山田正紀
少女と武者人形
目 次
友達はどこにいる
回 転 扉
ネコのいる風景
撃たれる男
ね じ お じ
少女と武者人形
カトマンズ・ラプソディ
遭  難
泣かない子供は
壁 の 音
ホテルでシャワーを
ラスト・オーダー
文庫版のためのあとがき
友達はどこにいる
ううむ、うなり声をあげて、柴山はソファのうえにゴロリと横になり、一、二度、体を痙攣《けいれん》させると、そのまま動かなくなった。
「どうしたんだ? バカな真似はよしなさいよ」
栗田がいった。
「あのね、ぼくだって忙しいんだから、バカな真似はよしなさいよ。あなただっていいかげん年なんだから……お芝居でしょう? そんなお芝居でぼくの気をひこうたって駄目よ。よわっちゃうよな……それとも、ほんとうに気分がわるいの? なんだったら水でも持ってこようか。ねえ、柴山さん、柴山さんたら……あっ」
柴山の体を揺すった栗田は、顔色をかえて、あとずさった。柴山の上半身がズルズルとソファからずり落ちて、床《ゆか》に頭をつけた。さかさまになった柴山の顔は白眼を剥《む》き、唇の端から泡がこぼれていた。黄いろい乱杭歯《らんぐいば》にタバコがこびりついているのがみえた。柴山は死んでいた。
栗田は柴山の死に顔をみつめ、しばらく凍《こお》りついたように立ちすくんでいた。
螢光灯がジィッーとかすかに鳴っていた。
柴山は両足をきちんとソファの肱掛《ひじか》けのうえにならべ、両手をいまにも万歳《ばんざい》しようとするかのように床にのばし、死んでいた。生きているときにも貧相な男だったが、死んだ姿も貧相だった。年寄りの死体だった。
ふいに栗田の表情が歪《ゆが》んだ。体が震えだそうとするのを抑えるかのように、両腕でギュッと肩を抱きしめた。ゆっくりと足踏みをはじめ、上半身が揺れた。
「うふふふふ……」
笑いだした。交叉《こうさ》した手で両肩をポンポンと叩き、足踏みがしだいに激しくなっていった。ほとんど踊っていた。
「死んだ、死んだ、死んだ……」
栗田は節《ふし》をつけてそう繰り返していた。死人にたいして不謹慎だとは思わなかった。栗田には柴山の死をよろこんでしかるべき、れっきとした理由があったからだ。
栗田は柴山にゆすられていたのだ。
そう、大都物産の営業部長、遣手《やりて》で知られ、将来は重役まちがいなしと目されている栗田浩が、こともあろうに浮浪者同然の老人にゆすられていたのである。郊外に建売り住宅を買い、妻にはテニスをやらせ、娘にはピアノを習わせ、犬とネコを飼い、ジョギングに汗を流す立派《ヽヽ》な市民である栗田が……
一年まえの深夜、車で家に帰る途中、栗田は若い男を轢《ひ》いてしまった。さいわい、命には別状のなさそうな怪我であったし、間《ま》のわるいことに栗田は酒を飲んでいたので、つい男をそのままにして、車を走らせてしまったのだった。要するに轢き逃げだ。
それを柴山にみられた。
もちろん栗田の記憶にはないことだが、以前、柴山は臨時の掃除夫として、二週間ばかり大都物産で働いていたとかで、栗田の顔を知っていた。栗田はついていなかった。
事故の数日後、柴山に会社の近くの喫茶店に呼びだされた栗田は、すっかり覚悟を決めていた。
「わかった、わかりました……ぼくはまわりくどい話はきらいだ。結局、あれでしょう? お金が欲しいんでしょう」
「ええ、まあ……」
柴山はいかにも小心そうな微笑を浮かべていた。もちろん、栗田は柴山を小心な男とは考えていなかった。
「いくら欲しいんですか? あんたも人をゆすろうというほどの悪党だったら、はっきり要求額を口にしたらどうなんだ」
「いや、悪党なんて、そんな……」
「断わっておくけど、ぼくは新聞で読んでちゃんと知っているんだからね。あれは全治二週間の怪我だって……怪我ともいえないぐらいだよ、じっさいの話。それを考えれば、ゆすりのほうがはるかに悪質だと思うな。ね、だれが考えてもそう思うよ。なにしろ全治二週間なんだから」
「そうですね……」
「あんたはどう考えているか知らないけど、サラリーマンの内情なんてそりゃあ苦しいものなんだから……それは、あんたはジャンパー姿で、ぼくは背広を着ている。でも、背広はサラリーマンにとって制服のようなものでね。苦しいなかからやりくりして、ようやく月賦《げつぷ》で買っているんだ。金なんかほんとうに持っていないんだから……あんた、窮鼠《きゆうそ》猫を噛《か》むって言葉知ってますか」
「ええと……たしか、追いつめられればネズミでもネコを噛むってことで……追いつめられれば弱い者でも……」
「知ってりゃいいんだ、知ってりゃ……国語の時間じゃないんだから」
栗田はいらいらと柴山の言葉をさえぎった。
「さあ、もういいかげん要求額を口にしたらどうなんだ? いくら欲しいんですか」
「そうですね……」
柴山は眼を伏せて、いった。
「それじゃ、五千円ぐらいいただいておきましょうか」
たしかに全治二週間程度の怪我ではあったが、それにしても五千円のゆすりとは、あまりにも安すぎるではないか。理屈にあわない話ではあるが、栗田は自分が人間としての尊厳を傷つけられたような思いがし、その金額にいささか不満をおぼえた。
もちろん、ゆすりは一度では済まなかった。多いときで月に三度ほど、少ないときで一度、柴山は月賦の集金人のようにきちんきちんと姿を見せ、あれこれと四方山話《よもやまばなし》をし、五千円を受けとると、いつもの微笑を浮かべながら帰っていった。
その程度の出費は、栗田にとっては痛手でもなんでもなかった。ただし、腹は立つ。いつ柴山がその大人《おとな》しそうな仮面をかなぐり捨てて、五百万用意しろ、などといいださないともかぎらないと思うと、ろくに夜も眠れないこともある。
柴山はいかにも気弱そうで、大人しそうにみえる年寄りだが、こういうやつにこそ本当の悪党がいるのだ、栗田はいつもそう考えて、内心歯ぎしりをしていた。おれなんか全治二週間《ヽヽヽヽヽ》なのに……
その柴山が心臓麻痺だか心筋|梗塞《こうそく》だか、なんだかよくわからないが、とにかくコロリと死んでしまった。
万々歳ではないか。
なにかの予感があったのか、今回にかぎって、いつもの喫茶店ではなく、日曜日のだれもいない自分のオフィスで柴山に会う気になったのも、幸運といえた。人前で連れが頓死《とんし》するようなことになったら、自分は無関係だといいはるわけにもいかず、警察に連れていかれるのはまず確実だからである。
もちろん、柴山の死体はこのままここに放っておけばいい。栗田と柴山の関係を知っている者はだれもいないし、栗田が日曜日にオフィスにいたということを知っている者もいない。第一、柴山はまちがいなく病死したのであるから、警察がそれほどしつこく詮索《せんさく》しようとするはずがない。年寄りの浮浪者が日曜日をいいことに、かつて働いていた会社に潜り込み、そこでふいの病いにみまわれ、死んだ、そう考えるに決まっている。問題はない。問題はまったくなにも……
そこまで考えて、天井の一点を凝視していた栗田の顔色がかわった。
切れかかっている螢光灯が明滅しているのが、なんだか栗田をあざ笑っているようにみえた。
「まさかそんなバカな真似はなさらないとは思いますけど……わたしは万が一のために、栗田さんの轢き逃げのことを記した手紙を友達にあずかってもらっています。わたしが死ぬようなことがあったら、それがたとえ自殺や事故死にみえようとも、その手紙はポストに投函《とうかん》される手筈《てはず》になっているのです。もちろんあて先は警察でして……」
柴山がそういったとき、どうせ刑事ドラマかなんかで憶えたハッタリだろうと思い、栗田は気にもとめなかったのだが……もしそれがハッタリではなかったとしたら……
その手紙が投函されれば、栗田の轢き逃げが警察に知れてしまう。いや、そればかりではなく、柴山もなんらかの方法で栗田が殺したのではないか、と警察が疑いだすのは目にみえている。おれは破滅《ヽヽ》してしまう。
一瞬、栗田の脳裡に二十年ローンで買った郊外の建売り住宅、妻、娘、犬とネコ、それにどういうわけか竜骨を組みたてたままで放ったらかしにしてある、作りかけの帆船モデルが浮かんできた。手紙が警察に配達されれば、そのすべてをうしなうことになるのだ。
いまは夜の七時、明日の朝八時三十分には社員たちが出勤してくるから、それまでにはなんとかしなければならない。いや、この程度の事件がラジオのニュースで流されることはないだろうから、明日の夕刊までは時間があるのではなかろうか。いやいや、栗田が明日《あした》会社を休むのはまずい。へたな疑惑を招くのを避けるためにも、明日はいつもどおりに出勤すべきなのだ……だとすると、やはり明朝の八時半、それまでに柴山の友達をみつけだして、なんとか手紙を投函するのを思い止《とど》まらせなければならない。
どうやって?
それはわからない。その友達とかに金を握らせるか、それが駄目なら……栗田はそれ以上のことは考えたくなかった。とにかく今は柴山の友達をさがしだすのが先決だった。栗田に残された時間は、十三時間余りしかないのだから。
栗田はしばらく柴山の死骸を睨《にら》みつけていたが、ふいに身をひるがえすと、オフィスを出ていった。
エレベーターを待つ時間ももどかしく、栗田は階段を走り降りていった。
夜の八時四十分──
栗田はその焼き鳥屋のまえに立ち、外からしばらく店の様子をうかがっていた。
焼き鳥屋といっても、カウンターだけのごく狭い、十人も客が入れば満員になりそうな店であった。おかれてある酒はほとんどが二級酒のようで、焼酎《しようちゆう》を炭酸で割ったホッピーが最大の売り物であるらしかった。
雑音混じりにきこえてくるラジオの歌謡曲がなんともわびしかった。
もちろん、栗田は急に焼き鳥が食べたくなったわけではない。そうではなくて、栗田は二度ばかり柴山の住居《すまい》をつきとめようと、そのあとをつけたことがあったのだが、どちらのときにも、彼は私鉄沿線にある|この《ヽヽ》小さな焼き鳥屋に入っていったのである。柴山が酒を飲むあいだ待っているのもバカらしく、かつ自分の行為が──たかが五千円のゆすりだと考えれば──あまりに大袈裟《おおげさ》にすぎるようにも思われ、いつもそれ以上の尾行は断念していたのだが、とにかく彼がこの酒場の常連であることだけは間違いないようだった。
そして、柴山が死んだいま、この焼き鳥屋だけが彼の住居をつきとめ、友達をさがしあてる唯一の手がかりであるといえた。
栗田は大きく息を吸うと、意を決したように店のなかに入っていった。
いらっしゃい、ともいわれなかった。鳥を焼いている親父《おやじ》も、二、三人しかいない客たちも、場違いなやつが来た、といわんばかりの眼で栗田をみた。たしかに仕立てのいい背広を着ている栗田は、この店では場違いそのものだった。店にとっては迷惑な客とさえいえたろう。
「ええと……そうだな、焼き鳥を適当にみつくろって一人前、それからホッピー、うん、ホッピーをもらおうか」
栗田はカウンターにすわると、なんだか親父におもねるような口調でいった。「ホッピーなんてなつかしいな。学生時代にはよく飲んだものだけど……はははは」
「はははは」
客の一人が栗田の笑い声を真似《まね》した。
店内はいっぺんにしらけ、栗田はしゅんとなった。
「あの、柴山さんはこの店によく顔をみせるんでしょ」
それでも栗田は勇を鼓《こ》して、焼き鳥とホッピーを運んできた親父にそう尋ねた。
「柴山? そんな名前、知らねえな」
親父は無愛想だった。
「そんなはずはないんだけどなあ、柴山さんはこの店によく来るといってたんだけどなあ」
「客の名前をいろいろ訊《き》いてまわってるわけじゃねえからな。うちはボトルのキープはやってねえんだ。あれはあんた、酒場の商売の仕方としては邪道だぜ」
「でも、顔ぐらいは憶えているでしょう」
「特徴のある顔かね」
「特徴は……ないけど」
「それじゃわかるわけがねえ」
「年齢《とし》は五十代後半ぐらいで、髪はほとんど白くなっていて、痩《や》せてて小柄で、その、どちらかというと貧相で……」
「知らねえな」
親父はにべもなく首を振った。
「いつもちょっとくたびれたような草いろのジャンパーを着ていて、大人しそうで、気が弱そうで……」
「知らねえといったら知らねえんだよ、|あんた《ヽヽヽ》」
親父の声が怒気を帯びて、たかくなったとき、客の一人がいった。
「ほら、親父よ、あの爺《じい》さんでないかい。いつも一人でやって来て、店の隅にヒッソリすわると、二級酒二本に、焼き鳥一皿、もつの煮込みをとる……」
「ああ、あの爺さんか──」
親父は素頓狂《すつとんきよう》な声をあげ、笑いだした。
「そうだ、そうだ、あの爺さんだ……いつも居るんだか居ないんだかわからねえような大人しい爺さんなんで、すっかり忘れていたよ。うん、うん、あの爺さんだ……屁《へ》のつっかえ棒にもならないような頼りない爺さんでよ」
「屁につっかえ棒がいるのかい」
客がキョトンとした顔で訊いた。
「おまえは黙って酒飲んでろ」
親父はそういうと、意外に親切な口調でいった。
「あの爺さんならここんところ店に顔ださねえな。会いたいんだったら、このさきの鈴木荘ってボロアパートに住んでるとかいってたから、そっちを当たってみたらどうだい? あの爺さん、柴山っていったっけかな。名前をきいたような気もするが、忘れちまったよ。なにしろ大人しい爺さんでよ」
「ありがとう」
カウンターに金をおき、急いで店を出ていこうとした栗田を、
「待てっ、サラリーマン」
親父の大声が呼び止めた。
「てめえ、労働者《ヽヽヽ》の店をバカにするつもりか。うちの焼き鳥なんかおかしくて食べられねえというのか。てめえ、飲んでけ、みんな食べてけ、さもねえと……」
逆らおうものなら、それこそぶんなぐられかねない勢いだった。
ホッピーを飲みほすのに意外に時間がかかり、店を出たときには九時半になっていた。
余すところ、あと十一時間──
鈴木荘は指でちょっと一突きすれば、ガラガラと崩れ落ちていきそうな古いアパートで、柴山の部屋はその二階のいちばん奥にあった。
表札がわりの蒲鉾板《かまぼこいた》に柴山の二文字が、意外なほどの達筆で書かれている。
ドアには鍵《かぎ》が掛けられていなかった。
栗田はすこしためらったが──なにぶん空巣と間違えられる恐れがあったので──やがて覚悟を決めると、柴山の部屋に足をふみ入れた。
四畳半にかんたんな台所のついた、なにもない部屋だった。
机がわりのミカン箱、それに食器がすこし、部屋はきちんと掃除がゆきとどいていて、柴山の几帳面《きちようめん》で小心な性格をいかにもよく物語っていた。
わびしい、柴山の孤独な生活が身にしみて感じられるような部屋だった。
部屋にあがりこんではみたものの、柴山の友達の所在を示す手がかりになりそうなものはどこにもなく、しばらく栗田は呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
どうやら蕎麦《そば》屋かどこかでもらったらしい月めくりのカレンダーが、壁にピンでとめられていて、今日の日付けがマルでかこまれてあった。栗田の胸のなかに柴山にたいする怒りがあらたに湧いてくる。|あいつ《ヽヽヽ》はおれをゆする日を忘れないように、カレンダーに記入までしてやがったんだ……
「柴山さんになにかご用ですか」
女の声がそういった。栗田は仰天してふりかえった。
ドアの隙間《すきま》から女の顔が覗《のぞ》いていた。所帯やつれはしているが、昔はかなりの美人だったろうと思われる中年女だった。
「いえ、あの、ちょっと柴山さんに用があったものですから……どうも柴山さんお留守のようですけど……」
「あらそう、わたし知らないもんだから泥棒かしらと思っちゃったわ。もっとも泥棒に入っても、柴山さんの部屋には盗まれるようなものはなにもないけど……」
女は笑い、それからすぐに真顔になっていった。
「でも、柴山さんにお客さんなんてめずらしいわね」
「そうですか」
「そうよ、あのお爺《じい》ちゃん、天涯《てんがい》孤独なんじゃないのかしら、家族もいないみたいだし……」
「お友達はいらっしゃらないのですか」
「さあ、わたしたちがお隣りに引っ越してきてから一年になるけど、柴山さんがだれかとしゃべっているところなんかみたことないわね。こういっちゃなんだけど、あのお爺ちゃん、幸《さち》うすそうな感じでしょ? 人づきあいが下手《へた》なんじゃないかしら。気の弱そうな、腰の低い、いいお爺ちゃんなんだけどね」
なにがいいお爺ちゃんであるものか、栗田は内心毒づいていた。いいお爺ちゃんがゆすりを働くはずがないではないか……柴山の友達をさがしあてる手がかりがこれで完全に切れてしまった、その落胆で栗田は眼のまえが真っ暗になるのを感じていた。
「そうだ……」
女がふいに声をあげた。
「なんですか」
「そういえば一度だけ、お客さんが柴山さんを訪ねてきたことがあったわね。そのあと廊下で会ったら、めずらしく柴山さんのほうから声をかけてきて、嬉《うれ》しそうに友達だといってたわ」
「そ、その友達の名前わかりませんか」
栗田の慌《あわ》てように、女はちらっと不審げな眼を投げかけてきたが、それでも素直に答えてくれた。
「名前まではわからないけど、表通りの商店街の碁会所の親父さんだって、柴山さんいってたわ。商店街には碁会所はひとつしかないから、行けばすぐにわかるはず……」
女はおそらくあっけにとられたにちがいない。栗田が話を最後まできかず、ほとんど女を押しのけるようにして、部屋からとびだしていったからである。
もちろん、いまの栗田には女が驚こうと、あるいは怒ろうと、そんなことを気にしている余裕なんかあるはずがなかった。
みつけた、みつけた、みつけた……バタバタと廊下を走っていきながら、栗田の頭のなかではその言葉がくりかえされていた。
部屋を訪ねてきたただ一人の男であり、しかも柴山自身がそう言明しているのだから、その碁会所の親父が友達《ヽヽ》であることはまず間違いなかった。
栗田にはもう十時間余りの時間しか残されていない。
「柴山さん? 知らないですなあ」
碁会所の親父、というよりチョッキに蝶《ちよう》ネクタイの、むしろマスターと呼びたいような格好をした中年男がいった。
時刻はすでに十一時をまわり、とうに終業していた碁会所の|その《ヽヽ》シャッターをむりやり開けさせたのだから、中年男の受け答えがいささかそっけなくなるのも無理はなかった。
もちろん、この男こそ柴山の友達にちがいない、と信じこんでいる栗田がそれぐらいのことでひるむはずはない。
「そんなはずないですよ。だって柴山さん自身があなたのことを友達だとそういったというんだから……」
「その人、もしかしたら保険の勧誘かなにかやってる人かしら?」
「ちがいますよ。真面目に答えてください」
「わたしが嘘《うそ》をついているとおっしゃるのですか」
男はムッとした表情になった。
「い、いえ、とんでもない。ただ、ど忘れなさっているんではないかと思いまして……」
栗田は慌てて男をなだめた。ようやく柴山の友達らしき人物をつきとめることができたのだ。ここで|つむじ《ヽヽヽ》を曲げられたのでは、話が先に進まなくなる。
「それが、あなたにとってそんなに大切なことなんですか」
男がやや口調を柔らげて、訊いてくる。
「ええ、とても大切なことなんです」
「そうですか……それじゃ、もしほんとうにわたしが忘れているのなら、なんとか想いださなければならないでしょうな」
もともと気のいい男であるらしく、彼は腕を組むと、天井をみつめ、真剣に考えこむ眼つきになった。
碁会所のすりきれた畳に、螢光灯の明かりが白っぽく反射している。
しんと静まりかえった部屋に柱時計の時を刻む音だけが、奇妙に大きくきこえていた。
「もしかして、それはこの裏のなんとか荘というアパートにひとりで住んでいらっしゃるお年寄りのことですか」
やがて組んでいた腕をほどくと、男が訊いた。
「ええ、ええ、そうなんです」
「そうですか……」
男は自分自身にうなずくようにいった。
「あの人はわたしのことを友達だといってるんですか」
栗田は絶望感が狂おしく喉《のど》を締めつけてくるのをおぼえた。男の口調には、明らかに彼自身がそのことに驚いているという響きが感じられたからだ。とても芝居をしているようにはみえない。
「お友達ではないのですか……」
栗田の声はしゃがれていた。
「二、三度、うちにみえたことはあります。碁はお世辞にもお上手とはいえないのですが……そうそう、一度、ウィスキーのポケット瓶《びん》を忘れていかれたことがあって、アパートまでお届けしたことがありました。お住居があそこだとうかがっていたものですから……」
男の声が低くなった。
「こういう商売をしていると、ああいうお年寄りにときどき出会うことがあります。べつに悪いことをしたわけでもないのに、いや、悪いことなんかできっこないのに、どういうわけか世間から忘れられて、だれひとりとして気にかけてくれる人もなく、ヒッソリと片隅で生きているお年寄りに……そうですか。あの人はわたしのことを友達だといってるんですか。もしかしたら、それは気の弱いあの人の唯一の見栄かもしれませんよ……いや、ちょっと待ってくださいよ」
男は言葉をとぎらせて、しばらく天井の一点をみつめていたが、やがていくらか興奮した声でいった。
「そういえば、あの人のアパートに行ったとき、カレンダーの日付けにマルがついていたので、それはなんだと訊いたんです。そしたら、その日にはどこかの会社だかに勤めている友達に会いに行くんだといってましたね。その友達とお茶を飲んで雑談するのが、とても楽しみなんだって……」
「………」
「いやあ、それをいったときのあの人の顔は、なんというか誇らしげで、嬉しそうだったな。あの人の友達をさがしているんだったら、そのサラリーマンを当たってみるべきなんじゃないかな」
栗田はフラリと立ちあがると、そのままなにもいわずに、ガラス扉《ど》の入り口に向かって歩いていった。顔が蒼白《そうはく》になっていた。
そして唖然《あぜん》としている男をふりかえると、妙に切り込むような口調でいった。
「あの人は……柴山さんは亡くなりました」
「そうですか、それはお気の毒に……」
男はうなずいたが、その言葉はいかにもおざなりなものにきこえた。
栗田がうなだれながら碁会所を出たとき、背後から柱時計の十二時を打つ音がきこえてきた。
──郊外の自宅に帰ったときには、すでに一時を過ぎていた。
女房と子供はもう眠っているらしく、家のなかは暗く、栗田は自分で鍵をあけて、入らなければならなかった。
書斎に入り、上着を脱ぐ気力さえなく、いや、それどころか明かりをつける気にもなれず、ただ机のまえにすわって、しばらくジッとしている。
頭のなかに、あの気の弱そうな微笑を浮かべた柴山の顔がちらついていた。
──べつに悪いことをしたわけでもないのに、いや、悪いことなんかできっこないのに、どういうわけか世間から忘れられて、だれひとりとして気にかけてくれる人もなく、ヒッソリと片隅で生きているお年寄り……碁会所の中年男のいった言葉がどこからかきこえてくるようだ。
柴山は淋《さび》しかったのだ。そのくせ、話し相手を求めるにはあまりに気が弱すぎたのだ。それこそゆすりなどという手段をつかわなければ、だれも自分の相手になんかなってくれないと、それまでの孤独な人生からそう思いつめていたにちがいないのだ。
もちろん、柴山に手紙を託せるような友人がいたはずがない。そんなことをいったのは、自分にも友達がいるという見栄からだったのか、そうでなければわずか五千円のゆすりにも怯《おび》えてしまうほど、|悪いことができない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》老人だったということかもしれない。
それもこれも、ただ話し相手が欲しかったというだけにすぎないのに……
栗田はふいに暗く、冷えびえとした書斎をみまわした。そして、つい数時間まえに感じた、家を、妻を、子をなんとしてでも守らなければならないというあの情熱が、自分のなかから嘘のように消え失せているのに気がついた。どういうわけか、いまの栗田には一切がっさいすべてを含んだそれらよりも、はるかに柴山のほうが自分にとって大切な存在であったように思えるのだ。
やがて栗田は机のうえの明かりを点《とも》し、引き出しから便箋《びんせん》をとりだすと、ペンを握った。
ちょっと考えてから、書きはじめる。
前略
突然、お手紙を差し上げます。
実は私、去年の十一月三日午前二時頃に、目黒区Y町の路上にて轢き逃げの現場を目撃し、しかもその車を運転していた人物の姓名を知っている者でございます。これまでお報《しら》せしなかったのは、事件と関わりあいになるのを恐れていたからなのですが、やはり良心の呵責《かしやく》に耐えかね、こうしてペンをとった次第でございます。実は、その車を運転していた人物というのは……
もちろん栗田は自分がじっさいにこの手紙を投函する勇気も、誠実さも持ちあわせていないことは十分に承知していた。しかし、警察にださないまでも、せめて手紙を書くぐらいのことは、柴山の友達《ヽヽ》としてすべきなのではないだろうか、とそう考えたのである。
手紙を書きながら、栗田は柴山の気弱そうな口調をまねて、ソッと口のなかでつぶやいた。
「わたしは万が一のために、栗田さんの轢き逃げのことを記した手紙を友達にあずかってもらっています……」
ふいに涙がこみあげてきて、手紙の字がかすんだ。
栗田は涙を拳《こぶし》で拭《ぬぐ》い、拭いしながら、手紙を書きつづけていた。
回 転 扉
くるうり、くるうり……
回転|扉《とびら》がまわっている。
着かざったご婦人がたが回転扉のなかに吸い込まれていく。恰幅《かつぷく》のいい紳士が悠々と出てくる。粋《いき》な若者が身のこなしも軽やかにとびこんでいく。
くるうり、くるうり……
回転扉の四枚のガラスがきらびやかに照明を反射する。厚い絨毯《じゆうたん》、豪華なシャンデリア、銀の食器、満ちたりた人々。笑い声、そして洗練された会話がかすかにきこえてくる。
いつもかわらぬT─ホテル・正面玄関の風景だった。
T─ホテルは明治の終わりだか、大正のはじめだかに建てられたホテルで、あの大戦争の空襲もなんとかやり過ごして、いまも当時そのままの建物を残している。その大きさこそ昨日今日《きのうきよう》できあいの大衆ホテルに遅れをとっているものの、格式、客ダネのよさ、宿泊料のたかさにおいては、はるかに他《ほか》をひきはなし、足元にも寄せつけない──このホテルのレストランがまた非常に有名で、ここのロースト・ビーフとシャリアピン・ステーキを一度でも口にしたら、とても他の店のものは食べられないというもっぱらの評判だった。
要するに、T─ホテルはホテルの老舗《しにせ》であり、このホテルを利用する人たちにとっては、ある種のステータス・シンボルでもあったのだ。
そのT─ホテルの真正面、通り一本へだてたところに、われわれのたむろするビリヤード場があった。
ビリヤード場といっても撞球《どうきゆう》台は二つきりしかなく、しかもその二つきりしかない撞球台がコーヒーやウィスキーで|しみ《ヽヽ》だらけだ。われわれがもっぱらテーブル替わりに使っているからである。たまにビリヤードをやりたいというまともな客が入ってきても、そこでとぐろを巻いているわれわれに閉口し、さっさと帰っていってしまう。開店休業の状態だった。
われわれにしても、最初はビリヤードをするつもりで、この店に足をふみいれたのである。それがいつしかT─ホテルに出入りする男女の品定めをするほうが面白くなってしまい、ビリヤードなんかそっちのけになってしまったのだ。
たとえば、こんな調子だ。
「あの女、ちょっと奇麗じゃないですか」
「あれは淫乱《いんらん》の相ですよ。ああいうのがしつこいんだ」
「やあ、あいついい背広着てるなあ」
「ああいうのはね、きみ、背広を着ているというんじゃない、背広に着られているというんだ……成り上がりだな、ありゃ」
「おっ、生きのいい若い衆がやって来たぞ、肩で風切って歩いている。さぞかし切られた風が痛いだろうなあ……わたしはあれは金持ちの御曹子《おんぞうし》とみたね」
「へへへ……」
「おや、笑ったな……なんだ? なにがいいたいんですか」
「そりゃあ、まあ、生きはいいかも知れませんがね。ぼくはあれはズバリ外車のセールスマンだと思うな……しかも、かなり使いこみしている」
「バカに自信タップリじゃないか」
「顔がね、顔がちがうんですよ」
この世の中にこんなにも面白いことがほかにあるだろうか……
T─ホテルに出入りする紳士淑女《しんししゆくじよ》をこきおろすとき、決して大袈裟《おおげさ》にいうのではなく、われわれはほとんど生甲斐《いきがい》のようなものさえ感じていた。もちろん、そこにはしがないわが身とひきくらべてのひがみのようなものも混じっていたにはちがいないが、そうであっても、いやそれだからこそなおさら、われわれは悪口雑言を吐くことに快感をおぼえていたのだった。
──その日もいつものように、われわれはビリヤード場の窓にとりつき、いいたい放題、好き勝手にさわいでいた。
キツネの襟巻《えりま》きをした妙齢のご婦人がT─ホテルに入っていくのをみて、あれは妾《めかけ》だ、襟巻きも偽物にちがいない、とさんざんくさして、笑いつかれ、みんながホッと息をついたとき、
「おい、あいつをみてみろよ」
陸送トラックの運転手をしている男が素頓狂《すつとんきよう》な声をあげたのだ。
その声にはまたとは得がたい獲物《ヽヽ》をみつけたという喜びのひびきが混じっていて、われわれは慌《あわ》てて窓ガラスに額《ひたい》をくっつけた。
なるほど、運転手が奇声をあげたのもむりはない。そこにはT─ホテルにはまったく場違いな、それこそなにかの冗談としか思えないほど場違いな男が立っていたのだ。
とにかく貧相な|なり《ヽヽ》をしている。この寒空にコートも着ないで、セーターにしても穴だらけだ。なによりいけないのは、肩を落としたそのしょぼたれた姿勢で、みているほうまでなんとなく気が滅入《めい》ってくる。まだ二十代前半の若さであるらしいのに、もう胃潰瘍《いかいよう》の気《け》でもあるのか、顔が蒼《あお》ざめていて、眼に生気がなかった。
わびしい、わびしい若者なのだ。
きらびやかなT─ホテルのまえにあって、なんだか彼のまわりだけが陽《ひ》が翳《かげ》り、暗くくすんでいるようにみえた。場違いもここまでくると、滑稽《こつけい》を通りこして、無残な感じさえ受ける。
T─ホテルの玄関のまえに立っているボーイが、あからさまな嘲笑《ちようしよう》の表情を若者に向けていた。
しかし、若者はボーイが自分をみていることにさえ気がついていないようだ。思い詰めたような表情を浮かべ、ゆっくりまわっている回転扉をジッとみつめている。緊張のあまり、背筋をかたくこわばらせていた。
「まさかとは思うんだが……」
自称画家の、ベレー帽をかぶった中年男があきれたような声でいった。「あの若者はT─ホテルに入っていこうとしているんじゃないだろうね。まさか、そんな無謀な……」
「体がかたくなりすぎているよ」
ビリヤード場の初老の経営者がつぶやくようにいった。「あれではとても回転扉をくぐり抜けることはできないな」
「|やる《ヽヽ》ぞ」
運転手がそう声をはりあげた。
若者は意を決したように、二、三歩あとずさると、スタート・ラインについた短距離走者よろしく体をまえに傾けた。そのままの姿勢でしばらく回転扉をにらみつけるようにしている。
われわれは固唾《かたず》を呑《の》みながら、若者をみつめていた。さすがに与太《よた》をとばそうとする者は一人もいない。
若者は走りだした。
助走も、気迫も十分だったが、いかんせんタイミングが狂っていた。回転扉の桟《さん》に頭をぶつけ、危うく隙間《すきま》に足をはさまれそうになり、次の瞬間、若者の体はあっけなく弾《はじ》きかえされていた。
われわれのあいだから一斉に溜息《ためいき》が洩《も》れた。
通りにはねとばされた若者は、しばらく路上に尻餅《しりもち》をついたまま、朦朧《もうろう》とした眼で回転扉をみつめていた。とっさには自分の身になにが起こったのか理解できないでいるようだった。
回転扉はあいかわらずまわりつづけ、紳士淑女を呑みこみ、吐きだしていた。彼らにとっては、回転扉など存在しないも同じであるようだった。
若者は彼らから完全に無視されていた。別世界の人間だと思われているのだ。
ただボーイだけが笑いをかみ殺すのに真っ赤な顔をして、意地悪そうな眼で若者をみつめていた。
若者はなにかに追いつめられたように、キョロキョロとあたりをみまわし、そしてその視線がわれわれの顔のうえにとまった。
若者はようやく立ちあがると、夢遊病者のように覚《おぼ》つかない足どりで、通りをよこぎりはじめた。
「ぼくはどうしてもT─ホテルに入りたいんだ」
ビリヤード場に足をふみこむなり、若者はそう叫んだ。「入らなければならないんだ」
「………」
われわれのあいだにちょっと気まずい沈黙がたちこめた。若者の表情は滑稽なほど真摯《しんし》で、それがわれわれにはいささか重苦しく感じられたからである。
「それがいけないことなんでしょうか、皆さん、ぼくは思いあがっているのでしょうか、間違っているのでしょうか」
若者は狂おしげに両手を頭のうえでふりまわしながら、ほとんど泣いているような声でいった。そして、ふいに力つきたように肩を落とすと、そのままの姿勢で椅子《いす》のなかに頽《くずお》れていった。
つぶやいた。
「どなたか教えてくださいませんか……」
若者の失望ぶりはみていて痛々しくなるほどだった。おそらく若者はこの日のためにトレーニングをかさね、それなりに研究もしてきたにちがいない。それが一瞬のうちに水泡に帰したのだ。
「ふん」
運動《ヽヽ》がきこえよがしに鼻を鳴らし、蔑《さげす》むようなうず笑いを浮かべた。
運動、といっても、位置について、ヨーイドンのあの運動ではない。学生運動の運動なのだ。学生運動家としてはかなり鳴らした男なのだそうだが、それも十年以上もまえの話で、いまはもうただのうすよごれた三十男でしかない。皮肉屋で、われわれのなかでもっとも辛辣《しんらつ》な意見を吐く男だった。
「なにもそう深刻に考える必要はないんじゃないのかね」
画家がその場をとりなすようにいった。「きみはまだ若い。これからいくらでも回転扉に挑戦するチャンスはあろうというものじゃないか」
「それが駄目なんです」
「駄目なのかね」
「ええ、駄目なんです」
「そうか、駄目なのか……」
画家はベレー帽の下に指を突っ込み、ちょっと頭を掻《か》いてから、思いだしたように訊《き》いた。
「どうしてかね?」
「え、なにがですか」
「いや、どうして駄目なのかね」
「ああ、そのことですか」
若者はうなずき、われわれをゆっくりとみまわしてから、ちいさな声でいった。「きいていただけますか」
「ああ、きこうじゃないか」
画家が応じる。
「故郷《くに》のお袋が明日をも知れぬ重い病いにかかっているのです」
ふいに若者は立ちあがると、ほとんど喚《わめ》きたてているような大声でいった。あまりの大声にわれわれは身をのけぞらせ、運転手にいたってば、ヒッという悲鳴をあげたほどだった。
「お袋はぼくの出世だけを生甲斐にして、今日まで生きてきたんです。ぼくが回転扉をくぐり抜けて、T─ホテルのなかでVサインをつくっているのをみさえすれば、もうなにも思い残すことはない……そういってるんです。ぼくはいままでお袋に苦労をかけっぱなしだった。せめて最後の親孝行を……せめて最後の……」
若者はむせび泣きはじめた。
経営者が陶器のコーヒーカップになみなみとウィスキーを注ぎ、それを若者に手渡しながら、いった。
「まあ、これでも飲んで気を落ち着けたらどうですか」
「あ、どうも御馳走になります」
意外にあっけなく泣きやんで、若者はウィスキーをすすりながら、ふたたび椅子に腰をおろした。
「ええと……きみは回転扉をくぐり抜けるために、なにか勉強はしたのかね」
やがて、画家が訊いた。
「ええ、『回転扉、その傾向と対策』という本を読みました」
若者はうなずいた。
「ああ、あれね……あれはいい。あれは参考書の古典だね。しかし、きみ、回転扉をくぐり抜けようと本気で考えているんだったら、あれ一冊では……」
「ちょっと待ってくれませんか」
経営者がおだやかな声で画家の言葉をさえぎり、若者のほうに向きなおった。「あなたにとって回転扉をくぐり抜けることが、ほんとうにそんなに大切なことなんですか」
「え……」
「どうなんですか」
「だって、故郷《くに》のお袋が……」
「お母さんのことはとりあえず脇《わき》においておくとして、あなたご自身はどう考えていらっしゃるのですか」
「それはもちろん、ぼくだって……」
「どうですかね」
経営者は微笑し、首をかしげた。「失礼だが、あなたはまだお若い、人生というものを本当にはわかっていらっしゃらない」
「………」
「いまでこそしがないビリヤード屋の親父ですが、わたしにもかつては回転扉をくぐり抜けようと、猛勉強した時期があったのですよ。T─ホテルのなかに入れないようでは、自分の人生は失敗したも同じだとまで思い詰めていましてね」
これはわれわれにとっても初耳だった。淡々とした口調で言葉をつづける経営者の顔を、われわれはひたすら凝視していた。
「ところがある日、急にそんな自分が虚《むな》しくなりましてねえ、なにも回転扉をくぐり抜けることだけが人生ではない。T─ホテルに入れば入ったで、きっと神経をすり減らし、他人を蹴落《けお》とさなければならないような人生が待ちかまえているにちがいない……わかりますか」
経営者は若者に諭《さと》すような口調でいった。
「べつにT─ホテルのなかにいなくても、花が咲くときには咲くんですよ。こんなちっぽけなビリヤード屋ですが、それでも四季はうつろい、春には咲く花をみることができるのです……」
「………」
若者はちょっと沈黙していたが、やがて声をふりしぼるようにしていった。「それはぼくだって考えたことがあります……でも、お袋が明日をも知れぬ重い病いにかかっていて、ぼくの出世だけを楽しみにしていると思うと……」
「そうですか」
