[#表紙(表紙.jpg)]
銀行 男たちのサバイバル
山田智彦
目 次
第一章 連鎖倒産
第二章 過労死
第三章 人事異動
第四章 秘密の調査
第五章 合併工作
第六章 反対派
第七章 勝者と敗者
[#改ページ]
第一章 連鎖倒産
三洋銀行名古屋支店は、市内の中心部と言ってもよい栄の表通りに面していた。
この一角には会社やさまざまな商店、銀行やデパート、証券会社、新聞社やテレビ局、ホテル、スーパー、飲食店等々が集まり、駅前の地下街とはまた違った賑わいを見せている。街の雰囲気もわるくない。文字通り、名古屋の表の顔と言ってよい風格がある。
名古屋支店長の長谷部敏正は赴任して二年になる。銀行の支店長は普通三年から五年位で移動して行く。短くて三年、長ければ五年だが、例外もある。一年半とか、逆に七、八年居坐るケースも出てくる。
こういう場合は、たいてい何らかの事情が介入している。ではどんな事情か? 本人はもちろん、人事部も例外については黙して語らない。刑事事件にでもならない限り、闇から闇へ葬られてしまう。かりに何かあっても、殆《ほとん》ど大火にはならず、人事処置によって、ボヤのうちに消し止められる。
もっとも、短いケースでも不祥事発覚と異例の抜擢《ばつてき》があり、明暗が分れる。反面、長くなると際限がない。たとえば、こんな珍しい例がある。結婚式の披露パーティでの挨拶の上手な支店長が評判になり、地域社会へとけ込んだ功績も手伝って、転勤シーズンになると地元の有力者たちが本店へ掛け合い、とうとう十一年も同じ支店にとどまった支店長がいる。片田舎のCクラスの支店であった。無難な人間を置いておけばよい店舗なのでこんなことが通用した。おかげでこの支店長の昇格はストップしてしまい、同じ店で定年を迎えたのだ。
もちろん、銀行の人事部にはホンネとタテマエがある。タテマエは人事の活性化や常にフレッシュな職場の維持、顧客へのサービスを徹底した雰囲気の良い店頭作りだが、ホンネは別だ。銀行はいつも取引先との癒着による金銭事故の発生を恐れている。
銀行員の立場からみると、銀行側の用心深さはやや滑稽に映る。
だが、金銭を扱う仕事をしている以上、誰にでも誘惑はある。常に厳粛な気持を忘れてはならない。長谷部敏正はそう思い込んでいる。
したがって、部下たちにはそういう姿勢でのぞんでいた。中肉中背で、あまり颯爽としたところがない。やや色黒で苦労人の顔をしている。さして男前ではないが、生真面目さが表情に出ていて好感が持てる。
取引先にも部下にも頼りになるという印象を与えた。実際、努力家であり、右や左に片寄らない思想の持主である。公平で、誰彼の区別なく親身になって相談に乗った。
支店長の姿勢は成績に反映する。引き継いだ時期がわるく、業績はずっと低迷していたが、ここにきて少し明るさが見えてきた。
実は、この支店もバブル時代の後遺症に悩まされている。利益を生まない不名誉な無コスト資金をたんまりと抱え込んでいた。前支店長時代の不動産担保貸付の三分の一が焦げつき、何らかのかたちで不良債権になったままだ。
長谷部は就任以来、延滞回収に全力をあげてきた。たしかに効果はあったが、彼自身、時折、無力感にとらわれる。長びく不況が大きな足枷《あしかせ》となって、思い通りにならず、計画は遅々として進まない。
それどころか、取引先の多くが売上不振や収益の低下に悩み、連鎖倒産の危機に晒《さら》されている。いくら回収しても、続々と新たな発生がある。
「これでは、ザルで水をすくうようなものだな」
長谷部は打合せをしていた副支店長の村上良二に言った。
「まったくです。それも普通の水ではなく、泥水をすくうようなものですから、たまりませんよ」
と村上が応じた。
「泥水をすくうだって、きみもうまいことを言うなあ」
と長谷部は感心した。
「延滞回収会議を開く度にぞっとします」
と村上は言い添えた。
言いたいことを先に言われてしまって、長谷部は仕方なく苦笑した。
「支店長、まもなく例の社長がやってきますのでよろしく」
「うむ」
と生返事をする。
仕方がない。会わんわけにはいくまいという思いがこみ上げてきた。しかし、会えば追加融資の話になり、ある程度の結論を出さざるを得なくなる。それがわかっているだけに気が重い。
二階の融資係の女子行員が足早やに近付いてきた。
「支店長、舟橋工業の社長さんがお見えになりました。ただいま融資課長がお相手しております」
と伝えた。
「わかった。コーヒーでも入れてくれたまえ」
と言って、ゆっくり立上った。
村上が無言のまま頭を下げた。
「まさか、コーヒーでごまかすわけにもいかんし」
と長谷部は呟《つぶや》いた。
二階の応接室では、五十代半ばの猪首《いくび》の舟橋社長が禿げ上った額と頭の一部を縞模様のハンカチでじっくりと拭ったところだ。
長谷部は挨拶し、自動車部品メーカーの社長と向かい合うかたちで正面に坐った。
舟橋の顔にはいつもの脂ぎった精気がなく、表情がどこかうつろだ。端目《はため》にも憔悴している様子がよくわかる。
「お元気ですか」
と声を掛ける。まさか、顔色がわるいですねとも言えなかった。
「元気どころか、最悪ですよ」
舟橋は顔をしかめた。
もはや、見てくれを取り繕う余裕も無くなっているらしい。
「いま課長さんに説明したところですが、月末までに二億五千万円ないと手形が落せません」
いきなり言うと、挑戦的な眼ざしで長谷部を睨《にら》みつけた。
「………」
長谷部は黙っていた。
「おたくとは親父の代から三十年以上の取引だ。もちろん、メインバンクです。景気の好い時はずいぶん預金も積ませて貰った。工場も社宅もわたしの自宅もすべて担保に取られている。いまさら他行へ浮気は出来ません。うちとしては苦しさを隠す気はない。何もかもぶちまけて、ここはもうおたくへお願いするほかはないんですよ」
いくらか柔らかい声で、一気につけ加えた。
女子行員がコーヒーを運んできた。
「どうぞ」
と長谷部は温和な顔で奨めた。
「資金繰り表を拝見しましたが、あれですべてではないでしょう。わたし共の試算では、売上がもう少し上向かない限り、今月はこれですんでも、来月も、再来月もほぼ同じことになります。それに金利負担ももう限界でしょう」
落着いた声で、相手の眼を見つめながら言った。
「じゃあどうすればいいんです? 売上も収益もままならない。倒産して、二百人の社員を路頭に迷わせよとおっしゃるんですか?」
声がうわずった。
「そんなことは言っていませんよ。落着いて下さい。わたしも真剣に考えているんです」
長谷部は表情を引き締めた。
「バブルがはじけて以来、売上は落ちるばかりで近頃は一時の半分になってしまった。利益率はもっと落ちている。それにこの際限のない円高ですよ。リストラにも限界があります」
と舟橋は口を尖《とが》らせた。
「冷静に検討して、生き残りの道を探しましょう。その代り、隠し事はダメですよ。正確な判断が出来ませんからね」
長谷部はやんわりとたしなめた。
約一時間後、長谷部はいささか疲れた顔付で一階の自席に戻ってきた。
それを待っていたかのように机上の電話機が鳴った。
「総合企画部の石倉です」
受話器を取ると爽やかな声が聞こえてきた。
声まで颯爽としている。長谷部は年齢よりずっと若く見える石倉克己の端整な顔を想い浮かべた。
簡単な挨拶がすむと、すぐくだけた口調になった。
「本店での次の会議の時ね、終った後ゆっくりしていかない。一泊したらどう? 松岡も誘っておくから久しぶりに三人で一杯やろうよ」
と誘う。
「総務部が一泊は認めないんじゃないか? 大阪あたりまでの支店長は日帰りさせられる筈だよ」
と長谷部は教えた。
「経費節減も徹底してきたね。こっちも締め付けが厳しいよ」
「われわれにくらべれば、おたくはまだ天国みたいなものだろう」
「何を言う。何処《どこ》も同じだ。一長一短があるよ。ところで、一泊の件はうちの部での打合せが遅くなることにして総務の了解を取っておく」
「やっばりなあ、抜け道があるんだ」
「厭味を言うな。どうだ最近の調子は?」
と訊く。
「いいわけないだろう。後向きの話ばかりでうんざりだよ。焦げつくのがわかっていながら貸さないと倒産すると威される。防衛一本ヤリだ。少しは景気が上向いてくれないことには力の出しようがないよ」
同期の仲間なので安心したせいか、ついぼやいた。
「しかし、名古屋支店は半年位前から少し業績が上ってきている。そろそろ前支店長の後始末が終って、長谷部色が出てきたんじゃないのかね」
「そうだといいが、残念ながら、まだまだだよ」
と長谷部は謙遜する。
「横浜支店は大変らしいぞ」
と石倉は言う。
「え、西巻のところか?」
「同期最優秀の西巻良平も苦戦してるよ。あの男はいつも自分が一番だと思っている。生真面目な上に、重役への最短コースを歩くのが当然と考えてるからたまらない。ストレスもたまるだろう」
石倉は客観的な言い方をした。
それが長谷部にはいくらかこたえた。突き放しているかのような冷たい印象を受けたのだ。現場の支店長の苦労もよく知らないで、本店風を吹かせている。そんな感想さえわいてきた。
しかし、そうは言えない。親しい友人でも言葉には限界がある。地方の支店長にとって、本店からの情報は大切だ。
親しい同期生が二人、石倉ともう一人、松岡紀一郎が本部にいて何かと連絡してくれるのでずいぶん助かっていた。もし、自分が本店勤務で、石倉か松岡、あるいはその両方が支店に出ていたら、立場は違うが、たぶん全員が同じ思いを味わうだろう。
「こっちは現場だ。自分の店の営業成績や延滞防止でせいいっぱいでどうにもならん。きみの方で少し助けてやってくれよ」
と長谷部は進言した。
「ダメだね」
と、石倉克己はにべもなく言った。
「西巻は人の助けを喜ばない。それに総合企画部長がいちいち支店の業績に口を突っ込めるかね。そんなことをしてみろ。西巻にも恨まれ、組織を乱す張本人として重役連中に睨まれたあげく、こっちが飛ばされるはめになる」
とつけ加えた。
「そういうことか」
長谷部は低い声で応じた。
「きみも気を付けろよ。今度の不況は長い。ここが底だと思うと、二番底、三番底がある。市場もすっかり成熟してるんだから、始末がわるい。需要がいっこうに刺激されないから、そう簡単に景気は上向きにはならない。適当に発散しながら仕事をしないと、追い込まれるぞ」
石倉は忠告とも威しとも取れる言い方をした。
受話器を置いてから、長谷部は下唇を噛んだ。同期最優秀の西巻良平がどうにかなるのを、石倉克己が待ちかねているような気さえしてきた。
石倉克己は受話器を置くと、回転椅子を廻して窓の外を見た。陽はすでに西側に廻り込んでいるのでブラインドは上げてある。
周辺はビルの谷間だ。大小さまざまなビルが西日を受けて薄い茜色《あかねいろ》に染っていた。遠くに高速道路が見える。眼を移すと小さな車が何台も連なって少しずつ動いて行く。まだ午後四時三十分なのに、早くも夕方の渋滞が始まっている。排気ガスは充満し、空気はわるくなるばかりだ。都会は急激に人の住めない場所に変貌しつつある。
石倉は日に何回か、窓外の景色を見た。書類の点検で疲れた眼を癒すためか、単なる気分転換か、殆ど無意識のうちに同じ動作を繰り返していた。短ければほんの二、三分、長くてもせいぜい四、五分だが、見馴れた光景に接していると多少は気分が休まった。
彼はぐるりと回転椅子を廻した。向かい合って並んでいる部下十四名の机が眼に入った。ほぼ半数が出掛けていた。誰が何の用で何処へ向かったのかは次長が掌握している。
銀行の五年先、三年先のあるべき姿を想定した長期計画と中期計画の策定や国内外の経済や金融に関する情報収集と分析、マクロの経済調査やミクロの市場調査、店舗の新設や廃止統合、配置転換等々を中心にした店舗行政のすべて、行内の組織の新設や変更、銀行の経営方針の決定機関と言ってよい『常務会』の開催と運営等々、主な項目を数えあげただけでも、「総合企画部」の仕事の重要さがわかる。
石倉は部長の椅子に坐って約一年になる。夢中でやってきたが、最近になってようやく自分のペースで仕事をこなせるようになった。なにしろ、総合企画部長のポストは目立つ。銀行の顔と言ってもよく、行内外から注目される。
対外、対内両面のPRを担当していて、彼の下に、広報課長、PR課長、行内誌「三洋の友」の編集長等が入っている。日銀記者クラブや東京証券取引所内の記者クラブ等での発表もすべて彼が取り仕切った。専務や常務に代って彼が新聞記者たちの質問を受けることもある。
いずれにせよ、すべてをきちんとすませて当り前であり、明らかな失敗は当然のことながら、たとえ瑣末《さまつ》な事柄でも、何か行き違いが生じればすべて石倉の責任になった。
彼の上には担当常務がいた。さらにその上に二人いる副頭取のうちの一人で、次期頭取との噂さえある成瀬昌之が総合企画部付になっている。銀行としてはあえて、他の部よりも大物役員を集めたのだ。
しかし、守備範囲が広いため何が起るかわからない。何かあれば、責任は部長が取る。それがはっきりしているだけに、どうしても緊張を強いられる。現場の支店長とはまた異なったストレスの多いポストなのだ。
石倉克己はクールな方だし、頭も切れた。状況判断が早く、間違えることはめったにない。年齢よりずっと若く見える顔付は男前と言ってもよく、女性にもモテる。活動的で躰《からだ》つきもスリムであり、中年肥りとは無縁の存在だ。
人付き合いも良く、顔も広い。大学ではラグビー部に籍を置いていただけにヴァイタリティもある。仕事の上での攻撃と防禦のバランスをよく心得ている。少くともいままでは彼の持ち味がプラスに働いてきた。そのせいか、いささか自信を持ちすぎており、見方によっては厭味に映った。
おそらく、東大法学部出身という矜持《きようじ》があるのだろう。もちろん、石倉自身はそれをひけらかさないようにしていた。だが、心の内側を隠し通すのはむずかしい。よほどの人物でも無理だ。彼の場合も、時折、ちらりと悪い癖が出た。
会議の席上で、無能な上司、頭も要領もわるい同僚や部下たちが、くだくだと説明を始めたりすると、彼はぷいと横を向いて窓の外を見たり、聞こえよがしに指をぽきぽきと鳴らしたりして嫌われた。
彼は末席で向かい合っている二人の女性を見た。一人は短大卒で庶務事項を担当する矢口朋子だ。入行して二年、若くて可愛らしく、お茶汲みもコピーもあまり嫌がらない。表情も明るくよく気の付く女の子で、部内のマスコット的存在になっていた。
問題はもう一人の方である。
神谷真知子は京都大学の経済学部を出た才媛《さいえん》で、英語とフランス語の二か国語が出来た。税理士の免状も持っていて経理計算や数字にも明るい。三十一歳になっていたが、細面の知的な美貌でせいぜい二十六、七にしか見えない。まだ結婚しておらず、本人は訊かれもしないのに、今後も結婚の意志なしと言い張っている。
お茶汲みやコピー、電話番の使い走り等々、およそ女性のたずさわっている仕事は一切拒否して、男性と同じ仕事を与えてくれと上司にくって掛かる。そうなると頭も良く、口も達者なだけになかなか手強い。
議論好きでもある。論理的な話の展開になれば、並の部長や次長ではかなわない。自分の言葉に興奮し、熱中する。そうなるとどちらが上司だかわからなくなる。両の眼の眼尻がきりりと上り、引き締まった表情はたしかに美しいが、同時にひやりとした冷たい印象も受けるし、いささか恐ろしい感じもある。誰もが閉口した。
あげくの果てに、上司たちはみなうんざりし、神谷真知子を持て余して人事部に泣きつく。
「可愛気がない」
「協調性が皆無だ」
「身勝手で、自分の好きな仕事しかせず、経理部では課長の仕事を取ろうとした」
「負けず嫌いで、頑固で、女らしさがなく、上司に敬意を払わない」
「まわりにわるい影響を与える。一日も早く引き取って欲しい」
およそこのような苦情が人事部に集まった。実は、もっとあるのだが、個人攻撃になるので記録からは除外された。
そのあげく、神谷真知子は一か所に長くとどまれなかった。いくつかの支店や本店の各部をたらい廻しされて、席の暖まる暇がない。おかげで、せっかくの能力がすっかり殺されてしまった。だが、関係者たちは誰ももったいないとは思わなかった。むしろ、組織の秩序を乱す者として、彼女が他の部へ引き取られると、厄介払いが出来たのを喜んだ。
そして、今度、こともあろうに、石倉克己が問題の女性を押し付けられた。
次期の有力な重役候補者の一人でもある切れ者の部長が、神谷真知子をどう使いこなすのか?
おそらく、それは無理であろうから、いずれ追い出すことになるのだろうが、果してどんな手を使うのか?
いくら何でも人事部に泣きつくのでは能が無さすぎる。並の部長と同じでは総合企画部長の名がすたるだろう。
いずれにせよ、お手並み拝見だ。
本店の部内から、そんな意地のわるい興味が寄せられていた。
むろん、石倉はこういう事情をよく知っている。それどころか、今回の人事には二年先輩でまだ役員になっていない人事部長の無言の悪意を感じた。
昨夜、都心のホテルのバーで松岡紀一郎と会って情報交換した時も、神谷真知子が話題になった。
「よかったよ。うちの部に来ないで」
と松岡は杯を上げながら嬉しそうに言う。
「それはぼくへの当て付けか?」
石倉は不快そうに顔をしかめた。
「とんでもない。同情だよ」
「まったく口のうまい奴だ。そうやってあちこちで善良な人間を手玉に取っているんだろう」
「おい、おい、人聞きのわるいことを言うなよ。壁に耳ありだ。誰が聞いているかわからんじゃないか?」
松岡はたしなめた。
二人はカウンターに並んで坐っており、周辺には誰もいなかった。まったく、白々しい男だと思いながらも、憎めないところがある。
「一つ、いい方法があるぞ」
松岡は、つと顔を寄せて囁《ささや》いた。
「神谷真知子はなかなかの美人なのに男嫌いだそうじゃないか? かなり若く見えるが、三十一歳になっている。たぶん、男性ホルモンが不足して欲求不満になったあげく、荒れてるんだよ」
としたり顔でつけ加える。
「知ったかぶりをするな」
「そうすげなく言うものじゃない。お前、あの女を抱いてしまえよ。セックスさえしてしまえば、たいていの女はおとなしくなる」
真顔で奨めた。
「ふざけるな。彼女はぼくの部下になったんだぞ」
石倉はかっとして一喝した。
「だから何だっていうんだ」
松岡は左の掌でつるりと長めの顎を撫《な》でた。
石倉は何故か急にこの時の情景を思い出し、いったん女性二人の席に眼をやったものの、慌てて向きを変えようとした。
すると、神谷真知子が顔を上げた。きっとした眼ざしで石倉を見据えた。挑戦的な眼ざしと言ってよかった。
石倉は彼女の視線を受け留めて立上った。ゆっくりと近付いて行く。
「神谷くん、ちょっと」
と言って、廊下へ向かう手前にある応接室を指さした。
先に入って、彼女の来るのを待つ。
「今夜、食事でもしないかね?」
と低い声で誘った。
「午後七時に東洋銀座ホテルのロビーで待っている。話はその時まとめて」
と伝えるや、返事を待たずにさっさと部屋を出てきた。彼女は取り残された。
神谷真知子の意志や反応をまったく無視した唐突な誘いであった。
午後五時過ぎ、松岡紀一郎はいったん自分の部屋に戻った。
が、出来れば十分、最大限十五分位で立上らないと次の会合に遅れる。机の上には書類が山積みになっていて、その上にメモ用紙が十枚ほど載っている。
思わずかっとしたが、顔には出さない。日頃から松岡は人当りの良さで知られていた。こんな些事で馬脚を見せる気はなかった。
「やれ、やれ」
と諦め顔で呟いた。
部長の帰りを待ちかねていたのであろう。次長が三人、先を争って机の前に来た。
われがちに報告事項を口にしようとして小競合いになった。
「いいかげんにしてくれ。今日は時間がないんだ」
と松岡は一喝した。しかし、声が滑らかだ。他の部長のように感情をむき出しにしないので、部下たちは何の衝撃も受けなかった。
「見てくれよ、この机の上を。急ぎのメモを見るだけで五分は掛かる」
両の掌をひろげてみせた。
だが、誰も引っ込まない。三人共後には引かなかった。
松岡の意向を無視して口々にしゃべる。彼はメモ用紙を繰りながら話を聞いた。すぐスケジュール調整が必要になる。そうなると、手帳を出さざるを得ない。仕方なくメモ用紙の方はまるめてワイシャツの胸ポケットにしまった。
「副部長」
次長たちの報告に耳を傾けながら、古参のナンバー2を呼んだ。
「緊急の書類だけ選び出してくれ」
「みんな大至急です」
当然のように言う。
「とくに急ぐのを選んでくれ。それだけ印鑑《はん》を押す」
「はい、はい」
「返事は一度だけでいい」
きめつけると、笑い声が起った。
部内の雰囲気はわるくない。全員が松岡の意図した通り、明るく伸び伸びと振舞っている。ここは預掛金《よかけきん》増強の中枢と言ってよい「業務推進部」だ。
顧客に好かれなければ預金など増えない。それにはまず自分たちの態度から改めること。言葉遣いや服装はもとより、どんな人からも好意を持たれる必要がある。ちょっとした心遣いや気配りで事態は変わる。ほかの部や支店の模範となれ、行内の同僚たちを練習台にして、誠心誠意励んでみよう。
松岡はつねづね、そう言い続けてきた。したがって、人当りの良さは彼だけではなく、部全体のモットーであった。
次長たちが引っ込むと、二人いる女子行員の一人がすばやくあらわれて休暇届を出した。
「急ぎの書類です。印鑑を下さい」
堂々と言った。
「たっぷり夏休みを取ったばかりじゃないか?」
「でも、これは秋の旅行です」
「じゃあ、次は冬だな」
「はい」
とわるびれずに答える。
「何処へ行くんだ」
「オーストラリアです」
「一週間か、よし、仕事の手順は大丈夫だろうな。お土産を忘れるな」
言いつつ、承認の印を押した。
「やったあ」
女子行員は急ぎ足で立去った。
書類を二部だけチェックした。それが限界だ。すでに十五分が過ぎている。急いで立上った。
「出掛けるよ。今日はもう戻らないからね。急ぎの用に限り、車へ電話を入れてくれ」
言い置いてエレベーターホールへ向かう。
もう一人の女子行員が足早やに追ってきた。
「部長、明日の早朝会議はタニグチホテルで七時半からですよ」
と教えた。念を押したのだ。
「有難う。危うく忘れるところだった」
礼を言って、軽くウインクし、エレベーターに乗る。
時折開かれる早朝会議には頭取以下有力な役員たちが出席する。部長で呼ばれるのは限られている。忘れる筈はなかった。
専用乗用車の後部座席に坐ると、後ろから運転手の肩を叩いた。
「急いで、頼むよ」
言って、背筋を伸ばし、眼を閉じた。
疲れてはいるが、眠れるわけではない。胸ポケットのメモ用紙に気付いた。引っぱり出して一枚一枚繰ってみる。
主として掛かってきた電話のメモだ。短い伝言が付いている。答えが必要なのが五件あった。松岡はすぐに自動車電話を取り上げた。次々と相手を呼んで打合せをすませてゆく。さいわいいずれも相手が在席していた。十五分過ぎないうちに通話が終った。
──石倉部長より内線電話あり。連絡頼むとのことです。
松岡は最後のメモ用紙を指先でぽんとはじいた。さしてひどい渋滞ではないが、相変わらず車の数が多い。目的地へ着くまでまだ二十分以上は掛かる。もう一度電話機を取り上げた。
「何か急ぎの用件ですか?」
型通りの挨拶がすむと、松岡はやんわりと訊いた。二人だけでホテルのバーで会う時にくらべると、よそゆきの言葉遣いだ。
「急ぎじゃなければ、連絡してはいけない雰囲気ですなあ」
と石倉は皮肉っぽく応じた。
「何をおっしゃいますか? 総合企画部長さんからの連絡とあれば、ほかを後廻しにしますよ」
と言いつのる。
「何とか言っちゃって、用件が全部片付いたからこそ電話をくれたんだろう」
「恐れ入った。お見通しだよ」
「少し声がおかしい。車からの電話だろう?」
「その通り」
「じゃあ、話はやめよう。運転手が何を言い触らすか知れたものじゃない」
石倉はぴしりと言った。
「わかった。今日は帰りが深夜になる」
と教えた。
「こっちも似たようなものだよ。こうしよう。明日のお昼いっしょにどうかね?」
と提案する。
「お互いに急用が入らなければね」
松岡は条件を付けた。
「了解」
と応じて、石倉の方から電話をきった。
同じ日の午後七時、東洋銀座ホテルの二階ロビーに着いた神谷真知子は、周囲を見廻しもせず一番近いソファーに腰を下した。
探すのは相手の役目だとでも言わぬばかりの態度でわき見もせずに坐ると、まず脚を組んだ。ヨーロッパ系の女性とくらべても見劣りしない見事な脚である。近くの男たちの眼がごく自然に集まった。
真知子は眉も頬も動かさない。気付かぬというより初めから無視していた。
約一分後、近くにグレイの高級スーツを着た男が立った。
「自信たっぷりだね」
と声を掛けてきた。
真知子はきっと顔を上げ、きつい眼ざしで相手を見上げた。
石倉克己は銀行にいる時よりも爽やかな顔をしていた。若々しい印象さえ受ける。少くともいまホテルのロビーにいて人待ち顔でたたずむ何人かの男たちの中では垢抜けている。むしろ、目立つ存在だとも言えた。
そのせいか、自尊心が満たされ、真知子の気持は少し上向いた。
「実はね、来てくれるかどうか心配していたんだ」
と石倉は照れくさそうに言う。
「きみが五時半頃さっさと帰って行くのを見て、これはダメかなと思えてきてね」
とつけ加える。
「あら、ほんとうかしら? 部長さんて、そんなに気が弱かったんですか?」
彼女は意外な顔をした。
「すべてにずいぶん強引な方だと思いましたわ」
「それはあなたの方だよ。ぼくはいたって小心者でね。見掛け倒しなんだ。一見すると、女性にモテそうだが、これがさっぱりモテない」
「ほんとうですか?」
真知子は疑わし気に流し目をくれた。
「きみは知らないと思うが、ぼくの同期生でいま名古屋支店長をしている長谷部敏正という男がいる。誰が見ても、とてもモテるとは思えない中年男だ。学生時代にはサッカーをやっていた。いまはもう中年肥りになっていて、応援の方に廻っているがね」
「その方がモテるんですか?」
「そうなんだよ。残念ながら、ぼくも松岡も太刀打ち出来ない」
と言いつつ出口へ向かう。
「あのう、このホテルのレストランでご馳走して下さるんじゃないんですか?」
と彼女は訊いた。
「きみここは高いんだ。近くにもっと気楽な店があるよ」
「なあんだ。わたくしここだと思ったからこそ、時間に遅れないように気を遣ったんですよ」
真知子は不服そうに口を尖らせた。
「いずれ、きみの働きしだいでご馳走しよう。なにしろ、まだきみの実力がわからない。ぼくの予想では、きみはうちの部のエリート次長を三人合わせたぐらいの仕事をこなしてくれる筈だ」
さらりと伝えた。
「まあ、本気ですか?」
「本気だからこそ、これから食事をしながら仕事の打合せをしたいんだ」
石倉はさっさと先に歩いて行く。
二人が入ったのは東銀座寄りのステーキハウスで、地下一階のその店は石焼きで有名な店だ。ヒレやサーロイン、テンガロンなどをグラムで注文する。百グラムから五百グラムまであった。
二人はサーロインの二百五十グラムを頼んだ。赤ワインは真知子に選ばせた。
「五千円からせいぜい八千円位のところで頼むよ。以前、銀座のクラブのママを招待したらね、一本三万円のワインを開けられちゃってまいったよ」
「まあ、銀座のマダムですか? 部長さんも頑張ってますね」
揶揄《やゆ》気味に言う。
「頑張ってるよ」
石倉は真顔で頷《うなず》いた。
ワインがくると、二人は乾杯した。前菜と野菜サラダがきた。
「いかがです。わたくしの選んだワインの味は?」
「少し渋味があるけどなかなかいいよ。きみらしい好みだね」
石倉は満足気に杯を傾けた。
「これは二人だけの秘密だけれどね。きみをうちの部へ引っぱり込んだのはぼく自身だ。もちろん、きみの美貌にも魅《ひ》かれた。しかし、それだけじゃない。実は、いま眠っているきみの能力に眼を付けた。当てにしてるんだ。相当経験を積んでいるエリートでもむずかしいハードな仕事だが、なに、きみなら出来る。心配はいらん」
石倉は唆《そそのか》すように言った。
「わたくし、心配なんてしていません」
真知子ははっきり告げた。
「もちろん、そうだろう。しかし、これからは他人に似たようなことを言われたら、少し心配したふりをする。これも仕事のうちだよ」
「え、そんなことが仕事の一部なんですか?」
「そうだよ。相手の顔を立ててやるんだからね。その結果、人間関係もうまく行くし、取引も成立するかも知れない」
「ほんとうですか?」
「早速、明日からでも実行してみなさい。効果はあるよ」
石倉は右の眼を閉じた。
「それから、きみの仕事だが、|MOF《モフ》担(大蔵省担当)を引き受けて貰いたい」
一気につけ加えた。
「え!」
と彼女は驚きの声をあげた。
「大蔵省だけではない。日銀も記者クラブも他の金融機関対策もすべてきみがやるんだ。もし、他行との合併問題なんかが起った場合も、直接の担当者はきみになる。むろん、ぼくが全面的にバックアップする。しかし、主体はきみだからね。きみの知恵、創意や工夫、判断力や折衝力で事態は良くもわるくもなるよ」
淡々と説明する。
「そんな重要な仕事を、どうしてわたくしなんかに下さるんです」
真知子は挑戦的な眼ざしで石倉の顔を正面から見つめた。
石倉も無言のまま見つめ返した。しばらく、両者の睨み合いが続いた。
「第一、それは男性の仕事でしょう?」
彼女は少し顎をしゃくった。
「いままでは少くともうちの部のエース、即ち、トップの次長に担当させてきた。と言っても、仕事に男性女性の区別はない。適材適所で選ぶべきだ」
と石倉は強調した。
「では、伺います。わたくしがMOF担に向いているんでしょうか?」
「もちろん、そう思うし、そう信じてもいる。おそらく、金融界だけではなく、各界から注目される。なにしろ、若い女性のMOF担は初めてだからね。それだけに、やっかみや批判もつきまとうだろうが、やり甲斐はあるよ」
「………」
真知子は急に不安そうな眼ざしになり、両の眼を閉じたり開けたりした。
「きみは三洋銀行に入行して以来、一度としてやり甲斐のある仕事に就いていない。その結果、やる気を無くして投げやりになり、厄介者扱いされて職場を転々としてきた。それではせっかくの能力が泣く。だが、それももうおしまいだ。きみは今夜から生れ変わった。ぼくとの出会いで新しい道が開けたんだ。どうだね? 挑戦してみるかね?」
と言い放った。
「やらせて頂きます」
と彼女ははっきり答えた。
「実は、わたくし、近く銀行をやめようと思っていたんです。自分を生かす場所がほかにもある筈だと思うと口惜しくなってきて」
と言葉をにごす。
「じゃあ最後のチャンスだとも言える。間に合ってよかった。この仕事に賭けてみたまえ。きっと成功する」
石倉は励ます口調になった。
二人は赤ワインの杯を上げ、改めて乾杯した。
「明日の朝、タニグチホテルで早朝会議がある。そこでトップと担当役員の了解を得る。たぶん九時過ぎには銀行へ戻れるから、すぐ部内会議を開いて正式通知を出す」
石倉は手筈を説明した。
三洋銀行名古屋支店の三階会議室では議論が沸騰していた。
午後七時から始まって約一時間が経過した。
支店長の長谷部敏正はちらりと腕時計を見た。耳をすますと、部屋の外の廊下でエレベーターの停る音が聞こえた。タイミングがいい。思わずにやりと笑った。
ノックの音と同時にドアが開いた。
「お待ちどうさま」
勢いのよい声が響く。
出前のカレーライスが届いたのだ。
「これで会議はいったん中断。さあ、冷めないうちに食べよう」
支店長自ら嬉しそうな顔で宣言した。
座は急に賑わい、雑談になる。
もっともそれまでも銀行の会議のようではない。支店長の人柄を反映してか、誰もがものおじせず活発に発言する。
「考えていることや思いついたことを、一人で腹の中に貯めておいてはいけない。さっさと口に出せばさっぱりする。ストレスなんかどこかへ吹っ飛んでしまう」
長谷部は日頃から部下たちにそう言い続けてきた。
その効果があらわれ始めていた。
「仕事は一日、一週間、一か月ときりのよいところで終るものじゃない。延々と続くんだ。継続こそ力なりと言った人がいる。とにかく、諦めるな。少しずつでも努力を積み重ねてゆけば、いつか何とかなる」
とも言った。
近頃になってようやく支店の業績がじりじりと上向いてきた。これも長谷部の仕事への取り組み方が滲透し始めた証拠であろう。
赴任するやいなや、前支店長の過剰融資の後始末が待っていた。まず後向きの仕事から出発しなければならなかった。もっとも、この時期の新任支店長の殆どが彼と同じ目に遭っている。多くの支店長がやる気を無くしたが、長谷部はさして気にせず、自分の道を進んだ。その努力が少しずつではあるが、報われ始めた。成果は具体的な数字の伸びとなってあらわれていた。
支店内の雰囲気も明るくなり、行員たちの表情も溌剌《はつらつ》としてきた。
「われわれの相手は機械でも物でも、ましてコンピューターでもない。生きている人間なんだ。だから、常に誠意を持って接触すること。そうすれば、必ず通じる」
たびたびそう強調した。
長谷部のこういう姿勢は、謙虚だが前向きである。バブル崩壊で大きな痛手を蒙《こうむ》った銀行の、いわば第一線と言ってよい支店の行員たちの気持を鼓舞《こぶ》するのに役立った。
いま会議室のテーブルでカレーライスを食べているのは十二人だ。支店長以下八人の役付行員に組合の幹部二人と古参の女子行員二人が加わっていた。
定例の役席会議に一般行員四人が加わったのは、約一か月後にせまった名古屋支店開店四十周年記念行事の最終打合せのためである。本部からの予算は限られているし、とくに応援はない。いきおい選択肢は限られる。それに、せいぜい、副頭取か専務に業務推進部長がくっ付いてきて挨拶する程度であろう。
したがって、謝恩パーティ開催と記念品を配ることだけは始めから決っていた。
パーティの中味と記念品を何にするかが、主な議論となった。すでに同じテーマの会合を二度持っている。今度で結論を出さないと時間がない。
三度の会議で全員が言いたいことを言った。長谷部は腹ごしらえをした後で、一気に結論を出してしまおうと思っていた。満腹感を利用するわけではないが、食後は気持が鷹揚《おうよう》になることだけはたしかだ。
食事は終り、二人の女子行員が立って行ってお茶を配り始めた。
長谷部は彼女等が席に戻るのを待った。
「さあ、そろそろ時間切れだ。あと十五分で決定して、今夜の会合はおしまいにしよう」
と提案した。
組合の支部長が手を上げた。
「皆さん全員がありふれたパーティにしたくないという点では一致しています。いろいろな案がたくさん出ましたがどうもしっくりしません。そこで、こういうのはいかがでしょう。融資課、預金課、営業課、それに役席全員が加わった四チームを作り、それぞれが屋台店を出します。屋台はカレーライス、やきそば、ラーメン、お汁粉の四つとして、材料の仕入から器その他設備の調達や味付まで、各チームに任せて勝手に運営して頂き、味と売上を競って貰うのはどうでしょう」
と言って、全員を見廻した。
「面白いね。なかなかユニークなプランだ」
長谷部は直ちに賛成の声をあげた。
「面白そうだわ」
「ほんとう、これだと全員がお客様にサービスすることになるわ」
女子行員二人も賛意を口にした。
「では、ラーメンはどの課が担当するのか、それぞれ希望を出すのかね」
副支店長の村上が訊いた。
「いいえ、くじ引きにいたします。各課の代表者にくじを引いて貰って決定するのはいかがでしょう」
「それなら公平だ」
と長谷部は言い添えた。
「全員参加ということなので、庶務の女性とロビーウーマン、運転手さんにはお酒の係を担当して貰います」
「なるほど、さすがは組合の支部長だ。アイディアが冴えている」
長谷部は誉めあげた。
支店長の賛成で大勢は決った。これ以上のプランもなく、反対者もいない。記念品も半月ほど日もちのする地元の和菓子と決った。予定通り、十五分で会議は終了した。
翌日の昼休みに各課の代表と役席代表の支店長がくじを引くことになった。
長谷部は帰る前にいったん自席に戻って、改めて机の上を見廻す。いつものくせだ。重要書類を鍵の掛かる引出しにしまったかどうかも確認する。
席に着いたとたん、電話機が鳴った。
「栗田建設の望月です」
緊張した声が聞こえた。
「いますぐお邪魔させて下さい」
いきなり言う。
「これからですか?」
長谷部は壁の大時計を見た。
「まだ銀行にいて下さって助かりましたよ。実は、ご自宅まで押し掛けるつもりでした」
先代の娘婿に当る二代目社長は、ほっとした声で告げた。
長谷部敏正は厭な予感を押えた。
緊張した声といきなり自宅まで押し掛けるという図々しさはただごとではない。
「栗田建設の望月社長がお見えになるそうだ」
と副支店長の村上に告げた。
「これからですか?」
と怪訝《けげん》な顔をする。
「急ぎの用らしい」
と長谷部は呟いた。
「わたくしも残りましょうか」
「いや、きみは帰ってもいいよ。融資課長はもう少しいるだろう」
「あと一時間位残ると言っていました」
「じゃあ、何かあれば彼を呼ぶ。帰れる時に早く帰ってくれ」
と告げて、長谷部は支店長席に坐った。
「では、お先に失礼します」
村上は挨拶して帰って行った。
長谷部は左手を上げて会釈し、手元の書類をひろげた。このところ、預金の伸びが鈍化している。まだ月初めだが、こういう状況が続くと月末になってから苦労する。いまからじりじりと預金を増やして平残《へいざん》を上げておかないと収益が下る。
預金を出来るだけ多く集めて融資量を増やす。しかも、回収に懸念のない優良企業への貸出しが望ましい。これが基本だ。
しかし、いまはこの基本を守るのがむずかしかった。預金や積立金は思うように集まらず、内外の為替や振込その他の手数料収入も微々たるものだ。優良融資先は激減し、利息の払えない企業や延滞先、さらに倒産する会社まで増えてきた。
前向きの資金需要は減り、倒産防止のつなぎ資金的な後向きの貸出申込みが増加しつつある。こうなると、収益確保どころか、貸出金の回収もおぼつかなくなっていた。
長谷部は一階の営業室を見廻した。すでに誰もいなくなっている。電灯は煌煌《こうこう》と点いているが人気はない。二階では融資課長以下二、三人が残業していた。
長谷部は書類を見て数字を追っている自分の表情が、しだいに強張《こわば》ってくるのを感じた。
「うーむ」
と思わず唸《うな》った。
唸り終えてからはっと気付いた。近頃よく無意味な声を出す。老化現象だとしたら、いくら何でもまだ早い。
遠くでベルの音がした。裏手の通用口から誰か入ってきたのだ。たぶん、融資課の行員が出迎えたのだろう。誰かが内側から応じなければこの扉は開かない。
やがて、望月弘平が若い男子行員に案内されて姿を見せた。
そそくさと落着きがなく、顔色もわるい。いつも颯爽とスポーツカーを乗り廻している三十代後半の若社長だ。女房のおかげで社長になっているのにそういう自覚がない。贅沢好きで、すぐ威張りたがる。苦労人の現会長とはあまりに違うので、地元のライオンズクラブでも評判がわるかった。
