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銀行 男たちの報酬
山田智彦
目 次
第一章 それぞれの立場
第二章 思いがけない展開
第三章 問題続出
第四章 解決の方法
第五章 総務部長
第六章 回転台
第七章 漠然とした不安
第八章 次の段階
第九章 意地の張り合い
第十章 落とし穴
第十一章 次の標的
第十二章 不思議な成り行き
第十三章 困った関係
第十四章 事件の行方
あ と が き
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第一章 それぞれの立場
その朝、長谷部敏正は八時七分に出勤してきて自席に坐った。周辺の部下行員たちが次々に朝の挨拶をする。
いちいち答えながら、彼は部員たちの顔色を見た。朝のこの時間帯は調子の良い者、わるい者の見分けがすぐにつく。まだ来ていない二名を除いて、暗黙のチェックをすませた。何気ない顔付きだが、観察眼の方は早くもフル回転している。
壁の上部にある電光掲示板を見上げると、頭取在室のランプが点いていた。
「ほう、これはまた、どういう風の吹きまわしかな」
と思わず呟いた。
「あのランプは八時に点きました」
と次長が教えた。
通常、頭取在室のランプが点くのは、九時十五分から三十分の間だ。
してみると、今朝は異常に早いと言ってもよい。何故か? 理由は長谷部にもわからない。少なくとも、すぐに思い当たるような事柄はなかった。
長谷部は東京大手町に本店を持つ都市銀行の雄「三洋銀行」の取締役総合企画部長の地位に就いている。同期生たちの出世頭でもあった。このポストに昇格してからおよそ二年が経過していた。
もちろん、平坦な道ではなかった。むしろ、つらくて苦しい道と言うべきであろう。バブル経済が崩壊し、銀行は多額の不良債権を抱え込んだ。系列の住専やノンバンクの不良債権まで加えると、実に莫大な金額になる。
昭和初年の恐慌時は別にして、かつて銀行がこれほどの打撃を受けたことはない。長い間、銀行は安泰であった。世間の常識もこの安全神話の上に乗っかって作り上げられた。銀行はどんなことがあっても、絶対に倒産しないものと考えられてきた。
こうした神話が崩れ始めた二年間である。それだけに、不良債権の回収はもとより、徹底したリストラその他に取り組まねばならなかった。必死の生き残り策を模索してきたとも言えよう。困ったことに、いまだ歯止めがなく、事態はさらに悪化しつつある。
机上の電話のベルが鳴った。
「すぐ頭取室へ行って下さい」
秘書課長の緊張した声が聞こえてきた。
「わかりました」
と答えて、長谷部は腕時計を見た。
まだ、八時十五分だ。いささか早すぎる。
──何かあったのか?
との思いがよぎる。
手帳を手にして立ち上がり、足早にエレベーターホールへ向かう。
役員室のあるフロアまで上昇した。エレベーターを下りると、前方から総務部長と広報課長が近付いてきた。二人共、顔色がわるく下を向いたままだ。
長谷部が挨拶しても気付かず、声を掛けられてからぎくりとしたように顔を上げた。憔悴《しようすい》の色が濃い。慌てて会釈を返し、気まずそうに脇を通り過ぎた。
──おかしいな。どうかしたのか?
疑問がわいた。
そこへ秘書課長が姿を見せた。
「頭取室へ急いで下さい」
と促した。
頭取の成瀬昌之は、あと一カ月半後に迫った株主総会で二年の任期を全うし、続けて再任されることになっている。押しも我も強くなかなかのやり手だ。過去二年で行内の体制を固め、じりじりとワンマン体質を強めつつある。この分だと、長期政権を敷く可能性もあった。
ノックをすると、ややくぐもった返事が聞こえた。
「失礼いたします」
と断って、長谷部は入室した。
成瀬は大きな執務机に向かっていて、書類から目を上げると、反対側に一つだけある椅子をさす。
「そこへ坐りたまえ」
と居丈高に命じた。
「いま、総務部長と広報課長を怒鳴りつけたところだよ。まったく、なっておらん」
と不満気な表情でつけ加えた。
道理で二人共、意気|沮喪《そそう》していた。何があったのか知らないが、朝からトップに呼ばれて、いきなり怒鳴られたのではたまったものではない。
「あの二人、まともに仕事をしておるのか? とても、そうは思えん。マスコミへの対応がわるすぎる。これを見てくれ」
言いつつ、長谷部の方へ書類を放った。
その書類は大きな頭取の執務机の向こう側から飛んできた。
どうやらまだ苛立ちを抑えきれない成瀬昌之が、憤ったまま放ってよこしたのだ。指先に悪意がこめられていたとでもいうべきであろうか、書類は机の上を勢いよく滑ってきて、長谷部の手前で止まった。
「拝見いたします」
長谷部は会釈して手を出した。
書類のように見えたが、そうではなく、週刊誌大のゲラ刷りであった。二つ折りにされた印刷物が二枚ある。一枚目の標題らしい太い活字が目に入った。
──危ない銀行! いよいよ銀行消失か?
はっとして、長谷部は目を上げた。
じっとこちらを見ていた頭取と目が合った。成瀬の目は忿懣《ふんまん》で燃え上がっている。
「これは週刊誌のゲラ見本ですか?」
とたしかめた。
「そうだよ」
成瀬は素っ気なく言う。当たり前のことを訊くなと言わんばかりの態度だ。
「来週出る『サンデー・マガジン』の記事見本だよ」
吐き出すようにつけ加えた。
「来週出てしまうんですか?」
「そうらしい。とにかく、中身を読んでみたまえ」
「はい、失礼いたします」
と断って、長谷部はゲラ刷りを広げて読み始めた。
内容は危ない銀行についてのお定まりの記事である。「銀行消失」とか「銀行倒産」の文字もあちこちに派手に出ている。近頃、あまり珍しくない記事内容であった。それほど突っ込みが厳しいわけではなく、むしろ通りいっぺんの印象さえ受けた。
銀行サイドの、長谷部のような立場の者から見れば、脇の甘いレポートと言える。実態はとてもこんなものではないとの思いが彼にはある。これでは突っ込みどころか、表面をさっとひと撫ぜしただけで産業界の常識の域をあまり出ていない。
事実、この程度の記事なら、あちこちで目に付く。では、どうして成瀬がいきり立ったのかと思いつつ読み進むうちに、後半にいたって、頭取の怒りの原因を突き止めた。
こともあろうに、「三洋銀行」の名が出ていたのだ。
しかも、成瀬昌之という頭取名まで出ている。
──有力都市銀行のトップとしては若手といってよい成瀬昌之は、その経験のなさがわざわいして有効な経営方針を編み出せない。ただ、しゃにむに前へ進もうとする時代は過ぎた。やはり、こういうむずかしい時代はベテランたちの長年の経験に頼った方が良いのではなかろうか?
という一節が目に入って、すべてが明白になった。
長谷部が目を上げると、じっとこちらを凝視しつづけていた成瀬の目とまたかち合う。どうだこれでわかっただろうと言っているかのように、その目は光っている。
「問題の個所ですが、もう一度じっくり読ませて下さい」
と長谷部は頼んだ。
「どうぞ、何度でも読みたまえ」
と成瀬は応じた。
長谷部は少し前の一節から読み返し、おかしいなという思いにとらわれた。何となく、この部分のこういう書き方に違和感を覚えたのだ。
記事そのもののテーマははっきりしている。
銀行の危なさであり、消失や倒産もあり得る実態と、最近の銀行経営のむずかしさが指摘されていた。突っ込みの甘さはあるにせよ、それはそれで一本筋が通っている。
にもかかわらず、この個所だけ、急にトーンが変わる。三洋銀行というより、成瀬昌之批判になっていた。おまけに、成瀬以外の他行の頭取名は出ていなかった。
長谷部が違和感を覚えたのは、まさにそういうところだ。
「どうも、おかしいですね」
と長谷部は口をきった。
「この記事は前半と後半のバランスがとれていません。というより、崩れています。どうしてか? こんな場所に唐突に成瀬頭取の名前が出てきたからです。何故、こういうことになったのかまったく腑に落ちませんよ」
不審気に言いつのる。
「そうだろう。きみも変だと思うだろう」
成瀬はわが意を得たという顔付きで頷《うなず》いた。
その後、成瀬の顔付きは温和とまではいかないが、ごく普通になった。
「きみも指摘したように、どうして急に私の名前が出てきたのか、理解に苦しむよ」
と言って、インタホンを押した。
「コーヒーを二つ、すぐ持ってきてくれ」
と言いつけた。
「この点について、総務部の広報課が調べたんですね」
長谷部は念を押す。先程の成瀬の剣幕から、たぶん、調査結果が気に入らなかったんだろうとの見当だけはついている。
「それがね、ろくに調査もしておらん。広報課長が自分で出向きもせず、課長代理を編集部へやって追い返されただけの話だ」
成瀬は吐き出すように言う。
「フォローしたことになっていませんね」
「その通りだ。だからね、朝から怒りたくもなるよ」
と言い終わった時に、ノックの音が聞こえた。
女性秘書がコーヒーを運んできた。先に頭取のテーブルに、次いで長谷部の前に置く。その間、二人共黙っていた。
「どうぞ」
成瀬は奨めると、すぐに自分もコーヒーカップに手を出した。
「頂きます」
長谷部も会釈して、一口飲んだ。
「改めて言うまでもないが、総務部長も広報課長もまったく役に立たん。あと一カ月半で株主総会だというのに、こういうものが出たのではダメージが大きい。第一、当行が危ない銀行の中に入るとは何事だ。中身を読めば、たしかに、うちはABCとあるグループの内のAグループに入っている。とはいえ、こんなところへ銀行名が出たのではイメージが落ちる。加えて、私の名前だ。どうして頭取の名を出さなければいけないのか? そうは思わないかね?」
成瀬は言いつのった。
「おっしゃる通りです。私がこの記事はおかしいと申し上げたのも、まさにそのあたりのことを指しております」
長谷部は同意した。
「きみはわかりが早い。さすがだ。そこで、今度はきみが乗り出して解決してくれ」
成瀬はそう頼んだ。
頼み、というよりは命令であった。
長谷部としては、それは管轄外だとは言えない。引き受けるほかはなかった。
「出来れば、こんな記事が出ないことが一番いい。しかし、相手もビジネスだからね。書くなとは言えんだろう」
と成瀬は言う。
「たしかに」
「たとえ、あまり心配のないAクラスにせよ危ない銀行の特集に当行の名が出るのは心外だ。各計数や不良債権の額、収益率等々の数字を見てくれ。どうしても、銀行名を出すのであれば、いっしょに計数も出して貰いたい。そうすれば、危ないか危なくないか、はっきり答えが出る」
成瀬は自信たっぷりな言い方をする。
「わかりました」
「それから、ここが大事なところだが、私の名前を出すのはやめて貰いたい。まして、経験うんぬんなど、大きなお世話だ」
成瀬はまた目を怒らせた。
「出来るだけのことはやってみます。ただ、先程、来週出るとおっしゃいましたが、発売が何曜日かは知りませんが、もう印刷に掛かっているのではないでしょうか? その場合は誰が行っても止められないと思います」
長谷部ははっきり告げた。
「それは困る。発売日その他については総務部長に訊いてくれ」
成瀬は慌てた。俄かに落ち着きがなくなった。
「では、早速チェックします。急ぎますので、これで失礼させて下さい」
長谷部はそう言って立ち上がった。
「そうしてくれ。状況が変わったら、連絡を頼みますよ」
つられて立ち上がった成瀬は、最後の言葉だけ丁寧に言って、長谷部の会釈に答えた。
頭取室を出て、自席へ戻る途中、長谷部は顔をしかめた。厄介な仕事を引き受けたという気持ちが強い。しかも、銀行本来の仕事とはいささか勝手が違う。コーヒーをご馳走になったが、高いものについた。
自席に戻ると、八時五十五分になっている。朝礼の時間だ。森本良二の姿が見えない。
「森本くんは?」
「まだ来ておりません。連絡もいまのところ」
次長が気掛かりな様子で答えた。
森本良二は長谷部が融資部長をしていた時の部下だ。三十代半ばの課長代理で、生真面目でよく働く。優秀な人材といってよい。
それが融資部を追い出されて出向要員の中に加えられていた。長谷部は驚いて人事部長に話をつけ、自分の総合企画部に引き取った。一カ月前のことである。
最近の森本は何度か無断欠勤をしている。朝いつもの時間にきちんと家を出る。そのくせ、銀行へは来ずに、どこかへ行く。そして、夜七時ごろ、何くわぬ顔で家に帰ってくる。このため、若い妻は夫が銀行へ行ったものとばかり思っていた。
自分の部に引き取ってから、この事実がはっきりした。出向要員になった理由もそのせいらしいが、融資部ではとくに事情を調べもせず、あっさり切り捨ててしまった。
なにしろ、リストラ時代である。本店の各部も支店も、人員の削減にやっきになっている。それに、もともと銀行の人事は減点人事だ。マイナス点が見付かれば、これさいわいとばかり切り捨てられてしまう。
「そうか、まだ来ていないのか?」
と長谷部は呟いた。
「朝礼はきみが代わりにやっておいてくれ。ちょっと総務部長の部屋へ行ってくる」
次長に言い置いて、長谷部はさっさと席を離れた。
どうも厭な予感がする。今日もあまり良い一日とは言えないのではなかろうか? そんな気がしてきた。
総務部長の部屋へは広報課長も呼ばれた。その方が早いと判断したのであろう。長谷部にしてみれば、いままでの事情となりゆきがはっきりわかれば、それでよかった。
出版社系の週刊誌「サンデー・マガジン」の取材記者が取材に来たのは一週間前で、その時は危ない銀行の特集記事になるとは聞いていない。したがって昨日の夕方、記事の見本がファックスで送られてきて、初めて事情を知り、広報課の課長代理が編集部に駆けつけたものの、編集長にもデスクにも会えず、子供の使いのような結果になって追い返されてしまったという。
「それで昨夜、私が頭取の自宅へ連絡したところ、今朝一番でお叱りを受けたわけです」
年輩の総務部長は恨めし気な顔付きになった。
「なるほど、およそのところはわかりました。そういう事情でしたら、手の打ちようがありませんね」
と長谷部は答えた。
「でしょう。お叱りは受けますよ。でも、昨夕の今朝ですから、一方的に怠慢だなどと言われても困ります」
と不満気に言う。
「頭取も自分の名が出ていたので、急にかっときたのでしょう。まあ、気を落とさないで下さい」
と言いつつ、長谷部は自分が担当していたらどうしていたであろうと考えた。昨夜のうちに、何か打つ手があったのではあるまいか? そんな気がしてきた。
ともあれ、「サンデー・マガジン」の発売日は一週間後であるのがわかった。となれば、まだ間に合う。印刷開始までに、あと二日ないし三日の余裕があるはずだ。
総務部としては、株主総会一カ月半前の多忙な時期に、よりによってこんな問題が生じたのを嘆いている。総合企画部の長谷部が手を出してくれれば大いに助かる。その方が、セクショナリズムにとらわれるよりずっと得策だと考えたのであろう。
「われわれとしても協力は惜しみません。なんでも申し付けて下さい。むずかしいとは思いますが、何とか頭取の希望にそうようなかたちで解決して頂ければ。とにかく、よろしくお願いします」
総務部長はそう言って頭を下げた。広報課長も慌ててこれを見習った。
「さあ、どうでしょうか?」
長谷部は顔を曇らせた。
「皆さん方のようなベテランの方々でさえ、むずかしいとおっしゃるのであれば、とても無理でしょう」
と謙遜する。
「でも、何とかトライしてみます。困った時は相談に乗って下さい」
と頼んだ。
「もちろん、全面的に協力させて頂きます」
総務部長は約束した。
自席に戻ると、九時三十分になっていた。森本良二の席は空席のままである。
「十時からの部長会議、きみが出てくれ」
と次長に命じた。
午前十時から定例の部長会議が始まった。
この会議の議題はさまざまである。常務会での決定事項を各部に徹底することもあり、逆に、これから常務会に上げる議題をここで検討して、各部長の反応をたしかめる、いわば根廻し的な試みもあった。
議題があまりない日もあるが、そういう時はかえって会話が活発になる。さまざまな意見も飛び交うし、情報交換の場にもなった。
松岡紀一郎は現在、業務推進部長になっている。彼はもともとこのポストにいたのだが、成瀬昌之が頭取になるや、福岡支店長になって九州へ行った。約一年で大きく業績を上げ、本店に帰ってきた。
当初は総務部長をしていたのだが、バブル経済崩壊の後遺症で預金吸収力が落ち、銀行全体の資金量が減り始めたので、急遽、古巣の業務推進部に戻された。わずか二カ月の総務部長で、これからという時の転部であった。もちろん、頭取の特命で業務畑のエースが元のセクションに戻ったのであるから、人事上マイナスにはなっていない。それどころか、業務推進部に松岡ありとの印象さえ植えつけたと言えよう。
その松岡はいま、顔をしかめていた。今日の会議に、総合企画部長と総務部長の二人が出席していないからだ。どちらも取締役であり、大物部長といってよい。この二人が揃って欠席し、代わりに次長を出している。それが面白くない。他にも二人欠席の部長がいた。
──何かあったのか?
との思いも生じたが、そちらの方はすぐに消えた。こんなことなら自分も欠席して、副部長か次長を出しておけばよかった。そう思うと、同僚の部長たちの次元の低いやり取りを聞いているのが莫迦《ばか》らしくなる。
ちょうど、折もおり、ノックの音が聞こえて、女性秘書が入ってきた。彼女は松岡の脇に来て、丁寧に頭を下げた。そして、一枚のメモ用紙を差し出した。
──会議中申し訳ございませんが、成瀬頭取がお呼びなので、至急、頭取室までお運び下さい。
と記されていた。
「わかりました。すぐ参ります」
と小声で答えた。
立ち上がると、胸騒ぎがした。
実は、しばらく前から松岡紀一郎は待っていた。いつ頭取から声が掛かるのか、もちろん、わからない。
それでも、近いうちに必ずという期待感はあった。
松岡は毎年六月下旬に開かれる株主総会が、あと一カ月半後にせまっているのを気にしていた。
何故か?
少なくとも一カ月前には株主総会用の「営業報告書」を作成しなければならない。そこには、「株主の皆様へ」と題する頭取の業績概況報告を始め、前期末の決算数字を盛り込んだ貸借対照表や損益計算書等々いくつかの記載事項がある。当然、頭取以下非常勤の監査役にいたる役員たちの一覧表が載る。
問題はこの役員名簿だ。ここに名前が記されるかどうかが、少なくとも一週間以内に決まる。決めないと印刷が間に合わなくなる。
もし、松岡が新しく取締役に選ばれるのであれば、その前に成瀬は本人を呼んで役員としての心がまえを説くだろう。何も聞かず、知らされずに、いきなり昇格するようなことはまずあるまい。
また、呼ばれはしたものの、今期は昇格見送りと告げられるケースもあろう。そんな予想はしたくもないが、あり得ぬことではなかった。したがって、単に頭取室に呼ばれたというだけでは結果はわからない。不透明のままだ。松岡が頭取の呼び出しを単純に喜べず、胸騒ぎを感じたのも無理はなかった。
役員室の入り口には秘書室があり、そこを通過しないと内部へは入れないような仕組みになっている。頭取以下の役員たちに面会する者は、いったん秘書課内の応接室に入って待つことになる。
松岡の場合も、女性秘書によってまず応接室へ案内された。
「しばらくお待ち下さい」
とにこやかな顔で言われると、いくらか気分がなごんだ。
室内には部長が二人と支店長が二人いた。先客が四人もいる。内二人が松岡より年長で、二人が同年輩である。全員が頭取に呼ばれたのかどうかはわからないが、入室したとたん、直感が働いた。競争相手のように思えたのだ。
二分過ぎないうちに部長の一人が指名されて応接室を出て行った。
彼は残る者たちに軽く会釈した。松岡は頷き返しながら、相手が多少の優越感を抱いているのではあるまいかと勘繰った。ひがみ根性かも知れないが、まんざらそうとも言えぬ気配も感じられた。
それから三分後に、今度は支店長の一人が呼ばれて立ち上がった。残った二人と松岡は顔を見合わせた。
さらに、三、四分後、部長が呼ばれた。残りは支店長と松岡だけだ。
「だんだん人が減りますね」
中年の支店長が心細気に言う。
「そして、誰も居なくなったということになるのかな」
と松岡は応じた。
「私の方が先でしょうか」
「きまっているじゃないか、順番だよ」
と松岡は答えた。
彼の予想通り、三分後には支店長が挨拶をして出て行った。
一人になると、何故か、同じ三分でも長く感じる。
ところが、十分、いや、十五分過ぎても何の音沙汰もない。松岡は左手首の腕時計を見るのが恐かった。
気が付くと、応接室内の壁に丸型の時計が掛けられていた。太目の黒い針が目に入る。意識し始めたとたん、時間は歩みを停めた。三分が三十分にも感じられる。そういう状況下での十分であり、十五分だ。
松岡は同期の長谷部ほど我慢強くはない。当然のことながら、苛立《いらだ》ち始めた。が、相手が頭取では忿懣のぶつけようがなかった。女性秘書を詰《なじ》るのも大人気ない。
とにかく、待つほかはなかったが、こういう時間はほんとうに無駄だと思う。合理主義者で、すべてに効率的な成瀬昌之がどうしてこんな真似をするのか理解に苦しむ。
心理戦のつもりであろうか?
そんな気さえしてきた。だが、少しおかしい。トップが部下の一部長に心理戦を仕掛けて、いったいどんなメリットがあるのか?
その時、女性秘書が足早にあらわれた。
「申し訳ございません」
と言って、丁寧に頭を下げた。
一瞬、松岡はきょとんとした顔付きになった。女性秘書の態度が解《げ》せない。
「申し訳ございません」
と彼女は繰り返した。
「急用のあるお客様が来られまして、頭取の予定がふさがってしまいました。後ほど、改めてお声を掛けさせて頂きます」
そう言って、丁重に頭を下げる。
「あ、わかった。キャンセルだね。そう、面会取り消し、よくわかりました」
と応じて、立ち上がった時には、松岡はもう持ち前の剽軽《ひようきん》さを取り戻していた。
にこやかに会釈して秘書課の応接室を出る。エレベーターに乗ってから初めて顔をしかめた。そのまま会議室には戻らず、自分の席へ直行する。
何となく面白くない。肩すかしを食わされたような気分だ。わるい予兆でなければよいがという気さえする。
受話器を取り上げ、長谷部の机上にある電話の直通番号をプッシュした。
「松岡だけど、いまそっちへ行ってもいいかね?」
といきなり訊く。
「おや、部長会議じゃないのかね」
と長谷部は応じた。
「お宅は最初から出ていない。こっちはついいましがた、途中で退場した。今日のところは私の方がまだしもまともだよ」
松岡は言い返す。
「皮肉を言うな。ちょっと取り込んでるが、十五分位ならいいよ」
「じゃあ、その十五分貰おう」
言って、受話器を置き、すぐに立ち上がった。
今度はエレベーターを使わず階段を上る。せめていくらかでも運動不足を解消しようという魂胆である。
総合企画部のセクションに近付くと、長谷部は自分の方から移動して、応接室のドアを開けた。先に入らず、そのまま松岡が近付くのを待っている。
「さあ、どうぞ」
相変わらず、律義で礼儀正しい。
「お忙しいところ、十五分も空けて頂いて恐縮しております」
松岡もわざと丁寧に言う。
「まったく、食えない男だ」
二人は声を合わせて笑った。
長谷部の応接室で、向かい合ってソファに坐ると、松岡はすぐ下唇を噛んだ。
「実はね、笑ってるどころじゃないんだ」
と前置きして、松岡は頭取に呼ばれたあげく、待たされてキャンセルされたいきさつを語った。実際、こんなことは日常茶飯事といってよい。しばしば起こる出来事であり、取り立てて言う方がおかしい。両者共、そのことはよく承知している。
にもかかわらず、松岡が気にするのは、現在《いま》が実に微妙な時期だからだ。なにしろ、取締役になれるのかなれないのか、その瀬戸際とも言える。
取締役の任期は二年である。今年は任期切れの役員が大勢いる。それだけにまた、チャンスも多いと言えよう。
長谷部敏正もこの六月で満二年の任期を全うしたことになる。彼の場合は当然再任されるだろうが、再任されない者も出てくる。取締役会の規程で定められた役員の人員に限りがあるのだから、引退する者が増えれば増えるほど新任者にチャンスが訪れる。
松岡は抜け目のない方だ。このあたりのニュアンスはよく知っている。彼は長谷部が六月末の株主総会で選出されて承認される新役員のメンバーの名をすでに書類か何かで見ているのではあるまいかと考えた。
それを探り出そうとの意図でやってきた。頭取から聞くのが筋だが、長谷部が事前に漏らしてくれれば安堵できる。早く自分が選出されている事実を確認して安心したい。彼の内部ではじらされるのはもうたくさんだとの思いが強い。
長谷部はこうした松岡の心の動きを察知した。すべてではなくても、およそのところはわかった。が、彼は日頃から人事にあまり関心を抱いていない。彼の立場にいれば知り得たかも知れぬたぐいの事柄でも、人事に関しては知らないことの方が多かった。
今度の役員新メンバーにしても、頭取に尋ねてもよい立場に立っていた。ところが、彼自身は事前に知りたいとも思わず、事実、訊きもしなかった。
実は、頭取の成瀬昌之が、長谷部の人柄や性格について、この点をもっとも高く評価しているのにも気付かずにいた。
松岡は何も探れなかった。
長谷部が隠しているわけではなく、どうやら新しい役員人事について、何も知らないらしいのがわかってがっかりした。
折もおり、ノックの音が聞こえて係員がドアを開けた。
「部長、銀行協会から電話です」
と伝えた。
およそ十五分が経過している。長谷部があらかじめ時間を決めてノックさせたのかも知れない。松岡はそれをしおに立ち上がった。どうせこれ以上ねばっても効果がないのがはっきりしていた。
ほぼ同じ頃、外国部では神谷真知子が忙殺されている。
彼女はおよそ一年前、ニューヨーク支店から帰ってきた。その前は総合企画部に属し、女性では珍しい|MOF《モフ》担(大蔵省担当)として活躍した。石倉克己が部長をしていた頃の話である。
真知子は石倉の推薦でニューヨーク支店に栄転したのだが、アメリカでの生活は予想に反してあまり快適ではなかった。水が合わないとも言えた。
まわりの目から見ても、これは意外な結果であった。彼女自身も張りきって、ニューヨークへの直行便に乗り込んだだけに、夢と現実との相違に大きなショックを感じた。
石倉、長谷部、松岡の三人が成田空港まで見送りに来てくれた日のことを、彼女はしばしば思い出す。
約二年前のあの時、頭取の杉本富士雄が退陣し、代わりに副頭取の成瀬昌之が新頭取になった。杉本が富桑銀行との合併工作の失敗の責任を取って辞任し、終始、合併に反対した成瀬が、当然のように新頭取に選ばれた。
総合企画部長として、前頭取の杉本の意に沿って協力し、秘かに合併工作を進めた石倉克己も銀行には残れなかった。
杉本と成瀬のどちら側にもつかず、合併反対の意志を貫いた長谷部敏正は昇格して取締役に就任し、石倉の後任として総合企画部長を委嘱された。
成瀬側に付いて、成瀬の腰巾着のようなかたちで奔走した松岡紀一郎は、大方の予想を裏切って、福岡支店長になった。九州の大店舗なので、それ相応の待遇と言えたが、多くの人は左遷と受け止めた。
なかには、必ずしも松岡紀一郎の左遷という受け止め方をせず、新頭取成瀬昌之の羞恥心のあらわれと見た者もいる。
何故なら、杉本の合併工作を阻止しようとして動いた成瀬は、松岡を使ってさまざまな妨害工作を試みたからだ。当時の成瀬にとって、松岡はいわば子飼いの使い馴れた部下である。むろん、気心も知れている。
自分が権力を手中におさめたとたん、これ見よがしに、こういう人物を出世させるとどうなるか?
力の誇示を見せつけられたような気がして、周囲は反撥する。そのため、あえて松岡を取締役にせず、中立派の長谷部を起用した。そして、松岡にはよく言いふくめて、一見左遷のようなかたちを取って福岡支店長として地方に出す。が、両者の間には後日の約束が成り立っている。
およそ、こういう見方である。
が、実は、この見方は当たっているようで、半分位しか当たっていなかった。
何故なら、成瀬と松岡の間には、はっきりした約束は成立しておらず、曖昧なままの転勤であったからだ。
松岡が本店の部長に返り咲いたのも、福岡支店在任中に、前頭取の杉本や同じく前副頭取の勝田忠等が博多見物と称してあらわれ、反成瀬の運動に引っ張り込もうとした事実があり、成瀬がそんなことになるなら、近くに置いておいた方がよいと考えた結果でもある。
ともあれ、この出来事は松岡が元上司たちの誘惑に弱いのを暴露したかたちになった。しかも、この元上司たちは明らかに成瀬の敵であった。
こういう事情がなければ、松岡はもう少し早く取締役になれたかも知れない。彼は福岡支店長時代も、業務推進部長になってからも相当の成績を上げている。仕事に関してはなかなかのエキスパートである事実をはっきりと証明していた。
おまけに、松岡はかなりの野心家だ。上昇指向が強い。だから、仕事の手は抜かない。自分で実力者だと思い込んでいる。それだけに、役員の新人事が気になってならないのだ。彼の立場に立てば、無理もないと言えよう。
さて、神谷真知子だが、彼女は外国部副部長のポストに就いて張り切っていた。
神谷真知子は二人いる外国部副部長の一人である。
もう一人は彼女より五歳年長の男性で、彼がラインの長といってよい正式な副部長だ。したがって、彼女の方は副部長待遇ということになる。
神谷真知子がもっとも輝いていたのは、いまから二年半位前のことである。当時、彼女は総合企画部で古参の次長が担当していたMOF担の仕事を引き継いだ。
かつて大手銀行で女性がMOF担になった例はない。これは部長の石倉克己の英断といってよく、この人事には当時のワンマン頭取杉本富士雄も難色を示したほどである。
石倉はあえてそれを突っきった。これは彼の自信と言えなくもない。が、一種の賭けのようなものでもあった。
さいわい、この賭けは成功し、彼女は予想以上の成果をあげた。MOF担とは大蔵省担当を意味し、上は新しい金融政策や今後の方針や大物官僚の天下り人事等々から、下は自行の検査日程までを含むさまざまな情報を取るのが主な仕事だ。
いきおい人間関係が重視される。彼女は京大法学部出身だが、たまたま当時の銀行局長と担当の課長補佐が同じ大学の先輩であった。大蔵省内の主要ポストに就いているのは圧倒的に東大出身者が多い。したがって、各銀行のMOF担もまた東大出身者が多かった。
このため、彼女は漁夫の利を占めた。もちろん、これは偶然ではなく、石倉の仕組んだ戦略であった。
早く言えば、それが功を奏したとも言える。が、見方を変えれば、単にそれだけのことにすぎないのかも知れなかった。ともあれ、その頃の神谷真知子は実に溌剌《はつらつ》としていた。
ニューヨーク支店勤務も、実は石倉の置き土産であった。
しかし、こちらは多くの人の予想に反してうまくいっていない。真知子はニューヨークでの生活にあまり馴染めず、日を経るにつれて元気を失くした。
銀行をやめ、星野田機械の取締役に就任した石倉克己がニューヨーク出張で彼女に会わなければ事態はどうなったかわからない。
石倉克己はニューヨークに来て、ウォール街の近くで神谷真知子に会い、その憔悴ぶりに驚いた。
水が合わないというのが偽らざる感想である。いくつか理由をあげることは出来たが、いずれも決定打ではない。当の彼女も自分をもてあましていた。そんな筈はないとの思い込みが強かったのであろう。
石倉は責任を感じた。彼は日本に帰るとすぐ、長谷部敏正に連絡した。神谷真知子の本店への転勤を頼み込んだのである。
これがちょうど一年前の出来事だ。長谷部は石倉の依頼を受けて奔走した。真知子は日本に帰り、副部長待遇で外国部勤務になった。ニューヨーク帰りとしては、むしろ順当すぎるポストと言えよう。
おかげで、彼女のニューヨーク支店での低迷ぶりが消えてしまった。人事とは不思議なものである。
以来、一年が過ぎ、彼女はすっかり立ち直っていた。また以前の溌剌とした表情に戻っている。
真知子はこのところしばらく石倉に会っていない。彼女にとって、石倉は元上司ではあるが、むしろ、それ以上の存在であった。強いて言えば、相談役でもあり、恩師と言ってもよいような存在である。
そのせいか、時折会って教えを受けないと気分が落ち着かなくなる。
とはいえ、両者共かなり忙しい。日本のビジネス界では、メーカーであれ、銀行であれ、まともな仕事をしている者はけっこう多忙だ。日常かなり追われる。
行き違いも、くい違いも生じる。そうそうぴたりと時間が合わない。出張もあり、会議もあり、招かざる客もあらわれる。思わぬ事件に巻き込まれることもある。
真知子は机上の電話機に手を伸ばし「星野田機械」の代表番号をプッシュした。
「石倉取締役さんをお願いいたします」
彼女は行名と自分の名を告げてから、そう頼んだ。
「少しお待ち下さい」
と言われて待っていると、交換手が口をはさんだ。
「別の電話で話し中ですが、お待ちになりますか?」
と訊かれた。
「待たせて頂きます」
と神谷真知子は答えた。
急用があるわけではない。それだけに、また改めてということになると、すぐ二、三日延びてしまう。別に相手が石倉に限ったわけではないが、いままでにも何度かそうなってしまったことがある。
あまり長くなるようなら、交換手が何とか言ってくれるだろう。
予想通り、一分待つか待たないうちに電話はつながった。
「神谷です。ごぶさたしております」
と彼女は先に言う。
「そう言えば、しばらく会っていないね」
石倉は磊落《らいらく》な口をきく。
「何だか、とてもお元気そうですね」
「そうでもないよ。とてもとくっ付けるほど元気じゃない」
「では、まあまあというところですね。よかった」
「そうよくもないから困っている」
「ほんとうですか?」
「ほんとうだ」
二人はしばらく、たわいのないやり取りを繰り返した。
どちらも忙しいのにそれが厭ではなかった。波長が合うのか、気が合うのか、話していると愉しい。
「とくに急な用件はありませんけど、近くお目に掛かれればと思いまして」
と真知子は誘った。
「近頃、われわれ中高年のビジネスマンは何か用がなければ会おうとしない。バブル経済はとっくにはじけたのに忙しさはさして変わらんせいかな。いいねえ。用がないのに会うというのは」
石倉は機嫌の良い口調で言う。
「例の三人組、長谷部さん、松岡さんを含めた会合の方は、定期的になさっているんでしょう」
と訊く。
「いや、あの二人にも、このところ、もう一カ月以上会っていないね。そろそろというところだが、そっちは誰かが声を掛けてくるだろう。それより、きみの方が先だ」
石倉ははっきりそう言った。
神谷真知子は電話口で、にっこり笑った。
「まあ、殺し文句だわ」
と伝えた。
「そうでもないだろう。あちこちで似たようなことを言われているんじゃないの」
石倉は揶揄《やゆ》気味に言う。
「とんでもありません。近頃はもう誰にもそんなふうには言って貰えませんのよ」
と彼女は言い返した。
「これはご謙遜ですな」
と石倉も応じた。
それから二人は、おもむろに手帳を繰って、お互いの日程を調整する。
石倉の方が主導権を持ち、真知子はそれに従う。三日後の夜、石倉の予定に入っている七時頃からの会合が流れそうなので、うまくいけばその夜、駄目なら翌週の半ばと決まった。
「では、三日後を愉しみにしています」
と真知子は言った。
「まだ決まったわけじゃない。たぶん、明日はっきりするから今度はこちらから連絡を入れよう」
「お待ちしてます」
「場所は日が決まってからでいいだろう」
「けっこうです。お任せしますわ」
と彼女は答えた。
それで電話は終わった。受話器を置くとすぐ、女子行員の一人が近付いてきた。
「いまお電話中に、長谷部取締役から連絡が入りまして、至急、お目に掛かりたいとおっしゃっておられました」
と伝えた。
「まあ、長谷部部長が」
と思わず呟く。
「わかりました。これから総合企画部まで行ってきます」
と断って、彼女は立ち上がった。
廊下へ出て、エレベーターホールまでくると、向こうから松岡紀一郎がやや猫背になり、小走りで近付いてきた。
「やあ、ごぶさた」
気が付くと、右手をあげた。
「ちょっと頭取に呼ばれてね。かなわんよ。忙しい時に限って呼び出されるんだから」
照れくさそうに言って背を向けた。
先にエレベーターに乗るつもりらしい。
神谷真知子はエレベーターホールの手前でわざと立ち止まった。忘れ物をしたような顔付きになって少し後ずさる。
何故かはっきりしないが、松岡紀一郎と同じエレベーターに乗るのが何となくうっとうしかったからである。
もちろん、これは松岡に対する嫌悪感ではない。では何なのか? と問われるとすぐに答えを出せなかった。
松岡はついいましがた、頭取に呼ばれたとやや得意そうに口走っている。訊かれもしないのに、いきなり出会いがしらに、そう言ったのである。
彼にしてみれば挨拶代わりのつもりなのだろうか? 真意がもうひとつよくわからない。とはいえ、およその想像はつく。
「頭取に呼ばれた」
と主張することで、あたかもおのれが重要人物であるかのような印象を他人に与えたがっている。そうに違いない。だからこそ、尋ねられたわけでもないのに、あえて自分の方から先に口に出す。
実に、押し付けがましい。強引とも言える。だが、いまの真知子には男性幹部行員の、そういう強引さの内側にある、かなりいじましい願望がよく見える。
何となくやりきれない。苦手だなとも思う。出来れば眼をそらしていたい。せめて見ないふりをしたかった。
さいわい、エレベーターはすぐに来て松岡の姿が消えた。急いでいるのか、振り返りもしない。
彼女はほっとして、次のエレベーターを待った。誰も乗り合わせず、一人である。その方がよい。
久しぶりに石倉と電話で話し、近く会う約束をした。それだけのことで、胸の中が少し明るくなっている。
危うく、松岡の身勝手な押し付けがましい発言で、せっかくの明るさが吹っ飛んでしまうところであった。
「まったく、油断も隙もないわ」
と彼女は呟《つぶや》いた。
エレベーターの箱の中で一人になれたからこそ言えた。が、このところ、ひとりごとが多くなっているのに気付いて、下唇を噛んだ。
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第二章 思いがけない展開
役員室の廊下の絨毯《じゆうたん》は分厚い。
松岡紀一郎は足を取られるような気がした。歩きつけないせいだ。馴れれば、むしろこの方がここち良くなるだろう。
彼にはこの一角の住人に早くなりたいという願望がある。願望というより、欲望といった方がよいかも知れない。しかも、この欲望はずっと以前から彼の内部でくすぶり続けてきた。
なかなか実現しないために、火は燃え上がることも出来ず、かといって、きれいさっぱり消し止めるのもむずかしい。となると、くすぶるほかはなく、始末がわるい。実は、自分でもいささかもてあましていた。
しかし、もてあましながらも、彼自身、前へ進むほかないのをよく知っている。だから、じりじりと前進した。
その結果、松岡は役員コースへの最短距離を更に縮めた。いや、縮めることが出来たと考えた。
もし、今度頭取に呼ばれたら、ほぼ間違いなく、役員昇格を告げられるであろう。そう予想した。
「頭取室へどうぞ」
と秘書課長は言った。
「頭取はお待ちかねです」
と付け加えた。
幸先が良い。これはよい兆候だ。彼は秘書課長とのわずかなやり取りで、早くもそう思った。
分厚い絨毯に足を取られまいとして、彼は歩調を緩め、同時に、呼吸も整えた。
ノックをした。
「どうぞ」
という声が聞こえた。
松岡はドアを押し、中に入った。
「失礼いたします」
丁重に頭を下げる。
「きみか?」
頭取の成瀬昌之は顎をしゃくった。
なんで来たのかと言わぬばかりの態度である。自分の方から呼んでおいて、それはないだろうと思う。いささか恨めしい気持ちが押し寄せてきた。
「何か、用かね?」
成瀬は渋面を作って訊いた。
それを聞くと、松岡はかっとした。躰が火照ってきたのである。
松岡ならずとも、こんな応対をされれば、あまり良い気持ちはしない。憤慨が表情にあらわれた。
「何を怒ってるんだね」
と成瀬は言った。
いつの間にか渋面が消え、揶揄するような表情に変わっている。
「まったく、短気な男だ」
呆れたように言い添える。
「そんなことでは総務部長は勤まらんぞ」
と付け加えた。
「は?」
松岡は怪訝《けげん》な顔をした。
彼は現在、業務推進部長をしている。総務部長ではない。
「驚くことはない。今度、きみに総務部長をやって貰う」
成瀬はあっさり告げた。
「総務部長を?」
とたしかめた。
「そうだ。現在《いま》の総務部長はなっておらん。頭がわるいのか、要領がわるいのかはよくわからんが、おそらく、その両方だろう。仕事がいつも後手後手に廻っておる。いつまでも任せてはおけんよ」
一気に言った。
「さいわい、きみは頭も良いし、要領も良い。むしろ、良すぎるくらいだ。問題解決についても、きみなら柔軟性がある。押して駄目なら引くだろう」
どうかねと言わぬばかりに顔を見る。
「たしかに、押して駄目なら引きますし、引いても駄目なら、また別の押し方や引き方を考えます」
と松岡は答えた。
「その通りだ。とにかく、高度成長もバブル経済も終わった。もうああいう時代は来ない。不況と緊縮財政の中で、いかに生き残るかを誰もが模索している。しかも、われわれはバブル時代の膨大なツケ、即ち、多額の不良債権を抱え込んだままだ。打たれ強く、粘り強い人材じゃないと、とてもやってはいけない。そうは思わんかね?」
言いつつ、成瀬はじろりと睨んだ。
松岡は少し首を縮めた。
成瀬に強い眼ざしで睨まれたからだ。
これでは間尺が合わない。頭取は現在の総務部長に忿懣を漏らしている。それなのに、現実に成瀬の机の前に立って睨まれているのは松岡である。
「どうだね? きみも同感だろう」
成瀬は返事を強要する。
「はい、同感です」
と松岡は答えた。
反対してみても始まらない。それに成瀬は堂々と正論を吐いていた。
「では、これできみとは意見が一致した。間違いないね」
とたしかめる。
「間違いありません」
「よろしい。来期から総務部長を引き受けてくれるね」
念を押した。
「ご命令とあらば、総務部長であろうと何であろうと、お引き受けいたします」
と松岡は応じた。
「よい覚悟だ。期待しているよ」
満足気に言う。
「頑張ります」
「わかった。頑張ってくれたまえ」
成瀬はひとつ頷いて入り口の方を見た。
どうやら、用件は終わった。出て行ってくれとの合図らしい。
「失礼してよろしゅうございますか?」
松岡はわざと訊いた。
というのも、彼はまだ目的を達していなかった。成瀬は来期は総務部長をやれと命じたものの、役員昇格についてはまったく触れていない。
正確なところ、その件に触れようとする気配さえ感じられなかった。これでは、じらされているのか、また機会を逸してしまったのか見当さえつかない。
何となくがっかりした。表情に落胆の色があらわれた。果たして、成瀬に気付かれたのかどうか、なに、気付かれたってかまわんと思った。
「では、失礼いたします」
「まだある、忘れるところだった」
成瀬は微笑を浮かべた。
松岡は立ち上がって、振り返った。
成瀬が満面に笑みを浮かべている。初めはほんのほほえみ程度であったのに、いまは顔全体に笑いがひろがっていた。
松岡はその笑顔に吸い寄せられるように、大きな机の向こうに坐ったままの成瀬に近づいて行った。
「今度の株主総会できみを取締役に選出する。したがって、来期からは取締役総務部長として力を発揮して貰う」
成瀬はさらりと言った。
「は」
松岡は驚いたような顔をした。
予期して、じりじりしていたくせに、何故か、まず驚きの表情になった。
「驚くことはなかろう。きみの実力から見れば遅すぎたくらいだ。だが、これで長谷部くんに追いついた。そうだろう」
「はい」
「石倉くんがいたら、果たしてどうなったか? 面白いところだ」
「………」
松岡は黙っている。
「そうは思わないかね? 長谷部、石倉、松岡、この三人はかつて取締役候補者のトップに名を連ねていた。こういう場合、たいていは順位がついているものだ。ところが、きみら三人は一線に並んだままだから驚く。こんな人事は当行始まって以来かも知れん。人事常務会では、皆困っていたよ」
成瀬は少し眼を細めた。当時をなつかしんでいるかのような顔付きである。
「あれから二年以上過ぎたとはとても思えんな。早いものだ。石倉くんは去り、きみは晴れて役員になった。長谷部くんは相変わらず真面目にやっている。石倉くんも先輩の引きがあったとはいえ、現在は大手メーカーの取締役になっている。ほんとうの競争はこれからだ。何といっても、部長以下の役職についていた時とは責任の重さが違う。三人のうちでほんとうは誰がもっとも優秀だったのか? 真の実力者は誰なのか? 何しろ、これで全員が同じ土俵に上ったことになる。今度こそ優劣の差をはっきり見せて貰いたい」
成瀬は値踏みするような眼ざしを向けた。
成瀬はまだ長広舌をやめようとしてはいない。むしろ、愉しんでいるような気配さえ感じられる。
「わたしが誰にもっとも期待しているのか? きみにはわかっていよう。にもかかわらず、きみはかつて、その期待を裏切るような行為をした。前頭取と副頭取、即ち、杉本富士雄と勝田忠との癒着だ」
きっぱりと言う。
「私は癒着はしておりません」
松岡は言い返した。
ここで反発しないと認めたことになる。たしかに接触はあった。が、彼は癒着と言われるほど親しくしてはいない。むしろ、心外であった。
この際とばかり、松岡はそれを主張した。誤解であると言い張った。
「だいたいわかっているよ。調べはついている。きみの言う通りだろう。しかし、杉本と勝田ときみとの関係に、わたしが疑いを抱いたのはたしかだ。きみは不用心だったと言うべきだな。そのおかげで、取締役昇格が一年遅れた」
成瀬は真相を漏らした。
松岡は思い当たった。顔が上気してきた。
「たしかに、私が不用心でした。それほどのこととは思わずに」
と言い訳口調になる。
「わかればよろしい。今後も、あまり芳しからぬ人物との癒着はさけるように。十分用心したまえ」
と言い渡す。
「承知しました」
松岡は深く頭を下げた。
「総務部長になったら、早速やって貰う仕事がある。が、いまは株主総会前だ。後任の業務推進部長をまもなく発令する。引き継ぎを万全にして、すぐ数字が落ちることがないように配慮してくれたまえ」
と命じた。
「誠心誠意、頑張らせて頂きます。有難うございました」
松岡はもう一度丁重に叩頭《こうとう》する。
「では、失礼いたします」
頭取室の外へ出ると、ひと息ついた。足許の分厚い絨毯がここち良く感じられた。
同じ頃、神谷真知子は総合企画部長の部屋にいた。
部屋の主は長谷部敏正だ。
真知子は長谷部に呼ばれてこの部屋に来たのである。
長谷部はにこやかな表情を浮かべていた。この笑顔に接すると、何故かほっとする。部屋に入るとすぐ、コーヒーが出た。あらかじめ、長谷部が頼んでおいたらしい。
「どうですか、外国部の仕事は?」
長谷部はまず仕事のことから訊いてきた。
二人はしばらく現在の彼女の仕事についてやり取りをした。
真知子は長谷部が外国部内の仕事の内容を意外なほどよく知っているのに驚いた。やはり、総合企画部長ともなると、行内の仕事をすべて掌握しておく必要があるのだろう。
「よくご存知ですね。さすがだわ」
彼女は感心した。
長谷部は照れくさそうな笑いを浮かべた。ずっと若く見える。むしろ、可愛らしいという感じさえするのに気付いて、真知子はどきりとした。
慌ててコーヒーカップを取り上げる。一度に二口飲んでしまった。
長谷部は何も気付かず、少しうつむいてぼそぼそとしゃべり始めた。
「あなたもニューヨーク支店勤務の仕事を含めると、外国部関連の仕事を、これで二年以上やったことになる」
「そうなりますね。早いものでMOF担をさせて頂いていたのが、ついこの間のような気がしてなりません」
と真知子も述懐する。
「まったく、あの頃がなつかしい」
長谷部は遠くを見ようとするかのように眼を細めた。
「石倉くんがいてくれて、実に頼もしかったよ」
と言い添えた。
急に石倉の名前が出たので、彼女はまたどきりとした。いったい、どうしたのであろう。つくづく、今日は不思議な日だという気がする。
また、急いでコーヒーカップに手を伸ばすと、長谷部と眼が合った。
長谷部はすぐ眼をそらした。
長く見つめるのは失礼だと思ったのであろう。この点、徹底している。言いかえれば、彼は常に紳士であった。
そのせいか、向かい合って坐っていても気持ちが良い。安心していられる。
「あの頃のあなたはすばらしかった。MOF担の仕事が性に合っていたんでしょうね。実に溌剌としておられた。合併問題があったりして、風雲急を告げていたし、お互いにやり甲斐がありました」
そう言ってから、気付いたらしい。
「いや、失礼、いまは溌剌としておられないという意味じゃありません」
慌ててつけ加えた。
「いえ、気にしないで下さい」
と彼女は応じた。
「あたくし、やはり、ニューヨークへ出掛けてから、ちょっと変になってしまったんです。いや、ちょっとぐらいではなく、かなり変でした」
と言い添える。
「そうでしたか、石倉くんからはニューヨークの水が合わなかったと聞きましたが」
「あら、それだけですか?」
「ええ、彼から聞いたのはそれだけです」
と長谷部は答えた。
あの時点で、石倉はかなり真相を知っていた。にもかかわらず、すべて伏せてくれたのだ。
長谷部の方も深く尋ねもせず、それ以上は追及もせずに、もっぱら人事部長と交渉した。東京の本部へ呼び戻すために、文字通り骨を折ってくれた。
暗黙のうちに通じている石倉と長谷部の男の友情、そのおかげで自分は再び東京の本店に戻ることが出来た。
「あの節はほんとうにお世話になりました。もし、ニューヨークに放置されたままでしたら、あたくし、いま頃はもう銀行には居なかったと思います」
と打ち明ける。
「そんなに」
長谷部はまた眼を伏せた。
突っ込みすぎたと後悔したのかも知れない。彼の優しさが身に染みた。
総合企画部の部長室で、長谷部と向かい合っている神谷真知子は居心地のわるさを感じていない。
むしろ、ずっと長く坐っていたいくらいだ。相手にもそれが伝わるのか、長谷部の表情もリラックスしていた。
仕事を少し離れて、彼女のニューヨーク生活など個人的な話題が飛び交うのも、そのせいであろう。双方に親しみの感情がわかなければ、とてもこうはならない。
「ところで」
長谷部は語調を改めた。
どうやら、このまま雑談を続けているわけにはいかないのに気付いたらしい。もともと彼は、用件があったからこそ彼女を呼んだのである。
真知子もちょっと表情を引き締めた。用件を聞く顔付きになった。
「外国部の副部長待遇になって一年、いまの仕事もわるくはないでしょう」
長谷部は訊く。
「もちろん、わるくはありません。でも」
言い淀んだ。
「でも、何ですか?」
長谷部はすかさず突っ込んでくる。
「何といっても、仕事が外為中心ですから、ニューヨークでの暮らしの延長のような気がしてきて、むろん錯覚ですけど、時折、はっとするんです」
と正直に答えた。
「なるほど」
長谷部はゆっくり頷いた。
「むしろ、ニューヨークでの生活を思い出させるものを、すべてカットしてしまった方がよい。そういう感じですか?」
と質問する。
「出来れば」
と彼女は短く答えた。
実は、この答えの中に、いろいろな思いが閉じ込められているのだが、そこまでは無理だ。長谷部にはとうてい通じないだろう。真知子はそう考えて曖昧な微笑を浮かべた。
「何だか、よくわかるような気がします」
と長谷部は答えた。
「そこで、提案したいことがあるんですが」
ひかえめにつけ加えた。
真知子はぎくりとした。
「提案」と聞いて、胸が高鳴ったといった方がよいかも知れない。
「どんなことでしょう?」
やはり、すぐ訊かずにはいられなかった。
「ご存知のように、いま広報課は総務部に所属していますが、近いうちに総合企画部に移管してもらって、こちらで引き受けようと思っているんです」
長谷部は淡々と説明する。
「その方がいいですね。総務部だと総会屋対策もあるでしょう。広報をああいう部にくっ付けておくと、伸び伸びしたところがなくなるような気がします」
と真知子は答えた。
「あなたもそう思いますか?」
長谷部は身を乗り出した。
「早くも同調者があらわれた。これは心強い」
と嬉しそうにつけ加える。
「どうも、勝手なことを申し上げまして」
「いや、そういう客観的な意見の方が有り難いんです」
と長谷部は強調する。
「外野席からの無責任な意見ですわ」
と謙遜した。
「なるほど、外野席ね」
長谷部はちょっと首を傾けた。
「その外野席からネット裏へ。いや、見物客じゃないからネット裏じゃおかしい。この際、ベンチ入りして貰えませんか?」
と頼んだ。
「え?」
真知子は戸惑った。とっさに、長谷部の言葉の意味がわからなかった。
「どういうことですの?」
と尋ねた。
「これは失礼」
長谷部は照れくさそうな顔をした。
「広報課をうちの部に引き取ったら、あなたに広報課長をやって貰いたい」
と一気に言った。
「まあ、わたくしに」
と漏らした時には表情が明るくなった。
「とにかく、あなたの内諾が欲しい」
長谷部はせまってきた。
真知子は久しぶりに意欲が漲《みなぎ》るのを感じた。躰の内側が熱くなってきた。
「『部』や『課』がある前に人がいるというのが、私の基本的な考え方でしてね」
と長谷部はことわった。
「言いかえると、部や課が組織として機能し、立派な働きをするかどうかは、そこで働く人の能力や努力、気配り、情報収集力、加えてやる気があるかないかに掛かっている。したがって、これはという人材が得られなければ、部や課を作っても意味がない」
「その通りですわ」
真知子は頷いた。
「したがって、広報課を引き取ることになると、そのリーダーともいうべき広報課長がいる。このポストに人を得ないと、活性化はむずかしい」
「おっしゃることはわかります」
「そこで、私はまず人を選んだ。あなたに白羽の矢を立てたわけです。もし、あなたがそんな仕事は出来ないとおっしゃって、引き受けてくれなければ、広報課を引き取るのをやめます。そうなると、広報の役割を果たさない広報課が総務部の中に取り残されて、組織として効率的な機能をしない。結果として、銀行が損をすることになります」
長谷部はじっくり説いた。
「まあ、大変だわ。それでは、もし、ノーと言えば、わたくしの責任になるんでしょうか? 銀行が損をするというお話ですが」
彼女はわざと明るく言った。
「もちろん、あなたの責任になります」
長谷部は真面目な表情で断言する。
「別に、罰則はありませんが」
つけ加えて、にやりと笑った。
「では、わたくしも覚悟を決めて、一つだけ真面目な質問をさせて頂きます」
と真知子は前置きした。
「果たして、その役目、広報課長ですが、わたくしに勤まるでしょうか? 念のため、まったくの無経験ですよ」
と強調する。
「勤まるどころか、あなたの仕事ぶりが評判になるでしょう。これでも、私の予測はよく当たるんです」
長谷部は自信たっぷりに断言した。
真知子は総合企画部長の部屋を出ると、深呼吸をした。
それからゆっくりと廊下へ向かう。頬が上気しているのが自分でもわかった。鏡を見なくてもわかる。躰の内部の熱もまだ引いてはいない。誰かにそっと触れてもらいたいような気分である。
廊下の反対側から、松岡紀一郎があらわれた。相変わらずせかせかした歩き方だが、どこか、いつもの松岡とは違う。表情が緩んでいた。頬もいくらか上気している。
二人は顔を合わせた。先程から二度目の顔合わせである。
「あ、ちょっとこっちへ」
松岡は真知子の腕に手を掛けて、やや強引に廊下の隅へ誘導する。
そのまま顔を近付けてきた。男臭い匂いが鼻をうった。
「まだ内緒だよ。人に言わないでね」
と声をひそめる。
「今度、取締役に決まった。一カ月後の株主総会で正式に承認される。総務部長をやることになった」
と囁《ささや》いた。
「まあ、総務部長を?」
と訊き返した瞬間、不吉な予感を覚えた。
「そうなんだ」
松岡は嬉しそうに言う。
「おめでとうございました」
真知子は一歩下がって、丁寧に頭を下げた。
「有り難う」
鷹揚に頷いた。
「すばらしいわ。いままで以上に実力を発揮出来ますわね」
「そういうことになる」
胸を張った。
「いいね、まだ秘密だからね」
念を押して、さっさと遠ざかって行く。
彼女は松岡の後ろ姿を見送った。取締役になったくらいで、そんなに嬉しいものかしらとの思いがこみあげてきた。
だが、同時に、わが身に思いが及んだ。自分だって頬を上気させている。長谷部に広報課長のポストを打診されただけで、まだ辞令も出ていないのに、どうしてこれほど嬉しいのか、説明出来なかった。
長谷部は自室の机に向かっていた。
──どうやら、神谷真知子を口説き落とした。
そう思うと、満足感がこみあげてきた。
つい、いましがた、彼女は部屋を出て行った。その表情には自信とやる気があふれていた。これで、以前の、MOF担当時の溌剌とした彼女に戻るかも知れない。
そんな気がした。かつて、石倉があれほど上手に使った女性を、自分が使いこなせなくてなんとする。
──よし、神谷真知子を使って、当行の広報課を強力な武器に変えてやろう。
改めて、決意を固めた。
その時、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
言い終わらないうちにドアが開き、松岡が顔を出した。
「わかってる。忙しいのはわかっている。だから、ほんの五分、五分だけさいてくれ」
と大きな声で言う。
「ばかに元気がいいじゃないか?」
長谷部はあっけにとられた。
「実は、いま、ちょっと前にね、頭取室に呼ばれてね」
と言って、にっこりする。
「わかった。こっちで当てよう。取締役就任だな」
「その通り」
松岡は大仰に頷く。
「おめでとう」
長谷部は立ち上がって右手をさし出す。
二人はしっかりと握手した。
「ほんとうによかった」
長谷部は少し声をうるませた。
「これで気が楽になったよ。きみをさし置いて、先に取締役にされた時には、正直なところ、気が滅入って仕方がなかった」
「そうか、気を遣ってくれていたんだな」
松岡もしんみり応じた。
「手助けは出来なかったけどね」
「いや、精神的にずいぶん支えて貰った。きみと石倉には感謝してるよ」
松岡は頭を下げた。
「早速、祝賀会を開かなくちゃいかん。そうだ。石倉くんも呼ぼう」
と長谷部は提案した。
松岡紀一郎は五分だけとことわって、いきなり長谷部敏正の部屋に来たが、そうはいかなかった。なにしろ、松岡の取締役就任が決まったのだ。
松岡は成瀬頭取から吉報を受け取ると、その足でまっすぐ長谷部の部屋に来た。一番最初に長谷部の耳に入れようと思ったからである。もっとも、廊下で神谷真知子を見掛けたため、思わず呼び留めて事実を告げた。したがって、長谷部は二番目に知ったことになる。
結局、二人は三十分程向かい合っていた。その間、両者共、何となく過去の感懐にひたった。
時間が停まっているといってもよい。約二年前、長谷部、松岡、石倉の三人はいずれも本部の有力な部長になっていた。取締役候補者として一線に並んだ。
当時の頭取や副頭取や専務たち、幹部行員の昇格や出向を左右する「人事常務会」に出席している主要メンバーたちが、この三人については順位を付けられなくて困った。ほぼ横一線に並んでいたといえる。
「石倉くんがいたらなあ」
と長谷部が漏らした。
「そうだよ。何もやめることはなかったんだ。責任を取るかたちになったが、合併失敗は石倉のせいじゃない」
と松岡も言う。
「それに、富桑銀行とは、やはり合併していなくてよかったという気がする。財閥系の銀行を相手にしちゃまずいよ」
長谷部は顔をしかめた。
「そう言えば、きみは最初から終始一貫して合併反対派だった。ぼくは途中で反対派の方へ行ったから、それだけの差が出た。いまにして当然だと思うね」
と松岡も述懐する。
「きみの場合は、当時、副頭取で合併反対の先頭に立っていた成瀬現頭取の人脈に入り込んでしまったから、身動きしにくくなっていたんじゃないの」
「その通りだよ。しかし、結果がよかったのかどうか? 働きを認められるどころか、福岡へ左遷されてしまったからね」
「あれは左遷じゃないよ」
長谷部はやんわりたしなめた。
松岡は少し口を尖らせた。
「いや、左遷だ」
と断定した。
「少なくとも、ぼくにとっては左遷以外の何物でもない」
と強調する。
「そうかな?」
長谷部は首をひねった。
「ああいう、いわばクーデターのようなかたちで頭取の椅子に坐った成瀬新頭取にしてみれば、熱くなっているまわりの温度を冷ます必要があった。それで、わざと側近のきみを遠ざけた。言いかえれば、頭取の戦略の一つになったわけだから、通常の左遷とはかなり異なる。もっとも、まわり道にはなったかも知れない」
と思うところを述べた。
「そう言ってくれるのは有り難いが」
松岡は釈然としない顔付きだ。
「でも、よかった。これですっきりしただろう」
「たしかに、すっきりしたよ」
今度は素直に頷いた。
「頑張ってくれ」
と激励する。
「ばりばりやるさ」
松岡は胸を張った。
その時、ノックの音が聞こえて、係員が一礼し、メモ用紙を持ってきた。長谷部にだけ見えるように手渡す。
──頭取がお呼びです。
と走り書きされていた。
「わかった」
長谷部は頷く。
「どうも長居をした。じゃあ、これで失礼するよ」
松岡は察して立ち上がった。
「祝賀会の方は石倉にも連絡した上で知らせる。なるべく早くやろう」
長谷部も立ち上がりながら伝えた。
松岡が立ち去ると、長谷部は部屋を出て自分の机に向かい、机上をちらりと眺めて急ぎの書類の有無をたしかめた。
その上で次長に合図する。何階か上の頭取室の方を指さした。それで通じた。彼は手帳を手にしてさっさと廊下へ向かった。
頭取室に入ると、成瀬昌之は窓際に立っていた。
「今朝きみに頼んだ件、まだはっきりしないんだろうね」
と立ったまま訊く。
「これからです。なにしろ、週刊誌の編集長やデスクが出てくるのは午後になってからで、わたし共とは半日以上働く時間がずれています。答えが出るのは、たぶん、夕方から夜の時間帯になるでしょう」
長谷部は窓際に近づきながら答えた。
「わかった。今夜はここにいる」
と言って、成瀬はメモ用紙を渡した。
赤坂の料亭の名前と電話番号が書いてあった。
「何かわかったら、連絡してくれ。株主総会直前に妙な記事が週刊誌に出たりしたら、総会屋のターゲットにされる。ここは何としても止めて貰わなきゃならん。ひとつ、きみの力で頼むよ」
と念を押す。
「出来るだけやってみます」
長谷部は頷いた。
「頑張ってくれ。それから、今度、松岡くんに役員になって貰う。総務部長を彼に任せるつもりだ」
と教えた。
「たったいま、ここにお邪魔する直前に当の松岡くんから聞きました。彼、大喜びです。張り切っています。どうも有り難うございました」
長谷部は嬉しそうな表情で頭を下げた。
「きみに、そんなに礼を言われるとは思わなかったよ」
意外そうに言う。
「松岡くんとは同期生で、ずっと仲良くやってきました」
「それは知っている。同期生ではあっても、いや、同期生だからこそ、強力なライバルといってもいい。蹴落とさないと、自分の方が蹴落とされる」
唆《そそのか》すような口調だ。
「まさか、わたしたちに限って」
「甘いな。もっとも、その甘さがきみの魅力ではあるが、松岡くんには用心したまえ」
成瀬は真顔で忠告した。
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第三章 問題続出
長谷部敏正は、総務部や広報課長が従来から持っているルートを使わなかった。あえてそうしたのだ。
彼は今回、独自のルートを開拓したといってもよいだろう。
たぶん、それが頭取の意に叶《かな》う筈だと思ったが、理由はそのほかにもあった。もともと、総務部や広報課が持っているルートがどんなものなのか、長谷部は知らない。たぶん、いろんな人脈がからんでいるだろう。そこへ脇から顔を突っ込むのは厭だ。
それに、そのルートがあまり強力ではなく、さして役に立たず、弱いからこそ、今回のような事態が起こる。
これは長谷部の想像だが、総務部周辺には総会屋がらみのかなり複雑な人脈、悪の人脈と呼んでよいようなものがからみ合っているのではなかろうか? そんな気がする。
長谷部としては、むしろ、そういうしがらみにかかわり合わずに問題を処理したい。一時逃れに悪い人脈を使って頼み事をすれば、すぐにまた頼み返される。
たちまち、断れないような頼み事が次々と降り掛かってきて、処理に追われる。あげくに、不正融資に手を染めたり、背任に追い込まれたりする。これはもう自明の理だ。
そのため、長谷部は自分で独自のルートをつくろうとした。さいわい、「サンデー・マガジン」を発行している出版社に大学時代の同級生が勤めていた。広田良和だ。
ただ、その広田とは卒業以来一度も会っていなかった。いまどんな地位にいるのかもよくわからない。そういう人物のところへいきなり訪ねて行って、厄介な頼み事をする。それこそ嫌われる。先方から見れば、まさに招かざる客だ。
だが、問題の週刊誌は来週発行されてしまう。遠慮したり、気遣ったりして、格好をつけている時間はなかった。
猪突猛進もよいが、場合によりけりだ。もし、嫌われてしまえば、成功率が落ちる。何かよい手段がないだろうか?
「さて、どうしたものか?」
長谷部は腕組みして目を閉じた。
「そうだ」
と思わず膝を打った。
長谷部は学生時代の友人たちの人脈について考えた。当然のことながら、仲の良い者わるい者、気の合う者合わない者がいた。
広田良和と長谷部は、当時からあまり接触が無かった。したがって、仲が良くもわるくもないのだ。むしろ、ひどく曖昧な関係といってもよいだろう。
では、広田と気が合い、一番仲が良かったのは誰か?