経営者は溜息をつき、画家に向かって軽く顎《あご》をしゃくった。「それでは、こちらの方にご相談なさったらいかがですか。こちらの方はT─ホテルで個展をひらいたことがおありになるんですよ」
「ほんとうですか」
若者は眼を輝かせた。
「ずっと昔……まだ、ぼくが二十代のころだよ。思えば、あのときがぼくの人生の花だったねえ」
画家は天井の一点をみつめて、昔を懐かしむような眼つきになった。
「T─ホテルで個展をおやりになったんですか」
「昔の話さ」
「でも、ほんとうの話なんでしょ」
「なにが?」
「個展をおやりになったのが」
「一度きりだよ、きみ、たったの一度きり……若いときの夢のような話さ」
「でも、T─ホテルで個展をひらいた」
「うむ」
「たいへんな才能だな」
「それほどのことはない」
「時代の花形だったんですね」
「これからの洋画界を背負って立つ才能とまで誉《ほ》められたよ。なんだったら、新聞の切り抜きをみせようか」
「あとで拝見します。それで、その……」
若者はちょっといいよどみ、それから思い切ったようにいった。「大丈夫だったんですか」
「回転扉かね」
「はい」
「うむ、正直な話、回転扉にとびこんだとき、すこし足がもつれた」
「ぼくもそうなんです」
若者が興奮した声でいった。「ぼくもやっぱり回転扉にとびこもうとすると、足がもつれるんです」
「あのときはもう駄目かと思ったよ」
「それで、どうしました」
「ここが正念場《しようねんば》だと考えた」
「正念場だと考えた」
「ふんばった」
「ふんばった」
「まえからくる扉をやりすごした」
「やりすごした」
「もう一度、回転扉にとびこんだ」
「とびこんだ」
「T─ホテルに入った」
「入っ……いや、ぼくはそこで弾きかえされてしまったんだ」
若者は情けなさそうな表情になった。「どうしてかなあ……ぼくは要領がわるいのかなあ……才能がないんだな、きっと」
「しかし、きみ、ものは考えようじゃないのかね」
ふいに画家が疲れたような声になって、いった。「ぼくなんかT─ホテルに入ったことがあるといっても、そのとき一度きりだよ。あとの人生は|おまけ《ヽヽヽ》のようなものだ。なにかとうまくいかなくてねえ、いまではもう回転扉にとびこんでいこうという意気地さえ残っていない始末だよ……なまじぼくのようになるぐらいだったら、最初からT─ホテルに入っていこうなんて考えないほうが……」
「それは一度でもT─ホテルに入ったことのある人の贅沢《ぜいたく》なグチというものですよ」
若者は苛立《いらだ》たしげに、画家の言葉をさえぎった。「ぼくはその一度《ヽヽ》が欲しいんだ。なにしろぼくは……」
「故郷のお袋が明日をも知れぬ重い病いにかかっていて」
われわれは声をあわせてそう叫び、一瞬、若者がバツの悪そうな顔になった。
「ふん」
運動がふたたび鼻を鳴らすと、おもむろに腰をあげた。唇を歪《ゆが》め、若者をみる眼にはっきりと軽蔑《けいべつ》の色をただよわせていた。
「あんたはプチブルだよ」
そして、そう決めつけた。「T─ホテルに入ることばかり考えていて、どうしてあいつらがT─ホテルのなかにいて、われわれが外にいなければならないのか、その社会構造の矛盾を考えようとしない……T─ホテルなんて資本主義社会の砦《とりで》そのものじゃないか。あんなものはぶち壊してやればいいんだ。回転扉なんて、認めなければいいんだよ」
しゃべっているうちに、しだいに気分が昂揚《こうよう》してきたらしい。運動は眼をぎらつかせ、最後にはほとんど叫ぶような声でいった。
「おれは絶対に回転扉を否定するぞっ」
「否定したって、そこにあるものは仕様がないじゃないか……」
画家が苦笑しながら、口のなかでつぶやくようにいった。
一瞬、運動は凄《すご》い眼つきで画家をにらみつけたが、すぐに顔をそむけると、なんだか憑《つ》きものが落ちたようなトホンとした表情になって、そのまま椅子に沈みこんだ。
しばらく、沈黙があった。
「結局、なんだ、根性じゃないのかね」
やがて運転手が自信タップリの、奇妙に陽気な口調でいった。「ねえ、あんた、根性はあるんだろう?」
「根性、ですか」
若者はふいに運転手に話しかけられて、眼をパチクリさせていた。
「あるんだろう」
「さあ」
「ないのか」
「いえ、ないこともないと思いますが」
「どっちなんだ」
「まあ、人並《ひとなみ》ぐらいには」
「人並の根性じゃ根性とはいえないな」
運転手は自分のふとい右の二の腕を、左の掌でピシャピシャと叩いた。「自慢じゃないが、おれは根性だけは人一倍持っているつもりなんだ……いいかい、人並じゃない、人一倍だぜ」
「はあ、人並の二倍ということですね」
「そういう計算になるかい」
「なるんじゃないですか」
若者はなんとなく自信のなさそうな顔をしていた。
「回転扉がなんだ。一度失敗したら二度、それでも駄目なら三度……何度でも根性でぶつかるんだよ。男じゃないか。人生あきらめたら、それで終わりだぜ。根性あるのみ……これでいかなくちゃ」
「そんなに根性があるのなら、どうしてあんたはT─ホテルのなかに入れなかったんだ」
運動が冷笑した。
「まだまだ根性が足りなかったからよ」
運転手がムッとした表情でいった。「これからはますます根性きめて、回転扉にぶつかってやるんだ。おれはこの若いのみたいに泣き言はいわねえぜ。根性があるからよ」
「わからないのか、労働者の意識がそんなふうに低いから、いっそう資本家どもをつけあがらせることになるんだぞ」
運動がそういったのを|きっかけ《ヽヽヽヽ》のようにして、みんながてんで勝手にしゃべりはじめた。
「個展をひらいたとき、高校の同窓の女の子が花を持って訪ねてきてくれた……」
「根性のねえやつは酒の飲み方ですぐにわかる」
「わたしはふと回転扉をくぐり抜けようと懸命になっていたあのころの自分をいとおしく感じることがあります」
「体制側はますます狡猾《こうかつ》になっていく」
「根性だ」
「ホホホホ」
「あれは|くちなし《ヽヽヽヽ》の花だった」
「おや、だれか笑ったんじゃないかな」
「みんな回転扉に騙《だま》されているのさ」
「だれにも負けない根性だ」
「あのころのわたしは純粋でした」
「くちなしの花言葉が沈黙≠セと知ったときには、すでに彼女は人妻だった」
「純粋すぎて、人生のなんたるかを知らなかったのです」
「男一匹根性だ」
「安田砦が落ちたとき、おれはまだ十九歳だった……」
「ホホホホ」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ」
画家がみんなを制した。「隅の老人≠ェ笑っている」
「………」
なるほど、われわれがもっぱら隅の老人≠ニ呼んでいる年寄りが、さっきからおかしくてたまらないというように笑いころげているのだ。めったに会話に加わることはないが、たまに一言、二言くちをはさむと、つねにその言葉は適確で、するどく、われわれを唸《うな》らせずにはおかない──隅の老人≠ヘそんな年寄りだった。
かつては数学の教師をしていたという噂《うわさ》だが、だれも詳しいことは知らない。
「お若いかた──」
隅の老人≠ヘようやく笑いを収め、目尻の涙を指で拭《ぬぐ》うと、若者に声をかけた。「あんたは親孝行をしたいんだね」
「はあ」
若者は疑わしげな表情で、隅の老人≠みつめている。
「親孝行はいいことだ」
「そう思います」
「しなさい」
「………」
「回転扉をくぐり抜けるのはむつかしくはない」
「はあ?」
「やさしいよ」
「そうですか」
「うん、要するにgを軸にして回転角θの回転移動によって……いや、なにかに書いたほうがわかりやすいかもしれないな」
老人はそうつぶやくと、背広のポケットから手帳をとりだし、その一頁にエンピツでなにごとか書きこんだ。そして、それを音たかく破り、若者にさしだした。
「読んでみなさい」
「………」
若者はちょっと戸惑ったような表情で、それを受けとり、読みだした。その顔がしだいに紅潮していき、眼が輝きはじめる。
われわれはなにか奇跡でもみるような思いで、それをみつめていた。
「わかるかね」
隅の老人≠ェ微笑を含んだ声で訊《き》いた。
「わかります」
若者は感激のあまり、ほとんど泣きそうな顔になっていた。
「かんたんだろう?」
「かんたんです」
「要は、タイミングなんだよ」
「タイミングなんですね」
「だれにもできる」
「だれにもできます」
「むろん、きみにもできる」
「ぼくにもできます」
「親孝行しなさい」
「はい、親孝行します」
われわれはあっけにとられながら、二人のやりとりをきいていた。この若者がこんなにも自信に満ちてみえるなんて、まるで嘘《うそ》のようだった。あらためて隅の老人≠ノたいする尊敬の念が、ほとんど畏敬《いけい》にちかいほどの尊敬の念が湧き起こってくるのを感じた。
「どうも、いろいろお世話になりました」
若者はわれわれに向き直ると、それまでとはうってかわって朗らかな声でいった。「このご恩は一生忘れません」
「もう一度回転扉に挑《いど》んでみるおつもりなんですか」
経営者が訊いた。
「ええ」
若者は笑った。
「がんばってくださいよ」
「回転扉をくぐり抜けてからが大変なんだということを忘れないように」
「根性だぜ」
「体制派の連中にはくれぐれも気をつけろよ」
われわれがそれぞれ激励の言葉を投げかけるのに、ちょっと手をふって応じてから、若者は悠々とした足どりでビリヤード場を出ていった。
われわれはさきを争うようにして、窓ガラスまで駆けていき、T─ホテルの回転扉をみつめた。
若者が通りに姿を現わした。
ドア・ボーイが若者をみて、うす笑いを浮かべながら首をふりかけ、そしてそのまま凍ったように身をこわばらせた。どうやらボーイにも若者がさっきまでの彼とはどこかちがうことが感じられたようだった。
若者はまわりつづける回転扉をみつめている。
間合いとタイミングをみはからっているようだが、そのまったくといっていいほど緊張を感じさせない姿勢には、幾度となく回転扉をくぐり抜けたベテランの風格さえただよっているように思われた。
われわれは窓ガラスに額をくっつけ、息を詰めるようにして、若者の姿を凝視していた。
若者は走りだした。
ほとんど地をすべるような、危なげのないフォームだった。
われわれは歓声をあげた。
回転扉にとびこんだ。
くぐり抜けた、とわれわれの眼にみえた|その《ヽヽ》瞬間、若者の足がもつれ、回転扉にその体を弾きとばされていた。
今度はボーイは笑いをかみ殺そうともしなかった。その傍若無人《ぼうじやくぶじん》な大きな笑い声は、われわれの耳にまで届いた。
しばらくしてから、われわれはノロノロと窓ガラスを離れた。
だれもが口をきく気力さえないようにみえた。
「やっぱり失敗したか」
ただひとり平然としている隅の老人≠ェ、無責任にもそういい放つと、ホッホッホッと笑いながら、ふたたび部屋の隅に戻っていった。
「まあ、人生なんてこんなものかも知れませんな……」
やがて経営者がそう溜息をつくと、|読者のほうを向いて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》いった。
「ねえ、あなたの人生だってこんなようなものでしょ?」
ネコのいる風景
「やりきれんよ。なんとかしてやってくれって、だれかれかまわず頼んで歩きたいような気持ちだ。切なくてなあ、ほんとうに切なくてなあ……」
三日に一回ぐらいのわりで、須永から電話がかかってくる。電話がかかってくるごとに、須永の声はしだいに狂おしく、ほとんど女々《めめ》しいとさえいえるものになっていく。十人以上の部下をまかされ、職場ではそれなりの信頼を得ているはずのこの三十男が、まるでかきくどくような調子で、めんめんとうったえてくるのだ。
電話のあるダイニング・キッチンは底冷えがして、夜には凍るような寒さになる。ストーブをつければいいのだが、ガスの元栓を締めてしまったあとは、それも面倒くさく、けっきょくはパジャマ姿のまま震えながら、須永の電話を受けることになる。
もうすこし早い時間に電話してくれないか、何度もそんな言葉が喉《のど》まで出かかったが、一人で思いつめ、苦しみ、ついには耐えきれなくなって受話器をとるのであろう須永の気持ちを思うと、とてもそれを口にだす気にはなれない。友達がいのない奴《やつ》だとは思われたくない。
寒さに足踏みし、隣りの部屋で寝ている妻と子に気がねしながら、須永の話をきいていると、自分までもが気持ちが滅入《めい》ってくるのをおぼえる。やりきれんよ、という須永の湿った声が、頭のなかにくりかえしきこえてきて、なんだかそれが自分の言葉であったかのような錯覚にとらわれる。
「それでもな、おれが耳のうしろを掻《か》いてやると、嬉《うれ》しそうに体をすり寄せてくるんだ。もう眼なんかほとんどみえないはずなのになあ」
「奥さんはどうしてる?」
「泣いてるよ」
「いや、そうじゃなくて……もう八カ月なんだろう」
「九カ月に入ってるよ」
「それは、まあ、ネコのことも心配だろうけど……奥さんの体のこともすこしは心配してやらないと」
「おまえなあ、おまえそんなことをいうけどなあ」
須永の声が興奮したようにたかくなり、ちょっと間《ま》をおいてから、いつものかきくどくような調子に戻る。「女房のやつ、子供を産むのが怖くなったなんて、いいだしやがってなあ……いままでカゼひとつひかなかったタマが、こんな病気にかかるんだから、きっと子供も無事には生まれてこないって……そんなこと、いいだしやがってなあ」
「なにをバカなこといってるんだ。そういうときには、おまえがしっかりしなければ駄目じゃないか」
「それはわかっているんだが……タマが苦しんでいるのをみるとなあ」
「………」
「いっそ安楽死させてやろうかとも考えるんだが……この病気は万にひとつ、なにかの拍子で治ることもあるって、医者がそういうんだよ。それを考えると、安楽死の決心もなかなかつかなくて」
「………」
「おい、きいてるのか」
「きいてるよ」
「おまえなんかからみると、大の大人がネコなんかのことで悩んでいるのは、滑稽《こつけい》に思えるだろうなあ」
「そんなことはない」
私は首を振った。
「おれのお袋もネコ気違いだったからな。これでもネコ好きの気持ちはよくわかるつもりだよ」
──花曇り、というのか、春さきのうす曇りの多いころになると、決まって私は体調を崩す。
鼻の奥のほうに、なにか揮発性の薬でも塗られたような、ツンとした痛みを感じ、だらしなく鼻水が出る。歯茎《はぐき》が腫《は》れあがってしまい、歯のかみ合わせがどうにもたよりなく、一日に何度となく顎《あご》に手をやらなければならない。微熱に悩まされ、なにを考える気にもなれず、なにをするのも面倒くさい。
なんといったらいいのか、寝床から起きだしたつもりなのが、その実、起きだしたのは抜け殻にすぎなくて、御本尊はまだ眠り呆《ほう》けているとでもいうような、なんとも心細い有様《ありさま》なのだ。
要するに、現実感が希薄になるのだ。なにか忘れ物をしているような、宿酔《ふつかよい》の朝のような、けだるく、なげやりな気分。そんな状態がまずは節句までつづく。これが空に鯉《こい》のぼりがはためく季節になると、微熱もきれいにひき、心身があらわれたように爽快《そうかい》になるのだから、自分でもふしぎなようなものである。
しかし、とにかくこの時期の私は半病人にちかい状態だ。なかば熱にうかされ、うつらうつらとしながら、なんとかこの時間を大過なくやりすごすことばかりを念じて、かろうじて毎日を送っている──自分で事務所を持って、インテリア・デザインという仕事をしているからいいようなものの、これがふつうの勤め人であったら、まず社会から落伍《らくご》せざるを得ないだろう。
私がこんなふうな厄介《やつかい》きわまりない体になってしまったのも、もとはといえば母親のせいだ。
というと、なにやら因果めくが、もちろんそんな大袈裟《おおげさ》な話ではない。
私は五つのときに叔父のところに養子にだされている。父親はその半年まえに事故で死んでいたし、いまとなっては母が経済的に苦しんでいたということも理解できるから、べつにそれを恨みにも思っていない。養子にだされたといっても、親戚《しんせき》の家であるから、いつでも好きなときに母に会えたし、叔父夫婦は私を可愛がってくれた。不満はない。
それに、私はよほど可愛げのない子供であったらしく、さして母親を恋しいとも、会いたいとも思わなかったようだ。要するに、肉親の縁が薄かったということなのだろう。
べつに会いたいとも思わなかったのは、母のほうでも同じであったらしく、私たち親子の関係はほんとうに淡々としたものであった。そこには新派大悲劇的な要素はまったくなかった。こういう血筋であるのかもしれない。
「子供よりはネコのほうがよほど可愛いよ。冷たい母親だと思うかもしれないけど、嘘《うそ》をついても仕方ないからね」
あれは私が中学生のときだったか、それとも高校生になっていたか、母親がなにかのおりに、ふとそう洩《も》らしたのを憶えている。
そのときには母はもうまるまると肥《ふと》っていて、年よりはかなり老《ふ》けてみえ、なるほど、その膝《ひざ》のうえには、これもよく肥った三毛ネコが気持ちよさそうにうずくまっていた。私なんかよりは、そのネコのほうがよほど彼女の子供にふさわしいように思えたものだ。
くりかえすようだが、べつに私はそのときの母の言葉をひどいとも、冷たいとも思わなかった。むしろ本心を吐露《とろ》した、正直な言葉として好ましくさえ思ったようだ。第一、私にしてからが、縁の薄い母親のことなんかほとんど想いだしもせず、同級の女の子に夢中になっていたはずなのだから。
さて、私のこの時期の微熱のことだが、これはやはり母に責任があるといわざるを得ないだろう
あれは養子にだされる以前、それも直前のことであったように記憶しているから、私が五つのときのことだ。
私は母といっしょに、近くの山林に死んだネコを埋めにいった。いや、私が正確に憶えているのは、白木を薄く削った蒲鉾板《かまぼこいた》ほどの小さな墓のまえで、母親が手をあわせているその姿と、頭のうえにこわいぐらいに咲き乱れている桜の花、ただそれだけである。
それだけだが、そのときの情景は怪しいばかりの鮮烈さをともなって、いまも私の脳裡に残っている。ドンヨリと曇った空に溶けこむようにしてひろがっている桜の花、墓に向かって一心に祈っている母のうしろ姿。忘れられない。
叔父の話によると、私はもらわれていった翌年の春から、かならず微熱をだし、体調を崩すようになったということだ。
おそらく桜の木のしたで、ネコの墓参りをしたことが、精神的になんらかの動揺を与え、そうなってしまったのではないかと思う。べつに確信があるわけではないが、そんなことがあってもふしぎではないような気がする。
いまとなって考えれば、春さきのこの微熱が、母親が私に残してくれた唯一の遺産ということになる。
母は去年の暮れに死んだ。
癌《がん》だった。
最後まで縁の薄い母子であったが、私は意外なほどとりみだし、涙をこぼした。
いや、正確には、母が私に遺《のこ》してくれたものは、春さきの微熱ばかりとはいえない。彼女は一匹の老猫を遺していったのだ。
私は決してネコ好きとはいえないが、その老猫はひきとらざるを得なかった。せめてもの罪滅ぼしだなどと殊勝《しゆしよう》な気持ちからではない。たんに、そのままには放っておけなかっただけなのだ。
いまもその老猫は私の家にいる。
飼い主がかわったことをべつに気にもとめていないようで、ときおり私の足にすり寄ってきたりする。
考えてみれば、ネコという生き物は、いつも私の人生に淡い影をおとしていたような気がする。
母親が異常なネコ好きであったのもそうなら、こうしてそのネコをひきとらざるを得なくなったのもそうだ。
友人の須永がこれまた非常なネコ好きで、ネコが病気で苦しんでいるのを見るに耐えかね、深夜、私に電話してくるのもそうだといえるかもしれない。
妻はいくらなんでも非常識だと怒るのだが、私にはそうとばかりもいいきれないような気がする。結婚して八年めにして、須永の妻君はようやく妊娠した。高年齢出産ということで、いいかげん神経をたかぶらせているところへ持ってきて、今度のネコの病気だ。須永がいささか神経衰弱ぎみになるのも当然の話ではないだろうか。
友人として、わかってやらなければならないと思う。
妻子が寝たあと、私はひとりでダイニング・テーブルに腰をおろし、待っている。
けだるいような、どこか心地いいような微熱に身をゆだね、ボンヤリと電話をみつめている。ときには妄想とも、夢ともつかない、ちぎれちぎれの想い出にひたっていることもある。
電話が鳴りひびく。
受話器をとった私の耳に、須永のなかば泣いているような、陰鬱《いんうつ》な声がきこえてくるのだ。
「やりきれんよ……切なくてなあ、ほんとうに切なくてなあ……」
──その日も私は微熱があり、朝から後頭部に固い|しこり《ヽヽヽ》のようなものを感じていた。
雲とも霞《かすみ》ともつかないものが、空に灰いろにたちこめ、埃《ほこ》りに汚れた桜の花びらが、いたるところで舞っていた。
なにもかもが精彩を欠き、人々がみな欠伸《あくび》を噛《か》み殺しているような、そんなけだるい日だった。
その日、私は親戚の法事でS町まで出掛けた。
新宿から中央線、青梅線で一時間、青梅駅からさらにバスで二十分ほど行ったところに、S町はあった。かつては青梅街道の宿場として栄えた町で、いまも草葺《くさぶ》きの家が多く残っている。
S町には私たちの本家があり、私自身も五つになるまで、母といっしょにこの町で暮らしていたのである。
親戚といっても、往き来は絶えてなく、ふだんの無沙汰《ぶさた》をあらためて詫《わ》びるだけの、私にはなんとも退屈な法事であった。
よほど気疲れしていたらしく、私は法事が終わると、いつになく解放感をおぼえ、昼間から酒を飲みたいような気分になった。アルコールに弱い私には滅多にないことだが。
駅まえの蕎麦《そば》屋に入り、名物の手打ち蕎麦と酒を注文し、私はホッと一息ついた。
疲れで熱がたかくなったらしく、首筋の凝《こ》りが痛いほどになり、眼にはだらしなく涙が滲《にじ》みでていた。そのくせ神経だけがたかぶっていて、帰って休もうという気にもなれなかった。
先に運ばれてきた熱燗《あつかん》の酒を、舐《な》めるようにして飲んでいるうちに、私はしだいに陶然としていった。微熱ともつかず、酔いともつかず、ホンワカしたものが体のなかに膨れあがってきて、熱い息を吐きながら、朦朧《もうろう》とした気分にひたっていた──離魂現象というのか、私の魂が肉体の束縛を逃れ、蕎麦屋の天井ちかくに浮かびあがり、もうひとりの自分が酒を飲んでいるのを眺めているような、そんな感じだった。
店の老婆が蕎麦を運んできた。
私は酒のお替わりをたのみ、蕎麦をすすりはじめた。
一本一本手でちぎり、山菜をあしらった、ちょっと街ではお目にかかれそうもない蕎麦だった。私にはくわしいことはわからないが、どうやら薬味もこの地方独特のもののようであった。
たとえ母親に連れられて、この店に入ったことがあったとしても、そんな昔の味を憶えているはずはないのだが、私はその蕎麦になにかなつかしさのようなものさえ感じていた。
蕎麦をすすりながら、フッと涙ぐんだりしていたのだから、たしかに正気の沙汰ではなかった。
蕎麦を食べ終わったとき、私はほとんど放心状態におちいっていた。自分が自分でないような、いや、自分がだれであろうといっこうに構わないような、一種なげやりな自分になっていたのだ。
そして、蕎麦屋の壁に貼《は》られているお札《ふだ》のようなものを、みるともなくみていた。
光明遍照十方世界
願以此功徳平等施一切
そのお札にはそう書かれていて、左下の隅のほうに『S町家畜霊園・仏教大善会』と記されてあった。要するにネコや犬を埋葬し、供養するための霊園のようだった。
私は家畜霊園という言葉にこだわりをおぼえた。墓に向かって手をあわせている母親のうしろ姿、重たげに花を咲かせている桜の樹が、脳裡によみがえってくる。白木のちいさな墓、舞い散る桜の花びら。
私は店の老婆にこの仏教大善会≠ヘ古くからS町にあるのかと訊《き》いた。
「はい、ご住職さまはもうずいぶんお年をめしたかたで、昔から犬やネコの霊をとむらうのにそれはご熱心で……息子さんの代になってから、大善寺という名を仏教大善会≠ニいうモダンな名にかえなさって……」
「そこに桜がありますか」
「桜? はい、それはいくらでも」
母がネコを埋葬したのは、この仏教大善会≠ノ間違いないようだった。私は胸に湧き起こってくるなつかしさ、ほとんど郷愁の念にも似たなつかしさを抑えることができなかった。そして、酔狂もここにきわまったというべきか、あの情景のなかにもう一度自分の身をおいてみたくなったのである。
ちょっと冷静に考えれば、あんな墓ともいえないような墓が残っているはずがないことはわかりそうなものだったが、そのときの私はやはりふつうではなかったようだ。
熱のせいで、あるいは酔いのせいで……
「お勘定──」
そういって立ちあがった拍子に、体がちょっとふらついた。
徳利《とつくり》がテーブルから落ち、思いがけず大きな音をたてて、床《ゆか》に砕け散った。
──熱はいっこうに収まらず、酒のせいでいくらかひどくなりさえしたようだ。
両耳の下のあたりが突っ張ったように痛く、鼻の奥から眼にかけて、くしゃみをする寸前の|あの《ヽヽ》冷えびえとした無力感のようなものがあった。ふみしめる足にも力が入らず、私は何度も立ちどまり、汗を拭《ぬぐ》わなければならなかった。
眼をとじると、瞼《まぶた》の裏の闇《やみ》のなかにポッカリと赤い花がひらいた。
仏教大善会≠フ本堂はどうやら最近手を加えられたらしく、ま新しいコンクリートの輝きが、切り貼り細工のように古い建物をつなぎあわせ、奇妙にちぐはぐな印象をもたらしていた。
仏教大善会≠ニ名前はごたいそうだが、ありていにいえば、どこの町にも一つや二つはあるちいさな寺にすぎない。名前をかえ、家畜専門の霊園にふみきったところに、なんとか御供養料を増やしたいと願っている、二代目住職の苦労のほどがうかがわれるようだった。
本堂の裏にはちょっとした山がひろがっていて、どうやらそこが犬やネコたちの霊園になっているらしかった。
桜の花に覆われた|そこ《ヽヽ》で、おさない私は母といっしょにネコの墓参りをしたのにちがいなかった。
ひとりの老人がポカンと空を仰ぎながら、境内に立っていた。
口を大きくあけながら、舞い落ちてくる桜の花びらを懸命に食べようとしているようだった。
神経を病んでいるとしか思えない姿だった。老齢のために、いささか惚《ぼ》けているのかもしれない──開襟《かいきん》シャツに作業ズボンという姿だったが、どうやらその老人が先代の住職であるらしかった。
「あの──」
私は声をかけた。
ふりかえった老人の唇に、桜の花びらがこびりついているのをみて、私はつづける言葉をうしなった。
いったい桜の花びらを食べている老人にかけるべき、どんな言葉があるというのだろうか。
いや、それよりもなによりも、私はなにを訊こうとしたのか。三十年ちかくまえ、母といっしょにネコの墓参りをしたのだが、その墓がどこにあるのかご存知ないでしょうか、と訊けばいいのだろうか。蒲鉾板ほどのちいさなネコの墓のことを。
私は自分の行為が常軌を逸しかけていることにようやく気がついたのだった。
「やあ、あなたはもしかしたら、|たえ《ヽヽ》さんの息子さんではないですかな」
だが、おどろいたことには、ふりかえった老人はそう私の母の名を口にしたのである。いかにもなつかしそうに、相好《そうごう》をくずしながら。
私は立ちすくむほかはなかった。頭がズキズキと疼《うず》きはじめる。ただでさえ熱で朦朧としている|その《ヽヽ》非現実感が、いっそうつのってくるのをおぼえた。
「そうだ、たえさんの息子さんだ……眼のあたりなんかそっくりだ。生き写しだといってもいいぐらいだ……やあ、よく来てくださいましたな。これは嬉しい」
しかし、私が呆然《ぼうぜん》としていることなんかにはおかまいなく、老人はひとりでまくしたてていた。躁的《そうてき》な、ちょっと異常に思われるほどの機嫌のよさだった。
「母をご存知なのですか」
私が訊いた。
「ご存知もなにも、たえさんはよく遊びにおいでになったから……わしもネコ好き、たえさんもネコ好き、二人でしょっちゅうネコ談義に花を咲かせたもんですわ。あんな可愛い生き物はほかにはおらんて、な」
「でも、母は十五年ほどまえにS町をはなれているんですよ、東京のアパートで一人暮らしをはじめたんです……いやあ、たいへんな記憶力ですね」
「それは、あんなネコ好きの人はめったにおらんから」
老人はクスクスと笑いながら、いった。「わしもネコ好きなことにかけては、人には負けんつもりだが、たえさんはネコ気違いじゃったから……息子さんをまえにして、こんなことをいうのは失礼だが、じつの子供よりネコのほうがよっぽど可愛いって、それがたえさんの口癖だった……」
「………」
私は微笑した。
考えてみれば、この先代の住職が母を知っていることはそれほどおどろくに当たらないかもしれない。S町はつい数年まえ町に昇格したばかりで、S村と呼ばれていたころは、いまよりもずっと人口がすくなかったはずである。そんな狭い土地に大のネコ好きが二人いれば、彼らが知りあいにならないのが、むしろふしぎなようなものだった。
「たえさんはほんとうにネコが好きで、ご近所の家のネコが死んでも、それはもう口惜しがったものでした」
老人は言葉をつづけた。「いまでもよく憶えているんですが、ご近所にやはりネコを可愛がっている若夫婦がいましてな。たえさんとは気があって、よく往き来していたんですが、そこの若い奥さんに子供が授かったとたんに、とんでもない話だって怒りだして、その家とは絶交ですわ。それぐらいネコを可愛がっていたんですな」
「どうして子供ができると、とんでもない話なんですか」
私には老人のいっていることが理解できなかった。
「やあ、これは若い人はご存知ないかもしれませんな。俗に、運を食いあうといいましてな。ネコを可愛がっている家に、赤ん坊が授かると、ネコと赤ん坊とで運≠とりあうのですよ。ふしぎなもので、かならずといっていいぐらい、その家のネコはいなくなるか、死ぬかします。赤ん坊の運≠ェネコの運≠ノ勝つのですよ……たえさんはそれを知っていたから、とんでもない話だと怒ったんですな。そのときの、たえさんの言いぐさがいい。わたしだったらネコを死なせるまえに、赤ん坊を始末するって……いやあ、あの人はほんとうにネコが好きだった……」
「わかります」
私は笑いだした。たしかに母だったらそれぐらいのことはいいかねない──子供よりネコのほうがよほど可愛いよ……そう宣言したときの母の顔がまざまざと脳裡によみがえってくる。
「ところで、妹さんはお元気かな」
ふいに老人が口調をかえて、訊いてきた。
「え?」
「いや、妹さんはお元気ですか。もちろん、もう嫁《とつ》がれたろうが」
「私には妹なんかいませんが……まったくの一人っ子ですから」
私は微笑しながら、答えた。老人がだれかと勘違いしていると思ったからだ。
「妹さんがいない?」
老人は眉をひそめた。
「ええ」
「そんなはずはない……わしはたえさんが生後|一月《ひとつき》ぐらいの女の赤ん坊を抱いている姿をたしかにみたことがある。あんたはそのとき、そう、五つぐらいだった……」
「どなたか人違いをなさっているのではありませんか」
「人違いなんかであるものか。わしはまだ惚けてはおらんぞ」
老人はうってかわって不機嫌な口調になって、私を睨《にら》みつけた。怒りで体が震えてさえいる。
こんなふうに感情の起伏が激しいのこそ、耄碌《もうろく》をきたしているなによりの証拠なのだが、それをこの老人にいってみてもはじまらない。これ以上老人を怒らせるまえに、一刻もはやく退散すべきだった──霊園に足をふみ入れる気ももうなくなっていた。三十年ちかくもまえのネコの墓をさがそうとしている自分が、さすがにバカらしく思えてきたからだ。
私は挨拶《あいさつ》をして、老人に背を向けた。
老人は返事をしようともしない。
やはり老人は惚けているのだ。耄碌して、幼児化し、ちょっとでも意にそまないことがあると、子供のようにすぐに怒りだす。だからこそ、だれかと人違いをして、私に妹がいるなどとバカなことを……
熱でけだるく疼いている頭に、奇妙な考えが泡のように浮かんできて、破裂した。一瞬、激しいめまいをおぼえ、スッと暗くなった視界に、桜の花びらが白い残像になってただよっているのがみえた。
どうしてあの墓が死んだネコのものだったと断定できるのか……
もちろんネコのものでなければならないのだ。それ以外には考えられない。母がいったいほかのなにを埋葬し、墓をつくったというのだろうか。
私は懸命に記憶をまさぐった。しかし、どうしてもネコが死んだときのことを想いだせない。五つの子供にそれを憶えていろというほうがむりだ。想いだせるのは白木のちいさな墓、そして舞い散る桜。
「俗に、運を食いあうといいましてな。ネコを可愛がっている家に、赤ん坊が授かると、ネコと赤ん坊とで運≠とりあうのですよ。ふしぎなもので、かならずといっていいぐらい、その家のネコはいなくなるか、死ぬかします。赤ん坊の運≠ェネコの運≠ノ勝つのですよ……」
耳もとで異常にはっきりと老人の声がきこえてきたような気がした。
私は反射的にふりかえったが、老人はただ空を仰いで、桜の花びらを食べようとしているだけだった。もう私の存在などすっかり忘れてしまっているらしい。
「もしネコの運≠ェ赤ん坊の運≠ノ勝ったらどうなるのですか」
私はそうつぶやくようにいったが、老人は視線を向けようともしなかった。
私はふたたび歩きだす。
頭が痛い。熱でしなびた唇が痛い。
いや、ネコの運≠ェ勝ったのではなく、だれかがそうなるように手をかしたのだとしたら、どうだろうか。だれかが……
「子供よりはネコのほうがよほど可愛いよ。冷たい母親だと思うかもしれないけど、嘘をついても仕方ないからね」
私はとんでもない妄想を抱《いだ》きはじめている。熱にうなされ、眼をあけていながら、悪夢をみている。神経が病んでいるのだ。
だが、どんなに懸命に自分を説得しようとしても、胸の底から真っ黒に染めつくされた疑問がふきあげてきて、その努力をすべて徒労に終わらせてしまう。
|あの墓はほんとうにネコのものだったのか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……
気がついてみると、私は仏教大善会≠フ外の電話ボックスのなかにいて、叔父に電話していた。
「教えてください、叔父さん、ぼくには妹がいませんでしたか」
叔父が電話口にでるなり、私はそう訊いた。
「……なにをバカなことをいってるんだ」
叔父はそう答えたが、一瞬、その口調がよどんだようにきこえたのは、私の気のせいだったろうか。
「ぼくには妹はいなかったんですね」
「おまえは一人っ子だ。なにを当たりまえのことを、いまさら訊いてくるんだ。バカバカしい……おまえ、大丈夫か。ちょっと声の調子がおかしいが、どこか具合でも……」
私は電話を切った。
自分が叔父の言葉をすこしも信じられなくなっていることに気がついたからだ。叔父とこれ以上話しても、時間の無駄というものだった。
そして、電話ボックスの窓から仏教大善会≠フ霊園をしばらくみつめていた。
私はやはりあそこへ行くべきなのだろうか。あそこへ行って、あの墓をさがしだし、そしてその下になにが埋められているかを自分の眼でたしかめてみるべきなのだろうか。
ドアをあけたとたん、桜の花びらがドッと電話ボックスのなかに舞いこんできた。
──視界はすべて桜の花の淡いピンクで埋めつくされていた。
それはどこか皮膚《ひふ》を透かしてみえる血管を連想させる色で、生々しく、官能的でさえあった。桜の樹の下を歩いていると、しだいに肌寒くなってくる。かろうじて平衡をたもっている精神状態が、グラリと傾《かし》いでいきそうな危《あや》うさを感じるのだ。
霊園には人影はなく、異様なほどしんと静まりかえっていた。
スローモーション・フィルムをみるようにゆっくりと舞い落ちてくる桜の花びらが気色わるかった。喉に桜の花びらをつまらせて、死んでいる自分の姿を思い浮かべると、体が震えだすほど恐ろしかった。
私の眼のまえに|あの《ヽヽ》墓があった。
もちろん、なつかしさはおぼえない。なつかしくなんか感じるはずがない。
私はしばらくためらっていたが、やがて意を決して、墓のまえにうずくまり、指で土を掘りはじめた。
そんなに深く掘る必要はなかった。
すぐに指のさきになにか固いものが触れ、私はそれをゆっくりと土のなかから掻きだした。
私は赤ん坊の大腿骨《だいたいこつ》を手にしていた。
妹の骨だった。
私は悲鳴をあげ、すすり泣き、両手を顔のまえでふりまわして、そして自分がキッチンのダイニング・テーブルに突っ伏し、眠りこけていたことに気がついた。
明かりを消したキッチンに、電気時計の時を刻む音だけが、チッ、チッ、チッと正確にきこえていた。
あいかわらず頭が熱っぽく、おこりにかかったように全身が震えていた。
隣りの部屋では、私の悲鳴におびえた妻と子が抱きあっているにちがいない。きのうS町から帰ってきてからというもの、私は悲鳴をあげたり、すすり泣いたりをくりかえしているからだ。
私はけっきょく仏教大善会≠フ霊園に足をふみ入れようとはしなかった。三十年ちかくもまえのあんな墓が残っているとは思えなかったし、なにより真相をたしかめるのが恐ろしかったからだ。
私は右の掌をダイニング・テーブルにこすりつけた。
夢のなかのあの骨の感触がまだ掌に残っている……
電話が鳴った。
「おい、うちのネコが治ったよ」
受話器を耳に当てたとたん、須永の嬉しくてたまらないというような声がとびこんできた。「会社から帰ってきたら、タマのやつピンピンして、ミルクなんか飲んでいやがるんだ。いやあ、奇跡ってのは起こるもんなんだなあ」
「ネコが治った……」
私はボンヤリとつぶやいた。
──俗に、運を食いあうといいましてな……頭のなかであの老人の声がきこえていた。ネコを可愛がっている家に、赤ん坊が授かると……
「おまえにもいろいろ心配をかけたが、医者の話によると……」
