山田正紀
崑崙《コンロン》遊撃隊
目 次
序  章
第 一 章 帰ってきた男
第 二 章 逃亡地帯《ダツグアウト》
第 三 章 北平《ペイピン》輸送保護協会
第 四 章 長城の彼方《かなた》
第 五 章 百霊廟《ペリミヤオ》
第 六 章 ゴビ砂漠
第 七 章 裏切り
第 八 章 勇者の条件
第 九 章 空桑《くうそう》の琴瑟《きんしつ》
第 十 章 相柳の巫女《みこ》
第十一章 幻の氏族
第十二章 鎮魂曲《レクイエム》
第十三章 悪魔祓《あくまばらい》
第十四章 三対三
第十五章 総力戦
終  章
序 章
獣《けもの》を追跡するのにふさわしい土地ではなかった。百万年の歴史が、その台地を侵食しつくし、赤土と砂岩と礫岩《れきがん》とが、まるで地球の背骨のように蜒々《えんえん》と続いているのだ。
藤村脇《ふじむらわき》は馬からおりて、手綱をひきながらゆっくりと台地を進んでいた。
馬はアラブ種で、頑強《がんきよう》なことで知られるシヤギャー系の血統をひいていた。荒野を旅するのに、適応力の優れたアラブ種ほど格好な馬はないが、しかし旅はあまりに永く、ゴビの夏はあまりに過酷でありすぎた。馬はその葦色《あしげ》の肌《はだ》に白く塩をふいていた。
藤村はいまさらながらに、自分がどれほどこの牝馬《ひんば》を痛めつけているかを思い知らされるような気がした。なるほど、確かにキャラバンの間では、夏季のゴビを通過するのには、馬を用いるのが習《ならわし》になっている。だがそれは、しなびた背瘤《せこぶ》を再び肥えさせるのに、夏の間ラクダを牧草地に放してやる必要があるため、やむなく馬を用いるというだけのことで、ゴビを旅するのにはラクダこそふさわしいという事実に、夏冬なんのちがいもないのだった。
藤村は巨大な岩塊のかげで足をとめ、革袋の水を馬に飲ませてやった。馬はほとんど水を飲む元気さえないかのように見えた。革袋からこぼれた水は、馬の首をチョロチョロとつたい、藤村のズボンを黒くぬらした。
とんだとうしろうだ。……岩かげに腰をおろしながら、藤村は苦くそう自嘲《じちよう》した。上海《シヤンハイ》に居をかまえ、軍隊相手に永く馬喰《ばくろう》商売をしてきた藤村脇が、まるで生まれて初めて騎乗した子供のように、炎天下のゴビで馬を走らせるという愚を犯してしまったのだ。
馬はいずれ死ぬことになるだろう。
そして、ゴビで馬をなくした藤村もまた、間違いなく死ぬことになる。飢えて、疲れきって、誰《だれ》にもみとられることなく死んでいかねばならないのだ。
藤村のいま坐《すわ》っている台地は、ゴビ砂漠《さばく》のただなかに屏風《びようぶ》のようにそそりたっている岩山へと連なっている。さほど高くも大きくもない岩山だが、荒野をながく渡ってきた人間は、この岩山に日かげを求めて、つい馬の腹に蹴《け》りをいれてしまう。そして――馬の脚を折ってしまうことになるのだ。
藤村の馬はなおさらにこの岩山を進むのには危険だといえた。モンゴル高原へと続く北直隷《パーチーリー》平野を、北京《ペキン》から南口嶺《なんこうれい》、さらには張家口嶺《ちようかこうれい》へと進むのは、それだけでかなりの強行軍である。かてて加えて、張家口からゴビ砂漠へ出て、十日以上も熱砂のうえをさまよい歩いているのだ。馬の体力は限界にまで達しているはずだった。
馬が死ぬのはやむをえない。いまの藤村にはどうすることもできない。――が、せめて安らかな死を迎えさせてやりたかった。馬が脚を折るような事態を招くのは、ながく馬喰商売をいとなんできた藤村にとって、悪魔の所業にも等しかったからだ。
藤村はその岩かげに座して、体力のつきた馬が死んでいくのを見守ってやろう、と考えていた。それが藤村にできるせめてもの供養《くよう》だった。
馬が死ねば、次には藤村自身が死ぬことになるはずだが、しかし彼は自分が滅んでいくことにはなんの感慨も抱いていなかった。もともとが藤村にとって、これは死出の旅だったのだ。
死出の旅か。……汚れきった肩窄児《チエンチアル》(チョッキ)から乾肉をとりだしながら、藤村はその感傷的な言葉に苦笑いを浮かべた。人生にすっかり絶望して、死出の旅へと出たはずの俺が、どうしてあの獣を目撃したとき、前後を忘れて、あれほどに熱狂してしまったのか。自殺をも辞さないほど人生に達観していたというのが本当なら、たかだか巨大な猫を目撃したぐらいのことで、すべてを忘れてその後を追跡しようという気になどなれるはずがないではないか。三日もの間、馬を砂漠に走らせて、あげくのはてにその馬を乗りつぶしてしまうなどという莫迦《ばか》な真似をするはずがないではないか……
俺は本当に死ぬ気で旅に出たのか。藤村はふと自分の気持ちに疑問を抱いた。実際には、ゴビ砂漠の彼方《かなた》にあるという崑崙《コンロン》、あの伝説の神の地へと行きたかったのではないだろうか。
そうかもしれなかった。いや、そうに違いなかった。だからこそ、崑崙へと導いてくれるかもしれないあの獣の後を、藤村はかくも執拗《しつよう》に跟《つ》けたのではなかったか。
藤村の脳裡に、崑崙から来たのだ、といつも言っていたある女の貌《かお》が浮かんできそうになった。女の名は、李夢蘭《りむらん》といった。
藤村は地の砂を思いきり握りしめていた。思いだしてはならない貌であり、名前であった。――かつてその女の幻は、藤村のうちに熱い刺《とげ》のようにつきささり、のべつ彼の身肉をさいなんでいた。だが、ありとあらゆる人間のいとなみを矮小化《わいしようか》し、無機的なものへと変えてしまう砂漠をわたったいま、なにも昔の苦しみをことさらによびかえす必要もなかった。
――忘れるのだ、と藤村は自身にいいきかせた。いや、忘れようと努めるまでもなく、その女の記憶も、藤村の肉体とともにこの地で朽ちるはずだった……
藤村は乾肉を齧《かじ》りながら、稜線《りようせん》だけを赤く残して、しだいに黒さをましていく岩山を見つめていた。いまゴビ砂漠には夜が訪れようとしているのだ。
実際には、たとえ藤村に死を受けいれる覚悟があっても、死のほうで藤村を避けていきそうだった。藤村はまだ三十を越えたばかりの若さで、その細いが、しかし贅肉《ぜいにく》のない強靭《きようじん》な体には、ながい過酷な旅を終えたいま、なおも活力が充分にみなぎっていた。頭を青色の木綿で包み、小《シヤオ》掛児《コアル》(中国風下着)のうえに肩窄児《チエンチアル》をはおり、腰にはブローニングをさげているその姿には、ある種の精悍《せいかん》ささえあった。むろん藤村のあずかり知らぬことだが、彼には未だ死と狎《な》れあうだけの資格がなかった。運命はもうしばらく藤村を必要としていたのである……
鋭い馬のいななきが、なかばまどろみかけていた藤村の意識をふいにつんざいた。とびおきた藤村は、その手をほとんど反射的に腰のブローニングにあてていた。
「う……」
藤村は小さく口のなかで声をあげていた。
藤村の頭上にせりだしている岩鼻に、あの獣が姿を現わしたのだ。おりしも地平線に沈んでいこうとする太陽の、その最後の光箭《こうせん》をうけて、獣は全身を燃えあがらせているように見えた。
藤村はブローニングの銃把《じゆうは》から手を離した。彼にその獣をしとめようという気はまったくなかった。この三日間、あるいは追いつめ、あるいは見失いながら、砂漠での追跡行を続けていたときも、その獣を獲物として考えたことは一度としてなかったようだ。
獣は四肢を弛緩《しかん》させて、だらしなく寝そべっているように見えたが、しかしその眸《め》は明らかに緊張していた。その金色の眸は、これまで自分を追い続け、いま挫折《ざせつ》を迎えようとしている人間に対して、新たな挑戦をなげかけているようだった。
馬が荒々しく息を吐き、繰り返し地を蹴った。
「最後までやれというわけか」藤村は微笑を浮かべた。
「いまさら俺の都合でレースからぬけるわけにはいかんというのか」
本来ならひどく神経質で、ほとんど臆病《おくびよう》とさえいえるほどの馬が、その獣に対してのみこれほどの闘志を抱くのは、やはり普通ではなかった。それとも三日間の追跡行が、この馬のなかに野性の血を蘇《よみがえ》らせたのか。
力を消耗《しようもう》しつくして、なかば死にかけているはずの馬が、いまだ走ることを欲しているというのなら、彼女の望みをかなえてやるのは、藤村にとってひとつの義務でさえあるだろう。それで脚を折るようなことになっても、むしろ彼女は本望でさえあるかもしれない。
興奮してしきりに馬銜《はみ》をかんでいる馬に、藤村は再びまたがった。
獣も岩鼻のうえにスックと身を起こした。そして、なにかしら身内からわきたってくる衝動に耐えかねたかのように、空にむかって咆哮《ほうこう》を繰り返した。
古代、彼の一族がその声で他を圧したのと同じく、いや、それ以上に威厳に満ち、そして誇らしげな剣歯虎《サーベル・タイガー》の咆哮だった。
第一章 帰ってきた男
その館《やかた》は表と奥に大きな部屋がふた間あった。奥のほうの部屋は、正房《チヨンファン》と耳房《アルフアン》、三つにくぎられていて、それぞれ小さな窓の下に木製のベッドが据《す》えられている。ベッドに寝そべっている老人たちがしきりにくゆらしているのはアヘンだった。
表のほうの部屋には一切しきりがなく、中央に巨大なテーブルが置かれ、そのまわりに大勢の男女がむらがっている。裏のアヘン窟《くつ》を支配しているのが、ほとんど死に等しい静謐《せいひつ》であるのと対照的に、こちらの部屋には活気が、それもギラギラした現世の欲望に裏うちされた活気がみなぎっていた。
賭博場《とばくじよう》なのである。
いま中央のテーブルで行なわれているのは、六、七年まえから上海にはやりだした詩謎《シーミー》という賭博だった。親元《クルーピエ》が一字をかくした旧詩をだし、客はその一字を幾つかの字のなかから当てればいいのだ。ゲームには単式と複式の区別があり、単式で当てれば三倍、複式でも賭《か》け金が二倍になって、客のもとにかえってくる。
丁半賭博なら、親元と子との割は一対一になるが、この詩謎は一対三、ときには一対五の割になることさえある。常識的に考えれば、これほど客に不利な賭博もないはずなのだが、なぜか『大世界《ダスカ》』を中心に、軒並みそれ専門の店が並ぶほど、詩謎は上海人《ソンヘエニン》の人気を集めているのだった。
この『エデン』も、裏にはアヘン窟、階上には妓女《ぎじよ》と一夜を楽しむための小部屋が用意されてはいるが、実はそうした詩謎専門の賭博場のひとつだった。
「もう賭ける方はいらっしゃいませんか」
親元をつとめている男はそう言うと、確かめるように、テーブルのまわりにつめかけている二流|芸者《ヤオアル》や不良《ビヤー》たちの顔を見まわした。
「俺が賭けるよ……」
客たちの背後からそう声がかかって、テーブルのうえに小銭がはねた。
親元は露骨に厭《いや》な表情《かお》をした。賭け金があまりに少なすぎるのである。実際、テーブルに積みあげられている銀貨や紙幣に混じって、最後の客が投げたその十銭白銅は、ほとんどゴミにちかいものに見えた。
「厭な表情《かお》をするなよ」客をかきわけるようにして、その男はテーブルの縁まで出てきた。
「それだって、立派な金だぜ」
その男――というより、少年と呼んだほうが正確なようだった。十六か、十七、まだ頬のあたりに産毛がめだつような少年だった。安価な上衣と|※子《ズボン》という服装だったが、しかしその少年の美貌《びぼう》は周囲にちょっとした動揺をひぎおこすに充分だった。双眸が異常なほど澄んでいて、そして冷たかった。「天竜《テイエンルン》」と誰かのつぶやく声が聞こえた。どうやら、それが少年の名らしかった。
「よかったら、幾らか貸してあげてもいいわよ」
少年の脇に立っている、深くスリットの入ったチャイナ・ドレスの女が熱っぽい声で囁《ささや》いた。少年はみごとなほどあっさりと女の言葉を無視して、自分の賭ける字を親元に告げた。
が、――親元《クルーピエ》が声高に叫んだ字は、少年の賭けたそれとはちがっていた。
少年はしばらく親元を睨みつけていたが、やがてあきらめたかのようにテーブルから足早に離れていった。
『エデン』の闇《やみ》に暗く閉ざされた前庭には、黄楊《つげ》と檀《まゆみ》――それに石膏《せつこう》豆腐花のにおいが漂っていた。大豆をすりつぶしてしぼった豆乳《とうにゆう》に石膏をいれてなかばかためたもので、好きな人間は、大道に立ったままこれを五杯は食べる。それだけ食べたところで、勘定は百文そこそこなのだが、いまの少年には一杯の石膏豆腐花をあがなう金さえないようだった。
『エデン』を出た少年は、しばらく戸口に立ちつくして、門の外から漂ってくるらしい石膏豆腐花のにおいをかいでいた。唐辛子《とうがらし》油と干しえび、そして青ねぎのにおい……
「腹が減っているんじゃないかね」ふいに少年に声がかかった。「よかったら、わしと飯でもつきあわんかね」
対襟《トイチン》の馬褂《マーコウ》を着た、あぶらぎった中年男だった。その期待と欲望に醜く充血した顔を見れば、男が少年になにを求めているかは明白だった。
少年はそっぽを向き、口のなかで小さくつぶやいた。
「女よりは男相手のほうがまだましだというものだ……」
そして、男に向き直り、コックリとうなずいた。
「承知しました」
男は相好を崩した。もみ手をせんばかりにして近づいてきて、少年の腰に腕をまわしてこようとする。そのとき――
「飯なら俺がおごってやるよ」
ふたりの前に立ちふさがるようにして、一人の男が門のかげから現われたのだ。
「――藤村さん……」少年はあっけにとられたようだった。
「しばらくだな。天竜《テイエンルン》」藤村が言った。「話があるんだが、少しつきあってくれないか」
「いいですよ」
少年はニヤリと笑って、事情の急転についていけずに呆然《ぼうぜん》としている中年男のほうを振り返った。そして、その優美な肢体《したい》からは想像もつかないほどのすばやさで、中年男の腹に拳をたたきこんだ。うっ、と呻《うめ》くと、中年男は膝を折った。
「男色野郎……」
中年男を見おろす少年の眸《め》には憎悪がたぎっていた。相手が苦痛に身をよじっているのにもかまわず、その脇腹を靴で蹴りつける。まったく無抵抗な中年男を蹴り続けるその行為は、いかにも仮借《かしやく》ない少年の性格をよく物語っていた。
「いい加減にしないか」藤村が苦々しげに言った。
「時間がないんだ」
「もう気は済みましたよ」
少年は再びニヤリと笑った。ほれぼれとするような美しい笑顔だった。
この年、昭和八年(一九三三)の上海は春がながく、穏やかな日が続いていた。が、上海の春を楽しむことのできたのは、フランス租界《そかい》、共同租界の外国人たちだけで、上海人《ソンヘエニン》の多くは外国の重圧と搾取のなかで貧困にあえいでいた。――そして、上海人の外国人に対する当然すぎるほどの憎悪は、上海事変の敵役、同じ色の肌を持つ日本人に集中している観があった。
それを考えると、藤村は天竜の冷酷さを責める気が失せてしまう。天竜のような異常な孤児を生みだしたのは、藤村を含めて、異邦の地で利をえようとしている外国人すべてに他ならないからだ。
いま藤村は、日本租界に近い崑山《ピアス・》花園《ガーデン》に面した飯店で、天竜に食事を饗《きよう》していた。天竜は四川《しせん》風の辛く脂っこい食事を、息もつかずに食べまくり、最後の湯《タン》が出るころになって、ようやく藤村と話をかわすだけのゆとりが出てきたようだった。
「いつ上海に帰ってきたのですか」と、天竜は日本語で訊《き》いてきた。
「二、三日まえだ」
藤村は食事はとらずに、老酒《ラオチユ》だけを飲んでいる。
「いろんな噂《うわさ》を聞きましたよ」
音をたてて湯をすすりながら、天竜はわざとらしく首を振って見せた。その美貌にも、年齢にもそぐわない、ひどく狡猾《こうかつ》な口調だった。
「どんな噂だ?」藤村の口調は変わらない。
「だからいろんな噂です。……たとえば、藤村さんが上海から姿を消したのは、『昇日会』の金を横領したからだ、とか……」
「昇日会」という言葉を口にするとき、天竜はわずかに唇を歪《ゆが》ませた。「昇日会」とは右翼系の、いわゆるシナ浪人たちの集団で、上海に本部を置いている。彼らは、日本陸軍若手将校の同人会である一夕会《いつせきかい》と密接な関係を持つと噂され、中国大陸から利を吸収している日本財閥の資本をバックにして、上海で隠然たる勢力を誇っていた。
「それから?」藤村は天竜を促した。
「それから――」天竜はどことなく楽しげに言葉を続けた。「藤村さんが中国娘を殺したとか……なんでもその中国娘は、藤村さんの親友の愛人だった女で、その親友は藤村さんを殺そうとしているとか……」
「…………」
藤村は黙々と老酒を口に運んでいた。いま天竜の口から語られる自分の姿は、醜悪で、ハレンチで、なにか非現実的でさえあった。――ほんの末端とはいえ、上海最大のギャング組織|青幇《チンパン》に関係しているだけあって、天竜のいわゆる噂はかなり正確だった。いや、まったく正確だったと言ってもいい。事態がそうなるまでに、どれだけの怒りが、悲しみが、そして策謀が費やされたかは、しょせん第三者には説明しようのないことだった。
湯の最後の一滴まで飲みほすと、天竜は満足げに箸《はし》を置いた。そのかすかに上気した美しい貌《かお》には、いまふてぶてしい脅迫者の笑みが浮かんでいた。
「だから、藤村さんは上海にいられなくなったのだ、と……」天竜はかさにかかって言った。
「『昇日会』と、親友だった男《ひと》の両方から命を狙《ねら》われて、それで上海から逃げだした、とか……」
「…………」
藤村はやはり黙していた。深い徒労感に全身が痺《しび》れるようだった。――藤村は過去に幾度も天竜の面倒をみ、今もその空腹を救けたばかりではないか。その藤村にさえ、弱みを握ったと確信すると、ためらうことなく牙《きば》をむいてくる天竜のこの酷薄さはどうだろう。そして、彼の口から語られる自分の姿の、この醜さはどうだろう……
「俺を脅迫するつもりか」
顔をあげると、藤村は静かに言った。その口調は静かすぎるほどに静かだったが、しかしそこにはたぎるような怒りが含まれていた。
天竜の唇がわずかに白くなった。視線をはねのけようとするかのように、しばらく藤村を睨《にら》みかえそうとしていたが、やがて力なく眼をそらした。
――たいした男だ、と藤村は自嘲《じちよう》した。ほんの子供を相手に、本気で憤った自分に対する嫌悪感《けんおかん》で、藤村の口には苦いものがあふれていた。
できるだけ早く天竜《テイエンルン》と別れるべきだった。さもないと、自制を失って天竜と殴りあうようなはめにならないとも限らない。――藤村はさりげなく店内を見まわした。料理本位で、汚なく、狭いこの店は、よほどの通《つう》しか訪れようとせず、今夜もやはり客の数は少ない。壁際のテーブルで、インド人らしい二人連れが黙々と食事をとっているだけだ。その二人も、藤村たちにはなんの関心も抱いていないようだった。
「ここにアメリカン・ドラーで二千ドルほどある」藤村は背広の内ポケットから厚い封筒を取りだし、テーブルのうえに置いた。「これで車を一台用意してもらいたい」
「車を?」
天竜は藤村を見つめた。その眸《め》にようやく少年らしい輝きが浮かんでいた。天竜は自動車を愛している。その愛情と、機械に対する天性の勘のよさとが、天竜を第一級の自動車整備士にしていた。その点が、馬をなにより愛する自分と共通しているような気がして、藤村はこれまで何かとこの少年の面倒をみてきたのだった。
「そうだ。車だ」藤村はうなずいた。「ただし普通の車ではない。ジープだ。できればキャタピラのついているようなのが欲しい」
「……無限軌道車《キヤタピラ・カー》ですか。そんな車、軍隊からでも盗まないかぎり、みつかりっこないですよ」
「みつからなければ、ジープでも改造して、きみがつくるんだな。車の代金と、改造に要した費用を除いた全額が、きみの儲《もう》けというわけだ……」
「それはなんとかやってみますが……」天竜は口ごもった。「無限軌道車なんか何に使うのですか」
藤村はそれには答えようとせず、さらに背広の内ポケットから、小さな金属製の筒を取りだした。
「それからもうひとつ、このフィルムを現像してくれる人間を誰か探してくれないか。できるだけ口のかたい人間を、な」
「…………」
天竜はなかば放心したような表情でフィルムを受けとった。思いはすでに、自分がこれからつくらなければならない無限軌道車で、いっぱいに占められているようだった。
藤村は連絡先を告げて、テーブルを立った。そして、やはりこうつけ加えずにはいられなかった。俺を裏切ろうなどと間違っても考えるな、と。
「藤村さんを裏切るなんてとんでもない」天竜は無邪気とさえ呼べるような声で言った。「ぼくを信用してくださいよ」
天竜が無邪気であるはずがなかった。彼のような少年を信用できるはずがなかった。
北四川路《きたしせんろ》は上海でも賑《にぎ》やかな通りである。その真ん中を市電が走り、自動車、馬車、黄包車《ワンパオツオ》が路《みち》いっぱいに、たぎるようになって走っている。――たとえそれが早朝であっても、北四川路が賑やかな通りであることにはなんの違いもない。
それが人の通るところでさえあれば、十字路のいたるところにちょっとしたマーケットが出現するのである。
|老〓子路《ローポツル》で電車をおりた藤村は、外白渡橋《ガーデン・ブリツジ》にちかい益寿里《えきじゆり》の宿に帰るまえに、朝食をすませておこうと考えた。
いつものことだが、早朝マーケットには弾むような活気がみなぎっていた。藤村は握り飯売りに近づいていって、油条《ユーテイアオ》を芯《しん》にした握り飯を二個注文した。油条は小麦を細長くこねて、油であげたもので、熱い飯に実によくあう。この握り飯を食べるのにも、中国人は湯《タン》を忘れない。銅銭一枚をさらにふんぱつすれば、はさみで細かく切った油揚げを二枚、碗《わん》にもって、汁と薬味を加えたスープをつくってくれる。藤村はそれこそ馬のように朝食をむさぼりながら、油揚げの荷台に置かれてあるどんぶりのなかから、さらに豚の皮をいくつかつまんだ。
――俺の味覚は完全に中国に同化したようだな。湯をすすりながら、藤村は苦笑を浮かべた。しかし、いかに藤村がこの国を愛し、味の嗜好《しこう》が中国人そのままに変わったとしても、彼が日本人であることにはなんの違いもなかった。欧米列強とならび、いや、それ以上の傲慢《ごうまん》さで、この国を侵略しようとしている日本人のひとりであるという事実は変えようがないのである。
おそらく、藤村が中国を愛し、日本の軍事政策に批判的であるその分だけ、なおいっそう中国人には我慢できない日本人ではないのだろうか。藤村が上海語を熟知し、ときに自分の国籍を忘れているようなことがあっても、中国人は決して彼を同胞として認めないだろう。馬をなにより愛するがゆえに、十五年もまえに上海にわたってきて、モンゴル馬を日本軍にあっせんする馬喰商売を続け、日本軍人に対する嫌悪から、あるイギリス人の持ち馬を世話する馬丁に転業した。――この藤村の経歴が、彼をある種の無国籍者にと変えてしまったようだ。日本に帰る気にはまったくなれず、かといって中国人にとってはひとりの異邦人にすぎない無国籍者に。
――だが俺は、李夢蘭《りむらん》からあの言葉を聞くまでは、自分をほとんど中国人のひとりであると自惚《うぬぼ》れていたはずだ。藤村の双眸はいま苦渋に暗く濁っていた。李夢蘭はこう言ったのだ――あなたもしょせん日本人よ。私たち同胞の生き血をすする東洋鬼《トンヤンキー》なのよ……
自分を見つめている握り飯屋の、けげんそうな視線に気がついて、慌《あわ》てて藤村は残った飯をたいらげ始めた。そして、こう思った。いずれ日本人は、この中国から手痛いしっぺがえしをうけることになるだろう。いずれ日本人は、中国はやはり「眠れる獅子《しし》」であったことを思い知らされるに違いない……
「昇日会」から命を狙われているにしては、藤村はあまりにうかつだったと言わねばならない。そのとき、藤村がそれほどまでに自身の想念に深く沈みきってさえいなければ、遠くから彼をうかがっている一対の視線に気がついたはずなのだが……
食事を終えた藤村は、ゆっくりと益寿里の宿へと戻っていく。藤村を遠くから見つめていた視線の主は、益寿里へと先回りするために、細い路地へと入っていった。
藤村の宿は、おそらくこの大都会上海においても、最低の部類に属するだろう。建物の正面にはじゃがいもの袋が山と積まれていて、階段の下にほんの申し訳程度につくられている広間には、馬桶《マートン》(おまる)が転がっているような宿なのだ。門の銅環にいたっては、鉄製と見誤《みまご》うばかりに錆《さ》びついている。
二階の個室を借りる余裕があるだけ、藤村はまだ幸せだと言えた。下階のふた間には、ベッドが七つも並び、年老いて働けなくなった苦力《クーリー》、アヘンで痩《や》せさらばえた妓女たちが、ただ最後の一文までつきて追いだされるのを待って、終日ベッドに横たわっているのだ。
――俺も彼らとさほど違いはないな。階段を登りながら、藤村はそう思った。天竜《テイエンルン》にわたした二千ドルが、ほとんど彼の最後の所持金だったのである。無限軌道車の手配が遅れれば、それこそ冗談ではなく、藤村は路頭に迷うことにもなりかねなかった。
藤村は部屋に入った。部屋に入ると同時に、自分のうかつさを悔むことになった。
一瞬、罠《わな》に陥った弱小動物の恐慌《きようこう》と、苦痛によるショックが藤村の身体を走り、次には背後から首を締められていることを覚っていた。そいつが誰であるにせよ、とにかく人間離れした力の持ち主であることに間違いなかった。藤村の耳のなかでは圧縮された空気がジンジンと鳴り始めていた。
藤村は両手を頭のうえに回し、なんとか襲撃者の頭を掴《つか》もうとした。だが藤村は敵の身長を推し誤っていた。これだけの力の持ち主なら、当然のこと大男だろうと考えたのだが、しかし意外にも襲撃者は藤村よりも小さいぐらいの男らしかった。藤村の手はむなしく宙を掴《つか》んだ。
藤村よりも小男で、しかもこれほどの手練《てだれ》の持ち主だとしたら、そいつは職業的殺人者と判断すべきだった。俺は死ぬ、と藤村は絶望的に覚った。なるほど、ながかった馬喰生活は、確かに藤村の反射神経をみがき、その筋肉をきたえはしたが、しかし素人《しろうと》はしょせん素人にすぎないのである。上海の暗黒街で、殺人を生業《なりわい》にしてきた男を相手に回しては、どうあがいても勝てるはずがなかった。
藤村は体を前に傾け、なんとか襲撃者の足を蹴ろうとした。死ぬのはまぬがれないにせよ、あきらめて死んでいくのは藤村の性にあわなかった。かなわぬまでも、最後まで抵抗しつづけて死にたかった。
自分の首を締めているのは今や一本の腕にすぎないことに、藤村はふいに気がついた。が、腕がふたつからひとつに減ったところで、そのほとんど非人間的なほど凶暴な力にはなんら変化がなかった。――藤村のなかばかすんだ眼を、襲撃者がもう一方の手にかざしている小さなのみの――その鋭い光が貫いた。
――そうか。藤村は不可解な微笑を浮かべた。かつてのみを使う殺し屋の名を聞いたことがある。のみで脊椎《せきつい》を切断して、相手を倒す殺し屋の名を聞いたことがある。紅幇《ホンパン》の殺し屋で、確か名前は……
柔道でいういわゆる締め落としの、陶酔的な失墜感が、藤村を襲った。意識を失うとき、藤村は自分が死ぬのだと信じて疑わなかった……
藤村は眼を醒《さ》ました。眼を醒まして、しばらく戸外から聞こえてくる物売りの声に耳をすましていた。固焼きパンの売り声らしかった。
なにもない、窓さえない部屋だった。崩れかけた壁と、アンペラも敷いていない|〓《カン》が、その部屋をいっそう暗く、みすぼらしいものに見せていた。ただひとつのランプは、黒く汚れて、ほとんど照明の役にはたっていなかった。
藤村の意識はしだいに明瞭《めいりよう》なものになっていった。首を締められたときの記憶が、焼かれるような屈辱感とともに、藤村の脳裡《のうり》に甦《よみがえ》ってきた。首を締められ、赤子のようにたわいなく気を失い、今はこうして囚《とらわれ》の身となっているのだ。――藤村は荒縄《あらなわ》で縛りあげられ、椅子《いす》に坐らされていた。
多少、首筋は痛むが、幸い怪我はしていないようだった。藤村はさっそく逃げる算段にとりかかった。荒縄の結び目に親指を入れることさえできれば、縄抜けはさほどむずかしいことではないはずだった。
が、結び目は固く徹底していて、しかも巧緻《こうち》をきわめていた。親指をさしいれるどころか、身もがきすればするほど、なおさら強く藤村の手首を締めつけてくるのだった。
藤村は舌をまいた。そして、ようやく自分が絶体絶命の窮地に立たされていることを、はっきりと思い知った。
荒縄との無益な葛藤《かつとう》が、藤村の息を荒くしていた。どうあがいても、縄目がゆるむことはないとはっきりした以上、さらにもがくのは愚の骨頂というべきだった。これからに備えて、力を温存しておくほうがはるかに利口であったろう。
――これから? 藤村は苦笑した。これからの何に備えて、力を温存しておくべきだというのか。こうして殺されることもなく、囚の身となったことが何を意味するのか、藤村には分りすぎるほどに分っていた。藤村は拷問《ごうもん》をうけることになるだろう。昇日会は裏切者である藤村を憎んではいるだろうが、しかしその死を望むよりさきに、横領された金を取り返したいとやっきになるはずだった。
藤村は自分自身に対してどんな幻想も抱いていなかった。いかなる不撓不屈《ふとうふくつ》の精神の持ち主でも、ツメをはがされただけで、大声で泣きわめくことになる。藤村もまた激しい苦痛に犬のような醜態《しゆうたい》をさらすことになるはずだった――
それもいいだろう。藤村は暗い微笑を浮かべた。俺《おれ》のような男には、犬の死を迎えることこそ相応《ふさわ》しいというべきかもしれない。
ドアが開いた。自然、藤村は部屋に入ってきた男と、睨《にら》みあうかたちになった。
痩《や》せた男だった。はれぼったい瞼《まぶた》に、頬のこけた、どこといって特徴の見られない中年男だった。黒い、いかにも上海人の三級官吏あたりが好んで着そうなくたびれた背広を、律義《りちぎ》にボタンをはめて着こんでいた。全体的に見ばえのしない男だったが、しかしそのよく発達したしなやかな右手だけが異彩を放っていた。藤村はその右手に見覚えがあった。
「どうしてのみを使わなかったんだ?」藤村は皮肉にきいた。
「今日の人殺しはもうお仕舞《しまい》というわけか」
男は動じなかった。まるで肉の面を被《かぶ》ってでもいるかのように、そこにはどんな表情も現われなかった。
男の後ろから、小さな老人が姿を現わした。背こそ低かったが、その鋭い眼光を見れば、彼があなどり難い相手であることはすぐに分った。その褐色《かつしよく》の中国服も、贅《ぜい》をこらした立派なものだった。その真っ白な髭《ひげ》から察するに、多分、七十を越しているだろうが、今でも現役のギャングとしてあっぱれ通用しそうだった。
最後に現われたのは、藤村の知っている男だった。昇日会の幹部で、真木という名の日本人だった。酔えば、日本の北支政策に関して大言壮語し、さらに酔えば、いかにして三人の妓女たちを同時に満足させたか、を誰かれかまわず話したがる男だった。そして、のべつ酔っぱらっているような男だった。
藤村はこの真木という男を嫌っていた。
真木はつかつかと、縛られている藤村に近づいてくると、
「この裏切者が!」
そう叫びざま、拳で藤村の頬を殴りつけた。その激痛と、灼熱感《しやくねつかん》にも似た怒りとで、藤村は前後を忘れて、真木の股間《こかん》を蹴りあげていた。
勢いが充分でなく、相手を悶絶《もんぜつ》さすにたるほどの蹴りではなかったが、しかし悲鳴をあげさせるには充分以上の効果があったようだ。
真木は股間を押さえて、しばらく床にうずくまっていた。そして、ようやく脂汗の浮かんだ顔を藤村に向けると、
「殺してやる……」
しわがれた声で呻《うめ》いた。
「それは困るな」老人がその猿のような体躯からは、想像もつかないほど野太い声で言った。完璧な日本語だった。
「商談がまとまるまえに、商品を壊されては困る」
「商談だと?」真木の貌《かお》は、怒りと、驚きとで醜《みにく》く鬱血《うつけつ》していた。「何を言いだすんだ。おれたちの依頼で、こいつを見つけだしたんじゃないのか」
「ところが、もうおひと方、買い手が現われましてな」老人は真木の反応を楽しんでいるようにさえ見えた。
「……藤村をそいつに渡すというのか」真木のほうは楽しむどころではないようだった。
「だから、そこはそれ商談でしてな」
「汚ない真似をするじゃないか。中国人はなにより仁義と面子《メンツ》を大切にするはずじゃなかったのか」
「そう……」老人は低く笑った。「相手が同国人の場合は、の」
「…………」
一瞬、真木は我を忘れて、老人に殴りかかるかのように見えた。実際、あの黒背広の殺し屋が、一歩まえに踏みだしていなければ、そうしていたかもしれなかった。危うく虎口《ここう》にとびこみかけたとでもいうように、真木は身ぶるいして、臆病《おくびよう》に後ずさった。
「まあ、ここは穏やかにいきまひょやないか」
戸口からのんびりした声が聞こえてきた。いつからそこにいるのか、戸口にひとりの男が立っていた。およそこの場に相応しくない、春風駘蕩《しゆんぷうたいとう》という形容がピッタリするような男だった。そのよく肉のついた顔に、埋没するようになって、細い眼が笑っていた。身体は大柄だが、しかしその下腹はめだって出ていて、用心すべき男には見えなかった。
「きさまがもうひとりの買い手か」真木はここを先途《せんど》と大声をはりあげた。藤村と、老人と、二度までも怒りをそらされて、ここにいたってようやく憤懣《ふんまん》をぶつけうる相手を見いだせたのだ。
「へえ、そうだす」が、男はいっこうに動じる様子を見せなかった。
「商品がひとつに、買い手はふたり……ここは気持ちよく競《せ》りでいきまひょやないか。ものがものだけに、どっちゃが高《たこ》う値をつけられるか、楽しみやおまへんか」
「…………」
蛙の面に小便というべきだった。自信の恫喝《どうかつ》がまったく通じないこの相手に、真木はいささか鼻白んだようだった。
藤村はことの意外な経過にただ茫然《ぼうぜん》としていた。関西弁を操る眼前の男には、まったく見憶えがなかった。見憶えはなかったが、しかしその男を見かけだけから判断するのは、ひどく危険なように思えた。その男の肥体は、美食と安逸がもたらした結果ではなく、ながく肉体労働に従事してきた者がもつ体型のようだった。相撲《すもう》とりを思いだすまでもなく、こうした体の持ち主は、いざというときには考えられないほどの力と敏捷《びんしよう》さとを発揮するはずだった。
「競りを始めますかな」老人が言った。
商品たる藤村の、意志が介入する余裕は、もうそこにはないようだった。
「二百円だそう」
真木が慌《あわ》てて言った。裏切者の藤村を買うには、法外な額に思えたのだろう。真木の頬はひきつっていた。確かに、二百円は大金というべきであった。この上海では、二百円も出せば、新品の黄包車《ワンパオツオ》が二台は買えるのだ。
「三百円……」眉ひとつ動かさずに、関西弁の男は言った。
「三百五十円だ」真木の声はほとんど悲鳴にちかかった。
「四百円……」
「…………」真木は沈黙した。この競りに自分が勝てる見込みはまったくないことに気がついたらしかった。真木がいくら値をふんぱつしようと、相手はそれをうわまわる額を平然と言ってのけるのだ。
「どうなさいますか?」老人が言った。
「四百円でこちらの方におとしてもいいですかな」
真木は老人の言葉には答えようとせず、視線をゆっくりと藤村に向けた。その眼が、頭をつぶされた毒蛇《どくじや》の憤怒《ふんぬ》で、赤く濁っていた。
「俺たちはあきらめんぞ」真木の声はしわがれていた。
「いつか必ずきさまを制裁してやる」
藤村は肩をすくめることで、それに答えた。実際、他にどう答えようがあったろう。
真木は他の人間には一顧《いつこ》だに与えずに、足早に部屋を出ていった。
黒服の殺し屋がゆっくりと藤村に近づいてくると、その目前でスッとのみを懐から取りだした。思わず藤村が首をすくめたときには、彼を縛っていた縄はプツリと切れていた。
「逃げだそうという気など間違っても起こさないほうがいいね」関西弁の男が言った。
「そのB・Wという男はなにしろ凄腕《すごうで》なんだから……」
藤村は殺し屋の名前には驚かなかった。首を締められたときから、その男が紅幇《ホンパン》の有名な殺し屋、毒後家蜘蛛《ブラツク・ウイドウ》であることは予想がついていた。藤村が驚いたのは、関西弁の男の口調から、ぬぐいさられたように関西弁のイントネーションが消えていることだった。
第二章 逃亡地帯《ダツグアウト》
上海での各国列強勢力地図は、揚子江《ようすこう》の支流である黄浦江《こうほこう》と、蘇州《そしゆう》河とが交叉《こうさ》するガーデン・ブリッジを境にして、色分けがなされていた。このガーデン・ブリッジを間において、日本|租界《そかい》と、米英独の三ヶ国からなる共同租界が蘇州河をはさんでいる。そして、欧米諸国のなかで、頑《がん》として単独管理を続けるフランス租界が、共同租界の南側に占位している。これら租界の存在が、上海を魔都とも呼ぶべき国際謀略の地にしたてあげているのだが、なかんずくフランス租界は、その独特な治外法権によって、ある種の犯罪地帯の観さえ呈していた。
フランス租界の自治は、傭兵《ようへい》部隊ともいうべき雇われ中国人によってのみ、とりしきられていた。そして、この自治警察は、フランス租界内の自然科学研究所などに、研究員や嘱託《しよくたく》と称して、各国から逃げこんでくる亡命者たちに対して、実に鷹揚《おうよう》にかまえていた。
多くの敵をもつ藤村脇もまた、この逃亡地帯《ダツグアウト》では、上海に帰ってきて以来、初めてといっていいぐらいに安穏とした日々《ひび》を送ることができたのである――
いま藤村は、ホテルの自分の部屋で、シャワーをあびている。湯気に白くくもった鏡に、藤村の逞《たくま》しい裸体と、その脇腹のそこだけが奇妙に生々しい感じの傷跡が写っていた。銃創《じゆうそう》とひとめで知れる、無残にひきつった傷跡だった。
藤村はシャワーをあびながら、その傷跡を刻んだかつての親友に、頭のなかで呼びかけていた。
――なぜやって来ない? 藤村はそう呼びかけていた。おまえの女を奪い、そして殺したこの俺が、こうして上海に舞い戻ってきているのだ。おまえの腕なら、二度と失敗するようなことはあるまい。松本よ、はやくやって来ないと、俺はそれこそ昇日会の手で殺されるようなことになっちまうぜ……
浴室の薄いドアを通して、扉をノックする音が聞こえてきた。藤村はシャワーをとめると、手早く身づくろいを整えて、扉に向かった。
関西弁の男だった。いや、どうやら関西弁はあの場の緊迫した雰囲気《ふんいき》を和らげるための方便だったらしく、その後、この男は一度として関西弁を使っていなかった。彼自らの紹介によれば、名前を森田重治という。
「いつまで俺はこのホテルにいなければならないんだ?」藤村はきいた。
「ここにいたほうが安全なんじゃないか」森田はあいかわらず大仏のような微笑を浮かべている。「昇日会の連中はまだ執念ぶかくきみをつけ狙っているそうだよ」
「だから、老いぼれ猫のように部屋に閉じこもっていろというのか」藤村は露骨に表情《かお》をしかめて見せた。
「ちょっと飯を喰《く》いに出かけたくても、ホテルの入り口にはいつもあのB・Wとかいう殺し屋が見張っている。実際、息がつまるぜ。……せめて、あんたの正体とか、俺を紅幇《ホンパン》から買った理由《わけ》ぐらい、教えてくれてもいいだろう」
「今日はそのつもりで来たんだよ」
和やかな声でそう言うと、森田はドアの前に立ちはだかったままでいる藤村に、退ってくれと目線で合図した。それまで藤村は気がつかなかったのだが、どうやら森田の背後に誰かもうひとりいるようだった。
「こちらは渡会《わたらい》さん……俺の、まあ、いうならば上司のような方だ」
無言のまま、部屋に入ってきた人物を、森田はそう紹介した。
ながく上海で商売をしてきた藤村は、人間を見る眼には、かなり自信があるつもりだった。逆にいえば、人間を見る眼がなければ、この上海で仕事を続けていくのは、不可能だったともいえる。
――が、いま森田から紹介された渡会という人物に関しては、どんな人間であるのか藤村にもちょっと見当がつかなかった。そうとうな老齢であることは間違いないだろう。額《ひたい》がはりだしていて、いかにも意志的なガッシリした顎《あご》をしている。その眸《め》が黒くなければ、鷲《わし》のようなかぎ鼻とあいまって、外国人と勘違いしないとも限らなかった。一本の乱れもないほどきれいに整った頭髪の、その鬢《びん》のところだけ白いものが混じっている。長身で痩せてはいるが、老齢から痩せたためではなく、もともとが肥らない体質らしかった。――要するに、官僚とも、軍人とも、学者とも、どう紹介されてもなんとなく納得できそうで、それでいてどこか割りきれない部分が残る、そんな人物であるようだった。
藤村の視線を無視して、森田は渡会の身分を明かそうとはしなかった。それどころか、藤村の都合もきかずに、渡会をさっさと応接間へと誘《いざな》った。もっとも、この部屋は森田の名でかりているのだから、藤村に文句を言う資格はないかもしれないが。
藤村は、森田や渡会と対峙《たいじ》して、ソファに腰をおろした。上海ギャングの一方の雄である紅幇と接触を持っているらしいこと、夢魔のような殺し屋B・Wを手足のように使っていること、いずれを考えても眼前の両人《ふたり》がただの鼠《ねずみ》であるはずがなかった。また、藤村を競りおとすのに四百円という大金を使ったことからも、彼ら両人の思惑が尋常なものであるとは考えられなかった。――が、藤村にとって、森田の上司が登場してきたのは、むしろ歓迎すべきことだった。紅幇のアジトから連れだされて以来の、どう身を処していいかも分らない毎日に、藤村はようやく苛立《いらだ》ちを覚え始めていたのである。どんな賽《さい》の目が出るにせよ、今日こそ総《すべ》てがはっきりするのだ。
「むだんで拝借させてもらった」
渡会は背広のポケットから数葉の写真をとりだした。渋い、砂に染む水のような声だった。
「…………」テーブルのうえに並べられた写真を見おろす藤村の眸《め》が、しだいに暗い翳《かげ》を帯びていった。それは、天竜《テイエンルン》に現像を頼んだはずの写真だった。
「やはり、俺を売ったのはあいつか」そして、なかば独り言のように言った。「天竜が俺を裏切ったんだな」
「あんな屑《くず》のことなんかどうでもいい。人の信義を裏切るのをなんとも思わない性格破綻者《せいかくはたんしや》だ……」渡会はいかにも汚ないものを口にするかのように、唇を歪《ゆが》めた。
「それより、きみにはこの写真に写っているもののことを説明してもらいたい」
――砂漠を疾駆《しつく》する剣歯虎《サーベル・タイガー》、岩肌を駆け登る剣歯虎……馬上から、しかも走っている馬から撮ったにしては、それらの写真はいずれも意外なほど鮮明だった。藤村の胸に、三日のあいだ追い続け、ついに馬の脚を折るはめに陥り、追跡を断念せざるをえなくなったその獣に対して、ある種の愛に似た感情が浮かんできた。一瞬、いがらっぽく熱い砂漠のにおいを、鼻孔に感じたようにさえ思った。
「剣歯虎《サーベル・タイガー》だ……」渡会は感じいったように首を振った。
「現代では、地球上のどこにも生存していないはずの剣歯虎だ。どうやらきみはこの獣を追っていたようだな。しかも写真から察するに、捕えようという意志はまったくなかったようだ。教えてくれないか。きみはこの獣を追って、どうするつもりだったんだね? この獣がどこかへ道案内してくれるとでも思ったのかね」
渡会《わたらい》の口調は決して激さず、急がず、ただ淡々としていた。そこには、イニシアティブをとることに慣れている者のみが持つ、確固たる自信が含まれていた。
「俺になにを言わせたいんだ?」藤村は眼を細めた。
「いったいなにが狙いなんだ」
「事実だよ」慈父のような微笑を浮かべて、森田が口をはさんだ。「きみに関してはいろんな噂《うわさ》がある。正直、あまり好ましい噂ばかりとも言えんようだが……だが、我々は噂には興味がない。知りたいのは、ただ事実、それだけだよ」
「事実はひとつではない」藤村は机上のシガレット・ケースからタバコを取りだし、唇にはさんだ。どうやら、ながい話になりそうだった。
「どの事実を知りたいんだ?」
「……大刀会《タータオホイ》という秘密結社のことをきいたことがあるかね?」渡会がふいにきいてきた。
「名前だけは」
藤村はかろうじて平静を保つことができた。
「名前だけは、か」と繰り返した渡会の声音には、わずかに皮肉な響きが含まれていたようだった。
「我々のきいた噂によると、きみはもう少し深く大刀会《タータオホイ》と関係していたはずだがね」
大刀会とは、匪賊《ひぞく》や流賊《るぞく》から自衛するために、民間が組織した秘密結社で、主に河南や山東で活躍していた。中国の、この種の秘密結社が常にそうであるように、大刀会もまた呪術集団的な性質を帯びていた。大刀会の組織員の間では、一種の精神療法が信仰され、その術を修得すれば、刀槍はいうに及ばず、弾丸にさえも身体を傷つけられることはない、と信じられていたらしい。一般民衆における大刀会の人気を嫉妬《しつと》し、あるいは恐れたがゆえに、官憲は大刀会大討伐にのりだし、ついにはこれを滅ぼしてしまったと伝えられている……
「だが、大刀会は全滅したわけではなかったらしい」
と、渡会が言う。
「つい一年ほどまえにも、大刀会の生き残りと称する女が、この上海に姿を現わしたばかりなんだからね。しかもその女の言葉を信じるならば、彼女は大刀会の中心的人物のひとりで、巫女《みこ》的な役割りをはたしていたということだ。女の名は、李夢蘭《りむらん》……去年の一月三十日、日本人による虹口《ホンキユウ》地区の中国人虐殺の夜、彼女もまたひとりの日本人に殺された。ただし彼女に限り、殺害者の名前ははっきり分っている。藤村脇、つまりきみだよ」
「…………」
藤村は黙していた。なにか叫びだしてしまいたいような衝動にかられはしたが、しかしほとんど非人間といえるほどの自制力で、その欲望を圧さえつけていた。――たとえ藤村に許しを乞わねばならない事情があったとしても、眼前の両人《ふたり》に人を許す資格があるとは思えなかった。第一、藤村は許しなど欲してはいなかった。罰だけを、ただそれだけを望んでいたのだ。
渡会もまた藤村の罪を糾弾《きゆうだん》しようという意志はまったくないようだった。話の順序として、とりあえずそれが必要だから語ったにすぎない、というだけのことかもしれなかった。
「その女のことにからんで、きみが昇日会から大金を横領するようなはめになった、という噂もきいている」渡会は言葉を続けた。
「だが、まあ、それも我々にとってはどうでもいいことだ。……我々がこの件に興味を抱いたのは、その女がいつも自分は崑崙《コンロン》で生まれたと言っていた、という話をききつけたからだ。崑崙山脈の崑崙ではなくて……神話のほうの崑崙で生まれた、と。自分に霊力が備わっているのは、崑崙で生まれたからだ、と……」
「莫迦《ばか》な」藤村は一笑にふそうとして、しかし果たせなかった。「崑崙なんて土地が実在するはずがない。たんなる神話だ」
「そうだ」渡会はうなずいた。「常識のある人間なら、誰でもそう考える。我々もそう考えた。だから女の噂をきいたときも、別に調べてみようという気持ちにもなれなかった。だが……」
渡会はそこで言葉をきって、意味ありげにテーブルのうえの写真を見つめた。
藤村はほぞを噛《か》む思いだった。凡百の言葉を並べたてるより、ただ数葉の写真がなにより直截《ちよくせつ》に事実を物語っていた。そこに写されている剣歯虎《サーベル・タイガー》が、はっきりと崑崙の実在を証しているのだ。
「……一説には、崑崙には古代の獣たちが跳梁《ちようりよう》しているという。私はこの写真を見たとき考えたね。きみは崑崙へ行こうとしていたのではないか、と……こうして上海に戻っているところを見ると、どうやら行き着くことはできなかったようだが」
渡会のその言葉には止《とどめ》の一槌《いつつい》という意味が含まれていたようだ。これで、藤村を詰めることができたのだ。
――崑崙とは、中国に古《いにしえ》から伝わる一種の神仙境のことである。南方の揚子江流域に栄えた楚に、『楚辞《そじ》』という祭祀《さいし》的歌謡があった。その『楚辞』の「天問《てんもん》」という部に、この崑崙のことがうたわれている。
いわく「崑崙、県圃《ケンポ》、その尻《はて》は安《いず》くにか在る。層城九重、その高さ幾里ぞ」……崑崙は百神の住む世界だという。その山頂にある県圃《ケンポ》は、天に通じるところだという。九層の城には四つの門があり、西北にのぞむ門だけが開かれている。西北では常に燭竜が光を発し、陽の没する若木もまた、輝きを失うことがない。冬は暖く、夏は寒い。――そこはまた神獣、妖獣が跋扈《ばつこ》する地でもある。言葉を解する獣、九首の蛇、熊と遊ぶ竜、そこには石の林、不死の一族さえ存在するのだ。
この幻の地、崑崙が中国人たちの憧憬《どうけい》を集めたのは、なによりそこが黄河の水源《みなもと》であると信じられていたからであった。黄河を制する者は、中国を制す。それでは、崑崙の地に行き着けた者は、この国を支配することができはしないか。
が、崑崙がどこにあるのかは、伝説のなかにおいてさえ明確にされていない。「三江五湖を越えて崑崙山に至る。千人往きて百人帰り、百人往きて、十人帰る」……三江も、五湖も具体的にどこを指すのか、明らかにされていないのである。ただ、千人往けば百人しか帰れない、百人往けば十人しか帰れない、という記述から、そこに至る路《みち》がかなりの険路であることだけは間違いないようだ。
崑崙がどこに存在するのか、これまで多くの議論が費やされたが、いずれもついに定説にまでは至らなかった。祁連《キーリニン》山脈にあるとする説、秦嶺《チンリン》山脈にあるとする説、西域のロブ湖が関係ありとする説……そして、いつしか誰ひとりとして崑崙の実在を信じる者はいなくなったのである。
それが現在《いま》、一九三三年に、その実在に関して、三人の男が大真面目に論議を重ねようとしている――
「きみはその李夢蘭という女から、崑崙がどこに在るのかをききだした」渡会が言った。
「そして、崑崙へ行こうとした。どうだ? そうじゃないかね」
「もしそうだとしたら、あんたたちはどうするつもりなんだ?」藤村の声は凍るようだった。
「私たちも崑崙へ行こうというんだよ」
と、森田が口をはさんだ。藤村の緊張をはぐらかすような、大人然《たいじんぜん》とした声だった。
「私たち?……」藤村は唇を歪めた。
「私は行けないよ。行きたいとは思うが、この年齢《とし》では、ね」渡会は苦笑を浮かべた。
「ひとりで行くのが不可能なことは、きみ自身で証明してくれた。かと言って、フランスやスウェーデンのように大探険隊をくりだすのは、事情が許さない。……だから五、六人のグループをつくって、ちまちまと行ってもらいたい。君と、こちらの森田くん、それにいざという場合に備えて紅幇《ホンパン》のB・W……実はもうひとり、こちらで考えている人間がいるのだが、まあ、残りの人選は君と相談のうえということで……」
「待ってくれ」藤村は渡会の言葉を遮《さえぎ》った。
「俺はまだ行くともなんとも言ってないぜ。第一、仮に崑崙が実在するとして、どうしてあんたたちがそこへ行かなければならないか、その理由《わけ》をきいていない」
「仮に崑崙が実在するとして、だ」渡会は、仮に、という言葉に、皮肉な響きを含ませて答えた。
