山田正紀
宝石泥棒
甲虫《かぶとむし》!
甲虫《かぶとむし》!
昔 宝石が盗まれた
やれやれ
ひどい世の中だ
油断もすきもありゃしない
甲虫《かぶとむし》!
甲虫《かぶとむし》!
甲虫《かぶとむし》!
甲虫《かぶとむし》!
甲虫《かぶとむし》が僕《しもべ》を連れて夜を逝《ゆ》く
俺のあの娘《こ》が
宝石ほしいと
泣きやがるもんだから
甲虫《かぶとむし》!
甲虫《かぶとむし》!
冒険好きの甲虫《かぶとむし》
ところで皆の衆
おいら うっかりしとって
その先どうなったか知らんのだよ
ヒヒヒ
ホホ ホホ ホ
甲虫《かぶとむし》!
――甲虫男《かぶとむしおとこ》の歌(バノ族)
目 次
第一章 甲虫《かぶとむし》の戦士
第二章 死霊の都
第三章 |空なる螺旋《フエーン・フエーン》
第一章 甲虫《かぶとむし》の戦士
1
アリの群れが地を這《は》っている。
這っている。
彼らに、行進のはっきりとした目的があるはずはなかった。盲目的な、ほとんどおろかしいほどの熱情につき動かされ、やみくもに前進をつづけているだけなのだ。
この地から、あの地へ。
ただ、ひたすらに……
ふいに、アリたちのうえを赤い閃光《せんこう》がはしった。
トカゲだ。
トカゲがそのチロチロと伸縮する舌で、アリたちを食べているのだ。
トカゲは、覇者《はしや》のおちつきを見せていた。石のうえにすわったまま、身じろぎひとつしない。貪欲《どんよく》に、しかし確実に、アリたちをたいらげているのだった。
トカゲが舌をのばすつかの間、アリたちは隊伍《たいご》をくずしはするものの、そのあとは何事もなかったように前進をつづけている。
静かだ。
アリとトカゲの頭上を、緑の天蓋《てんがい》がおおっていた。彼らを包む大気は熱く、ねっとりと淀《よど》み――そして、暗かった。
五十メートル以上に達する巨木が厚く重なり、視界をびっしりと閉ざしていた。熱帯降雨林に特有の、茎《くき》太の蔓性《つるせい》植物がいたる所にぶらさがっている。おびただしい数の灌木《かんぼく》が、あるいは着生《ちやくせい》植物が、段をなして幅広の葉をひろげていた。
地上に、草木の茂みはほとんどない。緑の苔《こけ》が一面をおおっているだけだった。
革をたたくような音が密林にひびき、太いつたがバサリと落ちた。
一人の男が、ゆっくりと木陰から姿を現わした。その手に握《にぎ》られている蛮刀を見れば、彼が道を開くため、つたを切り落としたことは明らかだった。
男、――という言葉は適当ではないかもしれない。筋肉は浅黒く、充分に発達してはいるが、まだ少年の体形を残していた。きらきらと光を放つ眼も少年のものだ。頬《ほお》は鋭く削《そ》げているが、それは年のためではなく、旅の苦労によるものらしかった。
たくましいが、少年だ。せいぜいが、十七になったばかりだろう。
少年は、腰を布でおおっているだけだった。ほとんど全裸にひとしい。長い髪を後ろでたばね、手首にいたちの歯を集めた腕輪をはめていた。蛮刀と、小さな革袋――それだけが、少年の持つすべてであった。
少年は、前方のトカゲとアリに気がついたようだ。ニコリと邪気のない笑いを浮かべると、蛮刀を腰の鞘《さや》におさめ、その場にゆっくりと腰をおろした。
こういう場合、どちらにくみしてもならないのだ。すべてが終わるまで、辛抱《しんぼう》強く待ちつづけるしかない。それが、野性のおきてだった。
アリの行進は絶えることなく、トカゲの食欲にも底がなかった。
少年は革袋から小さな乾肉をとりだすと、たくましい歯で噛《か》みはじめた。長く待つことになるのを覚悟《かくご》して、自分もまた食事にとりかかったわけだ。
かすかに、葉ずれの音がした。
少年は上方をふりあおぎ、その口に微笑を浮かべた。
頭上を覆《おお》う林冠《りんかん》……色とりどりに咲き乱れる花、たわわに実る果実の間に、ちらっと動くものが見えたのだ。車輪の輻《や》のように散る熱帯の陽光のなかを、黒く小さな影がすばやくよぎった。
オオクチバシだ。
この極彩色《ごくさいしき》の大きなクチバシを持つ鳥は、果実や漿果《しようか》類にまぎれて、姿をみきわめることが非常にむつかしい。滑稽《こつけい》にさえ見えるクチバシが、実は完璧《かんぺき》な擬態の役を果たしているのだ。
氾濫《はんらん》する色彩のなかに身を潜めて、オオクチバシが狙《ねら》っているのは……トカゲにちがいない。
オオクチバシはトカゲを食べ、トカゲはアリを食べる……自然は皮肉な諧謔《かいぎやく》に充《み》ちている。少年が微笑を浮かべたのも、ゆえのないことではないのだ。
少年は乾肉の最後の一片を口に放り込むと、石化したかのように、身動きをしなくなった。彼自身もまた、擬態をとりつつあるかのようだった。
オオクチバシがトカゲを欲するのなら、その機会を与えなければならない。関係のない第三者が介入することは禁忌《きんき》なのだ。トカゲかオオクチバシ、いずれに幸運が輝くかは、時が答えを与えてくれるはずだ。
頭上の林冠を、虹《にじ》のように色彩が流れた。
いよいよオオクチバシは、急降下に移る体勢を整えたらしい。トカゲの方はといえば、あいかわらずアリを食べることに余念がない。
少年の顔が、期待に輝いている。オオクチバシとトカゲとの闘いは、それなりに人を熱狂させる要素をふくんでいるのだ。
が、――少年の期待はむなしく裏切られることになった。
不意に、オオクチバシが悲鳴のような声を発し、梢《こずえ》からあわただしく飛びたったのだ。ハッと少年が立ち上がった時には――唸《うな》りをあげて飛んできた矢が、トカゲの体を地に縫《ぬ》いつけていた。
少年の動きは敏捷《びんしよう》そのものだった。足腰をバネに変えて、大きく飛びすさると、腰の蛮刀を抜き放った。全身に、戦士の精悍《せいかん》さがあふれていた。
矢はトカゲの体を縫いつけたまま、ブルブルと震えていた。よほど膂力《りよりよく》にすぐれた者が放った矢にちがいない。矢はほとんど先端ちかくまで、トカゲをつらぬいているのだ。
少年は、ながく待つ必要はなかった。
密生する灌木がザワザワと葉ずれの音をたて、その陰からヌーッと姿を現わしたものがいるのだ。
「猩猩《しようじよう》……」
少年の口から、そんな言葉が洩《も》れた。その顔が緊張でこわばっている。
少年でなくても、そいつを見れば緊張せざるを得ないだろう。
まったく、醜い生き物だ。なまじその姿が人間に似ているだけに、なおさら醜怪さがめだつようだ。
猿《さる》を思わせる。ただしその直立した姿形は猿のものではない。身の丈は二メートルちかく、全身を黒い剛毛がおおっている。顔は白く、耳はピンと尖《とが》っている。なにより嫌悪《けんお》を誘うのは、そのガラス玉のように無表情な眼と、鼻下にたくわえている細い口髭《くちひげ》だった。
猩猩は猿ではない。猿が武器を使うはずがないからだ。かといって、人間と断定するのにもむりがある。人は、決して尻っ尾で武器を使いこなしたりはしないからだ。
猩猩を、猩猩たらしめているのは、その独特な尻《し》っ尾《ぽ》なのである。たしかに、ある種の猿――たとえばキツネザルなどは、尻っ尾で枝につかまったりはする。だからといってそれだけで道具を使いこなすことは不可能だろう。
猩猩の尻っ尾は、その先端ちかくから、小さな突起がつきでている。その突起は随意筋であるらしく、かなり自由に動かすことができる。つまり、その突起は、人間の手の親指の役目を果たしているのである。いうならば、猩猩にとって、尻っ尾は第三の腕なのである。
尻っ尾の力がかなり強いことは、今、そこで弓をつがえていることからも明らかだろう。長い尻っ尾を横に水平に立て、矢羽と弦《つる》をきりきりと引き、左手で弓をかまえているのである。もう一方の手には、荒削りの棍棒《こんぼう》を持っている。
猩猩《しようじよう》の顔から、感情を読みとることは不可能だ。そのつるんとした顔は、人形めいてうつろだ。大きいが、しかし輝きのない両の眼は、はたして少年の姿をとらえているかどうかさえ疑問だった。
が、――少年の眼の配りには油断はなかった。
猩猩の仮借《かしやく》のない、残忍な性質は、あまねく戦士たちの間に知れわたっているのである。
猩猩は、灌木の茂みを出、さらに少年に向かって歩を進めた。一見したところ無造作《むぞうさ》な、なんの緊張も示していない足どりだ。だが、その細い口髭が、猩猩のいかにも屈託なげな足どりを裏切っていた。猩猩が口髭をふるわせているときこそ、彼がもっとも闘争心をたぎらせているときなのである。
少年は地を滑るように後ずさった。その蛮刀が、右に左に白い光芒《こうぼう》を走らしている。少年が、猩猩がたち向かってくるのを覚悟していることは明らかだった。
ジャングルに、緊張がみなぎっていた。小鳥がさえずるのを止《や》め、小動物が巣のなかに逃げこんでしまうような極端な緊張だ。爆発を予感させ、緊張はじわじわと頂点に昇りつつあった。
その緊張を破るように、なにか小さな光るものが猩猩の前をかすめた。蛍《ほたる》に似たそれは、次の瞬間にはもう茂みのむこうへと消えていた。
不意に、猩猩が身をひるがえした。トカゲをつらぬいている矢を、ぐいっと地から抜き取ると、急ぎ足に立ち去っていった。少年をふりかえろうとすらしなかったのである。
あとには、呆然《ぼうぜん》としている少年が残された。猩猩のこの突然の戦意喪失が、何によるものであるか見当もつかないでいるようだ。
少年は首を振り、再び蛮刀を鞘におさめかけ――その手を途中で止めた。
少年は鼻翼《びよく》をふくらませている。その眼が、何かをたしかめるかのように細くせばめられていた。人が、異臭をかぎつけたときに共通した表情だ。
少年はクンクンと鼻を鳴らした。鼻を鳴らして、首をかしげる。そして、グルリと体を一回転させた。
ジャングルに、とりたてて異常は見られなかった。捕食者が居なくなったことにも、いっさい関心を払わずに、アリたちはなお強情な行進をつづけていた。
少年は何事か口のなかでつぶやくと、音をたてて蛮刀を鞘におさめた。その顔に、極度の不信の色を浮かべている。五感が察知している異常を、みさだめることができないのが、この若き戦士にはどうにも我慢がならないようだった。
少年があきらめて歩き出そうとしたそのとき――樹々《きぎ》を縫って、蒼《あお》い光が走った。大気がぐわっと膨張《ぼうちよう》し、熱の巨波が真正面から少年を打ちすえた。
少年は数歩を退《さ》がり、かろうじて踏み止《とど》まった。
その顔には、ただ驚きの色だけがあった。眼前を走った光は、少年の理解を大きく絶したものだった。これに似た現象で、少年に想起できるものといえば、空を裂く稲光《いなびかり》ぐらいしかなかった。
バリバリッという大音響とともに、ジャングルの彼方《かなた》が白熱した。
少年には、鼻をひくつかせる必要はなかった。あらためて嗅《か》いでみるまでもなく、炎がたちのぼったことは明らかだったからだ。すでに、紫色の煙がたなびきはじめていた。
少年は色を失っていた。いかに勇敢な戦士といえども、押し寄せる炎に抗することはできない。
炎は、死神の使わしめ、髑髏の猟犬《カーマン》≠ノ譬《たと》えられている。確実に、そしてすばやく、その犠牲《ぎせい》者たちを牙《きば》にかけるからである。野火がどれほど恐怖の対象となっているかの、一つの証左といえた。
少年はパッと走りだした。いかにも達者な走りぶりだが、なお炎から逃げきるには不充分なようだった。
ジャングルがにわかに騒がしくなった。オウム、インコ、サルが梢をとびかい、穴という穴からヘビたちが這《は》い出してきた。錯綜《さくそう》する食物連鎖につらなったさまざまな動物たちが、今、炎という共通の敵に直面したのである。
恐怖が、少年の体力をいちじるしく削《そ》いでいた。走りだしてからそんなに時間はたっていないというのに、もう少年の足にはふらつきが生じていた。顔は蒼白《そうはく》と化し、たくましい胸はぜいぜいと波打っていた。
そのまま走りつづければ、時をおかず、少年は力つき、倒れることになるはずだった。それがそうならなかったのは、とつぜん眼の前に縄《なわ》がたれ下がってきたからである。
少年にためらいはなかった。それがどんな結果を生むことになるかさえ考えずに、夢中で縄に飛びついたのだ。
次の瞬間、少年の体はするすると樹上に引き上げられていた。
2
――視点が高くなるにつれ、ジャングルはしだいにその様相を変えていった。
ツタなどの攀縁《はんえん》植物が錯綜しているからだ。攀縁植物は枝に鉤《かぎ》をかけ、あるいは吸枝《きゆうし》でしがみつき、木々の間に太いツタを張りめぐらしている。ちょうど何十倍にも拡大された緑のクモの巣が、いたるところにかかっているような眺《なが》めだった。
すべてが常軌を逸して、巨大だった。攀縁植物はその上を歩くのが可能なほど太く、さらには複雑にからみあい、ジャングルに幾層にも設けられた通廊のように見えた。――加えて、パイナップル科の着生植物がある。木々の割れめから芽ぶくこの植物は、ゴムのように硬《かた》く、かつ柔軟なひげ根を伸ばし、宙空に巨大な葉からなるおわんを浮かばせているのだ。その規模からいえば、むしろ空中の沼と形容した方がより正確なようだ。雨水をためたこの沼は、さしわたし百メートルに及ぶものまであり、多く水棲昆虫《すいせいこんちゆう》、アマガエルたちの格好な住居《すまい》となっている。
みわたすかぎり、攀縁植物が通廊をひろげ、空中の沼がいたるところで水面を光らせているのだ。さまざまに咲き乱れる原色の花とあいまって、ジャングルの上方は下界とはまったく別世界の感があった。
少年がつかまっている縄は、休むことなくスルスルとのぼっていく。二、三度、ナビキツタが少年の体に触れてはきたが、それ以上の関心を示そうとはしなかった。
炎も、ここまでは達していないようだ。いがらっぽい臭《にお》いがかすかに鼻孔をつくだけで、煙りすら見えなかった。
上方に、空中の沼の巨大な底部が見えはじめていた。葉はたくましく厚く、真鍮《しんちゆう》のような渋い光沢を放っていた。縄は、どうやらその縁《ふち》から垂れ下がっているようだった。
時をおかず、少年の体は空中の沼まで引き上げられていた。
少年は縄から手を離して、厚い葉肉をずり落ちていった。感覚のうえでは、今、自分が居るのが着生植物の水槽《すいそう》のなかであることを、どうしても受け入れることができない。なにかしら、巨人の掌《て》につかまっているような錯覚があった。
沼にはまりこむ寸前で、少年の体はかろうじて停止した。
少年はしばらくそのままの姿勢で、自分を助けてくれた男をみつめていた。
男は、腰まで沼につかっている。頭上にのびている太い枝に縄をかけ、そこを支点として、少年の体を引き上げてくれたらしい。そうとうの力を必要としたはずだが、息を切らしている気配さえなかった。
なにかしら、滑稽《こつけい》な印象を与える男だ。非常に痩《や》せている。顔には、ひどくしわが多かったが、その眼の輝きからすると意外に若いのかもしれない。つねに唇《くちびる》からニヤニヤ笑いを絶やさないのも、対峙《たいじ》する者を奇妙におちつかない気分にさせる。
男は腰衣《ドウテイ》をはき、上半身は裸だった。頭にはターバンを巻いている。――男の印象をいっそう奇妙なものにしているのは、首から背中に大きな鉄鍋《てつなべ》を吊《つ》るしていることだった。腰に下げたナイフも、どうやら料理に使われるものらしい。
「あんた、タウライ語《〔註1〕》が話せるかね」
男は、ひどく野放図《のほうず》な大声をだした。
「ああ……」
と、少年はうなずいた。「俺《おれ》の名はジロー、聖なる守護の名に誓って、あんたには命を救《たす》けてもらった恩を返すよ」
「なに……」
男のニヤニヤ笑いが、さらに大きなものになった。「俺の方が、少しだけ旅慣れていただけさ……ところで、俺の名はチャクラ」
「……チャクラ?」
「おかしな名だろう。どこかの古い言葉で、車輪とかいうような意味らしいがね」
「よろしく、チャクラ」
「よろしく、ジロー」
二人の挨拶《あいさつ》は簡潔なものだった。本来、この世界では、見知らぬ者同士が知り合いになるには、かなり煩雑な儀式を必要とする。個人は部族、祖霊を代表するばかりではなく、それぞれの守護神の使わしめとも考えられているからである。部族によっては、最初に罵詈雑言《ばりぞうごん》をひとしきり交《かわ》した後でなければ、たがいに知り合いになるのを禁じられている場合さえあるのだ。
だが、ジローは本能的に、チャクラという人物はその種の儀式とは無縁な男であることを覚《さと》っている。だれもが、なんらかの形で背負っている部族のにおいをまったく感じさせない。木の股《また》から生まれたような気安さがあったからだ。
「水のなかに入ったらどうかね?」
と、チャクラが勧めた。「炎が迫ってきた時、熱い思いをしなくてすむ」
ジローは、チャクラの勧めにしたがった。ドンヨリと淀《よど》んだ水が、走りすぎて、腫《ふく》れあがったふくらはぎに心地よかった。
「あんた、マンドールヘ行くのかね」
チャクラがきいてきた。生来、好奇心の旺盛《おうせい》な質《たち》らしい。
「そうだよ……」
ジローはうなずいた。「俺は、マンドールで生まれたんだからね」
「ほう……こう言っちゃなんだが、マンドールの人間には見えないな。第一、マンドールの人間なら、|赤い粉《オビール》≠額《ひたい》につけているはずじゃないのか」
「四つのときにマンドールを出たんだ」
ジローは遠くを見るような眼になった。「親父《おやじ》と一緒に、ね……ずーっと山の方で暮らしていたんだ。親父が死んだんで、マンドールに帰るつもりになったのさ」
「変だな……」
チャクラは指で鼻をひっぱった。「マンドールじゃ、青年の儀式≠ヘ十六のときじゃなかったか。十六になったら、少年はジャングルに一人で入り、精霊たちから守護神の名を教えられ、一人前の男として帰ってくる……俺は、そう聞いたんだけどね」
「親父は、俺を戦士に育てたかったんだ」
ジローはいくぶんかの照れくささと、それに数倍する誇りを込めていった。「ただの男じゃ、ものたりなかったらしいんだよ」
「ほう……」
チャクラはニヤニヤと笑い、顔をしわで埋めた。「なるほどねえ……たしかに、マンドールでは戦士は育ちにくいものな」
「…………」
ジローは軽い当惑をおぼえた。チャクラには、相手の警戒心を自然に解いてしまうような、独特な雰囲気《ふんいき》がそなわっているようだ。ある意味では、話術の名人といえるかもしれない。沈黙をよしとされる戦士が、会って間もない男に、生いたちまで語るのはよくよくのことなのである。
「あんたはマンドールの人かね」
ジローは反撃に出た。
「違うよ」
チャクラは首を振った。「カルカットンに生まれたんだがね。まあ、俺の家系は代々旅行好きでね。俺には、故郷なんてないも同じさ」
「旅行好きというと……床屋《ナウ》かい」
「いや……」
「絵師《プ》?」
「いや……」
「わかった。笛吹人《バウ》だ」
「残念だけど……」
チャクラは、ジローの困惑を楽しんでいるようだった。若いジローは、すぐさま頭に血をのぼらせた。
「染色屋《チツパ》、|油搾り屋《サミエ》、鍛冶屋《カウ》、|お菓子屋《アルワイエ》……」
ジローが勢いこんで列挙した職業には、チャクラはいずれも首を振るばかりだった。
職業カーストは、今、どの部族でもさほど堅牢《けんろう》なものではなくなっている。細分化され、しかも流動的な社会には、カーストが存在する余地がないからである。ジローが並べた職業カーストも、ほとんど職名でしかなく、上下関係としての意味はふくまれていなかった。
が、――それにしても、そこには自《おのず》と限界があった。たとえ天地がひっくりかえっても、チャクラのような男が、司祭《グバジユ》、役人《ウーラエ》、あるいは大地主《セシヨウ》であるはずはなかった。
ジローは職名に窮し、おそるおそるいった。
「もしかしたら、祈祷師《バリアン》だろうか」
戦士であるジローには怖いものなどあってはならないのだが、正直、祈祷師だけは恐ろしかった。チャクラが祈祷師であるなら、できるだけ機嫌《きげん》をそこねないようにしなければならない。チャクラに守護神の名を知られないようにつとめる必要もある。――祈祷師《バリアン》に守護神の名を知られれば、運命を他者の手に委《ゆだ》ねたも同じだからだ。
「似てるが、違うよ……」
チャクラは上機嫌にいった。「俺は狂人《バム》なのさ」
「狂人《バム》……」
「親父も、その親父も、そのまた親父も狂人《バム》だったのさ」
ジローも、狂人《バム》なる人間のことは知っている。狂人《バム》はすべての部族から離れ、またいかなるカーストに組み入れられることもない――多くの部族で、狂人《バム》は神≠フ寵児《ちようじ》、祖霊たちの喜びの糧《かて》と信じられている。その言動が奇矯《ききよう》であればあるだけ、神≠ヘ喜ぶとされているのである。
チャクラは各部族を放浪し、歌い、踊り、狂ってみせる、いわば職業的な狂人《バム》なのである。
「だがね……」
チャクラは、真面目《まじめ》とも、冗談ともつかぬ口調でいった。「俺の天職は、名前どおりの車輪さ」
「車輪……?」
「そう……錆《さび》のついてしまったこの世の中を、からころと回すのが俺なんだよ」
「…………」
ジローには、チャクラの言葉の意味がよくつかめなかった。ただ、剽軽《ひようきん》者としか見えぬチャクラという男が、その実、なにか底知れぬ思いをいだいていることだけは直感できた。
「だから、俺の守護神はビーバーなんだよ」
と、チャクラが言葉をつづけた。
ジローはただ眼を白黒させている。ビーバーという動物をよく知らないことと、チャクラがこともなげに自分の守護神の名を口にしたことが、ジローにはとてつもないおどろきだったのである。元来、守護神の名は、めったなことでは他人に告げるべきものではないのだ。
「さては、ビーバーのことをよく知らないな」
チャクラは指をふり、からかうように言った。「まあ、いい。そのうち、知る機会があるだろうさ……ところで、あんたの守護神は何なんだい?」
おそらくは、それがチャクラの策略の一つだったのだろう。あまりに気楽なチャクラの口調に、ついジローは乗せられてしまったのだ。
「甲虫《かぶとむし》です……」
反射的にそう口にしてしまってから、ジローは自分の軽率さにほぞをかみ、ついでその言葉がチャクラにひきおこした反応に唖然《あぜん》としたのだった。
チャクラの顔は弛緩《しかん》してしまっている。眼をうつろに見開き、だらしなく顎《あご》を落としているのである。まるで、幽霊《ゆうれい》でも見たような表情だ。
「甲虫……」
チャクラはたしかめるように、そう口のなかでつぶやいた。
「そうですよ」
ジローは、自然に体を引くような姿勢をとっている。チャクラの驚きはあまりに大仰《おおぎよう》で、常軌を逸しすぎているように思えたからである。
「あんた、宝石の話をきいたことはあるかね」
チャクラは、急に狡辛《こすから》いような眼つきになった。
「宝石って……」
ジローは口ごもった。「あの伝説の宝石のことかい……昔、何者かに盗み去られた生きとし生けるものすべての運命をつかさどる&石のこと?」
「そうだ……」
チャクラはなにか自分にいいきかせているようにいった。言葉の終わりは、なかば独り言にちかかった。「バノ族の方じゃ、『甲虫男の歌』ってのがあってね。その歌によると、甲虫は宝石を探しに旅に出るという……」
ジローは、奇妙におちつかないものを覚えた。なにか、胸の底をちりちりと灼《や》かれているような感覚。不安とも、憧憬《どうけい》ともつかぬ、フッと気の遠くなるような感覚だった。
「野火は収まったようだね……」
なんとはなしに話題を転じたくて、ジローはそういってみた。
事実、ジャングルは静寂《せいじやく》をとり戻《もど》している。樹々《きぎ》の焼ける臭《にお》いも失《う》せ、火勢に怯《おび》える小鳥たちの鳴き声も遠のいていた。――炎と入れ替わりのように、ジャングルには白いモヤがたちこめ始めていた。下方から急激に熱せられ、空中の沼の幾つかが水蒸気を昇らせているのである。
「野火?」
チャクラはけげんそうな顔になり、ついであきれたようにいった。「おいおい、あれは野火なんかじゃないぜ」
「野火じゃない? だって……」
「待てよ」
ジローの言葉を、チャクラがさえぎった。「あんた、ここの|やおろず《〔註2〕》≠フことは知らないのか」
「いや……」
ジローは、言葉を濁した。顔が、わずかに火照《ほて》るのを感じた。戦士が未知の土地におもむくのに、その地のやおろず≠知らないのは恥ずべきことだといえた。なんといっても幼年期を過ごした土地のことでもあり、ジローは自分のあいまいな記憶を過信しすぎていたきらいがあったのだ。
「猩猩《しようじよう》とか……やおろず≠フ最高位が稲魂《クワン》であるぐらいは憶《おぼ》えていたんだけど……」
「あの火事をおこしたのは|〓〓《ちゆつてき》と呼ばれている生き物だ……」
チャクラが諭《さと》すようにいった。「それも、物好きから火事を起こしたわけではない。ちゃんとした、理由があるんだ」
「|〓〓《ちゆつてき》……」
ジローは、ぼんやりとつぶやいた。樹々を縫うように走った電光が、あでやかに脳裡《のうり》によみがえった。
「そうだ……」
と、チャクラはうなずいた。「だが、危険な生き物というと、猩猩ももちろんだが、それより〓|魚《かつぎよ》に注意したほうがいいな」
「〓魚《かつぎよ》……」
ジローの眼に、戦士たる闘志の炎が青くともされた。「どんな奴《やつ》だい?」
「あれさ」
チャクラは、空に向けて顎をしゃくった。つられて、ジローも視線を空に向けた――モヤにさえぎられ、定かではないが、なにか巨大なものが空を遊弋《ゆうよく》していた。両翼がゆっくりとはためいているのが、薄くシルエットとなっていた。
「鳥か……」
と、ジローがきいた。
「いや――」
チャクラは首を振った。「あれは、〓魚《かつぎよ》だ」
3
――マンドールの町は、おりしも祭りのまっ最中であった。
人口四千人……熱帯に位置する町としては、希有《けう》な大集落であるマンドールには、さまざまな部族から人が流入している。土地の豪族であったマンドールはもとより、天孫降臨を信じるトラエザ、海人《あま》の末裔《まつえい》であるヤム、樹上族の流れをくむコノワ、そして|黒い人《アプタ》=c…宗教、習慣、風俗などがたがいに交叉《こうさ》し、かつ複雑にからみあい、一種異様な活気をていしているのである。
ある意味では、マンドールの町には神々が充満しているといえた。増築、改築の連続で、四層にも五層にも高くなった木造家屋は、民家、寺院の区別さえつけ難い。民家の壁に、神≠フ顔が極彩色《ごくさいしき》でえがかれていれば、もうそこには神がおわしますのだ。かと思えば、いにしえからの由緒《ゆいしよ》正しき寺院で、多くの家族が平然と暮らしを営んでいる。いうならば、この町では神々と人々が雑然と同居し、たがいになんの支障もないのだ。
熱帯の人々は陽気で、しかもこだわることを知らない。自他の別なく、神々にはひとしく崇拝の念をいだくのだ。それが、たとえ壁に打ちつけられた一枚の板に過ぎなくても、神であると告げられれば、地にぬかずき、合掌することをいささかも辞さないのである。
が、――そんなマンドールの人たちも、今日から三日というものは、ただ一人の神を讃《たた》えることに忙しい。
彼らに恵みと糧《かて》を与える神――稲魂《クワン》≠ナある。稲魂はジャングルを焼き、さらには水を引き、肥沃《ひよく》な土地を造りだす。そして、すべての稲たちに命じ、豊饒《ほうじよう》な収穫をマンドールの民に約束するのである。この熱帯の地に米を……
だからマンドールの民は、収穫を祝い、稲魂《クワン》に感謝の祭りをささげるのである。
路地にいたるまで、石畳のうえには沙羅双樹《さらそうじゆ》の葉が撒《ま》かれている。女たちは嫁《とつ》いできた日の晴着をまとい、男たちは|赤い粉《オビール》≠全身に塗りたくる。香《こう》が焚《た》かれ、松明《たいまつ》が燃やされるのだ。
町角のあらゆる場所に、先端を切り開き、そのなかに初穂を収めた竹竿《たけざお》がつきたてられている。天上におわします稲魂《クワン》に、いわばその孫を見せているのだ。竹竿の下は、花と酒壺《さけつぼ》と、灯心などで足の踏み場もないほどである。
そして、――人々は踊り狂う。中央の男が大きな籠《かご》を振り回す。すると、周囲の女たちが巨大なうちわであおぐ真似《まね》をするのだ。風による、モミの選別を模した踊りだ。単純なくりかえしだが、しかしそのしぐさの一つ一つに力がみなぎっている。蛇皮線《ランダ》と、竹笛《ポポロ》、二弦楽器《クツルン》が、その踊りに景気をつけていた。
そんな騒ぎのなかを、ジローは急ぎ足で歩いている。満面に、楽しげな笑いを浮かべていた。故郷に、しかも祭りの最中《さなか》、戻ってきたのである。ジローでなくても、体の奥底から喜びがあふれてくるのを、どうにも押し止《とど》めようがなかったろう。
危うく焼け死にそうになったあの日から、すでに三日が過ぎている。その間、ジローはほとんど不眠不休で、ジャングルを歩きつづけてきたのである。
もちろん、望郷の念に駆られていたこともあったが、一つにはあのチャクラという男から離れたかったことが、ジローをして先を急がせたのだった。決して、チャクラに嫌悪《けんお》の念をいだいたわけではない。むしろ、その逆に好意らしいものさえおぼえている。が――なぜか、ジローはチャクラとは別行動をとるべきだと感じたのだ。なぜか……
ジローはとある細い路地を折れ、そこで足をとめた。ようやく、おぼろげな記憶が、目的とする場所をつきとめることに成功したのだ。
ジローは立ちつくしながら、眼を潤《うる》ませてさえいた。
路地のつきあたりに、小さな鍛冶屋《カウ》の仕事場があった。粗末な竈《かまど》があるだけの、おそらくは貧しいこの界隈《かいわい》でも、とりわけ惨《みじ》めな小屋といえるだろう――その仕事場にうずくまっていたフンドシ姿の老人が、ジローを見て、なにかとまどったように腰を上げた。しばらく、ジローの様子をうかがっているようだったが、やがてその顔に驚愕《きようがく》の色が浮かんだ。
「おまえ、ジローか……」
老人がしゃがれた声を張り上げた。「儂《わし》の兄、クライマイの息子ジローじゃないのか」
「そうです……」
ジローはつとめて平静をたもとうとしていた。戦士たるもの、いや、戦士でなくても、一人前の男が感情をあらわにするのは恥ずべきこととされているからだ。
老人も同じ思いでいるようだ。ようやく絞りだしたその声は、不自然なほど抑制されたものだった。
「父はどうした? クライマイは……」
「死にました……」
ジローは眼を伏せた。「病気で……」
「そうか」
ジローの姿を見たときから、あらかじめ予期していた言葉だったのだろう。老人の顔に悲しみはあっても、驚きの色はなかった。「だが、嘆くことはねえ。クライマイは、こんな立派な息子を残したんだからなァ」
「…………」
それに応じて、ジローが口を開きかけたそのとき、――背後で鳴り響いた銅鑼《ドラ》の音がいっさいをかき消した。
ふりかえったジローの眼に、大通りにあふれる群集と、ゆっくりと歩を進めているゾウの姿が映った。いや、なによりゾウの背中のきらびやかな山車《だし》に坐している、一人の少女の姿がとびこんできたのである。
……ツッチャ、ツッチャ、ツッチャ、ツッチャ……
群集が、声を合わせて、歌いはじめた。そのリズミカルな掛け声は、ほとんど一人の人間の口から発していると思えるほど、みごとに息があっていた。
掛け声をかけているのは、すべて男たちだった。男たちは上体を揺らし、腕を振り、喉《のど》がはり裂けんばかりに叫んでいる。
……チャッ、ツッチャ、ツッチャ、ツッチャ、ツッチャ……
その声は一種異様などよめきと化して、群集をいやがうえにも熱狂させていた。
ゾウに乗った少女は眼を閉じ、両腕を優雅にうねらせていた。その華麗なダンスは、はっきりと現世《うつしよ》の人間たちのそれとは一線を画《かく》していた。ツッチャの掛け声に乗って、少女は稲魂《クワン》と言葉を交すべく、法悦状態にあるのだった。
なんのふしぎもない。その金の宝冠、真紅《しんく》の衣裳《いしよう》、蛇《へび》の首飾りを見るまでもなく、少女が生神《クマリ》|=s〔註3〕》であることは明らかだからだ。
その少女を見た瞬間から、ジローの世界は大きく変貌《へんぼう》した。彼女をのぞいてこの世のすべてが、とるに足らない些事《さじ》となり果てたのである。体の奥ふかくに溶鉄がたぎっているような、烈《はげ》しい灼熱《しやくねつ》感を覚えた。
歓喜が、そして悲哀が、ジローの魂をゆさぶり、全身を震わせた。そのとき、ジローはなかば宿命のように、全身全霊を賭《か》けて、少女を愛してしまっている自分を受け入れたのだった。
少女が生神《クマリ》≠ナあることは、問題にはなりえないはずだった。少女は、いずれは女とならなければならない。そして、女となったとき、生神《クマリ》≠ヘ一人の人間に戻るのである。
が、――叔父《おじ》のいった言葉が、ジローを奈落《ならく》の底に突き落とすこととなった。
「あれは、儂の娘のランだ……」
と、叔父は言ったのだ。「おまえのいとこだよ」
ジローには、死刑の宣告にもひとしい言葉だった。いかなる部族、いかなる宗教でも、いとこと情《じよう》を交《かわ》すことは、最強固なタブーとされていた。そのタブーを破った者は、未来永劫《えいごう》、阿鼻《あび》地獄でのたうつことになると信じられているのである。
未来永劫……
4
――叔父の言葉は、どんな烈しい恋情をもうち砕く破壊力をそなえていた。
たとえ知らなかったこととはいえ、自分が恋慕をいだいた相手がじつのいとこだったときかされれば、いかな男でもその罪の大きさにおののき、神≠ノ許しを乞《こ》うだろう。
ジローもまたその例外ではなかった。いったんは怯《おび》え、背徳の恋から身を退《ひ》いたのである。
が、――生神《クマリ》<宴唐ェジローに与えた衝撃はあまりに大きすぎた。それは、ジローの全存在を根底からくつがえし、その宗教心、道徳観をみじんに砕く衝撃だったのだ。
……ツッチャ、ツッチャ、ツッチャ、ツッチャ……
男たちの口からつむぎだされる掛け声が、ジローのなかにうねり、一種異様な酩酊《めいてい》状態をもたらしていた。
その酩酊感に誘われるように、ジローは一歩を踏み出した。危険な、――場合によっては、破滅の淵《ふち》≠ヨとつづく、その第一歩だった。
背後から、叔父がしきりになにか呼びかけていたようだが、ジローはその声をほとんど意識していなかった。ゾウに乗る少女だけが、ジローの世界を構成するすべてであったからだ。
ジローの眼はただ少女の姿を追い、その足はゾウの歩みにしたがった。行く手をさえぎるものは、そうと意識しないまま手で押しのけている。突きとばされた男たちが悪態をつくのにも、まったくおかまいなしだ。
少女はなおも、法悦状態のなかで体をくねらしている。覚者にはとうてい望めない激しい、それでいて優雅な踊りだった。その飛び散る汗が、灼熱の陽光にはじけ、眩《まばゆ》い輝きを放っていた。
ジローの眼には、なにかにとり憑《つ》かれたものに特有な光がみなぎっていた。じっさい、ジローの姿を見、あわてて飛びすさる者さえ幾人かいたほどなのだ。悪霊《ビー》≠ノとり憑かれていると考えたのかもしれない。
ツッチャ、ツッチャ、ツッチャ、ツッチャ……
群集の掛け声が背後にしだいに遠のいていき、やがては潮騒《しおさい》のように低いものとなった。
少女の姿が、ゾウの背に崩れるのが見えた。力つき、昏睡《こんすい》したようだ。稲魂《クワン》≠ニの交信は、生身の人間には恐ろしく体力を消耗《しようもう》する神事なのだ。
ゾウは、生神《クマリ》≠フ昏睡をまったく意に介していないようだ。悠揚《ゆうよう》せまらぬ足どりで、巨体を運んでいく。神殿に戻《もど》ることが、ゾウに課せられたただ一つの義務なのである。
――街並は、いちじるしく様相を変えはじめていた。
幾多の神≠ェ人間と雑居するこのマンドールの街でも、稲魂《クワン》≠セけは別格の存在、最高位の神≠ニされている。マンドールの家屋が、寺院にいたるまでことごとく木造建築であるのに比し、稲魂《クワン》≠フおわします神殿だけが壮麗な石造りであるのも、その一つのあらわれだったろう。神殿をとりまく一帯には、隙間《すきま》なく石畳が敷きつめられているのである。
祭りの喧噪《けんそう》は、はるか神域から遠のいていた。稲魂《クワン》≠ノ対する崇拝の念が、人々をして神殿から遠ざけているのである。
石畳を敷きつめた路《みち》は、ゆるやかな勾配《こうばい》をなし、丘を昇っていく。しだいに街はジャングルに没していき、やがては路の両側をぶ厚な緑の壁が完全に閉ざすようになった。たわわに実る様々な果実が、ジャングルに華やかな色どりを添えていた。
小鳥の啼声《なきごえ》だけが、喧《やかま》しくジローの耳に響いていた。
昏睡したランを乗せ、ゾウはなおも歩を進めていく。背後からつけてくるジローの存在など、ヤブ蚊ほどにも気にとめていないようだ。
一帯に、ある種の霊気とでも呼ぶべき雰囲気《ふんいき》がみなぎりつつあった。人をして、敬虔《けいけん》に眼を伏せさせ、祈りの言葉をつぶやかせるあの雰囲気だ。心なし、小鳥の啼声も遠のいてきたように思われた。
――ふいに、視界を巨大な神殿がそびえさえぎった。
石塔が林立し、全体として針の山のような印象を帯びた神殿だ。石塔には、四面にわたり神≠フ顔が浮彫りにされ、おどろおどろしい印象をかもしだしている。人間の背丈の二倍ほどもある神≠フ顔は、あるいはほほ笑み、あるいは怒りながら、一様に下界を睥睨《へいげい》しているのだ。
見る者をして、おのれの卑小さを意識させずにはおかない神殿だ。石塔は天をつき、ジャングルのはるか上空にそびえている。随所に設けられた石段は、それこそ雲に達するのではないかと思えるほどえんえんとつづき、仰ぐ者の胸にひとしく畏怖《いふ》感を与えるのだ。
この神殿がいつごろ建立《こんりゆう》されたものなのか定かではない。灼熱の陽光のなかに、ズシリッと座しているその威容に接していると、天地|開闢《かいびやく》以来の神殿ではないかと思えてくる。いずれにしても、その苔《こけ》むした石壁、一面にからまる蔓性《つるせい》植物を見るかぎり、かなり古い建物であることは間違いなかった。
つかのま、ジローは呆然と立ちつくしていた。神殿の度を越した巨大さが、ジローの意識を麻痺《まひ》させてしまったのである。
じっさい、自分が巨人の国にまぎれこんでしまったような錯覚をおぼえたほどだ。
ジローは、ややうかつに過ぎたようだ。ハッと我に帰ったときには、もうゾウは神殿のなかに入っていこうとしていたのだ。
ふたたび燃えあがったランに対する恋慕が、すべてを凌駕《りようが》した。神殿の巨大さはもちろん、聖域に足を踏み入れることに対する恐れさえ、ジローの意識の外に押し出されたのだ。
ジローはなかば反射的に、ゾウの後を追って駆け出そうとした。
その行く手をさえぎられなければ、かまわず聖域のなかまで駆け込んでいたかもしれない――フワリと、ほとんど鳥がおりたつような身軽さで、三つの人影がジローの前方に現われたのだ。
三人は、いずれも屈強な体つきをした若い男だった。戦士であることは、二人が手に長刀を、一人が槍《やり》をかまえていることからも明らかだった。
ただの戦士ではない。俗に三戦士≠ニ呼ばれている稲魂《クワン》≠フ従卒、神≠フ衛兵たちなのである。――三人は揃《そろ》って、頭部にスッポリと神像の面をかぶっている。眼をふさがれ、耳をふさがれ、内側に突出した棒によって、舌さえも自由に動かすことができなくなると伝えられている。
要するに、その面をかぶった瞬間から、三人の男たちは俗世界から隔絶された存在と化すのだ。いっさいの感覚を絶たれ、闇《やみ》のなかで神≠ニのみ交信をかわす戦士となってしまうのである。
ある意味では、彼らは生神《クマリ》≠ノひとしい存在ともいえる。三戦士≠ヘ、常に構成員を変えている。近隣の若者たちから特に宗教心の厚く、身体頑強《がんきよう》な者が選ばれ、一定期間を三戦士≠フ一人として暮らすことになっているからだ。若者たちが三戦士≠ノ選ばれることを名誉と考えているのも、生神《クマリ》≠フ場合と事情は同じだ。
神像面を被《かぶ》った瞬間から、若者の個性は拭《ぬぐ》われたように消える。勇敢で、ひたすら献身的な三戦士≠フ個性にとって代わられるのだ。
視覚、聴覚、言葉を奪われ、なお優れた戦士でいられることこそ、まさしく稲魂《クワン》≠フ奇跡というほかはなかった。
三戦士≠ニ対峙《たいじ》したまま、ジローはしばらくためらっていた。
ランに対する思慕の念はますますつのるばかりだったが、しかし三戦士≠ニ戦わずして先へ進むことは不可能だった。
ジローもまた、戦士の一人を自負している。たとえ相手が稲魂《クワン》≠ノ加護された三戦士≠ナあろうと、必要とあらば、戦うことを辞さないつもりだ。が、――それは、戦いの動機を誰《だれ》にはばかることなく、声を大にして言える場合に限られる。実のいとこに恋をし、しかもそのために聖域に足を踏み入れようとしているというのでは、あまりにこちらの動機が不純に過ぎるというものだ。
――俺《おれ》は負ける……と、ジローは思った。疑問をいだきながら戦えば、戦士は持てる力の半分も発揮できない。よしんば勝ったところで、一生を後悔に包まれて送ることになるだろう。
この場は、いったん引き返すほかはなかった。
ジローは踵《きびす》を返すと、悄然《しようぜん》と石畳の道を戻っていった。
――祭りは、さらに熱狂的な高まりに昇りつつあった。
いたるところで、男たちが竹笛《ポポロ》を吹き、二弦楽器《クツルン》をかきならし、踊り狂っている。路上に撒《ま》かれた沙羅双樹《さらそうじゆ》の葉が、たかく舞いあがる勢いだ。
その舞楽の伴奏をなすように、あらゆる家々からうすをつく音がきこえてくる。稲魂《クワン》≠喜ばすために、女たちがうすのモミをついているのだ。きねの上下につれ、うすが鳴りひびき、あたりを陽気な喧噪《けんそう》で包みこんでいるのだった。
子供たちの喚声が、祭りの狂騒にさらに輪をかけている。コマを回し、あるいは竹馬に乗り、子供たちは遊びに興じている。これらは、いずれも稲魂《クワン》≠喜ばすための神事とされていた。
マンドールの街は、漂い流れる白煙におぼろとなっている。甘やかな乳香、やや刺激的な没薬《もつやく》の煙が、人をいやがうえにも興奮状態に誘っていた。
その白煙のなかに舞うおびただしい数の原色の花弁が、思わずどきりっとするほど視界に鮮やかだった。
――ひとりジローだけが、その熱狂と興奮から隔絶されていた。いや、ある意味では、他の誰にもまさる熱狂に身を焦がしていたというべきかもしれない。おそらく、恋こそこの世にある情熱のなかでも、最も過激なものであるだろうからだ。
が、――この恋にかぎって、かならずしも心おどらせるものとはいえないようだった。いとこと情をかわすことは、禁忌のなかでも最《さい》たるものといえた。いとこを対象とするふらちな想像をしただけで、まちがいなく|死者の国《アウロ・マウロバ》≠ヨ堕《お》とされることになると信じているのだ。
ジローは胸のなかでなかばする歓喜と恐怖に、ほとんど喪心状態にちかかった。
鍛冶屋《カウ》の店先からも、うすをつく音がきこえていた。
叔父もまた、うすをついているのだ。鍛冶屋だけあって、さすがに細工が細かい。うすは土中に仕組まれ、その下の穴には腕木がとりつけられている。うすをつくと、この腕木が上下を繰り返し、長板を叩《たた》く仕掛けとなっている。要するに、よりリズミカルな響きを得られるわけだ。
「どうした……」
店に入っていくジローを見て、叔父が陽気に声をかけてきた。「まだ子供だな……祭りを見ると、飛び出していきおってからに……まだ、ろくに話もしとらんじゃないか。もう少し稲魂《クワン》≠ウまをお慰めしてから、裏の部屋へ行こう。おまえの父親の話をききたいからな」
「…………」
一瞬、ジローは事情を叔父にうち明けることをためらった。話せば、叔父を激怒させ、悲しませることになるのは、眼に見えていたからである。娘のランに惚《ほ》れたと言われるより、ジローが盗賊であるときかされたほうが、まだしも叔父にとっては衝撃が少ないはずだった。
しかし、いとこに想《おも》いを寄せたジローは、いわば汚《けが》れた身なのだ。汚れたジローを家に招き入れれば、叔父もまた汚れる道理だった。
そうならないためには、叔父にすべてを明かすしかなかった。
「俺は汚れた……」
ジローがボソリと言った。
叔父がきねを上下する手をとめた。いかにも不審げに、ジローの顔を見る。
「どういうことだ……」
やがて、低い声できいてきた。
「ランを一目見て、好きになった……」
「…………」
「ランが忘れられない……」
ジローはそこでいい淀《よど》み、やがて意を決したようにいった。「俺はランと寝たい」
「ランは儂《わし》の娘だぞ」
「わかっている」
「それがどういうことになるのか知っているのか」
「知っています」
「それでも、ランと寝たいというのか」
「…………」
ジローはうなずくしかなかった。
ふいに、叔父は何事か喚《わめ》くと、きねをたかく振りかざした。ジローの反射神経をもってすれば、叔父の一撃など難なくかわすことができたろう。だが、ジローはあえてきねをかわそうとはしなかった。
肩をしたたかに打たれ、転倒したジローの体を、叔父は容赦なく繰り返し打ちすえた。
叔父の喉《のど》からは、終始、獣めいた声が洩《も》れていた。怒声とも、泣き声ともつかぬ呻《うめ》き声だ。――それとは対照的に、肩を、背中を、腰を打たれながら、ジローは懸命に声を洩らさずに耐えていた。戦士たるもの絶対に泣き声を出してはならないという父親の教えが、骨の髄《ずい》まで染《し》みわたっているからである。
やがて、叔父の喘《あえ》ぎがふいごと化し、その体力が最後の一滴まで絞りつくされた。叔父は、きねを振りあげることさえできなくなったのである。
叔父は、カラリときねを地面に転がした。そして、いった。
「どうだ? 悪霊《ビー》は、尻《しり》の穴から退散していったか」
「…………」
声こそださなかったものの、激痛がジローの全身をしびれさせていた。肩などは皮膚が切れ、肉が裂けている始末だ。骨が折れていないのがまだしもといえた。
ジローは両腕で上半身を支え、やっとの思いで叔父の顔を見上げ、――そして、ゆっくりとかぶりを振った。
叔父の顔に、たんに落胆と呼んでしまうには、あまりに絶望があらわにすぎる色が浮かんだ。
叔父は何事かつぶやくと、ジローの視界から静かに消え、――次に現われたときには、手に一振りの長剣を握っていた。
「これは、儂が丹精《たんせい》をこめてきたえた剣《つるぎ》だ」
叔父の声には、悲しみが充《み》ちていた。
「鍛冶屋《カウ》のきたえた剣だから、気には入らないかもしれないが……おまえの親父が、おまえを立派な戦士に育てあげ、儂の前に連れてくることがあったら、そのときこれを渡してやろうと考えていた……」
「…………」
ジローはうなだれていた。息子のいない叔父にとって、ジローはほとんど子供にもひとしい存在だったはずだ。それだけに、叔父の失望の深さが、痛いほどにわかった。
「これを持って、とっとと出ていくがええ」
叔父の声がかろうじて抑制をたもち、くぐもったものになった。「出ていけ……」
ジローの眼前に、剣が音たかく投げだされた。その剣を握ると、ジローはふらつく足を踏みしめて、ようやく立ち上がった。
「出ていけ……」
叔父は繰り返した。努めて、ジローと視線をあわさないようにしている。
ジローは自分の剣を抜き、地に置くと、叔父から貰《もら》った剣を鞘《さや》に収めた。そして、一礼すると、叔父から立ち去ろうとした。
「待て……」
叔父が硬《かた》い声で呼びかけてきた。
振り返ったジローに、叔父はなおも顔をそむけたままいった。
「マンドールの西の外《はず》れに|振り子《カルナ》|=s〔註4〕》がある。|振り子《カルナ》≠ノこれからの進むべき路《みち》をゆだねるのもええじゃろう」
ジローはしばらく、叔父のこわばった横顔をみつめていた。叔父の善意が、ジローを案じる気持ちが、ひしひしと伝わってくるようだ。
だが、それでもなお、ジローは叔父と別れなければならないのだ。叔父と会うために、はるばると旅をつづけてきて、ほとんど話すらしないうちに、もう別れなければならないのだ……それが、いとこを愛した人間に下される、当然の罰なのである。
ジローはふたたび頭を下げると、今度こそ後も見ないで、鍛冶屋《カウ》の店を出ていった。
――マンドールを東に見下ろす小高い丘に、巨大なブランコがあった。
おそらく、高さは十メートルを越えるだろう。つたの繊維によってつくった綱が、幅広の腰板をぶら下げて揺れているのである。支柱は神木から造られ、一点の余白もなく、彩色|文様《もんよう》や彫刻で飾りたてられている。一方の支柱に祭壇が設《しつら》えられ、香炉の煙と共に、赤々と松明《たいまつ》が燃えさかっていた。
これが、|振り子《カルナ》≠ナある。
|振り子《カルナ》≠フ横木からは、巨大な旗がたれさがり、夜風にあおられて、パタパタと音をたてている。銀粉を撒《ま》き散らしたような星空を背景にして、まさしく|振り子《カルナ》≠ヘこの世ならざる世界へと通じる入り口のように見えた。
ジローは|振り子《カルナ》≠フ前に立ち、しばらく息を整えていた。十メートルの長さものブランコに乗り、しかも極限まで漕《こ》ぐには、体力よりもまず勇気を必要とされる。女子供はもちろん、並《なみ》の男にもおいそれとはできることではないのだ。
が、――ジローは断じて並の男ではない。栄《は》えある甲虫《かぶとむし》を守護神に持つ戦士なのである。
ジローは地の砂を両手にこすりつけると、その手でしっかりと綱を握り、腰板にゆっくりと坐った。
そして、大きく息を吸うと――地を力いっぱい蹴《け》った。
始めの数往復は、ほとんどつま先で地を掻《か》く程度のことでしかなかった。が、あるときをさかいに、往復運動にぐうーんと加速がつくようになった。いつしか、足は完全に地を離れ、腰を深く沈めるその要領だけで、すべてのバランスをたもたなければならなくなった。
ジローの耳をかすめる風切り音は、ほとんど嵐《あらし》の咆哮《ほうこう》を持つまでになった。視界をよぎって流れる星空が、マンドールの明かりが、しだいに渾然《こんぜん》となり、やがては一本の光の奔流と化した。
ブランコが一方の極に達したとき、ともすればジローの体は放り出されそうになった。綱を握る掌の皮が破れ、赤く血をしぶかせていた。その激痛に耐えきれなくなって、指の一本でも離そうものなら、ジローはまちがいなく地にたたきつけられることになるだろう。
全身の血が熱く沸騰し、耳孔にドラムの連打音を響かせていた。胃液が喉にこみあげてくる。
ふっと、意識が遠のく瞬間があった。全身いたるところ、叔父に殴打《おうだ》されたあとが、いまさらのように熱をはらみ、痛みはじめていた。
そして、ブランコが限界ギリギリまで押し上げられたそのとき――光の奔流が爆発し、視界を真紅《しんく》に染めあげた。
ジローは歓喜の叫び声をあげ、それでも満足できず、腰板のうえで足をバタつかす真似《まね》さえして見せた。
確かにジローは見たのだ。
めくるめく光の氾濫《はんらん》のなかで、全裸の男女が抱きあっている姿を……男のたくましい男根につらぬかれ、女が喜びに身を反《そ》らしているのを……
男はジローで、女はランに間違いなかった。
5
――今夜の宿≠ヘ、斗宿《いて》だった。黄道《こうどう》星座のいて座≠ェ、今夜の宿星となっているのだ。
斗、牛、女、虚、危、室、壁……など赤道帯を二十八に区分し、旅人に見たてられた月が、毎夜、それらの宿≠移り歩いていく――いわゆる黄道二十八宿は、中国で生まれたものと考えられがちだが、似たようなものはインドやアラビアにも存在したという。
黄道二十八宿の本来の意味は、見失われて久しくなるが、夜空を二十八に区分し、星座の移り変わりを暦《こよみ》の基底に据《す》えるというその方法だけは、この時代の人間に引き継がれている。
本来の意味が失われるのも当然といえばいえる。参星《オリオン》、昴《すばる》などの宿星に変わりはないものの、星座そのものは大きく変化しているのだ。総じて、夜空は明かるさを増したようである。
美しいと形容するだけでは、言葉が充分ではない。たぎった星が、空を白く燃えあがらせている印象なのだ。
神殿は黒々と、星空を割《さ》いている。たかく屹立《きつりつ》した神殿は、光の大洋を航海する巨船の三角帆のように見えた。
――今しも、その神殿に近づきつつある黒い影があった。
ジローである。
ジローは、つとめて石畳のうえを歩くのを避けているようだ。石畳の路《みち》に沿いながら、しかし用心深くジャングルの下生えのなかを這《は》うようにして進んでいるのだ。
ジローの顔に、もう迷いの色はなかった。|振り子《カルナ》≠ノよって啓示された男女の歓喜像が、ジローをしていっさいの迷いをふりきらせ、運命《さだめ》にしたがうことを決意させたのである。
ジローは、神殿に忍び込み、ランを拉致《らつち》しようと考えている。こうなれば、欲望のおもむくままに行動するしかないのだ。
夜のジャングルは、昼間とはまた異なった様相を見せている……コオロギ、アマガエル、ヒキガエルの一大合奏が、ジャングルを共鳴箱に変え、うち震わせている。ヤマネコが肉趾《にくし》のあつい足で、いたるところを徘徊《はいかい》し、不運な犠牲《ぎせい》者を探し求めている。そして、――あの蛍《ほたる》が、樹々《きぎ》の間を縫うようにして多く飛びかっているのだ。
夜のジャングルは、昼に倍して、生命体の動きが活発だといわねばならない。その高温多湿の大気とあいまって、ジャングルは滋養豊かなスープと似ているようだった。
ジローはじつにゆっくりと進んでいる。蛇《へび》の用心深さで、地を這《は》い進んでいるのだ。事実、だれか夜闇《やあん》に眼を凝《こ》らす者がいたとしても、ジローの姿をみさだめるのは不可能だったろう。
ひとたび失態を演じれば、あの三戦士≠ニ敵対することになるのだから、ジローとしても慎重にならざるを得ないのだ。
――ながい努力の後、ジローはようやく神殿の階段《きざはし》にとりつくことができた。
ジローの額《ひたい》には、ねっとりと脂汗《あぶらあせ》が浮かんでいた。暑さもさることながら、稲魂《クワン》≠フ神域を侵すことに対する恐怖が、ジローの発汗をうながし、犬のようにぶざまに喘《あえ》がせているのだ。
こうして真下に位置してみると、今更ながらに神殿の威容に感嘆を禁じえなかった。たんに、巨大というだけではない。そこには、他を圧し、見る者をひれふさせずにはおかない神気がみなぎっていた。マンドールの守護神稲魂《クワン》≠フ住居《すまい》には、まさしく絶好の場というべきだった。
階段は石塔をめぐり、あるいは宙廊へと連なって、神殿の印象をことさらに複雑なものとしていた。林立する石塔を、多方から昇る階段がとりかこみ、直立した迷路のようになっているのだ。石塔に浮き彫りにされた顔、石柱に彫られている文様が、なおさら印象を強くしているようだ。
文様は、多く模式化された稲が中心となっている。精緻《せいち》をきわめた文様が、石柱、そして石壁いたるところに彫られているのだった。
みわたすかぎり、四方に拡《ひろ》がっている文様は、その単純な繰り返しによってある種の呪術《じゆじゆつ》的な効果を狙《ねら》っているらしかった。たしかに、随所に設けられた松明《たいまつ》に、ちらちらと綾《あや》なされている文様は、見る者をなにか遠い気持ちに誘う効果があるようだった。
ジローは階段《きざはし》の下、闇《やみ》のなかでジッと身を潜めている。なかなか、階段に一歩を踏み出す決心がつかないのだ。充分に覚悟を定めたつもりでも、いざ稲魂《クワン》≠フ神殿に足を踏みこむ段になると、気持ちにひるみが出てきてしまう。
三戦士≠除けば、誰《だれ》かにみとがめられる心配はなかった。僧侶《そうりよ》はごく少数の者以外は、この神殿に足を踏み入れることを許されず、その少数者さえも夜にはマンドールの街へ戻るならわしだったからだ。
ジローはただただ稲魂《クワン》≠フ怒りを恐れて、神殿に踏み入るのをためらっていたのだ。世に勇敢な戦士は多いが、いまだかつて神≠ノ敵対した戦士はいない。
しかし、|振り子《カルナ》≠ェかいまみせてくれたあのイメージが、ついに稲魂《クワン》≠ノ対する恐怖にうち勝った。ランと一夜を共にできるなら、たとえ|死者の国《アウロ・マウロバ》≠ヨ逆落《さかお》としにされても悔いはなかった。
ジローは闇から身を起こし、階段《きざはし》に一歩をかけ、――そして、次の瞬間には三戦士≠ニ戦うことになったのだ。
闇のなかを迅《はし》ってきた白い光芒《こうぼう》を、ジローは上半身を反らして、からくもかわすことができた。胸筋を浅くえぐられただけで済んだのは、まことに幸運というべきだったろう。
ジローは階段から飛びすさり、つづく動作で剣を抜き放っていた。
その瞬間から、ジローの脳裡《のうり》にはいっさいの逡巡《しゆんじゆん》、怯《おび》えが消え失《う》せていた。戦士の本能が、ジローの動きをすべて律し、ただ戦うだけの存在にと変えたのである。
石柱の陰から、三戦士≠ェ揃《そろ》って飛び出してきた。
ジローの腕が力をはらみ、長剣に大きく半円をえがかせた。が、――痺《しび》れるような衝撃と共に、ジローの剣は弾《はじ》き返されていた。面を割るどころか逆にジローの腕がしびれていた。
それにしても、頭部を剣で殴打されれば、ひるんでしかるべきではないか。頭部を打たれても、まったくひるむことなく襲ってくるその闘志には、ジローも舌をまかざるを得なかった。
ほとんど肉体の激突にひとしい、がきっと咬《か》みあった二本の剣は、つかのま静止をたもったが、しかしやや相手の力の方がうち勝《まさ》ったようだ。
押される……と直感したとたんに、ジローは片足を相手の腹にかけ、後ろ様に倒れてみせた。相手の体は弧を描き、ジローの頭上を飛び越えていった。
ジローはついで体を二転、三転させ、充分な間合いをみはからった後に、足腰をバネに変え、跳《は》ね起きた。が――、ジローが想像していた以上に、三戦士≠フ動きは敏速で、果敢をきわめていた。
跳ね起きたジローの視界に、槍《やり》が放つ白い光芒が迫ってきた。業《わざ》も、なにもあったものではない。反射的に振り回した剣が、運よく槍を薙《な》ぎ払うことができただけだ。初めて剣を持った男のような、ぶざまな防御だった。
踊りの最初の一踏みにのぞむように、三戦士≠フ一人が大きく踏み込んできた。ジローの脛《すね》を傷つけ、戦闘不能にすることがその男の狙いだったようだ。ジローは剣を斜めに地に刺すようにして、その男の襲撃をかろうじて受けとめた。
その男は、速攻を得意としているらしかった。剣を咬みあわせたまま、大きく振り上げると、右に、左にめまぐるしく攻めかかってくる。速戦は、ジローもまた得意とするところだった。
しばらくは、風の唸《うな》り、鋼《はがね》の響きが闇を圧した。ここにいたって、ジローは本来の柔軟な身のこなしをとり戻したようだ。踏み込み、さらに踏み込み、そして飛びすさるという一連の動きが、あたかも舞い巧者のそれのように自在にくりかえされる。ジローはここでは明らかに優勢に立ち、相手の動きを観察者の眼で見ることさえできた。
が、――敵は一人ではない。さっき地に投げ出された男が、ようやく体勢を立て直し、横あいから襲ってきたのだ。ジローは腰を沈めることで、致命傷を負うのだけはまぬがれたものの、その凄《すさま》じいほどの剣風を完全にかわすことはできなかった。
肩を走った鋭い痛みに、ジローはほとんど倒れそうになったのである。
ジローの息が荒くなり、その胸が上下を繰り返した。ジローは自分に勝ち目のないことを、今、ようやくさとったのである。
相手が三人ということもさることながら、なによりジローの体調が悪すぎた。今夜、ジローは叔父から激しい折檻《せつかん》を受け、さらには|振り子《カルナ》≠ノよって、いちじるしく体力を削《そ》がれている。とうてい三戦士≠ニやりあえる状態ではないといえた。
加えて、――三戦士≠ェ戦いに際して、視覚、聴覚のいずれにも頼っていないということがある。ジローなどには想像もおよばぬ力が、三戦士≠して戦わせているのである。こんな敵が相手では、ジローが習い憶《おぼ》えたさまざまなテクニックは無力でしかなかった。
今、三戦士≠ヘ、ジローに対して一列に並んでいる。その頭部を覆う面は、一様に神≠フほほ笑みをたたえ、ジローの抵抗を哀れんでさえいるかのようにみえた。
ジローのなかに、かつて経験したことのないような恐怖が湧《わ》き起こってきた。自分の剣が無力だとさとったとき、おそらく戦士はこの世で最も弱い人間となりはてるにちがいない。
ジローは、じりっじりっと後ずさった。ジローの動きにつれ、三戦士≠スちも前進してくる。
三戦士≠フ動きには、いささかの乱れも生じていなかった。まさしく、神≠ノ導かれて動いているとしか思えなかった。
ジローの全身の筋肉が脈打ち、悲鳴となって喉《のど》からほとばしった。ジローは狂ったように剣を振り回し――ついで踵《きびす》を返すと、必死に三戦士≠ゥら逃げだした。
恐怖が、ジローのなかにアドレナリンをたぎらせていた。とても、賢明な走法とはいえない。ジャングルを走るジローの脚は、すぐさまもつれ、鈍さを増していった。
ふいに、脇《わき》から腕をつかまれ、引き戻されるのを感じた。反射的に振りほどこうとしたジローの腕を、その手はさらに強く、確実に握りしめた。
「俺《おれ》だよ……」
と、その男は言った。
「お友達のチャクラだよ」
――街の、汚い居酒屋だ。
ここまでは、祭りの喧噪も伝わってこない。祭りどころか、ここに集《つど》う男たちは生そのものに倦《う》んでいるようだ。
眼をつく獣脂《じゆうし》の煙が、黒く部屋に漂っている。臓物《ぞうもつ》の悪どい臭《にお》いと、饐《す》えたようなドブロクの臭い。ここに腰をおちつけ、かつ食欲を発揮するには、そうとうに頑強《がんきよう》な胃を必要とするようだ。
チャクラは、その数少ない一人にぞくしていた。彼は、器《うつわ》に盛られたイナゴを前に、旺盛《おうせい》な食欲を見せていた。すでに、牛の脛を一本たいらげているほどの健啖《けんたん》ぶりだ。
対するジローがはかばかしい食欲を示さないのは、必ずしも店が汚いからばかりではないようだ。ランに対する一眼惚《ひとめぼ》れからはじまり、三戦士≠ニの戦いに終わった長い一日が、ジローを心身ともにいたく消耗《しようもう》させているのである。
「なるほど……」
指の腹についた脂《あぶら》をなめながら、チャクラはいかにも分別ありげにうなずいて見せた。
「そいつは、どうも、とんだことになっちまったよな」
「…………」
ジローは力なくうなだれている。
チャクラの、他者から話を引き出す才能は、ここでも遺憾なく発揮されたようだ。気がついてみると、ジローは今日一日のことの推移をすべて打ち明けていた。本当なら、実のいとこを愛してしまったなど、口が裂けても話すべきことではないはずなのだが……もしかしたら、偶然とはいえ、二度までも劇的な出会い方をしたチャクラに、ある種の親近感をおぼえはじめているのかもしれなかった。
それに、なんといっても、チャクラはジローよりはるかに世故《せこ》にたけた中年男なのである。ジローの相談相手としては、格好な男というべきだったろう。
「それで、どうするつもりなんだ?」
チャクラは、誰はばかることのない大声できいてきた。「いとこのなんとかいう娘のことはあきらめるつもりなのかね……」
ジローは仰天して、周囲をみまわした。いとこを愛するような人間は、それこそ悪霊《ビー》の化身《けしん》あつかいされて当然なのだ。そんな話をだれかにききつけられたら、多勢によってたかってなぶり殺しにされかねなかった。
「大丈夫だよ……」
チャクラはニヤリと笑って見せた。「ここの連中に、そんなこと気にするようなお上品な奴《やつ》は居ないさ」
事実、客の何人かはチャクラの声を耳にしたはずなのだが、身じろぎひとつしようとしなかった。しごく平然とドブロクをあおり、イナゴをかじっているのだ。
ジローはようやく、ここがマンドールの悪党たちの巣窟《そうくつ》らしいことに気がついた。こんな店に顔のきくチャクラもまた、得体の知れない人物というべきだった。
「あきらめられそうにない……」
ジローは苦痛に顔を歪《ゆが》ませた。「たとえ、神≠フ怒りをかうことになっても、あきらめられそうにないよ」
「神≠フ怒りか……」
チャクラは、フッと苦笑を浮かべた。
「いとこと寝ることが、そんなに罪悪とは思えねえんだがなァ……なんでも、話をきくと、昔はいとこ同士が一緒になるなんて、ざらにあったそうだぜ」
「…………」
ジローは呆然《ぼうぜん》とした。これほど冒涜《ぼうとく》的な人間には、いまだかつてお眼にかかったことがないからだ。
「あんたが気に入ったよ」
チャクラは、口をあわせんばかりに顔を寄せてきた。「最初、会ったときから気に入ってたんだ……俺の守護神《〔註5〕》はビーバーだといったろう。ビーバーって奴は、すべてをぶち壊しにする名人なんだよな。だから、俺もこの世の中をぶち壊したくて仕方がない。神≠ノそむいて、いとこと寝たいというあんたは、さしずめ俺の仲間というところだな……先祖代々の狂人《バム》、この世が転がす車輪《チヤクラ》としては、あんたの力になる義務がありそうだな」
「救《たす》けてくれるというのか」
ジローの顔がぱっと明かるくなった。「教えてくれ……俺は、どうしたらいいんだろう」
「……そうさな」
チャクラは鼻梁《びりよう》を指でつまみ、遠くを見るような眼つきになった。「東の岩山に、ザルアーという名の女呪術師《じゆじゆつし》がいる。もしかして、その女だったら、いい知恵を与えてくれるかもしれないな」
――翌朝。
ジローとチャクラの姿は、東の岩山のなかに在った。
力瘤《ちからこぶ》を積み重ねたような、武骨な景観だ。つらなる巨岩が空をつき、緑といえば、かろうじて羊歯《しだ》の類が眼につくだけだ。全体に、憂うつな、くすんだような印象が強い――すべての装飾を省いた、むきだしの地殻《ちかく》がえんえんと拡がっているのである。
眼を楽しませるものの一つとしてない、ただ荒々しいばかりの眺《なが》めだった。
ジローとチャクラは、岩山に足を踏み込むとすぐに、猩猩《しようじよう》の群れに取り囲まれることになってしまった。
逃げだすのは不可能だった。気がついたときには、岩陰から飛び出してきた猩猩たちにギッシリと囲まれていたのである。
猩猩たちは、いずれも棍棒《こんぼう》と弓で武装していた。戦うことになれば、ジローたちに勝ち目がないのはもちろん、生きながらえるのもむつかしいにちがいなかった。
猩猩から発散する腐肉のような臭いが、むっとジローの鼻孔をついた。
剣を抜き払おうとするジローを、慌《あわ》ててチャクラが押しとどめた。
「待てよ……」
猩猩のすさまじい悪臭に、さしものチャクラも酢をなめたような顔になっている。「ザルアーは、猩猩を手足のようにあやつっていると聞いたことがある。おそらく、こいつらもその口だぜ……」
「猩猩をあやつる?」
ジローにはとても信じられないことだった。「そんなことができるのかい」
「できるから、呪術師なんじゃないのか」
チャクラはキョロキョロと周囲をみまわしていたが、やがて視線を遠くの一点に据《す》えると、ジローに顎《あご》をしゃくって示した。「見ろよ。ザルアーさまのお出ましだぜ」
「…………」
ジローは息を呑《の》んだ。
はるか頭上、舞台のように突出した平坦《へいたん》な岩棚《いわたな》に、異様な人物が立ちはだかり、ジローたちを見下ろしているのである。
女だということは、剥《む》き出しになった胸の、その豊かな乳房からも明らかだった。よく陽《ひ》に灼《や》けた褐色《かつしよく》の肌《はだ》と、スラリと伸びた形のいい脚から察するに、まだ若い娘のようだ。
その娘を異様な存在に見せているのは、頭からスッポリとかぶっている牡牛《おうし》の首のせいだった。牡牛の首と、そして肩にとまらせている巨大な鳥……
6
――ジローの五感は、大きく外界に開放されていた。
視覚、聴覚、嗅覚《きゆうかく》、触覚……すべてが感覚の大洋に漂い、なだれこんでくる刺激に陶酔しているようだった。
熱帯のジャングルのなす業《わざ》だ。
遠く岩山をへだてていても、ジャングルはその息吹《いぶき》を怖いほどに伝えてくる。ジャングルに一夜の褥《しとね》を求める者は、ひとしく自身の卑小さに思いをはせることになる。この世が光と、音と、香りに充ち充ちていることをあらためて思い知らされるのだ。そして、――いまさらのように、天地の広大さに胸をつかれることになるのである。
シダの褥に身を横たえながら、ジローは視線を夜空に向けていた。熱帯の夜に圧倒され、眠ることすらできなかった――白く輝く星空は、間近く迫ってくるような量感をともなっていた。猿《さる》、鳥、獣の啼声《なきごえ》がジャングルにさんざめいている。大気は、数十種のスパイスを煮こんだカリーのような匂《にお》い……
熱帯降雨林は、いわば豊饒《ほうじよう》な命の海をなしている。その海がとどろかせる潮騒《しおさい》に、ジローの若い心が感応し、うち震えるのも当然のことといえた。が、――ジローは昂揚《こうよう》しながらも、奇妙にしんとした精神状態にあった。
あまりに広大無辺な天地と対峙《たいじ》していることが、ジローからいちじるしく現実感覚を削《そ》いでいるようだ。冷えきった意識のなかで、すべてが取るに足りぬ、些事《さじ》となりはてたような気がした。
もちろん、一夜明ければ、たんなる錯覚に過ぎないことがわかるだろうが、今のジローには、ランの愛をかちとることさえも、さほど重要事とは思えなかった。当然のことながら、神殿に侵入する手段《てだて》を乞《こ》うべく、チャクラが女呪術師ザルアーに交渉しているその結果も、たいして気にはならなかった。ましてや、褥のちかくを多くの猩猩が徘徊《はいかい》していることなど、問題とするにも当たらなかったろう。
要するに、ジローはすべての欲望から隔絶された、無色透明な存在として、天地の間《あわい》に放り出されているにひとしかったのだ。
一種独特な酩酊《めいてい》感があった。視野をおおっている星空は、しだいにジローのなかに滲《にじ》んでいき、やがては一体となった。ジローは自分の体が箱舟のように、星空の大洋を漂い出すのを感じていた。
ジローの耳に、かつて父親からきかされた言葉が繰り返し反響《こだま》していた。
――おまえは、いずれ遠くまで旅することになるだろう……
父親はそういったのだ。
――はるか地の涯《はて》まで……ながいながい旅をするべき運命を負わされているのだ。だからこそ、甲虫《かぶとむし》の戦士なのだ……
どこへ?……幼かったジローは、そして今、星空のなかに在るジローは、同じ問いを口にのぼらせていた。ぼくは、どこへ行くんだろう……
――遠くにだよ……父親の言葉は、遠い記憶の淵《ふち》から吹きつけてくる風のようにきこえていた。とても、遠くだ……
「遠くに……」
星空の下に仰臥《ぎようが》しながら、ジローはボソリとそうつぶやいた。
ジロー自身にも説明のつかない涙が、つつっとその頬《ほお》をしたたった。
――同じころ、チャクラは女呪術師ザルアーと、岩室《いわむろ》のなかで対峙していた。
五メートル四方ほどの小さな岩室だ。
外界とは、腰をかがめなければ通れないような隧道《ずいどう》でつながっているに過ぎない。獣脂のにおいが、いっぱいにたちこめている。岩壁に露呈している雲母《キララ》が、燭架《しよくだい》の明かりを受けて、銀粉をまぶしたような輝きを放っていた。
チャクラとザルアーは、粗末な木机を間に挟《はさ》んでいる――木机の中央には、髑髏《どくろ》が置かれてあった。燭架の炎の揺らめきに、髑髏はうつろな眼窩《がんか》をきらめかせ、ときにニンマリと笑って見せたりした。
ザルアーはいまもなお、頭部にスッポリと牡牛の首をかぶっていた。その肩に梟《ふくろう》に似た巨大な鳥がとまっていることにも変わりがない。|〓《きよう》と呼ばれる鳥で、人語をよく解するといわれていた。
「困ったな……」
チャクラが、ボソリとつぶやくようにいった。「どうしても、神殿に入る方法を教えてはくれねえのか……」
「バカなことを……」
ザルアーはあきれているようだ。牡牛の首にへだてられ、その声は暗渠《あんきよ》を伝わってくるかのようにくぐもったものにきこえた。
「あんな子供になにができる? 現に、三戦士≠ノ追い帰され、ほうほうの態《てい》で逃げたというじゃないか」
「だからよ……」
チャクラは体を乗り出した。「だからこそ、あんたの力をかりたいと言ってるじゃないか」
「猩猩の群れに、二人|揃《そろ》って投げ込まれたいと言うのか」
「…………」
「それが厭《いや》なら、無理強《むりじ》いは止《よ》したほうがいいよ。今のうちなら、あたしもおまえの無礼には眼を閉じよう」
さしものチャクラにも、とりつくしまのないそっけなさだ。チャクラは大きく息を吐くと、グッタリと体を椅子《いす》にあずけた。しばらく値踏みするように、ザルアーの牡牛の首をみつめている。
「この前、男と寝たのはいつだ……」
やがて、ふてくされたように言い放った。
「…………」
今度、言葉を失ったのはザルアーの方だった。
「半年前か……」
チャクラはなおも言葉をつづけた。「一年前か、いや、それとも二年も前のことになるかね?」
「なんということを……」
憤然としたザルアーが席を立つより早く、チャクラが猿臂《えんぴ》をのばし、その乳房をわしづかみにした。ザルアーはハッと息を呑み、上半身をそらした。が、――なぜかチャクラの腕をはらいのけようとはしなかった。
二人の男女は、しばらくそのままの姿勢で体を凝固させていた。彫像のように、ピクとも身動きしないのだ。
「思ったとおりだ……」
チャクラの声は、なかばせせら笑いに似ていた。「あんたは感じないんだ。いや、男が怖いんだ」
「離して……」
ザルアーが、この驕慢《きようまん》な女には珍しく懇願するようにいった。
「いいや、離さねえ……」
チャクラは真面目《まじめ》な顔でかぶりを振った。「女呪術師なんかになるのは、よほどの性悪《しようわる》か、そうでなければ感じねえ女に決まっている……もし、あんたが感じないとしたら、俺たちのいわば同類だ。俺たちを救《たす》けてくれても、罰《ばち》は当たらねえはずだぜ……」
「同類……」
「そうさ……ジローはいとこと寝たがっている。俺は、狂人《バム》だ。そして、あんたは女じゃねえ……なあ、三人とも、稲魂《クワン》≠ゥら祝福されそうもない人間《〔註6〕》だ。いうならば、同類じゃねえか。だから……」
そのとたん、ザルアーの口から鋭い叫びがほとばしった。さすがのチャクラも驚いて体をのけぞらすほど、怒りをいっぱいにみなぎらせた叫びだった。
|〓《きよう》がばさりっとザルアーの肩から飛びたった。羽をひろげると、優にその体長は一メートルを越している。
「待ってくれっ」
チャクラがそう悲鳴をあげたときには、|〓《きよう》はまっすぐこちらに向かっていた。戦うことなど、できるはずがない。猛然と襲いかかってきた|〓《きよう》を、チャクラは後ろ様《ざま》に椅子から転げ落ちることで、かろうじてかわすことができたのである。
『キーッ』
|〓《きよう》の甲高《かんだか》い声が岩室《いわむろ》に反響した。その羽にあおられ、燭架《しよくだい》の炎が光と影を岩壁にあやなした。
|〓《きよう》はいったん高く舞い上がり、チャクラの頭めがけて急降下に入った。チャクラが、とっさに背中の鉄鍋《てつなべ》を、頭に移したのが幸いしたようだ。|〓《きよう》は弾《はじ》きかえされ、体を岩壁に叩《たた》きつけた。
「ジローは、あんたを女にすることができるぜ」
|〓《きよう》がみたび体勢を立て直そうとしているのを見て、なかば反射的にチャクラの口からそんな言葉がほとばしった。もちろん、まったくのでたらめに過ぎなかったろう。
が、――その言葉がザルアーに与えた反応は、驚くほどだった。ザルアーの口からシュッというような声が洩《も》れ、いましもチャクラに襲いかかろうとしていた|〓《きよう》を、ふたたびその肩に呼び戻したのである。
しばらくは、チャクラの声が、岩室に風のようにきこえていた。
「その話は本当か……」
ザルアーが鋭くきいた。
「は……」
チャクラは痴呆《ちほう》のような視線を向けた。
「あの少年が、あたしを女にすることができるというのは本当か」
「…………」
チャクラは、つかのま相手の言葉を理解できなかったようだ。苦しまぎれに叫んだ言葉など、もうきれいに念頭から消えているのにちがいなかった。
「どうなのか……」
ザルアーの口調は容赦なかった。「本当なのか」
「……あ、ああ」
チャクラの顔に、奇妙な表情が浮かんだ。「もちろん、本当だとも。あいつはそっちの方にかけては凄腕《すごうで》だからな」
「もし、それが本当だとしたら、神殿に忍び込む手段《てだて》を教えてやらないでもない」
「そうかね」
「ただし、それには条件がある」
「…………」
「神殿に忍び込む手段を授けるからには、稲魂《クワン》≠ノ勝てる男であることを、あたしに示さなければならない」
ザルアーの声は、りんとした響きを帯びていた。「それにもう一つ……もしあの少年があたしを女にすることができなかったら……そのときには、おまえも少年も猩猩《しようじよう》たちに八つ裂きにされると思え」
「八つ裂きにね……」
チャクラは、なんとも浮かない顔でつぶやいた。いまだに、その頭に鉄鍋をかぶったままだった。
――すさまじい臭気が、ジローの眠りをさまたげた。
反射的に跳ね起き、ジローは自分がグルリを猩猩たちにとり囲まれていることを知った。
猩猩の剛毛が黒い壁を成している。ジローを見下ろしている数対《すうつい》の眼が、ガラス玉のうつろさだった。ただ、その手に、あるいは尻《し》っ尾《ぽ》に握られている棍棒《こんぼう》だけが、彼らのジローに対する気持ちを示していた。
とっさには、ジローはどうしていいかわからなかった。剣を抜くことすらできないのだ。剣の柄《つか》に手をかければ、猩猩に頭を砕かれるに決まっているからだ。――うかつと言えば、これほどうかつな話はなかった。すでに陽は中天たかくさしかかり、大気をジリジリと焦がしているのだ。いかに昨夜、遅くまで寝そびれたからと言って、猩猩の群れのなかにあって、昼ちかくまで眠り呆《ほう》けたとあっては、なんとも弁解のしようがなかった。
が、――さしあたっては、猩猩たちにジローを傷つける意志はないようだ。猩猩たちは左右に路《みち》を開けると、棍棒をてんでに振り、歩きだすように命じたのだ。
ジローが、彼らの命にしたがったことは言うまでもない。
――険しい崖《がけ》を、ジローはほとんど猩猩たちに追いたてられるようにしながら這《は》い登った。ジローは敏捷《びんしよう》だが、岩登りに関してはとうてい猩猩たちの比ではない。中腹にさしかかった頃《ころ》には、すでに顎《あご》を出し、たくましい胸を大きく上下させていた。
熱帯の容赦ない陽光が、なおさらにジローの疲労を深いものにしているようだ。ここには、陽光をさえぎるべき草の一茎すらないのだ。ただ、苛酷《かこく》な陽光に背を灼《や》かれるにまかせるしかないのである。
ようやく岩山の頂上にたどり着いたとき、ジローはほとんど顔を上げることさえできなかった。両手を地につけ、犬のようにあえぐのが精いっぱいだったのだ。その肌は、一面に塩をふいていた。
「大丈夫か……」
頭のうえから、チャクラの声がきこえてきた。
「ああ……」
ジローはうなずき、ふらつく足を踏みしめて立ち上がった。どうにか、まわりの様子をたしかめるだけの余裕を取り戻したようだ。そして、――ジローは自分が実に奇妙な場所に立っていることに気がついたのだ。
いうならば、おわんの縁《ふち》のようなものだ。岩山の頂上はその中央が抉《えぐ》られ、かなり深く、大きな穴をつくっているのだ。穴の直径は五十メートルほど、深さ二十メートルほど……それに比して、縁部はほんの五メートルほどの幅を余しているだけなのだ。印象としては、火山の火口に似ている。
ジローのちょうど反対側正面に、太陽を背に受けて、ザルアーのシルエットがクッキリと立っていた。その左右には猩猩たちがズラリと並び、同じくジローを凝視しているようだった。
「何がはじまるんだ……」
ジローは呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「おまえに、神殿に忍び込むだけの資格があるかどうか試すんだとよ」
チャクラは首を縮めていた。「まずは、穴の底に降りなきゃならんらしいねえ。それから……」
「それから?」
珍しくチャクラが言い淀《よど》んだのが気になって、ジローは先をうながした。
チャクラは、意を決したようにきいてきた。
「おまえ、女と寝たことがあるか」
「…………」
一瞬、ジローはあっけにとられ、ついで憤然と首をふった。
「そうだろうな――」
チャクラもゲンナリと首をふった。
「そうじゃないかと、思っていたんだ……」
7
――ジローの視界のなかに一本のロープがのびていた。ロープは岩肌を咬《か》み、ときにキリキリときしみを洩らした。
ジローとしては、そのロープが自分の体を支えてくれることを願うばかりだった。いまにもロープがプツリと切れて、自分の体は穴の底に落ちていくのではないかという不安を、どうしても拭《ぬぐ》いさることができないでいるのだ。
じっさい、ロープをつたって、穴底へ降りていきながら、ジローは一瞬として心の休まるときがなかったのである。
視界の隅《すみ》に、つねにザルアー、あるいは猩猩たちの姿をとらえていたせいかもしれない。彼らが何をたくらんで、ジローに穴底へ降りるように命じたか見当もつかないのだ。
二十メートルは、すぐに降りることができた。予想に反して、足の裏に触れたのは岩床ではなく、山なす稲穂の束であった。
穴底には、一面にぶ厚く稲穂の束が敷きつめられているのである。よく事情が理解できないまま、ジローは穴底の中央に進み出て、上方を仰ぎ見た。
「右の上を見るがいい」
ザルアーの声が、穴底にこだました。
ジローは、ザルアーの命《めい》に従った。
岩肌に、小さな穴が開いていた。人がとびつくことのできる位置にあり、腰をかがめばなんとか入れないこともなさそうな大きさの穴だ。巨人の一つの眼のように、なにか不吉な印象を帯びていた。
「穴は幾つにも分れている」
ザルアーの声がさらに強く、むしろ神々《こうごう》しいとさえ呼べそうな響きをともなった。
「おまえが正しい道を選べば、おまえの願いはかなえられることができよう。しかし、誤った道を選べば、そのときおまえは獣のように息絶えて滅ぶことになるだろう」
「…………」
一瞬、ジローはザルアーの言葉の意味するところを理解できなかった。ただ、上方の雰囲気《ふんいき》が微妙に異なったものになったことだけは感じられた――ジローは数歩後退し、ザルアーが何をしようとしているのかみさだめようとした。
