山田正紀
ふしぎの国の犯罪者たち
目 次
襲  撃
誘  拐
博  打
逆  転
襲  撃
このあたりではみんな気がふれてるのさ。
おれも気ちがい。あんたも気ちがい。
チェシャ・キャット
いやなものをみてしまった。
野良犬が車にひかれるのをみてしまったのだ。
痩せこけた赤犬で、車道にとびだしたとたんに、角をまがってきた車のバンパーにひっかけられてしまったのである。
一瞬、野良犬の悲鳴が新宿の雑踏をつんざき、人々が眼を向けたときには、もう車道にはあかぐろい血と毛皮のかたまりしか残されていなかった。ごていねいなことに、その車ははねとばした赤犬のうえを、ゆっくりと通っていったのだった。
私は口のなかに苦い|つば《ヽヽ》がたまるのを感じた。その車は犬をはねとばしたとき、ブレーキをかけようともしなかったし、運転席の男はたしかに笑っていたようなのだ。
ほんのわずかなあいだ、よどみをみせた人の流れが、また動きはじめた。私は通行人に肩や肱《ひじ》をぶつけられながらも、その場に立ちつくし、犬の死骸をみつめていた。そして、ゆっくりとその眼をあげ、遠ざかりつつある車をみおくった。
奇妙な車だった。形からいえば小型トラックなのだが、鉄板で車体を覆い、タイヤのうえには泥よけのかわりに、これもまた鉄板がつきでている。おそらく運転席の窓はすべて防弾ガラスになっているのではないか。
装甲車だった。
装甲車が夕暮れの新宿通りを走っていき、それをだれも怪しもうとしないのだ。
装甲車はそのまま走っていき、とある宝石店のまえまで行くと、歩道に肩を寄せるようにして、スッととまった。運転席からふたり、うしろの箱《ヽ》からひとり、計三人の男が歩道にでてきた。いずれも青い制服に身をかためているところをみると、どうやらガードマンのように思われた。
宝石店からあたふたとふたりの男がとびだしてきた。それぞれ、くろいカバンを小脇にかかえていた。そして、ガードマンたちにそのカバンをわたし、ふかぶかと一礼した。すべてが大仰で、あまりに芝居がかりすぎているように思えた。
「なるほど……」
私は自分自身にうなずいた。これでわかった。あの装甲車は現金輸送車というわけだ。そして、おそらく、現金を輸送しているあいだは、できるかぎり車をとめないようにと教育されているにちがいない。だから、犬をはねとばしても、ブレーキをかけようともしなかったのだ。
だが、それがわかったからといって、いささかなりとも私の気持ちが晴れたわけではない。
私は動物が好きだ。いつの日か、二DKのマンションから脱出して、庭つきのこぢんまりとした家を買い、犬を飼うのを楽しみにしているぐらいだ。犬や猫がいじめられているのをみると、なんともやりきれない思いがする。
あの装甲車は犬をはねとばした。しかもそのとき、運転手は笑っていた。|あいつは笑っていやがった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだ。
私はホッと息を吐き、ひたいに浮かんだ汗をハンカチでぬぐった。そして、もういちど死んだ犬に眼をやってから、ノロノロと歩きだした。
いまの世の中には、怒りだしたいようなことがいっぱいある。いちいち本気で怒っていたのでは、身がもたない。それに、三十もなかばをすぎた男が、犬がひかれたからといって怒っていたのでは、世間に笑われるばかりだろう。
私の名は藤森兎吉《ふじもりうのきち》、代々木のほうにある予備校で、数学の講師をつとめている。結婚していて、男の子がひとり、来年には小学一年生になる。年収は同世代の人間にくらべて、多くも少なくもなく、まあ、平均的といったところではなかろうか。
容貌には自信がない。背が低く、やや小肥りで、悲しいことには、もうひたいが禿げあがりかけている。そのうえ、眼鏡をかけているのだから、これはもう若い娘に嫌われる条件をすべてそなえているようなもので、今も昔も艶《つや》っぽい話にはトンと縁がない。べつに自分の名前に義理だてしているわけではないのだが、人にいわせると、わたしはどことなくウサギに似ているそうだ。
ゴルフもマージャンも知らない。趣味といえそうなのは、手品ぐらいのもので、今日も学校の帰りに新宿のデパートにたち寄り、手品コーナーをのぞいてきたところだ。
そして、──デパートから足をふみだしたとたんに、犬がひかれるのを目撃することになったというわけである。
私はこのまままっすぐ家にもどる気にはなれなかった。なんだか気持ちがめいってしまい、どこかで厄落としをする必要を感じたからだ。
私は近くにあった電話ボックスに入り、今夜は遅くなることを女房につたえた。それから、ゆっくりと地下鉄の駅に向かった。
人は、六本木にあるバーときくと、今風の、しゃれた酒場を連想するかもしれない。しかし、チェシャ・キャット≠ヘちいさな、どちらかというと時代にとり残された感のあるバーだった。
なるほど、たしかにチェシャ・キャット≠フ入っているビルは、六本木の交叉点のすぐ近くにあったが、モダンな建物と呼ぶにはいささかためらいをおぼえる。あからさまにいってしまえば廃墟のようなビルなのだ。
その三階建ての古びたビルの地下にチェシャ・キャット≠ヘある。短い階段が外についていて、歩道からじかに店に入っていける造りになっている。手すりは赤サビだらけで、鉄の階段は縁がすりへっているから、どうかすると足をすべらしてしまいそうになる。そのうえ、木製のドアには店の名さえ記されていないというやる気のなさだ。
チェシャ・キャット≠フ隣りは、やはり半地下の大きなガレージになっている。しかし、このガレージにはいつもシャッターが降りていて、いっこうに使われている気配はない。いや、使われていないといえば、チェシャ・キャット≠除けば、ビルそのものが巨大な空き家のようなものなのだ。
なんでもチェシャ・キャット≠フ女主人が、このビルのオーナーだそうで、面倒だからという理由で、だれにもフロアをかそうとしないということだった。
欲がないのか、それともたんに怠け者だからか、彼女のやる気のなさは徹底していて、本業のバーにしてからが、客の来るのを喜ばないほどなのだ。ごく限られた人間だけが、客として足をふみいれるのを|許されて《ヽヽヽヽ》、それ以外の人間は会員制のバー≠セからという理由で、にべもなく追いかえされるのが|つね《ヽヽ》だった。
よくこれで経営がなりたっていくものだ、と首をひねらざるをえない。もしかしたら、彼女のうしろにはだれかパトロンがついているのかもしれないが、それは私の知ったことではなかった。
私はチェシャ・キャット≠ェ好きだ。
私のように、酒席をわかせる才も、女の子と浮気をするかい性もない人間には、チェシャ・キャット≠フうす暗いカウンターにすわって、顔なじみになった客とおしゃべりをするのが、なによりの楽しみなのだ。
それにチェシャ・キャット≠ノは奇妙な不文律のようなものがあって、いったん店に足をふみいれた人間は、絶対《ヽヽ》に自分の仕事のことを話してはならないことになっていた。自分の仕事どころか、本名をあかすのさえ禁じられている。客はすべて愛称で呼ばれることになっていて、たとえば私は兎《うの》さん≠ニいう名で呼ばれている。このルールにしたがえない人間は、すなわちチェシャ・キャット≠フ客になる資格のない人間なのである。
チェシャ・キャット≠ノ足をふみいれれば、私は仕事からも家族からも自由になり、兎《うの》さん≠ニいう名のひとりの男にもどることができるのだ。それはたとえていえば、もうひとつべつの世界に足をふみいれるような、なんだかアリスのふしぎの国≠ヨ入っていくような、解放感にあふれた時間といえた。
だから私は、チェシャ・キャット≠ノ通うのをやめられないでいるのだった。
──チェシャ・キャット≠フ狭く、くらい店内には、いつものようになじみの客しかいなかった。
なじみの客といってもふたりだけで、ひとりは帽子屋さん≠ニ呼ばれている人物で、もうひとりは眠りくん≠ニ呼ばれている若者だった。
帽子屋さん≠ヘ三十ぐらいの、痩せぎすの男で、なんだか虚無的な、いつもつまらなそうな顔をしている。ニックネームの由来は、つねにベレー帽をかぶっているからで、べつに彼の職業が帽子屋だからというわけではない。眠りくん≠ヘ童顔の、いかにも頭のよさそうな青年で、水割りを三杯も飲むとすぐに眠りこけてしまうことから、このニックネームがついた。
「あら、兎《うの》さん、いらっしゃい」
カウンターのなかから、アリスちゃんが笑いかけてきた。眼のきれいな、清潔なお色気を感じさせる女の子で、ときおり店を手伝っている。もちろん、私は本名を知らない。
「ママ、兎《うの》さんがいらしたわよ」
カウンターにすわった私のまえに、おしぼりと灰皿をおくと、アリスちゃんは奥の厨房《ちゆうぼう》にそう声をかけた。
「いらっしゃい」
ママが姿をみせた。ママといっても、少年のようにホッソリとした体つきの、ジーパンのよく似あう女《ひと》だ。清楚といってもおかしくはない印象の持ち主だが、ときに非常に妖艶な表情をみせたりする、奇妙にとらえどころのない女性だった。いつも、黒いブラウスを着ていて、ハート型をしたプラチナのペンダントをつけていた。
「ママ、とちの実落とし≠やらないか」
私はそういい、カウンターの端におかれてある籠のなかから、乾燥したとちの実をとりだした。その籠のなかには、同じようなとちの実がいくつも入っていて、とちの実にはいずれもヒモが結びつけられていた。
「いいわよ」
ママは微笑を浮かべて、自分も籠のなかからとちの実をとりだした。「とちの実遊び≠セったら、いつでも受けて立つわ」
ママの説明によると、とちの実遊び≠ヘイギリスやスコットランドの子供のあいだでさかんに行なわれている遊びだそうで、要するにヒモの端を持って、たがいにとちの実をぶつけあうゲームなのだった。ママはこのとちの実遊び≠フ名手で、私はいつも彼女に挑戦しては、あっさりと自分のとちの実を割られていた。
残念なことに、今回も私の負けだった。それも、たった一回ぶつけあっただけで、こちらのとちの実を砕かれてしまうという、だらしない負け方だった。
勝負のなりゆきをみつめていた帽子屋さん≠ェ、かすれたような笑い声をあげた。眠りくん≠ヘカウンターにつっぷして、いつものようにやすらかな寝息をたてている。
「どうしたの? 兎《うの》さん」
ママがからかうような声でいった。「今日はまたことのほか負けっぷりがいいじゃないの」
「新宿でいやなものをみちゃったんでね」
私は掌でブルンと顔をこすり、アリスちゃんがつくってくれた水割りに口をつけた。「それで、どうにも気分がすぐれないんだ」
「いやなものって、なにをみたんですか」
帽子屋さん≠ェ上半身をこちらに傾けるようにして、私にきいた。
私は装甲車にひかれた犬の話をした。
「へえ、日本にも装甲車で現金を輸送する時代がやってきたんだな」
帽子屋さん≠ェなんだか熱のない口調で、ボソボソといった。
ママはちょっと考えこむような眼つきをして、だまっていたが、
「すこし待ってね……」
そういうと、奥の厨房に姿を消した。そして、もどってきたときには、その手に新聞を持っていた。
「ねえ、その装甲車ってこれのことじゃないかしら」
ママはカウンターのうえに新聞をひろげ、下段を指差した。そこには、大きな、おどっているような活字で『装甲輸送車警備保障』と書かれてあった。そして、その下には、まぎれもなく|あの《ヽヽ》装甲車の写真が、大きく載せられていた。写真は二枚あり、一枚は装甲車そのものを、もう一枚はうしろの箱の扉をひらき、金庫のようなそのなかをみせていた。
お世辞にも、センスのある広告とはいえない。ただもう押しつけがましく、誇らしげで、みているだけでウンザリしてくるような広告だった。
〈泥棒諸君、転業を考えたまえ〉
広告の最初の行には、まずそう書かれてあった。そして、この装甲車がいかに頑丈で、泥棒を寄せつけないように工夫されているかが、くだくだと書かれてあった。とりわけ強調されているのは、運転席とうしろの箱とのあいだに通話装置がもうけられているということだった。運転席の人間が指示しないかぎり、|うしろ《ヽヽヽ》の人間は絶対に扉をあけてはならない規則になっているというのだ。もし、それを無視して、だれかが外部からむりやりに箱の扉をこじあけようとすると、
〈そくざに警視庁に連絡が入るシステムになっています。また、それと同時に、二キロ四方にわたってきこえる警報ベルが鳴りはじめ、異常を周囲に報せます──〉
のだそうだ。
この『装甲輸送車警備保障』という会社は、自社の警備システムに非常な自信を持っているようだ。〈当社と契約していただければ〉、集金とか銀行に現金を納めるのに、なんの心配もなく、大切な社員を危険にさらすこともなく、〈毎日を安心して〉仕事にいそしむことができ、しかも〈それに要する費用はごくわずか〉というのだ。
『装甲輸送車警備保障』はたからかにうたいあげていた。〈つまり、当社の装甲車は、銀行の金庫が移動しているとお考えください〉そして、これもまた大きな活字で〈当社は犯罪を撲滅し、明かるい社会を築きあげるために、これからも努力していきたいと考えています〉としめくくってあった。
この臆面のなさ、楽天性には閉口せざるをえない。なんだか忘れていたムシ歯がまたうずきはじめそうだった。
「そうだ……」
私は苦笑しながら、新聞をおいた。「たしかに、この装甲車だったな」
「どれどれ……」
帽子屋さん≠ェ脇から私の手元をのぞきこんだ。しばらく、広告文を黙読していたようだが、やがてウンザリとした声をあげた。
「やりきれないな……ずいぶん自信タップリな広告文じゃないか」
「でも、おかしいわね。こんなふうに防犯装置のことをばらしちゃったら、防犯の意味をはたさないじゃないの」
「そうでもないさ」
帽子屋さん≠ェ水割りをすすりながら、面白くなさそうな声でいった。「立派に防犯の役をはたしているじゃないか。この広告文を読めば、どんな泥棒だって、装甲車を襲おうなんて気持ちはなくなるさ。だって、手のつけようがないもんな」
「そうじゃないわ」
ママは首をふり、いった。「この『装甲輸送車警備保障』という会社は、ただ傲慢なだけじゃないかしら。自分たちの警備システムがいかに完璧であるか、自慢したいだけなんだわ。自分たちより頭のいい人間は、この世には存在しないと考えているのよ」
ママのいつにない強い口調におどろいて、私は顔をあげた。帽子屋さん≠燗ッじだったらしく、私たちはたがいに視線を交しあうことになった。いつもは人生に退屈しきったという顔をしている帽子屋さん≠ェ、このときにかぎって、奇妙にいきいきとしてみえた。
「自信タップリな奴《ヽ》ってきらいよ」
ママが鼻にしわを寄せて、いった。「そういうやつをみてると、なんだかうしろからむこう脛《ずね》を蹴とばしてやりたくなるの」
論理もなにもあったものではない。その意味では、いかにも女性らしい反応というべきだったかもしれない──しかし、ママがこれほどあらわに感情をみせたことは、いまだかつてなかったことなのだ。私にしろ帽子屋さん≠ノしろ、まあ、チェシャ・キャット≠フ常連といえるのではないか、と思うのだが、これまでママが本気で怒ったり、笑ったりする姿をみたことがない。
考えてみれば、本名をあかさないのはべつにふしぎではないとしても、彼女にはニックネームさえ与えられていなかった。だれもが、彼女のことをただママとだけ呼んで、それ以上ふみこもうとはしない。いや、ふみこむのをためらわせるような雰囲気が、彼女の身にはそなわっているのだった。
ふしぎな女性だ。たしかに、美しい女性にはちがいないが、その美しさはなんとなく存在感の希薄な、体臭を感じさせない|たぐい《ヽヽヽ》のものだったのだ。その意味では、はるかにアリスちゃんのほうが女っぽい女といえた。
そんなママが、『装甲輸送車警備保障』にたいする反感を露骨にみせたのだから、私たちがあっけにとられたのも、いわば当然のことだったのだ。
もっとも、彼女の『装甲輸送車警備保障』にたいする反感も、理解できないではなかった。『装甲輸送車警備保障』の広告文には、人の神経を逆なでにするようなところがあった。そう、彼女のいうとおり、はっきりと傲慢さを感じさせる文章だった。
私は、犬をひいた装甲車の運転手が笑っていたのを想いだしていた。いったんは収まったはずの怒りが、また体の奥ふかいところから噴きあげてくるのを感じた──私は自分でも気がつかないうちに、水割りのグラスを力いっぱい握りしめていた。
「挑戦してるんですよ」
ふいに眠りくん≠ェかんだかい声でそういい、私たちをおどろかせた。どうやら眠りくん≠ヘ眠っているふりをしながら、ちゃっかり私たちの話をきき、しかも新聞まで盗み読みしてしまったようだ。眠りくん≠ヘ眠っているかと思うと起きていて、起きているかと思うといつのまにか眠っている、というへんな特技の持ち主だった。
「これはぼくたちに挑戦しているんだと思うな」
眠りくん≠ヘトロンとした眼を私たちに向け、酔っぱらいに特有の執拗さで、こう言葉をつづけた。「だって、そうじゃないですか。要するに、この広告は装甲車に手をつけられるものならつけてみろ、と、そういってるも同じなんですから……無礼ですよ。ぼくたちにたいする重大な侮辱だと思うな」
「べつに、この新聞広告を読んだのは俺たちばかりじゃないと思うんだがな」
帽子屋さん≠ヘ苦笑しながら、そうとりなすようにいった。
「じゃあ、人間にたいする侮辱といいかえてもいいですよ」
眠りくん≠ヘ眼をすえて、指をつきつけながら、いった。「昔から、泥棒と金庫造りはずっと競争をつづけてきたんだ。金庫造りは頑丈な金庫をつくる。泥棒がそれを破る。金庫造りはさらに頑丈な金庫をつくる。泥棒がそれをまた破る……ずっと、そのくりかえしだったんですよ。いうならば、これは知的なゲームだ。そして、このがんじがらめの世の中で、ゲームぐらい人間を自由にしてくれるものはないんだ……なんだったら、現代の社会では、犯罪者こそほんとうの意味での自由人だといってもいい。もちろん、その犯罪には、なんらかの形で知的な要素が加えられている必要がありますがね。血が流れたんじゃ、ゲームにならないから……ええと、ぼくはなにをいおうとしてたんだっけ……そうそう、この『装甲輸送車警備保障』なる会社は、泥棒と金庫造りのゲームに終止符をうてると信じているんだ。まったく鼻もちならない傲慢さですよ。これが自由にたいする冒涜《ぼうとく》でなくて、いったいなんだというんですか。人間にたいする侮辱そのものじゃないですか」
眠りくん≠ヘいいたいことだけをいうと、カウンターにコトンと顔を伏せた。そして、次の瞬間には、もうやすらかな寝息をたてていた。
「がんじがらめの世の中か……」
帽子屋さん≠ェあきれたような声でつぶやいた。「俺には、こいつぐらい自由にみえる人間はいないんだけどな」
「でも、わたしには眠りくん≠フいうことがよく理解できるわ。わたしは|強い奴《ヽヽヽ》が大嫌いなのよ」
ママはそういうと、チラと厨房に視線をはしらせ、グラスを洗っているアリスちゃんがこちらの話を聞いていないことをたしかめた。それから、顔を私たちに寄せてきて、ささやくようにいった。
「もし、この装甲車のなかのお金を奪ういい計画があったら、わたしはその準備に必要な資金をだしてもいいわ」
ママの真意をはかりかねた私たちが、たがいにとまどった視線をかわしあったときには、すでに彼女はカウンターからはなれ、奥の厨房に姿を消していた。グラスを洗う水の音が、ひときわ大きくなった。
私と帽子屋さん≠ヘ、そのあともしばらくたがいの眼をみつめあっていた。そして、やがてその眼をそらし、それぞれのグラスに視線をもどした。
なぜか、私たちはそのあと一言も口をきこうとしなかった。
──私があの装甲車をもういちどみてみようと思いたったのは、たまたま翌日が休日だったからにすぎない。クラスの都合で、私は水曜が休みなのだ。絶対に泥棒を寄せつけない装甲車を襲うという空想《ヽヽ》に、手品好きの私の好奇心が動かされたせいもあったかもしれない。いずれにしろ、たんなる気まぐれでしかなかったのである。
断じて誓うが、そのときには、ほんとうに装甲車を襲おうなどとはこれっぽっちも考えていなかったのだ。
そう、そのときには……
──子供に遊園地へ連れていってくれとせがまれたが、私はまた今度ね、と逃げをうった。またこんどね。パパはお仕事で忙しいからね。次の休みに連れてってあげるからね……
そして、そそくさと外出の支度にとりかかった。あら、お出掛けですか、と女房がたずねた。ああ、と私はうなずいた。ちょっと友達と約束があってね。たまには子供をどこかに連れていってやってくださいな。女房が不満そうな声でいった。いつも放ったらかしじゃ、子供が可哀想じゃありませんか……
「そうだな」
私はドアをうしろ手にしめながら、大きな声でいった。「こんどの休みには遊園地に連れていくよ。約束するよ」
マンションのまえの空き地に駐めてある車にのりこみ、ハンドルをにぎったときには、なんとなくホッとした。私にとって、車は家庭における避難場となっているようだ。二DKのマンションでは、自分の部屋など持てるはずもなく、車のなかに身をおいているときだけが、純粋に私ひとりになれる時間といえた。
私は通勤には車をつかわない。電車通勤したほうが、はるかにはやいからだ。車を運転するのは、休日だけにかぎられていた。
私はハンドルに両手をおいたまま、ちょっとためらっていた。一夜あけてみると、あの装甲車をわざわざみにいこうとしているのが、なんともバカげた行為に思えた。しかし、バカげたことも休日だからできるのではないだろうか。
私は肩をすくめ、車を発進させた。カーラジオのスイッチをひねると、私の好きな女性歌手が恋の歌をうたっていた。
ごきげんな、いい休日になりそうだった。
──新宿通りと靖国通りをつなぐ道の一角に、そのビルはあった。
三階建ての小さなビルだが、建設されてからまだ日が浅いらしく、壁の白さがかがやくばかりだった。ビルのまえは駐車場につかわれているようで、金網でかこった狭い敷地に、二、三台の車が駐められてあった。
そのビルをはじめてみた人間はだれもが、こんなところに警察の建物があったのかと驚くにちがいない。置かれている車がいずれも白と黒に塗りわけられ、しかも屋根にはあかいランプまで積まれていて、パトカーに酷似しているからである。
だが、もちろんそれは警察の建物などではなかった。屋上に仰々しく飾られている看板が、このビルの素性をあきらかに示しているのだ。そこには、こう記されてあった。
『(株)装甲輸送車警備保障』
さすがは新都心・新宿だ。平日の午前中だというのに、けっこう人通りが多い。私はその人通りの多さに閉口して、向かいのビルの二階にある喫茶店に避難して、そこの窓から『装甲輸送車警備保障』の建物を観察することにした。
もしかしたら……もしかしたらだが、この段階ですでに人眼につくのをできるだけ避けようとする配慮が、私のなかで働いていたのかもしれない。
私は『装甲輸送車警備保障』の建物をみながら、自分で自分のしていることがいぶかしかった。休日をつぶし、家族サービスを犠牲にまでして、私はなにをしているのか。酔狂にもほどがある──というか、酔狂と呼ぶのさえためらわれるような、まったく無意味な行為ではないか。いったい、『装甲輸送車警備保障』の建物をみはって、なにがどうなるというのか。
じつは、その答えは私のなかにすでに用意されていた。ただ、私はそれを直視するのがおそろしかっただけなのだ。
三十分ほども、そうして私は喫茶店にねばっていたろうか。そろそろコーヒーのお替わりでもしないと居づらくなったな、と考えはじめたとき、ようやく『装甲輸送車警備保障』の建物に変化があった。
建物から四人のガードマンが出てくると、道の両側にふたりずつ、ちょうど長方形をなすような形で立ったのである。
私は苦笑した。
『装甲輸送車警備保障』という会社は、なにかにつけて、大時代にふるまわないではいられない会社らしい。四人のガードマンは両手をうしろに組み、直立不動の姿勢を保って、バッキンガム宮殿の衛士のようにピクとも動こうとしないのだ。
その物々しさにおそれをなしたのか、四人のガードマンのあいだを通る人たちは、いずれも早足になっていた。
もうひとり、べつのガードマンが建物から出てきた。制服の色がちょっとちがうところをみると、彼ら四人の上役に当たる人物かもしれなかった。
その人物はしばらく通りを注視したのち、満足そうにうなずいた。それから、ビルの壁に歩み寄り、その隅に設けられている鉄のあげ蓋をひらき、なかのボタンを押した。
グィーン、グィーン、グィーン……
きしむような音とともに、道路に面しているガレージのシャッターが、ゆっくりと巻きあげられていった。
そして、エンジンの低い|うなり《ヽヽヽ》がきこえてきて、装甲輸送車がそのいかつい姿を現わした。
こうして二階の窓からながめると、装甲車の頑丈さがいっそうきわだってみえた。広告文にあった『移動する金庫』という表現が決してオーバーでないことがはっきりとわかる。なんだか巨大な甲虫《かぶとむし》が姿をみせたような、一種いいがたい威圧感があった。
装甲車は道路に出てくると、そこでいったん停止した。ガードマンの責任者らしい人物が、装甲車に近づいていく。運転席のサイド・ウィンドウがスルスルとおりて、ひとりの男が顔をのぞかせた。うちあわせの必要があるらしく、装甲車の内と外で、ふたりの男はしきりになにごとか話しあっていた。
私は胸の底がすっと冷たくなるのをおぼえた。運転席の男は、たしかに犬をひいたとき笑っていた|あの《ヽヽ》男なのだ。
うちあわせが済んだらしく、責任者の男はあとずさるようにして、装甲車からはなれた。サイド・ウィンドウがあがり、男がハンドルに向かう姿がちらとみえた。
私も伝票をひっつかみ、あわてて喫茶店の出口に向かった。車であとを追い、装甲車のルートをたしかめようと考えたのだ。
どうしてそんなことをする必要があるのかは、そのときにもまだ、私ははっきりとした答えを得ていなかった。
──チェシャ・キャット≠ノ足をふみいれた私は、昨夜からすこしも時間がすぎていないような錯覚にとらわれた。
昨夜と同じように、カウンターで帽子屋さん≠ェ水割りを飲んでいる。その脇で、眠りくん≠ェいねむりしているのも、昨夜と同じだ。唯一のちがいは、今夜はどうやらアリスちゃんが出勤していないらしいことだけだった。
帽子屋さん≠ヘ私の姿をみると、人差し指を顔のまえにピンとたて、挨拶を送ってきた。ニコリともしないところが、いかにも彼らしかった。
「あら、兎《うの》さん……ここのところ、みんなずいぶんまじめに来てくれるわね」
厨房から出てきたママが、笑いながらいった。
「悪いけど、今日は車なんだ」
私はカウンターにすわって、いった。「なにかジュースでもくれないか」
「酒が飲めないのに、バーにきたの? おかしな人ね」
「ちょっとママに伝えたいことがあってね」
「なにかしら」
「ママ、きのういったこと憶えてるかい」
「………」
「ほら、装甲車のなかの金を奪ういい計画があったら、準備資金をだしてもいいといったじゃないか……じつは、今日、ちょっと悪戯のつもりで、装甲車のあとをつけてみたんだがね。金を奪ういい計画を思いついたみたいだぜ。われながら、自分の頭のよさに……」
私はあとの言葉を呑みこんだ。表情がこわばるのが自分でもわかった。冗談めかしていった私の言葉を、みんなはかならずしも冗談とは受けとらなかったようだ。眠りくん≠ノいたるまでが、ムクリと身を起こし、私の顔を注視しているのである。
私はふいに口のなかがカラカラに乾いていることに気がついた。私はもうこれ以上、自分自身をいつわることはできそうになかった。私にしても決して、たんなる気まぐれや、悪戯心から、休日をつぶして、『装甲輸送車警備保障』のことを調べたわけではない。私たちは|ほんとうにやるつもり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのだ。
しかし、どうして? 私たちは金にこまっているわけでもなければ、職業的犯罪者でもない。そんな私たちがなにを好きこのんで、現金輸送車を襲うなどという大それた真似をしでかさなければならないのか……ママがいったように、強いやつがきらいだからか。眠りくん≠ェいったように、金庫造りと金庫破りの伝統的なゲームに魅せられたからか。それとも、このチェシャ・キャット≠ノ足をふみいれた私たちが、社会のありとあらゆる軛《くびき》から解放された、無色透明《ヽヽヽヽ》な個人と化してしまうからだろうか。
|わからない《ヽヽヽヽヽ》。ただ、呆然としている私の頭のなかで、ずっと以前に読んだ『ふしぎの国のアリス』のこんな一節が、くりかえしきこえていた──このあたりではみんな気がふれてるのさ。おれも気ちがい。あんたも気ちがい……
「ママ、とちの実落とし≠やらないか」
私はかすれた声で、ママにきいた。
「やらないわ……」
ママはしずかに首をふった。「わたしはもっと大きなゲームがしたいのよ」
私はいつのまにか自分がふしぎの国≠ノ足をふみいれてしまっていることを知った。そして、私たちはふしぎの国の犯罪者≠ネのだ。
その男はコンクリートの舗道に競馬新聞をひろげ、そのうえに弁当や湯のみ茶わんをおき、昼食をとっていた。弁当の蓋にこびりついている御飯をひと粒ひと粒ハシでひろい、コブ巻きをゆっくりと噛みしめ、しんそこから昼食を楽しんでいるという風情《ふぜい》だった。
私はしばらくその男を観察していた。
昼食時になると、ここ青山墓地のまえにはタクシーの運転手が集まってくる。ここには昼飯弁当を売る屋台が立ち並んでいるからである。
昼食をとっている運転手のなかで、とくにその男に際立ったところがあったというわけではない。ただ、悠然と昼食をとっているその姿には、一種独特な風格めいたものがあって、なんとなく私の気をひいたのだ。
私はサングラスを掛け直すと、意を決して、その男に歩み寄っていった。そして、前に立ち、声をかける。
「なにか大穴はありそうかね」
男は私をみあげ、顔をクシャクシャにして、笑った。前歯が一本欠けていた。
「俺ぐらいの達人になると、馬券を買わないで、競馬を楽しむようになるんだよ。お客さん──」
それから、厚焼きタマゴをつまんだハシを振るようにしていった。「わるいけど、昼飯はゆっくりとる主義なんだ。走るのは、もうすこし待ってくれないかな」
「そうじゃないんだ。じつは、たのみたいことがあるんだ」
「そのたのみというのは昼飯のあとでもまにあうことかい」
「充分にまにあう」
私の口調には自然に熱がこもった。「そのうえ、ちょっとした金にもなる」
「お金ね。お金か……」
運転手は歌うようにそういい、厚焼きタマゴを口のなかに放りこんだ。そして、そのハシでゴリゴリと頭を掻いた。
「なにしろ嬶《カカア》とガキが三人いやがるからな。それに、いくら達人でも、たまには馬券を買って競馬を楽しみたいしな。お金は欲しいよなァ……だけど、わるいことをするのはいやなんだよな」
「わるいことじゃない。ただ、秘密を守ってもらう必要はあるけど」
「昼飯のあとでいいんだな」
「あとでいい」
「じゃあ、ちょっと待っててくれよ。すぐに済ましちまうから」
運転手は油アゲの煮つけをハシでつまみ、ふと思いついたように、そのハシを私に差しだした。
「よかったら食べないか」
「いや、いい」
私は首をふり、いった。「昼飯は済ましてきたんだ」
もちろん、嘘だった。
──私のように予備校の講師をつとめていて、ありがたいことは、時間の自由がきくということだ。
たとえば今日だが、午前中にふたクラス講義すれば、午後はもうまったくの自由なのだ。家に帰るなり、町をうろつくなり、好き勝手に時間をつかえる。ふつうのサラリーマンだったら、外回りの営業の人間でもないかぎり、こうはいかないだろうと思う。
帽子屋さん≠熈眠りくん≠焉A私と同じように、けっこう時間が自由につかえるらしい。そうでなければ、平日の午後四時という時刻に、待ちあわせなどできるはずがないからだ。
眠りくん≠ヘおそらく学生だろうから、ふしぎはないとしても、帽子屋さん≠ヘいったいどんな仕事をしているんだろう……私はそんなことを考えたが、まあ、これは考えても仕方のないことだった。本名さえ知らないのに、職業をせんさくするのはバカげているからだ。
デパートの入り口で、帽子屋さん≠ニ眠りくん≠ヘ私を待っていた。なんとなく居心地のわるそうな顔をしている。私に挨拶をする|しぐさ《ヽヽヽ》も、心なしかぎごちなくみえた。考えてみれば、私たちがチェシャ・キャット∴ネ外で顔をあわせるのは、これがはじめてのことなのだ。
「適当な人間がみつかったかい」
帽子屋さん≠ェきいた。
「ああ」
「信用できそうな人かい」
「私は信用したけどね」
「何時の約束にした?」
「四時半……」
私は腕時計をみて、いった。「あと二十分ぐらいだな」
それから、私たち三人は肩をならべて、デパートに入っていった。売り場をまっすぐ突っきって、エレベーターに乗った。
「屋上をおねがいします」
眠りくん≠ェなんだかしおらしい声で、エレベーター・ガールにいった。
デパートの屋上は私にはなじみの場所だ。いつも子供にせがまれて、いっしょに行くからだ。そして、メリーゴーラウンドに乗せたり、ジュースを買ったりで、ありったけの小銭をつかいはたすことになる。あまり好きな場所ではない。
今日の同行者は子供ではない。しかし、|遊びにきた《ヽヽヽヽヽ》という点では、いつもとかわりないようだった。
屋上には、子供たちの笑い声があふれていた。お母さんたちの子供を叱りつける声が、ときおりそれに混じってきこえていた。ラウド・スピーカーからは、音質のわれた『美しく青きドナウ』が流れていた。
下を歩いているときには気がつかなかったのだが、今日はけっこう風がつよいらしく、屋上の旗がパタパタとはためいていた。
私たちはためらわず、フェンスの近くにおかれてある望遠鏡に向かった。硬貨を入れると、三分だけのぞくことのできる望遠鏡で、ふたつ並んでいた。だれもがスモッグに汚れた東京をみても仕方ないと思うらしく、望遠鏡は埃にまみれ、あたりには子供の姿さえなかった。
私と帽子屋さん≠ェそれぞれ望遠鏡にとりついた。眠りくん≠ヘ持っていたバッグを床におき、そのなかからカメラをとりだした。そして、カメラに望遠レンズをとりつけ、フェンスに体を接するようにしてみがまえた。
「ジャンジャン撮ってくれよ」
私は眠りくん≠ノそういうと、望遠鏡をのぞきこみ、スリットに硬貨をおとした。帽子屋さん≠燗ッじことをしているはずだ。
なにかの魔法のように、眼のまえに新宿の町並みが出現した。私はしばらく望遠鏡の角度を調節することに熱中し、そしてついにめざす場所に焦点をあわすことができた。
私たちが、仮にX地点と呼んでいる場所だった。新宿通りと甲州街道をつないでいる道の一本で、新宿にもこんなさみしいところがあるのかと驚くほどの場所だ。たとえていえば、都会のエア・ポケットのような通りなのである。
なんでも数年まえに大火事があったとかで、かなりの敷地が金網にかこまれ、ただ資材置き場としてのみ使われているらしい。新宿の地価を考えれば、もったいないような話だが、持ち主はおそらく値上がりを辛抱づよく待っているにちがいない。
すぐ近くに、飲み屋やキャバレーが蝟集《いしゆう》しているのが、嘘のように思えるぐらい、この一角は閑散として、人通りがない。資材置き場の隅にちいさな倉庫があるが、その倉庫も窓ガラスはことごとく割れ、シャッターは赤錆だらけという、まったくの廃屋だ。
週に三回とさだめられた集金日、正確に午後四時半、装甲輸送車はこの通りにさしかかる。なにも現金を積んだ車がこんなさみしい通りを通らなくてもよさそうなものだが、契約している店をすべて回り、集金し、その金を銀行に納めるためには、どうしてもこのルートを選ばざるを得なかったようなのだ。多少、時間がかかってもいいのなら、ほかのルートを選ぶこともできたのだろうが、それではかえって危険率を増すことになると判断されたにちがいない。
ここX地点で、われわれは装甲輸送車を襲うことになっていた。
「来た……」
眠りくん≠フ圧し殺したような声がきこえてきた。
なるほど、たしかに望遠鏡のまるい視界のなかに、ズングリとした装甲車がみえてきた。私はたてつづけにスリットに硬貨をおとしながら、望遠鏡から顔をはなし、腕時計に視線を走らせた。正確に、四時半だった──装甲車の時間がこれほど正確なのは、そのほうがなにか異常事態が起こった場合、安全だからである。いつもは時間に正確な装甲車が、十分も二十分も遅れれば、それだけで本部は異常を察知することができる。絶対安全≠標榜するだけあって、さすがに『装甲輸送車警備保障』はすべてにわたって用意周到だった。
私が望遠鏡をふたたびのぞいたとき、すでに|それ《ヽヽ》が始まっていた。ふいに横道からとびだしてきたタクシーが、むりなカーブをきろうとして、装甲輸送車の尻につっこんだのである。
もちろん、そのタクシーを運転しているのは、競馬の達人、昼食をゆっくりとる主義の|あの《ヽヽ》男だ。
それは事故と呼ぶのもためらわれるような、ほんの軽い接触にすぎなかったが、その接触はたいへんな騒ぎをひき起こすことになった。
現場から数百メートルはなれているこのデパートの屋上においてさえ、はっきりと耳にすることができるほどの、けたたましいサイレンが鳴りわたったのだ。装甲車がそれこそ身をよじって泣きさけんでいるようなサイレン音だった。おそらくそのサイレンは、新宿のどこに身をおいていても、きこえるにちがいない。
だれかが外部からむりやりに扉をこじあけようとするとそくざに非常ベルが鳴る、という広告文は誇張ではなかったようだ。タクシーがほんの軽く追突しただけで非常ベルに電気が流れ、こうして非常ベルが鳴りわたるのだから。
そのサイレン音にかさなるようにして、眠りくん≠ェつづけざまにカメラのシャッターを切る音がきこえてきた。
私は望遠鏡をのぞきながら、心中うめき声をあげていた。接触事故に遭い、けたたましくサイレンを鳴らしながら、なお装甲車の運転手たちはウィンドウをかたくとざしたまま、外へ出ようとしないのだ。装甲車のなかに身をおいているかぎり、絶対に安全だということを、徹底して教えこまれているにちがいなかった。
私は、犬が前方にとびだしてきたとき、装甲車の運転手がブレーキをかけようともしなかったことを想いだしていた。
やがて、望遠鏡の視界のなかに、数台のパトカーがみえてきた。パトカーは前後からタクシーをはさむようにして、とまった──ちょっとした接触事故だ。あの運転手に難がおよぶ心配はなかった。おそらく、調書をとられるぐらいで解放されるのではないか。
私はようやく望遠鏡から眼をはなし、帽子屋さん≠ニ顔をみあわせた。眠りくん≠ヘカメラの角度をさまざまにかえ、いろんな場所を撮りつづけているようだった。
「四分だよ……」
帽子屋さん≠ェ抑揚のない、ボソボソとした声でいった。「たったの四分で、パトカーは現場に着きやがる」
「しかも、あちこちの交叉点にパトカーがとまっています」
眠りくん≠ェあいかわらずカメラのシャッターを押しつづけながら、いった。「おそらく、地下鉄や国電の駅なんかにも、警官たちが出張っているんじゃないんでしょうか。さすがは『装甲輸送車警備保障』、警察との連係プレーもみごとなもんだ……」
「四分か……これじゃ金なんか持って、ウロウロしていたぶんには、たちどころにつかまっちまうな」
面白くもなさそうに、そうつぶやいた帽子屋さん≠ノ、
「奇術の|こつ《ヽヽ》を知っているかね」
私はいった。
「奇術のこつはね。客の注意を右手にひいておいて、左手で細工することにあるんだよ」
──人の声がきこえている。ときおり、電話が鳴りひびく。だれかが椅子をうしろにずらし、立ちあがる。ドアをあけしめする音、若い女の笑い声……眠りくん≠ェテープをとめたとたん、すべての音がとだえ、ガレージに静寂がよみがえった。
「いいじゃないか」
私はうなずいて、笑った。「いかにも雑誌の編集部の雰囲気がよくでている」
「そうですか」
眠りくん≠熄ホ顔をみせた。「なにしろこのテープをつくるのには一晩かかりましたからね」
眠りくん≠ヘ私たちの作戦には欠かせない存在となっていた。彼が理科系の学生であることは、およその察しはついていたが、これほどメカにくわしい人間だとは予想もしていなかったことだ。眠りくん≠ヘどんなメカでも、ハサミのように、やすやすと使いこなしてしまうのである。まったく、彼がいなければ、私たちの作戦は大いに支障をきたすことになったろう。
