山田正紀
火神(アグニ)を盗め
目 次
プロローグ
第一章 反撃
第二章 作戦
第三章 潜入
第四章 破壊
エピローグ
プロローグ
──「|巨人の足《ビツグ・フツト》」というのは、あくまでも外国人によって命名された地名に過ぎない。一九二六年に|この《ヽヽ》地を訪れた英国人探検家マックス卿が、地形の類似からほんの思いつきで命名したものなのだ。
原地の人たちには、やはり昔からのランキーマという地名のほうが馴染《なじ》むようである。
雑多な民族が住むヒマラヤ地帯では、語源の不明な言葉は少なくないが、このランキーマなる地名もまたその例外ではない──ただチベット自治区のランガル湖に源を発し、国境を越え、インド領内のこの地を通っている河が同じくランキーマ河と呼ばれていることから、漢語を語源とする説が一般的なようだ。
原地の人たちの感情を別にすれば、「|巨人の足《ビツグ・フツト》」なる名は言いえて妙といわねばならない。チャウカンバ山、バドリナット山、ナンダデビ山……七千メートル級の山峰を背景としながら、わずか五百メートルから千メートルの山塊を外壁とする盆地など、まさしく足《ヽ》としか思われないからだ。
ヒマラヤ地帯にこんな盆地が生じた原因については、地質学者たちのさまざまな努力にも拘わらず、いまだはっきりとはわかっていない。
──インド独立以前には、ランキーマは巨大な岩塩層を擁《よう》する地として有名だった。数人の藩主がスポンサーとなり、膨大《ぼうだい》な量の岩塩を産みだしていたのである。その産出量は、優にデリー一都の需要を満たすに足るほどだったという。
ただでさえ食糧に乏しい山岳地帯で、この岩塩がどれほど重要なものであったかは、想像に難《かた》くない。事実、グルン族、マガール族などの岩塩層をめぐる紛争は、歴史に多く残されているのだ。
ここに一つ、興味ある伝承が語り継がれている。
古代、ランキーマの地で、火神アグニが|羅 刹《ラークシヤサ》と争ったという伝承である。アグニはインド=ヨーロッパ人に尊崇された神で、燃える火を象徴している。──ヴェーダ聖典によると、その顔には溶けたバターが光り、髪は淡黄褐色《たんおうかつしよく》、ときに鷲《わし》、あるいは牡牛《おうし》の姿に変化したという。
アグニと羅刹の戦いは、一年有余の長きに及んだとされている。そして、アグニの発する炎によって、羅刹は猛烈に発汗し、ついに溶け崩れてしまう……ランキーマの岩塩層こそ、その羅刹の死骸だというのだ。
神話学者によると、この伝承はヒンズー教徒が岩塩層をかちえた歴史を暗喩しているものらしい。伝承の成立時期は意外に新しく、ほぼ三百年前とされている。むしろ、神話と形容されるべきかもしれない。
アグニと羅刹との戦いの長さを考えれば、岩塩層をめぐる争いがどれほど激しいものであったか、容易に想像できる。グルン族、マガール族は、兵士として非常に優秀なことで知られている。ヒンズー教徒としても、岩塩層をかちとるためにはそうとうの犠牲を払わねばならなかったろう。
が、──時代は変わった。今や、ランキーマの岩塩層は、誰にとってもそれほど価値のあるものではなくなっている。岩塩層の荒廃とともに、ランキーマもひっそりと朽《く》ちていくように見えたのだが……。
この年、再びランキーマが脚光を浴びるときが来たのである。この地に、原子力発電所が建造されることとなったのだ。中国・チベット自治領との国境から、山を挟んでわずか数十キロしか隔たっていないランキーマに、なぜインド政府は原子力発電所を建造することを決定したのか……世界のいたるところで、さまざまな憶測が組み立てられた。ニューデリー送電のため、というインド政府の公式発表を鵜呑《うの》みにする者は一人としていなかったのである。多くの国家が、なかんずく中国が、インド政府は国境紛争に備えて、大規模な軍事基地を建設するのではないかという疑惑を抱いたのは当然だったろう。
原子力発電所は、伝承にちなんで、アグニという名称を与えられた……。
──バンヤン、シダなどの亜熱帯林が、視界を一面に覆《おお》っている。それら亜熱帯林は、遠くに白く輝く山峰《ヒマール》と奇妙なコントラストを成していた。
水の流れる音が聞こえてくる。亜熱帯林が楔《くさび》を打ち込まれたように落ち込み、小さな渓谷を形作っているのだ。岸辺には、岩塊がむきだしになっていた。
その岸辺に、一人の男がうずくまっていた。一見して、登山者と知れる服装の男だ。蒙古型人種《モンゴロイド》には違いないが、ヒマラヤの住民とは微妙に顔が異なっている。
男はせせらぎにハンカチをひたし、くりかえし首筋をぬぐっている。眼を閉じたその顔が、いかにも気持ちよさそうだ。
だが、──誰か武術の心得のある者が、その男を目撃したら、全身にいささかの隙《すき》もないことに驚くかもしれない。
男は、まさに敵地《ヽヽ》にいるのだった。
男の名は賈《チアシ》──中国諜報機関の情報部員だった。賈は、ここ五年間を主に対インド工作に費やしてきた。中国とインドとの間に国境紛争が起きるとき、そこに必ずアメリカ、あるいはソ連の干渉があった。CIA、|KGB《カーゲーベー》こそ、賈の好敵手だったのである。そして、──賈は、気むずかしい上層部をもいつも満足させるほどの成果を収めてきたのだった。
誰であれ、CIA、KGBの工作員を相手に回して、互角にわたりあうのは容易な業《わざ》ではない。まして常に勝利を収めるなど、それこそ超人的な頭脳と体力を要求される。その一事をもってしても、いかに賈が優秀な情報部員であるか知れようというものだ。
いま、賈は登山者をよそおい、じつはここである男が通りかかるのを待っているのだ。
いつ国境警備のインド兵に見咎《みとが》められないとも限らなかった。一応は日本国籍のパスポートを持ち、登山者を装ってはいるが、それがどれほどの役に立つか疑問といわねばならなかった──そのノンビリとした表情とは裏腹に、賈は爪を噛みたくなるほどの焦燥感と戦っていたのである。
渓谷には、穏《おだ》やかな午後の光が差していた。
ふいに、賈の表情が動いた。なにかが聞こえてきたのだ。賈のハンカチを持つ手は、なおも休むことなく首筋を往復している。
亜熱帯林の茂みから、一人の男がゆっくりと姿を現わした。五十がらみの、小柄なインド人だ。黒い肌に、まばらに伸びている白い髭《ひげ》がいかにも貧相に見える。男は一頭の山羊《やぎ》を連れていたが、その山羊も男に負けず劣らず貧相だった。
男は渓谷の賈《チアシ》を一瞥《いちべつ》したきりで、何の興味も示そうとはしなかった。男と山羊はともに肩で調子をとりながら、ヒョコヒョコと崖の上を歩いていく。
「待ってくれ」
賈は、正確なヒンディー語で呼びかけた。
「………」
男は足をとめた。賈の正確なヒンディー語に驚いたらしく、口をあんぐりと開けている。山羊だけが、変わらぬ足どりで林のなかに消えていった。
「ビスミルさんだね」と、賈は言葉をつづけた。
「原子力発電所アグニで炊事係をしているビスミルさんだろう?」
「そうだけど……」男は、ノンビリとした声で応じた。
「なんか用かね」
「実は、ちょっとあんたに訊きたいことがあるんだが……」
そう言うと、賈は崖面に向かって大きく跳躍した。ほんの一瞬のうちに、賈の体はもう崖の上に上がっている。驚くべき足腰の強さ、身の軽さだった。
「ほう……」ビスミルと呼ばれた男は、子どものように喜んでいる。
「おまえさん、たいしたもんだね」
「あんたに訊きたいことがあるんだ」賈は息も弾《はず》ませずに、そうくりかえした。
「あんた、アメリカ人から何か頼まれたことがあるだろう?」
「なんのことかね」急に、ビスミルはこすっからいような眼つきになった。
「とぼけるのはやめろよ」賈《チアシ》の声が低いものになった。
「大体のことは、調べがついているんだ。俺はただあんたの口から、確証をとりたいだけなんだよ」
「なんのことかね」と、ビスミルはくりかえした。
「わかったよ」賈は溜息をつき、腕から時計を外した。
「俺の訊くことに答えてくれたら、この時計をやるからさ」
ビスミルは腕時計を取り、しばらく耳に当てていた。そして、ニヤリと笑いを浮かべた。
「なんでも訊いてくだせえ」
「一月《ひとつき》ほどまえに、あるアメリカ人があんたに接近してきた」賈は苦笑しながら言った。
「そして、あんたに何か頼みごとをしたはずだ。その頼みごとが何だったのかを教えてもらいたいんだ……」
「ええと……」ビスミルは頬を掻《か》いた。
「あれは……その……原子力発電所アグニの……」
──夜空に、原子力発電所アグニの丸い屋根がそびえている。アグニはもう最後の点検を終えて、運転開始を二週間後にひかえ、監視もいっそう厳重になっていた。アグニは持てる力をきりきりと引き絞っているように見えた。監視塔の照明が、昼間と見まごうほどの明るさだ。
そのサーチ・ライトの間隙《かんげき》をぬって、今、ひとつの影が走っていく。なにか亡霊のような影だった。物音をまったく立てず、しかも動きが素早いのだ。
その影は、──賈《チアシ》だった。
賈《チアシ》はこうして潜入しながらも、アグニの徹底した警備体制に舌を巻いている。アグニの運転が開始されていないのが幸いしたのだ。運転が開始され、すべての警備体制が整ったときには、何人《なんぴと》といえどもアグニに潜入するのは不可能になるだろう。
賈は、プロの情報員だ。いかに|それ《ヽヽ》が堅固でも、軍隊による定期的な巡回や、機銃を装備した監視塔ごときに驚くものではない。賈に舌を巻かせたのは、アグニの周囲に張りめぐらされている警備体制だった。
最初の|それ《ヽヽ》は、アグニの施設を取り巻いている赤土のベルトだった。百メートルほどの幅で、草の一本すら残さずに、刈りとられたむきだしの土が、ベルト状に施設を囲んでいるのである。触圧《しよくあつ》反応装置という名称で知られている警備方法だ。人間がこの地帯に足を踏み入れると、その体重が建物の警報を鳴らせるのだ。
さらには、触圧反応地帯の内側に、有刺《ゆうし》鉄線の二重柵が設けられている。いずれは、その上縁の電線には高圧電流が流されることになるのだろう。柵と柵との間に、猛犬が放たれることになるのもまず間違いない。
触圧反応装置、二重柵の高圧電流……そのどちらが働いていても、賈がアグニの施設に忍び込むのは不可能だったろう。アグニがいまだ運転を開始していないことを、神に感謝すべきだった。
賈は闇を這《は》いながら、苦笑を浮かべた。神に感謝することは、筋金入りの共産党員たる中国の情報部員にはあまりに似つかわしくない行為だったからだ。
ひたひたという水音が聞こえてくる。前方に、川面《かわも》のきらめきが見えた。ランキーマ川である。アグニは冷却水をランキーマ川から取り、また放出している。ランキーマ川の幅は三十メートルほど、十五メートル幅の支流が設けられ、アグニにたどり着くには橋を渡らなければならない。
賈《チアシ》は、橋を渡るわけにはいかなかった。それぞれの橋には、監視施設が設けられ、渡橋する者を厳重にチェックしているからだ。
賈は、しばらく川岸の草叢《くさむら》に身を潜《ひそ》めていた。サーチ・ライトの強烈な明りが、くりかえし闇を薙《な》いだ──河を走る武装監視ボートを見たときには、さすがの賈も胃が痛くなる思いがした。いかに国境に近い原子力発電所とはいえ、警備があまりに厳重に過ぎるのではないだろうか。
川面までは三メートルほどの深さがあった。両岸が、垂直に切り立ったコンクリート壁で補強されているのである。賈はそのコンクリート壁にぶら下がり、手を放した。腹がコンクリート壁をずり、その体が黒い水に呑まれていった。
ほとんど音を立てない泳法だ。賈の痩《や》せた体が、水のなかで魚のようにうねった。
二十メートルほどを泳ぎ、賈は小さな声を上げた。
ワニが視界を過《よぎ》ったのだ。よほど餌を充分に与えられているのか、賈を見向きもしないで、悠悠と泳ぎ去っていく。
──気違い沙汰《ざた》だ、と賈は思わないではいられなかった。この原子力発電所では、熱排水でワニを飼っているのだ。おそらくは、ワニも警備体制の一環として数えられているに違いない。アグニが運転を開始したあかつきには、ワニの餌は大幅に削《けず》られることになるのだろう。
賈は、なんとも薄ら寒い思いで河を泳ぎきった。鉤《かぎ》のついたロープを使い、コンクリート壁をよじ登る。
賈の運は、そこで尽きた。
地上にようやく体を持ち上げたとたんに、凄《すさ》まじい光の奔流を浴びせられたのである。さしもの賈《チアシ》も、とっさには抗する術《すべ》も知らなかった。
賈の視線は、タービン施設の屋上に建てられている塔に釘付けにされていた。賈は、塔の上で回転しているレーダーは、国境の空を見張るためのものだとばかり思い込んでいたのだ。そのレーダーが、原子力発電所の敷地をもカヴァーしているなどとは、想像だにしていなかったのである。
賈に、自分のうかつさを悔《くや》んでいる暇はなかった。次の瞬間、機銃の連射が彼の体をズタズタに引き裂いていたからである。
第一章 反  撃
──その日、梓《あずさ》靖子《やすこ》は朝から奇妙な胸騒ぎを覚えていた。軽い頭痛があったから、多少は風邪気味なのかもしれない。
だが、その胸騒ぎが体調の悪さにのみよるものだとは思えなかった。以前、可愛がっていた小犬が死んだときにも、朝からこんな胸騒ぎを感じたものだ。むしろ、不吉な予感というべきだろう。
しかし外見《そとみ》には、靖子の様子はいつもとなんら変わるところがなかった。亜紀《あき》商事の漆原《うるしばら》専務つきの第一秘書という靖子の身分が、いったん会社に足を踏み入れると、だれにも内心を覗《のぞ》かせないようにしていた。
総合商社としては、亜紀商事は日本でも上位三位にくいこむ業績を上げている。あつかっている商品は、それこそインスタント・ラーメンから原子力発電所にまで及ぶ。その守備範囲の広さは、まさしく総合商社の名に恥じないものがあるといえた──それだけに、漆原専務の商談相手は多岐にわたり、その内容もまたさまざまだった。商談相手によっては、ときに法律を犯すような取り引きをまとめなければならないこともある。専務の第一秘書たる者、うかつになにを考えているのか人に知られてはならないのだ。
南麻布《みなみあざぶ》の社屋に入って、靖子はまっすぐトイレに向かった。出社時刻までには、まだすこし時間がある。トイレで顔を直して、ついでに気持ちを静めようと思ったのだ。
──トイレの鏡に映《うつ》る顔は、靖子を満足させなかった。今朝は、口紅の乗りがひどく悪いようだ。気のせいか、肌にも艶がないように見える。
──なにか悪いことが起きるんだわ……鏡のなかの自分と視線を交わしながら、靖子は胸中にそう呟《つぶや》いていた。
梓靖子は二十七歳、実家は東京だが、現在は独立して中野《なかの》のマンションに一人で暮らしている。最初から秘書課につとめ、漆原専務の抜擢《ばつてき》を受けて、今の職務に就《つ》くようになった。まだオールド・ミスというほどの年齢《とし》ではないが、専務の第一秘書ということもあって、社内ではその印象が強いようだ。
事実、靖子の前に立つと、亜紀商事の若い男子社員たちは圧倒されてしまうらしい。専務つきの第一秘書という役職もさることながら、その美貌に威圧されてしまうのだ──大きな眼と、彫りの深い顔、ハーフと間違えられるほどに均整のとれた肢体……それでいて、重要な商談のときには、相手に自分の美貌を意識させない知恵を持ちあわせてもいる。漆原専務が、靖子を調法がって、離したがらぬのも無理からぬ話ではあった。
靖子にしても、結婚のことを考えないではない。会社第一の男子社員たちに軽侮を覚えて、六本木や、原宿に出没する男たちと付きあった時期もあったのだ。そのなかの幾人かとは、ベッドを共にしたこともある。だが、デザイナー、写真家、作家たちという人種が、一匹狼のように見えながら、その実、サラリーマンよりも打算にたけていることを知って、いつしかそんな男たちからも離れていった。
今の靖子は、すべての男に失望しているといえた。
「本当にそうかしら」
靖子は、鏡のなかの自分に向かって囁きかけた。ただ一人だけ、靖子が意識している男がいたのだ。その男には、なにか他の男にはないものが備わっているように思えた。
靖子は、ひとりで顔を赤らめた。その男が帰国する日を、小娘のように指折り数えて待っている自分に気がついたのだ。その男とは、まだほんの数えるほどしか言葉を交わしたことがないのに……。
起床したときからの奇妙な胸騒ぎも、どうやら治まったようだ。鏡に最後の一瞥《いちべつ》を投げて、靖子はトイレを出た。いつもの有能な秘書に戻っていた。
十階の専務室のドアを開けて、靖子は一瞬立ちすくんでしまった。
漆原が出社しているのだ。デスクに両肱《りようひじ》をつき、どことなく険《けわ》しい表情で窓の外を見つめている。|まれ《ヽヽ》なことといわねばならない。漆原の出社は、十時ちかくになるのが常だった。
「おはようございます」靖子は頭を下げ、慌《あわ》ててコーヒーメーカーに向かった。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
「いや……」と、漆原は首を振った。
「自宅の方に連絡があってね。私のほうが早く来すぎたんだ」
靖子には、漆原の声音からいつもの張りが失われているように思えた。漆原は、なまなかなことで動揺する男ではない。早朝に呼びだされたということからも、なにか異常事が発生したことは容易に推察できた。
漆原はまだ六十にはなっていないはずだ。長身|痩躯《そうく》、そのみごとな銀髪は、およそ有能なビジネスマンという印象からほど遠い。どことなく、一生を芸術活動に費やしてきた人物に共通する雰囲気を備えていた。実際に、漆原は滋味豊かなエッセイストとしても、その名をよく知られていた。
だが、外見がどうであれ、漆原が有能なビジネスマンであるという事実に違いはない。漆原は、現会長と手をたずさえて、亜紀商事をこれほどの規模にまで育ててきたのだ。熾烈《しれつ》なビジネス戦争を戦いぬき、ついに勝利者となりえた男なのである。ある事情から、一時、現職を退くという不運に遭《あ》わなければ、優に亜紀商事の社長たり得た実力の持ち主といえる。
それほどの男が、今朝は奇妙に平常心を失っている。靖子ならずとも、何が起こったのか不審を抱いて当然だったろう。
が、靖子はあくまでも優秀な秘書という姿勢を崩そうとはしなかった。こちらからは尋ねてはならないのだ。靖子に知る必要があると判断したら、漆原のほうから何が起きたのか説明してくるはずだった。
「きみは『原発課』の工藤《くどう》篤《あつし》という男を知っているかね」
ふいに、漆原が靖子に声をかけてきた。
「セールス・エンジニアをやっている男だ。今、インドの例の原子力発電所の方に出張してもらっている」
「………」
靖子の、コーヒーを淹《い》れている指がわずかに震えたようだ。漆原に、内心を見透《みす》かされたような驚きだ。いま、靖子が唯一意識している男性というのが、その工藤篤なのだ。
「顔だけは存じあげています」
が、靖子のそう応じた声には、いささかの乱れも生じていなかった。
「『原発課』の工藤さんがなにか?」
「いや……」漆原は顔をそむけた。
そのとき、ドアをノックする音が聞こえてきた。
靖子は意外だった。この時間は、漆原に面会のアポイントメントはなかったはずだ。靖子は了解を求めるために、漆原を見た。
「外国部長の安田君だ」漆原がうなずいた。
「さっき、私が呼んだんだよ」
安田が部屋に入ってくると同時に、漆原は腰を上げた。安田はなにか気にかかることがあるらしく、ひどく動揺していた。
「しばらく、電話はつながんように」
漆原はそう命じると、安田とともにさっさと応接室に消えた。
コーヒーを出した後、靖子はしばらく自分のデスクでためらっていた。職業的倫理感という|やつ《ヽヽ》と戦っていたのだ。が、──結局は、工藤のことが気がかりで、インタフォンのスイッチを押さないではいられなかった。
──漆原は、安田から渡されたテレタイプの写しを睨んでいた。その眼に、かすかに憤《いきどお》りの色が浮かんでいた。
「これが悪戯《いたずら》じゃないことは確かなのか」やがて、漆原が詰問するように言った。
「確かに、インドの工藤君が発信したものなんだね?」
「そのようです」安田はしきりに額《ひたい》の汗をハンカチでぬぐっている。
「なにぶん、奇怪な文面なので……専務のご指示をあおいだほうがいいと思いまして」
漆原は鼻を鳴らし、その文面を声を出して読み始めた。
「全員、殺される恐れあり。即、帰国手続きをとられたし……」
その短い文面が、応接室に奇妙な緊迫感をみなぎらせたようだ。安田に至っては、顔面を蒼白にしている。
「工藤というのはどんな男だ?」テレタイプの写しをテーブルに投げ出し、漆原が噛みつくように尋ねた。
「寿明《じゆめい》電機から移ってきた男です」安田が慌てて答える。
「まだ独身で……エンジニアとしては相当に優秀な男ですが、亜紀商事の社員としてはかなりに問題がありそうです。上司たちに確かめたところ、ひじょうに使いにくい男だそうで……」
「帰国したら、精神鑑定を受けさせる必要がありそうだな」漆原が安田の言葉をさえぎった。
「場合によっては、辞《や》めてもらうことになるかもしれん」
「それでは、このテレタイプは……」
「無視する」漆原は冷たく言い放った。
「頭のおかしな社員の言葉を真に受けて、出張員たちを引きあげさせるわけにはいかん」
──そこで、靖子はインタフォンのスイッチを切った。それ以上に盗聴をつづけることは、どうしても靖子の職業的誇りが許さなかったのだ。
靖子はしばらくボンヤリとしていた。テレタイプの文面のあまりの奇怪さが、靖子の脳髄を一時的に麻痺《まひ》させているようだ。
──|これだった《ヽヽヽヽヽ》んだわ……靖子は胸中にその呟きを吐き出した。朝からの胸騒ぎが、いま何倍にも増幅されて、靖子を大きく動揺させていた。
──その|ネズミ《ヽヽヽ》は、進むべき方向を迷っているように見えた。床を這《は》うパイプの陰で、ネズミはながくうずくまっていた。
ふいに、ネズミは動き始めた。生き物には、ふさわしからぬ動きだ。速度を変えることなく、ポリエチレン・シートの敷かれた床を直進していくのだ。ネズミは、腹からコードを延ばしていた。
|それ《ヽヽ》は、ネズミではなかった。形、大きさともネズミに似せてはあるが、生き物ですらなかった。原子炉建屋《リアクター・ビル》に、ネズミなどいるはずがなかった。
ネズミは、ハードボードを切り抜かれて作られてあった。寸法は十五センチ弱というところか──ネズミ型ボードは、三個の車輪で動いていた。一対の後輪には、それぞれ直流豆モーターがボルトとナットで固定されていた。車輪そのものは、回転軸をモーターシャフトにハンダづけされている。
リモコンで操作されるネズミだ。実に簡単な細工だが、コードを伝う電流によって、ネズミは前進後退はもちろん、左右の曲進すら可能なのである──コードは延々と延びていて、リモコン・スイッチを操作している人間の姿を見ることはできない。
さらに、ネズミの背中には、超小型無線盗聴器がテープで固定されている。超小型盗聴器はごくありふれたものだった。アメリカでなら、どこの州の人間でも、通信販売で購《あがな》えるようなものだった。
ネズミの動きはめまぐるしいほどだった。船の機関室を数倍も複雑にしたような原子炉建屋《リアクター・ビル》のなかを縦横に走り回っている。たまにパイプや計器に衝突すると、すぐさま方向を転じる足回りのよさだ。
原子炉建屋《リアクター・ビル》に、人影は見えなかった。まだ原子炉の運転は開始されていないのだ──もっとも、たとえ人がいたところで、床を走り回るネズミに気がつく可能性は少なかったろうが……。
ネズミは通廊を走っていく。一度だけ、危険が生じた。危うく、|使用済み《クーリング》燃料貯蔵槽《プール》に墜落しそうになったのだ。だが、プールの柵に衝突したことが幸いして、かろうじて方向を転じることができた。
ネズミの動きはまったく順調だった。その前進を阻《はば》むものは、なに一つないように見えた。ボードを赤外線が貫くまでは……。
原子炉建屋《リアクター・ビル》にけたたましい警報が鳴り響いた。と同時に、ネズミの上に、数トンの重さを持つシャッターが、ぐわっと咆哮《ほうこう》を発して落ちてきた。ひとたまりもなく、リモコン・ネズミの体は微塵《みじん》に砕け散った。
リモコン・ネズミは、赤外線警報装置に身をさらすという失敗を犯してしまったのである。
原子炉建屋《リアクター・ビル》に駆けつけた警備兵たちは、通廊に落ちている小さなスイッチ・ボードを発見した。スイッチ・ボードには、長い長いコードがついていた。
──工藤篤は、走り出さないようにするのに苦労していた。ともすれば、走り出したいという欲求に駆られる。動悸《どうき》が激しく、恐怖で指先が震えていた。走って逃げ出したくなるのは当然だが、そうすれば|みすみす《ヽヽヽヽ》ひとの注意を惹《ひ》くことになる。ここは、なんとしてでも、落ち着いて行動すべきときだった。
いずれにしろ、工藤とリモコン・ネズミとを結びつけて考える人間は一人もいないはずだった。平然と歩を進めていれば、誰の疑惑を招くこともないのだ。
変圧制御室の通廊で、一群のインド軍兵士たちとすれ違った。兵士たちは、総じて殺気だっているようだ。彼らは工藤には眼もくれず、足音荒く原子炉建屋《リアクター・ビル》に向かって走り去っていった。
兵士たちが殺気だつのも無理からぬことだった。つい一週間ほど前に、中国人情報部員が|この《ヽヽ》原子力発電所アグニに潜入しようとしたばかりなのである。警報が鳴り響いたとたんに、彼らが外部からの潜入者を想定したのも自然な成り行きだったろう。
結局は、それが工藤に幸いしたのである。工藤はだれからも咎《とが》められることなく、タービン・ビルを出ることができたのだ。
工藤は大きく息を吐いた。膝《ひざ》が萎《な》えるような感覚があった。工藤は、どうにか危地を脱することができたのである。
外界には陽光が充ちていた。潜水艦もどきの原子炉建屋《リアクター・ビル》にいた身には、喚声を上げたくなるような解放感だ。工藤は打って変わって、晴れやかな表情になっている。
この地方の一月は、ちょうど日本の秋に当たる気候である。澄んだ大気が、雪を抱いた山峰《ヒマール》のその襞《ひだ》の一本に至るまでくっきりと浮かび上がらせている。空はあくまでも蒼《あお》く、地には花が咲き乱れている。無骨な原子力発電所や、そこかしこに立っている武装兵士の姿さえ忘れてしまえば、まんざら公園を散歩する気分を味わえないでもなかった。
工藤篤は、去年の暮れに三十歳になったばかりである。亜紀物産『原発課』のセールス・エンジニアとして、他のスタッフとともにもう半年以上もこのランキーマに滞在していた──亜紀商事は、アジアにおけるウェスチング・マシン社の代理店網を委託され、主に加圧水型軽水炉の売り込みに努めている。もちろん、日本の一企業がアメリカ資本の多国籍企業と提携し、こともあろうに原子力発電所の売り込みに奔走する様《さま》は、日本の世論に大きな物議をかもしだしたが、それは工藤たちセールス・エンジニアの知ったことではなかった。工藤たちは、会社の命じる地に赴《おもむ》き、売り込みに成功した原子力機器の整備調整にはげめば、それでいいのだ。
工藤もまた、日本のサラリーマンの例に洩れず、自社の業務内容の良否について、多くを考えることをしなかった。が、──だからといって、工藤が熱心なサラリーマンであったということではない。むしろ、工藤は日本の企業に対して、強い不信感を抱いているというべきだったろう。
工藤は、もともとは寿明電機に入社した男である。それが、寿明電機の社長が、数億の現金と亜紀商事の株券を受けることを条件に、あっさりと吸収合併を受け入れてしまったため、亜紀商事に移籍せざるを得なかったのだ。サラリーマンとしては、けっして恵まれた経歴とはいえない。亜紀商事に籍を置くかぎり、一生、傍流《ぼうりゆう》を歩くことを決定されたようなものだからだ。
しかし、かつての同僚が多く辞《や》めていくなかで、工藤は亜紀商事にとどまることを決意した。企業に対して、工藤がどんな幻想も抱いていなかったからだ。どの企業に籍を置いても、つまるところは同じであるように思えた。サラリーマンになるということは、生活の保証とひきかえに、一日のうち数時間を奴隷となることだと諦めているのだ。
工藤は、一般的には美男子とはいえないだろう。少々、顎《あご》が張りすぎているし、なにより色が黒すぎる。ただ、ときにその眼に浮かぶ子どものような光は、魅力的といえないこともない。趣味はラジコン飛行機、両親はすでになく、まったくの天涯孤独の身の上である。
──ゆっくりと歩いている工藤の名を、背後から呼ぶ声があった。振り返った工藤の眼に、日本人チームのチーフである斉藤《さいとう》の姿が映った。
「どこへ行ってたのかね」斉藤は困惑したような笑いを浮かべている。
「これから全員で、岩塩層貯蔵プロジェクトの埋蔵孔を見に行く予定になっていたことを忘れたんじゃないだろうね。他のみんなは、もう準備を整えているよ」
「これはどうも……」工藤は頭を掻いた。
「すっかり忘れていましたよ」
工藤は、斉藤とは寿明電機の頃からの知り合いである。工藤は、この気弱な中年男を嫌いではない。うだつはあがらないが、昔|気質《かたぎ》のエンジニアだといえた。
工藤は、斉藤と肩を並べて歩きだした。
「昨日《きのう》、テレックスを使ったね」と、斉藤が囁きかけてきた。
「ええ……」工藤はうなずいた。
「|例の件《ヽヽヽ》かね」
「そうです。帰国の手続きをとってくれるように頼みました」
「そうか……」斉藤は小さな溜息をついた。
「きみは、少しことを大袈裟《おおげさ》に考え過ぎているんじゃないか……確かに、怪しからん話ではあるが、しょせんわれわれには関係のないことだ。あまり、騒ぎ立てるのもどうかと思うがね……」
「………」
工藤は黙している。
「まあ、なんにしても……」工藤の沈黙が気まずいのか、斉藤はさらに言葉をつづけた。
「会社にまかせておけばいいさ。会社が、われわれに悪いようにするはずがないからね」
「そうでしょうか」と、工藤は口のなかで呟いた。
「本当にそうでしょうか……」
──ランキーマが、巨大な岩塩鉱床を擁していることは地質学上の謎といえる。岩塩鉱床は、古代の海が蒸発してつくられたと考えられているからである。超古代、この盆地は、はるか彼方《かなた》の大洋と結ばれた湖ででもあったのだろうか。
ランキーマの岩塩鉱床は、この地に原子力発電所を建造するにあたって、ひじょうに有利な条件を提供してくれたといえる。いつの日か、ランキーマに燃料再処理工場も建造されることになるだろう。その場合、再処理される燃料一トンにつき、一・二五立方メートルの高レベル液体廃棄物が生じる。固体に変えたとしても、0・0八五立方メートルの高レベル放射性廃棄物である。
この高レベル廃棄物を処分するには、岩塩鉱床に埋めるのが最も優れた方法だとされている。数億年を変わることなく残ってきた岩塩鉱床であれば、将来の長い年月に関してもかなりの信頼をおくことができるからだ。また、岩塩が巨大な塊《かたまり》として存在するということは、その層が地下水から隔離されていたという事実をも証明している。埋蔵された固体廃棄物が、地下水で流されるのを心配する必要がないのである。
原子力発電所敷地から岩塩層まで鉄路が敷かれているのは、きたるべき高レベル廃棄物貯蔵プロジェクトに備えてのことなのだ。
その時に備えて、この鉄路に限り、インドで一般的な広軌ではなく、狭軌となっていた。
──原子力発電所から岩塩層までは直線距離にして八キロ、山裾《やますそ》をうねる山間鉄路となると、実長にして何キロに達するか見当もつかない。一時間以上も、列車に揺られていなければならないのである。
高レベル廃棄物を輸送するときには、もちろん、そのために造られた鉄道用キャスクが使われることになる。だが、──今、工藤たち亜紀物産の八人の、スタッフが乗っているのは、天蓋《てんがい》すらついていない家畜用の貨車だった。
その貨車を牽引《けんいん》している蒸気機関車がまたおどろくべきものだった。九二〇〇型蒸気機関車……日本でも、北海道の石炭産業が命運を保っていた頃、かろうじて二両が走っていたという代物《しろもの》なのである。それが昭和三十年代……むろん、アメリカでの製作年代はさらに遡《さかのぼ》る。大きな運転室《キヤブ》とテンダー、アメリカ・スチーブンソンのシリンダーブロック、運転席前面の丸窓……。
この列車を最初に眼にしたとき、日本人スタッフは全員が唖然とした。戦前、岩塩を輸送するときに使われた機関車が、再び持ち出されてきたのだという説明を受けても、彼らの驚きはいっこうに減じなかった。あまりに、古色蒼然《こしよくそうぜん》としすぎているのだ。本当に走るのかどうか疑問に思えたほどだ。文字通りの、前世紀の遺物なのである。
だが、──二度三度と乗るうちに、彼らはこの機関車が好きになり始めていた。少なくとも、新幹線しか知らない身には、新鮮な体験に思えてくる。煙に咳《せ》き込むことさえも、なにかしら愉快で楽しく感じられるのだった。
機関車は、山裾を進んでいく。馬力のないこと夥《おびただ》しい。ただ一台の貨車を牽引するのにさえも、豚の悲鳴のような軋みをのべつ発しているのだ。
遠く近く、切りたった岩肌が視界に入ってくる。ときに、鉄路の上に覆《おお》い茂ったシダを断ち切ることもある。岩塊から落ちる雪溶け水を、直接、浴びることもある──眺めのなかを掠《かす》めていく高山植物の色彩が、思わず振り返りたくなるほど鮮やかだ。
亜紀物産のセールス・エンジニアたちが、この列車に乗るのを、ピクニックのように楽しみにしているのも当然だったろう。誰もが、無邪気な喜びに顔を紅潮させていた。ただ一人、工藤篤を除いては……。
「おい、いま猿が見えたぞ」スタッフの一人が大声で喚《わめ》いた。
「あちらの山の方だ」
貨車のなかがひときわ喧《やかま》しくなった。誰もが、その猿を見ようと大騒ぎしている。が、──工藤は凝然と座したまま、動こうともしない。いつもの彼なら、こういう場合、真っ先に騒ぎだすはずなのだが。
工藤の眼には、延々と連なる山峰《ヒマール》さえも入っていなかった。高山植物も、たんなる色彩を意味しているにすぎない──あまりにも怯えきっていて、とても風景を愛《め》でている余裕はなかった。
──異常だ……工藤はそう思わないではいられなかった。あのリモコン・ネズミのことを考えているのである。放射能漏出を防ぐため、原子力発電所にはさまざまな措置がとられている。だが、赤外線警報装置はその限りではない。保安設備と考えるにも、赤外線警報装置が据《す》えられるのは異常に過ぎる。第一、原子力発電所アグニ|そのもの《ヽヽヽヽ》の警備体制が常軌を逸した厳重さなのだ。
──やはり、|あの話《ヽヽヽ》は真実なのではないだろうか……。工藤は、胸中にどす黒い雲が湧き起こってくるような不安を覚えた。もし、あの話が真実だとしたら、秘密を知った俺は殺されることになるかもしれない……。
工藤は、思わず斉藤の姿を眼線で探していた。斉藤は、工藤を凝視《ぎようし》していた。なにか言いたげな表情をしていた。
工藤は、氷塊を呑んだように肚の底が冷たくなるのを覚えた。|あの話《ヽヽヽ》を知っているのは、工藤ひとりではない。工藤から打ち明けられ、斉藤も知っているのだ。斉藤もまた殺される危険があるというのか。
──いや、場合によっては……工藤は歯をくいしばった。俺たち全員が、命を狙われることになるだろう……。
前方に、岩塩層を擁する山塊が見え始めていた。
──高レベル廃棄物貯蔵プロジェクトは、亜紀物産が中心となって推進することが決められていた。再処理工場が建造されるのは五年先になるか、十年先になるか、とにかくそのときに備えて、工藤たち日本人スタッフは下見《したみ》をすることを命じられていたのである。
岩塩層は荒廃していた。巨大な岩床が、地球の背骨のようにむきだしになっているのだ。草木の一本すら育っていない。岩床を取りまく崖面には、無残な穴が幾つも開けられていた──徹底して、人間を疎外している風景だ。すべてがあまりに荒々しく、あまりに巨大に過ぎた。月のクレーターに似ていた。
貨車から降りて、工藤たちは岩塩層廃坑口のひとつに向かった。高レベル廃棄物を処理するためには、廃坑を切り崩し、さらに深く竪穴《たてあな》を掘る必要がある。その候補となる廃坑を、見つけなければならないのである。
岩塩層の中央に据《す》えられた起重機が、なにか恐竜の骨のように見えた。
すでに日本人スタッフの間で、候補となる廃坑は三つに絞られていた。高レベル廃棄物を処理するためには、列車キャスク走行用の鉄路を引き込むことを要求される。そのためには、岩塩を盛んに掘り出していた頃の鉄路が、まだ残っている廃坑を選ぶことが望ましい。いずれ鉄路は新しく敷設されるにせよ、整地に要する時間を大幅に削減することができるからである。
鉄路が現存していて、しかも規模の大きな廃坑となると、この岩塩層でもさほどに多くは見つからない。自《おの》ずと候補は三つに絞られたのだった。
そのうちの二つは、すでに下見が済んでいる。今日、八人のセールス・エンジニアたちは、最後に残された廃坑を下見に来たのである。最終的な決定は、彼らの提出するレポートによって、会社が下すことになるだろう。
──その廃坑は、およそ廃坑という言葉から受けるイメージとはほど遠かった。
優に、三階建てのビルを収容することができるほど、天井が高いのだ。年月に風化した岩床は、ところどころレンガと木材で補強されているが、それがいかにも危なっかしく見えた。持ち主はさほど労働条件に気を使わなかったらしく、|鍾乳石《しようにゆうせき》や石筍《せきじゆん》がそのまま残っている荒っぽさだった。
なにかしら、陰惨な印象が強い。苛酷な労働に喘《あえ》ぎ、おそらくは多く死んでいかねばならなかった労務者たちの恨みが籠《こも》っているからだろうか。首筋に寒気が忍び寄るような感触があった。
日本人スタッフたちはそれぞれに懐中電燈を用意していたが、どうやらその必要はなかったようだ。岩壁、天井のそこかしこに明り取りの穴が開けられ、歩くぐらいなら不自由はなかったからだ。
「それじゃ、三十分後にこの場所に集合するように……」
斉藤のその声を合図に、日本人スタッフは二人一組になって散った。集合場所に定めた天蓋《ドーム》に似た地から、四方に菌糸のように伸びた坑道へと、それぞれ入っていったのである。
工藤は、斉藤と組むことになっていた。二人は無言で、肩を並べて歩きだした。
廃坑の全体像をはやく把握するために、幾組かで別行動をとり、最後にもう一度全員で歩いてみることになっていた。
廃坑に、靴音が反響《こだま》する。反響は、鐘乳石や石筍に屈折し、奇妙に獣の遠吠えめいた唸りをかもしだしていた。
「きみはさっき死人のような顔色をしていたよ」斉藤が唐突に口をきった。
「そうですか……」工藤はそううなずくしかなかった。
「さっきも言ったが、それほど神経質になる必要があるのかね」
「さあ……」工藤は苦い笑いを頬に刻《きざ》んだ。
「多分、ぼくは臆病に過ぎるんでしょう」
「いや、そうは思わんが……とにかく、われわれにはいざとなれば会社がついているんだからね」
「………」
工藤は、それ以上に言うべき言葉を知らなかった。斉藤には、致命的なほどに想像力が欠如しているようだ。すべてを、日常の次元で解釈して|ことたれり《ヽヽヽヽヽ》としているのだ──斉藤は、|あの秘密《ヽヽヽヽ》がどんな意味を持つのか考えようともしていない。ましてや、秘密を知ったために自分が殺されるかもしれないと考えるなど、その想像力の遠く及ばぬところにあるのだろう。工藤は、自分が一人芝居をしているような徒労感を覚えていた。
いかに規模が大きくても、廃坑はやはり廃坑でしかない。石筍と鐘乳石が老婆の歯のように突き出ている、単調な坑道にしかすぎないのだ。実際、なかば砂に埋もれるようになっている二本の鉄路がなければ、工藤たちは帰路に迷わないとも限らなかった。
「もうそろそろ戻ったほうがいいかな」
斉藤のその言葉は、しかしふいにひらけた視界の前に力を失った。工藤の喉から、思わず驚きの声が洩れたほどだ。
ちょっとした講堂ほどもある広さだ。鐘乳石などはすべて削られ、巨大な空間がひらけているのである。が、──工藤が驚いたのは、必ずしもその空間のせいばかりではなかった。岩塩の集積場にでも使われたものと考えれば、広さの理由《わけ》は容易に理解できるからである。
工藤が驚いたのは──そこに据《す》えられている列車砲《ヽヽヽ》を見たからだった。
「レオポルド……」工藤は呆然と呟いた。
「どうしてここにこんなものが……」
プラモデルに凝《こ》ったことのある工藤は、ドイツ・ナチスがつくった|この《ヽヽ》列車砲に関する数字を、そくざに頭に想い浮かべることができる──口径二十八センチ、砲身長二十二メートル、列車全長三十一メートル、射程距離五十九〜六十二キロメートル……第二次大戦中、レールの上をスムーズに移動できる列車砲は、機動力に富んだ大砲として連合軍を大いに悩ませたという。長期列車砲計画として、第一次大戦末期から、ドイツ陸軍部が大砲メーカー『クルップ社』に命じ、ベルサイユ条約以降にようやく完成したというものである。
「やはり、噂は本当だったのか……」と、斉藤も呟いた。
「噂……?」工藤は振り返った。
「どんな噂ですか」
「一九四四年の米・英軍によるアンチオ上陸作戦のことは知っているだろう」さすがに斉藤も興奮を圧《お》さえきれないようだ。
「そのとき、ドイツ軍の二門の列車砲がさんざんに連合軍を苦しめた。だが、結局は連合軍の勝利に終わって……そのうちの一門、『アンチオ・アーニー』は連合軍に捕獲された。なんでも、アメリカのアバディーン博物館に展示されたそうだがね。
わからないのは、もう一門の列車砲の行方なんだ。『アンチオ・エクスプレス』という名で知られていた列車砲なんだが……|そいつ《ヽヽヽ》がどこに消えたのか、現在《いま》にいたっても判明していないんだ」
「その『アンチオ・エクスプレス』が|これだ《ヽヽヽ》というんですか」工藤は喉|ぼとけ《ヽヽヽ》をゴクリと上下させた。
「噂だよ」と、斉藤はくりかえした。
「その『アンチオ・エクスプレス』は、あるイギリス兵のグループが盗みだしたというんだ。そこで大戦後、そいつを船でインドまで運んだ……それというのも、武器気違いのインド藩主国の藩主が高値で買うことを申し出たからというんだ。なんでも、いろんな武器を揃《そろ》えることが、その藩主の趣味だったということだ。金には不自由してなかったろうからね……。
ランキーマ出身の学生から聞いた噂なんだけど……その藩主というのがつまり……」
「このランキーマを統治していた藩主だというんですか」
「そうだ」
「へぇ……」
と、工藤は嘆息した。あまりにスケールが大きすぎる話で、他に思いつく言葉もなかったのである。その噂を聞かされたうえで、改めて眼前の列車砲を見ると、確かに歴史の重みを、ずっしりと帯びているように感じられた。
二人の男は、しばらく痴呆のように列車砲を見上げていた。
「まあ、これが本当に『アンチオ・エクスプレス』だとしても、今はたんなる骨董品《こつとうひん》にすぎんさ」
やがて、斉藤が夢から醒《さ》めたような声で言った。
「とにかく、いったん集合場所に戻ろうじゃないか」
「そうですね」工藤はなおも呆然としながらうなずいた。
「今から戻ると、五分ほどの遅刻ですか」
その遅刻が二人の命を救うことになるとは、彼らは想像だにしていなかったのである。
──列車砲レオポルドを見た驚きは、つかのま工藤に|あの秘密《ヽヽヽヽ》のことを忘れさせたようだ。集合場所へと戻る工藤の胸は、少年のような興奮に熱くほてっていた。なにか、雲を踏む心地《ここち》がする。自然に足早になっていた。坑道の向こうに、もう集合場所が見えてきた。すでに、他の六人は集まっているようだ。
「やはり、遅刻だったな」足をはやめながら、斉藤が笑いかけてきた。
「夕食の時間を遅らせたというんで、連中、きっと文句を言うぞ」
「ええ……」
工藤も笑いながら、そううなずいたとき──落盤が起こった。一瞬、大気がぐわっと膨《ふく》れあがるような感触があった。なかば反射的に、工藤は斉藤を突きとばし、自分も伏せている。
悲鳴が聞こえてくる。
伏せた工藤の眼に、天蓋《ドーム》の叫喚《きようかん》地獄が映った。間髪の差で、工藤と斉藤はその地獄に足を踏み入れずに済んだのだ。
狭い坑道を、砂埃《すなぼこり》が|たつまき《ヽヽヽヽ》のように噴きあげた。岩壁に亀裂《きれつ》が走るのが見える。鐘乳石が崩れ、石筍が圧し潰された。滝のような勢いで、岩塊が次から次に崩れ落ちてくるのだ。時間にして、数秒間の出来事である。すべてが終わった後、深海のような静寂が坑道に満ちた。その静寂は、六人の男が一瞬のうちに葬られたことをなにより雄弁に物語っていた。
顔を上げた工藤は、鼻孔にかすかな火薬のにおいを感じた。
「大丈夫ですか」
工藤の声に、斉藤もようやく顔を上げた。ショックで、瞳孔《どうこう》がうつろに開いている。何が起こったのか、とっさには理解できないでいるようだ。
「落盤です」と、工藤は囁いた。
「いや、どうやら誰かが爆弾をしかけたようですね」
「みんなは……?」
「落盤の、下敷きになりました」工藤は沈痛に言った。
「ぼくたちだけが助かったんです」
幸い、坑道は塞がれてはいないようだ。漂う塵芥《じんかい》が、外界から差し込む陽光に、血の赤さで染まっていた。時折、パラパラと砂の落ちるのが、なんともいえず無気味だ。
「とにかく外へ出ましょう」
工藤は、斉藤の体を支えて立たせようとした。斉藤は子どものように、工藤のなすがままになっている。
二人は、天蓋《ドーム》に足を踏み出した。落盤は、ごく局所的なもののようだった。岩塊の堆積《たいせき》が二人の足元で不安定に揺れた。
ふいに、工藤の五感が激しく打ち震えた。天災を予知する小動物の本能に似たものが、工藤のなかで働いたようだ。なにか、とてつもない危険が迫っている感覚があった。
工藤は、赤く漂う塵芥の向こうを見透《みす》かそうとするように眼を細くした。
確かに、|そこ《ヽヽ》にだれかいた。逆光で、姿形は定かでないが、だれかが工藤たちを見つめているのだ。その影からは、なにか悪意のようなものがはっきりと感じられた。
「誰だ」
そう英語で誰何《すいか》した工藤の声は、しかし残念なことには震えを帯びていたようだ。
影は身じろぎもしなかった。その視線に宿る圧倒的な意志力が、ひしひしと感じられた──工藤の全身が氷柱《つらら》と化していた。殺気という言葉がはじめて実感できるような気がした。
──俺たちは殺される……なかば確信のように、工藤はそう思った。工藤には、事態はまったく明白だった。その男は、日本人スタッフを爆弾で皆殺しにしようと謀り、いま結果を見届けに来たのだ。生き残りがいるとわかった以上、黙って見逃してくれるはずはなかった。
「工藤君……」
斉藤にも、|その男《ヽヽヽ》から発散している凶意が感じられたのだろう。斉藤のその声は、なかば悲鳴に近かった。
影はゆっくりとこちらに歩いてくる。そのいかにも落ち着き払った足どりは、工藤たちに抗する術《すべ》がないことをはっきりと物語っていた。|そいつ《ヽヽヽ》が殺戮《さつりく》を生業《なりわい》としていることはまず間違いなかった。
工藤は痺《しび》れるような恐怖感を覚えている。
ふいに、影が身をひるがえした。次の瞬間には、もう塵芥の彼方《かなた》に消えている。なにか八ミリの駒《こま》が飛んだような、鮮やかな消失ぶりだった。
インド人作業員たちの口々に喚きあう声が聞こえてきた。落盤に気がついて、救出に駆けつけてきたのだろう──そのときになってようやく、工藤は自分たちが命拾いしたのを実感することができた。
「工藤君、今のは……」斉藤がかすれたような声で訊いてきた。
「どうやら命拾いしたようですね」工藤の舌もスポンジと化していた。
「どうです? これでも、ぼくが神経質すぎると思いますか」
──朝から雨が降っている。身を竦《すく》めたくなるような、底冷えのする雨だ。起床とともに、すべての希望が消えてしまうような一日だった。
その雨が、送迎デッキに立つ人の数を極端に少なくしている。まばらな傘が、黒い茸《きのこ》のようだ。国際空港羽田には、ふさわしくない眺めといえた。
その風景のなかで、靖子の持つ傘だけが唯一華やかな色彩だった。靖子は、どこに身を置いてもごく自然にその場の中心になってしまう。
靖子の表情はこわばっていた。怯えているとさえ形容できそうな表情だ。その眼は、滑走路の特別便《チヤーター》航空機《フライト》に向けられていた。
その航空機を起点にして、二台のトラクターが忙しげに往復していた。インドからはるばる運んできた荷を、今、降ろしているのである──亜紀商事、六人のセールス・エンジニアが眠っている棺《ひつぎ》だった。
靖子には、漆原専務が何を考えているのか理解できなかった。事故《ヽヽ》の第一報が入ったとたんに、漆原はそれを極秘事項に定めたのである。死者の家族たちにも知らせないほどの徹底ぶりだ。
そして今、靖子を従えた漆原だけが、死者を出迎えに羽田までやって来たのである。いや、正確には、出迎えは靖子ひとりというべきだろう。この時間、漆原は下階《した》のティーラウンジでコーヒーをすすっているのだから。
靖子は無意識のうちに、工藤の姿を視線でさがしていた。工藤の無事な姿を、一刻もはやく自分の眼で確かめたかった。死者のなかに工藤が混じっていないことを知らされたとき、靖子はほとんど夢見ごこちのよろこびを覚えたものだ。
雨が、極端に視界を悪くしていた。送迎デッキから、工藤の姿を確かめるのは不可能なようだ。滑走路で働く男たちの姿は、悉《ことごと》く灰色に塗り潰されているのだ。
一人、航空機から|こちら《ヽヽヽ》に向かって歩いてくる人影が見えた。靖子は反射的に片手を上げ、かろうじてその手を振るのを思いとどまった。工藤は、まだ靖子の想いを知らないでいる。送迎デッキで手を振る靖子の姿を見ても戸惑うばかりだろう。
靖子は身をひるがえして、手摺《てすり》から離れた。生き残ったセールス・エンジニアたちは、ティーラウンジで漆原と会う手筈《てはず》になっていた。靖子はなんとしてでも、帰国した工藤が最初に会う人間のひとりになりたかったのだ。
──漆原の長身は、ティーラウンジによく似合っていた。そのゆったりとくつろいだ姿は、人生の頂点にまで登りつめた男に特有な、傲慢《ごうまん》なほどの余裕を覗かせていた。隣りのテーブルにすわっているスチュアーデスらしい若い娘たちが、ちらちらと漆原の様子を窺《うかが》っている。
漆原に近づいていきながら、靖子はその娘たちに対してかすかな優越感を覚えていた。漆原の秘書であることでも、容姿に関しても、靖子は娘たちにはるかに勝《まさ》っていた。
靖子が脇に立っても、漆原はながくその姿に気がつかなかった。窓の外を眺める表情が、ハッとするほどに険《けわ》しい──靖子は、優越感が脆《もろ》くも崩れるのを感じた。たとえ第一秘書であろうと、漆原は女に立ち入らせるほど|やわ《ヽヽ》な精神構造を持った男ではないのだ。
「専務……」靖子は遠慮がちに声をかけた。
振り返った漆原は、もういつもの感情を圧し殺した顔に戻っていた。
「失敬したね……」漆原は前の席にすわるように、顎でうながした。
「ちょっと考えごとをしていたものだから……どうかね? 作業は進んでいるようかね」
「はい……」と、靖子はうなずいた。
「もうそろそろ、帰国なさった方がこちらへお見えになると思います」
「そうか」漆原はタバコに火を点《つ》けた。
「死んだ連中の家族に、事故を知らせるタイミングがむずかしいな」
「社葬ということになるのでしょうか」
「どうかな……あまりマスコミの関心を惹くような真似はしたくないな」
「………」
なぜ、と訊きたい気持ちを、靖子は懸命に圧さえている。なぜ、それほどまでに事故を秘密にしておく必要があるのか。スキャンダルというような性質のものではないし、落盤事故に会社が責任があるとも思えない。一体、漆原は何を恐れているのか……靖子がその質問を口にしなかったのは、やはり彼女が優秀な秘書だったからだろう。
漆原の視線が動いた。靖子も、肩越しに入り口の方を振り向いた。
風采のあがらない中年男が、おずおずとティーラウンジを歩いてくる。見るからに、憔悴しきった表情だ。チームのリーダーをつとめていた斉藤という男に違いない。
靖子は軽い失望を覚えた。どうやら、工藤は滑走路に残って、作業の指揮をとっているらしい。
「どうも、わざわざお出迎えいただいて」斉藤はテーブルまで歩いてくると、深々と頭を下げた。
「この度は私がいたらなかったために、大変なご迷惑を会社にかけることになって、なんともお詫びのしようが……」
「とんだことだったね」と、漆原が斉藤の言葉をさえぎった。
「ところで、もう一人帰ってくるはずじゃなかったかね。工藤君とかいったかな。彼はどうしたんだ?」
「はあ、それが……」斉藤は眼を伏せた。
「私もどういうことか理解に苦しんでおるのですが……ちょっと眼を離した隙に、どうやらバンコックで降りてしまったようなんです」
「………」
靖子は、自分のなかでなにかが崩れていく音を聞いているように思った。
──バンコックのタクシーに乗るのは命がけだ。破壊工作を任務とする暗号名リリー≠ノしても、やや躊躇《ちゆうちよ》せざるを得ない。