「奥さんのほうはどうなんだ?」
私は須永の言葉をさえぎって、訊いた。
「え?」
「いや、奥さんとお腹《なか》の子供は大丈夫なんだろうな」
「おかしなやつだな。異常なんかあるはずないじゃないか……それで、タマのやつなんだけど、おれが会社から帰ってくると……」
私は受話器を置いた。
そして、両手に顔を埋めて、闇のなかでしばらくジッとしていた。
かすかにネコの鳴き声がきこえてきた。
母からひきついだあの老猫がどこかで鳴いているのにちがいなかった。
──ネコの寿命はどれぐらいなんだろう……私は濁った頭の片隅で、そんなことを考えていた。子供の運≠食べたネコだったら、もしかして三十年ちかくも生きるのではないだろうか。そうだとしたら、あれがその|ネコ《ヽヽ》だということになる。
私はクスクスと笑いだした。
熱のために、なにかにつけて締まりのなくなっている私は、いつまでも笑いつづけ、そして涙を流した。
笑いながら、今日の午後、妻がどこかの病院に電話していたのを、ボンヤリと想いだしていた。
もしかしたら、私はこのまま気が狂っていくのかもしれない。
撃たれる男
衝撃波が頭をたたき、一瞬、彼は意識が遠のいていくのを感じた。
うすれていく意識のなかで、車の走り去っていく音がきこえてきた。
ギシッ、と背骨がいやな音をたててきしみ、その苦痛で頭がはっきりした。よほど強く背中を打ったものらしく、しばらくは体がしびれて、動くことができなかった。エビのように体をまるくしていた。
口のなかにかすかに泥《どろ》の味がした。首筋の汗が気持ちわるい。
やがて、彼はゆっくりと足をのばした。うめき声をあげながら、地面に腹這《はらば》いになった。それだけで、疲れた。ちょっと休んでから、両手の指を動かし、しびれが残っていないのをたしかめた。
そして、こめかみにソッと指を這わせた。
一筋、みみず腫《ば》れになっていた。
いまはなにも感じないが、そのうちひどく痛みだすにちがいない。
至近弾だった。よほど強力な大口径の銃で撃たれないと、こうはならない。運がわるかった。いや、運がよかった。もう数センチ弾丸が右に寄っていたら、頭があとかたもなく消滅していたはずだった。
彼はこめかみから指をはなし、その指をみつめた。指は震えていた。
掌をズボンにこすりつけたときに、手の甲になにか硬いものが触れた。
地面に自動|拳銃《けんじゆう》が落ちていた。三十二口径のようだった。
彼はその拳銃を手にとって、十連の弾倉を抜き、七発の弾丸が入っていることをたしかめてから、ふたたび弾倉室に戻した。鉄の噛《か》みあう音が小気味よくひびいた。
彼はしばらく拳銃をみつめていた。拳銃は体の一部であるかのように、手になじんで感じられた。気持ちが落ち着いてくる。
照準をあわせる必要はなかった。それは何度も試射をかさねた、彼自身の銃であるからだ。
彼の眼をふいに動揺の色が過《よぎ》った。
なるほど、たしかにこれが彼の銃であることは間違いないようだ。しかし、それではいったい、彼は何者なのだろうか。
想いだせなかった。
どうしても想いだせなかった。
自分の名前を想いだそうとすると、頭が割れるように痛くなってくる。耐えられない痛みだった。涙が滲《にじ》んできて、かすかに吐き気をおぼえた。
彼はあえいだ。慄《ふる》えた。恐ろしかった。
名前ばかりではなく、なにひとつとして想いだすことができないのだ。
ここがどこであるのかもわからなければ、どうして自分が銃なんかを持っているのかもわからない。わかっているのは、どうやら自分がだれかに撃たれたらしいという、ただそれだけであった。
彼は慌てて周囲をみわたした。
真昼だった。
カッと照りつける陽光の下、自動車や冷蔵庫などのスクラップの山がどこまでもひろがっていて、鈍く光を反射していた。鉄屑《てつくず》はフライパンのように灼《や》け、陽炎《かげろう》をたちのぼらせていた。人影はなかった。
波の音がかすかにきこえてくるが、海はみえない。
どうやら、どこかの埋め立て地のように思われた。確信はなかったが、そう思われた。
彼は上半身を起こした。
こわれた電気洗濯機に背中をもたせかけ、左手の甲でひたいの汗を拭《ぬぐ》った。右手はしっかり拳銃を握っていた。拳銃が唯一のよりどころだった。
彼は考えた。
考えたが、なにも浮かんでこなかった。なにかを考えるには、日差しが強すぎた。
至近弾を受け、そのショックで、一時的に記憶を喪失してしまったのではなかろうか。
いや、これがほんとうに一時的な記憶喪失であるかどうかはわからない。そうであって欲しかったが、そうであるという根拠はどこにもない。
思いついて、ポケットをさぐってみたが、身分を記したものは、なにひとつ出てこなかった。タバコにライター、それに一万円札と小銭の入った財布。
また、ひたいに汗が滲《にじ》みでてきた。
そして、そのときになってようやく、車のエンジン音が遠ざかっていくのを、耳にしたことを想いだした。
それがだれであったにせよ、とにかく彼を撃った人間はこの場を立ち去ったのだ。
疲れがドッと体の底からふきあがってくるのを感じた。骨がきしみ、バラバラになってしまいそうな疲れ。このまま、ここで眠ってしまいたかった。
彼は眠らなかった。眠れなかった。
なにもかも忘れてしまった人間に、どうして安閑と眠ることが許されるだろうか。
彼はふらつく足をふみしめるようにして、立ちあがり、スクラップのかげから歩きだした。
陽《ひ》の光がまぶしかった。
彼は眼をしばたたかせた。掌で何度も強く首筋をたたいた。頭痛がした。
スクラップ置き場はアスファルトで舗装されてあって、白く、埃《ほこ》りっぽく、乾燥しきっていた。
広い敷地だった。
いたるところに陽の光が満ち、鉄屑がふんだんにあり、そしてそれだけしかなく、陽炎のなかで、そのすべてが揺らめいていた。
アスファルトのうえにクッキリとタイヤのあとが残されていた。
車はかなり乱暴に発進し、遠くのスクラップの山をまわって、走り去っていた。
彼はしばらくそのタイヤのあとをみつめていた。なにかが気にかかるのだが、なにが気にかかるのかわからない。
彼はタイヤのあとを眼で追い、考え、それから首をふった。
どうやら、彼はいくぶん神経質になっているようだ。なにを気にする必要があるというのか。タイヤのあとは、黒く、はっきりとアスファルトのうえに残されている。おかしなところはない。
彼は苦笑を浮かべ、歩きだし、そしてタイヤのあとがあまりにもはっきりとしすぎていることに気がついて、その足をとめた。
乾ききっているはずのアスファルトのうえに、どうしてあんなにもはっきりとタイヤのあとが残されているのか。
彼はふりかえらなかった。周囲をたしかめようともしなかった。ただ、走りだした。
銃声がきこえ、足元のアスファルトに火花が散った。チュン、という小鳥のさえずるような音がして、股《もも》に灼けつくような痛みをおぼえた。一瞬、足がもつれたが、転ばなかった。跳弾がかすめただけなのに、悲鳴を抑えることはできなかった。
陽の光が白く燃えあがっていき、眼のまえで爆発したかのようだった。その白い炎をつんざくようにして、二発、三発と銃声がつづいた。撃たれるという恐怖に、うなじの毛がちりちりと逆立っていた。
走った。走りつづけた。
四発めの銃声が鳴りひびくのと、彼が身をおどらせ、頭からスクラップの山に突っこんでいくのとが、ほとんど同時だった。
一回転し、そのままスクラップのうえを転がり落ちていく。
こわれたミシン、オイルの空《あ》き罐《かん》、車の部品などが体のうえに落ちかかってきて、けたたましい音をたてた。
アスファルトのうえに投げだされると、すかさず膝《ひざ》で立ち、左手で右の手首を支えるようにして、拳銃の引き金を絞った。
銃声はスクラップの山に反響し、ぐわあんという余韻を残した。
そして、静かになる。
スクラップ置き場のしんとした静寂のなかに、ただ空しく、明るい夏の日差しだけが燃えあがっていた。
ふたたび波の音がよみがえってくる。
彼はスクラップのかげに身を潜めながら、荒い息をついていた。失望し、そして怯《おび》えていた。拳銃を撃ったのは、相手がどこにいるのかたしかめたかったからで、むだ弾になるのは承知のうえだった。しかし、相手が応戦してこない以上、それを知る術《すべ》はない。
銃声はさほど大きくなく、相手の武器が拳銃であることが知れた。だとすると、少なくとも半径三十メートル以内のどこかに身を隠しているはずなのだが、どんなに視線を凝《こ》らしても、スクラップの山以外はなにもみえなかった。
このままでは、彼に勝ちめはない。
とにかく、相手がプロであることはまちがいないようだった。タイヤのあとをはっきりと残し、自分が立ち去ったようにみせかけるトリックなど、なかなかどうして堂に入ったものではないか。油断できない。
彼は鉄屑に背中をもたせかけ、眼を閉じ、しばらく動悸《どうき》がおさまるのを待っていた。
銃把《じゆうは》を握っている指の関節が、白くこわばっていた。
眼をあけ、唇を舌でぬらした。
ほとんどボタンをひきちぎるようにして、乱暴にシャツを脱ぎ、それを左手に持ちかえた。深々と息を吸い、頭ごしにシャツをたかく投げあげると、すばやく身をひねり、拳銃を構えた。
シャツは光のなかを舞った。
地面に落ちた。
銃声はきこえてこない。
彼はそれでも鉄屑のうえに肱《ひじ》を固定し、辛抱強く拳銃を構えていたが、やがて大きく息を吐きだすと、緊張をといた。頽《くずお》れるようにして、そのままスクラップのかげにうずくまってしまう。その顔に苦い笑いがゆっくりとひろがっていった。
もちろん、こんな常套《じようとう》的な、むしろ陳腐とさえいえるようなトリックにひっかかる相手ではない。相手がシャツを人間と誤認し、発砲でもしようものなら、彼はいささか幻滅をおぼえたにちがいないのだ。
彼はちょっと笑い声をあげ、それからうずくまった姿勢のまま、ジッとしていた。
考えた。
持久戦に持ちこまれてしまっては、明らかに彼のほうが不利だった。おそらく彼のほうがより体力を消耗させているだろうし、焦《あせ》りもある。彼が疲れはてるか、動揺するかして、隙《すき》をみせるのを、相手はただ待ちさえすれば、それでいいのだ。分《ぶ》がわるい。なんとかしなければならなかった。
時間は過ぎていったが、彼はうずくまったまま、動こうとしない。その顔に、焦燥の色だけがしだいに濃くなっていった。
強い日差しが容赦《ようしや》なく、彼の肌を灼いている。
彼は溜息《ためいき》をつき、首をふると、ポケットからつぶれたタバコの箱をとりだし、一本をくわえた。そして、なかば放心したような表情で、ライターの火をタバコに近付けた。
そこで、反撃の方法を思いついた。
スクラップの山を遮蔽物《しやへいぶつ》にし、腰をかがめるようにしながら、彼は動いていた。
彼は汗だらけになっていた。鼻の先から汗がしたたり落ちていた。それなのに、悪寒《おかん》がした。
もちろん日差しが強すぎるからだが、そればかりではなく、剃刀《かみそり》の刃のうえを歩いているような危うさを、つねに感じているからでもあった。動きまわるのはいいが、不用意にスクラップのかげから首でもだそうものなら、それですべてがおしまいになるのだ。
それが、恐ろしかった。
彼が欲しいのは古タイヤだった。スクラップの山をかきまわせば、古タイヤなんかすぐにみつかるとたかをくくっていたのだが、それが意外に手間取った。チューブの切れはしはあっても、原型をとどめているタイヤとなると多くはなかった。たまに転がっていたりすると、それがスクラップの山から身をのりださなければ、手の届かないところにあったりした。
おれはだれに、どうして狙《ねら》われているのだろうか? そんな疑問が一度ならず胸を過ったが、肝心の|おれ《ヽヽ》がだれだかわからない以上、相手の正体も、その意図もわかるはずがなかった。
一度、撃たれた。
スクラップの山を登っているとき、ふいに銃声が鳴りひびき、頭のすぐうえにあった鉄屑が、白く火花を散らした。もちろん、慌てて転がり落ちるのが精いっぱいで、とても相手の位置をたしかめるまでの余裕があろうはずはなかった。
結局、古タイヤを三つ集めるのに、二十分ちかくかかったことになる。もっと欲しかったが、それが限界だった。さがせばまだあったかもしれないが、体力的に、精神的に限界だったのだ。
ちょっと目眩《めまい》がした。眼をとじると、赤く、白く、ちいさな点がおどっているのがみえた。
古タイヤを左手で支え、ライターで火をつけようとした。うすく、青い煙りがたちのぼり、ゴムはすこし溶けるのだが、なかなか燃えあがるというところまではいかなかった。ゴムの溶けるいやな臭いに、喉《のど》がいがらっぽくなり、咳《せき》込み、涙を浮かべた。悪寒がひどくなった。
彼はいらだちをおぼえ、そして落ち着かなければだめだと思った。そう思ったが、いらだちを抑えることはできなかった。
ライターが熱くなった。持っているのが耐えきれなくなり、火を消し、ライターをアスファルトのうえに置いた。タイヤはちょっとくすぶっていたが、すぐに煙りも消えてしまった。
こんなことをしているあいだにも、相手が背後にまわりこんでくるかもしれない、そう考え、一瞬、激しくあえぎ、慌てて自分自身にいいきかせた。落ち着かなければだめだ、落ち着かなければだめだ……
だめだろうがなんだろうが、こんなときに落ち着いていられるはずがなかった。
ポケットの裏地をひっぱりだして、裂き、それを手に巻きつけた。そして、もう一度ライターの火を古タイヤに近付けた。掌を焼くようなことになっても、今度こそ古タイヤが燃えあがるまで、がんばるつもりだった。ライターのガスが切れるのだけが心配だった。
古タイヤが青く、透明な炎をあげて、燃えはじめた。煙りは黒かった。
ひとつ火がついてしまえば、残りはかんたんだった。
黒い煙り、その臭いに、彼はまた咳込んだが、今度は微笑を浮かべていた。煙りがこんなにも好ましく、たのもしく思えたことはなかった。この煙りは彼の命を救ってくれるはずであった。
燃えあがる古タイヤを両手で支えると、押しだすようにして、スクラップのかげからアスファルトの道に転がした。溶けたゴムが手を焼いたが、気にならなかった。
三つの古タイヤは路上で燃え、黒い煙りをたちのぼらせた。
日の光が煙りを透かし、ギラギラと車輪の輻《や》のようにみえた。
風はなく、黒い煙りはゆっくりとスクラップ置き場にひろがっていった。
そして、なにもかも覆いつくす。
彼はスクラップのかげから出た。しばらくは這い、それから走りだした。自分がこんなにも自由だと感じたことはない。
銃声がきこえ、煙りのなかにオレンジ色の火箭《ひや》がひらめくのが、はっきりとみえた。相手が彼の姿をみうしない、狼狽《ろうばい》しているのは、まちがいないようだ。弾は体をかすめもしなかった。
彼はそのままべつのスクラップの山にたどり着くと、鉄屑のうえを登りはじめた。音をたてないようにするのに苦労した。
また銃火がひらめき、銃声が反響《こだま》した。
彼はいったんは伏せ撃ちの姿勢をとった。しかし、耐えた。相手の位置がわかったからには、可能なかぎり接近して、万にひとつもミスがないようにすべきだった。拳銃の引き金を絞るのは、それからだって遅くない。
彼は相手の背後にまわりこむように、スクラップの山を大きく迂回《うかい》し、移動した。あいかわらず汗が流れていたが、それはもう冷や汗ではなかった。
タイヤが燃えつきたのか、しだいに煙りがうすらいでいきつつあった。
煙りがうすくなり、たなびき、強い日差しがまた眼を射るようになった。
日の光はキラキラとむすぼれ、ほどけ、スクラップ置き場と、そして相手の男の姿を白く浮かびあがらせていた。
相手の男は背中しかみえなかった。エンジンを抜きとられ、ボディだけしか残っていない車の脇《わき》にうずくまっていた。銃身の長い、輪胴式拳銃を持っている。時代遅れのホンコンシャツの背中が、汗で黒くぬれていた。射撃の的のようだった。
男から五メートルとは離れていない、スクラップの山のうえに、彼はいた。
彼はいつでも男の背中を射抜くことができた。それこそ何発でも、好きなだけ撃ちこむことができた。外《はず》れるような距離ではなかった。
彼には、それが嬉《うれ》しかった。
彼は鉄屑のうえに腹這いになり、両手をのばすようにして、慎重に男の背中に狙いを定めていた。
男の命は、もう彼のものだった。彼|だけ《ヽヽ》のものだった。
男がだれだか知りたい。彼はそう考えた。どうして撃ってきたのか知りたい。そうも考えた。それがわかれば、彼自身の記憶もよみがえってくるのではないだろうか。
後はすこし有頂天《うちようてん》になりすぎていた。慎重さを逸していた。そして、そのことに気がつき、後悔するのが遅すぎた。
後は拳銃を構えたまま、ゆっくりと鉄屑のうえに立ちあがった。
立ちあがると同時に、後は自分がいかにうかつであったかを悟り、腹の底が冷たくなるのをおぼえた。車にはバックミラーというものがついているのだ。
ふりかえりざま、男は左手で撃鉄をたたくようにして、拳銃を連射した。
そのうちの一発が、彼の脇腹を抉《えぐ》った
彼もとっさに撃ちかえしたが、銃口がはねあがり、弾は男の頭上を越えていった。
彼は鉄屑を蹴るようにして、うしろざまにたおれ、そのままスクラップの山を転げ落ちていった。
一瞬、焼けた鉄の臭いが鼻をついた。硝煙の臭いに似ていた。
かなり強くアスファルトのうえに投げだされたが、その苦痛はもちろん、脇腹の痛みさえほとんど感じない。
そんなことは、どうでもよかった。ただ逃げることしか考えなかった。それ以外のことはなにも頭になかった。
彼は立ちあがり、よろけ、そして必死に走りだした。
背後から、男の笑い声がきこえてきた。勝ち誇ったような笑い声だった。
出血がひどいらしく、急速に体力を消耗しつつあるのがわかった。暑いはずなのに、震えている。走っているはずなのに、足がまえにでない。
気をうしなってしまえば楽だったろうが、ふしぎに意識だけは保たれていた。
彼は歯をくいしばり、走りつづけた。傷をおさえている指のあいだから血が噴きだしている。急に拳銃が重さを増したように感じられた。濁った視界のなかで、スクラップ置き場がメリーゴーラウンドのようにゆっくり回転していた。
彼はあえぎながら、足をとめた。
もちろん疲れはてたからであるが、どうして男が追ってこないのか、それが不審に思えたからでもあった。
ふりかえった。うめき声が洩《も》れた。
乾いたアスファルトのうえに、点々と血のあとがつづいていた。男はなにも息せききって、彼を追う必要はないのだ。血のあとをたどり、ただ獲物がたおれるのを待ちさえすれば、それでいい。
おれはキツネだ、と彼は思った。猟師に追われている手負いのキツネ……
このまま自分がだれであるかも知らずに、死んでいかなければならないのだろうか。
脇腹の痛みがひどくなった。さっき破ったズボンの裏地で、傷口をおさえたが、それがすぐに真っ赤になった。布巾《ふきん》をしぼるように、その布からもポタポタと血がしたたり落ちていた。
彼はふらつきながら走りだしたが、すぐに途方にくれたように立ちどまり、悲痛な声を洩らした。
脇腹から噴きだす血は、シャツを染め、ズボンをつたって、アスファルトを汚し、男のための目印を確実に残していた。
彼は逃げているのではない。自分で自分を追いつめているのだ。どうしたら、いいのだろうか。
陽炎のなかに、白くただよっているアスファルトの道路に、血のあとだけがクッキリとあざやかに浮かびあがっていた。
毛皮を血に染めて、走っていくキツネのイメージが、また頭を過《よぎ》った。キツネは息も絶え絶えになっていた。
一瞬、自分でもなにをしようとしているのかわからなかった。気がついたときには、踵《きびす》をかえし、血のあとをゆっくりと逆にたどっていた。
追われたキツネは、どうやって猟師から逃がれようとするか……
そのまま自分の血のあとをたどった。
アスファルトに新たな血痕が残される。
古い血は黒く乾き、新しい血はあざやかに赤い。
アスファルトの照りかえしがギラギラとまぶしかった。
五十メートルほど戻ったところで、彼は咳込みながら、立ちどまった。そして、ふりかえった。
血のあとはどうにか一筋にみえた。急に出血量が増えたように思えるかもしれないが、それはべつに不自然なことではない。もう血は黒く乾きはじめていた。
いつ男に追いつかれても、ふしぎではなかったのだが、幸運にもまだ男の姿はみえていなかった。
幸運にも? 彼は低く、ヒステリックな笑い声をあげた。泣き声に似ていた。それは自殺をしようとする人間が、首吊りのロープをみつける類《たぐ》いの幸運ではなかったか。
彼は腰をかがめ、そのまま横にとぶと、一気にスクラップの山に転がりこんだ。
鉄屑に血がしたたらないように、両手でしっかり脇腹をおさえていた。
スクラップの山のなかに、巨大な営業用の冷蔵庫がそびえていた。錆《さ》びついた、鉄の棺桶《かんおけ》のようにみえた。花模様のシールが貼《は》られてあったが、それも死者にたむける花束のようにみえた。不吉な連想だったが、そう思えた。
彼はその冷蔵庫のなかに這い込み、十センチほど隙間を残して、扉《とびら》をしめた。
冷蔵庫の暗さがひどく優しいものに感じられた。優しいのはそれだけで、蒸し風呂のようなその暑さは耐えられないほどだった。
彼は拳銃を膝のあいだに挟むようにして、苦労しながら、下着のシャツを脱いだ。
傷口をソッと指でなでた。出血はひどいが、傷そのものはたいしたことはないようであった。もう血がかさぶたのように乾きはじめていた。
シャツを腹に巻き、包帯がわりにした。気休めにすぎないが、いまの彼はなにより気休めを必要としていた。
拳銃を構え、そして待った。
それほど待つ必要はなかった。
まばゆい光のなかに男の姿が現われた。
男はタバコをくわえていた。
鼻歌を歌っているようだったが、なんの歌かはわからなかった。
三メートルとは離れていなかった。
肩と腰を狙って、二発撃った。
銃声が狭い冷蔵庫に反響し、彼の頭を蹴《け》りつけた。
二発とも命中した。
男の姿が視界から消えた。
彼は疲労が重く体にのしかかってくるのを感じた。泣きたくなるほど休みたかったが、休むわけにはいかなかった。いっそ泣きだしてしまえば、すこしは気持ちが楽になったかもしれない。
彼はほとんど這うようにして、冷蔵庫から出た。凄《すさま》じかった銃声が、まだ彼の頭をボンヤリとさせていた。
男はうつぶせになってたおれていた。アスファルトに血がゆっくりとひろがりつつあった。男の頭からちょっと離れたところに、拳銃が落ちていた。拳銃も血で汚れていた。
彼はけだるいような微笑を浮かべた。
あれほどの男が、たかが肩と腰を撃たれたぐらいで、気をうしなってしまうはずがない。最後まで勝負を捨てないその根性《ガツツ》はみあげたものだったが、残念ながら、今回はあまりにもトリックがみえすいていた。
彼が二メートルほどのところに近付いたとき、ふいに男がバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。
ナイフの刃が陽光を反射し、ギラリと彼の眼を射た。
あらかじめ予想していたことだった。
弾は、男のナイフを持っていた指をふっとばし、その胸にくいこんだ。
男は悲鳴をあげ、アスファルトにたたきつけられた。
そして、尺取虫《しやくとりむし》のようにもがいた。
彼はまったくの無表情だった。
ほんとうは腹を撃ってもよかったのだが、そうなるとあまりに痛みが激しすぎて、ききだせることも、ききだせなくなってしまう恐れがあった。
男はすぐに動かなくなった。
彼は男の体を軽く蹴った。男は眼をあけ、彼の顔を見上げた。意外に人の好《よ》さそうな顔をしていた。
二人はしばらく、たがいの眼をみつめあっていた。男がまた眼をとじそうになったので、慌てて彼は訊いた。
「なぜ、おれを狙ったんだ?」
男はうすく眼をあけた。その眼に奇妙な色が浮かんできた。
どうしてか、彼は背筋に冷たいものが這いあがるのを感じた。そんなことを訊いた自分を後悔していた。
「からかってるのか……」
男はしゃがれた声で、ようやくいった。「おめえのほうから先に撃ってきたんじゃねえか。おれはおめえの名も知っちゃいねえ。おれは……」
そこで血痰《けつたん》が喉にからんだらしく、男は力なく咳をした。痙攣《けいれん》し、靴がアスファルトを強く蹴った。何回か蹴って、そして動かなくなった。男は死んだ。
彼の手から拳銃が落ち、アスファルトにはねて、乾いた音をたてた。
ふいに暑さが耐えがたいもののように感じられた。
それなのに、また汗が冷たくなっていく。
日の光が明かるくふりそそぎ、陽炎のたちのぼるスクラップ置き場で、彼はいつまでも立ちつくしていた。
ね じ お じ
子供といっしょに公園へ行く気になったのは久しぶりだった。キャッチボールでもやろうか、五歳になったばかりの息子に突然そういうと、子供はちょっと眼をパチクリさせていたが、すぐにはしゃぎだし、台所仕事をしている母親のところに報告しにいった。
これぐらいのことで大喜びする息子をみていると、いつも自分がいかに子供のことを放ったらかしにしているかを思い知らされるような気がして、かえって小林は胸が痛むのを感じた。
「いいんですか」
妻の直子が台所から顔を覗《のぞ》かせ、そう尋ねたのは、小林が仕事で疲れているのを案じてのことだった。小林の帰宅はここのところ連日十二時を過ぎ、土日もほとんど会社に出ていた。ゴルフの道具も押入れに放り込まれたままである。
「たまにはいいさ」
サンダルをつっかけた小林の手を、子供がしっかりと握った。
マンションの駐車場では、隣りの部屋の亭主が車を洗っていて、小林をみると笑いかけてきた。
「いい天気ですな」
「そうですね」
小林も微笑をかえし、パパといっしょに公園に行くんだよ、と得意げに大声でいう子供の背中を押すようにして、外へ出た。
隣りのご主人どこかのお医者さまなんですって、直子が眼を輝かせながら、小林にそういったことがある。べつに医者が好きなわけではなく、医者の住むようなマンションに自分たちが住んでいるということが誇らしくて、それで直子は頬《ほお》を上気させていたのだ。直子にはちょっと上流志向のようなところがある。
もちろん小林は同じマンションに医者が住んでいるからといって、なんとも思わなかったが、このマンションに住んでいる人たちには医者と弁護士が多いのよ、と秘密めかして直子が言葉をつづけたときには、ちょっと気持ちが浮きたつのをおぼえた。おそらく三十代なかばのサラリーマンで、自力でこのマンションを買えたのは、自分ひとりではなかろうか、とそう考えたからだ。そして職場を変えたのは、やはり賢明な選択だったと思うのである。
小林が職場を変えてから二年になる。
それまで小林はとある大手の繊維メーカーにつとめていたのだが、好況期に大量に採用した社員のだぶつきに苦しみ、減量にやっきになっているような社の体質にいやけがさし、取り引き先のデパートから声がかかったのをいいことに、さっさと職場を変えたのである。期待にこたえなければという思いもあって、小林は家庭を犠牲にし、それこそ睡眠時間を削るようにして働いて、いまでは企画部の一課をまかされるまでになっている。
給料があがったのはいうまでもないし、ボーナスにいたっては、以前の会社の倍ちかくにはねあがっている。サラリーマンには分不相応《ぶんふそうおう》ともいえるような一等地のマンションを、こうして購入することができた。
思いきって転職したのが、やはりよかったのだ。
小林は子供の手を引いて、公園に歩いていきながら、そう自分自身につぶやいた。しかし、どうしてなのだろう? 予期していたような満足感、喜びの念はいっこうに湧いてこず、それどころか溜息《ためいき》をつきたくなるような倦怠感《けんたいかん》さえおぼえるのだ。すこし疲れているのかもしれない。
小林はときおり「辞職願い」をだしたときの、以前の上司である初老の課長の顔を想いだすことがある。五十歳をとうにこえ、肩たたきを噂《うわさ》されているその課長は、しばらく小林の顔と「辞職願い」を見比べていたが、
「きみは有能だからな。ぬるま湯のようなこんな会社に我慢できないのも、むりはないかもしれない。たしかに新天地を求めたほうが、きみのためではあるな」
やがて、低い声でそういった。皮肉をいってるような口調ではなく、しんそこからそう思っているようであった。
頭を下げて、自分の机に戻ろうとする小林に、今晩一杯つきあわないか、と課長が誘ってきた。あいにく用があるから、と小林は断わった。用があるのはほんとうだったが、そうでなくても、小林はなんとか口実をもうけて、課長の誘いを断わったにちがいない。年寄りの愚痴《ぐち》をきかされるのはたまらないからだ。
「そうか……」
課長はさみしそうに笑って、それからちょっと口ごもるようにして、いった。「わたしなんかがこんなことをいうのはなんなんだが、年寄りのはなむけの言葉として、きいてくれればいい。その……きみはすこし働きすぎじゃないだろうか。もちろん働くのがわるいことであるはずはないんだが、あまり会社、会社でそのことばかりを考えていると、いつかはそれを後悔する日が来るんじゃないだろうか。もうすこし人間は余裕を持ったほうがいいような気がする」
課長は辞めていく人間にいやみをいうような人柄ではなく、ほんとうに小林を心配しての言葉だということは、素直に受けとれた。小林は礼をいい、その夜にはもう課長の言葉を忘れてしまっていた。
それが、どうしたのだろう? 最近、おりにふれて、課長の言葉が想いかえされるのである。夢中になって働く日がつづき、なにかの拍子にポッカリと暇になる、今日のような日には、かならずといっていいぐらい課長の顔が頭に浮かんでくる。そして、おれから仕事をとったらなにが残るだろう、と自問したくなるのだ。
もちろん、それが仕事に充足している男の、ある種の自己満足をともなった感懐であることはよくわかっていた。飽食している男が、人はパンのみにて生くるにあらず、とうそぶいているようなものだ。会社の減量方針におびやかされ、いつ退職を迫られるかとヒヤヒヤしているかつての同僚たちに、こんな話をきかせたら、傲慢《ごうまん》だと怒りだすにちがいない。小林もわれながらちょっといやらしいかな、と思わないでもないのだ。
しかし、そうは思っても、ときおり体のなかを隙間風《すきまかぜ》が吹き抜けていくような気持ちにかられるのは、事実だった。それまでは否定しようがない。
あまりにも忙しすぎるからだ。課長がいったように、やはり働くにもほどというものがあるのかもしれない。しかし、小林は働くのが好きなのだ。いや、バリバリ働いていないと、不安にかられるといったほうが正確かもしれない。
ただでさえ、中途入社の小林にはなにかと風当たりが強いのだ。ここでホッと一息つこうか、というような気を起こしでもしたら、それこそだれかに足をすくわれることになるのは、眼にみえている。
仕方がないではないか。
「なにが仕方ないの?」
手をつないでいる子供が、小林の顔を見上げて、ふしぎそうに訊《き》いた。
どうやら小林はあれこれ考えているうちに、ついその考えを口にだして、つぶやいてしまったようなのだ。歩きながら、なにやらブツブツとつぶやいていたのでは、正気を疑われても仕方がない。ふつうではない。
「なんでもないよ」
小林は苦笑しながら、いった。「さあ、もっと早く歩きなさい」
要するに、小林はいまの生活に満足しているのだ。あまりにも満足しきっていて、それでちょっと拗《す》ねてみたくなっただけのことなのだ。疲れているからというより、たまに休みがとれると、いつも張り詰めている気持ちをどう処理していいかわからず、それで|らち《ヽヽ》もないことを考えるのではなかろうか。
「公園に行ったら、アイスクリームを食べようか」
小林は腰をかがめるようにして、子供の顔を覗きこみ、そういった。
休日の公園には子供づれの若い父親の姿がめだった。父親たちは子供を相手に一生懸命よきパパぶりを演じているようでもあり、案外それを本心から楽しんでいるようでもあった。母親たちがいちばん幸福そうにみえた。
どうやら子供は遊び友達をみつけたらしく、すぐに小林からはなれ、滑り台のほうに駆けだしていった。
小林はベンチに腰をおろし、タバコをくゆらしながら、ボンヤリと子供が遊ぶのをみていた。
五月の末、公園に降りそそぐ日差しは、もうすっかり初夏のそれであった。キラキラとはじけるように眩《まぶ》しく、なにもかもが輝いてみえる。水飲み場から噴きだしている水が、淡く虹《にじ》を浮かびあがらせていた。
そうしてただすわっているだけでも、小林は自分の体がジットリと汗ばんでくるのを感じていた。
小林がその男の姿を眼にとめたのは、短くなったタバコを投げ捨てようとしたときのことである。
その男はランニングのシャツに、短いトレーニング・パンツを穿《は》き、一心不乱に|歩いて《ヽヽヽ》いた。いつも二メートルほどさきの地面をみつめていて、周囲の喧噪《けんそう》には眼をくれようともしない。
このオリンピック公園を巡る舗装道路は、全長が二キロ以上に達し、平日でも車の乗り入れは禁止されているから、マラソンやジョギングを楽しむ人は決して少なくないが、それにしてもその男のように歩いているというのは珍しかった。
競歩、というのだろうか。肱《ひじ》をほぼ直角に曲げ、勢いよくふりあげながら、歩いていくのだ。歩いていくというと悠長なようにきこえるが、なまじのマラソン・ランナーよりも速そうで、事実、小林がみているうちにも、走っている若者がひとり抜かれていた。
どちらか一方の足はかならず地面についていなければならない、というルールを、小林はどこかできくか、読むかした記憶がある。そのルールを想いかえしたうえで、あらためて男の姿をみると、これはかなりきつそうな運動らしいということが、実感となって迫ってくる。男は汗だらけになっていて、ランニングのシャツがベッタリと体にはりついていた。
男は小林と同年輩のようにみえた。鳥ガラのように痩《や》せた体はいかにも貧相だったが、むだな贅肉《ぜいにく》がついていないという点では、鍛練のたまものともいえそうであった。
男はほとんど思いつめたような表情で、ただひたすら歩きつづけ、そして小林の視界から消え去っていった。
どうしてか小林は自分がひどく珍奇なものを眼にしたような気がして、タバコを投げ捨てるのも忘れ、しばらく唖然《あぜん》としていた。
「あれは、ねじおじさんだよ」
背後から息子の声がきこえてきた。
「ねじおじさん?」
小林は子供の顔をみつめた。
「うん」
「なんなんだ、それは」
「ママがいつもいってるの」
子供は父親に教えることができるのを、ひどく得意に感じているようであった。「あのおじさんはいつも捻子《ねじ》で動いているんだって……だから、チクタク動いているんだって」
「ママがそういうのか」
「うん」
「へえ、ママはおもしろいことをいうんだね」
なるほど、たしかにリズミカルに手をふりあげながら、定規で測ったように正確な歩幅で歩いていくあの男の姿は、捻子で動いているようにみえないこともない。あまりにも一生懸命にすぎて、かえってユーモラスにみえてしまうのだ。
「ねじおじさんか……」
小林は笑いだした。「うまいことをいう」
それから数日して、小林はまたねじおじさんの姿をみることになった。
その日は午後の三時から始まった企画部の会議が紛糾《ふんきゆう》し、退社時間を過ぎ、夜の八時になっても収拾がつかなくなってしまった。各課の課長、係長たちの面子《メンツ》や意地、嫉妬《しつと》がぶつかりあい、ついには涙を浮かべ、大声で怒鳴りだす者までいる始末だった。
こんなときには外様《とざま》で、しかもここのところちょっと派手に動いている小林は、どうしても矢面《やおもて》に立たされがちで、苦しい立場に追い込まれる。彼の課は交際費を使いすぎるという非難がでたときには、さすがに小林は情けなくなってしまった。交際費を惜しんで、どうして部下たちにいい仕事をしろと発破《はつぱ》をかけることができるのか。
会議が終わっても、小林の仕事は終わらなかった。
会議の成りゆきを心配した部下たちが三、四人、小林がオフィスに戻ってくるのを待っていたからだ。彼らの気持ちはありがたかったが、部下たちがはねあがった言動にでれば、結局、迷惑をこうむるのは小林なのである。部下たちの気持を鎮めるためにも、どこかで一杯やる必要があった。
なんだかんだで、小林が新宿から帰宅のタクシーに乗ったときには、夜の二時をまわっていた。
さすがに疲れをおぼえた。酔いの名残がおくびとなってこみあげてきたが、小林にはそれが気泡がはじけるように、自分の疲れが浮かびあがってくるのだと思われた。
タクシーがマンションの近所へ行くまでは、眼をつぶって休むことができたが、それから先はどこをどう曲がるのか、いちいち運転手に指示してやらなければならなかった。小林はますます自分の疲れがひどくなるのを感じていた。
タクシーがオリンピック公園の近くにさしかかったとき、
「停《と》めてくれ」
小林はふいに声をあげた。自分でも思いがけないほど素頓狂《すつとんきよう》な声だった。
運転手はタクシーを停め、きこえよがしに舌打ちをしたが、もちろん小林にはそんなことは気にならなかった。
オリンピック公園の舗装道路につながっている歩道を、ねじおじさんがわきめもふらずに歩いていた。
夜中の三時近くだというのに、ランニングにトレパンという姿で、肱をほぼ直角に曲げるあの独特のスタイルで、ひたすら競歩のトレーニングにはげんでいるのだ。頭がカクンカクンと正確に上下しているのが、なおさら捻子で動いているようにみえた。
小林はなかばあきれかえり、なかば感嘆しながら、歩き去っていくねじおじさんの姿を見送っていた。
「お客さん、気持ちがわるいんだったら、そこにビニール袋がありますから……車を汚さないでくださいよ」
運転手が不機嫌な声でいった。
「いや、いいんだ」
小林は微笑を浮かべ、座席に深々と身を沈めた。「やってくれ」
