているんだ。金庫は鋼鉄製だから、排気口をひろげるなんて芸当はおいそれとはできやしない。つまり、誰にも排気口から金庫に入るなんて真似はできないわけだ」
「………」
しばらく、部屋には沈黙がたちこめていた。さすがに祥子は動揺をかくしきれないでいる。しかし、──男のほうはさほど動揺しているようにも見えなかった。平然とポケットからタバコを取り出し、一本をくわえると、火をつける。
そして、煙りを吐きながらいった。
「それじゃ、昔ながらの方法をとるさ。タイム・ロックで金庫がひらくと同時に、銃をかまえて事務所におし入る──この方法なら、なんの問題もないはずだ」
まるで、隣りの庭から柿を盗もうというような気安い口調だった。この男には、犯罪に対する忌避感覚が先天的に欠如しているとしか思えなかった。
祥子が、その男とどんな事情から知りあうことになったのかはわからない。ただ、男が祥子に愛情らしきものをいだいているのはまちがいないようだ。しかもその愛情は、目的を達成するためなら、祥子を犯罪者にしたてるのも辞さない|たぐい《ヽヽヽ》のものであるらしい。
祥子をこの男にまかしておくわけにはいかない。たしかに祥子は俺をだましたが、だからといって彼女が犯罪者と化すのをみすみす見逃すわけにはいかないのだ。
俺は考えた。それこそ脳髄の最後の一滴まで絞りつくして考えた。
そして、祥子にきいた。
「きみは学生だと言った。それは、本当のことなのか」
「本当だわ──」
祥子はなにをいまさらといった表情でうなずいた。「叔父には、ほかに身寄りがなかったの。だから、わたしは叔父の生命保険の受けとり人に指定されていたのよ。そのお金で大学に在籍することができたわ……どうして、そんなことを訊くの?」
「俺がきみの願いをききいれてやる」
俺はいいきった。「だから、きみは大学にもどるんだ。そして、俺と本気で交際するんだ──それだけが、俺の仕事の代償だよ」
「………」
今度こそ、祥子ばかりではなく、男もあっけにとられたようだ。たしかに、俺の言葉は可能性のうすい、いささか自暴自棄なものにきこえたにちがいない。
「あんた一人で金庫を襲うというのか」
男がきいてきた。
「襲うとは言ってない」
俺はかぶりを振った。「ただ、祥子の願いをききいれてやると言っただけだ」
「どうやって?」
「方法は俺一人が心得ていればすむことだ」
俺はそういって、祥子に視線を移した。
「どうだ? 俺の条件を呑んでくれるか」
「………」
祥子は沈黙していた。その表情が心なし蒼ざめているように見えた。
俺はほとんど祈るような思いで、祥子をみつめていた。女学生に手紙をわたそうとする高校生でも、今の俺ほどしゃっちょこばってはいないだろう。
フッと祥子の表情が動いたように思えた。たんなる錯覚だったかもしれない。
やがて、祥子がうなずいた。
「いいわ──」
俺は全身の緊張が一気にとけていくのを感じた。心底から、安堵の念をおぼえる。
「よかった……」
俺は口のなかでそうつぶやいた。ごく自然にもれた言葉だった。
男の低い笑い声がきこえた。男は笑い、そしてからかうように声をかけてきた。
「あんたはセンチメンタルな人だな──」
「………」
俺は塩をなめたような表情になったにちがいない。三十なかばにもなる男が、センチメンタルと評されて喜べるはずがなかった。
「それが悪いとはいってないぜ」
男のからかうような口調に変わりはなかった。「ただ、めずらしいといってるだけだ。そう、非常にめずらしいと……」
その後で知らされたのだが、男の名は比留間清といった。
AM・11・30
──回想のリズムが、頭のなかで遠い太鼓のように鳴っている。そのリズムに導かれ、死んだ妻が、真名瀬祥子が、比留間清が、舞台に登場しては消えていく俳優のように、あるいはしゃべり、あるいは動いていた。