なにしろ二十年以上も前の車が、そのほとんどを占《し》めているのだ。計器が壊《こわ》れ、床に穴が開いているぐらいならまだしも、なかには走行中に扉が開くものさえある。そんな車が車体を触れあうようにして、排気ガスをまきちらし、全速力で走っていくラッシュの様は、まさしく壮観という他はなかった。
リリー≠ヘ優秀な破壊工作員だ。生命を大切にする術《すべ》を心得ている。バンコックでの交通機関として、リリー≠ェもっぱら二輪タクシー《サムロ》を利用することにしているのは賢明といわねばならなかった。
リリー≠ヘ、ラジャダムナン通りでサムロを降りた。ラジャダムナン通りは、バンコックのメイン・ストリートとして知られている。緑の街路樹と、建ち並ぶ近代的なビル群との対照が、眼に染《し》みるほどに鮮やかだった。
バンコックに、アメリカ人の姿は珍しくない。街路を行く人たちの関心をまったく惹くことなく、リリー≠フ長身はとあるビルのなかに消えていった。
その四階建てのビルには、ほとんど無人に近い印象があった。暗く、なにか饐《す》えたようなにおいが籠《こも》っていた。ネズミが群れをなし、ゴキブリが這いまわる不潔さだ。並の神経を持ちあわせた人間なら、足を踏み入れただけで全身にむずがゆさを覚えるだろう。
だが、──リリー≠ヘ平然と階段を登っていく。
リリー≠ヘ三階まで上がると、廊下の端の部屋のドアを開けた。粗末な机が置かれてある以外、なにも調度のない部屋だ。壁に架けられている電話が、奇妙に不釣合な感じだった。
窓の厚いカーテンが、部屋を暗く閉ざしていた。
机の上に、薄いファイルが置かれてあった。リリー≠ヘファイルを手に取ると、なかにはさまれてあった紙に視線を落とした。その紙には、ただエメラルド・ホテル≠ニだけ記《しる》されてあった。
リリー≠フ唇に酷薄な笑いが浮かんだ。これで、|あの《ヽヽ》日本人の投宿先がわかったのである。後は、そのホテルに赴《おもむ》いて、仕事をすればいいのだ。
正直、日本人のうちの一人がバンコックに降りたとわかったときは、さすがのリリー≠烽「ささか狼狽《ろうばい》した。いかにリリー≠ェ優《すぐ》れた破壊工作員であっても、別行動をとっている二人の人間を同時に消すことはできない。狼狽を覚えるのも、しごく当然のことだったのである。
──が、とっさの判断で自分もバンコックに降りたのは、やはりリリー≠ネらではのことだったろう。もう一人の日本人は、東京のローズ≠ノまかせておけばいい。ローズ≠ヘ、万に一つも失敗を犯すような男ではないのだから。
これもあれも、リリー≠ェ落盤で日本人を悉《ことごと》く殺すことができなかったことから生じた事態なのだ。あの場合、やむを得なかったとはいえ、リリー≠ヘ自分の失態に舌打ちしたいような気持ちでいる。リリー≠フ矜持《きようじ》にかけても、なんとしてでもこの次には仕事を果たさねばならないのだった。
リリー≠ヘ電話に歩み寄り、受話器を外し、ダイヤルを回した。バンコックの電話網はあまり当てにならないが、この場合は心配なかった。電話先は在タイ援助軍司令部の情報局、すべてに優先されて回線がつながれるはずだった。
相手が出た。
「俺だ……」と、リリー≠ヘ言った。
「今晩、仕事を決行する」
リリー≠ヘ電話を切った。必要以上に、言葉を重ねるような愚かな真似はしない。これだけなら、たとえ誰に盗聴されたところで、情報を提供する気づかいはないのだ。
バンコックは、アメリカ中央情報局とソ連国家保安委員会のエージェントが入り乱れるスパイ都市だ。なにごとも、用心しすぎるということはないのである。
リリー≠ヘ、珍しく上機嫌に口笛を吹いていた。口笛を吹きながら部屋を出て、そして──暴漢に襲われたのだ。
とっさに踊り場に身を投げ出さなければ、もろに後頭部を打たれて、リリー≠ヘ意識を失っていたことだろう。抜群の反射神経を持つリリー≠ネらばこそ、逃れることができたのだ。
床に体を一転させて、もう次の瞬間にはリリー≠ヘ体勢を立て直していた。相手はまだ若い男で、リリー≠フ意外な手強《てごわ》さに仰天しているようだ。リリー≠ヘ息ひとつ弾《はず》ませていないのである。
その男に、リリー≠殺す意志がなかったことは明らかだ。ソ連か中国の手先、いずれにしろ有名人《ヽヽヽ》である。リリー≠拉致《らち》して、いくばくかの礼金を得ようという肚づもりだったのだろう。それだけに、腕力に関しては絶大な自信を持っているようだ。驚きから回復した男の表情には、すぐさましぶとい笑いが浮かんだ。
リリー≠ヘ冷静そのものだった。相手の肩の動き、眼球の動きから、次なる攻撃を見定めようと努めているのだ。久しぶりの格闘に、微かな悦楽さえ覚えていた。
男の喉から、声にならない雄叫《おたけび》が洩れた。一瞬、その全身が膨れ上がったように見えた。下肢が発条《バネ》のように跳《は》ね上がり、リリー≠ノ向かってくりだされてきた。
キック・ボクサーの蹴りだ。いかに闘技に熟達した人間でも、その鋭い蹴りをかわすのは容易でないはずだった。
だが、リリー≠ヘ身を低くして、その蹴りを難なくかわすと、すれちがい様《ざま》に男の首筋を右拳で薙《な》いだ。
男は反射的に首筋に手を当て、次の瞬間にはその手で喉をかきむしっていた。ろくに声さえ出ないようだ。眼球が突き出て、膨《ふく》れ上がった舌が唇《くち》から見えていた。断末魔の表情を顔に刻んだまま、男は息絶えた。
リリー≠ヘ中指の指輪を、無表情にみつめていた。その指輪から、一センチほどの針が突き出ていた。針は、血で汚れていた。かすかに、アーモンドのにおいがするようだ──リリー≠ェリングを回すと、針は石のなかに消えた。
リリー≠ヘ踵《きびす》を返すと、ゆっくりと階段を降りていった。一度として、死骸を振り返ろうとさえしなかった。
──エメラルド・ホテル≠ヘ、ラジャ・ダムリ・ロードの裏町に建っていた。ラジャ・ダムリ・ロードはバンコックでも有数の目抜き通りだし、ホテルの名もいかにもきらびやかだが、残念ながらホテルそのものは、この街でも最底辺に位置する安宿に過ぎない。
この裏通りは、ネオンに彩《いろど》られたラジャ・ダムリ・ロードが懐に蔵している汚物場に他ならないのだ。所かまわず屑の山が積み上げられ、ほとんど裸に近いような真っ黒な子どもが走り回っている場所なのである。
エメラルド・ホテル≠フ一室で、工藤は長く汚いベッドの上に寝ころがっていた。天井を見ているその眼がひどく虚ろだ──ラジオから、タイ国人歌手が歌う日本の歌謡曲が流れていた。
──俺は臆病に過ぎたのではないか……工藤はさっきからその自問をくりかえしている。工藤がバンコックに降りたのは、帰国の日程を遅らせ、日本で待ち構えているであろう殺人者の狙《ねら》いをそらすためだった。できれば斉藤にそうするように勧めたかったのだが、会社第一の斉藤がその勧めに従うとは思えなかった。それに別行動をとったほうが、お互いの安全にもなるかもしれない。工藤は、ひとりで降りるしかなかったのだが……。
こうしてバンコックの安宿で寝ころがっていると、その用心がひどく馬鹿げたものに思えてくる。影に怯えて泣き出す幼児と、なんら違いがなかったように思えてくるのだ。
──臆病者か……工藤はその言葉を頭のなかで転がして、苦《にが》い自嘲を味わっていた。
ふいに、工藤の耳がなにか微音を捉えた。顔を上げた工藤の眼に、カチャカチャと動いているドアのノブが映った。明らかに、誰かがドアをこじ開けようとしているのだ。
工藤の顔が土気色を呈した。パニックに襲われた小動物さながらに、工藤はベッドから飛び出そうとした。だが……ホテルの三階に位置する部屋から、どう逃げ出そうというのか。
工藤は、そのままドアのノブを見つめているしかなかった──ついに、鍵《キー》は壊されてしまったようだ。ノブがゆっくりと、実にゆっくりと回り始める……。
──ドアが開きつつあると覚ったとたんに、工藤の体は反射的に動いていた。机の上の水差しを取り、思いきり投げつけていたのだ。
工藤は、もうほとんど現実に水差しの割れる音を耳にしていたのだが……予期に反して、水差しは砕けることがなかった。ドアの隙間から伸びた手が、水差しの取っ手を掴《つか》んだのである。
「いけませんなァ」野放図に明るい声が聞こえてきた。
「水差しひとつといえども、ホテルの備品に変わりはありませんぞ」
「………」
工藤は唖然としている。まさかバンコックの安宿で、流暢《りゆうちよう》な日本語が聞けるとは思ってもいなかったのである。
ドアの陰から姿を現わしたのは、丸々と肥った巨漢だった。年齢は三十代の後半から四十代の前半というところか。童顔で、犀《さい》のような細い眼に笑《え》みを湛《たた》えている。どことなく、引退した相撲取りを連想させる男だ。
「工藤|篤《あつし》さんですね」と、男はなおも大声で言った。
「私は、小虎《シアオフー》という者です。この体で小虎とは気恥ずかしい名なんですが……こればかりは、いかんともしがたいですからなァ」
「小虎《シアオフー》……?」
「そう」小虎と名のった男は頷いた。
「お察しのとおり、中国人です。お国の言葉は、どうにか喋《しやべ》れますがね」
「その中国人の小虎さんがぼくに何の用ですか」工藤は、まだ警戒心を解く気持ちにはなれなかった。
「どうして、ぼくの名前をご存じなんですか」
「蛇《じや》の道は蛇《へび》でんがな」小虎は怪しげな大阪弁で言った。
「そんなことより、工藤さん、そろそろ逃げ出す用意をしたほうがいいのとちゃいますか」
「逃げる?」
「CIAの破壊工作員で、リリー≠ニいう暗号名の男がこのホテルを突きとめました。確か、あんた|その《ヽヽ》男とはインドで会っているはずですな……リリー≠ェ仕事をするときは、ふつう夜明け近くの頃を選ぶんですが……まあ、用心にこしたことはないでしょうからなァ」
「………」
工藤はただただあっけにとられている。その男の人もなげな|ふるまい《ヽヽヽヽ》には、沈黙を強《し》いられざるを得なかった。なにより、彼がインドの一件を知っていることに驚かされたのである──そんなことから、なんとはなしに小虎の素姓が知れるような気はしたが……。
「ちょっと話をしようじゃないですか」小虎《シアオフー》は図々しくベッドの端に腰を下ろした。
「奴が来るまでには、まだ|だいぶ《ヽヽヽ》時間があるようですからね」
「理由《わけ》がわかりませんね」工藤はようやく言った。
「ぼくが、初対面のあなたと何を話すことがあるというんですか」
「生命が惜しくないのですか」と、小虎は逆に訊き返してきた。
「意地を張っちゃいけませんな。現在、あなたはひじょうに危険な立場にいらっしゃる。口はばったいようですが、私のような専門家の力をかりなければ、とうてい生きのびることはかないませんぞ」
「なんの専門家ですか」工藤が皮肉に尋ねた。
「スパイの専門家です」
小虎はケロリとして答えた。どうやら、小虎のほうが役者が一枚も二枚も上のようだ。
一瞬、工藤はこの男を殴り倒してでも逃げようかと考えた。だが、小虎は工藤ごときに歯のたつ相手ではなさそうだ。逆に、工藤が殴り倒されるのがおちだろう。
「そう、お止《よ》しになったほうが賢明ですな」工藤の眼を覗き込むようにしていた小虎が、ニヤリとしたたかな笑いを浮かべた。
「あなたには、暴力|沙汰《ざた》は似合わない」
「………」
小虎は、相手の心理を読むことにも長《た》けているようだ。工藤は、両手両足をがんじがらめに縛《しば》られているに等しかった。抗する術《すべ》が、まったくないのだ。
こうなれば、工藤はダンマリを決め込むことしかなかった。
「おやおや、よくよく強情な方のようだ」
口をかたくなに閉ざした工藤を見て、小虎《シアオフー》はわざとらしく溜息をついた。
「どうやら、私のほうから話を始めるしかないようですな……なにから、話すかな。やはり、原子力発電所アグニの炉室に据《す》えつけられた放射能探知装置《クローク・ダイル》のことから話し始めるのが順当ですかな」
工藤は、自分の頬が痙攣《けいれん》するのを覚えた。放射能探知装置《クローク・ダイル》こそ、工藤の恐怖を象徴する言葉だったのである。いかにも怪しげな小虎の口からその言葉が洩らされたことが、なおさらに工藤の衝撃を大きくしているようだ。
「放射能探知装置《クローク・ダイル》か……」小虎は唇をゆるませた。
「インドならではの装置ですな。アグニで働く下級職員のなかには、どういうわけか放射線量バッジをつけるのを嫌う者がいる。色が変わるのを、気味悪がるんですかな。
そこで、原子炉格納容器のなかに放射能探知装置《クローク・ダイル》が据《す》えつけられた。格納容器のなかの放射能が危険値に達すると、警報を鳴らすわけですな。この装置を考案したのはインド人エンジニアのダイル氏……だから、この装置は|ダイル氏のがらがら声《クローク・オブ・ダイル》≠ニ命名されている。
どうです? 私は原子力発電所には詳《くわ》しくないんだが、ここまでは間違いありませんかな」
「間違いない……」工藤は喉ぼとけをゴクリと上下させた。
「よかった……」小虎は大仰に溜息をついて見せた。
「なにしろ、急な勉強だったものですからね。こんな商売をしていると、科学技術の進歩についていくだけでも大童《おおわらわ》ですわ。三年ぐらい前からデスク・ワークを希望しているんですが、どうも私どもの商売も人手不足なようでして……正直、私のような年では、辛い話なんですが……」
「………」
小虎《シアオフー》のことさらにのんびりとした口調は、工藤には歯がみをしたくなるほどじれったかった。一体、小虎はどこまで事情を知っているのか。
「ところで、俗にフラワー・チルドレン≠ニ呼ばれている組織をご存じですか」小虎は声を一変させた。
「組織……?」工藤は眉をひそめた。
「一時期のヒッピーたちの自称じゃないですか。確か、平和主義者たちの……」
「とんでもない」小虎は手を振った。
「私の言ってるのは、鷹《たか》派も鷹派……超極右組織のフラワー・チルドレン≠フことですわ。一応は、CIAの作戦部・外国諜報室に属しているようなんですがね。大統領はおろか、CIA長官にも手が出せないという組織です。例のウォーターゲート事件のとき、後難を恐れた作戦部が、問題のありそうな部署を独立させたんですがね。その部署が、極右軍人たちの後ろ楯を得て、とうとうフラワー・チルドレン≠ネる組織が生まれちまったわけですよ……。
CIAの活動を調査している上院特別委員会も、このフラワー・チルドレン≠ノだけは手が出せないでいる。なにしろ暗号名には優しげな花の名がついているものの、フラワー・チルドレン≠フ組織員たるや、暗殺、破壊、陰謀のプロばかりですからね。下手に手を出せば、それこそ生命《いのち》が危ない」
「そのフラワー・チルドレン≠ェどうかしたのですか」
「原子力発電所アグニに高性能爆弾を仕掛けた……」
小虎《シアオフー》の眼が、一瞬、険しさを増した。
「その放射能探知装置《クローク・ダイル》にね」
「………」
工藤は、口のなかがいがらっぽくなるのを感じた。この小虎という男は、すべてを承知していたのである。工藤の知らぬ、爆弾を仕掛けた組織の名さえ調べあげているのだ。
「ひどい話です」小虎はボリボリと頭を掻いた。
「まったくひどい……冷戦の最中《さなか》でも、こんなことを考えついた奴はいなかった。要するに、中国が国境を越えてインドに攻め込んできたら、原子力発電所を爆破させて、国境地帯を放射能汚染させてしまおうという肚なんですな。もちろん、インド政府はそんな計画はまったく知らない。CIAの作戦部にしても、そんな無茶な真似はしない。フラワー・チルドレン≠フ暴走です。こうなると、極右という言葉も穏やかに過ぎるほどだ。狂人の集まりですな……なにしろ、爆弾の起爆装置は、アメリカの軍事軌道衛星からの電波でスイッチ・オンされるというんですからな」
「あの落盤で……岩塩層の落盤事故で俺の仲間が死んだのも、そのフラワー・チルドレン≠ニかの仕業だというのか」
「間違いなく……」と、小虎はうなずいた。
「昔からの鉄則ですよ。『秘密を知った者は殺せ』……ところで、あなたはどうして爆弾のことをお知りになったんですか」
「設計図からだ……」工藤の眼は虚ろだった。
「放射能探知装置《クローク・ダイル》の下に小さなスペースが開けられていることが、どうしても納得できなかった。そこで、いろいろ探りを入れているうちに……」
「とんだ災難でしたなァ」小虎《シアオフー》はことさらに同情がましい口調で言った。
「そのために、フラワー・チルドレン≠ノ生命を狙われる|はめ《ヽヽ》となったんですからな……さてと……そうそう長話もしてられませんな。そろそろ|ここ《ヽヽ》を引き払わないと、怖い殺し屋がやって来る。とにかく、いったんこのホテルを出ようじゃないですか」
「………」
工藤は、小虎の言葉に身じろぎもしなかった。小虎のいかにも仲間めかした口調が、奇妙に工藤の癇《かん》にさわったのだ。
「どうしたんですか」小虎の声にかすかな苛立《いらだ》ちが含まれた。
「早くしないと、間にあわなくなりますよ」
「出ていくさ」
工藤はボソリと言った。
「ただし、あんたと一緒にじゃない。悪いけど、あんたの力は借りたくないんだ……」
小虎の表情が一変した。工藤を見つめる表情が、名前そのままの凶暴な虎の形相と化している。
「どういう意味ですか」と、尋ねた小虎の声には、微塵の暖かさも含まれていなかった。
「言葉どおりの意味ですよ」工藤は、小虎の視線を真正面から受けてたじろぎもしなかった。
「あんたはどうやらスパイらしい。なるほど、こういう情況の対処の仕方は充分に心得ているだろう。あんたに身柄を預ければ、俺ももう心配はないかもしれん……だがね、それで、あんたたちは|この《ヽヽ》俺をどうしようというんだ? おそらく、俺を証人に仕立てあげるつもりなんだろう。米帝国主義の暴虐《ぼうぎやく》の生き証人として、世界に俺の写真でも発表するつもりなんだろう……」
「そうすると、なにか工藤さんに不都合なことでもありますか」
「あるね」工藤は顎《あご》を引いた。
「俺は、そんなスパイ戦の片棒をかつぐのはまっぴらだよ……いいか。俺は|まっとう《ヽヽヽヽ》に生きてる人間なんだ。あんたたちから見れば、無力で、無能で、赤ん坊同然に思えるかもしれんが、少なくとも胸を張って歩ける人間の一人なんだ。いくらあんたたちが強くても、謀略の才に長《た》けていても、スパイはつまるところスパイでしかない。俺たち、まっとうに生きてる者のほうが、数倍も上等な人間のはずなんだ」
「だから、どうだと言うんですか」小虎《シアオフー》は静かな口調で言った。
「まっとうな人間だから、死なないというわけでもないでしょう。フラワー・チルドレン≠ヘ恐ろしいグループですよ。|奴ら《ヽヽ》があなたを殺すと決意したら、もうあなたは死んだも同然なんですよ。私の助力がない限り、あなたは間違いなく殺される……|この社会《ヽヽヽヽ》では、アマがプロに勝つなどということは絶対にあり得ない」
「|俺たち《ヽヽヽ》を甘く見るなよ」工藤は、ふいに体の奥底から激しい|憤《いきどお》りが湧いてくるのを覚えた。
「サラリーマンを甘く見るんじゃない。なにがプロだ。殺しに熟達しているからといって、しょせんスパイなんか滓《かす》だ。まっとうに生きてるサラリーマンに勝てるはずがない。滓が、まっとうな人間に勝てるものか」
「………」
工藤と小虎は睨みあった。部屋が凄《すさ》まじいほどの緊迫感に包まれた──いつもの工藤なら、とうてい小虎《シアオフー》の眼光に耐えられなかったろう。だが、激しい憤りが、今の工藤に燃えるような気迫を与えていた。
先に、ふっと視線を外《そ》らしたのは小虎のほうだった。
「いいでしょう……」小虎は、この男には似合わぬ気弱げな微笑を浮かべていた。
「どこまでやれるか、お手並拝見といきましょう。まっとうな人間が死んだときには、花輪でも送らせてもらうことにしますか」
小虎はそれ以上なにも言おうともしないで、静かに部屋を出ていった。
小虎が立ち去った後も、しばらく工藤はベッドから立ち上がることができなかった。緊張からくる反動で、完全に足が萎《な》えていたのである。
──東京は昨日《きのう》からの雨に、暗く塗り込められていた。東名高速から臨む街並が、古びた写真のように色|褪《あ》せて見える。一日の始まりにふさわしい初々《ういうい》しさは、今朝の東京にはどこを探しても見当たらなかった。
午前六時……通常なら、|ここ《ヽヽ》横浜インターに近い高速道路では、すでに渋滞が始まっているはずの時刻だった。だが、雨の日曜日ということもあってか、路上には奇妙に車の数が少なかった。時折通過する陸送トラックが、なにか車の幽霊に思えてくるほどだ。
|その《ヽヽ》黒い車は、ゆっくりとした速度で東京に向かいつつあった。度を越えた安全運転だ。高速道路では、逆に危険を覚えるほどの遅さだった。
車は、魚雷艇のように水をはね上げていた。その仄《ほの》かなライトが、雨の一滴一滴を銀の針のように浮かび上がらせていた──その姿には、なにかしら見る者の背筋を冷たくするような雰囲気が備わっていた。
冬の雨が降りつづいている。
墨絵のように暗い路上に、ヘッド・ライトの十字がぎらぎらと滲《にじ》んだ。東京からの車だ。その自動車はもう一方の黒い自動車と異なり、それなりのスピードを出しているようだ。ライトだけしか見えなかったのが、急速に自動車の形をとり始めている。
黒い自動車がわずかに加速した。
二台の自動車がすれ違った。と同時に、黒い自動車の窓からオレンジ色の太い火箭が放たれた。落雷を優にしのぐ轟音《ごうおん》が、高速道路に響きわたった。
戦車の砲撃を受けたに等しい。一瞬のうちに、自動車《くるま》を鉄屑と化す破壊力だ。自動車の屋根が、蹴り上げられたマンホールの蓋のように宙高く舞い上がった──自動車は横転したまま路上を滑《すべ》り、ガード・レールに衝突して、真っ赤な炎を噴いた。ショックで鳴り始めたクラクションが、死に瀕した獣の悲鳴のように、いつまでも聞こえていた。
黒い自動車の運転手は、バック・ミラーを染める炎を満足そうに見ていた。その左手が、圧縮空気リベット打機を模したバズーカー砲を愛《いと》しげに撫でている。
「|幸運を《グツド・ラツク》……」
運転手──フラワー・チルドレン≠フローズ≠ヘ、そう呟くとクスクス笑いを洩らした。
──亜紀商事の『社長室』には、いつになく重苦しい空気がたちこめていた。必ずしも雨のせいばかりからではないようだ。ゴルフのハンディ以外には気にかけることは一つもないと、常日頃から豪語している左右田《そうだ》社長の顔が蒼白となっているのだ。
左右田社長の前には、漆原専務が泰然自若として腰を下ろしている。その顔は、いつに変わらぬ端正さだ。
「すると何か……」左右田社長の声はなかば悲鳴に近かった。
「わが亜紀商事は、それと知らずに対中国謀略の片棒をかついだというのか」
「斉藤くんの言葉を信じるならば、そういうことになりますな」
漆原の声はしごく平静だ。
「斉藤くんの報告を受けてから、私のほうでもワシントン支局に命じて調べさせていますが」
「そんなに落ち着いていていいのか」左右田が塩辛声《しおからごえ》を張り上げた。
「これは、武器の輸出というようなこととは質が異なる問題だ。亜紀商事が、公然と中国を敵視したのに等しい。これまでの民間外交がすべて水の泡《あわ》じゃないか……いや、そんなことより、これがマスコミに知れたら……」
「ロッキードのときの丸紅《まるべに》の比じゃないでしょうな」漆原の眼に、暗い光が宿った。
「日本のマスコミは中国好きですからな。それこそ、亜紀商事の重役は悪魔の化身のように叩かれるでしょう。社屋の焼き打ちぐらいは、覚悟しなければならんでしょうな。
悪いことに、わが社はウェスチング・マシン社の代理資格で、原子力発電所アグニの建造に協力している。多国籍企業の例に洩れず、ウェスチング・マシン社もCIAとの癒着《ゆちやく》をいろいろ囁かれていますからな。われわれが|そのこと《ヽヽヽヽ》を知らなかったと弁明しても、まず世間は信用してくれんでしょうな」
「どうすればいいんだ……」左右田は薄い頭髪を掻きむしった。
「漆原くん、どうすればいいのかね」
「………」
漆原は、窓の外を眺めている。その顔が、凄《すご》いほどの無表情になっていた。
「何もしないことですな……」やがて、漆原がボソリと言った。
「え……」左右田が顔を上げた。
「何もしないことです」と、漆原はくりかえした。
「幸い、このことを知っているのは社長、私、斉藤くん、それに工藤とかいう社員の四人だけです。この四人が口を閉ざしていれば、それで済むことです」
「しかし、きみ……もし、アグニに仕掛けられた爆弾が爆発したら……」
「そのときはそのときです。あくまでも知らぬ存ぜぬで通せばいいでしょう」
「………」
左右田は、怯えた眼で漆原を見つめている。いまさらながらに漆原という男の冷酷さ、苛烈《かれつ》さを思い知らされたような気がしたのだろう。
「秘密を知っている者が四人というのは、いささか多すぎる感じですな」と、漆原が独り言のように呟いた。
その呟きの意味を覚って、左右田が慄然としたとき──電話が鋭いベルを鳴り響かせた。
漆原が受話器を取った。しばらく相手の言葉に聞きいった後、無言のまま電話を切る。
「熱海の寮に休養のために赴《おもむ》いた斉藤くんが、高速道路で車ごと爆破されて即死したそうです」漆原は、その唇に微笑さえ湛えていた。
「さすがはCIA、やるもんですな……これで、もう後ひとり片付けば、この件も|けり《ヽヽ》がつきますな」
──工藤篤には久しぶりの日本だった。本来なら、懐郷《かいきよう》の情で、足どりが浮き立つほどの喜悦を覚えて当然だったろう。天涯孤独の身のうえでも、いや、おそらくそれだけになおさら、日本という国が懐かしく、愛《いと》しく思えるはずだった。
だが、──空港を急ぎ足で歩く工藤の表情には、微塵《みじん》も喜びの色が見られなかった。憔悴しきった顔に、追いつめられた小動物のような眼だけが異様に光っているのだ。祖国にありながら、その姿はまさしく亡命者を連想させた。
ふいに工藤の足が止まった。その顔がぴくりと痙攣《けいれん》した。工藤の眼は、空港の入り口付近に立っているアメリカ人に吸い寄せられていた。見るからに頑強そうな中年男だ。誰かを探しているかのように、空港をしきりに見回している。
工藤は足摺《あしず》りをするような形で、ゆっくりと後退を始めた。犬に出会った臆病な子どもに似ている。人眼がなければ、いっそ駆け出していたことだろう。
アメリカ人が片手を挙げた。若い娘が、アメリカ人に向かって走っていく──工藤のこわばっていた顔がホッとゆるんだ。その唇《くち》から、太い息が洩れ出る。
工藤はスーツ・ケースを持ち直すと、再び歩きだした。
──なんてざまだ……工藤は苦い自嘲を胸のなかに吐きだした。それこそ、枯れ尾花を幽霊と見紛《みまが》うほどの怯えぶりではないか。小虎《シアオフー》がいまの工藤の姿を見たら、さぞかし腹を抱《かか》えて笑うに違いない。
腋《わき》の下を流れる汗が冷たかった。アメリカ人を見たときの恐怖が、指の震えとなって残っている。醜態というべきだった。
醜態というべきかもしれないが、しかし、それも無理からぬことではあったろう。工藤は一介《いつかい》のサラリーマンに過ぎない。これまで、およそ暴力とは縁のない人生を過ごしてきた男なのだ。ましてや、自分の生命《いのち》が狙われるような|はめ《ヽヽ》になろうとは、想像すらしたことがなかったのである。
岩塩坑で見た殺人者の影は、工藤の脳裡に染みついていっかな消えようとはしない。|あの影《ヽヽヽ》が放っていた気迫は、想い出すだけでも心臓が縮みあがるような恐怖を覚える。さらには、小虎《シアオフー》の言葉がその恐怖を幾倍にも増していた──この社会では、アマがプロに勝つなどということは絶対にあり得ない……。
──俺には勝つ必要などないのだ……工藤は、頭のなかでしたり顔な笑いを浮かべている小虎に向かって毒づいた。ただ生きながらえることができれば、それで充分に満足なのだ……。
その言葉が虚勢でしかないことは、誰よりもよく工藤が承知していた。生きながらえることがすでに困難なのだ──敵《ヽ》は、徹底して酷薄だ。そのうえ、落盤事故を擬装するだけの奸計《かんけい》と、世界を覆うに足る情報網とを合わせ持っている。今の工藤には、蜘蛛の網にかかった蠅《はえ》ほどにも生存のチャンスがないのではないか。
警察に保護を求めることも考えなかったわけではない。だが、警察が工藤の話を信じるとは思えなかった。誇大妄想狂あつかいされ、いんぎんに精神病院を紹介されるのが|おち《ヽヽ》だろう──たとえ警察を信用さすのに成功したところで、とうてい二十四時間の保護は望めない。結局は、同じことなのだ。
──どうすればいいのか……工藤の表情には焦慮の色が浮かんでいた。一体、俺はどうすればいいのか……。
「バンッ」
突然、背後から聞こえてきた|その《ヽヽ》声が、工藤の想念を断ち切った。工藤は小さな悲鳴を上げ、反射的に逃げ腰になった。スーツ・ケースを取り落としてしまうほどの狼狽《ろうばい》ぶりだ。
指鉄砲を構えた幼い男の子が、そんな工藤を不思議そうに見上げている。
工藤は激しく喘いだ。その額《ひたい》には、脂汗がジットリと滲んでいた。
──羽田からのモノレールに乗り、工藤はようやく人心地がついた思いがした。いかなフラワー・チルドレン≠フエージェントでも、まさかモノレールのなかで仕事をしようとは考えないだろう。
工藤は窓際の席に腰を下ろし、放心したような眼で外を見ている──ここ数日間の疲労が、癒《いや》し難く工藤の体にわだかまっている。死の恐怖から生じた疲労だ。その疲労は工藤を蝕《むしば》み、遠からず廃人と変えてしまうように思われた。恐怖こそ、まさしく不治の病《やま》いに違いなかった。
工藤は、小虎《シアオフー》に吐いた啖呵《たんか》を苦々しく想い返している──俺たちを甘く見るな、サラリーマンを甘く見るんじゃない……あの啖呵を、工藤は今も間違っていなかったと考えている。小虎にしろフラワー・チルドレン≠ノしろ、いわば化け物のようなものだ。そんな化け物たちが、まっとうな人間を脅《おびや》かしにかかるのが、なんとも言えず腹立たしかったのだ。|奴ら《ヽヽ》はしょせん寄生虫に過ぎないという信念があった。
だが、──まっとうな人間であるはずの工藤の、|この《ヽヽ》恐怖はどうしたことだろう。ろくに眠ることもできないほど、神経を消耗させられている状態ではないか。あの啖呵は、つまるところ、弱い人間に特有の虚勢でしかなかったのか。
そうだとも、そうでないとも言える。要するに、工藤は|まっとう《ヽヽヽヽ》なサラリーマンではないのだ。いや、工藤に限らず、大企業に勤める者には、まっとうな雇用関係など望み得べくもないのである──大企業の姿勢は、冷徹の一言に尽きる。本人に責任があるとないとに拘わらず、企業に災いをもたらす者は容赦なく切り捨てられるのだ。
まして、工藤は寿明電機から移ってきた、いわば外様《とざま》だ。このトラブルに巻き込まれたときから、なかば亜紀商事を馘首《くび》になったも同然だった。そこには、どんな希望も入る余地がない。
──まったく、とんだトラブルに巻き込まれたものだ……工藤はいまさらながらに自分の不運を嘆く気持ちになっている。愚痴っても益のないことだが、まったくとんだトラブルに……工藤の表情がふいに引き締まった。虚空を見つめているその眼に、奇妙な光が宿り始めている。
──トラブルに巻き込まれた人間には、難を避けるためなら、他者を巻き込む資格があるのではないか……工藤の脳裡に浮かんだその言葉は、ほとんど論理の体《てい》を成していなかった。むしろ、こじつけというべきだったろう。だが、力もなく、他者からのどんな援助も望めない工藤には、それは万止むを得ない|こじつけ《ヽヽヽヽ》ではないだろうか。
工藤はとてつもなく危険なババ抜きを考え始めている。ババを手にした者は、生命を狙われることになるのだ。確かに、今、ババは工藤の手のなかにある。問題は、このババを次に抜きとるべきは誰かということだ。
誰を、このトラブルに巻き込めばいいのか……。
工藤の頭脳の片隅で、なにかが小さく警鐘《けいしよう》を打ち鳴らしていた。注意しろ、警戒しろ……その警鐘が、工藤を深い想念から現実へとたちかえらせた。
──一体、なにが気にかかったのか……工藤は体を立て直し、キョロキョロと車内を見回した。別に、異常はないようだ。一様に疲れた顔をした乗客たちが、まばらに腰をおろしているだけだ。
工藤は首をかしげ、顔を前方に戻した。そして、なにが気にかかっていたのかを知ったのだ──もう長い間、視界の隅に黒い自動車が見えていたのである。その黒い自動車は、モノレールの、しかも工藤の座席と並行して首都高速を走っているのだった。
ずるっと、工藤はシートに体を深く滑《すべ》らせた。その黒い自動車の窓に、なにか光るものが見えたような気がしたからだ。気のせいかもしれない。だが、それが双眼鏡、あるいはライフル・スコープの反射ということも充分に考えられた──工藤は窓から見えている自分の頭が、いかに格好な的になっていたかを思い、冷たい汗を流した。
周囲の乗客が、工藤の姿を不審げに見ている。無理もない。両足を投げだした工藤の姿勢は、いかにも奇態なものだったからだ。
工藤は、大井競馬場駅でモノレールから降りた。モノレールから降りたときには、すでに誰《ヽ》を巻き込むべきかを決めていた。
──建て売り住宅が建ちならんでいる、都心から電車で一時間三十分ほどの新興地だ。店の数もまばらで、なにか西部劇の|急拵《きゆうごしら》えの町のように見える。舗装が充分でないのか、ひどく埃っぽい町である。
若い夫婦が多いこの町では珍しいことなのだが、今朝は|ここ《ヽヽ》から葬式が一つ出た。積木でできているような町に、葬式は似つかわしくない感じだ。葬式の真似ごとが行なわれているようにしか見えなかった。
冷たい北風の吹くなかを、弔問客が黙々と列をつくっている。読経《どきよう》の声が、その風にちぎれちぎれに聞こえていた。
梓靖子の姿もまた、その弔問客のなかに混じっていた。靖子の美貌は、喪服を着るとひときわ目立つようだ。妖艶という形容こそふさわしかった。
靖子は、この葬式に関してはなんの感懐も抱いていない。靖子にとって、斉藤はほとんど面識もない人物に等しい。その死を悲しめというほうが無理だった──靖子は、単に漆原の代理という形で参列しているのみなのだ。
だが、斉藤の異常な死に方には、靖子も無関心ではいられない。自動車が爆発して死ぬなどという事件は、この殺伐とした世の中でもちょっと類を見ない。一応は、落盤事故での部下の死に責任を感じた斉藤が、エンジニアの才を生かして爆弾をつくり、自らの生命を絶ったということになっているが、警察はもちろん、靖子もそんな説明を信じてはいなかった。
漆原が代議士たちに働きかけ、警察の捜査に圧力をかけていることが、なおさらに靖子の疑惑を強いものにしていた。一体、ランキーマに派遣されていたセールス・エンジニアたちの身になにが生じたのか。いや、そんなことより、いまだに姿を現わさない工藤は無事でいるのか……。
靖子はいつしか自分の指が数珠《じゆず》をもみしだいていたことに気がついた。工藤のことを想うと、つい平静さを失ってしまうのだ。正直、靖子は自分の気持ちがこれほど工藤に傾斜していたのかと、驚きを覚えていた。
「やあ、梓さん」
朗《ほが》らかな声とともに、靖子は背後から肩を叩かれた。
「専務の代理でいらしたのですか」
振り返った靖子の眼に、『社史|編纂《へんさん》室』の佐文字《さもんじ》公秀《きみひで》の姿が映った。不謹慎にも、いかにも嬉し気に笑っている。
「ああ……佐文字さん」
靖子はかすかな狼狽を感じた。こんな場所で、口説《くど》かれでもしたら外聞が悪いと思ったからだ。佐文字ならやりかねない。なにしろ社長の訓辞中に、右隣りに立っていた女子社員を口説き、色よい返事がもらえないと覚ると、一変して左隣りの女子社員に囁きかけ、ついには二十メートル向こうの女子社員にラブレターの紙飛行機を飛ばしたという伝説の持ち主なのである。その紙飛行機が社長の頭に当たり、減俸処分を受けたのはいかにも佐文字には気の毒な話だが。──とにかく、靖子が佐文字に口説かれたこと、二度や三度ではない。
「いやァ、美人の喪服姿というのはいいもんですな」佐文字がさっそく始めた。
「ぼくは、まったく惚《ほ》れ直しましたよ。いいなァ、綺麗だなァ」
「………」
靖子は思わず唇が緩《ゆる》みそうになった。こんな佐文字が女子社員たちから嫌われていないのも、彼が天真爛漫《てんしんらんまん》そのものだからだ。佐文字のなかには、悪意の一片すら見つけだせない。すべての女性は美しいと、しんそこから信じきっているのだ。佐文字が、世のカザノヴァたちと一線を画している所以《ゆえん》だった。
その名前から知れるように、佐文字は公家の血を引いている。江戸からこっち、時代の変転にも関わらず、ずっと赤貧洗うがごとくの暮らしを送ってきたという、由緒《ゆいしよ》正しき家柄なのだそうだ。そう聞かされると、なるほど、多少|逞《たくま》しさには欠けるものの、佐文字が実に上品な、いい顔をしていることに気づかされる。
ただし、女子社員たちをして、佐文字の求愛を受け入れることをためらわせるのには、彼のユニークな個性に原因があった。佐文字は徹底して無能なサラリーマンだったのである。彼が『社史編纂室』などという閑職に追いやられているのも、故《ゆえ》のないことではないのだ。
「シッ、シッ……」靖子は笑いながら、小声《こごえ》で佐文字を追い払う真似をした。
「場所柄をわきまえなさい。今は、あなたの相手をしてられるときじゃないのよ」
「冷たいなァ」佐文字はことさらに寂しげな表情をつくって見せた。
「仕方ない。退散するとしますか」
ほほ笑みながら佐文字の後ろ姿を見送っていた靖子は、周囲の視線に気がついて、慌てて元の殊勝な顔に戻った。
──葬儀の列から離れた佐文字は、自分の小さな国産車に向かって歩いていった。そして窓から覗《のぞ》き込み、なかの人間に囁いた。
「別に、怪しい奴は混じっていないみたいですよ」
「そうか」後部座席に上半身を寝かせている男がうなずいた。
「どうも、済まなかったな」
工藤篤だった。
──葬式の後、靖子はタクシーを拾って、南麻布《みなみあざぶ》の会社に戻った。更衣室で手早くスーツに着換え顔を少し直してから、専務室に向かった。
「行ってまいりました……」
靖子の報告に、漆原は無言のままうなずいて返しただけだった。その表情が、いつになく放心しているように見えた。その日の漆原には、いつにも増して男性的な魅力があった。日常、見慣れているはずの靖子さえ、フッと心が動くのを感じたほどだ。
靖子は専務室の自分のデスクにすわり、朝からたまっていた書類の整理を始めた。靖子が、最も心安らぐときだ。この種の仕事に喜びを感じられるからこそ、靖子は有能な秘書でいられるのだ。
だが、──今日に限って、靖子は仕事に神経を集中できない自分を感じていた。奇妙な、もどかしさを覚える。いつもの、あの予知能力めいた感覚が働き始めているようだ。なにか、体の底に疼《うず》くものがあった。
──なんだろう?………靖子は手を休めて、ボンヤリと室内を見回した。異変の兆《きざ》しになるようなことは何もない。部屋は、いつものように静まりかえっていた。
靖子は、その異変を待ちわびている自分に気がついた。悪い予感ではないのだ──もしかすると……靖子がそう眼を輝かしたとたんに、電話のベルが鳴り響いた。
靖子はなかば引ったくるようにして受話器を取っている。
「はい、専務室です……」靖子が自分の声を平静に保つのには、かなりの努力を必要とした。
「漆原専務とお話ししたいのですが……」相手の声は低かった。
「どちらさまでしょうか」
「『原発課』の工藤といいます。緊急な用件で、ぜひ専務にお話ししたいことがあるのですが……」
「………」
一瞬、靖子は喉がつまるのを覚えた。予感がまたしても的中したのだ。工藤の名を大声で呼びたいような気がする──彼女がかろうじてそれを思い止《とど》まったのは、会社のパーティでいちど言葉を交わしたきりの自分を、工藤が憶えていないかもしれないと考えたからだ。
「しばらく、お待ちください」
靖子はこの部屋に居るかぎり、女であるより先に秘書なのである。なによりも、業務を先行すべきだった。
「専務……」靖子は、インターフォンのスイッチを押した。
「『原発課』の工藤さんという方からお電話です」
「………」
珍しいことに、漆原の声が返ってくるまでに間《ま》があいた。いつもの漆原の、|切れ《ヽヽ》の鋭さが失われているようだ。
「つないでくれたまえ」やがて、漆原の奇妙にかすれたような声が聞こえてきた。
「はい……」
靖子は電話を切り替え、しばらくためらった後にインターフォンのスイッチをオフにした。このときほど、自分の職業的倫理感が恨めしく思えたことはなかった。
──受話器を耳に当てる漆原の顔が、能面の無表情さだった。その眼は、何も見ていない。
「漆原だ……」
「『原発課』の工藤です」
「なぜ、会社に無断で、帰国の日を変更したりしたのかね」
「さっそくのお叱りですか」工藤の声に苦笑が滲《にじ》んだ。
「ああでもしなけりゃ、殺されると思ったものですから」
「殺される? どういうことだ」
「専務はすでにおわかりのことと思いますが……」
「………」
二人をつなぐ電話線に、重苦しい沈黙が満ちた──漆原は、工藤が意外なほど強腰《つよごし》であることに驚いている。まんざら、虚勢とばかりも思えない。普通なら、平社員ごときは、天上人《てんじようびと》である漆原に声をかけられただけで上《うわ》ずってしまうはずなのだが……。
「そう」と、漆原はうなずいた。
「|わかっている《ヽヽヽヽヽヽ》」
「お互いのために、早急《さつきゆう》にお会いしたほうがいいと思うのですが……」
「明日の午後二時」さすがに漆原の決断は早かった。
「北丸《きたまる》カントリー・クラブでどうかね」
「ゴルフ場でお会いするのですか」工藤の声にわずかに疑念の響きが含まれたようだ。
「下手な密室で話すより、広いゴルフ場で話したほうが他人《ひと》に聞かれる心配がない」漆原の口調は断乎としたものだった。
「あそこなら造成中の段階だし、寄りつく者も少ないはずだ」
「わかりました。では、明日二時に……」
その言葉を最後に、工藤は電話を切った。
漆原はなおも受話器を耳に当てたままでいる。その顔に、けっして他者には見せない冷酷な表情が浮かんでいた。
──電話ボックスを出る工藤の額に、うっすらと汗が滲んでいる。電話で話しただけで、漆原専務になかば圧倒されてしまったようだ。正直、弱味を感じさせないようにすることが、工藤にできる精いっぱいの努力だった。
だが、今、新宿の街を歩く工藤の表情は明るかった。これまで逃げまどうばかりだったネズミが、ようやく猫を咬もうと反撃に打って出たのである。
──翌日の午後、漆原の姿は北丸カントリー・クラブにあった。
冬枯れの芝生が斑《まだら》にひろがる、妙にわびしい風景だ。鈍色《にびいろ》の空には、陽光がわずかに滲んでいるだけだった──そんな寒々とした風景のなかで、漆原の姿は孤影と呼ぶにふさわしくいかにも寂しげだった。
時刻は、疾《と》うに午後の二時を回っていた。
漆原のような男は、待たされるのには慣れていないはずだ。遅れているのが自社の平社員だとしたら、なおさらに待たされることに憤りを覚えて当然だろう。当然のはずだが、漆原の表情には|けほど《ヽヽヽ》の苛立《いらだ》ちの色も見られなかった。
どこに身を置いても絵になる男だ。長身痩躯、その意志的な顎が、漆原の男《ヽ》をなにより雄弁に物語っていた。亜紀商事を双肩に支えて、身じろぎもしない男の表情だ。
漆原の他に、人影はまったく見えない。
風が吹き始めていた。枯れ芝生が獣の背のようにそよいでいる。
漆原は腕時計に視線を落とした。さすがに、眉《まゆ》をしかめる。もう約束の時刻を、三十分強も過ぎているのだ。
漆原にためらいはなかった。亜紀商事の専務ともなれば、それこそスケジュールは分刻みに決まっているのだ。三十分の遅刻は、もう許容の範囲を越えている。漆原は確実な足どりで、待たせてある自動車に向かった。
──クラブの駐車場に、運転手の姿は見えなかった。職務に忠実な男で、めったに自動車《くるま》から離れるようなことはしないはずなのだが……ここに至って、漆原の顔にはっきりと不機嫌な表情が刻み込まれた。やることなすことうまくいかない、どうやら今日はそんな一日であるようだ。
漆原が自動車のドアに手をかけたとき、背中になにか冷たいものを感じた。
「申し訳ありませんが……」と、背後から囁く声があった。
「専務には運転席に乗っていただきます」
「………」
漆原は驚きも、慌てもしなかった。ゆっくりと肩越しに振り返り、自分にナイフを突きつけている男の顔を確かめる。
「春闘までにはまだ間《ま》があると思うんだが……」漆原の声にはこれをおもしろがっているような響きさえ含まれていた。
「工藤君、これは何の真似かね」
「ぼくもこんな真似はしたくないんです」むしろ、工藤の声のほうが震えているようだ。
「とにかく、運転席にすわっていただけませんか」
漆原は肩をすくめると、扉を開け、運転席に体を滑り込ませた。漆原の沈着な身のこなしに比して、工藤の動きは実にうろたえきったものだった。扉を開けると、ほとんど飛び込むようにして、後部座席に身を横たえている。
「運転手はどうしたのかね?」漆原は前方を見据えたまま訊いた。
「トイレで騒いでいるはずです」と、工藤は答えた。
「トイレに入っている隙に、針金でドアのノブを固定したんです」
「ひどいことをする……」漆原は苦笑した。
「ひどいことをするのは専務のほうじゃないですか」
「そうかね?」
漆原がさらに苦笑を大きくしたとき、座席《シート》の一点に圧力がかかるのを感じた。工藤が座席に当てているナイフに力を加えたのだ。
「とにかく、自動車を出してください」工藤の声は切迫感に充ちていた。
「私が運転するのかね」
「たまには、ご自分で運転なさるのも気が変わっていいでしょう」
「何年ぶりかな……」
漆原はそう呟きながら、イグニション・キーに手を伸ばした。
──工藤の命じるままに、漆原は自動車を都心に乗り入れ、とあるビルの有料地下駐車場に駐《と》めた。新橋の真ん中にあるというのに、一種の穴場になっているのか、駐車場には数えるほどの自動車しか駐まっていなかった。
「さあ、ここならゆっくりとお話ができます」工藤は登山ナイフを納めてそう言った。
「誰にも邪魔されずに、ね」
「どうして、ゴルフ場では話ができなかったのかね?」
漆原は肩越しに振り返ってそう尋ねた。彼は、この場の情況をおもしろがってさえいるようだ。
「冗談じゃない」工藤は吐き捨てるように言った。
「専務、あなたはゴルフをなさらないはずじゃなかったですか。そのあなたがゴルフ場に出向いたとあれば、いやでも|奴ら《ヽヽ》の眼を引くことになる。利口なあなたが、そこに気がつかないわけはないんですがね」
「奴ら……?」
「惚《とぼ》けないでください」工藤の声には怒りの響きが混じった。
「そうか……」
だが、漆原はまったく臆した様子を見せず、ただ静かにうなずいたのみだった。
「きみは気がついていたのか」
「会社にとって、ぼくは死んだほうがいい人間だ」工藤は懸命に怒りを圧さえようとしているが、声が震えたのがその努力を裏切っていた。
「ぼくが死ねば、会社はアグニの爆弾のことを知らぬ存ぜぬで通せますからね。だから、わざと他人の不審をかうようなゴルフ場を、会見場所に選んだんだ。ぼくが狙撃でもされれば、好都合だと思ったんでしょう……それに、クラブのほうには、会社お抱《かか》えの総会屋が何人か|とぐろ《ヽヽヽ》を巻いていましたね。CIAが手出しをしてこなければ、奴らにぼくを始末させるおつもりだったんでしょう」
「始末させるというのは、言葉が穏やかじゃないな」
漆原はタバコを咥《くわ》え、火を点《つ》けた。虚勢ではなく、心底からくつろいでいるのだ。
「ただ、連中に頼んで、きみを精神病院に連れていってもらおうとは考えていたがね」
「精神病院に……」工藤は絶句した。
「そう……」紫煙を吐きながら、漆原は楽しそうに頷いた。
「|あそこ《ヽヽヽ》に二年なり、三年なり入っていてもらえば、きみも安全だし、会社にも迷惑がかかることはない。もちろん、その費用は会社で全額負担するつもりだがね」
「ぼくが何をしたというんですか」工藤がなかば悲鳴のように言った。
「ただ、原子力発電所アグニに爆弾が仕掛けられていることに気がついただけじゃないですか」
「なにを甘いことを……」一瞬、漆原の眼に鋭い光が宿った。
「きみが何をしたか、あるいはしなかったかなどということは、この際、問題じゃない。問題なのは、きみの存在そのものが会社に害を及ぼす危険があるということだ」
「だから、駆除《ヽヽ》する……」
「そうだ」
「それが、大企業の倫理《モラル》というやつですか」
「それが、大企業の倫理《モラル》だ」
漆原はいささかのためらいもなく、そう言い切った。この男にしてはじめて可能な、凄《すさ》まじいほどの自信だ──亜紀商事をがっしりと双肩に支えている漆原には、およそ正義という言葉ほど空《むな》しいものはなかったろう。
車内には、真空状態の沈黙が満ちていた。すでにこの時点で、工藤と漆原の話が平行線をたどるしかないことは明らかだった。漆原に代表される亜紀商事は、まったく工藤を助ける意志がないのである。
「専務は噂どおりの方だ……」工藤が凍りついたような声で言った。
「冷徹で、およそ亜紀商事の利益になることしか考えていない……」
「光栄だな」と、漆原はうなずいた。
「亜紀商事をここまでにしてきたのは私の力だ。いわば、亜紀商事は私の子どものようなものだからな……人間はいくらでも取り替えがきく。優秀な人間も、愚かな人間も、ね。だが、亜紀商事はひとつだ。この世に、ひとつしかないんだよ」
「斉藤さんが気の毒だ……」工藤は眼を伏せている。
「あの人は会社を信じていた。会社が助けてくれると信じていたんだ」
「古い人間だったんだよ」
漆原がタバコを灰皿に押しつぶした。この男には似合わない、ひどく乱暴なしぐさだった。
「結局は、昔ながらの家族温情主義から脱けきれなかったんだ。きみのほうが、彼よりはるかに利口だな。会社に過剰な期待を抱いていないだけでも、ね……。
ところで、これからどうするつもりなのかね? 実際問題として、いくら逃げつづけたところで、逃げおおせるものでもないだろう。奴らは、実に執拗だからね……さっきの私の提案をもう一度検討してみてはどうかね」
「精神病院ですか」
「そうだ……実のところ、これが私たちにできる精いっぱいの好意だよ」
「好意《ヽヽ》ですか」工藤の声に嘲笑の響きが含まれた。
「正常な人間を精神病院に放り込むのが好意ですか」
漆原がふっと肩越しに視線を這わせた。工藤の態度になにか微妙な変化が生じたのを、敏感に感じとったのである。
「好意だよ」漆原が念を押すように言った。
「確か、CIAに生命《いのち》を狙《ねら》われている社員を助けるべきだとは、会社の福祉条項のどこにも記載されていないはずだからね……まあ、精神病院が嫌だというなら止むを得ない。どこまでやれるか、逃げてみるんだね」
「それも嫌ですね」
ゆっくりと顔を上げた工藤の眼は、今、奇妙に獣めいた光を帯びていた。老練な漆原をもたじろがせるほどの気迫がみなぎっている。
「専務のおっしゃったとおり、とうてい逃げきれるものじゃないですからね」
「子どもみたいなことを言うもんじゃない」漆原は自然に叱《しか》るような口調になっていた。
「精神病院に入るのも嫌、逃げるのも嫌……じゃあ、一体、どうするつもりなんだ」
「専務はこうはお考えになったことはないですか」工藤の声は、異常を感じさせるほどに静かだった。
「企業が安泰でいるために社員を犠牲にするのも止むを得ないのだとしたら……その逆も、また止むを得ないのではないか、と」
「その逆……?」
「社員ひとりの生命《いのち》を救うためだったら、企業が犠牲になるのも止むを得ない」
「どういうことだ?」
漆原は、その表情にはじめて狼狽の色を走らせた。
「ぼくが殺される、あるいは行方不明になった場合、一通の手紙が新聞社に届けられる手筈になっています」工藤は落ち着いた口調で言った。
「その手紙には、原子力発電所アグニの爆弾の件がすべて記されています。亜紀商事がそのことを知っていて、なんら手を打とうとしなかったことも……ぼくは、どうせ会社が助けてくれっこないことを予想していましたからね……マスコミは大騒ぎしますよ。亜紀商事がどんな社会的制裁を受けることになるか、考えるだけでも恐ろしい気がしますね」
「きみは……」さすがの漆原も我を失ったようだ。
「きみは自分ひとりの生命のために、亜紀商事四千人の社員を犠牲にしてもかまわないと言うのか」
「専務は、斉藤さんのことを古い人間だとおっしゃった……」
工藤の眼に、追いつめられた者に特有な炎がちらちらと燃えていた。
「だけど、ぼくに言わせれば、専務もまた古い人間のひとりです。大企業に温情主義は通用しないと言いながら、社員には忠誠を期待している……冗談じゃないですよ、会社が利益のために平然と社員を切り捨てるなら、社員だって生命《いのち》のために|会社を切り捨てて《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》当然じゃないですか」
「きみは、それでも亜紀商事の社員か」
「確か、CIAに生命を狙われた場合、会社を盾《たて》に使ってはならないとは、社員規則のどこにも記されていないはずですがね……」
「|うち《ヽヽ》も大変な男を飼っていたものだな」漆原の唇にふっと苦笑が浮かんだ。