「もううるさくしてもいいか」
帽子屋さん≠ェそうきくと、私たちの返事を待たないで、電気ドリルのスイッチをいれた。高速回転するドリルが、壁にたてかけて、固定されている大きな板に、ズボズボと穴をあけていく──それは看板《ヽヽ》だった。寸法が仕上がったあとは、帽子屋さん≠ェ絵筆をふるって、なんとか看板にみえるような絵を描くことになっていた。そして作戦決行の前日に、あらかじめX地点まで運んでおくのだ。だれがみても、うち捨てられた看板としか思わないにちがいない。
もちろん、私たちは|だて《ヽヽ》や酔狂で看板描きなんかはじめたわけではない。この看板は作戦を遂行するうえで、非常に重要な役割りをはたすのだ。
ドリルの回転音が、ガレージのうちっぱなしのコンクリート壁に反響して、くぐもったような|うなり《ヽヽヽ》をあげていた。
ここはチェシャ・キャット≠ノ隣接しているあのガレージだ。厚いシャッターにさえぎられ、音はまったく外にはきこえない、とママが太鼓判を押してくれたから、私たちはなんの心配もなく、こうして作業に専念できるわけだ。
帽子屋さん≠ェようやく看板に穴をあけ終わり、ひたいの汗をぬぐったとき、ママがガレージに入ってきた。いかにも重そうに、革のホルスターに入った拳銃を持っていた。
「拳銃を持ってきたんだけど……」
ママがいった。「だれかあつかえる人はいないかしら」
「………」
私は眼をみはった。
私は拳銃にくわしくないが、それは輪胴式の、銃身の極端に短い、みるからに危険そうな代物だった。拳銃そのものより、むしろママがそんなものをたやすく用意できたというほうが驚きだった。
帽子屋さん≠ェ無言のまま、電気ドリルを床におき、ママの手から拳銃をうけとった。いつもは生気のない、なんだかウッソリとした感じの帽子屋さん≠ェ、その瞬間、奇妙にいきいきしてみえた。帽子屋さん≠ヘ拳銃の重さをはかるように、銃身を手のなかでゆらし、ボソリとつぶやいた。
「S・Wリヴォルバァーか……いい銃だ」
私はまたしても帽子屋さん≠フ正体が気にかかり、そのいかにも銃をあつかい慣れた様子が心配になった。
「わかってるだろうが、銃はおどしにつかうだけで、発砲してもらっちゃこまるぜ」
私はそういわないではいられなかった。「血を流したんじゃ、ゲームにならないからな」
「わかってるさ」
帽子屋さん≠ヘうすく笑った。「そんなことはわかっている」
「眠りくん≠フほうは準備ができたの」
ママが眠りくん≠ノ声をかけた。
「|あっち《ヽヽヽ》のほうは準備ができました。トラベル・ウォッチ、ヘア・トニックの壜、ちいさなハンマーを組みあわせただけのかんたんな装置ですからね。べつに問題はありません。問題があるのは、むしろ非常ベルのほうなんですよ」
眠りくん≠ヘそういうと、ガレージのまんなかにおかれてあるテーブルに向かって歩いていった。私たちもそれぞれの仕事をいったん中断し、テーブルのまわりに集まった。
テーブルのうえには、アルミの窓枠が万力に固定されて、直立していた。窓は二枚のあわせガラスになっていて、きちんと錠がかかり、その錠には非常ベルが接続されていた。
「もちろん、装甲輸送車の錠はこんなかんたんなものではないでしょう」
眠りくん≠ヘ私たちをみまわし、なんだか講義をするような口調でいった。「ですが、非常ベルにかんしていえば、その原理はまったくかわらないはずです。要するに、むりやりに侵入すれば鳴りひびくという、ただそれだけのことです」
眠りくん≠ヘ両手にゴム手袋をはめ、テーブルのうえにおかれてある細い魔法ビンをとりあげた。魔法ビンの上口部には、ちいさな噴射器《ノズル》がとりつけられていた。眠りくん≠ヘ目線で合図し、私たちを後退させた。
「この魔法ビンのなかには液体窒素が入っています。液体窒素の沸点は零下一九六度……こいつで、一瞬のうちに、非常ベルを凍らせてしまおうと考えたのですが……」
眠りくん≠ヘそう説明すると、魔法ビンのなかの液体を、非常ベルにふきつけた。充分にふきつけたうえで、じつに無造作な動きで、魔法ビンの底をガラスにたたきつけた。
ガラスは粉々にくだけ、テーブルのうえに散った。私たちはギクリと身をこわばらせ、反射的に二、三歩あとずさった。一瞬、頭のなかで、非常ベルが鳴りわたる音をたしかにきいたと思った。
だが、非常ベルは沈黙したままだった。
私たちはかたずをのんで、非常ベルをみつめていた。いつまで待っても、非常ベルはリンとも鳴る気配をしめさなかった。
「すてきじゃないの。成功だわ」
ママがはしゃいだ声をだした。
「それがそうでもないんです」
眠りくん≠ェ情けなさそうにいった。「五分もたつと、非常ベルは鳴りはじめるんです。装甲輸送車の場合、液体窒素を直接ふきかけるわけではないので、まず三分ももてばいいほうじゃないでしょうか」
「三分……」
私たちは顔をみあわせた。
しばらく、重苦しい沈黙が私たちのうえにのしかかっていた。
「非常ベルが鳴りはじめるまでに三分」
やがて、帽子屋さん≠ヘ口のなかでつぶやくようにいった。「パトカーが現場に到着するまでに四分……俺たちには、たったの七分しか持ち時間がないわけだ」
「なに」
私はつとめてあかるい声でいった。「七分もあれば、いろんなことができるさ」
しかし、あいにくなことに、私のその言葉は、おりしも鳴りはじめた非常ベルの音にかき消され、ほとんどほかの三人の耳には達しなかったようだ。
私たち四人は、非常ベルの音がガンガンと鳴りひびくガレージに立ちつくし、いつまでもおたがいに暗うつな視線をかわしあっていた。
──襲撃を翌日にひかえた日の午後、私と眠りくん≠フふたりはつれだって、『装甲輸送車警備保障』にでかけた。不完全ながら、とにもかくにもほとんどの準備がととのい、最後の仕上げをするためには、どうしても『装甲輸送車警備保障』に足を向ける必要があったのである。
明日は休日の水曜日だから、まる一日を装甲輸送車襲撃につかうことができる。しかし、今日はどうしても時間のやりくりがつかず、ついに病気ということにして、予備校を休んでしまった。仕事と趣味《ヽヽ》を混同しているようで、多少の罪悪感をおぼえないでもなかったが、どうにもやむをえなかったのだ。
さて、『装甲輸送車警備保障』の玄関に立った私たちは、広報課を通じ、取材させてほしいと申しでた。
私たちは『週刊A誌』の記者というふれこみで、もちろん、|それらしい《ヽヽヽヽヽ》格好をしていた。私はサングラスを掛け、背広の胸ポケットにエンピツを差していた。眠りくん≠フほうはカメラマンということになっていたので、おさだまりの皮ジャンを着こみ、肩からは重いカメラ・ケースをさげていた。なにをするにも、それなりの苦労というものがあるようなのだ。
名刺をうけとった広報課員は、私たちを応接室に待たせ、しばらく奥の部屋に姿を消していた。もちろん、上司におうかがいをたて、名刺に記された電話番号をまわし、私たちの身分を確認しているにちがいなかった──電話にはママが出ているはずだった。そして、その背後では帽子屋さん≠ェ眠りくん≠フつくった|あの《ヽヽ》テープを回し、雑誌編集部の騒然とした雰囲気をかもしだしているのだ。広報課員が私たちの身分を信用することは、まずまちがいなかった。
私たちは用心のうえにも用心をかさねていた。私にしろ、眠りくん≠ノしろ、両手の指の腹には、速乾性のセメダインを薄く塗ってある。指紋を残さないためだ。広報課員にわたした名刺にしても、年賀状なんかを刷るための手刷りの印刷機を買ってきて、それらしく仕上げたものだった。数時間もすれば、インクが消えてしまうようになっていた。
広報課員がたった一度かけただけの電話番号を憶えている可能性は、ほとんどゼロにちかいのではないだろうか。
「取材に協力させていただきます」
応接室にもどってきた広報課員が、胸をはっていった。「わが社の装甲輸送車がいかに優れているか、宣伝すればするほど、犯罪防止の役にたつわけですからな」
なんともおめでたい男だった。私たちがその犯罪者かもしれないという可能性は、まったく頭に浮かびさえもしないようだ。
「それはどうも助かります」
私はソファから腰を浮かし、頭を下げた。
「それではさっそくですが、装甲車の写真を何枚か撮らせていただけませんか。できれば、うしろの荷箱のなかや、運転席も写さしていただけるとありがたいのですが……」
広報課員は快く了承してくれた。
もちろん、たんに写真をとるためだけに、私たちは『装甲輸送車警備保障』に足を運んだわけではない。どうしても運転席の座席の下に、|あるもの《ヽヽヽヽ》を隠す必要があり、そのためにはこんな芝居でもうたなければ仕方なかったのだ。
私があれこれ質問し、広報課員の注意をひいている隙に、眠りくん≠ヘ首尾よく目的を果たすことができたようだった。
──『装甲輸送車警備保障』を出てからは、ふたりとも自然に早足になった。ふつうの歩き方にもどったのは、新宿通りに出て、あとを追われても、もうみつかる心配がなくなってからだった。
「うまくいったな」
肩を並べて歩きながら、私は眠りくん≠ノいった。
「はあ……」
眠りくん≠ヘなんとなく浮かない顔をしていた。
「どうした? なにか気にかかることでもあるのか」
「弱りました」
眠りくん≠ヘブルンと掌で顔をなでおろした。「ぼくが考えていたのと、非常ベルの位置がちがっていました……ぼくは非常ベルはてっきり扉の内側につけられているものとばかり思っていたのですが、箱《ヽ》の前部の内壁にとりつけられていたんです」
「なにか問題があるのか」
「非常ベルがとりつけられているあたりの外壁に、液体窒素をふきかけるには、箱と車とのわずかな隙間に身を入れる必要があるんです」
「………」
「狭すぎます。とても人間が入れるだけの幅はない」
「スピーカーシステムは外にとりつけられているんだろう」
「ええ」
「そっちに細工できないか」
「無理ですよ。五分で車をバラバラにしろというようなものだ」
私たちはそれからは、肩を並べて、ただ黙々と歩いていた。液体窒素をつかえないとなると、私たちに与えられた時間は、パトカーが現場に駆けつけるまでの四分しかない。不可能だ。四分では、なにひとつ満足にできるわけがない。
「待てよ」
私は声にだしてそういい、道のまんなかに立ちつくした。
ふいに、女房との約束が頭にひらめいたのだ。|こんどの休日《ヽヽヽヽヽヽ》には、子供を遊園地につれていく約束になっていたのを、想いだしたのだった。
──私は資材置き場にうずたかく積まれた鉄骨のかげに身をひそめ、装甲輸送車が現われるのをジッと待っていた。
午後四時二十分……陽はやわらかくかげり、風がかすかに吹きはじめていた。その風にのって、新宿通りと甲州街道の騒音が、とおい海鳴りのようにつたわってきた。
私たちがこの場所を襲撃地点に選んだのは正解だったようだ。私は四時からここにこうしてうずくまっているのだが、そのあいだに、資材置き場のまえの道を通ったものといえば、車が二台、自転車が一台きりだった。そうそう、ネコが一匹通ったが、そのネコも私の姿をみるなり、身をひるがえして、どこかへ走り去っていってしまった。
時間の過ぎていくのが極端に遅いように感じられた──私は時計をみる。そして、空をみあげ、歯をくいしばり、ひたすら|待ちつづける《ヽヽヽヽヽヽ》。また時計をみる。すると、まえに時計をみたときから、まだ一分とはたっていないのだ。
私は緊張していた。
戦闘にのぞむ兵士のように、いや、私の仕事に適した比喩をつかうならば、受験にのぞむ学生のように、ただもう緊張しきっていた。
受験をひかえた学生たちをはげますとき、私はどんなことをいうか──|おちつけ《ヽヽヽヽ》、|いつものペースでやれ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|あせってもなんにもならないぞ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……なんといい気なことをいってたものかと思う。いま、掌の汗をのべつズボンで拭っているこの私が、よくもそんな台詞《せりふ》を吐けたものだ。
私はおちついていない。自分のペースを乱している。あせっている。そして、さっきから激しい尿意をおぼえている。
「パパ、おしっこに行ってきていい?」
私の脇にうずくまっていた子供がいう。一瞬、私はポカンとして、子供の顔をみる。それから、こわばった微笑を浮かべて、うなずく。
「いいよ。あまりとおくへ行っちゃだめだよ。すぐに帰っておいで」
「うん」
子供はパタパタと走っていった。そのちいさなうしろ姿をみているうちに、胸がしめつけられるような罪悪感をおぼえた。こともあろうに、自分の息子を犯罪の道具につかおうとするとは、私はまたなんという父親なのだろう──女房は、私が子供を遊園地につれていったと信じている。襲撃に失敗して、父子ともども警察につかまるような|はめ《ヽヽ》になったら、それこそ離婚ぐらいではすまないだろう。もしかしたら、女房は発狂してしまうかもしれない。
いまなら、まだまにあう。まだひきかえすことができる……私は懸命にそう自分にいいきかせていた。どうして、ひきかえさない? どうしてすべては冗談だったとみんなに伝えて、笑いながらチェシャ・キャット≠ナ酒を飲まないのだ?
だが、私にはわかっていた。私は決してひきかえそうとはしないだろう。金が欲しいからではない。|おもしろい《ヽヽヽヽヽ》からだ。犯罪こそ、人生における最大のゲームであることを、身をもって知ってしまったからだ。もし、ここでひきかえしたら、私の人生が刺激にとぼしい、燃えカスのようなものになってしまうにちがいないからだ。
これは、法律とか、モラルなどというものとは、いっさい関係のないことだった。私の情熱が、私の正義《ヽヽ》が、装甲車襲撃をあくまでも遂行すべきだと声高に主張しているのである。
それに、実感として、私は子供を遊園地につれていくという約束をちゃんと果たしているような気がしてならないのだ。遊園地につれてきて、メリーゴーラウンドも、ジェットコースターも問題にならないほど、おもしろいゲームで子供を遊ばせているような、そんな気がしてならないのだ。
いや、そんなことよりもなによりも、もうひきかえすには遅すぎる。資材置き場のむこうからゆっくりと姿を現わしたのは──あれは装甲輸送車ではないか。
私は腕時計に視線を走らせた。四時半! 正確だ。非常に正確だ……私は手袋をつけると、ズボンのポケットからストッキングをとりだし、それを頭からかぶった。おしっこからもどってきた子供の頭にも、ストッキングをかぶせてやる。子供がクスクスと笑った。
「シッ」
私は人差し指を唇に当て、子供をだまらせた。そして|待った《ヽヽヽ》。
装甲輸送車はノロノロとこちらに向かって走ってくる。いっそう時間の経過が遅くなったように感じられる。なんだか、私たちをじらして楽しんでいるようだ。神経をヤスリにかけられているような苦しさだ。事実、私は奥歯をギリギリと噛み鳴らしていた。
装甲輸送車が近づいてくるにつれ、私の緊張もしだいにたかまっていった。喉がかわき、こめかみがズキズキと痛んだ。やはり、私は犯罪者という|がら《ヽヽ》ではないのだ。もうこれ以上、この緊張には耐えられそうにない──私が何度めかにそう思ったとき、装甲輸送車がタイヤをきしらせて、停車した。
そして、運転席のドアがひらき、ふたりの男がほとんど転がるようにして、外へとびだしてきた。鼻をおさえ、激しく咳きこみ、彼らは立っているのさえやっとのようだった。
やった!
なにがあっても、装甲輸送車から降りないように教育されているはずのガードマンたちを、私たちは外にさそいだすことにまんまと成功したのだ。鉄壁のガードを誇っていた装甲車に、ようやく隙が生じたのである。
説明するまでもなく、きのう座席の下に仕掛けておいた揮発油爆弾≠ェ、その威力を発揮したのだ。
爆弾という名称はいかにもぶっそうだが、べつに火薬が使用されているわけではない。トラベル・ウォッチが四時半にセットされていて、その時刻になると、ハンマーがヘア・トニックのビンを割るという、いたってかんたんな構造の代物だ。ただし、ビンのなかにはアンモニアを主体にした、揮発性の液体が入っていて、こいつのにおいをまともにかいだら、まずたいていの人間は音《ね》をあげる。鼻がひんまがるほどくさいのだ。
いかに、ガードマンたちの会社にたいする忠誠心が強固なものであったとしても、狭い運転席のなかで|こいつ《ヽヽヽ》のにおいをかがされるのだけは、耐えられなかったにちがいない。なにもかも忘れて、外へ逃げだしたくなったのも、当然のことであったのだ。
私のなかでなにかのスイッチが切り替わったようだ。焦燥感も、緊張感も拭われたように消えてしまい、その替わりに、自分の行動を客観視してみることのできる、奇妙に冷静なもうひとりの私が現われたのだ。
すべてが手筈どおりだった。私が資材置き場のかげからとびだしたときにはもう、ストッキングをかぶった帽子屋さん≠ェガードマンたちに拳銃をつきつけていた。そして、これもやはりストッキングをかぶった眠りくん≠ェ粘着テープのロールをつかい、手早く、しかも念入りに、ガードマンたちの体を縛りあげる。同じテープで、さるぐつわ、目隠しをしたことはいうまでもない。
眠りくん≠ェガードマンたちを資材置き場に転がしたとき、私の子供は箱と車のあいだの隙間にするりと身をすべりこませていた。教えられたとおりに、非常ベルがとりつけられていると覚しきあたりの外壁に、魔法ビンのなかの液体窒素をふきかけた。
私たちは一言も口をきこうとしなかった。ガードマンたちに声をききつけられるのは危険だったし、また何も話す必要のないほど、ありとあらゆる情況があらかじめ想定されていたからである。
それでも眠りくん≠ェバーナーのノズルに火をつけ、それを箱の扉に近づけるのをみたときには、喉のあたりがむずがゆくなるのをおぼえた。『装甲輪送車警備保障』の広告文によれば、しかるべき手続きをとらないで、外部から箱の扉をあけようとすると、そくざに非常ベルが鳴りわたる仕掛けになっているはずだからである。液体窒素が非常ベルを|ばか《ヽヽ》にしていなければ、それこそ私たちは万事休すだった。
非常ベルは|鳴らなかった《ヽヽヽヽヽヽ》。
眠りくん≠ヘじつに手際よく、鉄板に穴をあけていき、ついに錠を焼き切った。そして、バーナーの火をとめると、扉に両手をつき、ぐいっと押した。
扉がひらくと同時に、なかから怒り狂ったガードマンがとびだしてきて、私たちにつかみかかろうとした。だが、帽子屋さん≠ェつきつけた拳銃を眼にして、かろうじて抵抗を思いとどまったようだ。
「おまえたちは低能だ」
そして、抵抗するかわりに、口汚くののしりはじめた。「すぐにパトカーが来るぞ。たとえ、パトカーがまにあわなかったとしても、新宿は封鎖されてしまうんだ。道路、駅、バス停、すべて警察がはりこむんだ。そんな、金とか、拳銃とか、バーナーとかを持って、逃げだせるはずがない。低能、マヌケ、どうやって逃げるつもりなんだ。たとえ、どこかに隠れたとしても、警察はしらみつぶしに……ムムム……」
眠りくん≠ェその男をしばりあげ、さるぐつわをかませ、ようやくだまらせることができた。もし、その男がわたしの生徒だったら、口のきき方、礼儀作法をみっちり教えこんでやるところなのだが……
眠りくん≠ェその男をほかのふたりと同じように、資材置き場に転がしたとき、ついに非常べルが鳴りはじめた。
私たち三人はたがいに視線をちらっとかわしあった。そして、作業《ヽヽ》を急いだ。私たちに残された時間は四分しかない。どんなに急いでも、急ぎすぎるということはないのだ。
私たちがバラバラにX地点をはなれたのは、それから三分後、パトカーが現場に到着するキッチリ一分まえだった。
──地下鉄の駅は、人ごみでごったがえしていた。
多勢の警官たちが改札口に立ち、ホームに降りようとする人を、いちいちチェックしているのだ。ボストン・バッグ、紙袋、とにかくちょっとでも眼につく荷物を持っている者は、男女を問わず、脇にひっぱっていかれ、徹底的に調べられる。犠牲者のなかには、警官にくってかかる者も少なくなかった。
ちょうど帰宅時のラッシュとかさなっていることもあって、それこそ満足に進むこともできない、たいへんな混雑ぶりだった。おそらく、いま、これと同じような情況が、新宿のいたるところでみられるにちがいない。
私は子供の手をしっかりとにぎり、人ごみにもまれながら、口汚くののしったガードマンの言葉を思いだしていた。なるほど、たしかにこれでは、金や拳銃を持って、新宿を脱出するのはおぼつかない。
ようやく、改札口にたどりつくことができた。
「なにかあったんですか」
私は警官にきいた。警官は私に視線をはしらせ、私がまったくの|手ぶら《ヽヽヽ》で、しかも子供づれであることをたしかめると、行ってもいい、というように顎をしゃくった。私はいそいそとそれにしたがった。
ガードマンたちはだれひとりとして、子供の姿をみていない。子供づれでいるということは、それだけで容疑からはずされる効果があった。まさか子連れの犯罪者がいようなどとは、だれも想像もしないからである。
こうして、私は難なく新宿から脱出することができた。しかし、じつは、私たちの装甲車襲撃はまだ終わっていなかったのだ。
──チェシャ・キャット≠フ木製の扉には、『本日休業』の札がかかっていた。
だが、店ではママが待っていたし、眠りくん≠烽ミと足はやく着いて、カウンターで水割りをすすっていた。この店ではめったにないことだが、トランジスタ・ラジオのスイッチが入れられていて、低く音楽が流れていた。
「案外、はやかったわね……」
ママは私の顔をみてそういい、子供の顔をのぞきこんだ。「まあ、これが兎《うの》さん≠フお子さん? 坊や、お名前なんていうの? お年はいくつ?」
子供をあやすママの姿など想像もできなかったことだが、彼女は彼女なりに私の労をねぎらっているつもりにちがいなかった。
私は子供の世話はママにまかし、眠りくん≠フ脇に腰をおろした。そして、きいた。
「どうだ?」
「さっきニュース速報でやってましたけどね……」
眠りくん≠ェクスクス笑いながら、いった。「犯人は新宿にひそんでいると思われる。逮捕は時間の問題……だそうですよ」
「警察は犯人が金を持っていると思っているんだろうからな」
私はうなずいて、いった。「新宿にあれだけの捜査線をはれば、犯人はすぐにつかまると楽観視するのも当然のことさ」
子供はママといっしょにとちの実遊び≠はじめた。しばらくは、キャッキャッと喜んでいたが、そのうちに昼間の疲れがでたらしく、ソファで眠りこんでしまった。可哀想な気もしたが、まだまだ私は家に帰るわけにはいかなかった。
私はふと思いついて、女房に電話をかけた。
「バッタリ昔の友達に会っちゃってね」
電話にでた女房にいった。「ちょっと遅くなるかもしれないよ」
子供に夜ふかしのくせがつくといけないから、できるだけ早く帰ってくださいね、と女房がいった。
「わかった。すぐにきりあげるよ」
私はそういって、電話を切った。
すぐにきりあげられるわけがなかった。なんとしても、警察が新宿の捜査線をとくまで待つ必要があったのだ。
私と眠りくん≠ヘだまって水割りをすすり、ときおり流れてくるラジオのニュースに、耳をかたむけていた。ニュースはしだいに犯人の即時逮捕に懐疑的なものになっていき、ついにはなんらかの方法で犯人は新宿から脱出したのかもしれない、という臆測まで述べるようになった。警察があせりはじめ、自信をうしないつつある証拠だった。
帽子屋さん≠ゥら電話がかかってきた。帽子屋さん≠セけは新宿のバーに残り、警察の様子をさぐることになっていたのだ。
「警察はたいへんなはりきりようだったぜ。なにしろ新宿の喫茶店、バー、連れ込み旅館を一軒一軒しらみつぶしにしらべたんだからな。もちろん、俺が飲んでいたバーにも警官がやってきたよ。俺はまったくのから手だったから、心配はないがね……」
帽子屋さん≠フ声は笑っていた。
「警察はあきらめたようだ。犯人は新宿から逃亡したか、それとも新宿に住居《すまい》をさだめている人間のどちらかと判断したらしい。駅や道路の非常線をときはじめている」
私は電話を切った。そして、眠りくん≠うながし、いっしょにチェシャ・キャット≠でた。作戦の次の段階にうつるべきときがきたのだ。
──私たちはひとつの大きな賭《かけ》をした。
賭に成功すれば、私たちは大金を手にいれることができ、警察の手になにひとつ手がかりを残さないことになる。賭に失敗すれば、私たちにはびた一文入らないし、拳銃、バーナーなどの手がかりを、警察の手に残すことになる。
もちろん、ママは用心のうえにも用心をかさねて、これらの品物の入手先がわからないようにつとめはした。しかし、日本の警察は非常に優秀だ。拳銃やバーナーが警察の手にわたったら、まずこれからさき、私たちは心やすらかに眠ることができなくなるにちがいない。
大きな賭だ。大きいばかりでなく、危険な賭でもあった。
『装甲輸送車警備保障』と警察との連係プレーはじつにみごとというほかはない。装甲輸送車が襲われた場合、パトカーが四分で現場に到着し、さらに何分かで新宿を完全に封鎖してしまう。大金を持った犯人はまず非常線の網の目から逃れることはできない。警察が犯人の即時逮捕に絶対の自信を持ったとしても当然のことなのだ。
そして、警察の自信が大きければ大きいほど、私たちが賭に勝つ確率もまた大きくなるのだった。
私たちはこう考えたのだ──警察は犯人の即時逮捕に全力をそそぐにちがいない。だとしたら現場検証は翌朝にもちこされるかもしれないし、たとえその夜すぐに行なわれるとしてもいくらかおざなりになる可能性は大いにあるのではなかろうか……
私たちの警察にたいする見方は、なんといっても甘すぎたといわねばならない。警察はひとつの巨大な官僚機構であり、どんな場合にも、しかるべき手順をふまないで、物事が推し進められるということはありえないのだった。そう、私たちは危うく賭にやぶれるところだったのである。
途中で帽子屋さん≠拾って、私たちがX地点にもどってきたときには、すでに夜中の三時近かった。昼間の襲撃から十時間以上が経過しているわけだ。とっくに非常線が解かれていて、新宿の町は平静にかえっていた。
ちょっと離れたところに車を駐め、私たちはX地点まで歩いていった。そして、呆然と立ちすくむことになった。現場検証がおざなりにされているどころではない。X地点では、じつに大勢の警官やら、鑑識の人間やらがたち働いていたのだ。
「逃げましょう」
眠りくん≠ェ顔色をかえて、いった。「これじゃ、とても無理だ」
私は帽子屋さん≠ニ顔をみあわせた。帽子屋さん≠ェしずかな声でいった。
「このまま逃げても、どうせいつかは捕まることになる」
「よし」
私はうなずいて、いった。「こうなったら、運を天にまかせよう」
私たちが現場に入ってゆくのを、だれもとがめようとはしなかった。私たち三人が車のなかで鑑識の人間の服装に着換えていたからだ。テレビの刑事ドラマをみていれば、鑑識の人間がどんな格好をしているかすぐにわかる──それに、警官たちにしたところで、ことさらに眼をひからせる必要はまったくない。いくら、犯人はかならず現場にもどってくるというのが鉄則だったとしても、まさか|その日《ヽヽヽ》の夜にもどってくるとは思ってもいないだろうからだ。
それにもうひとつ、彼らは犯罪現場の検証にやってきたのであって、なにかを警備しに来たのではない。ここはすでに犯罪が|行なわれた《ヽヽヽヽヽ》場所であって、彼らに他者を疑わねばならない理由はなにひとつなかったのだ。
私たちにとってただひとつ幸運だったのは、捜査陣の注意がほとんど資材置き場に向けられているということだった。おそらく、資材置き場に犯人が潜んでいるかもしれない、とでも考えているにちがいない。装甲車のまわりにはほとんど人もいず、なんだかポツンととり残されている感があった。
「犯人たちは手袋をしていたそうだからね」
しきりに地面をかぎまわっていた鑑識の男が、脇を通りすぎようとした私たちに、声をかけてきた。「指紋なんか残っているはずがないさ。時計とか、ビンの破片なんかもすっかり持ってっちまったらしい。用心ぶかい連中さね」
「箱のほうはどうだった?」
私がきいた。
「ああ、やっぱりなにも残っていない。どんなちいさなものもみのがさないようにしたんだがね……」
|どんなちいさなものも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……私たち三人は顔をみあわせた。それでは、私たちのトリックはまだみやぶられていないのだ。
私たちは装甲車の箱のなかに入り、扉の内側をしらべたいからといって、扉をしめた。そして、作業にとりかかった。
私たちはじつはまだなにひとつ|盗みだしていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだ。帽子屋さん≠ェ造っていた看板のことをご記憶だろうか。あれを看板にみせかけたのは、あらかじめ現場に運びこんでおいても、人に怪しまれないようにするためで、もちろん用途はべつなところにある。板のまわりにはかなりの幅の枠がついていて、裏側にはうすい鉄板がはられている。この鉄板のほうを表面にして、すっぽりと装甲車の床にはめこむと、|それ《ヽヽ》が床のようにみえる。
そう、二重底である。扉と床とのあいだにかなりの落差があるのを利用して、私たちは二重底をつくったのだ。軽量細身のバーナーが入るだけの空隙《くうげき》をつくって、非常ベルが鳴ってからパトカーが到着するまでの時間に、私たちは金を、拳銃を、バーナーをそのなかに収めたのだった。
金を持って、警察の包囲陣から脱出するのは不可能だ。それでは、ひとまずすべてを安全《ヽヽ》なところに隠しておいて、あとからゆっくり取りにくればいい、そう考えたのだ。一度襲われ、金を奪われた装甲車をことさら警備する人間などいるはずもないからだ。
これを手品と考えれば、まことに陳腐なトリックといえるだろう。とりだしたとみせかけた品物は、じつはその場に残されている──とても警察陣の眼を長くだましおおせるトリックではない。とにもかくにも、いままでだましとおせたのは、あたりが暗くなっていたのと、彼らにどんな|ちいさな《ヽヽヽヽ》手がかりでもみつけださなければならない、という固定観念があったからに思われる。私たちはノンキにも現場検証は明日になるにちがいないと予想していたのだから、この単純なトリックをみやぶられなかったのは、まったくの奇跡のようなものだった。
私たちは|まだ《ヽヽ》装甲車を襲っていなかった。いま、捜査陣にかこまれながら、装甲車を襲撃しているのだった。
外の様子をうかがい、だれもこっちに注意を向けていないのをたしかめてから、私は帽子屋さん≠ニいっしょに看板《ヽヽ》を外に運びだした。装甲車に残った眠りくん≠ヘ金とか拳銃とかバーナーを、せっせと用意してきた袋につめこんでいる。
看板を運んでいるとき、警官のひとりにどうかしたのかときかれた。いや、こんなものが道においてあると、だれかが蹴つまづくかもしれないから、と、私は答えた。ご心配なく、と警官はいった。こちらで片付けておきますから……装甲車にもどったときには、私の胃はキリキリと痛んでいた。
袋を運びだすのにはなんの問題もなかった。犯罪現場で鑑識の人間が袋を持ち運びしているのは、それほど奇異な光景ではないからである。
──ママに出資金を返し、残った金を四人で分けると、ひとり頭八十万ぐらいにしかならなかった。趣味《ヽヽ》でやるならともかく、これを事業と考えると、犯罪はあまり率のいい商売とはいえないようだった。
──翌朝、私はさんざん女房に油をしぼられることになった。子供をつれていながら、朝帰りをするとは何事か、というのである。
「ぼく、|いろんな遊び《ヽヽヽヽヽヽ》をしておもしろかったよ。きれいなお姉ちゃんにも遊んでもらったし……」
子供の言葉がさらに女房の怒りをあおることになった。私はあわてて、学校に行く時間だから、といって、部屋をとびだした。
降りていくエレベーターのなかで、私はひとりクスクスと笑っていた。昨夜の自分と、今朝の自分との落差があまりに大きすぎて、われながらおかしくてならなかったのだ。ひとつには、まともな生活にもどることができたという喜びもあったかもしれない。
だが、ほんとうにそうだろうか。
あのふしぎの国≠ノ足をふみいれた人間が、そうもたやすく元の世界にもどることができるのだろうか……
誘  拐
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なにごとにも、教訓はあるのですよ、もし見つけられさえすれば
公爵夫人
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西条唯史は悪党だ。
運輸省から政界入りして、保守党の幹事長をつとめ、建設大臣にまでなった男が、善人のはずがない。
だれがなんといおうと、西条唯史は悪党にまちがいない。
ぼくはそう思う。
だが、──だからといって、その孫息子を誘拐していいかとなると、また話はべつになる。
──おちつかない毎日がつづいていた。
どうにも気味がわるいのだ。
あなただって、のべつ誰かにみはられているとなったら、心おだやかではいられないはずだ。たとえば、あなたがビア・ガーデンで生ビールを飲んでいるとする、すると、|うなじ《ヽヽヽ》のあたりがむずがゆくなり、たしかに誰かにみつめられているという気がしてくるのだ、もちろん、ふりかえったところで、どこのテーブルから誰がみつめているのか、たしかめる術《すべ》はない。
あるいは、あなたが夜道を歩いているとする。すると、背後から靴音がきこえてきて、それがいつまでもいつまでも、あとをつけてくるのだ。耐えきれなくなって、ふいにふりかえっても、そこにはただ人気《ひとけ》のない夜道がつづいているだけ──まあ、そんな状態なのだ。
夏だというのに、ぼくはまったく涼しい毎日を送っている。
気味がわるいのだ。
神経衰弱じゃないかって?
冗談じゃない。
ぼくの精神状態はきわめて健康、夏バテもないし、そのことがあるまでは、毎晩グッスリと眠ることができた。
第一それが気の病ではない証拠に、|いま《ヽヽ》現にぼくは誰かにあとをつけられているところなのだ。
最寄りの駅をおりて、マンションヘ帰る道すがら、ふと気がつくと、ノロノロと一台の車があとをつけてきているではないか。
たまたま交通量のすくない裏通りを歩いていたから気がついたものの、そうでなければちょっと目にとまりそうもない、ありふれた国産車だった。
運転しているのが男だということは、かろうじてわかったが、なにぶん夜道ということもあって、その顔をみさだめるのは不可能だった。
ふりむいてはいけないと思った。そう思うのだが、首筋のあたりがちりちりして、ついふりむいてみたくなる。おかげで、|しゃも《ヽヽヽ》がいばって行進しているような、しゃちほこばった歩き方になってしまった。
笑ってはいけない。
あなただって、だれかにあとをつけられていることを意識したら、白鳥が泳ぐようには、優雅に歩けないはずだ。|しゃも《ヽヽヽ》みたいになってしまうに決っている。
さて、なにぶん場合が場合なので、自己紹介はてっとりばやく済ませたいと思う。
ぼくの名は久藤衆一──二十六歳になったばかりで、ある大学の電子工学の教室に籍をおいている。一応は、社会工学が専門ということになっているが、じっさいにはエレクトロニクスをいじるのが好きで、この道にとびこんだようなものだ。実家は、栃木のほうでちょっとした料亭を経営していて、仕送りにはこと欠かない。もちろん独身で、もっかのところ恋人もいない。将来の進路はまだはっきりとは決めていないが、おそらく大学に残ることになるのではないかと思う。
まあ、こんなところだろう。
そうこうしているうちに、マンションのまえまできてしまった。ぼくはしばらくためらっていたが、やがて意を決して、へその下に力を入れ、ふりかえった。
やはり、そこに車がとまっていた。
街燈のあかりの下にとまっている車は、なんだか獲物をねらって、ジッとうずくまっている猛獣の姿を連想させた。
|こわかった《ヽヽヽヽヽ》。
そのときになって、はじめて気がついたのだが、そいつの目的は、ぼくの行き先をつきとめることにあるのではないようだった。学生の身分にすぎないぼくが、足を向ける先など、たかがしれているからだ。そうではなくて、そいつの目的は、ぼくをこわがらせることにあるのだ。
だとしたら、そいつの目的は充分に達せられたことになる。
だらしのない話だが、ぼくはおそろしくて、足がガクガクとふるえている始末なのだ。ぼくはゆっくりとあとずさって、クルリとうしろを向くと、そのままマンションのなかに駆けこんだ。
人には、向き不向きというものがある。
ぼくはアクション小説のヒーローというがらではないのだ。
三階の自分の部屋にとびこむと、まっすぐ窓に向かい、カーテンのあわせめから、下の道をのぞいてみた。ちょうど、車のエンジンがかかり、スタートしたところだった。車はしずかに走っていき、やがてぼくの視界から消えた。
まずは一安心というところか。
ぼくはホッと息をつき、その場にヘタヘタとすわりこんでしまった。くどいようだが、ぼくはアクション小説のヒーローというがらではなかった。
そのとき、電話が鳴った。
ぼくは、ギクッとしてとびあがったか、それとも身をすくませてしまったか──いやいや、とんでもない、ぼくはいとも気軽に腰を浮かし、電話台まで歩いていったのだ。
こわがることはなにもない。この時間には、決まって故郷《くに》のお袋から電話がかかってくることになっているからだ。
ははは、ぼくは押しも押されもせぬモラトリアム人間というわけだ。
ぼくは電話をとって、いう。
「はい」
『あ、わたしだけど……』
お袋のけたたましい声が受話器いっぱいに鳴りひびく。
『きのうの話のつづきなんだけどねえ……』
「だめだよ」
『だめって、おまえ、話もろくにきかないうちから』
「いま、研究室のほうが忙しいんだ。とても、そちらのほうに帰る時間なんてありゃしないよ」
もちろん、嘘だった。東京にいるほうが、自由で、居心地がいいから、故郷《くに》には帰りたくないだけの話だ。
『ほんの一日、二日でいいんだけどねえ』
「また、見合いの話だろう? 何度いったらわかるんだよ。ぼくは学生だよ。結婚なんかできるわけがないじゃないか」
『暮らしのほうはなんとでもなるよ……ねえ、べつにお見合いなんてかたっくるしく考えなくてもさあ。いい娘さんなんだから、会うだけでも会ってみたら』
「………」
ぼくはため息をついた──お袋の頭には、若い男がひとりでいると、ろくなことにならないという固定観念が染みついているようだ。若いころ、親父はそうとう派手に遊んだというから、おそらくそこから得た知識にちがいない。
子供たるもの、まったく迷惑な話というべきではあるまいか。
「とにかく、いま忙しいんだよ。帰ってこいっていったって、帰れないものは仕方ないじゃないか」
ぼくはそういうと、お袋の返事を待たずに、電話を切った。お袋のクドクドとつづくグチをきくのは願い下げにしたかったからだ。
そして、ぼくは考える。
結婚? それもわるくはない。そう、たしかにわるくはない……だが、このまますぐに結婚してしまうのは、なんとしても不満が残る。独身生活でやり残したことが、あまりにも多すぎるような気がするのだ。
具体的に、なにをしたいのか、ときかれると、ぼくにもすぐには答えられない。口ごもってしまう。なんといったらいいのか。いささか手垢のつきすぎた言葉で、口にするのも気恥ずかしいのだが、夢とロマンに満ちた冒険──そう、自然に胸がワクワクしてくるような冒険をしてみたいのだ。
タバコの吸い殼じゃあるまいし、漫然と街を歩いてみたところで、冒険≠ェ道に落ちているはずもないことは、よくわかっている。二十六歳にもなって、夢とロマン≠ネんて言葉を口にすること自体、恥ずかしく、子供っぽい行為だということもよくわかっている。ああ、|わかっている《ヽヽヽヽヽヽ》とも。──だが、それでもぼくは、冒険≠してみたいのだ。ぼくは幼稚園から大学院まで、親のいいなりに、ずっと優等生で通してきた。このまま、スンナリと家庭におちついてしまうのでは、あまりにもぼくという人間が、可哀想すぎるじゃないか。
そうじゃないか?