「そうだ。瀬川一晃だ」
と長谷部は呟く。表情が明るくなった。
広田と瀬川はよく連れ立って歩いていた。夏休みになると、お互いの郷里を訪ねて何日間かいっしょに過ごした話も聞いている。そういう親密な付き合いが果たしていまはどうなったのか? それは訊いてみなければわからない。
長谷部は瀬川とはかなり親しかった。いつでも電話出来る間柄だ。
瀬川一晃は本社が同じ大手町の大手商社に勤めていて、海外勤務が長かった。そのため、時折ブランクはあったものの、三年前瀬川がブラジルから帰ってきてからは、年に一度位の割合で会っていた。
気心が知れている方である。たしか、一度広田の話も出て、今度連れて来ようと言って、そのままになってしまった。親密さの度合いはわからないが、付き合いが続いているとみてよいだろう。
長谷部は手帳の裏の住所録を繰って、瀬川直通の電話番号をたしかめた。すぐにプッシュする。本人が出た。幸先はよい。
「つかぬことを訊くようだが、広田君とはいまでも時折会っているのかね?」
挨拶がすむとまず尋ねた。
「そうだな、半月程前に会ったばかりだ。相変わらずだよ」
「それはよかった。彼はいま出版社で何をやってるのかね?」
「取締役になっていてね。出版部門の編集局長をしている」
「すると、重要人物だな」
「いつも忙しがってるがね。かなりのものらしい」
「そうか、折り入ってきみに頼みがある」
長谷部は下手に出た。
「折り入っての頼みとは恐いね」
瀬川は逃げ腰になった。
といっても、口先だけのことである。冗談のようなものだ。むろん、長谷部はこんな応対にはめげない。すばやく腕時計を見る。十一時三十分だ。
「お互いに近くに居るのに、このへんで会ったことがない。急でわるいが、これからいっしょに昼食を取ろう。どうせ、何処かで食べるんだから付き合ってくれ」
と誘った。
「強引だな。いいだろう。昼食会の予定が入ってるが、たいした会合じゃない。抜けてそっちへ行く。付き合うよ」
瀬川は承諾した。
「有り難う。恩に着るよ」
と言っておいて、落ち合う場所を決めた。
両方共、ほぼ同じ位の距離にあるパレスサイドのホテルにした。歩いても、せいぜい五、六分だ。二人は十二時十五分にロビーで会うことに決めた。
そう言えば、長谷部にも昼食の約束があった。銀行協会の会合だが、抜けてもさして問題はない。代わりに次長を行かせることにした。
長谷部はすぐホテル内のフランス料理店へ電話して予約を取った。さいわい、個室が空いていた。
「ほう、昼食にしては豪勢だな」
瀬川は個室に案内されると、意外な顔付きをした。
「せっかくだ。ワインをやろう」
たちまち、その気になった。
「仕事中だが、仕方がない。付き合おう」
長谷部も応じた。
この際、いたし方ないという気分だ。それに多少でもアルコールが入った方が話がしやすい。
二人共、最初は赤ワインを愉しんだ。瀬川が嬉しそうな顔をしているので、長谷部も調子を合わせた。なにしろ、一年近く会っていないから話がはずむ。が、長谷部は旧交を温めるために来たわけではなかった。
メーンの料理が出始めた時から何気ない顔付きで方向転換した。本題に入ったのである。彼は「サンデー・マガジン」の記事について包み隠さず話し始めた。
瀬川一晃の眼のはしがほんのりと染まっている。薄赤い。かなりピッチをあげて赤ワインを飲んだせいであろう。
長谷部は瀬川に調子を合わせてはいない。用心深くグラスを口にしている。事実、瀬川の三分の一も飲んでいなかった。彼は話しながらも何度か瀬川のグラスを満たした。
「なるほど」
瀬川はしたり顔で頷いた。
「『サンデー・マガジン』ねえ。あの週刊誌は恐いよ。取材記者が下請けじゃなくて、自社の社員だからね。けっこうねちねちと熱心に取材する。しつこいんだ」
とつけ加える。
「よく知ってるね」
長谷部は感じ入ったふりをする。
「広田から聞いてるんだよ」
「その広田くんに何とか力になって貰いたい。ところが、彼とぼくは進む道が違ったせいか、いままであまり付き合いがない。そこで、何とかきみに仲介をお願いしたくてね」
「そうか、それでご馳走してくれたんだな」
「ご馳走ぐらいなら、何度でもするよ。ひとつ、よろしく頼みます」
長谷部は丁重に頭を下げた。
「助けて欲しい。恩に着るよ」
と言い添える。
「わかった。恩に着るとまで言われちゃ、何とかしなくてはね」
瀬川は胸を張った。
眼のふちだけではなく、頬の上の方が薄赤く染まっていた。やはり、ワインの効果があらわれている。
「広田くんときみの仲なら、何とかなるんじゃないか? 期待してるよ」
と唆す。
「まあね、当たってみなくちゃわからんが」
と言いつつも、瀬川の表情には自信があふれている。
「とにかく、この通りだ」
長谷部はテーブルの前に両手を揃えて、深く叩頭した。
「わかったよ。お互いさまだ。今日の夕方、ぼくが案内しよう」
「いっしょに行ってくれるのか?」
長谷部はほっとして、たしかめた。
瀬川一晃が指定した時間は六時過ぎである。
長谷部と瀬川は五時三十分に同じホテルのロビーで待ち合わせて、タクシーで「サンデー・マガジン」を発行している出版社へ向かうことにした。
いったん瀬川と別れると、長谷部は銀行へ向かってゆっくり歩いた。梅雨入りが近いせいか、晴れてはいたものの、湿気が多く、蒸し暑い。長谷部は上衣を脱いで腕に抱えた。
昼食時にワインを飲むようなことはめったにない。今日はそのめったにないことをした。瀬川に調子を合わせるためである。不思議なもので、舌が滑らかになるのか、話が弾む。アルコールが入るのと入らないのとではやはり効果が違う。
この先はわからないが、目下のところ、ほぼ思い通りの方向へ動いている。何となく、うまく行きそうな気配さえ感じられる。
だが、安心するのはまだ早いとわが身を戒めた。ワインの酔いのせいで気が大きくなっているのかも知れない。
その酔い覚ましのため、長谷部はわざとゆっくり歩いている。いつもせかせかと先を急いで歩くのに、こんなふうにのんびりするのは久しぶりだ。もっとも、この前いつのんびりしたのかまでは思い出せなかった。
その長谷部を後ろから来て追い抜いた者がいる。ほぼ同年輩の男である。
男は追い抜きざま、ちらりと一瞥《いちべつ》するや、足を停めた。
「なんだ。長谷部じゃないか?」
なつかしそうな声をあげた。
「やあ、宮田くんか」
長谷部も立ち止まった。
かつて調査部長、横浜支店長を歴任して銀行を辞め、大学の経済学部教授になった宮田隆男である。
長谷部、松岡、石倉等と同期生であった。もともと学究肌の人物で、頭脳明晰で勉強好きだ。調査部長には向いていたが、横浜支店長になってから、すっかり銀行が厭になったらしい。先輩から誘われたのを機に、大学教授に転出してしまった。
「久しぶりだね」
「ほんとうに」
二人共、ほぼ同時に言って、相手の顔や姿に見入った。
探り合うというほど大げさではないが、暗黙のうちに、一別以来の変化を読み取ろうとしている。
「さすがだ。大学教授らしくなった」
長谷部が先に感想を口にする。
「きみこそ、重役の貫禄がそなわってきた」
宮田は真顔で言った。
長谷部は照れた。
「まさか?」
「いや、ほんとうだ。しばらく会わなかったから、なおのこと、そんな気がする」
と宮田は答えた。
「きみだって、もう銀行員には見えない。やはり、大学教授だね」
と長谷部も言いつのる。
「そうか、お互いに、かなり変わったわけだな」
宮田は感慨深げに言う。
「ところで、今日はどちらへ」
「古巣の調査部に寄るつもりで来た。以前、ぼくが集めた資料があってね。ちょっと見せてもらう必要が生じた」
「じゃあ、用が済んだら、総合企画部へも寄って下さい」
「そうさせて貰うか」
二人は肩を並べて、銀行の巨大なビルへと近付いた。
彼等は一階受付の前で別れた。
長谷部は自席に戻る前に洗面所へ寄って、嗽《うがい》をした。アルコールの匂いが残っていてはまずいと考えたからだ。ついでに頭髪にも櫛を入れる。さいわい、顔は赤くなかった。
席に帰り着くと、長谷部はすぐ石倉に電話を入れた。
「ちょうどよかったよ。食事に出ていて、いま戻ったところだ」
石倉の快活な声が聞こえてきた。
「松岡くんが今度取締役になる」
と教えた。
「そうだってね」
「おや、知っていたのか?」
「当人から電話があったよ。よほど嬉しかったんだろう。あいつらしくもなく、声がうわずっていた」
「やはり、本人が電話をしたのか?」
長谷部はいくらか鼻白んだ。
「せかせかと電話してきたよ。昇格の件だけ教えると、さっさと切った。たぶん、あちこちに掛けまくったんじゃないかな」
石倉の声も皮肉っぽい。
「気持ちはわかるがね。それで、彼、何か言っていた?」
「何かとは?」
「お祝いの会の件だけど」
「それは聞いてないね。もっとも、自分の口から祝賀会をやってくれとは言えんだろう」
「ごもっとも」
長谷部は苦笑した。
「松岡のことだ。お祝いの会なんかいくつもあると思うが、三人だけの会もやろう」
とつけ加えた。
「いいね。昔は三人でよくやった。思い出すよ」
と石倉は応じた。
「さっき、宮田隆男にばったり会った。調べ物があって調査部へ来たらしい」
と長谷部は教えた。
「宮田くんか、なつかしいな。あの男も銀行の犠牲になった口かな?」
「彼の場合はそうは言えないだろう。もともと学問好きで、ずっと転身のチャンスを狙っていたんだから」
「きっかけを探していたわけか?」
「そんなところだね」
「わかった。そういうことにしておこう。とにかく、よろしくお伝え下さい」
と石倉は頼んだ。
それをしおに、松岡のお祝いの会については再度連絡を取り合うことになって、両者は電話を終えた。
松岡紀一郎は珍しくずっと自席にいる。
行内で彼の昇格を耳にした幹部行員たちが次々と挨拶に来る。そのため、立ちにくくなったのはたしかだ。
が、むろん、それだけではない。
彼の方も次々とあちこちに電話をしている。世話になった人、先輩や友人、知人、取引先の社長等々、相手はさまざまだが、いずれも松岡のサイドから見て重要な人たちである。朗報を少しでも早く知らせるべき相手ばかりであった。
もっとも、石倉のように、放っておいても長谷部が知らせてくれるのに、自分の方からわざわざ連絡した。やはり、いくらか常軌を逸している。嬉しさのあまり、少しばかりおかしくなっていた。
松岡自身は何も気付いていないが、客観的に見ると、そういうことになる。
「おめでとうございます」
わざとかどうか、松岡の机のずっと手前の方から大声で言う者がいる。
部長、次長、課長クラスで、いずれもいち早く挨拶して、目を掛けて貰おうとの魂胆がありありと見えていた。
松岡は相好を崩したまま、いちいち丁重にこたえた。大声で言われても、いささかもうるさいとも大げさだとも思わない。勝手なものである。
そのうち、松岡はふと気付いた。
こんな重要な知らせを、家族には、自分の妻には何も教えていない。他人にばかり電話をし続けている。
これはおかしい。本来なら、妻にまっ先に知らせるべきではないか? そう思って、しぶしぶ受話器を持ち上げた。
呼び出し音は鳴っているのに、誰も出ない。しばらく、そのままにした。
すでに、十二、三回は呼び出し音が鳴り響いている。これでも出て来ないとなると、何処かへ出掛けたのであろう。いったい、何処へ行ったのだと思うと、何となく腹立ちを覚えた。こんな時に、選りに選ってとの思いが強い。
そこへ部長の一人があらわれた。
「この度は、まことにおめでとうございました。ひとつ、今後共よろしくご指導をお願いいたします」
と丁寧に叩頭する。
松岡は急いで受話器を置き、立ち上がって礼を返した。
続いて、次長のグループ三人が来た。
「先輩、おめでとうございます」
「今度、お宅へ押し掛けます」
「ご馳走して下さい」
威勢良く、口々に勝手なことを言う。
「わかった、わかった、ご馳走するよ」
松岡は鷹揚に頷いた。
あっと気が付くと、三十分以上経過している。
それならと間を縫って、自宅の電話ナンバーをプッシュする。相変わらず留守なのか、誰も出てこない。
「ちえっ」
舌打ちして、切ろうとした時、妻の声が聞こえた。
「何処へ行っていたんだ」
いきなり叱りつけるような言い方になった。
「ちょっと、近所までお使いに」
と言い訳がましく言う。
「何かあったんですの?」
彼女はすぐに立ち直って訊問口調になる。
「何かなければ電話をしちゃいけないのか」
と突っ掛かりそうになって、彼は慌てて言葉を呑み込んだ。
言い争いするために、わざわざ連絡したわけではない。
松岡は口調を変え、取締役昇格について、素っ気なく教えた。
「まあ、そうでしたの。おめでとうございます。じゃあ今夜は早く帰ってらしてね。ご馳走を作っておきます。もう一度、お買い物に行かなくちゃ」
妻の声も明るくなった。
松岡は満足して受話器を置いた。
さらに三、四十分が経過した。直通電話のベルが鳴ったので取りあげた。
「あたし」
という女の声が聞こえた。
松岡は不吉な気配を感じて首を縮めた。
声に聞き覚えがあった。
相手は松岡だとわかって掛けてきている。とぼけるわけにはいかない。
博多の女、小森理花だ。
彼女は中洲のはずれで「茉理花《まりか》」というバーを経営していた。カラオケのあるスナック風の気軽な店である。
色白で、むっちりとした豊満な肉体の持ち主であった。男を扱い馴れた開放的な明るさを持ち合わせている。そのせいか、店はけっこう繁盛していた。
とくに、博多に多い単身赴任者たちのたまり場になっている。中年男たちが、殆ど毎晩のように通ってくる。酒やカラオケが目的の者もいるが、多くはママが目当てであった。そうは言っても、現実は厳しい。当然のことながら、幸運な者も不運な者もいる。
おそらく、理花は何人かの男たちと関係を持ち、鉢合わせしないように上手に彼等を泳がせていたのであろう。そのくらいのことが出来なければ、水商売の女とは言えまい。
ともあれ、松岡紀一郎は福岡支店長時代にこの女と係わりを持った。単身赴任の無聊《ぶりよう》が慰められたのはたしかだ。欲求不満も解消され、苛立ちもおさまった。
だが、こうした彼の博多での行状は、成瀬頭取の耳にまで届いた。取締役昇格の遅れにもつながったといってよいだろう。
松岡の東京本店への転勤は、彼女と別れるきっかけを作った。とはいえ、彼の場合、きっちりと話し合って、別れ話を決めてきたわけではない。きわめて曖昧なまま、二人の物理的な距離だけが遠くなったのである。
こういうケースでは、どちらかが一方へ駆けつけると、すぐさま、あっけないくらいによりが戻ったりする。また、そのために、男または女が、飛行機や新幹線を利用して往き来する。
もっとも、理花の思惑は、今のところよくわからない。
「あたし」
という声が聞こえただけなのだ。
「………」
松岡は黙っていた。
相手の反応を待ったのである。
「あたし、わかるでしょう」
と女は言った。
「わからないね。名前を言って貰わなけりゃあ。近頃、もの忘れが多いんだ」
と彼はとぼけた。
「まあ、ずいぶん冷たいのね。たしかあなた、わたしの上で大きな声をあげたでしょ」
「おい、おい」
さすがに、松岡はたじろいだ。
「驚いたの?」
詰る声だ。
「まだ真っ昼間だし、仕事中だよ」
松岡はたしなめた。
「あなたの態度が冷たいからよ。あまりにも冷たい。そうは思わないの?」
と訊く。
松岡自身は別に冷たいとも何とも思っていないが、正直に言うと、波紋を呼びそうなので、本心を隠した。
「申し訳ない。忙しすぎてね」
と言い訳する。
「ありふれた口実ね」
女の声から憤りが消えた。
「まあ、本社へ戻ったんだし、出世コースに乗っている人だから、忙しいのは当然だわ。仕方がないか?」
自らを納得させようとしている言い方だ。
風向きが変わった。松岡は受話器を耳に当てながら、思わずにやりと笑う。
「それにしても、一度も電話を下さらないのはどういうわけ? 何か理由でもあるの?」
気配が伝わったのか、彼女はたちまち攻撃に転じた。
松岡は舌打ちしたい気持ちになった。
「いま仕事中なんだ。手があいたらこっちから電話するよ」
と約束した。
「まあ、迷惑なのね。久しぶりに、わたしの方からお電話したのが」
「そんなことはない。感謝してるよ」
あわててつけ加える。
「ほんとう?」
「ほんとうだとも」
と強調する。
「よかった。じゃあ、感謝の気持ちをしっかり見せて貰いたいわ」
勝ち誇ったように言う。
「わかった。見せるよ」
「わたし、いま、博多じゃないのよ」
「え?」
「東京に来ているの」
「東京に?」
と訊き返す。
どうも、まずいことになったという思いがよぎる。
「いつ来たの?」
「つい先程羽田に着いて、モノレールに乗って浜松町まで来たところよ」
と教える。
「それで、何日滞在するの?」
恐る恐る尋ねた。
「あなた次第よ」
女は平然と答えた。
松岡は思わず下唇を噛んだ。
「あなた次第よ」
という言い方に困惑を越えた危険な気配を感じたのだ。
言い方を変えると、彼の対応の仕方によって、彼女は何日でも東京に滞在すると言っている。彼にとってこれは困ることである。
とくに、取締役就任直前のいまの彼には迷惑といっていい。
株主総会と、その後で開かれる取締役会の承認を得なければ、松岡の取締役就任は実現しない。形式的な手続といえば、それまでだが、この間にもし彼の身に何か不測の事態が起これば、一転して白紙還元されることもあり得る。
したがって、松岡としては、とにかく正式に就任するまでは派手な行動をひかえたいと考えている。当然のことながら、用心深くなる。こういう場合、松岡ならずともほぼ同じような考えを抱くであろう。
おまけに、小森理花の存在は成瀬頭取にも知られている。博多での女性関係としてチェックされ、明らかにマイナスになった。
もっとも、単身赴任中の出来事だからと大目に見られたきらいはある。おかげで、とくに問題にならずにすんだ。
彼の方から彼女に連絡を取らなかったのは、用心したためである。転勤がよい口実になった。博多と東京、両者の間にこれだけの距離が生じると、現実の問題としてそう簡単には会えなくなる。
松岡のように多忙な日常を送っていると、いったん過去の領域に入った出来事はどんどん遠ざかってゆく。彼にとって、理花との情事はすでにすんでしまったことなのだ。
ところが、正直なところ、未練はあった。久しぶりに彼女の声を聞いただけで、何となく心が湧き立つ。彼女の豊満な肉体にも触れてみたい思いが生じた。
「どうなさったの?」
まさかそれを察知したわけではあるまい。が、先程より理花の声はしっとりしている。
「わたくしが重荷なら、はっきりそうおっしゃって下さってもいいのよ」
とつけ加えた。
「いや、そんなことはない」
松岡は否定した。
「わたくしだって、ご都合も訊かないで、不意に出てきたのは申し訳ないと思っています。でも、お会いしたかったんです」
と理花は訴える。
「それはぼくも同じだよ」
と松岡は調子を合わせた。
が、すぐに後悔の念がこみ上げてきた。
小森理花は元気づいた。
「よかった」
と安堵の声をあげる。
「やっぱり、思いきって出て来た甲斐があったわ」
と嬉しそうに言う。
「………」
松岡は黙っていた。
また、警戒心が頭をもたげた。火に油を注いではならない。俗にそう言う。これはものごとの鉄則である。
「今夜、何時に会えるかしら? わたし、一、二時間だったら銀座のへんでつぶすわ」
と言いつのる。
「泊まる所は?」
「それも相談しようと思ったんですけど、今夜は銀座のホテルを予約してあるの。ツインの部屋を取っておいたわ」
と誇らし気に教えた。これで、今夜は家へ早く帰るという妻との約束も守れなくなった。
一方、長谷部敏正は時間を気にしながら仕事をしていた。
夕方になって、融資部長から内線電話が入った。
「ちょっと、これからそちらへお邪魔させて下さい」
と言って、すぐ電話を切ろうとする。
「おいでになっても、席にはおりません。すぐ出掛けます」
と断った。
「お忙しいところすみません。ほんの少し、五分だけ」
とくい下がる。
融資部長の五分は、すぐ十五分、二十分になるのを長谷部は知っている。
「申し訳ないけど、駄目なんだ。もう席を立たなきゃならん。明日の朝にしてくれたまえ。八時過ぎには席に居るよ」
はっきり伝えた。
「そこを何とか」
融資部長はくい下がった。
押しの強い粘液質の男だ。やや肥満体で元気が良く、すべてに強引である。大げさで、たいしたことでもないのにすぐ相談にきたがるくせがあった。
「じゃあ、明日の朝」
長谷部は受話器を置こうとした。
「すぐ駆けつけますから」
相手はまだ言いつのる。
「きみは内部の問題で私に相談しようとしている。ところがこっちは外部の重要な用件で出掛けなけりゃならん。それをきみは妨害するのか? 引っ込んでろ!」
ついに一喝した。
さすがに、融資部長はひるんだ。
いままで、長谷部がこんなふうに激昂するのを見たことがなかった。
もっとも、長谷部の方は一喝してからいささか後悔した。そこまでやらなくてもよかったという気がする。あれでは、温厚な人物との日頃の評判が崩れる。
崩れてもかまわないが、苛立ったのはたしかだ。この点は反省に値する。これからの気の重い仕事のせいである。そうはいっても、この程度で苛立つのはまずい。小人物の証拠と言えよう。
長谷部は受話器を置くと、苦笑して席を立った。
まだいくらか時間の余裕はあったが、自席に坐っていると、またすぐに似たようなトラブルに巻き込まれかねない。黒革の鞄を手にすると、歩いて瀬川と待ち合わせたホテルへ向かった。
五時十五分にロビーに着いた。洗面所に入り、手を洗い、嗽をした。戻ってきてロビーの椅子に腰を下ろす。ひと息ついて眼を閉じた。せいぜい十分位だが、彼はそのままじっとしていた。
「やあ、どうも、お昼はご馳走になった」
声が聞こえたので眼を開けると、瀬川がにこやかな表情で立っている。
「第一段階はうまくいったよ。連絡がついてね。出版社の近くのホテルまで呼び出した。六時半に三階にある中華料理屋で会うことになった。まだ少し早いけど、先に行って生ビールでも飲んでいよう」
と提案する。
「任せるよ」
と長谷部は応じた。
「ところで、広田良和くんは厭がっていなかったか?」
と気になることを尋ねた。
「厭がるものか?」
と瀬川は言い返す。
「旧友二人がわざわざ近くまで来て、ホテルの高級中華料理をご馳走しようと言ってるんだ。喜んで出て来るよ」
と保証した。
それを聞くと、長谷部もいくらか気が楽になった。
「広田はそう神経質な方じゃない。しかし、話を持ち出すタイミングがある。乾杯してすぐじゃまずい。ビールや老酒でも飲み、しばらく料理を突っついて胃が満足してきたところで、おもむろにいきましょう」
「なるほど、胃が満足してきた頃か?」
「その通り、なに、ぼくが合図するよ」
と瀬川は請け合った。
夕方なのに、タクシーはさして渋滞に巻き込まれず、順調に走った。
二十五分位でホテルの中華料理店に着いた。長谷部と瀬川は前菜の盛り合わせを一皿取り、生ビールの大ジョッキを頼んだ。すべて瀬川の指示に従った。
「とりあえず、乾杯!」
と瀬川はジョッキを上げた。
「乾杯、よろしくお願いします」
長谷部は軽く頭を下げる。
瀬川はぐいぐい飲んだが、長谷部はあまり飲まない。酔ってしまっては話にならないからだ。
六時三十分ちょうどに、広田良和があらわれた。
「やあ、どうも」
「来たか、先にやってたよ」
広田と瀬川は親し気にやり合う。
長谷部だけがいくらか緊張し、立ち上がってぎこちなく挨拶する。
「どうぞ、坐ったままで」
と広田は手で制した。
が、結局、両者は立ったまま叩頭し、名刺交換する。
瀬川だけは立ち上がろうともせず、坐ったまま二人のやり取りを見ていた。彼は大ジョッキを殆ど飲み干している。広田が来たのを機にお代わりした。
新しい大ジョッキが二つ来た。長谷部はまだ三分の一も飲んでいない。改めて、乾杯になった。
すでに述べたように、長谷部と広田は学生時代以来会っていない。それに、その当時でさえそれほど親しい間柄ではなかった。こうなるともう初対面に近い状態といってもよいだろう。
むしろ、初対面の方がよいくらいである。よけいな気遣いをしなくてすむ。
とはいえ、同じ席に瀬川一晃がいた。まことに都合が良いことに、瀬川は長谷部とも広田とも親しかった。
もし、こういう人物がいなければ、両者共気詰まりを覚えたに違いない。おまけに、瀬川は自分の役割をよく承知していた。二人の間に入って上手にリードした。
このため、生ビールだけではなく、老酒も注文し、料理も次々と出て来るようになると、雰囲気が変わってきた。
少なくとも、長谷部と広田の間に垣根は無くなっている。長い間のブランクはそのままそこにあったが、それが会話や意思の疎通のさまたげになることはなかった。
長谷部は気分がほぐれてくるのを感じた。その時、瀬川が合図を送ってきた。
瀬川は実に上手に、さり気なく合図を送ってきたので、長谷部はあやうく見逃すところであった。
彼は広田との旧交を温めるために来たのではない。用件があって来たのだ。しかも、かなりむずかしい用件である。
長谷部が申し出ても、相手は断ることが出来る。この場合の相手は広田だが、広田はそれでもよいが、長谷部はそうなっては困る。断られては困るのである。そこが一般の交渉事とは異なっていた。
だが、当初からそのことを口にするわけにはいかない。出来るだけ対等にゆきたい。弱味は見せたくなかった。
「実は、折り入ってお願いがありまして」
と長谷部は前置きした。
「この際、何とか広田さんのお力をお借りしたいんです」
とつけ加える。
ここまでは仕方がない。下手に出るほかはなかった。
「ほかでもないんだが、おたくで出してる『サンデー・マガジン』の取材の件でね。長谷部くんの銀行が困っている。ひとつ、相談に乗って貰いたい。頼むよ」
横から瀬川が磊落な口調で言った。
「そうですか、わかりました。私に出来ることでしたら何でも」
と広田は応じた。
「有り難うございます。心強い限りです」
長谷部は会釈して礼を言い、詳しい説明に入った。
時折、広田が質問し、瀬川も脇から口を挟んだ。
「さあ、さあ、飲みながら、食べながら話しましょう」
瀬川が上手に合いの手を入れてくれて、大いに助かった。
コースで頼んでおいた料理が次々と運ばれてくる。瀬川がまっ先に手をつけて、二人を促す。商社マンで客の接待に馴れているのであろう。そつがなく、それでいて厭味が感じられない。
彼は、今夜のおのれの役割をよく心得ていた。言いかえると、瀬川のおかげで、長谷部も広田もさして緊張せず、リラックス出来た。緩衝材の役割をよく果たしてくれた。
長谷部は自分の意図した通りに説明することが出来た。
広田はあまり風采の上がらない方だが、どこか飄々《ひようひよう》としていて、なかなかの聞き上手だ。そのくせ、時折、眼が光る。やはり、一流出版社の出版局長になり、取締役にまで昇格した人物だけの手ごたえが感じられた。
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第四章 解決の方法
広田良和はすべて聞き終わると、腕組みをした。
そこへ、デザートのアンニンドウフの小鉢が運ばれてきた。
「ひとつ、頼むよ。長谷部くんの力になってやってくれ」
脇から瀬川がせっついた。
「株主総会直前に、総会屋を喜ばせるような記事が出る。これが一番困る。時間切れで対応できないからね」
と強調する。
「その通りです。何とか」
長谷部は下手に出た。
「もし、こういうことがまかり通るなら、大問題だよ。週刊誌は総会屋の味方かと言われても仕方がない。彼等に材料提供と、つけ込む隙を教えるわけだからね」
と瀬川は口を尖らせた。
「まあ、まあ」
長谷部は驚いて、左手をあげて瀬川をなだめた。
広田は無言のまま眼を閉じてしまった。
「週刊誌が総会屋の味方となると、これは大問題だよ。報道の自由は、これは曲げられんだろう。とはいってもだ。いったい、正義は何かというところへ行き着くんじゃないのか?」
瀬川はぎょろり眼を剥《む》いて、広田を睨みつけた。
長谷部ははらはらした。何もそこまで言わなくてもという気がする。というのも、広田を怒らせてしまっては何にもならない。元も子も失うことになる。
ところが、肝心の広田はこの時、腕組みしたまま眼を閉じていた。瀬川の声は聞こえても、その顔付きや眼ざしはまったく眼に入らないのだ。
長谷部はそれに気付いた。
「この役者めが」
との思いが強まった。
役者といえば、瀬川も広田もなかなかの役者である。長谷部は同じ場所に居て、自分一人が役者になりきれないでいるような気さえしてきた。
そのくせ、何となく愉快になった。取り残された感じはしない。したたかな奴らめがと思いつつ、ついにやりと笑ってしまった。
瀬川は言い終わると、長谷部に眼くばせした。どうだ、これでいいだろうと、たしかめたつもりらしい。
その時、広田は眼を開けた。
長谷部はひやりとする。とっさに、瀬川とのいわくあり気なやり取りを見られてしまったと感じたからだ。
広田は動じる気配もない。
眼を開けると、まっすぐに長谷部を見た。瀬川は脇で、せっせとアンニンドウフの白いかたまりを口に運んでいる。まるで自分の役割は終わったと言わぬばかりの態度である。
「よくわかりました」
と広田は答えた。
「この際、瀬川くんの意見も大いに参考になります」
とつけ加える。
「参考にして貰わなくちゃ困るよ」
瀬川は口を挟んだ。
「させて頂きます」
広田は苦笑する。
「そこで長谷部さんの気持ちをたしかめておきたいんですが」
と広田は前置きした。
「『サンデー・マガジン』が、今度の記事の中から、三洋銀行の行名と頭取の成瀬昌之氏の名前を削れば問題はないわけですな」
とたしかめる。
「もちろん、問題はありません。そうして頂ければほんとうに助かります」
長谷部は深く頭を下げた。
「わかりました」
広田も会釈を返す。
「問題は編集長があくまでも三洋銀行の名をカットしない場合ですな」
「そうです。その場合は不十分な取材によって書かれた間違った記事として、正式に抗議します。頭取の名誉毀損問題も含めて、訴訟も辞しません」
はっきり伝えた。
「なるほど、なかなか強硬ですね」
「その通りです。三洋銀行としてはこれは由々しい問題と言えます。したがって、断固、後には引かない。あくまで戦い抜くつもりです」
長谷部はきっぱり言う。
「状況はすべて把握しました。これから会社に帰って、編集長に会います。不十分な取材の問題も含めて、どういう経過で三洋銀行の名が出て来たのか、また成瀬昌之氏の個人名が出た問題についても、詳しく調べてみましょう」
と広田は答えた。
「よろしくお願いします」
長谷部は叩頭する。
「ひとつ頼むよ。きみの力で早急に解決して貰いたい」
瀬川も軽くだが会釈した。
「じゃあ、バーラウンジへでも移って飲んでいて下さい。一時間位で戻ってきます」
そう言って、広田は立ち上がった。
広田良和はそそくさと立ち上がり、軽く会釈して早足で立ち去った。
彼の後ろ姿が見えなくなると、何となく不安にかられた。
「任せておこう。あいつのことだ。何とか上手に解決するだろう」
と瀬川は言う。
「そう願いたい」
と長谷部も応じた。
「この際、出来れば訴訟騒ぎなんか起こしたくないからね」
とつけ加える。
「もちろん、そうだろうな。いま目立つのはまずい」
「いいことで出るわけじゃないからね」
「たしかに」
と瀬川も頷いた。
「最近はおたくも含めて、商社はあまり名前が出ないね」
「有り難いことだ」
「それにくらべて、金融機関はご難続きだよ。どうもいけない」
と長谷部はぼやく。
「証券会社や銀行さんは派手だからな」
瀬川の口調は揶揄気味だ。
「派手と言えば、もともと商社の方が派手じゃないか。メーカーや銀行の方がずっと地味だよ」
と主張する。
「そうかも知れん。メーカーはともかくとして、銀行がとやかく言われて派手な存在になるのがおかしい」
と瀬川は口を尖らせた。
「その通り。しかも、発端がバブル崩壊後の不良債権の山から始まったんだから、何をか言わんやだよ」
と長谷部も認めた。
「まったくだ。世の中がおかしくなるわけだな」
瀬川は投げやりに言って、立ち上がった。
「さあ、場所を変えよう」
「そうするか。ちょっと待っていてくれ。勘定をすませてくる」
長谷部は入り口のレジに向かう。
「どうもご馳走さま」
背後から瀬川が声を掛けた。三分後、二人は並んで中華料理店を出た。
「バーラウンジは最上階だ。あそこは見晴らしがきく。夜景が綺麗だよ」
言いつつ、瀬川が先に立つ。
「いいのかなあ、広田くん一人にやらせておいて。いっしょに駆けつけないで、そんな所でのんびり飲むのは気が重いな」
長谷部は冴《さ》えない表情で呟いた。
瀬川は聞こえないふりをして、先を行く。エレベーターに乗ると、ためらわずに最上階の数字の上を押さえた。
「広田くんにくっついていっしょに行った方がよかったかな?」
と長谷部は言った。
「まだそんなことを言っているのか? まったく、往生際のわるい男だ」
と瀬川はきめつけた。
さいわい、エレベーターの中は二人きりだった。
「きみがついて行けば、広田は何かと気を遣わなけりゃあならん。それに、編集部の連中だってどう思うか? マイナスにこそなれ、プラスにはならんよ」
と言い添える。
「そんなものかなあ」
「そういうものだよ」
と瀬川は断定する。
「とにかく、落ち着いて飲んでいればいいんだ。すべて広田がやるさ」
と達観している。
「そこがね。ちょっと、申し訳なくて」
と長谷部はこだわる。
「きみは絶えず何かやっていないと気がすまぬのか? 第一、広田が必要だと思えば、いっしょに来てくれと言った筈だ」
と言いつのる。
「わかった。きみのおおせに従ってのんびり飲んで待つことにするよ」
長谷部もようやくその気になった。
二人はバーラウンジに入ると、カウンターをさけて四人掛けのソファを選んだ。広田があらわれてから移動するのが面倒なので、あらかじめ彼の席も確保しておいた。
瀬川はグラッパを、長谷部はブランデーのお湯割りを頼んだ。
グラスがくると、二人はかちりと合わせた。それからはもう話題を変えた。
親しい友人同士なので、話はいくらでもあった。学生時代の出来事、お互いの家庭や、会社、経済社会の動き、景気の動向や共通の友人たちの噂、病気等々、次々と脈絡もなく話が飛んで行く。
これもまたよいところだ。気心が知れているからこそ、いくら話題が飛んでも、何の痛痒《つうよう》も感じない。戻ろうと思えば、すぐにも元に戻れた。
グラッパを飲みほしてしまうと、瀬川は少し迷った。
「そうだな、ドライマティーニでもちょっとやるか」
と顎をしゃくる。
長谷部は頭取への報告を考えて酒を控えた。
すでにかなり飲んでいる。
広田の返事いかんでは、これから「サンデー・マガジン」の編集部に乗り込まなければならない。さらに、その結果を今夜中に成瀬頭取に報告する必要がある。
成瀬は今夜立ち寄っている赤坂の料亭「若林」の電話番号まで教えてくれた。誰と食事しているのかはわからないが、おそらく、酒を飲み、料理を突つきながらも、成りゆきを気にしているだろう。
成瀬昌之はかなりせっかちな人物だ。あまりぐずぐずしているわけにはいかない。
といって、広田に任せた以上、とにかく、彼の帰りを待つほかはなかった。いまさら、焦っても気を揉《も》んでも無駄である。ただ、瀬川のように暢気《のんき》にかまえて飲む気にだけはなれない。
当然のことながら、長谷部は時間を気にしていた。広田が一時間位で帰って来ると言い置いて行ったからだ。すでに五十五分が過ぎ去った。そろそろ、彼が姿をあらわしてもよい時間である。
瀬川はさして時間を気にしていない。始めから、用件がすめば来るだろうとたかをくくっている。
「一時間過ぎたね」
と長谷部は注意を喚起する。
「そうかね」
瀬川は気のない返事をした。
「まあ、いいさ、話し合いが長引けば長引くほど成功率が高い」
と言い張る。
「ほんとうかね?」
長谷部は眉をひそめた。
「もちろん、ほんとうさ。短時間なら、話は決裂だよ」
「どうして?」
「とくに理由はない。直感さ」
平然と言い返す。
「広田が三十分以内に帰って来るようだったら、結果が良くない筈だ。ところが、すでに一時間十分過ぎている。あと二十分、即ち、一時間三十分掛かるようなら、間違いなく成功だね」
とつけ加えた。
「いったい、どうして? それも、きみのけっこうな直感なのか?」
「その通り。ま、信用してくれ」
「無理だね」
長谷部はにべもなく言う。
「とても信用出来ない」
「とにかく、あと二十分、いや、すでに五分過ぎたから、十五分でいい。待ちたまえ」
瀬川は自信たっぷりに言った。
長谷部は瀬川の言葉に圧倒された。それだけ不安がつのってきたのだ。
ところが、それから五分過ぎないうちに、広田が姿をあらわした。せかせかした足取りで近付いてくる。
「やあ、お待たせしました」
と快活な声で言った。
その声を聞くと、長谷部は何故ともなくほっとした。というのも、わるい知らせならば、広田の声がもう少し沈んでいる筈だと思ったからである。
果たして、瀬川も右手をあげて合図をよこす。たぶん、よい兆候だとでも言いたいのであろう。
「どうも、すっかりお待たせした。心配しましたか?」
口調が軽い。
「そんなことはありません。いろいろ話がありましてね」
と長谷部は答えた。
「こっちは世間話をして、のんびり酒を飲んでいただけだからね」
と瀬川も応じる。
「編集長といっしょに取材記者を掴まえましてね。詳しく事情を聞いた。なにしろ、こういう時期ですから、記事の企画のタイミングはなかなかいいと思います。ただ、個々の内容については若干問題がある」
と広田は前置きした。
長谷部と瀬川は聞き役に廻った。
「とくに、ご指摘を受けたおたくの銀行と成瀬頭取の個人名については、実は、問題があった」
広田は口許を歪《ゆが》めた。
「そちらサイドの問題ですね」
と長谷部はたしかめる。
「どんな問題なの?」
と瀬川も訊く。
「取材記者によると、ある人物から接触を受けて、三洋銀行の不良債権の状況と成瀬頭取についての情報を貰ったそうです。問いつめたところ、彼は白状しました」
と打ち明けた。
「ある人物から情報を貰った?」
長谷部は訊き返す。
「取材記者はそう言っています。嘘ではないでしょう」
「すると、その記者は貰った情報をそのまま書いたわけですね」
「多少は割り引いたとは思いますが、おおむねそうなったと言っていいでしょう」
と広田は認めた。
「当行には正式な取材をせずに?」
と長谷部は突っ込んだ。
広田は顔をしかめた。
「そうなんですよ。これは取材記者の基本的な心掛けの問題でしてね。こういうことがあってはならない」
と彼は強調する。
「そうか、誰かから情報を貰って、裏付けの取材をしないで書いてしまう。これは楽でいいね」
と瀬川も口を出す。
「かりに、その情報が正しくても、裏を取る必要がある。裏を取って、確認し、事実をたしかめた上で書く。これはもう当然のことですよ」
広田も忌々《いまいま》しそうに言う。
「要するに、手を抜いたわけだ」
瀬川が結論を出す。
「たしかに、時間がない。原稿の締め切りはせまる。取材記者の方も大変なんでしょうね。それでつい」
長谷部は同情する口調だ。
「きみが同情してどうなる? こういう時は怒らなけりゃあいかん。そうだろう。間違ったことが大手の週刊誌に出てしまえば、後でいくら訂正記事を出して貰ったって取り返しがつかない。おたくの銀行や頭取についての、それこそダーティーなイメージがずっと付きまとうんだからな」
瀬川が言いつのった。
「たしかに、その点が、われわれの一番気を遣うところなんです」
広田は頭をかいた。
「まったく、ペンの暴力だよ。間違った情報を流されて被害を蒙った会社や団体、個人等々、日本中に被害者は大勢いるんじゃないのか?」
瀬川は一人で憤慨している。
「まあ、まあ」
と長谷部がなだめた。
いまや、状況ははっきりしてきた。ここで怒っても始まらない。とくに長谷部は水に落ちた犬を打つのは好まなかった。とにかく、穏便に解決しようという思いの方がずっと強い。
「それで、三洋銀行と頭取の記事については、具体的にどういうことになったのかね?」
と瀬川が訊いた。
長谷部が尋ねたいことを、代わりに訊いてくれた感がある。
「いや、失礼しました。瀬川くんのお叱りで、本題からいささかそれたようです」
広田は言い訳口調だ。
「本題からそれた? 冗談じゃない。これが本質じゃないか?」
瀬川は眼を剥いた。
長谷部は軽く瀬川の肩を叩く。
「わかった。おたくの説は正しい」
と頷いて見せる。
「しかし、ここはひとつ、広田さんの説明を聞こう」
言って、広田を促す。
「そうだ。それを忘れちゃいかん」
瀬川も同意した。
「いま申し上げたように、恥ずかしいことですが、事情がはっきりしましたので、これはもう問題になりません。今回の特集記事からは、三洋銀行の名も成瀬頭取の個人名も削除させて頂きます」
と広田は言った。
「長谷部さんにはいろいろとご心配をお掛けしまして、申し訳ありません。改めてお詫びいたします」
広田はそうつけ加えると、丁重に頭を下げた。
「そうか、詫びるのか。それならばそれでよろしい。仲介した甲斐があった」
瀬川も嬉しそうに言う。
「広田さん、それから瀬川くん、有り難う。お二人のおかげでことなきを得ました。これで無事に株主総会を迎えられるでしょう。深く感謝しております。この通りです」
長谷部は両手を前に揃えて、深く、丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ」
広田もまた叩頭する。
「わかった、わかった。お詫びやお礼はこれで一切おしまい」
瀬川が陽気な声で言った。
三人共、ほっとした顔をしている。期せずして、表情が柔らかくなった。
「よし、まだ早い。これから何処かへ行こう。場所を変えようじゃないか?」
瀬川が提案する。
「きみも大丈夫だろう。仕事は部下に任せりゃあいい」
と広田に言う。
「ちょっと、あるにはあるんだが、まあ、何とかなる。電話を一本掛けさせて下さい」
と断って、広田は席を立った。
「すべて、きみのおかげだ。大いに恩にきるよ」
長谷部はもう一度、瀬川に頭を下げた。
「なあに、気にするな。こっちだって、またいつ世話になるかわからん」
瀬川は鷹揚に言い返した。
「ところで、何処へ行く。歌でも歌うか?」
「カラオケなら、六本木に銀行の仲間と時折行く店がある」
と長谷部は教えた。
瀬川は興味を示した。
「ほう、どんな店だね」
「なかなか感じのいい店だよ。客筋が良くて、店の中もきちんとしている。六本木にしては値段も安い。ママは美人だし、若い女の子も交代で何人か来ている。この中の一人は映画やテレビによく出る女優さんだよ」
と長谷部は説明する。
「それはまた、すばらしい店じゃないか? 何という店だね」
瀬川は少し身を乗り出した。
「『ぐうたら神宮』と言うんだ」
「『ぐうたら神宮』だって、ちょっと妙な屋号だな」
「屋号の由来までは知らないよ」
「まあいい、一度覚えたら絶対に忘れない屋号だね」
「同期に石倉克己という男がいてね。その石倉が見付けて、一人で時折通っていた店なんだ」
と長谷部は教えた。
「一人でね。なるほど、わかるような気がするよ。ストレス解消のためだな。その人物も重要なポストに就いている管理職だろう」
「そういうことだ。いまはメーカーに移って取締役になっている」
「とにかく、その店へ行こう。きみが案内してくれ」
と頼んだ。
「広田くんはそれでいいのかな?」
と長谷部は気にする。
「かまわんよ」
と瀬川はきめつけた。
そこへ広田が帰ってきた。
「行き先が決まった。六本木のカラオケバーだよ」
と瀬川が教えた。
「任せるよ」
と広田は応じた。
「出掛ける前に、ぼくも電話を一本入れなければならない。ちょっと失礼します」
長谷部はそうことわって二人に会釈して席を離れた。
エレベーターの近くに電話機があった。長谷部はカードを出して電話を掛けた。赤坂の料亭「若林」を呼び出し、成瀬頭取がまだ居るかどうかをたしかめた。
「電話を待っておられたようです。すぐおつなぎいたします」
仲居の声が答えた。
「お願いします」
と頼んで待った。
「長谷部くん、何処に居るんだね」
成瀬のやや急き込んだ声が聞こえてきた。
長谷部はホテル名を告げた。
「いま、バーラウンジにおりまして、先方の取締役出版局長と会っています」
「それで、週刊誌の方は?」
成瀬の声は緊張している。
「何とかなりそうです。いましがた、ようやくそこまで漕ぎつけました」
と報告する。
「何とかなるのか? ほんとうかね?」
疑ぐっている声だ。
「ほんとうです」
長谷部は短く応じた。
「そうか、大手柄だ。経過を聞かせてくれ。すぐこっちへ来られないか?」
と意気込む。
「これから、ご当人と仲介者の二人、いずれも学生時代の同級生ですが、彼等を六本木のカラオケバーへ連れて行って接待することになりました」
と教える。
「そうかね。大いにやってくれ。そのお二人にくれぐれもよろしく伝えてくれたまえ」
と調子が良い。
「二人を案内しておいて、二十分位でよろしければ抜け出しますが」
長谷部はくぎをさす。
「そうだな」
成瀬は少しだけ思案した。
「やはり、きみに会いたい。十五分でいい。抜け出してきてくれ」
と頼んだ。
「承知しました。これからすぐ移動します。二、三十分後にはお邪魔出来ると思いますが、それでよろしいですか」
とたしかめる。
「けっこうだ。待ってるよ」
機嫌の良い声が返ってきた。
長谷部は足早に席に帰った。
三人はすぐバーラウンジを出て、エレベーターホールへ向かう。
さいわい、一階正面のタクシー乗り場にも行列は出来ていない。三人は広田、瀬川、長谷部の順に後部座席に乗った。車は六本木界隈を目指した。
テレ朝通りを広尾方面へ向かい、旧テレビ朝日の脇を通り過ぎてまもなく、長谷部は窓外を注意深く見ながら、タクシーを止めた。
六階建てのビル全体がカラオケバーやスナックになっている。彼等の目指す「ぐうたら神宮」はそのビルの四階にあった。
先客は二組で、空席はまだかなりある。いつも混んでいる店なので、カウンターの席しかなかったりすると格好がつかない。長谷部はほっとした。
長谷部は広田と瀬川の二人を、ママに紹介した。
三十代後半の気さくな女性で、美貌を鼻にかけない。
広田も瀬川も満足げな顔付きで席に着いた。
「きみも早く頭取さんの所へ顔を出して、用件をすませて来た方がいい」
と瀬川が気を利かせて声を掛けた。
「どうぞ、遠慮しないで」
と広田も言う。
「有り難う。では失礼して行ってきます」
長谷部は頭を下げた。
「三十分位で帰る予定です」
とつけ加える。
「四十分でも、五十分でも、どうぞ。こっちは勝手に愉しくやっていますよ」
と瀬川が言ってくれた。
これでかなり気が楽になり、長谷部は店を出た。一階へ下り、反対側に渡ってタクシーに乗った。
ここから赤坂の料亭街までは近い。せいぜい車で五、六分というところだ。成瀬が約束通り十五分で解放してくれれば、三十分位で戻れる。
「若林」に着くと、すぐ部屋に通された。
「お酒は何になさいます」
と仲居が訊く。
「お酒はけっこうです。ほうじ茶の熱いのを一杯下さい」
と頼んだ。
仲居が引っ込むと、入れ違いに成瀬があらわれた。顔が桜色に染まっていた。相当飲んでいる様子である。
「きみの電話があってから、ほっとしたせいか急に酔いが廻ってきてね」
と嬉しそうに言う。
「それで、『サンデー・マガジン』にはうちの行名は出ないんだな」
と念を押す。
「もちろん、行名も出ませんし、頭取の個人名も出ません」
と長谷部は言いきった。
「そうか、有り難う」
成瀬は軽く頭を下げた。
「きみの大手柄だ。あの総務部長ではとてもこんな芸当は出来まい」
と言い添える。
「いえ、偶然です。たまたま同じ出版社に勤める友人がいて、その人物が取締役になっていました。こういう幸運に恵まれなければ、とても、こんなふうには」
「そう謙遜するな」
成瀬は眼を細めた。
酒の酔いも手伝っているのか、成瀬はいささか興奮気味だ。
「やはり、きみの働きだよ」
と断定する。
「偶然とか、幸運とか、たしかにそういうものが味方になってくれることはあるだろう。しかし、それだけではしっかりした、まともな仕事は出来ない。きみだって、そう思うだろう」
と同意を求める。
「はあ」
長谷部は頷いた。
「むしろ、偶然とか、幸運とかに左右されない仕事ほど、ほんものに近い」
と強調した。
長谷部はまた頷き返した。とくに異論はない。まして、反対するほどの意見ではなかった。
「それにしても、株主総会直前のいま、『危ない銀行』の特集に行名が出たり、私の個人名が出たりしたら、どうなったのか? 考えただけでも肌寒くなるよ」
と身を縮めるふりをする。
どうやら、これが本音であろう。
「ほんとうに、助かった」
と漏らして、溜め息をついた。
「株主総会が終わったら、役に立たん総務部長は交代させるが、きみも引き続き、よろしく頼むよ」
と依頼する。
「わかりました。微力ですが、出来るだけ頑張ります」
と答えて、長谷部は頭を下げた。
彼はこの後、成瀬に問われるままに、順を追って経過を説明した。
成瀬はいちいち感心して頷いた。それはよいのだが、とっくに十五分は過ぎた。
長谷部は腕時計を見るふりをした。注意を喚起したつもりだが、成瀬はまったく気付いておらず、時間のことなど気にしている気配もない。
「実は、こんなふうに今回、大変世話になりました友人を待たせておりますので」
と申し出た。
あえて言い出さなければ、二時間位は引き留められよう。
「そうだったな」
と成瀬は未練気に言う。
「よろしい。わかった。早く行きたまえ」
と今度は命令する。
「では、失礼いたします」
長谷部は叩頭して立ち上がった。
「そうだ。明日、昼食をいっしょにしよう」
と成瀬は提案した。
長谷部はタクシーを拾い、赤坂から六本木へ向かった。いつも混み合っている六本木の交差点も、今夜はさほどではない。半端な時間帯のせいであろう。
わずか五、六分で、瀬川と広田の待つ「ぐうたら神宮」に着いた。ドアを開けると、歌声が聞こえてきた。瀬川の声でも、広田の声でもない。店は先程より混んでいた。ほぼ満席に近い。
瀬川と広田は額を寄せて話し合っている。二人だけの話もあるだろう。長谷部が四、五十分席をはずしたのが、かえってよかったのかも知れない。
「どうも失礼しました」
長谷部は丁寧に頭を下げた。
「ごくろうさまでした」
と広田は会釈を返す。
「ずいぶん早かったじゃないの? どうだった? 頭取のご機嫌は?」
と瀬川が訊く。
「おかげさまで、上機嫌だったよ。ぺらぺらとよくしゃべってね。仕方なく、途中でカットして逃げ出してきた」
と報告する。
「そうか、よかった。これでひとまず終わったね」
瀬川は水割りのグラスをあげた。
「改めて乾杯しよう」
と提案する。
「どうも、ご迷惑をお掛けしました」
広田はいったん頭を下げてから、
「では、乾杯!」
と口に出した。
三人はそれぞれのグラスを合わせた。
「さあ、揃ったところで歌でも歌うか」
と瀬川が陽気な声で言う。
「申し訳ない。先にやっててくれればよかったんだが」
長谷部はすまなそうに言い添える。
「やはりね。三人で来たんだから、三人揃わないと元気が出ないよ」
と言いつつ、歌の本のページをめくり始めた。
三人は誰が最初に歌うかで、またひとしきり譲り合った。
「では、仕方がない。私が前座を勤めさせて頂きます」
瀬川が申し出た。
「上手な男が前座はないだろう」
広田がまぜ返す。
「まあ、まあ、とにかくスタートをきって貰いましょう」
長谷部はやや大仰に拍手をした。
瀬川は手で制しておいて、立ち上がった。
ほぼ同じ頃、松岡紀一郎は小森理花が予約した銀座のホテルにいた。
二人は午後七時に新橋で待ち合わせ、近くの小料理屋で和風の食事をすませた。その後、駅前にある高層ホテルの最上階に上り、バーラウンジでカクテルを二杯ほど飲んだ。
二人共、ほど良く飲んでいる。気分の良いほろ酔い加減といってよい。
「さあ、どうするか?」
と松岡は言った。
「ホテルまで送って下さるんでしょうね」
と理花は言う。
「それとも、泊まってゆく?」
と訊いた。
「泊まってゆくわけにはいかない」
と松岡はすぐに応じた。
「そうね。不意打ちですものね」
彼女は自分自身を納得させるような言い方をした。
しかし、これで行き先は決まった。
新橋から、理花が予約しておいた銀座七丁目あたりにあるシティホテルまでは、歩いてもせいぜい五、六分だ。
二人は歩いて銀座方面に向かう。
理花が松岡の腕に掴まろうとする。彼は軽く彼女の手を振り払った。
「いけない。このあたりでは目立ちすぎる」
彼ははっきりと理由を告げた。
「そうね」
彼女も納得した。
が、すぐに口を尖らせた。鼻の頭にも皺が寄っている。不満なのだ。
「ぷりぷりするな」
わざと乱暴に松岡は言った。
「その代わり、ホテルの部屋で二人きりになったら、すごいぞ。たっぷり可愛がってやるからな」
と耳許で囁く。
効果はてきめんであった。
「まあ!」
と声をあげて、彼女は顔を赤らめた。
予想以上の反応である。理花は若い娘ではない。博多でスナックバーを経営しているしたたかな中年女だ。けっしてわるい女ではなかったが、少なくとも、純情な女性とは言えないだろう。
こういう女が頬を赤らめたとなると、もうそれだけで稀少価値である。
松岡はそう思うと、気分が良くなった。酔いのせいか、気持ちもおおらかで放恣《ほうし》になっている。
しばらく会っていないのに、理花はいささかも老け込んではいない。むしろ、瑞々《みずみず》しい。快楽への欲求が強まってきた。
ホテルへ近付くと、二人は離れた。わざと別々にロビーに入って行く。理花が先に行き、フロントでキーを受け取る。
松岡はそ知らぬ顔してロビーをうろつく。理花がエレベーターホールへ向かうのを見て、自分もその方向へ歩いた。けっして慌てない。のんびりと移動する。
それに合わせるように、彼女も歩調を緩めた。けっして不自然ではない。こちらも馴れている。
エレベーターに乗ったのは五人だ。三階にレストランと、夜になるとバーラウンジになる喫茶ルームがある。三人がそこで下りた。
残ったのは彼等二人だけであった。それでも、用心した。二人は無言のままだ。
七階で理花が下りると、松岡はその後に従った。さいわい、廊下に人影はない。誰にも見|咎《とが》められずに部屋に入れた。
いったん室内に入り、キーを掛けると、二人共大胆になった。
二人はすぐ抱き合い、唇を合わせた。しばらくじっと動かない。
「シャワーを浴びよう」
と松岡は言う。
「ええ、いいわ」
と彼女も頷いた。
「いっしょに、どう」
と彼は誘った。
「厭だわ、あなたが先に浴びて」
はっきり拒絶する。
「オーケー」
彼は軽薄に応じて、照れ隠しなのかどうか、口笛を吹きながらさっさとシャワールームへ入って行った。
その間に、理花は着替えをした。引き出しに薄い浴衣が二枚ある。彼の分も出し、自分も浴衣姿になった。
「ああ、さっぱりした」
と言いながら、彼は五、六分で出てきた。
「きみも、どうぞ」
と気さくに言う。
「では、失礼します」
とことわって、彼女も入れ替わりにバスルームへ入った。
「ごゆっくり」
とその後ろ姿に言葉を掛けた。
少しばかり残っていた酔いが、いまのシャワーでどこかへ消え失せた。そんな気がする。ウイスキーの水割りを二杯位飲みたい気分だが、我慢した。
もうあまり若くない。飲みすぎると、これからの行為にさしさわる。そう思って、いったんは抑えたが、喉は乾いている。ビールならよかろうと勝手に決めた。
同じ頃、六本木のカラオケバー「ぐうたら神宮」にいる三人はまだ歌っていた。
瀬川、広田、長谷部の順で歌い、それが二ラウンドした。もっとも、店内は混み合っている。彼等の歌の間に他の客が入れた曲もあるので、そうすんなりとは順番が来ない。二ラウンド終わるのに、三十分以上掛かった。
「よおし、あと二ラウンドやろう」
と瀬川が威勢良く言う。
「それで、今夜はお開きにしようや」
と決めた。
「すると、四曲も歌うわけか?」
と広田がひるんだ。
「何を言う。すでに二曲歌っているじゃないか? あと二曲、そのくらいレパートリーはあるだろう」
とたしなめた。
「まあ、何とか」
「きみも取締役出版局長だろう。これはという歌を、五曲か六曲身につけておかないと仕事にならんよ」
と説教する。
「三曲あれば、いいんじゃないかな?」
と長谷部が助け舟を出す。
「三曲じゃいかん。いかにも少ない。げんに今夜は全員が四曲歌うんだから、たちまち、一曲不足してしまう」
としたり顔で言い張る。
「わかりました。練習します」
と広田は折れた。
「わかればよろしい」
と瀬川はご満悦だ。
すでにこの店に来て、水割りを四杯飲んでいる。中華料理店、ホテルのバーラウンジと、酒の種類を替えて、瀬川はかなりの量を飲んでいた。先程から、長谷部は少し気にしている。そろそろかなという気がしないでもなかったが、まだ二ラウンドある。その間に、もう一杯は飲むだろう。
だが、現実には次の二ラウンドは三十分どころか、一時間も掛かった。瀬川は水割りを一杯ではなく、二杯飲んだ。
二ラウンド目が終わったところで、長谷部はハイヤーを二台頼んだ。五、六分掛かるというので、瀬川にもう一曲だけ歌って貰うことにした。
「よう、メーンエベンター」
と広田がはやす。
「トリと言ってくれ、トリ」
と瀬川は口を尖らせた。
彼は気持ち良さそうに「マイウェイ」を歌い始めた。店内の他の客までが聴き入った。
三人全員が四ラウンド、即ち、四曲歌った後で、瀬川がトリでもう一曲やった。
さすがに、三人の内では瀬川が一番上手で、場馴れしていた。終わりにふさわしい力の入った朗々たる声で、「マイウェイ」を見事に歌いきった。
それをしおに、三人は立ち上がった。他の客たちの拍手を受けて、瀬川は気を良くし、照れ臭そうに手を振った。
一階へ下りると、ハイヤーが二台すでに来ていた。
先に広田、次いで瀬川を乗せた。
「有り難う。きみのおかげでほんとうに助かった。恩に着るよ」
長谷部は窓越しに瀬川の手を握って、改めて礼を言った。
「なあに、お互いさまだ。近くまたやろう。『ぐうたら神宮』いい店だね。気に入ったよ。じゃあ、おやすみ」
と上機嫌で言い返した。
ハイヤーが見えなくなると、長谷部は肩でひと息ついた。
「やれ、やれ」
と呟く。
今日もどうにか終わったとの思いがこみあげてきた。腕時計を見ると、十一時四十五分になっている。彼は単身赴任者だ。息子と二人暮らしのマンションに着く頃には、たぶん明日になる。また、午前様である。
長谷部は注意深く道路を横切り、反対側にわたって、タクシーを拾った。
同じ頃、松岡はベッドから出て、シャワールームへ急いだ。
そそくさとシャワーを浴びて、理花の体臭や香水、化粧品の匂いをすべて洗い流す。これを怠るとまずい。徹底的にやっておかないと女房に感付かれる恐れがあった。
予想通り、理花の豊満な肉体は松岡を魅了した。
久しぶりのせいもあって、すべてが新鮮だ。もの珍しさも手伝い、つい熱中した。
性行為への熱中はしばしば錯覚を招く。かりに欲望が強いだけであっても、実は、そうではなく、それだけ愛情が深いかのような気になる。投げやりで、不熱心な性行為はこの逆だ。相手はまるで愛の終わりを告げられていると思い込む。
無理もない。だが、錯覚はあくまでも錯覚だし、誤解は誤解だ。
今夜、松岡は理花のふくよかな裸身に熱中し、我を忘れた。彼女との性行為そのものに溺れたと言ってしまってもよい。
もちろん、この感触は間違いなく理花に伝わった。彼女は愛されていると感じた。
シャワーを浴びていても、松岡の躰はまだ火照っていた。
理花はまだベッドに横たわったままだ。
もう一度、彼女の肌に触れたいとさえ考えた。
松岡は彼女の方を見ないようにして、妄念を断ち切った。急いで下着を付ける。
ワイシャツを着て、きちんとネクタイも締めた。鏡の前に立って、前髪にも櫛を入れる。スーツをはおって、異常がないかどうかをたしかめた。
ベッドの方を見ると、理花は仰向けに横たわったまま眼を閉じていた。近付くと、かすかな寝息が聴こえた。
松岡はほっとした。これで、もうどうでもよいようなよけいな別れの挨拶をしなくてもすむ。手間が省けたと思った。
室内の電灯をさらに少し暗くする。黒革の鞄を右手に持ち、音を立てないように歩いて、左手でそっとドアを開けた。続いて、ゆっくりと注意深く閉めた。
廊下に人気はない。今度は一転して足を速める。エレベーターが来るのが遅い。
一階へ下降しながら、腕時計を見た。十二時十五分過ぎだ。すでに明日になっている。
「まあ、いいか」
と呟いた。
むしろ、思ったよりずっと早く帰途につけたような気がする。しかも、あれほどの快楽を得た。彼女も満足したのはたしかだ。
「まあ、いいさ」
もう一度、口に出す。
もともと、銀座七丁目界隈には、飲食店、クラブ、バーのたぐいが密集している。ネオンは相変わらずきらびやかだし、まだ人通りもけっこうあった。
松岡はホテルの前を離れ、三十メートルほど離れたところでタクシーを拾った。
自宅の町名を告げ、眼を閉じた。
つい先程、触れたばかりの、理花の色白で豊満な肉体がせまってきた。
「うっ」
思わず呻《うめ》いて、眼を開けた。
いけない、彼女の肌の記憶はしばらく遠ざけよう。そうおのれに言いきかせた。
タクシーは新橋を越え、賑やかな街から離れつつある。
取締役昇格を祝って、今夜はご馳走を作ると言っていた妻のことが思い出された。
わざわざ電話して、いったん、早く帰ると告げておきながら、今度は遅くなるとの連絡を入れもしなかった。妻はご馳走を作ったあげく、待ちぼうけをくわされ、怒っているだろう。俄かに、気が重くなった。
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第五章 総務部長
午前十時過ぎに、ようやく秘書課長から連絡が入った。
「頭取との昼食ですが、日本橋までご足労願います」
「日本橋?」
「はい、銀行の近くでは目立つとのことで日本橋のそば屋にしました。いま、そちらへ地図を届けます。十二時三十分ということで、五分位遅れるかも知れないが、よろしくとの伝言です」
すらすらと言う。
「わかりました」
と長谷部は答えた。
三分後、女性秘書が封筒を届けに来た。中に地図のコピーが入っている。見ると、さして遠くない。歩くことにした。
実は昨夜、赤坂の料亭で成瀬に昼食を誘われた。あの時は成瀬自身がいくらか興奮気味であった。その勢いのあげくの誘いである。今日になって熱が覚め、取り消しになるのではなかろうかと考えた。
九時を過ぎても秘書課長から連絡がない。やはりと思っていたところへ電話が入った。どうやら成瀬は約束を守るつもりだ。それだけ今回の処置に感謝しているのだろう。
十一時を少し過ぎた頃、内線電話が入った。松岡からである。
「どう、いっしょに昼食でも」
と気安く言う。
「残念ながら、先約があってね」
やんわりと断った。
「じゃあ、仕方がない。午後になってからちょっと寄るよ」
少し不満そうな口ぶりだ。
「どうぞ、たぶん二時以降は席にいる」
と教えた。
「さっき総務部長に話を聞いたんだが、大活躍だそうだな」
いくらか皮肉っぽく言った。
「総務部の危機というか、株主総会の危機というべきか、とにかく、危ないところを救ったそうじゃないか」
とくい下がる。
「妙ななりゆきでね。たまたまそうなっただけさ」
と長谷部は謙遜する。
彼自身、そうたいしたことだとは思っていない。瀬川、広田という線が無ければ、そんなにうまくゆく筈はなかった。
「役員昇格はいいが、総務部長を押し付けられる。なにしろ、時期が時期だからね。総会屋やその背後にいるもっと厄介な連中を相手にしなきゃならん。どうもついてないな」
と松岡はぼやいた。
たしかに、松岡紀一郎がぼやくのも無理はないという気がする。
総務部の仕事は何もなくて当たり前なのだ。反対に、何かあれば、すぐに担当者と部長の責任になる。
株主総会ひとつ例にとってもそう言える。せいぜい十五分か二十分で、参加者の拍手のうちに終わるのが理想的だ。それがいかにも形式的で、事なかれ主義の日本の株主総会なのである。
もし、何かあって長引いたり、紛糾したりすれば大変だ。事前の準備その他に遺漏があったことになり、直ちに総務部長が非難される。
総会屋への利益供与をめぐって、大手証券会社と大手銀行から大勢の逮捕者が出たばかりだ。その総会屋への窓口になっているのが、総務部であり、総務部長である。
しかも、この事件では、総会屋と銀行の上層部、会長や頭取との密接なつながりが明らかになった。こうなると、総務部長は単に橋渡し役を務めたにすぎず、その存在も軽くなってしまう。
おまけに、世間はこの問題に大きな関心を抱いている。企業が総会屋との関係をほんとうにたち切れるのかどうか、ことさら注目しているのだ。
「時期が時期だからね」
と松岡が言うのも無理はない。
役員への昇格を餌に、無理やりにとんだ役目を引き受けさせられる。おそらく、内心そう思っているのであろう。長谷部に対しては、つい本音が出たのだ。
言いかえると、松岡は一日過ぎて、かえって冷静になったと言える。昨日は取締役になれたのが、ただ嬉しかったし、周囲に対して得意でもあった。
それが今日になって、現実の厳しさに気付いた。俄かに不安になり、わるいくじを引き当てたような気分にもなった。たぶん、そんなところだ。昼食をいっしょにという申し出も、そういう忿懣をぶつけたかったからかも知れない。
長谷部は時間をみはからって席を立った。いくら場所がそば屋とはいえ、頭取と待ち合わせる以上、少しでも先に行っている必要がある。とにかく、待つのは自分で、成瀬頭取の方を待たせるわけにはいかない。
曇天だが、歩くと肌が汗ばむ。すでに夏型の気候になっていて湿気が強い。
長谷部は上衣を脱いで、左腕で抱えた。秘書課長が届けてくれた地図は正確であった。
「あ、お連れさんはもうお見えになってます」
店の仲居にそう言われて驚いた。
老舗のそば屋らしく、店は堂々たる構えである。二階が小料理屋風の座敷になっていて、長谷部はそちらへ案内された。
「遅れまして申し訳ありません」
と長谷部は詫びた。
「なに、まだ約束の時間になってはおらん」
成瀬は機嫌が良い。
「頭取をお待たせする気はなかったんですが」
と言い訳する。
「一つ会合があったんだが、抜けてきた。フランス料理のコースより、きみとそばでも食べた方が気分が良くなる。胃の消化もいいと思ってね」
と磊落に言う。
「恐れ入ります」
「そば懐石を頼んでおいた。それでいいだろう」
と念を押す。
「けっこうです」
「昼間から飲むわけにはいかんが、一杯ならよかろう。蒸し暑くて喉が乾いた。ビールで乾杯だ」
そう言って、仲居の運んできたビールを取り上げる。長谷部は慌てて手を出し、先に頭取の手にしたグラスを満たす。
二人は型どおりの乾杯をし、いっしょに喉をうるおした。
「不良債権の処理はじりじりと進んではいるが、そう簡単にはいかない。相変わらず流れ込みもある。これが総融資量の三パーセント以内におさまらない限り、総会屋のターゲットにされる。したがって、これからしばらくは総務部長の責任が重い時代になるよ」
と成瀬は言った。
「たしかに、その通りだと思います。株主代表訴訟の問題もありますし」
長谷部は答えた。
「頭が痛いね、その株主代表訴訟の問題は。敗訴にでもなれば、大変なことになる。ケースによっては役員個人が何億円もの返済をせまられることさえある。世の中が変わり始めた。まったく、ひどい話だ」
とぼやいた。
「これからはトップになるのはもちろん、役員にもなりたくないという人間が増えてくるような気がする」
とつけ加えた。
「経営者にとってはますます厳しい時代になりますね」
「まったくだ。きみも松岡くんも、いままで以上に気持ちを引き締めないと、やっていけなくなるよ」
成瀬は同情をこめて言った。
そば懐石とはいっても、普通の小料理屋の料理とあまり変わらない。ただ、材料にそば粉が多く使われているのであろう。
成瀬が選んだ店だけあって、味はなかなか良かった。座敷に入ってしまえば、他の客の顔も見なくてすむ。
二人は乾杯した後、ビールはもう飲まずに食事を始めた。
成瀬があえて長谷部を昼食に誘ったのは、週刊誌の記事差し止めに対するお礼ということになっている。成瀬自身がそれを口にしたので、長谷部もそう受け留めていた。
ところが、食事が進むにつれて趣が変わってきた。さすがというべきかどうか、成瀬には意図があった。
「昨夜のきみの報告を聞いているうちに少しばかり気になったことがあってね」
と成瀬は前置きした。
「『サンデー・マガジン』の取材記者がある人物から情報の提案を受けた。それをうのみにし、時間が無いため裏付けの取材をせずにあの記事をでっちあげた。きみの報告では、たしか、そうだったね」
とたしかめる。
「その通りです。出版局長ははっきりそれを認めました」
と長谷部は答えた。
「さいわい記事は取り下げになった。むろん、きみのおかげだが、それはそれとしてだ。問題は取材記者が接触した人物に絞られる。いったい誰が、何のためにそんな情報を流したのか?」
成瀬の表情はいくらか厳しくなった。
「実は、私もその点が気になっていました」
と長谷部は応じた。
「そうだろう。そこのところを見逃して手放しで喜ぶわけにはいかんよ」
左手で顎の先をなぜた。
「あの時は目の前の記事取り消しが先でしたから、私もわざと聞き流しておいたんです」
「そうか、さすがだ」
成瀬はにっこり笑った。
「すると、その先の問題もきみが調べてくれるね」
当然のように念を押す。
「わかりました。やってみます」
長谷部は請け合った。
「しかし、総務部長の守備範囲にいくらか首を突っ込むことになりますが、よろしいでしょうか?」
とたしかめた。
「かまわない。この件はきみに任せる」
成瀬はきっぱりと言いきった。
神谷真知子は石倉克己に会える日を、何となく愉しみにしていた。
その日は意外に早くやってきた。石倉から都合がついたとの連絡が入った。二つあった予定日の早い方がうまく空いたとの知らせである。
「それじゃ、愉しみにしてるよ」
と石倉も電話口で告げた。
単なる外交辞令かも知れないが、それでも気分がいい。
まだ辞令は出ていないが、長谷部に説得されて、近く広報課長のポストにつくことになっている。石倉が何と言うか、ぜひ聞きたいと思っていた。会った時のためにと、電話ではあえて打ち明けていない。
真知子は手際よく仕事を切り上げた。夕方になってずるずると時間を取られないように気をつけた。仕事は魔物だ。気を許し、油断をすると、すぐ七時、八時になる。
彼女は六時二十分には仕事をやめ、さっさと離席して、ぴたり六時三十分に銀行の巨大ビルの外に出た。といっても、このあたりは同じようなビルが乱立している。おまけに、そのまま地下通路に出て地下鉄の乗車口に向かうため、あまり実感はわかない。
待ち合わせは日比谷のホテルのバーラウンジだ。地下鉄で二駅である。この時間帯は車が混み合う。タクシーに乗ったりするとむしろ遅れる。七時の約束だが、十五分も早く着いた。余裕がある。ゆっくり化粧室に寄ってから、エレベーターホールへ向かう。
石倉の姿はまだなく、彼女は窓際の席に案内された。すでに陽は沈んでいたが、外はまだ明るい。夕方にはジントニックがいいと以前石倉が言っていたのを思い出した。
一人で暗くなってゆく窓外の景色をぼんやり眺めていると、軽く肩を叩かれた。すぐ脇に石倉が立っていた。
「同じものを」
とバーテンに頼んで、彼は左脇に坐った。
「久しぶりだね」
さらりと言う。相変わらず、颯爽《さつそう》としている。
「わたくしの方こそ、お世話になりっぱなしで、ごぶさたいたしました」
真知子は丁寧に頭を下げた。
「たいして世話をした覚えはないけど」
と石倉はとぼけた。
「あら、嘘ばっかり」と彼女は睨む真似をした。
「銀行の総合企画部の時も」
「あ、MOF担だな」
「そうですよ。それから」
「まだあったかな?」
「ニューヨークでも、お世話になりました」
真知子は真剣な表情で言いつのった。
石倉と真知子は三十分ほどバーラウンジにいて移動した。
二人共、ジントニックを一杯ずつ飲み終えたところで、相談がまとまった。
いったんホテルを出て銀座方面に向かう。ステーキとシーフードの鉄板焼の店へ行くことになった。
ニューヨークで日系人の経営する鉄板焼のステーキハウスへ行った記憶が俄かに甦ってきたからだ。二人で中華料理屋へも出掛けたが、大きな鉄板とその向こうにずらりと並んだお客さんを前にパフォーマンスをしながら、海老や肉を焼く白衣の料理人の巧妙で、かつ滑稽な手さばきに、思わず笑いがこみ上げてきて、あの時はしばし憂さを忘れた。共通の体験である。
二人共、期せずしてその時のことを思い出したのだ。どちらからともなく、「鉄板焼」という言葉が口をついて出た。こういう一致も取りたてて言うほどのことではないが、幸先の良さを示している。
石倉が案内したのは、銀座通りの手前にある三笠会館だ。一階は喫茶室だが、二階から上は順次イタリア料理、中華料理、日本料理、フランス料理、鉄板焼等々があって、いずれも味は定評がある。石倉はお客さんの接待によく使っているが、鉄板焼屋へはしばらく行っていないという。
「きみがまだニューヨークにいる間、ぼくがアメリカ出張から帰ってまもなく、鉄板焼のステーキを食べた。ここは松阪牛や神戸牛を使っている。だから、味は比較にならんくらいこちらの方が良い。それにキザなパフォーマンスもやっていない」
石倉は淡々と語る。
「したがって同じ鉄板焼でも、お店の飾り付けや雰囲気まで含めてかなり違う。似ているのは鉄板の上で肉や魚介類を焼くという点だけだ。にもかかわらず、三笠会館の店に来て肉を焼いて貰うと、きみのことが思い出されてね。かなりつらかったよ」
と告げた。
「それで、わたくしをニューヨークから東京に戻すように、長谷部さんに交渉して下さったのね」
と真知子は応じた。
「少しばかり、強引にやりすぎた。客観的に見ると、あの時、長谷部は相当呆れていたよ」
「まあ、そんなに」
「しかし、彼は昔からの親友だ。それもあって、ぼくの気持ちはわかってくれた」
「そうですわね。とても、羨ましい友情だと思います。松岡さんも含めた三人の男の友情、女のわたくしにもよくわかりますわ」
と真知子は言いつのった。
店内の雰囲気はなかなか良い。八分以上の入りで、けっこう混み合っているのに、がさつな感じがない。匂いも煙も殆ど苦にならず、落ち着いて食事が出来る。
「わたくし、このお店初めてです。知らなかったわ。迂闊でした。これでも、下の中華料理屋さんとイタリア料理店には何度も来ているんですよ」
真知子は少し口惜しそうに口を尖らせる。
石倉は彼女のそういう表情を可愛らしいと思った。もっとずっと見ていたい。しかし、残念ながら、彼女の口許の歪みはすぐに消えてしまった。
二人は伊勢海老と松阪牛のステーキのコースを選んだ。まわりには香ばしい匂いが満ち、食欲が刺激される。赤ワインを飲みながら、二人共よく食べた。
「実は、わたくしちょっとご相談したいことがありましたの」
と真知子は口をきった。
「つい最近のことなんですが、長谷部部長に呼ばれまして、広報課長を引き受けるようにと説得されたんです」
と訴える。
「ほう、広報課長ね」
と石倉は少し身を乗り出した。
「けっこうじゃないか、いまのきみにぴったりだよ」
即座に言った。
「ほんとうですか?」
と真知子は訊き返す。
「ほんとうだとも」
と石倉は強調する。
「ほんとうに、そう思います?」
「思うね」
と大きく頷いた。
「よかった。わたくし、もう承諾しちゃったんです。もし、石倉部長にこれはミスキャストだ。やめた方がよいと言われたら、どうしようかと思って、とても不安でした」
と言いつのる。
「なるほど、そうだったのか」
石倉はもう一度頷き返した。
「これは偶然の一致だが、今度のきみの考えといましがたのぼくの直感はぴたりと合ったことになるね」
と自信あり気につけ加える。
「嬉しいわ。偶然でも何でも、考え方が一致したなんて」
と言いながら、彼女は両手を合わせて胸許でぎゅっと握りしめた。
石倉はまぶしそうに真知子を見た。
石倉と真知子は三笠会館を出ると、タクシーに乗った。
赤坂へ移動したのだ。高層ホテルの最上階にあるバーラウンジで、もう一度飲みなおすことにした。
鉄板焼の食事が終わった時点で、石倉はちらりと腕時計を見た。真知子はそれを見ると笑顔を浮かべた。
「まだ早いですね」
とすかさず声を掛けた。
「そうだね。何処がいい?」
と石倉は訊いた。
「夜景のよく見える見晴らしの良い所」
と彼女は答えた。
そうなると、高層ホテルのバーラウンジが一番良さそうだ。新宿までは遠いので赤坂へ向かった。
男性ばかり、女性ばかりのグループもいたが、男女二人連れもかなり多い。夫婦や愛人同士もいるだろうが、石倉と真知子のように微妙な間柄の者もいるに違いない。
この二人、かつては上司と部下であった。しかも、石倉はただの上司ではない。彼女を抜擢した上司だ。おかげで、彼女は女性初のMOF担になり、行内外で注目の的になった。
真知子はこれにこたえた。期待された以上に、自分に課されたむずかしい役割を果たしたと言ってもよいだろう。
当時から、両者の間には信頼感があった。好意も抱き合っている。
石倉は頭脳明晰でシャープなのに、思いやりがある。仕事も良く出来るのに、けっして威張らない。上司としても、人間としても魅力的な男性だ。中年男なのに、清潔で身だしなみも良く、脂ぎった厭らしさがまったく無い。まわりの職場を見廻しても、こういう男性はむしろ珍しい。
稀少価値だとさえ言える。真知子は石倉をそんなふうに見ていた。
石倉の方はどう考えていたのか?