「こともあろうに会社を脅迫するとはな……どうやら、これは私の負けのようだ。それで? きみは会社に何を望んでいるんだね? どうすればきみの満足がゆくのかね?」
「原子力発電所アグニから爆弾を取っぱらうんです」工藤が平然と答えた。
「そうすれば、|奴ら《ヽヽ》にぼくを狙う理由がなくなりますからね。社員のなかから何人か選《よ》りすぐって、そのためのチームを結成するんですよ。幸い、|うち《ヽヽ》は商社だ。武器なんか揃えるのはお手の物じゃないですか」
漆原の顔があまりのおどろきに醜く歪《ゆが》んだ。工藤の言葉は、漆原が想像すらしていなかったもののようだった。
「き、きみは……」漆原は喘ぐように言った。
「きみは、亜紀商事にCIAと戦争《ヽヽ》させるつもりなのか」
──送迎デッキの人込みのなかに、ソ連大使館の駐在員の姿が見えた。熊のような巨体を手摺《てすり》に持たせかけて、ジッと滑走路を見つめている。その右手に握られている八ミリが、体の一部のようによく以合っていた。
駐在員は滑走路を見るのに熱心なあまり、|背後からの視線《ヽヽヽヽヽヽヽ》に気がついていないようだった。その広い背中が、まったく無防備の隙《すき》を見せている。彼のような職業の男には、ありうべからざる|うかつさ《ヽヽヽヽ》といえたろう。
大使館駐在員の身分で来日しているものの、その男は実は|KGB《カーゲーベー》の極東派遣員なのである。破壊工作などの荒事《あらごと》には関与しないが、情報収集にかけては相当の腕ききと伝えられている。現に、今も、リリー≠フ来日を知って、こうして送迎デッキに陣どっているぐらいだ。八ミリを持っていることから見て、まだリリー≠フ人相は割れていないと考えていいだろう。とにかく、問題のジェットから降りる乗客は、悉《ことごと》くフィルムに収めておこうというわけだ。
ローズ≠ヘその駐在員の背中を見ながら、しきりに考えをめぐらしている。肚《はら》が立つのは、暗号がKGBに解読されていたことである。すぐさま『暗号課』に連絡をとって、現在の暗号コードを破壊させる必要があるだろう。それはそうとして……。
ローズ≠ヘ、その駐在員がリリー≠フ姿を八ミリに撮《と》るのを、なんとしてでも阻止しなければならなかった。この情況では、実に困難な仕事といえた。いかにローズ≠ナも、衆人環視のなかで暴力を働くわけにはいかなかったからである──その駐在員が周囲になんの警戒も払っていないのも当然だったかもしれない。ハリウッドのスターが来日するとかで、今日の送迎デッキには夥《おびただ》しい数の人が集まっている。そのうえ、冬の陽光が思いがけないほど強く、明るい。陰惨な世界に身を置くのを常とするスパイも、これでは警戒のしようがなかったろう。
ローズ≠ヘタイミングを測っている。外見《そとみ》からではわからないが、その筋肉がある目的に向かってぎりぎりと絞られつつあるのだ。
問題のジェットから、乗客がタラップを降り始めた。送迎デッキの群集が、わっと手摺《てすり》に押し寄せる。駐在員が八ミリを構えるのが見えた。
ローズ≠フ体が、魔法のように群集の間をすり抜けた。あらかじめ狙いを定めておいた若い娘の背中に、ローズ≠フ肱《ひじ》が入る。よろけた娘が駐在員の体にぶつかり──次の瞬間には、その手から八ミリをはたき落としていた。八ミリは、送迎デッキはるか下方のコンクリート面に落ちていった。蒼白と化した駐在員が振り返ったとき、もう群集のなかにローズ≠フ姿はなかった。
──空港ロビーで、ローズ≠ヘリリー≠ニ肩を並べた。
「奴は?」と、リリー≠ェ訊いた。
「日本に戻っているのは間違いない」と、ローズ≠ェ答えた。
「しかし、あんたらしくないじゃないか。ランキーマで失敗して、バンコックで失敗するとはな」
「妙に運のいい男なんだ」リリー≠ェ鼻を鳴らした。
「どうして気がついたのか、俺がバンコックのホテルに行ったとき、奴はもう引き払った後だった……」
「だが、奴の運もそれまでさ」ローズ≠ェ笑った。
「ああ、そうだ」と、リリー≠ェうなずいた。
二人の男は肩を並べて、ゆっくりと羽田空港を出ていった。
第二章 作  戦
──靖子には珍しい服装だった。パンタロン・ジーンズに、同じジーンズの上着……白いニット・セーターの、挑戦的に突きでた胸が、道ゆく男たちの視線をいやがうえにも惹《ひ》きつけていた。
女性カメラマンの趣《おもむき》があった。靖子がそんな服装をしているのも、肩から下げているカメラを意識してのことであるのは間違いないようだ。最新流行のファッションに身をかためた女性が多いこの原宿では、靖子のラフな装いがかえって粋《いき》に見えた。
昼下がりの原宿を歩く靖子の姿は、通行人を振り返らせるほどの魅力にとんでいた。
靖子は、ただ原宿の街を散歩しているだけではなさそうだ。その眼が、しきりに建ち並ぶビルの屋上をさまよっている。被写体を探し求めるカメラマンという態《てい》である。
やがて、靖子は小さな溜息をつくと、おりから走ってきたタクシーに向かって片手を上げた。
──数十分後、靖子の姿は新宿にあった。ちょうど、休日の歩行者天国だ。俄《にわか》カメラマンの数にはこと欠かない。この街では、靖子の姿は原宿のようには目立たなかった。
家族連れ、若いカップルが多い。彼らは、つかの間の解放区を充分に楽しんでいるようだ。誰の表情にも、なべて穏やかな微笑が浮かんでいた。
靖子は、歩行者天国にはそれほどの興味を抱いていないらしい。あい変わらず、その眼がビルの屋上をさまようのに忙しい。表情にかすかな焦燥の色が滲みでていた。
ふいに、靖子の双眸がぱっと明るくなった。とうとう、目ざしていたものを見つけたようだ──レンズの蓋を取るのさえも気忙《きぜわ》し気に、靖子はカメラを構えた。
被写体は──ビルの屋上でクルクルと回っている薬品会社の広告塔だった。
──地下室の電球が、ちりちりと音を立てて揺れ始めた。コンクリートがむきだしになっている壁に、光が踊った。
工藤が立つ湿った地面も、小波《さざなみ》のような揺動を伝えている。電車が発する金属の咆哮《ほうこう》が、狭い地下室に満ち──工藤が拳銃の引き金を絞った。一方の壁に積み上げられている土嚢《どのう》から、ぱっと土煙が立った。
工藤は渋面をつくった。肝心の的が無傷のままなのだ。工藤はこれまで八発の弾丸を費やし、その悉《ことごと》くを外していた。
電車が通過したようだ。地下室に、再び静寂が戻ってきた──工藤は忌々《いまいま》しげに拳銃を見つめると、あきらめたように腰のホルスターに納めた。
ベレッタ自動拳銃・M一九五一……まずまず初心者には手頃な銃といえる。専門家たちの間では、いささか馬鹿にされている銃なのである。が、──それさえも、工藤にはあつかいかねるようだ。先天的に、銃に関する才能が欠如しているとしか思えない。
工藤は憮然としている。護身用に渡された銃さえ満足にあつかえないようでは、これからが思いやられる。確かに、商社には武器は不足していないが、その武器をとりあつかえる商社員には大いに不足しているのである。爆弾|撤去《てつきよ》作戦の前途は、はなはだ暗いといわねばならなかった。
工藤は、またしても小虎《シアオフー》の言葉を想い出している──この社会では、アマがプロに勝つなどということは絶対にあり得ない……残念ながら、工藤もその言葉を認めざるを得ないようだ。数時間を費《つい》やして、なお銃の腕があがらぬことは厳然とした事実だからだ。
だが、いずれにせよ工藤にはフラワー・チルドレン≠フエージェントたちと、真正面から戦うつもりはなかった。いや、むしろその戦いを避けるためにこそ、爆弾を撤去するのだともいえた。この際、銃のあつかいに熟達するのはあきらめたほうがよさそうだった。
工藤は潔《いさぎよ》く腰からホルスターを外して、地下室の階段を登り始めた。
──東京郊外の私鉄沿いにある|この《ヽヽ》建物は、亜紀商事の傘下にある某不動産会社の所有するものである。なんでも元は暴力団の幹部の持ち家だったそうで、その堅牢さは常軌を逸していた。外見《そとみ》からはわからないが、建物のコンクリート壁には余すところなく鋼板が差し入れられているのである。よほど破壊力の大きな爆弾でないと、この建物を爆破するのは困難だろう。
さらには、建物の窓という窓には、悉《ことごと》く同じ鋼板のシャッターが降りる造りになっている。警備のためもあったろうが、これはむしろ、誰からもなかを覗かれないように設《しつら》えたもののようだ。ここで、よく博奕が行なわれたからである。
東京郊外の、あまり人眼につかない場所に建てられているという地の利もある。
工藤が身を隠すのに、これ以上に適した建物はなかったろう。
──工藤は一階の部屋に上がり、冷蔵庫から牛乳を取り出し、一気に飲んだ。少なくとも、その顔からは逃げつづけていたときの|あの《ヽヽ》ネズミのような表情は消えていた。本来の、我《が》の強そうな表情に戻っているのだ。
工藤は牛乳を飲み干すと、しばらく前方の床を見つめていた。その視線は、床に取りつけられてある三十センチ四方ほどの板に向けられている──ふいに、工藤は大股でその板に向かって歩き出した。
工藤の靴が板を踏んだ。
工藤は眼を閉じ、唇を歪めた。柱に据えられているベルが小さく鳴り始めたのである──板から靴を離す。ベルの音が止んだ。
原理としては、自動ドアとなんら変わるところがない。ドアが開く代わりに、ベルが鳴るだけのことである。ほとんど子ども騙《だま》しの仕掛けといえるぐらいだ。
だが、──この仕掛けが百メートルの幅で、原子力発電所アグニを取り囲んでいるとなると、もう子ども騙しと笑っていられなくなる。触圧反応装置の施設は、いかなる者の潜入もほとんど不可能にしているからである。
工藤は、なにか途方にくれたような表情で部屋を見回した──広いだけで、およそ殺風景な部屋だ。机を除いて、調度らしいものがまったくない。窓すら、カーテンの代わりにシャッターで閉ざされているという徹底ぶりだ。
工藤は一方の壁に歩み寄り、映写幕を下ろした。つづいて、照明のスイッチを切る。手探《てさぐ》りで机まで歩き、そこに据えられている八ミリ映写機の操作を始める。
映写幕を、蒼い空が染めた。雲ひとつ浮かんでいない、正真正銘の蒼空だ。東京に住むかぎり、この種の蒼空を見ることは永遠に望めない。
カメラの角度が変わった。ゴルフ場に似た平坦な草地が、画面の下に入ってきたのだ。遠くに、灌木《かんぼく》の茂みが見える。
工藤は眼を凝《こ》らしている。これから何を見ることになるか充分に承知してはいたが、それでもなお工藤は映写幕から眼を離そうとはしなかった。
灌木の向こうに、ポッカリと赤いバルーンが浮かんだ。空と、バルーンとの色の対照が眼に鮮やかだ。童話のなかの一場面のような趣さえあった。
バルーンはほぼ地上十メートルの高度を保ちながら、|こちら《ヽヽヽ》に向かってゆっくりと漂ってくる。バルーンがしだいに画面に大きくなるにつれて、ぶら下がっている人間の姿がはっきり形を取り始めた。気球のように、バスケットに乗っているのではない。パラシュートのハーネスに腰をおろし、ぶら下がっているのである。
工藤の瞼がぴくりと痙攣《けいれん》した。画面のなかの、バルーンの操縦者にすっかり感情移入してしまっているのだ。今しも、バルーンが高度を下げつつあった。
操縦者の足が地に触れた。と同時に、その足が地を蹴り、再びバルーンは上昇した。まさしく、人間古来からの|空を歩きたい《ヽヽヽヽヽヽ》という願望が、そこにかなえられた感があった。
工藤はなんとはなしに溜息を洩《も》らし、八ミリ映写機のスイッチを切った。椅子を立ち、部屋の照明を点ける──それだけの動作でもう疲れたかのように、工藤は再び椅子に腰をおろした。
かすかに、電車の通過音が聞こえてくる。部屋には、地下室ほどには電車の通過が影響しないのだ。
「ジャンピング・バルーンか……」と、工藤は口のなかで呟いた。
ジャンピング・バルーンはガス気球の一種である。第二次大戦中の風船爆弾の初代隊長だった人物が、戦後になって開発したもので、新しいスポーツとしてあまねく世界に紹介されている──体積約百立方メートルの水素、もしくはヘリウムを使用し、ちょうど一人の人間を持ち上げるだけの浮力をつくりだす。浮力を下向き一キログラムぐらいに調整すれば、ぶら下がっている人間の足の力だけで、数十メートルの高さまで飛び上がることが可能なのである。
浮力一キログラムほどの小気球を併用すれば、そうとうの距離を飛ぶことができるようだ。少なくとも、百メートル幅の触圧反応地帯を飛び越すのにはなんの支障もないだろう。降りたくなったら、小気球を離せばそれでいいのである。
工藤がジャンピング・バルーンを使うことを思いついたとき、つかの間有頂天になったものである。この作戦の、致命的な欠点に気がつくまでのほんのつかの間。──ジャンピング・バルーンは絶望的なほどに大きすぎるのである。工藤もまだ実物を見たことがないから、詳しい数字はわからないが、おそらくバルーンの直径は十メートルを越えるだろう。
原子力発電所アグニには、三つの監視塔が設けられている。駐留インド軍による警戒もなかなかに厳重だ。その上空を巨大なバルーンが無事通過するには、幸運をではなく、それこそ奇跡を期待しなければならないだろう。
万にひとつ、その奇跡が達成されたとしても、タービン施設の屋上に設置されている|対テロリスト《ヽヽヽヽヽヽ》・|レーダー《ヽヽヽヽ》をも、すり抜けるのは不可能な話だ。
工藤は呻《うめ》き声を上げた。呻きながら、もういちどアグニに潜入する際の障害を頭のなかで数え始めた。
──第一に、ランキーマの地に達すること自体がすでに難問といえた。中国との国境に近いという事情から、原子力発電所アグニは軍事施設に等しい|あつかい《ヽヽヽヽ》を受けている。当然のことながら、ランキーマに足を踏み入れる外国人は、官憲の強い監視の下に置かれると見なさなければならないのである。
ニューデリーからランキーマに赴《おもむ》く場合、多くは鉄道を使うことになる。戦前に開通された単線軌道で、岩塩事業がすたれた後は、ほとんど廃線のようになっていた。それが原子力発電所建設が決定されたとき、資材運搬、人員輸送のため再整備され、使用されることとなったのである──そんな事情から、一般に開放されている普通客車は、二日に一本しか走っていない。その列車の客が、警察から厳重にチェックされることは言うまでもないだろう。
ランキーマに入る自動車道はただ一本、鉄道とほぼ並行して走っている。この自動車道も、原子力発電所建設が決定される以前は、ほとんど一台の老朽バスが走るのに使用されるのみだった。それが拡張されることになったのは、やはり、資材運搬の用からだった。幾つかの検問所が設けられ、一般の自動車が厳しくチェックされるのも、鉄道の場合となんら変わりない。
工藤たちが旅行者を装い、ボストンバッグひとつでランキーマに行くならまだしも方法があるかもしれない。だが、原子力発電所アグニに潜入するにはさまざまな装備を必要とする。重装備の外国人が足を踏み入れるには、ランキーマという土地はあまりに自然の要害でありすぎるのだ。
工藤は唇を歪《ゆが》めた。これは、まだ序の口なのだ。アグニに潜入することを考えれば、ランキーマの地形から生じる障害など、障害の名にも価《あたい》しないぐらいだ。まことに、原子力発電所アグニは、難攻不落の要塞もかくやと思われるほどの鉄壁の防禦網《ぼうぎよもう》を擁しているのである。
「|巨人の足《ビツグ・フツト》」の踵《かかと》に相当する地域、その左端にランキーマなる小さな町が存在する。従来、ランキーマといえば、この町を指していたわけで、鉄道、自動車道、いずれもここを経由して、山岳の岩塩坑に向かっている。岩塩坑が廃坑となった後は、この町は急速にすたれていき、現在では二十所帯ほどを余すのみである。
この町から原子力発電所アグニまではおよそ五十キロ、ただただ茫漠《ぼうばく》たる荒野がひろがっているだけなのだ。この荒野を赴《い》く者は、他者の眼から身を隠すことを断念しなければならないだろう。わずかに、藪《ブツシユ》が点在するのみなのだ。
荒野には、常にインド陸軍による哨戒|無限軌道車《キヤタピラ・カー》が巡回している。地雷こそ埋められていないものの、踏んだだけで発射される仕掛けになっている照明弾が、地のいたるところに設置されている。この荒野では、夜の帳《とばり》も潜入者の味方とはなってくれないのである。
自動車道、もしくは線路の上を歩くことは問題外だ。哨舎と遮断機から成る検問所を突破することの難しさもさることながら、二十四時間パトロールの武装哨戒自動車に発見されるのは必至だからである。哨戒自動車の兵士たちは、誰であれ自動車道、もしくは鉄路の上を歩いている者を発見した場合、発砲することを許可されている。誰何《すいか》の要さえないのである。
中国の国境を越え、はるばると山岳を下ってくる二本の大河は、「|巨人の足《ビツグ・フツト》」の親指の付け根あたりで一本に合流する。河幅はおよそ三十メートル、工藤も一度はこの河を遡《さかのぼ》ることを考えた。だが、──エンジンつきのボートでも使わなければ、流れに逆らって進むことは不可能だ。そして、噂では、河底に幾つか、音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》が据《す》えられているということになっていた。
この警備ぶりは、いささか常軌を逸していた。いかに軍事施設のあつかいになっているとはいえ、アグニはミサイル基地ではなく、原子力発電所なのである。インド政府がどれほど中国のスパイの潜入を警戒しているかの証左といえた。
偏執的な警戒ぶりは、原子力発電所アグニに近づくにつれ、さらにその度を増していく。
まずは、原子力発電所アグニを百メートル幅で取りまく触圧反応装置の施設だ──工藤はここまで考えて、忌々しげに床の板に眼をやった。まったく、触圧反応装置は、子どもが足を踏み入れただけでも、大仰な悲鳴を上げやがるのだ。重装備の男が、触圧反応装置を反応させずに、その上を歩くのは不可能といわねばならなかった。
そして、三重に撚《よ》り合わせた有刺《ゆうし》鉄線が、二・五メートルの間隔をおいて、二重に原子力発電所敷地を取り囲んでいる。有刺鉄線の上端には、高圧電流が流されていることはいうまでもないだろう。よしんば有刺鉄線にゴム製の梯子《はしご》をかけるのに成功したところで、その梯子の上から、二・五メートル離れた内側の有刺鉄線をも飛び越えるようにジャンプするのは、不可能な業《わざ》ではないだろうか。もしジャンプに失敗して、柵の内側に落下した場合は、──|そこ《ヽヽ》に放し飼いになっている十数頭のドーベルマンが丁重にもてなしてくれる。
線路は、原子力発電所アグニの敷地に引き込みになっている。自動車道も、山岳の岩塩坑に折れる地点で二方向に分かれ、アグニの敷地内にまで新たな道が敷かれている。当然のことながら、線路、自動車道には、触圧反応装置は設置されていないが、これまた当然なことに、その分だけ兵士による警備が強化されている。自動車道、線路が並行して入るゲートは、アグニの唯一の入り口で、その右端に鉄製の監視塔が据えられている。文字通り、蟻《あり》の這《は》い入る隙もないほどの、完璧な警戒ぶりなのだ。
監視塔はこの他に二つ、計三つの監視塔が放つサーチ・ライトは、アグニの敷地内にほとんど死角をつくらない。
工藤は、しだいに自虐的な気持ちになってきた。ここに、なんと数人のサラリーマンが潜入しようというのだ。
中国から下ってきた二本の河は、アグニの構内で一本に合流する。この河の水が冷却水として使用されていることはいうまでもない──要するに、二重柵は河によって、三カ所で跡切《とぎ》れているのである。だが、河幅いっぱいに強靭《きようじん》な鉄鎖が張りめぐらされているとあっては、とうてい|それら《ヽヽヽ》の口から構内に侵入するのは不可能だ。
いや、河は断じて侵入者を利するものではない。河そのものが、侵入者を阻止する警備の任を負っているのである──原子力発電所の背面に溝《みぞ》が掘られ、二本の河は人工的に連結されている。形だけから言えば、アグニは河に三方を囲まれた、三角形の土地の上に建設されていることになる。河幅はそれぞれ三十メートル、十五メートル、人工溝でも優に十メートルは越しているだろう。鉄橋がひとつ、歩行者と自動車のための橋がふたつ、いずれにも哨舎と遮断機が設けられているのである。
そして、──ここに至って、工藤は苦笑さえ浮かべた……なおかつ潜水してアグニに侵入しようとする者に対しては、ワニの歓迎が用意されている。これらの河には、熱排水を利用して、数匹のワニが放たれているのだった。
ワニのうちの一匹、|あの《ヽヽ》有名なポコモコのことを想いだして、工藤の苦笑はさらに大きなものとなった──ポコモコは、デリーに滞在していたある映画気違いのアメリカ人貿易商に、ペットとして飼われていたワニだった。その貿易商は、アボット・コステロの主演する凸凹《でこぼこ》シリーズのファンで、なかでもそのうちの一本に出てくる『ポコモコ』という狂人のことが気に入っていた。『ポコモコ・ステップ・バイ・ステップ』という言葉をアボットたちが吐くと、その狂人はどこにいても、前後のストーリーになんの脈絡もなく、襲いかかってくるのである。
そこで、その貿易商は、ペットのワニに『ポコモコ』と名づけ、『ポコモコ・ステップ・バイ・ステップ』という言葉を聞くと、興奮するように飼いならしたのである。貿易商にとって悲劇だったのは、ペットというものは成長するものであり、成長したワニは猛獣であるという点を、つい忘れていたことだった。ある日、貿易商は興奮した『ポコモコ』に片腕を咬《か》みちぎられ、発狂してしまったのだ。貿易商は本国に送還され、現在はカルフォルニアの精神病院に収容されているということだが、どうも病状は思わしくないようだ。
なんでも『ポコモコ・ステップ・バイ・ステップ』という言葉を聞くと、その貿易商は狂暴になり、手あたりしだいに周囲の人間に咬みつこうとするということだった──『ポコモコ』がどういう経路をたどって、アグニを取りまく河に放たれることになったかは、伝説もなにも語ってはいない。
──どうも嘘くさい話だな……工藤は首を振り、首を振ったのを契機に、再び思考をアグニの警備体制に戻した。
信じられないほどの幸運が作用して、侵入者が幾多の網をくぐり抜け、アグニに接近するのに成功したとする。しかし、それでもなお二重三重の警備システムが、侵入者の前に立ちはだかっているのである。まずは、あの対テロリスト・レーダーだが……。
そこまで考えたとき、テーブルの上の電話が鳴った。工藤は手を伸ばして、受話器を取った。
『私です……』靖子の声が聞こえてきた。
「どうも……」
工藤はだらしなく口ごもっている。靖子は作戦が完了するまで、工藤に協力することになっていた。漆原専務との連絡役をつかさどるわけだが、そういう事情を別にしても、工藤はなんとはなしにこの靖子という娘が苦手だった。
「クルクル回っている広告塔を見つけました……」靖子の声は明るく弾《はず》んでいた。
「写真も撮っておきました……でも、こんなこと、なんのためにするんですの?」
「後で説明します……」工藤はボソボソと言った。
「お手数ですが、写真を現像して、ぼくのところに送っていただけませんか……それから、もうひとつお願いしたいことがあるんですが……」
「なんでしょう?」
「鴉《からす》を見つけだしてきてほしいんです」
「………」
電話の向こうで、靖子が絶句するのにかまわず、工藤はもう一度念を押した。
「大きな鴉を見つけてきてもらいたいんです」
──同じ頃、漆原の姿は、青山《あおやま》のアスレチック・クラブにあった。高校生が水泳の練習に通うような凡百のクラブとは、格が数段ちがう。会員制の、それこそ自動車を購《あがな》うほどの金を積まなければ、おいそれとは入会を許されない高級アスレチック・クラブなのである。
会員は主に一流企業の重役クラス、まれに国際スターなどと呼ばれている映画俳優の顔を見ることもある。カメラ、テープ・レコーダーなどの持ち込みはいっさい禁止。──ジャーナリストの間では、『日本株式会社・体育館』と名づけられているようだ。
漆原は、中二階の小さな部屋に陣取っている。予約制になっているらしく、漆原の他に人はいない。その部屋は、なかば壁から突き出したテラスのようになっていて、壁面ガラスを透《とお》して、下階《した》のトレーニング風景を見ることができる。
万にひとつもそんなことはあり得ないが、もしも|ここ《ヽヽ》が国際競技場に使われるようなことがあれば、さしずめその部屋は貴賓席というところだろう。
漆原の視線はもう長い間、ただひとりの男に向けられている。チェアに体を横たわらせ、機械に連結されたバーベルを、飽かず持ち上げている男である──漆原の眼にもはっきりと見てとれるほど、男の筋肉は逞《たくま》しく発達し、その動きもまた実にリズミカルだった。
男はまだ若い。周囲《まわり》の人間がなべて運動不足を解消するためにここに通ってくるのに比して、男の目的は明らかに体を鍛えることにあるようだ。初老、老年の男たちのなかで、彼の動きはとりわけ精彩を放っていた。
男はふいにバーベルの器械から離れ、プール際まで歩み寄っていった。数秒、呼吸を整えていたと思うと、もう次の瞬間には、鮮やかなジャック・ナイフでプールに飛び込んでいる。男のクロールは、いかにも自分の力量に自信を持っている者に特有の、心憎いほどの余裕を見せていた。
「時間だな……」
漆原はそう口のなかで呟くと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
──漆原がアスレチック・クラブの玄関を出るのとほとんど同時に、駐車場から轟音《ごうおん》とともにポルシェが飛びだしてきて、ほんの数メートルの地点でぴたりと停まった。
「お待たせしました……」
自動車の窓から顔を出したのは、|あの《ヽヽ》男だった。
「うむ……」漆原は軽くうなずくと、自動車の扉を開け、座席に体を滑《すべ》り込ませた。
男が自動車を発進させた。ほとんど加速を感じさせない、鮮やかなドライブ・テクニックだ。
「きみの報告書は読ませてもらったよ」前方に視線を据えたまま、漆原が静かに言った。
「そうですか」と、男は無感動にうなずいた。
「ご満足いただけたのなら幸いなのですが……」
「実に、要領を得た報告書だ」
「恐縮です」
「きみの結論によると、工藤篤には、自分の死後、秘密を託すべき知人はいないということだな」
「私は結論は出しません」男は首を振った。
「ただ私が調査した限りでは、工藤が死んだからといって、なんらかの行動に出ると思われる人間は発見できなかった……それだけのことです」
「それでは、調査が不徹底だったという可能性もないではないわけだ」
「最善はつくしましたのですが……確かに、その可能性は残ります」
「工藤が誰かに殺された場合、|あの件《ヽヽヽ》を記した手紙がマスコミに渡ることがない、とは断言できんのだな」
「残念ですが……」
「………」
漆原はかすかに唇を歪めた。男を無能という理由で責めるわけにはいかない。男の調査が可能な限り完璧だったことは、誰よりもよく漆原が承知していたからだ。またその確信がなければ、漆原のような男が極秘の調査を他人に託すはずがなかった。
男の名は、須永《すなが》洋一《よういち》。亜紀商事の、いわば専属もめごと解決屋《トラブル・シユーター》のような仕事を受け持っている。亜紀商事の密命を受け、主に東南アジアを中心にして、活躍している男である。
用地買い付け、反日企業グループの切り崩し、政府要人の買収……須永の仕事は、枚挙にいとまがない。日本に帰れば、こうして漆原専務の直属調査員として暗躍し、ときには亜紀商事に敵対する総会屋の腕をへし折るような荒事《あらごと》さえしてのけることがある。
須永洋一は危険な男だ。その能面のように端正な顔からは、想像もつかないほどの暴力のプロなのだ。詩作が趣味で、今でも詩の同人誌に投稿なんかしているらしい。
「きみに相談したいことがある」
しばらくの沈黙の後、漆原がやおら口を開いた。
「はあ……」須永の表情は変わらない。
「きみの部屋で話をしよう」
それだけを言うと、漆原は眼を閉じ、座席に深く体を沈めた。
どうやら、自動車は横浜の方に向かっているようだ。
──須永のマンションは、新横浜駅の近くに位置している。芸能人、プロ・スポーツの選手などが集まっているマンションで、おそらく|この《ヽヽ》界隈《かいわい》では最高級にランクされるだろう。
海外での隠密行動の反動か、須永の日本での暮らしは極端に派手になっている。むしろ、そのことが、漆原をして須永を信用させる一因となっていた。贅沢にも禁欲にも容易に馴れる男は、結局のところ、さほど金銭には執着していないものなのだ。
須永の2LDKの部屋は、男の独り暮らしにしては、異常なほど整頓が行き届いていた。テーブルが鏡のように磨きこまれ、床には塵《ちり》ひとつ落ちていない状態なのだ。生活のにおいをまったく感じさせない。
須永は手早くオードブルをつくり、ブランデーとともに漆原の前に出した。
「いつもながら、きみのきれい好きには感心させられるね」と、漆原が言った。
「それに、料理の腕もたいしたものだ」
「料理というほど、たいした代物じゃありませんよ」須永はブランデー・グラスに眼を落としたままでいる。
「ひとり暮らしがながいから、いつの間にかあれこれ覚えてしまっただけです」
その言葉には、須永の孤独が滲み出ているようだ。謀略を生業《なりわい》とするうちに、いつしか他者との暮らしなど想像もつかなくなってしまったのだろう。
「ところで、相談だが……」漆原はふいに口調を変えた。
「きみには、今度の騒ぎがどんなことであるか、大体の察しはついていると思うが……」
「ええ……」と、須永はうなずいた。
「あくまでも、大体ですが……」
「詳しい説明は後からする……この作戦《ヽヽ》の成功率だが、何パーセントぐらいあると思うかね」
「コンピューターで模擬実験《シユミレーシヨン》してみたのですか」
「そうだ」
「そうですね……」須永は首をかしげた。
「三十パーセントというところですか。いや、メンバーの選択によっては、もう少し上がりますかね」
「三パーセントだ……」
「………」
「成功率はわずかに三パーセントしかないんだよ」
言葉を失った須永に、その数字をさらに印象づけようとするかのように、漆原はことさらにゆっくりとくりかえした。
「そんな……」この男には珍しく、須永はやや平静を欠いているようだ。
「三パーセントしか成功率がないということは、|それ《ヽヽ》が不可能だという意味と同じですよ。どんな作戦を立てるのか知りませんが、そんな馬鹿な……」
「後から話すが、原子力発電所アグニは作戦ごときが通用するような代物じゃないんだよ。気違いじみた警備システムでね……それに、相手が悪すぎる」
「相手……?」
「CIAのフラワー・チルドレン≠ニいうグループの名を聞いたことがあるか」
「………」
須永の唇が色を失った。その眼に、明らかな怯えの色が浮かんでいる。
「聞いたことがあるんだね」漆原が小声で念を押した。
「なるほど……確かに、相手が悪すぎますね」須永は引きつったような笑いを頬に刻みこんだ。
「虎と素手でやりあうほうが、まだしも生き残るチャンスがある」
「きみのような男でも、フラワー・チルドレン≠ヘ苦手と見えるね」
「私? 私なんか、奴らにかかっちゃ子どもも同然ですよ。それこそ、手もなくひねり潰されちまう」
「………」
しばらく、部屋には沈黙が満ちた。息苦しさを覚えるほどの、重い沈黙だ。
その沈黙に耐えかねたかのように、須永がやおらブランデー・グラスに手を伸ばした。ブランデーがほんの数滴、テーブルにこぼれた。須永は絹のハンカチをポケットから取り出すと、いかにも神経質な手つきでテーブルをぬぐった。
そんな須永を、漆原は興味ぶかげに見つめている。
「もし、お話というのが、私にチームに加われということなら……」須永はしゃがれた声で言った。
「残念ですが、そのお話は引き受けかねます。メンバーに腕のいい、優秀な奴を揃えれば、二人か三人は生き残ることができるかもしれません……だが、絶対《ヽヽ》に、作戦が成功するなどということはあり得ません」
「そうじゃないんだ……」漆原が静かに言った。
「作戦の成功など、最初から望んではいない。望んでいるのは、チームのメンバーが|全員死ぬこと《ヽヽヽヽヽヽ》なんだ……きみに相談というのは、もし生き残りが出そうだったら、その男を始末してもらいたいということなんだよ」
「………」
さすがに、須永も自分の耳を疑ったようだ。あまりの驚きに、グラスを持つ手が震え、またブランデーがすこしこぼれた。
「もちろん、できれば私も|こと《ヽヽ》を穏便《おんびん》に済ませたい」
漆原の声には、微塵《みじん》も動揺の響きが含まれていなかった。
「だから、CIAと接触できる人間を探してもいる。話し合いでことが収まれば、それにこしたことはないからね。だが、話し合いが決裂した場合……ねえ、須永君、亜紀商事が本気でCIAと戦争《ヽヽ》できると思うかね。うちが代理店契約を結んでいるウェスチング・マシン社はなにかとCIAとの癒着《ゆちやく》を囁かれている企業だ。事実、ウェスチング・マシン社の海外進出は、奇妙にCIAの謀略と重なって行なわれている。冗談じゃないよ。なんで|うち《ヽヽ》が、CIAに正面から敵対できるものかね……。
かといって、このまま事態を放置しておけば、いずれは工藤篤が殺されることになる。私にはもうひとつ信用できないんだが、工藤が死ねば、一切を記した手紙がマスコミに届けられるという。そんなことになれば、わが亜紀商事は世間から袋叩きにあうだろう。その後、亜紀商事が企業活動をつづけていけるかどうか、はなはだ疑問といわねばならないだろう……。
さて、どうしたものかね。CIAの逆鱗《げきりん》にも触れず、かといって世間の糾弾をも逃れる……そんな方法があるとしたら、ただひとつ、ごくごく無能なメンバーから成るチームを結成することしかないんじゃないかね」
「専務……」
須永の喉から呻き声が洩れた。
「万にひとつも、作戦を成功させるはずのないチームを送り込む。これなら、CIAの憤《いか》りをかうこともあるまい。またチームを送りこんだということで、世間も亜紀商事の良心《ヽヽ》を知ってくれるに違いない。メンバーの全員が死んだほうが、より演出効果があるはずだ。遺族の面倒を十分にみれば、亜紀商事の良心をより印象づけられるだろうしね……。
須永君、きみには|この《ヽヽ》作戦が失敗するように、チームの世話人となってもらう。それから、メンバーの人選を頼みたい。可能なかぎり、無能な社員を選ぶんだ。死んだところで、社の業務にまったくさしつかえのないメンバーを、ね」
「………」
須永は蒼白となっている。漆原を見る眼が、まったくの化け物を見る眼と化していた。
漆原はただ悠然と、ブランデー・グラスを唇に運んでいた。
──二日後の夜、漆原は赤坂の某料亭に赴《おもむ》いた。漆原は、料亭の類《たぐ》いをあまり好んではいない。この場所を選んだのは、会見相手のほうなのである。
漆原は、会見相手と|その《ヽヽ》場所との対照の妙に、微《かす》かなおかしみを覚えていた。今日、ここで会うことになっているのは日系三世なのである。名前はアルバート伊能《いのう》──ウェスチング・マシン社の極東担当『原発』セールスマンだった。
どうやら、漆原は約束の時刻に少し遅れたらしい。見憶えのあるアルバート伊能の自動車が、玄関の前に駐《と》まっていた。悪趣味な緑に塗られたムスタングだ。これも三世の、アルバート伊能つきの運転手が、しきりにボディの埃《ほこり》を払っていた。
「やあ、先に始めさせてもらってます」
漆原が座敷に入るなり、伊能が陽気な声をかけてきた。膳の上の小鉢を突っつく箸《はし》さばきが、まことに堂に入っていた──肥った小男で、いつも小鼻に汗を浮かべている。ちょっと見には、毒にも薬にもならない男だが、どうしてなかなか有能なセールスマンであることを漆原は見抜いていた。
女は呼んでないらしく、座敷には伊能の姿しかなかった。
「首尾はどうでしたか」漆原が訊いた。
伊能がちらっと上眼《うわめ》遣《づか》いに漆原を見た。油断のならない狐の眼だ。
「駄目でした……」伊能は箸を置いた。
「原子力発電所アグニに関わっているCIA部局とコンタクトするのはとうてい不可能です……。
大体、インド政府そのものが、アグニに関してひどく神経質になっているんです。うちが売っておいて、こんなことを言うのはなんですが……あの気の使いようは、いささか異常ですな。まあ、インドという国は、従来、カンドゥ型原子炉の開発に力を注いできましたからね。その意味では、アグニのような加圧水型原子炉は珍しいといえる。それにしても、ああまで神経質にならなくてもとは思いますがね」
「インドにとって、アグニはこれからの原子力開発の要《かなめ》というわけですな」
「ご存じのとおり、インドは一九七四年に原爆実験を行なっています」伊能は肩をすくめて見せた。
「インドはカナダから天然ウランを原料とする原子炉を買っていたんですが……その|燃えかす《ヽヽヽヽ》からプルトニュウムをくすねて、それで原爆をつくったというなんとも乱暴な話で……。まあ、それでカナダが怒り狂って、インドに対する原子力関係の援助をいっさいストップしたおかげで、うちなんかが加圧水型原子炉の売り込みに成功したわけですが、ね。
そんな前科をつくってしまっただけに、あの国は自国の原子力開発の報道には、極端に神経質になっているんでしょう。なんらかの形で、アグニにCIAが関係しているとしても、インドの|友だち《ヽヽヽ》たちに紹介を求めるというのは不可能でしょうね」
「なるほど……」漆原の眼を、冷笑に似た光が掠《かす》めた。
「インドのほうの答えからではなく、あなたのほうからではどうですか。確か、ウェスチング・マシン社はCIAとは関係が深かったんじゃないですか」
「それが……人民《ジヤナタ》党がガンジー政権を倒してからは、各国のインドでの謀略活動がひときわ激しくなりましてね。インドのこれからの動きいかんによっては、世界の勢力地図が変わる可能性もあるんですから……まあ、それも当然といえば当然でしょうがね。ちょっとうちの社としても、CIAのインドでの活動は掴みかねているんですよ。つまり、そういう事情でして……」
「要するに、私がアグニに関係しているCIAエージェントと会うのは不可能というわけですな」
「お役に立てなくて……」
伊能は慌《あわ》てて頭を下げた。漆原はただ黙然と、盃をなめている。
さすがに居づらくなったのだろう。伊能は約束があるからと、そそくさと席を立った。
「あなたの背広の袖……」
ふいに、漆原がそう声をかけた。
「は……?」
伊能は中腰のまま、漆原を振り向いた。
「あなたの背広の袖に、なにかついていますよ」
「ああ……」伊能は自分の袖を見て、照れたような笑いを浮かべた。
「自動車の塗料ですよ。塗り変えたばかりでしてね……」
伊能は座敷を出ていった。漆原はもう伊能にはいささかの注意も払っていなかった。その盃を見つめる眼が、暗く、烈《はげ》しい光をみなぎらせていた。
漆原の望みは断たれたのである。CIAとの会談は、ついに実現することなく潰《つい》えたのだった──亜紀商事が生きながらえる道は、もうインドに潜入員を送り込むしか残ってはいないのだ。絶対に、作戦に成功することもなく、また生きて還ってくることもない潜入員を……。
漆原は、ポケットから一枚の紙片を取りだした。そこには、須永が選択した潜入スタッフの名が記されてあった。
『原発課』     工藤篤
『営業部・接待役』 桂《かつら》正太《しようた》
『経理四課』    仙田《せんだ》徹三《てつぞう》
『社史編纂室』   左文字《さもんじ》公秀《きみひで》
──すでに須永は、工藤を除いた三人の、説得《ヽヽ》にあたっているはずだった。
──クラブ、バーが蝟集《いしゆう》する銀座でも、この店はとりわけ会計が高いことで知られている。とうてい、個人の客がまかなえる額ではない。主に、商社、銀行などの接待に用いられている店なのである。
店の名は『アイラ』、さほどの坪数があるわけではないが、ホステスの数は多く揃えている。
その『アイラ』の片隅のボックスから、じゃらじゃらした大阪弁が聞こえてくる。ときおり、女たちの嬌声が混じっていた。
「……あら、また妙で、舟と岡とで喧嘩をいたしまして、参詣人が喧嘩に勝ったら運が強い。運定めの喧嘩やそうで……。
ころがよろしい。五月の一日から向こう七日ちゅうんでっさかいね。ええ、ご案内でやすな、馬場斜交《ばんばはすか》いこう抜けます。京橋《きようばし》をよいとわたりまして、向こう側へわたりますちゅうと、また、こらご案内の徳庵堤《とつかんどて》、おもろい堤があったもんで……その下に来まするちゅうと、舟がならんでござります。
舟で行くひともござりますと、足の達者なものは……」
上方《かみがた》落語の、『野崎《のざき》まいり』だ。演っているのは素人らしい。桂《かつら》春団治《はるだんじ》の噺《はなし》には遠く及ばないのは当然だが、それにしてもあまりにも垢抜《あかぬ》けなさすぎた。
女たちは、結構その噺を楽しんでいるようだが、男たちは彼女らを口説くのに懸命で、落語どころではないようだ。ついにたまりかねたのか、そのうちの一人が演者を制した。
「いやァ、たいしたもんだ……きみの芸は、そのうちゆっくり聞かせてもらうとして、まあ、今日のところはそれぐらいにしておきたまえ」
「……そうですか」
落語の主は幾分不満げに、それでも精いっぱいの笑顔でうなずいた。
「そんなら、ま、そういうことで……」
小柄な、痩《や》せた男である。どんぐり眼《まなこ》と、大きな鼻とが、その男の顔になんともいえぬ滑稽味《こつけいみ》を与えている。いかにも如才《じよさい》ない、大阪人といった印象だ。
亜紀商事・営業部つき接待役の桂正太である。本来、亜紀商事には接待役などという珍妙な役職はない。いかに桂が仕事のできない男であるか、その役職が如実に物語っているといえた。宴会などで見せる芸が認められ、かろうじてその役職を与えられたのだ。
接待を受けている男たちは、もう桂の存在など忘れ、大っぴらに女たちを口説きにかかった。喧《やかま》しい落語が聞こえなくなって好都合だ、ぐらいに思っているのだろう。
桂はいともにこやかに、そんな客たちの酔態を見ていたが、しかし、体の奥深くでは欲求不満が徐々に育ちつつあった。女を対象とする欲求不満ではない。いかに美貌の女を前にしても、連日のバー通いが仕事となっては、いまさら欲望などを覚えるはずがなかった。接待役は、あくまでも客を楽しませるのが仕事なのだ。自分が楽しんでしまっては、接待にならない。
落語を中断された欲求不満だ。
桂は私生児だ。父親は、その名を言えば誰もが膝を打つであろう、上方落語の大御所である。その大御所がまだ若い頃、東京に遊びに来て、さまざまな|いきさつ《ヽヽヽヽ》の後この世に生を受けることになったのが桂正太なのだった。
桂は、もう故人となった父親をいささかも恨《うら》んではいない。芸人が遊ぶのは当然だとさえ思っているのだ──ただひとつ、自分を東京に置いたままにしておいたことには、親父に愚痴のすこしもこぼしたいような気持ちでいる。その結果、桂の喋る大阪弁は、東京人が器用に操る大阪弁の域を出なくなってしまったからだ。
そのことが、自分の人生を根本から誤らせた……桂はそう信じている。桂は、父親の仕事を引き継ぎたかったのだ。高座に上がって、思う存分、客を笑わせてやりたかったのだ。だが、──疑似《ぎじ》大阪弁しか操れぬ桂に、上方落語家への道がひらけているはずはなかった。しょせん、会社の宴会で、積年の欲求不満を晴らすぐらいしか方法はないのだ。
──ほんま、恨むで、お父ちゃん……桂は、ときに胸のなかでそう呟《つぶや》くことがある。なんで、ぼくを大阪に引きとってくれはらへんかったの。もう|わや《ヽヽ》や。ぼく、落語家になりたかったのに、こんなしょうもない会社に入れられてからに……。
桂が亜紀商事に入社できたのは、会社の重役に上方落語家のよき理解者がいたからである。桂の父親が、|つて《ヽヽ》をたどって、その重役に頼み込んだからこそかなったことなのだ。息子を人さまに笑われるような人間にだけはしとうない……父親は涙さえ浮かべて、そう頼み込んだという。
人に笑ってもらうことこそ、息子が心底《しんそこ》から望んでいたことだというのに……。
──一度でいい……桂はそう思っている。一度でいいから、高座に上がって、芸人として噺《はなし》をしてみたい……そんな桂が、よきサラリーマンになれるはずがなかったのだ。
ふいに、ボックスが静かになった。男たちは、それぞれにお気に入りの女の肩を抱いて、なにごとかひそひそと囁いている。どうやら、店が終わった後の相談が決まったらしい。
こうなってくると、接待役たる桂の存在が邪魔になってくる。
「ちょっと、私、失礼しますわ」桂はヘラヘラと立ち上がった。
「さすが、皆さん、ぼくなんかとはちゃいますなァ。どないしたら、そんなに女性にもてるのか、ほんま教えてほしいぐらいですわ……アホくそうて、ちょっとぼく、小便に行ってきますわ」
男たちの笑い声を後《あと》にして、桂は踊るような足どりでボックスから離れた。お囃子《はやし》が入ったら、いかにも似合いそうな足どりだ。
──桂はカウンターに近づくと、なかのママに囁いた。
「ママさん、今夜の|やつ《ヽヽ》もいつものように頼むわ」
「またですか」ママは露骨に嫌な表情をした。
「そんなにたびたびだと、怪しまれるのと違うかしら」
「大丈夫やて」桂はニヤリと笑った。
「ぼくがそんなヘマしますかいな。絶対、ママには迷惑かけへんから……」
「………」
ママはうなずいた──桂は、勘定書《かんじようが》きに一定の額を上乗せするように依頼したのである。当然、差額は桂のポケットに収まることになる。接待役の、これが唯一の余得だった。
ふいに、桂は背後から肩を掴まれるのを覚えた。仰天して振り向いた桂の眼に、精悍な背の高い男の姿が映った。
「どうやら、ヘマをしたようだぜ」男は落ち着いた声で言った。
「俺の名は須永……漆原専務の命を受けて動いている者だ」
桂は足が萎《な》えるのを覚えた。足が萎えるのを覚えながら、どうしたらこういう情況で、相手の男を笑わすことができるかと、ちらっと頭の片隅で考えていた。
──悪どいホルモンの臭いが鼻孔をついた。正直、おくびが出そうなほどいやな臭いだった。
仙田徹三は、来年は不惑の年を迎える。食事の嗜好《しこう》も、自然に淡白なものを好むようになっている。たとえそうでなくても、連日のホルモン料理には、誰でも音《ね》をあげるはずだった。
仙田は、しばらく皿の上のホルモン料理を睨みつけている。できれば、皿ごとホルモン料理を投げ捨てたいような気持ちだ。内臓がそっくりホルモンと入れ替わったような気にさえなることがあるのだ。
──食わなくちゃいかん……仙田は自分に言いきかせている。妻の秋子の若々しい肢体が、仙田の脳裡にふっと浮かんだ。秋子は、仙田よりも十七歳も若い。その要求にこたえるためには、不断に栄養を補給しておく必要があるのだ。
亜紀商事・経理四課の万年係長たる仙田には、ホルモン焼きこそ、栄養補給の最も手っとり早い方法だった。ステーキを食べるほどの余裕はないのだ。
会社の近くの、ホルモン屋である。ちょうど昼食時で、店はサラリーマンたちでけっこう賑《にぎ》わっていた。
仙田は意を決したように、ホルモン焼きを口に運び始めた。秋子を喜ばせるためなら、ホルモンごとき何でもないことだ。なんなら昼食だけといわず、三食、ホルモンを食べてもかまわないような想いだった。
仙田にとって、妻の秋子は唯一の宝物だった。街を歩くと男たちが振り返るような美貌の主で、しかも家庭的、なにより仙田のことを心底から愛してくれているのだ。一生を独身《ひとり》で暮らすのかと、なかばあきらめていた仙田には、まったく夢のような女房なのである。
実際、秋子のような女が、どうして風采のあがらぬ中年男である仙田に、好意を寄せてくれたのか、自分でも不思議なほどだ。髪の毛はすでに薄くなり始めている。ヒョロリと痩《や》せた体は、いかにも頼りなげだ。出世の見込みはまったくない。律義《りちぎ》といえば聞こえはいいが、愚直なほどに要領の悪い仕事ぶりなのである。
必死にホルモン焼きをパクついている仙田の耳に、ふいに英語が飛び込んできた。
この店には場違いな、外人が入ってきたのである。しきりに、店主になにごとか問いかけている。
仙田は、ごく自然に外人の言葉に耳をすましている。外人は、これはいかなる肉であるかと尋ねているのである。
一瞬、仙田は通訳を買って出ようかと考えた。だが、まさしく|それ《ヽヽ》はほんの一瞬のことだった。むなしく恥をかく結果に終わるのは明らかだったからである。
仙田の表情に、なんとも言えぬ悲哀の色が浮かんだ。いやしくも商社員である以上、仙田もまた英語が堪能であるはずだった。事実、仙田は英語の一級検定試験に合格しているのである。
だが、──惜しむらくは、仙田はあまりにも気が弱すぎた。能力は十分にあるはずなのに、外人の前に立つと、英語が一言も唇から出なくなるのだ。無理に喋ろうとすると、ひどくどもってしまうのである。外人コンプレックスの最たるものといえた。
商社に籍を置く者にとって、これは致命的な欠点だった。最初から、出世コースを阻《はば》まれているに等しい。仙田が経理四課の万年係長に止まっているのも故のないことではないのだ。
仙田はホルモン焼きを半分ちかく残し、そそくさと席を立った。これ以上、英語を耳にしていることに耐えられなかったのである。
──仙田が職場に戻ったとき、奇妙に部屋の雰囲気が浮わついているのを感じた。課員たちが互いに視線を交わし合い、なにか肚に一物ありげにニヤついているのだ。仙田が部屋に足を踏み入れたとたんに、全員がしめしあわせて口を閉ざした|ふし《ヽヽ》があった。
──なんだろう?……仙田はひどく居心地の悪いものを覚えながら、自分の席についた。自然に、身構えるような姿勢になっている。
「係長……」女子社員のひとりが仙田に声をかけてきた。
「さきほど、奥さまからお電話がありました」
誰か、ぷっと吹きだしかけた奴がいる。その女子社員も、懸命に笑いを圧さえているようだ。
──そうか……仙田はなんとはなしに納得したような気持ちでいる。仙田は、自分と若い妻とのことが、部下たちの間でなにかとからかいの種になっているのを知っていた。
「仕様のないやつだな。あれほど、会社には電話するな、と言っておいたのに……」仙田はことさらに仏頂面《ぶつちようづら》をつくって見せた。
「それで? なにかことづけはあったかね」
「おめでただそうです」
「………」
「お医者さまから、奥さま、妊娠なさっていることを告げられたそうです」
そのとたんに、部屋に一斉に喚声が湧き起こった。拍手をする奴、万歳を叫ぶ奴……経理四課は煮立っているような騒ぎになった。課員たちは全員、いくらか馬鹿にしながらも、この朴訥な係長を愛していたのである。
「………」
その騒ぎのなかで、仙田ひとりが呆然と黙していた。むろんのこと、子どもができたという実感など湧いてこようはずがない。自分には子種がないと、疾《と》うの昔にあきらめていたのである。
仙田はふいに一人になって、事態を冷静に考えてみたくなった。課員たちの祝福の声を後に、仙田はほとんど逃げるようにしてトイレに駆け込んだ。
仙田はまず顔を洗い、次に鏡のなかのその顔をジッと見つめた。子どもができた喜びは、意外なほど覚えなかった。ただ、妻の秋子に対する愛《いと》しさを苦痛なほどに感じただけだった。
家を買わなければ──仙田は唐突《とうとつ》に、まったく唐突にそう思いついた。秋子に二DKの狭いアパートで、育児をさせるわけにはいかなかった。小さな家でいいから、なんとしてでも一戸建ちを手に入れるのだ。もちろん、住宅ローンの助けは借りなければなるまい……。
問題は、頭金だった。いくらかの蓄えはあるものの、とうてい住宅ローンの頭金には追いつかない。大金を借りられるような知人も、とっさには想い出せなかった。
──どうしたものか……そう思い悩んでいる仙田に、突然背後から声がかかった。
「仙田さんですね」
ほとんど飛び上がるようにして体ごと振り向いた仙田は、いつのまにか見知らぬ男が背後に立っていたことを知った。
「漆原専務の命を受けて動いている須永という者です」
と、その男が言った。
「実は、仙田さんに、おりいってご相談したいことがあるんですが……」
──佐文字公秀は、自分が騙されているのかもしれないと感じていた。はじめて女に惚れた初心《うぶ》な男ででもあるならともかく、こと女に関してはベテラン中のベテランである佐文字には、啓子《けいこ》の話はにわかに信じがたいものがあった。あまりに、新派大悲劇的な色あいが濃く滲みすぎていたのである。
佐文字が啓子をはじめて見たのは、とある喫茶店に入ったときだった。啓子は、その喫茶店のウェイトレスをつとめていたのである。啓子は、襟足と眼のきれいな、しかし、どことなく寂しげな印象のある娘だった。ちょうど何十人めかの恋人と別れたばかりのときで、佐文字は例のごとく、いとも簡単に啓子を好きになってしまった。
佐文字が、啓子の歓心を買うために、あらゆる努力を惜しまなかったのも、また例のごとくだった。亜紀商事の社史は、またしても編纂が大幅に遅れることになった。佐文字が『社史編纂室』にいる限り、そしてこの世に女がいる限り、亜紀商事の社史は完成を望めないようだった。