──ぼくはふとわれにかえり、自分自身に照れ笑いを浮かべながら、電話のまえからはなれた。
なにをしたいのかもわからないのに、冒険=A冒険≠ニりきんでいる自分の姿が、いかにもコッケイであることに気がついたからだ。
ぼくのマンションは、六畳と四畳半の二Kになっている。六畳を寝室兼居間につかい、四畳半を書斎兼|工作室《ヽヽヽ》につかっている。メカをいじるのが趣味のぼくは、いつでも身のまわりにいろんな機械がころがっていないと、どうにもおちつけない質《たち》なのだ。
ぼくは四畳半のまんなかに腰をすえ、ここ数日間、とりくんできたバンパー・ビーパー≠フ仕上げにかかった。
映画007で、ジェームズ・ボンドが宿敵ゴールド・フィンガーの車を追跡するのにつかって以来、すっかり知れわたることになったが、要するにミニ送信機のことだ。ピーという音をだし、自動車のバンパーに磁石でまたたくまにつけられることから、バンパー・ビーパー≠ニ命名されている。
映画の007は、なんだかごたいそうな装置をつかっていたが、現実にはラジオ受信機が一台あれば、その音をキャッチすることができ、目標車との距離、進行方向など、だいたいのところをわりだせる。ビープ音の有効距離は五、六キロ、蓄電池を使用し、優に四、五日の使用に耐える。
ちょっとした|おもちゃ《ヽヽヽヽ》というところだが、もちろんぼくはおもちゃにするつもりで、バンパー・ビーパー≠組み立てているわけではなかった。
|あの《ヽヽ》男、ぼくをつけているあの男の車に、隙をうかがって、このバンパー・ビーパー≠とりつけるつもりなのだ。居所がわかれば、自然にあいつの正体も知れる──たしかに、ぼくはアクション小説のヒーローというがらではないが、かといってまったくの犠牲者タイプというわけでもないのだ。
どうして、警察にとどけないのかと、ご不審に思われるむきもあるかもしれない。
警察にとどけでるのは、まずい。
警察にとどけでて、痛くもない腹──というか、痛い腹をさぐられるのは、非常にまずいのだ。それどころか、ぼくのあとをつけまわしているあいつ自身が、もしかしたら警察の人間かもしれないのである。
半年ほどまえ、ぼくはふたりの仲間といっしょに、現金輸送車を襲ったことがある。
だからといって、どうかぼくを凶悪な人間とは思わないでいただきたい。襲撃にあたって、ぼくたちはただのひとりも傷つけなかったし、だいたい襲撃そのものがある種のゲームのようなものだったのだ。
ぼくは、六本木にあるチェシャ・キャット≠ニいうバーの常連になっている。チェシャ・キャット≠フママは、ふしぎな趣味の持ち主で、客たちがたがいに本名をあかしたり、職業をうちあけたりするのを、きびしく禁じている。つまり、いったんチェシャ・キャット≠ノ足をふみいれた人間は、社会の軛《くびき》から解放され、無色透明な一個人と化すわけだ。
その店で、ぼくは兎《うの》さん、帽子屋さん≠ニ呼ばれるふたりの中年男と知りあい──ちなみに、ぼくのあだ名は眠りくん≠ナある──どういうわけか、三人のあいだで現金輸送車を襲う相談がまとまってしまったのだ。
金がほしかったわけではない。
断じて、ちがう。
なんといったらいいか、|犯罪というゲーム《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》にそなわっているスリル、ゾクゾクとするような快感に、ぼくたちはすっかり魅せられてしまったのだ。
犯罪は犯罪ではないか、と声高にとなえる御仁《ごじん》には、とりあえず頭をさげて、すみやかにおひきとりねがうほかはない。
彼ら、頭のかたい道学者たちには、しょせんぼくたちの理屈など通用するはずがないからだ。
ぼくが、警察を敬遠するわけをご理解いただけたろうか。警官ぐらい頭のかたい人種はいないし、しかもやっかいなことに、頭を下げたからといって、彼らはかならずしも退場してくれるとはかぎらないのだ。
ぼくはバンパー・ビーパー≠フ最後の仕上げにとりかかりながら、|あれ《ヽヽ》は冒険≠ニはいえないだろうか、と考えていた。
残念ながら、いえないようだ──たしかに、現金輸送車の襲撃にはスリルがあったし、それなりに心ときめかされる場面もあった。しかし、ぼくが冒険と呼ぶとき、そこにはなんらかの意味で正義が存在しなければならない。いくらぼくが詭弁《きべん》をろうするのが巧みであっても、現金輸送車を襲うのを正義の行為と論じるほどの、強心臓の持ちあわせはない。
照れずに、うちあけてしまおう。じつは、ぼくは月光仮面《ヽヽヽヽ》のような冒険を経験してみたいのだ。
背後から、ガサッという紙の落ちる音がきこえてきた。
ぼくはふりかえり、なんの気なしに立ちあがって、新聞受けから新聞をとりだし、──そして、その場に立ちすくんだ。
考えてみれば、夜の九時という時刻に、新聞が配達されるはずがないではないか。
しかも、それは今日の新聞ではなかった。
黄ばんで、なかばちぎれかかった、半年ほどまえの新聞なのだ。その第一面には、『現金輸送車、襲われる』というみだしが大きく印刷されていた。
なにか、固くて、大きな|かたまり《ヽヽヽヽ》が、胸の底からつきあげてくる感じだった。そのかたまりを呑みくだそうと、ぼくはあえぎ、あえいで、ついに耐えきれなくなって、ドアをサッとひらき、廊下にとびだした。
廊下には誰もいなかった。
ただ、ガランとしていて、螢光灯のあかりが青白くともっているだけだった。
ぼくは部屋にもどり、ドアをうしろ手にしめた。そして、自分がまだ新聞をつかんだままでいることに気がつき、あわててそいつを床にたたきつけた。
バシッ、というような音がして、新聞は床に散乱した。
現金輸送車《ヽヽヽヽヽ》、|襲われる《ヽヽヽヽ》──
いやでも、みだしのその大文字が眼のなかにとびこんでくる。
疑いようもなく、それがぼくたちの仕業だということを、だれか知っている者がいるのだ。そして、そいつは人差し指をつきつけて、自分はすべて知っている、とぼくに大声で伝えようとしているのである。
もう、だめだ。
これ以上、ぼくは一人でいることに耐えられそうにない。
こんなとき、ぼくに行くべき場所があるとしたら、それはチェシャ・キャット≠おいて、ほかにはなかった。
チェシャ・キャット≠ヘオーダー・メイドの服のように、ぼくの寸法《ヽヽ》にピッタリとあっている。うすぐらく、しずかな店内、顔なじみの客、ママのほほ笑み……それらが渾然一体となって、居心地のいい雰囲気をかもしだし、古巣に帰ってきたような安心感をもたらしてくれるのだ。
だが、今夜にかぎって、チェシャ・キャット≠ヘあまり居心地のいい店とはいえないようだった。
ひとつには、カウンターのなかにママの姿がみえず、アリスちゃんという名で呼ばれている手伝いの女の子しかいないことが、チェシャ・キャット≠フ雰囲気をいつもとちがうものにしている原因になっていた。
そのうえ、まずいことには、今夜のチェシャ・キャット≠ノは、常連の兎《うの》さん、帽子屋さん≠ノ加えて、もうひとり、まったくみしらぬ客が入っているのだった。
「いらっしゃい……」
ぼくが店に入っていくと、アリスちゃんはそう声をかけてきたが、その顔はこわばっていて、声にもなんとなく怯えたようなひびきが感じられた。
兎《うの》さんと帽子屋さん≠フ様子もどことなくいつもとちがっているように思われた。
兎《うの》さんはいかにも誠実そうな、小肥りの、中年男──
帽子屋さん≠ヘコウモリ傘みたいにやせていて、虚無的なかげをただよわせている三十男──
それぞれ、持ち味はことなっているが、このチェシャ・キャット≠ノいるときは、しんからリラックスし、くつろいでいることでは、ふたりとも共通していた。
それがいま、ぼくに向けられた彼らの視線は緊張し、わずかにではあるが、怯えに似た色も浮かんでいるようだった。
「ようやく、三人そろったな……」
意外なことに、そう声をあげたのは、もうひとりの、ぼくのまったく知らない男だったのだ。
かたぎではない。それは、はっきりしている。年齢はおそらく四十に達しているだろうが、背広に包まれているその筋肉は、青年のものだった。粘土のかたまりを小刀でめった切りにしたような、ゴツゴツとした顔をしていて、じっさいに傷のあとがあかく、ひたいからあごにかけて走っていた。
一生をかけて、他人を脅し、ドスをきかせることを鍛練してきた男の顔だ。夜道でバッタリであったら、とりあえず逃げだしたほうがいい、そんなたぐいの男だった。
「それじゃ、三人とも俺といっしょに来てもらおうか」
男はそういうと、カウンターからはなれ、ゆっくりとドアに向かった。ぼくたちがついていくかどうか、ふりかえって、たしかめようともしない。たいした自信家だ。
兎《うの》さん、帽子屋さん≠フふたりは顔をみあわせ、ウンザリしたようにため息をもらして、それぞれ腰をあげた。
帽子屋さん≠ェ、いっしょに来い、とぼくに眼で合図した。
「なにがあったんですか」
ぼくはささやき声で、きいた。「あの男はいったい何者なんですか」
「きみも同じだろうが、わたしも帽子屋さん≠焉Aだれかにさんざんつけまわされて、いいかげん怯えてしまってね……」
兎《うの》さんがなんだか眼をショボショボさせながら、小声でこたえた。「つまり、あの男は例の現金輸送車事件≠フことをよく知っているらしいんだ……」
事情はよくわからないものの、なんとなく不穏な空気を感じとっていたらしい。ぼくたち三人が店をでていくとき、気をつけて、とアリスちゃんがちいさな声でいってくれた。
──男は、ぼくたち三人を、チェシャ・キャット≠フほど近くにあるビルの地下駐車場までひっぱっていった。
だだっぴろい地下駐車場には、車が、ただ車だけがズラリとならんでいた。
ぼくは車のまえを通りすぎたあと、それらの車がたがいに目線をかわしあい、ささやきあっているのではないか、という奇妙な錯覚にとらわれた。
精神状態がかなり不安定になっている証拠だ。
みおぼえのある車があった。ぼくのあとをつけまわしていたあの車だ。
車のまえに、ふたりの男が立っていた。
ひとりは、プロレスラーもどきのガッシリとした男で、眼のあいだがひらいた、いかにも魯鈍《ろどん》そうな、偏平な顔をしている。もうひとりは髪の毛をのばし、こすっからく、酷薄な眼をした、ホッソリとした体つきの若者だった。
四十代、三十代、二十代……と、年齢も顔つきもちがっていたが、彼らが兄弟であることは、ひと眼でみてとれた。彼ら三人には、共通して、ある独特の雰囲気がそなわっているからだ。
なんといったらいいのか、そう、あなたの身近にいる、もっとも凶悪そうな顔をした人物を思い浮かべていただきたい──もし適当な人物を思いつかない場合には、銭湯にはられている凶悪犯の写真でもいい──その人物を十倍にも、二十倍にも、凶悪にし、獰猛《どうもう》にすれば、この三人兄弟の印象にかなり近くなるのではないかと思われる。要するに、眼にするのもおぞましい凶悪ファミリーというわけだ。
ぼくは頭のなかで、凶悪ファミリーの長男に傷男=A次男に蟹男《かにおとこ》=A三男に優男《やさおとこ》≠ニ、それぞれ名前を与えていた。
「これが三人組のギャングさまだ……」
先頭にたって歩いていた傷男≠ェ、足をとめ、クルリとふりかえると、ぼくたちを片手で示した。あきらかに、嘲笑をふくんだ声だった。
「なんでえ……」
蟹男≠ェよごれた乱杭歯《らんぐいば》をむきだして、笑った。「現金輸送車を襲ったというから、どんなやつらかと思ったら、ただの|しろうと《ヽヽヽヽ》じゃねえか。度胸もたいしてなさそうだしよ……」
蟹男≠フあからさまな侮辱にたいしても、怒る気になれなかった。ぼくたち三人は、彼らの尾行戦術にすっかりおびえ、雨にぬれた小犬さながら、チェシャ・キャット≠ノ身を寄せあったところを、まんまと待ち伏せをくらってしまったのだ。度胸がないとあざけられても、やむをえなかったろう。
「いったい俺たちになんの用だ」
帽子屋さん≠ェボソボソとした声で、きいた。「金でもほしいというのか」
「おまえたちみてえな小物からか? 冗談じゃあねえ。おまえたちから金をくすねるよりは、八十の婆さんから年金をひったくったほうが、まだ|まし《ヽヽ》な稼ぎができるというものだぜ」
傷男≠ヘそういうと、優男≠ノ向かってあごをしゃくった。
優男≠ヘうなずくと、自動車の窓から手をさし入れ、カー・ラジオのスイッチをひねった。
ちょうどニュースの時間だったらしく、アナウンサーの無機的な声がきこえてきた。
『……代議士、西条唯史さんの五つになるお孫さん、等ちゃんはいまだに発見されていない模様です。等ちゃんは、四日まえ、七日の午後、お母さんの直子さんがちょっと眼をはなしたすきに、姿がみえなくなり、その行方がわからなくなりました。警察当局は、誘拐の可能性もあるとみて、報道機関にたいしてこれまで発表をひかえてきましたが、その後、なんの連絡もなかったことから、このたび公開捜査にふみきったもので……』
優男≠ェカー・ラジオのスイッチを切った。
しんとした静寂が、しばらく駐車場にみなぎっていた。
「そのニュースがなにかわたしたちに関係あるとでもいうのかね?」
兎《うの》さんがなにか喉にからんでいるような声で、きいた。
「関係は大ありだよ」
優男≠ヘ奇妙にかんだかい、女性的な声でいった。
「その子供を誘拐したのは俺たちだし、西条唯史に電話をかけたり、金をうけとったりするのは、おまえたちの役目なんだから……」
──なにが驚いたといって、ぼくは生れてこのかた、こんなにも驚いたことはない。
誰がなんといおうと、現金輸送車を襲ったのは、たんなるゲームでしかない。しかし誘拐となると──これは犯罪だ。弁解の余地のない、立派な犯罪なのだ。
ぼくの趣味にあわない。
今度こそ、凍りつくような静寂が、ぼくたちのうえに重くのしかかってきた。兎《うの》さんも、帽子屋さん≠焉Aとっさにはかえす言葉をうしなったようだ。
虚《うつ》ろで、そのくせ奇妙に冴えわたった感じのぼくの頭のなかで、優男≠フ言葉だけがくりかえしこだましていた──西条唯史に電話をかけたり、金をうけとったりするのは、おまえたちの役目なんだから……|おまえたちの役目なんだから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……
冗談じゃない!
「なにをバカなことをいってるんだ……」
兎《うの》さんがかすれた声でいった。「わたしたちが、そんなことをすると、本気で考えているのか。わたしたちは、誘拐犯の仲間になんか、絶対にならないぞ……」
「仲間になれとはたのんじゃいねえさ」
傷男≠ェめんどくさげにそういうと、優男≠ノ向かって、あごをしゃくった。「説明してやりな」
「誘拐でいちばんやばいのは、親と連絡をとったり、金を受けとったりすることだ」
優男≠ヘポケットからヤスリをとりだすと、気どった手つきで、ツメをみがきはじめた。ときおり、ツメを明かりの下にかざして、どうもうまくいかない、というように、唇をつきだしてみせる。
「ガキをさらうのはむつかしくない。まあ、誘拐犯がしくじるのは、だいたいが金をうけとるときだな。現場にゃ、かならずといっていいぐらい、サツがはりこんでいやがるからな……俺たちは気がちいせえんでな。そんなやばい橋をわたる気にゃなれねえ。そこで、俺たちの替わりに、おまえたちが親との連絡、金の受けとり、すべてをとりしきるんだ……もちろん、金はそっくり俺たちがいただく。要求する額は一億、まあ、西条唯史は大物だからな。そのぐらいの金は、なんとでも都合がつくだろうよ……なあ、現金輸送車をおそう手口は、なかなかみごとだったじゃねえか、おまえたちなら、サツにパクられずに、金をちょうだいする方法を、なんか思いつくんじゃねえか」
|シュッ《ヽヽヽ》、|シュッ《ヽヽヽ》、|シュッ《ヽヽヽ》……優男≠フツメをみがく音が、奇妙にこちらの耳に大きくきこえてくる。なんだか、ドリルで歯をけずられているような、ひどく神経にさわる音だった。
「よく、わからんな……」
帽子屋さん≠ェ低い声で、きいた。「|どうして《ヽヽヽヽ》、俺たちがそんなことをする必要があるんだ?」
「だから、おまえたちが現金輸送車をおそったからだよ」
「………」
「おまえたちが俺たちのいうことをきかないときには、そのことをサツにたれこむという寸法さ……」
優男≠ェツメを明かりの下にかざす。そして、満足そうにうなずき、フッとツメを吹く。「なあ、おまえたちは、みんなかたぎなんだろう。警察につかまるようなことになったら、さぞかし家族は悲しむだろうな」
「もし、わたしたちが警察につかまるようなことになったら、当然、あんたたちのことも誘拐犯としてうったえることになるよ」
兎《うの》さんがなんだか自信なさげに、いった。
「バカだな……」
蟹男≠ェ身をくねらせ、クスクスと笑いながら、いった。「なあ、兄き、こいつらほんとうにバカだな」
「おめえは、だまってろ」
これが傷男≠フ返事だった。
「俺たちのことをサツにたれこむ? どうやって」
優男≠ェもう一方のツメをみがきはじめながら、いう。|シュッ《ヽヽヽ》、|シュッ《ヽヽヽ》、|シュッ《ヽヽヽ》……またしても、あの音がぼくをいらだたせる。
「俺たちの名前は知ってるのか。どこに住んでいるのか、知ってるのか……おめえたちはなんにも知らねえ。だから、おめえたちに俺たちのことは密告できねえ」
そこで、優男≠ヘツメをみがく手をやすめて、ニヤリと笑いながら、いった。「だけど、俺たちはおまえたちのことを|みんな知ってる《ヽヽヽヽヽヽヽ》」
|シュッ《ヽヽヽ》、|シュッ《ヽヽヽ》、|シュッ《ヽヽヽ》……その音がぼくの頭のなかに切りこんでくるようだ。眼のまえに、しだいに赤くカスミがかかってくる。喉がかわく。どうにも、我慢がならない。
ほとんど自暴自棄にも似た衝動にかられ、ぼくは大声をはりあげ、優男≠ノつかみかかろうとし──そして、その足をとめた。
喉に、ヒンヤリと冷たい感触があたった。かたく、するどい、鋼《ハガネ》の感触。ぼくはその場に立ちつくしたまま、指一本動かすことができなくなってしまった。
優男≠ェぼくの喉に、ヤスリをつきつけているのだ。
「うしろへさがっていな」
優男≠ェへんにやさしい、ネコなで声でいった。「こちらが呼ぶまで、来るにはおよばないぜ」
わきの下を流れる汗が凍ったようになっていた。自分でも、まぶたがピクピクとひきつっているのがわかった──ぼくは優男≠ノ命じられるままに、一歩、また一歩と、あとずさっていった。喉から、鋼《ハガネ》の感触が消えたときには、安堵のあまり、思わず泣き声がもれそうになった。
「それでいい、いい子だ、坊や──」
優男≠ヘうなずくと、ふたたびヤスリに視線をもどし、ツメをみがきはじめた。
「どんな方法をつかってもいい。とにかく、一億円を西条からまきあげて、俺たちにわたせばいいんだ」
優男≠ェなにごともなかったかのような口調で、そういった。
「だがな。俺たちとの連絡場所は、こちらで決めさせてもらうぜ。西条に連絡するときにも、そこの電話をつかってもらうし、そのときには俺たちも同席させてもらう。俺たちがみていないと、おまえたちがほんとうに西条に金を要求するかどうか、わかったもんじゃないからな……神保町にK─というビルがある。駅の近くだから、すぐにわかるはずだ。そのビルの三階に、山川不動産の名義で、ちいさなオフィスを借りておいた。明日の午後はやく、そこへ来てもらおうか……念のために断わっておくが、もちろん山川不動産なんて会社は、でたらめに考えたものだぜ」
傷男≠ヘそれだけをいうと、弟たちに向かって、あごをしゃくった。蟹男≠ヘ車の運転席に、優男≠ヘ後部座席に、それぞれ乗りこんだ。
自分も車に乗りこもうとする傷男≠ノ、あわてて兎《うの》さんが声をかけた。
「子供は無事なんだろうな」
「ああ、無事だよ。|まだ《ヽヽ》な……」
傷男≠ヘふりかえり、そういった。「だけどな。子供がいつまで無事でいられるかは、おめえたちしだいだ」
傷男≠フ姿が車のなかに消えた。
バタン、とドアのしまる音がきこえるのとほとんど同時に、ガラスをツメでひっかくような音を残し、車は地下駐車場から走り去っていった。
あとには、ただ呆然と立ちすくんでいるばかりの、ぼくたち三人が残された。
とんでもない奴らだ。
|許せない《ヽヽヽヽ》。
奴らはぼくたち三人をとてつもない窮状におとしいれたばかりか、車の排気ガスまでさんざん吸い込ませて、いったのだ。
──ぼくたち三人が現金輸送車襲撃事件≠フ犯人にちがいないと、どこから当たりをつけたのかはわからないが、彼ら凶悪ファミリーはよほど以前から、こんどの計画を練っていたものと思われる。それだけに、さすがに彼らの先制攻撃はすばやく、こちらに与えたダメージもすくなくはなかった。
だが、だからといって、かならずしもぼくたちは完全にノック・アウトされたというわけではなかった。
たしかに、凶悪ファミリーは暴力と犯罪のプロであって、彼らのペースにまきこまれれば、アマチュアのぼくたちには、まず勝ちめはない。しかし、アマチュアにはアマチュアなりの強みというものがあって、戦法さえ誤らなければ、万にひとつ、|こちら《ヽヽヽ》に勝ちめがないともかぎらないのだった。
凶悪ファミリーも三人、ぼくたちも三人、すくなくとも数のうえからいえば、このゲームは互角ということになるではないか。
たとえば──ぼくが熱心につくっていたバンパー・ビーパー≠フことをご記憶だろうか。凶悪ファミリーの車が走り去るさい、そのバンパー・ビーパー≠、ぼくがバンパーめがけて投げつけたとしたら、どうだろうか。ゲームは一転して、こちらにかなり有利にかたむくではないだろうか?
ぼくは、|そうした《ヽヽヽヽ》のだ。
いつ必要になるかもしれないと思って、ぼくがバンパー・ビーパー≠持ち歩いていたことが、この場合にはさいわいした。そして、兎《うの》さんがチェシャ・キャット≠ノ来るのに、車をつかったということが、もうひとつの幸運だった。
ぼくたちはすぐにチェシャ・キャット≠ノとってかえして、凶悪ファミリーの車を追跡しはじめた。
いま、追われていた者が、追う者にと立場を逆転したのだ。
──凶悪ファミリーの車は川崎方面に向かっていた。
ラジオ受信機からきこえてくるビープ音は、相手の車が国道をそれ、田園地帯に向かっていることをしめしていた。なにしろ、ロード・マップと|くびっぴき《ヽヽヽヽヽ》だから、こちらもこれでなかなかたいへんなのだ。
最初のうちは、車を走らせるのにちょっともたついたこともあって、ビープ音をとらえるのに苦労した。しかし、車の流れがスムーズになってからは、比較的、ビープ音の強弱をバラつきなく、とらえることができるようになった。
凶悪ファミリーの車とは、およそ四キロぐらいの距離をへだてて、走っているはずだった。
周囲に人家がすくなくなり、畑地がめだつようになったあたりから、ビープ音がしだいに大きくなりはじめた。
凶悪ファミリーの車がとまったのだ。
兎《うの》さんは車の速度をおとし、前方をうかがうようにして、運転をつづけていた。
そして、ついに路肩に寄せて駐車されている、凶悪ファミリーの車を発見したのだ。
ほとんど山のなかといえるほどのさみしい場所に、四階建ての、敷地だけがやけに広い、ズングリしたビルが建っていた。そのビルのまわりをかこんでいるブロック塀の下に、凶悪ファミリーの車がとめられていた。
兎《うの》さんは、そのビルからかなりはなれたところまで車を走らせ、そこでようやく停車した。
車の窓から吹きこむ風のにおいが、都会のそれとはちがっていた。
人家の明かりはまったくみえず、暗闇に虫の声だけがうるさかった。
「兎《うの》さん、あんたには子供がいる……ここは、俺と眠りくん≠ノまかせて、あんたは車のなかで待っててくれないか」
帽子屋さん≠ェいった。「あいつらはおそろしく危険な連中だ。もし一時間して、俺たちがもどってこなければ、そのまま逃げちまってくれ」
ふたりのあいだに、ちょっとしたやりとりがあったが、けっきょく兎《うの》さんが折れることになった。帽子屋さん≠ェいうとおり、三人が三人ともに危険をおかす必要はまったくないからだ。
帽子屋さん≠ニぼくのふたりは、車をでて、闇のなかを、ビルに向かって急いだ。
まえにもいったと思うが、チェシャ・キャット≠フ常連は、名前、経歴、住所をたがいにうちあけあうことを、経営者から禁じられている。したがって、ぼくは兎《うの》さん、帽子屋さん≠フ名前も、職業も知らないままでいる──ただ、帽子屋さん≠ノかんしていえば、ふつうのサラリーマンであるはずがないことは明らかだった。今回みたいな場合にみせる帽子屋さん≠フ敏捷な動き、適確な判断力は、だんじてふつうのサラリーマンのものではありえないからだ。
こんなところにビルが建っているのはおかしいと思ったが、どうやらオフィスと倉庫をいっしょにした建物らしい。しかも、廃ビルだ。窓ガラスはことごとく割れ、コンクリートの壁面にはひびが入り、敷地には夏草が生い茂っているという荒れようだった。
塀といわず、壁といわず、いたるところにビラがはられ、それが雨のためか、なかば剥《は》がれかかっていた。ストライキ断固貫徹=A経営者は団交に応じろ≠ネどの勇ましい言葉が、かえってこの建物のみじめな状態をきわだたせていた。
要するに、この建物を所有する会社は倒産したのだろう。建物も抵当に入っていて、とりあげられることになったが、なにぶん不便な場所ということもあって、そのまま放ったらかしにされている──まず、そんなところではなかろうか。
どうやら、電気はまだ通じているらしい。割れた窓ガラスから明かりがもれているところが、いくつかあって、おかげでこちらは動きやすいが、それだけに発見されやすいという恐れもあるにはあった。
帽子屋さん≠ニぼくは、物陰から物陰へと、なかば這うようにして、移動をつづけていた。
凶悪ファミリーがこの建物のどこかにいることはまちがいなかった。ということは、彼らが誘拐した子供も、この同じ建物のなかに監禁されているはずだった──ぼくたちは子供をみつけだし、できれば逃がしてやりたいと考えていた。子供がいなくなれば、いくら凶悪ファミリーだって、身のしろ金をあきらめざるを得ないだろうし、そうなれば、ぼくたちも誘拐の片棒をかつがなくても済む道理だからだ。
ぼくと帽子屋さん≠ヘ別行動をとることにした。
ふたりいっしょにいても、めだつばかりだったし、凶悪ファミリー≠ノみつかるようなことになれば、ひとりだろうが、ふたりだろうが、どうせぼくたちに勝ちめはない。
帽子屋さん≠ヘ四階から、ぼくは地下から、それぞれ子供の居所をさがすことに決めた。
「気をつけてな……」
別れていくときに帽子屋さん≠フいったそのありふれた言葉が、このときほどズッシリと重く胸にひびいたことはなかった。
建物のなかは、荒れていると形容するのもおろかしいほど、荒廃しきっていた。廊下の両端に、コンクリートのかたまりがうずたかく積みあげられ、いたるところに紙屑が散乱していた。トイレの異臭がツンと鼻をつくのは、おそらく水道がとめられているからにちがいなかった。
なまじ、明かりがこうこうと点《とも》っているだけに、なおさらその荒廃ぶりが眼につくようだった。
階段をおりていくとき、ふと気がついて、靴を脱ぎ、靴ヒモをむすびあわせて、首にかけた。コンクリートの破片で足を切るおそれはあったが、凶悪ファミリーに靴音をききつけられる危険を考えれば、靴下で歩いたほうがよほど安全というものだった。
そして、階段をおりていく。
途中から胸の動悸が激しくなり、どうにも収まらなくなった。
地下から人の声が、それもたしかに優男≠フ声が、ボソボソときこえてくるのだ。
喉にヤスリの尖端をつきつけられたときの感触が、まざまざとよみがえってくる。
苦手だ。
できれば、あの優男≠ノだけは、もう二度とはお眼にかかりたくない心境だった。
悲鳴──そして、これは優男≠ホかりでなく、傷男≠フ笑い声も、その悲鳴にかさなってきこえてくる。
悲鳴と笑い声が、地下室にこだまして、わんわんと鳴りひびいている。
ぼくは反射的に眼をつぶっていた。足が縮む。膝から下が萎《な》えてしまったように、ガクガクとふるえた──しばらくしてから、ぼくは眼をあけ、息をととのえて、ふたたび階段をおりはじめた。
そして、踊り場の角に身をひそめ、そこから首だけをだして、ソッと地下室の様子をうかがった。
地下室は裸電球がひとつ点されているだけで、うす暗かった。
「助けてください」
まず、そんなさけび声がぼくの耳にとびこんできた。さけび声をあげたのは、地面にうずくまっている、貧相な中年男だった。中年男はほとんど錯乱状態におちいっているようで、助けてくれ、待ってくれ、とさけびながら、オイオイ泣いていた。
「泣けよ、おっさん、もっと泣けよ」
優男≠フ笑い声がきこえてきた。
この地下室はさほど広くはなく、幅の狭い細長い造りになっていた。そのために、ぼくの位置からでは、傷男≠ニ優男≠フ姿はちょうど死角に入っていて、その声がきこえてくるだけだった。
ぼくは全身を耳にして、この場の情況をつかみとろうとした。傷男≠ニ優男≠フふたりは笑ってばかりいるし、中年男は泣いているしで、なかなか話のすじをのみこめなかったが、要するにこういうことらしい──凶悪ファミリーは、どうやら闇の金融業をいとなんでいるようなのだ。そして、おろかにも、というか、不幸にもというべきか、中小企業の経営者であるその中年男は、凶悪ファミリーから運転資金を借りたのである。
よほど資金ぐりにこまったあげくのことなのだろうが、凶悪ファミリーから金を借りるなど無謀もいいところだ。骨の髄まで絞りとられることになるのは、眼にみえているではないか。案の定、その中年男も非道な高利にさんざん苦しめられ、いま家から、土地から、工場からすべてをとりあげられようとしているのだった。
それで、納得がいった。おそらく、この建物も、同じような手口をつかい、凶悪ファミリーがどこからか奪いとったものにちがいなかった。
「よし、わかった。どうしても書類に判を押さないというんだな……」
優男≠フ声に、ややいらだったひびきがふくまれた。「それじゃ、判を押すな。絶対に押すんじゃねえぞ……」
一瞬、沈黙があった。
なんだか背筋に冷たいものが這いあがってくるような、凍った、奇妙に緊張を感じさせる沈黙だった。
そして、モーターの回転音がきこえてきた。爆発がたてつづけに起こっているような、すさまじい轟音だった。その轟音はこもり、反響し、地下室そのものをふるわせ、わんわんと唸り声をあげさせていた。
|グルーン《ヽヽヽヽ》、|グルーン《ヽヽヽヽ》、|グルーン《ヽヽヽヽ》……なにかとてつもなく巨大なものが、中年男に迫りつつあるようだった。中年男は悲鳴をあげ、地を這って、懸命に逃げようとしているのだが──もがけばもがくほど、コンクリート屑の山がくずれてきて、動きがとれなくなっていくのだ。
ついに、|そいつ《ヽヽヽ》がぼくの視界に入ってきた。あまりのおどろきに、ぼくもあやうく声をあげるところだった。
それは──トンネル掘削機だったのだ。
トンネル掘削機がどんなものかご存知だろうか。まず機関車を想像していただければ、だいたいの形はつかめるのではないかと思う。ただトンネル掘削機と機関車の大きく異なる点は、トンネル掘削機はジャッキで固定されていて、前後のピストン運動しかできないことと、その前部に四つの巨大なカッターがついていることだった。
このカッターが、すごい。カッターは高速回転し、そのするどい刃が土を削り、岩石を噛みくだく。そして、砕かれた岩石は、脇にとりつけられているスクレーバーによって、後方に運ばれていく。
どうせこのトンネル掘削機もどこかの土木会社からでも借金のかたに奪ってきたものなのだろうが、どうやら凶悪ファミリーはこれでトンネルを掘るよりも、もっぱら人を脅す方面につかっているらしい。
たしかに、これほど効果的な拷問の手段もちょっとほかにはないかもしれない。巨大なカッターは人間の体など容易に切り裂いてしまう。どんな豪胆な人間も、トンネル掘削機が迫ってくるのをみれば、泣き叫ばずにはいられないにちがいないのだ。
中年男は完全な発狂状態におちいっていた。コンクリートの壁を拳で連打し、悲鳴をあげつづける。そして、ついに逃げられないと観念したのか、頭をかかえこみ、尻をもちあげた格好で地にうずくまってしまう。すすり泣いていた。
グルーン……トンネル掘削機は、中年男にあと数メートルという地点で、エンジンをとめた。しばらくはカッターの回転がつづいているが、それもやがてとまってしまう。
いまはもう、中年男のすすり泣く声がきこえているだけだ。
「なあ、わかったろう」
運転席からおりてきた優男≠ェ、あのネコなで声でいった。「俺たちのいうことをきいて、おとなしく判を押したほうが、身のためというものだぜ」
「弟のいうとおりだ」
傷男≠ェうずくまっている中年男の肩に手をかけて、いった。「それから、ひとつだけ断わっておくが、このことをサツにうったえようなんて、おかしな気は起こさんように……こんどはほんとうに死ぬことになるからな」
「………」
中年男は傷男≠みあげ、ガクガクとうなずいた。その眼は虚ろにみひらかれ、唇からはヨダレがたれていた。彼が残りの一生を廃人として送らなければならないのは、明らかだった。
ぼくはそれ以上、その場にいることに耐えられなくなって、ソッと階段をのぼりはじめた。
全身が|おこり《ヽヽヽ》にかかったようにふるえ、腹の底が冷たくなっていた。
恐怖と、それに数倍する怒りのためだった。
奴らは鬼畜だ。それ以外の、なにものでもない。なんで、あんな奴らが人間であるものか……
ぼくは生れてこのかた、こんなにも人を憎いと思ったことはただの一度としてなかった。
奴らをこの世から抹殺することこそ、正義《ヽヽ》にほかならない。
しかし、奴らに現金輸送車襲撃事件≠フ尻っ尾をにぎられている以上、その悪事を警察にとどけでることができないのは、わかっていた。そして、ぼくにしろ、兎《うの》さんにしろ、帽子屋さん≠ノしろ、絶対に人殺しができるような人間でないことも──また、わかっていたのだ。
──ぼくたちは、とうとう子供を救出することができなかった。
子供がどこに監禁されているのか、およその見当はついているのだ。
帽子屋さん≠フ話によれば、三階にオフィスのような部屋があり、そのドアのまえに蟹男≠ェ立っているという。子供がその部屋に監禁されていることは、まずまちがいないだろうが、なにぶん廊下は見晴らしがよく、蟹男≠フ眼を盗んで、そこに忍びこむのはむつかしいということだった。
「警察にうったえてしまおうか……」
ぼくたちの口から、何度もその言葉がでた。
しかし、凶悪ファミリーが逮捕されるということは、同時にぼくたち三人が現金輸送車襲撃事件≠フ犯人として、逮捕されることをも意味している。
五つの子供がひどいめにあっていることを思えば、自分の身がかわいいと考えているぼくたち三人は、卑怯者とそしられても、抗弁のしようがなかったかもしれない。
だが、ぼくたちは逮捕されたくはなかった。
ぼくたちには、家族がある。自分の生活がある──なにより、あんな凶悪ファミリーなんかと心中するのはぼくたちの自尊心が許さない。|まっぴら《ヽヽヽヽ》だった。
その夜、ぼくたち三人は、神田のとあるビジネス・ホテルに投宿し、このトラブルを打開する策を検討することにした。
「女房に電話しなけりゃ……酔っぱらって、車を運転することができなくなったから、とでもいうかな。また、怒られることになりそうだな……」
兎《うの》さんは照れたようにそういい、それから急に厳粛な表情になって、首をふりながら、フロントに電話をかけにいった。外泊するから、奥さんに電話する──そんな家庭生活がいままさに破壊されようとしていることに気づいたからにちがいない。
ぼくたちは夜を徹して話しあい、次の三点をさだめた。
誘拐には絶対に手をかさない。
警察には逮捕されない。
凶悪ファミリーを|やっつける《ヽヽヽヽヽ》。
一読なさって、すぐにお気づきになると思うが、この決定事項には相互に矛盾がある。誘拐に協力しなければ、警察に逮捕される。逮捕されたくなかったら、凶悪ファミリーのいうことをきいて、誘拐に協力するしかないのである──それにもうひとつ、凶悪ファミリーをやっつけると口でいうのはかんたんだが、具体的にはどうしたらいいのか。もちろん、ぼくたちには人殺しはできない。かといって、奴らを警察にうったえれば、自動的にぼくたちも逮捕されることになる。|どうしたらいいのか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……
だが、どんなに困難であろうと、この三つの決定事項をつらぬかないかぎり、ぼくたちの身の安全もまた、保証されないのだった。
ぼくたちは考えた。
それこそ、脳髄の最後の一滴までも絞りつくすようにして、考えた。
そして、夜が明けはじめるころ、ようやくひとつの作戦《ヽヽ》が、ぼくたちのあいだでかたまりつつあった。
それは、成功の可能性にとぼしい──というか、成功するのがふしぎなような作戦だった。
しかし、どんなに成功しそうにない作戦にみえても、それだけが子供を救い、そしてぼくたち自身をも救う唯一の方法であるように思えた。
やりぬくしかないのだ。
「とりこゲームというのを知っているかね」
兎《うの》さんが疲れたような微笑を浮かべながら、いった。
「チームとチームのゲームで、最初のチームが、ひとりをまんなかのプリズナー・エリア≠ノ送り込む。すると、もう一方のチームが、そのひとりをつかまえるために、やはりひとりをプリズナー・エリア≠ノ送り込む。そしたら、最初のチームが、相手側から送り込まれてきたひとりをつかまえるために、新たなひとりを送り込む……こうして、どちらかのチーム全員が|とりこ《ヽヽヽ》になるまで、ゲームはつづけられる……|わたしたちのゲーム《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》も同じだ。わたしたちが全員やられるか、凶悪ファミリーを全員やっつけるかするまでゲームは終わらない……死に物狂いのゲームになるよ。これは」
──翌朝、ぼくは研究室の同僚に電話をかけて、ある機械をかしてくれるように、交渉した。
朝の十時ごろ、自分の部屋にかえって、すこし眠った。
ほんの二、三時間程度の仮眠だったが、それでもとぎれとぎれに、いろんな夢をみたようだ。
夢のなかで、いつでも優男≠ェヤスリをかまえて、せせら笑っていた。トンネル掘削機に追いかけられたような気もする。
眼をさましたときには、口のなかがねばっこく、寝汗をビッショリかいていた。
頭の芯にうずくような痛みがあった。
その痛む頭で、もしかしたら夢がほんとうになるかもしれない、などと考えていたら、なおさら頭痛がひどくなった。
一日のはじまりとしては、最悪の状態というべきだった。
ぼくはタクシーで、友達のアパートまでいき、頼んでおいた機械を借り受けた。
友達は退屈しているようだったが、雑談の相手をしている暇はなかった。またあらためて礼はするから、といって、友達のアパートを出た。
ちょうど昼食の時間だったが、食欲はなかった。
ぼくはちょっと考えてから、タクシーをとめ、田園調布まで行ってくれと運転手にいった。
田園調布には、西条唯史の屋敷があった。
西条唯史の屋敷のまわりには、大型の高級車が何台も駐まっていた。おそらく、保守党の大物の孫が誘拐されたというので、各方面からいろんな人間が駆けつけてきたにちがいない。
新聞記者の姿もめだった。それ以上に、警官の姿がめだった。
そらおそろしくなるぐらい、緊張した空気が、ピィーンとはりつめているのが感じられた。
政治家の孫が誘拐されたのだ。警察は面子《メンツ》にかけても、犯人を逮捕しようとするにちがいない。テレビのニュースによれば、過激派のテロ行為という線も考えられているそうだから、なおさらその捜査も大がかりなものになる理屈だった。
西条唯史の屋敷を目《ま》のあたりにして、ひとつだけはっきりしたことがある。
身のしろ金を受けとるために、誘拐犯が事件の表面に姿をみせれば、彼は絶対《ヽヽ》に逃げられないだろうということだ。
世界でもっとも優秀と称される日本警察が、全力をふりしぼって、この事件にとりくんでいるのだ。それこそ、どんなささいな手がかりからでも、確実に犯人を追いつめるにちがいない。
気分がわるくなった。
それなのに、凶悪ファミリーはぼくたちに身のしろ金をなんとしてでも手に入れろ、と命じているのだ。
ひどい話だ。
──指定された神保町のK─ビルに着いたときには、もう午後もだいぶ回っていた。
山川不動産≠フ看板のかかっているオフィスに足をふみ入れたとたん、ぼくはしばらく忘れていた頭痛が、またぶりかえすのをおぼえた。
そこには兎《うの》さんと、帽子屋さん=Aそれから──ああ、それから、あの優男≠ェいたのだ。
「遅かったじゃねえか」
優男≠ェからかうようにいった。「おそろしくなって、お母ちゃんのところへ逃げ帰ったんじゃないかと思ったぜ……」
「………」
ぼくは立ちすくんだまま、なにもいうことができなかった。この男とぼくとは、よほど前世の因縁がわるかったにちがいない。この男のまえにでると、ぼくは怖いのと、憎いのとで、一言も口をきくことができなくなってしまうのだ。
「さてと、全員そろったところで、いっておきたいことがある……」
優男≠ヘ役者のように両手をひろげ、グルリとぼくたちをみまわした。「きのう、速達で、ガキの靴下を西条のところに送っておいた。お袋がみれば、それが自分の子供のものだとわかるはずだ……おそらく、警察はそのことをマスコミに発表しないにちがいねえ。だから、靴下がそちらにとどいたはずだといってやれば、こちらの手にガキがいることを一発で信じるだろうよ」