知的で負けず嫌いの女性だと思っていた。プライドが高く、そのプライドを傷つけさえしなければ、よく頑張る。頭が良く、能力もあるのだから、使い方さえ間違えなければ、大変な力を発揮する。
石倉のこの直感は当たっていた。MOF担になってからの彼女の活躍ぶりは、文字通り目立った。これは石倉の予想以上であったと言ってよい。
それだけではなかった。
──美しすぎる。
と彼は思っていた。いまもそう思っている。
ただ、二人共、お互いの考えを口に出して相手に伝えたことはなかった。
赤坂のホテルのバーラウンジは、ほどよく混んでいた。
やはり、圧倒的に二人連れが多いせいか、石倉と真知子のカップルもその中にまぎれ込み、かえってあまり目立たない。
二人は窓際に坐り、きらびやかなネオンの海と向かい合っている。いまではもうさして珍しい光景ではない。
「綺麗ですね」
と真知子は眼を細めた。単純にそう思ったのだ。
「たしかに」
と石倉も応じた。
そのまま、かなり長い間、二人共夜景を見ていた。どちらも黙っている。
「こんなふうにのんびり出来たの、しばらくぶりです」
真知子が口をきった。
「ぼくもいま、同じことを言おうと思ったところだ」
と石倉もすぐに応じた。
「まあ、ほんとうですか」
「ほんとうだ」
と強く肯定する。
「いま、仕事の方、お忙しいんですか?」
「かなりね」
と石倉は頷いた。
「銀行とはまた少し違う忙しさだね。総務と経理担当だから、似たところもあるにはある。その点に限れば、銀行での経験が役に立つよ」
とつけ加える。
「でも、お変わりになりませんね。あの頃とあまり変わっていませんよ」
と真知子は言う。
「それはどうかな?」
石倉は首をひねった。
「ずいぶん、老け込んでしまったような気がするけどね」
「そんなことはありません」
真知子は直ちに否定する。強い口調である。
「わたくしの方こそ、変わったでしょう。ほんとうのところ、ニューヨークではすっかり消耗して、疲れ果てました」
と訴える。
「あのニューヨーク行きはすまなかった。ぼくとしては、それこそよかれと思ってしたことだったが」
石倉はきまりわるそうに、後頭部を掻いた。
「あら、すみません」
真知子は慌てて頭を下げた。
「そんなつもりで言ったんじゃないんです。わたくしだって最初は張り切っていたんですから」
と言い添える。
「わかってる」
石倉は右手をあげて制した。
「石倉さんのせいではなく、すべてわたくしのせいです」
と真知子は言い張った。
石倉はゆっくり頷いた。
「いまとなっては、誰のせいとも言えないかも知れん」
「いえ、あれははっきりしています。わたくし自身のせいです」
と真知子は言い張った。
「そう自分を追いつめてはいけない」
石倉はきっぱりと言う。
「環境の違いは誰にでも大きな影響を与える。まして、東京とニューヨークでは相当違う。同じように活躍出来なかったからといって、悔やむことはない」
とつけ加えた。
「慰めて下さるのは有り難いんですが」
彼女は不満そうだ。
「ほんとうのところ、わたくし自身にもよくわからないんです。どうしてあんなに落ち込んだのか? むしろ、あの大都会に憧れて、愉しみにしていたのに、行ってみると、あまり時間が過ぎないうちに、どうして、ニューヨーク暮らしがあんなに厭で仕方なくなったのか? 正直なところ、わけがわかりません」
と言いつのる。
「不思議だね」
石倉は首をひねった。
「わたくしも不思議だと思います。でも、自分自身のことですから、不思議ではすまされない気もします。根性や自覚が足りなかったのかしら?」
と訴える。
「もし、あれがスランプだとしたら、その原因をしっかり見付けて、断固、取り除かない限り、またいつ同じような状況に陥るか? わかったものではありません」
言って、両の掌を胸の前で合わせた。
「あまり気にしない方がいい。もうすんだことだから」
と石倉は忠告した。
「深刻に考えると、かえって本質を見失う。のんびりかまえているうちに、あんがい、なんだ、こんなことだったのかと思い当たるかも知れないじゃないか?」
わざと磊落に言う。
「ごめんなさい。こんなことを言って? せっかくの夜景がだいなしだわ」
と彼女は詫びた。
「もう懲りたでしょう、いっしょに夜景を見るのは」
「とんでもない。きみといっしょなら、いつでも、どんな夜景でも歓迎だ」
石倉は明るい声で言った。
「そう言えば、世界三大夜景があったね。ナポリ、ホンコン、リオ・ディジャネイロだ。三つともきみといっしょに見たいね」
「リオ・ディジャネイロ?」
言った瞬間、真知子の表情が曇った。
石倉は後悔した。
「しまった」
と顔をしかめた。すぐに思い当たったのだ。
真知子にとって、「リオ・ディジャネイロ」は禁句であった。石倉はそれを承知していた。承知していながら、すっかり忘れ、つい口をすべらせた。
「いや、ぼくがわるかった。よけいなことを思い出させた。許してくれたまえ。この通りだ」
石倉は深く頭を下げた。
「とんでもない。許すも許さないもありません。わたくしが勝手にこだわっていたんです。あれから、もうずいぶん月日が過ぎたのに」
真知子はそう言うと、少し眼を細めて改めて眼前の夜景を見た。
石倉にはその眼ざしが、いくらか奇異に感じられた。
彼女は眼の前の、東京赤坂の夜景を見ているのではない。遠く離れた、地球の反対側の風光|明媚《めいび》な大観光地、あのブラジルの「リオ・ディジャネイロ」のコパカバーナの夜景を見ているのだ。そんな気がしてきた。
石倉は左の掌を、そっと真知子の眼の位置へ持っていった。掌で、彼女の両の眼をふさぐかたちになる。
それでも、彼女は身じろぎもしない。思った通りだ。真知子は眼前の夜景を見ていたわけではなかった。眼を開けてはいても、これでは閉じているのと同じである。
彼女の瞼の奥に、あるいはまた心の奥に焼きついている光景、まさに、リオ・ディジャネイロの夜景を見ているのだ。しかも、じっと飽きずに見続けていた。
石倉は迷った、このまま真知子に幻影を見させておいてよいものか?
彼女が見たいのであれば、仕方がない。この際、いつまでも見させてやろう。そういう思いもある。が、正反対の考えも生じた。
というのも、彼女にとってリオの光景はタブーの一種なのだ。出来れば見ない方がよく、まして、思い出すべきではない。
となれば、やはり、遮断すべきだ。断固として遮るべきではあるまいか?
彼は心を決めた。両手を同時に彼女の肩に置いた。そして、揺すった。
「ああ!」
という声が彼女の口から漏れた。
「大丈夫ですか?」
石倉は声を掛けた。
両の手に力をこめて、そのまま抱き寄せたい衝動にかられたが、それにはかろうじて耐えた。
「あら、わたくし、どうしたんでしょう」
真知子は怪訝な表情をした。
石倉は答えをためらった。正直に、「リオ・ディジャネイロ」の夜景を見ていたんでしょうなどと言えば、たぶん、真知子を傷つけることになる。
といって、何も言わないのもおかしい。
「よくわからないんですけど」
と彼女はためらいがちに言う。
「一瞬、うとうとっとなさったような感じでした」
いかにも、無難な言い方だ。
「まあ、わたくし、眠り込んだんですか?」
と彼女は真剣に訊く。
「さあ、眠り込んだと言えるかどうか?」
曖昧な答えになった。
ほんとうは石倉にも、正確なところはわからなかったのだ。
「気を失ったわけじゃないでしょうね」
と彼女はたしかめる。
「そんなことはありません。ちゃんとぼくが見ていましたから」
「何か、ご迷惑をお掛けしませんでした?」
心配そうな声だ。
「何も」
石倉は首を振った。
「よかった。でも、何だか変ですわ。急に酔ったのかしら?」
腑に落ちない顔付きである。
「さあ、どうでしょう。ご自分では飲みすぎた感じですか?」
彼の方が訊いた。
「そんなことはありません。躰はしゃんとしています」
しっかりした答えが返ってきた。
「じゃあ大丈夫でしょう。もう一杯飲みますか?」
「いえ、もうやめにしておきます」
と断った。
「では、おたくまでタクシーで送りましょう。何となく心配ですから」
と石倉は申し出た。
「車に乗せて下されば平気です。ここから近いので」
「たしか、西麻布でしたね」
「はい」
「いくら近くても、マンションに着くまでは心配です。送らせて下さい」
そう言うと石倉は立ち上がった。
真知子もつられて立つ。少し躰がふらついた。すぐ石倉が腕をさし出してくれた。彼女はしっかり掴まった。
たしかに、西麻布まではあまり遠くはない。それでも六本木の交差点で車の渋滞に掴まったため、タクシーで六、七分掛かった。
真知子はマンションの自室502号室に着いてから、石倉を部屋に誘わなかったのを悔やんだ。窓の外を見ると、石倉を乗せたタクシーが走り去るところであった。
株主総会が近付いてきた。
最近は金融機関の株主総会は年一回で、六月下旬に集中している。
以前は年に二度、三月末と九月末に決算をしたため、株主総会も年に二回あった。一回に減って、ほっとした経営者が多い。
ある銀行の頭取はこう述懐している。
「株主総会の終わった後、形式だけの取締役会を早々に終え、その後で飲む一杯のビールほど美味いものはない」
たしかに、多くの企業トップがほぼ同じ感想を抱いている。経営者にとって、株主総会はそれほど気が重いものなのだ。
株主総会そのものが形骸化し、総会屋が関与するようになってから、こういう結果になったのであろう。欧米では、経営者と株主がじっくり意見交換する場になっている。したがって、かなり長時間になるのが普通で、軽食やコーヒーも出る。
攻撃する者と防禦する者というような対立した関係にはならず、親密な雰囲気の中で話し合いがおこなわれる。これなら意味がある。もともと、株主と経営者が対立するのはおかしい。何故か、日本だけが歪められたかたちになってしまったと言えよう。
もっとも、総務部長を始めとして、総務部関係者たちは、欧米がどうのこうのというような暢気なことを言ってはいられない。彼等にとっては現実の問題だ。日本の現状を踏まえて対処しなければならない。
対処の方法を誤り、失敗すれば責任問題になる。理想的には十五分か二十分、長引いても三十分以内に終わる。これが原則である。原則内であれば、担当者は誉められる。大勢の人から、ごくろうさま、大変でしたね、と労をねぎらって貰える。
しかし、そうではない場合、悲惨である。事前の準備不足や対応のわるさ、詰めの甘さを責められる。あげくに、責任問題にまで発展する。
松岡紀一郎はまだ総務部長にはなっていない。株主総会終了後の取締役会で、新任の取締役に選出され、総務部長を委嘱される予定である。あくまでも予定だ。そのため、株主総会では取締役候補として紹介される。
もし、この時、株主の誰かが立ち上がって大きな声をあげたら、どうなるのか?
「新任取締役候補者、松岡紀一郎の取締役就任に異議あり。直ちに本議案の撤回を申し入れます」
とでも発言されたら、大問題になる。
「ご異議の理由はなんですか?」
議長はそう質問せざるを得ない。
この場合の議長は、代表取締役頭取、即ち、成瀬昌之である。
こんな質問がとんできたら、成瀬はぎくりとするだろう。もちろん、それだけではない。松岡紀一郎を取締役に選んだことを後悔する。そうに決まっている。
「異議の理由を申し上げます」
と質問者は胸を張る。
「松岡紀一郎の女性問題であります。この人物は日頃から、いわゆる女癖がわるく、周囲に大きな迷惑を掛けておりながら、いっこうに反省の色がありません。支店長として福岡支店在任中にも、博多のカラオケバーのマダムと良い仲になり、その女性は本総会直前に上京してきたのであります」
もし、こんなふうに言われたら、それだけで松岡の信用は失墜する。
それはもう明らかなことだ。取締役就任をさまたげられるだけではなく、以後、銀行にもいられなくなるだろう。
松岡は前任の総務部長との間で引き継ぎを進めながら、日本式の株主総会についても勉強した。そのあげく、こういう事態がけっしてあり得ないことではない事実に気付いたのだ。何となく肌寒くなった。
「これは」
と松岡は思わず吐息をついた。
「えらいことになりかねない」
と呟いて、俄かに不安にかられた。
身に覚えのないことならともかく、彼にとって女性問題は、まだ記憶に新しい、かなり生々しい出来事なのである。
「やれ、やれ」
もう一度、吐息をつく。
こんな状況で、取締役になり、総務部長など引き受けてよいものだろうかとの疑問まで、ちらりと頭をかすめた。
折も折、招かざる客から電話が入った。
「やあ、松岡くん、元気かね?」
と相手は言った。
「わたしだよ。困るね。すぐにぴんとこないようじゃ」
と詰る。
「はい、松岡でございますが」
と応じたが、何となく不吉な予感が閃《ひらめ》いて不安になった。
後になって、彼はこの時の予感が当たったのを知る。
が、この時はまだすべてがあまりにも漠然としていた。何処かで聞いた声であるのはたしかだが、まだはっきりと相手の名前もわかっていない。
若い声ではなかった。中年男の声というより、むしろ、老人の声に近い。となると、もしや、と思った。
もしや、がいつも当たるとは限らない。が、ぴたりと的中することもある。
「どうだね。わたしだよ。まだ、わからないのかね?」
多少苛立ちを含んだ声でおよその見当がついた。
「わかってますよ」
と松岡は勝ち誇ったように言う。
「しかし、あまり良い趣味ではありませんね。わざとお名前を言わずに、当てさせようとするなんて」
やんわり詰った。
「クイズばやりの世の中だからね」
やや得意気に言った。
「福岡支店時代はわざわざ東京から何度も来て頂き、大変お世話になりました」
松岡はいくらか皮肉っぽい口調で、わざと丁寧に礼を言う。
「いや、こちらこそ、海の料理の美味い料亭でご馳走になったね」
相手は皮肉と受け取らずに、むしろ、なつかしそうに言った。
一瞬、松岡は引きずられそうになったが、はっと気付いて、急いで手綱を引き締めた。
「危ない、危ない」
口には出さずに用心する。
「勝田さん、いったいどういう風の吹き廻しですか?」
いくらか口調を変えた。
この忙しいのに、いつまでものんびりと相手はしていられない。暗にそうほのめかしたのである。
勝田忠は前副頭取であった。しかも、現頭取成瀬昌之の上にいた筆頭副頭取だ。
前頭取杉本富士雄の忠実な部下で、腰ぎんちゃく的な存在と言えた。年齢も杉本に近く、旧態然とした考えの持ち主である。人柄はそうわるくはないが、いまだに杉本の言いなりになっていた。
富桑銀行との強引な合併工作に失敗し、世間に恥を晒《さら》した結果になった。合併反対派のトップにいた成瀬が有利な地位を占め、新頭取に就任するに及んで、責任を取ったかたちで、杉本富士雄と共に引退した。
杉本、勝田共にこの処遇に不満であったから、現実は成瀬によって引退に追い込まれたと言ってもよいだろう。これが約二年前の出来事である。さして古い話ではない。
当然、二人共恨みを持った。成瀬昌之及びその配下の新政権に対しての恨みである。両者共、まだ元気で意気盛んだ。老人があまり元気だと、何かと問題が起こる。
左遷されたと考えて腐っていた福岡支店長時代、松岡は危うく彼等に利用され掛かった。
あの時も、まず勝田忠が接触してきた。博多まで来たと言って姿を見せた。
その夜、松岡が地元の料亭で一席設けてもてなそうとすると、実は、杉本富士雄も近くに来ていると告げていっしょにあらわれた。松岡に断るタイミングを掴ませない。見事といってよい。
松岡の方は結局、二人を招待するはめになった。なにしろ、前頭取と副頭取である。押し掛けられて、支店長が拒絶出来る相手ではない。おまけに、後になって、この事実を成瀬に知られてしまった。
これが、役員への昇格が遅れた大きな理由になっている。新頭取になったばかりの成瀬から忠誠心を疑われたのだ。後日、成瀬自身の口からはっきりと、そう告げられたのだから間違いはない。
こうした過去の、不愉快な出来事が脳裏をかすめた。あまり思い出したくない事柄だといえよう。あんなことがなければ、もっと早く取締役になれたとの思いも強い。
「いろいろと噂を聞いてね」
と勝田は思わせぶりに言う。
「噂? いったいどんな噂です」
と松岡は訊いた。
「きみにまつわる噂だよ」
ずばりと言った。
「私に?」
松岡はぎくりとした。
表情が引き締まり、額に皺が寄る。いくらかだが、喉に乾きさえ覚えた。
「安心したまえ。いい噂だよ」
気配を察したのか、勝田は急いでつけ加えた。
「いい噂?」
「そう、きみの取締役昇格の噂だ。われわれにとってはまだ噂の段階だが、きみにはもうわかっている筈だ。どうだね? 事実だろう。この噂は?」
とたしかめた。
「おっしゃる通りです」
と松岡は認めた。肩でほっと息をつく。
「さすがですねえ。お耳が早い」
すかさず誉めた。
「そうでもないよ、だがね。近頃は情報が自然に入ってくる。不思議だよ」
勝田は余裕を見せた。
──嘘をつけ。大きく出たな。ほんとうは何とか情報を取ろうとして、焦り、苛立ち、気もそぞろになっているくせに。
松岡は受話器を握りながら、にんまりと笑った。自分でももう立ち直っているのがわかる。
「それはすごいですね。大物の証拠ですよ」
松岡は感じ入ったふりをした。
勝田は満足したようだ。「大物の証拠だ」と持ち上げられて、たちまち気をよくしている。
根本的に人が良いのかどうかはともかく、結果として、こういう人物は御しやすい。おだてられると、すぐ図に乗って用心を忘れる。
松岡はそう思うと、何となく自分の方が優位に立ったような気がしてきた。すると、気持ちに余裕が出来て、気分も落ち着いた。
「とにかく、きみにひとことおめでとうと言いたくてね」
勝田は殊勝な言い方をした。
「それはどうも有り難うございます」
松岡は礼を言った。
「思えば、長かったなあ」
「は?」
「きみの歩み、取締役になるまでの道程だよ。きみほどの実力があれば、もっと早く役員になってもよかった筈だ。いまにして、つくづくそう思うね。しかし、よかった。ほんとうにおめでとう」
と勝田は言い添えた。
彼の口調にはかなりの暖か味が感じられる。それは松岡にも伝わった。
「ところで、ぜひ会いたいね。お祝いもしなくちゃならん。きみには何度もご馳走になっている。今度はわたしの方で一席持ちましょう。どうですか?」
と誘いを掛けてきた。
別に不自然なところはない。先輩の言葉としてはすごく普通だ。むしろ、警戒する方がおかしい。どうかしている。そう思えてくる。
「私の方こそよろしくお願いします。役員として生き残るこつを教えて下さい」
と松岡は頼んだ。
「わかった。内緒で、そっと耳うちしよう」
と勝田は承知した。
二人は日時の打ち合わせを始めた。松岡は手帳を出す。場所は勝田に任せた。
「決めたら、きみ宛にファックスを入れよう。愉しみにしてるよ」
勝田は上機嫌で電話をきった。
受話器を置いてしばらくしてから、勝田が杉本富士雄のことをひとことも言わなかったのに気付いた。この二人はもともと、頭取と副頭取で、長年にわたって君臨し、きってもきれない名コンビと言われた仲である。
最近の杉本はどうしているのか? こちらから率先して、近況を尋ねるべきではなかったか?
そう考えてから、はたと思いついた。
「まさか?」
と口に出した。
勝田は今回もまた、前回と同じように不意打ちをくわせるつもりなのではなかろうか?
勝田は例によって、事前に杉本についてはまったく触れず、いざ蓋を開けてみると、当の杉本が当然のように顔を出す。
これには周囲が唖然とするが、杉本と勝田は当たり前のような顔をしている。不意打ちだとも、何とも思っていないのだ。
今度もその方法《て》では、と松岡が考えたのも、あながち見当違いとは言えまい。
となると、日時を決めたのは迂闊であったかも知れない。ただ、問題の日時は株主総会終了後数日をへてからである。この時には、松岡は正式に取締役総務部長になっている。したがって、妨害されるようなことはなかろう。げんに、勝田自身がお祝いの言葉を述べてくれた。
「まあ、いいか」
と松岡は呟いた。
彼はすでに総務部長との間で引き継ぎを始めている。株主総会のリハーサルにも出席した。総会屋担当の特別調査役にも会って、暗躍する総会屋たちに対する対策も含めて、最近の事情について聞いた。
突っ込めば突っ込むほど、奥が深い。「総務部長」という仕事のむずかしさ、重要さがわかってきて、身が引き締まるような思いが強まってくる。
──これは大変なことになった。
との実感がこみあげてきた。
現在の総務部長は常務取締役である。成瀬頭取に役立たずときめつけられ、今期限りで退任する。
もともと向こう気が強く、自信過剰気味の松岡なのに、何となく不安を感じている。
ひとつには近頃の世の中の風潮のせいでもあった。日本を代表する大手証券や大手銀行の役員や幹部社員たちが、総会屋への利益供与問題で背任罪に問われ、十数人も逮捕されていた。
このケースでも、中心になっているのは総務部員であり、総務部担当の役員である。総務部が総会屋の窓口になっているのだから、どうしても接触することになる。仕方がないと言えばそれまでだが、たまたま人事異動でこのセクションに来た社員や行員たちにしてみれば、不運としか言いようがなかろう。
大手証券会社では、最初に逮捕された幹部社員二名を懲戒免職にした。責任をはっきりさせたことになるが、それはあくまでもタテマエである。本来なら、こういう場合、退職金は没収だが、事情を勘案して今回は支給された。
それにしても、これでは割に合わない。この二人は末端の単なる手足にすぎず、責任を押し付けられるいわれはないのだ。
総会屋はもっと上層部とつながっており、総務部員の首をすげ変えるぐらいの力を持っている。それどころか、総務部長の首だって危ない。
総会屋にこんな力を与えてしまったのは、いったい誰なのか?
一番悪いのは当の総会屋だ。こういう悪辣《あくらつ》な連中の本質を知っていながら、彼等を人間のクズ扱いせず、対等に付き合って図に乗せたのは、いったい誰なのか?
総会屋に区別をつけ、与党とか野党とか色分けし、裏で彼等が手を握り、固く結託しているのを知ってか知らずか、与党派に野党派を押さえ込ませようと画策し、まんまと裏をかかれたのは誰か?
マッチポンプが彼等の常道なのに、上手に乗せられて、多額の利益供与を決めたのは、いったい誰か?
それにしても、こうした悪質な総会屋への罰則、主として経済犯罪者に対する罰則が、あまりにも軽すぎる。これでは、出来心を起こす者が後を断たない。
松岡がオブザーバーのかたちで総務部の部内会議に出席してみると、総会屋に対する処罰の軽さが話題になった。
「彼等が詐取した金額によって、無期懲役や死刑を適用するというのはどうでしょう」
と次長の一人が言う。
「いったい、いくらせしめたら死刑になるんだね」
と副部長が訊く。
「われわれの庶民感覚としては、十億円ですね。十億円以上|騙《だま》し取った者は原則として死刑ではどうでしょう」
と提案する。
「十億円ね。たしかに、われわれにとっては大金だが、連中にとってはその程度じゃはした金だよ」
「法律は庶民の味方の筈でしょう。それなら、われわれの金銭感覚に従うべきです」
くだんの次長はきっぱりと言う。
「じゃあ、総額五百億円もせしめた最近の総会屋はどうなるんだね?」
と副部長がやけ気味に尋ねる。
「当人の死刑だけでは足りませんね。一族はもとより、妻子や孫まで罪に問うべきでしょう」
次長は胸を張って答えた。
「厳しいね」
「それくらい厳しくなければ、総会屋を全滅させるわけにはいきませんよ」
「たしかに、その通りです。早急に法律改正のない現状のままでは、われわれはまともな仕事が出来ません」
別の次長がきっぱりと言った。
松岡紀一郎はあくまでもオブザーバーとして出席していただけである。したがって、わざとひと言も発言しなかった。あえてそうしたのだ。
こうして、黙って総務部員たちの意見を聞いていると、たしかにその通りだという気がする。だが、新部長の松岡の立場に立ってみれば、いちいちごもっともとばかり言ってもいられない。
総会屋を筆頭にして、数ある経済犯罪の罰則が総じて軽いのは、誰が考えてもはっきりしている。松岡とて同じ考えだ。しかし、遺憾ながら、法律改正はそう簡単には進まない。これもまた事実である。
松岡としては、現状のままで総務全般の仕事をこなさなければならない。それが「総務部長」の役目だ。
会議室を出ると、ほっとした。せいぜい一時間位なのに珍しく肩が凝った。
「やれ、やれ」
と呟きながら、首を左右に廻す。
もちろん、その程度では何の効果もない。それでも気休めのつもりか、彼は何度も同じ動作を繰り返しながら廊下を歩いた。
自席をさけ、総合企画部へ向かった。長谷部敏正の顔を見に行こうと考えたのだ。何故か、とっさにそう思った。長谷部はいつでも元気だ。誠実で、やる気十分である。あの男の顔を見れば、いくらか勇気づけられるかも知れない。そんな気がしたのだ。
さいわい、長谷部は自席にいた。下を向いて熱心に書類を点検している。近付くまで気付かなかった。
「相変わらず、ご精が出ますなあ」
松岡の方が先に声を掛けた。
「やあ」
長谷部は顔を上げると、目礼する。
いつもながら、この男は仲間に対しても礼儀正しい。
「ちょっと十五分位どうかな?」
と松岡は訊いた。
「けっこうですよ」
長谷部は書類を伏せて立ち上がった。
二人は近くの応接室へ移動した。
「コーヒーでもいかがですか?」
「胃の具合が変でね。出来れば、アイスティーを貰いたいよ」
と松岡は応じた。
長谷部は引き返して、女子行員に頼んだ。
「あまり顔色が冴えないね」
と長谷部が心配そうに言う。
「そうか? わかるか?」
「何かあったのか?」
「いや、とくにない。原因は責任感だよ」
松岡は事実を告げた。
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第六章 回転台
長谷部は松岡がかなり神経質になっているのを感じた。無理もない。自分でも、身に覚えがあった。彼は、期せずして、取締役就任直前のことを思い出したのだ。
松岡のように、一見いけ図々しい人物でも、どうやら内心では相当心配しているらしいと思うと何となくほっとした。かえってほほえましい思いさえこみあげてくる。やはり、松岡も人の子だなと思えてきた。
それにしても、眼の前の松岡の表情は冴えない。いつもとずいぶん違う。
「どこか身体の調子でもわるいのかね?」
と長谷部は訊いた。
あえてそう尋ねざるを得ないような雰囲気になった。
「ちょっと胃の調子がよくない。身体の方はその程度だよ」
と松岡は答えた。
「それにしては元気がないな。あまりいつもの松岡らしくないぞ」
長谷部は少し顔をしかめた。だんだん気掛かりになってきた。
「取締役にして頂けるのは有り難いが、どうも『総務部長』というポストがね」
松岡は低い声で言う。
「ほう、気に入らないというわけ?」
「そうはっきりは言えんよ。とくに頭取に対しては。ただ、ちょっとね。引っ掛かる」
と言い淀む。
「ちょっと、どう引っ掛かるのかね?」
長谷部は追及した。
「業務関連ならもともとやってきたことだ。大いに自信があるんだが、総務部となるとどうも」
と首をひねる。
「なんだ。そんなことか?」
長谷部はつまらなそうに、わざと大仰にぷいと横を向いた。
「おい、おい。それはなかろう」
松岡は口を尖らせた。
「冷たいじゃないか? まるで問題にならんと言わんばかりの態度だぞ」
と詰った。
かっときたのか、松岡の表情にうっすらと赤味がさした。
「怒ったのか?」
と長谷部はたしかめる。
「怒りはせんが、いささか憤慨したのさ」
「同じことだ。どうりで、すっかり顔色が良くなったぞ」
「こいつ」
松岡は苦笑し、睨む真似をする。
「改めて言うまでもないが、銀行の仕事というのは何であろうと同じさ。根っこのところで、すべてつながっている。業務部ならオーケーで総務部はダメだなんて話にならん」
長谷部はぴしりときめつけた。
松岡は納得しがたい顔付きをしていたが、それでもいくらか元気になって応接室を出て行った。
長谷部が彼の弱音にまったく同調せず、突っ放してハッパをかけたせいである。長谷部としては松岡の性格を考慮に入れて逆療法に出た。それが功を奏したと言える。
長谷部は自席に戻ると、しばらく考え込んだ。もう松岡のことは念頭にない。彼は別のことを考えていた。
はっきり調査すると成瀬頭取に約束した。週刊誌「サンデー・マガジン」に三洋銀行を誹謗《ひぼう》する記事を提供しようとして、取材記者と会った人物、それが誰であるかを突き止めねばならない。
やはり、ここは広田に頼むほかなかった。前回は広田と仲の良い瀬川を引っ張り出した。今度もまた瀬川に頼むのでは、あまりにもだらしがなさすぎる。
「またいつでも、遠慮しないでぼくを呼び出してくれていいよ」
と瀬川は言ってくれた。
だが、それは商社マンらしい外交辞令であろう。何事にも限度はある。親友だからといって、甘えてはならない。
広田とは学生時代以来会っていなかったが、いったん顔を合わせてしまえば、わだかまりはなくなる。事実、出会ってみてとくに違和感は覚えていない。
長谷部は意を決して、広田の名刺を取り出した。電話機を取り上げ、直通番号をプッシュする。
「広田さんですか?」
「そうです」
やや素っ気ない声が聞こえてきた。
掴まえたと思うと、ほっとする。長谷部はまず挨拶し、丁寧に先夜の礼を言ってから、すぐ用件に入った。といっても、電話口で聞けることではない。
「ちょっとご相談したいことがありまして、お目に掛かりたいんですが」
と正直に言った。
「お急ぎですか?」
と広田は訊いた。
「出来れば」
と応じて、長谷部は手帳をひろげた。
「時間はなるべくそちらにお合わせします。会社の方にお邪魔させて頂いてよろしければ、それでもけっこうですし、あるいは近くの喫茶店か何処か、ご指定の場所へ出向きます」
とつけ加えた。
「瀬川くんは誘わなくていいですね」
と広田の方が訊いてきた。
「いちいち彼を呼び出すのも申し訳ないので、今回は二人だけでいかがでしょう」
と長谷部は突っ込んだ。
広田も賛成した。
「それもそうですね。瀬川くんも気がいいから付き合ってはくれますが、あれで迷惑しているのかも知れません」
と言い添えた。
「では、そういうことにして、何とか今週中にお願い出来ないでしょうか?」
と長谷部は頼んだ。
「わかりました。明後日のお昼はいかがですか? 昼食をごいっしょに出来れば」
と広田は提案する。
長谷部はすぐ手帳に目を落とした。さいわい空いている。
「けっこうです。どちらへうかがえばよろしいでしょうか?」
と尋ねた。
広田はホテル名を告げた。
ちょうど、彼の出版社と銀行の中間あたりにある一流ホテル内のレストランだ。どうやら広田の方も気を遣っている。
「承知しました。十二時ちょうどでよろしいですか?」
「はい、お待ちしています」
と広田は答えた。
受話器を置くと、長谷部は手帳に明後日正午の予定を記入した。
そこへ電話が掛かってきた。
取り上げると、瀬川の声が聞こえる。いささかあっけにとられた。
長谷部は迷った。広田との会食を告げてよいものかどうか?
もちろん、秘密にする気はない。それに瀬川と広田は仲が良い。しばしば会っている。となると、隠してもすぐにわかってしまうだろう。わかれば、気まずくなる。長谷部は打ち明けることにした。
「何だって? 明後日の正午、ホテルのレストランでいっしょに昼食だって? ぼく抜きでかい。それはないだろう」
瀬川は憤慨して言いつのる。
「だからさ」
と前置きして、長谷部は説明した。
だが、瀬川はろくに聞いていない。
「だからもへちまもなかろう。まったく、けしからん」
と怒っている。
「わかった。じゃあ、きみも入れよう。ただし、広田くんが反対した場合は困るよ」
と念を押す。
「大丈夫、広田が反対するわけはない」
あっさりきめつけた。
「いいかね? ぼくは広田くんに用があって会うんだからな。遊びじゃないんだよ」
長谷部もむきになった。
瀬川はいっこうに動じない。
「用件があるなら食事の最中にすませればいい。ぼくには何も聞こえなかった。そういうことでよかろう」
さっさと決めた。
「そこまで言われちゃ、これはもう承諾せざるを得ないね」
長谷部は折れた。
「わるいね。ところで、今度、勘定は誰が持つんだね」
と訊く。
「広田くんに申し込んだのは私だからね。当然、私の方で支払いたい」
と長谷部は答えた。
「この前のことがあるからね。広田が払おうとするだろう」
「それは困るよ」
「まあ、いいじゃないか?」
「こちらで持たせて貰う」
と長谷部はこだわった。
「きみも頑固だなあ。とにかく、広田くんにはぼくの方から連絡しておくよ」
と瀬川は請け合った。
電話をきってから、長谷部は考えを変えた。瀬川がいてくれた方がよいような気がしてきたのだ。広田と二人だけだと、こちらの申し出を断固拒絶された場合、逃げ道がなくなる。どちらも気まずくなって、今後会うのをさけるようになるかも知れない。
そうなってから、また瀬川の力を借りるのでは恥ずかしい。「サンデー・マガジン」にしても今回はことなきを得たものの、これからのことは予想もつかなかった。そのためにも、友好関係を保っておく必要がある。
その時、神谷真知子が近付いてきた。まっすぐにこちらを目指して歩いてくる。
「いま、お邪魔じゃないでしょうか?」
彼女は一礼して訊いた。
長谷部も会釈を返す。
「けっこうですよ」
と応じて立ち上がった。
「どうぞ」
と応接室を指さす。
「失礼いたします」
とことわって、真知子は先に室内に入って行く。表情もにこやかだし、足も軽い。
二人は向かい合って坐った。
「コーヒーでもいかがですか?」
「頂きます」
と嬉しそうに言う。
長谷部はもう一度立って行って、女子行員に頼んだ。
「あら、恐れ入ります」
「ちょうど、コーヒーを飲みたくなりましてね。相手を探していたんです」
長谷部も調子を合わせた。
神谷真知子は少し身をよじった。
「まあ、ほんとうですか」
こころもち首を傾ける。
そのしぐさが、なかなか可愛らしい。しかも、ほのかな色香さえ感じられる。
長谷部は思わず眼を細めた。
そこへコーヒーが運ばれてきた。
「さあ、どうぞ」
相好を崩して奨める。
「ご馳走になりまあーす」
と元気よく言って、彼女はコーヒーカップに手を伸ばした。
長谷部もつられてカップを持ち上げた。
「実は、わたくし」
真知子は少し身を乗り出して言った。
「つい先日のことですけど、石倉さんにお会いしましたの」
と打ち明けた。
「ほう、石倉くんに」
と長谷部は応じた。
「この前お話を頂戴した広報課長の件ですけど、ずっと気になっていまして」
「そうですか、あまり気にせず、気楽にやって下さい」
「はい、そのつもりでいながら、つい」
と彼女は下唇を軽く噛んだ。
「わかりますよ。誰しも、新しい仕事となると緊張しますからね」
長谷部は鷹揚に頷いた。
「それで、石倉さんに相談してみたんです。なにしろ、以前の上司でしたから」
「なるほど、彼はあなたをMOF担に抜擢した張本人ですからね。あの時は正直なところ、私も驚きました」
と正直に言う。
「意外というより、不安だったでしょう」
真知子は笑顔を浮かべた。
「わたくし、皆さんに同情しました。初めは他人事のような気がしていたんですが、だんだん恐くなってきて」
とつけ加える。
「ほんとうですか? 自信たっぷりで、実に堂々としていましたよ」
「あれは見せ掛けだけです。内心は正反対でした。でも、そういう不安は上司や同僚に見せてはいけないと思ったんです」
「それで頑張った」
「はい、頑張りました」
と素直に頷く。
「石倉くんの意見はどうでした? おっしゃらないで下さい。私が当てましょう」
長谷部は自信あり気に言う。
「まあ、当てて下さるんですか?」
彼女は悪戯《いたずら》っぽい笑いを浮かべた。
真知子の悪戯っぽい笑顔には、かなり蠱惑《こわく》的な魅力がある。
長谷部は少しまぶしそうに両の眼をしばたたいた。
「石倉くんは、あなたから話を聞くやいなや、直ちに賛成した。どうでしょう。これで当たりましたか?」
と落ち着いて尋ねる。
「すばらしいわ」
と彼女はまず言った。
「ほんとうに、ぴたりと当たりました」
と打ち明ける。
「でも、どうしてわかったんですか?」
右へ首を傾けた。
「石倉くんとは、ずいぶん長い付き合いなんですよ」
と教えた。
「それで、すべてわかるんですか?」
と真知子は突っ込んだ。
「すべてというわけにはいきません。だいたい仕事に関してと言った方がよいでしょう。プライベートな事柄になると、別です。その方はあまりよくわかりませんね」
と正直に答えた。
「まあ、よかった」
彼女は両手を胸の前で合わせた。
「よかった?」
長谷部は怪訝な顔をした。
それに気づくと、彼女は急にどぎまぎして落ち着きを失った。頬がうっすらと染まっている。長谷部は眼を見張った。
「何でもわかってしまうと、つまらないでしょ。ですから」
と慌てて言う。
「そうですね」
と応じたものの、長谷部には真知子の対応が何となく変に思えた。
だが、二十秒もしないうちに彼女は立ち直った。すでに頬の赤味も消え、表情ももとに戻っている。
長谷部は何となく残念な気がした。
「おかげさまで、石倉さんも賛成してくれましたので、全力をあげて取り組みたいと思います。せいいっぱいやらせて頂きますので、よろしくご指導下さい」
そう言うと、真知子は丁寧に頭を下げた。
もはや、おかしいところや奇妙な感じはどこにもない。
「こちらこそ、よろしく」
長谷部も礼を返した。
真知子が部屋を出て行った後、彼はしばらく一人でソファに坐っていた。長谷部には石倉だけではなく、松岡の気持ちもわかる。急に、松岡が広報課を手放すとは思えなくなった。これは大問題だぞという気がしてきた。
長谷部と瀬川と広田は、また顔を合わせることになった。前回からあまり日を経ていない。今度は昼間、ホテルのレストランでだ。
長谷部が広田に面会を申し込み、それを聞きつけた瀬川が割り込んだかたちになった。瀬川としては、自分が両者を引き合わせて間がないのに、早くもはずされるのは厭だと思ったらしい。
長谷部にしても、瀬川を出し抜くつもりはなかった。それに、広田との間の用件についても、すでに瀬川はおよその察しをつけている。となれば、彼にだけ秘密にしても意味がない。むしろ、瀬川を応援団に加えた方が有利だろう。
長谷部はそう思った。ホテルのレストランへ電話を入れると、すでに広田が三人分予約していた。
当日、長谷部は早目に出掛けた。十分ほど前に着くと、広田はすでに来ている。挨拶をかわしたところへ、瀬川がせかせかとあらわれた。
「やあ、早いね、二人共。示し合わせて早く来たんじゃないだろうな」
と疑わしそうな顔をする。
「そんなことはない。いま着いて挨拶したばかりだよ」
と長谷部は言った。
「いやに気にするね」
広田も口裏を合わせた。
「仕方がない。信じよう。お互いに仕事中だが、この暑さだ。冷たいビール一杯位はいいだろう」
瀬川はそう言うと、二人の返事を訊かず、さっさとビールを頼んだ。
長谷部と広田は顔を見合わせて苦笑した。
こうして会食が始まった。メーンはローストビーフである。瀬川のおかげで堅苦しくならない。話がはずんだ。立派に潤滑油の役割を果たしている。友人同士がたまに顔を合わせて昼食会を持つ。とくに目的はなく、気儘な雑談が狙いである。それならば何も言う必要はない。これで十分だ。
ところが、今日の長谷部には目的がある。彼ははっきりした用件を持って来ている。いくら話がはずもうと、雰囲気が良かろうと、雑談で終わってしまっては困るのだ。
そのことは広田も承知していた。瀬川も気付いている。もちろん、長谷部とて忘れる筈はなかった。それなのに、なかなか話が先へ進まず、核心へ近付いていかない。しかし、無理に流れを変えるのも不自然であった。じっくり型の長谷部もさすがに焦りを覚えた。
きっかけは瀬川が作った。やはり、彼は自分の役割を忘れていない。
「そう、そう、先に長谷部くんの用件をすませてしまおう」
瀬川はさり気なく言う。
「広田くんに頼み事があるんじゃないか? どうも何か残っていると、食後のコーヒーがまずいよ」
とつけ加える。
こうあからさまに言われると、もうごまかしがきかない。
「実は、この間の件の後遺症がありましてね」
と長谷部は口をきった。
「あの時は広田くんのおかげで、何とかことなきを得ました。頭取も銀行側も喜んでいます。改めてお礼にあがりたいと思っていたところです」
と頭を下げる。
「いや、私の方こそ、きちんと調査もしないでご迷惑をお掛けしました」
と広田も会釈を返す。
瀬川は二人のやり取りを見て、にんまりと笑った。これでよい。義務は果たしたと思ったのであろう。したり顔だ。
「ところで、取材記者が情報の提供を受け、時間が無くって裏付けを取らずに記事を書いた。たしか、そう聞きました」
長谷部は話を先に進めた。
「その通りです。取材記者としては基本を忘れたことになります」
と広田も応じた。
「そうかも知れません。しかし、その問題は少し脇に置いておきましょう。問題は取材記者に情報を提供した人物です。何か特別の意図か、あるいは何らかの思惑があってやったにきまっています」
と主張する。
「おっしゃる通りですね」
と広田も認めた。
「そこでお願いなんですが、その人物の名前を教えて頂けませんか?」
と長谷部は頼んだ。
「わたし共としては、今後のこともあります。どんな人物がどのような意図でやったことなのか? この際、はっきり知っておきたい。そうしておかないと対策が立てられません。たぶん、今回は失敗したものの、また似たようなことを始めるでしょう」
長谷部はそう主張して、正面から広田の眼を見つめた。
「ぜひ、教えて下さい」
身体まで乗り出した。
「………」
広田は困惑の表情で黙り込んだ。
瀬川はすぐ脇で、両者のやり取りを見守っていた。
彼は長谷部の要求の必然性についても察しがついたし、広田の困惑についてもよくわかった。共に理解出来たのだ。
長谷部にしてみれば当然の追及といってよい。この問題をないがしろにしておけば、また同じような目に遭う危険性がある。そんなことを繰り返したくはない。
そのためにはまず相手の正体を知る必要があった。彼の部下の取材記者が問題の人物と接触した。それはもう間違いない。したがって、少なくとも、広田はその手掛かりを知っている。
だから、かなり遠慮しながらも、長谷部はあえて教えて欲しいと頼んだ。
しかし、広田の方には取材の秘密を守らなければならない義務がある。週刊誌の場合、犯罪者と接触するケースも珍しくはない。いちいちニュースソースを明らかにしていては仕事にならなくなる。
長谷部にもそのへんの察しはついている。それで遠慮はしていた。が、先へ進むためには遠慮は邪魔だ。いまや長谷部は意を決して邪魔物を押し退けた。はっきり口に出して頼んだのである。
「困りましたな」
と広田は漏らした。
「われわれの常識として、取材先は明かせないことになっているんです」
と言い添える。
「知っています」
長谷部は短く応じた。
「そのことは承知の上で、あえてお願いしているわけです」
とつけ加えた。
「なるほど」
と瀬川が口を挟んだ。
「お二人の言い分と、それぞれ考えていることはよくわかった」
と言いつつ、交互に双方を見た。
「だが、このままでは平行線だ。どこまで行っても交わらない」
と断言する。
「たしかに」
と長谷部は認めた。
「どうも、困りましたな」
と広田も口を合わせる。
「仕方がない」
と瀬川は言った。
「ここはぼくに取り仕切らせてくれ。一切、任せて貰いたい」
言って、かわるがわるまた双方を見た。
長谷部も広田も頷いた。
瀬川には話を上手にまとめる能力がある。両方の言い分をじっくり聞いた上で、口を出す。この場合、長谷部も広田も友人だ。公平でなくてはいけない。
日頃から瀬川が公平であるのは、長谷部も広田もよく知っている。
瀬川に、一切任せて貰いたいと頼まれて、両者共直ちに頷いたのは、彼に対する信頼感があったからだ。
食事は終わりに近付き、アイスクリームとコーヒーが出てきた。
瀬川はいくらかもったいぶって、もう一度両者の顔を見た。その上で、おもむろに口をきる。
「長谷部くんの立場に立てば、取材記者に接触した人物の名前を教えて貰いたいのは当然だ。むしろ、当たり前の要求といってもいいだろう」
と言って、広田に向かって頷く。
「だが、週刊誌の編集部にとっては、ニュースソースは絶対の秘密といってよい。明かすわけにはいかない」
今度は長谷部に向かって頷いた。
「しかし、いま言ったことはいずれもタテマエであり、原則だ」
と強調する。
「さいわい、われわれにはホンネがある。しかも、私たちの生きるビジネス社会では常にホンネとタテマエを使い分けてやってきた。早く言えば、これは潤滑油のようなものだ。この潤滑油がないとぎくしゃくする。とてもやっていけなくなる。だから、この際、利用させて貰おうじゃないか?」
また両者の顔を見た。
「けっこうですね」
と長谷部が応じた。
「思い通り利用して下さい」
と広田も賛同する。
「よろしい。二人共同意見であるのがわかった。これで問題は解消した」
瀬川はひと息ついた。
アイスクリームをスプーンですくい取って、急いで口に入れる。すでに半分位溶けかかっている。
「まったく、油断も隙もないな」
と呟いて、笑わせた。
瀬川はついでに、コーヒーにもミルクと砂糖を入れた。スプーンでゆっくりかき廻す。どうやら、わざと遅らせ、彼の決定、即ち、審判を待つ二人をじらせようとの魂胆が見えすいている。
やおら、コーヒーカップを持ち上げ、一口飲んでから、にやりと笑った。その上、もっともらしく、咳払いまでした。
長谷部も広田も何も言わない。瀬川のセレモニーを見て見ぬふりをしている。
実のところ、二人共、いくらか苛立ってはいた。
が、両者共一切そぶりには出さない。もとより、そのへんはよく心得ている。焦ったり、苛立ったりすれば、その分だけ不利になる。期せずして、小物ぶりが露顕することにもなりかねない。
瀬川はコーヒーをひと口飲み、さらにもうひと口飲んだ。それから、おもむろに口を開いた。表情までもったいぶっている。
「長谷部くんの要求はもっともだ。当然といってもよい。したがって、認めよう。ただし、条件がある。この条件についてはのちほど広田くんの了解を得たい。これが第一ラウンドだよ」
と注意を喚起する。
「次いで、第二ラウンドに入ろう。広田くんの言い方も、まことに申し分ない。もっともと言えよう。そこで、これも認める。ただ、それはあくまでもタテマエだ。ホンネの話は別になる」
言って、広田をじっと見つめる。
「きみはいまここで、ひとりごとを言いたまえ。あくまでもひとりごとだ。それが誰かに聞こえたかどうかはきみの知ったことではない。これなら、きみが漏らしたことにはならん。どうだね?」
と訊く。
「なるほど、ひとりごとを言うのか?」
広田はにっこり笑った。
「そうだ。あくまでもひとりごとだよ。誰も聞いていないと思って言えばよろしい」
とつけ加える。
「わかった」
と広田は短く答えた。
「よくわかりましたよ」
皮肉っぽい笑いを浮かべた。
「では、ひとりごとを言う前に、いま長谷部くんに付ける条件について聞かせて貰おう。どんな条件なのか、こちらとしては知っておく必要がある」
と言い添えた。
「これはよい点に気が付いた。ごもっともと言うべきなので、先にいわせて貰う」
と瀬川は前置きする。
「長谷部くんは偶然に広田くんのひとりごとを聞いたことになる。それによって、たしかに事実を知る。しかし、これは肝心なところだが、広田くんに打ち明けられたり、教えられたりしたわけではない。したがって、正式には何も聞いておらぬ。そこまではいいね」
瀬川は念を押した。
長谷部も広田も頷いた。
「よろしい。先へ進もう」
と瀬川は少し身を乗り出した。
「長谷部くんは正式に聞いたわけではない。あくまでも偶然にひとりごとを耳にしたにすぎぬ。よって事実かどうかもよくわからず、かりに嘘であっても文句は言えない立場に立っている。だから、直ちに手を打ったり、行動を起こしたりしてはいけない」
と言いつのる。
「わかった。要するに、広田くんから聞いたことがはっきりしてはまずい。これだね」
と長谷部は口を挟んだ。
「その通り、広田くんはこの件に関しては何も言っていない。先程、きみが正式に頼んだものの、あっさり断られた。あくまでも、これがタテマエだよ」
と強調する。
「よくわかりました」
長谷部は大きく頷いた。
「長谷部くんも了解している。これで、きみも安心してひとりごとを言えるわけだ」
瀬川は広田を促した。
「いろいろご配慮有り難う。ひとりごととなると、後で何かと質問を受けるかも知れぬとの気遣いもいらないわけですね」
広田は念を押す。
「そうだよ。ひとりごとに責任はない。そのまま聞き流すのが普通だ」
瀬川が答えた。
「では始めます」
と広田は律儀にことわった。
「うちの取材記者に接触してきたのは、かなりの大物でしてね。三洋銀行の前副頭取勝田忠さんで、指定された新宿の小料理屋へ行ってみると、前頭取の杉本富士雄さんもいたらしい。この二人から数字その他の情報提供を受けて、記者はすっかり信用してしまった。相手が相手ですから無理もない。おまけに、正確な情報だから、裏付けを取る必要なしと強調されて、〆切時間もあり、ついその気になってしまったのが真相ですね。このへんでひとりごとを終えます」
広田は丁寧に頭を下げた。
長谷部も慌てて礼を返した。
あまりにも予想外の、意外な話に頭の中がぼんやりしている。
杉本富士雄も、勝田忠も長谷部がきわめてよく知っている人物である。この二人共、現頭取の成瀬昌之によって追い出されたかたちでやめていた。
「どうも、広田くんのひとりごとは、長谷部くんにかなりのショックを与えたようだな」
瀬川が遠慮勝ちに呟いた。
たしかに、瀬川の言う通りだ。
ショックと言えばショックであった。
瀬川も広田も、長谷部の反応が何となくおかしいのに気付いている。
広田がさり気なく立った。三人分の勘定をすませようとしていた。それを察知していながら、すっと立って広田に追いつく気にならない。いたずらに後ろ姿を見送った。
「どうだ。ひとりごとというアイデアはよかっただろう」
と瀬川は自慢した。
「抜群だよ」
と長谷部は短く応じた。
瀬川はもっと誉めてもらいたいと思っている。それがわかっていながら、彼の期待に気持ち良く応えられない。
瀬川は、なんだ、それだけかという表情をした。が、彼にも長谷部の感じたショックがいくらかは伝わっている。
「前頭取と前副頭取と言ったね。何だかキナくさい話だな」
瀬川は同情気味に言う。
「………」
長谷部は返事をしなかった。
瀬川も黙り込んだ。
そこへ広田が勘定をすませて帰ってきた。
「やあ、ご馳走さま」
瀬川は救われたような表情で、わざと大仰に反応する。
「いずれ近いうちに、お返しさせて貰うよ。今日はこれでお開きにしよう」
と閉会宣言をした。
「こちらで持つのが当たり前なのに、申し訳ありません。ご馳走になります」
長谷部は丁重に頭を下げた。
「とんでもありません。先日ご馳走になったばかりです」
と広田も叩頭する。
「では、ここで解散ということにしよう」
瀬川の言葉で、三人はかわるがわる握手を交わした。
三人共方向が違う。タクシーを拾うにしても別々の方がよい。
長谷部は一人になると、同じフロアにある洗面所に向かった。正面の大きな鏡に映った自分の顔色があまりよくないような気がする。
「それにしても、杉本さんと勝田さんが」
と低い声で呟いた。
あの二人が現成瀬政権に恨みを持っているのはわかるが、いかにも往生際がわるい。二人共、健康状態も良く、元気いっぱいだと聞いた。事実上引退しているが、当人たちにはその気がないのかも知れない。胸騒ぎがした。
もちろん、長谷部は杉本富士雄についても、勝田忠についてもよく知っていた。
とくに杉本は大物の一人だ。長年にわたって頭取の地位にあり、権勢をふるった。富桑銀行との合併問題が浮上し、これが無残な失敗に終わらなければ、現在もまだ頭取の椅子に坐っていたかも知れない。
勝田の方はそういう杉本の腰ぎんちゃく的な存在であった。典型的なイエスマンで通してきた。周囲からは小莫迦にされていた。当人も薄々それに気付いてはいる。が、いっこうに気にすることがなかった。
イエスマンもここまで徹底出来れば、それはそれで大したものだと言い出す人が出てきた。おかげで、退任する前はむしろ評価が高まっていた。
ただ、人柄は良く、苦労人で人情味に厚かった。そのため、周囲からは莫迦にされながらも、けっこう好かれている。
もともと、仕事が出来るタイプではなく、やり手でもない。したがって、一人ではどうにもならず、誰かに頼る必要があった。杉本はもちろん、当人もそれを知っていて、命令には忠実に従う。このため、杉本と組むと相当の力を発揮した。何事であれ、勝田は命じられて動くのが好きなのだ。
だから、杉本と勝田が手を組んで立ち上がったとなると、これはもう侮れない。
「困ったことになった」
と長谷部は呟いた。
二人がどういうきっかけがあったのかは知らぬが、週刊誌の取材記者に資料を提供して三洋銀行に関する誹謗記事を書かせようとしたのは事実だ。いまや、そのことははっきりしている。
言いかえれば、杉本と勝田のタッグチームは、目的や思惑はわからぬものの、明らかに挑戦状を叩きつけてきたのだ。そうに決まっている。
もちろん、三洋銀行と成瀬昌之をトップに頂く現経営陣に対する挑戦状である。
「まったく、選りに選ってこんな時に」
長谷部はぶつぶつ言いながら、ゆっくりとホテルを出た。
すぐにタクシーを拾わず、しばらく歩くつもりだ。
昼食にフランス料理のコースを食べたりすると、近頃は胃がもたれる。以前は感じなかったことである。
いきなりタクシーに乗らず、せめて十分か十五分歩くことによって胃の負担を減らそうとの魂胆であった。が、それだけではない。銀行の自席へ早く帰り着くのが厭なのだ。
ほぼ同じ頃、杉本富士雄と勝田忠は築地の小料理屋にいた。魚料理の美味い店で、勝田の顔が利く店だ。
長谷部が気にしている二人である。
いましがた刺し身中心の遅い昼食を終えたばかりであった。
「どうも、きみの知り合いは当てにならん。いい加減な男が多いな」
と杉本は言った。
人間、腹が満腹になれば、大らかな気持ちになる筈なのに、杉本富士雄はそうはならないらしい。先程から、かなり不機嫌な顔付きをしている。
「お言葉を返すようですが」
勝田は少し口を尖らせた。
「もともと、あの男はそれほど深い知り合いではありません。副頭取の頃、例の合併問題などで、二度ほど取材にあらわれたにすぎぬ男です」
と言い訳する。
「このことは前にも申し上げた筈ですが」
とつけ加えた。
「そうむきにならなくてもよろしい。ただ、私としてはここらでひとつ、きみの注意を喚起したかっただけのことだよ」
と杉本はたしなめた。
「せっかくの魚料理だ。消化がわるくなってはつまらんからな」
と言いつつ、のびをした。
どうやら機嫌がなおったらしいと勝田は考えた。さすがに彼は、長年近くにいただけのことはあって、杉本の心の動きがよくわかる。少なくとも、それだけは自信があった。
「こんな結果になりまして、まことに申し訳ありません」
勝田は丁重に頭を下げた。
「改めて、お詫び申し上げます」
と叩頭する。
「いまさら、きみに頭を下げられても仕方がないよ」
杉本は苦笑した。
「そう言えば、私はいままで頭取に、それこそ何百回、何千回と頭を下げて参りました。銀行を辞めても、まだ続くのかと思うと、何だか妙な気持ちになります」
勝田はしみじみと言う。
「いまさら何だ。まったく、つまらんことを言うな」
杉本は顔をしかめた。
「どうも申し訳ありません」
と頭を下げる。
「またやっておる。それはきみの癖だ。頭を下げるのが好きなんだよ」
ときめつけた。
そう言われて、少しはにかんだものの、実に、勝田は嬉しそうな顔をした。
「これはどうも」
と会釈する。
「さすがは頭取ですね。何もかもちゃんと見抜いておられる」
とつけ加えた。
「まったく何を言い出すのかと思ったら、これだ。人が見抜けなくてトップが勤まるわけがなかろう」
たしなめ口調で言う。
「たしかに、おっしゃる通りです。それにしても」
勝田は感じ入ったふりをする。
「だが、惜しいところだったな。もう少しでうまくいったんだが」
杉本は残念そうだ。
「総務部長がちょっとお人好しなんで、裏をかけると思ったんですが」
勝田も下唇を噛む。
「ところが、出てきたのはなんと長谷部くんだというじゃないか?」
杉本の眼が少し光った。
「そうなんですよ。総合企画部長が出てくる幕じゃないんですが、まさか、あんな場面で選手交代とは」
としきりにぼやく。
「成瀬が何か気付いたんだよ。そうに決まっている。そこで急遽とっておきのエースを出してきた」
「その通りだと思います。それにしても、急に出てきた長谷部くんにそんな処理能力があったとは意外でした」
「きみが不思議がったって仕方がない。げんに長谷部くんはてきぱきと解決してしまった。見事だったよ」
杉本は眼を細めた。
「困りますなあ。頭取が敵の働きぶりに感心してしまっては」
勝田はここぞと抗議する。
「長谷部くんは私が目を掛けて、自信を持って取締役に推した男だよ」
「そうでしたね」
「だからさ」
と口許を歪める。
「そのくらいのことはやるさ」
と結論を口にした。
「やはり、ひとかどの人材をきちんと見抜いたわけですね」
と追従する。
「まあ、早く言えばそういうことだね」
杉本は機嫌をなおした。
「遅く言っても、同じことだが」
したり顔で言い添えた。
杉本富士雄と勝田忠は築地の小料理屋にいる。二人共、すでに引退した身だ。時間はたっぷりあった。
食事を終えてからも、お茶を何度もお代わりし、なおしばらくはのんびりしている。それでも、午後二時を過ぎると、お店の方でもそろそろという気になる。
が、どちらも長年、銀行のトップとナンバー2であった。権力の座に長く坐りすぎた。世事にうとく、身勝手だ。他人の痛みがよくわからず、いささかも気を遣わない。店の都合など考えてもみなかった。
ところが、この日は杉本の方が雰囲気に飽きた。彼は一流の料亭での飲食に馴れていて、いくら昼食とはいえ、小料理屋では気に入らない。いくら魚が美味いといっても、たかが知れている。
勝田が案内した店だが、いまの勝田の財力では料亭通いは無理である。それがわかっているだけに、何となくみみっちく、うら淋しい思いがつきまとう。
「うーむ」
と唸って、杉本はのびをした。
「食後にコーヒーが飲みたいな。勝田くん、近くの喫茶店へ案内してくれ」
と頼んだ。
「喫茶店でございますか? このへんにあったかなあ」
勝田には自信がない。
「なければ探せばよかろう。とにかく、外へ出て歩こう。人間、歩かないと駄目だよ。車にばかり乗っていたんじゃ」
言いながら立ち上がった。
勘定を払おうなどという気はまったくない。さっさと先に出て行った。
勝田は仕方なく勘定をすませた。
「領収書はどうなさいますか?」
若いレジの女性が訊く。
「そんなものいらんよ」
ぶっきらぼうに応じた。
領収書を貰ったところで引き落とす当てもない。邪魔になるだけである。
外に出ると、杉本はもう三、四十メートルほど先へ行っている。相変わらずせっかちだ。
「ふん」
珍しく勝田は鼻を鳴らした。何となく不満なのだ。
だが、急いで追い掛けた。そこは長年の習慣が働いた。いまや、すっかり彼の習性になっている。もう杉本の部下ではないのに、そんな事実とはかかわりなく、躰の方が先に動いてしまう。
まことに悲しき習性であったが、幸い勝田自身はその事実に気付いていなかった。
勝田は早足になった。
が、先を行く杉本はいっこうに歩調を緩めてはいない。このままでは距離が開く。
勝田は走った。いい歳をして、何だ、このざまはとの思いがちらりと頭をかすめた。
ようやく追いついて横に並んだものの、杉本はご馳走さまとも言わず、ねぎらいの言葉も掛けてくれなかった。
「いったい、どうなっているんだ」
と杉本は不満そうに言う。
「喫茶店は見付からんじゃないか?」
まるで勝田の失策のような言い方である。
「おかしいですね」
と勝田は口裏を合わせる。
「喫茶店なんぞ、昔はあちこちにあったもんだが、とんと見当たらん。近頃はコーヒーだけじゃ商売にならんのかな」
と言いつつも、勝田には目もくれず、しきりに街角を見廻している。
「見付けたぞ」
杉本は大声をあげた。
「そら、もう一本向こうの通りだよ」
と勢いよく指さす。
たしかに、それらしき店がある。甘味の店で、おしるこやぜんざいのたぐいから、カレーライス、スパゲッティまでがウインドーに並んでいた。
「やれ、やれ」
と杉本は呟いた。
「ここで、よろしいですか?」
勝田はたしかめた。
「仕方があるまい。また探すのは面倒だ。どうもいかん。日本もだんだん不便になるようだな。まったく嘆かわしい」
言いながら、先に店に入った。
狭い店で、客は誰もいない。二人は端の席に坐ってコーヒーを頼んだ。
「まあ、今回はいたし方ない。長谷部くんが出てきたんだからな」
杉本は先程の話をむし返した。
「何とも思いがけない結果になって申し訳ありません」
と詫びてから、何も自分が詫びる必要がないのに気付いた。
「ところで、今度は松岡くんが取締役に昇格して、総務部長になる予定だな」
「そう聞いております」
「たしか、松岡くんには電話をしたと言ったな。連絡が取れたんだね」
とたしかめる。
「取れました。株主総会が終わって、彼が正式に就任してから会うことになっています」
「私も入れて貰ってかまわんだろうな」
当然のように、杉本は言った。
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第七章 漠然とした不安
株主総会は終わった。
とくに波瀾はなく、順調に推移したといってよい。議長が開会を宣言してから終了まで二十三分しか掛かっていない。
通常、何事もない場合、約二十分から二十五分で終わる。それが普通だ。したがって、この二十三分という所要時間はなかなか良かったと言える。
総務部長を始めとする総務関係の担当者たちは、これでほっと胸をなで下ろしたといってよいだろう。
彼らの合言葉は単純だ。
「今年は○○分で終わった。来年も○○分で終えよう」
これである。
たとえ一分でもよいから早く終える。それが使命だと考えている。
「株主総会は年に一度、株主たちと話し合う良い機会だから、この際、じっくりと腰を落ち着けてやろう。カレーライスにコーヒーぐらい出してもよいのではないか?」
彼等はこういう意見にもっとも反感を覚える。
そんなことをして総会が長引き、議長を務める頭取が返答に困って、立ち往生してもよいのか?
議長があらゆる問題に対応しようというのはとても無理だ。想定問答集を作るだけでたいへんなことになる。
一口に株主というけれど、株主の中にはいろいろな人たちが混じっている。日本の銀行や会社の場合、持ち合いが多いから、大半は大口の法人株主が占めていて、この人たち、即ち、法人の代表者たちは揃って何も言わない。常に沈黙したままである。
次いで、個人の大株主たちがいるが、彼等も何も言わない。株主総会に出席することさえきわめて稀である。何か言うことがあれば、別の機会を利用する。
それから、もっと小口であっても、息子や娘や甥や姪が勤めているとか、取引先だとか、あるいは定期預金代わりに主として利殖のために買ったとか、理由は異なっても安定株主であることに変わりのない人たちが続く。
さらに一般の投資家たちがいるが、彼等はたまたま投資の対象として○○株式会社の株を選んだだけである。長く保有するか、すぐに売るかはまちまちだが、それはもっぱら相場の動きに左右される。
問題はこれ以外の株主たちだ。
なかでも厄介なのは一般に「総会屋」と呼ばれている株主たちである。
銀行から借金して三十万株も買った人物がいたが、これはむしろ例外で、大半はもっとずっと小口の端株を持っている人たちだ。
たとえ、五株や十株の端株であっても、会社側はおろそかには扱えない。株主であることに変わりはないからだ。
一株でも持っていれば、株主として通用する。これを総会屋が悪用した。少ない資金で活躍出来る。問題のありそうな会社の端株を手に入れさえすれば、株主として堂々と正面から株主総会の会場へ乗り込める。
そこで大見得も切れるし、文句もつけられる。どんな会社にもウイークポイントはある。人も会社も、仕事をしていれば、さまざまな事件に遭遇する。少しその気になれば、いくらでもアラを探せるのだ。
総務部の株主総会担当者たちは、こういう事実をよく知っている。知り尽くしているとも言えよう。それだけに、いつも安心してはいない。
今年何事もなく終わったにせよ、すぐ来年がくる。来年も無事に終わる保証はない。
松岡紀一郎にもこうした事態が見えてきた。そのため及び腰になっていた。何も自信を失くしているわけではない。自分自身にそう言いきかせた。だが、あまり効果はなかった。
もっとも、松岡の思惑や自信喪失に関係なく事態は先へ先へと動いて行く。
株主総会の席上で、松岡は新しい取締役候補者として紹介された。と言っても、これはあくまでも形式的なセレモニーだ。名前を呼ばれて立ち上がり、丁重に一礼しただけである。
総会終了後、場所が変わって、今度は取締役会が開かれた。
ここで正式に取締役に任命された。紹介がすむと新任取締役たちは順番に簡単な挨拶を要求される。最初から全員が一列に並んで起立していた。
松岡は自分の番がくると、今回役員に選出されたことを感謝し、頭取以下諸先輩のご指導を受けて全力投球したいと抱負を語った。型通りの挨拶だが、その方が無難なのを彼はよく知っていた。
定例の取締役会が終了すると、すぐに移動して、今度は昼食会になる。
コースのフランス料理が出された。頭取以下上席の役員たちがずらりと並ぶ。松岡の席は末席に近い。
まずビールで乾杯する。これが恒例だ。この時飲む一杯のビールが一番美味いという頭取や社長が実に多い。
「人生で何が美味いか? 何といっても、株主総会が無事に終わった後の、あの一杯のビール、あれが一番美味いですなあ」
こう言い放ってはばからないトップが世の中には大勢いる。やはり、経営者にとって、株主総会はそれほど厄介な厭なものなのだ。
当然のことながら、頭取の成瀬昌之は上機嫌であった。
頭取だけではない。副頭取以下の全役員が皆、明るい表情をしている。
株主総会が無事に終わってひとくぎりついた。誰もがそう思っていた。この時点では、まだ誰一人として来年のことなど気に掛けてはいなかった。
いや、一人だけいる。松岡紀一郎だ。彼も表面はにこやかな顔をしていた。自分だけ浮き上がらないように、まわりに合わせている。しかし、内心は不安であった。
来年もまた、こんなふうに全員が笑顔を浮かべてフランス料理を愉しむことが出来るのか? 大いに疑問だという思いの方が強い。もっとも、彼の危惧《きぐ》には具体的な根拠はなかった。
むしろ、漠然とした不安と言える。それだけに掴みどころがない。根拠がないのだから、対策も立てられず、用心するといっても限界がある。
神経質になればストレスもたまる。十二指腸潰瘍になるか? ノイローゼになるか? 躰を痛めるか、心を病むか、あるいはその両方が同時に襲い掛かってくるのか、いずれにせよ、マイナス要素ばかりだ。
松岡は自分よりずっと上席に居る長谷部の顔を見た。一番身近な親友であった。が、その彼も、まわりの役員たちとあまり変わらぬにこやかな表情をしていた。どうやら、この男も何も感じていない。わかっていないのだ。そう思うと、自分一人が疎外されているような気がしてきた。
松岡はつい俯きがちになった。下を向いたまま、もそもそと口元だけ動かして咀嚼《そしやく》する。美味しい筈のフランス料理なのに、何となくもさもさした感じであまり美味さが感じられない。むしろ、不味いと言った方がよいくらいだ。
その時、上席から声が掛かった。
「松岡くん、いまはきみが一番張り切っているだろう。なにしろ、待望の取締役就任だからな。いささか遅すぎたきらいはあるが、きみはもともと実力者だ。のびのびと仕事に取り組んで大いに頑張ってくれたまえ」
と成瀬が言ったのだ。
「有り難うございます。ご期待にそえますかどうかわかりませんが、せいいっぱいやらせて頂くつもりです」
そう言って、松岡は深く頭を下げた。
「わかった」
成瀬は鷹揚に頷いた。
「ところで、きみの就任挨拶だが、無難すぎる。もういっぺんやってくれないかね?」
唆すように言った。
松岡は戸惑った。とてもそんな気分ではない。
だが、頭取の要請である。断るわけにはいかなかった。通常の松岡であれば、むしろ張り切って立ち上がり、待ってましたとばかりまくしたてる筈だ。もともと口は達者であり、話そのものが上手である。雄弁とも言えた。おまけに、機を見るに敏だし、チャンスを逃さぬ果敢なところが彼の持ち味でもあった。
したがって、成瀬が声を掛けたのは彼への好意と言えた。良い機会だ。松岡の気質をあまりよく知らぬ何人かの役員たちに、この際、彼の張り切りぶりを見せてやろう。そう思ったに違いない。
成瀬にしてみれば、無風状態の好きな古参の役員たちに、新任の役員の溌剌とした様子を見せて、ハッパをかけてやろうとの思惑もあったのではなかろうか? そのくらいの腹芸は平気で見せる人物である。
松岡はのそのそと立ち上がった。何となく表情に張りがない。
長谷部は近くからその様子を見て、おやと思った。どうもおかしいと感じたのだ。
「それではご指名を頂きましたので、改めてご挨拶をさせて頂きます」
と断って、一礼する。
いつもの松岡なら、こういう一礼の仕方にも独特の剽軽さが加わる。見た者の眼を愉しませ、周囲に和やかな笑いをもたらす。
ところが今日はそれがない。お辞儀がたんに頭を下げただけに終わってしまった。そうなると、あまり愉しくもなく、周囲の注目度も落ちる。期待も下がる。
松岡はつい先程、成瀬が無難すぎると言ったばかりの就任挨拶を繰り返した。杓子定規で、型にはまっていて、面白くも何ともない。聞いている者の心を鼓舞するどころか、かえって気持ちを滅入らせる。
果たして松岡は、その事実に気付いているのかどうか?