長谷部はいままで何度か会っていたが、世間の評判ほどわるい印象は受けていない。ただ、遊び好きの現代青年で責任を負うのを嫌う傾向がある。人柄も育ちも良いが、現時点ではそれが裏目に出ている。むろん、経営者として採点すれば、落第点をつけざるを得なかった。
「いやあ、まいった、まいった」
というのが望月の第一声だ。
支店長室に入ると、自分からいきなり上座に坐ってしまった。長谷部はまだどうぞとも言っていない。苦笑しながら、反対側に坐った。
もっとも、お客さんを下座に坐らせるわけにはいかない。ここが彼のいつもの定位置であった。
「どうなさいました」
と長谷部は訊いた。
ちょうど十歳年下である。東京の有名私大を出ていて、わがまま者で、ゴルフと人に甘えるのがうまい。なかなか男前でもあり、感じはわるくない。そのせいか、長谷部は持て余し者の弟のような印象さえ受けている。
「どうもこうもないんですよ」
と顔をしかめて訴えた。
「いったい、どうしたんですか? まったくオーバーな人ですね」
「今度ばかりはオーバーじゃありません」
と強調する。
「だいたい、あなたは人騒がせですよ。こんな時間に銀行は営業してはいませんよ。たまたま会議が長びいたから残っていましたけどね」
と厭味を言った。
「だから、ご自宅へお邪魔しようと思っていたんですよ。まあ、念のために電話をしてみたら支店長の声が聞こえてきた。手間が省けました」
しゃあしゃあと言う。
長谷部はこんなやり取りが無駄なのを知っている。しかし、わるい予感は薄れていない。出来るだけ真相を知るのを先へ延ばしたい思いにかられていた。さいわい、望月弘平の口調はそれほど深刻ではなかった。
もっとも、それが彼の無知と無責任、状況把握の弱さからきているのでなければよいがと願うばかりだ。
「わかってますよ。明日でも、明後日でもいい用件でしょう」
と明るく言った。
「それがね。まずいことになったんですよ。とにかく、今夜のうちにお耳にだけは入れておきませんとね」
やっと深刻な顔付になった。
「信頼していた大口取引先三社が相次いで連鎖倒産ですわ。うちが四社目になる可能性もあります」
と訴える。
「何ですって?」
長谷部は顔色を変えた。
すばやく栗田建設への融資額を頭に浮かべて、絶望的な気持になった。
「いったい、いつからそんな状況になったんです。先週あなたにお会いした時は、ゴルフのスコアの話しかしなかったじゃありませんか?」
と身を乗り出した。
「あの時はまだ何の兆候もなかったんです。実は、三日前に一社が倒産し、それが連鎖的になって、こんなに早く。まったく、油断も隙もありませんよ」
と事業経験の乏しい若社長は絶句する。
「支店長さん、助けて下さい」
望月はしょげながら、長谷部に向かって両手を合わせ拝む真似をした。
長谷部ははじかれるように立上った。受話器を取るや、融資課長を呼ぶ。
「栗田建設さん関係の書類を持って、すぐぼくの部屋へ」
と命じた。
「それからきみ、今夜は徹夜になるかも知れないよ」
とつけ加えた。
長谷部は向きなおった。
「拝むのはそのへんでやめて下さい。いいですか? 社長のあなたは最大の責任者だ。これは遊びのゴルフじゃない。しゃんとして下さいよ」
と念を押す。
「いま融資課長が来ます。書類の検討には二十分もあればいいでしょう。おたくの会長さんに会わせて下さい。あの方は苦労人の古強者《ふるつわもの》だ。何か良い知恵があるかも知れない。これから皆でいっしょにお宅へお邪魔しましょう」
と真剣な顔で申し出た。
頭取以下の主力役員が出席した早朝会議は都心の一流ホテルでおこなわれた。朝食会も兼ねたこの会議の末席に、石倉克己と松岡紀一郎がいた。
どちらも、ひと言も発言する機会もなく、会議中はもちろん、会議が終ってからも、言葉を交わす間もなかった。
お互いに担当常務や専務を抱えており、いっしょに銀行へ急行しなければならない。役員の車に便乗させて貰って急げば、始業の九時には間に合う。
会議の終り近くに、頭取は五つの留意点を強調した。
一、不良債権の徹底的な縮減、とくに新たな延滞発生に眼を光らせること。
二、安定した資金運用を図れる優良融資先の開拓。従来の取引先の洗替《あらいが》えを早急に実施すること。
三、徹底的なリストラを進めること。経費節減はもちろん、省力化を図り、人減らしをする。中高年層の子会社、取引先等への出向を増やす。給料に応じた働きをしているかどうか役付行員から調査を開始すること。
四、コストの安い一般預掛金、とくに小口預金や年金を中心にした預金増強を図ること。金利の高い大口預金や特殊預金は極力取り入れないこと。大株主、大口取引先等々の身勝手なわがままに対しては聞く耳持たぬこと。
五、長びく不況時代に対応して、全行員の意識改革をおこなうこと。これから先、五年、十年の不況に耐え得るタフでガマン強い人材の育成を徹底すること。
以上の五点を頭取は繰り返して言いつのった。
「いいかね。もう時間がないんだ。少くとも、ここ半年位のうちに、この五点が多少なりとも軌道に乗らなければ、われわれは生き残れない。銀行が存続するのか消失するのか、合併されるのか、その正念場はこれからの半年、一年の頑張りいかんにかかっておる。答えはすぐに出る。三洋銀行の名を残したいのなら、全員が一丸となって頑張ってくれたまえ」
いつにない厳しい口調で、頭取はそう言いきった。
座は静まり返り、副頭取以下の役員たちは緊張した表情で俯《うつむ》いていた。
散会してからも、役員たちは無言のまま早足で散って行った。いつものように冗談口を叩く者もいない。和気あいあいの雰囲気も無くなっている。
石倉克己の乗った車は渋滞に巻き込まれず、予定より早く本部に着いた。
彼が総合企画部長の席まで来た時は八時五十分だ。すでに全員が席に坐っている。
「五十五分から部内会議を開く。全員会議室に集まってくれ」
と石倉は告げた。
「わかりました」
次長が代表して返事をする。
ちらりと腕時計を見て、慌てて手洗いに向かう者もいる。
神谷真知子は顔を上げて部長の方を見た。石倉がそっと頷いてくれるかと期待したが、彼は気付かぬふりをしていた。
総合企画部の部内会議は八時五十五分に始まった。
部長の石倉克己が時間厳守を励行しているため、遅れる者はいない。彼はだらだらと会議を続けるのを嫌った。活発に議論してさっさと決定し解散する。会議はしばしば開かれたが、終るのも早かった。
全員がそれを知っているので会議が苦にならない。無駄な前置きはなく、反応も結論が出るのも早い。
「今日はほかでもありませんが、部内の一部担当替えをおこないます。それと早朝会議の報告、とくに頭取の五項目にわたる提言について、うちの部で何が出来るか? 具体的な検討に入りたいと思います」
と石倉が口火をきった。
「いままでMOF担を木村くんが担当してきたが、今日から神谷くんに引き継いで貰うことになりました」
あっさり告げたが、室内はいっせいにざわめいた。
誰もが予想もしない人事だ。木村保夫はトップの次長で、部内でも一目置かれた存在である。その後任というだけでも注目されるのに、いままで女性がMOF担になった例はない。おまけに、神谷真知子は何かと問題の多い女性だ。たしかに、京大出身の才媛ではあるが銀行の仕事にしっくりとけ込んではいない。いままで配属された各部や各支店で邪魔者にされてきた。
そういう経緯を出席者全員が知っていた。それだけに、意外というより呆れたと言った方が正確であろう。
ざわめきがおさまると、皆、不審な面持で石倉の顔を凝視した。部長の表情の動きから何かを読み取ろうとしている。
が、石倉はまったく動じていない。少くとも、彼の顔色からは何も読めなかった。いつもとまったく変わらず、平然としていた。それどころか、何か文句があるのかと言わぬばかりの顔付で一同を見廻した。
その時、一人だけ席に残って電話番をしていた矢口朋子が会議室のドアをノックした上で開けた。
「石倉部長に秘書課長からの伝言です。至急、頭取室へいらして下さいとのことです」
と伝えた。
「わかった」
と石倉は頷いて見せた。
「では、会議はこれで終了する。木村くん、すぐ神谷くんへの引継ぎを始めてくれ。それから、頭取の五項目についてはぼくのメモを廻す。次の会議で意見があれば聞く」
と言い置いて席を立った。
「朋子ちゃん、これ清書して全員に配って貰おう」
メモ用紙を渡した。
石倉はそのまま手帳を片手に、役員室のあるフロアーへ向かった。
秘書室内の応接室で、五分待たされた。同じように頭取に呼ばれた役員や部長が四人いたが、順番は石倉が一番であった。
ふだんはあまりものに動じない石倉も頭取室に呼ばれると、さすがに緊張する。分厚い絨毯の上を進み、ドアの前でひと息入れ、姿勢をただした上でノックした。
「どうぞ」
というくぐもった声がドア越しに聞こえてきた。
「失礼いたします」
一歩踏み込んですぐ最敬礼した上で、頭取の大きな執務机の前へ進んだ。
「先ほどの五項目だがね」
と頭取はいきなり言った。
「徹底して実施するために特別委員会を作ることにした。委員長にはわたしがなる。事務局は総合企画部とし、事務局長はきみだ。専任の次長を一人選んで担当者にしたまえ」
と命じた。
「承知しました」
と石倉は答えた。
「特別委員会は早急に発足させたい。常務会と取締役会へは事後報告でいい。委員は総合企画部、融資部、業務推進部、人事部の各担当役員と部長を当てる。事務局はきみが補佐するにしても優秀な次長じゃないと困るよ。誰にするつもりかね?」
と訊く。
「はい、MOF担からはずした木村保夫を当てます」
「よし、トップの次長だな。それでいこう。ところで、新しいMOF担だが、きみの推薦する女性で大丈夫かな? いったんは了解したものの、少し気になる」
と言いつつ、じろりと石倉を見据えた。
「必ず成功させます」
きっぱりと応じた。
「よろしい。その言葉を忘れんようにな」
と念を押した。言外に、失敗すればきみの責任になるぞとの威しが含まれていた。
「それから、この委員会には少しユニークな名称をつけたまえ。全行員に大変な時期にさしかかっている現実をきちんと認識させなければならん」
とつけ加えた。
業務推進部長の松岡紀一郎は、自席に着くとすぐ、支店の業績数字が克明に記入された一覧表のチェックを始めた。コンピューターによる最新数字の打ち込まれた速報である。この用紙はいつも朝一番で彼の机に届けられた。
この表にざっと眼を通すだけで、各支店の状況がほぼ把握出来た。
松岡が数字の増減に並々ならぬ関心を抱くのも無理はない。これらの細かい数字のトータルが彼の業務推進部長としての成績を左右するのだ。
もし、かりに松岡がかなりの手抜きをしていても、各支店の業績さえ順調に伸びていれば大きな顔が出来る。逆にいくら働いても、数字が下降してくれば同じポストにとどまるのもむずかしい。いわばこの速報にあらわれている数字が、彼の現在の立場だけではなく将来の浮沈まで、しっかりと握っていることになる。
このところ、松岡の表情は曇りがちだ。数字が彼の思い通りに右肩上りにカーブを描いて上昇してゆかない。予想通りの伸びを示してくれず、ジクザグになって意地のわるい試行錯誤を繰り返しているとしか思えなかった。
「まったく」
と口の中で呟いた。
ほんとうはもっと大きな声で呪いの言葉を吐きたかった。が、そうもいかない。日頃から人当りの良い部長として知られている。いまさら、せっかくのイメージを自分の手で打ち壊すつもりはなかった。
それにしても、目に余るほど成績の落ちている支店が五か店もある。松岡は支店名の上をボールペンの先で忌々し気にツンツンと突っついた。同じボールペンで支店長や次長の頭をもっと強く小突いてやりたいくらいだ。
「やる気でやってるのか? いったいどうしたら、こんなに数字を落せるんだ。ゴク潰し共が」
とひとりごちた。
彼は五か店の支店長に電話を入れてハッパを掛けることにした。
その前に、早朝会議で頭取が強調した五か条を全員に伝えておきたい。引き延ばしているうちに忙しさにまぎれて伝達が遅れたりすると問題になる。
「ちょっとこの近くに集合して下さい。そう、全員集合」
立上って、周辺に声を掛けた。
「今朝の会議で、頭取がとくに強調し、皆さんに徹底して欲しいと要望されたことが五つあります。立ったまま聞いて下さい」
そう前置きして、滑らかな声で話し始めた。
自席に戻ると、机上の電話機が鳴った。担当専務からだ。
「ぼくの部屋まですぐ来てくれたまえ」
と言われた。
「はい、直ちに参ります」
と応じた。
立ちながら、ハガキ大のボール紙の束を取り出す。七、八枚が重ねられていて右端に穴が開けられひもが通してある。くるくるとめくって、「専務室」とマジックインキで書かれた札を一番上にして机上に置いた。
これで行き先がわかる。来客も電話も多い。所在をはっきりさせておかないと、後になって困ることになる。なかには白紙もあった。この場合は私用か洗面所であり、あえて追い掛けないこととの申合せがしてある。
専務室に行くと、特別委員会の発足を知らされ、「業務推進部」としての業務分担の相談と打合せが始まった。
「まったく、金利自由化のおかげでとんだとばっちりだ。貸出金利がじりじり下ってゆくのに、大口定期の金利の方は上るばっかりじゃないか?」
専務はぼやいた。
「おっしゃる通りです。金持ほどケチで、何億、何十億と持っているくせに、〇・一パーセントか〇・二パーセントにこだわる。他行の金利ばかりちらつかせて、厭ならそっちへ持って行くぞとはっきり言って下さいますからね」
と松岡は同調する。
「このままいけば収益は減る一方だ。頭取が危機感を抱くのも当然だよ。調達金利が運用金利を上まわってしまう。早く歯止めをかける方がよいに決っている」
「たしかに、その通りですが」
「特別預金を減らして、一般の小口預金でカバーする。いまやっておかないと大変なことになるよ」
専務は強調した。
「はあ」
「きみ、本格的に取り組んでくれ。具体的な実施プランを早急に出して貰って、検討した上で早速実行に移そう。頼んだよ」
と念を押す。
「わかりました。すぐ取り掛かります。専務の今夜のご予定は?」
と訊く。
「今夜?」
専務はぎょっとしたように訊き返したものの、すぐに立ちなおった。
「遅くなるからね。明日でいい。午後一番でわたしの部屋へ来たまえ」
予定表を見ながら命じた。
松岡は急いで自席に帰った。こういうこともあるかと予想して、特別預金と一般預金の推移については細かく調べてある。この点そつがない。すぐ次長を呼んだ。
「この表に最新データを加えてくれ。その数字を踏まえた上で、特別預金を減らして一般預金へシフトするもっとも良い方法を、部内で検討して夕方までに報告して貰おう」
さらりと言った。
それから、やおら一覧表へ眼を落し、近頃もっとも落込みの激しい横浜支店の数字を見た。支店長は同期最優秀との評判が高い西巻良平である。ハッパを掛けるにしても、どの手を使うか、調子者の松岡も一瞬、迷った。
[#改ページ]
第二章 過労死
本店の部長が現場の支店長にハッパを掛ける方法はいくつかある。
もっとも、わかりやすいのはアメとムチだ。出来れば、これを交互に使って効果を上げたい。多くの部長がそう思っている。
というのも、殆《ほとん》どの部長がかつて支店長時代に、担当部長や役員から同じような扱いを受けてきたからだ。
通常は何か店かの支店長を無事に勤めあげた者が部長になる。したがって、支店長よりも部長の方が年齢も上だし、経験も積んでいる。ところが、例外もあった。大型店舗の支店長が取締役になっている場合もあり、逆に、一、二か店の支店長を勤めただけの若手部長もいた。松岡紀一郎や石倉克己の場合はこれに該当する。
だが、こうなると、古参の部長のように大きな顔が出来ない。若手の支店長に対してはともかく、同僚や先輩の支店長には一目置かざるを得なかった。いきおい言葉も丁寧になる。
すでに述べたように、松岡と横浜支店長の西巻良平は同期生である。おまけに、西巻は同期最優秀者として知られ、常にトップで昇格してきた。現在もまだこの序列が崩れたとは言えない。
ただ、このところ横浜支店の成績が落ちている。それもかなり極端な落ち方だ。業務推進部長としてはこれを放置するわけにはいかず、かと言ってアメとムチを使うのもはばかられる相手である。
松岡はためらった。
しかし、横浜支店をさけているようでは、他店の指導どころではなくなる。
松岡は受話器を取り上げ、横浜支店の代表番号をプッシュした。女子行員が出たので支店長を呼んで貰った。
西巻はなかなか電話口に出ない。来客中なのか他の電話に出ているのか、すぐに出られなければ、取り次いだ者が理由を口にすべきである。そうして貰えれば、引き続き待つか、掛けなおすか判断出来る。ところが、何分も知らん顔をして放置したままだ。電話を取り次いだことなど、とうに忘れているのだろう。掛けた方は伝言さえ出来ず、いたずらに料金だけが嵩《かさ》む。
「まったく、女子行員の教育ひとつ出来ないのか?」
と松岡は苛立ちながら呟《つぶや》いた。
彼は少し意地になって待った。もう一度掛けなおした方が早いような気もしたが、わざと待ち続けた。こうなると、なおさら一分一分が長く感じられる。およそ四、五分経過したと思われる頃、西巻の声が聞こえた。
「やあ、どうも」
といきなり馴々《なれなれ》しい調子で言ったところをみると、相手が松岡だと承知していて待たせたらしい。それを察知すると、さすがの松岡もかっとした。日頃の仮面が剥がれた。
「七分も八分も待たせておいて、どうもはないだろう。お待たせしましたのひと言ぐらい言えないのかね?」
と噛みついた。
「これが大口の預金客だったらどうするんだ。直ちに全額下して他行へ持っていくよ。だいたい、支店全体の士気がたるんでる。女子行員のしつけ一つ出来ないんだから、業績も落ちるわけだよ」
と言いつのった。
「………」
西巻は黙っていた。もし、申訳ないのひと言があり、そうがみがみ言いなさんなとでもいなされていれば、松岡も冷静になった筈である。ところが、この沈黙で無視されたような気配が生じた。
「おたくの支店の下降カーブはとくにひどい。どうしたらこんなに成績を落せるのか? 改めて聞かせて欲しいね」
と皮肉たっぷりにつけ加えた。
「いま手許に全店の集計速報がある。業績不振店舗をチェックしてるが、ワースト1は横浜支店だ。支店長として、いったいどんな対策を考えているのか? はっきりして貰いたいね」
と詰《なじ》った。
「………」
西巻は答えない。が、息遣いは聴こえた。
「そっちが返事をしたくない気持はわかるが、もはや電話でやり取りしている段階じゃなくなっている。近く不振店舗の対策会議を開く予定だ。具体的な対応策を持って本部まで来て貰うことになるからね」
と伝えるや、松岡は自分の方から電話をきってしまった。
受話器を置くと、少しさっぱりした。言うだけは言ってやったという思いが強い。いままでは西巻に対して何となく遠慮していた。敬意を払ってきたと言ってもよい。これからはもうよけいな気遣いはしない。対等以上にものを言ってやろうと決心した。同期であろうと先輩であろうと、支店長に遠慮していて業務推進部長が務まるかとも思った。
松岡は勢いに乗り、残る四支店の支店長たちに次々と電話を入れた。どの支店も横浜支店のように待たせない。いずれも、ほんの二、三十秒のうちに支店長本人が出て、問いつめられる前に業績悪化の理由をくどくどと並べたてた。同情を買うような言訳口調であり、力不足で申訳ないと陳謝する。あげくに、全力をあげると約束した。
松岡は手をゆるめず、具体案を求めた。近く呼び出す旨を告げ、担当専務の前で納得のいく説明をせよとせまった。もっとも、かりに専務が認めても、この自分が満足しなければむずかしいという事実をはっきりと匂わせた。こうなると、本店風を吹かすというより、むしろ、恫喝に近い。
とはいえ、これが本部の部長と現場の支店長の関係である。仕事になれば、ご都合主義のきれい事を並べても仕方がない。
西巻良平への電話は不本意なものになった。それに、無言で押し通した彼の対応が気に入らなかったが、他の支店長からはほぼ予想通りの手応えが返ってきた。そのせいか、ひと通りのチェックを終えるとほっとした。
石倉克己と松岡紀一郎は近くのビルの地下一階にある中華料理店へ行った。
二人はよくここで昼食を兼ねた打合せをした。同じ若手の部長だ。立場が似ている。彼等の場合、同期生で以前からの知合いであるのがプラスに働いた。
週一度開かれている部長会議でも、事前に議題の打合せをしておいて有利な方向へと導くことが出来た。そのため、両者はわざと反対意見を出したりして熱心に議論し、いつの間にかあらかじめ決めておいた結論へと、全員の意見を誘導するのだ。部長会での決定事項となれば、よほどのことがない限り常務会を通過した。
したがって、この二人は週に一度はたいてい何処《どこ》かで昼食か夕食を共にして、入念な打合せを繰り返している。お互いに、相手の協力が必要であった。
「やったね。神谷真知子を|MOF《モフ》担にしたそうじゃないか」
松岡はにやりと笑った。
「早いね。もう耳に入ったのか?」
石倉は驚いたふりをする。
「部内会議を開いて、引継ぎまで始まっている、となれば、知らない方がおかしいよ」
と言い返す。
「なるほど。何でもすぐ知れ渡る。油断も隙もないな」
石倉は顔をしかめた。
「本店じゃ早くも評判になっている。さすがだね」
「どんな評判かね?」
「期待度五十パーセントと言いたいところだが、現実はシビアーだね。成功率三に対して失敗の方が七ぐらいかな」
と教えた。
「じゃあ、予想より上だ。ぼくは一対九ぐらいのつもりだよ」
石倉は本音を漏らした。
「まさか? どうしてそんな賭けが出来るんだ?」
と松岡は口を尖《とが》らせた。
「注目の的になっている。もし、失敗したら恥をかくぐらいではすまないぞ。きみの今後の経歴に傷が付くよ」
と忠告する。
「まさにその通りだ」
と石倉は認めた。
「だからこそ、面白いじゃないか?」
と言い放って、眼を剥《む》き、松岡の顔を凝視する。
「面白い?」
と松岡は聞きとがめた。
「冗談じゃないよ。本気かい?」
と問いなおす。
「もちろんだ。考えてもみてくれ。オレたちは若い頃から何だかんだと批判されながらも、働きづめに働いてきた。その結果、四十代の終りになってようやく支店長や部長になった。しかし、これから先、役員になれるのは同期でただ一人だ」
「たしかに」
と松岡も渋い顔をした。
「同期でトップは西巻良平だろう。ナンバー2が調査部長の宮田隆男で、次がきみ、それに長谷部敏正やぼくが続く。これではとても重役なんかになれっこない。そこで、いろいろと思いきったことをやってみようと決めたんだ。その手始めに部内の人事をいじってみた。他人はどう思うか知らないが、真相はそんなところだね」
さばさばとした口調で言った。
「しかし、西巻は横浜支店で苦戦している。支店長としては長谷部の方が優秀だという見方が強くなってきた」
「きみが言い触らしているんじゃないのか?」
「とんでもない。上の方の評価だよ。それに、宮田は翻訳を始めただけではなく、将来は大学教授か経済評論家を目指して本を書きたいらしい。早く言えばアルバイトだからね。いくら優秀でも翻訳書なんか出しちゃったら、果して役員になれるかな?」
「きみはよく人の動きを掴《つか》んでいるね」
石倉は感心した。
「まあね。情報は無いよりあった方がいいだろう」
と松岡は答えた。
「とにかく、うちの部は近く業績不振店舗の支店長を呼んで締めあげることになっている。その代表選手が西巻だよ」
とつけ加えた。
「お手柔らかにやってやれよ。大手自動車メーカーの大工場が閉鎖されるだろう。西巻の支店はその影響をもろに受けている。不動産関連やメーカー、レストランのチェーン店なんかが次々と倒産した。いずれも横浜支店の大口取引先だからね。こうも連鎖的になると、支店長としては手の打ちようがない」
石倉は同情する口ぶりだ。
「あなたは総合企画部だからね。大所高所に立ってものを見ていればいい。こっちは毎日数字に追われっぱなしで預金の伸びに一喜一憂しているんだ。支店長たちに向かって、不況だから、倒産が多いから、不良債権を作っても預金が伸びなくてもいいとは言えんだろう」
声がいくらか大きくなった。
「そう興奮するなよ。きみらしくないぞ」
と石倉がたしなめた。
「なにしろ、頭取が西巻良平を買っているからね。かりに横浜支店でミソを付けたにせよ、理由がはっきりしている。大工場の閉鎖で県や市まで税収が減るんで慌てふためく始末だ。もともと責任感の強い優秀な男だから、本店の部長にでもなったら、すぐ力を発揮するよ。頭取もそのへんは勘案しているだろう」
と西巻の肩を持った。
「そうか、頭取がそんなに西巻を買っているのか?」
声が小さくなった。
「場合によっては、きみと西巻くんが交代なんてことになりかねないよ」
と揶揄《やゆ》するように言う。
「何だって?」
松岡の表情に怯えが走った。
「冗談だよ」
と石倉はにやつきながら言う。
「わかったぞ。もし、西巻と宮田がこければどうなる? われわれの同期で取締役になるのは、ほかならぬきみじゃないか?」
と言いつのる。
「わるい冗談を言うな」
松岡はぎょっとしてたしなめた。
「そうなれば、ぼくより、きみか長谷部になるだろう」
とあえて主張する。
「さあね」
石倉は首をひねった。
長谷部敏正は名古屋支店で苦戦していた。
名古屋を中心にした中部地区の場合、東京や大阪にくらべると、不況の波の到来がいくらか遅れる。
おかげで、いま頃になって深刻さが増してきた。
もっとも、東京や大阪にくらべると、一般的に事業の規模が小さい。むろん、例外はある。が、売上や従業員数が少い分だけ堅実であった。営業基盤がしっかりしていて、就業年数も長い。
言いかえれば、過去何回かの不況に立派に耐えて生き残ってきた会社が多かった。それだけに、少々の不況ではあまり動じない。売上の減少にもさして慌てず、赤字を出しても耐えられるだけの資産を持っていた。
ところが、不況が長びいて深刻さが増してくると、事情が変わり始めた。需要の激減と消費者の買控えが影響しないわけはなく、不況業種の裾野が一気に拡大してしまった。
波及の遅かった名古屋地区も東京や大阪に追いついた感が強い。
名古屋支店長の長谷部が苦戦するのも無理はなかった。
古くからの取引先が次々と連鎖倒産に見舞われている。そのあおりで倒れた会社もある。倒れかかったまま青息吐息の会社も多い。
厄介なのはこういう会社だ。社長が顔色を変えたり、目尻をつり上げたり、意気|沮喪《そそう》したり、反応はさまざまだが、いずれも後には引かぬつもりで銀行へ馳け込んでくる。
長谷部にしてみれば、またかという感が強い。しかし、顔には出さず、誠意を見せて応対する。彼の生真面目な顔付や態度が相手を安心させるのはたしかだ。
あげくに、結局は面倒を見ることになる。その分だけ後向きの貸出しが増えた。前向きの設備投資や運転資金ではないから、資金が資金を生まず、預金としてはね返るどころか、下手をすれば不良債権になってしまう。デメリットの多い融資である。
自動車の部品下請メーカーも栗田建設もこのケースだ。経営者の経営能力もさることながら、不況の荒波が予想以上の高さに達しているため、フォローしきれなくなってずるずると後退して行く。
資本のストックが多く、無借金経営に徹してきた企業は逆風にも耐えられる。しかし、過大な設備投資や社屋や店舗の増設、販売網の拡大等を図った会社は無惨なありさまとなった。
おりもおり、大口取引先のデパートが長年預入れたままになっていた定期預金を取り崩すと通告してきた。
担当者が青ざめた顔で報告した。長谷部はすぐ経理部長に電話を入れてアポイントを取った。
老舗の有名デパートである。長谷部は裏側の別棟になっている事務所を訪れる前に、店内に入ってエスカレーターに乗った。各階で下りて、さっと一周する。どのフロアーもお客の数が驚くほど少い。ウィークデーの午後のせいもあるが、それにしても顧客の数が少すぎた。店員たちが手持ぶさたな表情でたたずんでいる。
「やはり」
と長谷部は呟いた。
この分では売上はずるずると落ちてゆく。おそらく、催物の企画をしても、企画倒れで集客につながらないのだろう。集まってきた客もあまり買物をせず、家具、宝石、絵画、婦人服など高級品売り場は素通りしてしまう。あげくに、地下の食料品売り場で惣菜類を買って帰る。これでは売上は伸びない。
果して、デパートの経理部長と長谷部の話合いは暗礁に乗り上げた。
経理担当の常務に挨拶したいと申し出ても、今日は出張中だと逃げられてしまった。
夕方、疲れ果てて帰ってくると、訃報が入っていた。
「本店の人事部から電話がありまして、横浜支店長の西巻良平さんが急に亡くなられたそうです」
と副支店長の村上が報告した。
「西巻くんが、急に亡くなった?」
長谷部は半ば口を開けて訊き返す。信じられない顔付だ。
「ほんとうかね?」
とたしかめた時には表情が強張《こわば》っている。
「残念ながら、間違いありません」
と村上は答えた。
「今日、十一時過ぎに取引先の会社で倒れて、救急車で運ばれる途中亡くなられたそうです。死因はくも膜下出血と聞きました」
村上は重ねて知り得た情報を伝えた。
「………」
長谷部は返事をしない。しばらくぼんやりした顔付で立っていた。
が、急に身をひるがえすと、支店長室の中に飛び込み、音を立てて内側から勢いよくドアを閉めた。この時になって、昨夜遅く西巻から電話があった事実を思い出した。彼の帰りはさらに一時間以上遅かったので、妻の綾子から告げられたものの、こちらから掛けるのはやめた。明日連絡してみるよ≠ニ気軽に応じたのがくやまれる。朝から動き廻ったため、うっかり忘れていたのだ。
「何ということだ!」
とわめいて、拳で机を叩いた。
何か告げたいことがあったに違いないという思いがこみ上げてきた。
村上は痛ましそうに閉じられたドアを見つめ、首をたれて自分の席に戻った。
融資課長が書類の束を抱えて二階から下りてきた。
「支店長が帰ってこられたと聞きましたが、どちらですか?」
と村上に尋ねた。
村上は支店長室を指さしたものの、首を横に振った。
「しばらく、そっとしておいて貰いたい。誰も入っちゃいかん」
と村上は告げた。
融資課長は怪訝《けげん》な顔をした。
「いま、西巻支店長が倒れたまま亡くなられたことをお知らせしたところだ」
と教える。
「そうでしたか。二階でもショックで仕事が手につきません」
「支店長は西巻さんとは同期入行で、昔から親しい間柄だったから、いきなり亡くなったと言われて、ショックが大きいんだ」
「横浜支店は大変だったようですね」
「業績が急激に落ちている。工場閉鎖や次々と連鎖倒産が続いていたからね。支店長としてはストレスも貯まった筈だ。後向きの対応をせまられて追われづめだったに違いないね」
と村上は断定する。
「これは過労死でしょう」
と融資課長が言った。
「だろうね」
と村上も同意した。
「本店申請の書類ばかり持ってきましたが、今日中に支店長の印鑑を貰いたいんです。一日遅れると預金の分止《ぶどま》りにも響きますから、よろしく」
融資課長は一転して仕事に移った。
「わかってるよ。あと三十分したら、ぼくが入ってみる。その上で連絡するから」
と村上は応じた。
「お願いします」
融資課長は重い足取りで二階に戻って行った。
一方、支店長室の長谷部敏正は来客用のソファーに坐り込んで、およそ十分ほど、ぼんやりと壁を見つめていた。壁にはありふれた風景画が架けられている。が、彼の眼は絵を見てはいない。何を見ているのか、本人にもわかってはいなかった。
およそ十二、三分が過ぎると、彼はもぞもぞと動き出して机まで移動し、引出しを開けて本店の機構図を取り出した。各部署の脇に内線の短縮番号が出ている。
彼は石倉か松岡か一瞬、迷った。
が、すぐに石倉の番号をプッシュしていた。
「もし、もし」
と言い終らないうちに石倉のきびきびした声が聞こえてきた。
「二時間ほど前に連絡したら、夕方帰ると聞いたので、たったいま電話をしようとしたところだよ」
「西巻くんの件だろう」
と長谷部は力なく言った。
「ここ三、四日、家に帰っていなかったらしいよ。彼、血圧が高かったからね。明らかに働き過ぎだよ」
一気に言う。
「いま病院から帰って来たんだがね。担当医の話も聞いた。手の施しようがなかったそうだ。総務部長と松岡くんが自宅へ向かっているよ」
と教えた。
「たぶん、明日がお通夜になる。葬式の日取りは決っていないが、明後日だろう。おい、聞いているのか?」
石倉の声が少し大きくなった。
亡くなった西巻良平の自宅は横浜でも東京寄りの港北区篠原町にあった。東横線の白楽駅から歩いて十二、三分の距離である。父親の代からここに住んでいるため、家は古い。そろそろ建て替えの時期になっていたが、先に当主が亡くなってしまった。
享年四十九、まだ若い。中途半端な年齢と言ってもよく、残された者たちにとっては心残りの多い死である。まさに、働き盛りの死だ。
この夜は通夜に当る。陽が落ちようとする頃から、地味な服装の弔問客たちが訪れ始めた。当然のことながら銀行関係者が多い。取引先の社長や専務の姿も見受けられた。
名古屋から新幹線で来て新横浜で下りた長谷部敏正は、駅前でタクシーの列に並んだ。以前、と言ってももう十年以上前に西巻の家に招かれたことがある。小柄な奥さんと幼い娘二人がいた。たぶん、道で出会ったのではわからない。彼はスーツの左ポケットに手を入れ、数珠のありかをたしかめた。
遺体の棺が置かれた仏間には線香の匂いがたち込めている。遺影の飾られた正面の祭壇の左右には白い蝋燭の炎が燃えていた。
長谷部は数珠を取り出し、遺体の前で掌を合わせた。
──働き者のきみのことだ。やり残したことがいっぱいあるだろう。わかってるよ。おそらく、いや間違いなく、無念の思いを噛みしめているに違いない。だが、もう終った。何も考えないで、どうか、ゆっくり休んでくれたまえ。後はわれわれが引き受ける。
口の中でそう呟いた。
奥さんは思ったより老け込み、二人の娘は大学生と高校生になっている。長谷部は少し身を縮め、丁重に挨拶した。
「いまはお取り込み中なのでひかえますが、近いうちに後のことを相談させて下さい」
と長谷部は言い添えた。
石倉克己と松岡紀一郎は先に来ていた。彼等は昨夜も来たし、今日も午後早くからつめている。
三人は久しぶりに顔を合わせた。
まさか、こういうかたちで出会うことになるとは思いもしなかった。彼等は互いに会釈し合ったものの、この場で声高に話し込むような真似はしない。たぶん、いっしょに帰れる筈だ。初めから、場所を変えて話し合うつもりでいる。
銀行関係者の姿が目につく。役員や部長、僚店の支店長クラスも次々とあらわれた。いずれも神妙な顔付で焼香した。
そのうち、玄関のあたりがざわめいた。
「頭取が来た」
と誰かが囁《ささや》いた。
「やはりね。西巻支店長は頭取のお気に入りだったからな」
という声が続く。
銀行関係者たちは一様に緊張した。なかには慌てて顔を伏せた者までいる。
秘書課長に先導され、頭取の杉本富士雄があらわれた。角型のいかつい顔をしており、眼光も鋭い。中肉中背だが、肩幅の広いがっしりした体格のため同じ位の背丈の人より大きく見える。
硬い表情で、ひとことも口を開かず、むろんまわりに会釈もしない。役員や部長たちの叩頭《こうとう》を完全に無視した。
まっすぐ棺の前まで進み、膝を突いて遺影を見つめながら、焼香し、掌を合わせた。
それから、夫人と娘二人の前へ行き、小声で何か言っている。控えの間までは声が届かず、頭取がくどくどと何を言ったのかよくわからなかった。やがて、両者は丁寧に頭を下げ合い、セレモニーはあっけなく終りを告げた。
頭取はつと立ち、そのまま控え室の脇の廊下を通って出口へ向かった。銀行関係者たちはいっせいに頭を下げたが、頭取はわずかに頷《うなず》いただけである。せいぜい三、四分の出来事であった。
ただ、頭取が帰ってしまったのがはっきりすると、ほっとした雰囲気が流れた。
きっかけを狙っていたのであろうか? それをしおに立上る者が出てきて、すぐ何人かがこれに続いた。おかげで控え室も空いてきた。
松岡紀一郎はそっと腕時計を見た。八時五分過ぎである。三十分後、銀行関係者たちは大半姿を消していた。
石倉克己は殆ど表情を動かさずに坐っており、長谷部敏正はうなだれて下を向いたままだ。松岡はもう一度時計に眼をやった。
彼はゆっくりと石倉の方を向き、腕時計を指でさして頷いてみせた。
石倉も頷き返し、長谷部の肩を突ついた。突つかれた長谷部はおやという顔をした。
「さあ、三人でもう一度お参りさせて貰おう」
とすかさず松岡が言った。
彼は他の二人を促して、先に祭壇の方へ近付いて行った。
続いて、石倉が立ち、長谷部もつられて後に続いた。
松岡が最前列に坐り、少し後方の左と右に石倉と長谷部が坐った。三人は合掌して、眼を閉じ、頭を下げた。西巻良平に向かって、思い思いの胸のうちを述べ、別れの言葉に代えた。
「そろそろ失礼しよう。あまり長居をすると、却《かえ》ってご迷惑だ」
祈りが終ると低い声で言う。
三人は遺族の方へ移動して、もう一度挨拶の言葉を述べた。松岡の口調がもっとも滑らかだ。石倉は言葉が少く、長谷部は少しおどおどしていた。
三人は外へ出た。
白楽駅を目指して歩いて行く。長谷部だけが少し猫背になり、何度もふり返った。他の二人は前方だけを見て歩き、いくらか急ぎ足になった。
駅前の通りまで来ると、松岡が右側を指さした。
「六角橋の方へ向かってみよう。馴染みの店は無いけど、何処でもいいよな」
と念を押す。
「そうだな。寿司屋でも探すか」
と石倉が応じた。
道はやや下り坂になっている。そのせいか、歩きやすい。長谷部は黙って二人の後について行った。
下り坂の中途あたりに小綺麗な寿司屋があった。
「どうだろう。あの店は?」
と松岡が顎をしゃくった。
「いいね。おあつらえ向きだ」
と石倉が応じた。
長谷部は黙って頷いた。
のれんをくぐるとすぐ、松岡はカウンターに坐ろうとした。
すると、長谷部が四人掛けのテーブル席の方を指さす。
「向かい合って坐った方がいい。こっちにしよう」
と申し出た。
「わかった」
石倉がすぐ賛同してまっ先に椅子を引いた。
続いて、長谷部が反対側に坐り、松岡がちょっと未練気にカウンターの方を見ながら近寄ってきて、その脇に坐った。
「わるいね。寿司を握ってるお兄さんと話をするのもおっくうなんでね」
と長谷部が言訳する。
「まったくだ。いちいち、赤貝だあなごだなんて言うのも気が滅入る」
石倉が同調した。
「おい、おい、何を言ってるんだ」
松岡は呆れ顔だ。
「どうもいかん。柔軟性を失くしている。中年男のわるい癖だよ」
とつけ加えた。
石倉はふんと言いたげな顔付で、注文を聞きにきたおかみさんに向かって、ビールと酒を頼み、次いで盛り合せの刺身と特上のにぎりを三人前注文した。
ビールがくると、何となく乾杯になった。
「西巻良平くんの冥福を祈って」
長谷部がぼそぼそと言う。
「残ったわれわれの健康のために」
と松岡が言い添えた。
石倉は黙っていたがビールを飲む速度は一番早かった。
「ほんとうは次の本店での会議が終った後、三人で集まろうと思っていたんだがね」