休みというものはあとをひくものなのか、二週間まえに珍しく休みがとれたと思ったら、今週は土日とつづけて体が空いた。土曜日には家族そろって動物園に行ったが、さて日曜日となると、もうやることがなにもない。いい機会だから、ゆっくり骨休みをすればよさそうなものだが、たまの休みだと思うとかえって気持ちが急《せ》いてしまいどうにも腰が落ち着かないのだ。小林は自分で自分の働き中毒ぶりがおかしくなってきた。
それでも午前中は新聞を隅から隅まで読んだり、コーヒーを淹《い》れたりして、なんとか時間をつぶしたのだが、昼食を終えると、ついに耐えきれなくなって、腰をあげた。
「出掛けるの」
直子が訊いてきた。
「うん」
小林はうなずき、そそくさと靴を穿きはじめた。「自転車に乗ろうと思ってね」
「自転車に?」
「ずいぶん乗っていないからな」
「大丈夫かしら」
「なにが」
「心臓|麻痺《まひ》を起こすんじゃない」
「バカいえ、いくらなんでもそこまでは鈍《なま》っちゃいない」
マンションの自転車置き場から自転車をひっぱりだすとき、ちょっと胸がたかなるのをおぼえた。考えてみれば、ほんとうに久しぶりの運動らしい運動なのだ。
最初はすこし腰がふらついたが、すぐに勘をとり戻し、小林はゆっくりとペダルを踏みつづけた。
自転車を走らせるとなると、さしあたっては近くのオリンピック公園にハンドルを向けたほうがよさそうだ。公園の舗装道路に沿うようにして、サイクリング・ロードが設けられているから、そこを三、四周もすれば、かなりの運動量になるはずだからである。ここのところ気になりはじめた下腹部の出っ張りも、すこしは引っこむのではなかろうか。
はじめて自転車を買ってもらった小学生のように、小林はやたらにベルを鳴らしながら、自転車を走らせていた。
オリンピック公園でまたしてもねじおじさんの姿をみかけたとき、小林はべつにそれを意外とも、偶然とも思わなかった。直子があだ名をつけるぐらいだから、ねじおじさんが頻繁《ひんぱん》にこの公園でトレーニングしているのは間違いなかったし、なにより小林は頭のなかのどこかで彼に出くわすのを期待していたようなのだから。
ねじおじさんはあい変わらず誰かに捻子を巻かれたように、正確に、狂いなく歩きつづけている。そのいかにも生真面目《きまじめ》そうな、無表情な顔も変わらない。
小林は地面に片足をおろして、ねじおじさんが通り過ぎていくのを見送っていたが、すぐにペダルを漕《こ》ぎ、彼のあとを追いはじめた。
これはいくらなんでも酔狂がすぎると、われながら思わないではなかったが、急にねじおじさんにたいする興味が強く湧き起こってきて、どうにも自分を抑えることができなかったのだ。
ねじおじさんにたいする興味、といっても、それがどんな類《たぐ》いの興味であるのかは、小林自身にもよくわかっていない。たしかに心惹《ひ》かれるものをおぼえるのだが、具体的になにに惹かれているのか指摘できない。たんなる野次馬根性から、といってしまえば、それなりに自分を納得させることができるのだが、どうもそうとばかりもいいきれないような気がするのだ。
小林はねじおじさんから二十メートルぐらい遅れて、自転車を走らせている。ろくに油を差していない車輪が、キイキイと歯の浮くような音をたてていた。
ねじおじさんは背後から付いてくる自転車なんかには、まったく注意をはらっていないようだ。気がついてもいないのかもしれない。彼には、歩くことがすべてなのである。
このひたむきさではないだろうか、と小林は思った。ねじおじさんのこのひたむきさに、小林は心惹かれているのではないのだろうか。競歩というスポーツに知識が乏しいこともあって、それがゴルフとか、テニスだったらまだしも、ただ歩くということにそんなにも熱中できる人間がいるというのが、小林には驚異に感じられる。はっきりいえば、それは情熱の浪費ではないかと思う。
運動クラブの大学生ではない。ねじおじさんは小林と同年輩の、れっきとした中年男なのである。
そう思う反面、小林はねじおじさんを羨《うらやま》しくも感じているようだった。だれよりも速く歩きたい、それはなんという単純で、明快な|生きがい《ヽヽヽヽ》であることか。企業の熾烈《しれつ》な競争のなかを生き抜いていかなければならない、いや、生き抜いていくことに喜びをおぼえている小林にとって、その単純さはほとんど眩《まばゆ》いばかりに思われた。
だから、小林はねじおじさんのあとを自転車で付けているのか。彼の単純な生きかたに心惹かれたから、その無垢《むく》な情熱に共感をおぼえたから。どうも、そうとばかりもいえないような気がする。家族持ちの三十男はそんなにもたやすく感動したりはしない。もうすこし鈍感か、もうすこし屈折している。そうでなければ、生きていけない。
もしかしたら小林は、ただひたすらトレーニングにはげみ、意志の鉄人のようにみえるねじおじさんが、フッと緊張をとき、中年男の疲れを漂わせるその瞬間をみてみたい、という意地のわるい興味を抱《いだ》いているのかもしれなかった。
だが、小林がなにをどう考えようと、ねじおじさんのペースはついに乱れることなく、一定した速度で、歩きつづけた。
十一周めに入り、逆に小林のほうがダウンしてしまったのだ。尻の痛みはなんとか我慢するとしても、膝《ひざ》が笑いだし、どうにもそれ以上自転車を走らせることができなくなってしまったのである。日頃の運動不足の報いだった。
小林はとうとう追跡を断念し、自転車から降りた。
すでに公園は黄昏《たそがれ》だった。西の空にひと刷毛《はけ》残った陽《ひ》の光が、公園を赤く染めあげ、舗装道路に小波《さざなみ》のような光を浮かびあがらせている。遊んでいる子供たちの数もめっきり少なくなっていた。
ねじおじさんはその赤い光のなかを、まるで沈んでいく夕陽を追いかけでもするかのように、わきめもふらず、歩いていった。
その影が舗装道路にながく尾をのばしている。
小林はねじおじさんのうしろ姿を見送りながら、はじめて心の底からの感動が湧き起こってくるのをおぼえた。
しばらくは膝の痛みに悩まされることになるかもしれないが、おそらくそれを後悔することはないだろう。
その夜、夕食のときに、小林はねじおじさんのことを直子に話した。
「ああ、あの変人ね」
直子は笑った。
「変人?」
「だって、そうでしょう。あの人、仕事もそっちのけにして、一日中、公園を歩きまわっているのよ。変わってるわ」
「………」
小林は口をとざした。たしかにねじおじさんは人とは変わっているかもしれないが、どうしてか変人の一言で片付けられることには、反撥《はんぱつ》をおぼえた。もちろん、そんなことで妻といい争いをする気はなかったが。
「あの人、三丁目の牛乳屋のご主人なのよ。仕事は放ったらかしにして、歩いてばっかり、あれじゃ奥さんが気の毒だわ」
「へえ、そうなのか」
三丁目の牛乳屋なら、小林も通勤の行き帰りに、その店のまえを通る。あのねじおじさんが人並みに仕事を持っているということが、なんだかおかしく、そして不憫《ふびん》にも思えた。
「御飯お代わりする?」
「いや、今日はこれぐらいにしておこう」
小林の課のだした企画が、結局は採用されることになった。重役の鶴の一声で決まったものだが、こうなるとほかの課からの提案や、あいも変わらずくすぶりつづけている不満は無視されて、小林の課のみが独走する形になった。
夏の中元シーズンに関する、ある意味では今期の業績を左右する企画であるだけに、小林の部下たちの士気はいやがうえにもたかまったが、それだけにこれが失敗したときの反動は大きいと覚悟しなければならなかった。
家に帰れない日がつづいた。決して大袈裟《おおげさ》にいうのではなく、薄氷のうえを歩くような緊張の連続だった。
血のように真っ赤な自分の小便をみたとき、いつまでおれはこんな生活に耐えられるだろうか、と小林は自問した。
そんなある日、小林はめずらしく早い時刻に退社することができた。
小林の疲労ぶりをみかねた部長が、なかば強制的に帰宅を命じたのだ。一応は抗議したが、自分に休養が必要なことは、だれよりもよく彼が承知していた。
牛の涎《よだれ》のような細い雨が降りつづく、暗い日だった。
小林はバスを降りると、重い足どりで、マンションに向かった。
まだ五時にもなっていないというのに、街には黒い靄《もや》のようなものがたちこめていて、雨のしぶきだけが銀いろに光っている。このまま梅雨《つゆ》に入ってしまうのだろうか、と小林は思った。梅雨は嫌いだった。
ねじおじさんのことをふと想いだした。彼の顔をみれば、疲れはてて、滅入《めい》っている気持ちも、すこしは軽くなるのではないだろうか。そう思うと、矢も楯《たて》もたまらず彼の顔をみたくなった。ねじおじさんがいつのまにか自分のなかで大きな比重を占めるようになっていることに気がつき、小林は苦笑を洩《も》らした。
そういえば、しばらく牛乳なんてものは飲んでいない。コーヒー漬けになっている体に、たまには牛乳を与えてやるのもいいのではないだろうか。
しかし、牛乳屋はシャッターを閉ざしていて、「本日休業」の札《ふだ》が雨にうたれ、カタカタと鳴っているだけだった。
小林は牛乳屋のまえでボンヤリと立ちつくしていた。傘《かさ》から滴る雨が急に冷たいものに感じられるようになった。なにか得体の知れない不安のようなものが胸をつきあげてくるのをおぼえる。
小林は踵《きびす》をかえし、牛乳屋と同じ並びのタバコ屋で、タバコを買った。そして、牛乳屋さんはどうしてお休みなんだろう、と店番の老婆《ろうば》に訊いた。
「ああ、あそこどうも店が思わしくないようですよ。奥さんは一生懸命なんだけど、旦那《だんな》さんが怠け者でねえ」
小林は自分のなかでなにかが崩れ落ちていく音を、たしかにきいたと思った。
やはりそうなのか、小林は胸のなかに苦い言葉を吐きだしていた。なにが|やはり《ヽヽヽ》なのかわからないままに、その言葉は重く、やりきれない余韻を胸に残した。やはり、そうだったのか……。
小林は肩を落とし、悄然《しようぜん》とした足どりで、タバコ屋のまえをはなれた。
そして、おれはもうすぐ挫《くじ》けてしまうにちがいない、とそう思った。おれはもう息を切らしかけているではないか。荷馬のようにくたびれはてて、いまにもへたりこんでしまいそうになっているではないか……小林は泣き笑いのような表情を浮かべていた。
雨のなかを突っ切って歩いていくねじおじさんの姿をみたい、小林は痛切にそう思った。
さいわい梅雨にはまだ入っていなかったようで、翌日はきれいに晴れた。
ゆっくり骨休みして、午後から出社してくるように、とこれも部長の厳命だったが、朝の八時にはもう小林は起きだしていた。サラリーマンの悲しい習性というほかはない。
頭が重く、食欲がなかった。
あまり無理をしないほうがいいんじゃない、直子がそういったが、小林は返事をする気にもなれなかった。
幼稚園が休みとかで、小林はまた子供を連れて、オリンピック公園に行ってみる気になった。出社するまえに、なんとかこの憂鬱《ゆううつ》な気持ちを吹きとばしたい、とそう思ったからだった。
公園のそこかしこに、きのうの名残の水たまりがあって、鈍く陽の光を反射していた。さすがにこの時刻ではまだ人出は少なく、公園は閑散としていた。
公園には朝の光がさんさんと降りそそいでいたが、小林の気持ちはすこしも明るくならなかった。むしろ苦く、白々しい思いがつのってくるばかりだった。
子供は敏感に小林の憂鬱を感じとっているのか、話しかけてこようとはしなかった。父と子は手をつないで、ただ黙々と公園の舗装道路を歩いていた。
小林は仕事のことを考えようと思ったが、頭のなかに藁《わら》でも詰まったように、なにも浮かんではこなかった。一晩寝て、いくらか気持ちは落ち着いてきたが、昨夜のあの絶望的な思いは、まだ重苦しく胸にわだかまっていた。不撓不屈《ふとうふくつ》の精神の持ち主であるねじおじさんでさえ挫折《ざせつ》してしまうのが、この人生というものなのだ。
どうしたというのだろう?
小林はべつに仕事に失敗したわけではなく、それどころか彼の率いる課は順調に実績をあげているのだ。なにが不安で、小林はこんなにも苛立《いらだ》ち、憂鬱な思いにとらわれているのだろう。牛乳屋が店じまいしたからといって、それがいったい何だというのか。
──きみはすこし働きすぎじゃないだろうか……課長の声が頭のなかできこえている。もちろん働くのがわるいことであるはずはないんだが、あまり会社、会社でそのことばかりを考えていると、いつかはそれを後悔する日が来るんじゃないだろうか……
いまにして思えば、ねじおじさんは小林とよく似ていた。妻の直子だったら、正反対の性格よ、というかもしれないが、二人はよく似ている。よく似ていて、そしてやはり正反対の性格でもあるのだろう。
どこが似ていて、どこが似ていないか、それを突き詰めて考えるまでもない。ねじおじさんは小林なのだ。鏡に映したように、もしかしたら左右が逆になっていたかもしれないが、それでもねじおじさんが小林であることにちがいはない。だからこそ、小林はあんなにも彼のことが気にかかったのではないだろうか。
シャッターにかかっている「本日休業」の札が、小林の頭のなかでわびしく鳴りつづけていた。もうねじおじさんは競歩のトレーニングどころではないにちがいない。シャッターを閉ざした暗い店のなかで、うなだれ、途方にくれているであろう彼の姿が、眼に浮かんでくるようだった。
「おれももうへたばりそうだよ……」
小林はソッと口のなかでつぶやいた。「ボロボロだ」
小林は徒労感を、なにもかも投げ捨ててしまいたくなるような激しい徒労感を、おぼえていた。
小林の脇腹を子供が肱で突ついた。放っておくと、二度、三度と強く突ついてくる。
「なんだ」
小林は顔をあげ、そしておどろきのあまり、その場に立ちつくした。
前方から、ねじおじさんがやって来るのだ。
ねじおじさんにはまったく変わったところがなかった。両手を交互に顔まではねあげ、歩幅を大きくとり、わずかに体を左右に揺らしている。いつものように正確で、リズミカルな動きだった。
もちろん、ねじおじさんは小林に眼もくれようとはしなかった。歩きつづけ、近付いてきてすれちがい、そして去っていった。
すれちがうとき、歯車の回転する音がきこえてきたような気がしたほどだった。
彼の姿がみえなくなったあとも、しばらくボンヤリと立ちつくしていた小林に、
「ねじおじさんだよ」
と、子供が教えてくれた。
「うん」
小林はうなずき、吐息をつくと、やおら両手を背中にまわした。
「なにやってるの?」
子供がふしぎそうに訊いてくる。
「捻子をまわしているんだ」
小林がそう答え、子供は嬉しそうに笑いだした。
小林は調子に乗って、自分の背中の、眼にはみえない、しかしたしかにそこにあるはずの捻子を、いつまでも、いつまでもまわしつづけていた。
少女と武者人形
たしかに少女は武者人形の剣《つるぎ》に血が噴きだしてくるのを見たのだと信じている。
その武者人形を見るために、少女は一日に一度はかならず屋根裏部屋に登っていく。
彼女の父親が高原に持っている別荘は、コロニアル風の大屋根に六畳ほどの物置きが設《しつら》えてあって、そこには折りたたみ式の梯子《はしご》でのぼるようになっている。
十二歳の少女には、屋根裏部屋にのぼるのは一苦労だった。
天井に手が届かないから、まず寝室から足台にするための椅子《いす》を持ってこなければならない。椅子にのぼり、掛け金をはずすと、両手で戸を支え、ゆっくりと腰を沈めながら、その手を徐々に端のほうに移していく。手をはなしてやれば、そのまま戸は落ちてくるのだが、そんなことをしたら、重い戸にはねとばされて、それこそ怪我をすることにもなりかねない。
それだけで、少女の息はもう荒くなっている。
少女は背こそ同年齢の女の子にくらべて高いものの、肌が透きとおるように白く、痩《や》せて、あまり丈夫なほうではない。懸垂も、腕立て伏せも苦手で、学校の体育の時間にはかぜをひいたからといって、見学していることのほうが多い。
屋根裏部屋の戸は樫材《かしざい》で、重い。屋根裏部屋にあがりたいという気持ちがそんなにも強くなければ、とても少女にはその戸は支えきれないにちがいない。
少女はいつも壁にたてかけてある刺股《さすまた》のような棒をとり、それを金輪にひっかけて、梯子をおろす。
椅子にのぼれば、手でも梯子をおろせないことはないのだが、棒をつかったほうが、ずっと楽になる。梃子《てこ》の原理だわ、と少女は考えている。それに棒をあやつって、一気に梯子をおろしたほうが、大仕事をしたような思いがして、なんとなく気持ちがいい。
折りたたみ式の梯子はヘビがくねるようにおりてきて、少女の眼のまえで静止する。廊下がうす暗いせいもあって、ときにはそれが稲光りのように見えることもある。夜空にひらめく稲光り。
梯子がおりてきたあと、しばらく少女はその場に立ち、別荘の気配に耳を澄ます。
通いのお手伝いさんは午前中で帰っていくし、いっしょに暮らしている叔母は、かならずこの時間、ひとりで近くの林を散歩する。
だから、別荘にはだれもいるはずはないのだが、それでも少女は梯子をおろしたあと、耳を澄ますのを止《や》めようとはしない。ひとつには屋根裏部屋にひとりであがるのを禁じられているからであるし、もうひとつには少女のなかにできるかぎりこれを秘密めいたものにして、楽しみたいという気持ちがあったからだ。
別荘のなかがしんと静まりかえっていることに満足して、少女はようやく梯子をのぼっていく。
屋根裏部屋にあがったら、いったん梯子を上にあげて、戸を閉めなければならない。万が一、叔母が散歩の途中で戻ってきでもしたら、たいへんだからである。
梯子をあげるのは、べつにむつかしいことではない。梯子に両手をかけて、ぐいっと胸元に引き寄せてやれば、おもしろいほど軽々とあがってくる。問題は、戸だった。
戸をひきあげるためには、屋根裏の床に腹這《はらば》いになり、長方形の戸口からほとんど上半身を乗りだすようにして、両手をのばさなければならない。
大人だったら、かんたんに手が届くのであろうが、少女はそうでもしないと、戸の端に指をかけることもできないのだ。
そんな不自然な姿勢で、しかも非力な彼女が重い戸をひきあげるのだから、このときばかりは少女の白い頬《ほお》にも、うすく血がさす。
このときいつも、少女は自分が誤って転落してしまうのではないか、と考える。うす暗い廊下に、血を流してたおれている自分の姿が、頭を過《よぎ》っていく。
そして、戸を閉め終わると、もう少女は屋根裏部屋にひとりっきりである。
明かり取りの窓からは、空しかみえない。
空、入道雲の湧き起こってくる眩《まばゆ》い空、うろこ雲を刷《は》いた澄んだ空……窓の反対側の壁に背をつけて、爪先《つまさき》でのびあがると、かろうじてカラマツ林を見ることができる。カラマツ林はいつも風に揺れている。
ときには窓枠《まどわく》に、灰色と青を混ぜたような色をした、尾の長い鳥がとまっていることがある。
そんなときには、少女はいつもジッと床にうずくまって、小鳥をおどろかさないようにする。それでも、小鳥はかならず飛びたっていってしまう。羽をひろげ、ぴんと尾をはり、またたくうちに消えてしまう。
窓枠に米粒を撒《ま》いてやりたいとも思うが、足台を持ってきても、少女の手は窓まで届かない。
窓から差し込む日の光のなかに、透きとおるようなクモの巣が浮かびあがっていて、かすかに風にそよいでいる。クモの巣はいつも形を変えているのに、少女がクモの姿を見たことはない。どうしてだろうか。
屋根裏部屋はオガ屑《くず》のようなにおいをただよわせている。雨がふると、そのにおいがツンと強くなり、眼が痛くなってくるほどである。水のにおいがすることもある。
少女は雨のふる日には、いつまでもボンヤリと屋根裏部屋にうずくまり、屋根をたたく雨音をきいている。そんな日は、わけもないのに無性《むしよう》に悲しく、さみしくなってしまう。だから、やはり少女は雨ふりが好きでないのかもしれない。
屋根裏部屋には、いろんなものが置かれている。
壊れたミシン、父親の古いバイク、帆船の大きな模型……そして、武者人形もそこに置かれている。
その武者人形が東京の自宅から、いつこの別荘に運び込まれたのか、少女は知らない。
武者人形は床几《しようぎ》のうえにすわっている。そんなことがあるはずはないのだが、もし武者人形が立ちあがりでもしたら、少女よりはずっと背が高いにちがいない。
武者人形は大きな兜《かぶと》に、緋縅《ひおどし》の胴、籠手《こて》や臑当《すねあて》をつけ、まるで生きている人間がすわっているように見える。頬当や、喉輪《のどわ》のうらにどんな顔が隠されているのか、ちょっと知りたくなる。
白い、いかめしい髭《ひげ》を生やしてはいるが、意外に若い男なのではないだろうか。
──緋縅の鎧《よろい》は縁起がわるいのよ……父親がこの武者人形を買うのを決めたとき、母親がそう反対するのを、少女はきいている。緋縅の鎧は、戦場で大将が血を流しているのを隠すために着たんだから……父親は笑って母親の言葉にとりあわなかったが、いまとなってはそれを後悔しているかもしれない。
少女はおそるおそる武者人形が佩《お》びている刀を引き抜く。
そして、剣に血がついていないのをたしかめて、ホッと安堵《あんど》の溜息《ためいき》を洩《も》らす。
それが少女の日課になっている。
一日に一度はそうして武者人形の剣をたしかめないと、不安で夜も眠れない。
その日、少女はだれかが自分を呼んでいるような気がしていた。
洗面室から出てきたときには、ふいに背後から自分の名を呼びかけられたような気がして、はい、と返事をして、ふりかえったほどだった。朝から何度となく、そういうことがあった。
もちろん、だれも少女の名を呼んだりはしていなかった。お手伝いさんはもう帰ってしまっていたし、今日は東京から少女の父親がやって来るというので、叔母は車で駅まで迎えに出掛けていた。
しんと静まりかえった別荘には、ただカラマツ林の葉擦《はず》れの音と、油蝉《あぶらぜみ》の鳴き声だけが遠い潮騒《しおさい》のように押し寄せていた。
それなのに、少女はたしかに自分を呼ぶ声がきこえてくるような気がしていた。少女の名を呼ぶばかりではなく、クスクス笑いや、ささやき声までが、ダイニングの冷蔵庫のかげ、踊り場の暗がりからきこえてくるのだ。
少女は邸《やしき》のなかを歩いていて、何度もふりかえり、背後にだれもいないのをたしかめなければならなかった。
それが、そら耳であることはわかっていた。少女はよく熱をだし、幻覚とか幻聴を何度も経験しているが、もしかしたらこれも熱をだす前兆であるかもしれなかった。朝から妙に下腹部が重く、手足のさきに軽い痺《しび》れのようなものを感じていた。
「こちらへおいでよ」
ふいに耳もとではっきりとそういう声がきこえてきた。
少女はふりかえり、あとずさって、机の角に腰をぶつけた。
サン・ルームを兼ねている居間には、夏の日差しが強く差しこんでいて、プリズムのように陽炎《かげろう》がたちのぼっていた。十畳ほどしかないはずの板張りの居間が、奇妙にだだっぴろく、とりとめがなく感じられる。そこには、だれもいなかった。
これまで、そら耳がそんなにもはっきりきこえてきたことはない。だれかに似た声であったような気がしたが、それがだれであったかは想い出せなかった。
少女はあまりにも長く、この別荘にいすぎたのかもしれない。いや、長くはない、まだ夏休みがはじまってから十日ぐらいしか過ぎてはいないのだが、それなのに少女はもう人恋しく、東京の雑踏がなつかしくなっているのだろうか、それだから、幻聴に悩まされるのか……
さすがに少女は気味がわるくなり、漠然とした不安がつのってくるのをおぼえた。恐ろしいとは思わない。そら耳におびえるには、少女はあまりにも明敏でありすぎる。ただ、ちょっと平静さをうしなっているだけだ。
父親が着くまでには、まだすこし時間があるはずだった。それまで、カラマツ林でも散歩していたほうがよさそうだ。このまま別荘にひとりぼっちでいないほうがいい。
戸じまりをしようかとも考えたが、どうせすぐに叔母と父親が来るのだからと思いなおし、サンダルをつっかけて、居間からテラスに出た。
ピンクのサンダルは、歩くたびにキュッキュッと鳴った。
カラマツ林には麓《ふもと》まで林道がつづいていたが、少女はその道を歩くのがあまり好きではなかった。なんだか埃《ほこり》っぽいような気がしていたし、それにときおり自動車とすれちがわなければならないのも面白くない。
少女は林道から外《そ》れ、熊笹《くまざさ》をかきわけるようにして、カラマツ林のなかにふみこんでいった。
そこは少女がいつも歩き慣れているはずのコースだったのだが、今日にかぎって、妙に花のにおいが重くたちこめているように感じられた。
それはヤマユリのにおいで、一週間ほどまえ、少女はその花を山から摘んできて、花瓶《かびん》に活《い》けておいたことがあった。
あのときヤマユリはあまりにもにおいが強いため、それを部屋にかざっておくと、悪夢にうなされることがあると教えてくれたのは、あれは叔母だったろうか、それともお手伝いさんだったろうか……
少女はあたりをみまわしたが、ただ熊笹が風に揺れているだけで、どこにもあの大ぶりの花は見えなかった。
首をかしげ、そしてまた少女は熊笹のなかを歩きだした。
カラマツ林のなかを五十メートルほど歩くと、ちょっとした空き地に出る。
そこには柔らかな木洩《こも》れ陽《び》がさしこみ、高山植物の白く、可憐《かれん》な花を点々と浮かびあがらせていた。どこかから水が湧いているらしく、細い流れが空き地をよこぎっていて、そのうえにアメンボがきらきらと光の波紋を描いている。
そこはカラマツ林を歩いているうちに、偶然に発見した、少女だけの大切な、秘密の場所であった。
少女は昨夜はじめて、叔母をここに案内したのだが、そのことに軽い後悔のようなものをおぼえていた。あくまでも自分だけの秘密の場所にしておいたほうがよかったのかもしれない、と思った。
そして、地面にうずくまり、そこに散らばっている花火の燃えかすをみつめながら、ボンヤリと昨夜のことを想いだしていた。
昨夜は雲もなく、天の川を淡い霧のようにけぶらせ、満天に星をちりばめた、恐ろしくなるほどの星空だった。
叔母といっしょにこの空き地で花火をしていた少女は、しだいにカラマツ林をとびかうホタルと、空の星との区別がつかなくなり、いつしか自分が風船玉のように星空を漂っているような気分になっていた。
シュッ、シュッ、シュッ
線香花火が赤く、青く火花を散らし、長く髪を伸ばした、叔母の顔を浮かびあがらせている。
紺地の浴衣《ゆかた》に朱のつたをからませ、朱の帯をつけた叔母の姿は、少女の眼から見ても、可憐なものに思われた。叔母の瞳《ひとみ》には花火がきらめいていて、少女にはそれもまた星であるかのように見えていた。
叔母をみつめている少女の胸は、奇妙に波立ち、落ち着かなかった。彼女自身も気がついていなかったが、もしかしたらそれは嫉妬《しつと》であるかもしれなかった。女が同性の美しさにたいして抱く嫉妬。
ふと叔母は少女の視線に気がつき、ほほ笑みを浮かべた。
──なにをそんなに熱心にみているの?
叔母の声は優しく、母親の声に似ていた。
──叔母さま、きれい。とても、きれいだわ……
少女は感嘆するようにいった。
──あら、ありがとう……
叔母は澄んだ笑い声をあげた。
──でも、あなたのほうがもっときれいになるわ。わたしなんか足元にもおよばないぐらい、きれいになるわ……
叔母はソッと少女の髪にふれた。どうしてか、ふと少女は涙ぐみたいような気持ちになった。
──ほんとうよ。あなたはまだ自分のきれいさに気がついていないだけ、あなたはとてもきれいな娘になるわ……
線香花火、星の瞬き、そして叔母のきらめく瞳。
バサッ、と音がして、一瞬のうちに、少女は夢想から現実に引き戻された。
すぐ眼のまえの草地に、背中が青く、腹が真っ白の小鳥が転がっていて、かすかに羽を震わせていた。いや、羽を震わせていると見えたのは、どうやら羽毛が風にそよいでいるにすぎないようだった。小鳥は石っころのように、ただそこに転がっている。
少女もまた石のようにかたく身をこわばらせていた。
どうして、その小鳥が死んでいるのかがわからない。たとえば鷹《たか》のような、ほかの鳥に襲われたと考えるには、その小鳥のどこにも血が滲《にじ》んでいる様子がない。そうかといって、病気と考えるには、まだその羽につやがありすぎるようだった。
いや、それよりもなによりも、死んだ小鳥がどこから出現したのかがわからない。少女の頭上を静かに飛びまわっていて、ふいに命を落としたとでもいうのだろうか。
少女はそわそわと立ちあがり、死んだ小鳥からあとずさった。
その小鳥の死骸がなにか不吉なことの訪れる前兆であるような気がした。今朝から漠然と感じていた胸騒ぎが、そこに小鳥の死骸《しがい》という、現実の|もの《ヽヽ》となって出現したような、そんな気がしていた。
少女はやおら身をひるがえすと、ざあっと熊笹を鳴らしながら、別荘に向かって走っていった。
少女は武者人形の剣に血が噴きだしていないかどうか、どうしてもそれをたしかめなければならないと思いつめていた。
たしかに少女は武者人形の剣に血が噴きだしてくるのを見たのだと信じている。
母親と、まだ五つにしかならない弟が交通事故で死んだのは、去年の五月のはじめであったから、少女のなかで武者人形と葬式とがひとつに重なって記憶されているのは、当然だったかもしれない。
少女は二つの柩《ひつぎ》がかつぎ出される光景を、いまもまざまざと脳裡に思い浮かべることができる。
二つの柩がぴったりと密着され、霊柩車《れいきゆうしや》のなかに納められたとき、だれかが死んでからも母子いっしょだな、とつぶやき、ふいに父親が身を震わせて、号泣しはじめた。どうして、あの泣き声を忘れることができよう。
なぜか少女の記憶のなかでは、葬式のときには冷たい雨がふっていたように潤色《じゆんしよく》されているのだが、実際にはあの日は晴れていた。それはもう残酷に思われるほどの、明るい五月晴れだった。その眩い五月の陽光のなかに、母親の妹である叔母の蒼《あお》ざめた顔、そして喪服がクッキリと浮かびあがっていたのも、よく憶えている。
骨《こつ》をひろったとき、乾いた音をたてて崩れたのが、母親の骨であったのか、それとも弟のものであったのか、そこらへんになると、すこし記憶があやふやになってくる。
武者人形の剣に血が噴きだしてくるのを見たのは、あれは葬式のまえであったのか、あとであったのだろうか。
常識的に考えれば、子供の葬式の後《のち》に、その子のために買った武者人形が飾られているというのはありえない話だが、弟の部屋は二階の四畳半で、もしかしたらそのまま仕舞い忘れられていたということだってあるかもしれない。
そのことにかんしては、少女の記憶は妙に曖昧模糊《あいまいもこ》としているのだ。
だが、武者人形が佩びている刀の鞘《さや》に、細く、一筋の血が滴《したた》っているのを見たときのおどろきは、いまも忘れることができない。
窓から差し込む西陽《にしび》に、緋縅の鎧が燃えあがるように浮かびあがっていたのを憶えているから、あれが夕方であったことは間違いない。
少女は武者人形に近付き、苦労してその剣を引き抜いた。
そして、滲み出してくるように、刀身にゆっくりと血がひろがっていくのを、ただ呆然《ぼうぜん》とみつめていた。
それはなかば夢をみているような、なかば陶酔感にひたっているような、それでいて奇妙に冷たいものが胸に染みとおっていく、そんな時間《ヽヽ》であったようだ。
そのときには、恐ろしいとは思わなかった。ほんとうに恐ろしくなったのは、しばらくしてからだった。
納骨のとき、少女はそのことを父親にささやいたが、
──おまえは夢を見たんだ……
父親は疲れた声でそう答えただけだった。
──いろんなことがあったから、それでうたたねをして、夢を見たんだよ。
少女には澄んだ空気が必要だから、という理由で、父親が高原の別荘を買ったのは、一月後のことだった。父親が少女の精神状態を危ぶんでいるのは、彼女自身にもよくわかっていた。
しかし、間違いなく少女は武者人形の剣に血が噴きだしてくるのを見たのだ。
そして、武者人形の剣に血が噴きだしてくるとき、人が死ぬのだ、と、いつしかそう考えるようになっていた。
屋根裏部屋にあがり、戸を閉めたとき、またヤマユリのにおいがした。
たしかめるまでもなく、屋根裏部屋にヤマユリが活けてあるはずはない。
少女は息をととのえながら、しばらく武者人形をみつめていた。
屋根裏部屋の隅、うす暗がりのなかで、武者人形は床几に腰をおろしている。からっぽのはずの頬当のなかに、じつは両眼が浮かんでいて、それが自分を睨《にら》みかえしているのだと、少女には思われた。
武者人形に近付くとき、少女は自然に忍び足になっていた。いつでも逃げだせるような中腰の姿勢をとっているが、少女はこの狭い屋根裏部屋ではどこへ逃げきれるものではない、ということに気がついていなかった。
少女は大きく息を吸い、やおら右手をのばすと、一気に剣を引き抜いた。
そして、クスクスと笑いだす。
もちろん剣には血なんか噴きだしていなかった。日の光のなかに、アルミニウムの刀身が鈍い輝きを放っているだけだ。
少女のクスクス笑いはいっこうに収まりそうになかった。自分はいったい何に怯《おび》えていたのか、たかが小鳥が死んだぐらいのことで、どうしてああも大騒ぎしたのか、来年には中学生になるというのに……おそらく緊張の反動からだろう、少女は自分の気持ちがとめどもなく弾《はず》んでいき、なにもかもが楽しくてたまらなくなるのをおぼえていた。
少女はあいかわらずクスクス笑いを洩らしながら、すっと膝をのばし、爪先で立つようにして、剣を頭上にかざした。そして、いつかテレビで見た剣の舞い≠想いだしながら、曲をくちずさみ、何度もターンをくりかえして、狭い屋根裏部屋で踊りはじめた。
いまの自分はどこかまともではない、その懸念が少女のなかにないではなかった。しかし、弾んでくる気持ちをどうしても抑えることができず、少女はそのままいつまでも踊りつづけていた。
ぐるぐると回る視界のなかを、武者人形が何度も過っていく。
ふと少女は踊りを止めると、ふらつきながら壁に歩み寄っていき、そこに背中をくっつけ、のびあがるようにして、窓の外をみつめた。
叔母の運転する真っ赤なオースティン・ミニが、ゆっくりとした速度で、林道を走ってくるのが見えた。父親が別荘にやって来たのである。
しかし、すぐにオースティン・ミニは窓の死角に入ってしまい、どんなにのびあがっても、もう見ることができないようになった。
少女はときおり笑い声をあげながら、屋根裏の隅に放りだされてあった木箱を、窓の下まで運んできて、そのうえに乗った。
オースティン・ミニは駐《と》まっていた。
そして、叔母が助手席の父親と抱きあい、キスをしているのが、不自然なほど間近に少女の眼に入ってきた。
だれかが少女の名を呼んだ。その声は少女の体のなかからきこえてくるようであった。
少女は木箱からおり、床《ゆか》のうえにうずくまった。下腹部になにかなま暖かい感触があった。下穿《したば》きに指をさしこむと、指の先が赤く染まった。
それが初潮であることはわかっていた。初潮のときの処理のしかたも、保健の時間に教えてもらい、わかっていた。それなのに少女は動こうともせず、ことさらな感動も湧いてこなかった。ただ臆病な小動物のように、ジッと床にうずくまっているだけだ。
父親はなかばのしかかるようにして、叔母と唇をあわせていた。叔母はおそらく眼をとじて、その両腕を父親の背中にからませているのではないだろうか。
少女は呆《ほう》けたような眼で、自分の指さきについている血と、もう一方の手に持っている剣を、かわるがわるにみつめていた。
武者人形の剣に血が噴きだしてきたとき、人が死ぬ……
やめなさい、頭のなかでもうひとりの自分が、懸命にそう喚《わめ》いていた。一度はその声にしたがって、少女は剣を床に投げ捨てようとしたのだ。しかし頭のなかで、父親と唇をあわせている叔母の顔が、死んだ母親の顔と重なったとき、指がほとんど勝手に動き、血を剣にこすりつけていた。
自分はだれの死を願っているのか、少女はそう考えた。叔母が死ねばいいと思っているのか、父親を許せないと思っているのか、それとも二人とも死んでしまうことを望んでいるのだろうか。
だが、少女はいまはそれすら考えるのが億劫《おつくう》になっていた。どうしてか、あなたはとてもきれいな娘になるわ、といった叔母の言葉が、くりかえし頭のなかにきこえていた。
少女は血をたんねんに擦《こす》りつけると、剣を床のうえに放りだした。
それから膝小僧を両手で抱えるようにし、そのうえにあごを乗せると、|待った《ヽヽヽ》。
時間がゆっくりと過ぎていった。
窓から差し込む日差しが、しだいに衰えていくのが感じられた。
やがて、階下から父親の少女を呼ぶ声がきこえてきた。
少女は身じろぎひとつしようとはしなかった。
ガタン、と音がして、戸が落ち、折りたたみ式の梯子が伸びるのが見えた。そして、父親が屋根裏部屋に顔を覗《のぞ》かせる。
少女は父親の顔を睨みつけていた。たしかに父親は少女の姿を眼にしているはずなのに、キョロキョロと屋根裏部屋をみまわし、なおも娘をさがしているふうであった。少女はちょっと戸惑い、それから、ああ、自分は消えてしまったのだな、とこれはたいしておどろきもせず、納得した。
少女は膝小僧をかかえたままの姿勢で、自分をさがしている父親をみつめていた。笑いを噛《か》み殺すのが苦労だった。
父親の視線が床に落ちている剣にとまり、ギョッとしたような表情を浮かべた。そして、くいいるような眼で、しばらく剣をみつめている。
ふいに身をひるがえすと、父親はほとんど転げ落ちるようにして、梯子を駆けおりていった。
少女は屋根裏部屋に残った。
わずかに体を前後に揺らしながら、自分はいつまでも消えたままになっているのかな、とそんなことを考えていた。それでもべつにかまわないようでもあり、それではちょっと困るようでもあった。
急いで結論をだす必要はない。考える時間はいくらもあった。
あれほど恐ろしく感じられた武者人形が、いまはずいぶんと小さく、優しげなものに見える。なぜだろう?