「我々がその地へ行きたいと願うのは、それが中国を救う、いや、ひいては日本を救う唯一の路《みち》であると信じているからだよ。崑崙の地が完全に中国人の手によって掌握《しようあく》され、荒ぶれる黄河が治まれば、この国は本来の富んだ強国へと戻ることができる。各地に軍匪《ぐんぴ》が横行し、欧米列強、日本の喰い物にされているという状況から脱することができる。
同時に、それは日本を破局から救う路でもある。日本はなんといっても植民地政策に関しては後進国だよ。ながい植民地政策の歴史をもつ欧州諸国に比して、その巧みさにおいても、そのスケールにおいても、一歩も二歩も遅れていると言わざるをえない。軍隊をくりだして、威嚇《いかく》することしか知らんのだからね。幼児的に過ぎるのだよ。他の国はそれぞれに退《ひ》け時を心得ているし、またそのための抜け道もちゃんと準備しているというのに……日本だけが後戻りのならない路をしゃにむにつき進んでいる。
とくに関東軍による満州国建国がまずい。満蒙を日本の国防の第一線としなければならないという主張は、説得力を持つ満州国建設の理由にはなりえないよ。それが、どうして関東軍が満州国に駐兵権を持つ理由となりうるものかね。はたして満州国などというものが、この世界でひとつの国家として認められるものかどうかについては、ここでは語るまい。誰もが、日本の傀儡《かいらい》国家に過ぎないことを承知しているのだからね。
ただはっきりしていることは、これ以上に関東軍の独走を許せば、日本の破滅はまぬがれないということだ。石原|莞爾《かんじ》が関東軍を指揮していた頃はまだよかった。石原はあれでなかなかの切れ者だし、一種の理想主義者でもあるからね。治外法権の撤廃、満鉄付属地の移譲、関東州の返還……、まあ、彼の政策はいずれも、国際外交の常識にそうものだと言えるだろう。が、どれひとつとして実現をみないままに、去年の九月、石原は満州を去らなければならなかった。後は関東軍の独走あるのみだよ。
現に、今年の八月、『満州国指導方針要綱』なる決定が、閣議によって発表されることになっている。それによると、満州国は関東軍司令官によって統轄され、日本人官吏が中心になってこれを実行する、ということになるらしい。日本は侵略者の貌《かお》を、いよいよ臆面《おくめん》もなく世界にさらすわけだ。いずれ日本が世界に袋だたきにあうことは目に見えているのに、ね……」
饒舌《じようぜつ》というべきだったかもしれないが、しかし渡会の口調はまったくそれを感じさせなかった。まるで世間話でもしているかのように、終始、淡々として話を運んだのだ。
「だから、崑崙へ行く必要があるというのか」藤村がきいた。
「そうだ」渡会がうなずいた。「だから、崑崙へ行く必要があるのだ。……むろん総《すべ》ての費用はこちらでもつし、きみにはガイド料として三千元(現邦貨で約三百万円)を払う用意がある」
「三千元といえば大金だ」
「そう、決して少なくはないな」
「それだけの大金をポンとなげだせるあんたが、いったい何者なのか、そいつをまだきかせてもらっていない」
「きく必要はあるまい」渡会は微笑さえ浮かべていた。
「三千元の金を払うという条件のなかには、何もきかないことという項目も入っていると思ってくれたまえ」
「…………」藤村は沈黙せざるをえなかった。
――つまるところ、この仕事を受けることで、藤村が失うものは何もないと言えた。いずれにしろ、藤村は再び崑崙へ旅立つつもりでいたのだ。渡会の言ういわゆる条件に関しては、実のところ、藤村は彼らの正体にさほどの興味を抱いてはいなかった。関東軍に敵対する実力者といえば、海軍の人間か平和主義的な政治家と、相場は決まっているようなものだった。
ただ藤村のうちに、誰かと連帯して仕事を運ぶことに対するぬぐいがたい嫌悪感《けんおかん》のようなものがあった。どんな人間とであれ、共に仕事を働くのは厭《いや》だった。――より直截《ちよくせつ》に、人間嫌いになっていた、といってもいいだろう……
藤村はため息をついた。渡会にしてみれば、藤村に仕事を依頼したわけではなく、命令を下したつもりでいるのだろう。
「いいだろう」藤村はうなずいた。
「だが俺も、あんたたちに同じような条件を呑《の》んでもらいたい。俺はあんたたちの正体を知ろうとは思わない。だから、あんたたちも俺のことをきかないでもらいたい」
「女のことを、かね?」森田がなかば微笑を含んだ声できいてきた。
「女のこともだ」
「昇日会から横領したという金のこともきくな、というわけだ」
「そうだ」
「私は信じていないよ」森田はかぶりを振った。「きみは女を殺すような冷酷漢ではないし、横領を働くような卑劣漢とも思えない」
「信じていただいて結構だ」藤村のその声は、誰の共感も、同情も拒絶しているようだった。
「ただ、何もきくな」
「分った……」渡会がとりなすように言った。「我々にしても、きみの私生活に興味を持っているわけではない。仕事さえしてくれれば、それでいい」
――仕事さえしてくれればそれでいい。確かにそうに違いなかろう。ただその仕事が、どれほどの困難と危険を含んでいるか、この渡会には決して分らないだろう。千人往って百人帰り、百人往って十人帰る……藤村の導く小隊の、そのうち何人が死ぬことになるだろうか。
藤村は黙って席を立ち、渡会が咎《とが》めるような表情《かお》をするのにかまわず、ゆっくりと窓際に歩いていった。
窓の外の闇《やみ》をキャバレーのぎらつくネオンが彩《いろど》っていた。そのネオンの点滅にともなって、藤村のかつて知っていた生者たち、死者たちの貌《かお》が次から次に浮かんでは消えていった。
崑崙《コンロン》への旅が終ったとき、藤村はどちらの貌《かお》とより近しい存在になっているだろうか。
黄浦江《こうほこう》の入江は、確かに唄に歌われてしかるべき絶景といえた。水は淡黄色に染まり、両岸に遠くかすむ柳の緑はそれ以上もなくみずみずしく、沖に停泊する各国の砲艦さえも、港の点描として、風景に彩りをそえているように見えた。
十五年以上もまえ、門司《もじ》から船に乗りこんだ藤村は、この初めて接した中国の風景に、胸のふくらむような希望を覚えたものだった。
が、――船が進むにつれ、藤村のその希望はむなしく潰《つい》えていった。水は濁り、空は煤煙で汚れていた。揚樹浦《ようじゆほ》一帯の工場が港を圧するような騒音をたてていた。とりわけ港で虫のように働く苦力《クーリー》たちの、汚れて、疲れきった姿が、藤村を一種説明し難い不安に駆りたてたようだ。
いま、揚樹浦のとある倉庫の窓から、同じ港の風景を見ている藤村の胸には、十五年まえのまだ純真だった自分自身を、いとおしむような気持ちが浮かんでいた。非力で、臆病ではあったが、少なくとも殺人者でも、裏切者でもなかったあの頃の自分を……
らちもない感傷から自分を切り離すように、藤村は窓から顔をそむけ、部屋に眼を向けた。幾つかの釣《フツク》が、異臭を放つ豚肉のかたまりをひっかけ、天井からぶらさがっている小さな部屋だった。その木製のドアのむこうには、豚の解体工場があり、十三歳から七十歳までの男女作業員が、息もたえだえになって十二時間というもの働きつづけているはずだった。
豚肉の異臭にも、血のしたたりにも、まったくわきめをふらず、木箱に坐ったB・Wが一心不乱に本を読みつづけている。紅幇《ホンパン》随一の殺し屋B・Wと、読書とは、藤村の頭にどうにもそぐわないもののように思えた。
「何を読んでいるんだ?」藤村は声をかけた。
「英会話読本……」本から顔もあげずに、B・Wはボソリと答えた。
「…………」藤村は一瞬言葉を失ったが、しかしB・Wにきかなければならないことがまだ残っていた。
「本当にここは青幇《チンパン》のアジトになっているのだろうな」
「俺を疑うのか」厭々のように、B・Wは本から顔をあげた。
「疑ってはいないさ」藤村は首を振った。
実際、B・Wを疑う理由はなかった。青幇《チンパン》と紅幇《ホンパン》はあくまでも別の組織だが、その下部においては、必ずしも厳密な区分がなされているわけではなかった。紅幇に属しているB・Wが、青幇のアジトに通じているとしてもなんのふしぎもなく、むしろ自然なぐらいだった。
「青幇の連中はここでアヘンをとりしきっているんだ」B・Wが言った。
「ここでアヘンを豚の睾丸《こうがん》につめて、各地に輸送しているのさ」
ドアが開いて、蟹《かに》のような顔をした男が入ってきた。手に金ののべ棒を持っている。
「確かに拝見しました」男は言った。
「こちらはそんなのべ棒を何本か用意しています」藤村が答えた。「どうですか? 我々の欲しいものを売っていただけますか」
「拳銃《けんじゆう》、小銃、機関銃、手榴弾《てりゆうだん》、無線機……あなたが言われたものは総《すべ》てこちらの手元に揃《そろ》っています」男はあくまでも表情を変えようとしなかった。
「ただ、無刻印ののべ棒ではこちらも正価取り引きというわけにはいきませんな」
それは藤村のなかば予期していた言葉であった。中国人、特に上海人は、金をあつかう老舗《しにせ》の刻印がおしてない金塊を信じようとはしない。金取り引きをする場合には、前もって老舗の鋳型に流しておくのが、上海での常識になっていた。――だが、それには時間があまりになさすぎた。日本と中国にかなりの勢力をもっているらしい渡会にしても、大阪造幣局の刻印のない、無刻印の金塊を揃えるのが精いっぱいだったようだ。
「正価の何パーセントぐらいで取り引きしていただけますか」藤村は木箱のうえに腰をおろした。
「そうですな……」
男はしばらく宙の一点を見つめていたが、やがてある数字を口にした。それは、藤村の考えていた数字をはるかに下回っていた。
「それはひどい」藤村は表情《かお》をしかめた。
「それではまるで山賊《シヤンツエイ》だ……」
「こちらからお願いした取り引きではありません」男は嗤《わら》った。「この条件でお気にめさないのなら、どうぞおひきとりください」
「…………」
ほんの短い時間、藤村は思案をめぐらしていた。渡会の準備した金塊はかなりの量にのぼるが、それでもゴビ砂漠を横断しようという旅には足りないぐらいだった。食糧、馬、山賊《シヤンツエイ》や流賊《リウツエイ》に支払わねばならない通行税……実際、武器や無線機を購入するだけのために、相手の要求する額の金塊を手放すのは、かなりの痛手と言えた。
「分りました」藤村はうなずくほかはなかった。
「あなたのおっしゃる条件で、取り引きしましょう。こちらの欲しい品物を揃えていただいた時点で、全額お支払いします。……ただし、こちらの我儘《わがまま》もひとつきいていただきたいのですが……」
「なんでしょうか」男の眼がわずかに細くなった。
「あなたの組織に天竜《テイエンルン》という男がいます。その男を青幇自身の手で裁いていただきたいのです」
「殺せと言われるのですか」
「そうです」
それまで、面白そうに虚々実々ともいうべき両人《ふたり》のやりとりを見ていたB・Wが、その時にいたって初めて眉をしかめた。
「その天竜という男があなたに何かしましたか」
「私の信義を裏切りました」藤村は吐きすてるように言った。
「裏切者は許せない」
「外国人であるあなたが、我々に青幇の仲間を処刑しろと要求されるのか」
「そういうことになりますかな」
「莫迦《ばか》な……」
「その条件を呑んでいただけなければ、この取り引きを進めるわけにはいきませんな。ご存知でしょうが、こちらのB・Wは紅幇の人間です。おたくが駄目なら、話を紅幇にもっていくだけのことだ」
「…………」
男は気圧されたように口をつぐんだ。しばらくは、男のなかで面子と欲とが葛藤していたようだ。――が、やがて彼はその双方を満足させるうまい路《みち》を見つけることができた。
「日本人のあなたから言われて、仲間を処刑することはできません」男はこのうえもなく狡《ずる》い眼つきになっていた。
「が、天竜の居所を調べて、あなたにお教えすることはできます」
「……私の手で始末しろと言うわけですか」藤村はことさらに渋い表情をつくって見せた。
「ま、それぐらいで手をうちますか」
――倉庫を出たとき、B・Wがしわがれた声で言った。
「日本人にしては少しは見所のある男だと思ったのだが、とんだ喰わせ者だぜ」
「あの男に仲間を処刑しろと依頼したことを言ってるのか」藤村は笑った。
「冗談じゃない。俺だって、あの男が天竜を処刑するのをひきうけるなんて思ってもいなかったさ。外国人に頼まれて、仲間を殺したとあっちゃ面子に関わるからな。……第一、俺にも天竜を処刑しようなんて気はまったくない。信じた俺が莫迦だったんだからな」
「それじゃ、どうしてあんなことを……」B・Wは混乱したようだった。
「天竜は車のあつかいにかけては天才的だ。やつの技術は俺たちの役にたってくれるはずだよ」
「天竜を隊のメンバーに加えるのか」
「そのとおり……どっちみち青幇に金を払って、奴の居所をつきとめてもらうつもりでいたんだ」藤村はニヤリと笑った。
「なあ、結局、この取り引きはそれほど高いものにはつかなかったわけだ」
第三章 北平《ペイピン》輸送保護協会
北平《ペイピン》(北京)は、上海や、南京そのほかの都会とはある一点で大きく異なっている。奇妙なことではあるが、他の都会はいわゆる北平風と呼ばれる風習、言葉、食べ物などを多く残しているのに、本家本元であるはずのこの都会にはそれらの格式がほとんど失われてしまっているのである。重陽節《ちようようせつ》(菊の節句)においてのみ食べられるはずの餅菓子|花〓《ホウカオ》が十月になっても売られている。一月十五日に食することになっていた元宵《がんしよう》団子にいたっては秋になっても売られている……
北平は上海とは別の意味で、中国でなくなりかけていた。頻繁《ひんぱん》に北平を訪れている藤村が、いまだにこの都会になにか違和感を感じるのは、そのせいであるかもしれなかった。
藤村はいま、森田やB・Wとともに、北平の地で旅行の準備に奔走していた。渡会は資金ぐりに努力するのみで、どうやら計画に直接タッチするつもりはないらしく、北平にまではやって来ようとはしなかった……
食糧の調達のめどがようやくついた翌日、藤村はほかの二人とともに、元代の大極官の故跡として有名な白雲観《ポオコンゴワン》にとでかけた。一月十八日には神仙がこの場に人間の姿となって現われるという言い伝えが残っていて、白雲観は北平でも最も盛んな参詣の地、遊歩場として知られている。
春のうららかな陽をあびて、三人はいつになく暢気《のんき》な足どりで、平則門《ピンヅオメン》外の黄色い沙土の路《みち》を歩いていた。驢馬《ろば》に乗った若い女や、金ぴかに彩られた人力車に囲まれては、いかな三人といえども心を和ませないわけにはいかなかった。
「叉焼肉《チヤアシヤオロウ》のにおいがするな」森田が楽しげに鼻をぴくつかせた。
「中国の料理が好きらしいな」と、藤村。
「好きだね」森田はにこやかにうなずいた。
「私は根が貧乏人の息子《せがれ》のせいか、こういった安くてうまい料理には目がない……」
――ふしぎな男だ、と藤村は思った。中国に来てさほどの時がたっていないはずなのに、藤村以上に、森田は中国人の間にとけこんでいるようだった。実際、今日が一月十八日だったら、彼の大人然とした姿は、周囲の群集から神仙の具現者と勘違いされないとも限らなかった。それでいて、総《すべ》てをそのにこやかな笑顔で遮断《しやだん》して、他者に決して真意をさとらせないだけの太々《ふてぶて》しさを備えている。
B・Wは両人《ふたり》の会話にちらっと眼を上げたが、再び英会話読本に視線をおとした。歩きながらも読書を忘れないところなど、まるで二宮金次郎だが、かの偉人も中国の殺し屋が自分の後継者だということを知ったら、いささか狼狽《ろうばい》せざるをえないだろう。
三人は廟門外《びようもんがい》を歩いている。豆汁児《トウチル》の露店や、砂糖菓子を賭けさせている男、橋の下に坐って、銅貨が投げられるのを待っている道士たちの姿が、雑踏によりいっそうの熱気を与えている。
「私は刺身というのは日本だけの食い物かと思っていたよ」森田が再び口を開いた。
「中国にもあると言うのか」藤村は首をかしげた。
「俺は食べたことがないが……」
「刺身はもともと中国から日本に伝わった料理らしいね。私もこちらへ来て初めて知ったのだが、広東省湖州のあたりでは刺身をよく食するそうだ。……私が食べたのは『醋魚帯柄《ツーユータイピン》』という西湖の料理だが、あれには考えさせられたよ。捨てるところがまったくない。刺身にしたあとの魚の骨と皮をスープに使うんだね。……中国人というのはいかにも合理的な人たちだ、そう思ったよ。いまはまだ中華思想がたたって、各国の喰い物にされてしまっているが、これだけの合理的思考を備えている国が再び強国として甦《よみがえ》らないはずがないよ」
「…………」
藤村は内心、森田の話に舌を巻いていた。なんとなく見過ごしそうなことから、中国人の国民性を看破するこの男は、たんに炯眼《けいがん》の士と呼ぶだけではすまされない、一種したたかな何かが備わっていた。その何かが彼をこれほど自信に満ちた存在にしているのかもしれなかった。――この男を敵にまわせば、一級の殺し屋たるB・Wでさえ及びもつかない、手強い相手になるだろうことは間違いなかった。
三人は白雲観《ポオコンゴワン》には行かなかった。廟門《びようもん》外から路を脇にそれたのである。――いかにうららかな日和《ひより》であろうと、また陽気な群集の間に混じっていようと、いまの三人には遊びに我を忘れている余裕はないのだった。
白雲観のちかくにある、裏通りの小さなアパートのまえに三人は立った。門外にかかっている真鍮《しんちゆう》の看板には、「学生専門|賄付《まかないつき》」と刻されてある。コの字形《なり》になっている小さな建物だった。
「ここかね」森田がきいた。
「ああ」
と、藤村はうなずいて、
「奴に会うのは俺ひとりで沢山だ。あんたはここで入り口を見張っててくれ。B・W、きみは裏口だ」
B・Wは本を懐に収めると、無言のまま歩き去っていった。
「なぜあいつはいつも本を読んでいる?」藤村は森田にきいた。
「大学にでも入るつもりなのか」
「米国に行くのがあの男の夢なんだよ」森田はにこやかに答えた。
「米国に?」
「ああ」
「なぜだ? カポネの部下に知りあいでもいるのか」
「仕事は今回で終りにしたいそうだ」森田は顎《あご》をなでている。
「金も貯めることができたし、米国でクリーニング屋でもやって、余生を静かに送りたいんだそうだよ」
「だから、英語を勉強しているのか」
「そうらしいね」
「…………」
藤村は言葉を失った。米国でクリーニング屋を開業しているB・Wの姿は、藤村にはとうてい想像できないものだった。
「あの男、大丈夫だろうな」やがて、藤村はそうつぶやいた。
「将来の設計など考えている殺し屋などものの役に立たんと言うのかね」さすがに森田は察しが早かった。
「なに、大丈夫だよ。……彼のうでが充分に役に立つのは、きみ自身で体験ずみじゃなかったかね」
「…………」
いまの藤村はそれ以上にB・Wのことにかかずらっている余裕はなかった。彼は森田の言葉に答えないで、建物の内部《なか》に入っていった。――ただし、森田の言葉に対する反論は、彼のうちに響いていた。少なくとも、あのときのB・Wは俺を殺す必要はなかったのだ、と……
藤村のめざす部屋は、二階の十一号室だった。
藤村はドアのまえに立って、しばらく内部《なか》の気配をうかがった。そして、ニヤリと笑うと――思いきりドアを蹴った。
女の悲鳴が聞こえてきた。その女とベッドに同衾《どうきん》していた男が、慌《あわ》ててはね起きようとするのを、
「動くな」
藤村はその一言で制した。
男――天竜《テイエンルン》は裸だった。さしもの美貌も、あまりの驚愕《きようがく》に醜《みにく》く歪《ゆが》んでいた。そのまだ発達しきっていない肩筋が、彼の幼さをわずかに示していた。
「|彼を殺さないで《ドン・キル・ヒム》」
そう叫ぶと、女は天竜の身体に覆いかぶさって、藤村を鋭い眼で見返した。ブロンドの、まだ若い白人女だった。女の青く静脈の浮いた乳房が、藤村の眼にひどくエロチックなものに映った。外交官の娘か、駐在商社員の妻……いずれにしろ、藤村をまんまと罠《わな》にはめてからの天竜は、つきについていたようだ。
「とんだ敵役《かたきやく》にされちまったな」藤村は苦笑して、天竜に声をかけた。
「服を着て、出かける支度をしろ」
天竜の蒼《あお》くこわばっていた表情《かお》に、うっすらとしたたかな笑いが浮かんだ。少なくとも、いまこの瞬間には、藤村に自分を殺すつもりがないことを覚ったのだろう。女になにか囁《ささや》くと、ベッドからぬけでて、手早く衣類を身に着け始める。
「さあ、行きましょうか」上衣をはおって、そう言ったときの彼は、さすが天竜、あっぱれな悪党ぶりというべきであった。
「俺の二千ドルはどうした?」肩を並べて階段をおりていきながら、藤村は天竜にきいた。
「おおせのとおり、無限軌道車《キヤタピラ・カー》を準備するのに使わせてもらいましたよ。それがあまりに素敵な車なんで、つい魔がさしましてね」
「魔がさしたか」藤村は苦笑した。
「いま車はある場所に隠してありますがね」
と、天竜はさらに狡猾《こうかつ》に言った。
「ぼくを殺せば、車がどこに隠されているのか永遠に分りませんよ」
「殺すつもりなんかないよ」藤村は断言した。
事実、天竜のいけしゃあしゃあとした悪党ぶりに、ある種の爽快感《そうかいかん》を覚えこそすれ、憎悪の念はふしぎなほど感じなかった。いずれにしろ、これで崑崙に旅立つべく結成される隊の、四人めのメンバーが決定されたのだった――
藤村たちは仮のアジトを、西直《シーチー》門の近くにある旧家の別荘にかまえていた。その別荘まで、天竜が無限軌道車を運んできたのは、ある夜のことであった。
「これは凄い……」
車のまえに立った藤村は、思わず感嘆の声をあげていた。
確かに、それはおよそ荒地を進む自動車《くるま》としては、完璧なほどに考えつくされたものだった。自動車そのものはシトロエン製のジープである。そのジープの後輪にキャタピラをからませ、特殊な牽引装置をとりつけたものが基本型となっている。――驚くべきは、その細部にいたるまで入念にほどこされた仕掛けの数々である。部品は総《すべ》て標準型を使い、極力むだをはぶくことで、この種の車としては画期的な軽さとなっている。気化器にはヒーターがとりつけられ、ガソリン補給は電動ポンプでなされる。車盤の補強はいうまでもないことだが、その前部には、岩地用の小ローラーさえとりつけられるようになっているらしい。
「どうです」さすがに天竜は得意さを隠しきれないようだった。
「二千ドルじゃ安い買い物でしょう。自分で改造しておいて、こんなことを言うのはなんですが、まったく惚《ほ》れ惚《ぼ》れする車ですよ」
「そうだろうな」藤村は苦笑した。「猫糞《ねこばば》しようと思ったぐらいだものな」
鉄階段をおりてくる靴音がきこえてきて、B・Wが車庫に顔を出した。
「来てくれないか」B・Wはものうげに言った。
「森田さんが五人めを連れて帰ってきた。俺たちに紹介したいと言ってる……」
「五人めが……」藤村はうなずいた。
ホテルで最初に顔をあわしたとき、隊に加えるべくもうひとり考えてる男がいる、と渡会は言っていた。今朝の食卓で、いよいよその男が北平《ペイピン》にやって来る、と森田が伝えたのである。
「行こうか」藤村は天竜を促して、鉄製階段を登り始めた。
階上の部屋では、森田が見知らぬ男と一緒に、藤村たちがあがってくるのを待っていた。――その男は、色の黒い、貧相な身体の持ち主だった。クリーム色のぜいたくな背広を着ていたが、気の毒にもその背広はかえって男の貧相さを際立たせているようだった。男は藤村たちが部屋に入ってくるのを、そのいかにも猜疑心《さいぎしん》の強そうな眼で見つめていた。
「藤村脇というのはどの男だ?」そして、男が森田にきいた。
その傲慢《ごうまん》な口調は藤村の癇《かん》にいたくさわった。森田がなにか答えようとするより早く、藤村はこう言っていた。
「藤村は俺だが……」
男は藤村を見上げた。その眼つきはいやしく、そしてひどく高圧的だった。
「俺の名は倉田|君平《くんぺい》……」男は言った。
「名前をきいたことぐらいはあるだろう?」
「小鬼《シヤオコエイ》の倉田君平か」藤村は眉をしかめた。
「いまの俺は小鬼《シヤオコエイ》とは呼ばれていない」男の首筋に薄く血がのぼった。「馬将軍の倉田君平だ」
「なるほど……」藤村は苦笑した。
要するに、馬賊の頭目である。日本人馬賊として有名な人物に、伊達順之助、松本要之助、さらには女志士をきどる川島芳子などがいた。――俺も行くからきみもこい。せまい日本にゃ住みあいた……このいかにも無神経な歌そのままをおのれの信条として、大陸を跋扈《ばつこ》する彼ら馬賊ほど、中国人にとって迷惑な存在はないと言えた。ここ数年、彼らは関東軍と結託して、いわゆる謀略馬賊として日本の満州侵略の一端を荷《にな》うようになっていた。
倉田君平に関しては、伊達順之助と親交があるらしいということしか知らなかったが、いずれにしろ最も藤村の嫌う種類の人物であることには違いなかった。
「なにがおかしい?」倉田の顔がさらに赤くふくれあがった。
「ニヤニヤ笑いをやめろ」
「これは失礼」
と、藤村は詫《わ》びて、
「俺になにか用かね?」
倉田はゆっくりと席を立った。彼の背丈は藤村の肩ほどしかなかった。
「きさまがどんな卑劣漢であるかは、昇日会の同志からきいてよく知っている。……本来なら、この場できさまに制裁を加えるところだが……森田氏に礼を言うんだな。彼の口添えがなければ、きさまの命はもうなくなっている」
藤村は倉田の肩越しに、森田に視線を走らせた。森田はなかば眠っているような表情《かお》に微笑を浮かべていた。どうやら、ことのなりゆきを静観するつもりらしかった。B・Wと天竜も、藤村が倉田をどうさばくか、面白そうに見ている。――まことに頼りになる仲間たちというべきだった。確かに、喧嘩好きの小男一人さばききれないようでは、案内役《ガイド》として隊を導いていくのは不可能かもしれなかった。
「殺せばいいだろう」藤村はため息をついた。「口先だけならなんとでも言える」
「口先だけだと……」
倉田の眼が細くなった。背広のひとつだけかけられていた前ボタンをはずす。
「これでも口先だけだと言うのか」
倉田は脇下に拳銃ホルスターを下げていた。その銃把《じゆうは》から察するに、彼の愛用銃はブローニングであるようだった。
「よほど格好をつけるのが好きなようだ」藤村は微笑した。
「日本人の体型には、脇の下にホルスターをさげるのは合わないはずだがな。俺はもっぱら尻ホルスターを使うことにしているよ」
「それで俺を牽制《けんせい》しているつもりか」倉田は嘲笑《ちようしよう》した。
「きさまが拳銃を持っていようがどうしようが、俺はいっこうにかまわんぞ。俺より速く抜けたら誉めてやる」
「十二のとき以来、拳銃ごっこには飽きたんでね。どう苦心しても、あんたより速くは抜けそうにないよ」
「臆したか」倉田はひどく大時代な言葉をはいた。
「そうじゃない。拳銃遊びに飽きたんで、もっぱらピースメーカー・コルトを愛用することにしたんだ。確かに、空に放った銅貨を撃ったり、馬上から投げ撃ちするというような曲芸には、ブローニングは役に立つかもしれないがね。拳銃で最も重要なのは殺傷力だと覚ったんだ……
ご存知だろうとは思うが、ピースメーカーだったら速く抜く必要はない。あんたの弾丸《たま》がこちらに二、三秒はやく当たって、俺がろくに狙いを定めることができないとしても、充分にあんたを倒せるんだ。なにしろピースメーカーの扁平弾頭丸ときたら、物凄いエネルギーを持っているからね。仮にあんたの肩に当れば、肩の骨は粉々に砕けて、あんたはあっさりと気絶することになる」
確かに藤村は、もっぱら護身用としてピースメーカーを使ってはいるが、いまそれを身につけてなどいなかった。拳銃を常時持ち歩くような習慣は藤村にはなかったし、またその必要も認めなかったからだ。――が、藤村自身が内心へきえきしているこの芝居めいたはったりも、倉田のような男には充分に有効なようだった。
「…………」
拳銃を抜く姿勢のまま凝固して、倉田は脂汗を浮かべていた。死ぬのは怖いが、面子を失うわけにはいかない。なんともひっこみがつかないでいるのだ。
「まあまあ、倉田さん、ここは私に免じて、仲よくやってくださいよ」頃合いと見たのか、森田が声をかけてきた。
「今度の計画には藤村くんは欠かせない人物ですからね」
倉田は大きく息を吐いた。そして、みえをきった。
「命冥加《いのちみようが》な奴だ……」
藤村は思わず失笑した。単純で、粗暴な男には違いないが、藤村はこの倉田という男を好きになりかけていた。少なくとも、なにを考えているのか分らない森田や、隙《すき》あらば裏切ろうとしている天竜、ながく殺しを生業《なりわい》にしてきたB・Wなんかに比べれば、ずーっと安心してつきあえる相手であることだけは間違いなかった。
「これでメンバーが全員そろったわけだ」森田が言った。
「一緒にブランデーででも乾杯といきますかな」
メンバーは揃った。武器も食糧も準備が整った。無限軌道車《キヤタピラ・カー》の整備もすんだし、充分に休みを与えれば、なんとか砂漠の苛酷《かこく》な旅にも耐えられそうな馬を手に入れることもできた――
最後に残った準備は、考えようによっては最も困難な仕事であるかもしれなかった。そして、まさしくこの仕事のためにのみ、小鬼《シヤオコエイ》はメンバーに加えられたようなものだった。――その仕事とは、「北平輸送保護協会」にわたりをつけることだった。
この「北平輸送保護協会」の名を持つ団体は、ふざけたことに華北で最大の匪賊《ひぞく》集団にすぎない。匪賊集団にすぎないが、しかし彼らを無視してゴビを横断するのは不可能にちかかった。――ゴビを横断するには、砂漠に数点を定めて、食糧や燃料の補給所をあらかじめ設けておく必要があった。各商会との交渉はもっぱら森田がひきうけ、すでにガソリンや食糧を積んだキャラバンが数隊、ゴビ砂漠を進んでいるはずだった。「北平輸送保護協会」に荷総額の二パーセントを渡さないかぎり、それらのキャラバンが匪賊に襲われて、ぶじ目的地に着けないことはまず確実だった。
倉田|君平《くんぺい》は、おそらくその背の低さからくるコンプレックスによって、凶暴性を駆りたてられているだけの男にすぎないだろう。が、およそ勇者という名と縁遠いこんな男でも、馬賊や、匪賊の間にはある種の感銘を与えているらしかった。その異常なほどに強い自尊心と、病的な闘争心は、これらの類《たぐい》には多かれ少なかれ共通している性格であるのかもしれなかった。
――つまり、「北平輸送保護協会」のような団体とわたりをつけるには、倉田は欠くべからざる存在だったのである。
「実に面白い仲間たちを揃えたものだな。小鬼《シヤオコエイ》……」闇のなかから含み笑いが聞こえてきた。
「紅幇《ホンパン》のB・W、青幇《チンパン》の天竜《テイエンルン》、そちらの藤村とかいう御仁は、確か昇日会から賞金手配がでているのではなかったかな。……もうひとりの御仁は存じあげないな」
「私は意気地なしでしてね」森田が穏やかに言った。
「北平まで名前が響くようなたいした男ではない」
いま崑崙《コンロン》に向かう全員が、この部屋に肩を並べている。この部屋――「北平輸送保護協会」の出張所である。長いテーブルには燭台が並べられてはいるが、蝋燭《ろうそく》の焔はむしろ、そのむこうにいる男たちの顔を隠すのに役立っているようだ。
「どうだ? 小鬼……」蝋燭のむこうの、暗く闇に閉ざされた男が再び口を開いた。
「旅行なんかやめにしないか。藤村氏をこちらに渡せば、相応の礼をするぞ。それに、その天竜とかいう若僧に女房をねとられた男を知っている。可哀想に、その女、さんざんに弄《もてあそ》ばれたうえに、どこやらに売りとばされたそうな。その男だったら、天竜を切りきざむためなら、一万元でも払いそうだ」
「いい話だ」倉田は横に並んでいる藤村と天竜を陰険な眼で一瞥《いちべつ》した。
むろん、倉田も、「北平輸送保護協会」の男たちも、本気でそんなことを考えているわけではない。「保護」を頼みにきた人間を、そうして脅すのは、彼らがより多くの金を吸いとるための、いわば常套《じようとう》手段だった。つまり藤村たちを「保護」するには、レートの二パーセントでは不足だと暗にほのめかしているのである。――それが分っていても、藤村や天竜は沈黙を守っていた。常に芝居がかりなのは、中国のこうした秘密結社の体質のようなものであり、また芝居を通じたほうが、結局は商談が早く済むのも事実なのだ。
「幾らお支払いすれば、私の仲間を見逃がしてもらえますかな」森田が芝居の相手役をつとめる。
「荷総額の五パーセント」
「五パーセント……」
法外な額と言えたが、しかしそれだけの額をふっかけるからには、むこうは何かこちらの弱みを握っていると考えねばならなかった。それに、すでに出発しているキャラバンは、ほとんど「北平輸送保護協会」の人質に等しい。彼らの要求を拒むわけにはいかないのだった。
森田は倉田にちらりと眼を走らせた。倉田はわずかにうなずいて答える。
「いいでしょう」森田は微笑した。
「五パーセントお支払いしましょう」
こうして、五人の男が崑崙に旅立つための、その総《すべ》ての準備が完了したのだった。
――「北平輸送保護協会」の建物を出た五人の男は、皆一様に重い息を吐いた。準備に要したながい時間が、いまようやく重い疲労となって彼らの肩にのしかかっているようだった。
「別々に帰ったほうがいいだろうね」森田が言った。
「男が五人つれだって歩いているとめだって仕様がない。そうでなくとも、我々は人眼につくのを避けねばならんのだからね」
森田の言葉も終らないうちに、B・Wがふらりと小路に入っていった。黒い木綿の上下を着た彼の姿は、すぐに闇にまぎれて見えなくなった。
「いつもふしぎに思うんですがね」天竜《テイエンルン》が皮肉な口調で、藤村に囁《ささや》きかけてきた。
「ぼくが独りになるのを藤村さんは平気で見ているけど……また逃げださないかと心配にはならないんですか」
「ならないね」藤村は答えた。
「おまえがおれたちを裏切ることはあっても、無限軌道車《キヤタピラ・カー》を置きざりにしていくことはないはずだ。車を俺たちがおさえているかぎり、おまえはどこにも行きはしないさ」
天竜はニヤリと笑って見せた。虚勢だったかもしれないが、しかしその虚勢がこの美貌の少年にはいかにもよく似合っていた。そして――片手を振ると、立ち去っていった。
「あれだけのよか稚子《ちご》なら、なにも車なんかに夢中にならなくても、女がいくらでも手に入るだろうに……」倉田が首を振った。
「それに、男もね」森田が苦笑した。
「しかしね、倉田さん、仲間のあいだで恋愛ざたは困りますよ」
「ば、莫迦《ばか》な……」倉田は顔を真っ赤にした。「俺にその趣味はない」
「趣味がなくて幸いだったよ」藤村が言った。「天竜に惚れると、男も、女も身の破滅だ。俺は天竜に惚れたおかげで、財産を潰してしまった男を知っている。男だったら、まだ破産するぐらいですむが、女にいたっては売りとばされてしまう」
「…………」倉田は興ざめしたような表情《かお》になった。
「藤村さん、あの天竜という少年、どうやら女を憎悪しているようだね」森田が言った。
「なにか女にひどいめにあったことがあるんだろうか」
「さあ、ね……」藤村は首をひねった。
天竜と藤村との交際はもう三年以上にもなる。一方的に藤村が面倒をみるだけの関係だったが、それにしても天竜にとって、彼が最も近しい人間であることに違いはない。その藤村にしてからが、天竜が女にひどいめにあわされることがあろうなどとは、とうてい想像がつかなかった。なにしろ、十二のときから女を喰い物にしてきた少年なのだ。
倉田が歩き去り、森田がそのあとに続いた。
藤村はタバコに火をつけ、彼らとの距離が開くのを待った。――北長《ペイチヤン》街にちかい、土塀《どべい》が続いているだけの寂しい通りで、タバコが一本灰になるまでの間、人は誰も通らなかった。
タバコを投げ捨て、藤村が歩きだそうとしたそのとき、
「先生《シーサン》……」
背後からかんだかい声がかかった。
振り向いた藤村の眸《め》に、ボロ切れ同然の着物を着た子供の姿が映った。栄養失調にかかっているらしく、顔が蒼《あお》くむくんでいた。
「なにか用かね?」藤村はなかば無意識のうちに、ポケットの小銭をまさぐっていた。物乞いだと思ったのである。ところが、
「むこうの先生《シーサン》がこれを渡せって……」
子供は手紙のようなものを藤村の手に押しつけてきた。
「むこうの先生《シーサン》?……」
と藤村がきき返したときには、もう子供は駆け去っていた。
塀際にある街燈の下に歩き寄って、藤村は手紙を開いた。そこには、乱暴な走り書きでこう著《しる》されてあった。
『ついにみつけたぞ
これからゆっくりときさまを料理してやる
楽しみにしていろ
松本宏』
手紙を拡げたまま、藤村はしばらくジッとしていた。が、予期に反して、彼のうちに衝撃らしいものはわいてこなかった。来るべきものが来た。――藤村にとっては、ただそれだけのことかもしれなかった。いや、心のどこかでは、このときが来るのを心待ちにしてさえいたのかもしれない。
藤村は街燈の下から動こうとしなかった。いまの藤村は格好な標的と言えた。それを承知で、藤村は街燈の下に立ち続けていた。
が、何も起こらなかった。
藤村のうちでふいに何かが灼《や》けちぎれた。処刑をのばされることほど、覚悟を決めた罪人にとって残酷なことはなかった。
「松本っ、なぜ撃たないっ」藤村は叫んだ。
「俺はここにいるぞ、撃てっ」
夜闇に銃声が炸裂《さくれつ》した。
塀が鈍い音を発した。藤村の頭上二十センチぐらいのところを、弾丸はかすめていったのだ。明らかにわざと外した弾丸《たま》だった。いまの藤村を射とめることができないような人間なら、もともとが銃を持つ資格がないと言えた。それに、藤村の知る他の誰よりも、松本は射撃の名手なのである。
「松本っ、出てこい」藤村は再び声を限りに叫んだ。
「殺されてやるから出てこい」
しかし、闇《やみ》から答える声はなかった。まるで今の銃声が嘘《うそ》ででもあったかのように、闇には静寂《しじま》が満ち満ちていた。
――これからゆっくりときさまを料理してやる……
闇を見つめ続ける藤村は、ようやくその文章の意味するところを理解したのだった。
第四章 長城の彼方《かなた》
北平《ペイピン》を出発したのは深夜だった。彼らの出発には、勇壮なかけ声も、旅立ちにつきものの陽気な喧噪《けんそう》もなかった。ホロをかけられ、あたかも中型のトラックのように擬装された無限軌道車《キヤタピラ・カー》一台では、旅立ちというより、夜逃げの観がふかくなるのも当然かもしれなかった。
通常、この種の旅行をするのには、南京政府の許可と、辺境諸省の主席との折衝を必要としていた。が、この旅行の目的を誰にも知られたくない、特に関東軍にだけは知られたくないという渡会《わたらい》の希望から、計画は総《すべ》て秘密|裡《り》に進められたのだった。
明け方には、北平から数キロの場にある黒竜寺に着いていた。黒竜寺は、西の聖地である妙峰山に向かう巡礼たちの最初の宿泊地で、旅の成功を祈って、その側にある泉に銅貨を投げこむのが慣《ならわ》しとなっていた。――むろん藤村たちは巡礼ではないし、また泉に銅貨を投げこんでいるだけの時間的余裕もあるはずがなかった。
黒竜寺には三頭の馬を預けてあった。一行はここで探険隊としての陣容を整えることになっていた。
三頭の馬のうち、二頭までが藤村の見つけてきた馬だった。二頭の馬に角砂糖を与えながら、どちらを選ぶ、と藤村はB・Wに尋ねた。どちらでもいい、とB・Wは憂鬱《ゆううつ》げに答えた。実際、必要に迫られてやむなく乗るというだけの話で、B・Wはさほど馬に興味を持っているようには見えなかった。
藤村の求めた馬が、いずれもどちらかというと見ばえのしないくり毛であるのに比して、倉田がわざわざ北平まで運んできた馬は、目の醒《さ》めるような白馬だった。頭の骨格、つりあがった目、首筋――申しぶんなく完璧なサラブレッド競走馬だった。
「どうだ? いい馬だろう」馬の首を軽くたたきながら、倉田は眼を細めた。
「馬賊多しといえども、こいつを乗りこなせるのはまず俺ぐらいなものだ」
倉田のいつもながらの大言だったが、確かにその馬は気性が激しく、それ以上に誇り高い性質を具《そな》えているようだった。
「名前はあるのか」藤村はきいた。
「もちろんだとも」倉田は馬の額を指差した。「流星号というんだ」
馬の額から鼻にかけて、流れ星のような印がくっきりと浮きでていた。――馬の話をしているかぎり、藤村は倉田とうまくやっていけそうだった。だが、なおも流星号の自慢をいいたてようとする倉田の相手を、いつまでもつとめているわけにはいかなかった。
三十分後、一行は黒竜寺を出発した。先頭が藤村の乗った馬、次にはホロをかけられた無限軌道車、三番手の馬には、いずれも乗馬がさほど得意ではない森田とB・Wが交替に乗り、しんがりは倉田の誇る流星号という陣容だった。
北平郊外を抜けるのには細心の注意を要した。まだ人目が多く、とくに郊外で車を走らせている外国人ほど物見だかい存在はいないからである。――この時点で最も活躍したのは天竜《テイエンルン》だった。実際、裏道と呼ぶのさえはばかるようなルート総てに通暁《つうぎよう》している彼がいなければ、一行はいずれ役人たちから足どめをくらうことになったろう。
その晩、彼らは崩れかかった橋の下で野営した。
――二日め、彼らは北直隷《ペーチーリ》平野のうちでも、最難路のひとつに数えられる南口に通じる路《みち》を進んでいた。北口から南口まで百キロ、さらに張家口《ちようかこう》までもう百キロ――実は、ラクダ道の起点であるこの張家口にいたって、ようやく彼らの旅は始まると言えるのだ。
とは言っても、旅立ち以前のこの道程においてさえ、すでに彼らの旅は困難をきわめていた。南口嶺と呼ばれるこのルートは、延長二十キロにも及ぶ急斜面にそって、岩や石が散在する隘路《あいろ》がつけられているだけなのである。馬やラクダを使うのならともかく、このルートを車で進むなど気違いざたと言うべきだった。
天竜はチェンジ・レバーを二段から一段にさげて、時速二キロという極端な鈍速で、無限軌道車《キヤタピラ・カー》を進めていく。容赦なくくいこんでいく車の重量に、ときに岩場が崩れようとするのを、車盤で圧さえつけるようにして、着実に進んでいく――
藤村と倉田も安全を期して、馬からおりて徒歩で進んでいた。B・Wと交替して、無限軌道車の助手席から馬に移った森田も、なにやらホッとしたような表情《かお》で、手綱を引いている。
先行していた無限軌道車がふいに大きく傾いた。危うくずり落ちていきそうになる車のバランスを、天竜はエンジンをふかすことで、なんとか正常に保つことができたようだ。
車輪とキャタピラがはじきとばした小石が、とっさに身を縮めた藤村たちのうえに、パラパラとふりかかった。馬がいなないて、斜面を後ずさった。
「おろしてくれっ」驚いたことに、あのいつも沈着で恐いものなどないはずのB・Wが、助手席で悲鳴をあげた。
「俺をおろしてくれ」
車の時速はわずかに二キロである。その気になれば女子供だってとびおりることができたはずだ。それを、B・Wともあろう男が、泣かんばかりになって、車を停めるよう天竜に懇願しているのだ。
天竜があきれたように車を停め、B・Wは文字どおり外にとびだした。そして、しばらく肩をゆるがして、激しく喘《あえ》いでいたが、――下から見上げている藤村たちの視線にようやく気がついて、ギクリと表情をこわばらせた。
B・Wはクルリと踵《きびす》を返すと、ほとんど這《は》いあがるようにして、しゃにむに斜面をよじ登り始めた。
「なんだ? あの男は」倉田が嗤《わら》った。
そんな倉田をやりすごして、後から馬を引いてくる森田に、藤村は声をかけた。
「あの男は使い物になるか、と俺はきいたことがあったな。覚えているか」
「覚えているとも」森田はいつにも増して、眠たげに眼を細めていた。
「殺し屋が将来の設計をたてているんだ。自分の命を惜しみ始めているんだ。普通の人間よりもむしろ臆病《おくびよう》になって当然だろう……どうだ? いまのB・Wを見ても、あの男は大丈夫だと言いきれるか」
「私はいざというときに備えて、B・Wをメンバーに加えると言った」森田が答えた。
「いまでもその決断に間違いはなかったと信じているよ」
――結局、その夜も一行は岩かげで野営をすることになった。通常、野宿をする人間たちにとって、火は料理をするためにのみたかれるものではない。夜闇に燃えさかる焔は、そこに集う人たちの胸に一種の連帯感を与え、彼らの舌を滑らかにするよう働きかけるものなのだ。
が――藤村にとって、倉田にとって、森田にとってさえ、眼前で燃えさかる焔は、料理をするため以上の意味をもっていないようだった。天竜にいたっては、仲間から離れて、車のなかで眠っている。彼らには互いに語りあうべきどんな言葉もないのだった。
俺たちは誰も仲間を信じていない、と藤村は苦く考えた。崑崙《コンロン》をみつける、というほとんど夢物語にも似た旅を共にするには、これはまたなんというリアリスト揃いであることだろう。――B・Wと倉田は、多分、渡会から莫大な報酬を約束されて、この旅に参加する気になったのだろう。天竜は藤村に追いつめられて、そして藤村自身も渡会に追いつめられて、メンバーの一員となったにすぎない。森田は渡会の代理ともいうべき立場だが、崑崙をみつけだすことで中国を再び強国にしたい、という渡会の言葉にしてからが、どこまで本音だか怪しいものだった。誰ひとりとして仲間を信じなくても当然だったかもしれない……
――俺はやはり独りで崑崙をさがすべきだったのではないか。藤村の胸にはようやく後悔にも似た思いがめばえ始めていた。失敗したとはいえ、とにかく剣歯虎《サーベル・タイガー》と出会うところまでいったのだ。もう一度、独りで試みるべきだったのではないか。
中国を強国に戻すことで、日本を破滅の淵から救う……そんな大義名分がいったい藤村にとってなんだというのだろう。
藤村はひとりの女を殺した。そして、かつての親友をも含む多くの人間から追われる立場となった。が、藤村が自殺を決意したのは、決して追いつめられたからではなく、自分をひとりの罪人としてしか考えられなくなったからである。自分には生きうるどんな価値もないと信じたからだ。自殺の地として、女の故郷を選んだのは、藤村が自分に許した最後の甘えだったかもしれない。幸い女はいつも故郷がどこにあるのかを語っていた。その故郷が、崑崙だった。――一度は死に場所を求めるという、ただそれだけのために旅立ったはずの崑崙へ、今度は大義名分をひっさげて出かけようとしている。……藤村は自分をそれ以上もなく破廉恥漢《はれんちかん》だと思った。
他の誰にも増して、深い沈黙にひたっていたB・Wがふいに立ちあがると、一瞬の動きで背後の岩かげにとびこんだ。藤村たちが思わず腰を浮かしかけたとき、鋭い獣の鳴き声が聞こえてきた。
岩かげからゆっくりと姿を現わしたB・Wは、その腕《かいな》に山犬の死骸を抱えていた。B・Wのもう一方の手には血に染まったのみが握られていた。
「あいかわらずの凄腕《すごうで》だね」森田が微笑を浮かべながら言った。
B・Wは安心したように山犬の死骸を地に落とすと、再び岩かげに腰をおろして、懐から例の英会話読本を取りだした。彼がどうして山犬を殺すなどという無益な真似をしたかは明らかだった。彼は彼なりに今日の醜態を苦にしていたのだろう。
――B・Wはあてにはできない。藤村は改めてその確信を深くした。
翌日、一行は万里の長城を越えた。はるけき昔、強大な暴君が建設したこの長城は、山を跨《また》ぎ、谷を下り、蜒々《えんえん》と続いている。シナと「夷狄《いてき》の国」を画するために設けられた万里の長城は、いまも望楼、銃眼、濠《ほり》を残し、山海関から粛州《しゆくしゆう》のかなたまで延びているのだった。――凸角堡《とつかくほう》、第一門、北門|鎖鑰《さやく》と通過しながら、藤村はいまさらのように古代人のバイタリティに畏敬《いけい》の念を抱かないではいられなかった。
さらに小さな村を過《よぎ》り、脆弱《ぜいじやく》な橋を幾つか渡り、一行はついに張家口に到着した。そしてその晩は、張家口の「王城館」という宿に一泊することになった。
いまはさびれてしまい、昔日《せきじつ》の面影はないが、第一次大戦直後の頃には、この「王城館」はヨーロッパ人向けのホテルとして、かなりに有名だったらしい。当時は外モンゴルとの交易がまだ自由であったため、張家口−ウルガ間を車で往復して、毛皮交易で一旗あげようというイギリス人、ドイツ人、フランス人、スウェーデン人が、この宿に群れ集っていたのである。
が、現在《いま》の「王城館」は荒れ放題に荒れ、閉鎖寸前にまでの経営難に陥っているようだった。藤村たち一行が到着したとき、この宿にはスウェーデン人の若いカップルと、なにやら得体の知れない三人の日本人――計五人の宿泊客がいるのみだった。
藤村たちは疲れきっていた。それぞれに馬の世話、車の整備をして、ホールで食事を済ませれば、あとは自室で寝るだけが望みの総てだった。
――藤村はなかなか眠りに入ることができなかった。あまりに疲れすぎていることが、逆に眠りをさまたげているのかもしれなかった。闇を見る彼の眼は、時がたつにつれますますさえていき、それが身体の疲労とあいまって、後頭部にうずくような痛みを覚えた。
藤村はため息をついて、ベッドから抜けだした。下階《した》で水でも飲もうと考えたのだ。藤村の時計は一時を指していた。
階段をおりていく藤村に、ホールから声をかける者があった。
「やあ、眠れませんか」
この宿に泊まっている三人の日本人たちだった。彼らはひとつテーブルを囲んで、ウイスキーを飲みかわしていたようだ。
「我々も夜ふかしが癖《くせ》になってしまいましてね」彼らのうちのひとりが言った。
「毎晩こうやって仲間うちだけで酒を飲むのにも飽き飽きしてたんですよ。どうです? よかったら、あなたもごいっしょに飲《や》りませんか」
藤村は反射的に首を振りかけて、そして思い直した。森田、B・W、天竜《テイエンルン》たちと行動を共にしているうちに、いつしか彼のうちにも特殊な嗅覚《きゆうかく》が備わっていたようだ。謀略と暴力を生業《なりわい》にしている男たちがかもしだす微細な雰囲気をかぎつける特殊な嗅覚が。
その三人の日本人たちにどこか変わったところがあったというわけではない。年齢《とし》は藤村と同じぐらい。異国のホテルで、深夜ウイスキーを飲みかわすのに相応《ふさわ》しい蕩児《とうじ》的な雰囲気をそれぞれに備えてはいるが、それにしたところで東京の雑踏に混じればさほどめだちはしないだろう。要するに、平凡な若者たちにすぎなかったのだ。
だが藤村は、彼らの平凡な印象のしたに隠されている、なにか独特な、強靭《きようじん》なものをかぎつけていた。それは、天竜やB・Wたちよりも、むしろ森田に共通する何かだったようだが。
「お相手しましょう」藤村はうなずいた。
大げさに椅子を動かし、彼を迎える男たちに会釈《えしやく》して、藤村はテーブルについた。最初に声をかけてきた男が、藤村のまえによく磨きこまれたグラスを置いた。続いて、右隣りの男がウイスキーをなみなみと注いだ。
「それじゃ、遠慮なく」
グラスを眼の高さにまであげて、藤村は誰に向かってともなくうなずいて見せた。その時、毒をもられるのではないか、という思いがフッと藤村の頭をよぎった。藤村は一気にグラスをあけた。
咽喉《のど》にひろがっていく灼熱感をむりやりに嚥下《えんか》して、藤村は大きな息を吐いた。
「おみごと」男たちが笑った。