そこで、いったん言葉をきり、優男≠ヘ唇を舌で湿らしてから、ぼくたちにきいた。
「ところで、どうやって金を受けとるかは、もう考えついたんだろうな」
「むりなことをいうな」
帽子屋さん≠ェ吐きだすようにいった。
「きのうの今日だ。そんなに早く、思いつけるはずがない」
「明日までには考えるんだな」
優男≠ヘニヤリと笑って、いった。「明日には、おまえたちのだれかに西条のところに電話をしてもらう。俺たちは、警察に自分の声紋を残すようなやばい橋はわたりたくないんでね……それで、金を受けとる場所、時間、方法を先方さまに伝えるんだ。明日だぜ。いいな──」
優男≠ヘヒョイと片手をふって、ぼくたちにあいさつをすると、そのまま軽い足どりで、部屋を出ていった。
ぼくたちはゲンナリとして、おたがいに顔をみあった。
べつに、いまになってわかったことでもないが、凶悪ファミリーはとんでもないエゴイストぞろいだ。警察に声紋を残すような|やばい橋をわたりたくない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のは、ぼくたちも同じことなのである。
ほとんど寝ていないのだろう。兎《うの》さんも帽子屋さん≠燧ワ悴《しようすい》しきった顔をしていた──ぼくは学生だからまだいいが、彼らふたりはそれぞれ、こんなことのために仕事を休んでいるはずだった。
「さてと……」
兎《うの》さんが奇妙にけだるい声でいった。「そろそろ準備にとりかかるか」
兎《うの》さんにも、帽子屋さん≠ノもしなければならないことがいっぱいあったし、ぼくにも造らなければならないものがあった。
明日、電話をしなければならないとすると、それこそ時間がたりないどころの話ではなかったのである。
──窓からさしこむ陽光に、部屋は蒸し風呂のようになっていた。
日の光はただよう埃《ほこり》を浮かびあがらせ、掃除のゆきとどいていない部屋に特有の、異臭がツンと鼻をついた。
たしかに、扇風機はまわっているが、ただ気休めに動いているようなもので、いっこうに涼しくならず、そのカタカタという音が、かえって暑さをつのらせているようにさえ思えるのだった。
|ジィーッ《ヽヽヽヽ》、|ジィーッ《ヽヽヽヽ》、|ジィーッ《ヽヽヽヽ》……電話のダイヤルを回す音がきこえてくる。
傷男≠ェメモをみながら、西条唯史の自宅の電話番号を回しているのだ。
受話器をにぎっているのは兎《うの》さんだが、傷男≠ヘ自分以外の人間が電話のダイヤルを回すのを認めようとしなかった。おそらく、ぼくたちにまかしておいたら、違う番号にかけて、それらしく話をするというようなトリックを弄しかねないと考えているにちがいなかった。
まったく、凶悪ファミリーは肚立たしくなるほど用心ぶかかった。
受話器をにぎっている兎《うの》さん、ダイヤルを回している傷男≠みつめているのは、ぼくと、帽子屋さん=Aそれに優男≠フ三人だった。どうやら、蟹男≠ェ子供をみはっているという帽子屋さん≠フ推理はまちがっていないようだった。
「よし」
傷男≠ヘ満足そうに鼻を鳴らし、電話から身を引き、椅子に体をしずめた。「西条の電話番号にまちがいない」
しばらく間《ま》があって、
「もしもし、西条さんのお宅ですか」
兎《うの》さんがいった。「こちらは、お宅の等ちゃんをあずかっている者なんですがね」
優男≠ェぼくたちの頭ごしに、やおら腕をのばすと、兎《うの》さんの手から受話器をひったくり、それを耳にあてた。
優男≠ェ受話器を耳にあてていたのは、ほんの一瞬のことで、すぐさまそれは兎《うの》さんの手にかえされた。
緊張し、身をこわばらせているぼくたちにたいし、優男≠ヘニヤリとふてぶてしい笑いを送ってきた。
「たしかに、こちらはお宅の等ちゃんをあずかっているよ」
兎《うの》さんが喉仏をゴクリと上下させて、いった。「そちらに等ちゃんの靴下がとどいたはずだ。それが、俺たちの言葉がほんとうである、なによりの証拠だ……逆探知されちゃかなわんからな。こちらの用件だけをしゃべる。だまって、きいてろ」
それから、兎《うの》さんは身のしろ金の額、古い紙幣でそろえること、金を収める旅行トランクの形などを指定し、
「明日、地下鉄・銀座線の渋谷駅から、十二時×分発の『浅草行き』に乗ってもらおう。前から三両目に乗るんだ……そして、進行方行に向かって右側のアミ棚に、金を収めた旅行トランクを載せるんだ……あんたはそのまま銀座まで乗っていく。いいか。あんたひとりで来るんだぞ。ほかの人間をよこしたり、刑事なんかを張りこませたら、子供の命はないものと思え」
兎《うの》さんは早口にそれだけをいうと、すばやく受話器をおいた。受話器をおく瞬間、むこうの──おそらくは、居間の──ざわついた雰囲気がこちらにつたわってきた。
「地下鉄なんかで金を受けとるつもりか」
傷男≠ェ首をひねりながら、いった。「逃げ道がねえ。そいつは、ちょっとまずいんじゃねえのか」
傷男≠フ言葉をキッパリと無視し、兎《うの》さんは優男≠ふりかえり、怒りを押さえきれない声でいった。
「さっきはどういうつもりなんだ。どうして、あんなことをした?」
「ほんとうに電話が通じているかどうかたしかめたかっただけよ」
優男≠ヘ平然とうす笑いを浮かべながら、いった。「たしかに、ザワザワというむこうの声がきこえていたぜ……」
「いい加減にしないか」
帽子屋さん≠ェウンザリとした声で、いった。「人を疑うのもたいがいにしたら、どうなんだ」
「俺の質問に答えろ」
傷男≠ェうなり声をあげた。「ほんとうに地下鉄なんかで、金を受けとるつもりでいるのか」
「そうだよ」
と、これはぼくが答えた。「方法はまかしてくれるといったじゃないか」
「ああ、まかせるさ」
優男≠ェうなずいて、いった。あいかわらずニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「だがな。俺たちも遠くのほうから見物させてもらうぜ。おめえたち三人は、もうひとつ信用できねえんでな……」
優男≠フその言葉が、ぼくたちの作戦を根底からくつがえすことになった。
だが、明日の夜には、凶悪ファミリーに金をわたさなければならない。いまさら、作戦の変更を練っているだけの時間的ゆとりが、あろうはずもなかったのだ。
──銀座線・渋谷駅は地上三階にある。
ぼくが上京し、はじめて渋谷へ出てきたときには、デパートの三階から出入りする地下鉄の電車をみて、びっくりしたものだ。
そのときの驚きが残っていて、いまも渋谷から銀座線に乗るときには、ちょっとワクワクとした気持ちにさせられる。地下鉄のくせに、高架式の山手線より高いところを走っているなんて、考えるだけで愉快になってくるではないか。
しかし、いま、帽子屋さん≠ニいっしょに、銀座線のホームに向かう階段を昇っているぼくの気持ちは、およそ愉快とはいえそうにないものだった。
優男≠ヘ、いつもぼくたちを遠くからみはっていると言明しているのだ。|あの男に怪しまれないように《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、旅行トランクをうけとるのは至難の業というべきだった。
切符の自動販売機がたちならんでいる改札口のあたりは、いつもながらの混雑をみせていた。
ぼくと帽子屋さん≠フふたりは、それぞれ自動販売機のまえに立ち、切符を買おうとした。ふいに、背後から腕がのびてきて、自動販売機のスリットのなかに硬貨をおとした。
「せいぜい気をつけるんだな」
そして、優男≠フささやくような声がきこえてきた。「地下鉄の乗客はみんな私服の刑事だと思ってりゃまちがいない」
ハッとふりかえったときには、もうそこには優男≠フ姿はみえなかった。あわてて周囲をみまわしたが、あまりに人の数が多すぎて、優男≠ェどこにいるのか、みつけることはできなかった。
わきの下を冷や汗が伝わるのを感じた。遠くからみはっているといった優男≠フ言葉は、やはりたんなるハッタリではなかったのだ。あの男は、今、この瞬間にも、ぼくたちをみはっているにちがいなかった。
先にたって歩いている帽子屋さん≠ノ追いすがるようにして、ぼくがいった。
「いま、優男≠ェいましたよ」
「そうか」
帽子屋さん≠ヘ唇をゆがめるようにして、笑った。「よほど、俺たちが信用できないんだな。ご苦労なこった……」
ぼくたちは肩をならべて、ホームに入っていった。
ホームは改札口にも増して、人ごみでごったがえしていた。優男≠烽ヌこかにいるにちがいないのだが、この人ごみのなかからみつけだすのは困難だった。
帽子屋さん≠ェひじで突いて、ぼくの注意をうながした。
「あれじゃないのか」
「………」
なるほど、ホームの先のほうに、六十がらみのかっぷくのいい男が、旅行トランクを下げて、立っていた。濃いサングラスにかくれて、はっきりとはわからなかったが、たしかにその顔は、新聞などでみた西条唯史の顔に似ているようであった。
ぼくは反射的に首をすくめ、あたりをみまわした。一瞬、優男≠フ言葉を想いだし、まわりに私服の刑事がひしめきあっているような|気になった《ヽヽヽヽヽ》のだ。
そのとき、だいだい色の電車が車庫から出て、プラットホームにすべるように、入ってきた。
十二時×分……『浅草行き』の、兎《うの》さんが指定した電車だった。
アナウンスの声がプラットホームに鳴りひびき、電車のドアが一斉にひらいた。乗客がドッとなだれこむ。サングラスの老人も大きな旅行トランクを胸のまえにしっかりと抱き、電車のなかにふみこんでいった。
ぼくと帽子屋さん≠烽ソらりとたがいに視線をかわし、肩をならべて、電車のなかに入っていった。
もうここまできたら、ひきかえすわけにはいかないのだ。
ドアがため息のような音をたててしまり、電車が走りだした。窓の外を、暗いトンネルの壁が、上下線間の柱が、とぶようにしてかすめ去っていった。
サングラスの老人は、あいかわらず大きな旅行トランクを胸のまえに抱きかかえたまま、まっすぐ三両めの車両に向かった。
建設大臣にまでなった西条唯史が、秘書も連れずに地下鉄に乗るなんて、およそ考えられないことにちがいない。だから、サングラスの老人が、多少、もとの建設大臣に似ているからといって、誰もことさらに注意を寄せようとしないのも別にふしぎなことではなかった。
サングラスの老人は歩いていく。
ぼくと帽子屋さん≠フふたりも、老人とはかなり距離をおきながら、ゆっくりとそのあとについていく。
ガタン、ガタン、ガタン……足元からつたわってくる震動が、ちょうどぼくの心臓の鼓動のようだ──|だめだ《ヽヽヽ》、|だめだ《ヽヽヽ》、|だめだ《ヽヽヽ》……列車の震動と、心臓の鼓動がかさなりあい、そんなふうにひびきをかえて、ぼくの頭のなかで鳴りわたっているのだった。
サングラスの老人には、体でバランスを保ちながら、走っている電車のなかを歩いていくのはかなり苦労のようだった。頑強そうにみえても、やはり|とし《ヽヽ》なのだ。
ようやくサングラスの老人が三両めの車両にたどりつき、進行方向に向かって右側のアミ棚に旅行トランクをのせたときには、すでに電車は次の駅『表参道』に入っていた。
ドアがひらき、新たな客がドッとなだれこんでくる。
どこかからぼくたちをみつめている優男≠ヘ、電車が駅にとまるたびに──ざまあみろといってやりたいことには──胃が痛くなるような思いをあじわっているにちがいない。疑《うたぐ》りぶかいあの男が、新たに乗りこんでくる乗客のなかに私服刑事が混じっていると考えないはずがないからだ。
それにしても、優男≠ヘどこにいるのか。それがわかるだけでも、こちらの気持ちがだいぶ楽になるのだが……
電車は『表参道』を出発し、つぎの駅『外苑前』に向かいつつあった。
サングラスの老人は若い女に席をゆずられ、最初のうちは固辞していたが、やがてむりやりのように坐らせられてしまった。たいして有難くもなさそうな顔をしているが、足を休めることができて嬉《うれ》しくないはずはなく、内心ホッとしているにちがいなかった。
しかし、いまのぼくたちには、サングラスの老人などもうどうでもいい存在だった。
アミ棚のうえの旅行トランクが、問題なのだ。
電車が『外苑前』に近づいていくにつれ、ぼくのなかでしだいに焦燥感がつのっていった。
駅付近の|デッド《ヽヽヽ》・|セクション《ヽヽヽヽヽ》に車両がさしかかったらしく、一瞬、明かりが消え、予備燈が点滅した。しかし、それは掛け値なしの一瞬のことで、その暗闇を利用して、アミ棚に近づき、旅行トランクを奪うなどという真似ができるはずもなかった。
それが、こまるのだ。
ぼくたちはこう凶悪ファミリーに説明したのだった。
「銀座線の車両は、MMユニット方式の一五〇〇型をのぞくと、電動発電機を持っていない。だから、駅に近づいたあたりで、しばしば明かりが消えるんだ……その暗闇を利用して、旅行トランクをひったくって、次の駅で逃げだせばいい。明かりが消えたすぐあとに、電車が駅に入ることもすくなくはないから、それほどむつかしくはないさ」
|むつかしい《ヽヽヽヽヽ》のだ。
いや、じっさいには不可能な話なのだ。
あなたはほんの瞬きするあいだに、十メートルちかくも走ることができるか。走って、旅行トランクをひったくって──しかも、だれにも気づかれないうちに、だ──また元の場所にもどることができるか。できるはずがない。
ぼくたちは、それをできると凶悪ファミリーに請け合ってしまったのだ。
どこからか|こちら《ヽヽヽ》の様子をうかがっているはずの優男≠ヘ、ぼくたちの計画がまったくの机上の空論にすぎなかったことを知って、怒り狂っているにちがいない。
それが、こわい。
ぼくたちが手をこまねいて、アミ棚の旅行トランクをみているうちにも、電車は『青山一丁目』、『赤坂見附』、『虎ノ門』と、順調に走り抜けていく。もちろん、そのあいだにも何回か車両の明かりは消えたわけだが、それがなんの助けにもならないことは、前にも説明したとおりだ。
電車が『新橋』を出て、『銀座』に向かっているとき、ふいにぼくの頭にひらめいたアイディアがあった。
もはや、それがほんとうに実現可能であるかどうか、熟考しているゆとりはない。ぼくはすばやく、そのアイディアを帽子屋さん≠フ耳もとにささやいた。
一瞬、帽子屋さん≠ヘ驚いたようにぼくの顔をみていたが、やおらうなずくと、サングラスの老人に向かってまっすぐに歩いていった。
そして、いかにもバランスをくずしたかのように、よろめき、サングラスの老人の膝に手をついた。もし、だれか注意ぶかい観察者がその場にいたなら、帽子屋さん≠ェ老人になにごとかささやいたのを、みてとったにちがいない。
帽子屋さん≠ヘそのまま老人のまえから歩き去っていった。
電車が『銀座』に着いた。
サングラスの老人は腰をあげると、アミ棚まで歩いていき、|旅行トランクをおろして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、電車から降りていった。
ぼくと帽子屋さん≠焉A別々のドアから、電車を降りた。
ぼくたちに、サングラスの老人のあとを追う必要はなかった。
改札口を出てから、ぼくたちはまたいっしょになり、肩をならべて、しばらく地下道をぶらついた。
トイレのまえにさしかかったとき、ふいにぼくたちは襟首《えりくび》をつかまれ、アッというまに、そのなかにひきずりこまれた。ぼくたちをトイレにひきずりこんだ男は、すばやくただいま掃除中≠フ看板を入り口に出し、こちらに向き直った。
その男は──優男≠セった。
「失敗しやがったな……」
優男≠ヘうなるようにいった。「銀座線の車両は明かりが消えるから、そのあいだに金を奪えるなんて、いい加減なことをいいやがって……失敗しやがったな」
優男≠フ両手がのびてきて、ぼくの首をつかんだ。指が鉤《かぎ》のように、ぼくの喉にくいこんでくる。ものすごい力だ。ぼくは必死にもがき、あがいたが、優男≠フ手は喉からはなれない。自分でも、|こめかみ《ヽヽヽヽ》の血管がふくれあがり、顔が紫いろに染まっていくのがわかった。
帽子屋さん≠ェ優男≠背後からはがいじめにし、ひきはがしてくれなければ、ぼくはまちがいなくくびり殺されていたはずだった。
ぼくはその場に頽《くずお》れて、ゼイゼイと咳込んだ。肺が酸素を求めて、金切り声で悲鳴をあげていた。眼に涙がにじむ。苦いツバがあとから、あとからこみあげてくるのだった。
「このマヌケが……」
優男≠ヘ背後からはがいじめにされながら、なおも口汚く罵った。「てめえ、この|おとしまえ《ヽヽヽヽヽ》はつけてもらうからな」
「まだ、金は手に入らないと決まったわけじゃないんだ……」
ぼくは喉をさすりながら、いった。自分でもいやになるぐらいの、しゃがれ声だった。
「なんだと……」
優男≠フ眼がスッと細くなった。ヘビの眼だった。「でたらめをいうな」
「でたらめじゃない」
ぼくは必死に首をふって、いった。「たしかに、銀座線はぼくたちの計算ちがいだった。だから、さっき帽子屋さん≠ノたのんで、一時×分に銀座にとまる『荻窪行き』の丸ノ内線にのりこむよう、西条唯史につたえてもらったんだ……」
「丸ノ内線の『荻窪行き』だと……その電車に、西条を乗せて、いったいどうしようというんだ?」
「窓から、旅行トランクを投げさせるんだ」
「………」
「それで、その金をぼくたちがすぐに回収するんだ」
「おまえは低能か」
優男≠ヘ吐きすてるようにいった。「なんだと思ってるんだ? 地下鉄なんだぞ。一方は壁だし、もう一方には、上下線をしきる柱が並んでいる。窓から、大きな旅行トランクなんか投げられるはずがない……これが、まだ反対方向の『池袋行き』だったら、『御茶ノ水』とか『四ッ谷』あたりで、電車が地上にでないこともないが、それにしたって、旅行トランクなんか投げたら、人目について仕様がねえ……」
「ルーフシールド構造というのを知ってるか」
ぼくはようやくおちつきをとりもどして、いった。
「なにをわけのわからねえこと、いってやがるんだ」
「ルーフシールド構造というのは、地下鉄の上下線のあいだに柱がない構造のことをいうんだ」
ぼくは喉をさすりながら、立ちあがった。
「こんど丸ノ内線に乗るようなことがあったら、『国会議事堂前』のあたりで、窓の外をみてみるんだな。上下線をくぎる柱がないから……あそこだったら、窓からなにか投げることも可能だ」
「………」
一瞬、虚をつかれたような表情で、優男≠ヘ沈黙したが、すぐにいった。
「回収する方法はあるのか」
「地下鉄のトンネルに入るのは、人が考えるほどはむつかしくないのさ」
「さっき、そっちの野郎が西条に接触している。刑事にマークされているかもしれないじゃないか」
「だから、いったん改札口を出たんだよ」
と、これは帽子屋さん≠ェいった。「営団地下鉄の駅のなかで、『銀座』はもっとも出入口の多い駅なんだ。三十二カ所もあるんだ。いくら警察だって、短時間にマークしきれるはずがないよ……それに、俺はこのまま消えて、金を回収するほうにまわる。丸ノ内線に乗るのは眠りくん≠セけなんだ」
「帽子屋さん≠ェ西条にわたしたメモには、たんに丸ノ内線の一時×分に『銀座』を通る『荻窪行き』に乗り替えろ、と書いてあるだけなんだ」
ぼくは|必死に《ヽヽヽ》優男≠説得した。
「『国会議事堂前』に電車がさしかかったあたりで、はじめてぼくが、旅行トランクを投げろ、と西条につたえる。だから、警察に現場にはりこまれる心配はない」
「西条に接触したら、こんどはおまえが警察にマークされるぞ」
「そこのところは、なんとでもうまくやってみせるさ」
「うむ……」
優男≠ヘ考えこむような眼つきになった。
「どうするんだ」
ぼくは優男≠うながした。「一時×分までには、あと二十分ぐらいしか時間がないんだぜ」
「もうひとりの男はどうした」
ふいに優男≠ヘ顔をあげて、きいた。
「どこへ消えちまったんだ」
「どうして、そんなことをきく?」
「俺がきいているんだ」
「あの人ももう年だからな。ダウンしちまったのさ」
「………」
優男≠ヘふたたび考えこむような眼つきになって、沈黙していたが、
「おめえたちは信用できねえ」
やがて、首をふりながら、いった。「おめえたちの計画も、危なっかしくて、もうひとつ信用できねえ……俺はおろさせてもらうぜ。これからは、おめえたちだけでやってもらうことにする……いいか。金を手に入れたら、神保町のあのオフィスで待ってるんだ。電話するからな」
優男≠ヘそれだけをいうと、身をひるがえして、トイレから出ていった。どうやら、これ以上ぼくたちといっしょにいると、危険だと判断したらしかった。
あとには、ぼくと帽子屋さん≠フふたりだけが残された。
ぼくたちはどちらからともなく顔をみあわせ──そして、おたがいに微笑を浮かべた。
ぼくたちはこのときを待ちわびていたのだ。じつは、このときから、ほんとうの意味での、|ぼくたちの作戦《ヽヽヽヽヽヽヽ》がはじまったといえるのだった。
──ぼくと帽子屋さん≠フふたりは、夏草の茂みに身をひそめ、建物の様子をうかがっていた。
凶悪ファミリーのアジトであり、子供が監禁されている場所でもある|あの《ヽヽ》ビルは、月の光にまだらに染めあげられながら、ただヒッソリとしずまりかえっていた。
どこからか、フクロウの鳴き声がきこえてきた。
夏草がガサガサとかきわけられ、そこから兎《うの》さんが顔をのぞかせた。
さすがに、憔悴した顔をしていた。
「遅くなった……」
兎《うの》さんが申し訳なさそうに、いった。「あの連中はどうした?」
「傷男≠熈優男≠烽ワだ帰ってきていない」
帽子屋さん≠ェいった。「おそらく、どこかで酒でも飲んでいるんだろう。いま、あそこにいるのは蟹男≠セけのはずだ」
「仕事がやりやすくなるな」
兎《うの》さんはニヤリと笑って、帽子屋さん≠うながした。「行くかね」
「ああ」
帽子屋さん≠ヘあごをひき、確認するように、ぼくをみた。
ぼくがうなずいたときには、兎《うの》さんと帽子屋さん≠フふたりは、両手に荷物を持ち、背を低めながら、建物に向かって走りだしていた。
ぼくはそのまま茂みのなかにうずくまり、時が過ぎるのを待った。
きっかり二十分待ってから、行動を開始した。
ブロック塀をのりこえ、建物に潜りこみ、足音をしのばせながら、階段を昇っていく。ラバー・シューズをはいているので、足音の心配はないようなものだが、それでも靴の底がキュッと鳴るたびに、心臓がちぢみあがるような思いにとらわれた。
三階まで達したとき、ぼくは階段から首をめぐらして、廊下のほうをうかがった。
帽子屋さん≠ェいったとおり、ある部屋のドアのまえに椅子がおかれ、そこに蟹男≠ェデンと腰をおろして、床の一点をにらみつけていた。
その部屋に子供が監禁されていることは、まずまちがいなかった。
蟹男≠ヘ兄の傷男≠竅A弟の優男≠ノくらべれば、およそ血のめぐりのわるい、腕力一点ばりの男のように思われた。それだけに、人質をみはる、というような単調な仕事にも平然と耐え、何日でもドアのまえにすわっていられる|しぶとさ《ヽヽヽヽ》をそなえているにちがいなかった。いうなれば、蟹のしぶとさだった。
しかし、どんなに任務に忠実な看守でも、トイレにだけは行かなければならない。ぼくは蟹男≠ェトイレに行くのを、いつまでも辛抱強く待つつもりでいた──ただ、ねがわくば、優男≠スちがもどってくるまえに、蟹男≠ノはトイレに行ってほしかった。あのふたりは、蟹男≠ネんか問題にならないぐらい、てごわい相手だからだ。
神経をヤスリにかけられているような時間が過ぎていった。
蟹男≠ヘいっかなトイレに行こうとはしない。どうやら、この男は人並はずれて、大きな膀胱《ぼうこう》を持っているようだった。
だが、どんなに膀胱が大きくても、やはりたまるべきものはたまる。
蟹男≠ェトイレに姿を消したとたん、ぼくは階段をとびだし、その部屋に向かって、突進した。
場合によっては、体当たりしなければならないかもしれないと思っていたのだが、さいわいにも、ドアには鍵がかかっていなかった。
ぼくはすばやく部屋に入り、ドアをうしろ手にしめると、視線を周囲にめぐらした。
部屋の隅におかれてあるソファに、ちいさな男の子がよこたわっていた。
等ちゃんにまちがいなかった。
おそらく、睡眠薬を飲まされているのだろう。等ちゃんは死んだように、よく眠りこけていた。
子供に睡眠薬を飲ませるとはひどい話だが、いまのぼくにはありがたかった。騒ぎたてられる心配がないからだ。
等ちゃんを抱いたぼくが階段にとびこむのと、蟹男≠ェトイレから出てくるのとが、ほとんど同時だった。
いつも、こうだとはかぎらない。
いつものぼくは、どちらかというと運のないほうなのだ。
──それから三十分後、ぼくたち三人はふたたび茂みのなかに集結した。
そして、傷男=A優男≠フふたりが帰ってくるのを待ち、堂々と正面入り口から、建物のなかに入っていった。
ぼくたちが肩をならべて入っていったとき、傷男≠ニ優男≠フふたりは、かつてはオフィスに使われていたらしい部屋で、鑵《かん》ビールを飲んでいた。蟹男≠フ姿がみえないところをみると、あいかわらず彼は──子供がいないことにも気がつかないで──三階の部屋をみはっているようだった。
傷男≠スちはぼくたちの姿をみて、腰がぬけるほどおどろいたようだ。むりもなかった。傷男≠スちは、ぼくたちに彼らのアジトがわかるはずがない、とたかをくくっていたにちがいないからだ。
「おめえたち、どうしてここが……」
優男≠ェ立ちあがり、そうさけびかかるのを、兎《うの》さんが手をあげて、制した。そして、テーブルのうえに、|あの《ヽヽ》旅行トランクを放りだした。
一瞬、傷男≠ニ優男≠フふたりは、旅行トランクをくいいるようにみつめ、沈黙した。それから、傷男≠ェ手をのばし、なにか壊れ物でもさわるような手つきで、旅行トランクの止め金を押した。カチッ、というような音がして、旅行トランクのロックがはずれた。
傷男≠ヘ旅行トランクの上げ蓋に両手をかけたまま、しばらく呼吸をととのえていた。一億という大金をおがめるかどうかの|せとぎわ《ヽヽヽヽ》だ。どうやってぼくたちが彼らのアジトをつきとめたのか、などという詮索は、いまはもうどうでもよくなっているにちがいなかった。
傷男≠ヘ意を決したように、旅行トランクの上げ蓋をパッとあけた。
傷男≠ニ優男≠フ口から、歓喜の声がもれた。
旅行トランクには、ギッシリと一万円札がならんでいたのだ。
彼らはゲラゲラと笑いながら、紙幣の束をつかみだし──そして、顔色をかえた。
しばらく、彼らはそのままの姿勢で、ジッとしていた。ふいに、彼らの体がちぢんでしまったように、ちいさくみえた。
「おめえたちはマヌケだ……」
優男≠ェゆっくりと顔をあげ、奇妙にしずかな声でいった。「どうしようもないマヌケぞろいだよ」
優男≠フ手から、いちばんうえにおかれてあった一万円札と、それから一万円札の大きさに切られた沢山の新聞紙とが、つぎからつぎに、床のうえに落ちつづけていた。
傷男≠ニ優男≠ヘ、ほとんど機械的なしぐさで、新聞紙の束をとり、その紙帯を指で切っては、床にばらまいていた。
たちまち、床は|数えるほどの《ヽヽヽヽヽヽ》一万円札と、数えきれないほどの新聞紙の小片とで、埋めつくされる。
「せっかく苦労して、旅行トランクを手に入れたのに、な……」
帽子屋さん≠ェほおを指で掻きながら、人事《ひとごと》のようにいった。「どうやら、ペテンにひっかかっちまったらしいな」
「ペテンにひっかかったで済むと思うのか」
傷男≠フこちらをみる眼が、青く、底光りをおびたようになっていた。「え? それで通用すると思っていやがるのか」
「仕方ないな」
兎《うの》さんが肩をすくめ、いった。「だからといって、べつにわたしたちがあやまるべき筋あいの話でもないようだしね……」
「そうだな」
傷男≠ェうなずき、ことさら平静な口調をよそおっていった。「ガキの指でも一本切って、西条のところに送りとどけてやればいい。俺たちをなめやがると、どんなめにあうか思い知らせてやるんだ……それで、もう一度だけ、西条にチャンスを与えてやる。今度こそ……」
「いやだね」
兎《うの》さんの声が鞭《むち》のようにひびきわたり、傷男≠フ言葉をさえぎった。
一瞬、ひどく緊迫した沈黙が、部屋にみなぎった。
「なんていったんだ?」
そして、優男≠ェきいた。「よくきこえなかったんだが、いま、なんていったんだ」
「いやだ、といったんだよ」
兎《うの》さんは平然としている。「わたしたちはもともと誘拐なんかに手をかしたくはなかったんだ。あんたたちに脅されて、やむなく手をかしただけのことだったんだよ……あんたたちはまだ気がついていないようだが、いま、わたしたちは互角なんだよ。あんたたちがわたしたちを警察に密告すれば、わたしたちもあんたたちのことをしゃべる。こうして、あんたたちのアジトをつきとめることができたんだからね。これから、あんたたちの名前をつきとめたりするのも、それほどむつかしい話じゃないと思うよ……わたしたちは互角だ。だから、これからさき、おたがいに干渉しないということでいこうじゃないか」
「………」
優男≠ェ歯ぎしりせんばかりの形相になった。頭髪を逆立たせ、拳をにぎりしめ、こちらに向かって一歩ふみだそうとした|そのとき《ヽヽヽヽ》──大声をあげながら、蟹男≠ェ部屋にとびこんできたのだ。
「たいへんだ、兄キ、ガキに逃げられた……」
「………」
優男≠ェ首をねじるようにして、蟹男≠凝視した。それから、ゆっくりとぼくたちに顔を戻し、うめき声をあげた。
「やりやがったな……」
「………」
ぼくたちはだまっていた。このさい、なにをいっても、よけいに優男≠スちを刺激するだけのことだからだ。
「兄キ……」
ふいに優男≠ェ|あの《ヽヽ》ネコなで声になって、いった。「このお三方を地下室にご案内したいと思うんだが、どうだろう?」
「そうだな」
傷男≠ヘうなずいた。「あそこで、ゆっくりと考えなおしてもらうとするか」
蟹男≠ェ笑い声をあげた。
ぼくの人生において、これほど耳ざわりで、不愉快な笑い声をきいたことは、一度としてなかったように思う。
──|グルーン《ヽヽヽヽ》、|グルーン《ヽヽヽヽ》、|グルーン《ヽヽヽヽ》……ドラムのうなりがひびきわたり、四つのカッターが高速回転をはじめた。強烈なライトが眼を射って、舞い上がるコンクリートの粉をクッキリと浮かびあがらせた。
兎《うの》さん、帽子屋さん=Aぼくの三人は、一方の壁に並ばされて、ただトンネル掘削機が迫ってくるのを、ジッと待っているほかはない状態だった。
灼《や》けた鋼《ハガネ》と、機械油のにおい……カッターの回転音と、油圧装置のうなり……なにより、視界にのしかかってくるように迫ってくるトンネル掘削機の巨大な影……おそろしかった。ただでさえ、あるかなしかのぼくのちっぽけな勇気など、このトンネル掘削機をまえにすると、完全にけしとんでしまうのだった。
グルーン、グルーン、グルーン……
その轟音のなかで、トンネル掘削機を運転している優男≠フ叫ぶ声がきこえてくる。
「子供はどこにいる!」
グルーン、グルーン……
「|どこにいる《ヽヽヽヽヽ》!」
グルーン……
「いうものか」
ぼくたち三人が口々にわめきかえす。
「絶対にいうものか」
蟹男≠フ笑い声がきこえてくる。蟹男≠ニ傷男≠フふたりは、トンネル掘削機のわきに立って、いかにも楽しそうにこちらを見物しているのだ。
「俺たちに協力するか」
優男≠フさけび声にも、サディスティックな笑いがふくまれている。
「協力すれば、命だけは救けてやるぞ」
「いやだ!」
「じやあ、死ね」
|グルーン《ヽヽヽヽ》、|グルーン《ヽヽヽヽ》、|グルーン《ヽヽヽヽ》……トンネル掘削機が急速に前進してきた。そのすさまじい轟音に、頭が割れそうだ。なにも考えられない。眼のまえに、赤くカスミがかかってしまったかのようだ。高速回転する巨大なカッターがしだいに迫ってくる。|迫ってくる《ヽヽヽヽヽ》。
「いまだ」
帽子屋さん≠フ合図とともに、ぼくたち三人は|背中で壁をつき破って《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、その裏に転がりこんだ。そして、ポッカリ口をあけている排水溝のなかに、頭からとびこんでいった。
頭上でなにか爆発するような音がきこえてきた。ハツカネズミが壁をかじる音を、何百倍にも拡大したような轟音がひびきわたり、つづいてズーンと重い|ひびき《ヽヽヽ》がつたわってくる──ぼくはとっさに両手で頭をかばい、排水溝の底にうずくまった。背中にパラパラとなにかが落ちかかってくる。一度などは、なにか鉄板のようなものが落ちてきて、背骨が折れたのではないかと思えるほどの、激痛に苦しむことになった。
どれぐらいのあいだ、そうしていたのだろう。
ようやく騒ぎもおさまったように思えたので、ぼくはおそるおそる排水溝から顔をあげた。
地下室は惨憺《さんたん》たるありさまになっていた。はっきり、崩壊してしまったといってもいい。どうやらトンネル掘削機は勢いあまって、|本物の壁《ヽヽヽヽ》を削ってしまったらしく、地下室の天井の一部がくずれ落ちてしまったのだ。しかも、トンネル掘削機そのものも、浜辺にうちあげられた鯨のように、ゴロンと横倒しになっているのだった。
その横倒しになったトンネル掘削機の下から四本の足がのびていて、きちんと上を向き、ならんでいた。傷男≠ニ蟹男≠フ足だった。彼らが即死したのは、あらためてたしかめるまでもないことだった。
このすべてが、ぼくが子供を助けようとしているあいだに、兎《うの》さんと帽子屋さん≠ェしたことの結果なのだ。べつに、たいしたことをしたわけではない──ふたりは金属のパイプで枠組《わくぐ》みをつくり、そこにコンクリートの壁の色を模した紙を張った。排水溝の鉄蓋のボルトを抜き、すべて取り外した。以上は、トンネル掘削機におそわれたとき、ぼくたちが逃げだすための仕掛けだった。もうひとつ、トンネル掘削機を壁に固定しているジャッキをゆるめておいたのは、ぼくたちに|ちょっかい《ヽヽヽヽヽ》をかければ、痛いめにあうのは自分たちのほうだということを、彼らに思い知らせるためだった。
ほんとうに、ただ痛いめにあわせてやろうとだけ考えて、したことなのだ。ちょっとした事故にはなるだろう、とは予想していたが、まさかこれほどの大事《おおごと》になるとは思ってもいなかったのだ。
ぼくたち三人が排水溝から立ちあがったとき、うめき声がきこえてきた。
優男≠セった。
優男≠ヘ横倒しになったトンネル掘削機の下敷きになり、下半身をグシャグシャにつぶされていた。口からあふれている血に、泡《あわ》が混じっているところをみると、彼の内臓が傷ついていることはまちがいなかった。優男≠烽キぐに死ぬのだ。
「おめえたちはつかまるぜ……」
だが、優男≠ヘ苦しい息の下から、ぼくたちを嘲笑しようとしていた。「電話の声はテープに録《と》られているだろうし、地下鉄で西条に接触したときに、刑事に隠しカメラで写されているに決まっているんだ……ざ、ざまあみやがれ。おめえたちは逃げられねえ。|絶対に《ヽヽヽ》逃げられねえ……」
ぼくたち三人は顔をみあわせた。一瞬、ほんとうのことを優男≠ノ話すべきかどうか、迷ったからだった。
「ぼくたちはつかまらないよ」
そして、ため息をついて、ぼくがいった。
「|ぼくたちはだれにも電話なんかかけなかったし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|西条唯史の顔もみたことがないんだから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
おかしなことをいう、というように、優男≠ヘ眼をみひらいた。それから、唇のはしに微笑をきざんだ。おそらく、ぼくがたんに虚勢をはってるとでも考えたにちがいない。優男≠ヘ微笑したまま、ゆっくりとほおを床につけ──そして、死んだ。
ぼくたちはそのまま、しばらく優男≠フ死骸をみおろしていた。
優男≠ノは気の毒だが、ぼくは決して虚勢をはったのではない。
ぼくたちはほんとうに、西条唯史に電話をかけたこともないし、地下鉄で彼と接触してもいないのだ。
無限送信機《インフイニテイ》≠ニいう装置をご存知だろうか。要するに、盗聴装置だが、一般に流布されている|仕掛け装置《ドロツプ・イン》≠ニくらべると、かなり値段がたかく、高度な装置である──これを、こちらの電話にしかけ、ダイヤルを回すと、電子音声発振機が、あちらの電話に反応して、マイクロフォンが働き、ダイヤルを回した先の電話周辺の音がつつ抜けになってしまうのだ。
もうおわかりだろう。ぼくが友達に借りた装置というのは、この無限送信機≠フことなのだ。ぼくの友達は、盗聴装置に興味をもっていて、まったくのお遊びから、この装置を作っていたのだ。無限送信機が高価といっても|たか《ヽヽ》がしれていて、三十万もだせば秋葉原で材料がそろうのである。ぼくがしたことといえば、無限送信機に細工をほどこし、凶悪ファミリーの眼には、たんなる電話台としか映らないように、するだけだったのだ。
たしかに、傷男≠ヘ西条唯史の電話番号を回し、優男≠ヘ|むこうの声がきこえる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことを確認した。だが、電話は通じていなかったのだ。兎《うの》さんはまったくの一人芝居をしていたのである。
もちろん、金はぼくたちで用意するつもりでいた。新聞紙を切ったものと、百万円の束を二段にかさねたとして、そのいちばんうえにならべる五十万なりを用意して、それを西条唯史からわたされた金として、凶悪ファミリーにわたす。そして、凶悪ファミリーが油断した隙《すき》に、なんとか子供を救いだす……それが、ぼくたちの作戦だったのだ。
だからこそ、銀座線の電車は明かりが消えるから、そのあいだに旅行トランクを奪えばいいなどとできもしないことを、凶悪ファミリーに請け合ったのだ。要するに、|らしい話《ヽヽヽヽ》をでっちあげて凶悪ファミリーを納得させれば、それで十分だったのである。
優男≠ェ金の受け渡し現場に、自分も立ち合う、といったとき、ぼくたちがどんなにあわてたかご想像いただけることと思う。
金の受け渡し現場なんか、|ない《ヽヽ》からだ。
そこで、急遽《きゆうきよ》、兎《うの》さんが西条唯史に変装して、地下鉄に乗りこむことになった。いい忘れたかもしれないが、兎《うの》さんの趣味は奇術なのだ。変装用の小道具はいちおうはそろえてある──変装といっても、なにも西条唯史そっくりになる必要はない。背広の下に詰め物をし、かんろくをつけ、白髪のかつらや、髭をつければ、あとはサングラスが顔をかくしてくれる。どうせ優男≠ノしても、西条唯史の顔なんか、新聞や、テレビで知っている程度にすぎないのである。
想いだしていただきたい。
ぼくは、サングラスの老人が西条唯史だと、|あなたにいったことは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|一度としてなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》はずなのだ……
優男≠ヘあくまでも警察がみはっていると信じていたのだから、いかにして彼を納得させ、かつ金を奪ったようにみせかけるかには、ずいぶん苦労させられた。
丸ノ内線『国会議事堂前』のルーフシールド構造のことを想いだしたのは、われながら上出来だったと思う。優男≠ェおそれをなして逃げだしたのにいたっては、いささか|できすぎ《ヽヽヽヽ》なぐらいだ。
『国会議事堂前』のあたりでは上下線のあいだに柱がない、というのは事実だが、ほんとうに窓から旅行トランクを投げだせるものかどうか、怪しいものだと思う。まず、むりなのではなかろうか……
兎《うの》さんはべつに旅行トランクを窓から放りだす必要はなかった。そのまま、ぼくたちのところに持ってくれば、それでよかったのである。
最後にもうひとつ、凶悪ファミリー≠ェ滅んだことにかんしては、ぼくはいささかも良心の呵責《かしやく》を感じない。
彼らはぼくたちを殺そうとして、勝手に自滅した。
いうならば、自業自得のようなものだ。
だれが、あんな連中が死んだからといって、自分を責めたりするものか。
この世には、死んだほうがいいような人間も、たしかに存在するようなのである。
──等ちゃんを警官のパトロール区域に入っている公園のベンチに寝かせ、兎《うの》さんたちと別れて、自分の部屋にもどってきたときには、もう明け方ちかかった。
部屋に足をふみこんだとたんに、電話が鳴った。
お袋からだった。
ここ二、三日、いつ電話してもぼくがいないので、心配で眠れなくて、それでこんな時間に電話をかけてきたのだそうだ。
「研究室のほうが忙しくて……」
ぼくはいった。
お袋はひとしきり文句をならべたのち、またいつもの話にもどっていった。故郷《くに》に帰って、見合いをしないか、というあの話である。
ぼくは反射的に断わろうとし、思いなおして、いった。
「ああ、そうするよ」
お袋は驚きもし、喜びもしたようだ。電話のむこうではしゃいでいるお袋に、おやすみなさいをいい、ぼくは受話器をおいた。
考えてみれば、ぼくはもう独身生活でやるべきことはすべてし終えたといっていいのだ。攫《さら》われた子供を救いだし、悪いやつらをやっつける……これが、ぼくがかねてより夢にえがいていた|月光仮面のような冒険《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》でなくて、いったいなんだろう?