気付いていたら、もう少し何か気の利いたことを口にするだろう。それが出来ない松岡ではなかった。どうもおかしい。歯車が噛み合わないまま機械が空転している。たしかに、機械そのものは動いていた。震動も伝わってくる。しかし、ものの役には立っていないのだ。
松岡の挨拶は終わった。明らかに期待外れと言ってよい。そのことは誰の眼にも同じように映った。
長谷部もがっかりしたが、成瀬頭取の落胆の方がもっと大きかった。そのせいか、松岡が話し終えて着席すると座が白けた。
長谷部は昼食会を終えて自席に戻ってきた。が、どうも気に掛かる。
松岡の様子が何となく変だ。いつもの松岡とは違いすぎる。そう言えば、総務部長というポストをあまり喜んではいなかった。役員になったのは良いが、総務部担当ではちょっとねと口許を歪めていた。
すると、あれは本音だったのか? かりに本音であったにせよ、すべてに積極的な松岡が、仕事に取り掛かる前に弱音を吐くのはおかしい。少なくとも松岡らしくない。
長谷部は総務部へ様子を見に行こうかと考えて立ち上がった。が、すぐに思いなおして腰を下ろした。
松岡は正式に今日から取締役総務部長のポストに就く。引き継ぎもまだ残っているだろうし、関係諸官庁や大株主、大口取引先等々への挨拶廻りがある。午後から夕方への時間帯はびっしりとつまってしまう。おそらく、夜だってふさがっているに違いない。そう考えて、遠慮したのだ。
「一週間は忙殺される。いや、もっとかも知れない」
と長谷部は呟いた。
松岡はスケジュールに追い廻される。つまらんことを考えて悩む時間も無くなる。いまの彼にはその方が良い。
電話のベルが鳴り始めた。ごく自然に手が伸びた。
「株主総会ごくろうさま。無事終了おめでとう」
石倉の声が聞こえてきた。
「これはご丁寧に、恐れ入ります」
と長谷部は答えた。
「いまちょっと前に、松岡くんの所へ電話を入れたばかりだよ」
と石倉は打ち明けた。
「もっと張り切っているものとばかり思っていたんだが、何となく歯ぎれがわるかったな。風邪でもひいたのかな? あまり元気がなかったよ」
とつけ加える。
「そうか、きみもそう感じたのか?」
と長谷部は応じた。
「え、いま、何て言った? そう感じたかだって?」
石倉は訊き返した。
「実は、お察しの通りなんだ。どうもあまり元気がない」
と教えた。
「ほう、それはまたどうしたわけだろう。日頃の松岡らしくないな」
石倉も声を曇らせた。
長谷部は少し迷った。
とっさに、石倉に伝えてよいかどうか迷ったのである。というのも、松岡の元気の無さは今度の人事が原因だ。となれば、銀行の内部事情を教えることになる。
以前の石倉ならともかく、いまの彼は他社の人間だ。もちろん、取引先のメーカーの役員だからまったく無関係とはいえない。それも長谷部が頼み込んで取引銀行に加えて貰った経緯がある。
むしろ、無関係ならばその方がよいかも知れない。友人としての係わりだけになる。
しかし、長谷部と石倉、松岡の三人はもともと同期生で、とりわけ親しい間柄だ。その関係は石倉が銀行をやめてからも、あまり変化していない。いや、殆ど変わらぬといってよいくらいである。
言いかえれば、銀行にせよ、メーカーにせよ、勤務先の相違が彼等の緊密さに水を差すわけではなかった。この三人は、そういう部分を越えて親しくなっている。
したがって、石倉になら、何を打ち明けてもよいだろうと改めて考えた。
「電話口で話すようなことではないんだが」
と長谷部は前置きした。
「元気がないのはたしかだ。どうも、総務部長という役職にかなりの負担を感じているらしい」
と事実を伝えた。
「なあんだ。そんなことか?」
石倉はにべもなく言う。
「それこそ松岡らしくないよ。まったく、莫迦莫迦しい話だ」
と言い放った。
「そうかなあ」
長谷部の方が石倉の言い方に疑問を覚えた。
少なくとも、松岡は前向きに、与えられた職場を真面目にとらえて悩みを深めているのである。それを一笑に付されたような気がしていささかむっとした。
「少し頭を冷やした方がいいなあ」
と石倉は言いつのる。
「そんなものは悩みのうちに入らん。もし、入るとしたら、特別贅沢な悩みだなあ」
と言い添えた。
「出来ればこっちも、一度でいいからそういう贅沢な悩みを持ちたいものだよ」
とさらにつけ足す。
言いたい放題という感じだ。長谷部はむっとするのを通りこして、呆れてしまった。よくもそこまで言ってくれるとさえ思う。
それなのに、あまり腹が立たない。石倉の言いぐさを改めて頭の中で反芻《はんすう》すると、何故だか、気が楽になってきた。
長谷部の頬に笑いが浮かんだ。
これは余裕の笑いと言ってもよい。石倉に言いまくられているうちに、気が楽になってきた。その結果、余裕が出来たのである。
「まったく、よく言ってくれるよ」
と長谷部は応じた。
「あれでも、松岡は真面目に考えているんだからな」
と弁護する。
「甘やかしちゃいかんよ。甘やかすから図に乗る」
石倉はほこ先をおさめない。
「ちょっと待って下さいよ。こっちも彼を甘やかしてはいないし、当人だって甘えてるつもりもない。ましてだ。図に乗ってるということはあり得ませんよ。むしろ、逆だから困っているんですよ」
冷静になって反駁《はんばく》した。
「だからさ。きみがそんなふうに考えるのがいけない。それがもう、甘やかしていることになる」
と石倉は指摘する。
「だいたい、松岡という男はいままでずっと、あらゆる物事に対して、正面から生真面目に取り組んだことがない。そこがきみとはまったく違う。むろん、ぼくとも違っている。それでいて、松岡はいつもけっこううまく処理していく。仕事もするし、業績も上げた。その方法が彼の持ち味だし、彼のいわば常套手段なんだ」
と言いきった。
「たしかに、そう言われてみれば」
長谷部も思い当たった。
「その通りだろう」
「そうだね」
と認めた。
「ところがどうだ。今度に限って、真正面から真面目に取り組む。冗談じゃない。聞いて呆れるよ。せっかくのいままでの彼独特の持ち味を捨ててどうするんだね。それこそ似合わない。むしろ、滑稽な気さえする。きみだってそう思うだろう」
石倉は突っ込んできた。
「おっしゃる通りだ。どうやら松岡に対する助言の方法を間違えていた」
長谷部は納得した。
「そりゃあ松岡の気持ちはわかるよ。やっと取締役に就任出来た。これで遅ればせながら、きみにも追いついた。それはたしかだ。そこで心機一転、今度は正面から正攻法でやってみよう。そう考えたところで不思議はないが、それがいかん。松岡にしてみれば大きな背伸びだ。バランスが崩れてしまった」
石倉は冷静に分析してみせた。
長谷部はすっかり感心した。
「たいしたものだ。松岡の気質をすっかり見抜いている。さすがだね」
感じ入った口調だ。
「きみたち二人から少し離れたからな。かえってよく見えるのかも知れない」
石倉はそう言った。
「とにかくよくわかったよ。おたくの意見を尊重したい」
長谷部はあっさり白旗をかかげた。
「どうだろう。松岡の気持ちをもとに戻して貰えないか?」
と頼み込んだ。
「ぼくがかね?」
石倉は首をひねったようだ。
「きみの方が適任じゃないのか?」
と突っぱねた。
「いや、きみもさっき指摘したように、松岡とぼくはライバルだ。そのライバルが取締役就任早々に何か言ってくる。これは言う方も、聞く方も厭だと思うよ。とくに、仕事に取り組む姿勢の問題ともなれば、大きなお世話ということになりかねない。ここはきみの出番だ。ひとつ頼むよ」
と丁重に言う。
「そう言われると弱いね。たしかに、きみの言う通りかも知れん」
石倉は納得した。
「早急に頼むよ。目下、松岡は柔軟性を欠いているから、何かあると困る。早ければ早いほどいい」
長谷部は急《せ》かせた。
「近く、三人で松岡の昇格祝いをやることになっていた」
「その通りだが、お祝いの方は後でゆっくりやればいいだろう。それよりそっちの方が先だよ」
「わかった。早速やってみよう」
石倉は引き受けた。
「頼んだよ」
長谷部は受話器を握りしめたまま、何度も叩頭していた。
長い電話が終わった。長谷部は受話器をもとに戻すと、肩で息をついた。ほっとしたと言っていい。
やはり、持つべきものは友人だという気がする。このままでは松岡は危ない、そんな気が強くした矢先の石倉からの電話だ。助かった。いくらライバルとはいえ、やっと取締役の椅子に坐った松岡がつまらぬ失策でその地位を失うのを黙って見てはいられない。これで何とかなるだろう。
松岡紀一郎は自席に居たものの落ち着かない。それもその筈だ。彼は正式に今日から総務部長席に坐った。新任の取締役としての仕事が始まったばかりである。
就任早々部長席が長時間空席になっていてはまずいので、取締役会終了後の昼食会が終わると、ひと休みする間も惜しんで、大蔵省、関東財務局、日銀を廻った。あとの挨拶は明日以後に廻した。
自席にいて、挨拶に来る人にいちいち対応する。これがなかなか忙しい。外部、内部入り交じって、ひっきりなしに人が来た。中にかつての部下たちまで交じっているので始末がわるい。
もっとも、皆喜んで来てくれるのだから文句は言えない。丁重に頭を下げて応対した。それも応接室へ入ってしまうと、顔が見えないので出直してくる人がいる。そのため、自席か、近くの応接セットで挨拶を受け、出来るだけ短くすますように心掛けた。
日頃から何事につけても、松岡は要領が良い方だ。こういう場合、それが役に立つ。とはいえ、こんな状態では、とても仕事にはならない。
部長印の必要な書類が机の上に山積みされてゆく。松岡は時折、横目でちらりと確認しながら、苛立ちを覚えた。
だが、そこは心得ている。顔にも態度にも出さない。それだけにストレスがたまる。発散すれば飛び散るものが、不用意に内側に蓄積されてしまう。当人も気付かぬうちにそうなることが多いので始末がわるい。
そういうさなかに、石倉から二度目の電話が掛かってきた。
「先程ひと通りの挨拶はしたので、もうおめでとうとは言わないよ」
と石倉は言う。
「あまり何度も言われると、うんざりするだろう」
とつけ加える。
「実はその通りだ。いささか飽き飽きしてきたよ」
松岡はそう言われて何となくほっとした。
「まだまだ、一週間や十日は似たようなことが続く。いや、一カ月かな?」
「おいおい、おどかすなよ」
「心配するな。じきに馴れるよ。何を言われても平気になる」
と断言する。
「ほんとうか?」
「もちろんだ。しかし、いまそんな無駄話をしている時間は無いだろう」
石倉の方で気を利かせた。
松岡ははっとした。石倉の言う通りだ。
「たしかに、用件をこなすのがせいいっぱいでね。疲れるよ」
と本音を漏らす。
これも相手が古い友人だからこそのひと言である。ほかの者ではタテマエしか口に出来ない。
「じゃあ、こっちの用件を先に言おう。とにかく、近いうちに、それも出来るだけ早く会いたい。そうだな、やはり夕方、食事の時間が取れた方が有り難いね」
と提案する。
「長谷部くんも加えたお祝いの会か?」
と松岡はたしかめた。
「お祝いの会はとくに慌てることはない。きみも忙しいんだから、しばらくして落ち着いてからゆっくりやろうよ」
「そうして貰えば助かる」
と松岡も答えた。
「この際、長谷部くんは抜いて、二人だけで会いたい」
と石倉は強調する。
「それはいいけど、長谷部くんが気をわるくしないかなあ」
松岡の方が気を遣った。
「大丈夫だよ。教えなきゃいい。何かでわかったら、こっちのせいにしておけばよかろう。石倉に頼まれたで押し通す」
まさか、長谷部に頼まれたとも言えないので、石倉はそう逃げた。
「わかった」
松岡は短く答えた。
この時、彼は石倉が大メーカーの取締役であり、総務部と経理部担当の役員であるのに気付いた。となれば、ある意味で仕事上の先輩と言える。たしかに、メーカーと銀行ではかなり趣が違う。
しかし、共通項はある。総務や経理担当となればなおさらだ。そう変わったことをしているわけではない。
「実はね、ぼくの方もきみにいろいろと教えて貰いたいことがある」
と松岡は打ち明けた。
「それなら、なおさら都合がいい。いま日時を決めてしまおう」
石倉が手帳をめくる音が聞こえた。
松岡も手帳を出して、急いで眼を通す。
「どうだろう。夕食はふさがるが、二次会を抜けることは出来る。これなら明後日大丈夫だが、そちらの都合は?」
「合わせるよ。明後日だね? 時間は何時になる?」
「九時半、いや、十時なら確実だ」
と松岡は応じた。
長谷部は秘書課長から電話をもらった。
「頭取がお呼びです。五分後、頭取室の方へお願いします」
と言われた。
「わかりました」
と答えて、腕時計を見る。
やがて、スーツをはおり、五分後に着くように席を立った。
成瀬の用件についてはほぼ見当がついている。たぶん、あの件だ。
週刊誌の取材記者に情報を流した人物の正体、いったい、誰があんな真似をしたのか? それを成瀬は早く知りたがっている。
無理もない。相手によっては、それなりの対応を強いられる。相手が誰であれ、むずかしい対応である。失敗すればどうなるか?
次の株主総会を乗り切れなくなる可能性も出てくる。いずれにせよ、あまり良い結果にはならない。長谷部はすでに真相を知っている。知っていながら、成瀬にはまだ報告しなかった。
どうしてか? 迷いが生じていたのだ。
もし、ありのままに伝えれば、成瀬は相当の憤りを覚えるであろう。
彼にしてみれば、当然といってよい憤りだが、相手が相手だけに、始末がわるい。またぞろ次元の低い泥仕合になり兼ねない。
といって、隠しおおせるか?
たぶん、それは不可能だ。
というのも、たぶん、近いうちに勝田あたりが何らかの接触を試みてくる。その時になって、実は真相を知っておりましたでは、いかにも間が抜けている。それに、隠していた事実が露顕する。そうなれば、よいことはない。成瀬に忠誠心を疑われる。どっちの味方だと詰られるだろう。
「どうもいけませんな」
と長谷部は歩きながら呟いた。
頭取室がせまってきた。絨毯に足を取られる。気のせいであろうが、何となく足が重くなった。
ノックをした。
「どうぞ」
成瀬の磊落な声が聞こえてきた。
「失礼いたします」
と断って、室内に入った。
成瀬の頬はいくらか上気している。昼食会で飲んだビールか、いや、続いて出た赤ワインのせいか、よくはわからないが、そのいずれかのせいであるのは明らかだ。
顔付きもいつもよりずっと明るい。どうやら、昼食会の時の上機嫌がまだ続いている。そんな気配が感じられた。
成瀬は頭取専用の大きな黒革製の椅子から立ち上がった。
「まあ、掛けてくれたまえ」
と言いながら、自分もソファの方へと移動する。
機嫌の良い証拠だ。
「いまコーヒーがくるよ」
と教えて、先にソファに坐る。
そうしないと、長谷部が腰を下ろせないのを知っている。
「では、失礼します」
長谷部も反対側に坐った。
「考えてみれば、きみのおかげで今回の株主総会は無事に終わったようなものだ。選りに選って直前に、週刊誌に妙な記事が出たりしたらどうなったか? いま考えると、冷や汗が出るよ」
しみじみと言う。
「いえ、あれは偶然の得点です。いささかラッキーでした」
と長谷部は謙遜する。
そこへコーヒーが運ばれてきた。女性秘書が立ち去るまで、二人共黙っていた。
「そんなことはない。きみの実力だ」
と成瀬は断定した。
「それはちょっとどうでしょうか?」
と疑問を口にする。
「いや、かりに運が良かったとしてもだ」
と強調してやまない。
「運というものは、怠け者やお調子者の所へは来ない。努力する人間、実力のある人の所へ寄って来る。だから、結局は、きみが好運を呼び寄せたことになる。どうだね? これなら、きみだって納得するだろう」
と言い張る。
どうやら、長谷部の今回の行動を何としてでも誉め上げようときめ込んでいるふしがある。有り難い話ではあった。
「そこで、きみの役員賞与金を、今回は特別に三百万円ほど増やしておいた。少ないが、感謝の気持ちだと思って受け取ってくれたまえ」
と言い渡した。
「有り難うございます」
長谷部は丁重に頭を下げた。
「さあ、コーヒーが冷める」
と成瀬は奨めた。
「頂きます」
長谷部はコーヒーカップを手に取った。
成瀬も無造作にカップを引き寄せて、二口三口飲んだ。
ところでと言わぬばかりに、長谷部の方を見た。とうとう来たな、やはり避けては通れぬ道だと、長谷部は覚悟を決めた。
成瀬はたしかに長谷部の方を見た。
が、何も言わない。
無言のままである。どうやら、長谷部に口をきらせたい。そう思っているに違いなかった。自分はもっぱら聞き役に廻る。
長谷部は成瀬の気持ちをほぼ正確に察した。やはり、長いものには巻かれた方がよいのかも知れない。少なくとも、その方が自然だ。
「実は」
と長谷部は口をきった。
「そうだった」
成瀬はすばやくさえぎる。
「たしか、まだあの話は聞いていないね。ほら、『サンデー・マガジン』の取材記者の件だよ。いったい、誰がふざけた入れ知恵をしたのか?」
と言いつのる。
これで話題が限定されてしまった。さすがである。その件以外の話は出来なくなる。
「実は、それなんです」
長谷部は繰り返す。
「そうか、わかったのかね?」
成瀬は身を乗り出した。
たくみに先廻りする、やはり、なかなかの狢《むじな》と言えよう。
「わかりました」
と長谷部は打ち明けた。
追いつめられた感じである。そうせざるを得なくなった。これ以上抵抗すると状況が変わる。下手をすれば、逆に疑われる。後になって収拾がつかなくなる。
「よく調べてくれた」
成瀬は相好を崩した。
「さすがだね」
と感じ入ったようにつけ加える。
「意外な人物でした」
と教える。
「ほう、私の知っている男かね?」
興味深げな顔付きだ。
「はい」
長谷部は短く答えた。
その方が効果的なのをよく知っている。
「誰だね? ずばりと言ってくれたまえ」
と促す。
「かまいませんか」
一応、たしかめた。
「かまわんとも、誰の名前を聞いたって驚かんよ。それに、ここにはきみと私の二人しかおらん」
と強調する。
「では、申し上げます」
長谷部は珍しくもったいぶった。
「接触したのは、勝田前副頭取です」
と打ち明けた。
成瀬昌之の顔が俄かに険しくなった。
表情が厳しく引き締まっただけではない。明らかに怒りの色があらわれている。頬の一部が上気した。
「いまの話、たしかだろうね」
と念を押す。
「残念ですが、間違いありません」
と長谷部は答えた。
「なにしろ、きみの調査だ。よもや間違いはないだろう」
と成瀬は認めた。
「すると、勝田がその取材記者に会って、資料を渡し、何のかんのとごたくを並べたてたんだな」
とたしかめる。
「その通りです」
長谷部は頷いた。
「もともと勝田はあまり信念のない根無し草のような男だ。きみも知ってるように実力もない。長年にわたって、杉本富士雄のイエスマンを務めてきた」
と言って、言葉をきった。
「そうか、杉本がやらせたのか?」
と訊く。
「その通りです」
「それじゃ、最初から杉本がやったとどうして言わんのだ」
成瀬は激昂して詰った。
声が震え、両の眼が怒りに燃えている。いまや、強い眼光が彼に注がれていた。
「取材記者に接触したのは、あくまでも勝田前副頭取です。最初の段階ではそれだけしかわかりません。次いで、取材が始まってから、不意打ちに杉本前頭取が出てきて、今度は二人が取材記者の質問に応じたわけです」
と長谷部は説明した。
「結果として、いまでは杉本前頭取がすべてを演出したらしいということがわかりましたが、それは後ではっきりしたと言った方がよいでしょう。したがいまして」
「わかった」
成瀬はさえぎった。
「どうもいかん。つい、我を忘れた。取り乱してすまなかった」
と詫びた。
「きみに当たっても何にもならん。わるいのは杉本と勝田のタッグチームだ。またぞろ、何やら画策している」
成瀬は声のトーンを落とした。
どうやら冷静になったらしい。顔の赤味も消えている。一時の激昂はやむを得なかったのかも知れない。さすがに、成瀬は立ち直るのが早かった。あまり時間が経過しないうちに冷静さを取り戻した。
長谷部はほっとして、微かな溜め息をついた。
「やれ、やれ」
と呟きたくなったが、成瀬頭取の前である。そうもいかない。
成瀬は完全に立ち直っていた。気の強い人物ではあったが、急激な激昂ぶりを素直に詫びた。おそらく、自分でも思いがけなかったに違いない。
杉本、勝田の先輩二人に対して、成瀬はかなりの嫌悪感を抱いている。以前起こった富桑銀行との合併問題で、合併反対派であった成瀬は、推進派の杉本富士雄に呼びつけられて何度も説教された。
成瀬は、それをその都度はねつけた。いまから考えると、自分でもよくやれたと思う。なにしろ、当時の杉本は頭取で、行内最大の権力者であった。
杉本は何度説得しても、成瀬が承諾しないので、サジを投げた。そして、成瀬を追い出そうとした。
危なかった。よく耐えられたものだ。腹立たしいことばかりの連続であった。それでも耐えた。そのおかげで今日がある。
もっとも、あの時追い出されて、関連の子会社へ行かされるか、取引先の企業へ出ていたら、かりに杉本体制が崩れても戻れなかった。
銀行という職場はそういうところである。三十代、四十代の行員で勉強のために出向させられた行員は別だが、そうではなく、何らかの結論を出されて他の職場に移った者に将来はない。彼等が再度銀行に戻ることは特別の例外を除いて、まずなかった。
成瀬の場合もそうである。他社へ出される直前であった。あと半月遅ければ、彼は出されていた。その場合はもうおしまいだ。成瀬が合併を阻止したかたちになり、功労者だという事実がはっきりしていても、駄目なのである。残った者たちに感謝はされるが、それだけだ。とうてい、「頭取の椅子」など廻ってはこない。運が良かった。いまにしてそう思う。だが、その都度、あの杉本富士雄のやり口が忌々しく思い出される。
勝田忠はその杉本の腰ぎんちゃくだ。さして能力はないのに、イエスマンに徹してこの地位まで登りつめた。世の中には、たとえイエスマンであれ、何であれ、副頭取まで登りつめればたいしたものだという人がいる。大株主や有力取引先の社長たちの中には、口に出してそういう人までいた。が、成瀬はそうは思わない。それどころか唾棄すべき人物だと思っている。
ともあれ、成瀬の杉本と勝田に対する憎しみは相当なものである。
長谷部はそのへんの事情をよく知っていた。彼は合併反対派であったから、成瀬の当時の心情や苦しみはよくわかる。
松岡は当初こそ杉本派であったが、途中から成瀬の許に走り、反対派としてさまざまな画策を手伝った。成瀬派でもっとも動いた男といってよい。
石倉は総合企画部長として、杉本の指示に従い、合併進行の手伝いをした。したがって、最初から杉本派である。彼は終始杉本のために動いた。
そして、合併問題が白紙還元されて、はっきり失敗と映った時、杉本、勝田が去ると同時に銀行を去った。それはそれで立派な行為と言えよう。
こうして、長谷部、松岡、石倉の三人は、期せずして少しずつ別の道を歩くことになった。長谷部と松岡は銀行にいるが、石倉はいったん大蔵大臣を務めた政治家の秘書になり、次いでメーカーの取締役に就任した。すでに述べたように現在は、総務、経理担当の役員として活躍している。
とはいえ、依然として三人の友情は変わらず、相変わらず結束は固かった。
長谷部には成瀬の気持ちを思いやる余裕がある。頭取の急激な感情の高ぶり、いましがた見せた激昂ぶりも、むしろ、正直な気持ちのあらわれと見た。
「生意気なことを申し上げるようですが」
と彼はことわった。
「何かね?」
成瀬はもう冷静になっている。
「頭取のお気持ちはよくわかります。いまになって、あの二人がまた口を突っ込んできて、われわれの足を引っ張ろうというのは許せません」
はっきりと言った。
「そうだろう。それに週刊誌に間違った情報を流すとは、ずいぶん卑劣なやり方だ。とうてい、前銀行頭取のやることとは思えない。聞いて呆れるよ」
成瀬の口調にはまだ忿懣が残っている。
「私もそう思います。ある意味では内政干渉のようなものです」
「その通りだ。断じて、これ以上の手出しをさせるわけにはいかん」
きっぱりと言う。
「そこでだ」
成瀬は身を乗り出した。
「きみはどう思う。あの二人、今回はまんまと失敗したとわかって、このまま敗北を認めて、黙って引っ込むかね?」
真剣な表情で尋ねた。
長谷部は成瀬にじっと見つめられているのを感じた。
「あの二人はとにかく元気です。それにはっきりしているのは、二人揃って暇で、時間を持て余しています」
と前置きした。
「そうだな。きみの言う通りだ」
成瀬も同意する。
「したがいまして、とてもこのまま引っ込むとは思えません。おそらく、あれは前哨戦のようなものでしょう。失敗してもそれほど気にしていないような気がします」
と思ったままを述べる。
「すると?」
成瀬は先を促す。
「これからの方が、むしろ、厄介な問題が起こるのではないでしょうか?」
「うーむ」
と成瀬は唸《うな》った。
「やはりそうか? あれは宣戦布告の合図のようなものだな」
とつけ加える。
「そう思います」
長谷部は頷いた。
「では、こちらも臨戦態勢を取らなければならん」
成瀬は渋面を作った。
「しかし、当方から仕掛けるわけにはいかない。あくまでも、相手が何か仕掛けてきたら、それが成功しないように防ぐ。それしか方法がない」
と言い添えた。
「その通りです。とにかく、守り専門になりますので、担当者は大変だと思います」
と長谷部は言った。
「担当者?」
成瀬は妙な顔をした。
「担当者だって? きみが担当してくれるんじゃないのかね?」
とたしかめる。
「こういう問題は、すべて総務部長の担当になる筈です。けっして私が責任逃れをするわけではありませんが、組織上、総務部及びその担当役員の責任になります」
と伝えた。
「わかった。松岡くんだな?」
「そうです。彼ならきちんとやれると思います」
はっきりと言う。
その時、ノックの音が聞こえて、女性秘書が入室してきた。
「何だね?」
と成瀬は眼を剥く。
女性秘書はおそるおそるメモをさし出した。
成瀬はメモを読んだ。
むっとした表情で女性秘書をひと睨みする。
「秘書課長をすぐ呼びたまえ」
と命じた。
長谷部は若い女性秘書が気の毒になった。そんな言い方をしなくてもいいのにという気さえする。
ノックの音が聞こえた。入れ替わって秘書課長が入ってきた。
「融資常務会が始まるそうだが、いま大事な話をしておる。三十分遅らせたまえ。わかったね」
と念を押した。
「はい」
秘書課長はそう答えて丁重に一礼し、早々に部屋を出た。頭取の機嫌があまりよくないのを敏感に察知したのである。
成瀬は秘書課長が部屋を出たのをたしかめてから振り返った。
「担当が総務部だというのはわかったがね。なにしろ、松岡くんはまだ就任したばかりだ。総会屋対策はじめいろいろな事柄が一度に彼の肩に掛かってくる。こんな問題まで任せて大丈夫かね?」
と小首をかしげる。
「松岡くんは私よりずっと柔軟性があります。私は一本調子ですが、彼は清濁合わせ飲むことだって出来るでしょう。あれで、なかなかのやり手ですから、仕事が増えれば増えるほど、ファイトが湧くタイプです。ご心配には及ばないと思います」
長谷部は真剣に弁護した。
「そうかね?」
成瀬はまだ疑わしそうだ。
「きみの松岡びいきはよくわかっている。きみと松岡くん、それに石倉くんの三人がいまだに親友だということぐらいはちゃんと耳に入ってくる」
とつけ加えて、にやりと笑った。
「たしかにおっしゃる通りです」
と長谷部は認めた。
「われわれ三人は、以前もいまも気が合っています」
「そうだろう。近頃、石倉くんにも会っているのかね?」
と訊く。
「このところ、ちょっとごぶさたですが、近いうちに会おうと思っています」
「会ったら、よろしく伝えてくれたまえ。彼だって、ある意味で杉本前頭取の犠牲者だ。あんなことさえなければ、当行の役員になっていることだけは間違いない。とにかく、担当は総務だが、きみにも協力して貰いたい」
成瀬ははっきりと告げた。
長谷部は頭取室から戻ってきた。
予想したよりずっと長く引き留められた。成瀬自身もスケジュールを三十分ずらした程である。問題が問題なので仕方がないとはいえ、成瀬はかなり憤慨していた。
無理もない。杉本富士雄と勝田忠は成瀬の天敵のようなものだ。
もちろん、杉本と勝田の側もそう思っている。おそらく、このままではすまさない。必ず何か仕掛けてくる。厭な予感がした。こういう予感はしばしば当たる。
「まいったな」
口の中で呟きつつ自席に坐った。
机上にはいくつかの書類の外にメモ用紙が何枚も置かれていた。頭取室に居た間に掛かってきた電話のメモである。返事のいるものと、そうではないものに分かれる。
その中に松岡からの内線電話と、石倉からの外線電話が交じっていた。
先に石倉の方に掛けた。
「例の件だが、松岡くんは承知したよ。きみと三人で会うのにこだわったが、お祝いの会より仕事の方が大事だからね。そこを強調するとすんなりいった。やっぱり、われわれは仕事の虫なんだな」
磊落な声が聞こえてきた。
「有り難う。恩にきるよ」
と長谷部は答えた。
「ところで、うちの成瀬頭取がきみによろしくと言っていた」
とつけ加える。
「ほう、どういう風の吹き廻しかね」
「きみが当行に残っていたら、間違いなく役員になっていたそうだ」
「それは有り難い。だが、すでに遅い」
石倉はしんみり言った。
やはり、銀行を出たのを後悔しているのであろうか、一瞬、長谷部はそう考えたが、すぐに否定した。
「いまのきみには迷惑な話だろう」
「そうでもないが、メーカーに来てよかったよ。大いに視野が拡がった」
さばさばと言う。
「やはりね。銀行というのは特殊社会なんだろうか? どうもこの頃、井の中の蛙になっているような気がしてならない。きみの視野が拡がったという感想には、なかなかリアリティーがあるよ」
つい本音を吐いた。
「その話は会った時にゆっくりやろう」
「どうも、すまない。電話で妙なことを言ってしまった」
「とにかく、松岡くんの件、引き受けたよ」
石倉は力強く言った。
石倉への電話をきってから、松岡のことが気になった。石倉に任せておけばよいとは思う。そう思ったからこそ、あえて石倉に依頼した。石倉もあうんの呼吸でわかってくれた。快く承諾し、自分から松岡に連絡してアポイントを取りつけた。
あとは石倉に任せる。それでよいと考えた。だが、長谷部が頭取室へ行っている間に、松岡から電話があった。メモ用紙に書いてある。何か用件が出来たのか?
結局、長谷部は内線電話のナンバーをプッシュした。
松岡本人が出た。
「先程はすまなかった。ちょっと離席していてね」
と言い訳する。
「知ってるよ。ずっと頭取室へ行っていたんだって?」
いくらか揶揄気味の声だ。
「実はその通り。ちょっと掴まってしまって予想以上に時間が掛かった」
さらりと応じた。
「いいな、きみは頭取にすっかり信頼されているようだ」
いくらかうらやましそうな口調である。
「それはどうかな?」
長谷部は疑問を呈した。
「きみだって同じじゃないか? むしろ、そちらの方が密接な関係だろう」
とつけ加える。
「たしかに、そういう時期はあった。もっとも近かったのは、やはり、あの合併騒ぎの時だよ」
「いまだって、似たようなものだろう」
「それがね」
と言い淀む。
「ちょっと耳に入れておきたいこともある。あと十五分位したら、そっちへ行くよ」
と言い張った。
「いや、こっちから行こう」
と長谷部は提案する。
「いまはきみの方が忙しい。なにしろ、新任の総務部長だからね。席をはずさない方がいいだろう」
「そうか、じゃあ頼むよ」
松岡はあっさり折れた。
「急いで一人お客さんを片付ける。十五分後によろしく」
「了解」
長谷部は受話器を置き、腕時計を見た。
彼はすぐ机上に置かれた書類の山に立ち向かった。チェックをし、次々と印鑑を押してゆく。十五分はすぐに過ぎた。
長谷部は、「総務部長席へ」とことわって席を立った。
フロアが違う。エレベーターを使わず、階段を下りた。
松岡は壁際を背にした総務部長席に居た。大きな机の上には書類が山積みされている。訪問客が多くて、じっくり書類を見る時間がないのだ。こういう状況だと、どうしても夜遅くなる。
やはり、松岡の顔色はあまり良くなかった。表情に疲れが見える。いくらか窶《やつ》れているような気もする。
「このところ、連日午前様でね」
と松岡の方から言った。
「あっちへ移動しよう」
と応接室を指さす。
「ただし、ドアは開けておくけど、それでいいかね」
とたしかめる。
「その方がいい。誰が相手かわかった方が面倒くさくない」
と長谷部も応じた。
「そうなんだ。来客中だとわかれば遠慮する者もいるしね」
言いつつ立ち上がる。
「さあ、どうぞ。紅茶でいいかな」
「コーヒーは飲んだばかりだ」
「頭取はコーヒー好きだからね」
「その通り、あまり時間が無いんだろう」
と長谷部は用件を促した。
「そうせかすな。紅茶ぐらいのんびり飲ませてくれ」
松岡は口を尖らせた。
「なんだ。ひと休みのつもりで呼んだのか?」
「それもある。だが、用件もあってね」
「だろうな」
「石倉くんが電話をしてきて、早急に会いたいと言ってきた。二人だけで」
と打ち明ける。
「急に彼が総務担当取締役なのを思い出してね。業種は違うが、少しノウハウを聞いておきたい。あんた抜きだが、いいかね?」
と訊く。やはり、気にしたのだ。
「もちろん、遠慮なく二人でやってくれ。その代わり、お祝いの会の時は忘れず仲間に入れてくれよ」
と念を押す。
「当たり前だ」
何を言うのかと言わぬばかりの口ぶりだ。
「それなら文句は申しません」
「では、この件は終わり。実はね、もう一つある。先日、勝田前副頭取が電話をしてきてね。早急に会いたいと言ってきた」
松岡はこころもち顔をしかめた。
松岡がどう考えているのか? 表情を見てわかった。彼はこころもち顔をしかめたのである。
やはり、あまり歓迎してはいない。いや、むしろ迷惑がっている。それで長谷部に打ち明ける気になった。たぶん、そうだ。
「なるほど」
と長谷部は答えた。
「勝田さんだけなら何ということもないんだが、どうも背後に杉本さんもいるような気がする。なにしろ、以前博多で一杯くわされた。勝田さんだけだと思って出掛けてみると、杉本さんもいた。まさか帰ってくれとも言えない。ずるずると付き合っているうちに向こうのぺースに引き込まれた。これがあの時の真相だ。おかげで、成瀬頭取にはすっかり憎まれてしまった」
と松岡は言いつのる。
「今度もまた同じような目に遭いたくはないからね。ましていまは役員になったばかりだ。頭取に誤解されるのも困る」
とつけ加えた。
「よいところに気が付いた。打ち明けて貰ってよかったよ」
と長谷部は応じた。
「もし、きみがこのまま会いに行っていたら、また前回の二の舞いになっていたかも知れない。間違いなく、杉本さんは出て来るよ」
と言い添える。
「え、ほんとうか?」
松岡は怪訝《けげん》な顔をした。
「どうしてそんなことが言える?」
と突っ込んできた。
松岡は週刊誌をめぐるいきさつをまったく知らない。が、新総務部長としては、解決済みの出来事とはいえ、知っておくべきだ。まして、杉本や勝田がからんでくるのであればなおさらである。
実は、と前置きして、長谷部は「サンデー・マガジン」をめぐっての経過をかいつまんで語った。
松岡は驚いて熱心に聞いた。杉本と勝田のコンビが仕掛けたのを知ると、彼は呆れ顔になった。
「間違いはないんだね」
とたしかめる。
「残念ながら、すべて事実だよ」
長谷部は頷いて見せる。
「まったく、何という爺さんたちだ」
「お年寄りの執念は恐いよ」
「よほど成瀬頭取が憎いんだな」
と口許を歪める。
「それもあるが、暇なんだよ」
と長谷部は応じた。
長谷部と松岡は、改めて相談して彼等なりの結論を出した。
松岡がこのままの状態で勝田に会い、その席に杉本があらわれた場合、また誤解を招きかねない。それをさけるためには、事前に成瀬の耳に入れた方がよい。その結果、成瀬が会うなと言ったら、勝田の誘いを断る。それでよいではないか?
要するに、頭取に任せてしまう。長谷部はそう提案し、松岡も賛成した。
長谷部が帰ると、松岡はすぐ秘書課長に連絡して、頭取への面会を頼んだ。
偶然に空いていたのかどうか、よくわからない。が、二十分過ぎるか過ぎないうちに秘書課長から電話が入った。
「頭取室へおこし下さい。三十分程で出掛ける予定が入っておりますが」
「わかりました。すぐお邪魔します」
松岡は受話器を置くと、早足でエレベーターホールへ向かった。
三十分も掛かるとは思えないが、こうなったら、出来るだけ早く頭取室へ飛び込んだ方がよい。この際、一分でもよけい確保すべきだ。ようやく、持ち前のファイトが湧いてきた。長谷部のおかげなのか、杉本、勝田コンビのせいなのかはわからない。おそらく、その両方であろうという気がする。
ノックをした。
「どうぞ」
という声を待って中に入った。
「こっちから声を掛けようと思っていたところだよ」
成瀬は立ち上がってソファへ移動する。
「今日はコーヒーを三杯も飲んでいる。日本茶がいいかね」
と訊く。
「けっこうです。胃の調子がわるくて、コーヒーはやめています」
松岡は正直に答えた。
「それならちょうどよかった。ちょっと元気がないようだが、胃のせいかね?」
「そうだと思います。少しばかり緊張しすぎました」
「あまり暢気なのも困るが、緊張しすぎるのもどうかな? きみは役員になったばかりだ。先が長い。いきなり全力疾走する必要はないからな」
と諭すように言う。
「有り難うございます。ご心配をお掛けしました」
松岡は頭を下げた。
「せっかくご指名頂いたのに、面白い挨拶も出来ませんで」
「あれか、がっかりしたよ」
成瀬はにやりと笑った。
松岡は顔をしかめた。忸怩《じくじ》たる思いがこみあげてくる。
「気にしなくていい。胃の調子がわるい時は誰でもあんなものだ。ただ、あれがきみのいつもの姿では困る。取締役に昇格させた甲斐がない」
と成瀬は言った。本音であろう。
「申し訳ありません」
松岡はもう一度叩頭した。
「早く胃をなおしたまえ。疲れた時は三十分、四十分という遅刻をしてはいかん。昼までぐっすり眠って、午後出てきたまえ。部下たちには何処かへ寄ったと思わせておけばよろしい。わかったね」
と念を押す。
「わかりました」
松岡は元気を取り戻しつつあった。
成瀬の思いやりが感じられて、気分が良くなったのだ。となると、やはり、精神的なものが大きかったのかも知れない。
「ところで、きみの方の用件は何だね」
と成瀬はちらりと腕時計を見ながら尋ねた。
「ほかでもありませんが、また妙な亡霊があらわれました」
と告げた。
「亡霊だって? そりゃあまた何の話だね。いまどき珍しいな」
成瀬は興味を示した。
「むしろ、亡霊みたいな人たちと言いなおした方がよいかも知れません」
「ほう」
「実は、勝田前副頭取が電話してきたんです」
と教えた。
「勝田が?」
と呼び捨てにする。成瀬の表情がいくらか険しくなった。
「役員昇格祝いに、一度食事でもしようという誘いの電話です」
「それで、きみはその誘いに乗ったのか、それとも、これから乗るつもりかね?」
と険しい顔のままで訊く。
「乗ってはおりません。また、乗るつもりもありません。前回、博多でまんまと騙されているからです。あの時も、まず勝田さんが電話をしてきて、近くまで来たと言いました。ぜひ会いたいと言われて出て行くと、杉本さんがいました」
もっぱら訴える口調だ。
「あの二人、いまだに懲りもせず、つるんで歩いているからな」
成瀬は不快そうに口許を歪めた。
「それで、今度も、あの時とまったく同じ方法《て》を使うつもりではないかと思います」
松岡は考えた通りを口にした。
成瀬は頷いた。
「だろうな。勝田一人では何も出来ん。裏で杉本が指示を出しておる」
表情の険しさはいくらか柔らいだ。
「私もそう思います」
松岡は同意した。
「実は、最近もいろいろあってな。あの二人が挑戦してきたとしか思えん」
「長谷部くんから聞きました。そんなことがあったと知っては、のこのこと出掛けて、会うわけにはいきません」
松岡はきっぱりと言う。
成瀬はもう一度ちらりと腕時計を見て、インタホンを押す。
「出発を三十分延ばす。先方に連絡してそう伝えてくれ」
と秘書課長に命じた。
「どうも申し訳ありません」
と松岡は詫びた。明らかに、自分が頭取室へ来たための遅れである。
「なあに、三十分位延ばしても影響のない相手だよ」
と成瀬は応じた。表情から険しさが消えた。すっかり元に戻っている。
「きみ、いまの話だがね。ぜひとも出掛けてくれ」
とつけ加えた。
「え、行くわけですか?」
松岡は訊き返した。
「その通り。最初は勝田一人しか来ないかも知れんが、それならそれでよろしい。とにかく、出来るだけ杉本を引っ張り出すようにしたまえ」
と成瀬は指示する。
「はあ」
松岡はいくらかあっけにとられた。
「あの二人は、またきみを籠絡《ろうらく》して味方につけようとしている。そこで、きみは新任の取締役になったばかりで、いささか図に乗り、有頂天になっている御しやすい人物になりきる。演技力だよ。きみ、そのくらいの役はこなせるだろう。どうだね?」
とたしかめる。
「出来るとは思いますが」
「もちろん、出来るさ。すっかり相手のペースにはまり込んで、向こう側に付いたような格好になって、いろいろと様子を探ってくれ。相手の手の内がわかれば、こっちも対抗しやすいからね」
成瀬の表情は生き生きしている。
「どうだね。やってみてくれ。これはきみでなければ出来んよ」
と成瀬はおだてた。
松岡は承諾のしるしに深く頷いた。
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第八章 次の段階
松岡紀一郎は頭取室を出ると、自席へ向かわず、まっすぐ長谷部敏正の席へ行った。
「いま、戻ったところだよ」
松岡はそう言って、階上を指さした。
頭取室から戻ったという意味である。
「案外、早かったね」
長谷部は立ち上がって、応接室へ移動する。周辺の人に聞かれては困る話だ。
松岡は先にさっさと応接室に入って、長谷部を待ち受ける。
「三十分後に出掛ける予定があったところへ割り込んだ。そうしたら、頭取の方から出発を三十分も延ばしてくれてね」
松岡は少し得意そうに言う。
「そいつはすごい。めったに予定を延ばしたりしない人だよ。きみとの会合に時間をさきたかったのだろう」
と長谷部はもちあげた。
「そうかな?」
と首をひねりながらも、松岡は嬉しそうな顔をした。
どうも上位指向が強い。成瀬に目を掛けられているとわかると、とたんに元気になる。松岡の場合、それがかなり極端である。その代わり、これが逆になると元気を失う。
ここ数日の彼の元気のなさは、対頭取との人間関係ではなく、仕事の重圧であった。総務部長というポストをあまり喜んでいない。松岡が仕事で悩むのは、むしろ珍しかった。それだけに、長谷部は気にしたのだ。
ところが、いま眼の前にいる松岡の顔色はきわめて良い。頭取室での興奮がまだすっかり覚めてはおらず、頬がいくらか上気しているせいかも知れない。
「それで、例の二人の件、きちんと話したんだろうね」
と長谷部は促した。
「言いましたよ。ありのままに伝えた」
「どうだった? 頭取の反応は?」
長谷部の方が身を乗り出す。
「始めはむっとしてね。急に表情が険しくなった」
と松岡は教えた。
「そうだろう。あの二人の名前はタブーだからね」
「しかし、言わざるを得ない。きみの主張は正しい。いま言っておかなければ、また誤解を招くことになる」
「その通りだよ。それも、きみ自身の口から打ち明けるのが一番いい」
と長谷部は指摘する。
「たしかに、きみの助言が利いたよ。改めて礼を言う」
松岡は軽く頭を下げた。
松岡のいつもの頭の下げ方は何となく軽くて、キザっぽい。
それが元に戻ったのを長谷部は見た。
この分だとかなり立ち直っている。あとひと押しだ。そのひと押しは石倉に任せてある。石倉なら上手にやってくれるだろう。そう確信したせいか、長谷部の表情も明るくなってきた。
「やはり、あの二人には会うな。以後、かかわりを持つなとの命令かね?」
長谷部は聞きたくてうずうずしていたことを訊いた。
「それがね」
と松岡は言い渋る。
「きみはどう思う?」
と逆に尋ねた。
「どう思うと言われてもね。こっちは頭取じゃないんだから」
長谷部はかわした。
「あの二人とは、むしろ親密に付き合えとの命令でね。とくに昇格していささか図に乗った御しやすい人物の役を演じるようにとの指示なんだ。油断させて、向こうの本音というか、いわば戦略を引き出す役目だよ」
松岡は打ち明けた。
「なるほど」
長谷部は腕を組んだ。
「さすがは頭取だな。相手がきみにさしのべてきた手を利用して、逆に罠に掛けようとの魂胆だ」
「そういうことになる」
松岡も同意した。
「これは、相当きみを信用していなければ頼めないことだよ」
と注意を促す。
「そうかなあ」
松岡は嬉しそうな笑いを浮かべた。
「もし、きみが裏切るかも知れないという心配が少しでもあれば頼めない」
と長谷部は主張する。
「そんな気がしないわけでも」
松岡はわざと曖昧に言う。
「わかってるくせに。状況はすでにしっかり見えている」
「まあね」
「それで、頭取の命令に従うんだね」
とたしかめた。
「もちろんだよ」
松岡は頷いてから、急に表情を引き締めた。
「ただし、これははっきり言ってスパイ行為だ。後になって、何か問題が生じるかも知れん。その時はきみが証人になってくれ。それを頼みたくて、まっ先にきみの席に来た」
松岡はそうつけ加えた。
松岡は言うだけ言うと、さっさと立ち上がった。
「じゃあ、失礼、頼んだよ」
右手を勢いよくあげて、自分から先に応接室を出て行った。長谷部は取り残された。
「なるほどね」
と呟いて、改めて腕組みする。
成瀬もあざとい方法《て》を考えたものだ。これで松岡も疑われなくてすむが、うまくゆくかどうか? 勝田はともかく、杉本はなかなかの策士である。
もし、松岡が以前と多少でも違う態度を取ったら、すぐに何か感付く。感付けばそのままではすむまい。直ちに手を打つだろう。果たしてどんな手を打つか?
杉本富士雄は長年、三洋銀行の頭取として君臨してきた人物だ。その経験は成瀬の比ではない。富桑銀行との合併問題で失敗しなければ、現在もまだ頭取の椅子に坐り続けていたであろう。
それを考えると、長谷部は何となく胸騒ぎを覚える。引退した老人だなどと思って甘く見ると、たいへんなことになりかねない。
いまのところ、成瀬も松岡も張り切っている。もちろん、きちんと対応するだろう。だが、杉本と勝田が試みた手段、週刊誌に三洋銀行の誹謗記事を出させようというのは、かなり汚い手である。紳士の道からはずれる。以前の杉本なら、まず、そんな方法《て》は使わない。もっと正々堂々と正面から攻めてくる。
長谷部はあれ以来、会っていないが、杉本自身が変化している。それも悪い方へと変わっていると思わざるを得ない。
もともと銀行はスキャンダルに弱い。不良債権が増え、銀行の経営危機が叫ばれているいまは、なおさらその感が強い。総会屋との強い癒着と利益供与が明るみに出てしまったある大手銀行では、わずか半年ほどの間に一兆円を超す預金が流出してしまった。
これは取引客、即ち預金者の無言の抗議といってよいだろう。この程度ならよかろうという甘さは通用しない時代になった。預金は銀行の基礎体力といってよい血や肉に当たる。その大切な預金が、ごく短い期間のうちに一兆円以上も流出してしまったということになると、大きな問題だ。
とにかく、一番悪いのは当の総会屋であるが、その総会屋を必要以上に恐れ、良い顔をし、事なかれ主義に徹したトップ以下の経営陣の責任は大きい。総退陣したぐらいではすまないと言えよう。
「どうも近頃は胡乱《うろん》なことが多い」
と長谷部はぼやいた。
松岡は自室に戻った。机上には書類が山積みされていた。
「まったく見事だなあ。よくもこんなに積み上げられたものだ」
と大声で言って、周囲を見廻す。彼本来の、日頃の剽軽《ひようきん》さが戻ってきた感じだ。
副部長や次長以下、周辺の者たちもひかえ目な笑い声をあげた。松岡の反応に呼応したのである。
頭取室へ行く前までの松岡はむっつりと押し黙ったまま憂鬱そうな顔をしていた。とても何か話し掛けられる雰囲気ではない。どうしても伝える必要のある用件だけ口にすることになる。それに対しても、松岡は無愛想な表情で、さも不快気に応じた。これでは部内の雰囲気が明るくなるわけはなかった。
それがいましがたの松岡のひとことで払拭《ふつしよく》された。部員たちは敏感にそれを感じたのだ。とはいえ、まだはっきりしたわけではない。とても大声では笑えない。そこでひかえ目な笑い声をあげた。
松岡は自席に坐った。周囲の期待が何となくわかる。忸怩《じくじ》たる思いがこみあげてきた。自分のことしか考えず、部員たちの気持ちを考えてもみなかった。
「仕方がない。コメつきバッタの真似でもして、ハンコ押しに掛かるとしようか」
と大声で言った。
あちこちで笑い声が起こる。先程よりいくらか大きい。まだ効果はさほどではないが、少しずつ上がり始めている。まあ何とかなるだろうと思う。こっちの方は自信があった。
電話のベルが鳴った。まだいくらも印鑑を押していない。
「はい、松岡です」
受話器を取るや、先に名乗った。
もともとこれが松岡流のやり方だ。鷹揚に「もし、もし」などと言っている人にくらべると、ずっと会話のテンポが早い。相手に対してイニシアチブをとるとか、機先を制するのに役立つ。
「やあ、張り切ってますなあ。勝田ですよ」
と相手は名乗った。
「さすがですなあ。新任取締役はやはり違う。総務部長にもうってつけだ。あなたの場合は業務推進部ではもう定評があったんだから、今度のポストをこなせば、さらに上を目指せる。常務、専務と道が開ける」
とつけ加えた。
黙って聞いていると、別に冗談でもお世辞でもなく、本気に聞こえる。これは勝田忠の人柄なのかも知れない。あまりあからさまではないのに、結果として、誉めている。やはり、相当な誉め上手だ。
松岡はちょっと顔をしかめた。だが、あまり厭な気はしない。
彼は誉め言葉が嫌いではなかった。それに勝田の誉め方が実に上手で、さり気ない。相手に阿《おもね》るような調子がなく、それほど持ち上げているわけでもなかった。
そうはいっても、勝田はかつて副頭取をしていた。その前副頭取に「常務、専務への道が開ける」などと言われると、けっしてわるい気はしない。
もし、成瀬に呼ばれて、あの二人に出来るだけ近付けといわれていなければ、この誉め言葉は何となく気味がわるい。とても素直には受け取れない。
ところがどうだろう。いまは気持ちが落ち着いている。大らかな気持ちになっていると言い換えてもよいくらいだ。
「どうも有り難うございます」
と松岡は礼を言った。
「近頃、あまり人に誉められたことがありませんのでね。そんなふうに言って頂けると嬉しいですよ」
とつけ加えた。
「いや、これは誉め言葉ではありません。単なる感想です」
勝田はひかえ目に言う。
「それなら、なおさらですわ」と応じた。
「ところで、先日お話ししたあなたの昇格祝いの件ですがね」
と勝田は本題に入った。
そら、おいでなすった。これからじりじりと攻めてくるぞ、と思うと、ついほくそ笑みが浮かんだ。
「ああ、あれですか。やはり、ちょっと図々しいと思いましてね。この際、遠慮させて頂こうと思っております」
はっきりと告げた。
勝田は慌てた。松岡を引っ張り出す件はすでに杉本に報告済みである。杉本は当然のように、自分も出席する気でいた。いまになってのキャンセルは困る。勝田の立場が失くなってしまう。
松岡は冷静だ。受話器のこちら側で、じっと耳をすませている。何となく勝田の慌てぶりが伝わってきた。
「いまさら、それは」
と勝田は言った。
「困りますよ。すでに料理屋も予約してありますしね」
「ほんとうですか?」
と松岡は驚いたふりをする。
「それはどうも申し訳ありません」
とあっさり詫びた。
勝田は慌てた。こんなつもりではなかった。
すでに日程が決めてあった。小料理屋を予約したのも事実だ。それなのに、松岡はお祝いの会そのものをはっきりと断った。おかげで浮き足立ち、ペースが狂ってきた。
いや、待てよ。ひょっとして成瀬が気付いて横槍を入れたのか?
それはあり得る。あり得ないことではない。もし、そうだとしたら? 勝田は首をひねった。こんな時、杉本ならどうするか?