背後から、これまでのどのときよりもはっきりと、自分を呼ぶ声がきこえてきた。
少女は微笑を浮かべながら、ゆっくりとふりかえった。
カトマンズ・ラプソディ
ルックサックの背中に当たる部分、センター・ハイと呼ばれるところに、炊事用具などの重たいものを詰めるのが、バック・パッキングの理論《セオリー》である。
もちろん幸男《さちお》はホテルに泊まるから、食糧品を持っていく必要はないのだが、その替わりに、むこうの役人に手渡すラジオ・カセットを詰めなければならず、ルックサックはかなりの重さになってしまう。
山岳会の先輩からきいた話だが、十年ぐらいまえまでは、登山許可を早く手に入れるためには、ボールペンの三本もわたせば、それで役人たちは十分に満足したという。
それがここ数年来の登山パーティ・ラッシュで、ネパールの役人たちも贅沢《ぜいたく》になってしまい、ボールペンが腕時計、腕時計がトランジスタ・ラジオになり、いまやラジカセが人気の的になってしまった。
それでもネパールの役人なんか、インドの役人に比べれば純朴《じゆんぼく》なものだよ、とその先輩は笑いながらいった。インドから陸路でネパールに入ってきた連中は、みんなホッとするというぜ。特に日本人は顔だちがネパールの人に似ているせいか、なんだか故郷に帰ってきたみたいで、嬉《うれ》しくなっちゃう……
それはそうかもしれないが、ラジカセを三台もルックサックに詰めなければならない幸男としては、ネパールの役人は純朴だ、なんて喜んではいられない。それどころか重さを増したルックサックに、つい悪態のひとつもつきたくなってしまう。
しかし、だれに文句をいうわけにもいかない。やむをえないのだ。
彼の属する山岳会のパーティが現地に入る二週間まえに、幸男はカトマンズに着いていなければならない。シェルパの手配、さまざまな下準備、役人との折衝、すべてを幸男ひとりで切りまわさなければならないのだ。ラジカセを運ぶぐらいのことで泣きごとをいうわけにはいかない。
パーティが山に入ったあとも、幸男はカトマンズに残る。万が一、パーティに突発事故が生じたとき、その処理、連絡にあたる者が必要になるからである。
結局、幸男はカトマンズまで行って、雑用に追いまくられ、山に入れないことになるわけだが、べつにそれを不満には思っていなかった。
幸男はルックサックを背負って立ち、部屋のなかをすこし歩いてみた。
重さはちょうどいいのだが、その重みが歩いているうちに下がり気味になるようだ。パッド入りのヒップ・ベルトで、荷重を腰骨のうえに固定することを考えなければならないだろう。
カトマンズに滞在する幸男が、フルフレーム・パックの下部にスリーピング・バッグを巻いているのは、彼の泊まるような安ホテルでは、とても清潔なシーツは望めないのと、それにパーティが到着するまえに、なんとか一日二日の|山歩き《トレツキング》をしてやろうと考えているからだ。
もちろん|山歩き《トレツキング》をするときには、重いものをバッグの底部に移しかえて、バランスを保ってやらなければならないが。
まずまずのパッキングに満足し、幸男はルックサックを床《ゆか》におろすと、キッチンに向かって歩いていった。
|ほうろう《ヽヽヽヽ》の大きなカップに、魔法瓶《びん》から湯を注ぎ、キャンプ用のコーヒーパックを浸した。山暮らしに慣れてしまっている幸男は、淹《い》れたてのリアル・コーヒーよりも、このどこか水っぽいようなコーヒーパックの味のほうが好きになっていた。
幸男はキッチンで立ったまま、コーヒーを飲み終えると、六畳の部屋に戻り、ファンシーケースのジッパーをおろして、着替えをはじめた。
大学を卒業してから四年になるが、幸男はまだ定職についていない。夏は水泳の指導員、冬はスキーのインストラクター、春と秋には先輩が経営している登山用具の店を手伝って、なんとか生活している。それもこれもいつでも好きなときに山に登ることのできる自由を確保しておきたいからで、三十になったら父親の会社に入るという約束で、両親も幸男の我儘《わがまま》を許してくれているのだ。
幸男がいかに山にとり憑《つ》かれているかは、三畳のキッチンと、六畳の和室をしきっている襖《ふすま》をとりはずし、絨毯《じゆうたん》を敷きつめて、ワンルームに使っているこの部屋をみれば、よくわかる。
部屋には登山用具がきちんと整頓され、積み重ねられていて、本棚には登山関係の本しか並んでいない。寝るときにも、ベッドのうえにスリーピング・バッグをひろげて、そのなかに潜り込むほど徹底しているのだ。
壁には、ヒマラヤの頂《いただき》を撮ったパネル写真が掛けられている。澄んだ青空に、純白の雪の輝きがきわだった対照をなしていて、思わず溜息《ためいき》をつきたくなるほど美しい写真だった。
そのパネル写真の下のほうに、ピンで止められているのが恋人の久子の写真だった。久子はふくらんだ髪を片手で抑え、ちょっと眩《まぶ》しそうな眼をして、笑っている。
幸男は黄いろいTシャツと、ジィンズに着替えて、アパートを出た。
もう二週間ちかくも雨が降らず、日本の夏とは思えないほど、空気はカラリと乾燥している。日差しは強くても、それほど汗をかかない。新聞はしきりに水不足を心配しているが、幸男は今年の夏が気に入っていた。
東横線の学芸大学駅までバスで出て、そこから電車に乗り換える。
久子のマンションがある自由が丘までは、二駅だった。
自由が丘のロータリーに面した改札口を出て、大きな銀行の角を曲がり、ブティックや、女の子好みの喫茶店が建ちならぶ道をすこし歩いていくと、左手にカリー専門店がみえてくる。
カレーではなく、気どってカリーと看板に記されていることからもわかるように、ここは最近、都内に急速に増えてきた本場のインド・カリーを食べさせる店だ。
店に足をふみ入れると、いつもの奥まった席に腰をおろして、久子が待っていた。カリーではなく、ヨーグルトとミルク・ティをとっているのも、いつものとおりだった。
幸男をみて、久子は微笑《ほほえみ》を浮かべた。
「待った?」
テーブルをはさんでさしむかいの席にすわりながら、幸男が訊《き》いた。
「ううん」
久子は首をふった。
「待たなかったのか」
「そんなには」
「いま来たのか」
「そうでもないけど」
「あせっちゃったよ。約束に遅れるかと思ってさ」
「大丈夫だったわ」
「うん」
幸男がうなずいたとき、ウェイトレスが注文をとりにきた。
「チキン・カリーのいちばん辛いやつ」
メニューもみないで、幸男がいう。
「また、あれ食べるの」
ウェイトレスが立ち去ったあと、久子がいった。
「ああ」
「辛いのに」
「そこがいいんだ」
「体によくないわ」
「そんなことはないさ」
「あれを食べるときの幸男って、サウナに入ってるみたい」
「汗をいっぱいかいて、外へ出て、風に吹かれたときがたまらない」
「スポーツなのね」
「そうそう」
幸男は笑った。「ただ、あとでトイレに入ったとき、尻《しり》から火が噴きだすような思いになるけどな」
「いやあねえ」
「ほんとうだよ。自分がロケットにでもなったみたいだ」
「もういいわよ」
「いいか」
「いいです」
「そうだな」
幸男はまた笑って、コップの水を一口飲んだ。
「でも、どうせむこうへ行けば、いやというほど本場のカリーを食べられるのに」
久子も笑いながら、いった。
「行くのはインドじゃないよ」
「ネパールにだって、カリーはあるでしょ」
「あるけど、辛くない」
「あら」
「ほんとうなんだ、辛くない」
「そんなの嘘《うそ》よ」
「嘘なんかじゃないさ」
「だって、ネパールとかスリランカのカリーも辛いって、なんかの本に書いてあったわ」
「スリランカは知らないけどね」
「ネパールのカリーは辛くないの」
「うん」
幸男はうなずいて、いった。「インドのカリーだってそんなには辛くない」
「またあ」
「ほんとうだよ。風土がちがうんだから」
「湿っぽくないんでしょ」
「汗がでないからね。辛くないんだ」
「ネパールのカリーは?」
「山のうえだからかな。インドほどには香辛料はつかわないんだ」
「じゃあ、辛いカリーなんてないじゃない」
「日本の本場カリーがいちばん辛いんじゃないのかな」
「嘘みたい」
「だから、ここの極辛《ごくから》カリーは日本の味なんだ。久子もトライしてみればいいのに」
「だめよ」
「なんで?」
「汗でお化粧が崩れちゃうもの」
「そんなこと気にしなければいいのに」
「そうはいかないわ」
「女の子だって食べてるのをよくみるよ」
「わたしはだめ」
「美味《おい》しいのにな」
「わたしって根性がないのよ」
「そんなことはない」
そのとき、カリーが運ばれてきた。
幸男は容器から薬味をいっぱいとって、黙々とカリーを食べはじめた。たちまち汗だらけになってしまい、唇をとがらせ、何度も水のお替わりをしながら、それでもひたすら極辛カリーを食べつづける。みているほうが、息苦しくなってしまいそうだ。
「わたしって根性がないのよ」
カリーを食べつづける幸男をみながら、久子がぽつりと、そうくりかえした。
幸男は旺盛《おうせい》な食欲をみせて、十分ほどでカリーをたいらげた。食べ終えたあとは、汗を拭《ぬぐ》うのに忙しく、しばらくは口をきくこともできないでいる。
「落ち着いた?」
やがて、久子が優しい声で訊いた。
「うん、落ち着いた」
幸男がうなずく。
「あちらのほうも落ち着いたの?」
「え……」
「渡航準備」
「ああ、なんとかね」
幸男は微笑を浮かべた。
「いつの便になったの」
「来週の金曜日」
「インド航空?」
「うん、インド航空」
「いいなあ」
「ああ」
「見送りに行くわ」
「いや、まあ、それはいいじゃないか」
「なんで?」
「先輩たちにからかわれるから」
「かまわないじゃない」
「そうもいかないよ」
「かっこつけちゃって」
久子は笑ったが、ちょっとさみしげな笑いだった。
幸男がヨーグルトを注文し、それが運ばれてくるまで、すこし会話が跡切れた。
「二度目ね」
久子がいった。
「え?」
「わたしとつきあいはじめてから、幸男がカトマンズに行くのは、これで二度目だわ」
「ああ、そうだな」
「三年間に、二度」
「うん」
「わたしたちの関係って、あまり変わってないわね」
「いい関係だもの」
「そうね」
「それとも変える必要あると思う?」
「まさか」
「変える必要ないさ」
「いまの幸男には、わたしより山のほうが大切だものね」
「久子」
「はい」
「嫌味《いやみ》にきこえるよ。そんな言い方」
「そんなあ、考えすぎよ」
「でも、嫌味にきこえる。結婚は先のことにしようって、二人で決めたんじゃないか」
「わかってるわよ。わたしだって、もうしばらく今のお仕事つづけたいし」
久子がちょっと唇を尖《とが》らせるようにして、いった。「幸男があんまり山に夢中なんで、ちょっと拗《す》ねただけよ」
「久子と山とは、まったくべつのものだ」
「でも、どうして山に登らないの」
「え……」
「このまえ、山岳会の忘年会に呼ばれたとき、幸男の先輩の、ええと、ほら、喫茶店をやってる人がいたじゃない」
「高田さんか」
「そう、高田さんがいってたけど、幸男はヒマラヤに遠征するときには、いつも自分から連絡役をかって出て、カトマンズに残るんですって……日本の山なら真っ先に登りたがるのに、おかしいって」
「ちぇっ、おしゃべりだな」
「あら、いい人よ」
「いい人だけど、おしゃべりだ」
「おしゃべりだけど、いい人よ」
二人は笑った。
「ねえ、どうしてなの?」
笑いやんでから、久子が訊いた。
「なにが」
「どうしてヒマラヤには登らないの」
「ああ、そのことか」
幸男はちょっと考えてから、いった。「勿体《もつたい》ないからな」
「勿体ない?」
「うん」
「よくわからない」
「ほら、ちいさな子供はいちばん好きなものを、最後に食べるじゃないか。あれだよ」
「ああ、そういうこと」
久子は笑いだした。
「登っちゃったら、おしまいみたいな気がするんだ。最後までとっときたいんだよ。それに、おれカトマンズ好きだしさ」
「そんなにいい町なの?」
「うん」
「わたしも行きたいなあ」
「新婚旅行はカトマンズにしようよ。あちらでは、おれの先輩がホテルを経営しているしさ」
「行きたいなあ」
久子は夢をみるような口調で、もう一度つぶやいた。
「だから、新婚旅行で行こうよ」
「行けるといいわ」
「行けるさ」
店がすこし混みはじめたので、二人は席を立った。
これから渋谷に出て、映画をみて、酒を飲んで、もしかしたらそのあとはホテルに行くことになるかもしれない。
「カトマンズから戻ってくるときには、もう涼しくなっているわね」
「うん、秋風が吹きはじめたころに、戻ってくる」
「わあ、キザー」
「ほんとうなんだから、仕方がない」
「秋風の男ね」
「うん、おれは秋風の男なんだ」
明け方にすこし雨が降って、枯れ葉を散らした。
排気ガスで汚れている枯れ葉は、歩道のうえに落ちると、もう泥《どろ》との見分けがつかなかった。
秋雨前線がはりだしてきて、長雨をもたらしている。いまはいったん中断しているが、今夜にもまた降りだすにちがいない。
吹いている風は肌寒いが、冬ではない。まだ、九月だ。
幸男は自由が丘の駅に降りると、田園都市線側の改札を出て、ガードをくぐり、細い道を左に折れた。
その細い道を歩いていくと、一階がクレープ・ハウスになっている四階建てのマンションが右手にみえてくる。
クレープ・ハウス専用の駐車場に、やや頭を突っ込むようにして、運送会社の小型トラックが駐《と》まっていた。
幸男はそのトラックから顔をそむけるようにして、マンションに入っていった。
三階の、久子の部屋のドアは開いていた。
幸男はしばらく開いたドアの脇《わき》に立ち、久子がダンボールの箱に本を詰めるのをみつめていた。久子はドアに背中を向けていて、幸男がそこに立っていることに、気がついていないようだった。
幸男はドアをノックした。軽くノックしたつもりだったが、ドアは思いがけず大きな音をたてた。
「あら」
久子はふりかえり、立ちあがった。
「どういうつもりなんだ」
幸男が怒ったような声でいった。
「どういうつもりって……」
久子はくちごもっている。
「これじゃ不意打ちも同じじゃないか」
「そんなつもりはなかったわ」
「不意打ちだよ」
「あなたにはわかってもらえると思っていたわ」
「ふられたのは、わかっている」
「そんなんじゃないのよ」
「だから、どういうつもりなんだ」
「電話で話したわ」
「あれだけじゃわからないよ」
「あなたを傷つけるつもりはなかったのよ」
「そんなことはどうでもいい」
「よくはないわ。もしあなたを傷つけたのだとしたら、あやまります」
「わけを教えてくれないか」
自分でも気がつかないうちに、幸男の声はたかくなっていたようだ。
久子はちらりと廊下に視線を走らせて、静かな声でいった。
「カリーを食べにいかない?」
久子のマンションからカリー・ハウスまで歩いて十分とはかからない。
久子はいつものようにヨーグルトを注文した。幸男はすこし考えてから、ダージリン・ティを注文した。
「今日は極辛カリーを食べないの?」
久子が訊いた。
「ああ、食べたくない」
「どうして」
「今日は汗をかく気分にはなれないんだ」
「わたしは食べたわ」
「え?」
「あなたの留守中に、何度も食べたわ」
「きみは根性がないといってた」
「ええ……でも、あなたのことが恋しくて、それで食べてみたの」
「本気にしていいんだろうか」
「もちろんだわ」
「それで、どうだった」
「なにが」
「美味しかったかい」
「ええ」
「ほんとうに?」
「ほんとうに美味しかったわ」
久子がゆっくりとした口調でいった。「でも、カリーを食べたとき、ああ、わたしたちは別れたほうがいいなって、そう思ったの」
「ちょっと待ってくれ」
幸男は久子の言葉を、慌ててさえぎった。
「その話はちょっと待ってほしい」
「あなたがそういうのなら」
「待ってくれるね」
「ええ」
「おれの話をさきにきいてくれないか」
「いいわ」
「カトマンズにいるとき、いつもきみのことばかり想いだしていた。まえのときはそんなことはなかったのに、どうしてか起きてから寝るまで、久子のことばかり考えていた……カトマンズは山のなかの町だ。朝にはモヤがかかって、まるで夢のなかの町のようになる。きれいなんだ。それはもう信じられないぐらい、きれいなんだ……久子になんとかこの町をみせてやりたいと思った。いつも、そんなことばかり考えていた。そして、帰ったら結婚のことを本気で考えよう、そう決心したんだ」
幸男は久子の顔をみつめた。久子は俯《うつむ》いたまま、ヨーグルトをスプーンですくって、食べていた。幸男は言葉をつづけた。
「結婚をいつにするか、真面目に相談しようと考えたんだ。もうおれたちはその時期に来ていると、はっきり悟ったんだ。おれのいうこと、わかってくれるか」
「わかるわ」
「ほんとうに、そう考えたんだ」
「ええ」
「久子はよろこんでくれるとばかり思っていた」
「嬉しいわ」
「やめてくれよ」
「嘘じゃない」
久子の眼は真剣だった。「ほんとうに嬉しいのよ」
「だったら、どうして別れようなんていいだすんだ」
「それとこれとは違う話だわ」
「違わないよ。なんで、違う話だなんていえるんだ」
「どう説明したらいいのか、わからない」
「わからないのは、おれのほうだ」
「説明しようのないことなの」
「わからないのは、おれのほうだ」
と、幸男はくりかえした。「日本に帰ってきてから一度も会ってくれなくて、いきなり電話をかけてきて別れようなんて……ひどいじゃないか」
「手紙を何度も書いたわ。でも、電話のほうがわたしたちらしいと思ったの」
「あとくされがないからか」
「そんな言い方、あなたに似合わない」
「どういったらいいというんだ」
「なにもいう必要はないわ」
「きみにはそれでいいかもしれない」
「あなたにもそのほうがいいのよ」
ちょっと会話が跡切れ、久子は窓の外をみつめた。その横顔をきれいだと、幸男は心底からそう思った。
「カリーを食べたとき、おれと別れようと思ったなんて、まるでバカにされてるみたいじゃないか」
やがて、幸男が疲れた声でいった。「とても、ほんとうとは思えないよ」
「わたしはあなたにすごく精神的に頼りきっていたと思うのよ」
「そうはみえなかった」
「そうだったの」
「それで?」
「変なふうにきこえるかもしれないけど、辛くてとても食べられないと思っていた極辛カリーが、案外、美味しく食べられたとき、それがひどく不自然なものに感じられたの。ああ、いやだなと思ったの」
「なにが?」
「精神的に頼りきってることが、よ」
「だって、それは当たりまえじゃないか、好きなんだから、おたがいに頼ったとしても、べつに不自然でもなんでもないじゃないか」
「そうね」
と、久子はうなずいた。「わたしもそれはそうだと思うわ。でも、そのときにはそれがすごくいやだったの」
「結局、おれは嫌われたんだ」
「そうじゃないわ」
「そうなんだよ」
「そんなふうに考えてもらいたくない。あなたはなにも悪くないのよ。これはわたしの我儘なの」
「カトマンズに行かないほうがよかったのかな」
「え?」
「カトマンズに行って、久子を放っておいたのがよくなかったんだろうか」
「あなたはなにも悪くないのよ」
「おれが山とカトマンズが好きなのを、久子はわかってくれてると思っていた」
「わかっていたつもりだわ」
「だめだ」
幸男は苦い笑いを浮かべて、かぶりをふった。「どうしても納得できない」
久子はまた窓の外をみた。なにかを懸命に考えているような眼になっていた。
幸男はとっくに冷えてしまった紅茶をすすりながら、久子が口をひらくのを待っていた。
「あなたは部屋にヒマラヤの写真を飾ってるわ」
やがて、久子がいった。
「ああ」
「カトマンズに発《た》つまえに、どうして幸男はいつもヒマラヤに登らないのかって、訊いたこと憶えてる?」
「憶えてるよ」
「あなたはヒマラヤに登ってしまうのが勿体ないからと答えた」
「うん」
「あのとき、ああ、幸男はロマンチストなんだなと思ったの」
「ロマンチストじゃいけないのか」
「そうじゃないの。そんなことじゃなくて……」
久子はちょっと口ごもり、それから思い切ったようにいった。「この人は好きな山には決して登らない人なんだな、と思ったの。遠くから眺めて、好き勝手な夢をつむいでいる人なんだなって」
「そうか」
「そうなの」
「……まいったな」
「それで、わたしの写真も壁に貼《は》ってくれてることを想いだしたの。そしたら、なんだか急に……」
「いやになったんだ」
「いやになんかならないわ。あなたのことをいやだなんて絶対に思ったことはないのよ。ただ、わたしはあなたのヒマラヤにはなれないわ。それは無理なことなのよ」
「女はそれを我慢できない、か」
「ちゃかさないで」
「ちゃかすつもりなんかないさ」
幸男はレシートを手に取ると、ゆっくり立ち上がった。「でも、まさか泣きだすわけにもいかないじゃないか」
「泣くことなんか、なにもないわ」
久子が静かな声でいった。
「そうだな」
幸男はうなずき、二、三歩レジのほうに歩きかけてから、久子をふりかえった。「カトマンズはほんとうに素敵な町だよ」
「ええ」
「きみも一度は行ってみたほうがいい」
「行きたいわ」
「絶対に好きになるよ」
「わたしもそう思う」
「いつかだれかと結婚することになったら、新婚旅行はカトマンズにすればいい」
「新婚旅行でカトマンズに行くようなことはしない」
久子は首をふり、幸男の眼をみつめた。「絶対にしないわ」
外はもうすっかり暗くなっていた。
幸男は店を出ると、駅のほうに向かって歩いていき、最初に眼についた電話ボックスに入った。
そして、町田に住んでいる山岳会の先輩に電話をかけた。
「再《さ》来年の遠征のことなんですけど、あれ、おれも参加させてくれませんか」
相手が電話に出るなり、幸男はいった。
「今度は雑用じゃなくて、おれもパーティに加わって、ヒマラヤに登りたいんです」
来週の日曜日に、打ち合わせのために先輩の家を訪ねることを決め、ちょっと雑談をかわしてから、電話を切った。
電話ボックスを出て、夜空を仰いだ。
秋雨前線がはりだしているはずなのに、夜空はきれいに晴れわたり、月が出ていた。青い、満月だった。
カトマンズでみた月に似ている、と幸男は思った。
遭  難
スリップしたときには、それほど慌《あわ》てなかった。自分の体が路面に投げだされたときにも、それほど慌てなかった。
石岡はもう若くはない。少なくともバイクを無鉄砲に走らせて、粋《いき》がるほどは若くはない。
雨が降るときにバイクを走らせるのには、それなりの注意がいる。
急発進、急加速をしてはならない。パワーをかけずに走り、カーブのときにも車をバンクさせてはならない。要するに、なにもしてはならない。
雨降りには、路面のゴミや油が浮かびあがってきて、滑りやすく、とても危ない。それが初心者だったら、なおさらのことだ。
石岡は初心者とはいえないかもしれないが、もう十年ちかくもバイクを走らせたことはなく、初心者も同じだった。
それを十分承知していたからこそ、石岡は基本を忠実にまもり、ゼロハン・バイクを|とろとろ《ヽヽヽヽ》と走らせていたのだ。
それでも、スリップ事故は起きた。どんなに細心の注意をこめていても、事故は起きるときには起きる。べつに、ふしぎはない。
前輪がズルッとすべり、バイクをたてなおす間《ま》もなく、もんどりうって路面にたたきつけられたとき、石岡は自分でも意外なほど平静だった。
後続車はなく、カーブするのにスピードを落としてもいたから、万が一にも怪我をする恐れはなかったからだ。むしろ石岡は、軽い苦笑混じりの気持ちだったといっていい。
タオル地のつなぎ、フルフェイス型のヘルメットが、転倒のショックをやわらげてくれた。腰をちょっと強く打ったが、それも顔をしかめる程度の痛みにすぎなかった。
問題はなかった。なにも、問題はないはずだった。
石岡は路面に大の字にねそべったまま、すぐには起きあがる気になれなかった。
べつに、どこかが痛んで起きあがれなかったというわけではない。ショックのあまり、呆然《ぼうぜん》としたというわけでもない。
東京の、中堅どころの商事会社につとめ、毎日をただ平々凡々と送っている石岡には、この程度の事故でも、それはたいへんな冒険《ヽヽ》のように思われたのだ。灰いろの日常を、稲妻のように切り裂く、心ときめく冒険。
石岡は路上に仰向《あおむ》けになったまま、強風に吹きとばされる雨が、暗い空に銀いろの飛沫《しぶき》となって散っていくのを、微笑さえ浮かべながら、みつめていた。
台風が時速二十キロのスピードで北上しているということは、テレビのニュースでみて知っていた。
中心気圧九百五十ミリ、局地的な大雨をともない、半径百五十キロ以内では、二十五メートル以上の風速というから、決して小型の台風とはいえない。暴風波浪注意報・大雨警報もいち早くだされていたはずである。
こんな日にバイクで出掛けるのはむちゃだと、妻には止められたのだが、家を出たときにはまだ晴れていて、石岡は台風のことなど気にもしなかった。第一、石岡に遠乗りのつもりはなく、H市の北西にひろがっている山地国定公園までツーリングし、それで戻ってくる気でいたのだから、べつに問題はないと思っていたのだ。
山地国定公園のもっともH市寄りに位置する標高一〇三一メートルの山は、頂上まで二車線の山間ロードが刻まれていて、それこそ鼻歌まじりで昇って、降りてくることのできるお手軽なドライブコースになっている。前線が活溌になり、雨が本格的に降りだしてくるまえに、十分に戻ってこれる距離であったのだ。
それが夜の七時すぎという、こんな時刻になってしまったのは、石岡の運転が未熟であったのと、おそらく胸の奥底でどこか台風を歓迎するような気持ちがあったからにちがいない。
石岡は三十二歳、会社からみればちょうど使いごろともいうべき年齢で、ここ三年ばかり有給休暇をとっていない。久しぶりにとることのできた休暇で、思いきりはめをはずしたいと考えたとしても、彼を責めることはできないだろう。石岡はろくに酒も飲めず、それでかえって何事につけ、やりすぎてしまうきらいがあった。
それにしても嵐のさなか、バイクで転倒するというのは、いくらなんでも暴走のしすぎで、妻子持ちの三十男としては、いささか反省の要があったかもしれない。
それでも石岡は三、四分は、路上で仰向けになり、落ちてくる雨をボンヤリとみつめていたろうか。そうしていると自分の体がしだいに浮かびあがっていくような、奇妙な解放感をおぼえ、石岡はそのままそこで眠りこんでしまいたいとさえ思った。
もちろん、そんなことができるはずはない。
夜の山道で交通量が少ないとはいえ、まったく車が通らないわけではないし、第一、タオル地のつなぎが水を吸って、そろそろ下着に浸透しはじめている。もうしばらくその状態でいれば、寒さが耐えがたくなり、石岡は震えだすにちがいない。
まだ九月で、寒くてたまらないという季節ではなかったが、夜で、雨が降り、しかも山のうえは平地に比べ、温度が確実に二、三度は低い。楽観は許されなかった。
石岡はなんとはなしに苦笑いを浮かべながら、立ちあがり、ふとけげんそうな表情になって、あたりをみまわした。
バイクがどこにもみえない。白い飛沫を散らす雨の、燐光《りんこう》のような淡い光のなかに、かすかにスリップのあとが浮かびあがっていたが、肝心のバイクがどこにもみえないのだ。
「まいったな」
ボソリとそうつぶやくと、石岡はガードレールまで歩いていき、上体をのりだすようにして下を覗《のぞ》いた。
かなり勾配《こうばい》の急な斜面は、ナラやブナの樹で埋めつくされ、激しい風雨にざわざわと揺れていた。下に行くほど深みを増していく闇《やみ》のなかで、一本一本の樹は見分けがつけがたく、なにか巨大な獣《けもの》がうずくまり、その黒い毛を風になびかせているようにみえた。
そのどこかにバイクも転がっているはずなのだが、もちろんそんなものがみえるわけはなかった。
雨でディスク・ブレーキの|きき《ヽヽ》が悪くなっていて、バイクはほとんどノーブレーキにちかい状態であったにちがいない。石岡は転倒するさい、軽量のゼロハン・バイクを谷底に蹴《け》り落としてしまったのだ。
「まいったな……」
と石岡はもう一度つぶやき、途方にくれたような表情になった。
石岡が休暇をとり、中国地方最大の都市であるH市にやってきたのは、妻の実家がここにあり、子供の顔を両親にみせるためであった。
バイクも妻の弟のものであり、石岡は今日一日の約束で、それを借りたのである。
そのバイクを谷底に落としてしまった。修埋のきくような破損状態であればいいが、おそらく新しいバイクを買ったほうが、利口ということになるにちがいない。
しかし、それもやむをえない。スリップ事故を起こして、バイクの弁償ぐらいで済んだのは、むしろ幸運だったというべきかもしれないのだ。ものは考えようではないか。
それよりも、いまは一刻もはやく、山を降りることを考えるべきときだった。
風雨がしだいに激しさを増していく、雨が下着まで染《し》みとおり、寒くてならないはずなのに、どうかするとなま暖かい空気に包まれてしまい、額《ひたい》にジットリと汗が滲《にじ》んでくるのを感じる。確実に、台風は近づきつつあるのだ。
いまはまだそれほどでもないが、そのうちに吹き寄せてくる風雨に、ろくに立っていることもできなくなるだろう。雨具を持っていない石岡には、それはひどく過酷な体験になるにちがいない。
この山間道路を十二、三キロも降りれば、もうそこはH市だから、どこか開《あ》いている店をさがし、そこからタクシーを呼んでもらうことができる。
石岡は歩いたほうがいいか、それとも車が通りかかるのを待ったほうがいいか、ちょっと迷った。
そして、車が通りかかるのを待つべきだと思った。
十二、三キロという道程《みちのり》は、歩くのには決してバカにならない距離であるし、下手《へた》に雨のなかを突っ切って、疲れることもないと考えたからだ。まだそんなに遅いというほどの時刻でもないから、すこし待てば、同乗させてくれる車は、いくらでも走ってくるはずであった。
石岡はまちがっていたが、そのまちがいに気がついたときには、もう一歩も歩けない状態になっていたのである。
石岡の腕時計は、八時を示していた。
雨はいっそう激しさを増している。路面をおおっている水が、白く波立ち、音をたてて流れていた。強く吹きつけてくる風が、ときおり狂ったように勢いを加え、雨は横なぐりにたたきつけた。
完全に台風の勢力圏に入ってしまったらしく、もうなま暖かい風は吹いてこない。それどころか荒れ狂う風は、いよいよ冷たくなっていくように感じられた。
風と、雨と、そして闇と──
石岡はほぼ垂直に切り立っている崖《がけ》に身を寄せ、できるかぎり雨を避けながら、車が走ってくるのを待っていた。
雨を避ける、といっても、崖に生えている樹ぐらいでは、ろくな雨よけになるはずもなく、石岡は全身|濡《ぬ》れネズミのようになっていた。タオル地のつなぎが水を吸い、肩にのしかかるように重く感じられる、ヘルメットをかぶっているからいいものの、そうでなければ口のなかに雨が入ってきて、息をするのさえ困難だったにちがいない。
石岡は、べつに自分が窮地におちいったとは思っていない。ただ降りつのる雨、たたきつけてくる風の激しさに呆然としていたといっていい。
石岡が立っているのは、九十九《つづら》折りにカーブがつづく山間道路の、とりわけ勾配の急な地点だった。
一方には崖が切り立ち、もう一方にはこれもやはり崖がなだれおちていて、そのはるかさきには街《まち》の明かりがちらついている。
山間道路のカーブにはかならず外灯があり、凸面鏡《ミラー》も設置されているが、だからといって決して視界がきくとはいえない。生い茂った樹葉が見通しをじゃましているし、外灯にしてからが、ろくに点検されてもいないのか、いまにも切れそうに弱々しく点滅しているものが多いのだ。
ましてや、この嵐《あらし》だ。
外灯の明かりはかろうじて、落ちていく雨を銀いろに浮かびあがらせているにすぎず、山も、道も、そして石岡自身も闇のなかにとり残されていた。
ヒッチハイクをするのには決していい場所とはいえなかったし、いい天候ともいえなかった。
しかし、それほど悲観的になる必要もないように思われた。隣りの県からH市に入ってくるのに、この山間道路を利用する者は少なくなく、そんなに苦労しなくても、車を拾えるのが予想されたからである。あと一時間もすれば、石岡は妻の実家で風呂《ふろ》に入っているのではないか。
待ちはじめてから十分後、最初の車が走ってきた。
ガードレールの切れめに設置されているミラーが、ヘッドライトを反射し、一瞬、だいだい色に輝いて、雨のなかに浮かびあがったようにみえた。
ヘッドライトがミラーを照らしだすのとほとんど同時に、もう車はカーブを曲がりきっていて、石岡に迫っていた。
この豪雨のなか、カーブの多い山間道路を走るにしては、車はスピードをだしすぎていたし、運転している人間もほとんど前方に注意していないようだった。
ワイパーが動いていて、運転手の顔がみえないのが、石岡には車が自分を拒絶している徴《しるし》であるかのように思われた。雨のなか、だれも乗っていない車が山道を走ってくる……
石岡は慌てて片手をあげたが、ざあっと水をはねあげながら、車は走り過ぎていった。減速さえしようとしない。
石岡は片手をあげたままの姿勢で、雨のなかを赤いテールライトが遠ざかっていくのをみつめていた。
なにか剃刀《かみそり》を当てられたような、ヒヤリとしたものを喉《のど》に感じた。
もしかしたら、石岡はすこし楽観的にすぎたのかもしれない。現実を冷静に直視するのを怠っていたのだ。
考えてもみるがいい。
これが故障した車が路上に放置されているというように、トラブルのあとが歴然としているのならばともかく、そうでなければだれが好きこのんで、わざわざ車をとめたりするものか。雨に濡れたヒッチハイカーを拾えば、座席《シート》を汚されるだけではないか。
石岡のつなぎにヘルメットという格好が、なおさら条件を悪いものにしていた。暴走族は、ドライバーから嫌われている。
石岡は自分の体が震えていることに気がついた。
寒いのだ。とても寒い。
雨に濡れた下着が、急速に石岡から体温を奪いつつあった。決して大袈裟《おおげさ》にいうのではなく、このまま雨のなかに立ちつくしていれば、それこそ肺炎をひき起こしかねない恐れがあった。
二台めの車がみえたとき、石岡は必死に手をふり、叫んだ。
車は走り去っていった。
雨のなかを小さくなっていく車に、なおも叫びつづけながら、石岡はその叫び声が風雨にかき消され、ほとんどきこえないことに、泣きたくなるほどの絶望感をおぼえていた。
風速二十五メートル、たしかにそれぐらいはありそうだった。豪雨はほとんど波のように、斜めにつきあげてきて、崖に炸裂《さくれつ》し、白く飛沫をちらした。列車が鉄橋をわたっていくような、ごおっという音が、空と地のあいだに荒れ狂っていた。
闇はもうほんとうの闇とはいえず、銀いろの雨と、白い飛沫のなかに、山間道路がほのかに浮かびあがっていた。そのなかに、石岡はたったひとりで放りだされている。
ヘルメットのシールドはしたたり落ちる水で、極端に視界が悪くなっていた。なにもかもが水に没してしまったように、淡く滲み、ユラユラとゆらいでいるそのなかに、H市の灯が遠く瞬いているのがみえた。
──冗談じゃない……石岡は喉を締めつけられるような思いで、そう考えた。まったく冗談じゃない。こんな街の近くで遭難《ヽヽ》でもしようものなら、それこそいい笑いものじゃないか。
たてつづけに二台、車が走ってきた。
路面の水を、散水車のように二筋にはねあげながら、二台ともかなりのスピードで走ってきて、そして去っていった。
どうしてどの車も嵐のなかを、しかも曲がりくねった山道を、そんなスピードで走ってくるのか、石岡には理解できなかった。なにか自分にたいする悪意が秘められているようにさえ感じられるほどだ。
そのうちの後続の車を運転していた男は、まちがいなく石岡の姿を認めていた。ワイパーのかげで、笑っている男の顔を、石岡はたしかにみたのだ。
それなのに手を激しくふり、追いすがるように路上によろめきでた石岡を無視して、車は走り過ぎていった。いや、無視したとはいえないかもしれない。男は石岡をからかうように、甲高くクラクションを鳴らしたのだから。
そのクラクションの響きが、いつまでも石岡の耳に残っていた。石岡にはそれが、はっきりと自分を嘲笑《ちようしよう》する笑い声のようにきこえた。
石岡は寒さに震え、消耗し、そしてようやく怯《おび》えだしていた。
石岡は若いとき、これと同じような経験をしたことがあったような気がしていた。どんなに声をはりあげても、だれも自分のことを気にとめてもくれないし、必要ともしていない。孤独感、胸を締めつけられるようなやりきれない孤独感。
もちろん、それは石岡の錯覚にすぎなかった。だれもが若いときには、なんとか社会に自分のいるべき場をみいだそうとして、懸命にあがくのだ。ちょうどヒッチハイカーが車をとめようとして、手をふるように。