藤村も笑った。いずれの笑いにも、初対面だからばかりとはいえない、妙なぎこちなさが含まれているようだった。
「……ご旅行ですか」右隣りの男が再び藤村のグラスを満たした。
「そんなところです」藤村はうなずいた。
「うらやましいかぎりだな」それまで黙していた男が初めて口を開いた。
「こちらは仕事ですからな」
「どんなお仕事ですか」
「毛皮です」その質問をなかば予期していたかのように、男はそくざに答えた。
「三人で組んで、毛皮の交易をやっているんです」
その声音には真実の響きはひとかけらも含まれていなかった。彼らは芝居をしているのかもしれないが、必ずしもその芝居を隠そうとはしていないようだった。藤村にとっても、彼らがあつかっているのが毛皮ではなく、たとえアヘンだったとしても、どうでもいいことだった。
藤村が唯一知りたいのは、彼らが自分に声をかけてきたのは、本当に新しい飲み仲間がほしかったからなのか、それとも他に意図するところがあったのか、ということだけであった。
「我々のような仕事をしていると、いろいろ面白い話をききますよ」最初に声をかけてきた男が言った。
「さまよう湖の話を知っていますか」
「ロブ湖のことですか」と、藤村。
「そうです。ロブ湖のことです。ロブ湖というのは面白い湖でしてね」男は唇をグラスにふれたが、しかしウイスキーを飲んではいなかった。
「昔は、ロブ湖の水は地下に伏流して黄河の水になると信じられていた。現在は誰もそうは思っていないようですが、ね。……ヘデインというスウェーデン人の探険家が、二年まえに調べたところ、古代中国人たちのいう『蒲昌海《ほしようかい》』――つまり、ロブ湖は砂漠を移動するということですな。あそこらの砂漠は完全に平坦だから、ちょっと水準線が変わっても、流水の方向が変わってしまうということらしいんですが……」
初対面の男と酒をくみかわしながら話しあうには、かなり相応《ふさわ》しくない話題といえそうだった。唐突にもちだされたロブ湖の話に、藤村は少々めんくらった。――結局は藤村の思い過ごしだったのか。この三人は、ただの毛皮商人にすぎないのだろうか。
「私には空想癖がありましてね」男は言葉をつづけた。
「ロブ湖があちこち位置を変えるのは、やはりその水が地下を伏流して、どこかにつながっているからじゃないかと思うんですよ。そして、そのどこかというのは、同時に黄河の水ともつながっている。……だから、黄河の水とロブ湖の水は同じものであるという説が、古代の中国では盛んに言い伝えられていたのではないかと……」
なにか、藤村の意識の淵にひっかかるものがあった。一度はウイスキーに濁りかけていた頭が、再び明晰《めいせき》さをとり戻す。
「そのどこかというのは、具体的にはどこのことなんです?」藤村はゆっくりとした口調できいた。
「古代の中国人は一種の神仙境のような場所だと考えていたらしい」右隣りの男が揶揄《やゆ》を含んだ声で答えた。
「崑崙という名で呼ばれていた……」
それまでどこか曖昧《あいまい》な仮面を被《かぶ》っていた男たちが、ここにいたって、はっきりとその素顔をさらしたように藤村には思えた。崑崙という名が出てきた以上、彼らがただの毛皮商人であるはずがなかった。――だが、芝居はなおも続けられる必要があった。
「地図のうえでは、崑崙などという場所はどこにもない。またそんな場所が存在すれば、これまでに発見されていないはずがない」
と、藤村は笑って見せた。
「ただの伝説にすぎないでしょう」
「常識人なら誰もがそう思う。だが、世の中ってのは面白くできている」最初に声をかけてきた男――彼がどうやら三人のなかのリーダー格らしかった――が言った。
「もう去年の話ですがね。上海に崑崙で生まれたと称する女が現われたんですよ……なんでも男に殺されたそうですが、ね」
「どうせ、いかさま師でしょう」藤村はさりげなく男の攻撃をかわそうとしたが、しかしその声は震えを帯びていたようだ。
「そうとばかりも言えないようだ」
男は腰をかがめて、テーブルの下からなにか布でくるまれたものを取り出した。
「こんなものを見たことがありますか」
布のなかから現われたそれを見たとき、藤村ははっきりと自分の顔から血の気がひいていくのを感じた。それは日本の琵琶《びわ》に似た、しかし一本の弦しか張られていない楽器だった。「空桑《くうそう》の琴瑟《きんしつ》」――李夢蘭《りむらん》はその楽器をそう呼び、常に身辺から離そうとはしなかった。
「我々にはこんな一本の弦しか張られていない楽器は演奏できっこない」男は琴瑟をテーブルのうえに置いた。
「だが、その女はこいつを実に鮮やかにかき鳴らしたそうですよ。なんでもその女が手にすると、ただ一本の弦がまるで生きているかのように、びょうびょうと鳴ったということなんですがね……」
それ以上、藤村はその場にいることに耐えられそうになかった。
「失礼しますよ……」藤村は必死の自制で、唇に微笑を保ちつづけていた。
「明日は朝がはやいんで……」
「これはどうも……むりやりにひきとめたりして……」
男たちはいずれも愛想よく、藤村の辞意をうけいれた。
階段を登っていくとき、背中にかすかな嘲笑《ちようしよう》をきいたように思ったが、藤村はあえて振り返ろうとはしなかった。自室に入ると、上着を脱いだだけで、ぶっ倒れるようにベッドに横になった。
――李夢蘭……藤村は暗い天井を見つめながら、その名を繰り返しつぶやいていた。
藤村が李夢蘭と初めて顔をあわしたのは、前年十二月のデモで死亡した学生の慰霊祭が行なわれ、上海での抗日意識がいよいよ激化した頃、すなわち一九三二年一月の初旬であった――
その日、藤村は友人の松本宏を訪ねて、北駅にちかい|〓江《キユウキヤン》路の、とある娼家の門をたたいていた。
ドアを開けたのは、筋肉の束でつくられたような巨躯の、しかしいかにも魯鈍《ろどん》そうな表情《かお》をした大男だった。
「松本という男がここにいるはずだが」藤村が言った。
大男の表情にはどんな知性のきらめきも浮かんではこなかった。「待っていてくれ」と口のなかでつぶやいて、そのまま家の内部《なか》に姿を消してしまったのだ。
大男が再び姿を見せたときには、吹きつけてくる冬の冷たい夜風に、藤村の身体は芯《しん》まで凍りついていた。
「入ってくれ」大男は白い歯を見せた。
その娼家は、二階ふた間階下ふた間の上海規格型の側楼で、装飾らしい装飾がほとんどほどこされていないこともてつだって、なにか学生向きの下宿館のように見えた。テーブルのうえの皿に盛られている饅頭《マントウ》、にこごり、大根の味噌漬《みそづけ》などの家庭料理が、ますますそこを娼家らしくなく見せていた。
――これなら意外にかんたんに話がすみそうだな、と藤村は思った。娼家といっても、ここはひとりの女が家を借りて商売しているだけの所らしい。どこかお抱えの女と関係ができたというなら、相当の手切れ金をはずまねばならない、と覚悟していたのだが……
藤村は椅子に坐って、しばらく|〓《カン》のなかで燃えている火を見つめていた。彼と松本との親交はもう十年にも及ぶが、ここ半年ばかりは互いにいきちがって、ついぞ会う機会がもてなかった。久しぶりに親友と会う楽しみに、藤村の胸はいつになく浮かれていた。
「やあ、待たせてすまなかったな……」松本が部屋に入ってきた。
「…………」
久しぶりに見る友人の、あまりの変わりように、藤村はしばらく声も出なかった。かつては七十キロをこえるたくましい体躯の持ち主だったはずの松本が、いまは蒼白くやせほそり、肩などはゲッソリと肉がおちているのだ。油気のない長髪が、やつれた顔の半分を覆い、眼だけがギラギラと狂的な光を帯びている。
――アヘンだ。藤村は直感した。松本が悪い女に騙《だま》されて、身動きできないような状態になっているとは、共通の友人からきかされて知っていたが、どうやら彼が身動きできないのは女のせいばかりではないようだった。
「腹は減っていないか」明らかに藤村の質問を避けようと意図して、松本はいつになく饒舌《じようぜつ》だった。
「どうだ? 奥に言って、酒でも用意させようか」
「腹も減っていないし、酒もここでは飲みたくない」
と、藤村はしわがれた声で答えた。松本のような男が、いまのような状態に陥ったのを見るのは、藤村にとってこのうえもなく辛いことだったのだ。
「それより、俺と一緒にここを出よう」
「東京の親父に頼まれたのか」松本は気弱げに眼を伏せた。
「いや」藤村は首を振った。
「東京のお父上はまだきみの現況を知らないでいる。少なくとも、俺のきいた範囲ではそのはずだ。俺がここに来たのは、あくまでもひとりの友人としてだよ……」
松本の父親は、その名をいえば日本人なら誰でも知っている、ある高名な政治家だった。――妾腹の子ではあったが、その政治家にとっては唯一の男児ということもあり、松本宏は上海の日本人租界においてはかなりの有名人であった。松本も藤村と同じく、中国の混沌《カオス》に魅せられ、他所へは行けなくなった男なのだ。もともとが欧州へ音楽を勉強しにいく途中、ほんの数日間滞在するつもりで上海におりたのだが、それが十年以上にもなってしまったのだった。
「それなら、俺を放っておいてくれないだろうか」松本が言った。
「きみに他人《ひと》の恋路をじゃまする趣味はなかったはずだ」
「ここに来てきみに会うまえは、事情によっては放っておくつもりだったんだが……」藤村の声音が一変してきびしいものになった。
「女だけではなく、アヘンにまで耽溺《たんでき》しているとなると放っておくわけにはいかんな」
「耽溺しているわけじゃない」松本はそれが癖の、気弱げな微笑を浮かべた。
「少々アヘンをたしなんでいます、というわけか」藤村は容赦しなかった。
「冗談じゃない。いまの自分の姿を見たことがあるのか。まるで骸骨《がいこつ》だぜ」
「アヘンのせいじゃないんだよ」松本は弁解がましく言った。
「ちょっとカゼをひいてしまってね」
「とにかく帰ろう」藤村は立ち上がって、松本の腕に手をかけた。
「帰りたくないんだ」松本は子供のようにかぶりを振った。「帰れないんだ」
「私の亭主をどこへ連れていこうと言うんだい?」
ふいに部屋の隅から鋭い女の声がきこえてきた。
振り返った藤村の眼に、ドア口に立っている若い女の姿が映った。女の後ろにはさっきの大男が立っている。
「熊《シユン》、その恥知らずを外に出すんじゃないよ」女の声がさらに鋭く、たかいものになった。
どうやら熊《シユン》というのが、その大男の名前らしかった。なにかはにかむような笑みを浮かべて、大男は藤村の背後にまわりこみ、ドアのまえに立った。
「俺の友人なんだ」松本が哀願するように言った。
「乱暴するのはやめてくれ」
女は松本の言葉に答えようとはせず、敵意に満ちた眼で藤村を睨みつけている。――女はスリットの深い、紫色のチャイナ・ドレスを身につけていた。黒い光沢のある双眸と、薄い唇が、その女をいかにも挑戦的に見せていた。肌理《きめ》のこまかい瓜実《うりざね》顔を、腰まで伸ばした髪がクッキリとかたちどっていた。
「日本語がうまいじゃないか」藤村はとにかくこの場の緊張した空気を和らげようと思った。
「汚れた日本人《リーベンレン》になめられないためには、日本語ぐらい喋《しやべ》れなきゃ、ね」女は藤村の世辞をうけつけようとはしなかった。
「俺は汚れた日本人ではないし、あんたをなめているわけでもない」藤村は辛抱強く言った。
「ただ友人と話をしたいと思っているだけだ」
「人の亭主をひっさらっていこうとするのが汚ないことでなくてなんなのさ?」女はせせら笑った。「それでも、女房の私をなめていないと言うのかい」
藤村は眉をひそめた。どうして松本宏がこの女に魅せられたのか理解できるような気がした。松本はその素姓と、体格にも関わらずひどく気弱な男だった。それに比して、眼前の女は気性が激しく、頭がきれて、しかも炎のような美貌を備えている。およそ正反対な両人《ふたり》と言えた。そして、人は相手が自分と違えば違うほど強い恋情を抱くものではないだろうか……
「俺は好きあっている男女の仲をひき裂こうと考えるほど野暮天ではないつもりだ」藤村は言った。
「ただ女房のあんたのおかげで、友人がアヘン中毒になってしまうのを見逃すわけにはいかん……」
「放っといてくれないか」松本が繰り返しつぶやいている。「頼むから俺を放っといてくれないか」
「あんたなんかに何が分ると言うのさ」女の口調が強くなった。
「本当に友達だと言うなら、この男《ひと》が言うように放っといたらいいじゃないか」
――山猫だ、と藤村は思った。この女は容易に人となれあわない山猫だ……
「本当の友達だからこそ、松本をアヘンから救ってやりたいんだ」
「日本人は皆《みんな》そうだけど、あんたもおためごかしが好きだねえ。本音を吐けば、友人が中国女なんかにうつつをぬかしているのは我慢ができないというんだろう?」
「莫迦《ばか》をいうな」さすがに藤村の頭が怒りで熱くなった。
「繰り返すようだが、俺はただ松本をアヘンから……」
「あんたなんかに救えるもんか」
女は叫ぶように言うと、サッと片足をテーブルのうえにのせた。ドレスが割れて、女のかたちのいい足がむきだしになった。
「キスして」女は松本に言った。「私の足にキスして。お友達に、私たちの仲がどんなにいいか見せつけてやって――」
それは明らかに女が藤村になげつけた挑戦状だった。突然のことで、さすがの藤村もどう対処していいかとっさには分らなかった。
異様に緊迫した時間が流れた。いや、流れたと感じたのは藤村の錯覚で、実際には、十秒ほどの時間がたっただけなのかもしれなかった。女のギラギラと輝く眼に促されたかのように、松本がふらつきながら席を立った。そして女のまえにひざまずくと、その唇を足にちかづけていった。
「やめないか」藤村のなかでなにかが音をたてて弾《はじ》けた。
藤村につきとばされて、松本は床に転倒した。
そのとたんに、藤村の後頭部になにかが落ちてきた。巌《いわお》のように重く、剃刀《かみそり》のように鋭いなにかだった。
それが、あの熊《シユン》と呼ばれた大男の一撃だと覚る間もなく、藤村は完全に意識を失っていた――
藤村はこうして李夢蘭《りむらん》と知りあうことになったのだ。
第五章 百霊廟《ペリミヤオ》
「王城館」をたって四日後、五人はようやく百霊廟《ペリミヤオ》に着くことができた。
百霊廟は二千人のラマ僧を擁する僧院で、内蒙古の自治運動の中心地として、非常な活気を呈していた。確かに、巨大なテラスのように建物が段をなす百霊廟は、ひとつの理想をまっとうする場として最も相応しいところかもしれなかった。
が、藤村たちにとって、百霊廟はラマ僧院であるという以上の意味をもっていた。ここで草原地帯が終るのだ。ここから西は、言葉の真の意味での不毛な、過酷な荒野がひろがっているのみなのである。
天竜《テイエンルン》の無限軌道車《キヤタピラ・カー》が、藤村の選んだアラブ馬が、倉田の流星号が、実際に真価を発揮するのはこれからだと言えた。いやがうえにも彼らは緊張を覚えざるをえなかった。
――百霊廟に着いたときまだ陽はたかかったが、慎重を期して、彼らはその傍らに天幕《ユルト》をはることにした。
そして、夜がきた。
「誰かが笛をふいているな」森田が言った。
笛が吹かれているだけではなかった。もの淋しい馬頭琴《モリン・トロガイ・ホーレ》の音《ね》も、胡弓のかんだかい音も、笛の音にまじって聞こえてくる。どうやらその三重奏は、清朝時代の宮廷音楽らしく、夜の静寂《しじま》に滲みこんでいくような典雅な響きを備えていた。
いま百霊廟の周囲《まわり》には百にちかい数の天幕《ユルト》がはられている。その天幕のどこかに、自らの奏でる室内音楽にうっとりとしている連中がいるわけだ。
森田のつぶやいたその言葉は、池に投げられたただひとつの小石のように、他の四人にはなんの反響もよびおこさなかった。藤村と倉田はそれぞれに身体《からだ》を寝袋につつんでいる。天竜はどこで拾ってきたのか、広口瓶のなかのサソリに見いっている。B・Wは――彼のみがわずかにではあるが音楽にあわせて身体を動かしていた。
「寂しい音楽だな……」森田が再びボソリと言った。
その寂しさは音楽からばかりではなく、常に彼ら五人のうえにおちている沈黙にもまた原因があるのかもしれなかった。
今夜もまた、互いに口を閉ざし、ただ眠くなるのを待っているだけの時間が過ぎていくはずだった。その老人がとつぜんに天幕に姿を現わしさえしなければ……
「何か用か?」眉をしかめながら、倉田がきいた。
注意を要する相手には見えなかったが、しかし歓迎すべき人物とも思えなかった。ラマ僧であることは間違いなかった。その痩せた老人は、まるで自分の所有物ででもあるかのようにフラリと天幕に入ってきて、黙したまま柔和な笑みを浮かべているのだ。
「天幕を間違われたんじゃないですか」森田が北京語で穏やかに言った。
老人はかぶりを振った。だが、沈黙を続けている。
――待てよ。藤村の頭のなかになにかきらめくものがあった。眼前の老人には、ただのラマ僧にはないような一種の威圧感が備わっていた。もしかしたら、この老人は……
「あなたは|山から来たラマ《オーレン・ラマ》ではないのですか」藤村は北京語できいた。
「あの予知をよくすると伝えられている|山から来たラマ《オーレン・ラマ》ではないのですか」
老人はうなずいた。
「|山から来たラマ《オーレン・ラマ》?」倉田が声をたかめた。
「なんのことだ?」
「きいたことがある」B・Wが言った。「ここらでは聖人のようにしたわれているということだ」
「ほう」と、森田。
「いかさま師というわけか」倉田が歯をむきだして嗤《わら》った。
「どうせ金がめあてなんだろう。いくらか投げてやろうか」
「金が欲しいわけではない」老人がたどたどしい日本語で言った。「山での暮らしに金は必要ない……」
「…………」
まさか老人が日本語を解するとは思ってもいなかったのだろう。とっさには倉田はかえす言葉を失ったようだった。
「日本語がお上手ですな」森田の眼は穏やかな微笑をたたえていた。
「どうも我々日本人には人の行動を金に換算する悪癖があるようだ。気を悪くなさらないでください」
そのとき――ふいに天竜《テイエンルン》がサソリの入った広口瓶を老人の足元に転がした。サソリの出現に慌てふためく聖人を見物しようという、これはいかにも天竜らしい悪意に満ちたいたずらというべきだった。
藤村たちは反射的に腰をうかしている。いま広口瓶の蓋は外れ、サソリが外に這いだしつつあった。――が、老人はまったく動揺を見せようとはしなかった。腰をかがめると、なんのためらいもなくサソリを地から拾いあげたのである。
いまにも悲鳴をあげて、地に倒れるようなことになるのではないか、と藤村たちは息をのんで老人を見つめている。しかし、老人の指のあいだで、サソリはピクとも動こうとはしなかった。
「この可哀想な虫をいただいてもよろしいでしょうか」老人が言った。
「どうやらそちらの若いお人は、あまりこの虫を必要とされてはいないようだ」
「かまわんだろうな、天竜」珍しく怒りを含んだ声で、森田が天竜にきいた。
天竜は蒼白になっている。
老人に対する恐れにも似た畏敬の念が、いまや完全に一同を支配しているようだった。
「なんのご用でしょうか」
と、藤村があらためてきいた。
「あなた方は実に面白い未来をもっておいでのようだ」老人は赤い法衣の下にサソリをつっこみながら答えた。
「できれば、その未来をもう少し詳しく見せていただきたいと思いましてな……」
思いもよらぬ申しでというしかなかった。男たちはそれぞれに互いの表情《かお》を盗み見て、そして最終的にはリーダーたる森田の返事を待つようなかたちになった。
「少なくとも私に関していえば、面白い未来があるとは思えませんな」森田が言った。
「私のこれまでの人生は平々凡々としたものだったし、できればこれから先もなんの波瀾《はらん》もなく生涯を終えたいと願っているような男ですからな」
森田の返答に、藤村はある種の安堵感《あんどかん》を覚えた。松本に殺されるか、それともかつて願っていたように自ら生命《いのち》を絶つことになるか、いずれにしろ藤村の未来が暗澹《あんたん》としたものであることには違いなかった。死を受け入れる覚悟はできているが、その事実を他者の口からあらためてきかされるのはたまらない思いがした。
が――
「俺は知りたい」妙にせっぱつまった口調で、B・Wが言った。
「俺は俺の未来を知りたい」
上昇志向型の殺し屋、という実に矛盾に満ちた立場に身をおいているB・Wにしてみれば、おのれの未来を知ることはそのうえもなく重要なことであるかもしれなかった。
「……分った」森田が苦笑した。「我々の未来を教えていただくことにしよう」
天竜が憤懣《ふんまん》やるかたないといった表情で、ぷいっと天幕《ユルト》から出ていった。今夜もまた彼は無限軌道車《キヤタピラ・カー》のなかで眠ることになる。
老人のいういわゆる未来を見る儀式が始まった。
モンゴルに古くから伝わる占いで、羊の肩胛骨《けんこうこつ》を火にくべて、熱によって生じる裂けめで未来を見るのである。
いつしかあの三重奏も終っていた。パチパチという骨のはぜる音だけが、天幕《ユルト》に聞こえる音のすべてだった。
――俺は以前にこれと同じような場にいたことがある、と藤村は思った。たんなる既視感でしかないことは自分でも分っていた。ひとつの炎を囲んで、仲間たちが座しているというなにか家族的な雰囲気が、藤村に故郷の幼年時を思い起こさせたのだろう。
「あの少年……」老人が低い声で言った。
「あの少年は母親と会うことになる」
藤村と森田は顔を見あわせた。あの少年といえば天竜のことだろうが、およそ天竜と母親という言葉ほどそぐわないものはないはずだった。
「俺はどうなる?」B・Wが性急にきいた。
老人はしばらく黙していた。キツネ色にこげ始めた羊の肩胛骨が、いま老人に男たちの未来を告げている。
「あなたは故郷のために死ぬ」やがて、老人が言った。「故郷を守るために戦って、そして喜びのうちに死んでいく」
「故郷?」B・Wは傷つけられたような表情になった。「俺は自分がどこで生まれたのか知らない。捨て子だったんだ」
それはなかば質問だったはずだ。故郷を知らないB・Wがどうしてそれを守ることができるのか。――が、老人がB・Wの問いに答えることはなかった。肩胛骨を通して伝わってくる男たちの未来に、いま老人は完全に魅せられているようだった。
「俺はどうだ?」
と、倉田がきいた。無関心の態を装っているが、彼もまた老人の言葉を信じ、自分の未来に真摯《しんし》な興味を抱いているのは確かだった。
――これは現実のことか、と藤村は一瞬疑った。森田を除いては、いずれを見ても人を人とも思わない、無頼《ぶらい》の生活を送ってきたはずの男たちが、まるで良縁を願う乙女のように占いの言葉に一喜一憂しているのだ。それはむしろ哀れとさえいえる情景だった。
「あなたは愛するものの犠牲となって生命《いのち》をおとす」老人が言った。
「愛するもの?……」倉田は納得しかねる表情《かお》になった。「俺は誰も愛してはいないぜ。女が好きになったら、力ずくでものにするだけのことだ」
その不遜《ふそん》ともいえる言葉とはうらはらに、多分、これまで一度として異性から愛されたことのない哀《かな》しみが、倉田の表情には浮かんでいた。
が、B・Wのときと同じく、老人はあっさりと倉田の言葉を無視した。
「あなたは……」
と、続けかけた老人の言葉を、
「私の未来は見ていただかなくてもけっこうですよ」森田が穏やかだが、しかしきっぱりした口調で撥《は》ねのけた。
「…………」老人はしばらく森田の眼を見つめていた。
森田もまたたじろぐことなく老人の眼を見返している。
フッと老人の唇に不可解な微笑が浮かんだ。そして首を振ると、最後の男たる藤村に顔を向けた。
「あなたは神と会うことになる」老人は言った。
「神と?」藤村は眉をひそめた。
老人の言葉はたんなる比喩《ひゆ》でしかないのか、それとも実際に藤村は神と会うべく運命づけられているというのか、いずれにしろそれはあまりに莫迦《ばか》げた言葉というべきだった。一瞬、藤村の胸に老人を軽《かろ》んじる気持ちが動いたとしても無理はなかったろう。が――
「そして、あなたは殺《あや》めた女と再会することになる」
老人がそう言ったとき、藤村は全身が硬直するのを覚えた。殺めた女と再会する……俺が李夢蘭《りむらん》と再び会うというのか。
「何も喋るな」藤村の声は震えていた。「もうそれ以上は何もききたくない」
実際、老人の声がそれほどに真摯で、威厳に満ちていなければ、藤村は彼の首をへし折っていたかもしれない。
が、藤村にかまわず、老人は言葉を続けていた。
「そして、あなたは解放される。女から許されて、いまいる地獄の業火からとき放たれるのだ」
「…………」
藤村に言うべきことはなかった。呆然自失としていたといっていい。死んだはずの李夢蘭と会い、彼女から許しを受けることができる……それは確かに甘美でさえある夢かもしれないが、神と会うという以上にありうべからざることに思えた。
老人もまた沈黙した。なかば眠っているかのように凝然《ぎようぜん》としている。灼《や》けている羊の骨があげる薄い煙が、天幕《ユルト》のなかを一種夢幻的な雰囲気に変えていた。
森田だけがいつものあの茫洋《ぼうよう》とした表情を浮かべて、平然としていた。他の三人はそれぞれに思いを乱し、いまきかされたばかりの自分の未来に呆然《ぼうぜん》としている。
「俺には故郷などない……」B・Wが呻《うめ》くように言った。
「俺がなんで誰かのために死ななければならんのだ」倉田も言った。
が、老人は答えなかった。
耳のないような表情《かお》をして、老人はゆっくりと腰をあげた。
「どうも年寄りのおせっかいが過ぎたようですな」老人は言った。
「だがあなたたちはいずれも稀有《けう》な星の下に生まれておられる。正直、幸運な星とばかりも言えんようだが……どうしても、あなた方の星を見たかったのですわ。勘弁してやってください」
老人は天幕から出ていった。
「占いは占いにすぎんのじゃないかね」森田が他の三人を慰めるように言った。
「別に気にするほどのこともないだろう」
――藤村はふいに総《すべ》てを耐えがたく感じた。自身の未来も、また森田の慰めの言葉も、総てが忌むべきことであるように思えた。ありていに言えば、藤村は独りになりたかったのである。
「どこへ行くつもりだ」
立ちあがった藤村を見て、森田が驚いたように言った。
「外の空気を吸ってくる」藤村の声は乾ききっていた。
外に出た藤村を待っていたのは、のしかかってくるような存在感をみなぎらせた一面の星月夜《ほしづくよ》だった。モンゴルの乾燥した空気が、これほどに夜空を鮮やかに見せているのだ。
できうれば、藤村はその広大な空と一体になりたかった。が、あまりに広すぎる空は、やはり藤村の孤独と、その卑小さをいやますばかりのようだった。
「藤村さん」背後から声がかかった。
振り返るまでもなく、藤村にはそれが天竜《テイエンルン》の声であることが分っていた。
「あのいかさまラマ、どうやら外に出ていったらしいですね」天竜の声は憎悪にぬれていた。
「まったくB・Wには愛想がつきましたよ。あんないかさま師の言うことをききたがるなんて……」
「…………」
藤村はあえて返事をしようとはしなかった。天竜の|山から来たラマ《オーレン・ラマ》に対する憎悪が、面子を潰されたことから生じた、いわば逆恨みであることは明瞭《めいりよう》だったからだ。
――|山から来たラマ《オーレン・ラマ》の天竜に関する予言をきいたら、彼はどんな表情《かお》をするだろうか、と藤村は考えた。激怒するか、それともせせら笑うか……
藤村は無言のまま、天竜から歩きさろうとした。いまの藤村には、他者と関わりをもつのは億劫《おつくう》というより、はっきりとひとつの苦痛であった。
「おかしなことがあるんですがね」天竜がたちさりかけた藤村を呼び止めた。
「おかしなこと?」
「車に積んである無線なんですがね」天竜は声をひそめた。
「カバーがはがれているんです」
「どういうことだ?」とっさには藤村は天竜の言葉を理解できなかった。
「誰か無線を使ったやつがいるんですよ」
「…………」
藤村は眉をひそめた。無線器は、武器と共に青幇《チンパン》から購入したもので、主に森田と渡会との連絡用に使われることになっている。そして、藤村の知るかぎり、この無線が使われたことはいまだかつて一度もないはずなのである。
「誰かそこらにいる奴が珍しがっていじったんじゃないのか」
「そうかもしれませんが、ね」天竜の口調には、そうでないかもしれない、という皮肉な響きが含まれていた。
「…………」
藤村はいま天幕に残っている三人の姿を思いうかべた。彼らはいずれも小用のために一度は場を外している。少なくとも、無線を使うチャンスは誰にもあったわけだ。だが誰が、なんのために?……
「こうも考えられるな」藤村は冷たい声で言った。
「おまえが口からでまかせを言ってる、と」
「ぼくがなんのためにそんなことをする必要があるのですか」
「おまえはトラブルが好きだからだよ。悪意のかたまりのような男だからさ」
「なるほど」天竜は唇を歪《ゆが》めた。「そういう考え方もあるわけですか」
「無線のことは誰にも言わないほうがいいな」
そう言い捨てると、藤村は今度こそ足早に天竜から離れていった。
森田、B・W、倉田、そして天竜《テイエンルン》――いずれを見ても、肚《はら》に一物《いちもつ》ありそうな輩《やから》ばかりだった。誰がどんな企みを抱いていようと驚くべきではないだろう……
だが、いまの藤村には仲間を選ぶなどという贅沢《ぜいたく》は許されてはいないのだった。
第六章 ゴビ砂漠
百霊廟《ペリミヤオ》から西方二百七十キロの地点に、牛水《ウニウス》という場所がある。その牛水《ウニウス》までは、ゴビ砂漠を横断しようとする者にとって、いわば正規ルートのようなものだった。だが牛水《ウニウス》から先は、藤村の記憶だけを頼りに、その存在すら定かではない崑崙《コンロン》をめざしての旅を続けていかねばならないのだ。
牛水までの旅はさほど困難でないと言えた。あるいは古世代地層の露頭した浅い谷、あるいは砂の河床と、それなりに地勢は変化に富んでいるが、しかし無限軌道車《キヤタピラ・カー》は難なくそれらの路《みち》を前進していった。
この段階で、ただひとつ問題があったとするなら、倉田の乗る流星号の異常な疲労ぶりをあげなければならないだろう。確かに、藤村の選んだ二頭のアラブ馬は、流星号に比して、そのみばも、脚力も著しく劣っていると言えた。だが、ゴビ砂漠踏破は競馬ではないのだ。要は、いかに速く走るかではなく、苛酷な旅にどれだけ耐えうるかなのである。その意味で、倉田は馬の選択を明らかに間違えたのだった。
――百霊廟から牛水までは四日かかった。牛水の集落、といえば聞こえはいいが、実際には二張りの天幕《ユルト》があるのみだった。ただ、そこを流れていく一筋の河は、ながく泥砂だけを見なれてきた眼にはひどく清冽《せいれつ》なものに映った。
倉田はつきっきりで流星号の世話をしている。水を飲ませ、蹄《ひづめ》のぐあいを調べ、ブラッシングをしてやり――実際、それは馬を愛することにかけては誰にも負けないつもりだった藤村さえ、感心せざるをえない光景だった。
「馬を替えたらどうかな」
藤村がそう勧めたのは、牛水の狭い河原で、倉田が流星号をブラッシングしている最中《さなか》のことだった。
「…………」小男は無言のまま、手を動かしている。
「ここでだったら、頑強《がんきよう》なアラブ馬を手に入れることができる」藤村は言葉を続けた。
「サラブレッドにゴビは無理だ。流星号は俺たちが戻るまで、ここの連中にあずかってもらえばいい」
「厭《いや》だ……」倉田は首を振った。「俺はこいつと別れたくない。いままでズーッと一緒だったんだ」
「…………」藤村はなおも説得しようとし、そして言葉がみつからずに、口をつぐんだ。
ある種の男たちは、女を愛するように馬を愛する。このしなやかな生き物に、自分の優しさの総《すべ》てを注ぎこんでしまうのだ。藤村は倉田という男を好きになれそうになかったが、しかし理解することはできるような気がした。倉田は自分のよき部分を、ことごとく流星号のために費やしているのではないのか。多分、流星号がいるかぎり、倉田は他者を愛することも、また愛されることもないだろう。
藤村は倉田をしんそこ羨《うらやま》しいと感じた。そして、無言のまま人馬から離れた。
――その翌日、一行はついにゴビ砂漠に出た。
不毛、と言うのも愚かしいほど、見渡すかぎり荒地がひろがっている。粗い岩砂、赤土、ひねこびた雑草――そのいずれを見ても、人間の共感を強く拒絶しているようだった。
ただ空と地を画するためにのみひかれたような地平線と、名前も分らぬ山巓《さんてん》が、藤村たちの眼に映じる総てだった。
これほど莫迦《ばか》げた風景もないと言えた。ここには、他の砂漠のように、風が砂に刻む幾何模様さえなかった。だがひたすら武骨な、力瘤《ちからこぶ》のような地がむなしく露出しているだけなのだ。
もともとが人の踏みいるべき土地ではないのかもしれない。ゴビはいつでも人間にとっては他者でしかないのだ。
が、それでもなお藤村にはなつかしい土地であった。藤村はかつてこの路《みち》で、馬を駆ったことがある。ただ死ぬことだけを願い、ひたすら剣歯虎《サーベル・タイガー》を追いつづけたことがあるのだ。
ゴビに出て三日めに砂嵐にぶつかった。
疾風にのって、霰弾《さんだん》のように激しく襲いかかってくる砂のなかでは、馬を進めるなどもっての他《ほか》だった。無限軌道車を進めることさえ不可能だった。砂がメカにくいこむ恐れもあったし、乾いた風に帯電した無限軌道車を運転するのは、直截《ちよくせつ》に危険といえた。
馬を無限軌道車のかげに避難させ、五人は車のなかで風の止むのを待った。幌《ほろ》がいまにもひきちぎれそうだった。そのバタバタと騒がしい音に耳をふさがれながら、五人の男は心ならずも身を寄せあい、凝然としていたのだった。
一度だけキャラバンと出会った。いましも陽が沈んでいきつつあったとき、彼方の砂丘のうえを、まるで葬列ででもあるかのように、数十頭のラクダはひっそりと進んでいった。
――「北平《ペイピン》輸送保護協会」の霊験は実にあらたかだった。藤村があらかじめ指定しておいた場所と、寸分の狂いもなく、ガソリンや食糧が積みあげられていたのだ。が、二週間めには、一行はその最後の中継基地を出発しなければならなかった。
藤村はようやくあせり始めていた。詳細な地図があるわけではないのだ。唯一、李夢蘭からきかされ、藤村の頭に刻みつけられている記憶だけが頼りなのである。
彼らは黙々と進んだ。進みつづけた。
そして二十日後、彼らの旅は著しくその様相を変えることになった。
その日――彼らは昨日と、そして一昨日と同じように、藤村を先頭にして、苦しい行軍をつづけていた。彼らのうち誰も、その旅が明日には変わることになるとは考えていなかった。ひとりの男を除いては。
藤村の馬がふいになにかに怯《おび》えたように後ずさった。藤村はとっさに手綱をひき、危うく落馬をまぬがれた。
「なんだっ、あれは!」藤村の後方で誰かがそう叫ぶのがきこえた。
前方の砂丘のうえに夥《おびただ》しい数のラクダがわらわらと現われたのだ。明らかに暴走だった。ラクダたちはなにかに怯えているようだった。藤村たちの姿など眼中にないかのように、首を振り、激しくいななきながら、しゃにむにこちらにむかって猛進してくる。
竜巻《たつまき》に襲われるのに似ていた。悪いことにラクダの怯えが馬にも感染した。馬は揃《そろ》って棒立ちになった。ラクダはほとんど盲目同然になっているようだった。どの馬もラクダの体当たりを執拗《しつよう》にくらうことになった。
むろん藤村もただ手をこまねいていたわけではなかった。必死に鞭《むち》をふるい、馬に体当たりをかけてきて、ときには噛《か》みつこうとさえするラクダを追い払おうとした。が、ラクダの数はあまりに多く、その出現はあまりに突然だった。
男たちの眼は砂ぼこりに覆われ、その耳は獣たちのいななきに圧された。
最初に落馬したのは、やはり乗馬に慣れていないB・Wだった。とっさにB・Wは身を反転させ、両腕をあげ、ラクダの蹄《ひづめ》から頭を守ろうとした。
森田が無限軌道車の助手席から外にとびだした。そして、いましもB・Wを蹄にかけようとしていたラクダの首筋に体当たりをくらわせた。森田とラクダはもつれあって地に倒れた。
奮戦をつづける藤村の視界の隅に、倉田が落馬するのが映った。倉田は落馬したが、しかし流星号はさすがにサラブレッドだった。他の二頭のようにいたずらに怯えてはいず、それどころか嬉々《きき》としてラクダたちと戦っているように見えた。いまようやく戦うべき相手を見いだして、サラブレッドの高貴な血がわきにわいているようだった。
無限軌道車のクラクションが高く鳴った。そして、かつてだしたことのないようなスピードで、猛然とダッシュしたのだ。不運なラクダが一頭、胴を切り裂かれ、地にたたきつけられた。
無限軌道車はみるみる小さくなっていく。
――天竜《テイエンルン》が逃げる。藤村は愕然《がくぜん》とした。なるほど、車をもち逃げしようとするなら、今ほど絶好のときはないだろう。なにしろメンバーのほとんどが、追うことはおろか、立っていることさえままならぬ状態なのだから。
藤村は馬の脇腹を蹴った。馬はなおも戦いつづけている流星号にむかって走った。すれちがいざまに、藤村は猿臂《えんぴ》を伸ばして、流星号に乗り移った。
「待てっ、流星号は俺しか乗りこなせない」
倉田のそう叫ぶ声を背後にきいたが、しかし藤村はすでに流星号の腹に蹴りをいれていた。
流星号はいなないた。
再び走れること、しかも全速力で走れることに歓喜して、流星号は全身を震わせているようだった。いやしきラクダばらなぞ、すでに彼の眼中にはないはずだった。
流星号は全力疾走を開始した。走る、というただそれのみに絞られて、まったくむだのないリズミカルな筋肉の動きに、藤村は舌をまく思いがした。この馬に乗るということは、確かにひとつの快感でさえあった。藤村は自分が倉田よりはるかに大きく、体重があるのを、流星号に詫《わ》びたいような気持ちだった。
が、流星号は騎手の重さなど、まったく気にしていないようだった。流星号は前方をさえぎるラクダたちを、文字どおりなぎ倒して走り抜けていった。
いかに流星号が優れたサラブレッドであっても、ここが平地であったら、藤村も無限軌道車を追おうという気になどならなかったろう。ここがゴビ砂漠で、しかも天竜に比して、自分のほうがより地形を知りぬいている――そのふたつの条件が、藤村をして、馬で自動車《くるま》を追うという挙に踏みきらせたのだった。
しばらくは藤村の視界に、無限軌道車が小さな点となって映っていた。が、このままの状態が続けば、いずれはその点も見失ってしまうことになるのは明白だった。
藤村が天竜に追いつこうとするなら、砂漠を迂回《うかい》して、先回りを試みることだけが唯一の可能性だった。
藤村は手首をひいて左の手綱をつめ、右足を流星号の脇腹に強く押しつけた。流星号は全力疾走のまま、左へコースをとった。
目路《めじ》のたっするかぎり、ただ荒野がひろがっている。その茫漠《ぼうばく》とした風景のなかを、一個の点のようになって、藤村は流星号を走らせている。むろん、コースを左にとったとたんに、無限軌道車は見えなくなっている。
――もし俺の記憶が誤っていたら、と藤村は怯えていた。そんなことにでもなれば、無限軌道車の先回りをするどころか、藤村はゴビの迷児にもなりかねない。そして、このゴビで路《みち》に迷うことは、直截に死を意味しているのである。
が、いまさら何を思い惑《まど》っても仕様がなかった。藤村はすでに流星号を走らせてしまっているのだ。あとは流星号の脚力がつづくのを祈るのみだった。
流星号のはずむような筋肉の動きと、その乱れることのない息づかいが、このうえもなく頼もしいものに思えた。走ることのみを運命づけられているサラブレッドが、その運命に従って、全力で走っているのがたまらなくいとおしかった。いまこそ藤村は、なぜあれほどまでに倉田が流星号を愛しているのか、分るような気がした。
――藤村は手綱をひいた。流星号はいかにも不満げに足をとめた。
迂回に充分な距離はもう走っているはずだった。あとは斜め右後方に戻れば、必然的に無限軌道車の前に出ることになる。
不安はあった。いくらもあった。路を間違っていた、ということにでもなれば、むろん藤村の目論見《もくろみ》は成功するはずもないが、それ以上に不安なのは、無限軌道車がどれぐらいのスピードをだしているのか分らないことだった。
なるほど、確かに藤村はプロの馬喰《ばくろう》であるし、流星号はきっすいのサラブレッドだ。が、それを言うなら、天竜もまたこと自動車《くるま》にかけては天才的な男だ。――藤村の計算をはるかにしのぐスピードで、天竜が無限軌道車を走らせているということもありえない話ではないだろう。
「頼むぜ」藤村は流星号に囁いた。
「頼りにしているからな」
コースを変えて、再び流星号は走りだした。本来、サラブレッドは短距離疾駆用につくられた馬種だ。いかな流星号といえども、そろそろ疲労を感じ始めているはずだった。事実、流星号の息づかいは明らかに乱れていた。
「がんばってくれ」藤村は囁《ささや》きつづけていた。
「頼むから、がんばってくれ」
砂丘があった。
その砂丘を駆け登ることは、いまの流星号にとっては至難の業であるはずだった。が、サラブレッドこそこの世で最も誇りたかい生き物なのである。――流星号は一気に砂丘を駆け登った。
「ドゥ……」
藤村はほとんど反射的に、手綱をひいていた。流星号の蹄のしたで、砂が瀑布のように崩れおちていった。が、流星号は危うくバランスを保ち、なんとか転倒をまぬがれることができた。
眼下に無限軌道車がとまっていた。
藤村の先回りはなんとか成功したわけだが、しかしそれにしても天竜が車を走らせていないのが腑《ふ》に落ちなかった。無限軌道車に故障が生じたとでも言うのだろうか。
藤村は流星号からおりた。そして、馬の首筋を優しくたたくと、ゆっくりと砂丘の斜面をおりていった。
「天竜《テイエンルン》……」藤村は呼びかけた。
「内部《なか》にいるのは分っているんだ。観念して、出てきたらどうだ」
無限軌道車のドアが開いた。
「さすがは藤村さんだな」地におり立つと、天竜は苦笑しながら言った。
「よく追いつけましたね」
「なぜ逃げた?」藤村の声には容赦がなかった。「無限軌道車を盗んで、どこへ行くつもりだったんだ?」
「藤村さんには関係のないことでしょう」
「関係がない?」藤村の眼が細くなった。
「これで二度めだ。二度までもおまえは俺を裏切ろうとした。その理由《わけ》を知る権利が俺にはあると思わんか? なぜおまえはそれほどまでに無限軌道車を自分のものにしたがるんだ?」
藤村と天竜は睨《にら》みあった。いかに天竜がしたたかな少年だったとしても、やはりこういう場合には藤村の年齢がものをいう。それに、なんといっても天竜には自分が藤村を裏切ろうとした、というひけめがあった。
「無限軌道車《キヤタピラ・カー》があれば、粛州からタシマリクに抜けて、インドに入れると思ったんですよ」やがて、しぶしぶのように天竜が言った。
「インドなんかに入ってどうするつもりだったんだ?」
「インドにさえ入ることができれば、中近東を抜けて……いつかはヨーロッパへ行くことができますからね」
「ヨーロッパ?」藤村は意外だった。
確かに、分裂と内戦を繰り返す祖国に愛想をつかして、国外脱出におのれの夢をたくす中国人青年の数は少なくない。だが、天竜はおよそその種の青年たちとはかけはなれた存在であるはずだった。天竜は生まれながらの徹底した現実主義者《リアリスト》なのである。――もっとも、アメリカ行きを夢見ている殺し屋、という例もないわけではないが。
「ヨーロッパなんかに行ってどうしようと言うんだ?」藤村はやはりそうきかないではいられなかった。
「…………」天竜は唇を噛んでいる。
「答えろ」
「それをきいてどうするんですか」
「俺には理由《わけ》を知る権利があると言ったはずだ」
「喋《しやべ》りたくないと答えたら?」
「そうは答えないさ」藤村はいつになく自分が意固地になっているのに気がついていた。
「おまえは俺にそんな口はきけないはずだ」
「…………」
天竜は迷っているようだった。その視線は藤村の肩ごしに、どこか砂丘の彼方に向けられていた。
微かに風が吹いていた。いま天竜の眼に映っているのは、かぎりなく続く荒野と、そのうえをつたう砂塵だけであるはずだった。にも関わらず、まるでそこに自分の欲するすべてが隠されているとでもいうように、天竜は砂漠を凝視している。
「フランスに母親《おふくろ》がいるはずなんです」やがて、天竜がボソリと言った。
「母親《おふくろ》……」藤村は絶句した。
――あの少年は母親と会うことになる……|山から来たラマ《オーレン・ラマ》の言った言葉が激しい実在感を伴って藤村の頭に響いていた。
「ぼくは混血でしてね。苦力《クーリー》と、上海で商売していたフランス人娼婦との間に生まれたんですよ。ちょっとみには分りませんがね……ぼくを生んですぐに母親《おふくろ》は故郷《くに》へ帰っていったそうです。だから……」天竜は口ごもった。
「だから、母親に会いたいと言うのか」
「ええ……」
「会ってどうする?」
「殺してやる」ふいに天竜《テイエンルン》の表情《かお》が憤怒できりりと歪《ゆが》んだ。
「牝犬《めすいぬ》め、生かしちゃおかない」
「…………」
痛ましさが先にたって、藤村は何を言うこともできなかった。天竜の言葉がどうであろうと、そこには捨てられた者の悲しみがまごうことなく満ちていた。いまの天竜には年齢《とし》相応の幼さが戻ってきているように見えた。
「この旅行が終れば、森田からそうとうの報酬がえられるはずだ」ようやく、藤村はそう言うことができた。
「ヨーロッパに行くのは、それからだって遅くはあるまい」
「…………」天竜は俯《うつむ》いた。
馬のいななく声がきこえてきた。流星号がじれているのだろう。
「どうしてこんな所で自動車《くるま》を駐《と》めたんだ?」ふと気がついて、藤村がきいた。
「どうして、って……」天竜は顔をあげた。
「藤村さんのせいじゃないですか」
「俺のせい?」
「いくらぼくだって、フロント・グラスに弾丸《たま》を撃ちこまれれば自動車《くるま》をとめざるをえないじゃないですか」
「…………」
寝耳に水と言うべきだった。藤村は無限軌道車《キヤタピラ・カー》の前面にまわってみた。天竜の言葉に嘘はなかった。確かに、無限軌道車のフロント・グラスには弾丸で穿《うが》たれた穴があいている。むろん、藤村のあずかり知らぬことだ。
「これは……」
藤村が天竜を振り返りかけたとき、妙に間伸びした印象で、銃声がきこえた。
藤村はなかば反射的に身を伏せている。と同時に、無限軌道車のサイド・ミラーが音をたてて砕け散った。
藤村は瞬時にして事情を覚った。またしても松本宏の仕業に違いない。藤村を苦しめるべく、松本はゴビ砂漠まで後を跟《つ》けてきているのだ。
「藤村さん、立っちゃ危ないっ」天竜が無限軌道車のかげから切迫した声をかけた。
が、その声は藤村の耳にはほとんど入っていなかった。藤村は身を起こしたばかりではなく、無限軌道車のかげから歩み出て、身体を遮《さえぎ》るものとてなにもない荒地のうえに立ったのだった。
「もう沢山だ」藤村は声をはりあげた。
「松本っ、いまなら俺を難なく殺せるはずだ。一発、もうあと一発、俺の胸に撃ちこむだけで、総《すべ》てが解決するんだ。松本っ、撃て、撃て、俺を撃てっ」
藤村の激した声がとぎれると、荒野にはそれまでにも増して深い沈黙が戻ってきた。
藤村は最後の一発を待った。復讐《ふくしゆう》の弾丸が自分の身肉をひきちぎるのを、ただひたすら待ちつづけた。
が、銃声はおこらなかった。砂漠にはあいかわらず微風が吹きつづけているだけだった。
「松本……」藤村は虚脱した声でつぶやいた。
松本と李夢蘭に対する説得が徒労に終ったその翌日、藤村は「昇日会」の真木から、とある日本料亭に呼び出しをうけた。藤村は真木を嫌っていたが、しかし上海で暮らそうとするかぎり、「昇日会」の名を無視するわけにはいかなかった。
――真木から呼びだしをうけた料亭は、むしろ芸者屋といったほうがふさわしいような店だった。板前も一流どころを使い、床柱は檜《ひのき》を用いているという凝《こ》りようだが、実のところ芸者を抱くための安直な遊び場にすぎないのである。
上海にも、北平にも、この種の店が幾つかある。藤村はこの種の店を見るたびにいつも、異国の街に日本人料亭を設け、昼間から札びらをきって遊ぶ同胞の姿に、いいしれぬ怒りを抱くのだった。
「よく来たな」
藤村が入っていくと、真木は床柱を背に尊大に構えてみせた。だらしなくはだけた和服と、彼の腕に抱かれている芸者の上気した表情《かお》を見れば、藤村が入っていくまでそこで何が行なわれていたかは明白だった。
「何か御用ですか」藤村の声には微塵《みじん》の暖かさも含まれていなかった。
「うむ」
真木は手を振って、芸者を部屋から追いだすと、わざとらしく腕を組んだ。それがいかにも自分を大物らしく見せようというポーズのようで、藤村には不快以外のなにものでもなかった。
「実はきみの友人の松本くんのことだが……」真木は言った。
「困ったことに、我が『昇日会』の経理から金を借りていってね。約束の期日が過ぎても、いっこうに返しよらん」
「松本が金を……」藤村には初耳だった。
「うむ――」
再び唸《うな》って見せると、真木は松本の借りた金額を告げた。少ない金ではなかった。「昇日会」のようなところから借りるには、常識外れの額と言えた。
「やむなく、東京におられる松本くんの父上に連絡したわけなんだが……」真木は言葉をつづけた。
「なにしろ大目に見るには、額がちょっと大きすぎるもんでね。……松本くんのお父上はこう言われた。息子の借金を父親が返すのは当然だが、もし『昇日会』の手で息子をその中国女と別れさすことができるなら、いくらか寄付をさせてもらってもいい……」
「…………」藤村は沈黙していた。
あれほど手痛いめにあいながら、なぜか李夢蘭のことをその中国女という一言でかたづけられるのが、たまらなく不快に思えた。
「寄付|云々《うんぬん》のことはさておいて……」真木は意地汚なく骨だけになっている焼き魚を箸でつついていた。
「松本くんのような好青年が、性悪女《しようわるおんな》にいいように騙《だま》されているというのは、我々としても放っておくわけにはいかんので、ね。松本くんのお父上を安心させる役をかって出ることにした。人助けだからな」
――人助けか、と藤村は頭のなかで嗤《わら》ってやった。なにしろ松本の父親は政界の実力者だ。ここで貸しをつくっておけば、後々「昇日会」のためになにかと後ろ盾《だて》となってくれるに違いない。松本の父親が申しでたという寄付の額も、彼らを動かすには充分に有効だったろう。――だが、松本宏はどうなるのだ。李夢蘭はどうすればいいのだ。
「おやめになったほうがいいと思いますね」藤村は重い口を開いた。
「なんだと」真木の眸《め》が陰険に光った。
「彼らはどうやら真剣に好きあっているようだ」臆《おく》さず藤村は言葉をつづけた。
「いくら金を積んでも、あの女は別れるのを承知しないでしょう。別に誰のじゃまをしているわけでもなし、ソッとしておいてやったらどうですか」
――ただ、なんとしてでも、松本がアヘンを吸うのだけは止めさせなければならない。藤村の脳裡をそんな思いが過《よぎ》った。
「若いときにはありがちなことだ」真木は鼻を鳴らした。「別れて一年もたってしまえば、男はもう女のことなど思い出しもしよらん。はしかみたいなもんだ」
「女のほうはどうなるんですか」
「女にはいくらか金を包んで、因果を含めればいいだろうが……」
「女は承知しないだろうと申しあげました。その種の女ではないのです」