殆ど飲みほしてしまったコップを置くと、石倉がぽつりと言った。
「まったく、思いがけなかったよ」
松岡は首を少し右に傾けた。
「正直なところ、どきりとしたね。西巻だけの問題じゃない。みんな多かれ少かれオーバーワークだからね。過労死ということになれば、われわれ全員が該当する。誰が死んだって不思議でも何でもないよ」
とつけ加えた。
「四十代の後半から五十代の初めの、いわばわれわれの世代は、それより上の六十代、七十代の人たちにくらべたら、どうしようもないね。精神的にも肉体的にも弱いんだ。とても比較になりゃあせんよ」
石倉が投げやりに言い、自分でビールのコップを満たした。
「たしかに、われわれの幼年時代や少年時代は厳しかった。が、すぐ高度成長時代が始まり、食べ物も電化製品も含めて、物がたくさん出てきた。それからはもう腹を空かした経験もなく、とくに不自由した覚えもない。おかげで、鍛えるべき時に鍛えそこなったんだ」
と長谷部が言った。
そこへ酒と刺身の皿が運ばれてきた。
「まあ、いこう。あなたが一番遠くから来ているからね」
松岡がまず長谷部の杯を満たした。
「反省もいいが、お互いに躰《からだ》には気を付けよう。おれたちは生きなきゃならん。西巻の分まで頑張るほかはない」
と言い張る。
「ふん」
石倉が鼻を鳴らす。唇の両端に皮肉な笑いが浮かんでいる。
「ところで、宮田隆男はどうしたんだ? 姿が見えなかったようだが」
と長谷部は訊いた。
「宮田はいま翻訳で忙しいんだ。明日の葬儀には出ると言っていたよ」
と松岡が教えた。
「そうか、お通夜には来ないのか」
長谷部は憮然とした顔付になった。
「宮田は優秀な男だが、身勝手で付き合いがわるい。銀行の組織には向いてないと思うよ。本人も大学の経済学部の教授の椅子を狙っているようだよ」
「ほんとうかね」
と訊く。
「そんなところだよ。この男の情報はわりに正確だからね」
石倉が松岡の方を向いて顎をしゃくった。
「すると」
と長谷部は呟いた。
「そうだよ。きみが考えている通りだよ」
と松岡が口を尖らせた。
「何が?」
と長谷部は怪訝な顔をした。
「わかってる。とぼけなくてもいいよ」
と言いつのる。
「何もとぼけちゃいないよ」
長谷部は不服そうな顔をした。
「いいから、いいから、ぼくが代りに言わせて貰おう」
と松岡が横取りする。
「われわれ同期生の中から取締役が一人選ばれる。いままでトップを走っていた西巻が亡くなり、二番手の宮田も脇道へ入ろうとしている。こうなれば、誰が見ても残ったのはこの三人だ。即ち、おれたち三人のうちの誰かが他の二人を蹴落して役員への道を進むことになる」
そう言い放って、残る二人の顔を等分に見くらべた。
「………」
長谷部は眉に皺を寄せた。
「残念ながら、松岡の言うことはたいてい当るんだよ」
石倉はにやりと笑いながら応じた。
「期せずして、今夜のお通夜で、次期の取締役候補者三人が集まったことになる。しかも、三人が仲良く酒を飲んでいる」
と面白そうに言う。
「まあ、好むと好まざるにかかわらず、これからは競争になるだろうね。頭取以下の役員たちや人事部長はわれわれの能力や仕事ぶり、忠誠心や将来性、それに健康まで含めて、厳重なチェックを怠たらない筈だ。ご苦労さまだよ」
と松岡が続けた。
「いずれにせよ、注目されているということになれば、われわれとしても仕事にはずみがつく。むしろ、やり甲斐があるかも知れんな」
石倉は不敵な笑いを浮かべていた。
「その代り、風当りも強くなる。競走馬のようにかりたてられるかも知れん。思わぬ所に陥《おと》し穴《あな》が用意されていて、多くの人たちが期待に満ちた眼ざしで落ちるのを待っている」
と松岡も解説する。
「厭だね。ぼくは」
と長谷部は渋面をつくった。
「そんな競争に加わるのはごめんだ。性に合わん」
と言い放った。
「好き嫌いの問題じゃない。無理やりスタートラインに引っぱってこられたサラブレッドの四歳馬のようなものだ。宮田のように転身するなら別だが、銀行に残る以上、前を向いて走らざるを得ないだろう」
と石倉も主張した。
「つい先ほど、杉本頭取は帰り際にじろりとわれわれ三人の方を見た。もう選別が始まっていると考えた方がいいね」
と松岡は目配せする。
「しかし、どうだろう。いくら競争相手だからと言って、三人が仲良くしてはいけないという法はない。これからも協力して、助け合っていきたい。足の引っぱり合いは断じてしないと決めたいがどうかね?」
と提案した。
「もちろんだ。競争は競争だが、お互いに協力は惜しまない。これでいこう」
と石倉も言いきった。
二人は長谷部を見た。これでどうだと言わぬばかりの眼ざしである。
「ぼくは競争なんかしない。勝手に走るよ。だが、きみたち二人には今後共大いに協力する。また、いままで同様仲良くやっていきたい」
と彼は本音を明かした。
「それでいい」
と石倉がすぐさま了解する。
「では決った。われわれの紳士協定はここにめでたく成立した」
松岡がわざと大仰につけ加えた。
西巻良平の通夜と葬儀に出た長谷部敏正が名古屋に帰り着いて一週間が過ぎた。
空席になった横浜支店長のポストはすぐに埋められた。調査部長の宮田隆男が辞令を受けた。
十月に入ると、部長、支店長クラスの異動がある。かなり大規模なものになりそうだと情報通を誇る松岡が電話で伝えてきた。
「たぶん、同じセクションに二年以上いる幹部社員は異動の対象になるよ。きみだってそろそろ危ないところだろう」
と彼は言う。
「冗談じゃない。名古屋支店はやっとこれから伸びそうになってきたばかりだ。いま交代じゃどうにもならんよ」
と長谷部は声を荒げた。
「まあ、そうむきにならずに、情報として聞いておいてくれよ」
と松岡は軽くいなした。
「ところで、西巻の後任で今度横浜支店長になった宮田隆男の翻訳は完成したらしいぞ。今年の末頃には経済もの専門の出版社から出版されると聞いた」
「それはすごいな。同期会で何かお祝いをしようよ」
と提案する。
「なるほど、何人かに話してみよう」
と松岡は請け合った。
電話が終ると、長谷部は店頭のロビーに出た。
彼はたいてい一日に一回は客だまりへ出て行って、ゴミや紙クズがあれば拾うし、円形のテーブルの上のボールペンや伝票類、朱肉などがきちんと整備されているかどうかをたしかめる。
もっとも、それが主な目的ではない。目的は別にあった。預金の預入れや引出し、為替送金や他行、他支店への振込、両替等々、何らかの用件で銀行に来た人たちと、短い言葉を交わす。苦情があれば聞く。要望があれば受けたまわる。何もなければ世間話を交わすのだ。
とにかく、はっきり支店長だと名乗って、訪れた人たち全員に挨拶して廻る。短いのが残念だが、支店長が顧客の一人一人と話をする。これが目的である。
老人たちや子持の婦人にはとくに親切にした。
この日も、店頭のロビーへ出て行くとすぐ、赤ちゃんを抱いた若い奥さんが困っているのが目に入った。子供がむずがるので、払出しの伝票にきちんと数字が書けない。
「支店長の長谷部です」
とまず挨拶する。
「可愛い赤ちゃんですね。ぜひ抱かせて下さい。さあ、さあ。その間にゆっくりご印鑑を押して数字の記入もお願いします」
言いつつ、赤ちゃんを抱き取って、しきりにあやす。
抱き方やあやし方がいいのか、子供はたちまち機嫌をなおした。
「やあ、いい子だね。実に可愛い」
あやしながらロビーを行き来する。
子供はきゃっきゃっと声をあげて喜び、すっかり長谷部に懐《なつ》いてしまった。
母親はその光景を横目で見て、嬉しそうな表情で伝票に記入を始めた。
ちょうど長谷部が赤ん坊を抱き取った時、一人でロビーへ入ってきた老紳士がいた。
肩幅の広い骨格のがっしりした人で、高級なスーツをきちんと着こなしている。角型のややいかつい顔付ながら、表情に威厳と気品があった。
この人物はすぐ長谷部を見分けた。そして、直ちに支店長の行為の目的を察知した。
すると、ごく自然に眼を細めた。数歩壁際に寄って、長谷部の動きを見守った。
そこへ、店内から預金課長が額の汗を拭いながら駆けつけた。頬が上気して薄赤く染まっていた。
「いらっしゃいませ」
と最敬礼する。
「杉本頭取さまですね」
と恐る恐るたしかめた。
「うむ」
と杉本は返事をした。
「わたしにさまはいらんよ」
とたしなめて、愉快そうな笑顔を浮かべた。
「きみのところの支店長、なかなかやるじゃないか」
と満足そうに言った。
「はあ」
と預金課長はかしこまった。
「ただいま呼んでまいります」
「いいよ、きみ、放っておきたまえ。赤ちゃんが泣くといかん」
と杉本は止めた。
この時点で、長谷部はまだ頭取の不意の来訪を知らない。
若奥さんは、ようやく伝票を書き終えて窓口へ提出した。彼の役目は終った。
赤ちゃんを返そうとすると、今度は幼児の方が嫌がって長谷部の肩にしがみついた。無事に返し終るのにひと苦労した。
すぐ近くで、今度は老婆が伝票を引き寄せたまま見にくそうに顔をしかめている。
「おばあちゃん、ちょっとこの眼鏡使ってみて下さい」
店頭へ飛んで行って用意してある老眼鏡を取ってきた。
「どうです。よく見えるでしょう」
「ほんとや、よう見えますわ」
と言いつつ、老婆は振り向いた。
「あんた、どなたやね」
と誰何《すいか》する。
「あ、申し遅れました。わたし、この店の支店長です」
深々と頭を下げた。
「ほおかね。あんさんが支店長さん」
と言いつつ、老婆は老眼鏡越しに長谷部の顔を見つめた。
「なかなか、ええ男や」
と感じ入ったように呟いた。
預金課長がたまりかねて近くまで来た。
「支店長!」
と呼ばれて首を曲げると、二メートルほど先に杉本富士雄が立っていた。
「あ、頭取!」
と思わず叫んだ。
まわりの顧客たちがいっせいにこちらを見た。
「皆さん、頭取の杉本でございます。東京からやってまいりました。支店長が一生懸命やっております。今後共、名古屋支店をよろしくお願いいたします」
杉本はよく透る声で堂々と挨拶した。
[#改ページ]
第三章 人事異動
東京大手町にある三洋銀行本店の役員会議室には少数の大物役員たちが集まっている。
臨時の人事常務会が開かれていたのだ。役員人事まで含む大がかりな人事異動のため、通常の会議だけではおさまらず、余分の会合が持たれることになった。
頭取の杉本富士雄をはじめ、二人の副頭取、勝田忠と成瀬昌之以下専務、常務クラスの七人が出席している。すでに最終案が出されており、今日の会議で結論が出されることになっていた。
人事担当の専務が一同を見廻した。
「いかがでしょう。すでに皆様からご意見や提案を受けたまわっております。各部長との折衝も終っており、ここに当行の今後の発展に大いに寄与出来る人事異動案を提出いたしました」
杉本は鷹揚《おうよう》に頷《うなず》きながら、老眼鏡をかけ、手元の書類をめくり始めた。勝田も成瀬も同じように最終案に眼を落した。
杉本は六十九歳だが、四、五歳は若く見えた。一つ年下の勝田は細面で弱々しく近頃急に老け込んできた。初対面の人は頭取より数歳は上だと思い込んだ。
成瀬はずっと若く、まだ六十歳になったばかりである。さすがに上位の二人にくらべると若々しい。馬力も活力もあった。
そのうち、杉本が顔をしかめた。怪訝《けげん》な顔付になった。
「きみ、この前話した名古屋支店長の長谷部くんの名前がどこにも出ておらんじゃないか? どうしたんだね?」
専務の方を向いて顎をしゃくった。
「はあ」
と専務の大森英明は返事をした。
「はあじゃわからん。いったい、どうなってるんだ」
と直ちに追及する。
声音に実力者頭取の迫力があった。
「はい、長谷部支店長は業績の低迷が目立つ大店舗の中で、唯一と言ってよいほど、苦戦しつつもじりじりと数字を伸ばしている支店長です」
「その通りだ。実によくやっておる」
と誉めた。杉本の表情は、少し柔らかくなった。
「長谷部くんは赴任して二年になりますが、ようやく自分の方針が滲透してきた、少くともあと一年は名古屋支店でやらせて欲しい、そうなれば支店の業績は軌道に乗ると人事部長に申し出ております。したがいまして、その点を考慮し、今回の人事異動からはずしました」
大森は淀《よど》みなく理由を述べた。
「何だと?」
杉本の眼付が険しくなった。
「きみは何年人事担当の専務をしておるんだね? え?」
と訊く。
「………」
苦労人の専務は黙り込んだ。うかつに、「はあ」などと言えばよけいあげ足を取られる。
「いつから当行の人事は本人の希望を聞いた上で動かすことになったんだ。勝田くん、きみが許可したのか?」
とかたわらのナンバー2をふり返った。
「そんな覚えはございません」
勝田忠は困惑顔で答えた。
「では、成瀬くんが命令を出したのか?」
と反対側を向いて、尋ねる。
「とんでもありません。人事は厳正中立です。本人の希望や思惑は無視するのが当然です」
成瀬昌之は慌てて言いつのった。
「二人の副頭取はこう言っておる。わたしも方針の変更などまったく聞いてはおらん。きみの独断が通るとでも思っているのかね?」
言い放って、じろりと専務を睨《にら》んだ。
「申訳ございません。わたくしの勘違いでございました」
大森は丁寧に頭を下げた。
「勘違いではなく、誤りだろう」
「はい、誤りでございます」
「わかればいい。よし、誤りなら訂正すればよろしい」
と機嫌のなおった顔で言う。
「わかりました」
大森はもう一度|叩頭《こうとう》する。
「ついでに言っておくが、この間きみに名古屋支店長が赤ん坊をあやしておった話をしただろう。あの時、長谷部くんを本部の中枢部へ持ってきたまえと小さな声でつけ加えた筈だ。もう忘れたのかね?」
「いえ、覚えております」
「覚えておるなら、どうしてその通りにせんのだ。わたしの言葉を無視したことになる。二重の過ちだな」
「………」
「以後、気を付けて貰おう」
杉本はあっさり譲った。
「ところで、長谷部くんをどこへ配属するかだ。ああいう働き盛りの人物には力を出して貰わねばならん」
と言いつつ一覧表を見てゆく。
杉本の眼がある個所でぴたりと止まった。
「融資部長の小村くんは何年やっておる?」
と訊いた。
「三年半になります」
と大森が答えた。
「そのわりに成果を上げておらん。長谷部くんと交代させたまえ」
と命じた。
「承知しました」
とまず大森が応じ、二人の副頭取も無言で頷いた。
「ただし、名古屋支店へ行ったら長谷部くんの方針をしっかり引き継ぐこと。それが出来んようなら、これ以上の面倒は見られないよ。小村くんは直ちに出向要員だ。いいかね、眼を離すな。よく見張ってくれたまえ」
と念を押した。
この件がすむと、後はすんなり通った。数分後に最終案は可決された。
銀行全体の人事異動の前に、総合企画部内では仕事の配置替えをおこなった。
部長の石倉克己が一足先に部内の活性化を図ったのだ。
ナンバー1の次長を|MOF《モフ》担からはずして新任の神谷真知子を起用した。これには役員はじめ本部内の多くの者たちが驚いた。奇抜なことや新しいことの好きな杉本頭取も、いったん了解したものの不安になって石倉の意向をたしかめたくらいだ。
もともと部内の人事には人事部長も口を出さない。部長一任で通っている。その代り、失敗すれば部長を更迭してしまう。
ただ、ことが対外的な影響もあるMOF担だからこそ、石倉は慎重を期し、一応トップの了解を得たのだ。その上で担当専務や人事部長にも事前に報告しておいた。
彼はこれで十分だと考えた。ところが、MOF担が女性になったことと、その女性が神谷真知子であったため、あちこちの注目を集めてしまった。
さいわい、はずした次長にはもっと大きな仕事がきた。頭取の当面の経営方針を徹底させるための委員会の事務局が総合企画部内に置かれた。そのキャップに就任させた。
これで、一応は格好がついた。が、外野席では何かが起るのを期待している。しかも、その何かが重大な失敗で、神谷真知子はもちろん、それが石倉克己の地位をも危うくさせるものであればあるほど面白い。多くの者が、いっせいに嘲笑の声をあげようとして待っていた。
こういう銀行内の様子を、松岡がいち早く掴《つか》んで教えてくれた。
「まったく、よせばいいのに、よけいなことをしたものだよ」
と彼は呆れ顔で言った。
「神谷真知子のMOF担がそんなにおかしいかね?」
と石倉は首をひねった。
二人は石倉の部長応接室で向かい合っている。
「おかしいというより異常だよ」
「もっとわるいじゃないか?」
「まあね」
と松岡はとぼけた。
「神谷くんはね、もう引継ぎを終えて一人で活躍を始めているんだ。おいおい成果も出てくる。妙な噂を口にする連中にはきみの口からはっきり言ってやってくれ」
「何て言うんだね」
「彼女は立派にやっている。MOF担が女性じゃダメだなんていうのは迷信だ。そう伝えてくれ」
と言いきった。
「やれ、やれ、どうやらきみも魔女の呪いに取り憑かれたな」
「魔女って誰だ」
「決ってるじゃないか? 神谷真知子だよ」
松岡は真顔で言った。
「いいかげんにしてくれ」
石倉は腰を上げた。
「また情報が入ったら、知らせに来るよ」
松岡は石倉の気配を察してそう言い置くと、さっさと部屋を出て行った。
松岡の姿が消えると、石倉はまたどっかりと腰を下した。
ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
と声を掛けた。
ドアがゆっくりと開き、神谷真知子が遠慮がちに入ってきた。
「よろしいでしょうか?」
しおらしく訊いた。
「いいですよ」
と石倉は応じた。
「わたくしのことで、ご迷惑をお掛けしているんじゃないかと思いまして」
と俯《うつむ》きながら言う。
「MOF担のことで?」
とたしかめた。
「そうです」
と彼女は頷いた。
「冗談じゃない。そんなことはまったくありません」
石倉はあえて強調した。
「ほんとうでしょうか?」
「ほんとうだとも。今度の人事についてはすべてぼくの責任だ。きみには何の関係もない。きみは自信を持って、自分の仕事に立ち向かってくれればいいんだ」
と伝えた。
「はい」
「わかったね」
と念を押す。
「わかりました。でも」
と言い淀む。
「でも、何だね?」
「変な噂が流れているんです」
と訴える。
「どんな噂かね?」
「申し上げてもいいですか? お怒りになりませんか?」
と気遣う。少くともいままでの勝気で身勝手な神谷真知子とは別人のような感さえある。そう言えば、彼女はMOF担になった時から目に見えて女らしくなった。反抗的な要素がすっかり影をひそめている。一時的かどうかはまだわからないが、すべてに驚くほど従順だ。
仕事にも熱意を持って取り組んでいた。こういう変化は、それまでの彼女を知っている者にとっては驚愕に値する。
予想が当った。誰も使いこなせなかった彼女がやる気を出して、実に溌剌《はつらつ》と働いている。陳腐な言い方をすれば、水を得た魚のようだ。それを感じて、石倉はひそかにほくそ笑んでいた。
「怒るわけないだろう。言ってみたまえ」
と石倉は先を促した。
「よろしいですか?」
「いいよ」
「実は、石倉部長さんとわたくしの間に肉体関係があると言い触らされています」
と告げた。
「何だって?」
石倉は愕然とした。
このような不埒《ふらち》な噂は、当の本人のところへはまったく届いていない。もともと噂とはそのようなものなのか? 先ほど、松岡が思わせぶりな言い方をしたが、さすがに当人にははっきりと言えなかったのか?
いずれにせよ、由々しい噂である。もし、あのうるさ型の頭取の耳にでも入ったらと思うとぞっとしてきた。
「ほんとうかね?」
と力なく訊く。
「残念ながら」
と彼女は答えた。
「そんな噂が立ったのでは、ぼくよりきみが迷惑する。きみは独身で綺麗で、将来性のある女性《ひと》だからね」
「いえ、わたくしより部長さんの方が心配です。今後の出世にかかわりますわ」
双方が相手への思いやりを見せた。
「ぼくなんかどうせ踏みにじられてきた方だから、たいして気にはならんよ」
石倉は強がりを言う。
「これからは違います。部長さんは今が一番大切な時です。でも、中身は見かけよりずっと優しい方なんですね」
と彼女は漏らした。
「こうなったら、お互い出来るだけ用心しよう。この際、下らぬ噂は粉砕してしまわなけりゃあいけない」
と真知子を励ますように言ったものの、実のところ、具体的にどうすれば粉砕出来るのか、見当もつかなかった。
九月末の多忙な業務に忙殺されているさなかに、本店人事部から通知が出された。
十月一日の午後五時に本店の人事部会議室に集合すること、との通達が人事部長名で出されたのである。
名古屋支店長の長谷部敏正もこの通達を受け取った一人だ。
支店の月末は多忙をきわめている。本人は飛び廻っていた。代りに副支店長の村上が本部からきた重要書類を選《よ》り分けているうちに、ワープロで打たれた文書を目にした。
長谷部は時折、出先から支店に電話を入れる。何が起るかわからないからだ。留守番はたいてい副支店長である。副支店長が出掛ける時は支店長の方が在席することに決めてあった。仕事によって多少の行き違いはあるが、それはやむを得ない。そういう時は融資課長か預金課長が代行する。
「何か変わったことは?」
いつも口調が決っている。
「とくにありません」
と村上の返事も毎度判で押したようなものだ。
これが通常のやり取りであり、村上の口調が変わるようなことがあっては困る。
この時も、村上はいつもと変わらぬ返事をした。ただ、附録があった。
「人事部から通達が一つきています」
とつけ加えた。
「どんな通達かね?」
「人事部長名で十月一日午後五時に人事部会議室に集合せよとの内容です」
村上は正確に告げた。
「何だって?」
長谷部は街角の電話ボックスの中で少し顔色を変えた。
松岡から人事異動についての情報も入っていた。すぐにぴいんときた。呼び出しが掛かったとすれば、すでに異動は決定事項になっている筈だ。
すると、先日、人事部長にそれとなく希望を伝えておいた事柄が無視されたことになる。あれは自分の都合ではなく、名古屋支店の今後の業績を考えた上での提案であった。
もちろん、人事部長は彼の申し出を認めた。意のあるところを十分に汲んでくれたのだ。長谷部は満足して受話器を置いたのを覚えていた。
「いったい、どうなっているんだろう?」
との思いが去来する。
「わかった。この件は誰にも言ってないね」
とたしかめる。
「はい、つい先ほどの交換便で着いたばかりですから」
と村上は答えた。
「よろしい。月末まではまだ三日ある。誰にも内密にしておいてくれ」
と長谷部は頼んだ。
「承知しました」
村上は少し緊張した声で引き受けた。
「あと一時間ほどで帰るから頼むよ」
と告げて、長谷部は受話器を置いた。
サラリーマンにとって人事異動は大きな節目だ。
自分の力を十分に発揮出来るか中途半端で欲求不満になるか、殆《ほとん》ど実力を出せずに次のチャンスに賭けるか、いずれにせよ、心が騒ぐ。
ともあれ、通常はいままでの職場への未練と、新しいセクションへの期待が交り合って気持が昂揚するのだ。
明らかに左遷であれば、話はまた別であるが、多くの場合は横すべりか、右肩上りの上昇になる。日本のサラリーマンの場合、しばしば経歴がものを言う。どういうセクションで何年やったか? 重要な職務をどれだけこなしたか? これが昇格のポイントになることが多い。
長谷部はそれから取引先を三軒廻ったものの、やはり気もそぞろになっている。自分でもそれがよくわかった。結局、早々に支店に帰ってきた。
帰ると、すぐ支店長室に入ってドアを閉めた。
まず、石倉克己の所へ電話を掛けた。大蔵省へ出掛けているとの返事なので、松岡紀一郎の席へ切り替えて貰った。
さいわい、松岡は席にいた。
「タイミングがいいねえ。いま帰ってきたところだよ」
と松岡は滑らかな声で言う。
「ほかでもないんだが、十月一日に人事部から呼び出しが掛かった」
いきなり教えた。
「そうか、やっぱりきたか? この前のぼくの予想が当ったね」
「少し早いんじゃないかな?」
「注目されてる証拠だよ。幹部行員になると一か所にあまり長く置いてくれないよ」
松岡はわけ知りのような口をきく。
「名古屋支店が少し良くなってきたところだから心残りだよ」
と長谷部は訴えた。
「わかるよ。きみの支店経営能力は相当なものだ。改めて見なおしていたんだ」
「何処《どこ》へ持っていかれるか? きみの予想を聞かせてくれ」
「ぴたりと当てるわけにはいかないがね。まず九十九パーセント、本部の部長じゃないかな?」
「本部か?」
と長谷部は訊き返した。
「厭かね?」
と松岡は意地わるく訊く。
「石倉くんにもぼくにも呼び出しはない。したがって二人共今回はそのままだ。もし、きみが本部に来てくれるなら、三人が揃うことになる。これからはハンデのないフェアーな競争が出来るというものだよ。ぼくはウェルカムだ。大歓迎するね」
と明るい声で言い放った。
長谷部はいったん電話をきってから、五分ほど考えた。そのあげく、思いきって人事部長に電話を入れた。自分の要望がどんなかたちで拒絶されたのか知っておきたい衝動にかられたのだ。
もっとも、人事部長が真相を教えるかどうかはわからない。それは別として、一応の問合せだけはしておかないとのちのちまで気持がすっきりしそうもなかった。
人事部長も在席していた。
「あ、長谷部支店長」
瞬間、人事部長はちょっとひるんだ。
「どうもお世話になっております」
長谷部はわざと丁寧に言った。
「いや、こちらこそ」
と部長の方が慌てた。
「つい先ほど、呼び出しの通知を受け取りました。例の十月一日の」
「その件ですか?」
「そうです」
ほかに用件などある筈もないと言いたいところであった。
「実は長谷部さんだけちょっと特殊なケースになりまして」
と歯切れがわるい。
「わたくしが事前に漏らしたことを他言しないで下さい」
と注意する。
「この前あなたの申し出を受けて、わたくしももっともだと考えたものですから、今度の異動からははずしました。それですんだと思っていたところ、最終案の人事常務会で頭取から横槍が入って」
「杉本頭取が」
はっとした。
「そうなんです」
「それで?」
と意気込んで訊いた。
「すぐにわかることですからお教えしましょう。絶対に内緒ですよ」
「わかっています」
「本部の融資部長をお願いすることになりました。十月一日までは伏せて下さいね」
と念を押された。
長谷部敏正の自宅は岐阜にあった。
鏡島《かがしま》大橋から近い鏡島で、長良川沿いの町である。下流に向かって左岸の細長い町だ。ここからさらに数キロ川を下ると、やはり同じ左側に、秀吉の木下藤吉郎時代の一夜城で知られる墨俣《すのまた》城址に突き当る。
古くは農業地帯だが、近年は織物の町として知られ、最近、と言ってもここ二十年位の間に名古屋、岐阜周辺のベッドタウン的な住宅地になった。岐阜駅や柳ケ瀬近辺へは車で七、八分、JRか名鉄電車を利用して名古屋まで四十分前後で出られる。
近いわりに静かで、まだまだ緑も多い。近くの長良川も数少い清流として知られていた。長谷部は川を見下しながら堤防の上を散歩するのが好きだ。彼はしばしば堤を馳け下りて川岸まで行った。
若い頃から転勤の多かった長谷部も、ここ七年余、主に岐阜、大垣、名古屋等中部日本の支店を転々とした。初めは仮住いのつもりでいたが、五年前に低利の行員用住宅資金を借りて庭付の古い家を買い、一部を改築して住んでいる。最近、近くに畑も買った。
本人も妻も、二人の子供、大学一年の長男と高一の長女も含めた一家全員がこの住いを気に入っていた。そのせいか、都会で生活するのが少しずつ厭になってきた。空気も水も環境も良く、そのわりに交通の便も良かった。老後はここで暮したいという思いが彼にも妻にもあった。しかも、年と共にそういう考えが強くなる。
名古屋支店長になった時、妻の綾子は思わず顔を綻《ほころ》ばせた。
「これで三年は大丈夫ね」
と彼女は言ったのだ。
「そうだな。なかには五年位動かなかった支店長がいるよ」
彼も笑顔で応じて、妻の希望に花を添えたのを覚えていた。
それが二年経過してすぐこのありさまとなった。明らかに栄転である。名古屋支店も大型店舗ではあったが、常時、取締役以上の役員が赴任する支店ではない。本部の部長の方が格はずっと上だ。しかも、花形と言ってよい融資部長の椅子に坐るのである。
先日、予告せずに名古屋支店を訪ねた杉本頭取はひどく上機嫌で、長谷部のいかにも庶民的な顧客との接し方を誉めた。どうやら、あの出来事で頭取の眼に止まった。
亡くなった西巻良平は頭取に可愛がられていたとの噂なので、その真偽はともかく、同期生の長谷部を知って、身替りを見つけた思いなのかも知れない。
お通夜の後の寿司屋では、松岡も石倉も意欲的であった。改めて言われなくても、西巻の死で三人が取締役候補になったことぐらいは長谷部にもわかっている。ただ、彼はそのことを松岡のように強く意識するのが厭だった。
照れくさくもあるし、浅ましくもあった。出世意欲が強いのが良いのかわるいのかよくわからない。たしかに、前向きな仕事が出来る。競争力もつくし、あとひと押しの力も出てくるだろう。しかし、つまるところ、出世とは何か?
より多くの権力を得て、ついでに財力も得る。それだけのことではないのか? そのほかに何がある? しきりにそんな気がしてきた。
帰りの名鉄電車では坐れた。面倒くさくなって眼を閉じると、昼間の疲れが出た。十五分ほど眠り込んだ。眼を覚ましてぼんやりしていると新岐阜駅に着いた。
朝は妻が車で駅まで送ってくれる。帰りは時間がはっきりしないので、バスかタクシーになる。まだ終バスは間に合ったが、タクシーを奮発した。
帰るとすぐ、玄関で靴を脱ぎ終るやいなや、長谷部は大声をあげた。
「今度、本部の部長になったよ」
と告げた時、ようやく顔が綻んだ。
瞬間、出迎えた妻と高一の娘は顔を見合わせた。
「そう、昇格なのね」
と妻はたしかめた。
「まあね」
と顎を少し突き出す。照れた時のしぐさである。
「おめでとうございました」
と妻は軽く頭を下げた。
「パパ、おめでとう」
娘は笑顔で言った。
「じゃあ、東京の本社へ行くの?」
「そうなるわね」
と妻の方が先に答えた。
「ああ、喉《のど》が乾いた。先にビールを貰おう」
と頼んだ。
彼は浴衣に着がえると、顔と手を洗い、嗽《うがい》をしてから、台所に続く食堂まで来た。
妻と娘は先に腰掛けて待っていた。
「今日、知らせがきたの?」
と妻が訊く。
「いや、正式通知はまだだ。十月一日に人事部に出頭して辞令を貰うことになっている」
と教えた。
「そう、でも決定ね」
と妻は念を押す。
「その通りだ」
と応じて、長谷部は人事部長とのやり取りのいきさつを話した。頭取の不意の訪問についてはすでに教えてある。
「頭取さんがとくに推薦して下さったんですって?」
「そうらしい」
彼は照れ笑いを浮かべた。
「頭取さんって、一番えらい人でしょ。その人がわざわざパパを選んだわけ?」
娘は眼をまるくしている。
「まあ、そういうわけだ」
と言いつつビールのコップをあけた。
「じゃあ、どうするの? わたしたち東京へ引っ越すの?」
娘は不安そうな表情になった。
「その件はこれからの相談だ。ママやきみの意見を聞いて決めるよ」
と言った。
娘の発言で、長谷部の転勤はにわかに現実味を帯びた。
十月一日になった。
午後五時という集合時間は、たぶん人事部が気をきかせたのであろう。
と言うのも、前日の九月三十日は月末で、支店も本店も多忙をきわめている。もし、一日の午前中に集合させることになると、支店長によっては前日に出発しなければならない。月末の仕事はきちんとすませてから来てくれとの暗黙の命令のようにも受け取れる。
午後五時には次長以上の幹部行員が八十人ほど人事部の会議室に集まった。全員起立したままで、部屋はほぼいっぱいになっている。
松岡紀一郎はかなり大規模な人事異動と言ったが、蓋を開けてみると、中程度の異動になった。
頭取以下八人ほどの関連の役員が集まってきた。
人事部長が挨拶し、頭取を紹介した。
杉本富士雄は壇上から立ったままの一同をじろりと見廻した。眉毛は太く、眼光は鋭い。顔の色艶も良かった。
「今回は急な人事異動となりましたが、これも先日早朝会議で徹底させた当行の体質強化策の一端です。文字通り、当行を背負って立つ幹部行員の中枢部にいて、業績の伸長に大いに寄与しておられる皆さんに、なお一層のパワーを発揮して貰いたい。それが今度の新人事の真の狙いです。適材適所に配置が出来たと自負しております」
杉本はいったん言葉をきって反応を見た。全員が注目しているのを確認すると、満足気に少しだけ微笑んだ。不敵な笑いのように受け取れる。
「一部政府機関の、景気は底を打ち、ゆるやかに回復しつつあるとの見解も発表されておりますが、これは甘い。急激な円高や冷夏、長雨の影響も重なって景気は一段と悪化しております。皆さんもご存知のように不良債権はじりじり増えており、企業の設備投資意欲は冷え込み、一般消費者の需要もまだしばらくは期待出来そうもない。こういう時こそ実力が試される時です」
厳しい表情になった。
「多くの取引先の経営を支えたり、指導したりしなけりゃあならん立場にあるわれわれが、不況に足を引っぱられて、ふらふらしていたのではどうにもなりません。どうか、新しい職場に移ったら、その日から全力をあげて頂きたい。蛇足ながら、あえて、ここでお願いしておきます」
と杉本は迫力ある声で結んだ。
続いて、人事部長が一人一人の名前を読み上げる。呼ばれた者は前に出て、頭取から直接辞令を受け取った。
長谷部敏正はまっ先に呼ばれた。
頭取は大きく一つ頷いて見せた。長谷部も神妙な顔で頷き返した。
こういうささいな行為で微妙な連帯感が生れたような気がする。
辞令交付が終ると、解散になった。
辞令を手にした者たちは、数人ずつひとかたまりになって各部を廻る。これが慣例のようになっていた。辞令を示しながらさっそく新任の挨拶廻りを始めることになった。
ところが、長谷部が部屋を出ると、秘書課長が足早やに近付いてきて耳元で囁《ささや》いた。
「恐れ入りますが、すぐ頭取の部屋までおいで下さい」
「わかりました」
と答えてエレベーターホールへ向かう。
エレベーターを下りるとすぐ、秘書課の受付がある。その脇は秘書室になっていた。来訪者はここを通らないと奥へは進めない仕組みだ。
「ご案内します」
すでに知らされていたのか、女性秘書が先に立って案内してくれる。
さり気なく、絵や彫刻が飾られているホテルのロビーのような空間を進むと、会議室や応接室があり、その奥に頭取室があったが、廊下からでは内部は想像もつかない。
近付くと、部屋のドアが大きく開け放たれているのがわかった。女性秘書はドアの端をこつこつと叩いた。
「長谷部部長をご案内いたしました」
と爽やかな声で言う。
「どうぞ」
重々しい声が聞こえた。
長谷部は緊張が高まるのを感じた。顔まで強張《こわば》ってきた。秘書は会釈して引き返して行く。
「失礼いたします」
と断って、長谷部は入室した。
「やあ、きみか」
頭取は大きな執務机の向こうで顔を上げた。
「そこへ掛けたまえ」
と反対側にある椅子を指さした。
坐ると、正面から杉本富士雄と向かい合うかたちになる。
その時、ノックの音が聞こえ、別の女性秘書が書類を持ってあらわれた。
「きみ、コーヒーを二つ頼むよ」
受け取った書類をすぐ伏せて言った。
「名古屋支店はなかなか順調だ。これから果実が熟《う》れてくる。きみだって、あと一年か二年いたかっただろう。しかし、きみの能力は一中部地方だけではもったいない。本部に来て全店を相手にして号令を掛けて貰おうと思ってな」
と言葉をきる。
「あえて引っぱったようなものだよ」
とつけ加えた。
「恐れ入ります」
長谷部は硬い表情のまま頭を下げた。
「ちょっと調べてみたんだが、きみたち昭和四十二年入行組は優秀な人物が多い。人材の当り年と言ってもいいくらいだ。亡くなった西巻くんをはじめ、きみや石倉くん、松岡くん、さらに宮田くんのような勉強好きの変わり種までいる」
と相好を崩す。
そこへコーヒーが運ばれてきた。
「飲みたまえ」
と顎をしゃくる。
「頂きます」
杉本が飲むのを待って、長谷部も一口飲んだ。
味がよくわからない。けっして美味いとは言えなかった。しかし、コーヒーを飲んだことによって気持が落着いてきたのはたしかだ。急に気持が楽になった。
「なにも焦ることはない。とはいえ、まもなく五十歳という大事な時期にさしかかっている。ここでしっかりやっておかないと、後で後悔することになるかも知れん。まあ、頑張ってくれたまえ」
言い終ると、杉本は立上って窓際へ歩いて行く。
長谷部は慌てて立って、深く頭を下げた。
「有難うございました」
「うむ」
杉本はふり返って頷いたが、すぐ窓の外へ眼をやった。
「失礼いたします」
と断って長谷部はそのまま退出した。
頭取はもう知らん顔をしていた。
長谷部敏正は頭取室を出ると、秘書課長に声を掛け、エレベーターに乗った。
別のフロアーに下り立つと、初めてほっとした。頭取と一対一になるということは、こんなに緊張するものかと改めて感じ入った。
すでに六時近い。長谷部は慌てて各部を廻り始めた。松岡と石倉の部は最後にするつもりだ。彼はどの部でも話し込まないようにし、挨拶だけにして早足を崩さない。それでも三十分以上掛かった。
業務推進部に来ると、松岡はまだ帰行していなかった。
「七時頃には戻る筈です。待っていて欲しいとのことづてでした」
と次長が報告する。
「じゃあ、総合企画部長の部屋にいますから、よろしく」
と言い置いて、石倉の席へ急いだ。
部長席に石倉の姿が見当らない。こちらも留守かと落胆したところへ、美貌の女性があらわれた。
チャコールグレイの上下揃いのスーツをきちんと着こなし、颯爽としていた。
「名古屋支店からいらした長谷部部長さんですね?」
と歯切れよくたしかめた。
「そうです」
と戸惑いながら答えた。
「わたくし、神谷真知子です。よろしくお願いいたします。石倉が先ほどからお待ち申し上げておりました。どうぞ」
と応接室に案内された。
「ただいま来客中ですが、メモを入れてまいります」
とゆき届いた応対だ。
「いや、けっこうです。急いでいるわけではありませんので、終るまで待っています」
と押しとどめた。
「では、わたくし、お茶を入れてまいります。コーヒー、紅茶、日本茶、コブ茶とございますが、何がよろしいでしょう?」
と訊く。
「あなたが有名なMOF担の方ですね。そんな人にお茶を入れさせたのでは申訳ない。何もいりません」
と断った。
「何をおっしゃいますか。わたくしはお茶汲みが一番好きなんです」
と言いながら、軽く睨んでみせた。
長谷部はどきりとした。
「でしたら、コブ茶を」
とつられて言った。
「かしこまりました」
真知子はちょっと小首をかしげて微笑み、さっさと立去った。
「うーむ」
と長谷部は思わず唸《うな》っていた。
たしか神谷真知子はコピーや電話番、お茶汲みなどを一切拒絶し、女子行員としてはとても使えぬ、京大出身のグレードの高さと頭が良いのを自慢し、傲慢で生意気で鼻持ちならぬという評判の立っていた女性だ。
それがどうだろう。とてもそんな噂を立てられた女性とは思えない。
総合企画部へ来て、MOF担になってからまだ日が浅い。人間というのはそんなに変わるものだろうか?