よくわからないが、少なくとも、こんなふうに慌てることはなかろう。落ち着け、落ち着けと勝田は自分を叱責した。
それにしても、すでに沈黙しすぎている。さいわい、相手は気長に待っていた。
松岡は受話器に耳を当てたまま、書類の点検を始めた。いささかも退屈していない。三十分でもこのままでいられる。
「もし、もし」
と勝田は意気込んで言った。
「聞いていますよ。どうぞ」
松岡の落ち着いた声が聞こえた。
「どうも失礼した。ちょっとほかの事が頭に浮かんでしまってね」
と言い訳する。
「よくあることですよ」
「そうだ。お祝いの会のことだった。いま手帳を見ている。ちょっと待って下さい。やはり、この前決めた日でいいでしょう」
と言いつのる。
「その会はご遠慮申し上げたいんですがね」
と松岡は答えた。
このご遠慮という言葉に勝田は希望をつないだ。これは断固たる拒絶ではない。十分に脈がある。大丈夫だ。成瀬からの横槍はなかったと考えてよいだろう。もしあれば、こんな断り方ではすまない。
「まあ、そう言わずに、ここは年寄りの顔を立てて下さい。場所は日本橋の小料理屋ですからね。もうおかみに頼んである。あとはわれわれが行ければいいんですよ」
と説得口調で言い張った。熱意が受話器を通して伝わってきた。
「いいんですか、お言葉に甘えて」
松岡はやんわりと言った。
受話器を置いてから、松岡紀一郎はにやりと笑った。ほくそ笑んだといってもよい。
効果はあったと判断したのだ。引退したとはいえ、相手は前副頭取である。当時、松岡はまだ取締役にもなっていなかったから、勝田忠は雲の上の人と言える。そういう人物と対等以上にわたり合った。
満足感がこみあげてきた。すると、不思議なことに気付いた。胃薬を飲んだわけでもないのに、胃の中がすっきりしてきたのだ。いつの間にか、もたれがなくなり、重苦しさが消えている。
「なんだ、これは?」
思わず呟いた。
もちろん、嬉しい疑問である。どうやら、少しずつではあったが調子が良くなってきた。じりじりと以前の自分に戻りつつあるのがわかる。松岡の表情は先程よりもさらに明るさを増した。この明るさは部内にも伝わる。総務部内の雰囲気がすっかり良くなった。
二日後の午後十時、石倉克己はホテルのバーにいた。
松岡と待ち合わせたのだ。石倉は十五分ほど早く来てカウンターに坐った。ジントニックを頼んでゆっくりと飲む。
彼もまた一人でのんびりする時間がなかった。仕事の打ち合わせを兼ねた宴会を一つこなして、タクシーをとばしてきた。
松岡も宴会をこなしていて、九時半、いや、十時の方が確実だと言った。そろそろ抜け出して、タクシーをひろっているだろう。
「あまり慌てないでくれ。もうしばらく一人にしておいて貰いたい」
松岡に向かってそう言いたいところである。当人がいないので、仕方なく、口の中だけで呟いた。
石倉の思いが通じたのか、松岡は約束の十時になっても姿を見せなかった。
石倉は半分ほどに減ったグラスを左手で持ちあげる。それをいったん眼の高さまで上げてから、ゆっくりと口許に運ぶ。そして、少しだけ口に含む。ジンの爽やかな匂いが口中に満ちた。満足した石倉は時間を掛けて飲みほした。
こういう飲み方が、果たして良いのかどうかわからなかったが、そんなことはどうでもよいと思った。
石倉は隣席を見た。誰もいない。カウンターは五つ先まで空いている。
ふと、ここに神谷真知子が坐っていたらと思った。待っているのが、松岡ではなく真知子であったらとの思いがちらりと頭をかすめた。すると、たちまち、この思いは彼の内部へと入り込んできた。
午後九時頃、マンションの自室に帰ってきた神谷真知子は、テレビをつけたまま、そそくさと遅い夕食をすませた。
一人での食事はどうしても手抜きのお粗末なものになる。近頃はとくにその傾向が強い。ニューヨークでの単調な一人暮らしからそうなったような気がする。
女一人の食事には侘しさが付きまとう。理由のあまりはっきりしない侘しさである。それだけに始末がわるい。真知子のような頭脳明晰な女性は、何故か曖昧さを嫌う。
何事も白なら白、黒なら黒、灰色なら灰色でもよいから、はっきり灰色ときめつけてしまいたい衝動にかられる。ところが、女が一人でとる食事の淋しさは、いったい何なのか? 明快に説明が出来ない。
そんなことを言うなら、男だって同じだ。やはり、一人で食事をするのは侘しい。そう言う人がいるかも知れない。しかし、それは違うと彼女は思う。男が一人でとる食事の淋しさと、女一人の夕食とは根本的に違う。真知子はそう思った。
では、どこがどう違うのか、と問われると、答えに窮する。違うから違うでは答えになっていない。強いて解答を出しても、正確な答えになってはおらず、詭弁《きべん》になったり、ごまかしになったりする。
真知子はそれを嫌った。そのため、考えていると苛立ちを覚える。彼女はテレビをきった。すぐに洗い物をする気にならない。たしかに、満腹感はあるが、満足感はなかった。
何となく、人恋しい。ふと、石倉克己のことを思い浮かべた。
ニューヨークへ行く前までは上司であった。彼女をMOF担に抜擢し、男並みにしごいて、働かせた男だ。シャープで、冷静で、あまりものに動じない。なかなかのやり手で、杉本前頭取に信頼され、その|懐 刀《ふところがたな》的な存在になって、合併工作に専念した。最初は、そうとは知らされずに、彼女も利用された。
あの頃は愉しかったという思いが、いまさらのように押し寄せてくる。それが、あまり時間を置かないうちに、彼が近くに居てくれたらとの思いに変わった。
「不思議だわ」
と彼女は呟いた。
柱時計を見ると、十時を五分過ぎている。彼は何処にいるんだろう。いま頃はまだ宴席かも知れない。そう思った時、電話のベルが鳴った。
「石倉です」
という声が聞こえてきた。
石倉克己は十時五分になると、いったん席を立った。
松岡はまだあらわれない。
石倉はこれさいわいとばかり公衆電話のある一角へ歩いて行って、内ポケットからテレホンカードを出した。そして、ためらわず、神谷真知子の自室のナンバーをプッシュしたのである。
予想した通り、真知子はいた。すでに当人が電話口に出ている。
「あら、いま石倉部長のことを考えていたんですよ。いくら偶然にしても、ちょっと不思議だわ。ねえ、そう思いません」
と彼女は訊く。
「それはまた偶然の一致だね。二十分ほど前からホテルのバーにいてね。一人で飲んでいた」
と教えた。
「まあ、お一人で、ずるい」
と真知子はきめつけた。
「どうして、誘って下さらないの?」
いくらか詰る口調だ。
「それはすまなかった。謝る」
石倉はあっさり詫びた。
「実は、この前食事に呼び出したばかりだから、気が引けてね。柄にもなく、これでも遠慮したんだよ」
と打ち明ける。
「そうでしたの」
彼女は納得した。彼がほんとうのことを言っているのがわかった。
「これからは絶対に、遠慮なさらないで、ねえ、お願い」
と頼んだ。声に力がこもっている。
「わかりました。以後、遠慮しないことにいたします」
石倉はわざと丁寧に言った。
「いま、ホテルのバーとおっしゃったけど、どこのホテルですの? 大阪や京都でなければ、これから駆けつけましょうか?」
と真知子は言う。どうやら本気らしい。
「それがね」
と石倉は口ごもった。
「あら、名古屋、それとも静岡あたり?」
首を傾けたような気配が伝わってくる。
「東京都内、それも赤坂」
「なあんだ。近いじゃない。もったいぶってるから、遠い所かと思ったわ」
「どうも、失礼。実は人と待ち合わせているところなんだ」
「わかった。その方が遅れているので退屈になった。それでわたくしの所に」
「いいや、違う。絶対に違う」
石倉はむきになった。
神谷真知子は石倉のむきになった顔付きを思い浮かべた。何となく可愛らしいような気がする。どうして可愛らしいのかはよくわからない。それでも、ほのぼのとしたものがこみあげてくる。
「退屈だから、きみの所に電話をしたと思われては困る」
と石倉は言い張った。
「わかりました」
と真知子はあっさり答えた。
「ほんとうにわかったのかね?」
と石倉はこだわった。
どうやら、あっさり言いすぎたのがいけなかったらしい。
「よくわかりました。先程の言葉、訂正いたします」
今度ははっきりと伝えた。
「わかって貰えればいいんだ」
石倉もすぐ機嫌をなおした。
「待ち合わせの方、もうあらわれたんじゃないでしょうか?」
「来てるかも知れない。だが、今度は向こうが待てばいいんだ」
と素っ気ない。
「まあ」
今度はその人が退屈する番ねと言いそうになって慌てて口を噤《つぐ》んだ。
「十時二十分まで待っても、相手が来なければ、帰っても失礼じゃないだろう」
「そうね。でも、十時のお約束でしょ。三十分まで待ってあげたら」
と彼女は提案する。
「必ずお出でになるわよ」
とつけ加える。
石倉はそれを聞くと、気が重くなった。松岡は遅れてあらわれるような気がする。そして、口先では遅刻を詫びるが、さして気にしてはいない。もともと調子者なのだ。
「このまま席へ戻らないで、何処かへ移動したくなってきたよ」
「いけないわ。三十分位は待ってあげなくちゃ。交通事情もあることだし」
と彼女はなだめる。
石倉が誰と待ち合わせているのかは知らないが、おそらく仕事の相手であろう。少なくとも、女性ではない。となれば、その人を追っ払ってまでもという気持ちは無くなった。
それに、石倉と会うなら、夕方早い時間に会っていっしょに食事をしたかった。一人でとる夕食の侘しさが身に染みたばかりである。もし、いま頃会えば、少し危険だ。危険をおかすのがけっして厭ではなかったが、いざとなると、どうしてもためらいの気持ちが生じてくる。
神谷真知子が抱いた懸念はどうやら石倉克己にも伝わった。
石倉は勘が鋭い。むしろ、鋭すぎるくらいである。受話器を通してではあったが、真知子が何を感じているのかを察知した。
「わかった。十時半までは待つよ」
と石倉は答えた。
「よかったわ」
真知子もすぐに応じた。
「でも、残念ね。そうなると、今夜はもうお目に掛かれませんもの」
と言い添えずにはいられなかった。
やはり、彼女の内部にも残念だという思いが生じていたのだ。石倉はそれを敏感に感じとった。彼女が抱くのはためらいや懸念ばかりではない。そう思うと、大いに慰められた。
「そうだね。こんな待ち合わせはやめて、きみに早く電話をすればよかった」
と石倉は本音を口にした。
「わたくしの方からも、お電話すべきでしょうか? ご迷惑じゃないでしょうか?」
と真知子は訊いた。
侘びしい夕食のことが、またちらりと頭に浮かんだからだ。
「もちろん、迷惑じゃないよ。誘って貰えれば有り難い」
「でも、お仕事の方、お忙しいんでしょ」
「たしかに、そう暇ではないけど、これはもう、きりがないからね。声を掛けて貰えればかえってふんぎりがつく」
「わかりました。では、これからはわたくしの方からも、時折、させて頂きますわ」
と彼女は約束する。
「お願いします。時折ではなく、ちょくちょくでもけっこうです」
「まあ、ほんとうかしら?」
「ほんとうです」
石倉はきっぱりと言った。
二人の会話は後味よく終わったと言えよう。石倉は電話機の並ぶ一角から離れて、もとのバーラウンジへ向かった。
松岡は椅子席にいた。いつ来たのか、すでに飲み物のグラスが前に置いてある。ということは少なくとも数分は経過している。
「やあ、わるかった。ちょっと電話を掛けに行っていてね」
石倉の方が言い訳する。
「遠くからだが、ちらりと眼に入ったよ。愉しそうだったので、これは長引くなと思った。相手は女性だね。それも若くて魅力的な女性《ひと》に違いない」
と言って、にやりと笑う。
「カウンターよりこっちの方がいいよ」
元気な声で言って、ボックス席を指さした。
石倉はわが眼を疑った。
松岡は元気だ。顔色も良く、表情にも張りがある。胃をわるくし、意気|沮喪《そそう》し、陰鬱な気配を漂わせている。石倉はいまのいままでそう思っていた。そんな気配はどこにもない。
眼の前には、石倉がよく知っているいつもの剽軽な松岡紀一郎の姿があった。これでは長谷部に騙されたようなものだという気さえする。
「相変わらず張り切ってるね」
と石倉は声を掛けた。そう言わずにはいられない。
「なにしろ、取締役になったばかりだからね。つらいところだ。少なくとも、周囲には張り切っているように見せなければね」
と右の眼を閉じる。
「とても、見せかけだけとは思えんな。もちろん、元気なのは頼もしい。けっこうなことだよ」
と石倉は応じた。
これではさらに励ましたり、元気づけたりする必要はない。無駄足であったという気さえしてきた。むしろ、自分の方が励まして貰いたいくらいである。
「実は、このところ何日もがっくりきていてね。胃の調子もわるいし、気分も落ち込んでしまった。それで、長谷部くんにずいぶん心配を掛けた」
と松岡は打ち明けた。
「そうか、きみにしては珍しいね」
「その通り、あえて古い言葉を使えば、鬼のかくらんだな」
しゃあしゃあと言う。
「なるほど、鬼のかくらんか?」
石倉も頷いた。
当人がそう言うのだから、たしかだろうという気がする。それにしても、立ち直ってくれてよかったと思った。
もし、長谷部が告げた通りの状態だったら、どう扱えばよいのかわからない。出たとこ勝負でゆくつもりではあったが、正直なところ、自信がなかった。
「その様子だと、まだ宴会の一つや二つ堂々とこなせそうだな」
石倉は皮肉を言った。
「かんべんしてくれ。そんなふうに図に乗って張り切るのがいけないんだ。あとで予想以上にがっくりくるよ」
と打ち明ける。
「わかっているじゃないか?」
「もちろん、わかってるさ。だから、これからはおだてには乗らない」
松岡はきっぱりと言った。
石倉と松岡の二人は、十一時までホテルのバーで飲んでいた。といっても、グラス二杯までだ。
お互いに明日の仕事がある。もう一軒何処かに寄りたい誘惑に打ち勝って、ホテルの前でタクシーを拾った。まっすぐ自宅へ向かったのである。
翌日、石倉は長谷部に電話を掛けた。昨夜の松岡の様子をかいつまんで話す。
「それでは、あえて励ます必要はなかったわけだね」
と長谷部はたしかめた。
「そういうことになる。いつもの松岡に戻っていた。むしろ、こっちが励まして貰いたいくらいだった」
とありのままを伝えた。
「となると、あえてお願いする必要はなかったわけだね」
と長谷部も認めた。
「その通りですな」
「忙しいのに申し訳なかった」
長谷部は恐縮して、受話器を耳に当てたまま頭を下げた。
気配は石倉にも伝わった。
「それはかまわない。お互いさまだよ。でも、松岡くんの元気な姿を見て、正直なところほっとした。すっかり立ち直っている。これで安心出来る」
と石倉は伝えた。
「有り難う。心強かったよ。結果的には、無駄骨を折らせたけれど」
長谷部はすまなそうに言う。
「無駄骨でよかった」
「こっちもほっとしたよ」
二人共、安堵した口調で言い交わした。
「また、よろしく」
「こちらこそ」
電話は終わった。
その頃、松岡は勝田忠からの連絡を受けていた。
場所は日本橋の小料理屋に決まっていたが、改めて松岡は招待に応じることにした。
三日後である。
この時点で、勝田は杉本についてひとことも言っていない。うかつに口に出せば、松岡が出て来なくなると考えた。したがって、またもや不意打ちになる。
「これでゆくより仕方がなかろう」
勝田は受話器を置いて、呟いた。
松岡は勝田に会うことになった正確な日時を、成瀬に報告した。
「勝田一人かね? それとも、杉本ものこのこ出て来るのかね?」
と成瀬はたしかめた。前頭取と副頭取の名を呼び捨てにする。
「杉本さんの名はまったく出ておりません。現段階では、あくまでも勝田さん一人があらわれる筈です」
「果たして、そうかな?」
成瀬は納得しない。
「私の直感では、何か言い訳を考えて、杉本さんもあらわれるような気がします」
と松岡は自分の考えを述べた。
「たぶん、そうなるね。そんな気がする」
成瀬も同意した。
「何か、ご指示がございましょうか」
と松岡は尋ねた。
とにかく、ここは慎重にやらなくてはならない。成瀬に疑われるのが一番まずい。
「いまは、とくにないね」
と成瀬はすぐ言った。
「いずれ出て来ると思うが、まず、相手の出方を見たい。すべてはそれからだよ」
とつけ加えた。
「わかりました」
松岡は頭を下げた。
「きみとしては、杉本が来るのを前提にして出掛けるわけだな」
「そうなります」
「抜かるなよ。言質《げんち》を取られてはまずい。取締役総務部長がこう言っていたなどと、三流雑誌その他に書かれる可能性だってある。それを忘れないようにな」
成瀬は注意を与えた。
「とにかく、あの二人が何を考えているのか、探り出してきてくれ」
と命じた。
「承知しました」
松岡はもう一度丁重に叩頭して、頭取室を出てきた。
場所は松岡の知らない小料理屋である。たぶん、杉本か勝田のどちらか、または両方の行きつけの店であろう。
となると、店は何かとこの二人の便宜を図ることになろう。会話を録音される危険も生じる。言質を取られてはならぬと頭取はとくに念を押した。
やはり、事前にどんな店かたしかめておく必要がある。松岡は車の用意を頼んだ。
三十分後、松岡は銀行の乗用車で出掛けた。途中、和菓子屋へ寄って、五千円ほどの詰め合わせの折りを買った。初めて訪れる店への手土産のつもりである。
その小料理屋はすぐにわかった。京橋寄りの裏通りにある。周辺はビル街で、殆ど会社や団体で占められている。サラリーマンたちで、お昼と夕方、夜が混み合う店だ。
松岡が訪れたのは、夕方にはまだ早い中途半端な時間帯であった。店は中休みに入っていた。
松岡は名刺を出して、経営者の方にお会いしたいと頼んだ。奥から四十代半ば位の女将《おかみ》があらわれた。
松岡は丁重に挨拶して菓子折りをさし出した。それから、勝田の名を告げた。
「勝田さん?」
女将は小首を傾けた。すぐには思い出せなかった。
「あ、失礼いたしました。少し前にご予約を頂いた方です。たしか、お三人さんでしたね」
「三人?」
と松岡はたしかめた。
「そうです。二階のお座敷を用意しました。実は、私共ではお座敷は四人様からお願いしているんですが、大物の方ばかり集まるんだから、どうしてもお座敷でなければだめだとおっしゃるので、便宜をはからして頂いたんですの」
と女将は教えた。
「どうも、ご迷惑をお掛けします。私がその三人のうちの一人なんです」
と打ち明ける。
「これは失礼いたしました。いまお茶をお入れします」
女将は席を奨めた。
「どうぞ、おかまいなく」
松岡は腰を下ろし、改めて店内を見廻す。
小綺麗な店で、掃除その他よくゆき届いている。女将も小柄な美人といってよく、色香が漂ってくる。
それから十五分ほど、二人は雑談を交わした。杉本の名も口にしてみたが、女将は知らない。勝田が、半年位前から時折一人で訪れる程度であるのがわかった。
これではあまり記憶に残らない。行きつけの店とも言えないのが判明した。その上、勝田は自分が大銀行の前副頭取であったことなど打ち明けてはいなかった。
要するに、銀行を退職してから見付けて、たまに通う店であるのが、はっきりした。こんな状態ならば、まず心配はない。
「これからは銀行で使わせて頂きます。部課長クラスに声を掛けておきましょう」
と松岡は約束する。
「お願いいたします。暇で困っていますの」
女将はしなを作った。
松岡は帰りの車の後部座席で、女将のよく整った瓜実顔を思い浮かべた。
着物姿のよく似合う魅力的な女性である。さいわいと言うべきかどうか、勝田はこの女将とさして親しくはなかった。
現時点では、むしろ、松岡の方がずっと親密になっている。菓子折りも利いた。それよりも何よりも、彼が大銀行の取締役総務部長であるのがわかり、今後、有力な顧客になるのがはっきりした。
女将にとっては、これで十分と言える。松岡はすかさず京橋支店との取引を頼んだ。支店の場所をたしかめた女将が、銀座方面へ出る用事が多いので、日本橋支店より京橋支店の方が便利だと言ったからである。
勝田が予約した明後日の会合の勘定も、松岡が支払うことに決めた。開設されたばかりの普通預金口座へ振り込む手筈になった。
「有り難うございました。口座を開設して頂ければ、うちの連中が何十人来ても、すべてそこへ振り込むことになります」
と松岡は言った。
「わたくしの方こそお礼を申し上げなければ。このところ不景気で、お客さんが減って困っておりましたの。なにしろ、証券会社があんな状況でしょ。株は下がるし、不祥事は起こすし」
と女将は訴えた。
「三洋銀行さんの方々がたびたび来て下されば、ほんとうに助かります」
と言いつつ、彼女はすがりつくような目付きで松岡を見た。
「ご期待頂くほどお役に立てるかどうかわかりませんが、大いに、いや、出来るだけPRしてみるつもりです」
と松岡は応じた。
「お願いいたします。でも、ほかの方々より、わたくし、松岡様にちょくちょくいらして頂きたい。ほんとうに、心からお待ちしていますから、必ず、お願いね」
女将は蠱惑的な笑みを浮かべながら頼み込んだ。
「わかりました。ぼくも女将さんにお目に掛かれるのが愉しみです」
「まあ、お口のお上手な方」
女将は大仰に言って、松岡の右腕を軽く叩いた。
松岡は女将が触れた右腕の肘の上あたりにそっと左手を当てた。ゆっくりとマッサージを始めながら、にやりと笑った。思い出し笑いである。
──割烹「舟唄」井波沙斗子
松岡は貰ったばかりの名刺を内ポケットから取り出して、もう一度眺めた。
その日の夕方、松岡は少し早目に銀行を出た。
「では、日本橋の小料理屋『舟唄』で、午後七時に」
と勝田は告げた。
勝田は杉本の同席についてひとことも触れていない。あくまでも、松岡と二人だけのような言い方をした。
松岡は杉本の同席を予想しただけではない。「舟唄」まで押し掛けて、女将の井波沙斗子に会い、勝田の予約が三人になっている事実をたしかめた。これで、杉本の出席がはっきりした。
もちろん、松岡の事前の訪問は内密になっている。勝田が気付く筈もなかった。
松岡は六時三十分には「舟唄」に着いた。わざと早く出掛けたのである。先に着き、余裕をもって二人に対したい。なにしろ、前頭取と副頭取、とくに杉本富士雄は相当な人物だ。遅れて、あたふたと駆けつけるようでは、すぐにつけ込まれる。が、それだけではない。井波沙斗子の顔を早く見たいとの思いが強まった。
松岡が来訪を告げると、沙斗子はすぐに出てきた。
「まあ、お早いお着きで」
にっこりと笑う。
「ママの顔が早く見たくてね。少しでも早くと気が急いた。気持ちが伝わったのか、車も渋滞に巻き込まれずにすんだよ」
松岡はしゃあしゃあと言う。
「あら、ほんとうかしら?」
と小首を傾ける。
「嘘でも嬉しいわ、そんなふうに言って頂けると」
言いながら睨む真似をする。
「恐いなあ」
「嘘だったら白状なさい。さあ!」
と促す。
「嘘どころか、まさに真実です」
と松岡は強調した。
「ますます怪しい。でも、許してあげるわ。今夜は初めてのお客さんですもの」
「頼むよ。後の二人が来たら、あなたとぼくはあくまでも今夜が初対面なんだからね」
と念を押す。
「そうね。お芝居しましょ」
沙斗子は悪戯っぽく目くばせする。
松岡は満足した。彼女とほぼ期待通りのやり取りが出来た。
いち早く下座に座を占め、お茶だけ貰った。先に飲むような行儀の悪い真似はしない。勝田はともかく、杉本は気にする。これで、用意は整った。
午後六時四十五分になった。
松岡が一人で端座している小座敷に、杉本富士雄が入ってきた。
いきなりという感じで、二人は顔を見合わせてしまった。
「これは杉本頭取、ごぶさたいたしております」
松岡は両手をテーブルの上について、丁重に頭を下げた。
「やあ、松岡くん、珍しいな。実に、久しぶりだね」
杉本は相好を崩した。
頬の丸みが目立つ。そのせいか、以前よりずっと温厚に見える。元気そうではあったが、いくつか歳を取っている。それはもう争えない事実である。ただ、好々爺的な温厚さが増したとは言えよう。
もっとも、中身の方はわからない。油断は禁物だ。相変わらず生臭さが消えていないからこそ、今度のような画策をした。
「ところで、勝田くんはどうしたのかね?」
と訊く。
何となく、叱られているような気分になった。不思議である。勝田が遅れているのもきみの責任だといわぬばかりの態度だ。やはり、持ち前の傲慢《ごうまん》さは消えていない。
「さあ、どうしたんでしょう」
と松岡はとぼけた。
「ひょっとすると、姿を見せないつもりでしょうか?」
とつけ加える。
「そんな莫迦なことがあるものか?」
杉本は少しばかり気色ばんだ。
「この忙しいのに、人を無理やり呼びつけておいて、自分は来ないのかね? けしからん。どうもあの男は、昔からそういう無責任なところがあった」
と言いつのる。
松岡は杉本のこういう意見や言い方そのものがはったりであるのを、すぐに見破った。忙しいというのも嘘だし、無理やり呼びつけるどころか、自分の方から割り込んできた。が、杉本の言い分を聞くと、まったく正反対だ。おまけに、そちらの方が正しいような気がしてくる。
「さすがですね」
と言いそうになって、口を噤んだ。
「勝田さんもお電話を頂いた時はとてもお元気そうでしたが、お歳には勝てません。急病ということも考えられますね」
松岡は方向を変えた。
「なに、急病だって?」
果たして、杉本は目を剥いた。松岡はにんまりと笑いたいのを我慢した。
杉本は口を尖らせた。
「勝田くんに限って、急病などということはあり得ん」
と言い張る。
「そうでしょうか?」
松岡はわざと賛同せずに、疑問を持ったような言い方をした。
それが気に障ったのか、うっすらとではあるが頬に血が登ってきた。松岡は横目でその変化を見た。この分だと、案外簡単かも知れない。むしろ、怒らせた方が本音が聴ける。そう思えてきた。
「あの男はほかに取り柄はないが、身体だけはめっぽう丈夫でね。めったに風邪もひかん。だから、在任中一日たりとも銀行を休んだことがなかった筈だよ。かまわん。きみ、疑うなら調べてみたまえ」
と命じた。
松岡は莫迦らしくなった。いまさら、勝田のかつての勤務ぶり、休暇を取ったかどうかを調べて何になるのだと言ってやりたいくらいだが、さすがにそうは言えなかった。
それにしても、いまだに勝田があらわれないのはおかしい。すでに約束の時間を五分過ぎている。勝田はいつも、時間より少し早く来る方だ。まして、今夜はかつての上司杉本と松岡が、事前に鉢合わせしないように気を遣っていた筈である。
いきおい、自分が先に来ていて、松岡に対して、口先だけではあっても何か言い訳しなければならない。それも、杉本があらわれないうちにやっておく必要がある。
松岡にもそのへんの察しはついていた。だから、いくらか早く来た。勝田がどんな弁明をするのか、聞いてみたかった。
ところが、あろうことか、杉本の方が先に姿を見せた。おまけに、勝田はまだあらわれないのだ。
「喉が乾いた。待ってはおれん。先にビールでもやろう」
と杉本は提案する。もともと、あまりこらえ性がないのだ。
「わかりました。そうしましょう」
松岡は仲居を呼んで、ビールを頼んだ。
「料理の方はどうなさいますか?」
とたしかめる。
「かまわん。そっちも頼んで貰おう」
杉本はためらいもなく言う。
日頃から、以前もいまもさして変わらず、勝田を軽んじているのがよくわかる。
もちろん、このことは松岡も以前から気付いていた。にもかかわらず、何となく不愉快になった。杉本の口調はあまりにもあからさまである。
ビールが運ばれてきた。
松岡は杉本のグラスを満たした。
杉本は当然のように受けて、そのまま半分ほど飲み干す。松岡のグラスに注ぐそぶりも見せない。仕方なく、彼は自分で注いだ。
いまさら乾杯と言うのもタイミングがわるい。相手はすでに半分以上飲んでいた。松岡もつられて飲んだ。
杉本のグラスは殆ど空になった。松岡はわざと気付かぬふりをして注ぎ足さない。杉本は自分でさっさとグラスを満たして飲んでいる。松岡のグラスの減り具合など、始めから気にもしていなかった。
「やれ、やれ」
と呟きたくなって、松岡は口を噤んだ。
最初の皿が出た。杉本はすぐに箸を取り上げて口に運ぶ。今度も相手のことなど、まったくと言ってよいほど考えていない。
松岡は腕時計を見た。七時二十分になっている。
「何時だね?」
と杉本は訊いた。
「二十分になりました」
「そうか、遅いなあ。ひょっとすると、きみの言う通り、急病かも知れんな」
と杉本まで言い始めた。
「おかしいですね」
松岡も首をひねった。
この時、勝田が姿をあらわした。
座敷に向かい合って坐っている杉本と松岡を見て、眼をまるくする。
「驚きましたねえ。お二人共、ずいぶん早く来られたんですね」
と不思議そうに言う。
「何だって?」
と杉本は険しい顔になった。
「驚いてるのはこっちだよ」
とつけ加える。
「約束はたしか七時三十分でしたね。まだ十分早い」
と勝田は言った。
松岡はすぐに納得した。勝田は七時を七時三十分と間違えたのである。あり得ないことではない。
「たしかとはよく言うじゃないか? きみは自分の口で七時と言った。七時三十分とは言っていない。私はこの耳で何度も聞いている。げんに、松岡くんも七時前に来ていた。それでも、きみは七時三十分だと言い張るのかね? え?」
と口の端を歪めて言う。
「おかしいな。そう言えば七時だと申し上げたような気もします。どこで間違えたのか」
勝田は後頭部に手をやった。
勝田は頭を掻いたつもりらしい。
「どうもいけない。この頃は言い間違いや勘違いが多いんですよ」
言い訳とも何ともつかぬ言い方をする。
「困るな。選りに選ってこういう大事な時に、いい加減では」
と杉本はたしなめた。
「おっしゃる通りです。まったく、困ります」
と勝田は同意した。
これでは怒るに怒れない。怒るのが莫迦莫迦しくなる。そのせいか、どうやら、杉本の苛立ちもおさまった。この二人が長年コンビを組めた秘密も、あんがいこんなところにあるのではなかろうかという気がしてきた。
杉本の怒りや苛立ちを、勝田が上手に吸収してしまう。これについて勝田自身がどの程度意識しているのかはっきりしないが、明らかに緩衝材になっている。
「まあ、仕方がない。そうと決まったら、松岡くんに詫びなけりゃいかん」
と杉本は言った。機嫌をなおしたのだ。
「その通りです。まことにどうも、申し訳ありませんでした」
勝田は改めて丁寧に頭を下げた。
「あまり気になさらないで下さい。勘違いは誰にでもあることです」
と言いつつ、松岡も叩頭する。
なにしろ、相手は前副頭取である。
「実はね、松岡くん、会ってから報告するつもりだったんだが」
勝田はばつがわるそうだ。
「その件でしたら、気になさらないで下さい。お店に来てすぐ、予約が三人になっていると聞いてぴーんときましたよ」
と松岡は応じた。
「なるほど」
と脇にいる杉本は顎の先を撫ぜた。
「どうやら、わたしが邪魔らしいな」
と厭味を言う。
「とんでもありません」
勝田は慌てた。
松岡に向かってしきりに合図をする。同調してくれと言わぬばかりの眼ざしだ。
松岡は一瞬迷った。
「たしかにおっしゃる通りです。あなたが出て来られて迷惑しています」
そう言いたい衝動にかられたのだ。
ただ、それを言うのであれば、もっと先である。博多での恨みもあった。取締役への昇格が遅れたのも、この二人が接触してきたからだ。が、そのことはすでに完了している。過去の出来事になってしまった。
問題はむしろ、二人が仕掛けた現在進行中の事柄の方にある。
杉本、勝田のコンビが、週刊誌に銀行の誹謗記事を売り込もうとした問題は、まだくすぶっている。
長谷部の働きでいったんは防衛したものの、これで火種が消えてしまったわけではない。だからこそ、この二人はまたしても、こうして松岡に接近してきたのだ。
「あなた方はすでに引退したのだから、分相応におとなしくしていて下さい。いまさら、銀行の足を引っ張ってどうしようというんです。成瀬頭取に恨みがあるのはわかります。しかし、それはあくまでも、杉本対成瀬の個人的な問題でしょう」
松岡はそんなふうに問いつめてやりたい衝動にかられたのだ。
とはいえ、いまそれをやってしまってはぶち壊しになる。企業防衛が主な仕事である総務部長としては失格であろう。
まして、松岡は頭取からの特命を受けている。二人の懐《ふところ》深く飛び込んで、彼等の考え方や次の行動を探り出す役目をおおせつかっていた。
そんな人間が、憤慨のあまり、腹の中にたまっていることをすべて吐き出してしまってよいわけはない。その程度の演技が出来なくて、どうして役目が果たせよう。それでは、取締役総務部長どころか、幹部行員だって勤まらない。
さいわい、松岡はすぐそのことに気付いた。彼は一瞬のうちに、おのれのいささか莫迦げた正義感を捨てた。
もっとも、自分ではけっして莫迦げているとは思えないが、それは青年時代の、はっきり言えば平行員の頃の考え方である。幹部行員になれば、別の生き方も強いられる。それ相応の駆け引きも必要になり、ずるさも身に付けなければならなくなる。
松岡は勝田に向かってゆっくり頷き返した。
勝田はほっとしたように頬をなごませる。それだけ人が好いのか? 依然として、杉本への追従気分を捨てられないのか? いずれにせよ、松岡の気持ちを自分の方に引き寄せたと感じて笑顔を浮かべた。
「迷惑どころか、実は、内心大いに喜んでおります」
と松岡は告げた。
表情もいつの間にか、生真面目になっている。なかなかの役者と言えよう。
「この度、取締役に就任し、総務部長をおおせつかりました。正直なところ、少し、いや、かなり戸惑っております。業務畑ならまだしも、総務畑は向いておりません。そこで、折り入ってお願いがあります」
と言って、丁重に頭を下げた。
杉本も勝田もおやという顔をした。松岡の態度が予想外であったのか? 何となく顔を見合わせている。
松岡は生真面目な顔で話しながらも、二人の顔色を窺っていた。そのため、いち早く反応を察知した。もちろん、まだはっきりしないが、どうやら良い方向へ向かっている。
とにかく、両者の信頼感を得るのが先である。敵視し、反抗していると思われてはいけない。
まず、杉本の不意の登場を歓迎するところから始める必要があった。そう考えた松岡は神妙な顔付きで始めた。目下のところ、どうやらそれが功を奏しつつある。
「なるほど、きみの気持ちはよくわかった」
杉本は鷹揚に頷いた。
「それで、お願いというのは何だね?」
と訊く。
「ほかでもありませんが、取締役総務部長の役職をまっとうするためにはどうしたらよいか? 抽象論ではなく、具体的にいろいろと教えて頂きたいのです」
と松岡は頼んだ。
「ひとつ、よろしくご指導をお願いいたします」
とつけ加えて、もう一度丁寧に叩頭した。
「わかった。いや、よくわかりましたよ」
と応じて、杉本は頬を緩めた。
酒と料理が次々と運ばれてきた。杉本は遠慮せず、さっさと手を付ける。
「うむ、なかなかいい味だ」
と誉める。
杉本の機嫌が良くなった。
「勝田くん、きみの見付けた店にしては珍しく合格だ。しかも、上《じよう》の部に入るな」
と笑顔で言い添えた。
「これはどうも、恐れ入ります」
勝田も嬉しそうに会釈する。
これで、一気に座が和やかになった。そこへ、実にタイミングよく女将が挨拶にあらわれた。まるで、この時を狙っていたかのようである。
杉本も勝田も、美人の女将にお追従を言われ、酌をされて、さらに一段と頬の筋肉が緩んできた。
「勝田くん、きみも隅におけんなあ。こんなすばらしい店を知っていながら、どうしてもっと早く紹介してくれんのかね」
と杉本は言い張った。
「別に隠していたわけじゃないんですがね。どうも機会が無くて」
と勝田は言葉を濁す。
「まことにけしからん」
杉本は相好を崩して言いつのった。
松岡と杉本、勝田の久しぶりの顔合わせは、満足のいく結果をもたらした。
期せずして、双方が満足したと言えよう。もちろん、それぞれが別の目的や思惑を抱いていた。ホンネとタテマエの相違もある。にもかかわらず、両者共たしかな手ごたえを感じた。
翌日、松岡は出勤するとすぐ秘書課長に電話して成瀬に面会を求めた。
一時間過ぎないうちに、頭取室へ来るようにとの許可が下りた。成瀬は昨夜、松岡が杉本と勝田に会ったのを知っている。やはり、気にしていたのであろう。松岡の申し出にすぐ応じたのをみてもよくわかる。
頭取室に入ると、成瀬は立ち上がった。
「まあ、そこへ坐りたまえ」
ソファを指さして先に近付いて行く。
「どうだった。やはり、杉本はあらわれたのかね?」
とまず気になることを訊いた。
「あらわれました」
と松岡は答えた。
「そうか、予想通りになったか?」
と下唇を軽く噛む。
「それで」
待ちきれずに先を促す。
「実は、勝田さんが待ち合わせ時間を間違えましてね」
と前置きして、松岡は昨夜の様子をかいつまんで語り始めた。
「勝田が時間を間違えた?」
と成瀬は首をひねる。
「それはおかしい。およそあり得ないことだな」
と断定する。
「あの男は副頭取にはなったが、根がお人好しで無能だ。頭の方もあまりよくない。しかし、杉本に対しては徹底したイエスマンで、命じられた事柄だけはきちんと処理する。時間も正確でね。会議その他、彼の行動を見ていると時計はいらないくらいだった」
とつけ加える。
「そうですか?」
松岡は不審な顔をした。
「でも、現に二十分遅れてきて、七時の約束を七時三十分と間違えたと本人が言い、大仰に詫びましたが」
と事実を告げた。
「ほう、本人が自分の口でそう言って、謝罪したのかね?」
成瀬はまだ疑っている。
「その通りです」
「おかしいな?」
成瀬の眼が光を増した。
松岡はいくらか緊張した。
成瀬が、勝田の三十分遅れにあまりにもこだわるからである。
「勝田が自分から詫びたとなると、ますます怪しいな」
と成瀬は主張する。
「勝田はわざと遅れてきたんだよ。たぶん、杉本の指示だろうな。杉本ときみが先に顔を合わせてしまえばそれまでだ。勝田が騙した事実が吹っ飛んでしまう。よくある方法《て》だよ。会いたくないと言っている者同士をわざと鉢合わせさせる。これだな」
と断定した。
「………」
松岡はまだ信じかねている。そんなことまでしてとの思いの方がずっと強い。
「あの二人はそこできみの反応を見ている。どちらかが待ち合わせに三十分遅れた。これはたいしたことじゃない。そうだろう。駅前で立っているわけではなく、料理屋にいるんだからね。先に来た方がビールぐらい飲んで待つのはさして苦にならん。だから、この方法は安心して使える」
成瀬は大きく頷いた。
たしかに、そう言われてみればその通りだという気もしてくる。だが、そんなことをして何になるのだ。どのみち、たいした事柄ではなかろうという思いの方が強い。
「きみ自身、こんな問題は瑣末《さまつ》な莫迦らしいことだと考えている。きみの顔にはっきりそう書いてある。その通りだ。私だって否定はしない。しかしだね。あの二人は違う。きみの反応をじっくり観察して、引っ掛かったかどうかチェックしているんだよ」
と成瀬は教えた。
「もし、引っ掛かるようであれば、あとがやりやすい。したがって、きみの反応は今後の彼等の行動のバロメーターになるんだ」
と言い添える。
「まさか?」
と松岡は口に出してしまった。
「いまだに、まさかなんて言うところをみると、これはもう間違いない。きみはすっかりしてやられた」
と成瀬は断定する。
松岡は口を尖らせた。が、あえて何も言わない。下手に口走ると、さらに墓穴を掘ることになりかねなかった。
「杉本、勝田のコンビは、久しぶりに会ったきみをまずテストした。その結果に両者共大いに満足して、それからはすっかり機嫌が良くなったんじゃないかな? 聞かなくてもおよそのところはわかるよ」
成瀬は明快に分析してみせた。
松岡は俄に胃が縮んできたかのような思いを味わった。もし、成瀬の分析した通りであれば、松岡は出会いがしらに、まことにあっけなく、しかも、自分ではまったく気付きもせず、一本取られてしまったことになる。
こんな人物が、大銀行の取締役総務部長に就任している。これはいささかこころもとないのではあるまいか?
急に、そんな気さえしてきた。こういう考えは自己卑下にもつながり、さらには自己否定にも発展しかねない。要注意というべきであろう。
成瀬は松岡の畏縮ぶりに気付いたのか、どうか?
「きみ、何もがっかりすることはないさ」
と慰め顔で言う。
「結果としては、まさに理想的になっている。そうは思わんかね?」
と愉快そうにつけ加えた。
「どうも申し訳ありませんでした」
松岡は頭を下げた。
「きみが詫びる必要はない。試合は始まったばかりだ。第一ラウンドで相手はきみの実力を過小評価した。これは面白い。おかげで、間違いなくわれわれが有利になった」
嬉しそうに言う。
「最後に勝てばいいんだからね。途中経過など問題にもならん。ただ、困るのは、ここで消極的になったり、相手を恐れて萎縮してはいけない。まあ、あの二人を相手にして、きみが萎縮するとも思えんが」
成瀬は笑い声をあげた。
松岡もつられて笑った。いったん縮んだ胃がもとに戻ってきた。
「向こうは第一ラウンドを取ったと思っている。第二ラウンドも第三ラウンドも相手に取らせればいい。きみはあくまでも下手に出て教えを乞うかたちでよかろう」
と指示する。
「これでよいということですね」
松岡は確認した。
「その通り。総務部長としてはいささか頼りないと先方に思わせながら、じりじりと先に進みたまえ」
と成瀬は命じた。
「承知しました」
松岡は丁重に頭を下げた。
「報告を忘れんように。こっちもその都度作戦を立て直してゆこう」
成瀬は薄笑いを浮かべながら言う。愉しんでいるかのような気配が感じられた。
松岡は頭取室を出てきた。すでに胃の重苦しさは消えている。殆どもとに戻っていた。それなのに疲れを覚えた。
翌日の午後一時半頃、杉本と勝田は虎ノ門の老舗《しにせ》のそば屋の二階にいた。
虎ノ門界隈は官庁や会社、事業所、病院等々が多い。十二時前後はサラリーマンたちで混み合うので、少し時間をずらしたのである。さすがにこの時間帯になると、空席が目立つ。少々長居をしていても、あまり邪魔にされない。
例によって、勝田の方が先に来て、場所を確保している。一昨夜とは逆である。
「やあ、待たせたかな」
五、六分遅れて杉本が姿を見せた。
「いえ、いま来たばかりです」
と勝田はへりくだる。
これはいつものパターンと言えよう。早く言えば、長年両者の間で保たれてきたセレモニーのようなものだ。
飽きもせず、二人はこれを繰り返してきた。おそらく、この先も丈夫で、出歩ける限り、続けるだろう。
「この前はどうもごくろうさま」
と杉本はねぎらった。
「かなり遅くなりましたが、お疲れになりませんでしたか」
勝田は逆に気遣った。
「なあに、あの程度では疲れやせんよ。まだまだ頑張れる」
杉本は余裕を見せた。
「頼もしいですなあ」
とすかさず持ち上げる。
相変わらずイエスマンのくせが抜けない。持ち上げる側、上げられる側、どちらにとってもこの方が都合が良い。気分が休まる。
「作戦勝ちだな」
杉本はずばりと言う。
「あ、この前の件ですか」
対応が少しずれた。
「松岡くんは以前よりずっと成長しておる。それは認めよう。たしかに、張り切っていてやる気十分だが、まだまだだね。かなり甘さが残っている」
杉本は感想を述べた。
「おっしゃる通りです。しかし、素直で人馴つこいところがある。われわれ二人に一目置いている。可愛気がありますよ」
勝田は弁護する。
「その通りだが、油断してはいかんよ。相手は現役で、頭脳も若い。もっとも、甘さではきみもけっして引けはとらんからなあ」
やんわりと皮肉った。
「これはどうも」
嬉しそうに笑い返す。
「きみがわざと遅れて来たのはよかった」
杉本は正当な評価を下した。
勝田は頭を掻いた。照れ隠しだ。
「ご指示頂いた通り動いただけです」
と叩頭する。
「松岡くんはきみが時間だけは正確な人物であるのを知らん。したがって、無理もない。とはいえ、まんまと引っ掛かったのはたしかだ」
杉本は満足気に言う。
「あれを見抜くような眼力があれば要注意だが、さいわいにしてそれほどではなかった。その分だけ手を抜けるわけではないが、いちいち神経を使わなくてすむ」
したり顔でつけ加えた。
「となれば助かります。どうも細かい神経戦は性に合いませんので」
勝田は本音を口にする。
「正直なのはたいへんけっこうだが、正直すぎるのは困るよ」
とたしなめた。
「これはどうも」
今度は頭を掻く真似だけした。
こんなやり取りを繰り返しながら、二人はそばを食べ、そばつゆを飲んだ。
「だいぶすいてはきたが、そばやなんぞで長居は出来ん。近くのホテルまで歩いて行ってコーヒーを飲もう」
杉本はそそくさと立ち上がった。
「わかりました。急いで勘定をすませてきます」
勝田は慌てた。
「ゆっくりでよろしい。表で待っている」
言い置いて杉本は先に出て行った。
今回も勘定は勝田に任された。彼もいまは年金生活者だ。度重なると負担が大きい。
杉本は頭取時代のくせが抜けないのか、勘定は勝田が持つのが当たり前だと思っているのか、とにかく、自分で支払うということがなかった。したがって、常に勝田が支払っている。このところずっとだ。
一昨夜の日本橋の小料理屋の勘定も、本来なら勝田持ちである。杉本には支払おうとする気配さえない。ところが、松岡が気を利かして、支払いは自分の方に任せてくれと申し出た。おかげで、勝田は助かった。
自分の方から何度もしつこく松岡に電話をして、強引に誘っている。しかも、昇格祝いであると言った。その手前、以後はともかく、今度の勘定だけは自分が持つつもりでいた。そういう気持ちに嘘はない。
事実、勝田は松岡に払わせるつもりはなかった。ところが、現実に松岡がぜひ自分に払わせてくれと言い出した時には何故か、ほっとした。そして、言われるままに彼に支払いを任せた。
勝田はそば屋の勘定をすませて表に出た。近くに杉本の姿はない。
見ると、五、六十メートル先をアメリカ大使館の方へ向かって歩いて行く杉本の後ろ姿が目に入った。大使館の向こう側にあるホテルの喫茶室へ入るつもりらしい。
「やれ、やれ」
と勝田は呟いた。
彼は一昨夜、日本橋の小料理屋「舟唄」の勘定を松岡に払わせたのが気になった。いったん気になると後を引く。あれは、あの勘定だけは断固として自分が払うべきであった。いまさらのように、そんな気が強くする。
だが、そうしなかった。原因は支払い疲れにある。杉本に会ったり、いっしょに出掛けたりする場合、すべて勝田の持ち出しになっている。
自然のなりゆきとでも言うべきであろうか? 何故か、そうなった。
杉本はまったく意に介していない。勝田が支払うのは当然だと思い込んでいるらしい。銀行時代はそれでもよかった。勝田は副頭取の交際費から落としていたから自分の腹が痛むわけではない。
杉本は支払いについてノーコメントだ。ひとことも触れない。その点は頭取時代もいまもまったく変わっていなかった。すでに、とっくに頭取ではなくなっているのに、態度だけはいささかも変えていない。
それで通るのだから不思議だ。勝田はそう思ったが、よく考えてみると、杉本と自分の関係だけが不変のまま固定化している。そうとわかって愕然とした。
いま、杉本の後ろ姿は少しずつ遠ざかってゆく。突然、このまま反対方向へ歩み去ってしまいたい衝動にかられた。
一瞬ではあったが、心が揺れ動いた。大いに迷ったと言ってもよい。
だが、次の瞬間には勝田はこの考えを振り払っていた。慌てて杉本の後を追う。ごく自然に早足になった。走り出さんばかりの勢いである。
そんなふうに急ぐ自分が何となく情けなくなったが、同時に、杉本の後をついて行くことによって安心感もこみあげてくる。それもまたたしかなことであった。
思えば長い間杉本の後について歩いてきた。指図され、命じられて動いてきた。それにすっかり馴れてしまった。変化が恐い。命令して貰わないと不安だ。銀行をやめたいまも、こういう状況から解き放たれていなかった。
先を行く杉本の方は、逆に命じることによって生きてきた。命令こそ生き甲斐だ。彼は勝田の方を振り返りもしなかった。
勝田は息を切らしている。道はやや登り坂だ。それでも歩調を緩めない。
杉本の後ろ姿が少しずつ大きくなってきた。着実に近付いて行く。早く追いつきたいとの思いが高まる。とっくに銀行をやめているのに置いてゆかれるのが不安なのだ。不思議な心境である。他人から見ればとても理解出来ない精神状態と言えよう。
だが、勝田はとうとう小走りになって、ようやく杉本に追いついた。というのも、勝田が近付いてきたのに気付いていながら、杉本はそ知らぬふりをしてぐいぐいと歩く。最初から自分のペースをまったく崩さない。いくらかでも歩調を落として、待ってやろうなどという気はいっさいないらしい。
その点は徹底している。ここまで貫ければ、見事なものだ。
杉本はふうふう言いながら追いついてきた勝田をちらりと見て、目をそらした。息をきらしているのがぶざまで見苦しく思えたのだ。
「ふん」
と鼻まで鳴らした。
「どうも、遅くなりまして申し訳ありません」
勝田の方が頭を下げた。
「あまり近寄るな」
杉本はぴしりと言った。
「きみの臭い息が掛かる。不潔じゃないか? 後からついてくりゃあいいんだ」
ときめつけた。
「はあ」
と答えているうちに、数歩遅れた。
勝田はそのままの距離を保とうとした。だいたい、並んで歩こうと思っていたのがいけない。師の影を踏まずという先人の言葉さえあった。影を踏まないとなれば、数歩下がるのは当然だ。勝田は反省し、背後を歩く。しばらくそうしているうちに、弾んでいた息もおさまってきた。
ホテルの喫茶室に入ると、庭に面した席に坐った。もちろん、杉本の席の方が見晴らしがよい。
コーヒーが運ばれてくるまで、杉本は無言のままだ。勝田もそれに合わせて黙っていた。なにしろ、馴れている。不機嫌な時に口を挟んではいけない。
コーヒーを二口三口飲むと、杉本の機嫌はなおった。いつの間にか顔色まで爽やかになっていた。
「さて、こうなったら次の段階へ進まなけりゃあならん」
と口をきった。
「次の段階?」
勝田は訊き返す。
「何なら、総会屋を使ってもいいな」
杉本は物騒なことをさらりと言った。
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第九章 意地の張り合い
松岡はすっかり自信を取り戻した。
杉本と勝田とを向こうにまわして、何とか対等に渡り合えた。そのことが自信を深めたのはたしかだ。
むろん、それだけではない。総務部長という役職の仕事に対する理解も深まった。まだ完全ではないが、何とかやれそうな気配が日毎に強まってきたのだ。
だが、彼の自信を決定的なものにしたのは何であろう。ほかでもなかった。成瀬頭取との接触である。
成瀬に呼ばれて指示を出して貰う。これであった。誉められれば最高だが、そうではなく、かりに叱責されても、詰られてもよい。とにかく、しばしば頭取室へ呼んで貰いたいのである。
「総務部長、いま秘書課長から連絡がありまして、頭取が至急お会いしたいとのことです。すぐ行って下さい」
そんなふうに、周辺の部下に言われたい。
「また頭取からお呼びが掛かった。ちょっと行ってくるよ」
副部長や次長にそう断っておいて、颯爽と席を立つ。
こういう繰り返しで、事態が変わる。まわりの目が違ってくる。今度の総務部長は取締役になったばかりではあるが、成瀬頭取と直結している。予想以上の大物部長だ。将来性がある。さらに、常務、専務と昇格してゆく人材に間違いなかろう。
そんな噂が出てくればしめたものだ。何故なら、部下行員たちに一目置かれた方がずっと管理がしやすい。
サラリーマンの世界はいずこも同じか、似たようなものである。見るからに軽い、リストラの対象になりそうな上司より、ほんものの大物かどうかは別にしても、一見して、大物らしい上司の方が良いに決まっている。こういう場合、部下の方は少々の無理難題を押し付けられても従うことになる。
松岡は過去の体験から、そういうメカニズムを知り尽くしていた。必要以上に大物ぶることによって、部下たちの管理が楽になるのを知っている。
成瀬頭取にしばしば呼ばれるという事実は、もうそれだけで立派に通用する。きわめてわかりやすい。くどくどと説明を加える必要がない。間違いなく大物の証明になるといえよう。
杉本と勝田が急接近してきたために、成瀬への報告や指示待ちが多くなった。これは好都合である。期せずして、順風が吹いてきたと言えよう。
机上の電話のベルが鳴った。松岡はゆっくりと左手を伸ばした。松岡は受話器を耳に当てる。彼の場合、こういう動作一つにも機敏さと同時に悠揚せまらぬ落ち着きが加わっている。
最近は電話のベルに苛立ったり、眉をひそめたりしない。これもまた、自信のあらわれであろう。
電話は長谷部からであった。
「やあ、きみか」
松岡は快活な声をあげた。
「きみかはないだろう。相手がぼくでがっかりしたのかな」
と長谷部は応じた。
「これは失礼した。実は、こっちも話があるんだ」
「それにしても元気そうだな」
「いや、カラ元気だよ」
と嬉しそうに言う。
「そんなことはないね。ほんものだよ」
と長谷部は断定する。
「きみにそう言って貰えれば安心だ」
「ちょっとお願いしたいことがあるんでね。これからお邪魔してもいいかね」
とたしかめた。
「どうぞ、ちょうど空いている。それにしても、お願いとは珍しいね。お手柔らかに頼みますよ」
と最後は冗談ぽく言う。
三分後、長谷部が手帳を手にそそくさとやってきた。
「忙しそうじゃないか。コーヒーでもどうかな。飲む時間ぐらいはあるんだろう」
松岡は立ち上がって、応接室へ移動しながら尋ねた。
「おや、きみは紅茶党じゃなかったのか?」
長谷部はけげんな顔をした。
「二、三日前からコーヒーに戻った。おかげさまで胃の方も調子が良くなってね」
と相好を崩す。
「よかったなあ。これで本来の松岡紀一郎に戻ったわけだな」
長谷部は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「何もかも、きみのおかげだよ」
言って、松岡は深く頭を下げた。
「お互いさまだ。銀行受難の時代だからね。いつこっちが助けを求めることになるか、わかったものじゃない。その時はよろしく頼みます」
長谷部も叩頭する。
「もちろんだ。力の及ぶ限り、協力させて貰いますよ」
松岡は約束した。
「実はきみの自信回復を待っていた。頼みたいことがある。おたくに所属している広報課をうちにくれないかね」
長谷部はいきなり用件に入った。
聞いたとたん、松岡は顔をしかめた。
「いま、何と言った?」
改めてたしかめる。
「きみの部にある広報課を、そっくりうちの部に貰いたい」
と長谷部は繰り返した。
「なんだい、いきなり」
松岡は渋面を作っている。
「いきなりでわるかったが、銀行内の組織をいじるのはうちの部の仕事だからね。しばらく前から検討していたんだが、広報課はこっちに貰った方がよいとの結論が出た。部内会議でも決定済みだ」
と長谷部は伝えた。
「なにしろ、ぼくはまだ総務部長になったばかりだからね。部内の仕事をすべて掌握したとは言えない。現にまだ総会屋関連の方は手付かずだ」
と松岡は言う。
「だからといって、現にうちの部内にある広報課をよその部に持ってゆかれることはない。いくらきみの頼みでも、はいそうですかと頷くわけにはいかん」
と口を尖らせた。
気に入らない時のくせである。それを見ると、長谷部の方も渋面を作った。
二人はしばらく黙っていた。言い合いになるのをさけたのだ。その代わり、睨み合いを続けているかのようなかたちになった。
「きみには打ち明けたが、例の週刊誌の問題があったね」
長谷部はやんわりと言う。
「あれは本来ならうちの部でやるべきことを、適切な対応が出来ず、きみの世話になった。その点は感謝している。それはたしかだが、なにしろ、ぼくの就任前の話だ」
と松岡は言いつのる。
「なるほど、きみが総務部長になったからには、何事についても他の部の者の力は借りないというわけだね」
と長谷部は言いなおした。
「そうは言っていない」
さすがに、松岡は否定する。
「言葉に出して言わないだけで、真意ははっきりしている」
と長谷部はきめつけた。
「セクショナリズムにとらわれて、他の部の者の協力は一切いらない。きみはそう言ってるんだ」
とつけ加えた。
「そうじゃない」
松岡はまた否定した。
「口先だけの否定では話にならんよ」
長谷部は脇を向いた。
女子行員がコーヒーを運んできた。
松岡も長谷部も無言のままだ。どちらもコーヒーに手を付けようとしない。
「もう少し真剣に、こっちの意見を聞いて貰いたい」
と長谷部が言った。
「どうぞ、聞きますよ」
と松岡も応じた。
「広報課はいままで総務部内にあった。それを総合企画部内に移した方がよいというのがぼくの意見だが、何故よいのか? その根拠を聞いて貰えるかね」
長谷部は念を押す。
「聞きましょう」
松岡は頷いた。
何となく素っ気ない。通りいっぺんの返事という印象を受けたが、長谷部はかまわず続けた。
「総務部が非常に重要な部であるのははっきりしている。株主総会も取り仕切らなければならないし、総会屋対策もある。全行員の身に何かあれば、冠婚葬祭も含めて総務部の担当になる。その他もろもろがおたくの担当だ。大半の仕事がいわば防衛の仕事だと言える。いわば、企業防衛の最前線にいると言ってもいい」
長谷部はそこで言葉をきった。
「その通りだね」
松岡は認めた。
「それにくらべると、総合企画部は防衛ではなく、むしろ攻撃の仕事といってよく、前に出て行く必要がある。どうだろう。これも認めて貰えるかね?」
と訊く。
「認めましょう」
あっさり応じた。
「となれば話が早い。広報という仕事は防衛の面がまったく無いわけではないにせよ、それはほんの一面で、大半の仕事はこちらから出て行ってPRする攻撃型の仕事と言える。したがって、総務部内に置いておくのはおかしい。総合企画部に移してこそ、本来の力を出せる。いままであまり力を発揮出来なかったのは、人の問題もあるにせよ、所属していた部の持つ性格のせいだと言ってもよいと思う」
長谷部は持論を述べた。
「おそらく、きみだって、そう思っているに違いない」
自信たっぷりに断言した。
「違うね」
松岡は突っ放すように言う。
「違う?」
「きみの論は詭弁《きべん》だ」
と松岡はきめつけた。
一瞬、長谷部は信じられないような顔をした。
「詭弁?」
と呟いた。
「いったい、ぼくの話のどこが詭弁なんだ。はっきり指摘してくれたまえ」
と詰め寄った。
「すべてだよ」
松岡はあっさり応じる。
「すべてだって? まったく、きみはどうかしてるぞ」
長谷部は呆れ顔になった。
「じゃあ、今度はぼくに言わせて貰おう。こっちもじっくり聞いたんだから、きみだって最後まで聞いてくれ」
と松岡は言い張る。
「もちろん、聞かせて貰うよ」
長谷部は承諾した。
「ぼくに言わせれば、仕事に防衛型も攻撃型もない」
と断言する。
「何だって?」
「どんな仕事であれ、ある時は防衛、ある時は攻撃なんだ。一方的に防衛ばかりとか、攻撃ばかりということはあり得ない。総務部の仕事だって、きみは防衛ばかりだと思っているらしいが、とんでもない誤解だよ。攻撃的な要素はたくさんある。攻撃は最大の防御という言葉を知ってるだろう」
松岡は言いつのった。
「けっこうな話だが、きみは間違っている。総務部の仕事をそんなふうに考えるのはおかしい。誤解しているのはきみの方だ」
長谷部も負けずに言い返した。
「そうかな?」
松岡は小首をかしげた。
「そんな考えで仕事に取り掛かり、防衛を二の次にしたりすると、大変なことになるよ。いまからはっきり予言しておく」
「予言だって、大げさだな」
「大げさなものか、下手すると身動き出来なくなる」
「まさか?」
「まさかが現実にならなけりゃいいが」
「それこそ大きなお世話だ」
松岡が気色ばんで言い放った。
「大きなお世話とまで言われたんじゃ、口は出せない。新総務部長のお手並み拝見といきたいところだが、危なくてとても見ておれんね」
長谷部も口許を歪めて言い返した。
「きみはわざわざ総務部及び総務部長を侮辱しに来たのか?」
松岡は眼を剥《む》いた。
長谷部は改めて相手の顔を見直した。
松岡の頬のあたりがすこし震えている。
「莫迦なことを言わんでくれ。きみを侮辱して何になる」
と長谷部は言った。
「何になるのか知らんが、現に侮辱しているじゃないか?」
松岡は憤りを隠さない。
「おい、おい」
「おいもへちまもない。ぼくの部屋から出て行ってくれ」
「言われなくても出て行くよ」
長谷部はすばやく立ち上がり、そのまま部屋から出て行った。
松岡は一人取り残された。
テーブルの上にはまったく手のつけられていないコーヒーカップが二つ載っている。中身はとうに冷めていた。
松岡はしばらく身動きしなかった。そのうちに、さも居心地がわるそうにもぞもぞと躰を動かした。すぐにいたたまれない思いがこみ上げてきた。
彼は立ち上がった。何故か、躰がふらつく。両の足を踏んばって歩き始めた。
いったん自席に戻ったものの、書類の点検などする気にならない。洗面所に向かう。顔と手でも洗えば、いくらか気分がすっきりするかどうか、確信は持てないが、何もしないよりはよいだろう。そう思ってのろのろと歩いた。
廊下を進んできた神谷真知子が、松岡の姿に気付いて頭を下げた。
何の反応も返ってこない。もちろん、返礼はなく、完全に無視された。
男ならふんと鼻を鳴らすところだが、彼女はそんな不作法な真似はしない。その代わり、立ち止まって後ろ姿を見送った。何となく、足許が危なっかしいのに気付いた。どうもおかしい。
「何だか、変だわ」
と真知子は呟いた。
彼女は松岡の後ろ姿が見えなくなるまでじっと動かない。立ち止まったまま見送った。
それからおもむろに歩き始めた。エレベーターホールまで行き、違うフロアにある総合企画部へ向かう。
彼女は長谷部に会うつもりでやって来た。広報課への異動がいつ頃になるのか、たしかめておきたい。現在の仕事の整理もある。引き継ぎも必要になるだろう。そのへんをどうすればよいのか、長谷部に尋ねた方が早いと考えたのだ。
総合企画部に着くと、部長席に長谷部の姿が見えない。どういうわけか、係員たちも右往左往している。ふと、胸騒ぎを感じた。
神谷真知子は総合企画部のフロアまで来て、間仕切りの向こう側を覗き込んだ。
なつかしい場所である。ニューヨーク支店に転勤するまではここに居た。いわば古巣であった。
まもなく、ここに戻れる。そういう思いが生じた。部長は石倉から長谷部に変わっている。部内の人たちも半数以上入れ替わっていた。したがって、以前と同じというわけにはいかない。
しかし、ここに来ると、何となくほっとする。それはたしかだ。
石倉とはタイプが違うが、長谷部がすぐれた部長であるのははっきりしている。そのことは真知子にもわかった。いままで何人もの上司の下で仕事をしてきただけに、部長の能力の有無や人柄などはよくわかる。
従来は総務部に所属していた広報課が、今度、総合企画部に移ってくる。それを機に、広報課は一変するだろう。
いったい、どんな変身をとげるのか?
もちろん、まだ誰にもわからない。とはいえ、自分がその一端を担うのはたしかだ。それはもうはっきりしている。
実は、彼女が広報課長になることが内定していた。これは長谷部との間の話し合いで決まった。というより、長谷部が熱心に新しい広報課構想を語り、それに彼女を引っ張り込んだといってもよい。
こういう状況は、何故か、かつて石倉が彼女をMOF担に起用した時ときわめてよく似ている。あの時も活気があった。いや、むしろ、熱気といってしまってもよいような気配さえ生まれた。
そのため、仕事に熱中出来た。生き甲斐を感じて取り組んだといえよう。結果は予想以上であった。彼女だけではなく、石倉の株まで急上昇した。
今度も、あれに似た状況になるのではなかろうか?
そういう気が強くする。
いや、それ以上の効果が期待出来るかも知れない。いまや、真知子は確信を持っていた。したがって、少しでも早く、総合企画部に移ってきて仕事に手を出したかった。
いつも長谷部が坐っている部長席には誰もいない。空席になっていた。
「長谷部部長はお出かけですか?」
真知子は近くの席の部員の一人に尋ねた。
「それが…」
と相手は言葉を濁した。
「それが、どうかなさいましたの?」
「ええ、まあ」
相手は言い淀んだ。
その時になって、真知子は気付いた。どうも変である。
「お出掛けでなければ、どこか具合でもおわるいんですか?」
と彼女は訊いた。
「そうなんです。ちょっと」
相手ははっきり言わない。
「では、いま医務室かどこかに?」
「いえ、応接室にいます」
「お一人で?」
「そうです」
ようやく頷いた。
「でしたら、わたくし、ちょっと様子を見ますわ」
と申し出た。
「それが、誰も入れないでくれとのきつい命令でして」
相手は困惑の表情を浮かべている。
「入ってはいけませんの?」
真知子は前に出た。
「困ります」
言って、相手は立ちふさがった。
そうなると、その人物を突き飛ばして先に進むわけにはいかない。
「わかりました。ちょっと用事があったんですが、出直して参ります」
と彼女は言った。
「申し訳ありません」
相手はほっとしたような表情で、軽く頭を下げた。
「こちらこそ」
真知子は会釈を返して、引き返す。
エレベーターホールまで来ると、はっとして足を停めた。このまま放置しておいて大丈夫であろうかとの思いが生じてきて、なかなか消え失せていかない。
もし、ほんとうに具合がわるいのだとしたら、応接室で横になっているだけでは困る。何らかの処置を施さないと手遅れになる恐れがあった。
真知子は心を決めた。余計なことかも知れないがやってみようと思った。そのまま自席には戻らず、エレベーターに乗る。医務室に向かったのだ。
さいわいと言うべきかどうか、その日の担当は女医であった。彼女はかいつまんで訳を話した。病状についてはよく知らない。とにかく、専門家に任せた方が良いと思った。
「そうです。そのために来ているんですから、遠慮なく申し出て下さい」
三十代半ばの女医は気さくに言い、往診してくれることになった。
「では、わたくしがご案内します」
真知子は案内役を買って出た。
真知子が白衣の女医を連れて再びあらわれると、近くにいた部内の者たち何人かが眼を見張った。
大げさなと思った者もいるだろうし、逆にほっとした者もいよう。真知子は気にせず、さっさと応接室を目指す。さすがに、今度は立ちふさがる者はいなかった。
真知子はノックをした。いきなり、女医を入れるのもどうかと思ったのだ。
いくらかくぐもった声が聞こえた。やはり、いつもの長谷部の声ではない。
「失礼いたします」
と断って、そっとドアを開けた。
長谷部は長い方のソファに半ば身を横たえていた。顔色がわるい。血の気がなかった。
「具合がわるいと聞いたものですから、ちょっと心配になりまして、医務室の先生をお連れしました」
真知子は言った。
「それはどうも、ご親切に」
と長谷部は応じた。
「わたくしは外に出ております」
と伝えて、女医の方を振り返った。
「先生、よろしくお願いいたします」
言って、入れ替わる。
真知子は外に出た。部内の三、四人が寄ってきた。
「これで安心よ。お医者さんに診て頂きますから」
と彼女は言った。
「そんなことはないとは思いますが、万一、手当てが早ければというケースもありますからね。ここはひとつ、専門家にお任せしましょう」
さらりとつけ加えた。
彼女は周辺の反応を見たが、出しゃばりを非難するような気配はなかった。
真知子は、長谷部のご親切にというひとことで救われた。そんなふうに対応されたら、もっと親切にしたくなる。
彼女はそのまま応接室の外で待っている。立ったままだが、別に苦にならない。部内の人たちも、いまや彼女を追い払おうとはしていなかった。それどころか、何となく共感が持てた。というのも、彼等の殆どが、自席に戻らず、立ったまま彼女の近くにいたからだ。
ずいぶん長い時間待ったような気がした。これは偽りのない実感である。
が、実際には、五、六分か、せいぜい七、八分であった。正確に時計を見ていたわけではないが、そんなものだ。長く感じたのは、立って待ちかまえていた者たちの錯覚にすぎない。
応接室のドアが開き、女医が出てきた。
まっ先に真知子が前に出た。
女医は鷹揚に頷いた。
「皆さん、安心して下さい」
と女医は言った。
「軽い貧血で、気分がわるくなったんです。血圧も少し低くなりすぎていました。疲労がたまったんでしょう。働きすぎですね」
と結論を下す。
「何か、気を付けることはございますか」
と真知子は訊いた。
「ご本人に申し上げておきましたが、仕事量を減らして、よく睡眠をとること。それに尽きますね」
女医は当然のように言う。
「皆さんからも、部長さんによく言っておいて下さい」
とつけ加える。
立ち去りかけた女医は振り返った。
「他人事ではありませんよ。皆さんもお気を付けになってね」
と言い置いて立ち去った。
真知子は女医にお礼を言ってから、少しの間ためらっていた。
が、すぐに意を決して、応接室のドアをノックした。
「どうぞ」
という声が返ってきた。
「失礼いたします」
彼女はドアを開けた。
「おかげん、いかがですか」
と遠慮がちに尋ねた。
「おかげさまで、もうすっかり良くなりました。さあ、どうぞ」
と長谷部は言った。
彼は立ち上がると、いったん応接室の外に出て部員たちの方を向いた。
「心配を掛けたが、大丈夫だからね」
と声を掛けておいて引っ込んだ。
そういうところはなかなか礼儀正しい。部下思いとも言える。
「お仕事を減らして、よく睡眠をとるようにとのことでしたよ」
真知子は繰り返す。
「しつこく言われましたよ。若いのにしっかりした女医さんだなあ」
と感心している。
「どうぞ、お忘れにならないで、ぜひ、実行なさって下さい」
と彼女はいいつのる。
「わかりました。そういたします」
と長谷部は応じた。
「ほんとうですか?」
真知子は突っ込んだ。
「もちろん、ほんとうです」
長谷部は素直に頷いた。
長谷部が素直に頷く表情を見て、真知子は可愛いと思った。
これは実感である。
そんなふうに思うのはおかしいと思いつつも、実感は否定出来ない。
「さあ、どうぞ。お掛け下さい」
長谷部はソファを指さした。
「有り難うございます」
お礼を言って、真知子は腰を下ろす。
「ほんとうにもうよろしいんですか? まだ少し顔色が青いような気がします」
と気遣った。
「そうですか、病人のように見えますか?」
長谷部は不満そうだ。
「病人とまではいきませんが、でも、少し」
と言い淀む。
「わかりました。まあ、半病人というところですね」
「正直なところ」
と真知子は認めた。
「お医者さんもあんなふうにおっしゃったばかりですから、今日は早くお帰りになってお休みになってはいかがですか?」
と奨める。
「そう言って下さるのは有り難いんですが、何かとありましてね」
歯切れがわるい。
「それがいけませんの。つい、無理をなさる。お気持ちもお忙しいのもわかりますけど、今日だけはすぐお帰りになって下さい」
真知子は強引に言った。
自分はまだ他の部の部員なのに、少し強く言いすぎているのではなかろうかと思いつつも何故か、後には引けない。
「あなたにそう言われると、従わないといけないような気になってくる。不思議だな。とにかく、今日はおっしゃる通りにします。すぐ帰って、休ませて貰います」
長谷部はあっさり譲歩した。
「まあ、ほんとうですか?」
真知子は思わず訊いた。
「ほんとうだとも」
長谷部は声に力をこめる。
「わかって頂けて、嬉しいわ」
真知子は満足した。ごく自然に笑みが浮かんだ。
長谷部はその笑顔をまぶしそうに見た。
その時、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」と長谷部が言い終わらないうちに、ドアが開いた。
「部長、電話です。そちらへ廻しましょう」
「いや、廻さなくていい。出掛けていて、今日はもう帰らないと伝えてくれたまえ」
長谷部はぴしりと言った。
長谷部は真知子に約束した通り、すぐに帰り仕度をした。
真知子は庶務部に電話を入れて車の用意を頼んだ。
「タクシーで帰るよ」
と長谷部は言ったが、真知子は取り合わず、無理に銀行の車を奨めた。
結局、真知子は総合企画部を訪れて長谷部に会ったものの、用件を口にしないうちに帰ってきた。それどころではなかったといってよい。さして急ぎの用件ではないので、遠慮したかたちになった。
それにしても、彼女は広報課の移籍問題で長谷部と松岡が口論し、それが長谷部の貧血の原因になった事実など知る由もない。もちろん、神谷真知子が原因ではなかった。が、長谷部の構想には最初から彼女が入っていた。
長谷部には彼女を課長にしようとの意図があった。だからこそ、あえて広報課を引き取るつもりになったといってもよい。もし、真知子が身近にあらわれなければ、果たして、松岡にこんな申し出をしたかどうか、あやしいものである。
そう考えると、彼女がまだ知らないだけのことで、原因はまさに真知子にあったとも言えよう。
もっとも、いまのところ、そのことを知っているのは長谷部本人だけである。真知子は単に、広報課が総合企画部に編入されるから、広報課長を引き受けて貰えないかと頼まれたにすぎない。それも正式にではなく、個人的に打診を受けたにすぎなかった。
松岡にいたっては、長谷部が真知子を初代の課長にしようとの私案を抱いていることさえ知らない。
もし、知っていればどうしたか?
この点は不明だ。なにしろ、いまの松岡はいったん自分の配下に入っている課を手放したくないとの思いにのみかられていた。安易にそんなことを許せば、部の縮小につながる。まして、現在の彼はいささか威丈高になっている。
新しく取締役に就任し、総務部長のポストを手に入れたばかりなのに、いきなり配下の課を他の部に持ってゆかれる。これではたまらぬとの思いが強い。たとえ、それが親友の長谷部の部であっても駄目だ。断じて許すわけにはいかない。
松岡はそう考えて、長谷部の提案を突っぱねた。
突っぱねただけならよいが、つい、口論をしてしまった。それも、俗っぽい言い方をすれば、売り言葉に買い言葉というたぐいの、次元の低い言い争いである。
松岡は思いのほか疲れているのに気付いた。原因はわかっている。
長谷部との口論だ。かなり派手にやってしまった。近頃、こんなふうに他人と言い争ったことがない。しかも、相手は日頃からもっとも信頼している親友である。
いまになって、しきりに後悔の思いが押し寄せてくる。
「ぼくの部屋から出て行ってくれ」
たしか、そう言ってしまった。
あれはいくら何でも言い過ぎだ。言うべき言葉ではなかった。長谷部の言い方と比較すると、自分の方がずっと過激なことを口にしたような気がする。
どうしてあんな展開になったのか?
自分でももう一つ納得がいかない。相手が長谷部だったので、安心して、つい言いたいことを言ってしまったのか?
しかし、親しき仲にも礼儀ありと言うではないか?
まずかった。どうもいけない。何かが欠けていた。
友人への配慮か? 思いやりか? それとも、尊敬の念か?
松岡は自問自答した。が、それで気分がすっきりするわけではない。
彼は洗面所で顔を洗い、嗽《うがい》をした。さして変化はなかった。のろのろと歩いて自席に戻ってきた。急に病人になったような気さえする。
彼はしばらく迷った。そのあげく、思いきって電話機を取り上げ、暗記している内線番号をプッシュした。長谷部の机上の電話番号を押したのである
一瞬、緊張する。聞こえてきたのは長谷部の声ではない。
「部長はちょっと席をはずしておりますが、どちらさんでしょうか?」
若い課員の声だ。
「何処かへお出掛けですか?」
「しばらくお待ち下さい。ちょっと探してみます」
と断って、課員が動き廻る気配が伝わってきた。
松岡はじっと待っていた。実際、かなり待たされた。ずいぶん長いなと思った時、相手の声が聞こえてきた。
「やはり外へ出ておりまして、今日はこちらに戻らないそうです」
と先程の課員が答えた。
「そうですか」
「どちら様でしょうか? 連絡を取りますが」
「けっこうです。失礼しました」
と松岡は答えた。
松岡は電話機を置いた。
どうも気分がよくない。苛立ちもつのる。机に坐っているのが苦痛だ。実際問題として、これでは仕事どころではなかった。
それでも、松岡は十五分位我慢していた。あげくに、とうとうじっとしていられなくなって立ち上がる。まだ迷いはあったが、あえてふっ切るように歩き出した。
まず、エレベーターホールへ向かう。実は、総合企画部を目指したのである。
もう一度、長谷部に会うつもりになった。出先まで追い掛けてもよい。会って、感情的になったことを反省し、あっさり詫びよう。失言は取り消す。そうすれば、彼だって、気分を直してくれる筈だ。この際、素直になろう。自分が素直になれば、必ず相手にも伝わる。
松岡は足を早めた。
総合企画部に来てみると、やはり、長谷部の席は空席になっている。外へ出掛けて、今日は帰らないと聞いていた。
松岡はさっさと中心部に進み、次長の席の脇まで来た。
「おたくの部長、お出掛けらしいね。今日は何処へ行ったのかね? ちょっと連絡をつけたいのだが」
と話し掛けた。
「あ、松岡部長」
次長は急いで立ち上がった。
「そのままでいいよ。長谷部部長の行き先をメモして貰おう」
松岡はさらりと言った。
「それが、実は」
と相手は言い淀んだ。
「取引先じゃないんです」
「そう」
と応じたものの、よくわからない。
「すると、私用かね?」
と突っ込んでみた。
「いえ、ちょっと具合がわるくなりまして」
「具合がわるくなった?」
松岡は少し驚いた。
「そうなんです。応接室で横になっていたんですが、医務室のお医者さんによりますと、過労で貧血気味なので、家に帰って休んだ方がよいということになりまして」
くどくどと説明する。
「それで?」
松岡は先を促す。
「家へ帰られました」
と次長は教えた。
「家へ帰った?」
「はい」
と頷く。
「あの頑張り屋が帰ったとなると?」
松岡は急に心配になった。
長谷部が家に帰ったと聞いて、松岡は顔をしかめた。そのまま自席に戻る。
まず閃いたのは、あの頑張り屋がとの思いである。過労気味で貧血と聞いたが、ほんとうにそうなのか?
というのも、その程度で長谷部が早退するとは思えないからだ。ひょっとして、もっと重い病気ではなかろうか? そんな気さえする。
松岡は、自分よりも長谷部の方がずっと頑張り屋であるのを知っていた。過労気味はお互いさまだ。銀行の幹部行員なら、誰もが似たような状況に置かれている。
貧血になると、躰がふらつく。気分もよくない。それはたしかだ。しかし、三、四十分も横になっていれば何とかもとに戻る。もっとも、軽症の場合であるが……。
したがって、その程度であれば、部長クラスの幹部行員なら、まず早退はしない。長谷部は自分の応接室で横になっていたというから、いくらかは回復した筈である。
それに、と松岡は考えた。
長谷部は単身赴任者だ。家は岐阜市の郊外|鏡島《かがしま》にあった。妻と娘が岐阜にいて、東京の大学に通っている息子と長谷部がマンションで同居していた。交代で夕食当番をしているものの、どうもその当番がきちんと守れないとのぼやきを耳にした覚えがある。
おそらく、息子はまだ帰っていない。では、一人でマンションの部屋に帰った長谷部はどうしているのか?
松岡はその様子を想像した。彼自身も福岡支店長をしていた時に、博多で単身赴任生活の経験を積んでいる。したがって、単身赴任者の侘しさ、味気なさをよく知り尽くしていた。丈夫で、仕事に追いまくられ、取引先を接待したりされたりの暮らしが続いていれば、たしかに気が紛れる。
が、いったん調子が狂った時、病気になった時はつらい。つらさが倍増する。骨身にこたえると言った方がよいだろう。さすがに、こういう時はそれまでさほどに感じなかった家族の有り難さがよくわかる。
おそらく、長谷部は自室に着くと、のろのろと着がえする。ベッドに横になり、出来ればしばらくは眠るつもりであろう。
パジャマを着て、顔と手を洗う。うがいするかも知れない。その上で、ベッドに近寄り、どうにか横になる。
たぶん、仰向けになって天井を見る。見る気はなくても、いやでも天井が眼に入ってくる。布張りか紙張りか知らぬが、無難なベージュ色あたりではなかろうか? 松岡は勝手に想像しながら、こみ上げてくる侘しさを追い払おうとした。
松岡はマンションの自室に帰った長谷部の行動を想像した。実は、行動だけではなく、その心情まで思いやった。
同じ単身赴任者としての体験を持った松岡には、病気になった場合の心細さがよくわかる。たちのわるい流感性の風邪で、高熱を出して寝込んだ時のことを思い出したのである。
「うーむ、どうもいけない。侘しくてかなわん」
と松岡は呟いた。
「さて、どうしたものか?」
思いあぐねて、腕を組んだ。
長谷部と諍《いさか》いを起こしていなければ、見舞いにも行けたし、電話を掛けることも出来た。しかし、お互いに啖呵《たんか》をきりあって右と左に別れた。
彼は、「ぼくの部屋から出て行ってくれ」とまで言ったし、それを聞いた長谷部の方も憤然と席を立った。
こういう状況ではまずい。何を言っても、してもそらぞらしくなる。よりによってこんな時にという思いが押し寄せてきた。
「いや待て。それどころではないぞ」
と松岡はひとりごちた。
長谷部の体調が狂い、具合がわるくなった原因は、いままで少しずつ積み重ねられてきた過労であるのはたしかかも知れないが、そのきっかけはあの時の言い争いではなかったのか? もし、そうなら、早い話、松岡のせいだとも言えよう。
あれから、長谷部は自席に戻って行った。間違いなく、心の中にかなりの忿懣が渦巻いていた筈だ。もちろん、相当不愉快であったに違いない。
あげくに、それが引き金となって、気分がわるくなり、応接室にこもってソファで横になった。たぶん、そうだ。
──となると、責任は自分にある。
松岡はそう考えた。
いったん、意識すると、もういけない。自分があんなふうに彼にくって掛からなければ、長谷部があれほど激昂することもなかった。彼はもともと温厚な人物なのだ。こうなると、たぶんに、松岡の方が挑発したきらいがある。
「やはり、責任は?」
呟いて、表情を曇らせた。
それにしても、いつもあまりものに動じない長谷部がどうしてあの程度の挑発に乗ったのか?
正直なところ、いささか不思議な気がする。どうもよくわからない。
ひょっとすると、しばらく前から体調がわるく、そのため、苛立っていたのか? 病状のせいで日頃の温厚さが失われて気が短くなる。あり得ないことではなかった。
長谷部は銀行の車でマンションの自室に帰った。
息子は試験休みだと称して、一週間の予定で岐阜の自宅に帰っている。したがって、いま彼は一人である。
当然のことながら、部屋の状態は朝出た時と同じであった。コーヒーカップとスプーン、トーストを載せた皿などは流し台の上に置かれたままだ。
まず、それを洗った。部屋の掃除もすでに三日していない。電気掃除機を引っ張り出したい衝動にかられたが、我慢した。掃除をするために早退したのではなかった。
とにかく、休むこと。しばらく、横になってじっとしていよう。このところ、ずっと寝不足であった。無理を重ねてきたのはたしかである。
横になり、一気に眠ってしまおう。もし、明日の朝まで眠れたら、完全に寝不足は取り戻せる。
パジャマに着がえて、手と顔を洗った。そのまま横になる。仰向けに寝て、じっと天井を見た。このあたりまでは、松岡の予想した通りであった。
だが、その先が違う。長谷部は布張りのグレーの天上を見上げたが、それについては何の感想もなく、別にそれほど侘しいとも思わなかった。
息子は別の部屋に起居しているから、こうして、一人で眠ることに馴れている。あまり時間が経過しないうちに、せいぜい二、三分で眠り込んでしまった。
やはり、このところの寝不足が祟《たた》っていた。自分でも何となくそんな気がしていた。もともと躰は丈夫な方である。むしろ、頑健といってもよいくらいだ。
とはいえ、五十代に入ってからは、それまでのようなわけにはいかない。自分ではそれと気付かぬうちに、単身赴任の生活がこたえてきたのか?
