リアル鬼ごっこ
山田悠介
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リアル鬼ごっこ 目次
プロローグ 7     悲惨な逃亡劇 170
一つの提案 12     再会 192
十四年の月日 34    互いの過去 209
開会式 50       生まれ故郷 240
鬼ごっこ始動 57    あの時の映像 263
おいかけっこ 77    クリスマスの最終日 278
十四年目の真実 96   ラスト鬼ごっこ 295
ダブル佐藤 122     閉会式での願い事 312
荒れ狂う王国 148
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リアル鬼ごっこ
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プロローグ
一日二十四時間のうちの一時間。その一時間の内に自分の命が狙われたら人間はどんな心境に陥るのであろうか……。
時は遙か西暦三〇〇〇年。人口約一億人、医学技術や科学技術、そして、機械技術の全てが今とは全く想像のつかないほど発達し、他の国に比べると全ての面でトップクラスであるこの王国に佐藤≠ニいう姓を持った人口はついに五百万人を突破した。二十人に一人が佐藤≠ニいうこの時代。運悪くその時代に生まれた一人の少年佐藤翼≠ワさか、名字が佐藤≠ナあるために命が狙われようとは、そして、その計画が実行に移されようとは考えもしていなかった……。
今からさかのぼること、十四年前。あの時の記憶は今でも鮮明に覚えている……。
当時七歳である翼の全ては真っ暗だった。父親である輝彦が母親の益美に対して暴力を振るう日々。
それをブルブルと震えながら目の前で見せつけられていた翼と四歳になる妹の愛。ときにはその二人にさえ、輝彦は暴力をはたらいていたのだ。つまり最低の父親である。毎日の様に酒をあおり、あげくの果てには暴力に訴える。益美はそんな暮らしがとうとう耐えきれず、家を出ていく事を決意した。
それは前々から考えていた事なのだが、家を出ていく際に益美は一つの考えで迷っていた。もちろん翼と愛の事である。実の母親である益美は当然二人の子供達を連れて行きたかった。しかし、益美には二人の子供を養っていく経済力もなければ自信もなかった。かといって、二人の子供達をこのまま置いていく訳にもいかない。そうすれば翼と愛はこれから輝彦の暴力を受けながら生活していかなければならないからだ。益美は迷った。翼も愛も同じように愛していたから。それでも決心しなければならない。どちらを取るか……どちらを捨てるか=c…。
益美の精神状態も普通ではなくなっていた。そして、益美は悩みに悩み抜いた末、一つの結論に達しつつあった。
翌早朝、益美は幼稚園児の黄色いカバンを片手に玄関の外へと出ていた。そして、静かに扉が開かれた。そこには翼と愛が俯き暗い表情をして並んで立っていた。翼は顔を上げて悲しげに言う。
「お母さん……本当に行っちゃうの?」
言って翼は俯いた。益美はその言葉がもの凄く辛かった。しかし、益美は結局愛を連れて行くことに決めていた。愛はまだ四歳だし、女の子。輝彦と一緒に生活させる事は出来なかった。益美は翼に優しい表情で近寄り頭をなでた。
「翼……ごめんね。お母さん……もう、お父さんとやっていく自信がないの」
やつれた様子で翼に言った。翼はほんの小さく頷いた。益美は続けた。
「それに……愛はまだ四歳だし、女の子でしょ? とてもお父さんに預ける訳にはいかないの。翼は男の子だし……強いから大丈夫よね?」
七歳の翼にはあまりに辛い言葉だった。一方的にその言葉を母は押し付けてもいたのだ。翼も七歳ながらそれを感じていた。益美が何より大好きな翼はもう、この言葉しか出なかった。
「う、うん。大丈夫。僕……強いし、男の子だから……大丈夫だよ」
無理に明るい口調を保ち強がっていた。翼は言ってすぐに俯き
「でも……僕も一緒に連れて行く事は出来ないの?」
翼も益美と愛と一緒に暮らしていきたかった。当然この言葉が本音であった。益美は一瞬戸惑いの表情を見せた。しかし……。
「必ず。必ず迎えに来るわ。翼の事……必ず迎えに来るから……それまでお父さんの側で我慢して……お願い」
語尾が涙で震えていた。遠回しに連れて行く事は出来ないんだと理解した翼はただ頷く事しか出来なかった。これ以上益美の辛い表情を見たくはなかった。翼は強がりの笑みを浮かばせて
「必ずだよ! 必ず迎えに来てね? 約束だよ!」
翼は無理に語調を弾ませ小指を益美に差し出した。益美は涙を拭いて小指と小指を結ばせた。
「ありがとう……翼」
語尾をささやく。翼は益美にニッコリと微笑んで頷いた。これもまた強がりの笑みであった。
益美はおもむろに腕時計を確認した。
「愛……行きましょう」
言って愛に近寄った。しかし、愛は無視するかの様にそこから一歩も動かなかった。
「愛、さあ、いらっしゃい」
再び益美が呼ぶと愛は小刻みに首を横へと振りだした。
「愛……お願いだから言うことを聞いて」
益美が何を言っても愛はそこから一歩も動こうとはしなかった。愛だって翼と離ればなれになるのが嫌だったに違いない。これが愛の意思表示なのだ。今度は翼が愛に説得した。
「愛……少しの間だけ、お母さんと二人で暮らすんだ。そうしたらまた一緒に暮らせるから。な?」
翼が言った途端に愛は急に大声で泣き出した。
「愛……」
辛い表情で翼が呟く。
尚も泣きやまない愛に益美は苛立ち
「さあ、愛! 行くの!」
益美は内心焦っていた。部屋で眠っている輝彦に家の中から出てこられるとまたひと騒動になりかねない。益美は強引に連れて行こうと愛の手を引っ張り引きずった。
「やだ! やだ! 離して!」愛は泣き叫んだ。
「お兄ちゃん!」
翼に向かってそう叫ぶ。益美は後ろを振り返る事無く、愛の体を引きずっている。その光景に翼は黙って目を伏せていた。
「お兄ちゃん!」
もう一度愛の叫び声が聞こえてきた。翼は自分を抑える為に唇を噛み締めて力一杯拳を握った。しかし、何度も何度も愛の叫び声が聞こえてくるうちに翼の目からは大量の涙が溢れ出していた。たまらず顔を上げて視線を向けた。嫌がる愛を益美は強引に引っ張って行く、まだ愛は翼に向かって叫んでいる。距離が段々と遠ざかるうちに愛の声も二人の姿も小さくなっていった。そして……二人はやがて消えていった。翼は一歩も動かなかった。
「バイバイ……母さん……バイバイ……愛」
地面に涙をボロボロとこぼし翼は二人に別れを告げた。益美の迎えに来る≠アの言葉を信じて……。
この時の映像を翼は決して忘れる事はなかった。七歳の子供からしたらあまりに衝撃的で辛い出来事であった。こうして益美と愛と生き別れになってしまった翼はしばらくそのまま泣きやむ事はなかった。自宅のカーテンが微かに動いていた事も翼は気がついてはいなかった……。
それから翼は輝彦の虐待に耐え続けていた。
そしていつしか十四年の月日が流れていた……。
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一つの提案
現在、翼の住む王国が成り立ってから既に三十世紀を迎えていた。創立以来、国中には目立った争い事や戦争など、何一つなく、それが王国の決まりでもあった。それに反する者は刑罰が下される程の厳しさであり、それが故にこの国は長い間平和を保っていたのだ……。
しかし、近頃の王国は乱れていた。それは先代の王がこの世を去り、次の百五十代目の王が即位してからである。先代の王が早くこの世を去ったために百五十代目になった王の年齢は弱冠二十一歳、自分勝手でわがまま、その上、優柔不断で何一つ政治も満足に出来ない王様であった。むしろ二つ下の弟(王子)の方が国王には向いている。王国中がそう囁いていた。
王様が全ての決断を下さないが為に、国では窃盗、強盗、放火、あげくの果てには殺人すら起こるのがこの国の現状だ。しかし、王様はそんな事には何一つ興味もなく、対策を考えようともしない。皇后(王様の母〉がこの世を去ってからはそれは酷くなるばかりで、今日という日まで危機感を感じず、ただただ優雅に暮らしていた。巷では今の王様についたあだ名が馬鹿王様=Aまさに頷けるあだ名であった。しかし、そんな王様にも誰一人反論や意見する者はいなかった。無論、実の弟もだ。なぜ
「王様……どうなされました?」忠誠を誓う側近が一歩近づき王様に尋ねる。
場所は王国宮殿、建物は目を見張る程の豪華さで、門の外には見上げる程の高さで頑丈な先のとがった鉄の柵、そして、数百名の衛兵がにらみをきかせており、いくら金銀財宝が眠っているとはいえ、強盗や泥棒達はとても中に入る事は困難であった。一般の市民ですら許可なく中に入る事は許されず、特別の人間だけが許可されるのだ。
最近、王様はある一つの事でもの凄く機嫌が悪く、不機嫌な顔をしてふんぞり返っていた。側近の質問に対しても無反応、その場にいた大勢の部下達は何事かと顔を見合わせ、その度に両手を上げて首を傾げていた。
王様は王座から立ち上がり、今度は固く腕を組み眉間にしわを寄せながら行ったり来たりの繰り返し……相当腹を立てている様だ。
「王様……落ち着きになったらどうですか?」
先程の側近が王様を宥める。王様は言われるやいなやその側近を鋭い眼光でにらみつけて、
「落ち着け? これが落ち着いてなどいられるか!」
強い口調で言った後、再び王様はちょろちょろと行ったり来たりの繰り返し。側近が思い切り腰を低くして訳を聞いた。
「一体どうなされたというのですか?」
王様はピタリと足を止めて、宮殿の壁に飾られてある初代から続く先祖の肖像画を眺めだした。ズプリと並んでいる先祖の肖像画は、やはり今の馬鹿王様にそっくりだ。
先祖達の肖像画を初代からなぞるようにゆっくりと眺めていた王様は静かに口を開いた。
「じい、私は今何代目の王だ?」いまだ写真を眺めながら一番の年長者、通称じい≠ノ質問した。
じいは一歩近づき苦笑いをしながら
「これは王様……おたわむれを……そんな事は誰でも知っていますよ」
「そうか……それでは我が一族の姓も存じておるな」
その誰でも知っている質問に、じいは王様が何を言わんとしているかがさっぱり分からなかった。じいは質問された通りに答えた。
「初代から変わる事なく王一族の姓は佐藤≠ナございます」じいは佐藤を強調した。
王様は一つ頷き
「そうじゃ……我が一族の姓は佐藤じゃ」
いまだ王様は肖像画を眺めていた。そして続けた。
「私はその初代から受け継がれてきた姓に誇りを感じている」
「存じてございます……私たちもそれは同じでございます」じいは言った。
王様は上に飾られてある肖像画を眺めながら、
「それがどうだ……今この国にはその佐藤という姓がどれだけの数を誇るか知っておるのか?」
じいはその質問に対しては自信を持って答える事は出来ず戸惑いながらもおおよその数を述べた。
「確実な数は分かりませんが……約五百万を数えるといわれております」
その数を聞いて王様は肖像画から目線をそらし、今度は下を向いてしまった。そして、
「お前はその事に何も感じぬのか?」
これまた困った質問にじいは戸惑いながらも、
「素晴らしい事ではございませぬか……それだけ王様を慕う者が大勢いるということでは……」
王様はじいの話に割って入るようにして、とっさに振り向き怒声を放った。
「違う! 私はそれが気にくわんのだ!」
王様は興奮していた。じいはそんな王様を宥める様に
「どうしてでございます? 何がお気に召さないのでございましょう……」
王様は拳を握りそれを手のひらにパンパンと叩きながら
「私は嫌なのだ! 同じ姓を持つ人間がこれだけいる事を不快に感じるのだ! それは同じ人間がいるのと同じじゃ! 佐藤という名字を持つのは私だけで良いと、お前も思わぬか?」
王様はじいに真剣な眼差しでそう主張した。その言葉を最後に王様とじいの問には長い沈黙が訪れた。
確かに王様の言っている事は正しく、この国で佐藤という姓を持つのは実に五百万人を数え、国の中で最も多いとされている名字であった。この王国が成り立って間もない頃には佐藤≠アの名字はそれ程多くなかった。しかし、世代が受け継がれていくと共に佐藤という名字は次第に数が膨れ上がり、今では王国の二十人に一人が佐藤というのが現状。その事に対し王様はもの凄く腹を立てていたのである。それを知った他の側近達はばかばかしいと呆れ返っていた……。
王様の一言で長い沈黙がようやくあけた。
「とにかく、私は許さんぞ! 同じ姓を持った人間は必要ない!」
それはあまりにも無理のある意見だ。しかし、王様は本気でそう思っていた。じいはその意見に対してこう述べた。
「しかし、王様……それは仕方のない事ですぞ。今更どうする事も出来ぬ事実……」それを聞かされた王様は再びその場を行ったり来たりを繰り返し、落ち着きが見られなかった。
そして、立ち止まり
「皆の者! 国中の佐藤という名字を減らす方法は何かないか?」
そんな事を言っても無理もいいとこだ。全ての側近が目だけを合わし、ため息を吐き、やれやれ≠ニいう表情を浮かべていた。国王の弟ですら目を伏せたままだった。
王様のそれはまるで、だだをこねている、わがままな幼稚園児の様にも見えた。王様は続けて提案を呼びかけた。
「どうだ? 良い方法が浮かんだ者は今後、重く用いる事を約束すると共に恩賞を授けるぞ」
王様は側近一人ひとりの顔を見ながら呼びかけた。そんな事を言われても方法を考える者は誰一人おらず、ましてやそんなもの考えたくもない、それが皆の本音であろう。しかし、王様の機嫌を損なわせない様に自分はいかにも良い方法を考えてますよ! そんな素振りを見せていた。いつまでも馬鹿な王様の為に顔色を窺っていないといけない側近達もいささか疲れているに違いあるまい。王様は再び言った。
「どうした? 何でも良いそ、遠慮なく手を挙げて発言するがよい」
「お前は何か考えはないか? ん? 弟よ」
実の弟、王子は体をビクッと反応させて俯きながら、
「い、いえ……今は何も……」
お前は馬鹿か! と心の中で軽蔑しても、口には出せない。それでも一瞬だけ顔に表す者もいた。
そして、再び沈黙が訪れた。王様もその場で腕を組み、う〜ん≠ニ喉で声を出しながら考え込んでいる様子だった。こんな馬鹿げた提案を真剣に考えているのは王様ただ一人で、忠誠を誓う側近達でも、そして実の弟ですらもさすがに提案する訳にはいかなかった。
部屋中物音一つしない静けさが漂っていた。皆それぞれが下を向き考えるふりをしていたが、一人二人と目だけを動かし、それを王様に向け始めた。するとどうであろう、あの馬鹿王様が頭を悩ませる様に渋い顔をして真剣に考えているではないか。今の今まで国の事に関しても一切こんな表情を浮かべた事すらないのに、こんな馬鹿げた事だけは真剣に考えているのだ。世間で#n鹿王≠ニ言われているのも頷ける。
更に沈黙が続いた時であった。皆がこの雰囲気に耐えられなくなった頃に王様は眉を上げ、目を大きく見開き、いかにもひらめいたと言わんばかりに手のひらに拳をポンと乗せた。
「これはどうじゃ?」じいに言った。
「何でございましょう」じいは返す。
沈黙が解き放たれ、皆それぞれの重圧が軽くなった。それぞれ王様の意見に耳を傾ける。
「この際、佐藤という名字を全て抹殺しよう」
王様は平気でそんな事を言ってみた。いや、本気だった。
耳を傾けていたそれぞれが、ズルッとこける様に肩が傾いた。口が開いてふさがらない者も多々いた。
王様はその意見についてそれぞれの顔を見ながら、
「どうじゃ? この意見は良いと思わぬか?」
と意見を尋ねた。その時、側近の中に拳を握り、はにかみ、ブルブルと体を震わせている者がじいの目に入った。それが何の感情なのか、じいには分からなかった。
また別の側近の一人が、意見を言いたげにして後ろの方から王様の目の前にまで出てきた。その人物は顔が美しく、好青年、ともすれば十代に見られる。
その青年がやや緊張気味で王様にこう述べた。
「王様……それはなりませぬ」
そのセリフを言うにも相当の覚悟があったはず、手のひらにはビッショリ汗がにじんでいたに違いない。王様は自分の意見が否定されてムッとするよりも何故この意見に反対するのかが分からなく、眉を下げ、困った表情を浮かべた。
「何故じゃ? 別にそれだけの人間を殺すのは訳あるまい」
直ぐに青年は返した。
「いえ、違います! それだけの事をすれば今後、王様の威厳に関わりますぞ!」皆はこの青年の後に続くようにして、一人二人と王様を諌め始めた。
「そうですぞ! 王様それだけはなりませぬ!」尤もな意見である。
「そうです! そんな事をすれば民衆の心は離れていき、次第に反乱が起きますぞ!」
「そんな事をしてみなされ……国は滅びますぞ!」
と、まあ、皆の言葉はそれぞれ違うが、言わんとしている事は一緒だ。王様は全ての人間がその意見に反対だったと知ると、不機嫌な顔から途端に悲しい顔へと一転。肩をすくめていた。
そして、再び考え込んでしまった。それに対してまたもや側近達の間では小さなため息が洩れていた。
「では、やはり佐藤を減らすのは無理なのか……?」
王様は独り言をブツブツと唱え始めた。
「いや! それだけは許せない! 何としても佐藤という名を減らさなければ虫の居所がおさまらん!」
次第に王様はいらいらし始め、拳を手のひらにパンパンと叩きながら落ち着かない様子であった。独り言はなお続く。
「いかに私の威厳を損なわずして、より効率的に佐藤を減らす方法……」
そんなものある訳ないだろ! 恐らく多数の人間が思ったであろう。その後、王様は一つの言葉を発する。
「ゲーム感覚ならどうだ? それなら面白い発想が浮かぶかもしれんな……」
そのポツリと呟いた王様の一言で、皆の背筋が凍りつくようにピンと張った。それもそのはず、王様は知恵や学力は何もないが、そういった悪知恵の想像力は恐ろしいほど発達しており、その度に住民を悩ませていたのである。それが為、今度は何を思いつくのかと側近達は不安で仕方なかったのだ。
どうか、その想像力が今回は機能しないでくれ! と皆が心の底で手を合わせ祈るだけであった。
しかし、皆の祈りも虚しく、王様の想像力は皮肉な事にも機能してしまうのだ。
王様は佐藤を減らす方法をゲーム感覚の発想に絞り、自分の持てる悪知恵想像力をフルに働かせた。
その様子に固唾を呑んで見守る実の弟、じい、側近の間には重い空気が流れ、部屋中静けさが漂っていた。
そんな重苦しい雰囲気に陥って間もなく三分が経とうとしていた。息をも殺さなければならないこの状況に側近達の緊張感もピークに達していた。その時であった。王様はある一つの言葉を洩らすように眩いた。
「鬼ごっこ……鬼ごっこか……」
言って王様は声を張った。
「そうだ! 鬼ごっこをやろう!」
これが始まりだった。この言葉が後に王国全てを狂わそうとは側近達も今の段階では考えもしなかった……。
その言葉の意味を理解できず側近達は怪訝そうにお互いの顔を見合わせた。そして、その言葉を皮切りに王様はひらめいたと言わんばかりに目を大きく開け、輝かしい表情で、
「そうか! 鬼ごっこ! これなら効率よく佐藤の名を減らす事が可能だぞ!」
一人興奮状態の王様に対し、訳の分からなかった側近達の中から代表して、じいが手と手を揉み合わせながら駆け寄った。
「王様! 鬼ごっことはどういう事でございます?」
王様はじいをギョロッと見た。それでじいは体全身がピクッとなり一歩引いた。が、王様はじいにニヤリと不気味な笑みを浮かべたのだ。じいは少し安心した表情に戻り、言った。
「王様、一体何が浮かんだというのですか? じいにはさっぱり分かりませぬ」
王様に対し、先程よりかすかに口調が強まっていた。
「ふふふ、じいよ、そんなに私の考えを知りたいか?」
予測もつかないと言われてさぞかし嬉しかったのか知らないが、満足そうな表情を浮かべ、いつもに増して更に偉そうであった。
「お願いでございます。教えて下され!」
じいはただ興味本位で意見を聞きたいのではない。王様のその考えが王国存亡の危機に陥る様な発想なら、すぐさま諌めなければならないからである。
それから王様は固く腕を組み、眉間にしわを寄せながら深く考え込んでいた。何を考えているのかはじいにも分からなかった。
再び、側近達にとってあの嫌な沈黙が訪れた。が、今度はその沈黙は直ぐに止んだ。王様は決心したように目をパッと開き、再び不気味な笑顔を見せた後、
「じい……そんなに聞きたいなら聞かせてやろう! そのかわり驚くでないそ」
じいに不気味な笑顔を見せながら、自信満々に王様は言った。それが増すにつれて側近達の不安は徐々に膨れ上がっていった。
王様は両腕を横いっぱいに広げ、
「皆の者! それではこれから私の考えを発表する! よく聞くがよい!」
そう言って両腕を下ろした。
王様の周りにいた全ての側近達は唾をゴクンと飲み込み、王様の言う、恐らくどうしようもなく、とんでもない提案に真剣に耳を傾けた。王様の第一声が発せられるまでの間、奇妙な程静かであった。
そして、王様の口から誰もが予想すらしていなかった発言を側近達は聞かされる事となる。説明はとうとう始まった……。
王様が考え出した佐藤という名を一番手っ取り早く、なおかつ効率的に減らす方法……それは誰もが知っている鬼ごっこであった。現在この王国にいる佐藤という姓を持っている人間は約五百万人、その五百万人を鬼ごっこ方式で減らしていこうというのだ。何事もゲーム感覚で事を進める王様の考えそうな事である。これも王様の快楽の一つなのだ。
ルールは至って簡単、王国内にいる全ての佐藤さんは追ってくる鬼の魔の手から逃げ切ればいい。ただそれだけの事、しかし、その鬼に捕まったら最後、その佐藤さんは宮殿内極秘の収容所に連れて行かれ、眠るようにして殺されてしまう。あまりにも残酷でひどい仕打ちだが、七日間逃げ切った佐藤さんのご褒美は……まあ、その時に考えるとしようか……最初からご褒美など考えてもいないし、逃げ切れる人間は一人もいないと決めつけていた。王様は佐藤≠殺す事しか頭に無いようだ。大まかに言えばこれが全てのルール。それから王様はゲームをやっていく上での細かいルールを説明し始めた。
まず最初に期間は十二月十八日から二十四日の七日間、夜の十一時から一時間、つまり零時までの間が鬼ごっこをやる時間となる。鬼ごっこ開始の合図はサイレンで知らせ、無数のスピーカーを全国に設置。終わりはサイレンではなくベルで知らせ、それが鳴ればその日の鬼ごっこは終了。二つ目に鬼ごっこが開始されたら基本的に何処に逃げても隠れても良いとする。次に逃げる時は必ず自分の足で逃げなければその時点で失格、見つかり次第鬼によって抹殺される。
十一時から十二時の間は乗り物の運行を全てストップさせる。車も全て通行止め、もちろんバイクもだ。そして自転車も。その間、乗り物に乗っている者が発見されたと同時に、それは佐藤さんに関係なくただちに処刑するという滅茶苦茶な規約だ。
鬼ごっこの時間外となる、つまり余った二十三時間の間はどんな生活をしようとも許される。例えば社会人なら仕事に行かなくても良いし、学生なら学校に行かなくても良いとする。残された命の時間を自由に使うことが可能であり、最後に最も大切な人に別れを告げに行こうと、やり残した事をやろうと自由である。もちろん二十三時間の間、睡眠を取ることも。全ての時間の使い道はそれぞれの佐藤さんに委ねる。
そして肝心なのが佐藤さんを捕まえるべく鬼の数である。全国に総勢百万人以上の鬼を配置すると王様は発表。確率でいえば全国の佐藤さんの五人に一人が追いかけられる事となる。しかし、それは初日だけの事であり、佐藤さんが減っていくにつれ、追いかけられる可能性は大きくなる。
そして、最も肝心なのはここからである。その百万人の鬼、一人ひとりに″イ藤探知機ゴーグル≠かけさせる。そのゴーグルには登録してある佐藤姓五百万人全てのデータが詰まっている(このデータは王国が管理している。このデータは佐藤さんに限らず、全ての市民のデータがインプットされている。これは生まれたと同時に王国管理のセンターに報告される。それ故、犯罪を犯せばすぐに捕まる方式になっている)。誰が佐藤さんなのかが一目瞭然(もの凄い優れ物だ)。そして、近くに佐藤さんがいればセンサーが反応する仕組みになっているのだ(譬《たと》えて言うなら地雷探知機だ)。先のルールで、基本的には何処に隠れても良いという事であったが、佐藤探知機があるためどんな場所に隠れても近くに鬼がいればその時点で佐藤さんは不利になる。狭い場所に隠れていたなら尚更だ。自ずと鬼ごっこが成立する様になっているのだ。今の王国はそこまで高度な技術が発達しており、そんな物を作るのは訳なかった。これだけで今の王国が機械技術面でも世界のトップクラスに位置しているのが想像つくであろう。
そして佐藤さんを見つけ次第、その鬼はその場で警戒音を発して佐藤さんに合図し、それから追いかけて行く仕組みだ。その時にどこまで逃げられるかが勝敗を決める大きな秘訣。もちろん足の速い者、持久力がある者は絶対有利なのだ。ここまでが王様の考えた全内容である。
今の王様が即位してからはこんな事がごく当たり前に行われる、そんな国になってしまった。
こんな恐るべき事を一瞬にして考えてしまう王様の想像力には頭が上がらない。長々と説明を終えた王様は満足げに笑みを浮かべ、
「どうだ! 皆の者、これなら私の威厳に関わらず、より効率的に佐藤を減らす事が出来ると思うのだが」
こんな事を実行したら威厳も何もあったもんじゃない、そんな事すらこの王様は分かっていないのだ。
「王様……」
じいは誰にも聞こえないくらいに呆れ交じりにささやく様にして言った。そして、意見を求めてきた王様に対し、誰一人顔を上げる者はおらず、不満そうな表情でただただ俯いているだけであった。
「ん? どうした? この考えは良いと思わぬか?」
王様は聞いた。その時だった。先程から奥の方で怒りか何かでブルブルと拳を震わせていた一人の側近がとうとう王様に向かって言った。その男は大勢の人間を邪魔者の様にかき分けて行き、その鋭い瞳の奥には王様だけが映っている。
「貴様! この国をお前の勝手にさせてたまるか!」
そう怒り叫び、男は短剣を取り出し、上にかかげ、トチ狂ったかの様に王様に襲いかかりに行ったのだ。そのあまりに凄まじき行動にじいの顔はこわばり固まってしまった。それでも王様の身を守る事が先決とハッと気づいたじいは指をさし、
「そ、その者を止めろ! 王様を守るのじゃ!」
じいの必死の呼びかけで皆は混乱状態から抜け出し、襲いかかろうとする男を全員で止めにかかった。
王様は意外にもその場から一歩も動かずその様子を冷静に見つめていた。いや、恐ろしくて体が固まってしまったのかもしれないが。
皆は男を取り押さえた。それはほんの数秒の出来事であったが異様に長く感じられた。他の側近から短剣を取られ、男は諦めたのか抵抗せずに息をゼーゼーと切らしながら、ただ王様をにらみつけていた。襲いかかろうとした男の前に一歩二歩と近づき、両手を地面につけて押さえられている男を冷たい目で見下ろした。そして、ただ一言。
「殺せ」
男は覚悟していたのかその言葉を聞いても表情を一切変えなかった。皆もそれは確信していたに違いない。しかし、誰一人男を殺そうとする者はいなかった。何故なら男の意見が当然正論だからである。
自分の命令を聞こうとしない側近達に王様は、
「殺せ! 今この場で殺せ!」
と、もの凄いけんまくで怒鳴った。そして、黒目をジロッと動かし適当な人間を選び王様は
「お前だ、お前が殺すんだ」
「私がですか……」適当に選ばれ、そう命じられた男は不運であった。命令されたからには拒否する事は出来ない。王様の命令は絶対であるし、処刑しなければ自分が逆に殺されるのが分かっているだけに辛かった。男はやむを得ず了解し、手を震わせながら懐にしまってある拳銃を抜き出した。そして、罪を犯した男に銃口を突きつけた。銃を突きつけられた男は突きつけている男を手で制し、
「待て! 最後に俺の話を聞け!」
男は死ぬ間際に自分の意見を言いたかったのであろう、王様を見上げながらこう述べた。
「いいか! お前が許そうともな、俺は断固許さんぞ! 王国の民もそうだ! そんな事、実行してみろ! たちまち王国は乱れ、必ずや滅びる時が来る! それを知っての実行なんだろうな?」
この男は自分の命が惜しいから言っているのではない。もし、本当に私利私欲の為に佐藤滅亡計画を実行するならばこの先の王国は存在しないと目に見えていたからだ。
しかし、王様は国の事を思う男の忠告に聞く耳持たず、言いたいことを言って気が済んだと思われる男を見下ろし、
「撃て」
と、これが私の答えだと言わんばかりに冷たい口調でそう命じた。撃てと命じられた男は両手でギユッと銃を握りしめ、目をギュッと瞑りながら一発二発と弾を放った。
パン、パンとその音だけが響き渡った。撃たれた男は無言で血を垂れ流し、その場にグッタリと横倒れとなった。あまりに残酷なその光景に他の側近達は目を背けていた。この場から逃げ出したいと思っている人間も多々いるであろう。
王様は表情を一切変える事なく無言で遺体を見下ろしていた。そして、遺体を指さし、
「その汚物を速やかに運び出せ」
と命令するやいなや周りにいた者達は速やかに遺体を運び出した。この行為で側近達の王様に対する不信感が更に強まったのは間違いなかった。その間、またもや重い空気が部屋中を支配していく。
遺体を運び終えた者が戻って来たのを確認すると王様は険しい表情をさせ、
「これ以上、私の意見に不満を感じる者はこの中にいるのか?」反論する者がいないと分かっていてワザと言っているのだ。一方、じいや側近達もこれ以上反論すれば先程の男の二の舞いになると、それが怖くて意見する者は誰一人いなかった。そう、最後の望みであった実の弟ですらも……。
王様は険しい表情を維持したまま、
「もう一度聞く、私の考えを実行するに当たって意見のある者はこの中にいるか?」
何度聞いても同じ結果に白々しいにも程がある。皆それぞれ一言も発しないのはおろか、王様と目を合わせようとする者もいなかった。皆が同じように王様から目をそらしていたのだ。そして最後に王様は言った。
「我が弟よ。異存はないな?」
王子は一度顔を上げ、
「はい……」
渋々そう言うと再び俯いてしまった。
これで誰一人自分に逆らう者がいないと判断した王様は
「よしよし、それでよいのだ。この王国は私の思うように動いているのだ」
王様は後ろを向き、満足感に浸っていた。そして、じいに背中を向ける形で
「じい!」途端に強い口調へと変えた。
王国存亡の危機に無気力に陥っていたじいはその声で体をピンと張り、
「は、はい! なんでございましょう」
「これから直ちに私の言った事全てを王国中に報告せよ、騒ぎたい者は勝手に騒がせておけ」
「は、はい……かしこまりました」
じいは渋々了解した。そして、
「王様……本当に式は十八日に?」
その質問で王様は間髪入れずに割って入った。
「十八日だ! 十八日までに全て準備を整えろ!」
王様のあまりに困難を極めると思われるその命令にじいは戸惑い、
「あ、三日後でございますか……?」
王様はとっさに振り返りじいを鋭い目でギョロッとにらみつけ直ぐに返した。
「そうだ! 同じ姓を持つ人間がこれだけいる事に私はこれ以上、堪えられん! 嫌気が差す! 吐き気がするぐらいだ!」
ここまでぼろくそに言われた全国の佐藤さんも形無しだ。じいは言われるがままなおも意見する事が出来ず、口元を固く結び、
「は、はい! かしこまりました。わたくしども全力を尽くして、実行に当たらせて頂きます」
そう言ったものの、言葉とは裏腹にじいの表情は沈んでいた。本当にこんな事を実行するのかと心で深いため息を吐いていた。
王様はバッと素早く腕を伸ばし、じいに鋭く指さし
「よし! お前に全ての事を任した! 今回の失敗はただでは済まさんぞ!」
いつもに増して今日の王様は厳しかった。それ程までに自分と同じ姓がいることが気にくわないのであろう……。
ただでは済まさない$[い意味は言わずと知れていた。今の今までじいは全ての事を忠実に果たして来たつもりだが。
しかし、じいはこの言葉でたちまち恐怖に見舞われ、それこそ自分の命が最も大事なじいは王様の命令に従わなければならない状況に立たされた。
「か、かしこまりました。私にお任せを……」
プレッシャーのあまり、喉に言葉を詰まらせながらも言い切った。それを聞いて、
「楽しみだ」
そう言い残し、王様はマントをひるがえし、垂れ幕をくぐりその場を去って行った。その様子に王子やじい達は頭を深々と下げていた。
王様の去った部屋からは深いため息が途切れず、皆、呆然と立ち尽くしていた。ともかく王様の提案した°Sごっこ≠ェ開始される事は確かであった。そして……この日を境に全国の佐藤さんを恐怖のどん底にまで駆り立てていく……。
じいは限られた時間の中で二日後の午後一時に全ての内容とルールをマスコミに公表した。マスコミはその内容に騒然となりそれをすぐさま報道した。全国の町中全てに号外も出回り、それを手にした者は佐藤さんに関わらず、全ての人間が驚き唖然とし、全ての佐藤さんは恐怖に見舞われた。その時に放送していた番組は全て緊急特番に変更された。
『またも! またも王様がある′v画を実行させようとしております!』
そんな今回の計画に対し、キャスターは、『リアル鬼ごっこ』
と称した。聞こえは良いかも知れないが実際やろうとしている事は凄まじく、残酷かつ冷酷極まりなかった。
しかし、前代未聞である提案者馬鹿王様≠フいる、王国宮殿の周りにマスコミや不満を感じた佐藤さんは誰一人、宮殿に押し掛けなかった。宮殿の周りには何百人の衛兵が厳重に目を光らせているのもそうだが、抗議をしに行ったところで所詮無駄だと分かっていたからだ。宮殿外では嵐の様に騒々しく騒いでいるが、宮殿の周りだけは時折、鳥達の鳴き声が聞こえるくらい静かで、いつもと変わらず平凡かつ穏やかであった。
そして、鬼ごっこ実行が決断されたその時から全国の佐藤さんはリアル鬼ごっこ≠避ける事は許されず、嫌でもこの現実を受け入れるしか道は残されていないのだ。王様の命令通りに迫り来る鬼の魔の手から逃げなければならなくなった。
王国の全住民、いや、全佐藤さんの心は大きく揺れに揺れていた……。
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十四年の月日
翼は大学のトラックをただひたすら走り続けていた。昨日から町中が嫌に慌ただしい事には気づいていたが、恐怖の鬼ごっこが後に開始されるという事実をまだこの時は知る由もなく、ましてやそれが自分の命に関わるなど思ってもみず、短距離を何度も何度も走り続けていた。
そうである。思い起こせば十四年前に実の母と妹の愛の二人と悲劇の生き別れをしたこの人物こそがあの佐藤翼である。あれから十四年の月日を経て、結局益美は翼を迎えに来ず、今や翼も二十一歳、大学三年生となっていた。
別れたあの日から翼は父親である輝彦と二人きりの生活を送っていた。しかし、これまでの十四年は翼にとって辛く険しい十四年であった。今は一切なくなったが、当初二人がいなくなってからの輝彦の横暴ぶりは日に日に増すばかり、毎日のように酒をあおり、その度に翼に当たり、暴力を振るっていたのだ。そんな翼にとって暗い生活をしているうちに翼自身も心を閉ざし始めていた。しかし、母益美、妹の愛の事は一時たりとも頭から離れなかったし、いつの日か益美が自分を迎えに来てくれると信じていたのだ。
そんな生活が続いたある日の事だった。中学二年の春に陸上部の顧問を務めていた阿部先生から
「お前は短距離の素質がある。是非一緒にやってみないか?」阿部先生は中学一年の時の運動会で翼の百メートル走を見て、一瞬にして惚れ込んでいたのだ。翼には素質があると見込んで翼をスカウトした。
そのスカウトが何れ翼にとって大きな飛躍になるとは、その時考えてもいなかったが、足の速さだけは誰にも負けない自信があった翼は、心を閉ざしたままの今の自分を取り払う為にも、一大決心とは言わないが陸上部に入る事を決意した。それから阿部先生の熱血的指導が始まった。二年から入部したとはいえ、その時既に短距離では部活内で一番のタイムを誇っていた。決して周りの人間が遅いわけではなく、スカウトした阿部先生でも口をあんぐり開ける程であった。そして、周りでは恐るべき新人≠ニ将来を期待されたのだ。
そして、翼が入部して三ヶ月が経った頃、翼にとっては初めて小さな地区大会に出場する事が決まつた。阿部先生も経験の為と翼には気楽にやってこいと言っていたのだ。しかし、胸の何処で翼に期待を抱いていた。
そして、とうとう、翼の走る出番がやって来た。初出走の翼はそれ程緊張していなかった。それは自信があったからか、緊張をほぐしていたのかは定かではないが。
翼は心地よい緊張感の中、スタートについた。皆それぞれ顔を見合わせ、負けるもんか! とライバル意識むき出しにしている。しかし、翼だけは百メートル先にあるゴールだけを見つめていた。心の奥底では、こんな奴ら相手ではないと顔を見合わせなかったのかも知れない。そして、翼の集中力が最大に達したとき、ぱん<Xタートの合図がはなたれた。途端に翼はスタートダッシュで他の相手を一気に突き放した。その光景に会場からはどよめきが起き、大会に来ていた全ての中学生が翼に釘付けとなった。その走りは凄まじく、読んで字の如く、背中からは白い翼が生えているかの様な走りだった。そんな翼に目を取られているうちに翼はアッという間に一位でゴール、会場からは大きな拍手とあまりの速さにため息が交差していた。一瞬にして全ての人間を魅了してしまったのだ。これには阿部先生も驚きを隠せず、一つ確信していた。この男は必ずやトップレベルの選手にまで上り詰める事を。阿部先生の予想は見事的中する事となる。それから一年経った最後の大きな大会では見事全国大会に出場。惜しくも四位という結果に終わったが、それで挫ける様な男ではない。父、輝彦と生活しているだけで、じっと我慢し耐える事が身に染み付いており、そんなもの屁でもなかった。
こうして短い中学生活も終わろうとしており、翼は恩師とも言える阿部先生に別れを告げて、その足だけで有名私立高校に推薦で入学した。その時既に短距離では翼の右に出る者はいなかった。最初の大会ではいきなりインターハイに出場。何と初出場で三位を記録した。それからというもの翼は大会を踏まえていくごとに実力を発揮、名実共に実力を上げていき、とうとう最後の大会では全国優勝を成し遂げ、陸上で佐藤翼の名を知らぬ者は既にいなくなっていた。
そして、大学も推薦で有名な某横浜私立大学に進学した。現在大学三年生になった翼はいまだ自分の実力に自己満足する事なく、日々努力する生活が続いていた。何はともあれ陸上と出合ってからというもの翼の人生は大きく変わった事は間違いなかった。そしてリアル鬼ごっこ≠目の当たりにする事で翼の人生はまたも大きく変化していく事となる……。
「翼! 翼!」
翼は遠くの方で自分が呼ばれてる事に気づき、トップスピードから徐々に落としランニング状態で足を止めた。それ程息は切れていなかった。何事かと思い遠くの方を見つめる。
「翼! 大変だ!」
その声は徐々に近、ついて来る。
「ん? あれは……」
その声の主は慌てた様子で片手に新聞紙の様な物を持って、全速力で走って来るではないか、視力は人並みに良かった翼はある程度の近づいた所でその人物が誰なのかが分かった。
「大介……どうしたんだ?」
独り言を言ってその大介が自分の所までたどり着くのをただじっと見据えた。ようやく翼の目の前にたどり着いた大介は、膝に手をつきぜーぜーと息を切らしていた。時折、せき込んでいる。落ち着くまで翼は待っていた。
この息を切らしている人物の名は清水大介、歳は大学三年。翼と同い年で、彼は陸上部のトレーナーを務めている。翼とは大学一年の頃からの専属トレーナー。いわば翼のパートナー的存在だ。性格がおっちょこちょいで直ぐに慌てるタイプなので、翼はまたも大介が別に大した問題でもないのに騒いでいるのだと、この時はまだ半分相手にしていなかった。こんな事日常茶飯事だ。翼は腰に手を置いて少し笑みを浮かべていた。
「大丈夫か?」
やれやれと、せき込んでいる大介の背中をさすりながら言った。いまだ膝に手をつきせき込んでいる大介は片手を上げて翼に大丈夫と示した。ようやく落ち着いたのか大介は上半身を起こし、
「大丈夫だ、ありがとう」
いかにも本題を忘れている様子の大介に翼は聞いた。
「おい、それより、どうした? そんなに慌てて?」
大した事ではないと思っていたが念のため知りたかった。案の定、翼に知らせるべき事をすっかり忘れていた大介は顔をハッとさせ、俄然興奮状態になり新聞を翼に手渡した。
「これだ! この号外を読んでみろ!」語尾が妙に震えていた。
「一体何なんだよ」
そう言って新聞を受け取り、大介の顔を疑問そうに片眉を上げて見つめた後、新聞に目を通した。
「……何々?」
一通り読んでいくうちに恐るべき内容が掲載されている事に翼は気がついた。逃げ切った時の事と、そして……捕まった時、その佐藤さんの運命がどうなるかまで全てが掲載されていたのだ。翼は自分でも顔が引きつっている事に気がついた。
「おい……何だよ……これ……ウソだろ?」
翼の声はうわずっていた。一通り読んだ翼はいまだ新聞から目を離さずに一体……一体どういう事だよこれは……」
知らぬ間に放心状態へと陥っていた。
こんな馬鹿げた事を本当に実行するのか。
その様子に何一つ言葉をかけてやれない大介は下を向き気の毒そうな表情を浮かべているだけであった。冷静になれ! とにかく落ち着くんだと自分に強く言い聞かせた翼は多少であるが自分を取り戻し、頭に引っかかったある一つの問題を大介に問うた。
「そ、そうだよ! 国は! 国はこんな事認めるのかよ!」
鋭い眼差しでお門違いと分かっているのだが大介をにらみつけていた。その質問にどう答えたら良いか大介は迷っていた。それもそのはず、その号外には全ての提案は王国で最も権力を持つ、馬鹿王様であるとは書いてなかったのだ。大介はテレビのワイドショーを見ており発案者までも全て分かっていた。それを言った途端、翼の愕然となる表情が浮かぶだけに迷ってしまう……だが、これは何れ分かること。隠さずに全てを伝えようと決心した。息を吐いて多少王に対しての怒りを込めて、
「国も何も……それは国王の提案だ。理由は俺にも分からない。大体の理由は分かるけど……」
大介があまりに耳を疑う発言をした瞬間、ベートーベンの交響曲第五番『運命』が翼の脳に響き渡っていた。曲のテンポは次第に早くなりそれに乗じて翼の心臓の早さも増していく。
「こ、国王が……」
そこで言葉を切り、愕然となった。その一言だった。翼は驚きのあまり視線がハエを追いかけている様に一点に定まらない。手にしていた新聞はいつしかグチャグチャになっていた。段々と怒りが膨れ上がっていく、拳を強く握り、鼻息も荒くなり始めた。しかし、怒っても無駄というのは翼も百も承知である。国王がやる≠ニ言ったらやる≠フだ。例外はない(今までの国王は別だが)。皮肉な事だが、翼は、いや全国の佐藤さんは自分の名字が佐藤≠ナあった事を恨むしかないのだ。そして……逃げるしかないのだ。それにしてもこんな理不尽な事はなかった。佐藤という名字だけで命が狙われるなんて……くそ! 翼は諦めたのか、考えるだけ無駄と思ったのか、そんな事を考えているうちに何故だか怒りが収まっていた。気持ちの不安を顔に表して俯いているのは相変わらずであったが、その間、二人の間に重い空気が流れていた。大介は何とか例の件を翼の頭から離してやろうと、考えた。妙な事を言っていた。
「明日は……どうするんだ?」
そのセリフにちょっと苛ついた翼は、
「あ? 知るかよ!」
と言って大介から目線を外した。大介はその意味ではないと必死に誤解を解いた。
「い、いや、違うよ……明日……大会だろ?」
と言ってははは≠ニごまかした。そうである。明日は地元横浜で地区大会が行われる予定であった。大会といえどごく小さな大会だ。もちろん翼も百メートル走の出走が組み込まれていた。しかし、今や短距離走では自分が一番早い事も、そんな試合の事も、走る喜びすら今の翼は忘れていた。無理もない、下手すれば自分の命が危ないというときに試合の事を考えられる訳がなかった。大介が言つてくれなければ走る直前まで忘れていたに違いない。
「そうか……そうだったな」
ポツリと呟く。大介は見つめる。風がヒューと吹いた。今の翼の心境と同じ様な風であった。バサバサと髪が乱れる。大介は髪を直して、
「明日走るのは……無理だよ、欠場した方が」
翼は割って入った。
「ふざけるな。そんな事出来るかよ。」
強い口調で言い返す。