しかし十年たって、いまの生活にそれなりに満足しているようでいて、その実、なにも変わっていないのではないだろうか。こうして嵐の山道で、車をとめようとして必死に手をふっているのが、掛け値なしのおれのほんとうの姿ではないのか……
おそらく疲労と寒さのせいで、一瞬、石岡は虚脱状態におちいっていたようだ。
ハッと気がついたときには、豪雨を裂くようにして、ヘッドライトの明かりがぎらつき、中型のバンが急速に迫ってきていた。
風の音をつんざいて、クラクションがけたたましく鳴り響くのがきこえた。
そのときの石岡の精神状態は、自分でも説明のつかないものだった。もしかしたら、なかば心神喪失にちかい状態だったのかもしれない。
「とまってくれっ」
そう叫びざま、石岡は車のまえにとびだしていたのだ。
そして、はねられた。
どれぐらい気をうしなっていたのかわからない。ほんの数秒間のようでもあり、十分以上失神していたようでもあった。
いずれにしろ、はねられたショックというより、軽い貧血をおこして、それで気をうしなったらしかった。車のボディが腰をかすめた直後、スッと頭のなかが冷たくなったのを憶えている。
シールドにひびが入り、路上の水が泡立《あわだ》ちながら、ヘルメットのなかに流れこんできた。石岡は激しく咳込《せきこ》み、それで眼を醒《さ》ましたのだが、そんなことがなかったら、そこでそのまま気をうしなっていたにちがいない。むしろ幸運だったといえたろう。
石岡はしばらく呆然としていたが、やがて自分が道路の真ん中によこたわっていることに気がつき、慌ててはね起きようとした。
「ああっ」
足に激痛が走り、石岡の口から悲鳴が洩《も》れた。
腰から折れるようにして、石岡はぶざまに転倒している。口と鼻のなかに水が入り、石岡はまたひとしきり咳込んだ。
はねられたはずみに、ガードレールの縁ででも切ったらしく、両足の膝《ひざ》のあたりが破れていて、薄く血が滲んでいた。いや、血がわずかしか付着していないのは、雨に流されたからにちがいなく、足にほとんど感触がのこっていないことからも、傷はかなり深いように思われた。
体は、おこりにかかったように激しく震えていた。寒さと出血が、石岡を急速に衰弱させつつあるようだ。寒くてならないはずなのに、頭のなかが熱く、顔が火照《ほて》っていた。
もちろん、石岡をはねた車は走り去っていた。運転手はちょっと接触した程度に考え、人をはねたとは思っていないのかもしれない。いずれにしろ、非は急にとびだした石岡のほうにある。
最悪だった。まったく、お話にならないぐらい最悪だった。
石岡の濁った頭のなかを、このままでは車に轢《ひ》き殺されてしまうという怯えが、ふいに過《よぎ》った。ただでさえ視界の悪いところへもってきて、道の真ん中に寝そべっていたのでは、自殺行為も同然ではないか。
石岡は、喘《あえ》いだ。いや、ほとんど泣いていたのかもしれない。喘ぎ、泣き、そして這《は》いはじめた。
路面の水は風に波立ち、容赦《ようしや》なく石岡の顔に押し寄せてきた。割れたシールドはもう水よけの役にたたず、口のなかに水が入ってくるたびに、石岡はその水を吐きださなければならなかった。
水は、かすかにガソリンのにおいがした。
石岡は川底を這っているようなものだった。うねる波、白く牙《きば》をたてて流れていく水に、石岡は何度も路面のわずかな|ざらつき《ヽヽヽヽ》に指をたて、体を支えなければならなかった。一度水に押し流されてしまえば、もうふたたび這うだけの気力は、湧いてこないように思えたからだ。
わずか数メートルの距離が、どうしてこんなにも遠く感じられるのか。おれはほんとうに這っているのだろうか。這っているつもりで、その実、ただ水の中であがいているだけではないのか……
風のなかに、木の葉が狂ったように舞っていた。石岡の眼には、その木の葉がいまの自分の姿であるかのようにみえた。いまの自分? いや、いつだって人間は風に舞っている木の葉のような存在ではないのか。毎日の生活がどんなに揺るぎない、堅固なものにみえても、それはささいなことで──たとえば、バイクが転倒するというようなささいなことで、だ──たやすく突きくずされ、風に吹きとばされてしまうのではないだろうか。
石岡がようやく崖までたどり着いたとき、ヘッドライトの明かりがサッと道路を薙《な》いで、車が走り過ぎていった。
石岡は空をあおぎ、身を震わせながら、絶叫した。
しかし、風と雨の音はまたしても石岡の声をかき消し、車はそのまま走り去っていってしまった。
──どうして、そんなに急いで行ってしまうんだ? 石岡はうめき声をあげた。風と雨のなかに、いまにも死にかけた男がたった一人で放りだされて、助けを呼んでいるんじゃないか。どうして、だれもそのことに気がついてくれないんだ……
そう、石岡は死にかけている。このままだれも拾ってくれなければ、寒さと出血、そしておそらくは恐怖のために、死んでいくことになるのだ。人口二百五十万のH市にちかい、車が頻繁《ひんぱん》に通るこの山間道路で、こともあろうに衰弱死することになる。
これがまだしも直線道路であったら、ドライバーが遠くから、助けを求める石岡の姿をみつけるという可能性もあるかもしれない。だが、カーブが連続する山間道路で、しかも這っている人間を、ドライバーが眼にとめるということはまず考えられない。たとえ叫んでも、その声はドライバーの耳には届かない。
滝のように水が流れ落ちている崖に、石岡は両手をくいこませると、かろうじて上半身を引きあげ、そのままそこに背中を凭《もた》せかけた。
そして、呆然と雨をみつめる。
突風が走り抜けていくと、雨は横に流れ、何重もの水の層になって、路面にひろがっていく。何百|挺《ちよう》もの機銃が一斉射撃をしているように、道路に流れる水は白く泡立ち、飛沫をはねあげていた。
頭上から、ふいに木の裂けるような音がきこえてくると、ざあっという葉擦《はず》れの音とともに、風に根こそぎにされた灌木《かんぼく》が倒れかかってきた。
さいわい、石岡はその木に頭を打たれずに済んだが、べつにそれを嬉しいとも思わなかった。寒さ、出血、それになにより失意のために、感情がなかば麻痺《まひ》してしまっているようだった。
倒れた木は、枝のほうを下にして、道路を流されていき、ガードレールにひっかかって、しばらくそこで揺れていたが、やがて闇のなかに消えていった。
石岡は、クスクスと笑いはじめた。発作のような、あるいは筋肉が痙攣《けいれん》するような、まったく意味のない笑いであった。笑いつづけながら、石岡はこのまま自分は気が狂っていくのではないかと、ボンヤリそんなことを考えていた。
そのとき、またかすかにガソリンのにおいを感じた。
石岡の濁った意識のなかをなにかが、なにかひどく大切なことが、一瞬、ほとんど痛みさえともなって、過っていった。
そして石岡はあらためて、複雑な水紋を描きながら、風に押し流されていく路面の水を凝視した。
よほど視線を凝《こ》らさないとわからないのだが、水のうえにかすかに油膜がひろがり、それが鈍く光っていた。強い風が吹き抜けていくと、水は走るが、油は重く揺らぎ、ギラギラと小波《さざなみ》のように光るだけで、その場に残っている。
もしかしたら転倒したときに、バイクの予備タンクが壊れたのではないだろうか。
石岡は右腕をあげ、つなぎのにおいを嗅《か》いだ。かすかに、ほんとうにかすかに、ガソリンのにおいがした。
石岡は自分で自分の動きを、まったく意識していなかった。死に瀕《ひん》した小動物の本能のようなものが、石岡の意志とは関わりなく、その体をつき動かしたのだ。生きのびたい、なんとしてでも生きのびたい、という動物の本能が。
石岡はまた風と雨のなかを這いはじめた。
這うというより、泥水のなかをのたうっているといったほうが正確かもしれない。じっさいには、石岡にはもう這うだけの体力も残されていないのだ。肱《ひじ》を支点にして、あえぎながら、身をよじりながら、それこそ一センチきざみで、体を前進させていく。
右の肱がすりむけてしまったらしく、血が一筋、細く、赤く、水のうえを流れていくのがみえた。
風が勢いを増すたびに、路面の水はふくれあがり、石岡の頭をたたきつける。石岡は咳込み、ほとんど窒息寸前の状態になりながら、それでも押し寄せてくる水にひるむことなく、ひたすら這いつづけている。
シールドはその破片しかヘルメットに残っていなかったが、もう石岡にはそんなことはどうでもよくなっていた。
──いま車が走ってくれば、おれは確実に轢き殺される……石岡はふとそう思ったが、自分でもふしぎなほど切迫感は湧いてこなかった。あまりの苦痛に、どうやら現実感覚が希薄になってしまっているようだった。
石岡は、妻と子供の顔を脳裏に思い浮かべようとした。しかし、ほんとうは家族の存在すら、いまの石岡にはどうでもいいことだったのだ。
|風と雨のなかを《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|たった一人で走り過ぎていく車を呼びとめようとして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|必死に手をふっている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……
石岡はようやく油膜がひろがっているあたりにたどり着いた。
一瞬、そのまま気をうしないそうになったが、必死に首をふり、つなぎのポケットからライターをとりだして、もう一方の手で風をさえぎるようにし、火をつけた。そして、その火を油膜に近づける。
意外にあっけなく、油に火は移った。しかし青白い炎がチロチロと舌なめずりをしているだけで、これでは狼煙《のろし》の役に立ちそうもない。
石岡は路上に横になったまま、身をくねらし、苦痛にうめき声をあげながら、つなぎを脱いだ。
つなぎにはたしかにガソリンが付着しているかもしれないが、それ以上に水が染みこんでしまっている。つなぎを火のうえにかざしても、かすかに繊維の焦げるにおいがするだけで、なかなか燃えあがってくれない。
ようやく燃えはじめたとき、ヘッドライトの明かりが闇を薙いだ。
もう石岡には動くのはおろか、叫ぶだけの気力も残っていなかった。車が狼煙に気がついてくれないか、あるいは気がついてもブレーキをかけるのが間にあわなかったら、このままここで轢き殺されるほかはない。
石岡は車が近付いてくる震動を感じても、もう顔をあげようとさえしなかった。
車は、石岡からわずか一メートルほど手前でとまった。
「すぐに病院に運んでやるよ。家族には、そこから電話すればいい」
いかにも親切そうな中年男は、車を運転しながら、そう笑いかけた。
石岡は毛布にくるまり、助手席に腰をおろして、しばらく沈黙していたが、やがて力のない声で訊いた。
「H市の人たちは、雨が降っている夜の山道でも車のスピードを落とす習慣はないのですか」
「そんなことはないさ」
中年男は笑い声をあげた。「ただ、今夜は特別だからな」
「特別?」
「東京で、H市のH──球団と巨人軍とのナイターがあるんだ。優勝を左右する大切な試合だし、H市には地元びいきの熱烈な野球ファンが多いからね」
「野球……」
「ああ、カーラジオじゃものたりない、やっぱりテレビで試合をみたいって、それでみんな家に帰るのを急いでるんじゃないかな」
「野球……」
石岡はもう一度そうつぶやき、呆然とフロント・ガラスをみつめた。
フロント・ガラスには雨が激しく流れ落ちていて、そのうえをワイパーが過るたびに、青い光が滲み、道路が歪《ゆが》んでみえた。
石岡は低い声で、泣きはじめた。
事故に遭ったのが悲しくて、あるいは命拾いをしたのが嬉しくて、それで泣きだしたのではない。
事故に遭うまえの無垢《むく》で、無邪気な自分には、もう絶対に戻れないことを知り、それが悲しくて、石岡はすすり泣いているのだった。
泣かない子供は
その日が、出産予定日だった。
明け方まで仕事をしていた良平が、眼を醒《さ》ましたときにはもう昼ちかくになっていた。顔を洗うのもそこそこにして、妻のいる産院に電話をかけ、何時ごろそちらへ行けばいいのか、と医師に尋ねた。
陣痛がはじまるのは夜のはずだから、夕方に顔をだしてくれれば十分だ、どうしてか不機嫌な声で、医師はそう応じた。
「よろしくお願いします」
良平は電話を切り、タバコを吸いながら、さて、それまでの時間をどうやって過ごしたらいいものか、と思案した。
雑文書きを仕事にしている良平は、べつにどこかへ顔をださなければならない義理もなく、急ぎの仕事は今朝仕上げてしまっている。映画をみるのには中途半端だし、かといって本を読む気にもなれず、時間を持てあました感じだった。
執行猶予、といういささか不謹慎な言葉が頭に浮かんできた。
中ぶらりんの状態なのだ。どこか落ち着かないが、べつに苛立《いらだ》っているわけではない。嬉《うれ》しいとは思わないが、もちろん悲しいわけでもない。自分が父親になるという実感も湧いてこないが、これはむしろ湧いてくるほうが不自然であったろう。
手持ちぶさたのままテレビをつけ、チャンネルを回してみたが、どの番組も主婦相手のワイドショーの時間で、良平の興味をひきそうな番組はやっていなかった。
とりあえずコーヒーでも淹《い》れようかと、キッチンに立とうとしたとき、仕事さきの編集者から打ち合わせをしたいという電話が入ってきた。
さほど急ぐ必要のない打ち合わせであったが、どうやって時間をつぶしたらいいか、考えあぐんでいた良平には、これは天の助けともいうべき電話だった。
渋谷のMという喫茶店で待ちあわせることを決め、電話を切った。
部屋を出ていきしなに、今夜、ここに戻ってきたとき、おれは父親になっているはずだと、ことさらそうつぶやいてみたが、やはり何の感懐も湧いてこなかった。むしろ、そうした自分の芝居がかった仕種《しぐさ》が照れくさく、いくらか肚立《はらだ》たしくもあった。
そのくせ、印鑑を持ってきて欲しい、と病院からいわれたことを途中で想いだし、慌《あわ》てて部屋にとって返したりしたのだから、平常心を保っていたとはいえないようだ。
打ち合わせの相手は、若者向けのビジュアル誌の編集者で、良平とほぼ同年輩だった。
打ち合わせはすぐに済み、自然に映画の話題になった。
「スーパーマンみました?」
編集者が、訊《き》いた。
「いや、まだ……みた?」
「ええ」
「どうだった」
「これが、傑作」
「みたいな、試写どっかでやってるかな」
「劇場試写の切符なら、手に入りますよ。あれは試写室じゃなくて、劇場の大画面でみたほうがいい」
「切符、送ってください」
「いいですよ、ポパイはどうします?」
「あれはパスするよ。そんなに映画ばかりみてらんない」
「知ってます? いまターザンもつくられてるんですよ」
「ほんとうかな、たまんねえな。スーパーマンにターザンにポパイ、リメイクばかりじゃないか。去年のあれ、フラッシュ・ゴードンもそうだし……なんだろうね? 企画力が落ちてるのかしら」
「時代がくるりと一回りしちゃったんですよ」
編集者は、奇妙に老成した表情でいった。
「特にぼくたちの世代に、それが顕著なようですよ。三十前後、まあ、三十五歳ぐらいまでですかね。ここらへんの世代は、なんだか時代が一回りしちゃったように感じているみたいですよ」
「なんだろう? ノスタルジーともちがうよね」
「ちがいますね」
まだ独身のはずの編集者の顔を見ながら、今日、子供が生まれるといったら、この男はどんな顔をするだろう、良平はふとそう思った。やはり、時代が一回りしたというだろうか?
そのときになって良平は、いまの自分の不安定な精神状態は、なにかが始まるときの落ち着きのなさではなく、なにかが終わるときの|それ《ヽヽ》だということに気がついた。
時代が一回りしたといっても、なにかが終わったといっても、結局、それは同じことの裏表にすぎない。
「なにしろ月光仮面が制作される時代ですからね」
「あれは、当たんなかったんだろう?」
「当たるはずないですよ、マジで作った映画と、たんに回顧ブームに便乗した映画とではちがうもん」
編集者と別れ、近くのデパートで医師へのお礼の品を買ってから、良平はタクシーをひろい、産院に赴いた。
なにかが終わったといっても、これは青春との訣別《けつべつ》といったような、甘美な感傷ではなさそうだな、良平は車のなかでそう考えた。もうすこし切実で、わびしい|なにか《ヽヽヽ》であるようだ……
産院の廊下で待ちながら、持参した二冊の文庫本を読み終えたとき、赤ん坊の泣き声がきこえてきた。
赤ん坊は女で、未熟児だった。
かなりの難産であったらしく、妻は疲れはてて寝てしまい、しばらくは面会できそうになかった。
とりあえず両方の親に電話で報告してから、良平はようやくガラス越しに、自分の子供と対面することができた。
誰もがそういうように、生まれたばかりの赤ん坊は茹《うだ》ったように赤く、しわだらけで、サルの子供としかみえなかった。
漠然とした不安感のようなものはあったが、自分が感激しているかどうかはよくわからない。もしかしたらその不安感が、感激の屈折したものであったのかもしれない。
ほかの保育器の赤ん坊はむずかったり、元気に泣いたりしているのだが、良平の娘だけはぴくとも動かず、かといって眠るでもなし、ただまじまじと天井をみつめているのだった。
動かない娘をみていると、これまでとはまた違った意味での不安感が、胸に湧いてくるのをおぼえる。
「うちの子は大人《おとな》しいですね」
良平は、隣りに立っている看護婦にそう話しかけないではいられなかった。
「ええ、でも、べつに心配はないですよ」
中年の看護婦は、そう親切に返事をしてくれた。
「そうですね」
と、良平はうなずいた。「泣かない子供はネズミをとる、っていうし……」
看護婦の吹きだす声がきこえてきた。
体を二つに折るようにして、いつまでも笑いつづける看護婦の姿を、良平はただあっけにとられてみつめていた。
泣かない子供はネズミをとる……
その言葉がいつから良平の胸に深く刻みつけられ、ことあるごとに繰り返し想い起こされるようになったかは、彼自身にもよくわからない。
それはあるときにはほとんど呪術《じゆじゆつ》めいた力を持ち、良平をこのうえもなく元気づけてくれる言葉であったし、あるときにはたんなる口癖《くちぐせ》のようなものにすぎなかった。
とにかく、泣かない子供はネズミをとる、という言葉が、物心ついたときから、ずっと良平の意識のなかにあったことだけは間違いない。
ふしぎなのは、その言葉をだれが最初に教えてくれたのか、どうしてもそれを想いだせないことだ。
母親の話によれば、良平は泣かない赤ん坊だったという。大人しいというより、むしろ陰気な、可愛気のない赤ん坊だったらしい。乳が欲しいとき、おしめが濡《ぬ》れたときにだけしか泣かず、あとは知らない顔をしている──母親の表現をかりれば──打算的《ヽヽヽ》な赤ん坊であったようだ。
要するに、赤ん坊らしくない赤ん坊だったのだろうが、当然、母親は良平のことを虚弱体質ではないかと心配したにちがいない。
母親のその心配をとりのぞくために、
「いや、まあ、泣かない子供はネズミをとるというから、かえっていいんじゃないんですか」
近所の人か、あるいは親戚《しんせき》の人が、そう慰めたことがあったとしても、すこしも不自然ではないだろう。
ただ、赤ん坊だった良平がその言葉を記憶にとどめ、いつまでも憶えているなどということが、はたしてありうるだろうか。断片的なものにせよ、赤ん坊のころのことを憶えている人もまれにはいるそうだから、絶対にありえないとは断言できないかもしれないが、常日頃から記憶力の弱いのを自覚している良平には、ちょっと信じられないような気がするのだ。
泣かない子供はネズミをとる……自分がいつ、だれからその言葉をきいたのかを考えはじめると、良平は決まってふしぎな、気の遠くなるような思いにとらわれる。もしかしたらそれは、いつからか勝手に胸のなかに棲《す》みつき、そこで息づきながら、良平の人生を支配する、魔法使いの呪文《じゆもん》のようなものではないだろうか、なかば本気でそう信じたくなるのだった。
良平がはっきりと、泣かない子供はネズミをとる、という言葉を意識したのは、小学校の二年生のときだった。
昭和三十年代のはじめ、もちろん小学生の良平なんかが知るはずのないことだが、それは「もう戦後ではない」という言葉がしきりに新聞に載せられていたころであったはずだ。
ほんとうに戦後が終わったかどうか、現実にはテレビの普及という形で、なにかが変わりつつあることが、幼い良平にもおぼろげに感じられた。
良平には、街頭テレビの記憶はない。良平が住んでいた地方都市にはそんなものはなかったか、そうでなければ、それはもうすこし時代をさかのぼったころの話であったにちがいない。
良平にとってテレビとは、蕎麦《そば》屋とか、床屋で追いたてをくらいながら、窓にかじりつくようにしてみるものであり、また友達のカバンを持ってやり、そのお返しにようやく三十分だけ、彼の家でみることを許されるものであった。
三十分──
その三十分がなんと輝かしく、魅惑に満ちたものに思われたことだろう。
火曜日の六時半からはスーパーマンが放映されていて、良平の一週間はほとんどその三十分を軸にして、動いているようなものだった。スーパーマンの活躍もさることながら、婦人記者ロイス・レインのちょっと|はすかい《ヽヽヽヽ》にかぶった帽子が──当時の良平の眼には──なんとも粋《いき》なものにみえて、みるたびに胸をときめかせていたのだ。
スーパーマンをみるためなら、良平はどんな犠牲も惜しまなかったにちがいない。ましてや学校の帰り道、テレビを持っている家の子の、カバンを持ってやるぐらい、なんでもないことであったのだ。
しかし、良平の母親にはそれがいかにも卑屈なことに思われたようだった。
「みっともないじゃないか。あそこは闇屋《やみや》で儲《もう》けた、成り金なんだからね。カバンなんか持ってやることないんだよ」
一度だけだが、吐き捨てるような口調でそういわれたことがある。
良平にはもちろん闇屋も、成り金という言葉も、はっきりとは理解できなかったが、それがあまり誉《ほ》められたことでないのは、ボンヤリとわかった。
当時は闇屋という言葉が、かろうじて日常語として残っている、最後の時代であったのだろう。
だが、友達の家がヤミヤだからといって、ナリキンだからといって、それがいったい何だというのか。スーパーマンをみるために、友達のカバンを持ってやることが、どうしてみっともないことなのか。
スーパーマンを見逃がして、友人との会話に加われなくなるほうが、もっとみっともないことではないのか……
しかし、その友達との幸福な関係は、良平の軽率な失敗のために、長続きしなかった。
良平は、小学校の二、三年までは、成績がよかった。つまりは要領がよかっただけのことで、努力に裏打ちされたものではなかったから、高学年になるにしたがい、しだいにメッキが剥《は》げ落ちていき、劣等生になっていくのだが、とにもかくにも低学年のころは成績がよかった。
そして、ちびの良平は──あとから想いかえすと、顔が赤らんでくるのだが──そのことをすこし鼻にかけていたようなのだ。
あれは、国語の時間だったろうか。
どうしてそんな話になったのか、いまとなってはよく憶えていないが、ハスの花のことが授業の中心となった。
「A─くん、ハスの花って、どんな花だか知ってますか」
学校を出たての、若い、女の先生は、A─という男の子を当てると、優しくそう尋ねた。
A─は席を立つには立ったものの、俯《うつむ》いたきり、ただモジモジとしていた。
小学校の二年生といえども、同級生とのつきあい方にはそれなりのルールというものがあったし、大人とはまたちがった意味での道義もあったはずだ。
どうしてそのとき、良平がそれを忘れたのかはわからない。そのA─こそ、いつもテレビをみせてくれる男の子で、もしかしたら良平はそのことによる心理的なひけめを、なんとか覆《くつがえ》したいと思ったのかもしれない。そうだとしたら、良平はなんといやな|ちび《ヽヽ》だったのだろう。
「ハスの花は水に浮いてて、白くて、花が咲くときにポンと音をたてるんです」
べつに先生に当てられたわけでもないのに、良平は夢中になって、そう喚《わめ》いていたのである。
先生は誉めてくれたし、良平も内心得意だったが、そのことでどれだけA─が傷ついたかまでは、考えが回らなかった。
いや、これは考えが回らなかったというより、良平が他人の気持ちを思いやるほど優しくなかったというべきかもしれない。もっとはっきりいってしまえば、良平は軽薄だったのだ。|おっちょこちょい《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》だったのだ。
良平がいかに軽薄であるかは、授業が終わったあと、いつものようにA─のもとにすっとんでいって、カバンを持とうとしたことからも明らかであろう。
「持っていらんわ」
カバンを持とうとした良平の体を、A─は乱暴に両手で押しのけた。
良平はよろけ、机の角に腰をぶつけたが、その痛みよりも、自分が友達に拒否されたというおどろきで、呆然《ぼうぜん》とその場に立ちすくんでしまった。
良平の胸のなかを、今日は火曜日だ、という思いが、ほとんど痛みさえともなって過《よぎ》っていった。あくまでも軽薄な良平にとって、友達を怒らせてしまったことよりも、スーパーマンをみることができなくなるほうが、はるかに重要な問題であったのだ。
「なに怒っとるの?」
良平は──おそらくは、追従《ついしよう》笑いさえ浮かべて──友達ににじり寄っていこうとした。スーパーマンをみたい一心であったのだ。
「おべっか」
A─は嫌悪の表情をあらわにして、とびすさると、指で良平の顔を差し、そう大声で弾劾《だんがい》した。
あまりのショックで、良平は凍りついたようになってしまった。小学二年生の子供にとって、おべっかは、|えんがちょ《ヽヽヽヽヽ》とともに最大級の悪口であり、それを浴びせられた者は、もはや名誉回復が不可能なことを意味していた。
「おべっか、おべっか……」
A─のみならず、周囲にいた何人かが、そう声をあわせ、ふしをつけるようにして、良平をはやしたてた。
もうA─を懐柔《かいじゆう》することなど不可能であったし、弁解も許されなかった。
「おべっか、おべっか、おべっか……」
しだいに大きくなっていくその合唱をまえにして、良平はなす術《すべ》もなく、立ちつくすほかはなかった。
いや、おそらく良平は泣いたはずだ。泣きながら、家に逃げ帰ったはずだが、どうしてかそのことはよく憶えていない。
ただ良平が憶えているのは、泣かない子供はネズミをとる、泣かない子供はネズミをとる、と繰り返しそう口のなかでつぶやいていたことだけだ。
泣かない子供はネズミをとる、という言葉を良平が強く意識したのは、そのときがはじめてであったし、たしかにそこには彼を力づけてくれるなにかが含まれているようであった。
良平にとって、おべっかという罵声《ばせい》を浴びせられるのが、どんなに屈辱的なことであったか、もしかして泣かない子供はネズミをとる、という言葉を思い浮かべなければ、翌日から登校を拒否していたかもしれないのである。
泣かない子供はネズミをとる……良平は子供ながらにこれを、泣かないで、ジッと我慢していれば、きっとなにかいいことがある、というふうに理解していたようだ。泣かない子供は偉くなれる、というようにも考えていたらしい。
言葉の意味はともかくとして、その語音《ごいん》というか、語感が、良平にはひどく独特なものに思われ、生まれるまえから、自分ひとりのために用意されていた呪文であるような気さえしていたのだ。
呪文が、威力を発揮したのも当然であったかもしれない。
物心ついてから、十一、二歳まで、良平は神話のなかに生きていたからだ。月光仮面、七色仮面、怪傑《かいけつ》ハリマオ、ジャガーの眼……いつもテレビのヒーローたちが、良平によりそい、いっしょに息づいていた。神話のなかに生きていた良平にとって、現実などは色あせ、くすんだ、抜けがらのようなものにしかすぎなかったのである。
神話のなかに生きていたのが、自分ひとりではないことを、成長してのち、新宿のバーなどに出入りするようになってから、そこで怪傑ハリマオや、月光仮面の主題歌を大声で歌う同年輩の男たちの姿を頻繁《ひんぱん》にみて、良平ははじめて納得した。
しかし、神話の時代にも、現実の冷たい風がまれに吹き込んでくることがあった。
良平の場合、それはテレビでスーパーマンを演じていた役者が自殺したことを、詳しく報じた新聞であった。
「泣かない子供はネズミをとる……」
良平はその記事を読んだあと、ソッと口のなかでそうつぶやいたが、どうしてかいつものように力が湧いてきそうにはなかった。
ただ、これでなかなか生きていくというのは大変なことらしい、と子供ながらにおぼろげにそう感じただけであった。
良平が成長し、神話時代から脱していくにつれ、当然のことながら、泣かない子供はネズミをとる、という言葉の呪術的な威力もしだいに薄らいでいった。
なにより良平には、「受験」という圧倒的な現実が重くのしかかってきて、さしものテレビのヒーローたちも退散せざるを得なかったのである。
こころみに、泣かない子供はネズミをとる、と試験の最中につぶやいてみたりしたが、効果のあろうはずもなく、そのときの模擬テストは三百人中二百六十番という惨憺《さんたん》たる結果に終わった。
良平はいつしか、泣かない子供はネズミをとるという言葉を忘れていった。
神話時代が、遠のいていったのだ。
たった一度だけ、東京オリンピックのマラソン競技がテレビ中継され、画面にアベベの顔が大写しされたとき、泣かない子供はネズミをとる、という言葉が思いがけない激しさで、胸の底からつきあげてきたことがあった。
それはもしかしたら、感動と呼ばれるたぐいのものであったかもしれない。
泣かない子供はネズミをとる……
このとき、この言葉はもはや良平のものではなく、遠いエチオピアのマラソン・ランナーに与えられるべき、ある種の勲章になっていた。それがほとんど自分とは関係のない言葉になってしまったことに、良平は疼《うず》くようなさみしさを、胸におぼえていた。
しかし、それでも大学に入るまでは、その言葉はかろうじて呪力をたもち、良平のなかに残っていたようだ。
良平がそれと完全に訣別したのは、大学二年の秋のことだった。
良平が学生だったころは、学園紛争が頂点に達し、大学は|封 鎖《ロツク・アウト》の連続だった。
良平は学生運動には参加していなかったが、かといって女の子と遊ぶほど器用でもなく、アルバイトも必要最低限しかやろうとせず、暇を持て余しながら毎日を送っていた。やることといえば、図書館から借りてきた本を読みふけるぐらいしかなかったが、さすがにそれも一週間もつづくと、わけもなく苛立ってきて、ときおり新宿西口の焼き鳥屋に出掛けていった。
ある夜、その焼き鳥屋で、おそらくは女子高生と思われる娘をともなった、一人の男といっしょに酒を飲むことになった。
焼き鳥屋で姿をみかけることはあっても、これまで挨拶《あいさつ》をかわしたこともない相手だったが、どうした|はずみ《ヽヽヽ》でか、そういうはめになってしまったのだ。
「とにかく、いまや働くことは罪悪なんだよ」
と、その男はいうのである。「働くということは、企業の論理に自分を売りわたすことであり、それは体制側の荷担者になることを意味しているんだから」
それはこの時代にあっては、べつにめずらしい説ではなかったが、その男が口にするといっそうの迫力と、真実味を増すように思われた。
良平よりわずか二、三歳しか年上でないはずのその男は、何誌かのミニコミ雑誌にイラストを描き、また何人かの女のひもとなって、けっこうな実入《みい》りを得ているという噂《うわさ》の主であった。要するに、その焼き鳥屋の名物男のような存在だったのである。
なにより、男が連れている娘が、スラリとした──決して、大袈裟《おおげさ》にいうのではなく──妖精《ようせい》のような美貌《びぼう》の持ち主であったことが、良平を完全に圧倒していた。恋人はおろか、ガールフレンドのひとりもいない良平が、なんとなく負け犬的な心情になり、ただただ男が気炎をあげるのを、黙ってきいていることになったのも、ごく自然な成りゆきだったのではなかろうか。
「一度でも、体制のなかに組み入れられてしまったら、おしまいだからな」
男は焼酎《しようちゆう》を炭酸で割った酎ハイをしきりにあおりながら、大声でいう。「そのときから、もう加害者になっているんだ。弱い人間を圧《お》しつぶすほうにまわっているんだ」
「だけど……」
「だけど、なんだ?」
「働かなくちゃ、食っていけないよ」
良平は気弱げな微笑を浮かべた。
「そんなことはない。いまの世の中、絶対に飢え死にしないようになってるんだ」
「それは、あんたのようにいろんな才能があればそうだろうけど……おれのような平凡な学生に、それを押しつけるのは酷というものだよ」
「そうかそうか」
男は面倒くさげにうなずくと、娘の体を胸に引き寄せた。「そうやって自分をごまかして、みんな体制側に組み入れられていくんだ。おまえも企業の歯車になればいい」
男の胸に頬《ほお》を押しつけ、良平をみている娘の眼には、たしかに軽蔑《けいべつ》の色が浮かんでいた。
このとき、もしかしたら良平は胸のなかで、泣かない子供はネズミをとる、とつぶやいていたのかもしれない。なんだか、そんな気がする。しかしそうであっても、それはいかにも迫力にとぼしく、良平自身の胸にも引かれ者の小唄《こうた》のようにしか響かなかったはずである。
この焼き鳥屋で、良平は泣かない子供はネズミをとる、という言葉と完全に訣別したのだが、正確にはもう一度だけ、大学を卒業してから、それを口にしたことがある。
良平はベビーブームに属する世代で、もっとも厳しい競争率のなかを、受験、受験と追いまくられてきて、そして大学を卒業したときはオイル・ショックを迎え、世間は一時的な就職難におちいっていた。
もう、なにをしていても食えるという時代ではなくなっていたのだ。
べつに働くのは罪悪だ、という言葉に影響されたわけでもないだろうが、良平はなんとなく入社試験を受けるのをためらい、ズルズルとそれをひきのばしているうちに、大学を卒業してしまい、当然のことながら、ここにひとりの失業者が誕生することになった。
とりあえずはアルバイトでつないで、生活していくしかなかった。
だれを養う義務があるわけでもない良平にとって、アルバイトでその日をしのぐということは、べつに屈辱ではなかったし、将来にたいする不安もさほど感じなかった。
どうにかなるだろう、と甘く考えていたわけではないが、どうにかしなければ、というほどの切迫感もなかったのだ。
ビラ配りのアルバイトをするまでは……
ビラを配るという仕事そのものは、精神的にも、体力的にも楽で、むしろ歓迎すべきアルバイトといえた。問題はビラを配る相手であり、場所であった。
駒場東大前の駅で、東大の新入生にビラを配るよう命じられたのだ。
私大を卒業し、就職することもできなかった良平が、東大に入学し、希望に胸をふくらませている新入生たちに、ビラを配る。
最初のうちこそは、自分のだらしなさ、バカさかげんをあざ笑う余裕を持っていた良平だったが、しだいに屈辱感に身を焼かれていき、やがては居ても立ってもいられないような気持ちになってしまった。
「泣かない子供はネズミをとる……」
どうして、とっくに忘れてしまっていたはずのその言葉が、そのとき口をついて出たのかは、良平自身にもわからない。
それはほとんどゴマメの歯ぎしりのようなものだったし、もしかしたら悲鳴であったのかもしれない。
あれから十年ちかく過ぎたいまも、あのときの屈辱感は忘れられない。
産院を出て、ラーメン屋で食事を済ませ、アパートに戻ってきたときには、もう夜の十一時をまわっていた。
良平はテレビのスイッチをひねると、氷と水を用意し、ウィスキーの水割りをすすりながら、ボンヤリとニュースをみていた。
明日にも注文が跡絶《とだ》えるかもしれない、不安定な雑文書きを仕事にしている自分が、子供なんかを持って、はたしてこれからうまくやっていけるだろうか……
ウィスキーの酔いのなかに、そんな不安がたゆたっていたが、いまはそれすら考えるのが億劫《おつくう》なほど、疲れきっていた。
「泣かない子供はネズミをとる、なんていいませんよ」
看護婦がいかにも苦しげに、笑いころげながら、いった言葉が、いまも良平の頭のなかにきこえている。
「それはね、鳴かないネコはネズミをとるっていうんですよ。ああ、おかしい……」
酔いのなかにしだいに沈んでいきながら、なるほど、そんなところかもしれないな、と良平は自分自身にうなずいている。なにが|そんなところ《ヽヽヽヽヽヽ》かわからないまま、そんなところかもしれないな、とそう何度もうなずいている。
ニュースが終わったので、テレビを消し、服を脱ぐと、パジャマも着ないで、下穿《したば》きのまま、ベッドに潜り込んだ。
そして、眠りにおちいるまえに、ポツンとつぶやいた。
「泣かない子供は」
ネズミをとったか?