息がつまるような衝撃をおぼえた。ザルアーは、その手に燃えさかる松明《たいまつ》をかざしているのだ。ザルアーが、穴底の稲穂を焼きはらうつもりでいることは疑いようもなかった。
「チャクラ……」
ジローは絶叫した。
「がんばれよーっ」
チャクラの無責任な声がかえってきた。
「汝《なんじ》、よこしまなる神稲穂=sクワン〔註7〕》よ……」
ザルアーは松明をたかくかかげ、空に向かってりんとした声を放った。
「汝の子が業火《ごうか》に焼かれ、滅ぶさまをとくと見よ」
ザルアーは二、三歩後退し、松明を持つ手を大きくひいた。
凍りついたようなジローの視界に、松明の焔《ほのお》が赤く放物線をえがいた。
ジローがためらいをみせたのは、ほんの一瞬のことだった。松明が稲穂の束に落ちたときには、もうジローの指は穴の縁にかかっていたのである。
体を引き上げ、穴のなかに転がり込んだときには、すでに稲穂は赤い炎《ほむら》を燃えあがらせていた――熱帯の稲は、火口《ほくち》となんら変わりがない。瞬く間に、炎は燃えひろがり、穴を灼《や》けた鍋《なべ》にと変えていた。
ジローは、いわば煙にいぶされるタヌキも同然だった。渦《うず》を巻き、侵入してくる煙に追いたてられ、穴を先へ先へと進むしかないのである。
視界は、すでに白濁していた。煙は、思いがけないほど人から体力をうばう。なにより、思考の働きが極端な鈍さを帯びてきつつあった。
ジローは、いつしか煙のなかを犬のように這っていた。涙があとからあとから流れ、喉《のど》が火を呑《の》んだように熱かった。這い進みながら、ジローはなかば自分の死を覚悟していた。
穴が二道《ふたみち》に分かれていた。
煙は重くよどみ、触手のように二道《ふたみち》にのびていた。
見たかぎりでは、いずれの穴もそれほどのちがいはなかった。どちらを進むべきか、判断の目安がまったくない。ただ、無作為に選ぶしかないようだった。
ただ一つ有難いことに、穴はまったくの暗闇《くらやみ》というわけではなかった。洞壁《どうへき》一面に、燐光《りんこう》を発する苔《こけ》が付着しているからだ。が、――いかに穴が蒼白《あおじろ》い燐光にひたされていようと、それだけでは進むべき道を定めるどんな目安にもならない。
煙は、容赦なく穴に侵入してくる。ジローには、道に迷うだけの余裕さえも残されてはいないのだ。二つに一つ……思い決して、ジローが一方の穴に首をつっこんだそのとき――漂う煙のなかを白く光るものがすいっとよぎった。
蛍《ほたる》のように見えた。
「…………」
ジローの喉から、声にならない歓喜の叫びがほとばしった。
すぐ眼下を、甲虫《かぶとむし》が這《は》っていくのだ。ジローの守護神たる甲虫が……ジローは身をひるがえして、甲虫の赴《ゆ》く方向へと頭を突っ込んでいった。
――燭架《しよくだい》の焔に、岩室《いわむろ》は明々と照らし出されている。
鼻孔をつく、なにかいがらっぽいような臭《にお》いが漂っている。奇妙に、酩酊《めいてい》感を誘われるような臭いだ。
寝台のうえに、腰に衣《きぬ》を巻いているだけの若い女が横たわっていた。みごとに成熟した、いかにも挑発《ちようはつ》的な裸体だ。よく陽に灼けた肌が、若鹿《わかしか》のように引き締まっていた。
容貌《ようぼう》も、体に劣らぬ魅力をそなえていた。野性的という形容が最もふさわしいようだ。そのきらきらとした輝きを放つ眼、肉感的でかつ強い意志力を示している唇《くちびる》、ややおとがいの尖《とが》った顔の輪郭……どことなく、山猫《やまねこ》を連想させるような娘だった。
寝台のかたわらにある木机には、牡牛《おうし》の首が置かれてあった。異臭は、その脇《わき》にある香炉から漂い流れてくるようだ。
女は、――仮面を脱いだザルアーだった。
ザルアーは香炉から漂うハッシイシの煙に陶然としながら、岩室《いわむろ》の天井をボンヤリとした眼で見ていた。女|呪術師《じゆじゆつし》が自分に許した、唯一の贅沢《ぜいたく》といえた。
香炉から漂う煙は、天井にゆらめく影を遊弋《ゆうよく》させていた。影はときに凝集し、ときには際限もなく拡散した。
ザルアーがふっと眉《まゆ》をひそめた。
一瞬、影が意味あるものの形をとったように見えたのだ。もちろん、錯覚に過ぎなかったろう。影は、影でしかないはずだからだ。だが……
ザルアーの眼がはっきりと見開かれた。今、影ははっきりと、あの少年……ジローの顔を隈取《くまど》ったのだ。ジローの顔が漂い消えると、ついで三人の男女の人影がゆらゆらと生じた。三人は、肩を並べて、歩きつづけているようだ。単調に、しかし着実に歩きつづけているのだ。
「どこへ……」
ザルアーの口から、知らず知らず言葉がつぶやき洩《も》れた。どこへ、行こうというのか。あたしたち三人でどこへ……天井の岩盤に歩を進めているのは、たしかにジロー、チャクラ、ザルアーの三人なのである。
みたび影が流れ、そこにさらに新しいイメージが浮かび上がった。
今度こそ、ザルアーは驚きの声を発した。
今、煙は天井に、甲虫《かぶとむし》をえがきだしているのである。
ザルアーの脳裡《のうり》に、なかば反射的にバノ族の歌がよみがえった。――甲虫! 甲虫! 甲虫が僕《しもべ》を連れて夜を逝《ゆ》く。俺のあの娘《こ》が、宝石ほしいと、泣きやがるもんだから……
――あの子が、伝説の宝石泥棒なんてことがありうるはずがない。昔、すべての民族が共通して持っていた宝石……生きとし生けるものすべての運命をつかさどるあの宝石――何者かに奪われた宝石を取り返すべく、伝説のなかからよみがえった甲虫の戦士、宝石泥棒なんかであるはずがない……しかし……
――しかし、もしあの子が宝石泥棒だとしたら、そしてあたしたちが旅に同行するとしたら……あたしがこの世界を征服することさえ夢ではないのだ。
ふいに、岩を裸足《はだし》で踏むピタッピタッというような音がきこえてきた。
あわてて寝台に身を起こしたザルアーの眼が、おりしも岩室《いわむろ》に顔をつきだしたジローの顔をとらえた。
数瞬、ザルアーとジローは互いに視線を見交《みかわ》していた。驚きから回復するのは、やはりザルアーの方が早かったようだ。
「どうやって……」
ザルアーがなかばつぶやくようにいった。「どうやって、あの隧道《ずいどう》を抜け出すことができた?」
「甲虫さ……」
少年はこともなげにいった。「俺《おれ》は甲虫に案内されて、ここまでたどり着いたのさ……」
「甲虫……」
ザルアーはしばらくジローをみつめていたが、やがてゆっくりと寝台のうえに仰臥《ぎようが》した。そして、眼を閉じる。「さあ、次の条件だよ……」
女の乳房が優しく上下していた。
「あたしを本当に満足させることができるかどうか、試してみようじゃないか」
ジローはとまどい、いささか怯《おび》えているように見えた。
ザルアーの口にフッと微笑が浮かんだ。少年が女を喜ばすことにたけているというチャクラの言葉は、明らかにその場しのぎの偽りでしかなかったようだ。それどころか、少年が女と褥《しとね》を共にするのは、これが最初にちがいない。
が、――ザルアーの胸には、不思議なほどだまされたことに対する怒りは湧《わ》いてこなかった。むしろ、ほほえましい気分にさえなっていた。荒ぶれる女呪術師には、ありうべからざることだ。もしかしら、チャクラの言葉が、結局は真実になることをなかば予感していたのかもしれない。
「いらっしゃい……」
ザルアーは、ジローに向かって腕をさしのべている。自分でもおかしくなるぐらい、優しい気持ちになっていた。
ジローは一歩を踏み出しかけ、急に顔を赤らめ、その足をとめた。どうしたらいいのかわからないのだ。この場は、ザルアーが積極的に動くしかないようだ。
ザルアーは寝台を降り、ジローの正面に立った。
ジローは、ザルアーの顔を直視することさえできないでいる。ドギマギと視線を岩室にさまよわせ、あらぬ方をみつめているのだ。
ザルアーはジローの背に両腕を回し、ソッとその体を引き寄せた。ジローはちょっとためらったのちに、腕を回してきた。その腕が震えているのが、またしてもザルアーの微笑を誘う。
ザルアーは頭をおとし、その唇をジローのたくましい胸に寄せた。ゆっくりと唇を移動しながら、右手をジローの腰衣に入れ、それをつかんだ。ジローの鼓動が激しさを増し、ザルアーの耳に遠雷のように響いていた。
ザルアーの手のなかで、ジローの男がしだいに育ちつつあった。ジローの息づかいが荒く、甘やかなものになっていく。
ザルアーのなかには奇妙に醒《さ》めた、少年を翻弄《ほんろう》するのを楽しむ意識があった。自分は決して情事に溺《おぼ》れることはないという矜持《きようじ》に似たものが働いていたようだ。長い冷感症の記憶から生じた倒錯的な誇りだった。が、――ジローがふいに、ザルアーの乳房をつかんだときから立場が逆転した。
とつぜん、少年が荒々しい獣に変身したような驚きがあった。驚きは、すぐさまつき上げてくるような快感に変わった。ザルアーにはかつてなかった快感だ。中枢部に、焔《ほのお》が燃えあがる感覚があった。
「…………」
ザルアーの喉から、言葉にならない声が洩れた。それは、自分が初めて女としてこの世に迎え入れられたことを知った喜悦の声だった。
少年に寝台に押し倒され、その猛《たけ》ったものに体をつらぬかれたとき、ザルアーの声は泣き声に変わった。少年が一突きする度《たび》ごとに、ザルアーは確実に高みに昇りつめていった。快楽は、烈《はげ》しい浮揚感をともなっていた。
そのとき、ザルアーは熱い湯をほとばしらせ、絶頂の叫び声をあげながら、赤く染まった視界に甲虫《かぶとむし》の幻影を見たような気がした。
あの伝説の甲虫を……
――燭架の炎が音をたてて燃えている。
岩壁に揺らめく若い男女の影が、なにか闇《やみ》に息づく別種の優しい生き物のように映っている。
ジローとザルアーは、並んで寝台に仰臥していた。その全裸の姿形は、ともに薄く血がさし、ピンクに上気していた。
「あんた、どうしてもそのランという小娘に会いたいの」
ザルアーがささやきかけた。女呪術師には似つかわしくない、なにか拗《す》ねたような声だった。
「ああ……」
ジローはうなずいた。その眼は、放心したように虚空《こくう》の一点に向けられている。
「無謀だわ」
ザルアーの声に、わずかに感情の起伏が生じた。「禁忌を破ることになるのよ。稲魂《クワン》≠フ怒りをかってしまうわ」
「…………」
それには、ジローは何も応じようとはしなかった。その横顔はかたくなで、他者の干渉をキッパリと拒絶していた。一度、地獄に墜《お》ちることを決意した人間に、いまさらどんな説得も功を奏するはずがなかった。
「…………」
ザルアーはため息をついた。喜びを経験したことが、彼女を急速に女らしく変えつつあるようだった。
「稲魂≠フ怒りをかえば、この|黄金の半島《レエーム・トング》≠ノは住めなくなるわ」
ザルアーはなおあきらめきれないようにいった。やおろず≠フ虫にいたるまで、すべてが稲魂《クワン》≠フ支配《〔註8〕》を受けているのよ」
「ここを出ていくさ」
「ここを出て、どこへ行くの」
「どこか遠くへ……」
百万言を連ねてみても同じことだ。ジローの決心をかえることはできない。――ジローは煙のたちこめる風洞《ふうどう》を脱出し、ザルアーを女にすることに成功した。どうやら、神殿に忍び込むすべを教えるという約束を守るしかないようだ。
「わかったわ」
ザルアーはなげやりな口調になっていた。「そんなに不幸になりたいのなら、おなりなさい」
「神殿に忍び込む方法を教えてくれるというんだな」
片肱《かたひじ》をついて上半身を起こそうとするジローを、ザルアーが柔らかく圧《お》さえた。
「|〓〓《ちゆつてき》にお訊《き》きなさい」
「|〓〓《ちゆつてき》に……」
きき返そうとするジローの唇を、ザルアーの唇がふさいだ。すぐさまたくましさを増していくジローの男に、ザルアーが優しく指を添える。
ふたたび、岩室のなかに甘やかなにおいが漂い始めていた。
――テーブルのうえにとまり、まどろんでいた|〓《きよう》がふいに頭をあげた。
しばらく、寝台のうえでもつれている若い男女の姿をみつめていたが、やがていかにも腑《ふ》に落ちないといった感じで、両翼を大きく拡《ひろ》げた。
静かな、ほとんど滑空に似た飛行だ。男女の頭上をよぎると、そのまま横穴の一つに入っていく。と――バサリッと、|〓《きよう》の体を抱え込んだ腕があった。
「騒ぐなよな」
その男、――チャクラが言った。「おたがいに、無粋《ぶすい》な真似《まね》はさしひかえようじゃないか」
「…………」
|〓《きよう》はつかのまけげんな面持ちで、チャクラの顔を見上げていたが、すぐに納得《なつとく》したように腕のなかにおさまった。
「いい子だ……」
チャクラはなおもささやきかける。「なあ……実際、俺は心配していたんだぜ。あの坊やがおまえのご主人を満足さすことができなかったら……ブルブル、俺は猩猩《しようじよう》に八つ裂きにされるんだものな」
岩室から、ザルアーの喘《あえ》ぎ、あえかなすすり泣きの声が洩れてきた。チャクラは一瞬、間《ま》の悪そうな顔になった。
「退散するとしようぜ」
チャクラは意味ありげにうなずいた。「まったく、近頃の若い奴ときたら……俺なんか及びもつかない凄腕《すごうで》だぜ」
|〓《きよう》も、チャクラの言に賛意を表しているようだった。この狷介《けんかい》な鳥が、チャクラの腕に収まって身じろぎ一つしないのだ。
チャクラは足音をしのばせ、横穴から岩山へ出た。
岩山が、星空を背景にして、重なるようになって屹立《きつりつ》している。
今夜の宿《しゆく》≠ヘ牛だ。かつて、やぎ座の一部とされていた宿星である。
が、――今夜の星空は、いつもといちじるしく様相を異《こと》にしていた。銀の輝きを放つ河のように、星空が崩れ、流れていく風《ふう》に見えたのだ。一瞬、自分の眼がおかしくなったのではないか、と疑いたくなるような眺めだった。
チャクラの顔に驚きの色が浮かんだのは、ほんのつかの間のことであった。流れる星と見えたのは、群れをなして空をよぎっていくおびただしい数の蛍《ほたる》だったのだ。
今、チャクラの顔には驚きではなく、不審げな色が浮かんでいた。生まれながらの旅人であるチャクラにしても、これほどおびただしい数の蛍を目にしたことはない。異常な現象という他はなかった。
下界にもまた、なにかしらの異変が生じているようだった。猩猩たちの騒ぐ声が、風に乗ってしきりに聞こえてくるのだ。いつもの空騒ぎではない。はっきりと異変を感じさせる、凶兆を孕《はら》んだ狂騒だった。
チャクラの腕のなかで、|〓《きよう》が羽をひろげようとした。チャクラはあわててその羽を押さえ込むと、歌でもうたうような調子でいった。
「おいおい、この騒ぎはどうしたことだ。まさか、やおろず≠ェジローたちに嫉妬《しつと》しているんじゃあるまいな」
その軽薄な口調とはうらはらに、チャクラの眼には不安げな光が充溢《じゆういつ》していた。
8
――うす暗いジャングルに、絞殺者《ルアナムテイ》≠ェいたるところにその枝をさしのばしていた。
絞殺者《ルアナムテイ》≠ノたわわに実る果実が、強烈なにおいをみなぎらせていた。
本来、絞殺者≠ヘ蔓性《つるせい》植物の|〓澄茄《ヴイダーンガ》から派生したものだ。かつて、そして現在《いま》も、ブラック・ペッパーのまぜ物として使われている植物だ。それが、いつしかイチジクの一種たる着生植物とかけあい、絞殺者≠ニ呼ばれる品種と化したのだ。
最初、絞殺者&cは、樹木の裂け目に根づき、同時にもう一つの根を地にのばしていく。もう一つの根は地に達するまで伸び、さらには土を砕き、ミネラルを含んだ水を本体に送る役を果たす。この水は、絞殺者≠フ茎葉をひろげ、おびただしい数の根を地上に降ろすのに貢献することになる。そして、ついには、宿主たる樹木を締めつけ、その養分を吸いつくし、日光を奪って殺してしまうのだ。
この植物が、絞殺者≠ニ呼ばれる所以《ゆえん》である。
が、――この植物は、たんに宿主を殺してしまうことだけから、絞殺者≠ニ呼ばれているのではない。彼の犠牲《ぎせい》者は、広く動物にまで及ぶのだ。
その果実が、いわば凶器の役を果たしているといえた。たしかに、その遠い父祖である|〓澄茄《ヴイダーンガ》は、香料としてよく知られている。だが、絞殺者≠フ放つ強烈な蠱惑《こわく》をひめた香りには、はるか及ばない。一度、その香りに魅せられ、果実を口にした動物は、絞殺者≠ゥら離れられなくなってしまうのだ。痩《や》せさらばえ、ついには栄養失調で倒れるまで、絞殺者≠フ果実を食べつづけるのである。
その急激な中毒症状たるや、他に類を見ない。もちろん、犠牲者が絞殺者≠肥え太らせることになるのは言うまでもない。
みわたすかぎり、絞殺者≠ェひろがっている。その複雑にからみあい、もつれあった根は、奇形のクモの巣を連想させる。樹木はことごとく立ち枯れて、おびただしい数の屍《かばね》が放つ腐臭が一帯にたちこめている。まさしく絞殺者≠フ群れという他はなかった。
その絞殺者≠フ森を、かきわけるようにして駆けていく人影があった。
ジローである。
さしもの戦士も、絞殺者≠ェ放つ香りと死臭がないまぜになった大気に、耐え難さをおぼえているようだ。その顔が蒼白《そうはく》と化していた。
ジローはとある絞殺者≠フ前で、足をとめた。しばらく、大樹にからみついている絞殺者≠推し測る眼つきで見上げている。そして、――もっとも太い根に、思い決したように手をかけた。
さすがに、ジローの登攀《とうはん》能力には見るべきものがあった。絞殺者≠フ根がブランコのように揺れるのをものともせず、非常な早さで登っていく。数秒後には、もうジローは宿主たる大樹の枝に達していた。
養分を絞殺者≠ノことごとく吸いつくされ、骨のようになっている枝は、身軽なジローにしてもはなはだ歩きづらかった。一歩一歩に、それこそ全神経を集中する必要があった。ジローは拡げた両腕で、かろうじてバランスをたもちながら、ゆっくりと枝のうえを進み始めた。
ジローの眼は、数メートル先の絞殺者≠フ実だけをとらえていた。へたに視線を転じれば、下界までの距離、あるいはクモの巣のように錯綜《さくそう》した絞殺者≠フ根に、目眩《めまい》を起こさないとも限らなかった。足をすべらしたら、いかに勇敢な戦士でも無事に済むはずがなかった。
ジローの視野に、枝は延々とつづく白い路《みち》のように見えた。足元がおぼつかなく、枝は粘土を踏むように頼りない感触だった。さほどの暑さでもないのに、ジローの額《ひたい》には細《こまか》い汗がいっぱいに噴き出ていた。
ふいに、ジローが歩くのをやめた。なにか物理的な力で圧《お》し返されたように、ひどく唐突《とうとつ》に足をとめたのだ。目的の絞殺者≠フ実まで、あと数メートルという地点だった。
絞殺者≠ェびっしりとからみつく樹《き》の陰に動くものが見えたのだ。
ジローは、さすがに鋭敏な注意力をそなえているといえた。戦士たる訓練を受けていない者には、とうていそいつを見つけることはできなかったろう。それほど、そいつは巧妙に、ほとんど影そのもののようにヒッソリと、身を潜めていたのである。
ジローの鼻孔を、そいつの体臭が鋭くついた。ジローの足を縮ませ、筋肉をこわばらせるにおいだ。そいつは、――ジャガーだったのである。
ジローの視覚は、いまだジャガーの姿を明確にとらえてはいなかった。そいつは、猫科《ねこか》特有の狡猾《こうかつ》さで、獲物《えもの》が接近してくるのを悠然《ゆうぜん》と待ちかまえているにちがいなかった。
それがわかっていて、ジローは剣を抜くことはおろか、退《しりぞ》くことすらできなかった。多少なりとも、これまでとちがった動きを示せば、ジャガーが猛然と襲いかかってくるのは明らかだったからである。ジャガーは用心深いが、決して臆病《おくびよう》な動物ではない。みすみす獲物をとり逃がすような失敗をおかすはずがなかった。
まさしく、進退きわまったと形容するしかない。
ジローは急速にふくれあがってくる恐怖に、必死に耐えながら、ただ立ちつくしているほかはなかった。この場合、相手の姿をはっきりと見定めることができないのが、なおさら恐怖を大きなものにしているようだった。
甲虫の戦士といえども、姿を見せず、しかもほんの一瞬で死をもたらす敵を相手にしては、戦うすべもなかったのである。事実、ジャガーは|髑髏の猟犬《カーマン》≠キら蹴《け》ちらすことができるといわれていた。
気が遠くなりそうだった。ジャガーはその前肢《まえあし》の一振りで、容易にジローの頭蓋《ずがい》を砕き割ることができる。ジローは今、自分の死をなかば確信していた。
が、――ジローの耳にきこえてきた音が、恐怖がもたらした麻痺《まひ》状態から、彼をよみがえらせたのだ。
最初、ジローは自分の耳が信じられない思いがした。ジャガーはこともあろうに、ゴロゴロと喉《のど》を鳴らしているのだ。断じて、殺戮《さつりく》をひかえた猛獣の発すべき声ではなかった。
恐怖から生じた反動が、ジローにつねには考えられぬ勇気を与えた。ジローはつかのまためらった後、枝に足を踏み出したのだ。
さすがに、木の陰をのぞき込むときには、足が萎《な》えるような恐怖をおぼえた。頭をつきだしたとたんに、顔の肉を抉《えぐ》られないとも限らなかったからだ。
意外な眺《なが》めだった。
ジャガーは反対側の枝に寝そべり、愛《いと》しくてたまらないというように、その頭をしきりに樹皮にこすりつけているのだ。眼をうっとりと閉じ、口からはよだれを垂らしているだらしなさだ。およそ、肉食獣の精悍《せいかん》さに欠けていた。
ジローに襲いかかろうという気配などまったく見られない。その存在を意識しているかどうかさえ疑問だった。
明らかに、ジャガーは絞殺者≠ェもたらした陶酔状態のなかに在った。絞殺者≠フ実以外は、口に入れることすら思いつかないのだ。絞殺者≠ノ酔いつづけ、体力の最後の一滴まで失い、いつかはその餌食《えじき》となる運命だ。
ジローの背筋を悪寒《おかん》が走った。ある意味では、ジャガーと遭遇《そうぐう》したことを知ったときに数倍する恐怖だった。
ジローは可能な限り、ジャガーの存在を意識の隅《すみ》に追いやろうとした。脇目《わきめ》もふらず、ひたすら絞殺者《ルアナムテイ》≠フ実をとることに専念しようとした。
じっさいには、手をふれることさえおぞましいような気持ちだったのだが……
――熱帯降雨林には、珍しい空地だ。
黒い岩床がむきだしになり、樹木はおろか、草の一本すら生えていない。洪水《こうずい》に、ジャングルがねこそぎにされたような印象があった。
さほど広い空地ではない。五十メートル直径ほどの土地だ。周囲を緑の壁にとりかこまれ、そこだけポツンと空地になっているのだ。孤島と、印象が共通していた。
おりから昇りはじめた太陽に、地がジリジリと灼《や》かれていた。その一点だけでも、常に暗く、湿り気を帯びたジャングルのなかに在って、特異な地といえた。
だからだろうか。
空地の中央に、神≠象徴する高さ三メートルほどの石塔が設けられていた。素朴《そぼく》な、セックス礼讃《らいさん》から造られた石塔だ。真ん中の石は男根《リンガ》を、その周囲の縁取りは女陰《ヨニ》をそれぞれ象徴しているようだった。前部に掘られた石窪《いしくぼ》に、山羊《やぎ》の乳が入っているのがいかにも意味ありげだった。
その石塔のかたわらに、チャクラが腰をおろしていた。チャクラは枯れ枝を集め、焚火《たきび》に専念していた。手にしている枝で、時おり焚火をつつき、火種を絶やさないように努めているのだ。
背後から、ジャングルの苔地《こけち》を踏む湿った音がきこえてきた。
ジローが姿を現わしたのだ。その手に、絞殺者≠フ実を持っていた。
「遅かったじゃないか」
チャクラが腰をのばし、いとも陽気な声で言った。「絞殺者《ルアナムテイ》≠ノつかまったんじゃないかと心配していたんだぜ」
いつもながらのチャクラの軽口だが、今度ばかりはジローも楽しむことはできなかった。ジャガーすら餌食にする絞殺者≠フ恐ろしさは、想い出しても身の毛がよだたんばかりだった。
「すぐに始めよう」
心なしか、ジローの声にも生彩が感じられなかった。
「いいとも」チャクラはうなずいた。
「準備はできてるぜ」
二人は、さっそく儀式の準備にとりかかった。といっても、それほど準備を必要とするわけではない。ジローは長い、幅三十センチほどの真紅《しんく》の布を手に取り、チャクラは銅鼓《どうこ》と簫《しよう》の笛を抱え込んだだけだ。銅鼓は、革紐《かわひも》で首から下げるようになっていた。
ジローが、火中に絞殺者≠フ実を投げ入れた。待つほどもなく絞殺者≠フ実はその一種独特なにおいを漂わせはじめた――ジローが数歩進み出て、胸を反《そ》らし、体を直立させた。舞踏の前の静止である。
「ホホホ、ハハハ、ハホヤ、ハホヤ……」
思いがけなく見事な喉で、チャクラが歌いはじめた。しかも、片手で銅鼓を叩《たた》きながら、もう一方の手で簫を操り、たかく笛の音《ね》を鳴らす奮闘ぶりだ。
俺は盗人《ぬすつと》です
人殺しです
欲張りです
好色です
怠《なま》け者です
ホホホ、ハハハハ、アア
豚も啖《くら》いました
チャクラの歌と演奏にあわせて、ジローが激しく踊りはじめた。とても優雅とは呼べそうにない踊りだ。ただ、可能な限り、激しく体を動かすことを目的にしているのは明らかだった。体を極限まで反らし、つづく動きで両膝《りようひざ》をバネのように跳《は》ね上げる。飛び、そして身を投げて地に伏せる。手にしていた赤い布が、二枚の翅《はね》のように宙にうねった。
俺は醜いです
親不孝です
役立たずです
ノロマです
なにも知りません
ホホホ、ハハハハ、アア
犬も啖いました。
ジローの踊りは、しだいに狂騒の度をたかめていった。絞殺者≠フ放つにおいが、ジローの酩酊《めいてい》感を深め、ある種のエクスタシーに導いているようだ。舞踏病の奇態な動きに共通するものがあった。
常軌を逸していることでは、チャクラも同じだった。二種の楽器を操り、なお喉が張り裂けんばかりの声で歌っているのだ。
あなたは虹《にじ》です
降る雨です
怒る雷です
飛ぶ雲です
歌う風です
ホホホ、ハハハハ、アア
俺の知らない魂です
なにかしら、ジャングルに巨大な存在《もの》が迫りつつある気配があった。やおろず≠フすべてを圧して、その存在は非常な速さでこちらに近づいてくるようだ。チャクラの歌声を残し、猿《さる》や鳥の啼声《なきごえ》がしだいにきこえなくなっていく。
木々の葉ずれの音、枝の折れる音、そして――ついに|〓〓《ちゆつてき》がその姿をジャングルから現わした。
――空中に、陽光がキラキラと反射して弾《はじ》けた。四枚の、薄く巨大な翅《はね》が、七彩の光をあやなしているのだ。
その翅のきらめきに比して、頭部は獰猛《どうもう》といえるほどにたくましい。巨大な一対《つい》の複眼、そして下唇《かしん》、さらによく発達した翅胸《しきよう》がともなって、なにか鉄仮面をかぶっているような印象だった。
それに加えて、細い頸部《けいぶ》、肢《し》、十節から成る腹部……そう、|〓〓《ちゆつてき》は、三メートルもの長さに及ぶ大トンボなのである。
いや、正確にはトンボと断定することはできないかもしれない。かつて石炭紀の大森林には、たしかに体長一メートルに達する大トンボが生息してはいたが、この|〓〓《ちゆつてき》のような知力をそなえていたとは考えられないからだ。その獰猛な、むしろ醜い顔にもかかわらず、|〓〓《ちゆつてき》ははっきりと知性のきらめきを示していた。人間のそれとは異なる、まったく別の知性ではあるようだったが……
|〓〓《ちゆつてき》は、その優雅な肢体を空中に停止させていた。ジローたちと数メートルを隔てて対峙しながら、明らかに彼らの舞踊を楽しんでいる。まさしく、臣下の供応を鷹揚《おうよう》に楽しむ帝王の姿を連想させた。
絞殺者≠フ放つにおいは、帝王たる|〓〓《ちゆつてき》をも陶酔させているようだ。時おり、快感に耐えかねたように、四枚の翅を大きく上下させる。
今やジローの舞い、チャクラの演奏は頂点に達しようとしていた。チャクラはすでに首をふるばかりで歌わず、ジローの手にある赤い布は命を宿したように脈動していた。リズムの持つ魔力が、二人を完全に没我状態におとしいれていた。
二人は、とりわけジローは、胸のなかで神殿≠ノ入らせたまえと唱えつづけている。その願いがききいれられないとき、二人は|〓〓《ちゆつてき》に灼き殺されることになるのだ。
ふいに、|〓〓《ちゆつてき》は体を細かに震わせ始めた。翅音とは異なる、喉太な唸《うな》りがその体から伝わってくる。|〓〓《ちゆつてき》の複眼が、蒼《あお》い鬼火のような光を発していた。
ジローはなおも踊り狂いながら、意識の地平にかすかな恐怖をおぼえた。|〓〓《ちゆつてき》はやおろず≠フ上方に位置する、いわば稲魂《クワン》≠ノ最も近い存在だ。だからこそ、こうして神殿に忍び込む方法をたずねているのだが、ザルアーの言によると、|〓〓《ちゆつてき》の感情の動きは非常に予測しにくく、ときには残酷でさえあるということだ。会見を求めてくる者の奉納舞いが気に入らないときには、容赦なく灼《や》き殺すというのだ。
今、|〓〓《ちゆつてき》の答えが明らかになろうとしているとき、ジローが怯《おび》えるのは当然だったろう。が、――次の瞬間には、そんな怯えも狂舞の興奮のなかに消えていった。
|〓〓《ちゆつてき》の複眼は、赤色光さえ放ちはじめていた。その体が熱をはらみ、数倍にふくれあがったように見えた。
「…………」
ジローと、そしておそらくはチャクラの体をも、熱波が|シャワー《〔註9〕》のようにつらぬいた。熱波はほとんど物理的な圧迫感をともなって、二人の体を地になぎたおした。二人は死の予感に、同時に喉を震わせ、悲鳴をあげていた。
だが、二人の体にはけほどの傷もついていなかった。ただ、稲魂《クワン》≠ェ身を浸しているという、伝説の|生命の泥《イルピントウ》≠ノつかったような、蘇生《そせい》感だけが濃厚だった。|〓〓《ちゆつてき》は、ジローの願いをききいれることにしたのだ。
「ジロー」
チャクラがかすれた声をあげるのと、|〓〓《ちゆつてき》が宙を滑るようにジローに接近してくるのとが、ほとんど同時だった。
ジローが反射的に身を縮めたときには、もう|〓〓《ちゆつてき》は前足でその体をがっきと挟んでいた。浮揚感がジローを包み、次の瞬間には、足がはるか大地を離れていた。ジャングルが、視界を緑の河のようによぎっていく。
後に残ったチャクラは、みるみる小さくなっていく|〓〓《ちゆつてき》とジローの姿を、いつまでも見送っていた。
そして、つぶやいた。
「達者でな、ジローよ……」
――風が耳をかすめ、容赦なくジローの顔をたたく。この熱帯の地では、ついぞ体験したことのない寒さだ。|〓〓《ちゆつてき》の飛翔《ひしよう》速度がかなりの速さであることを示していた。
ジローは、全身の筋肉を弛緩《しかん》させていた。下手《へた》にあがけば、墜落の危険がないとも限らなかったからである。それに、ジローは|〓〓《ちゆつてき》に満腔《まんこう》の信頼をおいていた。
遠く、視界を斜めによぎる地平に、神殿が位置しているのが見えた。眼下のジャングルは、いたるところで水面のきらめきを放っている。いずれも、パイナップル科の着生植物がつくるお椀、巨大な宙空のプールのようだ。ときに、鮮やかな原色の花輪が、焔《ほむら》のようにジャングルに燃えたっていた。
|〓〓《ちゆつてき》が、降下を開始した。ジローは反射的に、足腰を踏んばり、着地にそなえた。
|〓〓《ちゆつてき》の降下は、思いのほか急だった。二、三度瞬きする間に、もうジローの体をフワリと地に降ろしていたのである。足に反動すらおぼえない、まったくもって柔らかな着地だった。
ジローは軽くたたらを踏んだだけで、すぐさま体勢を立て直すことができた。
|〓〓《ちゆつてき》は、もうジローの存在には興味をよせていないようだ。ジローを地に降ろすと、しごく冷淡に離れていってしまったのである。
ジローは呆然《ぼうぜん》と、周囲をみまわした。
すぐかたわらに、さほど大きくない沼があった。シダが岸辺に茂り、巨木が四方から枝をのばして、沼をおおわんばかりになっている。いかにも陰うつな眼を楽しませることのない沼だった。
ジローは視線を転じ、ジャングルの彼方《かなた》に眼をやった。
思いがけなく、樹々の梢《こずえ》ごしに神殿の尖塔《せんとう》が見えた。非常に、間近な距離だ。強烈な陽光のなかに、神殿は夢の城のように浮かび上がっていた。
ジローは眼を狭《せば》めた。
神殿に向かって、ゆっくりと飛んでいくものが見えたからだ。飛ぶという表現は正確ではないかもしれない。むしろ、なだらかな降下、滑空と形容すべきだろう。
そいつの姿は、神殿の尖塔に吸い込まれるように消えていった。
しばらくジローは痴呆《ちほう》のように立ちつくしていた。どうにも、自分の眼が信じられない思いがした。ジローには、そいつが魚であるように見えたのである。
――|〓魚《かつぎよ》……かつてチャクラからきかされた言葉が、ジローの脳裡《のうり》に甦《よみがえ》った。危険な生き物というと、猩猩《しようじよう》ももちろんだが、それより|〓魚《かつぎよ》に注意したほうがいいな……
あのとき、カスミにさえぎられ、定かではなかったが、たしかに頭上をよぎる巨大な影を目撃している。神殿に消えていったものが、あれと同じ|〓魚《かつぎよ》であることはまちがいあるまい。
「|〓魚《かつぎよ》……」
ジローが呆然と口のなかでそうつぶやいたとき、背後からたかく水音がきこえてきた。そうと意識しないまま、ジローの足腰は屈伸し、その体をシダの陰にとびこませていた。
今しも、沼から|〓魚《かつぎよ》が陸地に這い上がろうとしているところだった。非常に、大きい。全長は、四メートルに達しているのではないか。
醜い魚だ。全身が鎧《よろい》でおおわれているような印象がある。尾がかろうじてバランスをたもち、胸びれ、腹びれを用いて、ゆっくりと前進をはじめた。その肥大した頭部で暗い光を放っている双眸《め》が、いかにも凶悪そうだった。
シダの陰に身を潜めながら、ジローはようやく|〓〓《ちゆつてき》が自分をこの場に連れてきたわけを覚《さと》ったのだ。
|〓魚《かつぎよ》は、なぜか神殿に自由に入れるらしい。要するに、ジローは|〓魚《かつぎよ》を利用することでしか、神殿に忍び込めないようなのだ。
あのチャクラをして、猩猩より危険と言わせしめた|〓魚《かつぎよ》を利用することでしか……
――すでに焚火《たきび》の火は消えかかり、絞殺者≠フにおいも霧散していた。広場には、熱帯の陽光がカッと照りつけていた。
チャクラは、石塔の下にうずくまっている。この男には珍しく、ひどく疲れた、放心したような顔になっている。狂態の後の、いちじるしい虚脱状態だ。
陽光は、ほとんど暴力的なまでに、地を灼いていた。普通の人間なら、とうてい坐っていられる状態ではない。一刻も早く、ジャングルに避難しようと考えるところだろう。が、――チャクラは石塔の下にうずくまったまま、身じろぎ一つしない。チャクラが、なにか深い想念にとらわれていることは明らかだった。
ジャングルから、フラリと白い人影が広場に進み出た。
ザルアーは、背後からジッとチャクラの様子をうかがっている。チャクラは、それに気がつく気配もなかった。これも、機敏な常のチャクラだったら、ありえないことだ。
「チャクラ……」
やがて、ザルアーが遠慮がちに声をかけてきた。
「う……」
チャクラはふりかえり、初めてザルアーの存在に気がついた。「よう……来ていたのか」
「あの人は、ジローは行ってしまったの」
ザルアーの声からは、驕慢《きようまん》な女|呪術師《じゆじゆつし》のなごりが消えていた。
「ああ……」
チャクラはうなずき、その唇《くちびる》に微笑をたたえた。「あの人ときたね。なんだ? 呪術師ザルアーさまともあろう女が、あんな小僧っ子に惚《ほ》れてしまったのか?」
「悪いかしら」
ザルアーは胸を反《そ》らし、むしろ誇らしげに答えた。「そういうあんただっておかしいわ。狂人《バム》チャクラが、ずいぶん真面目《まじめ》に考え込んでいるじゃないの」
「まったく、らしくもねえよな……お互いさまに、な」
「ジローは、うまくそのランとかいう小娘に会うことができるかしら」
「会えたら困るんじゃないのか。ジローはランと一緒になっちまうぜ」
「…………」
ザルアーの顔に、憤怒《ふんぬ》と悲哀がないまぜになった奇妙な表情が浮かんだ。そこには、女呪術師らしからぬ嫉妬《しつと》の色さえうかがえるようだった。
「最初は、いとこ同士を結びあわせて、稲魂《クワン》≠困らせてやろうと思った……」
チャクラは、ザルアーの反応にはいっさい頓着《とんじやく》していなかった。地の一点をみつめながら、なにか独り言のようにいった。
「なにしろ、俺の守護神は、ビーバーだからな。世の中がひっくり返るような騒ぎを起こすのが、俺の使命のようなものさ。親子代々の狂人《バム》でもあることだしな。だけど……」
「だけど?」
と、ザルアーがチャクラの言葉を反復した。
「わからねえ……」
チャクラがブルンと掌で顔をこすった。
「なんだか、これまで俺のしてきたことが、すべてジローに会うための準備だったような気がするんだ。ジローと会って、そして共になにかをすることが俺の生涯《しようがい》の目的として定められていたような気が……よく、わからねえ。なんだか、妙な気持ちだ」
「…………」
ザルアーは、と胸をつかれたような顔になった。チャクラの言葉に、彼女もなにか思い当たることがあったにちがいない。
ザルアーが口を開きかけたそのとき、――ジャングルのそこかしこから、葉ずれの音が伝わってきた。二人を囲むようにして、次から次に猩猩たちが広場にとびだしてきたのである。
尋常ならざる雰囲気《ふんいき》だった。彼らが二人に対して敵意を持っていることは、その尻《し》っ尾《ぽ》に握られている弓を見るまでもなく明らかだった。
猩猩たちは十数匹を数えた。広場に、胸がむかつくような彼らの体臭がたち昇った。並の神経の持ち主なら、とうてい耐えられない悪臭だった。
一瞬のうちに、広場は緊迫した雰囲気に包まれた。彼らのうちの一匹が襲いかかってくれば、時をおかずすべての猩猩が戦意をむきだしにすることが予想された。
「おいおい、こいつはどうしたんだ」
さすがに慌《あわ》てて、チャクラが悲鳴をあげた。
「こいつら、あんたにはむかってこないはずじゃなかったのか」
「もう駄目よ……」
ザルアーの顔は蒼白《そうはく》だったが、その声は不自然なほど落ち着いたものだった。
「猩猩たちは、私が女になったことを直感しているわ。同時に、この世の秩序に受け入れられる存在となったこともね……もう、私は呪術師ではない。どこにでも居る、ありふれた一人の女に過ぎないのよ……」
9
――|〓魚《かつぎよ》が沼地を這《は》い進むさまは、非常に醜怪であり、同時にいささかコッケイでもあった。そのたくましい腹鰭《はらびれ》が、軟泥《なんでい》にクッキリと二本の線を残していた。
|〓魚《かつぎよ》にいささかなりとも似た魚を探そうとするなら、時代をはるか中生代までさかのぼる必要がある。ツエナカンサス……団扇《うちわ》状の巨大な鰭を持っていたこの鮫《さめ》が、かろうじて魚に似ているといえた。
もともと、稲の自生を目的とする特殊な生態圏に生きている種《しゆ》だけに、きわめて異様な、むしろ奇形とさえ呼べるような肺魚ではある。だが、姿形を見たかぎりでは、かつて海中を遊弋《ゆうよく》したであろう鮫と|〓《えい》との中間魚に似ていないこともないのだ。鞭《むち》状に細長い尾も、|〓《えい》を連想させた。
もちろん、いまだかつて、|〓魚《かつぎよ》のように空中のプールからプールを滑空し、飛び移った魚は存在したことはないのだが……
|〓魚《かつぎよ》の前進は遅々として進まない。どうやら、二十メートルほど先の大木を昇りたいらしいのだが、その樹に達するまでは、まだしばらくは時間がかかりそうだった。
シダの陰に身を潜めながら、ジローは迷いに迷っていた。|〓〓《ちゆつてき》の教えが、本当に|〓魚《かつぎよ》の背につかまることなのかどうにも決めかねていたのだ。
たしかに、|〓魚《かつぎよ》は神殿に向かって、滑空していく習性を持っているようだ。なぜ、そんな習性を持つにいたったかはわからないし、今のジローには知る必要もない。ただ、神殿に向かって滑空していくという事実だけが大切なのである。
だが、はたしてその一事をもってして、|〓〓《ちゆつてき》の教えが|〓魚《かつぎよ》につかまることだと判断していいものだろうか。
この機を逃がせば、永遠に神殿に忍びこむことはできないにちがいない。過ちはいっさい許されないのだ。それだけに、ジローの迷いはいっそう深刻だった。
一つには、|〓魚《かつぎよ》の背につかまるのが、はなはだ危険な賭《か》けであることも、ジローの判断を鈍らせる原因となっていた。獰猛《どうもう》な|〓魚《かつぎよ》が、人間が背に乗ることを容易に許すはずがないからだ。それこそ手を触れたとたんに、咬《か》み殺されることにならないとも限らなかった。
苛酷《かこく》な決断を迫られていることが、ジローをいちじるしく情緒不安定におとしいれていた。ジローはそうと意識しないまま、救いを求めるように視線をさまよわせ、――そして、その視線がふたたび神殿をとらえたのである。
ジローは、悪霊《ビー》にとり憑《つ》かれたように神殿を見据《みす》えている。
神殿の尖塔は、視野をさえぎる巨大な掌《て》のように見えた。ジローを懊悩《おうのう》の底にたたきこみ、ランから阻んでいる掌だ。断じて容認し難い悪意の象徴といえた。
そう、――まさしく悪意と形容するしかなかった。
マンドールの住民の言を信じるならば、人間の運命はすべて、稲魂《クワン》≠フ掌《たなごころ》にゆだねられているという。それが真実なら、ジローにランの姿をかいま見せたのも、すべて稲魂≠フ意志ということになるではないか。ジローを極端な涸渇《こかつ》状態におとしいれ、それを楽しむかのように、ランをおのが神殿に隠蔽《いんぺい》してしまう……これが、悪意でなくてなんだろうか。
しかも、そこにはジローとランとがいとこ同士であるという残酷な布石さえ打たれているのだ。ジローを翻弄《ほんろう》し、嘲弄《ちようろう》することに愉悦をおぼえているとしか思えない。
神殿を見据えるジローの眼に、怒りに似た色が揺曳《ようえい》している。今、ジローははっきりと、運命に抗すべき己《おのれ》の意志を見いだしたのである。その圧倒的な怒りの前では、ランに対する恋情さえしごく影の薄いもののように思えた。
その怒りが、そうと意識しないままジローの体をつき動かしたようだ。足腰のしなやかな屈伸が、ジローを大きく跳躍させ、|〓魚《かつぎよ》の背にとりつかせたのだ。
一度はズルッと滑り落ちそうになったが、その背鰭を両腕で抱えこんで、ジローは危うく体勢をたて直した。
おりしも、|〓魚《かつぎよ》は腹鰭で樹木を挟《はさ》みこみ、這い登ろうとしているところだった。ジローが背中に飛び移ったことにも、ほとんど動揺を示そうとしない。ほんの数瞬、動きをとめ、その後は何事もなかったかのように体をくねらせつづけているのだ。
拍子抜けするほどの無反応さだ。苔岩《こけいわ》のような|〓魚《かつぎよ》の背につかまりながら、ジローはあまりの容易さにしばらく呆然《ぼうぜん》としていた。
そして、――ようやく事情をさとって、クスクスと笑いはじめたのだ。あれこれと、思いわずらう必要はなかったのである。ただ、|〓〓《ちゆつてき》を全面的に信用しさえすればよかったのだ。
|〓〓《ちゆつてき》は、やおろず≠フ頂点ちかくに位置している。そして、この地において、やおろず≠ヘ絶対的なヒエラルキーを形成しているといえた。|〓〓《ちゆつてき》にそうと命じられた以上、|〓魚《かつぎよ》がジローを神殿に運ぶのを拒むわけにはいかなかったにちがいない。
|〓魚《かつぎよ》が樹木をよじ登りはじめても、なおジローはクスクス笑いを洩《も》らしていた。
――強烈な悪臭が大気に漂っていた。
猩猩《しようじよう》の群れは、黒い壁のようにチャクラとザルアーをおし包みつつあった。そこには、敵意すら感じられなかった。ただ、盲目的な殺戮《さつりく》本能に導かれ、やみくもに二人を殺そうとしているだけのようだった。
それだけに、猩猩の群れが醸《かも》しだす圧迫感には、なおさら耐え難いものがあった。なみの神経の持ち主なら、猩猩たちの発散する凄《すさま》じい凶意に、とっくに喪神していたに違いなかった。
だが、さすがにチャクラとザルアーは、なみの人間に比して、はるかに剛毅《ごうき》な神経を持ちあわせているようだ。少なくとも、気を失う気づかいだけはなさそうだった。
「ききたいんだがね……」
チャクラが、なにか喉《のど》にからんだような声で言った。「猩猩は、俺たちを殺してどうするつもりなのかね」
「食べるんでしょう」
ザルアーがひどくそっけなく答えた。
「それは、嬉《うれ》しくないなァ」
チャクラは塩を舐《な》めたような顔になった。「奴らの口は臭いもんな……」
こんな場合にも、チャクラの口調はノンキで、滑稽《こつけい》味さえ帯びているように響いた。ある意味では、チャクラがいつもの剽軽《ひようきん》さを失っていないのは、彼がいまだに生存の希望を捨てていない証《あか》しといえた。
しかし、どんな希望がありうるというのか。猩猩を戦士として見た場合、その敏捷《びんしよう》性、獰猛《どうもう》性は遠く人間の及ぶところではない。ましてや、チャクラは狂人《バム》に過ぎず、必ずしも戦うことを生業《なりわい》としているわけではないのだ。猩猩たちが襲いかかってくれば、たちどころに四肢《しし》を引き裂かれることになるのは目に見えていた。
猩猩たちは、しだいしだいに輪を縮めつつあった。
「あんた、そのナイフは飾り物というわけじゃないんでしょう」
チャクラと背中あわせになりながら、ザルアーが皮肉にいった。「かなわないまでも、鞘《さや》から抜くぐらいのことはしたらどうなのさ」
「ところが飾り物なんだな……」
チャクラは情けなさそうに答えた。「つまり、戦闘用には使わないというわけさ。こいつは料理用でね。猩猩ごときを刺すのに使うわけにはいかないんだ。刃こぼれでもしたらことだもんな。猩猩って奴は、見るからに骨が硬《かた》そうだからね……」
「食べられるかもしれないという場合に、料理用ナイフでもないでしょう」
ザルアーが毒づいた。「役たたずっ」
「役たたずはおたがいさまじゃないか」
チャクラも負けていない。「ザルアーさまの呪術《じゆじゆつ》はどうなったんだ。きのうまで、猩猩たちをいいように操っていたじゃないか……」
「お黙りっ」
ザルアーは喉の底で唸《うな》った。
まさしく、一触即発の状態にあった。猩猩の一匹が尻っ尾を振るだけで、群れはなだれをうつように二人に襲いかかってくるはずだった。猩猩たちに蹂躙《じゆうりん》され、それこそ二人は骨一片余さず、この世から消失する運命にあったのだ。
が、猩猩たちの殺意が今しも臨界点、に達しようとしたそのとき、――チャクラはまったく意表をつく行動に出たのだ。
こともあろうに、手にしていた簫《しよう》の笛をたかく鳴らしたのである。背を触れていたザルアーが、思わず飛びあがるほどのとっぴょうしもない笛の音《ね》だった。
猩猩たちにとっても、チャクラの行動は驚きだったにちがいない。彼らの乏しい理解力では、なおさら不可解に思えただろう。無害な簫の音に怯《おび》え、一斉《せい》に後ずさりしたほどなのだ。
なおも簫を吹き鳴らしながら、チャクラは滑らかな身のこなしで、猩猩たちの群れに分け入った。その際、ザルアーの腰を膝頭《ひざがしら》でつきあげ、彼女をしたがわせることも忘れない。あまりに自然な動きに、猩猩たちはいとも易々《やすやす》と二人が囲みから抜け出るのを許してしまっていた。
奇妙な隊列が始まった。
チャクラは簫を鳴らしつづけ、舞うような足どりでジャングルを進んでいく。そのかたわらにザルアーが、そして十メートルほど遅れて、猩猩たちがつきしたがっているのだ。
外見《そとみ》には、牧歌的な眺《なが》めに映ったかもしれない。簫の音に誘われ、猩猩たちが浮かれているように見えないこともないからだ。だが、――猩猩たちが最初の驚きから回復し、ふたたび戦意をとり戻したとき、背後から襲いかかってくることになるのはまちがいなかった。チャクラの行為は、無意味な時間のばしに過ぎないともいえたのである。
「無駄《むだ》よ。チャクラ……」
ザルアーがしごく冷静に、その点を指摘した。「あいつらは、そのうち笛の音《ね》に飽きるからね。そしたら、今度こそ容赦なく襲いかかってくると思うよ。逃げようにも、あいつらのほうがすばしっこいし……まず、助からないんじゃないかしら」
「…………」
ザルアーの言葉が耳に入った様子はなかった。チャクラはなおも懸命に、簫の笛を鳴らしつづけている。
ジャングルをおおう林冠がしだいに厚く、華麗なものになっていく。ランがほとんど天蓋《てんがい》のように咲き乱れ、その根を縦横に樹皮に這《は》わせている。イチジクやブドウの果実が、陽光を反射して、はるか高みに宝石のようにきらめいていた。――オオクチバシ、あるいはホエザルが、眼下の行列に興奮し、枝から枝をしきりに飛び移っていた。
この華やかな迷路に、奇妙に哀調を帯びた簫の音《ね》がたかく鳴り響いている。男と女、そして猩猩の群れの行進は、いちじるしく現実感を欠き、さながら夢のなかの一情景のように見えた。
が、――行進もさほどながくつづきそうになかった。眼に見えて、猩猩たちの間に緊張がたかまりつつあった。いちどは意表をつかれ、手をこまねくことを余儀なくされた猩猩たちも、ここにいたって簫《しよう》の音《ね》が恐るるにたらないと気がつきはじめたようだ。彼らは一様に牙《きば》をむき、ゴボゴボと喉を鳴らしていた。
ふいに、ジャングルの様相が一変した。
巨木が極端に少なくなり、灌木《かんぼく》が密生する地へと出たのだ。灌木は多数の小葉をそなえ、いずれも葉柄《ようへい》からたくましい二本の刺《とげ》を突き出していた。形状としては、牛の角に似ている。
灌木林は二十メートルほどつづき、そこで断ち切られたようにジャングルがはじまっている。あまりに唐突で、視力に混乱が生じるほどだ。奇妙に甘いかおりが、厚く灌木林にたちこめていた。
「今だっ」
とつぜん簫を口から離すと、チャクラはそう叫び、ザルアーの手をとって走り出した。
風をくらったような遁走《とんそう》ぶりだ。ザルアーに、口を開く余裕も与えなかった。灌木を抜ける際、手にしている簫の笛で、いちいち枝を叩《たた》きつけていく。
一|拍《ぱく》遅れ、猩猩たちも吼《ほ》え喚《わめ》きながら、どっと灌木林に足を踏み込んだ。
異変は、そのとき起こった。
猩猩たちはふいに体毛をかきむしり、奇態な舞踊を演じ始めたのである。両足を踏み鳴らし、腕を水車のように振り回し、口から泡《あわ》をふくすさまじさだ。なかには、気が狂ったように、棍棒《こんぼう》を繰り返し地に叩きつけている猩猩もいた。
灌木林がざわざわと揺れ、赤く地をうねらしていた。赤アリだ。灌木の二本の刺がさながら井戸のようにおびただしい赤アリを吐きだし、赤アリは一条の太い川となって、猩猩たちに襲いかかっていくのだ。――猩猩たちの豪力をもってしても、どう抗しようもない。十匹、百匹を踏み潰《つぶ》したところで、赤アリは後から後から体に這いのぼってくる。そのたくましい顎《あぎと》は、生殖器まで咬《か》みきろうとするのだ。
灌木林を走り抜けたチャクラとザルアーは、呆然とこの惨状を見つめている。黒い剛毛の猩猩たちが、赤アリの群れに呑みこまれていく情景は、たとえようもなくグロテスクで、それでいて奇妙に眼を離すことのできぬ魔力をそなえていた。
「紅蓮《ぐれん》地獄ね……」
ザルアーが凍ったような声で呟《つぶや》いた。
紅蓮地獄――とは、その二本の刺に多くの赤アリを養っていることから、灌木に与えられている名である。刺がまだ柔らかいときに、アリはその一方の刺を咬み破り、幼虫を生み落とす。幼虫は成長するにつれ、刺の内部をドンドン咬み破っていき、ついには一つの部屋を設けてしまう。アリは巣を提供される代償に、植物に触れるものを撃退する役を負うのである。
「行こうか……」
猩猩たちの悲劇から眼を外《そ》らし、チャクラがささやくようにいった。
「どこへ?」
そう問い返したザルアーの声は、少女のように頼りなく響いた。
「神殿の外でジローを待つさ」
チャクラは遠くを見るような眼つきになった。「行く先はあいつが考えてくれる……」
二人が立ち去った後も、猩猩とアカアリの闘争は果てしなくつづいていた。
――|〓〓《ちゆつてき》に攫《さら》われ、空を飛んでいるときとは隔絶の相違があった。飛ぶというより、むしろ風に乗ると形容した方がより正確なようだ。
巨大な鰭《ひれ》が風を孕《はら》み、ちょうど|〓《えい》が泳ぐような形で空を滑っていく。|〓魚《かつぎよ》は、しごく悠々《ゆうゆう》と大気を渡っていくのだ。
ただし、|〓魚《かつぎよ》の背につかまるジローは、それなりの努力を要求されていた。なにより、|〓魚《かつぎよ》の滑空が、まったく予断を許さぬコースをたどることがジローには苦労のタネといえた。それこそ風まかせで、場合によっては宙返りすることさえありうるのだ。墜落しないためには、つねに細心の注意を保つことが必要とされた。
|〓魚《かつぎよ》はフワリと降下に移った。
神殿が角度を転じ、大きく迫ってきた――たちならぶ尖塔《ストウーバ》が、灰色の石林のように視界をよぎっていく。|〓魚《かつぎよ》が身をひるがえすごとに、壁に設けられているおびただしい数の仏龕《ぶつがん》が、ハチの巣のような陰影をあやなした。
いつしか尖塔が、ジローの頭上に大きくのしかかるようになっていた。|〓魚《かつぎよ》は、神殿の最上層をほとんど這うようにして飛んでいるのだ。壁に彫られた神像が、次から次にジローの視界にとびこんでくる。神像は様々な印契《いんげい》、印相《いんぞう》をむすび、ときに快楽《けらく》になまめかしく体をくねらせていた。
|〓魚《かつぎよ》が大きく鐘楼を回ったとたんに、ジローの喉から驚きの声が洩《も》れた。
巨大な神像頭が、すぐ眼前に迫っていたのだ。神像頭は憤怒相凄《ふんぬそうすさま》じく、はるか天上を睨《にら》みつけていた。その大きく開けられた口が、暗い洞穴《ほらあな》のようにジローの眼には映った。
次の瞬間――|〓魚《かつぎよ》は神像頭の口にとびこみ、そこに満々とたたえられている水に突っ込んだのだ。
とっさに|〓魚《かつぎよ》の背から飛び降りたからいいものの、そうでなければジローの体は水面に叩きつけられ、まず肋骨の一本も折ることになったろう。
水中でもがくジローの視界に、緑藻《りよくそう》をかきわけながら悠々と潜っていく|〓魚《かつぎよ》の姿が、影のように映っていた。
神像頭のなかは、深く水をたたえた、巨大な石室となっていた。|〓魚《かつぎよ》が神殿をめざすのも、どうやらこの水が目的のようだ。なにかしら、|〓魚《かつぎよ》を賦活《ふかつ》する特殊な成分を含んでいるにちがいなかった。
懸命に泳ぎ、ようやく石縁《いしぶち》に体を引き上げることのできたジローは、しばらく動悸《どうき》を静めることができないでいた。
――石室を出たジローは、どちらに向かったらいいのか判断に迷っていた。
左右には、ただ廻廊《かいろう》がえんえんとのびていた。
石のひやりとした感触が、空気までも侵しているようだ。薄暗い廻廊は、思わず身を抱きしめたくなるほど寒かった。
窓は、まったくなかった。壁に、等間隔に燭架《しよくだい》が並んでいるだけだ。燭架に燃える炎が、雲のような影を天井に走らせていた。
廻廊には、外壁のような装飾はいっさいほどこされていない。ただ、大きな石が武骨に積み重ねられているだけだ。
それだけに、いっそうジローはどちらに進むべきか決めかねているのだ。
ふいに、ジローの胸裡《きようり》をよぎった激情が、現実の声となってその喉《のど》からほとばしった。
「ラン……」
その声は繰り返し反響《こだま》し、廻廊を風琴《ふうきん》のようにかき鳴らした。
ラン、ラン、ラン……ジローは、しだいに低くなっていく反響に耳をすましていた。
だが、ジローの呼びかけに応じる声はなかった。反響はむなしく壁に吸い込まれ、廻廊には再び静寂《せいじやく》がよみがえった。
ジローはため息をついた。ランは、ジローの存在すら知らないのだ。たとえ、ジローの呼び声がランの耳に達したとしても、返事を期待する方がおろかというべきだったろう。自力で探すしかないのだ。この広い神殿のなかを……
ジローが一歩を踏みだしかけたそのとき――背後で、冷たい空気がフワリとゆらめくのを感じた。
振り返ったジローの眼に、薄闇《うすやみ》のなかにぬうっと浮かび上がった三つの人影が映った。まるで、闇が凝集して人影をとったような無気味さだった。
ジローは知らず、あとずさりをしていた。その顔は白くこわばっている。
三戦士≠ネのだ。
10
一瞬、ジローは恐慌状態に襲われた。三戦士≠ノてもなく打ちまかされた記憶は、いまだに生々しく残っている。戦士としての誇りを徹底的に踏みにじられた、屈辱的な記憶だった。
屈辱感だけならまだしも、それをバネとして戦うことができる。だが、悪いことには、恐怖が屈辱感にはるかに勝《まさ》っていた。三戦士≠ノ勝てるはずがないという思いが先にたってしまうのだ。視覚、聴覚、触覚とかかわりなく、ただ稲魂《クワン》≠フ導きにしたがって挑《いど》んでくる相手と、どう戦えばいいというのか。
三戦士≠フ神像面は、いずれも微笑をたたえていた。優しくほほ笑みながら、じりっじりっとこちらに向かって歩を進めてくるのだ。耐え難い圧迫感、無気味さだった。
ジローの喉は、荒野のようにひりついていた。いつもなら、ほんの一呼吸する間に、剣《つるぎ》を抜き払うことができるはずなのだが、今はだらしなくその指が鞘《さや》をまさぐっているだけだった。抜けば、戦いから逃がれることができなくなる。それが怖いのだ。
ジローの指が剣《つるぎ》の鞘ではない、なにか別のものに触れた。それが、腰衣に押し込んだ絞殺者《ルアナムテイ》≠フ残りだと気がつくまでには、少し時間を要した。
ジローの額《ひたい》に、フツフツと汗が噴きだしていた。その指がためらうように、絞殺者≠フうえを往復している――ジローは、じつに無謀なことを思いついたのだ。三戦士≠ヘすべての感覚から隔絶されているがために、優れた稲魂《クワン》≠フ傭兵《ようへい》となりえているのだ。三戦士≠ニ戦おうとする者は、己もまた現実とは異なる感覚のなかに、身を投じる必要があるのではないか……
――しかし……ジローの脳裡《のうり》に、絞殺者≠フ枝に長々と寝そべっていたジャガーの姿が浮かんできた。絞殺者≠口にした者が、戦うどころか、あのジャガーのようにすべての生気を削《そ》がれるはめにおちいらないとは誰《だれ》にも保証できないのだ。
三戦士≠ェ左右に分かれ、なかば、ジローを囲むような陣容をとった。両端の二人が剣を抜き払い、真ん中の一人がぴたりと槍《やり》を据《す》える。彼らが、速戦速勝を狙《ねら》っているのは明らかだった。
絞殺者《ルアナムテイ》≠飲《の》むにせよ飲まないにせよ、決断を急ぐ必要があった。ためらいを残したまま戦いにのぞめば、勝てる試合も勝てなくなってしまうからだ。
「わが守護よっ」
ジローはなかば悲鳴のようにそう叫ぶと、絞殺者≠ノ喰らいついた。
――一瞬、時間が弛緩《しかん》する感覚があった。ついで、頭蓋《ずがい》の底を蹴《け》りつけられたような衝撃をおぼえ、極端な浮揚感がジローの身内にたぎりはじめた。
ジローは、絞殺者≠フあまりにすさまじい威力に、足をもつれさせた。絞殺者≠ヘたんに精神《こころ》にばかりではなく、視力にも影響を及ぼしているようだ――視野はすべて黄褐色《こうかつしよく》におおわれ、三戦士≠フ全身からは炎がたちのぼっていた。ジローのもちろん知らないことだが、三戦士≠フ空気摩擦までもがその視力にとらえられているのだった。
筋肉が、繊維が、血液が絞殺者《ルアナムテイ》≠ノ賦活され、今にも爆発せんばかりの力をはらみつつあった。昂揚《こうよう》感はとどまるところを知らず、ジローは自分が巨人と化したような錯覚をおぼえた。
「ああ……」と、ジローは呻《うめ》いた。
その呻きが、ジローの耳には玄妙な音楽のように響いた。聴覚もまた、極端に鋭敏になっているようだ。三戦士≠フ忍びやかな足音すらも、落雷のように大きく、しかも微妙な変化さえ正確に伝えてくるのだ。
絞殺者≠ヘ瞬時のうちに、ジローを感覚の巨人に変えたのだ。人間の卑小な五感を、はるか高みから見下ろす存在と化したのだ。
ジローは、今や超感覚の驟雨《シヤワー》に身をさらしているといえた。視覚が火輪となって、激しく渦《うず》を巻いていた。心拍《しんぱく》はドラムとなり、ジローの手足に確実に脈動をつたえていた。
歓喜――その一言に尽きた。人間ならざるものと化した喜びは、ジローの体をつき動かし、いつしか戦士の舞い≠ヨと没入させていった。
三戦士≠フ全身から噴き出る炎が、さらに勢いを増し、七彩に色をあやなした。真ん中の男が、蛇《へび》のように槍をくり出してきたのだ。ジローは剣《つるぎ》を抜き、その槍を難なく払いのけると、身をひるがえして右端の男に斬《き》りかかった。
羽毛のように、体が軽くなっていた。事実、ジローには戦いの自覚はなく、戦士の舞い≠踊っていると錯覚していた。にもかかわらず、いや、おそらく、それだからこそ、ジローの剣風はすさまじく、さしもの三戦士≠フ剣をも跳《は》ねとばす威力をそなえていた。
右端の男はジローの剣をかわしきれず、激しく床にたたきつけられた。ジローの喉から、若々しく、しかし残酷な笑い声がほとばしった。
が、――ジローは床に倒れた男を深追いしようとはしなかった。背をエビのように反《そ》らし、床を強く踏み込み、背後から斬りかかってきた男の頭上を、クルリと跳躍後転して飛び越えたのである。
いかに戦士といえども、人間にかなうべき体技ではなかった。舞踏の呪術《じゆじゆつ》が、ジローに超人的能力を与えているにちがいなかった。
思わずたたらを踏む男の腰を蹴とばし、ジローはもう一人の男に向き直った。槍が、鋭い閃光《せんこう》となって襲いかかってきた。ジローは右に左に身を開き、つづけざまにくりだされてくる槍をかわした。
男はいったん槍を引き、ほとんど全身で突いてきた。ジローは腰を沈め、剣を大きく頭上に振り上げた。カタン――というような音とともに、槍はみごとに両断された。ジローはそのままの姿勢で、男の腹に頭突《ずつ》きをくらわした。男は後方に跳ねとばされ、壁に背をぶつけた。
ジローはさらに身をひねりざま、大きく剣で半円をえがいた。今しも、襲いかかってこようとしていた二人の男が、あわてて飛びすさった。
明らかに、ジローは三戦士≠圧していた。三戦士≠ヘすべての感覚を閉ざされているがために強力な戦士と化している。それにたいして、ジローは感覚を増幅され、つねに数倍する力を与えられているのだ。ある意味では、絞殺者《ルアナムテイ》≠ェ稲魂《クワン》≠ノうち勝ったともいえる。
ジローと二人の男は、しばらく睨《にら》みあっていた。こんな場合にも、三戦士≠フ神像面がにこやかな微笑をたたえているのは滑稽《こつけい》でもあり、またグロテスクでもあった。
ふいに、ジローの喉から獣のような声がほとばしった。同時に、荒々しく一歩を踏み込み、剣を横に払ったのである――剣は確実に一人の男の神像面をとらえ、そのほほ笑んだ唇を砕いたのだった。
一瞬、時間が凝固したかのように、その男は宙に視線を据えた。砕かれた面の下からは、男の本当の唇が覗《のぞ》いていた。その唇が大きく開閉し、甲高《かんだか》い悲鳴が廻廊に響きわたった。
三戦士≠ヘ総崩れとなった。先を争って、逃げだしたのだ。人間として悲鳴をあげたとき、稲魂《クワン》≠フ傭兵《ようへい》たる能力をすべて失ったようだった。
ジローにもまた変化が生じている。絞殺者≠フ歓喜が、一転して恐怖に変わったのである。このまま、絞殺者≠フ虜《とりこ》となり、ついに廃人と化すまで逃がれられないのではないかという恐怖に……
ジローは剣を鞘におさめると、床に這《は》いつくばった。喉に指を入れ、必死に嘔吐《おうと》感を誘おうとする――なにか酸《す》っぱいものが、喉にこみあげてきた。
嘔吐感は執拗《しつよう》で、しかも激しい苦痛をともなっていた。胃に残存物がなくなった後も、なお黄水《きみず》がたえまなくこみあげてきた。床を掻《か》きむしり、空《くう》を蹴りつける苦しさだった。
ようやく立ちあがることができたとき、ジローはいちじるしい虚脱感に憔悴《しようすい》しきっていた。眼がかすみ、足もとがおぼつかない。感覚の酷使から生じた反動が、今のジローを半覚醒《かくせい》状態におとしいれているようだった。
すでに、視野は正常に戻っていた。廻廊は以前にも増して暗く見えた。全身が鳥肌《とりはだ》立つほどの寒さをおぼえた。
「俺は、絶対に絞殺者《ルアナムテイ》≠口にしない」
ジローはなかば呪文《じゆもん》のようにつぶやいた。「もう二度と口にしない」
それで、やっと気持ちがおさまったのだろう。ジローは手の甲で口をぬぐい、落ちていた剣を拾って、鞘《さや》に入れた。そして、廻廊を歩き出そうとして――ふたたびその足をとめたのだ。
遠く廻廊の果て、闇《やみ》が厚さを増しつつある辺りにぼうっと白い人影が浮かびあがったのだ。その人影はジローを誘うように、優雅に身をくねらしていた。
ジローはいっさいを忘れた。血液が熱く沸騰し、心臓を激しく連打していた。全生命力が体の奥深くから噴出し、ジローをしゃにむにつき動かした。獣が荒野に泉を見つけたときに似ていた。
「ラン……」
ジローは叫び、懸命に走り出した。
白い人影はサッと身をひるがえし、闇のなかに遠ざかっていった。
逃げようとするのではない。人影は幾度も立ちどまり、ジローが追ってくるのを確かめて、また走っていくのだ。明らかにジローを誘《いざな》い、かつ嘲弄《ちようろう》するのを楽しんでいるようだった。
逃げ水を追う旅人のように、ジローは繰り返し歓喜と絶望を味わうことになった。すでに、ほかのことは眼に入らなくなっていた。ただただ、闇のなかに閃《ひらめ》く白い人影だけが視界をいっぱいに占めていた。
ジローは、自分がしだいに神殿を下りつつあることに気がつかなかった。十層から成る神殿は、円壇、方形基壇、基壇と重なっており、そのすべてがなだらかな勾配《こうばい》をなす廻廊でつながっている。ジローはいつしか基壇、しかもその中央を占める至聖所≠ノ近づきつつあったのだ。
ふいに、白い人影が足をとめた。
廻廊そのものが、闇にとぎれているような印象があった。天井も、壁も定かには見えなかった。水を透かしたように、すべてがあいまいとして、現実感を欠いていた。
が、ジローにほかのことに注意を配る余裕《ゆとり》があるはずはなかった。
「ラン……」
ジローは叫びざま、白い人影に向かって走り、――そして、その人影をつきぬけ、漆黒《しつこく》の闇に投げだされたのだ。
――ジローの体は、泥によって受けとめられた。もがく間もなく、泥はジローを呑み込んだ。
今、ジローは膨大な泥の堆積《たいせき》のなかを、ゆっくりと漂っているのだった。
泥は透明性が強く、しかも光を複雑に屈折させていた。あるいは赤く、あるいは黄金《こがね》色に光が閃き、全体に虹《にじ》のようなパターンをあやなしているのだ。微妙に陰影を変える色彩は、なにかしら神々《こうごう》しささえ帯びて見えた。
ジローは、巨大な泡《あわ》のなかに居た。気泡《きほう》は決して割れることなく、ジローの体をユラユラと運んでいた。
(戦士よ、これが|生命の泥《イルピントウ》≠セ)
ふいに、ジローの頭蓋《ずがい》に落雷のような声が響いた。
「誰だ……」
ジローは、泡の内面に両手をつきながら叫んだ。
(私は稲魂《クワン》≠セ……)
声がいった。
(マンドールをつかさどる稲魂《クワン》≠ネのだ)
「…………」
ジローは沈黙した。なにかいおうにも、恐怖に圧倒され声にならなかった。
(これを見るがいい、若き戦士よ……)
稲魂《クワン》≠フ言葉と共に、泥のなかに別の気泡が浮かび上がってくるのが見えた。気泡は淡く光を帯び、そこに一人の少女の姿を描きだしていた。ゾウの山車《だし》のうえで、両腕を優雅にくねらしている少女の姿を……
「ラン……」
ジローの叫びを、頭蓋に響く稲魂《クワン》≠フ声が圧した。
(違う。これは、私がつくり出した幻に過ぎない……)
「さっきのランも、幻だったんだな」
ジローは呻《うめ》くように言った。「なぜだ? なぜ、そんなに俺《おれ》を苦しめる」
(恋そのものが幻に過ぎぬのだ……)
声に、かすかに哀れむような響きがこもった。
(生身のランを得ることができたとしても、そこには失望が待ち構えているだけではないか。おのれの情熱に裏切られ、結局は幻に踊らされることになるのだ……なぜ、尻《しり》の大きな、よく笑う娘をさがさない。子供をつくり、平穏に暮らそうとはしないのか)
「俺は、あきらめない」
ジローはなかば自分にいいきかせるように呻いた。「あきらめることができないのだ」
(苦しむことになるぞ)
「ランを得られない苦しみこそ地獄だ」
(後悔することにもなる)
「後悔はしないっ」
ジローは吼《ほ》えたけるように言った。
しばらく、頭蓋のなかの声は沈黙した。やがて、前にも増して荘重《そうちよう》な声が響いた。
(ランは生神《クマリ》≠セ。しかも、おまえとはいとこの間柄だ……ただ、二人の仲を許すわけにはいかない。おまえには、ある試練を経てもらわねばならない。その試練を立派に通過したとき、おまえは晴れてランと結ばれることがかなう)
「試練……どんな試練だ?」
(おまえの力で、宝石を人間の手に奪い返すのだ)
「宝石とは……あの伝説の宝石のことを言っているのか」
(そうだ。おまえは、甲虫《かぶとむし》の戦士≠ネのだから……)
その声と同時に、泥が激しく流れた。光が燦然《さんぜん》と飛びかい、色彩がめまぐるしく交替した。気泡が次から次に浮かび上がってきて、やがて巨大な気泡にと成長した――その気泡は、金の円板と化し、めくるめく輝きを放っていた。
「おお……」
ジローは思わず息を呑《の》んだ。いまだかつて、これほど美しく、心惹《ひ》かれるものを眼にしたことはなかったからだ。
(これが、宝石だ)
声が、喩《さと》すようにいった。
「これが……」
ジローは呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。円盤の放つ光は、ふしぎにジローの眼を刺激しなかった。それどころか、その光にさらされていることに、喜悦にちかいものを覚えていた。心の安らぎを伴った喜悦を……
(かつて、この宝石は生きとし生けるものすべての共有物だった。富める者も、貧しい者も、幸福な者も、不幸な者も、鳥獣《とりけもの》はもちろん、虫にいたるまでが、この宝石の放つ光を享受することができたのだ。なぜなら、この宝石は、他の幾多の星とともに夜空にかかっていたのだから……人々は、この宝石を、月《ムーン》≠ニ呼んでいた)
「月《ムーン》=c…」
ジローは、その名を舌に転がした。奇妙に、甘酸《あまず》っぱい憧憬《どうけい》を誘う名だった。
(そうだ。月《ムーン》≠アそ生命《いのち》の証《あか》し、豊饒《ほうじよう》を約束する女神《めがみ》だったのだ。その女神が奪われた……月《ムーン》≠失った人間は、鳥獣は、大きな変化を経験することになった。終末《おわり》≠ノ向かって、前進を開始したのだ……)
「その月《ムーン》≠奪い返せばいいのだな」
ジローは勢い込んでいった。「そしたら、俺とランが結ばれることを許してくれるのだな」
(そう……そのときになっても……まだおまえがランを必要とするのなら……)
稲魂《クワン》≠フ妙に謎《なぞ》めいた言葉も、有頂天《うちようてん》になっているジローの熱をさますことはできなかった。
「どこへ向かえばいい?」
ジローの声は、歓喜でほとんど笑い声にちかかった。「どこへ行けば、月《ムーン》≠奪い返すことができる?」
(西に向かえ。そして、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠訪ねるのだ。旅人に、町人《まちびと》に尋ねて歩くのだ。空なる螺旋≠ヘどこかと……)
「空なる螺旋=c…」
ジローはつぶやき、腰の剣を抜き放った。「俺は、この剣にかけて誓う。必ず、月《ムーン》≠奪い返して見せる、と……そして、この手にランを抱きしめてやるのだ」
金の円盤が消え、泡もまた弾《はじ》けて消えた。
ジローをおさめた気泡が、ゆっくりと泡のなかを浮上し始めた。
そのときジローははっきりと見たのだ。
巨大な浮稲《〔註10〕》が、|生命の泥《イルピントウ》≠フ底に沈んでいくのを……
――神殿は、昼下がりの午睡のなかに、静かに憩《いこ》っているように見えた。
ジャングルはいつになく静かで、また熱波もさほど激しくは地表をおおっていなかった。
神殿の階段《きざはし》に、二人の男女が腰をおろしていた。彼らは口をとざし、そろって疲れたような表情を浮かべていた。
神殿から一人の若者が姿を現わし、下の二人に大きな声をかけた。二人の男女は立ち上がり、若者を笑いとともに迎えた。
三人はしばらく言葉を交《かわ》していたが、やがて肩を並べて、ジャングルに消えていった。
――三人を、一羽の鳥が見送っていた。
ザルアーの飼っていた|〓《きよう》だった。
|〓《きよう》は三人の姿が見えなくなってからも、ながくジャングルを見据えていた。そして、ついに枝からパッと飛びたった。
蒼穹《そうきゆう》に向かって……
註1 タウライ語は、自然発生的にできあがった部族間共通語。a=あ、i=い、u=う、〓=う、e=え、o=お……と、母音が六つあることが特徴となっている。ただし、〓=うは曖昧《あいまい》母音である。鼻音が多く使われることも特徴の一つに数えられる。
註2 主に食物連鎖から組みたてられた生態図(左図参照)。ただし、この生態図には、神=Aあるいは明らかに架空の生物までが記される場合が多い。例としてマンドールを囲む熱帯降雨林のやおろず≠あげておきたい。
もちろん、このやおろず≠ヘ完全なものとはほど遠いが、実際に旅人たちが記憶しているものも、複雑さに相違こそあれ、大体はこの程度の粗雑な生態図にしか過ぎない。この時代の人間には記録するという習慣がないため、正確な、やおろず≠望むのは不可能事なのである。やおろず≠フ最底辺に、蛍《ほたる》が著されている理由《わけ》は、この物語が進行するにつれ明らかになる。
註3 生神《クマリ》≠ヘ神≠フ化身《けしん》とみなされる。神≠ニ人間との、いわば通訳の任を果たす存在である。神≠ヘ血を嫌《きら》うため、処女、それも月経年齢に達していない少女が選ばれる。生神≠フ資格として他には四十本の歯、均整のとれた足、骨盤の奥深くにある性器、鈴のような笑い声、割れていない爪《つめ》などが数えられる。残り物を食べてはならない、寝台の下を這《は》ってはならないなど、生神≠ノ押しつけられるタブーもきわめて多い。
註4 |振り子《カルナ》≠ニは、この時代に特有なものではない。ロシア・バルト海の農民、インドネシアのスラウエシ島などでは、ブランコを漕《こ》ぐことが神事儀式となっていた。タイにいたっては、ブランコ漕ぎは新年に行なわれる国家儀式にまでなっていたほどだ。
|振り子《カルナ》≠ヘ、|入り口《カルナ》≠ノ通じる。神≠フ世界への通廊の役を果たしていると考えられているのである。
註5 海狸《ビーバー》はダムを造り、小川をせきとめ、大きな沼をつくる。すると、どうなるか……ハタネズミやトガリネズミは増水に追いたてられ、乾いた土地ヘ一斉《せい》に逃げ出す。魚やカエルが沼に増えるため、多くの水鳥が集まってくる。ダム建設に夥《おびただ》しい数の木が伐《き》り倒されるため、シカの食糧が少なくなる。カが繁殖し、水生植物が樹木にとって代わる……要するに、ビーバーは生態圏を一変させてしまうのである。ビーバーを守護神とするチャクラが、どんな性格を持つ男なのかおおよその見当はつこうというものである。
註6 この時代、人間の融通|無碍《むげ》の精神は世界を充《み》たし、かつすべてを織り込んでいる。すなわち、この時代では、神話が著しく脈動しているといえる。
神話は多く、原娘《ウーアコレ》、母、娘という三要素に大きく働きかけられて進化していく。農耕社会を背景にした場合、原娘《ウーアコレ》を核とし、繰り返し再生される母と娘の姿は、そのまま農作物の周期を象徴していると考えられていることが多い。
ザルアーが不感症だとしたら、彼女は母からも娘からも隔絶され、この世の範《のり》を外《はず》れた存在と化すしかない。すなわち、女呪術《じゆじゆつ》師である。
註7 似たような儀式は、かつていたるところで見ることができた。たとえば、メキンコ・インディアンのタフマラ族では、誕生三日目の男児を、トウモロコシの穂軸を燃やすことから生じる煙のなかに突っ込むという儀式が存在した。ただし、これは乳児が長じた後、穀物の栽培≠ノ成功してくれという願いから取り行なわれる儀式で、ザルアーのものとはおよそ正反対の意味を含んでいるといえる。
註8 |黄金の半島《レエーム・トング》≠ヘ、タイ語でインドシナ半島を指す。
インドシナ半島は、うるち米、あるいはもち米を主食とする地域差こそあれ、稲作文化圏という概念に包括されることでは違いがない。その形態は、稲魂《クワン》≠頂点とするやおろず≠ニいう形で、この時代にもつづいている。かつての天水畑作農業、氾濫《はんらん》原農業などに加えて、さらに自然農業という概念が導入される必要があるだろう。要するに、自然そのものが稲作を志向している形態といえるだろう。
本来、熱帯降雨林は農作には適さない風土である。土壌に含まれたミネラルは、あるいは雨に流され、あるいは木の根に吸収され、地を肥え太らせるまでには至らない。頭上を厚く覆う樹葉が、地に植物が育つのに不可欠な陽光を遮《さえぎ》ってしまうのも、農作には致命的といえる。しかし、着生植物が空中に水を貯《た》め|〓〓《ちゆつてき》がジャングルを焼くことで肥えた土壌を生み、さらには|〓魚《かつぎよ》が米を撒《ま》くということになると事情が異なってくる。このジャングルは、いわば自生稲作の格好の地と化しているのだ。
註9 |〓〓《ちゆつてき》は赤外線を感知する能力があり、さらには体を高熱化することで赤外線を放射し、操ることもできるようだ。赤外線を見ることができる生物としては、ゴキブリの存在がよく知られている。
註10 浮稲≠ヘ、東南アジアに特有な種《しゆ》である。一日の草丈伸長速度が十センチ、その長さは実に三メートルに達する。この成長速度を保つかぎり、浮稲≠ヘ東南アジアに頻発《ひんぱつ》する増水からも無事でいられるわけだ。
稲魂《クワン》≠ヘ明らかに、この浮稲≠ノ知性が宿り、さらには神性を帯びたものと思われる。いかにして知性を備えた植物が出現するに至ったかは、まだこの章では説明されない。
第二章 死霊の都
1
たそがれが、暗くその地を閉ざしていた。
およそ、うるおいを欠いた風景だった。地にはまったく起伏がなく、ただ枯れたアシが一面におおっているだけだった。
動くものの一つとしてない眺《なが》めだ。
生あるものはすべて、小虫の類にいたるまでこの地から拒まれているように見えた。もしかしたら、地表を這《は》っている瘴気《しようき》が、生き物の侵入をいっさい阻んでいるのかもしれない。
大地の凄惨《せいさん》さは、なにかしら巨人の腐乱死体を連想させた。血膿《ちうみ》のように黒くただれ、はるか底からブンブンと気泡《きほう》をはきだしているのだ。
そして、気泡が割れ、漂い流れていく先には、必ず青い炎がチロチロと燃えていた。人魂《ひとだま》のように頼りなく、今にも消えそうでいながら、絶対に消えない炎だった。
暗うつな、見る者の胸を悲嘆に閉ざす泥濘《でいねい》地帯なのである。
――バサリッという音がたそがれにきこえ、炎を、そして瘴気を乱した。
なにか巨大なものが、天をかけのぼり、ゆるやかな弧をえがきながら、この地におりてきたのである。
それは、――蝗《いなご》だった。
蝗だったが、体長およそ三メートル、普通の種類《もの》の百倍はあろうかというお化《ば》け蝗なのだ。体は鋼《はがね》のようにてらてらとひかり、事実、矢をはじきかえす鎧《よろい》の強靭《きようじん》さを誇っていた。
この地では、巨大蝗は馬蝗《ばこう》と呼ばれていた。
はるか昔、「蟲《こ》」と呼ばれ、人類を害する凶虫とされていた馬蝗が、巨大な蝗と化して、この地に甦《よみがえ》ったのである。
果てしのない泥濘地帯に、じっとうずくまる馬蝗の姿は、たそがれが生みだした夢魔のように見えた。
その馬蝗の背から、ヒラリととびおりた影があった。
影は、戦士のいでたちをした男だった。
冠は二本の角を備えた|〓豸冠《かいちかん》、衣服はたけの短い黒袴褶《くろうまのりばかま》、腰に剣をつるし、革長靴《ながぐつ》をはいている。黒いマントが風に、コウモリの翼のようにはためいていた。
肉の薄い顔だ。頬骨《ほおぼね》と鼻梁《びりよう》がつきでて、肌《はだ》はなめしたように黒い。その眼は暗く、皮肉な光をたたえ、奇妙に瞑想《めいそう》的な印象をそなえていた。
容貌《ようぼう》をみたかぎりでは、武人とは思えない。なにかしら、詩人のような趣《おもむき》さえある。そのガッシリとした体躯《たいく》が、かろうじて彼の身分を物語っていた。
男は、しばらくたそがれのなかに立ちつくしていた。
「魔物たちよ、出てこい――」
やがて、男の口からうめきに似た声が洩《も》れた。「出てきて、俺《おれ》の未来をうらなえ」
男がそう言うのと同時に、瘴気がゆらりと流れ、一瞬、炎が輝きを増した。
ピタピタと泥を踏む足音が、どこからともなくきこえてきた。硫黄《いおう》を燃やすような異臭が、しだいに瘴気に滲《にじ》みはじめていた。
ふいに、立ち枯れたアシがザワザワと激しく揺れ――そこに三人の老婆が出現した。
三つ子かと思えるほどに、よく似かよった老婆たちだった。汚《よご》れた白髪は乱れに乱れ、その肌は枯れ葉のようだ。しわのなかの眼は、悪意と狡猾《こうかつ》さをたたえ、陰険にひかっている――老いたヒヒを連想させる醜怪さだ。
「これはこれは雲龍《うんりゆう》さま――」
老婆の一人が、カラスのようにしゃがれた声でいった。「いつもながらのご雄姿――わしらのような婆《ばばあ》でも、胸がたかなる思いがしますじゃ」
「黙れ、真夜中の婆《ばばあ》たち――」
雲龍と呼ばれた男は吐きすてるようにいった。「きさまらの汚《けが》れた追従《ついしよう》などききとうもないわ。まったく、耳の腐る思いがする」
老婆たちはかんだかい笑い声をあげながら、アシのなかをザザーッと移動した。硫黄のにおいがさらに強くなる。
「それでは、なにしに来なすった」
「謀《はかりごと》を」
「人殺しを」
「敵《かたき》の肺腑《はいふ》をえぐるため」
「油鼎《あぶらかま》でゆでるため」
「それとも、魔神を呼びだすために」
馬蝗が、なにかに怯《おび》えたように、その羽をバサッとひろげた。
だが、――雲龍は臆《おく》した様子を見せなかった。その体は、巌《いわお》の不動を保っていた。