「女は化物《ばけもの》だ」
と呟《つぶや》いた時、ドアが開いた。
「お待たせしました」
真知子がにっこり笑って、清水焼の茶碗をさし出す。白い指先が眩《まぶ》しく感じられた。
「どうも有難う。今日のコブ茶は特別美味いんじゃないかな」
とお愛想を言う。
「あら、部長さん、お世辞もお上手なんですね」
と上手にいなす。
「いや、お世辞じゃありません。そんな気がしたんです。いわば直感でしょう。では、さっそく頂かせて下さい」
長谷部は大事そうに両手で茶碗を持ち上げて、口許へ運ぶ。
「ああ、美味い。やはり、直感が当りました」
と嬉しそうに言った。
そこへ石倉克己が姿を見せた。
「いやに親しそうだね」
と拗《す》ねた。
「まずは融資部長ご就任おめでとうございました」
と坐りながら頭を下げた。
「どうもご丁寧に。よろしくお願いします」
と長谷部もお返しをする。
「部長もコブ茶になさいますか?」
「ぼくはいらん。今日はお客さんが多かったから、お茶ばかり飲みすぎて胃の中がどうにかなりそうだよ」
と、にべもなく言う。
「書類見ておいたからね。あれでいいよ。無理をするな。少し頑張りすぎだ。時々、サボることも勉強してくれ」
追い掛けるようにつけ加えた。
真知子は会釈して立去った。
「見事なものだな。すばらしいキャリアウーマンという印象を受けたよ」
と長谷部は感想を述べた。
「それがね、印象だけじゃなくて、実際に、すごいキャリアウーマンなんだよ」
と石倉は誇らし気に言った。
「やっぱり、そうか?」
「そうなんだ」
と頷き返した。
「ところで、本部へはいつから来るんだ」
と訊く。
「いま前任者と簡単な打合せをした。明日から名古屋支店の引継ぎを始めて、今週いっぱいで終え、来週の月曜からこちらへ移ることにしている」
と教えた。
「それで、家族はどうする? しばらく単身赴任かね」
「いや、しばらくではなくて、ずうっと単身赴任のつもりだよ。週末には林や畑のある緑の多い所で過ごしたいからね。岐阜は水も空気もいいんだ」
「なるほど。しかし、ずうっとだって? 大丈夫かな?」
「何とかなるだろう。息子がこっちの大学に来ているからね。いっしょに暮すことにしたよ。男二人の自炊生活だ」
と打ち明ける。
「ほんとうか? 冴えないな」
石倉の方がうんざりした顔をする。
「まあ、たまにはぼくら父子が作った食事をご馳走するよ」
と真顔で言う。
「やれ、やれ」
石倉は苦笑した。
「やあ、やあ、お揃いですな」
松岡があらわれた。
「どうするの? 今夜は東京に泊る?」
と長谷部に尋ねた。
「そうもいかない。ひかりの最終で帰るよ」
「じゃあ、あまり時間がありませんよ。とにかく、近くのステーキハウスへでも行きましょう」
と松岡は奨めた。
「よし、机の上を片付けてくる。五分で出ようよ」
石倉が賛成した。
彼は自席へ戻って机上の整理をする。重要書類は鍵の掛かる引出しにしまい込んだ。見ると、真知子はまだ書類に取り組んでいる。
「神谷くん、いっしょにステーキハウスへ行かないか? きみが来てくれれば、長谷部も松岡も喜ぶよ」
と声を掛けた。
「いいんですか? わたくしなんかが。お邪魔じゃないでしょうか?」
と彼女は遠慮がちに言う。
「邪魔なもんか? 大歓迎だよ。五分後に一階出口で待合せだ」
と言い置いて、洗面所へ向かった。
応接室の中では、長谷部と松岡が話し込んでいる。
松岡は人事部会議室に来たわけでもないのに、頭取の話の内容を正確に知っていた。
それだけではなかった。
「その後、きみ一人が頭取室に呼ばれて、あろうことか、コーヒーをご馳走になったそうじゃないか?」
と追及する。
「え、どうしてそれを?」
長谷部はあっけにとられた。
「ぼくはね、銀行一の情報通だよ」
と言って、右の眼を閉じて見せた。
[#改ページ]
第四章 秘密の調査
「富士エース」ゴルフ場は、三島駅の新幹線側出口から車でおよそ二十分、愛鷹《あしたか》山の裾野の一部に作られている。両側に桜並木のある道を車で登って行くと、時折、野生の鹿や狸や兎がわがもの顔で横切る。
注意の立て札が出てはいても、大半の運転手は意にも介さない。そのあげく、現実に見馴れぬ小動物があらわれると、ぎょっとしてブレーキを踏む。
いましも、三洋銀行頭取の杉本富士雄の乗用車が上り坂のカーブを曲ったとたん、急にスピードを落した。
後部座席に、深く腰を下していた杉本の躰《からだ》が浮き上った。
「どうしたんだね?」
不機嫌な声で詰問する。
「はい、狸のようです」
と運転手は恐縮して答えた。
「なるほど、狸ね」
と呟《つぶや》いた杉本はにやりと笑う。瞬時にして機嫌がなおった。
「ふん、早くもお出ましになったか?」
と呟く。
頬に貼り付いたままの笑いが、いつの間にか不敵なものに変わった。
運転手は用心し前方に注意を集中している。もちろん、バックミラーを覗いて頭取の表情の変化を探る余裕はなかった。
数分後、車はレンガ色の瀟洒《しようしや》なクラブハウスの正面に着いた。
ゴルフ道具の方は運転手に任せておいて、杉本は受付でサインだけすると小型のバッグを持ってロッカールームを目指した。
午前の部の一番最後、九時四十分のスタートが決っている。まだ三十分も余裕があった。グリーンに出る前にコーヒーを一杯飲める。たしかめもしなかったが、たぶん、相手はまだ到着していないだろう。
ゴルフウェアーに着がえると気分も変わった。お互いの腹の探り合いになるのはわかっている。が、今日で三度目の会合ともなれば、そろそろ結論を出さなければならない。
夜の料亭での会食、ホテルの特別室を押えての昼食会、そして、二人だけのゴルフ。二週間位ずつの間を置いて会合を重ね、秘密の打合せを続けてきた。
相手は富桑《ふそう》銀行の頭取原沢一世である。
杉本より一つ年上の七十歳だが、小柄で頭髪が薄いため、四、五歳上に見える。丸顔で杉本のような厳《いか》つさがない。一見、上品な紳士で通るが、頭は切れるし、なかなかの寝わざ師だ。
いままで、会長の大久保英信に押えられていて、専務、副頭取時代からイエスマンに徹してきた。その甲斐あって、頭取に抜擢《ばつてき》されたものの、二期四年の間|殆《ほとん》ど正面には出てこなかった。
ところが、三か月前、七十五歳の大久保が心臓の発作で入院した。老化と多忙な生活が招いた病気である。急激に悪化しなかったのは、むしろ幸運である。とはいえ、一時はかなりわるくなった。どのみち、短期間に快癒する筈もなく、かなりの長期療養が必要との診断だ。
おかげで、原沢一世が事実上のトップになった。こうなると、現実は厳しい。内外ともに、大久保英信の院政がほぼ終了したのを実感として受け留めた。
原沢としては、長年、頭のすぐ上にたれこめていた厚く重い雲がようやく移動して行ったのを喜び、青天の有難さをしみじみと感じ始めたところだ。
そういう原沢に杉本富士雄は急接近した。もっとも、後から考えると、むしろ原沢の方が積極的であったという解釈も成り立つ。ともあれ、大久保の急病を境にして、両者の親しみは大いに増した。もともと、同じ金融界の人間として古くからの知己でもあり、ほぼ同世代と言ってよいトップ同士の親近感もあった。暗黙のうちに、お互いに一目置き合っていた仲でもある。
杉本はスタート地点に近いコーヒーショップに寄った。ひと休みして出掛けるつもりだ。ゴルフの成績はどうでもよいが、それでも、やる以上はスコアを伸ばしたい。少くとも、ほぼ同じ実力の原沢一世には負けたくないとの思いが強い。
「おや?」
杉本は眼を見張った。
窓際の席に黄色いシャツ姿の初老の男が坐っている。こちらに背を向けて窓外のフェアウェイの一部を見ていた。原沢は先に来ていてすでにコーヒーを半分以上飲んでいる。
「どうも、お待たせしました」
と杉本は挨拶する。
「わたしもいま来たところです。まだ時間がありますから何かお飲みになって下さい」
原沢は丁重に言い返した。
杉本もコーヒーを頼んだ。ほんとうは原沢ももうしばらく一人でいたかったのではないかと思った。
すかさずそれを口にすると、原沢はほんの一瞬たじろいだ。
「そんなことはありません。このコーヒーショップを待合せ場所にすればよかったと考えていたくらいです」
と笑顔で答えた。
「それは幸先が良い。こうして偶然に予定の時間より早くお目に掛かれたわけですからね」
杉本はさり気なく今日の本題へのアプローチを試みた。
二十分後、二人は連れ立って錦鯉の群がる大きな池に架けられた橋を渡り、スタート地点へ向かった。
空は晴れ渡っていた。東側に何本もの帯状の白い雲がたなびいている。陽ざしは強いが高地のせいか風は涼気を含んでいてここち良い。爽やかなゴルフ日和と言えた。
ほぼ同じ頃、|MOF《モフ》担の神谷真知子は大蔵省内にいた。
彼女は銀行局の担当課長補佐に面会を求めて、応接室の一つに案内されたところだ。
MOF担は大蔵省と自分の銀行との橋渡し役であり、同時に情報収集の役目を負わされている。それだけに、担当者たちは大蔵省内に出来るだけ多くの人脈を得たいと願っていた。
もちろん、文書その他の通達事項のかたちを取って各金融機関に知らされる正式発表は情報のうちに入らない。もっとも、公表の一か月以上も前に察知すればこれはもう立派な情報である。が、そんなことはめったに起ることではなかった。
それに、大蔵省内の役人たちは皆揃って口が堅い。数多い中央官庁の中でもエリート色がもっとも強く、事実、優秀な人たちが集まっている。長年にわたって、日本経済の発展に主導的な役割を果してきたとの自負もある。そして、今後もその地位を政治家や財界人に、まして他の官庁や官僚たちに譲る気はない。
こういう超エリート官僚を相手に情報を引き出すのは至難の業だ。したがって、銀行側もこれに対抗出来る学歴やシャープな頭脳の持主をMOF担に決めて派遣する。
何故か、いままで女性でMOF担になった者は皆無であった。このことは銀行界そのものが男性主導型の業界である事実を物語っている。アメリカには支店長以下全員女性の支店がいくつも誕生し、彼女等の上げる業績はけっしてわるくない。
日本の場合は役員や部長クラスに女性はまず見当らず、係長、課長等の中間管理職でさえ、きわめて珍しい存在である。
おかげで、神谷真知子は注目された。彼女の学歴と美貌、頭の回転の早さ、巧みな話術と積極性がなおさら、周辺の者たちを刺激した。誰もが驚きを隠さない。競争相手の他行のMOF担たちはもとより、省内の他の部署の者まで一度に浮き足立ってしまった。
あえて真知子を起用した石倉克己の名まで関係者たちの間では有名になっている。もっとも、石倉の英断が成功するかどうかはいまの段階では誰にもわからない。
目下のところはもの珍しさも手伝って話題になってはいたが、神谷真知子の実力が発揮されるのはしばらく先だ。おそらく、マイナス要素も出てくるだろう。そうなってから、初めて正当な評価が下る。
その時点で、石倉の人事の成否もはっきりする。いずれにせよ、真知子がMOF担になってから大蔵省内の情報がさっぱり取れなくなったりすれば問題になる。
すでに触れた通り、大蔵官僚の口は堅い。相当親しくなっても、彼等が事前に情報を教えてくれる筈もない。すべては態度や顔色、あうんの呼吸で察するほかはなかった。
したがって、通常の出入りや付き合いが大切になる。ゴルフやマージャンや食事等も欠かせない要素だ。折あれば相手のふところへ入り込む。密度の高い情報を他行の担当者より早く取るには、常にそのくらいの覚悟が必要である。
このへんのニュアンスは真知子にも想像はついた。しかし、現実に仕事を始めてみると、壁は意外に厚かった。ヴェテランで相当やり手の男性でもなかなかむずかしい。そのむずかしさの度合いが、少しずつ身に染みてくる。
神谷真知子は思わず身振いした。近頃では珍しい。負けるものかという思いがこみ上げてきたのだ。
彼女は銀行内のマル秘資料をコピーして持参していた。石倉の了解を得たとはいえ、外部へ出てはいけない資料である。最初のページに『行内限』という赤いスタンプが押してある。
これは石倉克己が覚悟を決めた結果でもあった。大蔵省内に神谷真知子をアピールするためにはいくつかの手段《て》を使うつもりでいる。いわば、撒《ま》き餌《え》のようなものだが、限度を越せば問題になる。銀行内の機密を漏らした者として罰せられても文句は言えない。ケースによっては背任行為と解釈されよう。
真知子はいまさらのように、石倉の賭けの大きさに気付いた。こうなった以上、後には引けないとの思いが強い。
「ほんとうはこの資料、お持ちすべきではなかったかも知れません」
彼女はおずおずと言う。
なにしろ、MOF担になって間のない新人である。自分の銀行と大蔵省との駆け引きがよくわからなくて、行内の秘密資料を勝手に持ち出してきた。そんな印象を与えるように努めた。
「これ、あなたの一存ですか?」
課長補佐は呆れたような顔付で真知子を見た。
「やれ、やれ」
とでも言いたいところであろう。
これでは面倒見きれないなという思いと同時に、組しやすさをも感じたに違いない。やり方ひとつで、駆け引きどころか、三洋銀行の内部がすけて見えてくる。これはあんがい拾い物かも知れない。げんに真知子が持参したのは不良債権の一覧表である。銀行がもっとも隠したいと思っている資料だ。
新山課長補佐は苦笑した。偶然ながら、彼は京大法学部の出身だ。真知子は経済学部卒なので学部は違う。女性で最初のMOF担を生かすかどうかも半分以上は大蔵省側の対応にかかっている。本人がいくら努力しても、相手が応じてくれなければどうにもならない。
新山健介はそのあたりの事情をよく呑《の》み込んでいた。彼はとりあえず、自分の仕事をどこまで理解しているのかよくわからぬ後輩の面倒を見ることにした。
「それにしても、『行内限』とか『マル秘』の赤スタンプの押してある書類は、不用意に持ち出さん方がいいですよ」
新山の方がたしなめた。
「はあ」
と彼女は頷《うなず》く。
「どうも申訳ありません」
神妙な表情で詫びた。
「いや、わたしの方としては何でも見せて頂いた方が参考になります。しかし、あなたの立場というものがあるでしょう」
「はい」
「石倉部長はこの件は知らないんですか?」
「知りません」
はっきりと答える。
「それならばなおさら、そういうことが続くと、あなたの立場が危うくなります」
と忠告する。
「ご親切に有難うございます」
真知子は丁重に頭を下げた。
「わたくし、今後、新山さんを頼りにさせて頂いてよろしいでしょうか?」
と甘えた声を出した。
その時、開け放たれたままのドアの向こうを人影がよぎった。
「ちょっと失礼します」
新山は慌てて応接間を飛び出して行った。
二、三分後に彼は急ぎ足で戻ってきた。
「こちらへどうぞ。いま局長が戻りましたのでちょっと紹介だけしておきましょう。ほんの一、二分ですよ」
と念を押す。
「まあ、光栄ですわ」
真知子は少し顔を赤らめた。
局長室は広々としていて立派だ。建物が古いので綺麗とは言いかねるが、やはりそれなりの風格があった。何と言っても、この国の銀行行政をになってきたトップの仕事部屋である。
局長の小田島敬も京大法学部出身で、偶然にも局内に二人の先輩がいたことになる。この前、石倉といっしょに挨拶廻りをした時には、局長は出掛けていた。そのためまだ挨拶をすませていない。新山が先輩らしく気を遣ってくれたのだ。
「いやあ、驚きましたよ。あなたがMOF担ですか?」
と小田島は愛想がいい。初老で頭髪は薄いが、あまり老け込んではいない。
「聞きしにまさる美人だ。おまけに頭脳明晰な方だと新山くんが耳うちしてくれた。うちに入って貰いたいくらいですよ。問題が山積ですからな」
と笑顔でつけ加える。
「京都出身は新山くんとわたしの二人だけですからね。これからはあなたも仲間になって貰って、お互いに頑張りましょう」
と激励された。
小田島はあえて京大とは言わず、京都と言った。三人共、局長の大きな机の脇で立ったままの会話ではあったが、手応えは十分である。たしかに、一、二分だが幸先の良いスタートをきれたような気がする。
三日後、大蔵大臣の毛利有太郎と次官、局長の定例の打合せが終った後で、女性のMOF担が話題になった。
小田島が先日顔を見たばかりの後輩を誉めると、毛利は太めの躰を揺すって、鷹揚《おうよう》な笑顔を浮かべた。
「いまに女の大蔵大臣が登場するだろう。本人も優秀なんだろうが、あえてMOF担に起用した部長がえらいよ。三洋銀行の総合企画部長の石倉克己くんだな。覚えておこう」
と野太い声で言った。
長谷部敏正は銀行が借りてくれたマンションに入った。
国電大森駅から蒲田方面へ歩いて十分の住宅地に建てられている六階建マンションの最上階で、3DKの広さだ。東京の大学に通っている息子が下宿を引き払って引っ越してきた。
期せずして息子と同居することになった。それぞれ自分の部屋を確保し、残る一部屋は共通の居間にした。妻と娘の住む岐阜の家へは月に一度、土日や祭日を利用して帰ることに決めたが、守れるかどうかよくわからない。
食事は外食と自炊が半々ぐらいになる予定で、息子と協議して当番制にした。もっとも、これは夕食の場合で、朝食は二人で協力することにし、昼食は外食になる。
父と子二人だけで住むのは初めてだ。目下のところ、もの珍しさも手伝って、比較的うまくいっている。妻と娘も手伝いに来て、一週間滞在し、必要な家具と台所用具を買い整えてくれた。
まだ、生活の実感がわかない。目下のところは、男二人がお互いに遠慮し合っている感じである。父も息子も環境の変化に真面目に取り組もうとしていた。
融資部長の仕事も、すべて掌握したとは言いきれない。銀行全体の安定した収益確保を目指す融資政策の立案と、部長会、常務会、取締役会での承認、さらに全国支店長会議での説明と各支店での着実な実行が本来の仕事である。
ところが、連日のように会議に追われる。誰も新任の部長だからと言って遠慮はしない。突っ込んだ質問が飛んできた。前部長の時に解決済みの筈の諸問題がむし返される。支店の反応もまちまちで、呑《の》み込みの早い支店長もいる代りに、こいつは本当の馬鹿かと思えるような支店長もいた。
長谷部自身がごく最近まで名古屋支店長をしていた事実と照らし合わせてみると、とても信じがたいケースである。しかし、これが現実だ。
本部の部長として、支店長とはむしろ対決のかたちをとらねばならず、それでいて協力を要請し、部長名で出した通達がきちんと守られているかどうかチェックを怠たるわけにはいかない。ここでも、アメとムチが必要になり、発想の転換をせまられる。
同じ銀行の仕事なのに、支店と本店、支店長と部長の仕事にはかなりの相違があった。能力はあっても、気の弱い人物だとノイローゼになる。にわかに自分が無能に思えてくるのだ。
長谷部は根が誠実な人間だけに、ものごとをまともにとらえてしまう。柔軟性がないわけではなかったが、東京への移転と息子との共同生活という環境の変化が加わった。もともと積極的に仕事に取り組むタイプなのに、そうはならず、常に後手後手に廻っているのに気付いて苛立ちを覚えた。
松岡紀一郎はいち早く名古屋支店長時代とは少し違う長谷部の変化に気付いた。やはり戸惑っているなと思うと優越感が生れた。彼自身にも覚えがあった。業務推進部長になってしばらくは、自分が浮遊物体になったのかと思えるような状況が続いた。
ここで自信喪失に陥ると、厄介だ。取締役を目指すどころの話ではなくなる。松岡にしてみれば長谷部の後退は思うツボだが、それでは面白くないという思いが先にきた。
松岡はさっそく動いた。石倉克己に声を掛けて夜の時間をあけさせた。そして、連日帰りの遅い長谷部を無理に引っぱり出した。
松岡は気分転換のため本店のある大手町周辺の店は選ばず、青山まで足を伸ばし、表参道に近い老舗のうなぎ屋を選んだ。青山通りに面した本店舗は改築中で、近くの裏通りに仮店舗があった。
気楽な店でうなぎ以外の料理も美味い。いつも満席なので予約を入れておいた。
三人は午後七時に顔を合わせた。松岡が時折お客さんの接待に使う店で勝手を知っている。刺身や煮物、焼き魚まで出て、最後はうな重というセット料理を依頼してある。
「ほんとうはね。おたくの息子さんも呼びたかったんだが、取りあえず、われわれだけにしておいたよ」
と松岡は言った。
「いろいろ気を遣って頂いて、どうも申訳ない」
と長谷部は頭を下げた。
「何を言うか? それがいかん。少し大らかな気持になれ」
と松岡が忠告する。
「そうは言っても本部の部長というのは気骨が折れるよ。いちいちまともに相手にせずに、うまくいなしながら重要事項だけはきちんと押えておく。松岡なんか実に上手だ。これは能力じゃない。馴れだね」
と石倉が断定した。
「おいおい。それじゃあ、わたしは馴れだけで仕事をしているのかね?」
と松岡が口を尖《とが》らせた。
「きみだけじゃない。ぼく自身もその傾向が強い。お互いさまだよ」
石倉はけろりとしている。
二人のたわいのない会話で長谷部は気が楽になった。
「この後、どうだい。カラオケバーへでも行ってみるか?」
と石倉が提案する。
「六本木のはずれに時々寄る店があるんだ。ここから近いよ。歩いたって二十分は掛からんだろう」
少し照れくさそうにつけ加えた。
「わかった。『ぐうたら神宮』だろう。けっこうだ。行こうじゃないか」
松岡が直ちに賛同したので、何となく二次会の行き先が決ってしまった。
九時過ぎに三人はタクシーで移動した。
テレ朝通りに面したビルの四階で、旧テレビ朝日のビルの少し先である。たしかに近い。ほんの七、八分で着いた。
石倉が予約の電話を入れたので、ボックス席の一角が確保されていた。カウンターに五、六人、ソファーの方にせいぜい三十人位入るかどうかの広さだ。三十代前半のママと若い女の子が三人しかいない。マスターがバーテンを兼ね、ママさんの方は客席をほどよく浮遊している。
客は殆ど若手から中年のサラリーマンで、値段もあまり高くなく、気楽な店である。カラオケの立派なセットが入っていたが、歌の下手な客ばかりで、他人の歌を聴いていると何となくほっとする。
三人は水割りを頼み、石倉はさっそく歌の本のページを繰って申し込んだ。
「ぼくが案内した手前、まずやらせて貰いますが、後はお二人に任せますよ」
と念を押す。
石倉が頼んだのはかつてアイ・ジョージの歌った「赤いグラス」である。
すぐ順番が廻ってきて、彼はマイクを握って立った。歌詞の出るテレビ画面の方を見て歌い始めたが、抜群のうまさだ。
長谷部と松岡は顔を見合わせた。
「これじゃあ、カラオケの店へ人を案内したくもなるよ」
と松岡が呟いた。
そこへ電話が掛かってきて、まだ最後まで歌い終っていない石倉が呼ばれた。
受話器の向こうから秘書課長の声が聞こえた。
「お愉しみのところ申訳ありません。頭取がお呼びなので、すぐ銀行の方に戻って頂けますか?」
低いが説得力のある声がたしかめた。
石倉克己は思わず腕時計を見た。
午後十時過ぎである。こんな時間にという思いが閃《ひらめ》いたが、気配には出さない。
「承知しました。二十分以内に行けると思います」
と答えた。
石倉はもうカラオケのマイクは握らず、席に戻った。
「ちょっと急用が出来てね。すぐ出なけりゃならん。二人共、のんびりしていてくれ」
と伝えた。
「どのくらいで戻ってくるんだ?」
と松岡が訊いた。
「行ってみなけりゃあ、わからん」
石倉は正直に答えた。
「わかった。これのお呼びだろう」
松岡は察しがよく、右手の親指を突き出してみせた。
「そんなところだ」
石倉は顔をしかめながら、黒革の鞄を受け取った。二人に軽く会釈してすぐ出て行く。
「仕方がない。さっさと消えてくれ」
と松岡は言った。
「でも、出来たら、早く戻ってきてくれよ。待ってるから」
と背中へ向かってつけ加えた。
石倉はわかったという合図のつもりか、ふり返りざま手を振った。
松岡は坐ったままだが、長谷部は立上って見送った。しばらく同じ姿勢で立ち尽している。
「行っちゃった。すばやいもんだ」
と松岡は感心した。
「まあ、坐ってくれ。さいわいこっちはお呼びじゃない。のんびりしよう」
長谷部に声を掛けた。
「頭取はこんな時間に部長クラスをよく呼び出すのかね?」
少し呆れ顔で訊く。
「仕事優先の上に、あまり時間の観念の無い人だからね。役員や担当部長はたまらないよ。土、日、祭日、真夜中、いずれもおかまいなしだ。しかも、何処《どこ》へ呼ばれるかわからないときている」
と松岡は説明した。
「そりゃあまた、すごいな」
長谷部は驚きを隠さない。
「この間も、名古屋まで呼ばれた取締役がいるよ」
「名古屋だって?」
「そうだよ。げんにきみが支店長をしていた時だ。名古屋支店にも不意に行ったそうじゃないか?」
「あの時に?」
「名古屋城の西堀の脇にある『ホテルナゴヤキャッスル』のロビーまで、すぐ来たまえと電話一本で呼びつけられた」
「なるほど」
長谷部は溜め息をついた。
これは大変だ。よほど気持を引き締めないとついて行けないぞという気がしたが、口には出さなかった。
もっとも、松岡は長谷部の心の変化を察知して薄ら笑いを浮かべた。
しかし、その松岡も石倉がどのような用件で呼ばれたのか気になっている。むろん、見当もつかない。
結局、二人共、すぐにはカラオケにのめり込めなかった。が、三十分後には諦めがついた。長谷部はいまさら焦っても仕方がないと思ったし、松岡はとにかく石倉が戻るのを待とうと決めた。
「よし、こうなったら、われわれも歌ってみよう」
長谷部が先に言った。
「そうだね。石倉に負けちゃあいられない」
と松岡も身を乗り出した。
二人は他の客たちの間に交ってマイクを握った。松岡は臆せず坐ったままで悠然と歌い、長谷部は立上って周囲の客に一礼してからおもむろに歌い始める。期せずして両者の性格があらわれた。
一方、石倉はタクシーを拾って大手町へ急いだ。
この時間帯になると、大手のサラリーマンたちが、大手町、丸の内、八重洲、日比谷、新橋、虎ノ門界隈の職場を離れている。
しかし、周囲のビルの窓の灯はまだかなり点いていた。ということは、残って仕事をしている人たちもけっして少くはないのだ。
石倉はタクシーの中から道路際のビルの灯を追った。たしかに、大半のビルの灯が消えてはいたものの、相当数のビルの上の方、五、六階や七、八階が明るい。
それを知ると、何となく気分が良くなった。ささいな事柄ではあるが、力づけられたような気がした。
三洋銀行ビルの正面も裏口もすでに閉まっている。駐車場に面した脇の部分だけが開いていて、ガードマンたちが固めていた。とくに夜間の出入りは銀行員であっても、いちいちチェックされた。
石倉はこの検問を抜け、一台だけ動いているエレベーターに乗った。秘書課に直行すると、秘書課長が出てきた。
「お呼びたてして申訳ありません」
先に頭を下げられてしまった。
「いま、役員が一人入っていますので、五分ほどお待ち下さい」
と告げられた。
石倉は洗面所へ行き、すばやく手を洗って嗽《うがい》をした。頭髪に櫛を入れてから落着いて待合室に戻った。
十分待たされた。呼び出されてまっすぐ頭取室へ向かう。
杉本富士雄は大きな執務机に向かったままにこりともせず、入室してきた石倉をじろりと見据えた。
「きみ、食事はすましたのか?」
いきなり訊かれた。
「は、すませました」
と石倉は少し緊張して答えた。
「そうか」
ぶっきらぼうに言い、ソファーの方へ顎をしゃくった。
「あそこへ坐ってくれ」
「はい」
石倉は返事をしてソファーに近付いたものの先に坐りはしない。立ったまま待った。
やがて、ゆっくりと立上った杉本が近付いてきた。先に坐り、すぐ脇を指さした。そこへ坐れとの合図だ。
「失礼いたします」
石倉は丁重に頭を下げて腰を下す。前傾姿勢になったままで、直ちに立上れるように配慮している。
「急ぎの仕事が出来た」
ぽつりと言う。
「は」
「先に言っておくが、これは特命の仕事だ。一般の仕事といっしょにして貰っては困る。優先順位もトップ。それに急いで貰わねばならん。改めて言うまでもないが、一にも二にも秘密の厳守だよ。いいね」
と念を押す。
「承知しました」
石倉ははっきり答えた。
「しばらくは助手を使ってはいかん。きみ一人でやりたまえ。じきに手が足りなくなるが、その時は信頼出来る者だけを集めてプロジェクトチームを作ることになるだろう。そうなった場合も指揮を取るのはきみだ」
言いつつ、頭取はじっと石倉の顔を見た。信頼出来るかどうかを探っているかのような眼ざしであった。
松岡紀一郎と長谷部敏正は、六本木のカラオケバー「ぐうたら神宮」にいた。
サラリーマンの姿が多く、ほぼ満席になっている。二人はやや手持ぶさたになったものの、退屈したわけではない。三十代初めの気さくなママが奨め上手なせいか、ついマイクを握ることになる。
それでも、頭取に呼ばれた石倉克己の帰りが気になった。長谷部はたんに石倉の帰りを待っているだけだが、松岡の方は用件の方を気にしていた。
深夜の十二時になると、さすがに客の数が減った。
二人はさり気なく腕時計に眼をやってから顔を見合わせた。
「石倉さん、遅いわね。どうしたんでしょう?」
ママが彼等の気持を代弁した。
「たしかに、遅すぎるな」
松岡は渋面を作った。
「今夜はもう戻らんだろう」
と長谷部も呟いた。
十五分後、二人はタクシーを頼んだ。
その頃、石倉は自席にいて、書類作成に熱中している。
カラオケバーで待つ松岡と長谷部のことは念頭から消えていた。戻る気もなく、連絡するつもりもない。杉本頭取から言いつけられた特命事項の方に気を取られた。
いま戻れば、たぶん松岡がしつこく質問してくる。ごまかすのはむずかしくはないが、情報通をもって知られる彼の顔付を思い出すと、何となくわずらわしい。
午前一時には、石倉も仕事に区切りをつけて引き上げた。タクシーで自宅に向かいながら、気持が騒ぐのを感じた。
頭取室で、これは特命だと念を押された時の思いとはまた別だ。
あの時の緊張感からは解き放たれている。かなり冷静になり、自分なりの判断が下せる状態になっていた。それだけにまともな受け留め方が出来た。
総合企画部長としては常に銀行の未来については、あらゆる事柄を想定した上で、的確な対処をせまられる。今回の場合、けっして予想の出来ない事柄ではなかった。
しかし、かなりの不意打ちである。何故、いまあえてとの思いも付きまとう。
杉本富士雄ははっきり口に出さなかったが、特命事項の内容は明らかに「富桑銀行」との合併を想定した調査であった。
「富桑銀行」と「三洋銀行」が合併した場合の統一見解の作成、即ち、具体的に主な合併理由を列挙すること。さらに二つの銀行の重複する店舗数と、配置転換可能な地域を見付け、存続させる支店と廃止した方がよい支店との区別をはっきりさせること。これらはいずれも周辺地区の経済調査が必要になる。
合併の合意がどの程度進行しているのかよくわからないが、富桑銀行側でも動き始めたのであれば、先方の総合企画部長もほぼ同様の特命を受けていよう。
もし、両行が合併することになれば、どうなるのか?
富桑銀行は財閥銀行として知られる上位都銀の雄である。それに対して、三洋銀行は特別な財閥や企業グループの後立《うしろだ》てのない中位の都市銀行だ。
かりに一対一の対等合併であっても、それはあくまでも表面上のことで、内実は大いに違う。
資金量、融資量はもとより、内部留保も含み資産も、収益や株価、一株当りの利益もみな異なる。いずれも富桑銀行の方が上である。創立も古く、伝統も重い。有力取引先に日本の基幹産業がずらりと顔を揃えている。
こうなると、どうであろう?
どんな新行名を付けたにせよ、三洋銀行は完全に吸収合併されてしまって、やがてあとかたも無くなる。むしろ、時間の問題と言ってもよいくらいだ。
三洋銀行の一部長である石倉克己にしてみれば、こういう想定は面白かろう筈はない。何となく気落ちした。
それに、いまの段階では極秘である。誰にも相談出来なかった。
職務上、早く知ることは出来る。しかし、知り得た情報を第三者に漏らすことなど問題外だ。漏らせば背任になり、現在の地位にとどまることさえむずかしくなる。
石倉はタクシーの後部座席で腕を組み、眼を閉じた。
翌朝、石倉は部内の打合せをすませるとすぐ、外出したことにして会議室に入った。参考資料のファイルをいくつか持ち込み、一人で昨夜の仕事の続きに取り掛かる。
「部長は出掛けております。帰りは夕方になるか夜になるかはっきりしません」
矢口朋子が、いちいちそう言って断った。
「時折、連絡の電話が入りますので、お急ぎの用件でしたら、おっしゃって下さい。間違いなくお伝えします」
とつけ加える。彼女は感じの良い笑顔で訪問者たちをねぎらうのが上手だ。
誰もすぐ近くの会議室に石倉が閉じこもっているとは思わない。十時過ぎに松岡がぶらりと寄り、十一時三十分に長谷部が部長席に内線電話を掛けてきたが、いずれも矢口朋子の明るい声に撃退された。
午後から大蔵省と関東財務局を廻って、夕方帰行した神谷真知子は、石倉克己が朝以来ずっと会議室に閉じこもったままだと聞かされた。
「なんだか、変ね」
と真知子は隣席の朋子に話し掛けた。
「よほど急ぎの仕事が入ったのかしら?」
「急ぎの仕事というより、マル秘の仕事だと思うわ」
と朋子は思わせぶりな眼付になった。
「マル秘?」
と訊き返す。
「そう、何か秘密の工作の資料作りをしているのよ」
朋子は確信に満ちた口調で言う。
「ほんとう?」
真知子はわざと疑わしそうな顔をした。
「間違いないわ。わたしが出前のうな重やコーヒーを運んで行くと、急いで書類を裏返したのよ。それに急ぎの仕事ならわたしたちにも割当ててハッパを掛けるわよ」
と口を尖らせる。
「だとすると、今回は朋子ちゃんの第六感が正しいかも知れないわね」
とおだてた。
「ずばり、どんな秘密工作?」
と尋ねる。
「わたしの直感はあんがい当るのよ」
朋子はおだてに乗った。
「だったら、じらさないで教えて?」
とねだる。
「じゃあ教えるわ。黙っていてよ」
もったいぶって念を押す。
「もちろん、秘密は守るわ」
と目配せする。
「どこかの銀行との合併工作よ」
「えーっ!」
真知子は驚いて周囲を見廻した。
その反応に満足したのか、朋子は満ち足りた笑いを浮かべた。
「ねえ、当っているかしら?」
と嬉しそうな顔をする。
「めったなことを言っちゃいけないわ。わたしたちは総合企画部の部員よ。何か言えばほんとうにされかねないから、こういうたぐいの予想は禁物ね。口には厳重にチャックよ。いいわね」
と念を押す。
「わかってるわ」
朋子はとたんに不満気な顔付になった。
「ところで、部長に報告事項があるのよ。わたしが大蔵省から帰ってきてそう言っているって伝えて下さる?」
と花を持たせた。
「はあーい、会議室へ行ってきます」
朋子は立上った。
何となく、石倉への連絡はもともと秘書的な仕事を兼務している矢口朋子の役割になり、彼女もそれに満足していた。
朋子は二分も過ぎないうちに戻ってきた。
「すぐ来て下さっていいそうよ。コーヒーを二つ頼まれたわ」
と報告する。
「あら、一つはわたしの分かしら?」
真知子も書類を持って立上った。
「そのようね」
朋子は喫茶室の内線番号をプッシュした。
真知子は会議室のドアをノックする。
「どうぞ」
という声を確認してからわざとゆっくり入った。
書類を裏返すぐらいの余裕を与えたつもりだ。
「やあ」
石倉は机上から顔を上げた。
「何か報告があるそうだね」
と訊く。
「はい」
「まあ、ひと休みしてくれ。いま、コーヒーがくるよ」
と言って立上り、部屋の入口近くまで来た。一番奥に書類のファイルが積み上げてあり、真知子の立っている所からでは何の書類かよくわからない。
「そこへ坐って下さい」
石倉は近くの椅子を指さした。
自分も椅子を二つ間に入れて坐った。顔色があまり冴えなかった。机上の仕事を長時間続けた者に特有のむくみさえある。
「お忙しそうですね。よろしかったんでしょうか?」
「ちょうど、ひと息入れようとしたところだよ」
と石倉は答えた。
ノックの音が聞こえて、朋子がコーヒーを運んできた。
「有難う。喫茶室は空《す》いていたようだね」
「はい、がら空きで、窓際に松岡部長と長谷部部長がいらっしゃいました」
「そうか、感付かれなかったか?」
「もちろんですわ」
朋子は胸を張った。
「ごくろうさま。帰る前にもう一度顔を見せてくれ」
言って、石倉は真知子の方に向きを変えた。
「冷めないうちに、どうぞ」
と奨める。
「頂きます」
真知子は今日三杯目のコーヒーに手を出した。
「大蔵省で何か変わったことが」
石倉は水を向けた。
「正式には何も無いんですが、ただ、ちょっと」
と真知子は口を噤《つぐ》んだ。
「どんなささいなことでもかまわないよ。気軽に耳に入れて貰いたいところだね」
石倉はいつもの口調に戻った。
「実は、偶然に局長さんに廊下でお会いしたんです」
「ああ、きみの大学の先輩だね」
「けっこう気を遣って下さるんで恐縮してるんですが」
「それで」
と先を促す。
「昨日おたくの頭取にお会いしましたよっておっしゃってから、何となく気まずい顔付になってそそくさと行ってしまわれたので、逆におやと思ったんです」
と訴えた。
「すると、それまでは別の話をしていたのかね?」
「ええ、挨拶をすませて、後はたわいのない世間話を少しだけです。なにしろ、廊下での立ち話で、その間何人かの人が近くを通り掛かりましたから落着いて話し込んだわけではありません」