とにかく、眠れば回復するとの思いが強い。ずっと目覚まし時計のベルの音で起こされてきた。ほんとうはもっと眠りたいのに、そうはいかず、眠りは残酷に遮断され続けてきた。
それがわかっていたので、わざと目覚まし時計には触らなかった。まだ夕方にもなっていない。いまから眠って、明朝まで眼が覚めぬ筈もなかろう。しばらくぶりに目覚まし時計の世話にならずに眠ってみたい。
長谷部はそう考えて横になり、まことにあっけなく眠りに落ちた。
同じ頃、神谷真知子は自席で仕事をしながら、何となく落ち着かない気分でいた。長谷部の容態が気になったのである。
神谷真知子はしばらく思案していたが、思いきって受話器を取り上げた。
よく覚え込んでいる直通のナンバーをプッシュする。
石倉克己の机上にある電話のナンバーであった。
おりよく、石倉は自席にいた。当人が受話器を取り上げた。
「もし、もし、わたくしです」
と真知子は言った。あえて名乗らなくても、声でわかって貰えると思ったのだ。
「ああ、どうも、この間は失礼しました」
石倉の落ち着いた声が応じた。
やはり、すぐにわかってくれた。何となくほっとした。
「よろしいですか? いま?」
と真知子は訊いた。
「もちろん、けっこうです。ちょうどよかった。会議が終わって席に戻ったところでした。五分前だとここには居なかった」
と石倉は快活な声で言う。
「お元気そうですね」
彼女は感じたままを口に出す。
「まあ、何とか」
余裕のある口調だ。
「よかった」
つい言ってしまった。
「どうも」
少し照れたように言い返す。
「そちらはいかがですか?」
と訊く。
「わたくしは相変わらずですが、長谷部部長が体調をこわして、今日、少し前に早退されたところです」
と教えた。
「ほう、長谷部くんが」
石倉は意外そうに言った。
真知子は自分もいくらかかかわりを持った、先程からの経過をかいつまんで話した。石倉は黙って聴いていた。
「それにしても、長谷部くんが早退するなんて珍しいね。これは二つに一つだな」
「二つに一つって、どういうことですか?」
と訊く。
彼女は何のことか、意味がよくわからない。
「まず一つは、きみが早退するようにと熱心に奨めたから」
と石倉は主張する。
「まあ、そんな」
「もう一つは、きみの奨めに関係なく、自分で判断して、ここは帰った方がよいと思ったからだろう。最初のケースならさして心配はないが、後の方だと少しばかり重症だね」
石倉は冷静に分析した。
真知子は少し表情を曇らせた。心配になったのだ。
「たしかに、おっしゃる通りだと思います。二つに一つのうち、どちらでしょうか?」
思いきって尋ねた。
「素直な感想でいいかな?」
と石倉はたしかめる。
「もちろんです。素直におっしゃって下さらないと困ります」
「では、言いましょう。最初の方ですね。あなたが熱心に奨めたからです」
と断言する。
「まあ、ほんとうかしら?」
「たぶん、間違いないでしょう。女医の先生の診断からもそんな感じがします。もし、後の方なら、そのお医者さんが何らかの処置をした筈です」
石倉はそう言った。
「よかった。わたくしもだんだんそんな気がしてきました」
真知子の表情が明るくなった。
「過労の原因は、おそらく寝不足だな。早く帰って十時間も眠れば元気になる。もともと、丈夫な男だからね」
「じゃあ、心配しなくてもいいでしょうか」
「その通り、心配の必要なし」
と石倉は断言する。
「いま頃はもう眠り込んでいますよ。ひょっとしたら、きみの夢でも見ているんじゃないかな」
と揶揄気味につけ加えた。
「まあ、何をおっしゃいますの」
真知子は詰《なじ》った。もう、許さないとつけ加えようとして、この部分は呑み込んだ。憎らしいという思いがこみあげてきた。近くにいたら、抓《つね》ってやるのにと思った。
「これは失言、どうも失礼しました」
気配を察したのか、石倉は慌てて言った。
「どうです。近くごいっしょに夕食でも」
と誘う。いかにも、とって付けた感じだ。しかし、誘われないよりはよい。
「ぜひ、お声を掛けて下さい」
と彼女は気を取りなおして、応じた。
「では、こちらから連絡します」
「愉しみにしてますわ」
と答えて、通話を終えた。
受話器を置くと、躰に力がよみがえってきたのを感じた。すっかり元気になっていた。長谷部の病状についての心配が薄れたせいか、それとも、石倉と話したせいか、よくわからない。どちらとも言いがたいが、強いて言えばと彼女は考えた。
いや、どちらかに決めるのはむずかしい。両方だわと彼女は思った。
ちょうど真知子が通話を終えたのと入れ違いに、今度は松岡が石倉の直通番号をプッシュしていた。
石倉は席を立とうとした。真知子との会話を終えたばかりだ。洗面所へ向かうつもりであった。
電話のベルが三つ鳴ったところで、受話器を取り上げた。
「もし、もし、忙しいところ、どうも申し訳ない。いま、四、五分いいかな?」
松岡の声が聞こえてきた。
「けっこうですよ。何なりとどうぞ」
と石倉は応じた。
「あんたは、いつも優しいね」
松岡の声はいくらかべたついている。
「言ってくれるね。何だい、それは?」
石倉はいくらか異変を感じて尋ねた。
「何でもないよ」
と直ちに否定する。
「そうか、少しおかしいぞ」
と感じたままを言う。
「なるほど、おかしいか? きみがそう言うところをみると、やはり、いくらかおかしいのかな? どうもよくわからん」
「おい、おい、酔っ払いを相手にしているんじゃないからな。どうかしたのか?」
石倉は少し声に力をこめて訊いた。
「実は、長谷部の具合がわるくなった」
松岡の声は弱々しい。
「そのことなら聞いたよ」
と言いそうになって、石倉は慌てて口を噤んだ。いったい誰から聞いたのかと追及されるのは困る。あえて隠すほどのことではないが、進んで言いたくはなかった。何故か、自分でもよくわからない。
「どんなふうにわるいんだね?」
と尋ねた。ここはとぼけておこうと決めた。
「なに、病状の方はたいしたことはない。いま医務室に電話して、診察した女医にたしかめたんだが、過労だね。どうも連日の寝不足で貧血を起こしたらしい」
と報告する。
「じゃあ、心配しなくてもいいな」
石倉は先廻りした。
「まあ、そういうことだ」
と松岡は認めた。
これで会話は終わる。普通ならそうなる。ところが、松岡はぐずついた。
「それで、まだ何かあるのかね?」
石倉は少し苛立った。便意をもよおしてきたせいもある。なにしろ、先程から洗面所へ行きそびれている。
「長谷部が具合がわるくなったのは、実は、ぼくのせいなんだ」
と松岡は打ち明けた。
「なんだって、寝不足がきみのせい?」
と訊き返した。
松岡のあまり力のない笑い声が聞こえた。照れ隠しのような笑いだ。
「長谷部の寝不足がぼくのせいだとは、よく言ってくれるね」
松岡は抗議とも冗談ともつかぬ言い方をした。
「だって、原因は寝不足からきた過労だって、いまきみが言ったばかりじゃないか?」
いくらか詰《なじ》る口調だ。
「たしかに、女医の診断はその通りなんだが、その前にね」
と歯切れがわるい。
「その前に、何だって?」
と突っ込んだ。苛立ちも加わった。
「長谷部と口論した。ついかっとしてやりあってしまった」
と打ち明けた。
「何かと思ったら、そんなことか?」
石倉は吐き出すように言う。その方が効果的なのを承知している。
「おい、おい、簡単に言うなよ」
果たして、松岡は引っ掛かった。
「しかし、口論ぐらい誰だってするだろう。そういう時に、日頃の親しさがものを言うんだ。きみと長谷部くんなら気心が知れている。お互いに、何を言っても問題にならんだろうな」
さらりと指摘した。
「常識的にはそうかも知れんが、現実はね、甘くない。正直なところ、参ったよ」
松岡は弱音を吐いた。
「なまじ、親しいだけに具合がわるいということもあるだろう」
とつけ加える。
「どうも信じられんな。ぼくにはよくわからん。そんなに深刻なのかね」
石倉は呆れたような口調で応じた。
「何とも恥ずかしいしだいだよ」
「反省しているようだな」
「している」
松岡は即座に言った。
「それで、ぼくにどうしろというんだ」
石倉は訊いた。
「きまっているじゃないか。仲を取り持ってくれ」
「わかった。だが、長谷部の言い分も訊かなきゃならん」
「もちろんだ。任せるよ」
と松岡は頼んだ。
「無条件で任せる」
と繰り返した。
「よろしい。何でも任せると約束するなら引き受けよう」
石倉は条件を付けて引き受けた。
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第十章 落とし穴
長谷部と松岡が内輪揉めして、右と左に別れた日の夜、思いがけぬ事件が起こりかけていた。
午後七時に、浅草の料亭で二人の人物が落ち合った。どちらも人品卑しからぬ恰幅のよい紳士である。一人はかなりの年輩だが、もう一人は十歳近く若い。
年輩の方は富桑銀行の頭取原沢一世その人であった。若い方は三洋銀行の成瀬昌之である。
かつて、富桑銀行と三洋銀行の間にはいわく言いがたい確執が横たわっていた。無理もない。両行は創立以来のライバル行であった。長年、しのぎを削る競争を演じてきた。
規模や歴史が似ているせいか、よく比較される。資金量や融資量もほぼ同じで、抜きつ抜かれつの状況が続いた。
このため、お互いの行員たちの間にも、ことのほかライバル意識が強い。他行はいざ知らず、富桑だけには負けられない、三洋だけには抜かれたくないとの思いを、行員の一人一人が持っている。
近年は富桑銀行が財閥グループの銀行である利を生かして、いくらかリードしていた。富桑に追いつき、追い越せというのが、三洋銀行側の合言葉である。
こういう状況がずっと続いていたのだが、三年前異変が起こった。三洋銀行の成瀬の前の頭取杉本富士雄が、富桑銀行の現頭取原沢一世と組んで両行の大型合併を目論んだ。
もう少しで成功するところまでいった。しかし、巨大銀行の誕生は目前で挫折した。合併話は白紙還元されたのである。
成瀬を中心にした、長谷部、松岡等の合併反対運動が功を奏したのはたしかだ。が、直接のきっかけになったのは、原沢頭取の自宅に撃ち込まれた銃弾のせいである。犯人はいまだに判明していない。
原沢自身は身に覚えのない災難だと弁明にこれ努めたが、世間の眼は厳しかった。結局、右翼、総会屋、広域暴力団等々とのつながりのある人物と見られた。何らかのつながりがあって争いに巻き込まれてしまった。だからこそ威《おど》しの意味もあって銃弾を撃ち込まれたと考えるのが常識である。
この常識が大きくものを言い、合併熱で浮かれあがっていた人々の熱を冷ました。こういう熱はいったん冷め始めると始末がわるい。たちまち冷却状態となり、合併はあっさり白紙還元されたのだ。
杉本、勝田等の合併推進派首脳陣は責任を取って退陣した。当時の総合企画部長として、秘かに合併工作を担当し、その推進に努力を惜しまなかった石倉克己も銀行を去った。
成瀬昌之が頭取のポストに就けたのも、いわばそのおかげと言ってよい。ともあれ、三洋銀行側は大きな打撃を蒙った。
ところが、富桑銀行側はこれといった被害を受けていない。思うに、原沢一世のワンマン性が強く、行内の不満分子の声を、上から、うむを言わせずねじ伏せてしまったのだ。
原沢は対外的にもかなりの力を持っている。銃弾事件の犯人が挙がらず、闇の世界との係わりが解明されなかったのもさいわいした。あれは単純な被害であるとみなされ、むしろ、同情された。
もちろん、真相は誰にもわからない。原沢自身にもどれだけわかっているのか? はっきりしなかった。
こうして、富桑銀行側にはさしたる打撃も変化もなく、依然として、原沢一世は押しも押されもせず、大銀行の頭取におさまっていた。
それから、およそ満二年以上が過ぎ、三年目に入ったいま、銀行を取り巻く環境は大きく変化した。
当時もすでにバブル経済は崩壊しており、銀行の不良債権は増えつつあった。ところが、不況はせいぜい三年位でもとに戻ると考えられていた。多くの経済評論家が口をきわめて、ほぼ同じ事柄を力説した。
それに、当初は不良債権そのものも、銀行が得た高収益にくらべればさしたるものではなかった。したがって、三年位で不況が終わり、不動産価格がボトムまで下がって上昇に転じれば、難なく取り戻せる。そう考えた人が多かった。銀行経営者とて同じである。
勉強不足、認識不足と言ってしまえばそれまでだが、今回の不況はそれほど生やさしいものではなかった。不動産価格にせよ、株価にせよ、絵画やゴルフ会員権等々の価格にしても、ここがボトムだと思うと、さらに下がるという現象が続いている。
需要と消費が低迷し、サラリーマン層の購買力がすっかり落ちてしまった。これでは企業も新たな設備投資が出来ない。モノを作っても売れず、在庫がかさむ。
バブル倒産が今度は不況型の倒産に変わった。こうなると、取引先の入金遅れのため資金繰りがつかず、連鎖倒産に追い込まれるケースが増えてきた。
銀行が貸し渋りを始めたのも大きな原因の一つであろう。
貸せば焦げつく、焦げつけば不良債権になる。ただでさえ多い不良債権がさらに増えてしまう。これではかなわない。銀行の経営そのものにも赤信号が点滅し始めた。危ない先に貸し渋るのは当然の現象と言えよう。
もっとも、最近の銀行はあまり危なくない先へも貸し渋りを始めている。
その結果、せっかく軌道に乗って何とか頑張っている企業の資金繰りを破壊し、危ない会社にしてしまう。これは問題だ。
もともと、金融は人体における血液のような役割を果たしてきた。かりに、立派な心臓や胃腸、肝臓、腎臓、膵臓等々を持っていても、血液の流れが止まってしまえばそれまでだ。倒れるほかはない。
銀行の貸し渋りのおかげで、本来なら十分やってゆける企業まで倒産に追い込んでいる。これが問題でなくて何であろう。このままで進めば、深刻な状況になる。倒産件数はさらに増え、日本経済は泥沼化し、あげくに沈没する。ODAなどを含む諸外国への援助どころの話ではない。
ちなみに、銀行の貸し渋りの原因は、すでに述べたように、多少でも経営に懸念のある会社へ貸し込んで、これ以上不良債権を増やしたくないとの意向による。
たしかに、これはもっともな理由である。しかし、俗に言うように、羹《あつもの》に懲りて膾《なます》を吹くがごとき現象が起こっているのも事実だ。げんに銀行の貸し渋りが資金繰りを悪化させ、倒産件数を増やしている。
だが、この問題の背景にはもっと大きな原因がある。
これも例のビッグバンの一つと言ってよい銀行への足枷《あしかせ》だ。
「早期是正措置」と呼ばれているもので、要するに銀行の自己資本比率の改善を目指している。もちろん、このこと自体は良いことである。
銀行そのものの安全度を高めようとの意図で導入される。したがって、預金者はいままでよりも安心して預金が出来る。
もう少し具体的に言うと、自己資本比率が、国際的に活躍する銀行については八パーセント、国内だけの銀行については四パーセントを基準にし、もしこれを下回った銀行には自動的に業務改善命令が出る。
そして、かりにこのパーセントがマイナスになったりしたら、不良債権額や資金繰りその他になんら破綻《はたん》がなくても、もうそれだけで業務停止命令が出てしまう。
この措置は平成十年四月から実施されることになる。
しかし、平成九年秋の現時点ですでに各金融機関の厳しい選別が始まっている。北海道拓殖銀行と徳陽シティ銀行はこれへの対応が出来なかった銀行で、営業譲渡を余儀なくされた。したがって、いま残ったのはこのパーセンテージをクリアした銀行ばかりだ。
言いかえると、平成九年十二月現在、残っている銀行はすべて安泰と言ってもよいだろう。
自己資本比率八パーセント及び四パーセント以上を達成している銀行のみが残ったと言える。これは従来より厳しい基準である。
自己資本比率の向上は経営の安泰につながる。この数字を出来るだけ向上させた方が良いのはたしかだ。
しかし、そのために各銀行共、増資したり、貸出金をセーブしたりし始めた。そうしないと達成がむずかしい。収益が上がっているのにあえて赤字決算に踏み切り、不良債権を徹底的に償却した銀行もある。
とにかく、貸し渋りの原因はここにもあった。いずれにせよ、「銀行」を取り巻く環境はここ一、二年で大きく変化した。
すでに触れたが、富桑銀行と三洋銀行はライバル行でありながら、原沢頭取と杉本頭取時代に急接近し、合併案まで持ち上がったのだ。この問題が白紙還元され、杉本が引退し、成瀬が引き継いでからは、両行の接触はずっと途絶えていた。
したがって、いま原沢と成瀬が秘かに会っているのは、実に、珍しい光景と言える。両行の事情をよく知っている者にとっては、信じがたい光景でもある。
原沢にしてみれば、成瀬昌之の名にはあまり良い印象を抱いていない。何故なら、杉本の下で副頭取をしていた成瀬が合併に反対していると聞いたからだ。「何だ、小僧っ子が」と憤慨したのをよく覚えていた。
成瀬の方は杉本と闘った。当然、杉本に対しては相当な憎しみを抱いている。原沢はその杉本の同盟者である。悪意を抱きこそすれ、好意を抱く筈もなかった。
その二人が、いま浅草の料亭の奥まった座敷で向かい合っている。
実は、声を掛けてきたのも、浅草を指定したのも原沢であった。
政治家や財界人で目立つ、新橋、赤坂、築地などの料亭をさけて、近頃ではあまり人の行かない浅草を選んだのにはわけがある。やはり、人に見られたくなかったのだ。
それでも、念には念を入れて用心を怠らない。原沢の指し金であった。老人の知恵とでも呼ぶべきであろう。
二人共、頭取専用車では乗りつけず、途中でタクシーを拾った。おまけに、到着時間を二十分ほどずらした。
そのくらいの配慮は必要であろうと原沢は考えた。成瀬はそれを聞いて苦笑したものの、結局、老人の意見に従った。
最初は二人共ぎこちなかった。無理もない。
まず、丁重に挨拶をする。そこまではよいが、その後がしっくりしない。
なにしろ、かつては敵同士といってもよい間柄であった。
時間が経過し、立場が変わっている。いまでは両者共対等の関係になっていた。
ただ、年齢差はある。性格も考え方も違う。銀行経営者としての姿勢にも明らかな相違があった。
もっとも、共通項がないわけではない。二人共、かなりの野心家だ。当然、ワンマン性も強い。
「世の中、もちろん銀行も含めての話ですが、厳しくなりましたなあ」
原沢はしみじみと言う。
「たしかに、おっしゃる通りです」
と成瀬は賛同した。
「これから、もっと厳しくなりますよ。銀行の不良債権もそう簡単には消えない。償却しても償却しても、新規参入があるんですから、かないませんわ」
と顎をしゃくる。
「まったく、厭な時代になりました」
と相槌をうつ。
「そう、その厭な時代に突入して、すべてがますますおかしくなってゆく。経済もさんざんだが、経済だけじゃありませんな。教育、まずこれがいけない。文化や芸術の分野までおかしい」
と口を尖らせる。どうやら、本気で憤慨している様子だ。
成瀬も賛同の意をあらわしたが、一方で、こんな話をするために、わざわざ浅草まで来たのではないとの思いがこみあげてきた。しかし、まだ早い。いまの段階でそんな顔は出来ない。
とにかく、相手の真意がはっきりするまでは、ぬらりくらりとして、上手に身をかわす必要がある。取りあえず、話題は経済でも何でもよいが、ひとまず老人のご高説を拝聴するほかはなかった。
成瀬がそんなふうに考えているのを、知ってか知らずか、おそらく、すっかり見通しているのであろう。原沢は余裕のある表情でまくしたてた。なかなか雄弁で、正直なところ、聞いていて飽きない。政治や財界、大蔵省や日銀への不満もぽんぽん飛び出す。なかには、こんなことを言ってよいのかと思える発言もいくつかあった。
まさか油断しているわけではあるまい。とすると、気を許しているのか、親しみを覚えているのか、いや、騙されてはいけない。成瀬は気を引き締めた。
原沢一世の雄弁は続く。
しかし、果たしてこれが雄弁か? むしろ、あまり意味のない饒舌《じようぜつ》の類に入るのではなかろうか? 成瀬はそう考えた。
一方で、そんなふうに批判的な気持ちでいられるのは、まだ冷静な証拠だとも言える。成瀬は原沢の怪気炎に呑まれまいとしていた。いったん呑み込まれたら、どんな目に遭うか見当もつかない。
原沢一世はまだ現役である。杉本富士雄が引退したいま、銀行界では原沢に対抗出来るトップはいないと言われている。経験と度胸、押しの強さ、権力欲と執念、ワンマン性とカリスマ性、相当なしたたかさ、何を比較しても、原沢に勝る者はいなかった。
ただ、原沢にも問題はある。年齢から考えられる健康状態だ。
だが、見たところ、病弱なところは見当たらない。むしろ、老いても矍鑠《かくしやく》としている。原沢より十歳も十五歳も若い世代の支店長や部長クラスの方が、脳溢血、心筋梗塞、クモ膜下症等々であっけなく倒れている。
もっとも、若さと柔軟性、視野の広さ、バイタリティーと行動力等々の項目では、原沢といえども若手の連中に追い越されたままだ。もう二度と追いつけないだろう。以後、これらの差は開くばかりである。
おそらく、原沢はそのへんをよく承知している。承知していながら、気付かぬふりをしたり、そ知らぬふりをする。これもまた彼の常套手段と言えよう。
「なにしろ、わたしはもう年齢《とし》ですからなあ。いつ引退してもおかしくない」
原沢はそう言って、ちらりと一瞥する。
すばやく成瀬の反応を見たのだ。予期していた成瀬は表情を変えなかった。それどころか、すぐににこやかな笑顔を浮かべた。
「実際の年齢と個人の肉体年齢はかなり違うようですよ。正直なところ、十歳以上お若く見えます」
「ほんとうですか? そう言って頂くと、お世辞でも嬉しいですなあ」
原沢は相好を崩す。
邪気のない顔になった。いかにも人の好さそうな初老の人物の顔である。おや、成瀬は眼を見張った。まさか、これが原沢の顔であろうか? そんな疑いがこみあげてきた。
「実は、今夜、無理においで頂いたのはわけがありましてな」
原沢はいささかも表情を変えないで言った。
「とにかく、現段階では誰にも知られてはならない。新橋や赤坂をさけたのはそのせいです。目立っては困る」
いくらか秘密めかして声をひそめた。
原沢は声をひそめたまま用心深く周囲を見廻した。まるで、壁に耳ありとでも言いたげな顔付きだ。
成瀬もつられた。期せずして、原沢の巧妙な演出に乗せられた格好になった。
原沢は笑顔を浮かべたまま、少し前かがみになり、わざとかどうか、ひそひそ声になる。おかげで、秘密めかした雰囲気がなおさら強まってきた。
「そう遠くない将来などと言うと漠然としてしまいますが、出来れば一年以内に引退したいと考えております」
と原沢は打ち明けた。
「それは忙しいお話ですね。すでに決定事項ですか?」
と成瀬は突っ込んだ。
「わたしの胸の内だけで」
原沢は目配せした。
胸の内というひと言でまだ秘密事項であるのを暗示する。
「実は、誰にも打ち明けていないんですよ」
悪戯っぽい眼差しになる。
「あなたにだけお教えします」
ややもったいぶってつけ加えた。
「わたしにだけ?」
成瀬は用心深い顔付きになった。
当然、こんなふうに恩を着せるからには、ただではすむまい。特別の意図か思惑があるに違いないと察したのだ。
「お察しの通りです」
原沢は一人で頷いた。
「この秘密は、ことがはっきりするまで当分の間、わたしたち二人だけで共有していたい。そういうことでどうでしょう」
少し身を乗り出して言う。
「ことがはっきりするまで? とおっしゃいますと」
成瀬はすかさず問題点を指摘した。
「さすがですな。おわかりが早い。やはり、あなたを選んでよかった。わたしの選択は間違っていない。いま改めて、また自信を持ちました」
原沢の機嫌が良くなった。
「わたしは長年にわたって銀行頭取として君臨し、金融界を牛耳《ぎゆうじ》るとまではいかないが、それでも、年齢《とし》の功もあり、ほぼ自分の思い通りに動かしてきた。そのことはもちろん、あなたもご存じだ」
「おっしゃる通りです。金融界の大先輩として銀行協会その他を通じて、適切なご指導を頂いてまいりました。お礼を申し上げます」
成瀬は頭を下げた。
何故か、いま原沢の機嫌を損じない方が良いという思惑が働いた。虫が知らせたのだ。
果たして、原沢は成瀬の誉め言葉を聞くと、目を細めた。満足気な微笑が顔全体にひろがった。
「そんなふうに言って頂けると嬉しい。とくにいまの時点でのあなたの言葉となると、なおのこと有り難いね」
本音とも取れるような言い方をする。
「いや、これは誉め言葉でも何でもなく、わたしども後輩の偽らざる実感です。金融界の大功労者として、誰もが認めております」
成瀬はすかさず強調した。
「そういわれると、正直なところ、大いに照れますよ」
またしても笑みが広がる。
原沢はかなりしたたかな人物だ。もともと、お追従やお世辞には馴れている。誉め言葉に弱い筈はない。
「これからあなたとわたしは、タテマエではなくホンネでの付き合いをいたしましょう。その方がわかりやすいし、気持ちが良い」
「おっしゃる通りです。よろしくご指導をお願いいたします」
成瀬は直ちに賛同する。
「では、ホンネの続きで、わたしたちお互いにとって大事な提案をさせて下さい」
もったいぶって前置きした。
「三洋銀行と富桑銀行は長年ライバル銀行として競合してきた。もちろん、共に切磋琢磨《せつさたくま》した点もあるにはあるが、ずいぶんと無駄な競争を演じたのも確かでしょう。だが、もうそんな時代じゃない。ビッグバンの導入によって、銀行も証券会社もいまの半分になるとの予想さえ出ている。これからは国内ではなく国際競争です。早く頭を切り替え、経営方針もその一点に絞り込んでいかないと大変なことになってくる」
熱心に強調した。
「まったく、同感です」
成瀬も大きく頷いた。
「となると、業務提携ぐらいでは手ぬるい。強大になって、世界の大手銀行との競争に打ち勝つためには、いま、どうすべきか? 決断すべき秋《とき》が来ている。御行《おんこう》さんと当行、この二つの大銀行が合併して、不沈艦のごとき大銀行になる。ほかに道はないし、この道の前途には夢も希望もある」
原沢は言い終わって、大きく息をついた。
「どうです?」
真剣な眼差しで成瀬を見た。
「いかがでしょう。あなたの正直な意見を聞かせて下さい」
と答えを促す。
「どんなお考えか、ぜひ共聞きたい」
原沢は熱っぽくつけ加えた。
成瀬は躰の芯がかっと熱くなるのを感じた。その熱はたちまち躰全体へとひろがってゆく。頬まで赤く染まった。
原沢はじっと成瀬の顔を見守っていた。その眼差しは先程よりずっと鋭い。まるで、成瀬のわずかな変化をも見逃すまいとしているかのようだ。獲物を狙う猛禽類の酷薄な眼光を思わせる。
原沢の様子は一変していた。眼差しだけではなく、顔付きまで先程とは異なっている。もはや初老の柔和な人物の面影は、どこを探しても見当たらない。
「たしかに、不意打ちではありますが、けっして場違いで、不謹慎な申し出ではないと信じております。引退の近い、わたしのような老人でさえ、ビッグバンと呼ばれている怪物には恐怖心を抱いておる。これは間違いのない事実です。たいした経済知識もなく、先の見通しも甘い政府関係者が規制緩和という甘い言葉に乗せられて、アメリカ政府の言いなりになり、ビッグバンの導入を急いでいるが、これは明らかに誤りです。いまの首相も大蔵省も、後世に汚点を残すでしょう。それはそれとして、いや、だからこそわたしたちは防衛しなければなりません。もちろん、生き残りのための防衛です」
原沢の口調には、並々ならぬ決意がこめられていた。迫力もある。
成瀬はそれに圧倒された。原沢の放っている熱気を殆どそのまま受け取ってしまった。
「早い話、わたし自身はどうなってもよろしい。どうせ、引退して消えてゆく人間です。しかし、これからの若い人たちはどうなるんでしょう。最近の倒産企業の急増ぶりはどうです。後手後手にまわる政府の景気対策の遅れを口に出して、文句をつけるだけではどうしようもありません。いまこそ、経営者は自分たちの経営責任の重さを痛感して、その対策に全力をあげるべきです」
原沢は言い終わっても、強い眼差しでじっと成瀬の顔を凝視していた。
「よくわかりました」
と成瀬は短く答えた。
「おわかり頂けた?」
とたしかめる。
「はい。いまおっしゃったことはすべてよくわかりました。わたしもまったく同感だと申し上げておきましょう」
と成瀬は言いなおした。
「わかって下さったんですな。同感だとおっしゃるんですな。間違いなく」
と念を押す。
「もちろんです。間違いなく同感です」
成瀬も力強く言い返した。
原沢は先程と同じように満足気に眼を細めた。
「同感ということは、わたしと同じ考えと解釈してもよろしいですな」
と嬉しそうに言う。
「そういうことになります」
と成瀬も応じた。
「では、乾杯しましょう」
「乾杯!」
原沢の発案で、二人は改めて杯を合わせた。
「合併にも賛成ですな」
と改めてたしかめる。
「基本的には」
と成瀬は答えた。
「ただ、クリアしなければならない問題がたくさんあります。ありすぎるくらいです。あまり時間を掛けずにこれらの諸問題を解決出来れば、大型合併実現の可能性が出てくるでしょう」
「なるほど、たしかに問題はある。しかし、われわれ二人が結束すれば、何であれ必ず解決する。そう思いませんか?」
と小首をかしげた。
「たぶん、時間を掛ければすべてクリア出来るでしょう。しかし、この話にはタイムラグがあります」
「タイムラグ?」
「そうです。二、三年掛ければ解決するかも知れませんが、いったんこういう話が浮上した以上、それでは遅いと思います。半年以内に殆ど解決出来るのであれば、一年後の合併も可能になるでしょう」
成瀬は自分の考えを述べた。
「おっしゃる通りだ。わたしもそう思う」
原沢はあっさり賛成した。
「したがいまして、ただいまの御高説には全面的に賛成いたしますが、合併問題につきましては条件付きで賛成ということになります。それでよろしいでしょうか?」
と成瀬は尋ねた。
「けっこうです。第一回の会合としては申し分ありません」
原沢は右手でゆっくりと顎を撫ぜた。
「実は、あなたの反応を見て、最悪の場合はこの話を持ち出さないで帰ることも考えておりました」
とつけ加える。
「その場合は、他行に話を持って行くおつもりでしたか?」
「いや、そんなことはありません。対象はあなたの銀行だけです」
原沢は直ちにきっぱりと言う。
「それからもう一つ、新銀行の頭取はあなたにやって頂きたい。これは決定事項です」
とうとう殺し文句を口にした。
原沢と成瀬はさらに一時間ほど話し合った。すでに重要な話は殆ど出尽くしていたので、あとは雑談である。
とはいえ、雑談の中にいくつかの重要事項がとび出してきた。こうなると、雑談と言えどもあまりないがしろには出来ない。むしろ、雑談の間にしばしば大事なことが顔を出す。きちんとした会議や対談では引っ込んだままの提案やアイデアが、不意打ちに姿を見せる。不思議なことだ。
合併後の新銀行の新人事が早くも決まった。会長が原沢で、頭取が成瀬である。二人共、当面は代表権を持つ。が、原沢は新銀行発足後、一期二年で引退する。相談役にはなるが、直接経営には口を出さないという。その後は会長席は空席とし、成瀬が四期八年は頭取を務める。
もちろん、対等合併ではあるが、こと人事に関しては、かつて第一勧業銀行が施行したタスキ掛けの人事はやらない。例えば、部長を旧第一銀行出身者が占めた場合、副部長は旧勧銀出身者にする。そして、次の部長は旧勧銀出身、副部長は旧第一銀出身者にして、これを忠実に守ってゆく。支店長と副支店長の場合も同じである。
こうすれば、たしかに公平感も出るが、同時に弊害も出る。出身にのみこだわるあまり、適材適所の配置が出来ない。一種の膠着《こうちやく》人事になってしまう。
とにかく、新銀行の幹部行員の人事に関しては、能力と必要性のみを重視し、出身にこだわらない点で、両者の意見は一致した。
当面、合併問題は両行のトップ二人だけの秘密であるが、何かの場合、まったく手足がなくては不便である。なにしろ、両頭取共に超多忙なスケジュールをこなしている。忙しさにまぎれて、支障をきたしても困る。
そこで、取りあえず、双方で気心の知れた者一名ずつを指名して、ことに当たらせることになった。この二人が彼等になり代わって連絡その他の仕事を受け持つ。状況の変化によって人数を増やす必要にせまられる筈だが、それは先に行って検討する。
原沢は高川明夫を、成瀬は長谷部敏正を指名した。二人共、取締役総合企画部長である。両行の将来のエースといってよい。頭取に信頼されている。そういう共通項があった。
「まあ、当面はこんなところでしょう」
原沢は相好を崩して言う。
「いろいろとご指導を頂くことになりますが、どうか、よろしくお願いします」
成瀬は丁寧に頭を下げた。
「いや、こちらこそ、よろしく」
原沢は鷹揚に頷いた。
浅草の料亭での会合が終わったのは、午後九時三十分であった。
原沢も成瀬もここへはタクシーで来た。銀行の頭取専用車で乗りつけるようなことはしていない。二人は帰りも別々に出た。
原沢は女将《おかみ》が呼んだハイヤーに乗って帰った。成瀬はそれを玄関先で見送ってから、通りへ出てタクシーを拾うことにした。気分が昂揚しているため、しばらく歩きたいと思ったのだ。
時間もまだ早い。もし、十一時頃になっていたら、彼もハイヤーを頼んで帰ったであろう。九時半というのは、いかにも中途半端な時間帯である。
成瀬は外に出て夜風に当たった。風もなく、あまり寒くもない。原沢が二人だけでの秘密の会合を持ちたいと持ち掛けてきた時、微かな胸騒ぎを覚えた。用件について、想像をたくましくした。もしやとの思いもあるにはあった。それが当たったと言える。
大銀行の頭取同士が二人だけで密かに会うことがないわけではなかった。が、むしろ珍しい。とくに親密な間柄であれば別だが、銀行協会の会合や政財界のパーティーを除くと、あまりないのが実情だ。
「それにしても、驚いたな。この時期に合併とは」
成瀬は明るい表取りへ向かいながら低い声で呟いた。
富桑も三洋も大銀行である。両行が合併すると巨大銀行が誕生する。その初代頭取の椅子が用意された。しかも、先方から……。
そう思うと、躰中が火照り始めた。あげくに、血が頭に上ってきたような気がした。しばらくして、成瀬は自分が日頃の冷静さを欠いているのに気付いた。
「なに、かまうものか」
と口に出す。
──今夜は特別な夜だ。
そんな気さえしてきた。
成瀬は方向もよくたしかめず、黒革の小型の鞄を手にしたまま歩いた。ずっと歩き続ける。相当歩いたような気がして立ち止まり、街灯の方に左手をかざして腕時計を見た。わずか十分しか経過していない。
「これでは埒《らち》があかんな」
言いつつ、タクシーに手をあげた。
「お客さん、どちらへ」
と運転手が訊いた。当然の質問である。
「そうだな」
と言って、ひと呼吸置く。
「銀座へやってくれ」
と頼んだ。自宅のある世田谷へ向かわず、銀座に寄る気になっていた。
タクシーの後部座席におさまった成瀬は、軽く目を閉じた。眠気はまったく襲ってこない。それもその筈である。先程からの興奮がまだ覚めていなかった。
じっくり検討すればいくつか問題点が出てくるだろう。原沢の申し出にも、こちらが気付かないだけで、何か落とし穴があるのではなかろうか? うまい話には気を付けろ。そういう鉄則を忘れてはなるまい。
が、すべては今後の問題だ。結論を下すのはもう少し先のことになろう。その前に、徹底した調査と慎重な検討を重ねる必要がある。ほんとうに喜ぶのはそれからでも遅くない。
とはいえ、前祝いの乾杯ぐらいはあげたい。それも一人で、ひそかにと成瀬は考えた。もっとも、ホテルのバーのカウンターに坐ったのではつまらない。とっさに銀座のクラブへ行く気になった。
「お客さん、銀座のどのあたりですか?」
と運転手に訊かれた。
「そうだな。六丁目あたりへやってくれ。あとは歩くよ」
と機嫌良く応じた。
成瀬は銀座のクラブやバーにたびたび来るわけではない。したがって、あまりよく知らず、馴染みの店もなかった。彼はタクシーを降りると、夜の銀座を歩き始めた。大学の同級生で大手商社の副社長をしている人物に連れられて行った店がある。
それも二カ月も前のことだ。店の名が変わっていたので覚えていた。「ビーノ・デ・マール」という。これは地名である。なんでも南米チリの首都サンティアゴから少し奥へ入った風光|明媚《めいび》な保養地らしい。一時ずいぶんと有名になったものの、近頃あまり名を聞かなくなった歌手フリオ・イグレシアスがここに別荘を持っているという。
あちこち迷った。が、記憶はたしかだ。店の場所が六丁目六番地で、ビル全体がクラブとバーで埋まっていた。それを頼りに探すと、ほどなくわかった。見覚えのあるビルの前に出た。目指す「ビーノ・デ・マール」は六階にあった。
店内はさして広くない。かといって狭いとも言えなかった。手頃な広さというべきであろう。内装もまあまあというところだ。銀座では中の上クラスの店と聞いている。
成瀬は一人で入って行ったが、さすがにママが覚えていた。
「まあ、頭取さん」
と目|敏《ざ》とく見付けて駆け寄ってきた。
「頭取はやめて下さい。落ち着いて飲めない」
「じゃあ社長さんにしましょう」
あっさりと訂正した。
成瀬はその店「ビーノ・デ・マール」では、「銀行の頭取」ではなく、ありふれた「社長」になった。
もちろん、その方が気楽である。銀座のクラブにまで来て、「頭取」と呼ばれたのではかなわない。他の客に聞かれてもまずい。こんな場所で自己満足に陥りたくはなかった。となれば、メリットは少なく、デメリットの方が大きい。
その点、社長ならば問題はなかろう。なにしろ、たくさんいる。大勢の中の一人で通る。さすがに、五十代半ばのママはすぐに気付いた。とっさに、成瀬の心中を察したといってもよいだろう。
客の入りは半分というところだ。これでも今夜はよい方だと言う。不況がじわじわと浸透しており、銀座界隈の高価な店からは客が撤退しつつある。言われてみれば、けっして不思議なことではない。さもありなんと言えよう。
それだけに、支払いのたしかな成瀬のような客は歓迎される。どんなクラブであれ、こういう客にもっとしばしば来て貰いたいのは本音であろう。
成瀬は壁際の良い席に案内された。背後には三十号位の絵が架けられているし、脇に観葉植物の大きな鉢まで置いてあった。もっとも、あまり価値のない絵であるのはたしかだ。
成瀬の両側に若いホステスが坐り、前にはママが坐った。たちまち、三人の美女に囲まれてしまったことになる。
成瀬は気前よく高級ブランデーのナポレオンを入れた。いくらかは前祝いの気持ちもある。もちろん、まだいまの段階ではどう転ぶか、見当もつかない。合併問題は実に複雑怪奇だ。予想もしなかった伏兵があらわれて、あっさり白紙還元になったケースは、報道されていないものまで含めると、かなりの数にのぼる。
にもかかわらず、前祝い気分になったのには訳があった。ほかでもない。原沢一世のようなしたたかな人物が、数いる銀行頭取の中から、成瀬を選んだ。それである。しかも、合併後の新銀行の初代頭取を成瀬にしたいと申し出た。
これはそう容易なことではなく、もちろん、あまり単純な事柄ではない。成瀬には事態の重大さも含めた、そのへんのニュアンスがよくわかっている。むしろ、わかりすぎるくらいであった。
そういう意味で、あえて前祝いをした。いや、これこそ前祝いに値する。成瀬はそんなふうに考えて、まっすぐ自宅へ直行する気にならなかった。二、三杯のんびりとブランデーを飲んだところで罰は当たるまいと思ったのだ。
先程からの成瀬の表情や態度をそれとなく観察していたママは、女の勘を働かせた。長年この商売で磨いてきた第六感である。
「何かいいことがおありになったのね。社長さん」
とママは流し目をくれた。
「わたくしたちにも、ほんの少しでよろしいから分けて下さいな」
とねだる。
「あら、わたくしにも分けて」
右側のいくらか太めの肉感的なホステスが言うと、左手の細身の女性も負けていない。彼の腕に掴まって揺すった。
「ねえ、どんないいこと、教えて」
と言いつのる。
「それは無理よ」
とママが即座にたしなめた。
「社長さんお一人の大切な秘密よ」
と断定する。
「それじゃあ、つまらないわ。ヒントだけでも下さらない」
細身の方がしつこい。
「わたし、社長さんにキスしちゃおうかな? そうすれば内緒で教えて下さるわよ」
太めの方も負けてはいなかった。こちらはぐいぐいと躰を押し付けてくる。
「困ったね。これじゃあゆっくり水割りも飲めない」
成瀬は音をあげた。
「駄目よあなた方、社長さんを困らせると、もう来て下さらないわよ」
ママは左右の二人をひと睨みした。
「ごめんなさい」
細身は反省した。
「でも、いいこと分けて欲しいなあ」
太めの方はさっさとは諦めない。ただ、無理に躰を押し付けるのはやめた。
成瀬はブランデーの水割りをゆっくり飲んだ。さすがに美味い。ナポレオンだけのことはあった。
眼を上げると二つほど先の席にいるグレーのスーツ姿のホステスの横顔が眼に入った。おやと思うほど彫りが深い。美形である。左右の二人よりずっと良い。くらべものにならないくらいだ。
ママは目|敏《ざ》とい。成瀬の眼が何処をさ迷ったのかをいち早く察知した。もちろん、そ知らぬ顔をしている。
成瀬はママが気付いたことまでは知らない。彼は左右の二人を適当にあしらいつつ、前方のホステスの横顔に見とれながら、グラスを傾けた。この店に来て良かったとの思いがこみあげてきた。
ほどなく、二つ先の席の客が立った。帰るらしい。ママも急いで見送りに行った。
二、三分後にママが戻ってきた。が、成瀬の席には来ない。
その代わり、横顔の魅力的な女性が彼の前の席に来て自己紹介した。
「舟倉あゆみです。よろしく」
丁寧に頭を下げ、にっこり笑った。
もちろん、営業用の笑いであろうが、それでもかなり蠱惑《こわく》的だ。正面からの顔もなかなか良く理知的な印象さえ受ける。
「あゆみさん、いいお名前ですね」
成瀬は月並みな応じ方をした。が、不覚にも胸が躍った。これで、ペースが狂ったといってもよい。
「皆さん、そう言って下さいますと言いたいところですけど、実は、誰にもそんなこと言われたことがないんです。そんなふうに言って頂いたのは初めてですの。感謝いたしますわ」
つつましく言って、彼女は皓《しろ》い歯を見せた。
口許も可愛らしい。話し方にも気品がある。年齢は三十代の半ばと言うところか? とにかく、久しぶりに心ひかれる女性に出会えた。そんな気が強くする。
その時、太めが呼ばれて立って行った。しばらくすると、新しい客が三人入ってきた。細身もそれをしおに席を移る。舟倉あゆみだけが残った。もちろん、これがママの指し金であることには気が付かない。
「わたくし、お隣りに移ってもよろしいかしら?」
ちょっと小首を傾けて訊く。
「どうぞ」
成瀬はややあがって応じた。
「やっと二人きりになれましたわね」
あゆみはすばやく左側に坐ると、成瀬の耳許に口を寄せて囁いた。彼女の熱い息が耳朶を打った。
成瀬はすでにブランデーの水割りを二杯飲んでいたが、三杯目を彼女が作ってくれた。
「お美味しそうだわ。わたくしも一杯だけ頂いてもよろしいかしら?」
また、可愛らしく小首を傾けた。
「ぜひ、どうぞ!」
と成瀬は嬉しくなって奨めた。
「一杯とおっしゃらず、二杯でも三杯でも」
と急いでつけ加える。
「あら、嬉しいわ。とてもおやさしいのね。打ち明けちゃおうかな。わたくし、やさしくされるととても弱いんです」
と訴える。
「弱いって、どう弱いの?」
つられて尋ねた。
「まあ、いやだわ。ほんとうはわかっていらっしゃるくせに」
「いや、わからない。ぜひ教えてほしい」
と成瀬は頼んだ。頬がすっかり緩んでいる。およそいつもの彼らしくない。
成瀬は自分でもいささか不思議だと思うくらい、舟倉あゆみに魅力を感じた。魔がさしたのだ。
どうしてかと問われてもよくわからない。顔の彫りが深く、日本人離れしている。スペイン系を思わせる雰囲気だ。理知的で気品がある。
プロポーションも良かった。抜群といってもよい。グレーのスーツは躰の線を引き締め、見た眼に細く映る。ぴしりと決めていた。そのくせ、胸の脹《ふく》らみは大きい。さらに、くびれた腹と腰、むっちりとした臀部《でんぶ》と長いしなやかな脚、どうやら彼女のすべてが気に入っている。
三十代の半ばという年齢も、成瀬にはちょうどよい。二十代では娘っぽいし、四十代に入っていては、顔付きやしぐさが、どうしても年増くさくなってしまう。
偶然とはいえ、よくこんな女性と出会えた。しきりにそんな気がする。
ありふれた言葉で言えばひと目惚れだが、そういう安易な言い方をしたくない。何かもう少し気の利いた、洒落《しやれ》た表現があるのではなかろうか? そう思って、首をひねった。
「ねえ、何を考えていらっしゃるの? ね、教えて?」
とあゆみはねだった。
「それより、さっきの答え、まだ聞いていないよ」
と成瀬は言い返した。
「あーら、何かしら?」
ととぼけてみせる。
「じゃあ、ぼくが教えてあげよう」
成瀬も調子を合わせてウインクする。
「教えて、教えて」
左腕に掴まって揺すぶる。
「やさしくされると弱いと言ったじゃないか? どんなふうに弱いのか? ぜひとも、教えて貰いたいね」
彼は彼女の耳許に口を寄せて、やんわりと言う。
「わあ、セクシィ! 耳に社長さんの息が掛かったわ。躰中がぞくりとして震えちゃった」
と眼を見張る。
「困ったね」
「ほんとうに困りますわ。そんなふうにされては」
と睨んだ。眼差しが強くなると、顔の表情が引き締まって魅力が増す。
「ごまかさないで、さあ、答えなさい。弱いとは何に弱いのかね?」
成瀬は追及の手を緩めなかった。
「言ってもいいかしら? 正直に打ち明けても怒らない? ほんとうでしょうね? わたくしを絶対に嫌いにならない?」
あゆみはかなり真剣にたしかめた。
成瀬は三杯目を飲みほし、あゆみが作ってくれた四杯目の水割りに手を出した。
もうこのあたりが限界である。にもかかわらず、やめようという気にならない。何故か? 理由はわかっている。隣席にいて相手をしてくれる舟倉あゆみの魅力のせいだ。そこまでははっきりとわかっていた。
「ほんとうに怒らない?」
とあゆみは再度たしかめた。
「もちろん、怒らないさ。絶対に、怒りません」
と成瀬は保証する。
「わたくしを嫌いにならないと約束して下さる」
「約束する」
「じゃあ、指切りしましょう」
あゆみの発案で、二人は指切りをした。
「では、打ち明けます」
ともったいぶって、彼女は始めた。
「男性の誘いに弱くなるの」
「誘いに弱い? 誘われれば断れないという意味かね?」
「そうなの、その通り」
あゆみは両の掌を打ち合わせた。
「じゃあ、誘われると、付き合うんだね」
とたしかめる。
「やさしくされると断れなくなるの」
と訴えた。
「わかった。では、ぼくが誘っても断らないのかね?」
「断りません」
「よろしい。では、今度誘おう」
「嬉しい。でも、今度とおっしゃらずに、いますぐ誘って。とりあえず、ごいっしょに夕食いかがかしら」
「いいね」
成瀬は大きく頷いた。表情がすっかり緩んでしまった。
舟倉あゆみはお店の名刺を出し、その裏にマンションの自室の電話番号を記入してさし出した。
成瀬も銀行名の入った名刺を出し、裏に頭取室直通のナンバーを書いて手渡す。
「この番号なら、ぼく以外には誰も出ない。ただし、出掛けている時は通じませんよ」
と教えた。
彼女は成瀬の名刺をすばやく胸の脹らみの中に隠した。
四杯目を飲み終えると、成瀬は立ち上がった。少し足がふらつく。酔いがまわってきた。近頃、こんなふうに酔うのは珍しい。あゆみとママが両脇から支えてくれる。エレベーターを降り、すぐ前の通りで止めたタクシーに乗り込むまで、二人は見送ってくれた。
翌日の午後、昼食から戻ると待っていたかのように直通電話のベルが鳴り始めた。
「あたくし、あゆみよ!」
弾んだ声が聞こえてきた。
成瀬の顔が綻《ほころ》んだ。食事の後の満腹感も手伝って機嫌が良い。
「ずいぶん早いね。昨夜の今日じゃないか」
鷹揚な声で応じた。
「あら、ご迷惑だったかしら? すぐに誘ってと申し上げたでしょ」
舟倉あゆみの声は若々しい。
「そんなことはない」
成瀬は即座に否定した。
「わざわざ電話をして頂いて嬉しいよ。こちらからも近いうちに連絡しようと思っていたところでね」
「まあ、ほんとう?」
「ほんとうだよ」
「ほんとうなら、あたくしも嬉しい。信じちゃっていいかしら?」
「どうぞ、信じて下さい」
「じゃあ、なるべく早く同伴して下さらない」
「同伴?」
訊き馴れない言葉なので、訊き返した。
「ごいっしょに夕食して、その後お店へ来て頂きたいの。いつも七時に始まるんですけど、そういう時は八時半までに入ればいいの」
と説明する。
「なるほど、それで同伴か?」
「おわかりになった」
「よくわかった」
「では、ぜひお願い。ねえ、いつがいいかしら?」
「そうだね」
と言いつつ、成瀬は手帳を繰った。
夕方から夜にかけて空いている日はあまりない。もっとも早くても、翌週の後半、数えると九日後になる。
「あら、ずいぶん先ね」
いかにも不満そうな口ぶりだ。
とにかく、早くお会いしたいのと言わぬばかりの気配が強く感じられる。大いに成瀬は満足した。あゆみはかなり切実に会いたがっている。そう考えただけで、異様に心が高ぶる。これも一目惚れのせいであろう。彼は待ち合わせ場所を日比谷のホテルのロビーに指定した。
「びっしり予定が入っているんだが、もし、もっと早く空くようなら、こちらから連絡しましょう。まずだめだとは思いますがね」
と成瀬は伝えた。
「お待ちしてます。でも、助かりましたわ。同伴の割り当てがありますの。月に五回も。きついノルマですわ」
とあゆみは訴えた。
受話器を置いて、成瀬はいくらか冷静になった。では、同伴のノルマのために誘ったのか? しかも、月に五人のうちの一人だ。持ち前のプライドが頭をもたげてきた。甘く見られたのかと思うと、いくらか不快になった。
成瀬は冷静になった。銀座の女にかまけている時ではない。原沢の申し出をどう受け止めるのだ。
彼はインタホンを押した。俄に表情が引き締まった。あゆみと話していた時とは別人のような印象を受ける。
「至急、長谷部くんを呼んでくれたまえ」
と秘書課長に命じた。
五分後、ノックの音が聞こえて長谷部が入ってきた。
「調子はどうかね?」
と声を掛けた。
「昨日は風邪気味で夕方早めに帰らせて頂きました。久しぶりに十二時間ほど眠りまして、すっかり元気になったところです」
と長谷部は答えた。
そう言えば、顔色も良い。表情も明るく、力があふれている。
「それはいい。たまには早く帰って、よく眠ってくれたまえ。銀行のためだ」
「有り難うございます」
「きみもよく知ってるように、いま金融機関はむずかしい局面にさし掛かっている。大銀行といえども、のんびりしてはいられない、常に生き残りの道を模索する必要がある。そこできみにも大いに働いて貰わねばならん」
と成瀬は前置きした。
「もちろん、働きに応じてそれ相応の待遇はしよう。報酬と役職、その両面で考えてみようじゃないか」
と約束する。
「………」
長谷部は何となく面くらった。こんな申し出を受けようとは考えてもいない。
「取りあえず、頼みたいことがある。富桑銀行の現状についてだが、ひとつ早急に調べて欲しい」
と命じた。
「承知しました。範囲はどの程度でしょうか? それと、ポイントはどのへんに絞り込めば?」
と長谷部はたしかめた。
「範囲もポイントもない。すべてだ。どんな細かいことでもかまわんから、なんでも拾い上げてくれたまえ」
と成瀬は強い口調で言う。
「はあ」
長谷部は戸惑いを覚えた。
「実際問題としてだ。何が役に立つかわからんからね」
言いつつ、成瀬はゆっくり頷く。
どうだね。これで理解出来ただろうという顔付きをして微笑を浮かべる。長谷部には何故か、その笑いが薄気味わるく思えた。
成瀬はすぐに笑いを引っ込めた。同時に、出口へ向かって顎をしゃくった。
用件はすんだという合図であろう。長谷部は察して一礼した。
「失礼いたします」
と断って、出口へ向かう。
「頼んだよ。きみが頼りだ」
背後から成瀬の声が飛んできた。
長谷部が出て行ったのをたしかめると、成瀬はまたインタホンを押す。
「松岡くんを、至急呼んでくれたまえ」
と命じた。
二分後、松岡があらわれた。せかせかと息を切らしている。
「急いだようだな」
「はい、大至急とのことでしたので」
ハンカチを取り出して額の汗を拭った。
「大至急とは言っていない。至急と言ったんだよ」
「はあ、しかし、どちらにしても、早くお邪魔した方がよいと思いまして」
「それはそうだ」
ひとつ頷いておいて、成瀬はじろりと松岡を見た。
「きみを見込んで頼みたいことがある。成功したあかつきには、報酬と役職の両方で相当のことはする。したがって、タダ働きではない。それどころか、きみにとっては大きなメリットがくっ付いている」
一気に言った。
「わかりました。何であれ、せいいっぱいやらせて頂きます」
と松岡は答えた。
「そうか、やってくれるか?」
「はい」
勢いよく返事をした。
「富桑銀行について調べて貰いたい。どんなささいなことでも落とさんように。下世話なことでもかまわんからな。むしろ、人事や不良債権問題にからむ不正融資なんかを含むスキャンダルめいたことがあればなおいい」
と命じた。
長谷部に頼んだ時よりは、何故か、ずっと具体的に伝えた。
「それから、頭取の原沢一世、いまや金融界の大物だが、なかなかのくわせ者だからね。もちろん、叩けば埃以上のものが出る筈だ。きみもよく知ってるだろう。以前、当行との合併問題が白紙になった時も、原沢頭取の自宅に銃弾が撃ちこまれたのが主な原因だった。そのへんを徹底的に洗ってみたまえ。面白いことがわかるかも知れん。もう一つ、これはわたしときみだけの問題だ。いいね」
長々とつけ加えてから、改めて念を押した。
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第十一章 次の標的
同じ頃、富桑銀行本店の頭取室では、二人の男が向かい合っていた。一人は頭取の椅子に腰を下ろしており、もう一人は大きな頭取の執務机をへだてた反対側に立っている。
当然のことながら、部屋の主の原沢一世は坐っていた。殆ど、直立不動に近い姿勢で立ち続けているのは高川明夫だ。
高川は取締役総合企画部長の肩書を持つエリートである。長谷部、松岡、石倉等とほぼ同年輩の切れ者で、原沢の信任も厚い。かつて合併問題が浮上した時、杉本前頭取の命令を受けた石倉との交渉役を務めた。
石倉とはほぼ同じ立場で動いたせいもあり、かなり親しい間柄になっていた。それぞれ、石倉は杉本の、高川は原沢の、特命を受けて暗躍したといってもよい。
いま、杉本と石倉の接点がなくなっているのと異なり、原沢─高川ラインは依然として健在であった。
「昨夜、成瀬頭取に会ってきた。雑談に花が咲いたよ」
原沢は機嫌良く言う。
「それはよろしゅうございました」
と高川は少しだけ頭を下げた。
「たしかに、気骨はあるようだ。頭もわるくない。しかし」
と言葉をきる。
「しかし、何でしょうか?」
と高川は訊いた。
「若い。顔付きや体形のことじゃないよ」
「はい」
「まだちょっと嘴《くちばし》に黄色い部分が残っておる。現時点ではね。もっとも、あまり目立ちはしないが」
「では、合格点に近いわけですか?」
高川としては、いささか気になることを尋ねた。
「そうだな。七〇点というところか? やはり、辛くつけても八〇点以上はないとね」
「厳しいですね」
「そりゃあ、きみ、厳しいよ」
当然だというように唇の端を歪める。
「それで、いくらか具体的な方向へ進んだのでしょうか?」
「もちろん、進んだ。わたしがいきなり口に出したからね。成瀬くんも内心は大いに驚いただろう。ぎくりとしたかも知れんがあまり顔には出していない。その点はさすがといってもいいな」
原沢は口許に冷笑を浮かべた。
「驚いたふりを隠したのはよいが、その後でわたしのさし出した餌に食いついてしまった。たぶん、あれから祝杯をあげただろう」
つけ加えると、今度は会心の笑みを浮かべた。
高川明夫は原沢の会心の笑みがおさまるまで、じっと待っていた。こんなことには馴れている。姿勢も変えない。殆ど直立不動のままである。原沢がこうした態度を好むのを知っていて、それを守った。
「そういたしますと」
と高川が言いかかるのを、原沢は右手をあげて制した。
「こちらはそれなりの準備はしてきた。昨夜、スタートをきったようなものだ。予定通り、始めようじゃないか」
と原沢は言った。
「わかりました」
と答えて、高川は頭を下げた。
「きみはきみで動けばいいが、わたしの方は久しぶりに杉本さんにも会ってみよう。何と言ったかな、あの腰ぎんちゃくの副頭取、お人好しの役立たずがいたじゃないか?」
「勝田前副頭取のことでしょうか?」
「そうそう、その勝田さん。いっしょに引退したから暇をもてあましておるだろう。たぶん、ついてくる。別に気張ることもないが、対抗上きみもついてきたまえ」
と命じた。
「では、私が席をもうけさせて頂きます」
「そうしてくれ。頼みましたよ」
原沢は最後だけ丁寧に言った。
高川は自席に戻ると、副部長に向かってひょいと右手をあげた。留守だという合図である。そのまま部長室に入って、ドアを閉めてしまった。
彼はすぐ電話機を取りあげて、覚え込んでいるナンバーをプッシュした。石倉克己の机上電話の直通ナンバーである。
おりよく、電話を取ったのは石倉本人だ。
「富桑銀行の高川です。すっかりごぶさたしております」
と丁重に言った。
「いゃあ、私の方こそごぶさたしております。お元気そうですね」
石倉も快活に応じた。
「カラ元気ですよ」
「そんなことはないでしょう」
しばらくたわいないやり取りが続いた。
「ところで、早急にお目に掛からせて頂きたいのですが、お時間を取って頂けないでしょうか? 出来れば夕方から夜にかけて、ぜひお願いします」
と高川は言いつのる。
言葉遣いは丁寧だが、なかなか強引である。石倉は苦笑した。
「お急ぎのようですね」
「実は、急いでおります」
高川は隠さなかった。
高川は石倉との約束を取り付けた。二日後である。石倉は強引に頼まれて、先延ばし出来る会合と入れ替えた。
高川は今度は杉本富士雄の自宅に電話を入れた。当人が出た。ついている。こちらは原沢頭取の代理で連絡したことにする。ひときわ丁重にやった。
高川は当初から勝田も誘うことにした。果たして、お二人ごいっしょにと伝えると、杉本の機嫌が良くなった。場所は新橋の高級料亭に決めた。おそらく、杉本も勝田も引退してからはこういう所へは出入りしていないであろうと見当をつけた。これも当たった。
杉本は明日の夜でもよいような口ぶりであったが、そうはいかない。原沢のスケジュールの方が詰まっている。やむを得ず、こちらは一週間後になった。
一方、三洋銀行では、すでに述べたが、長谷部と松岡がほぼ同時に、富桑銀行についての調査を頼まれた。
松岡の方はいくらか具体的であったが、長谷部への依頼はかなり漠然としている。
自席に戻った長谷部はしばらく考え込んでしまった。
「どうもよくわからんな。いったい、いま頃、どうして?」
と呟いて、あとは呑み込んだ。
まさか? との思いも生じたが、それはすぐに取り消した。
富桑銀行といえば、杉本前頭取時代に合併問題が持ちあがった。あの時の担当部長は石倉克己だ。したがって、石倉は詳細な調査資料を持っていた筈である。あれはどうなったのか? 長谷部は後任の部長だが、引き継いではいない。通りいっぺんの資料は残されているが、もっと核心を突いた資料があったに違いない。それはいったい何処へいったのか?
長谷部は念のため、資料室へ行った。富桑銀行の項を探す。すぐに見付かった。かなり分厚い資料が残されている。ページを繰ってみたが、とても合併のための検討資料だとは思えない。
「うーむ」
長谷部は低く呻って、腕組みした。
うかつであった。引き継ぎの時に、石倉に質問し、はっきりさせておかなかったのがわるい。石倉は有能できちんとした人物だ。故意に書類を隠すような男ではない。となると? どうもわからぬ。
石倉は親友である。お互いに、しばしば電話を掛け合っている。いまからでも遅くはなかろう。遠慮せずに質問すればよいではないか? その通りだ。そう考えて電話機を取り上げた。
長谷部は石倉の直通ナンバーをプッシュした。すぐに受話器が取り上げられ、石倉本人の声が聞こえてきた。
長谷部は挨拶をすませると、ためらった。たしかに石倉とは親しい間柄ではあったが、これは電話ですませるべき事柄ではない。会って、詳しい説明を聞きたい。
「ちょっと急ぎの用が出来たんだけど、早急に会えないかな?」
と長谷部は訊いた。
「急ぎの用件だって?」
石倉はたしかめた。
今日は急ぎの用件の多い日だなという気がする。つい先程も、富桑銀行の高川からほぼ同様の電話があった。
「そうなんだ。出来れば夕方から夜にかけての時間が欲しい。久しぶりで、ほかの話もあるしね」
と長谷部は言う。
「もちろん、ぼくの方も会いたいと思っている。しかし」
と言いつつ、石倉は手帳を繰った。今週はすべて埋まっていた。
「来週はどうかね?」
「今週中に何とかならないかね? 出来れば、明日か明後日あたり」
と長谷部はくい下がる。
「うーん」
と石倉は唸った。
「急だから、無理かな?」
長谷部はまだ諦めていない。
「夕方から夜ということになれば、夕食をいっしょに取るわけだね」
「当然、そうなる」
「ぼくの方も夕食をいっしょにしたいのはやまやまだが、急ぎとなればいたし方ない。それは次の機会に譲って、どうだろう。その後で会うというのは?」
と石倉は提案した。
「なるほど、そういう手段があったか? それなら、明日の夜でもいいのか?」
長谷部は元気づいた。
「明日でもいいし、ぼくの方は今夜だってかまわないよ」
と石倉は応じた。
「じゃあ、早い方がいい。今夜にしよう。何時ならいいのかね?」
「十時半にして貰えれば有り難いんだが」
「けっこうです。合わせましょう」
「では、六本木のあの店」
石倉は待ち合わせ場所を指定する。
「わかった。カラオケパブの『ぐうたら神宮』だね」
長谷部はすぐに言い当てた。
石倉は長谷部からの電話が切れると、受話器をもとに戻して、ちょっと小首を傾けた。
長谷部の急な用件が何なのかはわからないが、まさか松岡との諍いの仲を取りもてというたぐいの事柄ではなかろう。そんなことで長谷部は急に会いたがったりしない。それはわかっていた。
もっとも、松岡からは長谷部との仲を取りもてと頼まれている。だから、彼の方が連絡しようと思っていた矢先であった。その件は言いそびれたが、それだって出来れば会って話した方がよい。
いっしょに食事が出来ないのは残念だが、先約があるので仕方なかった。待ち合わせ場所としてカラオケパブはまずかったかなという気もする。他人の歌声など聞こえてきては落ち着いて話せない。
が、長谷部はとくに異議をとなえなかった。となると、たいした話ではないのか? いや、あの口ぶりから、そうは思えない。すると、遠慮したのだろうか?
それにしても、富桑銀行の高川も早急に会いたいと言ってきた。こちらの方も気に掛かる。長谷部も高川も銀行こそ異なっているが、同じ総合企画部長の役職についていた。
期せずして、同じ日のほぼ同時刻といってもよい時間帯に電話が入った。これは偶然の一致であろうか? それとも、何かの符合なのか?
いずれ、両者に相次いで会うことになる。会ってみればはっきりする事柄である。今夜、長谷部と先に会うよう決めたのは、順序としてよかったかも知れぬ。なにしろ、三洋銀行は古巣だ。それに、石倉は取締役にこそなっていなかったが、長谷部のいわば前任者であった。
石倉は受話器を取り上げ、長谷部の机上の直通ナンバーをプッシュした。
「どうも先程は失礼」
とまず言った。
「こちらこそ、無理に時間を空けさせて申し訳ありません」
長谷部は取り消しを危惧したのか、丁寧に言う。
「せっかく話があるとの申し出なのに、カラオケパブなど指定して申し訳なかった。場所を変更しましょう。ホテルのバーのカウンターではどうでしょうか?」
と提案する。
「けっこうですね。やはり、その方が落ち着くでしょう。話がすんだら、そちらへ廻ってもいいですよ」
「それなら、パブの方へ松岡も呼ぼうか?」
石倉はわざとそう申し出た。
とたんに長谷部は言葉を呑み込んだ。それだけではない。「うっ」とかすかに呻いたような声も伝わってきた。
「会ってから話すけどね。松岡くんは居ない方がいい」
長谷部ははっきり言った。
「そうか、それじゃあ、松岡を誘うのは今度にしよう」
石倉もすぐに折れた。
やはり、まだ気持ちがほぐれていないのか? どうやら、仲|違《たが》いしたままらしい。石倉はいたずらに刺激するのをやめた。どのみち、会えば詳しくわかるだろう。
石倉は受話器を置いてから、神谷真知子にしばらく会っていないのに気付いた。ほんとうは長谷部や松岡、それに富桑銀行の高川等に会うより、真知子に会った方が愉しい。お互いに電話をする約束であったが、そのままになっている。
どうしてか? 何となくためらいを覚える。では、何故躊躇するのか?
追及したくない。そっとしておきたい思いが強く働く。
真知子の方からも電話は来なかった。ひょっとして、彼女にもためらいの気持ちがあるのか? どうもそんな気がする。
さらに一歩を踏み出すのが恐いのか? 石倉は自問した。恐いといえば恐い。結果が見える。いや、見えるような気がするだけなのか? いずれにせよ、前方に期待と逡巡の両方が横たわっていた。
「ま、いいか?」
と石倉は呟いた。
なるようになるという気がどこかでする。いまさら、方向転換はむずかしい。彼は真知子への感情が高まりつつあるのを、嬉しく思っているのか、うとましく思っているのか、自分でもよくわからなくなった。もっとも、うとましいということはない。むしろ、嬉しいけれど困っているのが現状である。
石倉は左手を首筋にあてがって軽く揉《も》んだ。マッサージしたといってよい。しばらくそうしていて、気分転換のために立ち上がった。
すると、電話機が鳴り始めた。彼は立ったまますぐ手に取らずに見ていた。ベルは鳴り続ける。やはり、放置出来ない。手を出して、左の耳に当てた。
「あたくしです」
少し控え目な女性の声が聞こえてきた。
神谷真知子の声である。あっ、と思ったが声には出さない。
「これはどうも、実は、こちらから電話しようと思っていたところでした」
石倉は照れくさそうに言った。
真知子はわざとかどうか、ひと呼吸置いた。それとも、ためらいが生じたのか?
「まあ、ほんとうですの?」
と訊く。その口調には、いくらか疑わし気な気配が感じられた。
「ほんとうです。どうもいけません。仕事に追われずめでほっとするどころか、およそ余裕というものがない」
かなり正直に打ち明けた。
「じゃあ、銀行にいらした頃とあまり変わりませんのね」
と彼女は言う。
「そうですね。ちょっと忙しさの質が違いますけど、追われる点では」
と石倉は答えた。
たしかに、これも嘘ではない。しかし、日常の仕事や忙しさなどを話題にするために電話をしているわけではなかった。もっと大切な話がある筈だ。何をしている。そんな声が、しきりに躰の中から聞こえてくる。石倉は仕方なく苦笑した。
「あたくしの方も同じようなものですけど、今度、広報の仕事がやれそうなので、張りきってはいます」
「それはよかった。いつから広報の方へいらっしゃるんですか?」
「どうも、まだはっきりしないんです。長谷部部長さんのお話ではすぐにもという印象を受けましたが、あたくしの錯覚だったのかしら? あれから何の話もありませんの」
と真知子は訴えた。
「錯覚ということはないでしょう」
「そうだといいんですが」
何となく気落ちした声だ。
「いまのぼくは立場が違うから、口は出せないが、少しとぼけて長谷部くんに訊いてみましょうか?」
と石倉は提案した。
「まあ、ほんとうですか?」
真知子の声に張りが戻った。
「それとなく尋ねることぐらいは出来ますよ。いつでも」
と応じた。
「でしたら、出来るだけ早く訊いて頂けますでしょうか? あたくし、このままではふんぎりがつきませんの」
と言いつのる。
「無理もない。せっかく張りきったのに、冷たい水を掛けられたような感じですね」
「そう言えば、そんな感じもありますの」
真知子は本音を漏らした。
「よくわかります。実は、今夜遅くなってから、長谷部くんに会う予定です」
石倉はつい打ち明けてしまった。
「あら、今夜ですの?」
真知子の声が弾んだ。その瞬間、石倉は口がすべったかなとの思いを抱いた。
「では、ぜひ」
と彼女は言いつのる。
「訊いてみて頂けますか?」
とつけ加える。
「わかりました。長谷部くんの考えをよくたしかめてみます」
石倉は約束した。
「今夜遅くとおっしゃいましたが、ごいっしょにご夕食を」
「それが、そうはいかんのです。別の会合がありましてね。会うのはその後になってしまいます」
「まあ、お忙しいんですね」
「あなたとも、なるべく早くごいっしょしたいんですが」
と言葉を濁す。
「あたくしのことはあまり気になさらないで下さい。少し、お時間が出来てからでけっこうですから」
「いや、いや、そうはいきません。近く、必ず時間を作ります」
石倉は強調する。
「愉しみにしておりますわ」
真知子はさらりと言った。
「長谷部部長さんとのお話の結果、電話して頂けますかしら? 夜、一時頃までは起きておりますので」
「遅くなってもかまいませんか?」
一応、たしかめた。
「かまいません。お待ちしております」
「では、何とか、あまり深夜にならないうちに、お電話しましょう」
石倉はまたしても約束した。
結局、真知子との電話は、期せずして、用件のみに終始して終わった。それでも、久しぶりに会話を交わした。おかげで多少の満足感が生じている。石倉は今度こそ立ち上がって自席を離れ、廊下へ向かった。
その夜、石倉は十時二十分に赤坂のホテルのバーへ入った。わざと以前、真知子に会ったバーラウンジはさけ、別のホテルにした。
約束の三十分までわずか十分ではあったが、余裕がある。カウンターの端に坐り、ジントニックを頼んだ。
グラスを振って爽やかなジンの香りをかぎ、まず一口ゆっくりと飲む。料亭で日本酒を飲み、懐石風の料理を口にした後では、氷入りのジントニックの冷たさと独特のくせのある香りが、口の中をさっぱりさせてくれる。石倉は一人で飲むのが嫌いではなかった。
石倉が一人でジントニックを愉しみ、まだ完全に一杯飲み終わらないうちに、長谷部が姿を見せた。
午後十時二十五分、律義な人物だけに約束の五分前にあらわれたのだ。
「やあ、お待たせしました」
と丁寧に頭を下げる。
「いや、まだ約束の時間じゃない。実は、十分だけのんびりして一人で飲もうと思っていたんだ。それが半分の五分になった」
石倉は笑顔で言う。
これが本音である。長谷部にはいつも本音でものが言えた。
「そうか、気が付かなかった。申し訳ない。十時三十分きっかりに、いや、さらに五分か十分遅れた方がよかったのかな?」
と真顔で訊く。
「冗談だよ。気にしないでくれ。まあ、おかげで五分早くきみの顔を見られたんだから、しあわせだよ」
と言い返す。
「何を言う。しらじらしいな」
長谷部も笑顔になった。
「またジントニックか?」
「その通り」
「じゃあ、もう一杯飲むかね」
「やめておこう。きみが来た以上、もう少し本格的なものを飲みたい」
と石倉は言った。
「そうか、わかりましたよ。今夜の気分では何になるのかな?」
長谷部はほんの少しだけ首を傾けた。
「マティーニだね」
石倉は断定する。
「マティーニね。よろしい。ぼくも同じものにしよう」
長谷部も同意した。
二人は並んで坐り、バーテンに合図して、古典的なカクテルを頼んだ。
「忙しそうだな。昨夜はダウンしたと聞いたが、気分はどうかね?」
石倉は言いながら、長谷部の顔を見た。
「おかげさまで、ひと晩ぐっすり眠ったら、すっかり良くなった」
長谷部は大丈夫だと言うように、大きく頷いて見せた。
「そう言えば、顔色はわるくない。やはり、寝不足かね?」
「そんなところだ。健康管理も能力のうちだというからね。恥ずかしいところを見せてしまった」
「いや、ぼくはさほどじゃないが、松岡がえらく心配していた」
石倉が何気なく言うと、長谷部の顔色が変わった。
石倉はすぐに気付いた。
長谷部の顔色が変わり、表情にただならぬ気配が漂った。
もちろん、原因はわかっている。松岡の名が出たからだ。となると、長谷部と話す時は松岡の名は禁句なのか?