「きみは松本くんの友人じゃなかったのか」真木は声を荒げた。
「友人が性悪女にひっかかっていても平気でいられるのか」
「その女を性悪とはいちがいには言えないと思います」自分がいつしか李夢蘭を弁護するはめになったのを、藤村は内心苦笑していた。
「また友人だからこそソッとしておいてやりたいのです」
ふいに真木が手に持っていた盃を藤村に投げつけた。頭を沈めるのがもう一秒遅ければ、藤村は思わぬ大怪我をしていたかもしれなかった。盃は音をたてて砕けた。
「へりくつを言うなっ」真木は大声で喚《わめ》きちらした。
「若僧、俺にむかってそんな口のきき方をするな」
「…………」
藤村はしばらく凝《じ》っとしていた。自分のうちに怒りがわいてくるのを待っていたのである。が、予期に反して、怒りらしいものはわいてこなかった。――しょせん真木は喧嘩《けんか》をするにも価しない存在だったのかもしれない。むろん、ことの理をたてて話しあえるような男ではない。
「金でかたがつかなければ、力に訴えてでもその女を松本くんからひきはがす」藤村が恐れいったと見たのか、真木の口調はさらに尊大なものになった。
「きみがとやかく言うことではない。きみは我々に女の家を教えればそれでいいのだ」
「お断りします」藤村の声は低いが、しかしきっぱりとした決意がこめられていた。
「な、なんだと……」真木の顔は怒色で醜くふくれあがっていた。
「失礼します」
それ以上、真木の相手をつとめる気にはなれなかった。藤村は軽く一礼すると、席を立ち、部屋から出た。
襖《ふすま》を閉めた後も、真木の爆発したような喚き声が、藤村の耳には聞こえていた。
|〓江《キユウキヤン》路の李夢蘭の家を二度めに訪うたとき、藤村の胸は燃えるような焦燥感で焦がされていた。
「昇日会」がいったんそうと決定した以上、李夢蘭が居家をつきとめられるのは時間の問題と言えた。そうなれば、松本との仲が裂かれるだけではなく、李夢蘭は怪我を負うことにもなりかねなかった。
藤村はすでに両人《ふたり》の仲を裂くことなど考えてはいなかった。「昇日会」の眼をくらますために、しばらく別れて暮らすか、そうでなければこの上海から逃がすしか手はない、と考えていたのである。いずれにしろ、早急に松本にアヘンをやめさせる必要があった。
以前と同じように、ドアを開けたのは熊《シユン》とかいう大男だった。
「やあ」藤村は笑顔を見せた。
「この前の一撃はきいたぜ。なんでもタクシーまで運んでくれたそうで、世話をかけたな」
「もう頭は痛まないか」熊は心配そうに言った。「できるだけ優しく殴ったつもりなんだけど……」
あれで優しいのなら、この男が本気で殴ったら、それこそ頭骨が陥没することにもなりかねないだろう。
「ありがとう」藤村は苦笑した。「どうやら大丈夫のようだ」
「それはよかった」熊《シユン》は犬に顔をなめられたような笑顔になった。
憎めない男だった。
「松本はいるか」藤村はきいた。
「いるけど、喧嘩をするのは困るよ」熊は警戒しているような眼をした。
「いま李夢蘭は買い物に行ってる。留守中にあんたを内部《なか》に入れて、松本さんと喧嘩にでもなったら、怒られるのは俺なんだから」
「心配はいらんさ」藤村は生真面目《きまじめ》にうなずいて見せた。「俺と松本は仲のいい友人なんだから……」
「それじゃ入ってくれ」熊は身体を開いて、藤村を招き入れた。
「いま松本さんを呼んでくるから……」
この前と同じ部屋の、同じ椅子に藤村は腰をおろした。今日のテーブルには何も料理が載っていなかった。
待つほどもなく、松本宏が姿を現わした。
「このまえはすまなかったな」席につくなり、松本は言った。
「怪我はなかったろうな」
「大丈夫だったよ」藤村はここでもまた苦笑しなければならなかった。
「もうすんだことだ。お互い名誉になる話でもなし、あの件は忘れることにしようぜ」
「そう言ってもらえると、いくらか気は休まるがね……」松本はホッとした表情《かお》になった。
松本は本来がこうした小心な、優しい男なのだった。今日の松本はどうやら身体《からだ》の調子がいいらしく、アヘンにもさほど顔色を損なわれていず、やつれもこの前ほどにはめだってはいなかった。
熊がコーヒーを持って部屋に入ってきた。松本は極端なコーヒー好きで、旅行をするにもそのための道具を携帯するような男だった。
いま久しぶりに松本のブレンドしたコーヒーを飲みながら、藤村はようやく十年来の友人と共にいることを実感できた。
「仕事はどうしているんだ?」松本がきいた。
「失業中だ」藤村は眼を細めてコーヒーをすすっている。
「日本軍に馬を収めるのをやめてから、あるイギリス人の持ち馬の調教をしていたんだが、そのイギリス人が帰国しちまってね」
「大変だな。暮らしのほうは大丈夫なのか」
「なに、俺は独りだ。どうにでもなる。大変なのはきみのほうだ」
「李夢蘭のことか」松本は眉をひそめた。
「そうだ」
「李夢蘭のことは放っておいてくれないか。俺だけの問題だ。第一、きみはそんな小姑《こじゆうと》みたいな男じゃなかったはずだ」
「小姑か」藤村は苦笑した。
「なにも李夢蘭と別れろと言ってるんじゃない。アヘンをやめろと言ってるんだ……そうでないと、李夢蘭と別れざるをえなくなるからだ」
「どういうことだ?」
「『昇日会』が動きだしている」
「……『昇日会』が?」
「昨日《きのう》、『昇日会』の真木に呼びだされた。厭《いや》な奴だが、実力者だ。話をきかないわけにはいかなかった」
「借金のことをきかされたのか」
「それだけじゃない。きみのお父上が『昇日会』に、李夢蘭のことを始末するように頼んだらしい。場合によっては、真木は暴力を使うのも辞さないつもりでいる」
「…………」
松本はようやくことの重大さを理解できたようだった。コーヒーカップを持つ指の関節が、緊張のために白くこわばっていた。
「それでどうすればいいと思う?」松本は俯《うつむ》いていた。
「だから李夢蘭と別れるべきだと言うのか」
「別れろと言えば、別れられるか」
「…………」
「李夢蘭と一緒に上海から姿をかくせ。そのためにも、きみは今日かぎりアヘンをやめる必要がある」
アヘン耽溺《たんでき》者がアヘンをやめるためにはかなりの努力と苦痛が伴う。藤村にしてもそのことを知らないわけではなかったが、しかし松本なら充分その責め苦に耐えうるという確信があった。だいたいが松本のような男がどうしてアヘンを始めるにいたったか、藤村にはどうにも理解できないのだ。松本は気弱な男かもしれないが、意志薄弱な男ではなかった。
「アヘンをやめるわけにはいかない」だが、――松本は首を振った。
「上海から離れるわけにもいかんのだ」
藤村は大きく息を吸った。忍耐強いことにかけてはかなりの自信があったが、その忍耐もどうやら底をついたようだった。
「なぜだ?」
と、しばらくたってからきいた藤村の声は、怒りのためにしわがれていた。
「なぜなのか?」松本は他人《ひと》ごとのようにつぶやいた。
どうやら頭のなかで言葉を選んでいるらしく、松本は生気のない眸《め》を窓の外にさまよわせていた。「|梨〓《リイカオ》ワイー、酥糖《スウタン》オウ」と怒鳴りながら、菓子売りが窓の外の路《みち》を通っていく。誰か呼びとめたらしく、菓子売りの声はすぐにきこえなくなった。
「熊《シユン》だ」松本が微笑した。
「あんな大男のくせに、熊は子供のように菓子が好きなんだ。いつもあの菓子売りから、酥糖《スウタン》を買う。知ってるだろう? 日本のカルメ焼のような菓子だよ。……酒はまったく飲まないし、この前コーヒーを飲ませたら、顔をしかめて半分も飲まなかった……」
「俺のきくことに答えろ」藤村の声は静かだったが、しかしうむを言わせぬ気魄《きはく》に満ちていた。
「どうしてアヘンをやめるわけにはいかんのだ? なぜ上海から離れられない?」
松本の表情《かお》から微笑が消えた。松本の微笑はうつろいやすい翳《かげ》りに似ていた。
「俺はこの国が好きだ」松本は言った。
「多分、この国を愛してさえいる。その意味で、俺は自分を日本人と言うより、中国人だと考えている。だが……」
松本は言葉を濁したが、しかしその先はきかないでも藤村には分っていた。だが、この国はあまりに巨大で、混沌《カオス》に満ちている。中国人はなべて狷介《けんかい》で、その文化は容易に他者となれあわない堅固さを備えている。この国にとって、他所者《よそもの》はどこまでいっても他所者でしかないのだ。
「俺はあせった。いや、はっきりと寂しかったと言ってもいい。……そして、俺は李夢蘭と会った。なんと言ったらいいか、李夢蘭は俺にとって中国そのもののような存在になった。誇りたかく、しなやかで、謎《なぞ》に満ちて……俺は李夢蘭の人格をそっくり理解しようと努めた。そうすることが、俺をこの国に同化させる早道だと考えた」
「莫迦《ばか》げた夢だ」藤村はいいようのない腹立たしさを覚えていた。
「女を理解することができるか。他者を完全に理解することなどできるはずがない」
その腹立たしさが何に由来するものであるか、藤村はおぼろげながらに気がついていた。藤村もまたこの国を愛し、この国から拒絶されているひとりなのだ。確かに、この国はその意味では悪女に似ているかもしれない。
「そう、莫迦げた夢だったかもしれない」松本はうなずいた。
「だが、李夢蘭に関して言えば、あながち莫迦げた夢とばかりも断言できないような気がする……」
「なぜだ? まさか愛しているからなどと言うつもりじゃないだろうな」藤村はいまはっきりと苛立《いらだ》っていた。
「きみは『空桑《くうそう》の琴瑟《きんしつ》』というのを知っているか」藤村のいくらか意地の悪い言葉をまったく意に介さないで、松本は唐突にそんなことをきいてきた。
「空桑の琴瑟?」かつて藤村のきいたことのない言葉であった。「いや、初めてきく言葉だ」
「空桑の琴瑟そのものは古代に神事に用いられた楽器であるらしい。だが空桑という単語は、この国の洪水説話においては箱船の意味を持っているらしい。
殷《いん》の説話にこんなのがある。――ある女が一夜夢を見た。夢に神が現われて、河に臼《うす》が流れてくるのを見つけたら、東の方に走って後を振り返るな、と告げたのだ。あくる朝、女は臼が流れてくるのを見つけ、村人にも危急《ききゆう》を知らせたうえで、東に走った。
おかげで村人たちは命拾いした。間もなく、村は大水の底に没したからだ。女はそのまま空洞のある桑、つまり空桑にと姿を変えた。そして、子をはらんだ……
その子はやがて空桑のなかにいるのを発見され、成長するにつれ、それ以上もない賢人となっていった。その名を伊尹《いいん》という。そして、伊尹はやがて妻をめとり、殷につかえることになった。
だから、空桑という言葉は、古代中国では明らかに治水をも意味していたらしい。空桑の琴瑟は治水に関する神事に用いる楽器だということだな」
「面白いな」藤村は言った。
「だが、それが今の俺たちの話とどんな関係があるんだ?」
「李夢蘭がその楽器を持っているんだ」
「なんだと……」
「しかも空桑の琴瑟を実にたくみにひきこなす」松本の口調にはなかば陶然としたような響きが含まれていた。
「きみも機会があったら、一度きいてみるといい。確かに、空桑の琴瑟というのは神事に用いられるにふさわしい楽器だよ。いや、あれをたんなる楽器と考えるのは正確でないな。
なんと言ったらいいか、あれをきいていると、確かにこの国を理解できたような気がしてくるのだ。俺たちがながい間に知らず知らず設けてきた心の障壁が、ひとつずつ取り除かれていき、やがてそれまで想像もしていなかったような精神の世界に達することができるのだ」
「まるでアヘンのようにか」藤村の声音はひどく冷たかった。
「いや、空桑の琴瑟に比べればアヘンなどものの数ではない」松本はかぶりを振った。
「それではどうしてアヘンを常用したりするんだ?」
「どうしても最後の障壁を取り除くことができないんだ」松本の声は胸をかきむしるような響きに満ちていた。
「それさえ取り除くことができれば、俺はこの国を自分のものにできるのに、どうしてもそれ以上先には行けないんだ。空桑の琴瑟をきいていても、そこまで達すると、精神の世界がひからびてしまうんだ……」
「だから、アヘンの助けを借りるようになったというわけか」
「そういうことだ。きみには分らないかもしれないが、李夢蘭は空桑の琴瑟をひくことで、彼女の感情を直接《じか》にこちらの胸に伝えてくる。さっき、彼女をそっくり理解することは必ずしも不可能ではないと言ったのは、空桑の琴瑟が間に存在するからだ。
俺もアヘンの助けを借りれば、どうにか自分の感情を彼女に伝えることができる。空桑の琴瑟とアヘンがあれば、俺はこの国と李夢蘭とを同時に理解することができるんだ」
「つまり、そういうわけでアヘンを止めるわけにはいかないと言うのか」
「分ってくれるか」
「分るはずがない」藤村は首を振った。
「…………」
藤村のにべもない返答に鼻白んだように、松本は俯《うつむ》いて沈黙した。
実際、松本の話はとっさには信じ難い内容であると言えた。むしろアヘン耽溺者《たんできしや》の幻想だと受けとるべきだったろう。
「アヘンのことは分ったが、どうして上海から出るわけにはいかないのか、という説明にはなっていないようだ」
と、藤村は言った。
「女と二人で夢を見るなら、別に上海でなくともかまわないだろう」
「その理由は俺の口から説明するわけにはいかない」
松本はかたい声音で言った。
「李夢蘭にきいてみたほうがいいだろう。彼女の機嫌《きげん》がよければ教えてくれるかもしれないよ」
明らかにいま松本はかたい殻《から》をまとい、全身で友人であるはずの藤村を拒絶していた。多分、まったく徒労に終ったそれまでの話が、彼を極度に疲れさせ、かたくなに閉ざしてしまっているのだろう。
松本を説得するのはあきらめたほうがよさそうだった。こうなれば、再び李夢蘭にあたってみるべきだった。
「今日はひとまず帰る」藤村は席を立った。
「だが、いずれはここに『昇日会』の手が伸びてくる。早急になんらかの手をうたないと、それこそ二度と李夢蘭と会えなくなるようなはめにもなりかねない。頼むから、そこのところをよく考えてくれ」
「…………」松本は顔をあげようとさえしなかった。
藤村は黙って部屋を出るほかなかった。
藤村が李夢蘭と会ったのは、それから三日後のことだった。松本のてまえ、|〓江《キユウキヤン》路の彼女の家で会うわけにもいかず、西安門大街のとある安宿に李夢蘭を呼びだしたのである。
安宿――といっても、この家を訪う人間は必ずしも部屋を求めているばかりとは限らない。お茶を飲む者、アヘンをやる者、待ちあわせに使う者、麻雀が目的の者、むろん女と寝るために訪れる者もいる。この宿は汚なくて、サービスも悪いが、人眼につくことが少ないというなによりの利点を備えていたのである。
藤村がこの宿を李夢蘭と会うのに選んだのも、またそのために他《ほか》ならなかった。
その宿の二階の一室で、藤村はすべての事情を李夢蘭にうちあけた。松本の父親のこと、「昇日会」のこと、なにより松本がいますぐアヘンをやめなければ、李夢蘭と一緒にいられる可能性が非常に少ないことを力をこめて語ったのだ。
初めはかたくなな態度をとりつづけていた李夢蘭も、藤村に両人《ふたり》の仲を裂こうなどというつもりがまったくないことを覚って、ようやくその言葉に素直に耳を傾けてくれるようになったのだった。
「いまの松本はあなたの言うことしかきかない」藤村は言った。
「頼むから、アヘンをやめるよう彼を説得してくれないか」
「…………」
李夢蘭は黙していた。裸電球の不充分な明かりのせいだろうか。今夜の彼女からはあの挑戦的な物腰はすっかり消えているように見えた。山猫の生気を身に備えているのには変わりはないが、どちらかというとそのしなやかさをより強く感じさせた。
「彼がアヘンをやめないかぎり、きみたち両人《ふたり》の仲はいつかひき裂かれることになる」藤村は言葉をつづけた。
「ああ見えても『昇日会』はてごわい組織だよ。とてもアヘンを常習している男なんかに逃げきれるものではない」
「…………」李夢蘭は顔をあげた。
一瞬、彼女の顔を挑むような表情が掠《かす》めたが、しかしあいかわらずその唇が言葉をつむぎだすことはなかった。李夢蘭は再び俯いてしまったのだ。
正直、藤村は李夢蘭の沈黙に手をやいていた。そうでなくとも、彼は異性と言葉をかわすのが苦手な質《たち》なのである。――独り芝居のようなもどかしさを感じながらも、藤村は喋《しやべ》るのをやめるわけにはいかなかった。
「最良の方法は上海から姿をかくすことだ。きみたち両人《ふたり》の隠れ家ぐらい、俺がいつでも用意してやる」
と、なおも言葉をつづけながら、藤村はようやく自分の立場に滑稽感《こつけいかん》を抱き始めていた。何がおせっかいだといって、乗り気でもない男女に駆け落ちを勧めるぐらいおせっかいな話もないだろう。
「松本はどうしてか上海を出るのを嫌っている。しかも、その理由《わけ》を話したがらない。なぜ上海を出られないのか、その理由はあなたからきけと言うんだ」
そのとき初めて、李夢蘭は明らかな反応を示した。両の手を胸のまえであわせて、かたく握りしめたのだ。その姿はなにか祈っているようにも、いまにも溢《あふ》れでようとする激情を必死に圧《お》さえているようにも見えた。
「私のせいだわ」そして、かすれた声でつぶやいた。
「私と一緒にいると、あの人だめになってしまう」
「どういうことだ?」藤村は眉をひそめた。
「私、ある組織に属しているんです」
「ある組織?」
「抗日をその目的とする組織です。私が荷《にな》わされている任務は上海における日本人から情報を収集すること。私があの人に接近したのも、もともとはあの人の父親が日本の実力者だったからなんです」
「…………」
藤村は言葉を失った。言葉を失いはしたが、しかしさほど驚いてはいなかった。最初《はな》から李夢蘭はなにか秘密を蔵していると睨《にら》んでいたのだ。これだけの女が、ただ男を愛することにのみ全精力を注げるはずがなかった。いとも簡単に、藤村に秘密をうちあけたのはいささか意外ではあったが。
「松本はそのことに気づいているのか」藤村がようやくきいた。
「私がうちあけたわ」
「なぜ話した?」
「なぜ?」李夢蘭の眸《め》を灼《や》けつくような憤りが過《よぎ》った。
「藤村さん、あなたは女を本当に好きになったことがないのね。本当に好きになったことがあるんだったら、私の気持ちが分るはずだわ」
「確かにそうかもしれんな」藤村は皮肉にうなずいて見せた。
「なくて幸せだったよ。女を好きになったところで、どうせ裏切られるのがおちだ」
ふいに李夢蘭がその手をひらめかせた。藤村は頬に鋭い痛みを覚えた。――藤村はゆっくりと頬に手をあてた。指先が血で汚れていた。
「あんたなんかに」いま藤村を傷つけたばかりの爪を噛んで、女が呻くように言った。
「あんたなんかに私たちの気持ちが分ってたまるものか」
「…………」藤村は血で汚れた指先をみつめていた。
ふしぎに怒りはわいてこなかった。むしろ自分の軽率な言葉を詫《わ》びたいぐらいだった。だが、藤村は詫びるすべを知らなかったし、いまは詫び言に時間を費やしている場合ではなかった。
「つまり、松本は上海を離れると、きみが任務をはたせなくなると考えているんだな」
「…………」李夢蘭の眸はいまはっきりと濡れていた。
「あいつはそういう男だ」藤村は独り言のように言った。
「莫迦がつくぐらいのお人好しなんだ」
いま李夢蘭は床の一点を見つめていた。松本の負わされている荷の重さと、そしてそんな松本をいかに自分が愛しているかを、いまさらながらのように思い知らされたようだった。
「李夢蘭……」藤村は呼びかけた。
女は答えなかった。ついさっき藤村を傷つけるほどの激情のうちにあったのが、まるで嘘であるかのように、静かに、ひっそりと息づいていた。
だが、藤村には話をさらに続ける必要があった。
「李夢蘭……」藤村は再び呼びかけた。
「あなたは言ったわね」李夢蘭が囁《ささや》くように言った。
「松本は私を愛しているのではなく、私を通じて中国を愛そうとしているのだ、って」
「そんなことはない」藤村は首を振った。
「もしそうきこえたのだとしたら、それは俺の言葉が足りなかったからだ。松本はきみを誰より必要としている」
李夢蘭はふいに立ちあがった。立ちあがって、戸口の方に歩いていった。鍵《かぎ》をかける音が思いがけなく鋭く部屋に響いた。
「なんのつもりだ」藤村は驚いた。
李夢蘭は山猫の誇りだかさで、藤村の質問をきっぱりと無視した。――女は部屋を横切り、続き間のドアを開けた。白い布の簾《リエン》を透かして、寝台が見えた。女も簾《リエン》の向こう側に入った。そして――ドレスを脱ぎ始めたのだ。
「おい、何をするつもりだ」藤村は席を立った。
「私と寝て」女はくぐもった声で言った。
「私はあの人を忘れたい。私なんかいないほうが、あの人幸せになれるんだわ」
「莫迦を言うな」藤村はいつになく狼狽《ろうばい》していた。
「俺はそんなつもりで、きみに会いにきたんじゃない」
「私を見て」李夢蘭の挑むような声が部屋に響いた。
「私はひとりの女よ。中国なんかじゃない。泣きも、笑いもするひとりの女なのよ」
「…………」
藤村は絶句した。確かに、簾《リエン》を透かして見る李夢蘭の裸体はそのうえもなく美しかった。それは、およそ男が夢想しうるかぎり、最も魅惑的な女体と言えたろう。
「どうしたの?」李夢蘭は言葉をつづけた。「私を欲しくないの」
欲しくないはずがなかった。藤村は下腹部に溶鉄のような欲望を覚えていた。欲望はなぜか、野良犬のそれのような淋《さび》しさを伴っていた。
松本の貌《かお》が脳裡に過《よぎ》ることがなかったら、藤村が欲望を御することができたかどうか疑問だった。
「いまのきみは興奮している」藤村の声はあさましくしわがれていた。
「今夜は家に帰ってゆっくり休むんだ。そして、松本のことを考えてくれ」
李夢蘭の狂ったような笑いが部屋をつんざいた。それはなかばは彼女の慟哭《どうこく》であり、なかばは怯懦《きようだ》な男たちに対する呪詛《じゆそ》の声であるようだった。
藤村がドアに向かうときも、その笑い声はつづいていた。そして、藤村がドアを後ろ手に閉めたとき、李夢蘭が上海語でこうつぶやくのがきこえた。
「崑崙《コンロン》を出てきたから、ばちがあたったんだわ……」
第七章 裏切り
蒼穹《そうきゆう》と荒野だけの、それ以上もなく単調な風景がひろがっている。
藤村はその単調な風景のなかを、ゆっくりと馬を進ませていた。無限軌道車の後尾につき、その排気煙に面をさらしているのはなんとも面白くなかったが、天竜《テイエンルン》の逃亡を阻止するためとあれば、それもやむをえなかった。
追跡時の昂揚《こうよう》と、狙撃されたときの興奮が、藤村の身体から余力の一滴までもしぼりつくし、彼をひどく無気力な状態に陥らせていた。いまの藤村には、森田たちと再び合流すべく、荒野をノロノロと戻るのが精いっぱいの努力だった。
疲れきっているのは、天竜も変わりなかった。逃亡時の昂揚もさることながら、なによりそれまで胸に秘して誰にも語ることのなかった生母に対する憎悪を、藤村にぶちまけたことが彼を極端な無気力に陥らせているようだった。
――陽はまだ天にあったが、しかし日没は間近に迫っているはずだった。暗くなれば、森田たちを見つけるのにはかなりの困難が予想された。
それを思うと、藤村の胸にもあせりめいたものが生じないではなかったが、いかんせん体力がつきかけていた。ノロノロと歩を進めるしかないのだ。
――変だ、と藤村は思った。ほとんど反射的に手綱がひかれ、流星号が足をとめた。
「止まれ」藤村は声をあげた。
無限軌道車が動きをとめた。ドアが開き、天竜が顔を覗《のぞ》かせた。
「どうしたんですか」と、天竜。
「ここだ」藤村は流星号からおりた。
「いや、ここのはずなんだが……」
確かに、ここのはずだった。風景に見覚えがあったし、なにより砂のうえには一眼でそれと知れるラクダの蹄《ひづめ》のあとが、いり乱れて残っていた。が、――森田たち三人の姿はどこにもなかった。
藤村は眼を細めて、荒野を見廻した。さがすまでもなかった。彼らが身を隠そうとしてでもいるならともかく、見わたすかぎりの不毛地に、人影がないのは瞭然《りようぜん》としていた。
「ここでしたかねえ」自動車《くるま》からおりて、天竜は首をひねった。
「ああ……」
藤村はきなくさいものを感じた。なにか頭のなかでしきりに警鐘をうち鳴らすものがあった。いずれにしろ、用心するにこしたことはなかった。
「天竜……」藤村は言った。
「荷台の武器の包みからライフルを取りだしてくれないか。おまえもなにか適当な得物《えもの》を持ったほうがいいな」
「え?」
「早くしろ」藤村の声は叱声《しつせい》にちかかった。
「俺のいうことがきこえなかったのか」
その藤村の緊張した声が、天竜をようやく行動に走らせた。慌《あわ》てて牽引車のカバーをはがし、なかから武器の包みを取りだそうとする。
が、遅かった。――轟然《ごうぜん》と銃声が響きわたって、天竜の顔のすぐまえの牽引車鉄板が青く火花を発した。
「う……」天竜はのけぞるようにして、地に身をなげた。
天竜は今日これで三発の銃弾をあびたことになる。いずれの場合も相手に殺傷の意志はなかったようだが、それにしても一日に三発はあまりに多すぎる。さすがの天竜も顔から血のけがひいていた。
「動くな」
荒野をわたってきたその声が、いましも走りだそうとした藤村の動きをとめた。
その声にはきき覚えがあった。ありうべからざることのようだが、それは藤村たちの仲間の声だった。
「気でも狂ったのか」藤村も声をはりあげた。「顔を出したらどうだ。倉田……」
すぐ間近の砂丘のかげから、身を起こす人影があった。倉田君平だった。手に愛用のブローニングを構えている。
「帰るのが遅かったじゃないか」倉田は歯をむきだして嗤《わら》った。
「自動車《くるま》に追いつけなかったんじゃないかとだいぶ心配したぜ」
「これはなんの真似だ?」藤村が呻《うめ》くようにきいた。
「森田やB・Wはどうした」
「あの二人なら心配ない。おとなしく捕虜《ほりよ》になっているよ」
「さっきのラクダの暴走はきさまの仕業か」
「やったのは俺の仲間だが、しくんだのは俺だ」倉田は猿のように歯をむきだしたままでいる。
「もっとも、さすがに俺もあそこまで徹底してやるとは思わなかったがな」
気がつくと、砂丘のそこかしこに男たちの姿が見えた。男たちはいずれも小《シヤオ》掛児《アコル》のうえに肩窄児《チエンチアル》をはおっていた。頭に布をまいてる者もいた。一目でそれと知れる馬賊たちだった。男たちは七人を数えた。
「説明してもらおうか」藤村が言った。
「説明か」倉田の眸《め》から笑いが消えた。
「そのまえに俺と勝負してもらおうか」
「勝負?」
「これだ」
その声と同時に、倉田はアンダースローで何かを投げていた。藤村の靴先五メートルほどの地点に、その黒いものは湿ったような音をたてて落下した。
「…………」藤村は眼を細めた。
それは、ピースメーカー・コルトだった。
「初めて会ったとき、しゃれたことを言ったっけな」
倉田はブローニングをクルリと回転させて腰のホルスターに収めた。
「ブローニングじゃ、コルトの相手にならないとはよく言った。どうだ? 今がいい機会じゃないか。試してみようぜ」
「さすがに小鬼《シヤオコエイ》だ」藤村は精いっぱいの皮肉をこめて言った。
「なんとも男らしい話だよ。仲間たちに武器を持たせたままで、決闘を挑むとはな」
倉田の表情《かお》が憤怒で醜く歪《ゆが》んだ。大きく吸いこんだ息を、一気に吐きだすようにして、
「誰も手出しをするんじゃねえぞ」
上海語で吼《ほ》えたてた。
男たちは互いに顔を見合わせた。見合わせて、ノロノロとそれまで藤村たちに向けていた銃口をさげた。天竜《テイエンルン》がそれとはっきり分る安堵のため息をもらした。
「これで五分と五分だ」倉田が言った。「文句はあるまい」
「…………」
藤村にしてみれば、文句は大いにあった。なにより位置関係が不利に過ぎた。――倉田は馬上からの投げ射ちに慣れている。その意味で、砂丘のうえという位置は、倉田にとってかなり有利に働くはずだった。それに比して、藤村の唯一とりうる手段である寝射ちは、射撃手にとってはほとんど曲芸に等しい業と言えた。射撃のさほど得意でない藤村が、万にひとつも成功する可能性はなかったのである。
「どうした?」倉田はなぶるように言った。
「俺のほうはいつでもいいぜ」
藤村はまだ迷っていた。倉田のこの突然の変貌が、なにに由来するものであるか知らないことが、なおいっそう藤村の迷いを深刻なものにしていた。ここで倉田と戦い、たとえ勝ったとしても、それがどんな結果をもたらすことになるかまったく予想がつかないのだ。
が、藤村に選択の余地は残されていないようだった。すでに倉田の右手は、いっぱいに緊張をはらませているのだ。
「藤村さん……」静寂に耐えかねたかのように天竜が声をあげた。
同時に、藤村は自分でも思ってもいなかった行動に出ていた。コルトと逆方向に身体を弾《はじ》かせたのである。その方向には流星号がいた。
驚いた馬は反射的に飼い主のもとに駆け寄ろうとした。
倉田は早撃ちにたけていた。すでにその手は銃把《じゆうは》を握っていた。が、愛馬を傷つけるかもしれないという恐れが、彼の一連の動きに楔《くさび》をうちこんだ。
倉田のその一瞬の逡巡《しゆんじゆん》が勝敗を決した。
反転した藤村がコルトを拾ったとき、倉田はブローニングを抜いてもいなかったのである。
凍《いて》つくような瞬間だった。
倉田はブローニングの銃把に手をかけたまま、自分を見上げているコルトの銃口と対峙《たいじ》していた。その表情《かお》がそれ以上もない屈辱に白くこわばっていた。仲間たちの眼前で勝負に負けたのだ。しかも、その勝負は彼自身が挑んだという念の入りようだった。
藤村の唇に薄い笑いが浮かんだ。
「こんなことだろうと思ったよ」藤村は独り言のようにそうつぶやくと、コルトを地に投げ捨てた。
コルトには弾丸が装填《そうてん》されていなかったのである。
「二人を連れていけ」倉田がしわがれた声で部下に命じた。
荒野のただなかに天幕《ユルト》が設けられている。その天幕に、藤村は他の三人と共に押し込められていた。――むろん、天幕の外には銃をかまえた男たちが見張りにたっていたが、たとえ見張りがいなくとも、馬も自動車《くるま》もなしにゴビへ逃げだせるはずがなかった。
「これは私の失敗だな」森田が暢気《のんき》そうに言った。
「まさか倉田が裏切ろうとは夢にも思っていなかったよ。これは皆に詫びなければいかんだろうね」
天竜は肱をまくらにして寝そべっていたが、森田のその言葉をきくと、冷笑を浮かべて向こうむきになってしまった。B・Wはというと、なんとこの最中《さなか》に、例の英会話読本を読みふけっている。
どうやら森田の話相手をつとめるのは、藤村しかいないようだった。
「倉田はどんな条件で雇いいれたんだ?」藤村がきいた。
「金だよ」森田は微笑《ほほえ》んだ。「それ以外のどんな条件で、馬賊が動くと思うんだね?」
「大義名分というやつがある」
「倉田が大義名分のために我々を裏切ったと言うのか」
「そうとしか考えられないだろう」
「なんのための大義名分だね?」
「多分、日本のための……」
「…………」
森田はしばらく沈黙していたが、やがてその片頬に苦笑を刻んだ。
「愛国心というのはなんとも厄介なものだね。関東軍の暴走を阻止するために、渡会《わたらい》さんはこの作戦をくみたてたんだが、肝心のメンバーのなかに別の関東軍がいたわけか」
苦い述懐というべきだったが、しかしそれも森田の口にかかると、なんとなくユーモラスにきこえた。
どこか遠くの方で山犬が遠吠《とおぼ》えを繰り返している。今夜のゴビはまたいちだんと冷えこみがきびしいようだ。
「おとなしくしているらしいな」
倉田が天幕のなかに入ってきた。四人の男たちを見おろすその眼には、圧制者の光が宿っていた。――B・Wが上海語でなにか呪詛《じゆそ》めいた言葉をつぶやいた。
「起きろ」倉田が寝そべっている天竜に言った。
「起きて、俺の話をきけ」
天竜は敵意に満ちた眼で倉田を見あげた。が、いまこの状態で、倉田に逆らうことがどんなに愚かしいか、天竜はよく承知しているようだった。天竜は身を起こし、ふてくされたようにあぐらをかいた。
いかにも満足げに、倉田も腰をおろした。
「どんな話をきかせてもらえるのかね」こんな場合でも森田の大人然《たいじんぜん》とした微笑は消えていなかった。
「事情を説明する」倉田は断固とした口調で言った。
「説明してくれと頼んだ憶えはないぜ」
と、藤村は嗤《わら》ってやった。倉田の勝者然とした態度がなんとも鼻もちならなかったのだ。
「…………」
倉田は藤村を一瞥《いちべつ》した。気弱な相手なら、その視線だけでしとめることができそうな、おそろしく殺気に満ちた一瞥《いちべつ》だった。
「きさまに頼まれたのなら、絶対に説明なんかしないさ」
それだけを言って、倉田はようやく怒りを静めたようだ。そして、森田の方に顔を向ける。
「森田さん、あんたはとうとうあの渡会《わたらい》という人物が何者であるか、俺たちには教えてくれなかった。……だが俺だってまったくの盲目ではない。あの老人が上海駐在武官につながる人物であることぐらいの察しはついているぜ」
「私にはなんとも言えんがね」森田は微笑している。
「現在、関東軍は華北の軍閥に働きかけて、反蒋《はんしよう》親日満運動を展開させている」倉田が言葉をつづけた。
「関東軍の狙《ねら》いが、華北を準満州国化して、満州国の右側背をかためることにあるのは明らかだ。俺は関東軍の政策に賛成だよ。俺も日本人だからな。
ところが、この重要な時期に、上海駐在武官あたりが中心になって、中国との停戦条約を結ぼうという動きがあるらしい。こういう輩《やから》はまったくの売国奴《ばいこくど》と呼ぶべきだな。実際、天津特務機関や北平駐在武官が強硬に反対しなければ、関東軍第八師団による古北口南方地区への攻撃が中止になるところだったときいている」
「だから渡会氏が停戦主義者のひとりだと考えたわけか」森田がうなずいた。
「違うと言うのか」
「想像するのは自由だよ」
「あんたはくえない人だな」倉田は感嘆するように首を振った。
「まったくくえない人だ。だが、中国に国力をつけるために崑崙《コンロン》を探しだそうなんて、停戦主義者でなくて誰が考えるものか。渡会の正体は眼に見えているじゃないか。
とにかく俺は停戦主義者に荷担《かたん》するのだけはごめんこうむる。なにしろ俺は……」
「日本人だからな」
と、ボソリと言ったB・Wの口調は、そのうえもなく皮肉な響きに満ちていた。
「そうだ」倉田は胸をはった。どうやら中国人殺し屋の皮肉も、この男にだけは通じなかったようだ。
「だったらどうして俺たちの仲間に加わったんだ?」藤村はそうきかずにはいられなかった。
「森田の申し出を蹴るか、どうしても俺たちをじゃましたければ、出発を阻止すればそれですむことじゃなかったのか」
「俺も崑崙へ行きたかったのさ」倉田は嬉しそうだった。
「ただし中国に国力をつけるためにではなく、この国における日本の権勢を不動のものにするために、な。実際、黄河を制するといわれている崑崙を手中に収めれば、英米諸国に比べて、日本ははるかに優位に立つことができるからな。
つまり崑崙へ行くということについては、これからもまったく変わりがない。ただしこれからは森田さんではなく、俺がリーダーということになるがな」
「今までだって、私は自分をリーダーと思ったことなど一度もないがね」森田が穏やかに言った。
「……崑崙については馬賊仲間からよく話をきいた」倉田は森田の言葉が耳に入らなかったようだ。
「そこは実にふしぎな土地だそうだ。草花が笑い、地面が囁《ささや》きかけてくるというのだ。古代の獣たちが跳梁《ちようりよう》し、幻術を心得ている一族が暮らしている……どうだ? 話半分にきいても、こんな土地が日本の領土になるなんて、考えただけでもゾクゾクするじゃないか」
「…………」
藤村の胸には苦い思いが溢《あふ》れていた。巧妙に愛国心にすりかえてはいるが、倉田が自分を崑崙の王になるべく計画しているのは明らかだった。権力欲の権化《ごんげ》と化したこの小男に、藤村はたまらない嫌悪感《けんおかん》を覚えた。
「これで、俺の考えていることは分ってもらえたろう」胸中の総《すべ》てを吐きだして、倉田はいつになく晴れ晴れとした表情《かお》をしている。
「明日の朝は早い。みんな眠ったほうがよくはないか」
「ご親切に」森田が微笑《ほほえ》んだ。
その微笑を見ているかぎり、森田の言葉が皮肉で言われたのか、それとも本心から言われたのか、なんとも判断のしようがなかった。
倉田は席を立って、天幕《ユルト》を出ていきかけた。そして、思いだしたようにこう言った。
「そうそう、崑崙で楽しみなことがもうひとつあるんだ。なんでも崑崙を支配しているのは、若い娘だそうだぜ」
倉田は天幕を出ていった。
が、藤村は倉田が出ていったことを意識していなかった。倉田の最後の言葉が、藤村の脳裡に大きく反響《こだま》していたのである。
――なんでも崑崙を支配しているのは若い娘だそうだぜ……それは、生前に李夢蘭がよく口にしていた言葉とぴったり符合していた。
李夢蘭はこう言ったのだ。
――私は崑崙の女王なのよ……
第八章 勇者の条件
「私は崑崙《コンロン》の女王なのよ」
「崑崙?」
「そう、神のいる土地だわ」
「どこに在るんだ?」
「ゴビ砂漠よ」
「…………」
「信じないのね」
「信じてほしいのか」
「あなたの勝手だわ」
「信じろというほうが無理だ。ゴビは何度も探険されている。探険されつくしていると言ってもいい」
「あなたは何も知らないのよ。探険隊が百回行っても見つかりっこないんだわ」
「どうしてだ?」
「理由《わけ》があるのよ」
「だから、その理由をきいている」
「どうせ信じないくせに」
「松本は信じたのか」
「松本の名前は口にださないで」
「…………」
李夢蘭の思いがけなく強い語調に、藤村は沈黙せざるをえなかった。――どうやら李夢蘭のうちで松本の存在は一種の禁域になっているようだ。何人《なんぴと》といえども、いや、もしかしたら藤村は特に、その領域に足を踏み入れることは許されていないのかもしれない。
沈黙がつづいた。
わびしい夜の雨音が聞こえている。
その雨音が藤村に強く孤独を意識させた。孤独であるはずがなかった。いま藤村は李夢蘭と同じベッドに仰臥《ぎようが》しているのだ。
李夢蘭の乳房の蕾《つぼみ》、そのしなやかな筋肉、そして熱い秘所――いずれの感触も、まだ藤村の手に強い実在感を伴って残っている。が、所詮《しよせん》それらはまやかしの実在感にすぎないのかもしれない。藤村と李夢蘭が言葉の真の意味で一体となることはついにないかもしれないのだ。
藤村はやはり孤独だった。愛する女とベッドを共にしていることがなおいっそう藤村を孤独にしていた。
「私、帰るわ」ベッドから抜けだすと、李夢蘭は衣類を身につけ始めた。
「もう少し話をしていかないか」
「何を話せばいいの」
「崑崙のことでもいい」
「話したくないわ」
「…………」
藤村の胸にふいに狂暴な怒りがこみあげてきた。なんとも対象の知れぬ怒りだった。怒りは、友人の愛人とこういう関係になった自分自身にむけられるべきかもしれない。
「きみはいつか松本を忘れるために、俺と寝たいと言ったな」藤村の声は低かった。
「どうだ? 松本を忘れることはできそうか」
酷い質問というべきだった。李夢蘭に対してだけではなく、藤村にとっても酷い質問だった。李夢蘭がどう答えても、その言葉は直截《ちよくせつ》に藤村を傷つけることになるのだ。
「本当に知りたいの?」李夢蘭の声にはあの挑むような響きが戻っていた。
「知りたくはない」藤村もベッドから抜けだして、手早く衣類をつけ始めていた。
「知りたくはないが、俺には知る義務があると思う」
「忘れられないわ」李夢蘭がなにかを断ち切るように言った。「忘れることなんかできるはずがないじゃないの」
なかば予期していたはずの返事だった。だが、やはりそれは藤村の胸に痛く響いた。
「そうか」藤村は独り言のようにつぶやいた。
「そうだろうな」
会話がとぎれ、奇妙に不自然な沈黙がたちこめた。もしかしたら、それは百万言を費やすよりはるかに饒舌《じようぜつ》な沈黙だったかもしれない。両人《ふたり》にとって不幸だったのは、彼らが互いに沈黙をきくすべを知らないことだった。
「松本はやくざだわ」李夢蘭が唐突に言った。
「何を言う」藤村は驚いた。「なぜ松本がやくざなんだ?」
「好きな女ひとりつなぎとめておけないような男はやくざだわ」
「…………」
「女と暮らすのに、アヘンの力をかりなければならないような男はやくざだわ」
「きみは松本を誤解している」藤村はそう言わずにはいられなかった。
「松本を好きなくせに、彼という男を理解していない」
「松本はやくざに間違いないわ」李夢蘭は藤村の言葉をほとんどきいていないようだ。
「でも、あなたはもっとやくざだわ」
「どういう意味だ?」
「私が好きになる男はみんなやくざよ」
「…………」藤村は息を呑んだ。
いまの言葉が、李夢蘭の恋情を吐露したものであることは疑いようもなかった。いかにも彼女流に、ひどく辛味《からみ》をきかせてはあったが、それだけになおいっそうその言葉は藤村の胸を激しくついた。
「どちらが好きなんだ?」藤村の声はしわがれていた。
「俺と松本のどちらが好きなんだ?」
「二人ともやくざだわ」李夢蘭の表情《かお》は蒼ざめていた。
「だから、どちらも好きなのよ」
藤村と李夢蘭は互いの眸《め》を見つめあっていた。
雨音はなおも激しかった。
「松本になんとしてでもアヘンを止めさせるんだ」藤村が熱にうかされたように言った。
「俺はきみが欲しい。きみが欲しいが、しかしアヘン患者の友人から奪うような真似だけはしたくない」
それは最低限、藤村が自身に課したモラルであり、李夢蘭に対する愛の告白でもあるはずだった。
李夢蘭の表情が歪《ゆが》んだ。
そのとき――なんの前兆も与えられず、ドアが風にあおられたように開いた。二重に掛けられていたはずの鍵が、無力にふっとんでしまっている。
「見上げたもんだな」扉口《とぐち》に立った男が言った。
「友人の女と逢引《あいびき》か」
――日本人だ、と藤村は思った。そう思うのとほとんど同時に、藤村は行動を開始していた。
この場合、日本人とは「昇日会」と同じ謂《いい》なのである。
全体重をかけて襲いかかった藤村の攻撃は、しかし難なくかわされた。足に痛みを覚えるのと同時に、藤村の身体は宙に浮き、そして床にたたきつけられた。
実に切れ味のいい足払いだった。疑いようもなく、その男は柔道の黒オビ、それもかなりの高段者であるようだった。
とっさに身を反転させて、藤村は締め業にかかろうとした男の腕から逃がれた。
「あんたのことは何もきいていない」男は息をはずませてさえいなかった。
「俺はただ女を連れて来いと言われただけだ」
白々しい台詞《せりふ》というべきだった。いまの攻めを考えれば、男の意図が藤村を痛めつけることにもあったのは明白だった。
藤村は何も答えなかった。喋《しやべ》ることで、またむなしい希望を抱くことで、闘志を殺《そ》がれることはそのまま直截に敗北につながっていた。いまはただ相手の弱点を見つけることに全神経を集中すべきときだった。
弱点はないように見えた。男の身体はながく柔道をやってきた者だけが持つ、あの巌《いわお》のような安定感に満ちていた。男がなんの変哲もない中年男であることが、なおいっそう闘士としての彼のしぶとさをよく物語っているように思えた。
「なるほど」藤村が自分の甘言にのらないと覚って、男は苦笑いを浮かべた。
「それなりに喧嘩慣《けんかな》れはしているようだな」
つづく男の攻撃は迅速だった。ほんの二跳びで藤村との間合いをつめると、その腕《かいな》を伸ばしてきたのだ。腰を縮めることで、かろうじて男の腕から逃がれると、藤村は肱打《ひじう》ちを相手の腹にたたきこんだ。
全体重を傾けたその肱打ちに耐えうる者はそう多くはいないはずだった。が、男のいささかも贅肉《ぜいにく》のついていない腹は、藤村の肱打ちをうけつけなかったようだ。
とっさに両膝を折ったからよかったものの、そうでなければ男の払い腰は、したたかに藤村の身体を壁にたたきつけていたはずだ。
二人の身体はもつれあって床に倒れた。倒れるとほとんど同時に、二人は跳ね起きている。――男と向かいあいながら、藤村は体力において相手が自分をはるかに勝っていることを覚っていた。勝負がこれ以上ながびけば、どちらが敗れることになるかは眼に見えていた。
藤村は勝負にでざるをえなかった。
藤村は左で速いジャブをだした。男はこの明らかなフェイントに、身体を反らすという愚を犯した。男のわずかにつきだされた顎は、藤村にはそれ以上もなく格好な的であるように見えた。
渾身《こんしん》の力をこめてつきあげられた藤村の右は、みごとに男の顎をとらえていた。いかに男が柔道の猛者《もさ》であったとしても、顎の筋肉だけはきたえようがなかったはずだ。
男は後ずさり、たまらず片膝を折った。
藤村の攻撃は鮮やかな連係をなしていた。つづけてくりだされた藤村の蹴りをかわすのは、大方《おおかた》の人間には不可能なはずだった。
「う……」藤村は自分の眼を疑った。
男は片膝を折ったままの姿勢で、藤村の蹴りを両の手で完璧にディフェントしたのだ。まるで鉄の顎《あぎと》にくわえこまれたように、藤村の片足は自由がきかなくなっていた。
次の瞬間、藤村の身体は大きく弧をえがいて、宙になげだされていた。
どう防ぐすべもなかった。藤村は後頭部からもろに壁につっこんでいった。
意識が薄らいだ。その薄らいだ意識をつんざくように、女の悲鳴と、そしてなにかガラスの砕けるような音がきこえてきた。
藤村はかろうじて意識を保った。赤く濁った視界のなかに、迫ってくる男の顔が大きく映っていた。
少なくとも余力があるうちは、この男との闘いから逃がれられそうもないようだった。
藤村は腰をひねった。そして、両の足を揃《そろ》えて蹴りあげた。
充分に力のこもった蹴りとは言い難かった。タイミングも外れていた。その男にとっては蚊に刺されたほどの効果もないはずだった。
が――ありうべからざることには、男の身体がグラリとゆらいだのだ。
藤村は眼を瞠《みは》った。
男が完全に床に伏した後も、なお眼を瞠っていた。
李夢蘭が割れた花瓶を腰に構えていた。花瓶の鋭い割れ口は血に黒く汚れていた。
少なくとも、李夢蘭は怯えてだけはいないようだった。そのギラギラと輝いた双眸は、戦うことの興奮に濡れているようにさえ見えた。
「後ろから刺したのか」藤村はふらつく足を踏みしめて、ようやく立ちあがった。
「まさか殺したんじゃないだろうな」
「殺そうと思ったわ」李夢蘭は昂然《こうぜん》と言い放った。
「でも、太股《ふともも》を刺しただけよ」
「…………」
藤村は男の身体を調べてみた。なるほど、男は死んではいなかった。大量の、そして突然の出血に気を失っているだけだった。――が、股動脈の切断は、往々にして大量出血による死を招くことがある。
むろん、藤村はそこまで李夢蘭に説明する気にはなれなかった。たとえ男が死んだところで、なんの痛痒《つうよう》も感じないからだ。
「はやくここを出たほうがいい」藤村はどうにか微笑を浮かべて見せた。
「昇日会の手の者がひとりだけとは限らないからな」
――すでに夜明けがちかい時刻だった。街路に出て、初めて藤村は李夢蘭が震えていることに気がついた。無理もなかった。冬の上海、しかも雨が降っているのだ。若い娘にはいささかきびしすぎる条件と言えた。
藤村は自分のコートを脱いで、ソッと李夢蘭の身体をくるんでやった。
「ありがとう」李夢蘭は囁くような声で、礼を言った。
二人は夜の上海を歩きつづけた。タクシーを拾うにも、黄包車《ワンパオツオ》を見つけるのにもふさわしくない時刻だった。必要以上にめだちたくなければ、朝になるのを待ったほうがよさそうだった。
二人は揚樹浦にさしかかると、たまたま眼についた倉庫に雨を避けた。倉庫の窓から、港に停泊している外国の軍艦が見えた。
寒さを忘れるためにも、二人は会話をつづける必要があった。いや、正確には李夢蘭が一方的に話し、藤村は音楽をきくようにただそれにききいっているだけだった。
「私は崑崙の女王なのよ」李夢蘭が再びそう繰り返した。
いえ、崑崙の女王だったわ。崑崙には相柳《そうりゆう》という名の一族がいるの。相柳というのはね。洪水神である共工《きようこう》の臣《たみ》なのよ。私たちの一族は、古代、治水の祭祀《さいし》をつかさどっていた神聖な民だったのよ……
空桑《くうそう》の琴瑟《きんしつ》のこと知ってるわね? あれが共工さまを祭るのには欠かせない神器であり、一族の長《おさ》たる者の象徴でもあるの。私は崑崙の女王だと言ったけど、実際は一族の巫女《みこ》だったの。相柳の一族では、巫女が長をつとめるのよ。ああ、私は神と言葉をかわすことができたんだわ……
――おとぎ話だ、と藤村は思った。実際には崑崙などという土地はどこにも存在しない。だが、崑崙を語る李夢蘭の声は、なんと優しく、情感にみちてきこえることだろう。
「信じないのね」李夢蘭が寂しく笑った。
あなたは何も信じないんだわ。でも、私が相柳の長《おさ》だったことは本当……私は崑崙から逃げだしてしまったの。ある日、キャラバンからはぐれた若い男が崑崙に迷いこんできてね。その男《ひと》を好きになって、一緒に逃げだしてしまったのよ。女王と旅人の恋……まるで西洋の恋物語だわ。
その男《ひと》? 一緒になってから半年ぐらいで、病気で死んでしまったわ。いま考えると、おとなしいだけでなんのとりえもない男《ひと》だったけど。
私を外へ連れだしてくれる男《ひと》なら、きっと誰でもよかったのね。その男が話してくれた中国の国情が、それまでまったく無知だった私を刺激したのよ。私は神の地でこんなに幸せだけど、外の世界では同胞たちが貧困と圧制に喘《あえ》いでいる。いま思うと莫迦《ばか》みたいだけど、私は本気で自分には国を救う力が備わっていると考えていたの。
だから、男が死んだあと、大刀会《タータオホイ》に入ったの。
「大刀会《タータオホイ》?」藤村は眉をしかめた。
急に話が現実的な様相を帯びたように思えたのだ。
「そんな怖い表情《かお》しないでよ」李夢蘭が微笑した。
「あなたも大刀会《タータオホイ》を匪賊《ひぞく》の集団だと考えているのね。
無理もないかもしれない。でも、大刀会は匪賊の集団じゃなかったわ。その逆だわ。土匪や軍閥から民衆を守る自衛集団だったのよ。
大刀会に入った頃には、私にもまだいくらかの霊力が残っていたわ。だから、会員たちに護符をかいてやり、彼らの身体に槍や弾丸が通らないようにしたのよ。彼らは神の加護を信じ、勇敢に戦ったわ。東辺好子《トンピエンハオツ》、黒子《ヘイツ》、名だたる匪賊たちも、大刀会にはかなわなかった……
笑っているのね。私を吹牛皮《ツニウピ》だと思っているんでしょう?」
「吹牛皮《ツニウピ》?」
「ほらふきのことよ」
「でも、そのうち大刀会は堕落していった。大刀会の力に眼をつけた官憲に、いいように利用されるようになったのよ。私は私の理想が腐臭をたてるのを黙って見ていなければならなかった。そして、奉天省長の名で大刀会取締令が各県知事に発され、大刀会は衰弱していったわ。
私は熊《シユン》と一緒に上海に出てきた。熊? 熊とは大刀会で知りあったの。私の唯一の男友達で、信頼するにたるボディ・ガードというところよ」
「そして、抗日組織に入った」
「そう……」李夢蘭はうなずいた。「そして、抗日組織に入った。そのうえ、やくざな男たちを好きになってしまったわ」
「…………」
藤村はいつしか李夢蘭の言う崑崙の存在を信じるようになっていた。いや、たとえそれがどんなことであろうと、李夢蘭の言葉なら総《すべ》てを信用したかった。
雨は止んでいた。倉庫の窓から、早朝にふさわしくない濁った光がさしこんでいた。