その喫茶店に通いつめて二週間で、佐文字は望みをとげることができた。前の彼女と別れてから、ちょうど|十五日め《ヽヽヽヽ》のことだった。
啓子からやくざな兄がいると聞かされたのは、そんな関係になった翌朝、ホテルのベッドの上でのことだった。啓子は泣いていた。泣きながら、その兄がどれほど巧妙に自分を食い物にしてきたかを語った。そんな兄だが、商売のためのまとまった資金を手に入れれば、更生できるかもしれない、とも言った。兄さんは根っからの悪い人じゃないの。ただ、いろいろ不運なことが重なって……だから、資金さえあれば、やり直してみせると言ってるの。嘘かもしれないけど……。
佐文字も、嘘かもしれないと思った。その兄という男は、本当は啓子の情夫《ひも》であるかもしれない。いや、そんな男などどこにも存在しないかもしれないのだ。が、──佐文字には啓子の言葉を嘘だと断じることはできなかった。何人の女と関係を持っても、佐文字には女というものが理解できなかった。関係が多くなればなるほど、ますますわからなくなるようだ。
佐文字はまとまった金を渡すと、啓子に約束した。騙《だま》されたとわかっても、絶対に後悔はしないという自信があった。むしろ、啓子に金を渡さなかったら、生涯自分を許せなくなるだろうという予感のほうが強かった。佐文字は女性をなにより愛しているが、その愛し方において、自らにモラルを課しているからだ。
ある意味では、佐文字公秀はまれに見るモラリストといえた。
金をつくる約束をしたものの、安サラリーマンの佐文字においそれと大金がつくれるはずもなかった。さしあたって、自分の住んでいるマンションを処分するぐらいしか、いい知恵が浮かばなかった。女を口説く舞台が欲しい一念で、佐文字がボーナスを悉《ことごと》くつぎこんで、ようやく自分のものにしたマンションだった。ここを売ってしまえば、明日からの寝る場所にもこと欠くのは明らかだった。
だが、佐文字にはいささかのためらいもなかった。啓子と関係を持った翌日、佐文字はまっすぐ不動産屋に向かい、マンションの売却を取り決めてしまったのだ。
必ずしも、啓子に惚れていたからばかりではない。自らのモラルに殉じたと形容したほうが、より正確なようだった。
──そして今夜、佐文字はそのマンションでの最後の刻《とき》を、ベッドに寝ころんで過ごしていた。
佐文字の眼は天井に向けられていたが、しかしその意識は、自分の奥深く、真の自我像を見極めることに多くを費《つい》やしていた。この男には珍しいことだが、佐文字はふっと我にたち返ったのである。内省のときを持ったともいえる──やはり、明日から宿無しの身になるということが、佐文字の精神構造に微妙な影響を及ぼしているようだった。
──俺はもしかしたら、無力で無能な自分と正面から対峙《たいじ》するのを恐れるあまり、これほどに女の尻を追っかけ回しているのではないか……それは、佐文字のような男がけっして抱いてはならない疑問だった。自転車に乗って綱渡りを試みた男が、その途中で車輪を漕《こ》いでいた足を休めるのに似ていた。墜落の恐れがあるというのに。
佐文字の人生は、ただ女を愛することにのみ費やされている。それが、結局は逃避にしか過ぎなかったとしたら……佐文字は、生者を装っている死者にも等しい存在といえたろう。
佐文字は、そうではないことを自らに証明する必要があった。さもなければ、これ以上に女たちを愛しつづけることができなくなるような気がした。はたして何事もなしえない人間に、女を愛する資格があるだろうか。
佐文字が狂おしい激情に駆られ、思わず叫びだしそうになったとき、傍らの電話が鋭いベルの音を鳴り響かせた。
「私、漆原専務の命で動いている須永という者ですが……」
電話の向こうの声が、そう佐文字に告げた。
──肉汁の芳醇《ほうじゆん》な香りが、狭い座敷に充ちていた。食欲を強く刺激し、いやがうえにも人を健啖家《けんたんか》にさせずにはおかない香りだった。
「美味《うま》いな……」
リリー≠ェ感に耐えないというような声を洩らした。
「美味いさ」ローズ≠ェ器用に箸《はし》を操りながら、笑った。
「なにしろ、世界に名だたるコーべ牛≠セからな。聞いたことぐらいあるだろう。牛を育てるのに、ビールを飲ませているんだ」
「スキヤキなら、ニューヨークの日本料理店で何度も食べたことがあるが……こいつは、まるで別の料理だ」
「ニューヨークのスキヤキなんか、食べられたもんじゃない。|あっち《ヽヽヽ》はただの肉だが、こいつは芸術品だからな」
「俺も、日本の駐在員になりたかったね。これで、ゲーシャ≠抱いたら、まるでジェームズ・ボンドだ……」
「ゲーシャ≠ネんて見たこともないね。それより、トルコ≠フほうがよっぽど楽しめるぜ」
「トルコ≠チてなんだ?」
「そのうち、案内するさ」ローズ≠ヘ片眼をつぶって見せた。
築地《つきじ》でも名の知られたスキヤキ屋である。料理の美味《うま》いことはもちろんだが、なにより静かな座敷が用意されていることで有名な店だ。建物の造りに工夫がほどこされ、それぞれの座敷が遠く隔《へだ》てられているのである。密談を交わすには、まずこれ以上の店はないだろう。
ローズ≠ヘ|この《ヽヽ》店の常連となっているらしい。仲居《なかい》の接待の様子から察するに、かなりの上顧客のようだ。ここでは、ビジネスのために来日している日系三世ということになっている……ローズ≠ヘ、リリー≠ノそう説明した。
「ところで、亜紀商事の動きがおかしいようじゃないか」リリー≠ェ話題を転じた。
「ああ……」ローズ≠ェうなずいた。
「漆原がなにやら動き回っている。フラワー・チルドレン≠ニ連絡を取ろうともしていたようだが……どうやら、あきらめたみたいだ」
「どうするつもりなのかな」
「わからん……わからんが、もう工藤ひとりを始末すれば済むような事態じゃなさそうだ」
「………」
リリー≠ェ箸を持つ手を止めた。一瞬、ほんの一瞬、リリー≠フ顔から美食に酔っている男の表情が消えた。精悍冷酷な、殺し屋の表情が浮かんだのである。
「どういうことかな」
だが、そう尋ねたリリー≠フ声は、ほとんど非人間的なまでに感情が圧し殺されていた。
「鍋を見ろよ」ローズ≠ェ陽気に言った。
「?……」
「なにが見えるかね」
「肉が煮えている」
「どうやら、俺たちの手で、亜紀商事をその鍋みたいにしなければならんらしい」
「馬鹿な……」リリー≠フ唇を、翳のような笑いが過《よぎ》った。
「亜紀商事は、CIAと|こと《ヽヽ》を構えようとしているというのか」
「多分、な」
「気違い沙汰だ……ずいぶん、俺たちも甘く見られたもんじゃないか」
「なに、こうしてやればいいのさ」ローズ≠ヘ、勢いよく肉片を口に押し込んだ。
「逆らう奴は、ひとり残らず食べちまうだけの話だよ」
座敷に、二人の男の笑い声が弾《はじ》けた。豹《ひよう》が、自分に立ち向かってくる兎の姿を見たとき、ちょうどこんな笑い声を上げるかもしれない。
唐突に、ローズ≠ェその笑いを止めた。いかにも神経質そうな眼つきで、自分の背広を見下ろしている。
「どうした?」
「背広を着替えてくるんだったな」ローズ≠ェ舌打ちしながら言った。
「この背広に、自動車の塗料がくっついていることを忘れていた……」
「汚れた背広じゃ、トルコ≠ノ行けないか」
「トルコ≠ノ服は必要ないさ。必要なのは、金だけだ……」
二人の男は、再び声を合わして笑い始めた。彼らが、|今度の仕事《ヽヽヽヽヽ》にいささかの危惧《きぐ》も覚えていないのは明らかだった。
──換気には充分に考慮が払われた部屋であるはずなのだが、なお男たちの饐《す》えたような汗のにおいが鼻孔を衝《つ》いた。むしろ、恐怖から生じたにおいと呼ぶべきかもしれない。工藤の話が、男たちを怯《おび》えさせ、その体内でアドレナリンの分泌を促し、異常な発汗を招いているのだ。
工藤は、男たちの反応を科学者の眼で観察している。遺憾ながら、いずれの男も一騎当千《いつきとうせん》の兵《つわもの》とは呼びにくい。それどころか、この種の冒険には最も縁遠い男たちといえそうだった。
『社史編纂室』の佐文字公秀は、亜紀商事における工藤の数少ない友人である。出世はおろか、会社そのものさえ、佐文字の眼中にはないように見える。持てる情熱の悉《ことごと》くをただ女にのみ費やす佐文字の生き方は、工藤にはいっそ潔《いさぎよ》いようにさえ思えるのだ。
だが、──個人的に好感が持てるからといって、その男が生死をともにすべき仲間にふさわしいということにはならないだろう。女に関して凄腕であっても、この作戦にはなんの利点も導かないのである。事実、チームを結成するに際して、佐文字の名はついぞ工藤の脳裡には浮かばなかったぐらいなのだ。
工藤は、その視線を、佐文字から右隣りの仙田徹三に転じた。
『経理四課』の仙田徹三……工藤には、ほとんど未知の人間だ。才気には乏しいが、真面目で仕事一筋。──会社が成り立っていくにはこの種の人間もまた必要なのだろうが、しかし、冒険には徹底して不向きなタイプといえる。今、仙田はいかにも実直そうなその顔に、てらてらと汗を浮かべている。見ている工藤のほうが、息苦しさを覚えるほどだ。
工藤は心中に深い溜息を洩らした。その視線を、さらに隣りの桂正太に移す。
工藤の懊悩《おうのう》はますます深いものとならざるを得ない。
『営業部・接待役』の桂正太……この男に至っては、まったくの道化《どうけ》だ。
ある意味では、桂は亜紀商事での有名人といえた。宴会の席で、あるいは客を接待するに際して、この男が見せる徹底したサービスぶりは、幾つか伝説となっているほどだった。裸踊りはもちろん、客からの要望があれば、下穿き一枚で芸者とシロクロの真似すらしかねないのである。まさしく、桂正太はサービス精神の権化といえた。
だが、一体、何が桂をしてひたすら他人を笑わせる道へと突っ走らせるのか、社内の誰一人としてその理由《わけ》を知っている者はいなかった。その結果、亜紀商事の人間は、桂に対してただ軽蔑の念だけを抱くようになっている。工藤もまた、その例外ではなかったのである。
──この男をも、チームに加える必要があるのだろうか……軽薄な手つきで扇子を操っている桂を見ながら、工藤はほとんど絶望すら覚えた。
そして、最後の男、須永洋一だが……工藤は、この男には、他のメンバーと異なった意味での危惧を感じている。
須永だけは、その所属が明らかにされていない。いや、亜紀商事のどこに配属されていると説明されても、疑惑が残るような違和感があった。およそ、商社員らしからぬ男なのである。
須永一人だけが、工藤の話を聞いても顔色ひとつ変えようとしなかった。あらかじめ漆原専務から事情を聞かされているということも考えられるが、それにしても、須永の沈着冷静ぶりは度を越しているように思えた。
工藤は、なかば本能的に須永とあい入れないものを感じたといえる。須永が発散している剃刀《かみそり》のような鋭さは、サラリーマンとは無縁のものだった。確かに、仲間として頼もしい男かもしれないが、それ以上になにか剣呑なものが感じられた。
工藤は、須永が他のメンバーたちに倍して、この作戦のネックになるかもしれない予感を覚えたのである。
須永を除く三人は、工藤の話からかなりの衝撃を受けたようだ。彼らが牡蠣のように頑《かたくな》に口をつぐんでいることが、その衝撃の深さをなによりよく物語っていた。
所属の違いこそあれ、彼らは等しくサラリーマンとしての毎日を送ってきた。工藤の話は、彼らの穏やかな日常に、突然、襲いかかってきた獣のように思えたに違いない──原子力発電所アグニに爆弾が仕掛けられている?……その爆弾を、俺たちの手で取り除く?……一介のサラリーマンにしか過ぎない俺たちが?……彼らが色を失うのも、当然のことだといえたろう。
「私たちにそんなことができるだろうか」沈黙に耐えかねたように、仙田が口を開いた。
「どだい、むちゃくちゃな話や」桂も唇を尖《とが》らした。
「ぼくら、サラリーマンやで。兵隊とちゃう。そんなん、訓練もろくに受けてえへん人間のできることとちゃうがな。きっちり、殺されに行くようなもんやで……工藤さん、こないなこと言うたらなんやけど、あんたスパイ映画の見過ぎとちゃいますか?」
仙田にしろ、桂にしろ、平静を保つように努めてはいるが、内心は叫びだしたいほどの思いだったろう。
「きみはどうだ?」工藤は佐文字に声をかけた。
「ぼくもお二人と同じ意見です。ただ……」佐文字は口ごもった。
「ただ、何だ?」
佐文字は、工藤から顔を外《そ》らした。その視線を、壁際に立っている須永に向ける。
「ただ、そこにいらっしゃる須永さんとかいう人に、馬鹿にされるのは口惜《くや》しいような気もしないではないですけどね」
「俺が、いつ誰を馬鹿にしたと言うんだ?」須永がうっそりと応じた。
「ぼくは、こう見えても割と人間の心理を読むことができるほうなんです。もっとも、相手が女性であるほうが得意なんですけどね」
「だから、どうだと言うのかね?」
「あんたは、仙田さんや、桂さんの話を聞いて嘲《わら》いを浮かべた」
この男には珍しいことだが、佐文字の声にわずかに怒りのようなものが感じられた。
「あんたが何者だかは知らない。ただ、ぼくたちとは違う種類の人間であることの察しはつきますよ。とても、サラリーマンとは思えませんね……さぞかし、刺激に満ちた毎日を送ってらっしゃるんでしょう。ぼくたちよりはるかにタフそうだし、あの漆原専務直属の部下というからには、この種の仕事に慣れていらっしゃるんでしょう。だけど、だからと言って、ぼくたちを馬鹿にするのは許せませんね。あんたがいかにタフで、有能であろうと、サラリーマンを馬鹿にできる権利はないはずだ……」
「気を回すのもいい加減にするんだな」須永が面倒くさげに言った。
「それに、俺もサラリーマンの一人だよ。あんたがどう考えようと、な」
工藤は、佐文字を見直したいような気持ちだった。工藤が考えていた佐文字とは、別人の感がある。女しか頭になかったはずの佐文字のなかで、なにかが確実に変わりつつあるようだ。
佐文字の言葉は、ちょうどバンコックで工藤が小虎《シアオフー》に言った|それ《ヽヽ》と同じだった。
仙田と桂は、改めて須永の異質さに興味を抱いたようだ。耐えることもまた仕事のひとつであるサラリーマンとは、須永は確実に一線を画していた。須永が、朝の通勤電車とは縁のない人間であることは、その体臭からも明らかだった。いやしくもサラリーマンであるなら、有能無能、大企業小企業を問わず、ある共通した体臭を備えているはずなのだ。
ここでは、黒いネズミのなかに投げ込まれた白ネズミよりも、なお須永は異質な存在といえそうだった。
奇妙に気まずい空気が、部屋に満ち始めていた。
──ドアがノックされ、靖子が部屋に入って来た。手に、コーヒー・セットを載《の》せたトレイを持っている。
「皆さん、一休みなさったら……」と、靖子が明るく言いかけるのを、
「悪いけど、コーヒーはもう少し後で貰うことにするよ」
工藤が強い口調でさえぎった。
「………」
靖子はあっけにとられたようだ。いまだかつて工藤は、いや、男は誰一人として、靖子に対してそんな態度をとったことがなかったからだ。女王然としてふるまうことに慣れている靖子には、ほとんど足元の地面が崩れるに等しい驚きだったろう。
だが、靖子はやはり賢明な娘だった。軽く頭を下げると、そのまま部屋を出ていったのである。どうやら、部屋の雰囲気がなにかしら尋常でないことを、敏感に感じとったらしい。
工藤は、自分が靖子に対して非礼な態度をとったことも、彼女が部屋を出ていったことも、ほとんど意識の外にあった。
工藤は、体の奥底になにかフツフツと滾《たぎ》るものを覚えている。──須永というまったくの異分子が混じったことが、メンバーの心理に微妙な影響を及ぼしたようだ。最初、バラバラに見えた男たちの間に、かすかな連帯感が生じている。サラリーマンという共通の職業に根ざした連帯感が……。
コーヒーごときに、|この《ヽヽ》せっかく芽生えた連帯感を台無しにされるわけにはいかなかったのである。
「だけどねえ」仙田がためらいがちに声を出した。
「たとえ私らがサラリーマンでないとしても、原子力発電所アグニに潜入するのは不可能なんじゃないかね。その……私らが優秀な兵士だったとしても、さ……。
だって、工藤さんの話を聞いていると、触圧反応装置だとか、高圧電流の流れている二重柵だとか、ワニのいる河だとか、地雷式照明弾とか、とにかく障害が多すぎますよね……とても、潜入するのは不可能なんじゃないかな」
「障害はそれだけじゃありませんよ」工藤が静かに言った。
「中国との国境に近いせいですかね。アグニの警備体制たるや、気違いじみて堅牢なんです」
「今まで聞いただけでも、十分気違いじみているがな」と、桂がぼやいた。
「まず、タービン・ビルの屋上に据えられている対テロリスト・レーダーがあります」工藤は、桂の声を無視した。
「これは、ドイツの新兵器メーカーが開発したもので、赤外線探知装置を基盤に造られています。非常な近距離、しかも地上を覆《おお》うレーダーなのです。つまり、アグニの構内において、|セットに入っていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》熱を感知して、その位置を報《しら》せる装置なのです。自動車から放射される熱はもちろん、体温だけでも敏感に反応すると言われています」
「セットに入っていないとはどういうことですか」佐文字が尋ねてきた。
「アグニの警備体制が気違いじみていると言ったのは、まさにその点なんだ……」工藤の喉ぼとけがゴクリと上下した。
「原子炉建屋《リアクター・ビル》には、随所に音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》が仕掛けられています。張りめぐらされた赤外線を遮《さえぎ》ると、即座に警報が鳴りだす赤外線警報装置もあります。原子炉に至る通路には、十五メートルにわたって、体温を感知する警報装置が設けられています……」
「………」
男たちはおどろきのあまり|あんぐり《ヽヽヽヽ》と口をひらいていた。
「おかしいやないですか」たまりかねたように、桂が金切《かなき》り声を発した。
「そんな、原子力発電所を警報装置の詰合わせみたいにしてしもうてからに……作業する人は、どないしますねん? 警報装置、鳴りっぱなしになるのとちゃいますか」
「つまり、それがさっき言った|セット《ヽヽヽ》に関わってくることなんだ……アグニの警備体制は、タービン・ビルにあるコンピューター・ルームによって、完璧《かんぺき》にコントロールされているんです……。
毎朝、むこう二十四時間、原子炉建屋《リアクター・ビル》で働く人間の数、その時間、位置にいたるまでが、コンピューターにインプットされるわけです。要するに、コンピューターはあらかじめデータが入れられている場合には、どんな音も聞こえないし、体熱も感知しない。だから、作業は分刻みで進められるほどの厳しさです……」
工藤はそこで乾いた唇を舌で濡らした。
「ぼくは、コンピューターの専門家じゃないんで、原子炉建屋《リアクター・ビル》に常駐しなければならない人間の場合、どうセットされているのかわかりません。ただ声紋と、体温の組合わせから、コンピューターはなんらかの方法で彼らを識別しているのだと思います。体温も、かなり個人差が強いですからね。彼らの場合、よほど異常な音、たとえば拳銃でも発射しない限り、コンピューターが刺激されることはまずないでしょう……。
つまり、これらの警報装置が働くのは、侵入者に限られる、と断定しても過言じゃないんです。
対テロリスト・レーダーの場合も、まったく事情は変わりません。レーダーは夜間のみ稼動します。自動車とか、列車が敷地に入ってくることはまずない。その時間、敷地内を動いているのは、パトロールの兵士たちだけのはずなのです。だから、セットされているもの以外の熱を、対テロリスト・レーダーが捉えた場合……警報が鳴るわけなんです」
「………」
男たちはただただ呆然とし、声も出ないようだ。
「不可能ですよ」やがて、仙田がボソリと言った。
「工藤さん、私はこれは不可能な仕事だと思う。止《や》めたほうが、賢明じゃないですか」
「ぼくはそうは思いません。確かに困難な仕事だが、けっして不可能ではない。というのも、ぼくに考えが……」
「待ってくれないか」
不意に、須永が工藤の言葉をさえぎった。穏やかな声だが、有無《うむ》を言わさぬ力がこもっていた。
「確かに、あんたが事情に詳《くわ》しいことは認めるよ。だが、まだあんたがリーダーと決まったわけじゃないんだ」
かつての工藤なら、この種の争いごとはなにより嫌っていたはずだ。どんなことであれ、自分はイニシアティブをとるにふさわしい人間ではないと思い込んでいたからだ。だが……今回に限って、事情が異なっていた。
「ほう、そうかね」と、工藤はうなずいた。
「それじゃ、誰がリーダーになると言うんだ? あんたかね」
「誤解されると困るんだが……」須永は自分の掌をジッと見つめている。
「俺は、あんたたちと同じサラリーマンだよ。やはり、亜紀商事の禄《ろく》を食《は》んでいる人間には違いないんだからな。ただ……仕事の性質が多少異なる。つまり、あんたたちよりも荒事《あらごと》には慣れているというわけだ。成功率という点から考えれば、俺がリーダーになるのが最も利にかなっていると思う」
「違うな」工藤は首を振った。
「多分、あんたはぼくたち四人を同時に敵に回しても、片手だけであしらってしまうだろう。仮りにアグニが、銃で武装して襲撃すれば、侵入がかなうような施設だとしたら、文句なくあんたがリーダーとなるべきだと思う。
だが、アグニは違うんだ。アグニは、そんな|やわ《ヽヽ》な代物じゃないんだ……ぼくは、アグニ建設に手を下した人間の一人だ。この作戦が成功するためには、ぼくがリーダーとならなければ|いけない《ヽヽヽヽ》んだ」
須永と工藤の視線が宙で絡《から》み合った。お互いに穏やかな眼だが、底に不退転の決意を滲ませていた。
「ぼくは、工藤さんをリーダーに推《お》すな」佐文字が、さっきとは打って変わって明るい声で言った。
「同じ死ぬにしても、リーダーたる友人の失敗だとしたら諦《あきら》めがつきますからね」
「私も、工藤さんをリーダーにすべきだと思いますね」ついで、仙田がなにか申し訳なさそうに言った。
「別に、須永さんに含むところがあるわけじゃないんですよ。そうじゃないんだが……どうですかねえ、われわれをこう見回したところ、とても須永さんの手駒《てごま》になれる人間はいないんじゃないですかねえ。誰を見ても、暴力には不向きな……」
「ぼくは多数決尊重や……」最後に、ボソリと桂が言った。
「なるほど……」須永の唇を苦笑が掠《かす》めた。
「だが、作戦が失敗したときには、俺も死ぬことになるんだからな。そうおいそれとは、工藤君がリーダーになるのを承認するわけにはいかない」
「じゃあ、どうしようと言うんだ」と、工藤が尋ねた。
「あんたにリーダーの資格があるかどうか、テストしてみようじゃないか」
「テスト?」
「そうさ」須永は、自分の銀色のネクタイ・ピンに手を当てた。
「明日、俺はホテル・オームラをチェック・インする。むろん、ルーム・ナンバーは知らせるよ……チェック・インから二十四時間の間に、あんたが皆を指揮して、このタイ・ピンを奪うのに成功したら……そのときは、あんたにリーダーの資格ありと認めようじゃないか。もちろん、どんな手段を使おうとかまわん。俺は外出するかもしれんが、あんたたちをまくような真似はしない……どうだね? 順当なテストだとは思わないか」
「………」
工藤はとっさには返答することができなかった。あまりに、思いがけない提案だったからである。
「おもしろいじゃないですか」
だが、工藤に替わって、佐文字が応じてしまった。
「やってみましょうよ。工藤さん……」
「いいだろう」工藤もそううなずかざるを得なかった。
「テストを受けよう」
──ホテル・オームラは、都内でも最高級にランクされているホテルだ。テストの舞台としては、贅沢に過ぎるぐらいだろう。
須永の長身は、華やかなロビーを背景にするとひときわ映《は》えた。金に不自由せず、しかも、|その《ヽヽ》金に束縛されることのない男に特有な、ある種の闊達《かつたつ》さが備わっていた。若い男にはむずかしいことだ。彼が他者の眼、とりわけ女性の眼を惹くのも当然といえたろう。
須永に比して、工藤は|はなはだ《ヽヽヽヽ》さえなかった。その灰色の背広は、このホテルでは異質にさえ見えた。須永には長く視線を向ける女性も、工藤には一瞥《いちべつ》さえくれようとはしなかった。
だが、──いずれにしろ、今の工藤には女性に関心を払っている余裕はなかった。工藤の眼は、いましもチェック・インを済ませて、|こちら《ヽヽヽ》に戻ってくる須永によってのみ占《し》められていた。
須永がチェック・インを済ませた瞬間から、テストが始められることになっていた。これから二十四時間のうちに、工藤|たち《ヽヽ》は須永のタイ・ピンを奪わなければならないのだ。
「終わったよ」
工藤の前に立つと、須永はからかうような語調で言った。
「ルーム・ナンバーは二二一号だ」
「二階の部屋か……」
「泥棒が、最も仕事をしやすい階を選んだのさ」
「親切なことだな」
工藤は、ソファから腰を上げた。
「ところで、部屋は見せてもらえるのだろうな」
「いいとも」須永は上機嫌だった。
「好きなだけ、見るがいいさ」
──二二一号室は、ホテルの規格品ともいえる、ありきたりのシングルだった。──人は、この部屋では眠るか、せいぜいがバスを使うことぐらいでしか、時を過ごせないだろう。須永が、テストのために、諸条件をでき得る限り単純にしようとしているのは明らかだった。
「いい部屋だろう」
須永は靴のまま、ベッドに身を投げた。須永のよく引き締まった筋肉に、スプリングが悲鳴を発した。
「いい部屋だ……」そううなずきながら、工藤は部屋を見回した。
「さっそく、敵情視察というわけか」須永は自信たっぷりに笑った。
「この部屋に忍び込むなら、まあ、窓からというところだな」
「そうだな」工藤は顎を引いた。
「そんなところだろうな」
工藤にとって、これは単なるテスト以上のものだった。工藤たちに比して、須永ははるかに有能で、この種の経験も豊富なプロフェッショナルだ。その意味で、これはアマチュアがプロに勝ち得るかどうかの実験といえた。いわば、アグニ爆弾撤去作戦の前哨戦でもあったのだ。
「俺は、眠るときネクタイを外す」須永のからかっているような口調は変わらなかった。
「俺が眠っている間……そうだな、タイ・ピンはそこに置くか」
須永が顎で示したのは、べッド脇のサイド・テーブルだった。彼は、徹底して工藤たちを馬鹿にしているのだ。プロが、アマチュアにしてやられることなどあり得ないと考えているに違いない。
「わかった……」工藤は無表情にうなずいた。
「これだけで充分だ」
「今、午前八時二十分……」須永は、ことさらのように左腕を上げた。
「明日の八時までが勝負というわけだ」
それにはなにも答えず、工藤は踵《きびす》を返し、部屋から出ていこうとした。
「他の連中はどうしているんだ?」と、須永が声をかけた。
工藤は、ゆっくりと肩越しに振り返った。
「働いているのさ」工藤は静かに言った。
「みんな、働いているんだ」
ドアが閉まった。と同時に、須永は上半身を起こし、そのドアを見つめた。須永の表情に、いつもの鋭さが甦っていた。
「窮鼠《きゆうそ》、猫を咬む、か……」須永はそうボソリとつぶやいた。
──ちょうど一時間の後、須永は自分の部屋を出た。ブレザーに、スポーツ・シャツといういかにも軽快な服装だ。手編みのタイには、あのタイ・ピンがつけられていた。
須永はエレベーターに乗り、そのまま地下の駐車場まで降りていった。駐車場には、彼のポルシェが駐《と》めてある。
須永はポルシェに歩み寄ると、そのドアにキーを近づけ──ふっと思い直したように、踵を返した。駐車場からゆっくり出ていく須永の唇は、微笑を湛えていた。
ポルシェは足の速い自動車だし、須永のドライブ・テクニックは素人《しろうと》の及ぶところではない。実際の話、須永がポルシェを駆《か》れば、なみの人間にはとうてい尾行は無理だ。須永は不遜にも、尾行者のためにポルシェを使うのを止めたのである。
須永の予感は的中した。ホテルを出た時点で、ぴたりと尾行がついたのだ。二十メートルほどの距離を隔《へだ》てて、須永の後を尾《つ》けてくるのは、──桂正太だ。
実に、間の抜けた尾行ぶりだ。映画のスパイよろしく、ぱっと電柱の陰に飛び込んだりさえするのだ。通行人があきれたように見ているのにも、まったくおかまいなしだった。
須永は苦笑を禁じ得なかった。なんなら一緒に歩こうか、と誘いたくなる気持ちを圧さえるのに苦労するほどだ──こんな連中なら、なにも須永がリーダーとなる必要はなさそうだ。須永が妙な工作をしなくても、漆原の望むとおり、彼らが全滅することになるのは間違いないからだ。
須永の目的地は、青山のアスレチック・クラブだった。地下鉄を使うのが、尾行者には最も親切なはずだった──切符を買うのにもたついている桂のために、須永は二本の電車を見送らなければならなかった。
須永は電車の座席に腰をおろすと、ただちに眼を閉じた。それ以上、桂の間抜けな尾行ぶりを見ていると、それこそ吹きだしかねなかったからだ。
桂はこれみよがしに新聞をひろげている。しかも、その新聞に|ふたつ《ヽヽヽ》穴を開け、そこから懸命に須永を見張っているのだった。
──青山のアスレチック・クラブに足を踏み入れたとき、須永は心残りを覚えたほどだった。このクラブは会員制になっている。残念ながら、桂は入りこむことができないのである。須永はもう少し、桂の奮闘ぶりを見物したかったのだが……。
須永はロッカールームに入り、トレーナーに着替え始めた。なんの気なしに、ネクタイをピンごとロッカーに納めかけ──その手を、途中で止めた。
須永は、ホテルの部屋を出ていくときの工藤の表情を想い出したのだ。あれは、なにをなすべきかを充分に心得ている男の顔だった。
須永の唇のまわりに深い皺《しわ》が寄った。須永はタイ・ピンをトレーナーのポケットに突っ込むとロッカーを静かに閉めた。
──数分後、須永はトレーニングに没頭していた。工藤たちのことは、もうすっかり彼の念頭から消えていた。
同じ頃、桂は電話ボックスのなかで、受話器を唾《つば》で濡らしかねない勢いで喋《しやべ》りまくっていた。
「あの|ええかっこしい《ヽヽヽヽヽヽヽ》が……ぼくのことを、よほどのアホと思ったに違いないわ。今にみさらせちゅうんじゃ。ど肝《ぎも》抜いたるさかいに……なあ、そやろ、工藤さん……」
──ベルト・コンベアの唸りが聞こえている。終端ドラムの軋《きし》みが、なにか大きな獣が歯ぎしりをしているかのようだ。
蛍光灯がゆらゆらと揺れていた。
工藤は床にうずくまり、機械の動きを凝視している。いかにもエンジニアらしく、メカというもの知りつくしている表情だった。自信が、光となって溢れていた。
工藤の唇を、ふっと微笑が過《よぎ》った。どうやら、予期していた通りの成果を得ることができたらしい──工藤は腰を伸ばすと、電源スイッチを切った。
部屋はふいに静まりかえり、その静けさに、耳が痛くなるような感覚に捉《とら》われた。工藤は眼を瞬《またた》かせ、耳を軽く平手で叩いた。
工藤の背後のドアが開いた。ドアから顔を覗《のぞ》かせたのは、仙田徹三だった。なにか、閉口したような顔をしている。
「いやぁ、大変な音ですなァ……」仙田は、それが癖《くせ》の間延びしたような声で言った。
「なんという機械なんですか」
「昨日《きのう》、話が決まった後、すぐに手配したんですが……」と、工藤は笑った。
「なんとか、間に合いました。乾式ドラム型磁選機というんです」
「ほう……」
仙田は、不得要領な表情でうなずいた。彼にとって、その名を初めて聞く機械であることは間違いないようだ。むろん、何に使うものであるのかも知らないのだろう。
「ところで、お願いした品物、見つかりましたか」工藤が尋ねた。
「ええ……メーカーへ直接行ってきましてね。倉庫に、ひとつだけ埃をかぶって残っていました」
仙田は、しきりに背中でドアを押すようにしている。どうやら、何か重く嵩張《かさば》ったものを引きずっているらしい。
「メーカーは最初は売るのを渋っていたんですが……亜紀商事の名前を出したら、掌を返したようになりましてね」
気がついた工藤が、慌てて手伝いに行こうとしたとき、ようやくドアが大きく開いた。
仙田が部屋に引きずり入れたのは、──巨大な電気掃除機だった。クリーナーと英語で呼ぶのがためらわれるような武骨な代物だった。製造されてから、優に二十五年は過ぎているだろう。芥《ごみ》の袋が、そのままチューブと直結している型なのである。業務用ででもあったのか、容量だけは並外れて大きかった。
むしろ、骨董品《こつとうひん》とこそ呼ばれてしかるべきだろう。
「確かに、この型です」工藤が嬉しそうに、唇をほころばせた。
「間違いありません」
「こんなもの、いったい何に使うつもりなんですか」仙田は不審げだった。
「もし、これでどうにかしてタイ・ピンを吸い取ろうとでもお考えでしたら……念のために、私もメーカーの人に尋ねてみたんですがねェ。やはり、かなり距離が近くないと、無理なようですよ」
いかにも、石橋を叩いて渡る、仙田らしい気の回しようだった。本気で、今度のことを案じているのだ──工藤は、いまさらながらに須永という異分子の存在をありがたく思わないではいられなかった。彼がいなければ、これほど急速に、自分たちのあいだに連帯感が生まれることはあり得なかったろう。
「そんなつもりで、その電気掃除機を買っていただくようお願いしたのではありません」と、工藤は首を振った。
「もうすぐ、佐文字君も戻ってくるはずです。彼にも、|あるもの《ヽヽヽヽ》を買ってくるよう頼んであるのです……彼が戻ってきたら、作戦を説明します」
その言葉が終わるか終わらないうちに、インタフォンが鳴り、佐文字の陽気な声が部屋に響きわたった。
「いやァ、苦労しましたよ。|アメ横《ヽヽヽ》をさんざん歩き回りましてね。でも、どうにかご注文の品を見つけることができました……自動車のトランクに詰めてきたんですがね。ひとりじゃ、運びきれません。手伝いに来てください……」
工藤はなかば反射的に、壁の時計を見上げた。午後一時……約束の時間までは、あと十九時間を余すのみだった。
今夜が、徹夜になることは間違いなかった。
──須永はとらえどころのない焦慮感に襲われていた。なにか、自分がとんでもない間違いを犯しつつあるという感覚。テーブルを、思いきり拳《こぶし》で殴りつけてやりたいような苛立ちを感じている。
この男には珍しいことだ。数多くの修羅場を踏んできた須永は、めったなことでは動じない自信を持っていたのだが……。
むろん、須永は動揺を人に感じさせるような男ではない。外見《そとみ》には、ホテルのラウンジで悠然とディナーをとっている、青年実業家然として映っているに違いない。この世に、憂慮すべきことなどなに一つないように見えるのだ。
実際、長身の須永の姿はホテルのラウンジによく映えていたし、ディナーも文句なしに素晴らしかった。スープ・ド・トリフ、若鶏の蒸し煮、デザート……ホテル・オームラのコックは、世の食通《グルメ》たちの賞賛の的となっているのである。
だが、──須永はおよそ平静な心境からほど遠かった。
何も起こらなさ過ぎるのだ。午後九時……すでに約束の時間は、その半分以上が過ぎている。
工藤たちがなんらかの行動に出るのなら、もうその兆候が見えてしかるべき頃ではないか。
それとも、工藤たちは早くもタイ・ピンを奪うことを諦めてしまったというのだろうか……。
──そんなはずがない、と須永は思う。他の三人ならともかく、あの工藤という男がむざむざ戦いを放棄するとは考えられなかった。
須永は、やや乱暴なしぐさでコーヒーを口に含んだ。コック長の手でみごとに淹《い》れられたコーヒーだったが、今の須永にはその香りを味わっている余裕《ゆとり》はなかった。要するに、覚醒剤としてのみ働いてくれれば、それでいいのだ。
──夜だ……須永は胸のなかにその言葉を吐き出していた。今後、工藤たちは打って出てくるに違いない。眠りこんでいることを期待して、ただそれのみを頼りに、タイ・ピンを奪いにかかるつもりなのだろう。
ラウンジを出る須永の唇に、薄い微笑が浮かんでいた。むろん、今夜は徹夜をするつもりだった。
──午前六時……人気《ひとけ》のない廊下を、メイドが急ぎ足に歩いていく。小脇に、洗濯物を入れる籠を抱えていた──奇妙に、落ち着きのない歩き方だ。どうやら彼女は自分の行為を、心疾《やま》しく思っているようだった。
とある部屋の前に立つと、メイドは遠慮がちにドアをノックした。そのノックを待ちかねていたように、ドアがわずかに開く。
「持ってきました……」メイドが低い声で囁いた。
「でも、|あの人《ヽヽヽ》たちの仮眠は三時間だけなんです。二十四時間勤務ですから……だから、八時半までにはこれを返していただかないと……」
「わかってまんがな」
ドアの隙間《すきま》から伸びた手が、洗濯物の籠を受け取った。同じ手が差し出した一万円札を、なかば引ったくるようにして取ると、メイドはそそくさと部屋の前から立ち去った。
──すでに、ホテルには朝の気配が感じられた。午前七時半……投宿者たちの多くが眼を醒《さ》ます時刻だ。従業員たちも、いかにも忙しげに廊下を往復している。ときに、ルーム・サービスの、コーヒーの濃密な香りが漂《ただよ》ってきたりしていた。
この時刻、制服姿の二人のボーイが電気掃除機を押しているのを、誰か目撃した者がいたとしても、ことさらな疑惑を抱くはずがなかったろう。朝のホテルには、当然すぎるぐらいに当然な風景だからである。多少、彼らの押している電気掃除機が旧式に過ぎる|きらい《ヽヽヽ》はあったが……。
事実、二人のボーイは誰からも見咎《みとが》められることがなかった。偽者のボーイとしては、大いに感謝してしかるべきだったろう。彼らは、桂と仙田の二人だったのである。
二人の男は、三二一号室の前まで来ると、掃除機を押す手を止めた。お互いに顔を見合わせて、太い息を洩らす──三二一号室は、須永の部屋のちょうど真上に当たる。
意を決したように、桂がドア・チャイムのスイッチに指を伸ばした。軽やかな電気音が、ドア越しにかすかに聞こえてくる。
間をおかず、ドアが開かれた。顎にシェービング・クリームを残した、まだ若い男だ。
「なんだ……」
男は電気掃除機に視線を落として、不思議そうな顔になった。
「部屋の掃除にはちょっと早すぎるんじゃないのか」
「申し訳ありません……」
桂が口を開きかけるのを見て、慌てて仙田が言った。東京のホテルに勤務するボーイが大阪弁を喋《しやべ》ったのでは、相手に無用な疑惑を抱かせることにもなりかねないからだ。
「実は、こちらの上階のお客さまが、ネックレスをお落としになりまして……その、なにかの加減で、壁に引っかかってしまったのです……ご迷惑は承知でお願いするのですが、こちらの窓から、クリーナーを使わせていただけないでしょうか。なにぶん、想い出のネックレスとかで……できる限り、手早く済ませますから……ご不快とは存じますが」
こういう場合、仙田のいかにも実直そうな顔は、最大限にその効果を発揮する。相手の男は、手もなく仙田の言葉を信じてしまったようだ──仙田のほうは、自分の意外な嘘をつく才に、内心あきれ返っている。
「いいよ」と、男はうなずいた。
「俺は顔を洗っているから、適当にやってくれ」
「ありがとうございます」
仙田と桂が揃《そろ》って頭を下げ、その頭を上げたときには、もう男の姿はバス・ルームに消えていた。二人の男は顔を見合わせ、どちらからともなく会心の笑《え》みを浮かべた。
──カーテンをひらき、窓から差し込む白々とした陽光に、須永は眼を瞬かせた。
徹夜には慣れているはずの須永が、今朝はいつになく疲労を覚えていた。生《なま》欠伸《あくび》がくりかえし洩れ出る。ただ待ちつづけるだけに終わった一晩が、須永の神経をいたく消耗させているようだ。
須永の指が、神経質にテーブルを弾いている。その眼は、同じテーブルに載《の》っているタイ・ピンの上に据えられていた。
肩すかしをくった怒りが、肚《はら》の底にくすぶっている。何も起こらぬまま一晩が過ぎたのが、いまだ信じられなかった。結局、工藤篤は大口を叩くだけの男でしかなかったのか。
須永の感情は、奇妙に倒錯していた。本来なら、何も起こらなかったことこそ喜ぶべきではなかったか。それは、須永が賭けに勝ったことを意味しているのだから……。
だが、──須永のなかにはおよそ喜びらしい感情は湧いてこなかった。むしろ、裏切られたという想いのほうが強い。自分でもそうと意識しないうちに、須永は工藤に大きな期待を寄せていたようだ。
須永は壁時計に眼を走らせた。七時四十分……賭は、ほとんど終わったに等しかった。
──結局、アマチュアはアマチュアでしかなかったのか……。
須永がそう苦い述懐を胸のなかに吐き出したとき、──背後に、ガラスの砕ける鋭い音が聞こえてきた。
須永は立ち上がりざま、反射的に身をひねった。背後から向かってくる敵に、身構える必要があったからである。が、敵の姿はどこにもなく、須永の顔は強い風圧にさらされることになった。
須永になす|すべ《ヽヽ》があろうはずもなかった。次の瞬間には、部屋は暴風雨のなかの鶏舎のような様相を呈していた。夥《おびただ》しい数のタイ・ピンが、羽毛もさながらに部屋のなかを舞い狂っているのである。
風のなかで、須永は呆《ほう》けたようにテーブルを見つめている。当然のことながら、そこにあった|須永の《ヽヽヽ》タイ・ピンも、風に飛ばされてしまっている。そして、部屋に舞うタイ・ピンが、悉《ことごと》く須永のものと同じ種類である以上、もうそれを判別することは不可能にちかかった。
すべてが終わるのに、ものの三十秒とは要さなかったようだ。気がついてみると、もう風は止《や》み、須永は散乱するタイ・ピンのなかに立ちつくしていた──窓の上端から、電気掃除機のチューブが引き上げられるのが見えた。チューブは、その端が針金に支えられ、L字型に曲げられていた。
須永は呆然自失していた。これが何を意味するのか、いや、一体何が起こったのかさえ、正確には掴めていなかった。
ドア・チャイムが鳴らなければ、須永はいつまでもそこにそうして立ちつくしていたかもしれない。
須永はドアを開け、扉口《とぐち》に立つ工藤と佐文字の二人と対峙《たいじ》することになった。二人ともいかにも楽しげに笑っていた。
「どういうことなんだ?」須永は自然に詰問するような語調になっている。
「どういうことって……」工藤は肩をすくめて見せた。
「ぼくがテストに合格しただけのことさ」
「合格した?」
さすがに、須永は当初の衝撃からは立ち直っている。
「冗談じゃないぜ。あんたは、まだ俺のタイ・ピンを奪ってはいない……」
「あんたのタイ・ピンってどれのことですか」
佐文字が皮肉な表情で、工藤の肩越しに首を突き出して、わざとらしく床を見まわしてみせた。
「見たところ、どれが須永さんのタイ・ピンだかわかりませんな」
「確かに、わからない」須永はうなずいた。
「だが、だからといって、タイ・ピンを奪ったことにはならないだろう」
「いや、なるさ」
工藤は、ゆっくりと部屋のなかに足を踏み入れた。
「あんたには、どれが自分のタイ・ピンだかわからない。だが、ぼくには、須永さんのタイ・ピンがどれだかわかるんだ……ぼくたちが、あんたのタイ・ピンを奪ったも同じじゃないか」
「このなかから、俺のタイ・ピンを見つけることができるというのか」須永は両腕をひろげ、部屋に散らばったタイ・ピンを示した。
「でたらめを言うな」
「でたらめじゃないさ」工藤は首を振った。
「でたらめを言うために、こんなに苦労して準備するものか……さっきの電気掃除機は、もしかしたら日本に一台しか残っていないものかもしれないんだぜ。あの電気掃除機は、弱電メーカーの間ではなかば伝説と化している不良品《ヽヽヽ》なんだ。普通、電気掃除機なんてものは、なにがあっても風を吐いたりはできないはずなんだが……|あいつ《ヽヽヽ》は特別なんだ。なかのタービン・ファンが実に脆《もろ》くてね。羽の角度がすぐに変わっちまうんだ。風を吐き出すわけさ……メーカーはT電器。あちこちで芥《ちり》を吐き出す騒ぎがあったんで、慌てて全品を回収したんだ。二十年以上も前の話だが、新聞にも載《の》ったほどの騒ぎさ」
「電気掃除機の講釈はそれぐらいでいい」須永が、冷然と工藤の言葉をさえぎった。
「それより、本当にこのなかから、俺のタイ・ピンを見つけることができるというのか」
「嘘は言わないさ」
工藤は顎《あご》を引いた。
「だが、これだけは約束してもらおうか。タイ・ピンを見つけだすことができたら、ぼくがテストに合格したことを認めると……」
工藤と須永は、つかの間、たがいに見つめあった。
「いいだろう」と、須永がうなずいた。
「認めよう……」
佐文字がニヤリと笑うと、身をひるがえして、廊下へ出ていった。
──佐文字が戻ってきたとき、その両手で手押し台車を押していた。手押し台車には、なにかベルト・ローラーのような機械が載っていた。両腕で抱えられる程度の、さほど大きな物ではない。
佐文字の背後には、仙田と桂の二人の姿が見えた。二人とも、もうボーイの制服は脱いでいた。
三人の男たちは、きびきびと働いた。佐文字が機械の電源を確保し、他の二人が床のタイ・ピンをかき集め、手に持った袋のなかに投げ込んでいく。桂はことさらにおどけた物腰を強調していた。
「あの機械はなんだ?」と、須永は訊いた。
「乾式ドラム型磁選機の……まあ、ミニチュアみたいなものかな」工藤が答えた。
「本物を使うのにはちょっと難点があるんでね。本物を前に置いて、ぼくが造ったのさ。まあ、部品はありふれたものばかりだし、メカそのものも単純だから、さほど大変な仕事ともいえないが……正直、時間がないのには苦労したよ。本物ほどの精度はないけど、これでもそれなりの働きはするよ」
「どんな働きをするんだ?」
「見てればわかるさ」
工藤のその言葉が終わらないうちに、機械のベルトがカタカタと動き始めた。仙田と桂が、その上に、袋に集めたタイ・ピンをぶちまける。タイ・ピンの数は、おそらく千個を越しているのではないか。四つの袋いっぱいに詰まっているのである。
タイ・ピンは次から次に、ベルトの端からこぼれ落ちていき──ふいにピーンと澄んだ音を発して、一つのタイ・ピンが後方へ弾《はじ》けた。
「よし、それだ」
工藤の言葉と同時に、佐文字が機械を止めた。
そのとき、ちょうど八時だった。
「どういうことだ……」須永が呆然と呟《つぶや》いた。
「乾式ドラム型磁選機というのは、ベルト・コンベアの終端《しゆうたん》ドラムに磁石を仕込んだ機械でね……塊鉱《かいこう》の磁選に用いられるものなんだ」
工藤が噛んで含めるように言った。
「磁選そのものが、金属屑から鉄片を選《よ》り出す作業からの応用なんだが、ね」
「なんだと……」須永は眼を剥《む》いた。
「それじゃ、他のタイ・ピンは……」
「あんたのタイ・ピンだけが、鉄で造られてあるんですよ」
佐文字が白い歯を見せた。
「他のタイ・ピンはすべてプラスチック製でね。|アメ横《ヽヽヽ》に行けば、ありとあらゆるデザインを盗用した、安物のタイ・ピンが揃っているんですよ。もっとも短時間のうちにこれだけの数を集めるのは大変でしたけどね」
「偽物のタイ・ピンの数が少ないと、あんたに見破られる恐れがある……」
工藤が駄目押しのように言った。
「かと言って、タイ・ピンの山のなかから、棒磁石で本物を探していた|ぶん《ヽヽ》には、約束の時間に間に合わなくなる……こんな玩具《おもちや》を造ったのは、いわば苦肉の策でね」
工藤を始めとする四人の男たちは、声を揃えて笑いだした。肚の底から楽しげな哄笑だった。
その笑いの声のなかで、須永ははっきりと敗北を覚えていた。不思議なほど口惜しさはなく、逆にある種の爽《さわ》やかささえ感じているようだった。
ともあれ、この瞬間から、工藤がチームのリーダーとなることが決定されたのである。
──その夜、工藤は独りでわびしい晩餐《ばんさん》をとっていた。
作戦の検討、そのための訓練は明日から始めるということで、今夜はとりあえず全員を帰すことにしたのだ。三人の男たちはそれぞれ別れを告げるべき相手のもとに、そして須永は、おそらくは漆原専務にことの推移を報告しているはずだった。
工藤はでき得る限り外出を避けるべき立場だったし、──いずれにしろ、どうしても別れをいわなければならないような人間の心当たりもなかった。
さすがに工藤は、孤独が身に染みる思いがした。工藤はいつしか熊のような生活になじみ始めていたらしい。独りで食べ、独りで眠り……自由に執着する人間に課せられる、当然の代償といえたろう。
──だが、独りで死んでいくのだけは耐えられなかったらしい……工藤は苦い自嘲を胸中に吐き出した。
自分でつくったハムサンドはまずく、紙のような味がした。
確かに、工藤にとって、亜紀商事を事件に巻き込むことだけが、唯一生きながらえる道だったろう。
企業は、利益のためなら人間を容赦なく切り捨て、いささかも恥じるところがない。ならば、死を避けるために、人が自らの属する企業を盾に使うのもまた許されるべきではないか……工藤は、その信念にいまだ変更の要は認めない。
だが、抽象的な企業などというものは、どこにも存在しないのだ。結局、工藤が事件に巻き込むことになったのは、自分と同じ、弱い立場の男たちでしかなかったのである。
佐文字公秀、桂正太、仙田徹三……誰が生命を落とすことになっても、工藤は生涯に重い咎《とが》を負うことになるのだ。それほどの犠牲を賭してまで、工藤に生きながらえる資格があるだろうか……。
工藤は、いつしかパンを食べる手を止めていた。その眼が、狂おしいまでの苦悩に、暗く燃えあがっていた。
工藤は、ふいに背後に人の気配を感じた。騙し討ちにあったようなおどろきで、工藤は椅子《いす》からとびあがっている。小さな悲鳴が喉から洩れていた。
背後に立っていたのは、──梓靖子だった。
「驚かすつもりはなかったのよ」
靖子が小声《こごえ》で言った。
「さっきから、ドア・チャイムを鳴らしていたんだけど、返事がなかったので……」
「あ、ああ……」工藤はようやくうなずいた。
工藤は自分のうかつさと、そして臆病さに、ほとんど顔が赤らむ思いがしていた。
今夜の靖子は、とりわけ美しいといえた。額《ひたい》に上げたサングラスが、そのサファリ・スーツとあいまって、彼女のセンスのよさを示していた。成熟した女にして、初めて持つことのできる魅力だった。
靖子は、片手にスーパーマーケットの大きな袋を抱えていた。袋からは、野菜の新鮮な緑が覗いている。
「いつも、缶詰料理ばかりじゃ、体に悪いと思って……」
靖子の頬に薄く血がさしていた。
「その……少し来るのが遅すぎたかしら」
「………」
工藤は、自分がハム・サンドを持ったままでいることに気がついた。見るからに不味《まず》そうな|でき《ヽヽ》だ。たとえ犬でも、気の利《き》いた奴なら見向きもしないような代物だった。
「ぼくは自炊に慣れていますから……」
工藤は、ボソボソと口ごもった。ここ数日間で、工藤の気持ちは急速に靖子に傾斜していた。どんな男でも、靖子のような女といつも顔を合わせていれば、動揺せざるを得ない。
二人はぎごちなく沈黙した。
──まるで中学生だ……工藤は、思いがけなく初心《うぶ》な自分を嘲《わら》った。嘲いはしたが、しかし、なにを話したらいいのか、やはりわからなかった。
「教えてくれませんか」なにか意を決したように、靖子がいった。
「え?」
「工藤さんたちは|ここ《ヽヽ》で何をなさっているんですか。いえ、何をなさろうとしているんですか」
靖子は、ひどく真摯《しんし》な眼をしていた。靖子が本気で工藤の身を案じていることが、ひしひしと伝わってくる。工藤は大声で叫びだしたいほど嬉しかった。
が、──これ以上、事件に巻き込まれる人間を増やすべきではなかった。
「大したことをしているわけじゃありません」と、工藤は答えた。
「ちょっとした会社の仕事です」
「………」
靖子は、真正面から工藤の眼を見据えていた。その表情から、彼女が工藤の言葉を信じていないことは明らかだった。
工藤は後ろめたかった。ひどく後ろめたく、そして苦い気持ちだった。
「漆原専務がお呼びです」靖子が眼を伏せ、打って変わった硬《かた》い声で言った。
「すぐに専務室まで来られるようにとのことです」
──工藤がタクシーを飛ばし、亜紀商事の社屋に着いたときには、それでも十時を回っていた。
専務室に足を踏み入れ、──工藤はしばらく部屋の隅を凝視していた。なかば予期していたことであったが、そこには須永が腰をおろしていた。
他にもう一人、工藤が顔のみを知っている、ウェスチング・マシン社のアルバート伊能の姿もあった。
「実は、新しい情報が入ってね」漆原が、いつもの静かな声で言った。
「こちらのアルバート伊能氏から教えていただいた情報なんだが……これが、大変な情報でね。場合によっては、作戦を中止せざるを得ないかもしれないのだ」
「………」
工藤は沈黙している。
「実は、アグニから国境寄りの山中に、インド軍が設置したミサイル基地があるというんだ……」
「ミサイル基地?」工藤はようやく口を開いた。
「それがどうかした、と言うんですか」
「わからんのか」漆原の表情は虚《うつ》ろだった。
「アグニに何か異変が起きた場合、その基地から中国に向けてミサイルが発射されることになるんだよ。国境が侵犯されたという判断の下《もと》に、な……われわれの作戦が、またしてもインド・中国の国境紛争を惹《ひ》き起こすことになるんだ……」