「でも……今の状態で走りに集中するのは無理だよ」
大介は心から翼を心配しているのだ。そんな翼は、
「む、無理じゃねーよ」強がると、大介から目線をそらした。
途端、大介の表情は厳しくなった。そして、
「無理だ! そんな気持ちのまま勝てる訳がないだろ!」
トラック中に大介の叫びが響き渡る。翼も言い返した。
「走るのは俺だ! お前は黙って陰で見ていればいいんだよ!」
言った後にあまりにも酷いセリフに翼は気づき、アッと眉を上げて、
「わ、悪い、言い過ぎた……」
それでかなりのショックを受けたであろう大介は、俯き肩をすくめ、ひどく落ち込んだ様子で、
「そ、そうだよな、俺は必要ない、お前にとって必要ない人間だ」
それは感情も何一つ入らないただの棒読みの言い方だった。その言葉を最後に大介は後ろを向くと、トボトボと肩を落として翼の前から立ち去って行った。
「大介! おい、待てよ!」
謝ろうと大介を引き留めたが、決して後ろを振り向く事はなかった。そんな大介の後ろ姿を見ながら翼は唇を噛み締めていた。
「おい、佐藤」
翼は後ろから聞こえる声に反応し振り向いた。そこには陸上部の沢田監督が何とも複雑な表情を浮かべて立っていた。
「監督……」
先程の事もあり、翼の体も縮こまっていた。言い方にも元気がない。それ以前の事が原因なのかもしれないが……。
「ニュース……見たよ。大変な事になってしまったな……」
沢田監督にも元気がなかった。この現状で喜びの言葉をかける者など誰
「人いないだろう。
「全くです」
言って翼は深くため息を吐いた。
「そうだな……このままでは国は崩れていく」
しかし、今の翼にそんな事は関係なかった。もちろんこんな計画即刻中止にして欲しいが、今は大介の事が気がかりでしょうがなかった。それでもう一つため息を吐いた。そんな様子の翼の気持ちを察して沢田は、
「佐藤……今日は……休んで帰れ」
これ以上練習しても身に入らないと思ったのだろう。その言葉に翼は首を横に振った。
「いや、何もしていないと嫌な発想ばかりが浮かんでしまうので、逆に走っていた方が気が紛れて楽なんです」
その言葉に困った表情を浮かべた沢田は
「しかしだな……」
全てを言う前に翼は割り込み、
「心配しないで下さい……大丈夫ですから」
これ以上言っても無駄だと判断した沢田は
「そうか……分かった」
翼は沢田に一礼して、ゆっくりと走り始めた。徐々に沢田から遠ざかっていく。しばらくその様子を沢田は眺めていた。翼の走る姿を見るのはもしかするとこれが最後かも……と心の何処かで感じていた。
翼は大声で叫び走った。全力で嫌な事を振り払うかの様にがむしゃらに走った。それでも恐怖や不安を振り払う事は出来なかったが、それでも翼はただ、がむしゃらに走り続けた……。
横浜市申区、一戸建ての翼の自宅はそこに位置していた。益美と妹の愛との悲しい生き別れをしたのもこの場所である。あれから十四年経ったが自宅は何ら変わっておらず、変わったといえば周りの風景ぐらいであろう。自宅から近くはないが港の見える丘公園や遠く離れると横浜の巨大な遊園地ができた。特に遊園地の大きな観覧車が一際目立った。夜景が綺麗で恋人同士のデートスポットでもある。その町中が鬼ごっこの準備で慌ただしいのは変わらないが、とにかくここは大都会。と言っても翼の自宅はその都会から一線離れた住宅街に建っている。
町に配置されている大きなリアルビジョンでリアル鬼ごっこ≠ェ大きく取り上げられており、王国中の佐藤さんが不安と恐怖に見舞われる中、翼は自宅へと到着した。その時、午後六時半を丁度回った頃であった。カギを開け、玄関を開き、暗がりの中から電気のリモコンを手で探り、それを確認すると翼はピッとオンにした。同時にパチッと音がすると明かりがついた。もちろん父親である輝彦はいまだ仕事から帰って来ていない。別に帰ってきて欲しくもないが……。
翼は靴を脱ぎ、カバンを下ろすと、自分と愛の部屋、いや、今は自分一人専用となってしまった二階の部屋へと移動した。
階段をアッという間に上り切った。上り切ると左右に二つの扉がある。右側が今はいない益美の部屋で左が翼の部屋である。右側の扉をほんの少し見つめてから、自分の部屋の扉をそっと開けた。音をたてながら扉は開かれた。途端、冷たい風が部屋から翼の体へと伝わった。ブルッと体を震わせ一歩足を踏み入れる。その度に思い出す……愛との楽しかった思い出を……この時もそうであった。そんな昔を思い出し翼は明かりをつける。瞬く間に部屋中は明るくなった。翼は部屋を見渡す。しかし、そこには何一つ愛との思い出は残っていなかった。輝彦が何からなにまで処分してしまい、残す事さえ許さなかった。
益美との思い出もこの家には一切存在しない。輝彦が何をそこまでこだわるのかが翼には理解できなかった。が、ただ一つ、ただ一つだけ翼は輝彦に内緒で愛と一緒に写っている写真を財布にしまつてある。もちろん小さい時の写真とはいえ、唯一の思い出だし、宝物だ。大きな大会の時には必ずその写真を見てから勝負に挑んでいた。その写真を翼はおもむろに財布の中から抜き出し、眺めながらベッドへと横たわった。眺めているうちに、またもや益美と愛の事が翼の脳裏に浮かんでいた。今現在、益美と愛は何処で何をしているのかと思うと自分を押さえつける事が出来ないくらいに二人に会いたくなる。今、こういう状況に立たされたとあれば尚更だ。益美の旧姓が幸いにも鈴木≠ナあり、二人に心配はないにせよ、自分がもしも捕まれば二人にはもちろん会えずに殺されていく訳だから……。その思いは普段より数段強かった。
翼は高校に入ったと同時に二人の居場所を調べ始めた。益美方の祖父や祖母、全ての親戚を手当たり次第調べたが誰一人有力な情報を知っている者はいなかった。と言うより何かを隠している様にも思えた。聞く度に素振りがおかしいのだ。何度か輝彦にも持ちかけたが途端に機嫌が悪くなってしまう。翼は思っていた。輝彦は何かを知っているのではないか? と……。考え過ぎか? そう思いつつも翼は写真をしまい、テレビのリモコンを手にし、電源を入れた。どのチャンネルに回しても、今や普通の番組を放送している局は何処にも存在しない。全てがリアル鬼ごっこ≠フ続報や、何処まで準備が整えられたかという現段階の様子を伝えるものばかりであった。しかし、いまだに今回の計画を非難する者は現れない。王様も何故こんな事を実行するのか、その理由だけは言おうとしなかった。
そんな事は言わずと知れている。翼にもそれは分かっていた。しかし、分かっているだけに無性に腹が立つ。
だが、翼はいまだ計画に対して実感がわいてこなかった。翼に限らず全国の佐藤さんだってそうに違いない。当たり前だ、明日の午後十一時には自分の命が狙われるかも知れないなんて実感がわくはずがない。が、考えれば考える程、やはり体が震える程恐ろしいことである。何となく微妙な感覚だ。
翼の頭の中には不安と恐怖が入り交じり混乱している中、それ以外、他の感情といえば馬鹿王様に対する怒りだけ。今は怒りより恐ろしさの方が勝っているが、その感情のほんの小さな小さな隙間に入ってくる翼の自信……それは多少あった。何しろ自分の足に付いて来れる者は今やこの王国には存在しない、イコール自分は捕まらない、捕まってたまるものか! 自惚れかも知れないがそれは感じていた。どんなものになるかは分からないが逃げ切る自信が翼にはあった。しかし、これは翼が想像している以上に過酷な試練になる。それを翼は計画が実行されてから気づくこととなる……。
玄関の方で慌ただしい物音が聞こえたのはそれから約一時間が経過した、七時半の事であった。
「翼! 翼! 帰ったぞ! 飯の支度でもしろ!」その声が聞こえると同時にドンドン≠ニ足音が二階にまで響く。翼は一つ息をつき、疲れた様子で
「おやじか……」そう呟いてベッドから起き上がり、大事な写真が入っている財布を机に置いてから自分の部屋を後にした。階段を下りる最中も、
「まだか! おい! 返事ぐらいしろ!」
と怒鳴り声が聞こえてくる。
「うるせーなー」と大きな声では言わず
「今行くよ!」とだけ声を張る。こんな生活を十四年間も繰り返して来たのだ。
階段を下りて一階の居間に入ると、大きなちゃぶ台の前に背広姿であぐらをかいて座っている輝彦が顔を赤くして翼をにらんで、またも怒鳴る。
「何突っ立ってんだ! 水の一杯くらいつげ!」
何とも偉そうな態度である。翼は輝彦に、
「また、酒飲んでいるのかよ、この非常事態に全く呑気なものだよな」
と輝彦の心配をしている訳ではないが自然とそんな言葉が出ていた。
礼も言わずにコップを乱暴に受け取った輝彦はゴクゴクとアッという間に飲み干した。叩きつける様にしてコップをちゃぶ台に置くと輝彦は翼に
「おい! 飯はどうした! 早く作れ!」
またも命令口調であった。翼はそれには応対せずに今の現状を把握しているのかを聞いてみた。
「そんな事より、今俺達がどんな状況に立たされているのか分かっているのか?」
輝彦は赤い顔をしていかにもとぼけた様子で答えた。
「あ? 何のことだか俺にはさっぱりだなー」
この男には危機感がないのか? それとも諦めているのか? 、いや、本当に何も知らないのか? そんなはずは無いと翼は
「とぼけるなよ! 馬鹿が提案した事だよ」
あまりの危機感のなさに翼も思わず口調が強くなる。その言葉でとぼけた口調から一転して、真面目に返した。
「ああ、知ってるよ! 鬼ごっことかってほざいてるあれだろ」
一応認識はしている様子だった。
「それなら話は早い、もし本当に実行されるなら明日の午後十一時に全てが開始される。下手をすれば俺達佐藤は全て殺される……王の計画通りにな」
自分は何としても逃げ切ってやると胸の内では強く思っていたが、言葉では弱気になってしまう。
「仕方が無いだろう……王の命令だ。俺達市民には何も出来ないんだよ」
輝彦は言った。翼はすぐに返した。
「ああ、仕方が無いことだし、何も出来ない。王にとったら俺達はただのゴミ扱いだ。何も主張する事無くただ無惨な最後を迎えるだけ……」
そこで言葉を切り、本題に入った。続けた。
「だから最後に教えてくれないか?」真剣な眼差しで輝彦に問う。
「最後? 何をだ?」
輝彦は聞き返す。翼は一つ間を空けてから言った。
「母さんと……愛の事だ」
その言葉を聞いた輝彦は一気にさめた様子が窺えた。それから興奮していたのか翼の口調は早まる。
「知ってるんだろ! それなら俺にも教えてくれ! 何処だ? 何処に二人は居るんだ!」
喋り終えて翼は落ち着けと自分に言うように大きく息を吐いた。それでも輝彦は翼を無視するかの様に黙り込んでいた。
「おやじ!」もう一度問い質し、しばらく輝彦の様子を窺った。それでも輝彦は黙していた。翼は顔を下げて首を横に振り、呆れた様子で輝彦に言った。
「そうかい、何も知らないってか、そうかい分かったよ」
翼の視線は冷たかった。そして続けた。
「でもな、俺は搜すぜ、俺は必ず二人を捜して見せる。そして、それからは三人で生活するんだ」
翼はワザと輝彦を挑発した。しかし、それに対しても輝彦は肩を落としてただ俯いているだけであった。その表情は心なしか悲しい表情にも映っていた。そんな情けない輝彦に、おやじ……あんたも老いたな、と翼は心でそう呟き、腰抜けた輝彦に背を向け、居間から出ようと扉に手をかけて静かに目を瞑る。翼は輝彦に振り直し今や腑抜け状態となった輝彦に哀れんだ目線で
「おやじ……捕まるなよ」
そう言って居間を後にした。輝彦はそれにも返事をせずただ俯いたままだった。
もう、ここには昔ほどの酷い父親だった輝彦は既に消えてしまっていた。翼の挑発的な発言にも乗って来ないなんて、それともやっぱり何か理由があるのか? 輝彦は翼が居間から出て行くのを確認するとスッと顔を上げ、途端に真剣な表情へと変わっていた。
リアル鬼ごっこ♀J始まで……約二十七時間。
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開会式
翌日十二月十八日、月曜日、午前十一時、寝る間を惜しんだかいもあってか着々と準備は整い、あとは鬼ごっこ開始の合図を待つ状態までこぎ着けた。じいは今回最も必要とされる鬼役≠王国の兵士達に強制的に指名した。しかし、兵士達は誰一人鬼などやりたくないと不満を感じていた。当たり前だ、自分の捕まえた人間が殺されていくなんて、とてもやるせない気持ちでいっぱいになる。そして、その鬼達にとって一番の誤算であったのが必ず一日に一人以上の佐藤さんを捕まえなければ罪として重罪が下されるのだ。ワザと捕まえないでそのまま一週間鬼を続ければ良いと思っていた兵士にとって苦しい規約とされた。四方八方逃げ道が何処にもなくなったのだ。しかし、やるしかないのだ。これは王様命令¥]わなければ自分が罰せられる。下手をすれば殺される。この鬼達もある意味では被害者なのだ。
そんな王国の兵士や佐藤さんは正午十二時に予定されている特別放送≠ェ流れるのを待っていた。
時計の長針と短針が十二にピッタリ重なったと同時に特別放送が全てのチャンネルで映し出された。もちろん全国の佐藤≠ウんも見ているに違いない。まだ画面の中に王様は登場しておらず、今はバックの赤い垂れ幕が映っているだけである。いかにも学校で流れる校内放送を思い出させる光景だ。全国の市民がテレビに釘付けとなる。固唾を呑んで王様の登場を見守っていた。その間、王国中が静まり返る。それから二、三分が経過したとき、数人の側近を連れてとうとう王様が画面に映し出された。
瞬間、哀れにも忠誠を誓う市民はテレビの前でひざまずき、そして顔を上げ王様の発言を有り難くちょうだいする(全く馬鹿げている国だ)。久々のテレビ出演とあってか王様の仕草もぎこちない。ゴホンと一つ咳をして、間を空けてから、第一声を発す。
「全国各地の誇り高き姓を持つ佐藤の諸君、お早う」
それをきっかけに王は
「人でベラベラと喋り続ける。
「そして、今回、名誉な事に選ばれた鬼達の諸君ご苦労、どうかな意気込みの程は?……とにかく、今日の十一時に第一日目の鬼ごっこが予定されておる。そして、一週間逃げ切った者には、私がどんな願いも叶えてやろう≠アれは約束だ。一週間後に一人でも多く残っている者がいることを私は期待して待っておるよ」
と、ここまで
「気に喋り、最後に付け加えた。
「それでは一週間後に宮殿で会おう」
捨て台詞の様にそう言った後、お決まりのマントをひるがえし、側近と共に王はテレビの画面から姿を消した。途端、王国中から深いため息が洩れたのが聞こえたのは気のせいか。これがリアル鬼ごっこの開会式といえばそうであった。そして逃げ切った者の願いを叶えてやる≠ニ王様は逃げ切った時の事は述べていたが、捕まった時の事は一言も口にはしなかった……。リアル鬼ごっこ開始まで約十
「時間。時間は刻一刻と迫っている……。日も暮れ始めた午後四時頃、もちろんテレビで開会式≠ネど見ていたはずもなく、見たいとも思わず、翼は予選を勝ち抜き地区大会の決勝を前に準備していた。昨晩は色々な事が頭の中で交差してしまい混乱し、ほとんど熟睡していない状態であった。こんな現状で眠れる訳もないが、翼にとってこの小さな大会ごときは優勝するのは当たり前、そんな事より翼は昨日の大介の事が気になっていた。
それ以前にこれから起こる恐怖の出来事を気にしろと言いたいが、何より翼は大会当日にこの会場に朝から大介が現れていないのが気になっていた。出走を控え、準備体操をしながらも目では大介を探していた。何より昨日の事を謝りたかったのだ。そんな気持ちとは裏腹に無情にも決勝のアナウンスが流れる。いつしか自分の名前がコールされていたが到底耳に入っていなかった。体だけは指示通りにスタートにつく。今の行動とは全く別の事ばかりが頭に浮かんでしまっている。要するに集中していなかった。
気を取られている間にパン≠ニピストルの音が会場中に響きわたる。スタートの合図だ。それでハッと我に返った翼は一瞬出遅れたが、王国一の早さを誇る佐藤翼のプライドにかけても負ける訳にもいかず、そこから猛ダッシュ。アッという間に先頭に立ち、記録は出なかったものの余裕の表情を見せながら見事優勝、まあ、自分では当たり前と思っている様だが、もしこれが全国区の大会だったなら勝つことは出来なかっただろう。に、しても優勝は優勝だ。すぐさま表彰式に移った。一番高い表彰台に立った翼はいまだに大介の姿を探している。協会の会長から表彰状を受け取る際にも目をキョロキョロさせて、失礼極まりない。会長はゴホンと咳して、注意を促す。それで翼はキリッとした表情に戻ると、一礼をした。二位、三位の選手にも同様、表彰状を渡し、そこで終了。そそくさと終わりの準備に取りかかっていた。小さな大会だけに終わるのも早かった。そんなものだろう。
これに限られた事ではない。表彰式を終えて、監督や部の仲間達は今回の事で同情してか、気の毒に思う翼に声をかける者は誰一人いなかった。いや、かけられなかったと言うべきか、表彰状を片手に帰って来る翼にどんな言葉をかければ良いのかが浮かばなかった。いつしか無言のまま翼を取り囲んでいた。
「? どうした? みんな元気ないそ」
意外と明るい翼に一同益々言葉を失った。
「お、おめでとう」
一人の仲間が一言、言った。翼は笑顔で答えた。
「おう、まあ、楽勝だな」
冗談交じりの口調でその場を和ました。一瞬笑いが起こったが表情は硬かった。再び沈黙が訪れる。
「それより……大介は?」
一応翼は尋ねた。それで他の仲間、久保田が
「いや、今日は何故か来てないなー、連絡もない。どうしたんだろう?」
一同そうだよな、と頷いている。
「そうか……」翼は俯きそう呟いた。
「それが、どうかした? 何かあったの?」
久保田は翼の顔をのぞき込み聞いてきた。
翼は慌てたように首を小刻みに何度も振り、顔をこわばらせ
「い、いや、何でも……」
そこで言葉を切って再び俯いた。これからの翼を心配して、言ってよいものなのか久保田は迷ったが……言った。
「それより翼……今日から……」
言った後、やはりまずかったかなと、顔を下げる。
しかし、翼の口から意外な言葉が返ってきた。
「え? あ、ああー大丈夫、大丈夫! 俺が捕まると思うか? 楽勝だよ楽勝」
それはどう考えても無理に強がっているしか皆には見えていなかった。
「翼……」皆は口を揃えて哀れむ様に言った。それでも翼は、
「いやーこれからさー用事≠ェあるんだよー、悪いけど今日は俺、帰るわーじゃ!」
右手を軽く上げて、誰にも発言の間を与えないまま、翼はリュックを片手に後ろを振り返り、それでも堂々とした歩き方で振り返る事もせず、皆に別れを告げた。そんな翼に誰も声をかける事も出来ず、最後となるやも知れぬ翼の姿に眉を下げ、悲しい目で、翼の姿が見えなくなるまで目を外さなかった。
一方、翼は恐怖に怯えた自分を皆にさらす事だけは避けようと必死に明るい自分を保ったのだが、皆に背を向けてからはとうとう耐えきれず表情にもそれが現れていた。いまだに皆の視線を感じるまま翼は会場をあとにした。そして、あとは六時間後に実行される恐怖の鬼ごっこを待つばかりとなった。
リアル鬼ごっこ≠ワであと、六時間……。
残り二時間を切った時、準備は全て整った。鬼の数から、待機場所、そして佐藤さんを捕まえるべく最強の道旦ハアイテム佐藤探知機ゴーグル≠アれは、じいが全勢力を尽くして、勅命として、全企業に早急に作らせた最強のアイテムだ。このゴーグルに仕組まれているチップには全国全ての佐藤データがインプットされており、ゴーグルを掛けた途端に誰が佐藤かそうでないかがすぐに判別できる仕組みとなっている。
本当に今の王国の技術力が優れているかがうかがえる。言ってみれば、これだけは時間の限られている上で一番手こずった。技術面では今の王国では全く問題のない事だが、何といっても百万個のゴーグルを短い時間で作ることであった。その点ではさすがのじいであった。言われた事を忠実にこなすところが王様から絶大の信頼を寄せられている証拠。それ以前に自分の命がかかっていなければこれほどまで必死に取りかからなかったであろう。とにかく、これで佐藤さん≠ェ逃げ切る事は非常に困難を極める事となってきた。もしかすれば佐藤姓が全て捕まるまで一週間も日にちはいらないかも知れない。そこまで佐藤さん達はピンチに陥った訳だ。
そんな事を言っている間にも一秒一秒鬼ごっこへのカウントダウンは刻まれていき、開始の時刻が近づくにつれて、テレビ番組では関連のニュースや、改めてルールの説明、鬼の姿や形。鬼は統一された迷彩の制服とゴーグルを着用しているとの事だった。
王国全てがそれ∴齔Fに染まっていた。町は異様な雰囲気に包まれ、奇妙な程静けさが漂っていた。そう、人々の話し声すら聞こえない程に……。
王国中の鬼達は既に待機場所で時が訪れるのを待っているに違いない。鬼達だってそうだ、自分の命がかかっているかも知れないこの現状、自ずと瞳が鋭く光る。これこそ獲物を狙うライオンだ。とすると佐藤さん達はひ弱な鹿か何かか……狩られるのを待ってうってか。それが運命なら逆らえない……。これで追う者、逃げる者が共にやらなければいけない¥況に立たされた。全て王様の思惑通りに事が進んでしまったのだ。残すとこ、後は恐怖の合図を待つだけとなった。
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鬼ごっこ始動
暗闇の中、自分の部屋のベッドに座っていた翼は精神統一の為か、静かに呼吸をし、目を瞑っていた。今は時計の針の動く音しか聞こえない。そして、全ての決心が着いたのか翼は目をパッと大きく開いた。その時、視線は時計に位置していた。
『午後十時半』
部屋の時計が狂っていないのならば三十分後、秒に直すと、千八百秒後にはリアル鬼ごっことやらが開始されているのだ。名前の響きは良いかも知れないが、やっている事は単なる虐殺≠セ。一体いつからこんな国になってしまったのだ。
そうか。今の王が即位してからだな……今となってはもう、そんな事関係の無い事だ。とにかく逃げて逃げて逃げまくる。それしか生き残る道はない。翼はベッドから立ち上がった。出来るだけ身軽な服へとジャージに着替えた。着替え終わった翼は愛と映っている写真が入っている財布を手にして、それをジャージのポケットにしまい込み、ポンポンと軽く叩いた。そして、階段を下りた翼は居間へと向かった。真っ暗闇の中、当然輝彦は帰って来ていない。さすがにこの非常事態の中、輝彦の事を心配してしまう。
「どうなっても知らねーぞ」それでも翼は輝彦の事は嫌いであったのであろう、ついそんな言葉が出てきてしまう。でもやっぱり心配な翼は息をついて、居間を後にした。
時刻は既に十時四十五分を回ろうとしていた。始まれば家にいるのは極めて危険だ。発見されればすぐに捕まるのが目に見えている。その″イ藤探知機ゴーグル≠ェある限りは……(でも本当にゴーグルは機能するのか?)それはいいとして、今は外に出て、逃げやすい場所を見つける方が得策の様だ。ぐずぐずしていられない翼はすぐに玄関へと向かった。
翼は玄関でかがみ込み身軽なシューズのひもをまずは左足から結んだ。そして、右足のひもに手をかけた時であった。お知らせのチャイムと共に表のスピーカーから何やら女性の声が聞こえてきた。
『王国全ての佐藤さん、準備はよろしいですか? それでは残された時間で改めてルールの説明をしたいと思います』
その憎たらしいほど能天気な女性の口から飽きる程聞いたルールがもう一度説明され、終わった。
『一週間逃げ切った方には王様が直々に願いを聞いて下さるという大きなご褒美が待っています。それではもう五、六分で初日の合図が放たれます』
語尾は更に元気が良かった。翼はその嫌味とも言えるアナウンスを聞いて更に闘志を燃やし始めた(怒りかもしれないが)。右手に持ったままだったひもをギュッと固く結んで、鋭い目で立ち上がった。
やってやる! やってやるよ! 捕まえられるものなら捕まえてみうってんだ! 俺は佐藤翼だぜ! それに母さんや愛に会うまでは捕まる訳にはいかないんだ! 逃げてやる、どんな鬼からも逃げてやる! そう、心に強く秘め、翼は玄関の扉に手をかけた。リアル鬼ごっこまであと……百二十秒。
「妙に……静かだな」
外に出た最初の感想はそれだった。辺りにそれが佐藤さんとは分からないが、ちらほらと人が歩いているのが確認できる。しかし、そこは住宅街とはいえ、異様な程に静かなのだ。まるで王国に翼だけが生き残っているかの様に……。翼はキョロキョロと周りに目を配る。もちろん始まっていないとはいえ、自然に鬼の姿を探してしまう。鬼達の待機場所が何処にあるのかは知らされてもないし、分からない。一つだけ言えるのは目立った場所に移動するのは極めて危険な事。かといって目立たない場所で見つかればそれだけ逃げる範囲が狭まる。これだけは自分の運に任せるしかない。時計を見た。
もう、三十秒もすれば初日のサイレンが鳴らされる。
「とうとう……始まるのか」ため息交じりのセリフを吐いて、ジャージのポケットから財布を取り出し、愛との写真を抜き出し眺めた。翼は大きな大会になると必ずといってよい程この写真を見てから勝負に挑む。これも翼にとったら勝負なのだ。今世紀最大の命をかけた大勝負に立ち向かおうとしているのだ。
「愛……」それだけつぶやき、財布へと静かにしまった。
とうとうこの時がやって来た。十秒・九秒・八秒、翼は心の中で一人カウントダウンを始めていた。
それはあたかも新世紀の始まる秒読みにちょっと似ていた。五秒・四秒・三・二・一……。
みなさん! 新世紀到来です。こんな素晴らしい日に出会えた私たちはどんなに幸せなのでしょうか! %ェにその言葉が、耳には派手な行進曲が聞こえた翼は一人満足感に浸っていた。
しかし、そんな翼の華々しい妄想は大きなサイレンで打ち砕かれた。ういーん≠ニ息が続かないくらいの長さで、それは甲子園で試合が始まる合図に似ていた。体に振動が伝わるくらいのけたたましいサイレンが町中、いや、王国中全てに鳴り響いているのであろう。一気に現実の世界に引き戻された翼の表情は途端にこわばり、いまだ音が響いている遙か上空を眺めていた。そして、段々とサイレンの音は小さく小さくなっていき、やがてはサイレンの音も夜空に消えていった。
十二月十八日、月曜日午後十一時リアル鬼ごっこ¢謌齠目……スタート。
開始の合図と共に体がピンと張りつめた。緊張感がまるで違った。何だか違う世界にいるみたいだ。
これから一時間、常に警戒していなければならないなんて、とてもじゃないが精神までやつれてしまう。とにかくこの場にずっといるのはまずいかも知れない。
今は動こう。翼はその場から足を動かした。少し歩いては落ち着かない素振りで辺りを確認、少し歩いては確認、と忙しかった。
住宅街から表通りへと抜けた翼はこれまた驚くべき光景に出くわした。
「ま、マジかよ……そんな……ウソだろ?」町中を見回した翼は驚きのあまり言葉が震えていた。何かが違っているのだ。そうである。車が一台も動いていないし走っていないのだ。そう一台もだ。規制が発せられたとはいえ、こんなにも賑やかな町に一台の車も走っていないなんて、何だか夢を見ている様だ。路上駐車している車の中には、サラリーマンやカップルが退屈そうにしてその日の鬼ごっこが終わるのを待っている。
ルールとはいえ妙な感覚だ。その光景は異様な雰囲気に包まれていた。それと目につくのは、佐藤さん以外の何ら恐怖にかられていない、ごく普通の一般人だ。夜中とはいえここは横浜。人が歩いているのも珍しくはない。しかし、そんな人々に罪がないのは分かっているのだが、翼はそんな人々に無性に腹が立っていた。そんな観察も程々に、町中が変わり果てた姿に口を呆然と開けたまま立ちすくんでいる自分に気がつき、ハッと周りを確認した。
「大丈夫だ」鬼がいない事を確認するたびホッと胸をなでおろす。そうだよ、見つかったとしても俺にはこの足がある。思いっきり逃げればよい。ただそれだけの事じゃないか。自分に強く言い聞かせそれが強気を起こさせる。が、心の何処かにはやはり不安を隠しきれない部分もあった。その証拠が翼の素振りそのものだ。
「とにかく動くしかないか」
真っ白い息を吐き、寒空の中、翼は再び落ち着きのない素振りで歩き始めた。
頭に鬼の事がしつこい油汚れの様にこびりつき、離れないままいつしか翼は表通りから離れ、今度は自宅から遠く離れたこれまたごく普通の見慣れた住宅街を彷徨うかの様にキョロキョロさせ、いつ出てくるかも分からない鬼におどおどしていた翼なのだが、ふと一つの心配事が頭をチラリとかすめた。輝彦の事だ。
「おやじは……何やってんだ……」
今は自分の事で精一杯のはずなのに、世界で一番嫌いな父親を何故か気になってしまっていた。やっぱり何だかんだ言っても親子である。今まで輝彦のおかげで毎日が苦痛で息が詰まるほど嫌気の差す生活をしてきた翼なのだが憎いとはいえ肉親。捕まれ! などとは思えなかった。むしろ、捕まるな! の方が気持ちとしては勝っていた。
翼は腕時計に目をやった。それにしても、妙である。鬼ごっこが開始して、あれから既に二十分が経過しているにもかかわらず、鬼の姿はおろか、逃げ回る佐藤さんの姿をいまだ一つも確認していないのだ。本当に鬼ごっこは実行されているのか。もしや、王様のイタズラ? はったり? それとも夢? そんなはずは無い。と頭を小刻みに振り、自分の甘すぎる考えを振り払った。
でも……心で呟き、
「静かすぎると思わないか?」翼は自分に問うていた。別に現れて欲しくもないし、それに越したことはない。しかし、どう考えても実行されているとは思えないくらいに静けさを保っていたのだ。
警戒心は相変わらずに翼は木々に覆われた公園に目が止まった。休憩がてら、そこで身を潜める事にした。
鬼が待機していないかと、木の陰から確認すると、ホッと安心した表情を浮かべ、足音をたてない様にして公園の中へと静かに入った。周りを見渡すと、その公園内はそれ程大きくなく、滑り台の階段はさびついており、登り棒のペンキはすっかりはげてしまっている。明かりを常に放っているはずの電灯もついたり消えたりの繰り返し。ついに目がチカチカする。誰か電球替えろよ。と、まあ、見る限りこの公園は新しく造られたものではないと想像がつく。ブランコにも目が行った。いかにもブランコをこいだときにギーギー≠ニ今にも鎖が外れそうな気がして嫌な予感。それでも、翼は先程から歩きっぱなしの為かそれとも神経が疲れたのか無意識のうちにブランコの元へと肩を落とし疲れた様子で向かっていた。
鎖が外れそうと、そんなはずも無いのに一度脳裏に浮かんでしまったせいか、翼はブランコのイスにゆっくりゆっくりと尻を乗せるように座り、俯いて
「は〜」と深いため息を思わず洩らしてしまった。中年のおやじが風呂に入ってからの第一声に、その意味は全く別だがそれに似ていた。翼は軽く足を蹴り、ブランコを揺らした。キーキー≠ニそれは予測した通りだ。ブランコをこいでいるうちに……ああ、そういえば俺って小さい頃にブランコに乗った記憶があまりないな。今はそんな事考えている場合じゃないと自分でも分かっているのだが、事実、翼にはブランコをこいだ記憶があまりないし、公園で遊んだ記憶もない。輝彦のおかげでそんな楽しいはずの思い出すら浮かばない。
普通、日曜になれば仲の良い家族が幸せ一杯に公園へと訪れ、子供がブランコのイスに座れば、父親や母親が背中を押して、まるで海賊船の気分を味わわせてくれる。滑り台の階段を上り、滑り終えた時には下で父親や母親が迎えてくれるものだ。そんな誰しもが経験している思い出深い出来事……翼には一つもなかった。日曜に一人寂しく、その幸せ一杯の家族を見ていて、うらやましかったし、その反面憎いとも思っていた。母さんがいれば、僕もあんな風に楽しく休日を過ごせるのにな……毎週の様に思っていたのだ。
憂鬱になってしまう思い出から現実に引き戻されたのは、砂の地面を歩く音が聞こえてからである。
じゃりじゃり≠ニ音を立てながら一人の少女が、いかにも挙動不審な行動で、何かを確かめるかの様にして、公園内へと入ってきた。少女はいまだ翼の姿に気づいていない様子である。翼もあえて、その少女に声をかけずに気づいてもらうまで、黙って息を潜めていた。いつ発見されるかなと思うと何だか胸がワクワクする。これが鬼なら別なのだが……。その少女は何とか落ち着いた様子で下を向きながら翼の座っているブランコへと向かってくる。二人の距離は段々と狭まっていく、二十メートル、十メートルと、近づくにつれて少女の表情がはっきりと視界に入ってきた。まだ、成人も迎えていない幼き少女。その少女の視界にも翼が入ったのか驚いた様子でハッと顔を上げた。
「わ! ビックリした!」
思わず大きな声を上げてしまったと少女は自分の口を押さえた。翼もその声に一瞬ビックリし
「君も……佐藤さん?」
少女に問いかけた。少女は途端に沈んだ表情を浮かべて、
「ええ、そうです」
と言い、付け足した。
「あなたもですか?」
「見ての通り……俺も……」
見ての通りと言った意味、それは少女も翼と同じ格好、すなわち上下ジャージ姿だったのだ。翼はともかく、少女にはジャージ姿が似合っていなかった。間近で見る少女の顔立ちは幼く、いかにもお嬢様だ。顔とは似つかわしくない格好だ。せいぜいブリブリのついたスカートなどがお似合いで、休日にはお庭の大きなパラソルで日差しを避けながら小説片手に、紅茶をこれまた上品に口へ運ぶ姿が頭に浮かぶ。
少女は自分と同じ状況に立たされている、いわゆる仲間≠ェいる事に安堵の笑みを浮かべていた。
「良かった〜少しは安心した」
安心した様子で上を向きながら言って、翼に向き直った。
「私、恭子です。佐藤恭子。あなたは?」
可愛いらしい口調で一人勝手に自己紹介、そして、名前を聞かれた翼は一瞬戸惑った。
「あ、ああ、俺は翼、佐藤翼。よろしく」
自己紹介をしている場合じゃないだろうと内心思いつつも、恭子に自分の名前を言っていた。
お互いの紹介も早々に、恭子は隣のブランコのイスに肩を愕然と落としながら座り込んでいた。翼に話しかける事もなくため息ばかりが耳につく。その様子をじっと眺めていた翼は
「どうか……した?」聞いた。
恭子はチラリと翼を見てから視線を下へとおろし、
「うん……ちょっと」
意味ありげな答えだった。
「こんな時に何だけど、何があったの? 相談に乗るよ」
恭子の顔を覗きながら言った。ブランコの鎖を両手で握りしめながら、恭子は一つ頷き、それでも言おうか言わないか迷っている様子であったが、重たそうな唇を開き、事情を説明し始めた。
「実は……」
恭子の話はこうであった。大企業の社長を務めている父親と、これまた別の大企業で重役を任されている母親はいつも帰りが遅く、仲が悪かった。一人っ子の恭子は一人自分の部屋で寂しい思いをしていた。小さい頃から構ってもらえず、いつしか自分の檻に閉じこもってしまう様になっていた。友達も出来ず、相手にもしてもらえず、嫌気のさす日々。℃にたい≠ニきにそう思った事も少なくなかった。それくらい、生きている事態が苦痛で耐えられなかったのだ。そんな時にこの計画が実行されると決まったとき、恭子自身、全く恐怖や不安を感じていなかった。むしろ死ぬためにはよい機会だと思っていた。しかし、恭子には死んでも死にきれない、心に残るものが一つだけあった。それは自分が生きていた価値だ。恭子の思い描いている人間の価値、それはどれだけの人間に愛されていたかだ。何人の人間に愛されているかで人の価値は決まるのだ。と、これが恭子の哲学的理論。果たして自分は何人の人間に愛されていた? 少なくとも親以外の人間に愛されてはいないだろう。ううん、果たして親にも愛されていたの? 親が愛しているのは仕事だけなんじゃ……だとしたら私の生きてきた人生そのものが否定されてしまうのでは? だったら私は何? 何のために生きてきたの? 私って一体……。
だから父さん、母さんに恭子は聞きたかった。捕まる前に私の事……愛してた? ≠ニ、最後に聞きたかったのだ。でも、やっぱり聞く前に答えは出ているようだ。その証拠に鬼ごっこが実行されているにもかかわらず、自分の娘を守ろうとはせず、仕事をしているのか、それとも自分たちだけ必死になって逃げ隠れしているのか、それとも既に捕まったか……。何れにせよ二人とも恭子の事を考えていない証拠。イコール自分は愛されていなかった。それならそれで悔いは残らない。
心の底が苦しくなるような、その話を恭子は涙も流さず、うつろな表情で淡々と語っている姿は不気味さをも感じさせた。
「私は生きている価値のない人間……もう、思い残す事は何もない」
恭子は遙か遠くに視線を置いて、無気力に言った。翼はそんな恭子が言った事を必死に否定し慰めた。
「確かに今まで、辛かったかも知れないけど、どんな状況に立たされても死にたい≠ネんて思っちゃ駄目だよ」
真剣な目をして、恭子に言った。しかし、恭子は何も感じていない様子であった。翼は続けた。
「恭子ちゃん……君はいくつ?」
恭子はゆっくりと首を動かし翼に向いた。
「十八」それだけを言って、再び視線をそらした。
「十八か……そういえば、愛も今年で十八になるのかな」
翼は嬉しそうに微笑みながら呟いた。
「愛? 愛って?」
恭子は何故かその事に興味津々に聞いてきた。翼は深く頷き、過去を思い出しながら恭子に事情を説明した。自分の家庭状況も全てだ。
「そう……そうだったんだ」
翼の事を同情しているのか、それとも自分だけが被害者と思い込んでいた事に恥ずかしかったのか、恭子はそれをきっかけに深く落ち込んでしまっていた。それから沈黙が訪れた。翼が大きく息を吐いて恭子を元気づけた。
「君だけじゃない。他にも大勢の人たちが苦しんでいる。それでも必死に生きようとしているんだ。だから死にたいなんて思っちゃ駄目だ。ましてや、君はまだ若い。生きたくても生きられない人だって世の中にはいるんだよ」
そう、優しく説いた。そして立ち上がり、翼は恭子の肩にポンと手を置いて、
「まだまだ人生これからだよ。生きていれば必ず良いことが一つはあるって」
言って翼は満面の笑みで恭子に微笑んだ。それを見た恭子も表情は硬いなりに小さく微笑んだ。
「うん……分かった」
恭子は頷いた。翼はホッとした。このままでは本当にこの子は自殺すらしかねないと思っていたからだ。取りあえずその事は一件落着、その間、翼は今でも鬼ごっこが実行されている事実が頭から離れていた。恭子にその事を聞いたのはこれが初めてであった。
「それより、今まで鬼に会ったかい?」
一瞬にして寒気が走った。雰囲気が一転した。恭子は首を横に往復させ
「ううん、私は一度も、そっちは?」
「俺もだよ。逃げ回る姿も目にしていない」と言い、恭子に問いかけた。
「本当に鬼ごっこなんて実行されていると思うか?」と℃タはウソなんじゃない? ≠アの言葉を期待してたというか、それを言われれば、少しでも心が休まると思っていたのだが、翼の期待をものの見事に恭子は打ち壊した。
「実行されてるよ」
「え?」翼は頭の中ではコントの様にズッコケていた。恭子は言った。
「別に誰もが鬼に追いかけられる訳じゃないし、必ずしも鬼の姿を見る訳でもない。確率的にね」
「確かにな……俺達の様な佐藤さんがいてもおかしくないな」
と恭子の意見に納得。そして、恭子はクルリと翼に背を向けて、言った。
「でも、本当の恐怖はこれから……今日の様に何事もなく終了するのはこの日だけかも知れない」
と言って、再び翼に向き直り、決めゼリフ。
「これはそんなに甘くない」恭子のその言葉に、公園中に嫌な空気が漂った。
「とにかく、同じ位置にいるのは危険です。そろそろ私はこの場所を去ろうと思うのですが」
「そ、そうだな……いつまでもこの場所にいる訳にもいかないな……」
と言って翼は名残惜しむように顔をしかませ、
「それじゃ、ここでお別れだね」と別れを告げた。恭子は辛そうに一つ頷き、
「翼さん、今日はありがとう。何だか生きる勇気がわきました。ほんの少しの間だったけど、あなたの事は一生忘れません」
と感謝の言葉の裏にはもう一つの意味が込められてそうな気がしてならなかった(全く、思い込みが激しい〉。翼はほっぺを赤く染めて、照れながらも、
「別に、大した事は言っていないよ」と照れ隠し。
それを最後に両方とも言葉を失った。別れのタイミングを二人とも外してしまった。何となく気まずい空気の中、結局は恭子が口を開いた。
「じゃあ、行きます」
「ああ」と二人は手と手をガッチリと結び別れの握手をした。お互いの手が離れて恭子がクルリと回り、出口の方へ向かおうとしたその時だった。
「恭子! 恭子!」
表の入り口の方で二人の男女がこっちに向かって叫んでいる。翼はそれが誰なのかが直感的に分かった。それは恭子の父と母だと、翼の予想は当たっていた。恭子はもちろんの事、それが誰なのかが分かり、目元がうるうるとしだしていた。そして、
「お父さん! お母さん!」
語尾は涙声で震えていた。言って恭子は二人の元へ走って行った。二人も大きく手を広げながら恭子の元まで駆け寄る。互いの距離はアッという間に狭まって、見つめ合った後、三人は分かち合うように抱き合った。恭子と母親のすすり泣く声は翼の耳にも聞こえていた。が、それにしても、二人の格好はどうであろう。どう考えても、鬼から逃げる準備をしていない格好だ。二人ともス! ツ姿に革靴だ。鬼ごっこが開始される直後まで仕事してたのか。仕事してる場合か? 翼は内心そんな二人にムッとしていた。だが、それは翼の思い違いだったのだ。
ようやく三人は体を離し、恭子が泣きながら二人に聞いた。
「今まで、仕事してたの?」
と鼻をすする。
父親は目を軽く瞑り首を横に何度も振って、
「違うよ、今までずっと母さんとお前を捜していたのさ」と優しい目をして恭子に言った。恭子は二人の格好を見て、聞いた。
「でも、二人ともスーツ姿じゃない……やっぱり仕事してたんでしょ?」
二人ともその言葉で自分たちの格好を見て、
「こんな状況で仕事など出来ないよ。仕事そっちのけでお前を捜していたのさ」
父親が言うと、今度は母親がそれに続いた。
「そうよ、こんな事℃タ行される前にお父さんと家に戻ってみたら恭子がいないんだもん。必死になって捜したわ。だって、自分の事より私たちは恭子が大事なのよ」言った。
「お父さん、お母さん、ありがとう……」
恭子は再び泣きじゃくった。よしよしと父は恭子の頭をなでる。そして、恭子は今一番聞いておきたかった事を決心して二人に聞いた。
「お父さん、お母さん、私のこと……愛してる?」言って二人の顔を窺った。二人は声も何も出さずに、もちろんさと言わんばかりに深く頷いた。けど、恭子にしてみればそれだけで良かった。言葉も何もいらない、その一つの頷きだけで恭子は満足だったのだ。その様子に翼は恭子に声をかけた。
「恭子ちゃん、良かったね」
と言ってニコッと笑う。恭子も涙を浮かべながらニッコリ微笑んだ。二人は恭子に夢中だったのか翼の存在に今の今まで気づいていなかった。何やら恭子にこそこそと聞いている。そして、事情を知った二人は翼に向かって頭を下げた。翼も返した。
「とにかく、行こう、ここじゃ何かと危険だろ」
父親が言うと、恭子は頷き、二人は恭子の両脇に立ち恭子を挟む形で公園の表の入り口に向かって行った。まるで今、何が起こっているのかも忘れているかの様に温かい家族に翼の目からは見えていた。いいじゃないかこの時だけは全てを忘れさせてやろうじゃないか、今だけは幸せになったっていいじゃないか、翼は思った。そして、最後に一つ、翼は恭子に向かって強く言った。
「恭子ちゃん! 逃げるんだ! 何としても逃げて、生き延びるんだ! いいな! 絶対に捕まっちゃいけない!」
そう、自分にも言い聞かせていた。恭子は翼に向かって強く頷き、二人はもう一度、翼に頭を下げて、三人は公園内から姿を消していった。そんな幸せな光景を見ているうちに翼はいつしか鬼ごっこの事すら忘れていた。と言うより忘れさせてくれた。
翼は恭子がうらやましかった。生まれてこの方、一度も家族愛に触れたことがなかった翼にとったら、恭子がうらやましくて仕方がなかった。それに何だか恭子と妹の愛をダブらせていたのかも知れない。公園から消えていく恭子の姿が、翼の目には愛の姿に映っていた。それはもちろん幻覚だと自分でも分かっていた……。
公園内は再び静けさが戻っていた。時折、風で枯れ葉がカサカサと音を立てて移動する。聞こえるのはそれくらいだった。一旦、辺りを見回して、今のところは安全と確認すると、
「俺もそろそろ移動するか」用がないなら長居は無用と、翼も公園から姿を消そうと、自然と体がそうなってしまうのか、ソワソワさせながら、公園の出入り口から一歩道路へと踏み出した。右へ行こうかそれとも左にしようかと本当はどちらでもよいのだが、こんな時にこそ迷ってしまう。翼は直感というか気まぐれというか、左の方向へ向かおうと念のため後ろを振り返り、確認した後、移動した。その時だった。じりりりりりーん≠「かにも超強力目覚時計の様に翼がいた公園はもちろん、町中全てにその音が鳴り響いた。あまりのうるささに思わず両手で耳をふさいで、