「誰《だれ》が、きさまら魔物の力をかりたいものかよ」
と、雲龍は嗤《わら》った。「それこそ、身の破滅だわ――きけ、真夜中の婆《ばばあ》たち、昨夜、俺の星が変わった」
「…………」
老婆たちは、それぞれアシの陰にうずくまった。ひっきりなしに、ささやき声、クスクス笑いがきこえてくる。
「俺の星が宿《しゆく》を捨てた《〔註1〕》――」
雲龍は、老婆たちの無礼にもいっこうにひるむ色を見せなかった。「俺の星が宿を捨て、県圃《ケンポ》を侵した。そして、県圃は玄〓《げんこう》に淫《いん》している――うらなえ、婆《ばばあ》たち、俺の未来を読むがいい」
「運がめぐってきた」
老婆の一人が手をうち鳴らしていった。「〓??は亡《ほろ》びのしるし、――県圃はほどなく滅びるじゃろうて、そして勇敢なる雲龍さま、県圃を滅ぼすのはあなたさまじゃ」
「きさまたち魔物は、人を喜ばせながら地獄に誘《いざな》う」
雲龍の表情は変わらなかった。「謀叛《むほん》にしくじって、斬《き》り落とされた俺の首のまえで、踊るつもりにちがいないわ」
「誰が、あなたさまの首を斬れるものかよ」
「県圃の里が笑わぬかぎり、謀叛がしくじることはない」
「女の腹から生まれた者は、誰も雲龍さまにかなわない」
「県圃は滅びる」
「滅ぼすのは、雲龍さま」
老婆たちは口々にいった。屍肉《しにく》をついばむカラスの啼声《なきごえ》のように、不吉なひびきを帯びていた。
老婆たちの叫声が止《や》んだ後も、雲龍はしばらく凝然としていた。
「きさまたちは、甘言を弄《ろう》して人をのっぴきならないはめにおとしいれる――」そして、いった。
「だが、嘘《うそ》だけはつかん……そうか。県圃の里が笑わぬかぎり、謀叛がしくじることはないか。女の腹から生まれた者は、俺にはかなわんか……なんで、県圃の里が笑いだすものか。どこに、女の腹から生まれぬ奴がいるものかよ」
ふいに、雲龍は肩のマントをバサリとはらいのけ、叫んだ。
「俺の星が県圃の星を喰いつくそうとしている――それが俺の運命《さだめ》なら、なんのかまうことがあるものか。県圃に反逆し、この手を真っ赤にそめてくれるわ」
雲龍の叫びは、雷のようにたそがれをつんざいた。その凄《すさま》じい気魄《きはく》に、さしもの三人の老婆たちもたじろいだようだった。
「その意気じゃ」
老婆の一人が笑い声をあげた。「雲龍さまにこわいものなど一つもないわ」
「そうでもなかろうて」
別の老婆がささやくようにいった。
「一つだけ、じゃが」
三人めの老婆がクスクスと笑った。「一つだけ、こわいものがあったろうが」
「ほう……」
雲龍の唇《くちびる》に薄く笑いがさした。「この醜いヒキガエルどもが……俺がなにをおそれねばならないというのだ? いったらどうだ。いいたくて、それ、きさまの喉《のど》がグビグビと波打っているではないか」
「旅人じゃ」
老婆の一人がいった。
「旅人だと……」
雲龍の眼がスッと細くなった。「どんな旅人だ?」
「三人連れの旅人じゃ」
「若者が一人に、男が一人、それに女が一人の三人旅……」
「こやつらは雲龍さまにとっては、布衣《ほい》の下のハチのようなもの――早く始末せぬと、チクチク刺して、それこそいつかは命取りにならんともかぎらぬて」
「三人連れの旅人か……」
雲龍の顔からは、さっきの興奮が拭《ぬぐ》われたように消えていた。そのかわりに、鉛のように青く、重い冷徹さがよみがえっていた。
たそがれは急速にその深さをまし、いま、闇《やみ》が泥濘《でいねい》地帯を覆いつつあった。
「ところで、きさまたちヒキガエルも、生まれたときにはやはり人の子だったろうな。うらないなどつゆほども知らぬ、無垢《むく》な赤子だったにちがいない……」
闇のなかに、三人の老婆たちのたじろぐ気配があった。
「なあ、真夜中の婆《ばばあ》たちよ――」
雲龍の声は優しく、なにかうっとりとしたようなひびきを帯びていた。「一度でもおのれの星をうらなおうとしたことはないのか。今からでも遅くはないだろう。吉兆いずれと出るか、うらなってみてはどうだ」
老婆たちは悲鳴をあげた。泥のうえを、先をあらそって逃げる足音がきこえてくる。
馬蝗《ばこう》が大きく跳躍すると、雲龍の頭上をとびこえ、闇のなかに消えていった。
老婆たちの絶叫も、骨を噛《か》み砕くような音も、雲龍の耳には達していないようだ。
詩人が詩想に酔っているような恍惚《こうこつ》とした表情を浮かべ、その唇には微笑さえたたえていた。
「女の腹から生まれた者は、俺にあだすることはかなわぬ――」
雲龍はなかば歌うようにいった。「婆《ばばあ》たちさえ、あのざまだ……なんの、旅人ごときをおそれる必要があろうか。この手で握りつぶしてくれるわ」
闇のなかに、最初は低く、やがては高く、雲龍の笑い声がひびきわたった。
2
銀≠ヘみごとなキツネだった。
体長は八十センチに達し、体重は十キロにちかい。なによりみごとなのは、その銀白色にかがやく体毛だった。普通、銀ギツネと呼ばれる種類は、単に毛の先端が白くなっているだけなのだが、銀≠フ場合は毛皮そのものが銀白色と化しているのである。
実際、山野をかけめぐる銀≠フ姿は、彗星《すいせい》のように光芒《こうぼう》をひいて見えた。
もちろん、銀≠ェ自分の美しさを意識することはない。銀≠フ意識を唯一占めているのは、いかにして獲物《えもの》を獲得するかということだけなのだ。
ただ、キツネにとって、獲物の獲得は必ずしも狩猟を意味しない。キツネは捕食者であると同時に腐肉食動物だからである。山野では、動物の死体にはこと欠かない。なにも苦労して、ウサギやキジやウズラを追い回す必要はないのだ。
だが、――今日の銀≠ヘついていなかった。一日山野を歩き回っても、ネズミの死骸《しがい》ひとつ見つからなかったのだ。
一度、草陰にひそんでいるジネズミを見つけたが、前肢《まえあし》を振りおろすより早く、穴に逃げこまれてしまった。銀≠ヘ穴掘りにたけてはいるものの、とうていジネズミの相手ではない。あきらめるしかなかった。
非常に不本意ではあるが、今日の銀≠ヘ甲虫《かぶとむし》でもさがして、食欲を満足させるほかはないようだった。
銀≠ヘ自分の臭跡をたどって、巣穴へと戻《もど》り始めた。
いや、戻ろうとしたのだが――そのとたんに、銀≠フ鋭い聴覚が草の折れるかすかな音をとらえたのだ。
しばらく、銀≠ヘ大きな耳を前方に倒して、その音が危険をはらんでいるかどうかたしかめようとしていた。
だが、危険の有無をたしかめるより先に、血のにおいが銀≠圧倒した。まったく、今の銀≠ノは、体がしびれるほど魅惑的なにおいだったのだ。
銀≠ヘ迷った。
本来、キツネは非常に臆病《おくびよう》な動物なのである。その大きな外耳は、いわば危険探知装置の役をはたしているといえた。不審な物音は、なかば自動的にキツネに逃走の姿勢をとらせるものなのだ。
しかし、血のにおいを無視するには、銀≠ヘあまりに空腹にすぎた。いうならば、食欲が銀≠フ盲目的な逃走をはばんだのである。
銀≠ヘすぐにも逃走可能な姿勢をとり、前方の茂みをジッと見つめていた。
どうやら、血のにおいはその茂みの向こうから流れてくるようなのだ。
野性動物の習性を考えれば、ありうべからざることだ。銀≠ヘ物音が近づいてきても、その場を一歩としてしりぞこうとはしなかったのだ。
なにかしら、魔にとり憑《つ》かれた瞬間としか形容しようがなかった。
茂みが左右にわかれ、そこにはなにか見知らぬものが現われた。
キツネは、自分のテリトリーを知りつくしているものだ。危険は単に、見慣れた場所の見慣れぬものということから判断される。現に銀≠ヘ、自分がいま眼前にしているのがヒトであるということすら理解していなかった。
銀≠ヘそれが人間だから、危険と判断したのではない。それが人間であろうがなかろうが、見知らぬ動くものは、常にキツネのなかに恐怖と逃避反応をひきおこすのだ。
だが――逃げだすには、あまりにそれが接近しすぎているように思えた。銀≠ヘ恐慌状態におそわれ、――その結果、もう一つの本能が引き金をひかれることになった。
擬死である。
銀≠ェ横たわるのを見て、それが声をあげた。
「あれまあ――」
チャクラは驚きの声をあげた。
バッタリと出会ったキツネが、眼の前でとつぜん倒れたのである。チャクラでなくても、驚かない方が不思議だったろう。
倒れたのがシカかなにかであったのなら、チャクラもこれを天の恵みとして受けとったかもしれない。なにしろ、森のなかを半日うろつきまわったあげくがウサギ一匹――これでは、とうてい豪華な晩餐《ばんさん》は望めなかったからだ。
だが、キツネが相手ではさほど食欲もわかない。第一、病気のキツネを食べたりして、腹でもこわしたらことではないか。
チャクラは、そのキツネを晩飯にしようという考えはすぐに捨てさった。それでいながら、なおその場を立ち去りかねていたのは、キツネの毛皮があまりにすばらしかったからである。
実際、それは銀の糸を織りなしてつくられているようにさえ見えた。森の中をうろつくのにはいい加減慣れているはずのチャクラだが、いまだかつてこれほど美しいキツネは見たことがない。
チャクラはなかば反射的に、ザルアーのことを思い浮かべていた。――マンドールのジャングルならいざ知らず、この辺りで薄衣《うすぎぬ》一枚ではいかにも寒そうだ。この毛皮を贈ってやれば、さぞかし喜ぶのではなかろうか……
男二人は、物々交換で筒袖《つつそで》の馬褂児《マークアル》(腰までの上衣)と、套〓《タオクー》(ズボン)を手に入れることができた。だが、女ものの衣類はどこでも貴重品で、チャクラたち流れ者にはどうにも手がだせなかった。
かねてからそのことが気にかかり、後ろめたくも思っていたのだ。ここで、極上の毛皮を持ちかえることができれば、ザルアーのチャクラに対する評価はいちじるしく上昇するはずだった。
チャクラは腰のナイフに手をあてながら、キツネに近づいていった。料理を得意とするチャクラは、また皮はぎにもたけている。それこそ、鼻歌まじりでできる仕事のはずだった。
だが、チャクラが腰をかがめ、手をのばそうとしたそのとき――毛皮がパッとはね起きて、足元をくぐり抜けていった。その際、チャクラが手にしているウサギをくわえこみ、ひっさらっていくのを忘れない。
ほんの瞬きする間に、キツネは茂みにとびこんで、姿を消してしまった。
後には、ただ呆然《ぼうぜん》としているチャクラだけが残された。口を大きく開いて、その顔が全体にだらしなく弛緩《しかん》している。本人は気づかないが、実に滑稽《こつけい》な表情になっていた。
「だまされた……」
やがてチャクラはボソリとつぶやき、おのがつぶやきに怒りをかきたてられたようだ。
「お、お、俺はだまされた。キツネにだまされた。畜生にだまされた。人間としてはずかしい。ほ、誇りを傷つけられた――」
拳《こぶし》を振りまわし、じだんだを踏む口惜《くや》しがりようだ。その口から泡《あわ》をふきかねない勢いだった。
実際には、キツネが人間をだますはずがなかった。ただ、擬死から蘇生《そせい》したとき、たまたま眼の前にウサギがあっただけのことなのである。
だが、チャクラがキツネにだまされたと錯覚してもふしぎはない。情況をみたかぎりでは、たしかにキツネのペテンにひっかかったともいえるからだ。
「ゆ、ゆ、許さんぞ」
チャクラは喚《わめ》き、キツネが消えた茂みのなかにとびこんだ。あのキツネをとらえずにおくもんか、という激情にかられたのだ。
――森には、午後のやわらかい陽光が充《み》ちていた。
カエデや、カシの木がやさしい陰影をあやなし、地床には顕花植物があざやかな色彩を散らしていた。
ピンクの花を咲かした蔓性灌木《つるせいかんぼく》をくぐるようにして、白いカゲロウが漂っている。トビハムシは葉から葉へと飛びうつり、ウンカは樹葉の汁を吸っている――ここでは、マンドールのジャングルのように過剰なものはひとつもなく、すべてがほどよく調和がとれていた。植物と動物がまろやかな共同体を形成し、ともに生の息吹《いぶき》をやさしく伝えてくるのだった。
だが、今のチャクラには、自然のやさしさに心を奪われている余裕《ゆとり》はなかった。木《こ》の間《ま》にみえかくれするキツネを追うのに、懸命になっていたのだ。
陽光をあび、キツネの銀毛皮はさんぜんとした輝きを放っていた。チャクラの視界のなかで、それはとびはねる火の粉のように映っていた。
キツネは走り、チャクラも走った。
森の腐葉土は、決して走るのに適した土壌ではない。どうかすると足にからみつき、走るチャクラをひきずりたおそうとさえするのだ。だが、――興奮しているチャクラは、そんなことはいっさい意に介さなかった。彼の意識は、ただキツネをとらえるという一点にのみ絞られているのだった。
もちろん、キツネの脚力ははるかに人間にまさっている。いかにチャクラがやっきになろうと、キツネとの距離がしだいに開いていくのはいかんともしがたかった。
キツネの姿は視界から消え、足ももつれ始めていたが、チャクラはなおも追跡をあきらめようとはしなかった。喉をぜいぜいとならし、ほとんど這《は》うようになりながら、とにもかくにも追跡をつづけているのだ。
キツネに騙《だま》されたという屈辱感が、チャクラをいささか偏執《へんしゆう》的にしているようだ。
――ふいに、森林の様相が一変した。
大鉈《おおなた》で断ち切ったように、ある一線をさかいにして、植物相がガラリとかわっているのだ。
さしものチャクラも、そこから先へ足を踏み入れるのはためらわれた。その森林を眼にしたとたん、赤く熱していた興奮が水をかけられたように冷えていくのがわかった。
数十メートルはあろうかと思われる巨大な樹木が密生しているのだ。一本の例外もなく、樹皮にはウロコ状の模様が浮かんでいた。葉は巨大で、厚く、林冠をビッシリと覆いつくしている。樹木そのものは、悪夢のような深紅《しんく》色だった。
ふしぎなのは、森林のこちら側のような花や、灌木の類がいっさい見られないことだ。ただ単調に、巨木が密生しているだけなのである――もちろん、陽《ひ》はさしこんでいない。暗く、ジメジメとして、こちらの森林の華やかさとは比べうべくもなかった。
その森林がどれほどの規模のものであるかはわからない。巨木にさえぎられ、視野がまったくないからだ。
チャクラがその森林に足を踏み入れることをためらったのは、単に見慣れなかったからだけではない。そこには、なにか一種おぞましいような雰囲気《ふんいき》が漂っているように感じられたのだ。全身が鳥肌《とりはだ》立つような、ひどく異様な雰囲気が……
キツネがその森林に逃げこんだことはわかっていた。しかし、チャクラにはもうキツネを追うだけの気力は残っていなかった。眼前の森林のあまりの無気味さに、気勢をいちじるしく削《そ》がれてしまったともいえる。
チャクラはなにかうすら寒いような表情で、しばらく森林を見つめていたが、――やがてその眼を細くせばめた。
二、三歩、足を進めて、自分が眼にしているものをたしかめる。
巨木の一本に、こんな模様がきざみつけられていたのだ。
〓《〔註2〕》
「…………」
いまだかつて、チャクラが見たことのない模様だった。おそらく甲骨文の一種に思われるが、占卜《せんぼく》にくわしくないチャクラには、その意味をよみとる手段《すべ》もなかった。
その模様の形をより詳細にたしかめようと、なおも顔を巨木に近づけるチャクラに、
「それは、県圃《ケンポ》の象徴だ――」
とつぜん、背後からそう声がかかったのだ。
「ヒェッ」
チャクラの驚きようはなみたいていのものではなかった。文字通り、ピョンととびあがり、体を独楽《コマ》のように回転させたのだ。
いつからそこに居たのか、巨木の陰に一人の男がうっそりと立っていた。
陽光がさえぎられ、容姿のほどはさだかではないが、ただ非常な巨躯《きよく》の持ち主であることだけはわかった。二本角の冠をかぶり、黒いマントが風をはらんでひろがっていた。
「こりゃあ、どうも――とんだ粗相《そそう》をいたしまして、つい気がつかなかったものですから……」
チャクラはひたすら恐縮した風を装《よそお》いながら、その男が共通語たるタウライ語を使ったことに奇異の念を抱いていた。県圃《ケンポ》を中心として、この地方の人間は非常に中華思想がつよいときいている。タウライ語など、耳にするのもけがらわしいと思っているはずなのだが……
「銀ギツネを追ってきたな――」
と、その男が言った。「そして逃げられた。そうではないか」
「まったく、その通りなんで……」
チャクラは頭を掻《か》いてみせた。
「まぬけな話なんですが……あのキツネにはだまされちまいましてね。それでカッとして、ついここまで追っかけてきちまったんですよ」
「キツネはキツネだ」
男はずけりと言った。「人間をだますことができるほど利口なわけがない――ただ、あのキツネには特殊な能力が備わってはいるがな」
「……どんな能力なんですか」
「幸運だよ」
「…………」
「あのキツネには、常に幸運がつきまとっている。だからこそ、あれほどの毛皮を持ちながら、これまで生きのびてこられたのだ……俺はあのキツネを初めて見て以来、自分の守り神だとかたく信じている」
「――それはどうも、知らなかったものですから、とんだご無礼を……」
チャクラはあわてて頭をさげたが、その一方ではいつでも逃げだせるように、爪先立《つまさきだ》ちになっていた。守り神を傷つけようとしたということで、いつその男が斬りかかってこないともかぎらなかったからである。
「気にすることはない――」
男の声が嗤《わら》いを含んだ。「俺自身が、いつかはあのキツネをしとめようと考えていたのだからな」
「へ……」
「俺がこの手で守り神を殺せばどうなるのか――そいつを見とどけたくてな」
「…………」
チャクラの想像を絶する考えだった。男の言葉は、たとえばチャクラが守護神たる海狸《ビーバー》を殺そうと公言したに等しい。守護神の死は、そのまま護《まも》られていた者の滅びにつながるはずなのだが……
「これから先は禁域だ――」
男が言葉をつづけた。「それを知らないとは、どうやらおまえは旅人のようだな」
「ハイ……」
チャクラは腰をかがめた。
「一人旅か」
「いえ、ほかに二人連れがいます」
「……女が一人に、男が一人――そうではないか」
「おおせのとおりで」
チャクラは不思議だった。どうして、見ず知らずの男がそんなことを知っているのか。
「…………」
男はしばらく沈黙した。奇妙に、緊張を感じさせる沈黙だった。
その沈黙に絶えきれず、チャクラが口を開きかけた瞬間――男の爆発するような笑い声が森林をつんざいた。
「俺の名は雲龍――」
男の声は笑いにうち震えていた。「県圃《ケンポ》に入ったら、俺を訪ねてくるがいい。誰《だれ》にきいても、俺の居所はわかるはずだ」
あっ、とチャクラが体をのびあがらせたときには、雲龍と名のった男の姿はもう森のなかに消えていた。一瞬、木の葉がたかくまいあがり、――そしてサラサラと地に落ちていった。
チャクラは呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる。今の今まで、自分が誰かとしゃべっていたということが夢だったような気がしてくる。
チャクラはなにかに引き寄せられたように一歩を踏みだし、そしてつまさきに当たるものを感じた。拳ほどの大きさの植物だった。褐色《かつしよく》の茎が巻きちぢんで、バラの蕾《つぼみ》のような形になっているのだ――もちろん、チャクラはそれがなんという名の植物だかは知らない。
チャクラはなんの気なしに、その植物を拾いあげ、掌にのせてフッと吹いてみた。カサカサと乾いた音がした。
――獣脂《じゆうし》のこげるにおいが、辺りに充《み》ちていた。
ゆらめく炎に赤々と照らしだされ、森は陽気に手をあげて踊る群集のように見えた。たき火のなかではじける枝は、さしずめ祭りの爆竹といったところか。
ジローは地に横たわり、心地よい充足感にひたっていた。傍らでは、ザルアーが仰臥《ぎようが》し、その豊かな乳房を上下させている。
セックスを知りはじめた頃《ころ》は、ジローは体の底から噴きあげてくる衝動に身をまかせ、ただただザルアーを貪《むさぼ》ることに熱中していたものだ。それが最近になって、心にひだをなす微妙な陰影、慈《いつく》しみに似たものを強く意識するようになっていた。
ながく旅を一緒につづけてきたことが、二人の仲をたんなる男女の関係以上のものにしているようだ。
実際ジローはザルアーのことを思うと、温かな安らぎのようなものが胸に溢《あふ》れてくるのを覚える。その安らぎに身をひたして、一生を平和に送ってどうしていけないのかと思う。
だが、――ひとたび稲魂《クワン》≠フ神殿に身をおくランのことを考えると、その安らぎが一気に遠のいてしまうのだ。焦燥感が胸を熱く焦がし、なにか叫びだしたいようなものぐるおしさにとらわれてしまうのだ。
しかし、今夜はもうしばらくこのままでいたい。ザルアーがつむぎだすやさしさに、鼻まで埋まって、とろとろとまどろんでいたいのだ。
「チャクラ、遅いわね――」
ザルアーが囁《ささや》くように言った。「あの男《ひと》は、いつでもどこかへ行ったら行きっぱなし……」
「…………」
ジローは眼を開けた。
星空がのしかかるように、ジローの視界に迫ってくる。一瞬、星屑《ほしくず》の海を漂っているような、よるべのない浮揚感にとらわれる。――星空は、なぜかいつもジローをさびしい気持ちにさせた。
暗い森のどこかで、梟《ふくろう》がホウホウと鳴いている。
「県圃《ケンポ》までは、後どれくらいだろう」
ジローがボソリときいた。
「明日の夜には着けるんじゃないかしら」
ザルアーが答えた。「緑の草原にかこまれた、とても美しい町だそうだわ」
「マンドールの町とどちらが大きいかな」
「わからないわ……でも、そこの人たちは、県圃は天に通じている町だと考えているそうよ。崑崙《コンロン》の頂上にある町だって……」
「崑崙……」
「むかしむかし、百神の住む世界だとされていたところよ……そこでは生の苦労がいっさいなくて、人は不老不死を約束されているということだわ……マンドールの町で、年寄りがそんなふうに話しているのをきいたことがあるわ……」
「じゃあ、県圃の町にも稲魂《クワン》≠ェいるのかな」
「マンドールは遠いわ――」
ザルアーの声が微《かす》かに笑いを含んだ。「県圃には、別の人、別の獣、別の神が住んでいるのよ……」
「別の人、別の神か……」
ジローはつぶやくように言った。「そこでだったら、きっと誰かが|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フことを教えてくれるにちがいない」
「そうね……」
ザルアーがそううなずいたとき、森の方からガサガサという葉ずれの音がきこえてきた。
ジローとザルアーはともに上半身を起こし、暗い森を注視した。ことさら警戒心を抱く必要もない。チャクラが帰ってきたに決まっているからだ。
だが、――次の瞬間、二人は声をあげて跳《は》ね起きていた。二人が森に見たのは、チャクラとは似ても似つかないものだったのだ。
不定形な、なにか泥をこねあげたようなものだった。半透明で、繊維の束《たば》のようなものが内部に見える。ブヨブヨと震えているのも、その色が鮮やかなピンクなのも、胸が悪くなる気持ち悪さだ。
そいつが、ピタピタと擬足《ぎそく》をのばし、二人に這《は》い寄ってくるのだ。
ザルアーが悲鳴をあげジローは腰の剣を抜きはなった。そのとたん――ジローの視界が薄くピンク色に染まった。泥濘《ぬかるみ》のなかで身もがいているように、体の自由がきかない。そればかりか、ふいにそいつに対する嫌悪《けんお》感が拭《ぬぐ》われたように消えていたのだ。
ジローはうっとりとそいつを眺《なが》めていた。どうして、こんな美味しそうなものを気味が悪いと思ったのか。今、たき火のなかで焼かれている鹿肉《しかにく》など、こいつに比べれば屑のようなものではないか――唾《つば》がわいてくる。はやく、そいつを胃のなかに収めたい……
「だめよっ」
ザルアーの甲高《かんだか》い悲鳴が、しかし妙に遠い感じできこえてくる。「それは、視肉なのよ」
だが、かまわずジローは、そいつに近づこうとした。誰がなんと言おうと、それを食べないでいられるものか……
ジローの指がそいつに触れようとする寸前、その腰にしがみつき、つきとばした者がいた。
チャクラだ。
地につき倒されたとたんに、ジローの頭に正気がよみがえった。最初に見たときに倍する嫌悪感が、喉元《のどもと》にこみあげてくる。あいつを食べる? あの化《ば》け物を……
「大丈夫か」
チャクラの声も、ほとんど耳に入っていなかった。あまりのおぞましさに、全身がそうけだっていた。
ジローは気をとり直して、ふたたび森林に眼をもどしたときには、もうそいつの姿は消えていた。
3
緑の山に風が吹いている。
風は山肌《やまはだ》をおおっているタンポポをそよがし、白い冠毛《かんもう》を吹き上げる。冠毛は斜面をつたい、右に左に漂いながら、蒼空《あおぞら》たかく昇っていく。
陽光をあび、キラキラとかがやきながら、空に舞いあがっていくのだ。
まるで、無数の針が上昇していくような眺めだった。
そんな冠毛がただよう山道を、三人の男女が歩いていく。
ジロー、チャクラ、ザルアーの三人であった。
日差しが強いせいか、風が吹いていても肌寒さはおぼえない。歩いていると、それこそ汗ばんでくるような陽気だった。
「県圃《ケンポ》はまだ遠いのかな」
ジローがきいた。
「この山をおりると、草原があるはずよ」
ザルアーが応じた。「その草原の真ん中に県圃があるんだわ」
「県圃か……」
チャクラがぼそりとつぶやいた。浮かぬ顔をしている。
チャクラは昨日の、あの雲龍と名のった男のことを思いだしていた。
なんとはなしに気にかかる男だ。おのれの守護神を銀ギツネと断じ、その守護神を殺したいとうそぶくあの男には、一種悪の魅力とでもいうようなものがそなわっていた。
チャクラは直感的に、あの雲龍という男が自分の運命にふかく関《かか》わってくることを確信していた。
たしかに魅力的な人物だ。だが、その魅力には、毒花の華麗さと共通するものがあるようだった。
できれば、避けて通ったほうが賢明な人物にはちがいない。
もちろん、チャクラに雲龍を訪ねようという気持ちはさらさらない。その気はないが、県圃に足を踏み入れれば、必然的に雲龍と関わりあうことになるような予感がするのだ。
それが、チャクラには不安でもあり、おそろしくもあった。
しかし、いまさら引き返そうというわけにはいかない。雲龍と会ったことのない二人に、チャクラの不安を説明するのははなはだ困難だったからだ。
だから、チャクラは浮かぬ顔をしながらも、二人にしたがい、山道をトボトボと歩いているのである。
ふいに、ジローが足をとめた。
「どうしたの?」
と、ザルアーがきく。
「なにかきこえてくる――」
「え?」
「なにかきこえてくるよ」
「…………」
ザルアーとチャクラはともに耳をすました。
なるほど、うららかな陽光にまどろんでいるような山道を、コットンコットンという音がたしかにつたわってくる。
危険を感じさせるような音ではない。
のどかな大揺鼓《だいようこ》(太鼓)の調べだ。それも、一人の人間が打ち鳴らす音ではない。大勢の人間が調子をあわせて、大揺鼓をたたいている音だった。
三人はたがいに顔を見あわせ、とにかく道の端に身を寄せた。
山道にはおびただしい冠毛がただよい、霞《かすみ》がかかったように視界が定かではなかった。その、白濁し、陽光にきらめく山道を、単調な大揺鼓の調べがしだいに迫ってくる――三人はジッと身じろぎもせずに、前方を凝視していた。
ふいに、冠毛がただようなかに、巨大な影がヌーッと浮かびあがった。
三人は思わず声をあげ、数歩あとずさっていた。
身の丈およそ三メートル、黄金《こがね》色の顔に四つの赤い眼をぎらつかせた怪物だ。黒い衣に赤いはかま、手には槍《やり》と盾《たて》をかまえていた。
おだやかだった大揺鼓の調べが、耳をふさぐ騒音と化し、急速に緊迫感を増しつつあった。
巨大な怪物の背後に、髪をふり乱した鬼たちがわらわらと現われはじめた。
「おうっ」
恐怖から生じた反動が、ジローに剣を抜かせ、その怪物に突進させていた。
ジローは怪物の脛《すね》めがけて、思いきり剣をふるった。
カタン、という乾いた音がした。明らかに、生き物を斬《き》ったときの手応《てごた》えとはちがっていた。
怪物はドウと倒れ、その長いはかまから竹をむきだしにした。倒れると同時に、なにごとか口汚《くちぎたな》く喚《わめ》きたてる。
ジローは呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる。
それは、怪物ではなかった。たんに、高脚《カオチヤオ》(竹馬)をつけ、怪物の衣装をまとった一人の男にすぎないのだ。もちろん、背後の鬼たちも仮装した人間なのだった。
大揺鼓を鳴らしていたのは、鬼の背後にしたがう子供たちだった。子供たちは、いずれも赤い布で頭を包み、黒い上っぱりを身につけていた。
おそらく、子供たちの人数は百人をこえているように思われた。大揺鼓の調べが、非常にたかくきこえたのも当然のことだったのだ。――ただし、今、子供たちは大揺鼓を鳴らしていない。とつぜん現われた乱暴者に、みな悲鳴をあげて、あとずさっているのだ。
鬼の面をつけた男たちが、怒声をあげながら飛びだしてきた。そのうちの何人かは剣を抜きはらっている。
山道にただよう冠毛が、その騒ぎに大きく舞い上がった。
「待ってくれ――」
チャクラがジローをかばうようにして、タウライ語で叫んだ。「誤解だ。俺たちは勘違いしたんだ。あんたたちを本当の悪魔と思ったんだ」
だが、この地方では、共通語たるタウライ語が理解されることは少ない。チャクラの叫びは、たんに男たちの怒りに火をそそぐ結果としかならなかったようだ。
鬼の面をつけた男たちは十人以上を数えた。いかにジローでも、これだけの人数と戦えばまず勝ちめはない。言葉が通じないだけに、事態はなおさら絶望的といえた。
「俺の責任だ――」
さすがにジローの顔は青ざめていたが、その声には断乎《だんこ》とした響きが充ちていた。「ここは俺がふせぐから、ザルアーを連れて逃げてくれ」
チャクラが口をひらくより早く、ザルアーが悲鳴をあげるようにいった。
「駄目《だめ》よ、みんなで逃げるか、それとも三人一緒に死ぬかだわ」
だが、すでに逃げのびるのは不可能な情況だった。男たちの何人かは背後に回り込み、三人は前後から挟《はさ》まれる形となっていたからだ。
男たちはじりっじりっと前後から迫りつつあった。誰かが一声あげれば、男たちは一|斉《せい》に襲いかかってくるだろう。ジローの剣も、そしてもちろんチャクラの料理ナイフも、その襲撃にはどう抗しようもないはずだった。
が、――甲高い声がふいに響きわたり、今しも襲いかかろうとしていた男たちの動きをとめたのだった。
男たちをかきわけるようにして、その声の主が進み出てきた。
なんとも奇怪な印象をそなえた男――いや、少年であった。
一種|妖気《ようき》を帯びているようなトロリとした美少年だ。顔に白粉《おしろい》をはたき、唇《くちびる》に朱をさしている。袖口《そでぐち》の広い長袖《チヤンシウ》は、紅絹《もみ》で織りあげられたものだった。
少年は三十センチほどの竹筒を持ち、その端で肩をたたいていた。竹筒は肩にあたるたびごとに、ジャラジャラという金属の響きを発していた。
少年の顔には、髭《ひげ》というものがまったくなかった。
「宦官だ《かんがん〔註3〕》――」
チャクラがジローにソッと囁《ささや》いた。
「旅の方ですね」
そう呼びかけてきた少年の声は、なるほど、少年のものにしてもあまりに甲高《かんだか》すぎるようだった。
ただしジローたち三人にはその声は天国のたえなる調べのようにきこえた。少年は、実になめらかなタウライ語を話すのである。
「どうも、とんだ粗相《そそう》をいたしまして」
ここぞとばかりに、チャクラが声を張り上げる。「行列を乱す気はさらさらなかったのですが……なにぶん、こちらの小僧がとんでもないそこつ者でして――こら、小僧、みなさんにお詫《わ》び申しあげねえか」
チャクラにこづかれ、ジローはしょうことなしに頭を下げた。
「ほ、ほほ……」
少年は、優雅な笑い声をあげた。
「旅のお方ゆえ――打鬼《ダーコイ〔註4〕》の行事を知らなかったのも無理のないことでしょう。ただ……」
「ただ?」
「その剣をはやく収めていただけませんか。生来の臆病《おくびよう》者、どうも光るものを見ていると気持ちが落ち着きません……」
少年はスッと竹筒を下ろし、ジローの剣をさし示した。
ジローがあわてて剣を収めたのは、必ずしも非礼を恥じたからばかりではなかった。少年の持つ竹筒に、なんともいえぬ圧迫感を覚えたからだった。それは、どこから見ても何の変哲もない竹筒だったのに……
「ほ、ほほ……」
少年はふたたび甲高い笑い声をあげ、竹筒を汗巾《ハンチン》(腰帯)の間にさしこんだ。「私の名前は小丑《シヤオチユウ》――そう、タウライ語で申せば道化《どうけ》師といった意味ですか。県圃《ケンポ》の内官監《ないかんかん》=Aおよび鐘鼓司《しようこし》≠フ任をおおせつかっている者でして……この先にある村の出張司でございます」
少年は唇の端からちろりと赤い舌をのぞかせた。なにか白蛇《はくじや》を連想させるような笑いだった。
「…………」
ジローとチャクラはあいまいにうなずいている。県圃の行政を知らない彼らには、役職を説明されたところで、小丑《シヤオチユウ》という少年がどんな地位にあるのかわかるはずもなかったからだ。――二人の背後に立つザルアーの眼には、嫌悪《けんお》の色が浮かんでいた。たしかに、若い女にとって、美しい宦官ほど忌むべき存在はなかったにちがいない。
「私はこれから打鬼《ダーコイ》の儀式につきしたがわねばなりません」
小丑《シヤオチユウ》は、優雅に掌《て》をヒラヒラとさせながら言った。「なにぶん、年にいちどの大切な儀式ですので欠席するわけにもいかないのです……あなた方は県圃に行かれるおつもりですか」
「はあ……」
チャクラがうなずく。
「それでは、いずれにしろ私の村にたち寄っていただかねばなりません――もしよろしければ、今夜は私の家におとまりいただきたい。村で小丑《シヤオチユウ》といえば、誰でも教えてくれるはずですから……職務がら、いろいろおききしなければならないこともありますので……」
小丑《シヤオチユウ》は軽やかに一礼すると、蝶《ちよう》が羽をひろげるように両手をあげた。
子供たちが一斉に大揺鼓を鳴らし始めた。
先頭の男は新たな高脚《カオチヤオ》に乗り、また鬼の面をつけた男たちもそれぞれに姿勢をただし、ふたたびシズシズと行進を開始した。
ジローがピクンと身を震わせ、数歩後退した。
小丑《シヤオチユウ》がすれちがいざまに猿臀《えんぴ》をのばし、ジローの逞《たくま》しい胸をさわっていったのだ。
小丑《シヤオチユウ》は笑い声をあげ、ジローは怒りと恥辱で顔を真っ赤に染めていた。
――笑い声はしだいに遠のいていく。大揺鼓の調べも遠のいていき、やがてフッときこえなくなる。
一瞬、冠毛が白く視界を閉ざし、ふたたび山道がひらけたときには、もう行列さえ見えなくなっていた。
後には、呆然と立ちすくむジローたち三人が残されていた。
三人ともに、なにかキツネにつままれたような顔になっている。華やかな打鬼《ダーコイ》の行列と、一種異様な美をたたえた宦官の少年は、妖《あや》しく、強烈な印象を三人に残していた。すべては、ただよう冠毛が生みだした幻影でなかったかと思われるほどだった。
「あの小丑《シヤオチユウ》という子……」
ザルアーがボソリとつぶやいた。「ジローに興味を持ったようだったわね」
「冗談じゃない」
ジローはしんそこおぞましげに首を振った。「本当に冗談じゃないぜ」
――掛鞭《コアピエン》(連続爆竹)がヘビのように地にうねり、派手な音をたてている。跳ねあがった|二〓脚《アルテイチヤオ》(二発爆竹)が、陽気な爆音を響かせる。
銭型に切られた紙が、吹雪《ふぶき》のように舞っていた。
道端には蜜供《ミークン》が宝塔形に積みあげられ、果物などが供えられている。銅鑼《どら》がうち鳴らされ、哨吶《ソーナア》(ラッパ)がやかましく吹き鳴らされる。――
山裾《やますそ》に位置するこの村は、今しも祭りの真っ最中であった。
鬼が描かれた紙に火がつけられ、風に散る火の粉に歩行もままならないほどだった。
事実、ジローたち三人は、村の入り口につったったまま、唖然《あぜん》としてこの狂騒状態を眺めるばかりだった。
かなり、大きな村だ。
煉瓦《れんが》と土でかためられた塀《へい》が、村をグルリととりまいている。門前には馬つなぎが設けられ、柱の基部には獅子《しし》をおいた門枕石《メンチエンシー》が据《す》えられている――村の戸数は百を越えるように思われた。ほとんどが草ぶきの家だが、なかには土造りの家もあった。夾竹桃《きようちくとう》が随所にめだった。
村の中央路は今、祭りに興奮する老若男女で煮えこぼれるようだった。
だが、村人たちは必ずしも祭りをしんそこから楽しんでいるようには見えなかった。いや、打鬼《ダーコイ》を祭りと形容するのは正確でないかもしれない。村人にとって、鬼を追いはらうこの儀式は、生活のすべてに優先する最重要事であるにちがいないからだ。
しかし、この村において、鬼とははたして何を意味しているのか?
「おかしいな……」
チャクラが村をみわたしながら、ボソリとつぶやいた。
「なにが?」
と、ザルアーが訊《き》く。
「いや、さっきからさがしているんだが……この村には、どこにも畑というものがないんだよ。かといって、牛や豚をかっている様子もないし……どうやって、暮らしをたてているんだろう」
掛鞭《コアピエン》がたてつづけに鳴らす爆音が、チャクラの疑問をかき消した。
ジローが二人をうながし、三人はつれだって中央路を歩きはじめた。
駆けまわる子供たちとぶつからないようにするのが一苦労だった。
三人は村人から大門《ダーメン》の前に桔瓶《はねつるべ》の井戸を設けている家が、県圃の出張司邸だと教えられていた。
なるほど、それはこの村では最も立派な邸《やしき》であった。
大門《ダーメン》を入った正面に、巨大な照壁《チヤオピ》(装飾壁)がそびえている。その照壁に描かれた模様がチャクラの眼を惹《ひ》いた。それは、あの異様な森の、樹木の一本に刻まれていたものと同じ甲骨文字だったのだ。すなわち、
だが、ジローとザルアーの二人は照壁の甲骨文字のことなど気にもとめていないようだ。どうして、それほどその文字のことが気にかかるのか、チャクラ自身にもはっきりとしないのだった。
外院《ワイユアン》から二門《アルメン》を抜け、裏院《リユアン》に出た。
裏院《リユアン》(奥庭)に人の姿はなかった。正房《チヨンフフアン》、東西の廂房《シアンアン》の三つの建物にも、人が居る気配はない。ただもううつろで、ガランとした感じだった。
三人はとまどわざるを得なかった。案内を乞《こ》おうにも、邸は無人のようなのだ――かといって、小丑《シヤオチユウ》に会わずに帰るわけにはいかなかった。小丑《シヤオチユウ》は県圃の出張司であり、県圃に入るのには、どうしても彼が発行する通行手形が必要だったからだ。
ジローとチャクラが、かわるがわるに声を張り上げた。だが、邸はしんとしずまりかえり、いっかな人が現われる気配はなかった。
「仕方がない。出直すことにしようか」
ジローがそうため息をついたとき、ザルアーがその腕をギュッと握りしめた。
ジローはおどろいて振り返り、――そして、さらにおどろくことになった。
二門《アルメン》の陰から、あいつが現われたのだ。擬足《ぎそく》をピタピタとのばし、不定形な体を震わせているあいつ――視肉《〔註5〕》なのだ。
ジローは、自分でも顔が蒼《あお》ざめるのがわかった。昨夜、危うくあいつを喰いそうになったことを想い出すと、いまだに胸がむかついてくるほどなのだ。
視肉に関しては、昨夜、ザルアーから教えを受けていた。
視肉とは、神地崑崙《コンロン》≠ゥら人間にさずけられた精肉である。その肉はきわめて美味で、しかもいくら食べても減ることがないといわれている。すなわち、一きれ食べれば一きれふえ、二きれ食べれば二きれふえる崑崙≠フ佳〓《かこう》なのである。
ただし、ザルアーは説明の最後に、絶対に視肉を食べてはいけないとつけ加えるのを忘れなかった。なぜなら、視肉はあまり美味にすぎるため、いったんそれを食べたものはほかの食い物を受けつけなくなってしまうからだ。視肉の奴隷《どれい》と化してしまうのである。
視肉は、ある意味ではマンドールの絞殺者《ルアナムテイ》≠もしのぐ麻薬なのだった。
「わかったぜ――」
チャクラがなにか咽喉《のど》にからんだような声で言った。「この村の連中が畑を持っていないのは、視肉を食べているからなんだ」
「――――」
ジローは返事をすることができなかった。
昨夜と同じ欲望が勃然《ぼつぜん》と胸にわいてくるのを覚えたからだ――食べたい、視肉を食べてなぜいけないのか……どうやら、視肉はこれと定めた人間の食欲を強烈に刺激する能力をそなえているようだ。
ジローは歯をくいしばった。視肉を食べたいという欲望は急速に膨《ふく》れあがっていき、今にもジローを圧倒せんばかりだった。どんなに意志強固な人間でも、この欲望に抗するのは不可能に思われた。
視肉は這《は》い進んでくる。ゆっくりと、しかし着実に、その擬足をのばしてくるのだ。
追いつめられたジローは、やぶれかぶれの咆哮《ほうこう》を発し、剣を抜きはらった。
4
――ジローが視肉に斬りかかっていたら、とんでもない醜態をさらすことになっていたろう。急速に増殖する肉塊は、剣を鉄罠《てつわな》のようにくわえこみ、容易に解放しようとはしないはずだからだ。
だが、実際には、背後からきこえてきた小丑《シヤオチユウ》の声が、かろうじてジローに剣を振りおろすのを思いとどまらせたのだった。
「およしなさい」
こんな場合にも拘《かか》わらず、小丑《シヤオチユウ》の声は優雅な響きを失っていなかった。
「――――」
「視肉を傷つければ、この村の連中は黙っちゃいませんよ」
ジローは噛《か》みしめた歯の間から、シュッと息を洩《も》らした。
力をいっぱいに孕《はら》んでいた全身の筋肉が、まるで水に溶けるように弛緩《しかん》していくのがわかった。
たしかに、小丑《シヤオチユウ》の言うとおり、他所者《よそもの》が精肉たる視肉を傷つければ、村人たちの怒りをかうことになる。とうてい、無事にはすまないはずだった。――その意味では、小丑《シヤオチユウ》はジローたち三人の命の恩人ともいえた。
それにジローをあれほど苦しめていた視肉の攻撃は、今はもう拭《ぬぐ》われたように消えていた。
視肉は擬足をのばしながら、ズルズルと二門《アルメン》を這い出ていった。
「よかったですね――」
小丑《シヤオチユウ》は花のような微笑を浮かべていた。「どうも、そちらの若い方は血の気が多すぎるようだ。今日は、二度までも剣を抜かれたわけですからね」
「…………」
ジローはもちろん、チャクラ、ザルアーの二人も気をのまれたように沈黙している。まったく、この小丑《シヤオチユウ》という少年の登場は決まってあざやかにすぎる。いつでも、あわやというときに登場してくるのだ。
「どうも、留守にいたしまして――」
小丑《シヤオチユウ》は軽やかに一礼すると、手にしていた竹筒で正房《チヨンフアン》の扉《とびら》をさし示した。
「どうぞ、お入りください」
その扉にも、の象形《しようけい》文字が刻されてあった。
――居室も、県圃《ケンポ》の出張司が使うのにふさわしい立派なものだった。
茶の間の一部がしきられ、|〓《かん》が設けられていて、そのうえに茶机やクッションが置かれていた。野宿に慣れた三人には、あまりに居心地がよすぎて、かえって窮屈な感じがするほどだった。
茶の間の中央を占めている八仙卓《パーシエンチユオ》(八人座用机)も贅《ぜい》をこらした見事なものだった。――はるか蛮地マンドールから来た三人には、いずれも初めて眼にするものばかりだ。
「困りましたな……」
三人に茶を注ぎながら、小丑《シヤオチユウ》が首を振って見せた。「このままでは、お三方を県圃《ケンポ》にお入れするわけにはいかないのです」
「どうしてですか」
チャクラが訊いた。
いつしか三人の間では、他者との交渉はチャクラの役割ということが不文律のようになっていた。この場合も、ジローとザルアーの二人はただ黙々とお茶を飲んでいるだけだった。
「視肉をお食べにならないからです」
小丑《シヤオチユウ》はあくまでもいんぎんな口調をくずそうとはしなかった。「視肉は、県圃から民につかわされた精肉なのです。視肉を食べるのを拒む者は、すべて県圃に反逆の意志がある者と見なされているのです――」
「この村の人たちは視肉しか食べようとしないのですか」
「それに果物を少々……これも、県圃からつかわされるものです」
「わかりませんな――」
「なにがですか」
「それじゃ、この村の人たちは何もしなくてもいいことになる。ただ、与えられたものを食べていればいいということに……県圃が偉大な都だということは存じていましたが、まさかそれほど寛大とは……」
「県圃の草原をとりまく村々には、畑仕事などより重要な仕事があるのです」
「ほう、どんな?」
「打鬼《ダーコイ》です」
「――――」
「県圃はいわば神の土地≠ナす。悪霊が侵入するのはなんとしてでも防がねばなりません――」
小丑《シヤオチユウ》は指を頬《ほお》にあて、首をかしげて見せた。チャクラのような海千山千の中年男さえ、いささか動揺を覚えるほどのなまめかしい姿形だった。
「そう、――この世は天を支える盤古《ばんこ》≠フようなものなのです」
小丑《シヤオチユウ》はそう言い、チャクラにヒタと視線を据《す》えた。「もちろん、盤古≠フ神話はご存知でしょうね」
「それがあいにく――」
チャクラは首を振った。「なにぶん、私どもは無知な流れ者なものですから……」
「われらが偉大なる神盤古≠ェこの世に生を受けたとき、世界は暗い混沌《こんとん》のかたまりに過ぎなかったのです――」
小丑《シヤオチユウ》は遠くを見るような眼つきになっている。「その混沌に我慢できなかった盤古≠ヘ、巨大な斧《おの》の一撃で、この世を天と地に分けたのです……そして、ふたたび暗い混沌に逆戻《もど》りしないように、盤古≠ヘ天を支え、地を踏みしめたのです……わかりますか。村人たちには、すべてこの盤古≠フ役割を果たしてもらわなければならないのです。混沌がわずかなりとも県圃に生じないように、打鬼にこれ努めてもらわねばならないのです。畑仕事ごときに、その時間をつぶさせるわけにはいきません……」
「鬼とは何なのですか」
チャクラが訊《き》いた。
「混沌とは何なのですか?」
「――――」
チャクラの問いに、小丑《シヤオチユウ》は答えようとはしなかった。クッションにもたれかかり、ただ涼しげな微笑を浮かべただけだった。
「つまり、県圃に入るには、視肉を食べて恭順の意を表さなければならないということですか」
チャクラは質問を変えた。
「そういうことです……」
小丑《シヤオチユウ》はうなずいた。
「まことに残念ですが、視肉を食べない者に県圃に足を踏み入れる資格はありません。ただ……」
「ただ?」
「それも、私のさじ加減でどうにでもなることではあるのですが……」
小丑《シヤオチユウ》はネットリとした視線をジローに向けている。
ジローは、体毛がそうけだつような感覚におそわれていた。
チャクラも小丑《シヤオチユウ》の視線に気がつき、一瞬、塩をなめたような表情になった。
「私は県圃の人間です」
小丑《シヤオチユウ》はふいに口調を変えて言った。「県圃の人間には、べつに視肉のみを食べねばならない義務は課せられておりません。ところが、なまじ出張司になったばかりに、毎日が視肉の連続――正直、私は新しい味覚に飢えているのです……」
そこでいったん言葉を切り、小丑《シヤオチユウ》はいかにも意味ありげにジローに流し目をくれた。どうやら、ジローが小丑《シヤオチユウ》におびえているのをなかば楽しんでいるようだった。
「あなた方が私に新しい味覚を提供してくだされば、県圃に入る許可書が発行されるようにとりはからってさしあげましょう。もちろん、その料理に必要な材料はすべてこちらでそろえるつもりです。材料がなんであれ、要するに料理の味覚が新しいものであればいいわけですから」
「本当ですか」
チャクラの表情が明るくなった。チャクラは各地を放浪し、さまざまな料理に通じている。小丑《シヤオチユウ》の申し出は、まさしく天の救《たす》けに思えたはずだった。
だが――
「ただし、それには一つだけ条件があるのです」
小丑《シヤオチユウ》のその言葉が、チャクラの喜びに水をさしたのだ。
「何でしょうか」
とたんに、チャクラは疑わしげな眼つきになっている。
「私は刃物が嫌《きら》いなのです――」
小丑《シヤオチユウ》はしおらしげに眼を伏せた。「刃物を使った料理はいっさい口にしたくありません」
「――――」
チャクラは、喉の奥からグッというような声を洩らした。
小丑《シヤオチユウ》は、自分の股間《こかん》を凝視している。彼を生まれもつかぬ宦官《かんがん》に変えたのも、刀子匠《タオツチヤン》(執刀人)が揮《ふる》う刀であったはずだ。その意味では、たしかに彼が刀をきらうという理由もうなずける。――だが、小丑《シヤオチユウ》が刃物を使わない料理を要求するのは、必ずしも彼が刀をきらっているばかりではなさそうだ。刃物を使わぬ料理は、自然、材料を生かした素朴《そぼく》なものにならざるを得ない。刃物を用いず、しかも新しい味覚を開発するのは至難の業なのだ。
ジローはまじまじと小丑《シヤオチユウ》の顔をみつめている。
この少年が三人を苦しめたいために、刃物をもちいない料理という条件を持ちだしたのは明らかだ。華麗なこの肢体《したい》のどこに、そんな醜い欲望がすくう余地があるのか不思議に思えるほどだった。――小丑《シヤオチユウ》は優しくほほえみながら、人を地獄の淵《ふち》に追い落とす心性の持ち主なのである。
「それでは、お三方を厨房《チユウフアン》(台所)までご案内しましょうか――」
小丑《シヤオチユウ》はそう言うと、|〓《かん》からフワリと降りたった。
三人も慌てて、小丑《シヤオチユウ》にしたがった。
「料理には、ザルアーが一人ついていてくれれば充分だ」
チャクラがジローを振り返った。
「あんたはどこかで休んでいてくれ」
要するに、武骨なジローは料理のさまたげになるということだ。――チャクラはいつになく真剣な表情になっている。美食に飽き、絶品とされている視肉にも飽いた小丑《シヤオチユウ》を、自分の料理で満足させねばならないのだ。しかも刃物を用いてはならないという条件つきとあっては、さしものチャクラも真剣にならざるを得なかったのだろう。
「ここでお待ちになっていてください」
小丑《シヤオチユウ》が言った。「お二人を厨房《チユウフアン》にご案内した後、すぐに戻ってきて、お部屋までお連れしますから」
ジローとしても、その言葉にしたがわないわけにはいかなかった。
――村の上空、燦然《さんぜん》とかがやく星空を背景にして、奇妙なものが飛んでいた。
蒼《あお》い光に包まれた、薄い寒天のような生き物だ。視肉と同じく、不定形な生き物だが、その体を滑るという機能にそって、形を変えているようだ。
どれほどの大きさのものであるかは、この居間の窓からはわからない。
「あれは、畢方《ひつほう》≠ナす――」
背後から小丑《シヤオチユウ》の声がきこえ、ジローは振り返った。
小丑《シヤオチユウ》は扉口《とぐち》に立ち、婉然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んでいた。その手に、一本のバラを持っている。
「畢方=c…」
ジローがつぶやく。
「そうです――ものの本によると、あれが現われたときには必ずや怪火が起こるということです。ただし、畢方≠ヘこの地においては、混沌《こんとん》≠ニ戦う聖獣なのですが……」
小丑《シヤオチユウ》はフワリと扉口からはなれ、すべるようにしてジローに近づいてきた。ジローがハッと身をすくめたときには、小丑《シヤオチユウ》はすぐ眼前にまで迫っていたのだ。
「南の男たちはたくましい体をしている」
小丑《シヤオチユウ》はジローをのぞきこむようにして言った。「この褐色《かつしよく》の肌もなんとも言えず美しい。南の女も悪くないが、男のほうがずっといい……あなたは、あのザルアーという女に満足なさっているのですか」
小丑《シヤオチユウ》の赤い唇からチロチロとのぞく舌がジローを誘い込んでいるようだった。その吐く息は甘く、強烈な魅惑に充ちていた。
ジローは気を失ったように、身動きもできなかった。小丑《シヤオチユウ》は下半身をすり寄せてきて、ジローの体になんとも言えず切ない欲望を呼び起こしていた。
小丑《シヤオチユウ》はゆっくりと片手をあげ、ジローの髪にバラの花をさそうとした。なかば反射的に、ジローは手をあげ、小丑《シヤオチユウ》の腕をはらいのけようとした。だが――その手を、小丑《シヤオチユウ》がもう一方の手でがしっと圧さえこんだのだ。
「――――」
ジローは呻《うめ》き声をあげた。
小丑《シヤオチユウ》は、思いがけない怪力の持ち主だったのだ。
「男と寝るのはおきらいですか」
小丑《シヤオチユウ》はささやくように言った。
「それは、とんでもない心得ちがいというものですよ……男のほうが清潔で、しかもずっと愛情がこまやかだ。女など、男の愛のまえでは問題にもならない――」
それだけを言うと、小丑《シヤオチユウ》ははじかれたようにジローの体からはなれた。そして、甲高い笑い声をあげる。
「お部屋までご案内しましょう」
小丑《シヤオチユウ》はなおも笑いながら、そう言った。
ジローは呆然としている。
小丑《シヤオチユウ》の言葉が、いたくジローの胸に響いたのだ。――ジローはいとこと寝るという禁忌《タブー》にふれようとしている男ではないか。それが、どうして男と寝ることにためらいを示すのか。
禁忌《タブー》とは何なのか。いや、それより人々をさまざまな形で灼《や》きつくす愛に、いっさいの情熱をそそぐほどの価値があるものだろうか……
「どうしました?」
小丑《シヤオチユウ》がからかうように言った。「今夜はもう何もしないから、安心してついていらっしゃい」
「…………」
だが、ジローはその場を動くことができないでいた。
今、初めてジローは、自分のランに対する愛情に疑問を抱いたのである。
5
赤い風が吹いている。
遠いかなたの沙漠《さばく》から、山巓《さんてん》をこえ、はるばると吹いてきた風だ。
風は、黄砂をいっぱいにはらんでいた。沙漠から運ばれてきた、砂よりもはるかにこまかい粒子である。
黄砂《こうさ》は上空にただよい、しだいにかさと厚みを増していった。
そして、みずからの重みに耐えかねたように、ついに沈降を開始する。
――あの深紅《しんく》色の森林だ。
巨木が密生し、視野はいちじるしくさえぎられている。陽光にとぼしく、動くものの一つとしてない眺めだ。
森林の幽霊《ゆうれい》のようなおもむきだ。生命感を欠き、数十メートルに達する樹木が、ことごとく枯れはてている印象なのである。
チャクラが足を踏み入れるのをためらったのも無理はない。すべてが、太古からの憂愁に深くうちしずんでいるように見えた。
だが、誰か注意ぶかく森林を観察する者がいたら、そこに微妙な変化が生じていることに気がついたろう。
森林を構成している主たる樹木は、その蛇《へび》のうろこのような樹皮から、いわゆる鱗木《リンボク》と呼ばれている種類《もの》であることは明らかだ。しかし、高さ三十メートル以上、根幹の直径二メートルというスケールは、デボン紀の古生リンボク目《もく》のものではない。石炭紀にさかえた巨木型リンボク目、レピドデンドロンと呼ばれている鱗木のようだ。
レピドデンドロンの樹冠はカサのようにひらいて、おびただしい数の胞子|嚢穂《のうすい》をつけている。松かさのような形の、異形胞子だ。――その胞子嚢穂が風に揺れ、ささやくような音を鳴らしているのだ。
風は、レピドデンドロンの胞子嚢穂を揺らしているだけではない。
地衣《ちい》、蘚苔《せんたい》の類が腐敗し、一面の沼のようになっている軟泥《なんでい》地にも、縮緬皺《ちりめんじわ》をきざんでいる。泥のなかに地下茎をはりめぐらし、ところどころに地上茎をのぞかせているトクサ類も、かすかに揺れている。
羽片に似た葉をそなえたシダ種子綱・メズロサも、葉の裏側につけた鐘状・雄性繁殖器官《ドレロテーカー》をしきりに揺らしている。ドレロテーカーは径四センチほど、その内部に無数の小胞子嚢を含んでいるのだ。
レピドデンドロンの胞子嚢穂から、あるいはメズロサの雄性繁殖器官から、絶え間なく胞子が撒《ま》き散らされ、森林には黄色くカスミがたなびき始めていた。
たしかに、この森林には生命の息吹《いぶき》が感じられなかった。だが、――そこにはなにかしら予兆のようなものがあった。風が強くなるにつれ、その予兆はしだいに大きなものになっていき、いつしかはっきりとした存在感を持つにいたったのだ。
そして、――ついにそのときがきた。
赤い風が津波のように押し寄せてきて、森林をどよめかせた。黄砂が舞い、森林の狭い間隙《かんげき》を吹き抜ける。甲高《かんだか》い笛の音《ね》が響きわたった。
一瞬のうちに、森林は生命《いのち》を宿したように見えた。数十億年前、石炭紀の光景がよみがえったのだ。シダ植物、裸子《らし》植物が激しくうち震え、胞子をフレアーのようにまき散らしている。
風は高く、低くうなり、ついには笛の音《ね》が巨獣の咆哮《ほうこう》と化す。黄砂と胞子が渦《うず》を巻き、黄色い疾風が地を駆けめぐる。軟泥がうねり、森林のそこかしこから舌を鳴らすような音がきこえてきた。
吹き抜ける黄砂のなかを、なかに果実《〔註6〕》のようなものがただよっていた。バラの蕾《つぼみ》に似ている。茎が巻きちぢみ、握り拳《こぶし》ほどの大きさのボールをつくっているのだ。そいつは風に舞いあがり、次から次に空に昇っていく。
そして、風にのり、糸でたぐり寄せられるように飛んでいく。あたかも、気球の大編隊のようだった。数百万、数千万、いや、おそらくは億をこえるおびただしい数だった。
ふいに、赤い風を切り裂くように青い閃光《せんこう》がきらめいた。
畢方《ひつほう》≠セ。
畢方≠ヘ風をはらみ、ほとんど円盤のような形となっていた。融通無碍《ゆうずうむげ》に体形を変化させ、浮力、揚力のバランスを保ち、風に逆らって進んでいるのだ。
畢方≠ヘ一匹ではなかった。
暗雲を駆ける稲光《いなびかり》のように、青い閃光がいたるところに見られた。
今、一匹の畢方≠ェ体を蠕動《ぜんどう》させ、中央部の肉を膨《ふく》れあがらせた。筋肉繊維が赤く放射状にひろがる。さながら、一個の巨眼と化したかのようだった。血走った眼が赤い風のなかをただよい、黄砂の奔流を乗り切っていく。
赤い風にさえぎられて、太陽は遠く、腐ったオレンジのようでしかなかった。だが、畢方≠ヘとぼしい陽光を集め、大きな熱量をはらみつつあった。
生きた凸《とつ》レンズだ。
たちまちのうちに、空中に炎の帯がのびていった。バラの蕾、茎のボールが、次から次に燃え落ちていくのだ。――すべての畢方≠ェ肉を収縮させ、炎の渦を巻き起こしていた。だが、バラの蕾はあまりにも数が多く、なお編隊のように前進をつづけているのだ。
黄砂、青い畢方=Aめくるめく炎のかがやき……暗うつな褐色だった空が、今、万華鏡《まんげきよう》のきらめきを走らせている。
奇妙で、しずかな闘争だ。
なにかしら、黙示《もくじ》録の一節を連想させる闘争だった。
――火勢がやや強すぎるようだった。
ザルアーはすこし考えてから、鉄棒《トンテイヤオ》でかまどの灰を突いた。火種に灰をかぶせ、よぶんな灰をかきおとすためだ。
そして、あらためて厨房《チユウフアン》を見まわし、感嘆するように首を振る。
マンドールの地に生まれたザルアーには、この厨房はまさしく文明の所産そのものに他ならなかった。
かの地では、貧富にかかわらず、料理には炉子《しちりん》が使われる。ここのように、穴四眼の煉瓦《れんが》カマドを持っている者は少なく、ましてや車炉《トイール》、卓上炉《フオクオツ》を所有している者にいたっては皆無といえた。
しかも、マンドールにおいては、牛の糞《ふん》がもっぱら燃料として使われているのだが、ここでは練炭《メイチユル》なる重宝なものが用いられているのである。
すばらしい。
すばらしいが、ザルアーはいささかこのすばらしさになじめないものを覚えていた。
ザルアーは、優れた呪術《じゆじゆつ》者だった父親の手によって育てられた。母親がどこの誰だったか、いまだに知らない。
父親はやや狂信的ともいえるような人物だった。娘を呪術者とすべく、彼女の生活に箍《タガ》をはめ、きびしい修行を課したのである。
ザルアーには、同い年ぐらいの女の子と遊んだという記憶がない。
だが、ザルアーは父親を愛していたし、呪術者となることに夢を抱いてもいた。事実、ザルアーは呪術者としての天稟《てんぴん》にめぐまれていたにちがいない。すでに十歳ぐらいのときには、|〓《きよう》と語る手段《すべ》をまなび、猩猩《しようじよう》をしたがわせるこつを心得ていた。
そして、ある朝、万物の語りかけてくる声が、ふいに津波のように頭に押し寄せてくるのを感じたのだ。草がささやき、鳥が笑い、獣が歌う――それらが渾然《こんぜん》と一体になり、めくるめく感覚の奔流と化して、ザルアーを一気にこの世ならざる世界へと押し流したのだった。
すなわち、女呪術師ザルアーの誕生である。
呪術師にとって、この世はアニミズム世界に他ならない。無神の世界――言葉をかえれば、すべてが神である世界だ。アニミズム世界に身をおく人間にとって、草木も、鳥獣も、そして自分自身も神なのである。その意味では、この世を聖俗に二分する宗教的世界観とは、本質的にあいいれないものを含んでいるといえた。
ザルアーがかの地マンドールで孤絶していたのも、稲魂《クワン》≠頂点とするやおろず≠ノ強い反撥《はんぱつ》を覚えたからだ。呪術師にとっては、すべてが等価、うやまうべきものとして意識される。そこには、どんなヒエラルキーも存在してはならないのだ。
ザルアーはやおろず≠ゥら離れた。稲魂《クワン》≠天主とし、それぞれに守護神を擁《よう》するマンドールの人々にとって、それはザルアーが人間でなくなったということを意味していた。
マンドールの住民の間ではいつからか、ザルアーとは猩猩をひきしたがえ、稲魂《クワン》≠滅ぼそうと目論《もくろ》んでいる女呪術師である、という説が定着するにいたった。ザルアーは異端者であり、閉鎖社会においては異端者は憎悪の対象となるのが常だからである。
だが、――ザルアーはそれをつらいとも、淋《さび》しいとも思わなかった。父親が死に、ただ一人で火葬にしなければならなかったときも、まったく孤立感を覚えなかった。たしかに、彼女は生来気の強い娘ではあった。しかし、たとえそうでなかったとしても、ザルアーが孤立感に悩まされることはなかったろう。事実として、彼女は決して独りではなかったからである。
彼女は世界と一体化していたのだ。万物と交感し、生命の息吹を全身に感じることのできる人間が孤独でいられるはずがない。そう、ザルアーはしあわせですらあったといえる。
真に、アニミズムの世界に生きる人間にとって、この世は生命の躍動感と歓喜に充《み》ち充ちている。その喜びを前にしては、セックスの絶頂感などひなた水のようなものでしかなかった。
彼女はくりかえし失望と幻滅を体験し、ついにはセックスそのものを蔑視《べつし》するにいたった。行為に喜びを覚えたときには呪術者の能力を失うことになるにちがいない、と確信したのだ。
ザルアーが猩猩を配下にし、牛の頭骨を被っていたのは、稲魂《クワン》≠フ信奉者たちを近づけさせないためだった。稲魂《クワン》≠フ狂信者たちは、ザルアーを悪魔と断じ、隙《すき》あらば傷つけようと狙《ねら》っていたからだ。そんな連中から身を護《まも》るには、おのれの超常能力をしめすのが最良の策だった。
ザルアーは充分に満ち足りて、毎日を送っていたのだ。
ジローが現われるまでは……
――ジローと会い、女としての喜びを与えられたときから、ザルアーはアニミズム世界の巫女《みこ》たる地位を永遠に失うことになったのだ。ジローを中心として、世界はあざやかに再構成され、かつての万物との豊かな交感がふたたびよみがえることはなかった。
もう草木は語らず、鳥獣が笑いかけてくることもない。徹底した島流しだ。ジローを愛したがために、あれほど近しく、一体となっていた自然から、ザルアーはいわば追放されてしまったのである。――自然を対立物と見なし、融合する手段《すべ》を知らぬ人間には、その豊かな恵みを受ける資格はない。ザルアーもまた、自然と一体化することによって授かっていた様々な超常能力、たとえば予知能力、念動能力などをことごとく失うはめとなったのだった。
客観的に見てジローにそれほどの価値があるものかどうか疑問といわねばならなかった。ジローはたしかにザルアーを好いてくれてはいるが、本当に愛しているのは、はるか稲魂《クワン》≠フ神殿に幽閉《ゆうへい》されているラン一人だったからである。
いや、たとえジローが愛しているのが、ランではなくザルアーだったとしても、アニミズム世界の巫女たる地位を失うほどの価値があるとはとうてい思えない。
地に転がる石にいたるまで、神が宿っていると真に感得したときから、この世は巨大な揺り籠《かご》と化す。生命の歓喜ほとばしる、彼岸の地にと変貌《へんぼう》するのである。何物にも替えがたい、喜び、平安の境地だ。
実際、世界との交感が断ち切られたとき、ザルアーは永遠の捨て子とされたようなよるべなさ、寂寥《せきりよう》感を覚えたものだった。
だが、ザルアーは後悔していない。
ジローを一目見たとき、鎧《よろい》のように厚く心にまとっていた矜持《きようじ》が、もろくも崩れ落ちていくのを感じた。おろかしい小娘のように、相手の意を得《う》ることに汲々《きゆうきゆう》とし始めたのだ。自分がいかに驕傲《きようごう》な姿勢をもっていたかを想い出し、顔が熱く火照《ほて》るのをおぼえた。恋におちた娘の、ごく自然な反応だ。
だが、ザルアーは必ずしもこれを恋のなす業とばかり思っていない。すべては、運命に定められたことであったような気がするのだ。あの岩室《いわむろ》で見た甲虫《かぶとむし》の影、三人で旅する姿がたんなる幻だったとは、とうてい信じられない。あれは一種の啓示、はっきりとした予兆であったはずだ。
ザルアーは考える――ジローはこうして宝石≠とり戻すための旅に出た。そして、あたしは……あたしには、運命はなにを期待しているのだろうか……
――たしかに、ザルアーは世界との密接な交感から疎外されている。だが、かつての超常能力の残滓《ざんし》、微弱な感応力のようなものは残されているようだ。それが時おり、歯痛のようにうずくこともある。
たとえば、今がそうだ。
ザルアーは概して人工的なものを好まない。たしかに、県圃《ケンポ》の文化はこんな周辺の村にまでおよび、マンドールの文化水準をはるかに凌駕《りようが》している。だが、環境が人工的なものになればなるほど、それだけ世界との交感を阻まれる度合いが大きくなるような気がする。
こんな厨房《チユウフアン》は好きじゃない。あの小丑《シヤオチユウ》とかいう少年の毒々しい美しさはどうだ。そして、地を這《は》う視肉、空をすべる畢方《ひつほう》の一種名状しがたいいやらしさ……
ザルアーはブルッと体を震わせた。背筋を悪寒《おかん》が走ったのだ。
視肉、畢方にかんしては、ザルアーは拭《ぬぐ》いがたい嫌悪《けんお》感を覚えている。――彼女は相手が生き物であるなら、たとえ猩猩のような獰猛性悪《どうもうしようわる》な怪物とでも、心を交わす自信がある。ところが、視肉、畢方についてのみ、どんな交感も得《う》ることができないのだ。まるで壁に対したように、心が冷え冷えとしてくるだけなのである。
はたして、あれでも生き物と呼べるのだろうか。
ザルアーは視肉、畢方にかんして、小丑《シヤオチユウ》と共通するうさんくささを、なかば本能的に感じとっていた。
――大鍋《ダークオ》の蓋《ふた》がチンチンと鳴り、ザルアーをながいもの思いから現実に引き戻した。
チャクラが料理の材料を調達して帰ってくるまでに、タップリの熱湯を用意しておかなければならない。ただし、あまり早く沸かしておくのも考えものだ。もうすこし、水をたしておいたほうがいいだろう。
ザルアーは水がめから大鍋に水を移し、ふたたびかまどのなかを覗《のぞ》きこんだ。練炭《メイチユル》は赤々と燃えている。いまのところ、火種が絶える心配はないようだ。
ふいに、ザルアーはめまいを覚え、眼をしばたたかせた。一瞬、かまどの焔《ほのお》が赤く燃えあがったように見えると、急速に視角に迫ってきた。
ザルアーは自分が現実から遊離しつつあるのを知った。ながく潜在していた予知能力が、ふたたびその力を発揮しはじめたのだ。
ザルアーは気死したように、かまどの前にうずくまったまま、身動きしなかった。
とめどもなく地に沈みこんでいくような失墜感があった。現実が瞬時のうちに変貌をとげ、ザルアーはいつしか目だけの存在と化していた。
すでにザルアーが目撃している焔は、かまどのそれではなかった。
ザルアーがかつて見たこともないような巨大な都が炎上し、夜空にゴウゴウと火の粉をふきあげているのだ。まさしく、焦熱地獄にほかならなかった。ザルアーは焼け死ぬ人たちの絶叫を耳にし、肉の焦げるにおいを鼻に感じていた。……
「どうしたんだ?」
背後から、チャクラの声がきこえてきた。
ザルアーはハッと眼をみはり、二、三度、首を振った。――今、燃えているのはかまどの火だ。ザルアーはそのままかまどの火を凝視していたが、やがて疲れたようにゆっくりと腰をのばした。
「どうしたんだ?」
チャクラはくりかえした。小脇《こわき》に、肉や野菜の入った籠を抱えている。
「県圃《ケンポ》は滅びるわ」
ザルアーはきっぱりと言った。「近いうちに、滅びるのよ」
「なにをバカなことを……」
チャクラは笑いかけて、すぐさまその頬《ほお》をこわばらせた。
ザルアーがかつて優れた呪術師であったことを想い出したにちがいない。
ザルアーはなにかしら悩まし気な視線を虚空《こくう》に据《す》えていた。
6
――正直なところ、チャクラはほとほと困りぬいていた。
料理にかんしては、まんざら自信がなくもない。放浪している間、めぐりあった人々にめずらしい料理を披露《ひろう》して、やんやの喝采《かつさい》をあびたことも幾度かあった。実際、チャクラに料理の腕がそなわっていなければ、これまで旅がつづけられたかどうか疑問といわねばならなかった。
だが、そのチャクラの腕をもってしても、小丑《シヤオチユウ》を満足させるのは至難の業だった。――刃物を用いてはならないという条件は、いちじるしく料理の幅を限定する。その限られた料理のなかから、おそらくは美食に飽いているであろう小丑《シヤオチユウ》を満足さすものを見つけだすのは、ほとんど不可能なことに思われた。
しかも、小丑《シヤオチユウ》が悪意を抱いて、そんな条件を持ちだしてきたのは明らかだった。チャクラがいかに苦労したところで、まずいの一言で片付けられる恐れは充分にあるのだ。
それを考えると、さしものチャクラも気力がなえる思いがする。いっそ視肉を食べてしまうか、それとも県圃《ケンポ》に足を踏み入れるのをあきらめようか、と考えたほどだ。
だが、ジローやザルアーのことを思うと、さすがにそれを口にする勇気はなかった。
一晩、チャクラは呻吟《しんぎん》をかさねた。脂汗《あぶらあせ》が全身に滲《にじ》むほど考えぬき、――そして、ついに妙案が浮かんだのだ。
その後、チャクラが安らかな眠りについたことはいうまでもない。
――今、チャクラはザルアーを厨房《チユウフアン》から追い出し、大奮闘を開始している。ザルアーが奇妙なことを口走ったのも、もうチャクラの念頭にはない。なんとしてでも、小丑《シヤオチユウ》の鼻をあかしてやりたいという意地に燃えているのだ。
刃物を使えないとなると、凝《こ》った料理は不可能だ。チャクラは乾肉をつくろうと考えている。熬《ごう》という名で知られている料理で、普通の乾肉とは一味ちがっているはずだ。
まず牛肉を棒でよくたたいて、薄皮をとる。そして、ひろげた布のうえに、その肉を置き、肉桂《にくけい》、生姜《しようが》、特殊なスパイスを充分にふりかける。最後に塩をかけ、火でゆっくりと乾かすという段どりである。
調理法はいたって簡単だが、味のほうはそれほど単純ではない。スパイスのわずかな量、火にかける時間などで、微妙な差異が生じてくるのである。
チャクラはかまどの前で汗だくになりながら、うすい笑いを浮かべていた。彼は小丑《シヤオチユウ》がこの乾肉を気に入ることに、絶対の自信を持っていたのだ。
――チャクラが乾肉を皿《さら》に盛り、湯《タン》と一緒にはこんだとき、すでに小丑《シヤオチユウ》はテーブルについていた。
「熬《ごう》ですか――」
皿のなかを一|瞥《べつ》して、小丑《シヤオチユウ》はそのあでやかな唇《くちびる》に軽蔑《けいべつ》したような笑いを浮かべた。「別にめずらしくもありませんね」
「こいつは特別でさあね」
チャクラはいささかも動じる色を見せず、上機嫌《じようきげん》に応じた。「スパイスにちょっとした工夫《くふう》が加えてありましてね――」
「――――」
ジローとザルアーの二人も、小丑《シヤオチユウ》におとらず疑わしげな表情でチャクラを見つめている。いかにチャクラが優れた料理人であっても、底意地の悪い美少年にうまいと言わせることがはたして可能だろうか。
小丑《シヤオチユウ》はいかにも気乗りうすげに、肉の一片を口に放りこんだ。とたんに、表情が変わった。なにかに憑《つ》かれたように、次から次に肉片をたいらげ始めたのだ。
ジローとザルアーは唖然《あぜん》としている。チャクラはニヤニヤと笑いながら、小丑《シヤオチユウ》の様子を眺めている。
小丑《シヤオチユウ》はふいに箸《はし》をとめ、ため息をつくと、しばらく乾肉を見つめていた。そして、クスクスと笑いながら、こう言ったのだ。
「こいつはおどろいた……こんな乾肉は食べたことがないですよ。どうやら、これは私の負けだったようですね――」
言い終わると同時に、もう乾肉にとりかかっている。その乾肉は、ほとんど魔的といえるほどの味覚をそなえているにちがいない。
なおもニヤニヤと笑っているチャクラに、ザルアーがすり寄ってきて、ソッとささやきかけてきた。
「白状しちゃいなさいよ。いったい、どんな魔法を使ったの?」
「絞殺者《ルアナムテイ》≠セ」
チャクラもささやきかえした。
「――――」
「絞殺者≠ェすこし残っていたものだからね。そいつを粉末にして、乾肉にかけてやったのさ」
「――――」
ザルアーはしばらくチャクラの顔を凝視していたが、やがてその脇腹《わきばら》を指で突ついて、短くこう言った。
「悪党」
「へ、へへ……」
チャクラはいかにも得意げに笑った。自分の機知が仲間二人を窮地から救いだしたのだから、得意になるのも無理はない。
そのときのチャクラは、明日の朝、自分がふたたび仲間を窮地におとしこむことになろうとは、予想だにしていなかったのである。
――朝。
小丑《シヤオチユウ》に案内され、ジローたち三人は県圃《ケンポ》の里の前に立っていた。
目路《めじ》の達するかぎり、ただ草原がつづいている。マンドールのジャングルを見慣れた三人には、地平線が見えるということだけですでに驚異であった。
低い岩山に並んで、草原を見下ろしている三人の眼には、ようやく県圃に行き着くことができるという希望の光があふれていた。
「この草原を突っきれば、県圃の町に着くことができます――」
小丑《シヤオチユウ》が優雅に腕をのばした。「かなり距離がありますよ。私が案内してさしあげなければ、とてもあなたがただけでは行き着くことはできますまい」
「どうしてだい?」
ジローが不審げに訊《き》く。「方角さえ教えてもらえれば、俺《おれ》たちだけでも平気だと思うけどな……」
「県圃の里は一見穏やかに見えますが、他所者《よそもの》にはとても苛酷《かこく》な土地なのです」
小丑《シヤオチユウ》は眼を伏せ、なにかウットリとしたような声で言った。「馬蝗《ばこう》とか、|〓〓《れいれい》といった化《ば》け物がいますからね。それに、県圃の里には水がない……」
「水がないって……」
ジローが笑った。「そんなバカな。現に、こうして草原が……」
しかし、ジローの言葉は、下方からきこえてきた叫声にかきけされた。
チョーイ、チョーイ、チョーイ、という鳥を追っているような声だ。それも一人や二人の声ではない。大勢の人間が声をあわせて叫んでいるのだ。
声は甲高く、朝の大気にころがるような余韻を残した。
子供たちだった。
赤い布で頭を包み、黒い上っぱりを身につけた子供たちが、草原に一直線にならび、声をはりあげているのだ。のどかな大揺鼓《だいようこ》(太鼓)の調べがきこえてくるのは、あの打鬼《ダーコイ》の行列のときと同じだった。
子供たちから二十メートルほど離れ、大人たちが列をつくっていた。
子供たちの声、大揺鼓の調べにあわせながら、大人たちは手にしている棒を振り上げ、振り下ろし、そして正確に一歩ずつ草原を前進していた。
ジロー、ザルアーはもちろん、各地を巡っているはずのチャクラも、かつてこれほど大勢の人間を一時《いちどき》に見たことはなかった。
列は左右にえんえんとのび、しだいに黒い一本の線となり、ついには視野の果てに消えているのだ。いったい、何百、何千の人間が列に加わっているのか見当もつかない。
一種壮大な眺めだった。
草原は陽光に反射し、風に起伏して、緑の海のような陰影をあやなしている。その広大な海に、ながいながい綱が張りわたされているように見えた。
「チョーイ、チョーイ、チョーイ……」
子供たちの声が、とぎれないできこえてくる。
「もちろん、一村だけじゃないですよ」と、小丑《シヤオチユウ》が言った。「県圃《ケンポ》の庇護《ひご》下にあるすべての村の住民が集まっているのですよ。県圃は彼らに視肉を与え、彼らはこうして県圃のために働く――」
「働く?」
チャクラがすっとんきょうな声をあげた。
「これは働いているんですかい。俺はまた何かの儀式かと思った……」
「ほ、ほほ……」
小丑《シヤオチユウ》は手の甲を口にあて、上半身をくねらすようにして笑った。「打鬼《ダーコイ》の儀式は一昨日終わったじゃありませんか。これは、本当の打鬼《ダーコイ》なんですよ」
「本当の……」
三人はあらためて草原の光景に眼をやった。――本当の打鬼《ダーコイ》とはどういう意味なのか。小丑《シヤオチユウ》は打鬼を称して、混沌《こんとん》が県圃に生じないように努める行事だと言った。鬼が県圃を侵すのを防ぐため、村人たちは打鬼《ダーコイ》に全力を注がなければならない。視肉とは、村人たちが畑仕事から解放され、打鬼《ダーコイ》に全力を注げるようにという配慮から、県圃《ケンポ》によって与えられている聖肉なのだ、と……
だが、いったい、どこに混沌があるというのか。どこに、鬼がいるというのか……三人の眼には、村人たちが一列になって進んでいく光景は、きわめて整然とした、のどかなものとしか映らないのだが……
ふいに、陽《ひ》が翳《かげ》ったように思えた。
反射的に頭上をふりあおいだ三人は、一様に声をあげていた。
畢方《ひつほう》≠セ。
ブヨブヨとした不定形な肉塊が、薄く体をひきのばして、三人の頭上に滞空しているのである。
その半透明の体をすかして見える空は、ドンヨリと黄色く濁っていた。常に肉汁のようなものを分泌しているらしく、体皮がヌメヌメとした濡《ぬ》れた輝きを帯びている。鳥肌《とりはだ》が立つような醜怪さ、おぞましさだった。
三人は石化したように、その場に立ちすくんでいた。
視肉といい、この畢方といい、県圃の生き物たちは、人間の生理に激しい忌避反応を惹《ひ》き起こすようだ。姿形の異様さもさることながら、存在そのものがあまりに人間と異質にすぎるのだ。彼らを見たとき、人間の生理はその異質さに耐えきれず、ついにいっさいの機能を停止してしまう。視肉にそなわっている一種の催眠作用は、対する人間のその生理の混乱に乗じたものではないだろうか。
とにかく、今の三人はまったく身動きできない状態だった。さながら、ヘビに射すくめられたカエルのようだ。事実、そんなはずがないのに、三人は畢方の強い凝視を痛いほどに感じていた。
「この畢方は、いわば県圃の守護神のようなものでしてね……」
小丑《シヤオチユウ》が奇妙にしずかな、ネットリとした声で言った。「やはり、県圃に混沌が生じるのを防いでいてくれるんですよ……その畢方がどうやら、あなた方に興味を抱いているようだ。どういうことでしょうかね……」
「そんなこと知らねえよ」
チャクラが悲鳴をあげるように言った。「とにかく、こいつを俺たちの頭のうえからどかしてくれねえか……」
ジローは蒼白《そうはく》になりながらも、一歩を踏み出し、腰の剣に手をやっている。自然にザルアーを護《まも》る形になっているのは、さすがに生まれながらの戦士といえた。――そのザルアーのほうは、今にも気絶せんばかりだ。かつての気丈な女呪術師も、畢方のこの無気味さをまえにしては、恐れおののくばかりのようだった。
小丑《シヤオチユウ》はいささかも三人の恐慌状態を意に介していないように見えた。ゆっくりと、三人の前に回り込み、しばらく眼を光らせていたが、
「あなただ」
チャクラの胸を指差し、短く言った。
「なにが、よ」
チャクラは眼を剥《む》いた。
「どうやら、鬼を隠しているのはあなたのようだと言ってるんですよ」
「鬼……」
チャクラは絶句した。
「そう――」
小丑《シヤオチユウ》はうなずき、手にしていた竹筒でスッとチャクラの胸を差した。「懐《ふところ》に隠しているものを出してもらおうじゃないですか」
「…………」
チャクラには何がなんだかわからない。真実、憶《おぼ》えのないことだった。
しかし、小丑《シヤオチユウ》の眼光は凄《すさま》じく、とうてい冗談事では済ませない雰囲気《ふんいき》だった。その手に握られている竹筒からも、一種名状しがたい殺気が発散されているように思えた。
完全な気力負けだった。
チャクラはわけがわからないまま、懐に手をやり、――そして、驚愕《きようがく》したような表情を浮かべた。
チャクラは想い出したのだ。あの深紅色の森林で奇妙な植物を拾いあげたことを……褐色の茎が巻きちぢみ、掌ほどの大きさにまるまっている奴だ。チャクラはそれを拾いあげた後、なんということもなく懐に突っ込んで、そのまま忘れてしまっていたのである――しかし、まさか……まさか、こんなものが鬼だなんて……そんなバカな話が……
だが、チャクラがおそるおそるそれを懐から出すのを見て、小丑《シヤオチユウ》はいかにも満足げにうなずいたのである。
「やはり、そうでしたね――」
小丑《シヤオチユウ》は微笑さえ浮かべていた。「いやはや、私もうかつでしたね。危うく、あなたたちに鬼を持たせたまま、県圃《ケンポ》に入るのを許すところだった。流れ者には、充分に注意するようにと上司からも言われていたんですけどねえ……」