「行こうか」藤村は腰をあげた。
「家まで送るよ」
が、李夢蘭は腰をあげようとはしなかった。木箱に背をあずけたまま、なにか放心したような表情で窓の外を見ている。
「どうしたんだ?」藤村は促した。「はやく家に戻ったほうがいい。松本が眼をさましてしまうぜ」
「私は死ぬわ」ふいに李夢蘭がなにか切迫した声で言った。
「なんだって?」
「私はちかいうちに死ぬことになるわ」
「なにを莫迦なことを……」藤村は一笑にふそうとし、そしてつづく言葉を失った。
いまの李夢蘭は明らかに常の彼女ではなかった。なにかに憑《つ》かれたような表情になっている。そのどことなく焦点の失せたような眸《め》も、尋常なものとは思われなかった。
「私は死ぬわ」李夢蘭は言葉をつづけた。
「そして、私のかわりにあなたが崑崙へ行くことになる」
「…………」藤村は沈黙するほかはなかった。
「あなたに崑崙の正確な場所を教える必要がありそうね」
李夢蘭はゆっくりと藤村を見上げた。そのぼやけたような眸が、本当に藤村をとらえているかどうか疑問だった。彼女自身も、いま自分の口がつむぎだしている言葉に驚嘆しているのではないか。
「崑崙はゴビ砂漠にあるの」李夢蘭が低い声で言った。
「ゴビ砂漠の……」
つづけて語られた崑崙の正確な場所を、藤村はとうてい信じることができなかった。そこには、荒野以外なにもないと確認されているはずだった。――が、なぜか藤村は李夢蘭の言葉を忘れてはならないと思った。いま崑崙の場所を記憶しておくことが、必ず後になって役立つことになる、という確信めいたものがあった。
「…………」総てを語った後、李夢蘭は虚脱したように身体の力を抜いた。
「大丈夫か」藤村は声をかけた。
「ときどきこうなることがあるの」李夢蘭は幼女のように頼りない声で言った。
「ときどき未来が見えるの」
「きみは疲れているんだ」藤村は李夢蘭に手をさしのべた。「ただそれだけのことだ」
李夢蘭は藤村の救けをかりようとはしなかった。彼女は立ち上がるのに男の手を必要とするような女ではなかった。
「松本にアヘンをやめさせるわ」李夢蘭が言った。
「そのためにも、私はあの人から離れたほうがよさそうね」
上海|埠頭《バンド》の南端を西に曲がると愛多愛路に出る。その愛多愛路でもひときわめだつのが、大北電信公司のビルであった。このビルには「ロイヤル通信社」「聯合《れんごう》」などの上海支局が置かれてあり、公開情報を入手するのにはきわめて便利な建物となっていた。
「昇日会」の本部が、この大北電信公司のビルにちかい一角に設けられていたのは、むろん情報収集が容易という利点を考えてのことだったろう。が、さらにもうひとつ、名だたる新聞社支局ちかくに本部を置くことで、「昇日会」という名にはくをつけようとする狙いもあったようだ。まさしく「昇日会」とはこの種のはったりと、脅迫だけを武器として肥え太ってきた組織にほかならなかったのだ。
李夢蘭と別れた藤村は、わずかな仮眠をとっただけで、もうその日の午後には「昇日会」本部に姿を現わしていた。
二十坪ほどの事務所はそれなりに整頓がゆきとどいていて、置かれてある調度も贅《ぜい》をこらしたものだったが、そこにたむろしている男たちが総てをぶちこわしにしていた。一目でそれと知れる上海浪人たちが、花札|賭博《とばく》に興じていたのである。
「真木さんにお会いしたい」藤村が言った。
「真木さんはお忙しい」男たちは花札から眼を離そうとさえしなかった。
「忙しくても、俺の名をきけば時間を割《さ》いてくれるはずだ」藤村は辛抱強く言った。
「とりついでくれないだろうか」
「ほう、たいした自信だな」男たちのひとりがようやく顔をあげた。「名前をきこうじゃないか」
「藤村脇――」
「なんだと」
男たちは見苦しいほどの狼狽《ろうばい》を示した。花札が床に落ちる。
「とりついでくれるだろうな」藤村の声はあくまでも平静だった。
とりつがないはずがなかった。藤村脇は、真木自身が部下に命じて、その行方をさがしていたはずの男なのだ。
数分後、古美術品がところ狭しと置かれてある、その上もなく趣味の悪い応接室で、藤村は真木と対峙《たいじ》していた。
「俺のまえに顔を出すとはいい度胸だな」真木が凄《すご》んで見せた。
それは無頼漢以外のなにものでもない下卑《げび》た口調だった。
「あとを跟《つ》けられるのには、いい加減あきあきしたからな」藤村は言った。
「もっとも、そちらもいっこうに松本の居所が分らなくて、いらいらしたことだろうがね」
「皮肉を言いたくて、ここにやって来たのか」
「そうじゃない」藤村は首を振った。「取り引きをしに来たんだ」
「取り引きだと?」真木の眼がこすからく細まった。
「今朝、きさまにやられた男は、病院で十二針も縫ったんだぞ」
「それがどうした? 腕力だけがとりえの男なら、いくらでも替わりが見つかるだろう」
「うむ……」真木は一声|呻《うめ》くと、身体を椅子に沈めた。
「よし、取り引きというのをきこうじゃないか」
「女が松本と別れてもいいと言ってる」藤村の声にはためらいがなかった。
「なんだと……」
藤村の言葉がよほど意外だったらしく、真木はなかば腰を浮かしかけた。
「どうした?」藤村は笑って見せた。
「驚くことはあるまい。それが狙《ねら》いだったんだろう」
「確かに、な」威厳をとりつくろう必要を感じたのか、真木は不自然なほどに尊大な表情になった。
「だが、ただで別れてやろうと言うのじゃあるまい。条件はなんだ?」
「金だ」
「……なるほど」
「渋い表情《かお》をすることはないだろう。どうせ松本の父親が払うんだ。あんたの懐《ふところ》が痛むわけじゃない」
「女はいくら払えば別れると言ってるんだ?」
藤村は金額を告げた。
「莫迦《ばか》を言うな」真木は悲鳴のように言った。「そんなべらぼうな金が払えると思っているのか。手切れ金にしても法外な額だ」
「手切れ金とは考えないほうがいい」藤村は楽しげに言った。「むしろ、松本を無事に戻すための身の代金と考えるべきだ」
「女はその関係なのか」
真木は一瞬うすら寒いような表情になった。彼がその関係という言葉に、青幇《チンパン》、紅幇《ホンパン》、要するに上海を支配するギャング組織をほのめかしていることは明らかだった。
「適当に考えてくれ」藤村は微笑した。
「ただし、俺の言っただけの金を払わないかぎり、松本が戻ってこないことだけは間違いない」
「うむ……」真木は腕を組んだ。
藤村は忸怩《じくじ》たる思いを抱えている。いかに他に方法がなかったとはいえ、藤村の行為が脅迫であることには違いなかった。
苦肉の策と言えば言えないことはない。確かに李夢蘭の言うとおり、松本にアヘンをやめさせるためには、しばらく彼女が離れているほか方法はないだろう。問題は、そうなると情報収集の任務を荷《にな》わされている李夢蘭の組織での立場が決定的に悪くなることだ。組織を懐柔《かいじゆう》するためには、せめて松本の身の代金としてまとまった金を収めるぐらいしか路《みち》はないのである。
松本がアヘン耽溺《たんでき》から立ち直るまで、藤村もまた李夢蘭と会わないつもりでいる。李夢蘭が最終的に愛人を選ぶときには、どちらの男にもハンディがあってはならないのだ。それが藤村の、松本に対する友情であり、李夢蘭に対する愛情でもあった。
「とにかく、東京の松本くんのお父上に連絡してみる」ながい沈思のすえ、ようやく真木が言った。
「返事はそれからだ」
「いいだろう」藤村はうなずいた。「それでは、十日後にもう一度ここにやって来る。そのときまでに返事を用意しておいてくれ」
「うむ」真木は顎をひいた。
藤村は席を立った。これ以上ここにいても仕様がなかった。ただ部屋を出ていく際、真木にこう釘をさしておくのだけは忘れなかった。
「俺の後を誰かに跟《つ》けさせようなどとは考えるなよ」
真木がすっぱいような表情《かお》になるのを確かめてから、藤村はドアを閉めた。
昇日会の事務所を出る藤村の胸は晴れやかでさえあった。まだ事態はなにひとつ解決をみていないが、少なくとも好転の兆《きざし》だけはあるようだ。
松本がアヘンをやめたその結果、李夢蘭が藤村を去るようなことになっても、それはそれでひとつの結末というべきではないだろうか。藤村はあまんじてその結末を受けいれるつもりでいた。藤村にとってなにより耐え難いのは、むしろ今のようなどっちつかずの状態だったのである。
そのときの藤村は、さらに酷い運命がその非情な顎《あぎと》を開けて、自分を待ちかまえていようなどとは夢にも思っていなかったのだ。
――ゴビとは、蒙古語で草の生育が悪い荒地という謂《いい》である。つまり、ここにはタクラマカン砂漠でいうような大砂丘地帯は存在しない。その砂や粘土で覆われた大地は、むしろ荒野という言葉にこそふさわしいかもしれない。
が、小規模なものなら、ゴビにも砂丘がないわけではない。馬賊たちが加わり、十数名にふくれあがった一行は、今その最後の砂丘を越えようとしていた。
これ以上さきに進むと、遊牧民がその暮らしをいとなむゴビ周辺のステップに足を踏みいれてしまうことになる。
藤村はようやくあせり始めていた。李夢蘭の言を信ずるならば、一行はすでに崑崙に到達していなければならないのである。
が、ゴビはいっこうにその様相を変えようとせず、藤村たちのまえにはあいもかわらぬ荒野がひろがっているのみだった。
――一行が倉田にのっとられた形になり、その主導権も森田から彼に移行したことは、藤村にとってさほど苦にはならなかった。確かに、崑崙を日本の侵略政策の一環として利用しようという倉田の思惑《おもわく》は、藤村には不快以外の何物でもなかった。が、そのことに関しては、いずれ逆転のチャンスが巡ってくるという自信のようなものがあった。
藤村がなにより恐れていたのは、崑崙がついに伝説の域を脱しず、実在しないのではないかということだった。今や崑崙は、藤村にとって唯一の生きる拠り所となっているのだった。
隊の人数は一挙に二倍以上にふくれあがったが、藤村がその先頭にたつという陣容に変わりはなかった。馬賊たちはぬけめなく左右後方をかため、藤村たちのいかなる反撃も不可能にしていた。無限軌道車《キヤタピラ・カー》の助手席にも馬賊のひとりが収まり、天竜《テイエンルン》の運転を終始みはっていた。
「いささか息がつまりそうだね」森田が言った。
森田はいま藤村と並んで、馬を進めていた。その暢気《のんき》そうな口調からは、主導権を奪われたことに対する屈辱はまったく感じられなかった。
――この男は一体なにを考えているのか、と藤村は疑った。どんな状況に直面しても、決してその穏やかさを崩そうとしない森田の態度は、感嘆を通りこして、なにかしら無気味でさえあった。
「倉田くんもなにもここまで我々を警戒しなくてもよさそうなものだがね」森田は言葉をつづける。
「我々にしたところで、せっかく崑崙の間近までやって来ながら、いまさらどこに逃げたりするものかね」
「裏切るやつの習癖だよ」藤村は吐き捨てるように言った。「他人《ひと》を裏切るやつは、自分も裏切られるのではないかといつも恐れているんだ」
「辛辣《しんらつ》だね」森田は微笑した。
「まあ、それはそれでかまわないようなものだが、こんな状態がつづけばB・Wがまいってしまうよ」
「…………」
藤村はB・Wを振り返った。なるほど、B・Wは疲労困憊《こんぱい》の極に達しているようだった。これまでは時おり無限軌道車の助手席に身を移すことができたから、さほどめだちはしなかったのだが、B・Wはいかにも乗馬に不慣れに見えた。そのB・Wが、倉田が裏切った後は、休むことなく馬の背に身をゆだねるはめとなったのである。しかも、肝心の馬は馬賊のひとりから提供されたその上もない駄馬ときている。B・Wが顔が蒼ざめるほどに疲れきるのも無理はないと言えた。
「B・Wは役にたたない」藤村は言い放った。「上海か北平でなら、彼も有能な殺し屋でいられるだろう。だがこのゴビでは足手まといにすぎない」
「きみはB・Wを理解していない」森田は首を振った。
「いずれは、きみも彼の真価を認めざるをえないときがくるだろうがね」
かつて二回にわたって、藤村と森田の間に同じような会話がかわされたことがある。そのいずれのときも、森田は頑強《がんきよう》にB・Wを弁護したのである。そして今、B・Wがほとんど病人にちかいような状態になっても、森田は自説を曲げようとはしない。この己《おのれ》の人選に対する絶対の自信は、森田の強靭《きようじん》な精神力をうかがわせるに充分だった。
倉田が流星号を速歩に駆り、藤村たちと並んだ。
「いつになったら崑崙に着くんだ?」倉田の声ははっきりと苛立《いらだ》っていた。
「さあ、な」藤村は肩をすくめた。
「俺だってどことはっきり知っているわけじゃないんだ。もしかしたら、崑崙なんてどこにもないんじゃないのか」
「莫迦を言うな。これで崑崙が実在しないなんてことになったら……」
「どうなるんだ?」
「…………」
倉田はそっぽを向いて、藤村の問いに答えようとしなかった。返事をきくまでもないことだった。仲間たちまで招集して、その結果すべてが徒労に終ったということにでもなれば、馬賊たちの間での倉田の面目は丸潰れとなるだろう。それは、馬賊社会での倉田の没落を意味していた。
「気の毒なことだな」藤村は嗤《わら》った。
「せっかく無線まで使って、仲間たちと連絡をとったというのに、その苦労も水の泡になるな」
「無線?」倉田は眉をしかめた。「なんのことだ」
とぼけるな、と言いかけて、藤村は危うくその言葉を呑みこんだ。倉田にとぼける理由などないことを思い覚ったからだ。もしあれが本当に倉田の仕業だとしたら、むしろとくとくと語ることこそ彼にふさわしくはないだろうか。
――無線を使ったのは倉田ではない。藤村はなかば啓示のようにそう直感した。誰か、倉田以外に無線を秘密裡に使った人間がいるのだ。仲間の全員を疑う必要があるという事情には、未だなんの変化もないようだった。
「無線がどうかしたのか」倉田は眼を光らせた。
「いや」藤村は返事を濁した。「なんでもない」
猜疑心《さいぎしん》のみ著しく発達した倉田が、そんなあやふやな返答で藤村を解放してくれるはずはなかった。倉田は身体をのりだして、なおも何か尋ねようとしたようだが、
「ここらには妙な草が生えているな」
傍若無人《ぼうじやくぶじん》な森田の声が、藤村を危うく窮地から救ってくれた。
「草ではないか。どうやら苔《こけ》の一種だね。これは……」
傍らで馬を進めていながら、それまでの藤村たちの会話をまったくきいていなかったような、いかにも森田らしい人を食った言葉だった。
なるほど、確かに露呈した岩肌に、緑の苔のようなものがこびりついていた。いま藤村たちのいる足元だけにではなく、苔は目路のとどくかぎりの荒野を、斑《まだら》に染めていた。
「めずらしくもないだろう」倉田が忌々《いまいま》しげに言った。
「それとも苔を見るのは初めてなのか」
「いや」森田は首を振った。「この苔だがどことなく普通のものと違うような……」
「…………」
その言葉の謂《いい》を確かめようと、藤村があらためて地に眼をおとしたそのとき、
「崑崙だっ」
興奮した声が背後からおこった。
「崑崙が見えるぞ」
たちまちのうちに興奮の奔流《ほんりゆう》が一行を包んだ。人だけではなく、それぞれの馬までもがたかくいなないている。
前方二百メートルぐらいに、地を圧するようにそびえている岩山がある。その屏風《びようぶ》のような赤い岩肌が、中央のあたりで谷状に深く陥没している。その間隙《かんげき》から、薄く霧にけぶったような崑崙が見えるのだ。
彼らは不注意に過ぎたかもしれない。どうしてその地が崑崙であると一眼で覚ったのか、疑問に思うべきだったろう。が、ながい苛酷な旅が、その不自然さに気づくだけのゆとりを彼らから奪っていたのである。
もう捕虜も馬賊もなかった。男たちは喚声をあげながら、崑崙に向かって馬を走らせていた。無限軌道車もたかくホーンを鳴らしながら、岩地には無謀なほどのスピードをあげている。乗馬にたけていないはずのB・Wまでもが、馬を全力駆走させているのだ。
異常な興奮というべきだった。藤村もまたその興奮の埒外《らちがい》に身をおくことはかなわなかった。
「待てっ」
ふいに脇から腕が伸ばされて、藤村の手から手綱がもぎとられた。とっさに馬の首にしがみつかなければ、藤村は棒立ちになった馬からふり落とされていたことだろう。
森田の仕業だった。
「なにをする!」
崑崙行きを阻止された憤りに、藤村は眼昏《めくら》みするような思いだった。
森田の馬も、藤村の馬におとらず猛り逸《はや》っているようだった。その馬を懸命に制しながら、
「落ち着けっ」森田は叫んだ。
たとえ絞首台のうえに立たされても、決して微笑を絶やすことのないように思えた森田のこの叫びには、さしもの藤村の興奮も冷えざるをえないようだった。
「落ち着くんだ」
と繰り返した森田の声は、すでに平静なものになっていた。
「崑崙をよく見ろ。どこかおかしくはないか」
「…………」
その胴を足で強く締めつけ、逸《はや》る馬を静めながら、藤村は崑崙を凝視した。
確かにおかしかった。岩壁の狭間《はざま》に展《ひら》けている崑崙は、あまりに藤村が抱いていたイメージそのままだったのである。原色の草花が咲き乱れ、清らかな泉が湧《わ》き……
「きみには城が見えるか」森田がきいた。
「いや……」
「私には見えるのだ」
「蜃気楼《しんきろう》か」藤村はつぶやいた。「莫迦な。ゴビに蜃気楼なんかが……」
「とにかく連中を呼び戻したほうがいい」森田の声にはわずかにあせりが感じられた。
「なにかひどく剣呑《けんのん》な気がする」
が、事実上、連中を呼び戻すのは不可能なようだった。倉田を先頭にして、彼らは少なくとも五十メートルは藤村たちをさきんじて走っていた。藤村の眼から見ても、彼らが岩山にたどり着くのは間近く思えた。
が――
「う……」
藤村と森田の口から同時に驚きの声が洩れた。
突然に岩山が消滅したのだ。むろん、それぞれの男がてんでに視《み》ていた崑崙も、ぬぐわれたように消えてしまっている。
今の今まで岩山がそびえていたはずの場には、濃い霧がたちこめている。いや、霧と呼ぶより、それはむしろ活火山の噴出ガスに似たなにかだった。明らかに地の一点から噴出しているそれは、視界を遮《さえぎ》り、辺りに異臭をまきちらしていた。
どうやらその霧状の噴出物は映画におけるスクリーンの働きをなしていたようだ。なんとも信じ難い話だが、男たちがそれぞれに視ていた崑崙は、実は彼らのイメージがそのスクリーンに投影された幻影にすぎなかったらしい。
男たちの悲鳴がきこえてきた。馬のいななきと銃声がそれに重なる。
藤村と森田はほとんど反射的に馬を駆っていた。
噴出物に遮られて、そこで何が起こっているのかまったく見ることはできない。が、いずれ劣らぬ豪の者であるはずの男たちがあげる悲鳴は、いやがうえにも藤村たちを走らせずにはおかなかった。
そのなかに突っ込んだ。
「う……」藤村は自分の眼が信じられなかった。
白く濁った視界のなかを、なにか巨大な蛇に似たものがくねっていた。蛇でないことははっきりしていた。それらは八本を数え、地の一点でたばねられているのだ。
その一点では、それ以上もなく邪悪な眼が二つ、周囲を右往左往する人馬を睨みつけていた。そのぬめった肌は、褐色《かつしよく》の地の色と類似していた。
蛸《たこ》なのだ。
いや、大気のなかでは三十分と生息できない蛸が、よりによってこのゴビにいるはずはなかった。蛸と同じ軟体動物、頭足類で、かつ似て非なる別種の生き物と考えるべきだった。いずれにしろ、蛸がこれほど巨大に成長できるわけはなかった。半身を地に潜らせているため、どれほどの大きさであるのかはっきりとは確かめられないが、その足は人間を一人とらえてゆうに余りある長さを備えているようだった。
今も不運な男がひとり、その足に胴をからめとられて、宙に持ちあげられていた。よほどの力で締めつけられているらしく、男は身をもがき、幼児のように泣き喚《わめ》いている。
無限軌道車《キヤタピラ・カー》が危ういほどに車体を傾けながら、それのみは地上に露出している蛸の眼に突進していった。
巨大な足が、獅子《しし》の尾のひと振りがハエを追うように、容赦なく無限軌道車をはらった。
が――さすがは天竜《テイエンルン》というべきだった。なみのドライバーなら、どうしようもなく車を横転させたはずだが、彼は無限軌道車をスピンさせることで、なんとかバランスを維持したのだから。
無限軌道車のドアがあおられたように開いて、男がひとり地に転がりでた。どうやらこれを好機にして、天竜は傍らの馬賊を自動車《くるま》から放り出すことに成功したようだ。
「天竜っ、手榴弾《てりゆうだん》をよこせ」馬からとびおりた藤村が叫んだ。
無限軌道車は轍《わだち》を深く地に刻んで、藤村に向かって全速力でバックしてきた。
蛸の足が、宙を泳ぐようにうねりながら、無限軌道車を追ってくる。
つるべ射ちの銃声が響いて、いましも無限軌道車をからめとらえようとした蛸の足が、漿液《しようえき》をまきちらした。
B・Wだ。総《すべ》ての弾丸を射ち放ったB・Wは、非人間的なほどの冷静さで、新たな弾丸を薬室《マガジン》につめ、場所を変えた。そして、ボルトを操作し、蛸めがけて再び速射する。
そこにいるのは、あの落石にさえ怯えたB・Wではなかった。倒すべき対象を再び見いだして、紅幇《ホンパン》随一の殺し屋が甦《よみがえ》りをみせたのだ。
B・Wの正確無比な射撃は、明らかなダメージを蛸に与えていた。
蛸の足は、それぞれに地を薙《な》ぎ、宙をうねった。そのうちの一本に未だとらえられたままの男が、さらにたかく、酷い絶叫をふりしぼり――そして、ガクンと身をのけぞらした。
すぐ傍らで炸裂《さくれつ》した銃声に、藤村は振り返った。いまひとりの男を殺した拳銃を構えて、森田が凝然としていた。
「森田……」藤村の声はかすれていた。
「あの男はどうせ助からない」森田がつぶやくように言った。
「化け物に頭からかじられるよりはましだろうが……」
森田の手のなかでつづけざまに拳銃がはねあがった。どうして、森田の射撃のうでもかなりのものだった。蛸の眼が痙攣《けいれん》した。その一方の眼から、赤い液が迸《ほとばし》った。
――森田のとった措置の正否を自問している余裕は、いまの藤村にはなかった。転がるようにして自動車《くるま》をとびだしてきた天竜の手から、なかばひったくって手榴弾をうけとると、藤村は蛸に向かって走った。
この化け物を手榴弾でしとめるには、もう少し距離をつめる必要があったのである。
自分がおびきよせたこの餌《えさ》たちの、思いもよらぬ強力な反撃に、蛸は明らかな狼狽《ろうばい》を見せていた。
地の一点からふいに濃い霧のようなものが噴出した。松やにに似た臭いが周囲に満ち満ちた。
――あの苔だ。……とっさに身を伏せながら、藤村はそう直感した。霧の臭いはあの苔の臭いと類似していたのである。眼前のお化け蛸にも、海の縁戚が持つ墨袋と、同じ器官が備わっているに違いなかった。特殊な苔をくらい、それをなんらかの方法で霧状に変え、敵をあざむくのに使う……
「気をつけろっ」倉田の緊迫した声が、霧のむこうから聞こえてきた。
「この霧は幻を映すらしいぞ」
そして、銃声がつづけざまに響いた。ほとんど総崩れになった馬賊のなかで、倉田ひとりが奮戦しているようだった。
「おまえこそ気をつけろ」藤村は身をおこして叫び返した。「手榴弾を使うぞ」
めくら投げに逡巡《しゆんじゆん》するのは愚かというべきだった。この霧に再び幻惑されるようなことにでもなったら、それこそ手榴弾を使うどころではなくなるからだ。
手榴弾のピンを抜いた。
頭のなかで十数えた。
投げつけた。
思いがけなく大きな爆発音が鳴り響き、一瞬のうちに爆風が霧をふきはらった。
「やったっ」
と天竜の叫ぶ声が、背後からきこえてきた。
やったと断ずるのはせっかちにすぎるようだが、手榴弾が少なからぬダメージを蛸に与えたのは間違いなかった。――蛸はいまやほとんど全身を地上に現わしていた。海中の蛸と同じように、丸い頭と見紛《みまが》われている部分が、その化け物においても胴であるようだった。その胴のいたるところから、漿液が地に流れおちていた。大きく裂けた胴からは、赤い内臓が覗《のぞ》いていた。
その憤怒《ふんぬ》に燃えた眼と、互いになんの脈絡もなくのたうっている八本の足が、蛸の苦悶をなによりよく物語っていた。
森田が、B・Wが、倉田が放つ銃声がひとしきりつづいた。
「もうひとつ手榴弾をよこせっ」藤村は天竜《テイエンルン》を振り返った。
そのとき――いかにも悲しげな馬のいななきが藤村の耳をつんざいた。
流星号だった。苦痛にのたうつ蛸が、その凶悪な意志をみなぎらせた足の一本で、流星号を俘虜《とりこ》にしたのだ。
さしもの勇敢な流星号も、この化け物を相手にしてはあらがうすべを知らないようだった。サラブレッドは宙にもちあげられていった。
「流星号っ」
倉田が蛸の足にとびついた。懸垂の要領で身体をもちあげると、倉田は銃口をほとんど蛸の足に密着させて、たてつづけに引き金をしぼった。
流星号が地に落ちた。いまサラブレッドを解放したその足で、蛸は倉田の胴をからめとり――そして、地にたたきつけた。
一瞬の出来事だった。
倉田の身体が鞠毬《まり》のようにはねかえるのが、悪夢のなかの一情景にも似て、藤村の網膜に刻みつけられた。
蛸はみたび霧を吐きだした。戦うためにではなく、逃げだすために、その霧が吐きだされたのは明白だった。
――霧がうすれたとき、蛸の姿はもうどこにもなかった。地上には、モグラのそれを数十倍に拡大したほどの、胸の悪くなるような畝《うね》が残されていた。
男たちは呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。苛酷だった戦いもさることながら、今の今まで眼にしていた化け物のあまりの非現実性が、ようやく男たちの脳を麻痺《まひ》させているようだった。
まっさきに我にかえったのは、やはり森田だった。なにかブツブツとつぶやきながら、森田はふらつく足で、地に伏している倉田に近づいていった。
藤村、B・W、天竜《テイエンルン》が等しく虚脱したような表情で、ギクシャクと森田につづいた。
蹄《ひづめ》の音がいり乱れてきこえてきた。かろうじて生き残った馬賊たちが、我先にと逃げだしたのだ。
四人の男たちは逃げていく馬賊を振り返ろうともしなかった。彼らが馬賊の逃亡に気がついたかどうかさえ疑問だった。少なくとも藤村に関して言えば、いま彼の視界を占めているのは、ただ倉田の死骸のみだった。
そう、疑いようもなく倉田は絶命していた。そのパックリと割れた頭から流れでる血と脳漿が、地面に黒いしみをつくっていた。
――あなたは愛するものの犠牲となって生命《いのち》をおとす……
|山から来たラマ《オーレン・ラマ》の予言が、繰り返し藤村の頭に響いていた。まさしく、倉田は愛するものの犠牲となって、死ぬことになったのだ。
「おしい男をなくした……」森田がボソリとつぶやいた。
「おしい男?」
天竜《テイエンルン》はその言葉を冗談とうけとったらしかった。苦笑を浮かべかけ、そしてその表情《かお》をこわばらせた。森田のみならず、藤村、B・Wまでが沈鬱な表情《かお》をしているのに気がついたのである。
藤村は流星号に眼をやった。流星号は倉田の死骸に見いっているようだった。誰の涙が流されなくても、少なくとも流星号だけは倉田の死を悼《いた》んでいるのだった。
「そう」藤村はうなずいた。「おしい男をなくした」
B・Wがなにか口のなかでつぶやいた。人の値打ちは棺のふたが釘うたれるまで分らない……B・Wは上海語でそうつぶやいたようにきこえた。
「さて、と」森田が自らの感傷を断ち切るような、きっぱりとした口調で言った。
「なにはともあれ、倉田くんを葬らねばならんだろうね」
「そして、崑崙に行く」と、藤村。
「崑崙へ?」天竜がそそけたような表情《かお》になった。
「あんな化け物にぶつかったというのに、まだ崑崙行きをあきらめないんですか」
「あきらめるものか」藤村はぐいと顎をしゃくった。「せっかく崑崙と眼と鼻のさきまで来たというのに……」
天竜は視線を彼方に向けた。森田とB・Wも、天竜にならった。彼らの眼は一様に荒野の果ての鮮烈な色彩を認めているはずだった。
――それはこの地に足を踏み入れて以来、彼らがながく眼にしなかった色、いつしか見ることを渇望するようになっていた色――陽光にきらめく緑だった。そこに至るまでどれほどの距離がひらいているのか、緑の色彩は帯のようにながく、荒野の果てにうねりつづけていた。
「崑崙か……」
誰かのつぶやく声が藤村の耳にきこえた。もしかしたら、藤村自身がつぶやいた声だったかもしれない。
第九章 空桑《くうそう》の琴瑟《きんしつ》
急げば、その日のうちにも崑崙に行けないことはなかった。だが、四人の男たちは揃《そろ》って極度の疲労に陥っていたし、またここにいたっていたずらに旅をあせるのは無益というべきだった。
その日、夕陽が沈みかけたころには、彼らはもう野営の天幕《ユルト》をはっていた。身体を休めるためからばかりではなく、陣容や装備を再考するためにも、野営は賢明であると言えたろう。
――実際、馬賊たちの略奪と、あの化け物蛸との戦いによって、一行がうけた被害は甚大であった。第一に、馬が三頭から二頭に減っていた。流星号と、藤村が北平で購入したアラブ馬のみが残ったのである。第二に、ガソリンが盗まれていた。ガソリンなど手に入れても、馬賊たちにはなんの益もないはずだが、とにかく盗まれている事実に違いはなかった。
「食糧をとるか、武器をとるかだね」森田が言った。「無限軌道車《キヤタピラ・カー》はもう使えない。かと言って、流星号が荷馬として役に立つとは思えない。つまるところ、一頭の馬で運べるだけの荷物しか持っていけないわけだ」
「……あの自動車《くるま》を捨てていくと言うんですか」天竜《テイエンルン》の声は苦渋に満ちていた。
「気持ちは分らんでもないが、いかにおまえでもガソリンなしで自動車《くるま》を動かすわけにはいかんだろう」藤村はなだめるような口調になっている。
「…………」
天竜は唇を噛んだ。実の母親さえ憎んでいるというこの少年が、こと自動車《くるま》に関してのみは、まるで幼児のような稚《おさな》い執着を見せるのだ。
「俺は武器を持っていくべきだと思う」B・Wが重い口を開いた。
「いつまた今日のような化け物に出会わんとも限らんからな。そのとき満足な武器がなければ、どうにも戦いようがない」
「食糧はどうする?」藤村がきいた。
「崑崙で調達できるだろう」
「もし、調達できなかったら?」
「どうせ帰路に足りるだけの食糧は持ってきていない。崑崙で食糧が調達できなければ、おそかれはやかれ俺たちは飢えることになる。
考えてみるがいい。武器なしで化け物に出会ったらどうなる? 食糧を抱えて死ぬのと、武器を抱いて死ぬのと、あんたならどっちを選びたい?」
「なるほど……」藤村は苦笑した。
この男には珍しく饒舌だった。多分、今日の久しぶりの戦いが、ながく戦うことのみを生業《なりわい》にしてきたB・Wを、必要以上に昂《たか》ぶらせているのだろう。――が、その言葉は理にかなっているようだ。確かに、藤村にしても食糧を抱えて死ぬよりも、武器を手にして死ぬほうを選びたかった。
「いいだろう。持っていく食糧は三日分だけにしよう」森田が論議のしめくくりをつけた。
「武器は各自気にいったものを手に持つ。弾丸、弾倉《マガジン》、手榴弾などは、可能なかぎり馬の背に積む」
――論議のあと、小用のためか、森田は席を立った。思うことがあって、藤村も森田を追って、天幕《ユルト》の外に出た。
「森田さん」藤村は声をかけた。
森田はゆっくりと振り返った。
「なんだね?」
と尋ねた森田の声は、その穏やかさには変わりはなかったが、疲労の響きが濃く滲んでいるのはやはり否めないようだった。
「あんたに詫びたいことがある」藤村は言った。
「なにを詫びると言うんだね?」
「B・Wのことだ」藤村の口調は低かった。
「それに、倉田のこともだ。俺は何度もあんたの人選を非難した。B・Wは役にたたないし、倉田は信頼できない……俺は本気でそう思っていた」
「なんでもないことだ」森田は微笑した。「詫びる必要なんかさらさらないさ」
「そうはいかない」藤村の眼が一変して鋭いものになった。
「俺は実際あんたには感嘆しているんだ。たとえば、今日の化け物蛸との戦いのことだが……B・Wが馬賊のひとりからライフルを奪ったのは分る。彼には充分に時間があったからな。
だが、俺と一緒にいたはずのあんたが、どうして拳銃を持っていたんだ? 倉田は俺たちから一切の武器を取りあげたはずなんだがね」
「そんなことが気にかかるのか」森田の声はため息のようにヒッソリとしていた。
「気にかかるとも」いま藤村はまっすぐに森田の視線をとらえていた。
「俺は考えたのだが、多分、あんたはブーツに拳銃用の小さなポケットをつくってあるんじゃないのか。その気になれば、あんたはいつでも倉田を逆転できたんだ。
ブーツに拳銃用ポケットを設けている連中の話はきいたことがある。なんでも上海の日本特務機関の連中がよく使う手だそうだ。関東軍の手先となって動いている特務機関の連中が、な」
「ブーツに拳銃を隠すのは、別に特務機関だけのアイデアじゃないよ」森田の声音にはいささかの乱れもなかった。
「たとえば、青幇《チンパン》の連中なんかはブーツの踵《くるぶし》に細いナイフを隠している」
「…………」
詭弁《きべん》というべきだったが、しかし森田の台詞《せりふ》をごまかしと断じるだけの根拠は、藤村にはなかった。藤村は森田に対して漠然とした疑惑を抱いているのだが、その疑惑を確とした言葉にはできなかったのである。
「話がそれだけなら、ちょっと失礼するよ」森田は表情《かお》をほころばせた。
「齢をとると、なにぶんちかくなってね」
背中を見せた森田を、藤村はそのまま行かせるわけにはいかなかった。
「無線の相手は誰だったんだ?」藤村は圧《お》さえた声で言った。
「俺の知るかぎり、あんたは一度も渡会に連絡していない。それなのに、あんたは強硬に無線を持ってくることを主張した。……なあ、森田さん、あんたは無線で誰に連絡しているんだ?」
森田は答えなかった。藤村の言葉をきいたかどうかさえ怪しいものだった。
森田は立ち去った。
藤村は夜の闇のなかにとり残された。疑惑もまた彼のうちにとり残されたままだった。
朝がきた。
今日こそ崑崙に足を踏みいれる、最初の一日となるはずだった。その輝かしい第一日を迎えるには、男たちの装備はかなりにみすぼらしいものと言えた。
藤村の選んだ武器はピースメーカー・コルトだった。射撃にさほど自信のない藤村にとっては、やはり破壊力の大きいコルトは捨て難い魅力があった。
森田は軍用モーゼルを持っていた。ドイツ製のミリタリー・モデルを愛用銃として使いこなすところは、森田のまだ明かされていない身分をなんとなく想像させた。
天竜にはどんな銃でも同じことだった。結局はブローニングを選んだが、彼はどちらかというとナイフを使うタイプだった。
携帯する武器を選ぶのに、最も時間がかかったのはB・Wだった。サブ・マシンガンと高性能ライフル――B・Wにしてみれば、そのいずれをも持っていきたかったのだろうが、いかんせん体力には限界があった。さんざん迷ったあげく、B・Wはライフルを選んだ。多勢が相手のときにはサブ・マシンガンはかなりの威力を発するが、射程距離に難がありすぎた。昨日《きのう》のような怪物を倒すには、遠方から狙って、なお殺傷力を損なわないライフルのほうがはるかに優れた武器と言えた。――もしかしたら、殺し屋としてのB・Wの誇りが、火器としては邪道に範するサブ・マシンガンを捨てさせ、ライフルを選ばせたのかもしれなかった……
流星号を荷馬として使うわけにはいかなかった。サラブレッドは荷を運ぶのにはあまりに誇りがたかすぎたし、流星号を守って死んでいった倉田を思えば、とても荷馬に使う気にはなれなかった。一頭のアラブ馬が運びうるだけの荷が、彼らの装備のすべてだったのである。
早朝、四人は崑崙に向かって歩きだした。無限軌道車《キヤタピラ・カー》、馬をつらねたそれまでの旅に比べれば、まるで羽をむしられた鶏のようにみじめな陣容と言えた。
「手榴弾をひとつ貰いますよ」天竜が荷馬の背袋から、手榴弾をとりだした。
「手榴弾なんか何に使うんだ?」
藤村の問いには答えようとせず、天竜は手榴弾のピンをぬいて、ゆっくりと振り返った。そして、
「さようなら」
と叫ぶと、手榴弾を無限軌道車に投げつけた。
轟然《ごうぜん》たる爆音とともに、無限軌道車は一瞬のうちに焔と黒煙に包まれた。
「あの自動車《くるま》をつくったのはぼくですからね」天竜は微笑んだ。
「葬ってやるのもぼくの役目でしょう」
無限軌道車は燃えさかった。ある意味では、焔に包まれている無限軌道車は、これからの四人の旅を象徴していると言えた。彼らにもう帰路はなく、これまでとまったく異なった旅をつづけるほかはないのだった。
――彼らが緑の地のまえに立ったのは、その日の午後のことであった。
四人は呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。緑の色彩を荒野の果てに認めたときから、彼のうちでは漠然と崑崙のイメージが育《はぐく》まれていた。ところが、その地にいたって、彼らのイメージはそれぞれに無残に崩れ落ちたのだった。
竹林なのである。
地はゆるやかな丘面をかたちづくっている。その丘面を隙間《すきま》なく埋めつくして、丈五十メートルにも及ぶかと思われる竹が群生しているのだ。
竹林は左右に蜒々《えんえん》とのびていた。それはまさしく、他者の立ち入りを拒むために設けられた緑の鉄壁を連想させた。
彼ら四人のうち誰も、かつてそれほどに巨大な竹も、それほどに広大な竹林も目撃したことがなかった。その地が丘面となっていることは、茎の間から見え隠れしている地面から、かろうじて識別することができた。識別することはできたが、その丘陵がどれほどの規模のものであるか、竹林がどれほどの面積を覆っているかまで確かめるのは不可能なようだった。それぞれ直径三十センチはある巨大な竹が、視野を著しく損なっているのである。
その光景には、どことなく意図的なものが感じられた。それまで不毛だった荒野が、ある一線を画して、突然に巨大な竹の群生地にと変貌しているのである。およそこの地上にはありうべからざる眺めと言えた。
「この竹林から崑崙が始まるというわけかね」
と、森田が疑わしげに言った。
「どことなく、剣呑《けんのん》なものを感じるがね」
森田がどう感じようと、いまさらひきかえすわけにはいかなかった。とにかく、手斧《ておの》がなくても先に進めるような、いくらかでも竹の疎《まばら》な地をさがすほかはなかった。
それから三十分ほど、四人は竹林を片面に見て、入り口となるべき場所をさがした。
「これぐらいで我慢すべきなんじゃないかな」
B・Wが指定した場所は、なるほど他所《よそ》に比べて、いくらかは竹が疎なようだった。容易にとは言い難いが、少なくともそこからだったら馬を竹林に進めるのも可能に思えた。
「どこまで先に進めますかね」天竜が不安そうな表情《かお》で言った。
「さあ、な」藤村は首をひねった。
「だが、これ以上さきに行っても適当な場所が見つかるとも思えない。どうだろう、森田さん、思いきってここから竹林に踏み込んでみたら……」
「厭《いや》な予感がするよ」森田は顎をなでた。「厭な予感がして仕様がないんだがね」
確かに、竹林はなにか凶々《まがまが》しい様相を帯びているように見えた。森田でなくとも、その地に足を踏み入れるのは気が進まなくて当然だったかもしれない。当然だったかもしれないが、四人のうち誰もそれ以上に尻込みする者はいなかった。
――竹林のなかを進むのは困難を究《きわ》めた。間隙の窮屈なことも勿論《もちろん》だが、それ以上につきでた枝が一行を難渋させたのである。竹によっては、枝が強く太いとげに退化した、いわゆる刺竹《しちく》と呼ばれるものがある。その竹林にも刺竹が多く、場所によっては剣林《つるぎばやし》のような観さえ呈していた。
見通しはきわめて悪かった。幾重にも重なった巨大な竹に、視界は緑の霞《かすみ》がかかったようになっていた。
四人の男たちは、いや、二頭の馬も含めて、ものの三十分とたたないうちに、全身をすり傷だらけにしていた。が――彼らは黙々と進みつづけた。激しく喘《あえ》ぎ、竹の地下茎に幾度となく転びそうになりながら、ただただ進みつづけたのである。
「空気が少し匂《にお》うような気がする」天竜が言った。
「厭な匂いじゃないけど……これは竹の匂いですかね?」
「違うな」B・Wがボソリと言った。
「違う?」藤村はB・Wを振り返った。「どうしてそう断言できるんだ?」
「…………」
B・Wはそれには直截《ちよくせつ》答えようとせず、懐から例ののみを取り出した。そして、そののみを手近にあった竹の茎に力いっぱい突き刺した。
一種独特な香りが藤村の鼻をついた。
「竹のなかの匂いか」藤村は唖然《あぜん》とした。
「竹の節は中空状態をつくっているからね」
と先頭にいる森田が、藤村に背中を向けたままで言った。
「そのなかの空気が、普通の空気と多少違っていても不思議はないさ。私の子供の頃には、真空になっているとまで教えられたものだよ」
藤村の頭は今なんとも奇妙な想像で占められていた。奇妙ではあったが、あの化け物蛸を見たあとでは、まったくありえない想像とも思えなかった。
「どうだろう?」藤村はかすれた声で言った。
「この竹が崑崙の空気を調節しているとは考えられないだろうか」
「調節している?」森田がようやく振り向いた。「どういう意味だ」
「だからさ。この竹が節のなかで――に最も適した空気をつくりだす。そして、崑崙にその空気を供給するわけだ……そう考えれば、ここの竹がこれほど巨大で、数がやたらに多いことも説明がつくじゃないか」
「崑崙では空気までが特別あつらえというわけですか」天竜の声は明らかな揶揄《やゆ》を含んでいた。
「いや、考えられないこともない」森田がとりなすように言った。
「確か、藤村さんは剣歯虎《サーベル・タイガー》を見たと言ったね。これはある学者からのまた聞きなんだが、剣歯虎《サーベル・タイガー》が生息していたような時代、つまり大昔には地球の空気の質が違っていた、というような説もあるらしい。もしかしたら本当に崑崙の空気は特別あつらえかもしれないよ」
「じゃあ、実際にここにある竹は特殊な空気をつくっているのかもしれないんですか」
と、天竜《テイエンルン》が気味悪げに竹の一本を見上げたそのとき――
ふいに竹林がザワザワと大きく揺れ始めたのである。風はまったく感じられない。それなのに、まるで竹が自身の意志で身揺るぎしているかのように、右に左にうねりだしたのだ。
二頭の馬が怯えた声を発した。実際、アラブ馬にいたっては、藤村がいちはやくその手綱を掴《つか》まなければ、やみくもに走りだしていたかもしれなかった。
竹のざわめく音は、猛禽《もうきん》類の羽ばたきに似て、ひどく威圧的にきこえた。それはしだいにたかく、激しくなっていくのだ。四周の竹の揺らぎに、ともすると暴風のただなかにいるような錯覚にとらわれるのだが、未だ風が吹いていないことには変わりなかった。
「何事ですか」さすがに天竜の表情《かお》は蒼ざめている。
「分らん」藤村は首を振った。
実際、藤村でなくてもそう答えるほかはなかったろう。竹がどんな力も加えられず、それのみで揺らぐなど、とても人間の常識ではかりきれることではなかった。
いまや竹の揺らぐ音はたがいに共鳴しあい、潮騒《しおさい》のような響きを伴うようになっていた。
「まるで警告しているみたいだな」森田が言った。
「警告?」藤村は眉をしかめた。「どういうことだ」
「まるで我々に戻れと言ってるようじゃないか」
「…………」
藤村はあらためて四周を見廻した。たしかに、それら竹の揺らぎは、藤村たちがそれ以上に進むのを激しく拒絶しているように見えた。
「面白いじゃないですか」天竜《テイエンルン》の唇に挑むような微笑が浮かんだ。
「竹なんかに脅かされていたんじゃ、人間さまの沽券《こけん》にかかわる」
天竜は足を進めようとした。が、一歩として進むことはできなかった。なにか緑色の閃光《せんこう》に似たものが、天竜の股《もも》をかすめたのである。
「う……」
天竜が顔をしかめたのも無理はなかった。彼のズボンの股のところが、まるで鋭利な刃物《はもの》で切られたように裂けていて、そこに薄く血が滲んでいた。
天竜の股を傷つけたそれは、地に深く刺さって揺れていた。
藤村はしばらく何が起こったのか理解できないでいた。いや、藤村ばかりではなく、さしもの冷静な森田も、被害者である天竜自身でさえも、とっさには何が起きたのか理解できないでいるようだった。
それは、――竹の葉だったのである。
「逃げたほうがいい」B・Wがかすれた声でつぶやいた。
が、遅かった。
ザーッという津波のような音とともに、夥《おびただ》しい数の竹の葉が四人の男たちに襲いかかってきたのである。それはまさしく襲いかかるという言葉で形容するほかはない猛攻撃だった。
ただの竹の葉ではない。葉は細く、かたく、ほとんど刃物に等しかった。――その刃物に等しい葉が、まるで雨のように四人の男に集中してくるのだ。
どう防ぎようもなかった。
四人の男たちは揃って両手をかざし、とにもかくにも顔と咽喉《のど》だけは守っている。さすがに竹の葉は身肉につきささるほどの鋭さは備えてはいないようだった。が、容赦なく肩を、胸を、足を裂いていく竹の葉は、それだけで四人を立ち往生させるに充分な威力があった。
藤村は全身にけだるい脱力感を覚えている。どの傷も浅手にすぎないが、しかしこの状態がつづけば、いずれは出血多量による死を招くことは明白だった。すでにその兆候は見え始めているようだ。
動きもならず、防ぎもならず、竹の葉の攻撃に身をさらしたまま四人の男たちはただただ立ちつくしている。二頭の馬も最初のうちは明らかな恐慌《きようこう》に陥ったようだったが、これも風雨と同じ自然現象だと諦念したのか、いまはただ凝《じ》っと耐えている。
「馬の腹の下に潜り込むわけにはいかんかな」意外なほど落ち着いた声で、森田が言った。
「ひとおもいに自殺したいんならそれもいいだろう」藤村は皮肉に答えた。
「馬の足で蹴られるほうが楽に死ねるかもしれん」
それに、竹の葉の攻撃は、馬の躯を盾にしたぐらいではどう防ぎようもないほど激しさを増していた。
彼らをとりまく竹は、その揺らぎをさらに大きくしつつあった。それが初速となって、竹の葉の威力をいやましに増しているのだ。
――死ぬことになりそうだな、と藤村は思った。およそこれほど無意味な死もないだろうが、人は必ずしも納得のいく死を迎えることができるとは限らない。なかば混濁した頭で、藤村は自分の死に様《ざま》にいいようのない諧謔《かいぎやく》を覚えていた。
なにかきこえたような気がした。野獣の咆哮《ほうこう》に似ていた。
ふいに静寂が戻ってきた。それまで耳を圧していた竹林のざわめきが、信じられないほどの唐突さできこえなくなったのだ。
同時に、全身を灼《や》けつかせていた竹の葉の襲撃も、ピタリと止んでいる。
藤村はノロノロと両腕をさげ、かすんだ眸《め》で何が起こったのか見定めようとした。
剣歯虎《サーベル・タイガー》だった。
そのみごとに力のみなぎった体躯を、巌《いわお》のようにそびえさせ、剣歯虎は藤村を見つめていた。
「まだこっちのほうがいい」背後からB・Wの疲れたような声がきこえてきた。
「こっちならなんとかライフルが通用しそうだからな」
「待て」藤村は剣歯虎と見つめあったまま、B・Wを制した。
「そうだ。待ったほうがいい」森田が言った。
「どうやら、この剣歯虎《サーベル・タイガー》が怒れる竹を静めてくれたらしいからね」
「…………」藤村は唇がほころびるのを感じた。
およそありうべからざることだが、藤村はどうやらその剣歯虎《サーベル・タイガー》とは知己の間柄のようだった。かつて藤村がながくその後を追いつづけた、あの剣歯虎なのだ。――藤村は追跡行のはてに、その剣歯虎に対してある種の共感を抱くようになったのだが、それは彼のほうでも同じだったようだ。剣歯虎はその力強い咆哮《ほうこう》で、藤村を竹の葉の襲撃から救ってくれたのだから。
「諸君――」藤村は三人を振り返って言った。
「我が友人を紹介しよう。剣歯虎《サーベル・タイガー》くんだ」
「よろしく」森田が真面目くさってうなずいた。
剣歯虎は咽喉のおくでグルルと唸った。
「気が狂いそうですよ。ぼくは……」天竜がぼやいた。
――四人の男たちは惨澹《さんたん》たる状態になっていた。衣服はズタズタに破れ、全身いたるところに傷ができていた。誰もさほどに深い傷は負っていなかったが、浅手といえどもそれぐらい数が多いと、なんらかの治療を考えないわけにはいかなかった。
むろん、流星号も同じ状態である。――可哀想なのは、アラブ馬のほうだった。傷からくるショックと、恐怖のために、アラブ馬は生きようとする気力をなくしているようだった。地に横たわったまま、首を上げようとさえしないのである。
「こちらの馬は置いていくしかないね」さらしを上膊部《じようはくぶ》に巻きながら、森田が言った。
「荷物はどうする」藤村はひどくしみる塗り薬に顔をしかめている。
「最低限必要なものだけ、四人で分担して持っていこう。竹はイネ科に属する植物だからね。竹があるからには、なにか食えるものも見つかるだろう」
「いよいよ自給自足か」藤村は苦笑した。
「情けないことになったな」
剣歯虎《サーベル・タイガー》は、四人がとにもかくにも出発できる状態を整えるのを、興味深げに観察していた。異常に巨大な竹の群生を背景にして、古代の虎が坐っているその姿は、なにか神話のなかの一情景を連想させた。
面白いのは、流星号がまったく剣歯虎に怯えを見せていないことだった。いかに誇りたかいサラブレッドとはいえ、野獣に対しては極度に神経質な馬の習性から自由でいられるはずもないのだが……
もしかしたら、その剣歯虎をただの野獣と考えるのは間違いかもしれない。ただの野獣が、荒ぶれる竹を一声で鎮圧できるわけはないからである。
「急がないと、暗くなってしまいますよ」天竜が言った。
「この竹林で野営をするのだけは、ごめんこうむりたいですね」
それは誰しも同じだったろう。この竹林で夜を過ごすには、毒蛇《どくじや》と同衾《どうきん》するほどの覚悟を必要とした。
「案内してくれるか」藤村は剣歯虎の眼を見つめながら、静かな声で言った。
剣歯虎に藤村の言葉が通じるわけもないのだが、彼が腰をあげ、竹林をさらに踏み込み始めたのは事実だった。
藤村は流星号の手綱をひきながら、剣歯虎に従った。
「藤村くんは動物に非常にうけがいいようだね」
と言った森田の言葉は、やはり冗談とも、皮肉とも判断し難かった。
B・Wだけが少し遅れていた。三人ともにその理由は承知していた。
背後から銃声がきこえてきた。B・Wが歩けなくなった馬を楽にしてやったのだ。たとえ対象がなんであれ、B・Wの生業《なりわい》が殺しであることに変わりはないのだった。
――一時間ほど竹林を進むと、四人の視界をそびえたつ崖が遮《さえぎ》った。なんの用意もしていない彼らには、その崖を登攀《とうはん》するのは少しむずかしいようだった。
幸いにも、崖をよじ登る必要はないらしかった。流星号がようやく進めるぐらいの洞穴が、岩肌にポッカリとひらけていたのである。
藤村たちを促すように、剣歯虎《サーベル・タイガー》は洞穴の入り口で肩越しに振り返った。そして、ヒラリと洞穴のなかに飛びこんでいった。
藤村たちは互いに顔を見合わせたが、しかしためらっている余地はないようだった。この竹林から抜けるには、その洞穴に入るしかすべはないらしかった。