「うるせー」と叫ぶものの、翼の叫び声はあっさり打ち消されていた。
ようやく、長く続いたベルの様な音はピタリと止まった。両手を耳から外し、迷惑そうな表情を浮かべた後、
「何だったんだよ」
と翼は疑問の顔を浮かべ独り言を言った。何が何だかと混乱している翼はとっさに袖をめくって、腕時計を確認した。知らぬ間に時間は流れ、時計は十二時を示していた。何より翼が驚いたのは時間の経つ早さであった。ついさっき、始まりのサイレンが鳴り響いたと思いきや、既に終わりのベルが鳴り終わっている。確かに、公園で恭子の悩みを真剣に聞いていて、それに答えている間、時間を忘れていたとはいえ、それにしても早すぎやしないか。そんな事を言っても現に時計の針は十二を指している。とにかく一日目は無事に終了したようだ。それは確かな様だな……良かった。ひとまず安心だ、と翼の緊張は心身共に和らいだ。ホッと胸をなで下ろした。しかし、一つ気がついた。そうである。この日が終わりではないのだ。翼の先程の安心感が何処かへ飛んで消えてしまっていた。今はため息が出るばかり、無気力状態になりながら、それでも常にプラス思考の翼は意地でも良い方へと考えていた。
「何だかんだ言っても、鬼の姿を一度も目にしてはいない、これから先も鬼にバレル事はないって! 何だよー楽勝じゃん!」無理に強がっている自分に気がついていた。自分に虚しさを感じて、ハッと深いため息を吐いてから、翼は自宅へと戻った。もちろんその間は何も恐れてはいなかった……。
自宅へと戻っている最中に翼の頭をよぎったのは、愛の事だった。やっぱり鬼ごっこの事で不安に感じている翼は益美と愛に一目だけでもいいから会いたかった。でも、会えない。一つも手掛かりがないからだ。二人に会いたいという思いが増せば増すほど、翼の気持ちは一歩も動けない現状に焦るばかりであった。今はどんな事でもよいから二人に関する情報が喉から手が出る程に欲しかった。その可能性を一番秘めているのは父、輝彦である。翼が思うにどうしても輝彦は何かを隠しているとしか思えない。やっぱり、おやじに聞いてみよう。絶対おやじは何かを知っている。その為にはおやじ……捕まってるなよ。心の中でそう、輝彦に言った後、翼は走り、急いで自宅へと戻って行った。
十二月十八日リアル鬼ごっこ¢謌齠目無事終了……。
この一時間の間で早くも癖ついてしまったのか安全と分かっていても自宅へと戻る間にキョロキョロと体が動いてしまう。結局自宅に着いて、時計の針を確認すると既に十二時半は回っていた。
当然の様に輝彦はいまだ自宅へと戻っていない。普段の日でも輝彦は外で酒をあおり、ベロベロになって帰って来るのが習慣だ。いつもなら毎度の事と何一つ心配をしないのだが、今は話が別だ。鬼ごっこが実行されている中、やはり心の何処かで心配をしているのであろう。いくら嫌いとはいえそれくらいは当たり前だ。
じたばたしても仕方がないと翼は輝彦が無事自宅に帰って来ることを祈り、というより信じて、自分の部屋で帰りを待つことにした。二階の部屋へと向かって行った。
階段を上りきり、部屋のドアを開けた翼は大会の疲れと鬼ごっこの精神的ダメージがこたえたのか、途端に全体重をかけて倒れるようにしてベッドへと横になった。ドサッと音がする。両手に後頭部を乗せて、目は瞑らずに天井を見つめながら気持ちを落ち着かせ、楽になったところで、翼は机に置いてあるテレビのリモコンに手を伸ばした。ベッドからは届きそうで届かない距離で、横着者の翼はいちいちベッドから下りようとはせず、意地でもそこからリモコンを手にしようと必死だった。指先の神経を集中させて痙攣させるようにして徐々にリモコンに近づいていく。もうちょいい、もうちょい、あと少し……と言いながらようやくリモコンを取ることに成功した。満足そうな表情を浮かべながら、翼はテレビの電源をオンにした。パチンと音をたてながらテレビの画面は徐々にいつも通りの番組が映り始めた。最初に映ったチャンネルでは当然の様にリアル鬼ごっこ≠ェ取り上げられていたが、それは
「今日午後十一時に鬼ごっこが開始されました」というごく普通で簡単な報道であった。それよりも翼が一番知りたい情報、それはこの日、捕まった佐藤達の数である。もちろんそれを伝える事はなかった。あっさりと他の情報へと移り変わってしまい、これから先は見ても無意味だと判断した翼は投げやりにテレビの電源を消した後、リモコンを机に軽くポッポって元の位置に戻した。再び仰向けになりため息を吐きながら、天井を見つめ、公園での恭子の言葉が妙に気になり、離れなかった。確率的に言えば、鬼にも遭遇しない佐藤さんも存在する≠サれである。この言葉の裏を返せば、一日目に運悪く、鬼に発見されて、追いかけられて、捕まって、最終的には殺される佐藤さんもいるはずなのだ。はずじゃない、必ずいるのだ。たまたま翼は鬼にも発見されず、公園で全てを忘れ、恭子との楽しいとまでは言わないが思い出に残る一時を過ごすことが出来たのだ。が、これからは甘くない、鬼ごっこが重ねられるにつれて、王国中の佐藤さんは消えてゆくのだ。馬鹿げた王様の発案の為に……。
そうなれば自分が追いかけられて捕まる可能性も高くなっていく訳だ。その前にどうしても益美と愛に会わなければならない。それだけが心残りだ。とにかく今は何かを知っていると思われる輝彦が無事に帰って来る事が先決だ。今は待つしかない……。
疲れのせいか、まぶたが重くなり、胸の内で思うその言葉にも段々力が無くなっていき、次第に翼は深い眠りへと就いていた。二日目の朝を迎える……。
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おいかけっこ
十二月十九日、火曜日。早朝七時、カーテンの隙間から日差しが差し込み、その光で目を覚ました翼は眠そうにして目を擦り、毛布をはいで起き上がった。この季節、起き上がった途端に寒さが体を刺激させ、毎年起きるのも一苦労の翼なのだが、今年に限ってそれは感じなかった。そんな気持ちより先に翼は輝彦が帰って来たかと、いつも眠っている居間へと急いでいた。昨夜着ていたジャージ姿のまま、階段を慌ただしく下りて、その勢いで居間へと駆け込んだ。扉の前で立ち止まり、一呼吸を置いてから、ガラガラガラ≠ニ扉を開けた。その光景に目が一気に覚めた。
「は? 何してんだ?」と声を上げた。翼の瞳には自分で敷いたであろう布団で腹を出し、寝相悪く、寝息をたてて、それでも気持ちよく眠っている輝彦の姿が確かに映っていた。
翼は呆れた気持ちでいっぱいになった。そんな無神経な輝彦を翼はあきれ半分、もう半分は安心の気持ちで見つめた。何はともあれ、何もなくて良かった。母さんと愛に関する情報を聞く事も可能かも知れないし。ホッと一安心の翼は再び自分の部屋へと戻って行った。
鬼ごっこが実行されている間の一週間は自分の思うように生活する事が出来ると王様が言っていた。
学生の翼にしたらそれ程、嬉しくはなかった。別に大学に行く事が嫌いでは無かったからである。大学に行けば自分の好きな事が出来る。すなわち、思う存分走れるからだ。でも今はそんな気分にはなれない。逃げる事に必死だから、自分は死にたくないから、捕まるとしても最後に益美と愛に会いたい。そんな事を考えているうちに普段の生活が無意味に思えてきた。今は時間を有効に使わなければならない。とにかく輝彦が起きるのを今は待つしかなかった。強引に起こすと機嫌を損なう恐れがあるのでそれだけはしたくなかった。焦る気持ちを抑え、何故だか脳の司令塔はもう少しだけ眠ろうと判断した。そういえば時刻は早朝七時。眠いのも頷ける。輝彦が起きるまでの間、自分ももう少しだけ眠る事に決めた。それが言い訳では無いけど正直言うと眠かった。
翼は再びベッドに潜り込んだ。毛布をガバッと全身にかけると翼は気がつかないうちにもう一度深い眠りに就いていた……。
夢を見た。それは十四年前の悲劇の場面。本当ならここで涙を必死にこらえながら手を振り二人の姿が消えて行くまでその姿を見送る自分がいるのだが、今見ている夢は何かが違う。あれ? 何で俺も母さんや愛と一緒に歩いているんだ? 俺は取り残される役だろ? ちゃんと台本読めよ。いいのか? このまま母さんと暮らす様になるぞ、別にそれは構わないけど、何で夢ではシチユエーションが全く別なんだ? その時、自分の住んでいた家をふと翼は振り返っていた。輝彦が叫んでいる様にも見えた。
ここは夢、声は全く聞こえない。何? 何て言ってるんだよ。輝彦は口をパクパクさせながら翼に向かって何かを叫んでいる。その口の動きで何を言っているのか翼は夢の中で読みとった。それは明らかに翼! 翼! ≠ニ叫んでいる。それは次第に大きくなっていた。あれ? 何だか声が聞こえてくる。夢か? 現実か? 段々大きくなってくる。そこで夢の映像が途切れた。ハッと起き上がると、居間から輝彦の声が聞こえてくる。
「翼! 翼! いるのか? 返事しろ!」次第に呼びかけが怒鳴り口調に変化していく。翼は寝起きでの叫び声で苛つき、頭をボリボリかきながら顰めっ面で階段を下りて居間へと向かった。この時、時刻は午後の二時半を回っていた。
居間へ入ると輝彦がでかい態度であぐらをかき、翼を見上げている。たまらず翼は輝彦に聞いた。
「い、いつの間に帰って来たんだよ。気がつかなかったぞ」
口調がおぼつかないのが自分でも分かった。途端に輝彦の顔は歪み
「何だ、帰って来られちゃまずいのか」と不満そうに言ってきた。
「いや、そうじゃねーよ! 少しは心配してやってんだろ」
と言って輝彦から視線を外した。輝彦も照れ隠しなのか鼻でフッと笑い翼から向きを変えて言った。
「別に心配なんていらねーよ、第一、俺が捕まるとでも思っているのか?」
と大口を叩いていた。大した訂信だ。それ程にまで自分の足に自信があるとでもいうのであろうか。
それを最後にお互い口を開かなかった。それはいいとして、翼は真剣な眼差しで輝彦に聞いた。
「それより、昨日見たか?」鬼をとまでは言わなかった。
「あ? 何をだよ」と輝彦は白々しく返し、
「何も覚えちゃいねーなー」と答えた。何故、覚えていないのかは言わずとも知れていた。
「また、酒かよ! こんな時によく、酒など飲んでいられるな」
見下す様にして言った。輝彦は何も返してこなかった。翼に背中を見せているだけだった。翼は続けた。
「とにかく、俺達は昨日何事も無かったかの様に終わった。でも、これからは違うそ! 段々と王国中の佐藤は減っていくんだ! 正直……俺達の命も危ない」
語尾には力が無かった。更に続けた。
「その前に俺は母さんと愛に一目でもいいから会いたいんだ! 二人だってそうかも知れない! 会いたがっているに違いないだろ!」
興奮している自分に気づきそれを抑えて、
「頼む……何でもいいんだ。教えてくれ」
と目を閉じてお願いする様に小さく言った。気がつけば自分一人が喋っていた。ここまで言っても無反応の輝彦に翼は内心ムッとしていたが、ここで苛立っては事が進まない。もう一度、頼んだ。
「おやじ……何か知っているんだろ? 俺には時間が無いんだ。限られた時間の中で二人を捜さなければいけない。その為にはちょっとした情報でもいい、教えてくれ」
翼は真剣な目をして頼んだ。が輝彦の答えはあまりにも呆気なかった。
「し、知らん」
顔をこわばらせ腕を組みながら、そう三口ってそっぽを向いた。その答えに翼は怒る気にもならなかった。むしろあきれていた。何かしらは知っているはずの輝彦が何でここまで隠し通すのかが翼には理解出来なかった。何にしてもこれ以上頼んでも期待している答えは返ってくるとは思えない。といっても自力で捜すのは無理に等しい。もう半分諦めかけていた。小さくため息を吐いた後、輝彦に、
「分かったよ。これ以上、聞かないし、頼まない。勝手にしろよ」
そう言いながら翼は肩をガクンと落とし、思い詰めた表情をして、トボトボと居間を後にした。翼の去った居間では輝彦も肩をすくめ何かを考えている様子であった。翼が益美と愛の話をしだすといつもの輝彦が消えてしまう……。
無意識のうちに家を出ていた翼は全てが無気力だった。目にも輝きが感じられない。肩を落とし、両腕もブラブラさせ、全身に力が入らなかった。自分では何処へ行こうか行き先も決めていなかったが、町中をウロウロしていたのであろう、それからいつしか電車に乗っていた。脳より体が勝手に動いていく。ここがやっぱり恋しいというか、一番居心地が良かったのであろう。
気がつけば翼は大学のグラウンドから少し離れた囲いの金網に両手をかけて冷たい風を浴びながらポツンと突っ立っていた。ここからだと大学のグラウンドが手に取るようによく分かる。もちろん翼の瞳の奥底に映るのはグラウンドでウォーミングアップしている連中や体操を入念にこなす選手、トラックを全力で走る選手、長距離の選手は自分なりのペースでトラックを何周も走って練習している。
それぞれではあるが、どれもこれもみんな、走ることに苦痛の表情を浮かべている選手は誰一人いない。時には笑い声すら聞こえてくる。楽しそうだな……いつもなら自分もあの輪の中の一人なのに……何故俺がこんな目に遭わなければいけないんだ。そうだよ、俺が佐藤であるからだ。今となってそんな事を言っても始まらないのは百も承知なのだが、陸上部の楽しい光景を目の当たりにして高鳴る鼓動、翼は奴らが無性にうらやましかった。俺も走りたい……何も考えずに一直線の先にあるコールという目標まで、俺もあいつらの様に。翼はそう感じていた。
翼からはため息だけが洩れていた。鬼ごっこの事、益美や愛の事、自分のせいで今日も大介の姿は何処にも見当たらない。何もかもが嫌になってきた。どれを取っても何一つ希望の光が見えない。大事な友達も無くしたし、益美や愛に再会する事も絶望的だ。それに一週間も逃げ切るなんて本当は自分でも無理なのではないか? 遅かれ早かれ捕まるならいっその事……。脳に一瞬だけそれがよぎつたのだが、翼はそれだけは思っちゃいけないと頭をブルブルと横に振り、その考えを振り払った。自分で昨日、恭子に言ったじゃないか! 言った本人が死んでもいいなんて……何を言っているんだ俺は……しつかりしろ! 信じろ! 自分を信じるんだ。心で強く言い聞かせたものの、やはり心の何処かでは弱気になっている事も分かっていた。気を紛らわすために色々な事を考えてもしてみたが無駄である。今は益美や愛、それに恐怖の鬼ごっこに勝る物は何一つなかった。相変わらず、金網に手をかけたままボーっと突っ立っている翼はしばらくの間、その場所からは動こうとはせず目線は茫然としたまま、グラウンドに向けているだけであった……。
全国の佐藤さんに刻一刻と迫り来る恐怖の時間、どんな事をしようが生きている限り、佐藤さん達にはその恐怖の時間が訪れるのだ。そして、この日もまた、その時間が一秒一秒刻まれていく。今日も何人の佐藤さんが犠牲になるのかは翼にも予測がつかなかった……。
アッという間に時間は流れて、午後十時、途方に暮れていた翼は横浜の山手町辺りを彷徨い歩いていた。高層ビルや、レジャー施設が建ち並ぶ華やかな町を歩き続けていたのだ。今いる場所からは自宅はそう遠く離れていなかったが、翼は帰る気にもなれなかった。薄情者の輝彦の顔など見たくなかったし、どうせ帰ったとしてもすぐに鬼ごっこが実行される。時は一秒一秒迫っているのだ。それに上下はジャージ姿のままだ、無理に帰る必要も無いだろう。
ただ、呆然と町中を彷徨っている翼の目に付くのは、やはり人の多さと町の派手派手しさだ。特にラブラブなカップルどもだ。今、裏では何が起こっているのかも知らない様子をかもし出し、自分たちが幸せならそれでよい、そんな感じが窺える。もし自分の恋人が佐藤だとすれば少なくともそんな笑顔が浮かぶことはまずあり得ないだろう。だが、翼には彼女の一人もいなかった。陸上の事だけを考えてきたからそんな余裕もなかったし、興味もそれ程なかったのだ。
それともう一つはこんなにも人で埋め尽くされ車の渋滞も当たり前のこの町が、午後十一時にもなれば、昨日と同じく一台の車も走らなくなるのだ。あと一時間もしないうちにこの町は急変する。今の風景を見ているだけに信じられなかった。
人々の話し声一つ、笑い声一つ聞こえる度に翼の頭はおかしくなりそうだった。怒りすらこみ上げてくる。それを必死に押さえようと踏ん張っている翼だったが、一つだけ踏ん張れない事があった。お腹がクー#゚鳴を上げているのだ。そういえば、今日は朝から何も口にしていなかった(朝は寝ていたが)。これから始まる戦を控えて腹が減っていては逃げられるものも逃げられなくなる。
腕時計を確認した翼は、まだ時間に余裕があると(余裕といってももう五十分後には開始されるのだが)その時視界に入った近くのファミリーレストランへと足を運んだ。
自動ドアが開いた途端、
「いらっしゃいませ! お客様はおひとり様でよろしいですか?」
一人のウエイトレスが威勢良く駆け寄ってきた。翼は人さし指を立てて頷き示した。
「かしこまりました! お客様、お煙草の方は?」
ウエイトレスは翼が何をしている人間なのかを知る由もない、翼にしてみたら煙草という言葉ですら厳禁だ。
「いや、吸いません」
そこは愛想悪く返した。それでもウエイトレスは愛想良く、
「かしこまりました! それではお席の方へとご案内させて頂きます。どうぞこちらへ」
ウエイトレスはこちらへと片手で示し、翼を席へと案内した。翼も後ろに続いた。
「こちらのお席はいかがでしょうか?」ウエイトレスは翼に窓越しの席を勧めてきた。
「はい……」席など何処でもよかった翼はどうでもよいとすぐに返した。
「それではごゆっくりどうぞ」
一つ頭を下げて、満面の笑みを浮かべて、ウエイトレスはその場から立ち去った。
「は〜……どれどれ」
一段落が着いたと息をつき、テーブルに置いてあるメニューを広げて、何を注文しようか一つ一つを目で追った。ようやく、決心が着いた翼は手元に置いてあるボタンを押してウエイトレスに合図した。すぐさま駆けつけてきた。
「ご注文お決まりでしょうか?」
今度は違うウエイトレスだった。別にどうでもよいが……。
ボーっとしていた翼は、
「え? あ、はい、それじゃあ、ハンバーグライスセットと」
ウエイトレスは口を割り込むようにして、
「ハンバーグライスセットをお一つ」と言ってリモコンの様な物をピッと押した。
ウエイトレスが言い終わるまで翼は待って、それから、
「えーと、キノコスパゲティー」
「キノコスパゲティーをお一つ……以上で?」聞いてきた。
「え? あ、はい、以上で」言って翼はメニューを閉じた。注文の繰り返しをしているがそれは聞き流していた。ウエイトレスは頭を下げて立ち去った。
注文した品が出来上がるまでの間、翼はテーブルに肘をつき、手のひらに顎を乗せ、窓から外を眺めて沈んだ表情で黄昏ていた。頭に浮かぶのはやはり同じ事であった。そればかりが浮かんで仕方がなかった。
それから十分ほどが経過して、注文した品がズラリとテーブルに並べられた。この一瞬だけは全てを忘れて料理に釘付けとなった翼は、フォークとナイフを片手にがつがつ≠ニ音をたてながら、ハンバーグに食らいつき、スパゲティーを口にした。口からあふれ出しそうになるくらい翼はほおばった。口をモグモグさせて、それをゴクンと強引に喉にまで通し、水を一口、その繰り返しで、アッという間に皿は綺麗に片づいていた。それは洗剤で洗ったかの様に綺麗だった。ここまで食べてくれれば作り甲斐があるというものだ。コックもさぞかし喜ぶだろう。
お腹も満腹、満足そうな表情を浮かべて、少しの聞食休みをしてから、翼は伝票を手に会計を済まそうと席を立った。
「ありがとうございます!」
ウエイトレスは丁寧に伝票を受け取ると、その分の金額を翼に告げた。翼もジャージから財布を取り出し、お金を払った。お釣りを受け取り、レシートはグチャグチャにして、ファミレスを後にした。
「ありがとうございました!」
店の奥からも声が聞こえてくる。翼は自動ドアの前に立った。開いた途端、冷たい風が翼の全身を凍えさせる。体を縮ませながら、両手を口元に持っていき暖かい息を吐く、それから一歩二歩と賑やかな町を歩いた。時刻は十時五十分、鬼ごっこ開始まであと十分……。
あと二分というところで既に車は一台も動いてはおらず、路上駐車している車もエンジンをストップしていた。町中は一変し、異様な程の静けさを保ち続けている。そして、昨日と同じく町中のスピーカーからあの能天気≠ネ声が聞こえ、それが鳴り響いていた。
その内容とは昨日とほぼ同じであった。昨夜捕まった佐藤さんの数は報告する事はなかった。
「ふざけやがって! 人の命を何だと思ってやがる!」と舌打ちをした。#\天気≠ヘ今度は王国の人間全てに改めて警戒規制をはった。
「それと、もう一分ほどで王国全てが交通止めとなります。今車を運転している皆さん、これはラジオでも放送されています。もし、車に乗っている事が分かればその人は直ちに処刑されてしまいます! くれぐれも気をつけて下さい」
一旦、呼吸を整えて、能天気は最後に言った。
「それでは、皆さん、準備はよろしいでしょうか?」翼は今いる場所に立ち止まったまま上を見上げて静かに放送を聞いていた。何だかカウントダウンをしてやがる。
「10、9、8、7、6、5、4、」能天気は正確に秒数を読み上げていった。翼もそれに関してはお得意だ。毎日の様にタイムを計っていた翼にもそれくらいは当たり前なのだ。残り三秒というところで翼もささやく様に声を出し、カウントした。
「3……2……1……」
スピ! カーからは能天気の声と入れ替わる様にして、けたたましいサイレンが鳴り響いた。あまりのうるささにまたしても翼は耳をふさいでいた。段々ゆっくりと音は静かになり、やがて消えていった。翼は上空を見上げたまま、しらばくそのままであった。十二月十九日、火曜日、リアル鬼ごっこ%日目……スタート。
町中が一気に静まり返っていた。もちろん、車もピタリと走るのを止め、騒音が全く聞こえない為もあるのだが、それだけではなかった。サイレンが鳴り響いた前とでは緊張感がまるで違うのだ。だけれども、何処が安全で何処が危険かなんて分かるはずもない。全ては自分の運命に身を委ねるしかないのだ。もちろん、一時間の間、鬼に一度も遭遇せずに事が終了すれば言う事はない。だが、運だけで避けられる程、甘くない。昨日は一度も追いかけられなかった翼の心の奥底は多少甘い考えは今でも持っていた。だが、翼もとうとう、その恐怖を目の当たりにする……。
翼は挙動不審をあらわにして、町中を目的もなく彷徨い続けていた。とにかく今は人気の感じられない場所へと移動するのが先決だ。こんな人通りの激しい場所に居れば、鬼達だって寄って来るに違いない。ただ、人気のない場所でのデメリットは、もし見つかったときに、一対一になる可能性が大きい事だ。人が多ければ多いほど、逃げている時に、それが障害となって逃げられる可能性も高くなるって訳だ。無論、自分にも障害になる可能性があるのだが……。
何だかんだいって、町中を歩き、あれから二十分が経過していた。翼がそのデメリット≠頭で考えている間、翼はふと、周りを見渡した。妙な事に気づいたのはそれからだった。十一時とはいえ、ここは大都会。人であふれている。この日もそうだ。そして、現に今も多くの人が歩いている。そのはずだった……。だが、その多くの人々が歩くのを止めて、顔を固まらせながら、翼を見つめている。
中には翼に向かって何かヒソヒソ話をしている。何が言いたいのだろう。翼は疑問に思い
「何? 何?」と小声で周りに居た人々に聞いた。誰一人、答える者はいなかった。翼は段々と気味が悪くなってきた。それで、自分の事を恐ろしい様な感じで見ている人々の瞳に再び視線を切り替えた。それで一つ気づいた事があった。人々は自分を見ているのではない、何故か自分の遙か後ろに視線が集中しているのが分かった。翼はこんがらがった頭を整理して今の現状をよく、考えてみた。気がついた。
まさか! まさか! まさか! ウソだろ……。
翼は何度も何度もまさか! と繰り返していた。ピタッとそれが止んだ。その瞬間、翼の背筋はピンと張りつめた。徐々に心臓がばくばくと音をたて始める。人々の目線を追うように翼はゆっくりとゆっくりと……それはまるで、ゼンマイ仕掛けの人形のように、しかし、全身は動かさずに首だけをカタカタカタと後ろに振り向けた。瞬間、眼孔は大きく見開いた。
翼の喉はカラカラ状態になり、何かが詰まっているかの様に言葉が一つも出なかった。全身に来る大きな震え、それを抑えるかの様に、拳をギュッと握り締める。しかし、その震えは少しも止む物ではなかった。そうなのだ。翼の目にははつきりと映っていた。自分の遙か後ろで獲物を狙うかの如くに首を左右に往復させ、近くで探知機≠ェ微かに反応しているのであろうか、それは定かではないが。恐らく翼に反応しているのであろう、翼の目には自分等、佐藤さんを捕まえるべく、鬼≠ェ映っていたのだ。
鬼は段々、翼の方向へ近寄って来る。それでも、まだ、五、六十メートルは優にあったが、見つかる前に逃げなければ。その前に何処か遠くへ逃げてしまえば捕まる事はない、ましてや、自分の足なら、軽く鬼との距離を離せるであろう。早く! 見つかる前に早く! 翼は心の中で自分の体に強く、そう命令する。逃げろ! 早く逃げうって! って、あれ? おい……ウソだろ? 動かない、足が全く動かない……それに気づいた時には既に翼の頭は真っ白になってしまい、混乱状態に陥っていた。
試合でも一度も感じたことのないこの緊張感。突然の出来事やあまりの驚きと恐怖が原因で翼の足は固まってしまい、動かなくなっていたのだ。まるで、強盗犯に包丁を突き付けられたあの感じ。あの感じって、そんな経験したことないだろ! 何故、人間てこんな状況に立たされたときに妙な事を考えるのかな……って俺は何を考えているんだ! そんな事、どうでもよいじゃないか! それより動けよ俺の両足! まだ間に合うから……早く……。
それでも言うことを聞いてくれない自分の両足に翼は苛立ちを感じていた。唇を噛み締めながら、翼はもう一度、鬼に視線を切り替えた。鬼も既に、翼の周りにいる大勢の人々に興味を示し始めている様子であった。
それが最悪の事態を引き起こした。鬼はその場で足をピタリ止めたのだ。その瞬間、二人の距離はまだ遠く離れていたが、二人の視線がばっちり合って、一直線に結ばれた(鬼はゴーグルを掛けていたが、目が合ったのは確かだった)。人々の視線が翼と鬼に集中する。それで人々は理解したはずだ。
翼の名字が佐藤であることを、追う側と、追われる側が成立した事を、恐らくそれは他人事だと思っているに違いないが……。いまだ足が動かぬ状態で焦る気持ちとは裏腹に、二日目にしてとうとう、鬼から警報が鳴らされた。≠、いーん≠サれはよく、変態おやじが電車で痴漢をした時に、された女性が鳴らす警報機によく似ていた。その音で、気づいていなかった他の人々も足を止めて、音の出所を耳で追って、注目し始めた。周りにいた人間全てが黙り込み、この賑やかで騒がしい町が、一瞬にして、喋り声一つ聞こえない、まるで人が一人もいない、砂漠地帯へと移り変わった。
周りにいた人間全てがその様子に固唾を呑んで見守っている。そんな関係のない人々に鬼は目もくれず、翼に向かって淡々と、そして、徐々にスピードを上げて追っかけてきた。というより、翼は逃げていない。今の光景からすると捕まえに来たと言った方が適切であろうか、翼めがけて走って来た。
翼の心臓は破裂寸前まで追い込まれていた。当たり前の事だ。もし、ここで捕まってしまえば自分の人生はここでジ・エンド≠ネのだから。でも、どうあがいても、足は動かなかった。鬼との距離は段々と狭まっていく。六十、五十、と……ただ距離が狭まるのを見つめてた。このままでは捕まる。
本当に捕まる。そうだ、落ち着け……落ち着くんだ。思い出せ……試合の時を思い出すんだ。スタートについてから、ピストルの合図が鳴らされるあの時を……。
翼は気持ちを落ち着かせて、自分が試合で走る直前の風景を思い出していた。名前を呼び出され、緊張をほぐす為に体をブラブラさせる。選手全てが呼び出された後、一斉にセットへと着く、高鳴る鼓動、程良い緊張感、会場中が静まり返る。そして、あとはピストルの合図を待つばかり。パン≠ニピストルの音と共に翼も現実の世界へと引き戻された。解けた! やっと解けた! ようやく足が動く様になると、当然の事だが、翼は鬼とは反対方向へと進路をとって、思いっきり全速力で駆け出した。
ジャージ姿の翼の足は驚異的な威力を町中の人々に見せつけた。鬼も然り。それは鬼が一番感じ取っているに違いない。もちろん鬼は翼が、どんな人間なのかは知るはずもない。一番驚いていたのは鬼であろう。それに翼の気持ちは興奮して、ハイになっている。もしかすれば普段の実力以上の力が出ているのかも知れない。これなら百メートル、九秒、いや、八秒で駆け抜けてやるぜ。これは言い過ぎたか……。それでも翼の足が速いことは変わりなかった。翼は歩道から道路に進路変更。車が走っていないとこれ程までに広く走りやすいなんて、車の交通止め制度はここで生かされた訳だ。王様万歳。
尚も、スピードが衰えない翼は一つ後ろを振り返った。鬼との距離は徐々に離れていく、いくら鬼も王国の兵士といえどやはり翼の足の速さには着いて来れない様子だった。向き直る。
翼は足を緩めることなく、鬼との距離をここぞとばかりに突き放した。大きな道路で追いかけっこをしている二人の姿に町中の人たち全てが振り返っていた。翼の足の速さにどよめく人達もいた。その姿に哀れむような目をしている人もいた。様々ではあるが、鬼の姿をこの日初めて見る人も少なくなかっただろう(佐藤さん以外は鬼を見ようが見まいが関係ないのだ)。追いかけられてから一直線に四、五百メートルは走ったであろうか、もう一度翼は振り返った。鬼との距離は既に百メートル以上は離れていただろうか、鬼の表情は窺えないが、鬼だって相当苦しいに違いない。鬼も所詮は人間だ。
いつまでも息が続くはずもない。鬼のスピードも当初に比べると明らかに落ちている。チャンスだつた。
翼は大きな十字路を左に曲がり、途端に見える左の細い路地に入った。そこで立ち止まり、休憩する事はしない。追いつかれたらその£T知機≠ニやらが、作動し同じ事の繰り返しになるからだ。それに翼はそこまで甘くないし、スタミナも十分だった。短距離選手とはいえ、煙草も吸わないし、何せ陸上を中学二年の頃から一日もさぼらずに続け、そして、頂点に立った男だ。百や、二百走ったところでばてる様なヤワな選手じゃなかった。探知機≠ニいう、無駄な金をつぎ込んで作られたと思われるそのオモチャが反応しなくなるまで距離を離せば何の問題もない事だ(といっても、探知機とやらがどれ程の距離で反応するのかは定かではないが)。
翼はネオン輝く表通りからほんの少し離れた裏道をただがむしゃらに、これでどうだ! と言わんばかりに走って走って走りまくった。もう、後ろを振り返る事はしなくなっていた。
気づいた時には高級住宅が建ち並ぶ、その豪華さとは逆にポツンと一本だけ立っているライトの下で、足を止めていた。真下に立っている翼に貧相な明かりが照らされていた。そして、塀の壁に寄りかかった。多少息が乱れていたものの、まだまだ余裕の表情が窺える。先程の鬼は完全にまいたとはいえ、あの鬼だけが鬼ではない、全国に百万人以上の鬼が配置されているのだ。いつ何時に違う鬼に遭遇し、そして、追いかけられる可能性も十分だ。その間、ほんの少しだけ休憩を取ることにした。それでも、周りに目を配るのは怠らなかった。翼は休憩をしていても、ちっとも体は休まらなかった。この一時間の間に安息の一時を得られる事はないだろう。気持ち的にも同じである。
しばらくして、呼吸の落ち着いた翼の脳裏に先程の悪夢が蘇っていた。鬼の姿をとうとうこの目で見た。目から鼻の辺りにまで覆われているゴーグル探知機、上半身から下半身全てにかけてが迷彩服、頭には王国の国旗マークが張られているスッポリと被れる様に作られたと思われる帽子(被っていても追いかけるには支障はないであろう)。胸には他の鬼と連絡出来る様になのか、トランシーバーが納まっていた。そして、翼はこれが一番の衝撃を受けた。これは、それ程まではつきりと見えなかったが、腰の辺りに何か拳銃の様な武器がチラッと確認できた。ルールを犯した者に対して射殺する為であろうか、とにかくそれが一番恐ろしかった。
鬼の特徴や身なり全てが翼の目には焼き付いている。思い出すだけで恐ろしさを感じてきた。翼は今追いかけられるまで、あの時までは王様の単なる脅かしなんだと、思っていたし、そう思いたかった。甘く考えているところも少なからずはあった。だが、鬼の姿を目の当たりにし、更に追いかけられた翼の考えから甘さは一切消えていた。走っている時は逃げる事だけに集中していた為に意外にも怖さは感じていなかった。だが、恐怖を実感し始めたのは、こうして足を止め、落ち着いてからである。今、翼の脳裏には恐怖という二文字だけが駆け巡っている。
「始まってる。明らかにこれは始まってるんだ」語調が震えていた。握り締めている拳にもジワジワと汗で一杯になる。
不安と恐怖が人り交じる中、翼は思い出すかの様に袖をパッとめくり、腕時計を確認した。十一時四十分を示していた。
「あと二十分か……」ため息交じりに言うと、この日は何となく時間が経つのが遅いなと、頭で思っていた。昨日と今日とでは大違いである。昨日はビクビクしながらも思い出の一時を過ごす事が出来た故に、時間も早く感じられたのだ。しかし、今日は違う。思い出の一時もなければ、安息もない。ましてや、この日は追いかけられて恐ろしさを感じている。当然の事ながら時間の感じ方も違うであろう。
とにかく。とにかくだ、と強引にでも自分の気持ちを落ち着かせ、もう二十分もすればこの日の鬼ごっこは終了する。それまでは慎重に行動するしかないようだ。
今一度、翼は辺りをキョロキョロさせながら、その場から足を動かし、鬼に見つからない様に気配を消して歩き始めた……。
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十四年目の真実
幸運だったと言うべきか、それとも悪運が強いと言うべきか、この日も何とか、あと二、三分で二日目の鬼ごっこが終了するところまでこぎ着けた。
あれから翼は警戒に警戒を重ねながら、住宅街を歩き回っていた。いかにも鬼が出没しなそうな所で時間を稼いでいたのだ。悪いイメージがくっついて離れないのであろう、決して、表通りには足を踏み入れなかった。これで、やっぱりと言うべきか、人通りの激しい場所に鬼が出没する可能性が高いと学習できた。なるべくなら表通りに姿を現さない方がいい。
「よし、あと一分……もう少しだ」翼は既に安心していた。何故なら、今この場で見つかったとしても、一分間の間、逃げ切ればこの日の鬼ごっこは終了する。多少、重圧が軽くなった。
「しょうがね! 家に戻るか」渋々そう言うと、もう一度時計を見直した。あと三十秒、二十秒、時計を確認しながらも、足は自宅へと向かっている。十秒……。
この日の鬼ごっこは追いかけられたとはいえ、無事に終了する様だ。他の佐藤さん達はどうか知らないが、とにかく自分が無事なのは確かである。
五秒、四秒、三秒、二、一……同時に終了のベルが鳴らされた。町中に響いて……止んだ。リアル鬼ごっこ%日目……終了。
終了のベルが鳴らされた途端、白い息と共に胸をホッとなで下ろす。翼は自宅に戻ろうと決めたのだが、正直言うと、内心、家には戻りたくなかった。輝彦の顔すら見たくなかったから。しかし、こればっかりは戻らない訳にもいかない。こんな寒空の中、公園で野宿などすれば捕まる前に凍え死ぬのは必然。逃げやすい為に厚着をしていないから、尚更である。だから、しょうがなく自宅に帰ってやるのだ。しょうがなく。そう心で強がっていてもやっぱり心の何処かで輝彦の心配はしてしまう。そんな自分に腹が立つ。
鬼ごっこの恐怖心と、輝彦に対する苛立ちが交互に重なり交じり合う。複雑な心境に翼は立たされていた。どつちの気持ちが勝っているのかも分からない。とにかく、今いるこの場所から自宅までは相当離れている。タクシーでも拾って自宅に戻ろうとしたのだが、歩いている間に気持ちの整理もつくだろうと、歩く事に決めたのだ。夜空を眺めながら歩くのも悪くはない。星は一つも輝いてはいないが……。
穏やかさを取り戻した横浜の町を歩き続けて四十分ほどが経過したであろうか、既に見慣れた住宅街へと入っていた。ゆっくりと歩いていた為か、かなりの時間を費やし、自宅に戻る為に通らなくてはならない、大きな坂を上り、突き当たりを左に曲がれば自宅はすぐ目の前だ。これから大きな坂を上ろうとしていた。
今、翼が上っている大きな坂には深い思い出がある。陸上部に中学二年の時にスカウトされた翼であるが、その時はそれ程まで、陸上に熱を入れていなかった。それが高校に入ったと同時に、少しずつタイムにこだわりだした翼は苦しい練習の後に、必ずと言ってよいほどこの大きな坂を上り下りして、足腰の鍛錬を欠かさずこなしていた。それに小さい頃からこの坂を毎日行き来していた翼の足腰は無意識のうちに鍛えられていたに違いない。素質もさることながら、この坂の存在も大きかった。
翼は一つも苦しい顔を浮かべず、軽々と急な坂を上っている。毎日通るのにこの日は何故か懐かしい感じがしていた。そして、ようやく長い坂を上がりきった翼は一度立ち止まり辺りを見回した。静かだった。誰一人歩いていなかった。住宅街で時間も時間である。その事に関しては頷ける。しかし、翼には妙な胸騒ぎが起こっていた。一度も感じた事のないこの胸騒ぎ。何だろう? 胸に手を当て、首を一つ傾げる。鬼が近くにいるのか? いやいや、今それは関係の無いことだ。だとしたら何だ? この妙な胸騒ぎは? 翼の心臓は次第にテンポが上がっていく。妙だな……そう思いつつも翼は突き当たりの角を左に曲がっていた……。
角を左に曲がった途端に、自宅はすぐに目の前だ。ここからでも確認できる。しかし、どうであろう、この日は自宅に目がいっていなかった。何故なら、自宅の前で一人の男性と思える人物がうつぶせになって倒れているではないか。何故、自宅の前に。そう疑問を抱きつつも慌てて倒れている男性の所に走って行った。男性が倒れているすぐ目の前まで駆けつけた翼は目を大きく見開いた。そして、大きな衝撃を受けた。
「お、おやじ……」輝彦は裏返った声を出し、異常な程に呼吸をハーハーと乱していた。あまりの驚きに喉に何かが詰まっているような感じがする。
翼はしゃがみ込み、ゆっくりと輝彦を仰向けに起こした。何故、自分が輝彦を仰向けに起こしているのか、何故、輝彦が自宅の前でうつぶせになって倒れているのか、全てがこんがらがって何が何だか分からなかった。
翼は輝彦の体を大きく揺らしながら叫んだ。
「おい、おやじ! しっかりしろ!」
尚も揺らし続ける翼に輝彦はうっすらと目を開いた。言った。
「つ、つ、翼か……」
輝彦は苦しいながらも支えてくれているのが翼だと認識したに違いない。朦朧としながらも意識はあるようだ。輝彦の呼びかけに翼は何度も頷きそれに答えた。
「あ、ああ……俺だよ。おやじ……どうした?」
翼も必死に言葉を出していた。輝彦はその質問に対し、呼吸を乱しながらも苦笑いを浮かべ、そして、苦しそうに言った。
「お、お、鬼だ……俺も鬼に……」
それは途切れ途切れでよく聞こえなかったが、輝彦が言っている内容は何となく分かった。翼は唇を噛みしめ言った。
「お、おやじ……今まで逃げていたのかい?」
語調もブルブルと震えていた。息を途切れ途切れ思い切り吸い込む様にして、もの凄く苦しそうに呼吸をしている。次第にそれは悪化していった。輝彦はそれでも翼に何かを語りかけようとしている。
「お、俺も、もう年だな……昔の様には走れない……」
と言ってまたも大きく呼吸をし、一旦止まってそして、吐き出す、それの繰り返しが続いた。
「走れない? 走れないって、おやじ……」
¢魔黷ネい≠アの言葉に翼は何かを直感した。輝彦は苦しい顔をしながら何度も頷き、ちょっぴり微笑みそして言った。
「お、お、俺も……昔は陸上をやっていてな……自分で言うのもなんだが……ちょっとしたもんだつた」
言った後に激しく呼吸をする。翼は歯を思い切り噛みしめ、ギュッと目を瞑り
「おやじ……」心を込める様にして言った。実感していた、やっぱり俺とおやじは親子なんだな……と、俺のこの足は父親譲りなんだな……と。初めてそう思えたのだ。
「だ、だけどな……もう……駄目みたいだ……」
輝彦は自分の運命が見えている様だった。翼はそんな弱気な輝彦に、
「何言ってんだよ!」と叫び、そして、
「もういい、もういいよ……喋らなくて」
と優しく言った。そんな翼の説得にも無視するかの様に輝彦は尚も翼に何かを伝えようとしている。
自分の命を犠牲にしてでも何かを伝えようとしているのだ。
それから沈黙が続いた後、ささやく様にして輝彦は翼の名前を呼んだ。
「つ、翼……」翼は眉を持ち上げ、放心状態から抜け出したかの様に、
「あ? あ、ああ、どうした?」
翼は顔を覗いた。輝彦の青ざめた表情は段々と白くなっていく、体を支えている翼に伝わる輝彦の体も、何となく冷たく感じていた。気温の為かも知れないがそれ以上に輝彦の体は異常に冷たかった。
「お、お前に……一つ言っておかなければならない事があるんだ……」
輝彦は力を振り絞り、それでも言葉を途切れ途切れにしながら言った。翼は輝彦の意味深な言葉に聞き返した。
「言いたい事? 何?」
その返答に輝彦はやはり言おうか迷っている様だった。息を吸い込むように苦しく呼吸をし、それが一瞬止んでから言った。
「益美と……愛の事だが……じ、実はな……」
初めてだった。輝彦から二人の話が飛び出たのは。
それに気づき驚いた翼はゴクリと唾を飲み
「実は?」と聞いてみる。
「じ、実はな……益美は……母さんはもう……死んだんだ」
そう言った途端、輝彦は翼から目をそらした。
その言葉に翼は俄然興奮状態へと陥った。
「そ、それ、どういう事だよ!」輝彦の体の状態がすっかり頭から飛んでいた翼は、体を大きく揺らしそう呻き、問うた。
それから輝彦は多少落ち着いていた。苦しそうに呼吸をしているのは変わらないのだが、先程に比べると随分と落ち着いている。そして、翼に全てを語った。
「十四年前……益美と愛は俺達の前から姿を消した。縁は切れたとはいえ、肉親だ。愛は元気か? 生活は出来ているのか? お前の知らない所で必要最低限の連絡は取っていたんだ。そんな日々が一ヶ月も続いたある日の夜だった。携帯に電話が入った」
場面は変わる……。
「もしもし、はい、はい、そうですが、え? 益美が? どういう事ですか? 事故? 事故って……ま、益美の容態は? 益美は、益美は大丈夫なのですか?」
輝彦は放心状態に陥り、空っぽな表情をし、通話を切った。それで、益美がどうなったのかは予測がつく。時刻は夜の十時半、輝彦にとってあまりに衝撃な出来事であった。既に翼は自分の部屋で寝息をたてながらグッスリと眠っている。その時、輝彦は悩んでいた。翼に全てを話すか話さぬべきか……しかし、悩むまでもなく、答えは出ていた。やはり、翼には言わなかった。いや、言えなかった。
年齢が年齢である。もう少し翼が大人になっていれば話は別であったが、今の翼にはとても言えなかった。それでも、翼が大きくなれば何れ話そうとは決心していたのだが、なかなかタイミングが掴めず、話を切り出せなかったのだ。そして、十四年の月日が経った。
輝彦は自分が死ぬ直前に全てを翼に話している。場面は戻る……。
「事故だったんだ。益美はトラックにひかれて、生死を彷徨い続けたあげく、結局は……」
それ以上は口にしなかった。輝彦も相当辛いに違いなかった。翼は興奮状態から、すっかりしょげ返ってしまった。そして、重い口を開いた。、
「ど、どうして……どうして、今まで黙っていたんだよ」
翼の目から涙がボロボロこぼれ落ちる。それが輝彦の顔にポツポツとこぼれる。輝彦は目を瞑りながら、
「すまん……すまなかった」
ただそれしか言えなかったのだろう。白い息が広がる。
「母さんが……母さんが死んでいたなんて……」
翼は深い憤りを感じていた。拳を握り、この悲しみ、この怒りをどう表現したらよいのか、それさえ分からず、ただ、目からは涙がこぼれるばかりであった。
「母さん……」短い間に益美と過ごした思い出が脳裏によぎっていた。翼は本当に益美が大好きだった。益美の事ばかりが頭に浮かんでいたのだが、一瞬、忘れてはならないもう一人の存在が脳裏をかすめた。愛である。しかし、益美が死んだ後の愛は何処にどうやって生活をしていたのであろうか?