「待ってくれっ、俺はこいつが鬼だなんて知らなかったんだ。俺はただ……」
チャクラがそう呼びかけるのを、
「黙りなさい」
「…………」
チャクラは悩乱したように、パクパクと口を開閉させている。ジローとザルアーの二人もことの意外ななりゆきに、ただ呆然《ぼうぜん》と立ちすくむばかりだった。
「知らなかったとは言わせませんよ」
小丑《シヤオチユウ》は赤い舌で唇を濡らしながら、ゆっくりと言った。その眼は邪悪な喜びに輝き、吐き出される息がケシの花のように甘くにおっていた。
「あなた方は、彼らが草を棒でたたいて、何をしているとお思いだったのですか。そいつですよ。そいつが県圃《ケンポ》の里に侵入していないかどうか確かめているんですよ。それが、打鬼《ダーコイ》なんですが、ね……とにかく、あなた方は県圃に災いをもたらそうとした。まさしく、極刑に価《あたい》する罪ですな」
――ジローはそれ以上、小丑《シヤオチユウ》の饒舌《じようぜつ》をきいていることに耐えられそうになかった。
たとえ、チャクラが小丑《シヤオチユウ》のいう鬼を持っていたとしても、それは無知から生じた行為であり、そこには一片の悪意も含まれていないことは明らかではないか。
それを、小丑《シヤオチユウ》は極刑に価《あたい》する罪だという。この美少年はたんに人が苦しむのを見るのが好きなだけなのだ。悪意にどす黒く凝り固まった化け物としか思えなかった。
ジローは怒りに衝《つ》き動かされ、小丑《シヤオチユウ》に向かってつかみかかろうとした。
ザルアーの悲鳴がきこえた。
ジローの体が空中で停止したのだ。いや、――思いがけない素早さで降下してきた畢方が、そのブヨブヨとした肉で、ジローの体を呑《の》み込んでしまったのだ。
ジローは絶叫し、必死に身もがいた。
だが、夢のなかでもがいているようなものだった。畢方の肉はいっこうに手応《てごた》えがなく、そのくせ蹴《け》っても殴《なぐ》っても、絶対にジローを解放してくれようとはしないのだった。
屍肉《しにく》の異臭、感触がしだいにジローの精神を侵し始めていた。
――このままでいれば、俺はまちがいなく発狂する……ジローはなおももがきながら、奇妙な冷静さでそんなことを考えていた。
7
――たくましい咀嚼《そしやく》音がきこえている。
草がゆらぎ、ざわめき、みるまにおし倒されていく。
なにかが草をしきりに食べている様子なのだが、丈たかいイネ科植物に隠され、その姿を定かに見ることはできない。まるで、眼に見えない大鎌《おおかま》がふるわれているような具合だった。
ザワザワとひときわ激しく草がゆれ、なにか黒いものがヌッと姿を現わした。
馬蝗《ばこう》である。
そのタガネ状のするどい切歯が、おびただしい草を地からひき抜き、噛《か》みきり、咀嚼しているのだ。
草原には、見わたすかぎりさざなみのように陽光がきらめいている。そのあくまでも明るい草原を背景にして、全長三メートルにも達する馬蝗の姿は、ひどくグロテスクで、不釣り合いなものに見えた。
バッタの食欲はすさまじく、体重の半分、ときには数倍にもおよぶ量の草を食べる。ましてや、馬蝗の体重は三百キロを優に越えているのだ。その食欲に、草原がヒフ病におかされたように、急速にマダラになりつつあるのも当然のことといえた。
どこか遠くから、金属板をこすりあわせるような音がきこえてきた。だが、馬蝗はおのが食欲を充たすのに夢中で、頭をもたげようとさえしなかった。
ふいに、草原を影が走った。
はるか彼方《かなた》の地から、大きく放物線をえがいて、別の馬蝗が跳躍してきたのだ。二匹の馬蝗は地に激突し、――一瞬のうちに、跳躍してきた馬蝗が、もう一匹の馬蝗の胴をまっぷたつに噛みちぎっていた。
胴を噛み切られた馬蝗は、肢《あし》をふるわせ、苦悶《くもん》しながらも、なお草をむさぼりつづけている。勝利をおさめた馬蝗は、犠牲《ぎせい》者の体を圧《お》さえつけるようにして、そのするどい切歯で腹を裂き始めた。なんと、この馬蝗は肉食なのだ。
青くさいようなにおいが、草原にただよっていた。
殺した馬蝗と殺された馬蝗との間には、あきらかな相違《〔註7〕》があった。前者は後者に比して、前ばねが短く、腿節《たいせつ》、前胸背ともに幾分ながいようだった。
馬蝗は犠牲者の体をむさぼりながら、しきりに後腿節と前翅《まえばね》をこすりあわせている。きしむような金属音だ。なにかしら、野獣の咆哮《ほうこう》を連想させた。
ふいに、馬蝗が頭をもたげた。そして、なにかたしかめるように、はるか草原の一点をジッと凝視している……
――しだいに遠ざかっていく蹄《ひづめ》の音を、ジローはもうろうとした意識のなかできいていた。三頭の馬は遠く、遠く去っていき、やがて蹄の音もきこえなくなった。
このまま、地に顔を伏せて、眠りこんでしまいたいという欲望に、ジローはほとんど屈しそうになった。なにもかも忘れて、ただひたすら眠りをむさぼりたかった。実際、フッと意識がとぎれるような瞬間もあったのだ。
だが、――肩と上膊筋《じようはくきん》の灼《や》けつくような痛みが、ジローを安らかな眠りからさまたげていた。それに、なにより先にチャクラとザルアーの無事をたしかめる必要もあった。
ジローはあえぎ、あえぎながら、ようやく体を起こし、あぐらをかくことができた。そして、歯を使いながら、両手首を縛っているナワを解こうとする。――やっとナワが解けたときには、ジローは疲労|困憊《こんぱい》の極に達していた。しばらく、放心したように両手首に残る赤いアザを見つめている。
さしもの体力に恵まれたジローも、馬に引かれながらの一日の強行軍は、そうとうこたえたようだった。警吏たちは容赦なく馬を走らせ、ジローたちが転ぼうと、地を引きずられようと、まったくおかまいなしの非情さだったのだ。
ジローは立ち上がろうとして、傍らの草むらに自分の剣が放りだされているのを見つけた。どうやら、警吏たちが立ち去る際、落としていってくれたものらしかった。小丑《シヤオチユウ》がそうしろと警吏たちに命じたのだろうが、これはジローにとって思いがけない喜びといわねばならなかった。少なくとも、徒手|空拳《くうけん》の心細さからは解放されるからだ。
ジローはその剣を杖《つえ》にしながら、ふらつく足を踏みしめて、やっとの思いで立ち上がった。そして、地に横たわったまま、うめき声をあげているザルアーのナワを、震える指でほどいてやる。
チャクラはといえば、すでに自力でナワをほどき、グッタリと地に伏している。
三人ともに、とことんまで体力をしぼりとられていた。あの小丑《シヤオチユウ》の命により、彼らは水一滴与えられずに、草原を歩かされ、そのど真ん中で放りだされてしまったのだ。たとえ悪意はなかったにしろ、県圃《ケンポ》に鬼を持ちこもうとした罪は重く、いうならば島流しにされたようなものだった。
ただし、彼らが自力で草原を突っきり、県圃にたどり着くことができれば、その罪は帳消しになるという話だった。しかし、草原は、広く、小丑《シヤオチユウ》の言葉をかりれば、「県圃の里には水がなく、他所者にはとても苛酷な土地」ということなのだ。疲れきった彼らが、はたして草原を突っきることができるかどうか、大いに疑問といわねばならなかった。
すでに、喉《のど》の渇《かわ》きがひりつくようなのである。
「そんなバカな話はないよ」
ジローはザルアーを立たせながら、力づけるように言う。「これだけの草原だ。水がないなんて、そんなことがあるもんか。小丑《シヤオチユウ》のおどしに決まっているさ――大丈夫だよ。水がなかったら、草なんか育つはずがないじゃないか」
だが、必ずしも、ジローは自分の言葉を信じているわけではなかった。
ジローは故郷マンドールにもどる際、さまざまな土地を通過した。そして、どの地においても、生物相、植物相が調和していることを、頭ではなく、体で理解するにいたった。
この時代、見知らぬ土地を旅しようとする人間にとっては、不可欠な知恵ともいえる。その土地の調和をやぶろうとしないかぎり、まずたいていの危険は避けられるからだ。
たとえば、マンドールだが、|猩猩〓魚《しようじようかつぎよ》など、一見とっぴょうしもない生物が跳梁《ちようりよう》しているようで、その実、やおろず≠ノほどよく調和している。――ちょうど、南方の絨毯《じゆうたん》みたいなものである。さまざまな色の糸が交錯し、でたらめな模様をあやなしているように見えるが、眼をすこし離せば、そこにはっきりとした絵が浮かびあがってくるのだ。
もちろん、ジローは生態系などという言葉は知らなかったが、ほかの誰《だれ》にもまして、生態学《エコロジー》を体で理解していた。
しかし、県圃を中心とするこの地には、いかなる意味での調和も存在しなかった。どんなに視線を凝らしても、全体を見通すことはできず、一種奇形ともいうべき不調和が浮かびあがってくるだけだ。視肉《しにく》、畢方《ひつほう》などという化《ば》け物が、どんなやおろず≠構成しうるというのか。だいたい、あれを生物と呼ぶことが可能なのだろうか……
たしかに、水がなかったら、草なんか育つはずがない。だが、――この地、県圃にかぎって、そんなこともありうるような気がするのだ。
「ここはなんだかおかしいぜ――」
チャクラが、ジローの不安をはっきりと言葉にあらわした。「草原だからって、水があるって安心するのはどうかな」
チャクラはもう活動を開始していた。どんなに疲労|困憊《こんぱい》しても、この男の好奇心を殺すことだけはできないようだ。生来の野次馬、好奇心のかたまりのような男なのである。
チャクラは草原のうえに腹這《はらば》いになり、犬のように顔を寄せ、しきりに地面を舐《な》めていた。
「水の味がしない」
そして、土をペッと吐きながらいう。「たしかに、水を見つけるのはむつかしそうだ」
「だけど、水がなくて、草が育つはずがないじゃないか」
「そうなんだが……」
チャクラは首をひねっている。
彼ら三人は、とんでもない窮地に立たされたといえそうだ。ジローは、県圃にたどり着くまでの距離を思い、眼がくらむような気持ちにおそわれていた――下手《へた》をすると、それこそ草原のど真ん中で、渇き死にするというはめにもなりかねない。
「とにかく、歩きましょう」
ザルアーが言った。「歩かなければ、いつまでたっても水にありつけないわ」
これこそ、実際的な提案というべきだった。
――緑の大洋をただよっているようなものだった。
進めども、進めども、風景には変わりはない。ただ、草が風にそよぎ、ささやくような葉擦《はず》れの音を鳴らしているだけなのだ――なにかしら、同じ場所をどうどう巡りしているような錯覚にとらわれてしまう。方向感覚さえあいまいなものとなっていた。
三人は黙々と歩いている。
歩くのをやめれば、一眠りしたいという誘惑にかられるはずだ。眠れば、とりあえず疲れはとれるかも知れないが、喉の渇きはなおさら耐えがたいものになるだろう。自滅をはやめるだけのことなのだ。
だから、三人には足をとめることも許されていなかった。水を見つけるまで、ひたすら前進あるのみだ。つらいが、――ほかにどうしようもないのである。
チャクラは歩きながら、手近の草をちぎっては、噛《か》みしめていた。そして、決まって顔をしかめ、ペッと吐きだすのだ。
水が見つからないなら、せめて喉の渇きをすこしでもいやしてくれる草なりとないものか――チャクラがそんなことを考えているのは明らかだった。だが、残念なことに、チャクラの望みはむなしく、唾液《だえき》を緑にそめる結果にしかならなかったようだ。
やはり、ザルアーの疲労がもっともめだった。なんといっても女の身には、馬に引きずられながら、まる一日を歩かされるという体験は苛酷《かこく》に過ぎたろう。かろうじて、足を運んでいるといったていだった。
ジローは、できればザルアーを背中におぶっていってやりたいと思っている。思ってはいるが、――そんなことを申し出ようものなら、ザルアーが顔を真っ赤にして怒りだすことは、目に見えていた。誇りたかきザルアーは、たとえ這って歩くことになっても人の手をかりるのは拒むような女だからだ。
ザルアーの苦しみを知りながら、ジローは手をこまねいて見ているしかなかったのである。
「おかしいな」
チャクラが大声で言った。
「この草原はなんだか造り物みたいだ。草丈が刈りそろえたように同じだし、それに土壌《どじよう》がきれいすぎる」
「きれい?」
ジローは地面を見おろし、チャクラの言葉の意味するところを理解した。
たしかに、地面がきれいすぎた。雨季でもないかぎり、草原には雨が少なく、しかもたちまち蒸発してしまうために、土中の栄養がそこなわれることはない。微生物やバクテリアが分泌するミネラルを、タップリ含んでいてしかるべきはずなのだが――実際には、盛り土をしたようにサラサラと崩れやすい地面なのだ。草原らしからぬ土壌といえた。
「それに、虫なんかもすくないみたいだ」
ジローが言った。「水がなくて、草が育つんだったら、虫がいないくらいはふしぎはないかもしれないけど……それにしても……」
ジローは言葉を切り、前方をキッと睨《にら》みすえた。一瞬、ほかの二人が立ちすくむのがわかった。
なにかが、こちらに向かって一直線につき進んでくるのだ。姿を定かに見ることはできないが、草原が切り裂かれるように割れていくことから、その存在を知ることができるのだった。渓流《けいりゆう》をさかのぼる回遊魚のような勢いだ。
そいつは、あまりにも早すぎた。三人がその存在に気がついたときには、すぐもう目の前にまで迫っていたのだ。――ザルアーが悲鳴をあげた。チャクラも、とっさにはどうしていいかわからなかったようだ。
しかし、さすがにジローは甲虫《かぶとむし》の戦士≠セった。子供のころからつちかわれてきた反射神経がひらめき、右手を剣の柄《つか》に走らせたのだ。
視界が裂けたかのようだった。草が二分され、なにか黒いものがとびだしてくるのが見えた。そいつは、一瞬、身をくねらせ、頭上から襲いかかってきた。毒ヘビが襲うときに似ていた。
ジローはほとんど自分の動きを意識していなかった。踏みこみざま、片膝《かたひざ》をおとし、剣を大きく抜きはらったのだ。剣は、みごとにそいつをとらえていた。
切断されたそいつの先端が、宙をうねり、ドサリと地に落ちた。とたんに、残った本体はすみやかに後退した。姿をかき消したかと思われるほどの、とてつもなく早い逃げ足だった。
ジローは剣を手にしたまま、呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。……ジローが斬《き》ったのは、一種の蔓《ツル》のような植物だった。黒い剛毛におおわれていたが、それが植物だったことは間違いない。しかし、――それは、なんという長い植物だったことか。地をつたい、草をかきわけ、はるか地平線のかなたからはるばるとやってきたのだ。
斬ったときの手応えからジローはそいつが這い進んできたのではないことを直感していた。そいつは、たんに体を伸ばしていただけにすぎないのだ。だからこそ、伸びきったゴムが一瞬のうちに縮んでしまうように、すみやかに後退できたにちがいない。数キロにわたって、体を自在に伸縮させることが可能なほど、弾力性にとんだ植物……まったく、悪夢の産物としか思えないではないか。
「小丑《シヤオチユウ》は、たしか県圃の里には、|〓〓《れいれい》とかいう化け物が居ると言ってたね……」
ジローは掌でブルンと顔をなでおろし、うめくように言った。「あいつがそうだろうか」
だが、チャクラの返事はなかった。さっそく草地に踏みこみ、あいつの切断された先端をさがしにかかったのだ。野次馬精神もここまで徹底すると、ある種の哲学さえ感じさせる。
ジローとザルアーは顔を見あわせ、互いに苦笑をかわした。
ややあって、チャクラが草のなかから姿を現わした。その手に、先が羽毛のようになっている蔓?――を持っている。
「ちがうな――」
チャクラは顔を見せるなり、かぶりを振った。
「こいつは、|〓〓《れいれい》なんていう代物《しろもの》じゃなさそうだ……大きさを別にすれば、こいつはハネガヤにそっくりだぜ」
「ハネガヤ?」
「ああ……長いノギ≠縮んだり伸びたりさせて、種子を撒《ま》き散らす植物さ」
チャクラは顎《あご》を掻《か》きながら、なにか考えこんでいるような表情で言った。
「なあ、たしかにここら辺のやおろず≠ヘおかしいが……俺はどうしておかしいのか、漠然《ばくぜん》とわかりかけてきたような気がするよ。それは……」
しかし、チャクラはその言葉を言い終えることはできなかった。
そのとき、馬蝗《ばこう》が三人に襲いかかってきたからである。
――ジローが剣《つるぎ》を抜いたままだったことがさいわいした。
さもなければ、大きく跳躍してきた馬蝗の襲撃をかわすことは不可能だったにちがいない。剣を抜きはらうわずかな時間差が、生死をわかつほどの、じつに危うい一瞬だったのである。
陽《ひ》がかげった瞬間――ジローのきたえぬかれた筋肉がとっさに反応した。ザルアーをつきとばし、切れめのない動きで、剣を頭上たかく突き上げたのだ。
どんな剣をもってしても、馬蝗の腹をつらぬくことなどできそうにない。馬蝗の体重が作用したからこそ、ジローはかろうじてその腹を傷つけることができたのだ。馬蝗にしてみれば、指を切ったほどの痛みも感じなかったにちがいない。
瞬間、馬蝗の体が反転し、数メートル先にフワリと着地した。まったく、重力を無視したような動きだった。
馬蝗の小山のような巨体を前にしてジローは恐怖せずにはいられなかった。その体が剣をはねかえすほどの強靭《きようじん》さをそなえていることは、つい今しがたの体験からも明らかだった。そのジャンプ力の優れていることも立証ずみだ。――こんな怪物を相手にして、どう戦えばいいというのか……
ジローはすばやく視線をめぐらして、チャクラがザルアーを護《まも》っていることをたしかめた。チャクラにまかしておけば、まずザルアーのことは心配いらない。ジローとはまた別の意味で、チャクラは勇敢な男といえたからである。
これで、心おきなく戦うことができる。しかし、どうやって?……
ふいに馬蝗の輪郭がぶれて、その体がふくれあがったように見えた。残像から生じた錯覚だ。馬蝗の跳躍があまりにすばやいため、人間の網膜はその動きをはっきりとらえることができないのだ。
なかば動物的な本能にみちびかれ、ジローは地に身を投げた。耳のすぐ後ろで、ガキッという鉄罠《てつわな》の締まるような音がきこえた。すれちがいざま、馬蝗がそのするどい切歯を咬《か》みあわせたのだ――転がり、すぐさま立ち上がる。一瞬のうちに、ジローと馬蝗の位置は入れ替わっていた。
だが、対峙《たいじ》したと思う間もなく、ふたたび馬蝗の姿は消えていた。めまぐるしく跳躍攻撃をくりかえし、ジローが疲れるのを待つつもりにちがいない。現に、ジローは守勢一点ばりで、なかなか反撃のきっかけをつかめないでいた。
とつぜん、つむじ風にまきこまれたようなものだ。とにかく、相手の攻撃から身をかわすのが精いっぱいなのだ。
きらっと光るものが宙を飛んだ。ジローの劣勢を見かねて、チャクラが馬蝗に向かってナイフを投げたのだ。
チャクラが必ずしもナイフ投げの名手とはいえない。そのナイフも、かろうじて馬蝗の触角をかすめるにとどまったが、それでもジローにとっては大助かりだった。一瞬、馬蝗の注意がジローからそれ、ことを客観視する余裕を与えられたからである。
――敵は巨大なバッタだ。そして、バッタは跳躍するものなのだ……そう思いついたとき、ジローの体は自然に反応していた。踏みこみ、さらに踏みこみ、馬蝗との間合《まあ》いをできるだけつめようとする。馬蝗の跳躍攻撃は、相手がある程度はなれている場合にしか通用しないのだ。
馬蝗はあわてて後ずさり、適当な間合いをとるべく、跳躍の姿勢にうつろうとした――それこそ、ジローの狙《ねら》いとするところだった。馬蝗の下腹をかいくぐり、走りぬけ、その下肢《かし》にとびつくとジローは力のかぎり剣を振り下ろしたのだ。
馬蝗はなお跳躍しようとしたが、下肢の一本を失い、そのジャンプ力は大きく削《そ》がれていた。バランスを逸し、ぶざまに落ちるはめとなったのだ。そして、草をなぎたおしながら、必死に体勢を立て直そうとする。
それに比して、馬蝗に近づいていくジローの足どりは、実におちついたものだった。
跳躍できないバッタなど、いかに巨大であろうと恐るるにたらない。その息の根をとめるのは、いともたやすいことに思われた。
だが、――ジローはすぐに自分の過ちをさとることになった。たしかに、馬蝗はもう危険な化け物とはいえなかったが、だからといって、必死にもがく巨大バッタをしとめる仕事が容易なはずはなかった。
ジローはなおも悪戦苦闘をつづけなければならなかったのである。
チャクラは草のうえに腰をおろし、ニヤニヤと笑いながら、それを見物している。ジローを手伝おうなどという殊勝な気持ちは、さらさらないようだ。
「どうして、手伝わないの?」
ザルアーが、とがめるようにチャクラに訊《き》いた。
「俺はいま考えているんだよ」
チャクラは人差し指を唇に当てて言った。
「バッタの外皮が厚いのは、草原の乾燥した空気のなかでも、体内の水分を逃がさないためだ、と、きいたことがある――うまくやれば、その水分を絞りとることも可能なんじゃないかな。それができたら、俺たちの水問題もとりあえずは解決するんじゃないか」
8
闇《やみ》のなかにボワーと明かりが浮かびあがっていた。どうやら、うすい紙幕を蝋燭《ろうそく》の炎が照らしだしているようだ。
銅鑼《ドラ》が鳴り、細く笛の音《ね》がきこえると、紙幕に人形の姿が映った。
影戯《インシー》だ。
半透明になめしたラバの皮をきりぬき、きれいな彩色をほどこされた人形が、紙幕のうえに映しだされているのだ。人形をあやつる者の姿は見えない。
人形は、男が一人と、その背後にうずくまる三人の老婆たちだった。
しわがれた声がきこえてきた。
「一つだけじゃが……一つだけ、こわいものがあったろうが」
沈黙――そして、ふたたびしわがれた声がつづく。
「三人連れの旅人じゃ」
「若者が一人に、男が一人、それに女が一人の三人旅……」
「こやつらは雲龍《うんりゆう》さまにとっては、布衣《ほい》の下のハチのようなもの――早く始末せぬと、チクチク刺して、それこそいつかは命取りにならんともかぎらぬて」
老婆たちの声のようだった。
ふいに場面が変わり、紙幕から老婆たちの影が消えた。そして、喉太《のどぶと》な男の声がきこえてくる。
「女の腹から生まれた者は、俺《おれ》にあだすることはかなわぬ――婆《ばばあ》たちさえ、あのざまだ……なんの、旅人ごときをおそれる必要があろうか。この手で握りつぶしてくれるわ」
紙幕から、男の影も消えた。
しばらくは、蝋燭の炎がちらちらと揺れているだけだ。
ふたたび銅鑼が鳴り、――今度は女一人を交えた三人の旅人の影が映る。
「苦しい……」
女の悲鳴だ。
「水がほしい。水がほしい……」
「ああ……もう、これ以上は我慢できそうにない。もう一歩も歩けない……」
男のかすれた声がつづく。
「死にそうだ。喉が渇いて、死にそうだ」
人形たちの動きはたよりなく、今にも崩れそうだった。人形師は実にあざやかに、極限状況を紙幕に映しだしていた。その巧みな声色《こわいろ》とあいまって、まさしく迫真の演技というべきだった。
「とても、県圃《ケンポ》にたどり着くことなどできそうにない――」
若い男の声が言った。「あきらめよう。あきらめて、ここに身を横たえるのだ。死んだほうがましだ。三人で仲よく……」
「やめろ」闇《やみ》のなかからきこえてきた声が、人形の科白《せりふ》をさえぎった。影戯《インシー》ではなく、現実に身を置く人間の声だった。
紙幕の旅人たちはピタリとその動きをとめた。彼らに宿っていた魂は消え、ただの皮細工の人形が残った。
蝋燭がジィーッと鳴っている。
「くだらぬ小細工を弄《ろう》しおって……」
と、その声が言った。「誰が、きゃつらを県圃の里に追いはらえと命じた? 俺が婆《ばばあ》たちの占《うらな》いに怯《おび》えているとでも思ったか。三人の旅人が現われたら、女のように腰をぬかすとでも思ったか……」
ふしぎな声だった。熱くも、冷たくもなく、奇妙にものうい響きだけがあった。その言葉をきけば怒っているようだが、しかしそこには感情らしきものはいっさい含まれていなかった。誇張された人形たちの声のほうが、よほど人間らしくきこえた。
「――――」
人形師は沈黙している。人形が動きをとめたとたん、人形師もまた命絶えたかのようだった。
「県圃の里が笑わぬかぎり、謀反《むほん》がしくじることはない――」
声が言った。
「女の腹から生まれた者は、誰も俺にはかなわない……俺のそれほどの強運を、きゃつらは脅やかすことができるという。なあ、面白いとは思わぬか。とるにたらぬ旅人ごときに、本当に俺を滅ぼす力があるのかどうか……知りたいとは思わぬか」
声はしだいに低くなり、扉《とびら》のきしむ音がきこえた。一瞬、部屋が明るくなったが、扉の閉まる音がきこえたのと同時に、ふたたび闇にとざされた。
声の主が去っていったのだ。
しばらく、闇のなかに動くものの気配はなかった。動くものといえば、ただ紙幕のうえに光の輪がおどっているだけだ。
やがて、――紙幕のまえにすっと人影が浮かびあがった。
小丑《シヤオチユウ》だった。
小丑《シヤオチユウ》はなにか渇《かつ》えたような表情で、虚空《こくう》の一点を凝視している。蝋燭の仄明《ほのあ》かりが、その美貌《びぼう》をすごいほどに際立《きわだ》たせていた。
そして、ソッと人の名をつぶやいた。
雲龍さま……
――朝である。
朝日の金色の帯が草原をゆっくりと移動していく。風にそよぐ草が、薫《かお》りたつようだった。
草原の一角に、ケシツブのように小さなものが動いているのが見えた。
ジネズミだ。
ジネズミはその前歯と、長くまがったツメで、しきりに地を掘っている。たくましく発達した肩の筋肉が、リズミカルに動き、みるみる穴をひろげていくのだ――土を掘る動きと、掘った土を傍らにのける動きがみごとに連係され、いかにも仕事に無駄《むだ》がない。地下茎が幾つか転がっているところを見ると、どうやらジネズミは食糧地下貯蔵庫をつくるつもりでいるらしい。
ふいに、ジネズミはするどい啼声《なきごえ》をあげ、二本足で立った。毛を逆立《さかだ》て、しきりと視線をあちこちにめぐらしている。なにかに怯《おび》えているようだが、なにが恐ろしいのか彼自身にもよくわからない様子だ。
ジネズミは身をひるがえし、草の間に逃げこもうとした。臆病《おくびよう》な小動物には当然の反応だったが――逃げるのがやや遅すぎたようだった。
ジネズミが駆けぬけようとした地盤が、一瞬のうちに泥濘《ぬかるみ》と化したのである。数メートル四方にわたり、沼が出現したようなものだった。
『キーッ』
ジネズミはもがき、必死に逃れようとしたが、その体がズブズブと沈んでいくのをどうすることもできなかった。ジネズミはやがて頭だけを地上に残し、しばらく悲しげに空を見ていたが、その頭もついに泥のなかに没してしまった。
すると、沼も消えた。ぴしゃりと扉をとざしたように、乾燥した地盤がもどってきたのである。
――なにかが居た。間違いなく、なにかが居た。
そのなにかは、近づいてくる別の存在に気がつき、不定形の体をのばし、地中をゆっくりと移動し始めた……
近づいてきたのは、ジロー、チャクラ、ザルアーの三人だった。
馬蝗《ばこう》の体液をすすって、喉の渇きをいやし、一晩をゆっくりと眠った三人は、どうにかいつもの体力を回復している。さすがに馬蝗を食べる気にはなれず、まだ腹は減らしたままだったが……
「おかしいのは、あの視肉にしろ、畢方《ひつほう》にしろ、県圃《ケンポ》を維持するという大目的があって、そのためにのみ存在を許されているみたいだということだな……」
チャクラが歩きながら、大声でしゃべっている。「俺は知っているんだが、すべての生き物はなにかを食べ、なにかに食べられることで、やおろず≠フなかに組み入れられているんだ――ところが、視肉だの畢方だのはそうじゃない。昨日《きのう》のハネガヤ≠ノしても、きっとなにかの役割をおわされているんじゃないかと思うんだ。まるで道具だよ。生き物としてはまったくの奇形だ……俺はどうも、ここの生き物たちは県圃につかえているような気《〔註8〕》がしてならないんだ……」
「たしかに、それはそのとおりだわ」
ザルアーが同意した。「私は、それが生き物なら、どんな性悪《しようわる》とでも心をかよわせる自信があるわ。たとえ仲よくなれないまでも、少なくとも理解することだけはできるのよ。ところが、あの視肉とか畢方ときたら……魂がまったく感じられないのよ」
「同じことがあの村人たちにも言えるんじゃないかな」
ジローも言う。「ただ打鬼《ダーコイ》のためにだけ、生きてるみたいだ。畑仕事もしないなんて、おかしいよ……」
三人は、あまりにも会話に熱を入れすぎていたようだ。
彼らはたびたび危険に直面し、いわば危険に対してある種の勘が働くようになっている。それほど話に夢中になっていなければ、もしかしたら前途に待ちかまえている危険に気がついたかもしれないのだ。だが、――彼らはなんの疑いもなく、地中にひそむそいつに近づいていきつつあった。
そいつのテリトリーに足を踏み入れたが最後、彼らにもあのジネズミと同じ運命が待っているはずだったのだが……
しかし、三人は思いもよらない偶然によって、命拾いすることになったのである。
ふいに草陰から飛びだしてきて、彼らのすぐ眼の前を流れ星のように横切ったものがあったのだ。そいつは大きく跳躍すると、三人の網膜にあざやかな残像をやきつかせて、走り去っていった。
ケーン、ケーンという甲高《かんだか》い啼声が草原に響きわたる。
「わ……」
チャクラがとびあがって、興奮を圧《お》さえかねたように、ジローの肩を何度も拳《こぶし》でなぐりつけた。そして、喚《わめ》く。「あいつだ。あいつだ。あいつが、俺をバカにしやがったキツネ……」
チャクラは途中で口をとざした。ジローとザルアーがチャクラの肩ごしに見ている。その視線の異常さに気がついたのだ。チャクラの背後を、それこそ信じられないものを見るような眼で凝視しているのだ。
チャクラはおそるおそる振り返り、――そして驚声をあげた。
眼の前に、小さな沼が出現しているのだ。傷口がジクジクと膿汁《のうじゆう》を分泌するように、急速に泥濘《ぬかるみ》がひろがっていく。見ている間にも、乾燥した土壌がとけくずれ、ドロリとよどんでいくのである。――キツネが三人の前を横切らなければ、彼らは知らずにその地に足を踏み入れていたろう。
「こいつが|〓〓《れいれい》だ……」
ジローがかすれた声でつぶやいた。「|〓〓《れいれい》にちがいない」
「逃げたほうがいいわ……」
ザルアーもつぶやいた。
沼が動いているのだ。ゴボゴボと泡立《あわだ》ちながら、沼がこちらに向かって動き始め、――そして、ふいにその速度を増した。あたかも、しばらく様子をうかがっていた猛獣が、とつぜん獲物《えもの》に襲いかかることを決意したかのようだった。
三人は悲鳴をあげ、たまらず逃げだした。大地そのものが化け物に変貌《へんぼう》し、襲いかかってくるのだ。そのおそろしさたるや、とうてい馬蝗ごときの比ではなかった。
草がうねり、ざわめいた。地盤が一瞬のうちに泥濘と化し、また固さをとりもどすのである。草原が奇態な脈動を見せるのも当然だったろう。
三人は必死になって逃げた。三人とも、あのキツネがなにから逃げようとしていたかはっきりと思い知らされていた。
|〓〓《れいれい》は急速に三人に迫りつつあった。
銀ギツネはいったん草のなかに没したが、ふたたび姿をあらわし、三人に向かって、ケーンケーンと呼びかけてきた。
どうやら、銀ギツネは三人に対して、ある種の好意みたいなものをいだいているようだった。同じ|〓〓《れいれい》に追われる身として、連帯意識を持っているのかもしれない。それとも、ありえないことのようだが、チャクラを憶《おぼ》えてでもいるのか。
とにかく、銀ギツネが三人に向かって、早く逃げろ、と呼びかけているのはまちがいなかった。それはまちがいなかったが、人間の脚力は、四足獣のそれに比して、はなはだしく劣るのだ。銀ギツネのようなわけにはいかないのである。
三人はあえいでいる。
草原は、走るのにはまったくふさわしくない土地だ。――草にさえぎられ、足をとられ、どうかすると転びそうになってしまう。あせればあせるほど、足がもつれてしまう感じなのだ。
移動するだけでも信じられないのに、沼には意志、いや、視力さえそなわっているように思えた。
三人は決していたずらに逃げまどっていたわけではない。あるいはジグザグに走り、あるいは直角に方向を転じたりしたのだが、その動きをどう感知するのか、沼は執拗《しつよう》にくらいついてきて、いっかな離れようとはしないのだった。
|〓〓《れいれい》は、確実に三人を追いつめつつあるようだ。ゴボゴボという音が、三人の耳にしだいに迫ってきた。
銀ギツネはついに三人を救《たす》けることを断念したらしい。ふいに草原に身をおどらせると、跳躍につぐ跳躍で、みるみる走り去っていった。
「あっ――」
ザルアーの悲鳴がきこえた。
とうとう泥濘《ぬかるみ》に足をすくわれてしまったのだ。ズボッと腰まで埋まってしまい、反射的につかんだ草も、すでに泥のなかに頼りなくただよっていた。
「ザルアー」
ジローはあわててとってかえした。
しかし、いかに猿臂《えんぴ》をのばしても、ザルアーを泥のなかから引きあげることはできなかった。泥はなお急速に移動をつづけているのだ。沼の淵《ふち》に足をさらわれたはずのザルアーは、いつしか手のとどかぬところに移ってしまっていた。
ジローは剣をぬきはらったが、それでどうなるものでもなかった。
マンドールの三戦士=A県圃の馬蝗もたしかにてごわい相手だったが、しかし、とにもかくにも生身の体をそなえていたのだ。泥を相手にするのとでは、そのてごわさの意味あいが大きくことなっていた。
ジローは剣を抜いたものの、手をこまねいて、ただ呆然《ぼうぜん》と見ているしかなかった。
ザルアーはズブズブと沈みつつある。腰、腹、胸と急速に沈んでいき、すでに泥は肩まで迫っていた。
「逃げて」
ザルアーが叫んだ。「こいつは化《ば》け物よ」
「…………」
一瞬、ジローが激しく迷ったのは事実だった。
たとえ、ジローが剣をふるったところで、|〓〓《れいれい》にはけほどの傷もおわせることはできない。だいたい、泥を相手にして、剣をふるうこと自体、おろかしい行為といわねばならなかった。ザルアーを助けることはできず、ジローもむなしく命をおとすはめとなるのは目に見えていた。
ジローの脳裡《のうり》を、ゾウの背で優雅に身をくねらせていたランの姿がよぎった。月《ムーン》≠とりかえさなければならない、という使命が想いだされた――ジローは断じてここで死ぬわけにはいかないのだ。
――だからといって、ザルアーを見殺しにしてもいいのか……
次の瞬間、ジローは歯をくいしばり、宙に身をおどらせていた。泥濘のなかにみずからとびこんでいたのだ。そして、懸命に泥をかきわけながら、右に左に剣をふるう。
|〓〓《れいれい》は地中ふかく身をひそめているにちがいない、と、考えたのだ。なんらかの超常能力《〔註9〕》で、地中を進み、土を軟泥《なんでい》にかえることができるのではないか、と……だからこそジローは、剣が軟泥をつらぬき、地中の|〓〓《れいれい》を傷つけることに望みをたくしたのだが。
しょせんは、徒労でしかなかったようだ。
どんな豪力の者をもってしても、軟泥の堆積《たいせき》を剣で両断することは不可能な業だ。水をタップリと含んだ泥は、容易に剣の勢いを削《そ》ぎ、その威力を殺してしまうからである。
ジローはいつしか剣をふるうことをやめていた。体力を消耗《しようもう》させるだけだ、と、気がついたのである。ただ、しゃにむに泥をかきわけ、一センチでも二センチでもちかく、ザルアーに迫ろうとしていた。
たやすいことではなかった。先へ進もうにも足がかりはまったくなく、むしろ泳ぐと形容したほうが正確なほどだったからだ。
ほんのわずかな間にジローはゲッソリと面変《おもが》わりしていた。柔らかく、重たい泥をかきわけて進むのは、さしもの頑強《がんきよう》なジローにとっても、いちじるしく体力を奪われる仕事だったのである。
戻って、と、ザルアーはくりかえし叫んでいた。ほとんど半狂乱になって、ジローにひきかえしてくれと頼んでいるのだ。
しかし、ジローは前進をつづけ、ついにその指がザルアーに達した。
「ザルアー」
「ジロー」
二人はたがいの名を呼びあった。ザルアーは泣いている。
すでに、ザルアーは肩まで軟泥に没していた。
ジローは急いで、ザルアーの脇《わき》の下に両手をさしいれ、その体をひきあげようとした。しかし、泥はあまりに柔らかく、しかもザルアーの体をしっかととらえていた。逆にジローの体が沈む結果となったのだ。
「逃げてっ」
ザルアーはジローの体を押し返した。「わたしのことはいいから逃げて」
「――もう逃げられないよ」
ジローはほほえんだ。「それに、ザルアーをおいて、逃げる気にもなれない……」
一瞬、ザルアーはジローを見つめた。ジローの顔の細部にいたるまで、克明に記憶しておこうとする、激しい視線だった。かつての、女|呪術師《じゆじゆつし》ザルアーの視線だ。
そして、――ザルアーはジローの胸にソッと頬《ほお》を寄せた。
二人は抱きあったまま、もう動こうとはしなかった。すべてを神≠フ御手《みて》にゆだねることを決意したのだ。生きのびようとする努力をいっさい放棄し、二人だけの世界にとじこもってしまったのである。
泥は首まで迫っていた。
すでに、二人はなかば死人と化していたのだが……
そのとき、チャクラの声が頭上からきこえてきたのだ。
「こいつにつかまるんだ――」
ジローは頭上をふりあおぎ、視線を斜めによこぎり、うねっているハネガヤ≠ノ気がついた。その黒い剛毛におおわれた、触手のような茎が、この場合はなにより美しいものに見えた。
文字どおりの、頼みの綱だ。
ジローは必死に泥のなかから両腕を引き抜いた。からみつく軟泥が、まるで鉛のように重く感じられた。そして、ザルアーに体にしっかりつかまっていろと命じる。
ジローは眼をかっと見ひらきハネガヤ≠ェ手元にやってくるのを待った。
全身を灼《や》かれているような焦燥感があった。ハネガヤ≠ヘ身をくねらしているのだが、ほんのわずかな差で、ジローの指にふれようとはしないのである。こうしている間にも、しだいに二人の体は沈みつつあるのだ。
ついに、泥は顎《あご》まできた。二人は顔を上に向け、かろうじて泥から逃がれている。泥が二人の口と鼻をふさぐまでには、もうあとほんのわずかな時間を余すのみだった。
そのときハネガヤ≠ェ大きくたわみ、ジローの指にふれた。ジローはその茎を握りしめ、ぐいっと自分のほうに引き寄せた。
下半身がちぎれるような痛みをおぼえた。
視界が反転し、空と草原とが上下を逆にした。ジローは自分の体が浮くのを感じ、次の瞬間、したたかに大地にたたきつけられていた。
もちろん、ザルアーも一緒だ。
しばらくは、苦痛と、命拾いしたという安堵《あんど》で、口をきくこともできなかった。ただ、ぜいぜいとあえぎながら、青空を見つめているだけだった。不覚にも、涙がにじんでくるのがわかった。
その涙でにじみ、ぼやけた視線に、チャクラの顔がヒョイと出てきた。いつもながらの、剽軽《ひようきん》なニヤニヤ笑いを浮かべている。
「大丈夫か」
それでも声だけは心配そうに、チャクラは手をさしのべてきた。
「あ、ああ……」
ジローはチャクラに助けられ、ようやく立ち上がることができた。そして、巨大な馬蝗《ばこう》と、そのかたわらに立つ一人の男の姿に気がついたのだ。
まるで、宙から湧《わ》いて出たような唐突《とうとつ》さだ。夢でも見ているみたいな、奇妙な気持ちにおそわれる。いつのまにか|〓〓《れいれい》が消え失《う》せ、ハネガヤ≠ェ見えなくなっていることも、その非現実感をなおさら強いものにしていた。
ザルアーも地にうずくまったまま、呆然とそれを見ている。
あたかも死んでいるかのように、馬蝗はピクリとも身動きしない。草原に長い影をおとし、ジッとうなだれているのだ。――動かないことでは、男のほうも同じだった。ジローたちを見ながら、ただうっそりと立っているのである。
妙に、威圧感を与える男だった。二本角の冠、黒袴褶《くろうまのりばかま》、腰に剣をつるし、黒いマントをはためかせているという、そのいでたちのせいかもしれない。それとも、するどく、暗い光をたたえたその眼のせいか。
とにかくジローがいまだかつて会ったことのない類《たぐ》いの人物であることはまちがいなかった。
「この方が救けてくださったんだぜ」
チャクラがなにか慌《あわ》てたように言う。「あの馬蝗にハネガヤ≠くくりつけて、わざわざここまで引っぱってきてくださったんだ……」
「俺の護《まも》り神、銀ギツネを見かけたものだからな」
男は低い、無感動な声で言った。「なにがあったのか、と、駆けつけてきただけのことよ――」
「あぶないところを、本当にありがとうございました。もしよろしければ、お名前をおきかせいただけませんでしょうか」
ザルアーが立ち上がり、いかにもしおらしげに訊《き》いた。
チャクラが口をひらきかけたが、男がこう名のるのをきいて、その口をとざした。
「雲龍《うんりゆう》だよ」
男はかすかに笑ったようだ。「俺の名は、雲龍だ――」
9
――県圃《ケンポ》の街は、二重に城壁をめぐらしている。城壁は必ずしも防衛のようをはたすばかりではなく、ある種の装飾としても考えられているようだ。緻密《ちみつ》で、雄大なさまざまな鳥獣彫刻は、決して見る者の眼を飽きさせない。
見わたすかぎりの草原のただ中に建設されているだけに、なおさら県圃の城壁は壮麗に、白く輝いて見えるのだ。
城壁には正陽門、朝陽門などの名のもとに、いくつかの門が設けられている。それらの門を起点、終点として、東西に七本、南北に七本の大通りが、県圃の街を整然とくぎっている。大通りには石が敷きつめられ、落ちている埃《ほこり》をさがすのもむつかしいほど、よく磨《みが》きこまれている。
県圃は大きく二つの地区にわけられる。宮廷を中心として、宮廷、官吏の住宅などが集まっている内域と、商業地区の外域の二地区である。この二地区の住民の間には、かっことしたヒエラルキーが存在し、外域の人間はほとんど内域に足を踏み入れることを許されていない。
この時代、おそらく県圃は、世界でも十指に数えられる大都会の一つにちがいない。県圃の大きさを考えれば、マンドールなど地方都市の名にも価《あたい》しないほどだ。街路に人々の流れは絶えることなく、いきかう馬車の車輪のひびきがのべつきこえてくるのだった。
しかし、あくまでもそれは第一印象にすぎない。――賑《にぎ》わっているように見えるが、その実、街を歩く人々の眼には奇妙に生気がないのだ。一様に、倦怠《けんたい》の表情があらわで、眼がドンヨリとにごっている。
たしかに賑わってはいるが、どことなく空虚な賑わいといえた。
繁栄の果ての爛熟《らんじゆく》、都市生活者のデカダンスともちがうようだ。どことなく、家畜の群れを連想させる無気力さだった。
――だが、外域の市場はそのかぎりではなかった。
呉服屋《チオウトアンプ》、薬屋《ヤオプ》、質屋《タンプ》などが軒をならべ、なにか市場全体がわーんとうなりをあげて、身をふるわせているような感じだ。ちり一つ落ちていないどころか、犬の糞《ふん》、落花生の殻《から》、場合によってはネズミの死骸《しがい》が落ちている汚《きたな》さだが、それだけにここには本物の活気がみなぎっていた。
狭く、いりくんだ路地に、人々のあけっぴろげな笑いと、怒声が、わんわんとこだましている。饅頭《まんじゆう》売りの一輪車、綿のぼてふり、しんこ細工屋、かつぎ売りの小商《こあきない》などがからみあい、もつれあい、熱湯のようにたぎっているのだ。
客たちはぬけめなく、商人たちはさらにぬけめなく、たがいに相手からすこしでも多くのものをくすめようと、大声で喚《わめ》きちらしている。ときに、店先から品物をかっぱらわれ、店の主人が子供を追っかけまわしている光景なども見られるのである。
とある小さな料理屋から、フラリと一人の男が出てきた。両手に、よく肥《ふと》ったあひるをぶらさげている。
チャクラである。
チャクラは路地に出ると、ヒクヒクと鼻をうごめかした。いかにも、嬉《うれ》しそうな表情をしている。この狭く、汚い路地に充満している悪臭も、チャクラの鼻にはこのうえもなく芳《かんば》しいかおりに感じられるらしい。とにかく、チャクラがこれほどところをえて見えることもめずらしかった。
例によって、チャクラは眼についた料理屋に入り、料理人に南方の料理を伝授して、そのかわりに食事を与えられ、帰りには二匹のあひるまでわたされたのである。まことに、上々の首尾というべきだった。
チャクラはニヤニヤと笑いながら、路地を歩きだした。どうやらチャクラは、ここをいたく気に入っているようだ。小鼻をふくらませ、眼をトロンとさせて、なにか酒に酔っているような風情《ふぜい》だった。
道端で、人だまりがしていた。
コオロギずもうだ。
平たい壺《つぼ》に、二匹のコオロギを入れて戦わせるという遊びである。もちろん、賭博《とばく》の一種であることはいうまでもない。壺のまわりにしゃがみこんだ客たちは、それぞれ自分のコオロギをさだめ、いくばくかの金を賭《か》けるという趣向だ。
客たちの自分のコオロギに送る声援が、まるで火を噴くようだった。
チャクラは眼を輝かせながら、その人だまりのなかに入っていった。
――数分後、人だまりのなかから出てきたチャクラは、まったくの手ぶらだった。憤懣《ふんまん》やるかたないといった表情で、しばらく人だまりを睨《にら》みつけていたが、やがてあきらめたように歩きだした……
――内域と外域をわかつ二番めの城壁にちかく、小さな邸《やしき》があった。
大門《ダーメン》も壁もまったく装飾をほどこしていない質素さだが、そのいたるところを鉄板でおおっている堅牢《けんろう》さは、ちょっとほかには類を見ない。花や、装飾壁《チヤオピ》など、邸をかざる最低限のものさえ欠けているのだ。
小|要塞《ようさい》のおもむきがあった。
フラフラと大道を歩いてきたチャクラが、その邸に入っていった。
中庭《コアンツ》に足を踏み入れたとき、チャクラは呼びとめられた。
雲龍だった。
「ほかの二人はどうした?」
雲龍がきいてきた。
「二人とも若いですからね」
チャクラは自然に腰をかがめるような姿勢になっている。「まだ眠り呆《ほう》けているんじゃないかと思います。なにしろ、県圃《ケンポ》の里をつっきるのは一苦労だったもんですから」
チャクラが雲龍と話すとき、どうしても臣下が君主に接するときのような口調になってしまう。一つには、雲龍が県圃ではかなりの実力者のようだからであり、もう一つには、彼ら三人をあの草原から連れだしてくれた、いわば命の恩人だったからである。
そのうえ、雲龍は三人の宿として、自分の邸を開放してくれもしたのだ。
しかし、チャクラは必ずしも雲龍を信用してはいなかった。なんとなくうさんくさいものをおぼえるのだ。雲龍がまったくの善意から、三人を救《たす》けてくれたとはどうしても思えないのだった。
「――――」
雲龍はチャクラの返事にうなずくと、マントをひるがえして、立ち去っていこうとした。
「お待ちください」
今度は、チャクラが雲龍を呼びとめた。
「…………」
雲龍は振り返った。
その眼が、チャクラなど映ってもいないかのように無表情だった。
「私どもは、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠求めて、旅をつづけております――」
チャクラがいった。「雲龍さまは、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ご存知ないでしょうか」
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》=c…?」
雲龍は眉《まゆ》をひそめた。「いったい、それは何なのだ?」
「それがわかりませんので……」
「どこにあるのだ?」
「西の方角ということはたしかなんですが」
「おかしな奴《やつ》らだ」
雲龍はうすく笑った。「それでは、雲をつかむような話ではないか」
「へえ……まったく、そのとおりなんで」
チャクラは落胆の色を浮かべた。「やはり、雲龍さまもご存知ないですか」
「…………」
雲龍はうす笑いを浮かべたまま、きびすをかえしかけたが、ふと想いだしたように言った。「そういう話なら、巫抵《ふてい》にきくがいいだろう」
「……巫抵《ふてい》?」
「この国の政《まつりごと》をつかさどる十巫《〔註10〕》のなかでも、とりわけ物知りなことで知られている男だ……あの男なら、もしかしたら、その|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ニやらのことを知っているかもしれんぞ」
「その巫抵さまには、どちらへうかがえばお会いできるんでしょうか」
「街へ出て、誰にでも訊くがいいだろう。知らぬ者は、一人としていないはずだからな」
「ありがとうございます」
チャクラはふかぶかと頭を下げ、しばらく時間をみはからってから、その頭を上げた。当然、チャクラが頭を下げている間に、雲龍は立ち去っているものとばかり思っていたのだが……現実には、なお雲龍はその場にとどまっていたのだ。
チャクラは、なんとなくヒヤリとするものをおぼえた。
「おまえが俺からききたいのはそれだけか」
雲龍が奇妙に平板な声で言った。その眼が皮肉な光をたたえ、しかも人を射るようにするどかった。
「ほかに、なにかききたいことがあるんじゃないのか――」
「へ……」
「たとえば、俺がどうしておまえたちを県圃の里から救けだし、自分の邸に招いたのか、というようなことは不審に思わんのか」
「…………」
不審に思わないわけがなかった。最初に会ったときから、雲龍はチャクラを自邸に招いているのだ。旅人が好きなのかと思うと、そういうわけでもないらしく、三人を自邸に招いたところで、別に話をしたいという様子も見せない。――まったく、雲龍の態度は不可解の一語につきた。
「どうだ?」
雲龍はからかうように訊《き》いてくる。「不審には思わんのか」
「へえ……」
チャクラは返事に窮している。
雲龍はなまなかなごまかしが通用するような相手ではない。めっそうもありません、不審などとんでもない、と、答えることはたやすいが、どうしてかそれは悪い結果を招くことにしかならないような気がした。
「教えてやろうか」
雲龍の眼がするどさを増した。「どうだ? ききたいか……」
「――――」
チャクラは覚悟をきめるしかなかった――ゆっくりと頭をもたげて、雲龍の眼を真正面からとらえた。そして、うなずく。「へえ……きかせていただきます」
「よし……」
雲龍の眼に、なにか詩想に酔っているようなウットリとした色が浮かんできた。
「俺は野心家でな」
「へえ……」
「ある夜、その野心が成就《じようじゆ》するかどうか、占《うらな》い師に見てもらったことがある……結果は、吉とでた」
「それはどうも、おめでとうございます」
「本当にそう思うか」
雲龍はしずかに笑った。「本当に、めでたいと思うか」
「そう思っちゃ、なにかまずいことがあるんですか」
「おまえに祝ってもらうと、なにかおかしな気持ちになる」
「どうしてでしょうか」
「そのとき、占い師たちはこうも言ったのさ」
雲龍は低く、歌うような口調で言った。「三人の旅人が俺の野心のさまたげになる、と……そやつらは布衣《ほい》の下のハチのようなもので、チクチクと俺の体を刺す、早く始末せぬと、それこそいつか命取りにならんともかぎらぬ、とな……」
「――――」
チャクラは、とっさには雲龍の言葉の意味するところを理解できなかった。その言葉はあまりに思いがけなく、しかもおそろしい予兆のひびきに充《み》ちていたからである――チャクラは自分の顔から血の気《け》がひいていくのをおぼえていた。
「心配するな」
雲龍がやさしく、なだめるような声で言った。「だからといって、なにもおまえたちを殺そうというんじゃない」
「じ、じゃあ、どうして……」
チャクラは、自然に悲鳴をあげるような声になっていた。金魚みたいに、口をパクパクと開閉させている。
「どうして、おまえたちを俺の邸に招いたのかを知りたいのか」
「…………」
チャクラはガクガクとうなずいた。
「どうしてかな……」
雲龍はうってかわってふてぶてしい表情になっていた。「おそらく、おまえたちが俺の野心のどんなさまたげになるのか、この眼でたしかめたかったのかもしれんな……それとも、この俺が俺の星よりも強いことを、はっきりとみさだめたかったのか」
この時代の人間はなべて運命論者だ。この世のしくみは、すべて星にみちびかれ、あらかじめさだめられている、とかたくなに信じている人間が多い。だからこそ、占い師、巫女《みこ》、呪術《じゆじゆつ》師などが存在する余地があるともいえた。
ところが、雲龍はおのれを律している星にみずから挑戦《ちようせん》すると宣告したのだ。よほど強靭《きようじん》な精神力を持っていなければ、とうていできることではなかった。
チャクラには、雲龍という男が、猩猩《しようじよう》よりも、畢方《ひつほう》よりも、|〓〓《れいれい》よりも数倍もおそろしい存在に感じられた。
雲龍はふいに笑い声をあげると、マントをひるがえして、足早に立ち去っていった。
「――――」
あとには、ただ呆然《ぼうぜん》と立ちつくしているチャクラだけが残された。
雲龍は、あちこち放浪し、いい加減すれっからしになっているチャクラが、生まれて初めておそろしいと感じた人間だった。
――その夜、雲龍の姿は城壁のうえにあった。
城壁のうえは細い回廊のようになっていて、常時、警備士が巡回をつづけている。いったんことが起これば、城壁のすべての門はとざされ、|〓《ひ》と呼ばれる石垣《いしがき》に身をひそめた兵士たちが、外敵に向かって矢を射かけるわけである。
しかし、今、巡回する警備士たちの姿は見えない。ただ、松明《たいまつ》の明かりがこうこうとともされているだけだった。
雲龍は、角楼のほぼ真下あたりに立ち、一心に夜空を見つめていた。
遠い夜空に、奇妙な光のアラベスクがあやなされていた。青い閃光《せんこう》がいなずまみたいに走り、空が熱せられたように赤く染めあげられるのだ。光は微妙に色相《しきそう》をかえ、たがいにつらなり、みゃくうち、さながら万華鏡《まんげきよう》のようにあざやかに渦巻《うずま》いているのだった。
美しいが、しかし妙に不吉なものを感じさせる光の奔流だった。もちろん、光があまりに強烈にすぎて、星はほとんど見ることができない。
雲龍は、なにかしら沈痛な面持ちになっていた。傲慢不遜《ごうまんふそん》なこの男が、悲しみに似た色をその顔にただよわせているのである。
「雲龍――」
闇《やみ》のなかから、女の声がかかった。りんと張った、鈴のような声だ。
雲龍はひざまずき、両手を胸のまえに組み、ふかぶかと頭を下げた。彼がこれほどの礼をつくすからには、相手はよほどの貴人と思われた。
女は闇から姿を現わし、松明の明かりのなかに進みでた。
紫の袍子《ながぎ》を着た若い娘だ。
夜目《よめ》にも、その娘が非常な美貌《びぼう》の持ち主で、しかも高貴な身分だということがわかった。はかなげで、どことなくもろいものを感じさせる美貌だった。
県圃《ケンポ》のうら若き女帝だった。この国の慣習にしたがい、彼女はただ女帝とのみ呼ばれ、個人名はまったく忘れられている。
「わたくしに見せたいものがあるといいましたね――」
女帝が言った。「ひとりで来いとわざわざいうからには、さぞやめずらしいものを見せてくれるのでしょうね」
「空です」
雲龍が低い声で言った。「空をお見せしたかったのです」
雲龍の口調はまったくいんぎんだったが、しかし最高位にある女性に対するにしては、いささか不遜なひびきを帯びているようだった。
「…………」
女帝は不審げに空に眼をやった。
「赤く、青く、光がうつりかわっているのをごらんになれるでしょうか……」
と、雲龍が言葉をつづけた。
「畢方《ひつほう》ですね……」
女帝はうなずいた。「畢方たちが鬼≠追いはらっているのですね。べつに、今夜にかぎったことではないように思うけど……」
「近すぎるとはお思いになりませぬか」
「…………」
「鬼≠ェあまりにも県圃《ケンポ》の里に近すぎるとはお思いになりませぬか……いや、すでに鬼≠ヘ県圃の里にまで侵入しているように見えますが……どうやら今回は、畢方も、まわりの村人たちも鬼≠撃退することはできなかったようですな」
「まさか」
女帝は澄んだ笑い声をあげた。「おまえは心配しすぎですよ。いまだかつて、県圃が鬼≠フ侵入を許したことはありません。なにをうろたえているのです。おまえらしくもない――」
「私は心配しているわけでも、うろたえているわけでもありません」
雲龍は昂然《こうぜん》と言い放った。「それどころか、鬼≠ェ県圃を侵しつつあるのを喜んでさえいるのです」
それは、女帝にとってよほどおそろしい言葉だったらしい。女帝は、なにか涜神《とくしん》の言葉を耳にしたように、ヨロヨロとあとずさったのである。
「なんということを……」
女帝の声はかすれていた。「なんというおそろしいことを……」
「おききください」
雲龍は面憎《つらにく》いほど平然としていた。「たしかに、わが県圃《ケンポ》は盤古《ばんこ》≠主神にいただいてます。かつて巨大な斧《おの》の一撃で、この世を天と地に分け、ふたたび暗い混沌《こんとん》がもどってこないように天を支え、地を踏みしめている盤古≠……われわれは盤古≠フ意志をうけつぎ、ひたすら鬼≠フ、混沌の侵入をおしとどめてまいりました。――ですが、そのあげくはどうでしょう……」
「黙りなさい」
女帝は身をふるわせ、なかば悲鳴をあげるように言った。「それ以上しゃべることを禁じます」
しかし、雲龍は女帝の命令をまったく意に介していないようだった。この地の最高権力者を前にして、これはさすがに雲龍ならではのふてぶてしさといえた。
「――民はひとしく無気力におちいり、死んでいるような毎日になんの疑問もいだいてはおりません。混沌をあまりに完璧《かんぺき》に排除しすぎたがために、日の下に新しいものはなにもなく、いかなる変化もおのが生に見いだせなくなったからなのです。この地には、生き腐れのにおいがいたします。県圃の民は毎日を送りながら、その実、死んでいるも同然なのです……」
雲龍は饒舌《じようぜつ》だったが、しかし必ずしも熱弁をふるっているとは形容できないようだ。その声は冷ややかで、いっさいの感情を欠いているからだ。
「県圃をこのままの状態にたもつことが、さほど重要とは思えません。私は、むしろ混沌をこそ歓迎すべきだと考えます。鬼≠ェ侵入するままにまかせるのです。鬼≠ェ侵入してきて、混沌がふたたびこの地によみがえったとき、県圃にもまた新しい道がひらけるのではないでしょうか」
「どんな道がひらけるというのですか」
女帝が極端に殺した声できいてきた。「それで、県圃の民はなにを手に入れることができるというのですか」
「猥雑《わいざつ》さです」
雲龍の声に、初めて感情らしきものが含まれた。陶酔しきった、なにかを夢みているようなひびきだった。「好色です。貪欲《どんよく》です。ありとあらゆる人間らしさです――」
「おだまりなさいっ」
女帝の声が鞭《むち》うつように闇《やみ》にひびいた。「あなたは、この県圃に反逆しようというのですか」
「――――」
雲龍は沈黙した。その顔を伏せてしまったために、どんな表情をしているのかわからない。
「あなたが、かねてよりそんな考えを持っていることは、わたくしもうすうす気がついておりました――」
女帝はようやく怒りを圧《お》さえているような声で言った。「だからこそ、ほかの者のように内域に住まず、外域に居をかまえていることも黙認していたのです……すこし、わたくしはおまえに甘すぎたようですね。わたくしのいとこだというので、いささかつけあがっているのではありませんか」
「外域の人間も、生命力にとぼしいことでは内域の人間とかわりありません」
雲龍が低くくぐもった声で言った。「ただ、外域の市場にだけは、生き腐れのにおいがしないようですが……」
「わたくしはだまれと言ったはずです」
女帝の叱声《しつせい》が雲龍の声を圧《あつ》した。「もう一言もしゃべってはなりません。それ以上しゃべれば、厳罰を与えることになります」
「――――」
雲龍は顔を伏したままでいる。
女帝はしばらく肚立《はらだ》たしげに雲龍を見下ろしていたが、やがて身をひるがえすと、闇のなかに立ち去っていった。
女帝の履音《くつおと》がきこえなくなってからも、なお雲龍はじっとうずくまっていた。まるで凍結してしまったかのように、身動きひとつしないのだ。
時がヒッソリと過ぎていく。
「おまえのいとこだから、俺がつけあがったというのか……」
やがて、雲龍はそうつぶやくと、その顔をゆっくりと上げた。なにかしら、悩ましげな表情を浮かべていた。
「なにを世迷《よま》い言《ごと》を……おまえがいとこで、しかもおまえだからこそ、こうして延命の機会を与えてやったものを――」
雲龍はやおら立ち上がると、闇に向かってするどい声をはりあげた。
「きいたか、小丑《シヤオチユウ》――」
「たしかに」
闇のなかから、そくざに声がかえってきた。邪悪な喜びに充ちた声だった。
「どうやら、あのヒキガエルども、真夜中の婆《ばばあ》たちのうらないどおりに、ことが運びそうだ……」
雲龍の声は、悲しんでいるようにさえきこえた。「俺の星はやはり県圃《ケンポ》の星を喰いつくさないではいられないらしい」
雲龍はふたたび視線を夜空に向けた。
空に交錯する光の壁が、いっそう県圃の里に近くなったように見えた。
10
ネズミのような老人だった。
ひじょうに小さく、その歩き方も、かの齧歯《げつし》目のようにセカセカしている。白髪はうすく、とさかみたいに逆立っていた。ひどく不機嫌《ふきげん》そうに唇《くちびる》をとがらせ、その眼はキョロキョロとのべつあたりをみまわしている。
あまり、つきあいやすそうな老人ではなかった。
だが、店先に立つ商人、水瓶《みずがめ》を運ぶ女たちは、老人の姿をみかけるとあわてて腰をかがめた。
老人はそれには横柄《おうへい》にうなずきかえし、ときには露骨に顔をそむけることさえあった。まるで、町の人間ごときと口をきくのはけがらわしいとでも思っているようだった。
老人は、子供たちにとってはかっこうの遊び相手であるらしかった。老人の姿をみかけると、子供たちは必ずそのうしろからついていき、彼の跳《は》ねるような歩き方を、誇張してまねるのだった。
それに気がつくと、老人は拳《こぶし》をふりあげ、本気で子供たちを追いかけまわす。子供たちははやしたてながら、いちもくさんに逃げていく。
その老人の怒る声にしてからが、やはりネズミに似て、かんだかかった。
路地のつきあたりに、老人の家があった。
老人は子供たちを口汚《くちぎたな》くののしりながら、家のなかに足をふみいれ、そして、いっそう大きな声をはりあげた。
「なんじゃ、きさまらは――人の家にだまって入りこみおってからに」
テーブルを囲んで、三人の男女がすわっていた。
ジロー、チャクラ、ザルアーの三人組だった。
「タウライ語が話せますか」
チャクラがきいた。
「わしを誰《だれ》だと思う?」
老人は胸をはって、いった。「十|巫《ぷ》のひとり、巫抵《ふてい》さまだぞ」
「しゃべれるんですね」
「しゃべれいでか――タウライ語など、わが県圃の言葉とくらべれば、ゲスで、くだらぬ言葉じゃないか。タウライ語など、なんの、憶《おぼ》えるのに苦労がいるものか。三つのときから、もうペラペラとしゃべっておったわ……きさまら、蛮人じゃな? どうせ、ろくに食う物もないような国からやって来おったんじゃろ。どうだ? わが県圃の偉大さを目《ま》のあたりにみて、おそれいったか、腰をぬかしたか。おのれらのちっぽけな国が情けなくなったじゃろうが」
「――――」
しばらく、チャクラはあっけにとられたように巫抵の顔をみていた。それから、仲間の二人をふりかえって、
「なんだかしらないけど、おそろしくけたたましい爺《じい》さんじゃないか……」
ザルアーはクスクスと笑っている。ジローもいまにもふきだしそうな顔をしていた。
ふいに、チャクラは巫抵に向きなおると、大声をはりあげた。
「うるせえや、県圃のまだるっこしいおねえ言葉をきいてると、腹ぐあいがおかしくなってくるから、タウライ語がしゃべれるかときいたんだ。タウライ語がしゃべれるならよし、そうでなければ誰がおめえなんかと口をきいてやるものか。俺《おれ》たちの美しく、豊かで、けだかい国から、こんな辺地へわざわざ足をはこんできてやったんだ。ありがたく、思いやがれ」
「おっ、おっ、おっ」
巫抵は身をのけぞらし、口をアングリとあけた。チャクラの反撃におどろいているようでもあり、またどういうわけか嬉《うれ》しがっているようでもあった。
そして、わめいた。「だまれっ、このうじ虫が、けだものが、蛮人が――ここは、わしの国の、わしの家じゃ。きさまら、わしの足をなめさせるのさえけがらわしいやからに、大きな口をたたかせて、だまっている巫抵さまだと思うのか。用があるんなら、さっさと話して、でていってしまえ」
「おう、いってやろうじゃねえか」
チャクラもまけていない。「てめえみてえなもうろく爺《じじ》いでも、この県圃のバカたちのなかでは、すこしは物を知っているほうだというから、嘘《うそ》か本当か、たしかめてやろうというんだ。ありがたく思ったら、なけなしの知恵をふりしぼってみやがれ。この、うすぎたなくて、さわがしくて、みっともない――」
「いいかげんにしなさいよ」
ザルアーが笑いながら、いった。「ちっとも、話が先に進まないじゃないの」
「そりゃあ、まあ、そうだな」
チャクラは照れたように笑い、掌で顔をブルンとなでおろした。
巫抵もちらりとザルアーをみ、それから、唇をすぼめるようにして笑いだした。
「たしかに、この娘さんのいうとおりじゃ」
うなずいた。「わしもとしじゃからな。あまり、怒ってばかりもおられんて。だいいち、体にわるい……とにかく、用件をきこうじゃないか」
「――あなたが、この地ではもっとも物知りだとききました……」
チャクラがしゃべろうとするのを、いちはやくさえぎって、ジローがいった。「じつは、俺たちはあるものを求めて、こうして旅をしているのですが……もしかしたら、巫抵さまなら、その場所をご存知ではないか、と、思いまして……」
「あるものとは、なにかな」
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ナす」
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》=c…」
巫抵の表情に好奇心の色が浮かんだ。「なんのために?」
「月《ムーン》≠とりかえすためです」
「…………」
巫抵はつかのま、キョトンとして、ジローの顔をみていた。そして、とつぜん体を折るようにして、笑いだした。けたたましい、やや躁的《そうてき》なものを感じさせる笑い声だった。
ジローは憮然《ぶぜん》としている。
「なんとバカなことを……」
巫抵は笑いの余波に、ヒクヒクと体をけいれんさせながらいった。「お、お、おろかなことを……夢のようなことを……」
「月《ムーン》≠ご存知だというんですか」
ザルアーが肚《はら》にすえかねたようにいった。
「ご存知か、と?」
巫抵はようやく笑いをおさめ、「ふん、ええじゃろう……こちらへ来るがええ。おもしろいものをみせてやろう」
三人を隣りの部屋にいざなった。三人の返事をききもしないで、先にたって、さっさと隣りの部屋に入っていってしまう。
三人は顔をみあわせ、しょうことなしに巫抵にしたがった。
巫抵はおよそ、住居《すまい》に心を配るたぐいの老人ではないようだ。隣りの部屋も、いままで居た部屋と同じく、机、椅子《いす》などの必要最低限の調度しかおかれていなかった。
ただ、正面の壁際に、奇妙なからくりが据えられてあった。
巨大な円盤形があり、その中心から一本の針がつきだしていた。円盤形にはさまざまな絵、数字などがかかれてあって、ちょうど針の先端がそれらをさししめすようにつくられてあった。よくみると、どうやらその針はゆっくりと、ひじょうにゆっくりと動いているみたいだった。
ギシギシ、と、歯の浮くような音がきこえている。
「これはなにかね?」
チャクラがきいた。
「時計《〔註11〕》じゃよ」
巫抵《ふてい》はいかにも得意然として、三人の顔をみわたしていた。
「……時、計……」
「きさまたち蛮人らはみたこともなかろうが、な……時をつげるからくりだ。どうだ? めずらしいものじゃろうが」
「…………」
三人は声もなかった。べつにおどろいたからではなく、時をつげるということが、なにを意味するのか、よく理解できなかったからである。――彼らにとって、時とは、太陽の運行、もしくは単純な生理時間にすぎず、それでも日常の暮らしには、いっこうにさしつかえをおぼえなかった。
「その時計とかが月《ムーン》≠ノなにか関係があるんですの?」
ザルアーがおそるおそるきいた。
「ふん、蛮人めらが」
巫抵は鼻を鳴らし、上機嫌でいった。「あの円盤に、いろんな絵や数字がかかれているのはみえるな」
「ええ……」
「あれはな、時刻はもとより、十二宮の一覧図から、月《ムーン》≠フ満ち欠けにいたるまでが、きちんとかかれているんじゃよ」
「月《ムーン》≠フ満ち欠け……」
ジローがおどろいていった。「月《ムーン》≠ェ欠けたりすることがあるんですか」
「蛮人めらが」
巫抵はチョッチョッと舌を鳴らした。「月《ムーン》≠ヘな、二九日の周期で、大きくなったり小さくなったりしたというわ。そんなことも知らんで、ようもこのわしに向かって、月《ムーン》≠知ってるか、などときけたものじゃ」
「…………」
三人はたがいに顔をみあわせ、苦笑をかわした。――まったく、この巫抵という老人は口がわるい。口がわるい人間は、肚の底はさっぱりしているというが、それにしてもあまりにもわるすぎるではないか。
「なるほど……」
チャクラが顔をしかめていった。「たしかに、あんたは月《ムーン》≠ノかんして、俺たちよりずっとよく知っているようだ。だったら、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フこともさぞやくわしいだろうな。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノいけば、月《ムーン》≠フ行方《ゆくえ》もわかる、と、きかされたんだが……」
「知らんこともない」
巫抵は急にこすっからいような眼つきになった。「だが、なんで、わしがそんなことをおまえさんらに教えねばならんのかな」
「…………」
チャクラは口をとざした。
彼ら三人には、巫抵に代償として与えるべきなにものもなかった。これが山中ででもあるならまだしも、けだものを狩って、その毛皮なりと与えることができる。しかし、町に足をふみいれた彼らは、しょせん無一文の放浪者でしかなかった。
三人はいわば巫抵の好意をあてにして、彼の住居《すまい》をおとずれたのである。だが、話がこうなった以上、もう巫抵の好意などあてにできないのはあきらかだった。
「ほう……」
巫抵は喉《のど》をならして笑った。「つまり、わしにただでものをききたいというのか。これはまた、なんとむしのいい……」
「雲龍さまから、あんたの名前をきいたんだ」
チャクラが巫抵の言葉をさえぎった。「雲龍さまが、あんたにきけばたいていのことはわかるはずだ、と、おっしゃったんだ」
「雲龍さま……」
巫抵の喉仏《のどぼとけ》がゴクリと上下した。その眼が、眼球がつきでるほど大きくみひらかれ、いっそうネズミの印象を強くした。「おまえさんらは、雲龍さまとはどういうご関係で?」
声がややかすれていた。人を人とも思わぬようなこの男にしては、いささか気弱にすぎる声だった。雲龍という名前に、よほど強い衝撃をうけたにちがいなかった。
「客人さ」
チャクラは胸をはってそういい、ニヤリと笑ってみせた。「――まあ、そうしゃっちょこばることもないじゃないか。どうした? 爺さん、急に元気がなくなったみたいじゃないか」
「雲龍さまは県圃《ケンポ》でいちばんの実力者じゃもの」
巫抵はそっぽを向き、それでもいくぶん照れくさそうにいった。「なんといっても女帝のいとこであらせられるし……それに、女帝ととかくの噂《うわさ》があった方じゃからな」
「――――」
チャクラとザルアーの視線が、同時にジローに向けられた。あまりにも、ジローの場合とよく似た話だったからだ。巫抵がほのめかした言葉を信じるならば、雲龍もまた実のいとこを愛してしまったということなのだ。そして……二人はどうなったのか……
「それで、二人はむすばれたのですか」
ジローがしずかにきいた。その顔が心なしあおざめていた。声にも不自然なほどに、強い抑制が感じられた。
「どうしてどうして――」
巫抵は無作法な笑い声をあげた。
「女帝で、しかもいとこが相手じゃ、いかに雲龍さまが男前でも、望みのかなうはずがあるものか。いとこと情《じよう》をかわすのは畜生道じゃからな……」
「――――」
チャクラはすばやくジロー、ザルアーの顔をぬすみみた。
ジローは無表情だった。なにかしら凄《すご》味を感じさせるほどの、まったくの無表情だった。そして、ザルアーは、というと――チャクラは悪いものでもみたように顔をそむけた。ザルアーの表情には、ジローに対する同情と、ほんの一瞬ではあったが、たしかに喜びの色が浮かんでいたのである。
「これはしまった……」
巫抵が掌で口をおさえ、キョトキョトと視線をはしらせた。「つい、口をすべらせてしまったわい……わしがこんなことをしゃべったのが、雲龍さまのお耳にでも入ったひには、それこそどんなお咎《とが》めをうけることになるやら……なあ、おまえさんたち、まさか雲龍さまにつげ口なんかはしないじゃろうな」
やはり、この老人はネズミだった。底意地悪く、キーキーとわめきたてるくせに、人一倍|臆病《おくびよう》な質《たち》なのだ。人のふくらはぎには喜んで牙《きば》をたてるが、自分が噛《か》みつかれると、恥も外聞もなく泣きわめくたぐいだった。
「だからさ」
と、チャクラはいった。「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フことを教えてくれればいいのさ。俺たちだって、命は惜しい。雲龍さまにそんなことをつげ口するほどバカじゃないさ」
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ゥ……」
巫抵はもみ手をして、こすっからい視線をチャクラに向けた。そして、背筋をしゃんと伸ばすと、ふたたび横柄《おうへい》な口調になっていった。「それは、盤古≠ノきくのがええじゃろう」
「盤古=c…」
チャクラは眼を白黒させた。「盤古≠チて、あの伝説の、この世を天と地に分け、天を支え、地を踏みしめているという……あの盤古≠フことか」
「ほかに、盤古≠ェいるものか」
「冗談じゃねえ」
チャクラは怒りを表情にみなぎらせた。「俺はそんなヨタ話をきこうと思ってるんじゃないぜ。神さまにおうかがいをたてたって、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フことがわかるはずがないじゃねえか」
「この罰《ばち》当たりが」
巫抵はさもけがらわしいものでもみるような眼つきになった。「盤古≠ヘきさまの考えているような、フワフワとたよりない、正体のない神さまではないわ。ちゃんと、この県圃におわす神さまじゃ」
「ほう……」
チャクラが眉《まゆ》をひそめた。盤古≠フ実在をいちがいに否定はできない。そもそも彼らが旅にでた動機にしてからが、マンドールの神=A稲魂《クワン》≠ノ示唆《しさ》されてのことだったのだ。
「盤古≠ヘどんな神さまなの」
ザルアーがきいた。「どこにいけば会えるというの」
「ほほっ、この哀れな、しらみったかりの蛮人どもが――」
巫抵はますますそっくりかえり、赤い喉をみせて哄笑《こうしよう》した。おそろしく、力関係に敏感な老人だった。たしょうなりとも自分が有利だと知ると、その立場を利用して、相手を愚弄《ぐろう》せずにはいられないのだ。「盤古≠ェどんな神さまだときくのか。そう、たとえていえば、盤古≠ヘあの時計のような神さまだわ――」
「…………」
三人は一|斉《せい》に時計をみた。
「あの時計のように一分の狂いもなく、この県圃《ケンポ》を支配されておいでなのじゃ。視肉《しにく》、畢方《ひつほう》、|〓〓《れいれい》……県圃をキッチリとおさめるために、盤古≠ヘさまざまな生き物を、われわれに与えてくだすった。盤古≠ヘ、なにごとも整然としているのがお好きなのじゃ。時計のように正確に、清潔に……」
「その時計だがね……」
妙な顔をして時計をみつめていたチャクラが、なにかためらいがちに、巫抵の長広舌をさえぎった。
「なんだかしらないけど、止まっちまってるみたいだぜ……」
「――――」
一瞬、巫抵はすさまじい形相《ぎようそう》で、チャクラを睨《にら》みつけ、ついでその視線を時計にうつした。そして、たまぎるような悲鳴をあげた。
たしかに、時計はとまっていた。その針は一点に静止したまま、ピクリとも動いていなかった。
「これはどうしたことだ。こんなバカなことが……」
巫抵は頭髪を掻《か》きむしりながら、おろおろと後ずさった。「不吉な……なんと不吉な……県圃になにか凶事がおこるにちがいない。もしかしたら……おお、もしかしたら……」
巫抵は、時計の正確さを県圃の治世と同一視して考えていたようだ。そうでなければ、たかがからくりが狂ったことに、これほどの狼狽《ろうばい》ぶりを示すはずがない。
それにしても、巫抵のあわてぶりはやや大仰にすぎるようで、三人の傍観者の眼にはいささか滑稽《こつけい》なものとして映った。
そのとき、――表の木戸をドンドンとたたく音がきこえてきた。そして、なにかしら男たちのわめく声が、路地いっぱいにこだましていた。
巫抵は凍りついたように、その場に立ちすくんでいた。
三人は顔をみあわせた。三人ともに、県圃の言葉は理解できない。外の声がなにをわめきちらしているのか、かいもく見当もつかないのだ。
「どうしたんだ?」
三人を代表するような形で、チャクラがきいた。
「県圃に異変がちかづいているそうな……その異変がなんであるかうらなえ、と、女帝さまからのお召しじゃと……われわれ十巫は、ことごとく宮廷にはせさんじねばならないらしい……」
かすれた、風のような声だった。巫抵はそう答えながら、なおも壊れてしまった時計を凝視していた。
――巫抵はふいに身をひるがえすと、表戸をあけにいった。
表戸がひらくと同時に、数人の衛士たちが部屋になだれこんできた。どちらかというと、衛士というより、ごろつきの印象のほうが強かった。鎖かたびらの胴着こそつけているものの、下はふんどしといういでたちなのである。
巫抵と衛士たちはしきりになにか押し問答をくりかえしている。どうやら、衛士たちがすぐに来いというのを、支度があるから、と巫抵がなだめているようだった。
ジローたち三人は、ボンヤリと押し問答をながめていた。なんとなく、でていくタイミングを逸した感じだった。
「おまえたちはなんだ――」
とつぜん、衛士たちの背後から、タウライ語でそうどなる声があった。
衛士たちをかきわけるようにして、前方に進みでてきたのは、全身が筋肉のたばでできているような大男だった。ただひとり甲冑《かつちゆう》をつけているところをみると、おそらくこの男が隊長であるにちがいない。
「おまえたちはなんだ」
と、男はくりかえした。
「なんだといわれても……」
チャクラはとまどったようにつぶやいたが、それでも如才なく腰をかがめるのを忘れなかった。
「旅の者でございます。巫抵さまのご高名をききつけまして、なにかお教えいただくことはないか、とうかがったようなしだいでして……」
「ほう……」
男はうなずき、うすい笑いを浮かべると、もういちどうなずいた。「なるほど、旅の者か……」
そして、背後をふりかえると、部下たちに向かって、するどくなにごとかさけんだ。
衛士たちは一斉に行動を開始した。剣をぬきはらうと、左右にわかれ、すばやく三人をとりかこんだのである。さすがに、みごとな動きだった。
反射的に剣の柄《つか》にはしったジローの手を、ザルアーがあわてておしとどめた。
「よしたほうがいいわ」
ザルアーがささやくようにいった。「こんな狭い部屋で、多勢の敵を相手にしても、とても勝ちめがないわ……」
「――――」
ジローはくやしそうに、唇を噛み、それでも剣の柄から手をはなした。たしかに、ザルアーのいうとおり、ここではとうていジローに勝ちめはなかった。複数の敵を相手にするときには、できるかぎり動きまわる必要があり、狭い部屋ではそれが不可能だったからである。
「いったい、どういうことなんでしょうか」
チャクラが抗議した。「わたしたちは決して怪しい者じゃありませんが……」
「それを決めるのは俺たちだ」
男はあいかわらずうすい笑いを浮かべたまま、いった。「とりしらべたいことがある。一緒に、来てもらおうか……」
ふいに、巫抵が笑い声をあげた。耳ざわりな、金属をこすりあわせるような笑い声だった。
11
――要するに、衛士たちはわいろがほしかったのだ。旅人をいたぶり、わいろをせしめるのは、いうならば衛士たちの常套《じようとう》手段にすぎない。ちょっとした臨時収入というところだ。
だが、どちらにとっても不運なことには、三人に現金の持ちあわせはなく、それどころか貨幣経済そのものに不慣れだった。
衛士たちは、はじめはそれとなく、次にはかなり露骨にわいろを要求してきたが、三人に金がないことをようやく納得《なつとく》すると、身勝手にも激怒した。
一|文《もん》にもならないうえに、三人を兵舎まで連行するという、わずらわしい仕事まで課せられることになったからだ。衛士たちは、これを自分に対する重大な侮辱とうけとったようだ。
三人にとっては、まったくの災難というしかなかった。
衛士たちは口汚くののしりながら、三人を道にひきずりだした。わいろをくすねそこねたうらみが、衛士たちをおそろしく凶暴にしていた。さかうらみもいいところだが、しょせん理屈の通用する相手ではなかった。
巫抵《ふてい》がしきりに金切り声でわめいていた。
はじめのうちこそ、三人の災難をおもしろがっていたようだが、さすがに衛士たちの乱暴をみかねたらしい。しかし、巫抵がいかにわめきちらそうと、たけり狂った衛士たちをとどめられるものではなかった。
ジローはなぐられたり、けとばされたりすることには、どうにか耐えることもできた。だが、――衛士のひとりがザルアーの乳房をわしづかみにするのをみるにいたって、ついにその忍耐も限界に達したようだ。
「――――」
ジローはさけび、その男をつきとばした。
つきとばされた男は、尻《しり》もちをつくと、いかにも嬉《うれ》しそうな笑い声をあげた。このときをこそ、衛士たちは待ちかまえていたのである。三人をバッサリ始末してしまえば、兵舎に連行する手間がはぶけるからだ。