だが、俺は決してそれらの想い出に心うばわれ、なすべきことを忘れていたわけではなかった。
俺は飽きることなく、ダクトのなかを這いつづけていた。さすがに腰部に、不自然な姿勢から生じる痛みをおぼえた。文字通り、膝の油がきれ、関節がギシギシときしんだ。
だが、仕事はおおむね順調に進んでいた。俺はすでに十ちかい数のパン形吹出口・風量調節用ダンパーを締めつけていた。
といっても、俺は手当たりしだいに吹出口の風量調節用ダンパーを締めつけたわけではない。俺の頭のなかには、倉石ビルの空気調和にかんする緻密な青写真が収まっている。その青写真にしたがって、作戦のために最低限必要と思われる吹出口にのみ細工を加えたのである。
なにしろ、時間にも、俺の体力にもかぎりがある。すべての吹出口の風量調節用ダンパーを締めつけるなど、とうてい不可能なことだった。
それに、俺は必ずしもパン形吹出口にのみ細工を加えただけで、すべての準備がととのうと考えていたわけではなかった。ダクト内の随所に設けられている定風量装置にも、ある種の仕掛けをほどこす必要があったのだ。
定風量装置とは、その名称が示すとおり、ダクト内の風量を一定にたもつための装置である。当倉石ビルでは、風量が多くなるとかさ状の板が内外圧力の差でひらき、これにつけられているゴム膜が空気流路をふさぐという仕掛けの定風量装置が使用されている。──俺の作戦では、この定風量装置も重要な役割りを果たすことになっている。
とにかく、俺は這った。ダクトのなかを這いつづけた。
単調な作業の連続に、俺はいつしか緊張感を欠きはじめていたようだ。心は、厚い鎧《よろい》をまとったように無感動になっていた。
一つには、思ったよりも順調に作戦が進行していることにも原因があった。俺はこの作戦にとりかかるまえ、実にさまざまなトラブルを想定していた。たとえば、吹出口のダンパーを締めつける音を、誰かにききとがめられるといった|たぐい《ヽヽヽ》のトラブルである。
だが、のっけに熱風をあびせられたことを別にすれば、おどろくほどトラブルとは縁がなかった。もちろん、作業そのものには何の問題もない。
この順調さには、やや拍子抜けせざるをえない。
俺は地虫のように這い、黙々と作戦を遂行することに、軽い倦怠感さえおぼえていたのである。
手をつけるべきパン形吹出口は残り二つ、定風量装置にいたってはあと一つを余すばかりだ。
塚田金融事務所≠フ金庫がひらくまで三十分とはないが、それでも時間に不足はないように思われた。俺は、作戦の成功をほとんど確信していたのだが……
──ふいに、けたたましい金属の叫喚がダクト内に鳴りひびいた。
とっさには、何が起こったのか理解できなかった。ただ、体が反射的にかたくこわばるのだけがわかった。
その音は、|あの《ヽヽ》金属をハンマーで連打する音と酷似していたのである。
体がじっとりと冷たくなってきた。意志力ではどうにもはらいのけることのできない恐怖だ。肱が、膝が、万力で固定されたように、一メートルたりとも進むことができなかった。
工事現場のリベット打ちの比ではない。音は狭いダクトに反響し、伽藍《がらん》を揺るがす鐘の音《ね》のように鳴りわたっているのだ。
実際、発狂しなかったのがふしぎなようなものだった。
いや、──俺が発狂の瀬戸際に立っていたことはまちがいない。恐怖から、視野|狭窄《きようさく》が生じていた。暗さを増したダクト内に、|あの《ヽヽ》金属音だけが凶鳥のように飛びかっていた。
理性では、それがたんなる音にすぎないことはわかっていた。だが、いったん深層意識にきざみこまれた恐怖は、容易に人の抵抗を許さない。闇に怯える幼児のように、ただただ圧倒させられてしまうのだ。