まさか、施設に預けられた訳もあるまい。ならば、愛は何処でどうやってそして、誰と生活をしていたのであろうか? それを疑問に感じた翼は涙を拭いて、愛の事に関して輝彦に聞いた。
「愛は? 愛はどうしたんだよ。今、何処で生活をしているんだ?」
再び興奮していたのか翼の口調も早まっていた。輝彦はすぐに返してきた。まるで、よくぞ聞いてくれました≠サんな感じであった。
「そ、その事だが……これから話す事を真剣に聞いてくれ……いいな、冷静に聞くんだ」
苦しいはずなのに真剣な眼差しで翼に言った。翼もこんな真剣な表情をした輝彦に息を呑んで、真剣に耳を傾けた。輝彦は一つ頷き言った。
「益美が死んでからな、愛は俺の弟夫婦の所へ養子として、引き取られた」
翼は問うた。
「どうして? もう一度、愛と一緒に暮らせる事も出来たんだろ?」
「そうしたら、益美が死んだ事がお前に分かってしまうだろ? それだけは避けたかった。それに、弟夫婦には子供がいなかったんだ。子宝にも恵まれずにな、弟夫婦も是非、愛を養子として欲しいと言ってきた」
それで不満そうに翼は言った。
「それで……愛を預けたのかよ……」
輝彦は小さく頷き、
「そうだ。お前にとっても、愛にとってもそれが一番よい選択だと思ったからだ」
輝彦は遠回しに言っていた。自分は乱暴な父親だと、愛を連れ戻せば愛にも暴力を振るっていただろうと。
「愛は弟夫婦に何不自由なく、本当の娘の様に可愛がられていたそうだ。愛も幸せな日々を送っていたに違いない」
輝彦は翼にそう言って宥めた。
「そうか……」
翼は愛が幸せならそれでよいと思い留まり、安心はしていた。しかし、頭に何かが引っかかっている。それが気にかかっていた。そう。鬼ごっこの事だ。翼がその重要な質問をしようと口を開いた途端、先に輝彦が翼の言葉を奪い取る様にして、翼が言おうとしていた同じ事を言ったのだ。
「しかし、問題はここからだ。愛も引き取られてからは、鈴木から佐藤≠ノ名字が変わった。というより戻ったんだ。当然、弟の名字も佐藤≠セからな」
翼は茫然と輝彦に言った。
「だとしたら……愛は」
「そうだ……」輝彦は哀れむ様に言った。
翼も愛が鬼に追いかけられている姿を想像するだけで、自分は愛の力になれないと思うだけで悔しかった。いてもたってもいられなかった。
「くそ! 俺はどうすれば……」
何も出来ない自分に苛立ちを覚えた。そんな翼の気持ちを抑える様に輝彦は重要な手掛かりを翼に伝えた。
「いいか、愛が今いる場所を言う、お前が愛を助けるんだ」
輝彦は続けて言った。
「愛は、大阪府淀川の、新北野という所で生活をしている。お前が愛を助けてやれ……」
「おやじ……」それからしばらく、沈黙が続いた。
その間、翼は輝彦から教えられた住所を頭の中で何回も唱えて、頭に叩きつけた。
愛……絶対に捕まるな……。
そう、胸で愛に強く言ったその時だった。輝彦はウッと呻きだし、状態が急変したのだ。
「おい! おやじ!」
翼は輝彦の体を軽く揺らし声を張った。そんな翼の問いかけにも輝彦の耳には届いていない様だった。眼球が今にも飛び出そうなグロテスクな表情、呼吸が激しくなり始めた。それは、段々と激しく、治まるどころか、悪くなるばかり。裏返った声でハーハー言っている。呼吸の仕方が早まっていく、異常な程の早さで呼吸をしている。
「おやじ! おい! しっかりしろ!」
無駄である。喋るどころか翼の呼びかけにも反応していない。が、輝彦は本当に最後の力を振り絞ったのであろう、手を痙攣させながら、翼の手をギュッと握り締め、頼んだぞ! と言わんばかりに頷き、途端にハッと呼吸が止まった。
そして、翼の手を掴んでいた輝彦の手はブランと、それはテレビのスローモーションの如く、地面に落ちた。
何が起こったんだと翼の視点は一点に定まらない。茫然と輝彦の体を揺らし、呼びかける。
「おい……おやじ? おい……起きろよ」
次第に翼の口調は強まる。
「おい……おい! おい! おやじ! 起きろよ!」体を揺らす。
「こんな……こんな死に方、らしくねーぞ!」
尚も輝彦の体を揺らすものの、反応は一つもなかった。これでようやく認識したのであろう、輝彦の死を。理解した途端、翼の目からはスーッと涙がこぼれていた。
「ウソだろ? まさか……」
茫然と呟き、
「ウソだろ!」と嘆き叫ぶ。翼は輝彦の体に覆い被さり泣きわめいた。翼の泣き声は輝彦の衣服を通して洩れていた。しばらく翼は輝彦に抱きついたまま離れようとはしなかった。
少しは落ち着きを取り戻した翼はようやく輝彦の体からゆっくりと離れた。そして、輝彦の表情を眺めていた。顔色は別として、目を瞑り、グッスリと眠っている様に見えた。今にも勢いよく地面から起き上がる様な気がしてならなかった。そんな輝彦を眺めているうちに翼の脳裏に輝彦との暗い思い出が浮かび上がっていた。益美と愛が離れていくきっかけをつくった男。毎日の様に酒をあおり、幼い自分に暴力を振るい続けた男。翼の趣味や夢、将来の事に何一つ興味を示さなかった男。思い起こせば最悪な父親だった。輝彦との楽しかった思い出は一つも浮かんでこなかった。そう、ただの一つも……りでも、翼の脳裏に輝彦の最後の言葉が浮かんできた。
「お前が愛を助けてやれ」この言葉が翼の耳にひっつき離れなかった。それは繰り返し聞こえていた。その言葉が翼の胸を熱くさせていた。死ぬまで本当に嫌いだった輝彦のそのセリフ、そのセリフ=三口で翼は輝彦の今までを許そうと思えたのだ。いや、許したかったんだろう。そうしたら、段々と輝彦への憎悪がついえてきた。何故だろう? あれほどまでに苦痛の生活をさせられてきたのに、何だか全身から輝彦に対する憎しみが抜けていく……不思議な感じがする。
翼の抱いていた怒りや憎しみは、輝彦から次第におやじを死にへと追いやった鬼≠サして、国王へと移り変わっていた。翼の頭の中は真っ白から、真っ赤へと染まっていた。提案者である王様が憎くて憎くて仕方が無くて、でも、やっぱり何もしてやれない自分に腹が立ってしょうがなかった。しかし、今は腹を立てている場合ではない。完全に心臓が停止してしまっている輝彦はもう、絶望的なのだが、人として、実の子として、万に一つの奇跡を信じたかった。
翼は慌ててジャージから携帯電話を取り出すと、すぐさま一一九番に連絡し、救急車を呼んだのだ。
頭が真っ白で慌てていたのであろう、その時のやり取りはしっかりとは覚えてはいない。しかし、住所や氏名、輝彦の状態はしっかりと伝えたはずだ。今は救急車が来るのを待つしかなかった……。
救急車が到着したのはそれから約十分が経過した頃であろうか、激しいサイレンと共に救急車は自宅前で止まった。その時には夜中であるにもかかわらず、周りに住んでいる住民や音につられてやって来たのであろう、野次馬が詰め寄ってくる。翼と倒れている輝彦の周りに人垣が出来ていた。
救急隊員がすぐさま、輝彦の側に駆け寄った。脈を確認した隊員は早急に心臓マッサージを執り行う。翼は奇跡を信じて、その様子をじっと見守っていた。緊迫した雰囲気の中、近所に住む住民達の間では何やら耳元でヒソヒソ話をしているのが翼の目に入っていた。人の命がかかっている時にその様な他人事で済ます野次馬達に翼は腹が立っていた。それでも必死にそれをこらえて、奇跡を信じて止まなかった。
しかし……奇跡は起こらなかった。救急隊員は心臓マッサージを止めて、ゆっくりと立ち上がった。
その表情は明らかに沈んできた。足取り重く、翼の目の前に歩み寄る。隊員は俯き、声は出さずに、首を横に小さく振った。そして、
「残念ですが……」
そこで言葉を切った。翼はそれで理解した。
「そうですか……」
力無く言って、
「ありがとうございました」
最後まで諦めずにマッサージをしてくれた隊員にお礼を言って、頭を下げた。
辺りはしんと静まり返った。状況を把握した野次馬達もさすがに口が止まっていた。目を伏せる者も多かった。手を合わせる者も数人確認できる。
輝彦の遺体は一度病院へと運び込まれる様だ。死因やら何やら調べる事があるらしいのだ。輝彦は救急車の中へとタンカでかつぎ込まれた。隊員もそのまま運転席へと移動して、サイレンの音は鳴らさず、光だけがぐるぐると回ったまま、車は動き出した。
翼は救急車の姿が見えなくなるまで目を離さなかった。次第に救急車も遠ざかっていく、それに連れて、野次馬達の数も段々減っていった。その場から去る際、翼の心境を察してか、近所の顔見知りの人々でさえ、言葉をかけられなかったのであろう、慰める者は一人もいなかった。
一人二人といなくなっていくうちにその場に立っているのは翼だけとなっていた。辺りは先程に比べて、ガランとした空気が漂っていた。周りを見回し、思い詰めた表情をしている翼は大きく息をついて、それからようやく自宅のカギを開け同時にドアをそっと開けた。
「翼! おかえり」
奥から益美の声が聞こえてくる。その声に翼は歓喜の声を上げた。
「母さん! 帰って来てくれたの?」
嬉しさのあまり、自然と声のトーンが上がる。益美はその質問に不思議そうな表情をしていった。
「何言ってるの? もう! 翼はとぼけてるんだから」
呆れた様子で笑みを浮かべて、
「さあ、寒いでしょ? 中に入りなさい」
と言って益美は居間へと歩いて行った。翼もこれまた益美の言葉に一瞬戸惑ったものの、この際、母さんがいればどちらでもいいかと翼は靴を脱ぎ捨てて、益美を追いかける様にして足早に居間へと移動した。
「おう、翼! おかえり」
居間では輝彦が温かく迎えてくれた。翼は
「あ、ああ、ただいま」
輝彦の今までになかった優しさに驚き交じりの言葉を返した。
「どうした? そんな所に立ってないで座ったらどうだ?」
輝彦は言った。翼は
「あ? ああ」と他に気になる事があり、小さく頷いてから居間をぐるりと見回した後、輝彦に聞いた。
「それよりさ……愛は? まだ帰って来てないの?」
輝彦と益美の顔を交互に窺った。それを聞いた途端二人の表情は一転した。
ひどく落ち込んだ様子で肩を落とした輝彦は、
「愛は……愛はな……」
それから先を躊躇っているのかなかなか言わない輝彦に焦れったさを感じた翼の口調は強まった。
「何? 愛がどうしたんだよ! 何かあったの?」
嫌な予感がしたのか翼の心臓は早まる。
「愛は……」輝彦が辛そうにその先を言おうとした瞬間、時計の時報が鳴り響いた。
午前一時の時報と共に温かい家族の映像がそこで途切れた。ハッと気づくと翼は暗闇の居問で一人ポツンと突っ立っていた。そこで自分は今まで幻覚を見ていたんだと理解した。相当疲れている様だ。
深いため息を吐いた後、深く辛い悲しみがドッと翼の感情に押し寄せた。十四年目にして初めて知った益美の死、それを言い残しあっけなくこの世を去っていった輝彦。
あまりに辛い出来事の連続で翼の精神状態も限度を超えてしまっていた。益美がこの家を出て行ってから一ヶ月、そう輝彦は言っていた。一ヶ月後には死んでいた人間をいつまでも信じて、迎えに来てくれるのをただひたすら待っていたなんて……。そう、考えると更に翼の全身に大きな隕石の落ちた様な強い衝撃がのし掛かる。翼の足は何かに引っ張られる様にして、その場でガクンと膝をついた。
打ちのめされた表情をしながら、もう一度深いため息を吐きながら両手もついた。四這いになった翼は放心状態のままピクリとも動かずに
「母さん……」ささやく様にして言った。
そして、
「父さん……」
翼が父さん≠ニ言ったのは何年振りの事であろうか、自分でも思わず父さんと言っていた。それを何度も繰り返しているうちに翼の目には大量の涙があふれ、下にポツポツと垂れている。涙は止まらなかった。両親を亡くした現実に平然としていられる方がおかしい。
それでも自分は涙を拭ってそこから立ち上がらなければならないんだ。と自分に強く言っていた。愛だってそうだ! 愛だって益美の死の現実から立ち上がり強く生きているではないか。兄貴の俺が、こんな事でどうするんだ。俺が助けないと、俺が愛を助けないと。
もう嫌だ。もう、これ以上肉親が死んでいくなんて俺には耐えられない。自分を犠牲にしてでも愛だけは助けないと! さあ、立て、立つんだ。まだ終わっちゃいない。本当の勝負はこれから。
翼は這い上がる様にして、立ち上がった。その表情は今までに見せた事のない位にたくましかった。
翼の頭の中では既に明日の行動が組み立てられていた。この日の午後十一時の問にはそれらを全て実行しなければならない。無論、輝彦が教えてくれた愛の居場所、それももちろん組み込まれていた。
喉がカラカラに乾いていた。翼は冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを一口飲んだ。もう一口、それで喉の乾きを満たした翼は冷蔵庫のドアを閉めて、自分の部屋へと移動した。
本当に静かだった。階段を上る毎にドンドン≠ニ音が響く。上りきった翼は扉を開いた。身の回りでは大きな変化が起きているのに、部屋だけは一つも変化を遂げていなかった。当然の事だ。
翼はジャージ姿のまま、ベッドに入って仰向けになった。天井を見つめていた。二人の事を考えていた。もつと二人の仲が良かったら、あの時、自分がもっと大人で二人を止める事が出来たら……俺達四人は幸せな日々を送る事が出来たのに……少なくとも益美が事故で死ぬなんて事はなかったはずだ。そう考、えれば考え込む程、翼は寝付く事が出来なかった。過去にとらわれていても仕方がない、今は自分のやるべき事だけを考えなければならないんだ。そう、胸の内に翼は秘めた。
毛布を深く被り、目を瞑って体を横に動かした。すぐに目を開けた。どうしても二人の事が頭から離れず、なかなか眠りに就くことが出来なかったのだ。ハァーと息をついて、再び目を瞑る。すぐに開く。その繰り返しだった。それでもさすがに体が疲れていたのであろうか、しばらくすると無意識のうちに眠りに就いていた……。
十二月二十日、水曜日……。
午前中に輝彦の遺体は棺に入れられて、再び自宅へと戻ってきた。死因は急性心不全と結果が出たのだが、結局は原因不明という事なのであろう。そう簡単に済まされた。
しかし、輝彦が死に至るまでの経緯はそう簡単なものではないと翼には分かっていた。死ぬほどまでに輝彦は鬼から逃げたんだ。それも一人の鬼からではないかも知れない。逃げて逃げて逃げまくって、やっとの思いで鬼を振り切り、そして、安心した途端、急に心臓が苦しくなったのであろう。いくら昔陸上の選手とはいえ、歳には勝てなかった。心臓が苦しくなるのは当然の事。あまりの苦しさにこの世を去ったんだ。相当、走り回ったに違いない。
翼は棺の中に入っている輝彦の青白い顔を眺めながらそう思った。ふたを閉めた。
既に翼は業者の方にお通夜の準備に取りかかって欲しいと連絡していた。それに応じた業者も早急にお通夜の準備に取りかかり始める。
見る見るうちに段々、自宅が真っ黒に、葬式の会場に変わっていく。それを見ると気持ちまで暗くなってしまうのは翼だけであろうか。
着々と葬式の準備が出来ていく中、翼は後の事は業者に全て任せて、新幹線に乗るための切符を手に入れるために、一旦自宅から外へ出た。一歩外に出た翼の目付きは俄然鋭くなっていた。そして、この日行われるはずの通夜は午後の四時に予定されていた……。
佐藤家と書かれた提灯に、黒と白の垂れ幕、自宅はすっかり葬儀場へと移り変わっていた。
翼自身も喪服に着替え終わり、午後四時に近づくにつれて、輝彦が勤めていた会社関係の人間が続々と詰めかけてきた。一人ひとりが悲しい表情を浮かべて、受付に香典を手渡し中へと入って行く。その列は途切れなかった。そして、もうじき通夜が行われようとしている。
緊迫した雰囲気の中、通夜は行われた。御経と共に焼香も行われる。翼は来て下さったその一人ひとりに頭を下げながら、様子を見守っていた。入れ替わり立ち替わりお焼香を済ませていく人々に翼は注目していた。これだけの人数だ。少なくとも一人くらいは佐藤≠ウんがいたに違いない。その佐藤さんはどんな想いで、お焼香を済ませたのであろうか。その人だって、輝彦が何故死んだか位は予測がついているはずだ。次は自分の番? そう思えば思い詰める程、恐怖の淵に立たされているに違いない。鬼ごっこはまだまだ続くのだから……。
ある程度時間が経ち、尚も続く通夜に翼の体は精神共にいささか疲れていた。休憩がてら、足取り重く居間へと移動した。
「おいしょつと……」
いかにも年寄りが使う様な言葉を吐きながら座布団に腰を下ろした。あぐらをかいて、俯き加減で疲れた様子で息を吐く。それでどれ程疲れたのかが予想がつく。
居間では隣から御経の声が聞こえてくる以外は物音一つしなかった。静かだった。空っぽな空間に一人たたずんでいる感じがした。背中を丸くし、肩を落として、物思いにふけっている中トントン≠ニ後ろで壁を軽く叩いた音が聞こえていた。ハッと後ろを振り返った翼の目に映っていたのは、輝彦と同年代くらいの紳士がこちらを向いていた。
「ちょっといいかな?」紳士は翼に言ってきた。
「はい、トイレだったら、そちらの角を……」
翼は返す。紳士はほんのり笑顔を見せて割り込むようにして、
「いやいや、ちょっと中に入っていいかな?」
「え? あ、はい。どうぞ」
翼はそそくさと座布団をもう一枚用意した。
「どうぞ」と手で座布団を示した。
「それでは失礼」
言葉遣いも紳士である。紳士は座布団の上に正座で座った。翼も慌ててあぐらから正座に直した。何から喋ってよいのか分からず、とうとう沈黙が訪れた。こんな時の沈黙が一番重苦しいのだが。翼はこの雰囲気に耐えられず、取りあえず言葉を発した。
「あのー……」上目遣いで紳士の顔をのぞき込んだ。紳士の体は一瞬ビクつき、翼に向き直って言った。
「あ、ああ、悪かったね。つい、佐藤との思い出が頭の中を駆け巡っていたものでね」
紳士は何だか懐かしそうに言った。しかし、翼には何が何だかさっぱりで紳士の言っている佐藤との思い出≠サれに関して聞いてみた。
「あのー……父とはどんな?」
「あ、ああ、そうだね。翼君は僕の事を知らなくて当然だね」
紳士は何度も頷き笑みを浮かべながらも仕草は照れていた。自分の事は翼は既に知っていると思っていたのだろう。それが恥ずかしかった様だ。それより翼の方は何故、この紳士が自分の名前を知っているのかを疑問に感じていた。
「翼? 何で僕の名前を?」
聞いた。紳士はその質問から口元を結び、真面目な表情へと変わり、一つ頷いて、
「実はね、私は……佐藤と同期の人間で、森田という者だ」
「同期? それは仕事での?」翼は聞いた。
森田は深く頷き、
「ああ、そうだよ。仕事仲間、と言った方が正しいかな」
「仕事仲間?」
輝彦の仲間≠サの単語が輝彦に一番似つかわしくないだろうと森田のセリフを疑った。しかし、森田は何の躊躇いもなく輝彦とは仲間だったと言い切った。
「ああ、あいつとは会社に入った当初からの一番の仲間だったよ」
翼はフーンと口元を丸めて頷いた。森田は続けた。
「でもね、仲間と言っても、仕事の上ではあいつにいつも先を超されてた。仕事は出来るやつだったよ」
「おやじが?」
あまりの意外性についついおやじと口走ってしまい、アッと口元を抑えた。その仕草に森田は笑みを浮かべて、翼の質問に答えた。
「ああ、君にとったら意外かも知れないがね。あいつは重役でもあったんだ。それも大企業のだ。大した男だよ、あいつは」
「うそ!」と思わず声を上げた。続けた。
「あ、すみません。でも、本当なんですか? 僕には信じられません……」
「ああ、本当だよ。部下には全く慕われてはいなかった様だがね。仕事は出来るヤツだった。その実力はみんなも認めていたし、俺もそうだ。それに、俺にだけは全てを語ってくれたしな」
「部下には慕われていなかったか……納得です」
翼は口元を緩ませ、ほんのり笑みを浮かべそう言った後、
「全てを語ってくれたって、どういう事をですか?」
「うん、奥さんの事や、君の事、それに妹の愛ちゃんの事も全てさ」
森田は輝彦から聞いた事の全てを翼に話してくれた。続けた。
「でも、やっぱり一番悩んでいたのは奥さんが事故で亡くなった事を君に話すか話さぬべきかで相当、頭を悩ませていた様だよ。それに関しては僕も適切なアドバイスを言ってやる事は出来なかったけどね」
「そうですか……」息をドッと吐いてそう言った。
「うん、それからなんだよ。奥さんが亡くなってからの佐藤は何だか急に思い込むようになってね。仕事のストレスやいろんな事が重なったんだろうね」
翼にも思い当たる節があった。確かに森田の言うとおりだ。益美がこの家を去ってからの輝彦は前にも増して、暴力や酒に溺れる日々が多くなった気がする。
翼はすっかりしょげ返ってしまった。俺……おやじの事、そういえば何も知らなかったんだ。何処に勤めているか、どんな仕事をしていたのか、ましてや誕生日も血液型でさえ、昔も今も何も知らない。何も知らずに今まで生活していたなんて……。
翼は何だか悲しかった。これでは赤の他人ではないか、そう思うとその感情は増すばかりであった。
やるせない気持ちでいっぱいの翼の肩に森田は手をポンと置いて、言葉を投げかけた。
「翼君……落ち込む気持ちも分からなくはないが、君にはまだまだ残された使命があるはずだ。何としても、この馬鹿げた鬼ごっことやらに一週間逃げ切る他に、君には妹を守る義務がある。何としても、妹の愛ちゃんを助けて、佐藤の死を決して無駄にはしないでくれ」
翼は頭の中で喝を入れていた。この人の言うとおりだ。落ち込んでいても何も始まらない。しっかりしろ! と自分に強く言い聞かせた。そして、森田の瞳の奥を見つめながら強く頷いた。森田も頷いた。そして、最後に、
「負けるなよ!」
とその一言だけ言い残し居間を後にして行った。いろんな意味が込められているのであろう森田の最後の=言でより一層、翼の闘志が燃え上がった。何としても、何としても愛を助け出し、二人だけでも逃げ切るんだ! 翼は森田との出会いによって、一枚皮がめくれたというか、たくましくなった。
翼も座布団から腰を上げ立ち上がり、正座をしていたせいか、一瞬ふらつきながらも、居間から出て行った。
通夜が始まりかれこれ一時間半が経過した。お焼香を済ますべく列も今ではすっかり途切れてしまった。そろそろ通夜も終わりを告げている。翼は正座をしながら、頭の中で輝彦が最後に残してくれた愛の唯一の手掛かりを何度も何度も繰り返していた。大阪までの切符は既に手に入れている。あとは確か……淀川区新北野という場所の何処かに愛がいるに違いない。輝彦の言っていた情報が正しければの話であるが、翼にはそれしか手掛かりが分かっていない。どちらにせよ翼は行くしか道は残されていないのだ。とにかく、そこの何処かに愛がいる事を、捕まっていない事を今は信じるしか他なかった……。
こうしてしめやかに通夜は終わり、着慣れない喪服の上下を脱いでから、ネクタイを緩め、綺麗にたたんで元のタンスにしまっておいた。下着姿になった翼は一旦自分の部屋まで階段を上り、扉を開けた。途端に冷たい風が翼の体を縮ませるのは相変わらずで、すぐさまベッドに脱ぎ捨ててあったジャージをはいてから、部屋を出る際に周りを見回し、眺めた後にゆっくりと扉を閉めた。
階段を下り、気がつけば翼は居間の部屋に立って部屋中を見渡していた。もう、この部屋で輝彦が酒を飲んだり、怒鳴る風景を目にする事はないだろう。首の動きを止めて、鋭い目付きで、よし! と頷き、タンスの中から、しまってあるだけの現金を財布の中に詰め込んだ。愛を助けるまではこの家には戻って来ないと決意を固めてから、振り返る事はせず、居間から玄関へと向かい始めた。
翼は靴ひもを結んでいる最中、頭の中は嫌な予感にとりつかれていた。もしかすると、愛には会えないのではないか……もう二度とこの家には戻って来れないのではないか……と、翼はその予感を引き離す様にブルッと頭を振って、止まっていた手を再び靴ひもを結ぶ為に動かした。ギユッギユッ≠ォつくひもを結んでから、立ち上がり、右足のかかとをトントンと蹴ってから、左足も同じくトントンと蹴った。両足のシューズがフィットしたのを確かめると、一つ息をついてから、ゆっくり玄関の扉を開いた。既に辺りは真っ暗だ。
現地で何とかなるだろうと翼は両手にバッグの一つも抱えていなかった。追われる事を想定したとき、どうせそのバッグは投げ捨てるであろう。それに資金もたっぷりある。旅をするには多すぎる額だ。困ったらホテルでも何にでも泊まればいい。そう、強気のまま、一歩二歩と歩き出した。そして、翼は歩きながら確信していた。本当の辛さ、本当の戦いはここからなんだと、ここからが自分との本当の戦いになるんだと……。
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ダブル佐藤
新横浜から新大阪行きの新幹線に乗り込んでから、はや一時間以上が経過していた。退屈な時間とはいえ、翼は一睡もせずに窓から見える風景に目を注いでいた(スピードが速すぎてしっかりとは確認してないが)。それと、通路を挟んで隣の席に座っている、仲の良さそうなアベックからは嫌味な会話が聞こえてくる。
「それよりさーどうなってんの?」
彼氏が彼女に聞く。
「どうなってるって? 何が?」
彼女は聞き返す。
「やってるじゃん。鬼ごっことか言う王様が勝手に決めたやつ」
「あ……」
と手のひらにグーをポンと乗せて、
「何か、実行されているらしいよ」嫌そうな目で、いかにも迷惑そうに話している。
「でもよ、捕まった人達って……本当に殺されちゃうのかな?」
そのセリフだけ声を潜めて言った。翼には丸々聞こえていたのだが、寝ているふりをしていた。
彼女はいともあっさり彼氏の質問に答えた。
「本当でしょ? だって、王様の命令だもん。逆らえる人はいないよ」
「そうだよなー」
深刻そうな表情を浮かべた彼氏は、
「でもよ俺達、佐藤じゃなくて良かったよなー」
一変して、安心した表情というより、それは佐藤さん達を馬鹿にしている顔だった。その証拠に彼氏は吹き出しそうな口元を必死になってこらえている。その言葉に体がピクッと反応した翼は目を開き、首を横にグルッと向けて、にらみつけた。それにいち早く気づいた彼氏は眉をひそめ、翼に向かって、頭を下げた。その様子に彼女も振り向いて、翼に頭を下げてきた。翼は無反応のまま再び目を瞑つた。尚も、ヒソヒソと聞こえてくる。最初は自分たちがうるさかった為に、にらまれたと思っていたカップルなのだが、よくよく考えてみれば、にらみつけてきた人の名字が佐藤だった事にようやく気づいた様だ。それから一切カップルはその話題には一度も触れず、翼が気づいた時にはお互い寄り添ってグッスリと眠っていた。
スポーツ新聞にも目を通していた。テレビ欄以外は滅多に見ない翼なのだが、この時は新聞が読みたくなった。もちろん、目的は王国の今の状況や鬼ごっこに関する情報などを知っておきたかったからだ。それ以外の事は一切興味がなかった。
翼が手にした新聞には一面大きく、鬼ごっこが取り上げられていた。とうとう三日目に突入! リアル鬼ごっこ! ≠サれが見出しであった。内容的にはこうであった。
『国王が提案した鬼ごっこが実行されてから、三日目に突入した。なおも王国中の佐藤さん達を脅かすリアル鬼ごっこ。いまだ、犠牲となった佐藤の名を持った人々の数は報告されていない。見当もつかない状況である』それもそのはずだ。王国には何人の佐藤さんがいると思っているのか? およそ五百万人だ。五百万人。その五百万人全てを消そうとしているこの計画、改めて全身がゾッと震える。
一通り読んでから翼は新聞を棚の上に置いた。読みたい方がいらっしゃるならどうぞ、つまらない事しか書いていないけど……。
焦る気持ちをグッと胸に押さえつけ、翼は静かに外の風景に目を戻していた。ある一つの思い出が翼の脳裏をかすめた。そして、呟いた。
「そういえば、あいつも大阪に転校して行ったんだよな」独り言を続けた。
「捕まっていなきゃいいけど……」
更に続けた。
「ま、どちらにせよ会う事はないだろうけどな」
言って翼は苦笑いをした。
それからしばらくして、車内放送が流れた。
『ご乗車頂き、まことにありがとうございます。ご乗車の皆様にお知らせします。もうじき、新大阪に到着いたします。お荷物等の忘れ物にはくれぐれもご注意下さるようお願い申し上げます』
プツッと切れた。周りの人間もその放送で慌ただしく動き始めた。トランプを片付ける者、眠りから覚めて背伸びをする者。子供と一緒に慌ててトイレに駆け込む母親。皆、それぞれに落ち着きがない。だが、翼は妙に落ち着いていた。というより、焦る気持ちをこらえていただけなのかも知れない。
その証拠に脈拍の回数が明らかに早くなっていた。あとは新大阪に到着するのを静かに待つだけだつた。
長いトンネルを抜けるとすぐに新幹線は徐々にスピードを落とし、ゆっくりゆっくりと、ホームに入って、静かに停車した。プシュー≠ニドアが開いたと同時にホームの放送が翼の耳に届いていた。
『新大阪・新大阪』この放送が聞こえるやいなや、目を静かに閉じていた翼はパッと開き、
「よし」と小さく意気込んだ。それから立ち上がり、新幹線からホームへと静かに降り立った。
翼の顔つきは一転した。初めての場所に右も左も分からず、さすがに緊張の色は隠せなかった。今は輝彦が言い残した言葉をひたすら繰り返しているだけ。しかし、それは言葉だけで行き方などはさつばり分からない。取りあえずは聞いた方が良さそうだ。何しろここは大阪。聞けば愛想良く答えてくれるだろう。翼の頭の中ではそのはずだった。
翼はすぐに行動へと移し、最初は駅にいる職員に教えてもらった。丁寧に教えてくれた為か翼でもすぐに行き方が分かった。新大阪から乗り換えなければならないらしい。ここから淀川区は距離的にそう遠くなく、近いようだ。
行き方が分かればぐずぐずしている暇はない、それに時計の針は十時を回っているのだ。十一時になればいつもの様に全ての乗り物が運行ストップされる。その前にはどうしても目的地だけには着いておきたかった。翼は教えてもらった通りの電車へと乗り換えた。
乗り換えてから何分が経ったであろうか、翼の気持ちは既に愛へと向かっている。何分が経ったかなんてそんなのどうでもよかった。駅員の話によれば、もうじき目的の駅に着くはずなんだけど……まだか?
『次は十三、十三でございます』
ようやく流れたこの放送に翼はひとまず安心した。それからしばらく電車は走り、ホームにゆっくりと到着した。
ドアの目の前に陣取っていた翼はドアが開いた途端、不安な気持ちの裏返しだろうか、ポケットに手を突っ込みながら
「よっと」軽くジャンプをして、両足で着地しホームに降りた。心の中とは全く逆で軽快な動作だった。
駅の改札口をくぐってから、翼は一歩表に出た。緊張感が高まる。自然に体が引き締まる。それに気がついた事が一つだけあった。重要な事が一つ。それは車が走っていなかった。慌てて腕時計を確認する。翼は思った。それもそのはずだ。もう二分ほどで恐怖の鬼ごっこが始まるのだ。もう慣れた。
それにしても本当に王国中の人間全てが規約を守っているなんて、凄いな。と翼は思わず感心してしまっていた。車は一台も動いていない中、時計の針だけは確実に時を告げていた。
毎度のアナウンスが流れた。これまた全国共通なんだー、と実感した。そして、アナウンスが終了した後、恐怖のサイレンが大阪中に響き渡った。
十二月二十日、水曜日、リアル鬼ごっこ℃O日目……スタート。
体全体がこわばった。サイレンを聞くのは今日で三回目のはずなのにこれだけは何度聞いても慣れるものではない。ああ、いつまでこんな生活が続くのやら。
もちろん初めての町でこれこそ右も左も分からない状態だった。だが、そうも言ってはいられない、この一時間だけは全神経を集中させて、鬼を警戒しなければならないのだ。しかし、初めての場所で鬼から逃げるのは地理的に不利だというのは変わらなかった。
鬼を警戒しながら店も何もない静かな裏道に入ってから、約十分が経過した時であろうか、この日は何ともついていなかった。三十メートルほど先の曲がり角から足跡が聞こえてくる。辺りは静かだつたので、ちょっとした音でも耳にはそれが届いていた。
「まさか……」
小声で言った。曲がり角からは一瞬たりとも視線を外さなかった。電灯の明かりに反射して、影が映る。吉と出るか凶と出るか……。
曲がり角から影が姿を現した時、既に翼はクルッと振り返って、猛ダッシュで逃げていた。紛れもなく鬼≠セった。全国共通の格好をした鬼≠セったのだ。大凶だった。今日の占い確かめてないけど、恐らく最悪であろう。
鬼もターゲットである佐藤≠ェ自分に背を向けて、逃げ出したのが目についたのであろう。後ろでは警戒発信が鳴らされていた。翼は逃げた。幸いな事に今回は鬼が気づく前に自分が先に逃げたのだ。走りながら後ろを振り返った。それが功を奏したのか、その時で翼と鬼との距離は相当離れていた。それに今追いかけて来ている鬼はさほど足も速くなかった。これなら楽勝だ。翼は一気に鬼をまこうと、曲がり角を右や左に適当に曲がって鬼を惑わした。確認の為、翼は走るのを止めて、その場で止まった。耳を澄ませても、足音一つ聞こえない。
「ふ〜」と力の抜けた息を吐いたその時だった。
安心もつかの間、ずっと遠くの方で警報が鳴らされたのだ。翼はビクッと体を反応させてから、素早く後ろを振り返った。鬼だ! 先程の鬼かどうかは分からないが、現れた場所から推測すると恐らく違う鬼であろう。
「くそ! マジかよ!」苛つきながら言うと、向き直り、休む間もなく翼は走り出した。体力的にはまだまだ余裕がある。翼は全力疾走で駆け抜けた。チラッと振り返る。距離でいうと……今はそんなの計算している場合じゃない。とにかく距離は徐々に離している。大丈夫だ。大丈夫。そう言い聞かせて、平常心を乱さぬよう心がけた。パニックになってしまったら、息が切れるのも早くなる。落ち着け、落ち着け自分……。
今回の鬼はしつこかった。翼との距離を縮める訳でもなければ離れる事もなく、翼の遙か後ろで必死に食らいついてきた。この鬼だって死ぬ思いで追いかけているに違いない。せっかくの獲物を逃せば次の獲物を探さなければならないし、それが出来なければ自分の命も危うい状況。必死にならない訳がなかった。
ここまでで何回振り返ったであろう。翼はもう一度、振り返った。まだ追いかけて来ている。
「ち! しつけーな」戻した。随分と走ったであろう、お互い既に全速力ではなくなっていた。それは何処かしらマラソン大会にも似ていた。給水所はまだか?
ここまでくると長期戦と言わずして他の言葉が見当たらない。どちらが先に潰れるか、それで勝敗が決まる様だ。ここからは駆け引きの勝負。翼にとったらお手の物、だてに四百メートル走に出ていない。そのへんのところは翼が圧倒的有利なのかも知れないが、不利な点が翼の中で一つ思い浮かんでいた。それは今の状態でまた、違う鬼に遭遇した時だ。現に先程と違う鬼に追いかけられている今、可能性がないとは言えない。もしそんな事になれば、さすがの翼でも逃げ切れる可能性が少なくなる。
最大の危機に陥る訳だ。最悪の事態だけは起こらぬようにと神様に願いつつ、今は走るしかなかった。
「いいよ、やってやるよ。どちらが先に潰れるか勝負してやる」
ひたすら前を見つめ小さく言った。翼を今左右しているものそれは恐怖よりも陸上選手、最高記録保持者のプライドなのかも知れない。プライドにかけてこの勝負……負けられない。
それからしばらく走り続けると、翼は後ろを振り返り、ニヤリと口元を浮かせた。とうとう鬼はこらえきれずに立ち止まり、その場で膝に手をついて、追いかけるのを諦めた映像が瞳に映っていたのだ。少なくともその様に見えた。翼は足を止める事なく、鬼との距離を一気に突き放した。鬼の姿が段々と小さくなっていき、消えた。先程の鬼からは完全に逃げ切った様だ。今は鬼の気配すら感じられない。急にまた他の鬼が現れれば話は別だが、ここまで来ればオモチャ≠熹ス応出来まい。取りあえずあの鬼からは勝ったのだ。一呼吸置いて、多少息を弾ませながら翼は眩いた。
「ここまで来ればって……ここは何処だろう?」
翼は辺り一面を見回した。何だか大きな橋が二つ架かっている。それに辺り一面に広がる大きな……川だ。それで翼は認識した。これが淀川なのだと。さすがに淀川区と言うだけあって、大きな川だった。この淀川を越えるとこれまた違う町の風景が見渡せる。それはまあ、いいとして……ん? どうしたんだろう。翼は自分から見て右前方に目を凝らす。一人の男性か、それとも青年らしき人物が息を切らして座り込んでいるのが目に飛び込んできた。鬼ではないようだ。直感した。彼もまた、佐藤なのであろうと、それくらいしか考えられなかった。周りに目を配り注意を払いながら翼は男の所へ歩いて行った。次第に激しい呼吸が聞こえてくる。翼が静かに近寄るせいか、男は翼の存在に気づいていない様だ。ただ息を吐き、呼吸を整えているだけであった。
翼は目の前で立ち止まった。もしやあなたも佐藤さん? その様な質問から入っていこうと口を開けた途端に男は翼の存在に気づき、向いてから言ってきた。
「なんや? 何か用か?」
男はやくざ口調で言ってきた。何かに苛ついている様子だった。それで翼も引いてしまった。
「あ、いや、あの……」
語尾を引きずり、次の言葉を探している最中、男は翼の顔をじっと眺めている。いや、眉間にしわを寄せてにらんでいると言った方が相応しかった。思わず翼は目をそらす。声をかけに行ったのは問違いだったか……後悔した。
男は翼の顔をじっと見ながらポツリと言ってきた。
「なあ、どつかで会うた事……ないか?」
「え?」
男に視線を戻した。暗くてよく見えない。翼も眉間にしわを寄せながら、男の顔をじっくりと眺めた。
「どつかで、見たことあるんやけどな……」
語尾を伸ばしながら男は手を組んで、首を傾げながら必死に思い出している様だ。確かに翼もそれは感じていた。背は高めで筋肉質、ちょっぴりつり上がっている目元に立てた髪、よく通る声、聞き覚えも確かにある。それに初対面といえない程の馴れ馴れしさ、この男……まさか! あいつじゃないだろうな。そう、思った途端に人違いだとしたらどうしようかと言おうか迷ったのだが、考えよりも先に口が開いていた。
「まさか、洋か?」
男の顔を覗きながら聞いた翼は、
「まさかな……ははは」
半笑いでごまかした。しかし、気のせいであろうか、男の目が瞬間パッと見開いた様にも思えた。そして、男は立ち上がり顔を引きつらせて言った。
「じや、じゃあ、お前……翼か?」
瞬間に反応した。
「へ? じゃ、じゃあ……本当に……洋なの? ウソだろ?」
あまりの驚きに翼の声もかん高く裏返っていた。
「佐藤翼……翼やろ? そうなんやろ?」
翼の肩に両手を乗せて、激しく揺らしながら聞いてきた。男はかなり興奮している。
「そうだよ! 俺は佐藤翼……じゃあ……本当に洋なんだな? 佐藤洋なんだな?」
何度も確認をする翼。
「そうや! 俺は佐藤洋や!」
翼の肩をギュッと掴んでそう答えた。二人は瞳をキラキラさせながら見つめ合った。よほど信じられなかったのであろう。何回もの確認によりようやく、お互いが昔からの知り合いだという事を認識した。奇跡だった。これこそ本当の奇跡だと翼は胸を踊らせながらそう思っていた。サイコロを十回振って、十回とも一の目が出るくらいの奇跡。興奮していた翼はもう、それくらいの例しか浮かばなかった。とにかく奇跡だった。
「翼!」
「洋!」
歓喜の声を上げほぼ同時に呼び合ってから、胸の辺りでガッチリ手を合わせ、そして離した。翼が先に口を開いた。
「今でも信じられないよ! ここにいるとは聞いていたけど、まさか、まさか洋と再会出来るとはな」
翼も相当興奮していた。鼻息が荒かった。洋はすぐに返した。
「俺かてそうや! まさか、こんな所に翼がおるとはな! 今でも信じられへんわ! 夢ちゃうよな?」
翼はにやっと笑い、
「夢じゃねーよ。それにしてもまさか本当に洋に会えるなんて……今でも心臓がばくばくしてるぜ!」
それで笑い声がこだました。
久しぶりの再会に二人はしばらくの間、共に分かち合っていた。今、自分たちがどんな現状に立たされているのかも何もかも忘れて……。
『佐藤洋』この人物こそが翼が送る中学校生活、唯一の親友……よりも先に浮かぶ言葉が悪友≠ナあった。それくらい洋はワル≠ナあった。そして、翼も洋の影響を受ける事となっていく。
それは中学一年が始まりだった。中学校へ進学して最初のクラスで翼は洋と同じクラスになっていた。それも出席番号の関係で洋は翼の真後ろに座っていた。もちろんその時はお互いの名前や顔は知るはずもなかった。そして、緊張の中、クラス全員の自己紹介が終わって休憩時間に入った時に洋から声をかけてきた。
「お前も佐藤なんだ……俺は佐藤洋。よろしくな!」
当時から元気丸出しの洋は握手しようと手を出してきた。しかし、当時の翼は陸上部にも入っておらず、走る事にも何も興味がなかった。自宅で毎日の様に輝彦の暴力を受けており、それが原因で全てが真っ暗だった。目の輝きなど今とは比べ物にならない程に。明るい洋とは対照的に暗い表情の翼は何の興味も示さず一応手だけは出しておいた。そんな翼に洋も一瞬戸惑いもしたが、ガッチリと握手をした。離した。
「じゃ、お互い仲良くしようや!」翼の肩をポンと叩いて洋は廊下へ出ていった。この時から洋の馴れ馴れしさは変わっていないのだが、洋は何かを感じていた。あいつ≠ヘ他のヤツらとは何か違う物を持っていると。
授業が始まった。洋は翼を尻目に机の上で手を枕代わりにして、眠っていた。その時には洋の事は頭に残っていなかった。もしかしたら握手した事でさえ忘れていたのかも知れない。
授業の間、一応翼は起きていたものの、教師が黒板に書いてもそれを一つも写さずにただ教科書とノートを広げているだけであった。隣に座っている女の子も、うつろな目をした暗い表情の翼が怖かったのであろう。一言も声をかけられなかった。洋は相変わらず能天気に授業も関係なく熟睡をしているのだが。
鐘の音と同時に最後の授業が終わりを告げた。ホームルームの後、翼はそそくさと教室を出て、自宅に帰ろうとしていた。その時、後ろで自分の名前が呼ばれているのに気がついた。
「おーい、翼! 待ってよ」
翼はゆっくりと静かに気味悪く後ろを振り向いた。
「やっと追いついた! お前帰るの早すぎだよ」
洋は息を切らしながら翼に言った。翼は無反応で洋を見つめていた。
「何とか反応しろよ。まあ、いいや。それよりさ、お前……これから暇か?」
洋は聞いた。
「別に……」
翼は小さくそう答えた。しかし、洋にとったらそれだけでも嬉しかった。何せ翼が初めて口を聞いてくれたのだから。
「おう、そうか! それじゃよー今から一緒に遊びに行こうぜ!」
嬉しさのあまり、洋の声は更に大きかった。廊下中に響き渡った。続けた。
「それとも、嫌か?」小さく言った。
「別に……いいけど」
翼は無愛想に答えた。自宅に帰っても本当につまらないと思っていた翼は一応洋について行くことに決めた。
「そうか! よし、じゃ! 行こうぜ!」
翼の肩に手を伸ばし、翼をある所に連れて行った。これが二人の仲の始まりだった。そして、この時から洋の悪い影響を翼は受ける事となっていた。
二人が向かった先は地元で有名なスーパーに足を踏み入れた。店内は綺麗で品揃え豊富。試食の品も豪華である。その為か店内はいつも大盛況、人があふれかえっている。値段も安くみんなニコニコ顔だ。そして、洋の顔もニコニコしていた。今から計画を実行するには条件が整っていたのであろう。
翼は理解出来なかった。何故、こいつは遊ぶのにスーパーなんて所に入ったのか? 何故ニコニコ顔なのか?。別に興味ないけど……。
疑問に感じている翼をよそに洋はお菓子コーナーに歩いていく。ズラリとお菓子が並べられている所で洋は足をピタンと止めた。そして、翼の耳元で周りを気にしながらささやいた。
「いいか? 珈異……やるぞ」
「は? 何を?」
珍しく本心から出た問いだった。
「まーまーいいから、よく見てろよ」
と素振りはソワソワしていた。この時、翼は何となく予測がついた。それは見事当たっていた。洋は目だけをキョロキョロとさせて、慎重に百円ガムを手に取った。そして、もう一度目をキョロキョロさせて……取った!