囚人が抵抗したということになれば、上司に対するいいわけもたつ。
たちまち、剣が三人をとりかこむことになった。はむかおうにも、すでにジローは剣をとりあげられていた。覚悟をきめるしかないようだった。
「また俺、カッとして失敗しちまったみたいだね――」
ジローがわびるようにいった。「今度こそ、どうも助からないみたいだ」
「なに」
チャクラがむりに笑おうとしながらいった。「まだ、わからないさ」
しかし、この情況では、チャクラの言葉がたんなる強がりにしかきこえなかったとしても、当然だったろう。衛士たちはそれぞれ剣をかまえながら、じりっじりっとその輪をちぢめてくるのだ。
「――――」
衛士たちの背後からするどい声がきこえてきた。
いましも極限にまでたかまりつつあった衛士たちの緊張が、その声によって、もろくも破られたようだった。衛士たちは、あるいはうろたえながら、あるいは忌々《いまいま》しげに、その剣を鞘《さや》におさめたのだった。
ジローたち三人は呆然《ぼうぜん》と立ちすくむばかりだったのだが……衛士たちの間からゆっくりと姿を現わした人物をみて、そろっておどろきの声をあげた。
「まえにも、たしかこんなことがありましたね……」
その男――小丑《シヤオチユウ》はいった。「あなたがたは、よくよく騒ぎをひきおこすのがお好きらしい」
――広い部屋だった。
天井がたかく、入り口にはすだれがかかっていた。香《こう》がたきしめてあるらしく、かぐわしいかおりがただよっていた。
燭台《しよくだい》に燃えている炎が、なにかその部屋にこの世ならざる雰囲気《ふんいき》を与えていた。
寝台に、ジローが寝ている。
ひどく心細そうな顔をしていた。
こんな立派な部屋にはいまだかつて足を踏み入れたことがなかったし、これからなにがはじまるのかもわからないのだから、不安をおぼえて当然だった。
小丑《シヤオチユウ》がジローひとりを宮廷にまねいたのだった。
チャクラとザルアーはしきりに心配していたようだが、小丑《シヤオチユウ》に命を助けられた以上、その招待をむげにことわるわけにもいかなかった。
ジローは小丑《シヤオチユウ》の真意を理解できないでいる。はかりごとを好む小丑《シヤオチユウ》のことだから、そこにはなにか下心がかくされているとみるべきだが――さて、ジローを罠《わな》にかけて、小丑《シヤオチユウ》に得るところがあるのかと考えると、その疑惑自体が怪しくなってくるのだ。
ともあれ、ジローは小丑《シヤオチユウ》にしたがい、こうして宮廷まで足を運んできたのである。そして、この部屋に通され、すこし待っていてくれ、といわれて、ただひとり残されたのだった。
燭台の炎が揺れ、すだれが動いた。
入り口に、黒い人影が立つのがみえた。
「なるほど……」
かすかに笑いをふくんだ女の声がきこえてきた。「たしかに、たくましい体をしている」
「…………」
ジローは仰天して、寝台から立ち上がった。まさか、女が現われようとは、夢にも思っていなかったのだ。
ジローはさらに仰天することになる。女がいとも無造作《むぞうさ》に、
「その腰衣をおとりなさい」
と、いってのけたからだ。「おまえの持ち物をみてやろう」
「…………」
ジローはうろたえた。小丑《シヤオチユウ》にまたしてもしてやられた、と、思った。そういえば、宦官《かんがん》の役目には、貴人に異性をとりもつことも入っている、と、かつてチャクラからきかされたことがあった。
――貴人……ふいに天啓のように、チャクラの頭にひらめくものがあった。
「あんた、女帝さまだろう」
ジローがいった。「女帝さまじゃないのか」
「…………」
今度は、女が沈黙する番だった。
女はしずかに歩を進めると、燭台の明かりに顔をさらした。とても、男に腰衣をとれと命じるようにはみえない、気品にあふれ、どことなくはかなげなものを感じさせる娘だった。
「蛮人――」
女はさげすむようにいった。「わたくしの身分をせんさくすることは許しません。おまえはだまって、わたくしの命じるところにしたがえばいいのです……」
「女帝さまなんだ」
ジローはなおもくりかえした。「雲龍《うんりゆう》さまのいとこの――」
「…………」
女の表情にかすかに動揺がはしった。その動揺は、すぐにうす笑いにとってかわられた。
ジローの頬《ほお》が音たかく鳴った。
「だまれといったはずです」
女帝がいった。「おまえは話す必要がない。頭もいらない。ただ、そのたくましい体で、わたくしを満足さすことができればいいのです――」
その言葉は傲慢《ごうまん》だったが、しかしどことなく背のびしているものを感じさせた。若い娘の身でありながら、最高権力者の地位についているために、いっさいの娘らしい喜びをうばわれている、ある種のさびしさみたいなものが感じられるのだ。
「おしえてほしいことがある」
ジローはなぐられたことをまったく意に介していないようだった。「あんた、雲龍さまと好きあっていたのか」
「どうして、そんなことをきくのですか」
女帝が逆にききかえした。
「ききたいからだ」
「だから、どうして?」
一瞬、ジローはためらいをみせたが、意を決したようにいった。
「俺には好きな娘がいる。その娘も――」
「いとこだというのですか」
「そうだ」
ジローはうなずいた。
「…………」
女帝の顔に、なにか傷ましいような表情が浮かんだみたいにみえた。燭台の炎がゆらめき、かもしだした、たんなる影だったのかもしれない。
「蛮人、おまえの国ではいとこと寝ることを禁じられていないのですか」
「……禁じられている」
ジローは苦しげに答えた。
「それでは、なにも考えることはないではありませんか……おまえは、その娘をあきらめるしかないのです」
「できない……」
ジローはうめくようにいった。「俺には、ランをあきらめるなんてできそうにない」
「わたくしはできました」
「嘘《うそ》だ――」
ジローは強く首を振った。「もし、あんたと雲龍さまが本当に愛しあっていたというなら、たとえいとこ同士だったからといって、そんなにかんたんに忘れることができるはずがない。あんたは自分に嘘をついているんだ。嘘をついているということは、まだ雲龍さまを愛しているにちがいないんだ」
「無礼な……」
女帝の右手が白くひらめいた。しかし、ジローはその手を途中でしっかとつかんだ。
数瞬、ジローと女帝は激しく睨《にら》みあった。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ……」
ジローのその声はしだいに狂おしいものになっていき、ついにはけだものめいた絶叫にかわっていった。
「嘘だーっ」
女帝の袍子《ながぎ》がビリビリとひき裂かれる音がきこえた。ジローは女帝を押し倒すと、すさまじい勢いで犯しにかかった。
香《こう》に媚薬《びやく》が混ぜられていることに、ふたりとも気がついていなかった。
――窓の外から、からみあうふたりの肢体《したい》を見つめている一対《つい》の眼があった。
小丑《シヤオチユウ》だった。
小丑《シヤオチユウ》は笑っていた。いかにも嬉しくてたまらないというように、クスクスと笑っているのだ。悪意を、毒汁のようにしたたらせている笑いだった。
あいかわらず美しいが、しかし毒蛾《どくが》の美しさだった。
小丑《シヤオチユウ》はつと窓からはなれた。
そして、おどろくほどの身の軽さで、回廊をつたうと、城壁のうえに立った。
城壁のうえには強く風が吹いていた。
小丑《シヤオチユウ》は松明《たいまつ》をとると、それを右に左に大きく振った。炎が風にあおられ、うなり声のような音をたてた。
遠く、外域のあたりにも揺れている炎があった。
――雲龍は、首ヒモをかけられ、足元にうずくまっている銀ギツネを見つめていた。ながい苦労のすえ、ようやく捕らえた銀≠セった。
「俺の守り神よ」
雲龍は奇妙に悲哀を感じさせる声でつぶやいた。「俺には、自分の運命がみえない。みえないが、いずれ人は死なねばならないものだ。おそれることはなにひとつない。なあ、そうではないか。俺の守り神……」
そして、さっと右手をあげると、喉《のど》をかぎりにこうさけんだのだ。
「ときはいたった。今こそ、内域に向かって一気に押し寄せるのだ――」
背後の闇《やみ》を、地鳴りのような喚声がふるわせた。そして、数百の衛士の履音《くつおと》が、ザッ、ザッ、ザッと調子をあわせてきこえてくる。
ついに、謀叛《むほん》のときがきたのだ。
12
――あまく、けだるく、香のかおりが部屋にたちこめていた。
燭台《しよくだい》に燃えている炎が、くらく、虫の鳴くような音をたてている。どうやら油が残りすくなくなっているようだ。そういえば、明かりとりの窓からみえる空も、なんだか白っちゃけて、朝のおとずれがちかいことをしめしていた。
寝台のうえに、ジローは女帝とならんでよこたわっていた。なんとなくうつけたような、うつろな眼をしている。自分自身を恥じているのだ。
ジローは決して自制心にとんだ若者とはいいがたいが、それにしても、激情にかられて、女にいどむなどということは、いまだかつてなかったことだ。なにかしら、眼にみえない指が動き、ふたりがそうなるようにしむけたみたいだった。
もちろんジローは、それがあらかじめ小丑《シヤオチユウ》がしかけておいた媚薬のせいだなどとは思ってもいない。
ふいに女帝が寝台から立ちあがり、てばやく袍子《ながぎ》をまとった。一瞬、燭台の炎に照らしだされた彼女の裸身は、おさなく、たよりなげで、とうてい、県圃《ケンポ》の里≠フ最高権力についている女《ひと》のそれとは思えなかった。
「おいきなさい」
そして、ジローから視線をそらすようにしていった。「蛮人、おまえはもう自由の身です」
「…………」
ジローはしばらく女帝の横顔をみつめていたが、やがて悲しげに首をふって、寝台からおりた。こういう場合、かったつにふるまうには、あまりにジローはうぶでありすぎるようだった。じっさい、なにを口にしたらいいものか見当もつかないのだ。
身づくろいをととのえるジローに、かたくなに背を向けて、女帝は窓の外をみつめていた。
「おまえは他国へいって、このことをしゃべるにちがいない」
ジローに背を向けたまま、ふいに女帝がいった。なんだかうわっちょうしにかすれた、奇妙に精神失調を感じさせる声だった。
「うすぎたない男たちと酒をくみかわし、わたくしのことを下卑《げび》た言葉でしゃべり、笑うにちがいない。どんなに県圃の女帝が色好みであるか、ねやでどんな声をあげるか、自慢たらしくしゃべるのでしょう」
あきらかに、自己懲罰をねらいとした言葉だった。そうして、自分自身を傷つけ、罰しているのだ。女帝もまたおのれの行為を恥じているようだった。
しかし、ジローにはそれはとんでもないいいがかりのようにきこえた。誇りたかい戦士であるジローには、そんな行為は自分自身をおとしめることとしか思えないのだ。
「とんでもない話だ――」
ジローは怒ったようにいった。「俺がそんなことをするはずがない」
女帝はあざけるような笑い声をもらしただけだった。そして、その白い手をひらめかして、ジローに出ていけ、と、命じた。あきらかにジローの言葉を信じていないのだ。
「そんなことをするわけがない」
ジローはくりかえした。「まちがっても、そんなことをするものか」
じっさい、ジローはとうてい女帝を軽蔑《けいべつ》する気持ちにはなれなかった。彼女がなんといおうと、雲龍のことを忘れかねているのは、たしかなことのように思われる。その苦しさ、やるせなさは、同じようにいとこを愛してしまったジローには、手にとるみたいにわかるのだ。
いまになってジローは、どうして自分がザルアーを抱いたのか、はっきりとそのわけがわかるような気がした。そして、いま自分がザルアーと同じ立場におかれ、それがどんなに彼女にたいして残酷なことであったか、つくづくと思い知らされていたのだ。
「…………」
女帝は、ジローのあまりに強い口調にややおどろいたようだった。ふりかえり、しばらくジローの顔をみつめていたが、やがて平板な声でいった。
「おまえはやさしい少年ですね」
「…………」
ジローは顔をあからめ、どぎまぎと眼をふせた。彼は、いまだかつて自分をやさしいだなどと思ったことはない。それに、自分ではもう一人前の大人のつもりでいるから、少年といわれたことで、なんだか肚立《はらだ》たしいような、それでいてちょっとくすぐったいような、おかしな気分にかられた。
「わたくしにたいして、あわれみをかけようというのですか」
ふいに、女帝はりんとした声をはりあげた。「蛮人のぶんざいで、無礼な……いますぐ、ここから出ておいきなさい」
さすがに、その声はするどく、あらがいがたい響きを持ち、女帝の権勢をつよく示していた。女帝としての誇りが、その一言に凝縮され、爆発した感じだった。――ジローはピョコンととびあがり、反射的に逃げ腰になった。
「盤古≠ノ会うにはどうしたらいいのですか」
それでも、その場にかろうじてふみとどまって、そんな質問を口にできたのは、森の住人として育ったジローが、身分の差というものにたいして、やや鈍感だったからにちがいない。
「盤古=H……」
女帝は眉をひそめた。「なにをいいだすのかと思ったら、おろかなことを……盤古≠ヘこの地の神≠ネのですよ。おまえのような蛮人がめったに会えるものではない」
「会わなけりゃならないんだ」
ジローはがんこにいいはった。「どうしても、会う必要があるんだ」
「…………」
女帝の眼に不審げな光が浮かんだ。ジローがたんなる物好きから、盤古≠ノ会いたいといっているのではないことがようやくわかったのだろう。しかし、その表情はすぐに、仮面をかぶっているような、きびしく、つめたいものにとってかわられた。
「あなたにどんな事情があるかは知りませんが、盤古≠ノはそうかんたんに会えるものではないのですよ」
「それでも、会うんだ。どうしても、会わなければならないんだ」
子供がだだをこねるのに似た、ききわけのなさだったが、ジローにしてみればそれこそ必死だった。――巫抵《ふてい》の言によれば、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フことを知りたければ、盤古≠ノたずねるにしくはない、というのだ。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがしあてれば、月《ムーン》≠フ所在もまたあきらかになる。そしたら、はれてランといっしょになることができるのである。たとえ、身分をわきまえない、としかりつけられようとも、そうかんたんにひきさがれるものではなかった。
「おねがいします」
ジローは懸命になって、頭を下げた。「どうか、おねがいします」
「…………」
一瞬、女帝の眼にすさまじい怒りの色がはしった。県圃《ケンポ》の最高権力者たる彼女にしてみれば、命令にしたがわぬばかりか、しつこく要求をつらぬこうとするジローの存在は、自分にたいする重大な侮辱とさえうけとれたにちがいない。
が、女帝の怒りが叱声《しつせい》となって、その唇からほとばしりでようとしたそのとき――ふいに扉《とびら》があけられたのだ。
回廊の明かりが、しろく、矩形《くけい》に扉口《とぐち》を浮かびあがらせていた。その明かりを、巨大なコウモリのようにさえぎり、うっそりと立っているのは、雲龍だった。
思いもよらぬ人物の登場に、つかのま部屋の空気は凍りついたようになっていた。あまりにとっさのことで、ジローも女帝もとっさには情況を把握《はあく》しかねたのだ。ただ、呆然《ぼうぜん》として、雲龍をみているばかりだった。
「出ていきなさい」
ふいに、女帝がそう声をはりあげ、緊張した部屋の空気をうちやぶった。女帝はくりかえし、出ていけ、と、雲龍に命じ、ヒステリックに足をふみならした。
それは、怒りというより、むしろ悲しみに充《み》ちた声だった。いかに女帝が最高権力者であっても、女であることにかわりはない。かつて愛し、そしておそらくはいまも愛しているであろう男に、べつの男と寝室にいる姿をみられるのは、耐えられない屈辱、苦しみであったにちがいない。
しかし雲龍は、女帝のさけび声にも、いっこうに臆《おく》した様子はみせなかった。それどころか、皮肉なめぐりあわせを、みずから面白がっているように、うすく笑いさえ浮かべているのだ。
「謀叛が起こりました。女帝さま――」
そして、足をふみだすと、うやうやしく一礼して、こう告げたのだ。「残念ながら、内域はすべて裏切り者めに占領されたもようでございます。なんとだらしない、宮廷を護《まも》っている衛士めらは、謀叛が起こったと知るや、ろくに抵抗もしめさずに、武器を捨てたとのことで、いやはや、飼い主の恩も知らぬ、まったくの畜生どもでございますなあ……」
「…………」
部屋はしんとした静寂《せいじやく》につつまれた。雲龍の言葉の意味が、しだいにその静寂ににじんでいき、やがてはっきりとした形をとって、女帝とジローのふたりのまえに、大きく立ちふさがった。
「雲龍、おまえ……」
女帝がかすれた声でつぶやいた。自分で自分の想像を信じかねているような声だった。
「…………」
ふいに、雲龍の眼から表情が消えた。そして、ふたりから顔をそむけ、なにもかもくだらぬ、とるにたらないことだとでもいうような、奇妙にものうい口調で、背後にたちならぶ衛士たちに命じた。
「牢《ろう》におしこめろ」
この情況では、部屋に衛士たちがなだれこんでくるのをみても、ジローにはどうすることもできなかった。
――朝がきた。
外域はいつにかわらぬ活気をていしはじめていた。子供から老人にいたるまで、いそがしくたちはたらき、たがいに大声をはりあげあっていた。かまどからは煙がのぼり、ぼてふりたちは陽気に路地をわたりあるいていた。
しかし、いつもの朝とは異なることがひとつだけあった。ひそかな、どことなく退廃のかげりをおびた噂《うわさ》が、家から家へ、路地から路地へ、菌糸のようにはびこりつつあったのだ。
その噂は、雲龍が謀叛《むほん》を起こした、というものだったが、だからどうなったのか、ということはだれひとりとして知らず、必然的に臆測《おくそく》と想像をまじえてささやかれることになり、つまるところは、なんともあやふやなものとなってしまうのだった。それだけに、噂は奇妙に信憑《しんぴよう》性をおびたものになり、人々はいつしかそれを真実と信じて、疑わなくなっていた。
この日の外域でのあいさつは、あのことを知っているか、という言葉ではじまった。おう、知っているとも、あれはな……と、人々はたがいにとぼしい情報を交換しあい、そして話の終わりには、決まって内域にそびえている宮廷に眼を向けるのだった。
宮廷はいつもとかわらず、平静をたもち、ドッシリとかまえているようにみえた。
噂はたしかに不安をひきおこしたが、そこにはいくばくかの期待感も混じっていたようだった。硬直し、ヒエラルキーが確立された県圃《ケンポ》の里に、ポッカリと穴があき、そこから新風が吹きこんでくるような、ある種の爽快《そうかい》感があったのだ。人々は謀叛をおそろしいこととして話していたが、それでいて、一方ではそれを歓迎するみたいな空気があったのもまた事実だった。
ともあれ、内域の権力争いがどう展開されようと、外域の人々の生活にはさほどの影響を与えなかった。しょせん、雲のうえのできごとにすぎないのだ。噂は野火のように、外域をかけめぐっていたが、一見したところ、人々は正常に生活をいとなんでいたのだった。
しかし、その噂に大いにまどわされ、不安にかられている人間もいないではなかった。
チャクラとザルアーのふたりだった。
彼らの立場はややこっけいなものといわざるをえなかった。眼をさましたとき、雲龍の邸《やしき》にはだれひとりとして残っていなかったのだ。召使いにいたるまで、きれいにひきはらっていて、いかに雲龍の謀叛の計画が周到なものであったか、なによりよく物語っていた。
客として滞在しているうちに、その家《や》の主人が一族郎党をひきつれて消えうせてしまったのだ。チャクラたちでなくとも、これからどうすべきか迷って当然だったろう。
そこへもってきて、雲龍の謀叛の噂がつたわってきたからたいへんだ。宮廷にただひとり連れていかれたジローの身を案じて、ザルアーはほとんど半狂乱になってしまった。
「とにかく、ジローをとりかえすことよ」
ザルアーはさっきからそればかりをくりかえしている。「謀叛の噂がほんとうだとしたら、ジローがどんなめにあわされているかわかったものじゃないわ」
「それはそうだ……」
チャクラはなんとなくウロウロしながら、答えている。「まったく、そのとおりだ。ちがいないよ……」
「だったら、はやく宮廷に行きましょうよ」
ザルアーはついに忍耐の限界に達したようだ。チャクラは立ったりすわったりをくりかえしているが、いっこうに行動を開始する気配をみせないのだ。
「しかし、宮廷にしのびこむと口でいうのはかんたんだが、見張りもいるだろうし、謀叛が起きたのだとしたら、なにかとゴタゴタもしているだろうし……」
「たよりにならない人ね」
ザルアーは憤然と席を立ち、扉に向かった。「わかったわよ。もうたのまないわよ」
「ま、待ってくれよ」
チャクラはあわてて、ザルアーをおしとどめた。そして、頬《ほお》を指で掻《か》きながら、すこし考えてから、なんとなく自信のなさそうな声でいった。「わかったよ。俺が宮廷に行って、ジローをとりかえしてくるから、あんたはここで待っていてくれないか」
「そんなのいやよ。わたしも……」
ザルアーがそう抗議しかけるのを、チャクラは手をあげて制した。それから、いやにキッパリとした口調でいう。
「女連れで宮廷に入るのは、なにかとめだってまずい。まあ、心配するなよ。ジローはちゃんと連れかえってやるからさ」
「でも……」
「シイーッ」
チャクラは人差し指を唇《くちびる》にあてて、片眼をつぶってみせた。「なにもいわないで、このチャクラさまを信用してくれよ。いいかい、ちゃんとここで待っているんだぜ」
そして胸を張り、悠々《ゆうゆう》たる足どりで扉に向かった。部屋をでるときには、陽気に手までふってみせ――外に足をふみだし、扉を後ろ手にしめたとたん、なんとも情けなさそうな表情になった。
じつのところ、チャクラにはジローを宮廷から連れだす勝算などまったくないのだ。勝算どころか、雲龍がおそろしくてならず、できれば宮廷になど一歩たりとも近づきたくない心境なのである。――人を人とも思わないようなところのあるチャクラには、まったくめずらしいことといえた。チャクラ自身もふしぎでならないのだが、とにかく雲龍という男は苦手《にがて》の一言につきるのだ。
しかし、ジローをつれかえる、と、ザルアーに約束した手前もあるし、まあ、ジローの身も心配ではあるし、で、いずれにしろ宮廷に足を向けないわけにはいかなかった。チャクラは渋い顔をしながら、ブラブラと路地を歩きはじめた。
そして、ふいに前方に視線をすえ、ニヤリと笑うと、次の瞬間、パッと薬屋《ヤオプ》の看板のかげにかくれた。息をひそめるようにして、しばらくそこで待機していたが、やおら右手をのばした。
「こらっ、なにをするか。はなさんか。はなさんとひどいめにあわすぞ――」
チャクラに襟首《えりくび》をつかまれ、キーキーとネズミのようにわめきたてた老人は――あの巫抵《ふてい》だった。
「俺だよ、爺《じい》さん」
チャクラはヌッと巫抵のまえに顔をつきだした。「きのうはどうも世話になっちまったな」
「…………」
一瞬、巫抵は猜疑《さいぎ》心の強い、いかにもこすっからそうな眼つきになった。チャクラが害を加えようとしているのではないか、と、疑っているような眼つきだった。
「いや、きのうはとんだことじゃったな」
そして、襟首をつかまれたまま、重々しくうなずき、あいさつをかえしてきた。「お友達はぶじに帰ってきたかの」
「それなんだがね。爺さん……」
チャクラはチッチッと唇を鳴らし、首をふりながら、いった。「まだ帰ってこないんだよ。なんだか、ぶっそうな話もきこえてくるしね……しかたないから、宮廷にしのびこんででも、つれもどそうと思ってね。あんたなら、宮廷によく出入りしているらしいから、なにかいい知恵かしてくれるんじゃないか、と期待しているんだが……」
「…………」
巫抵は走りだそうとした。しかし、チャクラはその襟首をつかんだまま、はなそうとはせず、巫抵の足はむなしく空《くう》を蹴《け》るばかりだった――やがて、巫抵は力つきたかのように、両足を地面におろした。そして、いかにも忌々しげにいった。
「なんでもきくがええわ、わしにわからんことはなにひとつとしてないからの」
「ありがたい……爺さん、じつはな……」
チャクラはふと言葉を切り、いぶかしげな視線を空に向けた。その視線に気がつき、巫抵もつられたように空をみあげた。
街の上空、おだやかな朝の光のなかを、なにか黒く、ちいさな蕾《つぼみ》のようなものが舞っていた。ひとつやふたつではない。おびただしい数の蕾が舞い、しかも波濤《はとう》のように、後から後から押し寄せてくるのだ。
「おお……」
巫抵は顔をゆがめ、うめき声をあげた。「鬼だ、鬼がやってきた……」
「…………」
チャクラは呆然と空をみあげている。
異変に気がついた街の人たちが、ようやくさわぎはじめていた。
――ちいさな明かりとりの窓もあるにはあるが、たんに壁をほりくずし、鉄格子《てつごうし》をはめてあるだけで、ほとんど採光の役には立っていない。牢《ろう》の前面は、ごばんの目のような牢格子がふさいでいて、せまい通路をはさみ、すぐに土層がそびえている。そこに、いっぽんの松明《たいまつ》が燃えているが、光と熱を与えてくれるというより、むしろやにのにおいと黒煙をたちこめさせて、この牢をいっそう居心地のわるいものにしているだけのようだ。
暗い地下牢には、ジクジクと水がにじみだしていて、白っぽいカビがはびこり、得体の知れない虫がうごめいている。まったく、この牢は健康にわるい。どんなに頑強《がんきよう》な人間でも、ものの三日もこの牢で寝起きすれば、まちがいなく病魔にとりつかれることになるだろう。
しかしジローは、この牢の劣悪な環境をいささかも意に介してはいないようだった。隅《すみ》のほうにおしつけられるようにして置かれてある鉄製の寝台に、ゴロリと横になり、やすらかな寝息をたてているのだ。
こんなところで眠れるというのも、ジローがながくジャングルで暮らしてきたからだろう。雨季のとき、しだのかげにもぐりこんで寝なければならなかったことを考えれば、天井があるだけでも、地下牢の暮らしはまだしもとしなければならない――それに、この時代の人間の例にもれずジローは運命論者だった。しょせん、人間の運命は星にさだめられ、あらかじめ決められた道をあるいていくだけのことだ、と、達観しているのだ。
そのジローが月《ムーン》≠さがし、いわば運命にさからおうとしているのだから、矛盾《むじゆん》といえないこともない。しかし、ジローは内省にとぼしく、その行動律は単純そのもので、矛盾を矛盾として意識したことはない。要するに、戦士として恥ずべきことさえしなければ、それでいいのだ。
熟睡しているはずの、ジローの肩がピクリと動いた。そして、ムックリと寝台のうえに身を起こし、牢格子のほうに視線を向けた。
「おやおや、ねむっておいでだとばかり思っていましたが……」
牢格子の外に立っているのは、小丑《シヤオチユウ》だった。松明のあかりが、そのあでやかな顔を、明《めい》から暗《あん》、暗から明へとめまぐるしくそめあげていて、なにかしら毒花をみているようだ。「さすがに蛮人の戦士だ。かたときも警戒をおこたらない。みごとなものですね」
「…………」
ジローは沈黙している。なにが苦手といって、ジローにとって、この小丑《シヤオチユウ》ほど苦手な存在はいない。なにを考え、なにをたくらんでいるのか、想像することもできない相手なのだ。「こわい顔をしておいでだ」
小丑《シヤオチユウ》はクスクスと笑った。「わたしはあなたを助けてさしあげようと考えているんですよ。もうすこし、愛想よくしてもらっても、罰《ばち》はあたらないと思うんですがね……」
鍵《かぎ》のはずれる音がきこえてきた。小丑《シヤオチユウ》は戸をあけ、腰をかがめるようにして、牢のなかをのぞきこんだ。
「さあ、どうしたんですか……どうして、出ておいでにならないんですか」
ジローは寝台に腰をおろしたまま、身動きしようとはしない。こんな場所から一刻もはやく逃げだしたいのはやまやまだが、小丑《シヤオチユウ》の真意がよめない以上、うかつには動けない感じだった。いずれにしろ、小丑《シヤオチユウ》になんらかの下心があるのはまちがいないのだ。
「どうしたんですか」
小丑《シヤオチユウ》がややしびれをきらしたような声でうながした。
「俺の剣はどこだ」
ジローがボソリといった。剣をこの手ににぎらないではてこでも動くものか、という気持ちになっていた。剣さえあれば、まずたいていのことはきりぬけられる自信があった。
「なるほど……」
小丑《シヤオチユウ》は微笑し、いったんその顔を牢格子からひっこめた。そして、つぎに顔をみせたときには、その手にジローの剣をにぎっていた。「これがなくては、おそろしくておちおち外も歩けないというわけですか」
小丑《シヤオチユウ》の嘲笑《ちようしよう》の言葉もジローの耳には入っていなかった。牢の床に放りだされた剣を、ほとんどとびつくようにして拾いあげる――剣を手にしたとたんに、力と自信が全身にあふれてくるのを感じた。もう、この世におそろしいものはなにもなかった。
ジローは牢から足をふみだし、しばらく小丑《シヤオチユウ》の背後の暗がりをみつめていた。そこには、やはりとらわれの身であった女帝が、ヒッソリと影のように立っていた。
「女帝さまもわたしがお助けしました……」
小丑《シヤオチユウ》はジローの視線に気がつき、うやうやしく一礼した。「臣下たる者のつとめだと思いましたので……」
そして、腰帯《ハンチン》からあの竹筒をスッととりだして、前方をまっすぐさした。ジャラジャラという金属音がきこえてくる。
「おふたりには先を歩いていただきましょうか。わたしがしんがりをつとめますから」
やわらかな声だが、うむをいわさぬ口調だった。女帝は無言のまま、小丑《シヤオチユウ》のかたわらをすりぬけ、ジローとならんで立った。あれからわずか数時間たっているだけなのに、女帝の顔には憔悴《しようすい》の色があらわだった。
「さあ、まいりましょうか」
小丑《シヤオチユウ》はなんだか嬉《うれ》しそうにいった。
――松明《たいまつ》のあかりが等間隔にならび、かろうじて識別が可能だとはいうものの、地上に通じる道はまったくうすぐらく、傾斜が急で、歩きづらかった。しかも、女帝とならんで歩くと、ほとんど道いっぱいになってしまい、肩が露出している岩層をこすってしまうほどだった。
ジローはすこしちゅうちょしてから、女帝の腰にかるく手をおき、もう一方の手をつきだすようにして、歩きはじめた。じっさいには、松明のあかりがあるから、かならずしも手さぐりの必要はないのだが、この地下道には、なんとなくふつうに歩くのをためらわせるものがあった。
ジローの手がふれた瞬間、女帝はピクリと身をふるわせたが、べつにその手をはらいのけようとはしなかった。もちろん、ジローに好意をいだいているからではなく、雲龍が謀叛《むほん》を起こしたのがよほどショックだったらしく、すべてにわたって、どうでもよくなっているような感じだった。その手をはらいのけなければならないほどにも、ジローに関心をいだいていないというわけだ。
ふたりを背後から追いたてるように、竹筒のジャラジャラ鳴る音がきこえてくる。どうやら小丑《シヤオチユウ》は、竹筒で自分の肩をたたいているようだ。そして、話しかけてくる。
「じつは、わたしは雲龍さまをおしたいもうしあげているんですよ……もうお察しかもしれないと思いますが、わたしはうまれつき女には興味をもてない質《たち》でしてね」
一瞬、ジローの腕のなかで、女帝が体をこわばらせた。しかしジローはそしらぬふりをして、先へ進んでいく。――掌がかすかに汗ばんでいる。なぜか、小丑《シヤオチユウ》との対決はもうさけられない、と、はっきり感じる。それもとおいさきのことではない。すぐだ。いますぐにも決着がつく。
「しかし、雲龍さまは情《じよう》のこわいお方だ。わたしなんかには眼もくれない……」
小丑《シヤオチユウ》の声、そして竹筒の金属音。
「そのうえまずいことには、雲龍さまは女帝さまのことを愛しておいでだ。いとこどうしということで、その仲を禁じられているから、なおさら恋心ははげしいものになる……わたしがいかに雲龍さまをおしたいもうしあげても、どうすることもできない……」
ジローは歯をくいしばっている。いまにして思えば、どうして小丑《シヤオチユウ》がジローたちをさきにいかせたかはあきらかだった。ジローは小丑《シヤオチユウ》の姿をみることはできないし、ふりかえろうにも、このせまい地下道では、女帝の体がじゃまになって、思うように動きがとれないのだ。
ジローは全神経を背中に集中させている。小丑《シヤオチユウ》の声の変化を、竹筒の金属音の変化を、なんとかききとろうとして必死になっているのだ。
「だから、雲龍さまの謀叛の計画をうちあけられたときには、それはもう嬉しかったものですよ。雲龍さまのためには、ずいぶん働きましたしね……」
小丑《シヤオチユウ》の声。
「でも、わたしはある日、気がついた。雲龍さまが謀叛を計画なさったのは、女帝さまをわすれられないからではないか、と……それが苦しいからではないか、と……それではこまる。たとえ謀叛が成功しても、それでは雲龍さまの胸に永遠に女帝さまが残ることになってしまうではないか……わたしは考えました。なんとか、雲龍さまの胸にある女帝さまを汚《けが》すことはできないものだろうか」
ジローは小丑《シヤオチユウ》の声をききながら、歩きつづけている。喉《のど》がカラカラにかわき、はげしい緊張にいまにもさけびだしてしまいそうになっている。もうすぐだ。もうすぐ、すべてが終わるのだ。
「……女帝さまがべつの男といっしょにいるときに、雲龍さまにふみこませる。そして、女帝さまはその男といっしょに地下|牢《ろう》から逃げだそうとして、わたしに殺される」
金属音がやんだ。ほとんど反射的に、ジローの右手がひらめいて、剣を逆手にぬきざま、刀身を脇《わき》の下から背後につきだした――なにか空気を裂くような音がきこえて、頬をするどいものがかすめたが、ジローはふりむこうともしなかった。
なまぐさい血のにおいが地下道にこもりはじめていた。
ジローが剣をひくと同時に、小丑《シヤオチユウ》の体が背中にぶつかり、そのままズルズルと地面にくずれ落ちていった。
竹筒が落ち、金属音をたてた。もちろん、ジローの知らぬことだったが、それは発条《バネ》で鉄の玉を発射する、一種の空気銃のようなものだった。ジローはまったく危ういタイミングで、むしろ僥倖《ぎようこう》と呼ぶのがふさわしいようなタイミングにたすけられ、かろうじて小丑《シヤオチユウ》をたおすことができたのだ。
小丑《シヤオチユウ》は両足をなげだし、上半身を岩層にもたせかけていた。その松明に照らしだされている顔は、ウットリとほほえんでいて、これまでに増して美しいようにみえた。まだ死んでいなかったが、死んでいるも同然だった。
ジローはフッとなんの脈絡もなく、小丑《シヤオチユウ》の言葉を思いだしていた――男のほうが清潔で、しかもずっと愛情がこまやかだ。女など、男のまえでは問題にならない……。
小丑《シヤオチユウ》にかんするかぎり、たしかにその言葉は真実をついていた。小丑《シヤオチユウ》は雲龍にたいする愛にじゅんじて、死んでいったのだ。
――俺は、この男が雲龍を愛したのに負けないぐらい、ランを愛しているといいきれるだろうか。いや、いったい愛などというものに、はたしてそれほどの価値があるのだろうか……雲龍、小丑《シヤオチユウ》、女帝の顔が、次から次に、ジローの頭に浮かんでは、消えていった。
かつて小丑《シヤオチユウ》に会ったとき、やはり愛にたいする疑問をおぼえたことがある。いま、そのときに数倍する懐疑心が、ジローをしきりに苦しめはじめていた。
女帝はまったく表情をかえずに、小丑《シヤオチユウ》をみおろしていた。彼女もまた、雲龍が謀叛を起こしたと知ったときから、死んだも同然のようだった。
13
――県圃《ケンポ》に終わりが近づいてきつつあった。
県圃そのものが一種の有機体といえないこともなかった。盤古≠頂点として、視肉《しにく》、畢方《ひつほう》、|〓〓《れいれい》などの亜生物、さらには周辺の村人たちにいたるまでが有機的にむすびつき、ただ県圃を存続させるという目的のためにのみ働いているのだ。
存続すること、ただ存続しつづけること――それこそ生物の大目的にほかならない。しかし、生態系を完全管理し、いっさいの変化を禁じたとしても、そこにはおのずと限界があった。エントロピー増大の法則≠ヘいわば宇宙律であり、県圃といえども、永遠に秩序をたもつのは不可能だったのだ。
村人たちの打鬼《ダーコイ》の儀式はむなしく、また畢方も鬼の侵入をはばむことはできなかった。ついに県圃の秩序が、混沌によってくつがえされるときがきたのだ。
鬼――それは異常に繁殖力のつよい、裸子植物につけられた名だった。鬼は、あの赤っちゃけた森林に多く繁殖し、春になると、植物そのものがまるい蕾《つぼみ》のようになり、風にのって、子孫存続のための旅にでる。この鬼の侵入をいったんゆるした土地は、生態系がことごとく破壊され、いずれはすべて占領されてしまうことになる。
だからこそ県圃は、そのすべての機能を打鬼《ダーコイ》という一点にしぼっていたのだ。視肉を用意し、村人たちが農作という仕事から解放され、ただ打鬼にのみ専念できるようにした。畢方という亜生物が生みだされ、空から侵入してこようとする鬼を焼きはらう、という機能が与えられた。――しかし、いまとなってはすべての努力はむなしかった。鬼の侵入はいわば自然の摂理であり、たとえ盤古といえども、それをふせぐのは不可能だったのだ。
みわたすかぎりつづく草原、ここ県圃の里にも変化が生じつつあった。まるで、反芻《はんすう》をくりかえす牛の腸のように、草原がみゃくうち、なみうっている。風に吹かれているわけではない。どんな機能によるものか、草原そのものが動いているのだ。
しだいに、草原の揺れは大きく、広範囲のものになっていき、――やがて、空気がきれるような奇妙な音がきこえはじめた。その音は草原をおおっていき、たがいに共鳴しあい、ついには女の笑い声のようにかんだかいものになっていった。
いま、県圃の里が笑《〔註12〕》っているのだ。
――空をただよっていた畢方がねじれ、ふいにコントロールをうしなったように、城壁にぶつかってきた。一瞬、コロナのようにあざやかに火の輪がひろがり、急速にしぼんでいった。城壁のうえに立っていた衛士たちは、すさまじい火勢にはねとばされ、悲鳴をあげながら、落ちていった。
鬼の侵入が県圃《ケンポ》の里をこえたとき、それをふせぐための畢方もまた後退し、それが逆に県圃の滅亡をはやめることになったのだ。畢方が放射する高熱は、家屋敷を焼き、人々を一瞬のうちに熱死させた――街そのものがほとんど泥と石でできている外域はまだしも被害がすくなかった。悲惨をきわめたのは、内域だった。なまじ意匠をこらした建物が多いだけに、引火しやすいものが多く、火勢はとどまるところを知らなかった。
内域は、怒号と悲鳴がこだまし、炎が渦《うず》をまく地獄と化していた。
宮廷の、その内域をみおろす大広間に、ひとりの男がつくねんとすわっていた。
雲龍《うんりゆう》だった。
大広間には、ほかに人の姿はみえず、すでにうすい煙がたちこめはじめていた。
だが、――雲龍は平然としていた。その顔には、あせりも怒りもみられず、すべては茶番でしかないと思い決めたような、一種超然とした表情が浮かんでいるのだ。雲龍はなんとこの場合に、微笑を浮かべ、酒を飲んでいるのだった。
「県圃《ケンポ》の里が笑いだしたか……」
雲龍はグラスをあけ、唇をぬぐうと、しずかにつぶやいた。「真夜中の婆《ばば》あども、あのヒキガエルたちめにまんまとはめられた……さすがにやりおるわ。婆あたちを始末して、うまくことをはこんだつもりが、このざまよ」
雲龍の足のしたにつながれている銀ギツネが、しきりに綱をひっぱり、ケーンケーン、と、悲しげに鳴いていた。火におびえ、一種の恐慌状態におちいっているようだった。
「どうした? 俺の護り神よ……」
雲龍は銀ギツネをみおろし、皮肉な声でいった。「まさか、おのれひとりが助かろうというのじゃあるまいな……それでは、あまりに義理が立たないというものだろうよ、なあ、俺の護り神……」
ふいに雲龍はグラスを床になげすてると、つづく動作で剣をぬきはらい、足元の銀ギツネを両断していた。すさまじいほどの剣技のさえだった。銀ギツネがとびあがり、そのみごとな毛皮を朱にそめて、床にくずれおちたときには、すでに剣は鞘《さや》におさまっていた。
そのとき――うなりをあげて飛んできた一本のナイフが、雲龍の胸にふかぶかと刺さった。
雲龍はピクリと身をふるわせ、しばらく信じられないものでもみるように、胸のナイフをみつめていた。
それは、調理用のナイフだった。
――チャクラにも、自分がどうしてナイフを投げつけたのか、よくわからなかった。巫抵《ふてい》から宮廷に通じる秘密の通路をききだし、なんとかしのびこむことに成功したものの、どこをどう歩いたらいいのかわからず、なんとなくうろついているうちに、偶然に雲龍が銀ギツネを斬殺《ざんさつ》する場面にでくわしたのだった。そのとたん、ほとんど反射的に、右手が動き、ナイフを投げつけてしまっていたのである。
たしかにチャクラは、銀ギツネにたいして、ある種のしたしみのようなものをいだいてはいたが、そのしたしみにしても、まさか仇討《かたきう》ちをしなければならないほど、ふかいものだったとは思えない。まったくの衝動、まさしく魔にとりつかれた瞬間としか形容しようがなかった。
いや、それをいうのなら、むしろ雲龍のほうにこそふさわしいかもしれない。いかに銀ギツネを斬《き》った直後といえ、彼ほどの男が、ろくに戦闘の心得もない男の投げたナイフをかわしきれなかったのだ。不運、というより、いっそ事故と呼ぶべきだったろう。
雲龍はやおら胸のナイフをにぎり、いとも無造作《むぞうさ》にひきぬいた。おびただしい血糊《ちのり》がその胸をよごしたが、それすらまったく気にとめていないようだった。
「なるほど、布衣《ほい》の下のハチのようなものか」
雲龍はよごれたナイフを、ゆっくりとマントの端でぬぐいながら、いった。「みごとに、この俺を刺しおったわ」
「…………」
チャクラは呆然としている。自分のしでかしたことがいまだ信じられず、声もでないのだった。
雲龍はきれいにぬぐいおわったナイフを、床のうえに投げすて、厚い胸を大きくなみうたせると、眼をとじ、グッタリと椅子《いす》の背にもたれかかった。そして、奇妙に抑制のきいた声でいった。
「なあ、チャクラ……ひとつだけ、きかせてくれぬか」
「へえ」
チャクラは反射的に腰をかがめ、頭をさげていた。いままさに死のうとしているときでも、雲龍のそなえているある種の迫力には、いささかの変化もないようだった。
「俺は、ある占《うらな》い師から、女の腹から生まれた人間は俺を傷つけることはできぬ、という言葉を与えられているのだ。その俺がどうしておまえのナイフに刺されることになったのか……なあ、おまえにそのわけがわかるだろうか」
「へえ……」
チャクラはふたたび頭をさげ、ちょっと考えてから、なんだか申し訳なさそうにいった。「じつは、わたしは女の腹から生まれた人間じゃねえんで……」
「なんだと」
雲龍は眼をうすくひらいた。その眼光は、いまだにチャクラを射るようにするどかった。
「狂人《バム》というのは、まあ、いってみれば、ひとりがみんな、みんながひとりというような、ちょっとかわった一族でして……その、わたしにもよく理屈はわからないんですが、ずっと昔から、女の腹をつかわないで、子供をつくる方法がつたわっているんですよ……その方法を知っているのは一族の長老なんですけど、なんでもらんしとかを凍らせておいて、子供が必要になったときは、れいとうせいえきと結びつけるんだそうです。そして、おかしな箱のなかに入れて、子供を大きくしていくんだそうで……だから、あちこちに散らばっている狂人《バム》は、みんな同じれいとうせいえきから生まれた兄弟のようなものでして……」
「…………」
雲龍がどれだけチャクラの言葉を理解できたか疑問だった。ただ、チャクラを凝視しているその眼に、しだいに奇妙な光が浮かんできて――ふいに、おかしさに耐えかねたというように、笑いはじめたのだ。
「婆あたち……あの婆あたちが……」
雲龍はヒクヒクと体をけいれんさせ、ときおり苦しげに咳込《せきこ》んだ。それでも、笑いつづけるのをやめようとはしない。「地獄で会ったら誉《ほ》めてやるぞ。よくもまあ、これほどあざやかに、俺をはめてくれたものよ。誉めてやるぞ。真夜中の婆あたち」
雲龍は笑い、笑いつづけて、そしてこときれた。その死に顔には、あのいつもの皮肉な笑いが残っていた。
チャクラは悄然《しようぜん》として、広間の入り口に立ちつくしていた。
炎が迫っているようだ。広間にうずまく煙が、しだいに色濃いものになりつつあった。高熱にしっくいが溶かされ、石の壁がギシギシときしみはじめていた。
とつぜん、広間にとびこんできて、チャクラのかたわらをすりぬけ、雲龍のもとに走っていった人影があった。ハッとチャクラが眼をみはったときには、もう煙が視界を厚くとざし、その人影を完全に隠していた。なかば反射的に、チャクラが足をふみだそうとしたそのとき――背後から声がかかった。
「あの人は雲龍といっしょに死にたがっているんだ。助けようとするだけむだだよ」
ふりかえったチャクラの眼に、うっそりと立っているジローの姿が映った。
「おまえ……」
チャクラは絶句した。
しかし、ジローはほとんどチャクラには注意をはらっていないようだった。心なし、沈うつな面持ちで、広間にうずまく煙を凝視していた。いまだかつて、ジローがみせたことのない成熟した大人の表情だった。
「おまえ、どうしたんだ」
チャクラがなんとなく遠慮がちにきいた。「いまのは、いったい誰なんだ?」
「ああ……」
ジローは意味もなくうなずき、どことなくさみしげな微笑を浮かべた。「すべてが終わったんだよ……さあ、俺たちも盤古≠ノ会って、ここを退散するとしようよ……」
――間接照明のあわい緑いろの光が、その部屋を充《み》たしていた。寺院の大|伽藍《がらん》のように壁が曲線をえがき、しかもその表面はにぶい金属の光沢をはなっていた。どこかで、なにかが作動しているらしく、ブーン、という唸《うな》るような音がきこえていた。
いたるところに、猫《ねこ》の眼みたいな光が明滅し、部屋の隅《すみ》には巨大な光の窓があった。その窓は青く光り、なんともわけのわからぬ白い描線を浮かびあがらせていた。しかも奇怪なことに、その描線は刻一刻とかたちをかえ、ときには光の窓いっぱいにひろがり、ときにはフッと消滅するのだった。
天井から人間の腕ほどの太さもある鎖が何本もたれさがり、巨大な金属の鳥をささえていた。ただし、この鳥の製作者は、あまり本物の鳥を模することに熱心ではなかったようだ。たしかに、三角の翼をとりつけ、頭部もくちばしの曲がった鳥に似ていないことはないが、全体として鳥を連想させるというだけのことで、細部にはまったく注意がはらわれていなかった。眼とか羽毛はもちろん、脚すら造られていないのだ。
ふしぎなのは、外は猛火でつつまれているはずなのに、この部屋がまったくあつくないことだった。それどころか、ヒンヤリとした空気がみなぎり、むしろさむいほどなのである。
奇怪な部屋だった。とにかく、この時代のものでないことはまちがいないようだった。
ふいに、部屋の一角が音もなくひらき、そこに立っているふたりの男の姿をあらわにした。
ジローとチャクラだった。
「これが盤古≠フ神殿か……」
チャクラがあきれたような声をだした。「なんとも、きてれつな神殿じゃねえか。気色《きしよく》わるいぐらいだぜ……」
まったく、この神殿は彼らふたりにとってあまりに異質なものでありすぎた。この場を充たしている空間それじたいが、すでにふたりの属している世界とは隔絶されたものであるような気がするのだ。じっさい、足をふみいれるのさえためらわれるほどだった。
チャクラは呆然《ぼうぜん》と部屋をみわたしていたが、ふとその視線を金属の鳥≠フうえにとめた。金属の鳥の姿形が、チャクラにかつて眼にしたことのある文字を想い起こさせたのだ。それはまさしく、あの「〓」という文字そのままの姿をしているのだ。
「〓」という文字は盤古≠フ姿を象徴していたのである。
「まちがいない……」
チャクラがつぶやくようにいった。「ここが盤古≠フ神殿だ」
ジローはチャクラに視線をはしらせた。そして、唇をかみ、思い決したように足をふみだそうとした。そのとき、ふいにふたりの頭上に声がひびきわたった。
(人間カ・オマエタチハ人間カ……)
それはひどく無機的な、いまだかつてふたりが耳にしたことのないたぐいの声だった。歯車のきしみが声に合成されれば、ちょうどこんな調子になるかもしれない。
ふたりは体を凍りつかせて、あわてて周囲をみわたした。しかし、どこにも人影はみえない。みえないが、なお声はきこえてくるのだった。
(オマエタチガ人間ナラ、ワタシノ、話ヲキクガイイ。ワタシガドンナニ人間ヲ愛シテイタカ憶《おぼ》エテオクガイイ……アア、ワタシハ人間ヲイツクシミ、愛シテイタ。ダカラコソ、ワタシハ異変<mノチ、コノ県圃《ケンポ》ノ土地ヲマサシク人間ノゆうとぴあトシテ、建造シタノダ。自己増殖たんぱく質カラナル視肉、畢方《ひつほう》、|〓〓《れいれい》ヲツクリ、気象ヲこんとろーるシ、ゆうとぴあヲ建造シタノダ……サイワイ、ワタシニハ、他惑星ニオイテ、移民基地ヲ建造シ、人間ニ適シタ人工環境ヲ造リアゲタ実績ガアッタ。ワタシノめいん・こんぴゅうたぁニハ、ソノタメノでーたーガスベテソロッテイタノダ……スデニ、コノ地ニ県圃ヲ築イテカラ、二百年ガスギテイル。ソウ、県圃ハ永遠ニ存続スルハズダッタノダ。ソレガイマ滅ビヨウトシテイル……人間ヨ、ナニガワルカッタノカ教エテホシイ。ワタシハ人間ヲ愛シ、ソノ幸福ヲネガッタ……ソレガイケナカッタノカ、ソレガ間違ッテイタノカ……)
ジローにはその声の意味するところをほとんど理解できなかった。しかし、しょせん神≠ニは人間とはことなった言葉でしゃべるものなのだ。その言葉を理解しようとつとめるのはおろかしいことであり、神≠ノたいする冒涜《ぼうとく》でさえあった。
「盤古≠諱A教えてほしい」
ジローはこの部屋のどこかにいるらしい神≠ノ向かってさけんだ。その声が湾曲している壁にこだまし、しだいにちいさなものになっていく。「俺たちは|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがして旅をしている。盤古≠諱Aどこに向かえば|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがしあてることができるか教えてほしい……」
(憎シミノ沙漠《さばく》<j向カウガイイ)
そくざに声がかえってきた。
(憎シミノ沙漠《さばく》<j、|空ナル螺旋《フエーン・フエーン》<Kアルハズダ……)
「憎しみの沙漠=c…」
そうつぶやいたジローの声には、よろこびがあふれていた。ながく放浪してきたのちに、ようやく|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フ手がかりをつかむことができたのだ。
チャクラが背後から、ジローの肩を指でつついた。必要なことを知った以上、こんなところに長居は無用だ、と、いってるのだ。ジローも同感だった。この部屋はまったくうす気味がわるい。
足をしのばせて部屋をでていくふたりを、なおも声が追いすがってきた。
(教エテホシイ、ナニガイケナカッタノカ、ドコデ間違ッタノカ……)
手もふれないのに、ふたりの背後でドアが音もなく閉まった。
――夜空をまっかにそめて、県圃《ケンポ》の内域が燃えあがっていた。
雲龍の邸のまえに立ち、ザルアーがその光景をみつめていた。それは、かつてザルアーが小丑《シヤオチユウ》の出張司邸のかまどのなかにみた光景と同じだった。ザルアーはやはりあのとき、県圃の滅亡を予知していたのだ。
ザルアーはなかば魅せられたように、燃えあがる県圃をみつめていた。そして、自分たち三人の運命も予知できないものか、と、しきりにそんなことを考えていた。
註1 古代、占星術はバビロニアで成立し、さまざまな変革を経て、中国に入ってきた。ここで雲龍が用いた占星術は、いわゆる分野説と呼ばれるもので、列国の主神を星にあてはめ占《うらな》われる。おそらく、前七世紀から五世紀の間に、アルタイ山脈まで赴いた西方の交易人たちが、秦《しん》、晋《しん》の地にもたらしたものではないかといわれている。数千年の時をへだてて、分野説がこの地によみがえったわけである。
註2 多少なりとも、に似た甲骨文字をさがすのなら、東方の殷《いん》民族が祀《まつ》っていた上帝帝俊≠ェあげられるだろう。その甲骨文字をみるかぎり、帝俊≠ヘ鳥頭に二本角、猿《さる》の体に一本|杖《づえ》という奇怪な姿だったということになるのだが――は帝俊≠ニは関係のない、まったく別のなにかを象徴しているものと思われる。
註3 宦官《かんがん》とは去勢された男性のことである。宦官は中国ばかりでなく、ギリシア時代、ローマ時代のヨーロッパにも存在したと伝えられている。中国の場合、宦官は陽根《ようこん》、陰嚢《いんのう》ともに切りおとされ、完全に男性としての機能を失わなければならなかった。宦官は宮廷において、君主につかえ、巨大な権力を持つにいたる者も少なくなかったようである。
註4 打鬼《ダーコイ》は、中国において、いわば日本の節分に相当する行事である。漢の時代、十二月八日に打鬼の行事がとり行なわれていた。先頭の方相氏≠ェ四つの眼を持つのは、悪魔の発見には優れた眼力が必要とされたからである。――ただし、この時代の打鬼は漢時代のものと大きく異なっている。高脚《カオチヤオ》や手に竹筒を持つ小丑《シヤオチユウ》の存在など明らかに秧歌戯《ヤンコシー》(道化《どうけ》芝居)の影響があるからだ。それに、県圃《ケンポ》を侵そうとしている鬼はどうやら実在しているようなのである。
註5 山海経《さんかいきよう》≠ノよると、視肉《しにく》とは次のようなものである。――山水景勝の地、古代帝王の墓所ちかくには必ずこの視肉が存在する。牛の肝《きも》に似た形で眼が二つ、その肉はおよそ人間が想像しうるかぎりの、最高の美味とされている。
註6 ジェリコノバラ≠ニいう雑草が、このバラの蕾に似た習性を持つ。いわゆる回転雑草と呼ばれるものに属し、乾燥期になって果実が熟すると、植物そのものがボールのように丸くなり、風に吹かれて転がりだすのである。そして、雨にうたれると、タネがまきちらされることになる。ただし、回転雑草は、このバラの蕾のように、風に吹かれて、空たかく舞うことはない。習性こそ似ているが、まったく別種の植物と考えるべきであろう。
註7 おそわれた馬蝗《ばこう》はトビバッタに属し、おそった馬蝗はトノサマバッタに属すると思われる。本来、トビバッタとトノサマバッタは同じ種類であって、たんに相≠ェ異なるだけと考えられている。孤独相のバッタの生息密度がたかまると、相≠ノ変化が生じ、形態すら異なる群生相のトビバッタ大集団が誕生することになる。トビバッタの集団移動は、それこそ草原を荒野にかえる猛威をそなえている。それを防ぐために、馬蝗に共喰いの習性が与えられたのではないかと考えられる。トビバッタに変態しようとする馬蝗は、仲間によってことごとく食べられるはめとなるのである。
註8 ここでチャクラが言わんとしていることは、要するに生態系の食物連鎖≠ナあろう。太陽エネルギー、水、無機塩類から有機物をつくりだすイネ科植物が、草原の食物連鎖≠フ基本となる。イネ科植物から始まり、大型の肉食動物にいたるまで、草原の食物連鎖≠ヘえんえんと連なっているのである。――しかし、県圃《ケンポ》の里≠ノはいかなる食物連鎖≠熨カ在しない。チャクラが看破したように、ここには生態系がないのである。県圃の里を理解するには、完全管理された工場を想起するのが、もっとわかりやすいのではないかと思われる。工場には防犯装置、空調装置、食事の自動販売機などが据《す》えられている。これらの機器は、ただ工場を維持するためにのみ働いているのだ。県圃の里の視肉、畢方《ひつほう》、|〓〓《れいれい》、おそらく馬蝗にいたるまで、たんなる機能として存在を許されているのだ。したがって、県圃の里では生態系ピラミッドをえがきだすことは不可能である。――すべて生物が機能として、等位置を占め、並列しているからである――もちろん、生物の関係としては、異常の一語につきる。
註9 |〓〓《れいれい》は、白血球が血管の微細な隙間《すきま》から外へ漏出《ろうしゆつ》するのと同じような形で、地中ににじみ、移動するのではないかと思われる。おそらくは、機能を異にするだけで、視肉《しにく》や、畢方《ひつほう》と同じ、自己増殖する肉のかたまりにすぎないのではないだろうか。|〓〓《れいれい》は、県圃の里の地下水を管理しているようだ。土の粒子は一般に負《ふ》に帯電しており、カルシウムやナトリウムなどの陽イオンをひきつける。したがって、直流電流を流してやると、陽イオン、すなわち水分子は陰極に向かうことになる。|〓〓《れいれい》は直流電流の力で、土中の間隙《かんげき》水を自由に誘導しているのではないだろうか。ここでもまた、機能のために存在を許されているという、県圃の特殊性がうかがわれるのである。
註10 殷人《いんじん》、苗族《びようぞく》の説話に、十個の太陽≠ネるものがある。これは、十個の太陽がそれぞれの性格を持ち、日日《ひび》の吉凶に関係する、と、考えられるものである。ここでいう巫抵《ふてい》とは、十日の政《まつりごと》をつかさどる十人の聖職者、十|巫《ぷ》の一人のことではないかと思われる。
註11 中国では、すでに一〇八八年に、脱進機をもちいる水時計がつくられている。巫抵《ふてい》が所有しているこの時計は、棒てんぷ式脱進機と呼ばれる機構を利用したもので、重《おも》りのついた横木を左右に回転させ、時計に規則性を与えるようにつくられている。こんな時計を所有していることからも、たしかに巫抵は県圃ではかなりのインテリである、ということができるだろう。
註12 たとえば北アメリカの草原《プレーリー》に住むプロングホーンは、もじゃもじゃした毛のなかに、ながい保護毛をそなえている。これはいわば自然の換気装置のようなもので、皮膚の筋肉をつかい、この毛を上下させることで、寒さをふせいだり、熱を適当に逃がしているのである。おそらく県圃《ケンポ》の草原も、この保護毛と同じ役割を果たしていると思われる。草の角度を調整することによって、県圃の温度をコントロールしていたにちがいないのだ。盤古の管理体制はまさしく完璧《かんぺき》だったといえる。県圃の里が笑ったのは、鬼の侵入によって、そのコントロールに狂いが生じ、一|斉《せい》に熱を放出したからではないだろうか。
第三章 ||空なる螺旋《フエーン・フエーン》
1
――明かりがついた。
天井のたかい、大きな部屋だった。
部屋の正面の壁には、緑いろのタイルがはられた暖炉があった。その暖炉の端に、ひとつのブロンズ像がおかれてあった。躁的《そうてき》でややサディスティックな笑いを浮かべ、直立した巨大な男根を持つ牧神《パン》の彫刻だった。
暖炉のうえの壁には、一枚の絵が額縁におさめられてかかっていた。古典的な色調に統一された絵で、黒っぽい服を着た等身大の女性の肖像画がえがかれていた。くらく、陰鬱な絵のなかで、女は血の気《け》のない、白い顔をこちらに向けていた。
暖炉の脇《わき》には、ちいさな、うす茶いろのテーブルがおかれてあった。テーブルのうえには、銀のフレームに入った写真がいくつかおかれてあった。写真はほとんどが若い女性のもので、決まってエドワード時代ふうのドレスを着ていた。一枚だけ、イギリス最初のタクシー「ユニック号」を写した写真がまざっていた。写真はいずれもセピアいろに変色し、パリの写真館のスタンプが片隅《かたすみ》におされてあった。
壁ぎわには籐《とう》の寝|椅子《いす》がおかれてあり、クッションのうえに譜面が散らばっていた。譜面は黄ばんで、なかにはインクの色が消えかかっているものもあった。寝椅子の下には、大きな木製の旅行トランクが押しこまれてあった。トランクにはベタベタとワッペンがはられていた。
その寝椅子とならんで、大きな月球儀がおかれてあった。よほど古いものらしく、月球儀にはひびがはいり、褐色《かつしよく》のしみが浮かびあがっていた。
暖炉のまえには、大きなテーブル、更紗《サラサ》におおわれたソファ、肘掛《ひじかけ》椅子があった。
ソファのうえには一冊の雑誌が放りだされてあった。なかば表紙のちぎれかかった、ボロボロの雑誌で、かろうじて「TIME」と印刷された文字を読むことができた。
テーブルのうえは雑然としていた。――まず、紫いろの陶器の花瓶《かびん》があった。半獣神《サチユロス》と人間の女の交接をえがいた、非常に猥褻《わいせつ》な絵柄の花瓶だった。それから、電話器がおかれてあった。ただし、その電話器はとっくの昔にコットウ品になっているらしく、あかくサビが浮かびあがっていた。羽ペン、エンピツ、太い万年筆が何本かころがっていた。そして、モスリンの布をかけた皿が三枚ならべられていた。
部屋の両側の壁は、大きな書棚《しよだな》がいっぱいに占めていた。歴史学、心理学、医学、植物学、物理学、鳥類学、自叙伝、推理小説、哲学と、あらゆる方面にわたる書物がギッシリとならべられて、そこにはおよそ統一が欠けていた。画集・写真集のたぐいも何冊か混じっているようであった。
ドアの脇には、背の低いガラス戸棚がおかれてあって、意匠をこらした角状|盃《はい》、酒杯などが並べられていた。ガラス戸棚のうえには、どことなくアラビア風のおもむきのある、古い時計がおかれてあった。その時計の台座はギシギシときしみながら、ゆっくりと回転していて、そこには獅子《しし》、雄牛、鷲《わし》、人間の顔がそれぞれ彫《〔註1〕》られていた。
そして、その時計のまえにひとりの男が立っていた。
上半身はだかの、たくましい男だった。汚《よご》れた布を頭にまいて、その端をマスクみたいに口にかけていた。布のあいだからのぞいている眼はするどく、なにかにとり憑《つ》かれているような光をたたえていた。
男は時計の回転する台座をみつめていた。いや、台座をみつめているようで、そのじつ、どこかとおくにあるべつのものをみているようでもあった。
音がきこえてきた。金属のふれあうみたいな、かすかな音だった。
男は顔をあげ、しばらく耳をすましていたが、やがてなんだか疲れたような足どりで、書棚のかげまで歩いていった。そして、腰からナイフを抜き、ヒッソリとそこに身をひそめた。
音楽がきこえてきた。陽気な、それでいて奇妙にもの悲しい、雑音の多い音楽だった。
男の顔にいぶかしげな表情が浮かんだ。それは男の知らない、かつてきいたこともない言葉で歌われている歌だったのだ。――この時代の人間の例にもれず、男は自分の部族語とタウライ語しか話せなかった。男がもし滅びた言語、英語を知っていたなら、こんな歌詞がききとれたにちがいないのだが。
OH YEHA 教えてあげよう
きみはわかってくれると思う
ぼくがきみに言いたいのは
きみの手をとりたい
きみの手をとりたい、ということ
OH おねがいだ、言ってほしいよ
ぼくをきみの恋人にしてくれると
そして、おねがい、言ってほしい
ぼくにきみの手をとらせてくれると
さあ、きみの手をとらせてほしい
きみの手を握りたい
男はジッとその歌にききいっていた。歌詞の意味がわからなくても、なにかしらその歌には男の心を打つものがあったにちがいなかった。男の眼は心なしかうるんでいるようにみえた。
音楽が止《や》み、ドアをあける音がきこえてきた。そして、近づいてくる足音――男は書棚の側板に心もち体をあずけるようにして、耳をすましていた。それから、サッと身をひるがえし、部屋のまんなかにおどりでた。その手のなかで、ナイフが牙《きば》のようにひかった。
「声をたてるな」
男は低い声でいった。
男がとつぜん姿をみせたことにも、その手にナイフをかまえていることにも、相手はおどろいた様子をみせなかった。ただ、足をとめ、いぶかしそうな視線を男に向けているだけだった――部屋に入ってきたのは、ふたりの若い、というかまだ十五、六の、ほんの子供のような男女だった。ひたいにたれさがっている金髪の巻き毛、つぶらな瞳《ひとみ》、薔薇《ばら》のような頬《ほお》……ふたりはおどろくほど似かよっていた。それこそ、双子《ふたご》の天使のように似かよっていた。
ふたりは双子の兄妹のようだった。少年はターバンを巻き、上衣《ダブレツト》を着て、金のふち飾りのついたスリッパを履《は》いていた。少女は髪をたかくゆいあげ、上半身は裸、ちいさな宝石がちりばめられたパンタロンをまとい、銀のふちかざりのついたスリッパを履いていた。ふたりとも生身の人間とは思えないほど、愛くるしく、その美しさはかがやくばかりだった。
「声をたてるな」
男はこんどはささやくような声でくりかえした。「動くんじゃない」
「…………」
双子の兄妹は顔をみあわせた。彼らは男をまえにしてもいささかもビクついているような様子はみせなかった。たんにとまどっているような、いや、それどころか、兄妹の眼にはたしかにこの情況をおもしろがっているような色が浮かんでいた。
「ここに入ってきてはいけません」
やがて、少年が涼しげな声でいった。「それは許されていないのです」
「俺《おれ》が甲虫《かぶとむし》の戦士≠カゃないからか」
男の声は不自然に感情をおさえた、平板なものだった。「だから、ここに足をふみ入れてはならないというのか……笑わせるな。俺はサラマンドラ≠ゥらも逃がれることができた。自殺者の森≠烽ネんとかくぐり抜けてきた。たしかに、俺は甲虫の戦士≠ナはないかもしれないが、勇士であることにはまちがいない。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれる資格は充分にあるはずだ」
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれることを許されているのは甲虫の戦士≠セけです」
「笑わせるな」
男はくらい、怒りをみなぎらせた口調でいった。そして、手にしていたナイフで、部屋をグルリと示した。
「たいした部屋じゃないか。まるで宮殿みたいだ。どんな仕掛けになっているか知らないが、部屋に入っただけで、昼間みてえな明かりがつきやがる。水だってタップリあるようじゃねえか……だがよ。俺たちの土地じゃランプの油さえ不足している。泥水だってろくに飲めねえやつがいるんだ……不公平じゃねえか。納得《なつとく》できねえ」
「でも、ほんとうにここには、甲虫の戦士≠オか足をふみいれることを許されていないのです」
少女があどけない声でいった。「その甲虫の戦士≠ノしても、みんながみんな入れるというわけでは……」
「だから、不公平だといってるんだ」
男は少女の言葉をさえぎった。「甲虫の戦士≠ェなんでえ。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ェなんだというんだ。そんなもののために、どうして俺たちが塩だらけの地べたにしがみついて、ラクダの生き血をすすって生きてかなきゃならねえんだ」
「それがさだめだからです」
少女がいう。「すべてはこの世のことわりなのです」
「そのさだめが気に入らねえ」
男は激しく首をふった。「ことわりってやつが我慢ならねえんだ……きかせてもらおうじゃねえか。俺たちは人間じゃねえのか。どうだ? 俺たちには人間らしく生きる資格がないとでもいうのか」
「…………」
兄妹はつつましく沈黙している。男の質問に答える気持ちはさらさらないようだった。
「人間だ」
男は自分自身にうなずくようにいった。「俺たちだって人間さまよ……だからよ。人間らしく生きたいってやつが十人ばかり集まったんだ。それで、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ向かって旅発《たびだ》った。サラマンドラ≠ノおそわれ、自殺者の森≠ノ迷って、つまるところ生き残ったのは俺ひとりだ……俺はなんとしてでも|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ入ってやる。死んでいった仲間たちのためにも、ここでひきかえすわけにはいかねえんだ」
ふいに、男の背後でドアのひらく音がきこえた。男はふりかえり、驚愕《きようがく》と、そしておそらくは恐怖のために、その表情をこわばらせた。双子の兄妹はサッとうしろにさがり、うやうやしく頭を下げている。
「おめえが……」
男があえぐようにいった。「おめえが、スフィンクス≠ゥ」
「人間よ」
戸口のむこうの暗闇から、力強い、それでいてどことなく憂鬱なひびきを持った声がきこえてきた。
「おまえの悲しみはもっともだ。おまえの怒りはうなずける。……それに、守護神たる甲虫の救《たす》けもかりずに、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ近づくことのできた人間は、おまえ以前にはただのひとりとしていなかった……きこう。人間よ。おまえはほんとうに|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ入りたいのか。ためされたいのか」
「たとえ神殺し≠フ地獄に墜《お》とされようとも」
男はナイフで自分の胸をうち、昂然《こうぜん》といいはなった。「たとえ、スフィンクス≠ノ七代|呪《のろ》われようとも」
「わたしの質問に答えるがいい」
声がいった。
「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足……さあ、人間よ。答えるがいい。この質問に答えることができたなら、おまえは、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれることを許されるのだ……答えろ。それはなにか」
男の唇《くちびる》の端がかすかにけいれんした。男は大きく息を吸い、そしてその息を一気に吐きだすようにしていった。
「それは、人間だ」
そういいはなったとたん、男の背後にヒッソリと、つつましやかに立っていた兄妹が、そろってその足をふみだした。男はふりかえり、すかさずナイフをつきだして、兄妹の襲撃にそなえようとした――ナイフ一本で乗りこんでくるからには、男は自分の腕にかなりの自信を持っているはずだった。しかし、さしもの彼も、兄妹の奇怪な動きに幻惑《げんわく》されて、その腕を存分にふるうゆとりがなかったようだった。
兄がサッと妹の背後に入り、ふたつの体はかさなった。その瞬間、たしかに彼らは、ふたりの頭、四本の腕、四本の足を持つ一個の個体と化していた。いや、そうみえるほどに、彼らの動きはなめらかに連繋《れんけい》され、むだがなかったのである――いかなる歴戦の勇士といえども、四本の腕を持つ敵を相手にまわしたことなどあるはずがなかった。男がとまどいをおぼえたのも当然であったのだ。
そして、その一瞬のとまどいが、男の命をうばうことになった。
四本の腕がひらめき、その指から銀いろの矢のようなものが、男の胸にはしった。男はうめき声をあげ、数歩あとずさりながら、ナイフを右に左にふるった。そして、力つきたようにその場にくずれおち――死んだ。
しばらく、重苦しい静寂《せいじやく》が部屋を包みこんでいた。
「音楽がききたい」
やがて、声がいった。「べつの曲をかけてくれないか」
「はい」
いまはもうふたりにわかれた兄妹が、うやうやしく一礼した。そして、きびすをかえしかけたそのとき――とおくから地鳴りのような音がきこえてきて、かすかに部屋の壁がふるえるのが感じられた。
兄妹はその場に立ちつくし、虚空《こくう》の一点を凝視していた。兄のほうがボソリと口のなかでつぶやくようにいった。
「またバハムート≠ェ暴《あば》れている……」
それからふたりは、ヒッソリと足音もたてず、影のように、部屋から出ていった。しばらくして、ふたたび音楽がきこえはじめる。
|MICHELL《ミシエル》
|MA《マ》 |BELLE《ベル》
よく似合う言葉
マイ・ミシェール
MICHELL
MA BELLE
Sont les mots qui vont tres bien ensemble
トレ・ビァンナンサンブル
I LOVE YOU
I LOVE YOU
I LOVE YOU
音楽が流れるなか、明かりが消え、部屋は闇にとざされる……
2
――太陽と、砂と、塩だ。
それ以外はなにもなかった。ただ、しろい沙漠《さばく》が盛りあがり、つらなり、また盛りあがっているだけだった。
まったく、それだけだった。
地球の背景がゴツゴツとむきだしになっているような、およそうるおいというものを欠いた風景だった。
さながら苦行《くぎよう》につとめ、みずから食べるのを拒否し、骨と皮だけになりながらも、かろうじて命をつないでいる老いた行者《ぎようじや》のようだった。そういえば、一面に塩をふいているその地表は、なんとなく悪性の栄養失調におちいっている人間の肌《はだ》を連想させないでもなかった。
沙漠はみわたすかぎり、岩屑《がんせつ》におおわれていた。その岩屑には、地下水の枯渇《こかつ》によって、しろく塩がにじみだし、なんだか一面に骨粉《こつぷん》がばら撒《ま》かれているみたいだった。ここでは、風が沙漠のうえにえがく、あのやさしいひだをみることすら望めないのだった。
激しい、じつに激しい陽光が、カッと沙漠を射《い》っている。まるで太陽はすべてを灼《や》きつくし、うばいつくさずにはおかないという執念《しゆうねん》につき動かされているようだった。そして、その執念のまえに沙漠は息もたえだえで、ほとんど死にかけていた。
要するに、この沙漠はただもうやりきれないほどひろく、単調で、まったくの不毛の地でしかなかったのだ。
――その不毛の沙漠を、一頭のラクダがトボトボと、なんだか途方にくれたように歩んでいた。
ラクダはまっしろに埃《ほこり》をかぶり、疲れきっているようだった。よほどながい距離を歩いてきたものらしく、毛皮はみじめに汗でぬれそぼち、その体もたしかになみのラクダよりひとまわりはちいさくなっていた。
ラクダの背にはひとりの男が乗っていた。いや、もしかしたら、乗っているというより、運ばれていると形容したほうが正確であるかもしれなかった――その男はラクダの首に顔を埋め、両手をダランとたらし、ゆられるままになっていた。つまり、生きているようにはみえなかった。
黒人の、たくましい男だった。槍《やり》をせおっているその背中にも、厚く筋肉が盛りあがり、腕なども丸太のようにふとかった。だが、ピクリとも動こうとしなかった。
ラクダはなかばあきらめ、達観したように、ただ黙々と歩を進めていく。その背にゆられている男の体が、つよい陽光を反射して、くろびかりしているようにみえた。
五十メートルほどはなれた丘のかげから、そのラクダをみつめている男がいた。みつめているばかりか、その男はラクダが歩いていくにつれ、自分も背をまるめて、移動をつづけていた。
男はターバンをまき、その端を口にかけ、マントのようなものをはおっていた。どれをとっても、文句なく充分に汚れており、まるでボロ切れのかたまりが動いているようだった――男は足をとめると、なにごとかさけんだ。そして、いらだたしげに首をふると、ターバンの端を口からはなし、こんどははっきりとした声でいった。
「あの死体はゲルバ(ヤギ皮の水嚢《すいのう》)を持っているかもしれないぞ」
それは、しろく砂がこびりつき、渇いた唇がはれあがってはいるが、たしかにジローの顔だった。
ジローのうしろから、チャクラとザルアーが顔をだした。チャクラは、うす茶いろの毛織物でつくられたフードつきマントをはおって、やはり口元に布を巻いている。ザルアーは男たちよりだいぶましな服装で、膝《ひざ》まである上着《カフタン》をきて、どこで手に入れたのか、たっぷりとしたズボン、いわゆるハレム・スカートを履いていた。
ただし、ましといっても、しょせん程度の差で、彼らの服装がみすぼらしく埃をかぶり、汚れに汚れていることにはかわりなかった。
「あんまり、ゾッとしないな」
チャクラがウンザリとした声でいった。「死骸《しがい》から水をぬすむなんて……俺の一族の長老がこの話をきいたら、きっと怒りだすだろうな」
「それじゃ、どうするの」
ザルアーがとがった声でいった。「まだダフリンの町まではかなりあるのよ。水なしでは、とても行けないわ」
「そういうことだ」
チャクラが頬をさすりながら、情けなさそうにいった。「これもあれも、いい加減な地図を信用したのがいけなかったんだ。あの地図によれば、たしかにこの辺に井戸のはねつるべがあるはずだったんだが」
「泣き言はもうたくさん」
ザルアーがチャクラの言葉をピシャリとはねのけた。「もしかしたら、水がひあがっちゃったのかもしれないわ。いまはそんなことをせんさくするより、とにかく水を手に入れることだわ」
「賛成」
ジローがうなずき、いった。「三方にわかれて、あのラクダをはさみうちにしよう」
それから、なかば四つんばいになり、マントの裾《すそ》をひきずりながら、丘の斜面を駆けおりていった。さすがに甲虫の戦士≠セけあって、ジローの動きはすばやく、まったくむだがなかった。
とつぜん眼のまえにとびだしてきた人間の姿におどろいたのか、ラクダはその足をとめた。そして、眠たげな眼であたりをみまわし、なんだか口をモゴモゴさせていた。
ラクダの背後からは、チャクラとザルアーのふたりがソッと忍び寄っていた。三人はラクダを中心にして、いわば二等辺三角形をかたちづくっていた。たがいにめくばせをかわし、指で合図しながら、しだいにその三角形をちいさなものにしていく。
だが、ようやく危険に気づいたのか、ラクダは歯をむきだし、ブルルと鳴くと、ふいに走りだした。ラクダが走るにつれ、背中の死骸がガクンガクンとつんのめり、手足をゆらした。
ジローは脇《わき》へとびすさり、かろうじてラクダに蹴《け》とばされることから逃がれた。ラクダのどちらかというとユーモラスな風貌《ふうぼう》にだまされてはいけない。ラクダは沙漠の船≠ナあり、その図体《ずうたい》も大きく、蹴とばされたら冗談事ではすまないのだ。
ラクダはなかばとび蹴《は》ねるようにして、数十メートルさきまで走っていき、そこで足をとめた。あいかわらずノンキそうな顔で、ボンヤリと空をみており、自分をとらえようとやっきになっている人間たちのことなど気にもとめていないらしい――ラクダが走ったひょうしに、背中の死骸はズルズルとずりおち、ほとんどうつ伏せになってしまう。みたところ、そのたくましい体のどこにも怪我《けが》はしていないようだが、なにか熱病でもわずらって、果てることになったのか。
ジローたち三人はしばらくその場に立ちつくして、たがいにウンザリとした視線をかわしあっていたが、やがてあきらめたように、ラクダに向かって歩きはじめた。
彼らがこの沙漠に足をふみ入れてから、すでに十日以上がすぎている。あらかじめ地図でしらべ、ダフリンにいたる隊商道を、できるかぎり外《そ》れないように進んできたのだが、いや、その途中のオアシスときたら、どれもこれもお話にならないぐらいひどいものだった。泥水とか、塩水は、まあ、それでも布で漉《こ》せば、なんとか飲めないことはない。きれいな水が望めないのは、沙漠に足をふみいれたときから覚悟している。しかし、きれいもなにも、その水が完全にひあがってしまっているオアシスが、三つにひとつはあることを知ったときには、さすがにジローたちもろうばいせざるをえなかった。
それがどうにかこうにかここまでやって来られたのは、ジローの頑強《がんきよう》な肉体、チャクラの機知、ザルアーの勘、そしてダフリンに行けば|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノいたる道をみいだすことができるという、三人に共通した大きな希望があったからだった。
だが、希望にばかりすがっていては、人は生きていけない。いまはとりあえず、水を手に入れることが必要なのだ。なんとしてでも、ラクダをとらえなければならないのだ。
ジローは足を地にするようにして、ゆっくりとラクダに忍び寄っていく。両手をわずかに前にだし、指を鉤《かぎ》みたいに曲げている。ある程度まで接近したら、一気にラクダにとびかかり、圧《お》さえこんでしまおうというはらにちがいなかった。
しかし、いまいましくも、はらだたしいことに、ラクダはまたしても顔をあげると、ジローたちとは逆の方向に駆けだしたのだ。
ジローはむなしく立ちつくすほかはなかった。
「ちくしょう」
そして、いかにも情けなさそうにいう。「これじゃ、ラクダをとっつかまえられっこないよ」
「そうでもないわよ」
ザルアーがはずんだ声でいった。「ラクダをみてよ。なんだか水のあるところをみつけたみたいじゃないの」
「…………」
ジローはあらためてラクダのうしろ姿をみおくった。なるほど、そういわれてみれば、たんにジローたちから逃げようとしているのではなく、ラクダはかっことした目的を持って、走っているようだった。そして、沙漠で生きる動物たちにとって、水を飲むこと以上に重要な目的は、まずありえないのだ。
一瞬、ジローたちは顔をみあわせ、つぎには懸命になって、ラクダのあとを追いはじめた。死骸から水をぬすまずにすめば、これほど喜ばしいことはないのである。
奇妙な光景だった。
荒涼とひろがる、塩におおわれた沙漠を、死骸をのせた一頭のラクダが嬉々《きき》として走り抜けていく。そして、そのあとから三人の人間が、やはりこれも嬉《うれ》しげに、走りつづけている――彼らのほかに、沙漠で生きて動いているものはなにもなく、それだけになおさら、世界の果てで子供たちが遊んでいるような、なんとも現実感を欠いた光景にみえるのだった。
沙漠はしだいに盛りあがっていき、そして頂《いただき》に達すると、こんどはなだらかに下っていった。ジローたちは気づいてはいなかったが、どうやらラクダはすりばちみたいな窪地《くぼち》に向かっているようだ。ラクダの、そして三人の人間の足が、斜面の土くれをくずし、いくつかの石が音をたてて、すりばちの底におちていった。
『ブルルル……』
ふいに悲しげな鳴き声をあげると、ラクダは足をとめた。いや、好んで足をとめたわけではなく、なにか立ちどまらざるをえない事情があったのかもしれない――そうでなければ、ラクダがそんなにも激しく首をふり、いやでたまらないというように、足ずりをくりかえすわけがなかった。ラクダの背中からついに死骸がずり落ち、土のうえにゴロンところがった。