これで、いい。
人間はこのあたりで満足すべきだ。
もう冒険とは縁を切る。家庭を持って、しずかに、平和に暮らしていくのだ。
ぼくは受話器に手をかけたまま、いつしか微笑を浮かべていた。
だが、ほんとうにそうだろうか。
ぼくたちはついに、どうやって凶悪ファミリーが現金輸送車襲撃事件≠フことをかぎあてたのか、つきとめることができなかった。兎《うの》さんは、あの連中がせっかくの金ヅルのことを気安く人に話すはずがない、といったのだが……ほんとうに、そんなふうに安心していいものだろうか……
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作品中、*ウ限送信機≠ノついては、『管理社会をあざむく犯罪カタログ』(ロバート・ファー氏著・宇田道夫氏訳、白金書房刊)を参考にさせていただきました。
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博  打
ごらん、かわいいワニさんが
きらめくしっぽをみがいています、
そしてナイルの川水を
金いろに光るうろこにふりかける!
にやりと歯をむき、うれしそう、
きれいなつめをそろえてひろげ、
こざかなに、さあ、おいでよと、あごを開け、
やさしくほほえみかけてます!
ルイス・キャロル
──ブラック・ジャックというゲームをご存知だろうか?
ルールはきわめて簡単、親と子とに分れて勝負が行なわれ、それぞれ二枚から五枚配られたカードの合計が二十一にちかいほうが勝ちという、ただそれだけのゲームだ。
Aは一、もしくは十一に数えられ、絵札のJQKはすべて十に数えられる。
カードの組みあわせによって、賭け金の倍率がいろいろ変わってくるのだが、煩雑になるので、ここでは説明は省かせてもらう。
もし、カードの合計が二十二以上になってしまったらどうなるか?
|ドボン《ヽヽヽ》!
負けてしまうわけだ。
単純なゲームだが、それだけに奥行きが深いともいえる。
このゲームにとりつかれた人たちは、ブラック・ジャックこそ人生の縮図だという。栄光と転落が裏返しになったこのゲームには、人生のすべてが含まれているとおっしゃるのだ。
まあ、そうかもしれない。
おれもその説にあえて異をとなえるつもりはない。
しかし、彼らブラック・ジャック愛好家たちも、おれのような立場に立たされれば、やはりカードをめくる手が震えてしまうのではないかと思う。
おれはそのゲームに勝てば、二千万という金を手に入れることができる約束になっていた。しかし負ければ──そのときには命を失うはめにもおちいりかねなかったのだ。
いくらブラック・ジャックが栄光と転落の裏返しになったゲームだからといって、これではあまりに刺激が強すぎる。極端すぎて、心臓にわるい。
いささかなりとも正常な神経を持った人間なら、絶対に手をださないはずのゲームだったのだ。
だからといって、おれが正常な神経に欠けた人間だというわけではない。
自分でいうのもなんだが、おれは自分のことをまったくの常識人だと思っている。その常識人たるおれが、そんなゲームに手を出さざるを得なかったのは、──照れることはない。正直にうちあけてしまおう──友情《ヽヽ》のためだったのだ。
そう、あいつ、宇川洋介《うがわようすけ》のために……
──おれの名前は桂木昌平《かつらぎしようへい》、としは三十一歳、原宿で六坪ほどの小さな喫茶店を経営している。原宿を軽佻浮薄な植民地文化に毒された町と軽蔑なさっている方《かた》は非常に多いようだ。事実、原宿の町を歩いていると、すべてに安っぽい造りが眼につき、いま流行《はやり》の六〇年代のグラフィティ・ファッションとかがあまりに氾濫しすぎていて、いささか閉口せざるを得ない。堅実派にはお勧めできない町だ。
だが、その軽薄さを逆手にとって、一儲《ひともう》けをたくらむ|むき《ヽヽ》には、原宿は非常に魅力のある町といえる。
流行をいちはやく取り入れ、しかもその流行に流されないためには、かなりしたたかな知恵が要求される。お嬢ちゃん、お坊ちゃんが原宿にひらくブティックが、次から次に潰れていくのはそのためだ。その意味では、原宿こそほんとうの|大人の町《ヽヽヽヽ》といえないこともないのである。
おれは軽薄さと非情さが表裏一体となっているような、この原宿という町を気に入っている。この町で絶対に成功してやると心に誓っている。
だから、おれは結婚もしないし、従業員も使わない。一円でも利益を多く浮かせるために、原価計算をおろそかにしない。女の子を雇ったらどうか、と勧める客も多いが、なに、女の子が好んで入ってくるような雰囲気をつくってやれば、同じことだ。女の客が多くなれば、自然に男の客も多くなる道理だからだ──店を少なくともいまの二倍に拡張できるまで、おれはこのままがんばるつもりでいる。
ときには、若い客の相談相手になってやることもある。もちろん、親身になって相談にのってやるわけではない。商売だから、相談にのってやるふりをしているだけだ。
なに、冷たいって?
冗談じゃない。三百円のコーヒー代で、親代わりの暖かさを求めるなんて、ちょっとむしがよすぎやしないかね?
おれは原宿は軽薄さと非情さが表裏一体となった町だといったはずだ。
おれの店の名はケイ=A原宿に来ることがあったら、ぜひ一度たち寄っていただきたい。コーヒーとピザ・トーストの味では、まずほかの店にひけはとらない。気に入っていただけること、請け合いだ。
しかし、いまは店の宣伝をすべきときではない。
話を先に進めよう。
宇川洋介が姿をみせたとき、たまたま店にはほかの客が一人もいなかった。
おれはカウンターのなかでせっせと洗い物をしていて、ドアの開閉を告げるベルの音がきこえてきたとたん、反射的に「いらっしゃいませ」といいかけた。そして、語尾の二文字、|ませ《ヽヽ》を口のなかに呑みこんで、その場に立ちつくした。
おそらく、おれはとんでもない仏頂面《ぶつちようづら》になっていたにちがいない。おれには会いたくない人間が大勢いるが、宇川はそのなかでも確実に上位三位にはくいこもうという男だったからだ。
「しばらくだったな」
宇川はニヤニヤと笑いながら、いった。
「なかなかいい店じゃないか」
「ああ……」
おれは喉の底で唸った。犬だったら、牙を剥いているところだ。
宇川は肥った大男だった。おそらく胴まわりは一メートル四十に達しているにちがいない。バラの花のように血色がよく、卵型の頭はツルツルしている。つまり禿げている。いつも口元に笑いをたたえていて、どこか陽気なニヒリストという|おもむき《ヽヽヽヽ》のある男だった。
しかし、宇川のどちらかというとユーモラスな風貌にだまされてはいけない。彼に気を許すと、足をすくわれるはめになる。その巨体にも拘わらず、彼は身のこなしの非常に敏捷な男なのだ。事実、おれはアッというまに宇川が二人のチンピラを叩きのめす現場を目撃したことがある。
どうして宇川にチンピラをたたきのめす必要があったかというと、──信じられないかもしれないが──彼がかつて刑事だったからだ。
おれもそうだった。
おれたちはS署で、ともに暴力団関係を担当していた刑事だったのだ。
おれは新米刑事としてS署に配属され、はなはだ運の悪いことに、ベテラン刑事だった宇川と組まされるはめになった。
宇川はよくいえば、非常におおらかな刑事で、やくざたちが提供する金を決して拒もうとはしなかった。そして、口止めの必要を感じたからなのか、いつもおれにいくばくかの金をわけ与え、みんなやってることだから、と鷹揚《おうよう》に笑ってみせた。そんなものかな、と思い、おれは素直に金を受けとっていた──なにしろおれは新米刑事で、先輩である宇川に絶対の信頼を抱いていたからだ。
なにが、|みんなやっている《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことであるものか。ある日、その不正が上層部の知るところになり、おれたちはアッサリ懲戒免職になった。つまり、|くび《ヽヽ》になった。
おれがどうして宇川を、会いたくない人間のリストに、それもかなりの上位に入れているかは、もうおわかりだろう?
宇川はいうなれば、おれの人生を狂わせた張本人なのだ。おれは宇川という男に蹴つまずいて、転んでしまったのである。
その宇川が五年ぶりにおれの前に現われて、いけしゃあしゃあと、
「モカ・マタリを淹《い》れてくれ、うんと濃くしてな……」
といいやがったのだった。
おれは憤然として、宇川の注文を拒否したか? とんでもない話だ。たとえコーヒー代三百円といえども、宇川から金をくすねるのが、おれにとって快感でないはずがないからだ。
ムッツリとコーヒーを淹れはじめたおれに向かって、カウンターに腰をおろした宇川がいった。
「おどろいたな。ずいぶん喫茶店のマスターが|いた《ヽヽ》についているようじゃないか……結局、あんたも警察を辞めてよかったわけだ」
「あんたのおかげだ」
「そう、おれのおかげだ……」
もちろん、宇川は皮肉の通用するような男ではない。
「おれがここで喫茶店を経営していることを、どうして知った?」
おれは訊いた。
「ある人から教えてもらったんだ」
「だれから?」
「それはあんたの知る必要のないことだ」
「なるほど……」
おれは鼻を鳴らした。
宇川は昔からなにかにつけて秘密めいたことの好きな男だった。自分が知っていて、他人の知らないことが多ければ多いほど、金をせしめる可能性がたかくなると信じ込んでいるのだ。いやな奴だった。
おれはかなり乱暴に、コーヒーカップを宇川のまえにおいてやった。
宇川はコーヒーをしばらくみつめ、やがてその視線をおれに移した。
おれは平然と宇川をみかえした。
「シュガーがない」
宇川がいった。「ミルクも欲しいんだが……」
「あんたは肥りすぎてる」
おれはすかさず切り返した。
「だから、なんだというんだ?」
「甘いものは肥満によくない」
「ミルクは甘くない」
「うちのミルクは甘いんだ」
「おれは客だぜ」
「それ以前に、おれたちは友達じゃないか」
おれは微笑を浮かべ、精いっぱいのネコなで声でいった。「友人として、あんたが糖尿病になるのを放ってはおけない」
宇川はため息をつくと、砂糖とミルク抜きのコーヒーを口に含んだ。
「おれはミルクと砂糖をタップリ入れたコーヒーが好きなんだ……」
それから、いかにも悲しげに首をふって、そう口のなかでつぶやいた。「ほんとうに、好きなんだ……」
もちろん、おれは知っていた。
「ところで、そんなにも客の健康に気づかっている商売熱心なあんたのことだ。さぞや店は繁盛していることだろうな……」
やがてあきらめたようにコーヒーカップを受け皿におくと、宇川がそう訊いた。「一日の売りあげはどれぐらい行く?」
「たいしたことはない。二万ぐらいだ」
おれは用心しながらいった。宇川のまえで金の話をするのは、火薬庫でタバコを吸うようなものだ。とても、とても危険なのだ。
「そのうち半分ぐらいが純益か?」
「とんでもない。光熱費もあるし、この店の家賃も払わなければならない。四割も残ればいいほうだ」
「楽な商売じゃないな」
「灯油の値上がりがひびいたよ」
「なるほど……」
宇川はおれから顔をそむけるようにして、タバコに火を点《つ》けると、勢いよく煙を吐きだした。
「友達のよしみだ」
そして、いった。「一千万ほど儲けさせてやろうじゃないか。どうだい?」
おれは大きく息を吸って、それをゆっくりと吐きだしてから、いった。
「断わっておくが、おれは人殺しも、強盗も、泥棒も、誘拐も、結婚サギもしない」
慌てて、つけ加えた。「やくざから買収されるのもご免だ」
くりかえすようだが、宇川は皮肉なんかの通用する相手ではない。背広の内ポケットから平然と財布をとりだし、名刺を一枚抜きとると、おれのまえにおいた。
「いい遅れたが、おれはいまこんなところで働いているんだ……」
横文字ばかりの名刺だった。おれは持てる語学力のすべてをふり絞って、かろうじてマカオ≠ニクロコダイル≠フふたつの単語を判読することができた。あとは、わからない。
「マカオの公《カ》認|賭《ジ》博|場《ノ》だよ」
宇川が哀れむような眼でおれをみながら、いった。「クロコダイル≠ニいうのが店の名だ」
「あんたはそこで働いているのか」
「そうだ」
「なにをやってる? 用心棒か」
「支配人だよ」
宇川はちょっと顔をしかめて、いった。
「マカオにはこれまで五つしかカジノがなかったが、水野幸吉がマカオ財界の大物から経営権を入手して、六つめのカジノをひらくことに成功したんだ。どんな見返りを用意したのかは知らないが、正式な入札で、経営権を手に入れたんだ。いろんな問題があるらしくて、表面上は中国人の経営ということになっているが、実質は水野幸吉の経営だ……水野の名前は知ってるな?」
もちろん、知っている。知らない者は、あまりいない。
遺憾ながら、水野幸吉氏は評判のかんばしい人物とはいいかねるようだ。なにしろ、大臣がらみの疑獄事件で有名になったほどなのである──政治家のあいだに人脈をはりめぐらし、国有地を払い下げられて、土地転がしに、土地転がしを重ねて、巨万の財を築きあげた人物なのだ。ホテル王と呼ばれ、その個人資産は数十億とも、数百億ともいわれている。
しかし水野幸吉を宇川の雇い主と考えれば、これはまことに理想的な主従関係といえないこともなかった。
「たいした出世だ……」
おれは口のなかで、つぶやくようにいった。
「よかったじゃないか」
「たしかに、たいした出世だ……」
宇川はため息をつき、しかつめらしくうなずいた。「だが、人間の欲望にはきりというものがない。人間ってのはつくづく浅ましいものだと思うよ」
「浅ましいのは人間じゃない」
おれは苦笑した。「あんたが浅ましいんだ……」
当然のことながら、宇川はおれの言葉をアッサリと無視した。そして、訊いてくる。
「なあ、あんた、|絶対に《ヽヽヽ》ギャンブルに勝つということがわかっていたら、カジノに乗り込んでみる気になるんじゃないか? そう、二千万ほど勝つということがわかっていたらさ」
「病院へ行ったほうがいいんじゃないか」
「まだ、糖は出ていないよ」
「糖尿病の話をしているんじゃない。|ここ《ヽヽ》の話をしているんだ」
おれは人差し指で自分の頭をコツコツとたたいた。「絶対に勝てるギャンブルなんてあるはずがない。最後にはかならず胴元が得をすることになっているんだ」
「その胴元が客に勝たせようとしているのだとしたら、どうだ? |配り手《デイーラー》がその気になれば、客に都合のいいカードを配るなんて簡単なことなんだぜ」
宇川は椅子にそっくりかえって、大きな腹のうえに両手を組んだ。まったくの大物きどりだった。
「詳しくは話せないが、まあ、大体こういうことなんだ……二カ月に一度ぐらい、日本からやって来た男がクロコダイル≠ナ大勝することになっている。もちろん、男たちはみんな別人だが、どこかで|もと《ヽヽ》首相のTと関係しているということでは共通している。わかるだろう? 要するに、水野はその男たちにギャンブルに勝たせるという形で、じつはTに政治資金を提供しているわけだ。なにしろTと水野は刎頚《ふんけい》の友≠セからな……ギャンブルに勝った男が、その金をTの政治団体に寄付したとしても、これは水野には関係のないことだ。少なくとも、いざというときにはそう申しひらきができるわけだ……じつは来週、また男《ヽ》がクロコダイル≠ノやって来ることになっているんだよ」
漠然とではあるが、宇川のいわんとしていることが、おれの頭のなかで形をとり始めた。
「待ってくれ……」
おれはうめくようにいった。「ちょっと待ってくれないか」
「|あんた《ヽヽヽ》がその男とすり替わるんだ。その手筈はおれがととのえておく」
宇川は平然と言葉をつづけた。「あんたはカジノで儲ける。自動的に儲かることになっているんだ。そして、その金をおれと山分けする……もちろん、水野はペテンにひっかかったことを知るだろうが、それをまさか警察に届けでるわけにはいかない。水野は関西系の暴力団とも関係がふかいが、こればっかりは|やくざ《ヽヽヽ》の尽力をあおぐわけにはいかない。その暴力団の組長がなによりイカサマ博打《ばくち》を嫌っているからだ。協力してくれるはずがない……おれたちは安全だ。まったく安全なんだよ」
宇川が話し終えたあと、しばらくおれたちのあいだには不自然な沈黙がたちこめていた。おれたちはジッとおたがいの眼をみつめあっていた。
やがて、ゆっくりとおれは後退した。そして、頭を下げる。
「どうもありがとうございました……」
「一日の売りあげが二万円で、しかも四割ほどしか残らない」
宇川はカウンターのうえに金をおき、立ちあがりながら、いった。「楽な商売じゃないな」
「灯油の値上がりがひびいたよ……」
おれはボンヤリした声で、そういった。
「明日、また来る。それまでに、おれの話をよく考えておいてくれ」
宇川はちょっと片手をあげると、おれに背を向けた。そして、こがらしの吹き抜ける原宿の町へ出ていった。
おれは|よく考えてみる《ヽヽヽヽヽヽヽ》ことにした。
──店を閉めたのは、いつものとおり十時だった。
ひとりぼっちで店を経営していると、ときに臨時休業や、早じまいの誘惑にかられることがないではない。扶養の義務があるわけではないし、自分ひとりの食いぶちさえ稼いでいれば、べつに誰からも文句をいわれる筋合いはないからだ。
だが、おれはよほどの事情がないかぎり、店を臨時休業や、早じまいにはしない。この時間にはケイ≠ヘかならず営業しているはずだ、と信じてやって来る客の信頼を裏切るぐらいなら、疲労でぶっ倒れたほうがましだと考えている──大袈裟なようだが、これがおれの生き方であり、信念でもあるのだ。
しかし、そんなおれも、さすがに今夜ばかりは、最後の客がなかなか|みこし《ヽヽヽ》をあげようとしないのに苛立ちをおぼえた。 宇川の話のとっぴさもさることながら、なによりも彼がこともなげに口にした二千万円という額の大きさに、おれは動揺しているようだった。
おれは、まちがっていた。
浅ましいのは、なにも宇川ひとりに限った話ではなかったのだ。
最後の客がようやく出ていったあと、おれはカップや皿を水に漬けたきりで、後片付けもそこそこにして、店をとびだした。
町にはネオンやイルミネーションが氾濫していたが、身を切るこがらしの冷たさが、その華やかさを裏切っていた。
原宿はあらゆる意味で|薄着の町《ヽヽヽヽ》だ。若い連中のみんながみんな、ヒーターのきいたスポーツ・カーで店に乗りつけるというわけにはいかない。ちょっと冷たい風が吹けば、もうそれだけで客足がとだえてしまうのである。
どうにかタクシーを拾うことができ、暖かな座席に腰をおちつけたときには、ホッと人心地のつく思いがした。
そして、マカオの冬は日本に比べればはるかにしのぎやすい、という誰かからきいた話をボンヤリと想いだしていた。
「どちらへ行きますか」
運転手が不機嫌な声で訊いてきた。
「六本木へやってくれ」
おれはいった。
六本木にはおれのなじみの店がある。
──その店の名はチェシャ・キャット≠ニいう。
チェシャ・キャット≠フドアに通じている、古びて、やや薄暗い階段を降りていくとき、おれはいつも奇妙な錯覚にとらわれてしまう。
なんといったらいいのか、それはこのおれ、桂木昌平という男にまつわる属性が、すっかり消え失せてしまい、新しく生まれかわるというような感じなのだ。
事実、チェシャ・キャット≠ノいるあいだは、おれはケイ≠ニいう喫茶店を経営している桂木昌平ではなく、帽子屋さん≠ニいうあだ名で呼ばれている、たんなる一人の中年男になってしまう。
それというのも、チェシャ・キャット≠フママが、客たちがたがいに本名をあかしたり、職業をうちあけたりするのを、きびしく禁じるというふしぎな性癖の持ち主だからなのだが、おれはこれはなかなか気のきいた趣向ではないかと思うのだ。
じっさい、酒場で仕事の話をしたり、上役の悪口をいったりして、おだをあげている連中の気が知れない。酒を飲んでいるときぐらい、ありとあらゆる|しがらみ《ヽヽヽヽ》を忘れ、一人の男に戻ろうという気にはなれないものか。
ただし、一人の男に戻ると口でいうのは簡単だが、それはそれなりに問題がないではない。
男というやつがその上面《うわつつら》の穏やかさ、従順さのかげで、どんなに反社会的で、危険な欲望を育《はぐく》んでいる生き物であるか、おれはこの店に足をふみ入れるようになって初めて知った。もしかしたら、心ならずも社会人を演じてはいるが、わけもなく玩具《おもちや》を壊したり、母親の眼を逃れて勉強部屋から抜けだしたりした、誰にも憶えのある|あの《ヽヽ》子供時代にこそ、男たちの本質があるのかもしれない。
そう、おれたち男は本質的には子供なのである。そして、子供にとってはありとあらゆることが──たとえそれが、一般的には犯罪と考えられているようなことであっても──たんなる遊戯にすぎない。それ以上でも、それ以下でもない。
それが、問題《ヽヽ》なのだ。
チェシャ・キャット≠フ常連となり、名前も、職業も意味を成さなくなったそのときから、男たちは奇妙にバランス感覚を失っていくようだ。社会的な約束事が通用しなくなり、すべては面白いか面白くないかという一点でのみ判断されるようになる。そして、それが面白いと判断されれば──たとえ、犯罪であっても──実行することを決してためらわない。
それはまるで、このチェシャ・キャット≠ェ一般の社会とは隔絶された、まったくべつのふしぎの国≠ナあるかのようだった。
事実、おれはこのチェシャ・キャット≠ナ、兎《うの》さん、眠りくん≠ニ呼ばれる二人の男と知りあいになり、彼らと組んで、ある犯罪に手を染めている。それが何であったかはさしあたって本筋とは関係ないので、説明を省かせてもらうが、ふしぎなのは現在にいたるまで、自分が紛《まぎ》れもない犯罪者であるという自覚がないことだ。
おれはチェシャ・キャット≠ノ通じる階段を降りていくとき、いつも自分が別人になっていくという錯覚におそわれる。もう正常な世界には戻れないのではないか、という不安にかられる。
だが、おれは決して引き返さない。階段を降りて、チェシャ・キャット≠フ扉のまえに立つ。
そして、|扉をひらく《ヽヽヽヽヽ》。
カウンターで腰をおろしている二人の男が、こちらをみて微笑を浮かべた。兎《うの》さんと、眠りくん≠セった。
おれはすばやく店内に視線をめぐらして、どうやらママが休んでいるらしいことをたしかめた。兎《うの》さんたちのほかには客もいない。厨房《ちゆうぼう》からリズミカルな包丁のひびきがきこえてくるのは、おそらくアリスちゃんと呼ばれている手伝いの女の子が、おしんこでも切っているのにちがいない。
|大丈夫だ《ヽヽヽヽ》。
おれは唇を舌で湿らしてから、兎《うの》さんたちにいった。
「じつは相談したいことがあるんだが……」
──それから一週間後、おれはマカオに旅発った。
おれにとっては生まれて初めての海外旅行で、ほんとうは仕事《ヽヽ》のまえに一日でも、二日でも余裕をとって、香港なりと見物したかったのだが、なにぶん時間の制約がきびしすぎた。香港を素通りして、マカオヘ直行するほかはなかったのだ。
店のほうには一週間もまえから張り紙をして、四日間だけ休業することを、大きくマジック・インキで書いておいた。どうして休業するのかと訊く客には、実家のほうでちょっと用事があって、とだけ答えることにした。それというのもみやげの心配をしたくなかったからで、ケチと思われるかもしれないが……いや、まあ、やはりケチだからだろう。
香港─マカオ間の水中翼船、ホテルの予約などは、すべて宇川が手配してくれた。「飛達」なる大型の水中翼船に乗り込み、一時間十五分後にはもうマカオに到着していた。
そして、三輪車《サンロンチエ》に乗って、あらかじめ教えられていたホテルに向かった。
そこで宇川がおれを待っていた。
「よく来たな」
部屋に足をふみ入れるなり、宇川の上機嫌な声がきこえてきた。
宇川は大きな尻をデンと据えて、骨付きのチキンにかぶりつき、もう一方の手でワインをラッパ飲みしていた。宇川の欠点は数えきれないほどあるが、行儀のわるさもたしかにそのひとつに加えられる。
「まがりなりにも、ここはおれの部屋なんだろう」
おれはスーツ・ケースをおろしながら、いった。「すこしは遠慮というものをしたらどうなんだ」
「ポルトガル産のワインと、ポルトガル料理のチキン……どちらも絶品だ。マカオに来て、そいつを楽しまないというてはない」
宇川はチキンの骨を屑籠のなかに投げこんで、指の脂をきれいに舐めてから、その手でポケットからパスポートをとりだし、おれに手渡した。
「香港でつくらせたものだ。パスポートの偽造は意外に高くつくんだ。そのつもりで、使って欲しいものだな……」
「………」
チキンの脂はともかく、宇川の唾液がとても、とても気持ちわるかった。おれは顔をしかめながら、パスポートをめくった。
そこにおれの写真が貼ってあり、おれのものでない名前が記されてあった。板倉道夫、三十歳、勤め先は東京のとある不動産会社になっていた。
「本物の板倉道夫は香港のホテルで足どめをくらっている。この男だ」
宇川は一枚の写真をとりだし、テーブルのうえに放りだした。眼鏡をかけた、ノッペリとした顔の男が写っていた。意外にも、真面目そうな男だった。
「ほんとうなら、その男は今日にでもマカオにやって来て、クロコダイル≠ナ二千万円がとこ儲ける運びになっていたんだが……東京から香港のホテルに電話が入って、二日間|日延《ひの》べになったんだ」
「もちろん、偽《にせ》電話なんだろうな」
「そんなところだろうな」
「偽電話の手配はあんたがした……」
「かもしれんな」
「そして、おれがこの偽造パスポートを持って、板倉道夫になりすまし、クロコダイル≠ノ乗り込む……」
「ああ……」
宇川はうなずいて、ニヤリと笑った。「幸運の女神がどんなふうに微笑んだか、あとで教えてくれ」
「………」
おれは宇川に背を向けて、窓からマカオの街並みをみおろした。
街には教会の尖塔がめだち、赤い屋根、青い屋根のしっくい壁の家が、やや雑然とした感じでひろがっていた。海が明かるいためになおさらそうみえるのかもしれないが、全体になんとなくくすんだような印象があった。パステル・カラーを基調にした、古い絵画を連想させるような街だった。
どこからか、澄んだ鐘の音《ね》がきこえてきた。おれはしばらくその鐘の音にききいっていた。
「なあ、教えてくれないか」
そして、訊いた。「どうして、あんたはそんなに金を欲しがるんだ」
「うまい食事と、きれいな女と、仕立てのいい背広に眼がないんだ」
宇川が陽気な声でいった。「それに、いつかどこかのホールを借りきって、タップ・ダンスの公演をしてみたい」
自分の耳がどうかしたのかと思った。おれはゆっくりとふりかえって、宇川の顔をみつめた。
「なにをしたいんだって?」
「タップ・ダンスの公演だよ……」
宇川はうなじを掻きながら、ちょっと照れくさそうな表情でいった。「まえにいわなかったかな。おれはタップ・ダンサーになるのが夢だったんだ。子供のときから、フレッド・アステアの大ファンでな……ブクブクと肥ってくるわ、タップ・ダンスが下火になるわで、とうとう夢は実現しなかったがな」
「………」
おれは呆然と宇川の顔をみつめていた。宇川が人並みに照れるなどという芸当ができるとは、いまのいままで夢にも思っていなかったし、ましてや彼がタップ・ダンスを踊る姿など想像もできなかったからである。
「まあ、今度の金が入ったら、公演をひらくことにするさ」
宇川がもじもじとしながら、蚊の鳴くような声でいった。「そのときには、招待状を送るから、みに来てくれよな」
「ああ、ぜひ寄らせてもらうよ」
おれはそういったが、もちろん本心ではなかった。
おれは|動物の芸当《ヽヽヽヽヽ》をみたいときには、貸しホールではなく、サーカスに行くようにしている。
──その夜、おれはさっそくクロコダイル≠ノ行ってみることにした。
海辺に沿ったパリア・グランデ通りに、水野幸吉の経営するホテル・エンペラー≠ェあり、賭博場《カジノ》クロコダイル≠ヘその地下のフロアーを占めている。マカオ総督府のすぐ近くだから、場所はわるくない。
マカオの賭博場はこれまで、たとえばモンテカルロなどの|それ《ヽヽ》と比べると、よくいえば大衆的、わるくいえば場末《ばすえ》の印象が強かった。水野幸吉はそのイメージを一新させ、自分の賭博場を徹底して貴族好み、超《ヽ》高級社交場の雰囲気に仕立てあげることに成功した──事実、マカオの賭博場において、ここクロコダイル≠セけが唯一フォーマルな服装を強制される賭博場なのである。
それが当たった。
アジアには信じられないほどの大富豪が──それも日本のような成りあがりではなく、先祖代々の──少なくはない。その一方では貧困にあえいでいる多くの民衆が存在するわけだが、もちろん彼ら大富豪は大衆への利益還元などということは決して、決して考えない。人々が牛馬のように働き、自分たちが遊んで暮らすのを当然と考えているのだ。
そんな大富豪たちにとって、水野幸吉の提供するクロコダイル≠ヘ、その選民意識をこのうえもなく満足させてくれる社交場であった。要するに、彼らは大富豪であるにもかかわらず、あるいはそれだからこそというべきか、とんでもない俗物《スノブ》にすぎないのだ。
アジアの大富豪たちの選民意識を巧妙にくすぐり、クロコダイル≠大成功させた水野幸吉は、やはり天成の実業家というべきかもしれない。
おれも、まあ、青年実業家《ヽヽヽヽヽ》にはちがいないのだが、残念ながら、その資質において、水野幸吉とは格段の差があることを認めざるを得ないようだった。
──ホテル・エンペラー≠フロビーからエレベーターに乗ると、まっすぐ賭博場《カジノ》まで運んでくれる。
エレベーターの正面には、くるぶしまで埋まるような絨毯を敷きつめた通路をはさんで、クロコダイル≠フガラス扉《ど》がある。壁はすべて黒一色で統一され、ガラス扉を覗き込んでも、クロークのカウンターがみえるだけだ。
どこにも、ここが賭博場であることを示す|けばけばしさ《ヽヽヽヽヽヽ》がない。ひたすら重厚で、シックで、そこにはクロコダイル≠フ表示すらないのだ──ただ、ガラス扉のわきの壁に、ガラス・ケースがはめ込まれ、そこに五十センチほどの純金製のワニがおかれてあるだけだ。おそらく、世界でいちばん高価なワニであるだろう|それ《ヽヽ》は、頭をもたげ、牙を剥きだし、いかにも嬉しそうに笑っていた。
ガラス扉をあけ、カウンターのまえに立つと、クロークの男からいんぎんにパスポートの提示を求められる。
板倉道夫の名が記されたパスポートを提示したとき、ちょっとクローク係りの表情に動揺の色がかすめたようにみえたが、おれの思い過ごしだったかもしれない。彼らは、たとえアメリカの大統領が客として現われても、無表情を保つように、訓練されているにちがいないからだ。
そして、夢のなかでしかお目にかかれないような凄い金髪美人に案内され、ヒッソリと静まりかえった、黒一色の通路を歩いていく。
ふいに視界がひらける。
コロシアムのような円型の賭博場の、中二階の回廊に出るのだ。そこからみおろす賭博場は、中央にルーレット、ファン・タン、大小ゲームの台をおき、周囲にブラック・ジャックの台がズラリと並べてあった。奥のほうに、一段たかくなった貴賓室のような部屋があるのは、おそらく百家楽《バカラ》と呼ばれるゲームのための部屋だろう──もちろん、下賤《げせん》のやからが楽しむスロット・マシンの類いは、一台もおかれていない。 壁のいたるところに、巨大なテレビ・スクリーンがはめ込まれ、ゲームにうち興じている人々の姿を映しだしている。保安・監視のために必要なモニター装置を、こうして|おおっぴら《ヽヽヽヽヽ》にディスプレイにしてしまうことを思いついたのは、おそらく水野幸吉本人にちがいない。悪趣味だが、たしかにそれなりの効果があることを認めないわけにはいかなかった。
賭博場《カジノ》だからといって、眼を血走らせ、大声でわめきちらしている人々の姿をみるのを期待すると、失望することになる。大富豪たちは決して興奮しない。興奮しないで、いとも優雅に、ゲームを楽しんでいらっしゃる。もちろん、彼らの国の貧しい家族が一年暮らせるだけの金を、たった一晩の遊興で使いはたしてしまうことに、反省のかけらも示さない。大富豪《ヽヽヽ》なのだ。
おれがとりあえずブラック・ジャックの台に行こうかと、階段を降りかけたそのとき──ふいに背後から両腕を強く抑えられるのを感じた。
ゆっくりとふりかえったおれの眼に、東南アジア系の顔だちをした、若く、屈強な二人の男が映った。
そのきちんと身につけた礼服も、彼らが全身から発散している暴力的な雰囲気を、覆いかくすことはできないでいた。疑いようもなく、彼らは暴力のプロなのだった。
「申し訳ありませんが、お客さま──」
男のひとりが、おどろくほど流暢《りゆうちよう》な日本語でいった。「ちょっと事務所まで、おいでいただけないでしょうか」
──二人の男に腕をとられ、おれはいま来た通路を戻り、クロコダイル≠出て、エレベーターに乗った。
二人の男は微笑さえ浮かべていたから、外見《そとみ》には仲のいい三人組がもつれあって歩いているようにみえたかもしれないが、とんでもない、おれは連行《ヽヽ》されていたのである。
そのことをたしかめようと思ったら、膝をたかくあげるなり、ひじを突っぱるなり、要するに逃げだそうとするそぶりをみせればいい。彼らの拳がたちどころに飛んでくることは間違いない──もちろん、おれにはそんな実験をする気はさらさらなく、たいへん大人しく彼らにしたがっていた。ヒツジのように大人しく、といいたいところだ。
一階でエレベーターを降り、フロントのわきのドアを抜けると、そこにはうす暗い螢光灯に照らしだされた通路が、いかにも殺風景にのびていた。
どこからかボイラーを焚く音がきこえてきて、おれは焼き殺されるのではないか、という不吉な想像に、一瞬、うなじの毛が逆立つのをおぼえた。
二人の男はあいかわらずおれの腕を抑えたまま、一言もしゃべらないで、通路を歩いていく。
通路の途中に、保安・監視室があった。パネルにモニター・テレビが並び、賭博場の様子をあまねく映しだしていた。テープが回っているところをみると、そのすべてが録画されているにちがいない──狭い監視室では、二人の男がコーヒーをすすりながら、ジッとテレビにみいっていた。おれたちのほうをみむきもしなかった。
通路は行きどまりになっていて、そこに緑いろのドアがあった。
男の一人がそのドアを遠慮がちにノックした。
「入れ」
日本語の返事がかえってきた。
男はドアをあけ、うながすようにおれの顔をみつめた。
おれは部屋に足をふみいれた。
そこに、水野幸吉がいた。
写真でみる水野幸吉はいかにもふてぶてしい感じだが、実物はドングリ眼《まなこ》の、剽軽《ひようきん》な顔をした老人にすぎなかった。頭頂部がきれいに禿げて、まわりに|まばら《ヽヽヽ》に毛が残っているところなどまるでカッパで、思わず吹きだしたくなるようなおかしみがあった──その姿はおよそ大物という言葉から受けるイメージとはほど遠く、まったくの話、ここがホテル・エンペラー≠ナなかったら、彼を水野幸吉の|そっくりさん《ヽヽヽヽヽヽ》と思ったかもしれない。
水野幸吉は粗末な事務机のむこうにすわって、おれをみつめていた。
その事務机をのぞいては、ファイル・キャビネットと、それから天井におさだまりのモニター・カメラが備えつけられているだけで、ほかにはなにもなかった。嘘のように、殺風景な部屋だった。
おれはその場に立ったまま──なにぶん、すわるべき椅子がなかったので──しばらく水野とにらみあっていた。
「わたしがこのマカオに来るのは、たまには静養したいと考えるからなんだよ」
やがて水野がこれも意想外の、甲高い、女性的な声でいった。「そんなときにかぎって、どうしてきみのような道化者が舞いこんできたりするのかね? じっさいの話、きみ、わたしは迷惑しているんだよ」
「道化者?」
おれは眉をひそめて、訊いた。「どういう意味ですか。わたしが来ることは、ちゃんと東京から連絡が……」
「板倉道夫なる人物がやって来るという連絡はあった……」
水野は手をふって、おれの言葉をさえぎった。「だが、きみじゃない。きみは板倉じゃない」
「………」
おれは沈黙した。
「この服をみたまえ……」
ふいに水野は自分の背広の襟をつまんで、いった。「これは|つるし《ヽヽヽ》の背広だ。いまどき、そこらへんのサラリーマンのほうがよほどいい背広を着ている」
おれは口を閉ざしたままだった。むしろ、あっけにとられていたといっていい。水野がなにを着ようと、おれの知ったことではなかったからだ。
「東京の成城にある|うち《ヽヽ》だって借家だ──わしは昼食には、いまだにモリソバか、カケソバしか食べない。タバコはハイライトしか吸わない……」
水野は言葉をつづけた。「わたしはそれで財を成したんだ。だれにもひけ目を感じることはない……ところが、世間はそうは思わない。わしがなんの苦労もなしに、いまの地位を築きあげたと思っているんだ。そう思っているからこそ、わたしから多少の金をくすねてもさしつかえないと考えている。冗談じゃない。さしつかえるんだ。世間の連中も金が欲しいなら、わたしのようにひたいに汗して働けば……」
「どうして、わたしが偽物《にせもの》だということがわかったんですか」