素早くポケットにガムをしまったのだ。早かった。実にその行動は目を仰天させる程に早かった。感心している場合ではないが、本当に。こいつ、慣れてるなと心で思ったものの洋を止めようとはしなかった。翼の心も歪んでいた為か、万引きに対して何も感じていなかったのだ。別に心臓の動きが早まる事もなかった。ただ、洋の行動を静かな目で見ているだけだった。洋は勢いに乗ったのか、何個も何個もポケットに詰め込む。
「よし、翼、出るぞ」
耳元でささやいた。この時、洋のポケットにガムやお菓子が何個も入っていた。右のポケットはもう、パンパンだ。
翼と洋は平常心を装い、何事もなかったかの様に店の扉に手を置いた。同時だった。
「君達、ちょっと待ちなさい」
後ろで男の静かな声が聞こえ、二人は体がピクッとなり、止まった。後ろで男が一歩二歩と近、ついて来るのが足音で分かる。周りの目は二人に集中していた。翼と洋は静かに目線を合わせた。お互い頷き洋は言った。
「行くそ!」
そのかけ声と同時に二人はドアを開き、一気に外へと逃げ出した。
「こ、こら! ガキ共! 止まれ!」
男は叫ぶと、二人を全力で追いかけた。しかし、二人の足は速かった。翼はともかく、洋もそれに負けないくらいの速さだった。男の叫び声が段々と小さくなっていき、やがてそれは聞こえなくなった。翼と洋はとある公園へと逃げ込んだ。二人は息を切らしながら、その場に腰を下ろした。しばらくの間、二人は激しい息づかいで呼吸をしている。そして、ようやく落ち着いてから、二人は顔を見合わせた。最初に洋がプププと吹き出し、大声で笑った。それにつられて翼も大声で笑った。何年振りだろうか、翼が心の底から笑ったのは。これ程までに笑ったのは生まれて初めての事かも知れなかった。しばらく、二人の笑い声は続いていた。
洋との出会いで翼は多少人に心を開く様になった。それは徐々にであるが、確実に翼の人格も明るく変化していった。そのきっかけが洋との万引き≠ニいうのが考えものだが、とにかく翼は明るさを取り戻していった。
それから二人のワル≠ヘエスカレートしていった。店で品を盗むのは当たり前、他校のガラスを割ったり、物を壊したりとそれはまあ、派手に暴れていた。あの頃はガキというか何に対しても二人は怖いもの知らずだった。次第に二人の噂は学年中にまで広まった。それを耳にした同級生の男子は二入を恐れて近づくのを控えていた。その反面、優等生以外の女子生徒達はそんな二人に憧れを抱いていた。中学生なんてそんなもんである。ちょっと不良っぽい男の子に憧れてしまうのだ。その中学一年とは思えない大胆ぶり、そして、中学一年の生徒達より大きくかけ離れて、有名だった二人についたあだ名があった。それがダブル佐藤≠ネのだ。
毎日洋と同じ様な生活を送りながら、はや一年が経過し中学二年に上がっていた。そして、陸上部へのスカウト。さすがに翼も違った自分を見つけたかったのであろう、陸上部に入部。それにつられてか一応洋もサッカー部に入部した。それから二人のワル≠ヘピタッと止んだ。あの時の二人はことわざにある、小人閑居して不善を為す≠ワさにそれだった。元々根っからのワルではなかった二人は、目標が何もない為についつい悪い行動へと走ってしまった。しかし、お互い目標が見つかってそんな事をする暇がなくなったのだ。今思えば馬鹿馬鹿しい事である。そうして部活に燃え始めた二人。それでも仲は決して離れる事はなかった。中学を卒業して、通う高校は違っても、二人は連絡を取り合っていた。
お互い部活に忙しくてなかなか会うことは出来なかったが、お互いの存在が消える事は決してなかった。
サッカーでの洋の噂は翼の耳にまで届いていた。翼同様素質があったのであろう、洋も力をつけていき、プロの団体も目をつけていた。将来は選抜チームに選ばれるかも、とまでささやかれていた。
そして、翼が有名大学に進学すると洋も有名大学にスカウトされてサッカーをやるために進学した。
洋について翼が知っているのはここまでで、大阪に住んでいるのは知っていたのだが、まさかこの場所にいようとは……それも愛がいるやも知れないこの場所に……偶然と偶然が重なった今、翼は夢を見ているようだった。洋との再会が本当に信じられなかったのだ。
お互いがあの頃の楽しい思い出に浸っていた。最初に洋が翼に問いかけた。
「なあ、翼」
この呼びかけで昔の映像がプツリと途切れた。
「ん? どうした?」
目線を洋に向ける。洋は思い出すようにして聞いてきた。
「そうだよ。どうしてお前がこんな所にいるんだ?」
翼はその問いかけで一気に現実の世界に引き戻されてしまった。先程までの勢いは何処かへ消え去ってしまい、今は浮かない表情で下を向くだけだった。洋は再び聞いてきた。
「ん? どうした?」
「ああ……実はな……」
それから先を話そうと洋に目線を戻した時だった。洋は慌てた様子でとっさに翼の口を片手でふさいだ。モゴモゴとする翼に人さし指を立てて、静かにと表した。翼は動きを止めて、口を噤む。洋は自分たちが位置する遙か西の方を軽く指さした。翼の目が大きく見開いた。一気に緊張の糸が張りつめる。そして、洋は翼の耳元でささやいた。
「鬼や。反応しているんやろ。俺らの存在には気づいていない様やけど、こっちに向かって来てる」
そう言うと、翼と洋は鬼の様子を確認しながら、静かに立ち上がった。
「焦るなよ」
洋は鬼から目を離さず小さく言った。唾をゴクンと飲み込みながら翼は頷く。
「行こう」
洋が言うと、二人は静かに後ろを振り向き、鬼に背中を向ける状態となった。いまだ警報は鳴らされていない。大丈夫だ……。
二人は慌てず、落ち着いた様子を装って、第一歩を静かに踏み出した。そして、二歩、三歩と、少しずつではあるものの、確実に鬼との距離を離して行く。落ち着いた行動とは裏腹に二人の心臓は激しい鼓動で今にも破裂しそうであった。
二人は歩くベースを乱さず、自然体を維持していた。このままうまくいけば見つかる事なく、鬼から姿を消せる。二人は同じ事を胸の内で確信しており、そのはずだった。しかし、この鬼ごっこ、そう甘くはなかったのだ。
ついいいいいいん@ю周辺にかん高い警報が発せられた。少人数ではあったが、その場にいた無関係である人々の視線も一気に集中した。そして、二人だ。ビクッと体が反応し翼と洋は歩くのを止めて、同時に後ろを振り返った。追いかけて来る。紛れもなく自分たちを捕まえようと鬼が全速力で追いかけて来る。……そして鬼の方を向きながら、
「逃げろ!」
洋はそう叫ぶと二人は同時に駆け出した。
翼は逃げながら一瞬後ろを振り返る。追いかけて来る。しかも今度の鬼は足も速かった。それでも二人の足には及ばなかったが、油断が許されない今の状況。翼は恐怖に駆られた表情をしていた。それとは全く逆で洋は後ろを振り向くと、中指を立てて鬼を挑発したり、自分の尻をペンペンと叩き、いかにも恐怖の鬼ごっこを楽しんでいる様だった。そんな洋の不可解な行動に、目を白黒させて驚いたのだが、翼はやれやれと苦笑いをした。変わっていなかった。洋は昔に比べて何ら変わっていなかったのだ。あの頃と同じ無邪気な洋を見ているうちに、翼は何だか懐かしさを感じていた。嬉しかった。
今は恐怖を感じているはずなのに、この時だけは嬉しかったのだ。そして、翼の脳裏にあの時の思い出が繊細に蘇っていた。そう、初めて一緒に逃げたあの時の事を。成り行きやシナリオはあの時とは全く違うが、全速力で二人一緒に逃げているのはあの時と変わりない。スリルを求めていたあの頃と何ら変わりない。恐怖なんて感じねー、今は恐怖なんて感じない! なんせ俺らは怖いもの知らずと言われたダブル佐藤≠セぜ。
翼から恐怖という二文字は完璧に消えていた。二人は顔を見合わし、にやっとすると、再び前へと戻し、ひたすら逃げ続けた……。
今の鬼に追いかけられて、十分は経過しただろう。いまだ鬼との距離は相変わらずだった。危険な位置でもないが、安全圏でもない、微妙な距離を保っていた。翼はチラッと洋の表情を窺った。さすがの洋でもこれだけ走るときついのか、先程の余裕は消えていた。事実、翼の息も多少は弾んでいた。
まだまだ限界には達していないもののここまでスタミナが消耗したのは三日目にして初めての事だった。しかし、立ち止まる訳にはいかない。鬼は今でも追いかけて来ているのだから。
洋の表情は益々険しくなるばかり。それでも鬼は追ってくる。逃げる事だけを頭に入れて、それに集中している二人の耳に天使の合図が鳴り響いた。翼はその合図と共に後ろを振り返った。鬼が腰に手を当てて、こちらをずっと眺めながら立ち止まっている。その瞬間、翼はホッと胸をなで下ろし、速度を落として一旦足を止めようとした。洋もそうしたいはずだと、翼は前に向き直った。しかし、気−、ついていないのか洋はいまだ走り続けている。声をかけた。
「洋! もう大丈夫だ。終わったよ」
そんな翼のかけ声にも気づいていないのか無視するかの様に洋は走り続けている。再び呼び止める。
「おい! 洋!」
やはり走り続けている。翼は首を傾げながら一応洋を追いかけた。そして、洋が向かった先は小さな小さな公園だった。翼はにやっと笑い、同じく公園の中へと入っていった。
二人は公園の地面に尻をついて、足を大の字に伸ばした。洋は小刻みに呼吸をする。翼の髪が汗でボサボサに乱れている。多少息も荒れていた。お互い落ち着いてから、ふと顔を見合わせた。洋が先に吹き出して、大声で笑い始めた。翼も大声を出して笑った。あの時の光景とまるっきり一緒だった。
全て洋の演出だと翼は分かっていたのだが、これ程まで同じ場面になろうとは。翼はあの頃に戻った様な気がしていた。あの頃、洋と出会って、何も怖くなかった無邪気な自分を思い出していたのだ。そんな自己満足に浸っている最中、洋は翼に言ってきた。
「楽勝やな! あんなもんで俺らが捕まるとでも思うとんのかい。な?」
言葉とは裏腹に洋の息はまだ切れていた。翼はフッと鼻で笑ってから、
「よく言うぜ! さっきまで、辛そうな顔浮かべてたくせに」
洋は言い返してきた。
「アホ! ワザとや! 鬼に油断させようと思っただけや!」
「はいはい、そうですか」
何とも平和な会話だった。この二人を見ていると今王国中で何が行われているかも忘れさせてしまうくらいに……全く洋らしいと翼は言った後、笑みを浮かべて洋に目線を向けた。洋も笑みを浮かべて、向いている。目が合った途端、再び二人はクスクスと笑った。本当に本当に洋はあの頃のままだった。何事も冗談で流してしまうところやこの子供じみた笑顔。
どこも変わっていなかった。変わったと言えばこの言葉。それは仕方が無いとして、それ以外、洋はあのままだった。
「はー疲れた」
力の抜けた声を出しながら洋は地面に寝転がった。翼もボーっとしていた。しばらくお互い口を開かず、沈黙が続いた。一段落が着いて洋は夜空を見つめながら真面目な語調で聞いてきた。
「聞かせろよ。話の続き」
言って翼に目線を向けてきた。翼はチラッと洋を見てから戻し、遠くを見ながら頷き答えた。
「ああ……」
それから翼は全ての経緯、事情を全て洋に話した。益美が死んでいた事や、輝彦がこの鬼ごっこで犠牲になって死んでいった事、そして、最後に輝彦から愛の居場所を教えてもらった事、それで今自分が大阪にいる事、全てを洋に話したのだ。聞き終えた洋は上体を起こして、翼の気持ちを察すように
「そうか……二人共な……」
洋はその言葉で、ひどく落ち込んだ様子で俯いてしまった。
「ん? どうした? 何か……あったか?」
翼は言った。続けた。
「そういえば、洋……お前の両親は?」
洋の顔を覗いた。洋は一つ呼吸を置いて
「捕まった。二人からの連絡が昨日から途絶えた。恐らく二人も……」
「ごめん……余計な事を」
そこで言葉を切って洋に謝った。洋は首を横に何度も振って翼に言った。
「翼が謝る事やない」
優しい口調で言ってから途端に目を鋭くし、形相を変えて今度は強い口調で言った。
「あいつや! あいつがこんな事を考えなければみんな平和に暮らしていたんや! あいつのわがままな発想のせいで、俺の両親も死んでった。お前の父親も。王国中の佐藤があいつのせいで滅んでいくんや! くそ!」
「洋……」翼は小さく言った。洋はなおも勢い込んで主張を続けた。
「俺は許さへんぞ! 絶対にあいつは許さへん! 必ず一週間逃げ切って、あいつに復讐したるんや! お前だってそう思ってるやろ?」
「ああ……」
翼は深く頷いた。続けた。
「俺も、いくら嫌いだったとはいえ、おやじの死を無駄にはしたくない。必ず愛を見つけて、一週間逃げ切るよ」
洋は感心するように何度も頷き
「そうやな。まずは愛ちゃんを見つける事が先決やな」
「ああ、俺が助けないと」言って翼は俯いた。浮かない表情をしている翼をじっと見つめていた洋は
「よつしゃ!」
と言ってスッと立ち上がった。翼は洋を見上げてた。洋は翼を見下ろし、明るく言った。
「何をボーっとしとんねん! 俺も一緒に捜したる! 明日から一緒に愛ちゃんを捜そうや!」
「洋……」
今にも翼の目からは涙が出そうであった。しかし、それをグッとこらえて翼は、
「ありがとう」
心から礼を言った。洋は頭をかいて照れながら
「ほれ、立てや」
手を差し出し、翼を立たせた。言った。
「とにかく、俺のアパートに行こう。な?」
「ああ、何から何まで、すまないな」
「何を水くさい事を! 俺ら、親友やろ? 遠慮はいらんて」
洋は翼の肩に手を置きながらそう言った。付け足した。
「まあ、着いたら昔話でもしようや! 陸上でのお前の話も聞きたいしな」
「ああ!」
今はそんな事を言っている場合じゃないだうと思いつつも、翼は分かっていた。洋は嫌な事を忘れさせてくれているのだと、これが洋の優しさなんだと、翼は分かっていた。
「よし、行くで!」なおも翼の肩に手を置いたまま元気良く言った。翼もあまりの明るさに苦笑いをした。かくして翼は洋と共に洋のアパートへと向かって行った。リアル鬼ごっこ℃O日目……終了。
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荒れ狂う王国
十二月二十一日、木曜日。リアル鬼ごっこ≠ェ開始されてから四日目。とうとう王国が荒れ始めた。王国各地で窃盗、強盗、放火、誘拐、殺人という凶悪犯罪が王国中を支配していった。被害に遭って悲鳴を上げる一般市民、施設が燃やされて泣き叫ぶ子供達、全てが悪夢にとりつかれていた。警察も緊急配備を敷くものの手に負えない状態であった。大きな罪、小さな罪に関わらず現在逮捕されたのは実に一万人を数えた。そして、調べていくうちに驚くべき事実が発覚した。一万人の中のほとんどが佐藤≠ニいう名字だったのだ。動機の内容はほぼ見当が付いていた。一週間逃げ切れる訳がないと諦めた佐藤達はどうせ死ぬなら≠ニ開き直りそれが犯罪に結び付いたのであろう。そして、佐藤以外の犯罪を犯した容疑者達も同じ様な動機であった。友人や恋人、親戚に佐藤≠フ名字がいたそれぞれの容疑者は、国に反発する意志を犯罪という形で示したのだ。この出来事はニュースや新聞にでかでかと取り上げられた。
『リアル鬼ごっこが原因か? 王国各地で佐藤°・悪犯罪勃発』
新聞ではそう大きく見出しが載っており、その下に全ての内容が記されていた。
「昨夜にかけて王国各地で続々と被害が広まっています。これは我が国王が発案し、三日前から実行されているリアル鬼ごっこ≠ェ原因と見られています。これから被害は止むことなく、益々大きくなっていくでしょう」
テレビのチャンネルを何処に回してもそれ関連のニュースしか放送されていなかった。ようやく、王様に対して遠回しではあるものの反発の声が聞こえてきた。
このリアル鬼ごっこ≠ナ被害を受けるのは佐藤≠ウん達だけではなくなっていた。王国中全ての市民が被害を受け始めたのだ。全てはあいつ≠フ為に。王国中全てが揺れに揺れ、少しずつ音を立てながら王国は崩れ始めようとしていた……。
王国宮殿にも国が狂い始めたと言う情報は既に届いていた。無論、自分が批判を受けている事も王様は認識していた。しかし……
宮殿内には静かにクラシック音楽が流れ、慌ただしい気配すら感じさせない。そんな中、王様は口を開いた。
「じい、じい」
王様はワインの入ったグラスを片手にじいを呼んだ。じいはすぐさま王様の前でひれ伏した。
「何でございましよう? 王様」
じいは尋ねた。王様はグラスをグルグルと回しそれを見て楽しんでいる。口を開いた。
「どうだ? あれは順調か?」
あれ≠サこを強調していった。じいはとっさに答えた。
「は! 順調にございます」
王様は一つ間を開け、
「……そうか」グラスには王様の満足そうな笑みが映っていた。そして続けた。
「これまでに……何人の佐藤を捕まえた?」
「はい、今のところ……約半数以上は数えるかと……」
じいは続けた。
「その捕まえた佐藤達を極秘の収容所に連れて行き、眠るように……」
じいはそれ以上は言葉に出さなかった。その言葉を発した途端に側近全ての人間がじいに視線を持っていった。唾をゴクンと飲んでから目を伏した。王様はいまだグラスを見つめながら呟いた。
「半数以上か……」
言って口を閉じた。まるで死んでいった佐藤£Bはどうでもいい。そんな感じだった。じいは唾をゴクンと喉に通し、反応を待つ。
「上出来だ。四日目にして半数以上とはなかなかの好成績。思ったより事は進んでいる様だな」グラスを下ろし、じいに目線を変えた。そして、
「じい!」
声を張った。じいは体をビクッと反応させ、
「は、はい!」
「さすがはじいだ。後に褒美を取らせよう」
言ってワインを一口飲んだ。じいは緊張の糸が切れるかの様に息をドッと吐いて、
「あ、ありがたき幸せ。光栄に存じます」
「うむ。しかし、まだまだ私は満足しておらんぞ。もっともっと佐藤を減らすんだ。良いな?」
「は! 王様の期待に背かぬよう努めさせて頂きます」
王様はじいの毅然とした態度に満足そうに小さく頷き、
「そこでだ。これから数が減るにつれて、捕まえる可能性も少なくなってくるだろう。そこで鬼達の規制を変更する事にした」、じいは片眉を上げて王様に尋ねた。
「変更でございますか?」
「うむ。これからは共同で捕まえても手柄として認めよう。そして、今日からは一人捕まえる毎に多額の賞金を恩賞として支払う事を約束する。これなら今以上佐藤を減らす事が可能になる。良いな? この命令を王国中の兵士に伝えろ。もちろん捕まえられなかった兵士にはそれなりの重罰を加える。それもしっかりと伝えるんだ!」
王様はじいに指さし命令した。
「は! かしこまりました。それでは早速」
じいは内心思っていた。このままでは本当に佐藤の姓が滅びると。そう確信しながら後ろを振り返った。一歩、二歩と歩き、じいは言い忘れた事を思い出しハッと後ろを振り返った。
「それより王様。今、国で犯罪を犯し、捕まった者達はどういたしましょう?」
王様は興味なさそうに一言で答えた。
「同じ様に……殺せ」
言ってワインをもう一口。じいは躊躇う様に間を置いて、
「は、は! 承知いたしました」
言って再び後ろを振り返り、王様の元から去って行った。王様はただ満足そうにワインを飲み続け、不気味な笑みを浮かべていた。そして、じいが後にした部屋の陰では国王の実の弟がやりきれない表情で俯いていた……。
一方その頃、翼も洋のアパートで新聞紙に目を通していた。一通り読んでから、ため息を吐きながら新聞紙をテーブルに投げ置いた。テレビもついていた。もちろんそれ♀ヨ連のニュースばかりが報道されている。狂っていた。この王国もとうとう一つの計画の為だけに狂い始めたのだ。今はもう佐藤だからとかそうではないからとか言っていられなくなっている。このままでは本当に王国は滅びる。しかし、こればっかりは翼にもどうしようもない事実。出来る事なら自分がこの手で王国を救いたい。でも、出来ない。当たり前だが……。
無力な自分に悔しい思いで頭が一杯になる。そんな気持ちをグッと胸にしまって洋がトイレから出てくるのを待っていた。
「いや〜スッキリした」
満足感あふれるその表情と言葉とともに洋はトイレから出てきた。内心翼はトイレを待っている間にも愛を探すために行動したかった。新聞やニュースでも知っての通り今、王国は普通の状態ではない。尚更だった。尚更、愛の事が心配でいてもたってもいられなくなってきた。焦りと苛立ちが入り交じり、それは自然と仕草にも現れていた。コタツの中で足を小刻みに揺らしたり、テーブルの上で人さし指をコツコツと叩く。洋は翼の気持ちを見通していた。
「翼……落ち着け。焦っても仕方がないやろ?」
翼を宥める。翼もハッと気、ついて、動きを止める。
「あ、ああ……でも、早く愛を見つけないと」
仕草は落ち着いてもやはり表情には焦りが明らかに現れていた。洋は気持ちを察してか軽く目を閉じて何度も頷き言った。
「よし、行こう。これから愛ちゃんを捜しに行こう」
洋はダウンを羽織って翼に言った。その呼びかけに翼は勢い良くスッと立ち上がった。
「ああ! 行こう!」
洋より先に玄関へと向かった。洋は翼の格好を見て、制した。
「待って翼、これ着てけ」
「え? どうして?」
愛の事しか頭がいっておらず洋の意味合いがさっぱり理解出来なかった。
「昨日からそのジャージやろ? 俺の新しいジャージ貸したるわ」
洋は白のジャージを差し出しニコッと笑った。
「ああ、ありがとう」
翼は受け取ると、すぐさまそれに着替えた。言われてみればそうであった。鬼ごっこが開始されたあの日から翼は同じジャージを着ていたのだ。かすかに匂いも目立つ。着替え終えた。
「よし、行こう」
翼は洋の目を見ていった。洋も真剣な眼差しで頷き
「おし、行こう」
洋が先に玄関のドアの前に立った。その後ろ姿を見て翼は思った。あの目、洋が滅多に見せないあの真剣な目。あの目に変わった時の洋は非常に頼りになる。翼の脳裏に一つの出来事が浮かんでいた。
それは中学一年が終わろうとしている時だった。季節も今と同じ冬であったろうか。もの凄く寒いという記憶は鮮明に覚えている。そんなある日の事だった。毎日の様に二人して下校をしている最中にたまたま他校の男子生徒三人が二人と同じクラスの女子生徒に何だか文句を言っている。少なくとも穏やかな会話では無いと遠くから見ていてもそれは明らかだった。二人はすぐに女子生徒を助けようと止めに入った。
「おい! そんなもんにしといた方が良いんじゃないの?」
洋は言った。しかし
「なんだ? てめ! 関係ないヤツはすっこんでろ!」
三人のうち一人がそう凄んできた。洋はそれでも冷静に、
「その子さ、俺達と同じクラスのやつなんだ。だからもう、勘弁してやってくれ。な?」
洋は言う。翼は黙ってその様子を眺めていた。
「あ? 何でお前にそんな事を言われなきゃなんねーんだよ! ふざけやがって! 喧嘩売ってんのか! こら!」
険悪なムードが漂う中、洋は小さく眩いた。
「やれやれ」
そして。
「翼、やるぞ」
先程とは打って変わって、真剣でなおかつ鋭い目付きで翼に言った。翼が頷く前に一人が洋に殴りかかってきた。洋は素早くよけて、飛びかかってきたヤツの腹を思い切り蹴った。蹴られた一人がウッと声を洩らす。次にもう一人が殴りかかってきた。これまた素早くかわして今度は顔面めがけて思い切り殴った。殴られたヤツはよろけて倒れた。
洋は最後の一人をもの凄い剣幕でにらみつけた。それで最後の一人はひるんでしまい、やられた二人に肩を貸し、負け犬の名ぜりふ、
「おぼえてろよ!」
と言い残しトボトボと去って行った。すぐさま女子生徒が洋の前まで駆け寄って、何度も何度もお礼を言った。洋の顔は先程と一変した。にやついた表情で照れている。そして、女子生徒は最後に深く頭を下げて洋の前から去って行った。その後の二人の行動はいつもと変わらなかったが……。場面は戻る。
あの時、翼が直接関わった訳でも無いが、洋はあの時と同じ目をしたのだ。まるっきり同じ目。今度は俺の事も助けてくれる。洋となら不可能な事は何一つ無い。心配はいらない。必ず愛は見つかる。
そう内に秘め。かくして二人は妹の愛を探すためにアパートを後にした……。
二人は洋のアパートから隣町の新北野に着いていた。輝彦の言った事が正しいのならば、この町の何処かに愛が住んでいるに違いない。既に鬼に捕まっているのなら話は別なのだが、決してそんな事は考えたくない。捕まっていないことを信じて今はどんな手段を使ってでも愛を探すしかほかないのだ。しかし、町全体を歩き回って愛を探そうなど無茶にも程がある。そして、不覚にも翼は輝彦の弟の名前を知らなかった。接する機会が無かったし、何より輝彦に弟がいた事すら知らなかったのだ。実の親子とはいえ、翼は輝彦の事を本当に知らなすぎた。翼は一体十四年間の日々を誰と過ごしてきたのであろうか? そう実感させられる。しかし、今はそんな事を考えている余裕が無ければ時間も無い。とにかく頭を回転させた。より確実に愛を見つける方法を考えた二人は、同じ発想が頭に浮かんでいた。王国管理センターである。王国管理センターとは国全体で保管している全てのデータが詰まっており、それは各地域ごとに設置されている。そこなら少なからずの情報は得られるに違いない。とにかく今は情報を得るしかないのだ。そうと決まれば二人の行動は早かった。急いで王国管理センターへと向かったのだ。
センターに足を運んだ二人は色々と調べる事が多かった為か、出てきたのはそれから約三十分後の事だった。
しかし、得る物は得たのだが決して二人の表情はさえていなかった。それもそのはず、淀川区新北野には五十数軒もの佐藤さんがいるというのだ。この町だけでもこの数である。いかに王国内に佐藤という名字があふれているのか予測がつく。それにその一世帯一世帯の住所は分かったものの、下の名前は登録されておらず、愛≠ニ言う名前を調べる事が出来なかったのだ。すなわち二人は自分たちの足で探す以外、他の道は閉ざされてしまったという訳だ。しかし、それでも探すしかない。ここで諦める訳にはいかない。と、そう頭では重々分かっているものの数が数である。先が遠い。足が重かった。そんな時の洋は翼に元気をくれた。
「よし! 翼! 何が何でも探そうや! な!」
肩をポンと叩きニコッと笑った。翼はその一言で自分の甘えた考えを振り払い、自分に喝を入れた。
翼は大きく頷いた。
「よし! 行こう!」
洋に言って、二人はセンターで調べ、それを写したメモ用紙とペンをポケットにしまい、書いた順番通りにそれぞれの佐藤宅≠ヨと愛を捜す決意を固め、それを行動に移し始めた。
こうして、愛と再会出来る事を信じて、二人の捜索活動が始まった。しかし、現実はそう甘くはなく、翼は王国が変わり果てた姿を自分の目で確認する事となる……。
町中から住宅街に入り、二人はメモに書かれた住所を確認しながら、どうにか最初の佐藤≠ニ表札が置かれてある大きな一戸建てを発見した。まさか、最初に訪れた家に愛がいるとは思っていなかったが、その反面、心の奥底ではもしかしたら≠ニ、そんな思いを抱いてしまう。そう思えば思うほど心臓の動きが段々と早くなっていく。翼は落ち着かせようと心臓に手を当てて、二人は同時に目を合わせた。そして頷いて、ゆっくりと家の目の前まで歩き、二人は玄関のドアの前に並んで立った。洋が顎でインターホンを示す。頷き、息を吐く。翼は意を決し、人さし指をインターホンのボタンまで持っていった。押した。ピンポーン&モりが静かだったせいか、チャイムが響く音もしっかりと聞こえていた。しかし、数秒待っても無反応。翼はもう一度、ボタンを押した。同じく音が鳴り響く。それでも中からの反応は無かった。翼は考えていた。留守か? それとも……翼の考えていた事を洋は奪い取るようにして言葉に出した。
「もしや、捕まったのか? ここの人間は……」
翼は首を小さく横に振ると、
「分からない。でも、いない事は確かな様だな」
このやり取りを最後に二人の間には重い空気が立ち込めた。その雰囲気にいち早く気づいた洋は気を紛らわそうと、
「よし! 次行くで、次! まだまだ始まったばかりやからな!」
そう翼に元気良く言うと、肩に手を置いた。それでも翼は気になるのか、
「あ、ああ……」
言葉にも力が感じられなかった。しかし、翼は気持ちを次に切り替えようと、
「そうだな、行こう」
キリッとした表情で洋に言った。
「よつしゃ!」
洋は言いながら小さく頷いた。二人は次なる佐藤家≠めざし歩き始めた。
二軒目。そこは最初の家よりも、さほど遠くは無かったので難なく見つける事が出来た。しかし、ここは先程の家よりも何だか様子が変である。外から見ると何の変哲もないただの小さな二尸建て、それなのにもかかわらず、翼は妙な何かを直感的に感じていた。何なのだろう? そう胸に抱きつつ二人は玄関のドアの前にまで近づくと、同じ様にボタンを押した。一軒目とは違った今度はメロディーが家の中に響いている。そんな明るいメロディーとは逆に虚しくなるほど中は静かでしんとしていた。
もちろん無反応である。無駄かと思いつつも念のため再度ボタンを押してみた。無反応なのは言うまでもない。普通ならここで諦めて次に向かうのだが、先程からくっついて離れない妙な何かを翼は気になって仕方がなかった。翼は何かあるのではないかと、引きつけられる様にして裏へと回った。
「おい、翼」
洋は小声で翼に呼びかける。それでも翼は無視をするかの様に足を止めなかった。
少々歩くと、翼と洋は庭に出た。玄関からは真裏に位置している。洋は翼に質問した。
「なあ、翼、どうした?」
翼の顔を覗きながら言う。それで洋は気がついた。翼の目線がガラス窓に釘付けになっている。洋もつられて目線をガラス窓に移す。
「妙やな」
洋は小さく言う。
「ああ、何かが変だ」
翼は返した。二人は静かに窓の目の前まで歩いて、立ち止まる。
窓越しから中の様子がはっきりと見えるのだが、それを見て、二人は愕然となった。家の中全てがグチャグチャに荒らされていたのだ。あたかも、そこだけが震度七の大地震に襲われたと言っても過言ではない程に……テレビ、タンス、テーブル、等全ての物が倒され荒らされていたのだ。それを見て二人は開いた口がふさがらず、喉からも声が出て来ない。何故? どうしてこの家はこんなにも荒らされているのか? それとも頭がおかしくなって自分で荒らしたのか? それとも……。
翼は色々浮かんでくる発想をどうにか頭の中で整理して、それから言葉を発した。
「まさか、鬼に荒らされたんじゃないだろうな」
独り言を言う。それを聞いていた洋は、
「いや、これは鬼に荒らされたんやろ」
部屋の中を眺めながらそう言った。
「まさか……」
翼は言った。
洋は一つ問を置いてから口を開いた。
「恐らく……ここに住んでいた佐藤はこの家に隠れていたんとちゃうか? それで運悪く鬼が近くにおった。その先は想像がつくやろ?」
翼をチラッと見て、再び家の中に視線を戻した。翼は洋の推測に納得していた。確かにそれはそれで一つの考えとして成立する。だが、果たしてそれが本当なのか。翼は何処かで疑問に感じていた。しかし、洋の考えが正しかったと、これから二人は確信を得ていく。
どつちにしろ二軒目にも愛はおらず、二人は間を置くことなく次の場所へと移動した。しかし……三軒目、四軒目、五軒目と家を探し出す事は出来るのだが全てが無反応でどうしようもない状態へ追い込まれていく。そして、六軒目で二人は先程と同じ光景に出くわしたのだ。こちらも酷かった。特に翼の目についたのは写真立てであった。その中に入れられてある写真とは赤ん坊と母親が満面の笑みで映っているのだ。その誰もが羨む、幸せが一杯詰まってある写真立てが滅茶苦茶に壊されている。
それも一つだけではない、何個もの写真立てが全て滅茶苦茶に荒らされているのだ。翼は写真を見ながら思った。この母親は子供を抱きながらこの家で捕まったのであろうと。子供は渡さないと必死に抵抗した光景が目に浮かぶ。しかし、こんな小さな赤ん坊も佐藤は佐藤。そんな抵抗も逃げる事も出来ない小さな赤ん坊の命さえ奪うのか。翼の中で真っ赤な怒りが立ち込める。しかし、愛の手掛かりが無いと分かれば長居は出来ない。時間が無い。俺は何もしてやれない。翼は辛い表情を浮かべながら、写真から強引に目を引き剥がした。心を鬼にしたのだ。そして、二人は再び歩き始めた。
それからというもの二人は時間のある限り、次から次へとメモに書かれた通りに行動し、それぞれの佐藤宅≠ヨと訪れては愛の情報を聞き出そうと中の様子を窺った。しかし……そのほとんどが留守。いや、恐らく捕まったのであろう、中はもぬけの殻で誰一人姿を現さない。その中には同じように部屋が荒らされてる家もある。翼は訪れていく毎に王国の荒れ果てた℃pを見ている様で怖かった。そうただ=三口。怖かったのだ。現に荒れているのは変わりない。しかし、このままでは情報は愚か、愛を探す事なんて……一瞬それが頭をよぎる。予想以上に困難を極めていた。ところが……。
ようやく十五軒目を探し当て、二人は同じように、内心駄目かと思いつつもインターホンで誰かがいるのかを確かめた。やはり無反応であった。念のためもう一度。数秒経っても、やはり反応は同じであった。二人は顔を見合わせる。翼は思わずため息を洩らしていた。それでも次なら、と自分を励まし、二人は振り向いた。その時だった。カギの開く音がカッチャ≠ニ聞こえたのだ。二人は首を素早く振り向かせた。ゆっくりとドアが開き始める。二人は同時に唾をゴクリと飲み込むと開く様子に目を離さなかった。少しずつ少しずつ、それはスローモーションの如くにドアは開かれる。中から誰が出て来るのであろうか。翼は願った。
ドアは開かれた。残念ながら中から出てきたのは愛ではなかった。それはすぐに分かった。何故なら小学三、四年生と思える幼い少女だったからだ。明らかに愛ではなかった。その子の格好を見ると、上は汚れたドレスの様な物を、下は女の子が気に入る様なブリブリのついたスカートを。どう考えても鬼から逃げやすい格好とは思えなかった。それにどうであろうか、少女の目はうつろで表情全体が暗い。何もかもが空っぽ。そんな表情をしていた。寒気を感じる程、静かで冷たくうつろな目。じっと翼を眺めている。翼はたまらず少女に聞いた。
「お父さんや、お母さんは?」
翼は反応を待った。しかし、少女は質問に対して少しも表情を変える事なく、ただ首を小さく振るだけであった。翼と洋は顔を見合わせ、今度は洋が聞いた。
「まさか、二人とも……」
そこから先を言おうとした洋を翼は素早く制した。そして、小さく首を振った。翼は少女の目の高さまでかがみ込み、
「お父さんとお母さんはどうしたの?」
もう一度聞いた。それで少女は小さく口を開いた。
「パパとママは私をかばおうと鬼に捕まった」
少女は涙を流す事なく、無気力に一つも感情を込めず、まるで棒読みの様にして翼に言った。
「そ、そう……」
あまりにも可愛そうでただそれしか翼は返せなかった。
「もう
「つ聞くけど。君にお姉さんはいるかい?」
本題に入った。
「……」
少女は小さく首を振って、二人に背を向けると、何も言わないまま家の中へと入って行った。
「ちょっ……」
呼び止めようとした翼を今度は洋が制した。
「やめとけ。俺達にはあの子を助ける事はできん」
「でも!」
翼は声を張り上げた。洋は冷静に、
「やめとけ。今はあの子を助ける事が先ちゃうやろ?」
洋は言って最後に、
「やめとけ」
首を横に振りながら言った。翼は自分に問い詰めていた。このままでいいのか? このままでは確実にあの子は鬼によって捕まって、短い人生に終わりを告げる。それを俺は見て見ぬ振りをするって言うのか? でも……でも、洋の言うとおりなのかも知れない。今あの子を助けて、一緒に逃げたとしても今度は俺達の命さえ危うい。それに今は愛を捜す事が先決だ。でも……。翼はもう一人の自分と言い争っていた。しかし、
「行こう」
渋々、洋にそう言った。結局、少女を助ける事は出来なかった。何もしてやれない自分に腹が立っていた。あのまま少女は鬼に捕まるのを待っているだけ……。二人の間に重い空気が流れる中、二人は次なる佐藤家を捜し始めた……。
それからも足の動きを止める事なく、二人はメモに書かれた通りに佐藤宅へと愛を捜しに訪れた。中には表札に家族の名前が書かれている家もあったのだが、どれも愛とは書かれておらず、なおも一向に中からの反応は同じであった。出て来た一人がいたとしても先程の少女と同じ様に精神状態が普通ではない。さすがの洋も諦めの色を隠せない様子であった。一向に先へ進めない状態が続き、翼の中で嫌な考えが思い浮かぶ。このままでは愛を見つける事は無理なのではないか? 愛はもう既に鬼に捕まってしまっているのではないか? 、もしかしたら今まで訪れた佐藤家のどれかに愛が暮らしていた家があったのではないか? 、どれもこれもがマイナス思考につながってしまう。無理もない。既に明かりは落ちて、夜空は真っ暗になり始めているのだから。
愛を捜し初めてから四十軒目。いまだに手掛かりを掴めない。二人の疲れもピークに達しようとしていた。営々と歩いていたせいか足を動かすのも苦痛に感じていた。それに二人は捜すことだけに夢中で一番肝心な事をすっかり忘れていたのだ。鬼ごっこ≠フ事である。翼はそれに気づくと腕時計に目をやった。アッという間に時は既に九時半を回っており、約一時間半も経てば鬼ごっこが開始される。今の体からすると到底鬼から逃げられる状態ではない。足も悲鳴を上げている。それに洋だ。捜し初めてからずっと洋は諦めずに翼を何度も励ましかけてくれた。その度に翼は元気をもらい、諦めずにここまで来れたのだ。結果はどうであれ、洋には感謝している。その洋も疲れがさすがに顔へと現れている。自分の為だけに洋までを巻き込むわけにはいかない。自分だけならともかく、ここまでしてくれた洋まで巻き込む訳にはいかなかった。それに自分が捕まっては元も子もない。この日は一旦諦めて、翼は自分達の体を休める事にした。考えを洋に言った。
「なあ、洋」
「うん? どうした?」
表情にも言葉にも力がなかった。
「今日は……諦めよう。ほら、時間が迫って来てる」
翼は自分の腕時計を見せて洋に確認させた。洋も時間が流れる速さに驚いた表情を一瞬見せるものの真剣な表情で翼に、
「でも、ええのか? 俺の事を気遣っているなら心配するな。俺は大丈夫」
と言った。翼は洋の言葉に割り込むように首を横に何度も振って、
「いや、いいんだ。お前にこれ以上迷惑をかける訳にもいかないし、俺も少し、疲れたよ」
本当は疲れなどどうでもよいのだ。そうでも言っておかないと洋は無理をしてでも自分と一緒に愛を捜すに違いない。それは翼の口実でもあった。翼は続けた。
「それに俺達が捕まってしまえば今までの事が全て無になる。そしたら誰が愛を助ける? 今、愛には俺しかいないんだ。だから、今は体を休めよう。な?」
「でも……」
洋はそれでも躊躇っている。ここまで人の為に自分を犠牲に出来るなんて……この時、翼はそう感じていた。俺は本当の親友に出会えたのかも知れない。見せかけの親友ではなく、本当の親友に。そう思うと、ついつい涙が出そうになる。それをグッとこらえ翼は笑顔で、
「なーに、愛なら大丈夫さ! そう簡単には捕まらないよ。何せ佐藤翼の妹なんだから」
洋は一つ考える素振りを見せて顔を上げ、
「そ、そうやな」
洋もほんのり笑みを浮かべていった。
「そうだよ! 大丈夫だよ!」
翼はそう言葉では言うものの、やはり胸の何処かでは不安に感じていた。
「よし! じゃー腹も空いた事やし、飯を食いに行こう!」
洋は明るく言った。ようやく本来の洋に戻った。言われてみればそうである。二人は朝から何も口にしていなかった。今、食べ物を口に入れても喉には通りそうもなかったのだが、翼は明るさを装って、
「よ、よし! じゃー案内してくれ」
「よつしゃ!」
洋は親指を立てると翼に背を向けて、歩き始めた。途端に翼の顔からは明るさが消えていた。
こうして二人は鬼ごっこに備えて、腹ごしらえをするために飲食店へと向かい歩き始めた……。
もう二、三分で十時になろうかという時に二人は、とある食堂へと足を運んだ。翼はそれ程口にはしなかったが、朝から何も食べていない洋はもの凄い勢いで空っぽだった胃の中に食べ物を詰め込んだ。周りの客もその様子には驚きを隠せない様子であった。口をポカンと開けて唖然としている。それでも洋は周りの目などはお構いなしに食い続けた。こういう時、大抵友人の方が恥ずかしくなってしまうのだが、翼はそんな事よりも愛の事が気がかりで仕方なかった。洋が食い終わるまでそれはずっと離れる事はなく、それが故に箸も進まなかったのだ。
四十分程が経ち、食堂から二人は出た。洋の満足そうな表情とは対照に翼の顔は浮かなかった。それに気づいた洋は、
「どうした? あまり美味くなかった?」
ボーっとしていた翼は一つテンポが遅れた。
「え? い、いや、美味しかったよ」
見せかけの笑みを浮かべて翼はごまかした。
「そうか? ならええんやけど」
洋は続けた。
「それにしても、もうじきやろ?」
洋は聞いた。
「あ、ああ、あと……二十分程だ」
翼は腕時計を確認した。途端に洋は真剣な表情に移り変わり、
「翼、何が何でも捕まるな。愛ちゃんの為にもお前は捕まる訳にはいかんのやぞ」
真剣な眼差しで翼の目を見つめながらそう言った。翼も洋の真剣な表情に一瞬驚き、
「あ、ああ。俺は大丈夫」
その言葉を聞いて安心したのか洋は優しい顔に戻っていた。
「よし、それならええ」
翼に言った。翼はその時思い出していた。あの顔。そして、あの真剣で鋭い目……。この日は何かが起こるのであろうか。いや、まさか、考え過ぎか……。それでも翼の中には直感的に感じた嫌な何かが離れようとはしなかった。こうして、二人はあと二十分程で開始される鬼ごっこを待つだけとなっていた……。
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悲惨な逃亡劇
時計の針が十一時を示したと同時に町中にはサイレンが響き渡った。二人の全身がピンと張り詰め、町中が一気に静まり返っていた。
十二月二十一日、木曜日、リアル鬼ごっこ℃l日目……スタート。
表通りに位置していた二人は左右を何度も確認しながら息を潜めて歩き出した。
「翼……鬼が現れたら速攻ダッシユやで」
洋はささやく。
「ああ、分かってる」
翼も辺りを気にしながらささやいた。
変わらず辺りをキョロキョロとさせている翼はある事に気がついた。警察の多さである。何故かは翼にもすぐ理解ができた。昨夜から佐藤£Bが荒れ始めているからだ。しかし、事件を起こしている佐藤£Bの気持ちも分からなくはなかった。どうせ死ぬのなら≠サう思い込んでしまいそれが凶悪犯罪につながるのも仕方の無い事。彼らが悪いのではない、全てはあいつ≠ェ悪いんだ。あいつが勝手な計画を企てなければこんな事には……愛だって今頃は……。翼は自分がこんな時代に生まれた事を後悔した。鬼を敬言戒するのもこの時だけは忘れていた。そして、油断しているその時だった。
不意に、
「翼! 走れ!」
洋のその叫び声と同時に警戒発信が鳴らされていた。翼はハッとして、何が何だか理解できず、後ろを振り向いた。鬼だった。全力で二人に向かって走ってくる。徐々に近づいて来るではないか。
「翼! 早く来い!」
先に走っていた洋は立ち止まり振り返って翼にそう促した。
「お、おう」
慌てて翼も走り出した。やはり翼と洋は早かった。アッという問に鬼との距離を離したのだ。しかし……。
大きな道路を左に曲がったその瞬間、またも警戒発信が鳴らされた。二人は鬼と向き合う形となり、鬼に背を向けた。
「くそ! またか!」
洋は苛立ちながら言った。二人は先程来た道に戻った。右側からは先程の鬼が追いかけて来る。
「こっち!」
洋が指示すると二人は道路を左に曲がった。走った。再び先程の大きな道路を全力で駆け抜けた。町中の目線が二人と鬼に釘付けとなった。今は二人の鬼と必死の攻防が続いている。翼はチラッと後ろを振り向いた。止まれない。鬼はまだ追いかけて来る。大丈夫。息はまだまだ続く。洋は……よし、大丈夫だ。
二人はでかい道路をひたすら走り逃げ続けた。
「翼! そこ左曲がれ!」
洋が指示すると、翼は頷いた。二人は左に曲がった。しばらく走った二人は住宅街に入った。翼は後ろを振り返る。距離があるとはいえ二人の鬼はまだ追いかけて来る。どちらにせよ止まれない。
逃げ続ける二人は左右に分かれた道に突き当たった。左の道は大きな道。右は抜け道の様な細い道であった。それなのになぜか洋は足を止めた。迷っている。翼は後ろを振り向くと、
「洋! 早く!」
洋を急がす。だが洋は翼の呼びかけにも慌てず何かを考えている様だ。鬼は段々と迫り来る。さすがに翼の仕草が落ち着かない。
「おい! 捕まるぞ! 早く!」
自ずと翼の語調も強まる。鬼との距離はさほど遠くはなかった。翼の中で苛立ちが起こり始めた時に洋は叫んだ。
「よし! こっちや!」
洋は右に指さすと、翼は頷く事よりも体がとっさに反応していた。右に曲がった途端に二人は猛ダッシユで駆け抜けた。二人はがむしゃらに逃げ続けた。先程のロスもあってか、鬼との距離も遠くはなく、翼の顔からも余裕が感じられない(どんな時も余裕ではないが)。一瞬の油断も許されない状況に立たされていた。しかし、翼はふと考えた。何故、洋は先程右か左か迷ったのであろう? それにどうして洋は細い道を選んだのであろう? 今はそんな事を言っている場合ではないけど……なんでだろう……?