もともと、石倉と長谷部と松岡、この三人は親友であった。それがいま長谷部と松岡の間がおかしくなっている。こういう場合、石倉はそのまま放っておけない。
原因を調べて、両者の確執を取り除き、二人の仲を早く元に戻したい。時間を置けば置くほどなおのことこじれてくる可能性がある。少なくとも、その役割を担える人物は石倉しかいなかった。
彼としては、この際、あまりことを荒立てず、出来るだけすんなりとおさめてしまいたいと思っている。
だからこそ、いまもさり気なく松岡の名を出した。ところが、長谷部の反応は意外なほど固い。
石倉は改めて驚いた。これは手強い。困ったというのが実感だ。
「思ったより、深刻だな」
と石倉は呟いた。
長谷部は黙っている。明らかに聞こえないふりをしていた。これはむしろ珍しい。日頃の彼らしからぬ態度である。こじらせると、松岡より長谷部の方がずっとむずかしいのがわかった。
が、それがわかっただけでは駄目だ。いっこうに解決策にならない。
この際、あまり松岡にこだわらない方がよいような気もする。こだわると、かえって話が進まない。おまけに、今夜は長谷部の方から会いたいと言ってきた。彼は明らかに用件を抱えている。
まず、それを聞くべきである。その方が先だ。石倉は早くも方針をすっかり間違えてしまったのを察した。
「何か、急ぎの用件があったようだね」
と石倉は方向転換して、水を向けた。
「そうなんだ」
果たして、長谷部は気を取り直した。
「きみじゃなければわからんことでね。電話で気軽に尋ねるのもちょっと失礼のような、まずいような気がしてね」
と前置きする。
そんなふうに言われると、今度は石倉の方が緊張した。いったい、何であろうと思われてくる。
「ほかでもないんだが、きみが当行で総合企画部長をしていた当時の秘密事項だ」
長谷部は核心へ、大きく一歩踏み出した。
石倉は少し顔をしかめた。
「秘密事項?」
思わず訊き返す。
「その通り」
と長谷部は頷いた。
「きみが杉本前頭取のマル秘命令を受けて、ひそかに動き廻ったことがあったね」
と始めた。
「マル秘の命令だって?」
「そうだよ」
「そんなことは一度しかなかった。富桑銀行との合併工作だけだ」
と石倉は答えた。
「その合併工作だが、相手の富桑銀行については、もちろん、きみ自身がそうとう詳しい調査をしたんだろうね」
とたしかめる。
「おっしゃる通りだ。出来るだけのことはやったつもりだよ」
と石倉は応じた。
「なにしろ、誰にも知られてはいけないので苦労したよ。部下はいっさい使えない。目立たぬように、何もかも自分でやる必要があったからね」
彼はその頃を思い出すかのように遠くを見つめた。
「銀行内にあるすべての資料を持ち出して、自宅で仕事をするわけにはいかない。もちろん、さしつかえない範囲で、自宅でもやったけれどね。限界がある。そこで仕方がないから、いったん帰って、夜中にまた銀行に来た。半徹夜で朝まで仕事して帰ったことが何度もあったよ」
と打ち明けた。
「そうか、ずいぶん苦労したんだね」
長谷部はしんみりと言う。
「まあ、それほどのことはない」
石倉はあっさり否定した。
「きみだって同じだ。そういう立場になれば、似たようなことをするだろう」
つけ加えて、にやりと笑った。
長谷部も笑い返したが、あまり愉快な笑いではない。照れくさいので、仕方なく笑顔を浮かべたのだ。
「実は資料室を当たってみた。富桑銀行についてはかなり分厚いファイルがあった。ざっと目を通してみたんだが、とくにこれという新事実はなく、ひどくありきたりだ」
長谷部は淡々と言う。
「何が言いたいんだね?」
と石倉は訊いた。
さすがに、鋭いところがある。すぐに問題点に気付いて、苛立ちを覚えたのか、長谷部のもって廻った言い方をさえぎろうとした。
長谷部も石倉の反応に気付いた。予想以上の鋭い反応と言えよう。
長谷部は満足感を覚えたが、もちろん、顔には出さない。
「いま資料室にあるのは、きみが作成した資料ではない。あれは違う。きみが作ったのはもっと血の通った、言いかえると、もっと核心を突いた、いわば、恐ろしい資料だ。そうじゃないのかね?」
言いながら、長谷部はじっと石倉を見た。
「大げさだな。恐ろしい資料だって? そう言って頂くのは嬉しいが、それは間違っている。少しばかり、いや、大いに買いかぶりだね」
石倉はいくらか顔を赤らめながら言う。
酔いのせいだけではなく、長谷部におだてられたような気がして、これはおだてだと思いながらも、気分が良くなったのだ。気持ちが昂揚してきたといってもよいだろう。
「買いかぶりかどうかは別問題にして、客観的に見ても、きみは当行にとって貴重な資料を作った。それはたしかだ。けっして間違いじゃない」
と長谷部は強調する。
「きみだって、認めるだろう」
ときめつける。
「まあね。けっこう骨を折って資料を作ったことだけは認めるよ」
石倉は頷いた。
「では、これを見てくれ」
と言いながら、長谷部は大型のボストンバッグから、かなり分厚いファイルを取り出した。普通の書類鞄には入らないくらいの量である。
「きみが作ったのはこれかね? これじゃないだろう」
と言いつのる。
石倉はファイルを手に取った。中身を改める。いくらも見ないですぐにやめた。
「きみの言う通りだ。これは以前からあった古いファイルでね。ぼくが作成した書類ではないよ」
と教えた。
「やはり、そうか」
長谷部はファイルを受け取って、ボストンバッグにおさめると、自分の足許に置いた。
「そこで、お尋ねしたいんだが、きみが作った資料は、いま何処にあるのか? それを教えて貰いたい」
と頼んだ。
「資料が何処にあるかだって? あの時、きみに引き継いだと思うが、きみの手許にないのかね?」
今度は石倉の方が不審な面持ちで訊いた。
長谷部は下唇を噛んだ。
「引き継ぎの時、ぼくに渡したというのか?」
とたしかめる。
「受け取ったんだろう。違うのかね?」
石倉は怪訝《けげん》な顔をした。
作意的な感じはどこにもない。そう信じている表情だ。
「ぼくは受け取っていないよ。念のためにあの時の引継書を引っ張り出してたしかめてみた。やはり、記載されていなかった」
長谷部ははっきり伝えた。
「すると」
石倉は言葉をきって考え込んだ。
「おかしいな、引き継ぎ書類の中に入っていないとなると」
と低い声で呟く。
「合併問題が白紙還元になった直後だし、首脳陣の交代もあった。きみはその渦中にいたから、相当こたえただろう。書類の一つがどうかなったとしても不思議はない」
長谷部は弁護する口調になった。
彼としては、石倉の責任を追及する気はなく、消えた書類を入手出来ればよい。
「どんなに忙しくても、そんなことは理由にはならんよ。かりにも、重要書類が紛失するなど、あってはならない」
石倉はぴしりと言い返した。
が、すぐに表情が変わった。何かを思い出したかのような顔付きだ。
「ちょっと待ってくれよ。わかったぞ」
晴れやかな顔になった。
「あの書類は杉本頭取に渡した。そのままぼくの手許には返っていない。したがって、引き継がれたとすれば杉本さんから現在の成瀬頭取に引き継がれている筈だ。そうだった。たしかに、おっしゃる通りだね。きみには渡さなかった」
とつけ加えて、大きく頷いた。
「なるほど」
長谷部も頷き返した。
「前頭取から現頭取に引き継がれたわけだね」
「そういうことになる」
と認めてから、石倉は首をひねった。
「ところで、どうして急に富桑銀行の書類にこだわるんだね?」
といきなり訊いた。
「うっ」
今度は長谷部の方が答えに詰まった。
「いまさら、富桑銀行についての調査資料を引っくり返してみても始まらないと思うがね。それに、あれは二年以上も前の調査だよ。最近はかなり変わっている筈だ。おそらく、不良債権が相当増えただろうね」
石倉はさらりと指摘した。
「不良債権か?」
と長谷部は呟いた。
「頭が痛い問題だ」
と口走る。
「どの銀行も公表した数字の二倍か三倍抱え込んでいるらしい」
と石倉は言った。
「どうかね?」
と長谷部の顔を見る。
「当たらずと言えども、遠からずだろうね。銀行によって、それぞれ事情が異なる筈だが、公表数字に近い銀行はあまりない。二倍か三倍か、もっと多いか」
長谷部は浮かぬ顔で応じた。
「破綻した北海道の方の都銀はもっと多い口かね?」
「そういうことになる。あの場合は合併相手が予想以上の数字に驚いて尻込みしてしまった。無理もないと思うけどね」
「いま、三洋銀行はどうなっている。ぼくがいた頃は不良債権は少ない方だった」
石倉はさり気なく尋ねた。
「公表数字の二倍以下だよ。あまり自慢にはならんが、大手都銀の中では依然として少ない方だろうね」
「すると、富桑銀行の方が厳しいんじゃないかな。ぼくが調べた時点で、当時のうちよりずっと多かった。もっとも、資金量、融資量共に向こうの方が上だから、不良債権も多くて当たり前だが、額ではなくて比率の問題だ。当行の方が健全な銀行だったと言える」
石倉はすらすらと言う。
「杉本前頭取はそれを知っていて、あえて合併を推し進めたわけだね」
長谷部はたしかめた。
「もちろんだ。ぼくの集めた資料を見れば、すべてはっきりしている」
「ついでながら、その数字はどこで調べたんだね?」
「|MOF《モフ》担だよ。大蔵省検査の数字のコピーを貰った」
「そんなことが出来たのかね?」
長谷部は眼を剥いた。
「ぼくが選んだMOF担はとびきり優秀だったからね」
石倉はにやりと笑った。
「神谷真知子だね」
「その通り」
「大変だったろうね。接待費は相当の額になったのかな?」
「それが、あまり遣っていない。料亭で食事をした程度だ。二次会はカラオケパブでね。杉本頭取も意外な顔付きだったよ」
と石倉は打ち明けた。
「となると、すべて神谷真知子の功績ということになってくるのか?」
と長谷部は訊いた。
「そういうことになるね」
石倉は認めた。
「彼女の働きに対して、きちんと報酬で報いたのかね」
「定期昇給とボーナスを増やしたけど、枠があるからね。たかが知れている」
「そうか、わかったぞ。ニューヨーク支店に紹介したのも、向こうであまり良い状態じゃないのに気付いて、また本部への配置替えに骨を折ったのも、そのへんの含みがあったからだな」
長谷部は納得した顔付きになった。
「たしかに、その点はあるにはあった。しかし、ニューヨーク支店に推薦したのはぼくだからね。結果が良くなければ責任を取る必要がある。そこできみに頼んだ。あの節は世話になったね」
「お役に立ててよかった」
「ところで、話が廻り道にそれてしまったが、まだきみの答えを聞いていない」
と石倉は言った。
「そうかな」
「とぼけないでくれ。きみらしくもないぞ」
ときめつける。
「どうして、いま急に富桑銀行の資料が必要なのかね」
と突っ込んだ。
「それは」
と長谷部は口ごもった。
額と頬に俄に赤味がさした。困った時の反応である。もともと生真面目な性格なので、すぐに顔に出る。石倉は同期生で、ずっと以前からの親友である。したがって、そのことをよく知っていた。
「なるほど。いま言えないことだな。企業秘密ということもある」
石倉は理解を示した。
「そんなわけでも」
と長谷部は言葉を濁す。
「わかった。親しき中にも礼儀ありというからな。言えないことを、あえて聞こうとは思わない。質問は取り消そう」
石倉はあっさり引っ込めた。
「すまない」
長谷部は頭を下げた。
「気にしないでくれ」
石倉は軽く右手をあげる。
──その代わり、富桑銀行の高川取締役が急に会いたいと言ってきた件も、かりに、会った上で、用件が判明したにせよ、きみに教えるのはよそう。石倉はそう決めた。
長谷部と石倉の会合は不発に終わった。
どちらも、自分の本心を相手に明かしていない。こうなると、当然のことながら、相手も防衛する。世の中も、親しい友人同士の間も、たぶん、夫婦や兄弟の間でも、事態はあまり変わらない。持ちつ持たれつであり、ギブアンドテイクだ。一方だけが貰い続けたり、与え続けたりでは、良い関係が成立せず、長続きしなくなる。
長谷部も石倉も、それがわからぬわけではなかった。だが、今回はいたし方ない。とくに長谷部はうかつな発言を慎まねばならぬ立場だ。おまけに、長谷部自身が富桑銀行の調査を命じられたものの、目的を知らされてはいなかった。
ただし、石倉の調査資料が杉本頭取の手に渡っている事実だけははっきりした。頭取同士の引き継ぎ時に、きちんと引き継がれたのかどうか、そこまではわからない。が、その点は成瀬に直接尋ねるチャンスがあれば、すぐにも判明する。
それに、石倉が指摘したように、あの書類は二年以上も前の資料だ。この二年間の変化の最たるものは、何といっても不良債権の増大である。その額が公表数字をどのくらい上廻っているのか、そして、自己資本をどれだけ圧迫しているのか?
つまるところ、成瀬が知りたいのも、表にあらわれていない実態を知る手がかりになる数字であろう。
長谷部は自分が手を付ける前に、石倉の作成していた資料をあてにした。それが勘の鋭い石倉にも伝わった。
「どうして、いま急に富桑銀行の資料が必要なのかね」
と彼は訊いた。
痛いところを突かれた。正確に言うと、長谷部自身も知らないのだ。本来なら、彼がこの仕事を成瀬に命じられた時、はっきりと口に出して尋ねるべきであった。
石倉に教えるか、教えないかは、また別の問題になるが、少なくとも長谷部は目的を知って仕事に取り掛かれる。いまのままでは、係員並みだ。とうてい取締役とは言えまい。
だが、あの時の成瀬にはよけいな質問を許さぬ依怙地《えこじ》な雰囲気があった。表情も固く、不機嫌な印象を受けた。
そのため、長谷部は躊躇した。命令を受けたものの、何の反論もせず、理由も訊かずに引き受けて、頭取室を出てきた。あれがいけなかったのか? 石倉なら、どうであろう。どんな場合でも臆せず、きちんとたしかめたのか?
帰りのタクシーの中で、長谷部はおのれの不甲斐なさを意識して苛立ちを覚えた。
松岡紀一郎も、頭取室に呼ばれ、長谷部とほぼ同じ命令を受けた。
彼の方は以前からある資料を当てにしていない。それに、何故、成瀬がこんな命令を下したのか、考えようともしなかった。
「取りあえずだ。突破口を一つ、見付ける必要があるな」
ぼそりと呟いた。
こういう時、彼の頭には思いがけない閃きが生まれる。
「ま、よかろう。やってみるか?」
口に出して、電話機を取り内線ナンバーをプッシュする。
「ご多忙中申し訳ありませんが、ちょっとお邪魔させて頂いてよろしいでしょうか?」
名を告げてから、丁重に言った。
「どうぞ、お待ちしています」
と相手は言ってくれた。
松岡は手帳を手にして立ち上がった。行き先はわざと言わない。どこへ行こうと大きなお世話だとの意識が強い。もし、行き先を告げれば、勘の鋭い者なら、およその用件まで察知するだろう。総務部長がたとえおおまかであれ、仕事の内容を知られてはまずい。
松岡は部長に就任するや、朝礼ではっきりとそう告げ、部員たちに硬派のやり手という印象を与えた。前部長の温情的な気配をきれいさっぱりと拭い去るためでもあった。
「皆さんは総務部の部員ですよ。ひとつ全行員の模範となって、経費節減、倹約に努めて下さい。湯沸かし場やトイレ、化粧室等の電灯が昼間からつけっ放しになっている。必ず消すこと。それに、エレベーターは電気を大量にくいます。極力使用せず、階段を上り下りして運動不足を解消しましょう。いいですね。いまからすぐ実行して貰いますよ。出来ない人はボーナスをカットします」
迫力ある声で言い放って、部下行員たちの胆《きも》を冷やした。
松岡はかつて、福岡支店長時代、部下に厳しく接し、妥協しない、恐い支店長を演じて成績を上げた。そのことが忘れられなくて、総務部長になるや、つい大声をあげた。おかげで、総務部内の空気は一変した。いまでは緊張感が漂っていた。
彼はエレベーターを使わず、階段を上った。全員の前で大見得をきってしまった手前、自ら率先しないと格好がつかない。
二フロア上に検査部がある。担当の常務取締役は以前大蔵省の金融検査官であった。いわば、銀行に天下りしてきた元お役人だ。松岡は内線電話でアポイントを取った。果たして突破口になるかどうかはわからぬが、とにかく当たってみることにした。
検査部には人が居なかった。フロア全体がひっそりとしていて、引っ越した後のような印象を受ける。もちろん、机も電話も事務機器類もあった。他の部が賑やかなせいか、なおさらそう思うのであろう。
部長以下全員が支店の検査で出払っていた。見廻したところ、在席しているのは庶務担当の女子行員一人だけである。もっとも、奥の個室に担当常務の田所米三がいる筈だ。
ノックをすると、「どうぞ」という声が返ってきた。
ドアを開けると、田所が読んでいた週刊誌を伏せて立ち上がった。いかにも時間をもてあましている感じである。
「そちらへ、どうぞ」
と言いながら、田所はソファのセットの方へ先に移動した。
「どうも、お忙しいところ、申し訳ありません」
松岡はいくらか皮肉をこめて言った。
けっこうなご身分だなという気がする。
「この通り、全員支店へ出ておりましてね。閑散としております」
田所は皮肉とは受け取らず、まともに答えた。
「もちろん、こういう時の方が仕事をしているわけです」
説明口調でつけ加えた。
検査部に対する松岡の認識不足をたしなめようとしたのかも知れない。たしかに、部員たちは何カ店もの支店に分散して働いている。しかし、あなたはと言いたいところだが、そこまでは言えなかった。
彼はわざわざ喧嘩を売りに来たのではない。それどころか、頼みに来たのだ。
田所米三は中肉中背で、やや小肥りである。人柄はわるくはないが、風采は上がらず、凡庸な印象を受ける。話していて面白い人物ではなかった。
松岡は世間話などで時間を取らず、話を早く切り上げることにした。
「田所常務は大蔵省時代、やはり、検査関係のお仕事が一番長かったんでしょうか?」
と訊いた。
「そうですね。かれこれ十八年もやりましたからね。まあ、ほかの人にくらべても、長い方じゃないでしょうか」
と温顔で答える。
「そうしますと、金融検査に関してはベテラン中のベテラン、いわば大ベテランで、何であれ、およそ知らぬことはないと言えましょうな」
いくらか持ち上げるように言う。
「長年、検査一筋でやってきましたから、仕事についてはそう言ってもいいでしょう」
と田所は認めた。
松岡は生真面目な表情で頷いた。
「もちろん、おっしゃる通りだと思います。何かとご苦労があったでしょう」
阿《おもね》る口調だ。
「済んでしまえば、いつの間にか、何事も愉しい思い出に変わっていますよ」
と田所は応じた。
「仕事は仕事として、むしろ、仕事以外のご苦労もおありになったでしょう」
松岡は先へ進む。
「とおっしゃいますと?」
田所は腑に落ちぬような顔をした。
「例えば、人間関係ですよ」
「なるほど、人間関係ですか?」
「いろいろありましたでしょう」
と水を向ける。
「それはね。やはり、ありますね」
田所は否定はしない。
「でも、私なんかは平凡な方でしてね。目立つつもりもありませんから、かえって気が楽でしたよ」
と言い添える。
「少し、突っ込んだお話をうかがってもよろしいでしょうか?」
松岡はあえて言った。
「突っ込んだ話とおっしゃいますと?」
怪訝《けげん》な表情で訊く。
「常務のご専門の金融検査のことに関してですが」
「それでしたら、どうぞ。何でもかまいませんよ」
田所は安堵したように言う。
「検査内容は、もちろん、秘密事項なんでしょうな」
「そうですよ」
当たり前のことじゃないかと言わぬばかりの顔付きで頷いた。
「ところが、秘密のはずの事柄がいくつか、外部に漏れるケースが、まったく無いわけではないんですね」
松岡は質問なのかどうかわからぬような言い方をした。
「それはありません。当然、あってはなりません」
田所はきっぱりと言った。
「むろん、タテマエはそうでしょう」
「いや、ホンネでも同じです。その点は変わりません」
と強調する。
「しかし、これは以前あったことですが、A銀行の検査内容が、いつの間にか、B銀行に漏れていた」
「まさか?」
田所の色黒の頬が上気した。
松岡は田所の表情の変化を見逃すまいとしていた。
田所の色黒の頬が上気し、明らかに戸惑いの色が浮かんだ。松岡はその変化を記憶にとどめた。
「田所常務、実は、あったんですよ」
松岡はじっと相手の眼を見た。
「何があったとおっしゃるんです?」
田所は動揺した口調で言い返す。
「おとぼけはいけません。わかりますよ。いままでにだって、こういうことはしばしばありましたが、つい最近も起こっています。T信託銀行の検査資料がMOF担を通じてS銀行の上層部の手に渡ったでしょう」
松岡はやんわりと言った。
「大蔵省に直接のパイプを持っている田所常務のお耳にも届いている筈です」
つけ加えて、ことさら表情を和ませた。
非難する気も、追及する気もないのを示すためである。
「私はあまり知らない方でしてね。情報には疎いんです。大蔵省へもしばらく出掛けておりません」
と田所は答えた。
「そうですか?」
松岡はちらりと手帳を見た。
「先週は二回もお出掛けになっていますね。しかも、木曜日には夕方あの古い建物の中へ入って行って五時間も出て来なかった。いかがです?」
「あなたはどうしてそんなことまで」
田所は気色ばんだ。
「私は総務部長ですよ。新任ではありますが、押さえる所は押さえております。うちの部が役員の車の手配と運転手の管理までやっておりましてね。運転手には毎日毎夜、何処へ行って何時までいたのか、日誌を付けさせているんです」
としたり顔で教えた。
「………」
田所は黙り込んでしまった。
「どうも失礼しました」
松岡は丁寧に頭を下げた。
「気に障ったらお許し下さい」
と言い添える。
「気に障るも何も、あなたと私は同じ銀行の役員ではありませんか」
と田所は言った。
「たしかに、以前は私は大蔵省の役人でした。しかし、いまは違います。三洋銀行の常務取締役です」
と言いつのる。
「まさに、おっしゃる通りだ。そこで、あえてお願いがあります」
松岡はくい下がった。
田所は心を決めたらしい。もう先程のような戸惑いは見せていない。
「何でしょう。私に出来ることでしたら」
と歩み寄りを見せた。
「もちろん、できることです」
と松岡は請け合った。
「ただし、これは何処に対しても秘密にして頂く必要があります。大蔵省にも、当行の役員たちにも」
と強調する。
「どうでしょう。守って頂けますか?」
と確認した。
「誰にも話さなければいいんですね」
「そうです」
「わかりました。秘密を守りましょう」
田所はきっぱり言った。
「有り難うございます。この通りです。大いに感謝します」
松岡はもう一度丁重に頭を下げた。
「まだ用件を聞いていませんよ」
田所は注意を促す。
「そうでした。いま申し上げます」
松岡はいくらかもったいぶった。
「富桑銀行の出来るだけ最近の検査資料を入手して頂けませんか。それに、検査時点での状況や噂など何でも、とにかく情報が欲しいんです」
一気に頼んだ。
「富桑銀行?」
と田所はたしかめた。
「そうです」
松岡はゆっくり頷いた。
「富桑銀行なら、二カ月前に定例の検査が終わったばかりで、約一カ月前に講評がすんでいますね」
と田所は教えてくれた。
「それはすごい。最新の情報じゃないですか? ぜひ、何とかして下さい」
松岡は身を乗り出した。
「以前、私の下にいた男が責任者になって行ったようです」
「それなら」
「お望みのものを入手出来る可能性はあります。ただし、うまくいけばの話ですが」
と田所は言葉を濁す。
「うまくいくよう、ぜひともお力添えをお願いします」
「わかりました。やってみましょう」
「その方、ゴルフはなさいますか?」
と松岡は訊いた。
「やります。なかなか上手ですよ」
「でしたら、近くいかがでしょう。田所常務もごいっしょに」
「いいですね」
田所はあっさり承知した。
松岡は田所の所に来てよかったと思う。直感が当たったといってもよいだろう。
大蔵省の検査は厳格だ。例外はあるかも知れないが、それは特殊なケースだ。通常、見落としはまずなかろう。もし、検査資料を入手出来れば、対象となった銀行のもっとも生々しい姿を見ることが可能になる。
しかも、二カ月前だ。これはもう最新情報といってよい。松岡はしぜんに顔が綻《ほころ》ぶのを感じた。
「そう、そう」
と田所は急に思いついたように言う。
「たしか、近く出張で香港へ行くと言っていたな。いくらか、そうだ、餞別でも包んでやったらどうでしょう」
と提案する。
「それはいい考えですね。常務に仲介をお願い出来ますか?」
「いいですよ。ついでがありますから」
「向こうへ行かれたら、うちの香港支店でフォローさせましょう」
と松岡は申し出た。
「そうして頂ければ、本人も喜びますよ」
と田所は言う。
「わかりました。ゴルフの件も含めて、すべて私の方で手配させて下さい。今回の件、ほんとうに有り難うございました。また、お邪魔させて頂きます」
松岡は深く頭を下げた。
田所は松岡が部屋から出て行くのを見送って、執務机に戻った。伏せたままの週刊誌の方は見向きもせず、電話機を取り上げた。
一方、松岡は軽い足取りでフロアを横切り、エレベーターホールまで来たが、エレベーターには乗らず、階段を利用することにした。その方が健康に良い。思わず鼻歌を始めそうになった。
松岡は近頃のくせで、長谷部の席へ行きそうになって、慌てて方向を変えた。とにかく、偶然にでも顔を合わせたくない。
自席に着くと、書類が山積みされている。
「やれ、やれ、すぐこれだ」
と呟いたが、機嫌はすこぶる良い。
「それにしても」
と松岡は口の中で言った。
彼は成瀬頭取に呼ばれ、富桑銀行についての調査を命じられた。だが、いまどうして富桑銀行を調べるのかという点については、ひと言の説明も言及もなかった。
したがって、松岡は目的を知らない。そのため、どうもしっくりこなくて困っている。やはり、あえて尋ねるべきではなかったのかとの思いがこみあげてくる。少なくとも、自分は役員である。そういう自覚が足りないような気がした。
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第十二章 不思議な成り行き
高川明夫が案内したのは赤坂二丁目にある「三平」という蕎麦懐石の店だ。料亭風の高級ムードの小料理店で、蕎麦を中心にした日本料理が出る。なかなかの美味で評判が良い。
石倉克己は会合の場所を任せてくれと言われて、高川に任せた。こうなると、勘定も彼が持つつもりらしい。高川が早急にと申し入れてきた。それで時間を都合した。
石倉は昨夜長谷部に会ったが、どうも後味があまりよくない。こんなことは珍しかった。そのため、双方共意識しすぎたのかどうか、なおさらぎこちなくなる。長年の親友なのにどうしてこういう具合になったのか不思議である。いまもって解せない。
長谷部はしきりに富桑銀行の調査資料を欲しがっていた。それも石倉が合併の検討資料としてまとめたものだ。あの書類一式はすべて杉本前頭取に渡した。当然、杉本から次の頭取成瀬へ引き継がれた筈である。もし、見当たらないのであれば、杉本が故意に渡さなかったのであろうか?
あの時の経過から考えると、十分にあり得る。杉本は追われるように銀行を出た。したがって、通常の引き継ぎとはいささか異なったかたちにならざるを得なかったのか?
しかし、いまになってそんな書類がどうして脚光を浴びるのか? よくわからない。昨夜、長谷部に尋ねたがとうとう答えは得られなかった。長谷部がかなり頑《かたく》なに拒絶したのである。
気まずくなった原因はまさにそこにあった。はっきり言うと、長年の友情をないがしろにしてまでこだわる事柄だろうか? 石倉にはそうは思えなかった。
あの程度の書類がとの思いも強い。自分が作成しただけによくわかっていた。たしかに、あれを作成した時点では価値があった。が、時間が経過し、銀行の置かれた状況が変わってきた現在ではどうであろう。客観的にみて、その価値は大幅に下がっている。
今夜は富桑銀行の高川に会う。これもまた不思議な成り行きでもあり、符合でもある。偶然と言ってしまってよいのだろうか?
車が赤坂に近付くにつれて、石倉はいくらか緊張した。高川は先に来ていた。愛想良く出迎えてくれる。
「今回はご無理を申し上げました。おいで頂いて感謝しております」
と相好を崩して大仰に言う。
「これはご丁寧に」
石倉もついつられて、いつもより深く頭を下げた。
「挨拶は以上でおしまい。あとは気楽にやりましょう」
高川は慇懃《いんぎん》無礼になるのを嫌った。
石倉と高川はしばらく雑談した。久しぶりに出会ったため、話題が尽きない。金融界は騒然としており、日本経済に元気がない。不況の出口もいまだに見えるような見えぬような状態が続いている。そのせいか、話はいくらでもあった。
高川には、まず旧交を温めようとの意図があるらしく、なかなか用件に入らない。
両者共、頭脳明晰で情報蒐集力にたけているだけではなく、的確な分析能力を持っていた。それなりの経験も積み、冷静な判断力も身に付けている。
そのため、景気の動向一つを取り上げても、次々と面白い意見が出る。意見の一致をみたり、反対意見になったりする。揃って理論家の一面もあったから、しばしば興味深い論争になる。
放置しておけば、三時間でも五時間でも話し続ける。かつてはライバルであったが、いまは違う立場になっている。競合しないため、むしろ、気さくに本音を語ってもよい状態に置かれていた。
二人はビールで乾杯した後、料理に合わせてすぐ日本酒に変えた。さしたりさされたりが面倒なので、熱燗をコップで貰った。いわば、先に体制を整えておいてから話し始めたのだ。
「三洋銀行を出られてから二年以上過ぎましたが、いかがですか? 自分がその中枢部にいた時よりも、かえって銀行の姿がよく見えるということはありませんか?」
話の合間に、高川は何気ない様子でさらりと質問を挟み込んだ。
「そう言えば、たしかに、自分が内部の一員になっていた時よりは客観的な見方が出来ますね」
石倉もさり気なく答えた。
だが、そろそろ来たなという気配は感じた。ただ、これだけでは相手の意図がまったくといってよいほど読めない。世間話の延長として聞いても筋は通る。
「私なんか、いい例ですよ。ずっと富桑銀行にいますけど、この銀行の全体像や特徴はわかっても、本質がもう一つよくわからない。困ったものです」
と真面目な表情で告白する。
「これはご謙遜ですな」
と石倉は取り合わない。
「高川さんのお言葉とも思えませんよ」
と突き放した。
「お恥ずかしい話ですが、ほんとうのところ、よくわからんのですよ」
「信じられませんね」
石倉は厳として認めなかった。
高川はほんの少しだけであったが、うんざりしたような顔になった。いささか閉口したのであろう。
石倉は高川の戸惑いを見逃さない。しかし、どうしてこんな話題で戸惑うのかまではわからなかった。
「例えば、私も石倉さんのように一度銀行を出てみるとはっきりするかも知れませんよ。富桑の本質を見抜くには、いったん富桑を離れて外から見る方がよいような気がしてなりません」
と高川は言い張る。
「なるほど」
石倉はいくらか白けた気持ちになった。
「本質を見抜けないよりは見抜いた方がいい。それはたしかですが、本質などと言い始めると、どうしても錯覚に陥る。自分では見抜いたつもりだが、実は錯覚であったということも起こるでしょう」
とつけ加えた。
「これは面白い話をうかがった。錯覚ですか?」
「そうです。かえって、錯覚に救われることだってある」
「錯覚に救われる?」
「自分の無知をカバー出来るし、ごまかしも利く。自己満足にだって陥ることが出来ますからね。常に錯覚を持ち歩いていた方が気が楽ですよ。ストレス解消にだってなる」
石倉はすらすらと言った。
「うーん」
低く唸って、高川は腕組みをした。
いつの間にか袋小路に入ってしまったのに気付いたのだろう。こんなつもりではなかったとの思いが生じたに違いない。
石倉には依然として、高川の今夜の意図が見えてこなかった。それを早く察知するためには余計なことは言わず、彼に調子を合わせてやった方がよい。どうやら、彼のペースを狂わせてしまった。
石倉は反省した。反省すると従順な気持ちになる。
とにかく、高川を早く立ち直らせなければならない。それにはどんな方法がよいのか?
「そう、そう、以前あなたをお連れした六本木のカラオケパブがあったでしょう」
石倉は極端に話題を変えた。
「ありましたね。もちろん、覚えてますよ。ずいぶん変な屋号だった。『ぐうたら神宮』でしょう」
高川はすかさず言った。彼としては格好の抜け道を見つけたつもりなのだろう。
「どうです。この後寄ってみましょうか?」
図に乗って誘った。
石倉は昨夜、長谷部を「ぐうたら神宮」へ連れて行くつもりであった。
ところが、あんな結末になってきっかけを失い、別々にタクシーを呼んだ。まっすぐ帰ってしまった。
今夜、そのつもりではなかったが、高川の方から誘いを掛けてきた。それならそれでよいという気がする。断る理由もない。
「そちらさえよろしかったら、ご案内しますよ」
と石倉は応じた。
もともと石倉が見付けた店なのだ。以前は誰にも教えず、彼が一人で出掛けていた。いつの間にか、長谷部にも松岡にも、そして、高川にも知られてしまった。
「今夜のところは、すべて私の方で」
と高川は主張する。
勘定のことを言っているつもりらしい。
「あの店はカラオケパブですからね。行く以上、歌って頂きますよ」
と石倉は念を押す。
「もちろんです。大いに歌わせて頂きます」
高川は頷いた。
「どうやら、あちこちで練習して相当上達なさったようですな」
とかまをかける。
「いや、それほどでもありません。大蔵省にはカラオケの好きな人が多いですね。うちの|MOF《モフ》担に応援を頼まれて、よく駆り出されますよ」
「それで、上達著しい」
「先方より上手に歌うわけにはいきませんのでね。わざと途中で間違えたりして、けっこう気を遣いますよ」
と高川は打ち明けた。
「そう言えば、おたくの美人のMOF担、神谷真知子さんでしたね。彼女にはずいぶん出し抜かれました。優秀な人だった。ニューヨーク支店へ行って、いままた本部へ戻っておられるそうですね」
と言いつのる。
「よくご存知ですね」
「知ってますよ。目立つ女性でしたからね。よけいなことですが、外為なんかに置いておいちゃもったいないですよ。もっと彼女を生かすセクションがあるでしょう」
と高川はもどかし気に言う。
おや、と石倉は思った。くわしいだけではなく、彼女の動静をかなり気にしている。腕時計を見た。まだ八時五分だ。
「たぶん、この時間帯なら、神谷くんは銀行にいるでしょう。声を掛けてみますか?」
石倉は冗談ぽく言った。
「え、ほんとうですか? ぜひお呼びして下さい」
高川は真顔で頼んだ。
石倉は一瞬、迷った。が、自分の方から言い出したことだ。すぐに心を決めた。
「とにかく、電話をしてみます。すでに帰っていたらかんべんして下さい」
石倉はそう断って席を立った。
「私は神谷さんが席にいらっしゃる方に賭けますよ」
高川は石倉の背に向かって大きな声で言う。
石倉は直通の電話番号を知っている。無心でプッシュした。受話器を取り上げたのは、神谷真知子本人であった。
「まあ、石倉部長」
真知子の声が少し弾んだ。
「まだ仕事らしいね」
「もう、そろそろやめようと思っていたところです。いつでも出られます」
と彼女は応じた。
「すると、お腹《なか》は空いている?」
「もう、ぺこぺこ、あら、すいません」
「わかった。実はね」
と前置きして、石倉は高川明夫と会っているいきさつをかいつまんで語った。その上で改めて誘いを掛けた。
「わかりました。高川さんて方に誘われても、それほど気が進みませんし、あまり嬉しくもありませんけど、石倉部長がごいっしょなら別ですわ。そちらさえよろしければお邪魔させて頂きます」
と彼女は答えた。
この答えは石倉の気に入った。彼としては自尊心をくすぐられた上、これで高川に対しても顔が立つ。
「じゃあ、三十分位で来られるかね?」
とたしかめる。
「赤坂二丁目でしたら二十分もあれば行けますわ。シャトレ赤坂の一階ですね」
すでに立ち上がったような気配さえ感じられた。
「では、お待ちしています。あまり慌てないで、気を付けて」
石倉は気を遣った。
「ご心配なく、二十分後に」
電話はきれた。
石倉が席に戻ると、高川は剽軽《ひようきん》な表情でVサインを出した。
「結果はおっしゃらなくてもわかります。お顔にはっきり書いてありますよ」
と言って頬を綻ばせる。
「あなたの予想通り、高川さんの勝ちでした」
と石倉も認めた。
「彼女ずっと残業していて、かなり空腹らしいよ」
と教えた。
「それは気の毒に。料理を追加しておこう」
高川はすぐ仲居に声を掛けた。
石倉と高川は簡単な打ち合わせをした。二人共、すでに六、七品の料理を食べ終えていて、これ以上は無理である。そこで、なるべく神谷真知子に食べて貰う。その間、彼等はもっぱら酒を飲む。そして、最後にすっぽん鍋を三人で突っつく。
「こういう段取りでどうでしょう」
と高川は確認する。
「まあ、あまり気を遣わないで下さい。特別なお客さんじゃないんだから」
石倉は苦笑した。
「いや、そうはいきません。かつてはたいへんなライバルだった人ですから、それなりの敬意を表しませんと」
と高川は言い張る。
二十分過ぎないうちに、神谷真知子があらわれた。颯爽《さつそう》としている。
客観的に見ても、女性としてかなり目立つ存在である。年齢も三十代の半ばになって、磨きがかかってきたような印象を受ける。
ちなみに、女性の魅力も世の中の成熟と共に変化している。十代の後半や二十代の初めは生活の苦労が減ったために子供っぽい。肉体は一人前でも、あまりに精神が幼稚だ。言いかえると、身勝手で生意気なだけである。両親に依存した安易な暮らしが、顔付きや態度、考え方や言動、躰つきまで弛緩させてしまう。
したがって、多少なりとも、女性の魅力が増すのは、どうしても、おのれの生き方に責任の持てるようになる二十代の後半から三十代、さらには四十代の後半あたりまでになる。女性《ひと》によっては五十代に入っても魅力が衰えぬことさえある。本人にきちんとした自覚さえあれば、健康を維持し、若さを保つことが出来るからだ。
ともあれ、三十代と四十代は現代の女性にとっては、まさに花ざかりの季節といってもよいであろう。
神谷真知子はそういう季節の入り口にさしかかっていた。彼女が独身で、キャリアウーマンで、げんに銀行の有能な管理職でもある事実は、魅力とけっして無関係ではない。むしろ、積極的なかかわりを持っているとさえ言えよう。おそらく、化粧や香水、身につける宝石や装身具以上の役割を果たしつつあるのではなかろうか?
石倉は床の間を背にした上座に坐っている。その隣りに真知子が坐った。高川は反対側なので二人と向かい合うかたちになる。
「どうぞ、どうぞ、とにかく乾杯しましょう。その上で、どんどん召し上がって下さい」
高川は愛想がよい。
「お言葉に甘えて、押し掛けました」
真知子はしおらしく丁寧に頭を下げた。
「何をおっしゃいますか? おいで頂いてほんとうに光栄です」
高川も丁重に会釈する。
石倉は二人のやり取りを見て、照れくさそうな笑いを浮かべていた。
「あたくしの方こそ、富桑銀行の高川部長さんにお招き頂くなんて、思いがけないことなので、大いに緊張しております」
と神谷真知子は上手に相手をたてた。
「まあ、まあ、固い話はやめにしましょう。今夜は石倉さんとも久しぶりにお目に掛かりまして、おしゃべりしているうちに、ついあなたの噂になりまして」
高川も口は滑らかだ。
「やはり、それでわかりましたわ」
と真知子は大仰に頷く。
「仕事中にくしゃみが出ましたの」
とつけ加えて、少し顎をしゃくった。
そのしぐさがかなり蠱惑《こわく》的だ。ただ、自然なので嫌味がない。
「これは参った」
高川は後頭部をかく真似をした。
二人共、かなりの役者だというのが、石倉の正直な印象である。この分なら、あまりぎくしゃくすることはない。放っておいても心配はなさそうだ。
「そう言えば、以前はと言っても、それほど前のことではありませんが、私共は石倉さんと神谷さんのコンビに、ずいぶん出し抜かれました」
と高川は恨めし気に言う。
「まあ、何のお話ですの。いっこうに覚えがございませんが」
すかさず真知子はとぼけた。
「これはご挨拶ですな」
高川は手ごたえを感じたらしい。
「思い出して下さい。あなたのMOF担時代のご活躍のことを申し上げているんです」
はっきりと告げた。
「あ、あの頃のお話ですか?」
真知子はわざとかどうか、いくらか白けた顔をした。
「もう、すっかり忘れましたわ」
と興味無げにつけ加えた。
「これは参りました。当方といたしましては、すっかり兜を脱ぎます」
高川はさっさと敗北宣言をする。
そのくせ、嬉しそうな顔をして、早速、真知子と石倉の杯を満たした。
「しばらく、神谷さんに召し上がって頂きましょう。代わりに、石倉さん、何かおっしゃって下さい。あなたにもずいぶん裏をかかれたのはたしかです」
高川は石倉の方に水を向けた。
ほぼ一時間後に、三人はすっぽんの鍋料理を食べ終わった。
大柄で美人のママが挨拶にきた。
「この方は銀座で有名な『ザボン』というクラブを経営しておられる水口素子さんです」
と高川が紹介する。
「いえ、そんなに有名じゃありませんのよ」
と四十代後半の上品なママは謙遜した。
「けっこう有名ですよ。知る人ぞ知る。なかなか評判の良いお店でしてね」
高川はよく通っているような口ぶりだ。
「どうぞ、これから皆さんでごいっしょにお寄りになって下さい。わたくしもまもなく銀座へ移動しますのよ」
とママは奨めた。
「そうだ。まだ時間は早い。先に三十分だけ『ザボン』へ寄って、それから六本木の『ぐうたら神宮』へ移動しましょう」
高川はたちまちその気になった。
石倉も真知子も反対はしない。高川に任せることにした。
「ザボン」は銀座六丁目のポールスタービルの四階にある。三人は高川がキープしているレミーマルタンのVSOPをダブルで一杯ずつ飲んだ。高川は三十分と言ったが、居心地が良いので四、五十分はいた。時間を気にする高川に急かされて立ち、「ぐうたら神宮」に着くと十時四十分になった。
「どうでしょう。お互いに明日がありますので、十二時でお開きということにしては」
と高川は提案する。
「神谷さん、いかがでしょう」
と先に真知子に訊く。
「あたくしはかまいません」
彼女はあっさり承諾した。
「石倉さん、あなたも厭とはおっしゃらないでしょう」
と言われて、石倉は苦笑した。
「あと一時間二十分あります。ひとつ、張り切って歌いまくりましょう」
高川は上機嫌で言う。
折よく、三、四人連れの客が二組帰るところであった。残ったのは四人のグループと彼等三人だけである。
「では、時間がありませんので、私が前座を務めさせて頂きます」
高川はそう言うと、早速、アイウエオ順になっている歌の本を手慣れた手付きでめくり、持ち歌の一つを選び出した。
「次はぜひ神谷さんに、それから石倉さん。どうです、この順番で行きましょう」
と世話をやく。
「了解、今夜はすべて任せますよ」
石倉は諦めの交じった声で応じた。
翌朝、高川から電話が掛かってきた。昨夜のお礼を述べた後で、彼はすばやく言った。
「ところで、石倉さん。三洋銀行の最近の業績について教えていただけませんか? 有力取引先として、決算書は取り寄せておられるでしょうが、それ以外の裏話でもあると、助かるんですが、近く会社の方へお邪魔しますのでよろしく」
言うだけ言うと、質問を恐れたのか、高川はさっさと電話をきってしまった。
石倉は思わず苦笑する。高川が早くも、昨夜の接待のもとを取ろうとしているのを察知したからだ。
「ずいぶん気が早い。富桑銀行は焦っているな」
と石倉は呟いた。
その日、長谷部は八時に銀行に着くとすぐ秘書課長に電話を入れて、成瀬頭取への面会を頼んだ。
「九時から一時間ほど打ち合わせの時間が取ってありますので、早くても十時過ぎになりますが、よろしいでしょうか?」
と秘書課長はたしかめた。
「けっこうです」
と長谷部は答えた。
他の部の部長とは違って、長谷部は総合企画部長である。このため、仕事が頭取と直結している。早急に頭取の指示を仰ぐ必要に迫られるケースが多い。また、一刻も早く頭取の耳に入れなければならぬこともあった。秘書課長は仕事柄そういう事情をよく承知していた。
緊急の場合は、打ち合わせ中であれ、来客中であれ、かまわず突入する。
だからこそ、秘書課長は十時過ぎでもよいのかどうかをたしかめたのだ。
長谷部が朝礼を終え、机上に積み上げられた書類の点検に没頭していると、電話のベルが鳴った。
「頭取室へ、どうぞ」
秘書課長の声だ。
時計を見ると、まだ九時二十分である。
「かまわないんですか?」
「けっこうです。次の打ち合わせに入る直前の時間を見付けました」
「どうも、有り難う」
礼を言って、立ち上がった。
成瀬は入室してきた長谷部を見ると、何か急用かと問い掛ける顔付きになる。
「とくに急用ではございませんが、ちょっとたしかめさせて頂きたい事柄がございましてお邪魔しました」
と長谷部は先にことわった。
「何かね?」
「富桑銀行に関する件につきまして」
と言い掛かるや、成瀬は手をあげて制した。
「あちらへ行こう」
とソファを指さす。
次いで、インタホンを押す。
「九時三十分からの打ち合わせ、十時に延ばして貰おう。わかったね」
と命じておいて立ち上がった。
成瀬の態度から、長谷部はどうやら富桑銀行についての問題がかなりの重要事項であるらしいと察した。
成瀬は先にソファに腰を下ろすと、長谷部にも坐るように奨めた。
「ずいぶん早いな。富桑銀行のことで、もう何かわかったのかね? 何であれ、早く聞かせて貰いたい」
期待に満ちた眼ざしでそう訊いた。
長谷部は成瀬の眼ざしがかなり熱っぽく、期待に満ちているのを感じると、ふとうっとうしさを覚えた。
「前段階の話で恐縮なんですが」
と彼はことわった。
「前段階というと?」
成瀬はいくらか怪訝な顔をした。
「実は、富桑銀行については、石倉くんが調べた相当詳しい資料がある筈なんです。もちろん二年前のものなので、いまそっくり貰うわけにはいきません。しかし、最近の二年分を、とくに不良債権の額をこれに加えれば、ほぼ完璧な資料になると思います」
「なるほど、良いところに気が付いた」
と成瀬も認めた。
「そこで、資料室はもちろん、あらゆる場所を徹底的に調べましたが見当たりません」
「見当たらない?」
「石倉くんから引き継いでいないことがはっきりしたんです」
「すると?」
「私もうかつでした。申し訳ありません。早速、昨夜、石倉くんに会ってたしかめたところ、さいわい彼が思い出してくれたので、理由がわかりました」
と打ち明けた。
「ほう、わかったんだね」
「はい、石倉くんは富桑銀行に関するすべての資料を、杉本前頭取に渡したそうです。もともと石倉くんは杉本前頭取の依頼でこの資料を作成したわけですから、提出するのは当然かも知れません。したがいまして、問題はその後だと思います。頭取交代時に、杉本前頭取から成瀬頭取に引き継がれるべき書類になった筈です」
「まあ、そうだろう。きみの言う通り、そういうことになるね」
と成瀬も認めた。
「そこでおうかがいしたいのですが、この資料、杉本前頭取から受け取っておられますか?」
と長谷部は尋ねた。
「………」
成瀬は首をひねった。
「受け取っていないね。富桑銀行に関する資料はいっさい引継書に記載されていなかった」
と不満そうに口を尖らせた。
「たしかでございますね」
「たしかだ」
成瀬は即座に断言した。
「では、問題の資料は杉本前頭取がいまも持っておられるか、あるいは独断で処分されたか、いずれにせよ、二つに一つだと思いますが、いかがでしょうか?」
と長谷部は成瀬の考えを訊いた。
成瀬は顔をしかめた。気に入らない時のくせだ。
長谷部は成瀬の渋面を見ると、さらに一歩突っ込む決心をした。この点は機を見るに敏だし、後退するのを嫌う彼の性格でもあり、果敢なところでもある。
「ついでにというわけではありませんが、もう一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
とたしかめた。
「いいよ、何でも訊きたまえ」
成瀬としては、そう応えざるを得ない。
「ここにきて急に富桑銀行についての調査をせよとのご指示ですが、理由は何でしょうか? どうして、いま緊急な調査が必要なのか? すべてではなくても、一部でもけっこうですから教えていただけないでしょうか? 目的がはっきりすれば、その分だけ有利に動くことが出来ると思います」
長谷部はやや早口で、一気に言った。途中で遮られるのを警戒したのだ。
成瀬の頬にいくらか血が上った。まずかったかなとの思いが頭をよぎる。
「ものには順序がある」
成瀬は感情を抑えて言う。
「先の質問の方から片付けよう」
時間稼ぎのつもりかどうかはわからないが、そう前置きした。
「杉本は私に資料を渡さなかった。あの時は富桑銀行との合併が不発に終わった直後だから、腹いせもあっただろう。また、別の使い道を考えていたのかも知れない。たぶん、その両方だ。後で、何かに利用するつもりで手許に置いた。そうに決まっている」
と成瀬は断定する。
「たしかに、何もなければ手許に保管しても意味がありません」
と長谷部も同調した。
「その通りだ。きみだってそう思うだろう」
したり顔でゆっくりと頷く。
「したがって、杉本は現在もあの資料を持っている。勝手に処分したりはしない」
と言い張った。
長谷部も、杉本富士雄がまだ手許に置いているような気がした。いつ役に立つかわからない書類を、慌てて処分する必要もない。
「そうだ」
急に思いついたように成瀬は膝を打った。
「杉本ときみの仲はそんなにわるくはない。むしろ、良いくらいだ。杉本は合併反対派のきみを信頼し、あえて取締役に推薦してやめたんだからな」
成瀬はまた口を尖らせた。
「しかし、石倉くんほど親密ではありません」
長谷部は警戒しながら言った。
成瀬は鷹揚に頷いた。
「それはそうだろう。石倉君は杉本の懐刀でもあったし、コンビを組んで合併工作を推し進めた。もともとかなり親密でなければ、とてもああはいかない。なにしろ、もう少しであの合併は成功するところだった」
成瀬は当時を思い出すかのように、少し眼を細めた。
「あそこまで進行していたのに、よく阻止出来たと思うよ」
と述懐する。
「たしかに、一時はどうなることかと思いました」
長谷部も調子を合わせた。
「しかし、きみは最初から毅然としていた。松岡くんはあっちへ行ったり、こっちへ来たりで文字通り右往左往しておったが、合併推進派の石倉くんと、反対派のきみ、この二人は親友なのにはっきりと正反対に別れて、それぞれ自説を主張し、絶対に譲歩しなかった。あれは立派だ。あの頃の私はきみの断固とした態度にずいぶん力づけられたよ」
成瀬はいくらかなつかしそうにつけ加えた。
「そんなふうに言われますと、何だか恥ずかしくなります」
長谷部は照れた。
「きみはどちらかと言えば、普段は相当な照れ屋だ。シャイなところがある。しかし、何か起きると顔付きも態度も一変する。しゃんと背筋が伸びて、俄に頼もしくなる。不思議な男だな」
成瀬は長谷部の人物論に移った。
「もっとも、その不思議さが魅力につながっているんだから、頼もしい。とやかく言うことはない」
と結論を下した。
ノックの音が聞こえて、女性秘書が入室してきた。丁重に一礼して、成瀬にメモ用紙を渡す。
「わかった。すぐに行く。全員待機させておいてくれ」
と成瀬は命じた。
女性秘書が部屋の外に出てドアが閉まるのを待って、成瀬は立ち上がった。長谷部もつられて立つ。
「杉本に近付いて、富桑銀行に関する調査資料を取り戻して欲しい。方法はきみに任せる。杉本が持っていたのでは危ない。どんな使い方をするか見当がつかんからね。原沢頭取だって気が気じゃなかろう。したがって、きみの調査はこの二年間に集中してくれたまえ。とくに最近の一年、ポイントは関連会社も含めての不良債権だ。頼みましたよ」
言って机上の書類を取ると、先に頭取室を出て行った。
長谷部は頭取室に取り残された。
といっても、長くとどまっているわけにはいかない。すぐに、机上の書類を手にして足早に役員会議室に向かう成瀬の後に続いた。成瀬は後ろを振り返ったわけではないが、気配で長谷部の動きを察したらしい。
成瀬は廊下伝いにいくつかある会議室の一つに向かっている。長谷部は途中で曲がってエレベーターホールを目指した。
自席に着くと、何枚もあるメモ用紙に目を通す。いずれも離席中に掛かってきた電話で、とくに急ぎの用件はなかった。コーヒーを頼んで部長室に移動する。
自室に入ってドアを閉めた。どうも気持ちが落ち着かない。コーヒーが来るまで、強いて何も考えまいと思った。ほどなく女子行員がコーヒーを運んできた。
「どうも有り難う。しばらくここで仕事をしているから、面会は断って下さい」
と頼んだ。
「お電話の方はどうでしょう」
「電話はかまわない。こっちへ廻して貰おう」
そう答えて、コーヒーを二口ほど飲んだ。
杉本前頭取から、富桑銀行に関する調査資料を取り戻せとの命令はどうであろう。果たして仕事といえるのか? もし、仕事だとしても、あまりまともな仕事ではない。
それに、成瀬は長谷部の人物評に入って、結果としては誉めた。あれは何だったのか? 長谷部が求めた二つ目の質問をはぐらかすためではなかったのか?
どうも、そんな気がする。長谷部は続いてまた二口コーヒーを飲んだ。味がおかしい。苦味が増しているような気がした。
「ここにきて急に富桑銀行についての調査をせよとのご指示ですが、理由は何でしょうか?」
と彼は尋ねた。さらに、
「どうして、いま緊急な調査が必要なのか、教えて頂けないでしょうか?」
とせまったのだ。
これに対しては、成瀬はまったく答えていないに等しい。
どうやら、杉本前頭取の許にあるらしい資料の方が先なのはわかる。成瀬が受け取っておらず、引き継ぎ事項にも入っていなかったのがはっきりした。
しかし、あれは二年前の資料だ。いまでは価値が半減している。成瀬にも長谷部にもそのことはわかっていた。にもかかわらず、成瀬はこだわった。とくにおかしいのは、「原沢頭取だって気が気じゃなかろう」という一節だ。たとえ、原沢がどう思おうと、いったい、成瀬にどんな関係があるというのだろう。長谷部はしだいに左側に首を傾けた。
長谷部が前頭取杉本富士雄との接触に戸惑いを覚えている頃、松岡はまた勝田から連絡を受けた。
「松岡くん、元気かね?」
と威勢の良い声で言う。
「おかげさまで」
松岡は浮かぬ声で応じた。
年寄りが元気なのも困ったものだ。すでに引退したんだから、余計なことを考えず、のんびりすればいいじゃないかとの思いがこみあげてくる。
「あまり元気がなさそうだな」
勝田は心配そうに言う。
よけいなお世話だと言いたくなるのを松岡は我慢した。
「仕事に追われづめでしてね。こう忙しくては元気もなくなりますよ」
本音とも取れる言い方をする。
「それはいかん」
勝田はぴしりと言う。
「仕事は自分の方から追うものだよ。追われてはいけないなあ」
愚にもつかぬ一般論を口にした。
まったく、こんな莫迦らしい忠告なら受けない方がましだと思いつつも、勝田とやり取りしていると、何故か、心がなごんでくる。長年杉本前頭取のイエスマンに徹してきた好人物のせいであろうか? 杉本がずっと勝田を身近に置いたのも、あんがいこういう単純な理由によるのかも知れない。
「とにかく、近いうちに会いたいねえ。きみの激励会をしようじゃないか? 私だって総務部長をやっていた時代がある。総会屋は来るし、いざこざは持ち込まれる。いま思い出しても、ろくなことはなかったな」
と声をひそめる。
「よろしい。ひとつ、コツを教えよう。こうやればうまく乗り越えられるという手段《て》があるんだ」
と言い張った。
「なるほど、それは心強い。ぜひ教えて頂きたいですなあ」
松岡としてはそう言わざるを得ない。
「では、いつがいいかね。なるべく早い方がよいような気がするよ」
いつの間にか、会ってやるぞという言い方になっている。
「わかりました。いま予定表を見ます」
松岡は苦笑しつつ手帳を繰った。
三日後の夜が偶然のように空いていた。それを告げると、勝田は嬉しそうに応じた。
「どうだろう。松岡くん、今度の会合は杉本さんには内密ということにしておいては」
勝田の方から提案した。
松岡と勝田は京橋寄りの小料理屋で会うことになった。例の店、割烹の「舟唄」である。四十代半ばの魅力的な女将《おかみ》、井波沙斗子が経営している店だ。
松岡は以前、杉本と勝田の三人で会って以来、二度ほど出掛けている。取引先の接待にこの店を使ったのだ。とはいえ、これは女将の満足する回数ではない。理由は多忙である。夜の時間がふさがるケースは多いが、「舟唄」ばかりを使うわけにはいかなかった。
したがって、勝田が「舟唄」の名を口にすると、松岡は直ちに賛成した。女将に会う良い機会だと考えた。奥座敷を予約しておいた。待ち合わせは七時だが、松岡はわざと十五分位早く着いた。
「まあ、松岡部長さん、このところお見限りじゃありませんの」
早速、女将がやってきて、恨めしそうな眼ざしで睨む真似をする。
「なにしろ忙しくてね。これでもせいいっぱいだよ。今夜だって、別の場所だったのをここに変えた。ママに会いたい一心でね」
しゃあしゃあと言い返した。
「ほんとうかしら? 信じてもよろしくて」
女将はわざとらしく眼配せする。
「困るね。信じて貰わなくちゃ」
松岡はじっと女将の顔を見つめた。
「まあ、そんなに見ないで下さい。もう若くありませんのよ。アラばかり目立つでしょ」
訴えるように言って、しおらしく眼を伏せる。
「これは失礼、つい見とれた」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないさ」
「じゃあ、証拠を見せて下さる。今夜、お店は十時に終わりますから、十時三十分頃デートして頂けるかしら?」
「いいよ、今夜はあけてある」
松岡は鷹揚に頷いた。
二人はいくらか声をひそめて待ち合わせ場所を決めた。女将の希望で銀座のシティホテルの一階レストランで会うことになった。そこは午前四時まで営業しているという。
約束が成立し、女将がとりあえずビールでもと席を立とうとした時、勝田があたふたと姿をあらわした。
「どうも失礼、遅れたかな?」
と腕時計を見る。
「ご心配なく、まだ五分前です。私が早く着きすぎました」
松岡はにこやかな顔で勝田を迎えた。
女将とのデートが決まったせいか機嫌が良い。
「今夜は料理も勘定も任せて下さい」
と丁重に頼んだ。
松岡と勝田はビールを日本酒にきり替えて、さしつさされつしている。
吟味された料理が次々と運ばれてくる。勝田は満足気に酒を飲み、料理を突っついた。
「今夜は酒が美味いなあ」
と嬉しそうに言う。
「きみの奨め方がうまいせいかな?」
と首をひねる。
「そうじゃないでしょう。いつも上座に坐って威張っている人が、どういうわけだか見当たりませんが、たぶん、理由はそのへんにある。いかがですか?」
と素直に尋ねた。
「うーん、これはまいった」
勝田は腕組みした。
「どうやら、見抜かれたらしい」
わるびれずにつけ加えた
「やはり、当たりましたか?」
「残念ながらね。それにしても、きみはよく見抜いたな」
勝田は少し不思議そうな顔をする。
「お二人のご関係はずいぶん古くからでしょうし、とても私なんかが口を挟むことは出来ませんが、しばらく前からずっと拝見していて、何となくわかるような気がしてきたんです。もちろん、当てずっぽうなので、正確なところはまったくわかりません」
松岡はひかえ目に言った。
「きみだから打ち明けるが、杉本さんは横暴で、自分勝手な人でね。私をまるで奴隷のようにこき使ってきた。あの人が頭取で、私が副頭取の時はそれでもよかった。しかし、お互いに引退してからでもいっこうに態度が変わらんのだよ」
と訴える。
「それはおかしいですね。銀行にいたからこそ、上下関係が成立する。ほんとうはこれだって、人間対人間の筈なのに、まあ、上司と部下なんだから、在行中は仕方がないと言ってしまえばおしまいでしょう。だが、引退すればもう対等ですからね」
あえて当然のことを言う。
「まったくその通りだ。ところが、そういう常識が杉本さんには一切通用しない。相変わらず自分がワンマン頭取だと思っている」
「始末がわるいですね」
「ほんとうだよ。始末がわるい」
勝田は大きく頷いた。
「いまや、私は年金生活者ですからね。あとは株の配当金とわずかな預金利息しか入ってこない。最近の金利の低いのには参っている。それなのに、杉本さんに会うと、食事代もタクシー代もお茶代もすべて私が払っているんです。いい加減頭にきますよ」
勝田の顔は忿懣で薄赤く染まった。
松岡は勝田がかなり本気で怒っているのを感じた。勝田の言い分は嘘ではない。ほんとうだ。
それどころか、長年の忿懣が積もり積もって、いまや爆発しそうになっている。そんな印象さえ受けた。
「退職金だって、杉本さんは私の四倍も貰っている」
と勝田は口を尖らせた。
「いったい、いくらですか?」
さり気なく訊いた。
「六億円ですよ」
勝田はつられてあっさり答えた。
「六億円? すごいですね。すると、勝田さんにも一億五千万は入った」
「むっ」
と勝田は返事につまった。
「頭取と副頭取の差なんだから仕方がない。なに、私の方ははした金ですよ」
と言い訳がましい。
「とんでもない。一億五千万円は大金です。勝田さんだって大金持ちじゃないですか」
松岡はもち上げた。
「六億円の方がずっと大金です。大金持ちは杉本さんの方でしょう」
とふくれている。
「わかりました。いずれにせよ、お二人がかなりの大金持ちであるのがはっきりしたわけです。ところで、総務部長の仕事について、何か助言して下さい」
と松岡は頼んだ。
「そうだった。そっちへ移ろう」
勝田はほっとしたように言う。
金銭の話は不得手なのか、自分から言い出しておいて引っ込めてしまった。勝田はいささか得意気に、総務部の仕事について持論を述べ始めた。
松岡はいちいち頷きながら聞いたが、これといって、あまり目新しい指摘はない。殆ど、彼が承知している事柄ばかりである。聞いているうちに少々莫迦らしくなってきた。有り難く拝聴するふりをしていると、勝田はますます図に乗った。
ふと気付いて、松岡は急に勝田の言葉をさえぎった。
「実は、ちょっとご相談したいことがありましてね。仕事に関して、長谷部くんと議論している間に、二人共つい感情的になってしまって、売り言葉に買い言葉、とうとう仲違いしてしまいました」
と打ち明けた。
「ほう、きみたち二人は同期生で、おまけに相当の親友だったんじゃないかね?」
勝田は不審気に顔をしかめた。
松岡は大きく頷いた。
「たしかに、その通りです。それだけに、仲違いしたとなると、かえっていけない。もう始末におえません」
と訴えた。
「そんなものかね。私には同期生で親友なんていなかった。そのせいか、きみの話がもう一つよくわからん。原因を詳しく説明してくれたまえ」
と改めて頼んだ。
松岡は長谷部と口論になったいきさつを、わかりやすく最初から語った。
「なんだ。そんなことかね」
勝田は聞き終わると呆れたような顔をした。
「私に言わせれば、きみの方が、とくにわるくはないが、実に愚かだな」
と突き放すように言う。
松岡は耳を疑った。よりによって、勝田に愚かだなどと言われる覚えはない。憤然とするのを通り越し、いささか呆れて勝田の顔を見つめた。
「どういう点が愚かなのか? きみには私の言っていることがわからんらしいな?」
と勝田は言った。
「たしかに、よくわかりません。わかるように説明して下さい」
松岡はいくらかふてくされて要望した。
「まず広報課だが、そんな課を総務部内に置いておくのがおかしい。いずれ、きみの足枷《あしかせ》になる。総合企画部がくれというなら、ちょうどいい。さっさとやってしまいなさい。だいたい総務部というのは守りの部なんだ。守って守り抜くのが役目だよ。広報は逆でね。攻めに転じて、大いにPRし、銀行の良いイメージを広げなければならん。守りとは相入れない。わるいことは言わん。火の粉が降り掛からんうちに、早く手放したまえ」
勝田はきっぱり言った。言い方が確信に満ちている。
「総会屋問題も含めて、しばらくは総務部受難の時代が続く。そういう時には身軽になっておいた方がいい。守りに徹してこそ、大部長だ」
と力説する。
「なるほど、そういうことですか?」
松岡は神妙な顔になった。
「それで長谷部くんと仲直り出来れば言うことはない。火の粉は彼の方へ行く」
「うーん、そうか、そういうことか」
松岡は低く呻った。
「ついでだから言っておくが、この件を長谷部くんとの取引材料にしたまえ。譲ったふりをして、彼にうんと恩を売っておくんだ」
さすが前副頭取である。勝田は抜け目のない提案を授けた。
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第十三章 困った関係
松岡は目を見張った。感心したと言ってもよい。いくらかではあったが、感動を覚えたほどだ。
「うーん、さすがですねえ」
と素直に言った。
その方が勝田を喜ばせることが出来るのを知っている。果たして、勝田は松岡の感嘆の声を聞くと嬉しそうな顔をした。
「私だって、杉本さんの下で長年副頭取を務めあげてきたんだからね」
と誇らし気に言う。
「もちろんです。杉本前頭取は相当厳しい人なので、私共下の方の者にはわからぬところで、さぞや鍛えられたことと推察いたします」
と松岡は言い添えた。
「きみの言う通りだ。たしかに、鍛えられたよ。部下に厳しい人だったからね」
そう言いつつも、勝田はむしろ、なつかしそうな顔をした。
「お察しいたします」
松岡はわざと神妙な顔で相槌をうつ。
「私はイエスマンだとか、コメツキバッタだなどと言われて非難された」
「そうでしたかね」
「とぼけちゃいけない。きみだって私の悪口は耳にした筈だ。それどころか、きみ自身がそう思っただろうし、あるいは口に出して言い触らしていたのかも知れん」
松田は口を尖らす。
「とんでもありません」
松岡は慌てて否定した。
「私は一度だって、そんなことを口にしませんし、考えたこともないとはっきり申し上げておきます」
と心外そうにつけ加える。
「わかった。それならそれでよろしい」
と勝田は頷いた。
「しかし、耳にしたことぐらいはあるだろう」
とこだわる。
「そう言えば、そんな噂があったような気もします」
松岡も認めた。
あまり否定すると嘘になる。実は、副頭取時代の勝田についての非難はこんなものではない。もっとひどい言われ方をしていた。
いわく。「昼あんどん」「役立たず」「茶坊主」「虎の威を借る馬鹿狐」「杉本の腰巾着」等々、かなりひどいもので、とても「イエスマン」とか「コメツキバッタ」程度の、多少なりとも聞きよいたぐいのものではなかった。むしろ、もっと即物的で、いわゆるエゲツない表現が使われていたのだ。
しかし、どんな人間にも矜持《きようじ》はある。松岡は図に乗らず、遠慮した。
今回もそんな配慮、というか心遣いが効をあらわしたと言えよう。
たしかに、松岡は噂があった事実は認めたが、それがそうあからさまではなく、さしてひどいものではなかったと、あえて言い張ったようなものだ。
「もちろん、私だって、妙な噂があったことは知っている。いろいろ言われているなとは思った。しかし、考えてもみたまえ」
と勝田は開きなおった。
「私の上にいたのは、いや、むしろ、君臨していたと言った方がよいと思うが、あの杉本富士雄だよ。ああいう身勝手な人物が上にいて権力を振るっている。そこをよく考えて貰いたい。いったい、誰が杉本さんの風を受け止めたんだね。どの道、誰かが屏風《びようぶ》の役割を果たす必要があった。私がその屏風になった。誰もなり手がなかったからだ。成瀬くんなんか、同じ副頭取でいながらどれほど助かったか知れない」
勝田は熱弁をふるった。
「おっしゃる通りです」
松岡は大きく頷く。
「私はその点も感じておりました。けっして、よく理解していたとまでは言えませんが」
と言い添える。
「そうかね。わかってくれるんだね」
勝田は満足気に頷き返した。
「きみのような人がいてくれたのは有り難い。が、多くはろくにわからん連中でね。『イエスマン』とも『コメツキバッタ』とも言われ、さんざん陰口を叩かれた」
と顔をしかめる。
「どうも申し訳ありませんでした」
松岡は大仰に頭を下げた。
「なに、きみが詫びることはない。きみはよき理解者だ」
と断定する。
「有り難うございます」
「うむ」
と頷き、勝田は笑顔になった。
「ご苦労のほどはお察しいたします。それにしても『広報課』は切り離すべきだとのご意見、身に沁みました。私はむしろ逆だと思ったんです。仕事は増やすべきだ。その方が大総務部長として貫禄がつくとさえ考えました」
松岡はあっさり打ち明けた。
「無理もない。普通はそう考える。だが、張りきりすぎるとろくなことにはならん。総務部受難の時代はまだまだ続く。この際、出来るだけ身軽になっておいて、実力をつける。厄介者は放り出すべきだ。そうしなければ生き残れないよ」
勝田は年長者らしい忠告をした。
勝田は珍しく、唇の端に小ずるそうな笑みを浮かべた。
「しかし、せっかく持っている課を譲るんだから、ここはひとつ、うんと恩に着せた方がいいね。長谷部くんが望んでおるなら、なおさらだよ。いま、ちょうどよいバーターがなければ、無理に使わず、後日にとっておく。貯金をしておいて、ここぞという時に引き出せばよろしい」
にんまりとした笑いが顔中にひろがった。
「なるほど、大いに参考になります」
松岡は感じ入った顔付きのまま頭を下げた。
「ご忠告、有り難うございました」
と丁寧に言う。
「これからも、何かあったら相談してくれたまえ。ひょっとして、年の功でよい知恵が浮かぶ場合もある」
と鷹揚に言った。
「よろしくお願いします」
松岡はもう一度叩頭しながら、この人はあんがい相談相手になるかも知れないと考えた。
こういういきさつがあったため、松岡と勝田は和気あいあいとした感じで食事を終えた。この二人は以前は取り立てて言うほどの仲ではなかった。それだけになおのこと、急にお互いの信頼感が増したような気がする。都合のよいことに双方共がそう思った。
食後のメロンが出た後、抹茶が運ばれてきた。小ぶりの鹿《か》の子が添えられている。
勝田は眼を細めた。
「これが好物でしてね」
と言いつつ、彼は器用に鹿の子の斜め上から太めの楊枝《ようじ》を突き刺した。
九時四十五分に、松岡はハイヤーを呼んで勝田を乗せた。お土産も忘れなかった。
松岡は五十分には小料理屋を出た。ゆっくりと銀座方面に向かう。歩いてもさほどの距離ではない。ママの井波沙斗子との待ち合わせ時間の十時三十分まではまだかなりある。このまま直行しては早く着きすぎる。
少し銀座界隈を歩いてみようと思った。こんな気持ちになったのも、こういう時間の余裕が出来たのも、実のところ、珍しい。もっとも自由に使えるのはせいぜい三十分位のものだ。それでも気分が和やかになり、いくらか浮き立ってくる。
もちろん、心が浮き立つのは、わずかな時間の余裕のせいだけではなかろう。たぶんに、この後の事柄にかかっている。即ち、沙斗子との待ち合わせのせいでもある。
沙斗子は四十代の半ば位の筈だが、見たところ、三十代の後半で通る。中年女の魅力が、顔や言葉、身のこなしからにじみ出ている。歩きながら、期待が高まるのを感じた。
松岡はまず待ち合わせ場所のシティホテルの前まで行った。腕時計を見ると、十時五分だ。あと二十五分ある。
彼はホテルの中へは入らず、別の道を通って銀座の四丁目へ向かった。四丁目の角まで来ると、裏通りへ入り、新橋方面を目指す。クラブやバーの密集している一角だ。
とくに馴染みというわけではないが、時折、接待に使う店や何度か通った店が数軒はある。ちょっと顔を出したい気分ではあったが、今夜はふさがっている。
井波沙斗子と会ってどうなるかは予測がつかない。なにしろ、彼女とは今回が初めてのデートなのだ。最初からあまりもの欲しそうな態度をしては、足許を見すかされる。かといって、清い交際をしたいために呼び出したわけではなかった。目的ははっきりしている。彼女の色っぽい肉体である。
そのあたりの兼ね合いがむずかしい。松岡としては時間も惜しい。したがって、出来れば一気に何歩も前へ進みたい。
「どうかな? うまくいくかな?」
首をひねりながら歩調をゆるめ、いくらか思案顔で道を行く。
六丁目の角まで来て、はたと足を停めた。何軒ものバーが入っているビルから出てきた着物姿のホステスが客を見送り、引き返そうとしたところだ。横顔をちらりと見た松岡は、おやという表情をした。
似ていた。博多の「茉理花《まりか》」のママ小森理花によく似た女性が、彼の前をそそくさを横切ってバービルのエレベーターホールへ向かった。
もちろん、別人であろう。理花が銀座のクラブかバーに勤めている筈はない。彼女は上京すれば必ず松岡に連絡してくる。そのあげく、無理やり時間をあけさせられて、彼女の宿泊先のホテルへ行くことになる。むっちりとした豊満な肉体を抱くはめになった。
「まさか?」
と松岡は口に出した。
「他人の空似だ」
と吐き出すように言ったものの、つられてエレベーターの前まで行った。
すでにドアが閉じ上昇し始めている。もちろん、それ以上追うつもりはない。腕時計を見ると、十時二十五分だ。
「まずい。遅れる」
呟いて、急ぎ足になった。
ホテルに着くと、十時三十二分になっている。早足でロビーを横切り、一階奥のレストランへ向かう。客は五組しかいない。井波沙斗子はまだ来ていなかった。
初めてのデートに遅れるのは幸先がよくない。何となくほっとした。
十時四十分になったが、井波沙斗子は姿をあらわさない。改めて腕時計を見る。少し心配になった。
四十五分に彼女はやって来た。
「申し訳ありません。タクシーを拾ったら、右折禁止で大まわりになってしまって」
としきりに言い訳する。
「私もいま来たばかりです。時間があったので散歩をしていたところ、つい遠くへ行き過ぎてしまいました」
と調子を合わせた。
「まあ、どこまでいらしたの?」
「新橋です」
「それは行き過ぎでしょうね」
呆れたという表情だ。
博多で馴染みのママに似た女性に会ったなどとは言えない。新橋の方がまだましである。
「実は、もっと早くお誘いしたかったのですが」
と松岡は口ごもる。
「ほんとうですか?」
沙斗子はわざとかどうか、疑わしそうに睨む真似をする。
松岡はぞくりとした。同じママでも、理花とはかなり違うという気がする。無意識のうちに比較している。
年齢は沙斗子の方がいくらか上だ。それだけに、セックスのテクニックも巧みなのではないか? ふとそう思った。
いけない。まだ早い。いまからそんな想像をしていると、必ずどこかで馬脚を出す。急いでわが身をいましめ、いくらか厳《いか》めしい顔をした。
「もちろんです」
と松岡は強調する。
「あら、何がもちろんなのでしょう」
沙斗子はとぼけた。
「お誘いしたかったという件です」
「ああ、そうでしたの?」
「疑っておられるようですが、いずれ解けるでしょう。それも早いうちに」
「まあ、自信たっぷりなのね」
「いけませんか?」
と松岡は開きなおった。
「いいえ、頼もしいわ」
彼女は胸の前で両の掌を合わせた。
一種の媚態だが、こんなしぐさがよく似合う。四十代半ばという年齢を殆ど感じさせない。
「何か召し上がりませんか?」
と彼は奨めた。
「お店が終わったばかりとなると、明日の開店まで、時間はたっぷりありますね」
かなり押し付けがましい言い方になった。
沙斗子は少し顔をしかめて、わざとかどうか睨む真似をした。横顔が美しいというよりは、かなり蠱惑的だ。
松岡は満足感がこみあげてくるのを感じた。せっかくひと目惚れして誘い出したのに、二人だけになって改めてよく見ると、あまり魅力的な女性ではなかった。誰にでもそんな経験はある。そういう場合、がっかりするのも無理はないが、もちろん、逆のケースだって無いわけではなかろう。
これは単に容貌だけにとどまらず、性格や言葉遣い、感じの好し悪しにもつながる。予想より良い場合は拾い物をしたと思うし、わるい時はひときわ落胆が大きい。
松岡は良い方向へ向かっているのを感じた。彼女の性格についてはまだよくわからないが、少なくとも、眼と耳で感じられる範囲内のものはすべて良い。
「何を考えていらっしゃるの?」
と沙斗子は悪戯っぽく言う。
「会えて良かったと思っている」
と松岡は答えた。
「まあ、そんな単純なこと。嘘でしょう。嘘にきまっている」
ときめつける。
「言うね」
「だって、正直におっしゃらないんですもの」
と拗《す》ねてみせる。
「正直に言ってるさ」
「でも、その外にもっと悪いことも考えてるでしょう」
と言いつつ、じっと見つめた。
松岡はたじたじになった。
「これはまずい。何もかもお見通しだ」
彼の方もこと女性にかけてはなかなかのベテランだ。とっさに方向転換して、下手に出ることにした。
沙斗子はにっこり笑った。
「隅におけない方、というより、油断のならない方と言った方がよいかしら?」
と小首をかしげる。
「参りましたね。私はそんな大物じゃありませんよ。いたって気の小さい男です」
と弁明につとめる。
「あら、ご謙遜ですわね」
沙斗子は認めない。
松岡は自分がこういうやり取りを愉しんでいるのに気付いた。たぶん、彼女の方も似たような心境であろう。もっと続けていたいと思ったが、そうもいかない。
「何か召し上がりますか?」
と改めて尋ねた。
「まあ、註文してもよろしいんですの?」
と彼女は皮肉っぽく言い返した。
沙斗子はサーロインステーキを頼んだ。松岡もつられて同じものを註文したが、半分以上残すことになった。無理もない。彼女の店「舟唄」で懐石風の料理をしっかり食べてきたのだ。
沙斗子の方はかなり旺盛な食欲を示した。二百グラムのステーキに、オニオングラタンスープを取り、大盛りの野菜サラダといっしょに小気味よく咀嚼する。
松岡はその食べっぷりに見とれた。この分だと精力の方も相当強そうだ。男を放さないタイプなのではあるまいか? つい、不埒なイマジネーションがふくらむ。
「ごめんなさい。食べてばかりで」
と彼女は口先だけで言う。
「いつもお店を閉めるとすぐ簡単な食事をするんですけど、今夜はそんな時間が無かったの。わかるでしょ」
とつけ加えた。
「わかります。どうぞ、たくさん召し上がって下さい」
と言いつつ、松岡は自分の皿を下げて貰い、コーヒーを頼んだ。
「まあ、悪趣味だわ。コーヒーを飲みながら、あたくしの食べっぷりを見物するなんて」
と抗議口調で言う。
「あえて見物はしません。ちらりと見て見ぬふりをするだけです」
と彼はかわした。
「同じことでしょう」
「違います」
「どう違うんですか?」
「ここでは説明出来ません。非常に微妙なことなので」
とわざと言葉を濁す。
「では、何処か別の場所なら説明して頂けるんでしょうか?」
彼女は咀嚼しながら追及する。
「場所によります。まわりの眼があっては微妙な話は出来ませんからね」
としたり顔で応じた。
「そんなに微妙なんですか?」
疑わしそうに言う。
「かないませんな。こう信用がなくては」
松岡は大仰に歎いた。
「いっそ、二人きりになれる場所へ移動しましょうか?」
とさり気なく提案する。
「いったい、どんな所ですの?」
わざとらしく訊く。
「例えば、このホテルのツインの部屋です」
さらりと告げた。
「まあ、呆れた」
彼女は悪戯っぽい眼ざしで睨んだ。
松岡と沙斗子は微妙な大人の男女の会話を愉しんでいる。
松岡は沙斗子の眼が悪戯っぽく光ったのを見逃さなかった。脈ありと判断した。それどころか、彼女は口に出して言わないだけのことで、実は承諾している。そう思った。
彼は何も気付いていないふりをし、さり気なく立った。
「ちょっと失礼します」
と断って、レストランを出た。
そのままフロントへ直行し、ツインの部屋をキープした。キーをポケットに入れて何くわぬ顔で戻ってきた。
それからはもうあまり微妙な話はしなかった。当たりさわりのない、どちらかと言えばごくありふれた事柄のみを口に出す。食べ終わった彼女がコーヒーを飲むのを待つ。
気配は伝わった筈だが、沙斗子もそ知らぬふりをした。
「どうです。食後にブランデーでもいかがでしょう。ダブルで」
と誘った。
「そうね。ちょっと刺激が欲しいところだわ。ブランデーならぴたりね」
彼女は賛同した。
松岡はエスコートするかたちになって、彼女の腕を取った。二人はエレベーターホールへ向かう。どちらも無言だ。彼は黙って八階のボタンをプッシュする。バーラウンジは最上階にある。
気付いたのかどうか、彼女は無表情のまま何も言わない。彼もひと言も発せず、エレベーターが八階に止まると、彼女を促して降りた。二人は廊下を歩いた。分厚い絨毯に足を取られそうになる。
部屋の前に来て始めて彼はキーを出し、ドアを開けた。
「どうぞ」
と低い声で言う。
沙斗子が先に入り、松岡はすぐ後に続いた。彼は後ろ手にドアを閉めると、背後から彼女を抱きかかえた。
そのまま部屋の中央に進む。彼女が振り返るのを待って、唇をとらえてしまった。かすかにコーヒーの香りがした。二人はしばらく動かない。
「わるい人ね」
ようやく唇を離すとすぐ、彼女はそう言った。だが、睨みはしない。
彼はもう一度唇を奪った。沙斗子はされるままになっていた。
「見事なお手並みだわ。いったい、あたくしで何人目なの?」
皮肉っぽい口調で挑発した。
ほぼ同じ頃、成瀬昌之はタクシーで赤坂へ向かっていた。彼は銀座からさして遠くない赤坂のホテルに着くと、人眼を気にしながら、バーラウンジへ向かった。
待ち合わせ場所として、このホテルのバーを指定されたのである。時刻は深夜の零時三十分、いささか遅い時間だ。
腕時計を見ると、まだ十一時五十五分であった。三十五分も早く来たことになる。彼はまず洗面所へ入り、用を足してからゆっくり手を洗った。ついでに両の掌で水をすくい、二度、三度と嗽《うがい》をする。ついで頭髪に櫛を入れる。
これでようやく五分が過ぎ、十二時になった。あと三十分、無為に過ごさねばならない。
「やれ、やれ」
いくらかうんざりした表情で呟く。
成瀬は昨日、舟倉あゆみからの電話で、やむなく今夜、こんな遅い時間に会うことになった。彼女は以前から夕方会って、いっしょに食事をし、連れ立って、即ち同伴して店へ来てくれと頼んでいた。彼は承諾した。
それはよいが、彼女は電話の終わり頃、不用意に言うべきではないことを口走った。
「お待ちしてます。でも、助かりましたわ。同伴の割り当てがありますの。月に五回も。きついノルマですわ」
あゆみはそう言ったのだ。
では、成瀬といっしょに食事をしたいからではなく、同伴のノルマのために誘ったのか? しかも、五人のうちの一人だ。そう考えて、彼は興ざめしたのを覚えている。
そのせいか、ずっとあゆみとの約束が果たせず、実際問題として、同伴はなかなか実現しなかった。成瀬は巨大銀行の頭取である。超多忙で時間がない。スケジュールがびっしりであった。
しびれをきらした舟倉あゆみは何度も電話をしてきた。そのあげく、同伴は実現しないまま、とうとう今夜、彼女の勤めが終わってから、ホテルのバーで待ち合わせることになったのである。
成瀬は今夜も宴会を三つこなした。最後の会合が十一時三十分に終わった。彼は車を帰し、築地から銀座の近くまで歩いてからタクシーを拾った。自分では時間をつぶしたつもりだが、それでもまだ早すぎた。
成瀬の日常では、むしろこんなふうに時間が空《あ》くことの方が珍しい。本来ならほっとするのだが、なにしろ、時間が時間である。それに、かなり疲れてもいた。
彼はゆっくりとバーの中へ入って行き、目立たぬようにカウンターの端に坐り込んだ。あゆみが姿を見せるまで待つほかはなかった。
成瀬の姿をちらりと一瞥したバーテンがにこやかな笑顔になって近付いてきた。どうやら、彼の引き締まった顔や油断のない眼付き、どことなく威圧的な態度と身についた貫禄などを見逃さなかったらしい。何者かはわからないにせよ、大物らしいと察したのだ。
「何にいたしましょうか?」
と恭《うやうや》しく言う。
「きみの奨めるものを頼みたい気はするが、そうはいかん。今夜は飲み過ぎている」
成瀬は低い声で応じた。
「では、いかがでしょう。ウインナーコーヒーになさっては?」
「そんなものがあるのかね?」
「ございます」
「そうか?」
成瀬は背筋を伸ばして周囲を見廻す。
「なかなかいい店だ。雰囲気も悪くない。飲み物はきみに任せよう」
機嫌良くつけ加えた。
「有り難うございます」
中年のバーテンは丁重に頭を下げて引き下がった。
「なるほど、ウインナーコーヒーとはな」
といくらか満足して呟く。
ほどなくバーテンはナッツ類の入った小皿とワイングラスを思わせる大ぶりのガラスの容器に入ったウインナーコーヒーを運んできて、成瀬の前に置き、深く頭を下げた。
「どうぞ」
成瀬はゆっくり頷いてカシューナッツを一粒つまんでから、おもむろにグラスを手に取った。
一口飲むとコーヒーとウイスキーの交じり合ったコクのある匂いが立ち上がってきた。
「美味《うま》い。さすがだ。君は腕がいい」
と成瀬は言った。
「恐れ入ります」
バーテンは嬉しそうな笑顔を浮かべて近付いてきた。恐る恐るという感じである。
「シンガポールに有名な古いホテルがあったね。ほら、サマセット・モームが長期滞在していたホテルだよ」
と成瀬は眼を細めた。
「ラッフルズ・ホテルでございますね」
バーテンはさらりと言った。
「そうだ。ラッフルズ・ホテルだよ。いまは建て替えて新しくなったらしい。もう昔の面影はないだろう」
「はあ」
「由緒ある古い建物だった頃、ぼくは出張でシンガポールへ行った。銀行でくれた旅費では足らなくて、自費を足してラッフルズに泊まったんだ」
成瀬は思い出を辿《たど》るような口調で言った。
バーテンは聞き耳をたてた。表情が真剣である。なかなかの聴き上手だ。
「なにしろ、憧れのラッフルズ・ホテルだからね。泊まれただけで満足したよ。夕方、いくらか早めに帰ってきてね。芝生のある庭に出る。その庭に面したすぐ眼の前の部屋にサマセット・モームが滞在していたんだ。まあ、多少の異論はあろうが、ぼくはモームをイギリスの生んだ世界の文豪だと思っているからね。きみはモームを読んだことがあるかね」
気持ちよくしゃべりながら、ふと、気付いたように訊く。
「若い頃、二、三読みました。たしか、『月と六ペンス』というのがあったような気がいたしますが」
バーテンは点数を稼いだ。
「あるよ。あれは面白い。『人間の絆《きずな》』は読んだかね?」
「いえ、まだでございます」
「今度読んでみたまえ。新潮文庫に入っているよ」
「では、さっそく」
とバーテンは答えた。
「そうだ。まだその先がある。モームが居た部屋の見える庭でね。一人で白いテーブルに坐って、マラッカ海峡に夕陽が落ちてゆくのを感じながら、というのもその場所から海は見えないからね。少しずつ薄暗くなるのを見て、ぼんやりしてね。海に陽が沈む光景を想像するんだよ。そして、ウインナーコーヒーを飲む。そうしていると心が癒されるような気がして、やめられない。毎日夕方になると庭に出た」
成瀬はしんみりした声で語った。
「よいお話ですね。感動いたしました」
バーテンは真顔で言って、感謝のしるしに少し頭を下げた。丁寧な会釈といってよい。
「いまきみがいれてくれたウインナーコーヒーを飲んで、ラッフルズ・ホテルの夕闇せまるあの庭を思い出したよ」
「それは光栄です。何と申し上げてよいかわかりません」
バーテンも満ち足りた表情で礼を述べた。
期せずして、成瀬と中年のバーテンの間に会話が生まれ、それがきっかけとなって心が通い合ったような気配が濃厚になった。もちろん、これは一方のみが感じたわけではない。双方がほぼ同じ印象を抱いたのだ。
それにしても、人間の相性とは不思議なものである。こういう場所で多少とも気の合う人間を見つける方がむずかしい。成瀬のような立場の者にとってはなおさらであろう。
その時、ずっと入り口に眼をやっていたバーテンが合図をした。
成瀬が顔をあげると、バーテンは軽く頷いてみせた。
「どうやら、お連れさんがお見えになったようです」
そっと告げる。
成瀬は躰をずらして入り口を見た。舟倉あゆみが長身の躰を少し揺らしながら颯爽と入ってきた。まるで、自らのプロポーションを誇るかのような歩き方である。
「よくわかったね」
と成瀬は近くにいるバーテンにだけ聞こえる小声で言った。
「それはもう」
バーテンも小声で応じた。
この道何十年の勘で、すぐにわかりますと言いたげな顔付きだ。
「なるほど」
と呟いた時には、あゆみはまわりの注目を集めながら、すぐ脇に来ていた。
「いかがでしょう。あちらへ席をおつくりしますが」
とバーテンは訊く。
「任せる」
「かしこまりました」
直ちにボーイが呼ばれた。
あゆみに続いて成瀬も移動する。彼はカウンターを離れるのがちょっと惜しいような気がした。振り返ると、バーテンもこちらを見ていた。
「ごめんなさい。遅れちゃって」
とあゆみは言う。
「厭なお客さんがなかなか帰らないのよ。放り出すわけにもいかなくて、いらいらしちゃった」
と顔をしかめる。
どうやら、それが彼女の挨拶らしい。
「面白いバーテンがいてね。おかげで退屈しなかった」
成瀬は正直に言う。
「あら、あの人、このお店のチーフマネージャーなのよ」
「どうりで」
彼は納得した。
「ただのバーテンにしては当たりもソフトだし、人の心もわかる。最初は珍しいバーテンもいるものだと思ったよ。そうか、彼はチーフマネージャーなのか」
「ええ、このお店では一番えらい人なの」
「それでよくわかった」
「でも、とても気むずかしい人でね。誰にでも口をきくわけではないの。偏屈者よ」
ときめつけた。
見ると、その偏屈者がボーイに代わって註文を取るつもりなのか、彼等のボックスに近付いてきた。
偏屈者は成瀬に向かって丁寧に頭を下げた。あゆみの方は殆ど無視している。
「ご註文は何にいたしましょうか」
と尋ねた。
「ジントニック」
あゆみがいきなり言った。
「では、同じものを」
と成瀬も頼んだ。
「かしこまりました。あれはお口が爽やかになります」
とだけ言って、中年のチーフマネージャーは引き下がった。
そのあと、彼はもうあらわれない。邪魔しないつもりか、あゆみを嫌ったのか、たぶん、その両方だろうと成瀬は思った。
もっとも、バーラウンジは午前一時にクローズする。彼等二人は二十分位で閉店を告げるボーイの声を聞いた。成瀬はテーブルで勘定を払った。出がけに振り返ってみたが、偏屈者の姿は見当たらない。
あゆみは紫色のポルシェに乗っている。成瀬は運転席の横に坐った。
「あたくし、今夜は覚悟を決めたの」
と言って、彼女は挑戦的な眼ざしで成瀬を見た。
「覚悟を決めた?」
成瀬は訊き返した。
「どんな覚悟だね」
「まあ、それを言わせるんですか? 女性の口から」
今度は睨む。
二人は車の中で至近距離に並んで坐っている。成瀬は圧迫感を覚えた。
「とにかく、車を出してくれ」
と彼は息苦しくなって言った。
「あら、行き先もわからないで」
とあゆみが応じた時、駐車場に二人連れがあらわれた。
それがきっかけとなり、あゆみはエンジンを掛けた。三十秒後、彼女のポルシェはゆっくりとスタートをきった。
彼女は無言のまま運転する。彼も黙っていた。速い。むしろ、速すぎる。かなり乱暴な運転だ。成瀬が日頃乗り馴れている頭取専用車の運転手の仕事ぶりにくらべると、格段の違いである。こちらはまるでスピード狂のレーサーのような気配さえ感じさせる。
ところが、初めの戸惑いがおさまると、一種の爽快感が生じた。初老の専用運転手の運転ぶりが老人のそれだとすると、こちらは間違いなく若者だ。青くさく無責任で、がさつで向こう見ずな若さが漲っている。しばらく身をゆだねていると、彼の内部にもいくらかは残っていた若さが触発されて、不思議な快感が生じた。
成瀬とあゆみを乗せた紫色のポルシェは、スピードをあげた。いつの間にか高速道路を走っている。
「もうわかったでしょ」
あゆみは横目で成瀬を見た。
「あたくしスピード狂なの。レーサーになろうと思ったこともあるのよ。いったん走り出すと、もうダメ。どうにも止まらないの」
と打ち明けた。
「すごいね」
戸惑いがちに言う。
「シートベルトしめて下さる」
「わかった」
成瀬は慌てて座席の右側の後部あたりをさぐってベルトの端を掴んだ。そうやっているうちにも車はスピードをあげ、追い越し車線に入って百キロ以上で走る車を次々と追い抜いてゆく。
「どのくらいで走っているんだね」
メーターから目をそむけて彼は訊いた。
「百三十よ」
とあゆみはこともなげに言った。
「百五十ぐらいはしょっ中なの。二百キロを超えたこともあるわよ」
「おい、おい、おどかさないでくれ」
「あら、嘘じゃなくてよ。何でしたら、いま出してみましょうか?」
悪戯っぽい笑顔を浮かべる。無邪気で可愛い表情だ。
「スピード違反で捕まるよ」
「平気よ。お隣りに大銀行の頭取さんが乗ってるんですもの。警察だって一目置いて、大目に見るわよ」
と真顔で応じる。
これはまずいなとの思いが生じた。用心しないと危ないとも思う。が、一方で日常の世界から一歩も二歩も飛び出した爽やかさのようなものが生じている。成瀬はそれに気付くと、おやっと思った。
しばらくすると、変化が生じた。彼女がもたらすスピード感があまり苦にならなくなったのだ。
──これは、いったい?