しかし、これまで懸命になってラクダを追いつづけてきたジローとチャクラには、相手の様子がおかしいと感じるだけの、心のゆとりがなかったようだ。喜びいさんで、ラクダのもとに駆け寄ろうとする。
「待って」
ザルアーがそんなふたりを呼びとめた。「なんだかおかしいわ」
「…………」
ジローとチャクラは足をとめ、ザルアーをふりかえり、ラクダに視線をもどし、そしてまたザルアーをみつめた。かつて女|呪術師《じゆじゆつし》として名をはせていたザルアーは、呪力をうしなったいまもなお、その優れた超感覚のようなものをなくしてはいなかった。ふたりの男は、ときに応じて発揮されるザルアーの第六感とでもいうべきものを、全面的に信用しているのである。
「きこえるわ」
ザルアーは宙の一点に視線をすえ、口のなかでつぶやくようにいった。「なにかきこえてくるわ」
ジローとチャクラは顔をみあわせ、あわてて自分たちも耳をすました――しばらくは、塩の荒野をつたわり、吹きすぎていく風の音がきこえてくるだけだった。やがて、その風音に、なんだかたがねをこすりあわせているみたいな奇妙な音が、とぎれがちに、しかししだいにはっきりと混じるようになった。
キッチ、キッチ、キッチ……ジローはマントをはねのけ、腰の剣に手をやり、すばやくあたりをみまわした。だが、ひびわれ、かわききった灰色の沙漠が、ただ茫漠《ぼうばく》とひろがっているだけで、どこにも怪しいものの姿はみえなかった。
にもかかわらず、キッチ、キッチ、キッチという音はきこえつづけている。
ジローはうなじの毛がゾッと逆立つのをおぼえた。ジローの戦士としてとぎすまされた感覚は、たしかに敵≠フ接近をつたえているのだ。それなのに、どこにも敵≠フ姿などみえないではないか――ジローは剣の柄《つか》に手をかけたまま、なすすべもなく、ただ呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた。呆然と立ちすくみ、いまや恐怖の様相もあらわに、首をふり、いななき、必死にもがきつづけているラクダの姿をみつめていた。
キッチ、キッチ、キッチ……音はますますかんだかく、はっきりしたものになっていく。
どうしてラクダは逃げださないのだろう……ジローはフッとそんなことを考えた。あんなにもおびえて、もがいているのに、どうしてここから逃げださないのだろう。決まっているじゃないか。なにか逃げ出せない理由があるからだ。
はっきりと意識したうえでの行動ではなかった。ほとんど戦士の本能のようなものにみちびかれて、ジローは剣を抜きはらいざま、渾身《こんしん》の力をこめて、足元の地面にふかぶかとつきさした。
なにかしら弾力のある、たとえていえば、絹の織物を刺したときのような手ごたえがかえってきた。断じて、地面に剣をさしたときの手ごたえではなかった。
ジローは刃《やいば》の先端をはねあげるようにして、剣を地面からひき抜いた。刀身には、なにか細くて、キラキラとひかるものがからみついていた。糸? そう、たしかに糸にちがいない。だが、これは……
ラクダの恐怖にふるえた鳴き声がきこえてきた。それにかさなるようにして、チャクラとザルアーの悲鳴がきこえてくる。ジローはサッとふりかえり、みるからにいやらしい、毛むくじゃらの細い脚が、ラクダの体にからみつくのを眼にした。この糸は……クモの糸なのだ。
ラクダにからみついているクモの脚は、優に二メートルをこえ、じかに地面からつきでていた。ジローは口内の唾液《だえき》がシュンと音をたててかわくのをおぼえた。俺たちはいまクモの巣のうえにいる……
「逃げろ」
ジローはチャクラたちをふりかえり、さけんだ。だが、そのときにはすでに手遅れだった――すりばち状の窪地そのものが、低い地鳴りとともに、薄紙のようにうねりはじめたのだ。灰色の土ぼこりがまきおこり、壁土が削《そ》げるみたいに、斜面から土塊がはがれ、ドゥドゥと音をたててくずれていく。
斜面を駆けのぼろうとしたジローたち三人も、土と石の奔流《ほんりゆう》にたちまち足をさらわれ、宙になげだされてしまう。巨大なアリ地獄に呑まれてしまったみたいで、どうあがいても、逃がれようがなかったのだ。
宙になげだされたジローの体は、しかし弾力性にとんだ、なにかやわらかいもののうえに落ち、さいわいにも怪我をするようなことはなかった。
だが、ジローにしてみれば、とうてい自分を幸運だったとは考えられなかったにちがいない。もしかしたら、地面になげだされて、足の一本でも折ったほうがまだしもに思えたかもしれない。なにしろ、ジローは大グモの巨大なネットのうえに放りだされてしまったのだから。
いうならば、小鳥をとらえるときのカスミ網のようなものだった。大グモは自分の巣穴に、ちょうど籠《かご》のような形にネットをはり、唾液で土をこねて、そのうえにたんねんなカモフラージュをほどこしたのだ。もちろん、そうと知らずに足をふみこんだ生き物は、ラクダといわず、人間といわず、クモの餌食《えじき》とされてしまうわけである。
いま、悲運なラクダが、穴の底から身を起こした大グモにとらえられ、その八本の脚で全身を締めつけられている。おそらく、ときをおかず、ラクダの骨は粉々《こなごな》にくだかれ、大グモの格好な滋養スープとなりはてるにちがいなかった。
ジローは懸命に立ちあがろうとした。しかし、大グモのネットは信じられないほど粘性がつよく、しっかりとジローの体をとらえてしまい、あがけばあがくほど、ますます動きがとれなくなっていくのだ――ジローはかろうじて頭を起こし、大グモがラクダを殺していくのを、恐怖に満ちた眼でみつめていた。毛むくじゃらの八本のくろい脚、プックリとふくらんだ腹、あかく、ちいさな眼……まったく、こんなにも醜怪で、残忍な生き物が、この地上に生きているとはとうてい信じられないほどだった。
大グモは完全にラクダが窒息死したのを知ると、餌食からはなれた。どうやらそいつは、仕事がさき、お楽しみはあと、という主義の持ち主のようだ。残りの餌《えさ》にもしかるべき処置をほどこしておかないと、安心して食卓テーブルにつく気にはなれないらしい。
大グモはラクダからはなれると、ネットをつたって、まっすぐジローに向かって進んできた。ジローはニヤリと陰鬱な笑いを浮かべた。とにかく仲間が死ぬのをみるという苦痛だけはあじわわないですむようだ。それに――ジローは剣をにぎっている手にぐいっと力をこめた――俺にしたところで、むざむざあいつに食われるままにはなっていない。
そのとき、大グモのうえにちらっと人影が動くのがみえた。その人影は大グモの背後から大きく身をおどらせ、ボッテリふくらんだ胴を跳躍台にすると、さらに大きくジャンプした。そして、大グモのまえにおりたち、糸のうえをこちらに向かって走ってくる。
ジローは唖然《あぜん》とした。その男は――ラクダの背中でゆられていたあの死骸《しがい》なのだ。信じられないことはそれだけではない。ジローがろくに動くこともできない糸のうえを、どうしてあの男はあんなにもやすやすと走ることができるのか。
「わが守護神よ……」
ジローはかたく眼をとじた。あれは幽霊《ゆうれい》にちがいない。幽霊だから、死んだはずなのに生きているのだ。だからこそ、体重というものがまったくないのだ……
「これにつかまれ」
頭上から声がきこえてきた。幽霊の声にしては、あまりにもはっきりしすぎているように思えた――ジローはおそるおそる眼をあけた。死んだはずの男が、ジローのすぐ脇《わき》に立ちはだかり、槍《やり》の柄をつきだしていた。さすがにことここにいたっては、ジローもその男を幽霊だとは思わなくなっていた。幽霊がこんなにもたくましく、力づよい存在のはずはなかった。
「どうして糸のうえを歩けるんだ?」
ジローが弱々しい声できいた。
「クモの巣をみたことがないのか」
男はさとすようにいった。「クモの糸には、獲物《えもの》をとらえるためのものと、クモが自分で歩くためのものとがあるんだ……」
なるほど、たしかにそうだった。クモの糸だからといって、かならずしもそのすべてが粘性を持っているとはかぎらない。第一、それでは、クモ自身が歩くのにこまることになるではないか。ちょっと冷静になって考えてみれば、すぐにわかることだった。
ジローはつきだされた槍の柄を両手でしっかりとつかんだ。男はニヤリと笑うと、槍をぐいっとひっぱった。マントの裂ける音がきこえ、腰にするどい痛みがはしった。
「う……」
そううめき声をあげたときには、ジローの体は糸からひきはがされ、男の乗っている糸のうえにうつった。糸――といっても、ちょっとした綱ほどの太さがあるのだが――はあらたに加わった重みに激しくゆれ、ジローは男の体につかまることで、かろうじて、バランスをたもった。そして、あわてて大グモのほうをふりかえる。
大グモは脚をとめていた。毛むくじゃらの岩のように、一点にジッとうずくまったまま、動こうとはしなかった。こちらをみているそのあかい眼に、心なしかとまどいの色が浮かんでいるようにみえた。
「ああみえても、|ミルメコレ《〔註2〕》オ≠ヘお利口なクモなんだ」
男はおちついた声でいった。「自由に動きまわれる相手と一戦まじえようとは考えないさ……いまのうちに、お仲間を救《たす》けにいったらどうかね」
ジローが男の忠告にすぐさましたがったことはいうまでもない。
男の名前はダフームといった。
二メートルに達するのではないかと思われる大男だ。胸の筋肉が巌《いわお》のように盛りあがり、肌は黒檀《こくたん》のようにくろびかりしている。その顔はいかにもつわものの戦士らしく、傷だらけだったが、おだやかな光をたたえた、澄んだ眼が、彼の印象をよほどちがったものにしていた。一言でいえば、なんとも優しげな感じがするのだ。その優しさに加えて、だれにもこびず、ただ槍だけを友にしてきた、男の威厳のようなものがそなわっていた。
ダフームの説明によれば、彼はつい三日ほどまえに友人をうしなったばかりということだった。そしてダフームは一族の掟《おきて》にしたがい、友の魂が地上をはなれるまでの三日二晩、自分も死んでいたのだ。
「自分も死んでいた?」
チャクラがあきれたような声でいった。「それはどういうことかね」
ジローたち三人は大グモの巣穴から脱出し、ダフームに水をわけてもらい、ようやく人心地のついた気分になったところだった。
「一族の掟なんだ」
ダフームが淡々とした声でいう。「死人がさびしい思いをしないでもすむように、生前もっとも親しかった人間が三日二晩、つきそってやるしきたりになっているんだ……そのあいだ、飲まず食わずで、ピクとも動いちゃいけないんだよ。さすがにミルメコレオ≠フ巣穴にころげおちたときには、困ったことになったな、と思ったけど、ちょうど死者送りの時間が終わりになって、運がよかったよ」
三人は顔をみあわせた。ダフームの一族の掟はなんとも奇怪なものに思えたにちがいない。
「おかげで救かったわ」
それでも、ザルアーが気をとりなおしたようにいった。「ありがとう」
「俺にはあんたたちを救けなければならない理由があったのさ」
ダフームはニヤリと笑うと、チャクラをみつめた。「俺の死んだ友人というのは、あんたと同じ狂人《バム》だったんだ」
それから、その視線をジローにうつして、いった。
「それに俺はあんたと同じ甲虫《かぶとむし》の戦士≠セしな」
3
――夜の沙漠《さばく》に風が吹いている。
昼間の猛暑とはうってかわった寒さだ。フードの襟《えり》をあわせる手もかじかみ、吐く息もしろく凍っていた。
まったくなんという土地だ、と、チャクラは思わないではいられない。この土地においては、自然の恵み≠ネどという言葉がなんとそらぞらしくひびくことか。この土地は人間にたいし、徹底して吝嗇《りんしよく》であり、徹底して残酷なのであった。
マンドールの緑濃いジャングルが思いだされる。あの人間をやさしく包みこみ、ほどよく調和したやおろずが、なんともなつかしいものとして思いだされるのだ。
しかし、彼らの旅はやおろずの頂点に位置する稲魂《クワン》≠ノ反逆したことから、はじまったのだ。いまから考えれば、あのまろやかに統一されたやおろず≠ノたいして、なんという恩知らずな真似《まね》をしでかしたことか。あんなにも人間にやさしい自然は、マンドールをのぞいて、この地上のどこにも存在しないというのに……
どうしてか、マンドールにはもう永遠に帰れないような気がする。ジローが月《ムーン》≠とりかえして、マンドールにもどり、ランと結ばれることなど絶対にありえないような気がするのだ。
チャクラは仲間たちからはなれ、ひとり砂丘のかげに腰をおろし、星空をみつめていた。この男にはめずらしく、ひどく内省的な表情になっていた。その眼にはなにか考えこんでいるような色が浮かんでいた――そう、チャクラは考えていたのだ。というより、なにか考えなければならないことがあるような気がしきりにしていたのだ。
あのダフームという男が甲虫の戦士≠ナあり、かつチャクラと同じ狂人《バム》をひきつれ、旅をしていたということが、チャクラには気にかかってならないのである。しかも、ダフームもなんらかの事情から――その事情がなんであるかはついにあかしてくれなかったが――|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがし求めて、ダフリンに向かう途上だというのだ。はたして、ここまで偶然がかさなることがありうるだろうか。
旅人たちの風のような噂《うわさ》では、ダフリンには|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれたことのある男がいる、ということだった。もしかしたら、とチャクラは思わないではいられなかった。もしかしたら、その男もやはり甲虫の戦士≠ナはないのか。そして、その男にもやはり狂人《バム》の仲間がいるのではないだろうか。
チャクラはなんとなく悩ましげな表情になった。バノ族につたわる『甲虫男《かぶとむしおとこ》の歌』を思いだしたのだ――甲虫! 甲虫! 昔、宝石が盗まれた……昔から、チャクラには想像もできないほど昔から、バノ族につたえられてきた歌だ。あの歌はなにがしかの真実をものがたっているのではなかろうか。守護神に甲虫をいただく者は、ひとりの例外もなく、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがし求める運命にあるのではないだろうか。
しかし、どうして、なぜ――
チャクラは無意識のうちに、土くれをにぎりしめていた。チャクラがジローと会ったとき、どうしてか彼といっしょにながい旅をすることになるのが、もうずっとまえから決まっていたような気がした。それが、さだめであったような気がしたのだ――狂人《バム》一族はひとりがみんな、みんながひとり、凍らせたらんしとれいとうせいしが結びついて生まれた兄弟たち……その兄弟たちがあちこちに散らばり、さまよい、そして……そして、なんだというのか。そして、甲虫の戦士≠ノであい、ともに旅をして、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがし歩くことになるというのか。それが、狂人《バム》一族にかせられたさだめだというのか。俺たち狂人《バム》は甲虫の戦士≠救けるために、この世に生を受けたにすぎないというのか……
チャクラははじめて、自分たちを背後から操っているなにか大きな意志のようなものに思いをはせたのだった。自分も、ジローも、そしてザルアーも、その大きなものの掌のうえで動いていたにすぎないような気がした。
ダフリンには行きたくない、チャクラはなんの脈絡もなく、そう思った。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれたときが、すなわち俺たちがはなればなれになるときではないのか……それはなんの根拠もない、いささかバカげた妄想《もうそう》にすぎなかったかもしれない。しかし、それでもなおチャクラはこう思わないではいられないのだ。俺はダフリンには行きたくない。
チャクラはサッと立ちあがり、ダフリンがあるとおぼしき方角をにらみつけた。だが、やがてチャクラの表情に、ゆっくりとあきらめの色が浮かんできた。いまとなっては、もうだれにもジローが|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノおもむくのをとめることはできない。すべてがそうなるように、あらかじめしくまれていたにちがいないのだから。
――巨大な木がそびえていた。
それはほとんど天をつくかと思われるほどにたかく、その茂った枝はドームのように頭上をおおい、梢《こずえ》のさきは灰色の空にのまれてよくはみえなかった。
そう、それはあまりにも大きすぎた。なみはずれて、バカげて、大きすぎた。そのために、その木を眼にした者は、いちようにたじろぎ、息を呑むのだった。
どんな人間のなかにも、おのずとそれなりの世界観がはぐくまれている。知らず知らずのうちに、この世界にわくをはめて考えてしまっているのだ――しかし、その木を眼にした者は、世界観のわくがもろくもつきくずされるのをおぼえるにちがいない。その木のなみはずれた大きさは衝撃的であり、世界観の変更をしいられるという意味では、哲学的でさえあった。
その木がどれほど大きいのか、あえて口にしようとする者はいなかった。巨大樹はあまねく天蓋《てんがい》をおおっているのであれば、ことさらにその大きさを述べたてるなど、ほとんど神を冒涜《ぼうとく》する行為に思えたにちがいないからだ。
ただ、ときおりこの地をおとずれる旅人たちは、いくばくかの畏怖《いふ》の念をこめて、その木のたかさはゆうに百メートルをこしているのではないか、とたがいにささやきあうのだった。
残念なことに、その木は決して美しいとはいえなかった。それどころか、緑にとぼしく、みるからに寒々としていて、なんだか血もかれはてた老人のようだった。沙漠そのものに似ていた。
その木は|シャドーフ《〔註3〕》≠ニ呼ばれていた。
百メートル以上の樹《き》を支えるには、どれほどの根が必要か。当然のことながら、シャドーフ≠フ根はふとく、ふかく、地中をつらぬき、とほうもなくひろがり、ただでさえ痩《や》せている沙漠の土壌《どじよう》から、容赦なくミネラルを吸いとっていた。事実、周囲一キロにわたって、沙漠にはアザミさえ生えていないのだった。
いうならば、シャドーフ≠ヘ圧制をしいる暴君だった。沙漠の生態系を破壊しつくして、てんから恥じない独裁者だ――そして、独裁者であれば、その膝下《しつか》に多くの臣下がいて、当然だった。シャドーフ≠フ根は、ところによっては土を押しあげて、なかば露出していた。それこそ巨獣の背骨のように、ゴツゴツとふしくれだった根があらわになり、つづき、そしてまた地のなかに潜っていくのだ。これをはるか高所からみおろせば、うねのように盛りあがった地面が、シャドーフ≠中心にして、放射状にひろがっていくのを認めることができるにちがいない。
そして、この露出した根に身を寄せて、かろうじて命をつないでいる生き物がいた。人間である。シャドーフ≠フ根は一つの貯水装置の役をはたしている。その半径一キロにわたってはりめぐらされている根は、沙漠が雨季に入ったとき、じつにおびただしい量の水を吸収し、かつたくわえる。
人間たちは、だからシャドーフ≠はなれることができない。シャドーフ≠はなれれば、たちどころに渇《かわ》き死にすることがあきらかだからである――人間たちは、放射状にひろがるシャドーフ≠フ根にそって、家をつくる。塩と泥で塗りかためた家だ。だれも美観などは気にしない。沙漠においては、生きのびるだけでも充分に贅沢《ぜいたく》なのだから。灰色の、きたならしくて、みじめな家がしだいに増えていく。そして、灰色の、きたならしくて、みじめな町ができあがる。
それがダフリン≠セった。
――ジロー、チャクラ、ザルアー、それに甲虫の戦士≠ナあるダフームが加わった四人は、ダフリンの入り口で呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
彼らのうちだれひとりとして、こんなにもみじめな町はいまだかつてみたことがなかった。まるでこのダフリンという町は、人間がどこまでかつかつに生きていけるものか、それをためすための場所であるかのようだった。
いや、だいたい、このダフリンが、町という名に値《あたい》するかどうか、それさえ疑問といわねばならなかった。たしかに、多くの家がならんではいる。しかし、それは泥と塩をこねたものにすぎず、あからさまにいえば、土のかたまりとなんらかわらなかった。じっさいに、多くの家はくずれ、泥の堆積《たいせき》と化しているのだが、それを修復しようとする覇気《はき》さえなくしているらしく、ほとんどがそのままになっていた。
老人たちが地べたにじかに腰をおろし、ボンヤリとうつろな眼を、空に向けていた。しんそこ疲れきった、すべてに興味をうしなった眼だった。老人たちは、生きながらすでに死んでいるも同じだった。
男も、女も、そしてほんとうなら生命力にあふれているはずの子供さえも、ここでは力なくうなだれ、ヨロヨロと町をさまよっているのだった。彼らはひとりの例外もなく痩せさらばえ、眼窩《がんか》が無残におちくぼんでいた。
ここでは、たんに生きるということが、それだけですでに難事業なのだ。人はだれでも、命をつなぐためだけに、持てる力のすべてを燃焼させなければならないのだ。
「ひでえ町だ……」
チャクラがうめくようにいった。「こんなひでえ町はみたことがねえ」
「…………」
だれしも同じ気持ちであったろう。ながい、苛酷《かこく》な沙漠の旅を経て、ようやくたどりついた目的地であっただけに、なおさら彼らの失望の念はつよかったにちがいないのだ。
「…………」
ジローはおそろしい疑惑が胸にきざすのをおぼえた。
県圃《ケンポ》の盤古《ばんこ》≠ヘ憎しみの沙漠≠ノ向かえといった。憎しみの沙漠≠ノは|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ェあるはずだ、といったのだ――ジローたちはいわれるままに憎しみの沙漠≠ノ向かった。そして、その途上で出会った旅人のひとりから、ダフリンの町に|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれた男がいる、という噂をきいたのだった。
ジローはその噂をきいたときにはおどりあがって喜んだものだ。しかし、こうしてじっさいにダフリンの町を目《ま》のあたりにしていると、はたしてその噂がほんとうであったかどうか疑わしく思えてくる。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれるという栄誉を得た男が住むには、この町はあまりにもみじめで、不釣り合いにすぎるのではないだろうか。
俺たちはなにかまちがいを犯したのではないだろうか……ジローはそう自問せざるをえなかった。とんでもないまちがいを犯したのではないだろうか――
「――――」
背後から女の声がきこえてきた。
ふりかえったジローの眼に、いつからそこにいるのか、地べたにうずくまっているひとりの女の姿が映った。頭からかぶっているショール・マントは灰いろによごれ、ズタズタに破れていた。わずかにのぞいている腕は、枯れ枝のようにほそく、その顔はゲッソリとやつれ、眼だけがギラギラとひかって、はっきりと飢えの兆候をしめしていた。胸に痩《や》せた赤ん坊を抱いていたが、その子はもう泣くだけの元気も残っていないらしく、グッタリと死んだように眠っていた。
「――――」
女は哀れっぽい声でなにごとかをいい、ジローたちに向かって手をさしのべていた。あきらかに物乞《ものご》いだった。
ザルアーの表情が歪《ゆが》んだ。上着《カフタン》から乾肉のかたまりをとりだし、それを女乞食《こじき》の手ににぎらせようとする。
「やめたほうがええよ」
かたわらから声がかかった。なまりのない、きれいなタウライ語だった。
四|対《つい》の視線が声の主にそそがれた。厚地のフード・マントを着こんだ、小柄な老人だった。その顔はサルのようにシワクチャで、剽軽《ひようきん》者の印象がつよかったが、それでいてどこか冷笑的な感じをただよわせていた。
「やめたほうがええよ」
老人はくりかえした。「この土地じゃ、自分で生きられない者を養う余裕などありゃせんのじゃ。沙漠ではほどこしは罪悪とされとるんじゃからの」
「…………」
ザルアーはしばらく老人の顔を凝視していた。相手を射殺《いころ》すような、軽蔑《けいべつ》しきった視線だった。そして、ツンと顔をそらし、老人の言葉をキッパリと無視して、女乞食に乾肉をてわたした。
女乞食は乾肉をひったくるようにしてとり、マントのなかにねじこむと、礼もいわないで、走り去っていった。あまりにながくつづきすぎた悲惨な境遇が、彼女から人間らしい反応をうばってしまったようだった。
「…………」
ザルアーはなんだかうるんだような眼で、女乞食のうしろ姿をみおくっていた。
「しょせんはよそものじゃからの」
老人はため息をついて、いった。「沙漠の掟《おきて》をわかれというほうがむりだったかもしれんて」
「そうだ、爺《じい》さん……」
ダフームがおだやかな声でいった。「俺たちには俺たちのやりかたがある。たしかに、よけいなことだったよ」
「わしは人がよすぎるんじゃ」
老人は狡《こす》っからい眼つきになって、マントの下からちいさな袋をとりだした。「いつもよけいなおせっかいをやいて、人から憎まれる。損な性分じゃて……ところで、この可哀相な年寄りにも善行をほどこしてはどうかな。沙漠のお守りに、カンガルーネズミの|フン《〔註4〕》はいらんかね」
「…………」
ジローたちは苦笑をかわしあった。要するに、この爺さんもほどこしを乞うという点では、さっきの女乞食となんらかわりがないではないか。カンガルーネズミのフンなど、沙漠をちょっと歩けば、いくらでも手に入る品物なのである。
こんな場合には、まっさきに軽口をたたくはずのチャクラが、どういう加減かさっきから口をつぐんでいた。口をつぐんで、老人をくいいるようにみつめていた。
「兄弟!」
そして、とつぜんすっとんきょうな声でさけんだ。「あんた、兄弟じゃないのか。狂人《バム》の一族じゃないのか」
「…………」
老人は眼をほそくして、チャクラの顔をみかえした。なんだか相手の品さだめをしているような視線だった。
「そうじゃよ」
ややあって、老人はボソリとつぶやくみたいにいった。「わしは狂人《バム》のグラハじゃ」
ジローとザルアーは唖然《あぜん》としている。ダフームは、といえば、いつもながらに平然とかまえている。ダフームはめったに表情をかえない男だ――たしかに、狂人《バム》どうしが偶然にめぐりあったとしても、さほどおどろく必要はなかったかもしれない。チャクラの言によれば、凍ったらんしとれいとうせいえきから生まれる狂人《バム》はかぞえきれないほど多く、その全員があちこちを放浪しているということだからだ。
それに、年齢こそちがえ、グラハと名のった老人とチャクラとは、どことなく人をくったようなところが共通しているといえないこともなかった。なるほど、たしかに同じ一族にちがいない、と、うなずかせるところがなきにしもあらずだったのである。
だが、グラハがつぎにいった言葉には、こんどこそほんとうにジローたちは仰天させられることになった。グラハはジローとダフームを等分にみつめ、こういったのだ。
「すると、あんたがたは甲虫《かぶとむし》の戦士≠ナはないかな」
「…………」
ジローとダフームは顔をみあわせた。ジローはしんそこびっくりし、ダフームの表情にも――あるかなしかではあったが――おどろきの色のようなものが浮かんでいた。
「どうして、俺たちのことを甲虫の戦士≠セと思うのかね」
やがて、ダフームがいつにかわらぬおだやかな声できいた。
「狂人《バム》は甲虫の戦士≠ニいっしょにいるものと決まっておるからの」
「すると、あんたも甲虫の戦士≠ニいっしょにいるのかね」
「…………」
どうしてかグラハは沈黙し、ちょっとためらったのちに、うなずいた。
「ああ」
若いだけに、ジローは悠長《ゆうちよう》な話の運びに我慢できなくなったようだ。ダフームを押しのけるみたいにして、まえにでると、なかばさけぶようにいった。
「その甲虫の戦士≠ヘ|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれたことのある人じゃないのか」
「そうじゃよ」
「どこにいるんだ」
「会いたいのかね」
「そのために、俺たちははるばる沙漠をわたってきたんだ」
「そうか」
グラハはジローの肩ごしに、チャクラに視線を送ってきた。なんだか悲しげな、それでいてあざ笑っているような視線だった。チャクラはグラハの眼をみかえし、懸命にその視線がなにを意味しているかよみとろうとした。
よみとれなかった。
「ついてくるがええ」
グラハは背中を向けると、スタスタと歩きだした。ジローが、ついでダフームが、ためらわずそのあとにしたがう。
あとには、チャクラとザルアーが残された。チャクラはなにか道に迷った子供みたいなとまどった表情でジローたちのうしろ姿をみおくっていた。
「どうかしたの?」
ザルアーがしずかな声できいた。
「うん?」
チャクラはザルアーの顔をみた。しばらく呆《ほう》けたような眼を向けていたが、やがて掌でブルンと顔をこすると、いった。
「俺はジローに会ったのはまったくの偶然だと考えていた……だけど、そうじゃないんだとよ。狂人《バム》は甲虫の戦士≠ニいっしょにいることに決まっているんだってよ。だれが、そんなことを決めやがったんだ」
「考えないことよ」
ザルアーの声は、いつものチャクラに接するときのそれとはことなって、ひどく優しいものだった。「この世の中には考えても仕方がないことがいくつもあるわ」
「考えないではいられない」
チャクラは首をふった。「どうしたら、ジローたちみたいに考えないでいられるんだ」
「あの人たちは戦士だから……考える必要のない戦士だから」
「うらやましい」
チャクラはわびしげに笑った。「ほんとうにうらやましいぜ」
そして、ふたりもまたジローたちのあとを追って歩きはじめた。
――ダフリンはまったくみじめな町だった。
泥でつくられている家は、風と砂に浸食され、壁があばたのようになっている。岩塩が露出している道と、ほとんどみわけがつかないほどだ。
この町が貧困のどん底にあることを如実にしめしているのは尖塔《ミナレツト》だった。尖塔はいうならば沙漠の灯台の役割をはたしており、町の上空にたかくそびえ、陽光をきらびやかに反射しているべきもののはずだ――それが、このダフリンにおいては、たんなる日乾煉瓦《ひぼしれんが》の積みかさねにすぎないのだ。泥のかたまりだった。
しかも、眼をあらい、口をそそぎ、体を清浄にたもつための泉水さえ、ほとんどひあがっていて、底に泥水をよどませているありさまなのである。いかにこの町の人心が荒廃しているか、端的にしめしている例といえたろう。
その泥のかたまりにすぎない尖塔の下あたりに、人垣《ひとがき》ができていた。ほとんどが子供たちばかりで、この町ではめずらしく、笑い声がときおりきこえていた。
ジローとダフームは顔をみあわせた。その人垣からきこえてくる音――風を切る、するどいうなりと、肉を裂くにぶいひびき……それはだれかが鞭《むち》うたれている音にちがいなかった。あろうことか、うめき声がきこえてくるたびに、子供たちはドッと笑いくずれているのだった。
「罪人か」
ダフームがグラハをふりかえって、きいた。
「いや……」
グラハはあいまいに首をふり、口のなかでモゴモゴとつぶやいた。「そうじゃない。そうではないんじゃが……」
それから、なんの意味もなく、マントを肩にはねあげると、奇妙にセカセカとした足どりで、人垣に近づいていった。なんとなく、そのことにふれられるのをいやがっているといった様子だった。
ジローとダフームはもういちど顔をみあわせ、しようことなしにグラハにしたがった。そして、膝で子供たちをかきわけるようにして、鞭うたれている人物をみた。
ヒュッ、ピシッ、ヒュッ、ピシッ……鞭はくろいヘビのように宙をうねり、灼《や》けた大気をつんざき、正確にひとりの男の肌をとらえていた。
鞭をふるっているのは、ダフームと同じくろい肌の男だった。裸の上半身に、汗の玉がいっぱいにひかっていた。この炎天下では、鞭をふるうのもかなりの重労働にちがいなかった。
どうしてか、鞭うちをみとどける義務をおわされているらしく、ひとりの肥《ふと》った男が地面にじかに腰をおろしていた。その男はいかにもウンザリした様子で、鞭が一回ふりおろされるたびに、手に持っているちいさなガラス玉を、膝のうえの壺《つぼ》に入れていた。どうやら、そのガラス玉がなくなるまで、鞭うちはつづけられることになっているらしかった。
鞭うたれている男は――その男はいまだかつてジローがみたことのない種類の人間だった。髪はわらのように黄いろで、眼が褐色《かつしよく》だった。肌も褐色だったが、それは日に焼け、汗と泥で汚《よご》れているせいで、ほんらいはもっと白いのではないかと思われた。顔はいかつく、不精《ぶしよう》ヒゲにおおわれ、口になにか草のようなものをくわえていた。
裸の上半身に鞭がふりおろされるたびに、男の口のなかでその草のようなものが上下するのだ。ときおり、くいしばった歯のあいだから、うめき声がもれる。
男は汗みどろになっていた。苦痛を懸命にこらえているせいか、ひたいの血管が青くふくれていた。しかし、それでいながら、男の様子にはどことなく超然としたところがあった。ふつうなら、苦痛に泣きさけんでもふしぎはないはずなのに、宙の一点をにらみすえながら、立ちはだかっているのだ。
「あの男はどんな罪を犯したんだ」
ジローがグラハにきいた。
「だから、なんにも罪は犯しておらんのじゃ」
「どういうことなんだ?」
と、のぞきこむジローから顔をそむけるようにして、グラハがいった。
「あの男があんたたちのお仲間じゃ」
「なんだって」
「甲虫《かぶとむし》の戦士……」
グラハはため息をついた。「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれた男じゃよ」
4
一瞬、ジローは頭のなかが空白になるのをおぼえた。強烈な陽光だけがギラギラと、しろく、まばゆく、ジローの眼を射った。そして、そのなんだか自分のものではないような意識のなかに、鞭の音だけがたかく鳴りひびいていた。
あの男が甲虫の戦士だって……あの鞭うたれている哀れな男が|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれた男だというのか……
「どこへ行くんじゃ」
グラハの声がきこえてきた。ひどく切迫した、なにか慌《あわ》てているような声だった。
ジローはふりかえり、しばらくボンヤリとグラハの顔をみつめていた。まったく無意識のうちにやったことだが、ジローは剣の柄《つか》に手をかけ、鞭うたれている男に向かって数歩ふみだしていた。甲虫の戦士をたすけようとしたにちがいなかった。
ジローはブルンと掌で顔をこすり、なんとなくもの憂《う》い声でいった。
「あの男をたすけなくっちゃ……」
「いかん」
グラハはびっくりするほど大きな声でいった。「とんでもない話じゃ」
「だって、あの男はなんの罪も犯していないっていったぜ」
「そうとも」
「だから、たすけてやるんだ」
「だから、たすけてはいかんのじゃ」
グラハは頬をかきむしりながら、いらだった声でいった。「お若いの。あんたはまだダフリンに着いたばかりで、この町の風習はなにも知らん。なんにも知らんのじゃ……ええか、あれは商売なのじゃ。商売で、町の人たちのシーア派の鞭うちの儀式《〔註5〕》≠肩がわりしておるのじゃ」
「肩がわり……」
そう口のなかでつぶやいたジローの肩に、ぶあつい、あたたかい手がおかれた。
「旅をしていて、ひとつだけ学んだことがある」
ダフームがいつもながらのおだやかな声でいった。「その土地にはその土地のしきたりというものがある。よそものはそのしきたりにめったなことでは口をはさんではならないということだ……」
「…………」
ジローはうなだれた。たしかに、ダフームのいうとおりだ。よその土地のしきたりに口をはさんではならない、というのは、この時代に旅をしようとする者にとって、いわば鉄則のようなものだった――それがわかっていて、ジローが鞭うたれている男をたすけようとしたのは、眼のまえの光景を事実として受け入れるのが、耐えられなかったからにちがいない。ジローにとって、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれた男は、希望の最《さい》たるもの、その男に会えばすべての問題が解決する神≠フような存在であった。決して、鞭でうたれるような男であってはならなかったのだ。
「シーア派の教徒にとって、鞭うちの儀式≠ヘなんとしてもさけてとおることのできない大切な儀式じゃ」
グラハが爪《つま》さきだちになって、ジローの耳もとにささやいた。「じゃがな、みてのとおり、ダフリンは貧しい町じゃ。みんながみんな、鞭うちの儀式≠ノ耐えられるほど、がんじょうで、充分に食べておるとはかぎらんて……そこで、あの男が鞭うちの儀式≠フ肩がわりをする。神さまをごまかすための、いわば身がわりじゃよ。そして、あの男はいくばくかの食糧と、水をあがなうための金をうけとるという寸法じゃよ」
グラハはそこでいったん言葉を切り、自嘲《じちよう》しているような、歪《ゆが》んだ笑いを浮かべた。
「ダフリンは貧しい町じゃ。沙漠はきびしいところじゃ。狂人《バム》はカンガルーネズミのフンを売り歩かねばならんし、甲虫の戦士は鞭うちの儀式≠フ肩がわりをせねばならん」
「…………」
ジローは暗たんとした思いに心がとざされるのを感じた。ジローにとって、自分が戦士であるという誇りは、なにものにも替えがたい、唯一絶対のよりどころであった。この土地では、その誇りさえ保つのが許されないというのか――なんとひどい町であることか。なんという、残酷な土地なのだろう……
鞭の音がひときわたかく、灼けた大気をつんざき、鳴りひびいた。肥った男がなにごとかさけび、両手をひらいて、見物人にしめした。もうガラス玉はなかった。どうやら、鞭うちの儀式≠ヘようやく終わったようだった。
鞭をふるっていた黒人が、はげしくあえぎながら、精根つきはてたという感じで、うしろにさがった。肥った男は腰をあげ、見物していた子供たちも、口々になにごとか話しあいながら、乾いた広場に散っていった。
鞭うたれていた甲虫の戦士≠セけが残された。強烈な陽光のなか、男はうつむき、うっそりと影のように立っていた。その体から血がしたたり落ち、乾いた、しろい地面に、あざやかな血痕《けつこん》をつけていた――男はしばらくそうして立ちつくしていたが、やがてゆっくりと体がゆれはじめた。しだいに、そのゆれは大きくなっていき、ついに力つきたみたいに、男はガクリと地面に膝をついた。
ジローたちは男のもとに駆け寄った。まっさきに駆けつけたのは、グラハだった。
「大丈夫かね」
グラハにかかえ起こされ、男はゆっくりと顔をあげた。老人の顔をみあげて、ニヤリと笑う。したたかな、しかしどこかに悪戯《いたずら》っ子のような感じを残した笑顔だった。
「今日は三人ぶんの鞭うちの儀式≠セったからな。さすがにちょっとこたえた……なに、薬を塗って半日も寝てれば、すぐまたもとの体にもどるさ」
それから、顔をあげ、不審そうな眼でジローとダフームをみつめた。
「あんたと同じ甲虫の戦士じゃよ」
グラハがなぜか声をおとし、ささやくようにいった。「やはり|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノゆきたいそうじゃよ」
「俺はダフーム」
男をみおろしながら、ダフームがしずかにいった。「こちらの若いのはジローだ」
「よろしく」
ジローは笑顔をみせた。
「…………」
男はしばらくふたりの顔を等分にみつめていた。そして、その唇に皮肉な、なんだか人をさげすんでいるような、それでいてどこか哀《かな》しげな微笑を浮かべた。
「よしやがれ」
そう口のなかでつぶやくと、男は面倒くさそうにグラハの体を押しのけ、ゆっくりと立ちあがった。それから、地面におかれてあったなめし革のチョッキを拾いあげると、裸の体のうえにじかに着て、もうジローたちをみようともしないで、サッサと立ち去っていった。
ジローとダフームはあっけにとられて、男のうしろ姿をみおくっていた。
「ずいぶん不機嫌《ふきげん》な男だな……」
やがて、ダフームが苦笑まじりの声でいった。「体のなかになにか虫でもいるんじゃないのかな」
「あの男の名前はビンというんだ」
グラハがとりなすようにいった。「わるい男じゃないんだが、いくらかへんくつなところがあっての……あとでわしからよく話しておくから、今日のところは……」
グラハの話の最後まできかず、ジローは走りだしていた。なにかグラハが大声でいったようだが、頭にきているジローが、老人の言葉を気にするはずもなかった――そう、ジローはまさしく頭にきていた。はるばると沙漠をこえ、幾多の試練をへて、あんな男に会いにきたのかと思うと、自分が肚立《はらだ》たしくもあり、情けなくもあった。
同じ甲虫《かぶとむし》を守護神にいただく者にたいして、あんなあいさつのしかたがあっていいものか……
すくなくとも体力にかんしては、ビンが甲虫の戦士≠フ名にふさわしいことは認めなければならなかった。あれほど鞭《むち》うたれたあとで、とにもかくにも自分の足で立って、しかも歩いていくなどということが、なみの人間にできるはずはないからだ。
それは認めなければならない――ビンのあとを追っていきながら、ジローは自分自身にうなずいた。しかし、そのほかのことにかんしては、あいつは甲虫の戦士の面よごしだ……
ビンはひときわ汚《きたな》く、ちっぽけな家のなかに入っていった。ジローもまたあとを追って、そのなかにとびこんでいったことはいうまでもない。
狭く、うすぐらく、羊の脂《あぶら》のにおいがツンと鼻をつく部屋だった。露出している泥の壁には、ジクジクと塩がにじみだしていて、いまにもくずれ落ちそうだった。
床には、汚れて模様もわからなくなっている絨毯《じゆうたん》がじかに敷かれていて、天窓からさしこむ日の光が、しろく、ポッカリと浮かびあがっていた。
ビンはその絨毯のうえにゴロリと横になった。すると、部屋の隅であぐらをかいていた男が、やおら腰をあげ、ビンのまえに土くれのお椀《わん》をおいて、また大儀そうにもといた場所にもどっていった。お椀のなかには、なにかあかい液体が入っていた。
ビンはお椀に口をつけ、グイッと一飲みすると、いかにも満足そうに、ふとい息を洩《も》らした。そして、戸口に立ちはだかっているジローに、声をかけた。
「そんなところにつったっていねえで、おめえもこいつを飲んだらどうだ。ぶどうからつくった酒だ。うめえぞ。飲んだらやみつきになることうけあいだ……」
「いらない」
ジローがかすれた声でいった。
「そうかい」
ビンは片手をあげ、その手をヒラヒラさせた。「まあ、好きにするさ。むりには勧めねえよ」
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行きたい」
「それも好きにしなよ」
「あんたは|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行ったことがあるそうじゃないか」
「そうかい」
「みんな、そう言ってる」
「そのみんなって奴を連れてきなよ」
ビンはお椀に残っていた酒を一気に飲みほすと、クスクスと笑った。その顎《あご》にあかい酒がしたたり落ちていた。
「おしゃべりがどんなにたかくつくものか教えてやるからよ」
「俺たちは|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行く」
ジローは怒りをおさえながら、一語、一語くぎるようにして、ゆっくりといった。「おまえに案内されて行くんだ」
「勇ましいな、ぼうや」
ビンはからになったお椀をみつめながら、熱のない口調でいった。「まったく、勇ましい。惚《ほ》れ惚《ぼ》れするぜ……手伝ってやりてえんだけどよ。ごらんのとおり、俺もなにかと忙しくてな」
それから、ゴロンと寝がえりをうち、ジローに背中を向けた。だらしなく、欠伸《あくび》をもらす声がきこえてきた。
ジローはカッと頭のなかが熱くなるのをおぼえた。前後のみさかいもなく、大股《おおまた》でビンにちかづいていくと、その頭を思いきり蹴《け》とばそうとした。だが、――相手のほうがジローよりはるかに上手《うわて》のようだった。ビンはヒョイと頭をすくめて、ジローの蹴りをかわすと、逆にその足をつかみ、はらいのけたのだった。
ジローがなんとか転ばずにすんだのは、戦士の反射神経があったればこそのことだった。しかし、それでもバランスをくずし、壁にしたたかに肩をぶつけるという、なんとも情けない醜態を演じてしまった。
部屋の隅にすわっていた男が、こんな面白いものはみたことがないといった様子で、ホッ、ホッ、ホッと体をゆらして笑った。
「あんたはそれでも甲虫の戦士か」
ジローは痛みに歯をくいしばりながら、うめくようにいった。
「それでも男なのか」
「…………」
ビンが肩ごしにジローをふりかえった。しばらく、ジローをみつめていた。その眼がスッとほそくなり、うすい膜がかかったようになった。これまでのビンとは別人のように、凄味《すごみ》のある表情だった。
反射的に剣の柄《つか》に手をのばそうとしたジローを、
「動くんじゃねえ」
ビンはその一言で制した。そして、ムックリと体を起こした。なにかの魔法のように、その手に細身のナイフが出現していた。
「いいか。動くんじゃねえぞ」
ビンは歌うような口調でいった。「なにもしゃべるんじゃねえ。息もするな」
「…………」
ジローは動かなかった。いや、動こうにも動けなかった。どうしてか、ビンの投げるナイフは、とても自分にはかわしきれないということが、はっきりと理解できたからだった。
ジローはイモリのように、壁に背中をつけたまま、ジッとしていた。ジローの体からしたたり落ちる汗が、絨毯にくろいしみをつくっていた。
そのとき、戸口に大きな影が立ちふさがり、一瞬、部屋をくらくした。ゆっくりと足をふみいれてきたダフームは、一眼でこの場の状況をみてとったようだ。表情をかえもしないで、無造作《むぞうさ》に、まったく無造作に、片手で槍《やり》をくりだしてきた。
頬《ほお》を冷たいものがかすめ、ジローはピクリと身をふるわせた。ことさらたしかめるまでもなく、ダフームの槍は難なく泥壁をつらぬいたにちがいなかった。ダフームはひじを引き、槍をぐいっと壁から抜いた。そして、刃《やいば》のさきをジローにしめした。
あかく、いやらしい虫が、細長い刃に腹をくし刺しにされて、もがいていた。サソリだった。
「動けばやられるところだったぜ」
ビンがナイフをおさめながら、熱のない声でいった。「ここらへんのサソリは、刺されるとあとがちょっと面倒なんだ」
「…………」
ジローは大きく息を吐いた。全身の筋肉が緊張でかちんかちんにこわばって、痛いほどだった――自分が危うくサソリに刺されるところだったと知らされても、それほどの恐怖はおぼえなかった。実感がわいてこなかったからかもしれない。それより、ナイフを手にしたときにビンがみせた、ある種の凄味のようなものに、ジローは圧倒されていた。
ダフームは槍の刃をかるく一振りした。サソリはとんでいき、壁にぶつかって、つぶれた。もう、あかく、きたない壁のしみでしかなかった。
「あんた、甲虫の戦士だってほんとうかね」
ダフームはなにごともなかったかのように、おだやかな声でビンにきいた。
「ああ」
ビンはうなずいた。だらしなく寝そべった姿勢にもどっていた。
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行ったことがあるんだって」
「ああ」
「俺たちも行きたいんだよ」
ダフームの声にわずかに熱がこもった。「なあ、あんたも甲虫の戦士だったら、わかるだろう。俺たちを|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ案内してくれないか」
「その気になれば、三日で行ける距離だ」
ビンが面倒くさそうにいった。「べつに、案内なんかいらんさ」
「どうしてなんだ」
ジローが口をはさんだ。「どうして、あんたは|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行きたがらないんだ」
「…………」
それにはすぐに答えようとはせずに、ビンはジローの顔をみつめた。なんだかジローをとがめているような、それでいて笑いを浮かべているような、奇妙な表情をしていた。
「行ったさ」
やがて、ビンがボソリといった。「あちこちから、このダフリンの町に集まってきた三人の甲虫《かぶとむし》の戦士、三人の狂人《バム》……俺たちをふくめて八人でな。だが、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ゥら帰ってこられたのは、俺と、俺の相棒だった狂人のグラハ、たったふたりだけさ」
「ほかの連中はどうしたんだ」
「死んだ……」
ビンはため息をついて、いった。「みんな死んじまったよ」
「なにがあったんだ」
「思い出したくもないね」
ビンはひじを枕《まくら》にすると、ゴロリと寝がえりをうって、ジローたちに背を向けた。それから、奇妙にもの憂《う》い声でいった。「あんたたちが|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行きたいというなら、べつにとめはしないよ。だが、俺をあてにしないでくれ……なあ、どうしてか甲虫を守護神にいただく者は、かならず|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがし求めることになる。みんな、それぞれに事情はことなるが、つまるところは|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠探して歩く運命になるんだ……おかしいとは思わないか。まるで、だれかさんがそうなるようにしむけたみてえじゃねえか」
ジローは故郷マンドールの稲魂《クワン》≠フことを思い出さずにはいられなかった。そう、ジローが|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがし歩くことになったのも、もとはといえば、稲魂《クワン》≠ノうしなわれた宝石月《ムーン》≠うばいかえせと命じられたからだった。
「それは、神≠フご意志だ……」
ダフームが抑揚のない声でいった。
「神≠フご意志か」
ビンの声に嘲笑《ちようしよう》のひびきがふくまれた。「そうかもしれねえ。だがな、俺は俺だぜ。だれかのいいように動かされるのはまっぴらだぜ」
とりつくしまもなかった。平然と神≠冒涜《ぼうとく》して、はばかることのない人間をまえにしては、ジローもダフームもそれ以上いうべき言葉を知らなかった。
「行こう」
ダフームがぶ厚い手をジローの肩において、しずかにいった。「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノはわれわれだけでいくしかない」
そして、ダフームはちょっと腰をかがめるようにして、うっそりと外へ出ていった。ジローはもういちどビンをふりかえり、すこしためらったのちに、ため息をついて、ダフームにしたがった。
ビンはふたりに背を向けたままだった。
5
――地面がジリジリと音をたてて、陽《ひ》に灼《や》かれていた。
熱にあぶられた地面はしろっぽく乾き、鱗《うろこ》のようなひびを一面に走らせていた。みているだけで気持ちがめいってくるような、ただもう殺伐とした風景だった。
そのひび割れた地面のうえを、ちいさな、緑いろのトカゲが這《は》っていた。熱にもろにさらされ、いかにも大儀そうな、ノロノロとした動きだった――ふいに、トカゲのうえに影がさし、その眼のまえに折れた枝がつきだされた。トカゲはキョトンと顔をあげ、しばらくためらっていたようだが、やおら体の向きをかえると、ちがう方向に走りだした。しかし、またしても折れ枝が眼のまえにつきだされ、道をふさいだ。
しばらくは、折れ枝とトカゲの奇妙な競走がつづいた。だが、やがて折れ枝は道のうえに放りだされ、ようやく自由を得たトカゲは、そそくさと走り去っていった。
「トカゲをいじめたりして可哀相じゃないの」
ザルアーがとがめるようにいった。
「いじめてなんかいないさ」
チャクラがこたえた。「だってあのトカゲは俺なんだものな」
チャクラとザルアーは地面のうえにじかに腰をおろしている。ジローたちの姿をみうしない、やむなく彼らが現われるのをそうして待っているのである。
「そうさ」
チャクラは自分自身にうなずいた。「あのトカゲは俺なんだ……自分で動いているように思えても、じつは、だれかがみえない枝を眼のまえにつきだして、俺の人生を操っているにちがいないんだ……ざまはない。狂人《バム》のチャクラさまもかたなしさ」
いつもは剽軽《ひようきん》なチャクラが、なんだかひどく憂鬱そうな顔をしていた。甲虫の戦士は|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがし、かならずひとりの狂人《バム》がその旅につきしたがう……すべてがあらかじめそうさだめられていたという事実は、チャクラにとって、よほど大きなショックだったようだ。なにより自由を愛するチャクラには、これは耐えられない侮辱と思えたにちがいなかった。
「あまり考えないほうがいいわ」
ザルアーがいった。「考えても、どうにかなることじゃないんだから」
「考えたくねえさ」
チャクラが掌でブルンと顔をこすり、情けなさそうな声でいった。「だけど、考えずにはいられねえんだ」
しばらく沈黙がつづいた。うなだれているチャクラと、チャクラをいたましげにみているザルアーのふたりの姿を、強烈な陽光がカッと射《い》っていた。
「たのみがあるんだ」
やがて、チャクラが顔をあげていった。「グラハに会ってくれねえか。あの爺《じい》さんに会って、狂人《バム》ってのはいったい何者なのか、なんのために生まれてきたのか、きいちゃくれねえだろうか。あの爺さんだったら、なんか知ってそうだ」
「どうして、自分できかないの?」
「怖いんだよ」
チャクラが泣き笑いのような、歪《ゆが》んだ顔をつくった。「だらしのねえ話だが、じかにきくのが怖いんだ……あんたはちがう。あんたは呪術《じゆじゆつ》師だった女だ。あんたには、人間が自分の意志で動いているようでも、なにかに操られ、その掌のうえで動いているにすぎないと考えることは、おどろきでもなんでもないだろう。だけど、俺は……俺はいつでも自分の好きなように生きてきた。すくなくとも、自分じゃそう信じてきたんだ。それが……」
チャクラは口ごもった。あごのさきからポタポタと汗が地面にしたたり落ちている。
「…………」
ザルアーは考えている。考え、そして口をひらこうとしたそのとき――多勢の人が口々にわめきたてている声が、とおくの方からきこえてきた。
ザルアーは顔をあげ、おどろきのあまり、思わず立ちあがっていた。
ダフリンの町人《まちびと》たちがおよそ三十人ほど――そのなかには老人、女子供までが混じっていたが――道にひろがり、口々に喚声をあげ、笑いながら、たったひとりの人間に向かって石を投げているのだ。標的にされているのは、ザルアーにほどこしを乞《こ》うた、あの女|乞食《こじき》だった。
しばらくは、ザルアーは自分の眼が信じられなかった。乳飲み子を抱き、ただほどこしを乞うて歩いているだけの、だれにも害を与えないはずの女ではないか。その女にどうして、なんのために石をぶつけ、なぶり殺しにするような刑を与えなければならないのか。
女乞食はほとんど意識をうしなっているようだった。ただ、頭といわず、腹といわず、容赦なくぶつけられる礫《つぶて》から逃がれたいという一念で、よろばいながら、かろうじて足を動かしているようにみえた。そのくろい衣《ころも》のいたるところに血がにじんでいた。
女乞食は泣きさけんでいた。赤ん坊をしっかりと両手でかばいながら、命乞いをしているのか、それとも神≠呪《のろ》っているのか、なにごとかさけびながら、一歩、また一歩と足を運んでいく。その赤ん坊をかばっている両腕にしてからが、すでにまっかだった。
ちいさな子供が笑いながら、群集のまえにとびだしてきた。そして、右腕をグルグルと回し、石を投げた。石は女乞食の後頭部に命中した。すこしはなれたところに立っているザルアーの耳にも、そのゴツンというにぶいひびきがきこえてきた。女乞食は悲鳴とともにたおれ、やった、やった、というように、子供は嬉《うれ》しそうに跳《は》ねた。
地獄だった。いまザルアーが眼にしている光景は、まさしく地獄以外のなにものでもなかった。
「よせっ、かかずりあいにならないほうがいい」
チャクラの悲鳴のような声がきこえてきたときには、すでに遅かった。ザルアーはほとんどそうと意識しないまま地を蹴り、女乞食のもとに駆けよると、その体のうえに身を伏せたのだ。
肩と、背に、それぞれ一発ずつ、石が当たるのを感じたが、ザルアーは歯をくいしばってその苦痛に耐えた。ザルアーの体の下になって、もう女乞食はピクリとも動こうとしなかった。
ザルアーは息をつめて、全身をこわばらせて、次なる打撃にそなえた。しかし、いくら待っても、いっこうに石が投げられてくる気配はなかった。ようやく顔をあげた。
人々はザルアーの出現にとまどっているようだった。たがいに顔をみあわせ、なんだかとほうにくれたみたいに、てんでに小声でしゃべっていた。そうしていると、それ以上もなく凶暴に思えた町の人たちが、一変しておとなしい、ふつうの人たちにみえた。
群集をかきわけるようにして、ひとりの老人が前に進みでてきた。みるからに聡明《そうめい》そうな、威厳をそなえた老人だった。
「旅のお方――」
老人はタウライ語でいった。「これはこの町のならわしでな。ひどいことをするとお思いかもしれんが、それなりのわけがあってすることじゃ。どうか、じゃまはせんでもらいたい」
「…………」
ザルアーはそれには答えようとしないで、女乞食を抱き起こし、自分といっしょに立ちあがらせた。女乞食はとっくに正常な思考力をうしなってしまっているようだった。うつろな眼をひらき、ブツブツとなにか口のなかでつぶやきつづけていた――女乞食の腕にいだかれている赤ん坊をみたとたん、ザルアーは自分の顔から血の気《け》がひいていくのを感じた。おそらく栄養失調の衰弱の身には、投石が耐えられなかったのだろう。赤ん坊は死んでいた。
悲しみが、そしてそれに数倍する怒りが、体の奥ふかいところからふきあげてきて、ザルアーの身をふるわせた。なんてひどいことをするの。なんてひどいことを……
「赤ん坊は死んだわよ」
ザルアーは女乞食を抱いたまま、ほとんど泣くような声でいった。「あなたたちが殺したのよ。この人殺し。ひとごろし」
「当然のことだ」
老人はいささかも動じなかった。「その女も、そして子供も死なねばならん。おきてを破ったのじゃからの。あろうことか、その女はわれらが偉大なる樹《き》シャドーフの根に傷をつけ、水を盗もうとしたのじゃ」
「たったそれだけのことで……たったそれだけのことで、この女を殺そうとしたの」
「旅のお方にはささいなことに思えるかもしれんて」
老人の声に、やや悲しげなひびきがふくまれた。「しかし、このダフリンではな、それは重大な罪なのじゃよ。われらはシャドーフのご慈悲をもって、ようやく生きながらえておる。シャドーフなくば、われらのうちだれひとりとして生をつなぐ者はおらんわ。だれもが渇《かつ》えておるのじゃ。だれもが飢えておるのじゃ。シャドーフを傷つけてはならん。これがこの地のおきてなのじゃ」
「…………」
ザルアーは呆然《ぼうぜん》と立ちすくんだ。この地では、人間が大樹に寄生することで、かろうじて生きている。シャドーフこそ正義、唯一絶対のおかすべからざるおきてなのだ。人間は不毛の地にうごめく寄生虫にすぎない。
「ここは沙漠《さばく》なんだ……」
背後から、チャクラの沈痛な声がきこえてきた。「マンドールでもなければ、県圃《ケンポ》でもない。沙漠には沙漠のおきてがあって当然だよ。俺たちよそ者が、口をはさむべき筋あいのことじゃない」
ザルアーは女乞食を抱いている腕に、思わず力をこめた。こんなにも、みじめに人間があえいでいる土地があっていいものか。こんなにも、人間をさいなむ土地があっていいものか……ザルアーは自分の腕のなかですすり泣いている女乞食を、ややボンヤリと、悲しげにみおろした。そして、考えた。この女《ひと》はもうだめだ。赤ん坊が死んでしまった以上、この女《ひと》はもう生きていく気力もないにちがいない。だめなのだ。だけど、石に打たれ、苦しみぬいたあげくに死んでいくのでは、あまりにこの女《ひと》が可哀相すぎはしないか。この女《ひと》はさんざん苦しんできたではないか。せめて、死ぬときぐらいは安らかに死なせてはやれないものだろうか……
その瞬間、涸《か》れていた泉がふたたび湧《わ》きだすように、ザルアーは体の奥ふかくからあの力があふれだすのをおぼえた。全細胞がぴりぴりとうちふるえ、神経がするどく、するどくとぎすまされていく。さながら、体のなかを熱い火の玉がかけめぐっているみたいだった。
ザルアーはあえぎ、天をあおいだ。その眼にも、すさまじい精神力のかがやきがやどっていた。
女呪術師ザルアーが復活したのだ。
ザルアーはやさしく、ほとんどそれを感じることができないほどやさしく、女乞食を抱いている腕に力をこめた。女乞食はピクンと身をふるわせたが、ひそやかなため息をもらすと、ふたたびザルアーの腕にグッタリと身をゆだねた。いま、ザルアーの呪力が、女乞食にわずかに残されている生命力を、急速に奪いつつあるのだ。
楽におなりなさい……ザルアーは頭のなかでそうささやきかけていた。楽になるのよ……
オレンジがゆっくりと絞られていくように、女乞食の命が一滴、また一滴とうしなわれていく。ちょうど人が眠りにつくときのように、女乞食はゆるやかに、死の淵《ふち》に向かって近づいていく。恐怖も、苦痛もなく、確実に……
だが、ふいにそのすべてが断ち切られた。うなりをあげてとんできた一本の矢が、女乞食の背にふかぶかと刺さったのだ。女乞食はピクンと身をのけぞらし、うつろな眼で空をみつめた。そして、ズルズルと地面にくずれ落ちていき――死んだ。
ザルアーはなおも女乞食の腕を持ったまま、呆然と立ちすくんでいた。町人《まちびと》たちも、この一本の矢にはよほどおどろいたようだ。ざわめき、慌《あわ》てふためきながら、まんなかから鉈《なた》で割られたみたいに、左右に別れた。そこに、ひとりの男が立っていた。
わらのような髪を持った男だった。おびただしい数のみみずばれが走った裸の上半身に、なめし革のチョッキを着ていた。右手に、大きな弓をにぎっていた。
「おめえたちは気にいらねえ」
男がさけんだ。「どいつもこいつも気にいらねえ奴ばかりだ……おきてだと……そうか。おきてなんだな。だったら、なんでひとおもいに殺さねえ。石をぶつけて、よってたかってなぶり殺しにするような真似《まね》をしやがって」
「それがわれわれのやり方なのじゃ。沙漠にいにしえから伝わる……」
そう説明しながら、足をふみだしかけた老人は、しかしその足を途中でとめなければならなかった。男がすばやく弓に矢をつがえ、老人の胸板にピタリと狙《ねら》いをさだめたからである。
「動くんじゃねえ」
そのままの姿勢であとずさりしながら、男がいった。「なにもしゃべるな。息もするんじゃねえ」
「…………」
ザルアーはしだいにあとずさっていく男をジッとみつめていた。もしかしたら、ザルアーの強靭《きようじん》な精神力に、なにか反応するところがあったのかもしれない。男はとまどったみたいに、フッと視線をこちらに向けた――その瞬間、たがいに相手の顔もろくにわからないほど離れているというのに、たしかに彼らのあいだにはなにかあい通じるものがあったようだ。
しかし、ザルアーがなかば反射的に足をふみだしかけたそのとき、男はサッと身をひるがえし、乾いた道を走り去っていった。町の人たちはだれひとりとして、そのあとを追おうとはしなかった。
ザルアーは男のうしろ姿をボンヤリとみおくっていた。白い火の玉がふくれあがっているような、強烈な日の光のなかに男の姿は呑まれていき、やがてすっかりみえなくなってしまった。それでもなお、ザルアーは男が走り去った方角に眼を向けていた。そして、なんの脈絡もなく、こう考えた、あの男は甲虫の戦士にちがいない。あれが|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれたという男にちがいない。
「大丈夫か」
背後からチャクラの気づかわしげな声がきこえてきた。
「あなたの頼みをきいてあげるわ」
ザルアーがなんだか夢みているような声でいった。
「え……」
「グラハに会って、すべてをききだしてあげるわ。すべてのことを……」
「…………」
ザルアーのあまりにこの場にそぐわない言葉に、チャクラは唖然《あぜん》とし、つづく言葉をうしなってしまったようだった。
ザルアーは、しかしチャクラをふりかえろうともしなかった。その眼に、なにか決意と諦念《ていねん》がないまぜになったような色が、しだいしだいに浮かんできた。
夜――
沙漠には虫の鳴く声もきこえない。恋人たちがかわす、あまい囁《ささや》きもきこえてこない。ただ、くらく、冷たい、壁のような闇《やみ》にとざされているだけだ。
夜のダフリンはいっそうみすぼらしく、汚くみえた。灯火の明かりもみえず、もちろん歩きまわっている人もなく、だまりこくって、不機嫌に、沙漠のうえにうずくまっていた。
沙漠にできたかさぶたのようだった。
そのダフリンの道に、ヒタヒタと湿った足音がきこえてきた。闇のなかにボンヤリと影が浮かびあがり、やがてそれがはっきりと人の形をとった。
グラハだった。
グラハは憂いにしずんだ顔をし、その眼にはなにか追いつめられたような色が浮かんでいた。なんとなく、彼がその糞《ふん》を売って生計をたてている、カンガルーネズミの姿を連想させないでもなかった。
グラハはふいに足をとめると、首をのばして、前方の闇をうかがった。そしてしゃがれた声できいた。
「そこにいるのはだれだ」
「わたし……」
そう返事がかえってきて、闇の中に浮かびあがった人影が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「わたしよ」
ザルアーだった。
「あんたか」
グラハは肩をおとし、ホッと安堵《あんど》のため息をもらした。たった一日で、グラハの顔は憔悴《しようすい》しきって、ひどく面《おも》がわりしてみえた。
「どこかに行くの?」
ザルアーがきいた。なんだか歌っているような口調だった。
「あ、ああ……」
グラハはうなずき、ブルンと掌で顔をこすり、もういちどうなずいた。「この町がいやになった。いや、もともといやな町じゃったが、これ以上、一日でも居ることに耐えられなくなった……」
「あなたの甲虫の戦士はおいていくの? ジローにきいたんだけど、あなたはビンという名前の人と、ずっとこれまでいっしょにやって来たんでしょ」
「話をきいたんなら知っておろうが、あの男にはもう|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行くつもりはないようじゃからの。狂人《バム》もいっしょにいる必要はないわけじゃて」
「嘘《うそ》だわ」
「…………」
「あなたは、なにかに怯《おび》えている」
ザルアーがゆっくりと足をまえにふみだした。「なにかに怯えて、嘘をついている」
グラハは数歩あとずさった。それから、首をのばして、ザルアーの顔を凝視した。グラハはくいいるように、ザルアーは平然と、たがいの眼をみつめあっていた。
「あんたは呪術師なのか」
グラハはおどろきの声をあげた。「昼間、会ったときにはそうはみえなんだが、あんたは呪術師だったのか」
「なにに怯えているの」
ザルアーの容赦ない質問がつづいた。「なにがそんなにおそろしいの」
「年じゃよ、嬢ちゃん……」
グラハはなんということもなくかぶりをふって、苦い笑いを浮かべた。「わしは年をとったでな。年をとりすぎたでな。もう、いいかげん疲れたんじゃよ……わしは生涯《しようがい》あちこちうろつきまわった。そして、三人の甲虫の戦士に出くわした。いつも、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行くはめになった。さきのふたりの甲虫の戦士は死んだよ、嬢ちゃん。ひとりは途中で戦《いくさ》にまきこまれて、もうひとりははやりやまいでな。けっきょく、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行き着くことができたのは、ビンひとりだった……それでもな。それでもわしはまだしもしあわせだったんじゃ。生涯、世界中をうろつきまわって、とうとう|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行き着ける甲虫の戦士と出くわさなかった狂人《バム》もすくなくはないんじゃからな……甲虫の戦士は|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行くのがさだめ、狂人《バム》は甲虫の戦士を助けるのがさだめ……わしはな、そのことに文句をいうつもりはないよ。だがの、嬢ちゃん、わしは年をとりすぎた。ここらで心やすらかに死ぬ準備をはじめても、わが守護神たるビーバーはべつにお怒りにもならんじゃろうて」
グラハはあきれるほど饒舌《じようぜつ》だった。その饒舌さがかえって、彼がひどく動揺していることをあらわにしめしていた。なにか心やましいことがあるのか、自分に恥ずべきことでもあるのか……
「チャクラが苦しんでいるわ」
ザルアーが感情のない声でいった。「とても、苦しんでいるわ。自分がなにかに操られて動いていたと考えることは、あの人には耐えられない侮辱に思えるのよ。あくまでも、自分自身の力で人生をきりひらきたいと願っているんだわ……チャクラはあなたに教えてもらいたがっているわ。狂人《バム》とはいったい何なのか。狂人《バム》はなんのためにこの世に生を受けたのか……」
「あれはいい狂人《バム》だ」
「そうよ」
ザルアーはうなずいた。「いい人だわ。ずっと苦しい旅をいっしょにつづけてきたわ。だから、あの人が苦しんでいるのをみてるとやりきれないのよ……グラハ、あなたはチャクラと同じ狂人《バム》一族だわ。知ってることを、すべてあの人に話してはもらえないかしら」
「そうしてやりたいのじゃが……」
グラハはうつむき、苦しげにそうつぶやくと、しばらく地面をみつめていた。やがて、顔をあげたときには、その眼には奇妙な色が、そう、怒りに似た色が浮かんでいた。
「ただひとついえることはな」
グラハはなにか咳込《せきこ》むような調子でいった。「ただひとついえることは、この世はすべてまがいものということじゃ。まやかしだということじゃ」
「まやかし?」
「そうじゃ。いろんな土地に、いろんな神々がおる。だがの、じつはそれらはたったひとつの神≠ェさまざまに姿をかえて、現われておるにすぎんのじゃ。ある大きな目的のために奉仕する神≠ェひとつだけ……甲虫の戦士も、そして狂人《バム》も、しょせんはその目的のために操られる駒《こま》にすぎんのじゃよ。だからこそ、さだめなのじゃ」
「その目的というのはなんなの? 月《ムーン》≠とりかえすことなの」
「それは、あんたが知らんでもいいことだ」
「どうして?」
「あんたが呪術《じゆじゆつ》師だからじゃ」
グラハはなんとなくさみしげな笑いを洩《も》らした。「呪術師はな、嬢ちゃん、いまの神≠謔閧烽クっと古い神につかえておった一族の末裔《まつえい》なのじゃ。わしらがいただいている神≠ェ父親なら、あんたたちの神≠ヘいわば母親《〔註6〕》じゃ……呪術師は生まれつきこの世のしくみからはずれておってな。なにも気にせんでもええ、なんの束縛もうけておらん人たちなのじゃよ」
グラハは口をつぐんだ。しばらく、重苦しい沈黙が闇のなかによどんでいた。
「あなたはチャクラの質問に答えていないわ」
やがて、ザルアーがいった。なんとなく、なげやりなものが感じられる声だった。
「チャクラは、あのジローという名の甲虫の戦士と、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行くことになる」
グラハは眼を伏せ、ボソボソとした声でいった。「かならず、そうなる……そしたら、すべてがはっきりとわかる。なにもかも、はっきりとわかることなのじゃ」
グラハは力のない笑いを浮かべた。そして、ザルアーにかるく手をあげてあいさつすると、うなだれながら、トボトボと夜道を歩き去って行った。それは、人生に疲れ、さだめに圧《お》しつぶされた、はっきりとひとりの敗残者の姿であった。
ザルアーは闇のなかに立ちつくしていた。こころもち首をかしげるようにして、遠ざかっていく足音にききいっていた。そして、足音がきこえなくなったとたん、しなやかなネコのように、ヒッソリと走りだした。
ザルアーがグラハのあとをつける気でいるのはあきらかだった。
――ビンが両足をなげだして、地面に腰をおろしていた。
ビンはなんだか疲れたようにうなだれていた。右手で地面をまさぐり、指のあいだからこぼれる砂をみつめていた。そして、ゆっくりとその顔をあげ、けだるい声でいった。
「待っていたよ、爺《じい》さん……」
グラハは立ちどまった。しばらく、闇を透かすようにして、前方をうかがっていた。やがて、フッと奇妙な笑いを浮かべた。
「よくわしが町を出ようとしていることがわかったな」
「ながいつきあいじゃねえか」
ビンは両手をはたき、掌の砂を落としながら、やおら腰をあげた。「なあ、爺さん、あんたがなにを考えているかぐらい、わかって当たりまえじゃねえか」
「そうじゃ」
グラハはとおくをみるような眼つきになって、うなずいた。「ながい、ながいつきあいだった……わしにも、おまえがなにを考えているかわかるよ。おまえが礫《つぶて》打ちの刑≠ノあっていた女乞食を、弓で射殺《いころ》したという話をきいたとき、なにを考えているか、すぐにわかった……」
風が吹いている。風は泣き声を残しながら、沙漠をわたっていき、みしらぬ地へと走り去っていく。甲虫の戦士のように、あるいは狂人《バム》のように……
「俺を手伝っちゃくれねえか」
ビンがいった。「なあ、爺さん、いまさら俺をみすてるのはひでえじゃねえか」
「手伝えたら、と思うよ」
グラハは首をふった。「しんそこ、そう思ってる……だがな。わしももうとしじゃ。いまから、神≠ノそむくのはちょっとほねじゃて。なにしろ、お迎えがちかいからの」
「さすがは爺さんだ。よく俺の考えてることがわかったな」
「だから、いったじゃないか」
グラハはなにかわびしげな笑いを浮かべた。
「おまえが女乞食を弓で射殺《いころ》したときいたときから、なにを考えているか、すぐにわかったと……」
「俺は|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ェ憎い」
ビンはふいに激したような声でいった。「なあ、爺さん、俺はなにも甲虫の戦士に生まれたくて生まれたわけじゃねえ。あんたにしても、狂人《バム》に生まれてよかったと思ってるわけじゃねえだろう……俺は故郷《くに》の神官から、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ向かって、月《ムーン》≠うばいかえせというお告げを受けた。そうすれば、みんながしあわせになれる、とな……俺はふるいたったよ。俺はまだ十八歳だったしな。まさか甲虫を守護神にいただく戦士は、すべて|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ向かうさだめになっているなどとは思ってもいなかったからな」
「その話はきいたよ」
グラハの声はふるえていた。「何度もきかされたよ」
「何度話しても胸のなかが煮えくりかえるみてえだ……」
ビンの声はうめいているようでも、泣いているようでもあった。「そのあげくがどうだい? 爺さん、あんたはカンガルーネズミの糞を売って歩いているし、俺は鞭《むち》打ちの儀式≠フ身替わりをつとめて、ようやく生きのびているありさまだ。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノとりつかれたおかげで、俺もあんたも一生がめちゃくちゃだ。故郷にも帰れねえていたらくよ……」
「泣き言をならべるなんておまえらしくもないじゃないか。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ向かうことになったのは、わしたちに課せられたさだめだったんじゃよ。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ゥらさきに進めなかったのは、わしたちに運がなかったからじゃて」
「さだめか……」
ビンが唇を歪《ゆが》めるようにして、いった。「なるほど、俺たちの場合はこれがさだめだとあきらめることもできる。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ勝手な夢をえがいた俺たちがバカだったんだからな。いうならば自業自得《じごうじとく》よ……だがな。ダフリンの人たちはどうなる? |空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノは水もタップリある。太陽のようにひかりかがやく明かりもある。しかし、そのために|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ヘ沙漠をくいつくしているんだ。おかげで、沙漠の人間たちはまるで虫ケラみたいにして生きているんだ。シャドーフのおこぼれにあずかって、ようやく生きながらえているんだ……俺は今日、あのみじめな女乞食をみたときにはっきりと決心したんだ」
「やはりな……」
グラハは口のなかでボソボソといった。「やはり、そうだったのか。そんなことじゃろうと思って、わしはおまえと別れなければならない、と心に決めたのじゃが」
「そうよ」
ビンはうなずいた。「俺は|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠破壊してやるんだ。あれが神≠フご意志でつくられたものだとしても、俺の知ったこっちゃねえ。壊してやるんだ。うちくずしてやるのよ」
ビンの声は低く、ほとんどささやいているようだったが、しかしそこには昂然《こうぜん》としたひびきがふくまれていた。じっさいの話、ビンは神≠ノ敵対すると宣言したにひとしいのだ。これは、この時代の人間にとって、およそ信じられない行為であった。
ビンとグラハは闇のなかで対峙《たいじ》している。ビンは誇らしげに胸を張り、グラハはそれとは対照的に、悄然《しようぜん》と、いくらかうなだれながら。
「なあ、爺さん、手伝ってくれよ」
ビンがなにかねだっているような口調でいった。「あのジローと、ダフームという甲虫の戦士をうまく利用すれば、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠破壊することだってできないはずはないんだからさ」
「かんべんしてくれ……わしはもうとしじゃからの。さっきもいったように、いまさら神≠ノそむくほどの元気はない」
「ながいつきあいじゃねえか」
「かんべんしてくれ。かんべんしてくれ」
グラハはそう口のなかでつぶやきつづけながら、ビンのかたわらをすりぬけ、足早に立ち去っていこうとした。ビンは凝然と立ちすくんでいたが、ふいに腹の底からふりしぼるような声で、グラハを呼びとめた。
「爺さん」
グラハはその声にふりかえった。ゆっくりと、なにか観念したような面持ちで。
ビンの右手がひらめいた。なにか銀いろにひかるものが闇を裂き、ビンの右手からグラハの腹に、一直線にはしった。ドスッというにぶいひびきがきこえて、グラハはヨロヨロとあとずさった。そして、なんだかふしぎなものでもみるように、自分の腹をみおろした。グラハの腹にはふかぶかとナイフがささり、その柄がわずかに揺れていた。
「わしはおいぼれの狂人《バム》じゃよ」
グラハが奇妙に平静な声でいった。その唇に、微笑さえ浮かべようとしていた。「だがな。もうすこし若ければ、おそらくおまえと同じように、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠破壊しようと考えたにちがいないよ……なにしろ、わしらはながいつきあいじゃからな」
グラハの体はゆらぎ、枯れ木がたおれるように、地にくずれた。かすかにうめき、ため息をもらし、そしてなにもきこえなくなった。
ビンはフラフラと歩み寄ってきて、グラハのかたわらに膝《ひざ》をおとした。手をのばし、グラハの白髪をゆっくりとなでさすった。魂のなくなったような、うつろな声でいった。
「あんたに生きててもらっちゃ困るんだ。爺さん……万が一、ジローたちにこのことをしゃべられないともかぎらないからな。わるいが、生きててもらっちゃ困るんだよ」
そして、ふいに両手で顔を覆い、すすり泣きはじめた。不逞《ふてい》な、人を人とも思わないこの男が、まるで子供みたいな泣き方だった。
――ザルアーはほとんど四つんばいになりながら、闇《やみ》のなかをしずかにあとずさりはじめた。どちらかというと、彼女は泣いている男をみるのが苦手な質《たち》だったのだ。
ダフリンの町が眼下にみえる小高い砂丘のうえで、ジローたちは野営をはっていた。野営といっても、火をたき、それぞれ砂のうえに毛織物の布を敷いたかんたんなものだったのだが。
ルン、ルン、ルゥン……というような、細く、ひめやかな、なんとなく哀調をおびたしらべが、夜空に流れていた。ダフームが、二枚の金属板に糸をわたした、ちいさな楽器を口にくわえ、それを人差し指で鳴らしているのだ。単調なしらべだったが、それだけにそのわずかな高低が奇妙に人の心にしみいって、ときに胸をかきむしられるような、哀切きわまりないひびきへとたかまるのだった。
ダフームはべつに人にきかせるためではなく、自分の楽しみのために、その楽器をかなでているようだった。ひとりつくねんとはなれ、空をみあげながら、自分自身の想い出にひたるように、いつ終わるとも知れない曲をかなでている。おそらく、とおい故郷のこと、あるいは別れてきた人たちのことを、脳裡《のうり》にえがいているにちがいなかった。
ルン、ルン、ルン、ルゥン……