おれは慌てて、水野の言葉をさえぎった。水野の話がどうやら、おさだまりの成功談に向かいそうな気配があったからだ。要するに、どこそこの貧農に生まれて、高校を卒業した後、裸一貫で上京してきて云々……という|あれ《ヽヽ》だ。地元の高校に招かれた成功者が、よくそんな講演をして、可哀想な高校生を死ぬほど退屈させることになる。──
「若い者はすぐにそれだ。人生の先達の言葉に謙虚に耳を傾けようとしない……」
水野はいかにも不満げに首をふって、いった。「まあ、いい。そっちがそういう態度に出るなら、こっちもそのつもりでお相手するだけだ……きみが偽者だということは、電話で報せが入ったんだ。匿名《とくめい》の電話でね……|終わった《ヽヽヽヽ》ぞ」
もちろん、最後の一言はおれに向けていわれたものではなかった。どうやら、この部屋には隠しマイクが仕掛けられているらしく、水野がそういうと同時に、おれの背後のドアがサッと開かれるのを感じた。
おれはゆっくりとふりかえり、そして宇川と向かいあった。いうまでもないことだが、おたがいに知り合いだというそぶりは|け《ヽ》ほども示さなかった。
「連れていけ」
水野がもうおれには興味をなくしたとでもいうように、顔をそむけていった。
おれは宇川がのばしてきた腕を、巧みにはぐらかし、そのままツカツカと水野に歩き寄っていった。とっさのことで、宇川も水野もおれがなにをするつもりなのかわからなかったにちがいない。
「どうも有益なお話をありがとうございました……」
おれは机ごしに上半身をのばして、水野の肩をポンポンと陽気にたたいた。そして、その手をにぎって、上下に勢いよく振る。
「たいへん|ため《ヽヽ》になりました。ありがとうございました……」
「おかまいもしませんで……」
よほど、あっけにとられたのだろう。水野はそのドングリ眼《まなこ》をパチクリさせながら、そんなトンチンカンな科白《せりふ》を口にした。
「さあ、もういい加減にしないか」
宇川が背後からおれの腕をつかみ、ウンザリしたような声でいった。「おれといっしょに来るんだ……」
──おれは宇川と並んで、通路を出口に向かって歩いていった。
おれたちはしばらく一言も口をきこうとしなかった。
ただ、おれたちの靴音が通路に虚ろにこだましているだけだった。
やがて、宇川が喉の底で唸るような声でいった。
「さっきのあれはいったいなんのつもりだったんだ」
「なにが?」
おれは訊き返した。
「どうして、水野にあんな真似をした?」
「いいじゃないか」
おれはニヤリと笑った。「年長者にたいする当然の礼儀だ」
「ふん」
宇川は鼻を鳴らし、そっぽを向いた。そして、吐き捨てるようにいう。
「とにかく、これでなにもかもメチャクチャだ。計画はごはさんだな……いったい、どこのどいつが密告なんて真似をしやがったのか……」
それから、ふいに足をとめると、いかにも疑わしげにおれの顔をみつめた。
「冗談じゃない」
おれは静かにいった。「もしこの仕事がいやだったら、最初からそういってるよ。なにもマカオくんだりまでやって来て、そんな姑息《こそく》な真似をする必要はない」
「最初は引き受けるつもりだったのが、そのうち怖くなったとも考えられる」
「そう、そういうこともありうるな」
おれはうなずいて、いった。「しかし、まさかそんなことを本気で考えているんじゃあるまいな」
「………」
宇川はジッとおれの顔をみつめた。それから、顔をそむけるようにして、ふたたび歩きはじめた。
おれもニヤニヤと笑いながら、宇川のあとにしたがった。
──従業員の専用ドアのあたりで、あの二人の男が待っていた。二人とも手の甲に厚地のなめし革を巻いていた。
「おい、冗談じゃないぜ」
おれが宇川をふりかえって、そう叫んだときには、もう彼はきびすを返しかけていた。
「それぐらいは我慢するんだな」
宇川はそういい捨てるなり、さっさと通路を引き返していった。この騒ぎのそもそもの原因が、宇川にあることを考えれば、まったくもって無責任な態度といわねばならない。じつに、友達がいのない奴だった。
おれはしぶしぶ顔を前方に戻して、二人の男が近付いてくるのをみつめた。
最初の一撃はあごに入ってきた。
──どこかできいた曲だと思ったら、美空ひばりのリンゴ追分≠セった。
ただし、歌詞は日本語ではない。中国語だ。
おれはべッドの上によこたわり、しばらく中国語のリンゴ追分≠ノききいっていたが、やがて曲を追っているのが面倒になり、ラジオのスイッチを切った。
それから起きあがり、スリッパをつっかけて、バス・ルームに向かった。
洗面所の鏡に映るおれの顔には、とりたてて変わったところがないようにみえた。無精髭が濃いのと、やや疲れがめだつのをべつにすれば、いつもの面白くもなさそうな|おれ《ヽヽ》の顔だ──ただし、眼のまわりを指でさわってみれば、殴られて、腫れあがった感触がはっきりとわかる。
さすがに、あの二人組は手慣れたものだった。あとが残らないように、おれを|きれい《ヽヽヽ》に痛めつけてくれた。もちろん、だからといって、おれが彼らに感謝しなければならないいわれがあるわけではなかったが。
蛇口から水を出しっぱなしにして、タオルを濡らし、腫れあがった部分を抑えた。思わずうめき声が洩れるほど、気持ちがいい。しばらくそのまま顔を抑えつけていたが、やがてタオルがなま温《ぬる》くなり始めたので、もういちど水に漬けようとした。
ドアがノックされているのに気がついたのは、そのときだった。
おれは乾いたタオルで手早く顔を拭き、バス・ルームを出た。そして、ドア越しにきく。
「だれだ?」
「ぼくです──」
眠りくん≠フ声だった。
ドアを開けると、そこにいつもの茫洋とした眠りくん≠フ顔があった。
まえにも述べたように、チェシャ・キャット≠ナ知りあった客同士は、たがいに本名も、職業も明かすことを禁じられている。じっさいには、つきあっているうちに、それとなくわかってくるものだが、おれたちはかたくなに知らないふりを貫いている。そのほうがなにかと都合がいいし、おれたちのつきあいにはふさわしいように思えたからだ。
眠りくん≠ヘ水割りをほんの二、三杯も飲めば、コトンと寝ついてしまうことから、このあだ名がつけられた。
ただし、彼の特技は寝つきのよさだけではない。非常にメカに強い若者でもあるのだ。
「クロコダイル≠ノはもう行ったんですか」ドアを閉めるなり、眠りくん≠ヘ訊いてきた。
「ああ」
おれはうなずいて、訊き返した。「いつマカオに着いたんだ?」
「ついさっきです。今日の午後の便で香港に来ましたから」
「兎《うの》さんは?」
「明日の朝になるんじゃないですか」
眠りくん≠ヘ大きなトランクをテーブルのうえにおきながら、いった。「必要なものはすべて揃えておきました。|サングラスの細工《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》はわりと簡単だったんですが、もうひとつのほうがむつかしくて……」
「そのことなんだが……」
おれはちょっといいよどみ、それから思いきっていった。「作戦を変更しようと思っているんだ」
「変更ですか?」
眠りくん≠ヘ情けなさそうな表情になった。苦労して、準備をととのえたあげく、その準備が不要になったときかされれば、眠りくん≠ナなくても、がっかりして当然だろう。
「サングラスのほうはそのまま使うことになると思う」
おれは慌てて、いった。「ただ、もうひとつのほうがむりなんだ」
「どうしてですか」
「クロコダイル≠フいたるところにテレビ・カメラが仕掛けられている。とても、昼間のうちに忍びこむなんてできそうにない」
「だけど、サングラスの細工だけじゃ|弱い《ヽヽ》ですよ」
眠りくん≠ェ意気消沈したような声でいった。「とても、作戦の成功は望めそうにない」
「だからさ」
おれはニヤリと笑って、いった。「だから、作戦を変更したといったんだ……」
「うかがいましょう」
眠りくん≠ヘ椅子に腰をおろしながら、いった。
おれは話した。
作戦の変更を説明するのに三十分ほどかかり、その成功をあやぶむ眠りくん≠説きふせるのに、それからさらに一時間以上もかかってしまった。
──一瞬、クロークの男はわが眼を疑ったにちがいない。
図々しくもクロコダイル≠ゥら大金をせしめようとし、その企みがばれて、さんざん痛めつけられたはずの男が、翌日の夜にまたしても舞い戻ってきたのだ。
いくら感情を面《おもて》にださないように訓練されているとはいえ、まったくの無表情でいられるわけがない。クローク係りといえども、人間であることにかわりないのだ。
カウンターに提示したパスポートも、昨夜と同じ板倉道夫名義のものなのである。
「ちょっとお待ちください」
クローク係りはそういうと、背後のカーテンのなかに駆け込んでいった。それでも日本語を正確に発音できたのは感心だが、惜しむらくはやや声がうわずっていた。
おれにしても、ハードボイルドのヒーローよろしく度胸をかまえていたというわけではない。心臓の鼓動がたかまっていたという点では、クロークの男と|おつかつ《ヽヽヽヽ》だった。要するに、怯えていたのだ──ただ、今夜のおれは濃いサングラスをかけていて、表情を読まれないだけ、こちらのほうが有利といえないこともなかった。
おれはクロコダイル≠フ入り口にひとり残され、その場につくねんと立ちつくしていた。
そうして立っていると、昨夜から二十四時間という時間が経過したことが、嘘のように思えてくる。昨夜の記憶が短絡《シヨート》して、現在と重なり、なんだか今はじめて|ここ《ヽヽ》へ足をふみ入れたような、そんな気がしてくるのだ。
それというのも、なにひとつとして昨夜とかわっていないからだ。暗く、静かで、おちついたクローク。かすかに、ほんとうにかすかに伝わってくる賭博場の熱気。ほのかに、上品にただようオーデコロンのかおり……なにもかもが、昨夜と同じだった。
いや、正確にはひとつだけ昨夜と異なる点が、それも大きく異なる点があった。それは、昨夜はどう転んでも、命をおびやかされる心配はなかったが、今夜はひとつ間違うと殺されるはめにもなりかねないということだった。
ふいに、自分の汗のにおいが強く意識されるようになった。心臓の鼓動が、ドラムのように大きく耳の底で鳴り響いている。
もしかしたら自分はとんでもない無謀な真似をしようとしているのではないか、という怯えが喉を締めつけてくる。掌に冷たい汗がにじんでくるのを感じる。もうひとりのおれが頭のなかでしきりに金切り声でわめいている。引き返すならいまだ。いまなら、まだ間にあう。|引き返せ《ヽヽヽヽ》……しかし、引き返すにはもう遅すぎた。
クロークの奥のカーテンがひらき、昨夜のあの二人組が現われた。そして、カウンターの両端に別れ、右と左からおれを挾むようにして立った。
二人の男はジッとおれの顔をみつめ、ときおり首をかしげたり、舌を鳴らしたりした。それはちょうど、腕のいい職人が自分の仕事にもうひとつ納得がいかない、というときのような感じだった。
「ちょっとお訊きしたいんですが……」
やがて、男のひとりが遠慮がちな声でいった。「昨夜のわたしたちのパンチはあまり痛くなかったですか? その……あまり、ききませんでしたか」
「とんでもない」
おれは仏頂面になって、答えた。「水で冷やさなければ、痛くて寝れなかったぐらいだよ」
「それなら、いいんですが……」
男はホッとしたように笑った。「あなたがあまり早くいらっしゃったものだから、もしかしたら、いい加減な仕事《ヽヽ》をしてしまったんじゃないかって、ちょっと気にかかりましてね」
そのとき、賭博場のほうから宇川が急ぎ足でやって来た。
宇川はおれの姿をみて、噛みつきそうな表情になった。第三者の眼がなかったら、じっさいに噛みついていたかもしれない。
おれのほうは、といえば、宇川の無事な姿をみてホッと胸をなでおろす思いだった。少なくとも宇川は、イカサマ賭博の情報を流したという嫌疑をかけられるのだけはまぬがれたようだ──もっとも水野ほどの大物になれば、いちいちそんな細かいことに気をかけてはいられないのかもしれないが。
「きさま、なにしに来たんだ」
宇川は大声で怒鳴った。「痛いめにあっても、まだ懲りないのか」
「ただの客として来たのさ」
おれは上機嫌でいった。「純粋にギャンブルを楽しみたくてね。べつにかまわないだろう? それとも、まだおれがなにかするとでも疑っているのか」
一瞬、宇川はおれを凄《すご》い眼つきでにらみつけた。
宇川にしてみれば、おれはすでに過去の人間なのである。おれをもと首相Tから派遣された人間の替え玉にしたてあげて、大金をせしめようという計画は、密告電話によって、もろくも潰《つい》え去った。もう、おれに利用価値はない。
その利用価値のないはずのおれが、いけしゃあしゃあとクロコダイル≠ノ現われたのだから、宇川がろうばいし、憤慨するのも、いわば当然のことだったのだ。まったくの話、人目がなかったら、おれの頭を断ち割ってでも、その真意をたしかめたかったにちがいない。
「ここは賭博場《カジノ》なんだろう」
おれはいった。「ギャンブルを楽しみたいという客に足止めをくらわすなんて、どういう了見なんだ?」
「………」
宇川は探るような眼でおれをみている。おれがなにをたくらんでいるのか、なんとかつきとめたいと考えているのだ。つきとめられるはずがなかった。
「いいだろう……」
やがて宇川はあきらめたように身をしりぞけたが、こう警告の言葉をつけ加えるのを忘れなかった。「ただし、ちょっとでもおかしな真似をしたら、そのときには容赦なく痛いめにあわせるぞ。わかってるな」
もちろん、その警告には二重の意味が含まれていた。|おかしな真似をするな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|このおれを裏切るな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……
──中二階の回廊のうえからみたかぎりでは、賭博場《カジノ》の雰囲気はそれほど熱しているようにはみえない。上品なホテルの雰囲気だ。
しかし、階段を降りていくにしたがい、しだいに喧噪《けんそう》がたかまっていき、やがては人間大のハチが耳もとで飛びまわっているような騒がしさになる。いやがうえにも興奮がたかまっていかざるを得ない。非常に巧みな音響効果といえた。
客たちの国籍はじつにバラエティに富んでいた。日本人、中国人はもちろん、フィリッピン人などの東南アジア系、インド系、はては体格のいいアラブ人の姿までが混じっていた──ただし、金に不自由しないという一点にかぎっていえば、彼らは同国人《ヽヽヽ》といえないこともなかった。ある意味では、大富豪に国籍はない。
賭博場の隅のほうで、水野幸吉がきちんとタキシードを着て、お飾りのタヌキのように立っていた。タキシードだからといって、なにも眼をむくほど高価なものばかりとはかぎらない。最近では、デパートに行けば、つるしのタキシードが安く買える。水野のことだから、バーゲンで買ったのかもしれない。
宇川が水野のもとに歩み寄っていって、なにかしきりに耳うちしていた。ときおりこちらのほうに視線を走らせるところをみると、どうやら話題の中心になっているのは、このおれのようだった。あまり好意的な視線とはいえなかった。
もちろん、おれはそんなことは気にしない。胸を張って、そのまま|まっすぐ《ヽヽヽヽ》ブラック・ジャックの台に向かった。
ブラック・ジャックの台のまえに腰をおろすと、おれを値踏みする視線の十字砲火にさらされた。お金持ちの紳士淑女がさりげなくみつめ、おれの正体を探ろうとする。社長の御曹子《おんぞうし》か? ちがう。映画スターか? ちがう。誰か有名人の恋人か? |ちがう《ヽヽヽ》……紳士淑女の皆さんはおれから急速に興味を失っていったようだ。
要するに、場違いな賤民がまぎれこんできたにすぎない。いずれ、なにもかもむしりとられて、泣きっ面《つら》で退散するはめになるに決まっている。ギャンブルにおいて、幸運の女神が貧乏人にほほ笑みかけることはめったにない。|へこんだ《ヽヽヽヽ》ときに、どれだけ持ちこたえられるかで、勝敗の決まる場合が非常に多いからだ。
ディーラーはカードをあざやかに切ると、席についている人間に一枚ずつ、裏返しにして配った。そして、自分のカードを|これ《ヽヽ》は表にして、まえにおいた。ディーラーのカードはダイヤの4だった。
おれのカードは、スペードのジャックだった。絵札だから、これは十に数えられることになる──ここで、全員がチップを賭けなければならない。おれはつつましく十ドルだけ賭けた。このテーブルで定められている賭け額としては、最低のチップだ。笑わば笑え。十ドルの純益を稼ぎだそうと思ったら、コーヒーを少なくとも二十杯は売らなければならないのだ。
二枚めのカードが表向きにされて、配られた。おれはそのカードをみて、危うく声をだしそうになった。息がつまった。三枚めのカードは要らないと首をふった。
カードが配り終えられ、二十一を越えてしまった客たちが失格した。そして、|生きている《ヽヽヽヽヽ》人間だけが、ディーラーと勝負した。ディーラーのカードは十九で、おれを除いた客たちはみんな負けるはめになった。客たちは首をふったり、苦笑を浮かべたり、たいへんお上品に負けを受け入れた──しかし、おれが自分のカードをみせるにいたって、そのお上品な雰囲気も破られることになった。
おれの二枚めのカードはスペードのエースだった。
エースは一に数えても、十一に数えてもいいから、一枚めの絵札の十と合計して、これは二十一になる。それも、ただの二十一ではない。スペードのエースとジャックの場合には、そのものズバリのブラック・ジャック≠ニ呼ばれ、倍率が五倍になるのだ。
おれがカードをみせたときに、一瞬、テーブルがどよめいたのも、いわば当然のことだったのである。
|初心者の幸運《ビギナーズ・ラツク》というやつだ。
もちろん、おれは嬉しかった。ゲームに勝って、金を稼げたから、嬉しかったのではない。異|常な勝ち方をして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|人目を惹くのに成功したから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、嬉しかったのだ。
こうしてゲームは開始されたのだった。
──おれはディーラーに勝っていた。
確実に勝っていた。
もちろん、すべてのゲームに勝ったというわけではない。そんなことは不可能だ。そうではなくて、|五一対四九の勝率《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》でおれが勝つように、ゲームが運ばれていたのだ。この勝率にまちがいはない。そうなるように、あらかじめ計算されていたのだから。
この勝率でゲームが運ばれていくとなると、一回に十ドルのチップをおくとして、だいたい一時間に二十ドルずつ|こちら《ヽヽヽ》が儲けていく計算になる。たいした稼ぎではない。たいした稼ぎではないが、じつはギャンブルで最もありえないこととされているのは、|確実に《ヽヽヽ》儲けていくことなのだ。
考えてもみるがいい。
一生に一度の|大当たり《ジヤツク・ポツト》なら、これはありえない話ではない。
しかし、ギャンブルで確実に儲けていくのは、統計的に不可能なのだ。ながい眼でみれば、かならず客は損をすることになっている。だからこそ、ギャンブルの胴元が商売として成立するのである。
ところが、おれは確実に勝っていた。|足の指を動かし《ヽヽヽヽヽヽヽ》、勝ちつづけていた。
ひとつには、|初心者の幸運《ビギナーズ・ラツク》がついて回ったこともあった。さすがに、ブラック・ジャック≠アそもう出なかったものの、エースと絵札の組みあわせ、いわゆるスモール・ジャック≠ェ二度ほど出た。倍率は三倍だ。
ディーラーの顔色がしだいにかわっていくのがわかった。彼は経験から、客が確実に儲けを収めていくことが、いかにありえないことであるかよく承知している。そのありえないことが、起こっているのだ。幽霊を目《ま》のあたりにする気持ちだったにちがいない。
最初の二時間で、おれのトータルの儲けは千四百ドルほどになっていた。
本業の喫茶店でこれだけ儲けようとするには、何杯のコーヒーを売らなければならないか、考えるだにそら恐ろしい数であるにちがいない。
しかし、そこでおれの運が尽きた。
ふいにおれはうしろから羽交い締めにされるのを感じた。上体を後方にひっぱられ、背広とチョッキのボタンが幾つかはじけとんで、前がだらしなくはだけてしまった。
「こいつはイカサマだ」
おれを羽交い締めにしたやつが、そう日本語で叫ぶ声がきこえてきた。「腹になんか巻いていやがるぞ」
その場にいた全員の視線が、おれのむきだしになったシャツのうえに注がれるのがわかった。
おれの腹にくくりつけられている、タバコほどの大きさの四つの真鍮《しんちゆう》の箱と、一列の電池のうえに……
その真鍮の箱には|コンピューターが収められ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、一列の電池はおよそ二時間にわたって、それに六ボルトの電気を供給する仕掛けになっていた。
──数あるギャンブルのなかで、ブラック・ジャックだけがわずかなりとも必勝法の存在するゲームなのである。
嘘ではない。
まだ配られていない残りのカードをいつも憶えてさえいれば、それでいいのだ。要するに、統計的な問題にすぎない。
ただし、それには超人的な精神集中力、プラス記憶力が要求される。
人間にはむりだ。
こういうときのために、人間はコンピューターなるものを発明した。
そうじゃないか?
これからは眠りくん≠フ受け売りにすぎないから、おれにも多少あいまいなところがある。おれにしても、コンピューターに関しては素人だという点では、|あなた《ヽヽヽ》とかわりないのだ。そのつもりで、きいていただきたい。
コンピューターのデータに必要とされるのは、まだゲームに登場しないカードすべてのおもての数、──それにディーラーとプレイヤーが|四つの選択《ヽヽヽヽヽ》にたいして、十七未満、十七、十八、十九、二十、二十一、それから二十一を越す点数──つまり|ドボン《ヽヽヽ》だ──を持っている確率である。
ここでいう四つの選択とは、たとえばもう一枚カードをもらうとか、賭金を倍増するといった、ゲームの対処の仕方のことだ。べつに、むつかしいことではない。
これだけのデータを用意して、プログラム記憶装置、記憶制御装置、中央処理装置、入出力回路などを、こぢんまりとした真鍮の箱四つに納める。タバコよりもちょっと大きいくらいの箱のなかに充分に納められる──そして、さっきもいったように、コンピューターに必要な電気は、腹に巻いた電池によって供給されるのである。
これで、コンピューターがあなたの代わりに必要な計算をしてくれる。まだゲームに出ていないカードが何であるかを記憶しておいてくれる。
おれはコンピューターからズボン、そして両足の親指の表と裏にテープで貼りつけたスイッチヘと導線を引き、親指を動かし、そのスイッチを操作する。それで必要なデータを入力するのである──コンピューターの答えを人に知られないで取りだすために、サングラスのわくに七個の|発光ダイオード《LED》を一列に埋め込んだ。超小型コンピューター出力置数器《レジスタ》の数字は色わけされているから、眼にちかすぎても、コンピューターの答えがみづらいということはまったくない。
コンピューターを能率よく操作するためには、足指スイッチの操作を練習する必要があった。
そのために|ここ《ヽヽ》一週間というもの、おれは両足の親指にスイッチを貼りつけておき、いつも足指運動の練習をくりかえすことに専念した。
いまではカード点数を毎秒二枚の必要速度で投入することに、なんの困難も感じなくなっている。
さて、以上は眠りくん≠フ製作によるものだが──いったい、どこからこれだけの機材を調達してきたのか、ふしぎでならない──残念ながら、彼がこのブラック・ジャックイカサマ超小型コンピューター≠発明したとはいえないようだ。
これも眠りくん≠フ受け売りにすぎないのだが、一九七二年ごろ、アメリカのサニヴァイルという土地に住むケイス・タフトなる電子工学の技師が、この装置を発明したのだそうだ。ケイスはこの装置をつかい、ネバダ州の賭博場《カジノ》でさんざん荒かせぎをしたということだった……
もちろん、クロコダイル≠フだれ一人として、この装置が正確にはどう使用されるのか、知っている者はいないはずだった。
しかし、だれかがギャンブルに異常な勝ち方をし、しかも奇妙な装置を隠し持っているとしたら、そいつがイカサマをしていると考えるのはごく自然な推理であったにちがいない。
一瞬、静まりかえったおれのテーブルは、次の瞬間、騒然となった。
「イカサマだ」
だれもが口々にそう喚きたてる。
なかでもいちばん興奮し、かつ憤然としているのは、ほかならないディーラーだった。おそらく自分の職域を侵されでもしたように感じたにちがいない。いまにもおれに掴みかからんばかりの勢いだった。
おれは小突かれ、蹴とばされ、いつしかクロコダイル≠フ中央に引きずりだされていた。決して大袈裟にいうのではなく、おれは命の危険さえ感じていた。彼らギャンブラーたちにとって、イカサマ師こそもっとも憎むべき人間であるにちがいないからだ。
おれのイカサマを最初に見破り、羽交い締めにした男は、いつのまにかクロコダイル≠ゥら姿を消していた。
何人かの人間につかまえられ、床のうえに抑えこまれたおれのまえに、水野と宇川のふたりが立っていた。
「バカな真似をしたものだな」
水野はいかにも嬉しそうな声でいった。
「人間真面目に働くのがいちばんだというわたしの忠告をきかないから、こんな目にあうことになる……もちろん、きみの身柄は警察にひきわたすことになる。日本にはしばらく帰れないかもしれないな」
宇川は塩を舐めたような顔をして、おれをみつめていた。おそらく、おれのことをとんでもないバカだと考えているにちがいなかった。
「約束がちがうじゃないか」
おれは大声で叫んだ。
「約束?」
水野が不審げな顔になって、訊いた。「なんの約束だ?」
「おれに勝たせてくれるという約束だったじゃないか。おれはあんたの友達、もと首相のTから派遣されてきた人間だぞ。イカサマがバレたからといって、こんなあつかいはひどいじゃないか。イカサマはもともと、あんたとの|なれあい《ヽヽヽヽ》だったはずだぞ」
Tの名前がおれの言葉に信憑性を与えてくれたようだった。おれの周囲に立っている客たちのあいだに、囁きあう声が小波《さざなみ》のように交された。ごていねいなことに、おれの言葉をわざわざ英語に翻訳して、隣りの人間に伝えている者までいた。
「だれがそんな言葉を真《ま》に受ける者がいる」
一瞬、水野はひるんだようだったが、すぐさま尖った声で切り返した。「見苦しい言い逃れはやめにしたらどうだ……おい、このバカを警察に連れていけ」
もちろん、最後の言葉はおれに対していわれたものではない。宇川が首をふりながら、ゆっくりとおれに向かって足をふみだそうとした。
そのとき、それが起こったのだ。
だれかの叫ぶ声がきこえ、客たちの眼が一斉にそちらのほうに向けられた。そして、壁にはめこまれているテレビ・スクリーンのうえに、その視線が凍りつく。
テレビ・スクリーンには、きのうのおれと水野が会見したときの録画フィルムが映しだされていた。
おれが水野のもとに歩み寄っていき、いかにも親しげにその肩を叩いている。嬉しそうに、握手を交している──その情景は、おれと水野がごく親密な関係にあることを、はっきりと示していた。
フィルムがとぎれたのちも、しばらくクロコダイル≠ヘしんと静まりかえっていた。
最初に帰り支度を始めたのは、肥った中国人の紳士だった。つづいて、フィリッピン人の若いカップルが腕を組んで、出口に向かった。それをきっかけのようにして、客たちが一斉に帰りはじめた。
胴元ぐるみでいかさまをするような賭博場《カジノ》では、安心して遊ぶことができない。客たちが見切りをつけるのも当然なのだ──この瞬間、クロコダイル≠ヘすべての信用をうしない、事実上、倒産したも同じだった。
「待ってくれっ、こいつは罠《わな》だっ、陰謀なんだ──」
水野が悲痛な声でそう叫んでいたが、むろん、だれひとりとして足を止めようとする者はいなかった。
おれもこの隙にクロコダイル≠ゥら逃げだそうとしたことはいうまでもない。
しかし、うまくいかなかった。
ふいに背中になにか固い感触を感じ、足をとめざるを得なかったのだ。
かつて刑事をしていたおれには、憶えのある感触だった。
拳銃の感触──
「訊きたいことがあるんだ……」
宇川がため息をつくようにいった。「ちょっと、つきあってくれないか」
──暗く、湿って、饐《す》えたようなにおいのする路地だ。人気《ひとけ》はまったくない。
「きさま、最初からそのつもりだったんだな」
おれに拳銃をつきつけながら、宇川が訊いた。「おれの話に乗るようなふりをして、最初からクロコダイル≠潰すのが狙いだったんだな」
「ああ……」
おれはうなずいて、いった。「そうだ」
そう、|それ《ヽヽ》がおれの狙いだった。そして、そのための協力を兎《うの》さんや眠りくん≠スちに求めたのである。
クロコダイル≠潰すには、店の信用を失墜させるにしくはない──それが、おれたちの結論だった。
そのためには、水野幸吉がブラック・ジャックのイカサマを使って、もと首相のTに献金をしているという事実を、客たちのまえであばきたてればよかったのだが……それがむつかしかった。
ディーラーがカードさばきによって行なうイカサマをあばくのは、ほとんど不可能だからである。
もう、おわかりだろう。
ブラック・ジャックイカサマ超小型コンピューター≠ネどというものを用意したのは、その装置をみれば、だれの眼にも|そこ《ヽヽ》でいかさまが行なわれているのが明らかになるからである。
最初の計画では、だめ押しの意味で、クロコダイル≠ノ忍び込んで、|それらしい《ヽヽヽヽヽ》装置を──つまり実際に機能しなくても、いかにもいかさま仕掛けのようにみえる機械装置のことだ──ルーレットに仕掛けることになっていたのだが、これは賭博場《カジノ》の警備状況をみたとたんにむりなことがわかった。
あの厳重な警備の眼をくぐって、クロコダイル≠ノ忍び込むことなど、とうてい不可能な話だからだ。
いい遅れたが、板倉なる男は偽者《にせもの》だということを水野に事前に電話したのは、この|おれ《ヽヽ》だ。賭博場《カジノ》の警備状況を詳しく知りたいためにしたことなのだが、これが非常に役立つことになった。
賭博場《カジノ》に忍び込むのは不可能だが、保安・監視室に忍び込むのはかならずしも不可能ではない、ということを知ったからだ。
考えてみれば、当然の話だ。保安・監視室にわざわざ忍び込もうという物好きがいるはずはない。保安・監視室を警備する必要はまったくない。
しかも、監視員たちは仕事中にコーヒーをすすっていた。
誰かがボーイの白い上っ張りを着て、──誰か? たとえば眠りくん≠ェ、だ──いかにもホテルのレストランからサービスで運んできたような顔をして、コーヒーを持っていけば、監視員たちにそれを疑う理由はなにもない。そのコーヒーに睡眠薬が入っているかもしれないなどとは、考えてみようともしないだろう。
そして、メカに強い眠りくん≠ノとって、保安・監視室の録画テープのなかから、|必要な《ヽヽヽ》テープを探しだし、それを賭博場《カジノ》のテレビ・スクリーンに流すのは、決してむつかしい仕事ではなかったはずなのだ。
水野幸吉の部屋にもテレビ・カメラが仕掛けられているのをみて、おれがとっさの思いつきで、水野になれなれしくしたのは、そのためだったのである。
ブラック・ジャックのテーブルで、おれをうしろから羽交い締めにしたのが兎《うの》さんだったことは、いうまでもない。あれは芝居だったのだ。そして、あらかじめ打ちあわせておいた時間どおりに、眠りくん≠ェ録画テープを流す……
こうして、クロコダイル≠フ信用は失墜することになったのだ。
これが|おれ《ヽヽ》たちの作戦だった。
──おれが話し終えたあと、宇川はしばらく沈黙していた。
「なぜだ……」
そして、うめくようにいった。「なぜ、こんな真似をした? おれたちは友達だったはずじゃないのか」
「|だから《ヽヽヽ》、したんだ」
おれは静かにいった。「友達だから、したんだよ」
「クロコダイル≠ヘ閉鎖になるだろう。おれはくびになるんだぞ。なにが友達……」
「まだ、わからないのか」
おれは宇川の言葉をさえぎった。
「おれたちは刑事だったころ、やくざから金をうけとっていた。おれたちは、|間違っていた《ヽヽヽヽヽヽ》んだよ。そうとも、間違っていたんだ。それがあんたには、まだわからないのか……水野の汚《よご》れた金をくすねるのは、同じ間違いを犯すことになるんだ。なあ、宇川さん、おれはあんたに同じ間違いを犯してもらいたくなかったんだよ。だから、したんだ……」
「涙がでるぜ……」
宇川はそうつぶやくと、スッと腕をのばして、拳銃をまっすぐおれの胸につきつけた。
「それじゃ、結末も悲劇的にいこうか」
そのとき路地の暗がりから、声がきこえてきた。
「そうなると、あんたは三人殺さなければならないということになる」
ゆっくりと暗がりから姿を現わしたのは、兎《うの》さんと眠りくん≠フ二人だった。
「なあ、そういう計算になるだろう」
兎《うの》さんがいった。「それはちょっと骨なんじゃないかね」
「………」
宇川はしばらくためらっているようだったが、やがて肩をすくめて、拳銃をポケットに収めた。それから、ニヤリと笑うと、おれたちに背中を向けて、歩き始めた。
二十メートルほど歩いた地点で、宇川はふいに斜め上方にとびあがり、空中でたからかに、踵《かかと》を二度打ち鳴らした。
そして、タップ・ダンスを踊りだした。
ポルトガル風の石畳に、宇川の靴は小気味のいい、軽快な音を鳴りひびかせていた。
宇川はあざやかに体をひねり、タップ・ダンスを踊りながら、しだいに遠ざかっていった。
最初はためらいがちに、やがては熱狂的に、おれは宇川のタップ・ダンスに拍手を送った。
宇川の姿がみえなくなったのちも、いつまでも、いつまでも拍手していた。
なぜなら、宇川洋介はおれの友遠だったからである。
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「コンピューター犯罪」(ドン・B・パーカー著、羽田三郎氏訳、秀潤社刊)を参考にさせていただきました。
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逆  転
その者の首をちょんぎっておしまい
ハートの女王
――ダ・ダ・ダ・ダ……
伝馬船《てんません》のエンジン音がしだいに遠のいていった。
私はしばらく伝馬船を見送っていたが、やがてそれが波間に隠れてみえなくなると、ゆっくりとその視線を島《ヽ》に向けた。
島は私の頭上にのしかかるようにして、たそがれのなかに黒々とそびえている。松林のなかを吹き抜けていく風が、ささやくような葉擦れの音を鳴らしていた。
沖浮島《おきふりとう》──
その名にふさわしく、島はいかにもこぢんまりとして、蜃気楼《しんきろう》のように頼りないものにみえた。
私はボストン・バッグを持ち、ゆっくりと歩きだした。
狭い砂浜から、木の皮をならべた細い道がゆるやかな勾配をなして、島の中腹までつづいていた。
歩いていく先から、蟹《かに》が這いだし、逃げていく。貝殻の砕ける乾いた音が、ときおり靴の下からきこえてきた。
道を刻《きざ》んでいる木の皮は、潮風にさらされて、ヌルヌルと滑りやすく、私は二度ばかり転びそうになった。私は慢性的な運動不足だし、それにもう|とし《ヽヽ》なのだ。
道を昇りつめると、ふいに視界がひらけ、山を切り崩した広大な工事現場がすぐ目のまえに迫ってきた。
ブルドーザーや、十四トン積みの小山のようなマンモス・ショベル・ローダ、長いアームに掘削用のバックホウ・バケットをつけた油圧式パワー・シャベル、それにこれは何につかうのか解体用の巨大な鉄の玉、いわゆるユンボをクレーンで吊りさげたレッカー車などが、サフラン色のたそがれのなかに、黒いシルエットとなって浮かびあがっていた。
人影はまったくみえなかった。作業員のために建てられたらしいプレハブの小屋にも、明かりは点《とも》されていず、闇のなかに暗く沈んでいた。
遠く潮騒のひびきがきこえてくる。
山肌の一部がVの字型に切り崩され、そのむこうから濃紺の海にキラキラときらめいている三角の波がみえていた。その波のきらめきを背景にして、トラック・クレーンの長いアームや、パイル・ドライバーの鉄のやぐらが浮かびあがっている光景には、なにかしら現実感にとぼしい、遊園地のような趣《おもむ》きがあった。
そう、遊園地のような……
──まだ帰りたくないな……
頭のなかに子供の声がきこえてくる。小学校一年生になる私の子供の声だ。
──もう帰らなければいけないよ……と、これは私がいう。遊びの時間は終わったのだから……
沖浮島の工事現場に、わたしのマンション近くにある小さな児童公園のイメージが重なって、それがしだいにだぶっていく。トラック・クレーンのチェーンがブランコに、パイル・ドライバーの鉄やぐらが滑り台にそれぞれとって替わられ、やがては|たそがれ《ヽヽヽヽ》の児童公園がゆっくりと前面に迫《せ》りだしてくる。
その公園を、私が子供の手を引いて歩いていく。
──どうしても帰らなければいけない?