パン形吹出口が二機に、定風量装置が一機──わずか|その《ヽヽ》三機が、はるか彼方、手のとどかぬ地平に遠のいたように思えた。事実、この金属音のなかを這い進むことができない以上、それら三機の空気調和装置は地球の裏側にあるも同じなのだ。
俺はあえいだ。あえぎながら、必死にダクトの前方を凝視した。
だが、何もみえない。何が、どうして音をたてているのか、まったくみさだめることはできないのだ。
一瞬、死んだ妻が幽界から俺を誘《さそ》いにきたのではないか、というおろかしい妄想にとらわれた。この金属音は、俺をかの地に送りだすためのいわば葬送曲ではないのか。
危うく、しびれるような諦念《ていねん》とともに、死をそのまま受け入れるところだった。誇張ではなく、俺は今にもショック死せんばかりだったのである。
しかし、そのとき俺の脳裡をよぎったのは、死んだ妻ではなく、祥子の顔だった。妻を救けることはもう誰にもできないが、祥子を救うのは|まだ間にあう《ヽヽヽヽヽヽ》。復讐の念にこりかたまった彼女を、もう一度平凡な娘にひきもどすことができるのは俺しかいない……
俺はぐいっとつき動かされたように、匍匐前進を開始した。なけなしの勇気をふりしぼったわけではない。なかば盲目的な、自暴自棄の衝動にかられてのことだった。
金属音がひときわたかく、俺の耳を圧した。うなじの毛が逆立ち、極度の恐怖に俺の喉から泣き声がもれた。まったく、ギロチンに首をさらしているような心境だった。
ふいに、脛《すね》に激痛をおぼえた。
俺は悲鳴をあげ、狭いダクトのなかで横転した。金属音《ヽヽヽ》がついにその顎《あぎと》で、俺の足を咥《くわ》えこんだのかと思ったほどだ。
そのときの俺は、すべての理性を喪失し、金属音をなにか超自然的な力のようなものとして受けとめていたのだ。原始人の心象世界そのままだった。
俺は反射的に脛に視線を走らせ、そして|その《ヽヽ》視線をとめた。
すべての呪縛から解き放たれた瞬間だ。ふたたびこの世に理性と、平安がよみがえってきたのだ。
俺の脛に深々と刺さっているのは、たんなる一本の釘にすぎなかった。金属音がくわえこんだわけでも、悪魔が指をたてたわけでもない。なんの変哲もない、一本の釘なのである。
金属音もきこえてはこない。俺は、風に転がる釘がダクトに鳴りひびかせる音に、たわいもなく怯えきっていたのだ。三歳の幼児にも劣るだらしなさといわねばならない。
笑いの衝動が俺のなかではじけた。
俺は笑い、笑いつづけ、ほとんど悶絶せんばかりだった。俺は笑いの波に体を痙攣させながら、ついに金属音の精神的外《トラウマ》傷から完全に解放されたことを知ったのだ。
今こそ、俺は真の意味で、祥子に求愛する資格をえることができたのである。
あまりにも笑いすぎたようだ。
その反動は、脛の激痛という形であらわれた。
「う……」
俺はうめき、歯をくいしばった。脂汗がじっとりと額ににじむのが感じられた。
単純な刺し傷だからといって、必ずしも楽観できない。脛の深傷《ふかで》は、少なくともダクトのなかを這い回らなければならないような人間には大きな障害となるはずだ。出血多量による死という例も、この世にないわけではないのだ。
俺は大きく息を吸った。
今は、傷のことなどを考えるべきときではない。祥子を、ただ祥子のことだけを、意識の中央にすえるのだ。
パン形吹出口二機に、定風量装置一機……それで、作戦のすべてが完了するのである。
俺は苦痛にうめき、咆《ほ》えながら、匍匐前進を開始した。
ダクトの、最後の道のりを……
──予定していた脱出口にたどり着くだけの時間的余裕はなかった。