「なるほど」
と石倉は低い声で呟いた。
「銀行局長とうちの杉本頭取が昨日、何処かで会った。むろん、目的や用件はわからない。局長は今日きみに廊下で出会って、つい気易《きやす》く口が滑ったが、ことの重要性に気付くや、気まずい顔付になった。だいたい、こんなところだろう」
とたしかめる。
「その通りです。でも」
と言い淀《よど》む。
「でも、何だね?」
「気まずい様子というのが、わたくしの勘違いかも知れません。うちの頭取が銀行局長に会うのは、別に不思議でも何でもない筈でしょう」
と彼女は主張した。
「たしかに、その通りだ。しかし、たまたま会ったのが昨日だということに、いくらか意味があるのかも知れない」
と石倉は言った。
「初め、局長は世間話の延長としてそれを口に出してから、日時の重要性に気付いた。と言って、いまさら取り消すのはおかしい。そこできみを振り切ってそそくさと立去った。気まずい顔付になったのはそれだけ人柄が良いんじゃないのかね」
とつけ加えた。
「そんなふうに考えて頂ければ光栄ですわ。お知らせした甲斐があります」
神谷真知子は微笑んだ。先ほどより表情も晴れ晴れしている。
「どんなささいな事柄でも上手につなぎ合わせれば相当な情報になる。もちろん、大いに推理を働かせなければつながらないケースの方が多いのはたしかだが」
と石倉は言い添えた。
「ところで、きみならどんな推理をする?」
悪戯《いたずら》っぽく訊いた。
「ずばりと言わせて頂ければ、当行に合併問題が持ち上ったような気がします」
と告げた。
「何だって?」
石倉は眼を剥《む》いた。
「どうして、きみはそれを」
と漏らした。
「まあ、わたくし勝手な予想を口に出したんですよ。それが当ったんですか?」
真知子は驚いて、頬を上気させた。
[#改ページ]
第五章 合併工作
神谷真知子の予想は当った。
いつも冷静な石倉の顔が一瞬歪んだのを見て、真知子は自分のひと言が真相を探り当てたのを感じた。ほんとうは矢口朋子の暗示に乗せられたのだが、それには触れずにおいた。
石倉は苦笑した。あくまでも隠し通す気はないらしい。
「そうか? 合併問題か? 仕方ない。知られたのが少し早いが、現段階ではまだ極秘だからね」
と念を押す。
「わかっています」
真知子もやや緊張して答えた。
「頭取が銀行局長に会ったのは、間違いなく合併問題の推進のためだね」
「局長は了承したんでしょうか?」
「したと考えた方がいいだろうね。ぼくが頭取に呼ばれたのが同じ日の深夜だ。もちろん、合併話そのものはもっと以前から始まっていたに違いない」
石倉は感想を述べた。
「いままでにも、『銀行合併』って、ずいぶんありましたよね」
真知子の眼はいくらか輝きを増している。
「大型と小型、それに成功、不成功を入れると十本の指では数えきれない」
と教えた。
「そんなに?」
真知子は少し身を乗り出した。
「もっとも、時代の動きによって銀行合併の意義も狙いも、そして効果も変わってきている。簡単に言うと、高度成長時代は何でも大きければよかった。規模の大きさが売上増につながり、さらに利益の増加につながった。したがって、大型合併が時代のニーズにぴったりの合併形態だった」
石倉の言葉はいくらか解説口調になる。
「ところが、バブル経済が崩壊し、不況が長びいてくると、同じ合併でも様相がすっかり一変した。銀行や信用金庫や信用組合が、お互いに倒産しないように、何とか助け合っていこう、支え合って省力化し、諸経費を節約して共倒れを防ぎたいと思うようになった。そういう願いが正面に出てきた。出てこざるを得ないと言った方が正解だ」
「すると、お互いにマイナス要素を補い合う救済型の合併ですね」
と真知子は応じた。
「その通り。一口に合併と言っても、合併吸収されなければ倒産清算の道を進むほかはない場合まで含めると、事情はかなり違う。それにこういうパターンの間に、いろいろなケースが入り込むから、面白いと言えば面白いよ」
「でも、合併する側とされる側では、受け留め方も対応も違うでしょう」
真知子がそう言うと、石倉は腕組みした。
「それについては、まだあまり深く考えたくないね」
と彼は言った。
「いずれにせよ、きみにも手伝って貰うことになる。とにかく、この件は内密にね。頼んだよ」
と再度念を押した。
「わたくし、大蔵省の方の意向を探ってみましょうか?」
真知子は少し身を乗り出した。
「やってくれるかね?」
「はい、そのための|MOF《モフ》担です」
「しかし、現段階ではあくまでも慎重にね」
「わかっています」
と彼女は頷《うなず》いた。
真知子が去ると、石倉は会議室に取り残された。
もちろん、彼自身の意志で残っているのに、何故か、取り残されたような気がしたのだ。しばらく自分の気持を持て余してぼんやりしていると、ノックの音が聞こえた。
矢口朋子がせかせかと入ってきた。
「杉本頭取がお呼びです。すぐ頭取室へお願いします」
と伝えた。
「わかった」
「それから、わたし、もう帰ってもよろしいでしょうか?」
と訊く。六時三十分になっていた。
「いいよ。その代り、この部屋に鍵を掛けて、キイを神谷くんに渡しておいて貰おう」
「わかりました」
朋子は急いでキイを取りに行った。
石倉は出来上った書類をまとめた。
頭取室に入ると、杉本富士雄はソファーを指さしもしないし、坐れとも言わなかった。しかも、気むずかしい顔をしている。
「きみに頼んだ件だが、進行状況はどうだね?」
と訊かれた。
「はい」
石倉は十枚ほどの書類をさし出して簡単に説明した。
「後は東京と大阪を中心に全国の主要都市を七つか八つ現地調査する必要があります。その上で総合的な結論を出すつもりです」
と答えた。
「時間が無くなった」
と杉本は言った。
「急いでくれたまえ。東京と大阪だけにして、後は割愛《かつあい》していい。それから、合併の大義名分の方だが」
「その件につきましては、頭取の具体的なご意見を聞かせて頂きたいと思います。わたくし共だけで作成しますと、どうしても画一的な作文になってしまいそうです」
と石倉は訴えた。
とたんに、頭取は不機嫌になった。
「いつも通りいっぺんの作文しか出さんくせに何を言う。いいかね、総合企画部長としての見解をきちんと示したまえ」
と一喝した。
「はっ」
と応じたものの、石倉の顔は薄く染った。
「どうだね? 明日の朝までに出せるか?」
と訊いた。
「はい、何とか」
と答えた。
「よろしい。午前十時にこの部屋に来たまえ。行内はもちろん、対外的にも立派に通用する理由でなくてはならん。少くとも、これならと納得出来る理由が三つや四つは欲しいところだ。わかったね」
と念を押す。
「承知しました」
石倉は頷いた。
「頼んだよ」
と言いつつ、杉本はドアを指さした。帰れという合図である。
石倉克己がエレベーターホールで待っていると、上昇してきたエレベーターの中から長谷部敏正があらわれた。
「やあ、昨夜はわるかったね」
先に石倉が声を掛けた。
「帰っていたのか?」
長谷部は怪訝《けげん》な顔をした。
「ちょうど戻ったばかりのところを頭取に呼ばれてね」
そつなく言い返す。
「そう、ぼくもこれから頭取室へ行くんだ」
「ごくろうさま」
「後で、ちょっと」
「いいよ」
二人は会釈して別れた。
エレベーターのドアが閉まってから、石倉はひょっとすると長谷部も合併問題に引きずり込まれるのかと思った。なにしろ彼は融資部門を掌握する部長で、杉本に気に入られて本部入りしている。
となれば、業務推進部長の松岡紀一郎も当然、何らかの命令を受けることになろう。
期せずして、大きな渦巻が近付いてきて、自分たち同期生三人を呑《の》み込もうとしている。そんな気配を感じて、石倉は思わず表情を引き締めた。
「ふん、負けるものか」
口の中だけで呟《つぶや》いた。
自席に戻ると、三、四人がまだ残ってデスクワークをしている。神谷真知子が立って来て、会議室のキイをさし出す。
「たったいま成瀬副頭取から連絡がありました。部屋へ電話を下さいとのことです」
と言いながら、内線番号を記したメモ用紙を机上に置いた。
「わかった」
と返事をして、すぐ受話器を取り上げた。
「石倉でございます」
と先に名乗った。
「忙しいだろうが、今夜、少し時間が空かないかね?」
成瀬はいきなり言う。
「では、空けます」
と答えた。
「早い方がいい。いま七時八分だね。四十五分に新橋の小料理屋へ来てくれないかな。誰にも内密に頼むよ」
言って、店の場所と電話番号を教えた。
石倉は会議室のドアを開けて、資料を集め自席に持ち帰った。それから融資部の次長に電話を入れた。急用で出掛けるので、出先から連絡するとの長谷部宛の伝言を頼んだ。
「ちょっと出掛ける。もう一度戻るかどうかわからない。なるべく早く仕事にけりをつけて帰ってくれたまえ」
と残っている部員たちに言い渡した。
早足で廊下へ出ると、神谷真知子がついてきた。
「明日から忙しくなるよ。副頭取と会う件、コレだからね」
人差し指を立てて唇の中央に当てた。
「わかりました。わたくしも今日は早く帰らせて頂きます」
と彼女は言った。
一方、頭取室に入った長谷部敏正は、壁際のソファーで杉本と向かい合っていた。二人の前には紅茶茶碗が置かれている。
「いやあ、きみのように実直で人気者の支店長を本部へ呼ぶのはつらかったよ。きみがあと三年もいたら、名古屋支店の資金量は二倍位になるだろう」
先ほどから杉本は上機嫌で長谷部を誉めあげていた。渋面を作り続けて石倉に対した時とは、まるで別人のような感さえある。
長谷部は面映ゆい気持を持て余しながら、しきりに照れた。杉本はその様子を見て、相好を崩した。
人の好き嫌いほど不思議なものはない。杉本は名古屋支店の店頭で長谷部が赤児をあやすのを見て以来、地味だが気骨のありそうなこの人物に好意を抱いた。敏速でシャープな印象こそ無いが、生真面目で信頼出来る。
杉本富士雄はワンマン頭取として君臨しているだけのことはあって、人の本質を見抜く眼を持っていた。しかも、己の見方に絶対の信頼を置いている。めったに見そこなうことはないと確信していた。
長谷部の場合は、偶然の出来事のおかげで、その眼にかなったと言えよう。それを知っても、石倉は冷静だったが、松岡はしきりにうらやましがった。
「金融機関はどこもバブルの後始末に追われている。景気の低迷で、企業の設備投資もすっかり冷え込んでしまった。銀行は本来の役割を果すどころか、連鎖倒産防止のための後向きの融資にばかり追われていてどうにもならんよ」
杉本は日頃の忿懣《ふんまん》を口に出す。
「はい、全支店の融資状況をチェックしてみて驚きました。名古屋支店はまだよい方だと思います」
と長谷部は正直に答えた。
「その通りだよ。せめてきみのような支店長が、いまは部長になったにせよ、あと三十人もいてくれたらとつくづく思うね」
と言いながら、杉本はゆっくりと紅茶茶碗に手を伸ばす。
「恐れ入ります」
長谷部は恐縮した。
「いま、不況三年説、五年説、十年説などがあるが、きみはどれが正しいと思うかね?」
と尋ねた。
「経済企画庁や日銀の見方ではなく、わたくしの個人的な意見でよろしいでしょうか?」
と長谷部はたしかめた。
「もちろんだよ。経済企画庁なんて、もっぱらタテマエでものを言うところだからね。当てには出来ん。もっとも、公共性を無視するわけにゆかんのだから、気の毒だよ。個人的な考えでけっこう、聞かせてくれたまえ」
と先を促す。
「今回のバブル経済崩壊による不況は一九九一年の四月頃から始まっております。したがいまして、現在は九三年十月なので、不況三年説をとった場合は、九四年即ち来年の四月で不況はおしまいになります」
「すると?」
「はい、五年説の場合は九六年、十年説になりますと、不況脱出は実に二〇〇一年になってしまいます」
「なるほど」
「わたくしはイギリスの天文学者ウイリアム・スタンレー・ジュヴォンズの説く『太陽黒点説』と景気の関係に興味を抱いております」
「ほう」
「黒点と申しますのは太陽の表面に浮かぶ低温の磁場のことでございます。この黒点が増えますと、活動が盛んになり太陽は明るさを増します。そこでもっとも活動の盛んな時期を『極大期』と呼びます。フレアと呼ばれる爆発がしばしば起る筈です」
「面白いな、きみの話は」
杉本は膝を乗り出した。
「この極大期はおよそ五年半ないしは六年で『極小期』へと移行します」
と長谷部は続けた。
「うーむ」
杉本は唸《うな》った。
「そこで、最近の極大期の終りを調べてみますと、一九九〇年の八月でした。そして、極小期へと移行し始めた半年位はまだ極大期の名残りが見られますが、さすがに八か月後には冷え込みがきつくなります。こうして、九一年の四月にバブルは破裂しました」
「その通りだ。きみの話はわかりやすい」
「現在は極小期のまっただ中でございまして、消費者の購買意欲は無くなり、飲食店やデパートやスーパーの売上は落ち、ビルの空室は増え、不動産価格は下っています。株価は少し上げましたが本調子ではありませんから、また、いつ下るかわからぬ状況です」
「たしかに」
杉本は大きく頷いた。
「では、極小期が終るのはいつでしょう。九六年の九月です。ということは、景気の回復感が出てくるのは十月以降になります。そこでわたくしは不況五年説を取りたいと思います」
長谷部は説明を終えた。
「よくわかった」
杉本の顔は綻《ほころ》んでいる。
「わたしもほぼ同意見で、不況脱出は五年から十年の間と見ておった。ただ、きみとは少し根拠が違う。過去の好況不況の波の間隔と経済指数や統計数字、それに長年の直観を加えてそう判断したんだが、きみの話の方がわかりやすいし説得力がある」
と誉めた。
「いえ、頭取の直観が一番正しいような気がいたします。わたくしのはたまたま知った『太陽黒点説』に乗っかっただけでして、思いつきのようなものです」
と謙遜した。
「それにしても、きみはきちんとした意見を持っておる。この間も『取締役会』で同じ質問をしたらどうなったと思う? 殆《ほとん》どの役員が自信を持って自分の考えを堂々と口に出せんのだ。まったく、役立たず共が」
杉本は眼を剥《む》いた。
その時、秘書課長がノックをしてあらわれ、メモ用紙を杉本に手渡した。
「いま忙しいんだ。待たせておけ」
メモの内容を読むや一喝する。
「はっ」
秘書課長は深く頭を下げて引っ込んだ。
「申訳ございません。わたくしはそろそろ」
長谷部は腰を上げかけた。
「なあに、いいんだ。きみとはまたゆっくりやろう。まもなく、きみに頼まなければならん仕事もある」
と言いつつ、杉本は名残り惜しそうに立上った。
頭取室を出た長谷部敏正が秘書課の脇にある待合室まで来ると、入口近くのソファーに松岡紀一郎が一人で腰を下していた。
頭取に呼ばれた者がたいていこの部屋で順番を待つことになる。長谷部は自分が長く時間を取りすぎたので、その分松岡がわりをくったのを察した。
つい声を掛けそびれた。エレベーターホールまで進んだ時、背後で秘書課長の声が聞こえた。
「松岡部長お待たせしました。至急、頭取室へお入り下さい。頭取はすぐお出掛けになるので大至急お願いします」
と松岡が急《せ》かされた。
彼の返事は聞こえない。おそらく、秘書課長など相手にせず、直ちに頭取室へ走り込んだのであろう。
自席に戻ると、メッセージがある。石倉が出掛けてしまったのがわかった。
五分後、電話のベルが鳴ったので手を伸ばした。
「頑張ってるね。まだ仕事か?」
聞こえてきたのは石倉の声ではなく、松岡の弾《はず》んだ声であった。
「どう、すぐ出られない。ちょっと食事でもしようよ」
と誘う。
「そうだね」
腕時計に眼をやると八時になっている。急に空腹に気付いた。息子も今夜は遅いと言った。たぶん、もう夕食はすませただろう。
「わかった。付き合うよ」
と答えた。
「よし、十五分後に裏の出口で会おう」
松岡は伝えて電話をきった。
長谷部が書類を片付けて出掛けるまでに、石倉からの電話はこなかった。交換手は六時で帰り、電話は直通になっている。
調査役が二人、十時まで仕事で残るというので伝言を頼んだ。
「いいかね。疲れを明日に残さんように、なるべく早く帰りたまえ」
と長谷部は二人に言い残した。
石倉克己は新橋の小料理屋にいる。副頭取の成瀬昌之と二人だけでひっそりと酒を酌み交わしていた。
端目《はため》には先輩と後輩が久しぶりに出会ってしんみりと何か相談し合っているとしか思えない。
が、実際は二人共かなり興奮していて、じっとしているのがもどかしい思いであった。石倉は長谷部に電話をする約束など、とうに忘れていた。実際、それどころではないという思いの方が強い。
杉本頭取から富桑《ふそう》銀行との合併の件を打ち明けられたのは、いまのところこの二人だけである。いや、もう一人いた。成瀬より上席の筆頭副頭取勝田忠であった。
と言うのも、杉本はまず石倉にいくつかの調査を命じた翌早朝、勝田と成瀬の二人の副頭取を呼んだ。
「この間、富桑銀行の原沢頭取といっしょにゴルフをしてねえ」
と杉本は始めた。
「あそこも長年大久保会長が院政を敷いて頑張ってきた。頭取以下の役員にとってはずいぶん煙たい存在だった。ところが、きみらも知ってるようにいまは病人だ。心臓発作だからね。それに肝臓その他あちこちわるいらしい。入院生活も長びいてきたし、もういかん。やっと原沢さんの時代になった」
と一気に言う。
「そこで、原沢さんとしては一つ大きな仕事をやりたい。わたしも相談を掛けられて協力することにした。長い不況時代に耐えて生き抜き、また好況期を迎えて大きく飛躍するための準備をいまからやっておこう。そう思った。二人の考えが、そこでぴたりと一致してね」
杉本は誇らし気に言った。
「富桑と三洋、この二行の大型合併を実現することに決めた。巨大銀行同士の合併だからね。これは世間に知れたら、誰もが驚く。大変なことになるよ」
杉本はそう嘯《うそぶ》いて、二人の副頭取に全面的な協力を要請した。
「すでに石倉くんに基本的な調査を命じてある。近く信頼出来るスタッフを集めてプロジェクトチームを作らねばならん。勝田くん、きみが委員長に就任したまえ」
と命じた。
「承知しました」
勝田は深く頭を下げた。
「まったく情けないよ。勝田さんときたら、何でも頭取の言いなりだから」
と成瀬はぼやいた。
「ぼくだって、頭から銀行合併に反対しているわけじゃない。大型合併のもたらすスケールメリットの享受、体質の強化、無駄の排除、効率的な支店経営や人員配置、収益の向上、いずれもけっこうですよ。けっして厭だとは言いません」
とつけ加えた。
「しかし、相手が富桑銀行ではいけません。バックに大財閥が付いている。一対一の対等合併とは名ばかりで、あっという間にすっかり吸収されてしまう。三洋銀行なんぞ、じきにあとかたも無くなる。それでいいのか? え、きみ、石倉くん。きみはそうなってもよいと言うのかね?」
成瀬はねちっこくかき口説く。
「いや、いいとは思いません。総合企画部長として、三洋銀行の『消失』に手を貸すわけにはいかない」
と石倉はテーブルの端を叩いて見せた。日頃から冷静な彼としては、珍しく入れ込んでいた。
長谷部敏正と松岡紀一郎は近くの中華料理店にいた。
もちろん、二人共、石倉克己が副頭取の成瀬昌之と食事をしているのを知らない。まして、彼等の話の内容を知る由もなかった。
長谷部と松岡は好きな料理を二つずつ頼んで分け合うことにした。
「これで足りなかったら、後はやきそばかチャーハンを追加すればいいだろう」
と松岡が言う。
「足りるよ。まあ、食べてみよう」
長谷部も賛同する。
ビールを一本だけ頼み、後は紹興酒にした。
三皿目までは食べる方が先になった。両者共、かなりの健啖家《けんたんか》だ。とはいえ、四皿目が出る頃になるとすっかりペースが落ちてしまった。
それまでは二人の会話は身辺の雑談の域を出ていない。
「どうかね? やきそばを頼むのか?」
長谷部が訊く。
「言うてもくれるな」
松岡は拒絶する。
「後で、杏仁豆腐《あんにんどうふ》でも頼もう。それでせいいっぱいだ」
「ああ、食後のデザートだな。あれなら何とかなる」
と長谷部も応じた。
「実はね、今日の夕方、つい先ほどのことだが、杉本頭取に紅茶をご馳走になった」
松岡は得意気な顔をした。
「ほう」
長谷部は驚いたふりをする。
事実、いくらかは驚きの気持がある。彼は頭取が自分のあと松岡を呼んだものの、ほんの数分で出掛けたのを知っていた。もう一度紅茶を取り寄せる筈もない。しかし、物事にはすべて万一ということがある。まず有り得なくても絶対に有り得ないのかどうかがはっきりしなければ嘘とは言えまい。
「珍しく応接セットに案内してくれて、紅茶を出してくれた上に、三十分、いや、四十分近くも引き留められてね」
と嬉しそうに教える。
これで嘘が明白になってしまった。あの時間、杉本富士雄には三、四十分もの余裕はなく、松岡にさけたのはせいぜい五分だ。誰よりも長谷部がその事実を知っていた。となると、短い命令か伝達がせいいっぱいであろう。
もし、松岡がよけいな尾鰭《おひれ》をつけ加えなければ、長谷部としても紅茶だけでは嘘とは断定出来ず、半信半疑になっていたであろう。
長谷部は曖昧な笑いを浮かべた。そんな筈はなかろうと問いつめるのも大人気ないと考えたからだ。
すると、松岡は図に乗った。自分の前に長谷部が呼ばれ、紅茶をふるまわれたなどと思いもしない。長谷部の本部転勤が頭取に気に入られた結果であるのを知ってはいたが、幼児を抱いてあやしたぐらいでとの思いの方が強い。それがきっかけとなって人柄を買われたとは思わなかった。
松岡はさらにしゃべりまくる。杉本頭取と自分の関係がさも密接であるかのような口ぶりだ。おそらく、石倉には同じ口調では言えないだろう。名古屋支店から来たばかりの長谷部だからこそ気楽にものを言っている。少くとも本部に於《おい》ては優位に立ちたいとの思いがあるらしい。
「それで」
と長谷部はさえぎった。自慢話は長く聞くと飽きてくる。
「たぶん、頭取はきみに特別な用件があったのだろう」
いくらか皮肉っぽい言い方になったが、松岡は気付かず、簡単に見逃した。
「実は、その通りなんだ」
松岡は声をひそめた。
「いったい、どんな用件だったの?」
誘い込まれるかたちで訊いた。
長谷部にも関心があった。いずれきみに頼みたい仕事があると頭取は言った。
「それがね」
松岡は言い渋る。にわかに歯切れがわるくなった。ついいましがたまでの滑らかな口調が急に消え失せた。
「おや」
長谷部は思わず口に出しそうになった。
おかしいと思いつつ、松岡の表情を見た。わざとらしく視線をそらした。日頃のそつのなさが感じられない。もう少し上手なごまかし方がありそうなものだと思えてきた。
「紹興酒、追加しようか?」
とって付けたように言う。
「もうけっこう、それよりデザートを貰おうかな」
長谷部が応じると、松岡はいそいそと合図する。
「杏仁豆腐を二つ」
と頼んでしまうと、またいくらかぎこちなくなった。
「何か秘密がありそうだね」
と探りを入れた。
「いや、そんなことはない」
直ちに否定した。
「どうも、おかしい。むきになるところが怪しいね」
「何を言う。別にむきになっちゃいない」
松岡は口を尖《とが》らせた。
「それならいいよ。話題を変えよう」
長谷部がそう言うと、松岡は素直に頷いた。
しかし、しばらくは話題が弾まない。無理もなかった。一方は隠そうと思い、もう一方は探ろうとする。どちらもうまくゆかず、苛立ちだけが高まってきた。
二人はデザートがくるとそそくさと食べた。すでに満腹だがまだ多少入るところはあった。
「勘定はぼくが持つ」
と松岡が言い張る。
「では、ご馳走になろう」
長谷部もあっさり折れた。
二人は同時に立上ったが、何となく気まずさが残る。
「絶対に他へ漏らさんだろうな」
松岡は急に考えを変えたのか、小声で念を押す。
「もちろんだ」
長谷部は確約した。そうしない限りは、松岡はすぐ口を閉じる。
「じゃあ教えよう。近く『銀行合併』のためのプロジェクトチームが出来る。リストラのために発足した『プロシード二〇〇一委員会』があるだろう。たぶん、あれがそのまま『合併推進委員会』になるよ。石倉が対外的な部分を担当し、ぼくが行内のまとめ役になる。委員長は勝田副頭取になった。きみは融資部長だからな。当然、チームの一員になっている」
歩きながら囁《ささや》くように言う。
「まさか」
長谷部は呆れた。
「冗談だろう」
とつけ加える。
「冗談で、頭取がぼくを四十分も引き留めて頼み込むかね?」
松岡は顎をしゃくった。
「トップは副頭取でも、現実に動くのはぼくらだからね。きみは銀行内部の情報通でもあり、顔も広い。部長会、支店長会、次長会、従業員組合幹部などの説得が中心になるから、どうしてもきみの説得力ある弁舌が必要だ。ひとつ、頼むよと頭取に肩を叩かれたんだ」
とやや興味気味に口走る。
「すると、相手はどこかね?」
長谷部は突っ込んだ。
「富桑銀行だよ」
さらりと教えた。
「何だって?」
長谷部は眼を剥いた。
「富桑はうちより上位の大銀行だ。相手に不足はないよ」
松岡は平然と言い返した。
長谷部敏正は松岡と別れた後、のろのろと歩いた。
実のところ、富桑銀行との合併と聞いてがっかりしてしまった。急に心も足も重くなってきた。
──これでは対等合併どころか、吸収されてしまうのが眼に見えている。
それであった。
彼には松岡紀一郎の張り切りぶりが理解出来ない。頭取に直接声を掛けられ、肩を叩かれて激励されるのがそれほど嬉しいのかと訊き返したいくらいだ。
頭取の命令なら、何にでも従うのか? との思いもこみ上げてくる。とにかく、石倉克己の意見を聞いてみよう。
街角の公衆電話を見つけた。少し歩調を早めて近付き、ボックスの中に入った。
銀行の総合企画部長席に掛けた。部下の調査役が出て、今夜はもう戻らないとの連絡があり、行き先はわかりませんと答えた。
長谷部はいったんきると、石倉の自宅に掛けてみた。予想した通り、まだ帰宅していなかった。
長谷部はゆっくり電話ボックスを出ると、またのろのろと歩き始めた。いっこうに歩調が早くならない。足が重い。顔付もどこか弛緩していた。
いまから銀行へ引き返す気はなく、と言って、息子もまだ帰っていないマンションの部屋へ帰る気にもならなかった。
「さて、どうしたものか?」
と呟く。
近頃、こんなふうに時間を持て余した経験がないだけに、戸惑いも大きい。
「やれ、やれ」
と溜め息をついた。
と不意に、長谷部の躰《からだ》が少ししゃんとした。両の眼に光が戻った。
石倉が落込むとよく一人で行くというカラオケバーを思い出した。六本木六丁目にある「ぐうたら神宮」という店だ。昨夜、石倉に案内されて三人で行き、マイクを握った。石倉が「赤いグラス」を歌い終らないうちに頭取からの呼び出しがあった。
ひょっとしたら、あの時の頭取の用件は? それに今日は朝から顔が見えなかった。おそらく、との思いがこみ上げてきた。
いま、石倉克己が何処《どこ》にいるのか知らない。どんな用件で動いているのかもわからなかった。が、彼が今回の合併問題に巻き込まれているのはたしかだ。しかも、総合企画部長という役職柄、とくに対外的に松岡よりも深く関与しているに違いない。
そうであればあるほど、息抜きが必要になる。たぶん、今夜も、石倉は「ぐうたら神宮」にあらわれる。長谷部はそう見当をつけると、方向をたしかめ、信号を渡り終えたところでタクシーを拾った。
松岡紀一郎は歩いて銀行へ向かっている。裏から入って守衛に声を掛けた。
「ちょっと、二時間位仕事をして帰りますから」
と断った。
自席に行くと、次長が二人残っていた。
「おい、いい加減にしろよ。きみたちの仕事熱心はよくわかった。まったく、頭が下るよ。さあ、帰った、帰った」
と追い立てる。
「ぼくも三十分ほど書類の整理をしてすぐ帰るからね」
と上機嫌でつけ加えた。
一人になると、松岡は電灯の三分の二を消してしまった。その方が落着くからだ。そして、おもむろに仕事に掛かる。頭取に命じられた業務全般にわたる参考資料の作成に掛かった。と言っても、基礎的な資料収集は日頃から蓄積してある。富桑銀行関連の数字をパソコンから取り出して、自行の数字と比較しながら次々と必要な書類を作り上げてゆく。もともとこんなことは彼の得意の分野である。
パソコンの画面に見入りながら、松岡は時折、視線をはずしていまや誰もいなくなった広い事務フロアーを見た。
微かな満足感がこみ上げてきた。これでどうやら石倉に追いついたと言える。通常の業務では決定的な差はなかなかつかない。しかし、合併問題のようなイレギュラーな出来事が起れば事情が変わる。実力の差が見えてくる。役に立つ人材とそうではない人間の区別がつく。
役職の上で石倉が対外的な面を担当するのは当然だ。対内的な部分は本店の部長クラスなら誰でもよいのに、とくに自分が選ばれた。合併ともなれば、対外、社内ともに重要だから、石倉とは対等になった。
しかも、この決定は杉本頭取の選択と言ってよい。
こうなると、長谷部をも出し抜いたかたちになった。げんに、彼は合併の情報すらキャッチしておらず、そっと耳うちすると明らかに驚き慌てた。とくに、相手が富桑銀行だと知るとぎょっとした顔付になった。思わぬ合併話に驚いただけではなく、同期生二人が自分より少しばかり先を歩いていることに気付いたに違いない。
そう思うと、何となく愉快になった。彼は誰にも邪魔されずに仕事に没頭した。
新橋の小料理屋で向かい合っていた成瀬昌之と石倉克己は、そろそろ結論を出すところまできていた。
「富桑銀行との合併は、どう考えても三洋銀行のためにならない」
と成瀬は言い張った。
「何も合併そのものがわるいとは言わん。げんに規模の利益を追求した合併の成功例は過去にもたくさんあった。それに近頃の信用金庫同士の合併のように、あえて合併に踏みきったおかげで経営が健全化した例もある。これなど助け合いの精神が上手に生かされたケースだ」
とつけ加える。
「だが、相手が富桑銀行ではいけない。たちまち呑み込まれてしまう」
成瀬はあくまでもこだわった。
石倉もほぼ同意見である。
「たしかに当行はいまかなりの不良債権を抱えてはいますが、総融資量から見ると五パーセント以下で、都銀の中では少い方です。その他の経営指数も良好で、少くとも経営面から見た場合、合併する必要はありません。大口の融資申込みも減少していて、銀行を巨大化する意味が無くなっています」
と言い張った。
「まさに、きみの言う通りだ」
成瀬は顔を綻ばせた。
六十歳になったばかりで、表情や躰つきに五十代の名残りのエネルギーがあった。筆頭副頭取の勝田忠の老け込みぶりとは比較にならない。
もっとも、勝田は頭取より一つ下の六十八歳で、成瀬より八歳も年長だ。老化が早いのか、杉本より三、四歳上に見えた。そのせいか、副頭取が二人並ぶと、成瀬の若さがひときわ目立った。
したがって、杉本の後継者が勝田だとは誰も思わない。杉本がバトンタッチをするとすれば、当然成瀬になる。誰もがそう考えた。
事実、勝田はイエスマンに徹しており、冠婚葬祭用の副頭取と陰口を叩かれていた。大口取引先や大株主の息子や娘の結婚式、さらに有力者たちの葬儀になると、しばしば杉本の代りに勝田が出席した。
それにくらべて、成瀬には気骨があった。頭も切れ、仕事もよくこなした。役員や部長、支店長クラスにも成瀬ファンが多い。見方を変えれば着々と次期頭取への地歩を固めてきたとも言える。
その成瀬がまっ先に石倉を呼んだのには理由がある。彼は企画部担当の役員であり、同じ大学の先輩でもあり、日頃から石倉の才覚と頭脳の良さ、積極性を買っていて、目を掛けてきた。石倉の総合企画部長就任を杉本に進言したのも成瀬である。
「よろしい。現時点で、きみとぼくの意見は完全に一致している。こう考えていいな」
と成瀬は確認する。
「けっこうです」
と石倉は答えた。
彼は極秘の調査を命じた時の杉本の、何となく冷たい態度を思い出して、いまさらのように不快感を味わった。
「では、われわれ二人が中心になって、今度の合併を断固阻止しよう」
と成瀬は提案した。
「そんなことが出来るでしょうか?」
石倉が戸惑いの表情を浮かべた。
「それに、わたくし個人としては反対であっても、総合企画部長の立場になると、頭取の命令を受ければ、合併推進の方向で仕事を進めなければなりません」
と訴えた。
「当然、そういうことになる。そこで、どうするかはよく検討してみよう」
と成瀬は応じた。
「これからもちょくちょく会合を持って、相談しながらやってゆこう。いずれ、頭取と正面から対決することになるが、しばらくの間は地に潜って隠密行動を続けざるを得ないだろうな」
「わかりました」
「きみが一番正確な情報をいち早く知る立場にある。その有利さを活用するほかはなかろう」
と成瀬は強調する。
「はい」
と石倉は頷いた。
「明日から忙しくなる。きみも覚悟しておいてくれ」
と言いながら、成瀬は腕時計を見た。
「これから銀座のクラブに行く。力になってくれそうな人に話を通しておく必要があるからね」
と教えて立上った。
石倉は副頭取と別れた後、夜の街を歩き始めた。新橋駅へは向かわず、虎ノ門方面を目指す。何となく気分が晴れない。浮かぬ表情になった。きちんとした合併理由を明日の朝までに考えておかねばならなかったが、成瀬の言葉が重くのしかかってくる。もっとも、参考資料はたくさんある。心の通わぬ作文ならすぐにでも出来た。ワープロに向かって三十分も坐ればよいだろう。と言って、いまさら銀行に引き返す気にはならない。
「よし」
と呟いて、タクシーに手を上げた。
「六本木六丁目」
と行き先を告げる。
そのビルに着くと、五、六段石段を上って小さなエレベーターに乗った。四階で下り、カラオケバー「ぐうたら神宮」の扉をぐいと押した。
「今晩は」
ぼそりと言う。
「いらっしゃい。遅かったわね。さっきからお客様がお待ちですよ」
と気さくなママが言う。
「お客様?」
警戒心が働いた。
「やあ、予想が当った」
客席から、長谷部が手を振った。
「たぶん、この店で待ってれば会えるんじゃないかと思ってね」
照れくさそうな笑いを浮かべた。
「そうか」
と石倉は呟いた。
「昨夜は案内しておきながら、失礼しました」
丁重に頭を下げた。
「そうよ。失礼しちゃうわ。二人共、十二時過ぎまで待っていたんですからね」
とママが口を尖らせた。
「どうも申訳ありません」
と詫びた。
「罰にさっそく歌って下さい。長谷部さんにいくらお奨めしても、石倉さんが来るまではダメなんですって」
と訴える。
「じゃあ、仕方がないな」
「どの歌? 赤いグラス?」
「いや、また途中で呼び出されたんではかなわない。夜霧にしよう」
「はい、わかりました。長谷部さん、次はあなたですよ」
ママは向きなおった。
石倉はすぐマイクを持って立って行く。歌詞の出るテレビ画面をじっと見つめる。「夜霧よ今夜もありがとう」の前奏曲がゆっくりと流れてくる。
石倉はもう客席をふり返らず、躰でリズムを取りながら歌い始めた。
長谷部はちょっと下唇を噛んだ。店にあらわれるやいなやマイクを握った石倉の態度は少しおかしい。これだと長谷部が話しかけるのを嫌ったとしか思えない。
何故か?
長谷部にはその理由がわかるような気がした。おそらく、石倉の心中はあまり穏やかではない。にわかに襲い掛かってきた合併問題を持て余している。たぶん、そうだ。
松岡のように、頭取の命令を何の疑いもなく受け取ったわけではなかろう。この店に来たのもふんぎりがつかないからだ。
そう思うと、先廻りして待っていたのがわるいような気がした。しかし、ほんとうのところ、長谷部もまっすぐ家に帰る気がしなかったのだ。
石倉は歌い終って席に戻ると、いつになく熱心に急《せ》きたてた。
「さあ、次はきみだ。何でもいい、早く歌を聞かせてくれ」
とせまった。
「まあ、ゆっくりやるよ。ぼくはきみほどうまくないんだ」
長谷部はしり込みした。
「あら、うそ、長谷部さんも松岡さんもずいぶんお上手だったわよ」
とママが証言する。
「やっぱりそうか? 名古屋だってカラオケが流行《はや》ってる。支店長が歌えんようじゃしようがない。さあ、早く」
石倉は攻撃の手をゆるめなかった。
長谷部はあらかじめ電話を入れておいて、故西巻良平の自宅を訪ねた。
東横線の白楽駅から歩いて十二、三分の閑静な住宅街だ。途中、赤坂の「塩野」に寄って仏壇に供える和菓子を買った。
西巻とは銀行入行以来の親友だった。お互いの結婚式にも友人代表として出席し合った仲である。そのため、西巻夫人の純子とも親しくなっていた。
西巻は東大経済学部出身だが、長谷部は地元の岐阜にとどまり、名古屋大学を出た。同期生として三洋銀行に就職し、新人研修で知り合ってから付き合いが始まった。
純子には二度、電話を掛けた。もっと早く訪ねたいと思いながら、転勤にともなう忙しさにかまけているうちに、半月以上も過ぎてしまった。
長谷部はまずそれを口にし、仏壇の前に坐って掌を合わせた。
すぐに足が痺れてきたが、彼はじっと我慢していた。
──西巻くん、きみは亡くなる前日の夜、ぼくの自宅に電話を掛けてきた。あの日、取引先の接待で遅くなり、こちらから掛けるのを遠慮した。まさか、きみがあんなにあっけなく亡くなるとは思わなかった。きみは何か言いたかったんじゃないのか? いったい、何だ。教えてくれ!