子供が訊く。
──そうだよ……
私が答える。
──つまらないな……子供は唇を尖らせる。まだ遊びたいんだけどな……いつまでも遊んでいたいんだけどな……
──誰だっていつまでも遊んでいたいのさ……私はほほ笑む。だけど、どんなに楽しい遊びにもいつかはかならず終りが来るものなんだ……
「そうさ」
沖浮島に身をおいている|現実の《ヽヽヽ》私が、自分自身につぶやくようにいう。「どんなに楽しい遊びにもいつかはかならず終わりが来るものなんだ……」
そして、子供とそんな会話をかわしたのがいつのことであったのか、どうして今こんなことを想いだしたのかがわからず、ちょっと私はボンヤリとした。
そのとき、ボンというなにかが爆《は》ぜるような音がひびきわたり、ふいに強烈な光が私の眼を射抜いた。
私は反射的に右手を眼のまえにかざした。ギラギラとした探照燈の明かりが、わたしのうえに十文字に交叉して、もう何もみることができない。
「やって来たな」
その光のむこうから叫ぶような、それでいて奇妙に低く、抑えた声がきこえてきた。「とうとうこの島にやって来たな」
そう、私はこの沖浮島にやって来ざるを得なかったのだ。だれのためでもなく、私自身のために……
私は右手をおろし、なんとか探照燈の明かりを真正面から見据えようとした。ここにいたって逃げ腰になることは、私自身の矜持《きようじ》が許さなかったからだ。
そして、頭の隅でどうしてこんなことになったのかを、そもそもの発端からボンヤリと想いだしていた。
──私は疲れていた。
いや、むしろ精神的に動揺していたといっていい。不安だったのだ。
予備校の数学講師という仕事は決しておもしろいとはいえない。予備校と家庭を往復するだけの単調な毎日で、学生たちは月謝にみあうだけの講義を受ければ、それで満足し、精神的な触れあいなどといったものは絶対に要求してこない──ありていにいえば、彼ら学生たちは予備校の講師などという輩《やから》は受験戦争のあがりをかすめて生きている人間だと思っているのだ。もちろんめでたく目差す大学に入ることができれば、古靴のように忘れ去られる運命にあることはいうまでもない。
私が学生だったころには、そんな生活は、日常性への埋没≠ネどという言葉で形容し、もっとも忌みきらったものだ。そんな生活を送るぐらいなら死んだほうがましだ、と広言してはばからない学生もいた。
しかし、そう、しかし、いまの私はやはりあれは若さのもたらす傲慢さではなかったかと思うのだ。
予備校と家庭を往復するだけの毎日とはいえ、そこにはいくばくかの楽しみがなくもなかった。子供と遊ぶとき、同僚たちとの談笑、ときおり学生たちが寄せてくれる暖かい連帯感……平凡な生活であっても、いや、それだからこそなおさら、そこにはなにものにも替えがたい貴重な一時《ひととき》があったのだ。
小市民的と笑わば笑え。
いまの私はそんな平凡な生活をなにより大切に思い、愛してもいるのだ。
その私がどうして現金輸送車を襲ったりしたのか。
退屈していたからだとしかいいようがない。現金輸送車を襲ったあのときも、そして今も、私には自分が犯罪者だという意識はこれっぽっちもない。したがって、罪悪感もない。
私にとってあれは、日常の憂さを一時《いつとき》忘れさせてくれる、刺激に満ちた|遊び《ヽヽ》にすぎなかったのだ。もちろん犯罪がいかに反社会的な行為であるか、それがどんなに説得力に乏しい言葉であるか、すべてを承知のうえで、私は話しているのである──あれは遊びだった。それ以外のなにものでもない。
私に誤算があったとすれば、遊びが終わったらすぐにも平凡な生活に戻れると考えていたことだろう。
じっさいには、現金輸送車襲撃事件≠ヘいつまでもあとをひき、私は危うく誘拐の共犯にされかかったり、マカオで賭博詐欺の片棒をかつがされたり、いっこうに|遊び《ヽヽ》は終わりそうになかった。
それが不満だというのではない。あの凶悪三兄弟に脅迫されたときにしても、私は心のどこかでそれを楽しんでいたように思う。言葉をかえれば、それだけ以前の私の生活が単調だったということかもしれない。
だが、どんな遊びにもいつかはかならず終わりがくる。公園で楽しく遊んでいる子供たちも、いつかはかならず母親に呼び戻され、家に帰らなければならない──人生は遊びではない、という言葉はやはり真実の一面をついているのだ。
それが、私には怖い。
その遊びの終わりがどんな形でやってくるのか、まったく平穏無事な|あの《ヽヽ》日常生活にふたたび自分は満足することができるのか、それを考えると不安で、居ても立ってもいられなくなるのだ。
その不安をまぎらわせるためには、せっせとチェシャ・キャット≠ノ通うしかない。同類ともいうべき帽子屋さん≠竍眠りくん≠ニ酒をくみかわすほかはないのだ。
その日も、私はそうするつもりだった。
──街は数日後にひかえた参議院の選挙でかなり騒々しくなっていた。
立候補者たちがマイクで名前をがなりたてて、寝ている赤ん坊をたたき起こし、毎度おなじみチリ紙交換の営業妨害をして回る。あの季節がまたやって来たのだ。
街角でウロウロしていようものなら、選挙カーから降りてきた候補者と握手をするはめになる。政治家と握手をしたあとには、指の数を点検してみる必要がある。もしかしたら一本ぐらいはなくなっているかもしれないからだ。
要するに、だれ一人として希望も抱《いだ》いていないし、期待もしていない、いつに変わらぬがさつな選挙風景というわけだ。
多少の違いがあるとすれば、池田伸介という名の新人候補がかなりの人気を集めているということだ。いや、はっきりとブームといっていい。その若々しく、いかにも清潔そうな容姿、歯切れのいい口調、つぼをおさえた選挙演説は、着実に主婦層の人気を集め、当選はまず間違いないといわれている──保守、革新を問わず、政党にたいして失望の声がたかまっているこの時期に、無所属で立ったことも、有利な条件の一つとされているようだ。
もちろん、私は池田候補の名を新聞やテレビで知っているだけで、それ以上の興味があるわけではない。彼の選挙区が正確にはどこで、どんな支援団体がついているのかさえ知らないのだ。選挙のことを思い煩《わずら》うまでもなく、私にはほかに考えなければならないことがいっぱいあるからである。
──そんなわけで、選挙カーの騒音に背中を押されるようにしながら、私は六本木の街をチェシャ・キャット≠ノ向かって急いでいた。
私はふいに足をとめた。
それはほとんど本能的な行為のようなもので、一瞬、わたしはどうして自分が足をとめたのかわからず、軽い当惑をおぼえた。そして、首筋が波打っているようなあの感覚、誰かの視線をもうずいぶんまえから背中に感じていたことに気がついたのだった。
いい兆候とはいえなかった。以前にも私は誰かにつけまわされたことがあり、そのときにはその|誰か《ヽヽ》は、例の凶悪三兄弟の一人だったのだ。
私はショーウィンドウのまえに立ち、ネクタイを直すふりをして、さりげなく後方をうかがった。
いつもながらの六本木の雑踏で、べつに私をつけているとおぼしき人物は見当たらなかった。
どうやら、私はいささか神経過敏になっているようだった。たんなる気の迷いにちがいない。
そうであって欲しかった。
私の乏しい体験によれば、誰かにあとをつけられて、ろくなことになった例《ためし》がないからだ。
──それでもチェシャ・キャット≠ノ足をふみ入れたときにはホッとし、一時《いつとき》不安感が拭われたような気がした。
避難所に身を寄せたような安堵感、この醍醐味《だいごみ》だけは、まず家庭を持って五年もたった男でなければ理解できないにちがいない。|あなた《ヽヽヽ》が独身者、あるいは新婚ホヤホヤだとしたら、このチェシャ・キャット≠フよさを理解するのにはいささか修業不足だといわねばならないだろう。結婚八年めの私がいうのだから間違いない。
さて、それにもかかわらずチェシャ・キャット≠ノは客は一人しかいず、しかもその客は独身者だった。
「やあ、兎《うの》さん……」
眠りくん≠ヘ私の顔をみて、嬉しそうにいった。「いらっしゃい」
アリスちゃんがいるのはいつものことだが、めずらしいことに、カウンターのなかにはママの顔もみえた。ママはここのところ店をあけがちで、私が彼女と顔をあわせるのはじつに久しぶりのことだった。清楚で、そのくせ奇妙にとらえどころのないという彼女の印象には、いささかも変わりがなかった。
「ここのところ帽子屋さん≠ェ姿をみせないようだけど、どうしたんだろうな」
私は席につくなり、誰にともなくそう訊いた。
もちろん、返事を期待していたわけではない。帽子屋さん≠フ職業が何で、どこに住んでいるのか、誰も知らないはずだからだ。
「そのうちヒョッコリ顔をみせますよ……ところでその帽子屋さん≠ェきいたら喜びそうな話があるんですけどね」
眠りくん≠ヘあいかわらず屈託のない声でそういうと、ちらりとアリスちゃんの顔をみた。「話しちゃってもいいだろう。兎《うの》さんならきっと力になってくれるからさ」
「………」
アリスちゃんはコックリとうなずいた。
私は改めてアリスちゃんの顔を見直した。いつになく、彼女の顔は憂《うれ》いに沈んでいるようにみえた。若く、きれいで、健康で、彼女には悩みなんかないと私は自分勝手に考えていたのだが、どうやらそれは皮相にすぎる観察だったようだ──もちろん、この世には悩みのない人間なんかいるはずがない。
「じつはこれなんですけどね……」
眠りくん≠ヘカウンターにおかれてあった空《から》のワイン・グラスを手元に引き寄せた。そして、そのなかから何かをつまみあげると、私の眼のまえで掌をひらいた。
それは──ダイヤモンドだった。
私にはダイヤの知識はなく、それが何カラットのものであるか見当もつかなかったが、その小指の先ほどもある大きさからしても、かなり高価なものであるらしいことがわかった。
女房に買ってやったダイヤがそれこそ砂粒ぐらいの大きさしかないことを想いだして、私はなんとなくいやな気持ちになった。私はそれを二十四カ月のクレジットで買い、その最後の支払いがようやく先月終わったばかりなのだ。
「凄いダイヤじゃないか」
私はいった。「きみのものなのか」
「いや、もちろんぼくのものなんかであるわけがないです……その……説明するとちょっと複雑になるんですけど……」
「わたしが盗んだんです」
ふいにアリスちゃんがなにか思いつめたような口調でいった。「それはわたしが盗んだものなのです……」
「………」
私はとっさには返事ができなかった。盗んだという言葉は穏やかでないし、第一、私はいまだかつて若い娘からこんなにも真剣にみつめられたことがない。
「斎藤博物館というのをご存知ですか」
アリスちゃんが訊いてきた。
「名前だけはね……個人のコレクションを収蔵展示したものとしては、日本でも最大の規模の博物館なんじゃないかな。たしか、大急コンツェルンの創始者である斎藤英一が創設した博物館で、西洋の古い時計とか、宝飾物、工芸品、陶芸品なんかが主に展示されているってきいたことがある……興味もないし、暇もないしで、みにいったことはないがね」
「わたし、ついこのあいだまで一月《ひとつき》ぐらい、その斎藤博物館でアルバイトをしていたんです。アルバイトといっても、書類の整理とか、ちょっとしたお使い、お茶くみといった雑用仕事なんですけど……」
「………」
私はまたしてもアリスちゃんにたいする認識をあらためなければならなかった。アリスちゃんはどこかの美大に通っているという話を、ちょっと小耳にはさんだことがあったが、私は彼女がチェシャ・キャット≠ナアルバイトをしているのは遊びとか、おしゃれのために金が欲しいからだと一方的に決めこんでいたのだ。それが昼間もアルバイトをしているとなると、どうやら彼女はいまどきめずらしい苦学生の一人であるようだ。
アリスちゃんがみじんも生活臭を感じさせなかったことがあるにせよ、私の人間観察はまことに底が浅く、薄っぺらであるといえそうだった。悩みのない人間なんかいない、という言葉がふたたび頭に浮かんでくる。
「ある日、事務所で書類の整理をしているとき、どういうわけか館長のデスクのうえにマリアの宝飾≠ェおかれてあったんです。おそらくなにか調べ物をするために、館長が展示室から持ってきたんじゃないかと思うんですけど……」
アリスちゃんが言葉をつづけた。「絶対にそんなことはないはずなのに、その日にかぎって、事務所にはだれ一人としていなかったんです。マリアの宝飾≠ェまるでタバコ・ケースかなんかみたいに、無造作に机のうえに放りだされていただけだったんです」
「ちょっと待ってくれ。マリアの宝飾≠チてのはいったいどんな物なんだい?」
「イギリス国王ジェームス一世が愛人に贈ったロケットよ」
それまで沈黙していたママが、奇妙にけだるい、低い声でいった。「ロケットといっても、十センチ以上もあるものだから、とても首に下げては歩けないわね。むしろ工芸品といったほうがいいかしら……わたしも一度だけみたことがあるけど、金地にエナメル焼付のロケットで、たしか全部で三十七個のダイヤが填込《はめこ》まれているということだったわ。当時、もっとも高価な愛の証《あかし》って評判になったそうよ」
「三十七個のダイヤ……」
わたしは口のなかでつぶやいた。そんな高価なものが机のうえに無造作におかれていて、しかもそこには貧しい娘が一人いるだけだとしたら、何が起こったかは、もう話の先をきくまでもなく明らかだった。
「そんなつもりはなかったんです……こんなダイヤが一個だけでも自分のものだったら勉強に専念できるのにな……と思って、気がついたら、わたし、わたし……」
アリスちゃんが泣き声になった。
「マリアの宝飾≠ノはとても複雑な透《すか》し彫りがほどこされているそうです。だから、よほどその気になって数えないと、ダイヤが一個減っていることには気づかない……」
眠りくん≠ェ補足するようにいった。「ですが、現にマリアの宝飾≠ヘいま博物館に展示されているんですからね。いずれは誰かがダイヤの数がひとつ足りないことに気づくにちがいありません。そうなったら……」
眠りくん≠ヘそこで言葉を切ったが、そのあと彼がなにをいおうとしたかは明らかだった。そうなったら、いつかはアリスちゃんに嫌疑がかかってくることになる……
アリスちゃんの泣き声をききながら、私はなんともいえぬ憂うつな気持ちにおちいっていた。自分がいやおうなしに深みにひきずり込まれていこうとしているのを感じたからだった。
「それで帽子屋さん≠ェきいたら喜びそうな話ってのは、どんな話なんだい?」
やがて、私が訊いた。
「ダイヤをマリアの宝飾≠ノ戻しちゃおうと思うんですよ」
眠りくん≠ェなんだか浮き浮きとした声で、すぐさま返事をした。「誰にも気づかれないうちにコッソリと……」
──例によって眠りくん≠ヘコトンと寝てしまい、アリスちゃんは厨房に入り、急に店が静かになった。
私は機械的にグラスを口に運んでいたが、酔いが重苦しく沈殿していく感じで、どうにも気持ちが晴れなかった。
グラスのなかで氷の崩れる澄んだ音が、奇妙に切なく胸にひびいてきた。
どこからか、かすかに古い歌がきこえてくる。メロディは憶えているが、題名が想いだせない。昔の映画音楽だったような気がする。
「気が進まないのね……」
ふいにママがいった。
「え……」
私がききかえす。
なんといったらいいのか、ママの声はこの店の静けさを凝結したように低く、抑揚に欠け、自分ひとりのもの想いにふけっていた私には、一瞬、それが現実の声とは思えなかったのだ。
「ダイヤをソッとマリアの宝飾≠ノ戻すという計画、兎《うの》さんは気が進まないのね……」
ママがもの憂く言葉をつづけた。「そうなんでしょう?」
そうなのだ。気が進まないという言葉ではまだ表現が穏やかにすぎる。むしろ尻込みしているというべきかもしれない。
「いやな予感がするんだ」
わたしはいった。「非常にいやな予感が……」
「どうしてかしら……これはアリスちゃんを助ける仕事よ。しかもなにかを盗むんじゃなくて、ダイヤをもとへ戻す仕事だわ……現金輸送車を襲ったあなたがこの仕事に気が進まないなんておかしいわ。それとも……」
「それとも?」
「お金の儲からない仕事はいやかしら」
「たしかに私は人助けをするというがらじゃないからね……」
私は苦笑した。「しかし、現金輸送車を襲ったのは金が欲しかったからじゃない。それはきみだってよく承知しているはずじゃないか」
そう、あの『装甲輸送車警備保障』という会社のいかにも尊大な新聞広告が気にさわったため、犯罪というゲームにとり憑かれてしまったため、そして──私は今のいままでそんなことをあらためて考えたこともなく、自分で自分に驚いたのだが──|強いやつが嫌い《ヽヽヽヽヽヽヽ》というママの言葉に動かされたためだった。だから、私は現金輸送車を襲ったのだ。
「それじゃ、どうしてためらうの? なにが怖いの?」
ママは正面から私の顔を覗き込むようにした。その眼が照明の光を受けて、一瞬、黒曜石のようにかがやき、私を十五、六の高校生のようにドギマギさせた──さっき思い浮かべた言葉が、ふたたび強く私の胸に迫ってきた。ママの言葉に動かされたため……|ママの言葉に動かされたため《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……
「おそらく臆病風にふかれたんじゃないかな。私ももう年《とし》だからね……いや……」
私は首をふって、しばらくグラスをみつめ、そしていった。「そうじゃない。そういってしまうと嘘になる……」
「………」
ママは沈黙している。暗さと静けさを身につけてしまった生き物のように、チェシャ・キャット≠フうす暗がりのなかで、ヒッソリと息づいているのだ。
「現金輸送車を襲ったのは|遊び《ヽヽ》だった……常識的にはとても許されない行為かもしれないが、しかし私は自分があんな時間を持てたことを後悔していない。むしろ誇らしく思っているぐらいだ……しかし……なんといったらいいのか、そう、子供のとき遊びに夢中になっていて、気がついたらもうあたりが暗くなってしまって、泣きだしてしまった……そんな憶えがママにはないかい」
「わたしたちはもう子供じゃないわ」
「そうだろうか」
私は自分自身につぶやくようにいった。「ほんとうにそうだろうか」
「そう、子供じゃないのよ」
ママがふいに顔を寄せてきた。なにか甘ずっぱいような香りがして、私の唇は彼女の柔らかい唇にふさがれていた。それはほんの一瞬のことで、私が反射的に腕をのばしたときには、もう彼女は身を退《しりぞ》けていた。そして、笑いを含んだ声でいう。
「そうよ、わたしたちはもう子供じゃないわ」
「ママ……」
私の声はかすれていた。
突然、私はもうずいぶんまえから自分が彼女に心惹かれていたことに気がついた。それはたとえていえば、思春期の少年が通学電車でいつも見かける女学生に心を寄せるような、ほのかに甘い、私のような中年男にはいささか照れくさく、女々《めめ》しい愛《ヽ》であったかもしれないが……
「わたしたちは大人よ……」
ママが低い声でいった。「あたりが暗くなっても誰も泣きださないわ。遊びはいつまでも終わらないのよ」
そうして静かにうす暗がりのなかで立っていると、彼女はまえにも増して、謎めいた、つかみどころのない女性のように思えてくる。彼女が生身《なまみ》の肉体をそなえていて、私にキスをしたなどということが、とても信じられないほどだ。そして、それが私をなおさら切なく、狂おしい思いにかりたてるのだった。
「きみの名前を知りたくなった……」
私がようやくいった。「私の名は……」
「いわないほうがいいわ」
彼女は私の言葉をさえぎった。
「チェシャ・キャット≠フママと兎《うの》さんのままでいたほうがいいというのか」
「|男と女《ヽヽヽ》よ……そのほうがいいわ……」
そのとき、たしかに私と彼女とのあいだには、男と女とのあいだにだけ生じるある種の緊張感、愛情へと発展したかもしれない|あの《ヽヽ》ときめきのようなものがあったと思う。少なくとも、私はそう信じたい。
だが、忌々《いまいま》しいことに眠りくん≠ェ眼をさましてしまい、すべてをぶち壊しにしてしまった。
「ぼく、ずいぶん長く寝てましたか?」
これが眠りくん≠フ第一声だった。
「そうでもない。もう少し寝ていたほうがよかったよ」
私といえども聖人君子ではない。眠りくん≠ノ罪はないとわかっていても、多少なりとも八つ当たりしたくなって当然というものではないか。
私の姿がカウンターのまえの大きな鏡に写っている。小肥りで、眼鏡をかけ、ひたいが禿げあがりかけている。なんとも|みば《ヽヽ》のわるい中年男の姿が……
私は説明のつかないなにか悲しみのようなものが、ふいに激しく胸をつきあげてくるのを感じた。そして、自分は結局ママの言葉に動かされて、ダイヤをマリアの宝飾≠ノ戻すために奮闘することになるだろうと、そう考えた。
現金輸送車を襲ったときがそうであったように……
──それから二日後、私は眠りくん≠ニ最寄りの駅で待ちあわせて、斎藤博物館に出掛けた。
斎藤博物館は私鉄沿線の、どちらかというと住宅地のなかに位置している。個人博物館だけあって、べつだん人寄せの必要がないということなのだろうが、それがかえって高踏趣味を誇示しているようで、いささか鼻につかないではなかった。
斎藤英一が乗っとりにつぐ乗っとりで、現在の斎藤コンツェルンを築きあげてきたのは、だれもが知っていることなのだ。
──斎藤博物館は鉄骨造りの二階建てで、一階はピロティと中庭の野外展示場になっていて、二階展示室は折板構造の屋根に、東西の両妻が大きな窓という造りになっている。延《のべ》床面積はだいたい五百坪というところか。
一見、開放的な建物にみえるが、もちろんそうではない。この世に開放的な博物館などというものは存在しない。
たとえば斎藤博物館をとりかこむ敷地はちょっとした日本庭園のようになっていて、いかにも閑雅《かんが》な雰囲気に思えるが、子細にそれを観察すれば、よく茂った常緑樹の枝葉がいかに巧妙にフェンスを覆い隠しているかがわかるだろう──すべてがこの調子なのだ。さりげないが、しかし完璧に防犯措置がほどこされている。
好天にもかかわらず、あるいはそれだからこそというべきか、斎藤博物館には数えるほどしか入館者がいなかった。その静けさたるや、まったく浮世離れしているといいたくなるほどだ。
受付けのカウンターで名前を書き、二階の展示室にあがる。もちろん本名を書いたわけではないし、住所もでたらめだ。
ほとんど壁一面をしめている東西の大きな窓から、日の光がいっぱいに差し込んで、人気《ひとけ》のない博物館をなにか体育館のように明かるく浮かびあがらせていた。
ガラス・ケースのなかには、四世紀ごろのエジプトのガラスの鉢に始まって、ローマ文化の銀器類、キリスト教文化の象牙の小祭壇画、アラバスターの聖者殉教画、そしておびただしい数の宝飾品などが、きちんと時代順に展示されていた。
もちろんいずれも高価な、それなりに由緒のあるものにはちがいないだろうが、その知識のない者の眼には、たんなる金ぴかの骨董品としてしか映らない。興味があるということからいえば、私には動物園のほうがよほどおもしろい。
それでもマリアの宝飾≠フまえでは長く足をとめざるを得なかった。|それ《ヽヽ》になんとかしてダイヤを戻さなければならないということをべつにしても、その精緻をきわめた工芸技術の見事さ、ダイヤの美しさはやはり私たちをひきつけずにはおかなかったと思う。
金地にエナメル焼付のこのロケットに収まっているマリア像が、神々しく、それでいて愛らしく、なんともいえぬいい顔をしているのだ。思わず指を伸ばし、触れてみたくなるのだが、残念ながらマリアの宝飾≠ニ私たちのあいだはぶ厚いガラスで隔てられているのだった。
「べつにガードマンが巡回している様子もないし、それほどむつかしい仕事とも思えないな……」
私は眠りくん≠ノささやいた。
「冗談じゃないですよ……」
眠りくん≠ェあきれたように、しかしさらに低い声でいう。「夜になれば赤外線警報装置のスイッチが入れられるだろうし、窓や扉の警報スイッチも入れられる。マリアの宝飾≠ノ手を触れるどころか、博物館に忍び込むだけでも、警官が踏み込んできますよ。それに……」
「それに?」
「すべての展示品に警戒スイッチがとりつけられている。交流式・直流式の自動切り替え可能のスイッチで、だれかが展示品を動かすと、その圧力差で電流回路が変化し、それでブザーが鳴るという仕掛けです」
もちろん、マリアの宝飾≠ノダイヤを戻す仕事とはいえ、まったくそれを動かさないでやりとげるのは不可能だ。ダイヤをロケットにはめこむのは、これでなかなか面倒な仕事なのである。
──それに加えて、このぶ厚いガラスがある……私はガラス・ケースの表面にソッと手を触れてみた。おそらく強化ガラスにちがいない|こいつ《ヽヽヽ》を、たとえば市販されているガラス切りなんかで切ろうとするのは、とても不可能な話だ。かといって、もちろんハンマーなんかで叩き割るわけにはいかない。それぐらいなら、楽隊の演奏入りで博物館に忍び込むほうがまだしもだ。同じ大きな音をたてるのなら、そのほうがよほど気がきいているからである。
まず博物館に忍び込むのが至難の業だ。なんとかそれに成功したとしても、ぶ厚い強化ガラスという障害が待ちかまえている。ありえないような幸運が私たちに味方してくれて、そのすべての障害を乗り越えることができたとしても、肝心《かんじん》のマリアの宝飾≠動かすことができないのだ……私は心中うめき声をあげた。アリスちゃんはまたとてつもない難問を持ち込んできてくれたものではないか。
私はなんとなく追いつめられたような気持ちになって、がらんとした博物館をみまわした。その視線が壁の大きな窓──それは一枚ガラスのようにみえるが、じっさいには縦梁《たてばり》が何本も入っていて、おびただしい数の細板ガラスが組み合わされたものだったが──のうえでとまる。そして、ジッとその窓をみつめた。
おそらくは通風のためなのだろう、その細板ガラスがすべて斜めにひらいていて、隙間から外の景色がみえるのだった。
「だめですよ」
眠りくん≠ェ私の心中を見すかしたようにいった。「あれはルーバーウォールと呼ばれている三枚羽根の縦ルーバーでしてね。二枚がスチールプレート、一枚がガラスプレートになっていて、たとえば日の光をさえぎるときは三〇度だけ回転させる、雨のときには六〇度回転させるという回転仕様になっているんです……ただし人間の力ではビクともしませんよ。光量・湿気・換気の感知装置があって、すべてコンピューターが制御しているんです。もちろん夜になればスチールプレートでピタリと閉ざされてしまうし、たとえ九〇度の全開状態になっても、首を突っ込むこともできゃしませんよ……」
「よく知ってるじゃないか」
「建築関係の本をちょっと読めば、こんなことどこにでも出ていますよ」
眠りくん≠ヘ憂うつそうにいった。アリスちゃんに大丈夫と安請け合いしたものの、じっさいに斎藤博物館を目のあたりにして、その難攻不落ぶりに、さすがに自信を喪失したにちがいない。
斎藤博物館はいかにも洗練されている。やぼなテレビ・カメラもないし、ガードマンもいない。それでいて、どんなに手際のいい泥棒もその展示物に指一本ふれることができないのだ──私は斎藤英一という人物が一大コンツェルンを築きあげてきたわけが、よく理解できたような気がした。
私は途方にくれて、ふたたび館内をみまわし、そして今度はその視線を天井に向けた。天井の梁に巧妙に隠されているが、そこにブツブツと無数に穴のあいたパイプが一本通っているのだ。それはこの瀟洒《しようしや》な斎藤博物館にはそぐわない、いかにも異質な感じのするパイプだった。
「あれは何だろう」
私は眠りくん≠ノ訊いた。
眠りくん≠ヘちらりと天井をみあげ、熱のない声でいった。
「燻蒸《くんじよう》パイプじゃないですか」
「燻蒸パイプ……」
「カビやシミ、それに虫なんかが展示品につくのを防ぐためのものですよ。たしか、この斎藤博物館では、メチルブロマイドかクロールピクリンを使って、そのガスを燻蒸室からあのパイプに送り込んでいるはずですよ……これは建築専門誌に斎藤博物館がとりあげられたとき、そこに記されていたんだから、まず間違いないと思いますよ」
「燻蒸室か……」
私は唇を人差し指と親指でつまむようにして、しばらく考えていた。
頭のなかにひらめきのようなものがあった。それはまだ曖昧模糊《あいまいもこ》として、ろくに形を成さないものであったが、もしかしたらものになるかもしれない|ひらめき《ヽヽヽヽ》だった。
「どうかね」
やがて唇から指をはなして、わたしがいった。「ひとつその燻蒸室とやらをみてやろうじゃないか」
──予想していたとおり、燻蒸室は敷地の片隅にヒッソリと人目につかないように建てられている別館のなかにあった。本館とつながっているパイプは、どうやら地下を潜っているようだ。
斎藤博物館はあくまでも高踏趣味に徹していて、燻蒸室とか、物置きなどといった舞台裏《ヽヽヽ》はすべてこの別館に押し込められているのだ。
燻蒸室は一階にあり、外から直接入ることができるようになっている。もちろんドアには錠がおりているが、金梃《かなてこ》をつかえば、その錠を壊すのはさほどむつかしくはないようだった。
「フェンスを越えるだけだ。燻蒸室に忍び込むのはかんたんなようじゃないか」
私がいった。
「燻蒸室に忍び込んでどうしようというんですか」
眠りくん≠ェ疑わしげにいった。「まさか催眠ガスを送り込もうなんて考えているんじゃないでしょうね。職員を眠らせたところで、マリアの宝飾≠動かせば警報が鳴りわたるのは同じことなんですよ。そしたら警察に筒抜けになってしまう……」
「ちょっと考えていることがあるんだ」
私はほほ笑みながらいった。「ちょっと考えていることが、ね……」
もちろん、そのほほ笑みは虚勢というべきものであって、私は自分の考えにそれほど自信があったわけではない。その考えを実行に移すには、あまりに突き破らなければならないネックが多すぎたからである。
──数日後、私と眠りくん≠ヘふたたび斎藤博物館に戻ってきた。
ただし、今度は博物館のなかに入る必要はなかった。博物館をめぐるフェンスの|その《ヽヽ》外を通っている住宅街の道を、ゆっくりと車を走らせたのだった。
たそがれが迫っていて、駅前に買い物に出掛ける主婦たちを除いては、ほとんど人通りがなかった。
主婦たちといえば、わが女房どのはどうやら私の帰宅時間があまりにも不規則なので、浮気《うわき》をしているのではないかと疑いだしているようだ。私もときおり、浮気をしているのではない、泥棒の予行演習をしているのだ、といってやったら、女房がどんな顔をするだろうかと考えることがないではない。
もしかしたら、案外ホッとした表情をみせるのではないかと思う。女房族にとって浮気以上に許しがたい犯罪はないからである。
ただし、さすがの女房も泥棒の予行演習のために、私がどんな酔狂な真似をしているかを知ったら、いささかあきれはてるにちがいない。世間に顔向けができないというので、子供を連れて実家に帰ってしまうかもしれない。
その日の私と眠りくん≠ヘ上野の専門店から買い求めてきた作業服を着て、クリーム色のヘルメットをかぶり、手袋を着け、ゴム長靴をはくという格好だった。手袋は高圧活線ゴム手袋で、作業服のベルトには安全帯ロープや、補助ロープが固定されている。高圧活線肩当てまでは用意できなかったが、要するに本人たちはこれで、電線補修の保線マンに変装しているつもりなのだ──しかもこの格好でじっさいに電柱に登ろうというのだから、まあ、酔狂もここに止《とど》めをさすというべきではなかろうか。
しかし、私たちにしてみれば、これも必死に頭を絞って考えだした作戦の一環なのである。それこそ真剣の一語につきた。
さいわい、これならと思う適当な場所に電柱が立っていた。
私たちは謙虚に譲りあったあげく、結局、電柱には私が登ることになった。なんでも眠りくん≠ヘ極度の高所恐怖症だそうで、高いところに登ると足が縮んでしまうということだった。もちろん、私は眠りくん≠フ言葉をこれっぽっちも信用したわけではなかったが、いってみれば|その《ヽヽ》演技力に脱帽させられてしまったのだ。
私がいかにして電柱をよじ登ったかは、ここでは説明するのは省かせてもらう。日頃の運動不足を痛感させられるはめになったといえば、だいたいの情況はご理解いただけるのではないだろうか。
保線マンがスルスルと電柱をよじ登っていく姿をみると、いかにもたやすそうにみえるが、どんな職業にもそれなりの訓練が必要とされるようなのである。
それでもようやく電柱を登りつめ、私は安全帯ロープに身をたくして、恐る恐る両手をはなした。グラリと体が揺らぎ、肝を冷やしたが、どうやら墜落の心配はなさそうだった──もちろん六六〇〇ボルトの配電線にふれて感電死する危険までなくなったわけではない。
私はベルトの腰袋から高倍率の双眼鏡をとりだし、焦点を斎藤博物館にあわせた。
たそがれの、赤く雲がたなびいている空を背景にして、クッキリと斎藤博物館が浮かびあがっている。
夕陽をさえぎるために、窓のルーバーウォールは三〇度回転していた。そのわずかな間隙からなんとかなかを覗き込まなければならないのだ──私は懸命に双眼鏡の焦点を調整し、そして呻き声をあげた。この位置からだと、べつのガラス・ケースがじゃまして、肝心のマリアの宝飾≠ェ収められているガラス・ケースが死角になってしまうのだ。
位置が低すぎるし、角度もよくない。なにより博物館との距離がひらきすぎている。距離測量計《レンジ・フアインダー》がないのではっきりしたことはいえないが、おそらく二百メートル近く離れているのではないだろうか。
もっとも適当な位置にあると当たりをつけて、この電柱に登ったのである。ここがだめだということは、私の作戦そのものが不可能だということを意味している──下見の段階で、私の作戦は擱座《かくざ》をきたしてしまったのだった。
これが面白かろうはずがない。
私は電柱から降りると、そのままなにもいわないで、車の運転席に乗り込んだ。眠りくん≠燻рフ様子から何事か察したらしく、やはり無言のまま、助手席に体を滑り込ませてきた。
眠りくん≠ェ私に声をかけてきたのは、車をしばらく走らせてのちのことだった。
「どうでした?」
「だめだ……」
私は首を振った。「問題にもならない。あの電柱では低すぎるし、角度もわるい。第一、外の道路からじゃ博物館との距離がひらきすぎている。二百メートルぐらいあるんだ……作戦そのものが甘すぎた……」
「二百メートルぐらいだったら、ライフルの射程範囲ですよ。ママがどこかからライフルを調達してくれるといってるから……」
「私もライフルを扱ったことがない。きみもない……テレビ映画じゃあるまいし、ズブの素人のわれわれがそんなに器用にライフルを操れるものか。二百メートルだぜ」
「じっさいにはルーバーウォールは九〇度の全開《ヽヽ》になるはずだから、いまよりは条件がよくなると思いますがね」
「同じことだ……われわれにはむりだ」
私の声がよほど不機嫌にきこえたにちがいない。眠りくん≠ヘちょっと鼻じろんだように沈黙していたが、やがて遠慮がちな声でいった。
「帽子屋さん≠ヘどうしたんでしょうかねえ。帽子屋さん≠セったら銃の扱いに慣れていたようだったから……」
「………」
私はそれには答えなかった。
たしかに帽子屋さん≠ヘ銃にかけては素人ではなかったようだが、それにしても電柱に安全帯ロープで体を結ぶという不安定な姿勢で、しかも暗夜、二百メートル先の標的をぶち抜くことができるほどの狙撃の名手だったとは思えない。眠りくん≠ノは気の毒だが、ここに帽子屋さん≠ェいたところで、やはり事情はかわらないのだ。
私は自分の作戦が机上の空論にすぎなかったことに、やりきれない苛立ちをおぼえていたが、その一方では|これ《ヽヽ》が不可能だということがわかって、なにかホッとする気持ちもあったようだ。
私はこの仕事が気に入らない。
もちろん、アリスちゃんに同情する気持ちがないといえば嘘になる。しかし、マリアの宝飾≠ノ盗んだダイヤを返すという、現金輸送車を襲うのに比べれば犯罪ともいえないような今度の仕事に、それにもかかわらず、なにか|きなくさい《ヽヽヽヽヽ》ものをおぼえてならないのだ。はっきりと不吉な予感がするといっていいかもしれない。
具体的にどうこうという話ではないだけに、なおさら私はふっきれない不安のようなものをおぼえていた。とりかえしのつかないことになるような気がしていたのだ。
それを考えれば、私の作戦がむなしく潰《つい》える結果になったのは、むしろ喜ぶべきことであるかもしれない。
私はようやく自分の気持ちが晴れてくるのをおぼえた。
そして、車をチェシャ・キャット≠フガレージに入れたときには、それこそ口笛を吹きたいような気分になっていた。
もちろん、私は楽観的にすぎたのだが……
──チェシャ・キャット≠ノ隣接しているガレージには、ママとアリスちゃん、それにもうひとり見知らぬ男が私たちの帰りを待っていた。
ドブネズミ色の背広を着て、小柄で、髪にろくにクシも入れていないような、みるからに貧相な中年男だ。その男のまえのテーブルには、斎藤博物館のまわりの地形、建築物などが克明に記された大きな地図がひろげられていた。
「やあ、おかえりなさい──」
その男は眼をショボショボとさせながら、奇妙になれなれしい口調で声をかけてきた。笑ったその口には前歯が二本欠けているのがみえた。
呆然として立ちすくむ私たちに、ママがいつもながらの|あの《ヽヽ》低い声でいった。
「あなたたちの作戦のことをあれこれ考えているうちに、どうしてももう一人人間が必要だということに気がついたの。それで、この人にむりをお願いしたのよ……」
「もう一人……」
私は口のなかでつぶやいた。とっさにはママの言葉が理解できない。
「この人は狙撃の名手よ。ライフルを使わせたら誰にも負けないわ」
「どちらさんも本名を明かすのは禁じられているそうで……ライフルマン≠ニでも呼んでやってください」
男はペコリと頭を下げた。それは謙虚というより、むしろ卑屈ともいうべき口調だったが、それでいてどこか押しつけがましいひびきを感じさせた。
それをいうなら、ママもいつもに似あわない強引さだった。まかり間違えば、監獄にも押し込められかねない仕事に、一言の相談もなく、まったく見ず知らずの人間を加えようというのである。
いやな予感がした。非常に、いやな予感がした。
しかし、残念ながら、ママの言葉が正しいことだけは認めざるを得ないようだ。私の作戦を遂行しようとするからには、たしかに優秀な狙撃手を一人、仲間に加える必要があるのだった。
「よかったじゃないですか」
眠りくん≠ェ無邪気な声をはりあげた。
「これで作戦のネックの半分が解消されたわけだ……」
「わたしは臆病者でしてね。近距離で射ちあう|拳 銃《ハンド・ガン》はどうも性にあわない。怖いんですよ。それで、もっぱらライフルの狙撃専門でしてね……」
ライフルマン≠ニ名のった男がゆっくりとした口調でいった。「現場をみてみないとはっきりしたことはいえないんですが、まあ、二百メートルぐらいの狙撃だったら、たいして問題はないと思いますよ……ただ、今回の場合、殺傷力は問題とする必要がないし、狙う的が的だから、火薬の量を減らして、弾の初速を落としたほうがいいでしょうね。それに、弾の先も平らにしたほうがいいかな……」
それは私に話すというより、ほとんど自分自身にいいきかせるための言葉のようだった。熟練した職人が仕事の手順をたしかめているときの口調だ──私は銃についてはまったくの素人で、ライフルマン≠フ言葉はほとんど理解できなかったが、彼がまぎれもなく狙撃のプロであることだけははっきりとわかった。そして、自分がついに職業的犯罪者と関わりあいを持つようになってしまったということを、なにか暗たんとした思いで噛みしめていた。
「それで狙撃のほうの問題は片付いたようなものだけど、もうひとつ狙撃位置の問題が残っていますよ」
眠りくん≠ェあいかわらず無邪気な声でいった。
「たしかに電柱からの狙撃はむりだ。角度が悪いし、低すぎる……こういう狙撃の場合には|射ちおろす《ヽヽヽヽヽ》ほうがいいですからな」
ライフルマン≠ェいった。この男はわれわれが現場に行かなければわからなかったことを、地図をみただけで正確に掴んでいるのだった。
「それはわたしのほうでなんとかするわ」
ママが言葉をはさんだ。
「なんとかするって……いくらママでも電柱を動かすことはできないだろう」
と、これは私がいった。
「心配しないで……わたしに考えがあるの」
たしかにママの声は自信タップリで、かすかに笑いさえ含んでいた。
私はあらためてママの顔を見直さないではいられなかった。いったい誰が狙撃のプロを探しだしてきて、そのうえ狙撃位置もなんとかすると断言するような真似ができるだろうか──私はママという女性がわからなくなった。少なくともチェシャ・キャット≠ニいう小さなバーを経営しているだけの女性にできることではない。
「わたし、こんな大袈裟な騒ぎになるなんて思っていなかったんです……」
それまで沈黙していたアリスちゃんが、ふいに叫ぶようにいった。「わたし、わたし……わたしのために皆さんに迷惑をかけたくはありません。わたし……」
「いいのよ」
ママはその一言でアリスちゃんを沈黙させた。低く、静かな声だったが、そこには相手にうむをいわせぬ力強いひびきがこめられていたようだ。
「いいのよ」
そうママはくりかえした。「あなたは何も心配する必要はないのよ。わたしたちにまかせておけばいいんだわ」
つまり、それが結論というわけだ。ママが一方的におぜん立てを進め、私たちはいやおうなしに斎藤博物館を襲わざるを得ないはめになってしまったのだった。
──それから数日が過ぎた。
その数日間というもの、私は予備校の講義を終えると、まっすぐチェシャ・キャット≠ノ急行し、眠りくん=Aライフルマン=Aそしてママとあれこれ作戦の細かな打ち合わせをした。
アリスちゃんも同席はしていたが、コーヒーを淹れたり、夜食をつくったりするだけで、ほとんど発言しようとはしなかった。たしかにアリスちゃんは当事者の一人にはちがいないが、この仕事にかんしては、彼女にできることはなにもないといってよかった。
私が浮気をしているのではないかという女房の疑いは、ますます強いものになっていったようだが、それは、まあ、話の本筋には関係ない。
私は決してこの作戦の準備段階を楽しんでいたわけではなかった。以前、現金輸送車を襲ったときには、そこにいたるプロセスを楽しんでいたようなところがあったのだが、今回はそれどころではなく、不安感がしだいにつのっていくばかりだった。
だが、すでに歯車は高速回転していて、いまさらそれを止めるすべはなかった。
私は|やるしかない《ヽヽヽヽヽヽ》のである。
そして、いよいよ作戦決行の当日がやって来たのだった。
──その日、私と眠りくん≠ヘ閉館まぎわの時刻に、斎藤博物館を訪れた。
カウンターの受付嬢がわれわれの顔を憶えているとは思えなかったが、念のために私はつけ髭を生やし、眠りくん≠ヘサングラスをかけていた。万が一にも、私たちの顔を彼女の記憶に残すような危険は冒したくなかったからである。
私たちは展示物をまんべんなくみてまわり、ことさらマリアの宝飾≠フまえで足をとめるような真似はしなかった。
そして、ルーバーウォールがすべてとざされ、窓にシャッターが降り始めたときになって、ようやく私たちは斎藤博物館を出た。
眠りくん≠ヘ博物館を出るなり、足早に日本庭園のなかを立ち去っていき、すぐにその姿がみえなくなった。彼は十二時になるまで、どこか植え込みのかげに身をひそめている計画になっていた。
私もまた、喫茶店に入るなり、パチンコをするなりして、その時刻まで時間をつぶさなければならない。
夜の十二時──そのころには、このあたりの住宅街はまったく人通りがとだえるはずだった。
正確には、十二時を五分過ぎていた。
斎藤博物館をめぐるフェンスの外、あの電柱の立っていたあたりの道路を、ふいに二条のライトが照らした。
やや傾斜している道路に迫《せ》り上がってくるように、一台の車が近付いてくる。
ただの車ではない。電柱のうえの変圧器などを修理するときに出動する、いわゆる高所作業車と呼ばれている車なのだ──トラックの荷台後尾を支点として、くの字型に上昇するクレーンのようなものがあって、その先端にスカイ・マスターと呼ばれるバケットがついている。バケットは深さ、幅一メートル、前後八〇センチほどの大きさで、人間が二人までは乗れる。
ママは絶対に大丈夫だといっていたが、私は高所作業車を目のあたりにしても、まだこれが本当のこととはとても信じられないでいた。一体、どんな|つて《ヽヽ》をたどれば高所作業車をこうもたやすく調達できるというのか。
──彼女は何者なのか……私の頭をふたたびそんな疑問がかすめた。
しかし、いまは驚いているべきときではないし、またあれこれ頭をひねっていられる場合でもなかった。
ほとんど人通りがないとはいえ、夜の十二時はまったくの深夜だというわけではない。人目につく危険をできるだけ避けるためには、とにかく仕事を迅速に片付ける必要があった。
高所作業車が停車し、運転席からライフルマン≠ェ身を乗りだして、手を振ったとき、フェンスを乗り越えて眠りくん≠ェこちらに走ってきた。
「燻蒸室《くんじようしつ》のほうは大丈夫です……」
眠りくん≠ェあえぎながらいった。「急がないと、すぐに始まりますよ」
息を切らしている眠りくん≠ノは気の毒だが、たしかに急ぐ必要があった。四脚のジャッキ操作をしないと、スカイマスターは作動しないからである。
ジャッキ操作をし、前輪が十センチほど浮かんだのをたしかめてから、高所作業車の後方に赤灯と、「工事中」の赤文字の入った三角板を置いた。
ライフルマン≠ェ毛布にくるんだライフルを小脇に抱《かか》え、高所作業車から降りてきて、それと入れ替わりのように眠りくん≠ェ運転席によじ登った。
そして、私とライフルマン≠フ二人がスカイマスターに乗り込んだ。
もちろん私たちが全員、保線マンの格好をしていたことはいうまでもない。しかるべき筋に問いあわせれば、すぐにこれが偽工事とわかってしまうとはいえ、とにかく外見《そとみ》だけでも電線工事の体裁をととのえておく必要があったからだ。
グィーン、というような鈍い音をたてながら、スカイマスターがゆっくりと上昇を始めた。
さすがにメカに強い眠りくん≠セけあって、初めて手をふれるスカイマスターの操作機もなんとか使いこなすことができるようだ。もっとも操作機のレバーには、それぞれ屈伸=A旋回=A起伏≠ネどの表示がされているのだが。
「よし、これでいい……」
スカイマスターがかなりの高さに上昇したとき、私は無線機で眠りくん≠ノ伝えた。そして、ライフルマン≠みつめる。
ライフルマン≠ヘすばやくスリングを左腕にからませ、ライフルを斎藤博物館に向けると、光学照準器《ライフル・スコープ》に眼を当てた。その光学照準器をつけた状態で、どこかの山奥でライフルの試射をし、充分に着弾修正を済ませてきているはずなのだが、それでも風、温度、湿度などによって、着弾点にかなりの狂いがでてくるのだそうだ。ライフルマン≠ニしても慎重にならざるを得なかったろう──事実、光学照準器を覗いているライフルマン≠フ横顔は、それまでになく鋭い表情をしていた。
「右だ……」
ライフルマン≠ェ口のなかでつぶやくようにいった。「右に回してくれ」
私は無線で眠りくん≠ノそう伝え、スカイマスターは静かに動き始めた。もちろんスカイマスターは上下するだけではなく、回転運動も可能なのだ。
「停めてくれ」
私はライフルマン≠フ言葉を無線にくりかえして、スカイマスターがわずかに軋みながら停止した。
私もまた高倍率の双眼鏡をとりだし、斎藤博物館に向けた。カドミウム電池が内蔵されている光学照準器とちがい、スコープの中心に明かりが点《とも》るようなことはないが、博物館そのものの照明があるから、双眼鏡でもなんとか見ることができるのだ──夜の闇のなかに浮かびあがっている斎藤博物館は、すべてのルーバーウォールが閉ざされ、それこそスチールの要塞のように堅固なものにみえた。
「どうしたんだ……」
私は双眼鏡を眼に当てたまま、思わず口走っていた。「燻蒸室はどうなっているんだ」
そのとき──斎藤博物館からサッと光が流れ出た。
ルーバーウォールが九〇度の全開になったのだ。
私は双眼鏡から眼をはなし、ライフルマン≠ノ視線を走らせた。ライフルマン≠ェわずかにライフルの銃口をあげたようだ。おそらく風力と弾道落差を計算してのことにちがいない。
私はそれだけをたしかめると、ふたたび双眼鏡に眼を当てた。
みえる!