ジローは砂のうえに腰をおろしながら、ボンヤリとその曲にききいっていた。そして、ときおり、やはり離れたところにすわっているチャクラに視線を向ける。チャクラは膝《ひざ》に顔を埋めるようにして、ほとんど動こうともしない――ジローはため息をついて、顔を前方にもどす。なぜだろう? このダフリンに来て以来、チャクラ、ザルアー、そして自分の心がバラバラになってしまったように感じるのだ。チャクラはめだって寡黙《かもく》になってしまったし、ザルアーにいたっては、どこへ行ってしまったのか行方《ゆくえ》も知れないありさまだ。なぜだろう? どうして俺たちの心がバラバラになってしまったのだろう。俺たちの旅が終わりにちかづいたからだろうか。
ルゥン……ダフームの楽器が、かぼそい余韻を残して、ふいに鳴り止《や》んだ。ジローは顔をあげ、砂丘のうえにひとりの男がうっそりと立っていることに気がついた。
ビンだった。
「気がかわったよ」
ビンはなんとなく熱のない口調でいった。「俺も|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行くことにする」
ジローもダフームも立ちあがった。チャクラだけが、なんだか疑わしげな視線をビンに向け、砂のうえに腰をすえたままだった。
「ただ、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノは歩いてはいけない。沙海をわたっていかなければならないからな」
ビンが言葉をつづけた。「船を買う必要がある。銀がいくらか要《い》るよ」
そのとき、ビンのうしろに人影が浮かびあがった。
「いよいよ|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ向かって出発できるよ」
ジローがその人影に向かって、はずんだ声をかけた。「ビンがいっしょに行ってくれるそうだ」
その人影――ザルアーは微笑を浮かべた。どことなくあいまいな、謎《なぞ》めいたところのある微笑だった。
6
陽《ひ》が中天にさしかかっている。
ゴツゴツとした岩がつらなり、段をなしてふかくきれこんでいる。崖面《がけめん》はゆるやかな勾配《こうばい》をなし、白砂層と、あかっちゃけた土層が、交互に帯をえがいている。これは、沙漠《さばく》のいたるところにみられる涸谷《ワジ》のひとつなのだ。
Vの字型にきれこんだ谷には、およそ緑いろをしたものはなく、おそらくかつて水面だったと思われるあたりに、ほそく腐植土のすじが残されていて、そこにかろうじて褐色《かつしよく》のアザミがチョロチョロと生えているだけだった。
この涸谷《ワジ》には熱気がこもって、溶鉱炉さながらの暑さだった。谷底には、しろく、乾燥した岩がゴロゴロと転がっていて、まるで人骨をばらまいたみたいだった。そして、その岩のあいだに、ながながと手足をのばして、ひとりの男がたおれていた。
ちょっとみには、男は死んでいるようにみえた。しかし、注意ぶかく観察すれば、その男がモゾモゾと手足を動かしたり、ときおり肩を上下させたりしているのがわかるはずだった。しかも、死人には似つかわしくないことだが、全身にビッショリと汗をかいているのだ――これが死人だとしたら、まことにこらえ性のない死人というべきだった。
その男は、チャクラだった。チャクラはそうして涸谷《ワジ》の底に寝そべり、死人をよそおいながら、ジッと待っているのだ。なにを? |サラマンドラ《〔註7〕》が現われるのを、だ。
涸谷《ワジ》をみおろす崖縁《がけふち》に、ジローが一頭のラクダをつれて、待機していた。ジローもまた、サラマンドラが姿を現わすのを待ちかまえているのだった。
涸谷《ワジ》の底に寝そべるチャクラのうえにも、それをみはっているジローのうえにも、ひとしくつよい陽光がさしていた。まるで、彼らの体そのものが、しろい炎をあげて燃えさかっているようにみえた。
ジローとチャクラがこの涸谷《ワジ》に到着して、それぞれの位置についてから、すでに半日が経過していた。はじめのうちこそ、ジローは懸命に視線をこらして、チャクラをみはっていたが、暑さがつのってくるにつれ、しだいに注意力を集中させるのがむつかしくなっていった。そして、やがては、ただチャクラに眼を向けているというだけで、頭のなかではぜんぜん別のことを考えるようになる……
ジローはいつしかとおい日の回想にひたっていた。しきりに、死んだ父親の言葉が思いだされる――おまえは、いずれとおくまで旅することになるだろう。はるか地の涯《はて》まで、ながいながい旅を……そうだ、父さん、とジローはうなずいた。俺はながいながい旅をした。地の涯にやってきた。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ワでやってきたんだ……しかし、どうしてかジローの旅はまだまだこれからつづくような気がしてならないのだった。
ジローはついでランのことを思い浮かべようとした。ジローが死ぬほど恋いこがれ、ついには|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠めざす旅の、そのきっかけとなったいとこのランのことを……だが、これこそほんとうに奇妙なことに、ランの面影を脳裡《のうり》に思い浮かべても、あの胸がキリキリと痛むような愛《いと》しさがよみがえってはこないのだ。まるで、とおい日の、ゆきずりの人にすぎないように、あわいなつかしさをおぼえるだけなのだ。
ジローは愕然《がくぜん》とした。そういえば、もう久しくランのことを想いださないようになっている。彼女とむすばれるなら、命もいらないとまで考えていたはずのランのことを――想いださなくなっているのだ。
ふいに、神殿で稲魂《クワン》≠ェいった言葉が頭のなかをかすめた。あのとき、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行き月《ムーン》≠とりかえせば、ランとむすばれるのを許してくれるのか、と、ジローがきいた質問に、稲魂《クワン》≠ヘこう答えたのだ――そう、そのときになっても、まだおまえがランを必要とするのなら……ジローは歯をくいしばった。もし、もうランが必要でないというなら、ジローは、チャクラは、ザルアーは、なんのためにこんな地の涯まで旅をつづけてきたというのか。なんのために……
「ちくしょう」
ジローは拳《こぶし》でひたいの汗をグイグイとこすりながら、うめいた。
「ちくしょう」
そのとき、涸谷《ワジ》の底のほうでちらっとなにかが動くのがみえた。ジローの頭のなかから、父親が、ランが、稲魂《クワン》≠ェとおのいていき、すべての注意がそれにそそがれた。それ――サラマンドラに。
サラマンドラは巨大なトカゲだ。角竜《つのりゆう》のように頭に二本、鼻のうえに一本、計三本の角を持ち、性質はきわめて獰猛《どうもう》、その巨体に似つかわしくなく、動きが敏捷《びんしよう》なことで知られている。サラマンドラもまた、沙漠で生きるためには、地下生活者とならなければならなかった。サラマンドラの前肢《まえあし》はシャベルのように厚く、生来、トンネル掘りの素質をそなえているのだ。そして、なにより、その黄いろい斑点《はんてん》のある、まっくろで、なめらかな皮は、沙漠の人たちのあいだでは得がたい宝物として知られているのだった。
サラマンドラは岩のうえにジッとうずくまり、チャクラのほうをうかがっている。その太い尻《し》っ尾《ぽ》を鞭《むち》のように左右にふり、口からはチョロチョロと舌をだしている。眼はうすい膜がかかったようににごっていた。おそらく、第三の眼でチャクラをしさいに観察しているにちがいなかった。
チャクラがわずかに顎《あご》をあげて、上眼《うわめ》づかいにサラマンドラをみた。ため息をつき、ふたたび眼をとじ、死んだふりにもどる。よほど居心地がわるいのか、もじもじと体を動かすどあいがふえたようだ――むりもなかった。優秀なトンネル掘りであるサラマンドラは、岩をかみくだく頑丈《がんじよう》な顎をもっているのである。
意を決したように、サラマンドラがスルスルとチャクラにちかづきはじめたとき、すでにジローはラクダを駆って、崖面を一気に走りおりていた。
ラクダのひづめが乾いた土くれをくずし、おびただしい数の小石を、サラマンドラの体のうえにおとした。サラマンドラは背筋をそらし、上方をキッとにらみつけた。そして、いやらしいほどあかい口をひらき、威嚇《いかく》するように鳴いた。
シャーッ、シャーッ、シャーッ……
チャクラがついに耐えかねたというように、跳ね起き、サラマンドラと反対の方向に走りだしていった。すかさず、サラマンドラは尻っ尾をふりながら、チャクラのあとを追おうとする――チャクラとサラマンドラのあいだに、ジローがラクダをのりいれ、大声でさけんだ。
「チャクラ、ラクダに乗れ」
しかし、ジローはあまりにサラマンドラをあまくみすぎていたようだ。サラマンドラは首をのばし、舌をまるめ、ツバをラクダめがけてとばしたのだ。シャーッ、シャーッ、シャーッ……
つづけざまに爆発音がきこえた。サラマンドラのツバは、文字どおりいかずちの矢だ。そのツバは炎を発し、くろい煙をあげ、当たったものを焼きつくすのだ。
ジローは体を低め、かろうじてツバの襲撃をかわすことができたが、ラクダはもろに横腹を灼《や》かれたようだ。悲しげにいななきながら、膝を折り、背中のジローを宙に放りだした。ジローはクルリと一回転し、サラマンドラの胴体のうえにおりると、剣を抜きはらいざま、その背中にきりかかった。カキィーンという鋼《はがね》を打ち鳴らすような音がきこえて、剣がたかくはねあがった。
一瞬、ジローは呆然《ぼうぜん》とサラマンドラの体のうえに立ちつくしていた。戦士であるジローには、剣の通用しない生き物がこの世にいるということが、どうしても理解できないのだ。
「ジロー」
チャクラの声にハッとわれにかえったジローは、サラマンドラの背中をつよく蹴《け》り、大きく宙に跳躍した。間一髪の危機というべきであった。サラマンドラが首をひねり、ツバを吐きかけるのが、ほとんど同時だったのだから。
ジローは両膝をまげて、地におりたち、ゴロゴロと横転して、つづくサラマンドラのツバの襲撃をかわした。地面にあたったツバは、ピシッ、ピシッという空気を裂くような音をひびかせ、炎を燃えあがらせた。
要するに、とてもたちうちのできるような相手ではなかった。身のかるいジローにしてからが、サラマンドラの燃えるツバをかわすのが精いっぱいだったのだ。
「逃げよう、はやく逃げよう」
ひと足はやく、サラマンドラのツバの射程距離外に逃がれでたチャクラが、岩のかげから顔をのぞかせて、わめいていた。
もちろん、逃げなければならない。最初から、そういう手筈《てはず》になっていたのだから。しかし、――ジローは走りだし、いったん足をとめて、ラクダをふりかえり、舌打ちしてから、また走りだした――計画では、ラクダにうちまたがって逃げることになっていたのだが。
――沙漠がひろがっている。だいだい色の陽光につつまれ、熱せられた大気がフウセンのようにふくれあがり、ただもういらだたしいだけの沙漠がひろがっている。
その沙漠のうえを、ふたつのちいさな黒点のようになって、ジローとチャクラが走っている。いや、彼らの気持ちのうえでは、走っていることになるのだろうが、外見《そとみ》にはその足どりはじつに頼りなく、まあ、歩いているといったほうが正確なようだった。
これは、かならずしも彼らが体力的に劣っているからではない。真昼の沙漠を走り抜けようなどと考えるのは、それこそ気違い沙汰《ざた》で、自殺行為にひとしいからだ。体力を急速に消耗《しようもう》して、日射病で果てることになるのは眼にみえている。その意味では、彼らが歩いているのは、むしろ賢明といえた。
だが、サラマンドラに追われている場合には、多少、事情がことなってくるのも、やむをえないと思われる。なにしろ、サラマンドラは火のなかから生まれ、石をくらうとされている怪物なのだ。生態系が荒廃し、破壊されたこの沙漠において、しぶとく生き残っている大トカゲなのだ。サラマンドラに追いつかれたら、まず、ふたりに生きのびるチャンスはないとみなければならない。
じつに、ジローとチャクラのふたりは、沙漠を走り抜けて日射病にかかるか、それとも足をとめてサラマンドラに食べられるかの、きびしい二者択一をせまられていたのであった。
「もうだめだ。すこし休ませてくれ」
ついに、チャクラがねをあげた。喉《のど》をゼイゼイと鳴らしながら、足をもつれさせ、そのまま地面にくずれてしまった。その大きく上下させている胸が、いかにも苦しげだった。
ジローも両手を膝のうえにおき、体を曲げて、しばらく息をととのえていた。そして、あえぎながら、いう。
「あまりながいあいだ休んでいると、サラマンドラに追いつかれちゃうよ」
「かといって、このまま走りつづけていたら、サラマンドラを罠《わな》にさそいこむまえに、こちらの心臓が破れてしまう」
チャクラは笛を鳴らすような笑い声をあげた。「なに、奴の足は人間より遅い。すこしぐらい休んでも大丈夫さ」
「だけど、あいつは疲れないよ。絶対に、疲れないんだ」
とはいっても、ジローもやはりすぐには動きだせそうな状態ではなかった。息がふいごを鳴らしているようにあらく、裸の胸に流れる汗がしろく湯気をたてていた。
「疲れないったって、あいつだって同じ生き物じゃねえか……」
チャクラが苦しい息の下から、きれぎれにいった。「こんな沙漠をそうそう自由に走りまわれるはずがねえ」
だが、それはあまりにも楽観的な考えというべきだった。サラマンドラはこの苛酷《かこく》な沙漠に適応した数すくない生物なのだ。その頑強《がんきよう》さ、獰猛《どうもう》さは、ほかに類がなく、しかも食糧にとぼしい沙漠では、いったん狙《ねら》った獲物《えもの》は絶対にとり逃がしてはならない、というかっこたる信念の持ち主なのであった。
「…………」
ジローはふいに顔をあげた。全身の毛穴がそうけだつような感覚をおぼえたのだ。それは、あの地中にひそんでいた大蜘蛛《ミルメコレオ》が忍び寄ってきたときと同じ、なんとも形容しがたい、いやな感じであった。
ジローは剣を抜き、一閃《せん》させた。爆発音とともに、剣のほそい刀身に炎がはしった。ピーンという澄んだ音が鳴りひびき、硫黄《いおう》みたいなにおいがツンと鼻をついた――ジローは自分の反射神経に大いに感謝してしかるべきだったろう。無目的にふりまわした剣が、あろうことか、サラマンドラの炎のツバをかわしたのだ。
「逃げろっ」
ジローがチャクラにそうさけんだときには、すでにサラマンドラが地表をつきあげ、押しやぶり、その醜い姿を現わしていた。シャーッ、シャーッ、シャーッ……
炎のツバがふりかかってくる。灼《や》けた飛沫《しぶき》がとんでくる。小爆発がたてつづけに起こり、熱い煙が眼をたたく――ジローは右に左に剣をふるい、サラマンドラのツバをかわしながら、あとずさりしている。脇腹《わきばら》に火傷《やけど》をおったらしく、ヒリヒリと痛んだ。
サラマンドラが尻っ尾で地面をたたき、大きく跳躍したのと、ジローが身をひるがえして逃げだしたのとが、ほとんど同時だった。ガキンという鉄罠《てつわな》のかみあわさるような音が、すぐ耳のうしろできこえた。ほんとうに指一本の差で、ジローは頭をちぎりおとされないですんだのだ。
ジローは走った。チャクラも走った。ふたりはそれこそものもいわないで、沙漠を走り抜けていった。
しかし、人間の体力にはかぎりがある。やがて、ふたりは顎《あご》をだし、その足もふらつくようになった。唇がはれあがり、全身にしろく塩がこびりついていた。
「だめだ」
チャクラが砂のうえにくずれ、悲痛な声をあげた。「もうこれ以上、一歩も歩けない……」
ジローは喉《のど》の底で獣めいたうなり声をあげた。じっさいに、いまのジローは獣も同然だった。追いつめられ、ろくにてむかうすべもない獣だ。
極度の疲労が、ガクリとジローの膝《ひざ》を折らせていた。眼のまえにあかくカスミがかかったようになっていた。血液が頭のなかで熱く沸騰していた。
――ラクダさえうしなわなければ……ジローはガンガンと痛む頭でそんなことを考えていた。ちくしょう、ラクダさえうしなわなければなあ……ジローはしばらく、砂のうえにジッとうずくまっていた。地の底に沈みこんでいくような、ふかい、ふかい疲労をおぼえた。
あの音がきこえてきた。シャーッ、シャーッ、シャーッ……ジローはうずくまったままの姿勢で、しっかりと剣をにぎりしめた。そして、人形のようにギクシャクとした動きで、ようやく立ちあがった。剣が、鉛の棒みたいに重く感じられた。剣を持っているのが精いっぱいのことで、とてもふりまわす余力などありそうになかった。
重いなあ。なんて重いんだ……ジローはかすむ眼で、沙漠をみすえた。沙漠は強烈な陽光のなかに、しろく浮かびあがり、二重、三重にだぶって、漂っているようにみえた。そして、そんな沙漠にあの音だけが大きく、しだいに大きく、鳴りひびいていた。
シャーッ、シャーッ、シャーッ……
とつぜん凶暴な、自暴自棄の衝動が、体のうちに激しくうねるのを感じた。ジローはなにごとかわけのわからないことをわめきたてながら、剣を頭上にふりかざし、しゃにむに走りだそうとした。
チャクラが横あいからジローの体にぶつかってきた。ふたりの体はもつれ、砂のうえにころがった。なおもわめきたてようとするジローの肩を、チャクラが力いっぱい地面に押しつけ、いった。
「おちつくんだ。ジロー、おちつけ」
ジローはうつろな眼でチャクラの顔をみあげている。やがて、その眼にゆっくりと、理性の光がよみがえってきた。チャクラの手をつかみ、ソッと自分の肩からはずし、低い声でいった。
「俺はどうかしていたようだ。もう大丈夫だよ」
それから、首を起こし、すぐ脇に生えているアザミが、パチパチと音をたてて燃えさかっているのを、ふしぎそうにみつめた。
「俺が火打ち石で火をつけた。乾ききっているから、よく燃えるよ」
チャクラがブルンと掌で顔をなでおろしてから、いった。その声にも疲労のひびきが重くよどんでいた。
「なあ、あのサラマンドラは土のなかから、第三の眼で俺たちの体温を感じとって、あとをつけてくるんだろう。だったら、火が燃えていたら、しばらくは俺たちをみうしなう理屈じゃないか」
「ああ……」
ジローはうなずいたが、チャクラの言葉を完全に理解できたわけではなかった。チャクラの顔から、勢いよく燃えているアザミに視線をうつした。しばらく炎をみつめていて、ふたたびチャクラに眼をもどした。それからもういちど、こんどはやや力づよくうなずいた。
「ああ……」
とにかく、あのいやな音がきこえなくなっていることだけは事実だった。
「さあ、火が燃えているあいだに、すこしでもさきへ進もうぜ」
チャクラがジローの胴に腕をまわして、ふたりはもつれあうようにして立ちあがった。そして、ノロノロと歩きはじめる――たしかに、アザミが燃えているあいだは、サラマンドラはめくらになってしまい、ジッと地中にうずくまっているだろう。しかし、アザミが燃えつきたとたん、ふたたび追跡を開始するにちがいない。
なにしろ、サラマンドラは絶対にあきらめることを知らないトカゲなのだから。
ジローたちは、しだいに自分たちが悪夢のなかにいるような錯覚にとらわれはじめていた。
化《ば》け物に追われ、逃げても、逃げても、体がまえに進まないあの悪夢だ。泥のなかでもがいているようなもどかしさと、恐怖をともなった悪夢だった。
じっさい、ジローとチャクラは、肉体的にも精神的にもギリギリまで追いつめられていた。サラマンドラはあせらず、疲れず、しかし着実に距離をつめていた。追跡される身にとって、これほどいやな相手はいない。それこそ、首に縄《なわ》をかけられ、その輪がゆっくりとちぢめられていくのにひとしかった。
ジローとチャクラは砂のうえにつっぷして、もうほとんど動こうとしなかった。精根つきはてたというふうであった。彼らの裸の背中を、つよい陽光がカッと射《い》っていた。
シャーッ、シャーッ、シャーッ……あのいやらしい鳴き声がきこえてきて、地面を割って、サラマンドラが顔をのぞかせた。しばらく獲物の様子をうかがっているようだったが、安心したのか、やがてノッソリと地上に姿を現わした。そして、わずかに首をふるようにして、ジローたちにちかづいてくる。
そのとたん、体力、気力をつかいはたしていたはずのジローが、ふいにゴロゴロところがった。いまのいままでジローがたおれていた地面をたちわるようにして、ひとりの巨漢がヌッと上半身をあらわした。頭から、肩から、砂が滝みたいにながれおちていく。
『クワッ』
サラマンドラの第三の眼をもってしても、人間の体の下に砂を掘り、もうひとりべつの人間がひそんでいることまではみぬけなかったようだ。よほどおどろいたらしく、ツバをとばすことも忘れて、ただそのあかい口をあけて威嚇《いかく》しただけだった。
男――ダフームは手にしていた槍《やり》を、すかさずサラマンドラの口にたたきこんだ。サラマンドラのサーベルのような牙《きば》が、上下からガキッとその槍をはさみこむ。次の瞬間、ダフームは槍の柄を両手で支えながら、サラマンドラの巨体を宙に跳ねあげていた。
ダフームの怪力に、絶妙のタイミングが加わって、はじめて可能になったことであった。サラマンドラの体は、ダフームの頭上をとびこえ、弧をえがいて、下に落ちていった。そして、地ひびきとともに、砂の斜面に頭からつっこんだ。
砂がくずれ、サラマンドラはズルズルと斜面をすべりおちていった。しきりにあがいているのだが、どうしても巨体を支えることができないでいるようだった。よほどろうばいしているらしく、まったく無意味に、ツバを吐きちらしている。砂の斜面いたるところに、小爆発が起こった。
サラマンドラのあるかなしかの、暗闇《くらやみ》にとざされた頭脳では、自分がどんな窮地におちいったか、理解できるはずがなかった。いや、だいたい、自分が窮地におちいっていることを、意識しているかどうかさえ怪しいものだった。彼は自分のたぐいまれなる生命力に、絶対の自信を持っているにちがいないからだ。
しかし、それでもなおサラマンドラが窮地におちいっているのは事実だった。たしかに、サラマンドラは沙漠に適応した優勢種にはちがいないが、それをいうなら、大蜘蛛《ミルメコレオ》もサラマンドラにまさるともおとらない強力な種《しゆ》なのである――ミルメコレオの巣にさそいこまれたサラマンドラは、糸に足をとられて、すでに体の自由がきかなくなっていた。
キチッ、キチッ、キチッ……あの鋼《ハガネ》をうち鳴らすような音とともに、ミルメコレオがその毛むくじゃらの姿を現わし、サラマンドラに向かって、ゆっくりと這《は》い進んでいった。
ミルメコレオの巣穴のふちに四人の男が立ち、クモとトカゲの死闘を見物していた。ジロー、チャクラ、ダフーム、そしてビンの四人だった。
「どうだい、うまくいったじゃねえか」
ビンが得意そうにいった。「これであとは、ミルメコレオがサラマンドラを始末してくれるのを待てばいいんだ」
「まあ、たしかにうまくはいったがね」
チャクラがなんだかけだるそうな声でいった。その眼の下にはくろく隈《くま》ができ、頬《ほお》もゲッソリとおちくぼんでいた。「あいつをミルメコレオの巣にさそいこむどころか、何度も追いつかれそうになって、危うくこちらがやられるところだったんだぜ」
「ラクダを死なせるなんて、バカな失敗をおかすからだ」
ビンがうすく笑いを浮かべた。
「まあ、いいじゃねえか。これで、ミルメコレオがサラマンドラの肉を始末してくれる。そしたら、巣穴におりていって、サラマンドラの皮を剥《は》げば、すべてかたがつくんだ……なあ、サラマンドラの皮は高く売れるぜ。沙海《さかい》をわたる船ぐらい、かんたんに買えるさ……苦労したかいがあったというものじゃねえか。なあ、そうだろう」
ジローは砂のうえにうずくまり、ふしぎなものでもみるように、右手の指をみつめていた。指はふるえていた。
たとえ、それがどんなに強力な敵であろうと、剣でわたりあえる相手なら、ジローはいささかも戦うのをおそれはしない。だが、剣がまったく通用せず、しかもただ逃げまわるばかりだったこんどの戦いは、ジローをしんそこから消耗《しようもう》させていた。ジローが剣をなによりたのみとする戦士であるだけになおさら、その恐怖は大きなものであったにちがいないのだ。
「ああ……」
しかし、ジローはビンの言葉にうなずき、奇妙にものうい声でいった。「これでようやく、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ出発できるな」
7
沙漠をはるか上空、そう、成層圏のあたりからみおろせば、はっきりと二色にわかれているのがわかるだろう。一方は、やや黄いろがかった褐色《かつしよく》、もう一方は鉛いろのドンヨリとしずんだ色である。
それはもう、だれか眼にみえない巨人が定規《じようぎ》で線をひいたように、はっきりと二色にわかれているのだ。黄いろがかった褐色のほうは沙漠、その北西の端にダフリンが位置している。そして、鉛いろのドンヨリとしたほうが沙海、これからジローたちがめざそうとしている場所であった。
沙漠と沙海のくぎりは、崖《がけ》のようにおちこんでいる。沙漠が切岸縁《きりぎしぶち》みたいに垂直におちこみ、すぐ眼の下から、もう鉛いろの沙海がえんえんとひろがっているのだ――おそらく、かつて沙海は広大な盆地ではなかったかと思われる。その盆地に、サラサラと粒子のこまかい、まるい砂《〔註8〕》がふりそそぎ、しだいに埋まっていき、やがて茫漠《ぼうばく》とひろがる沙海になったのではないか。
この地球上に、これほど単純な風景はほかにないにちがいない。一方には沙漠、もう一方には沙海、ともに視線をさえぎるものもなく、地平線のかなたまで、ただノッペリとひろがっているだけなのだ。
沙海を左手にみながら、沙漠を旅する者は、自分が天地のあわいに放りだされた一個の点にすぎないような、なんとも頼りなく、心細い気持ちにおちいるのだった。
――ジローたちもまたその例外ではなかった。一行五人、沙海の境界線にそって、旅をつづけているうちに、いつしか口も重くなり、ただ黙々と歩を進めていくのであった。
沙漠を旅する者にはありがたいことに、今日の空は厚く雲にとざされていた。雲のきれめから差している日の光が、沙海のとおい一点を、だいだい色に浮かびあがらせていた。
五人の旅人をのぞいて、まったく動くもののない、銅版画《エツチング》の世界だった。ほとんど物音もきこえてこないが、ただ風が吹きすぎていくたびに、澄んだ、ガラスをふるわせるような音が沙海からつたわってきた。ピィーン、ピィーン、ピィーン……その音は厚い雲にこだまし、沙海に余韻を残し、ちいさく、ちいさくなっていき、やがてプツリととだえる。それは、いうならばこの沙海の海鳴りのようなものだった。
先頭にたって歩いていたビンが、その足をとめた。しばらく、前方に視線をこらしていたが、やがてなんだか疲れたような声でいった。
「港に着いたぜ。船がみえるだろう」
ほかの四人も、ビンにならって前方に視線をこらした。なるほど、たしかにとおく、なにか三角の影のようなものがボンヤリと浮かびあがっていた。曇り日のあわい陽光のなかで、それはひどくはかなげな、たよりないものとして眼に映った。
「行こう。もうすぐそこだ」
ビンの言葉に、一行はふたたび歩きはじめた。自然に足がはやくなっていた。
――大きな縦帆船《スクーナ》が崖に舷側《げんそく》を寄せるようにして停泊していた。
よほど年月を経たものらしく、船体は灰いろにくすみ、帆桁《ほげた》は奇怪な形にねじまがっていた。帆柱にはられている綱が、老人の白髪のように、だらしなく風に揺れていた。前方につきだしている舳先《へさき》は、塩にそうとう痛めつけられたらしく、いまにも折れそうに、たよりなくみえた。
「こいつに乗らなければいけないのか」
チャクラがなんだか疑わしげな声でいった。
「ほかに|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行く方法はないよ」
ビンは断定的な口調でそういい、砂丘のかげにみえている建物に向かって、歩きはじめた。
ジローとダフームはだまってビンにしたがった。彼ら甲虫の戦士≠スちにとって、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠目前にしたいま、船が老朽化《ろうきゆうか》していることなど、問題とするに当たらないようだった――ザルアーはチャクラをふりかえり、ちょっと苦笑を浮かべてから、みんなのあとにしたがった。チャクラひとりがなおもまだグズグズとためらっていたが、やがてあきらめたように歩きはじめた。
それは奇妙な建物だった。塩と泥をこねあげてつくった粗雑な建物にはかわりないが、奇妙なのはその壁の色彩だった。ちょうど子供が悪戯書《いたずらが》きをしたように、赤、青、紫、黄いろなどの色彩が塗りたくられていて、およそそこには調和というものが欠けていた。
毒々しく、たがいに反撥《はんぱつ》しあっているような色彩が塗りたくられた建物には、しかしそれなりの魅力がないでもなかった。もしかしたらそれは、単調で、苛酷な沙漠で生きなければならない者たちの精いっぱいの生命力の発露、うめきのようなものであるかもしれなかった。
建物のなかには、数人の男たちがたむろしていた。男たちはあるいはあぐらをかき、あるいは寝そべり、いずれも自堕落な印象をただよわせていることでは共通していた――ジローたちが足をふみいれると、男たちはいちように視線を向けたが、さして興味をいだいたわけではなさそうだった。敵意もないが、かといって歓迎しているという風でもなかった。要するに無気力なのだ。
「あの船の船長はいるか」
ビンが男たちにタウライ語できいた。
「おう……」
ムックリとひとりの男が身を起こした。上着《カフタン》のまえをだらしなくはだけた肥《ふと》った男だった。裸の胸にみぐるしいほど汗をかいていた。
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ワで俺たちをつれていってもらいたい」
ビンがそういうと、男たちのあいだにドッと笑い声が起こった。なんだかあざけっているような、ウンザリとした笑いだった。
「やれやれ、また甲虫《かぶとむし》の戦士か」
船長は首をふり、いった。「わしたちは何度も甲虫の戦士を|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ワで運んでいったがね。だからといって、世の中がなにひとつかわったわけでもないし、わしたちもお宝をいただいたためしがない。どうして、甲虫の戦士ってやつは、どいつもこいつもああもすかんぴんなんだろう。それで船を動かしてくれというんだから、図々《ずうずう》しい話さね。まったく……ごめんだな。わしたちはもう|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノは行きたくない」
「報酬ははらうよ」
「なにをくれるというんだ?」
男たちのひとりがまぜっかえすようにいった。「うしろのべっぴんさんでも渡してくれるというのかね」
男たちはふたたび笑い声をあげた。いかにも好色そうな、あけっぴろげな笑いだった。船長がいちばん嬉《うれ》しそうに笑っていた。
「…………」
ビンはダフームに眼で合図した。ダフームはうなずき、大きな背嚢《はいのう》を床におろすと、そのなかからサラマンドラの皮をとりだした。
一瞬、感嘆ともため息ともつかないどよめきが、男たちのあいだを走った。光りかがやくサラマンドラの皮は、この陽気な男たちからいっさいの言葉を奪ってしまったようだった。男たちは眼をまるくし、息をとめながら、サラマンドラの皮をみつめていた。
「これが報酬だ」
ビンがしずかな声でいった。
「その話に……うう、のった……」
船長がうめくようにいった。「明日の朝、船をだす」
――地平線にたなびく雲をだいだい色に染めながら、朝陽《あさひ》がゆっくりと昇ってくる。
くらく、ただノッペリとひろがっていた鉛いろの沙海に、光の箭《や》が走り、やがてキラキラと青い光を放つようになる。朝のやわらかな風にも、沙海は敏感に反応し、澄んだ音を何重にも鳴りひびかせながら、その青い光を波のようにうねらせているのだった。
「働け、働け、この罰《ばち》当たりどもが! 背骨が折れるまで、はらわたがとびでるまで、働きやがれ! てめえら、それでも男か! ふんばれ! すっとべ!」
船長のだみ声が朝の大気をつんざく。男たちは口々にののしりかえしながら、揚錨《ようびよう》機を回していく。帆柱にのぼっていく。
「やいやい、酒をくらって反吐《へど》をはいたか! 女を抱いて腰がぬけたか! 働きやがれ! ふんばれ! 眼《め》ん玉から火が出るまでふんばりやがれ!」
ついに錨《いかり》が片付き、帆がはられる。そして、縦帆船《スクーナ》は鎖から放たれた犬のように、スルスルと沙海のうえを滑りはじめる。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ向かって……
船足はじつに早かった。
沙海をおおうコンドライトには、まったく抵抗というものがない。ちょうどころのうえにおかれているようなものだ。ほんのわずかな力が加わっただけで、船は勢いよく走りだすのだった。
――ジローは舳先のうえに立ち、ジッと前方の沙海をみつめていた。その眼には、船出の喜びはなく、なにがなしとまどったような色が浮かんでいた。
「なんだか嘘《うそ》みたいだ……」
やがて、ボツリとつぶやくようにいった。
「ほんとうに、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行くことになるなんて、嘘みたいだ」
ジローのうしろには樽《たる》がころがっていて、そのうえにダフームが腰をおろしていた。ダフームは船にそなえつけられている銛《もり》を手にとって、しきりにいじりまわしていたが、ジローの言葉に顔をあげた。しばらく、ジローのうしろ姿をみつめていたが、
「あまり嬉しくなさそうじゃないか」
いつもの穏やかな声でそういった。
「旅がながすぎた」
ジローはふりかえり、掌でブルンと顔をなでおろした。「いざ|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠目前にしても実感がわかない。それに……」
「それに?」
「へんに思うかもしれないけど、なんだか怖いんだ」
ジローは泣き笑いのような表情を浮かべた。「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠みつけて、月《ムーン》≠とりかえすために、これまで苦労してきた。ほんとうに月《ムーン》≠とりかえしたら、もう俺にはやることがなくなっちゃうんじゃないだろうかと思って……怖いんだ。あんたは怖くないのか」
ダフームはジローから顔をそむけるようにして、沙海に視線を向けた。しばらく、そのまま沈黙していたが、やがて重い口調でいった。
「考えないことにしている……俺は子供のころから、ただ|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノいつの日か行かなければならないということだけを教えこまれてきた。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行くのが、甲虫の戦士である俺のさだめだと教えこまれてきたんだ……|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行って、それからさきどうするか、考えたこともない。いや、考えないようにしているんだ……」
「…………」
ジローは眼を伏せ、ふたたび沙海に顔をもどした。そのあと、ふたりの甲虫の戦士は黙りこくったまま、いつまでも沙海をみつめていた。
――物蔭に立ち、ふたりの会話を盗みぎいていたチャクラは、ソッとその場をはなれた。そして、なんだか力のない足どりで、トボトボと艫《とも》のほうに歩いていった。彼の表情もまた、心なしか憂鬱げであった。
――縦帆船《スクーナ》の帆は風をはらみ、沙海のうえを走り、さらに走り、走りつづけた。陽はゆっくりと空をめぐり、地の果てにしずみ、そして二日めの朝がきた。
今朝、舳先《へさき》のうえに立ちはだかり、沙海をみつめているのはビンだった。なにを考えているのか、ビンの眼はくらく、口のまわりにしわがよっていた。
背後に人の気配がした。
ビンはふりかえり、口のなかでなにごとかつぶやくと、その場をたち去ろうとした。
「わたしを避けているみたいね」
ザルアーがいった。「どうしてかしら」
「…………」
ビンは立ちどまり、あらためてザルアーをみつめた。その顔はまったくの無表情だったが、口のまわりのしわがいっそう深くなったようにみえた。
「べつに避けているつもりはない」
やがて、ビンがボソリといった。「俺はだれともあまり気があわない質《タチ》なんだ」
「そうなの。おかしいわね……」
ザルアーの眼をちらと笑いがかすめた。その髪が風になびき、なんだか彼女を巨大な鳥のようにみせていた。美しいが、しかしどことなく翳《かげ》のある鳥だ。
「なにがおかしい?」
「そんなにあなたが人嫌《ひとぎら》いなら、どうしてわたしたちの仲間に加わったのかしら」
「それは俺が甲虫の戦士だからだ」
ビンの口調は吐きすてるようだった。「くそいまいましいことに、甲虫の戦士だからだよ」
「ちがうわ」
「なに」
「あなたは嘘をついているわ」
ザルアーはビンに顔を寄せて、その眼をのぞきこむようにした。「わたしは、あの女|乞食《こじき》が死んだとき、あの場にいたのよ。あなたがどんなつもりで女乞食を射殺《いころ》したのか、わたしにはわかっているのよ」
「…………」
このしたたかな男にはめずらしく、ビンはややたじろいだようだった。とびすさるみたいにして、ザルアーから数歩はなれると、しゃがれた声でいった。
「気にいらなかったからだ。俺はあんな惨《みじ》めな人間をみると、無性に肚《はら》がたってくるんだ。だから、始末をつけてやったのよ。それだけのことだ」
「あなたは嘘をついているわ」
ザルアーはくりかえした。その自信タップリな口調には、巫女《みこ》がお告げをつたえるときのような、どことなく神がかったひびきがあった。
ビンはさらに数歩後退した。そして、眼をすっと細くして、疑わしげにいった。
「おめえは呪術師か。呪術師だったのか」
「あのとき、あなたは怒り狂っていたはずよ。あんなにも人間を惨めなままに放置しておく神≠ノたいして……さだめにたいして……そして、おそらくは|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノたいしても……」
ザルアーはキッパリとビンの質問を無視した。その口調はますます呪詛《じゆそ》めいて、なんだかそこから悲しみがふきあげてくるようだった。「そんなあなたが、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行ってなにをしようというの? 自分ひとりが選ばれた存在となって、それでよしとするの。そんなはずはないわ。わたしだけはだませないわよ」
たたきつけるようなザルアーの声に、ビンはヨロヨロとあとずさり、右手を一閃《せん》させて、ナイフをとりだした。さしものビンも冷静さを逸してしまったらしく、なかば反射的に、ナイフを抜いてしまったようだった。ビンのその動きを、ザルアーはつづく一言で制してしまった。
「わたしもあなたと同じなのよ」
「…………」
一瞬、ビンはナイフを手にしたまま、その場に立ちすくんだ。とっさには、ザルアーの言葉がなにを意味しているか理解しかねたらしい。
「わたしもあなたと同じなのよ」
ザルアーの声は一変して、冷静な、しずかなものとなっていた。「あなたと同じことを考えているのよ」
「どうしてだ……」
ビンは混乱したようにいった。「おめえはジローやチャクラと仲間じゃないのか。ずっといっしょに旅をしてきたんじゃないのか」
「…………」
ザルアーはビンの顔から視線をそらし、沙海《さかい》をみつめた。あきらかに、その質問に答えるのを避けたがっていた。そして、ちいさな声をあげると、ビンの肩ごしに、沙海に向かって指を差した。
「あれはなにかしら」
ビンはふりかえり、ザルアーの指差す方角に視線を凝らした。
地平線の一点に、なにかとてつもなく大きなものが浮かびあがり、ゆっくりと移動していた。あまりに彼方《かなた》にあるため、ボンヤリとした影にしかみえなかったが、それでもひとつの島が動いているような、その並はずれた大きさだけははっきりとみてとれた。
「『創世記』とかいういにしえの書に、こんな言葉が残されているそうだ……神、巨《おおい》なる鯨《くじら》を創《つく》りたもう……」
ビンは口の端に奇妙な笑いを浮かべて、いった。「あれは|バハムート《〔註9〕》≠セ。神がお創りになった怪物さ」
――縦帆船《スクーナ》はさまざまな人のさまざまな思いを運び、沙海をわたっていく。ふたたび陽は空をめぐり、地の果てに没する。そして三日めの朝がおとずれたとき、ついに前方に、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ェみえてきたのだった。
――やはり島と呼ぶべきなのだろうか。
沙海に浮かびあがっている|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フ影は、クッキリと四方形をなしていて、その輪郭にはどこもあいまいなところはみられなかった。たとえていえば、巨大な、おそろしく巨大な煉瓦《れんが》がひとつ、ポンと沙海のうえにおかれているみたいなもので、自然にできあがった島とはとうてい思えなかった。
陽は激しく空を灼《や》き、沙漠《さばく》はだいだい色の陽炎《かげろう》のなかで揺らめいていた。そんな熱と光の風景のなかで、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠セけが奇妙な透明感をたもち、氷の島のように凍ってみえた。この沙漠においては、きわめて異質な島というほかはなかった。
帆柱をたてた短艇が沙海のうえにおろされ、そこに五人の男女がのりこんだ。ジロー、チャクラ、ザルアー、ダフーム、ビンの五人だった。
「明日の朝までここで待っている。それまでに戻《もど》ってこなければ、遠慮なく帰らしてもらうぜ」
船長は船のうえからそう大声でいうと、サッと右手をふりおろした。ナイフが陽光にきらめき、母船と短艇をむすんでいた綱が切っておとされた。短艇の帆は風をいっぱいにはらみ、――そして、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ向かってスルスルと走りだした。
短艇が接近していくにつれ、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ヘ五人の眼にますますその異様さをあらわにしていった。
四周の崖《がけ》はきっちり九十度をなして、沙海のうえにきりたっている。いや、崖と表現すること自体、誤りであるかもしれない。その表面はふかい藍《あい》いろに沈み、冷たい金属の光沢を放っているからだ――それに、下からみたかぎりでは、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フうえはまったくの平坦《へいたん》になっているようだ。断じて、自然物ではありえなかった。
短艇は沙海のうえを滑っていく。
|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ヘしだいに視界をおおっていき、やがては暗い影が五人の頭上にのしかかるようになった。
|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠みつめる五人の眼には、いちように決意の色がみなぎっていた。
なにを決意したかは、五人てんでに異なるようではあったけれど……
8
――自殺者の森≠ヘいまだかつてジローたちのみたことのない森だった。
ジローたちの眼には、それは鉄屑《てつくず》のかたまり、奇態にねじまがった鉄の尖塔《ストウーパ》にしかみえなかった。くろい粘土を不器用に積みかさねたような樹《き》が、にぶい金属光沢を放ちながら、ニョキニョキと空にのびているのだ。しかも、自殺者の森≠ヘよほどふところがふかいらしく、ほとんど日の光もさしこまないぐらい樹々が密生し、ぶ厚く視界をさえぎっていた。
自殺者の森≠ヘこの島の全幅にわたっているようだった。自殺者の森≠迂回《うかい》するすべはなく、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれるためには、この森をつっきるしか方法はないということだった。
「つまり、この自殺者の森≠ヘ甲虫《かぶとむし》の戦士に与えられた試練というわけだ」
ビンがいつもの皮肉な口調でいった。「言葉をかえれば、この森を通り抜けることのできないような人間は甲虫の戦士たる資格がないということさ」
「…………」
ジローたちはたがいに顔をみあわせ、あらためて前方の自殺者の森≠ノ視線をなげかけた――なるほど、たしかにひどく異質な森ではあった。たとえていえば、くろい牙《きば》をビッシリ埋めたような森で、生命の息吹《いぶ》きみたいなものはまったく感じさせない。数メートルに達する金属質の樹々が、ただ無表情にならび、みわたすかぎりひろがっているだけなのだ。
「俺《おれ》はこの森は嫌いだ」
ダフームがいぶかしげにいった。「だけど、通り抜けるぐらいはなんでもない。獰猛《どうもう》な生き物もいる様子はないし、べつに危険はないんじゃないか」
「危険はないか……」
ビンがうすい笑いを浮かべた。「まえに俺がここに来たときには、甲虫の戦士がひとり自殺者の森≠ナ死んでいるんだぜ」
ほかの四人はふたたび顔をみあわせた。ビンの言葉はにわかには信じがたかった。どう視線を凝らしても、自殺者の森≠ノは危険の兆候さえみられないのだ。
「信じられないようだな」
ビンはうす笑いを浮かべたまま、足を一歩まえにふみだした。それから、ナイフをとりだすと、頭上にふりかざし、いった。「いま証拠をみせてやるよ」
ビンの右手がひらめき、ナイフは一直線に自殺者の森≠ノ向かってとんでいった。だれもが、そのままナイフは樹の一本につきささると考えたにちがいない――しかし、ありえないことには、ふいに樹々から青白いいなずまが放たれ、ナイフを空中でとらえたのだ。一瞬、ナイフは炎に包まれ、宙に静止したようにみえたが、次の瞬間には、地にはたき落とされていた。大気をつんざく音と、ツンときなくさいにおい……
放電現象を知らないジローたちが、これをおそろしい魔法とうけとったのも無理はなかった。彼らはいちように蒼《あお》ざめて、あとずさった。
「ごらんのとおりだ」
ビンが奇妙に平板な声でいった。「この森を抜けようとする人間はいなずまに襲われるのを覚悟しなければならない。どういうわけか、自殺者の森≠フ樹はいなずまを投《〔註10〕》げつけることができるのだ」
「…………」
四人は呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた。いなずまを投げつける樹……それは、彼らの想像を絶した存在であった。ジローたちにしろ、ダフームにしろ、さまざまな障害をのりこえて、この地に達し、いま、最後の試練ともいうべき自殺者の森≠フまえに立っている。しかし、この最後の試練の、なんとのりこえることの困難なことか。
「どうするね?」
ビンが嘲笑《ちようしよう》するようにいった。「ここからひきかえすかね」
「そういうわけにはいかんな」
ダフームがボソリとそういい、ほかの三人をかきわけるようにして、前に進みでた。「こうなったら、死に物狂いで自殺者の森≠走りぬけるほかないんじゃないか」
「死ぬぜ」
ビンはダフームを哀れむような眼でみながら、いった。「何人かは死ぬことになるぜ」
「そうでもないんじゃないか」
ダフームはちょっと首をかしげ、背中の槍《やり》とはべつに、船からたずさえてきた銛《もり》を、あらためて両手で持ち直した。「こいつを投げつければ、いなずまはその方向に集中する。そのあいだに、われわれが走る……いなずまに追いつかれそうになったら、また銛を投げる。走る……それをくりかえせば、なんとか自殺者の森≠走りぬけることができるんじゃないのかな」
ビンはしばらくダフームの顔を注視していたが、やがてうめくようにいった。
「気違い沙汰《ざた》だ」
「そうかもしれない」
ダフームは平然とうなずいた。「だけど、それ以外に自殺者の森≠通る方法はないんじゃないのかな」
そして、ダフームは同意を求めるように、ジローたちの顔をはしから順にみつめていった。
ジローがまっさきにうなずいたことはいうまでもない。甲虫の戦士であるジローにとって、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれることはなによりも――おそらくは、生きながらえることよりも――重要なことであるからだ。ついでザルアーが、最後にチャクラが渋々ながらのようにうなずいた。
ダフームはその口元にあるかなしかの微笑を浮かべて、ビンに視線をもどした。
「あんたはどうする?」
「それが気違い沙汰だという俺の気持ちはかわらない」
ビンは肩をすくめ、奇妙になげやりな口調でいった。「だが、あんたたちがそうしたいというなら、俺もしたがうさ」
「よし」
ダフームはうなずき、さらに足をまえに進めた。それから、体を斜めにひらき、背中をそらし、銛を頭上にふりかざした。そのまま塑像《そぞう》と化したかのように、ピクリとも動かなくなる。しだいに腕が、肩が、力をはらんでいき、筋肉が厚く盛りあがっていく。
「――――」
ダフームの喉からするどい声がほとばしった。同時に、銛が風を切って、自殺者の森≠ノ向かってとんでいき――一|斉《せい》にいなずまをあびせられることになった。いなずまの十字砲火のなかで、銛は炎をあげて燃えさかっているようにみえた。
「走れっ」
ダフームがそうさけんだときには、すでに全員が走りだしていた。
空気がピリピリとうちふるえているように思えた。なにか眼にみえない壁が重くのしかかってくるようだ。髪の毛が逆立ち青白い火花を走らせていた。
いなずまが近づいてくる。いったんは銛に集中したいなずまが、狙《ねら》いを修正し、傲慢《ごうまん》にも自殺者の森≠走りぬけようとする人間たちに向かって放たれる。
眼のまえに火花が散る。炎が走る。電撃の鞭《むち》がふりおろされる――わずかな差だ。わずかな差で、ジローたちはかろうじていなずまから逃がれているにすぎない。その差が急速にちぢまっていく。いまや、いなずまは彼らのヒフをかすめ、そのふくらはぎを灼いている。
バリバリという放電音が鼓膜をつんざく。きなくさいにおいが鼻孔をうつ。眼がかすみ、足がもつれる。肺がふいごのように鳴っている。もうだめだ。もうこれ以上がまんできない。もう走れない!
そのとき、ダフームが地に落ちていた銛にとびつく。身を反転させ、危うくいなずまをかわし、銛を投げる。遠くへ、遠くへ……
走れっ、走れっ……
一瞬、いなずまが遠のくのを感じる。あかくみみず腫《ば》れのはしったヒフを、つかのま涼風がよぎっていく。まだ走れる。まだ大丈夫だ。ちくしょう、力をふりしぼれ、膝をもっとたかくあげろ、走れ、走れ!
最後には五人ともただ気力だけで走っていたようだ。いなずまは彼らの脇腹《わきばら》をかすめ、その足元を直撃したが、奇跡のような幸運が働き、ひとりとして脱落する者はいなかったのである。
それだけに、自殺者の森≠ようやく走りぬけたとき、彼らにはその幸運を喜ぶだけの気力すらなく、ヨロヨロと地面にくずれて、ただ喘《あえ》いでいるのが精いっぱいだった。だれもが――頑強《がんきよう》な体を誇るダフームさえも――死ぬまで、もう二度とは起きあがりたくないような心境におちいっていた。
ジローもグッタリと横たわり、自分がいまどんな場所にいるのかみさだめる気持ちにさえなれず、ただただ喘いでいた。
ふと人の気配を感じた。ジローは眼をあけようとはしなかった。なにを考えるのも、なにをみるのも面倒だったからだ。しかし、眼をとじていても、人の気配はいっこうに消え去ろうとしなかった。ジローはあきらめ、なんだか泣きたいような思いで、眼をひらいた。
視界のなかに、この世のものとは思えないほど美しく、愛くるしい、少年と少女の顔がとびこんできた。彼らは双子《ふたご》の天使のように、たがいに似かよっていた。
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ヨようこそ」
少年がいった。「あなた方は、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれる資格を獲得なさいました」
9
――双子の兄妹は、五人の人間がこの島に上陸してきたことをそれほど意外には思っていないみたいだった。それどころか、まえもって連絡があったかのように、微笑さえ浮かべながら、ジローたちを|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノいざなうのだった。
島……といいきっていいものかどうか疑問が残った。自殺者の森≠ェ森の名に値《あたい》しないものであったのと同じく、いまジローたちが歩を進めている場所も、島とは呼べないもののようであった。
第一に、ジローたちの足の下にひろがっているのは土ではなかった。好奇心にかられ、ジローはうずくまり、ソッとその表面をなでさすってみた。鉄のようにかたい感触が掌につたわってきたが、鉄とは微妙に肌ざわりのことなるなにかだった。
しかも、その表面は平坦で、草とか樹のたぐいはまったくない。ただ遠くのほうに、巨大な、なんだか尖塔《ストウーパ》のような影がボンヤリと浮かびあがっているだけだった。
航空母艦――もしジローたちが二十世紀人であったなら、自分たちは大きな航空母艦の甲板にいると感じたにちがいない。
さきにたって歩く双子の兄妹の足どりは、流れるように優雅だった。その案内ぶりもまことにどうにいった、洗練されたもので、彼らが甲虫《かぶとむし》の戦士≠ニ狂人《バム》を|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノみちびく仕事にながくついていることは、疑いようもなかった。
だがジローには、双子の兄妹のあいくるしく、上品な微笑のうらに、なにか危険なもの、まっくろな悪意みたいなものが秘められているように、思えてならないのだった。
「あいつら油断できないぜ」
ビンも同じことを感じているらしく、ソッとジローの耳にささやきかけてきた。「たしかに笑ってはいやがるが、なんだかカラクリ人形みたいで、人間の気持ちを持ちあわせていないようにみえる」
ビンがかつて三人の甲虫の戦士=A四人の狂人《バム》――もちろん、グラハはそのうちのひとりであったわけだが――といっしょにこの島に上陸したときには、自殺者の森≠ノ足をふみいれた時点で、何人もの仲間たちをうしない、途中からひきかえしている。本人の言によれば、臆病《おくびよう》カゼにふかれたということだが、じつのところ、あいつづく仲間の死に嫌気《いやき》がさしたというのが本音のようだ。
つまり、ビンにしても、双子の兄妹に会うのは今回がはじめてというわけで、これからさき、五人はほんとうの意味での、未知の世界にとびこんでいくことになるわけだった。
ジローはほかの三人に視線を走らせた。
ダフームはいつものように平然とおちつきはらっているが、その眼の色は決して油断していなかった。彼もまた、双子の兄妹になんとなく気の許せないものを感じているにちがいなかった。チャクラにいたっては、いささか神経過敏のきらいがあるほどで、つねに周囲に視線をめぐらし、いつでも逃げだせる態勢をととのえている。ザルアーは……ザルアーはまったく無表情だ。ここのところ、ジローはザルアーの気持ちがまったく理解できなくなっている。なんだか、いつもそばにいながら、その気持ちはとおくはなれてしまっているようで、ジローはときになにを考えているのかザルアーに問いただしたいような、もどかしさにとらわれることがあった。
ともあれ、ジローもふくめて、五人の人間がだれひとりとして、双子の兄妹に気をゆるしていないのはまちがいないようだった。
「あれに乗っていただきます」
ふいに双子の兄のほうが足をとめ、前方を指差した。
それは、いまだかつてジローたちがみたこともないものだった。ちょっとした家ほどもある大きさの、卵型をしたもので、上半分が透明になっていて、なかをみとおすことができた。なかには、同じ方向をむいた椅子《いす》が、横三列、縦三列にならび、壁面には奇妙なカラクリがいっぱいついていた。下半分は銀いろに塗られ、ちいさな車輪のようなものが、いくつか隙間《すきま》からみえていた。
ジローはそれをみたとき、反射的に馬車を思い浮かべた。だが、それをひっぱるべき馬の姿はどこにもなく、そのかわりに、それの下から二本の鉄の棒が平行にのびていて、どこまでもつづいていた。
そして、ジローは県圃《ケンポ》の地下で盤古≠ニ会ったときのことを想いだした。あのときにも、ジローはなににつかうのかもわからないカラクリを、いっぱい眼にすることになったのだ。
「どうぞお乗りください」
――双子の妹のほうが、どこかさわると、それの湾曲した壁の一部がポッカリとひらき、短い階段が地面にのびてきた。
五人の男女はそれぞれに顔をみあわせた。しかし、いかにうさんくさいものを感じたところで、彼らは双子の兄妹の言葉にしたがわないわけにはいかなかったのだ。
――双子の兄妹がいちばんまえの座席にすわり、ジロー、チャクラ、ザルアーがつぎの座席、残るふたりがうしろの座席についた。
湾曲した、透明な天井は充分に高さがあるのだが、ドアをしめられると、なんとなく息苦しさを感じ、ダフームにいたっては、その必要もないのに首をすくめ、体をちぢこませていた。要するに、この時代の人間にとって、乗り物に乗るというのは、まったく未知の体験なのである。
「よろしいですか」
双子の兄妹の妹のほうがふりかえり、花のような微笑を浮かべながら、きいた。男たちはがらにもなく緊張した面持ちで、一斉にうなずいた――ただひとり、ザルアーだけが超然としていた。呪術《じゆじゆつ》の力で、世界に交感できる能力を持つ彼女にとって、いまさらこの世のなかにおどろくべきことなどひとつもあるはずがなかった。
体が浮かびあがるような感覚があった。ハッ、と肱掛《ひじか》けをにぎりしめたときには、もう車は走りだしていた。ほとんど振動は感じない。音もまったくといっていいぐらいきこえてこず、天蓋《キヤノピー》の外を流れていく風景がなければ、ほんとうに動いているかどうか、疑わしく思えてくるほどだった。
はじめての経験に、体をかたくしていた男たちも、やがて緊張をとき、そのスピード感を楽しむようになっていた。馬以上にはやいものを知らない彼らにとって、これはまったくもって興奮させられる体験といえた。
つかのま、彼らはこれから自分たちが|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノのぞもうとしているのを忘れたほどだった。
「こいつは楽でいいや」
チャクラがはずんだ声をあげた。「なあ、こいつはどんな仕掛けで動くんだい?」
「この島はもともと岩山だったのを、わがご主人が|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フ基地につくりかえになられたのです」
双子の兄のほうが前方に眼を向けたままでいった。「ですから、砕いた石から水蒸気をとることができ、こうして水車《みずぐるま》≠走らせることもできるわけです」
「なるほど」
チャクラはえつにいって、うなずいた。「それは、たいしたものだ……」
なに、チャクラはその説明をいささかも理解したわけではなかったのだが、とにかくたいしたものだ、ということだけはかろうじて理解することができたのだった。
チャクラは感心し、しきりにうなずきながら、同意を求めるようにジローの顔をみ、――そして、その表情をひきしめた。水車≠ノ感心するどころか、ジローの顔はこわばり、その眼には怒りの色さえ浮かんでいるようにみえたからである。
わけがわからないまま、チャクラはあわてて視線をそらし、その口をつぐんだ。
事実、ジローはなんともやりきれない憤りをおぼえていた。彼の脳裡《のうり》には、わずかな水に耐え、かつかつに生きているダフリンの人たちの姿が浮かんでいたのだ――砕いた石から水をとり、車を走らせる? そんなことが可能なら、どうして車を走らせるよりさきに、あの人たちに水を与えてやらないのだ。いったい|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ニは、人々に飢餓を強《し》いてまで、存在しなければならないほど、重要なものなのか……
ジローほど純真ではなく、したがってその感情も露骨に面《おもて》にはだしていなかったが、ビンも、そしておそらくはザルアーも、彼と同じような気持ちでいるはずだった。
水車≠ェわずかに降下しはじめているようだった。兄妹の頭ごしに、天蓋をとおして、はっきりと前方の光景がみえてきた――それはいまだかつてみたこともない光景であった。細長い円筒形の建物がいくつもならび、それぞれの円筒形は窓のない通路でつながれて、ちょうどクモの巣のように、放射状《〔註11〕》にひろがっているのだった。
ジローがハッと視線をこらしたときには、もう水車≠ヘ傾斜地から平坦な地へと入っていて、すでに全景をみわたすことは不可能になっていた。
二本の鉄の棒はまっすぐにのび、建物のはしにポッカリとあいている穴のなかへと、つづいていた。その穴は急速に接近してきて、ゴーッという轟音《ごうおん》とともに、水車≠のみこんだ――水車≠ヘまったくスピードをゆるめようとはしなかった。こうこうと明かりのともっている通路のまんなかを、ひたすらつっきっていくのだ。
五人の男女は自分たちがこれからどこへ運ばれていくのか、いささかも気にしていなかった。両側の壁にズラリとならんでいる陳列物をみるのに忙しく、それどころではなかったのである。
――彼ら五人にその知識はなかったが、じっさいそれは人類の全遺産と呼ぶにふさわしい陳列物だったのだ。
円型の通路のほとんど入り口ちかくには、古代アッシリア帝国のラマッスと呼ばれる人面獣身の怪物石像が一対《つい》、あたかも|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠護《まも》っているかのように、その巨大な姿をそびえさせていた。牛の角を模した宝冠が、一瞬、ジローたちの眼にやきついた。
ジローたちが座席から腰を浮かしたときには、すでにラマッスは背後に流れ去っていき、古代メソポタミアの浮彫りをほどこした石壁が、通路の両側にえんえんとつづいているのだった。王にみつぎ物をささげる男、弓をひく戦士、そしてさまざまな楔形《くさびがた》文字……アッシリアの青銅浮彫りがつぎからつぎに視界をよぎっては、後方にとびさっていく。
ふいに、石灰岩に彫られた王の立像が、咆哮《ほうこう》するライオンが、視界の前方をさえぎり、斜めに流れていく。水車≠ヘわずかに車体をかたむけながら、ほとんど速度をゆるめないで、カーブをきる――エジプト王朝の地下墳墓の壁画が、そのけんらんたる色彩をくりひろげる。黄いろい漆喰《しつくい》のうえに、あざやかな鉱物顔料でえがかれた貴族が、女|奴隷《どれい》が、金狼《ジヤツカル》が、叡智《えいち》の神トトが、天蓋の透明板のむこうを流れ去っていく。
そしてついにファラオが、胸像だけの、あるいは全身像のファラオが視界前方に浮かびあがり、急速に接近してくる。古代エジプト王朝の神殿に安置されていたときと同じ、おだやかな、叡智をたたえたまなざしが、一瞬、水車≠フなかをのぞきこむ。だが、そのファラオ像も、視線をとらえようとしたときには、はるか背後にとびさってしまっているのだ。
水車≠ヘなおも通路を猛然たる勢いでつき進んでいく。その湾曲した壁を照らしだしている明かりは、ジローたちのまったく知らないたぐいのものだ。太陽のように明るく、月のようにやさしい――いま、つっぱしる水車≠みつめているのは、おびただしい数の死人たちだ。男の、女のミイラが、水車≠みつめている。
バアン……水車≠フ轟音が、通路にひびきわたり、何重にもこだまする。どうやら通路はゆるやかな勾配《こうばい》をなし、水車≠上方に運びあげていくようだ。ジローたちの体がわずかに座席に押しつけられた。
通路をまたがるようにして、リキュア人の墓廟《ぼびよう》建築がそびえているのがみえた。前面に四本のイオニア式列柱がたちならび、まんなかの二本の柱のあいだを、鉄路がやまなりにつらぬいているのだ。一瞬、照明がくらくなり、轟音がくぐもったものにかわり、水車≠ヘやや浮かびあがるようになりながら、墓廟建築を通過していった。
そこはもう神話の世界だった。ゼウスが、アテナが、アポロンが、思い思いの姿形をとりながらたちならんでいる。アルカイック期の彫像が、切妻屋根の群像彫刻が、ポーチを支える女人像《カリアテイード》が、視界をよぎり、おどる。おどる……
いまやジローたち五人は言葉もなく、かたずをのみながら、現われ、とびさっていく陳列物にみいっていた。彼らに歴史の知識はなく、それらの陳列物がなにをものがたっているか知るすべもなかったが、いま、自分たちがとてつもない宝物のなかにいることだけは、はっきりと理解していた。
時代は、ギリシアからローマにかわっていた。神々は姿を消し、そのかわりに円盤投げをしている少年≠竍馬に乗っている騎士=Aカッと口をひらいているグリフォンなどがならぶようになっていた。
「俺がいる」
ダフームが嬉《うれ》しそうにさけんだ。なるほど、槍《やり》をかついだ青年のブロンズ像が、急速に視界に迫ってくる。しかし、それを残る四人がみさだめようとしたときには、もう後方に過ぎ去っていた。
バアン……またしても、水車≠走らせる軌道の角度がかわったようだ。水車≠フ轟音は耳を圧してひびきわたり、湾曲した通路に爆発した。
壺《つぼ》、壺、壺……両耳つきの銀の壺が、エナメル彩色されたガラスの壺が、そして彩文《さいもん》土器の巨大な壺が、通路の壁いっぱいにならべられていた。もちろん、ジローたちの知るよしもないことだが、それらの壺はペルシア、イスラム、敦煌《とんこう》、インドと、えんえんシルクロードをつらぬいて発掘された工芸品の数々なのであった。
水車≠ェカーブをきった。すると、さまざまに意匠をこらした装飾時計が、つぎからつぎに視界にとびこんできた。回転球時計、水銀振子時計、組み鐘時計……それらおびただしい数の時計は、いま正確な時刻をきざんでいるらしく、いずれも同じ二時半という時をしめしていた。
そして、ついに水車≠ヘ近代に入った。
はじめのうちは、乗り口をこちらに向けた馬車がならんでいた。軽量馬車《ジツグ》、軽便馬車《ピアノ・ボツクス・バギー》、|幌つき馬車《シエイズ》、最高級馬車《ビクトリア》……石畳が敷きつめられていれば、いますぐにでも走りだしそうな感じだったそれが、いつしか自動車にとってかわられた。大きな三輪車のような蒸気自動車、水冷式二サイクル・二馬力のヘインズ型自動車、自動車の基本形を完成させたドルイー型自動車、二十世紀初頭の大衆車オールズモビル、そしてフォード……水車≠ェ進むにつれ、自動車はどんどん機能的に、洗練されたものになっていく。
ジローはいま自分が乗っている水車≠ゥら類推して、それらもまた馬のいらない馬車≠ナあるにちがいないと思っていた。そして、自分たちが猛然たる勢いで時間≠たどっていることも、おぼろげながら理解していた。
水車≠ェ何度めかのカーブを切り、巨大な鉄のかたまりがすぐ眼のまえに現われた。その鉄のかたまりは、ほとんど水車≠ノのしかかるようにして迫っていて、あわや衝突か、と思われる瞬間が幾度もあった。もちろん水車が展示物に衝突するはずもなく、わずかな間隙《かんげき》をぬって、順調に走りつづけていくのだった。
ジローたちの眼には怪物のようにしかみえなかった、それらの鉄のかたまりは、じつは蒸気機関車だったのだ。さまざまなタイプの蒸気機関車が、その黒くつやびかりする動輪に支えられ、壁の両側をいっぱいにしめて、えんえんとつづいていた。
蒸気機関車のブロックがとぎれたさきには、ジローたちにはその用途もわからない道具が、ギッシリとならんでいた――起重機、めん棒、スパイス挽《ひ》き、手織機、糸織り車、馬力機械、風車、くるみ割り、長靴《ながぐつ》ぬぎ台、タイプライター、ミシン、刈取り機、耕うん機、自動鋳造機《モノタイプ》、砂糖切り器、綿織り機、ワッフル・メーカー、洗たくしぼり機、トースター、ブリキランプ、眼医者の看板、大型蒸気エンジン……
バラエティにとんだ品物の数々にすっかり魅せられ、ジローは子供のように、天蓋《キヤノピー》にひたいをくっつけていた。
「ちょっと遅くなったんじゃないかな」
ビンが視線を宙の一点にすえ、ボソリとつぶやくようにいった。水車≠フスピードはまだかなりのものだったが、なるほど、たしかに一時みたいな、宙を滑っていくような爽快《そうかい》感はうすれつつあるようだった。
雑多な品物がとぎれ、しばらくはなにもない湾曲した壁面がつづいた。水車≠フ影が、すばしっこいネズミのように、壁のうえを走っていた。
ふいに照明がかげり、ジローたちは一斉に頭上をあおぎ――そして、声をあげた。
頭上から、鳥のような形をした巨大なものがぶらさがっていたのである。ジローたちがそれを鳥のようなと感じたのは、まことに優れた直感力といえた。
それは、世界最初の飛行機ライト・フライヤー一号≠セったのだ。
骨組みだけのような複葉推進式飛行機≠ノつづき、巨大な凧《たこ》を思わせるリリエンタールのグライダーが頭上にのしかかってくる。ライトEXバン・フィズ号、パリ=ニューヨークをむすぶ大西洋横断に成功したライアン飛行機会社のセントルイス号、世界一周に成功したダグラス・ワールドクルーザー……飛行機のなんたるかを知らないジローたちの眼にも、それがしだいにガッシリとした、優れたものになっていくことだけはわかった。
第一次世界大戦がはじまる。フランスの戦闘機一五〇馬力のスパッドZ、木製|桁《けた》小骨に羽布《はふ》張り主翼のドイツ戦闘機フォッカーD・Z、アメリカの豆鉄砲戦闘機《ピーシユーター》ボーイングP−26A、ライト兄弟の軍用|偵察《ていさつ》機ライト・ミリタリー・フライヤー……第二次大戦にさしかかったときには、水車≠フスピードはますますおち、ほとんど人が走る速度とかわらなくなっていた。グラマンF4Fワイルド・キャット、ムスタング、ゼロ戦、メッサーシュミット、スピット・ファイヤ……と、戦闘機は急速に精悍《せいかん》さのどあいを増していき、ジェット機の時代を経て、ついに宇宙船の時代にいたった。
水車≠フスピードがガタンとおちた。ほとんど余力だけで走っているようで、それすらもしだいに遅くなっていく。あきらかに、時間旅行≠ェ終わりに近づいたのだ。
人工衛星打ち上げロケット、科学衛星打ち上げロケット、有人人工衛星マーキュリ・フレンドシップ、アポロ、ソユーズ、ドッキングモジュール、サターン5型打ち上げロケット、そして人類をはじめて月にみちびいたアポロ11号……人類が宇宙に進出していくにつれ、水車≠ェ遅く、遅くなっていく。ジローは水車≠ェ遅くなっていくことに、どうしてか胸をかきむしられるようなさみしさをおぼえていた。
放射性同位元素利用の発電機を搭載《とうさい》した遠外惑星探測器を最後にして、もう天蓋《キヤノピー》の天井を通しては、なにもみえなくなっていた。右手前方に大きな月面車がおかれてあったが、それ以外にはなにもない――さしもの巨大な博物館もとうとう出口にたどり着いてしまったようだった。
水車≠ヘ月面車――もちろん、ジローたちにはそれがなんであるかはわからなかったのだが――のまえでしずかにとまった。空気のぬけるような音がきこえて、水車≠フドアが外側にひらいた。
「ここから先は歩いていただきます」
双子の兄のほうが奇妙に沈鬱な声でいった。「もうここから|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ワではすぐですから」
ジローには、その言葉はかならずしも距離のみを指していわれたものではなかったように思われた。なぜか、ここにある展示物が造られた時代から、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ェ出現した時代まで、それほど時をへだててはいない、ということを意味してもいるように思われたのだった。
双子の兄妹につづいて水車≠降りた五人は、たがいに顔をみあわせ、なんとなくうすらさむいみたいな表情を浮かべた。ここに到着するまでの通路が、さまざまな陳列物に埋められ、けんらんたる色彩をくりひろげていたことがなおさら、彼らの前方につづいている、ガランとなにもない通路の寂寞《せきばく》感をきわだたせているようだった。
じっさい、なにもなかった。湾曲した通路がゆみなりにつづいていて、ただ白っぽい明かりに照らしだされているだけなのだ。
「なにもないわ」
ザルアーがボソリとつぶやいた。
「そうです」
双子の妹のほうがうなずき、ジローたちには理解できないことをいった。「人類はここまではまがりなりにもうまくやっていたのです。ただ宇宙へ進出しようとした時点で、失敗してしまいました。すべてをうしなうことになってしまったのです……ここから、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ワではもうなにもありません」
「それはどういう意味だ?」
ジローが妹の顔をみて、きいた。「いったい、なんの話をしてるんだ」
「すべては、わが主《あるじ》の口からおききになってください。わたしたちには、そのことについて、みなさんにお話しする権限が与えられていないのです」
兄のほうがそう答えると、うやうやしく一礼して、片手を通路にさしのべた。「さあ、どうぞこちらへ……」
足音が通路にうつろにひびく。双子の兄妹を先頭にして、五人の男女はなんとなく視線をふせがちにして、黙々と歩いていく。葬列のようだった。
通路がゆるやかにカーブをえがいていた。そこを曲がったジローたちは、いちように息をのみ、足をとめた。通路の壁にいくつかくぼみがあり、そこにだれか人が立っているような気がしたからだ――もちろん、人が立っているわけではなかった。ちょうど甲冑《かつちゆう》がおかれてあるように、服、冠《かんむり》、面おおいが組みあわされ、人間の姿そのままにならんでいるのだった。ただし、これが甲冑だとしたら、あまり戦闘の役にはたちそうにない。鎧《よろい》でおおわれているべき胴体の部分が、なにか銀いろの布のようなものでできていて、しかも背中には大きな箱みたいなものまで背負っているのだから。
「宇宙服と生命維持装置です」
双子の妹のほうが、また理解できないことをいった。「アポロ宇宙船でつかわれたごく初期のものから、外宇宙用に開発された数千度の熱にも耐えられるものまで、すべてそろっています」
だれひとりとして、妹の言葉の意味を問いただそうとする者はいなかった。たずねたところで、どうせまともな返事がかえってくるわけはないし、よしんば説明されたところで、理解できるとはとうてい思えなかったからだ。
「あれはなんだ?」
ビンが奇妙に不機嫌《ふきげん》な声でそういい、通路の一隅《ぐう》を指差した――そこには、胸ほどのたかさのある大きな箱がおかれていて、眼が痛くなるぐらいにあわただしく、赤や青の光が点滅していた。
「ああ、あれですか。ある意味では、あれも人類の遺産のひとつといえます」
双子の兄のほうがそういうと、ヒッソリとした足どりで、箱に近づいていった。そして、箱の一部に手をふれると、数歩あとずさって、心もち首をかしげるようにして、なにかを待っていた。
とつぜん箱から音楽が流れだしたときには、みんなとびあがっておどろいた。ジローにいたっては、反射的に剣の柄《つか》に手をかけたほどだ。――しかし音楽が流れてくるだけで、べつに危険はないとわかって、みんな緊張をといた。そして、奇妙に悲しげな調べの、ゆっくりと流れるその音楽に耳をかたむける。
もちろん、彼らのうちだれひとりとして歌詞の意味を理解した者はいなかったが、それは英語でこんなことを歌っていたのだ。
ヘイ・ジュード
わるいほうへもっていってはいけない
悲しい歌を悲しくはなくするのだ
彼女を自分の心のなかにとりこむのを忘れずに
そうすればよくなっていくのだから
ヘイ・ジュード
こわがっていてはいけない
きみは彼女を手に入れる運命にあるのだ
彼女を自分のなかにとりこんでしまえばそのとたんに
よくなっていきはじめるのだ
彼らは知らなかった。その歌が、以後の音楽の流れをかえたビートルズというグループの歌であることも、その箱がかつてニューヨークという街の安酒場におかれていたジューク・ボックスであることも……知らなかったのだ。それは知らなかったが、その歌は妙にジローたちの胸をうった。その歌をきいていると、なんだかさみしくなってくるような、やるせない焦燥感をおぼえるのだった。
「急ぎましょう」
双子の兄のほうが、しずかにジローたちをうながした。「もうすこし歩くと、通路がとぎれ、そこに扉《とびら》があります。それが、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フ入り口なのです……」
10
――そこに、扉があった。
木製のガッシリとした両びらきの扉で、そのまんなかに、手描《てが》きによる黙示録《もくじろく》注釈書からの四騎士≠フ絵がはめこまれてあった。おそらく十一世紀の末に描かれたものであるらしく、絵は全体にくすんだ感じで、色調を統一している赤い絵の具もなかば剥《は》げかかっていた。
「どうぞお入りになってください」
双子の兄妹が扉を大きくひらき、ジローたちを招き入れた。
ジローたちは部屋に足をふみいれたものの、しばらくどうしていいかわからずに、もじもじとしていた。まったく、場ちがいの感じなのだ――部屋は天井がたかく、大きかった。中央におかれたテーブル、更紗《サラサ》におおわれたソファ、籐《とう》の寝|椅子《いす》、緑いろのタイルがはられた暖炉、そして書籍をいっぱいに収めた書棚《しよだな》……すべてがジローたちの住んでいた世界と、あまりに大きくかけはなれていて、自分たちがお邸《やしき》に闖入《ちんにゆう》した猿の群れのように感じられるのだった。
ただひとり、ザルアーだけが超然としていた。彼女は優雅な身のこなしで、ソファに腰をおろし、うながすように男たちをみた。質素な服装をべつにすれば、まるで生まれたときから、この部屋をみてきたような、気品とおちつきがあった。
ついで、ダフームが腰をおろした。この誇りたかい大男は、一瞬、自分が部屋の立派さに気圧《けお》されたことに、肚《はら》をたてているようだった。その眼には、怒っているような色があった――ビンがうすら笑いを浮かべながら、チャクラがうなじを掻《か》きながら、それぞれ腰をおろした。最後に、ジローがソファの端にソッとすわった。
「いま、お飲み物をお持ちします」
双子の兄のほうが、かるく一礼して、そう伝えた。
「飲み物なんかどうでもいい」
ビンがうっそりとした声でいった。ほかの四人がハッと顔をみつめるほど、不遜《ふそん》な、敵意をあらわにしめした声だった。「その主《あるじ》とかに早く会わせてもらおうじゃないか」
「スフィンクスさまですか」
双子の兄は小首をかしげるようにして、ききかえした。その顔には、なんだか面白がっているような色さえあった。
「スフィンクスという名前なのか。そのスフィンクスに早く会わせろ」
「そうだな……」
ダフームが重々しくうなずいた。「俺たちの目的は、なにも|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ入ることじゃない。月《ムーン》≠とりかえすことが目的なんだ……ここで、ゆっくりとおちついているわけにはいかない」
ジローには、彼らの気持ちが手にとるようにわかった。ビンにしろ、ダフームにしろ、その青年期、壮年期の大半を、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがすことでついやしているのだ。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行き、月《ムーン》≠とりかえせ……それが彼らに与えられた使命であり、いうならば人生そのものであるともいえた。しかも、なんのために、という問いかけをすることはいっさい許されず、ただ甲虫《かぶとむし》の戦士≠セからという理由で、世界をさまようことを強《し》いられたのである――はたしてその人生に意味があったのか、それともまったくの徒労であったのか、いまあきらかにされようとしているのだ。彼らならずとも、一刻もはやく、その結論を知りたいと思って当然だったにちがいない。
「わかりました」
双子の兄がうなずき、いった。「いま、主《あるじ》にお伝えしてまいります」
だが、奥の扉に向かって歩きだそうとした双子の兄の足を、その扉のむこうからきこえてきた重々しい声がおしとどめた。
「その必要はない」
双子の兄妹は部屋の隅《すみ》にサッと身をしりぞき、ちょうど君主をむかえる臣下のように、その場に片膝《かたひざ》をついて、胸に手をあてながら、うやうやしく一礼した。
男たちは反射的にソファから立ちあがっていた。めったなことでは、ものに動じないはずのダフームまでが、槍《やり》をにぎっている手に力をこめ――戦士にして、かろうじてそうと知れる程度にではあったが――いつでも戦いに入れるようにみがまえていた。チャクラにいたっては、なんだか風に吹かれたように、オロオロと立ったり坐ったりをくりかえしている。
ここでもまた、ザルアーひとりだけがおちついていた。ソファにユッタリと身をしずめて、なにか心に期することでもあるかのように、ジッと扉をみつめているのだ。
扉がしずかにひらき、スフィンクスが悠然《ゆうぜん》たる足どりで部屋に入ってきた。男たちは、異口同音におどろきの声をあげた。顔は人、体は獅子《しし》、翼は鷲《わし》……それは、まさしく伝説のスフィンクスそのままの怪物だった。しかも、その体長は優に三メートルを越す巨大さだった。
スフィンクスが姿をみせたとたん、さしもの広い部屋が息苦しくなったように感じられた。たんに体が大きいというばかりではなく、そこには一種侵すべからざる威厳、他を圧する精気のようなものがみなぎっていたのだ。じっさい、スフィンクスには複合獣《キメラ》に特有の、奇形めいたところはどこにもなく、その若々しく、端正な顔は、美しいとさえいえるほどだった。