掌を合わせたまま、そう念じた。
すると、忙しく立ち働いている西巻の姿が見えてきた。
「西巻くん」
と彼は呼び掛けた。
「あの」
ふり返ると、背後に夫人が坐っていた。
「どうも失礼しました。実はいま祈っている間に良平くんの姿を見たような気がして、つい声をあげてしまったんです」
と長谷部は詫びた。
「そうですか、わたくしもよく夢を見ます」
と純子は言った。
「亡くなる直前はずっと忙しくて、泊り込んだり、土日もよく出ていました。夜遅く朝早い生活なので、ろくに夫婦の会話も無かったんです。表情も険しくて、いつも苛立っていました」
と訴えるようにつけ加える。
「やはり、そうでしたか。バブル経済の崩壊以来、銀行の支店長は後向きの仕事にばかり追われて息つく暇もないくらいです。西巻くんは横浜のような激戦地の店を預かり、生真面目で仕事熱心だったから、なおさら無理をしたんでしょう」
と沈痛な声で応じる。
「長谷部さんも主人と似たような性格ですから、お気を付けになって下さい」
「はい」
素直に頷いた。
「ところで、何かお困りになっておられることはございませんか?」
と訊く。
「いまのところはとくにございません。それより」
と言い掛けてためらった。
「それより何か?」
「はい、実は、主人の日記が出てまいりましたの」
「日記?」
長谷部は眼を見張った。
「走り書きが多いんですが、取引先の会社のことが殆どで、わたくしには何のことやらよくわかりません」
「ほう」
「それで長谷部さんに見て頂ければと思いまして」
「いいんですか、見せて頂いても」
と言いながらも、長谷部は少し身を乗り出した。
「ぜひ、ご覧になって下さい。主人も喜ぶと思います」
夫人はきっぱりと言いきった。
翌日、銀行に出るとすぐ、長谷部は次長の佐々木明彦に命じて横浜支店関係の書類を揃えさせた。本店|稟議《りんぎ》の必要な大口融資先の明細表である。
あった、これだと思わず呟いた。聖友会病院関連の書類は簡単に見つかった。西巻は五十億近い融資のうさん臭さを見破っている。総合リハビリセンターの建設資金とはあくまでも名目で、実際は土地転がしと外国の名画買入れ資金等に使われた。株の投資資金にも流れているかも知れない。
要するに、病院経営とは何の関係もない財テク資金になったのだ。あげくに、土地は半分以下に、絵画や株は三分の一以下に値下りしてしまった現在、借入金の多くが返済不能に陥っている。
「何ということだ」
と長谷部は呟いた。
しかも、病院だけではなく、不動産、土建、貿易関連、自動車部品、コンピューターのソフト会社、宝石店、スーパー、レストラン、洋品店等、相当数の融資が不良債権化していた。
長谷部が目をむいたのは、聖友会病院をはじめ、大口融資の多くが杉本頭取の紹介であるという事実だ。
「これは?」
と思わず息を呑む。
意地のわるい見方をすれば、頭取は西巻に目を掛け、可愛がるふりをしながら、実は安易な融資を強要していたのではなかろうか? もし、そうであれば、横浜支店の不良債権の多くは頭取に責任があると言えよう。
さすがに西巻は日記の中ではっきり杉本頭取を批難しているわけではないが、そう勘ぐってもよい文章があちこちに散らばっていた。
西巻の悩みと、言いたかったことがわかったような気がする。長谷部はうんざりした顔付で書類を脇へ押しやり、腕を組んだ。
その日、大蔵大臣の毛利有太郎は国会での審議が終ると、首相官邸へ向かい、しばらく待たされたものの、約一時間首相と膝突き合わせて懇談した。当面の諸問題を報告し、それぞれの対応について相談を重ねた。
夕方には少し間があったが、大蔵省へは寄らず、まっすぐ自宅へ向かった。このところ、大臣は疲れていた。長生きのコツはわかっている。出来るだけ多く公務の間に休養を入れることだ。さいわい、今夜は宴会の予定がない。こんな日に大蔵大臣室なんぞにくすぶっていられるかというのが本心である。
珍しく早く帰って自宅で休養しよう。本を読むか、ビデオの映画を見るか、いずれにせよプライベイトな時間を愉しむつもりだ。
ところが、専用車が霞が関界隈を離れないうちに電話が入った。次官と銀行局長がご自宅にお邪魔したいと希望している、秘書はそう言う。高級官僚たちも、さすがに大臣に大蔵省へ引き返せとは言えないのだ。
「ふん」
と大臣は鼻を鳴らした。
「来たいなら、どうぞと言ってやれ。ただし、三十分だ。それ以上はさけん。夕食なんぞ出さんからな」
と言い放った。
大臣が自宅に着いて十五分後、着がえて顔や手を洗い、お茶を一杯飲もうとしたところへ招かざる客が来た。
それでも、夫人は気をきかして冷たいビールにチーズやスモークサーモン、キャビアを添えたカナッペなどのつまみ物をいっしょに出した。長びけば握り寿司などを取り寄せるつもりだ。
「突然、押し掛けまして申訳ありません」
と次官が頭を下げた。
「お疲れのところを恐縮です」
銀行局長も深々と叩頭《こうとう》する。
高級官僚たちは丁重だが強引だ。口や態度はしおらしいが、げんに人の都合を考えず、大臣の自宅までやって来た。
「何かよほどの急用らしいね」
と大臣はわざと唇の先を歪めた。
「まさか、もう一度公定歩合を下げさせようというんじゃあるまいな」
わるい冗談をつけ加えた。
両者共、揃って聞こえないふりをした。実際、たいした連中だ。不必要なことは聞かないし、聞いてもすぐに忘れる。
「さあ、どうぞ、ぐいとやりたまえ」
自分も喉《のど》が乾いたので、大臣は二人に奨めた。
「まだ仕事中ですので」
などと格好はつけない。
「頂きます」
二人共、同時に言って杯を傾けた。
喉の乾きが癒えたせいか、大臣はすこし機嫌が良くなった。次官も局長もそれを見逃さない。
「実はごく最近、富桑銀行と三洋銀行が合併の合意に達しまして」
と次官がさらりと言った。
「むっ」
と大臣はつまって、ビールの杯をテーブルの上に置いた。
「富桑と三洋が合併するというのかね?」
とたしかめる。
「そういうことです」
次官は落着いた声で答えた。
「両行の頭取が揃ってわたし共の所へ参りまして、口頭で詳しく説明いたしました。正式な書類その他はこれから受理することになりますが、実現すれば堅実で巨大な、いかなるバブルの崩壊にもびくともしない競争力のある、世界に誇ってよい銀行が誕生いたします」
銀行局長はやや誇らし気に言う。
「すると、きみたちはこの合併に賛成だと言うんだな」
大臣は念を押した。
「はい、わたし共はつねづね、都銀も地銀も信金も信組も多すぎると考えております。弱小金融機関が多いのは不安のタネです。何かことが起った時、われわれも日銀も対処出来ません」
「都銀の数もほんとうは六行位が妥当でしょう。富桑と三洋の合併が実現すれば、他行も刺激を受けます。地銀以下の金融機関も当面、半分位になるのを目指すべきです」
二人は次々と発言する。
いずれも打合せ済みの意見なのであろう。とにかく、監督官庁が銀行は多すぎると言っているのだ。
「要するに、銀行の数は減ってもよいから、この際、庶民が少くとも経営に不安を抱かぬ、安心して預金の出来る銀行ばかりにしてしまえということだね」
大臣はわかりやすく言う。
「一般の方々にそう理解して頂ければよいと思います」
「そうかね? きみたちの魂胆は見えているぞ。今度のバブル崩壊と深刻な不況に直面して面くらったんだろう。この先、天変地異も含めてどんなことが起ろうと絶対に消失しない銀行を作っておこう。そうすれば、誰も大蔵省の責任だとは言わない。いわば責任逃れの発想で、富桑と三洋の合併を認めたいんだ。どうだね? 当っただろう?」
大臣は一気に言って、にやりと笑った。
「………」
「………」
二人共、黙り込んだ。飲んだばかりのビールがにわかに苦くなったような顔付である。
「まあ、気にするな。大臣なんて、すぐに代る。わしだってあと半年やっていられるかどうかわからん。それにくらべて、大蔵省は永久に不滅だ。またそれでなくては困る。話はわかった。よし、大蔵省に乾杯しよう。さあ、勢いよく飲みたまえ」
大臣の濁声《だみごえ》が大きくなった。
頭取の命令でひそかに結成された「合併推進委員会」のメンバーは、松岡の予想した通り「プロシード二〇〇一委員会」の委員たちが指名された。彼等は勝田副頭取を中心に活動を始めた。
杉本富士雄は頭取室に筆頭副頭取の勝田忠を呼んだ。
二人は壁際のソファーで向かい合った。
「きみの方は何社廻った?」
と杉本が尋ねた。
「昨日で六社になります」
と勝田が答えた。
「わたしは十社に顔を出した」
「それはすごいですね」
「理想的には大口取引先と大株主を合わせて百社位は廻りたいところだが、そうもいかん。しかし、五十社位は事前に挨拶しておきたいね」
と杉本は言う。
「合併推進委員会の委員たちを投入すれば百社位どうということはありませんが」
と勝田が進言する。
「それはもう少し待ちたまえ。少くとも、基幹取引先の大手三十社をきみとぼくで廻り終ってからにしよう。反対者が出ると面倒だし、いまの時点で外部やマスコミに漏れると厄介なことになる」
杉本は珍しく表情を曇らせた。
「成瀬副頭取にも廻って貰いましょう」
勝田が提言した。
「それがね、さっきわたしの部屋に来た。今回の合併には賛成出来ないそうだ。したがって協力も出来ないと言う」
と教えた。
「そんな」
勝田は呆れ顔になった。長年イエスマンで通してきた彼にしてみれば、自分より格下の副頭取が頭取にそんな申し出をしたとは信じられない。
「わたくしが成瀬くんに話しましょうか?」
「いや、いまあまり刺激しては却《かえ》ってまずい。しばらく様子を見よう」
「そうですか?」
勝田は釈然としない。
「とにかく、成瀬くんは当てに出来ん。彼にはもう何も頼まんことにした。秘密を漏らさんように念は押してあるがね」
杉本は不快そうに顔をしかめた。
「大丈夫でしょうか?」
「大丈夫って、何が?」
ぎょっとして訊く。
「秘密です。なにしろ、ある段階までは極秘でゆきませんと」
「わかっている」
と言いきってから、勝田を見た。
「きみに何か考えがあるかね?」
と尋ねた。
「とくに考えというほどではありませんが、見張りを付けてはどうでしょう」
「見張り?」
「成瀬くんを監視するんです。彼の言葉や行動をチェックするだけではなく、出来れば尾行も付けたい。電話の盗聴が一番効果的ですが」
と勝田は主張した。
「なるほど」
と杉本は呟いた。
「きみもなかなか抜け目がないな」
と誉めた。
「頭取に仕込まれましたから」
勝田はすかさず言った。
「何を言うか? 人聞きのわるい」
と口にしたものの、杉本の頬は綻んでいる。
「監視役に石倉くんはどうでしょう」
「石倉なら頭は切れるし、シャープなところがある。適役だが、もともと成瀬の弟子のような男だ。いつ寝返るかわからんよ」
「そうですね。しかし、総合企画部長ですから対外的な部分のかなめになって貰う必要があります」
「その通りだが、要注意だよ」
「わかりました。わたくしも見張りますが、さし当り適任者がいるでしょうか?」
と尋ねた。
「松岡くんはどうだろう。気はきくし、行動力もある。情報のキャッチも早い。そつがなくて愛想がいいから皆に好かれている。どうやら忠誠心もありそうだし、おまけに業務推進部は成瀬くんの担当だ」
と杉本は提言した。
「松岡紀一郎ですな。彼のことを忘れていました。まさにぴたりです」
勝田は直ちに賛同する。
どうせ賛成するなら、気持良くすかさず口に出す方が効果的なのを承知している。勝田はイエスマンに徹しながらも抜け目はなく、老獪さを併せ持っていた。
「では、松岡くんにやらせてみよう。たぶん、彼なら大丈夫だ。行内のその他の動きもいち早く掴《つか》んでくるだろう」
と杉本は結論を出した。
10
長谷部敏正はむっつりと押し黙っている。息子と向かい合って食事をしていながら殆ど口をきかない。
今夜は彼が夕食当番なので早帰りしてきて、台所に立った。作ったのはカレーライスである。野菜が多いのが特徴だ。それに海草のサラダを皿いっぱい作った。らっきょうや福神漬は瓶の蓋を開けるだけですむ。
「お父さん、何だか変だよ」
と息子が言った。長谷部は、
「うっ」
と声をあげ、
「どうだ、うまいか?」
と訊く。そのくせ、息子の顔を正面から見ていない。
「銀行で何かあったの?」
逆に息子の方が訊き返した。
「えっ、何だって?」
今度はきちんと眼をあげた。
「母さんが言ってたよ。銀行で何か起ると、じっと考え込んでしまってろくに返事をしてくれないって」
「ほう、母さんがそんなことを言ってたか? 初耳だな」
「とぼけないでよ。ちゃんと知ってるくせに。うちでは家族全員が父さんのおとぼけには飽き飽きしてるんだよ」
息子は口を尖らせた。その眼に微かながら敵意が宿っているのを見て、長谷部はぎくりとした。
その夜、息子が風呂に入るとすぐ、彼は岐阜の留守宅に電話を入れた。まず娘が出て、妻が代った。とくに用件はない。ほんの数分、たわいのないおしゃべりをして、最後にはお互いに躰に気を付けるよう注意し合って受話器を置く。前回の電話と大差のない内容であった。
それでも何となく気持が落着いた。彼はウイスキーの水割りを作った。氷塊を二つばかり入れる。
「どうも、家内がいないと飲みすぎていかんな」
と呟いた。
午後九時三十分である。石倉はまだ銀行にいるかも知れない。そう思って直通番号をプッシュする。ベルが二度鳴らないうちに石倉が出た。
「やっぱりいたね」
「そろそろ終りにしようかなと思ったところだよ。そっちはいま何処《どこ》?」
「マンションにいる。夕食を作って息子と食べたよ」
「けっこうじゃないか」
「銀行で何かあったのかと訊かれたよ」
と打ち明ける。
「ほう、鋭い息子だな」
「なあに、ぼくが黙り込んでいたからおかしいと思ったんだ」
「だめだよ。息子さんとは努めて会話をしなきゃ」
と石倉はたしなめた。
「そうなんだ。だが、どうも今度の合併話が気になってね。杉本頭取の真意がよくわからん。何故、いま富桑銀行と合併しなければならないのか?」
と訴えた。
「ぼくにだってわからんよ。ただ、命令されたことをやっているにすぎん。合併理由だって、はっきりしない。仕方なく、適当な作文を作って出しておいたよ」
石倉はやや投げやりな口調でつけ加えた。
二人の会話はあまり盛り上らず、ほんの数分で終った。
その頃、松岡紀一郎は築地の料亭にいた。副頭取の勝田忠に招かれたのだ。
今日の午後、勝田から急遽《きゆうきよ》電話が入って付き合ってくれと頼まれた。午後八時に会って食事が始まり、いましがた最後の料理が出たところだ。
「後はいかがいたしましょう。ご飯か茶そば、おぞうすいと言ったところですが」
と仲居が訊きに来た。
「茶そばにしてくれ」
と勝田が応じた。
「わたしも同じものを」
と松岡も答えた。
勝田忠は実際の年齢より老けて見える。苦労人でもあるが、頭取に対して無類の忠義者としても知られている。したがって、頭取の代役をしばしば務めていた。
「実はね、杉本頭取もきみを接待したいと言っておられた。急用が出来て残念だがよろしくとのことだ。これから松岡くんに大いに働いて貰わねばならぬと期待しておられたからね。ひとつ、よろしく頼みますよ」
勝田は座敷に入るや、丁重にそう言って松岡を感動させた。
おまけに、さっさと下座に坐ってしまった。松岡は慌てて席の交代を申し出たが、勝田は譲らない。
「今夜はきみがお客さんだよ。上座に坐るのは当然だ」
とこともなげに言う。
松岡は恐縮しつつも喜んだ。銀行のナンバー1とナンバー2、頭取と副頭取がこのように気を遣ってくれる。それだけでもう単純に感激した。
11
「合併推進委員会」の委員に任命された石倉、松岡、長谷部の三人は、それぞれに多忙な日々を送っていた。
とくに松岡の活躍はめざましい。委員長は勝田だが、副委員長は松岡の観が強い。杉本の命令を受けて、事実上、この二人が委員会を動かしていた。
石倉の場合は成瀬昌之が反対に廻ったため、上層部から疑いの目が向けられた。しかし、総合企画部長という役目柄、彼をはずすわけにはいかなかった。
長谷部には最近まで名古屋支店長をしていたというハンデがそのまま働いた。東京の、とくに本部の事情に疎《うと》いと思われている。たしかに朴訥《ぼくとつ》で誠意は感じられるが、逆にあまり機転がきかずはしっこさがない。
それに、合併推進委員会そのものが正式の委員会ではなく、週に一回とか二回、定期的に開かれるわけではなかった。とにかく、目立ってはまずいとの配慮もある。
発足当初、一度顔合せがあった。一同は役員会議室に集められた。その席には飛入りのかたちで杉本富士雄もあらわれて、熱弁をふるった。
不況が長びき、多くの経営者が畏縮しているこういう時こそ、日本経済の中心的な役割を果してきた銀行が率先して、産業界全体に安心感を与えるべきだ。杉本はそう主張してからじろりと一同を見廻した。
「あの銀行は危ないなんて噂が出るようじゃ話にならん。世の中に安心感を与えるどころか不安を植えつけているようなものだ。むろん、当行も富桑もそんな噂を立てられてはいない。が、どうだろう。もし、この二行がいっしょになったら、いかなる不況やパニックにも耐えられる不沈空母が誕生する。超ワンマンの大久保会長が病気で倒れ、頭取の原沢一世くんが実権を握ったいまだからこそ、合併が可能になった。こういうチャンスを逃すわけにはいかんだろう」
言い放って、もう一度全員の顔を見た。
「われわれは五年先、十年先を見て仕事をしなければならん。たしかに、現在は前向きの資金需要が減っている。しかし、いまの不況から脱出した五年後、七年後の日本経済は強くなる。大口の設備投資で活況が続く筈だが、その時になって慌てても始まらん。いまからやっておく。この合併のほんとうの有難味がわかるのはそうなってからだ」
とつけ加えた。
言うだけ言うと、杉本はさっさと会議室を出て行った。
一同は圧倒された。すかさず、勝田が立って説明を始めた。
だが、石倉は苦笑した。杉本の発言は、彼が合併理由として作成し、あえて作文と称していた部分とよく似ている。いや、完全に一致していた。
長谷部も石倉から聞いて作文の内容を知っている。初めはおやという顔をし、次いで下を向いてしまった。
松岡はしきりに頷き、メモを取る。いつの間にか頬が紅潮し、両の眼も輝きを増した。期せずして、周囲にもその感動ぶりが伝わった。
MOF担の神谷真知子は、こうした一連の動きをいち早く知った一人だ。
石倉が彼女には真相を隠さなかったせいもあるが、仕事の性質上、ある程度は秘密を知る立場にあった。
それが、すべてを知ることになったのは、石倉が真知子の能力を活用し、助手として使ったからだ。
大蔵省、関東財務局、日銀その他への提出書類はすべて彼女が作成した。それだけではなく説明にも出掛ける。接触するのはもっぱら課長補佐クラスだが、実は、この層が役所を支えている。実力者揃いと言ってよい。ちなみに、上位の地銀に天下ると、いきなり取締役に就任するのが普通だ。
ほんとうのところ、石倉克己と神谷真知子とのコンビは予想以上の効果を上げていた。
これは真知子が自分の能力にふさわしいやり甲斐のあるセクションにつけたと信じて、仕事に邁進したからだ。毎日の行動に面白さや生き甲斐を感じたせいでもあり、彼女の性格や能力を含めた良さが、ここにいたって一度に開花したとも言える。
石倉が彼女を女性として扱わず、一人前の男性行員と同じように働かせたのもよかった。おまけに、彼はまだどの程度のものかよくわからぬ真知子を信頼して、先に仕事を与えてしまった。
対外的な仕事だけに、もし、彼女が失敗していたら、石倉は責任を問われた筈だ。石倉はあえて大きな賭けをして、見事成功したと言えよう。
彼女のMOF担起用は行内外から注目されていた。が、いまでは誰もこの人事にあまり違和感を抱かなくなっている。
その日も、二人は打合せをした。これは珍しいことではない。日に一度や二度、多ければもっと話合いや相談が続くことがある。立ち話の時もあるが、たいていは応接室や会議室が使われた。
合併問題が生じてからは、これがなおさらひんぱんになった。余人は交えず、二人だけのことが多い。矢口朋子もせいぜいコーヒーを運ばせられる程度だ。コピーもワープロも、石倉か真知子が自分でやった。
こうなると、何かと噂になりやすい。おまけに、石倉には渋い魅力があったし、もともと美貌の真知子の表情は、端目にも生き生きしてはっとするほどの輝きがある。
真知子が自席に戻ると、待っていたかのように電話が鳴った。
「あなたと石倉のことで、ずいぶん派手な噂が流れているよ。いろいろ相談に乗るから、彼に内緒でめしでも食おうか?」
といきなり言ったのは松岡紀一郎である。
[#改ページ]
第六章 反対派
横浜支店長には、故西巻良平の後任として調査部長の宮田隆男が選ばれた。
宮田も長谷部、松岡、石倉、西巻等の同期生である。なかなかの勉強好きで学究的だ。経理部や調査部勤務が長く、経済動向の分析や統計調査が得意の分野であった。天は二物を与えず、残念ながら、営業店向きではなかった。
優秀な人物だが、妥協するのが嫌いな方であり、学究タイプだ。正直なところ、支店長の仕事にうんざりしていた。
そのせいか、長谷部が横浜支店を訪問すると大いに喜んだ。本音のぐちをこぼせる相手があらわれたからである。
調査が得意なだけに、彼は短期間のうちに横浜支店の不良債権を徹底的に調べ上げていた。
「まったく、こんな支店へ来るんじゃなかったよ。杉本頭取の紹介先が大半焦げついている。催促すると、オレは頭取と親しいんだとばかり威張りくさって、却《かえ》ってこっちが威される始末だ。いまにして、西巻くんの苦労がよくわかるよ」
と口を尖《とが》らせる。
「その頭取関連の不良取引先だが、関係書類を見せて貰えるかね?」
「どうぞ、何でも見て下さい。融資部長に知って貰いたいと思っていたんだ」
宮田は渡りに舟とばかり、融資課長に書類を持ってこさせた。
「ずいぶんあるね」
と長谷部は呆れた。
「じっくり見て下さい。時間が掛かるでしょうから、何なら出前でも取りますよ」
と宮田は愛想がいい。
「じゃあ、コーヒーをお願いしますよ。そちらも仕事をしていて下さい」
と頼んだ。
「では、お言葉に甘えて。一時間後に覗きに来ますよ」
宮田は応接室のドアを閉めて出て行った。
ほんとうに一時間過ぎると、宮田は姿を見せた。
「驚かないで下さいよ。聖友会病院からたったいま新規の融資申込みがきました。金額は十五億円、リハビリセンター建設の追加資金だそうです。まったく、見えすいている。杉本頭取さんにくれぐれもよろしくと融資課長が念を押されたところですよ」
と投げやりな口調で言う。
「そんな申込書、受け取らないで、突っ返してやったらどうかね?」
長谷部は眼を怒らせた。
「もし、突っ返したらどうなるか? それこそ見物《みもの》でしょうな。あんな支店長はクビにしろと頭取に直談判とくる。もっとも、こっちはそろそろ銀行勤めにも飽きてきたから、別にかまいませんがね。早い話、富桑《ふそう》銀行と合併しようなんていう銀行には魅力を感じませんよ」
しゃあしゃあと言う。
「え、合併の件、知ってたんですか?」
長谷部は驚いた。
「火の無い所には煙は出ないでしょう」
宮田はとぼけた。
「すると、合併には反対ですか?」
「うちと富桑銀行との合併には後向きの意味しかありませんよ」
「どうしてですか? 杉本頭取は前向きの合併を考えておられる筈だが」
長谷部は反論した。
「最近の合併で前向きなんて考えられませんよ。経済情勢を見て下さい。今度の不況の根は深い。二番底どころか、三番底もあるでしょう。トップも莫迦《ばか》じゃない。おそらく、富桑もうちも予想以上の不良債権を抱えている筈。経営責任を問われないうちに合併して大銀行になる。そうなれば、横浜支店の不良債権なんか何処《どこ》かへ吹っ飛んでしまうだろうね。大きくなればなるほど、『銀行倒産』とか『銀行消失』はあり得ない。大蔵省も国も間違いなく保護してくれますよ」
宮田は淡々と意見を述べた。
「なるほど、それがアナリストのお考えですか?」
ととっさに皮肉ったものの、これこそ正鵠《せいこく》を射た意見のような気がして身が引き締まった。
帰途、宮田の案内で山下町の中華街へ向かう。異国情緒の漂う街は賑わっていた。
「すごいね。不景気知らずという感じだね」
と長谷部は感想を述べた。
「なにしろ、店の数が十年前の三倍になっていますからね」
「神戸の中華街より大きそうだ」
「もちろん、四、五倍というところでしょう。ここは中国人優先の街です。もし同じ腕前の日本人と中国人のコックがいるとしたら、中国人が二倍の給料を取ります」
「ほう」
「連中はしたたかですからね。日本人はかないませんよ。香港や台湾、それに中国各地から観光ビザで人を呼び、安い賃金で働かせて半年で帰す。法律違反にはなりません。なにしろ、化学調味料を大量に使うごまかしの料理ですからね。素人にも出来ます。こんなものをしょっちゅう食べていたらグルタミン酸漬けでおかしくなりますよ」
「へえ、さすがに詳しいね」
長谷部は感心した。
「取引先が三十軒もありますからね。いやでも情報が入りますよ」
「なるほど」
「この街はいつでも混み合っています。最近はとくに人出が多い。だが、こういう賑やかさは日本経済のバブル現象に似ていると思いませんか? よく見て下さい。道行く人の多くが肉まんや餡まんを手にして食べながらきょろきょろする。あれで満腹して、店に入ってもラーメンか、せいぜい飲茶《やむちや》です。なかにはそばだけのお客はお断りという店まで出てきました」
宮田は説明しながら先に立ち、途中で横丁へ入り込み、比較的良心的な小さな店へ入った。
副頭取の成瀬昌之は、忸怩《じくじ》たる思いを噛みしめていた。頭取に面会を求め、面と向かって合併反対の意志表示をしたのがわるいとは思わない。しかし、いま少しの間、立場を明らかにせず、杉本の動きを見きわめるべきであった。そんな気がする。
と言うのも、にわかに行内での立場がわるくなったからだ。杉本富士雄が成瀬締め出しの方策を着々と打ち始めた。そうとしか思えない。
おまけに、成瀬は反対なら反対でよいから秘密を守り、積極的な妨害だけはするなとクギを刺されている。
「銀行経営に関する考え方の違いだからいたし方ない。この上、議論をしても平行線を辿るばかりだろう」
と杉本は言い、以後の妨害禁止を告げた上で、唇を歪めた。
「民主主義の世の中だからね。いろんな考えがあっていい」
と皮肉な笑いを浮かべながら、吐き出すように言う。不愉快ながら、成瀬の申し出を認めたかたちになった。
何故か、日頃の強引さが影をひそめている。本来なら、説得しようとやっきになったであろう。あまりあっさりと成瀬の言葉を受け入れたので、むしろ不思議な気がした。
ところが、現実は甘いものではなかった。その日から成瀬に対する報復が始まった。重要な仕事や会議から徹底的にはずされてしまう。杉本がどのようなかたちで介入したのかわからないが、成瀬抜きで次々と重要事項の決定が下されている。
いままで、事前の相談に次々と訪ねてきた役員、部長クラスがぴたりと来なくなった。本店に入ると必ず顔を出す何人かの有力支店長たちもまったく顔を見せない。
たしかに、成瀬は次期頭取の有力候補者と目されていただけに多忙をきわめた。彼は文字通り行内外の注目を集め、重要人物として遇されてきた。
それだけに、副頭取室の賑わいが消え、訪問者が殆《ほとん》どいなくなってしまうと思わずわが眼を疑った。次いで、現実に眼覚めて茫然とした。ショックが予想以上に大きい。
いまさらのように、杉本の力の強さを思い知った。裏返せば、自分の実力の低さに突き当る。持ち前の自信がぐらついてきた。
何とかしなければという思いが強い。それにこのまま放置しておけば、三洋銀行は無くなる。近い将来、富桑銀行に吸収されてしまうのは目に見えている。
それを従業員組合や幹部行員に訴えて阻止することは出来ないだろうか?
杉本の、いわば上からの圧力に対して、下からのパワーで対抗出来ないものか?
成瀬は少し元気づいた。
ほぼ同じ頃、杉本は秘書課長の岩見光一を呼んだ。
「どうだね? 成瀬くんの様子は?」
と訊く。
「はい」
と返事をして、岩見は説明を始めた。
彼はノートを作り、ほぼ一時間毎に成瀬の行動を記録している。銀行内にいる限り、ごく小さな動きまで掴《つか》んでいた。電話も交換台を通したものはチェック済みだ。いまのところ、外出した場合と直通電話の内容だけがキャッチ出来なかった。もっとも、銀行の専用車に乗って移動すれば記録に残る。
岩見は副頭取室に入った役員や部長の名まで調べ上げている。どんな用件で、何分在室したか、細かく報告した。その方が杉本の機嫌が良いのを知っていた。
「なるほど、よくわかった」
杉本は満足気に頷《うなず》く。
「引き続き、手を抜かないで頼むよ。場合によっては外出した時、尾行を付けるようなことになるかも知れん。それにしても、きみの調査能力は抜群だ。たいしたものだよ」
と誉めあげた。
岩見は嬉しそうな表情で引き下った。
同じ日の夜、成瀬昌之は専用車に乗ってまっすぐ自宅に帰った。彼も監視網が一段と厳しくなっているのに気付いていた。自宅に引き上げてしまえば、一応、その日は終りとの解釈が成り立つ。
近頃はこの盲点を利用して、なるべく早く銀行を出て、世田谷区|等々力《とどろき》の自宅へ向かう。
「今日は疲れた。早く帰ってのんびりしたい。もう用は無いから、きみも早く帰りたまえ」
と運転手に告げた。
たぶん、こういう口調までそっくり杉本に伝わるに違いない。そんな気がして、なおさら念入りにやる。
自宅に帰ると、成瀬は手と顔を洗い、嗽《うがい》をしただけで応接室に引きこもった。
対策を考えるだけではない。次々とあちこちに電話する。
この日はまず石倉の行きつけのカラオケバー「ぐうたら神宮」に電話を入れた。
「石倉くんがあらわれたらすぐ、成瀬まで電話をくれるように伝えて下さい」
と頼んだ。
「承知しました。必ずお伝えします。成瀬様もそのうち、ぜひわたし共の店までお越し下さい。お待ちしております」
ママはしっかりした口調で請け負い、上手に誘った。
「そうですか、では、近いうちにお邪魔させて下さい」
と成瀬は応じた。
「まあ、嬉しい。きっとですよ」
とママはねだった。
電話をきって十五分しないうちに、石倉から連絡が入った。
「ずいぶん早いね。もうカラオケバーへ行ったのか?」
「いえ、『ぐうたら神宮』のママが電話をくれましてね。お急ぎのご様子だからと伝えてくれたんです」
と石倉は答えた。
「ずいぶん気がきくママだね。ところで、きみの席から電話しているのか?」
と、たしかめる。
「いいえ、隣りのビルの地下の通路にある公衆電話から掛けています」
「そうか、上出来だ。出来るだけ早く、ぼくの自宅まで来られないかね。いっしょに寿司でも食おう」
と誘った。
「わかりました。いったん戻ってすぐに出ます。タクシーを拾いますので、三、四十分掛かるかも知れません」
と石倉は告げた。
約四十分後、石倉克己は成瀬家の応接室にいた。
ビールにつまみ物が出て、上寿司の桶が届けられた。
「さあ、どうぞ、このへんでは評判の良い寿司屋なんだ」
と成瀬は奨めた。
しかし、すぐに二人共、寿司のことなどどうでもよくなってしまった。
「後輩が岡山県で県会議員をしている。次は県会議長か、衆議院選挙に出るかというところで、地元の信望も厚く、なかなかの有力者だ。この男が毛利大蔵大臣に可愛がられていてね。口を利いてくれるかも知れない」
と成瀬は始めた。
「そう言えば、毛利有太郎の選挙区は岡山ですね」
「その通り。もう一つ手がある。私がお世話になっている経団連の下村理事が大臣の同級生だ。早く連絡のつく方に頼もう。もし、大蔵大臣が許可しないとなれば、今度の合併計画もダメになる。従業員組合や支店長クラスの反対も大事だが、上からの揺さぶりもかけてみたい。しかし、わたしがいきなり大臣に会いに行けば目立つ。きみがパイプ役になって動いてくれ」
成瀬は一気に言った。
「わかりました。早速、動いてみます」
と石倉は約束した。
「気を付けてくれよ。きみはまだ反対派ときめつけられたわけではないから、何とかなるが、ぼくは徹底的にマークされている。少しでも動けば、たちまち察知され、上へ報告が行く」
「杉本頭取もずいぶん神経質になっていますね」
「われわれも少し仲間を増やさないとどうにもならん。部長、支店長クラスで信用出来る者はいないかね?」
「長谷部敏正がこの合併に疑問を抱いています。根が生真面目で、愛行心の強い男ですから、三洋銀行の名が無くなるのが厭なんでしょう。合併推進委員会のメンバーに入っていますが、あまり元気がありませんよ」
と教えた。
「大丈夫かね? 名古屋支店にいた田舎者で、頭取に気に入られている男だろう」
「それとこれとは別だと言っています。近く頭取に自分の真意を訴えるつもりらしい」
「ほう、あんがい気骨のある男かも知れんが、少し様子を見よう。ところで、きみと親しい松岡紀一郎だが、困ったものだ。すっかり調子に乗って動き廻っている。おそらく、頭取か、あるいは副頭取から、次期取締役に昇格させるという約束手形でも貰ったに違いない」
「松岡が取締役に?」
と石倉は顔をしかめた。
「このまま合併が成功すればそうなる。ぼくはもちろん、きみも危ない。非協力的であったとの理由で出世どころじゃなくなる。たぶん、あまりぱっとしない取引先か関連会社に出向だね」
「すると、松岡には今回の合併問題がチャンス到来と映ったんでしょうね」
「まさに、その通りだ。もともと調子者で、気がきくし、身が軽い。上司の言うことはよく聞く。頭取サイドから見ればあのタイプはうってつけだろう」
「そう言えば、近頃は目の色が違います。顔付も脂ぎっていて、厭らしい感じですね」
と感想を述べた。
「きみは冷静だからね。端目《はため》にはいつも冷めているように見えて、損をしてるよ」
と注意された。
「何事にもあまり夢中になるのが嫌いなものですから」
と石倉は言訳する。
「ところで、松岡はうちの神谷真知子にしつこく誘いを掛けています」
と知らせた。
「|MOF《モフ》担のお嬢さんか、それは利用価値がある。きみの動きと、さらにきみを通じてぼくの動向まで探れるかも知れん。松岡らしい浅智恵だ。彼女は美人だし、口説き甲斐もある。われわれも見逃す手はないよ。よし」
成瀬は言葉をきった。
「こっちも逆利用しよう。神谷真知子を使って都合の良い情報を流すんだ。これ以上の攪乱作戦はないぞ」
と言いつのる。成瀬の両の眼も頬も輝いてきた。
石倉は眼を伏せた。そんなことに真知子を巻き込みたくないという思いが強い。
長谷部は横浜支店から申請の出ている聖友会病院の新規融資申込書の書類を保留にしておいた。十五億円もの追加融資を簡単に決裁するわけにはいかない。
実態はすでに調べ上げてある。すでに相当額の資金が出ているのにリハビリセンターは稼働していなかった。土地、株、絵画等への投資資金が回収出来ないため、後向きの資金、たぶん期限のきた借金返済や当面の運転資金が必要になったのだ。
こういう安易な融資申込みに次々と応じているうちに、しだいに身動きがとれなくなり不良債権化するケースが多かった。
宮田が申込書を受け付けないわけにはいかず、不本意ながら本店申請書を出した経緯については、前回の横浜支店訪問でよくわかっていた。
しかし、もしこの融資申込みを拒絶すればどうなるのか? 答えは決っている。たぶん、宮田の言う通りになるだろう。
当然、頭取とも対決しなければならない。こういう大事な時期に、一取引先とのトラブルに巻き込まれて道を踏みはずしてもよいのか?
おそらく、石倉や松岡なら眼をつぶるだろう。げんに西巻も悩んだあげくに、同様に、宮田も多少ふてくされながらもゴーサインを出し書類を受け付けた。
「どうしたものか?」
との思いが強い。
自分が横浜支店長なら、もう少し取引先の懐ろに首を突っ込んで行ってとの思いもある。が、西巻の後のリリーフ投手のような宮田には無理だ。まして、彼はアナリストを目指し、近い将来、大学の経済学部か商学部の教授か、経済評論家を目標にして勉強している。
結局、聖友会病院の融資申込書は受け付けてから一週間、長谷部の机上に置かれたままになった。その間、横浜支店の林融資課長からは三度、次長の佐々木に督促の電話があった。宮田が直接、長谷部に連絡してこないところに、事情を知っている両者の忸怩《じくじ》たる思いがある。
この日、長谷部が手洗いから戻って来ると、女子部員の飯島靖子がおろおろしている。
「あ、部長さん」
と呼ぶ。
「お電話です」
と立ったまま部長席の受話器をさし出す。
「どこから?」
と訊いた。
「それが、何だか怒っています」
と言いながら、手渡した。
「お待たせしました。長谷部でございます」
と応じたとたんに怒声が聞こえた。
「あんたが長谷部か? 融資部長ぐらいで大きな顔をするなよ」
ドスの利いた声だ。
「失礼ですが、どちらさまですか?」
長谷部は落着いて尋ねた。
「どちらもへったくれもあるか? あんまりなめんなよ」
「………」
長谷部はわざと黙り込んだ。
「さんざんいい顔をして金を貸しといて、今度は首吊りの足を引っぱるのかよ」
「どういうことでしょう」
「おれは聖友会病院の事務長だ。十日も前に融資の申込みをしたのに、いまだに何の返事もない。支店長じゃ埒《らち》があかん。いったい、どういう料簡なのか聞かせて貰おうじゃないか?」
とふてぶてしく言う。
「ほう、聖友会病院というのはヤクザの病院ですか?」
長谷部はずばりと言った。
「何を!」
頭に血が上ったのであろう、声のトーンが高くなった。
「ヤクザまがいの大声を出して、そんなことで銀行が威せると思ったら大間違いですよ。もう少し落着いてから、用があるなら改めて電話を下さい」
ぴしりと言うや、力をこめて受話器を置いた。
次長の佐々木や靖子をはじめとする居合わせた部員たちが注目している。長谷部は右手を上げて合図をし、同時にウインクした。
彼はすぐ机の上にあった聖友会病院のファイルをめくり、受話器を取り上げた。
「三洋銀行本店の融資部長の長谷部ですが、大至急、院長の福山先生をお願いします」
と頼んだ。
「急用です。大至急お願いします」
と念を押す。
三十秒ほど待たされたが、どうやら院長室につながったらしい。
「福山です」
という重々しい声が聞こえてきた。
長谷部は名を名乗り、挨拶し、突然の電話を詫びた。その上で核心に触れる。事務長のヤクザとしか思えぬ怒鳴り声と無礼な言い分を告げた。
「ご存知でしょうが、ああいう態度をされますと、先生の恥にもなりかねませんよ。大病院の院長でもあり、医学博士でもある先生のお名に傷が付きます」
上手に持ち上げながら訴えた。
しかし、それだけでは解決にならない。明日、横浜支店長といっしょにお邪魔すると申し入れてアポイントを取った。融資申込みの件はその時にと伝えて相手の気持を押え込んだ。
「いやあ、どうなることかと思いましたが、実にお見事でした。感心しました」
立上った佐々木が机の前まで来て称賛する。
「その代り、明日が大変だよ」
長谷部は顔をしかめた。
翌日の午後三時、長谷部は宮田と共に聖友会病院の院長室にいた。
なかなかの大病院で流行っている。この時間帯なのに、午前中の診察の後の薬待ちの患者が三十名近く残っていた。
院長室には事務長も呼ばれた。猪首《いくび》の小太りの男で、眼付はわるい。昨日の無礼を詫びた。長谷部も愛想よく応対した。
福山満寿雄はやや得意気に杉本頭取とのいきさつを語った。それによると、四年前のヨーロッパ旅行の際、杉本富士雄に同行していた夫人が飛行機の中で急病になったらしい。同じファーストクラスに乗っていた福山がチーフパーサーの依頼で、夫人を診察し、応急処置をしたのがもとで親しくなったという。
「すると、先生は頭取夫人の命の恩人ですね」
と長谷部は持ち上げた。
「まあ、早く言えばね」
福山は満足気に言う。
「しかし、そのことと融資は切り離して考えて貰えませんとね」
すかさず逆襲した。
「いや、同じでしょう。人と人との出会いは大切ですよ。まさにバブル盛んなりし頃だったし、杉本頭取と西巻支店長のおかげでうちも大きくなり、財テクでずいぶん儲けさせて貰った。その代り、ちゃんと頭取にお礼はしてますよ。当時の時価で|うん千万円《ヽヽヽヽヽ》の名画や壺を何点もさし上げてますからね。お互い、持ちつ持たれつですよ。世の中は、これでうまくゆく。そうでしょう? 部長さん、早くいえば、そういうことですわな」
金歯をむき出してしゃあしゃあと言いつつ、にやにや笑いを浮かべた。
長谷部敏正は秘書課長を通じて、杉本頭取に面会を申し込んだ。
すると、意外な返事が返ってきた。
今夜七時に、新橋の料亭まで来てくれとの伝言である。
「え、新橋に?」
長谷部は驚いた。
「夕食をごいっしょにとのことです。別に秘密ではありませんが、他人《ひと》におっしゃらない方が良いと思います」
と告げてから、岩見は料亭の屋号と電話番号を教えた。
受話器を置くと、石倉から電話が入った。
「今夜どう? 食事でも」
と誘われた。
「残念だけど先約があってね。取引先の社長に付き合うことになっている」
「じゃあ、九時半頃には終るだろう。例の『ぐうたら神宮』で待ってるよ」
「わかった」
と応じた。なんとなく石倉の話も聞きたいと思ったのだ。
机上の書類の山に取り組んで数分しないうちに、近くで人の気配がした。
見ると、松岡が立っている。
「やあ、相変わらず仕事熱心だね」
「そっちだって、似たようなものだろう」
と言いながら立上った。
「ところが、そうでもない。石倉もあれでなかなか要領がいいからね。結局、仕事になるとおたくが一番熱心に取り組んでいることになる」
真面目とも揶揄《やゆ》とも取れる言い方をしながら、先に応接室に入って行った。
長谷部は松岡に誘導されるかたちで腰を下した。
「ずいぶん元気そうだね。溌剌《はつらつ》としているじゃないか」
長谷部は多少皮肉をこめて言った。
「なにしろ、マル秘の仕事で追われているからね。近頃は一人よりむしろ頭取か副頭取のお供で出ることが多いんだ。後のフォローや書類その他の作成はすべてこっちの担当だからたまらないよ」
といかにも嬉しそうな顔で言う。
口ではぼやきながら表情は得意気だ。長谷部の皮肉も殆ど通じてはいない。
「すると、例の件は相当進行しているのかね?」
と訊く。
「きわめて順調だよ。大蔵省や日銀はもちろん、大株主も大口取引先もよく理解してくれてね。どんなバブル崩壊にも長期不況にも耐える強力な大型銀行の出現というキャッチフレーズにはたいていの人が賛成してくれるだけではなく、相当の期待を寄せてくれるね」
松岡は熱っぽく語る。
「そんなものかな」
「BIS(国際決済銀行)の規制なんか問題にもならん。やはり日本の産業界は大きくて体質の強い銀行を求めている。何人もの大物経営者たちの間を歩いて直接話を聞いてみて、その感触がよくわかったよ」
松岡の興奮はなかなかおさまらない。
「しかし、大きければ良かった時代は終ったような気がするがね」
と長谷部は口をはさんだ。
「いまは不況のさ中だからそんな気がするんだが、この長い不況に耐えた後の日本経済は強くなる。いまからそれに備えようという杉本頭取には先見の明があるね。ものすごい卓見の持主と言ってよい。こういうすばらしいトップのもとで、働けるのは幸せだよ」
松岡は改めて杉本富士雄を誉めちぎった。
「きみだけに教えておくがね」
と彼は急に声をひそめた。
「新しい巨大銀行の行名は富桑からも三洋からも取らない。まったく別の新行名にする。それに、代表取締役会長は原沢頭取だが、事実上のトップである代表権を持った『頭取』には杉本頭取が就任するらしい」
と囁《ささや》く。
「では、大久保会長は?」
「引退だね。代表権のない取締役相談役じゃないのかな」
「それですむのか?」
「げんに入院中だし、大久保時代は終ったと見ていい。それに原沢頭取は七十歳、杉本頭取は六十九歳、一つしか違わないが、うちのトップの方が若々しくて元気で覇気がある。となると、原沢さんはあと五、六年で引退だろう。そのあと杉本時代が長く続く筈だよ」
「なるほど、きみの考えはよくわかったが、成瀬副頭取は反対理由として、やがてうちが富桑銀行にすっかり吸収されてしまうと指摘している。きみはそうは思わないのか?」
と長谷部は反論した。
「新銀行のトップ人事を教えただろう。たとえ三洋の本体は吸収されてしまっても、巨大銀行の経営権を握るのは杉本頭取だよ。それだけじゃない。成瀬副頭取のホンネは別のところにある」
「どんなホンネだね?」
「このまま現状維持なら、次期頭取はほぼ成瀬さんに決っていた。しかし、富桑と合併すれば副頭取の地位は守れるが、頭取になれる望みはまずない。だから、もうかたくなに反対、反対の一点張りだ。頭取も見そこなったと言っておられた。たぶん、近くクビになるよ」
「クビ?」
「合併するしないにかかわりなく、追い出されるだろう」
「………」
「ところで、石倉くんだが、いままで成瀬さんぴったりで来た。まさか沈みそうになっている舟に乗るつもりじゃないだろうな」
「それを訊きに来たのか?」
長谷部の眼ざしが強《きつ》くなった。
「きみなら見当がつくんじゃないか? 勝田副頭取に頼まれたんだよ。今後も石倉克己を信用してもいいかどうか、そろそろはっきりさせなきゃならん」
しゃあしゃあと言う。
「なんだと? ぼくをそんなことに巻き込むな。自分でやれ。第一、きみは石倉の親友だったんじゃないのか?」
言い放つと、ぐいとひと睨《にら》みして応接室を出て行く。ドアが音を立てて閉まった。
取り残された松岡は、ふんと鼻先を鳴らして両手をひろげた。
「まったく、何を怒ってるんだ。田舎者には手を焼くよ」
ひとり言を言いつつ、電話機に近付き、内線番号をプッシュする。
神谷真知子の机上のベルが鳴った。幸か不幸か、彼女は自席にいた。
松岡は早速、誘いの言葉を掛けた。前回、ていよく断られたが、さして気にしていない。
しばらく押し問答が続いた。
どちらも口は達者だ。ああ言えばこう言う。松岡はくい下った。
「しつこいわね」
やがて、ぴしりと言うや、真知子は何のためらいもなく受話器を置いた。
長谷部敏正は六時四十五分に新橋の料亭に着いた。約束の時間より十五分早いが、これは当然の配慮だ。万一、遅れたりしたら失礼だし、心証もわるくなる。支店長時代の経験では、一流の大物ほど時間に正確であった。二流以下のレベルの低い経営者は時間のことなどあまり気にしていない。平気で他人を待たせて、遅れた詫びさえ口にしなかった。
もし、杉本富士雄がたとえ相手が部下とはいえ、遅れてきて平然としているようなら要注意である。そう思って、長谷部は下座にきちんと正座していた。
だが、杉本は七時ぴたりにあらわれた。
「やあ、ごくろう。きみぐらいの年齢は働き盛りだからやむを得んが、それにしても忙しいだろう」
とねぎらった。
「恐れ入ります」
長谷部は丁重に頭を下げた。
「今夜、会食の約束をしておった人物が急病になってな。うまく時間が空《あ》いた。きみとならあまり仕事のことも気にせずに料理を突つけると思ったまでよ」
と気さくに言う。
長谷部は緊張が解けるのを感じた。
「まあ、のんびり食事でもしよう。ここの魚料理は評判がいい。その代り、新鮮な材料が入らないと急に店を閉めてしまうから、当てにしていると背負い投げをくわされる」
上機嫌で言った。
料理が運ばれてきた。たしかに味が良い。二人はまずビールを飲み、次いで酒にした。杉本は若い頃の苦労話を始めた。戦後の過酷な時代に大学を出て銀行に入った。それでも一年半ほどの差で戦場に送られずにすんだのは幸運と言えよう。
長谷部はもっぱら質問する側に廻った。杉本の話で、彼の知らない時代の銀行の歴史を知り得ただけではなく、実感を持って受け留めることが出来た。
食事が終りになり、果物の皿が出てくると、杉本は不意に現実に引き戻されたのか、少し口調を変えた。
「ところで、今度の合併問題だが、きみはどう思う。素直な意見を聞かせてくれ。富桑銀行との合併に賛成か、反対か」
といきなり訊いた。
「では、正直に言わせて頂きます。実は、反対です」
と長谷部ははっきり伝えた。
「反対?」
とたしかめる。
「はい」
と答えた。
「そうか、予想した通りだ。反対理由を言ってみたまえ」
「わたしは大学を出て三洋銀行に入行し、ここで定年を迎えたいと思っています。それと、後輩たちに同じ望みを抱いて貰えたらと、つねづね考えております。したがいまして、三洋銀行が富桑銀行に吸収されてしまうのを応援する気にはなりません」
「なるほど、すると、愛行心だな」
と杉本は呟《つぶや》いた。
「そうかも知れませんが、それ以上のものかも知れないという気がいたします」
と述べた。
「うむ、それ以上だと? そうなると、ちょっと厄介だな」
「はい、厄介です。自分でもいささか持て余しております」
と訴えた。
「そうか」
杉本は表情を曇らせた。
「実は、もう一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何だね? 言ってみたまえ」
「はい、横浜支店の聖友会病院の融資の件です」
「ああ、あれか? 今回はやむを得ん。倒産されたら却って厄介だ。貸してやりたまえ」
「しかし……。あの病院以外にも頭取のご紹介で、何件も延滞が出ております」
長谷部は自分を励まし直言した。
「きみも言いにくいことを平気で言う男だなあ」
「いえ、けっして平気ではありません」
「いいだろう。今夜のところはきみの気骨のあるところを買っておこう」
杉本は苦笑を浮かべた。
長谷部は頭取に自分の本心を打ち明けたことで、いくらかさっぱりした。聖友会病院のことまで口にしてしまった。
とはいえ、これで気持の整理がついたわけではない。すでに合併問題はかなりのところまで進行している。いまさら長谷部が反対したからと言って、杉本が翻意する筈もなかった。それに病院への融資も、結局、実行されるだろう。となれば、事態はいささかも変わらず、彼の気持も中途半端のままである。
ただ、この件に関して杉本と長谷部の間では何も起っていない。お互いに何の取り決めも口約束もなく、反対派に加わるなとか、たとえ本心は不賛成でも合併推進には協力せよとか、改めて要請されたわけではなかった。
それもあえて勘ぐれば、杉本の配慮か親心のような気がする。何となくそう感じられるだけに長谷部は複雑な気持になった。
杉本はハイヤーを呼んでくれた。
「まもなく、もう一人お客が訪ねてくるから、ぼくは残る」
と言って、座敷を出なかった。
長谷部は丁重に礼を言い、玄関に出て車に乗り込んだ。まだ八時五十分である。ちらりと腕時計を見て、あまり迷わず、
「六本木六丁目まで」
と伝えた。
石倉の待つカラオケバーを目指したのだ。
長谷部が「ぐうたら神宮」に着くと、出迎えてくれたママが口を尖らせた。
「石倉さんは八時三十分頃見えたんですよ。すると、十分もしないうちに若い女性が来ましてね。お腹が空《す》いているとか何とかごねて、彼を連れ出したのよ」
と不服そうに教える。
「ほう、どんな女性?」
とつられて訊いた。
「知りません。ああいう女《ひと》を美人とでも言うんでしょうね。うちだって、お寿司ぐらい取れるのに」
さも不満気に言い放った。
「なるほど」
長谷部は口を噤《つぐ》んだ。
「なるべく早く戻るから、長谷部さんがいらっしゃったら、ぜひ待っていて下さいとの伝言でしたよ」
ママはうって変わった表情で、彼の腕を取り、店の奥へ案内した。
およそ三十分後、石倉克己は神谷真知子をともなってあらわれた。
「やあ、早かったね。いくらか待った?」
石倉は声を弾《はず》ませた。
「ずいぶん待たせて頂きました」
と長谷部は応じた。
「どうも申訳ありません。わたくしが無理に誘い出したんです」
脇から真知子があやまった。
「いや、あなたが颯爽とあらわれて石倉を拉致《らち》したものだから、大変だ。ママさんが妬《や》いておかんむりだったよ。とばっちりがこっちに来てね」
と説明しているところへ、別の客席からママが立ってきた。
「まあ、ようこそ、皆さんお揃いで」
と皮肉っぽく、莫迦《ばか》丁寧に挨拶する。
「さ、あなたも歌って下さらなくちゃダメよ」
と真知子に囁いた。
「わあ、困った。どうしよう」
と彼女は躰《からだ》を捩《よじ》った。
「MOF担は酒の付き合いにカラオケ、マージャンと何でも必要になる。カラオケについてはこの店で鍛えた方がいいよ」
と長谷部も奨めた。
「わかりました。わたくしをここへ呼んだのは部長の陰謀ですね」
と真知子は石倉を睨んだ。その表情は長谷部がおやと思うほど艶っぽかった。
それから一時間ほど、誰もが仕事を忘れた。座は賑わい、四、五人ずつかたまっている他のグループにひけはとらなかった。石倉も長谷部も、真知子もマイクを手にした。
三人は揃ってカラオケバーを出た。
前の通りで真知子を先にタクシーに乗せた。長谷部と石倉は改めて顔を見合わせた。
二人共、話らしい話をしていないのに気付いた。お互いに言いたいことはたくさんある。
「どう、ちょっとぼくのマンションに寄って飲みなおさないか?」
と長谷部が声を掛けた。
「今夜は息子が友達の家に泊まることになっていて留守だ」
とつけ加える。
「じゃあ、ちょっと寄らせて貰おうか?」
と石倉も応じた。
二人は同じタクシーに乗り込んだ。車内ではあまり口をきかなかった。両者共、運転手の耳を気にしている。無関係な人でも、万一ということがある。
長谷部の部屋は意外なほど綺麗に片付けられていた。
「ほう、掃除がゆき届いているなあ」
と石倉は驚きの声をあげた。
「逆の想像をしていたんだろう」
長谷部は苦笑する。
「そんなことはない」
「無理しないでくれ。ビールがいいか水割りにするか、ブランデーもあるよ」
「歌いすぎて喉《のど》が乾いた。ビールにしよう。つまみ物はけっこう」
と石倉は答えた。
長谷部は冷蔵庫からビールを出した。二人はダイニングキッチンのテーブルに坐った。
「ここが応接室兼食堂だよ」
「住みごこちはよさそうだね」
お互いにビールを注ぎ合うと、どちらからともなくかちりと合わせた。
「実は、杉本頭取に呼ばれて夕食をご馳走になった」
と長谷部は打ち明けた。
「すごいな。ぼくなんか近くにいても何一つご馳走になったことがない。やはり、相当気に入られているんだ」
と石倉は応じた。
「今度の合併について意見を聞かれたので、本心を話した」
「反対意見を伝えたんだな」
「その通り」
「で、頭取の反応は?」
気掛かりなことを訊く。
「それが、とくに何もなかった」
「何もない?」
石倉は怪訝《けげん》な顔をする。
「説教もされず、考えを改めよとも、反対運動をするなとも言われなかったよ」
と教えた。
「うーむ」
と石倉は唸《うな》った。
「不思議だな。あんなに強気な人がはっきり反対を口にしたきみに何も言わないなんて、とても信じられないよ。成瀬副頭取なんか、相当風当りが強いと。面と向かって詰《なじ》られたあげくに、反対のための動きを一切するなと命じられた。関連会社へ出されるという噂まである」
とつけ加えた。
「副頭取と違って、ぼくなんか何の力もない。かりに何かを始めたところでたかが知れている。この間まで地方の一支店長をしていた男なんぞ問題にもならんよ」
長谷部はそう主張したものの、自分でも釈然としなかった。
「それは違うな。頭取はきみを見くびっているわけじゃない。むしろ信頼している。となると、あえてきみに何も言わなかったのは、例えば」
と言って、黙り込んだ。
「例えば、何かね?」
「合併推進を打ち切ろうとまでは思わなくても、この道を前へ進むことに多少の疑念を覚え、急に良心が疼《うず》いたのかも知れん」
「なるほど、そうか? ぼくもそれに似た感じを受けたよ」
と長谷部は答えた。
「それで、きみはどうするつもりだ」
「どうしていいのか、よくわからん」
「いま、成瀬副頭取を中心にして反対運動が起っている。目下のところ、ぼくは立場上合併のための諸手続きや書類の作成に追われづめだ。神谷くんが探ったところによると、大蔵省の次官も銀行局長もこの合併には賛成らしい。このままでは危ない。もっと成瀬さんを応援したいところだが、そうはいかん。松岡の奴がやっきになって賛成派を盛り上げている。対抗上、きみにぼくの代りを務めて貰いたい。この通り、頼むよ」
石倉はテーブルの上に両手をついて頭を下げた。
「うーん」
今度は長谷部が唸った。
「副頭取の成瀬だが」
という声が聞こえてくると、松岡紀一郎は緊張した。
「は、松岡でございます」
と姿勢をただして答えた。
「業務推進部の今後の方針について、いろいろ相談したいことがあってね。どうだろう? 今夜、赤坂の料亭まで来てくれんかな。いっしょにめしでも食おう」
と誘われた。
「光栄でございます。ぜひ、お邪魔させて下さい」
松岡は直ちに答えた。上司の言葉に弱い一面が出た。
「じゃあ午後七時に来てくれたまえ。ほかの部長連中に漏らさんように。あくまでもきみとぼくの間だけのことにしておこう」
そう言うと、早口で料亭の名を告げた。
「かしこまりました」
受話器に向かって叩頭《こうとう》する。電話はきれていた。
瞬間、嬉しさがこみ上げてきた。松岡は日頃から上司にこういう誘われ方をして貰いたいと願っている。とくに、きみとぼくだけの間≠ニいう言葉に魅力を感じる。
もちろん、松岡は成瀬昌之が合併に反対している事実を知っていた。頭取やもう一人の筆頭副頭取の勝田忠との対立が深まりつつあることも承知だ。
ただ、彼としては腑《ふ》に落ちぬことが一つあった。石倉克己が成瀬と親密な関係を保っている。それをどう解釈するか? 石倉は頭取の特命で合併推進の事務局を務め、一方で反対派の成瀬と親しくしていた。これはまさに彼なりのヘッジ(保険つなぎ)ではなかろうか?