洞穴にはつきもののはずの鍾乳筍《しようにゆうじゆん》の類《たぐ》いは、いっさいそこには見られなかった。岩壁は鏡面のように滑らかで、玉虫色のような光沢を放っていた。小さな窪《くぼみ》に水のたまっているようなところもあるにはあったが、全体に洞穴はひどく乾いていると言えた。
――藤村と天竜《テイエンルン》が持つ懐中電灯の明かりが、岩壁を異様なほどきらめかせていた。その眩《まばゆ》い視界のなかを、剣歯虎《サーベル・タイガー》の跳躍する影があざやかにおとされていた。
「奇妙な洞穴だな」森田が歩を進めながら、しきりに首をひねっていた。
「洞穴というのはもう少し武骨なものじゃないだろうか。少し岩壁が滑《なめ》らかすぎはしないかね。かといって、人工のものとも考えられないし……」
「熔岩でできた洞穴じゃないかな」藤村が言った。
「熔岩が巨木を押し倒して……熔岩が冷えたときには、巨木のほうは燃えちまってて、洞穴がつくられた……」
ほんの思いつきでそうは言ったものの、藤村は自分の言葉に微塵《みじん》の確信も抱いてはいなかった。いかに巨木であろうと、これほどの規模の洞穴をつくれるはずがない。第一、この辺りにはどんな火山も存在していなかった。
――剣歯虎を先頭に、一行は進みつづけた。それを目測するのは不可能だが、洞穴はわずかに下っているように思えた。巨大な竹に覆われたあの丘陵が、崑崙の城壁をかたちづくっているのだとしたら、一行はとにもかくにもその城壁を通過することはできたようだ。
洞穴はいっかなとぎれる様子を見せなかった。ただ中国の陶磁器のような岩壁が、あいも変わらぬ無表情さでつづいているのみだった。男たちの吐く息が、ようやく荒くなっていた。
ふいに剣歯虎《サーベル・タイガー》が足をとめた。それまでの休むことのなかった筋肉の躍動を考えると、ちょっと意外なほど無器用な足のとめかただった。
「ウルル・ル……」
剣歯虎は咽喉の奥で唸《うな》った。野獣が強敵に出会ったときの、威嚇《いかく》の唸りだった。懐中電灯の乏しい明かりのなかでも、剣歯虎が全身を緊張させ、体毛をさかだてているのが分った。
流星号の様子もまた尋常ではなかった。激しく鼻を鳴らし、必死に後ずさろうとしているのだ。あの勇敢な流星号が怯えているのである。
藤村と天竜の懐中電灯が、ほとんど同時に前方を薙《な》いだ。
「なんだ……」天竜《テイエンルン》の拍子ぬけしたような声がきこえてきた。
「何もいないじゃないですか」
確かに、何もいなかった。いや、大体こんな洞穴に何かいるはずはなかった。
が、――動物たちの様子はあいかわらずだった。剣歯虎《サーベル・タイガー》の唸りと、流星号の鳴き声が、いやがうえにも洞穴の空気を緊張したものに変えていった。
「何かいる……」B・Wがつぶやいた。
「確かに、どこかにいるんだ」
ある意味では、殺し屋というのは動物的な勘が最も要求される仕事かもしれない。B・Wが藤村たちにさきんじて、何かの気配を感じとったのも当然と言えるだろう。
残る三人がその気配を感じとったのはほとんど同時だったようだ。気配という言葉がふさわしいかどうか疑問だった。それは、手を伸ばせば指が触れそうなほどに、確とした実在感を伴った何かだった。――ただひとつだけ明らかなことがあった。それがなんであれ、藤村たちに対して、凶暴な殺意をみなぎらせているのは間違いないということである。
藤村はうなじの毛がそそけだつようにさえ感じた。どんな人間であれ、いま藤村たちが感じているような、それのみで凝縮された悪意に直面した者はいないはずだった。
「どこにいるんだ……」森田の声は乾ききっていた。
「なぜ姿を現わさないんだ」
剣歯虎《サーベル・タイガー》はいまほとんど咆哮《ほうこう》を繰り返していた。
――そいつは近づいてきつつあるようだった。未だ洞穴にはどんな動くものの姿も見えないのだが、なぜかそいつが近づいてくるのだけははっきりと分った。そいつの凶暴な悪意が耐えられないほどの濃密さで洞穴いっぱいに満ち始めていた。
「…………」藤村の眉がかすかにあがった。
その上もなく微細な音を、自分の耳がとらえたように感じたのだ。――錯覚か、と反射的に首を振りかけ、藤村は愕然《がくぜん》と眼を瞠《みは》った。
確かに、鈴を鳴らすような音がきこえてくるのである。こんな異境の洞穴で音楽をきくのも驚きには違いなかろうが、藤村はむしろその音色のほうに愕然《がくぜん》としたのだった。
きき覚えのある音色なのだ。
その音楽はふいに非常な高まりをみせた。澄んだ音が、しかし奔流のような力強さで、洞穴にうねり――そして、唐突にきこえなくなった。
同時に、あの邪悪な意志も、ぬぐわれたように洞穴から消えていた。
男たちは、いや、剣歯虎《サーベル・タイガー》も流星号も含めて、呪縛《じゆばく》にかかったような沈黙にしばらく陥っていた。
「あれはなんだったんだ?」天竜《テイエンルン》が独り言のように言った。「いったい何があったというんですか」
天竜のつぶやきと関係なく、ひとつの言葉が藤村の唇からこぼれていた。
「空桑《くうそう》の琴瑟《きんしつ》……」
第十章 相柳の巫女《みこ》
空桑《くうそう》の琴瑟《きんしつ》の音色をきいたとき、藤村が即座に李夢蘭のことを想いだしたのは当然だったろう。李夢蘭はかつて崑崙の巫女《みこ》をつとめていたことがあると言った。そして、その地の一族の祭祀《さいし》には必ず空桑の琴瑟が使われるというのだ。
崑崙に巫女に類する女が住んでいる、という伝説はかなり古くからこの国に伝わっている。女の名を西王母《せいおうぼ》といい、まったくの仙女ということになっているのだが……
藤村は立ちすくんでいた。異常な疑惑に、藤村の身体は金縛りにあったように動けなくなっていたのだ。空桑の琴瑟を奏でていたのは李夢蘭ではなかったか、という疑惑だった。
ありえないことだった。李夢蘭は、確かに藤村がその手で殺したはずなのである。そのはずではあるのだが……
――あなたは殺《あや》めた女と再会することになる……暗渠《あんきよ》を通じてきこえてくるような|山から来たラマ《オーレン・ラマ》の声が、藤村の頭蓋《ずがい》に繰り返し反響《こだま》していた。信ずるいわれのない、莫迦《ばか》げた戯言とかたづけることもできないではない。――だが、まさしくあの老人の予言のとおりに、倉田は愛するもののために生命《いのち》をおとしたのではなかったか。
「先に進むしかないんじゃないかね」まっさきに我にかえったのは、やはり森田だったようだ。
「これからもかなりの異常事を覚悟しなければならんだろうが……」
「ああ……」藤村はようやくうなずいた。
そう、場合によっては死んだ女と再会することになっても、驚かないだけの心の準備はしておいたほうがよさそうだった。
男たちが進み始めたのを確かめると、剣歯虎《サーベル・タイガー》は再び先頭にたって、その道案内をかってでた。実際、剣歯虎の先導がなければ、藤村たちは確実に路《みち》に迷っていたことだろう。洞穴は右に左に分れ、うねり、しかもその滑らかな表面にはいかなる目印もなかったのだから――
流星号の蹄の音だけが、奇妙にのどかな感じで、洞穴に響いていた。
「いつまで続いているのかな」天竜《テイエンルン》がひどく頼りなげな声でつぶやいた。
彼らがこの洞穴に足を踏み入れてから、すでに二時間以上が経過していた。必ずしも直進しているわけではないから、距離としてはたいしたことはないだろうが、それにしてもこの洞穴行は男たちの神経にいたくさわり始めているようだった。森田にいたるまでが、焦燥の色をその表情から隠しきれないでいるのだ。
「風だ……」
ふいにB・Wがそうつぶやいた。
一同はその足をとめて、B・Wの言葉を確かめようとした。剣歯虎《サーベル・タイガー》が咎《とが》めるように、彼らを振り返る。
「間違いない」天竜《テイエンルン》の声には歓喜の響きがこもっていた。
「確かに風が吹いてますよ」
そうと知らされなければ、気がつかないほどの微風だった。が、その微風は渇えたときの一杯の水に似て、男たちを著しく力づけたようだ。出口が近いのである。
――十分後、男たちの視界に、小さな光の円が浮かんでいた。
その光の円をめざして、男たちは足を急がせた。顔に吹きつけてくる風は、ますます爽《さわ》やかなものになっていく。そこには花の薫りさえ混じっているようだ。
男たちは洞穴を出た。
いま彼らの視界は、ただ緑という色彩にのみ覆われていた。眼前に巨大な森林がひろがっていたのである。――森林は二重の意味で、巨大なという形容にふさわしかった。ひとつには、少なくともこのゴビにおいてはありえないほどの面積を有する森林のようであったし、もうひとつには、その一本一本の樹木が非常に大きかったのである。
さほど珍しい種類の樹木があるわけではない。スギ、ナラ、クヌギ、ケヤキ……普通ならばどうということもないはずのそれら樹木も、これほどに巨大だと、なにか異様な怪物めいたものに見えてくる。
実際、それら樹木の頂を見極めるのは不可能なほどだった。ほとんど緑の大瀑布に似て、空から地に達しているのである。――地にはその大瀑布があげた飛沫《ひまつ》のように、原色の大ぶりな花が咲き乱れていた。
「…………」
四人の男たちは一様に気を呑まれて、洞穴の出口に立ちつくしていた。
洞穴の出口は断崖の下腹に抱かれていた。それこそものの十歩も進めば、森林に足を踏み入れることができるほどだった。――だが、四人の男たちは一歩も足を進めようとはしなかった。確かに、その森林に足を入れるのには、ある種の勇気を必要とするようだった。
「これが崑崙だ」藤村は皮肉に言った。
「どうやら俺の役目は終ったようだね。森田さん……」
「つれないことを言うもんじゃないよ」森田は苦笑した。
「ここまで来たんだ。最後までつきあって欲しいもんだね。……それに、我々と別行動をとろうにも、食糧も武器もなしではどうしようもあるまい」
「これからどうするんだ?」B・Wがボソリと尋ねた。
「はたして黄河が本当にこの地から発しているのかどうか、そいつを確かめなければならんだろうな」森田の表情が一変してきびしいものになった。
「そして、この地を手中に収めれば本当に中国を制することができるかどうか……そのふたつを確かめれば、充分に食糧を調達して、あとは帰路あるのみだよ」
「つまり、この森林のなかに入っていくわけですか」天竜《テイエンルン》がうんざりしたように空を仰いだ。
この極めつけの悪童も、うちつづく異常事に、さすがにいささかまいっているようだった。いまの天竜には、無限軌道車という、唯一情熱を傾けるべき対象もないのである。
幸いに森林は、あの竹林とは異なり、人を寄せつけないほどに密ではなかった。充分に流星号をつれて歩けるほどの間隙があった。――ただ問題は、すでに空に黄昏《たそがれ》の気配が兆していることだった。
「いまから進めば、森のなかで野営することになりますよ」天竜が言った。
「やむをえんだろう」森田が答えた。「ここでは野宿する場所も見つからんしね」
「あ……」藤村が低く声をあげた。
剣歯虎《サーベル・タイガー》が大きく身を躍らせると、ほんの一跳びで、森林のなかにとびこんでいったのである。彼が自分の道案内たる役目は終ったと考え、藤村たちと訣別《けつべつ》するつもりでいることは明らかだった。一度だけ彼の咆哮がきこえたが、しかし剣歯虎を呑んだ森林からは、それ以外にどんな音も伝わってこなかった。――剣歯虎は去っていったのだ。
「せめて住所と名前だけでも教えてくれればいいのに……」森田がこの男には珍しく冗談を言った。
「旅が終ったら、世話になった礼状を出そうと思っていたのだがね」
「…………」
誰も森田の冗談を面白いものとは思わなかったようだ。とりわけ藤村は、森田の冗談どころではなかった。
あっけなく、まことにあっけなく去っていった剣歯虎に対して、藤村の胸にある種の感動がわいていたのだ。実際、野性の動物の無償の友情は、荒《すさ》みきっている藤村の胸に、ひどく清冽《せいれつ》な印象を与えたようだ。
「行こうか」B・Wが肩のライフルをかけ直した。
この男はいかなるものにもまったく心を動かされないらしい。蛸《たこ》の化け物との闘いが、この男に往時の自信をとり戻させ、同時に殺し屋に不可欠な特性である無感動をも甦《よみがえ》らせたのだろう。同じ男が落石にさえ怯えたことがあるとは信じられないほどだった。
いずれにしろ、B・Wの無感動が生来のものではなく、多分に訓練によるものであることは明らかだった。そのことが、藤村をして、未だB・Wの力量に対して一抹《いちまつ》の不安を抱かせているのだが。
――ともあれ今は、B・Wの無感動にならうべきだった。剣歯虎の友情に胸を熱くしている状態が、何が待ちうけているかも分らない森林に足を踏み入れるのにふさわしいそれとは言い難かった。注意の、その最後の一滴まで周囲に払っても、なお彼らの安全は充分に保証されてはいないのだった。
「ああ、行こう」
と、藤村はうなずいて、流星号の手綱をあらためて手に巻いた。
――暗さをましつつある時刻に、森林に足を踏み入れることは、それだけでかなりに神経を消耗させる仕事である。森林を悪しき者の充つる場所として恐れた原始人の心情が、人間のうちに戻ってくるせいかもしれない。ましてその森林が極端な巨木から構成されていて、しかも崑崙の地に在るとくれば、藤村たちが歩を進めるのに、用心のうえにも用心を重ねるのは当然だったろう。
巨木の梢《こずえ》に遮られて、ほとんど空は見えなかったが、どうやら明るい月がかかっているようだった。森は斑《ふ》に染められて、月光がプランクトンのように漂っていた。
梟《ふくろう》の鳴く声がきこえてくる。
「ここらで野営でもするかね」先頭を歩いていた森田が、振り返ってそう言った。
妥当な提案というべきだった。ちょうど手ごろな草地に出ていたし、なにより流星号が眼に見えて疲れているからだ。
四人の男たちは、それぞれ手分けして野営の準備を始めた。落ち木を拾い集め、天幕《ユルト》を張り始める。
藤村はふと顔をあげた。なにかきこえたように思ったのだ。
「きこえますか」落ち木を胸に抱えている天竜《テイエンルン》が、誰にともなくそう尋ねた。表情《かお》が緊張で強張《こわば》っていた。
「ああ」
と、森田がうなずいた。その右手は、ベルトにさしてあるモーゼルの銃把を握っている。
ライフルの槓杆《ボルト》をひく音が響いた。B・Wが薬室の弾丸を遊底に送ったのだ。
流星号が怯えたような声をあげている。
音はしだいに高くなりつつあった。どことなく工場の機械音を連想させるような音だった。ブーン、という金属的な響きが、森の奥から伝わってくるのだ。その音がなにから発せられているのかはまだ分らない。分らないが、そいつがこちらに接近してくるのだけは間違いないようだった。
ふいに四周が赤く照らしだされた。天竜が二本の落ち木に火をつけ、松明《たいまつ》のように両手にかざしたのだ。
森林はいま狂おしいほどに、たかい音を発している。その狂騒音は、接近してくるものが何であるにせよ、著しく人間と性《さが》を異《こと》にしているものであることを明白に示していた。
「来たっ」天竜が叫んだ。
爆《は》ぜるような音が、男たちのはるか頭上を満たした。
鳥の群れに似ているようだった。しかし、鳥がこんな高音を発するはずがなかった。ほとんど奔流に似て、なにかが後から後から森林を擦過して、男たちのうえに折れ枝や木の葉をばらまいていくのだ。
藤村は懸命にその正体を見極めようとしていた。かなりの重量と、巨躯を備えているなにかであることは確かだが、それ以上のことは暗くてよく見えなかった。その正体を見定めるには、彼らの速度があまりに迅《はや》すぎることも障害になっていた。
その群れは夥《おびただ》しい数を擁しているようだった。黒い飛影はいっかな絶えることなく、狂騒音はいま耐え難いほどに藤村たちの耳を圧していた。――幸運なことに、彼らはただ飛来し、飛び去っていくのみで、眼下の人間たちには気がついていないらしかった。
その幸運を、軽率にも天竜《テイエンルン》が反故《ほご》にしたのだ。
彼らの正体が分らぬことに、天竜はついに耐えきれなくなったのだろう。手にしていた二本の松明をたかく投げあげたのだ。
二本の松明は輝く軌跡をえがいた。一瞬、赤く照らしだされた視界に、彼らの姿がくっきりと浮かびあがった。
「う……」
四人の男の口から等しく驚きの声が洩《も》れた。
蜂なのだ。激しくうち震える羽、無表情な複眼、くびれた腹部、鋭い産卵管――小牛ほどの巨躯を備えているが、間違いなく蜂なのだった。その二本の前足に、なにかきのこのようなものを抱えているようだ。
松明はいずれも地に達するまえに消えていた。
「伏せろっ」森田が叫んだ。
群れから一匹が離れたのだ。その上もなくグロテスクな巨躯が、のしかかるように、地に接してくる。蠢《うごめ》く六本の脚が、獲物を欲する悪霊の手のように見えた。
地に一転しながら、ライフルを発射したのはさすがにB・Wと言うべきだった。だが、相手のあまりの意外さに狼狽《ろうばい》したのか、B・Wの狙いもいつもの精彩を欠いたようだ。弾丸はむなしく闇をつんざいただけだった。
蜂の翅音が四周を満たした。
流星号が激しくいなないた。流星号はほとんど後ろ立ちになりながら、執拗に襲ってくる蜂をその蹄にかけようとしている。どうやらその蜂の狙いは、一途《いちず》に流星号を倒すことにあったようだ。
新たな落ち木に火がつけられた。地に伏しながら、とっさに天竜《テイエンルン》がしたことだった。
「射つなっ」藤村がB・Wにむかって叫んだ。
「流星号にあたってしまう」
松明のゆらめく炎に照らされながら、流星号とその蜂との闘いは壮絶を極めていた。蜂はあるいは浮かび、あるいは低く地を掠《かす》めながら、その鋭い産卵管で流星号をしとめようとする。対する流星号は、その凄《すさま》じい破壊力を有する蹴りと、逞《たくま》しい歯とで蜂をたたき落とそうとしていた。
その蜂はどうやら警備の責を負わされていたらしい。仲間たちが悉《ことごと》く去った後も、ただ一匹残って、流星号との死闘をつづけているのだ。
流星号は直立すると、ほとんど後ろ足のバネだけで跳ねあがった。いましも降下攻撃に移ろうとしていた蜂の、くびれた胴を噛《か》みしだこうとしたのだ。蜂は宙に停止することで、危うく流星号の攻撃から身をかわした。そして、上体をそらすようにして、産卵管をくりだした。流星号は数メートルを駆走して、蜂の産卵管から逃がれた。蜂はなおも追いすがろうとする。が、流星号の激しい後ろ蹴りが、蜂に後方からの攻撃を許そうとはしなかった。蜂は流星号の頭上をたかくとびこえ、再び降下攻撃を開始した。
ただただ流星号のいななきと、蜂の翅音とだけが四周を圧していた。
むろん、四人の男たちも手をこまねいていたわけではない。少なくともB・Wは、ライフルの銃尻を肩にあて、いつでも発射できる態勢に入っていたのだ。だが、松明の乏しい明かりと、蜂のめまぐるしい動きが、彼に引き金をひかせることを躊躇《ためら》わせていた。
「射つな」藤村が再び叫んだ。
むろん、B・Wの弾丸が流星号を傷つけることを恐れての言葉だったが、一方ではサラブレッドに心ゆくまで闘わせてやりたいという気持ちも動いていたようだ。
「倉田くんは確かに価値ある死に方をしたようだな」そうつぶやいた森田の声は、眼前の逼迫《ひつぱく》した情況とまるでそぐわない静かなものだった。
蜂は明らかに疲れを見せていた。その二本の前足で抱いている海綿様のきのこが、彼の動きを著しく鈍くしているらしい。ほんの一瞬のことだが、その疲れが蜂の攻撃をよどませた。喧嘩巧者の流星号がその隙を見逃がすはずはなかった。
肉を断ち切るような音がきこえた。流星号の蹄がみごとに蜂の胴をとらえたのだ。蜂の巨躯は後方に弾《はじ》かれた。
銃声が鳴り響いた。すかさず、B・Wがライフルの引き金をしぼったのだ。
蜂の頭が緑の漿液を散らして砕けた。蜂はグラリと体勢を崩しかけたが、やっとのように躯を浮かびあがらせた。昆虫が本来備えている強靭《きようじん》な生命力だけが、いまの彼を動かしているらしかった。
蜂は飛翔をつづけている。そして――その前足からきのこを離したのだ。
なにが藤村をして、コルトの引き金をひかせたのかは分らない。ほとんど反射的に、藤村は抜き撃ちで、そのきのこを射抜いていたのである。
きのこが宙で爆発した。胞子がはじけたわけではない。白煙と焔を発し、文字どおり爆発したのだ。それが火薬による爆発である証拠に、地にたたきつけられながら、藤村は確かに鼻に硫黄の臭いを感じていた。
その蜂は爆撃機なのだ。
幸いにきのこが宙で爆発したことは、かなりその破壊力を削《そ》いだようだ。だが、その爆発は男たちの戦闘力を一時マヒさせるのには大きく効果があった。あまりの異常事に現実感覚を奪われてしまったとも言える。
頭を砕かれながらも、蜂は宙でいったん停止し、なお次なる攻撃に移ろうとしているようだった。爆発が流星号を恐慌に陥れ、男たちを呆然《ぼうぜん》とさせているいま、戦況は彼にとって大きく有利なはずだった。
が――蜂はふいに躯を反転させ、夜空に飛び去っていった。またしても空桑《くうそう》の琴瑟《きんしつ》の音がきこえてくるのだ。しかも、空桑の琴瑟はすぐ傍らの木影で奏でられているようだ。
藤村は獣のように呻《うめ》いた。獣のように呻きながら、その木影に向かって走った。
風をきる鋭い音がきこえた。藤村のつま先ほんの数センチの地に、深く矢がつき刺さった。明らかに藤村の前進を阻むために射られた矢だった。
「崑崙から出ていきなさい」
その矢にこめられた激しい敵意とはうらはらな、静かな声がきこえてきた。若い女の声だった。
「…………」
藤村の全身はおこりにかかったように震えていた。確かに、その女の声にはきき覚えがあるようだった。
「ここはあなたたちが来るような所ではありません」女の声はなおも静かだった。
「今ならまだ誰にも気づかれていません。お願いだから、崑崙から出ていってください」
そこから声がきこえてくるとおぼしき木立ちが、ふいに赤い光に照らしだされた。声の主を確かめようと、藤村の背後に立つ天竜《テイエンルン》が、松明をかざしたらしかった。
「莫迦な真似はやめろ」藤村の声にはほとんど殺意が感じられた。
「松明をひっこめないか」
炎の明かりがゆらぎ、木立ちを再び闇が訪うた。
「きみは誰だ?」藤村の声は震えを帯びていた。
「出てきて、顔を見せてくれないか」
草を踏む湿った音がきこえた。
闇のなかに、その闇よりもさらに暗く、女の姿が現われた。女は木立ちの傍らからゆっくりと進みでて、その全身を炎の明かりにさらしだした。
「……李夢蘭《りむらん》」藤村は歯をくいしばった。
確かに、その女は李夢蘭に生き写しと言えるぐらいによく似ていた。だが、その女が李夢蘭であるはずはなかった。彼女が李夢蘭だとしたら、藤村を見る眸《め》になんらかの表情が浮かばないわけはなかった。藤村がなにを望もうと、李夢蘭が死んだのは動かしようのない事実なのだ。
「崑崙から出ていってください」女は繰り返した。
「ここはあなた方の来るような所ではありません」
「…………」藤村は黙していた。死んだ李夢蘭を彷彿《ほうふつ》とさせる眼前の女の容姿に、ただただ心を奪われていたのである。
「どうしてだね?」藤村の背後から、森田がいつもの穏やかな声で言った。
「はるばるゴビを渡ってやって来たんだ。歓迎してくれとは言わないが、もう少し温かい言葉をかけてくれてもいいんじゃないか」
「――あなた方を歓迎はできません。あなた方がこの地に災いをもたらすことは分っているからです」
「ほう、そうかね」
「あなた方が来られることは前から分っていました」彼女の声には、わずかに抑揚が感じられた。
「そのために、それまで固く団結していた私たちの一族は、真っ二つに分裂してしまいました」
「失礼だが、おっしゃってることがよく分らないですな」森田は眉をひそめた。
「我々を他の誰かと間違われてるのではないですか」
「きみの言う一族とは相柳の民のことか」藤村の声はなかば祈るようだった。
「教えてくれ。そうなのか」
藤村がかつて独りで崑崙の地をさがしたのは、ひとつには死に場所を求めたからであり、もうひとつには李夢蘭の一族と会いたかったからだった。いまはからずもその願いがかなえられようとしているのである。
藤村の声に尋常でないものを感じたのだろう。女は一歩退くと、新たな矢をつがえて弓を構えた。そして、言った。
「ええ、私は相柳一族のひとりです」
彼女の言葉が完璧な上海語であることが、藤村の煩悶《はんもん》をさらに激しいものにしているようだった。李夢蘭もまた上海語を実に巧みに操ったのだった。
「その相柳一族が、どうして我々の来訪を知っていたのか解《げ》せませんな」森田の声は笑いさえ含んでいた。
「実際、我々はあなたの一族にひとりも知り合いはいないのですから……」
「…………」
女は沈黙した。ようやく森田の言葉に、人違いの可能性に思い当ったようだ。
「とにかくその弓を収めて貰えませんか」
と、森田は言葉をつづけた。
「できれば、我々をあなたのお仲間のところに案内していただければ有難いのですが」
女はなお沈黙していた。そして――さらに大きく弓の弦《つる》をしぼったのだ。
「できません」女の声はそれ以上もなく冷やかにきこえた。
「たとえあなた方が、私の思っていた人たちと別人だったとしても、この地に災いをもたらすことにはなんの違いもないわ」
「我々にそんなつもりはない」
「つもりはなくても、災いをもたらすことはできるわ」
「どういうことでしょう?」
「あなた方は蜂を傷つけたわ」
「…………」
思いもよらぬ言葉と言うべきだった。さしもの森田も、とっさには返す言葉を失ったようだ。
「あの蜂の群れはきのこを運ぶ途中だったんです。蜂はきのこを適当なところに落として、その胞子をばらまく手伝いをする。そのかわり、あのきのこは地中の硫黄や硝酸カリウムを吸収し、それ自体が爆弾のようになっているから、いざというときには蜂の強力な武器になってくれる……
あなた方はきのこと平和に共存している蜂をひどく傷つけました」
「襲ってきたのはむこうのほうだったんですがね」森田の口調には苦笑が滲《にじ》んでいた。
「それが、あなたの気に障ったというなら、幾重にもお詫びしましょう」
「詫びていただく必要はないわ」女は弓を構えたまま、ゆっくりと後ずさり始めていた。
「崑崙から出ていっていただければ、それで充分です」
藤村のうちでふいに何かが弾《はじ》けた。眼前に殺した女とうり二つの女を見、しかもまだ彼女の名さえ知らないような状態が、藤村を著しく心弱い男にしていたようだ。
「待ってくれっ」藤村は叫んだ。「頼むから、行かないでくれ」
が、そのときには女は身を翻《ひるがえ》して、闇のなかに走り去っていった。
藤村もなかば反射的に走りかけ、そして途方にくれたように足をとめた。いまこの瞬間、藤村の混濁した頭のなかで、はっきりと李夢蘭とその女とは同一人物であった。
「行かないでくれ……」藤村は呆《ほう》けたようにつぶやいた。
「……李夢蘭、戻ってきてくれ」
藤村のこの狂態に、三人の男たちはただ眼を瞠《みは》っているだけだった。
梟《ふくろう》の鳴き声がさらにたかくなったようだ。
――とにかく、その場で天幕《ユルト》をはることになった。森田たち三人が、あるいは天幕をはり、あるいは食事の準備をするのを眼にしながら、しかし藤村は手をかす気にはなれなかった。激しいショックが、彼を虚脱状態に陥れ、一時的な廃人にしたようだった。
藤村はひざまずき、ただ地の一点を凝視していた。他の三人は藤村に何も尋ねようとはしなかったし、また尋ねられたところで藤村がなにを答えるはずもなかった。
ながく苦しかった一日が、男たちをそれ以上もなく疲れさせていた。食事をとってしまえば、あとはただもう眠ることだけが、彼らの望みだった。
天幕《ユルト》のなかに横たわりながら、藤村はなお李夢蘭の面影を追っていた。が、苛酷だった一日は、他の三人と同じく、藤村をも眠りに誘った。藤村もいつしか眠りにおちていた。
――一日が終ったと考えたのは、実は彼らの錯覚でしかなかった。その日、さらに大きな運命の変転が、黒い顎《あぎと》を開けて男たちを待ち構えていたのである。
藤村は肩をゆすられるのを感じた。肩をゆする力は荒々しく、しかもかなり逼迫《ひつぱく》した感じだったが、それでも藤村が両の眼を開けるにはひどく努力を要した。
藤村の肩をゆすっていたのはB・Wだった。
「……どうしたんだ?」藤村の声はなかば呻《うめ》きに似ていた。
「まだ真夜中だぜ」
「大きな声をあげるな」B・Wはなかば囁《ささや》くように言った。
B・Wがいつになく緊張した表情《かお》をしていることが、藤村の眠気を一気に醒《さ》ましたようだ。
「何かあったのか」藤村の声も自然に低くなっている。
「外を覗いてみろ」B・Wは答えた。「誰かに囲まれている」
「…………」
藤村が愕然《がくぜん》と跳ね起きたときには、すでにB・Wは他の二人を起こそうとしていた。
藤村は入り口の幕をわずかに上げて、外の様子を窺《うかが》った。なるほど、黒くうずくまっている木立ちのあちこちに、幾つか蠢《うごめ》いている人影があった。なかの何人かは、確かにその手に青竜刀のようなものを持っている。
それが誰であろうと、歓迎すべき類いの人間でないことだけは間違いないようだった。
「何者ですか」
藤村の傍らに膝をついて、天竜《テイエンルン》がソッと尋ねてきた。
「分らん」藤村は首を振った。
「だが、どうやら合戦の準備だけはしておいたほうがよさそうだ」
「それは困るな」ふいに二人の後ろから声がかかった。森田の声だが、しかし常の彼の口調とはどこか異なる響きを含んでいた。
ゆっくりと振り返った藤村の眼に、拳銃を構えた森田の姿が映じた。
「合戦の準備をして貰うと困るんだよ」森田は微笑を浮かべていた。
「頼むから、ここはおとなしくしていてくれないだろうか」
藤村や天竜はもちろん、B・Wさえもその銃口のまえでは身動きができないでいた。森田が銃を操ることに長《た》けているのは、蛸との闘いのときに充分に立証されているのだ。
「どういうことだ?」藤村の声はなかば呻いているようだった。
「説明は後でするよ」森田は言った。
「なにしろ無用なトラブルは避けたいんだ。ここは私のいうことをきいて、おとなしくしてくれないだろうか」
言葉がどうであれ、森田は頼みごとをしているわけではなかった。モーゼルをつきつけて、おとなしくしろと命じているのだ。
森田は落ち着いた歩調で、三人を釘づけにするに適当な地点まで移動した。必然的に、三人は天幕《ユルト》の奥まで動かざるをえなかった。
みごとな手並みというべきだった。少なくとも、森田が他者に拳銃をつきつけるのは、これが初めてではなさそうだった。
ふいに幕が外にあげられて、幾条もの松明の明かりが天幕《ユルト》のなかを照らしだした。そして、ひとりの男がのっそりと入ってきた。
初めて見る顔だった。その男が着ている白い上衣と|※子《ズボン》とが、松明の明かりのなかで陽炎《かげろう》のようにゆらめいて見えた。齢《とし》は藤村と同じぐらい、逞《たくま》しい身体をしていた。その眼もとに卑しい色があったが、まずは美丈夫というべきだった。
「あんたが森田さんか」男が言った。
「そうだ」森田はうなずいた。
「まず私の友人たちの武器をとりあげてくれないかね。なにしろ油断のならない連中だからね」
第十一章 幻の氏族
早朝の光のなかで、その村落はごく牧歌的な印象を与えた。幾十かの天幕《ユルト》が互いにゆったりしたスペースを隔てて張られていて、それらの天幕を統合するようなかたちで、中央に瓦葺《かわらぶ》きの家が築かれている。――朝露をいっぱいに含んだ藪草垣が、鮮やかな緑の帯をえがいて、その村落をとり囲んでいた。王蘭に似た花が白く咲き乱れている。
天幕のあいだの細い路《みち》を、鶏たちが歩きまわっていた。
村落は前方に森林を臨み、残る三方を崖で遮《さえぎ》られていた。崖は白い巨岩から成っていて、非常な傾斜を見せて、テラス状に突出していた。つまり、自然はこの村落に絶好な要塞《ようさい》を与えていたのである。
藤村たちは夜を徹して歩きつづけ、いまようやくこの村にたどり着いたのだ。むろん、藤村たちだけなら、これほどの強行軍に挑むわけはなかった。決して急ぐ必要のある旅ではないのだ。――白の上衣と|※子《ズボン》に身を包んだ男たちの持つ青竜刀が、藤村たちに立ち止まることを許さなかったのである。
「あれが相柳の村かね?」
と、森田が傍らに立っている男に訊いた。
「そうだ」男はうなずいた。
その男は桑《そう》とだけ名のっていた。天幕に最初に足を踏み入れてきたときの様子から察すると、彼が一行のリーダー格らしかった。
「その男とはもとからの知り合いだったのか」
と尋ねたB・Wのしわがれた声は、激しい憤りに満ちていた。
「もうそろそろ種明かしをしてくれてもいいでしょう?」天竜も言った。
「まあ、まずお茶でも飲もうじゃないか」森田がなだめるような口調で答えた。
「話をするのはそれからだって遅くはないだろう」
「大体の筋書きは読めているよ」藤村がボソリと言った。
「そうだろうな」森田は大きくうなずいた。
「藤村くんにはあらかた見破られていると思っていたよ」
「…………」藤村はほぞを噛《か》む思いだった。
一度は森田を特務機関の人間ではないかと疑ったことがあるのだ。連日の苛酷な旅におし流されて、つい疑惑を疑惑として放置していたのは、許し難い怠慢だったと言えるだろう。事態がこうなってみると、渡会《わたらい》の正体についても考え直す必要がありそうだった。
桑《そう》が唇をたかく鳴らした。急げという謂《いい》であるらしかった。
三人の囚人と、一人の裏切者は、左右から青竜刀をつきつけられながら、村に向かってゆっくりと歩きだした。
――藤村たちが村に足を踏み入れ、路《みち》を進むにしたがって、しだいにあちこちの天幕《ユルト》から顔をだす人間が増えていった。彼らはほとんど放心したような眼つきで、藤村たちを凝視《みつ》めるばかりで、なにかそこには怯えさえ感じられるようだった。
幼児が多かった。だが、老人は少なかった。いや、藤村の見るかぎりでは、老人の名に価する男女はひとりもいなかった。
「私は桑《そう》さんと少し話がある」森田が恐縮したような口調で言った。
「すまんが、そこの天幕で待っててくれないだろうか。今、暖かいものを用意させるから」
実際には、命令に等しかった。藤村たちの胸につきつけられている青竜刀が、朝陽をあびてギラギラと光っていた。
藤村たち三人は、黙然と命令に従った。すでにあらがうだけの気力は残されていなかった。
森田の指定した天幕《ユルト》は、村の奥の方に張られていた。その用途が牢獄であることは明らかだった。
「なにしろ眠りたいですよ」天竜《テイエンルン》が眼をしょぼつかせて言った。
青竜刀を背中につきつけられていなくても、藤村たちの天幕《ユルト》にむかう足どりは自然に速くなっていた。実際、天竜の台詞《せりふ》ではなかったが、一刻もはやく眠りにつきたかったのだ。
――が、天幕に足を踏み入れた瞬間から、藤村の眠気はふっとんでしまっていた。
李夢蘭がいたのだ。いや、李夢蘭とよく似た昨夜の女がいたのである。
「ほう、先客がいるんですか」天竜がうんざりしたように言った。
この少年にとって、総《すべ》ての女は自分を捨てた母親の象徴であり、当然のことながら憎悪の対象でしかなかった。
「どうして、あなたたちもとじこめられるの?」藤村たちを見上げながら、女は不審げにきいた。
「こちらがききたいぐらいだぜ」B・Wが首を振った。
女は薄い袍《シウパオ》に|※子《ズボン》という服装だった。どちらも白であることは、村のほかの人間と変わりない。
その女が李夢蘭であるはずはなかった。そうと理性で分ってはいても、やはり二人の女のあまりの相似が、藤村を落ち着かなくさせていた。
三人の男たちは、それぞれの想念にひたりながら地に腰をおろした。ながい旅の疲れと、それ以上に思いもよらぬ事情の変転が、男たちを一様に不機嫌に、寡黙《かもく》にしているようだった。
「ねえ、どうしてあなたたちもとじこめられているの?」女が繰り返した。
その無邪気ともいえる女の口調に、藤村はふと心が和《なご》むのを感じた。李夢蘭は女としてあらゆる魅力を備えていた。それだけに、李夢蘭に対するとき、男は情熱のその最後の一滴まで絞りつくされ、ついにはボロギレのようにならざるをえなかったのだ。松本宏がそうであったし、藤村もまたその例外ではなかったはずだ。
だが、眼前の女には、李夢蘭が過去に失くしていたもの、少女に特有な純粋な好奇心というようなものが感じられた。荒《すさ》んだ男の気持ちを慰める、春光のうららかさがあった。――その容姿が酷似してはいても、二人の女の性格は対極に位置しているようだった。
「俺たちにも分らんのだよ」藤村は静かに答えた。
「大体の推測はつくが、まだはっきりしたことは分らない。それより、きみはどうしてこんなところにとじこめられているんだ?」
「私とじこめられてなんかいないわ」女はツンと顔をそらした。
「私をとじこめることなんか誰にもできないわ」
「ほう、どうしてだね?」藤村の唇にはごく自然な微笑が浮かんでいた。
「私は西王母だもの」女の口調は誇らしげだった。
「相柳一族の巫女《みこ》なのよ。誰も巫女をとじこめることなんかできないわ」
「…………」
藤村はなにかが分ったような気がした。李夢蘭も自身を相柳の巫女であると言った。そして、彼女たち二人は実によく似ている……だが、藤村が疑惑を晴らそうと、口をひらきかけるよりはやく、
「でも、あなたは現にとじこめられているじゃないですか」
天竜がからかうように声をかけてきた。
「一日だけだわ」女はしょんぼりと肩をおとした。
「今日だけなのよ」
「名前をきかしてくれないか」できうるかぎり平静を装ったつもりだったが、やはり藤村のその声はかすれていた。
「李玉娥《リーユイオー》という名前よ」女は無邪気に答えた。
「あなたたちの名は?」
藤村はとっさには彼女の問いに答えることはできなかった。なかば予期していたことだが、やはり女の名前にショックをうけざるをえなかったのだ。李夢蘭と李玉娥……偶然がこれほどに重なるとは考えられなかった。明らかに、二人の女は姉妹なのである。
「あなたたちの名は?」李玉娥がふしぎそうに質問を繰り返した。
藤村はショックから、そして他の二人はたぶん不機嫌から、李玉娥の問いに答えようとしなかったのである。
「ああ……俺の名は藤村脇」藤村は慌《あわ》てて名のった。
「それにこちらの二人は天竜《テイエンルン》とB・W……ところで、教えてくれないか、どうしてきみはこんな場所にとじこめられているんだ?」
李玉娥がなにか答えようとしたとき、入り口の幕があげられて、森田が顔をだした。彼の背後には、あの桑《そう》という男が立っていた。
李玉娥は桑を嫌っているらしい。そっぽを向いたその首筋が薄く紅潮していた。
「やあ、待たせてすまなかったね」森田は微笑しながら、地に腰をおろした。
「つまり、今度こそ説明してくれるというわけだな」藤村がうっそりと言った。
「藤村くんには大体のことは見破られていると思うんだがね」森田は答えた。
「私はある特務機関で働いている人間だ。関東軍の政策に必ずしもそって活動しているわけではないが、上海駐在武官あたりがしきりに唱えている停戦論にも加担しないという……まあ、民間人的な性質を帯びた特務機関に所属している男なんだよ。
いまさら言うまでもないことだと思うが、渡会《わたらい》さんはその特務機関のリーダーでね。今回の崑崙作戦の立案者でもあるわけだ。
崑崙作戦とは、この幻の地に独立国を建立して、日本が全面的に後押ししようというものなんだがね。この地を制する者は、黄河を、そして中国を制することができるという。それほどに重要な土地を放置しておくのは、欧米列強、共産主義者たちのまえに餌をなげるに等しい。とりかえしのつかないことになるまえに、我々が現地の人間と協力して……」
「きれいごとを言うな」ふいに激しい殺気を帯びた声でB・Wが言った。
「結局は、満州国のような傀儡《かいらい》国家をもうひとつつくろうというんじゃないか」
「そうじゃない」森田はかぶりを振った。
「いや、そうしようという圧力があるのは事実だが、私はそうさせないために動いているつもりだ。……私は決して倉田くんの意見に与《くみ》する者ではないよ」
「それじゃ、どうして俺たちに最初からその崑崙作戦のことを話さなかった。なぜ中国に国力をつけるためなどというおためごかしで、俺たちを誘った?」藤村の声音には知らず嫌悪《けんお》の響きが含まれていた。
「正直に話せば、きみたちは私の誘いを断ったんじゃないかね。藤村くんが理屈ぬきで日本軍部を嫌っているという話をきかされていたしね。B・Wにしても、天竜にしても崑崙作戦の内容をきけば、決して私に力をかしてはくれなかったろう」
「あんたの言ういわゆる特務機関にも人がいないわけじゃないだろう?」藤村には納得できなかった。
「なるほど、確かに俺は道案内として必要だったろうが……どうして嘘をついてまで、B・Wや天竜を仲間に加えなければならなかったんだ?」
「そのことに関しては、きみたちに詫びなければならんだろうね」森田の声音に初めて苦渋らしいものが滲んでいた。
「実は、我々は囮《おとり》だったんだよ」
「…………」
「最初のグループが崑崙をさがして旅立ったのは去年のことだった。だが、彼らは一人として帰ってこなかった。我々の手には、キャラバンにたくされた彼らからの手紙が、ただ一通とどいただけだったんだよ。
その手紙には、崑崙にいたるルートは書かれていなかった。時間がなかったのか、それとも他になにか理由《わけ》があったのか……とにかく、その手紙には崑崙にいたるルートが恐ろしく危険をはらんでいること、十五人いた隊員で生き残ったのは彼ひとりであること、崑崙の相柳一族の桑《そう》氏という人物に独立国の件をもちかけたことなどが書かれてあった。ちなみに言えば、手紙を書いたその男も、キャラバンと出会ったときすでに虫の息だったそうだ。なんでも匪賊にやられたそうだがね。
そこで、我々は新たな隊を結成することにした。それも、ふたつ……つまり私たちの役目は、崑崙をさがすことと、もうひとつ後からつづく隊のために、馬賊や匪賊の眼をひきつけるいわば露払いにあったんだよ」
「ひどい話だ」天竜《テイエンルン》が呻いた。
「なるほど、それでぼくたちは囮《おとり》というわけですか」
「そうか」藤村は眼を細めた。
「あの無線は後続の連中に連絡するためのものだったんだな。俺たちがさんざん苦労してルートをさがして、しかも危険を一手にひきうけた後から、そいつらが悠然とやってくるというわけか……」
「そういうことだ」森田はうなずいた。
「実になんともひどい話だが……昨夜そちらの娘さんは、我々をその後続の連中と間違えたんだろうね。
さきに崑崙に赴き、全滅したグループだが、とにもかくにもこちらの意向を桑《そう》氏に伝えることはできたわけだからな。相柳の人たちは、具体的な話をしに、幾人かの日本人があらためてやってくることを承知していたわけなんだよ」
「承知なんかしていないわ」ふいに李玉娥が激しい口調で、言葉をはさんだ。
藤村は驚いた。彼は、たぶん森田もそうだろうが、それまで李玉娥が日本語を解するなどとは思ってもいなかったのである。
「桑が勝手に承知しただけよ」李玉娥は言葉をつづけた。
「私たちは神を祭る民だわ。神の言葉をきき、その意志に従い……私たちは先祖代々そうして暮らしてきたのよ。私の祖母も、母もそれで満足していたし、相柳一族はずーっと平和だったわ。
確かに、私たちの神は黄河を意のままに操ることができるわ。でも、だからといってその力を利用して、自分たちの野望をとげようと考えるなんて気違いじみてるわ。身のほどを知らない冒涜《ぼうとく》よ」
それは明らかに桑に向かってなげつけられた言葉だった。
桑の唇には薄く微笑が浮かんでいた。勝利を誇示するような、それ以上もなく傲慢《ごうまん》な微笑だった。
「時代が変わったんだ」桑が言った。
「もう、祭祀にうつつをぬかしていられる時代じゃないんだよ。神を祭って、それだけでこの世がこともなく過ぎていけば、そんな幸せなことはないかもしれない。巫女としてのあんたの地位も安泰だしな。
だが、いま森田さんがおっしゃったとおり、中国は揺れに揺れている。我々の神が偉大であるだけに、なおさら諸勢力はこの地を放ってはおかないだろう。独立国家として名のりをあげることが、結局は相柳一族の平和につながるんだよ」
桑の声はしぶく、その理路整然とした話の内容と並んで、彼のなみなみならぬ知性を窺《うかが》わせた。だが、どうやらこの男においては、その知性はもっぱら野望を達するためにのみ用いられているらしかった。
――神。藤村は眼前のふたりの正気を疑っていた。この崑崙の地では、神が手をふれうる実体として存在しているというのか。もっとも、様々な化け物と遭遇した今となっては、神の存在ぐらいでことさらに驚く必要もなかったかもしれないが。
「その独立国家の元首にはどなたがなるのかしら」李玉娥の声には、なかば皮肉、なかばは怒りがこもっていた。
「元首の地位がつとまるのは俺ぐらいしかいないんじゃないかな」桑はけろりとした表情《かお》で言ってのけた。
どうやら、その太々しさが、この男の身上であるらしかった。多勢の部下を率いているだけに、やはりこの男にもある種の魅力が備わっていることを認めないわけにはいかないようだった。
「その話はどこか他所《よそ》でやってくれ」B・Wが不機嫌に言った。
「俺たちには関係のないことだ。……それより、俺たち三人がこれからどうなるか教えてもらいたいものだな」
「心配するようなことは何もないよ」森田が微笑《ほほえ》んだ。
「きみたちは明日から、部落のなかを自由に歩きまわれるようになる。そして、後続の連中が来れば、彼らと一緒に我々は全員で北平《ペイピン》に戻るわけだ。むろん、約束の礼金は払わせてもらうよ。囮として、道案内として、きみたちは充分に役立ってくれたからね」
それだけをきくと、もうB・Wは、そして天竜《テイエンルン》も、自分たちの未来になんの心配も、興味も抱かなくなったらしい。彼らはゴロリと地に横になると、再び自分の殻にとじこもっていった。
藤村は森田の言葉に憤るべきだと思った。が、藤村にも、もう憤るだけの気力は残されていないようだった。今度こそ眠気があらがい難く襲ってきたのである。
藤村もB・Wたちにならって、地に身体を横たえた。
天幕《ユルト》を出てもいい、と桑が李玉娥に伝えているのがきこえた。これに懲《こ》りたら、もう昨夜のように日本人の来訪をじゃまするのは止すんだな……
李玉娥がなにか言い返したようだが、もう藤村の耳には定かにきこえなくなっていた。森田を含めて、彼ら三人が天幕を出ていったこともほとんど意識していなかったのだ。
――三人の男のあげる鼾《いびき》が、天幕のなかに満ちていた。
とにもかくにも、旅は終ったのである。
毎日が穏やかに過ぎていった。村にはうららかな陽が満ち、子供たちの笑う声がいつもきこえていた。そこでの暮らしは、苛酷だった旅をおぎなうにあまりある平和な日々と言えた。
藤村たち四人の男は、寝食のためにひとつの天幕《ユルト》を提供されていた。森田はもちろんのこと、他の三人も客人として丁重なもてなしを受けていた。村のなかならどこを歩きまわってもいいし、天幕のなかで昼寝をきめこんでも誰からも文句を言われなかった。
男たちにとって、これが人生において初めての、本当の意味での休暇だったかもしれない。彼らはごく自然に、それぞれ別行動をとるようになっていた。旅の終着に達した今、彼らが共にいなければならない理由はまったくなかったからである。
――その日、藤村は石垣に腰をおろして、ボンヤリとタバコをくゆらしていた。昨日《きのう》がそうであったように、その日も終日をなかば眠ったような状態で過ごすことになるはずだった。
女たちが笑いさざめきながら、井戸の傍らで野菜を洗っていた。女たちはいずれも若く、陽気で、健康そうに見えた。――この村においては、農村に特有の、きびしい労働に若くして老いたような女はひとりもいないようだった。この村ほど女が幸せそうに見える場所を、藤村は他に知らなかった。
毎日を無為に過ごすうち、藤村にもしだいにこの村のしくみが理解できるようになっていた。相柳の村は、その細部のとり決めにいたるまで、太く母系制が貫かれているようだった。当然のことながら、通常な意味での家族はここにはまったく存在しなかった。子供たちは全員が相柳一族の子として育てられているのだ。
性関係をむすぶ決定権はすべて女性に託されていた。
女たちの求愛は実に大胆で、そこにはいかなる姑息《こそく》な倫理《モラル》もいっさい関わっていなかった。――すでに天竜《テイエンルン》は数人の女からの求愛をうけていた。女を憎悪する美貌の少年としては、この村も必ずしも安息の地とは言えないようだ。
その母系制の頂点に位置するのが、西王母たる李玉娥だった。つまり、相柳の村は、巫女を頭《かしら》にいただく一種の原始共産的な社会を構成しているのである。――ただこの一族が奉じる神≠ェなんであるのかは、まだ藤村たちに知る機会は与えられなかった。
微温的な社会と言えた。桑の崑崙独立国計画も、著しく女性的な環境に対する反撥《はんぱつ》がその原動力となっているようだった。確かに、桑のような男がこの村の掟に従うのは、かなり困難であるように思えた。
が、相柳一族がその将来をどう方向づけるかは、いずれ藤村には関係のないことだった。いまの藤村にできるのは、ただ後続部隊が着くまでの毎日を、そうして無為に過ごすことだけであった。
陽はうららかに照っている。
女たちは野菜を洗いつづけている。
水《みず》飛沫《しぶき》が陽光に眩《まぶ》しくきらめいていた。
――藤村は二本めのタバコに火を点《つ》けた。そして、天幕に戻って、午睡を楽しもうかと考えた。
「退屈そうですね」声がかかった。
振り返るまでもなく、それが李玉娥の声であることはすぐに分った。
「退屈を楽しんでいるんだ」藤村は答えた。
事実、それまでの藤村は、無為に身をゆだねることを存分に楽しんでいると言えた。が、李玉娥の登場が、藤村につかのま忘れていた罪悪感を思いださせた。ひとりの女を殺してしまった罪悪感を。
「いいことだわ」李玉娥は微笑んだ。
「あなたたちは四人とも疲れすぎていたもの」
見る者の気持ちを晴れ晴れとさせずにはおかないような微笑だった。真に成熟した女だけがもつ優しさと、少女のあどけなさが、ともに李玉娥の微笑にはあったのだから。――が、藤村の頬はこわばっていた。
李玉娥は藤村の傍らに腰をおろした。
「疲れているだけじゃないわ」そして、言った。「四人ともとても不幸そうに見えるわ」
「…………」
藤村は答えなかった。答えられなかったといったほうが正確かもしれない。
「なかでもあなたがいちばん不幸そうに見えるわ」
「見えるだけだ」藤村の声にはどんな感情も含まれていなかった。
「俺は俺の生に満足している」
藤村の本音というべきだったかもしれない。一時期の彼にとって、崑崙を訪れるということは直截に人生の目的を意味していた。それは、李夢蘭を弔うためであり、また自身の死に場所を求めるためでもあったのだ。
不本意な形でではあったが、いま藤村はその目的をとげることができたのである。ながかった旅が、藤村の死を選びたいという気持ちを風化させていた。目的をとげることはできたが、藤村がこの地でなすことは何もないと言えた。
彼の胸に残ったのは、ただただむなしい虚脱感だけなのだった。
「俺は不幸なんかじゃない」藤村は繰り返した。「そう見えるだけなんだ」
李玉娥はしばらく黙していた。女たちの笑いさざめく声がひとしきりたかくなった。
「私たちは幸福に慣れているわ」やがて、李玉娥が言った。
「神の加護に守られて……女たちは機《はた》を織り、男たちは畑を耕してきたのよ。この地にとどまるかぎり醜く齢をとることもないのよ。時がくれば人は死ぬけど、それは退場を意味するだけなんだわ。だって、崑崙は永遠に残るもの。