二人は細い道を一直線に(一直線にしか逃げられないのだが)営々と逃げ続けた。追いかけられてから、かなりの距離を走ったがどうでもよい。そんな事より、翼は走りながら一つの不安が頭をよぎつていた。細い道を走り続けてから一つの曲がり角もないし一向に道が大きくならない。それにどうであろうか、細い道とはいえ最初は住宅が左右に並んでいたのだが、それが今は段々と住宅の数も減ってきている。まさか、この先行き止まりになるんじゃないだろうか……。翼の不安はそれであった。しかし、無情にも翼の不安は的中する。
それからしばらく逃げ続けた翼と洋は前方へと目を向けた。一瞬にして翼の顔がこわばった。何故ならここから先は行き止まりだったのだ。ここからでは、はっきりとは見えなかったが、少なくとも翼の目にはそう映っていた。洋の顔を見た。しかし、洋は妙に冷静だ。翼は言った。
「おい、どうする? 行き止まりじゃないのか?」
「大丈夫や。俺に任せろ」
息は乱していたものの、慌てる口調でもないし、洋は妙に冷静だった。翼は内心思っていた。大丈夫だって言っても、この先は行き止まりだ。本当に大丈夫なのか? 翼は後ろをパッと振り向く、スピードは落ちているもののいまだしつこく追いかけて来る。しかし、それは二人にとっても同じ事。スピードは確実に落ちている。徐々に行き止まりへと近づいてくる。駄目か! そう諦めかけたその時、
「翼、やるぞ!」
口調を乱しながらそう言った。洋は相当疲れている様だ。
「何を? 何をやるってんだよ!」
意味が分からず翼の口調も強まる。
「ええか? これから、俺はいちかばちかの大勝負に出る。そうでもしないと逃げ切れん」
言って洋は翼に確認した。
「ええな?」
そんな事を言われても翼の答えは一つしかなかった。
「あ、ああ……」
言ったものの本当にこの先は行き止まり。不安の色は隠せなかった。
「大丈夫か?」
翼は洋に確認した。
「大丈夫。俺が先に行く。俺の後に続くんや! ええな!」
語尾で勢いづける様に洋は全力を振り絞ってそこから本気の猛ダッシュを見せた。翼との距離も広がった。
「俺の後に続け?」
小さく言って翼は洋の後ろ姿を追った。徐々にスピードが上がっていく、
「おい、まさか……マジかよ」
翼の目は仰天となった。洋は
「ああああ!」大声を張り上げて、アスファルトでできた、高い壁めがけて思いっきりジャンプしたのだ。普通の人間が飛んでも到底壁の上には上れない。どう考えても無理である。それを洋は思いきりジャンプしたのだ。そして、壁に両手をかけて、勢い良く足を壁まで持っていった。洋はそこから最後の力を振り絞り、踏ん張ったあげく……登りきった。凄かった。本当に凄い。しかし、感心している場合ではない。
今度は自分が同じ事をやらなければならないのだ。翼は思った。いちかばちってこの事かよ! 本当に上れるのか? あんな高い壁上れるか? 無理だよ俺には……。多少弱気になっている翼に洋は壁の上から大声で叫んだ。
「翼! 走れ! 全速力で助走しろ!」
壁の上に立っている洋の姿を目にすると翼は顔を引き締めた。唇を噛みしめて、
「よし!」
目の色変えて、翼も全速力で壁へと向かった。壁は近づいてくる。徐々に、徐々に……。
「翼! 飛べ!」
タイミングを見計らって洋は翼に合図した。
「うあああああ!」
翼は大声と共に思いっきりジャンプした。そして、手をかけ、足を壁へと持っていった。そこから力を振り絞り上に上がろうと翼は踏ん張った。が、なかなか上には上れない。鬼は近づいてくる。五十メートル、四十メートル。距離は縮まるばかり。焦る気持ちとは裏腹に翼はなかなか上がりきれない。鬼は翼を引きずり下ろそうと走ってくる。距離は既にほとんど無い。翼の頭がパニックになりかけた時、
「翼! 俺の手につかまれ!」
洋は壁の端に立ち、壁際に立っていた街路灯の柱を左手で掴んでそこから思い切り右手を翼へと伸ばしていた。柱に手を掴まなければそこから落ちてしまうくらい壁の幅は狭かったのだ。何も言わずに翼は洋の手を掴んだ。
「翼! 行くで!」
洋は合図をかけると、
「せーの!」
その声と同時に洋は翼の体を引っ張り上げた。それは間一髪のギリギリセーフであった。翼の足が上がりきる瞬間に鬼は翼の足を掴もうと腕を伸ばしていたのだ。本当にギリギリであった。壁の上に上がりきった翼は背筋に冷たい汗を感じていた。二人は壁の上から二人の鬼を見下ろした。鬼も見上げている。ゴーグルの下は恐らく驚きの目をしているに違いない。こんな間近で鬼を見るのは初めてであった。鬼の格好はまるで王様に作られたロボットであった。王様の勝手な命令を拒否する事は出来ず、ありのまま言う事を聞いている、これでは人間では無くてロボットだ。翼はそう感じていた。そう思った翼は鬼の事を哀れむ様な目で見つめていた。それとは逆に、
「ぎゃーはっはっはっはっは!」
洋は壁の上から狂った様に大笑いをしている。
「ア、アホが! 俺達を捕まえようなんて十年早いんじゃ!」
洋はかなり興奮している。
「おい、洋」
翼はそう言うと洋を手で制した。
「ま! あんさんらもがんばりや!」
洋は鬼に嫌みを言うと、中指を立ててお決まりのポーズで鬼を挑発した。
「翼、行くで」
そう言うと洋は後ろを振り向いて、反対側に飛び降りた。当然反対側もかなりの高さではあるが、翼もそこからそっと飛び降りて、着地した……。
いざ、着地してみるとそこは森の様な草むらに二人は降り立っていた。ここは何処かの広場か? そう翼は辺りを見回すと、前方に大きな和風の家が建っており、翼はそれで理解した。ここはあの家の持ち主が所有する土地なのだと。それでもう一つ理解が出来た。あの高い壁だ。あれは侵入防止の為であろう。現に今、侵入されているのだが……そうしたら俺達は不法侵入じゃないのか? それにこんな所で鬼に発見されたら危険だ。
「洋、ここから出よう」
翼はそっとささやいた。
「そやな、ここからは出た方がええな」
洋の考えも同じであったようだ。そこから二人は音をたてない様に静かに出口へと向かって行った。
どうにか、家の主にも見つからず、表へと出られた二人は左右を確認した。ここも住宅街。物音一つ聞こえない。静かであった。もちろん鬼の気配など感じられない。それを確認するやいなや、二人は顔を見合わすと、勝ち誇った顔で顎のラインを上げると、腕を高々と上げた。
「よつしゃー」
そう言いながらガッチリと手を合わせた。しばらく二人は見つめ合う。手を離すと翼は小さく鼻で笑った。そして、翼は呆れる様にして洋に言った。
「それにしてもお前はいつも大胆だな。あの時はさすがに俺も駄目かと思った」
翼は軽く微笑んだ。その言葉で洋は照れた表情で頷いた。
「あのまま、逃げ続けても俺は危険と感じたんや。そやから俺はあの時、迷った。右へ行こうか左へ行こうか。でもな、お前となら失敗する事は無いと思ったんや。そやから俺は右を選んだ」
意外に洋は冷静かつ真面目に真意を話した。続けた。
「それにしても、ここまでうまくいくとはな」
自分でも驚いている様子であった。翼はそんな洋を優しい目で見つめた後、
「俺はあの時、確信したよ。お前となら不可能な事は本当に何一つないとな」
翼が言うと、洋はまたも照れるように頭をボリボリかいた。一つ間があいてから洋は言った。
「ま! とにかくあの鬼達からは逃げ切れた。俺らがそう簡単に捕まる訳ないやん」
言って付け足した。
「な?」
目だけを翼にチラリと向けた。
「またまた、強がっちゃって! 内心焦りまくってたくせに」
翼は冗談交じりにそう言うと二人の間に笑いが生じた。しばらくそれは続き、一時の安息が二人の不安と恐怖からくる緊張感を和らげていた。和やかな雰囲気が二人を包む……。しかし、安心しているのもつかの間、二人の遙か遠く後ろで、またもや敬言報発信が発せられたのだ。二人は体がビクッとこわばり、とっさに後ろを振り向いた。鬼だ。鬼が追いかけて来ている。無論、それは先程の鬼達ではなかったが、鬼は鬼。
「翼! 逃げるぞ!」
洋が叫ぶと同時に、二人は全力で走っていた。先程まで休んでいたせいか、二人の体力も完全とはいえないが回復していた。それ故に全力で走れるのだ。
「こっちや!」
洋は角を左に曲がった。それから二人はひたすら一直線に走り続けた。
真っ直ぐ走っている二入の目には左右に分かれる道が映っていた。
「どうする?」翼は洋に目を向けて言った。
「真っ直ぐや!」
洋が言うと翼は小さく頷いた。
左右に分かれる道が近づいてきた。翼は後ろを見た。当然の様に鬼は足を緩める事なく追いかけて来ている。戻した。左右の道にさしかかった。それを無視するかの様に二人は一直線に走り抜けた。そこまでは良かったのだ。しかし、翼の視覚にほんの一瞬だけ飛び込んできた。左の道に鬼の姿が一瞬。
本当に一瞬だけ映ったのだ。確信は出来ないが恐らくあれは鬼であろう。翼はそう思うと、案の定後ろの方で警戒発信が鳴らされていた。分かっていたせいか、翼は驚きはしなかったものの、当然焦りは感じていた。それに引き換え洋はその音で素早く後ろを振り向いた。小さく舌打ちするのが翼の耳にも聞こえていた。
翼は再び振り向いた。当たり前だが鬼が二人に増えている。鬼同士仲良く並んで追いかけて来る。戻すと、
「こっちや!」
洋は道路を左に曲がると翼も後に続いた。そして、すぐさま左にもう一度曲がったのだ。前に目を向けると、町中の灯りが煌々と輝いている。今の道を真っ直ぐ走り抜けると灯りが煌々と輝いている道路に出る様だ。洋はそれから曲がる気配を見せず、ひたすら真っ直ぐ走り続けた。
アッという間に二人は大きな道路へと抜け出した。その瞬間、人々の目線が一気に二人へと向けられる。次に二人の鬼へと視線が変わる。二人は歩道の上を突っ走った。人々も驚いた表情を見せながらも、二人が近づくにつれ、それに合わせて横へとそれる。二人の遙か後ろでは女性の叫び声が聞こえてきた。翼は振り向くと、鬼達はお構いなしに人々を手でかき分ける様にして、二人めがけて必死に追いかけて来る。
「ち! しつけーな」
翼がそう言うと必死なのであろう洋は無反応であった。足を緩める事なく、二人は歩道から道路へと進路を変えた。規制で車が一台も走っていないので、その点は安心できる。その他は一つも安心出来ないが……。
いい加減どれ程、逃げ続けたであろうか、翼はともかく、洋の表情は辛そうだ。もう一度翼は振り返る。まだ鬼達は追いかけて来る。翼は思う。あんたら相当あいつ≠ノ鍛え上げられているんだろうね。何が悲しくてあいつのいいなりやってるの? 翼は心の中でぼやいていた。そうこうしている合間にも洋が、
「よし、こっちや!」
大きな道路からそれて、再び裏の道に入ろうと進路を変えた。翼も後に続いた。
裏通りに入ってから一直線に突っ走る二人の前に右、右斜め、左、左斜めの四つに分かれた道に出くわした。それを洋は躇躇する事なく、右斜めに進路を取った。翼もそれに続いた。今度はすぐに前、右、左と三つに分かれた道に出くわす。洋は右に曲がった。そこからひたすら一直線に走り続けた。翼が後ろを振り向く。鬼の姿が見当たらない。前に戻すと、もう一度確認の為、後ろを振り向いた。まだ現れない。翼はしばらく振り向いたまま走っていた。一向に鬼達は姿を現さなかった。翼は安心した表情を浮かべた。そして、洋の肩を叩き、
「洋、もう、大丈夫だ。後ろを見ろ」
翼は息を乱しながら途切れ途切れにそれを伝えた。洋も後ろを振り向いて、それを確認すると足を緩ませた。同時に翼も徐々に足を緩ませ、やがて二人は足を止めた。途端に洋は膝に手をついて、荒く息をゼーゼーと吐いている。さすがの翼も息を乱していた。多少落ち着いてから洋は言った。
「ど、どうやら……撒いたようやな」
いまだ息を荒く、辛い表情を浮かべ、言葉を喉に詰まらせながらそう言った。
「あ、ああ」
と翼は言った後、息をグッと飲み込み、
「そのようだな」
言って、小刻みに呼吸した。そのやり取りを最後に二人は喋ることも出来ず、ただ乱れた呼吸を整えているだけであった。その間、二人の頭の中では完全に鬼から逃げ切った≠サう思い込んでいたに違いない。確かに先程の鬼達からは逃げ切れた様だ。しかし……。
多少落ち着きを取り戻した翼は俯いたまま、腰に手を当て、洋へと視線を流しながら前方へと向けた。何かが映っている。目を細めた。その瞬間、翼の目は大きく見開いた。背筋が凍りつき、手にはたっぷりの汗がにじんでいた。混乱を必死に押さえつける様に翼は拳をギュッと握る。
洋も翼のおかしな様子に気づき、
「どうした?」
翼の顔を見上げる。
呼びかけにも無反応の翼の顔は明らかに引きつっており、視線は一直線に向いている。それを洋は追うように息を止めて、恐る恐る前方へと目を向けた。翼同様洋の目も大きく見開いた。愕然となった。膝がガクリと折れそうだった。
二人の目にはキョロキョロと獲物≠探している二匹の鬼が前方に映っていたのだ。翼達の姿に気づいていないとはいえ、二人の頭はパニックに陥った。思考回路がままならず、声を出す事も出来なかった。二人は鬼達に目をとらわれていた。逃げる事もせず、二人は何故か鬼達の様子を見つめていたのだ。その間の二人の思いとしては、どうか、どうか気づかぬままその場から姿を消して下さい。
しかし……鬼達はピタリと足を止めた。翼達に標準を合わせている。お互い遠い距離ではあるが、見つめ合った。その瞬間、緊張が張りつめた。心臓の鼓動がばくばくと聞こえる。そして、逃げろ! @モェそう叫ぶ前に警戒発信が鳴らされた。二人はとっさに後ろを振り返り、全力で走った。しかし、既に二人は疲れている。翼は生きた心地がしなかった。今の状況からすると二人には相当なハンデがのしかかっている。それでも止まる訳にはいかない。しかし、二人の疲れはピークに達しようとしている。頭が混乱してしまった二人は最大のピンチに陥ったのだ。
必死に逃げまどう二人は角を右に曲がった。翼は後ろを確認する。既に曲がって来ている。距離も遠くはなかった。洋の表情も確認した。非常に辛そうだ。いかにスポーツ選手とはいえ、走りっぱなしじゃ疲れるのも当たり前。そして、もう一つ明らかな事がある。それは翼自身も辛い表情を浮かべている事であった。それでも二人は逃げ続けた。しかし、ここから二人の何かが大きく変わろうとしていた……。
限界が近づいて来た。翼は呼吸をする事自体、苦に感じていた。洋は翼以上に辛そうだ。翼の中で諦めかけたその時だった。洋が突然口を開いたのだ。
「翼……俺……もう、あかんわ」
途切れ途切れに声を喉に詰まらせる。ウソだろ? 洋が弱音を吐くなんて……翼は耳を疑った。
「おい! 何言ってるんだ! 諦めるな!」
翼はそう強く言った。洋は力無く首を横に振った。そして、
「翼……お前……一人で逃げろ」
何とも翼を突き放す言い方であった。とっさに翼は言葉を返した。
「おい! それどういう意味だよ!」
翼は口調を更に強めた。
「ええか? 俺はもう、あかん。お前一人で逃げろ」
洋はまるで病人の様なしゃべり方でそう言った。この時から翼は感じていた。そう、明らかに洋の様子がおかしいのだ。
「何でだよ! 俺達いつも一緒だったろ? 逃げるときも。そして、捕まるときも……一緒だ」翼は悲しげに洋に言い聞かせた。しかし、翼のセリフに割り込む洋は、
「あかん!」
強く言い放った。続けた。
「お前には守るべき人がおるやろ! お前はまだ捕まる訳にはいかんのや!」
強い語調で言った後、
「ええな?」静かに言った。
「でも……」
翼は振り向く、段々と鬼との距離が狭まっていく、このままでは確実に二人は捕まってしまう。洋も後ろを振り向き、戻すと何とも意味深なセリフを口走ったのだ。
「翼……最後にお前に会うことが出来て、ほんまに嬉しかった。お前に出会えてほんまに良かったわ」
言葉にも力が無く、何だか洋は昔を思い出している様子だった。
「洋……」翼は悲痛の声を上げ、
「もういい! 頼むから喋らないでくれ! 一緒に逃げるんだ!」
涙ながらにそう言った。それでも洋は静かに首を振った。
「翼……必ず愛ちゃんを助けろよ。そして、一週間逃げ切れ」
「何を……何言ってんだよ!」
声を張り上げ翼は再び後ろを振り向く。鬼との距離も既に限界に達している。徐々に鬼はスピードを上げていく、それに連なって距離も更に狭まっていく。距離が縮まる毎に翼の頭の中には恐怖≠アの文字一色に染まっていた。そして、鬼も二人の様子がおかしい事に気づいたのであろう。とうとうラストスパートをかけてきたのだ。まさに絶体絶命。洋はそれを確認すると、
「翼……」
洋は呼んだ。そして、ささやかな笑みを浮かべてこう言った。
「ありがとう。今まで一緒に居てくれてありがとう」
そっと言って、再び後ろを確認すると、洋は最後の言葉を翼に残した。
「じゃな。ここでさよならや」
言った途端、目を鋭くして、洋は後ろを振り向き翼に背を向けた。そして、
「うわあああああ!」
そう絶叫しながら無謀にも鬼達に猛突進して行ったのだ。
「洋!」
翼は足を止めて、大声で呼び止めた。
「うわああああ!」
洋はそう叫びながら右側に位置していた鬼の腹を思いっきり蹴り、そして、もう一人の鬼の顔面を思いっきり殴った。両方は勢い良く吹っ飛んだ。それで洋は首だけを翼に向けて、
「翼! 逃げろ! 後は俺に任せろ!」
「何やってんだよ!」
慌てた様子で小さく言うと、
「洋! 戻ってこい!」
大声で叫んだ。しかし、洋は翼の呼び声を無視するかの様に倒れた鬼達に勢い良く向かっていく。一人の鬼がおぼつかない足取りで立ち上がると、有無を言わさずに洋は殴りかかった。鬼は再び倒れた。
今度はもう一人の鬼が。もう一度殴りかかると翼の方へと振り向いた。
「何やってるんや! 早く! 早く逃げろ!」
腕を大きく押し出して逃げうと示す。しかし、洋の命令にも翼は足を動かす事は出来ずにもう一度洋に叫びかけた。
「もういい! もういいから洋! 戻ってこい!」
叫んだ翼の目には一人の鬼が立ち上がる姿が映った。
「洋! 後ろ!」
洋はハッと振り向き、鬼に殴りかかった。しかし、鬼も王国の兵士だ。そう何度も同じ手にはかからなかった。洋の拳をよけると、今度は鬼が洋に殴りかかったのだ。鬼の拳が洋の顔面をとらえると、洋は一歩後ろによろけた。倒れなかった洋はそこから体制を整えて、
「うおおおお!」
今度は殴ると見せかけて、鬼の腹を思いっきり蹴り上げると、倒れず鬼は腹を抱えてうずくまった。
もう一度腹を蹴り上げると鬼は吹っ飛び仰向けになって倒れた。洋は翼が逃げたかを確認しようともう一度後ろを振り向いた。翼がいまだに立っていた。
「翼! 何をやってる! 早く!」
怒声を放った。
「でも……でも……」
翼は逃げる事を躊躇っていた。洋を置いて自分だけ逃げる事がどうしても出来なかったのだ。そんな翼の躊躇いを打ち消す様に、
「何を迷っとる! さあ、翼! 走れ! 走れ!」
何度も走れ≠ニ叫び続ける。翼は涙をスーッと流し声を喉に詰まらせながら小さく、
「洋……」
ささやくようにして言った。遠くからでも翼が泣いている姿が目に映ったのであろう洋は優しく頷いた。翼も涙を拭いて頷いた。その直後であった。もう一人の鬼が静かに立ち上がろうとしている。洋はそれに気づいていない。翼はその事を洋に伝えようとしたのだ。しかし……鬼は立ち上がると腰のあたりからおもむろに拳銃の様な物……いや、拳銃≠取り出したのだ。翼の顔はがちがちにこわばった。唇をブルブルと震わせながら、
「ひ、ひ、洋!」
声がうわずる。翼の怯えた様子に洋も気づきゆっくり鬼へと振り向いた。その瞬間であった。パン¥e声が響いた。出走の時とは全く違う意味の銃声だった。もう一度銃声が響いた。更にもう一発。
最後の一発で洋の呻き声が聞こえた。体が半回転し、翼と洋が向き合った。その一瞬の出来事が翼の瞳にはスロ! モーションの如くに映っていた……。
お前も佐藤か? 俺も佐藤なんだよ! よろしく≠ルれ、お前もやってみろよ!
おいやるぞ。よく見ておけよ。
逃げろ! 逃げるぞ!
はっはっは! お前足早いな。
ありがとうお前に出会えて良かった。
その光景にただただ、茫然と立ち尽くしていた翼の脳裏に洋との思いで深い映像とセリフがはっきりと耳に聞こえていた。
「翼! 逃げろ!」
最後の力を振り絞り洋がそう叫ぶと、翼は現実に引き戻された。洋に視線を戻すと翼に向かおうとしている鬼の足に血塗れになりながらも、しがみついて鬼の動きを止めている。もう一人の鬼はいまだに倒れている。鬼がどんなにもがいても洋は足を離そうとはしなかった。翼は涙を浮かべながら、
「洋……」言葉を失っていた翼の口からその言葉だけが洩れた。
「逃げろ!」
洋はもう一度。これが最後の言葉であった。洋と鬼のはるか後ろで警戒発信が発せられたのだ。それで翼の体がビクリと反応した。恐怖を告げる警戒発信の音がこの時だけは洋との別れを告げる音に聞こえていた。鬼は翼に向かって全力で向かって来る。洋の死は決して無駄にはしない! 翼は唇をグッと噛みしめ、涙を拭いてから、翼は後ろを向いたまま走り出した。それから、
「ありがとう。ありがとう……洋」
その言葉だけしか見当たらなかった。そして、視線を渋々洋から引き剥がしたのだ。全身の向きを直し、そこから全力で駆け抜けた。
翼は叫んだ。
「あああああああ!」
泣きじゃくりながら狂ったように走り続けた。洋が撃たれた映像が頭にひっついて離れない。思い出せば思い出すほど翼の足は速さを増した。翼は後ろを振り向くこともせず、泣きじゃくりながらひたすら町中を逃げ続けた。足を緩めることなくしばらく走り続けた翼の耳にこの日の終わりを告げる合図が耳に届いていた。それでも翼は足を止める事なく、走り続けた。走って走って走りまくって、極限に達するまで走り続けて、それでも走って、死にそうになるまで走り続けた。それでも走り続けた翼はつまずき勢い良くつんのめった。手のひらからはすりむいたせいか血がにじんでいる。翼は静かに体を起こして、うつろな目をして茫然と座り込んでいた。
「洋……」全身の魂を吸い取られた様に言葉を発す。その言葉で翼はハッとし、気が狂ったかの様に地面を這いつくばり、立ち上がるとそこから全力で走り始めた。
翼は洋が撃たれた場所まで戻ろうとした。来た道をたどって足を一時も休める事なく、洋が撃たれた場所に戻ろうと必死に走り続けたのだ。
息を弾ませながら翼は洋が撃たれた場所まで戻ってきた。しかし、洋の姿は何処にも見当たらなかった。何処を探しても、洋の姿は見当たらない。地面に目を向けると洋の血のりがうっすらと浮かんでいる。気が動転していた翼はようやくそこで自分が重要な事を忘れている事に気がついた。洋は捕まったか、翼をかばった洋はあのまま死んでいったのだ。それを理解した途端、翼はガクッと地面に膝を落とした。
「洋……」
空っぽな表情で洋≠ニ何度も切なそうに呟く。
「洋……」
「洋……」そして、翼は大きく息を吸い込んで、
「洋!……」
涙を流しながら大声で泣き叫んだ。地面に手をつき、ボロボロと涙を流し続けた。寒空の中、翼はいつまでも涙を流し続けていた……。
こうしてダブル佐藤≠ニ言われた、翼の最高の親友、佐藤洋は自分を犠牲にして死んでいった……〇十二月二十一日リアル鬼ごっこ℃l日目……終了。
[#改ページ]
再会
翌、十二月二十二日金曜日。リアル鬼ごっこ≠ェ開始されてから五日目の朝。この日の気温は朝の段階で零下を記録し、今年一番の冷え込みであった。
確実に佐藤≠ニいう名字が消えていく中、王国中で起きている凶悪犯罪も無くなる兆しを一向に見せなかった。それどころか、凶悪犯罪は増える一方で、一般市民は怯える日々を送っていた。王国の将来を考える、王様に仕える重役らもさすがに頭を抱える毎日。テレビのチャンネルを何処に回してもいまだにそれ♀ヨ連のニュースしか流れていない。しかし、今日まで放送した中で共通しているのは誰が生存しているのか、誰が捕まり殺されていったのかは一度も放送されていなかった。何事もないように捕まった佐藤≠ウん達は殺されていき、そして、何事も無かったかの様に鬼ごっこは終了していくのだ。全てが終了した後も王様は優雅に暮らすのだ……。
あれから全てが空っぽ状態となってしまった翼は全身に力が入らず、両腕はだらしなく垂らし、足はフラフラとさせながら、一睡もせず、一晩中町を彷徨い続けていた。気がつけば、夜が明けて、いつの間にか朝を迎えていた。そんな感じであった。
洋の事だけが翼の脳裏に大きく残っており、それが原因で愛を探し出す事さえしようとはしなかつた。探そうとはするものの、その度に洋の事が障害となって、どうしても行動に移す事が出来なかつたのだ。それではいけないと思うのだが、どうしても、どうしても。
気がつけば翼は裏通りから大通りをふらついていた。空っぽな目で翼は遙か遠くを見つめている。精神異常者と思われたのか周りの人々も自然と道端にそれていく。一般市民の一人ひとりが確信したであろう。翼の名字が佐藤≠ナある事を。
なおもふらついた様子で歩道を歩いている翼の遙か前方で大きな叫び声がした。
「止まれ! 止まらんか!」
人々は足を止めて、声の出所に目線を持っていく。翼も足を止めて、ボーっとしながら静かに視点を据える。すると、前方から人々をかき分けて、走って来る若い男が目についた。その後ろには警察官が追いかけている。恐らく若い男が事件を犯したのであろう。そして、この若い男も佐藤なのであろう。
「止まれ!」
警察官はもう一度叫ぶ。しかし、止まれと言われて止まる犯人は何処にもいない。この犯人も止まらなかった。そうこうしているうちに犯人は段々と翼の方へと向かってくる。翼は表情を一切変えずに犯入と敬言官の追いかけっこ≠ボーっと眺めていた。翼と男の距離が残り二十メートル程で、
「どけ!」
犯人は翼に向かってそう怒鳴る。しかし、翼には聞こえていなかったのか、端へはよけなかった。それで犯人は勢いを抑える事が出来ず、それでも必死によけようとした犯人は翼の肩と勢い良く衝突した。翼は吹っ飛び地面に尻餅をついた。犯人も一瞬、よろけたものの、後ろを気にしてそのまま逃げて行った。続けて警官も過ぎて行った。犯人と警官の姿が見えなくなると周りの視線は翼へと移り変わっていた。翼はそんな人々の目線も気にせずに表情一切変えないまま立ち上がろうと、左ポケットに目を向けた。一枚の紙がチラリと頭を覗かしている。それを翼はおもむろに取り出した。メモだった。洋と二人で調べたメモだったのだ。五十軒も書かれた住所も今は四十軒が消されている。そのメモを眺めているうちに洋と一緒に探した思い出が蘇っていた。いつでもどんな時でも諦めずに自分を慰めてくれた洋との思い出が……。そのうち、翼の耳に洋の声が聞こえてきた。必ず。必ず愛ちゃんを捜し出せ≠サの言葉が翼の耳に何度も響くと、翼は今自分が着ているジャージに目を向けた。洋がくれた真っ白なジャージ。それを見ているうちに翼の中で本当の自分が目を覚ました。胸の辺りをギュッと握り締めると、翼はキリッとした表情に戻っていた。立ち上がった翼は、死んでいった洋に再度誓った。
「お前の死は決して無駄にはしない。必ず、必ず愛を捜し出して、一週間逃げ切るよ」
そう誓うと翼は一歩、歩き始めた……。
洋が死ぬ間際のセリフを翼は胸にしまい込み、辛いときにはそれを引き出した。再び愛を捜す行動に出た翼の隣には当然洋はいない。一入になった翼は右も左も分からず、一軒、探し出すにもかなりの時間を要していた。それでも弱音は吐かず、ようやく四十五軒目にたどり着いた。無論、四十五軒目までに訪れた家には一つも手掛かりが掴めなかった。それどころか、やはり何処の家も姿を現さない。既に補まっていると考えるのが妥当であろう。計画が実行されてから今日で……五日目か。既に何人の佐藤≠ウん達が捕まったんだろう。翼はそんな恐ろしい現実を妙なほど冷静に考えていた。考えているうちに翼は玄関前に立っていた。
ゆっくりボタンをを押すと、中の反応を待った。しかし、一向に反応は返ってこない。もう一度押してみるも結果は同じであった。翼は軽く息をつくと、メモを取り出し、慣れた手つきでチェックした。次こそはと、顔を引き締め翼は再び歩き始めた。
しかし、期待しているものと現実はまるで違った。
四十六、七軒目も結局は同じ結果であった。それでも諦めず、歩き続けていた翼の体に異変が起こり始めた。今までの精神的疲労と肉体的疲労。それが重なり合って、意識が朦朧とし始めたのだ。それに翼は昨日から一睡もしていない。尚更、翼の体に襲いかかる。風景も霞んで見えるし、足取りも重かった。頭では探そうと必死なのだが、体がどうしてもついていかなかったのだ。それでも必死に探し続けた。
メモに書かれた住所は残り三軒。その残り三軒に全てを賭けるしかなかった。もし、それでも愛を捜し出せなかった場合……もう、諦めるしかないかも知れない。愛は既に捕まっていたという、辛い現実を受け止めるしかないのかも。いや、そんなはずはない。残りのどれかに愛は必ずいるはずだ。翼は一瞬でもマイナス思考を描いてしまった自分に喝を入れた。最後まで。最後まで信じようと四十八軒目。そこで大きな変化が起こった。
翼の疲労は既にピークに達しており、疲労困憊になりながらもようやく、四十八軒目にたどり着いた。そこは何の変哲もないただの一戸建てで、建物自体はさほど綺麗なものでもなかった。外から見ると明かりもついておらず、明らかに人が居る気配は感じられない。それでも確かめなければ意味がない。翼は息を大きく吐いて、
「よし」玄関前まで足を運んだ。
玄関のドアに佐藤と書かれた表札が目に入った。間違いではないと確かめた翼は人さし指をゆっくりとインターホンへ伸ばしていった。そして、神に祈りを捧げる思いでボタンを押したのだ。ピンと鳴ると一つ間が空いてボーン。家中に響いているのが翼の耳にも届いていた。しかし、家の中では物音一つ起こらない。静かであった。数秒経っても家の中からは一つも返事が返って来ない。翼は一つため息をつくと、もう一度ボタンを押した。同じ音が家の中に鳴り響く。
が、結果は同じであった。しかし、翼のメモに書かれた住所はここを入れてあと三軒。ここが消えるとあと二軒になってしまう。あとが無い翼はそれから意味もなく何度もボタンを押し続けた。無論結果は同じなのだが、その根気が幸運をもたらした。隣の家から一人の女の子、いや、見た目は高校生くらいの少女が興味深い顔をして出て来たのだ。
「あの〜どうかしました?」
言葉をなまらせ彼女が尋ねてきた。疲れていた翼は反応を遅らせて戸惑い、
「い、いや……」
語尾を引きずりながら次のセリフを言おうとした矢先、彼女の方が聞いてきた。
「もしかして……そこの家に何か用事があるとか?」
翼はその質問にはとっさに反応した。
「ええ、そうなんです。ここの人とは知り合いですか?」
翼の表情が蘇った。だが、翼がその質問をした途端、彼女の表情は暗くなり、無言のまま、落ち込んだ様子で俯いてしまった。妙に感じた翼は彼女に聞いた。
「どうかしました? 何か僕、余計な事を聞いちゃいましたか?」
彼女の顔を覗きながらそう言った。彼女はそれを否定する様に慌てて首を振った。
「と、とんでもない」
そう返すものの彼女から元気は消えていた。一つ間を置くと、彼女が肝心な事を聞いてきた。
「それより……失礼ですが、あなたは?」彼女は翼の目を見つめている。本題に入った途端、翼は思い詰めた様子で彼女に全てを話そうと口を開いた。
「実は……妹を捜しているんです」
「妹?」
彼女は聞き返す。翼は小さく頷いて、
「ええ、僕には十四年前生き別れた妹がいるんです」
「それじゃーあなたも佐藤さん?」彼女は聞いた。翼はその質問で更に思い詰めた様子で、
「え、ええ……」
彼女は顔を引きつらせ慌てた様子で、
「す、すみません……」
翼に頭を下げた。顔を上げた彼女の目はそれでも翼を珍しそうに眺めている。それ程、佐藤という名字は少なくなってきた証拠だ。今や佐藤という名字は巷でいうレア≠ノなってきている。五日前まではごく当たり前の様に佐藤さん達があふれかえっていたのに……翼は小さく首を横に振りながら、
「いや、君が謝る事じゃないよ」
手で制すと、翼は視線を遠くに定めて思いふける様に語った。
「そう、こんな計画が実行されてから、国はもちろん、俺の人生は滅茶苦茶だ。おやじは死んで、唯一の親友も死んでいった」
彼女はそれで胸が苦しくなったのか目を伏せたまま一言も言葉を発しなかった。それで翼は自分が本題からそれている事に気づいた。
「そうだったね。妹の事だったね」
「いえ……」
彼女は小さく言った。翼は話を再開した。
「僕の父と母は昔から仲が悪くて、十四年前に母と妹は家から出て行ったんだ。でも、その直後母は事故で死んでいった。独りぼっちになった妹は父の弟に引き取られたらしいんだ。その事実は僕もつい最近知ったんだけど……」
「その妹さんが、この辺りに?」
「そうなんだ。昨日から捜し回っているんだけど、なかなか手掛かりが掴めなくてね」そう言うと、翼は肩を落とし、俯いた。しばらく沈黙が続いた後、彼女の口から何とも驚くべき発言が出されたのだ。
「あの〜」
彼女が翼に呼びかけた。
「え? なにか?」
彼女は何かを迷っている様子であった。そして、彼女は決心したのか翼に問いかけてきた。
「もし、違ってたら……聞き流して下さいよ」
その瞬間、翼の申で緊張が走った。
「あ、ああ。もしかして、何か知ってるの?」
翼はグッと息を呑んだ。それでも彼女は躊躇いながら静かに口を開いた。
「まさか、まさかとは思うのですが……妹さんのお名前……」
そこで一旦言葉を切って、小さく息を吸い込んだ。その間、翼の心臓はドックンドックンと大きな音をたてていた。翼は最後に発せられる言葉に最後の期待を込めていた。そして、彼女の口元に視線を置くと、彼女の口は動いた。
「妹さんのお名前……もしかすると……愛≠ウんではないですか?」
その瞬間翼の中で衝撃が走った。彼女は確かに愛≠ニ口にした。確かに愛と、確かに……。期待をしていたとはいえ、まさか本当に愛の名前が出てくるなんて……あまりの驚きで翼は気が動転していた。信じられないという顔付きで翼はもう一度彼女に確かめた。
「もう一度聞いていいかな……今、何て言った?」
なおも翼の心臓は大きく音をたてている。不気味と言ってよいほど、真剣な目をしている翼に彼女は臆す様に
「え、ええ……だから妹さんのお名前は愛さんではないかと……」
言って彼女は翼から目をそらした。ようやく翼は認識した。確かに、確かに彼女は愛と言っている。
あまりの疲れで錯覚を起こしたのかと不安に感じたのだが、確かに彼女は愛と口にした。それでも信じられなかった翼は語調を震わせ、再度確認した。
「今、愛って言ったよね?」
「ええ……言いましたけど……」
頷くと彼女も何かを察知したのか目を見開き、翼に言った。
「ま、まさか……あなた、愛のお兄さん?」
翼から反応が返って来るまで彼女は翼から目を据えたまま外さなかった。その言葉に対し、翼は無言のまま静かに首を頷かせた。彼女は驚いた表情で独り言を言っていた。
「ウソでしょ? 愛にお兄さんが居たなんて……」
それを耳にした翼は彼女に聞いた。
「愛は君に何も言っていなかったの?」
「ええ……今までそんな事は何も」
「そうか……そうだったのか」
翼は眩く。しかし、愛と言っても確信は出来なかった。それが人違いの可能性があるからだ。しかし、翼は一番肝心な事にハッと気づいた。途端に彼女の肩を揺らしながら、
「愛は! 愛はまだ生きているのか?」
完璧に翼は冷静を失っていた。興奮している翼を彼女は冷静に落ち着かせた。
「落ち着いて下さい!」
この一声で翼は我に返った。彼女は続けた。
「心配しないで下さい。愛は捕まってはいません」
静かに言った。その瞬間、翼はホッとした思いで一杯になり、心の底から安心していた。
そんな矢先、
「でも……」
彼女は翼の目を見ながら意味深なセリフを口走った。
翼もその言葉が気になって、
「でも?」返した。彼女は一つ頷くと口を開いた。
「この計画が実行されてから、愛は徐々に変わっていきました」
「変わった?」翼は言う。
「ええ、外見はもちろん。性格というか……内面が……」
「……何が変わったの?」翼は問うた。
「昔から、愛は明るく、誰にでも優しかった。それが、計画が実行されて、日が経つにつれ、愛の目は死んだように輝きを失い、人とは接触するのも嫌なのか、この頃は気がつくと愛の姿は消えていて、記憶を失ったかの様に私にも近づこうとはしません」
彼女は言って付け足した。
「現に今日も、早朝から家を出て行きました」
「そ、そうか……」
翼の口調は重かった。彼女は一つ頷くと悲しい表情をさせて、
「だからお兄さん! 愛を、愛を助けてあげて下さい。愛を助けて上げられるのはお兄さんしかいない! 愛もお兄さんに会えばきっと嬉しいはずです。きっと昔の愛に戻ってくれるはずです」
涙ながらにそう言うと、
「これ以上……これ以上私はあんな姿の愛を見たくはない」
彼女は涙を浮かべて訴えた。
「分かってる。大丈夫。愛は俺が必ず守るよ」
彼女に言い聞かせた。それで彼女は涙を拭いて小さく頷いた。翼も頷き返した。一つ間を置いて、彼女が先に口を開いた。
「愛はいつここに戻って来るか分かりません。その間、私の家で愛が帰って来るのを待ちましょう」
「あ、ありがとう。助かるよ」
極度の疲労で既に倒れそうになっていた翼にしたら彼女の言葉は願ってもないものだった。少しは体を休ませる事が出来ると翼は彼女の言葉に甘えた。
「さあ、どうぞ」
彼女は言って、後ろを振り向こうと体をひねらせ始めた。その時だった。動作を止めて彼女は遙か前方に視線を合わせると、じっと目を凝らしている。疑問に感じた翼は聞いた。
「どうかした?」
翼の問いかけにも彼女は一つも表情を変えず、反応しない。変わらず前方に目を向けたままだった。
すると、彼女の口が静かに動いたのだ。
「お兄さん」
目は前方に向けたまま口だけが動いていた。
「ん? どうかした?」
翼が返すと、彼女は一つ間を開けた。何かを確かめている様子だった。そして、再び口を開かせた。
「やっぱり、あれ……愛です。ほら、前から歩いてくる女の子」前方を指さし翼に示す。翼も彼女が喋り終わるまで前方には振り向かなかった。彼女が言い終わると翼は素早く振り向いた。視点を合わせると、確かに一人の少女がこっちに向かって歩いて来る。ゆっくり、ゆっくり。両腕は真下に垂らし、歩き方もぎこちない。頭をいささか上に向かせ、ボーっとしているのが遠目でもうかがえる。
「あの子が……愛」
言葉が洩れた。彼女は頷く。
ゆっくりと少女は近、ついてくる。不気味なくらい静かに。音もたてずに一歩、二歩……。近づくにつれて、少女の格好がはっきりと見えてきた。背は百六十センチ程度。上下は真っ白のウィンドブレーカー。靴は運動用のシューズ。髪は長めでゴムで後ろに束ねている。それだけでは愛≠ニはっきり確信が持てない。目を細めて顔を確認した。四歳までの記憶しか無いとはいえ確かに……確かに面影はある。それでも完全に愛とは言い切れない。最終的には少女本人に確かめるしかない様だ。それで全てがはっきりする。
二人が見守る中、少女は翼の目の前までやって来た。それでも翼の姿に目もくれない。彼女がとっさに口を開いた。
「愛……」
呼びかけると少女は立ち止まって、静かに目線を持っていく。それで目を多少開かせ、
「純子……」しゃべり方にも力がない。
「愛……今まで何処に行ってたん? 待ってたんよ?」
彼女は言う。すると少女は、
「待ってた? 私を? どうして?」
少女は力無く聞き返してきた。それで彼女は翼に頷き、翼にバトンタッチした。翼も彼女に頷いて、少女に体を向けた。翼は口を開く。運命の時が訪れた。
「佐藤……愛さんだよね?」
翼は慎重にゆっくりと質問した。少女は翼の突然の質問に戸惑いながら
「ええ……」
言うと彼女に誰? と言わんばかりに視線を向ける。少女と目が合った、彼女は少女に言った。
「もしかして愛に……お兄さんいる?」
何とも聞きにくそうに彼女は聞いた。
「え?」
少女はそれで驚いた表情を一瞬だけあらわにした。少女は続けた。
「純子……どうしてそんな事……」
そこで言葉を切るとまさか≠ニ言わんばかりに顔を素早く翼に向けた。それで翼は勢い込んで、
「君は……君には十四年前に離ればなれになった兄貴がいるかい?」
真剣な目をして少女の瞳を見つめて言った。
「え?」
あまりの問いかけに少女もさすがに戸惑っている。それで翼は思い出す様にして、慌ててポケットから財布を取り出し、一枚の写真を少女に見せた。この時から翼は我を忘れて思い出させるのに必死になっていた。
「これ見て! この写真に見覚えはない?」
早口で言い足す。
「よく見て!」
翼はゴクリと息を呑んで少女の反応を待った。緊張の一時が訪れる。ボーっと写真を眺めている少女は衝撃的な一言を発した。
「これ……私です」
懐かしそうに茫然と翼に言った。まさかの言葉に翼は、
「え?」
聞き直す。とっさに少女は口を開いた。
「これ……確かに私です」
目にはうっすらと光が見えた。少女はゆっくりと翼に目を向けて、語調を震わせながら、
「まさか……もしかして、これ……」
表情も震えていた。
翼はホッとした表情で、
「俺だ。翼だ」
少女は言葉を震わせながら、
「……お、お兄ちゃん……私の……お、お兄ちゃん」
少女は指でなぞるように言うと、
「お兄ちゃん!」
そこで涙がこぼれ、大声で翼の胸に飛び込んだ。
「愛!」
翼も両手を広げた。奇跡だった。愛を捜し出せたのは奇跡としか言いようがなかった。翼もそれは感じているに違いない。