壁 の 音
──今夜こそ、壁の音をきくことになるような気がする……
べつに、どうしても壁の音をきかなければならない、とまで思いつめているわけではない。なにかを思いつめるには、涼子はすこし情熱にとぼしすぎるようだし、第一、半熟の茹玉子《うでたまご》と水しか入れていない身には、ちょっと荷が勝ちすぎる。なにかを思いつめている自分など、想像するだけでうっとうしく、疲れてしまう。
そうではなくて、ただこのままベッドのなかで|うつらうつら《ヽヽヽヽヽヽ》としているうちに、どこからともなく壁の音がきこえてくるのが、いちばん自然であるように思えるだけだ。このまま何も起こらず、やがて空腹に耐えかねて、やれやれ、どっこいしょと外へ食事に出掛けるようなことになったら、きまりの悪い気はしないか。そうなっても涼子のことだから、落胆するようなことはないだろうが、これからさきのことを考えるのが面倒で、溜息《ためいき》のひとつぐらいはつくかもしれない。それとも欠伸《あくび》をするだろうか。
涼子が部屋にとじこもってから三日が過ぎ、スーパーマーケットで買った十個入りの玉子パックが、残り四個に減っている。玉子を買ってきたのは、茹玉子がいちばん簡単な料理だからであり、半熟にするのは、固いものをお腹《なか》に入れるのがなにか浅ましいことであるような気がしたからだ。べつに何も食べなくてもかまわなかったのだが、絶食をする、というのもいささか気負いが感じられすぎて、涼子の趣味にあわない。
一日に半熟の玉子を二個食べ、すこし水を飲み、カーテンをしめきった部屋で、ただベッドに寝転んで、時を過ごしているのだ。
三日めの午後になると、さすがに部屋の空気がよどんできたらしく、果物のようなにおいがたちこめるようになった。皮を剥いた林檎《りんご》のにおいに似ていたが、どこか微妙にちがっていて、いつだったか珍しさに惹《ひ》かれて買った、南の島の果物のにおいのほうが、むしろ|そのもの《ヽヽヽヽ》だという気がする。その果物の名は店員からきいたのだが、もう憶えていない。想いだそうというほどの熱意もない。
その甘やかなにおいはべつに不快ではなく、これが自分の体臭かと思えば、かえってなつかしい気さえするのだが、いつかだれかが部屋に入ってきたとき、そのにおいを嗅《か》ぐのだと想像すると、やや気持ちが怯《ひる》むのを感じる。羞恥心《しゆうちしん》、それとも娘らしい潔癖心《けつぺきしん》のなすわざであろうか──しかし、死んだあとのことは自分のあずかり知らぬことであるから、まあ、それもどうでもいい。腐乱死体で発見されれば、甘やかなにおいなどと呑気《のんき》なこともいっていられないだろう。
涼子は漠然と自分が死ぬものと考えていたが、死にたいと考えているわけではない。ただ生きようという積極的な意志がないから、自然に量《はか》りの針が死≠フほうに傾いてしまっただけだ。そして、死んでいくものなら、そのまえに壁の音がきこえてくるにちがいない、とこれも漠然と考えているだけなのである。
もちろん壁の音をきくこともなく、そのまま煙りのように衰弱死していっても、いっこうにかまわないのだが……
涼子の予想では、三日もすれば完全に衰弱してしまい、意識がもうろうとして、昼夜のべつさえ定かでなくなるはずだったのだが、それほどのことはなかった。カーテンをほのかに浮かびあがらせる日の光、潮騒《しおさい》のように伝わってくる街の喧噪《けんそう》、牛乳屋の漕《こ》ぐ自転車の軋《きし》み、なにもかもが彼女の意識がまだはっきりしていることを示している。もしかしたら半熟の茹玉子というのは、意外に精のつく食べ物なのかもしれない。
生きていくのに関心を持てなくなって、ただもうすべてが煩《わずら》わしく、ベッドに逃げ込んだ自分が、そのためにブクブクに肥《ふと》ってしまったとしたら、これは皮肉以外のなにものでもないだろう。ちょっと気のきいた冗談という気もする。
涼子はベッドによこたわったまま、微笑を浮かべるが、そのじつ、自分が肥りはしないだろうことも、茹玉子で精がついたわけではないことも承知している。たしかに意識ははっきりしているが、みぞおちのあたりがなんとなく頼りなく、手足のさきにかすかな痺《しび》れのようなものを感じるからだ。これが衰弱の兆しでなくて、いったい何だろう?
どうかするともう自分は死んでいて、部屋は巨大な棺《ひつぎ》になって、街のうえをフワフワと漂っているのではないか、とそんな突飛な想像が浮かぶこともある。涼子はその想像が気に入って、しばらく頭のなかで弄《もてあそ》んでいたが、やがてそれにも飽きると、静かに寝返りをうち、すっかり忘れ去ってしまう。
そして、舌のさきでムシ歯をくりかえし舐《な》めてみるように、また性懲《しようこ》りもなく、壁の音≠フことを考えはじめるのだ。
壁から音がきこえてくるという。そこがたとえ大病院の十階であろうと、隣りになにもない、いちばん端の部屋であろうと、とにかく壁から音がきこえてくるという──涼子はまだきいたことがないから、それがどんな音であるのかわからないが、おそらくだれかが壁を叩いているような音ではないかと思う。静かに、とぎれとぎれに、雨垂れのようにきこえてくるほうが、しみじみと寂しく、その場にふさわしいのではないだろうか。
その場に──人が死ぬときには……ながく病いの床《とこ》にあって、あるいはそんな兆しはまったくなくても、夜、寝返りばなに壁の音を耳にした者は、かならずその翌朝には冷たくなっているというのだ。死刑の宣告を告げられたように、壁の音をきいた者には死≠ェ確実におとずれ、そこから逃がれることはできない。
もしかしたら昨日《きのう》までピンピンとしていて、笑い、食べ、たくらみ、歩いていた人間が、一夜明ければベッドのなかで骸《むくろ》になっているというポックリ病は、ふいに壁の音を耳にした彼、もしくは彼女が、あまりの驚きで心臓を停止させてしまった結果かもしれない。死≠思い煩うこともなく、明日《あした》も今日《きよう》と同じように生きていくと信じきっている人間が、寝入りばなに壁の音をきかされれば、なるほど、これは文字どおり|心臓に悪い《ヽヽヽヽヽ》にちがいないからだ。
壁の音≠ヘ、涼子の故郷である北陸の雪国に、古くから語り継がれている言い伝えであった。
もちろん数年さきには新幹線が開通し、駅まえには新しいビルが建ち並ぶ現代では、そんな言い伝えを信じている者はいないだろうし、第一、郷土史を研究してでもいないかぎり、壁の音≠ネどきいたこともない者がほとんどだろう。
涼子のように、幼いころから祖母の手に育てられ、くりかえし壁の音≠フ話をきかされるほうが、まれな例であったにちがいない。
祖母は壁の音≠フ言い伝えをかたくなに信じていた。夫には早くから死に別れ、女手ひとつで育てあげた息子も、嫁ともども交通事故でうしない、残された二人の孫のうち、兄のほうをこれも風邪をこじらせて死なせてしまうという人生を歩んできた祖母にとって、壁の音≠ヘたんなる言い伝えでなく、疑いようもない事実であったのだ。祖母の気持ちもわからないではない。
──おまえの兄《あに》さがいかんようになった夜も、壁をほとほと叩く音がきこえてきたわ、わしはお通りなんしょと返事をしたんやが、なんの|あいつ《ヽヽヽ》が騙《だま》されるものか。とうとう兄さひっつかまえて、連れていってしもうたんだわ……
祖母のいうあいつとは、死神、あるいは雪女を意味していたようだ。その地方では、雪女はすなわち死神であり、雪女が壁を叩き、子供の魂を黄泉《よみ》の国へ連れだすというのが、そもそもの言い伝えの原型であったらしいのだ。
──そりゃあ寂しい、胸のここらへんが痛くなるような寂しい音で……わしはあっと叫んで、兄さを胸んなかにかき抱《いだ》いたんやが、もうそんときにゃ額《ひたい》が火みたいに熱うなっておってな……婆《ばば》ちゃ、頭ん痛いよ、頭ん痛いよ、と兄さは泣きじゃくって、朝んなったら冷《つべ》とうなっとった……
郷土史家たちは壁の音≠フ言い伝えを、豪雪が家を押しつぶそうとする、その|めしめし《ヽヽヽヽ》という音を擬人化《ぎじんか》したものと賢《さか》しらに説明しているが、そしてたしかにそういう部分もないではないだろうが、それですべてを説明しつくせるとは思えない。これを雪おろしはまめにしなければならない、という教訓を含んだ昔話と考えると、壁の音≠フ恐ろしさ、なにかこの世と次元を異にした妖《あや》しさ、美しさのようなものがすっかり消え失《う》せてしまうからだ。
涼子は子供のころから、人が死ぬときには壁の音がきこえてくるものだと信じて疑わなかったし、中学生になって、壁の音≠ヘ豪雪を擬人化した言い伝えと記された本を読んだときにも、なんにもわかっちゃいない人だ、と著者を軽蔑《けいべつ》したほどだった。
どうして人が死ぬとき、壁の音がきこえてくるというのを、そのまま受け入れてはいけないのだろうか。一人の人間が死ぬとき、それぐらいのことは起こってもふしぎではないし、涼子にとって、壁の音がきこえてこないほうがむしろ不自然に思われた。
幼いころ、たてつづけに家族をうしなったためか、それとも壁の音≠フ言い伝えをあまりにも頻繁《ひんぱん》にきかされたためか、涼子は奇妙に存在感の希薄な娘になってしまったようだ。感情の起伏にとぼしいというのではないが、どこか肌ざわりの冷たい、ヒッソリと静かな娘になってしまったのだった。
どんなに大人《おとな》しい娘でも、年頃になれば、いきいきとした躍動感に満ちた美しさが内側《ヽヽ》から浮かびあがってくるものだが、涼子ばかりはそうでなかった。あいかわらず涼子は生きることに冷淡で、どちらかと訊《き》かれれば、むしろ死≠フほうを近しく感じていると答えたにちがいない。だからといって、その年頃の娘にありがちな、死≠ロマンチックに美化しているというわけでもなかったようで──どんな類《たぐ》いの情熱であれ、涼子はおよそ情熱というものには無縁だったのだから──要するに存在感の希薄な娘としかいいようがない。
涼子が醜い娘だったというわけではない。その逆だ。ただ涼子の美しさは、生身の肉体を感じさせないもので、同年輩の女の子たちの汗のにおいがするような健康美とは、おのずから種類を異にしていた──涼子の高校時代のあだ名が雪姫≠ナあったことが、なによりそれをよく物語っているのではないか。
涼子に恋い焦がれる者は、男子生徒、女子生徒、あとを絶たず、交際を求める手紙がいつも下駄箱《げたばこ》からみつかった。若い英語の教師が涼子のことを好きで、夜も眠れないほどだという噂《うわさ》が流れたのも、そのころのことであった。
しかし、涼子にとってはそんなことはどうでもよく、一度として手紙を読もうとさえしなかった。電話はかけるのも、受けるのも嫌いだった。
さいわい祖母が両親の生命保険金を銀行に預金しておいてくれたので、涼子は高校を卒業後、東京の大学に進むことができた。
べつに大学へ行きたかったわけではないが、たった一人の肉親である祖母との|しがらみ《ヽヽヽヽ》さえ、涼子には煩わしく感じられ、ただもう東京へ逃げだしたかったのだ。涼子が祖母を嫌いだったというわけではない。涼子はだれを嫌いでもないし、だれを好きでもない。
親戚のなかには、めっきり弱くなった老婆を一人残して、東京へ出ていく涼子のことを悪様《あしざま》に罵《ののし》る者もいたが、それもまた彼女にはどうでもいいことだった。
──わしの育てかたが間違《まちご》うておったか知れんが、おまえはよそん娘とどこかちがう。東京行っても、憎まれんよう気いつけや……
東京へ出発する前日、そう注意してくれた祖母は、涼子が大学二年の秋、庭で転んだのがもとで、床に伏し、二日後にあっさりと息をひきとってしまった。
祖母の死を伝える電報を受けとったのは、晩秋の寒さがキッチンのリノリウムの床を冷えびえと凍付《いてつ》かせ、ベッドから足をおろすのをためらわせるような朝のことだった。
涼子は電報の文面をみつめながら、さして悲しみの念も湧いてこない自分のことを、さすがに情けないと思った。いや、じっさいにはすこし胸が疼《うず》くのをおぼえただけで、情けないが、仕方ないと思ったのだ。これがありのままの自分の姿なのだから。
祖母は息をひきとるときに、やはり壁の音をきいたのだろうか。衰弱しきって、ほとんど声にもならない声で、お通りなんしょ、とつぶやいたのだろうか……
大学に行った涼子は、そこの喫茶室で、コーヒーとトーストの朝食をとっているクラス・メイトの佐知子に、偶然に会った。
「あら、涼子、めずらしいじゃない。あんたがこんなに早く学校に来るなんて……」
高校時代のときと同じように、涼子には奇妙に人を惹きつける魅力があるようで、もの欲しげに近付いてくる男女の数は少なくなかった。もちろん涼子にとっては、それは煩わしいだけのことで、だれからも逃げるようにしていたのだが、そのなかでなんとか我慢してつきあえる相手が佐知子だった。
丸顔の、ころころとよく肥った佐知子が、自分とは正反対の、陽気な性格の主だったからかもしれない。
「うん、電報で起こされちゃったのよ」
涼子は、それが癖のもの憂げな口調でいった。「だるくて、だるくて……」
「トースト半分食べる?」
「要らないわ。朝は、食欲ないの」
「電報なんて、穏やかじゃないわね。なんかあったの」
「べつに、なんでもないわ」
涼子にとっては、たしかになんでもないことだったのだ。祖母が死んだなどと打ちあけようものなら、この気のいい友人は大仰に騒ぎたてるにちがいなく、それは涼子にはなによりも忌むべきことであった──祖母の葬式は、親戚《しんせき》がいっさいとりしきってくれるはずであり、涼子は故郷へ戻ることさえ考えていなかった。|なんでもない《ヽヽヽヽヽヽ》ことなのだ。
「ふうん……」
納得しかねるといった表情でうなずいた佐知子は、喫茶室の入り口に眼をやると、その顔をぱっと輝かせ、片手を挙げて、大声でいった。「片岡くん、こっちよ」
テーブルに歩み寄ってきたのは、痩《や》せて、長髪の、どこか暗い表情をした若者だった。およそ佐知子とはそりがあいそうにないタイプにみえるが、これも涼子の場合と同じように、正反対の性格の人間同士がたがいにひかれあう例であったかもしれない。
「涼子さん、こちら文学部の片岡くん──」
佐知子はちょっと不自然に思われるほど、浮き浮きとした口調で、ふたりを紹介した。
「こちらはクラス・メイトの涼子さん」
「よろしく」
といった片岡は、なにか怒っているような表情で、ただ眼だけが熱病でも患っているように、ギラギラとした光を湛《たた》えていた。
──その夜、涼子はふと壁の音がきこえてきたような気がして、ベッドに上半身を起こし、耳を澄ました。
しかし、どうやらそれは空耳であったらしく、秋の闇のなかに、しんと静寂《しじま》がみなぎっているだけであった。
茄玉子と水だけでかろうじて生をつないでいる体を、ベッドによこたえながら、片岡が佐知子の恋人だったなどとは知らなかったのだ、と涼子は自分自身につぶやいた。もちろん知っていたからといって、なにひとつ事情はかわらなかったろうが、知らなかった、というのがとりあえず事実なのだ。
涼子の体は、ついに片岡には馴染《なじ》まなかった。馴染むほど、回数を重ねなかったからでもあるだろうし、片岡に抱かれながら、涼子がいつも索漠とした気持ちでいたせいもあるにちがいない。べつに不感症というわけでもないらしく、ときには男の頭を片手で抱きしめ、もう一方の手でシーツをもみしだくようなこともあったのだが、そんなときにも決まって頭のなかには、もうひとりの醒《さ》めている自分がいた。
──そんなはずはない……男ならともかく、女にそんなことがあるはずはない……
片岡は不機嫌そうにそういったが、涼子にとって恋とか、セックスというのは、しょせんその程度のものだったのである。もちろん熱中するほど価値のあるものではないし、それどころか|遊ぶほど《ヽヽヽヽ》のものでもない。どうしてそんなことで、片岡がプライドを傷つけられたような表情になるのか、むしろそのことのほうがふしぎだった。
──今度こそ、おまえを女にしてやる……
彼には似つかわしくない、そんなやくざめいた言葉を吐きながら、片岡が性懲りもなく自分にのしかかってくるのが気の毒でもあり、滑稽《こつけい》でもあった。
ただ片岡が射精するときには、かすかに涼子は興奮をおぼえた。べつに男の精液を体に感じるのが好きだったからではなく、射精をするときの片岡の放心したような、陰惨におどけているような表情が、ああ、この人は死ぬときにもきっとこんな顔をするにちがいない、と涼子に思わせたからだった。
最後《ヽヽ》の夜、涼子は片岡に乳房を愛撫《あいぶ》されながら、なんの気なしに故郷の壁の音≠フ話をした。
すると、その話のどこが気に入ったのか、それともなにが反撥《はんぱつ》するところでもあったのか、片岡はふいに身を起こすと、自分はちかいうちに死ぬつもりだ、と興奮した口調でしゃべりはじめた。
「あとは、死に方さえ思いつけば、それで実行あるのみなんだ。眠るように死にたいなんて贅沢《ぜいたく》なことはいわないけど、すこしでも楽に行きたいからね。ぼくはただ死にたいだけで、苦しみたいわけじゃないんだから……」
涼子は、どうして片岡が死にたがっているのか、その理由を訊こうとはしなかった。
理由を訊かないことで、片岡を失望させたかもしれないが、さして興味も湧いてこなかったし、第一、涼子は彼のことをほとんど知らないといってよかったのだ。片岡がほんとうに死にたがっているのか、あるいはそんな話題を持ちだすことで、セックスの興奮をたかめたかったのか、それも判然とはしなかったが、少なくとも彼の文学青年めいた風貌《ふうぼう》に自殺の話が似あうのだけはたしかなようだった。
「睡眠薬がいちばんいいんだけど、あれは量が多すぎても、少なすぎても、失敗するからなあ。いま、ガスでは死ねなくなっているし……首を吊《つ》るというのも、あれでなかなか大変らしいね。結局、電気ストーブかなんか使って、感電死を考えるのがもっとも確実な方法じゃないかと思うんだ……」
片岡はそこでうそ寒いような顔になって、口をつぐんだ。それまでのなにかにとり憑《つ》かれたような、昂揚《こうよう》した表情は消え失せ、二重写しになって透けるように、その下から途方にくれた、子供の顔が浮かんできた。
涼子はベッドのうえに腹這《はらば》いになり、片岡の声の強弱にあわせ、拍子をとるようにして、拳《こぶし》で壁を叩いていた。
あごを枕《まくら》に乗せ、闇の一点をみつめている涼子の顔は、ほとんどあどけないとさえいえるような表情になっていた。はだかの肩から腕にかけて、翳《かげ》のようなものが走ると、拳がゆっくりと上下し、壁を叩くのだ。
とん、とん、とん……
もちろん涼子に悪意があるわけではなく、退屈のあまり壁を叩いているにすぎなかったのだが、それをどう受けとめたのか、片岡の顔は狼狽《ろうばい》と、そしておそらくは怯《おび》えで、醜く歪《いが》んでいた。
その後、片岡からの連絡はぷつりと跡絶《とだ》え、やがて佐知子が彼と同棲《どうせい》しているという噂が、クラスに流れた。
執拗《しつよう》に体を求めてくるその誘いを拒むのが面倒だっただけで、涼子はべつに片岡のことを好きでもなんでもなかったから、むしろそれは朗報というべきだったかもしれない。涼子は以前のような静かな生活に戻れることに、しみじみとした安堵《あんど》感すらおぼえていた。
しかし、その静かな生活も二カ月とはつづかなかった。
──片岡が、薬を飲んだの……
佐知子からそう電話がかかってきたのだ。
──わたしがアパートに帰ったときには、もう血を吐いていて、すくに病院へ運びこんだけど、危篤状態だわ。あなたに会いたがってるの。来てくださるわね……
佐知子は泣きだしたくなるのを、懸命にこらえているようで、その硬い声にはまったく抑揚が感じられなかった。
片岡が自殺をはかったのは、意外なようでもあり、またそうなるべくしてなったことであるような気もしたが、勝手に薬を飲んでおいて、そのあとで女を呼びだす男の甘ったれた神経が、涼子にはひどく肚立《はらだ》たしいものに思われた。片岡が自殺をしようが、はだかで路上で踊ろうが、涼子には関わりのないことで、はた迷惑もいい加減にして欲しい、という気持ちのほうが強かった。
しかし、さすがにそれを佐知子にいうのははばかられ、すぐに行くわ、それだけをいうと、涼子は電話を切った。
片岡の両親には連絡したが、まだ東京には到着していないということで、病室には佐知子の姿しかなかった。
片岡は鼻に管《くだ》のようなものをつながれ、眼をとじて、苦しげに喘《あえ》いでいた。唇のまわりに嘔吐物《おうとぶつ》の滓《かす》が、白くこびりついているのがみえた。
「よくいらしてくださったわね」
佐知子が他人行儀な口調でいった。彼女とはもう半年以上も会っていない。
佐知子の切り口上な口調には、三角関係を清算するというような気負いが感じられ、それが涼子をちょっと戸惑わせた。なるほど、考えてみれば、たしかにこれは三角関係にちがいないのだが、それがそんなにも深刻に思い悩むべきことであろうか。
「彼、意識はまだあるわ……すこしだけなら話すこともできるのよ」
佐知子の言葉にうながされたように、涼子は片側のベッドに近付いていった。
自分がひどくそぐわないことをしているようで、涼子は妙に落ち着かないものを感じていたが、片岡のためというより、むしろ佐知子のために、いまは見舞い客らしくふるまうほかはなかった。
片岡の顔は萎《な》えたように蒼白《あおじろ》く、羽をむしった鳥の肌のように、毛穴がブツブツと浮いてみえた。涼子が漠然と予感していたように、死期の迫った片岡の顔は、やはり|あのとき《ヽヽヽヽ》の顔に似ていた。
「片岡さん」
涼子がそう呼びかけると、片岡はうっすらと眼をひらいた。
片岡はしばらくそうして涼子の顔をみつめていたが、やがてその眼に皮肉とも、蔑《さげす》みともつかぬ奇妙な光が浮かんできた。そして唇を震わせるようにして、なにごとかつぶやいた。
「え……」
涼子は体を折るようにして、耳を片岡の唇に寄せた。片岡はもう一度同じ言葉をくりかえした。
あのとき、佐知子はどんな思いで、自分たちの姿をみていたろう、と涼子はあとになって、しばしばそう考えた。あのときの涼子の顔には陶酔したような表情が浮かび、もしかしたら微笑さえ浮かべていたかもしれないからだ。恋を打ちあけられた女がそうであるように。
しかし、佐知子がなにを考えようと、もうそれをたしかめる時間は、涼子には与えられなかった。
ふいに片岡は苦悶《くもん》のうめき声を洩《も》らすと、背をエビのように反《そ》らし、赤いものの混じった唾液《だえき》の泡をこぼした。唇から管が外れ、器具がガタンと大きな音をたてた。
狼狽した佐知子が、医師を呼びに出ていったあと、涼子はしばらく苦しむ片岡の姿をみつめていた。
片岡の内臓は劇薬に焼けただれ、ボロボロになっているはずだった。素人の涼子の眼からみても、まず片岡は生きながらえそうもなかった。
苦しむ片岡を残して、涼子は影のようにひっそりと病室を出ていった。
片岡と最初に会ってから、もう一年ちかくが過ぎている。去年の秋は祖母が死に、今年の秋は片岡が死ぬ……
病室を出て、落ち葉のふりしきる舗道を、駅に向かって歩いていきながら、涼子は微笑を浮かべていた。
それが、四日まえのことである。
片岡がどうして自殺をはかったのか、涼子はついにそれを知らずじまいに終わった。
佐知子は訊けば、なにか教えてくれたかもしれないが、涼子に男を奪われた、とかたくなに信じている彼女と言葉をかわすのは、それこそ綱渡りをするようなものであり、話が生臭い方向に傾いていったときのことを考えると、つい気持ちが怯んでしまうのだ。どうせ自殺をしようと考えるほどの人間なら、それなりにもっともらしい理由を用意しているだろうが、佐知子と話す煩わしさに我慢してまで、涼子がそれを知らなければならない義理はない。
それに茹玉子と水だけで、こうして三日も部屋にとじこもっているいまの涼子には、もう片岡も佐知子も遠い世界の人間でしかなかった。関係ないのだ。
夜が更けていくにつれ、衰弱の度合いが急速に深まっていくようで、それにともない、けだるいような浮揚感が涼子の体を柔らかく包みはじめていた。部屋が巨大な棺になって、街のうえを漂っているという想像は、涼子のなかではもうたんなる想像ではなくなっていて、彼女は現実と幻想のはざまに、ゆらゆらと揺れているのだ。|もうすぐ《ヽヽヽヽ》だった。
──きみは、自分が死神だということを知っているのか……
片岡のつぶやいた言葉を思い起こすと、涼子の唇には決まって微笑が浮かんでくる。
どんなつもりで、片岡がそんなことをいったのかはわからない。ほんとうにそう信じていたのかもしれないし、もしかしたらついに自分に心を許そうとしなかった女にたいする嫌がらせだったのかもしれない。あるいは、その両方であったろうか……
涼子は片岡がなにを考えていようと、べつに気にもならなかったが、自分が死神であると告げられたとき、なにかそれまで胸のなかで張りつめていたものが急に緩《ゆる》み、落ち着くべきところに落ち着いたような、そんな感じがした。
涼子は死神であるかもしれない。どうして死神であってはいけないのか。もしかしたら、自分が生きているというそのこと自体が、なにかの間違いかもしれないではないか。
昔話のなかの死神や、雪女が現代に生を享《う》けたとしたら、自分のような女になるにちがいない、涼子はそんな思いを胸のなかに育《はぐく》んでいる。それはついに自分のあるべき姿をみいだしたという、よろこびと、安らぎに満ちた思いであった。
涼子にとっては、生きているほうがむしろ不自然なのだ。死んでいるのこそ、彼女の本来あるべき姿なのではないだろうか。
涼子は朦朧《もうろう》とした意識のなかにたゆたいながら、微笑を浮かべている。
もしかしたら、だれもがそうであるのかもしれない。人はみな自分たちが生きていると思っているが、それは死者が一時《いつとき》つむぎだした夢にすぎないのかもしれない。死者たちの夢のなかで、人々は泣き、笑い、むなしく街が築かれているのだ。
そして、そのことにみんな漠然とながらも気がついているのにちがいない。だからこそ、いつも身辺に死のにおいを漂わせていた涼子に、男も女も惹かれ、近付こうとしていたのではないだろうか。
壁の音≠ヘ生者に覚醒《ヽヽ》をうながす、ノックの音かもしれない。はやくこちらへ戻ってこい、という合図かもしれない。
涼子の意識はしだいに鈍い光を放つようになり、彼女はその光のなかにゆっくりと沈みこんでいく。長い夢が終わり、ようやく自分の故郷へ帰っていくのだという至福感に包まれながら。
壁の音、きこえてくる……
ホテルでシャワーを
空港のロビーは狭く、暗く、うす汚れていた。
どこからか小便のにおいさえただよってくるようだが、これはこの国がいま雨季に入っていて、下水に水があふれているからかもしれない。
吉田といっしょに航空機を降りたった乗客は、税関のカウンターから出てくると、皆一様に首を竦《すく》め、うすらさむいような表情を浮かべた。|糞っ《シツト》、とあからさまに舌打ちをする白人もいた。
まだ現地時間の午後五時だというのに、陽《ひ》はすっかり翳《かげ》り、肌ざむい雨がシトシトと降っている、まったく気の滅入《めい》ってくるような天気だった。
暑い国からやってきた吉田は、袖《そで》にスリットの入ったワイシャツ姿で、むきだしの腕が鳥肌立っているのを感じていた。東南アジアのこの国は亜熱帯に属し、本当なら汗ばむほど暑いはずであって、その予想を裏切られたことが、なおさら寒さを耐えがたいものにしていた。
空港ロビーに立ちつくしながら、吉田はこの国にたち寄ったことを、もう後悔しはじめていた。
吉田は東京の中堅どころの商事会社につとめていて、三十二歳、同期の連中より一年ほどはやく係長に抜擢《ばつてき》され、まずは将来有望な商社マンといえた。
今回も繊維の取り引きで、南のS─国に派遣されて、なんとか商談をとりまとめたその帰り、ふと東南アジアのこの国に降りてみようかと思いたったのだ。
どうせこの国は、東京への帰路の中継地になっていて、適当な便の空席がなかったといえば、二日ぐらいの滞在は、会社のほうでも大目にみてくれるはずだった。どうした加減か、吉田はまだこの国に足をふみ入れたことがなく、有名な水上マーケットや、古い仏教寺院を見物したかったし、なにより炎天下を商談でほっつき歩いた直後で、すこしノンビリと骨休めをしたかったのだ。
しかし、思いがけなく得られた休暇に、胸をワクワクと弾《はず》ませていたのも、航空機が滑走路に降りていくまでで、冷雨に灰いろに閉ざされている空港を眼にしたときには、逆に気持ちが落ちこんでいくのをおぼえた。
明日は午前中に見物を終え、午後にはホテルのプール・サイドにねそべって、昼寝を楽しむつもりだったのだが、その計画があえなく潰《つぶ》されてしまったからだ。
こんなことなら、なにも苦労して航空券の日時を変更する必要はなかったのだが、もちろんいまさらそれを悔やんでみても始まらない。雨が降りつづけ、ずっとホテルにとじこもりきりになるはめになったとしても、とにかく二晩はこの国に滞在しなければならないのだ。
雨の音をきき、コンクリートの壁に|しみ《ヽヽ》が滲《にじ》んでいるのをみると、体のなかに菌糸がひろがっていくような、憂鬱《ゆううつ》な気分におちいってしまう。まったく、休暇どころではなかった。
──ホテルに着いたら、まず熱いシャワーを浴びよう……
吉田はふとそう考えた。
そう考えただけで、シャワーの熱い飛沫《しぶき》を肌に感じたようで、吉田はウットリとした恍惚《こうこつ》感すらおぼえていた。熱いシャワーは、この情況ではほとんど唯一の救いとさえいえるようだった。
熱いシャワーを浴び、よく冷えたビールを飲んで、今晩はグッスリと眠る……それだけでも、この国に降り立った甲斐《かい》はあるのではないか、運がよければ、明日は雨もあがるかもしれない。
吉田はようやく気をとりなおし、旅行用のボストンバッグを床《ゆか》から持ちあげて、ツーリスト・インフォメーションのカウンターに向かった。
なにぶん旅程の急な変更で、ホテルの予約さえ済ませていない。会社にいずれ経費を請求することになるのだから、とても最高級のホテルに泊まるのは望めないにしても、とりあえず清潔なシーツ、それに熱いシャワーをふんだんに使えるホテルを探さなければならなかった。
ビジネスの旅でもっとも困難なのは、経費と快適さのどこで折り合いをつけるか、その兼合《かねあ》いにあるといえるのだ。
カウンターの女の子が差しだしてくれたホテルの値段表をみながら、どのホテルが快適そうであるか、吉田は懸命に勘を働かそうとしている。
どうにかよさそうなホテルを決め、女の子に予約を頼んだとき、空港が妙にしんと静まりかえっているような気がして、吉田は背後をふりかえった。
ゲートから、異様な集団が出てくるのがみえた。
いや、べつに異様というほどのことはなかったかもしれないが、少なくとも日本人旅行者の少ない南の国にしばらく滞在していた吉田の眼には、それはひどく奇異な集団として映ったのだった。
「ノーキョー」
だれかがどこかで、そうつぶやく声がきこえてきた。
ほんとうに農協であるかどうかはわからないが、その中年男たちの集団が、いわゆる買春ツアーと呼ばれている一行であることは間違いないようだった。
先頭のガイドらしき男は、手に旗を持ち、首からは電気|釜《がま》をぶらさげているという、気の毒になるような格好で、眼を伏せながら、ロビーをよこぎっていく。
そのあとから、それこそ金魚のフンのように一列に連なり、黄いろい歯を剥《む》きだし、うす笑いを浮かべながら歩いていく中年男たちの姿は、思わず眼をそむけたくなるほど醜かった。
──女を買うときぐらい、一人でやればいいのに……
吉田はとっさにそう思ったものだが、その気持ちのなかに、自分はたった一人で異国を旅行しているという自負と、いささかの優越感が働いていたことは否《いな》めないようだ。
「タクシー、いりませんか」
ふいに背後からそう声がかかり、ちょっと驚いて、吉田はふりかえった。
そこに体格のいい、蟹《かに》のように扁平《へんぺい》な顔をした男が、愛想《あいそ》笑いを浮かべながら立っていた。この国の男たちの年齢はつかみにくいが、吉田と同年輩ぐらいか、もしかしたらすこし下かもしれない。
「ぼく、日本語しゃべれるよ」
と、男は言葉をつづけた。「タクシー、いりませんか」
吉田は外国を旅行しているとき、こんなふうに声をかけてくる男の車には、極力乗らないようにしているのだが、みたところ人物も悪くなさそうだったし、なによりこれからタクシーを探すには疲れすぎていた。一刻もはやくホテルに着き、思う存分、熱いシャワーを浴びたかったのだ。
吉田が曖昧《あいまい》にうなずいたときには、もう男はボストンバッグを手にとり、さきにたって歩きはじめていた。
男のあとにしたがい、冷雨のなかに出るとき、吉田は妙な胸騒ぎのようなものを感じたのを、憶えている。
この国には車検制度というものがなく、タクシーは灰皿がとれかかっているような、ひどいボロ車だった。
もちろんそれはあらかじめ予想していたことであり、吉田は車の状態に文句をつける気はなかった。
ただ疲労にうなだれ、座席にふかぶかと身を沈めて、窓外を過《よぎ》っていく、雨にふりこめられた街を、眺めるとはなしに眺めているだけであったのだ。
車に乗ってから十分ほどしたとき、男が前方をみつめたまま、声をかけてきた。
「ナイス・ガール、いりませんか」
旅先でこうした誘いをうけるのはいつものことで、吉田にとってはべつに意外でも、おどろきでもなんでもなかった。臆病《おくびよう》な吉田は旅先で女を買うような真似は一度としてしたことはなかったが、いつもは買わないまでも値段の交渉をしたりして、それなりにやりとりを楽しむことにしているのだが……今日はひやかしの気力もない。
「いらない……」
吉田はボソリと答えた。
「どうして、いりませんか」
「どうしてって、いらないんだよ」
「チャーミングな、娘さんよ」
「そうかね」
「とても、とてもチャーミング」
「それはいい」
「顔みてから、お金払えばいい」
「べつに疑ってるわけじゃないさ」
「いりませんか」
「いらない」
「どうして、いりませんか」
「どうしてって……」
吉田は同じ言葉をくりかえしそうになり、苦笑を浮かべ、いった。「疲れてるんだ」
「主に、どこらへんが疲れてますか」
「どこらへんって……どこもかしこもだよ」
「全体に、ですか」
「ああ、まあ、そうだな。全体に疲れていますよ」
「疲れているとき、チャーミングな娘さんとお話しする……」
男の頭が上下し、うなずいているのがわかった。「天国に行《ゆ》くと、疲れがとれる」
「天国には行きたくないんだ」
「男なら、だれでもチャーミングな娘さんと天国に行きたいよ」
「だめなんだ」
吉田は苛立《いらだ》ちがこうじて、怒鳴りだしそうになるのを、かろうじてこらえ、いった。
「ぼくはホテルヘ行って、ただ熱いシャワーを浴びさえすればいいんだ」
「チャーミングな娘さんよ」
「そうだろうさ」
「オ××コ・ガールね」
「ああ」
「だめですか」
「だめだよ」
「なぜ、だめですか」
「主義なんだ」
そう口走ってから、おれはつまらないことをしゃべっている、と吉田は頭の隅でちらりとそんなことを考えた。
「シュギ?」
「主義……ええと、なんといったらいいのかな」
「はい、主義、わかります」
「主義の問題なんだ」
「なにか問題があるんですか」
「いや、べつに問題はないんだけど」
「どんな問題もOKよ」
「………」
「恥ずかしがることはない。チャーミングな娘さん、いろんな趣味の男性とおつきあいしています。OKよ」
「そうじゃなくて」
「趣味、ありませんか」
「そりゃあ、だれでも趣味ぐらいは持ってるだろうけど」
「問題、ありますか」
「だから、問題はないよ」
「それじゃ、OKね」
「OKじゃない」
「問題はない?」
「ああ、問題はない」
「OKでしょ?」
「OKじゃないといってるだろうが」
吉田はつい声を荒らげ、大きく息を吸い、その息をゆっくりと吐きだすようにしていった。
「ぼくは、女はいらないんだ」
「チャーミングな娘さん」
「いらない」
「オ××コ・ガール」
「いらない」
「ものはためし」
「ためさなくてもいい。主義の問題だ」
相手がなにかいいかけるのを、吉田はすかさずさえぎり、言葉をつづけた。「日本から男たちが沢山やってきて、女を買いあさっている。これは荒廃じゃないか。ぼくは、そういうのいやなんだ」
「………」
「金を持っているからといって、よその国に来て、好き勝手なことをする。いつか日本人には天罰がくだるんじゃないかと思うよ。とても恥ずかしいことだよ」
一瞬、自分は|きれいごと《ヽヽヽヽヽ》ばかり並べているという後ろめたい思いが、吉田の胸を過《よぎ》っていった。日本人の行状を恥じてみせることで、じつは自分はほかの日本人とは違うんだ、ということを誇示しているのではないだろうか。もしかしたら、たんに疲れすぎていて、女を買わないだけのことかもしれないのに……
しかし、吉田の言葉に感服したように、男はそのまま黙ってしまい、
「私は、恥ずかしい」
やがて、ボソリといった。
「恥ずかしがることなんかないよ」
慌てて、吉田がいった。
「いや、恥ずかしい。あなたは立派な人だ」
「とんでもない話だよ」
「あなたのような立派な人に、女買えいう……私は、恥ずかしい」
「いや、恥ずかしいのは日本人だよ。きみが日本人はみんな同じだと思ったのは、当然のことさ」
「立派な人だ」
「もう、いいじゃないか」
「あなたは女はいらないんだ」
「ああ……いらない」
「まっすぐホテルヘ行く。立派な人だ」
「立派かどうかは知らないけどね」
「ホテルで熱いシャワーを浴びる、それだけを楽しみにしているんだ」
「うん」
「熱いシャワーを浴びるなら、|とるこ《ヽヽヽ》のほうが楽しめるよ」
「とるこ?」
「トルコ風呂……」
男は微《かす》かに笑ったようだった。「この国のトルコ風呂、日本より素晴らしいよ」
「降ろしてくれ」
吉田の声はほとんど悲鳴に近かった。
タクシーが泥水《どろみず》をはねあげるようにして、走り去っていったあと、吉田はしばらく呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
──あの男には悪意があった……
吉田はそう考えざるを得なかった。
たんにポン引き商売に熱心だったというだけでは、とうてい片付けられない執拗《しつよう》さで、あの男は吉田に迫ってきたのだ。悪意、という言葉が大袈裟《おおげさ》なら、少なくとも吉田をからかおうとしていた。それは、間違いない。
しかし、どうしてなのだ?