第三章 潜  入
──工藤は、全身が痺れるようなおどろきを覚えている。漆原の言葉が、はっきりとした意味を持って理解されるまでには、すこし時間がかかった。
「馬鹿な……」工藤は呆然と呟いた。
「そんな馬鹿な……」
「残念ながら事実です」アルバート伊能が、甲高《かんだか》い声を張り上げた。
「確かな筋からの情報なんです」
「そのミサイル基地とかの位置は……正確な位置はわかりますか」
「アグニから北西に十二、三キロ……ランキーマ岩塩層からさらに奥深く入った山中に位置しています」
工藤は、天井に視線をさまよわせている。頭のなかに、「|巨人の足《ビツグ・フツト》」を中心とするランキーマ一帯の地図を想い浮かべているのだ。
「河に近い辺《あた》りですね……」
工藤はなかば自分自身につぶやくようにいった。
「そう……」アルバート伊能がうなずいた。
「ひじょうに近い。むしろ、渓谷を見下ろすような崖縁に位置していると言ったほうが正確なぐらいでしょう」
「おかしいじゃないですか。どうして、ミサイル基地をそんな危険なところに据《す》える必要があったのですか」
「別に、私が建設したわけではない」
工藤の鋭い語気に閉口したように、アルバート伊能は肩をすくめてみせた。
「だから、正確な理由はわかりませんが……推測で|もの《ヽヽ》を申し上げてよろしいですか」
「伺《うかが》います」
「まずは、河をつたってくる中国情報部員を監視するという目的があったのでしょうな……連中には、実にしぶとい人間が揃っていますからな。インド側としても、神経を尖《とが》らさざるを得ないのでしょう」
「………」
中国情報部員の優秀さに関しては、工藤も全面的に賛成する。現に、工藤はそのうちの一人と顔を合わせているのである。ふっと工藤の鼻孔に、バンコックのいがらっぽい陽光の匂いが甦《よみがえ》ったようだ。
「それにもうひとつ……将来、岩塩層を高レベル廃棄物埋蔵所にしたとき、このミサイル基地が警備の要《かなめ》になり得るという理由も考えられなくはないでしょう」
アルバート伊能は能弁に過ぎた。その口調には淀《よど》みがなく、言葉があまりにも軽やかだった。実際、自分の情報が工藤に与えた衝撃の大きさを、楽しんでいるようにさえ見えた。
「その基地の規模は……どれぐらいの規模のものなのですか」工藤が呻くように訊いた。
「そう……基地という言葉は、多少、大袈裟《おおげさ》に過ぎるかもしれませんな」
肥った小男は、いかにもしたりげに指で額を突ついている。
「ランスが三基……せいぜい、そんなところでしょうからな」
「ランス?」
「地対地ミサイルですよ。軽量化された、実に操作が簡単なミサイルでしてね。一九七三年頃から、アメリカで配備されだしたものです……まさか、核弾頭は整備されてはいないでしょうから、まあ、弾頭は高性能爆薬というところですかな。液体燃料の二段ロケットで、射程距離は百二十キロ……従来のオネストジョンに比して、操作要員は半数で済む、といわれています……」
「半数?」工藤の眼が光った。
「基地には、何人ぐらいの兵士が配属されているとお考えですか」
「二十人……」唐突に、まったく唐突に、須永が口をはさんだ。
「今のところ、基地には、せいぜいそれぐらいの兵数しか常駐していないそうだ」
「………」
工藤はあらためて須永を見た。
「あんたの考えていることはわかるよ」須永の顔にはどんな表情も浮かんでいなかった。
「俺も同じことを考えたんだからな……二十人ほどの兵士しか駐留していないんだとしたら、なんとか基地に忍び込むこともできるんじゃないか。基地に忍び込んで、無線を不能にすれば、アグニとの連絡はとだえる。異常を知って、ミサイルが発射されることもあり得ない……そう考えているんじゃないか」
「そうだ」と、工藤はうなずいた。
「なにか問題があるかね?」
「残念ながらな」須永は溜息をついた。
「一日に二回、基地からアグニに定期連絡がなされているということだよ。朝の八時と、夕刻の六時……無線が不能になっているとすれば、基地の人間はどちらかの連絡の際に気がつくはずだよ。いずれにしろ、なにか異常が起きつつあることは覚られるわけだ」
「作戦が駄目になりそうなことを、あんたはあまり気にしていないようだな」工藤は食いしばった歯の間から息を洩らした。
「あんたはいったい|どちら《ヽヽヽ》の味方なんだ?」
「止めないか」
漆原の鋭い叱声が部屋に響いた。
「須永君の情況判断は実に的確だ。むしろ、きみこそ冷静になるべきだと思う……きみは、自分の生命《いのち》可愛さに、会社をとんでもないトラブルに引きずりこもうとした。よろしい。それは、きみのような社員を擁したわが社の不運とあきらめもしよう。だが……きみは、自分の生命を救うためだったら、インド・中国間に戦争を招くことも辞さないつもりかね? いったい、人間がそこまでの卑劣漢になりきれるものだろうか」
「嘘かもしれない」工藤はしゃがれた声を出した。
「ぼくに作戦を放棄させるための|でたらめ《ヽヽヽヽ》かもしれないじゃないか。そんな基地は実在しないかもしれない」
「実在するんです……」アルバート伊能が言った。
「実在しないと思いたいだけさ」須永が辛辣《しんらつ》に言い放った。
「だが、実在するとしたらどうだ? あんたの生命は、何十何百という人間の死と引き替えにできるほど尊いものなのか」
「………」
工藤に言葉はなかった。三人の同僚を犠牲にすることになるかもしれないという怯えだけで、工藤は充分に苦悩しているのだ。その犠牲者が何十倍もの数に達する可能性を考えることは、ほとんど工藤の神経には耐えられそうもなかった。
「作戦を放棄したまえ」
漆原が最後|通牒《つうちよう》のように言った。
工藤は、かろうじて理性の淵に踏み止《とど》まることができたようだ。すべてを断念するには、原子力発電所に爆弾が仕掛けられているという事実が、あまりにも恐怖に満ちすぎていたからである。
「考えてみます……」
工藤はそれだけを言うと、踵《きびす》を返して、部屋を出ていった。ほとんど夢遊病者に似た足どりだった。
──工藤が出ていった後、部屋にはしばらく沈黙が落ちた。
「きみは、彼らのリーダーになれという私の命令を無視した……」
その沈黙を破って、漆原が静かに須永に言った。
「改めて、工藤君に作戦を放棄するよう説得するという仕事を命令する。わかっていることと思うが、二度の失敗は、私を大いに失望させることになるよ……」
「………」
須永の漆原を見る眼は、およそ感情というものがなく、暗い光を湛《たた》えていた。鳥の眼に似ていた。
「行きたまえ」漆原は、須永から顔をそむけた。
須永はゆっくりと部屋を出ていった。漆原に頭を下げず、また、部屋を振り返ろうともしなかった。
──ながく伸びた廊下に、蛍光灯の蒼い光が満ちていた。深海を連想させる、奇妙に|しん《ヽヽ》とした眺めだ。
その廊下を、今、二人の男が肩を並べて歩いている。
蒼い照明が、それぞれに異なる容姿を持つ二人の男に、なにか一卵性双生児のような似かよった印象を与えていた。
「どうするつもりだ」前方に視線を据えたまま、須永が訊いた。
「なにが、だ?」
工藤が訊き返す。
「作戦のことさ」
「止《や》めるしかないと言うのか」
「国境紛争を惹《ひ》き起こす勇気はないだろう」
「わからん……」
二人の男は、頑《かたく》なに顔をそむけあっていた。エレベーターに乗った後も、努めて視線を合わせないようにしている。
しばらくの沈黙の後、再び須永が口を開いた。
「どうしても、止めるのはいやか」
「ぼくはわからないと答えたはずだ」
「俺には、なぜわからないのかわからない」
「反撃を諦めれば、ぼくに残された道は二つしかない。殺されるか、精神病院に逃げ込むかの二つだ……たとえ漆原専務でも、そんな酷い決断を他人《ひと》に迫ることはできないはずだ」
「国境紛争が起これば、大勢の人間が死ぬことになるぞ」
「わかっている」
「それは、わかっているのか」須永の声に、わずかに嘲笑の響きがこもった。
「俺は、どうやらあんたを見そこなっていたようだ」
「国境紛争を回避して、なお作戦を遂行する方法があるはずだ」
「虫のいい考えだな」
「………」
工藤はおし黙った。ここ数分のうちに、その顔が急速に老《お》いたようだ。眼に、苦悩の色が濃かった。
エレベーターの扉が開き、二人は玄関ホールに足を踏み出した。
どこからか、ラジオの歌謡曲が流れていた。夜勤のガード・マンが携帯《けいたい》している、トランジスタ・ラジオに違いなかった──恋の歌だった。
社屋を出たとたんに、須永は工藤に向き直った。
「もう一度言おう」須永は殺したような声で言った。
「俺はあんたを見そこなっていた……あんたは、自分の生命《いのち》を救うためなら手段を選ばぬ男だ。よしんば国境紛争を回避できたとしても、あんたには三人のスタッフの生命に責任がある。あんたは、三人のアマチュアを死地に導こうとしている……あんたに、漆原専務を冷血漢呼ばわりできる資格はない」
「あの三人を選んだのはぼくじゃない」工藤は須永の視線にいささかもたじろごうとはしなかった。
「ぼくだって、アマチュアだ。そのぼくの眼から見ても、あの三人の人選には納得できないところがある。作戦の失敗を望んでいるとしか思えない人選だ……ぼくも、もう一度訊かせてもらう。あんたはいったい|どちら《ヽヽヽ》の味方なんだ。漆原専務か、フラワー・チルドレン≠ゥ、それともぼくたちの味方なのか」
「………」
二人の男は、路上で激しく睨《にら》みあった。
いざ喧嘩になれば、工藤はとうてい須永の敵ではない。路面に叩きつけられることになるのが|落ち《ヽヽ》だろう。だが、──工藤のなかには不思議なほど恐怖は湧いてこなかった。怒りが、ただ圧倒的な怒りが、工藤の身を灼いていた。それは、必ずしも、眼前の須永のみを対象とした憤りではなかったが……。
「止めとこう……」須永の肩からふっと力が抜けた。
「あんたと殴りあったところで、何がどうなるものでもない……だが、これだけは胸に刻みつけておくんだな。あの三人のうち誰が死ぬことになっても、責任はあんたにあるんだ」
須永はそれだけを言うと、クルリと工藤に背を向け、大股に歩き去っていった。
工藤は闇のなかに取り残された。闇は深く、悪意に満ちているように思えた。
──須永は、背後に鋭いクラクションの音を聞いた。背後から、押し倒されるような勢いだ。須永は小さく舌打ちすると、路肩に歩き寄った。
あつかましいライトの明りが闇を裂き、緑に塗られたムスタングが須永の脇を通過していった。一瞬、助手席にふんぞり返っているアルバート伊能の姿が、須永の視界を掠めた──どうやら、かの日系三世は、運転手つき自家用車を持っているという結構なご身分らしい。
凄《すさ》まじいエンジンの咆哮《ほうこう》を残して、ムスタングは闇のなかに消えていった。
その闇を見つめる須永の眼に、奇妙な光が浮かんでいた。実に、奇妙な光が……。
──須永の言葉に、工藤は罪悪感をよび起こされていた。思わず、呻き声が洩れてしまうほどの深い罪悪感だ。
工藤が、無辜《むこ》の三人の男たちを死地に導こうとしているのは厳然たる事実だ。その事実は、工藤自身にいかなる弁明も許そうとはしなかった。確かに、須永の言うとおり、冷酷なマキャベリストという点では、工藤は漆原となんら変わるところがないのである。
その罪悪感は、国境紛争を惹き起こすことになるかもしれないという恐怖で、ほとんど致命的なものになっていた。名も知れぬ男女の顔が、死者となって、次から次と工藤の脳裡を過《よぎ》っていった。その夥《おびただ》しい死のすべてに責任を負うのは、とうていひとりの人間に耐えられることではなかった。想像しただけでも、悲鳴を上げたくなるほどに恐ろしかった。
罪悪感の重圧に、工藤は顕著な精神退行状態のなかにあった。部屋に戻った後、明りも点けずに、ながくベッドに横たわっているのだ。胎児のように体を曲げていないだけ、まだしもというべきだったろう。
工藤の意識は虚ろだった。とんでもないことを始めてしまったという悔いだけがあった。あのまま、フラワー・チルドレン≠フエージェントから逃げつづけるべきだったのかもしれない。いつかは殺されることになったろうが、少なくとも罪悪感だけは抱かずにすんだはずだ。
ドアの開く音が聞こえ、一条の明りが部屋を走った。
顔を上げた工藤の眼に、扉口《とぐち》に立つ若い女のシルエットが映った。
「工藤さん……」靖子の声だった。
「眠っているの?」
「いや……」
工藤はあいまいに微笑《ほほえ》んで見せた。
「ちょっと疲れただけです」
工藤の言葉は、必ずしも嘘とはいえなかった。罪悪感ほど、人を極端に疲労させるものはないのである。今の工藤は、なかば病人に等しかった。
「漆原専務のお話はなんだったのかしら」靖子が遠慮がちに尋ねてきた。
「なんでもありません」と、工藤は首を振った。
「専務はなんでもないことで、他人《ひと》を呼びつけるような方じゃないわ」
「ぼくの言葉が足りなかった。あなたにとっては、なんでもない話だという意味です」
「教えてくれないのね」
「聞いて、おもしろいような話ではない」
工藤は、奇妙に依怙地《いこじ》になっている自分を意識していた。好きな女に、ことさら非礼な態度をとることに工藤は|いびつ《ヽヽヽ》な快感を覚えていた。激しい罪悪感の、反動という他はなかった。
「おもしろい話を聞きたいと思っているわけじゃないわ」さすがに、靖子の声に昂った響きが含まれた。
「あなたのことが心配だから訊いているのよ」
「それはどうもご親切に……」
工藤は皮肉に笑った。彼のなかで、悪意はとめどもなく増殖しているようだ。
「それで、ぼくが何を話したのかを、専務に報告するわけか。なにしろ、きみは専務の有能な秘書だからね……」
「あなたにはがっかりさせられたわ……」
しばらくの沈黙の後、靖子がなにか殺したような声で言った。
「いいわ。なにが原因だか知らないけど、いつまでも|そこ《ヽヽ》でそうやってすねているといいんだわ」
靖子は身をひるがえした。
「待ってくれ」
ふいに思いもよらない衝動が、工藤のなかに湧き起こってきて、工藤は自分でもそうと意識しないで、叫んでいた。
「ぼくと寝てくれないか」
「………」
扉口で、靖子が身をこわばらせるのがわかった。──工藤は自分の申し出を非常識とは思っていなかった。それは、幼児が母親を求めるのと同じ、純粋な渇《かつ》えから生じた言葉だった。ぎりぎり苦境の淵に立たされたとき、男が求めるべき避難港は、やはり女しかないのである。
「今のあなたと寝る女なんか、一人もいないわ」靖子が静かに言った。
「……どうしたの? あなたには仲間たちがいるじゃないの。もっと仲間たちを信頼すべきじゃないかしら。一人で苦しんでいないで、彼らに相談してみたらどう?」
靖子の姿を、ドアが隠した。
戻ってきた闇のなかで、工藤は靖子の言葉を頭のなかでくりかえしていた。|もっと仲間たちを信頼すべきじゃないかしら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。
──須永が、自分の部屋で電話を掛けている。低い、極端に緊張の感じられる声だ。
「……そうだ。名前はアルバート伊能……日系三世だよ。とにかく、こいつから眼を離すな。腕のいい奴を集めて、四六時中監視させるんだ……。
どうしてかって? 自動車だよ。奴の自動車……確かに、あの自動車には追跡用発信機が内蔵されていた。俺は、あの種の小道具には詳しいからな。外観の細工を見れば、大体の察しがつくんだよ。
とにかく、充分に警戒しろ。警戒する理由は、だな。アルバート伊能が、フラワー・チルドレン≠フエージェントであるかもしれないからだ。そう、CIA・極右組織の|あの《ヽヽ》フラワー・チルドレン≠セ……」
──闇が拡がっている。饐《す》えたような匂いがたちこめているのは、夕刻から降り始めた小糠《こぬか》雨のせいだろう。東京湾埋立て地の夥《おびただ》しい塵芥が、雨に濡れて、異臭を発しているに違いなかった。
はるか遠くで、羽田空港管制塔の投げかける灯が、ゆっくりと空を薙《な》いでいた。
ローズ≠ヘ体を低く保ち、闇の中をなかば這《は》うようにして進んでいる。
闇は、ローズ≠フ動きをほとんど阻んでいなかった。ローズ≠フ聴覚、嗅覚はいうに及ばず、その体表、全細胞が闇に反応して、鞭毛《べんもう》のように打ち震えているのだ。夜行性の獣のように、逡巡《しゆんじゆん》のない動きだった。
自動車《くるま》が駐《と》まっているのが見えた。すべてのライトが消された|その《ヽヽ》自動車は、闇に淡く輪郭を溶かしていた。打ち棄てられた廃車のような趣《おもむき》さえあった。
が、──その自動車を認めた瞬間から、ローズ≠フ動きはなお慎重を極めたものになっていた。そのしなやかな身のこなしは、ほとんど動きを感じさせないほどだ。
雨が降りつづいている。
その雨音に混じって、かすかに人の話す声が聞こえてくる。極端に用心した、圧《お》し殺したような小声《こごえ》だ。声は、自動車《くるま》のなかから聞こえていた。
ローズ≠ヘ耳を澄ましている。その表情が、どことなく猫の狡猾《こうかつ》さを連想させた。
「……号埋立て地だ」
と、男の声が言った。
「アルバート伊能の自動車がここに入って見えなくなった。もしかしたら、俺たちの尾行に気がついたのかもしれん……とにかく、すぐに来てくれないか。尾行車を取り替えたほうがよさそうだからな……」
どうやら、男は無線に向かって喋《しやべ》っているようだ。時おり、雑音が激しく聞こえていた。
ローズ≠フ唇に、酷薄な笑いが浮かんだ。その右の掌を軽くひらめかせる。と、──魔法のように、袖口から薄刃のナイフが飛び出してきた。まるで鋭い爪のように、ローズ≠フ手になじんで見えるナイフだ。
ローズ≠ヘ、再び自動車に向かって前進を始めた。蛇が這うのに似ていた。
ローズ≠ェ自動車の扉の下まで這い寄るのに、ものの数秒とは要さなかった。ひじょうに緩慢《かんまん》だが、しかし着実な動きだ。その手のナイフが、雨のなかで白く光っていた。
「それじゃ、できるだけ早く来てくれ」
その言葉を最後に、無線の電気音がとぎれた。男が無線を切ったのである。
──と、同時に、ローズ≠フ体が発条《バネ》のように跳ね上がった。その両の腕が、稲妻のようにひらめく。ほとんど一呼吸の動きだ。左肱がガラスを砕き、右の手から閃光のようにナイフが飛んだ。
男は、何が起こったのか理解することもできなかったろう。ガラスの砕ける音を耳にしたときには、もう男の喉はナイフで貫《つらぬ》かれていたのだ。男の頭が西瓜《すいか》のように赤いものを迸らせて、コンソールにぶつかった──そのまま、男の体はずるずると座席の下に崩れ落ちていった。
ローズ≠ヘしごく冷静だった。殺人は、ローズ≠フ仕事のなかでもとりわけありふれたものに過ぎない。いまさら興奮するような類いのことではないのだ。
ローズ≠ヘ背広の裾をはねあげると、ホルスターから拳銃を抜いた。スミス・アンド・ウェッソン──比較的、容易に入手できる拳銃だ。容易に入手できる拳銃で、確実に仕事をするのがローズ≠フ方法だった。
拳銃は、ローズ≠フ体の一部のように見えた。拳銃に多少なりとも通じている男なら、ローズ≠相手に射ちあうことの愚かさを、一目で覚るだろう。自殺にも等しい行為といえた。
ローズ≠ヘボンネットに両肱を支えると、拳銃を構えた。腰を落とし、スタンスを定める。最後のショットを決める優れたゴルフ・プレーヤーのように、その姿勢には自信が充ち溢れていた。その唇には、いかにも楽しげな微笑さえ湛えているのだ。
ローズ≠ヘほとんど待つ必要がなかった。
闇に暗く閉ざされていた地平を、不意に二条の光が裂《さ》いた。自動車《くるま》のライトだ。降りしきる雨が、ヘッド・ライトの明りを蒼く染めあげていた。自動車は徐行速度で、|こちら《ヽヽヽ》に近づきつつあるようだ。
ローズ≠フ眼は、まったく瞬きを見せなかった。狙撃手に特有な、死魚のように感情のない眼になっている。狙撃は、精神を集中することを最も要求される仕事だからだ。
ローズ≠フ指が引き金を引いた。銃声とともに、スミス・アンド・ウェッソンは太い火箭《ひや》を吐いた。
けたたましい警笛《ホーン》の音が、闇をつんざいた。狂女の上げる悲鳴のようだ。思わず耳をふさぎたくなるような、切迫した響きに満ちていた。
警笛を発しながら、なおも自動車は前進をつづけている。
転がりでるようにして、自動車からふいに人影が飛び降りた。自動車と逆の方向に、懸命に駆けていく。
ローズ≠ノは一瞬のためらいもなかった。横っ跳びにボンネットから離れると、拳銃を大きく振りおろすようにして、二発めを放った。一種の曲射ちだが、その動きにはまったく危なげがなかった。
人影はつんのめるようにして、地に転がった。射的の的と、なんら変わるところがなかった。
拳銃をホルスターに納めると、ローズ≠ヘ自動車に向かってゆっくりと歩きだした。
ローズ≠フ狙いは正確無比だった。二発の弾丸は、二人の男を確実にしとめていたのである──ローズ≠ヘまず運転席の死骸を座席に寝かせて、警笛《ホーン》の音を止めた。次に、地に伏している男の脇腹を靴で蹴りつけ、その死を確かめた。
「何者かな……」
そう呟いたローズ≠フ顔は、まったく無表情だった。三人もの生命を奪ったというのに、日曜のミサに出席してもさしつかえないような、しごく落ち着いた顔をしていた。
──窓に伝う水滴が、複雑な紋様を描いている。流れる水紋を、時おり赤い光が掠めるのは、外界《そと》のシグナルが反射しているからだろう。光そのものが濡れているような、奇妙に滲んだような赤だった。
間断なく降りつづく雨が、部屋を小さな船室《キヤビン》のように見せていた。部屋に座している五人の男たちは、さしずめ遭難を覚悟した船員というところか。誰の表情も一様に蒼《あお》ざめ、こわばって見えた。
タバコの煙が、低く部屋にたちこめている。ニコチンの勝った、厭な臭いが鼻孔を衝《つ》いた。
男たちは、牡蠣のように固く口をつぐんでいる。それぞれに、今、工藤から聞いた話を、頭のなかで反芻《はんすう》しているのだ。自分たちの作戦が、インド・中国間の紛争を惹き起こすことになるかもしれないという話を……。
「えらいこっちゃ……」
沈黙に耐えかねたように、桂がボソリと言った──その一言に、情況の困難さがすべて集約されているようだ。正常な神経の持ち主なら、自分たちの行為が多くの死を招くような事態に耐えられるはずがないからである。
「それで、どうするつもりなんですか」佐文字が眼を伏せたまま訊いた。
「作戦は中止するんですか」
「……わからない」工藤はなかば呻くように言った。
「迷っているんだ。迷っているからこそ、こうして相談しているんだ」
「このなかで戦争を経験しているのは、どうやら私ひとりのようですな」
仙田が咳払いしながら言った。
「経験といっても、私はまだほんの小さな子どもで……本当に辛《つら》かったのは、むしろ戦後になってからの物資欠乏期の頃でしたな。子どもにとって、ろくに食べられないという状態は、泣きたいほど苦しい……私たちの行為が、多少なりとも紛争を惹き起こす危険があるのだとしたら、私は即座に作戦を中止すべきだと思います……。インド兵にも、中国兵にも子どもはいるでしょうからね」
仙田の言葉は、一同の思いを代弁していたようだ。その言葉に、桂と佐文字が等しくうなずくのを、工藤の眼は逃さなかった。
「われわれは原子力発電所アグニを爆破しようとしているわけではない」
工藤はためらいがちな口調でいった。
「むしろ、その逆だ……われわれが作戦を決行しても、インド政府には何事が起こったのか正確に把握することはできないだろう。それが原因となって、その後、インドと中国が紛争を惹き起こすことはあり得ないはずだ……われわれが問題とすべきは、あくまでも作戦当日に限られると思う。|その日《ヽヽヽ》、基地からミサイルが発射されなければ、紛争の可能性はまず心配する必要はないはずだ」
「それは、そうでっしゃろけど……」桂が唇を尖らした。
「現実問題として、そんなこと不可能とちゃいますか。その基地とアグニとは無線で連絡されてますのやろ? アグニに何か起きたら、ミサイル発射されますがな。そしたら、中国かて黙ってへんやろし……」
「無線は不能にすればいい」
「そんなん、効果ありますか? 定時連絡はどないしますの? 連絡なかったら、今度はアグニのほうで、基地に何かあったのかと疑い始めまっせ……」
「基地の無線は、夕刻六時の定時連絡の直後に不能にする……」
工藤の声は自然に低いものになっていた。
「同時に、ミサイル発射をも不能にする……そうすれば、翌朝の八時まで、基地は存在しないも同然だ。八時になれば、アグニのほうでも定時連絡がないことに不審を抱き始めるだろうが、ね……」
「………」
工藤の言葉は、心臓を縮みあがらせる衝撃となって、一同を襲ったようだ。短時間の間に、原子力発電所アグニのみならず、ミサイル基地をも襲おうというのである。無謀と呼ぶのも愚かしいほどだった。
「正気で言っているのか」
それまで頑なに沈黙を保っていた須永が、喚くように言った。
「夕方の六時から翌朝の八時まで何時間あると思っているんだ? 十四時間だぞ。十四時間のうちに、二つの場所を襲えると思っているのか」
「できないことじゃないさ」工藤はすかさず切り返した。
「少なくとも、まったくの不可能事じゃないはずだ……問題はひとつ、皆にやる気があるかどうかということだ」
「………」
須永を除く三人の男たちの間を、激しい動揺が走った。工藤は彼ら三人に、死を賭してまで|この《ヽヽ》作戦を遂行する意志があるかと糺《ただ》しているのである。彼らにしてみれば、喉元に匕首《あいくち》を突きつけられたような思いがしたろう。
「……ぼくはフラワー・チルドレン≠ノ生命を狙われている。亜紀商事をこの件に巻き込むことが、ぼく自身を救う唯一の道だったんだ……」
工藤の喉ぼとけがゴクリと上下した。
「だけど、だからと言って、ぼくの行為が正当化されるとは毛頭思っていない。殺されたくないの一念で、ぼくがエゴイストになっていたのは、弁解しようのない事実だからだ……本来、仙田さんたちは、この件とはなんの関わりもない人間だ。強《し》いて関係をあげれば、ただ亜紀商事の社員である、ということがあるに過ぎない。それだけの理由で、生命を賭けるのは、なんとも馬鹿げた話じゃないだろうか」
「何を言いたいんですか」
佐文字が静かな、しかしきっぱりとした口調で、工藤の饒舌をさえぎった。
「今なら、まだ間に合うと言いたいんだ」工藤が溜息をつくように言った。
「仙田さんたち三人には、なんの義務も責任もないんだ。原子力発電所アグニを直接《じか》に見たことすらない……。今だったら、まだ手を引くことができる。だからと言って、誰も三人を卑怯者呼ばわりする者はいないはずだ」
「ぼくたちが手を引いたら工藤さんはどうするつもりなんですか」
「二人でやるさ」工藤は、壁際の須永に視線を向けた。
「|ぼくたち《ヽヽヽヽ》二人でやるさ」
「………」
須永は何も答えようとはしなかった。ただ、工藤の眼を見つめている。その眼には、一種名状しがたい色が浮かんでいた。
「確かに、須永さんはプロだ」佐文字がなおも言った。
「ぼくたちが三人いるよりも、彼一人いたほうが頼りになるかもしれない。だけど、それにしても、二人は二人だ……二人でできる仕事とは思えませんけどね」
「そんなことを心配する必要はない」工藤はことさらに冷淡な口調で言った。
「ぼくは、手を引くのなら今しかない、と言っているんだ」
その言葉を吐いたとき、工藤は三人の男が席を立つことをなかば覚悟していた。その必要もないのに、誰が好きこのんで生命を賭けようなどと考えたりするものか。
だが、──
「私は手を引くつもりはありませんよ」
思いがけなく、仙田がそう言ったのだ。部屋にいる全員の視線が、この温厚な中年男に集中した。
「今度、私のところに子どもが生まれることになりましてね……」仙田は照れたように言葉をつづけた。
「この話を受けたのも、最初は、家を買うための頭金をつくることが目的だったんですよ。二間のアパートで子どもを育てるんじゃ、女房が可哀相だと思いましてね。私は甲斐性《かいしよう》なしだが、せめて子どもだけは、ちゃんとした一軒家で大きくしてやりたい、と……そんな望みを持ったものですからね。
だけど、皆さんと一緒にいるうちに、少し考えが変わりました。私が生まれてくる子どものためにしてやれることは、何も家を買うだけがすべてじゃない。それよりも……父親たる私が、何事かを成し得る人間であり、ときには|そのため《ヽヽヽヽ》に生命《いのち》を賭すのも辞さない男であることを証明してやるほうが、子どもには大切なんじゃないか、と……。
いや、子どものためだけにやるんじゃない。私に、この意気地のない私に、本当に父親たる資格があるかどうか……そいつを自分自身に確かめてみたいんですよ」
「しかし、仙田さんには子どもができるんでしょ」工藤がなにか喉にからんだような声で言った。
「もしものことがあったら……」
「私は死にません」仙田はきっぱり言いきった。
「私には、子どもができるんですよ。死ねっこないじゃないですか」
たとえ百万言を連《つら》ねてみても、仙田の意志と自信を覆すのは不可能だったろう。仙田は、まさしく子どものために、インドに赴こうとしているのである。
「ぼくも、続けさせてもらいますわ」桂がふいに言った。
「仙田さんと違《ちご》うて、ぼくは金のためにやらせてもらうんやけど……ぼくの父親、関西の落語家やったんですわ。とうに、死によりましたけど……血ィだっしゃろか。ぼくは芸人になりとうて、しょうがおまへんのや。因果な話ですわな。ぼく、関西弁よう喋られへんのですわ。今、ぼくの喋っているの、これ東京人の使う関西弁です。しょせん、偽物ですわ……。
せやけど、芸人の子として生まれたからは、一度は高座に上がりたいもんですわな。高座に上がって、お客さんに笑《わろ》うてもらいたいんですわ。それが、なにより親父の供養になるんやないかとそう思うんです……。
小さなホールを三日ほど借りきって、|アルバイトの客《ヽヽヽヽヽヽヽ》よんできて、噺《はなし》してみたいんですわ。アホな話やいうこと承知してます。とんだ『寝床《ねどこ》』ですわな。せやけど……それやらんことには、先に進めえへんのですわ。ぼくの人生、足踏みしたままや……そのための費用、今度の仕事で稼がせてもらいたいんですわ」
この男には珍しく、桂の声には真摯《しんし》な響きがこもっていた。その願いを、それだけを、桂がながく胸に抱きつづけてきたことは間違いないようだった。
男たちの視線は、ごく自然に、最後の一人、佐文字公秀に向けられた。
「工藤さんはご存知だと思うけど……ぼくは女性がなにより好きでしてね」
佐文字は、自分の掌をジッと見つめている。
「今まで、好きな女を追いかけ回すことだけで、人生を送ってきました。けっして、自分が間違っていたとは思いません。できれば、これからもそうして生きていきたいと考えているぐらいです……ただ……ただ……」
佐文字は、適当な言葉を見つけることができなかったようだ。口ごもり、いかにも苦しげに首を振った。そして、──顔を上げると、静かに言った。
「ぼくには、今度の仕事をやり遂げなければならない理由があるんですよ」
──部屋には、一種異様な緊張と、そして感動が満ちていた。今、初めて、男たちは互いに互いを仲間として認識することができたのである。
「皆、わかっているのか……」工藤がなにかかすれたような声で言った。
「こいつは恐ろしく危険な仕事なんだ。わずか十四時間の間に、ミサイル基地を機能不能にして、原子力発電所から爆弾を撤去しなければならないんだ。しかも……」
そのとき、工藤の言葉をさえぎるように、鋭い電話のベルが鳴り響いた。
須永は電話が掛かってくることを予期していたようだ。なかば跳躍するように、壁から離れると、受話器を取り上げたのである。
「俺だ……」
須永が口にした言葉は、それですべてだった。後は、ただ無言のまま、相手の言葉に聞きいっている──全員の眼が、須永に集中したことはいうまでもない。
やがて、須永は静かに電話を切った。その顔が、凄いほどの無表情になっている。
「俺にも、工藤君と同じことを言わせてもらおうか」
須永は圧し殺したような声で言った。
「この仕事がどれほど危険なものであるのか、あんたたちにはわかっているのか……俺は、部下たちに|ある《ヽヽ》男を見張らせていたんだ。その男が、フラワー・チルドレン≠フエージェントであるかもしれないと考えたからなんだが……」
フラワー・チルドレン≠フ名が、男たちの間に電流のような衝撃を走らせた。彼らにとって、その名こそ、この世で最も忌むべきものだったのである。
「それで?」工藤が奇妙に静かな声で、須永に先を促した。
「見張りに当たらせた部下は全員死んだ」須永の声は、それ以上もなく虚ろだった。
「一人残らず、殺された……」
──朝の六時……昨日から降りつづいていた雨も、さすがに止《や》みかけているようだ。地下室を満たしていた雨音が、しだいにとぎれがちなものになっていった。
城塞さながらの堅牢さで造られたこの邸も、湿気にはさほどの考慮が払われていないらしい。地下室には、耐えがたい温気《うんき》がこもっていた。足元から水が染みこんでくるような不快さだ。
地下室には、工藤と須永の二人がいた。須永は中央に立ち、その手にベレッタ自動拳銃・M一九五一を構えていた。工藤は壁際に立ち、そんな須永を見つめているのだ。
ベレッタを構える須永を眼にしながら、工藤はまざまざとプロとアマの差を思い知らされるような気がしている。ベレッタは、工藤の手にあったときとは、まったく別の拳銃のような印象を放っている。拳銃も、また所有者を選ぶのである。
「……こいつは、けっして悪い拳銃じゃないよ」須永がなかば独り言のように言った。
「なにしろ、イタリア軍の制式拳銃になっているぐらいだからな。命中率が悪いとしたら、それはあんたの腕のせいとしか思えない」
「………」
工藤としては、一言もなかった。須永に指摘されるまでもなく、工藤の拳銃の腕が最低にランクされるのは明らかだったからだ。
部下たちの死を報せる電話が入ったときから、須永はその印象を大きく変えたように見えた。須永の表情には、もう権謀術数《けんぼうじゆつすう》をよくする男の面影はどこにもなかった。ただ部下たちを殺された憤りが、その眼に白い炎となって燃えているだけだった。
須永もまた、他の三人とは異なる理由から、作戦に本気で取り組む気持ちになったようだった。
「確かに、同じベレッタ社に開発されたものでも、モデル九〇なんかに比べれば、こいつは重いかもしれない……」
須永はなおも言葉をつづける。
「本当は、ダブル・アクション式になっている銃のほうが初心者向きなんだが……」
須永はそこで唐突に言葉を切った。その眼が、遠くを見るように狭《せば》められる──かすかに、電車の走行音が聞こえてくる。ようやく、始発電車が接近しつつあるようだった。
須永は腕をまっすぐに伸ばして、ベレッタの銃口を土嚢《どのう》の的に向けた。まさしく、不動の姿勢だ。体を鉄の芯《しん》が貫《つらぬ》いたように、身じろぎ一つしない。銃をながく操ってきた者にのみ特有な、沈着冷静な自信が漲《みなぎ》っていた。
地下室が鳴動し始めた。鉄路の唸りが、工藤たちの立つ地にまで伝わってくる。今にも、壁土が崩れ落ちんばかりの震動だ。
電車の走行音はしだいに高さを増し、ついには耳を聾する轟音となった。
ベレッタが咆哮した。
電車が通過したとき、須永は八発の弾丸を悉く射ち放っていた。
工藤は壁から離れ、的を手に取った。八つの穴が、的の中心に集中して開《あ》いていた。まさに、工藤の腕とは格段の相違といわねばならなかった。
「凄いものだな」工藤は首を振った。
「これほどの腕とは思わなかったよ」
「的は動かないからな」須永の表情にはほとんど変化がなかった。
「動かない的にいくら命中しても、自慢にはならんさ」
「ぼくは、その動かない的にもろくに命中さすことができない」工藤は苦笑を浮かべた。
「どうやら、ぼくには拳銃は無用の長物らしい」
「そうとも限らんさ」と、須永は首を振った。
「人間は、的よりずっと大きいからな……拳銃を使う人間にとって、なにより重要なのは決断力だ。腕なんかじゃない」
「決断力?……」
「そう……人間を撃つのはたやすいことじゃない。いざ引き金を絞ろうという段になると、誰でもついためらってしまうものだ。そのためらいを早く捨てられる人間だけが、本当の意味での優れた|拳銃使い《ガン・マン》なんだ」
「プロとアマとを問わず、か」
「プロとアマとを問わず、だ……」
須永は、再びベレッタを持つ手をまっすぐに伸ばした。いつもは無表情なその顔に、今、ありありと憤りの色が浮かんでいた。
「部下に|あいつ《ヽヽヽ》を見張らせたのは俺の失敗だった……」須永はかみしめた歯から、息を洩らすようにして言った。
「調べて、奴がフラワー・チルドレン≠フエージェントであることに間違いないとわかったら……俺はためらわずに、あいつを撃《う》ち殺してやる」
「誰なんだ、その男は?」
須永は、工藤の問いをきっぱりと黙殺した。ただ、狙《ねら》うべき相手がそこにいるかのように、拳銃を構えつづけているだけだった。
──その日から、男たちの作戦準備が始まったのである。
──昨日の雨に、新宿は洗われたような新鮮な印象を帯びている。空にも、スモッグの翳《かげ》りすらなかった。東京には稀《まれ》な、輝くような天気だった。
当然のことながら、歩道に人の数は多い。圧倒的に、若い男女の姿が目立った。いかにもこの街にふさわしく、華やかな色彩に充ちた風景といえた。
そのなかに混じると、仙田のドブネズミ色の背広は、いささか場違いの感が強い。その手に布を被《かぶ》せた大きな箱を持っていることとあいまって、仙田ひとりが風景から浮かび上がっているように見えた。
仙田は、しごく呑気《のんき》そうな表情で、歩道を歩いていく。陽光を存分に楽しんでいるようだ。その唇には、微笑さえ浮かべていた。
微笑を浮かべたまま、仙田はとあるビルのなかに入っていった。
──数分後、仙田の姿はそのビルの屋上にあった。
仙田の顔からは、ぬぐわれたように微笑が消えている。むしろ、緊張し、その頬が神経質に痙攣《けいれん》していた。
胸壁の際に箱を置くと、仙田は背広のポケットから小さな双眼鏡を取り出した。新宿の一方に双眼鏡を向けると、しきりに焦点を合わし始める。場所が場所だけに、へたをすると痴漢行為と間違えられないとも限らなかった。
仙田の行為が、覗《のぞ》きを目的とするものでないことは明らかだった。仙田は、およそそうしたことには興味を持たない男であるからだ。第一、覗きにしては、双眼鏡の角度が上を向きすぎていた。
仙田の立つビルからはるか遠方、双眼鏡の先には、あの回転しつづける薬品の広告塔があった。
満足げにうなずくと、仙田は背広のポケットに再び双眼鏡を収めた。そして、腰を落とし、箱の包みをほどきにかかった。
包みが解かれた後には、──大きな鳥籠《とりかご》が残された。鳥籠のなかにいるのは、どうやら鴉《からす》のようだ。急に白日のもとにさらされたのに驚いたのか、しきりに黒い羽をばたつかせている。
「よしよし……」仙田はあやすような声をかけながら、籠の蓋《ふた》を開け、なかの鴉を両手で取り出した。
人間には、よく馴《な》れているらしい。仙田の両手のなかにあっても、鴉は騒ごうとはしなかった。
「あの広告塔に向かって飛んでいくんだぞ」
なおもそう声をかけながら、仙田は鴉を持つ両手を、頭上高く上げた。そして、なかば鴉を放りだすようにして、両手を勢いよく放した。
鴉は黒い礫《つぶて》のように、飛び去っていく。
鴉を見送る仙田の眼には、いかにも不安げな光が浮かんでいた。
──昨日の雨が、その渓流の水嵩《みずかさ》を増しているようだ。滝を思わせる勢いで、ドウドウと流れている。崖肌に砕け散る水滴が、小さな虹を架《か》けていた。
午後の陽光が、渓流に眩《まばゆ》い光をきらめかせている。両岸に生い茂る灌木が、あおあおと鮮やかに濡れて光っていた。
紅葉の名所として名高い渓流だ。季節ともなると、東京からマイ・カー族がどっと押し寄せてくる。東京から自動車で三時間、日帰りの行楽地としては、まずまず格好の場所といえるだろう。
だが、季節はずれのいまは、渓流には人影はまったくなく、ただ水の音が聞こえているだけだった。寂しい風景だ。
その寂しさが、ふいに打ち破られることになった。渓流を、黄色に塗られたゴム・ボートが下ってきたのである。
まさしく、流れに翻弄《ほんろう》される木の葉に等しい。ゴム・ボートに乗る男は、懸命に櫂《かい》を操っているが、ほとんどものの役には立っていないようだ。今にも転覆しそうな勢いで流れてくるのだ。
その男は、──桂正太だった。
さしもの剽軽な桂の表情も、いまは緊張にこわばっている。唇を歪《ゆが》め、どんぐり眼《まなこ》をかっと見開いた顔は、必死の形相という形容こそふさわしかった。
当然のことではあった。桂にとって、流れの急な渓流をボートで下るのは、これが初めての経験なのだ。へたをすると、岩に激突して、それこそ流れに放り出されかねない。櫂《かい》を操る桂の手つきは、およそ熟練からはほど遠いのである。
桂にしてみれば、ほとんどジェット・コースターに乗っているような思いがしたに違いない。ときに上《のぼ》り、ときに下り、ときには回転すらしながら、とにもかくにもボートを無事に進めようと懸命になっているのだ。
「ギャーッ」
桂が、見栄も外聞もない悲鳴を上げた。岩に当たった櫂が、真っ二つに折れてしまったのである。次の瞬間には、もうボートは宙返りし、流れのなかに呑まれてしまっていた。
──数分後、岸にようやく這い上がった桂は、くしゃみを連発していた。全身濡れネズミの、見るからに情けない格好になっている。頭から垂れている水藻が、桂になんとなく河童のような印象を与えていた。
ひとしきりのくしゃみが終わった後、桂はなにか放心したように岸辺に腰をおろしていた。
「またボート買わなあかんな……」やがて、桂はボソボソと口のなかでつぶやいた。
「せやけど、こないなことしてて、なんかの役に立つんやろか」
桂の背後の灌木林では、小鳥がのどかに、実にのどかにさえずっていた。
──日没が近い。
空は沈んだ青に、淡くオレンジ色を滲《にじ》ませていた。快晴だった一日の終わりにふさわしく、夕焼けは微妙に色相を変えながら、しだいに拡がりつつあった。誰の胸にも、郷愁を呼び起こさずにはおかない夕焼けだ。
今、佐文字公秀が立っている滑走路から望む夕焼けは、とりわけ見事だった。東京のはるか郊外に位置する民間航空会社だ。視野をさえぎるような高層ビルは一つとしてない──滑走路の端に据えられた吹き流しが、黒いシルエットとなって、風に揺れ動いていた。
夕焼けには、幼年時代の記憶を呼び起こす魔力のようなものがあるようだ。夕焼けを視野に収めながら、佐文字もまた子ども時代のことをしきりに想い出していた。タバコをくゆらしているその顔が、ひどく寂しく、頼りなげに見えた。
佐文字の幼年時の記憶は、ほとんど母親によって占《し》められている。若く、優しく、そして美しい母親だった。母親がはやく死んだために、なおさら佐文字のなかで、彼女を美化する効果を与えているようだ。
佐文字の女|漁《あさ》りは、心理学的には母親を探す行為にあたるのかもしれない。佐文字が女性を冷たくつきはなして見ることができないのも、その対象が母親だからと考えれば、うなずけるものがあるのではないか……。
彼自身ははっきりとは意識していないが、いま、佐文字は母親と訣別《けつべつ》しようと努めているところなのだ。心理の一方の極では、常に自分を拘束《こうそく》しようとする母親の記憶を厭《いと》う気持ちがある。母親と訣別しない限り、佐文字が真に女を愛することは不可能なのだ。
佐文字がこの作戦に加わる気になったのも、実は自由を、言葉の本当の意味での自由を獲得したかったためだからなのである。
──佐文字が眼を細く狭めた。夕焼けの空を背景に、こちらに向かいつつあるヘリコプターを認めたからだ。佐文字がここにながく立っていたのも、そのヘリコプターを待つためだったのだ。
佐文字のほぼ頭上で、ヘリコプターは降下を始めた。回転翼《ローター》が、凄《すさ》まじい風圧を叩きつけてくる。ただ立っていることにも困難を覚えるほどだ。
ヘリコプターはようやく着地した。回転翼《ローター》が溜息をつきながら、徐々に回転を鈍くしていく。
パイロットが地に降りるのを待ちかねたように、佐文字が大声を張り上げた。
「荷物は運んできてくれたんでしょうね」
「ああ……」と、パイロットはうなずいた。
「今、降ろすよ」
「ライト・バンを用意してきました。あいつに積んでください」
「それは構わないけど……」パイロットは指で頭を掻いた。
「なあ、教えてくれねえか。あんなものを何に使うんだ?」
「申し訳ありませんが、会社の機密に属することなんです」佐文字は声を低めた。
「お教えするわけにはいきませんよ」
「だけど、気になるじゃねえか」
パイロットは不満げだった。
「宇宙服だぜ。あんた……宇宙服なんか何に使うのかね」
──須永の部屋だ。
今しも、シャワー室から須永が出てきたところである。腰にタオルを巻いただけの姿だ。その逞しい上膊筋に、汗の玉が光っている。
長椅子の上に、ブリーフからタートル・ネックのシャツに至るまで、一揃いの衣類がきちんと積み重ねられて置かれてある。すべてまだ包装されたままの、新品の衣類だ。いずれも安いものではない。
須永は下穿きとズボンを着けると、机の上のガン・ホルスターを手に取った。鹿革の、いかにもよく使いこんで見えるホルスターだ。鈍く、黒い光沢を放っていた。
須永にとって、拳銃の扱いは、ほとんど反射動作のようなものにまでなっているらしかった。裸の胸にホルスターをつけるその動きには、一瞬の遅滞もなく、また着実でもあった。
ホルスターをつけ終わると、須永はゆっくりと壁際に歩み寄り、大きな姿見の前に立った。
須永の右手が閃いた。ほとんど魔法のように、その手にベレッタが出現した。
須永の口から舌打ちが洩れた。どうやら、今の動きに不満があるらしい。須永はゆっくりとベレッタをホルスターに納めると、再び両手をひろげ、身構えた。その表情に、はっきりと焦燥の色が滲みでていた。
電話が鳴った。須永はぴくりと体を震わせ、溜息をつき、電話に向かって歩いていった。
受話器を取る。
「俺だ……」
須永の声は、地鳴りのような暗い響きに満ちていた。
受話器から、かすかに相手の声が洩れきこえてくる。相手の言葉にただ聞きいっている須永の眼に、凶暴な光が宿っていた。
「わかった……」須永は唸るように言った。
「それ以上、深入りするな。へたをすると、死んだ連中の二の舞いになるからな……後は、俺が引き継ぐことにする」
受話器を置くと、須永は手早く身仕度を整えた。ブレザーの上からは、ホルスターの有無はまったくわからなかった。
須永は暗い眼つきで部屋を見回した。
極端に、掃除の行き届いた部屋だ。今日は、とりわけ生活の臭いを感じさせないように思える。その無色無臭さには、病室に共通するものがあった。須永という男が暮らしていた痕跡など、塵一つとして残されていないのである。
その徹底した清潔さは、はっきりと異常に属していた。この部屋のそっけなさ、無味乾燥さこそ、暴力を生業《なりわい》としてきた須永という男を象徴するものといえたろう。
実際、この部屋は須永を必要としていない。須永がいようがいまいが、この部屋のとりすました冷淡さにはなんら変わりがないはずだった。ちょうど、今の須永が、誰ひとりとして他者を必要としていないように……。
須永の唇をふっと笑いがかすめた。ひどく荒涼とした、見る者の胸を凍らせるような笑いだった。
須永はブレザーの前ボタンを掛けると、ゆっくりとドアに向かって歩いていった。もう、部屋を振り返ることすらしない。そして、ドアを開け、──扉口《とぐち》に立っている工藤と向かいあうことになったのだ。
「やあ……」工藤は笑っている。
「出かけるのかね」
「………」
一瞬、須永は言葉を失ったようだ。予想もしていなかったことであるらしい。
「フラワー・チルドレン≠フエージェントと対決するつもりなのか」工藤はなおも言葉をつづけた。
「勝つ自信はあるのかね」
須永が動揺していたのは、ほんのつかの間のことだった。
「余計なお世話だよ……」須永は冷淡な口調で言った。
「とにかく、そこをどいてもらおうか」
「ぼくの質問が聞こえなかったようだな」工藤は一歩として退《ひ》こうとはしなかった。
「フラワー・チルドレン≠フエージェントに勝てる自信はあるのかと訊いたんだよ」
「だから、余計なお世話だと答えた」
「そうは思わないな……ぼくはリーダーなんだぜ。忘れたのか」
「あくまでも、作戦に関してのリーダーだ。他のことで、あんたに従わなければならない義理はない」
「こいつは|他のこと《ヽヽヽヽ》じゃない」工藤の語調がやや強くなった。
「フラワー・チルドレン≠ヘ、ぼくの生命《いのち》を狙っているんだからな」
「それがどうした?」須永の眼が暗い光を帯びた。
「現実に殺されたのは、俺の部下なんだ」
「ぼくの仲間たちも殺されている。単純に死者の数だけを考えれば、ぼくの恨みのほうがより大きいはずだ……」
「………」
二人の男たちの間には、極端な緊迫感が生じていた。針の一突きが加われば、即座に爆発しそうな緊迫感だった。
「どういうつもりなんだ?」やがて、須永が圧し殺したような声で言った。
「本気で、俺を思いとどまらせることができると思っているのか」
「思っていないよ」と、工藤は首を振った。
「フラワー・チルドレン≠フエージェントと対決するつもりなら、ぼくを連れていってくれと頼んでいるのさ」
「………」
今度こそ、須永は完全にあっけにとられたようだ。
「いい加減、逃げつづけるのには飽きたよ」と工藤は言った。
「ぼくを殺そうとしている奴の顔を、真正面から拝《おが》みたくなったんだ」
「プロを甘く見ないほうがいい」須永は石のように冷ややかに言った。
「いや、フラワー・チルドレン≠ヘ、そのプロたちが恐れている破壊工作グループなんだ。いつもだったら、俺はその名を口にするのもいやなぐらいだ。あんたなんかに歯の立つ相手じゃない」
「そうだろうな」と、工藤は平然とうなずいた。
「だが、奴らに歯が立たないのは、あんたも同じじゃないか。だから、ぼくは最初から勝つ自信はあるのかと訊いているんだ。とても、自信があるようには見えないからな」
「………」
一瞬、須永の顔が怒色で膨れ上がったように見えた。現実に、そのブレザーの上からも、肩の筋肉が盛り上がるのが窺《うかが》えたほどだ。
恐ろしく危うい瞬間だった。工藤が床に殴り倒されるようなことになっても、自業自得というべきだったろう。──だが、ふっと須永の肩から力が抜けた。須永はあいまいに首を振ると、工藤を押しのけるようにして、廊下に足を踏み出した。
工藤が肩を並べて歩きだしても、もう須永は何を言おうともしなかった。
──アルバート伊能は、旺盛な食欲を見せている。優に、二人前はある分量だ。額に汗を浮かべながら、次から次へと肉片をたいらげていくのだ。
自由が丘の小さなレストランである。駅からはやや離れているが、レストランに面した道路に人通りの絶えることはなかった。レストランの前に駐《と》められている緑のムスタングが、その人通りを二分している。
運転手が手箒《てぼうき》で、しきりにムスタングの埃を払っていた。
窓際に位置している伊能を、道を隔《へだ》てた自動車のなかから見張っている工藤と須永には、この人通りがなによりありがたかった。盛り場に駐まっている自動車に、ことさらな注意を払う者などいるはずがないからである。
「まさか……」工藤が口のなかでつぶやいた。
「あの男が、フラワー・チルドレン≠フエージェントだなんて……」
「間違いない」須永の眼は蒼《あお》い光を放っている。
「俺の部下たちは、あの男を見張っていて殺されたのだ」
「………」
須永の断定を聞いても、なお工藤には信じられない気持ちだった。夢中で食事をしている伊能の姿は、およそ腕利きの破壊工作員というイメージからはほど遠い。破壊工作員という職業から、人が連想する鋭さ、敏捷さなど、寸分も帯びていないように感じられるのだ。
「そうとも」と、須永はくりかえした。
「あいつに間違いないんだ」
レストランから従業員が出てきて、窓のシャッターを下ろし始めた。閉店の時刻のようだ。伊能が渋々のように、椅子を立つのが見えた。
須永が座席に背をずらし、身を低くした。工藤も慌てて、須永にならう。
アルバート伊能は、いかにも鷹揚にムスタングに乗り込んだ。運転手を待たせて、ひとり食事を摂《と》ることに、なんの|やましさ《ヽヽヽヽ》も覚えていないらしい。植民地を闊歩《かつぽ》する、厚顔な白人支配者を連想させた。
ムスタングが発進した。
氷の上を滑るなめらかさだ。工藤の眼にも、ムスタングの運転手が並々ならぬ技量の持ち主であることがわかった。
須永は正確に一分だけ待った。
──伊能が乗るムスタングは、田園調布の方角に向かっている。奇妙に、自動車の流れが少ない晩だ。ムスタングのテール・ランプが、二つの赤い眼のように夜の闇のなかに浮かび上がっていた。
須永の尾行は巧妙をきわめていた。常に一定の間隔をおきながら、絶対に追う自動車を見失うことがない。その巧妙さは須永のこれまでの暮らしがいかに暗く、危険に満ちたものであったかを如実に物語っていた。
工藤はいまさらながらに、まったく自分がサラリーマンとかけ離れた生活に入ってしまっていることを痛感していた。
追跡行はものの二十分とはつづかなかった。
ムスタングは、とあるビルの前で速度を落としたのである。