しばらくして、二人は体を引き離し見つめ合う。愛の目からは涙は消えており、生き生きとした表情で、翼を眺めている。それを見た翼は安心したのか一気に緊張の糸が切れてしまった。
「良かった……やっと、やっと……愛を……」
そこで言葉が切れ、翼は愛の体に倒れかかった。あまりの疲労と、ようやく愛を見つけ出せた安心感が重なって倒れてしまったのだ。
「お兄ちゃん!」
愛は翼の全身を必死に支えた。
「純子!」
愛がそう呼ぶと純子もとっさに翼の体を支えに来た。二人は声を合わせて、翼の体をひとまず愛の自宅へと運び込んだ。ここで翼の記憶は閉ざされた。
こうして翼は、大きな犠牲や辛い道のりを経て、やっとの思いで、十四年目にしてようやく、最愛の妹愛≠捜し出すことが出来たのだ。しかし、それは一瞬の幸せであって、まだまだ戦いは終わらない。翼には愛を守るという義務がある。ここからが本当の修羅場であると翼もそれは確信していた……。
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互いの過去
包丁の音と空っぽのお腹をそそる何ともいえない程のいい匂い、それにつられる様にして翼はまぶたをゆっくりとあげ、意識を取り戻した。うっすらと天井が映っている。それをボーっと眺めているうちにそれは段々とはっきり見えてきた。気づくと包丁の音が聞こえてくる。翼は体をゆっくりと横へ傾けた。そこには愛がいた。
いまだ意識は朦朧としていた翼の目に映っているのは、愛がウィンドブレーカーの上にエプロンを羽織って、包丁でトントン≠ニまな板に向かって何かを叩いている。料理を作っているのか? それしか思い浮かばないが……。
翼は病人の様な声色で
「あ、愛……」
呼びかけた。
「え?」
愛はとっさに振り向くと、表情を綻ばせ、
「よかった〜やっと気がついた」
言うと翼の側に駆け寄って、正座で座り込んだ。そのまま愛は翼の額に手を置いた。
「熱も……」
確かめると、
「うん。大丈夫」
何が何だか理解できない翼は、
「愛……俺……一体」
周りを見回しながら愛に問いかけた。愛は優しい笑みを浮かべながら、
「ビックリしちゃったよ。急に倒れ込んで、そのままずっと眠ったままなんだもん」
言うと愛は安心した顔を浮かべて続けた。
「でも、もう、大丈夫。意識もはっきりしているし、熱も引いたから」
言うと愛は翼を見つめていた。翼は愛のその説明で大体の事は理解が出来た。自分は倒れて熱を出し、そのまま愛の家に……きっとそんなところであろう。一つの言葉が気になっていたが。ずっと眠つたまま? 翼はとっさに腕時計を確かめた。仰天した。
「は、八時! ウソだろ?」
そうである。時刻は既に夜の八時を回っていたのだ。俺、何時間眠っていたんだろう……それもあまり覚えていない。翼はそう、かん高く声を張ると翼は布団から起き上がろうと力を入れた。それを見て愛が翼の体を押さえて制した。
「だめよ! もうちょっと楽にしてなきゃ」
「あ、ああ」
それで翼は再び布団へと頭を下ろした。確かに愛の言う通り。起き上がろうとした翼の体は重く、だるかった。体を楽にした翼はクンクンと犬の様に激しく鼻を動かした。
「いい匂いだな」
「え? あ、ああ。そうでしょ? 今ね、特製のお粥を作ってるからちょっと待ってて」
愛は自慢げに言うと再び台所へと戻っていった。それから翼はずっと愛の後ろ姿を眺めていた。
翼は体の向きを愛から仰向けにむき直し、天井を見つめながら静かに口を開いた。
「愛……」
小さく呼んだ。愛は台所に向かったまま。
「ん? どうかした?」
「後で……色々話があるんだ……」
語調が重々しかった。愛は手を止めて、
「うん……」
深く頷いた。重い空気が漂う。翼はすぐに雰囲気を変えた。
「それより、楽しみだな。愛の料理」
ほんのり照れながら翼は言うと、
「待ってて! もうじき出来るから!」
愛は明るく言った。翼は優しい笑みを浮かべると、少しの間目を閉じていた。
しばらくして、湯気を立たせた小さい鍋をお盆に乗せて、
「出来たよ!」
愛は明るく翼に言った。その声で翼もまぶたを開けて、上半身だけ起こした。
愛はお盆を下に置くと、
「はい、召し上がれ」
ニッコリ微笑んだ。翼はお盆を自分の手前まで寄せると愛に、
「ありがとう。頂きます」
レンゲをお粥に持っていった。口元を細めてお粥を冷ますとゆっくりと口の中へと運んだ。
「どう?」
愛は翼の顔をのぞき込む。翼はお粥を飲み込むと愛に向いて笑みを浮かべて深く頷いた。その瞬間、愛も安心の笑みを浮かべた。
「よかった〜」
ホッと息をつく。その二人の光景は十四年振りに再開した兄妹とは思わせない程、二人の間に大きな距離は存在しなかった。今まで一緒に暮らしていたかの様にほのぼのとしていた。何だか幸せすぎて逆に怖かった……。
それから翼は一口、二口。お腹の空いていた翼はアッという間にお粥を平らげた。
「ごちそうさま。おいしかった〜」満足そうな表情を浮かべながら翼は言った。それで愛は照れた表情を浮かべ無言のままお盆を台所にそそくさと下げに行った。そして、水道の蛇口をひねると、洗い物をし始めた。
激しい水の音が聞こえてくる。愛は一つも振り向かず、無言のまま翼に背を向け食器をスポンジで洗っている。その仕草はどことなく翼の事を避けている様でもあった。いつ、話を切り出してくるのか、愛は考えていたに違いない。翼も同じ考えだった。このままでは気まずい雰囲気のままと察知した翼が最初に切り出した。
「母さん……死んだんだってね」
辛そうに翼は愛に言った。愛もいきなりの投げかけに一瞬動作を止めて、
「うん……」再び洗い物をしだした。
「辛かったろ? 今まで良く頑張ったね」
翼が優しく言うと愛は小刻みに首を横に振った。
「ううん。私は全然……。あれから父さんのおじさんに何不自由なく育ててもらったから」
一つ間を開けて、
「そうか……それを聞いて安心したよ」
翼は続けた。
「おじさん達もやっぱり……?」
そこから先は言葉にしなかった。愛はそれで翼の言おうとしている事が十分理解できた。
「うん……二人とも、結局は捕まってしまった」
愛は更に辛そうな語調で翼に返した。翼はため息を吐き、肩を落としながら、
「そうか……二人とも」
それから沈黙が続く。先に愛が口を開いた。
「お兄ちゃんは? お兄ちゃんは……あれから父さんと一緒に暮らしたんでしょ?」
興味深く聞いてきた。翼は重く頷いた。
「ああ、一緒だったよ。十四年間の間……ずっと」言って翼は俯いた。
「そ、そう……」
続けて聞いた。
「それで……父さんは?」
語尾を強調した。翼はすぐに返した。
「死んだ……死んだよ」翼が言うと、
「そう……」
もう、慣れたのであろうか、愛はこれまた驚きはしなかった。翼は続けた。
「でも、でもね。最低なおやじだったけど……死ぬ間際に愛の住んでいる居所を教えてくれたんだ。少なくともそれには……感謝している」
「うん……」
愛は頷くと、再び沈黙が訪れた。今度は翼が先に口を開く。
「それより、さっきの子は?」
「え? さっきの子?」
愛は思い出すと、
「ああ、純子? どうかした?」
蛇口を止めて、翼に振り向いた。
「あの子とは、友達かい?」
翼は聞いた。愛は小さく頷いた。
「うん、一番の。小学校から一緒でね。色々相談にも乗ってくれたし、助けてもらった。さすがに私が養子とは言ってなかったけどね」
「そうか……」
翼は優しい笑みを浮かべた。翼は話を切り替えた。
「それにしても……よく今まで逃げ続けたな」言った。
愛は拭き物をしながら小さく頷くと、
「うん……でも、怖かったよ。もの凄く……」
「追われたか?」
翼は当たり前の事を聞いてしまった。
「うん……何度も。何度も」
語調が重々しかった。続けた。
「でも、捕まらなかった。私ね、こう見えても足がもの凄く速いから」
今度は語調のトーンを上げて言った。翼はフッと苦笑いすると、心の中で思っていた。
足が速いか……やっぱり兄妹だな。そう、気を取られている間に愛が翼に聞いてきた。
「お兄ちゃんは?」
「え? 何か言った?」
翼は聞き返す。
「お兄ちゃんだって、よく今まで……当然追いかけられたんでしょ?」
食器を拭き終えて愛は翼に振り向いた。
「ああ、でも……一人の親友が……俺のせいで最高の親友が犠牲になったんだ」
翼はあの時の映像を思い出しながら、全身の力が抜けたような口調で苦しそうにそう語った。
「そうだったんだ……」
愛はそれ以上の話は聞かなかった。翼の心境を思うと聞けなかった。翼は言った。
「だから……あいつの為に、あいつの死を無駄にしない為にも必ず一週間逃げ切る。そう、胸に誓ったんだ」
俯き加減でそう言うと愛に向かって、
「そして、愛。お前も一緒に……」
真剣な眼差しでそう言った。愛も表情を引き締め
「うん」強く頷いた。翼はそれで表情を和らげた。愛が翼の前に座り込む。すると、翼は、
「愛……こんな事実受け止めたく無いけど、実際に大量の人間が捕まり、そして、犠牲になっている。これからは今まで以上に辛く激しい戦いになるはずだ。そうしたら……」
翼がその先を言おうとすると愛は割り込み、
「ねえ……そのての話……もう、止めない?」
言うと、目をうるうるさせながら、
「私たち十四年ぶりに再会出来たんだよ? せっかく会えたのに……」
愛はそこから言葉を詰まらせた。翼は優しい笑みを浮かべると、
「そうだな。今、その話は止めよう」
翼は心の中で反省した。翼は思う。
そうだよ。愛の言うとおりだ。俺達は十四年振りに再会出来たんだ。それなのに、何でこんな暗い会話を。
「ごめん。つい……」
言うと翼は俯いた。愛はそれを否定するように首を横に振ると、
「しょうがないよ。国がこんな状態だもん」続ける。
「それより、これまで離ればなれだったでしょ? お互いの事を話そうよ」
愛は多少明るさを取り戻していた。
「ね?」
翼の顔をのぞき込んだ。翼はゆっくりと頷いた。
「ああ、そうだな」
翼も笑顔を取り戻した。
「それじゃーお兄ちゃんから」
それから二人は十四年間の間、離ればなれだったお互いの過去を何一つ隠すことなく語り合った。最初に翼が自分の全てを語り始めた。中学一年の頃までは輝彦の暴力で心を閉ざし、一人も友達がいなかった事。それから佐藤洋と出会い、色々な悪さをしてきた事。素質がある≠ニスカウトされて陸上部に入部し、そこから一気に才能が開花して、今では全国大会で一位になるほどの実績を残している事。つまり王国内に翼の右に出る者はそうそう、いない事。自慢も会話の中に取り入れた。そして、今は某有名大学の陸上部の選手として、さらなる記録を目指し走り続けている。翼はありのまま、愛に語った。
次は愛が自分の全てを語り始めた。翼と生き別れ、益美と暮らし始めた矢先に益美が事故で死んでいき、輝彦の弟、つまり叔父に引き取られ、何不自由なく、育てられた事。小学校に入学すると先程現れた少女、稲垣純子と、毎日の様に過ごした事。中学に入る。部活はテニス部。純子も同じ。高校からは純子とは離ればなれになった。それでも家が隣だった為か毎日の様に顔を合わせていた。高校は私立の女子校に進学。テニス部には入らず、今は幼児教育に興味を持っている。しかし、育ての親が死んでしまい、学費も払えない状況。学校は辞めるしかない様だ。
愛も全ての事を翼に明かした。お互いが過去を語り終えた後、翼が先に口を開いた。
「あの時の事、まだ、覚えている?」
聞くと愛は翼に目を向けた。
「あの時って……何?」
翼は思い出しながら話した。
「十四年前……俺達が離ればなれになったあの時の事だよ」
言うと愛は深く頷いた。
「覚えてる。何故かあの時の事だけは今でもはっきりと鮮明に……」
「そうか……俺もだ。そして、母さんと愛の事も忘れた事は一度もなかった」
愛はあまりの嬉しさに言葉が出ずに頷くだけであった。それからも二人は十四年間の穴を埋める様に色々な出来事を語り合った。時には笑い声もこだまする。翼も愛も全てが新鮮に思えていた。この時だけは何もかも忘れて幸せな時間を過ごしたのだ。これで二人の十四年間の穴が全て埋まった。とは言えないが少なくとも二人はより近づけた。
和やかな雰囲気に包まれる。しかし、幸せな一時もそう長くは続かなかった。時は刻一刻と刻まれていき、アッという問に恐怖の時間が近づいて来たのだ。翼は腕時計を確かめると一つ息を吐いて、重たく視線を愛に向ける、
「愛……もうじき……」
語尾を引きずり、
「時間だ」
言った。その言葉で愛の表情が沈んだ。頷いた。二人の雰囲気が幸せから一気に不安へと移り変わった。それからお互い口を開く事はなくなっていた。あとは恐怖の鬼ごっこを待つだけとなっていた……。五日目の夜。この日は特に冷たい風が体を刺激する。王国中の佐藤さん達が確実に全滅へと近づいている。そんな恐ろしい現実の中、いまだ捕まっていない二人の兄妹がここにいた。十四年振りに再会した二人の兄妹が今ここに……。
静かな夜空に五日目のサイレンがとうとう鳴らされた。
十二月二十二日、金曜日、リアル鬼ごっこ′ワ日目……スタート。
翼と愛は鬼ごっこ体制へと体を硬く引き締めた。
サイレンからの一時間、この一時間だけは王国が百八十度一変し、佐藤姓の人は一瞬たりとも気の緩みが許されない。既に計画が実行されてから五日目。二人も自ずと気の入れ替えが行われていた。慣れたといえば慣れたもんだ(こんなもの、慣れたくはないが)。
二人は歩き出していた。交互に後ろへと注意を払いながら、静かに静かに。昨日の出来事が頭に残っていた翼の素振りは落ち着かず、怯えもしていた。
初日、二日目は、確率的にもそうであるが、運が良かったのか、それ程追いかけられはしなかった。
それが三日目、四日目になるにつれ、鬼に出くわす可能性も高くなり、事実それが現実となっていた。
当然追いかけられる時間も増えていた。四日目であれほどのピンチに陥ったのだ。五日目はそれ以上のピンチが翼を襲うはず。自分でもそれは承知していた。
それがどうであろう、二人が歩き始めてから既に十分以上が経過しているにもかかわらず一匹の鬼にも出くわさないのだ。追いかけられないにこしたことは無い。しかし、それにしても鬼が現れない。
神様がやっと出会えた二人に同情でもしているのであろうか? いや、そんなはずはない。もし、本当に神様がいるならば二人の名字が佐藤≠ナは無かったはず……もう、そんな事はどうでもよい。それにしてもおかしい。いつもならとっくに……翼は妙に感じていた。それでも二人は足を止める事無く、歩き続けた。いつ現れるか分からない鬼に体をビクビクとさせながら……。
二人は更に数分歩いた。それでも鬼が現れなかったのだが、歩いているうちに翼の前方に学校らしき、建物が見えてきた。
「あれは? 学校?」
ごくごく小さな声で愛に質問した。
「うん、そう。小学校」
小さく返す。
「ふ〜ん。そうなんだ」
翼は納得するように首を頷かせた。すると愛が付け足した。
「実は……私の母校なんだ」
愛の言葉と共に二人は校門の前に立ち止まった。カギはかかっているものの手ですぐに開けられる仕組みになっている。当然、校内に明かりは一つも灯っていない。夜の学校がこんなにも不気味なものなんて……翼は身震いした。その矢先だった。
「入ろう?」
愛は翼に言った。翼はとっさに反応した、
「入るの? さすがにまずいだろ……もし、見つかったりでもしたら……」逃げ場はないそ。そう言いたかったのだが言う前に愛が割って入った。
「大丈夫。心配しないで」
愛は不安に感じる翼を安心づけた。しかし大丈夫とそんな事を言われても翼は安心出来るはずがなかった。やっぱり入らない方が……。
内心不安に感じていたのだが既に愛が正門のカギを開けてテクテクと中に吸い込まれるように入って行く。翼は微かな声で、
「しょうがねーな」
渋々、愛の後を追うようにして、小学校への中へと足を踏み入れて行った……。
愛はグラウンドをひた歩き、中心部分で立ち止まった。翼も神経を鬼に集中させながら愛の隣で足を止めた。一度耳を澄ます。大丈夫、物音の一つもしない。確認すると翼は愛の横顔に視線を向けた。
翼の視線を感じる事無く愛は何だか懐かしそうな表情で校舎を眺めている。
「愛……」翼が呼びかけるとそれを無視するかの様に今度はゆっくりと体を三百六十度回転させ、学校中の風景を見回した。その姿は何かにとりつかれている様でもあった。翼がそれを見守る中、愛が小さく言葉を洩らした。
「懐かしいなー何も変わっていない」
言うと再び見回した。
「あのブランコも、あのタイヤの跳び箱も、あのジャングルジムも、あの鉄棒も」一つ一つ目で差し、愛は再び校舎に体を向けて、
「そして、学校の建物自体、全然変わっていない」
そう言うと愛は安心した表情で翼に向いた。翼も笑みを浮かべると小さく頷いた。しかし、王国は全てが変わったのだ。その証拠に……。
和んだ雰囲気の中、翼の耳がピクリと反応した。グラウンドの土を踏む音がかすかに聞こえたのだ。
翼は静かにと人さし指を立てて、それを愛に合図した。二人の動きがピタリと止んだ。微動だにせず息を呑む。もの凄い緊張が二人を襲う。まさか。鬼か。
土を踏む足音が徐々に大きくなってくる。じゃりじゃりと徐々に徐々に。翼は耳だけを鋭く反応させ、音の出所に目を凝らす。しかし、暗闇の為、なかなか姿が確認できない。しかし、それはあちらも同じ事、翼達は気配を消している。それは尚更だ。もしも≠フ時の為に、二人は呼吸の音すら抑えていた。なおも足音は続く。
暗闇の中からうっすらと人影がかすかに現れた。距離的にはかなり離れているのだが暗闇に目も慣れたせいかうっすらと人影が見えたのだ。それでも身なりははっきりと確認できない。翼と愛は息を呑んで、人影をじっと見据えていた。見えてきた。上下は共に迷彩服、そして、目元にはゴーグル<Sーグル?
鬼だ! 確かに鬼であった。どうして? どうしてこんな所に? ああ、そうか、探知機か……翼は冷静にそれを受け止めるととっさに愛と逃げ出そうとしたのだ。しかし、翼は戸惑っていた。鬼は正門から入ってきている。今の位置からすると正門からは逃げられない。どうする……そう躊躇している時に翼は愛の言葉を思い出していた。大丈夫≠アの言葉を。翼は頼りない目で愛に視線を流す。
再び鬼に戻す。いまだ翼と愛の姿には気づいていない。それ故、警戒発信も鳴らされていない。しかし、このままじっとしている間にも鬼に発見され追いかけっこ≠ェ成立してしまう。といっても愛はいまだ動こうとはしない。どうする、どうする……。翼の中で不安と焦りが入り交じり、どうにもたまらない気分で一杯になっていた。
たまらず、
「愛……」
ささやく様に愛を急かすと、愛は横顔のまま決心するかの様に小さく頷いた。少なくとも翼にはそう思えた。すると愛は鬼の方向に目を向けたまま、左手を顔辺りにまで挙げると指を三本立て始めた。
翼はその仕草に疑問を感じていたが聞かなかった。いや、聞く暇も無かった。翼が立っている三本の指に目を奪われていると、愛が今度は右手で翼の腰を軽くポンとと叩く。それは赤ん坊が眠りに入るまで母親が赤ん坊の体をポンポンと叩くそれと同じ様な。愛は翼の腰を軽く叩くと一つの指を減らす。
すかさずもう一つ、翼の腰を同じように叩くと指をもう一本減らした。この時に翼はその意味合いがようやく理解できた。それで翼は視線を鬼へと向ける。近づいて来る。翼は平静を保っているものの内心焦りまくっていた。
愛は最後にもう一度、翼の腰を最後は多少強めにポンと叩いた。それと同時に
「こっち!」愛はクルリと振り返り、全力で走り出していた。翼も一瞬、出遅れたが、そこから猛ダッシュで愛の後を追って行った。
途端に警戒発信が鳴らされた。鬼もすかさず追いかけて来た。翼は愛の後を追い続けた。それ程、手を抜いている訳でもない。愛は早かった。改めて兄妹と確信した翼はこんな事態にも関わらず小さく微笑んだ。
愛と翼はグラウンドの中をひたすら全力で駆け抜けた。愛は気持ちがハイになっているせいもあってか、本当に逃げ足が早かった。翼は後ろを振り向くと既に鬼は暗闇の中へと消えていた。しかし、それはあくまでも暗闇での確認である。実際、鬼がどの辺に位置しているのかは全く見当がつかなかった。翼は向き直ると愛との距離も少し離れてしまっていた。翼はそこから更に足を早めて、愛のすぐ後ろに位置づけた。
アッという問にグラウンドから抜けると、校舎への通路か、地面がコンクリートに変わった。翼はどっちかと言えば土よりコンクリートの方が走りやすかったが、そんな事はどうでもよい、今は逃げるのが先決だ。
コンクリートの道をそのまま一直線に走ると大きな門が見えてきた。ここがもう一つの出入り口かと翼は認識した。閉まっている。愛は翼が後ろをついてきているかを確認すると、その勢いのまま扉の鉄に足をかけ、難なく門を乗り越えた。門の向こうには愛が足を止めて翼が来るのを待っている。翼も門に足をかけ、簡単に上がるとそこからジャンプし、着地した。二人は、よし、と頷くとそこから全力で駆け抜けた。
翼は愛の後ろを保ちながら周りに目を配っていた。
学校の近くとあってか住宅が建ち並ぶ。大きなマンション、小さなアパート、小さな公園、今は閉まっているが古びたお菓子屋、あちこちには自動販売機。翼は確信した。ここは小学生達が通る、通学路だと。別にそれを愛に確かめはしなかったが恐らくそうであろう。
いまだ走り続ける翼は後ろを振り向いた。鬼の姿が一向に現れない。撒いたかとしばらく翼は後ろを向いたまま走っていた。それでも鬼は追いかけて来なかった。
それが分かると翼は愛に言葉をかけた。
「愛! 大丈夫だ。追って来ない」
言った。愛はその言葉を冷静に受け止めていた。徐々に足を緩め、止まった。翼も愛の横で足を止めた。二人ともそれ程、呼吸を乱してはいない。
気がつくとそこは十字路の真ん中に二人は立ち止まっていた。
「なかなか、早いな」
翼が愛に感心すると、
「そうでしょ?」
腰に手を当て、顎のラインを浮かしながら冗談交じりの口調で翼に返した。まだまだ余裕がある証拠だ。強がりでも無かった、本当に愛からは余裕が窺えた。翼は聞いた。
「ここは通学路だろ?」
別にどうでもよかったのだが一応聞いてみた。
「うん。そうだけど、私はこの通学路では来なかった。いつも遊びに行くときはここを通っていたけどね」
愛はそう言った。
「そうなんだ」
翼は淡々と返した。
沈黙の中、二人は耳を澄ましていた。静かだった。不気味な程静まり返っていた。
「静かだね」
愛が最初に口にした。
「ああ、不気味なほどに」
辺りを見回しながらそう言った。しかし、これが嵐の前の静けさ≠ニいうのが二人にはこの時まだ分かっていなかった。
いまだ十字路のど真ん中に立ち止まっている二人の呼吸は完全に回復していた。
「とにかく……行こう」
翼が言うと愛も頷き、愛が一歩足を動かした。その矢先であった。二人の真後ろでドタドタドタ≠ニ激しい足音が聞こえて来たのだ。何事かと二人はとっさに振り返った。すると二人の目にはもの凄いスピードでこちらへと走って来る一人の男が映っていたのだ。二人ともどんな状況かをすぐに察知した。男は佐藤なのだ。その後ろには恐らく鬼≠ェ追いかけているに違いない。そうでなければこんな夜中にあんな猛スピードで駆け抜ける人間はそうはいないだろう。いるかも知れないが……まさか。
男は一直線に向かってくる。このまま立ち止まっていれば今度は自分たちに標的を変えられる。その前にここから逃げ去らなければ。そう考え込む前に二人は十字路の右側に進路をとると、そこから一気に駆け出した。翼は後ろを確かめながら走っていた。男はそのまま一直線に駆け抜け、翼の視界から消えていった。数秒後に鬼が……二人もいるじゃないか!
それでも翼は焦りはしていなかった。何といってもこの距離だし、酷いかもしれないがこのままあの男を追い続けると思い込んでいたからだ。しかし、それはあくまでも思い込み、神様は二人に試練を与えて下さった。一人の鬼はそのまま男を追って行ったのだが、もう一人の鬼の目に翼と愛の姿がチラッと映ったのか、一瞬立ち止まる。警戒発信が鳴らされた。そして、進路を変えて一気に追いかけてきた。
「ち! なんだよ!」
翼は苛立ち、言葉に出した。愛もその音でハッと後ろを振り返ると更にスピードを上げだした。翼も同様。
翼は愛との距離を多少離して、それを追うように鬼から逃げていた。今は愛のスピードも落ちていない。まだ大丈夫の様だ。それに今度の鬼はそれ程、足も速くない。アッという間に二人と鬼の距離が離れだした。
距離が徐々に離れていくのを確認した翼は視線を前に戻した。車が一台通れるか通れないかというくらいの細い道を抜けると、向かって斜め右の方向はそのまま細い道路がつながっているのだが、そのまま真っ直ぐ走るとそこからは道が途絶えて、辺り一面の大きな森に入ってしまう。そこは真っ暗で不気味さを漂わせていた。翼はどちらかを考えるより、口が先に開いていた。
「愛! どうする?」
冷静に言った。その問いに愛は考える素振りを一つも見せずとっさに森へと指さした。翼はそれで決心を固める様に何度も頷きながら
「よ、よし!」
了解した。二人は真っ暗な森の中へと入って行った……。
真っ暗だった。森の中は本当に真っ暗で視界が一気に閉ざされた。目の前の物しか確認できず、目を少しでも離せば愛がどの辺りにいるのかも見失ってしまう。それ程、森の中は真っ暗なのだ。そして、地面は枯れ木や恐らく瓦礫の様な物で踏むたびにバリバリ≠ニ音がたつ。真っ暗闇の中、その音だけが森中に反響している。もの凄く不気味であった。
なおも森からは抜け出せなかった。その兆しも一向に感じられない。翼は改めて愛の姿を確認すると一瞬だけ後ろを振り向く、当然真っ暗で何も見えなかった。しかし、鬼も翼達の足音を頼りに追いかけているに違いなかった。それを考えると姿は見えないとはいえ、足を止める事は出来ない。翼は更に足を早めた。
愛のすぐ後ろに位置し続けた翼は足下に注意を払いながらも愛の姿だけは見失わないようしっかりと見張っていた。愛も足下だけには注意を払っていたに違いない。しかし、ここへ来て見えない鬼への恐怖と、それでも必ず追われているという焦りを感じてしまったのか、愛が足を早めだしたのだ。その時だった。愛が地面の何かに突っかかり前によろけて、今にも前に倒れそうな状態になり、結局は足を転ばせた。
「愛!」
翼は慌てて愛の手を取り
「大丈夫か?」
さすがの翼も語調が焦っていた。鬼が確実に近づいてくる。愛は息を多少弾ませながら、
「う、うん」
頷くと更に足音が翼と愛の耳に聞こえていた。
「そ、それよりお兄ちゃん!」愛は声を震わせ怯えていた。
「よ、よし!」
愛の手を握っていた翼はそのまま愛の体を起こすと、そのまま愛を引っ張るようにして、再び走り始めた。二人は手を握ったまま森の中を全力で駆け抜けた……。
ようやくであった。かすかに明かりが見えたのは。恐らく森から抜け出せるようだ。鬼は? 、自分たちの足音で鬼の走る音が聞こえない。恐らく追い続けて来ているだろう。今は森から抜け出してそれを確かめるしかない様だ。鬼が消えている事を願いつつ。そして、しばらく走ると二人は森から抜け出した。ピンチはここからだった。
森から抜け出し、またしても住宅が建ち並ぶ細い道へと飛び出していた。そこで愛は翼の異変に気づいたのだ。いまだに手を握っている翼の手からは大量の汗がにじんでいる。それは激しい動きをしている時の汗ではなかった。何だか脂汗の様にねっとりと。それに後ろ姿の翼もどことなく様子がおかしかった。愛はすぐさま翼の手を離そうと手のひらをもがく。いとも簡単に愛は手を離すと、
「お兄ちゃん?」
スッと翼の前に出ると翼の表情を窺った。やはり愛の予想した通りであった。顔色が真っ青で額からは汗が流れ出ている。それはまさに異常であった。愛は心配そうに、
「お兄ちゃん! 大丈夫?」
呼びかける。翼は反応を遅らせ、首を重々しく何度も頷かせるだけで一つも言葉を発しなかった。まずいと察知した愛は一度後ろを振り向いた。大丈夫。まだ鬼は姿を見せてはいない。姿を現す前に愛は次の角を左へと曲がった。いまだに住宅は建ち並ぶ。そのほとんどの家に明かりは灯っていない。佐藤以外の人間は今頃グッスリと眠っているのだろうと市民に腹を立てつつも、愛は一つの場所を思い出していた。さすがに十四年間もだてにこの辺りに住んではいない。パッとひらめくと、翼の手を握り締め今度は愛が翼を引っ張る様にして思い立った場所へと急いだのだ。
愛に体を強引に引きずられている翼は一つ聞いた。
「愛……何処へ行くんだ?」
力無く言った。愛は振り向かぬままとっさに答えた。
「心配しないで! 大丈夫だから!」
言葉とは裏腹に愛自身落ち着いていなかった。翼は思う。心配? 大丈夫? 翼は愛の言っている意味がよく分からなかった。愛が自分の体を心配してくれている事自体に気がついてはいなかった。それにしても何だか体がだるかった。体を引きずられるまま翼は後ろを振り向いた。あれ? さっきの鬼は? 撒いたのか? だとすれば何故愛は逃げ続けているのだろうか? 翼の思考回路も曖昧に機能し始めた。ボーっとしたまま愛に身を委ねるだけだった。
それから十数分を数えた頃であろうか、既に翼の全身はもの凄い汗をかいている。異常と思える程の大量の汗。自分でも内心、危機感を感じていた。最大のピンチに陥っているとさすがに、やばい、と実感していたその時に愛が急に足を止めたのだ。
「どうした? 早く逃げないと……」
呼吸と共に言葉を洩らした。愛は首を横に振り翼を制した。
「今は体を休める事が先よ」
言うと、
「つの小屋らしき建物を指さし、
「さあ、あの中に……早く」
翼の腰に手を持っていった。
「でも……」
翼は心配していた。
「いいから早く!」
愛はとっさに声を張った。その声に臆した翼は愛の言うとおりに足を動かした。愛は辺りに注意を払いながらそれを確認すると、ぼろくさび付いた鉄の階段をカンカンカン≠ニ音をたてながら上り、右に一歩振り向くとこれまた古びたドアに手を置いた。ノブを回すとがっちゃ=Aドアを引くとキキー≠ニ、さび付いた音をたてながらドアが開いたのだ。
「さあ、入って」
いかにも自分の家の様に愛は言うと翼を先に部屋に入れて続いて入っていった。ドアが閉まる音と同時にカギを閉める音も外に聞こえていた。
二人は息を切らしながら呼吸を整え、落ち着いてから翼は部屋の中を見回した。暗くてはっきりとは見えないのだが、部屋全体が薄汚い。床も全てはがされて地面がむき出しになっており、どう考えても誰かがここで生活しているとは思えない。生活用具も置いてはいない。台所だけが左端にくっついているだけでそれ以外は本当に何も。ここは? 翼はそう疑問に感じていた。翼が聞く前に愛が口を開いていた。
「ここは昔、個人の診療所で私が確か……小学五年の時につぶれちゃって、それ以来、友達同士で悩みとか相談とかある時はいつもここに来て色々な事を語り合っていた。それは中学三年の時まで続いたんだけど……」語尾を引きずり、
「まさか、まだここが壊されていなかったなんてね。ちょっと安心」
愛は安心しながらも慌てていたのか口調が早かった。途端に表情を翼に向けると、
「さあ、ちょっと、そこに腰を下ろして」
そう言うと愛は翼の肩に手を置いてゆっくりと地面に座らせた。翼もガクッと地面に座り込んだ。
はあーはあーと苦しそうに呼吸をしている。愛は翼の額に手を置いた。自分の額と比較した愛は、
「やだ……やっぱり熱がある。ぶりかえしたんだ」
そう悲痛の言葉を上げた。こんなに汗をかいて、それが乾いて寒さが襲う。悪循環の中、翼の体調もおかしくなるのは仕方ない。それに計画が実行されてはや五日目、精神と肉体共に疲労がピークに達しているに違いなかった。
翼は力無く愛の手を振り払うと、
「大丈夫だ。それより、それより早くここから出ないと……」
翼はささやいた。愛は、
「うん。でも……大丈夫。ほらあそこに非常口があるでしょ? いざとなればあそこから」指で示す。
そこは入り口とは反対側に小さな鉄のふたの様なものがある。それを開けば恐らく梯子か何かが下へと通ずるのであろう。
「大丈夫なのか?」
確認した。愛は無言で頷いた。
建物に閉じこもってから五分ほどが経過した。少しは翼の体も楽になった。
「愛、行くそ」
言うと翼はその場から立ち上がった。
「だめよ! もうちょっと休まなきゃ!」
愛は翼のジャージを掴み座らせようと引っ張った。
「もう大丈夫だ。心配するな。簡単に捕まってたまるか」
言葉ではそう言っているもののやはり翼は辛かったに違いない。それでもこんな所にいては何れ危険がやってくる。そう考えたあげくの言葉であった。愛もそれで不承不承と首を頷かせ、
「本当に……」
大丈夫? と言いたかったのだが翼がそれを奪い取る。
「大丈夫だ」
翼は心強く頷いた。というよりそれを装った。愛もそれで立ち上がりドアに向かおうと一歩踏み込んだ……。その時だった。ドアノブがガチャガチャガチャと音をたてた。その瞬間、二人はピクッと背筋が凍った。体がこわばり、足を止めた。再びガチャガチャガチャと激しく音をたてる。それはなおも続く。
翼は愛と目を合わせ、
「まずい……鬼だ」
耳元でささやくと愛は冷静を必死に保ち小さく頷く。段々、ドアノブを回す音が激しくなる。二人の心臓は既にバクバクと音をたて、今にも張り裂けそうな思いで一杯だった。断続的にドアノブを回す音が続いていたのだが急にそれがピタリと止んだ。その瞬間、もの凄い緊張が部屋中に張りつめる。
そして、それがピークに達した時、パンパン≠ニ二発の銃声が鳴り響いた。鬼は銃を使ってドア自体を壊そうとしてきたのだ。翼は、
「愛! 非常口開けろ!」
そう叫ぶ。愛は驚きのあまり一瞬反応を遅らせ、必死に冷静を取り戻した愛はすぐさま非常口のふたをこじ開けた。これまたさび付いた音をたてていた。
「お兄ちゃん! 早く!」
翼はドアに目をやった。もう一発ドアノブに弾が撃ち込まれた。ドアがバタンと開いた……と鬼は思ったであろう、今度はチェーンがかかって、それが鬼を苛立たせていた。ドアの向こう側には獲物の佐藤がいるとなれば尚更だ。鬼はドアをガタガタと押したり引いたりと激しく繰り返した。それを見て翼は非常口に駆け込んだ。既に愛は細い手すりの梯子を駆け下りている。翼が梯子に足をかけたと同時に更にもう一発銃声が響き、それでチェーンが地面に散った。部屋の中に佐藤がいない事に気づいた鬼は、非常口を発見するとすぐさま鬼は非常口に駆け寄ったと思われる。そこまでは翼も確認していなかったがそうに違いない。
翼が梯子を下りきった時に鬼は梯子を下りてきた。翼が地面に着地すると同時に翼と愛は走り出し、適当な道へと逃げ去った……。
鬼が梯子からジャンプし着地した。その時、翼達との距離はさほど遠くはない。そこから猛ダッシュで鬼は追いかけて来た。その映像が遠目ではあるが翼の瞳に映っていた。舌打ちをして
「くそ!」何だか翼はやけくそになっていた。疲労が溜まっている事も、今自分は熱を出している事も全て忘れて今は狂ったように走るだけだった。
「愛! もっとスピード上げるぞ!」
力を振り絞り大きく叫んだ。愛は先程とは別人の翼に驚きと戸惑いを隠せなかった。
「う、うん」
眉を持ち上げ頷いた。この時愛は翼の横顔を見守っていた。表情険しく、必死に鬼から逃げ続けてる。そして、私の事を守ろうとしてくれている。そう思うと愛は心の底から安心できた。翼がもの凄いたくましく見えていた。こんな状況にもかかわらず安心できたのだ。愛は穏やかな笑みを浮かべて前方に視線を戻した。皮肉にもリアル鬼ごっこ≠通じて二人の間に信頼感が芽生えたのだ。鬼は変わらず追いかけて来ているのだが……。
不意に翼は腕時計を確認した。やっと、というか、まだかというか時計の針は十一時五十分を示していた。どちらにせよ残りは十分。秒数に直せば六百秒。でもやっぱりこの一時間だけは時間が経つのがもの凄く遅く感じる。少なくとも他の佐藤さん達はそう感じているに違いない。いや、佐藤という名字は既に全滅に近づいているかも知れない。これは全く見当がつかない。ここには二入の佐藤がいるだけだ。
翼は愛に言葉を投げかけた。
「愛! もう少しだ! がんばれ!」
多少息を切らしながらそう言うと、愛もすかさず答えた。
「うん。分かってる!」
苦しげながらも笑みを浮かべた。翼は後ろを確認。少なくとも鬼はへばっている。距離もだいぶ離れている。いける! この日も逃げ切れる! そう確信を得た翼にこの日最後の試練が待っていた。遙か前方に鬼がこちらを見据えている。目が合う瞬間、警戒発信が鳴らされた。途端に二人は足をピタッと止めて、後ろを振り返る。今度は後ろの鬼と向き合う形となった。来た道をいったん戻り(その分、最初の鬼との距離は多少縮まってしまった)、十字路を右に入った。そこから、最後のスパートをかけた。きつかった。辛かった。苦しかった。熱が多少出ている翼は尚更に。それでも二人は苦しい表情を浮かべながらも走り続けた。早く時計の針が十二にならないかと翼は何度も何度も腕時計を確かめる。それが繰り返しで続いていた。愛は振り向く、二匹の鬼が迫ってくる。時間が既に残り少ないと鬼も承知しているのであろう、スパートをかけてきている。徐々にではあるが鬼との距離も縮まってきている。翼もそれを確認すると死ぬ思いで走って走って走りまくった。そして、時計を確認する。早く! 早く神様! 時間を早く進めて下さい! そう祈るだけだった。次いで二人は角を左へと曲がって行った。
必死の思いで走り続けて、残り一分まで迫ってきた。当然鬼も迫って来ている。明らかに今の二人は鬼よりスピードが遅い。翼は残り六十秒を頭の中で数えていた。鬼も最後に力を振り絞り、二人に迫り来る。段々距離が縮まっていく。五十秒。二人の呼吸も恐ろしいほど激しくなっている。鬼との距離は既に四十メートルを切っている。四十秒。三十秒。三十メートルあるかないかの距離。二十秒。
鬼との距離も既にない。危機に感じた翼と愛は火事場の馬鹿力、ここで二人は足を早めた。多少鬼との距離が離れるものの鬼も負けじとスピードを上げてくる。距離が一気に狭まる。二人は混乱に陥る。
慌てて翼は腕時計を再び確かめる。十秒、九、八、七……早く早く早く! 時計をせかす。五秒、四……残り三秒で翼は安心する。三、二、一……翼がゼロとカウントすると同時に終了の合図が放たれた。それを耳にすると二人は走るのを止めてその場にドサッと倒れ込んだ。
リアル鬼ごっこ五日目……終了。
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生まれ故郷
絶体絶命のピンチを何とかしのぎ、五日目の鬼ごっこもどうやら終了した。地面に足をダランと伸ばし、両手をついて上半身を支え、その両腕も今はガクガクと震えている。二人は苦しい表情を浮かべて、激しい息遣いを繰り返す。お互い言葉を出す余裕も無く、息を出すたび白い息が舞っては消えていく。それがしばらく続いていた。
辺り一面が静かである。なおも二人の激しい息遣いは止まなかった。先に愛が苦しそうに言葉を出した。
「お兄ちゃん……大丈夫?」
途切れ途切れに翼の体を案じる。翼は一つ間を置いて喉に言葉を詰まらせながら、
「だ、大丈夫」
大きく息を吸って、
「お、お前は?」
目を半開きに、言って唾を飲み込んだ。愛は苦し紛れに微笑み
「わ、私も、大丈夫……こんなの全然」
それ以上は苦しくて言葉が出なかった。再び苦しい表情を浮かべた。強がる愛を見て翼はフッと苦笑いを浮かべた。それから沈黙が続いた。
寒空の中、二人の呼吸も落ち着きを取り戻していた。沈黙が落ちた。
「さあ、お兄ちゃん」
愛はゆっくり立ち上がると翼に手を貸した。翼も愛の手を借りた。
「わ、悪いな……」
力無く言うと翼は愛の手を借りて立ち上がった。しかし、途端に体がよろけて愛の体にもたれかかった。
「お兄ちゃん!」愛も必死になって翼の体を支える。
「わ、悪い……」
今はその言葉しか出なかった。もはや愛の力を借りなければ翼は立ち上がる事さえ出来ない。もう何処にも力が入らなかった。その証拠に立ち上がった翼の膝はガクガクとしていた。めまいも起こり、目の前がグルグルと回っている。愛の肩を借りなければ立っているのもままならない状態。この場に倒れても不思議ではなかった。それもそのはず、翼は熱を出している状態で恐怖と戦い、走り続けたのだ。こんな状態になるのも当たり前。普通の人間ならその場でぶっ倒れて病院直行。翼の精神状態は異常な程に強かった。
愛は翼の耳元で、
「さあ、しっかり……歩ける?」
翼はグッタリと頷いた。それを確認すると愛は翼の全身を引きずる様にして、いったん目立つ道路に出ようとゆっくりゆっくり歩き始めた。既に翼の記憶も曖味に機能しており、ここまでの事もはっきりとは覚えてはいなかった……。
愛は翼の体を引きずり、息をゼーゼーと切らしながら、やっとの思いで表通りの広い道路へと抜け出した。この時、愛の足もガクガクと震え、翼の体を支えているのがやっとであった。愛は大きく手を上げた。
愛は疲労困憊になりながらもタクシーを拾った。タクシーのドアが開くと愛は翼に、
「さあ、お兄ちゃん」言うと
「乗って」
翼はフラフラ状態になりながら愛に押し込まれる形で座席の奥にダランともたれかかった。続いて愛も乗り込んだ。
「お客さん。何処まで?」
運転手はミラー越しで愛に行き先を聞いてくる。愛が住所を告げるとすぐさまタクシーは走り出した……。
自宅までの問、車内では無言が続く。翼の荒い息が聞こえているだけであった。運転手も翼の異変に気づきまさか、佐藤さん? $lごとのように聞いてくる。愛はムッとしながらも自分を抑えて、