そう解釈すれば、石倉の深慮遠謀がよくわかる。石倉は長谷部と違って、シャープで先の見える男だ。万一、合併推進派が敗れた時のことを考えているのかも知れない。
となると、この際、一方にあまり加担しすぎるのはどうか? バランス感覚のない人間では一流の経営者とは言えず、いずれ自分で墓穴を掘る。
成瀬の方から声を掛けてくれたのも何かの縁だ。チャンス到来とも言える。しかも、副頭取は赤坂の料亭へ来てくれという。松岡は受話器を元に戻し終ると、しばらく思案顔をし、やがてにやりと笑った。
成瀬はいったん受話器を置くと、すぐに持ち上げ、石倉の内線番号をプッシュした。
「きみが教えてくれた通りの誘い方で引っ掛かったよ。今夜七時に会う。早い方がいいだろう。ご馳走責めだ。問題は長谷部くんの方だな。マジメ人間だけに扱いがむずかしい」
といきなり言う。
「彼は銀行を愛していますし、支店での地道な活動が大好きな男です。その点を考慮して頂ければ」
と石倉は伝えた。
「マトモだね。近頃そういうマトモな人材が減ってきている。貴重な存在だ」
「わたしもそう思います」
石倉は同意した。
同じ日の午後、石倉は衆議院の議員会館に行った。
大蔵大臣の第一秘書に会うためである。面会票を提出して受付を通過し、エレベーターで目的の部屋へ向かう。大学の先輩の紹介で簡単に会えることになった。東大法学部出身者の威光とも言えよう。
おそらく、大蔵事務次官や銀行局長には頭取が接触している筈だ。杉本の口ぶりではすでに了解済みとも取れる。大臣の耳にもすでに届いているだろう。
石倉は皮肉な笑いを浮かべた。上からの圧力にクサビを打ち込んでやろう。どの程度の効果があるか、ものは試しだ。事務局の担当責任者として、一方では万全な書類作りに熱中し、もう一方では合併計画そのものを揺さぶろうとする。
いわば、ジキルとハイドを思わせる行為だが、彼自身は銀行の仕事という公の部門と、己の心情とも言うべきプライベイトな部分を分けて考えていた。
長谷部にも松岡にもそんなことは出来ない。が、石倉にはそれが可能だ。彼の場合は、自分の行為をもう一人の自分がじっと見つめていて、満足したり、批難したりする。たまたま、公と私の部分が簡単に一致してしまうと、却《かえ》って退屈した。
大臣の第一秘書は彼より四、五歳年長で、がっしりした体格の貫禄ある人物だ。意外に低姿勢なのは先輩の口添えのおかげであろう。しばらくどうでもよいやり取りをする。初対面なので、双方共、相手の出方や腹を探ろうとしている。
石倉は迷った。合併のような重要な問題をこの人物にいきなり打ち明けて大臣へのことづてを頼んでもよいものだろうか? と言って、大臣への面会を求めたりしたら、眼の前の男はどう出るか? 若造にナメられたと思うに決っている。
相手は多忙だ。いくら有力な紹介者がいたにせよ、限度がある。不意に訪ねて来ていつまでも世間話をしてはいられない。
進退窮した時、予想もしなかったことが起った。おおげさに言えば、奇蹟のようなものだ。
10
奇遇というよりは、むしろ奇蹟と呼びたい。もっとも、奇蹟とまでいうのはかなり大仰だが、偶然に思い掛けないことが持ち上ったのだ。
予定が変更になったのかどうか、理由はわからない。大蔵大臣がいきなり部屋に入ってきたのである。
「あ、先生」
とっさに第一秘書が腰を浮かした。
「四十分ばかり空いたんで戻ってきたぞ」
と言いざま大臣は石倉の方を見た。
「お客さんか?」
と訊く。
「経団連の下村理事の紹介で来られた」
みなまで言わぬうちにさえぎられてしまった。
「わかった。話を聞こう。紅茶を二つくれ」
と命じた。
期せずして、石倉克己は奥の応接室へ通された。しかも、小肥りの第一秘書は締め出しをくってしまった。たちまち、願ってもない状況になったと言える。
石倉は名刺を出して名乗り、丁重に頭を下げた。
「ああ、石倉くんね。下村さんから聞いている。きみだな、女性のMOF担第一号を作ったのは。たいしたものだよ」
大臣は鷹揚《おうよう》に言うと、改めて、
「毛利有太郎です」
悠然と告げた。
石倉は頭を働かせた。四十分空いたと聞いたが、それを全部一人占めにするわけにはいくまい。せいぜい、十分か十五分と踏んだ。
「では、お邪魔させて頂いた理由を手っ取り早く申し上げます」
と前置きする。
「そうしてくれ」
毛利はふっくらとした顎を撫《な》でた。
石倉は要所をはずさずてきぱきと話した。あらかじめ話の順序を工夫し、頭の中に叩き込んでおいた。短くまとめてはあるものの、大臣の頭にはすっきりと入った。石倉には毛利の表情や相槌《あいづち》でそれがよくわかる。早口ではあったが、七分位しか経過していない。
「うーむ」
と毛利は唸った。
それがくせなのか、また顎を撫でる。
「きみは下村さんの後輩か?」
と訊く。
「はい、だいぶ下の後輩です」
「すると、東大法学部出身か?」
とたしかめる。
「そうです」
「いまどき、いくら不良債権を抱えているのか知らんが、そんな中位か下位の都銀にいて、合併だの何だの、下らんとは思わんかね? 世の中にはもっとやらなきゃならんことがたくさんあるよ。銀行がくっ付こうと離れようと、頭取の首がどうなろうと、知ったことか? 世界の動きにも、日本経済の動きにさえも何の関係もありゃあせん」
といきなり大きな声で言った。
石倉は驚いた。唖然とした表情で毛利の脂ぎった角型の顔を見つめた。たしかに、杉本頭取や成瀬副頭取とはスケールが違う。毛利の話を耳にして、急に眼が覚めたような気がした。
「きみはいまいくつだ?」
と毛利は唐突に訊いた。
「何歳だと尋ねておる」
と苛立つ。
「四十八歳です」
と石倉は気圧《けお》されながら答えた。
「四、五年遅いが、まだ若い。何とかなるだろう。女性のMOF担を作ったと聞いた時から、きみの名は覚えておいた。わるいようにはせん。わたしの所へ来たまえ」
毛利は顔色も変えずに言う。
「え?」
と訊き返した。
「銀行をやめて、わたしの所へ来いと奨めておる」
と言って、今度はにやりと笑った。
「本気ですか?」
石倉は驚いた。
「むろん、本気だ。こんなことが冗談で言えるか? わたしだっていつまでも大蔵大臣などやってはおらん。もっとずっと上を目指しておってな。将来、後継者になってくれるような優秀な人材が欲しい。きみ、頼んだぞ」
両手を前に揃えて頭を下げた。
「ちょっと待って下さい。わたしはいま初めてお目に掛からせて頂いたばかりで」
さすがに冷静な石倉も戸惑った。
「わたしはな、初対面でものになる人物を見抜くのが得意なんじゃ。今日は日が良い。きみに会えてよかった。しかも、偶然に時間が空いた。何者かの引合せとしか思えん」
言うや立上った。
自分でドアを開けて、さっさと部屋を出て行き、第一秘書に声を掛けた。
「きみ、一週間以内に石倉くんとめしを食う。晩めしだよ。二人きりでさしだ」
言い終ると、石倉に向かって手を振った。
「ちょっと、大蔵省へ寄る」
と伝えて、急ぎ足で廊下へ出て行く。
石倉は立上り、慌てて頭を下げた。
「驚かれたでしょう。まるで台風ですよ」
と第一秘書が声を掛けてくれた。
「われわれは馴れていますが、初めての方はまごつくのが普通です。でも、あれでなかなか人を見る眼があります。面倒見がよくて、約束は必ず守りますし、実行力がある。ほんとうにユニークな政治家ですよ」
とそつなくつけ加える。
石倉は議員会館の外へ出た。国会議事堂の真裏の道を霞が関ビルの方へ向かう。不思議なほど気分が晴れやかになった。原因は毛利有太郎との出会いにある。それだけははっきりしていた。このまましばらく歩くことにした。
11
長谷部敏正はとくに融資面から見た業績不振店舗を廻って、実態を調査した上で、直接指導することになった。
融資部長としては不良債権のこれ以上の増加は何としても防がねばならない。また一方では、前向きの融資を増やして資金の運用利益を上げねばならなかった。
さいわい不良店舗は東京周辺に集中している。それだけ首都圏は競争が激しいと言える。よい時はよいがわるい時は一段とわるい。バブル時代の異常な伸び率が完全に裏目に出ていた。
長谷部はまず新橋支店と大森支店に寄り、最後に横浜支店に行くことにした。聖友会病院のこともあり、どうしても横浜支店が気になる。ついこの間まで、同期の西巻良平が支店長として苦闘していた。彼自身も名古屋支店で同じ目に遭っているので、あの時はとても応援どころではなかった。
それでも話相手になってやるべきであった。電話もあるし、横浜と名古屋はそう遠い距離ではない。
西巻は松岡とはあまり仲が良くなかったし、おなじ東大出身の石倉ともさほど親密ではなく、むしろ、入行以来の友人であった長谷部に一番心を許していた。それだけに西巻の突然の死にはショックを感じた。
たしかに働き過ぎだ。過労が重なったのであろう。西巻は無理を重ね、身体のあちこちがすっかり弱るまで働いた。そして、くち果てた。それでも横浜支店の業績は好転しなかった。彼は無謀にもバブルの崩壊を、たった一人でくい止めるつもりだったのか?
いくら何でも、それは一支店長の手に余る。同期最優秀の人材として頭取に期待され、取締役候補者の最右翼にいたと言ってよい。そのために、あくまでも頑張り抜いたのか?
西巻としては何か言いたかったに違いない。彼はそれを言わずに他界した。
長谷部はいまでも彼の心中を思うと、かっと躰が火照ってくる。憤りとも口惜しさとも、焦りとも後悔ともつかぬ、いや、それらをすべてかきまぜた忿懣《ふんまん》がこみ上げてくる。じくじくと執拗にこみ上げてきた。
そんな時、彼はよく一人でサッカー場へ行った。うまくキップが手に入って、白熱した試合で気がまぎれたこともある。が、多くは無人のサッカー場に一人で入り、しばらく佇《たたず》んでから、思いきり奇声を発して帰ってきた。
その日、長谷部は横浜支店に寄り、宮田支店長、次長、融資課長等を集めて協議し、いくつかの提案をした。夕方から宮田が取引先へ出掛けることになったので、長谷部はまっすぐ帰ることにした。
支店を出ると、気が変わった。夕方にはまだ間があり、本店へ帰るには早すぎたからだ。
「久保山へやってくれ」
と運転手に言う。
「久保山ですか?」
怪訝な顔をされた。
「墓地だよ。前支店長の西巻良平くんの墓参りをしてゆく」
と伝えた。運転手は納得した。
長谷部は花と線香を買い、水桶を借りて見覚えのある墓地へとわけ入った。
少し迷ったものの、数分で西巻の墓を見つけた。
墓前に立ち、両の掌を合わせた。
「西巻くん、きみの言いたいことはおよそ見当がついている。今日は相談があって来た」
祈りの言葉を口にしてから、改めてそうつけ加えて眼を閉じた。
すると、不思議なことが起った。
西巻と長谷部は南欧風のホテルの喫茶室のような所にいた。向かい合って坐っている。眼をあげると海が見えた。たぶん、横浜の港近くにあるホテルの何処かであろう。
「ぼくたちは大学を出るとすぐ三洋銀行に入り、文字通り青春時代を捧げて働いた。いや、それだけじゃない。一生この銀行で働き、いわば銀行の発展のために生涯を捧げたと言ってもいいくらいだ」
と西巻は言う。
「その通りだ。一度しかない人生を三洋銀行の将来のために注ぎ込んで、頑張った」
と長谷部も胸を張って答えた。
「ぼくは志半ばにして途中で倒れたが、それほどの悔いはない。ただ、少し残念なだけだ。そこできみに頼みたい。きみはぼくの分まで引き受けて最後まで歩き続けてくれ」
はっきりと口に出した。
「わかった。そうしよう。悔いはないんだな」
と長谷部はたしかめた。
「少々働きすぎたが、そんなことは理由にならん。おれたち男はみな働き続けて死ぬんだ。現実には格好のいいサバイバルなんかありはせん。哀しいけれど、ただ頑張るだけだよ」
と言いつのる。
「そうだな」
と長谷部は力なく答えた。西巻の言う通りだと思うと心が沈んだ。
「今日の相談は合併問題だ。富桑と合併してもよいだろうか?」
とつけ加えた。
「とんでもない。富桑銀行に呑《の》み込まれてあとかたも無くなる。一頭取の都合の良い野心で、三洋銀行を失くしてはいけない」
西巻は強調した。
「頭取の野心?」
と訊き返す。
「そうだ。あれは単なる野心だ。銀行百年の計ではない。きみは戦って、ぼくの分まで戦って三洋銀行を守り抜け」
西巻はきっぱりと、まるで命令するように言い放った。
長谷部は返事をしようとして、眼を開けた。頭がくらくらし、躰がふらついた。思わず西巻の墓の脇に腰を下した。しばらく躰を動かせなかった。
「白昼夢か?」
と彼は呟いた。
12
翌日の昼、成瀬と石倉はホテル内の中華料理店の個室にいた。二人は別々に到着した。後はドアをぴたりと閉めてしまえばよかった。
料理が運ばれる度に、ドアは少し開けられるが、すぐに閉じられる。
「松岡くんが落ちたよ。きみの作戦通りやってみたら、あんがい簡単だった」
と成瀬は満足気に言う。
「やはり、予想通りでしたね。彼は人はわるくないが調子者で、権威に弱いんです。もし、わたしが誘っていたら、二、三か月掛けてもダメだったと思います」
と石倉は答えた。
「そうかね。今度は何としても長谷部くんを味方に付けたい。上からの圧力をはね返すには、部長、支店長クラスの力を結集する必要がある。たぶん、ぼくはもうまもなく身動き出来なくなる。その時には、きみや長谷部くんや松岡くんの説得力がものを言う」
「われわれにそれだけの力がありますかどうか?」
「なくちゃ困るよ」
と成瀬は顔をしかめた。
「副頭取はどうなるんですか?」
と石倉は訊いた。
「おそらく解任されるね。その上で、大阪か、福岡か、あるいは札幌あたりの取引先へ放り出される」
「そんな、杉本頭取はそこまでやるでしょうか?」
「やるね。あの人は一見紳士風だが、根は冷酷で頑固なところがある。何事も一度決めたら後には引かないよ」
と成瀬は主張した。
「たしかに」
と石倉は頷いた。
ほぼ同じ頃、長谷部と松岡は銀行の三つ先のビルの地下街にあるイタリア料理店にいる。静かな店で、二人はスパゲッティを頼んだ。移動せず、コーヒーもここで飲むつもりで松岡が一番奥の席を予約した。
長谷部は松岡の強引さに負けてついてきた。松岡は坐るとすぐ話し始めた。
成瀬副頭取に招待されたところから、合併賛成派から反対派に廻ったいきさつをしゃあしゃあと語る。
「呆れたね。よくそんなに簡単に自分の考えを変えられるものだ。きみという男はほんとうに節操のない奴だな」
長谷部は不愉快そうに言った。
「何だって? きみの味方になってやったんだぞ。感謝もしないで、その言い草はなんだ」
と松岡も口を尖らせた。
「味方? きみは成瀬副頭取や石倉くんの味方になったんだろう」
と言い返した。
「その通りだ。きみも反対派だと石倉から聞いた。しかも、直接頭取に向かってそう言ったそうじゃないか? たいしたものだと副頭取が誉めていたぞ。もっとも、ぼくに言わせりゃあ、あまり感心しない。相手に手の内を見せてしまったんだからな。そこへゆくと、ぼくはまだ賛成派だと思われている。それだけに活躍の場がたくさん出来る。きみが一番頼りになると成瀬さんが強調してくれた。まあ、何といっても合併が成立しなけりゃあ、次期頭取は成瀬昌之だからな。きみも早く挨拶しておいた方がいいだろう」
「大きなお世話だ」
「何だと?」
「たしかに、ぼくも合併には反対だが、もし、戦うとしたら、西巻といっしょにやる」
と言い放った。
「なに、西巻? あれはさんざん業績を落して銀行に迷惑を掛け、あげくに自己管理も出来ずに過労死した男じゃないか?」
「もう一度、言ってみろ」
長谷部の顔に血が上った。
そこへスパゲッティが運ばれてきた。
長谷部はぷいと立ち、そのまま足音荒く出て行った。
13
石倉克己は高川明夫に呼び出された。
高川は富桑銀行の総合企画部長である。三日ほど前の深夜、石倉の自宅に電話を掛けてきた。
「こんな時間に申訳ありません。御行《おんこう》さんへお電話するのはちょっとまずいかなと考えまして」
と遠慮がちに言った。
銀行協会主催の部長会で三回ほど顔を合わせている。年齢は五十歳、一橋大学出身の切れ者として知られ、次期役員昇格がほぼ決っていた。
色白で縁無しメガネを掛けており、初対面の人にはやや冷たい印象を与える。その代り、口調はいたって滑らかで弁舌も立つ。
「お近付きのしるしに赤坂のクラブで一杯付き合って頂けませんか?」
しばらく雑談した後、さり気なく誘った。
「そうですか、ではお言葉に甘えさせて頂きます」
と石倉は応じた。
本格バンドの入った高級クラブだ。高川は先に来ていて、数人のホステスたちに囲まれていた。
石倉が近付くと、高川は立上って右手をさし出した。
「お世話になります」
「こちらこそ」
二人は握手した。
ホステスが移動し、彼等は隣り合わせて坐った。
「石倉さん、この合併にどんな理念をお持ちですか?」
いきなり核心に触れた質問をする。
「え?」
ぎょっとして訊き返した。
「合併にはきちんとした理念が必要ですからね。それが無いといたずらに大型化するだけで烏合《うごう》の衆が増えるだけでしょう」
と冷たく言い放つ。
「それはそうですが」
たじたじとなった。
「そちらもわたし共を調べたでしょうが、わたしの方も御行《おんこう》さんを研究させて頂きました。その結果、あなたが重役候補の最短距離にいるのがわかった。合併後はわれわれが新銀行を引っぱって行かねばならない」
きっぱりと言う。
「たしかにその通りですね」
と石倉も賛成する。
「あなたとわたしはライバルですよ。どちらが先に新銀行の頭取になれるか? ひとつ、大いに競争しましょう」
眼を輝かせて言った。
「………」
石倉は圧倒されて黙り込んだ。
[#改ページ]
第七章 勝者と敗者
臨時取締役会が招集された。
招集者は頭取の杉本富士雄である。
杉本自身が議長であり、司会と議事進行を務める。要するに銀行の最高議決機関と言ってよい「取締役会」を彼が牛耳り、ほぼ意のままに動かしていると言えよう。
取締役以上の役員全員と監査役三名が出席し、事務局として総合企画部長と秘書課長が臨席して記録を取った。
三洋銀行は目下、不良債権撲滅と収益の向上に全力をあげており、経費や人件費の節減を強力に押し進めている。この全行あげてのリストラは杉本富士雄のワンマン性、即ち指導力の強さのおかげでしだいに効果を上げつつあった。
本店の各部及び支店の用務員や運転手にいたるまで人員削減の対象になっているが、もちろん役員とて例外ではない。四十五人いた役員は目下、三十八人に減っていた。
それでも、楕円形の巨大なテーブルに役員全員が着席すると壮観であった。中心部に杉本がいて、周囲を睥睨《へいげい》している。
通常は月一回の間隔で定例の取締役会が開催される。臨時に開かれることはあまりない。迅速を要する業務全般に関しては週一回開かれている「常務会」や「部長会」「部次長会」等で間に合う。これらの会議で決定され通達された事柄が即業務に反映される。したがって、取締役会に提出された議題の約半分位は事後報告になる。
もっとも、重要事項はこの限りではなく、取締役会で決められてから、各部や支店に通達される。
この日の臨時取締役会は急に招集された。そのせいか、出席する役員たちは異変を予知して、始まる前から異様な雰囲気が感じられた。
まず副頭取の席が変わった。
杉本頭取の左右に、勝田、成瀬の両副頭取が並ぶ。これが通例である。
ところが、杉本の左に勝田の席はあったが、右側に成瀬昌之の席がない。そこへは筆頭専務の名札が置かれた。
成瀬の席は取締役の末席になっている。隣りは非常勤の監査役の席だ。
事務局の石倉と秘書課長の岩見光一が、先に入室して役員会議室の点検をする。
「きみ、成瀬副頭取の席が違うじゃないか?」
と石倉は注意した。
「いえ、これでいいんです」
と岩見は答えた。
「どうして?」
「頭取の厳命です」
とつけ加える。
「そうか、頭取が?」
「はい」
と岩見は頷《うなず》いた。
「じゃあ、成瀬副頭取にちょっと耳うちしておいた方がいいよ。いきなりじゃ、いくら何でも気の毒だ」
石倉は表情を曇らせた。
「でしたら、石倉部長からお伝えして頂けませんか?」
と岩見は阿《おもね》るような顔付になった。
「なに?」
と石倉は聞きとがめた。
「きみが頭取に命令されたんだろう。だったら、それを正確に伝えるのがきみの役目じゃないか?」
珍しく声を荒げた。
「どうも申訳ありません」
秘書課長は頭を下げて引っ込んだ。
全役員が着席した後、わざとそうしたのか、二、三分過ぎてから杉本富士雄がゆっくりと入室してきた。
緊張感が高まった。
と言うのも、誰もが成瀬副頭取の突然の席の変更を知り、愕然としたからだ。
杉本は席に着くと、咳払いをひとつする。これは通常のクセと言ってもよく、いわばセレモニーのようなものだ。その上で、順次役員たちの顔を見てゆく。睨《にら》みつけるような眼ざしだ。殆《ほとん》どの者が慌てて眼を伏せた。なかにはじっと下を向いたままの者もいる。
いや、一人だけ例外がいた。
成瀬副頭取である。彼は杉本の視線を受けると、これをはね返すかのように眼をあげ、逆に睨み返した。
杉本は眼をそらさず、両者はしばらく睨み合った。広い会議室内は静まり返った。誰もがこの睨み合いに注目している。
「ふん」
やがて杉本が鼻を鳴らした。
「これより臨時取締役会を開きます」
杉本は気を取りなおしたのか、うって変わった声で宣言する。
「ほかでもないが、今日は合併問題について正式決定をしたいと思います。詳細はお手許の書類に書いてある通りです。相手は富桑《ふそう》銀行、合併比率は一対一、新行名は当面『富桑三洋銀行』としますが、二年以内に新たな行名を決定いたします。新銀行の会長は原沢一世氏、頭取はわたくしです。詳しくは書類を見て頂くとして、全員異議ありませんか?」
やや早口で一気に言った。
「異議なし」
「異議ありません」
という声があちこちで起った。
「では、異議なしと認めて、合併は決定しました。本日の臨時取締役会はこれにて終了いたします」
杉本はたたみ込むように終了宣言をしてしまった。
「議長、発言の機会を与えて下さい。わたくしは異議を申立てます」
末席の成瀬が手を上げて、声を張りあげた。
「なんだ、成瀬くんか?」
杉本は小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。
「きみは副頭取の地位にありながらちっとも協力せん。怠慢だ。われわれは何度も真剣な論議を重ねた上で合併という結論を得たが、きみは一度も会議に出なかった。非協力もはなはだしい。すでに臨時取締役会は終った。終了後の雑談として聞いてやるが、どうせ昼|行灯《あんどん》の寝言みたいなことを言うんだろう」
と嘯《うそぶ》いた。
「わたくしは合併に反対です」
と成瀬は立上って言った。顔に血が上っている。
「議事録に反対一名とはっきり書いておいて下さい。会議とおっしゃいましたが、わたくしは一度も開催の通知を貰っておりません」
とつけ加える。
「われわれは皆忙しいんだ。やる気のない者に出て貰って、らちもない意見を聞く暇など、あるわけもない」
杉本は突き放した。
「皆さん、こんな合併を進めれば、われわれの三洋銀行は吸収されて無くなってしまいますよ」
成瀬は周囲に向かって言い放った。
「大きなお世話だ。さあ、解散、会議は終った」
と言いつつ、杉本は素早く立上った。
周辺の役員たちも次々とこれにならう。室内は雑然としてきた。
杉本は右手を上げ、人差し指を前方に突き出した。
「成瀬くん、どうせきみは暇なんだ。好きなだけそこに立っていたまえ」
言うや、さっさと出て行ってしまった。
同じ日の午後、杉本富士雄は成瀬昌之の退任を決め、手廻しよく博多に本社のある中堅の建設会社への出向まで発表した。
「成瀬くんのような癌細胞は出来るだけ早く手術をして切り取ってしまわないとね。少々荒っぽいがやむを得んよ」
と杉本は言った。
「さようでございますな」
と勝田が相槌《あいづち》をうつ。
「転移が恐いですからね」
としたり顔でつけ加えた。
「その転移だが、役員や部長クラスにも成瀬くんへの同調者がいるんじゃないかね?」
「そう大勢はいない筈ですが、少しは」
「大きな反対運動までいかなくとも、変な動きをされては困る。もうしばらくは秘密のまま作業を進める必要がある。と言っても、せいぜいあと一週間位で発表にこぎつけられるだろう」
杉本は自信たっぷりに告げた。
成瀬昌之は臨時取締役会が終るとすぐ出掛けた。自分の部屋にじっとしている気になれなかった。杉本に小僧っ子扱いされただけになおさらである。
行き先を知られては困るので、わざと銀行の車は使わない。歩いてビルの外に出る。交差点を二つ越えた所でタクシーを拾った。
歩いている間も、車に乗ってからもじくじくと口惜しさがこみ上げてくる。成瀬はもともと杉本派の有力役員であった。杉本に引き上げられるかたちで昇格を重ねた。現在は副頭取にまでなり、先輩の勝田忠が老け込んでいるため、周辺からは次期頭取と目されてきた。
順調な進路がいまになって急に狂った。もし、杉本が合併の魅力に取り憑かれなかったら、数年先には間違いなく頭取の椅子に坐れたであろう。
いったい、どうしてこんなことになったのか?