私には分らない。どうして人が不幸なんかに耐えられるの?……あなたたちは不幸を崑崙にもちこんできたわ。そして、村の男たちはみんな不幸になりたがっているわ。どうして幸せじゃいけないの? どうして崑崙がこのままではいけないの」
「分らないな」藤村はあくまでもかたくなだった。
「俺は不幸なんかじゃないと答えている」
「…………」
李玉娥は明らかに戸惑っていた。確かに、彼女は不幸の存在に耐えられない優しい娘だったかもしれない。が、不幸なものもまた李玉娥の存在には耐えられないだろう。彼女は少し藤村には眩しすぎるようだった。
両人《ふたり》の会話は平行線をたどるしかなかったのである。
「どうしてなの?」李玉娥は独り言のようにつぶやいた。
「幸せになれるのに……どうしてみんな不幸を選ぶの」
――俺はきみの姉さんを殺した。藤村はそう叫びだしたい衝動にかられていた。その言葉をきいて、なお李玉娥は幸せでいつづけられるだろうか。彼女は姉を殺した男を憎悪するのではないか。そして憎悪こそ、不幸のまたとない朋友ではなかったか。
その衝動は藤村のうちで耐え難いほどに強いものとなっていた。数秒、ほんの数秒の後には、藤村は実際に叫びだしていたはずだった。一発の弾丸が石垣の縁を掠《かす》めていかなければ。
藤村はほとんど反射的に、李玉娥を地に押し倒していた。そのときになってようやく、鈍い銃声がきこえてきた。
女たちが悲鳴をあげた。洗っていた野菜を放りだして、それぞれに逃げていく。
「どうしたの」李玉娥の声もさすがに震えを帯びていた。「誰が撃ったの」
「頭を低くしているんだ」藤村はそれだけを答えた。
誰が撃ったかは明白だったが、しかし李玉娥には関係のないことだった。松本宏は藤村を、藤村だけを、ついにこの地まで追いつめたのだ。藤村はかつての友人のその執念を誉めてやりたいような気持ちになっていた。
――銃声はなんの余韻も残さず、断ち切られたように空に消えた。銃声に驚いた小鳥たちが垂直に上昇していき、そして再び地におり始めていた。一発の銃声は小鳥たちを禽鳥《きんちよう》の存在ほどにも怯やかさなかったようだ。
大気もまた変わることなく穏やかな陽光のなかに座していた。一発の弾丸は、小鳥たちを脅かすのにも、うららかな一日を損ねるのにも力不足だった。せいぜいが、ひとりの男を殺すぐらいの威力を有するだけなのだ。
藤村は低く地に這《は》いながら、滾《たぎ》るような昂揚感《こうようかん》を覚えていた。不毛な昂揚感だと言えたろう。ただ死だけを目的とする昂揚感なのだった――崑崙の地で死ぬとしたら、松本に射殺されるほど格好な死に方は他には選べないのではないか。いまの藤村は自殺にはなんの情熱も抱けなくなっているが、松本が殺してくれるというなら話は別だ。むしろ恩寵《おんちよう》と考えるべきだった。
「何をするの!」
李玉娥が慌てて藤村の肱《ひじ》を掴《つか》もうとした。が、いちど死を決意した人間を思いとどまらせるには、娘の力は不足にすぎたようだ。
藤村はすでに立ちあがっていた。
銃声が響いた。
藤村はピクリと身体を痙攣《けいれん》させ、そしてゆっくりと、実にゆっくりと振り返った。
井戸のかげに、B・Wがいた。彼は片膝をつき、その手にはライフルを持っていた。ライフルは銃口から薄く煙りを吐いていた。
「森田さんからあんたを救《たす》けろって言われたもんでね」B・Wはまったくの無表情だった。
「殺したのか」
藤村の声はしわがれていた。ほとんど声にはなっていなかった。
「多分な」B・Wがうなずいた。
「山の方でなにか光るものが見えた。あれがライフルの照準スコープだとしたら、奴はもう死んでいるはずだ」
「…………」
藤村はふらつく足で、山の方に向かった。森田や天竜《テイエンルン》が走ってくるのが見えたが、いまの藤村には彼らの存在など無に等しかった。思いもよらなかった逆転劇に、藤村は完全に自失していたのである。
山では小鳥がかまびすしく鳴いていた。鋭角な山裾の二合目あたりの地で、その男は倒れていた。むきだしになっている岩塊をなかば抱くようにして、その男はうつろな眼を地に向けていた。地には、ライフルが落ちていた。
巨大な男だった。松本宏も大男だが、しかしそれとは比較にならないほどの巨大な男だった。
――藤村はしばらくただ黙然とその男を見おろしていた。驚愕《きようがく》と、それに数倍する悔恨の念とが、いまの藤村をいたく混乱させていた。
そこに倒れているのは熊《シユン》だったのだ。
「う、う……」熊が低く呻いた。
その呻き声が、藤村を虚脱状態からたち直らせた。熊はまだ死んではいないのだ。B・Wの正確無比な弾丸も、この巨人を即死させるには力不足なようだった。
「熊《シユン》……」
藤村は大男の傍らに膝をついた。
熊は眼を薄く開けた。その光のない眸《め》が、いまこの男が確実に死につつあることをはっきりと物語っていた。
「しくじったよ」熊は悪戯《いたずら》をみつかった子供のようにべそをかいていた。
「今度で、あんたをしとめることになってたんだけどな……」
死につつある男のそれとしては、かなりしっかりした声だった。熊もまた大男によく見られるような異常に強い生命力の持ち主であるらしかった。その強い生命力が災いして、この男の苦痛をいたずらにながびかせているのだろう。
「今まで俺を狙撃《そげき》してきたのは、総《すべ》てあんたの仕業《しわざ》だったのか」
藤村にとってどうしてもきかなければならないことだった。
「ああ……」熊は微笑《ほほえ》もうとしていた。
「俺みたいなうすのろには、少しむずかしすぎる仕事だったな」
「なぜだ」藤村の声はなかば囁くようだった。
「なぜ俺を殺そうとした?」
「だって、松本さんの遺言だったもの」
「遺言……」
「松本さんは駄目だったよ」熊の声はしだいにかすれて、ききとり難いものになっていた。
「アヘンをやめることができなかった。あんたを殺そうと計画をねって、手紙まで書いたんだけどな……
最後にはもうアヘンで、ろくに動くこともできなかった」
「…………」
藤村は黙していた。いまの彼に何を語ることができるだろうか。どうして松本がかたくなにその姿を現わそうとしなかったのか、今となってみれば、その理由《わけ》は明らかだった。最初に狙撃された夜、手紙をわたされたとき、すでにその手紙を書いた人間は死んでいたのだ。子供に松本の手紙を託したのは熊だったのだ。
松本宏はついにアヘンから脱出することができなかったのである。
「俺はあんたを殺したくはなかった。好きだったもんな」熊は朗らかに笑って見せた。
「だけど、死んだ人の遺言は守ってやらなければな。な、そうだろう? 俺は間違っていなかったろう?」
「もちろんだ」藤村は大きくうなずいた。「あんたは当然なことをしたんだ」
熊の笑いはさらに朗らかなものになっていった。そして、子供のような笑いを表情《かお》に刻んだまま息絶えた。
藤村は地に膝をつけて、塑像《そぞう》のように動かなかった。
小鳥たちが鳴いていた。世界のすべてが、雲も風も輝いていて、武骨な山肌さえも光に満ち満ちていた。熊の死は、なにひとつとして翳《かげ》らすことができなかったのだ。
藤村の背後から足音がきこえてきた。
「藤村さん……」
躊躇《ためら》いがちなその声は、李玉娥のものだった。
ゆっくりと振り向いた藤村の顔に、李玉娥は眼を瞠《みは》った。藤村は自分が泣いていることに、まだ気がついていなかった。
「……李夢蘭を……俺は李夢蘭を……」藤村の声はなかば熱にうなされているようだった。
「姉だわ」李玉娥は答えた。
「李夢蘭というのは私の姉だわ。藤村さんは姉を知っているの?」
「殺したんだ」藤村はつぶやいた。「俺がこの手で殺したんだ」
小鳥たちの鳴き声がさらにかまびすしくなった。愛ではなく、なわばり争いのために鳴いているのだ。
第十二章 鎮魂曲《レクイエム》
昭和七年一月、藤村が松本をアヘンから解放しようと奔走していた頃、上海は騒然たる状態にあった。
日本人居留民と中国人との間の紛争が激化する土壌はすでに充分にできていると言えた。――満州戦線が展開しつつあったことが、中国人の危機感をいたく刺激したことも手伝っていたろう。だがより直截には、いわゆる「桜田門事件」が紛争の大きな原因となったのだった。
一月八日、観兵式から帰途についた天皇が、桜田門付近で朝鮮人の土工によって爆弾をなげつけられるという事件が起こった。それを上海の『民国日報』が報じて、「不幸にも爆殺失敗」という標題をかかげたことから、居留日本人たちが騒ぎ始めた。日本人が中国人を襲ったり、中国側が抗日市民大会を開いたりで、まさに一触即発の状態になっていたのである。
――関東軍参謀板垣征四郎は、満州問題から列国の眼を外らすため、この騒然たる上海の情況を利用しようと考えた。
一月十八日、日本人謀略馬賊によって買収された中国人たちが、馬玉山路《ばぎよくさんろ》で托鉢《たくはつ》中の日本人僧侶を襲ったのである。
その結果、日本人居留民と中国人との紛争はさらに拡大されることになった。そして一月二十八日、ついに十九路軍と日本海軍の陸戦隊が、北四川路西部、淞滬《しようこ》鉄道付近で衝突することになったのである。
翌二十九日、航空母艦|能登《のと》から幾機もの飛行機が発進した。飛行機は北停車場、商務印書館などの建物を爆破し、日本軍陸戦隊の進攻を救けた。
居留民たちと中国人との紛争が、熾烈《しれつ》をきわめたのは当然であった。在郷軍人や青年同志会員たちはそれぞれに武装して、通行する中国人たちの検問を実施、ときにはリンチにまでいたることもあった。一方、中国|便衣隊《べんいたい》も租界内北四川路両側を占位する虹口《ホンキユウ》に頻々《ひんぴん》と出没し、日本人密集地域でのゲリラ活動を開始していた。
上海はまさしく紛争の坩堝《るつぼ》と化していたのである。
そして今日、一月三十日――
愛多愛路の「昇日会」事務所は、異常な熱気に包まれていた。当然だったろう。彼ら上海ゴロたちにとって、いまは稼ぎ時ともいうべき情況なのである。誰もが眼を血走らせ、大声で喚《わめ》いていた。なかには昼間から酒をくらい、高歌放吟している者さえあった。
が、ここ真木の部屋だけは、静寂《しじま》がみなぎっていた。机のうえに載っている鞄が、圧倒的な金の力で、部屋の全員を沈黙させているのである。
「十万元だ……」真木がつぶやいた。
「ここに十万元ある。松本くんのお父上のほうでも、これだけの大金を調達するとなると時間がかかってな。結局、全額揃えるのが間にあわなくて、うちの会計から少し金を足してある」
「あらためさせてもらうよ」藤村は鞄をあけ、なかの紙幣を数え始めた。
「昇日会」の連中と違って、藤村は大金をまえにしてもことさらな感慨を抱きはしなかった。いずれ、抗日組織の手にわたす金にすぎないという気持ちがあったし、なによりこれほどの大金だと金だという実感が湧かなかった。
間違いなく、十万元あった。
「確かに」藤村は鞄をとじた。
「身の代金にしても破格な額だ」真木は首を振った。
「ギャングごときにやるのは、なんとももったいない話だ」
同室している「昇日会」の男たちが、一様にうなずいて見せた。真木の合図があれば、いまにも藤村に襲いかかってきそうだった。
「そのギャングごときが、この上海ではいちばん恐い」藤村は機先を制した。
「青幇《チンパン》、紅幇《ホンパン》を敵にまわしたら、『昇日会』といえども無事ではすませないぜ」
「…………」真木は苦い表情《かお》をした。
真木にしても、まったくの莫迦《ばか》ではない。この上海で青幇《チンパン》、紅幇《ホンパン》を敵に回すことの愚は、よく心得ているはずだった。心得ているからこそ、これほどあっさりと身の代金の仲介役をつとめたのである。
実際には、この金はギャング組織にではなく、李夢蘭が属しているという抗日組織に渡される手筈になっていた。が、真木はそれを知らなかったし、また断じて知られてはならぬことだった。相手がギャング組織でないと知ったら、真木が力押しに押してくることは眼に見えているからである。
この金を使えば、李夢蘭が仲間の信義を裏切ることもなく、松本宏をとり返すことができるのだ。藤村、松本、李夢蘭の三人の関係がどうなっていくかは、すべて松本がアヘンから解放された後の話となる。
「それじゃ、俺は行くぜ」藤村は鞄を脇に抱えた。
「ひとりで大丈夫か」真木はなんとなく不安げだった。
「どうだ? 誰かに送らせようか」
藤村はことさらにゆっくりとした動作で、室内の男たちを見渡した。どの男も送り狼となるべき資格は充分に備えているように見えた。
「やめとくよ」藤村は言った。「どうもひとりのほうが安全なようだ」
藤村のその言葉に、室内の空気が一変して険しいものになった。男たちのひとりが一歩を踏みだした。
「よさんか」真木がその男を叱った。
藤村はニヤリと笑うと、今度こそ後ろも見ないで部屋を出ていった。
――李夢蘭のいる|〓江《キユウキヤン》路の家は、日本人が密集している北西《ペイスー》川路《チヨワンルー》にごく近く、まさに十九路軍と日本陸戦隊との戦いが行なわれているまっただなかにあると言えた。李夢蘭は戦火を避けるため、松本、熊《シユン》らと共に、船着き場にちかい|血の雨横町《ブラデイ・レーン》に潜んでいることになっていた。|血の雨横町《ブラデイ・レーン》は船員相手の淫売窟街で、身を隠すのに適した場所だった。
暮れかかった上海の街は、凄惨《せいさん》の気さえ帯びて見えた。上海総工会がだしたゼネストの指令によって、上海の日本人工場の中国人労働者たちはいっせいに職場を放棄していた。商店の多くも店を閉じてしまっている。――当然のことではあった。現在、上海は戦闘状態に突入しているのだ。
日本陸戦隊と戦っているのは、必ずしも十九路軍だけではなかった。上海の労働者や学生たちは義勇軍、輸送隊、看護隊を組織して、それぞれに強力に十九路軍を支援しているのである。だからこそ、広東系の十九路軍は、撤退しろという蒋介石《しようかいせき》の命令を無視して、日本軍陸戦隊と戦っているとも言えた。
が、いまの藤村には、戦闘の情況は、さしあたって興味のないことであった。抗日組織に金を渡し、松本と李夢蘭を上海から連れだす――ただそれだけが、藤村の脳裡《のうり》をいっぱいに占めていた。
藤村は待たせてあった自動車《くるま》に乗り込むと、|血の雨横町《ブラデイ・レーン》に行くことを運転手に命じた。
自動車《くるま》は走りだした。
藤村は背をふかくシートにあずけると、軽く眼を閉じた。ここ数日来の奔走が、藤村を極度に疲れさせていた。「昇日会」にいっぱいくわせる、というその上もなく危険な仕事が、とりわけ藤村を消耗させたようだ。
――それも終った、と藤村は考えた。松本がアヘンから脱するのに半年かかるか、一年かかるかは分らないが、いずれにしろ時間が解決してくれる筈である。これまでの苦労を考えれば、苦労の名にも価しないほどだ。
李夢蘭と藤村とのことも、つまるところは時間が解決してくれるに違いない。つまるところは……
ふいに自動車《くるま》が停止するのを感じた。
藤村は眼を開けた。
暗い、えたいの知れない裏通りだった。確かに|血の雨横町《ブラデイ・レーン》にちかい一角であることは間違いないが、しかしめざす李夢蘭の隠れ家まではまだそうとうの距離がひらいているようだった。
「どうしたんだ」藤村は運転手に声をかけた。
「故障でもしたのか」
運転手はゆっくりと振り返った。その右手には拳銃《リボルバー》が握られていた。
「おりろ」運転手は言った。「鞄をおいて、自動車《くるま》からおりるんだ」
「…………」
一瞬、藤村は自分の眼が信じられなかった。その運転手は、自動車《くるま》ぐるみ李夢蘭からさしつかわされた男だった。非常に信用できる男だから、と李夢蘭が太鼓判を押した男なのである。
「どうした?」男の声にはわずかに苛立《いらだ》ちが感じられた。
「早くしねえか」
その声の苛立ちと、男の表情《かお》の意外な稚《おさな》さが、藤村に無謀とも言える行動をとらせたのだ。とっさに、その男がチンピラにすぎないと判断したからだった。――藤村はふいに身体を沈めて、下から男の拳銃を持つ手をねじったのだ。
文字どおり間髪の差で、弾丸が藤村の頭をかすめた。銃声、ガラスの割れる音に混じって、男の手首が折れる音が奇妙にはっきりときこえてきた。
男は悲鳴をあげて、シートのうえにつっ伏した。その男の首筋に手刀をたたきこむのに、藤村はまったく躊躇《ちゆうちよ》を感じなかった。男がその気になれば、左手だけでも充分に拳銃を撃つことができるからである。
男は前部シートにうつぶしたまま、ピクリとも動かなくなった。
藤村は大きく息を吐くと、ひとまず自動車《くるま》から出ることにした。男を自動車から放りだして、自分で運転していこうと考えたのである。だがー
自動車《くるま》から足を一歩踏みだしたとたんに、藤村は自分が情況判断を大きく誤ったことを覚っていた。自動車をなかば囲むようにして、路地の暗がりに、それよりさらに暗く三人の男たちが立っていたのだ。
何を語るべき必要もなかった。その男たちの意図がどこにあるかは明らかだった。男たちの手にはそれぞれ得物《えもの》が握られていた。
藤村はほとんど反射的に巡捕の姿をさがして、暗い路地を見廻した。巡捕の姿は見えなかった。仮に巡捕がいたところで、街の一角で戦闘がつづいている最中《さなか》に、物盗りなんかにかかずらってくれるかどうか疑問だった。
自力で戦うしかなかった。鞄のなかの金は、李夢蘭と松本宏、いまの藤村には誰より大切なふたりの生命《いのち》が賭かっているのだ。
「その鞄を渡せ」男のひとりが言った。
その言葉に対する藤村の反応は、迅速をきわめていた。身体を後転させて、半身を自動車《くるま》のバンパーにあずけると、下肢を揃えて思いきり蹴りだしたのだ。獅子でさえ悲鳴をあげそうな、凄《すさま》じい蹴りだった。正面に立っていた男は肋骨《ろつこつ》を蹴り折られて、悲鳴をあげてふっとんだ。
なにごとか喚《わめ》くと、右側に立っていた男が藤村の頭めがけて棍棒《こんぼう》を振りおろした。唸りをあげて振りおろされた棍棒は、藤村の頭をではなくバンパーをへこませた。身体を横転させた藤村は、二本の指をつきだした。両眼をつぶされる恐怖に、棍棒の男は慌《あわ》てて飛びすさった。
藤村は身体をクルリと丸くすると、バンパーからたかく飛んだ。全体重をかけたこの体当たりに、棍棒の男は脆《もろ》くも潰れた。さきほどの蹴りのような威力はなかったが、それでもその男はしばらくは立てないはずだった。
肩を灼《や》かれるような痛みが走った。とっさに身体をひねらなかったら、三人めの男のナイフは藤村の内臓まで痛めつけているはずだった。
藤村とその男はしばらく睨《にら》みあっていた。その男がどうやら最も強敵になりそうだった。その男もチンピラに違いはないが、しかしチンピラというものは往々にしてナイフを使い慣れているものなのだ。鞄を守りたいという一念が、藤村に実力以上の強さを与えたが、しかしそれもその男のナイフには通用しそうもないようだった。
「シュッ」
舌をたたくような音をたてて、男はナイフをくりだしてきた。まったく切れめのない、連続攻撃だった。男のナイフは右に左に、闇のなかに白い光芒《こうぼう》をえがいた。
藤村は身を反らし、飛びすさり、しだいに後退していった。藤村の背広はすでに三箇所までが切り裂かれていた。
藤村はふいに鞄を前方につきだした。男のナイフは鞄に深々と突き刺さっていた。男はほとんど反射的に、ナイフをひこうとした。男のつづけざまの攻撃に、切れめができた最初の瞬間だった。男のナイフをひこうとする力を充分に利用して、藤村は体当たりをするように膝蹴りを入れた。藤村の膝は男の腹に正確に入った。
男は呻きながら、身体を折った。そのむきだしになった首筋は、藤村の眼に格好な的として映った。藤村は手刀をたたきこんだ。男が地に伏したとき、棍棒の風を切る音がきこえてきた。
藤村は横っ飛びに身をよじったが、しかし棍棒をかわしきることはできなかった。側頭部をかすめた棍棒は、藤村の肩をしたたかに打った。
凄じい苦痛だった。藤村がそれ以上に戦いをつづけるのは不可能だった。藤村は肩を押さえて崩れ、苦痛にのたうった。
「やめろ」声がきこえてきた。
「鞄さえ貰えばいい。殺さない約束だぜ」
むろんのこと藤村に確かめる余裕はなかったが、どうやらナイフの男が棍棒の男を制しているようだった。
――殺さない約束?……苦痛に呻く藤村の頭に、その言葉だけが繰り返し反響《こだま》していた。何かがはっきりと分ったような気がした。
自動車《くるま》の遠ざかる音がきこえてきた。
藤村はしばらくその場に横たわっていた。地の冷たさが、熱っぽく疼《うず》く身肉に心地よかった。できれば、その場で眠り込んでしまいたいほどだった。
肩の痛みもさることながら、男たちの言葉から明らかになった事実のほうが、藤村をより苛酷《かこく》にうちのめしていた。これまでの努力が、すべて徒労でしかなかったことを告げる酷い事実だった。
藤村はようやく立ちあがった。立ちあがって、李夢蘭たちが潜んでいるはずの淫売宿に向かって歩きだした。裂かれた服を着、血泥に汚れた藤村の姿は、さながら冥府《めいふ》をさまよう亡霊のように見えた。
――さしもの|血の雨横町《ブラデイ・レーン》も、今日だけは静寂に包まれていた。一方で戦闘がつづいているという状態では、船員たちにしても安心して女を抱くことはできないのだろう。
李夢蘭たちが潜んでいる家は、「帝国《インペリアル》」という大仰《おおぎよう》な名がついた淫売宿だった。今夜は営業を休んでいるらしく、窓には明かりが点《と》もされてなく、人影もまったくなかった。李夢蘭の話によると、彼女はそこの女将《おかみ》と古くからの知り合いということだった。
藤村はふらつく足を踏みしめて、やっとの思いで家の外についている階段を登った。さほど段数の多い階段でもないのだが、それでも二度ほど足を休めねばならなかった。
家のなかに入った。
廊下のつきあたりが、李夢蘭たちの潜んでいる部屋だと教えられていた。
藤村はその部屋のドアをノックした。
身内からわきあがってくる怒りに、藤村のドアをたたく拳には自然に力が入っていた。
ドアが開けられて、李夢蘭が顔を出した。
「…………」
李夢蘭の表情《かお》を、小波《さざなみ》のように動揺が走った。
「驚くことはあるまい」藤村は嘲《あざけ》るように言った。
「きみのさしがねだったはずだ」
「私はそんなことは頼まなかったわ」李夢蘭は首を振った。「荒っぽい真似はしないでくれと頼んだのよ」
李夢蘭のその返事は、藤村の推測があたっていたことを如実に物語っていた。藤村はなかば李夢蘭を押しのけるようにして、部屋に足を踏み入れた。
「なぜだ……」そして、訊《き》いた。
「なぜ俺をチンピラに襲わせた? 金はきみの属している抗日組織に渡すはずのものだったんだぞ。その金をどうしてあんなチンピラなんかに与える必要があったんだ?」
「大きな声をださないで」李夢蘭の口調は低かったが、しかし臆したような気配はなかった。
「隣りの部屋には松本が寝ているのよ」
「…………」
藤村はしばらく李夢蘭の顔を凝視していた。李夢蘭は昂然《こうぜん》と藤村の顔を見返している。――最初に会ったときと同じ、いや、それ以上に挑戦的な態度だった。李夢蘭のうちにある野性が、焔をあげて燃えさかっているように感じられた。
「なぜだ」藤村は質問を繰り返した。
「なぜチンピラたちに俺を襲わせた?」
「厭《いや》になったからだわ」李夢蘭はこともなげに答えた。
「なにが厭になった?」
「なにもかもがよ」
「答えになっていないぜ」
「あなたたち男が厭になったのよ」李夢蘭はことさらのようにゆっくりした口調で言った。
「あなたと松本と、あなたのたてた計画が厭になったんだわ。なにもかももううんざりだわ……」
「…………」藤村は言葉を失った。
これほどに全的な拒絶をまえにして、藤村が言葉を失うのはむしろ当然であった。いったい李夢蘭のうちで何がどう変質したというのか。
「あなたは松本をアヘンから救うと言ってたわね」
と、李夢蘭が言った。その声の低さが、かえって彼女のうちで煮沸《しやふつ》している激情をよく物語っているようだった。
「そして、あなたと松本は私から離れていくのだわ」
「莫迦《ばか》な……」藤村は呻いた。「俺がそんなつもりじゃないことはよく承知しているはずじゃないか」
「知らないわ」李夢蘭の声には嘲弄《ちようろう》するような響きが含まれていた。
「東洋鬼《トンヤンキー》の言うことなんか信用できないわ」
「東洋鬼《トンヤンキー》……」藤村は絶句した。
「きみは俺や松本のことをそんなふうに考えているのか」
「考えて悪いかしら」それまでかろうじて平静を保っていた李夢蘭は、そのときにいたってようやく感情を爆発させたようだ。
「あなたも松本も日本人だわ。松本はアヘンからたちなおれば、私から去っていくに決まっているのよ。あなただって、松本が治れば私のことなんか忘れてしまうわ」
「やめないか」藤村はたたきつけるように言った。
「俺はもちろんだが、松本だってきみから去っていくはずなんかないじゃないか。松本がアヘンの救けをかりなくても暮らしていけるようになったとき、きみが俺たちのうちひとりを選ぶ。そのためにも……」
「おためごかしはやめてよ」李夢蘭が藤村の言葉を遮《さえぎ》った。
「いい子ぶるのはやめたらどう? もう飽き飽きしたわ。あなたは結局、松本を私からひきはがしたいだけなんだわ」
「李夢蘭……」
「あなたの言うことなんか信用できないわ。友人の女と平気で寝るような男の言葉を信用できるはずがないじゃないの」
「…………」
悲哀とか、憤怒《ふんぬ》とかいう言葉では形容しきれないほどの激しい感情が藤村のうちを過《よぎ》っていった。それだけは、その言葉だけは李夢蘭は口にすべきではなかったのだ。
藤村の形相を見て、李夢蘭が狂ったように笑いだした。その笑い声は、なかば号泣《ごうきゆう》に似ているようだった。
「李夢蘭、きみは……」
藤村がそうつぶやいて、一歩を踏みだしたときだった。李夢蘭が中国服《チヤイナ・ドレス》の割れめ《スリツト》から、拳銃を取りだしたのである。
「それで、俺を撃つつもりなのか」藤村の声は自分でも意外なほど平静だった。
「撃たないわ」李夢蘭は拳銃を回転させると、銃把のほうを藤村にさしだした。
「あなたが私を撃つのよ」
「…………」
「どうしたの? いまの私なら平気で撃てるんじゃなくって」
「俺がなぜきみを撃たなければならないんだ?」
愚問というべきだった。いま李夢蘭は明らかに死を望んでいた。その死を藤村から与えられるのを欲するのは、李夢蘭のせめてもの愛情の表現と考えるべきなのかもしれなかった。――だが、李夢蘭のとつぜんの狂気が、男ふたりとの別離《わかれ》を恐れるあまりのこととは分っていても、藤村にはしょせんその狂気の本質を理解することはできなかった。
「莫迦な真似をするな」
と、藤村は首を振ったのだ。
「あのチンピラたちの名前を教えてくれ。なんとしてでも、金を取り返したいんだ」
銃把をつきつけたまま、李夢蘭はしばらく藤村を凝視《みつ》めていた。その表情《かお》に様々な感情がせめぎあっていた。
「あなたもしょせん日本人よ」そして、李夢蘭はゆっくりとこう言ったのだ。
「私たち同胞の生き血をすする東洋鬼《トンヤンキー》なのよ」
かつてそれほどに藤村の臓腑《ぞうふ》に深くつきささった言葉はなかった。その言葉はほとんど現実の苦痛を藤村にもたらした。藤村は知らず呻き声をあげていた。
「李夢蘭……」
激情が藤村のうちで爆発した。激情は、現実には李夢蘭の手首に手刀をたたきこむという形をとった。いまの李夢蘭に拳銃を持たせたままでおくのは非常に危険だったからだ。
が、李夢蘭の手から拳銃がおちることはなかった。それどころか、拳銃ははねあがり、弾丸を吐きだしたのだ。
暴発だった。暴発だったが、一人の人間を死に追い込む暴発だった。至近距離からの弾丸は、李夢蘭の腹部を貫通したのだ。
李夢蘭はのけぞり、崩れていこうとする躯《からだ》を支えようとするかのように、藤村に抱きついてきた。拳銃が乾いた音をたてて床に落ちた。
総《すべ》てが著しく現実感を欠き、夢のなかの情景に似ていた。
李夢蘭の藤村を見る眸《め》には、苦痛、怒り、悲しみ、およそ感情の名に価するものはいっさいなかった。あいかわらず美しいが、ガラス玉の美しさに等しかった。
ただ一発の、小さな弾丸は、李夢蘭を即死させたのだ。
「李夢蘭……」藤村は囁《ささや》いた。
「なにか喋ってくれないか」
李夢蘭がなにを喋れるわけもなかった。死んだ人間が二度と口を開くわけはなかった。藤村の腕《かいな》に支えられて、ようやく直立しているだけで、いまの李夢蘭は床に横たわっていることこそ自然な姿なのだ。
が、藤村はなおも囁きつづけた。李夢蘭の躯を軽く揺さぶりさえした。
李夢蘭の手が藤村の背中から外れた。虚脱感に襲われたいまの藤村に、李夢蘭の躯を支えるだけの力はなかった。李夢蘭は床に伏した。
「…………」
その時になってようやく藤村は李夢蘭の死を現実のこととして受けとめることができた。受けとめることはできたが、それが藤村の感情喪失の状態を破ったわけではなかった。あまりの衝撃が、藤村を死者にも等しい状態に変えていた。
背後から悲鳴がきこえてきた。藤村は振り返って悲鳴の主を確かめると、ノロノロと死骸から後ずさった。
「李夢蘭……」
松本宏は李夢蘭の傍らに膝をつき、その名を低く呼びつづけていた。
藤村は呆けたような視線を松本になげていた。前にもこれと同じことがあったような気がしたが、しかしそれがいつのことかは思いだせなかった。錯覚にすぎないかもしれない。
「藤村……」
松本が床の拳銃を拾いあげ、その銃口を藤村に向けた。その銃口は自分を救いへと誘《いざな》う唯一の路《みち》であるように藤村には思えた。
「撃てよ」藤村は呟《つぶや》くように言った。
「撃ってくれ」
その部屋で二発めの銃声が鳴り響いた。
藤村は苦痛に身をよじった。見えない鉄槌《てつつい》の一撃をうけたように藤村の躯が後方にはねとんだ。
が、藤村は倒れなかった。かろうじて躯を支えることができたのだ。
「外れたぜ」そして、言った。
「弾丸《たま》はかすっただけだ」
事実、松本の撃った弾丸は、藤村の脇腹に一条の傷を刻んだにとどまった。その傷は烈しい苦痛を藤村にもたらしたが、しかし苦痛だけでは人間は死ぬことはできない。いまの藤村はただ死だけを欲していた。
松本は左手を銃床にそえ、懸命に藤村に狙いを定めようとしていた。だが、左手をそえるだけでは、二発めの弾丸《たま》を放つには不充分なようだった。松本は床に膝をついていても、その上半身を支えきれないほどの胴震いに襲われているのである。
明らかに禁断症状だった。激しい悲しみに直面したことが、松本をアヘンの禁断症状に陥れているのだ。
藤村は待った。松本が禁断症状から回復して、自分を撃つのを待ちつづけた。
だが、禁断症状は松本の骨の髄まで噛んでしまっているようだった。藤村を狙うのはおろか、いまの松本に|引き金《トリツガー》を引く力があるかどうかさえ疑問だった。
松本の手から拳銃がおちた。松本は両腕を胴にまわして、幼児のようにすすり泣き始めた。なにかの呪文のように、ただ「李夢蘭」という名前だけを繰り返していた。
「それでは俺を殺せないぜ」藤村の語調は激しかった。
「俺を殺したかったら、まずアヘンと手を切ることだな。きみがアヘンをやめて、そして俺を殺すことができたら、それが李夢蘭に対するいちばんの供養になる」
「…………」
松本はなにを答えようともしなかった。だが、藤村を見上げる彼の眸《め》が、その返答を明確に提示していた。その眸にはただ憎悪だけがあった。――もしかしたら、人をアヘン中毒からたちなおらせるのに、憎悪ほどふさわしい医師はいないかもしれなかった。
「待ってるぜ」藤村は本心から言った。
「きみが殺しにくるのを待っている」
事態がこう変わった以上、松本がアヘンからたちなおってくれることだけが、藤村に唯一残された希望と言えた。
松本はガクリと顔を床に伏せた。もう仇でしかない藤村に醜態をさらすのは耐えきれなかったのだろう。
藤村はそのまま部屋を出るほかはなかった。
――その翌日から、「昇日会」は藤村を執拗につけ狙うようになった。藤村は彼らに殺されるわけにはいかなかった。ひとつにはそれでは松本との約束を反故《ほご》にすることになるからであり、もうひとつには「昇日会」ごときに殺されることに藤村の矜恃《きようじ》が耐えられなかったからである。
藤村は全財産を処分して、崑崙《コンロン》へと旅だった。ただ独りだけの旅であった……
ながいながい話が終ったとき、なお藤村は熊《シユン》の死体の傍らに膝をついたままだった。
すでに空は翳《かげ》り始めていた。遠くに見える山巓《さんてん》が、その稜線を暗く空に溶かしていた。
「姉は死んだのね……」李玉娥が呟くように言った。
李玉娥の背後には、いつからそこにいるのか、森田、B・W、天竜《テイエンルン》の三人が立っていた。彼らはいつになく沈痛な表情で、藤村を見つめていた。
「李夢蘭は死んだ」藤村はうなずいた。
「俺が殺したんだ」
「あなたが悪いんじゃないわ」李玉娥は微笑《ほほえ》もうとさえしていた。
「たとえあなたに罪があるとしても、もうその罪は許されているわ。崑崙に足を踏み入れるだけで、どんな人の罪も許されるのよ」
「厭だ……」藤村は呻いた。
「俺は許されたくなんかないんだ。誰からも許しなんか受けたくないんだ……」
第十三章 悪魔祓《あくまばらい》
確かに、藤村は許しなどを欲してはいなかった。だが、李夢蘭とのことを一同に話したときから、藤村のうちでなにかが変質し始めたようだ。そうとはまだ明確に意識されていなかったが、生きようとする意志が再び藤村のうちで蠢動《しゆんどう》し始めたのかもしれなかった。
李玉娥がいみじくも言ったように、崑崙《コンロン》という土地には、足を踏み入れた人間すべての罪を許すような寛容さが確かに備わっているようだった。
――熊《シユン》の死後、藤村はなかば死人に等しいような毎日を送っていると言えた。だが、そんな彼のうえにも、崑崙の空はうららかな陽光をあびせ、爽《さわ》やかな風を送ってくるのだ。それが誰であろうと、この崑崙の地で不幸を抱きつづけるのは不可能なようだった。
ある意味では、無為に過ぎた日々だったかもしれない。四人の男たちになすべきことは何もなく、考えるべきこともまた何もなかった。ただ、後続隊が訪れるのを待つだけの毎日だったのである。
が、――そんな平穏な日々が、四人の男たちを確実に変えつつあるようだ。藤村のうちに、生きつづけることに対する曙光《しよこう》のようなものがきざし始めたのはその最たるものだが――ほかの三人のうちにも、藤村ほどには顕著でないにしても、明らかな変質が進行していた。
変質はとりわけ天竜《テイエンルン》のうえにめだった。非常に信じ難いことではあるのだが、どうやら天竜は李玉娥に恋情を抱いているらしかった。――病的なほどの女性嫌悪症であるはずの天竜が、李玉娥の前に出ると、奇妙にぎこちなくなってしまうのである。一度などは、藤村を唖然《あぜん》とさせたことには、頬を赤らめさえしたのだ。
だが、天竜のこのありうべからざる変貌は、それなりに藤村や森田の微苦笑を誘うものがあると言えた。彼らにとって、むしろ気がかりだったのは、B・Wの変わりようだったろう。――B・Wが寡黙な男であることに変わりはなかった。だが、いまのB・Wは、殺し屋という言葉からうける印象とはおよそほどとおい、どこかしら温厚の感さえ漂《ただよ》う男になっていた。実際、陽だまりにひがな坐っているB・Wの姿からは、その苛酷な闘争にあけくれた半生を想像するのはむずかしかった。
かつてB・Wに対して抱いた危惧《きぐ》が、再び藤村のうちに蘇った。化け物蛸との戦いを想いだすまでもなく、戦士としてのB・Wの技量はまったく衰えてはいないようだ。衰えてはいないようだが、いまのB・Wは殺し屋としての適性を著しく欠いていた。――B・Wは明らかに戦いの日々に疲れ、ただ平穏だけを望んでいるのだ。
B・Wはただの殺し屋ではない。紅幇《ホンパン》でNO・1の殺し屋と目されている男が、戦いに倦《う》めばその末路は決まっているようなものだった。上海には野望に燃えた若い殺し屋が、それこそ数えきれないほどいるのだ。上海に帰ったB・Wが、死骸となって裏通りに転がるのに、一月《ひとつき》とは要さないだろう。
B・Wがそのことを承知していないはずはなかった。B・Wもまたそうして殺し屋NO・1にまでよじ登ってきた男なのである。――だが、いまのB・Wがはたしてどれだけ自分の過去を意識においているか疑問だった。B・Wは退役した老兵士のように、血なまぐさい過去をただただ春陽に浄化させ、身心を憩わせているように見えた。
そして、森田は――
森田という男だけはおよそ変貌とは縁遠い男だったろう。対象がなんであろうと、この男が自分の気持ちを乱されることは絶対にありえないように思えるほどだ。たとえ何かに心を乱されるようなことがあったとしても、それを森田のいつに変わらぬ温容から読みとることは、第三者には不可能であるに違いなかった。――実際、ながい特務機関での生活が、森田を決して本心をうちあけない類いの人間にしたてあげているようだった。その正体を一同に知らせた後も、なお森田は謎の男であり、得体の知れない人物でありつづけたのである。
ともあれ、四人の男たちのうちに確実な影響を刻みながら、崑崙《コンロン》での日々は過ぎていった。
その期間、相柳の村が平穏に終始したとは言い難いようだ。崑崙独立国家論を唱える桑《そう》の一派と、あくまでもこれまでの状態を維持しようとする李玉娥との対立は、傍観者たる藤村たちの眼にも明らかなほど激しくなっていた。――だが、彼らの対立はあくまでも意見の対立としてとどまり、そこには憎悪に類する感情はいっさい関係していないように見えた。
その意味からも、崑崙はまことに稀有《けう》な桃源境と言えたろう。
――藤村たちが崑崙に着いてから、二週間ほどが経過した。熊《シユン》の狙撃事件を除けば、四人の男たちにとってかつてないほどの平和な二週間と言えた。だが、百人ほどの相柳の民と同様、男たちの平和ももう終りにちかづいているようだ。
「帰途の心構えをしておいたほうがいいね」森田は平和の終りをいみじくもこう表現した。
「そろそろ後続の連中がやってくる頃だからね」
その言葉に、藤村は思いがけず大きな衝撃を覚えた。いつしか藤村は崑崙の暮らしに順応しきっていたのだ。汚濁と恐怖に満ちた自分の日常に強く嫌悪を感じて、それが藤村に大きな衝撃を与えたのだ。――上海に帰ったとたんに、生命《いのち》をおとすようなはめに陥るのは、どうやらB・Wひとりだけではなさそうだった。
そして今、上海ではもう生きていけないかもしれない男がふたり、相柳の村の外れにある丘のうえに、肩を並べて立っていた。
別になにをしているというわけでもない。藤村とB・Wはタバコをくゆらして、ただボンヤリと眼下の村を見ているだけなのだ。
「ふしぎな村だ……」藤村が言った。
「俺は本当にこの地に神が存在するのを信じたくなったよ。本当にこの地を収める者は黄河を制することができるような気がしてきたよ」
「東洋鬼《トンヤンキー》が崑崙を欲しがるのも当然というわけか」B・Wはボソリと言った。
藤村は驚いて、B・Wの表情《かお》を見た。
「…………」
B・Wは自分の失言には気がついていないようだ。なにか放心したような表情で、相柳の村のいかにも牧歌的なたたずまいを見下ろしている。――食事の支度時なのか、幾つかの天幕《ユルト》から薄く煙りがあがっていた。
「俺は故郷を知らない」B・Wが呟くように言った。
「捨て児だったからな。……だが、この崑崙の地にいると、なにか故郷に戻ったように気が休まるよ」
B・Wの表情《かお》はめだって憔悴《しようすい》の色が濃くなっていた。もとから頬のそげた、肉の薄い顔だったが、今はそこに深い皺《しわ》が幾本か加わっていた。それは初老を迎えた一人の男の顔にほかならなかった。
「上海に帰るのはやめたらどうだ?」藤村は本心からそう言った。
「崑崙は平和だ。いまさら殺し屋という仕事に戻ることもあるまい」
「殺し屋、か……」B・Wは苦い笑いを唇に浮かべた。
「この仕事の報酬をうけとったら、きっぱり稼業から足を洗うつもりでいたんだ。アメリカへ渡ろうと考えていた。……だが、いまさら外国で暮らすには、俺は少し齢《とし》をとりすぎているようだ」
「だからさ、崑崙に残ったらどうだ」
「崑崙の人たちが、俺のような男を受け入れてくれるだろうか」
「頼んでみるさ」
「頼んでみる、か……」
「そうだ。この村では畑仕事だけが男の仕事ではない。男たちの仕事は猟と、魚をとることにもあるんだ。あんたの腕は、充分に村の役にたつはずだ」
「…………」
B・Wはしばらく何も答えなかった。その眸《め》に宿る光りが、さらに暗いものになった。
「この崑崙が満州国のような、日本の傀儡《かいらい》国になっても、それでも男たちは狩りをしてればいいと思うかね?」やがて、B・Wが憤るような口調で言った。
「…………」藤村は言葉を失った。
確かにそうなれば、日本が崑崙を桃源境のまま放置しておくとはまず考えられなかった。いずれはこの地も、日本の持ち駒の一つとして、仮借《かしやく》ない国際政治の舞台に放りだされることになるだろう。――そのとき、この村がどう変わることになるか想像すらできないが、少なくとも殺し屋が余生を送るのにふさわしくない地になるだろうことは間違いなかった。
藤村が真にこの村の将来に思いを寄せたのは、そのときが最初だったと言える。李玉娥がなにを恐れているのか、初めて強い現実感を伴って理解できたのである。およそ傀儡国家という言葉ほど、崑崙に相応しくない名称はないのではないか。
「桑《そう》の主張がうけいれられることになるとは限らないだろう」藤村がようやく言った。
「李玉娥の主張に与《くみ》する者は多いはずだ」
「確かに、な」B・Wはうなずいた。
「だが、俺たちは日本の特務機関をこの地に導いちまったんだ。相柳の村の連中がなんと言おうと、日本が崑崙を見逃がしてくれるはずがないぜ」
「…………」
藤村は再び沈黙せざるをえなかった。日本の、とりわけ軍部の貪欲《どんよく》さについては、藤村は誰よりもよく承知しているのである。
もしかしたら近い将来、崑崙の地が戦火にみまわれることがあるかもしれない。そうなれば、その責めは総て、藤村たちにかかってきて当然なのである。
――人の気配がした。
振り返った藤村の眼に、いつからそこにいるのか、神妙な面持ちで立っている天竜の姿が映った。明らかに、それまでのふたりの会話を盗み聴いていたのである。
「なにか用か」自然に藤村の声は不機嫌になっていた。
「李玉娥《リーユイオー》さんがおふたりを呼んでいます」天竜はおとなしやかな口調で言った。
「なにかおふたりにぜひ見ていただきたいものがあるそうです」
「…………」
とっさに藤村は返す言葉がなかった。天竜の李玉娥の名を口にするときの響きには、なにか畏怖の感さえ含まれているようだったのだ。――B・Wも不審げに眉をひそめている。
「身体の調子でも悪いのか」藤村はそうからかわずにはいられなかった。
「おまえでも女に惚れることがあるのか」
実際、藤村の知っている天竜《テイエンルン》は、決して女に惚れたりなどはしない少年だった。確かに、その天性の美貌から男女を問わずくどかれることが多く、天竜もまた彼らの要求に応じる場合が多かった。だが、それはあくまでも金のためであり、天竜はむしろそれらの男たちを、とりわけ女たちを憎悪しているはずだったのだ。
「来て貰えますか」天竜は藤村の言葉にまったくとりあおうとはしなかった。
先にたって歩きだした天竜を見送りながら、藤村とB・Wはなんということもなく顔を見合わせた。どうやら上海に帰って生きてゆけない人間がもうひとり増えたようだ。天竜の面目はまさしくその冷酷さぶりにあるのだ。冷酷さを失ったとき、天竜の上海での運命は凋落《ちようらく》の一路をたどるしかないだろう。――上海でひとりで生きていかねばならないような少年にとって、女に絶対に惚れないこともまたひとつの財産なのであった。
――村の広場には相柳一族の全員が顔を揃えていた。顎をなでながら、森田も居心地悪そうに立っていた。
いつもの、平和を好む陽気な一族とは、どこかしら異なる雰囲気を漂わせているようだ。一族と他者とを峻別《しゆんべつ》する神気が、確かに彼らのうえにはあった。――いつもなら愛くるしい笑顔を見せるはずの李玉娥も、藤村たちが近づいていっても見向きさえしないのである。それどころか、他者を決して寄せつけようとはしない厳しささえ、その表情《かお》には浮かんでいた。
「…………」
なんとなく彼らのなかに加わり難くて、藤村とB・Wは足を進めるのを躊躇《ためら》った。一族の間にははっきりと、彼らにだけ通じる儀式に臨《のぞ》もうとしているある種の荘厳《そうごん》さが感じられるのだ。李玉娥を先頭にして、彼らは整然と列をなしていた。
「なかに入ってください」李玉娥がよくとおる澄んだ声で言った。
「これから始めることは、あなたたちにも見ていただく必要があります」
李玉娥の声にはなにかあらがい難い響きがこもっていた。藤村とB・Wはほとんど反射的に足を進め、一族のなかに加わっていた。
「ようこそ」森田が皮肉な微笑を浮かべて、ふたりを迎えた。
――一族の移動が始まった。誰ひとり、がんぜない幼児にいたるまで、一言も言葉を発しようとはしなかった。これから何が始まるにせよ、その儀式が一族にとってきわめて重要な意味を持つことだけは間違いなさそうだった。
村の外に出た。
かなりに急な山肌を、一族は黙々と登っていく。夕刻の月が山巓《さんてん》にかかって、おぼろな光を一族のうえに落としていた。
どこかで山犬が遠吠《とおぼ》えを繰り返していた。
三十分ほども登攀《とうはん》をつづけたろうか。山肌はしだいにその傾斜をなだらかに変えていった。村から見たかぎりではそうとは分らないのだが、どうやら山は火山のようにその中央を陥没させ、広大な平坦地を擁しているらしかった。
いつその外壁を通過したのか、藤村にははっきりとは意識されなかったのだが、いつしか一族は広大な草原地帯を進んでいた。いや、その地を草原と呼ぶのは、いささか正確さを欠くきらいがあった。草丈が短く、しかもその高さが誰かが刈りこんだのではないかと思えるほどに統一されているのだ。むしろ芝生と呼ぶべきかもしれないが、ゴビの地にこれほどに広大な芝生があるはずはなかった。
ふいに一族が前進をとめた。
先頭の李玉娥がなにか合図を送ったわけではない。その地点になにかほかとは異なったところがあったわけでもない。それでいて発条《ばね》のきれた玩具の汽車のように、一族は揃って足をとめたのである。外来者たる四人の男たちも、いくらか狼狽《ろうばい》ぎみに一族にならった。
――空は急速にその深みを増していく。いま月は凄いほどに蒼《あお》く、その光のなかで一族は亡霊の群れのように見えた。
総《すべ》てが無言のうちに運ばれていった。一族はゆるゆると左右にひろがり、いつしか半円形をかたちづくっていた。藤村たち四人の男は、その半円形の中央を占める位置に立っている。
「何が始まるのかな」森田が呟いた。
「…………」
藤村に答えられるはずもなかった。外来者の介入はもちろん、その推測さえ拒む毅然《きぜん》とした雰囲気が、眼前の相柳一族には備わっているようだった。
ふいにたかく楽器の音が鳴り響いた。
空桑《くうそう》の琴瑟《きんしつ》だった。
藤村の全身を電雷が走った。この楽器の音をやすらかに聞くことは藤村には不可能な業だった。
空桑の琴瑟を演奏しているのは、もちろん李玉娥だった。その姿を見、彼女の奏でる琴瑟の音《ね》をきけば、どうしてひとりの小娘が一族の長《おさ》たりえるのかよく理解できた。琴瑟の弦に指をふれたときから、彼女は生身の人間とはどこか異なる存在となっていた。神と人間の介在者たるにふさわしく、琴瑟を奏でる李玉娥の姿にはある種の悲壮感さえ漂っているようだった。
決して力強い音色とは言い難かった。が、琴瑟の蕭々《しようしよう》たる調べには、通常とは異なる意味での力強さが確かに含まれていた。その力強さがきく者の心を魅了し、彼らをこの世ならぬ世界へと誘っていくのである。
事実、一族の多くはトランス状態にと陥っているようだ。女のなかにはうっとりと眼を閉じ、調べに合わせて上半身を揺らしている者さえあった。
琴瑟の調べがひときわたかさを増した。
男たちが、それも揃って屈強な若者たちが、列を離れて数歩前進した。彼らの手にはそれぞれに弓や棍棒など、みるからに武骨な得物《えもの》が握られていた。
「…………」
藤村たち四人の男は等しく身体を緊張させた。彼らが李玉娥の真意を疑っても当然だったろう。ここには一族の敵たりうる人間は、局外者である彼ら以外にはいないのである。
「李玉娥《リーユイオー》さん……」天竜がなかば混乱したような声で呟いた。
――いま一族の間には凍ったような空気がいっぱいにはりつめられていた。武器を握った若者たちはじりっじりっと輪をちぢめてくる。彼らの眸《め》には明らかに憑《つ》かれたような色が浮かんでいた。
この状況で若者たちに襲いかかられれば、四人の男たちに逃がれる手段《すべ》はまずないだろう。彼らは揃って丸腰であり、しかもまだ一族の襲撃を信じきれずにいるという、戦うにはその上もなく悪い状況にいたのである。
「李玉娥っ」藤村がなかば悲鳴のような声をあげた。
「これはどういうわけなんだ? 説明してくれ」
その声に反応を見せたのは李玉娥ではなく、B・Wであった。表情《かお》に痙攣《けいれん》のような影を走らせると、B・Wは身体をひねった。魔法のようにその右手にのみが現われた。
「早まるな」
森田が仰天してそう叫んだときには、すでにのみはB・Wの手から放たれていた。のみは蒼い火箭《かせん》のように飛び、地に深くつきささった。
――信じ難いことが起こった。一度は地にささったはずののみが、なにかに弾《はじ》かれたように宙にまいあがったのである。ビーンという鋼のしなう音が夜闇に鋭く響いた。
地が炸裂《さくれつ》した。地雷の爆発に似ていたが、しかしそうでない証拠には、硝煙の匂いがまったく感じられなかった。
「おおっ」藤村たち四人の口から、等しく驚きの声が洩れた。
巨大な流線型の影が月夜を背景にしてたかく飛びあがったのだ。その影が砕いた土くれが、水《みず》飛沫《しぶき》に似て四方に散った。
弓の弦が一斉に鳴った。銀針のようなきらめきが幾条も宙を走っていく。巨大な影に集中して、若者たちが矢を放ったのだ。
そいつは宙で身体をひねった。そして、地に落下してくる。再び、地が炸裂した。――次の瞬間には、そいつの姿はもう地上のどこにも見えなかった。
李玉娥の奏でる琴瑟の調べだけが、絶えることなくつづいていた。
「…………」藤村が大きく息を吐いた。
若者たちが手にしている得物《えもの》が、少なくとも藤村たちに対するためのものでないことだけははっきりしたのである。その正体がなんであるかはまだ分らないが、一族はいまの化け物を殺すためにここに集まったようだ。
藤村たちがそいつと出会うのは、これが初めてではないらしい。竹林から逃がれて、崑崙へと通じる洞穴を進んでいたとき、なにかとてつもなく邪悪な存在を四人が揃って感じたことがある。いま彼らが感じているうなじがそそけだつような感触は、あのときのそれと明らかに共通していた。
「あのときにも音楽がきこえたね」森田が確かめるように言った。
「ああ、空桑の琴瑟だった」藤村が頷《うなず》いた。
「……そうすると、あの楽器は今の化け物を誘寄《おびきよ》せる役目を持つようだね」
「なにしろ、李玉娥は巫女《みこ》だからな」
彼らの声は互いに囁くようだった。ここでは彼らは完全に傍観者でしかなかったが、しかし傍観者には傍観者なりの礼儀が必要とされるのだ。化け物をおびき寄せるには、どうやら琴瑟の調べ以外の音は総《すべ》て障害となるようだった。