ビジネスで各国をわたり歩いている吉田は、路上で、あるいはホテルの自分の部屋で、ああした類《たぐ》いの話をこれまで何度も持ちかけられたことがある。だが、たとえ商談が不成立に終わったとしても、男たちはいつも恬淡《てんたん》としていた。笑いだす者はいても、これまで一度として怒った者はいなかった。
それがどうしてあの男だけは、ああまでねちねちと吉田にからんできたのか。
吉田は自分でも気がつかないうちに、なにかあの男を傷つけるようなことをいってしまったのか。あの男は、吉田に偽善のにおいを感じとったとでもいうのだろうか。それとも、たんに|むし《ヽヽ》が好かなかっただけなのか……
吉田はそこまで考えて、自分が冷雨のなかに立ちつくしていることにようやく気がつき、ブルッと身を震わせた。
いまはポン引き商売の運転手のことなど考えているべきときではない。一刻もはやくホテルにたどり着き、熱いシャワーを浴びなければ、風邪をひいてしまい、それこそ休暇どころではなくなってしまうからだ。
人影も少なく、車もあまり通らない。裏通りのようなところだった。雨がうらぶれた家並みを灰いろに塗りつぶし、どこからか日本の演歌が、この国の言葉で、低く流れてくるのがきこえていた。
「A─ホテルヘ行きたいのですが、どこかこの近くにバス・ストップか、タクシーを拾える場所はないですか」
吉田はときたま歩いてくる通行人に、英語でそう尋ねるのだが、かえってくるのはいつも曖昧な微笑だけであった。
男が、女が、若者が、老人が戸惑ったように首を振り、微笑を浮かべ、そしてそのまま歩き去っていってしまう。
吉田は自分がこの国の人たちから拒絶されていることを知った。声高に罵《ののし》るのでもなければ、出ていけがしの態度を示すのでもないが、たしかに拒絶≠ヘあった。観光客という立場を離れた日本人は、もはやこの国ではじゃま者でしかなく、だれ一人として歓迎してくれようとはしないのだ。
戦前に日本が東南アジアで何をしたか、また日本人がこの国に大挙して押しかけ何をしているか、それを考えれば、拒絶≠燗桝Rのことであるような気もするが、とりあえずいまの吉田にはそのことを考察しているだけの余裕はない。
吉田は大きな|くしゃみ《ヽヽヽヽ》をひとつして、苦笑いを浮かべると、ボストンバッグを持ちなおし、賑《にぎ》やかな通りがあると覚しきほうに向かって、歩きはじめた。
いや、歩きだそうとしたときに、背後からクラクションの音がきこえてきたのだ。
ふりかえった吉田の眼に、狭い路地から、それこそ壁を押しひろげるようにして、車がゆっくりと迫出《せりだ》してくるのがみえた。
「タクシー、乗らないか」
運転席から顔を覗《のぞ》かせ、あの男が陽気な声をかけてきた。
吉田にも意地というものがある。からかわれたとわかっていながら、またその車に乗り込むのは、男としてあまりにも情けないような気がしないでもない。ここはひとつ、口を閉ざしたまま、さっさと車を離れるべきではないだろうか。
しかし、身を打つ雨は冷たく、熱いシャワーヘの憧《あこが》れはいよいよ強く、吉田は不本意ながらも、口をひらかざるを得なかった。
「ぼくは女はいらない。ホテルヘまっすぐ向かいたいだけだ。いいね」
「わかってますよ」
男は屈託がない。
「女はいらないんだ」
「ああ、あんたは女はいらない」
「じつはちょっと疲れてるんだ。ホテルで熱いシャワーを浴びて、グッスリと眠りたいだけなんだ」
「疲れてるときには、寝るのがいちばんだからな」
「ひとりでだよ」
吉田は慌てていった。「チャーミングな娘さんはいらない」
「そうだろうな」
と、男はうなずいた。「ふたりで寝ると、とても疲れるからね」
「ひとりで寝たいんだよ」
「そうすべきなんじゃないかな」
「わかってくれたかい」
「もちろんだよ。疲れてるあんたに女を押しつける? 私はそんな非常識な男じゃない」
「ほんとうに疲れているんだ」
「顔色がわるいよ」
「食欲もない」
「無理しちゃ、よくないな」
「わかってるんだけど、人間、妻子を養わなければならないとなるとねえ……」
吉田は溜息《ためいき》をつき、いった。「ねえ、こうしようじゃないか、このままホテルヘ直行してくれたら、料金の倍払わせてもらうよ」
「メーターの料金でいいですよ」
「いや、払いたいんだ。ぼくの、ほんの気持ちだよ」
「そうまでいうなら」
「払わしてくれるね」
「乗ってください」
男はシート越しに手をのばし、後部のドアをひらいた。
吉田はグッタリと座席に沈みこみ、眼をとじて、車の心地よい震動に、身をゆだねていた。
そして、男に訊《き》いた。
「なんだか、さっきと比べると、ずいぶん日本語がうまくなったようだけど……」
「日本の製薬会社のこちらの支社で六年ばかり働いていたからね」
男の声には、微かに笑っているようなひびきが感じられた。「ほんとうは、日本語だいぶうまいんだよ」
「それなのに、どうしてさっきはあんなしゃべり方していたんだ?」
「そのほうが、日本人の観光客よろこぶからね」
「そんなことはないだろう」
「ほんとうだよ。日本語|流暢《りゆうちよう》にしゃべると、観光客そっぽを向くんだ」
「………」
「あれはどうしてなんだろう? たどたどしく日本語をしゃべったほうが優越感をくすぐられるからだろうかね」
「………」
また雲ゆきが怪しくなってきた、と吉田は思った。
もう男は悪意を隠そうとさえしていない。その声には、はっきりと険のようなものが感じられたからだ。
ワイパーがガタガタと軋《きし》みながら、フロント・ガラスのうえを過《よぎ》り、そこでいったん停止してから、年寄りがようやく重い腰をあげるかのように、また戻っていく。
フロント・ガラスに滲《にじ》む街の明かり、対向車のヘッドライト──
どうしてか吉田は、自分が急に年をとってしまったように感じていた。
「疲れているんだ……」
吉田の声はしゃがれていた。「トラブルはごめんだよ」
「トラブルなんかないさ」
「ほんとうかね」
「嘘《うそ》はいわないさ。ナイス・ガールと楽しめば、トラブルなんかふっとんじゃうよ」
「………」
吉田はうめいた。また、同じことのむしかえしだ。
「倍の料金を払うよ」
と、吉田は弱々しい声でいった。
「メーター料金でいい」
「頼むからさ。はやく熱いシャワーを浴びたいんだ」
「熱いシャワーなら、オ××コ・ガールといっしょに浴びればいいじゃないか」
「それはいやだって、さっきから何度もいってるじゃないか」
「日本語でなんといったか……そうそう、食わずぎらいだ。それは食わずぎらいなんじゃないかね」
「ぼくは疲れているんだ」
「そうはみえないよ」
「だって、さっきは顔色がわるいって……」
「光線の加減でそうみえたんじゃないかな」
「食欲もないんだ」
「あんたは少し運動したほうがいい」
「え……」
「運動不足なんだよ」
男は断定的な口調でいった。「だから、食欲がないんだ」
「運動は好きじゃない」
「へえ、そうなのか」
「そうなんだよ」
「どうして?」
「え……」
「どうして運動が好きじゃないんだ」
「ああ……運動神経が鈍いんだ」
「運動神経なんか関係ない運動をすればいいじゃないか」
「そんな運動あるもんか」
「あるさ」
ちょっと会話が跡切れて、吉田が、
「ナイス・ガールとする運動のことをいってるのか」
「ああ、オ××コ・ガールとする運動のことだよ」
「その運動をしたくないんだ」
「あの運動もきらい、この運動もきらい」
男は首を振った。「だから、顔色が悪くなるんだな」
「さっきは顔色なんかわるくないといったじゃないか」
「いま、べつの光線の下でみたら、やっぱり顔色がわるかった」
「頼むから、まっすぐホテルヘやってくれないか」
「チャーミングな娘さん」
バック・ミラーに映っている男の顔には、あからさまな嘲笑《ちようしよう》の色が浮かんでいた。「オ××コ・ガールよ」
「やりたくない」
「疲れが、とれますよ」
「興味がないんだ」
「偏見なんじゃないかね」
「なんだって?」
「こんな国の女とやったら、沽券《こけん》にかかわると思っているんじゃないかね」
「バカなことをいうな」
ついに吉田は怒声を発した。「きさま、おれになんか恨みでもあるのか」
しばらく、車のなかに沈黙が満ちた。ワイパーの軋む音だけが、不自然に大きく吉田の耳に響いている。
「あんたみたいな奴《やつ》が、おれは一番きらいなんだ」
やがて、男が低い声でいった。「自分だけ、ほかの日本人とは違うみたいな顔してさ、一番、|たち《ヽヽ》がわるいよ……日本人、みんな同じよ。金持ちで、色気違いで、豚だ」
「日本人がきらいなんだな」
「ああ」
「憎んでいるんだ」
「心の底から」
「哀れな奴だな」
「なに?」
「その日本人に女を世話しなけりゃ食えないあんたが哀れだといってるんだ」
「本業は運転手、これはアルバイト」
「アルバイトだろうがなんだろうが、日本人が豚なら、あんたはそれにたかるダニじゃないか」
「日本人からは、いくらでもふんだくってやればいいんだ。おれたちはあんたらからサクシュされてるんだから」
「なにされてるだって?」
「搾取……日本語が通じないのか」
「なるほど、搾取か」
もう吉田は自分の感情を押さえきれないようになっていた。「それで、あんたは女たちの上前《うわまえ》をピンハネしているのか。女たちを搾取することをおぼえたのか」
車が甲高くタイヤの音をひびかせて、急停車した。
危うくつんのめりそうになった吉田の鼻先に、ナイフがつきつけられた。
「おまえ、殺すぞ」
男が喚《わめ》いた。「ほんとうに殺すぞ」
とっさに吉田は肩をドアにぶつけるようにして、車からとびだした。
路上に転げ落ちた吉田の眼を、二つ目の強烈なヘッドライトの明かりが薙《な》いだ。
黄いろい観光バスが水飛沫を霧のように散らしながら、吉田の眼のまえを通過していった。
バスには、空港でみかけた日本人のあの団体が乗っていた。酒を飲んでいるらしく、彼らはいかにも楽しそうに笑っていた。どこで手に入れたのか、もう若い女を膝《ひざ》のうえに乗せている老人もいた。
バスのなかは明かるく、とても暖かそうにみえた。
吉田は助けを求めるべきだったかもしれないが、どうしてか声がでなかった。足も竦《すく》んだように動かなかった。
「ついカッとしちゃって……」
バスが走り去ったあと、背後から男の静かな声がきこえてきた。「さあ、車に乗ってください」
「いやだ」
吉田は身を震わせて叫んだ。
「いや、あんたは絶対にわたしの車に乗るね」
男の声が笑いを含んだ。「わたしの車に乗って、女を買わなければ、一晩かかっても、ホテルヘなんか行けっこないんだから……熱いシャワーも夢の、また夢だよ」
しだいにたかまっていく笑い声をあとに残して、吉田はフラフラと歩きはじめた。
男は笑いをいったん中断して、すぐに迎えに行くよ、そう声をかけると、また笑いだした。
まだ八時をすこし過ぎたぐらいの時刻なのに、もうその一角は完全な闇《やみ》のなかに没していた。もちろん吉田には、そこがどこであるかはわからない。
その闇のなかに、ひたひたと何人もの跫音《あしおと》が迫ってくるのがきこえ、ナイス・ガール、女学生よ、金は顔みてから、オ××コしないか、声が一斉にワッと湧き起こった。
もみくちゃにされ、引きずりまわされながら、吉田は熱いシャワーのことを、ただそれだけを考えていた。そして唐突に、なんの脈絡もなく、自分は罰を受けているのだと思った。
あの買春ツアーの中年男たちではなく、なぜ自分が罰を受けなければならないのか、そのことだけはどうしても腑《ふ》に落ちなかったのだが……
ラスト・オーダー
男は店の経営に失敗し、老人は死を考え、女は失恋に泣いていた。
男は店の経営に失敗し、今夜かぎりでバーを手放さなければならなかった。
住宅街の真ん中にバーをひらいたのが、そもそもの失敗だったかもしれない。郊外のこの住宅街に帰ってくるサラリーマンたちが、家に戻るまえにちょっと立ち寄り、軽くひっかけていく、男が考えていたのは、サロン替わりのそんなバーだった。
もちろん素人考えだったかもしれないが、素人にしかできない商売というものもまたあるはずではないか。素人には水商売のアカに染まっていないよさがあるはずだ、男はそう考えたからこそ、店の改築にも思いきって金をかけ、あえて女性を傭《やと》おうとはしなかったのだ。
それが、裏目にでた。
男たちは酒を飲みたくなったときには、近くの繁華街で足をとめ、女が欲しいときにはまたべつの繁華街に行き、そうでないときにはひたすら帰宅を急いだ。要するに、男の店は無視された。
男はなにも好きこのんで、会社を辞めたわけではない。会社がひどい経営不振におちいり、依願退職者をつのって、なかば押しだされるような形で、辞めたのだ。もちろんすこしでも退職金が入るうちに辞めたほうが利口だ、という打算もあるにはあったが、そうだとしてもそれが不運だった、ということに変わりはない。男は三十代もなかばに達し、再就職のむつかしい年齢にさしかかっていた。
まだ家庭を持っていないのが幸いだったというべきかもしれないが、それにしても退職金と貯金のありったけをつぎこんだ店を、一年もたたないうちに手放さざるを得なくなるとは、つくづく自分という人間は運がない男だ、と溜息《ためいき》をつきたくなるのだった。
家賃もでないような状態では、店をつづけていても意味がない。つづければつづけるだけ、赤字になる計算だからだ。
おれは運がない。今夜はこれで何度めになるか、男はまたその言葉を胸のなかで噛《か》みしめていた。店をひらく最後の晩だというのに、午後から降りはじめた雪が、夜になって急に激しさを増し、すっかり客足が遠のいてしまっている。最後の夜の、最後の客が、うらぶれた年寄りがたった一人という|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》なのだ。
白髪の、痩《や》せた、もう六十をとうに越えていると思われる客だった。品のいい顔だちをしていて、よくみれば背広などもかなり上等なものなのだが、いかんせんあまりにそれが古びていて、貧相という印象は拭《ぬぐ》えなかった。
夜の十時ごろに店に入ってきて、柿《かき》の種をツマミにして、水割りを四杯ほどは飲んだろうか。商売になる客ではない。
老人が五杯めの水割りを注文してきたとき、
「これがラスト・オーダーになりますが、よろしいでしょうか」
男はついそう答えてしまった。
まだ十二時をまわったばかりで、本当ならこれからが商売のかきいれどきなのだが、もうそんなことはどうでもよくなっていた。自棄《やけ》を起こしたのではない。男はしんそこから疲れきっていたのだ。
「はい、けっこうですよ」
老人は意外に愛想《あいそ》のいい声で応じた。「もう閉店の時間ですか」
「ええ……申し訳ありませんが、うちは早いんで」
「あいにくの雪でしたねえ」
老人は窓の外に視線を向け、闇《やみ》のなかを過《よぎ》っていく雪をみつめた。「ずいぶんと積もりそうだ」
「そうですね……ラスト・オーダーは水割りだけでよろしいですか」
「はい、お願いします」
「………」
うなずき、水割りをつくりはじめた男に、老人がまた声をかけてきた。
「わたしぐらいの年になりますとね」
「え……」
「いや、わたしぐらいの年になると……」
老人は照れくさそうに笑うと、言葉をつづけた。「いつも酒を飲むときには、これが最後の酒になるんじゃないかと思うものなんですよ。もう酒を飲むことはないんじゃないかって……文字どおりのラスト・オーダーというわけですよ」
「そんなものですかね」
男は熱のない言葉を返しただけだった。正直、客と雑談をかわすのさえ、煩《わずら》わしい気がしたのだ。
ラスト・オーダーといえば、むしろ明日は店を閉めなければならない男のほうにこそ、その言葉は当てはまるのではないか。
マドラーで水割りをかきまわすとき、氷のカラカラという音が、奇妙に大きく男の耳にきこえてきた。
べつに今夜にかぎった話ではないが、老人は死を考えていた。
死ぬしかないとまで思いつめていたわけではない。ただ生きていくのが、意味のないことのように感じられ、なんだか面倒になってきただけだ。自分ではこれは年寄りに特有の憂鬱《ゆううつ》症なんかではなく、しごく理性的な結論だと思っている。
理性的であるかどうかはともかく、老人が死を考えてもふしぎではない状態にあったのはたしかだった。
老人には職がなく、したがって金もなかったのだ。その替わりに、プライドだけはふんだんにあった。ありすぎたといっていい。そのプライドが災いして、かつて一部上場の繊維会社の営業部長だった老人の再就職を妨げていたからだ。
給料が安くなるのはやむをえないが、自分の子供のような年の若僧から、なにかをいいつけられるのはまっぴらだ……これが老人の偽らざる心境であった。多くの部下を顎《あご》でつかっていた老人としては、もっともな心境というべきかもしれないが、この不況の世の中ではそれは我儘《わがまま》としかみられなかった。
もちろん、老人もそれが我儘であることは十分に承知していた。しかし、すでに妻をうしない、決して折り合いがいいとはいえない子供たちもそれぞれ独立し、老人は自分ひとりのことだけ心配すればよく、それぐらいの我儘は通用すると思っていたのだ。老人には企業を離れたサラリーマンが、どんなに無力なものであるか、まだほんとうにはよくわかっていなかったのかもしれない。
なかなか再就職できない苛立《いらだ》ちから、老人はつい株の信用取り引きに手をだしてしまった。保証金さえ用意すれば、三分の一の値段で株が買える信用取り引きは、老人にはひどく旨味《うまみ》のある話のように思われ、万株単位で買ってしまったのだ──三十年以上も営々として働き、やっと貰《もら》った退職金が、きれいになくなってしまうのに一年とは要さなかった。
老人は肚《はら》を立てていた。
自分の愚かさ加減もさることながら、世間のしくみ、その冷たい仕打ちにむしろ肚を立てていた。必死になって働いてきたそのあげくが、無一文になり、子供たちからも背《そむ》かれて、ひとりぼっちになってしまったこの始末なのか。これが、|こんなもの《ヽヽヽヽヽ》が人生というやつなのか……
精神的にも経済的にも、老人は死を考えてもふしぎではない状態にあった。
今夜はとりわけそうだった。当てにしていた就職がだめになり、春もちかいというのに大雪が降って、財布にはしわくちゃの一万円札が一枚しか残っていない──老人が死を考える条件がなにもかも揃《そろ》っていた。むしろ揃いすぎていたといえるぐらいだ。
──わたしぐらいの年になると、いつも酒を飲むときには、これが最後の酒になるんじゃないかと思うものなんですよ。もう酒を飲むことはないんじゃないかって……
老人にとって、ある意味ではそれは遺言ともいえた。最後の一万円はこの店の払いであらかた消えてしまうだろうし、そうなれば老人にはもう死を選ぶことしか、道は残されていないはずなのだから。
しかし老人はあまりに孤独すぎて、どうやら他人に素直に真情を吐露する術《すべ》を忘れてしまったようだ。酒の席の雑談めいて伝えられた遺言は、そのためにバーのマスターからはアッサリと無視されて、老人は苦い思いを噛みしめながら、ラスト・オーダーの一杯を飲むほかはなかったのだ。
老人は寂しかった。ただひたすらに寂しかった。
扉《とびら》のうえの鈴が鳴り、毛皮のハーフ・コートを着た若い女が、ゆっくりと店に入ってきた。
どこにでもあるような、OLとサラリーマンのありふれた恋愛だった。
別れも平凡そのもので、どこにもドラマチックなところはなかった。
「これを、ぼくときみのラスト・オーダーにしよう」
ホテルのバーでワインを頼むとき、男はそうさりげなく別れ話を切りだしてきて、女はしゃれた別れ文句にちょっと感心した。いずれ映画からでも盗んできた言葉なのだろうが、彼にしては上出来というべきで、女は相手の眼をみつめ、微笑を浮かべ、コックリとうなずいた。
ホテルを出て、男と握手をかわし、帰りのタクシーに乗ってから、女ははじめて自分が真剣に彼を愛していたことに気がつき、すこし泣いた。
春さきの、季節はずれの大雪で、都心から郊外へ出る道路はかなり渋滞していた。タクシーの運転手はしきりにクラクションを鳴らし、それが悲しみに沈んでいる女には、ひどく苛立たしいものに思われた。耐えられなかった。
女は郊外のアパートまで行かず、途中でタクシーを降りた。運転手がなにが下卑《げび》た冗談をいったようだったが、女は気にとめようともしなかった。
タクシーが走り去ったあと、女は雪がしんしんと降りつもる街を、しばらくボンヤリとみつめていた。
車で通ったことはあるが、これまで一度も降りたことのない街だった。ただでさえ|なじみ《ヽヽヽ》のない街が、雪にすっかり覆いつくされ、まるでどこか北のほうの異国の風景のようにみえた。奇麗だった。
こんな夜に、知らない街をさまようなんて、女は自分が女学生のように感傷的になっていると思った。二十三歳にもなって、バカげた真似をしているとも思った──女は感傷的になっているのでもなければ、バカげた真似をしているのでもなかった。女はただ悲しんでいるのだ。心の底から。
遠くから、終電車の走っていく音がきこえてきた。
女はかすかに身を震わせ、ふいにわれにかえったように、あたりをみまわした。ブーツの爪先《つまさき》をかたく凍った雪に軽く叩きつけ、雪を払い落とすと、ハーフ・コートの襟《えり》のあたりを手のひらでなぞった。もちろん、ハーフ・コートは濡《ぬ》れている。
女は急に慌《あわ》てだした。
その寒さもさることながら、毛皮のコートを雪で濡らし、むざむざ使いものにならなくするのは、彼女にはなにより耐えがたいことだった。そのコートは去年の冬、彼からプレゼントされたものだったのだ。
女はちょっと小走りになって、車の絶えた通りをわたり、シャッターを閉ざしたスーパーの軒下にとびこんでから、もう一度、今度はかなり切迫した表情で、あたりをみまわした。
すぐ脇《わき》に道路があって、みじかい商店街がつづき、そこから先はどうやら住宅街になっているらしく、なにか断ち切られたように闇がひろがっていた。
その闇のなかの一点がぼうと赤く浮かびあがり、BARの三文字が慌ただしく点滅しているのがみえた。そのネオンには店の名も記されているらしいのだが、激しく降りつのる雪にさえぎられ、そこまでは読みとることができなかった。
──あれをラスト・オーダーにするのはいやだ……
なんの脈絡もなく、女は唐突にそんなことを考えた。
彼といっしょに飲んだワインを、今夜のラスト・オーダーにはしたくなかった。もう一杯なにかを飲んで、それをラスト・オーダーにすれば、彼との別れはなかったことになるのではないか……
それこそ女学生めいた、感傷的な考えだったが、いまの彼女にはなにか縋《すが》りつくものが必要だった。たとえそれが現実逃避にすぎないにせよ、一杯の水割りはなにものにも勝る救いだったのだ。
女は雪のなかを走り、商店街を駆け抜けていって、バーの軒下にとびこむと、息がおさまるのを待ち、ちょっと髪をなでつけてから、扉を押した。
鈴の鳴る音がきこえてきた。
店に足をふみ入れたとたん、女はこのバーに入ったことに、もう後悔をおぼえていた。
英国のパブをお手本にしたらしい、ナラ材を基調にした渋い内装は、明らかにこのバーが女を拒否する類《たぐ》いの店であることを示していた。女性をあまり歓迎しないところまで、英国のパブをそっくり真似《まね》ているのだ。
カウンターにもたれかかっている老人は、ちらりと無感動な視線を向けたきりだし、マスターらしき男にいたっては、あからさまに面倒くさげな表情を浮かべさえした。
一瞬、女は気持ちがひるむのをおぼえたが、あかあかと燃えさかっているガス・ストーブの火が恋しかったし、なによりも|ラスト《ヽヽヽ》・|オーダー《ヽヽヽヽ》を飲まなければならず、すぐにそこを出ていくわけにはいかなかった。
「まだ、いいかしら」
女がオドオドとした声で訊《き》いた。
男はちょっとためらったようだが、すぐにうなずくと、営業用のそつのない口調で応じた。
「もう看板なので……ラスト・オーダーになりますが、よろしいですか」
「ええ、結構よ。ブランデーの水割りを一杯ごちそうになったら、出ていくわ」
女はいそいそとスツールにすわった。バーが閉店なのはむしろ好都合だったし、ラスト・オーダーこそが彼女の飲みたい一杯であったからだ。
男は棚からブランデーの瓶《びん》をとると、素早くコースターとグラスを用意し、営業用のアイス・ボックスの蓋《ふた》をあけ──そこで、その流れるような動きに淀《よど》みが生じた。
男は眉《まゆ》をひそめ、アイス・ボックスの蓋をしめると、女に背を向けて、冷蔵庫の扉をひらき、製氷皿をとりだした。製氷皿から水のはねるのがみえ、女にもまだ氷のできていないことがはっきりとわかった。
男は製氷皿をもとに戻すと、荒々しくバタンと扉をしめ、しばらくそのまま冷蔵庫にもたれかかっていた。
「なんてこった……」
男が自嘲《じちよう》的な、なかば泣いているような声でつぶやいた。
その声があまりに暗く、陰惨な響きを持っていたために、女はハッとして、カウンターの隣りにすわっている老人と、思わず顔をみあわせた。老人はおどろいたように片方の眉をあげ、女にちょっとうなずいてみせると、あらためて男に視線を向けた。
「申し訳ありません、氷を切らせてしまいました」
やがて男はゆっくりとふりかえると、濡れた手をズボンにこすりつけるようにしながら、奇妙にまのびした声でそういい、自嘲の笑いを浮かべた。「まったく、なっちゃいないですな。氷を切らしたのにも気がつかないで、バーをやろうってんだから……」
「氷なんか、いらないわ」
女が慌てていった。
べつに、ぜひともブランデーの水割りが飲みたいというわけではない。要はラスト・オーダーの一杯を飲めれば、それでいいのだ。
「そういうわけにはいかない」
男は首をふり、断乎《だんこ》とした口調でいった。
「これは、わたしの|ラスト《ヽヽヽ》・|オーダー《ヽヽヽヽ》なんですからね。氷なしの水割りをつくるなんて、そんないい加減なことはできない」
「………」
女は途方にくれた。
たかが氷を切らしたぐらいのことで、男がひどく思いつめた表情を浮かべるのが、なんとも腑《ふ》に落ちなかったが、それにはなにかそれなりの事情があるにちがいない。しかしそれをいうなら、女のほうにもどうしてもラスト・オーダーの一杯を飲まなければならない事情があるのだ。
この雪のなかを、まだべつの店を探してさまよわなければならないのかと思うと、女は泣きたいような気持ちになった。今夜はもう泣きたくはなかった。
「なにもそんなに固苦しく考えなくても……」
女はなだめるような口調でいった。「いいわ。それじゃ、ストレートをいただくわ」
「わたしのラスト・オーダーなんです」
と、男は繰り返した。「哀れみをかけられて、いい加減な仕事はしたくない」
「哀れみだなんて、そんな……」
「残念ですが」
男はソッポを向いた。
膠着《こうちやく》状態だった。どうして水割りの一杯を頼んだぐらいで、こんなことになったのかはわからないが、とにかくこれが膠着状態であることは間違いなかった。
男はかたくなに、女は途方にくれて沈黙し、ただガス・ストーブの燃える音だけを残して、店はしんと凍りついた。
その気まずい沈黙に耐えかねて、女が腰をあげようとしたとき、
「雪はどうですか」
ふいに老人がいった。
「え……」
二人が、老人の顔をみつめた。
「いや」
老人は照れくさそうに微笑し、水割りのグラスをわずかに揺らした。「氷がなかったら、雪を入れたらどうですか。雪だったら、ふんだんにある」
「………」
男はあっけにとられたように、しばらく老人の顔をみつめていたが、やがて首をふると、いった。「都会の雪じゃ汚れすぎていて、水割りの氷替わりにはなりませんよ」
「きれいな雪をつかえばいい」
「そんな、都会にきれいな雪なんかあるもんですか。スモッグで汚れているし、すぐに泥濘《ぬかるみ》になっちゃうし……」
「そう悲観したものでもないんじゃないかな。その気になってさがせば、まだまだきれいな雪はあると思いますがね。もっとも……」
老人はそこで女の顔をみつめ、みじかく笑った。「こちらの娘さんが雪を入れた水割りなんかいやだといえば、それまでだが」
「いやじゃないです」
女が慌てていった。どんな水割りであろうと、とにかくラスト・オーダーが飲めれば、それでよしとしなければならない。
「きれいな雪か……」
男は項《うなじ》を掻《か》きながら、ちょっと考えこむような眼つきになった。
「心当たりはないですか」
老人が訊いた。
「そうですね……いや、心当たりがないこともないか」
男は自分自身にうなずくように、顎《あご》をひくと、スキー用のアノラックを下の戸棚からとりだし、それを着ながら、カウンターから出てきた。「とにかく、さがしてきますよ。すぐに戻るから、ここで待っててください」
「わたしも行くわ」
女はスツールからとびおりた。今夜は悲しくてならないはずなのに、どうしてか心の底になにか弾《はず》んだものがあるのを感じていた。
「店がカラッポになっちゃう」
老人までがいそいそと立ちあがるのをみて、男はあきれたようにそうつぶやいたが、すぐにニヤリと笑った。「まあ、いいか」
明かりはそのままにして、ガス・ストーブの火だけを消し、三人は店を出た。
いつのまにか雪がやんでいて、街は銀いろに冴《さ》えわたった月明かりのなかに、白く浮かびあがっていた。
一瞬、自分はなにをしようとしてるのか、というような戸惑った表情を浮かべ、男はその場に立ちつくしたが、すぐに先にたって、住宅街につづく道へ入っていった。
住宅街をしばらく進むと、右手に大きな邸《やしき》がみえてきた。
邸の大きさもさることながら、見事なのは白いフェンスに囲まれたその庭で、自然の傾斜を利用して、雑木林をそのまま残し、ちょっとした公園ほどの広さがあった。
「ここなんですがね」
アノラックのフードをあげながら、男がつぶやくようにいった。「このなかの雪だったら、まあ、水割りにつかってもきれいなんじゃないですかね」
「こんな夜中に、まさか雪をとらせてくれって、この家の人を起こすわけにもいかないですなあ」
邸を見上げて、老人がいった。「黙って庭に入らせて貰《もら》うしかないけど……下手をすると、不法侵入ということにもなりかねませんよ」
「雪はだれのものでもないですよ」
男は怒ったようにそういうと、フェンスに向かって、歩み寄っていった。
「これ」
いままでさしかけてくれていた傘《かさ》を、女の手に持たせると、老人も小走りに男のあとにつづいた。
二人のあいだにちょっとした押し問答があり、老人が雪のうえに膝をついて、その肩に男が申し訳なさそうに足をかけた。
男がフェンスを乗り越えていくのを、女はなんだか信じられないものでもみるような思いで、みつめている。いい年をした大人が三人、それもまったく見知らぬもの同士が、夜の十二時過ぎに他人の邸に忍び込んで、こともあろうに雪を盗んでこようとしているのだ。正気の沙汰《さた》ではない。
たしかにこれは子供っぽい、むしろ愚かしいとさえいえる行為だったろうが、それにしてもこの胸のときめき、ウキウキと弾んだ気持ちはどうしたことなのか。そういえばちいさいころ、みんなで集まって悪戯《いたずら》しようとしていたときが、ちょうどこんな気持ちではなかったか……
ついさっきまで泣いていたはずなのに、と思うと、女は自分で自分がいぶかしく、その弾んだ気持ちをいささか持て余していた。
「いやあ、楽しいですなあ」
老人は肩や頭の雪をはらいながら、ニコニコと笑って、ひとりで悦《えつ》に入《い》っていた。
フェンスのうえに、男の顔がみえた。真っ白な雪を両手にいっぱい抱えている。
女はほとんど反射的にフェンスの下まで走っていき、毛皮のハーフ・コートを脱ぐと、それを両手でかざすようにしてひろげた。
「このうえに雪を落としてください」
「でも、それじゃ……」
男はためらいをみせた。「コートが駄目になっちゃいますよ」
「いいんです。駄目になっても」
女は断乎とした口調でいった。
あんなにも大切に思われたコートが、いまはもうどうということもない、つまらないもののように感じられた。それで雪をくるんで、使いものにならなくしてしまうことに、むしろ爽快《そうかい》感さえおぼえた。
「そうですか……」
それでもまだ男はためらっていたようだったが、やがて意を決したように、雪のかたまりをフェンスの柵《さく》のあいだから押しだした。
雪のかたまりをコートに受け、一瞬、女はその重みでよろけそうになり、老人が慌てて肩を支えた。
男がフェンスからとびおりたとき、庭のなかから犬の吠《ほ》えつく声がきこえてきた。
三人の男女は子供のように笑い声をあげ、こけつまろびつしながら、雪のうえを走っていった。
男は店に戻るとすぐにストーブの火をつけたが、じっさいには三人とも雪のうえを走ったことで上気し、汗ばんでいるほどで、暖房の必要などなかったのだ。
「遅くなりましたが」
男はカウンターに入ると手早く水割りを二杯つくり、それに雪を浮かべてから、女と老人のまえに差しだした。「ラスト・オーダーの水割りです」
老人がなにかいいかけるのを、手をあげて制し、男は奇妙にキッパリした口調で、言葉をつづけた。
「ご心配なく。これはわたしからのサービスです。いや、今夜のぶんはみんなわたしの奢《おご》りにさせていただきますよ……わたしはね、今夜はなんだかとても嬉《うれ》しくて仕様がないんですよ」
女は雪が白く盛りあがり、ソフト・クリームのようになっている水割りに、ソッと唇を近付けた。唇が凍るような雪の冷たさに、一瞬、眉のあいだに|しわ《ヽヽ》を寄せ、かたく眼をとじたが、なにか舌の先に柔らかいものがふれるのを感じ、その眼をあけた。
そして、唇に指を入れ、その柔らかなものをつまみだした。
それは、ヒナギクの花びらだった。春に咲くはずのヒナギクが、どうした加減かもう雪の下に咲いていて、それが水割りのなかに入ってしまったらしいのだ。
「ねえ、ヒナギクの花言葉がなんだかご存知ですか」
隣りにすわっている老人に、女はそう尋ねた。
「花言葉……」
老人はあっけにとられたようだが、すぐに首をふると、苦笑を浮かべた。「いや、わたしはそちらのほうには暗くて」
「希望《ヽヽ》っていうんです……ヒナギクの花言葉は希望……」
女は微笑を浮かべると、また水割りを口に含んだ。
そして、今夜はもう泣かずに済みそうだと思った。
──若い娘ってのはじつに突拍子《とつぴようし》もないものだな……と、老人は考えていた。いままで泣いていたかと思うと、もう笑いだす。いまの老人には希望などという言葉は、ただ眩《まばゆ》いばかりで、まったく縁がなかった。
老人には希望はない。しかし、さしあたっては死ななければならない理由もなくなってしまったようだ。
今夜の酒がすべて店の奢りだとすると、老人が持っている最後の一万円札は、そのまま手つかずで残ってしまうからだ。
──やれやれ……老人は苦笑混じりの溜息を胸のなかに吐きだした。今夜の酒はまだラスト・オーダーではなく、老人はもうしばらく生きていかねばならないようだった。
明日は職安でも覗《のぞ》いてみるか、老人はふとそんなことを思いながら、水割りのグラスを口に運んでいた。
二人の客が出ていったあと、男はきれいにグラスを洗い、カウンターを拭《ふ》いてから、ガス・ストーブの火を消した。
ストーブが冷えていく、カチカチという音をききながら、男はしばらくタバコをくゆらしていた。
そして氷が切れたと知ったときの、自分のうろたえよう、その醜態ぶりを想いかえして、ひとりで顔をあからめた。あのとき自分はもう駄目だと思ったのだ。自分にはもう生きていく資格なんかない、とまで思いつめて、危うく自棄《やけ》を起こしかけたのだ。
男はクスリと笑った。
もちろん駄目なんかであるはずはないし、自棄を起こす必要もない。自分には生きていく資格なんかない、とまで思いつめねばならないことなど、この世になにひとつとしてないのだ。
自分が雪をとるためにどんなにはりきったかを想いだし、男は不覚にも涙ぐみそうになった。
まだラスト・オーダーではない。たしかにこの店は手放さなければならないかもしれないが、また一生懸命働いて、今度こそ理想の店が持てるようにがんばれば、それで済むことではないか。
男は扉をあけると、店をふりかえった。
そして、眼にみえない客に向かって、ちょっと頭を下げ、手をふると、拍手の音を期待するように、しばらく耳を澄ましていた。
明かりが消されて、扉のとじる音、鈴の鳴る音がきこえ、男は店を出ていった。
文庫版のためのあとがき
この「少女と武者人形」はぼくのはじめての連作短編集です。
それまでも、そしていまも長編が仕事の主体になっているぼくには、この「少女と武者人形」を書くことは、じつに新鮮な体験でした。ぼくはお話にならないほどの遅筆で、小説を書くのはいつも苦痛ばかりなのですが、この「少女と武者人形」にかぎってはたいへん楽しんで仕事をすることができました。
それだけにこの作品には愛着があり、今回、文庫に入るのが、とりわけ嬉しく感じられます。お読みになった方に、このなかの一本でもおもしろく感じていただければ、なおさら幸せなのですが……
単行本の装丁をしていただき、またこの文庫版のカバーにも絵をいただいた杉原玲子氏がお亡くなりになった、ということを聞きました。一度もお眼にかかったことはないのですが、とても丁寧な仕事をしていただき、ありがたく思っていたので、訃報《ふほう》を聞いたときには言葉もありませんでした。聞けば、この「少女と武者人形」が唯一の装丁だったとかで、これから沢山仕事をすべき人だったのに、と思うと、残念でなりません。
杉原玲子氏のご冥福をお祈りします。
昭和五十九年十一月
山田正紀
初出誌 「オール讀物」昭和56年3月号〜57年2月号
単行本 昭和57年4月文藝春秋刊
底 本 文春文庫 昭和六十年三月二十五日刊