成瀬はいま、その原因になったと思われる人物に会いに行くところだ。
彼が訪ねようとしている人物は、虎の門病院に入院中の大久保英信である。
大久保は長年富桑銀行に君臨してきた。超大物のワンマン経営者だ。会長になってからも院政を敷き、すでに自分より若い二人の頭取を追っ払った。頭取の首を次々とすげ代えることによって、自らは安定した地位を保ち続けている。実力会長時代を招いた元祖と言ってよい。
二人の頭取が追われた後の三人目が現頭取の原沢一世である。原沢はなかなか抜け目のない人物だ。温厚な顔付ながら、口数が少なく、腹の中をけっして他人に見せなかった。
彼は自分がいずれそう遠くない日に、前任の二人の頭取と同じ道を辿る運命にある事実をよく承知していた。冷静なリアリストで、利潤追求がうまい。忍耐強く、じっと待ち続けて現在の地位を手に入れただけに今度は簡単に手放したくない。前車の轍《てつ》を踏むことだけは何としてもさけたかった。
実は、ひそかにチャンスを狙っていた。さまざまなケースを考えて、目立たぬように手を打ちつつあった。
ところが、チャンスは意外な形でやってきた。七十五歳になった大久保英信が銀行の会議室で倒れて、救急車で病院に運ばれた。日頃から頑健で知られた大久保も年齢には勝てなかったのか、急に心臓発作を起し、一時は危篤状態になった。
その後、持ちなおしたものの、状況はきわめて深刻だ。肝臓や腎臓もわるく、前立腺肥大や糖尿病も発見され、身も心もすっかり弱って長期入院が必要になってしまった。
原沢にとってはまさにおあつらえ向きの症状だと言える。食餌療法に加えて、点滴や週二回の人工透析が必要であり、当分の間退院は無理である。かりに一、二年先に退院出来ても銀行への出勤はまず考えられないし、会長職に復帰して従来のようなワンマンぶりを発揮することなど論外だ。事実上、大久保体制は終ったと考えてもよい。
しかし、大久保英信は長年「大久保天皇」として知られた人物である。毎日、銀行に出られなくなったからと言って、すぐに引退するだろうか? 本人がその気になれば、居残りのためにどんな方法を使うかわかったものではなく、わずかな油断も禁物だ。
が、三洋銀行との合併が成立し、富桑銀行が巨大化し、まったく違う銀行になってしまったらどうであろう。今度こそ、大久保は手を出せなくなる。
原沢は杉本富士雄の抱き込みに成功した。「頭取」の椅子を譲っても説得する必要があった。むろん、一対一の対等合併ではあるが、杉本は自分ではそれと気付かず、上手にかつぎ出された。原沢は大久保との確執と新銀行の頭取ポストを餌に、巧妙な説得を重ね、ごく短期間のうちに杉本をすっかりその気にさせてしまった。
実際には、原沢の思うツボにはまっていながら、杉本にその自覚がなく、むしろイニシアティブは自分の方が握っているかのような錯覚に陥った。
それはともあれ、成瀬が入院中の大久保英信への接近を思いついたのは大きな手柄だ。
と言うのは、この時期、富桑銀行内では合併について殆どすべての用意が整っていたのに、かんじんの大久保の了解を取りつけていなかったからだ。病状が一進一退であるという事情はあったが、ほんとうの理由は別だ。原沢以下の役員の誰もが、大久保への接触を厭がった。まして、合併問題について説得する自信がない。そのために、一日延ばしに延ばしていた。
こういうわけで成瀬は、期せずして漁夫の利を得た。
成瀬昌之は病院にコネを持ち、これを活用して主治医と懇意になった。
大久保の病状が比較的良い時に、お見舞いに参上したいとの申入れをした。しばらく待ったが返事が無い。しかし、諦めない。辛抱強く待った甲斐があった。
医師と大久保の両方から許可を貰い、とうとう面会の日が来た。
成瀬は途中で銀座に寄って果物を詰め合わせた籠を買った。なるべく豪華な物を選んだ。さいわい、大久保には財界のパーティで挨拶したことがあり、面識はあった。とはいえ、けっして親しい間柄ではない。相手が有名な大久保天皇だと思うと、気後《きおく》れさえ感じる。
大久保はホテルを思わせる個室に入っていた。この日は病状が良いせいか機嫌も良く、起き上ってソファーに坐っている。
「いま紅茶を飲みたいと思ったところだ。ちょうどいい、付き合って下さらんか」
と相好を崩した。
どうにか一日一時間位はソファーに坐っていられるようになったという。さすがに勘が鋭く、成瀬がただの見舞い客ではないのをすぐに見抜いた。それに病人の疲労を考えるとあまり長居は出来ない。
成瀬は、急激に浮上した合併問題について語り、杉本と自分の立場が対立して、いまでは、たった一人の反乱者になってしまった事実を述べた。
「なるほど、きみの話が嘘とは思えん。わざわざ病人をからかいに来たわけでもあるまい。その件については、わたしはいまだに何の話も聞いておらんよ」
憮然とした表情で大久保は言った。
「すると、了解なさったわけではないんですか?」
少し身を乗り出した。
「むろんだ。そんな話を認めるわけにはいかん」
大久保はきっぱりと言いきった。
「ほんとうですか?」
成瀬は眼を輝かせた。
それからの二人は身を寄せ合って、ひそひそ話をした。およそ、十五分位で打合せが終った。
「申訳ありません。お疲れじゃあないでしょうか」
と成瀬は気遣った。
「疲れやせん。きみが来てくれたんで元気が出た。これからは時々寄ってくれたまえ。年寄りの知恵を教えてあげよう」
大久保は愉しそうに言う。
「有難うございます。会長さんのお知恵を当てにしてもよろしいでしょうか?」
あえて念を押した。
「いいとも、けっこうだ。大いに当てにしてくれたまえ」
機嫌良く承諾した。
成瀬が帰るとすぐ、大久保は受話器を取り上げた。
ほぼ同じ頃、石倉克己と松岡紀一郎は総合企画部の応接室で向かい合っていた。
「成瀬副頭取は退任した上に、博多の取引先へ出向するそうじゃないか?」
と松岡は口を尖《とが》らせた。
「ついさっき、そういう辞令が出たらしい。こっちも驚いているんだ」
と石倉は答えた。
「冗談じゃないよ。ぼくは合併反対派に切り換えたばかりだぞ。キャップがいなくなったらどうすればいいんだ」
とつめ寄る。
「あの人のことだから、博多へは行かないだろう。東京に残って、反対運動を始めるよ」
「成功するかね?」
「何とかなるんじゃないか?」
石倉は投げやりな言い方をした。
「暢気《のんき》なことを言うな。ぼくの立場はどうなるんだ。もし、頭取派が勝ったら出世もここでおしまいになる。何とかしてくれよ」
気色ばんで言う。
「じゃあ仕方がない。もう一度寝返って、杉本、勝田の連合軍に付くか?」
揶揄《やゆ》気味に言った。
「無責任なことを言うな」
松岡は真剣な表情で一喝した。
その時、ドアがノックされ、神谷真知子が顔を覗かせた。
「お取り込み中のところ申訳ありません。部長お二人に急用です」
と彼女は告げた。
「二人に?」
松岡は腰を上げた。
「先に松岡部長さんにお伝えします。業務推進部から電話が入って、席に戻って頂きたいそうです」
「わかった」
言うや、松岡はそそくさと出て行った。
「追っ払ったな」
と石倉は坐ったまま声を掛けた。
「わかりましたか?」
「わかったよ」
「いいですか、坐っても」
「どうぞ」
松岡がいた場所を指さした。
「|MOF《モフ》(大蔵省)の方は富桑とうちの合併に賛成らしいという件はこの前お伝えした通りですが、その後、どうやら賛成案で固まってきました」
と報告する。
「やはり」
と石倉は頷いた。
「ただ」
と彼女は言い淀《よど》む。
「ただ、何だね?」
「はい、信憑性はいま一つですが、大蔵大臣が反対しているそうです」
「ほう、毛利さんが」
と応じて、石倉は思わずにやりと笑った。
「もう一歩突っ込みましょうか?」
真知子は意欲的だ。
「いや、いまのところはこのままでいい。大臣と次官や局長との確執はこっちの知ったことじゃない。大事なのはむしろうちの銀行の内部の方だよ」
と石倉は主張した。
およそ三十分後、長谷部敏正が執務机からふと顔を上げると、石倉が近付いてくるのが見えた。
「やあ」
と右手を上げた。
「ちょっといいかね」
石倉は近寄りざま言った。
長谷部は頷いて立上り、すぐに応接室へと移動した。
「コーヒーか何か飲む?」
と訊く。
「いや、けっこう」
石倉は手を振って断った。
その日、病院を後にした成瀬昌之は本店の秘書課に電話を入れ、連絡事項を聞いた上で、七時に自宅に帰ってきた。
「あら、珍しいわね。どこかおかげんでもわるいんですか?」
と夫人は訊いた。
「いや、いたって元気だ。九時にお客さんが来るからビールを出して、寿司でも取ってくれ」
と頼んだ。
「早いと思ったら、うちでお客さんですか」
と皮肉っぽく応じる。
「仕事だよ。巻き返さなきゃならん。頭取にひと泡吹かせてやる」
と思わず口走った。
「まあ、何てことを。杉本さんはあなたの恩人でしょ」
とたしなめた。
「その恩人がぼくを追い出した。今日、事実上副頭取を退任させられたんだ」
「何ですって?」
夫人は顔色を変えた。
「あなた、来月結婚する娘のことも考えて下さい。副頭取の名で招待状を発送済みなのよ」
そう詰《なじ》られて、成瀬は息を呑《の》んだ。
一瞬、夫妻は睨み合った。
「それならなおさらだ。引っくり返せるかどうか、やれるだけやってみる」
と成瀬は自分自身に言いきかせるように呟《つぶや》いた。
「とにかく、シャワーだ。汗を流してさっぱりした上で、じっくり話してやろう」
言い置いて、シャワールームへ急いだ。
九時五分過ぎに二人の新聞記者が来た。大新聞の経済部の記者である。
「夜分恐れ入ります。富桑銀行の大久保会長から電話を貰いました。大スクープになりそうなので、部内は興奮しております。部長からもよろしくとのことです」
年上の記者の方が丁重に言った。
成瀬は相手の生き生きした表情を見て、方針を変えた。当初は情報を少しずつ小出しにして様子を見るつもりでいたが、一度にすべてを出すことにした。
彼は初めから経過を語り、杉本頭取との二度にわたる話合いの決裂も含めて、今日の臨時取締役会にいたるまでの経過を詳しく語った。
「裏付けの資料もここにすべて揃っています。外部に出してはまずいコピーもありますが、この際、すべてをお見せしましょう」
と断って、彼は十数枚に及ぶ資料を束にして手渡した。
「成瀬副頭取から取材させて頂いたことは、内密にさせて頂きます」
と年長の記者は気を遣った。
「いや、わたしの名前を出して貰ってもかまいませんよ」
と成瀬は伝えた。当初からそのつもりであった。
「ほんとうですか?」
二人の記者の眼が輝いた。
「その方が信憑性が出るでしょう」
「もちろんです。そう願えればこんな有難いことはありません」
二人は同時に頭を下げた。
成瀬は改めて、合併反対を強調する談話を発表した。
「すでに大久保会長さんのコメントも頂いております。裏付け取材も進行していますから、明日の朝刊には大きく出るでしょう」
「え、そんなに早く」
今度は成瀬の方が驚いた。
「はい、一日ずらせば他社に嗅ぎつけられる可能性があります。最近は記者クラブで発表した記事を中心にして紙面作りをしますので、どの新聞も似たようなものです。こういうスクープはめったにありません」
二人共、頬を上気させ、挨拶もそこそこに、勇んで待たせてあった車に乗り込んだ。
午後十時五分、ちょうど一時間が経過したところである。
成瀬はちらりと壁の時計を見てから、大久保の病室にある直通電話の番号をプッシュした。三、四回ベルを鳴らして応答がなければきるつもりだ。ところが、二度目のベルで受話器は取り上げられた。
成瀬はまず大久保の病状を気遣った。
「大丈夫だよ。まだ眠れなくて退屈しておった。ちょうどいい」
機嫌の良い声が返ってきた。
成瀬はほっとし、新聞記者の来訪とその反応について報告した。
「それでよかろう。小出しより一度にどかんとやった方が効果がある。明日からうるさくなるが逃げずに頑張りたまえ。きみの下で働く部長クラスの者で優秀な男が二、三人欲しいところだな」
と大久保は助言した。
「はい、わたくしもそう考えまして、二人ないし三人用意してあります」
と伝えた。
「それでいい。突っ走りたまえ。きみの骨はわたしが拾ってやる」
大久保は病人らしからぬ力強い声で言い放った。
「有難うございます」
成瀬は思わず受話器を握りしめたまま深く頭を下げた。
ほぼ同じ頃、長谷部はマンションに帰り着いた。
今夜の夕食当番は息子の方だ。本人は何処《どこ》かへ出掛けて留守だが、カレーライスが作ってあり、テーブルの上にメモ用紙が乗っている。
──カレー作りました。友達の家へ勉強に行きます。十二時頃には帰れる予定です。
と書かれていた。
「何が勉強だ」
と苦笑しながら呟いて、長谷部はカレーの鍋をガス台に乗せた。
「ほう、なかなか美味い。料理の腕はおれより少し上だな」
一口食べてみてすぐそう漏らした。
食べ終ってから夕刊にざっと眼を通し、シャワーを浴びた。そして、ビールの栓を抜く。順序がちぐはぐになったのは腹が減っていたせいである。
ビールを飲んでいるうちに、昼間の石倉の態度が気になった。彼の所へ来たものの、あまり多くを語らず、むっつりと黙ったままだ。そのくせ、人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべていた。いつもの理知的な石倉とは別人の印象さえある。
「松岡の奴が文句を付けてきた。最初は勝田副頭取に付き、次いで成瀬副頭取に乗り換えた。すべて自分の打算でやったくせに、まるでこっちのせいだと言わぬばかりの言い草だ。成瀬さんが退任させられて慌てふためいている。まったく、見ちゃおれんよ」
と吐き出すように言った後は、不機嫌な顔付になって黙り込んだ。
十一時十五分、ちょっと岐阜の家へ電話をして女房の声でも聞いてみようかと思った直後に、電話機が鳴った。以心伝心か? ちょっと微笑んで手を伸ばす。
とたんにカラオケの音楽が耳を打つ。むっと顔をしかめた。
「どうも、昼間は失礼!」
石倉のいくらか酔いの廻った声が聞こえてきた。
「三十分ほど前に成瀬副頭取から、いや、もう副頭取じゃなくなっているただの成瀬さんから連絡が入ってね。今度の合併問題をすべて大新聞にぶちまけたと言うんだ。もう誰にも止められない。明日の朝には大評判になるよ。見そこなったね。まったく、ひどい。おれはあの人を見そこなったよ。いまさら、銀行内部の事情を洗いざらい世間に知らせて恥をかく必要がどこにある。それに、小さいことを言えば、広報担当部長のぼくの立場はどうなる。もの笑いになり、無能者扱いだ。いまから、三十分前に知らされて、いったいどんな手段《て》が打てるんだね」
とかき口説くように言う。
「わかった。いま何処にいる?『ぐうたら神宮』だろう?」
と急《せ》き込んで訊く。
「そうだ。それがどうした」
「これからすぐ行く。飲みすぎないで、待っててくれ。いいね」
念を押して受話器を置いた。
松岡紀一郎はまだ銀行にいる。
仕事を片付けながらも心が迷う。いつもの松岡らしくない。そのせいか能率がわるく、単純な事務仕事にいつもの二倍位の時間が掛かった。
「まったく、しょうがないな」
と思わず悪態をつく。苛立ちがつのった。
その時、直通電話のベルが鳴り始めた。
「ちぇっ」
顔をしかめ、舌打ちしつつ取る。
「成瀬だが」
明るい声が聞こえてきた。
「ビッグニュースがあるよ。富桑銀行の大久保会長が合併反対の先頭に立ってくれることになった。大蔵大臣や次官、銀行局長の説得にも当ってくれる。それから、ぼくの副頭取退任だがね、これもはね返す。いや、ひょっとしたら、それではすまない。杉本さんには責任を取って貰って引退に追い込み、ぼくが頭取に就任することになるだろう」
「それは」
松岡は息を呑んだ。珍しく血がたぎってきた。
「すごいですね」
つい呼吸が荒くなった。やはりこの人に切り換えておいてよかったという気がする。
「まだあるよ。明日の毎朝経済新聞の朝刊に大きな記事が出る。合併問題が世間の眼に触れる。いやが上にも関心が高まるだろう。もう輪転機が廻り始めている頃だ」
と成瀬は教えた。
「後の相談もある。とにかく、すぐぼくの自宅まで来てくれ。石倉くんにも声を掛けておいた。出来たら、長谷部くんも掴《つか》まえて連れてきてくれんか? 少し鈍いが、真面目で役に立つ男だと聞いた。この際、味方は多い方がいいからね」
とつけ加えた。
「わかりました」
受話器を置くと、松岡は手早く書類を片付けて帰る仕度をする。
出来れば、長谷部など連れて行きたくはなかった。成瀬が彼の仕事ぶりを認めたりすれば先を越される危険性がある。
どうか席にいないでくれと念じて内線番号をプッシュした。誰も出なかった。融資部はすでに全員帰っている。幸先は良い。
ほっとして、今度は彼のマンションに掛けた。今度も何とかうまくいってくれと願う。思い通りになった。ベルは十回鳴り響いたが、ついに誰も出ない。
松岡は勇んでエレベーターホールへ向かった。とにかく電話は入れた。留守なら仕方がない。何処にいるのか見当もつかなかった。それで通るだろう。同じように合併反対でも、これで長谷部と自分の間には大きな差が出来た。どうやらと言うべきか、やっとと言うべきか、とにかく運が向いてきた。いつの間にか彼の頬は薄赤く染っていた。
毎朝経済新聞は翌日の朝刊トップに富桑銀行と三洋銀行の合併問題を取り上げた。
──銀行合併&x桑と三洋
という大見出しの次に、上位都銀を目指す富桑銀行と三洋の合併問題について大きな活字が躍《おど》っている。かなりセンセーショナルな取り上げ方だ。
ところが、内容は意外に地味である。両方の頭取、原沢一世氏と杉本富士雄氏の間で合併の約束が出来ていて、双方共、臨時取締役会を開いて承認を得ているとはいえ、あまりにも性急で、強引で、問題が多いと指摘していた。
両行共、中堅の部長、支店長クラスや従業員組合の賛同を得られるのかどうか、と前置きして、今回の合併劇は原沢頭取の大久保会長追い出し策と杉本頭取の野心が結びついたものであるとの解説が付いている。むしろ、合併に水を掛けるような印象を受ける記事だ。
おまけに、大久保英信と成瀬昌之のかなり刺激的な談話が載り、その後に両行の大株主である損保と生保の社長の当り障りのない意見が並んでいた。バランスを取ったつもりらしいが、先の二人の意見が過激なので、後の二人の談話はすっかりかすんでしまった。
さらに三ページ後の経済欄には、相当の紙面をさいて大久保や成瀬の意見に近い詳しい解説記事が掲載された。
記事の内容は合併の進め方に対する批判が中心になってはいるものの、他紙がこの二行の合併をまったく察知していないので、大きなスクープになったのはたしかである。
反響は新聞が配達され始めた早朝からあらわれた。早くも午前五時過ぎに新聞に目を通した人がおり、六時、七時と時間が経過するにつれて情報がひろがった。
一番ショックを受けたのは、両行の幹部行員から一般行員、女子行員にいたる多くの行員たちである。取引先とて同様であろう。種々雑多な層から成り立っているため、メリット、デメリットの差が出てくる。彼等にとってはまさに寝耳に水であり、陳腐な言い方をすれば青天の霹靂《へきれき》であった。
両行の広報や総務の担当者たちも時間の経過と共にさまざまな対応を強いられ、超多忙になった。富桑、三洋共に行内は騒然とし、決算期の期末が三つか四つ重なったかのような混乱が行内のあちこちで起っていた。
杉本富士雄は頭取室内にいて出てこない。不機嫌な顔付で次々と副頭取以下の役員たちを呼び付けている。呼ばれた者たちはみな緊張した顔付で入室した。
石倉も呼ばれたが、広報の手落ちを指摘されたわけではない。
「いいかね、こうなった以上、合併は新事実になった。秘密でも何でもなくなった。そのつもりでこれからは前進あるのみだ。いいね」
と強く念を押された。どうやら、杉本の意志は一層強固なものになった。そんな印象さえ感じられる。
その時、少数の者しか知らないホットラインのベルが鳴った。
杉本は左手で受話器を取りながら、右手を振って出て行けと合図した。石倉は一礼して頭取室を出た。
原沢一世からの電話であった。
「どうやら棺桶の蓋が開いて、中からミイラが飛び出したようですな」
挨拶がすむと原沢はそう言った。
「ミイラ?」
と訊き返す。
「大久保の爺さんですよ。またいくらか元気になったらしい」
原沢の声には忿懣《ふんまん》がこめられている。
「いつまでも丈夫な方ですな」
と杉本は皮肉っぽく応じた。
「まったく、悪運の強い人ですね。ところで、こともあろうに、この爺さんにくっ付いたのがおたくの成瀬さんだ。爺さんにつきましてはこちらの問題です。わたくしの方で早急に何とかいたします。しかし、成瀬昌之くんの方はわたし共の手に余ります。そちらで責任を持って処理して頂けませんでしょうか?」
冷静な声で頼んだ。
「承知しました」
と杉本も請け合った。
「しかし、こうなったからには、何処か目立たん所でお目に掛かって、いくつかゆるんだタガを締めなおさなければいけませんなあ」
と原沢は提案する。
「わたくしもいまそう考えておったところです」
と杉本も合意した。
二人の頭取はたしかに不機嫌にはなっていたものの、今朝の新聞記事で多少なりともひるんだ様子はなかった。打撃をこうむったとは思っていない。お互いに虚勢を張り、相手に内心を気取られまいとしているのかも知れなかった。
いずれにせよ、事態は動いた。
石倉が席に戻ると、神谷真知子が珍しくおろおろしている。
「どうしたんだね?」
「たったいま、大蔵大臣から電話が入りました」
いささか興奮気味の口調で伝える。
「それだけ」
わざと素っ気なく言う。言外に早く熱を冷《さ》ませとの意味を込めている。が、通じた様子はない。
「はい、席に戻りしだい大臣室に電話して欲しいそうです。番号はここにメモしてあります。それから、MOFは局長以下全員が今朝の新聞記事に不快感を抱いているそうです。課長補佐の新山さんがつい先ほど電話で教えてくれました」
「有難う」
メモを受け取って、着席した。
「新聞や週刊誌の取材は原則として、次長と神谷くんに任せる。手に負えないものだけこっちに廻してくれ」
全員に聞こえるように少し声を張りあげた。
石倉はメモ用紙の番号をプッシュした。秘書が出て、二分ほど待たされた。やがて、毛利有太郎の磊落《らいらく》な野太い声が聞こえてきた。石倉は耳から少し受話器を離した。
「見たよ。やるもんだねえ。成瀬はきみの親分じゃないのか?」
毛利はいきなり言った。
「ごく最近まではそのつもりでしたが、いまは違います」
と彼は答えた。
「そうか、それはいい。けっこうな話だ。まあね、どこの世界にも大久保や原沢、杉本や成瀬のような男はたくさんいるよ。わしのまわりにももっと程度のわるいのがひしめいている。だから面白い。しかし、きみもいまの親分を見限ったとなると、新しいドンが必要だろう。近くめしでも食おう。すぐに声を掛けるからな」
言うだけ言ってさっさと電話をきった。
石倉はしばらく耳に受話器を押し当てていた。何となく毛利の暖か味が感じられ、しかも、それが新鮮に思えた。
およそ二時間後、大蔵省へ新聞記事の釈明に行っていた神谷真知子から連絡が入った。
「ちょっと妙な動きがあります」
「妙な動き?」
「はい、合併反対派があらわれました」
「なに、MOFの中にも賛成派と反対派が?」
「そうなんです。でも」
と彼女は言葉を濁した。
長谷部敏正は電話の応対に追われた。
次々と何本も掛かってきて、とても仕事にならない。
彼の所へ問い合わせてくるのは、新聞社や雑誌社ではなかった。取引先の社長の場合も少しはあるが、大半は各地の支店長からだった。
松岡も電話の応対に追われたが、とても長谷部の比ではない。
長谷部はそれだけ支店長クラスの信頼を得ていると言えた。
彼は知り得た事実を教え、動揺してはいけないと忠告した。
「そうはおっしゃっても、富桑の梅田支店とうちの店は五十メートルしか離れていないんですよ。合併となれば、どちらかが廃止店舗になるでしょう。行員たちは皆もう気もそぞろで落着きませんよ」
と大阪支店長が訴えた。
京都支店長と神戸支店長、それに静岡支店長、仙台支店長、岡山支店長等も同じような悩みを口にした。
札幌支店長、下関支店長、広島支店長等は合併するのかしないのかを一日も早くはっきりと決めてくれと要求する。決定さえしてくれればわれわれはそれに従うという。頭取と副頭取が対立しているような状況は出来るだけ早く解消して欲しいとも言った。
福岡支店、長崎支店、愛媛支店、奈良支店、大津支店、福井支店、岐阜支店、金沢支店、新潟支店、秋田支店、福島支店、大宮支店、宇都宮支店、水戸支店等の支店長たちはもっと勇敢で積極的であった。
臨時支店長会議を開催し、この席で賛成派の杉本頭取、反対派の成瀬副頭取、従業員組合の委員長、それに部長及び支店長の代表者等々の意見を聞いた上で採決に入り、多数決で合併か否かを決める。そうすべきだとの意見である。それをしないで、上層部だけで決定すれば後に大きなしこりを残すと主張した。
長谷部は大勢の支店長たちの熱意にうたれ、彼等の真剣な声を聞いているうちに、しだいにいたたまれなくなった。
彼の場合、本心は反対だが、杉本頭取との間で生じた気持を大切にしている。そのため、成瀬や松岡の側にくっ付いて旗振りをしたくないという気持が強い。石倉にも頼まれたが、何となく気持が燃えてこなかった。
と言って、このまま黙っていれば富桑銀行に吸収されてしまうだろう。真面目人間だけに、ジレンマは強くなるばかりであった。
こういう時に、支店長の声が聞こえてきた。長谷部は躰《からだ》の中の血が煮えたぎるのを感じた。サッカーで味方のむずかしいシュートが決った時、いや、かつて彼自身がグラウンドを走り、三人の相手選手にはばまれて転がされ、一時的に気を失って気が付いたら試合が終っていた時、そういう時の血のたぎりにも似たものがこみ上げてきたのだ。
「よし」
と彼は呟いた。陽焼けした頬に血が上っている。
すぐに立って、上衣を取ると、力強い足取りでフロアーを横切り、エレベーターホールへ向かった。
長谷部はまず従業員組合の本部へ行き、委員長と書記長に会った。次いで部長会の幹事を務める総務部長と話をした。
その上で席に戻り、支店長の代表である新橋支店長に電話を入れた。この段階で、ほぼ臨時支店長会議開催の構想がまとまった。彼はすぐ秘書課長に連絡を入れて、杉本頭取への面会を求めた。
杉本から午後五時に会うとの返事があった。彼は組合役員と総務部長と新橋支店長にその事実を伝え、四時三十分に集合するよう依頼した。杉本の了解が得られれば、後は成瀬への説明と連絡を残すだけになる。結果はともあれ、やれるだけのことはやったと言えよう。
長谷部はいったんエンジンが掛かると、なかなか止まれないたちである。
勝田副頭取、筆頭専務と筆頭常務にも面会を求めて、部長会、支店長会、組合の意志を伝えて協力を依頼した。勝田をはじめ、主だった役員たちはむしろこの提案を聞いて、ほっとした表情を浮かべた。長谷部はそれを見て手応えを感じた。
彼は最後に、松岡と石倉の席に寄った。彼等にも報告だけはしておきたいと思ったのだ。
松岡は聞くなり顔をしかめた。自分がイニシアティブを取れないのがはっきりしたからである。
「成瀬副頭取が何と言うかね?」
と唇の端を曲げる。
「成瀬さんは有能な人だ。この提案を受けて立たないとなれば不利になることにすぐ気付く。きみから先に伝えておいた方が点数が上るんじゃないか?」
と長谷部は教えた。
「そうか、じゃあ、早速伝えてみよう」
と松岡は請け負った。
「頼むよ」
長谷部は松岡の肩を軽く叩いて席を離れた。
石倉の部屋へ行くと、室内で石倉と神谷真知子が何事か議論していた。長谷部の顔を見ると、二人とも口を噤《つぐ》んだ。
「やあ、どうも。邪魔だったら出直すよ」
長谷部はきびすを返そうとした。
「いや、いいんだ。打合せは終った」
石倉はそう言って、ソファーを指さす。
二人だけで向かい合うと、石倉の方が先にきり出した。
「神谷くんが掴んできた情報によると、大蔵省はうちを狙っている」
「狙う?」
「そう、合併が不成功に終った場合、人を送り込んでくる。そうなれば、いずれ大蔵省銀行になってしまう。合併問題がどちらに転ぼうと、三洋銀行に将来はない」
「莫迦《ばか》なことを言うな」
長谷部は気色ばんだ。
「どのみち、しばらく先のことさ。それより、ぼくの個人的な事情を聞いてくれ。きみにだけはほんとうの気持を知って貰いたいんだ。実は、長年銀行にいたけど、近頃は何もかも飽き飽きしてきた。今度の件ですっかり厭になった。近くやめてほかの方面へ行くつもりだよ」
と打ち明ける。
「また、急に何を言い出すんだ。しかも、こんな時に」
長谷部は呆れた。が、石倉の顔を見ているうちに、彼が真剣なのに気付いた。
「いや、前から考えていたことでね。こういう時だからこそ、ふんぎりがついた」
石倉はそう言った。長谷部の予想した通りだ。
「おい、おい」
とぼけていなそうとした。
「止めても無駄。そっちの用件を聞こう」
石倉はきっぱりと言う。
「じゃあ、きみの一身上の件は一時棚上げにしよう」
と断って、長谷部は語った。つい声にも表情にも力がこもった。
「そうか、よくわかった。大賛成だ。初めからそれを考えるべきだった。きみのような人物が銀行を支えてゆくんだ。安心したよ。思いきりやってくれ」
そう言うと、石倉は握手を求めた。表情が少し明るくなっている。
長谷部は右手を出しながら、照れ笑いを浮かべた。
杉本頭取は長谷部の臨時支店長会議開催案を了解した。彼の熱弁にほだされたのか、「うむ」と唸った後で承諾してくれた。
成瀬副頭取も、反対派の支店長の方が多いと判断して、自派の有利を確信し、受けた。
その夜、長谷部敏正は名古屋支店の副支店長をしている村上良二といっしょに新宿まで出掛けた。
夕方、出張で東京へ来た村上が仕事を終えるとすぐ融資部長の席に来た。二人は久しぶりの再会を喜んだ。
実は、今夜、新宿の小料理屋にたまたま出張で本店に来た若手の支店長、副支店長クラスが集まっているから来て欲しいと頼まれた。
「お願いします。わたしが長谷部部長をお連れすると約束しちゃったんです」
と言われて、村上の後についてきた。
西新宿の一角にある小料理屋の二階に着くと、すでに六人が集まっている。
彼等は次々と支店名と名前を告げて頭を下げた。
「どうも、長谷部です」
何となく場違いの印象を受けながら、長谷部も挨拶を返した。
ビールで乾杯するとすぐ、静岡支店長の山崎謙二が口火をきった。
「ここにいる者全員が富桑銀行との合併に反対です。われわれで合併反対の輪を大きくひろげてゆきたいと思っています」
そう宣言すると、拍手が起った。
「いままで競争相手というより、むしろ敵としてしのぎをけずってきた相手といっしょにやってゆけるわけがない」
「その通りだ」
「合併反対運動を起そう」
口々に言う。
どの顔も意欲に燃え輝いていた。
「部長、われわれの先頭に立って指揮して下さい」
と山崎が頼んだ。
臨時支店長会議は一週間後の土曜日の午後二時から開催されることになった。
これは土曜日が休日なのと、遠隔地の支店長たちへの配慮と言えた。この時間帯なら、当日の朝飛行機に乗れば間に合う。それに終了時間しだいではあるが、たぶん日帰りも出来る。
合併賛成派も反対派も、一週間の間に大いに動いた。何の申合せもしていないのだからなおさらである。
多数決を取ることになっているので、自派への抱き込み工作を始めたのだ。こうなると、政治家の選挙とあまり変わりはない。まるで、総裁選を思わせるような様相を呈してきた。ただ、贈与や接待はあるが、さすがに現金は飛び交わない。そのへんのけじめはあった。
その代り、両派共、以後の昇格を約束した。サラリーマンにとっては、現金以上に魅力的な餌である。すぐ後からステータスの向上と収入増がくっ付いてくる。しかも、合法的に転がり込んでくるのだ。この餌を派手にかざして自派の方へ引き入れようとする。
頭取派は勝田副頭取が中心になった。副頭取派は成瀬本人と松岡が活躍した。どちらもそれなりの自信を持ったものの、時間が足りないのを痛感している。無理もない。銀行の仕事をこなした上での選挙運動だから当然と言えよう。
一日前の金曜日の未明、正確には木曜日の深夜と言ってもよい時間帯に事件が起った。
朝一番のテレビ、ラジオのニュースがいち早くこの事件を報じた。新聞の朝刊にもぎりぎりで間に合い、大見出しが出た。
──富桑銀行頭取宅に発砲
──車から覆面の四人組
各紙共、似たような見出しをつけた。
テレビのキャスターはニュースを読み上げる。
「昨夜遅く、東京都杉並区和泉二丁目、富桑銀行頭取の原沢一世さん宅が、暴力団と見られる四人組に襲われ、五発の銃撃を受けたことが明らかになりました」
さらに続けて、
「四人組は、原沢さん宅に向かって発砲した後、黒のベンツでそのままスピードをあげて走り去ったと、深夜スーパーへ買物に出た青年から通報があったもようです。なお、警察の調べでは、弾は玄関のガラスの格子窓から三発、二階寝室の窓から二発の合計五発が撃ち込まれていることがわかりました。さいわい怪我人は無かったのですが、現場は静かな住宅街なので、思いもよらぬ発砲事件に、付近の住人は恐怖におののいていました」
事件の全容はおよそこのように語られた。
テレビの画面には原沢家の正面が映し出された。
ロープが張られ、近くを動き廻る警官たちの姿も映る。
早朝、寝巻きの上にガウンを羽おった原沢が家の前でテレビのアナウンサーに意見を述べている姿も映った。
「どういうことだか、よくわかりません。銃撃の音にも車の走り去る音にも気付きませんでした。何故、わたくしの家が狙われたのか、まったく心当りがございません」
これだけの報道で、銀行頭取宅への発砲事件は、金曜日の朝には全国に知れ渡ってしまった。
午前七時過ぎに石倉の自宅へ杉本頭取から電話が入った。
「きみ、原沢さん宅の事件を聞いただろう。明日の『臨時支店長会議』は中止する。こんな状況では反対派を喜ばせるだけだ。すぐ手配したまえ」
ぴしりと命じた。
「承知しました」
と答えた時には、電話はきれていた。
八時二十分頃、長谷部が自席に坐るとすぐ、横浜支店長の宮田から電話が入った。
「驚いたね。いずれこんなことになるんじゃないかと思ったよ」
と予想していたような口ぶりで言う。
「何か心当りがあるのか?」
と訊き返す。
「大ありだよ」
と宮田はじらした。
「ぼくが優秀な調査マンだという事実を忘れて貰っちゃ困る。富桑銀行の内容を調べ上げたところ、不良債権が公表されている数字の四倍もある。うちは約二倍だからね、そのひどさがわかるだろう。おまけに、かなりの額が暴力団関連の不動産会社に流れている。追加融資をためらえばああいう目に遭うんだ」
「ほんとうか?」
「嘘をついて何になる。今度の合併は二つの銀行の不良債権を上手に隠すための合併だって言っただろう。予想通りの調査結果が出たよ。裏付資料は石倉宛に交換便で送ってやったからね。杉本頭取だって、富桑がここまでわるいとは思っていないだろう。洗いざらい見せてやればいいんだ」
「きみも忙しいのによくやったね」
「なあに、好きでやったことだよ。それからね、まだ内密だけど大学教授の口が見つかりそうなんだ」
と嬉しそうにつけ加えた。
受話器を置くとすぐベルが鳴り、今度は松岡の声が聞こえてきた。
「明日の臨時支店長会議、中止だって、成瀬さんが残念がっていたよ。開けば反対派の勝ちになるからね」
「そうかも知れん」
「他人事みたいに言うな。どっちにせよ、暴力団とかかわり合って、ピストルで撃たれるようなトップのいる銀行と合併出来るか? これで勝負がついたんじゃないのかな」
松岡は勢いよく言いつのった。
臨時支店長会議は中止になったものの、二日後の月曜日午前十時に臨時取締役会が開かれることになった。
部長、支店長クラスはともかく、役員のレベルで合併問題について一本化を図ろうとの意図が見えすいている。ゆるんだタガをもう一度締めなおすつもりなのか、杉本頭取の意志で開催通知が出された。
同じ金曜日の夕方、杉本は石倉に命じて本店内にいる役員だけを会議室に集めさせた。
「皆さん、忙しいところ、ごくろうさま」
最初から低姿勢だ。
「ちょっと五分だけ聞いて下さい」
と前置きする。
「富桑銀行の原沢頭取のご自宅で発砲事件があったことはご存知だと思いますが、今日、午前中に原沢さんご本人から直接わたしのところへ電話がありました。それによると、まったく身に覚えがないということです。したがって、当行との合併問題についてはとくに変更なしという認識を持っております」
と言い放った。
あちこちでざわめきが起る。頭取の耳にまでは届かないが、小さな囁きや呟きが随所で聞かれた。
「テレビや新聞の発表と同じじゃないか」「反省の色が無い」「変更なしというのは問題がある」
およそこのような内容であった。
「とにかく、月曜日に臨時取締役会を開くことにしましたので、その席上で検討しましょう」
杉本はざわめきが静まるのを待って結論を出した。
石倉が自席に戻って数分しないうちに、直通番号の電話のベルが鳴った。
「どうも、富桑の高川です。この度はとんだ恥をさらしまして、申訳ありません」
と詫びた。
「ご丁寧に恐れ入ります。そちらは大変でしょう」
「まったくえらい騒ぎでしてね。新聞や週刊誌の取材が殺到してますわ」
「お察しいたします」
「これですべて白紙でしょうなあ」
「………」
石倉は黙っていた。抜け目のない高川のことだ。探りを入れているのかと用心したのだ。
「あなたにだけ教えますがね、今度の事件のバックには入院中の大久保天皇がいますよ。うちの原沢は大久保英信を甘く見たんですなあ。大久保会長は寝たきりになったふりをしながら、何らかの指令を出した。たぶん、わたしの推理は当っている。それにしても、爺さん連中のやることはえげつないですなあ。われわれの時代になったらもう少しスマートにやりましょうよ、スマートに」
と強調すると、高川は一方的に電話をきった。冷静で、抜け目のない男が、どうやらバランスを崩している。
「何がスマートだ。似たようなものじゃないか? あんたとの付き合いも、もう願い下げにしたいね」
石倉はそう呟いてから受話器を置いた。
月曜日の午前十時が近付くと、役員会議室は集まってきた役員たちでいっぱいになった。
九時五十五分には杉本富士雄を除く全員が着席していた。どの顔も緊張している。青ざめた顔も引きつった顔もあった。
驚いたことに、すでに解任された筈の成瀬昌之が一番目立たぬ末席に坐っていた。誰もがそれを知っていながら気付かぬふりをしている。
定刻の十時きっかりに杉本が入ってきた。わき目もふらず自席に坐った。
「では、これより『臨時取締役会』を開催いたします」
と宣言した。
それを待っていたかのように、末席から声が掛かった。
「議長、緊急動議です」
成瀬が身を乗り出している。
「何? きみは?」
杉本は成瀬の存在に初めて気付いた。
実は、この瞬間、杉本にもチャンスはあった。いきなり、議長の権限を行使して、「臨時取締役会」の中止、解散を宣言すればよかった。
ところが、「杉本頭取の解任を要求いたします」と成瀬に大声でわめかれて、かっと頭に血が上ってしまった。
「きみこそ何だ。すでに解任された身じゃないか?」
と顔を紅潮させてやり合う。
これこそ、成瀬の待ちかねていたところだ。
「緊急動議は先決事項です。採決をお願いします」
とせまった。
すると、「賛成!」「賛成!」の声があちこちで起った。
「成瀬、貴様なんぞ引っ込んでおれ、さっさと退場しろ」
と言う杉本の声は半分以上かき消されてしまった。
「多数の賛成をもって緊急動議は成立しましたので、これより議長の交代を提案いたします」
と成瀬は続けた。
「では、わたくしが議長を代行いたします」
と専務の大森が名乗り出た。
「何だ、きみは」
杉本の表情に驚きが走った。
「大森くん、きみはいったい」
と勝田もびっくりしている。
「頭取も副頭取も議題の対象になっておりますので、このままでは取締役会が機能いたしません。そのため、わたくしが代表権を持つ専務として本会の議長を務めさせて頂きます」
大森は緊張で顔を強張《こわば》らせながら宣言した。
「これは茶番だ」
と吐き出すように言う杉本の言葉は無視された。
「では、提案理由の説明をお願いします」
大森は成瀬の発言を促す。
「杉本氏は自らの紹介先で多額の不良債権を作り、保身のために独断で、同じように苦境に陥った原沢氏と相談して両行の合併を画策し、わが三洋銀行を消滅させようとしております。果して、このような行為が許されてよいものでしょうか?」
成瀬は立上って迫力のある声で追及した。
「何を言うか? この恥知らずが」
と杉本はわめいた。
「恥知らずは杉本氏自身であります。合併相手の富桑銀行はつい先日、原沢頭取が暴力団に襲われたように極めて不明朗な経営体質を持ち、公表の四倍以上もの不良債権を抱えております。とうていわが三洋銀行と相容れるカルチャーを持っているとは思えません。こういうスキャンダラスな相手と、合併しようなどとはもってのほかです」
成瀬は追及の手を緩めない。
「わたくしはここに、富桑銀行との合併の白紙撤回と、杉本頭取の解任を要求するものです。皆さんの良識ある判断を期待いたします」
成瀬は話し終えた。
「くだらんたわごとだ。成瀬の口車に乗ってはいかん。大森くん、成瀬くんの発言を禁止して退場させなさい」
と命じた。
「わたくしの発言は終りました。これ以上、言うことはありません」
と成瀬は腰を下したまま応じた。
「頭取、議事進行は議長たるわたくしにお任せ下さい」
大森は言い返した。
「なに」
杉本は眼を剥《む》いた。
「では、賛成の方、起立して下さい」
大森が言うと、成瀬を先頭に役員たちが次々と立上る。
杉本は周囲を睨んだ。勝田はおろおろして貧乏ゆすりをする。
大森は自分も立ちながら、右手を上げて堂々と数えた。
「賛成二十四名、過半数となりました」
そう宣言した時、新たに三人が立った。
「これで二十七名です。賛成多数により、杉本氏の頭取解任並びに合併白紙撤回の動議は可決されました。これにて散会いたします」
大森は勝利宣言を終えた。
坐ったまま周囲を睨む杉本の視線が弱まった。
午前十一時過ぎ、石倉は富桑銀行本店を正式訪問して、総合企画部長に会い、合併を白紙に戻すことを伝えた。
「よくわかりました。では、白紙ということにいたしましょう」
と高川は答えた。口許に冷笑が浮かんでいる。もう先日のいささか取り乱した様子は何処にも無い。ひたすらホンネを隠すタテマエだけの顔付になっていた。
「また競争が始まるわけですな」
と高川は言う。
「今度の競争は以前より厳しいですよ。なにしろ不良債権の回収競争ですからね」
石倉はずばりと言った。
高川は顔をしかめた。が、すぐに思いなおしたのか、営業用の笑顔を浮かべる。
「まあ、お互いライバルとして、これからも頑張りましょう」
「よろしく」
石倉も丁寧に頭を下げた。
10
こうして、富桑、三洋二行の合併問題は白紙に戻ったが、両行共、無傷というわけにはいかない。多くの後遺症が残った。
それが深刻な問題であるのかどうかは、実のところ、よくわからない。部外者にはなおのこと、判断がつかなかった。個人個人の受け留め方にもよるし、解釈の相違や性格の違いにもよる。世の中の動きの速さにも左右されよう。
大久保英信はこのままでは原沢一世に銀行を乗っ取られると気に病み、約一か月後に退院して、再び会長室に入った。
だが、三日後、銀行で倒れてそのまま帰らぬ人となった。
成瀬昌之は新頭取に就任した。正式には次期の株主総会での承認を待つことになる。
勝田忠は退任し、杉本富士雄は顧問になったが、事実上の引退で、二度と銀行へ来ることはなかった。大森英明は副頭取に昇格した。大蔵省から専務と監査役が送り込まれた。要注意銀行としての監視が必要になったからだ。
石倉克己は銀行をやめ、毛利有太郎の許に走った。しばらくは第一秘書を引き継ぐらしい。
松岡紀一郎は福岡支店の支店長になって赴任した。これは明らかに彼の嫌いな左遷だった。しかし、成瀬にくっ付いた以上、|次への期待《ヽヽヽヽヽ》は残したと言える。
宮田隆男も石倉に促されるように銀行をやめ、大学の教壇に立つことになった。彼らしい選択である。やっと念願がかなったと周囲に漏らしている。
神谷真知子はMOF担からはずされたが、同期のトップをきって課長代理に昇格し、ニューヨーク支店への転勤が決った。明らかに栄転である。銀行はこれからの新時代の担い手として、聡明な女性の知恵とパワーに期待したのだ。
長谷部敏正は去って行く杉本と新任の成瀬の両方の推薦で取締役に選出された。退任に際し、杉本は何の条件も付けなかったが、ただ一つ長谷部の取締役昇格だけにこだわった。おかげで、反対者はなく、すんなり通った。総合企画部長を兼務する担当の役員になったものの、単身赴任の生活は変わっていない。岐阜市|鏡島《かがしま》、あの長良川畔の緑の多い町の、野菜畑に囲まれた自宅への郷愁にかりたてられている。先に西巻、そして石倉と松岡(彼の場合は地方への転勤だが)、宮田等々、相次いで同期生たちを失った痛みが隙間風のように躰《からだ》の中を通り過ぎてゆく。それに耐えるのがつらいのか、長谷部の表情には勝利者の驕《おご》りはもちろん、取締役になったいま、当然持ってもよい矜持《きようじ》も見当らなかった。
成瀬昌之は頭取室に入るとすぐ、長谷部敏正を呼んだ。
「石倉くんにはうまく逃げられてしまったし、松岡くんは福岡へ行った。もっとも石倉くんには合併推進の事務局として責任を取って貰うことになるから、残ればつらい目に遭っただろう。松岡くんはわたしの身替りのようなものだ。行内を騒がせたお詫びとして、しばらく謹慎して貰う。結局、頼りになるのはきみだけだ。ひとつよろしく頼むよ」
すらすらと口先だけで言う。
「こちらこそよろしくお願いします」
長谷部は丁寧に頭を下げた。
「同じ総合企画部長でも前任の石倉くんとは格が違う。なにしろ取締役だからね」
「有難うございます」
「大蔵省から来た専務と監査役、あの二人には十分注意してくれ。よけいなことを教えないようにな」
「わかりました」
「それから、もう一つ、新しい合併のシミュレーションを考えてみてくれ」
「えっ、合併ですか?」
長谷部は耳を疑った。
銀行合併という言葉そのものにうんざりしている。もうあんな思いはしたくない。つくづくそう考えていた矢先だ。
「その通りだ。これは何処へも秘密の特命事項だよ」
成瀬は平然と伝えた。
「はい」
と答えたものの、表情が曇った。
「何だ。不服そうだな。納得しかねるのかね?」
と顔を覗き込む。
「いえ、しかし……」
長谷部は口ごもった。
「わかるよ。また合併かと顔に書いてある。だがね、銀行の頭取というのは不思議なものだ。短い自分の任期の間に何か残しておきたいと考える。こんな時代に画期的な事柄と言えば『合併』だ。『銀行合併』だよ。きみにはわからんだろうな。こういう気持が」
成瀬はしみじみと言った。
「………」
長谷部は黙っていた。
「まあいい。銀行のトップはきみら役員や部長、支店長と同じようなことを考えているんじゃ落第だ。きみたちは命じられた事柄をきっちりとやればそれでいい。今度の合併相手はむずかしいよ。三洋銀行の名が消えるようじゃ困る。『銀行消失』なんて縁起でもないからな。うちより小さくて、不良債権の少ない銀行を狙いたまえ。わかったね」
と成瀬は自信に満ちた微笑を浮かべながら、念を押す。
「承知しました」
と長谷部は答えた。しかし、自分でも声に張りが無いのがよくわかった。
単行本 一九九三年十一月 日本放送出版協会刊
〈底 本〉文春文庫 平成十二年三月十日刊