瀟洒《しようしや》な邸宅が連なる田園調布にあっても、そのビルはいささかも違和感を感じさせなかった。十階建てほどのビルだが、随所にしゃれた装飾がほどこされている。狭い敷地に無理やり打ち建てた雑居ビルとは、自《おの》ずと格が異なっていた。
「なるほど……」
自動車を駐めながら、須永がうなずいた。
「ここが、奴の連絡場所となっていたのか」
「何のビルなんだ?」
と、工藤が訊いた。
「在日米人たちの、一種のクラブだ」須永は工藤を見向こうともしなかった。
「CIAとの関係が、あれこれ噂されているビルだ」
ムスタングは車首を転じて、地下道に乗り入れようとしている。どうやら、ビルの屋上がモーター・プールになっているようだ。
ムスタングが地下に消えたとたんに、須永は自動車を発進させた。首がのけぞってしまうほどの猛ダッシュだ。タイヤが甲高い叫喚を発した。
工藤の眼に、みるみる地下道の暗い顎《あぎと》が大きくなった。照明が星のように流れ、蛇行を描いた。緑のムスタングが、視界いっぱいに迫ってくる。
急停車に、工藤の体が座席から放り出されそうになった。ゴムの焦げる臭いが、激しく鼻を衝《つ》く。自動車を停めると同時に、須永は運転席を飛び出している。
「動くな」
須永はベレッタを構えた手を、まっすぐムスタングに向けている。暴力に慣れた者だけになし得る早業《はやわざ》だった。
ムスタングからは、こそとも音が聞こえてこなかった。思いもよらない事態に、伊能も運転手も、ともに身をこわばらせているにちがいない。
実際、ベレッタを構えた須永の姿勢には、圧倒的な気迫が漲《みなぎ》っていた。たとえ、伊能が真実、フラワー・チルドレン≠フエージェントであるとしても、今の須永に逆《さか》らうのは不可能な業《わざ》だったに違いない。
「ドアを開けろ」
と、須永は命じた。その声は、いささか度を越していると思われるほど冷静だった。
ムスタングのドアが開いた。
「しばらく、そこで待っていてくれ」
ムスタングに視線を据えたまま、須永はそう工藤に声をかけた。
「ああ……」
工藤は頷いたが、その声が須永の耳に入ったかどうか疑問だった。須永はなおも拳銃を構えながら、ゆっくりと壁に背中を這わせている。リフトの傍らまで移動すると、左手をボタンに伸ばした。
リフトの扉が開いた。須永はさらに左手で、残った柵を勢いよく押し上げた。
「リフトに自動車を乗せろ」須永は噛んで含めるような口調で言った。
「ゆっくりとやるんだ。少しでもおかしな真似をしたら、遠慮なくぶっ放すから、そう思え」
ムスタングがゆっくりと前進を始めた。
工藤は胃が痛くなるような思いで、ムスタングの前進を見つめている。いまにも、ムスタングはダッシュして、須永を轢殺《ひきころ》すのではないだろうか。
ムスタングがリフトのなかに消えたとき、思わず工藤の唇から溜息が洩れていた。あまりの緊張に、全身の筋肉が熱を孕んだように痛かった。
ついで、須永の姿もリフトのなかに消えた。扉が閉まり、|重 錘《バランス・ウエイト》の唸りが聞こえてきた。三人の男と一台の自動車を乗せ、リフトは上昇を始めたのである。
工藤はしばらく放心していた。すべてが、映画のなかの一情景であるように、いちじるしく現実感を欠いていた。一切が、あまりにも早く運びすぎていた。
ふいに、工藤は強い嘔吐感を覚えた。暴力を目《ま》のあたりにした普通人には、当然の反応だったろう。
工藤は自動車を出て、柱の陰にうずくまった。嘔吐感は執拗《しつよう》につづいていたが、しかし胃液の一滴として、喉にこみあげてこようとはしなかった。
工藤は改めて、自分がいかに暴力に耐性がない人間であるかを思い知らされる気がしていた。
どれほどの時間が流れたのか。
うずくまっていた工藤の耳に、再び|重 錘《バランス・ウエイト》の唸りが聞こえてきた。
リフトが降りてきたのだ。
リフトを凝視する工藤の胸には、期待と怯えがなかばしていた。リフトから姿を現わすのは須永か、それとも伊能だろうか……。
リフトの扉が開いた。
予期に反して、リフトからは誰も姿を現わそうとしなかった。ムスタングが、冷たい緑の光沢を放っているのが見えるだけだ。なにかしら、巨大な甲虫《かぶとむし》を連想させた。
工藤は待った。待ったが、なおリフトに動く影は見えなかった。
工藤はゆっくりと腰を上げた。頭のなかに、金切《かなき》り声で喚く声があった。声は、しきりに逃げろと喚いてるのだ──逃げろっ、須永は殺されたに違いない。いまさらどうなるものでもないじゃないか。おまえも殺されないうちに早く逃げちまえ……だが、工藤の動きにためらいはなかった。
工藤は、須永にはっきり宣言したのだ。いい加減、逃げつづけるのには飽きた、と……。
工藤はリフトに足を踏み入れた。さすがに、足が萎えるような恐怖を覚えた。いつ、伊能が襲ってこないとも限らないのだ。
ムスタングのなかには誰もいないようだ。すると、須永と伊能は、屋上のモーター・プールで争っているのだろうか。
工藤が踵《きびす》を返そうとしたそのとき、自動車の陰から誰かの呻く声が聞こえてきた。心臓が喉まで迫り上がる瞬間だった。工藤は小さな悲鳴を上げ、壁に背中をぶつけた。
工藤はそのままの姿勢で、しばらく体をこわばらせていた。背筋を伝う汗が、氷の流れと化していた。
再び、呻き声が聞こえてきた。今度は、須永の声であることがはっきりわかった。工藤は慌てて壁を離れ、ムスタングを回りこんだ。
ムスタングの陰に、二人の男が倒れていた。一人は須永であり、もう一人は──アルバート伊能だった。
須永は頭部から血を流し、しきりにもがいていた。どうやら、単に殴られただけの傷のようだった。生命に別状はなさそうに見える。
アルバート伊能が死んでいることははっきりとしていた。額に開いた弾痕が、いかにも恨めしげに天井を睨んでいるのだ。
工藤は、安堵感が全身に染みわたるのを覚えた。この情況を見る限り、須永はどうやら勝負に勝ったといえそうだ。フラワー・チルドレン≠フエージェントを相手に回して、頭部から血を流す程度の負傷で済んだのは、むしろ|その《ヽヽ》健闘を称《たた》えるべきだったろう。
「大丈夫か」
工藤は須永を抱き起こした。
「………」
須永はうっすらと眼を開けた。工藤を見定めようとするその眼が、ろくに焦点が合っていなかった。
工藤は、冷たいものが肚の底を貫くのを感じた。須永の眼は、断じて勝利者の|それ《ヽヽ》ではなかった。むしろ、絶望の色のほうがより濃いようだ。
「罠だ……」
須永のもつれる舌が、ようやくそれだけの言葉をつむぎだした。
「罠……?」
「………」
「なにが罠だというんだ」
工藤は、須永の体を揺さぶらずにはいられなかった。
須永は呻き、右腕を上げた。腕を上げるのにも、全身の力を絞りつくすほどの努力を必要としているらしい。眼に見えて、胸の起伏が激しくなった。
須永の人差し指の先には、緑のムスタングがあった。
「爆弾が仕掛けられている……」須永の声はまさしく血を吐くようだった。
「………」
工藤は、自分の表情がこわばるのを感じた。反射的にムスタングから身を遠ざけようとした|その《ヽヽ》とき、背後にずーんと重い音が響きわたった。工藤が危うくバランスを逸しそうになったほど、リフトが揺れに揺れた。
リフトの扉が閉まったのである。
工藤の、扉を見る眼が、徐々に恐怖を孕《はら》んでいった。その眼に、いっぱいに恐怖が満ちたとき、工藤は狂ったように扉に跳びついていた。
扉の開閉ボタンは、まったく用をなさなかった。自力で開けるには、扉はあまりに重く、頑丈につくられすぎている。いずれにしろ、工藤に扉を開ける方法は残されていないようだった。
工藤はくりかえし、扉を拳で殴りつけた。手の甲が破れ、鮮血が迸《ほとばし》った。確かに、一度は工藤はながい悲鳴さえ上げたようだった。
狂乱の後の、深い脱力感が工藤を襲った。工藤は肩で息をしながら、しばらくムスタングを見つめていた。密閉されたリフトのなかで、ムスタングが爆発したとき、その殺傷力は想像を絶するものになるはずだった。
まさしく、これは罠以外の何物でもなかった。
「いやだ……」工藤は幼児のように首を振った。
「そんな死に方はいやだ」
工藤は扉から離れ、須永を再び抱き起こす。その頬を引っぱたかんばかりの勢いだ。
「言ってくれ」工藤は声を張り上げた。
「爆弾はどこに仕掛けられてあるんだ」
須永は眼を開いた。その眼には、どことなく苦笑に似た色が浮かんでいた。
「間違いだったよ」須永は意外にはっきりした声で呟いた。
「フラワー・チルドレン≠フエージェントは運転手《ヽヽヽ》のほうだった。気の毒に、アルバート伊能は、たんなる隠れ蓑《みの》だったんだ。みごとに、あしらわれちまったぜ……」
「運転手が……」
工藤は絶句した。運転手の存在は、まったく意識の他にあったのだ。その容貌すら、ろくに記憶にとどめていない。
確かに、フラワー・チルドレン≠ヘ優れたエージェントを擁《よう》しているようだ。
だが、──いまの工藤に、敵の正体に驚いている余裕《ゆとり》はなかった。工藤は、須永の体をさらに激しく揺さぶった。
「爆弾はどこに仕掛けられているんだ」
しかし、須永はすでに木偶《でく》に等しかった。完全に意識を失っているのだ。頭部からの夥《おびただ》しい出血を考えれば、今まで意識が保ったのが不思議なぐらいだった。
工藤は血走った眼をムスタングに向けた。
──爆弾を解除するか……一瞬、工藤の脳裡をそんな考えが過《よぎ》った。解除などできるはずがなかった。工藤は爆発物の知識に欠けているし、なにより爆発までにどれほどの時間を余しているのかすらわかっていないのだ。下手をすると、かえって爆発をはやめる危険さえあった。
なんとかして、このリフトから逃げ出す術《すべ》を考えるしかないのだ。
工藤の視線が、蝶のようにリフトのなかをさまよって、──天井の通風口にぴたりと据えられた。
通風口から抜け出すのは、必ずしも不可能な業ではない。難点は、そこに填《は》められている格子鉄板だろう。短時間で取り外《はず》すには、格子鉄板の鋲《びよう》はあまりに大きく、頑丈に過ぎるからだ。
工藤の動きに、ほとんどためらいはなかった。
工藤は自分の腰からベルトを抜き、さらには須永のベルトも外した。最後に、骸《むくろ》と化しているアルバート伊能のベルトを取り外《はず》した。さすがに、伊能のベルトを抜くときには、指先が顫《ふる》えたようだ。
ついで、三本のベルトを結びにかかった。固く、固く、結び目をつくる指が痛くなるほどに固く、三本のベルトを結びあわせる──一本と化したベルトをくりかえし引っ張り、その強度を確かめた後、工藤はムスタングの車体《ボデイ》の上に登った。
爪先で伸びあがるようにして、ベルトの一端を格子鉄板に縛《しば》りつける。そして、車体《ボデイ》から跳びおり、ベルトの残る一端をムスタングのバンパーに縛りつけた。これで、格子鉄板とムスタングが一本のベルトに結ばれたわけだ。
ベルトには、一センチの|遊び《ヽヽ》もなかった。ぎりぎりの長さだ。
ムスタングのドアを開けようとして、工藤は激しく舌を打った。ドアには、ロックがおりているのだ。
工藤自身は気がついていないが、彼の首筋にはじっとりと脂汗《あぶらあせ》が滲んでいた。
工藤は靴を脱ぎ、その踵《かかと》で思いきりサイド・ウィンドゥを打った。微塵《みじん》に砕けたサイドから腕を突っ込み、ロックを外す。
工藤はようやく、ムスタングの運転席に体を滑りこませることができた。
幸いなことに、イグニション・キーは差しこまれたままだった。工藤は、場合によっては、針金を手に奮戦しなければならないかと考えていたのだが……。
工藤は、大きく息を吐いた。喉が、荒野のようにひりついていた。ベルトが切れるのではないかという危惧が大きかった。
工藤はキーを回し、アクセルを一気に踏みこんだ。ムスタングが金属の悲鳴を発して、激しく身震いした。体がつんのめるような反動を覚えた。
背後に、シンバルを叩き鳴らすのに似た音が響きわたった。
工藤はエンジンを止め、ムスタングから飛び出した。格子鉄板が外れ、四角い穴を開けている通風口を見たときには、よろこびに全身が震える思いがした。これで、リフトから逃げ出すことができるのだ。
だが、──工藤にはまだ休養をとる贅沢《ぜいたく》は許されていなかった。肩に腕を回し、須永を床から抱き起こす工藤の顔は、完全に面変《おもが》わりして見えた。いつムスタングが爆発するかもしれないという恐怖が、工藤の神経をいたく消耗させていた。
須永の体重は、はるかに工藤を凌《しの》いでいるようだった。須永を背負った工藤は、ほとんど這い上がるようにして、ムスタングの車体《ボデイ》に登った。喘いでいた。
須永の腋下に腕を差しいれ、工藤はムスタングの上に立った。爪先立ちで、かろうじて片手が通風口の縁にかかる。が、──片腕だけの力で、二人の人間が通風口に登るのはとうてい不可能だった。
「頼む……」工藤の声はほとんど泣かんばかりだった。
「頼むから、眼を醒《さ》ましてくれ」
赤児《あかご》をあやすように、工藤は何度も須永の体を揺らした。工藤の願いは空《むな》しかった。須永はみじろぎひとつしようとしないのだ。
工藤の唇が紙のように白くなった。通風口を見る眼が狂的なぎらつきを帯びていた。片腕一本で、二人の男の体重を引きずり上げるには、それこそ重量挙げのゴールド・メダリストの膂力《りよりよく》を必要とするだろう。だが、──やるしかないのだ。
工藤は、通風口の縁にかけている指に、満身の力を込めた。ずるっと靴先が滑り、工藤の腕を灼《や》けるような苦痛が走った。工藤は悲鳴を上げ、次の瞬間、体重が嘘のように軽くなったのを覚えた。
須永が気がついたのだ。須永は、工藤の背中と肩を踏むようにして、通風口のなかに消えていった。ついで、工藤も身をよじらせて、通風口を潜《くぐ》った。
暗い穴のなかに、二人の吐く息が激しかった。工藤は鋼索《ロープ》を握り、かろうじて上半身を支えていた。このまま眠りこんでしまいたいと、工藤は本心からそう思った。
ながくかかったようでも、ベルトを結び始めてからものの十分とは過ぎていないだろう。
どうにか呼吸を整えると、工藤は上方に視線を凝《こ》らした。|重 錘《バランス・ウエイト》をつるした鋼索《ロープ》が、白く闇のなかに浮かび上がっていた。文字通りの命綱といえた。
「登れるか」
と、工藤は囁いた。
「さあな……」須永の声は消えいらんばかりだった。
「なんだか、自分の体じゃないような……」
工藤の眼から見ても、須永に鋼索《ロープ》をよじ登る体力はなさそうだった。リフトから逃れて、危険は大きく減りはしたものの、足元で爆発が起きれば、やはり五体無事というわけにはいかないだろう。なんとしてでも、鋼索《ロープ》をよじ登って、上階に逃れる必要があるようだ。
工藤が須永を背負って、鋼索《ロープ》を登る決心をした|その《ヽヽ》とき、──がくんと足元から鈍い衝撃が伝わってきた。リフトが上昇を始めたのである。
とっさには、工藤には何が起こったのか理解できなかった。それこそ、狐につままれたような気分だ──リフトは、かっきりワン・フロアーだけ上昇したようだ。停止すると同時に、眼の前の壁が開き、仄暗《ほのぐら》い廊下が見えた。
廊下の照明はすべて消されていた。廊下に漂う月の光が、かろうじて事物を闇から浮かび上がらせている。
「工藤さん、早くお逃げになったほうが賢明ですよ」
闇のなかから、奇妙に呑気そうな声が聞こえてきた。
「ここに、フラワー・チルドレン≠フローズ≠ウんとかいう男《ひと》がいるが……なに、私がここにいるかぎり、あなた方に手出しはできませんよ。今、日本で仕事をしたら、われわれが黙っちゃいないと、こんこんと教え諭《さと》していたところでしてね」
工藤は唖然とした。声の主は、──バンコックの安ホテルで会った|あの《ヽヽ》小虎《シアオフー》という中国人なのである。
闇には、緊迫感が漲《みなぎ》っていた。小虎の声音がいかに呑気そうであっても、闇のなかで二人の男が激しく対立しているという事実には、なんら変わりがないのだ。
「爆弾と|死体は《ヽヽヽ》こちらで始末します」小虎の声が、やや鋭さを帯びた。
「早くお逃げなさい」
「………」
工藤は慌てて須永の肩を抱き、廊下に一歩を踏み出した。ビルを出るまで、背中に執拗な視線を感じていた。
ただ、敗北感だけが濃かった。
──危うく、工藤たちがローズ≠ノ殺されかけてから、ほぼ一週間が過ぎようとしている。幸い、須永の傷もたいしたことはなく、作戦にはなんら支障をきたさずに済みそうだった。
ながかった作戦準備も、いよいよ詰めの段階に入ろうとしていた。
そして今日、──インド行きを二日後にひかえて、メンバーに自由時間が与えられた。メンバーの誰もが、その自由時間の意味を了解していた。心残りなことがあったら、今のうちに片付けておけというのだ。
二度と、日本には帰れないかもしれないのだから……。
──その日、佐文字公秀の姿は、五反田のとあるアパートにあった。もっぱら、学生たちが利用しているようなアパートだ。安アパートという形容こそふさわしいかもしれない。
佐文字は、ある部屋の前で立ちつくしているのだ。時おり、行き過ぎる学生たちが好奇の眼を投げかけるのにも、一切おかまいなしだ。
部屋の表札には、『柴田啓子』の名前が書かれてあった。佐文字の現在の、いや、|かつて《ヽヽヽ》の恋人の名だ。
佐文字は、今朝、啓子から掛かってきた電話を、頭のなかで反芻《はんすう》していた。
──みんな、嘘なの……啓子の声は涙で濡れていた。私には、兄なんかいないの。いるのは、やくざな夫なんだわ。やくざな夫だけど、愛しているのよ。だから、お金をつくってあげようと思って……。
佐文字は、啓子に対してたまらないほどの愛《いと》しさを覚えていた。去っていく女には、肩をすくめるだけが常の佐文字には、まったく珍しいことといえた。もしかしたら、今度こそ本当に、佐文字は女を愛し始めていたのかもしれない。
啓子は言った。
──でも、佐文字さんが本当にいい人なんで……私、これ以上、騙しつづけるのが苦しくてお別れします。許してくださいとは言いません。でも、私のこと、どうか頭の隅にでも憶《おぼ》えていてください。私、けっして佐文字さんのこと忘れません。さようなら……。
さようなら、と佐文字も答えたはずだった。答えたはずなのに、彼はこうして啓子のアパートまで来てしまっている。
佐文字の唇にふっと微笑が浮かんだ。
佐文字は懐から厚い封筒を取り出すと、それを啓子の部屋のポストに押し込んだ。そして、後ろも見ないで、ゆっくりと廊下を歩きだした。
封筒には、マンションを売った金が入っていた。中古マンションなので、たいした額ではなかったが、それでも現在の佐文字には全財産といえた。
だが、佐文字にはいささかの後悔もなかった。
どうせ、二日後にはインドに赴《おもむ》いている身ではないか。原子力発電所アグニを前にして、金など何の役に立つ?
「馬鹿ね」
と、秋子は笑った。
「そうか、馬鹿か……」
仙田はニヤニヤとうなずいた。今にも、とろけそうな顔をしている。
仙田のアパートの六畳間である。
夫の出張《ヽヽ》のために、下着をバッグに詰めている秋子の前に、仙田はベビー服の山を築き上げたのである。ごていねいに、ガラガラまで混じっていた。
「こんなにいっぱい買ってきて……」秋子は夫を睨みつけた。
「まだ男の児《こ》か、女の児かもわからないのに」
「だから、両方買ってきた」
温厚実直な仙田徹三も、若い妻の前に出ると、まるで青年のようなはしゃぎようを見せる。
「なんなら双児《ふたご》を産めばいい」
「馬鹿……」
秋子は頬を紅潮させながら、せっせと下着をバッグに詰めている。
「そうか、馬鹿か……」
仙田は同じ言葉をくりかえしている。
仙田にしても、自分はホーム・ドラマの亭主を意識して演じているのではないか、という反省の念がないわけではない。だが、そんな反省も、秋子に対する愛しさ、子どもが生まれてくるよろこびを前にしては、まったくかき消されてしまう。仙田は、ただただ甘い夫、そしておそらくは、甘い父親と化してしまうのである。
「ねえ、生水《なまみず》だけは飲んじゃ駄目よ」秋子が手を休めて、唐突に顔を上げた。
「インドって、水が悪いんでしょう。二、三週間の滞在でも心配だわ。本当に、生水は飲まないでね。体には気をつけて……それだけが心配なの」
「ああ、注意するよ」仙田はいとも真面目な表情でうなずいた。
「生水は飲まないようにする」
──西陽の当たる四畳半だ。
窓につるされた木綿のカーテンがいかにもわびしい。部屋の隅に、インスタントラーメンの袋が雑然と積まれていた。絵に描《か》いたような独身男の部屋だった。
畳の上に置かれたカセット・ラジオから、上方落語の『夢八《ゆめはち》』が流れている。演じているのは、上方落語の大御所として知られている噺家《はなしか》だ。艶《つや》っぽい、実にいい声をしている。
「……『うわーん、甚兵衛《じんべえ》はん、甚兵衛はん』
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
『|つり《ヽヽ》の番やいうて、首つりの番やないか』
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
『首つりなら首つりと、早よ言えちゅうねん』
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
『甚兵衛はん、甚兵衛はん、甚兵衛はーん!』
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……」
カセット・ラジオの傍らでは、桂正太が肱枕《ひじまくら》で寝ころがっていた。桂は、カセットから流れてくる噺にあわせて、しきりに頭を動かし、口をぱくつかせていた。
まったくの没我の表情だ。うっとりと、両眼を閉じてさえいるのである。エクスタシー時の表情と酷似していた。
インドに赴くまでの二日間を、桂はすべて落語を聞くことで費《つい》やそうと考えていた。桂にとって、それが最も幸せな時間の過ごし方なのである。
──夜。
工藤は、須永とともに、私鉄沿いのあのアジトに閉じこもっていた。
工藤には、インド行きを二日後にひかえて、会うべき相手も、行くべき場所もなかった。同じく孤独な須永を相手に、作戦に必要な機材のチェックでもしている他はなかったのである。
奇妙に、静かな夜だ。最終電車が通過してから、すでに三十分余が経過していた。
「スピーカーは、やはりホーン型スピーカーにしたのか」
と、須永が訊いた。ローズ≠ニの対決以来、須永はさらに暗く、烈しい眼をした男になっている。
「ああ……」工藤はうなずいた。
「なんといっても、携帯に便利だからな」
「マグネシュウム発火弾に……」須永は、手のなかのリストを読みあげている。
「時限爆弾か……こいつは問題なさそうだな」
「銃の手配はどうなっている?」
「スターリング機関銃に、俺のベレッタ……どうせ、銃をろくに使いこなせる奴なんかいないんだ。それで充分だろう。荷物になるばかりだからな」
「輸送のほうは大丈夫か」
「やばい品物の輸送は、すべて会社のほうでやってくれるはずだ。亜紀商事の名が入っていれば、インドの税関はほとんどフリー・パスだよ」
「なるほど……」
工藤がそううなずいたとき、遠慮がちなノックの音がして、梓靖子が部屋に入ってきた。
「工藤さん」と、靖子は言った。
「お話ししたいことがあるんです……」
須永の存在など、ほとんど彼女の眼には入っていないようだ。ひどく思いつめた表情をしている。その烈しい視線に、工藤は自分がたじろぐのさえ覚えていた。
「ちょっと、地下室まで行ってくる」
須永は苦笑しながら席を立ち、急ぎ足で部屋を出ていった。
須永が去った後も、なお靖子は工藤を凝視することを止めようとはしなかった。最初はためらいがちに、次には真正面から、工藤は靖子の視線を受けとめていた。
その視線が、二人の間にある感情をなによりよく物語っていた。
「とうとう教えてくれなかったわね」靖子がポツリと言った。
「あなたたちが何をしようとしてるのか」
「知らないほうがいいんだ」工藤の声に、わずかに苦いものが混じった。
「そのほうがあなたのためなんだ」
「………」
ふいに、靖子の顔が歪んだ。大きな感情のうねりが、彼女になにか美しい獣のような印象を与えていた。
「死なないで……」
と、靖子は言った。彼女の全存在を賭《と》したような、烈しいものを含んだ言葉だった。
「………」
とっさには、工藤は返す言葉を思いつかなかった。笑ってごまかすには、靖子の視線が真摯《しんし》に過ぎたようだ。
「お願いだから……」靖子はくりかえした。
「死なないでください」
「馬鹿な……」
工藤は眼を伏せた。感動の潮《うしお》が、徐々に工藤のなかに満ちつつあった。今の自分に、靖子の愛に応《こた》える手段のないことが、たまらなく悲しかった。
工藤は、数日後には死んでいるかもしれない身なのである。
「それだけを言いたくて……」靖子もまた眼を伏せた。
「どうしても言いたくて……」
「………」
工藤のなかで耐えに耐えていたものが、ぷつりと音を立てて切れた。狂おしい欲望が、工藤の体を衝き動かしている。
工藤は椅子を蹴るようにして立ち上がると、靖子の体を乱暴に抱き寄せた。靖子はなかば崩れるような形で、工藤の胸に顔を埋めてきた。腕のなかで、彼女の肩が激しく上下しているのが感じられた。
最初のキスは、ややぎごちない、しかし、このうえもなく甘美なものだった。
「帰ってきたら」
工藤が呻くように言った。
「ぼくが帰ってきたら……」
そう、──帰ることができたなら。
──二日後、五人の男たちはインドに発《た》った。
蒼空に吸い込まれていくインド航空のジャンボ機を、一人の男が送迎デッキからいつまでも見送っていた。
漆原だった。
ジャンボ機を見送る漆原からは、いつもの剃刀の鋭さが消えているようだ。その眼には、なにか放心したような表情が浮かんでいる。
すでに漆原は事態を把握できなくなっていた。無能者、屑たちの寄せ集めであったはずのグループが、いつのまにか一丸となり、アグニ爆弾撤去作戦に向かって驀進《ばくしん》しつつあるのだ。子飼いの部下だった須永洋一も、どうやら漆原の軛《くびき》から完全に離れてしまっているらしい。
それは、なにかしら漆原の自信、人間観を根底から脅《おびや》かす出来事であるように思えた。
風が、漆原の髪を乱している。きらきらと眩《まばゆ》い陽の光のなかで、漆原の姿は老醜さえ感じさせた。
──もしかしたら……と、漆原は思った。もしかしたら、|彼ら《ヽヽ》が作戦に成功しても失敗しても、俺の敗北ということになるのではないだろうか……。
──コンノート広場は、ニューデリーの中心地区である。
円形の大広場を中心にして、円周道路、幹線道路が整然と交叉している。あまりに見晴らしがよく、整いすぎていた。広場を歩く旅行者が、ふっと頼りなさを覚えるほどだ。
芝生の緑が、街路の白さにみごとに際立っている。
とびきりの一等地なのである。
銀行、航空会社、高級商店などが、お行儀よく軒《のき》を並べているような地区なのだ。ニューデリーに限らず、世界中どこの街に移しても違和感は感じさせないだろう。清涼飲料水の赤い看板がやたらに目につくのも、世界のすべての目抜き通りに共通していた。
コンノート広場に、インドを多く望む旅行者は失望を覚えることになるだろう。コンノート広場は、イギリス人が造った地区なのだから。
街路には、自動車、スクーター、タクシー、自転車、人力車《リキシヤ》などが、煮えこぼれるように走っている。道端に立つと、排気ガスの臭いがツンと鼻を衝《つ》くのは、他の街となんら変わるところがない。
広場を歩いているのは、サラリーマン、学生、店員、蛇笛吹き、靴磨きの少年、行商床屋、雑誌売り、チャパティ焼き、そして警官たち……。
とある物産即売店《エンポリユウム》のショーウィンドゥを、風采のあがらない東洋人が熱心に覗き込んでいる。象牙細工のネックレスが、いたく気に入ったようだ。明らかに、懐と相談している眼つきになっていた。
「|あなた日本人ですか《アー・ユー・ジヤパニーズ》」
男の傍《かたわ》らから、突然、声がかかった。
「ひえっ」
男は文字どおり跳び上がった。ただの驚きようではない。なにかしら、怯えさえ感じさせたほどだ。
男に声をかけたのは、学生らしいインド人の青年だった。男の大仰な反応に、眼をパチクリさせている。むしろ驚いたのは、青年のほうだったろう。
「|驚かせてすみません《ソーリー・メイク・ユー・サプライズ》……」青年は言葉をつづけようとした。
「|私はただ《アイム・ジヤスト》……」
「どうもどうも……」
男は顔の前で手を振るようにして、日本語で言った。その額《ひたい》から、汗がどっと噴き出ている。正視に耐えないほどの狼狽ぶりだ。
青年は肩をすくめると、首を振りながら立ち去っていった。
「………」
男、──仙田徹三は太い息を洩らした。
またしても、英語コンプレックスゆえの醜態だ。仙田は、つくづく自分という男が情けなかった。いつになったら、この英語コンプレックスから解放されるのだろうか。
仙田の表情には、いつになく悲哀の色が濃かった。
「どうかしたんですか」
背後から、工藤の声が聞こえてきた。
振り返った仙田の眼に、四人の仲間たちの姿が映った。どの顔も、一様に不審げな表情を浮かべている。
「いや……」仙田は弱々しく首を振った。
「それより、『アカシア』の場所はわかったんですか」
「ええ」と、工藤がうなずいた。
「つい、この先だそうです……」
──『アカシア』は、主にニューデリー駐在の商社員たちが集《つど》う日本人レストランである。ジャンパス通りのほど近く、三階建てのビルのなかにある。
良心的な店とはいえない。衣ばかりのテンプラを注文すると、邦価にして五千円ちかくの出費を覚悟しなければならないのである。むしろ、暴利というべきだったろう。
だが、──日本人商社員たちは飽かずこの店に集まってくる。この店に集まり、口を揃えてインド人たちを罵倒し、一刻《ひととき》を過ごすのである。
工藤たち五人が足を踏み入れた時、店には異様な緊張が充ちていた。どうやら、なにかトラブルが生じたらしい。誰もが息をひそめ、店の中央に視線を据えているのだ。
中央のテーブルには、一人の老人が腰をおろしていた。老齢に、全身が縮んでしまったような老人だ。杖がテーブルに立てかけてあるところを見ると、歩行すらままならないのだろう。喉の皮膚が、渋紙のようにざらついていた。
老人のテーブルを取り囲むようにして、三人の若い男たちが立っていた。いずれも、酒気を帯びているようだ。その顔が赤く、膨れ上がっていた。
「この店は、いつからあんたの貸し切りになったんだ」
男たちの一人が老人に言った。叩きつけるような口調だった。
「いや……」老人は口ごもった。
「私はただ……」
「ただ、何だと言うんだ」男の声はさらに居丈高になった。
「はっきりしろ」
「………」
老人は眼を伏せた。テーブルに置かれているその両手が、わずかに震えていた。
工藤は、すぐ近くのテーブルに腰をおろしている日本人にソッと尋ねた。
「何があったんですか」
「いえね」
その日本人も囁き声で応じた。
「あの三人組が酔っぱらって、しきりに軍歌を歌っていたんですよ。そしたら、爺さんが止めてくれって言って……そこから、話がこじれちゃったんですな」
「あの爺さんとちゃいますか」桂が素頓狂な声で言った。
「あれ……小見山さんでっせ」
写真の顔よりはいくらか老けているが、確かに、その老人が小見山文三であることに間違いはないようだ。工藤たちは、小見山に会うために、この店にやって来たのだ。
「俺が行ってくる」
うっそりとした声で須永が言い、工藤たちから離れた。
須永が備えている迫力は、はっきりと商社員たちとは隔絶している。歩き寄ってくる須永の姿を見て、三人の男たちが怯えたように後じさりしたのも当然だったのだ。
須永は男たちに二言、三言なにか言うと、すわっている老人の肩に腕を回した。須永に助けられながら、老人が歩き出しても、もう男たちは何を言おうともしなかった。
工藤たちの前まで来ると、老人は戸惑ったように全員の顔を見回した。
「私の名前をご存知なようだが」老人は、意外にしっかりした声で言った。
「以前に、どなたかにお眼にかかったことがありますかな」
「まったくの初対面です」
と、工藤が答えた。
「ぼくたちは全員、亜紀商事の者です。ニューデリー支社の現地採用員、小見山文三さんですね……。実は、どうしても助けていただきたいことがあって、伺ったんですが……」
──天井で、ファンがゆるやかな回転をつづけている。つづけているが、単に、熱く灼《や》けた空気を攪拌《かくはん》するだけの効果しかないようだ。
小見山の部屋である。
狭く、汚い部屋だ。ろくな調度ひとつすらないことが、異国の地で独り暮らしているこの老人の、荒涼とした心象風景を如実に物語っていた。
壁に、ヒンドゥの神であるシバを描いた絵が貼《は》ってあった。
工藤を初めとする五人の男たちは、じっと小見山を見つめている。
話は、すべて終わった。後は、小見山の返事を待つだけなのである。
小見山は、テーブルに視線を落としている。テーブルでは、一匹の蠅《はえ》がゆっくりと這っていた。蠅を見つめる小見山の眼は、暗く、疲れていた。
「どうして、私なんかが……」ボソリと小見山が言った。
「失礼とは思いましたが、経歴を調べさせてもらったのです」
と、工藤が答えた。
「調べたうえで、あなたしか適任者はいないと判断したのです。作戦の性質上、会社外部に助けを求めるわけにはいきません。あなたしか、ぼくたちを助けることのできる人間はいないのです」
「私は……」
小見山がふいに激したように頭を上げ、ついでその頭をゆっくりと振った。
「私は、昔のことがどうしても忘れられない人間なんです……|あの《ヽヽ》戦争で死んでいった人たちのことを忘れられない。馬鹿な話だとは、自分でも思いますが……あの戦争で、私や、私の仲間たちが殺した人たちのことを、ずーっと考えつづけてきたんです……戦後、すぐに日本を飛び出しましてね。あちこち歩いて、死んだ人たちの供養をして回りました。一度も、日本には帰っていません……そのうち足腰がきかなくなって、まあ、亜紀商事に現地採用員として拾っていただいたおかげで、どうにかこうして生きながらえてはいますが……私は、自分をもう死んだ人間だと思っています。それを、あなたはもう一度……」
「戦後、何年たっていますか」工藤が、烈しい声で小見山の言葉をさえぎった。
「あなたは、死ぬまで戦争を背負っていくおつもりなんですか」
「しかし……」小見山の表情が苦悩に激しく歪んだ。
「今の私に、そんなことができるだろうか」
「できます」
と、工藤はうなずいた。
「もちろん、勉強はしていただかなければならないでしょうが……できるはずです」
「………」
小見山は、再び視線をテーブルに落とした。もう、蠅は飛び去っていた。
「考えさせてください」やがて、小見山が呟くように言った。
「駄目です」工藤は首を振った。
「今夜、ご返事をいただきたいのです」
老人と、五人の男たちとの間に、重苦しい沈黙が満ちた。その沈黙に圧し潰されたように、小見山は深くうなだれていた。
どこか遠くの方で、鋭いサイレンの音が鳴っていた。
第四章 破  壊
──サドル・タンクの十四トン機関車が、地を這《は》いつくばるようにして、ランキーマの駅に入ってきた。
すでに、車齢八十年を過ぎた機関車だ。ほとんど、骨董品《こつとうひん》の名に価《あたい》した。なにしろ、スリップに備えて、線路に砂を撒くための搭乗員が二人、常時、配されているような代物なのである。
時速は十五キロ……飛び降り飛び乗りはおろか、無賃乗車にも咎めだてする者はいないという、まことに長閑《のどか》な鉄道だった。
事実、今、駅に入ってきた列車の屋根にも、無賃乗車の男女たちが鈴なりになっているのである。
列車が停まるか停まらないうちに、プラット・ホームに群れていた男たちが、わっと駆け寄ってきた。
凄まじいほどの熱気だ。
男たちは互いに大声を張り上げ、押しあいへしあいしている。それこそ、列車によじ登らんばかりの勢いだ。興奮した犬が、火がついたように吠え狂っていた。
工藤は、車窓からその光景を見つめている。自然に唇には微笑が浮かんでいた。
ここの群集は、インド大都市の駅に共通する、陰惨な印象をいささかも帯びていないようだ。バクシーシ、バクシーシという、あの物哀しい乞食の声がまったく聞こえてこないのだ。彼らの叫喚には、むしろ笑い声が勝っていた。
物売り、ポーター、ホテルの客引き……その悉《ことごと》くが、数少ない列車の乗客に向かって殺到してくるのだ。戦争のような騒ぎになるのも当然といえた。逞しい、生活の匂いを感じさせた。
彼らのほとんどが、インド・アーリア系ではなく、日本人によく似たチベット系であることが、なおさらに工藤の微笑を誘ったようである。なにかしら、日本に帰ったような懐かしさを覚えるのだ。
騒ぎがいくらか収まるのを待って、工藤は列車から降りた。
それでも、左右からどっと差し出される腕のなかを突破するのは、並大抵の苦労ではなかった。結局は、子どものポーターたちに、荷物を取りあげられてしまう。
子どもたちは、背籠の紐を額にかけて、荷物を運んでいく。全員がいかにも得意げな、邪気のない笑いを浮かべている。工藤は苦笑しながらも、後に従うしかなかった。
ランキーマは、町というより、むしろ村の印象が強い。日本でいえば、さしずめ山間の貧村といったところだろう。貧しいが、しかし人々は純朴で、その表情は明るかった。なにより、ランキーマの背景をなしている雄大なヒマラヤ山系が、この地になにか浮世離れした雰囲気を与えているようだ。
駅前は、中世さながらの風景だった。首にジャスミンの花輪をつけた牛が群れ集《つど》い、その間を縫うようにして、人力車《リキシヤ》、馬車が忙しげに行き交っている。路肩に駐まっている乗り合いジープが、かろうじてこの風景に現代の息吹きを添えていた。
町には、菩提樹が目立った。
その菩提樹の下から、工藤に手を振っている男がいた。
須永洋一だった。
工藤は、少年たちに荷物を置いて待つように命じ、須永の許に急ぎ足で近づいていった。
「遅かったじゃないか」
須永は、開口一番そう言った。床几《しようぎ》に腰をおろして、その手に土焼きの碗を持っている。
「機材を揃えるのに、意外に時間をとられたんだ……」
工藤は、須永の傍らに腰をおろした。
「荷物は無事に届いたか」
「なんとかな」
須永はうなずき、地に直接《じか》にすわっている老人に声をかけた。
「茶《チヤイ》……」
「………」
老人は相好を崩し、指を二本立てた。
「|そうだ《ジイー》」
須永は再びうなずいた。その横顔からは、|あの《ヽヽ》いつもの険しさが失われていた。須永を見る工藤の胸を、一瞬、ほんの一瞬、不吉な予感めいたものが掠《かす》めた。
工藤には、その不吉な予感が何に原因するものであるのか、掴《つか》めなかったのだが……。
「ここはいいなぁ」須永は眼を細めた。
「なんだか、俺の田舎《いなか》に帰ったみたいだ。東京であくせくしているのが、別世界の出来事のようだよ……|今度の件《ヽヽヽヽ》が終わったら、ここに住むことを考えるよ。ジープを一台手に入れれば、生きていくぐらいなんとでもなるだろうからな」
「他の連中はどうしてる?」工藤は話題を転じたかった。
「ホテルで待機してるよ」
と、須永が笑った。
「全員、シラミ潰しに大童《おおわらわ》さ……」
そのとき、老人が土瓶と、二つ重ねた碗を運んできた。
「|美味いか《グツダア》」
老人は床几《しようぎ》に碗を置き、茶を注ぐと、大声を張り上げた。眼を、子どものように輝かせている。
「|美味い《グツダア》、|美味い《グツダア》……」
須永は顎を引いた。事実、須永は待ちかねたように、碗に手を伸ばしている。
工藤も、一口すすってみた。
インド人の常用飲料である、あの甘ったるい紅茶ではなかった。
「これは、どんなお茶なんだ?」と、工藤は訊いた。
「なんだ……」須永は笑った。
「ランキーマにいたんじゃなかったのか」
「ずっと、原子力発電所に詰めていたからな」と、工藤も苦笑を浮かべた。
「洋食ばっかりだったんだ」
「磚茶《だんちや》に、牛乳とバターを入れたものだ」
須永は口調を変えずに、さらに言葉をつづけた。
「ところで、見張られていることに気がついているか……町でも見るような|ふり《ヽヽ》をして、なにげなく振り返ってみろよ」
「………」
須永の言葉に従うのはむずかしかった。なんといっても、工藤はアマチュアなのである。この種の場面には慣れていない。
どうにか、工藤はそれらしく演じてみせることに成功したようだ。牛を見送るようなふりをして、背後に視線を走らせた。
なるほど、確かに、人力車《リキシヤ》の陰から見張っている男がいた。インド・アーリア系の、背広の中年男である。
「何者なんだ?」
顔を前方に戻して、工藤が訊いた。自分でも、声の緊張していることがわかった。
「警察だよ」
須永は、お茶をすすっている。
「さすがに、原子力発電所アグニのことで、緊張しているようだ。特に、外国人に関しては、異常なほど神経を使っている。日本人登山グループだという俺たちの|ふれこみ《ヽヽヽヽ》も、どこまで信用されていることやら……長旅で疲れてはいるだろうが、今夜からでも、行動を開始したほうがよさそうだ。そのつもりで、準備はすべて整えてあるんだ……」
「今夜か……」
工藤は呟いた。それまで、ただ牧歌的に映っていたランキーマの町並みが、ふいに様相を転じたように思えた。
原子力発電所アグニは、ここからわずか五十キロの距離に位置しているのである。
──異様なほどに、明るい満月だ。
遠く、ヒマラヤの山襞が、石膏細工のような輝きを見せている。
山肌の段々畑では、虫が喧しく鳴きつづけていた。
なにかしら、日本の秋を連想させるような風景だった。
ランキーマから、一キロほど離れた地点である。谷あいに、小さなゲスト・ハウスが建っていた。
そのゲスト・ハウスを囲んで、草藪に蠢《うごめ》く幾つかの影があった。影たちは、しだいに包囲の輪を縮めつつあるようだ。
鋭い笛の音が響いた。
影たちは一斉に草藪を飛び出し、ゲスト・ハウスに殺到した。
最初にゲスト・ハウスに飛び込んだのは、工藤たちを見張っていた|あの《ヽヽ》中年男だった。その手に、拳銃を構えている。彼の後ろには、制服姿の警官たちがつづいていた。
彼らは、仰天したゲスト・ハウスの主人が喚きたてるのにも、一切、注意を払おうとはしなかった。怒濤のような勢いで、階段を駆け上がっていく。
二階に上がると、中年男は|そこ《ヽヽ》一つだけしかない客室のドアを、乱暴に蹴った。ドアの閂《かんぬき》が吹っ飛ぶほどの荒々しさだ。
部屋には、誰もいなかった。タバコの吸殻ひとつ落ちていなかった。
部屋を見る中年男の眼には、ありありと敗北の色が浮かんでいた。
──凄《すさ》まじい急流だ。
水音が、渓谷に響きわたっている。
すでに、暮色が濃い。薄明のなかに、水の流れだけが銀色の牙を放っていた。
急流に、一本のザイルが張り渡されていた。
そのザイルに両手でしがみつくようにして、一人の男が流れを渡っていた。ライフ・ベルトがザイルに結びつけられていることなど、すっかり忘れてしまっているらしい。恐怖に、ひきつったような表情《かお》をしていた。
当然のことではあったろう。通常、登山者たちが急流を渡るときには、せいぜいが胸の深さまでが常識とされている。その男が渡っている流れは、どう見ても肩の深さまであるのだ。
男は、ようやく河岸にたどり着いた。水際に茂っている楊柳《ようりゆう》、タマリスクに、ほとんど頬ずりせんばかりに抱きついている。その男の体を、闇から伸びてきた数本の腕が、河岸に引き上げた。
「大丈夫ですか」
そう囁きかけてきたのは、──佐文字公秀だ。
「あんた、訓練をくりかえしていたから、もう少し水には強いと思っていたんだが……」
あきれたように、仙田が言った。
「あきませんわ……」息も絶え絶えに、桂が答えた。
「ぼく、水には弱いんですわ」
「シッ」
闇のなかから、工藤の叱声が聞こえてきた。
「静かに……それより、早く荷物を運んでしまおう」
男たちの動きは、敏速とはいいかねるようだ。三日間、山中を進みつづけた疲れが、彼らの体力を著《いちじる》しく削いでいた。
男たちは喘ぎながら、シャクナゲの大木に二重に回されたザイルを引っ張り始めた。荷物をいっぱいに積んだ筏《いかだ》が、河面《かわも》を静かに滑りだす。
ザイルを引っ張りながら、時おり、男たちは肩越しに視線を上方に向けた。
崖には、須永がはりついていた。
須永は、理論《セオリー》どおりに、着実に岩肌を登っていく。常に、三点確保を忘れない用心深さだ。直立姿勢で、重心を安定さすことも忘れてはいないようだ。
須永のロック・クライミングには、まったく危なげがないように見えた。
それでもなお、男たちが不安を抱くのは──崖上で、三基の地対地ミサイル・ランスが空を睨みつけていたからだった。
彼らは、国境ミサイル基地の真下に位置しているのである。
ようやく、筏が河岸に着いた。急拵《きゆうごしら》えの筏だ。流れを無事に渡りきったのが不思議なようなものだった。
佐文字が流れに入り、懸命に筏を押し上げる。他の三人も、ずぶ濡れになりながら、筏を押しに押す──このまま筏を舫《もや》っておけば、バラバラになることは必至だからだ。荷物のなかには、絶対に水に濡らしてはならないものが幾つか混じっていた。
筏を岸に押し上げたとき、闇のなかには、四人の男がぜいぜいと喉を鳴らす声だけが聞こえていた。
「今、六時二十分前だ……」工藤がかすれたような声で言った。
「俺たちも、早く登るんだ」
──工藤たちは、須永のように崖を登る必要はなかった。
踏み固められた道が、崖上までつづいていたからである。
基地の兵士たちが、水を汲むためにでも用いている道なのか。全身を茨で傷つけられることさえ厭《いと》わなければ、さほどな険路ではない。これまでの強行軍を考えれば、むしろ楽な登攀といえたろう。
基地は、想像していたよりもはるかに小規模なものだった。小さな、カマボコ形兵舎がひとつあるだけなのである。予備知識がなければ、山小屋に思えたかもしれない。
鉄条網さえ張られていない無造作さなのだ。
兵舎からは、イギリスのポップ・ミュージックが流れていた。
肩を並べて、四人の男たちは地に腹這いになっている。発電機《ダイナモ》の唸りが、その地を打ち震わせていた。
兵舎までは、およそ二十メートルというところか。ヒマラヤの山峰を背景に、光のなかに浮かび上がっている兵舎が、奇妙に現実感を欠いたものに見えた。
屋根に据えられた無線アンテナが眼についた。
闇のなかに、男たちの汗が強く臭っていた。誰もが緊張し、恐怖しているのだ。失禁しないのがまだしもといえた。
背後に、草を踏む湿った靴音が聞こえてきた。
須永だ。
須永は、影のように四人の男の傍《かたわ》らに体を滑らした。その息遣いには、ロック・クライミングの|なごり《ヽヽヽ》は感じられなかった。実に、しなやかな身のこなしだ。
「意外に、簡単にいきそうだ」須永の声もまた平静そのものだった。
「兵士は四、五人しかいないようだ。それも皆、子どもみたいな連中ばかりだ」
「………」
四人の男たちは安堵の溜息を洩らした。仙田に至っては、がくりと首を草の間に落としている。
金属の咬みあう音が鈍く響いた。佐文字公秀が、スターリング機関銃に弾倉《マガジン》を収めたのだ。四人のなかでは、佐文字ひとりが銃器に関して、才能を示していた。どうにか、的に命中さすことができるという程度の才能だったが……。
「もう、六時を疾《とつ》くに回ってるのとちゃいますか」
桂が、震えを帯びた声で言った。
「爆弾、ちゃんと破裂するんでっしゃろな」
「大丈夫だ」と、須永が言った。
「要は、タイミングだ。奴らに連絡する時間を与えないことだよ。爆破と同時に、一気に兵舎に飛び込むことを忘れるな。最初の一分で、|こと《ヽヽ》の成否が決まるんだからな」
須永の手のなかで、ベレッタが蒼い光を放っていた。その光は、須永の言葉に、ベレッタがうなずいているもののように見えた。
──ふいに、閃光が闇をつんざいた。
凄まじい熱の巨波が、大気を震わせ、草木を押し倒した。一拍遅れて、地軸を揺るがす爆破音が伝わってくる。
視界が、赤く染まった。その赤い視界のなかを、三基の地対地ミサイルが、竜車のように轟進《ごうしん》していく。爆発で、崖が崩れつつあるのだ。次の段階には、地対地ミサイルは三基ともに視界から消えていた。
ごうごうと、水音が鳴り響いた。
そのときには、すでに男たちは行動を開始していた。
最初に兵舎に踏み込んだのは、やはり須永だった。
「|動くな《ドン・ムーブ》」
須永の叫ぶ声が、後続の工藤たちの耳にも達した。
空気を切り裂くような鈍い銃声が、ついで飛び込んだ佐文字の機関銃速射音と重なって聞こえた。
須永の言葉は、まさしく的を射ていた。すべてが終わるのに、ものの一分とは要さなかったのである。さすがに、プロならではの手並みといえた。
工藤たち三人が足を踏み入れたとき、兵舎の壁は銃弾でいたるところに穴を開けられていた。硝煙の臭いがつんと鼻を衝く。単なる鉄屑の塊と化した無線機が、ブスブスと白い煙を吐いていた。
床には、四人の兵士たちが伏せていた。いずれも、まったくの無傷のようだ。須永の最初の威嚇《いかく》射撃に、全員が慌てて身を投げたらしかった。
どの兵隊も、二十歳《はたち》に達しているようには見えなかった。四人ともに髭をはやしてはいるが、子どもは子どもだ。子どもが蒼白になりながら、床でがたがたと顫えているのだ。
震えているのは、佐文字も同じだった。彼にしてみれば、初めての実戦《ヽヽ》なのである。指がスターリング機関銃の|引き金《トリツガー》を絞ったまま、こわばってしまっているようだ。
「………」
須永は佐文字をしばらく見つめ、さらにはその視線を背後の三人に転じた。工藤たちは、いずれも肩で息をしている。
須永の唇には苦笑が浮かんでいた。
「よかったら、手伝ってくれないか」と、須永は言った。
「連中から、武器を取りあげてもらいたいんだがな」
「あ、ああ……」
工藤はようやく我に返り、須永の脇をすり抜けた。他の二人も、工藤に従う。三人とも、安堵からか足がるくなっていた。
佐文字は、まだ立ちすくんだままだ。
破局は、一瞬のうちに起こった。
須永が気配を感じて振り返ったとき、すでにその少年は突進を始めていた。少年の上げる、奇妙に獣めいた甲高い叫びが、男たちの心臓をぎゅっとわし掴みにした。体のぶつかりあう重い音が響いた。
「う……」
須永の喉から、短い声が洩れた。
須永とその少年は、なかば抱きあうようにして体を凝固させていた。
部屋の空気が凍りついていた。
とっさに、男たちは何が起こったのか理解できなかったようだ。ふいに、兵舎に飛び込んできたインド人少年に、誰もが一様に戸惑いを覚えていた。少年は、制服すら着ていないのだ。
須永の足を、つつっと細く血が伝った。
「須永っ」
工藤が叫ぶのと同時に、須永は両手で押し返すようにして、少年を突き飛ばした。少年は壁に背をぶつけて、小さな悲鳴を上げた。
須永の胸には、両刃の細いナイフが残されていた。
「須永っ」
工藤は再び叫んだ。叫ぶ以外に、工藤にできることは何もなかった。
「………」
須永の表情は、苦悶できりきりと歪んでいた。ベレッタの銃口が、少年の頭を狙って、ゆっくりと上がっていく。
少年は、恐怖であえいでいる。今や、その悲鳴は完全な泣き声と化していた。
「撃つな」
仙田が耐えかねたように、銃口と少年の間に足を踏み入れた。その唇が、色を失っていた。
「射たないでくれ」仙田はなかば懇願するように、言葉をつづけた。
「まだ子どもなんだ。お願いだから、許してやってくれないか」
「………」
須永の眼に、なにかいぶかしげな光が浮かんだ。その光が急速に輝やきを失っていき、──須永の体はぐらりと揺らいだ。
膝を折った須永は、ほとんど祈るような形で、床に伏した。
反射的に工藤は須永の傍らに膝をつき、その胸からナイフを抜こうとした。
「抜くな……」
と、須永は呟くように言った。
「血で、シャツが汚れる」
工藤は、ナイフの柄から指を離した。そして須永の横顔を覗き込んだ。
そのまま、時間が停止したかのようだ。ひじょうに長い時間、工藤はただ須永の横顔を見つめていた。
「どうしたんですか」
佐文字が叫んだ。四人の兵隊たちを制圧しているのが自分の持つただ一挺の機関銃であること、しかも|その《ヽヽ》機関銃が空《から》であることは、まったく彼の念頭にはないらしかった。もう、震えてはいなかった。
「死んだ……」
工藤の声からは完全に感情が失《う》せていた。
「死んでいるよ」
工藤の言葉が全員の胸に染むのには、かなりの時間を要した。三人が三人ともに、須永のような男が死ぬことなどあり得ないと考えていたのだ。
須永洋一は、他の誰にも増して、タフなはずではなかったか。
「そんなアホな……」桂が呆然と呟いた。
「ぼくら、アマばっかりや。一人もプロがおりよらん……」
「それがどうした」
ゆっくりと顔を上げた工藤の眼が、血走っていた。
「だからって、いまさら止められるか。須永のためにも、止められるはずがないじゃないか」
叩きつけるような声だった。
──工藤のなかには悲しみと、それに数倍する憤りが烈《はげ》しくうねっていた。
憤りは、自分自身に対して向けられたものだった。自分の無力さと、ついに犠牲者を出してしまったリーダーとしての無能さが、このうえもなく肚立たしかった。自身を憎悪しているとさえいえた。
ふいに、工藤は自分が須永の私生活に関して、なにひとつ知らないことに気がついた。彼に両親はいるのか? 兄弟は? 恋人は?