「何考えてらっしゃるの?」
とあゆみは声を掛けてきた。
「何かおっしゃって、何でもいいから」
とつけ加える。
「どう、ドライブ愉しいでしょ」
「愉しいね」
仕方なく応じた。
「あたくしのさっきの告白、受け留めて下さったの。今夜は何処へ連れて行かれてもいい。何をされてもかまわない。そう覚悟を決めたのよ」
あゆみはそう言いながら横目で彼を見た。
一瞬、目をそらしたい衝動にかられたものの、成瀬は踏みとどまって見返した。あゆみの横顔を見据えたのである。
彼女の場合、正面から見た顔の方が整っている。それにくらべると、横顔はややバランスが崩れていて、彫像のような顔とは言いがたい。その代わり、整形した顔ではなさそうだ。もし、整形で作りあげた美貌なら、横顔にだって気を付けるだろう。
「返事をして下さい」
と彼女は促す。
「いましないといけないかね?」
成瀬は逃げをうった。
「いけません」
あゆみはぴしりときめつけた。
「では言おう。きみと二人きりになりたい」
「ほんとですか?」
「ほんとうだ」
「わあっ、嬉しい!」
と彼女は声を張り上げた。ややわざとらしい声であったが、彼としてはそうは思いたくなかった。
「実は、あたくしも、この人となら寝てもいいなと思ったの。ほんとうのところ、そうなる運命じゃないかという気さえしたのよ」
と強調する。
「それは光栄だね」
「もう東名高速へ入ってますからね。何処で下りたらいいか、教えて下さい。おっしゃる所へ車を着けます」
「次の出口は?」
「横浜方向です」
「じゃ、そこで下りて」
「わかりました」
答えて、あゆみはアクセルを踏み込んだ。
スピードを増した車は、また追い抜きを始めた。成瀬はそのスピード感に身を委《ゆだ》ねたい衝動にかられた。こうなると、引き返すのはむずかしい。そんな気がしてきた。行き着く所まで行くほかはないのか?
──まあ、いいか、これはプライベートな女の問題だ。そう深刻に考えるほどのことではなかろう。
放恣な思いの高まりと共に、気が大きくなった。
車はスピードをゆるめた。横浜市内方面への出口が近付いたのだ。
「出たら、どちらへ向かいますか?」
「市内へ」
と応じてから、車の外を見た。
ラブホテルのネオンがいくつも見える。二つや三つではない。どうやら、この出口一帯にその種のホテルが密集しているらしい。そのネオンを追っているうちに、急に気が動いた。
成瀬はその一つを指さした。ラブホテルのいささか派手で、いかにも煽情的なネオンである。
「あそこへ行ってみよう」
「まあ、あんな所へ」
あゆみは口ではそう言ったが、拒否する気配はなく、カーブをきった車はネオンの光にすい寄せられるように近付いた。
「シティホテルでは目立つ。それに時間が時間だ」
すでに午前二時に近い。
「そうね。こういう所なら目立たない。車ですうっと入ってしまえば、銀行の頭取さんなのか誰なのかさっぱりわからないわよ」
「………」
成瀬は黙った。
頭取という言葉が引っ掛かる。せっかく盛り上がった気分がたちまち萎《な》えてしまう。車はラブホテルの一階部分に吸い込まれた。二人共無言だ。駐車すると、自動ドアに向かう。フロントに初老の女性がいた。
「好きな部屋のナンバーを押して下さい」
そう言われて壁面を見ると、空き部屋は三つしかない。一つを押すと、「八千円です」と声が掛かった。一万円札を出すと、キーとおつりが出た。そのままエレベーターに乗って部屋へ向かう。人の気配はなく、むろん、誰にも出会わない。あゆみがキーを受け取ってドアを開けた。
「どうぞ」
「レディーファーストだ。きみが先にどうぞ」
「さすがだわ。紳士ね。部屋へ入るなり押し倒したりしない」
「すぐに、押し倒されたいかね?」
「厭よ。そんなの野獣だわ」
あゆみは口を尖らせた。
中に入って、ドアを閉めると、成瀬はその尖った唇に軽く触れた。
「もっと、ちゃんとなさって」
あゆみはねだった。
二人は抱き合って、型通りの口づけをした。
彼女はすぐテレビのスイッチを入れた。音響が大きい。
「ちょっとうるさいね」
彼女は音を低くした。
ソファがある。どちらからともなく、坐った。
「ねえ、お願いがあるの」
あゆみは甘い声を出した。
「あたくし、少し借金があって着物を担保に取られてるの。それが、ここに来て流れそうなのよ。相手は親しいお友達なんだけど、その人も苦しいの。お願い、助けて!」
一気に言った。
成瀬はこころもち顔をしかめた。むろん、渋面をつくったというほどではない。しかし、心中は穏やかならざるものがあった。
選りによってこんな時に言い出さなくてもよかろう。そう思ったが、彼女の心中を察すると、こういう時だからこそ、あえて言えたのだろうとの思いも生じた。
「ごめんなさい。あたくし、思いきって言っちゃった」
あゆみは彼の腕に掴まった。
「言えなかったの。いまのいままでどうしようかと迷っていたのよ。でも、ほかに相談する人もいないし、迷い抜いて」
と訴える。
「わかった。いったい、いくらなんだね」
と成瀬は訊いた。この時点で事実上、勝負は決まった。
「五百万円、取りあえず五百万円あれば何とかなるの」
あゆみは即座に言った。
「五百万円」
と成瀬は呟いた。
「何とかして頂けます。お願い。お借りしたものは必ずお返ししますから」
と彼女は頼んだ。
「うーん」
と成瀬は唸った。
五百万円という金額は実に中途半端な金額である。とても手が出ない金額ではなく、かといって投げ捨ててしまうには惜しい。むろん、当座の交際費や小遣いの額は大きく超えている。
とはいえ、成瀬は大銀行の頭取なのだ。この程度の金額が捻出出来ないのは、どう考えてもおかしい。誰もがそう思う。これがもし、五千万円であれば、簡単だ。とても無理だよと言える。
まして、五十万円であればもっと簡単である。ポケットマネーで何とか出来た。
成瀬は銀行のオーナーではないし、大株主でもない。はっきり言えば、サラリーマン頭取なのだ。たしかに、年収は五千五百万円ほどにはなるが、この額が多いか少ないか、妥当かはともかく、大半税金で取られている。
日本の税制では個人所得が三千万円を超えると大変だ。住民税まで含めると七〇パーセント以上徴収されてしまう。これはもう驚異的な金額である。
知恵を絞り、工夫をこらし、額に汗して休まず働き、ようやく収入が増えてくると、まるで、こういう努力に罰を与えるかのように税金が増える。
成瀬はちらりとそのことを考えたが、いまはそれどころではない。五百万円の問題の方が先だ。
あゆみはしなだれ掛かった。成瀬の上半身を抱きしめながら揺さぶる。
「ねえ、お願い。何とかして下さい」
彼女は重ねて頼んだ。
成瀬は迷った。こういう成りゆきで貸した五百万円が、もはやまともに戻ってはこないであろうことははっきりしている。貸してくれは下さいに等しい。
しかし、それがわかったからといってどうなるのだ。まさか、五百万円が手許に無いとは言えまい。いくらサラリーマン頭取とはいえ、そこは「銀行頭取」の面子《メンツ》の問題にかかわりあってくる。
追い込まれた。
成瀬としてはこの種の金銭はポケットマネーから捻出するほかはない。あゆみに貸して、そのまま返ってこないとなれば、いわば、女のため、女遊びに費消したことになる。半年ないしは一年というような期間があれば、この程度は何とかなろう。
だが、いま一度に出さねばならぬ。あゆみはそう願っている。となれば、やはりきつい。成瀬でも五百万円はかなりきつい。
成瀬は自分が個人で管理している普通預金の通帳の残高を思い浮かべた。これは家人の知らない通帳で、常時頭取用の机の引き出しの奥に保管されていて、いつも鍵が掛けられていた。
たしか、残高は八百五十万円だ。したがって、定期預金を解約したりしなくても、五百万円引き出すことは可能である。早い話、明日にでも引き出せる。やはり、ここから出すほかはないかとの思いが強くなった。
「一年間貸して下さい。一年で何とか返済します。ですから何とかお願いします」
あゆみは緊張した表情で言い、深く頭を下げた。
「わかった。こう頼まれては仕方がない。五百万円を貸しましょう」
と成瀬は応じた。
「うっそう!」
と彼女は叫んだ。いままでの上品さをかなぐり捨てたような声である。
「嘘じゃないよ。ちゃんと振り込む」
「有り難うございます。ほんとうに感謝しますわ。有り難う」
言いつつ頬をこすりつけ、唇にもまたキスを繰り返す。
「好きよ。あなたのこと、とても好きよ」
と熱中して囁く。
「この五百万円だが、返さなくてよろしい。きみにさし上げよう」
成瀬はあえてそう言った。
どうして、急にそんなふうに気前が良くなったのか、自分でもわからない。
あゆみはわざと驚いたふりをした。
「まあ、返さなくてよろしいの」
と小首を傾げる。
「返さないでいい。きみにプレゼントしよう」
成瀬は鷹揚な表情で言った。
どうせ返済する気はないんだろうと皮肉りたい思いもあったが、そのことはあえて口に出さない。これもなりゆきだ。仕方がない。しばらくはスポンサー気取りでいよう。そう決めた。
「あたくし、感謝します。ほんとうに、どんなに感謝しているか、とても言葉では言いあらわせないくらいよ」
と言いつつ熱っぽい眼ざしを成瀬にそそぐ。
彼はそれを受け留めて見つめ返した。二人の間の空気が俄に濃密さを増してきた。何となくわかる。息づまるような気配が感じられた。
彼等はソファに隣り合って坐り、躰を寄せ合っていた。ごく自然にお互いの躰に手を掛けてさらに引き寄せようとする。すでに密着している躰がいっそう強くくっつく。
その時、二人は殆ど同時にベッドの方を見た。ダブルベッドだ。粗末な薄よごれた感じは否めない。誰の眼にも、使いふるした安物であるのがわかる。
いったい何人の男女が、この上で裸身になり、性戯に励んだのか、おそらく、想像以上であろう。彼等の情熱の証《あかし》が、汗や性液となって飛び散り、あちこちに吸い込まれたまま、いくつかの染みや汚点となって無数に残っている。とても数えきれるものではあるまい。いずれにせよ、卑猥感よりも不潔感の方が先にきた。
成瀬は眉をひそめた。あゆみはこういう場合の男女の心の動きに敏感であった。すぐに気配を察した。なにしろ、場数を踏んでいる。この点は成瀬の方がはるかに劣る。かなりおく手と言えた。
「頭取さんと初めてベッドに入るのに、あたくし、あんなベッドではいや」
とあゆみは拗《す》ねた。
「もっと豪華なベッドじゃなきゃ困る。みじめだわ」
と口を尖らせる。
「同感だね」
と成瀬は応じた。
思いは同じである。期せずして、彼の考えを彼女が言い当ててくれた。
「それに」
と彼女は少し言い淀んだ。
「あたくし、言いそびれたけれど、いま生理中なの。ほら、ここに触ってみて」
証拠を示そうとした。
これで成瀬の気持ちはすっかり萎《な》えてしまった。もともと彼はあまり性欲の強い方ではない。人並みか、それ以下といってよい。
だからこそ、青年期や壮年期に女性問題を起こしたりせず銀行業務に邁進《まいしん》出来た。おかげで現在の彼がある。酒にもギャンブルにも、そして、女にも溺れずにやってこられた。
頭脳明晰で、理性的で男前でもあったから、けっして女性にもてないタイプではない。もし、人並み以上に性欲を感じていたら、おそらく女性問題にも巻き込まれたであろう。
たしかに、眼の前にあるラブホテルのダブルベッドは見すぼらしすぎた。近付くのもためらわれる。まして身を横たえるのは厭だ。どうやら同じ思いがあゆみにも伝わった。
「改めて、もっとすばらしいお部屋へご案内して下さる?」
と彼女は言った。
「そうしよう」
「では、お帰りになります?」
「それがよさそうだ」
成瀬は同意した。
この夜、というよりはすでに夜明けに近い午前四時に、彼はようやく自宅に帰り着いた。実に長い一日であった。
翌日、成瀬はいつもと同じ午前九時には銀行に出た。寝不足で頭が痛い。頭取室内にある専用の洗面所でよく顔を見ると、両の眼が薄赤く充血していた。
秘書課長を呼んで、払出用紙に署名捺印し、普通預金通帳を渡して現金五百万円の引き出しを命じた。スケジュール表に目を通すと、大口取引先の社長と昼食の約束があった。
机に向かって、書類をめくり、決済印を押す。いつもの作業だが、どうも内容がよく頭に入らない。分厚い書類を三つ点検したところでやめた。こんな状況で仕事を進めると、判断を誤る。
ソファに移って躰を楽にし、眼を閉じた。が、眠気が押し寄せてくるわけではない。頭の芯がうずいていて気分がわるい。胃の調子もおかしく、コーヒーを飲む気にもならなかった。
ノックの音が聞こえた。うるさそうに返事をする。秘書課長が通帳と現金五百万円の入った紙袋を持って届けにきた。
「そこへ置いてくれ」
と机上を指さす。
「あの、松岡部長がお会いしたいとのことですが」
と訊いた。
「断る」
にべもなく言った。
その見幕に驚いた秘書課長が慌てて退散してしばらくすると、成瀬は壁の大時計を見た。予定よりかなり早いが出掛けることにした。
頭取専用車に乗ると、初老の運転手は注意深く、慎重に車を走らせ始めた。
「きみ、もう少しスピードを出したまえ」
成瀬は後部座席からいきなり言った。
「はっ」
運転手は驚いた。こんな命令を受けたのは初めてである。アクセルをいくらか強く踏んだ。彼としてはこれでせいいっぱいであった。
成瀬はしきりに窓外を見ている。スピードアップのことはもう言わない。
「きみ、あの銀行の前で止めてくれ」
言って、指さす。
「十五分位で戻る」
そう言い置いて、紙袋を手にした成瀬はさっさと車を降りた。
他の銀行の支店の窓口へ来たのはほんとうに久しぶりだ。番号票を手にしてから、振込用紙に記入する。手帳を見て、舟倉あゆみから聞いた取引銀行や口座ナンバーなど必要事項を書き込む。前面のソファに坐っていると順番がきた。
伝票に現金五百万円と振込料を添えて、窓口の女子行員に渡す。相手が受け取った瞬間、惜しいと思った。いったん彼の手を離れた五百万円はもう手許に戻ってはこない。この際、それだけははっきりしていた。
と言うのも、相手のあゆみは返すと言っているのに、彼の方から、この金はプレゼントすると言ってしまったのだ。どうしてそんな気になったのか、自分でもよくわからない。
ただ、冷静になってみると事態が少し見えてきた。貸したのではなく、プレゼントした。となると、これ以上の借金申し込みは受け付けないと宣言したようなものである。暗黙のうちにこういう了解が成立する。
俗に友人と喧嘩したければ金を貸せとの諺《ことわざ》がある。それほど金銭の問題は面倒だ。こじれると、友情も信頼関係も一気に失う。
では、親しい友人に借金を申し込まれた時、どうすればよいのか? 申し込まれた金額全額を貸さずに、プレゼントするのが一番良い。もちろん、出来ればの話だ。それが無理な場合、半分か三分の一か、とにかく調達出来る範囲内の金額を、貸さずにプレゼントしてしまう。そうすれば、貸したことにはならないから友情を損なわなくてすむ。
だが、どうであろう。見方を変えれば、一方が他方に借金を申し込んだ時点で、事実上、友情も信頼関係もおしまいになっているケースが多い。おそらく、半分か三分の一をプレゼントした方は、もう以前ほど友情を感じなくなる。となれば、この金は無駄金になってしまう。
成瀬は振り込みを終え、スタンプの押された用紙を手帳の間に挟んだ。
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第十四章 事件の行方
成瀬に面会を申し込んであっさり断られてしまった松岡は秘書課長の席へ行って理由を尋ねた。
「それが、よくわからないんですよ。今日は朝から不機嫌でしてね。女性秘書がコーヒーを運んで行きますと、『いらん』とひとことおっしゃって、あとはもう見向きもしなかったそうですよ」
「なるほど」
と呟いたが納得したわけではない。
「こういう時には、よほどの急用でない限り、お会いにならない方がいいですよ」
と秘書課長は忠告した。
「その通りだ。今日の面会は取り消しにする」
松岡はあっさり引っ込めた。
自席に戻るのを待ちかまえていたかのように電話が入った。
「あたくし」
いきなり女性の熱っぽい声が聞こえてきたので、松岡ははっとした。
こういう電話はあまりよい電話ではない。とっさにそう感じた。博多の「茉理花」のママからか、訊こうとして踏みとどまった。
「まあ、もうお忘れになったの。沙斗子よ」
と女は名乗った。
「もちろん、すぐにわかりましたよ」
口は災いのもとだ。よけいなことを口走らなくてよかった。
「実は、近くまで来ているのよ。お昼、ごいっしょ出来ないかしら?」
沙斗子は早口で言う。
松岡は腕時計を見た。十一時二十分だ。少し早いが抜け出すことは出来る。
二人は十分後に近くのシティホテルのロビーで会う約束をした。沙斗子とはつい先日情事を持ったばかりであった。そのせいか、何となく心が浮き立ってくる。
松岡は副部長と次長を呼んで、いくつか指示を与えてから五分後に席を立った。待ち合わせ場所は歩いてぴたり五分の所にある。
沙斗子はロビーに坐っていた。今日はスーツ姿だ。髪形までいくらか違っていて、前回とはがらりと変わった雰囲気が感じられる。松岡は眼を見張った。
「あたくしの洋服姿、変かしら?」
と小首を傾げる。
「そんなことはない。すばらしいと言ってもいい。見直したよ」
「ほんとうなら、嬉しいわ」
「きまってるよ。嘘じゃない」
「地下一階の天ぷら屋さんに予約をいれておいたけど、よかったかしら? ちょっとお美味しいお店なのよ。お勘定も任せて下さいね」
彼女はいくらかはにかみながらそう告げた。
二人は並んで階段を下り、地下一階へ行った。突き当たりの店に天ぷら屋ののれんが掛かっている。
「どうぞ」
松岡は先に沙斗子を入れた。
「まあ、急にレディーファースト」
彼女は悪戯っぽい笑いを浮かべた。
「とんでもない。常にレディーファーストです」
「そうなの。だから女にもてるのね」
「もてませんよ」
「嘘おっしゃい」
言いながら、沙斗子は彼の肘のあたりをつねった。
「痛たたた!」
思わず叫んだ。
実際、かなり痛かった。彼女の鋭い爪の端が腕の内側の柔らかい肉にくい込んだような気さえした。
「痛いじゃないか?」
「少しは我慢なさい」
と彼女はきめつけた。
「この前の夜はずいぶん好き勝手なことをなさったじゃない」
と耳許で囁く。
「これは参った。勘弁して下さい」
松岡は軽く頭を下げた。
「許しません」
ぴしりと言った。
それだけではない。彼女はきつく睨んだ。
「どうしてあの翌日、お電話下さらなかったの。行きずりの情事だから無視したの。あたくしを軽い女だと思ったの。それとも、あたくしのセックスが下手だから嫌いになったのかしら? どう?」
早口で言いながらつめ寄る。
松岡はたじたじになった。周囲の人たちに聞かれないかとそわそわした。意外に手ごわい女だ。手を出したのはまずかったのか?
二人は個室に案内された。彼はほっとした。これでまわりをあまり気にしなくてもよい。
「あら、後悔しているの?」
向かい合って坐ると、すぐ沙斗子は訊いた。
「何を?」
と松岡はとぼけた。
「あたくしとの関係、この前の夜のこと」
はっきりと言う。
「莫迦なこと言わないでくれ。後悔するわけはないだろう」
わざと気色ばんだ。
「じゃあ、信じていいのね」
「もちろんだ」
「証拠を見せて下さる?」
「証拠だって?」
「そうよ、しっかり見せてね」
念を押された。
沙斗子が予約を入れた時に注文したのであろう。天ぷらのコース料理が次々と運ばれてきた。二人はビールを一本だけ取った。
「どんな証拠ならいいんだね」
松岡は用心深く訊いた。
「いま言おうかと思ったところなの」
と彼女はもったいぶった。
「お店の改装資金、銀行で貸して下さる」
言って、挑戦的な眼ざしで彼を見る。
「改装するのかね?」
「調理場を少しいじるの。それと、残りは運転資金よ」
「金額は?」
「五百万円もあればいいわ。いまどき、あまり派手なことも出来ませんからね」
「五百万円か?」
彼は内心ほっとした。
銀行の貸し渋りはかなり浸透している。これもビッグバンの一環といってよい「早期是正措置」のおかげだ。国際業務も取り扱う大銀行は自己資本比率を平成十年四月から、八パーセント以上にもっていかなければならない。そのため、各行共出来るだけ融資量をセーブしてきた。
では、もし八パーセント以下になったらどうなるのか? 自動的に業務改善命令が出る。さらにマイナスにでもなったら、即業務停止である。こういう厳しい処置なので、各銀行共相当神経質になっている。
「ほんとうはあなたに借金を申し込みたいんですけど、それじゃあちょっとフェアではないような気もするの。銀行になら堂々と申し込めるわ。貸すのがビジネスですものね。ねえ、どうかしら?」
沙斗子は臆せず言った。
「わかった。何とかしよう」
と彼は請け負った。
「ほんとうに何とかして下さるの?」
「もちろん、何とかするよ」
「こんな貸し渋りの時に、大丈夫かしら? いま新規融資は一番むずかしい時でしょ」
今度は彼女の方が心配した。
「まあ、任せて貰おう」
松岡は右の拳を握って、軽く胸を叩いた。
「頼もしいわ。あたくし、松岡さんを見直したわ。もっといい加減な人かと思ったの」
「おいおい、もうそのくらいのところで勘弁してくれ」
松岡はわざと顔をしかめた。
「今夜、あたくし時間を空けるわ」
「今夜?」
「何処か、好きなホテルでも旅館でも予約しておいて下さいな。お店が終わったらすぐに駆けつけますから」
沙斗子は真剣な表情で申し出た。
松岡は午後一時半に自席に戻った。沙斗子との昼食に約二時間を費やしたことになる。二人は天ぷら屋を出てから、同じホテル内の喫茶室に移動し、コーヒーを飲んだ。
彼は帰るとすぐ京橋支店長に電話を入れた。かいつまんで、割烹「舟唄」の調理場改装資金の融資申し込みをした。
「新規融資はひかえてるんだろうが、この件は特別だ。金額も少ないことだし、頼むよ」
一気に言った。
「わかりました」
と答えてから、支店長は余計なことをつけ加えた。
「松岡部長に言われたのでは断れません」と言ったのだ。
この反応に松岡は満足した。受話器を置き、思わずにやりと笑った。今夜、沙斗子と分かつ愉しい時間帯への期待感も高まりつつある。
今日はついている。日が良いのかも知れないとの思いが生じた。そう感じると、松岡はすぐ受話器を取り上げて内線番号をプッシュする。チャンスを逃さず、懸案事項を一気に解決してしまいたいと思ったのだ。
電話はつながらない。話し中であった。すると、長谷部は席にいる。
「よし」と低く呟いて立ち上がった。予告せず、いきなり会った方が良い結果を生むような気がしてきた。
松岡がまっすぐ長谷部の席を目指して近くまで来た時、事態はさらに好転した。折よく通話を終えた長谷部が受話器を置いてこちらを向いたのだ。
「どうも忙しいところ申し訳ない。この前の件でお詫びにきた」
松岡はそう言うと、丁寧に頭を下げた。
「いや、こちらこそ」
照れくさそうに言って、長谷部も立ち上がった。
「どうぞ」
と応接室を指さす。
室内で二人きりになると、松岡はもう一度頭を下げる。
「とにかく謝る。まことに大人気なかった。自分の態度を反省している」
と真顔で告げる。
「こちらも同じ思いだ」
長谷部も応じた。
「じゃあ、水に流してくれるか」
「もちろんだ」
とっさに松岡がさし出した手を長谷部は握った。二人は強く握手したのである。
「ところで、詫びを入れるからにはぼくも方針を決めた」
松岡は少しもったいぶった。その方が効果があると踏んだからだ。
「広報課の件だが、そっくりそちらへ移管する。引き取って貰いたい」
と申し出た。
それを聞くと、長谷部は頬を綻ばせた。表情も明るさを増した。
「そうか、わかってくれたか」
と嬉しそうに言う。
松岡は黙って頷いた。彼にしてみれば、長谷部が言っているような意味でわかったわけではない。ただ、総務部の機能を高めるために、この際身軽になっておきたいと思ったまでだ。強いて言えば、早めにリストラを進めるような気分である。
「広報という仕事はうちへ貰った方が弾力性が出る。そんな気がしたんだ」
長谷部は言い訳がましく言う。
「わかった」
と松岡は応じた。
「どんな弾力性だか知らないが、好きにやってくれ。いったん渡した以上はこっちの知ったことじゃない」
そう言いそうになって、慌てて口を噤んだ。
まったく、口は災いのもとだ。せっかく仲なおりするつもりできたのである。事実、いましがた固い握手をした。
「一つ打ち明けなきゃならんことがあってね」
長谷部は少し言いにくそうに言う。
「実は、これを先に教えるべきだとは思ったんだが、つい言いそびれてね。まことに申し訳なかった」
そう言って丁重に頭を下げた。
「何だか知らないが、もう、お互いに気遣いはよそう」
松岡はわざと明るく言った。
「助かるよ。それを聞いて気が楽になった」
長谷部は真顔で言う。
「おおげさだな」
松岡は苦笑した。
同時に、長谷部の律義な性格がいまさらのように感じられて嬉しくなった。やはり、一時的であったとはいえ、この親友と仲違いしたのはまずかったとの思いがこみあげてきた。その原因が広報課の移管問題だったとは、まったくどうかしている。冷静になってみると、莫迦らしかった。
「広報課をこちらへ引き取った時点で、広報課長を交替させたいと思っている」
と長谷部は告げた。
「何だ。そんなことか。人事の問題は担当部長の権限だからね。どうぞご自由に。お好きなようにして下さい。誰が選ばれようとぼくは一切口を挟みませんよ」
即座に言い返した。
「じゃあ、新しい広報課長に誰を選んでも文句は言わないね」
と念を押す。
「もちろんだよ」
松岡は強調した。
長谷部は微笑した。嬉しそうな顔だ。
「では、打ち明けよう」
もったいぶって前置きする。まるで、そうする価値があると言わぬばかりの態度だ。
松岡はいぶかし気に眼を細めた。長谷部の慎重さが、どうもよくわからぬという顔付きであった。
「新しい広報課長には神谷真知子になってもらう」
今度はあっさり告げた。
「何だって?」
松岡の顔が険しくなった。
「これはルール違反だ」
と眉をひそめてつけ加えた。
「まあ、そうかりかりしなさんな」
長谷部は余裕のある笑いを浮かべている。
「すでに、ご当人の了解も得ていてね。あとは辞令を出すだけだ」
「してやられたな」
松岡は呆れ顔だ。
「いつの間に、そんな根回しを」
「きみが忙しく夜遊びしている間にね。こっちはいちずに仕事、仕事さ」
と長谷部は冗談めかして言う。
夜遊びというところで、ぎくりとした。まさか沙斗子のことを知られたわけではあるまい。ひょっとすると博多のママか? いや、それもなかろう。
「ぼくの負けだ。きみにはとうてい太刀打ち出来んよ」
松岡は兜《かぶと》をぬいだ。
「しかし、彼女は石倉とぼく、それにきみも入れて、われわれ三人のマドンナ的存在だからね。それを忘れてもらっては困る。一人で独占するのはルール違反だよ」
と口惜しそうに言い添える。
「そんなルールがあるとは思えないが、もし、あるとしたらだ。神谷真知子が生き生きとして働き、周囲を圧倒するような仕事を与えて、彼女の魅力を大いに引き出してやるのが、われわれの役目じゃないかな。かつては石倉がMOF担に抜擢して、それをやった」
長谷部は熱弁を振るい始めた。
「うーむ」
と松岡は唸った。
「今度はきみかぼくがその役を引き継がなくていけない。ところが、きみはそれどころじゃなかった。新しく取締役になり、こういうむずかしい時代に総務部長を拝命したんだから、あえてほかへ眼を向けよと言う方が無理だ。したがって、ぼくがきみの負担を軽くし、その上で彼女を表舞台へ押し出す役目を引き受けた。何か、異存があるかね?」
長谷部は自信に満ちた表情で松岡を見据えた。
松岡は両手を左右に拡げ、長谷部に向かって掌を見せた。どうしようもないという仕草である。
「参ったよ。今回は降参する」
松岡は頭を下げた。
「だが、今度だけだよ。神谷真知子については次の機会には、ぼくが一肌脱ぐからね。そのことを忘れないでくれたまえ」
「わかった。覚えておく」
長谷部が頷くと、松岡は立ち上がった。
「石倉も入れて、近く三人でゆっくり会おうじゃないか」
と応接室を出ながら提案する。
「いいね。これでやっと、きみの昇格祝いが出来る」
長谷部は嬉しそうな顔をした。
松岡の後ろ姿を見送って自席に戻ると、長谷部はすぐ内線ナンバーをプッシュする。受話器を耳に当てると、神谷真知子の声が聞こえてきた。
「いますぐぼくの席まで来られますか」
いきなり訊いた。
「はい、参ります」
と真知子は答えた。
一分後、彼女はあらわれた。長谷部は立ち上がり、笑顔で応接室を指さした。女子行員にコーヒーを頼んでおいて後を追う。
「ずいぶん、お待たせしましたけど、やっと何とかうまく解決しました」
と頬を綻ばせて告げた。
「わたくしの広報課勤務の件ですか?」
さすがに察しがよい。
「その通り。早急に総務部から移管し、直ちに辞令を出します」
とたたみかけるように言う。
「それでは、ほんとうに広報課長をさせて頂けるんですか?」
何となく疑っている声だ。
「松岡くんも気持ちよく了解してくれてね。後はもう何の問題もない」
と長谷部は教えた。
「よかった」
彼女は両手を合わせて軽く胸を押さえた。
「わたくし、張りきってばりばり働きます」
きっぱり言って眼を輝かせている。
「頼みますよ。この際、人事も含めてすべて一新しますからね。新しい広報課が誕生したのだと思って頑張って下さい」
「わかりました。せいいっぱいやらせて頂きます」
真知子は丁寧に頭を下げた。
応接室を出ると、彼女は小走りになった。まず洗面所に入って、自分の髪と顔を見た。それから急いで自席に戻った。受話器を取ると、最初に石倉克己の直通ナンバーをプッシュした。
真知子は石倉の声が聞こえてくるとほっとした。心がほんのりと温まるような気さえする。
「今日の夕方、お忙しかったら夜遅くなってもかまいませんが、とにかく、今夜お目に掛かれないでしょうか?」
と尋ねた。
遠慮がちな言い方ではあったが、はっきり会いたいという意志を伝えている。
「今夜?」
と石倉は言葉につまった。
「ちょっと、このまま待っていて下さい」
言うと、通話口を掌で押さえたような音がした。石倉の声が遠のく。
「どうも失礼しました」
ややあって、石倉の声が大きくなった。
「一つ会合があったんですが。副部長に代わりに行って貰います。七時頃でどうでしょう」
「よろしかったんですか? 無理を言ってしまって」
急に後悔の念が働いた。
「大丈夫です。とにかく、都合がつきましたから」
快活な声で言って、石倉は日比谷のホテルのロビーを指定した。
「愉しみにしています」
と真知子は伝えた。
「ぼくの方も同じです。では、七時に」
電話はきれた。
会って話したいと思った。七時まで待てばその通りになる。満足感が押し寄せてきた。それから、彼女は仕事に没頭した。長谷部の口調では少なくとも一週間以内に辞令が出るような気がする。となると、忙しい。すぐに残務整理と引き継ぎの用意を始める必要があった。気持ちに張りが出た。
七時十分前に、真知子は待ち合わせのホテルのロビーに着いた。意外に大勢の人がいる。やはり圧倒的に若い男女が多かった。五分待たないうちに、背後から軽く肩を叩かれた。いつ来たのか、すぐ脇に石倉が立っていた。
「きみがあらわれるのを、向こうの隅で見ていてね。さすがに目立つ。すぐにわかったよ」
「まあ、困った人。それお世辞ですか」
「とんでもない。思った通りを口に出したまで、ところで食事は何がいいかな? 中華料理、和食、お寿司屋さん、それとも?」
と訊く。
「それともにして頂きます」
「わかりました。今夜は暖かい。五、六分歩きましょう。よろしいですか」
「ごいっしょなら、五、六十分でもついて行きます」
真知子はいくらか感情をこめて告げた。
たしかに、真知子の言葉は石倉に伝わった。それに対して、石倉はとくに反応を示さない。彼女はいくらかもの足りなさを覚えた。
が、これは向かい合っての会話ではない。そそくさと歩きながら、交わされたものだ。だからこそ、あえて口に出せた。そんな気さえする。
二人はロビーに人待ち顔で立っている人たちの間をすり抜けて、出口へ向かう。外に出て始めて並んだ。真知子は行き先を訊かない。たぶん、以前の彼女なら尋ねたであろう。いまはあえて問わない。石倉の案内する所であれば、何処へでも行こうという気になっていた。
夜になり、気温は落ちている筈なのに、風が殆どないせいか暖かい。二人連れで歩くには都合がよかった。石倉は五、六分と言ったが、そんなに歩いたとは思わないうちに、石倉は前方を指さした。たちまち、目指すビルの一階に着いてしまった。
「ここの十階にあるレストランへ行きましょう。二度ほど来たことがありますが、なかなか美味しかった」
と石倉は言う。
「まあ、愉しみだわ」
真知子の表情は生き生きしている。
「期待通りだといいけど」
石倉はちょっと気掛かりとでも言いたいのか、唇の端を少し歪めた。
真知子はほんとうは料理の味などどうでもいいという気になっていた。石倉と二人だけで食事が出来れば、それでよかった。ただ、そうは言えない。いかにもあからさますぎる。仕方なく、さも期待しているかのようなふりをする。
石倉はそのことに気付いているのかいないのか、むしろ、料理の方を気にしていた。そんな気配が感じられた。
かなり広いレストランではあったが、窓際の席は一列しかなく限られている。さいわい、予約なしでも空いていた。
二人は向かい合って坐った。眼下に日比谷公園とその界隈が見渡せる。夜景が美しい。けっして珍しい光景ではないが、眺めていると心が休まる。
「飲み物は何にしますか?」
「お任せしますわ。お料理の方も」
「では、赤ワインで乾杯しましょう」
石倉はワインリストの中からブルゴーニュ産の新しいワインを選んだ。
「年代物の重いものより、フルーティーで軽い方を選びました。ステーキは神戸牛でどうでしょう」
「ぴったりですわ」
真知子は満足げに頷いた。
赤ワインはフルーティーで口当たりがよかった。口を近付けると微妙でそこはかとない芳香が漂ってくる。石倉が言った通りである。
「さすがですわ。とてもすてき。飲みすぎてしまいそう」
真知子は石倉の選択を誉めた。
「気にいってもらってよかった。どうぞ、大いに飲みすぎて下さい」
石倉は嬉しそうに言い返した。
「まあ、倒れるかも知れませんよ。介抱して頂ける」
「もちろん」
石倉は鷹揚に頷く。
「部長さんとごいっしょに食事するなんて、ほんとうに久しぶりですわね」
「部長はやめて欲しいな。もう会社も別なんだから、個人と個人の付き合いになる」
石倉は強調した。
「そうです。うっかりしました。申し訳ありません」
彼女は頭を下げた。
「そんな大げさなことではないが」
石倉は苦笑する。前菜が運ばれてきた。
「どうぞ。食べながらゆっくり飲みましょう」
「はい」
真知子はにっこりしてナイフとフォークを手に取った。
「以前、ニューヨークでは何度か食事をしたね」
「ええ、あの時はほっとしました」
彼女は一瞬遠くを眺めるような眼付きをしたものの、すぐ現実に戻った。
「今夜お会いしたかったのはほかでもありません。今度、古巣の総合企画部に移って、広報課長を引き受けることになりましたの」
と伝えて、眼を輝かせた。
「広報課長に、それはすごい。女性の起用は初めてじゃないかな」
石倉は驚いたふりをした。
「はい、MOF担の時と同じです」
「そう、あの時と」
今度は石倉が遠くを眺める眼ざしになった。
「長谷部部長さんの強い引きで、総務部から広報課がそっくり移ってきて、最初の課長になります。副部長待遇でお引き受けすることになったんです」
「よかった。ほんとうによかった。もう一度乾杯しよう」
石倉はグラスを上げた。
真知子もすぐグラスを手にした。二人のグラスがかちりと小さな音をたてた。彼女はグラスだけではなく、躰ごと、自分のすべてを石倉の胸にぶつけたい衝動にかられた。
松岡紀一郎はゴルフ場にいた。新幹線の三島駅から車で二十分位の富士エースゴルフ場だ。富士の南側の裾野の一つと言ってよい愛鷹《あしたか》山のゆるやかな斜面を利用して造成されたゴルフ場だ。
多少のアップダウンはあるが、随所にエスカレーターが設置されていて配慮がゆき届いている。クラブハウス、ロッカー、浴場などの諸設備が豪華で清潔である。松岡は以前、時の首相が大蔵大臣といっしょにここでプレーしていたのを見たことがあった。前頭取の杉本富士雄もここの会員になっていた。
空気が爽やかで景色は抜群だ。プレーしていると、時折富士山も姿を見せるし、首を巡らせるまでもなく、駿河の穏やかな海が眼に入る。芝の手入れがよく、樹木も豊富である。
松岡は大蔵省から天下りしてきた常務の田所に頼んで、彼の元部下に当たる検査部の課長補佐クラス二人を招待したのだ。さすがにウイークデーは遠慮して土曜日にした。もちろん、送り迎えはハイヤーである。賞品とお土産の両方を用意しておいた。招待するからには思いきってというのが松岡の方針であった。彼個人が払うのではなく、銀行が払うのだ。
松岡が得ている報酬ではこういう接待は出来ない。バックに銀行がついているからこそ可能な接待である。それなら、あまり出費を惜しまないで、相手に好い印象を与えた方が得策といえよう。
銀行の役員や部長クラスの中には、自分が支払うわけでもないのに、ケチ臭い真似をして接待した人に不快感を与える者がいる。そんなのは論外だが、一人前の接待が出来ないようでは人の上には立てまい。
いまのところはうまくいっていると松岡は思った。田所も二人の課長補佐も接待ゴルフに馴れているのであろう。意外に上手で、松岡が手加減するどころではなかった。せいいっぱい、全力を挙げて集中しても、なかなか追いつけない。
午前中は松岡が最下位になった。昼食時間に気分転換し、今度こそはと気合を入れてコースへ出た。松岡の意気込みが他の三人にも伝わり、相手側もそうはさせぬとの気持ちになっているらしい。そのため、プレーにも力が入った。
途中、松岡は田所を抜き、他の二人にも追いつきそうになりながらも、最後には力尽きた。田所にも抜き返され、残る二人は追われたおかげでスコアを上げた。二人共、自己の記録を大幅に上回ったのである。
「いゃあ、愉しかった。スリルがありました」
「ゴルフ場も、松岡さんの後半の頑張りもすばらしい」
二人は口をきわめて誉めた。
松岡は漁夫の利を得た。ゴルフそのものでは他の三人に完敗し、さんざんであったが、相手は大いに満足している。少なくとも、一回の接待で、二、三回招待したのと同じくらいの効果をあげた。これは予想以上の成果である。が、当の松岡はあまり面白くなかった。
というのも、後半自分のプレーに夢中になりすぎて、ついに力及ばずという結果になったため、忿懣が残っている。しかし、考えてみると、松岡が手加減も遠慮もせず、正面から立ち向かってきて敗れた。相手はまさにそこが気に入り、松岡のプレーを誉めただけではなく、ゴルフ場まで持ち上げた。
月曜日の朝、松岡は田所の席まで行って頭を下げた。接待への協力に対するお礼である。
「いゃあ、二人共喜んでいましたよ。松岡さんとはまたゴルフをしたいと言っています」
田所は上機嫌だ。
「それはよかった。今度はもっと練習して行きます。あんなふうには負けないと伝えておいて下さい」
松岡は真顔で言った。
「わかりました。言っておきましょう。たぶん、向こうも練習しますよ」
「それはまずい。次回は練習なしで参加して欲しいと言って下さい」
いくらか冗談めかして言う。あまり夢中になっては大人気ないのに気付いたのだ。
「むずかしいですな。言うことを聞いてくれるかどうか?」
田所は笑顔で言い返す。
「そこが田所常務の腕ですよ」
と松岡は強調した。
三日後の木曜日、田所から内線の電話が入った。
「今夜、あの連中と食事をすることになりました。ついては赤坂の料亭を使わせて貰ってもよろしいですか?」
「けっこうです。勘定は私の方へ廻して下さい。それから、少し高価なお土産をお忘れにならないように。私はかえって顔を出さない方がよいと思います。先輩と後輩の親睦会ということにして頂いて、帰りのハイヤーも料亭に言いつけて下さい」
てきぱきと指示した。
「いろいろとお心遣い有り難うございます」
「こちらこそ、ゴルフと料亭はこれからも定期的にやりましょう」
松岡は如才なくつけ加えた。
その翌日、金曜日の九時過ぎに、田所は胸に紙袋を抱え、せかせかした足取りでやってきた。
松岡はすぐにぴんときたが、顔には出さず、立ち上がって応接室へ招じ入れた。
三十分後、松岡は丁重に田所を応接室から送り出した。
室内から秘書課長に電話を入れ、成瀬頭取への面会を申し込んだ。「大至急!」とつけ加えるのを忘れなかった。
気迫が通じたのか、二分後に連絡がきた。
「すぐ頭取室へどうぞ」
「有り難う」
と応じて立ち上がった。
「そうこなくちゃ」と口の中で呟く。
松岡は田所から手渡された紙袋を持ってエレベーターホールへ向かった。彼はいくらか緊張して頭取室のドアをノックした。
成瀬は皮肉っぽい笑顔で松岡を見た。
「きみが大至急というから、無理して時間を空けたよ」
と恩着せがましく言う。
「どうも申し訳ありません」
と頭を下げ、すぐ用件に入った。
「富桑銀行の業績、経営内容を含む最新情報を手に入れました。大蔵省検査が終わったばかりですから、これが最新といってよろしいかと思います」
一気に伝えた。
「なに、検査資料を手に入れたのか?」
成瀬はよほど驚いたらしい。表情が変わっている。
「どうやら私の勘は当たったようだ。きみなら出来ると思ったのは間違いではなかった」
成瀬はそう言いつつ、立ち上がって応接セットの方へ移動する。インタホンを押し、コーヒーを二つ頼んでから、「どうぞ」とソファを指さした。
松岡は成瀬が腰を下ろすのを待って坐った。コーヒーをご馳走になるぐらいは当然だとの自負がある。
「その資料、どんなふうにして手に入れたのかね?」
と成瀬はまず訊いた。
表情が早く話せと催促している。興味津々といったところだ。松岡は少しじらしたくなった。が、そうもいかない。相手は超多忙な頭取だ。惜しいと思いながらも口をきった。いったん話し始めると舌が滑らかになる。もともと口はうまい。的確に説明した。
「なるほど、さすがだ。そこまでやってくれるとは思わなかった」
成瀬は満足気に頷いた。
「すばらしい成果だよ。きみは業務推進部長としても、支店長としても優秀だった。その点は誰もが認めている。だが、あんがい、総務部長も適任かも知れないな。私の眼に狂いはなかった。これからはむずかしい時代だ。総務部に優秀な人物がいない会社は駄目になる。当行は安泰だ。きみがいる。ひとつ、今後も頑張ってくれたまえ」
真顔で言い添えた。
「よろしくご指導をお願いします」
松岡はすかさず叩頭する。
「富桑銀行の調査については目的がわかりませんので、私は中身を拝見しておりません」
そうつけ加えて紙袋を成瀬の前に置いた。
同じ日の昼頃、二人の老人が赤坂のホテルの一階にあるレストランにいた。
杉本富士雄と勝田忠である。美味しいカレーライスが食べたいと杉本に言われて、勝田が呼び出されたかたちになった。杉本は電話一本で呼び出すのが好きだ。いつものパターンであった。
たぶん、勘定も勝田持ちになる。困ったことに、これも変わらぬパターンであり、いまではすっかり習慣化してしまった。勝田は年金生活者であり、杉本ほどの財産家ではない。正直なところ、小遣いにも不自由している。もちろん、老妻と二人の生活は切り詰めていたから、通常ならばそれほど、気にしなくてもよかった。
しかし、杉本にしばしば呼び出されたあげく二人分の飲食代を負担するのは、杉本が贅沢好きの美食家だけにつらい。ほどほどにして貰いたいと思って、何度か抵抗してみたが無駄であった。杉本は銀行頭取時代のくせが抜けず、絶対に自分が支払おうとはしない。
今日もカレーライスと聞いて、ほっとして出てきたが、その後でメロンとアイスクリームを取り、コーヒーも頼む。一流ホテルのレストランだからたまらない。合計すればかなりの金額になる。
「実は、この前から考えていたんだ。成瀬への揺さぶりだが、総会屋を使ってやろうと思うが、どうだね」
と唐突に訊く。
「それは穏やかじゃありませんね」
と勝田は応じた。
「むろん、穏やかじゃないさ。だが、あの小生意気な小僧をいじめるにはそのくらいのことはしてやらんとな」
「いささか邪道ではありませんかね。それに総会屋となりますと、担当は総務部です。松岡くんが可哀相ですよ。彼はわれわれには好意的で、料理屋の勘定もすべて持ってくれます。声を掛ければ、いつでも一席用意するでしょう」
勝田は口を尖らせた。それが最重要事だと言わぬばかりの口ぶりである。
「どうもきみはご馳走に弱いな。気を付けんと身を誤るよ」
杉本はたしなめた。
「しばらく前に、富桑銀行の原沢さんに電話を入れたんだが、どうも様子がおかしい。久しぶりに会いたいという私の申し出に対して良い返事をせんのだ。あの男、なかなかの食わせ者だからな。また何か画策しておるのかも知れんよ。私の勘はよく当たるからね」
首をひねりながらも、自慢を忘れない。
「ところがだ。最近になって、急に会いたいと言ってきた。掌を返したようにな。高川くんが連絡をつけてきて、きみまで招待するそうだ。どうやら、風向きが変わってきた。それにしても、何の役にも立たぬきみまで呼ぶことはないのにな」
と大仰に言う。
勝田は聞こえぬふりをしていた。
成瀬は頭取室に昼食を運ばせた。料亭から取り寄せた弁当である。この部屋で一人で食事をする。実際、こんなことは珍しかった。
食事をしながらも、成瀬は松岡が持参した富桑銀行の最近の業績についてのコピーを熱心にチェックしている。むしろ、早く全貌を掴みたいために食事の時間も惜しんだと言った方が正確である。大口取引先の昼食会の予定が入っていたが、ためらわず代わりに副頭取を行かせた。
電話も外線はつながせない。内部は長谷部からの一本だけだ。組織改革の一環として、従来は総務部内にあった広報課を総合企画部内に移させてくれとの要望である。理由も訊かずに承諾した。
「わかった。きみに任せる」
と伝えて、受話器を置いてしまった。
やがて、食事も終え、書類も見終わった。「うーん」と唸って、ゆっくりのびをした。
表情に活気がある。立ち上がって、室内を歩き始めた。二度、三度と廻って、窓際で立ち止った。窓の外を見る。新緑のみどりが陽の光をはね返している。
「どうやら読めたぞ」と低く呟く。
富桑銀行の不良債権が予想以上に多いのは以前からわかっていた。その上、堅実なメーカーとの取引が少なく、不動産、ゼネコン関連の取引が多い。借入金の多い不動産会社の多くはすでに倒産している。だが、ゼネコン関連はこれからだ。富桑のゼネコン部門での要注意債権は五千億円を超えていた。
──たぶん、原沢頭取はこの数字が気になって仕方がないんだろう。それで傷が表面化しないうちに、うちとの合併を目論んだ。
これが真相だとすれば、うっかり乗れない。そう考えた瞬間、直通電話のベルが鳴った。
「頭取さん、あたくし、あゆみよ」
かなり疳高い声が聞こえた。
「ねえ、助けて欲しいの。あと五百万円急いで貸して下さらない。ね、お願い、助けて」
と芝居がかった声で訴える。
ずいぶん下手な演技力だ。成瀬は呆れた。この前の五百万円は返済しなくてよいと言ってある。これで金銭の問題は終わりだという合図と言ってよい。そういうルールがわからないのか、わからないふりをしているのか? たぶん、その両方であろう。いずれにせよ、これでおしまいだとの思いが萌《きざ》した。
「もうお金はない。残念だが、助けてはやれない」
きっぱりと伝えた。
「まあ、冷たいご返事ね」
あゆみはなじるように言った。
成瀬は受話器を置き、あゆみへの気持ちがすっかり冷えているのに気付いて侘しい思いに捉えられた。
同時に富桑銀行との合併も遠|退《の》いたのを感じた。もし、あえて合併すれば膨大な不良債権という大きなリスクを背負うことになる。日本一の巨大銀行の初代頭取という栄光も、巨額な不良債権の前では、魅力どころか、わずかな光さえも失う。おそらく、原沢は三洋銀行の不良債権の少なさに目をつけたのであろう。合併すれば、目立たなくなるのはたしかだ。「きみを初代の頭取に」などとおだてられ、原沢の寝技に屈するところであった。
成瀬はすぐ長谷部を呼んだ。
「きみ、富桑銀行の調査の件だが、あれは打ち切りだ。もう調べなくていい。したがって、杉本への接触も必要ない。本来の仕事に戻りたまえ」
さばさばした表情で一気に言った。
[#地付き]〈完〉
[#改ページ]
あ と が き
筆者は以前NHKの依頼でドラマの原作を書いた。「銀行 男たちのサバイバル」(NHK出版)で、この作品は同じ題名でテレビ化され、土曜ドラマの『銀行』三部作になった。
土曜ドラマ始まって以来の高視聴率になり、この記録はいまだに破られていないという。そのせいかどうか、原作もベストセラーになった。
主人公は三人の中間管理職で、同期入社の親友であり、ライバルでもある。タイプは異なるが、いずれも優秀な人材で将来を嘱望されている。物語は取締役直前の三人の熾烈《しれつ》な競争から始まった。
テレビでは、長谷部敏正=小林|稔侍《ねんじ》、石倉克己=中村敦夫、松岡紀一郎=橋爪功、さらに、神谷真知子=黒木瞳、成瀬昌之=児玉清、杉本富士雄=鈴木|瑞穂《みずほ》、勝田忠=穂積隆信の豪華キャストで、チーフは実力者、松本守正、プロデューサーは大河ドラマの高橋幸作、演出は当代の第一人者、岡崎栄の各氏であった。
テレビのヒットと本の売れゆきがよかったために、あのドラマの後の物語を書いて欲しいとのファンレターや要望があちらこちらからきた。筆者はついおだてに乗り、「小説宝石」に「銀行 男たちの挑戦」を連載した。この続篇に当たる作品は現在カッパ・ノベルスに入っている。
実は、これの後に続くのが本篇である。とはいえ、「銀行 男たちの挑戦」にせよ、本書「銀行 男たちの報酬」にせよ、それだけを読んでもわかるように書いた。ただ、気になる読者は本篇をきっかけにして、前記二作にも目を通して頂ければ、興味は倍増する。
例えば、美貌のキャリアウーマンとして登場し、男性社員にけっしてひけはとらない神谷真知子に、黒木瞳さんを想定して読んで貰うと、また別の趣きが生じる。ちなみに、「失楽園」の彼女とはまったく違う黒木瞳がここには居る。
ともあれ、現在《いま》、銀行は大きく変わりつつある。どの銀行も多数の不良債権を抱えて四苦八苦している。ビッグバンを迎えて、生き残りを賭けたこの変化はますます激しくなる。銀行だけに限らず、日本企業にとって、ほんとうのサバイバルは、実は、これからなのだ。
銀行は経済社会の中で、ちょうど人体の血液のような役割を果たしている。どんなに強い心臓や肝臓も、新鮮で良質な血液なくしては生きてゆけない。
そういう意味では、わたしたちは今後の銀行の動きや変化から目を離せない。離せば、思わぬ陥し穴に落ち込む危険がある。
幸か不幸か、筆者は長い間銀行の現場に身を置いてきた。そのせいか、変化がよくわかる。したがって、今後もこの物語の主人公たちが大きな波に呑み込まれまいとして、果敢に闘うありさまを書き続けたいと思っている。
「日刊工業新聞」連載に関しては、岡村信克編集局長、担当の福島清二、出版に際しては、鷲野和弘、五味達朗の諸氏にひとかたならぬお世話になった。付記して感謝の意を表したい。
平成十年七月十九日
[#地付き]山田 智彦
単行本 一九九八年九月 日刊工業新聞社刊
〈底 本〉文春文庫 平成十三年十一月十日刊