B・Wもまた無言のまま、拾いあげたのみを服の袖口でふいている。B・Wがそののみを投げたのは、誰よりもはやく化け物の存在をとらえた結果にほかならなかったのだ。洞穴のときにも、異常を最初にとらえたのがB・Wであったことを思えば、やはり殺し屋としての鋭敏な神経には端倪《たんげい》すべからざるものがあるようだ。
その回数がいかに重なっても、人が異常事に慣れることは決してない。慣れることはないが、しかし崑崙を訪うてからの異常事の連続は、藤村たちから正常な驚きの感覚を奪ってしまっていた。――地中から奇妙な生き物がとびだしてきて、そして再び地に潜ってしまったことにも、藤村たちはさほどの不思議を感じなかったのである。
ただ、とぎれることなくつづいている琴瑟の音色と、月光の下でくりひろげられている眼前の光景とに魅せられていると言えた。
「来るぞ……」B・Wが呟いた。
若者たちが弓を構え、地の一点に狙いを集中した。――その地が強風にあおられたように爆《は》ぜ散った。流線型の巨躯が再びたかく跳躍する。
「鮫《さめ》だ……」
藤村は自分の眼が信じられないような思いだったが、月光を全身に受けて、宙で身をくねらしているそいつの姿は、まさしく鮫と酷似していた。
鮫――軟骨魚綱・板鰓亜綱《はんしあこう》に属し、その姿体生態の原始的なことにかけては、ほとんどシーラカンスに匹敵するのではないかと言われている魚だ。事実、その形態は太古の昔からまったく変わっていない。この貪欲《どんよく》な魚は、船の底板さえ噛み破る牙を唯一の武器として、しぶとく生き残ってきたのである。
実際には、そいつが鮫であるはずはなかった。形態こそ鮫に酷似しているが、その機能はまったく別の働きを備えているに違いなかった。多分、鮫と先祖を同じくし、その持ちまえの強靭《きようじん》な生命力で、地中に住まうのに適応したのだろう。
地中に住むのに適応したために、そいつの躯は非常な高密度を獲得したらしい。地中から出入りするとき、爆発のような現象をともなうのも、その高密度な躯がひきおこす結果だと思われた。
――そいつは驚くべきたかさにまで跳躍を達した。だが、それはそのしぶとい生命力の最後の一滴まで絞りつくした結果の跳躍だったのだ。どうやら化け物はその鰓《えら》が急所だったようだ。鰓に集中して、数えきれないほどの矢が刺さっていた。
落下した化け物は、今度は地を炸裂さすことはできなかった。地上で身もがいている化け物は、優に体長十メートルを越えているようだった。
棍棒を持った若者たちが、鮫のまわりに駆け寄ってきた。鈍い、なにか金属を打つような殴打音がひとしきりつづいた。――化け物は息絶えた。
呪縛《じゆばく》にかかっていたような時間が弛緩《しかん》した。
「…………」藤村も全身から力がぬけたように感じていた。
気がついてみると、琴瑟の調べもやんでいた。
月は皓々《こうこう》と冴えていた。幻想のなかの情景に似た、草原での「鮫狩り」は終りを告げたのである。
「崑崙に魔が生じたわ……」李玉娥が思いがけなく大きな声で言った。
「神が眠りにつかれる日がちかいとの証拠だわ。私たち一族に再び流浪のときがやって来たのよ」
「待ってくれっ」悲鳴のように李玉娥を遮ったのは、桑《そう》の声だった。
「いままでがそうだったといって、これからもそうだとは限らない。第一、神が眠りについたら、どうして俺たちが流浪の旅にでなければならないんだ? 崑崙までが消えてしまうわけじゃないだろう」
「崑崙も消えるわ」李玉娥が断じた。「神と崑崙は同じものなのよ」
「だが、それでは俺の計画が……」桑が混乱したように、藤村たちの方を見た。
森田の救けをかりようとしているのは明らかだった。
「我々にはよく分らないのだが……」森田がいつもの穏やかな声で言った。
「魔が生じたとはどういうことかね? どうして魔が生じると、きみたちが流散しなければならないんだね?」
当然な疑問というべきだった。崑崙の地にいたる過程で、またこの地に入ってからも、四人の男たちは様々な異常事に遭遇した。崑崙の地にまつわる多くの伝説も、その一部は事実を射ているようだ。――だが、なぜ崑崙がかくあるのか、という疑問はいっさい説明されていない。藤村たちは眼隠し、耳隠しをされて崑崙で毎日を送っているに等しいのである。
――一族の人間たちはそれぞれに帰路につき始めていた。その場を動こうとしないのは、李玉娥、桑、そして藤村たち四人の男だけであった。彼らを寄せる長卓のように、化け物の死骸が地に横たわっていた。
「神が眼醒《めざ》めているときだけ、この崑崙は地上に存在するの……」李玉娥が言った。
「神が眠りにつくときがちかづくと、その魔が現われるのよ。私たち相柳一族の役目は黄河の治水ももちろんだけど……むしろ、悪魔|祓《ばら》いのほうが大きいのよ。神が安らかに眠りにつけるように、ね」
「神がどこにいるというのだ?」藤村の声はなかば呻くようだった。
「崑崙に入ってから、もう相当の時間が過ぎたが、俺たちはまだ神なんか見たこともないぞ」
「見たことはあるわ」
「え?」
「今も見てるじゃないの」
「どういうことだ」藤村は混乱した。
森田、B・W、天竜の三人も呆然とした表情になっている。実際、李玉娥の言葉はたわ言としか思えなかった。
「あなた方は神のうえに立っているのよ」李玉娥は静かな声で言った。
「神のうえに………」
「この崑崙の地そのものが神なのよ。あなたたちは偉大な神のうえに立ってるんだわ」
「…………」
四人の男たちは等しく足元に眼をおとした。草丈には奇妙なところが感じられたが、しかし土壌そのものにはなんら異常なところはないように見えた。
「比喩的なことを言ってるのか」藤村の声はかすれていた。
「そうじゃないわ」李玉娥は首を振った。
「事実、崑崙の地には生命《いのち》が宿っているのよ。数十万年も生きてきた偉大な生命《いのち》だわ。というのは……」
李玉娥がその言葉を終えることはできなかった。ふいに天竜《テイエンルン》が地を蹴って、彼女に飛びかかったのである。
ほとんど同時に鳴り響いた銃声が、天竜の行動を総て説明していた。
「天竜《テイエンルン》っ」藤村は思わず叫んでいた。
李玉娥を狙って、誰かが放った弾丸が、天竜の躯を貫通したのは明らかだった。李玉娥をつきとばした瞬間、天竜の躯はガクリとのけぞったのだ。
森田、B・W、そして桑の三人は、それぞれきたるべき次の襲撃に備えて、地に身をなげている。
死につつある天竜を見守っているのは、藤村と李玉娥のふたりだけであった。
「しっかりしろ、天竜《テイエンルン》――」
激しく喘《あえ》いでいる天竜にむかって、藤村はそう声をかけたが、しかしその言葉がむなしいものであることは誰よりも彼がよく承知していた。弾丸は明らかに天竜の内臓を損ねているのだ。
「…………」天竜はうっすらと眼を開けた。
どうやら天竜は突然に自分を訪うた死をまだ明確には意識していないようだ。その眸子《ぼうし》がなにかを求めて力なく動いた。――求めていたものを見つけたようだ。眼に微《かす》かに光が宿った。藤村はここでも傍観者でしかなかった。
その手を握られながら、天竜《テイエンルン》は李玉娥を凝視《みつ》めていた。微笑さえ浮かべようとしている。
そして、呟いた。
「……母さん」
天竜は死んだ。死んだのを確かめると、藤村はゆっくりと立ちあがった。李玉娥がすすり泣き始めたのにさえ、藤村は気がついていなかった。
――あの少年は母親と会うことになる。
どうして|山から来たラマ《オーレン・ラマ》の予言をこれまで忘れてしまっていたのか。天竜は決して李玉娥を異性として愛していたのではなかった。天竜は李玉娥に母親の面影を重ねていたのである。……自分を捨てていった母親を憎み、ヨーロッパにいるはずの彼女と会うために、多分、会って殺すために、グループから逃亡さえはかった天竜だったが……いや、おそらくそれだけにいっそう、顔さえも覚えていない母親を強く慕っていたのではなかったのか。
藤村はいま全身を憤りの炎に熱く灼《や》かれていた。
――三人の人影がこちらに向かって、ゆっくりと歩いてくるのが見えた。いずれもその手にライフルをさげていた。
その三人が相柳の一族にまぎれこんでいたことはまず間違いなかった。一族が帰ったあとは、地に低く身を伏せていたのだろう。そして、李玉娥を殺すべく、ライフルを発射し――天竜を殺した。
月光のなかに、いま三人の男たちははっきりとその顔をさらした。
藤村は表情《かお》がこわばるのを感じた。その三人には見覚えがあったのだ。「王城館」で同宿し、毛皮商人と名のったあの三人組なのだった。
「やあ」奇妙にくぐもった声で、森田が挨拶《あいさつ》を送った。
「あまり遅いんでどうしたのかと思っていたよ」
――日本特務機関の後続隊がついに崑崙に到着したのである。
第十四章 三対三
三人の男たちはいずれも精悍《せいかん》な体つきをしていた。若く、その若さにふさわしい無慈悲な眼をしていた。それでいて、群集の間に混じれば決してめだたない、奇妙にくすんだ雰囲気を備えていた。
いかにも手強《てごわ》そうな、理想的な特務機関員というべきだった。
「なぜ撃ったっ」なかば悲鳴のような声で、桑《そう》が叫んだ。
「その娘がいるから計画が進まない」男のひとりが無感動な声で応じた。
「あんたはそう言ったんじゃなかったかね」
「だからって李玉娥を撃てとは頼まなかったはずだ」
「あんたに頼まれたから、撃ったわけじゃない」男の声にははっきりと嘲笑の響きが含まれていた。
「頼まれたのなら、決して撃たなかったかもしれない」
「…………」桑は沈黙した。
桑《そう》は非情な男ではない。いくらか権謀術数を好むだけの、政治志向型の男にすぎないだろう。それだけに、事態が自分の予想を大きく越えて、現実の殺傷沙汰にまで及ぶと、どうしていいのか分らないようだった。
「つまり、きみたちが崑崙に着いたのは、今日ではないということかね。どうして私に接触してこなかったのか説明してくれるだろうね」森田がそう尋ねて、男がなにか答えかけるのを手をあげて制した。
「断っておくが、私はこの連中には森田と名のっている」
「森田さんか」三人のリーダー格らしいその男は、表情《かお》に奇妙な笑いを浮かべた。
「それじゃ言わせてもらうが……森田さん、あんたがこの崑崙に来てから、かなりの時間が経過している。その間、いったい何をしていたんだね? 崑崙独立国計画の下準備をしているはずだったんじゃなかったかね」
「そのはずだったんだがね」森田は動じなかった。
「まあ、いろいろとあってね」
森田の表情《かお》からはいつもの微笑が消えていた。目前の三人と同じく、いや、彼らをはるかに圧してしたたかな、ベテランの特務機関員の表情がそこにはあった。
「あんたも老いぼれたな」男は首を振った。
「もっとはやくデスク・ワークにつくべきだったんだ。崑崙でひなたぼっこをしているんじゃ、現役の特務機関員としてはものの役にはたたないぜ」
「つまりはそういうわけか」森田の唇にはうっすらと苦笑が浮かんでいた。
「それで、私には接触しないで、桑《そう》と連絡をとりあっていたというわけか。……だが、なぜ李玉娥さんを殺そうとした? 明らかに越権行為だと思うがね」
「越権行為のはずはないな」男の声音に初めて特務機関員らしい冷酷な響きが含まれた。
「計画の推進にじゃまな人間がいれば、断じてこれを排除する。飛び入りのおかげで失敗はしたが、特務機関員としては当然の措置だったと思うがね……
こいつはあんたに教えてもらった方法だったんだがな。森田さん」
「崑崙をあなたたちの自由になんかさせないわ」
それまで天竜《テイエンルン》のうえに顔を伏せていた李玉娥が、狂ったように叫んだ。彼女にはふさわしくなく、憎悪と、怒りのないまぜになった声だった。
「自由にはさせないか」いかにも困ったといいたげに、その男は首を振った。
「やはりその娘には死んでもらうべきじゃないのか。え? 桑さんよ」
「俺はあんたたちとは話をしたくない」臆病に後ずさりながらも、懸命になって桑は叫んだ。
「あんたたちは恐ろしい人だ」
――一同のうえに沈黙がおちた。どうにも溶解しようのない、激しい対立の末の沈黙だった。
「俺たちとは話したくない、か」やがて、男がかすれたような声で言った。
「結構だ。いずれにしろ、俺たちは崑崙まで来ちまってるんだ。あんたたちの意見がどうであれ、計画は推進させてもらうぜ」
「俺の意見はきかないのか」
ふいに地鳴りのような声が響いた。それまで巨大な鴉《からす》のように黙していたB・Wが、初めて口をはさんだのだ。
「……聞かせてもらおうか」男は眼を細くした。
「とっとと失せろ」B・Wの声はそれ以上もなく単調だった。
「ここはきさまたちどぶ鼠の来るようなところじゃない。その汚ない足を崑崙からはやくどけちまえ」
「傾聴《けいちよう》に価する意見というべきだな」男はしぶとい笑いを浮かべた。
「だが、残念ながらその意見に従うわけにはいかないようだ。ここは当然いやだと応じることになるんだが、そしたらどうするんだ」
「…………」B・Wのそうでなくとも感情を露《あら》わにしない顔が、凄いほどの無表情になった。
「俺にも一言いわせてもらえるかな」藤村が圧《お》さえた声で言った。
「いいとも」男は大仰《おおぎよう》に頷いて見せた。
「言えよ」
「あんたたちが誤射したこの少年だが」藤村はあらためて怒りが甦ってくるのを感じていた。
「俺の友達だった」
「それで?」
「今この場で崑崙から去っていくなら、森田さんにめんじて、生命《いのち》だけは救けてやる。だが、あくまでも崑崙国計画を進めようというなら……」
「どうしようと言うんだ?」
藤村、B・W、そして三人の特務機関員たちは、わずかずつにだが身体を移動させていた。彼らが戦うべき運命に導かれているのは、もう誰の眼にも明らかだった。――だが、いかにB・Wが優れた殺し屋であっても、またいかに藤村のうちで沸している憤りが激しいものであっても、無手で三挺のライフルに勝てるはずはなかった。
「三対二か」男は嘲るように言った。
「武器もなしでどう戦おうというんだ?」
「三対三だよ」森田の落ち着いた声がきこえてきた。
「まったく武器がないというわけでもない」
「…………」
三人の特務機関員たちは愕然としたようだ。森田の手にある軍用モーゼルを見ても、事態の急転をよく理解できないでいるらしかった。――森田が敵になりうるという可能性をまったく考えていなかったことが、特務機関員たちの立地を著しく不利にしていた。たとえ彼らが同時にライフルを回したとしても、誰も一発も撃たないうちに、森田は難なく三人をしとめることができるだろう。
「裏切るつもりか……」リーダー格の男が呻くように言った。
「きさま気でも狂ったのか」
「老いぼれたんだろうね」森田はことさらのように、ため息をついて見せた。
「耄碌《もうろく》したのかもしれないな」
「…………」
「こうしたらどうかね」絶句する特務機関員たちをしりめに、森田はいつもの穏やかな声で李玉娥に話しかけた。
「我々はいまこちらの三人と勝負を決する。――どちらが勝つかによって、崑崙の将来を決めたらどうだろう? 我々が勝てば崑崙はこのままにしておく。彼らが勝てば……まあ、あきらめるしかないだろうね」
「…………」李玉娥はこわばったような表情で頷いた。
ライフルを地に捨て、ただ立ちすくんでいるばかりだった三人の特務機関員の表情《かお》に、再び生気が甦ったようだ。
「それではルールを決めようか」森田は朗らかな声で言った。
「藤村くんのコルトは私が持っているが、あいにくB・Wくんの武器がない。そこで、そのライフルのうちひとつはこちらがいただくことにするよ。どうせきみたち三人は拳銃を持っているんだろう? ライフルがひとつぐらい減っても、別に不公平にもならんだろう。
この草原じゃお互い勝負にならんから、山のなかでやりあうことにしようじゃないか。我々三人はすぐに山に向かうから、こちらの姿が見えなくなったら、きみたちは残ったライフルを拾いあげるんだ。間違っても、私たちを後ろから撃とうなどという気は起こさないほうがいい。私はこう見えても、夜眼がきく質《たち》だからね。
勝負は……そうだな。三十分後に開始ということにしようじゃないか」
――銃声がきこえた。幾度も繰り返しきこえた。
B・Wは岩のかげに身をひそめたまま動こうとはしなかった。自身も巌《いわお》と化したように、不動の姿勢を保っていた。この情況では、少しでも動けば格好の的となることが分っていたからだ。
B・Wは情況判断を誤ったと言えた。こういう場合、敵の神経を消耗させるために、B・Wは絶えず移動をつづけることを常としていた。確かに、上海の裏通りでの殺しあいには、その戦法は優れて有効だったろう。だが、ここは森林であり、しかも敵は野外での戦闘訓練を重ねてきた特務機関員なのである。――いつの間にか、B・Wはろくな遮蔽物《しやへいぶつ》もない、戦うにはその上もなく不利な場所へと追い込まれている自分に気がついたのだった。
森林がそこだけとぎれていた。厚い苔《こけ》に覆われた地表が、戦う者の眼にはひどく無慈悲に映った。――実際、その地表に躯をさらした者は、猟犬に追われた鴨《かも》よりもたやすく、しとめられてしまうことだろう。
だから、B・Wは岩のかげから動けなかった。動けなかったが、しかしそこで動かないでいることは、そのまま死を意味していた。――敵はふたりいるのである。ひとりがそうしてB・Wを釘づけにする一方で、もうひとりが背後にまわろうとしているのは明らかだった。
B・Wにとって、まさに進退きわまったと形容すべき情況だったのである。
――だが、B・Wはさほどに自分を追いつめられたとは考えていなかった。彼はかつて、これより数倍も絶望的な情況に幾度も追いつめられ、そしてその度ごとにくぐりぬけてきたのである。冷静さを失いさえしなければ、どんな場合にも生き残る余地があるという自信があったのだ。
B・Wはむしろついさっきつづけざまにきこえてきた銃声のことが気にかかっていた。――ライフルの銃声だったのだ。森田か、藤村がしとめられたのではないだろうか。
微《かす》かな音がきこえてきた。B・Wの全細胞はその微かな音に激しくうち震えた。――明らかにもうひとりの敵が、背後の森林にまわりこむことに成功したのである。
B・Wは早急に策をたてる必要があった。さもないと、前後を敵にはさまれて、ろくにあらがう手段《すべ》もなく死んでいくという、殺し屋にとってはひどく不名誉なことになるだろう。
B・Wは岩を背にした。岩から躯を露出しないためには、腰をおろしたまま、ライフルの銃底を膝にはさむという不自然な姿勢をとらざるをえなかった。B・Wはその姿勢を固持したまま、敵の影が森林に見えるのを待った。
B・Wは不可解な微笑を、その表情《かお》に浮かべていた。彼はライフルを膝で支えたまま、左手だけである作業を行なっていた。――地にひろげたハンカチのうえに、ライフルの弾丸《たま》の火薬をおとしているのだ。
苔がB・Wにとって唯一の味方だった。その苔は、例の化け物蛸が煙幕に使用した苔と同じ種類であるように思えたのだ。地表を覆う苔が引火すれば、B・Wの戦況を有利に運ぶべく煙幕をはってくれるかもしれないのである。むろん、なまなかな方法では夜露をたっぷり含んだ苔に引火させることはできないだろう。――ハンカチのうえにおとした火薬は、引火を容易にするためのものだったのだ。
なにもかもが忌々《いまいま》しい月のせいだった。月光がこれほど明かるくなければ、苔の救けをかりるというぶざまな手段に頼らなくとも、ほかにとるべき方法は幾つもあるはずだった。
間断なくきこえてくる梟《ふくろう》の鳴き声が、いやがうえにもB・Wの緊張をたかめていた。
B・Wの眼前に展《ひら》けている森は、一本一本の木立ちはもちろん、その枝にいたるまでがくっきりと見えていた。くっきりとは見えていたが、むろんのこと木影に身をひそめている人物まで見きわめるのは不可能だった。それに比して、苔むす荒地を背景にしているB・Wのほうは、どう逃れようもないほどの鮮やかな姿影をきざんでいるはずだった。
B・Wの自信がどうであれ、客観的な情況はすべて彼の敗北を示していた。
だが、B・Wは待ちつづけていた。B・Wでなければ、とても耐えられないような酷《ひど》い時間をただ待ちつづけていた。
B・Wの眉がわずかにあがった。視界を覆っている森林に、なにか蠢《うごめ》くものの気配を感じたのだ。森に棲《す》む小動物かもしれない。だが、そうでないかもしれなかった。
B・Wの左手の動きがはやくなった。手頃な小石を拾い、火薬をまぶしたハンカチでくるみ、ちょうどおひねりのようなものをつくる。そして、懐からライターをとりだし、その火をハンカチにちかづけた。
小枝の折れるような音がかすかにきこえてきた。
その音をとらえるのとほとんど同時に、B・Wの攻撃が始まった。火をつけたハンカチを背中越しになげると、つづく動作でライフルの|引き金《トリツガー》をしぼった。相手を倒すためにではなく、誘いだすために放たれた一弾だった。
敵はB・Wの誘いにのった。それを誘いと知りながら、しかし充分な自信をもって木立ちの影から姿を現わした。だが、そいつのライフルが灼《や》けた弾丸を吐きだしたとき、すでにB・Wの躯は後転して、岩の反対側にまわっていた。
その男の眼が大きく見開かれた。B・Wの行動は恐ろしく意表をつくものだった。反対側に味方がいることが、その男を過剰な自信に陥らせていた。いやしくも紅幇《ホンパン》NO・1の殺し屋ともあろう男が、平然と背中を敵にさらそうなどとは思いもよらなかったのだ。眼を大きく見開いたまま、その男は頭を砕かれて死んでいた。
B・Wは槓杆《ボルト》をひきながら、なかば転がるようにして苔地を移動していた。彼の作戦もまた完璧に成功したとは言い難かった。炎をあげているハンカチは、しかしいっかな苔を燃やそうとはしなかった。煙幕など望むべくもなかったのだ。
前面の敵は弾丸をつづけざまに放っていた。大世界《ダスセ》の射的場でも、いまのB・Wほどの格好の的をみつけるのはむずかしかったろう。距離といい、的の大きさといい、苔地にとびだしたときから、B・Wは幽界に籍を移したも同様だった。
三発めの弾丸が、B・Wを貫き、その躯を地にたたきつけた。――撃たれるとはこれほどに痛いものなのか……B・Wはその激痛に、子供のように戸惑っていた。B・Wはかつて一度も撃たれたことがなかったのだ。
――地に伏しているB・Wの耳に、苔を踏む湿った靴音がきこえてきた。B・Wはその靴音から、敵との間合いを測ろうと懸命に耳をとぎすましていた。
B・Wほどの戦士が、苔に引火しなかった場合のことを考えていないわけがなかった。――そのときには、敵のライフルが放つ弾丸がマグナム弾であることが、彼に有利に働いてくれるはずだった。マグナム弾は強力にすぎて、多くはあたった者の躯を貫通してしまうのだ。頭を砕かれでもしないかぎり、貫通した弾丸は、人を即死にいたらしめることは少ないと言えた。
B・Wの戦いは未だ終っていないのである。
B・Wの赤く濁った視界のなかに、靴が大きく映った。靴はB・Wの頭を蹴りつけようとしていた。
B・Wの全細胞が賦活《ふかつ》された。つづくB・Wの動きは、彼にとってほとんど本能とまで化しているものだった。――B・Wの躯は発条《ばね》じかけのように地から跳《は》ねあがっていた。
そいつにとっては、死者が動きだしたほどの衝撃だったろう。今の今まで力なく地に伏していた男が、まるで体重を持たないかのように、フワリと背後に回りこみ、その腕《かいな》を首にまきつけてきたのである。
――男の手からライフルがおちた。男はその十本の指に総《すべ》ての力をこめ、首にまきつかれた腕をひきはがそうとした。だが、死者同然であるはずのB・Wの締めは、熊罠《くまわな》のような圧倒的な力を有していた。
男の表情《かお》が蒼白になった。その眼球が充血し、ふくらんだ舌が咽喉《のど》をふさいだ。男の恐怖に満ちた視界には蒼く光るのみが映じていた。
――脊椎《せきつい》を切断すると、B・Wはゆっくりと男から躯を離した。男はぎくしゃくと膝を折ると、顔を地につけた。
B・Wはヨロヨロと後ずさった。後ずさって、そのまま躯を支えきれずに、地にあおむけに倒れた。
B・Wの懐から本がおちた。血に汚れた英会話読本だった。
B・Wの英会話読本を見る眸《め》に奇妙な感情が浮かんでいた。苦笑と、諧謔《かいぎやく》のいりまじった、殺し屋にはふさわしからぬ感情だった。
B・Wは死んだ。
――藤村は激しい尿意《にようい》を覚えていた。
興奮と恐怖からくる尿意ではなく、極度の緊張からくる尿意であることは分っていた。欲望の解放は、同時に精神の弛緩《しかん》を招き、とりかえしのつかぬ事態をもたらすだろう。
密生する松や白樺《しらかば》の巨木で、藤村の視界は著しくそがれていた。この森のなかでは月の光もなにほどの力ももたないようだ。巨木の枝が折れる擦過音が、わずかに人の存在を暗示していた。
藤村は猫のように躯を丸め、一歩一歩に全神経を注いで進んでいた。前方十メートルほどを歩いていく男に、自分の存在を知られることを避けたかったからだ。――実際、この暗さでは、その男が敵か味方か見分けるすべもなかったのだが、用心するに越したことはなかった。
時に、男の姿が闇に呑まれて見えなくなることもあった。すると、藤村は躯を凝固させて、再び男の姿が見えるようになるのを待つのだ。――そんな奇妙な追跡が、もう二十分ちかくもつづいていた。
藤村はあせりを感じ始めていた。前方の男が特務機関員のひとりであるなら、藤村は絶好の機会《チヤンス》をみすみす見逃がしているということになる。その男の背中に一発を撃ちこめば、それで敵のひとりがかたづくのだ。――藤村は幾度も声をかけて、その男の顔を確かめたいという誘惑にかられた。だが、その男が特務機関員のひとりであるなら、声をかけることはそのまま藤村の有利を反故《ほご》にすることを意味している。
藤村が声をかけるのを躊躇《ためら》うのは当然だと言えたろう。
――沈黙の追跡劇はつづいている。
ふいに前方が明かるくなった。森林がとぎれて、そこに小さな苔地が見えた。その男は苔地に足を踏みだすのを躊躇《ちゆうちよ》しているようだった。わずかの時間でも、躯をむきだしにするのを嫌っているのだろう。
藤村はコルトを構え直した。ながい容赦なく神経をさいなむ時間を耐えて、いまようやくその男の正体が分るのだ。
その男は苔地に足を踏みだした。
その男は、――森田だった。藤村のうちにいっぱいにはらんでいた緊張が、急速に溶解していった。藤村は腰をのばして、森田に声をかけようとした。
そのとき――
藤村の右斜めほんの五メートルほどの赤松の陰から、ライフルの銃身がつきだされるのが見えた。そのライフルの銃口は明らかに森田の背中を狙っていた。
藤村はつるべ射ちにコルトの|引き金《トリツガー》をしぼった。
ほとんど踊るような足どりで、特務機関員のひとりが木陰からとびだした。その男はすでに手からライフルを離していた。男は腰に両手をあて、なにごとか喚《わめ》きたてながら、苔地までよろめきでた。そして、倒れた。
「藤村くんか」
銃声と同時に、地に身をなげた森田が、ゆっくりと立ちあがった。
「ああ……」
藤村もまた身を起こした。
「戦いは終ったよ」森田の声は疲れきっていた。
「とにもかくにも、こちらが勝ったということらしい……」
藤村は苔地に足を進めた。そして、森田が力なく見おろしているものを、自分の眼で確かめることになった。
B・Wと、三人の特務機関員が死んでいた。いや、特務機関員のひとり、いま藤村が撃った男には、まだ微かに息があるようだった。
「……これで済んだと思うな」その男は呪詛《じゆそ》に似た笑いをあげた。
「俺たちの後から日本軍がやってくることになっているんだ。軍隊が、な……」
凍りついたように立ちすくみながら、藤村は男の次の言葉を待っていた。だが、男はもう何を言おうともしなかった。男はすでに息絶えていた。
「倉田、天竜《テイエンルン》、B・W……」森田の声にははっきりと老いが刻みつけられていた。
「まるで私は疫病神《えきびようがみ》のようじゃないか。私に会わなかったら、彼らも死なずにすんだろうに……」
「それは違う」藤村は首を振った。
「彼らはそれぞれ自分のために死んでいったんだ。誰に強制されたわけでもない。それぞれ生命《いのち》より大切なものがあったから、それで死んでいったんだ」
「本当にそう思うかね」森田は顔をあげた。
「そうに決まっているじゃないか」
「…………」
森田は口を閉ざした。B・Wを見おろしているその眸《め》に、しだいに力強い光が宿り始めていた。
「我々も彼らのように死ねるかどうか」森田は独り言のように呟いた。
「日本軍を相手に試してみるのも悪くないかもしれんな」
第十五章 総力戦
――崑崙《コンロン》はひとつの知性だった。生殖をしないということを考慮の外におけば、はっきりとひとつの生命と言えるかもしれない。無限の寿命を約束されたものに、はたして生殖の必要があるかどうかは、また別の問題となるだろう。
確かに、アミノ酸から成る生物を常識としている我々から見れば、崑崙を生命とは考え難いかもしれない。だが、通常の生物とは大きく異なる進化をたどり、永遠にちかいときを生きながらえてきた崑崙から見れば、むしろ人類《われわれ》を含む総《すべ》ての生物こそ生命の傍系と考えるはずだった。――とりわけ人類のような不完全な生物を、ひとつの生命とうけとるのはそれに対する冒涜《ぼうとく》にさえ思えたろう。
崑崙の断面図を見る者があれば、彼はごく自然に脳の血管図を連想するはずだった。むろん、地中を血管が走っているわけはない。夥《おびただ》しい数の細い水脈が、重層的に地中を走っているのだ。それら水脈は複雑にむすびつきながら、崑崙全体にひろがっているのである。地中深くで、水脈の一部ははるかゴビをわたって、|さまよえる湖《ロプ・ノール》の不思議をつくり、そして黄河にまでつづいていた。――崑崙を制する者は黄河を制する。黄河を制する者は中国を制する……その伝説は、決して単なる虚構ではなかったのだ。
その一大水脈層にどうして知性が宿ることになったのかは、人知の及ぶところではない。ただそれら水脈が、生物における神経単位《ニユーロン》の働きをしていることはまず間違いなかったろう。そして、そのなかを流れる水が、神経興奮、抑制をつかさどる神経単位《ニユーロン》の電気的変化に相当するのかもしれないのだ。
現代人たる我々は流体素子≠ニいう言葉を知っている。――流体を使って、弁を開閉したり、流れの方向を切り替えたりする技術に冠せられた言葉である。人工心臓の弁制御、工場の液体流量の調節、さらには液体ロケットの燃料弁などに、我々はこの流体素子の成果を見ることができる。
崑崙の水脈知性を考えるとき、この流体素子の成果を思いだすことはかなりに有効であろう。あくまでも理論のうえでだけのことだが、流体素子の分野で流水コンピューター≠フ可能性が熱心に論じられたことがある。流体素子の技術を用いれば、ほかからのエネルギーをいっさい必要としない、純粋に水の流れだけからなるコンピューターを想起することもあながち夢物語とは言えないのである。むろん、情報伝達速度は通常のコンピューターとは比較にならないほど遅いが、それでも機械的な弁や電磁的なリレーを用いるよりははやいはずなのだ。
――もちろん、崑崙の水脈知性がたんなる自然発生的な流水コンピューターだというのではない。たんなる流水コンピューターに、崑崙が有するような「自我」を持てるはずがないからである。かろうじて可能なのは崑崙の水脈知性と流水コンピューターとの間にいくばくかの類似を認めることだけであろう。
だが、うがって考えれば、崑崙の水脈知性が非常にながい期間の眠り≠必要とするのも、流水コンピューターに本質的に備わっている情報伝達速度の遅さになにか原因があるかもしれないのである。
――崑崙の水脈知性は非常にながい期間を眠って過ごす。眠っている期間、水脈知性はたんなる地下水脈層と化し――そして、ありうべからざることだが、崑崙そのものも消滅してしまうのだ。多くの怪獣たちは死に絶え、竹の大群生は枯れはて、なんら他の土地と違いない場所にと変わってしまうのである。崑崙とは、水脈知性の眼醒めているときの夢にすぎないのかもしれなかった。
従来の認識論を一変させてしまうようなこの事実は、しかし人知をもってしてはその本質を解明することはできないだろう。もしかしたら、崑崙の水脈知性はこの地球に唯一具現した神≠ナあるかもしれないのである。
――あくまでも流水コンピューターに固執するなら、相柳一族のいういわゆる魔≠ヘ、コンピューターの情報のひずみに該当すると言えたろう。崑崙の水脈知性に代々つかえている相柳一族は、魔≠祓《はら》うことで、情報のひずみを矯正する役をはたしているわけだ。崑崙の水脈知性が眠りにつくと、一族が流離の旅に出るのは、ある意味では聖地巡礼の繰り返しであると言えた。
――水脈知性はいま眠りにつこうとしていた。
だが、かれの眠りは著しくさまたげられていた。そうとうの数の人間が、今かれに近づきつつあるのだ。それも、かれにとって好ましい人間たちとは言いかねるようだ。
侵入者ほど神≠フ逆鱗《げきりん》をさかなでにするものはいない。禁域に土足で入ろうとする者は、それなりの罰をうけて当然なのである。荒ぶれる神の恐怖を人間のうちに甦らせるのも、またかれにとって重要な仕事のひとつなのだった。
――崑崙の水脈知性はおもむろにその眼を開いた。
――戦闘がつづいている。
特殊任務をつかさどり、謀略を得意とする特務機関員たちからなる六十人ほどの日本軍が、しゃにむに崑崙への突入をはかろうとしたのである。が、――彼らにしても、これほど奇妙な戦闘は予想もしていなかったに違いない。
竹の大群生が唸り、剣歯虎《サーベル・タイガー》が跳躍する。その度ごとに、彼らの人員は著しく減少するのである。――しかし、彼らはひとりひとりが優秀な特務機関員であり、特務機関員にふさわしく現実主義者《リアリスト》ぞろいだった。一度はあまりに奇怪な敵の陣営に呆然とした彼らも、次には猛然たる反撃にうってでたのだった。
竹の群生に火がかけられた。
炎がたかく燃えあがり、崑崙の空に黒煙がひろがった。
――つるべ撃ちの銃声が炎のなかに響きわたった。矢を射かけることで、侵略部隊の前進をくいとめようとした相柳一族の若者たちが、次々に殺されていく。
剣歯虎の咆哮《ほうこう》がきこえてくる。剣歯虎の数はおよそ二十匹、その凄《すさま》じいほどの破壊力と、神出鬼没な行動とに、侵略部隊はさんざんに翻弄《ほんろう》されているようだ。
「機関銃だ」侵略部隊のひとりが叫んだ。
「機関銃を使え」
遠雷の響きに似ていた。地表を削《そ》ぎ、竹を折る機関銃弾に、さしもの剣歯虎も数頭がしとめられたようだ。
機関銃を使えと叫んだ男は、とつぜんに襲ってきた激しい衝撃に、地にたたきつけられていた。彼の額には赤く穴が開いていた。
――森田はライフルの槓杆《ボルト》をひき、次の標的をさがして走りだした。
豆を焦《い》るような音が、特務機関員たちの耳を圧している。数百本もの矢が一斉に射かけられてくるのだ。むろん特務機関員たちは知るよしもなかったが、彼らの敵の半数以上は女たちで占められていた。
侵略部隊のなかでも、とりわけ射撃に優れた者が幾人か、獲物を求めて走りだした。彼らの放つ銃弾は、まったく正確に相柳一族の犠牲者をふやしていく。
とつぜん侵略部隊の占位する地が、たかく盛りあがった。
「おお……」
巨大な蛇に似て、彼らに襲いかかってくる蛸の足に、男たちの幾人かが悲鳴をあげた。
手榴弾が幾条もの黒い放物線をえがいた。
――侵略者の軍勢は、地上のみにはとどまらなかった。
どこでどう燃料を補給し、経由地をどう算段したのか、五機の「陸軍九一式戦闘機」が崑崙にむかって飛んでくるのだ。「九一式戦闘機」は単葉戦闘機として、日本陸海軍にひろく採用され始められている型で、その優れた運動性はそれまでの甲式型機をはるかに凌駕《りようが》していた。
実際、四百五十馬力、最高時速三百キロ、航続時間二時間、そして七・七ミリ機関銃を二挺|搭載《とうさい》している「九一式戦闘機」は、日本軍が初めて有することのできた実用的な戦闘機と言えた。
それら戦闘機が、山頂にひろがる草原への着陸をめざしていることは明らかだった。彼らは一気に崑崙の心臓部への侵入をはかろうとしているのだ。
その戦闘機を迎撃するかのように、夥しい数の蜂が崑崙からとびたった。むろん、ただの蜂ではない。きのこを抱えた巨大な蜂たちである。
奇怪な空中戦がくりひろげられることになった。
蜂たちが戦闘機の一機とすれちがった。轟然《ごうぜん》たる爆破音とともに、その戦闘機は空中に四散した。蜂のおとしたきのこが、みごとに「九一式戦闘機」に命中したのである。
残りの機のうち一機は賢明にも急上昇を開始した。「九一式戦闘機」の上昇力は三千メートルまで四分、いかにその蜂たちが怪物めいた存在であろうと、あとを追って上昇できるわけはなかった。が――三機の「九一式戦闘機」は、激しく機関銃をうち鳴らしながら、蜂の群れのなかに突っこんでいったのだった。
――藤村は流星号を駆って、相柳一族の連絡係をつとめていた。
侵入部隊がほとんど殲滅《せんめつ》しかかっていたとき、
「西の方に行ってくれ」
桑《そう》が藤村に叫んだ。数人の男たちが西の方から侵入しようとしているというのだ。
返事もしないで、藤村は流星号の腹に蹴りを入れた。西の森林地帯は護りがごく手薄になっていた。しかも森田がその護りに加わっていることが、いやおうなしに藤村をあせらせているようだ。森田までをも死なせてしまうことは、なにか藤村にとってそれ以上もなく耐え難いことであるような気がした。
炎の燃えさかる音と、銃声の響きが、サラブレッドの神経を過敏にしていた。人を乗せて走るどころか、怯えから恐慌状態に陥らないようにするだけでも、流星号にとっては非常な努力のはずだった。が――流星号は藤村の命ずるままに、炎のなかをつっきるような行動までとっている。流星号は流星号なりに崑崙の危機を感じとっているのかもしれなかった。
――西からの侵入者たちはことごとく地に伏していた。侵入者たちは五人を数えた。その全員が額を射ぬかれ絶命しているのである。
むろん、死んでいるのは特務機関員たちだけではなかった。それに倍する相柳一族の男女が倒れていた。
惨澹《さんたん》たる有様になっていた。かなり多くの手榴弾が使われたらしく、数本の樹木が根こそぎになって倒れ、巨大な岩石がひとつまったく消えてしまっていた。
流星号からおりた藤村は、懸命になって森田の姿をさがした。だが、森田の姿はどこにも見えなかった。――ふたつの場合が考えられた。手榴弾のためにふっとんでしまったのか、そうでなければ侵入軍があらかた全滅したと判断して、森田自ら姿を消したのか。
藤村は、森田が自分の意志で姿を消したと考えたかった。それはいかにもあの謎めいた男がとるにふさわしい行動だった。特務機関員を崑崙に導いてしまった責任をとり、森田は最も困難な路《みち》を選んだのではなかったか。
「…………」
藤村はしばらく森のなかで呆然と立ちつくしていた。激しかった戦闘と、それにもまして森田の失踪《しつそう》が、藤村をいたく疲れさせているようだった。
――森田の失踪?……藤村は苦笑した。森田が自ら姿を消した、と考えるのはあまりに楽天的すぎるかもしれない。この森の様子を見れば、森田が手榴弾にやられた可能性のほうがたかいのは明らかだったからだ。だが、苦笑を浮かべながらなお、藤村は森田の死をまったく想像できずにいた。
およそ森田は死とは縁遠い男のように思えたのだ。
「森田さんよ……」そして、呟いた。
「俺はあんたの本名さえ知らないでいるんだぜ」
ふいに爆音が藤村の耳を圧した。
反射的に顔をあげた藤村の視界を、「九一式戦闘機」が過《よぎ》っていった。急上昇することで、蜂の襲撃から逃がれたただ一機の「九一式戦闘機」だった。
藤村は流星号に向かって走りだした。その戦闘機が相柳の村を発見するのは時間の問題だろう。そして、パイロットが相柳の村を発見すれば、復讐のためにも必ずや機銃掃射をしかけないではいられないはずだった。そうなれば、相柳の村に残っている女子供、とりわけ子供たちの多くが死ぬことになる。
藤村にとって、その「九一式戦闘機」と戦うことは、自分に課せられたひとつの義務であるようにさえ思えたのである。
周囲を山壁にとりかこまれて、草原が静かに横たわっている。この地だけはそれまで崑崙の銃火と隔絶されていたのだが、――いま滑空している一機の戦闘機が、唯一残された平和な地にさえも、機銃弾をばらまこうとしていた。
藤村は草原に流星号を走らせていた。戦闘機パイロットの眼を自分にひきつけて、なんとかして相柳の村を救おうと考えたのだ。
「九一式戦闘機」が非常に低く高度をさげた。のしかかってくるような戦闘機の黒い影に、藤村は流星号の手綱を強くひいた。間一髪の差で、藤村と流星号は戦闘機が速射する七・七ミリ機銃弾に、地にぬいつけられずに済んだのだ。
頭上を過《よぎ》る戦闘機の轟音《ごうおん》が藤村たちを圧倒した。流星号が怯えからではなく、怒りからたかくいなないた。
「落ち着くんだ」藤村は流星号に囁いた。
「残っているのは俺たちだけだ。俺たちがやられるようなことは絶対にないさ」
「九一式戦闘機」が空で大きく旋回した。黒い礫《つぶて》のように、藤村たちをめがけてつっこんでくる。パイロットの表情《かお》が見えるほどの低空である。
藤村は再び流星号を駆った。逃げるのではなく、真正面に走っていくことで、戦闘機の機銃照準をいくらかでも狂わすことができるはずだった。
七・七ミリ機関銃が火を吐いた。
機銃弾は一直線に地を走った。藤村たちのすぐ傍ら、ほんの三十センチとは離れていない地に、黒く弾痕が並んで残った。
たまらず流星号は横ざまに転倒した。藤村は鞍《くら》からなげだされ、地を転がった。――戦闘機はほとんど地を這うようにして、藤村たちの頭上を通過した。そのプロペラ音が凄《すさま》じく藤村の耳をうった。
「大丈夫か」藤村は流星号に駆け寄った。
流星号は首を振り、四肢をたてた。かすかに足がふらついた。が、その充血した眸《め》は、まだ走れるという意志を表示して、闘志をいっぱいにみなぎらせていた。
藤村は再び流星号に跨《またが》った。藤村の左肩から血が噴きだしていた。地になげだされた拍子に、肉を削《そ》がれたのだ。
「九一式戦闘機」がみたび空を旋回した。その黒い体姿は猛禽《もうきん》を連想させた。今度こそ藤村たちをいとめてやろうという悪意が、その飛行にははっきりと示されていた。
――救《たす》からない、と藤村は直感した。肩の傷が藤村の戦意を著しく損ねていた。それまでの戦闘機の常識からは考えられないほどの、「九一式戦闘機」の優れた運動性が、藤村たちの動きを大きく阻害していた。――実際、藤村でなくとも、絶望から戦いを放棄して当然だったろう。
だが藤村はなお流星号の腹に蹴りをいれた。最初から戦闘機と互角に戦えるはずがないことは充分に承知していたのだ。戦闘機パイロットの眼をひきつけて、少しでも相柳の村の連中が逃げる時間を与えることができれば、それで満足すべきではないだろうか。――満足すべきだ、と藤村は思った。
――崑崙の水脈知性の視界のなかに一機の戦闘機が映っていた。獅子《しし》を怒らせる蠅《はえ》の存在に似て、その戦闘機はいたく水脈知性の機嫌を損じていた。崑崙のうえをうるさく飛びまわるなど、不遜《ふそん》の極みと言うべきだった。崑崙の水脈知性ははっきりとその戦闘機を怒りの対象としてとらえていた。
藤村の眼を戦闘機の鼻容が大きく占めていた。ほんの数瞬の後には、そこから吐きだされる弾丸が藤村の身肉をひきちぎっているはずだった。――事実、藤村はほとんど七・七ミリ機関銃の銃火を眼に見、その銃声を耳にきいていた。
いわば今の藤村は馬を走らせながら、幽界に向かっているも同然だったのである。
が――
ふいに「九一式戦闘機」が藤村の視界から消え失せたのだ。いや、消え失せたと表現しては、言葉が正確ではないだろう。戦闘機はたかく上昇したのである。
「う……」藤村は自分の眼が信じられなかった。
「九一式戦闘機」を覆うに足るほどの太い水柱が地表から噴出しているのだ。凄じい噴出力と言わねばならなかった。その水柱は戦闘機をまきこみ、ほとんど垂直にはねあげたのだから。
その水圧がどれほどの威力を持つのか、想像を絶するものがあった。「九一式戦闘機」はたかく空を登り、そして――当然のことながら空中分解をするにいたった。
ほんの一瞬の出来事だった。
藤村が慌てて流星号の手綱をひいたときには、もう水柱は地表から消えていた。水柱のなごりが、とつぜんの霧雨となって、地にふりそそいでいた。
藤村はその雨を全身にうけながら、ただ呆然としていた。
「あれが神か……」藤村は呟いた。
「あれが崑崙の神なのか」
――藤村のまえに現われた神≠ヘ、その手の軽いひと振りで「九一式戦闘機」を微塵《みじん》に砕くと、再びながい沈黙へと帰っていったようだ。その威力に呆然とした男をひとり残したままで。
「…………」藤村は顔をあげた。
空桑《くうそう》の琴瑟《きんしつ》の音《ね》がきこえていた。どうやら戦いの終りを告げるものらしく、その調べにはいつになく明かるい響きが含まれているようだった。崑崙に再び平和が戻ってきたのである。
藤村は流星号からおりて、その音色に耳を傾けた。空桑の琴瑟そのものよりも、むしろその奏者のほうに藤村はより魅了されていた。李玉娥――藤村がかつて愛し、そして殺した女の妹……実に奇妙な話だが、藤村は李玉娥から再び生きようとする意志を与えられていたようだ。いや、多分、李玉娥と崑崙の両方が藤村に蘇《よみがえ》りを授けてくれたのだろう。
むろん、晴天のように一点の曇りもない蘇りであるはずはなかった。むしろ、その上もなく苦い感慨のこめられた、ふかい徒労感を伴う蘇りであった。――だが、人生とはいずれにしろ徒労感を伴うものではないだろうか。
愛する女を殺したという過去は、それがどんな事情を含んでいるにせよ、贖罪《しよくざい》がかなうべき事がらではないだろう。だからこそ、なおいっそう藤村には生きつづけていく必要があるのではないだろうか。それが苦ければ苦いほど、暗ければ暗いほど、より藤村の生には意味があるとも言えるだろう。
「…………」
藤村の眼にはこの一年間になかったほどの静かな光があふれていた。いまようやく李夢蘭を殺したという事実を、総《すべ》て自分の責任として藤村はうけとめることができるようになったのだ。
琴瑟の調べはなおもつづいていた。
――李玉娥に会いたい、という思いが強く藤村の胸を締めつけた。だが、藤村は流星号の手綱をひいて、相柳の村と反対の方角にゆっくりと歩きだした。
崑崙を去るべきときがきたのだ。崑崙を離れれば、再び修羅《しゆら》の生が藤村を待っているはずだった。が、修羅の生こそ、藤村が選ぶべき生なのである。藤村が崑崙の地にとどまれば、また新たな災厄をもたらす結果になるのはあまりに明白だった。
――森田もそう考えたから、誰にも別離《わかれ》を告げずに崑崙を去ったのではないか。……藤村はふとそう思った。あの男がむざむざ手榴弾などに殺《や》られるはずがないではないか。
「また会えるような気がするな」流星号を伴いながら、藤村はその表情《かお》に微笑を浮かべていた。
「どこかで会えそうな気がするな」
崑崙の空にようやく黄昏がちかづき始めていた。
――再び甦った静寂《しじま》に、崑崙《コンロン》の水脈知性はその緊張を解放しきっていた。ながい眠りにつくときが訪《おとの》うてきたのだ。これからのながい時間を、崑崙の水脈知性はたんなる無機物として過ごすのである。
「眠り」はまた神≠ノとってもそれ以上もなく心安らぐ贈り物なのだった。
崑崙の水脈知性は満足していた。充分に満足して、その眼を閉じた……
終 章
中国史上でいういわゆる長征は一九三四年十月に開始された。五十万からなる蒋介石《しようかいせき》の軍隊から攻撃をうけ、紅軍主力は江西省を撤退し、実に一万二千五百キロにも及ぶ移動をなしとげたのである。長征に加わった数が八万人ということからも、これがいかに大事業であったかが分るだろう。
この長征に関連して、崑崙《コンロン》の存在を証するような記録が残っている。むろん、中国共産党の公式文書からはまったく黙殺されている記録なのだが……
――彼らの数は三十人ほどだった。彼らは本隊たる第四方面軍とはぐれ、星々峡にいたる砂漠をさまよっていた。すでに彼らの敵は蒋介石でも日本軍でもなくなっていた。執拗に波状攻撃をしかけてくる回族軍が、彼らの数をひとりひとり削《そ》いでいたのである。
回族軍一族はイスラム教を信じるアラブ人やペルシア人の血をひく少数民族であった。その頭《かしら》に「五馬」と呼ばれる馬姓の一族をおいて、彼ら回族軍は主に寧夏《ねいか》、甘粛《かんしゆく》、青海省《せいかいしよう》を支配していたのだ。回族軍一族が紅軍を著しく憎悪し、かつ騎馬戦に優れていたことは、なんといっても本隊からはぐれた紅軍兵士たちには不運だったと言わねばならないだろう。――長征に疲れきり、しかもなお苛酷な荒野を進まねばならない彼ら三十人の男たちが、回族軍に抗しうるはずもなかったからである。
――いままた男たちのまえに、回族軍の騎馬兵たちが現われた。騎馬兵たちは砂丘に馬を並べて、紅軍兵たちに襲いかかろうとしていた。
灼《や》けた地のうえを強い風が吹き過ぎていった。
戦闘のまえの緊張感が重く、とりわけ紅軍兵たちには絶望感に似た重さでのしかかっていた。回族軍騎兵たちは優に紅軍兵に倍する数だった。心身を消耗しきった今の紅軍兵たちがこの場を逃がれるには、奇跡を期待しなければならないようだった。
その奇跡が起こったのである。
――紅軍兵たちの間に程《てい》某という若者が混じっていた。以下はその程某が後になって語った話である。
ふいに水が地表から湧きだしたのさ。まるで津波だったね。あっという間に、回族軍の奴らふっとんじまった……
もちろん俺たちも無事じゃすまなかった。俺なんかも腹が減ってるし、疲れてるしで、水にうたれて気絶しちまったよ。
どのぐらい気を失っていたのか……
気がついたら夜になっていた。星がきれいでね。俺は寝たまま、空を見あげていたんだ。
すると、音楽がきこえてきた。本当の話だぜ。砂漠のなかで音楽がきこえてきたんだ。澄んだ、なにか悲しくなってくるような音色でね。夢でも見ているような気持ちだったよ。
誰かが俺の周囲《まわり》で動いているような気配がした。ひとりやふたりの気配じゃない。かなり多勢の人間が、あちこち動きまわって、どうやら俺の仲間たちの手当てをしているようだった。
なんとも不思議な気持ちだったな。意識ははっきりしているが、躯の自由がきかないんだ。眼だって開けてるのにさ。ほら、よく眠りに入りぎわにそんなことがあるじゃないか。
俺の手当てをしてくれたのは若い女だった。俺はその女の顔をみたとき、思わず声をあげそうになった。李夢蘭だったんだよ。
李夢蘭って誰かって……俺が上海にいたとき、一緒に抗日組織で活動した女だよ。きれいな女でね。いつも熊《シユン》という大男を連れて歩いていたが……殺されちまったよ。日本人に殺されたという噂があったが、俺も本当のところどうだか分らない。
死んだ女が俺の手当てに現われるのはおかしいというのか? おかしいには違いないが、確かに李夢蘭の顔だったんだから仕様がないやね。紅軍兵士の俺がこんなことを言うのはおかしいんだが……上海時代の仲間だった俺を救けに、李夢蘭があの世からやって来た――俺はそう思ったよ。
全員の手当てが済んだら、李夢蘭たちはどこかへ行っちまった……
そのおかげで、俺はこうして生きていられるというわけさ。
ああ、あれは李夢蘭だったとずーっと俺は信じてきたよ。
いまも信じている。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
(角川書店編集部)
角川文庫『崑崙遊撃隊』昭和53年5月30日初版発行