……須永の死を、報せるべき人は誰もいないのか。泣いてくれる人は、一人としていないのか……工藤は呻き声を上げた。鋭利な刃物で胸を抉られたような苦痛だ。
「とにかく、この連中をどこかの部屋に閉じ込めなければいけないな」
仙田が濡れたような声で言った。
「物置きにでも入っていてもらおうじゃないですか。ねえ」
工藤は背中に、佐文字たちが捕虜を追いたてる物音を聞いていた。須永を刺した少年も、他の捕虜たちと一緒にされたようだ──工藤はなおも須永|だったもの《ヽヽヽヽヽ》を見つめ、身じろぎ一つしなかった。
少年は炊事当番でもしていたに違いない。恐怖のあまり、無我夢中で須永を刺してしまったというわけだ。むしろ、事故と呼ぶべきだったろう。少年もまた、犠牲者の一人といえた。
工藤の怒りの対象は、あくまでも自分一人に限られていた。
「捕虜は全員、物置きに押し込めました」
工藤の背後に立った佐文字が、静かな口調で言った。
「どうするんですか。本当に、決行するんですか」
「………」
工藤は、須永の右手を握りしめるようにして、その指の一本一本を開いている。ベレッタが、須永から工藤の手に移った。──その行為が、なにより雄弁に工藤の決意を物語っていた。
立ち上がる工藤に、佐文字がさらに言った。
「明日の八時までに十三時間ちょっと……ここからの定時連絡がないと、国境警備のインド軍が騒ぎだしますからね。決行するんなら、少し急がないと……」
「………」
工藤は佐文字から、仙田、さらに桂にと視線を移した。誰の表情にも、一様に決意の色が漲《みなぎ》っていた。
「作戦は、予定どおり決行する」
と、工藤は言いきった。
「準備に取りかかってくれ」
──強い風が、びょうびょうと吹き過ぎていく。
ほとんど垂直に切り立った断崖だ。武骨な力瘤《ちからこぶ》のような崖が、はるか下方にまでつづいている。あまりに暗くて、その深さを目測するのは困難だった。
その崖縁に、一人の男が立っている。
佐文字公秀だった。
極度の緊張で、佐文字の顔が能面のようにこわばっていた。唇が震えているのは、必ずしも寒さのせいからばかりではないようだ。
佐文字はふいに踵《きびす》を返すと、岩陰に置かれてあるリュックから、二メートルほどの縄を取り出した。そして、周囲を見回すと、手近な岩角に|その《ヽヽ》縄を二重にかけ始めた。
登山でいう、捨て縄というやつだ。懸垂下降《アプザイレン》の際には、この捨て縄に懸垂ザイルを二重に垂らす。懸垂下降《アプザイレン》を安全に行なうための、文字どおりの命綱といえた。
捨て縄の確保を終えると、佐文字はさらにリュックから長いザイルを取り出した。
懸垂ザイルだ。数本のザイルが固く固く結ばれ、かなりの長さとなっている。ザイルの輪が、佐文字の両腕に余る大きさとなっているほどだ。
佐文字は、その懸垂ザイルを捨て縄に通し始めた。お世辞にも、器用な手つきとはいえない。多少の訓練を受けてはいるものの、佐文字は登山に関しては、まったくの素人に等しかった。
本来なら、須永と二人でやるべきはずだった仕事なのだ。その手つきが覚つかないのも、当然すぎるぐらいに当然だったろう。
どうにか、佐文字は作業を完了することができた。すでに、その息が荒かった。
佐文字は腕時計に視線を落とした。
午後九時……すでに、予定時刻を大幅に遅れている。佐文字の表情に、目立って焦慮の色が濃くなった。
佐文字は、捨て縄に通した懸垂ザイルを、崖縁から投げにかかった。これも、素人には困難な作業だ。できるだけ遠くへ投げないと、ザイルが途中の岩角に引っかかってしまうのだ。
佐文字はザイルを投げては引き上げることを、幾度もくりかえしている。そうでなくても、ザイルの重さは馬鹿にならないのだ。色男《ヽヽ》の佐文字には、いささか過酷な作業といえたろう。
ようやく、懸垂ザイルが満足な状態となったようだ。
佐文字は肩で息をしながら、リュックを背負った。よほど、重いものが入っているらしい。その腰が、頼りなくふらついている。
佐文字のザイル下降法は、理論《セオリー》どおりの肩がらみ法だった。ザイルを両足の間から大腿部に回し、左腰脇から胸に取り、さらに|それ《ヽヽ》を右脇から背後へ垂らす。右手で上部ザイルを、左手で背後ザイルをそれぞれに握り、体を滑らしていく方法なのである。
すべての準備が整った。
佐文字は眼を閉じ、しばらく呼吸を整えていた。その表情が、土気色《つちけいろ》を呈している。
やがて、佐文字は思い決したように眼を開いた。そして、──崖縁を蹴る!
──闇のなかに、飛沫が白い牙を剥いている。
ほとんど、瀑布《ばくふ》を下るのに等しいスピードだ。両側にそびえる岩壁が、灰色の斜線となって後方に流れていく。凄まじい水音に、耳は疾《とつ》くに痺れていた。
さすがに、桂の櫂《かい》さばきは堂に入っていた。この日のために、日本の河流で何度も水を潜《くぐ》ってきたのである。
工藤と仙田がほとんど半死半生なのと、際立った対照を見せている。猛スピードをものともせず、右に左に、実に器用に櫂を操っているのだ。その表情には、ある種の悦楽さえ浮かんでいるようだ。
「あら、ら、ら……」
桂が奇声を発した。
工藤と仙田は、慌てて荷物を圧《お》さえこみにかかった。脳天を衝き上げるような衝撃とともに、ゴム・ボートは岩に乗り上げ、さらには宙を滑った。
再びゴム・ボートが流れに乗ったとき、工藤たちの両足は完全に空を掻いていた。荒っぽいと形容するのも愚かしいほどだ。荷物を多く積んでいることで、かろうじてバランスを保っているのである。
速い。
その速さは、日本の渓流下りの比ではなかった。ほとんど、空を滑っているかに見えるほどだ。
工藤の計算どおりといえた。
工藤はこの流れの速さを考慮に入れて、あえて山岳の険路をコースに採《と》ったのである。
直接、ランキーマの町から山岳に踏み込み、はるばる原子力発電所アグニの背面を迂回《うかい》するコースは、恐ろしいほどの時間のロスを伴う。二日間の山中行から生じる体力の消耗も、並大抵なものではない。いやしくもプロの破壊工作員なら、採るべきはずのないコースなのである。
それだけに、インド軍のこの方面の警備は、ごくごく|おざなり《ヽヽヽヽ》なものになっていた。
これほど流れの急な谷川をゴム・ボートで下ろうなどと、工藤たちがアマチュアだからこそ、浮かんだ発想といえた。
「ここらへんだっ」
臓腑が引っくり返りそうな苦痛に耐えながら、工藤が大声で叫んだ。叫ぶと同時に、両手で口を押さえる。危うく、胃液が噴《ふ》きこぼれそうになったのだ。
「よっしゃっ」
桂は元気いっぱいに、櫂を頭の上に振りかざした。
「無茶は避けてっ」
仙田が喚いたときには、もう桂は岩角を櫂で思いきり殴りつけていた。
ゴム・ボートは、ほぼ九十度に方向を転じていた。そして、|頭から《ヽヽヽ》岸辺のタマリスクの茂みに突っ込んでいった。
ひとしきりの悲鳴がつづいた後、ゴム・ボートの底がようやく地を噛んだ。
しばらく、ゴム・ボートに動く影はなかった。
やがて、桂がヒョイと顔を覗かせた。手にしている櫂を、まじまじと見つめている。櫂は、真っ二つに折れていた。
ついで、工藤がふらつきながら立ち上がった。手を伸ばし、ゴム・ボートの底でなかばノビかけている仙田を助け起こしてやる。
「なにが、水は苦手ですか」
ぜいぜいと喘ぎながら、仙田は桂に抗議した。
「ゴム・ボートは平気なんですわ」桂はケロリと言ってのけた。
「訓練の賜物《たまもの》でっしゃろな」
「今、十時だ……」さすがに、工藤の声もかすれていた。
「急ごう」
三人の男たちは手早くウェット・スーツを脱ぎ棄て、黒シャツ、黒ズボンの服装に着替えた。そして、それぞれに、ゴム・ボートから荷物を下ろしにかかる。相当な大荷物だ。三人ともに、荷物を背負った腰をかがめていた。
「行こう」
男たちは、岸辺に迫っている森のなかに足を踏み入れた。
懐中電灯を点けることができるはずもなかった。乏《とぼ》しい月明りが唯一の頼りだといえた。三人はこけつまろびつしながら、森のなかを進んでいった。
鉄塔が、武骨なシルエットを森のなかに浮かび上がらせていた。
送電線が、空の鉄道のように森の上を延びている。原子力発電所アグニに通じている送電線だ。
「予定どおりですな」仙田がいかにも嬉しげにうなずいた。
工藤は、リュックから時限爆弾を取り出した。ダイナマイトとタイム・スイッチを組み合わせた、ごく初歩的な時限爆弾だ。マグネットで接着するように造られている。
工藤は、時限爆弾を鉄脚に固定すると、そのスイッチを入れた。チッ、チッ、チッ……秒針が音を立てはじめた。
「三十分後に爆発するようにセットした」工藤は、二人の男を振り返った。
「送電がとだえると、アグニは自家発電を開始する。その間、十五分ぐらいのものだと思う」
「その十五分が勝負というわけですな」仙田の声は、からからに渇いていた。
「ここらで、三人の時計を合わしておいたほうがよさそうですな」
十時を、十分過ぎていた。
三人の男たちは、再び前進を開始した。申し合わせたわけでもないのに、彼らの足どりは揃って慎重になっていた。いつ、インド兵のパトロールに出会わないとも限らないからだ。
五分ほどしてから、桂が他の二人と離れた。もちろん、作戦に沿った別行動だ。
「幸運、祈ってまっせ」
二人と別れる際、この男には似合わぬ真面目な表情で、桂が言った。
「あんたもな」
工藤がそう言ったときには、もう桂は小走りに駆け出していた。その体が小柄なだけに、リュックを背負い、両手にバッグを下げた桂の姿は、妙に痛々しいものに見えた。
工藤と仙田も、肩を並べて走り出している。五人だったメンバーも、須永が死に、最初は佐文字が、ついで桂が離れたことで、わずか二人を余すのみとなっている。工藤と仙田が心細さを覚えないほうが不自然だった。
荷物の多さ重さが、二人の男の耐久力を著しく削《そ》いでいた。五分も経ったころには、もう彼らの足はもつれ始めていた。特に、中年の仙田の消耗は烈しいようだ。
だが、──彼らに休息を取る余裕はなかった。時間は、極端に限られているのである。
ふいに視界がひらけた。
森が唐突にとぎれ、ただただ荒野が拡がっているのだ。
目路《めじ》をさえぎるものは、はるか遠方のヒマラヤ山系と、荒野の果てにそびえている巨大な建造物だけだった。
煌々《こうこう》とした照明のなかに浮かび上がっている|その《ヽヽ》建造物は……原子力発電所アグニだった。
──桂正太もまた、激しく息を弾《はず》ませていた。彼の場合は、森林の、それも急斜面をよじ登っているのだから、なおさらに疲労は大きなものとなっていた。
事実、桂はほとんど精神力だけで、足を動かしているといっても過言ではなかったのである。
が、──精神力にも自《おの》ずと限界はあった。
ずるっと靴底が滑り、桂は危うくバランスを崩しそうになった。その拍子に、思わず桂はバッグを持った手を離してしまったのだ。
バッグは放物線を描き、はるか下方の森のなかに消えていった。
桂は、呆然と斜面に立ちつくしていた。自分が犯した失態の大きさに、ほとんど気絶しそうになったほどだ。
確かに、致命的な失態といえた。
落としたバッグには、作戦を遂行するうえで、欠くべからざるものが入っていたのである。
──巨人の顎《あぎと》に似ていた。崖面が、内側に深く抉られているのである。
ベテランの登山家ですら、色を失う情況なのだ。ましてや、初心者とも呼べぬような佐文字公秀が、緊張で全身をこわばらせているのも、しごく当然のことだったろう。
実際、足場のない恐怖には、想像を絶するものがあった。
風は、氷片を含んだように冷たかった。
宙吊りになっている佐文字の体からは、疾《とつ》くにすべての感覚が失われていた。ザイルを握っている指に、まったく力が入らない。
ザイルにこすられて、佐文字の首筋からは血が噴き出していた。登山家であるなら、絶対に犯さない失敗だ。いやしくも肩がらみ下降をする者が、首筋を保護することを忘れるなど、愚の骨頂《こつちよう》というべきだったろう。
だが、その愚かさが、むしろ今の佐文字には幸いしていた。首筋の激痛が、辛《かろ》うじて佐文字に意識を保たせていたからである。さもなければ、佐文字は疾《と》うに気絶していたことだろう。
佐文字は、空中懸垂をつづけている。
ザイルをずらしながら、静かに体を沈ませていくのだ。単純だが、それだけに烈しい疲労を伴う作業だった。いっそザイルを切断して、一思いに片《ヽ》をつけたいという誘惑に駆られるほどだった。
佐文字のなかから、すでに時間感覚は消えていた。永劫《えいごう》とも思える時間を、こうしてザイルにぶら下がって過ごしてきたような気がしている。そのくせ、自分が確かに崖を降りつつあるという実感は薄かった。
佐文字の視界は、ただ武骨な岩肌に占《し》められていた。視界の変化の無さが、なおさらに佐文字の精神《こころ》を希薄な、朦朧《もうろう》としたものにしているようだ。
佐文字は、呆けたように女たちのことを考えていた……。
ふいに、佐文字の頭を衝撃に似たものが走った。佐文字の呆けた頭は、とっさには|その《ヽヽ》衝撃の意味を掴みかねたようだ。しだいしだいに全身の感覚がよみがえっていき……。
佐文字は、驚きの声を上げた。
一方の足が、地を踏みしめているのだ。佐文字は、ソロソロともう一方の足も降ろしてみた。その足にも、確かな土の感触が伝わってくる。
一瞬、佐文字は泣きだしそうな表情になった。
佐文字は、ついに岩壁を降りきることに成功したのである。
──ザイルを外《はず》す指が、興奮で激しく震えていた。まったくの初心者が、一時間に及ぶ懸垂下降《アプザイレン》をやってのけたのだ。当然な、興奮といえた。
視界を、灌木の林がさえぎっていた。なんの花か、闇にはかぐわしい香りが満ちていた。
佐文字はリュックを地に置き、しばらくその上に腰をおろしていた。
でき得れば、このまま眠り込んでしまいたいほどだ。疲労などという、なま易しいものではなかった。全身の筋肉が熱を孕《はら》み、甲高い悲鳴を発しているのだ。
だが、佐文字はタバコの一本すら、自分に許そうとはしなかった。佐文字の任務は、いまだようやく|その《ヽヽ》とっかかりに達したばかりなのである。
佐文字はリュックを背負い、意を決したように、灌木林《かんぼくりん》のなかに足を踏み入れた。
──灌木林には、月光がプランクトンのように漂っていた。ときに、草藪のなかに蠢《うごめ》く小動物の気配を感じた。
佐文字はポケットから|のべつ《ヽヽヽ》磁石を取り出し、方角を確かめている。方角を誤るのではないかという不安が、常につきまとっていた。方角を誤れば、佐文字のこれまでの苦労がすべて水泡に帰すのだ。
二十分ほど歩くと、灌木林がとぎれた。
佐文字の唇《くち》から、大きな息が洩れた。どうやら、方角に誤りはなかったようだ。
佐文字の眼下に、線路があった。線路は目路の達する限り、延々とつづいていた。
ランキーマの岩塩坑までつづいているはずだった。
現在、十時二十分……。
──確かに、ヒマラヤ山系は原子力発電所アグニの背面に、巨大な壁をなしているといえた。インド軍が、この方面の警備にやや手を抜いているのも当然だったろう。およそヒマラヤ山系ほど、侵入者を阻《はば》むのに有効な壁は考えられないからである。
が、──警備が手薄だというのは、あくまでも程度問題に過ぎない。中国人諜報員が山越えをして、この方面からの潜入を計るというケースも充分にあり得るからだ。インド軍は、中国人諜報員の人間離れした有能さに、ほとんど畏敬《いけい》の念を抱いていたのである。
要するに、この方面の警備が手薄だといったところで、それは、単にほかの地区に比して、武装哨戒《しようかい》自動車、哨戒無限軌道車のパトロール回数がやや少ないことを意味しているに過ぎないのだ。
背面からの侵入を計ったところで、原子力発電所アグニに至るまでの荒野に、照明弾が夥《おびただ》しく設置されているという事実になんら違いはない。百メートル幅の触圧反応装置、高圧電流を帯びた二重柵、飢えたワニの泳ぐ河、タービン施設に据《す》えられた対テロリスト・レーダー、監視塔のサーチ・ライト……原子力発電所アグニの警備システムは、この方面からの侵入者に対してもなお健在なのである。
鉄壁の警備システムに護られて、原子力発電所アグニはヒマラヤを圧し、周囲を睥睨《へいげい》しているように見えた。まさしく、帝王の貫禄だ。その王国に足を踏み入れようとする者に対しては、誰であれ、断罪を下すことにいささかのためらいも覚えはしないのだ。
が、──王国にあえて足を踏み入れようとする者が、少なくとも|この《ヽヽ》地上に四人は存在した。そのうちの二人が、今、森のなかで奮闘している。
工藤と仙田の二人だった。
森のなかの、やや樹木が疎《まばら》な地を、工藤たちは犬のように這っていた。なにか巨大な布のようなものを、手と膝を使って押しひろげているのだ。
かなり、時間が逼迫《ひつぱく》しているらしい。二人の息遣いが、それこそ犬のように激しかった。
「十分たらずで、送電線の時限爆弾が爆発するはずです」
と、工藤が言った。
「こっちはぼくがやるから、仙田さんは|あれ《ヽヽ》の準備に取りかかってください」
「一人で大丈夫ですか」
「なんとかやってみます。それより、あれが遅れるほうが心配だ……」
「わかりました」
仙田は腰を上げると、大きな籠のようなものを両手で抱《かか》えて、必死に走り始めた。
工藤には、仙田を見送っている余裕もないようだった。手と膝でなおも懸命に布を押しひろげながら、ふっと空に視線を走らせる。
梢《こずえ》をくっきり浮かび上がらせて、皓々《こうこう》と月が輝いていた。
「明かるすぎる……」
工藤は呻いた。
「ちくしょう、明かるすぎるぜ」
──森が、荒野で断ち切られたようになっている。その境界の茂みに、仙田は低く身を持していた。
原子力発電所アグニの威容に、仙田はだらしなく圧倒されていた。自分が、この上もなく卑小な存在であるように思える。籠を抱えている腕が震えてさえいるようだ。
仙田は、くりかえし時計を見ていた。仙田がわずかでもタイミングを誤れば、作戦全体に齟齬《そご》をきたすことになるのだ。四十数年の生涯を通じて、これほどに緊張した時はなかった。喉に、灼《や》けつくような感覚があった。
十時二十五分。
仙田は籠を地に降ろすと、その蓋《ふた》を開け、両手を差し入れた。極端な緊張が、仙田の動きをギクシャクとした、戯画めいたものに変えていた。仙田が籠から取り出したのは、|あの《ヽヽ》鴉《からす》だった。
鴉は、肢《あし》になにか金属製の筒のようなものをつけていた。筒の端から、短いヒューズが垂れている。
仙田はそのヒューズを引きちぎると、頭の上に鴉を持つ手を高く上げた。
鴉の眼は、煌々《こうこう》とした照明のなかに浮かび上がっている原子力発電所アグニを、まっすぐに捉《とら》えているはずだった。
「頼むぞ……」
仙田は、祈るように呟いた。そして、鴉を放り上げた。
鴉に、ためらいはなかった。一直線に、原子力発電所アグニに向かって飛んでいく。条件反射の賜物だ。この瞬間のために、鴉はくりかえし、新宿のクルクルと回る広告塔まで飛ぶ訓練を受けてきたのである。
鴉のあるかなしかの乏しい脳は、回転をつづける|それ《ヽヽ》まで飛んでいくというただ一事に、すべて占められているはずだった。アグニのタービン建屋の|屋上で回転している《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|対テロリスト《ヽヽヽヽヽヽ》・|レーダー《ヽヽヽヽ》まで……。
仙田の眼には、すでに鴉の姿は捉えがたくなっている。
「頼むぞ……」
仙田はただ祈りつづけているのだ。
「本当に頼むぞ」
ふいに、タービン建屋の屋上を強烈な白光が裂《さ》いた。網膜に突き刺さってくるような光の氾濫《はんらん》だ。その光に、原子力発電所アグニは陰影を欠き、絵に描《か》いたように平板なものと化した。
「やった……」仙田の喉から、よろこびの声が洩れた。
鴉が運んだマグネシュウム発火弾は、今、完全に対テロリスト・レーダーを盲目にしているはずだった。そのマグネシュウム発火弾は白光を発し、十五分にわたって、高熱ガスを噴出するように造られていた。
対テロリスト・レーダーは、赤外線探知装置を基盤として開発されたものだ。熱を探知することで、その機能を発揮する対テロリスト・レーダーが、マグネシュウム発火弾の高熱にさらされて、なお作動するはずがなかったのだ。
十時半!
仙田の立つ地が、かすかな震動を伝えてきた。そうと意識していなければ、とうてい感知できないほどの微震動だ。
原子力発電所アグニに交叉していたサーチ・ライトが、瞼《まぶた》を閉じたように消える。送電線が、断ち切られたのだ。
マグネシュウム発火弾は、もうほとんど光を発していない。ただ、高熱ガスを噴出しているのみだ。
原子力発電所アグニは落成以来、初めて完全な闇に呑まれたのである。
その時、月が雲に隠れた。
──工藤もまた、地に伝わる微かな震動を感じていた。鈍い爆破音すら、耳に達していたのである。
一瞬、工藤の胸が熱い昂揚感《こうようかん》に満たされたことはいうまでもない。
だが、工藤に作業の手を休めている余裕《ゆとり》はなかった。工藤たちに与えられた時間はわずか十五分……十五分|後《のち》には、対テロリスト・レーダーが視力《ヽヽ》を回復し、原子力発電所アグニの自家発電装置が作動を始めるのである。
もっとも、そんな事情がなくても、工藤がその手を休めることはできなかったろう。手を休めたが最後、ガスをいっぱいに孕《はら》んだジャンピング・バルーンが浮かび上がってしまうからだ。
従来のジャンピング・バルーンに比して、やや小さい。小さいが、それでも直径は優に三メートルを越えるだろう。浮力も、おそらくは百キログラムに達しているはずだった。
そんなジャンピング・バルーンがふたつ、それぞれ三本の太い綱索《ロープ》で繋《つな》ぎとめられ、無理やりに低く地に圧《お》さえこめられている。
微風にも、ジャンピング・バルーンは敏感に反応し、ゆらゆらと揺れ動いている。
今にも、地の楔《くさび》を引き抜かんばかりの勢いだ。風を孕《はら》んだ帆船を、強引に海上に停止させているようなものだった。
地には、数本のボンベが散乱していた。短時間の裡《うち》にジャンピング・バルーンにガスを充満させる目的で造られた特別製のボンベだった。
梢の折れる音、葉のざわめく音がひっきりなしに聞こえている。その音を、インド軍のパトロールにでも聞かれるようなことになれば、疑惑を抱かれること必至だった。
が、──インド軍のパトロールのことは、ほとんど工藤の意識にはなかった。ジャンピング・バルーンに、パラシュートのハーネスを取りつけることに懸命になっていたからだ。これがなければ、バルーンにぶら下がることは不可能なのだ。
背後に、草を踏む音が聞こえた。
仙田が戻ってきたのだ。その実直そうな顔が、今は子どものように上気している。
「そちらのハーネスを、体に固定してください」
振り向きもしないで、工藤が言った。
「それが終わったら、一本だけ残して、綱索《ロープ》を切断するんです」
工藤もまた、ハーネスを体に固定し始めている。準備が完了すると、息もつかずに、手斧《ちような》を綱索《ロープ》に振り下ろす。
闇にしばらく、男たちの弾《はず》む息と、ロープの切断音がつづいた。ジャンピング・バルーンは揺らぎながら、しだいに頭をもたげていく。
ついに、バルーンはただ一本の綱索《ロープ》で地に繋ぎとめられるのみとなった。
「仙田さん……」
さすがに、工藤の声は緊張していた。
「用意はいいですか」
「はぁ……」仙田の声も、闇に呑まれたように頼りないものだった。
二人の男は同時に、残った一本の鋼索《ロープ》に手斧を振り下ろしにかかった。二度、三度……彼らはあせりにあせっていた。すでに貴重な十五分のうち、五分以上が過ぎているのだった。
ふいに、がくんと肩に衝撃が伝わるのを感じた。工藤は手斧を打ち捨てると同時に、|その方角に《ヽヽヽヽヽ》向かって地を思いきり蹴った。
工藤の体が急上昇していく。振り返ると、仙田のジャンピング・バルーンもまた、空に昇っていくのが見えた。
二つの黒く塗られたジャンピング・バルーンが、今、原子力発電所アグニに向かって、飛んでいこうとしている。
──三方に、仄白《ほのじろ》い岩壁が屹立《きつりつ》している。なにか、巨大な蟻地獄《ありじごく》に迷い込んだような錯覚にとらわれた。
黙々と線路を歩きつづけてきた佐文字はようやく自分が目的地に着いたことを知った。
ランキーマの、岩塩廃坑なのである。
佐文字は重いリュックを背負い直し、最後の気力を振り絞るようにして、再び歩き出した。すでに両足はむくみ、鈍い苦痛を訴えるようになっていた。佐文字は今夜一晩で、彼の十年以上の運動量を消費しているのだ。
その顔が、死人の表情と化していた。
前方に蒸気機関車九二〇〇が見えたとき、佐文字の胸は安堵で大きく膨《ふく》らんだ。
工藤の話によると、落盤事故以来、ランキーマの岩塩廃坑に赴《おもむ》く者はひとりとしていないはずだということだった。従って、蒸気機関車九二〇〇もその場に放置されたままのはずだ、と……だが、こうして現実に蒸気機関車を見るまで、佐文字は工藤の言葉に確信を抱けないでいたのだ。
佐文字のすべき仕事は、まず蒸気機関車から客車を取り外すことだった。
今の佐文字には、タイ・ピンを外すことさえ大仕事だ。ましてや、ハンマーを振るって、機関車の連結装置を取り外すなど、それこそ渾身《こんしん》の力を振り絞らねばできる仕事ではなかった。
だが、──やるしかないのだ。
佐文字はリュックを降ろし、そのなかからハンマーとランタンを取り出した。そして、足を引きずるようにして、機関車の連結部分に向かった。
数分後、ハンマーを振り下ろす甲高い響きが、岩塩廃坑に聞こえ始めた。
疲労しているうえに、なんといっても慣れない仕事だ。佐文字は何度も的を外し、腕に痺れるような痛みを覚えることになった。
ようやく連結装置を外すのに成功したとき、佐文字は軽い脳貧血に襲われたようだ。視界が暗転し、意識がふっととぎれた。佐文字は地にうずくまり、しばらく動けなかった。
──やがて、佐文字は腰を上げた。その動きが、目立って緩慢《かんまん》になっている。すでに、疲労は大きく限界を越えていた。常の佐文字なら、とうてい動ける状態ではなかったろう。執念だけが、ただ執念だけが、この男の体を衝《つ》き動かしていた。
佐文字はランタンを持ち、蒸気機関車九二〇〇の運転室《キヤブ》に乗り込んだ。
機関士席に腰を据《す》えると、ポケットから一枚の紙片を取り出した。その紙片には、機関車の整備、運転法がすべて記《しる》されているのである。
紙片に見入る佐文字の顔が、ゲッソリと消耗していた。
「まず油か……」
佐文字はそう呟くと、運転室《キヤブ》の床に置かれてある油の缶《かん》を調べ始めた。マシン油、シリンダ油、そして油差し、スパナ、油を拭くボロ切れ……紙に記されている物は、すべて揃っているようだ。
佐文字は運転室《キヤブ》から降りる前に、ボイラーを調べてみた。幸い、ボイラーに水は残っていた。
佐文字は地に降り立ち、クロスヘッドに油を差し始めた。これが終われば、弁装置《バルブギア》の油壺、中間|緩衝器《かんしようき》、加減弁引棒などにも油を差さなければならない。さらには、シリンダ油を油ポンプに注ぐことも必要だ。本来なら軸箱にも油を差し込まなければならないのだが、|ここ《ヽヽ》では下に潜《もぐ》ることは不可能だろう。
佐文字のすべき仕事は、数えきれないほどあった。
佐文字の動きが、さらに緩慢になったようだ。今の佐文字には、神経を集中する要のある仕事は、力仕事よりもなお苛酷だといえた。時刻は、十一時に近かった。
──原子力発電所アグニの構内に設けられたその兵舎では、多くの兵士たちが緊張して天井を見上げていた。突然の停電に、兵士たちの誰もが一様に不安を抱いていた。彼らは、このアグニでは暗闇に慣れていなかった。
「タービン建屋の屋上に、物凄い光が走ったぜ」
闇のなかで、誰かが言った。
「きっと、落雷だよ」
その言葉が終わるか終わらないうちに、電球がぱっと点《とも》った。自家発電装置が働き始めたようだ。
兵士たちの緊張が溶けた。彼らの間に、穏やかな笑い声がひろがっていく。
その時、──凄まじい轟音とともに、ベニヤの天井を破って、一人の男が落ちてきた。男の体はベッドに弾《はず》み、床に転げ落ちた。
「うーむ……」
と、男は呻き声を上げ、そのまま気を失った。もちろん、兵士たちは総立ちになっている。
その男は、──仙田徹三だった。
──桂正太は、闇のなかにうずくまっている。その眼が、痴呆のように虚ろだ。完全な、幼児退行現象を惹き起こしているらしかった。
鋭い茨《いばら》に、桂の全身はずたずたに傷つけられている。傷と泥とが、桂のシャツにピエロの|だんだら《ヽヽヽヽ》服のような印象を与えていた。その姿は、桂が失《う》せ物を探すのにいかに必死になったかを、なによりはっきりと物語っているようだった。
が、──見つからなかった。夜の海に没したも同じだ。品物《ヽヽ》は、永遠に桂の手から離れてしまったのである。
朦朧《もうろう》とした桂の脳裡に、誰ともしれぬ者の上げる嘲笑が響いていた。桂の|どじさ《ヽヽヽ》、間抜けさぶりを嘲《あざわら》っているのだ。何ひとつ|まとも《ヽヽヽ》にできぬ男だと……。
桂は呻いた。
上方落語家になるのを挫折した時から、彼の運命はかくなるように決定づけられていたのかもしれない。成就がかなうことは、何ひとつないのだ。生まれながらの失敗者のタイプだといえた。
ふいに、桂の脳裡を死んだ父親の顔が掠《かす》めていった。父親は、いつになく怒った顔をしていた。
桂は、闇に視線を据《す》えた。
「なんかしてけつかる……」
桂の唇から、ボソリと言葉が洩れた。その言葉が何かの弾みになったかのように、桂の眼がしだいに異様な光を帯びていった。狂人の眼光にちかかった。
「なんかしてけつかる」
桂は地鳴りのような声で、そうくりかえした。
急斜面の森を吹き抜けていく風が、烈しさを増したようだ。
時刻は、十一時。
──サーチ・ライトの強烈な明りが、タービン建屋の屋上を薙《な》いだ。明りは、蛇の舌のように執拗だった。
工藤篤は、屋上の排水溝のなかに身を縮めていた。急に、自分の体が巨大になったかのような錯覚に捉われていた。サーチ・ライトから身を隠す術《すべ》など、あろうはずがないように思えてくるのだ。
隠すべきものは、単に工藤一人の体だけではない。工藤の荷物を見咎《みとが》められる危険性もあった。いずれにしろ、監視塔の哨兵が常にも増して、念入りにタービン建屋の屋上を照らし出していることは間違いないようだ。
工藤の胸は、焦慮感で熱く灼けていた。すでに、原子力発電所アグニが視力《ヽヽ》を回復してから三十分余が経過していた。自家発電装置はフルに働き、対テロリスト・レーダーも充分にその機能を果たしているはずなのだ。
屋上で身を潜めている工藤が発見されることになるのは、時間の問題といえた。
だが、自分自身の危険は、むしろ工藤の関心の外にあった。工藤は、なにより仙田の身のことを案じていたのである。
確かに、河を越す辺りまでは、仙田は工藤と並んで飛んでいたのだ。それが、ふいに吹き過ぎた強風によって、仙田の姿が見えなくなってしまったのである。やはり、仙田の年齢では、俄《にわか》仕込《じこ》みのジャンピング・バルーンは無理だったようだ。
工藤は、なんとかタービン建屋の屋上に着地し、空にバルーンを流すことに成功した。が、仙田が工藤と同じように幸運だったとは考えられない。河に墜《お》ち、ワニの腹に収まってしまったという可能性すらあるのだ。
それを思うと、工藤は叫びだしたいような衝動に駆られるのだ。須永についで、第二の犠牲者を出してしまったのだろうか。
工藤の不安は、仙田一人にとどまらなかった。桂の身もまた案じられるのだ──本来なら、桂が疾《と》うに作戦《ヽヽ》を開始して、しかるべき時刻といえた。これほどに長い沈黙《ヽヽ》は、桂の行動になにか手違いが生じたとしか、理由が考えられなかった。
──俺は、全員をむざむざ死地に導き込んだのではないか……工藤は、そんな狂おしい思いに駆《か》られている。しょせん、俺たちのようなアマチュアが、原子力発電所アグニに潜入しようと考えること自体が無謀だったのではないだろうか……。
サーチ・ライトが、ようやくタービン建屋の屋上から離れた。
闇が、よみがえる。
工藤は、その闇に自分の体臭が臭うのを強く意識していた。恐怖の、汗の臭いだ。工藤ならずとも、その臭いを嗅《か》ぎつけるのは容易なはずだった。一キロ先からでも嗅ぎつけることができそうな気がした。
むろん、錯覚に過ぎなかった。犬でもない限り、そうそう他者の体臭など嗅ぎとれるものではない。それを錯覚とも気がつかないほど、工藤は動転しきっているのである。
ただ待っているだけの時間が、工藤の神経をいたく消耗させているようだ。
待つ?……何を待つというのか。桂がすでに無事でないとしたら、工藤の待機はただ徒労に終わることになる。
排水溝に溜まった汚水に、工藤の歯はガチガチと鳴っていた。
ふいに、工藤は全身をこわばらせた。工藤の五感が、闇のなかの何かを察知して、烈しく打ち震えたのだ。反射的に、工藤の腕は腰のベルトに伸びている。ベルトには、須永のベレッタが差し込まれていた。
神経がそれほど過敏になっていなければ、工藤がその気配に気づくことはなかったろう。気配は、かすかな、ほとんど空気に似たものだったのだ──幾人かの人間が足を忍ばせて、屋上を歩き回っている!
工藤は、口内の唾液がシュンと音を立てて、引いていくのを感じた。彼らが互いに私語を交わそうとしないことからも、その意図は明白だった──彼らは、タービン建屋の屋上に誰か潜んではいないかと疑っているのだ。その|誰か《ヽヽ》を発見するために、そうして足を忍ばせて、闇のなかを歩き回っているに違いなかった。
むろん、アグニ駐留インド陸軍の兵士たちである。
工藤は一度はベレッタの銃把に手を伸ばしたものの、その使用には躊躇《ちゆうちよ》せざるを得なかった。工藤が、彼らに発見されることになるのは間違いない。間違いないが、銃を使ったからといって事態が好転するとは思えなかった。
いずれは、工藤は彼らに捕えられることになるのだ。銃を使ったところで、徒《いたず》らに他者を傷つける結果に終わるだけのことではないか……。
気配が|ひしひし《ヽヽヽヽ》と身辺に近づきつつあるのを感じながら、工藤は迷いに迷っていた。今すぐ、この場で降伏すべきではないだろうか。
唐突に気配が変わった。
懐中電灯の明りが、闇のなかに浮かび上がった。明りは、手で吊るし上げられた鴉を照らしていた。
むろん、鴉は死んでいる。
笑いの混じった、男たちの声が聞こえてくる。声には、一様に安堵の色が濃かった。明りが消え、靴音が立ち去っていった。
工藤もまた、安堵で排水溝に顔を伏せそうになっている。全身の筋肉が、弛緩《しかん》する思いだった。
マグネシュウム発火弾を捨て、鴉を残しておいたことが幸いしたのだ。インド兵たちは、鴉を見つけたことですべてを了解したような気持ちになったに違いない。おそらく、対テロリスト・レーダーに鴉がぶつかったとでも考えたのか。
いずれは兵士たちも、ただ一羽の鴉がすべての異変を説明するのは、とうてい不可能であることに気がつくだろうが、少なくともそれまでの時間は、工藤に執行猶予が与えられたわけである。
が、──工藤の待機が絶望的な状態であることには、いまだなんら変わりがなかった。
──仙田は呆然としている。
記憶が、はなはだしく短絡していた。まるで、悪夢のなかに身を置いているようだ。
ジャンピング・バルーンで空に跳び上がったことまでは憶えている。鋭い風切り音が、今も生生しく耳に残っているほどだ。それが……。
それがどうして、気がつくとこんな部屋にいるのか。ここは、一体どこなのか。自分の身に何が起こったというのか……。
仙田の意識は混濁していた。両手首が、椅子《いす》の肱掛けに手錠のようなもので固定されていることにさえ気がついていないのだ。ましてや、自分が強風にあおられて、兵舎の屋根に墜落したことなど、記憶しているはずもなかった。実際、バルーンの浮力がなければ、大怪我をしたかもしれないほどの事故だったというのに……。
仙田は痴呆のような眼で、部屋を見回している。
およそ殺風景な部屋だ。天井は低く、壁のコンクリートがむきだしになっている。ただひとつの窓すらないのだ。鉄製の一枚扉に、裸電球……これ以上にわびしい部屋は、ちょっと考えられないだろう。
仙田の意識がもう少しはっきりしていれば、ここが牢獄であることに気がついたはずだった。
扉の脇に、椅子を据えて、一人のインド兵がすわっていた。かなりの年輩の、なにか哲学者めいた風貌をした兵隊だ。仙田を見る眼が、諦めろと教え諭しているようだった。
仙田は眼の焦点を、ようやくその兵士に合わすことができた。必死になって、頭のなかに英単語を並べる。
そして、言った。
「|私に何が起こったのか《ホワツト・ハツプン・トウ・ミー 》」
ほとんど、怒鳴るのに似ていた。仙田にしてみれば、英語を喋るのには、それこそ清水《きよみず》の舞台から飛び下りるような勇気を必要とするのである。
が、──
インド兵は相好《そうごう》を崩すと、落ち着いた声でこう言ったのだ。
「|私は 英語が話せません《アイ・キヤント・スピーク・イングリツシユ》」
「………」
意気|阻喪《そそう》すること夥《おびただ》しかった。仙田はがくりと首を落とした。
その時、──鉄扉が開いて、二人の男が姿を現わしたのだ。一人は白人、もう一人は白人とアジア人との混血、あるいは二世か三世のように見えた。
男たちが入ってきた時の、インド兵の反応こそ見物《みもの》というべきだった。インド兵は、文字どおり椅子から飛び上がったのである。哲学者めいた風貌には、あまりに似つかわしくない反応といえた。
インド兵が、その男たちを誰より恐れていることは明らかだった。その男たちが醸し出す雰囲気には、一種異様な迫力があった。対峙《たいじ》する者をすべて圧倒せずにはおかない迫力だった。
事実、その男たちを見た瞬間から、仙田の朦朧《もうろう》としていた意識が、ふいに明晰さを増したのである。恐怖が、仙田の脳細胞を賦活《ふかつ》したのだ。
二人の男たちは、仙田を一直線に見据えている。なんとも、獰猛な視線という他はなかった。仙田は、自分が心底|慄《ふる》えあがるのを覚えた。
仙田が知るはずもないことだが、その二人の男たちは──フラワー・チルドレン≠フリリー≠ニローズ≠セった。
仙田と、フラワー・チルドレン≠フエージェントとでは、いかんせん格《ヽ》が違いすぎていた。二匹の獅子の前に引き据えられた兎にも等しいのだ。
男たちの視線に、仙田の脈搏は早くなっている。喉が、ひどく渇いていた。失禁しないのがまだしもだったろう。
二人の男は、自分たちの視線が仙田に与える効果を充分に計算しつくしているようだ。仙田を徹底的に怯えさせようとしているのである。ことさらに時間をかけて、仙田の全身をねめ回すようにしている。
ふいに、男の一人が仙田につかつかと歩み寄ってきた。仙田はなかば本能的に、顔をそむけようとしたが──男が右手を閃《ひらめ》かすほうが、はるかに早かった。
頸《くび》が折れたかと思うほどの衝撃だ。眼が涙でかすみ、鼓膜がじーんと鳴った。実に正確で、強烈な手甲打ちだった。
その男が指輪をはめていることが、なおさらに一撃を強烈なものにしたようだ。
仙田は、苦痛に呻いた。確かに、奥歯が一本は折れていた。
もう一人の二世のような男が、奇妙に静かな声で言った。
「|喋れ《トーク》」
仙田はなお呻きながら、男の言葉を頭のなかで反芻《はんすう》していた。何を喋れというのか……自問するまでもなく、男たちはこの作戦の全容を明らかにすることを、仙田に求めているのに決まっていた。どうして、日本人である仙田が突然に空から墜ちてきたのか、納得できる説明を求めているのだろう。
──馬鹿な……仙田は歯を咬み鳴らしていた。いくら俺が臆病でも、暴力ごときに屈服して、仲間たちを売ったりするはずがないじゃないか……。
だが、──仙田は間違っていた。他人《ひと》の意志力を打ち破るのには、その|暴力ごとき《ヽヽヽヽヽ》が最も効果があるのだ。どんな剛《ごう》の者でも、指に鉛筆を一本|挟《はさ》まれるだけで、悲鳴を上げることになる。これほど自白剤が普及していながら、なお拷問が世界に根深く残っているのには、それなりの理由があるのだ。
二発めは、反対側の頬だった。頸《くび》がガクンとのけぞるほどに強烈な一撃だ。仙田は、反対側の奥歯も一本を失うことになった。
仙田の唇から、すすり泣くような声が洩れた。暴力に一歩を譲った証拠だ。
「|喋れ《トーク》……」
すかさず、二世のような男が言う。
抗しがたい響きを持った声だ。鋭利なナイフのような凄味を備えていた──妻の秋子の顔がふっと脳裡を掠《かす》めなければ、仙田がなお沈黙を保てたかどうか疑問だった。
指輪の男の唇に、不可解な笑いが浮かんだ。大人が、強情な子どもを見る時の笑いに似ていた。
男はふいに膝をかがめ、正確なブローを仙田の腹に送り込んできた。
内臓が灼きちぎられる痛みだ。苦痛に、仙田の視界は赤く染まっていた。仙田は激しく咳き込み、胃液を吐いた。
「|喋れ《トーク》……」
あの声が聞こえてきた。仙田は|ぜいぜい《ヽヽヽヽ》と喉を鳴らしながら、必死にかぶりを振った。
次の瞬間、仙田の体は椅子ごと床に転倒していた。男の放った拳が、正確に仙田の耳の下を捉《とら》えたのである。
仙田は呻き声を上げた。口内に、血の金臭い臭いが溢れていた。瞼《まぶた》を切ったらしく、視界がぼやけていた。
仙田の意地も、誇りもここまでのようだった。仙田は、平凡な俸給生活を送ってきた男だ。肉体的な苦痛には、ごく弱いのだ。
指輪の男が、仙田の体を椅子ごと持ち上げ、再び床に据えた。まるで、子猫を摘《つま》み上げるような気安さだ。人間離れした膂力《りよりよく》というほかはなかった。
「|喋れ《トーク》……」
その声に迎合するように、仙田は懸命にうなずいた。微笑さえ、浮かべようとしていたのである。この苦痛から解放されるためなら、相手の靴を舐めることさえ辞さなかったろう。
二人の男の視線が、仙田の唇に集中していた。仙田は喋ろうとして、そして、絶句した。
「う、う、う……」
仙田は徒らに唇をパクパクとさせている。喋ろうにも、英語が一言も浮かんでこないのだ。常にも増して、重症な英語コンプレックスだった。こともあろうに、こんな場合に……。
仙田が努力しなかったと言えば嘘になる。なんとか尋問者たちの意にそおうと、懸命に英単語を脳裡に思い浮かべようとしたのだ。だが、いかに努力しても、不可能なものは不可能だった。
仙田はあきらめて、曖昧な微笑を浮かべた。英語を喋れない日本人が、外人に対した時に浮かべる|あの《ヽヽ》微笑だった。
男たちの眼を、凄《すさ》まじい怒りの色が掠《かす》めた。彼らが、仙田の曖昧な微笑を、自分たちに対する嘲笑と受け取ったとしても、無理からぬことではあったろう。
指輪の男がゆっくりと拳を固めるのを見ながら、仙田は必死に記憶をまさぐっていた──私は英語ができません、と言うのには、どんな単語を並べるのだったろうか……。
指輪の男が、右の拳をくりだしてきた。その一撃は、今までに倍して、痛烈なものだった。
──工藤の全身はなかば麻痺していた。不自然な姿勢をながく取りつづけてきたことの、当然のむくいだ。工藤はもう、一時間ちかくも排水溝に身を伏せているのだ。
サーチ・ライトが夜闇を薙《な》いで、屋上を過《よぎ》っていく。下手に排水溝から這い出したりすれば、そのライトに身をさらす危険があった。
工藤は、まったく動きに窮していた。
桂が予定の行動に出てくれなければ、工藤もまた動きようがないのである。動きようがないのだが、予定時刻を三十分余も過ぎて、なお桂は沈黙《ヽヽ》を保ったままなのだ。
──桂の身に何か間違いが起こったのではないか……その危惧《きぐ》は、しだいに工藤のなかで確信にまで高まりつつあった。|作戦は失敗に終わったのか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
工藤の脳裡を、目まぐるしく男たちの顔が去来している──佐文字公秀、桂正太、仙田徹三……男たちの顔は、いずれも血で汚れていた。
極度の緊張に、工藤はなかば常軌を逸しかけていたようだ。その状態があと三十分もつづけば、失神していたかもしれない。
が、──工藤の朦朧《もうろう》とした意識は、ひどく乱暴な方法で揺り起こされることになったのだ。
耳元で目覚ましが鳴るのに似ていた。それも、一つや二つの目覚ましではない。とにかく、鼓膜が爆発したような衝撃だったのだ。
空を覆って、凄まじいボリュウムで声が鳴り響いている。雷をはるかにしのぐと思われるほどのボリュウムだ。それは、──桂正太の声だった。
工藤はつかの間《ま》呆然としていた。工藤はけっして桂の声などを期待していたわけではなかった。作戦では、シンセサイザーの音声が鳴り響くはずだったのである。
桂は、──なんと上方落語を喋りまくっているのだ。
だが、桂の落語に呼応するかのように、原子力発電所アグニのいたる所で警報が鳴りだしたのを耳にすると、工藤は排水溝から飛び出した。
いよいよ、作戦の次の段階に突入したのである。
──ワーオン、ワーオン、ワーオン……。
今、原子力発電所アグニは、狂ったように吼《ほ》えたけっている。事実、コンピューターに制御され、随所に仕掛けられている音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》が、完全に狂い始めているのである。
音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》は、微音を捉えて、侵入者の位置を警備司令室に伝えるために設けられたものだ。すべての音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》が、一斉に警報を鳴らしてしまったのでは、その任を果たし得るはずがなかった。
コンピューターの音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》・制御は、精緻《せいち》をきわめている。どんな微音も逃がさぬように、完璧にセットされているのだ。その意味では、まさしく鉄壁の警備システムといえた。
だが、この警備システムの設計者は、あまりに既成概念に捉《とら》われ過ぎていたようだ。アグニへの侵入を試みる者は、その全員が足音を忍ばせて入ってくるものだと、頭から決めこんでいた|きらい《ヽヽヽ》がある。その結果、コンピューターにセットされていない狂騒音が伝わってきた場合、すべての音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》が反応して、収拾がつかなくなってしまうという欠点を持つに至ったのだ。
もっとも、警備システムの設計者に限らず、侵入者がことさらに拡大した音声をバックにして、乗り込んでこようなどとは、誰ひとり考えなくて当然だったのだが……。
ヒマラヤの空に、上方落語の『夢八《ゆめはち》』が鳴り響いている。何十倍にも拡大された桂の声は反響《こだま》を呼び、さらには|それ《ヽヽ》にアグニの警報が重なって、天地を揺るがさんばかりの大狂騒となっているのだ。
「……『いや、あんたこそ、ごくろうはん……で、昼、たのんどいた弁当でけてるか?……あ、そうか……ほなら、こっちゃへおくれなはれ。ああ、おおきに……おい、おい、表でぼんやりしてたらあかんがな。これ、ちょっと……』」
空を貫く大阪弁のイントネーションは、原子力発電所アグニに恐慌《パニツク》を惹き起こしたようだ。アグニに詰めている技術者、兵士たちにとっては、まさしくその声は悪魔のそれのように聞こえたろう。とにかく、アグニのコンピューターを機能麻痺させてしまったのだから。
にわかに、アグニの構内が騒がしさを増した。兵士たちが大童《おおわらわ》で、銃を持って駆けずり回っている。警備システムに磐石《ばんじやく》の信頼を寄せていただけに、その信頼が破られたときの狼狽ぶりは、いっそう大きいようだ。
──アグニと荒野を隔《へだ》てた森のなかでは、桂が熱演をつづけている。首を振り、地を叩く熱中ぶりだった。
桂の前には、蓄電池《バツテリー》と接続された特別製のホーン型スピーカーが据えられている。従来のスピーカーなら、これほどに音声を拡大するのは不可能だったろう。亜紀商事が擁する電機メーカーの技術陣が、特別に開発した機種だからこそ、可能になったことなのである。
本当なら、このホーン型スピーカーには、ラジオカセットが接続されるはずだったのだ。シンセサイザーを録音したテープが、アグニの警備システムを狂わせる作戦だったのである。こともあろうに、桂はその肝心のラジオカセットを落としてしまったのだ。
が、──今の桂は、ラジオカセットを落としてしまったことを、まったく後悔していなかった。テープの代わりに、桂が落語を演じつづければ、それで|こと《ヽヽ》は済むのだ。必要な限り、何時間でも……事実、桂は喉が涸れるまで、いや、生命《いのち》尽きるまで、上方落語を演じるつもりでいた。
パトロールに発見されて、射殺されるようなことになっても、なんの不満もないのだ。
「……『あのな、わたい、なんでたたかんならん?』
『おまえ、うつうつして、夢ばっかりみてるんやろ?』
『へえ』
『そやさかい、居眠らんように、それをたたいてんのや』
『あ、居眠らんようにたたいてまんのか。あっはっはっ、そら、うまいことかんがえなはったな。こら、やかましいて、居眠られへんわ……』」
桂は『夢八』を演じながら、頭のなかで父親に呼びかけていた。
──どや、お父ちゃん、ぼくの噺《はなし》、まんざらでもないやろ……桂は眼を閉じている。見ててや、お父ちゃん、これがぼくの一世一代の晴れの舞台や、なあ、お父ちゃん、ほんまに見たってや、頼りにしてまっせ……。
桂は、目じりから涙が滴《したた》っていることに気がついていなかった。
ワーオン、ワーオン、ワーオン……。
桂の『夢八』に反応して、アグニは全身を震《ふる》わせながら、警報を鳴らしつづけている。桂の耳には、その警報が客の拍手、笑い声であるように聞こえていた。
──錐で抉《えぐ》られるような苦痛だ。
殴打される鈍い痛みとは、はっきりと種類を異《こと》にしていた。
仙田は低く呻き、その呻き声で眼を醒《さ》ました。しばらくは、何が頭痛の原因となっているのかわからなかった。
仙田は、ボンヤリと二人の尋問者たちの顔を見ていた。仙田が気を失っていたのは、ほんのつかの間のことだったらしい。男たちの位置は、ほとんど変わっていなかった。
ふいに、意識が鮮明になった。鮮明になった意識に、鳴りつづける警報がきりきりと食い込んできた。
その警報が、かくも執拗に仙田を苦しませていたのである。
仙田は、再び呻き声を上げた。呻きはしたが、その唇には笑いが浮かんでいた。作戦が順調に進行していることを知ったからである。
二人の尋問者たちも、この騒ぎには少なからず動揺しているようだ。当然のことではあった。その語意がわからぬ人間には、地を圧して響きわたる上方落語は、ひどく無気味なものに聞こえるに違いないからだ。
指輪の男が、仙田に視線を戻した。
「|これは 何だ《ホワツト・イズ・ジイス》……」
男の声には、それまでになく緊張感が満ちていた。
「………」
仙田は答えなかった。英語が喋れないからではなく、意地から答えなかったのだ。仲間たちの動静を知ったことが、仙田の気力を再び奮《ふる》い起こさせたようだ。
指輪の男の眼に、はっきりと殺意の色が浮かんだ。
仙田は、氷塊を呑んだように肚《はら》の底が冷たくなるのを覚えた。仙田にとって、指輪の男はまさしく、死≠サのものだった。恐怖を覚えて、当然だったろう。
が、──仙田は、男の視線から、眼を外《そ》らそうとはしなかった。必死の気力を振り絞って、男の眼を一直線に見返したのだ。
指輪の男は冷酷な笑いを浮かべた。仙田に向かって一歩近づこうとし、──もう一人の男にさえぎられた。数語の短い|やりとり《ヽヽヽヽ》の後、指輪の男は踵《きびす》を返し、急ぎ足で部屋を出ていった。
仙田の喉から、太い溜息が洩れた。
もう一人の男が、ゆっくりと仙田の傍らまで歩いてきた。この男には、指輪の男のようなギラギラした獰猛《どうもう》さは感じられなかった。その代わりに、なにか蛇のように陰湿な、無気味な印象を帯びていた。
「|喋れ《トーク》……」男は、異常に優しい声で言った。
「|これは何事だ《ホワツト・イズ・ジイス》?」
仙田は静かに首を振った。恐怖は濾過《ろか》されて、透明な感情にと変わりつつあった。怖《こわ》いことには変わりないが、むしろ誇りを重んじる気持ちのほうが強いようだ。
匹夫《ひつぷ》の勇というべきか。
桂の『夢八』はつづき、アグニの全警報が泣きもだえるように鳴っている、その煮え立つような狂騒のなか、仙田と男の二人だけは、奇妙にひんやりとした空気に包まれているようだった。
男の肩がピクリと動いた。仙田が身を縮めようとした時には、もう男の拳がしたたかに顎に食い込んでいた。
仙田は裂けた唇から、血が噴き出すのを感じた。ゆっくりと顔を戻し、再び男の顔を見据えた。
「|豚 野 郎《マザー・フアツカー》……」
ほとんど意識しないまま、仙田はそう言葉を吐き出していた。
「|くそったれ《キス・マイ・アス》……」
男の顔色が変わった。その拳が、仙田の鼻柱を直撃する。ウェイトの充分にかかった、火のような一撃だ。
鼻血がたちまちのうちに仙田の顎を染めあげる。
が、──仙田はいささかもひるもうとしなかった。
「|嗜 糞 症《フラウン・ボーイ》……」仙田の唇は、まるでタイプ・ライターのように、次から次に言葉を紡《つむ》ぎだしていくのだ。
「臆病者《チキン》、|うすのろ《シツト・ヘツド》、|腰ぬけ《パンク》、|くるくるぱあ《バギー》、|だめ男《コツク・サツカー》、|くそくらえ《フアツク・ユー》、麻薬患者《モンキー》、|ぼけっ《フアツク・ヘツド》、……」
いくらでも出てくるのだ。
仙田が、宿痾《しゆくあ》の英語コンプレックスから解放された、真《まこと》に偉大な瞬間だった。
──本来の作戦では、須永が機関士をつとめ、佐文字はたんに機関助士として働けばいいことになっていた。
だが、──須永が死んだ今、佐文字は一人で二役を兼ねる|はめ《ヽヽ》となったのだ。
自然、火格子に石炭を投げ入れる作業がおろそかにならざるを得ない。機関車が要求するだけの蒸気を、調整しながら作るなどという芸当ができるはずがない。テンダ車から大量に運び入れた石炭を、火床も見ないで投げ入れる乱暴さだ。
佐文字は、慣れない仕事に汗みずくになっている。汗と|すす《ヽヽ》とで、せっかくの色男が台なしだった。
気室圧力計、ボイラー圧力計、水面計……、本当ならのべつ注意を払っていなければならないはずの計器類にも、ほとんど眼をくれようとしない。|加減弁 取手《レギユレーターハンドル》とブレーキの操作だけでも、佐文字の手に余るのである。
鉄路が、長い上り勾配《こうばい》になった。
佐文字は頭のなかに、機関車の運転ノートを思い浮かべている。上り勾配のときには、どう運転すればよかったのか。
蒸気機関車九二〇〇は、鉄の叫喚を発しつづけている。吐き出す火の粉が、断末魔の喘ぎのようだ。
佐文字はレギュレーターをいっぱいに引いた。
黒煙が、機関室《キヤブ》のなかに吸い込まれるように入ってくる。焚口《たきぐち》の炎とあいまって、機関室《キヤブ》はなにか地獄のような様相を呈していた。
実際には、ここで石炭をさらに捕給してやるべきだったろう。が、──佐文字にそんな余裕があるはずはなかった。
蒸気機関車はのべつスリップしているようだ。素人がたった一人で蒸気機関車を運転して、上り勾配を進もうなどと、気違い沙汰もいいところだった。それこそ、機関車が逆落《さかお》としになっても文句は言えない。
佐文字は、ほとんど天に祈りたいような気持ちだった。蒸気の圧力を常用にあげるまで、四時間ちかくを費《つい》やしてしまったのだ。ここで機関車が逆落としにでもなったら、とうてい作戦に間に合わなくなる。三人の仲間たちの生命を、危険にさらすことになるのだ。
──走ってくれ……佐文字は頭のなかで、機関車に向かって叫んでいた。頼むから、走ってくれ。さもないと……。
佐文字は機関室《キヤブ》の窓から肩を乗り出し、後方に視線を投げた。
黒煙を、二十メートル以上もある砲身が二つに裂いていた。列車砲『レオポルド』だ。かつて四十トン・ディーゼル機関車で牽引《けんいん》されていた『レオポルド』が、数十年を経た現在、ヒマラヤの山中を蒸気機関車九二〇〇に牽引されて走っているのだ。
──さもないと………佐文字は呻いた。|あいつ《ヽヽヽ》を、作戦に使えなくなる。
蒸気機関車が走り始めてから、まだ十分とは経過していない。
時刻は、三時四十分。
──桂の噺《はなし》は、『へっつい盗人《ぬすつと》』に変わっていた。スピーカーに拡大されて、かろうじて音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》を攪乱《かくらん》してはいるものの、実際にはかすれた囁き声でしかないようだ。その囁き声も、ともすればとぎれがちになる。
二時間以上に及ぶ独演会だ。声が出なくなるのも当然といえた。時をおかず、桂は沈黙を余儀なくされるだろう。
だが、──桂は充分にその任を果たしたのである。
すでに工藤篤は、音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》がセットされている場所をすべて通過していた。今、この瞬間、音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》の機能が正常に回復したとしても、工藤の行動をなんら阻《はば》むことができないのである。
夜間の原子力発電所アグニは、まったく無人にちかい状態だった。それだけ、警備システムに信頼を置いているということか。この騒ぎで、すべての警備兵たちが出動を命じられたようだが、ほとんどが外を固めるために配置されているらしい。
侵入者が、建物のなかに入ってしまっているなどと、誰の頭にも思い浮かばなかったのだろう。なにしろ、アグニは鉄壁の警備システムを誇っているのだから。
工藤はタービン建屋の二階から、通廊を抜けて、原子炉建屋《リアクター・ビル》に入っている。時に、人影を見ることはあったが、いつも物陰に隠れて、やり過ごすことに成功してきたのだ。
さらに工藤は原子炉格納容器に入り、一次|遮蔽《しやへい》の外壁までたどりつかなければならない。爆弾は、一次遮蔽の外壁に取り付けられてある放射能探知装置《クローク・ダイル》のなかに収まっているはずなのだ。
原子炉格納容器に足を踏み入れるのには、二つの難関があった。一つは、赤外線警報装置であり、もう一つは、格納容器のエア・ロックに至る通廊に、十五メートルにわたって設けられている体温感知装置であった。
が、──赤外線警報装置は、すでに難関ではなくなっていた。桂の落語によって、警報システムを司《つかさど》るコンピューターは、その機能に破綻《はたん》をきたしている。音響捕獲機《サウンド・キヤツチ》と同じシステムに組み入れられている赤外線警報装置が、それのみ正常に働くはずがなかった。
問題は体温感知装置だ。
体温感知装置だけが唯一、中央コントロール室に詰めている人間によって、チェックされているのである。
──今、工藤は、体温感知装置が設けられた通廊の前に立っている。
通廊そのものが警報装置になっているといっても過言ではない。十五メートルの長きに及ぶ、大警報装置だ。最後の、そして最大の難関だった。
体温感知装置が設けられた通廊を過ぎ、さらに、五、六メートル進むと、そこに、格納容器に入るエア・ロックの扉があるのだ。
工藤はそこまで背負ってきたリュックを降ろし、着替えを始めている。
ブリーフを残し、裸になった工藤は、リュックのなかから奇妙な下着を取り出し、身に着けだしている。
長袖シャツとパンティ・ストッキングが一体となったような、見慣れぬ下着だ。全体が、細かい網の目状になっていた。腋下のホックが、ボタンの代用をつとめるらしい。
宇宙服《ヽヽヽ》専用の下着なのである。宇宙船外での作業の際、体を冷却するために着用するもので、イギリス王立航空協会が開発した下着なのだった。
ベースには、主にスパンデックスとナイロンが使われている。ポリ塩化ビニールのチューブの網を循環する冷却水が、常に体から熱を吸収するように設計されているのだ。局所皮膚温度を、最低十度Cまで低めることが可能とされていた。
この下着がはたして体温感知装置に抗し得るかどうか、工藤自身にもはなはだ心もとない気がしている。しているが、他にどんな方法も思いつかなかったのだ。
工藤はさらに与圧服と、小型生命維持装置《バイオ・パツク》をリュックから取り出している。小型といっても、生命維持装置は、それだけで五十キロを越える重量を有している。工藤が大荷物に著しく消耗させられたのも、しごく当然のことだったろう。
これで、保護服でも着用すれば、工藤は完全な宇宙飛行士と化すわけである。
冷却水を循環させ、熱を体から放散させないためには、これだけの装備を必要とするのである。心配なのは、吸収された熱が運ばれる生命維持装置の放熱器だが、わずか十五メートルの距離を進む間に、放熱器が体温感知装置を反応させるほど、温度を上昇させるとも思えなかった。
最後に、ポリカーボネート・プラスチックのヘルメットを被る。万が一にも、息を外部に吐き出さないためである。肺で暖められた息は、体温感知装置を充分に反応させ得る。生命維持装置から配管システムを伝って送られる酸素を吸い、吐いていたほうが、間違いがないというものだ。
ヘルメットを被る寸前、工藤は視線を虚空《こくう》に据え、耳を澄ました。
もう、何も聞こえていなかった。桂はついに沈黙し、警報もことごとく静まり返っていた。
一瞬、ほんの一瞬、激しい孤独感が工藤の胸のなかを貫《つらぬ》いた。
工藤はヘルメットを固定し、ベレッタをポケットに収めると、──通廊に一歩を踏み出した。
十五メートルの距離が、ひどく長く感じられた。今にも、中央コントロール室のパネル・ランプが点滅し、警報が鳴り始めるのではないか。いや、ヘルメットに隔てられているから聞こえないだけのことで、すでに警報は鳴っているのではないか……そんな不安が、常に工藤を苛んでいた。
通廊を渡りきったとき、工藤の額《ひたい》はグッショリと汗をかいていた。視界に、薄く霞がかかっている。膝が萎えるような疲労を覚えた。
これで、もう工藤と格納容器とを阻《はば》むものは何もないはずだ。何もないはずだったのだが……。
工藤は悲鳴を上げた。
ふいに、一人の男が工藤の前に立ちはだかったのである。巌《いわお》のような巨体を持つ、中年の白人だ。工藤を見る眼が、いかにも冷酷そうだった。
顔こそ知らないが、その男が放っている獣めいた存在感には、確かに憶えがあった。ランキーマの岩塩廃坑で対峙《たいじ》した|あの《ヽヽ》影……殺人者……フラワー・チルドレン≠フエージェントなのだ。
──リリー≠ヘ、ゆっくりと指輪のリングを回した。アーモンドの臭いが、かすかに鼻孔《びこう》を衝《つ》いた。
──男の様子には、いささかも緊張した色が見られなかった。今にも、欠伸《あくび》を洩らしそうな気安さだ。猫科肉食獣の気品さえ備えているようだ。眼だけが、冷酷な光を湛《たた》えていた。
工藤ごときは、まったく問題にもしていないのだ。腕の一振りで、頸《くび》の骨を折る自信があるに違いなかった。
工藤は、全身が硬直していた。指を一本動かしても、ぼきりと音を立てそうだ。恐怖が、工藤の体を万力のように締めつけているのだ。
男は、工藤に向かってゆっくりと足を踏み出した。動きに、ためらいがない。工藤を殺すことを、決めているのだ。
ふいに、工藤の脳裡を稲妻のように閃《ひらめ》いた言葉があった。
──銃を使う人間にとって、なにより重要なのは決断力だ……。
須永の言葉だ。いつか地下射撃場で聞いた、須永の言葉だった。──人間を撃つのはたやすいことじゃない。いざ引き金を絞ろうという段になると、誰でもついためらってしまうものだ。そのためらいを早く捨てられる人間だけが、本当の意味での優れた|拳銃使い《ガン・マン》なんだ……。
──プロとアマとを問わず!