全開になったルーバーウォールのガラス越しに、たしかにマリアの宝飾≠フ収められたガラス・ケースがみえるのだ。
私の双眼鏡でもなんとかみることができるのだから、ライフルマン≠フ光学照準器《ライフル・スコープ》には、マリアの宝飾≠ェクッキリと浮かびあがっているはずだった。
五秒、十秒、十五秒……胃の痛くなるような時間が過ぎていく。
私はそれこそ眼だけの存在と化して、マリアの宝飾≠くいいるようにみつめていた。おそらく、私はこのときのマリアの宝飾≠、死ぬまで忘れないにちがいない。もしかしたら、マリアの宝飾≠夢にみて、うなされるようになるかもしれない。
銃声が鳴りひびき、頭のなかを蹴りつけられたような衝撃を感じた。鼓膜がビンビンと震える。
弾がルーバーウォールのガラスを貫通《ヽヽ》し、そしてマリアの宝飾≠フガラス・ケースを|砕く《ヽヽ》のがみえた。
「やったっ」
反射的にそう叫んだ私の声は、しかし喧《やかま》しく鳴り始めた非常ベルの音にかき消されてしまったようだ。
この世に自分の作戦がまんまと成功したときに勝《まさ》る喜びはない。私はほとんど性的ともいえるような快感に身をゆだね、スカイマスターが下がり始めても、なお双眼鏡から眼をはなすことができないでいた。ニヤニヤと笑いながら、いつまでも……
ふいに顔の筋肉がこわばるのを感じた。私は双眼鏡の視野のなかに、|信じられないもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》をみたのだ。慌ててたしかめようとしたときには、もうそれは視野の外に消えていた。
私は双眼鏡から眼をはなし、呆然と立ちつくした。
ガクンと軽い衝撃が足元から伝わってきて、スカイマスターが完全に降下した。
「急ぎましょう。警察が来るまえにここを離れないと……」
眠りくん≠フ声が下からきこえてきた。
「これで終わりですな……」
ライフルをおろしたライフルマン≠ェ、あのいつもの卑屈な口調に戻っていった。「まったくあなたの作戦はすばらしい……」
私もついさっきまではそう思っていた。
しかし、私は知ってしまった。これで終わりどころか、すべては振り出しに戻ってしまったのだということを……
いや、それどころかなにもかもが|これから《ヽヽヽヽ》始まるのかもしれないのだった。
──私の作戦とはこういうものだった。
燻蒸室に忍び込んだ眠りくん≠ェ、メチルブロマイド、あるいはクロールピクリンのガスを展示室に送り込む。大気中のガスを感知したコンピューターは換気のために、ルーバーウォールを全開にする──これはもう間違いなく九〇度回転するのだ。
ここまで考えるのは容易だった。問題はそれから先だ。つまり、たとえルーバーウォールが全開になったとしても、そこから忍び込むことはできない。あまりにも間隙が狭すぎるからだ。
それなら博物館に忍び込まなければいい……そう思いいたったとき、作戦のすべてが頭のなかに組み立てられた。
マリアの宝飾≠フガラス・ケースが砕かれ、床に|ダイヤが一個落ちていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》としよう。マリアの宝飾≠盗みだそうとした人間が、警報ベルが鳴りだしたために慌てて逃げだし、そのはずみかなにかでダイヤが一個外れてしまった──誰もがそう考えるのではないだろうか。まさか閉館まぎわに入ってきた観覧者の一人が、そこにソッと転がしておいたとは夢にも思わないにちがいない。
そうじゃないか?
もちろん、そのうちにどこかにめり込んでいる弾丸が発見され、ガラス・ケースは叩き割られたのではなく、射ち砕かれたのだということが明らかになるだろうが、だからといって事情がかわるわけではない。ガラス・ケースが砕かれた拍子にダイヤが外れた、と見解があらためられるだけのことだ。
そうなると、なんのためにこんな真似をしたのか、と警察は首をひねることになるだろうが、結局は悪質な悪戯《いたずら》という線に落ち着くのではないだろうか。博物館のガラス・ケースをライフルで狙撃し、警報ベルが鳴りひびくのをきいて喜びをおぼえる愉快犯というわけだ。
マリアの宝飾≠ヘ無事だったし、ダイヤも持ち去られたわけではなく、床に落ちていたのだ。被害はまったくない。
どうして、こんな回りくどい真似をしなければならなかったのか? たとえばダイヤを郵便で送りとどけるか、ただ博物館の床のうえに転がしておくだけではいけなかったのか?
いけなかったのだ。
大切なのは、ダイヤをマリアの宝飾≠ノ戻すことではない。アリスちゃんがダイヤをマリアの宝飾≠ゥら抜きとったという行為そのものを、かき消してしまうことが大切だったのだ。
考えてもみるがいい。ダイヤを郵便で送りとどけても、床のうえにただ転がしておいても、誰かが|それ《ヽヽ》をマリアの宝飾≠ゥら抜き取ったという事実までもが消えることはない。警察はかならず捜査を開始するだろうし、そうなればアリスちゃんが容疑線上に浮かびあがってくることはまず間違いないのだ──それでは、なんの意味もない。
そうならないためには、|マリアの宝飾《ヽヽヽヽヽヽ》=bのガラス《ヽヽヽヽ》・|ケースが砕け《ヽヽヽヽヽヽ》、|そのはずみでダイヤが落ちたという状況《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を、なんとしてでも作ってやらなければならなかったのだ。
わざわざ狙撃のプロの手をわずらわせ、弾《たま》の初速を抑えたり、弾そのものを工夫したりして、ガラス・ケースは砕いても、ルーバーウォールのガラス・プレートは貫通するように苦労したのは、われわれの逃走時間を稼ぐためだった。
もちろん、誰かが燻蒸ガスによってルーバーウォールが全開していることに不審を抱くか、ガラス・プレートの弾痕をみつけるなり、弾そのものを発見するかして、いずれは外部から狙撃されたことがつきとめられるのは間違いない。
しかし、そのときにはわれわれははるか遠くへ逃げてしまっているというわけだ。
銃声をききつけて、誰かが警察へ通報するという心配はあまりしなかった。銃声は車のバック・ファイヤの音に酷似しているし、すぐに博物館の警報ベルが鳴り始め、だれも警察へ通報する必要は感じないだろうからだ。
作戦はすべてうまくいくはずだった。いや、|うまくいった《ヽヽヽヽヽヽ》のだ。
ただひとつのことを除いては……
──斎藤博物館から二十分ばかり走ったところに建っている古ビルの、その地下駐車場に高所作業車は入っていった。
その地下駐車場はほとんど使われていないらしく、二、三台の車が駐められているきりで、ただ螢光灯の明かりだけがクッキリと浮かびあがっていた。打ちっ放しのコンクリートの壁にひろがっている|しみ《ヽヽ》が、なんだかひどくわびしい感じだ。
そこで、アリスちゃんがべつの車を用意して、私たちを待っていた。
われわれはここで車を乗り替える計画になっていた。もちろん高所作業車はこれから先どこかへ運ばれることになるのだろうが、その手配はすべてママがしていて、われわれはまったく関知していなかった。
ライフルマン≠運転席に残して、私たちは高所作業車を降り、アリスちゃんのもとに歩いていった。二人とも保線マンの作業服を脱いでいることはいうまでもない。
「無事だったのね……」
アリスちゃんが車から降りるなり、叫ぶようにいった。よほどわれわれの身を案じていたらしく、その顔が蒼白になっていた。
「すべてうまくいったよ。もうなにも心配することはない……」
と、眠りくん≠ェこれはいつもながらの、万年躁病のような陽気な声でいった。
彼らの喜びに水をさすようで、いささか気がひけた。できればこのまま口をとざしていたいところだ──だが、そうしたからといって、事態がなにひとつ変わるわけではない。下手《へた》にぬか喜びさせるより、事実をつきつけたほうが、むしろ親切というものだったかもしれない。
「すべてがうまくいったというわけではない……」
私はため息をつくと、沈痛な声でいった。
「それどころか、事態はなおさら悪化したというべきかもしれない」
「………」
一瞬、虚をつかれたように、眠りくん≠ニアリスちゃんは沈黙した。
「なにをいってるんですか」
そして、眠りくん≠ェ怒ったようにいった。「悪い冗談なら止しにしてください」
「冗談ならいいんだが……じつは、さっきライフルマン≠ェガラス・ケースを砕いたとき、おそらくは弾《たま》がかすめたかどうかしたのだろう、マリアの宝飾≠ノ填込《はめこ》まれた|ダイヤが粉みじんに砕けている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のがみえたんだよ……」
「………」
とっさには、私の言葉の意味するところが理解できなかったにちがいない。眠りくん≠ヘしばらくポカンとして私をみつめていたが、やがてその顔から急速に血の気が引いていった。
「そ、それじゃ……」
あえぐような声だった。
「あのマリアの宝飾≠ヘ偽物《にせもの》だ。填込まれていたのはガラス玉だよ……」
私はそれだけをいうと、ゆっくりとアリスちゃんのほうに向き直った。つとめて平静を保とうとはしているのだが、自分でも怒りのために体が震えているのがわかった──よほど私の形相が凄《すさま》じかったのか、アリスちゃんがいまにも泣きだしそうな怯えた表情になって、二、三歩後ずさりをした。
「警察はわれわれがマリアの宝飾≠偽物とすり替えたと思うだろう。ガラス・ケースを狙撃し、なんらかの方法で博物館に身を潜めていた別の仲間が、マリアの宝飾≠偽物とすり替えた……そう思うに決まっているんだ」
私は一語一語言葉を押しだすようにして、ゆっくりとしゃべった。そうでもしないと、自分が怒りのために喚きだしてしまうことがわかっていたからだ。
「なあ、教えてくれないか。アリスちゃん……きみがマリアの宝飾#イきとったとかいう|あの《ヽヽ》ダイヤはたしかに本物だった。だからこそ、私たちもきみの言葉を疑いもしなかったんだ。だが、考えてみると、あのダイヤがほんとうにマリアの宝飾≠ゥら抜きとったものであるかどうか、誰もたしかめたわけではない……なあ、きみのいったことはほんとうなのか? ほんとうにマリアの宝飾≠ゥらダイヤを抜きとったのか」
「わたしは……わたしは……」
アリスちゃんは首をふりながら、さらに後ずさりしていき、やがて泣き叫ぶようにいった。
「わたし、なにも知らないんです。いやだといったのに、ママがわるいようにはしないからって、ただの遊びだからって……」
そのとき、ふいに強烈な明かりが私たちを背後から照らしだした。駐車場のコンクリート壁に三つの大きな影法師が浮かびあがるのが、一瞬、私の網膜に焼きついた。
ふりかえった私の眼を巨大なライトの二つ眼が射抜いた。ブオーッと咆哮《ほうこう》を発しながら、高所作業車が猛スピードで迫ってくる。運転席のライフルマン≠ェ白い歯を剥きだしにして、いかにも嬉しそうに笑っていた。
「兎《うの》さん……」
眠りくん≠フそう叫ぶ声がきこえてきたような気がしたが、これは幻聴だったかもしれない。
逃げる暇などあるはずがなかった。ライトが視界いっぱいに迫ってきて、タイヤの軋む音、悲鳴、肉を叩きつけるような音が、つづけざまに鼓膜をえぐった。脇腹に衝撃をおぼえ、体が独楽《こま》のようにクルクルと回転するのを感じ、そして駐められていた車のボンネットのうえに叩きつけられた。
死んだと思った。
だが、水のなかを浮上していくように、意識が急速にはっきりしてきて、気がついたときには私はやはり車のボンネットのうえに長々とのびていたのだった。
気をうしなっていたのは短い時間のようだったが、高所作業車がみえなくなっていて、床のうえに|血まみれの肉の固まり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が二個転がっているところをみると、そうでもなかったらしい。
私はしばらくそれをみつめていた。
心に厚い鎧《よろい》をまとったように無感動になっていた。驚きとか悲しみといった精神機能が完全に麻痺してしまい、体の芯《しん》に鈍い痛みのようなものを感じるだけだった──私は眠りくん≠ニアリスちゃん≠フ死体をみつめていた。ただ、それだけのことだった。
なんの脈絡もなく、とうとう彼らの本名を知らずじまいで終わってしまったということが、頭に浮かんできた。
そのとたん、ふいに激しい嘔吐感が胸をつきあげてくるのをおぼえた。
私はいまだかつて、そんなにも激しく吐いたことはない。ついには何も吐くものがなくなってしまったが、それでも黄水《きみず》があとからあとからこみあげてくるのだ。
涙が滲みでてきて、頭のなかが燃えあがるように熱くなっていた。|苦しかった《ヽヽヽヽヽ》。しかし、どんなに苦しくても、それで死んでしまった眠りくん≠スちにたいして、その無念さを償《つぐな》えるものではなかった。私はもっと、もっと苦しむべきだった。
私はいつしかコンクリートの床のうえに両膝をついていた。そして、あまりの苦しさに、そのまま自分の吐いた汚物のなかに頭から沈んでいきそうになった。
そんな私の体を背後から力強く支えた手があった。頭のうえから声がきこえてくる。
「さっさとここから離れたほうがいい……」
それは──帽子屋さん≠フ声だった。
「おれの名前は桂木昌平……原宿でケイ≠ニいう小さな喫茶店を経営している」
帽子屋さん≠ヘのっけにそう自己紹介をし、それからちょっと湿った声でつけ加えた。
「死んだ眠りくん≠ヘ久藤衆一……S大の工学部の学生だった……」
帽子屋さん=Aいや、桂木昌平の車のなかだった。桂木はほとんど追いたてるようにして私を自分の車に乗せ、それから|ここ《ヽヽ》渋谷までしゃにむに運転してきたのだ──渋谷の寂しい裏通りに車を駐めたときには、さすがに桂木もちょっと荒い息づかいになっていた。
「私は藤森兎吉……T予備校で数学の講師をしている……」
私はボンヤリとそういってから、桂木の顔をみて、ようやく気がついた。「そうか……|あんた《ヽヽヽ》だったんだな。あんたは知っているんだ……」
「わるいと思ったけど、興信所に頼んで、兎《うの》さんと眠りくん≠フことを調べてもらったんだ……」
桂木がうなずいて、いった。「ちょっと気にかかることがあったものでね」
ここのところ、誰かに尾行されているような気はしていたが、まさかそれが興信所の人間だったとは夢にも思わなかったし、ましてやその依頼主が帽子屋さん≠セなどとは考えもおよばないことだった。
どうやらその驚きが、眠りくん≠スちの死んだショックでいささか虚脱状態にあった私を、急速にこの現実に引き戻したようだった。
「眠りくん≠ノは気の毒なことをした」
桂木は暗い表情で、自分自身につぶやくようにいった。「おれがもう少ししっかりしていれば、こんなことにはならなかったんだが……」
「アリスちゃんも死んだ……」
「そうだ……彼女の名は井沢有子……どこにでもいるような、ありふれた女子大生にすぎなかった……」
ふいに腹の底に熱く、固い|しこり《ヽヽヽ》のようなものを感じ、それが喉もとにこみあげてくるのをおぼえた。それは怒り、ほとんど現実的な痛みをともなう激怒だった。
「どうして、こんなことになったんだ……」
私の声はしゃがれていた。「いったい何が起こったんだ」
「あんたたちはチェシャ・キャット≠フママにだまされていたんだ。いや、おれもやはりだまされていたくちだ……」
「だが、あんたはそれに気がついた」
「おかしいと思ったんだ」
桂木はうなずいて、いった。「あの凶悪ファミリーのこと憶えているかい? あいつらはどうして、おれたちが現金輸送車を襲ったことを知っていたんだろう。それに、おれの友達だった宇川洋介もなにかを知っていたふしがある。だって、そうじゃないか。たんに昔の友達だというだけで、イカサマ賭博の話を持ち込んできたりするはずがない。誰かになにかをふきこまれて、おれならその話に乗るとふんでいたにちがいないんだ……」
「その誰かがチェシャ・キャット≠フママだというのか」
「最初は誰だかわからなかった。だから悪いとは思ったけど、兎《うの》さんや眠りくん≠フ調査を興信所に頼んだんだ……そして、ママが怪しいということがわかった」
「彼女はいったい何者なんだ」
「はっきりとはわからない。ただチェシャ・キャット≠フ経営者というのは、彼女のほんの小さな一面にすぎないようだ……」
桂木はブルンと掌で顔を撫でおろし、いかにもおぞましげにいった。「ただひとつわかっているのは、彼女は政界に隠然たる勢力を持っているらしいということだ」
「政界に?」
「気がつかなかったかい? おれたちのやったことは、みんなどこかで政治家たちとつながっているんだぜ……」
「………」
私たちは保守党の大物である西条唯史の孫息子の誘拐に危うく手をかすところだった。私たちが潰した賭博場《カジノ》クロコダイル≠フ経営者水野幸吉は、もと首相Tの古い友人であり、その最大の資金源でもあった……
「現金輸送車の件はどうなんだ?」
私はうめくようにいった。「あの事件のどこに政治家が関係しているというんだ」
「『装甲輸送車警備保障』から政治資金を受けていた代議士がいるんだ。考えてみれば、そんなことでもないかぎり、民間の一企業が白昼堂々装甲車を走らせるような商売ができるはずがない……それが、あの事件によって表ざたになりそうになって、かなり政治家たちのあいだで恩をうったり、金が動いたりということがあったらしい……」
「しかし、その三つの事件がどこでどうつながっているんだ? いったい、|私たちは何をしたんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「あの世界のことがおれたちにわかるものか」
吐き捨てるような口調だった。「ただひとつはっきりしていることは、おれたちはチェシャ・キャット≠フママが政界工作をするために、いいように駒にされていたということだよ」
「遊びだったのに……遊びのつもりだったのに……」
私の声は悲痛そのものであったにちがいない──わたしたちはもう子供じゃないわ……ママの声が頭のなかにきこえてくる。遊びはいつまでも終わらないのよ……|遊びは終わった《ヽヽヽヽヽヽヽ》。あたりは暗くなってしまった。だが、私たちが泣きだすのは許されない。泣く資格のある人間がいるとしたら、それは……
私はギュッと強く眼をつむった。瞼《まぶた》の裏の闇のなかを、一瞬、若い男女の姿が過《よぎ》ったように思えた。
「ママに会わなければならない」
私は強く噛みしめた歯のあいだから、息を洩らすようにいった。「どうしても会わなければならないんだ……」
──しかし、彼女に会うことはできなかった。
六本木のチェシャ・キャット≠ヘ明かりが消され、扉には「本日休業」の札がかけられていた。
扉には鍵がかけられていず、暗い店内に足をふみ入れた私たちは、ただその場に呆然と立ちつくすほかはなかった。通い慣れたはずのチェシャ・キャット≠ェ奇妙によそよそしく、なじみのないものとして眼に映った──たしかに遊びはもう終わったのだった。
ふいに電話が鳴った。
私と桂木はたがいに顔をみあわせ、そして私が受話器をとった。
「やはり来ていたのね……ライフルマン≠ェ駐車場からあなたの姿が消えているといっていたから、もしかしたら来ているんじゃないかと思ったんだけど……」
ママの声だった。「彼に命を狙われて助かるなんて、あなたはとても運がいいわ。兎《うの》さん──」
「もう遊びは終わったんだ……」
私の声は苦々しく、そしてどこかに悲しみのひびきが含まれていた。「ぬけめのないきみのことだ。私の本名はとっくに知っているんじゃないか」
「それじゃ、藤森さん……あなたはこのままでは警察に追われることになるわ。わたしもこのままじゃまずいのよ……もう一度お会いして、ゆっくりお話ししたほうが、おたがいのためになるとは思わない」
もちろん、罠に決まっている。それはわかっていた。
「どこで会ったらいい?」
だが、私はそう訊いていた。
「東瀬戸内海に沖浮島という島があるわ。巡航船は通っていないけど、大山島で漁師に頼めば、船はだしてくれるはずよ……そこで待っているわ」
電話が切れた。
私はしばらく受話器を握りしめ、その場に立ちつくしていたが、やがてゆっくりと電話を切り、そして自分でもひどく疲れているとわかる声で、桂木にいった。
「どうやらおたがい休暇をとる必要がありそうだよ……」
──やって来たな……とうとうこの島にやって来たな……
その声をきいたとき、私は痺れるような恐怖と、そしてそれに数倍する怒りで、体のなかが熱くなるのを感じた。
それはライフルマン≠フ声だったのだ。
投光器の強烈な集光された光をまともにあびても、私が眼をとじようとしなかったのは、ライフルマン≠ノたいする激しい怒りと、ささやかな、しかし絶対にうしなってはならない矜持のためだった。
投光器の光のなかに真っ黒なシルエットが浮かびあがり、その人影がゆっくりとこちらへ近付いてくる。
ライフルマン≠セった。
ライフルマン≠フ顔からはあの卑屈な笑いは拭われたように消えていて、それが地金であるらしい、いかにもしたたかそうな表情が浮かんでいた。この男は狙撃手としてばかりではなく、どうやら演技者としても一流のようだ──要するに、生まれながらの犯罪者なのである。
「おめえはバカだな……」
ライフルマン≠ヘチッ、チッと舌を鳴らしながら、ゆっくりとライフルの銃口を私の胸につきつけた。「この島にやって来るなんて、ほんとうにバカだ」
「あんたと話をするために来たんじゃない」
私はいった。「ママと話をするために来たんだ」
そのとたん、投光器の光が窄《すぼ》まるように弱くなり、エンジンの回転音、冷却ファン音がきこえてきて、淡い光のなかにパワーショベルがゆっくりと迫《せ》り上がってきた。
パワーショベルの長いアームが大きく旋回し、その一本爪リッパが私の頭上で静止した。文字どおりの指を一本曲げたようなアタッチメントで、岩石を掘り起こしたり、舗装をはぎとるのに非常な威力を発揮する──もちろん、パワーショベルの運転手がその気にさえなれば、人間の頭を叩きつぶすのなど造作もないことにちがいない。
私があとずさると、パワーショベルも前進する。右に避けようとすると右に、左に避けようとすると左に、アームは寸分の狂いもなく旋回する。一本爪リッパは|絶対に《ヽヽヽ》私の頭上から離れようとしない。
「やめてくれ……」
私はかすれた声でいった。「お願いだからやめてくれ」
若い女のきれいな、澄んだ、しかしどことなくサディスティックなひびきを含んだ笑い声がきこえてきた。
パワーショベルはわずかに後退し、アームはちょうど人差し指を曲げるように下がっていき、一本爪リッパの先端がほとんど地面に触れそうになったあたりで静止した。
ライフルマン≠フ背後一メートルとは離れていない場所だ。
エンジンの回転音が途絶え、投光器の光がさらに窄まっていき、パワーショベルのプルアップ式フロント・ウィンドウにボンヤリと人影が浮かびあがってきた。
ママだった。
ジィンズに白いシャツ・ブラウスという軽装のママは、笑いながらドアをあけ、ブル足に片足をかけて、運転席から上半身を乗りだした。
「これがおもしろくて仕様がないのよ」
そして、いった。「他人を思いどおりにあやつるのが、ほんとうにおもしろくて仕様がないの」
「………」
苦い胃液が喉にこみあげてきた。ふいに疲労が重苦しく肩にのしかかってくるのを感じた。
そこにいるのはもう、チェシャ・キャット≠ナヒッソリと息づき、私にキスをした|あの《ヽヽ》ママではないのだ。パワーショベルの一本爪リッパで男を追いつめることに無性に喜びをおぼえる、美しいが、それだけにいっそうグロテスクな一匹の怪物《モンスター》なのだった。
「だから私たちを……私を、帽子屋さん≠、眠りくん≠あやつったというわけか。おもしろいから……」
私はようやくそういったが、喉がひりついて、声がかすれていた。「あの誘拐犯の三兄弟に私たちのことを教えたり、帽子屋さん≠フことを宇川という男に教えたのは、みんなきみの仕業だったんだな」
「そうよ……あなたたちが動きまわってくれたおかげで、とても仕事がしやすくなったわ。政治家に恩を売ったり、脅す材料に使ったり、ね……」
「今度のことはどういうわけだったんだ? マリアの宝飾≠ェ政治家とどんな関係があるというんだ」
「本物のマリアの宝飾≠ヘね、とっくの昔に斎藤英一が賄賂《わいろ》として、保守系の大物政治家に寄贈しているの。博物館に展示されているのはもともと偽物だったのよ……」
彼女の声は低く、奇妙に陶酔したようなひびきがあった。「それがジャーナリストにすっぱ抜かれそうになって、斎藤コンツェルンのお偉方がわたしに泣きついてきたというわけなのよ。だから、斎藤博物館に泥棒が入って、マリアの宝飾≠偽物にすり替えたという筋書きを書いたの……わたしには、だれでもいいから実際に斎藤博物館を襲う人間が必要だったのよ。アリスちゃんには気の毒だったけど、でも彼女、すこしわたしのことを知りすぎてしまったわ……」
「………」
私は呻き声をあげた。汚い話だ。あまりにも汚い話だった──そして、彼女がその汚い話を平然と披露《ひろう》するのは、私を絶対にこの島から生きては帰さないつもりでいることを意味していた。
「どうしてなんだ……」
私は呆然として、なかばつぶやくような声で訊いた。「なんのために、そんなことまでして政界に食い込む必要があったんだ」
「わたしはある人を政治家としてデビューさせたいと考えていたの。清潔で、若々しいイメージを前面に押しだして、ね……そして、その人を大物に育てあげるためには、政界に幾つか|こね《ヽヽ》をつくっておく必要があると考えたのよ」
私の頭にある人物の名が浮かんだ。今回の参院選挙に立候補した、清潔で、若々しい新人の名が……主婦層の人気を集め、当選確実といわれている人物の名が……
「きみは彼を愛しているのか」
私はささやくような声で訊いた。「そうなのか」
しばらく、彼女は返事をしようとはしなかった。光量を絞った投光器の光のなかに浮かんでいる彼女の姿は、塑像のように身じろぎせず、かすかに肩が上下しているのがみえるだけだった──やがて、その肩がしだいに大きく上下し始め、一瞬、私は彼女が泣いているのかと思った。そうではなかった。彼女は|笑っている《ヽヽヽヽヽ》のだ。嬉しくてたまらないというように、笑っているのだった。
「兎《うの》さん、あなたっていい人だわ……ほんとうにいい人……」
彼女は笑いながら、いった。「だから、人にだまされることになるのよ……|あの男《ヽヽヽ》はね、自分がわたしの操り人形だということにさえ気がついていないわ。そんな間抜けをわたしが好きになると思って……わたしはね、あの男を操って、政治を好きなように動かしてみたいだけ……ちょうど、あなたたち三人を操ったように、ね」
その瞬間、わたしのなかでなにかが音をたてて崩れた。自分でもそうとは気づかずに愛していた一人の女が、いま、わたしのなかでヒッソリと息をひきとったのだ。
「ここはレジャーランドにする予定で、ある建設会社が買いとった島なの」
彼女の声が急に低くなった。「資金繰りに行き詰まって、会社が倒産して……まわりまわって、いまではわたしの島よ。ここなら誰も来ないわ。ゆっくりと、静かに、いつまでも休めるわ……」
その声が合図であったかのように、ライフルマン≠ェ一歩足をふみだした。石のように無表情な顔をしていた。私をみる眼の色が死人をみるそれになっていた。
もちろん、私はライフルをつきつけられて平然としていられるほど豪胆な人間ではない。いつもだったら、失禁とまではいかなくても、膝から力が抜けて、その場にヘタヘタと崩れてしまっていたにちがいない。そうならなかったのは、あらかじめこうなることを予想して、それなりの準備をしていたからなのだった。
「ライフルを捨てろ」
その準備《ヽヽ》が叫んだ。「二人とも動くんじゃない」
工事現場の背面をなしている、二十メートルほど後方の低い崖に、拳銃を構えている男の姿が浮かびあがった。
桂木だった。
桂木はまだ夜も明けないうちから、この島に上陸し、いままで待機してくれていたのだった。
彼が手にしている拳銃は、昔の知りあいである暴力団員から入手したものだということだ。暴力団員と知りあいになるような職業が何であったかはきかされていない。
「帽子屋さん=c…」
さすがにママは桂木のこの突然の出現に愕然としたようだ、その場に凍りついたように立ちすくんでしまう。
だが、ライフルマン≠フほうは、私が予期していたほどには驚きを示さない。ちょっと右の眉をあげ、唇のまわりに白っぽい|しわ《ヽヽ》を刻んだだけだった。
「きこえないのか」
桂木がさらに声をはりあげた。「ライフルを捨てろ」
ライフルマン≠ェウッスラと笑いを浮かべた。私はその笑いをみたとき、ライフルマン≠ェ自分が勝つことに絶対の自信を持っていることを知った。素人に負けるはずがないと思っている。彼は|プロ《ヽヽ》なのだ。
「伏せろ、桂木、いや、射て、射ってしまえっ」
私がそう叫んだときには、すでに手遅れだった。
ライフルマン≠ェクルリと身をひねりざま、ライフルの銃床を肩にはねあげた。
桂木の拳銃が火を噴いたが、しかしその弾は遠くライフルマン≠フ体を逸《そ》れたようだった。
ライフルマン≠ノも誤算がなかったわけではない。眼のまえをさえぎっているパワーショベルのアームのことを失念していたのだ。プロらしからぬ失態が、一瞬、彼の動きに遅れを生じさせた。
二発の銃声が交叉し、ライフルマン≠フ頭蓋が砕けて、血と脳漿《のうしよう》をしぶかせた。
それとほとんど同時に、桂木の体が崖を転げ落ちていくのがみえた。
桂木の死はたしかめるまでもなかった。ライフルマン≠ェ狙いを外すはずがないからだ。
私は地面に落ちたライフルにとびつこうとした。
パワーショベルの一本爪リッパが唸りをあげて迫ってきた。かろうじて横転し、攻撃をかわした私のすぐ脇の地面に、それがグサリと刺さった。土塊《つちくれ》を全身にあびながら、私はそのまま転がっていき、なんとかアームの範囲外に逃がれようとした。
油圧装置の軋《きし》み、エンジンの回転音が眼がくらむほど恐ろしい。もちろん、もうライフルを拾うどころの騒ぎではない。
ようやく立ちあがったものの、頭上から振りおろされてくる一本爪リッパに、ふたたびその場に転倒してしまう。今度は無傷ではすまなかった。肩がしびれ、左腕から血が噴きだしてくるのを感じる。
私は転がり、転がり、転がって、ついにパワーショベルのリーチ外に逃がれることができた。無意識のうちに悲鳴をあげながら、必死に走りだす。
パワーショベルのキャタピラ音が背後に迫ってくる。いまにも一本爪リッパに体をくし刺しにされるのではないかという恐怖に、喉が締めつけられるのをおぼえる。
眼のまえに巨大な鉄球《ユンボ》をぶらさげたワゴンクレーン車がみえた。
追いつめられた臆病な小動物が巣穴に逃げ込むように、私はそのクレーン車の運転席にとび込んだ。
そして、泣き声をあげながら、ただもうでたらめに運転席のレバーを引っぱったり、ボタンを押したりする。もちろん私はこれまでクレーン車を操縦したことなど一度もないのだ。
アームをカマキリのように振りあげて、パワーショベルが轟音とともに接近してくる。|接近してくる《ヽヽヽヽヽヽ》。
その鋭く尖った一本爪リッパ──
ガクンと鈍い衝撃をおぼえ、クレーン運転室が旋回台とともに回転するのを感じた。
クレーンに吊り下げられた鉄球《ユンボ》が、唸りをあげながら、夜気を斜めに裂いていく。
パワーショベルの運転席で悲鳴をあげるママの顔が、一瞬、私の網膜に焼きつけられた。
──ママ、とちの実落とし≠やらないか……ふいに頭のなかに声がきこえてきた。とちの実落とし≠セったら、いつでも受けて立つわ……そこは自由で、だれからも拘束されない、われわれだけの空間だった。そこには|みんな《ヽヽヽ》がいて、ただ遊び≠フことだけを考えていればよかった。そこチェシャ・キャット≠ナは……
頭のなかのとちの実と、現実の鉄球《ユンボ》が重なりあい、次の瞬間、パワーショベルの運転席は何トンもの鉄の塊《かたまり》にみじんに砕かれていた。
しばらくしてから、私は口のなかでつぶやいた。
「もう帰らなければいけないよ……遊びの時間は終わったのだから……」
もちろん、私には帰るべき場所などない。
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この連載小説を執筆するにあたって、『ふしぎの国のアリス』(ルイス・キャロル作・生野幸吉氏訳・福音館書店刊)を参考にさせていただきました。ここに明記して、お礼申しあげます。
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文庫版のためのあとがき
この「ふしぎの国の犯罪者たち」の文庫解説には女性がいいんじゃないですか。
と、担当の編集者が言い、ぼくもそうしましょう、とうなずいて、二人とも楽しみに解説ができるのを待っていた。
締め切りを過ぎてからこのことに気がついたのだが、要するに編集者のほうはぼくがだれか美人作家を、ぼくのほうは編集者がだれか美人作家を、それぞれ紹介してくれると勝手に思いこんでいたのだ。
美人作家は何人もいらっしゃるが、ぼくの作品の解説をしてくれるような美人作家は一人もいない(ここらへん、すこし僻《ひが》んでいる)という冷酷な現実に気がつき、たいへんに慌てふためいたが、もう遅い。締め切りを過ぎてしまって、解説を書いてくれる人がまだ決まっていない、という異常事態を迎えてしまった。
奥さんに書いて貰ったらどうですか、と担当編集者が言ったが、ぼくの妻は亭主の作品は一度も読んだことがないし、なにより子供の幼稚園の送り迎えで忙しい。
それでは山田さんが女性名で書いたらどうですか、とも編集者は言い、これにはすこし食指が動いたが、なんだか|どんでん《ヽヽヽヽ》がきてしまいそうで恐い。これからの作家生命に(そんなものがあるとしたらの話だけど、とつぶやき、また僻む)さしさわりがあるような気がするのだ。
そこで「ふしぎの国の犯罪者たち」について覚え書きのようなものを書き、解説に替えたいと思う。
ぼくはフランスのミステリーのあまり熱心な読者ではないのだが、セバスチャン・ジャンプリゾという作家は、好きだ。
記憶喪失という手法を使っているので、あまりフェアでない、という説もあるのだが、シンデレラの罠≠最初に読んだときには、とても面白かったし、寝台車の殺人者=A新車のなかの女≠ニ続けて読んで、ひどく感心した記憶がある。
新車のなかの女≠ヘたしか浅丘ルリ子の主演で、テレビ・ドラマ化されたはずで、ぼくは浅丘ルリ子のファンだったので、この連続ドラマを毎週楽しみに見ていた。日本のテレビ・ドラマの通弊で、やや感傷的に流されすぎるきらいはあったが、日本のミステリードラマとしてはかなり上質の出来だった、といまだに思っている。
セバスチャン・ジャンプリゾは映画界との関係が深いらしく、さらば友よ≠フシナリオも手がけている。
ぼくはまたこのさらば友よ≠ェ好きで、ビデオにして保管しているのだが、とりわけチャールズ・ブロンソンが水をいっぱいに入れたグラスに、その水をあふれさせないように硬貨を何枚も入れる、というゲームをする場面があるのだが、これがじつになんとも粋に見えたものである。
製作者のほうで意識していたかどうか、このさらば友よ≠ナは、主人公のアラン・ドロンが金庫破りに挑《いど》んだり、最終的には男二人、女二人の対決に話が絞り込まれていったりで、ストーリーそのものがゲーム性を強く帯びていた。
そしてそれがセバスチャン・ジャンプリゾの次の作品ウサギは野を駆ける=i日本での映画タイトルは狼は天使のにおい≠セったと記憶している。もしかしたら記憶ちがいかもしれない)ではより前面に押しだされていて、ジプシーに命をつけ狙われる男、を主人公に持ってきて、お話が幻想性を帯び、ゲーム性がさらに強調されている。
映画のなかで、男たちは明らかに失われた少年期をふたたび生きようとしていて、彼らが挑む犯罪までもが、少年たちの遊び≠ニ化していた。|ぼくたち《ヽヽヽヽ》はみんな遊びに生きているのだ、という男たちにたいする挽歌が、ウサギは野を駆ける≠フ主要なテーマとなっていたのである。
この映画のラスト、ふいにふしぎの国のアリス≠フチェシャ・キャットが、物語のなかに登場してくる。
それを見たとき、ぼくの頭のなかにふしぎの国の犯罪者たち≠ニいう言葉が浮かんできたものだ。
おそらく狼は天使のにおい≠見たとき、ぼくはまだ小説を書いていなかったはずで、自分がいつの日かふしぎの国の犯罪者たち≠ニいう小説を書くときが来ようとは、夢にも考えていなかった。
それがこうして文春文庫の一冊として、出版して貰える運びとなる……
まさしく夢のようである。
ぼくもまたいつまでも遊び≠フなかに生きていて、ついにこの現実と折り合いがつかないまま、年をとっていくのかもしれない。
初出誌
襲  撃
「オール讀物」昭和五十四年六月号
誘  拐
「オール讀物」昭和五十四年十月号
博  打
「オール讀物」昭和五十五年三月号
逆  転
書き下ろし 昭和五十五年六月
単行本
昭和五十五年十月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年十月二十五日刊