やむをえず、排気ダクトの最短路をとり、近くのトイレから脱出することにした。あいにく女性用トイレだったが、この際、男女の別にかまってはいられない。俺はなんとしてでも、作戦の成否を自分の眼でたしかめたかったのだ。
トイレの出口で、一人の中年女性とすれちがった。さぞかし、彼女はおどろいたにちがいない。なにしろ、黒シャツ、黒ズボン、しかも脛をハンカチで包帯している男が、息せききって女性用トイレから飛びだしてきたのだから。不撓《ふとう》不屈の魂を持つ痴漢だぐらいには思ったかもしれない。
しかし、彼女に事情を話している時間もまた、当然のことながら、ない。
──俺がエレベーターにとびこんだのが十一時二十五分、倉石ビルから舗道にとびだしたのが十一時半ジャストだった。
空を見上げ、俺は思わず失望のうめき声をもらした。
そこには、なんの異変も起こっていなかった。
初夏の青空を背景に、倉石ビルがぬうっとそびえているだけだ。肚立たしいほど、平穏な姿だった。
一瞬、作戦が失敗したという思いに、眼の前が暗くなった。作戦は失敗した。ついに、祥子を救うことはできなかった……
そのとき──
なにか地鳴りのような驚声が新宿西口をどよめかした。通行人は一様に足をとめ、そろって上空をふりあおいだ。笑う、わめく、沈黙する……通行人の反応はさまざまだったが、誰もが仰天していることでは共通していた。
倉石ビル二十五階の窓が、おびただしい数の紙幣を|吐きだした《ヽヽヽヽヽ》のだ。
一瞬、陽がかげったのかと思われたほどの、とてつもない枚数だ。額にして、一億は優にこえているようだった。つかのま紙幣は滞空し、──そして、パレードの紙吹雪のように、風にひろがりながら、ゆっくりと舞い落ちてくる。
時間が凍結したかのようだ。
通行人は身じろぎもしないで、魔に魅入られたように紙幣の紙吹雪を見上げている。誰一人として、かつてこれほど気前のいい大盤ぶるまいにあずかった者はいないにちがいない。
さすがに東京人はお上品だ。俺がひそかに懸念していたような暴徒化現象は起こらなかった。もちろん、できれば走りまわり、可能なかぎり金をつかみとりたいとは思っているのだ。通行人たちの渇えたような表情を見れば、それはあきらかだった。ただ、──気の毒なことに、あまりに人眼が多すぎる。好んで犯罪者となるのを選ぶバカはいないようだった。
俺は作戦のあっけない完了に、なかば呆然、なかば陶然としていた。
要するに、俺が倉石ビルの空気調和に熟知していたからこそ可能だった作戦だ。
倉石ビルの二十四階と二十五階は同じゾーニングにある。一本のダクトで貫かれているわけだ。そして、単一ダクト方式では、一本のダクトの吹出口をいくつかとじると、残りの吹出口の風量が増加する。加えて、俺はダクト内の定風量装置に、十一時半に作動する時限発火装置をセットしておいた。空気の流路をふさぐべきゴム膜が、十一時半になると一斉に消滅するということになる。
言葉を変えよう。俺は十一時半、塚田金融事務所≠フ金庫がひらくとき、その排気口から噴出する風が最高最大になるように、空気調和を設計《ヽヽ》したのだ。排気口に強風を導くために、あらかじめ綿密な計算をしておいたことは言うまでもない。倉石ビルの空気調和を全面的にまかされていたことが、一種の勘となって役立ってもくれた。
もちろん、今日が自動制御回路の設定値変更の日だったからこそできたことだ。手動調整でなければ、あれほどの強風を見逃す可能性はまずない。そして、──倉石ビルには、手動調整の際には、冷房が弱くなるという癖《ヽ》がある。塚田金融事務所≠ヘ窓を全開にするにちがいないという読みまでもが、ピタリと的中したのである。
──背後から、俺の肩をたたく手があった。
比留間清だった。
比留間はVサインを示し、ニヤリと笑うと、きびすを返して立ち去っていった。