一瞬、須永の霊が工藤の体に宿ったようだった。須永の言葉に導かれ、工藤の手はポケットからベレッタを抜いていた。アマチュアにはありうべからざる速さだ。
男が、工藤の動きを認めることができたかどうかさえ疑問だった。
鈍い銃声が、通廊に鳴り響いた。
鉄槌《てつつい》にしたたか殴られたように、男はがくんと体をのけぞらせた。そのぶ厚い胸筋から、細く血がしぶいた。
男はゆっくりと手を胸に当て、その手を見つめた。信じられないものを見るような表情をしていた。
フラワー・チルドレン≠フエージェントともなれば、敵が拳銃を撃とうとする際の、動きのパターンをおよそ知りつくしているに違いなかった。その知識が、彼を冷酷有能な破壊工作員として、生きながらえさせてきたのだ。
有能な破壊工作員が、撃たれるなどという無様な|はめ《ヽヽ》に陥《おちい》るはずがなかったのだ。
が、──工藤の動きは、あらゆる射撃のパターンから大きく外れていた。無造作に、まったく無造作に、拳銃を抜き、引き金を引いたとしか見えなかったろう。
男の表情が激しく歪んだ。全身に怒りが漲《みなぎ》り、その筋肉が大きく膨《ふく》らんだ。
男は咆哮《ほうこう》を発した。ヘルメットを隔《へだ》てていても、工藤の鼓膜をびんびんと震わすような凄まじい咆哮だ。死を覚悟した獣のみが上げ得る咆哮だった。
男の体が、発条《バネ》のように跳躍した。
反射的に、工藤は二発めを放っていた。男は床に叩きつけられ、二転、三転した。腹部から、赤黒いものが迸《ほとばし》っていた。
男はひるまなかった。床に片膝をつけ、ゆっくりと巨体を持ち上げる。工藤を見る眼が、すでに常人の|それ《ヽヽ》ではなかった。工藤を殺すという執念だけが、この男の体を衝き動かしているようだ。
工藤の背筋を冷たいものが走った。狭窄《きようさく》された喉から、泣き声が洩れる。不死身の怪物と対峙しているような恐怖を覚えた。
男が、再び跳躍した。
工藤は|引き金《トリツガー》を絞りに絞った。その度ごとに、男の体はがくっがくっと揺らいだが、しかし突進を止めようとはしなかった。まさしく、人間離れした体力だ。
一瞬の後、工藤の体は吹っ飛ばされ、叩きつけられていた。激痛が、背骨から全身を貫いた。男は両の手を鉤《かぎ》のように曲げ、工藤の体にのしかかってきた。
ベレッタが工藤の手を離れ、床を回転しながら滑《すべ》っていった。
工藤は必死に男を蹴りつけ、その手から逃れようとした。だが、男の膂力《りよりよく》は、はるか工藤の及ぶところではなかった。全身を締めつけられる苦痛に、工藤の舌がスポンジのように膨《ふく》れ上がった。すでに、悲鳴すら上げることができなかった。
男は左手で工藤の喉を押さえつけ、もう一方の手をゆっくりと構えた。蛇の鎌首に似ていた。その人差し指にはまっている指輪が、きらりと光を反射した。
細い、細い針……。
男が右手を閃かした。ヘルメットの、ちょうど眼に当たる部位を、白く線が走った。男の表情が驚愕《きようがく》と絶望で激しく歪《ゆが》み、──次の瞬間、その体がどうっと横転した。ついに、力が尽きたのか。
工藤は咳き込んでいる。頭の血が熱く煮えたぎっているかのように感じた。眼に涙が滲《にじ》み、肺が酸素を求めて悲鳴を発していた。
紅く染まった視界に、エア・ロックのドアだけが鮮明に浮かび上がっていた。今こそ、工藤は誰からも邪魔されることなく、格納容器に足を踏み入れることができるのだ。
工藤は男の体を脇に押しやり、ふらつきながら立ち上がった。膝に、まったく力が入らない。そのまま、床に沈み込んでいくような頼りなさだ。工藤は一歩を踏み出そうとし、──その足をぐいっと掴《つか》まれるのを感じた。
工藤は悲鳴を上げた。
頭髪が逆立つような恐怖だ。今にも、発狂せんばかりだった。
男が猿臂《えんぴ》を伸ばし、工藤の足を掴んでいるのだ。そのガラス玉のような眼に、執念の燠火《おきび》がちらちらと燃えていた。なかば赤い肉塊と化したその体の、どこにそれほどの力が潜《ひそ》んでいるのか。男の手には、万力のような力が込もっていた。
工藤は泣き、喚きながら、必死に男から逃れようとした。男の体が、ずるずると床を滑る。男は工藤の足を掴んでいるばかりか、立ち上がろうとさえしているらしい。
が、──さすがに男の体力も、そこまでのようだった。男の頭が、床に落ちた。工藤の足を掴んでいる指から、急速に力が抜けていった。
工藤は、床に尻餅をついた。肩が、烈しく上下している。顔が、神経質な痙攣《けいれん》をくりかえしていた。
──ついに、フラワー・チルドレン≠フリリー≠ヘ死んだのである。
──同じころ、デリー郊外に位置するインド空軍基地から、数機のジェット戦闘機が発進していた。原子力発電所アグニに異変が起きつつあるという報《しら》せを受け、基地司令部が緊急発進《スクランブル》を発動したのである。
パイロットたちは、場合によっては、領土を侵犯、中国を攻撃してもいいという命令を受けていた。
──仙田は、自分の体が誰かに揺さぶられるのを感じた。
お世辞にも、優しさが込もった腕とはいえない。ひどく無造作に、乱暴に揺さぶっているのだ。これでは冬眠中の熊さえ、眼を醒ましかねないだろう。
仙田はゆっくりと、眼を開けた。そこに、あの男の顔を見ることになるのは、確実なように思えた。
が、──意外にも、仙田の体を揺さぶっていたのは、あの哲学者然としたインド人の老兵士だった。
兵士は、仙田が眼を開けたのを見ると、ニヤリと相好を崩した。
「|助ける《ヘルプ》、|助ける《ヘルプ》……」兵士は、何度もそうくりかえした。
「………」
仙田は、反射的に部屋を見回した。部屋には、他に誰もいなかった。
兵士はそそくさと、仙田の手錠を外しにかかっている。
「|なぜ、私を助けるのか《ホワイ・ヘルプ・ミー》」仙田は狐につままれたような気持ちで、そう尋ねた。
「|友だち《フレンド》、|友だち《フレンド》……」
と、兵士は大声を張り上げた。
「|友だち《フレンド》?」
「|私は 英語が 喋れない《アイ・キヤント・スピーク・イングリツシユ》。|おまえは 英語が 喋れない《ユー・キヤント・スピーク・イングリツシユ》」
「|何を言うか《ユー・ロング》」仙田は憤然とした。
「|私の 語学力は 抜群なんだぞ」《マイ・イングリツシユ・アビリテイ・イズ・ベーリー・グツド》
「|そうだろう《ジー》、|そうだろう《ジー》……」
兵士はクスクスと笑いながら、二つめの手錠を外す作業にとりかかった。
仙田は、その時になって初めて、もう桂の落語も、警報の音も聞こえていないことに気がついた。
果たして、作戦は順調に進展しているのだろうか。
──動輪が、白い火花を発した。
凄まじい金属の咆哮が、地を圧して響きわたった。
佐文字は、危うく前方につんのめりそうになった。ブレーキ弁が、激しく膝を打つ。
蒸気機関車九二〇〇は鉄の巨体を震《ふる》わせて、ようやく進行を停めた。白い蒸気が、機関車の激しい吐息《といき》のように見えた。
佐文字はブレーキ弁に手を触れたまま、しばらく体を凝固させていた。地の底に引き込まれるような疲労を覚えた。素人が、とにもかくにも、蒸気機関車を所定の位置まで運んできたのだ。奇跡というほかはなかった。
時刻は、四時を回っていた。
数分の後、佐文字はランタンを下げ、運転室《キヤブ》を降りた。地に降りたとき、もう少しで膝が萎《な》えそうになった。
その拍子《ひようし》に、ランタンの炎が揺れ、幽鬼のようにやつれた佐文字の姿を照らし出した。
今の佐文字には、ランタンすら重く感じられるようだ。佐文字はランタンを地に置き、両膝に手を置くような姿勢で、前方を見据えた。
思いがけない近さに、原子力発電所アグニがあった。荒野を、ほんの数キロとは隔てていないようだ。強烈な照明のなかに浮かび上がっているアグニは、卑小な人間たちを圧し、嘲《あざけ》っているように見えた。
アグニを見る佐文字の眼が、ぎらぎらとした光を帯び始めていた。ほとんど尽きかけていた闘志が、再び燃え上がったのだ。
──佐文字は足を引きずるようにして、後方の『レオポルド』に向かった。
『レオポルド』には、佐文字の運転は相当に苦痛だったようだ。とりわけ、クレーン台車部の損傷が著《いちじる》しい。鉄柵が、飴のように曲がっているのだ。
その曲がった鉄柵を掴み、佐文字は体をクレーン台車部まで引き上げた。
唇から溜息が洩れた。
口径二十八センチ、砲身長二十二メートル、射程六十二キロ……堂々たる威容を誇るさしもの『レオポルド』も、年月にだけは打ち勝つことができなかったようだ。近くから見ると、なおさらに骨董品《こつとうひん》の感が強い。錆《さび》から生じた窩腔《かこう》が、砲身をいっぱいに覆っていた。
が、──これでも、ただ一度の使用に耐え得るのではないか、それとも、火薬が炸裂《さくれつ》したとたんに、砲身が裂けてしまうだろうか。砲身が裂けでもしたら、佐文字もまた無事では済むはずがないのだが……。
考えてみたところで、どうなるものでもなかった。いまさら、作戦を変更するわけにはいかないのだ。
佐文字はランタンを適当な位置に置き、作業《ヽヽ》を開始した。といっても、数十年を放置されたままだった列車砲が、急に|その《ヽヽ》生命を甦《よみがえ》らすはずがなかった。砲操作の電動機構が、すべて使いものにならなくなっているのは明らかだからだ。昔ながらの、砲術に頼るしかなかった。
|突き棒《ラマー》で、火薬を砲口から詰め、砲弾を装填《そうてん》する。後は、火薬に火が点じられれば、砲弾が発射されるというわけだ。もっとも、砲身が裂けなければの話だが……。
佐文字が懸垂下降《アプザイレン 》の際にも、断じて体から離そうとしなかったリュックには、砲撃のための火薬と、特殊な目的のために造られた砲弾が入っていたのである。
まずは火薬を詰めることから、作業を開始する必要があった。
佐文字は砲身を見上げた。五十度の仰角《ぎようかく》で、空を衝《つ》いている二十八センチ砲は、なにか拳を振り上げた巨人の腕のように見えた。よほど木登りが得意な人間でも、この砲をよじ登るのには二の足を踏むだろう。足がかりがまるでないからだ。
だが、──まさしく|それ《ヽヽ》が、佐文字のしなければならない仕事なのである。
佐文字は、再びリュックを背負った。改めて背負ってみると、重さが、ずしりっと肩に食い込む感じだ。佐文字は、歯を強く噛みしめていた。
佐文字はザイルを砲身に通し、輪をつくった。その輪を自分のベルトに結びつけ、手足を砲身にからませた──リュックの重みで、胸が圧し潰されんばかりだ。
佐文字は太い息を吐くと、砲身をよじ登り始めた。けっして早くはないが、しかし着実なペースだ。列車砲に這い登る佐文字の姿は、どことなく滑稽味さえ漂わせていた。
佐文字公秀の苦闘は、まだまだつづくようだった。
──ローズ≠フ指が、神経質にテーブルを弾《はじ》いている。この男には珍しく、焦燥の色が眼に露わだった。唇のまわりに、深い皺《しわ》が寄っていた。
フラワー・チルドレン≠フエージェントのために、アグニの地下に特別に設けられた部屋だ。間接照明の淡い光が、コンクリートの壁を照らし出していた──彼らは、ウェスチング・マシン社のセールス・エンジニアという|ふれこみ《ヽヽヽヽ》で、アグニに滞在しているのだが、誰一人、そんな公式発表を信じている者はいなかった。たんなるセールス・エンジニアに対するには、待遇が破格に過ぎるからだ。
ローズ≠ヘ|この《ヽヽ》原子力発電所アグニに、何か異変が起きつつあることを直感していた。その異変を惹き起こしたのが、亜紀商事から派遣された日本人たちであることにも、確信があった。そうでなければ、どうして日本人が空から降ってきたりするものか……。
だが、──その異変の実態となると、いっこうに掴めないのだ。一体、奴らは何をしているのか。どこで、どう動いているのか……ローズ≠ノは、かいもく見当もつかないのである。
敗北感が濃かった。
相手がプロであるなら、その行動のパターンは、おおよその察しがつく。いわば同じ立地で戦うことが可能だ。が、──工藤たちのようなアマチュアを相手にした場合、ひとつ歯車が噛みあわないと、常にプロが後手《ごて》に回る結果となってしまう。相手の動きが、予断を許さないからだ。
今回の歯車の狂いは、あの工藤という男を殺せなかったことから端を発しているようだ。どんな手段を使っても、あの男だけは殺しておくべきだったのだ……。
ローズ≠ヘ溜息をついた。
いまさら、なにを悔《くや》んでみてもどうなるものでもないだろう。考えるべきことは、他にあるのだ──リリー≠ェ行方《ゆくえ》不明になり、捕えておいた日本人が姿を消したときから、ローズ≠ヘ|ある《ヽヽ》決定を迫られていた。
今こそ、その決定を下す時なのだ。
ローズ≠ヘゆっくりと腰を上げた。その眼が、部屋の隅に据えられている無線通信機に向けられていた──一見、なんの変哲もない無線通信機だが、その下端に取り付けられているガラス・ケースだけが奇異な感じを与えていた。ガラス・ケースには、赤く塗られた受話器が収められていた。
ローズ≠ヘ無線通信機に歩み寄ると、ガラス・ケースを肱で砕いた。そして、受話器を取り上げる。受話器を取り上げるだけで、相手とつながることになっているのだ。はるか、海を隔てた相手と……。
「|やれ《ゴー》……」
ローズ≠ヘそれだけを口にすると、受話器を戻した。その眼に、殉教者に特有の狂ったような炎が燃えていた。
ローズ≠ヘ今、アグニに仕掛けられている爆弾を、作動させるように命じたのだ。
組織への忠誠と、極右思想に凝《こ》り固まったこの男には、フラワー・チルドレン≠フ陰謀が他に洩れることは耐えがたかったのだ。それぐらいなら、自分ごと、計画を闇に葬《ほうむ》るほうが|まだしも《ヽヽヽヽ》に思えた。まだ事故の一言で片付けることができるからだ。
──成層圏のはるか上空、昼と夜との明暗界線を横切っていた|その《ヽヽ》軍用情報偵察軌道衛星は、ゆっくりと回転を始めていた。アグニに仕掛けられた爆弾を作動させる、電波を発信するためだった。
──格納容器のドームが、ひどく上方にあるように見えた。回転クレーンが、今にも頭上に落ちてきそうな錯覚に捉われる。
工藤は今、原子炉を覆う一次遮蔽の壁に取り付いていた。
楽な仕事ではない。梯子は、一本の金属パイプに踏み板を取り付けただけの、組立て式のごく使いにくいものだったし、──工藤はおよそ運動には不向きな、宇宙服を着用していたのだから。
放射線防護服に着替える時間のない工藤が、その宇宙服を捨てるわけにもいかなかったのだ。
工藤の眼は、ヘルメットを隔《へだ》てて、ただ放射能探知装置《クローク・ダイル》にのみ向けられていた。その緑色の、さほどに大きくもないボックスが、すべての事件を惹き起こしたのだ。
工藤は、一段一段踏みしめるようにして、梯子を昇っていく。顔が土気色を呈していた。工藤の疲労は疾《とつ》くに限界を越え、体力の最後の一滴まで吸いつくしていたのだ。
ようやく最上段に昇りつめたとき、工藤はなかば重病人の様相を呈していた。
が、──肩で激しく息をつきながらも、なお工藤には休むことが許されなかった。ズボンからドライバーを取り出すと、震える指で、放射能探知装置《クローク・ダイル》の蓋を外しにかかる。
作業はいっこうにはかどらなかった。常の工藤なら、ほんの一分もあれば済む仕事なのだが。
ついに、蓋が外れた。
工藤の眼が大きく見開かれた。あまりの衝撃に、顔がだらんと弛緩《しかん》した。
放射能探知装置《クローク・ダイル》には、爆弾など入っていないのだ!
──その時、軍用情報偵察軌道衛星が、爆弾作動の電波を発信した。
──排水口から吐き出される熱排水が、暗い水中にブツブツと泡を立てていた。その呟くような水音は、変わることなくポコモコ≠ノ|まどろみ《ヽヽヽヽ》を与えつづけてくれていた。
心地よい温水と、その温水が奏でる泡立ちは、ポコモコ≠ノとって、いわば格好のベッドとなっていたのだ。母の胎内に在るような安らぎを覚える。いや、ワニであるポコモコ≠ノは、むしろ、卵のなかに在るようなという形容こそふさわしかったかもしれない。
今夜も、ポコモコ≠ヘ温水のなかに憩い、たゆたっているはずだったのだが……。
ふいに、ポコモコ≠ヘ、激しく尾を動かした。|その《ヽヽ》あるかなしかの自意識が、奇妙な違和感を捉えたのだ。不快な、ほとんど恐怖にも似た違和感。──遠い過去の、闇に沈んだ記憶の淵から、|あの《ヽヽ》「ポコモコ・ステップ・バイ・ステップ」という声が聞こえてきたような気がした。ポコモコ≠ヘ吻端《ふんたん》の外鼻孔を開き、サーベルのような牙が並んだその口を、ぐわっと開いた。見えない敵に対して備えようとしたのだ。
が、──無駄だった。敵は、彼自身のなかに在ったのだ。
次の瞬間ポコモコ≠フ体は、大音響とともに|爆発していた《ヽヽヽヽヽヽ》。
──機雷が爆発するのに似ていた。
闇を白く裂いた水柱が、瀑布のように地に降りかかってくる。水は滾《たぎ》り、河の両岸にどっと押し寄せた。哨戒ボートを転覆させ、二重柵を地から引き抜く勢いだ。
高圧電線が切れ、蒼い火花を発しながら、蛇のようにうねった。弾《はじ》き飛ばされたジープが、つづけざまに紅蓮《ぐれん》の炎を吐いた。構内に仕掛けられた赤外線警報装置が、その炎に一斉に反応する。
ワーオン、ワーオン、ワーオン……。
再び、アグニは全身を震《ふる》わせながら、咆哮を始めた。狂ったようなドーベルマンたちの鳴き声が、その騒ぎにさらに輪をかける。ジープの爆破音と、兵士たちの怒号……。
アグニの構内は、ほとんど戦場のような様相を呈した。理性の最後の一片までも打ち崩される、凄《すさ》まじい狂騒だ。
一人として、何が起こったのか正確に把握していないことが、混乱をいっそう収拾のつかないものにしていたようだ。なかには、爆撃を受けたと本気で信じた者さえいたのだ。機関銃を構え、地に伏せた兵士たちも少なくはなかった。
だが、数分後には、兵士たち、技術者たちの全員が、揃って消火活動に奔走することになった。
間違っても、原子炉建屋《リアクター・ビル》に引火するような事態を招いてはならないのだ。
必死に走り回る男たちの姿を、燃え上がる炎が影絵のように映し出していた。
工藤篤もまた、その騒ぎのなかを駆けていた。むろん、宇宙服は脱ぎ棄てている。あの下着の上にズボンを着けただけの、ごく身軽な服装だった。
走り回る兵士たちに、工藤はいいように翻弄《ほんろう》されていた。突きとばされ、押され、ときには地に弾《はじ》き倒されることさえあった──それほどに、工藤は呆然自失していたのである。アグニから爆弾を撤去するという、ただそれだけのために、工藤たちはこれまで多くの困難に耐え、あえて生命を落とすかもしれない挙に打って出さえしたのだ。その肝心の爆弾が、放射能探知装置《クローク・ダイル》に仕掛けられていなかった!
工藤が混乱し、深刻な精神失調に陥《おちい》るのも、しごく当然なことといえた。
──仙田の姿を見ることがなかったら、工藤が|その《ヽヽ》自失状態から立ち直ることはなかったろう。
ストロボをつづけざまに焚《た》いたような視界のなかに、仙田の姿を認めたときは、工藤はわが眼を疑う思いがした。仙田はもう死んだものだと、なかばあきらめていたのだから。
仙田は、ほとんど歩行もままならないような態《てい》に見えた。一人の兵士に首筋を掴まれ、地を引きずられるようにして、連行されていくのだ。兵士の意図は、どうやら仙田をすぐ近くに駐まっているジープに放り込むことにあるようだ。
一瞬のうちに、工藤は情況を把握していた。
仙田をジープの助手席に乗せ、兵士が反対側に回り込もうとしたとき、工藤は全力疾走で駆け出していた。ジープのドアをハードルの要領で飛び越えると、運転席に収まり、すかさずイグニション・キーを回す。エンジンは一発でかかった。
ジープを発進させるのと同時に、背後から怒号と、銃声が聞こえてきた。弾丸《たま》は、工藤の頭髪を掠《かす》め、風防グラスにぴしっと白い弾痕《だんこん》を穿《うが》った。
工藤は、右に左にハンドルを操り、門《ゲート》に向かう道にジープを乗り入れた。出し得る限りのスピードで、まっすぐ門《ゲート》に向かう。駐《と》められてあった自動車を、道から押し出すほどの乱暴な運転ぶりだ。ヘッド・ライトに、難を避けるために慌てて飛びのく兵士たちの姿が、次から次にと浮かび上がった。
構内の混乱が、工藤たちに幸いしたようだ。数分後には、ジープは門《ゲート》を抜けることができたのである。
その時になって初めて、工藤は仙田がしきりに話しかけてきていることに気がついた。
「爆弾はどうしました?」仙田は不明瞭な発音でそう尋《たず》ねているのだ。
「撤去することができましたか……」
「それが……」工藤は口ごもらざるを得なかった。
「妙なことになりましてね」
「妙なこと……?」
「ええ……」
工藤はそううなずき、うなずくのと同時に、仙田の顔がひどく腫《は》れあがっていることに気がついた。血と、|あざ《ヽヽ》で、顔がだんだらの紫色になっているのだ。尋ねるまでもなく、それが殴打によるものであることは明らかだった。
「いやァ、手ひどくやられました……」
工藤の視線に気がつき、仙田が苦《にが》い笑いを浮かべた。
「われわれが何をやろうとしているのか喋れと拷問されましてね。結局は、逃げ出すことができたんだが……あの騒ぎに巻き込まれて、また捕まっちゃって……ところで、あの騒ぎはどうしたんですか。確か、作戦にはあんな騒ぎのことは入っていなかったと思うんですが……」
「それが……」工藤は、またしても口ごもることになった。
「よくわからんのです」
「そうですか」仙田の声は、いっそう心細さを増したようだ。
「その……われわれはどこに向かっているんでしょうか」
「集結地点です」
工藤はきっぱりと断じた。
「今、五時……|あれ《ヽヽ》が来るのは五時半の約束ですからね。まだ、間に合うはずです」
「われわれは、帰れるんですね」
仙田の無残に腫《は》れあがった顔が、ぱっと明るくなった。
「日本に帰れるんですね」
その時、──背後に、カタカタ……というなにか断ち切るような音が聞こえてきた。反射的にバック・ミラーに眼をやった工藤は、思わず呻き声を上げていた。
ライトを巨獣の双眸《そうぼう》のように光らせ、砂塵《さじん》を巻き上げながら、ジープが追ってくるのだ。しかも、風防グラスの上に身を乗り出している兵士は、その手に機関銃を構えている。
カタカタカタ……機関銃は再び、執拗な炎の舌を吐き出した。
──佐文字は文字どおり、最後の|詰め《ヽヽ》に入っていた。すでに、時限ヒューズを点装した火薬は、砲身に詰め終わっている。持参した、折り畳み式の|突き棒《ラマー》で念には念を入れて押し込んだのだ。後は、砲弾を詰めれば、すべての準備が完了だった。
佐文字は、焦りに焦っていた。作戦は、大幅に時間を遅らせていた。蒸気圧力を常用に高めることに、思わぬ時間を食ったことが、今に至るまで影響しているのだ。その遅れをいくらかでも短縮させるためには、時限ヒューズを調整するしかなかった。
時限ヒューズの短縮は、大きな危険を孕《はら》んでいた。下手をすると、佐文字が砲身に跨《またが》っている間にも、爆発しかねない。佐文字が砲弾を詰めるのを焦るのも、しごく当然のことだったのだ。
体を砲身に縛りつけ、砲弾《たま》を収めるべく、その口を覗き込んでいる佐文字の姿は、踏みつけられた蛙《かえる》を連想させた。およそ、威厳からはほど遠い。だが、今の佐文字には、自分の姿に諧謔味《かいぎやくみ》を覚えている余裕はなかった。
砲弾は、優に両手にあり余る大きさだ。佐文字の荷物の、大部を占《し》めていた代物なのである。その重さたるや、大変なものだった。
それを、佐文字はごく不自然な姿勢で、砲口に収めようとしているのだ。整骨医の世話にならなければならないほど、背骨に負担を感じていた。上膊筋が引きつり、激務の連続に、やや脈が衰《おとろ》え始めていた。
あらかじめ、砲弾は二十八センチ砲に合わせて作られてあった。
佐文字は、ようやく砲弾から手を離すことができた。しばらく、耳を澄ませている。確かに、砲弾が着床する際の、鈍い音が聞こえてきたようだ。
佐文字は、慌てて腰からザイルを外しにかかった。沈みかけた船から逃げ出すネズミの狼狽ぶりだ。ほとんど、ザイルを引きちぎらんばかりの勢いだった。
砲身の上に危ういバランスを保ち、両足を揃えて立つと、その膝を屈伸させた。
佐文字の体は宙に弧を描き、テンダ車の石炭の上に落ちた。息が詰まるような衝撃──。が、つづく動きで、佐文字はテンダ車をよじ登り、地に跳び降りた。実際、疲労に甘んじて、身を憩《いこ》わせている場合ではなかったのである。
佐文字は走った。今にも砲身が裂け、地に叩きつけられるのではないかという恐怖に、背筋がちりちりと灼けていた。
ふいに、前方に黒い人影が見えた。ごくごく小さな人影だ。
「佐文字はん……」
その人影が、しわがれた声を上げた。
「あんさんも、ようご無事で……」
桂正太だった。
佐文字はものも言わずに、身を跳躍させた。桂の膝にタックルすると、そのまま二人で地にもつれ込む。
「なにしますのん!」
桂が仰天した声を張り上げた時、──闇に閃光が走った。一瞬、視界が陰影をなくし、草の一本にいたるまで、はっきりと光のなかに浮かび上がった。百の雷《いかずち》が同時に落ちたような轟音。佐文字は体の下で、地がゼラチンのように震《ふる》えるのを感じた。
佐文字は振り返った。
列車砲『レオポルド』は、砲口からモクモクと白煙を吐き、しかし泰然と身を持しているように見えた。今の砲撃で、いささかの損傷も被《こうむ》っていないようだ。
その瞬間、佐文字の体を貫いた快感は、形容すべき言葉がないほど大きなものだった。自身が一本の男根と化したかのような、いや、『レオポルド』が佐文字の男根であり、今しも偉大な射精を終えたような、他に比すべきもない快感だった。
佐文字はうっとりと眼を閉じていた。彼はついに、自分が何事かなし得る人間であることを、自身に証明することができたのだ。この偉大な射精を終えた今、佐文字にもう女遍歴の必要はなかった。
「わあ、綺麗や……」
桂が潰れた声で、精いっぱいの感嘆の声を張り上げた。
佐文字は眼を開け、上方の闇を透かし見た。
確かに、綺麗だった。はるか上空を、ちらちらと銀の粉が舞い、風に流されていくのが見えた。それは、花粉をも、雪をも連想させる、一種、幻想的な眺めだった。銀の粉は、あまねく空を覆わんばかりに、八方に広がり、漂っていくのだ。
実際には、その銀粉の正体は、夥《おびただ》しい数のアルミ片だった。佐文字は、特殊砲弾にいっぱいのアルミ片を詰め、空に射ち放ったのである。炸裂した砲弾から散ったアルミ片は、山岳の上昇気流に乗り、はるか上空まで舞い昇っていくはずだった。
ジェット戦闘機のレーダーを錯乱させることがその目的だった。中国・インドの国境紛争を回避させるためには、ミサイル基地を不能にさせるだけでは充分ではない。アグニからの通報を受け、インド空軍に緊急発進《スクランブル》がかけられた場合のことも、考慮に入れておく必要があったのである。
ランキーマの上空を覆うアルミ片は、ジェット戦闘機のパイロットたちを著しく混乱させるに違いない。もちろん、それがアルミ片によるレーダー妨害であることは、すぐさま察しをつけるだろう。そして、当然のことながら、中国スパイ機が領空に入ってきたと判断し、自領内で敵機を探し求めることになる。その結果、──彼らはむなしく、基地に帰還することになるはずだった。
──事実、事態はまさしく、工藤たちの思惑どおりの方向に向かったのである。
「|ここ《ヽヽ》が集結場所であることは間違いないですわな」
と、桂が心細げに言った。
「工藤さんたち、ちょっと遅いのとちゃいますか」
「大丈夫ですよ」佐文字がうっとりと笑みながら言った。
「絶対に、大丈夫ですよ……」
──大丈夫ではなかった。
後方からの追撃によって、工藤の運転するジープは、ほとんどスクラップ同然になっていたのである。車体《ボデイ》には無数の弾痕が穿たれ、フロント・ガラスには、ガラスの一片すら残されていなかった。まだ、走ることが可能なのが不思議なぐらいだ。
バック・ミラーに映るジープは、のべつオレンジ色の火箭《ひや》を吐いていた。機関銃の連射音が、工藤の|うなじ《ヽヽヽ》を逆立たせている。実際、背中に火をつけられたような騒ぎだ。
バック・ミラーが砕け、白く散った。
工藤の表情は、蒼白と化している。そうそう幸運がつづくはずはなかった。いずれは、工藤か、仙田の背中に、弾丸が音を立てて食い込むはずだった。
ふいに、後方からまっすぐに|こちら《ヽヽヽ》を捉《とら》えていたへッド・ライトが、さっと闇に外《そ》れた。振り返った工藤の眼に、藪林に|もろ《ヽヽ》に突っ込んでいくジープが映った。ジープは激しく傾き、機関銃を撃っていた兵士を、前方に放り出した。もちろん、もう追跡どころではなかったろう。
工藤は前方に視線を戻し、クスクスと笑い出した。やや、病的なものが感じられる笑いだ。危うく虎口《ここう》を脱したのだから、それも当然だったかもしれない。
仙田もまた笑い出し、やがて二人の笑い声は、闇に響きわたる哄笑にまで高まっていった。
──笑っているのは、必ずしも彼ら二人ばかりではなかった。荒野を見下ろす峨々《がが》たる岩山の、その中腹の岩棚では、小虎《シアオフー》もまたニヤニヤと笑っていたのだ。
小虎が、手に持った高性能ライフルで、追跡ジープのタイヤを射抜いたのである。優れた諜報員たる小虎には、朝飯前の仕事だったろう。そして、その朝飯前の仕事が、小虎の今回の仕事のすべてといっても過言ではなかった。
アグニから爆弾撤去を命じられた小虎《シアオフー》は、工藤たちに一切を賭けたのだ。サラリーマンを甘く見るな、という工藤の啖呵がいたく気に入ったからだ。そして、小虎はまんまとその賭けに勝つことになった。
まさしく、漁夫の利というべきだったろう。
「|謝謝《シエ・シエ》……」
小虎は、走り去る工藤たちのジープに向かって、おどけた挙手の礼をして見せた。
──すでに、荒野にうっすらと陽が差し始めていた。
──再び合流した時の、四人の喜びようは大変なものだった。肩を叩き、腕を組み、踊り狂うほどの騒ぎだ。仙田にいたっては、感きわまって、涙さえ浮かべていた。
仕事を終えた『レオポルド』が、そんな彼らを祝福するように、男たちの上に淡く長い影を投げかけていた。
荒野に、赤く朝陽が拡がっていく。小鳥たちが囀《さえず》り始め、草木が|その日《ヽヽヽ》最初の陽光に伸びをする。闇は今、この地から追い払われたのだ。
午前五時半。
男たちの視線が、揃って空に向けられた。
空に轟音を響かせて、大型セスナ機がこちらに向かって飛んでくる。風に乗るのを楽しむような、いかにも軽やかな飛行ぶりだ。
セスナを操縦しているのは、──亜紀商事現地採用社員の小見山《こみやま》文三《ぶんぞう》だった。戦時の、非戦闘員爆撃体験を恥じ、それ以後の生をただ死者を弔《とむら》うことで送ってきた小見山が、今、数十年ぶりで操縦桿を握っているのだ。
小見山の操縦ぶりは、工藤たち素人の眼から見ても、いかにも着実で、安定したものだった。セスナが着陸すべく、高度を下げたときも、ほとんど危惧《きぐ》の念を抱かせなかったほどだ。
──二十分後、セスナ機は工藤たち四人を乗せて、再び空に舞い上がった。
「なんだか、何かふっ切れたような気がしますよ……」
操縦桿を握りながら、小見山がひどくしみじみとした声で言った。
「私は、もう飛行機を操縦することなど一生あるまいと思っていた。ただ、異郷の地で朽ちるのを待つだけだろうと……それが、こうしてセスナを操縦させていただいている。私の人生もけっして無駄ではなかった……そんな気がしましてね。生きていてよかった、と……」
ふいに、小見山は口を閉ざした。バック・シートから、高らかな鼾《いびき》の音が聞こえてきたからだ。四人の男たちの、精根尽きはてた、しかし、いかにも満足そうな鼾の音が。
小見山は微笑を浮かべ、機首を転じた。
一路、ニューデリーへ……。
──ビスミルは小屋から出て、呑気そうな伸びをくりかえした。充分に寝足りた表情をしている。
今日は、山羊の乳を絞らなければならない。忙しい一日になりそうだった。
ビスミルは、はるか彼方の荒野に位置している原子力発電所アグニに視線を向けた。昨夜は、アグニはひどく騒がしかったようだ。あそこの連中は、人間は夜は眠るようにつくられているものだということを心得ていないらしい。
もっとも、|あそこ《ヽヽヽ》の連中が気違いじみているのは、今に始まったことではない。
──いつかの白人だってそうだ……。と、ビスミルは思った。なにか四角い鉄の箱を渡して、それを|クロコダイル《ヽヽヽヽヽヽ》に入れろだと……まあ、金をくれるというから、言うとおりにはしてやったが……あんなものをワニが喜ぶわけはねえ。肉片にくるみこんで、なんとか食べさせることはできたけど……ものを知らねえのにも、ほどがあるわさ……。
ビスミルは、自分の生半可な英語の知識が、| 鰐 《クロコダイル》と、放射能探知装置《クローク・ダイル》とを間違えさせたことに、今にいたるまで気がついていない。
ビスミル氏に、幸いあれ。彼の偉大なる間違いが、実に多くの人命を救うことになったのだから。
山羊が、メーとのどかな鳴き声を上げた。
エピローグ
──羽田空港の送迎デッキ。
今日もまた、多くの男女が人を送り迎えしている。柔らかい陽光があふれるデッキで、人は一様に幸せそうな微笑を浮かべていた。
その男、──ローズ≠除いては。
ローズ≠フ眼は、一種、病的な色を湛えていた。偏執病《パラノイア》患者に多く見られる表情だ。執念を|その《ヽヽ》底にからませて、ぎらついた光を帯びているのだ。
事実、ローズ≠フ思考は、疾《とつ》くに正常な働きをなさなくなっていた。憎悪に凝り固まり、ただ復讐だけが唯一の希望となっていた。むしろ、殺意だけの存在と形容すべきだったろう。
殺意の対象は、──むろん、工藤たち四人の日本人だった。
工藤たちは、プロたるローズ≠フ矜持を微塵に打ち砕いたばかりか、ただ一人のパートナーだったリリー≠も滅ぼしたのだ。アグニでの失態が、ローズ≠フフラワー・チルドレン≠ノおける地位を、致命的なほど悪くしたことはいうまでもない。要するに、ローズ≠ヘすべてを失ってしまったのだ。
ローズ≠ヘ、いったん帰国せよ、という本部からの命令を無視した。帰れば、幹部たちの査問委員会と、おそらくは懲罰《ちようばつ》が待ちうけているだけであろうことがわかっていたからだ。
懲罰は怖くないが、それによって、工藤たちへの復讐を果たせなくなることを怖れたのである。工藤たちを皆殺しにするためには、組織から裏切り者と目されることも、あえて辞さない気持ちだった。
さすがに、ローズ≠フ行動は早かった。バンコックの米軍基地から、輸送機に便乗することで、工藤たちの乗る便より、数時間早く日本に到着したのである。仕事を完璧に成し遂げるためには、待ち伏せが最も優れた方法であることを、ローズ≠ヘ経験からよく心得ていた。
ローズ≠フ両手は、手摺《てすり》を痛いほどに握りしめていた。憎悪を、その手に凝結させているのだ。もうしばらくで、工藤たちの乗るエア・インディアのジャンボ機が、羽田に到着するはずだった。そのときには、耐えに耐えていたローズ≠フ憎悪が爆発することになる。
復讐の瞬間を思うと、ローズ≠フ胸は歓喜に打ち震えるのだ。
ローズ≠ヘ、すでに破壊工作員としては、スクラップに等しかった。優秀な破壊工作員は、なべて精密な機械のように仕事を遂行する。感情に駆られて動くことはタブーなのだ。ましてや、個人的な復讐心に凝り固まるなど、もってのほかというべきだった。
ローズ≠ヘ優秀な破壊工作員|だった《ヽヽヽ》。かつてのローズ≠ネら、背後に近づいた人の気配に気がつかないはずはなかったが……。
はっとローズ≠ェ振り向こうとしたときには、その肋骨の間に、灼けるような痛みが走った。自分がナイフで刺されたことさえ意識している余裕はなかった。次の瞬間、ローズ≠フ体は手摺を越え、落下していたのである。
鈍い衝撃が、背骨を伝わった。大きく見開かれたローズ≠フ眼に、手摺に並ぶ人の顔が映った。顔は、いずれも驚いたような表情を浮かべていた。
頭に、奇妙に生温かいものを感じた。
──そうだ……不自然なほど鮮烈な意識のなかで、ローズ≠ヘ思った。いつか、こうして誰かのカメラを落としてやったことがあったっけな……。
今度は、俺が|あの《ヽヽ》カメラになったわけだ。
ローズ≠ヘクスクスと笑った。笑いながら、さらに眼を大きく見開き、|最後の情景を収め《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、そして|シャッターを閉じた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。
人々が打ち騒ぐなかを、ゆっくりと|その《ヽヽ》男は手摺から離れた。幸い、人々は男のしたことに気がついていないようだ。誰もが、単なる事故だと考えているのだ。
男は、ローズ≠ノカメラを壊された、ソビエト情報部員だった。男もまた執念深い性格の持ち主だったのだ。カメラを壊された屈辱が、男をして、執拗な探りを入れさせ、ローズ≠突きとめさせたのだ。以来、男は送迎デッキで、ローズ≠ェ姿を現わすのを待ちつづけていたのである。プロの名誉と、誇りにかけて……。
男が送迎デッキから立ち去るのと同時に、工藤たちの乗るエア・インディアのジャンボ機が、滑走路に着陸した。
──部屋には、陽光があふれていた。
いつもながらの、簡素で、もっぱら機能を主にして考えられた漆原専務の部屋だ。
漆原の視線は、デスクの上に置かれた四通の封筒に注がれていた。奇妙に、疲れた表情をしていた。封筒には、いずれも「辞表」の二字が記されてあった。
「そうか……」
漆原は呟くように言い、デスクの前に並ぶ四人の男たちに視線を戻した。
「やはり、辞《や》めるのか」
「別に、相談をして、辞めると決めたわけじゃないんですが、ね」
と、工藤は苦笑を浮かべた。
「どういうわけか、気持ちが揃ってしまいまして……」
「辞めて、どうするつもりだ?」
「それは、皆バラバラです」
工藤は促《うなが》すように、他の三人に視線を向けた。
「ぼく、落語家を志すつもりですわ」桂が嬉しそうに言った。
「修行を始めるのには、|とう《ヽヽ》が立ちすぎているのは承知してます。せやけど、虚仮《こけ》の一念や。石にかじりついたつもりでやれば、前座ぐらいはつとまりまっしゃろ……」
「私は、この際、同時通訳の試験を受けてみるつもりです」
桂の後をついで、仙田が穏やかな声で言った。
「きみが、同時通訳……?」漆原は意外そうに、片眉を上げた。
「ええ……」と、仙田がうなずいた。
「実は、語学力に自信が持てるようになったものですから……」
「ぼくは、結婚するつもりです」
最後に、佐文字が言った。
「その相手の女性が故郷に帰ってしまったとかで……行方がよくわからないものですから、まずは彼女の居所を突きとめて……まあ、彼女の故郷で、なにか小さな商売でも始めることになるでしょうね」
「………」
漆原はしばらく、気圧《けお》されたように沈黙した。亜紀商事きっての実力者である漆原をも沈黙させるほど、男たちの態度は自信に溢れていたのだ。
「きみはどうするのだ?」やがて、漆原が工藤に訊《き》いた。
「まだ、決めていません」工藤は静かに答えた。
「とりあえずは、須永の供養をして……その後で、ゆっくり考えてみようと思っているんですが……」
「須永の供養を……」
ここに至って、初めて漆原の鉄の自制心が、その箍《たが》を緩《ゆる》めたようだ。漆原の表情は、醜く歪んでいた。
「それでは、失礼します」
四人の男たちは揃って一礼し、漆原の部屋を出ていった。
漆原は、しばらくデスクの一点を見つめていた。その顔に、確実に老いの翳《かげ》りが忍び寄りつつあった。なにかしら、大切なものを失ったことを覚った老人の顔だった。
「やはり、負けることになったか……」
漆原はボソリとそう呟くと、席を立ち、ドアを開けた。
控え室には、梓靖子が硬い表情で、テーブルについていた。そのプレートに記された『秘書』の二文字が、なにかひどく空々《そらぞら》しいものに見えた。
「コーヒーですか」
漆原の姿に気がつき、靖子は慌てたような声で訊いてきた。
「何をしているんだ?」漆原は渋い笑いを浮かべた。
「早く追っかけないと、あの男はどこかへ行ってしまうぞ」
「………」
靖子の表情がぱっと輝いた。その眼に、漆原に対する感謝の念があふれていた。
靖子は漆原に頭を下げると、ほとんど駆けるようにして、部屋を飛び出していった。
今度こそ本当に、漆原だけが、彼一人だけが部屋に残された。だが、彼はおよそ孤独などという感情からは縁遠い男だ。そうでなければ、亜紀商事をその双肩に担《にな》って、生きてなどいけないのだから。
──靖子は、亜紀商事の玄関ホールで、四人の男たちに追いついた。息せき切って追っかけてきた靖子を見ても、仙田、桂、佐文字の三人は何も言おうとしなかった。ただ、一様に微笑を浮かべただけだ。
「いいのか……」
工藤は前方を向いたまま、仏頂面《ぶつちようづら》で訊いた。
「ぼくは失業者だぞ」
「いいわよ」
靖子は拗《す》ねるように答えた。
「私だって、失業者だもん……」
四人の男と一人の女は、揃って、外へと足を踏み出した。
まばゆい陽光のなかへ……。
〈了〉
物語の都合で、作中のアグニは、実際の原子力発電所とは、かなり建築構造を変えていることをお断わりしておきます。
なお作中の落語は、講談社文庫、興津要氏編『古典落語』から引用させていただきました。
著者
単行本 昭和五十二年九月祥伝社から書下ろし作品として刊行
底 本 文春文庫 昭和五十八年六月二十五日刊