男たちはスフィンクスに圧倒され、その場に凝然と立ちすくんでいた。彼らに戦士の誇りがなければ、双子の兄妹のように、スフィンクスのまえにひざまずいていたにちがいなかった。
「おめえが|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フ主《あるじ》か」
やがて、ビンがうめくようにいった。「こいつらの主人なのか」
「そうだ」
スフィンクスはうなずいて、いった。「わたしが|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フ支配者なのだ」
そのとたん、ビンの右手がつるべみたいにはねあがり、ナイフが銀いろにひかる軌跡をえがいた。一瞬、スフィンクスの体が白熱したように、ギラギラとした光を放ち、すさまじい熱の巨波が、その部屋にいるすべての人間の体をたたいた。
それこそ、ほんの瞬きするあいだのことだった。次の瞬間には、部屋は正常にもどり、スフィンクスもまた――かすかに、笑いを浮かべているようではあったが――なにごともなかったかのように、同じ場所に悠然と腰をおろしていた。じっさい、頭髪をチリチリと焦がしている余熱がなければ、いまのはすべて錯覚ではなかったか、と、思われるほどだった。
しばらく、みんな何事が起こったかわからないまま、呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
ビンひとりが、スフィンクスをではなく、床の一点を凝視していた。その視線に気がついたジローが、自分もまた床に眼を向け――そして、ハッと息を呑《の》んだ。そこには、ほとんど原型をとどめないまでに、ドロドロに溶けたナイフが落ちていたのだ。
「スフィンクスにナイフを投げたのか」
ジローはビンの顔をみ、かすれた声でそうきいた。自分でもそうと意識しないで、ゆっくりと首をふっている――まったく、こいつはなんてことをしやがるんだ。いったい、なにを考えていやがるんだ……「ほんとうに投げたのか」
部屋にいる全員の視線が、ビンにそそがれた。しかし、ビンはわるびれた様子もなく、それどころかふてぶてしい笑いさえ浮かべながら、
「ためしたまでのことさ」
そう、いい放った。「ほんとうに彼が|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フ支配者なら、俺のナイフなんかが通用するはずがない。そいつをためしたまでのことさ」
ぬけぬけとしたいいぐさだった。あまりのことに、ジローもダフームも言葉をうしなってしまっている。ビンのかるはずみな行為は、彼ら甲虫の戦士≠フこれまでの苦労を、すべてぶちこわしにしてしまったかもしれないのだから。――じつは、このとき彼らはビンの行為をもっと追及すべきだったのだ。そうすれば、ビンの真意がどこにあったのか、ほんとうにスフィンクスをためすつもりだったのか、それともスフィンクスを殺そうとしたのか、あきらかにされたはずなのだ。そのはずだったのだが……
「わたしを傷つけることはできない」
スフィンクスのその言葉が、みんなの注意をビンからそらし、ふたたびスフィンクスに向けさせたのだ。スフィンクスの声は重々しいばかりで、感情の起伏に欠け、奇妙に平板なものだった。
「だれにもできないのだ」
「わかったよ」
ビンはそっぽを向き、ふてくされたようにいった。「たしかに、あんたは強いよ」
「そういう意味でいったのではない」
スフィンクスはかぶりをふった。「わたしのこの体は、いわばうつわにすぎない。わたし自身は、いまおまえたちが眼にしているものとはべつの存在なのだ……わたしは、そう、かつておまえたちが使っていた言葉をかりれば、ひとつの遺伝子ということになる。知力をそなえた遺伝子だ……そして、この体はたんなるロボットにすぎないのだ」
「…………」
一瞬、沈黙が部屋に落ちた。
彼らのうち、だれひとりとして、スフィンクスの言葉を理解した者はいなかった。そして、この世界に生きる者のつねとして、彼らは理解できないものを、いたずらに理解しようとあがくことだけはしなかった。この世には人知のおよばないことがいっぱいある、ということを経験的に知っていたからだ――ましてや、ここは|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ネのだ。スフィンクスの言葉がすべて理解できたとしたら、むしろそのほうがふしぎに思えたにちがいない。
しかし、そんな彼らにも、なんとしてでもたしかめなければならない疑問、理解できないままでは絶対に放置しておけない疑問があった。どうして、自分たちがここに来なければならなかったか、という疑問だ。
「俺たちは甲虫の戦士≠セ……」
ジローがいった。「だが、だからといって、以前からの知りあいだったというわけではない……教えてくれないか。スフィンクスよ。そんな俺たちがどうして、そろいもそろって|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠めざして旅をし、月《ムーン》≠うばいかえさなければならないはめとなったのか……月《ムーン》≠ニはいったいなんなのだ? 甲虫の戦士≠ニはなんだ。俺たちはだれに……いや、なににあやつられているんだ」
最初はささやくようだったジローの声が、しだいにたかくなっていき、やがてはほとんど叫び声にまでなっていた。
とっくに、ランへの思慕が自分を|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノいざなう原因であった、とはジローも考えなくなっている。ジローといえども、それほど無邪気ではない。たしかに、ジローがランを稲魂《クワン》≠フ神殿から救いだそうとしたことが、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ旅だつ動機となっている。しかし、そのことにしてからがすでに、なにかもっと大きなもの、そう、運命のようなものによって、あらかじめしくまれていたことであるような気がしてならないのだった。
「すべてをあきらかにしよう」
スフィンクスがうなずき、いった。「だが、そのまえに、ほんとうにおまえたちにすべてを知る資格があるかどうか、試す必要があるのだ……答えるがいい。人間たちよ。おまえたちが真に甲虫の戦士≠ナあるなら、わたしの質問に答えることができるはずだ……朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足……答えろ。それはなにか」
そのとき、ジローの身に起った変化をなんと説明したらいいだろうか。なんといったらいいのか、ジローの頭脳のどこか深く、意識の光がおよばないあたりで、パチンと音をたてて、錠がはずされたような具合なのだ。そして扉がひらき、それまでのジローでは、たとえ人にきかされたところで、とうてい理解しえなかったであろう知識が、せきを切ってドッとあふれだした……そんな感じなのだった。
たとえていえば、それは重い記憶喪失症にかかっていた人物が、あるささいな出来事をきっかけにして、すべてを想いだすのに似た体験であったにちがいない。つぎからつぎに、あざやかに脳裡《のうり》によみがえってくる知識のあまりの膨大さ、異質さに、ジローはなかばたたきのめされたようになり、呆然と立ちすくんでいた。
それは、ほかのふたりの甲虫の戦士≠フ場合も同じだったようだ。彼らの眼は驚愕《きようがく》にみひらかれ、その唇《くちびる》はふるえた。そして、自分でもなぜそんなことを知っているのかわからないまま、しかし奇妙に自信にあふれた声で、三人の甲虫の戦士≠ヘ同じ言葉を口にしたのだった。
「それは、甲虫の戦士≠セ」
――それは,甲虫の戦士≠セ、といった言葉が、なにか自分の声ではないかのように、うつろに耳にひびいた。
「なぜなら、俺たち甲虫の戦士≠ヘ四つんばいの赤ん坊として生まれ、それから自分の二本の足で立ち、最期には剣を手にしたままで死ぬのだから……」
ジローはそう言葉をつけ加えながら、砂を噛《か》むような、索漠《さくばく》とした気持ちにとらわれていた。じつは、スフィンクスの謎《なぞ》にたいする答えが、どうして甲虫の戦士≠ナあるのか、その理由などどうでもいいことだからである。要するに、甲虫の戦士≠ニいう言葉はキー・ワードにすぎず――そう、いまやジローはこんな言葉も知っているのだ――なぜそうなのかなどとせんさくする必要はまったくないのだった。
頭のなかで、かつて想像したこともないような、さまざまな知識がせめぎあっていた。ちょうど言葉をおぼえはじめたばかりの子供みたいに、それらの知識を再構成し、体系化するすべもわからないままに、三人の甲虫の戦士≠スちはいつまでもボンヤリと、その場に立ちつくしていた。
「おい、どうしちまったんだ」
チャクラがうろたえ声でさけんだ。「ジロー、ダフーム、ビン……おい、みんな魂をぬかれちまったみたいに……」
「おまえは狂人《バム》だな」
スフィンクスのズッシリと重い声がチャクラの言葉をさえぎった。
「心配するな。おまえにもすぐにすべてがわかるときがくる。狂人《バム》は狂人《バム》で、甲虫の戦士≠ニはまた異なったさだめがあるのだから」
「甲虫の戦士≠ヘ宇宙パイロットで、戦闘要員……狂人《バム》は辺境惑星開発要員……」
まるで、意識をだれかにのっとられたように、ジローは自分でもわからない言葉を、その唇からつむぎだしていた。
「宇宙連合機構は、西側の国家が協力して宇宙開発にあたるための機構体で、宇宙パイロットはその戦闘強化服を着用した姿が甲虫《かぶとむし》を連想させることから甲虫を、また辺境惑星開発要員は惑星にコロニーを築きあげる能力がビーバーを連想させることからビーバーを、それぞれのマークとして襟《えり》につけていた……宇宙連合機構と、東側諸国からなる宇宙友邦統一機構との摩擦は絶えたためしがなく、月植民地紛争、木星利権紛争、小惑星《アステロイド》獲得紛争とこぜりあいがつづいていた……」
暗闇《くらやみ》から光のなかに、記憶がつぎからつぎにムックリと身を起こしていく。スフィンクスの謎が引き金となって、いまや記憶の奔流はとどまるところを知らないようだった。
「そして、ふたつの機構体が外宇宙にのりだしたとき、ついにその角逐《かくちく》は最悪の事態を迎えることになった。だれもが恐れていたことが現実となり、宇宙連合機構と宇宙友邦統一機構が全面戦争に突入してしまったのだ。そして……そして……」
ジローは苦しげに顔を歪《ゆが》めた。それから先のことは想いだしたくなかったからだ。
「そして、人類は宇宙に進出することを禁じられた」
ジローがいいよどんでいた事実を、スフィンクスは残酷なほどの冷静さをもって、口にした。
「人類は地球という檻《おり》のなかにとじこめられ、そこから一歩として出ることは、許されないようになったのだ……」
「そうだ……」
ビンが遠くをみるような眼つきになりながら、いった。「ある日、突然、奴らの編隊が地球に、月に、太陽系内のすべてのコロニーに、押し寄せてきたのだ……まるで、大人と子供の喧嘩《けんか》だった。人類は一時間もしないうちに敗北を宣言するはめになり、武装解除させられるはめとなった……」
それは、人類にとってあまりにも屈辱的な記憶だった。奴らとは恒星間航行の段階に達し、文明を頂点まで発展させることに成功した知性体の連合機構だった。奴らは、人類を、いうならば大人の眼で観察しつづけてきたのだ。そして、外宇宙へ進出し、大人の仲間入りをするには、地球人はあまりに精神的に未熟で、暴力的にすぎると判断したのだった――要するに、地球人は不良少年の烙印《らくいん》を押されたのである。宇宙に害毒を流す存在と決めつけられ、地球という少年院に押しこめられることになったのだ。
もちろん、ジローたちが直接に体験したことではない。数百年、あるいは数千年もの昔に起こったことなのだ。彼ら甲虫の戦士≠スちは、いかなる遺伝子工学の成果によるものか、その記憶を代々受けつぎ、必要に応じて――たとえば、いまジローたちが直面しているような場合においてだが――その記憶を自動的によみがえらすことができるようなのだ。
「外への希望を断ち切られ、あらゆる科学技術を奪われた地球人は、急速に回帰志向をつよめていった。宇宙進出という未来の神話を失った人類は、ふたたび民族単位に逆行し、それぞれの民族が個別にそなえていた神話に耽溺《たんでき》していった。知性体として未熟な人類は、自分たちが地球に幽閉《ゆうへい》されている身だという現実を直視することに耐えられず、神を、神話を復活させることで、精神的なバランスをたもとうとしたのだ」
スフィンクスがいった。
「未来を閉ざされたから、過去へ逃避するというのでは、あまりに安易にすぎはしないか、という声も一部にはあったが、この傾向を地球人を再教育するよき機会として利用すべきだ、という声が大勢を占めた……地球人にかぎらず、すべての知性体がなんらかの形で神話を持っている。神話こそ、その知性体の本性を写しだす鏡といえるのだ……われわれは地球人を再教育するために、神話の世界と現実の世界を融合させ、その神話現実世界をしだいに変質させていくことによって、地球人の本性をも矯正《きようせい》していこうと考えたのだ」
「われわれ……」
ダフームがめずらしくうめき声をあげた。
「すると……すると……あんたは……」
「われわれは遺伝子操作をほどこし、地球人の無意識共同体をコントロールした。生体コンピューター素子に運動性を持たせ、彼らを地球上に充満させることによって、一種の汎神《はんしん》論的世界を生みだすことに成功した……いや、われわれがいかにして神話現実世界を構築したかは、いまのおまえたちにはもちろん、恒星間航行にのりだそうとしていたころの地球人の科学知識をもってしても、とうてい理解できるものではないだろう……なんなら、われわれは神で、傲慢《ごうまん》な人類に罰をくだすために、塔をくずし、洪水《こうずい》を起こして、そのあとに新たな世界を築きあげた、と受けとめたほうが理解しやすいかもしれない」
おどろくべきことに、ジローは生体コンピューター素子という概念をおぼろげながら理解していた。そして、マンドールの地をつねにとびかっていた、おびただしい数の蛍《ほたる》のことを想いだしていた。もしかしたら、あれがそうだったのかもしれない。
「甲虫の戦士≠ニ狂人《バム》のことを話してくれないかしら」
それまでかたくなに沈黙をたもっていたザルアーが、はじめて口をきいた。ザルアーは甲虫の戦士≠ナも、狂人《バム》でもなく、当然のことながら、先祖から受けついだ記憶共同体の恩恵にはあずかっていないのだが、女|呪術師《じゆじゆつし》の能力をもってして、彼女は彼女なりにスフィンクスの話を理解しているようだった。
「もし、人類を地球に幽閉することが目的だとしたら、どうして甲虫の戦士≠站カ人《バム》などという人間が存在するのを許したのかしら。おかしいじゃない? 彼らは宇宙パイロットであり、惑星開発要員だったわけでしょう」
「誤解しないでもらいたい」
スフィンクスがいった。
「われわれの目的は、あくまでも地球人を矯正することにあったんだ。宇宙進出の芽を完全につみとってしまい、ひとつの種《しゆ》を袋小路に追いつめることが目的だったわけではない……その存在を許すどころか、われわれは甲虫の戦士≠站カ人《バム》が存続するように、むしろ努力してきたんだ。なにしろ、宇宙へあえて進出しようとする人間は、地球人のあいだでもごくかぎられた存在だったからな。神話現実世界がつづいたあまりに、彼らの特性が希薄化することのないようにさまざまの措置をこうじる必要があった……宇宙パイロットの特性を持つ者は、甲虫の戦士≠フ伝説を与えることによって、同族意識を持たせ、つねに遺伝子強化をはかった。狂人《バム》の場合には、冷凍精液と冷凍卵子の知識を与え、これも惑星開発要員の特性がうすれることのないようにつとめた……」
ジローは自分が以前にも増して、強い無力感にとらわれるのをおぼえた。自分たちが、あらかじめさだめられた運命の下《もと》に動いているだけだ、ということが、いま、疑問の余地のない事実として、眼のまえにつきつけられたのである。
「月《ムーン》≠ヘどうしたんだ?」
ビンが奇妙にけだるい声でいった。「かつて地球には月《ムーン》≠ニいう名の衛星があったことを、いま、俺は想いだしている。月《ムーン》≠ヘどうなっちまったんだ? どこへ行っちまったんだ?」
「月《ムーン》≠ヘわれわれが破壊した……」
スフィンクスがしずかにいった。「その必要があって、われわれが破壊してしまったんだよ」
その言葉がみんなの胸にしみわたるまでにはすこし時間がかかった。しばらく、重苦しい、それでいて、なんだか胸が切《せつ》なくなるような沈黙が、部屋にみなぎっていた。
「なぜだ……」
やがて、ジローがうめくようにいった。「なぜ月《ムーン》≠破壊する必要があったんだ」
「月《ムーン》≠ェあったからこそ、人類は宇宙に眼を向けることができたんだ」
スフィンクスの声はなにかささやいているみたいだった。「月《ムーン》≠ェあったからこそ、人類はそこに行きたいと考え、さらにはそこからさき、宇宙へのりだしたいと考えるようになったのだ……人類にとって、月《ムーン》≠ヘいわば宇宙の象徴、宇宙進出にたいする情熱の原動力ともいうべき存在だったんだよ」
「だから、破壊したというの?」
ザルアーが奇妙に冷静な声できいた。「人類に、自分たちが地球にとじこめられている身だということを思い知らせるために、それで月《ムーン》≠破壊したというの?」
「そうだ」
スフィンクスはうなずいた。「それで、月《ムーン》≠破壊したんだ」
「どうやって?」
ビンの声はあいかわらずものうく、どうかすると、この場の会話にまったく興味をいだいていないようにきこえた。「どうやって、月《ムーン》≠破壊したんだ」
「バハムート≠セよ。われわれは、月《ムーン》≠ノバハムート≠放ったんだ……」
スフィンクスのその言葉は、ふたたび甲虫の戦士≠スちの記憶につよく作用したようだった。いや、バハムート≠ニいう名は、甲虫の戦士≠フみばかりではなく、狂人《バム》たるチャクラの記憶をも喚起する力があったらしかった。その瞬間、チャクラも甲虫の戦士≠スちと同じく、とおくをみるような眼つきになっていたのだから。
彼らは想いだしていた。バハムート≠ェなんであるか、そのバハムート≠ェいかにして月《ムーン》≠破壊したかを想いだしていた。いや、この場合、想いだすという言葉は正確ではないかもしれない。それは、たんになにがあったかを想い起こすばかりではなく、そのときの人類の悲しみ、怒り、絶望をまざまざと感じとる、再体験ともいうべきことであったのだ。
――バハムート≠ヘ、人類には想像もしえない遺伝子工学を駆使して、異星人が開発した超生命体、有機的な小惑星採掘工場≠ニでも呼ぶべき存在なのである。バハムート≠ヘ小惑星、あるいは衛星を咀嚼《そしやく》し、胃のなかで精製して、きわめて純度のたかい金属をつくりだす。彼は文字どおり、星を食べるのだった。
通常、バハムート≠ヘ対象とする星によって、鉄とかニッケルなど、食料の選別性をあらかじめ与えられ、放たれる。しかし、月《ムーン》≠ノ放たれたバハムート≠ノかぎって、いっさい選別性は与えられなかった――食べて、食べて、食べつくせ……それが、そのバハムート≠ノ与えられた指令だったのだ。
バハムート≠ヘそれじたい一個の巨大な細胞であって、恒星の輻射《ふくしや》エネルギーをみずからのなかにとりこみ、生きている。じっさい、生命体の名に値《あたい》するかどうかためらわれるほど、その生命|代謝《たいしや》機能は単純で、それだけに強靭《きようじん》きわまりない生命力の主ともいえるのだった。
その強靭な生命力、あえていえば破壊力が月《ムーン》≠ニいうちいさな衛星にすべて集中されることになったのだ。食べて、食べて、食べつくせ、という無慈悲な指令が、なかば本能と化して、バハムート≠駆りたてたのだ。
バハムート≠ヘ月《ムーン》≠むさぼるようにして、食べた。
月《ムーン》≠ヘしだいにやせほそっていき、それにつれ、地球に接近しはじめた。増大した起潮力が高波を起こし、地球の海岸線を急速に後退させていった――異星人たちの、ほとんど魔法にちかい超科学力は、それでもなお地球に自転だけは与えていた。人類を滅ぼすことは、彼らの本意ではなかったからである。
そして月《ムーン》≠ヘ地球から一万六千キロの距離に達し、ついにロッシュの限界≠越えてしまった。月《ムーン》≠ヘこなごなに砕け散ってしまったのだ。人類の手から月《ムーン》≠ヘ永遠に奪われてしまったのである。
ほんとうなら、破壊された月《ムーン》≠ヘ、土星の環のように地球のまわりをとりまくことになるはずだった。だが、月《ムーン》≠フ環が、太陽の光をさまたげ、地球の生命体に悪影響を与えることをおそれた異星人は、すみやかに月《ムーン》≠フ破片を回収し――そして、回収しきれない破片は、地球の一地域に集中して、落下させた。
それが、沙海だった。
沙海をおおっているコンドリュールは月《ムーン》≠フかけらだった。
鉛いろの、ただノッペリとひろがっているだけの沙海からは、かつてそれが夜空にこうこうとかがやいていた時代があったとは、とうてい信じられないかもしれない。信じられないかもしれないが、しかし沙海が月《ムーン》≠フかわりはてた姿であるのは、厳然とした事実なのだった。
引力に引き寄せられ、地球上に落ちてきたのは、かならずしも月《ムーン》≠フかけらばかりではなかった。バハムート≠烽ワた地球に落ちてきたのだ――大気圏に突入して、燃えつきることもなく、しかも生きながらえるとは、バハムート≠ヘ人知を絶した怪物というべきだった。そして、この怪物は地上にはてしもない破壊と荒廃をもたらした。
――男たちはしばらく身じろぎもしなかった。せきをきったようにあふれる記憶にうちのめされ、人々の悲嘆、絶望に胸ふさがれ、ほとんど息をすることも忘れていたのだ。
「どうしてだ?」
それから、ダフームがめずらしく重い口をひらいて、きいた。「どうして、あんたたちはバハムート≠地上に放ったんだ」
「人類をためすためだよ」
スフィンクスがしずかに答えた。「人類がもういちど宇宙へのりだす資格を得るためには、試練を与えてやる必要がある。それが、われわれのおきてだからね……バハムート≠ヘいうならば、その試練というわけだよ」
「面倒くさい話だな」
ビンが冷笑を浮かべながら、いった。「俺たちは、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行かなければならない、と教えられた。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ行って、月《ムーン》≠うばいかえすのが宿命だ、と……それが、今度は試練ときやがった。いったい、どこまで進めば、このカラ騒ぎは終わりになるんだ?」
「これが、おまえたちに与えられる最後の試練だ……この試練をくぐり抜ければ、おまえたちは|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみ入れることができる。そして、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ヘ宇宙に通じている。おまえたちの努力しだいでは、月《ムーン》≠とりかえすのも不可能ではないはずだ」
「待てよ……」
ジローは口のなかでそうつぶやき、首をひねってから、もう一度つぶやいた。「ちょっと待ってくれよ。もしかしたら、その試練というのは……」
「そうだ」
スフィンクスがうなずいて、いった。「おまえたちはバハムート≠倒さなければならないんだよ」
「…………」
バハムート≠ェ人類に与えられた試練だときかされたときから、このことはだれもが漠然《ばくぜん》と予想していたはずだった。しかし、じっさいにそれをスフィンクスの口から伝えられるのは、やはりショックであり、身ぶるいするほどおそろしいことでもあった。
「冗談じゃねえ」
チャクラがかすれた声でいった。「冗談じゃねえ。そんなおそろしい化《ば》け物を、どうして俺たちが倒さなければならないんだ」
甲虫の戦士≠ニいえども、奇跡をなしとげる力があるわけではない。おそらく、チャクラの言葉は、一同の気持ちを代弁したものであったにちがいない――しかし、甲虫の戦士≠ヘだれひとりとして、どうして、ときこうとしなかった。どうして、なぜ、ときくのがまったく無意味であることは、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ旅だったときから、すでに充分に思い知らされていたからだ。
「わたしの話はそれだけだ」
スフィンクスがいった。「どうするかは、おまえたち自身で決めるがいい」
双子の兄妹がすかさず扉を両側からひらき、うやうやしく一礼した。スフィンクスはきびすをかえすと、悠々《ゆうゆう》と部屋から出ていった。その巨体にもかかわらず、まるで小猫《こねこ》のようにしなやかな身のこなしだった。
扉がしまった。
しばらくは、みんなその扉をジッとみつめているだけで、口をきこうとする者はひとりもいなかった。
「どうするかは、俺たちで決めろってよ」
やがて、チャクラが吐きすてるような口調でいった。「ずいぶん、ご親切なお話じゃねえか……なあ、おい、みんなもそう思うだろう」
――飲み物の用意をととのえると、スフィンクスのあとを追うようにして、双子の兄弟も部屋を出ていった。どうやら、甲虫の戦士≠スちがこれからどうするかを決定するにあたって、いかなる忠告、示唆《しさ》も与えてはならないと、スフィンクスから強くいいわたされているようであった。
部屋に残された五人の男女は、ソファに腰をおろし、ワインのグラスを手にして、おたがいに暗うつな視線をかわしあっていた。
宇宙パイロット、辺境惑星開発要員……あきらかになった自分たちの正体の意外さに、彼らがショックを受け、ある種の虚脱状態におちいったとしても、ふしぎではなかった。いつ終わるともしれない旅に、ようやく疲れをおぼえはじめてもいた――なにより、この島に上陸しても、なお|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみ入れるのは許されず、さらにバハムート≠倒さなければならないということが、彼らにいいしれぬ絶望感を与えたのだった。
「いいように、鼻づらをひきずりまわされているという感じだな……」
チャクラが気の抜けた、なんだか自嘲《じちよう》めいた調子でいった。「ほんとうに|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ入れるときがあるのかね」
甲虫の戦士≠スちのあいだに笑い声が起こった。やはり自嘲めいた、なんともやりきれない笑いだった。
「仕方ないだろうな」
ダフームがワインのグラスをみつめながら、ボソリといった。「これはもう、ほんとうに仕方ないだろうな……」
「…………」
ジローはダフームの言葉に、あえて同調する気にはなれなかった。なれなかったが、仕方がない、というダフームの言葉が、甲虫の戦士≠ノ共通する実感であることはまちがいなかった――まったく、ほかにどうしようもないではないか。いまとなっては、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれることに、さほどの意味があるとは思えないが、だからといって、ここでひきかえしてしまえば、彼らの人生そのものを否定することになってしまうのである。
自分たちが運命にあやつられていると考えていたときのほうが、まだしも希望があったと思う。すくなくとも、その運命にみずからぶつかっていくだけの情熱、というか、意地は持てたからだ。
だが、異星人によって、人類は宇宙に進出するほどには成熟していないと烙印《らくいん》を押され、その結果、地球が完全に管理されていたとあっては、どうにもむなしさをおぼえざるを得ないではないか。彼ら甲虫の戦士=A狂人《バム》たちが運命と信じていたことが、じつは、潜在的に宇宙に進出する能力を秘めた人間として、異星人にチェック、コントロールされていた結果にすぎないとわかっては、これまでの冒険、苦難が急に色あせたものにみえてくるのも当然ではないか……
しかし、そう、しかし、ダフームのいうように、仕方ない、のであった。
「どうした? 急に弱気になったじゃないか」
ビンがせせら笑うようにいった。「まさか、バハムート≠ェこわくなったというんじゃあるまいな。たとえそうだとしても、いまさらひきかえすわけにはいかないんじゃないかね」
「…………」
ジローは顔をあげ、ビンの眼を真正面からとらえた。ビンはジローの直視にたじろぐこともなく、平然とうす笑いを浮かべている。どうやら彼の場合は、ジローや、ダフームとくらべて、それほど失意の念をいだいてはいないようだった。
――おかしい……と、ジローは思った。なんとなく、ビンの言葉を額面どおりには受けとれない感じなのだ。いつから、彼は|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ足をふみいれるのに、こんなにも積極的になったのだろうか。むしろ、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ネんかどうでもいい、といった意見の持ち主ではなかったのか……
ジローがビンにたいして疑惑をいだいたのは、このときが最初だったといえる。だが、この少年のつねとして、その疑惑をふかく掘り下げて考えようとはしなかった。
ジローはビンからダフームに視線をうつした。そして、ダフームがうなずくのをたしかめてから、ふたたびビンに視線をもどした。
「やろう」
自分もうなずきながら、いいかけた。「みんなでバハムート≠……」
「俺はいやだぜ」
チャクラの声がしずかに、しかしキッパリと、ジローの言葉をさえぎった。「今度という今度は、おろさしてもらうぜ」
「…………」
みんなの視線がチャクラにそそがれた。だれもが一様におどろきの表情を浮かべていたが、なかでもジローは自分の耳を疑いたくなるような思いがしていた。ジローは、なにがあっても、チャクラだけは自分についてきてくれると信じていたのだ。
「いやだよ……」
チャクラが首をふり、やや気弱な口調でくりかえした。泣き笑いのような表情を浮かべている。
「俺は狂人《バム》だぜ……だれの世話にもならないで、これまで生きてきたんだ。これからも、そうして生きていくつもりだよ……冗談じゃねえ。俺の先祖がなんであろうと、俺の知ったこっちゃねえ。辺境惑星開発要員がなんだというんだ。俺は、俺だよ……狂人《バム》の、チャクラさまだ」
「マンドールからずっといっしょに旅をしてきた仲間じゃないか」
ジローにはめずらしいことだが、自然にすがるような口調になっていた。
「ああ……」
チャクラはうなずいて、まっすぐにジローの眼をみた。「あのランという娘を手に入れようと、おまえがあんまり一生懸命だったもんでな……なんとか力になってやりたいと思ったのさ」
「…………」
ジローは眼を伏せた。
われながら不可解というほかはないのだが、あれほど激しかったランにたいする想いが、いまはもう拭《ぬぐ》いさられたように、すっかり消えているのだ。いや、ランを好きになったことにしてからが、そもそもジローを|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ向かわせるためのプログラムの一環にすぎなかったのかもしれないのだから、べつに不可解でもなんでもないかもしれない――ただ、ランへの想いが消えたことで、ジローがチャクラ、あるいはザルアーにたいして、ある種のうしろめたさ、罪悪感をおぼえているのは、事実のようだった。
チャクラはしばらく痛々しいものでもみるように、ジローをみていたが、やがてザルアーに顔を向け、しずかにきいた。
「あんたはどうする? あんたは甲虫の戦士≠カゃないし、狂人《バム》でもない……あんたも俺といっしょに残ったらどうだ?」
チャクラがため息をつき、ジローが内心ホッとしたことには、ザルアーはこう答えたのだ。
「わたしはジローといっしょに行くわ」
おそらく、ザルアーの真意を――漠然とではあっても――読みとることができたのは、ビンひとりであったにちがいない。
11
――沙海《さかい》は灰いろのうす闇《やみ》の底に沈んでいた。
鉛いろの空と、鉛いろの沙海、そしてそのあわいによこたわる、黒く、糸みたいに細い地平線……ただそれだけの、みるだに気持ちが滅入《めい》ってくるような、まったく単調な風景だった。
その、黒い地平線の一点を、ポツンとだいだい色の光が染めあげていた。
時間がたつにつれ、だいだい色の光はゆっくりと、ほとんど眼にみえないほどゆっくりと、地平線にひろがっていく。そして、ついに地平線がすっかりだいだい色に染めあげられる――しばらくは、そのままの状態がつづく。傷口のように、だいだい色の、細い線が、空と沙海を分けているのだ。
血が滲《にじ》んでいくように、だいだい色の光が赤くかわっていき、その一点が急速にふくらみはじめる。やがて、地平線のまんなかをつらぬき、空と沙海を縫うみたいにして、光の柱が上下に伸びていく――朝だ。
しかし、これはまたなんと不吉な一日のはじまりであることか。灰いろの空と、灰いろの沙海にそびえたつ、巨大な、血の十字架……それは、一日のはじまりらしくもなく、いや、むしろこの世の終わりにこそふさわしい、無気味な、なにか黙示録めいてさえいる眺《なが》めだった。
その血の十字架から抜けでたように、ちいさな黒点が浮かびあがり、しだいにそれが大きく、はっきりと形をとりはじめる。
縦帆船《スクーナ》だ。
血の十字架を背負って、その縦帆船《スクーナ》は奇妙に陰惨な、そう、幽霊《ゆうれい》船のようにみえた。たんに比喩《ひゆ》的な意味からばかりではなく、物見の姿もなく、甲板に人影もないその縦帆船《スクーナ》は、たしかに幽霊船の名にこそふさわしいものであった。
ルン、ルン、ルゥン……その縦帆船《スクーナ》の舳先《へさき》のあたりから、ややかんだかい、金属弦をふるわせているようなしらべが流れていた。哀調をおびた、透明感を感じさせるしらべだった――人影のない縦帆船《スクーナ》、地平線の血の十字架とあいまって、なんとなく葬送曲を連想させた。
ダフームだった。
ダフームが舳先の甲板に、足をなげだすようにしてすわり、あの二枚の金属板に弦を張った楽器をくわえ、人差し指でしきりにかなでているのだ。
ダフームは放心したような表情を浮かべていた。いつもは、石をきざんだように無表情な男なのだが、めずらしくその顔には疲労と、倦怠《けんたい》感があらわになっていた。なんだか、体までもが縮んでしまったようにみえた。
ルン、ルン、ルゥン……ダフームのかなでるしらべは、しかしおりしも吹きはじめた風の音に、かき消されがちだった。
風が吹き、沙海が澄んだ音を鳴りひびかせる。
縦帆船《スクーナ》がわずかにかたむく。帆が風をいっぱいにはらみ、帆桁《ほげた》が激しくきしむ――しかし、帆柱をよじのぼっていく水夫も、わめきちらす船長の姿もない。あの愛すべき船乗りたちは、ひとりとしてこの船には乗っていないのだった。
島へ行くのでさえ、あれほどしぶった船乗りたちが、バハムート¢゙治に同行するのを承知するはずがなかった。サラマンドラの皮はもうないのだから、なおさら彼らを説得するのはむつかしい。かといって、べつの船をさがしだすだけの時間的なゆとりも、心当たりもなく――つまるところ、縦帆船《スクーナ》をのっとるほかはなかったのだ。
あからさまにいってしまえば、剣をつきつけて脅《おど》し、船乗りたちをむりやり上陸させて、海賊もどきに船をうばってしまったのだった。
もちろん、誉《ほ》められた話ではない。
誉められた話ではないが、ジローたち甲虫の戦士≠ノしてみれば、やむをえない処置ではあった。ほかに船を調達する、どんな手だてもありえなかったからだ。
だが、だからといって、彼らが縦帆船《スクーナ》をうばったことに、かならずしも心やすらかでいられたわけではない。ビンはともかく、ジローとダフームはまっとうな戦士だ。自分たちの海賊まがいの行為に、嫌悪《けんお》感をいだかないわけがなかった。いうならば、それは彼らの戦士としての誇りに、大きく反する行為だったのである。
ダフームがめずらしく浮かない表情をしているのは、少人数で船をあやつる疲労もあるにはあったろうが、なによりその罪悪感が重く心にのしかかっているからにちがいなかった。
すでに船乗りたちを沙漠に上陸させてから七日、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フ島をはなれたときから計算すれば、十日以上が過ぎていた。そのあいだ、縦帆船《スクーナ》はむなしく沙海をただよっていただけで、バハムート≠フ遠影さえみることはできなかった――甲虫の戦士≠スちが徒労感、無力感をおぼえはじめたのも、当然のことかもしれなかった。
――風が強くなりはじめた。
沙海に小波《さざなみ》みたいに光が走り、澄んだ、ガラスをふるわせるような音が、ひっきりなしにきこえていた。帆が風をはらみ、はためく音も、いっそうたかくなっていた。
それらの音にかたくなに背を向け、なかば意地になっているように、ダフームは弦を鳴らしつづけていた。
ルン、ルン、ルゥン……
ふいに、ダフームは楽器を口からはなし、まじまじとそれをみつめた。あるかなしかにではあったが、たしかにその顔には怯《おび》えに似た色が浮かんでいた。――弦がプッツリと切れているのだ。ダフームほどの男が、いささかなりとも怯えの色をしめすからには、おそらく彼の種族では、楽器の弦が切れるのは不吉とされているにちがいなかった。
ダフームはゆっくりと、じつにゆっくりと立ちあがり、しばらく沙海の一点を凝視していた。その顔からは、しだいに怯えの色が消えていった。その替わりに、おだやかな微笑が浮かんできて、子供のように晴れやかな表情になっていった。
ふいに、ダフームは顔をひきしめると、帆柱にたてかけてあった槍を、グイッと手元に引き寄せた。そして、さけんだ。
「バハムート! バハムート!」
白い、巨大な、泡《あわ》の怪物……それがバハムート≠セった。
泡状に盛りあがり、うねっている外皮は、じつは遺伝子工学によって異常に強化され、かつ伸縮性にとんだ細胞膜だった。バハムート≠ヘ宇宙空間でも生息可能だというのだから、理屈からいえば、その細胞膜は宇宙船の外殻《がいかく》にも匹敵する強度をそなえているということになる。信じられないほどの強靭《きようじん》さだった。
外皮が泡のようにふくれあがり、ときに脈うったりするのは、一見、筋肉のうねりのようにみえるが、じっさいには、その下に包みこまれている細胞質がコロイド状で、流動性にとんでいるからだった。どうやら、この流動的な細胞質が、沙漠におけるバハムート≠ノ、運動性を与えているようだった。
巨大な細胞……たしかに、そうにはちがいないのだが、バハムート≠たんなる単細胞生物と考えるのは誤りだった。――宇宙線と輻射熱によって賦活《ふかつ》され、細胞質はタンパク質合成をつづけ、その流動性でみずからに運動能力を与えている。さらには、非常に盲目的で、ほとんど本能の名にも値《あたい》しないほど直線的なものではあるが、バハムート≠ヘ鉱物採掘という意志《いし》を持っている。考えてもみるがいい。これが、ただひとつの核酸によって成されていることなのだ。単純なるがゆえに、完璧《かんぺき》で、美しい……この言葉は、すくなくともバハムート≠ノおいては、真理をついているようだった。
そう、バハムート≠ヘ美しい。その泡状の外皮は新雪のように白く、沙海を一直線につっきっていく姿は、流れるようで、優美でさえあった――人類の知力のおよばない異星人の生成物、圧倒的な力の具現者、月《ムーン》≠食いつくした怪物、バハムート=c…その巨大な頭部? 深くえぐれたしわの下にある熱源感知器、それがジローたちの眼には、凶暴な破壊欲をみなぎらせた、バハムート≠フまっかに血走った眼のようにみえるのだった。
いま、沙海にうねっているバハムート≠フ姿は、海を走る巨大な津波、白く泡立つ大渦巻《うずまき》を連想させる。それは、かつてビンがいみじくも形容したように、「神が創《つく》りたもう巨《おおい》なる鯨《くじら》」の姿にほかならなかった。
タム、タム、タム……ドラムをたたく音がきこえている。優れた女|呪術師《じゆじゆつし》、ありとあらゆる生成物と意志をかよいあわせることのできるザルアーが、組んだ足のうえにドラムをおき、それを打つことでバハムート≠さそっているのだ。
ザルアーは眼をとじ、前後に体をゆらしている。ほとんど、没我の状態に入っているらしい。いま、彼女は全身全霊をうちこんで、すべての精神力をバハムート≠ノ集中させているのだ。いうならば、彼女自身が呼び声と化して、バハムート≠招いているのだった。
タム、タム、タム……単調な、それでいてどことなく緊張をはらんだリズムが、沙海のうえを流れている。そのリズムが、いつしかザルアーの精神力と呼応しあい、肉声にも増して、つよい呼びかけとなるのだ――来い、来い、来い……その呼びかけは、いやしくも生あるものなら、それがたとえどんな怪物であろうと、確実に招き寄せる力を帯びているのだった。
事実、バハムート≠フ白い泡立っているような巨体は、縦帆船《スクーナ》に向かって、接近しつつあった。それは、喩《たと》えていえば、島が迫ってくるような威圧感、圧倒的な恐怖をもたらす眺めだった。
縦帆船《スクーナ》の舳先には、三人の甲虫の戦士≠ェ立ちはだかり、バハムート≠ェ近づいてくるのを待っていた。
彼らは、たがいに一言も言葉をかわしあおうとしなかった。三人ともに、ここでは言葉がまったく無力であることを知りつくしていたからだ――バハムート≠ヘ、こざかしい計略や、戦術が通用する相手ではない。きたえぬかれた戦士の肉体をぶつけ、それこそ死に物狂いに戦うほかはない怪物なのだ。
強烈な陽光が、急速に大気を熱しはじめていた。沙海は、溶鉱炉に投げこまれた鉛の薄板のように、陽炎《かげろう》のなかでゆらめいていた。バハムート≠フ姿もまたゆらめき、どうかすると陽炎が生みだした、白く、巨大な蜃気楼《しんきろう》のようにみえた。――バハムート≠ェあまりに常軌を逸して巨大なため、じっさいに目《ま》のあたりにしていても、理性がそれを現実のものとして受け入れるのを拒否しているのかもしれなかった。
タム、タム、タム……単調なドラムのひびきがつづいている。
ジローはその音をきいているうちに、いつしか自分がうつらうつらとしはじめていることに気がつき、愕然《がくぜん》とした。剣をにぎっている手に力をこめて、あわてて眠けを追いはらおうとする。まったく、こんなときにいねむりしそうになるなんて、のんきにもほどがある……だが、それはのんきどころの話ではなかった。ジローは自覚していないが、その逆なのだ。極度の緊張が、かえって精神の弛緩《しかん》をまねいているのだった。
陽光がかっとジローの肌《はだ》を射っている。暑い。ジローはひたいの汗をグイッグイッと拳《こぶし》で拭った。暑くて、気が狂いそうだ。バハムート≠ヘなにをぐずぐずしているんだ。はやく、はじめちまおうじゃないか……しかし、じっさいには汗は冷たく凍ってしまい、全身が鳥肌立っていることに、ジローは気がついていなかった。
いまや、バハムート≠ヘ縦帆船《スクーナ》のごく近くにまで接近していた。日がしだいに翳《かげ》っていく。バハムート≠フ美しい、それだけにいっそう恐ろしい、純白の巨体が、視界のほとんどを占めるにまでいたっていた。
「いよいよだな」
ダフームがそうつぶやくと、槍《やり》を頭上にふりかざした。槍からは太い綱がたれさがり、ダフームの腰を何重にも巻いたのち、甲板を這《は》い、最後には帆柱にしっかりと結びつけられていた。おそらく、バハムート≠ェ相手であるからには、一度や二度、槍を突き刺したぐらいではどうにもならない、と考えたうえでの、工夫だったにちがいない。
バハムート≠ェ迫ってくる。氷壁が視界にのしかかってくる感じだ。そのしわに埋もれているような熱源感知器は、たしかにジローたちを真正面からとらえていた。
ドラムの音が止《や》んだ。ガラスの砕けるような音がたてつづけにきこえてきて、やがて頭上にこだまする大音響と化して、縦帆船《スクーナ》を包みこんだ――バハムート≠フ巨体が迫ってくるあおりをくらって、縦帆船《スクーナ》が大きくかたむき、帆柱がギシギシと鳴った。
バハムート≠ヘさながら大きな滝のようだった。白く泡立ち、流れ、そして縦帆船《スクーナ》を一気に圧《お》しつぶそうとしているのだ。
「――――」
ダフームがなにごとか叫んだ。その右手が閃光《せんこう》のようにひらめいた。槍は一直線に走り、バハムート≠フ白い巨体に吸いこまれていった――やった、とだれもが思った。ダフームの狙《ねら》いは正確そのもので、その槍はたしかにバハムート≠フ熱源感知器をつらぬいたはずなのだ。
だが、バハムート≠ヘ針で突つかれたほどにも、苦痛を感じてはいないようだ。逃げようとするどころか、逆に縦帆船《スクーナ》にのしかかってきて、その身のひとひねりで、難なく帆柱をへし折ってしまったのだ。
これが、海のうえであったなら、縦帆船《スクーナ》はあっけなく沈没していたにちがいない。ほとんど摩擦のない沙海のうえであったことがさいわいして、縦帆船《スクーナ》は横滑りに滑っていき、かろうじてバハムート≠フ巨体から逃がれることができたのだ。
しかし、縦帆船《スクーナ》が破壊されなかったからといって、かならずしも甲虫の戦士≠スちが無事だったというわけではない。頭上に倒れかかってくる帆柱、独楽《コマ》のように回転する縦帆船《スクーナ》……ジローたちは甲板にたたきつけられ、ふりまわされ、意識を保っているのがようやくというありさまだったのだ。
一瞬のうちに、いろんなことが起こった。ズーンという地響きに似た音、船のきしみ、悲鳴……それらの音が渾然《こんぜん》となって、落雷のように頭上に炸裂《さくれつ》した。折れた帆柱の下敷きになりそうになり、ジローはかろうじて身をかわしたものの、しばらくはなにがどうなったのか把握《はあく》できず、ただ呆然《ぼうぜん》と甲板のうえにすわりこんでいた。
「ダフーム!」
ザルアーのさけぶ声が背後からきこえてきた。
ジローはハッと顔をあげ、そして自分も声をあげていた――ダフームがバハムート≠フ巨体にしがみついているのだ。おそらく、バハムート≠ェ縦帆船《スクーナ》に体当りしてきた拍子に、槍に結んだ綱をたぐりよせて、怪物の背中にとびうつったのだろう。抜群の反射神経を持つダフームにして、はじめて可能だったことにちがいない。
バハムート≠ニ縦帆船《スクーナ》とのあいだは、一本の綱で結ばれていた。バハムート≠ェ巨体をうねらし、波だたせるたびに、縦帆船《スクーナ》はきしみ、右に左に滑走するのだ。それは、喩えていえば、大男がヒモでしばった小犬を、いいようにひきまわしているようなものだった。戦いを挑《いど》むどころか、立っていることさえままならない状態なのだ。
しかし、ジローは必死に船べりにしがみつき、ダフームの姿を眼で追っていた。
正直な話、バハムート≠フ巨体にあって、ダフームの姿は、黒い、ちっぽけな点にしかみえず、およそ勇ましいという形容からはほど遠いものだった。山を這いのぼっていくハエのようで、むしろ滑稽《こつけい》とさえいえたかもしれない――だが、バハムート≠フ巨体に圧倒され、ジローとビンがなすすべもなく立ちすくんでいたとき、ダフームひとりが敢然としてたちむかっていったのは、まぎれもない事実なのだ。彼こそは、甲虫《かぶとむし》の戦士≠フ名に真にふさわしい男といえた。
暴《あば》れまわるバハムート≠ノしがみついているだけでも、たいへんな苦痛を強《し》いられるであろうことは、想像に難くない。それに加えて、もういちど槍を手中に収めようと、ダフームはバハムート≠フ体を這いのぼろうとしているのだ。おそらく、戦士の誇り、バハムート≠たおさずにはおかないという執念《しゆうねん》だけが、いまのダフームをつき動かしているにちがいなかった。
船底のきしみ、帆のはためき、風切り音……耳を圧する狂騒音のなか、ジローもまた叫び声をあげていた。ダフームにたいする声援だった――彼はバハムート≠フ巨体にしがみついているのが、自分であるような錯覚にとらわれていた。激しい焦燥感に胸を灼《や》かれ、にぎりしめた手にジットリと汗がにじんでいた。ダフームがなかなか槍にたどりつけないでいるのがもどかしく、無意識のうちに、足踏みをくりかえしていた。
冷静になって考えてみれば、たとえダフームがふたたび槍を手中にしたところで、どうなるものでもない、ということに思いいたったにちがいない。バハムート≠ヘ槍や剣が通用するような、そんななまやさしい相手ではないからだ。その意味では、しょせんダフームの苦闘は、不毛の行為といえたかもしれない。
しかし、そういうことではないのだ。ダフームの槍がバハムート≠ノ通用するとかしないとか、そんなことはとるにたらない些事《さじ》にすぎない。問題は、ダフームが圧倒的に強力なバハムート≠まえにして、一歩もしりぞこうとしない、そのことなのだ――ダフームの行為は、巨大な運命に翻弄《ほんろう》されながらも、その運命に真正面から挑んでいく甲虫の戦士≠フ姿そのものを象徴しているように思え、それがジローにいいしれぬ感動を与えるのだった。
――早くしろ……ジローは頭のなかで大声でわめいていた。頼むから、早く槍にたどりついてくれ……
ついに、ダフームの手が槍に達した。槍に体重をかけ、みずからの体を一気にひきあげるダフームの姿をみて、ジローが思わず歓喜の声をあげたそのとき――バハムート≠フ巨体が反《そ》りかえり、ダフームの体を宙たかく跳《は》ねあげたのだった。
一瞬、ジローの眼に、陽炎のなかにきれぎれの影となって浮かんでいるダフームの姿が、はっきりとやきついた。しかし、ダフームの行方を眼で追うことはできなかった。縦帆船《スクーナ》が独楽のように回転し、ほとんど横倒しにちかい状態で、沙海のうえを滑ったために、ジローはバランスをくずし、船板にたたきつけられてしまったからだ。
もちろん、そのほうがよかったのだ。あれほど誇りたかく、戦士としての天稟《てんぴん》にも恵まれていたダフームが、かくもあっけなくバハムート≠ノ圧殺されるのを目《ま》のあたりにしたら、いかなジローといえども、精神に破綻《はたん》をきたしたかもしれないからだ。
しばらく、ジローは船板のうえに呆然とよこたわっていた。船板に体をたたきつけられた苦痛と、そしておそらくはダフームがやられたというショックから、思考力が完全にマヒしていた。なにかを考えるのが面倒で、いっさいがっさい、すべてがどうでもいいことであるような気がした。
しかし、ジローにそのままそこによこたわり、放心している贅沢《ぜいたく》は許されなかった。
そのとき、帆に火が放たれたからである。
――気がついたときには、もう炎は帆の下端をなめつくし、上方に向かってゆっくりと侵攻を開始していた。炭化した麻布が、チリチリと音をたてながら、しだいにまくれあがっていく。熱気をはらんだ煙が、船のうえをただよい、渦を巻いていた。
さっきバハムート≠ェ暴れた拍子に、どうやら綱が切れたらしかった。炎をチョウの翅《はね》のようにはためかせながら、縦帆船《スクーナ》が沙海のうえを滑走していた。いや、こともあろうに、ビンが帆綱をたぐり、帆を燃えるままにまかせて、縦帆船《スクーナ》をあやつっているのだ。
一瞬、ジローはビンが発狂したのではないかと疑った。なにをおいても、まず火を消すのがさきではないか。こんな場合に、縦帆船《スクーナ》を走らせるとは、バハムート≠ノ恐れをなして、冷静な判断力をうしなってしまったとしか思えなかった。
しかし、あわててジローが帆に駆け寄ろうとしたそのとき、ビンの右手がひらめき、忽然《こつぜん》とナイフが出現したのだ。ビンは帆綱を左手でしっかりとつかみながら、ジローの顔をまっすぐにみすえて、ナイフを持ったその手を、肩のたかさと水平にかまえていた。決して、常軌を逸した人間の顔ではなかった。ビンはしごく冷静に、じゃまをするな、とジローに警告を与えているのである。
ジローは呆然と立ちすくんでしまっている。なにがどうなったのかわからず、カッと熱くなってしまった頭で、呆《ほう》けたように同じことばかりを考えていた――ダフームが死んだ、帆が燃えている、ビンがナイフをかまえている……どうやら冷静さをうしなってしまったのはビンではなく、ジローのようであった。
頭のうえで帆が燃えている。いがらっぽいにおいの煙がたちこめ、火の粉が頭髪をチリチリと焦がしている。熱い。熱くて、気が狂いそうだ――ジローは立ちすくみながら、拳《こぶし》でしきりにひたいの汗を拭《ぬぐ》っている。あきらかに精神の失調をうかがわせる、偏執《へんしゆう》的なしぐさだった。
「なにをするつもりなんだ……」
やがて、ジローがうめくようにきいた。「どうするつもりなんだ」
「バハムート≠焜Tラマンドラと同じだ」
ビンがあいかわらずナイフを顔のまえにかまえながら、いった。そこにいるのはもう、かつての皮肉屋で冷笑的なビンではなく、ようやくやるべきことをみいだし、いきいきとした充足感をみなぎらせているひとりの男だった。「熱いものを好む。だから、豪勢に縦帆船《スクーナ》に火をつけて、バハムート≠おびき寄せようというわけだ……」
「…………」
ジローは反射的に、バハムート≠フほうをふりかえった。なるほど、たしかにバハムート≠ヘピッタリと、縦帆船《スクーナ》につきしたがっている。いまや縦帆船《スクーナ》はかなりのスピードで、沙海を滑走しているというのに、バハムート≠ヘいささかも遅れをみせず、猛スピードでつき進んでいるのだった――その意味では、ビンの作戦もあながち的外《まとはず》れとはいえないようだった。しかし……そう、しかし……
「どこへおびき寄せるんだ? バハムート≠おびき寄せる場所なんてあるのか」
「あるさ」
ビンはフッとうすい笑いを浮かべた。「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠セよ」
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》=c…」
ジローはあっけにとられ、ビンの顔を凝視した。バハムート≠|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノおびき寄せ、それでどうしようというのか――ジローは得体の知れない不安が胸をつきあげてくるのをおぼえた。ビンがいまだかつて会ったことのない、まったく未知の人物であるような気がしてくる。
帆の一部が焼けちぎれ、空を舞った。火の粉のはじける音がひときわたかくなり、それにつれて、ビンの声もたかくなる。
「バハムート≠ノ|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠おそわせて、それでどうなるか試してみようというのさ」
ビンの口調はなかば哄笑《こうしよう》しているようだった。「うまくいけば、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠たたっこわすことができる。悪くしても、バハムート≠殺すことはできるだろうからな」
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠たたっこわす……」
思いもよらない言葉だった。いや、それはジローにとって、ほとんど神を冒涜《ぼうとく》するのにひとしい言葉に思えた。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠破壊する? もしそんなことになったら、ジローのこれまでの苦労は、まったく意味をなさなくなるのではないか。なんのために、これまではるばると苦しい旅をつづけてきたというのか……
「なぜだ」
ジローの声は悲鳴に近かった。「どうしてなんだ」
縦帆船《スクーナ》にますます加速がついてきたらしく、耳を切る風音がするどく、たかくなっていた。褐色《かつしよく》の煙がほとんど水平に流れ、背後に尾を残している――炎はついに帆桁《ほげた》にまでひろがりはじめたようで、頭のうえから火の粉が舞い落ちてくる。熱気がたちこめ、ジローの顔からはポタポタと大粒の汗がしたたりおちていた。
「|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ェ許せないからよ」
煙のむこうからザルアーのりんとした声がきこえてきた。煙のとばりにザルアーの影が浮かんで、それがしだいにはっきりとした形をとりはじめた。
「ザルアー」
ジローはうめき声をあげた。真正面にたちはだかったザルアーが、ながく一緒に旅をつづけ、気を許し、肌をあわせさえした女とは、まったく別人のようにみえたからだ。そこに立っているのは、マンドールの地ではじめて顔をあわしたときの女呪術師ザルアーだった――ジローは最近になって、どうしてザルアーにかすかな違和感をいだくようになったのか、そのわけにようやく思い至ったのだった。ジローはうかつにも、ザルアーに超常能力がよみがえっていることを、気づきもしなかったのである。
「あなたもダフリンの町をみたはずよ。女|乞食《こじき》の姿をみたはずだわ」
ザルアーがしずかな、しかしキッパリとした口調でいった。「スフィンクスは、わたしたちに罰を与えたのだといったわ。このみじめったらしい世界は、人間があまりに幼くて、喧嘩《けんか》好きだったために、わたしたちに与えられた牢獄《ろうごく》だって……でも、この世界はひどすぎるわ。あの女乞食……いくらスフィンクスでも、あんなひどい罰を人間にくだす権利はないはずよ。わたしたちに罪はないわ。数百年まえ、数千年のまえの人間がなにかしたからといって、どうしてわたしたちが罰を受けなければならないの?」
「だから、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠こわすというのか……」
ジローの声はうつろだった。どうして、こんなにさみしく、むなしい思いがするのか、ジローは自分で自分がふしぎでならなかった。「あんなに苦労して、ようやくそのとばくちにさしかかったというのに、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠こわすというのか」
「その苦労が気にいらないといったら、どうだ?」
ビンがうっそりとした声で、いった。「俺たちは宇宙パイロットなんだとよ……いまいましい話じゃねえか。なあ、ジローよ。俺たちの人生って、いったいなんだったんだ? 甲虫の戦士≠ェきいてあきれるぜ。いいようにふりまわされてよ。その結果、なにが残ったというんだ? なんにも残りゃしねえ……なあ、ジローよ、俺たちゃそこらの乞食とかわりねえんだぜ」
「そうかもしれない」
ジローはくいしばった歯のあいだから、息をもらすようにしていった。「だけど、ダフームはどうなる? ダフームは甲虫の戦士≠ニして立派に死んだんだぞ」
「そいつはどうかな……」
ビンは肩をすくめながら、いった。「あんがい、ダフームの奴も俺と同じことを考えていたかもしれないぜ」
「…………」
ダフームの死を揶揄《やゆ》されたように感じ、ジローはカッと頭のなかが熱くなるのをおぼえた。ほかはどうあれ、ダフームの死を軽々しくとりあつかわれるのだけは、なんとも許せない気持ちになっていたのだ。
ザルアーが口をひらくのがもうすこし遅ければ、ジローは猛然とビンにつかみかかっていたことだろう。もちろん、そうなれば、ビンのナイフがジローの喉《のど》をつらぬいていたに、ちがいないのだが。
「チャクラの言葉を想いだして」
そのとき、ザルアーがそういったのだ。「チャクラは自分が自分の人生の主人でありたいといったのよ……言葉はちがうけど、チャクラはそういいたかったんだわ、ジロー、おねがいだから、眼をさまして。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ェあなたになにをしてくれたというの? あいつらは、ただあなたの人生をめちゃくちゃにしただけじゃないの」
「…………」
ジローは空をあおいだ。ゴォゴォと音をたてて、帆桁が燃えさかり、黒煙が厚く空をとざしていた。乱舞する火の粉が、思いがけなく美しいものにみえた――ジローはしばらくそのまま、放心したように空をみつめていた。
ジローの頭のなかにはさまざまな思いがせめぎあっていた。マンドールのジャングルが、県圃《ケンポ》の草原が、ダフリンの町が、記憶の闇《やみ》のなかに、一瞬、明るく浮かびあがっては、ふたたび闇のなかに沈んでいった。多くの人々の顔が、あるいは笑い、あるいは怒りながら、脳裡《のうり》をかすめ去っていった……そう、たしかにジローは、青春という人生のもっとも大切な一時期を、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠さがすために、むなしくついやしてしまった。ジローが|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノいかなる借りもないというのも、事実にちがいない。人類がふたたび宇宙に進出できるかどうか、いったいそんなことが、ジローにどんな関《かか》わりがあるというのだろう?……
しかし、だからといって、いまさらジローに、ほかになすべきなにかが残っているとは思えない。マンドールにもどって、ランとふたりでしあわせに暮らす? バカな! それでしあわせに暮らせるはずがないことは、だれよりもよくジローが承知しているのだ。ジローには|空なる螺旋《フエーン・フエーン》∴ネ外にはなにも残っていない。なにもないのだ。
「だめだ……」
ジローはうめくようにいい、そして叫んだ。「いやだ! いやだ! いやだ!」
ジローがそう叫ぶのとほとんど同時に、ぐわっと咆哮《ほうこう》を発しながら、帆桁がくずれおちてきた。炎が雨のように降りそそぎ、一瞬、濃い黒煙が視界をさえぎった。
そのとき、どうしてジローが剣を頭上にふりかざし、無謀にもビンに突進していったかはわからない。もしかしたら、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノも、自分にも絶望したことが、彼を凶暴な衝動にやみくもにかりたてたのかもしれなかった。
「ジロー」
ザルアーがそう叫びざま、眼のまえにとびだしてきて、ジローの体に抱きついた。そして、次の瞬間、はじかれたようにジローの体からはなれると、長い髪をなびかせて、黒煙のなかにクルクルと舞った。その首筋に深々と刺さっているナイフが、はっきりとジローの眼にやきついた。
「――――」
ジローの全身から咆哮が吹きあげた。そのとき、ジローがふりおろした剣は、おそらく岩をも両断していたにちがいない。肉を裂かれ、骨を砕かれ、ビンは鮮血をしぶかせながら、炎のなかにくずれていった。
ジローは拝み討ちに、剣をふりおろしたままの姿勢で、ジッとして動かなかった。なにか祈りをささげているような姿勢だ。すでに炎は船板を這《は》い、ジローの足元にまで忍び寄っていたが、そのことに気がついている様子もない。
ジローはふりかえるのが怖いのだ。ふりかえって、ザルアーの死を事実として眼のまえにつきつけられるのが怖いのだ。まるで、その眼でみさえしなければ、ザルアーが生きかえってくるとでもいうように、かたくなに彼女に背を向けている。
しかし、どんなに眼をそむけてみたところで、ザルアーが首筋を深々とナイフでえぐられ、一瞬のうちに絶命したという事実を拭い去ることはできない。ザルアーはジローの身替わりになって死んだのだ。死んだのだ。
ジローはゆっくりと、じつにゆっくりと、ザルアーをふりかえる。黒煙のなかに、ザルアーの姿がみえかくれしている。その姿を美しいと、ジローは思った。美しいが、しかし死んでいる。
ジローはザルアーの脇《わき》にたたずみ、その死に顔をみおろしていた。胸の奥のどこかで、大声で泣いている自分がいたが、しかし現実には、ジローは涙を一滴たりとも流していなかった――泣いて、なんになる? なあ、いまさら泣いて、なんになるというんだ……
ジローはブツブツと口のなかでなにかつぶやいている。つぶやき、首をかしげ、またつぶやきはじめる。そして、ときおり、苛立《いらだ》たしげに首筋の汗を拳で拭う。
「忘れてしまったなあ……」
やがて、自分自身にいうように、奇妙にまのびした声でつぶやく。「人が死んだときのお祈りの言葉ってどんなのだったかなあ。ほんとうに忘れてしまったなあ」
そのときのジローはまったくの無防備な状態だった。いや、たんに警戒を怠っていたというばかりではなく、ザルアーのことをのぞいては、すべてにわたって無関心な、不透明な精神状態にあったのだ。ある種の錯乱状態におちいっていたといえる。
だから、だれかにうしろからはがいじめにされ、グイグイと引っぱっていかれたときにも、ろくにあらがおうともしなかった。それがだれであるかさえもたしかめようとしないで、ただうつろな眼をザルアーの死体に向けていただけだった。自分がはがいじめにされているということすら、ほとんど意識していなかったのかもしれない。
ふいに体が浮かびあがり、ジローは船の外につきおとされていた。にぶい衝撃が腰からつたわってきて、ジローはようやくわれにかえり、自分が短艇のなかにつきおとされたことに気づいた。頭のうえで綱を切る音がきこえ、ついで剣が短艇のなかに放りこまれた――ジローがあわてて立ちあがったときには、すでに短艇は縦帆船《スクーナ》からはなれ、スルスルと沙海《さかい》のうえをすべりはじめていた。
船べりにもたれかかるようにして、ビンが立ち、こちらをみつめていた。ビンは肩から胸にかけて、まっかに血に染まり、そうして立っているだけでも、やっとのようにみえた。ビンはわずかに片手をあげて、ジローに挨拶《あいさつ》を送ると、身をひるがえし、そのまま炎のなかにもどっていった。
ビンの姿はすぐにみえなくなった。
ジローはそのときの光景を決して忘れることがないだろう。どうやって操られているのか、縦帆船《スクーナ》はほとんど炎に包まれながら、なおも――おそらくは、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠めざして――沙海のうえを滑っていく。そして、バハムート≠ェ泡《あわ》のようなその巨体をうねらし、縦帆船《スクーナ》のあとを追っているのだ。
それは、奇妙に現実感を欠いた、そう、蜃気楼《しんきろう》にも似た光景といえた。
ジローは短艇のなかに立ちすくみ、遠ざかっていく縦帆船《スクーナ》を、呆然とみおくっていた。そのときのジローはなにも考えていなかった。ビンが自分は死ぬつもりで、ジローを救《たす》けてくれたということに気がついたのも、よほどあとになってからのことだった。
ただ、むしょうに寒かった。全身からポタポタと汗をしたたらせているのにもかかわらず、寒くてならなかった。そして、自分はひとりぼっちだと思った。
ほんとうの、ひとりぼっちだと……
12
――沙海の一点に爆発が起こった。
爆発音もきこえず、火も、煙もみえなかった。ただ、ギラギラと白熱した光球が浮かびあがり、水におとしたインクが滲《にじ》んでいくように、それがしだいにふくれあがっていくのだった。
その光球はやがて地平線をおおい、乾ききっているはずの沙海からも、さかんに水分をしぼりとっていた。一面に水蒸気がたちのぼり、沙海はレンズを透かしたみたいに複雑に屈折し、なにか空をただよっているかのようだった。
しばらく、沙海はそんな眼を射るような白光のなかに包まれていた。それから、ゆっくりと光球がしぼみはじめた。潮が引くみたいに、白い光が後退していき、暗い、だいだい色の光が残った。血を連想させるような色の光だった。
最後に、白い光の十字架が残った。天をつくように巨大な十字架だった。最初に爆発が起こった地点に、その十字架はゆるぎもしないで立ち、いつまでも残っていた。
ある意味では、その十字架は巨大な墓標ともいえた。その十字架の下には、ザルアー、ビン、そしてバハムート≠ェ眠っているのだから。
その光の十字架を、|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フ島から、ジローがみつめていた。あの短艇をあやつって、どうやって|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠フ島にたどりついたのか、彼自身にも説明のつかないことだった。ジローは全身アザだらけで、左の二の腕からはおびただしい血が流れていた――だが、ジローはまったく自分の体のことは気にしていないようだった。いや、体のことはおろか、自分がいまどこに身をおいているのかさえ、はっきりと意識しているかどうか疑問だった。その眼の色はくらく、うつろで、唇がわずかに痙攣《けいれん》していた。
背後に足音がきこえ、ジローがふりかえった。そこに双子《ふたご》の兄妹が立っているのをみても、ジローの表情はまったくかわらなかった。無機物をみるように、沈んだ眼の色をしていた。
「バハムート≠|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノおびき寄せるとは考えましたね」
双子の兄のほうが快活な声でいった。「ああなると、われわれも熱線砲でバハムート≠射《う》たざるをえないですからね……いや、おみごとでしたよ」
「…………」
ジローはその言葉にも反応をしめそうとしなかった。なにか、ただひとつのことに心うばわれ、ほかのことはどうでもよくなっている、そんな感じだった。
「どうしたのですか」
ふと眉《まゆ》をひそめ、双子の兄がきいた。「あなたはバハムート≠たおした。それがどんな方法であれ、バハムート≠たおしたという事実にかわりはないのですよ。|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノお入りになる資格を獲得なさったんだ。嬉《うれ》しくはないのですか」
ジローはなにかいいかけたらしかったが、言葉にはならず、奇妙にくぐもったうめき声のようにしかきこえなかった。いったん口をつぐみ、唇《くちびる》を舌で濡《ぬ》らしてから、ひどくききとりにくい声でいう。
「スフィンクスはどこだ?」
「…………」
双子の兄妹が顔をみあわせた。ようやく彼らも、ジローの様子がふつうではないことに気がついたらしかった。
「スフィンクスさまは、ご自分で会おうとお決めになったときにしか、人間にはお会いになりません」
双子の妹のほうが微笑を浮かべながら、やわらかくさとすようにいった。ただし、その眼は笑っていない。「ですから、スフィンクスさまにお会いになりたければ、しばらくお待ちいただくほかはありません……」
だが、ジローはあいかわらず、自分ひとりの殻《から》にとじこもっているようだった。双子の兄妹の言葉などてんから耳に入っていないらしい。やや偏執的なものを感じさせる口調で、同じ質問をくりかえすだけなのだ。
「スフィンクスはどこだ?」
「…………」
双子の兄妹が体をこわばらせ、ジローを注視した。その眼に、はっきりと警戒の色が浮かんでいる。しばらく沈黙があったのち、兄のほうが奇妙に緊張した声できいた。
「どうして、スフィンクスさまにお会いになりたいのですか」
「殺すためだ……」
ジローはうめいて、いった。「あいつだけは生かしちゃおかない」
そのとたん、双子の兄妹がそろって足をふみだした。兄が妹の背後に入り、一瞬のうちに、彼らはふたつの頭、四本の腕、四本の足を持つ、ひとりの戦士にと変貌《へんぼう》していた。兄妹が動くのとほとんど同時に、ジローも剣を抜きはらっていたのだが、彼らの奇怪な戦法に幻惑され、ほんの数秒、その動きに遅れが生じた。その数秒の遅れが、ジローの命を確実にうばっていたはずなのだが……
「あぶねえ」
どこからかチャクラの声がきこえ、いましも足をふみだそうとしていた兄妹の、すぐ眼のまえの空間に、一本の料理用ナイフがとんできた。もちろん、そのナイフの狙《ねら》いはまったくでたらめだったが、すくなくとも、兄妹のタイミングを狂わせるには、十分以上の効果があった。
彼ら兄妹の、戦士としての最大の特質は、そのゆるぎない連繋《れんけい》プレーにあった。その連繋プレーがくずれたとき、彼らはたんに非力な兄と妹でしかなかった。
ジローは剣を抜きはらいざま、その腕をまっすぐにのばし、猛然と地を蹴《け》った。妹の胸を深々とえぐった剣は、同時に、その背後にいる兄の胸をもつらぬいていた。血しぶきが驟雨《しゆうう》のように降りそそいだが、ジローは表情ひとつかえようとしなかった。
ジローがひじを引き、あとずさると、最初に兄が、ついで妹が、あいついで地にくずれおちていった。そうして死んでいても、やはりこの兄妹は天使のように愛くるしく、美しかった。
ジローは剣を鞘《さや》に収めようともせず、兄妹の死骸《しがい》をみおろしていた。その眼には勝利の喜びはもちろん、興奮の余波、死者にたいする哀悼の色も浮かんでいなかった。ジローのなかでなにかが、なにか非常に大切なものが滅んでしまったようだった。
「ほかのみんなはどうしたんだ?」
いつからそこにいたのか、ジローの背後にヒッソリと立っていたチャクラがきいた。
「…………」
ジローはチャクラをふりかえった。その眼の色をみて、チャクラはすべてをさとったようだ。一瞬、絶望とも悲哀ともつかない翳《かげ》が、その表情をよぎり、
「だから、いったんだ……」
チャクラはうめくようにいった。「やめたほうがいいって……」
「…………」
ジローはなにも答えようとはしない。ジローはすべての人間らしい反応をうしなってしまっているようだ。そこにいるのはもう、かつての勇敢で、単純明朗なジロー少年ではなかった。
チャクラはいたましげにジローをみつめている。なにかいおうにも、いうべき言葉を思いつかない様子だった。
「スフィンクスをたおそうなんて考えないほうがいい」
やがて、いった。「おまえも命をおとすことになる……」
「…………」
しかし、ジローはあいかわらず沈黙していた。チャクラの言葉をキッパリと無視して、きびすを返すと、しずかに歩き去っていった。ジローがスフィンクスと戦う決意でいるのは、明らかだった。
チャクラはちょっとためらったのち、あきらめたように、自分も歩きはじめた。チャクラもまた、死を覚悟したことはまちがいないようだった。
――スフィンクスはいなかった。
どこにもいなかった。
ジローたちがスフィンクスと会ったあの部屋は、がらんとして人気《ひとけ》がなく、ジュークボックスも沈黙したままだった。
ジローはソファに腰をおろし、ずいぶんながいあいだ、スフィンクスが現われるのを待っていた。チャクラは何度か話しかけたが、ジローは一度として返事をしようとはしなかった。ただ、うつむいて、床の一点をジッとみつめているだけだった。
どれぐらいの時間が流れたろうか。やおらジローが立ちあがり、奥の扉に向かって、歩きだした。チャクラもあわてて腰を浮かし、声をかけた。
「行くのか」
「…………」
ジローはふりかえり、いぶかしげにチャクラをみつめていた。チャクラがだれであったか、想いだそうとしているような眼だった。
「ほんとうに行くのか」
やや声をおとし、チャクラがそう質問をくりかえした。「おまえはバハムート≠たおした。ということは、宇宙へ出ていく資格を得たということだ……その扉《とびら》のむこうには、おそらく|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ェあるにちがいない。もしかしたら、もう二度と地球にはもどってこれないかもしれないんだぞ」
ジローはやはり返事をしない。その表情もかわらない。
「なあ、まだ旅をつづけるつもりなのか。おまえは旅をつづければつづけるほど、不幸になっていくだけなんだぞ」
チャクラはすがるような口調になっていた。「それに、ランのことはどうするんだ? もう、ランのことなんかどうなってもいいというのか」
「…………」
一瞬、ジローの表情が歪《ゆが》んだ。たぎる激情を圧《お》さえきれなくなったかのように、いったんジローは口をひらきかけたのだが――すぐにもとの無表情な顔にもどった。そして、なかばうなだれるみたいにして、奥の扉に歩いていった。
もうチャクラはジローを呼びとめようとはしなかった。
扉がひらき、ジローの姿を呑み込み、とざされた。
これが、ジローとチャクラの別れだった。
文中のビートルズの詞は、「ビートルズ詩集」片岡義男氏訳、角川文庫版をつかわせていただきました。
(作者)
註1 『黙示録』のなかにこんな一節がある――第一の活物《いきもの》は獅子《しし》のごとく、第二の活物は牛のごとく、第三の活物は顔のかたち人のごとく、第四の活物は飛ぶ鷲《わし》のごとく――なお、この四つの活物がいっしょになって、人間の頭、雄牛のからだ、獅子の尾と爪《つめ》、鷲の翼をもつスフィンクスになったととなえる学者もいる。
註2 ミルメコレオは獅子《しし》と蟻《あり》がいっしょになったような伝説の怪物の名である。それが転じて、この大グモの名になったものと思われる――沙漠《さばく》の動物のなかには、いちばん暑くて、乾燥する時期を、眠ってやりすごすものがいる。たとえばスキアシガエルなどは、ときには八ヶ月から九ヶ月ものあいだ、夏眠≠してすごすのである。おそらく、この大グモもふだんは砂のなかで眠っていて、獲物《えもの》が近づいたときにのみ活動するのではないだろうか。なお、獲物をおびき寄せるために、ミルメコレオはふかく地下水のあたりまで糸をのばして、水を吸いあげ、そのにおいを利用しているようである。
註3 ナイル地方でははねつるべのことをシャドーフと呼んでいる。――沙漠《さばく》の植物が水をたくわえ、あるいは吸収する能力にすぐれていることはよく知られている。たとえば、サグアロという名のサボテンは、そのスポンジ状の細胞に水をたくわえることができ、ときにはその量が九百リットルにたっすることもある。また、メスキートと呼ばれる木は、地表ちかくには短い根を四方八方にのばし、その一方では、三十メートルにもおよぶ根を地中にのばし、地下水を汲《く》みあげる。要するに、二種類の給水装置を持っているわけである。シャドールは沙漠の植物の極限のかたち、進化の頂点に位置するものと考えられる。
註4 カンガルーネズミは沙漠《さばく》に住むちいさな齧歯《げつし》類で、水分保存にかんしては、おそらく地上でもっともすぐれている動物ではないかと思われる。カンガルーネズミは水を飲む必要すらなく、かわいた種子からも水分をとりだすことができ、しかも汗、尿、糞《ふん》などによってもその水分をほとんど失うことがないという稀有《けう》な特質をそなえている。だからこそ、その糞が、沙漠に住む人たちのお守りとして使われているにちがいない。
註5 イスラームのシーア派は、正統派と呼ばれているスンニー派と対立している派で、年にいちど、わが身に鞭《むち》うつことで知られている。
註6 多くの民族が、父神よりも以前に、母神と子神をつくりだし、あおいでいた。稲魂《クワン》≠ノしろ盤古≠ノしろ、この時代の人々を支配しているのは、父神であるように思われる。父神――すなわち、新しい神である。ここで、グラハがザルアーの神を母親と形容したのは、おそらく母神(地母神)のことを指していったのではないかと考えられる。彼女たち呪術《じゆじゆつ》師が神に愛されないのも当然のことだ。呪術師たちの信奉する神は、稲魂《クワン》≠フような父神ではなく、ずっと以前から存在していた母神なのだから。
註7 サラマンドラは火中に棲《す》むという伝説の竜《りゆう》の名である。もちろん、このトカゲはサラマンドラの名を与えられているだけで、伝説の竜とは直接の関係はない。サラマンドラはヒフから水分が蒸発するのをふせぐため、体皮を極端に厚くし、新陳|代謝《たいしや》を不活発にするため、夏眠をする。要するに、沙漠《さばく》に適応した数すくない生物の一種といえる。なおサラマンドラが吐きだす火のつばはニトログリセリンである。彼は地中から、硫黄《いおう》や硝酸カリウムなどを掘りだし、それを胃のなかで精製する能力をそなえているようなのだ。もちろん、サラマンドラの名称は、この能力にたいして与えられたものである。それにもうひとつ、サラマンドラの第三の眼とは、ヘビの頭にあるピット≠ニいう器官をより強力にしたもので、温度変化を非常に敏感に感じとることができる。
註8 コンドライトは正確には球顆隕石《きゆうかいんせき》、球粒隕石のことである。沙海《さかい》をおおっているのはコンドライトのなかで発見されるコンドリュールではないかと思われる。コンドリュールはケイ酸塩よりなる直径一ミリほどの球状の物体で、このうえを船が風力で動くのも、それだけ抵抗がすくないからである。これほど大量のコンドリュールが存在するからには、この地に降りそそいだ隕石も膨大な量でなければならない。それが月《ムーン》≠フ一部であったという可能性も考えられないではない。
註9 ここでは、バハムート≠フ正体はまだあきらかにされない。ただ回教伝説によると、バハムート≠アそこの大地を支えている巨大な魚なのである。
註10 自殺者の森≠ヘ|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ノ水と電気を供給するための、それ自体生きている工場のようなものではないかと思われる。自殺者の森≠ノ生えている樹は、鉄分が粘土状にかたまっているラテライトから、鉄を精錬する。このさい生じた酸素に、さらになんらかの方法で水素を加え、燃やす。文字どおり、太陽熱を利用し、幹のなかで燃やすのである。そうすれば、電気を得ることができ、しかも水が残る。もちろん自殺者の森≠フ樹《き》は、いかなる見地からも植物とはいいがたい。しかし、まったくの無機物と考えることもまた誤りのようだ。要するに、生体鉱物≠ニも呼ぶべき代物《しろもの》で、どんな科学技術によって開発されたものか、想像することもできない。
註11 ロッキード・ミサイル宇宙会社の科学者たちが、月基地《ムーン・ベース》として、これと同じような建物を考察している。円筒形のユニットをバラバラに月に輸送し、それをつぎつぎに接合することによって、基地を拡張していくというのが、その基本設計をなしている――また、岩石から水をとりだし、その水蒸気によって作動する水車≠焉A月の輸送手段として開発されたものである。このふたつの事実から、どうやら|空なる螺旋《フエーン・フエーン》≠ヘ月と密接な関係にあるらしいことが想像される。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
(角川書店編集部)
角川文庫『宝石泥棒』昭和57年3月30日初版発行