さすがに、プロだ。非常に思いきりがいい。
俺もまた、紙幣の舞う新宿を歩き始めた。
──新宿西口は、今や大騒ぎだった。
パトカーが後から後からやって来て、警官たちが興奮する群集をしずめようとおおわらわになっていた。
消防車までもが出動する騒ぎだ。
といっても、これは空から紙幣が舞い落ちてきたためではない。喫茶店イシス≠フあるビルの地下トイレに、誰か発煙筒を仕掛けた奴がいるのだ。十一時半に発火するようにセットされた発煙筒だ。
おかげで、とんだとばっちりをくったのはイシス≠ノいた客たちだった。トイレを遮断するため、防火シャッターが降り、イシス≠フ客たちは一歩も外へ出られなくなってしまったからだ。
むろん、真名瀬祥子もとじこめられたうちの一人だった。
すべてが悪戯とわかり、ようやく防火シャッターが巻き上がったときには、もう十二時ちかかった。
「どうなったの」
俺の顔を見るなり、祥子がきいてきた。
「金庫のなかの金はほとんど警察にわたったはずだよ」
俺はいった。「後は、きみが警察に電話でもして、紙幣ナンバーを照合させれば万事OKさ」
「………」
しばらく祥子はおし黙っていたが、やがてしずかにいった。
「トイレに、時限発煙筒を仕掛けたのは|あなた《ヽヽヽ》ね」
「ああ……」
俺はうなずいた。「作戦が成功しても、きみに逃げられては何の意味もないからね……憶えているかい? こいつが終わったら、俺と本気でつきあってくれる約束だぜ」
「………」
祥子はふたたび沈黙し、なにか緊迫感のようなものが俺たちの間に立ちこめた。そして、──ついにこらえかねたというように、彼女が身をよじって笑いだしたのだ。
祥子が一人の素直な娘にかえった最初の瞬間だった。
俺もまた声をあわせて笑いながら、祥子と一緒になり、一生をともに送るのは、金庫破りなんか問題にもならぬ難事業にちがいない、とそんなことを考えていた。
あ と が き
これはミッション・インポシブル=iスパイ大作戦)と地下室のメロディ≠フ中間ぐらいをねらって、書かれたシリーズです。
要するに、実行不可能な作戦を数人のチームが達成する、という物語なのです。
映画では黄金の七人<Vリーズ、トプカピ=Aシシリアン≠ネど、このての作品は非常に多く、小説の分野でも、ジャック・フィニイ、ドナルド・E・ウェストレイクなどが数多く手がけているようです。日本では、映画、小説ともに、この種の作品はあまり多くないようですが……
○ 俺の一人称で統一する。
○ 暴力シーン、ベッド・シーンはなく、人はひとりも死なない。
このシリーズを始めるとき、勝手に右のルールをさだめました。べつに、たいした理由があったからではなく、ゲーム性を強調したいためでした。作戦|ごっこ《ヽヽヽ》の物語、といってもいいでしょう。
シリーズの、なにか適当な名称はないかな、と思っていたら、そういうことにくわしい知人から、Caper Story なる言葉を教えられました。ピッタリとした訳を思いつかないのですが、しいて訳せば泥棒小説≠ニいうことにでもなるのでしょうか、アメリカなどでは、そろそろこの種の作品が、ジャンル化しつつあるということでした。
とにかく、|ごっこ《ヽヽヽ》の物語なのですから、楽しんで読んでいただければ、作者にとって、これにまさるよろこびはありません。
初出誌
贋作ゲーム
「オール讀物」昭和53年3月号
スエズに死す
「オール讀物」昭和52年11月号
エアーポート・81
書下ろし
ラスト・ワン
「オール讀物」昭和53年8月号
単行本
昭和五十三年十月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年一月二十五日刊