「いえ……」とごまかした。そこからずっと沈黙が続き、愛は翼の事を見守っていた。しかし、翼の容態は変わらぬままだつた。
気がつくとタクシーは自宅前までたどり着いていた。お金を払うとドアが開く。愛は翼を引っ張りタクシーから降ろさせた。
「わ、悪い……もう……大丈夫」
目を薄開きに、翼は愛にささやいた。言葉とは逆に翼は愛の体にもたれかかっていた。
「大丈夫じゃないよ。さあ、掴まって」
愛は自ら翼の腕を自分の肩に乗せると、足取り重く一歩一歩確実に玄関前までたどり着いた。そして、静かにカギを開けると二人は家の中へと入って行った。
靴を脱ぎ捨て、明かりをつける前に翼は先程自分が寝ていた部屋の壁際に寄りかかるようにしてドスンと尻をついた。明かりがつくとそこには頭も腕もグッタリとなった、苦しそうに息をしている翼が映っていた。愛はすぐさま翼の前に駆け寄ると翼の目の高さまでしゃがみ込み、心配そうにして、
「大丈夫? 横になった方が良いんじゃない?」
愛は翼の容態を見ているとたまらない気分で一杯になった。翼は息を吸い込み、
「お、俺は……大丈夫。このくらい、何ともないさ……」
目を閉じたまま微かな声で愛の言葉に反応した。
「でも……やっぱり寝てなきゃ……」
これ以上、翼の苦しい姿を見ているのが耐えられず、愛は涙目になりながらそう翼に促した。しかし、翼は力無く首を横に何度も振ると愛の口を止めた。
「愛、ごめんな……俺……頼りにならないな」
翼はポツリと言葉を洩らす。愛はとっさに首を振りそれを否定した。
「そんな事ない……そんな事無いよ」
優しい口調でそう言って翼に聞かせた。翼はなおも目を閉じたまま、
「でも……でも俺はお前に助けてもらってばっかしだ。本当は俺がお前を助けなければいけないのに……これじゃあ、全く逆だな」
翼は思い詰めた様に自分の事を必要以上に責めていた。そして、付け足した。
「俺……ダメだな……兄貴失格だ」
それでも愛は大きく首を振り涙を流しながら、
「そんな事無い! お兄ちゃんは私を助けようと必死になって捜してくれたでしょ? それで充分だよ……」
愛は涙ながらに言った。そして、涙を拭き穏やかな表情で、
「ね? そうでしょ?」
眉を上げながらそう言うと、
「それに私たち兄妹なんだよ。助け合うのは当たり前だよ」
愛は優しい笑みを浮かべた。翼はその言葉で少しは気持ちが楽になった。
「ありがとう……」
その言葉に愛は眩いた。
「うん。だから、お願い……横になって」
愛は何より翼に安静にしていて欲しかった。
「ああ……」言うと畳を這いつくばるように翼は布団の中へと入った。その光景に愛はホッとし、急いで翼の看病に当たった。愛は台所に向かう。
愛は翼の頭を持ち上げて下に氷枕を置くと、額には水に濡らしたタオルを置いた。
「何から何まで、面倒かけるな……」
天井をボーっと見つめながら言った。
「何言ってるの。ちょっと待ってて、今薬持って来るね」
先程に比べて翼の容態も多少は良くなり、愛も自然と笑みがこぼれていた。
愛は棚から熱冷ましの薬を取り出し、水と共に翼に差し出した。
「さあ、これ飲んで。飲まないよりはいいでしょ」
愛は翼の体を起き上がらせた。翼は薬を受け取るとそれを口に放り込み、水を一気に含んだ。ゴクッと飲むと再び布団へとうつぶせになった。しばらく二人とも口を開くことは無くなっていた。
一時閭程が経過した。穏やかな一時が二人を包む。愛は翼の側で心配そうに見つめている。疲れが溜まっているにもかかわらず翼は眠りに就いていなかった。翼は一つのある事をずっと考えていた。そして、決心し、静かに口を開いた。
「愛……」そっと呼びかける。
「うん? 何?」
翼に向いてそう返す。
「帰らないか……」
「え? 帰るって?」翼に問う。
「だから、四人で暮らしていた……あの家に」
天井を見つめながら言った。大方の予測はついていた。しかし、実際言葉に出して言われると考え込んでしまう。愛は正直迷っていた。
「それとも……嫌か?」翼は言う。
「ううん。そんな事無いよ……でも……」
愛は下を向いて深く考えている様子だった。
「でも? でも……どうした?」
翼は愛に体を向けて聞き返した。愛は俯いたまま小さく頷き、
「うん。確かに、四歳まではあの家で暮らしていた。でもね、ここで暮らした思い出も一杯詰まっているんだ。あの家よりも一杯」続けた。
「かといって、このままこの家に残る訳にもいかない。生活の事だってあるし……これからはお兄ちゃんと一緒に生活するつもり」
愛が言い終わる前に翼が割って入る。
「だったら。だったら帰ろう……あの家に」愛は一つ頷く、
「うん。でも……今は帰れない」
愛は首を横に振りながら言う。翼は口調を強めて、
「どうして?」翼は愛の顔をのぞき込む。
「まだ全てが終わっていないでしょ? だから今は帰りたくない。あの家には新たな気持ちで戻りたい」続ける。
「それに今回の事で嫌な事が多すぎたよ。だから全てを忘れてあの家に戻りたいんだ」
物思いにふけりながら愛はそう語り、付け足す。
「もう少しだけ、この町にもいたいし……」
それで暗い雰囲気にハッと気づいた愛は途端に表情を明るくして、
「だから、あと二日。絶対逃げ切らないとね!」
元気良くガッツポーズを決めると、
「ね?」翼にも問いかけた。
「ああ……そうだな」
翼は優しい笑みを浮かべてそう言った。途端に体が疲れを訴え始めた。
「今日は、何だか疲れたよ。もう寝よう」
翼はまぶたを重たくさせながら愛に言った。
「うん。そうだね。私も疲れちゃった」
言うと立ち上がり、
「明日はちゃんと病院に行かないとね」
腰に手を当て翼を見下ろす。その言葉に翼は別にいいよとは言わなかった。
「そうだな」
素直に返事した。愛は安心の笑みを浮かべて頷くと、
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
言って翼は静かに目を閉じた。愛が電気のスイッチを押すと、一瞬のうちに部屋が真っ暗になった。
それから翼は自分でも気づかぬうちにグッスリと深い眠りに就いてしまっていた……。
翌、十二月二十三日、土曜日。六日目の朝。リアル鬼ごっこも残り二日。大詰めを迎えていた。そこで一番気に掛かるのがやはり残りの佐藤さん達の数である。これに関しては王様の耳にも確実には知らされておらず、もちろん全国の市民にも知らされてはいなかった。その事だけがいまだ謎のままなのだが、六日目の朝を迎えた宮殿にとうとうその¥報が王様の耳に届こうとしていた。
宮殿では朝食の時間を迎えており、メイド達が次々と豪華な料理を運び出していた。それは朝食とは思えないほどの豪華さで一般市民がこの料理を見たらこれが本当に朝食か? と目を仰天させるに違いない。これだけで一般市民との差は歴然と離れており、王様が毎日どの様に暮らしているかはこの朝食だけでも想像がついてしまう。なおも料理は運び込まれていく。
王様の目の前に全ての料理が出そろった。豪華で目を見張るほどの大きなテーブル。目の前には全てが金で作られているナイフやフォーク。そして、背もたれが必要以上に天井へと伸びている豪華なイス。全てが豪華≠アれ以上の単語が見当たらない程、豪華であった。目の前に並べられた料理を王様はじっと見つめている。コック達にとったら緊張の一瞬だ。この時点で食べるか捨てるか決めるのだが、この日は機嫌も良かったのか右手でナイフを、そして左手にはフォークを手にした。すると、無言のままステーキにナイフを通した(ステーキもナイフがいらない程、軟らかい)。それを一ロサイズに切り刻みフォークと共に口の中へと持っていった。王様の反応が出るその間宮殿内は一気に静まり返っていた。これ程嫌な空気はないだろう。特にコック達は生唾をゴクンと喉へと通す。
最初の一口を食べ終わると王様は皆の目を気にする事無く、フムフムと頷いた。別に満足そうな表情を浮かべてはいないが、一応は合格なのであろう。その瞬間、コック達もドッと息を吐く。毎日こんな様子ではコック達もさぞかし疲れるであろう。合格と分かった途端、コック達は部屋から立ち去って行った。
それから王様は料理に対する評価は何もしないまま、ただ黙々と料理を食べ続けていた。食器が触れ合う音だけが時折部屋中の静寂を破る。周りでは側近の者達が王様の食べている姿を見守っていた。
内心ではこう思っているであろう、よくもまあ、こんな時に朝食なんて食べていられますね、と口には出して言えないものの皆がそう思っているに違いなかった。
それから数分、徐々に皿の料理も減っていく。しかし、王様は料理のほとんどを残してしまう、一口食べては違う料理、一口食べては違う料理とその繰り返し。そうしている間にお腹も満たされていく。残された料理はもちろん捨ててしまうのだが、王様にとっては関係ない。自分が満足出来ればそれで良いのだ。
朝食の時間もそろそろ終わりに近づこうとしている時だった。王様達の入る部屋にそそくさとじいが現れた。
「王様! 王様!」
じいは何か落ち着かない様子で駆け寄る。皆の心臓はドキッとしたはずだ。何故なら王様の朝食を妨げる者は罪にも問われるからだ。
王様はナイフとフォークを皿の上に置いた。そして、
「朝食を食べているにもかかわらず騒々しいそ。一体何があった?」
王様がそう穏やかに言うと、
「申し訳ありません……実はある事≠フ報告が入りまして……」
その時、王様の弟である王子は過敏に反応する。
「ある事? 一体なんだ?」
王様はとっさに聞き返す。
「は! 実は……残りの佐藤≠フ数が分かりましたので、すぐさま報告に上がろうかと……」
じいのその言葉に一同耳を傾けた。
「ほう。ようやくか……それで? 残りの数は?」王様は淡々と聞いた。次の言葉に側近達は唾をゴクリと飲み込んで、じいの口元に目が集まった。
そして、じいの口が静かに開く。
「残りは実に……五万にまで数が減っているとの事です」
じいの五万≠アの言葉に部屋中が一瞬どよめいた。しかし、王様は冷静に、
「そうか……五万弱か」
小さく言うと再び、
「五万……五万」
と独り言を繰り返す。そして、鼻で小さく笑い出した。それは次第に大きくなり、
「はっはっはっはっはっ! そうか! とうとう五万人にまで減ってきたか!」
王様の歓喜の声が部屋中に虚しく鳴り響く。側近達は目を伏せていた。
王様は笑いを止め、それでも笑いをこらえている風に、
「よしよし、段々と減ってきているではないか! でかしたぞじい」
王様はたちまち上機嫌に早変わり、じいを誉めた。
「ありがたきお言葉。光栄に存じます」
頭を下げてじいは言った。
「よし! 残りは二日だけだ。この二日の間に全ての佐藤£Bを捕まえろ! よいな? 何としても全滅させるのだ! よいな?」
王様は目を鋭くしてじいに命令した。じいは背筋をピンと張って口元を引き締めると、
「かしこまりました。私に全てをお任せ下さいませ」
王様は軽く頷き、
「よし、下がってよいそ」言った。
じいも後ろを振り返る。
「じい!」
すぐさま後ろで呼び止められると、じいは再び王様に向き直る。王様は不気味な笑みを浮かべながら、
「期待してるぞ」
「か、かしこまりました……それでは……」再び振り返ると部屋から姿を消した。
部屋中が静まり返ると王様は再び大声で馬鹿笑いをしだした。その様子に誰一人言葉をかける事も出来ず部屋には王様の笑い声だけが響くだけだった……。
一方、王国全てにもその¥報が緊急番組で伝えられた。その報道に誰もが耳を疑ったに違いない。六日前まではおよそ五百万人もの佐藤さん達がこの王国にいたにもかかわらず今では五万人足らずしかこの国に生存していない。夢を見ているようだが、夢ではない。紛れもない現実、そして、その事実に誰もが唖然としていた。町中からのどよめきも収まらなかった。すぐさま号外も出されていた。それを手にする度、犠牲となっていった一人ひとりの佐藤さん達への同情の声が聞こえてくる。その反面、自分は佐藤ではなくて良かったと、内心はそう思っているに違いない。しかし、人間なんてそんなもの、何より自分が可愛いし大事なのだ。それは当たり前の事である。
そして、翼の通う大学にも情報は伝わっていた。部室には陸上部の面々がテレビの前に座っていた。
聞き飽きるほどニュースで流れているそれ≠ノ嫌気がさしたのか、久保田がテレビの電源を乱暴に切った。一瞬にして部室の中が静まり返ると皆が大きくため息を洩らす。当然ため息の意味は言わずと決まっている。翼の事だ。あれから一度の連絡もないし、誰一人姿を見ている者もいない。もちろん翼の自宅へと足を運んだ者もいるのだが、自宅には誰一人いなかった。
翼は既に捕まった≠サれだけは考えたくないが、そう考えてしまうのも仕方がない。何しろ残りは五万人なのだから。
久保田はおもむろに口を開く。
「やっぱり……翼は」
それ以上は言いたくなかった。その先はグッと胸のうちへと呑み込んだ。しかし、それを否定するものは誰一人おらず、皆それぞれが絶望的≠サう感じていた。すると他の一人が、
「五万人……だもんな……」小さく言葉を洩らすと、皆が同感するように深く頷く。更に他の一入が、
「やっぱり無理だったんだな」
既に諦めのセリフへと変わっていた。その言葉にも誰一人として否定はしなかった。再び皆が深いため息を洩らすと、扉が静かに開かれた。
「翼は生きてるよ」
そこには清水大介が立っていた。
「大介……来てたのか」
久保田が顔を上げて力無い語調で言った。続けた。
「何日ぶりだ? 久々じゃねーか」
言われてみれば確かにそうである。大介は翼との一件以来、部に姿を見せてはいなかった。久保田は更に続ける。
「それより、翼が生きているってどういう意味だよ。それとも何処かで見たのか?」
やや興奮気味に問いかける。久保田とは対照的に大介は静かに首を横へと振って、
「いや、直感だよ。根拠など何処にもない。あいつは生きている。俺はそう信じてる」
大介は真剣な眼差しでそう語った。しかし、久保田は大介の前向きな意見を聞かされながらもやはり心の何処かでは諦めていた。
「でも……でもな」
久保田が肩を落としそう言うと大介は急に口調を強めた。
「でも? でも何だってんだよ! 何故、翼が今でも生きていると信じない? 俺達はそんな見せかけの仲間か? 違うだろ!」
大介はもの凄く興奮していた。落ち着きを失っている自分に気がついた大介は一つ呼吸を置いて、
「信じよう。最後まで。翼は生きてる。生きてるよ」
大介は自分にも言い聞かせている様だった。そして、皆もその主張に対し、
「大介……」
久保田は言うと、
「そうだな。翼は生きてる。そうに決まってるよ」
「そうだよ! あいつはそんなやわじゃない。何たってあいつは佐藤翼だぜ!」
ようやく本来の大介に戻った。
「よ、よし! それじゃ、帰って来る翼に負けない様に俺達も早速練習に出よう!」
久保田がみんなに呼びかけると、一入二人と何とも複雑な表情で立ち上がり、重い足をグラウンドまで走らせた。部室には久保田と大介が残り、久保田が大介の瞳を見つめて固く頷くと久保田もグラウンドまで駆けて行った。最後の一人となった大介は途端に思い詰めた表情へと変わっていた。言葉ではああ言うもののやはり大介は諦めていたのかも知れない。心の何処かでは……。
その頃翼と愛は病院から自宅へ帰ろうと町の中を歩いていた。昨日に比べ翼の顔色も体調もすっかり良くなり、翼の顔から笑顔も窺え、愛も安心していたのだ。しかし、二人はいまだあの事実を知らなかった。恐るべきあの事実。
それは町のビルの壁に備えられている大型のハイビジョンで、でかでかと映し出された。アナウンサーが原稿を読み始めた。
『繰り返し、緊急速報です』
この言葉が町中に鳴り渡ると市民が一斉に足を止めてテレビのスクリーンへと体を向けた。翼と愛もその場で立ち止まりスクリーンへと目をやった。
『今回実行されているリアル鬼ごっこ、六日目にしてようやく、生存している佐藤さん達の数が報告されました』
「何!」
翼は思わず声を張り上げると恥ずかしさのあまり周りを気にする。しかし、周囲は一気に静まり返り、全ての人々がアナウンサーの言葉に耳を傾けていた。翼は再びスクリーンへと視線を戻す。翼が唾をゴクリと飲むとアナウンサーは先を続けた。
『先程の情報によりますと、生存している佐藤さん達の数は……五万人にまで減少している模様です。
繰り返します。生存している佐藤さん達の数は五万人にまで減少しているとの事です。最悪の場合、全滅の可能性も高まっております』
アナウンサーの勢い込んだ声が町中に響き渡ると周りの人々は騒然と声を上げた。
「五万! 五万人だと! ウソだろ?」
あまりの驚きで翼の言葉は震えており、表情も明らかに引きつっていた。まさか! まさか、生き残りが五万人。裏を返せば他の四百九十五万人以上は全て捕まり、そして……。いや、そんなはずは……でも……。もはや信じる信じないの次元ではない。翼の頭はグチャグチャに混乱しており、唖然として言葉の一つも出なかった。体も硬直してしまっている。俺達はその五万人の中の二人なのか。確かに思い当たる節が一つある。あれほどまでに続いた佐藤達の凶悪犯罪もピタリと止んだ、様な気もしないでもない。ニュースではそれが流れてはいなかった。それでは、やはり残りは五万人なのか。あれほどまでにいた佐藤≠ニいう名字が今では五万人に? 確かに、おやじも洋もその≠ケいで死んでいった。でも……今でも何が何だか混乱している翼は目の端から愛の表情を窺った。すると愛は驚いた表情より、どちからというと悲しい表情をあらわにしていた。
「愛? どうしたんだ?」
思わず問いかけた。
「みんな……みんな殺されちゃったんだね。従うままに……」
愛は横顔のままポツリと眩いた。
「でも、本当に、残りは五万人なのか? 俺は今でも信じられない……」
言って愛をチラリと見た。
「きつい言い方かも知れないけど、本当だと思う。現に今、こうやってニュースに流れているんだから」
愛は冷静にそう述べた。翼はとつさに、
「そんな……」
情けない声を上げた。しかし、冷静に考えてみればそうである。現にこうやってニュースとして流れているんだから。それにあんなにも過酷な鬼ごっこ≠ネらば、それだけの人間が捕まってもおかしくはない。でも……でも……。
「行こう……」
愛が静かに口を開いた。翼は思い詰めた様子から抜け出して、
「あ、ああ」
翼の中にいまだその事が残り、離れなかった。そこから翼と愛は再び足を動かし始めた。
家に戻る途中、お互いがそれぞれの思いや考え事に詰まり、二人は一言も口を聞かなかった。二人の間に重い空気が漂う。やはり先程のニュースは二人にとって佐藤という立場に立たされている以上、重くのし掛かっているに違いない。残り五万人となっている以上全滅も、もはや時間の問題。だとすれば自分たちも今日か最終日に……。翼は弱気になっており、それが引き金となって頭の中に嫌な予感がチラリとかすめる。しかし、それだけは自分の中で必死に振り払った。捕まる事は決してない。A絶↓り7一……0玄ー二人の空気は家に戻っても変わらずよそよそしかった。たまに愛がほんの少し話しかけるだけで、それ以外は全く口を聞くことはなくなっていた。普通の兄妹ならばこれが当たり前なのかも知れないが二人は事情が違うのだ。十四年経ってようやく再会出来たというのに、このままよそよそしく過ぎれば二人の距離が離れてしまう。それは十分承知しているにもかかわらず先程の事が頭の中を駆け巡る。
どうしてもそっちの方へと翼の気持ちは移ってしまっていた。
二人の気持ちとは裏腹にこの日は冷たい風もなく、暖かな陽気に恵まれていた。日差しの差し込む場所に両足を伸ばしながら腰を落としていた翼は、考え事をしている最中に体調のせいもあってか疲れていたのであろう、ついウトウトと居眠りをしてしまっていた。
懐かしい夢を見た。愛が益美に連れられていく夢だった。その姿に翼はボロボロと涙を流し、連れ戻したい気持ちをグッと胸にこらえている。思い起こせばこの夢はあの時とまるきり一緒であった。そして、二人は遠ざかり、やがては翼の前から姿を消していった。
翼はハッと目を開いた。居眠りをしていた自分に気がつくと上半身に毛布がかかっている事にも気がついた。愛が気を遣ってくれたのであろう。それにしても先程の夢が気になった。久しぶりに見たあの時の夢。こんな時に限って……。翼は思う。
何かの前触れか? いや、考え過ぎか……気にする事はないだろう。と翼はあっさり受け流す。すると隣の部屋から愛が顔を出した。
「お兄ちゃん。起きたんだ。これから夕飯の準備するから一緒に手伝ってよ」
愛は翼に淡々とセリフを言うと、
「さあ、早く立って立って!」
明るく翼の肩をポンポンと叩いた。
「おし、それじゃ、手伝うか」
翼も勢い良く立ち上がると二人は台所へと向かった。この時、翼の頭の中にはニュースの事や先程の夢の事はすっかり消え去ってしまっていた。今この時だけは幸せな一時を自然と過ごしていた……。
夕飯の準備が整うと二人は早速テーブルにそれを並べた。それは王様が毎日食べている様な高級な素材は一つも使ってはいないのだが、二人にとったらどんな料理よりも高級なのだ。
二人は料理を囲むようにして正座をすると愛が口火を切った。
「それじゃ、頂きます」
目を輝かせながら言うと翼は愛の姿にやれやれと軽く鼻で笑って、
「頂きます」
そう言って二人は自分たちの作った料理に手をつけた。裏を返せば数時間後に開始される鬼ごっこの準備でもあるのだが。今はそんな事一つも考えず、二人は楽しい一時を送っていた。
そして、時間は瞬く間に過ぎて行き、とうとうあの時間がやって来た。そうこの日でついに六日目のリアル鬼ごっこ、の時間が……。
翼は時計を確認すると大きくため息を吐いて、
「愛……そろそろだな……」
言って目を下げる。今まで笑顔が続いていた愛の顔もそれで急に暗くなった。
「うん……」
言って愛は俯く。愛のその姿に翼はもう、耐えきれなくなっていた。いつまでこんな生活を繰り返さなければならないんだ……と。それでも今は逃げ切る事だけに集中するしかないのだ。翼は表情を切り替えて言った。
「愛、行こう。もう少しの辛抱だ」
翼は立ち上がった。
「うん」続いて愛も。
二人は玄関へと向かい、覚悟を決めて気持ちの全てを鬼ごっこに切り替えると二人は顔を見合わせ深く頷いた。そして、ゆっくりとドアを開けると二人は静かに外へと出て行った……。
この日の夜、何故か翼は妙な胸騒ぎを感じていた。それは今までに感じたことの無いような鬼気迫る胸騒ぎ。やはり何かがあるのであろうか? そんな思いを打ち消す様に翼はそれを胸に留めると、二人は一歩、歩き始めた。そして、聞き飽きるほど聞いた始まりのサイレンがついに夜空に解き放たれた。
十二月二十三日、土曜日リアル鬼ごっこ§Z日目……スタート。
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あの時の映像
開始のサイレンが鳴り響いてから十分ほどが経過しており、二人は地元の大きな商店街に足を忍ばせていた。そこには酒に酔った中年の男性が足下をふらつかせながら歩いており、他には今風の若者達がたむろをしている。それらの一声一声に体をビクッと反応させる翼と愛。警戒心が異常な程に機能していた。
「気をつけろよ。いいな……」
翼はキョロキョロと周りに目を配りながら愛に注意を促した。
「う、うん。分かってる」
頷く際に愛の首が震えていた。今は何処の店も閉まっており、夜中の商店街は昼間に比べ静かなものであった。その商店街を内心ビクビクしながらひたすら真っ直ぐ歩き続けた。ここ二、三日の体験からするとこの時間で鬼に追いかけられていても不思議ではなかった。
翼は腕時計を確認すると、
「よし、順調だ」そう呟いて一つ間が空いたその時だった。
ういいいいん遙か後ろで不意に警戒発信が鳴ったのだ。周りに居た人達の目が発信音に向かって一気に集中すると翼と愛もとっさに後ろを振り返る。すぐさま足が反応していた。
「愛!」そう叫ぶとすぐに二人は全速力で駆け出した。一瞬だけしか確認出来なかったが鬼は確かに二人いた。もう一度頭を振り向けた。そうだ。確かに鬼は二人いる。全力で翼達を追いかけて来ている。それに負けじと翼と愛もそこから一気に猛ダッシユ。アッという間に商店街を抜け出していた。
商店街を抜け出すと大きな道路へと飛び出していた。相変わらず規制は守られている様だ。車やバイクが一台も走っていない。もちろん自転車も。馬鹿な規制だ。一般市民も自分の命がやっぱり大事なんだなと翼は思う。当然だけど……。
翼と愛は並んで鬼から逃げ続けていた。さすがに大きな道路である。コンビニやファミリーレストランが建ち並ぶ。本を立ち読みしている暇な人等やファミレスでお喋りしている若者達も、二人が通り過ぎる度に無邪気な動作を止めて、その光景に釘付けとなっていた。その後に続く鬼の姿を見て翼と愛に同情する人達も多かった。残りが五万人と全市民が知らされた今、それは更に強まっていた。あの人達も捕まっていくんだなって……そう誰もが思っていたに違いなかった。
広い道路をこのまま走っていても自分たちには分が悪い。他の鬼が現れる前に、そう判断した翼は広い道路を大きく右に跨いで右側の細い道へと曲がった。
翼は自分との距離が多少離れてしまっていた愛を待つかの様にスピードを緩め、横に並んだと同時にそこから再びスピードを上げた。そして、後ろを確認すると、丁度鬼も曲がりきってなおも機械の様にひたすら追いかけて来ている。まだまだ追いかけて来ると分かってはいるのだが翼は舌打ちを一つすると
「ああ!」苛立ちの声を上げた。そして、段々と翼の表情が険しくなっていった。愛も同じく表情が険しくなっていた。翼は何とか鬼を撒けないものかと色々頭の中で考えていた。愛もスピードや体力があるとはいえ、所詮は女、それがいつまで続くか翼は心配であった。しかし、なかなかそれが浮かばず苛立ちを感じていた。可能性があるとすれば左右交互に曲がりくねって、鬼をかく乱する方法しか今は可能性がない。
「愛、大丈夫か?」
言葉をかけて確かめる。愛は、
「うん。まだまだ余裕」
意外にもそれは言葉通りであった。
「よし! こっちだ!」
そう言うと翼は左に曲がりすぐにもう一度左へと曲がった。真っ直ぐ走ると今度は右に、そして、左に。翼と愛は滅茶苦茶に進路をとって鬼をかく乱し始めた。本当にそれしか可能性がなかったのだ。しかし、鬼も必死に食らいついてきた。翼達が曲がる方向をしっかりチェックしていた。その為に二人はなかなか鬼を撒くことは出来なかった。それでも翼と愛は鬼を撒こうとしつこいくらいに何度も何度も左や右に曲がりくねった。しかも、翼と愛の方が鬼より足は断然早い。鬼もその速さにはさすがに追いついては来れなくなっていた。徐々に徐々に翼と愛の後ろから鬼は遠ざかっていく。それでも翼と愛は右や左に進路をとり続けていた。
愛は突然翼に言った。
「お兄ちゃん」もう一度。
「お兄ちゃん!」二度目で翼は愛に目を向けると愛は親指を後ろに示す。それで翼は後ろをパッと振り向いた。すると鬼の姿が完全に消えている事に気がついた。翼は足を緩め、止めた。
「平気か?」
翼は一つも息を切らしてはいなかった。
「うん。一応ね……」
愛の方は多少息が切れていた。しかし、言ってほんのり微笑んだ。翼はフッと鼻で笑った。そんな一分少々の問であった……。
安心もつかの間、翼と愛の後ろでドタドタドタと激しい音が聞こえてくると翼と愛はビクッと後ろを振り向いた。翼の中で深いため息が洩れた。鬼だった。それも先程の鬼の様だ。自分たちはいささかこの鬼ごっこを甘くみていたようだ。やはり完全に撒いてはいなかったのだ。
「くそ!」
語尾をスパッと切って前方へと目を切り替えた。すると一瞬にして翼の瞳が大きく見開いた。そして、翼の耳には大きな警戒発信が発せられたのだ。それも鬼の数がなんと三人もいたのだ。
「う、ウソでしょ?」
愛が語尾を震わせ悲痛の声を上げる。後ろからは二匹の鬼が前方からは三匹の鬼達が二人を挟むようにしてやってくる。幸いにもそこが字路だったので逃げる方向が左に一つ。いや、そこしか逃げ道は存在しなかった。翼と愛は一つしかない逃げ道へと、吸い込まれる様に走り出した。もちろん五人の鬼達も勢い良く曲がって来ていた。
静かな住宅街に地面を揺らすかのようにドタドタドタと激しい音が響いていた。その音に気づき窓から顔を覗かせる一般市民が後を絶たなかった。そして、その一人ひとりが驚いたに違いない。何せ二人の佐藤さんが五入の鬼に追われている光景を目にすれば驚くのは当然である。皆それぞれが悲しんだ目で翼と愛の逃げている姿を見送っては、見て見ぬふりをするかの様に窓を静かに閉めていく。
一方、翼と愛は一般市民の目など気にしていられなかった。後ろから聞こえる激しい音に恐怖し、顔を引きつらせながら二人は左へと曲がった。
翼はハッと後ろを振り向く。五人の鬼達も曲がり終えてなおも追いかけて来る。今までとは威圧感がまるで違った。あんな大勢の鬼達に追いかけられて、そして、捕まれば自分の命が奪われる。恐怖感が更に深まると、忽然と一つの言葉が翼ハの頭を混乱させた。
残りは五万人≠サう残りは五万人≠アの現実を思い出してしまったのだ。翼は逃げながらその言葉を繰り返し繰り返し唱えていた。他の事で紛らわそうと違う事を考えても、いつしか残り五万≠アの言葉が割り込むようにして翼の脳裏を駆け巡っていた。その言葉を一つ一つ唱える毎に翼は段々、我を失いかけていた。そして、この言葉が最悪の事態を引き起こす引き金になろうとは。今の段階では逃げる事で必死になっておりそんな事、考えてもいなかった……。
二人は自分たちの息が続く限り足を緩める事はしなかった。しかし、翼の脳裏にはいまだにあの′セ葉がメリーゴーラウンドの如くに何度も何度も駆け巡り、それが勢いを増すたびに翼の恐怖感は最高潮に達していた。既に翼はパニック状態に陥っており、心臓は圧迫され、視野も狭まり、頭の中は真っ白となっていた。残りは五万……残りは五万……残りは……。
そして、捕まれば殺される。殺される。翼は恐ろしさのあまり、自分でも気づかぬうちにスピードが徐々に早まっていた。後ろを振り返る事無くただひたすら鬼達から逃げ続けた。
それから数分間逃げ続け、翼はあの言葉で完全に我を失っていた。左や右へと滅茶苦茶に進路をとりながら、がむしゃらに逃げ続けていたのだが、しばらくトップスピードで走り続けていた翼の体力も徐々に落ち始めていた。スピードが落ちるにつれて後ろからの足音も徐々に徐々に近づいて来る。捕まる……もうだめだ……俺は捕まる……殺される……。しかし、翼の体力が限界に近づき、足の速さが落ちているにもかかわらず、一向に鬼は翼を捕まえようとはしなかった。そこで翼はいったん落ち着け! と自分に言い聞かせた。そこで翼は気がついた。何かが……何か様子がおかしいと。先程までとは全く様子がおかしい事に翼は気がついたのだ。それで翼はハッと素早く後ろを振り返った。その光景に翼は大きく目を見開いた。いない。何処にもいない……愛や五人の鬼達が姿を消している。何故だ! どういう事だ? すぐさま翼は足を止めた。そして、息を切らしながらもう一度首を右に左に素早く後ろへと回し、ぐるりと体を反転させた。しかし、愛や鬼達は何処にもいないし、気配が感じられない。辺りはしんとしていた。段々嫌な予感が翼を襲う。まさか! 愛とはぐれたのか? だとすれば今も愛は五人の鬼達に追いかけられているということか? まさか。
心臓が急激に早まりだした。再びパニックに陥ると翼はその場で大声を張り上げた。
「愛! 愛! 何処だ!」
全身を回転させながら、そう何度も何度も叫び続けた。しかし、返事は一向に返ってこない。それどころか周りは物音一つ聞こえない。本当にしんとしていた。
なおも心臓がばくばくと音をたてている。翼は叫ぶのを止めると考えるより先に愛を探そうと、とっさに体が反応していた。愛の行方を追おうと翼は再び走り出していた。自分が逃げてきた道を一つ一つ思い出そうと必死になった。しかし、パニックに陥っていた翼はほとんど道を覚えてはいなかった。
闇雲に愛の行方を探そうとしても結果は見えている。それでも翼は愛の名前を叫びながら必死になって探し回った。何としても、何としても愛だけは助けなければならなかった。自分の命を犠牲にしてでも……。
翼の頭はグチャグチャに混乱していた。今も必死になって愛が逃げているのかと思うと、居ても立ってもいられなくなり、気持ちだけが焦っていた。同時に自分にも、もの凄く腹が立っていた。今は鬼よりも愛の事だけが気になってしょうがなかったのだが、とにかく気が動転してしまい、思考回路がままならなかった。
いつしか翼は大きな道路へと戻っていた。愛を見つけ出そうとしてから早くも十五分ほどが経過しようとしている。幸いな事にそれまでの間、鬼には見つからずに来れたのだが、一向に愛の姿が見つからず苛立つばかり。一旦足を止めたと同時に再び嫌な予感が翼の脳裏へと舞い込んでくる。それを振り払うかの様に翼はブルブルッと頭を振ると、再び走り出そうと前方に目を向けた。その直後だった。翼の前方に鬼が一匹立っている。くそ! こんな時に! 心でその言葉を吐き捨てると翼は後ろを振り返り有無を言わさず逃げ出していた。当然、後ろで警戒発信が鳴らされた。翼は後ろを振り返り舌打ちすると唾を吐いた。翼は鬼から逃げながらも当然愛を見つけようといろんな所に目を配っていた。追いかけられているにもかかわらず一度も後ろを振り返る事はなく、愛の事だけしか頭になかった。
逃げているうちに翼は再び先程の住宅街へと舞い戻っていた。愛が何処を逃げているのかも分からない。その為、遠くへは行きたくなかった。しかし、愛らしき姿は一向に見当たらない。やはり、ここら辺ではないのであろうか。その可能性が高まってきた。それともまさか……いや、そんなはずはない、決して……。翼は思考を変えた。今いる住宅街から離れようと考えた。もう、ここら辺にいる可能性が少ないと思ったからだ。そう決めた翼は一気に走り出した。一度後ろを振り返る。今回の鬼は全く問題にならなかった。本気になった翼の足には到底付いて来れず距離が離れるばかりであった。
そして、翼は住宅街から離れた。
住宅街から飛び出して町中の何処を探しても結局愛の姿は見つからなかった。翼は後ろを振り返る事もしなくなっていた。鬼も疲れ果ててしまったのか、足こそは止めないが既にフラフラ状態となつている。一応翼を追っているだけであった。それに対し翼の方は愛の事だけが気に掛かっている為に息の一つも切れていなかった。駆けずり回っていたものの、追いかける者、追いかけられる者、それぞれ必死な表情を浮かべ、ひたすら足を動かしてはいたものの、町中は虚しいほどに静かであった。翼は後ろに注意を払って一度その場で足を止めた。
「何処だ……」
口にした途端、やはり嫌な予感が脳裏をかすめる。
「俺のせいだ、俺があの時……くそ!」
あの時の自分に深く後悔していた。あの時もっと冷静になっていればこんな事にはならなかった。情けない自分に怒りの感情がこみ上げる。その感情とは逆に今でも愛が追いかけられている事を想像するだけで翼はたまらない気分で一杯になった。二つの思いが翼の頭を混乱させる。人生なんて辛い現実の繰り返し、無情にも前方で警戒発信が鳴り響いた。とっさに足が反応した。翼は嫌気を感じていた。何だか音のない映像が一コマ一コマ、区切られている様だった。一度後ろを振り返る。改めてこの鬼ごっこの厳しさを痛感させられた。
「愛! 愛!」
逃げながらそう叫ぶ。今はもう祈るしかなかった。愛が逃げ切ってくれている事を。しかし、翼の全てがもうじき音をたてて崩れ去ろうとしていた……。
翼の願いとは虚しく結局は何の変わりもないまま、終了の合図が夜空に散った。その合図と共に翼は残り少ない生き残りの佐藤の一人と確定はしたものの、ホッと息をつく訳にはいかなかった。愛の事が心配でどうしようもなくたまらなかったのだ。現にこうして終了の合図が鳴らされ、今は愛が生き残っている事を願うしかないのだが、愛の姿を確認しなければ安心する事が出来ない。どうにかして愛を探し出さなければならないのだが、この不気味な静けさが嫌な雰囲気へと吸い込まれていく。今は明らかに翼は混乱しており、今自分が何をしたらよいのか、何処へ行ったらよいのかが、正直言って分からなかった。全ての道がふさがれた様な心境でただ、気持ちだけが焦るばかり、どうにもこうにもそれを抑える事は出来なかった。仕方なく翼は愛の自宅へと戻ろうとした。逆に言えば、もうそれしか考えつかなかったし、最後の望みだった。グッと息を呑み、神に祈りを捧げた。願いを胸に一歩二歩と歩き出し、何歩目だったであろうか、踏み出したその直後であった。
『いや! いや!』
泣き叫ぶ声が遠くの方で微かに翼の耳へと届いたのだ。翼の体がビクッとこわばった。
『いやー』
再び叫び声が聞こえた。更にもう一度。
「まさか……」
不安にかられた翼は言葉を震わせ、声の出所に耳を澄ました。心臓の激しい鼓動が耳に入り交じる。
そして、再び叫び声が聞こえると、翼は声の出所を察知した。すぐさま猛然とダッシュした。段々と叫び声が聞こえてくる。そして、次の叫び声で翼の頭は真っ白になった。
『助けて! お兄ちゃん!』
確かに聞こえた。お兄ちゃん≠ニ……。
「まさか……愛……」
信じられない様子で言葉を出すと翼は更に速さを増した。
「愛!」
そして、叫び声が聞こえて来る角を曲がり終えた翼の目に衝撃が走った。
「愛……」
そこには五人いるうちの三人の鬼が暴れる愛の体を引きずっていた。もう二人の鬼は両端について、しっかりとガードしている。
「愛! 愛!」
翼が愛の名前を叫ぶと愛は暴れるのを止めて翼の方へと視線を向けた。翼の姿に気づいた愛は、
「お、お兄ちゃん! 助けて!」
怯えながらも必死に叫ぶ。翼は愛を救い出そうとそこから一気に駆け出した。しかし、両端にいた鬼達が翼に向かって来たのだ。
「愛!」
「お兄ちゃん!」
愛は翼に向かって手を伸ばす。
「愛!」
翼も手を伸ばしながら愛の元へと近づいて行くが、愛は徐々に引きずられて行く。翼はそれを必死に追った。アッという問に距離は縮まり、ほんの、あと五メートル程で手が届くという所だった。しかし、翼の目の前に二人の鬼が立ちはだかり翼の両端をガッチリ掴まえ、行く手を阻んできた。
「離せ! 離せこの野郎!」
翼は乱暴な口調で激しく暴れた。それを無言で鬼達は阻止する。
「おい! 離せ! どけ!」
語尾に力を入れて翼はもがく。
「お兄ちゃん!」
愛との距離が少しずつ離れていく。
「愛!」もがきながら翼は叫ぶ。
「お兄ちゃん!」
徐々に徐々に愛との距離が遠ざかっていく。
「おい! 離せって言ってんだろ!」
更に暴れる翼に鬼は腰の辺りからおもむろに銃を取り出したのだ。それを見た途端翼は動きをピタリと止めた。一瞬にして洋が撃たれて殺される映像が蘇ったのだ。
「愛!」
もう一度叫ぶ。すると愛も銃を突きつけられている光景を目にし、これ以上翼が暴れれば殺されてしまうと分かったのであろう。愛は言葉を発さずに静かに首を横へと振った。それには愛の色々な思いが詰まっていたに違いない。十四年ぶりに再会出来た唯一の兄への色々な思い。それは一言では言い表せないほどに多くの意味が込められていた。翼はそれを認識した。認識したが故に涙がスーッと瞳からこぼれていた。
「愛……」
「お兄ちゃん……」
愛が泣きながら、お兄ちゃん、と口をパクパクさせている映像が翼の瞳にしっかりと映った。
「愛!」
翼はボロボロと泣いていた。少しずつ少しずつ愛は引きずられて行く。
「お兄ちゃん……ありがとう……」
愛のこの言葉が果たして翼の耳に届いていたかは定かではない。しかし、その思いはしっかりと翼の胸には届いていた。
「愛……」
いまだ銃口を突きつけられている翼は強引に引きずられて行く愛の姿をただじっと、しかし、涙をボロボロと流しながら今は無情にも見つめるだけとなっていた。翼は映画の悲劇のシーンを見ている気がした。しかし、映画のシーンではない。現実だ。あまりにリアル≠ネ現実……。
なおも愛は翼の方へと体を向けているのは変わりないが、少しずつ愛の姿も小さくなっていく。いつしか涙は枯れていた。放心状態のまま、その光景を目にしている翼の目の前に、『あの時の映像』
が鮮明に蘇っていた。そう、十四年前、益美に愛が強引に引っ張られていくあの時の映像が……まるっきり一緒だった。今の映像とあの時の映像がぴったりと被さっていた。翼はどちらが現実かよく分からなくなっていた。しかし、今の映像がやはり現実だと認識した時には愛の姿は一つの点の様に小さくなり、顔も見えなくなっていた。
「愛……」最後に愛の名前を洩らすと、ほんの二日間ではあったが愛と過ごした大切な思い出が蘇っていた。そして、気がつくと愛の姿は遙か遠くへと消えて行った。体をおさえている二匹の鬼達もそれを確認すると静かに翼の体から手を離し、銃を腰にしまった。そして、鬼達も静かに暗闇の中へと消えて行った……。
辺りが静けさを取り戻すと、一気に全身の力がガクッと抜けた翼は膝を勢い良く地面にガックリとついた。その振動で首をダランと下へ垂らし、勢い良く両手も地面についた。翼の体はピクリとも動かなかった。放心状態のまま地面の一点をうつろな目でボーっと見つめていた。声も出なかった。涙も出やしなかった。怒りも感じなかった。何故だろう? 全ての感情が空っぽで表に出て来なかった。
しかし、愛が鬼達に引きずられていく映像だけは繰り返し繰り返し、何回も再生されていた。その映像を繰り返し見ているうちに翼の頭は狂いかけていた。無数のシロアリに蝕まれる様に少しずつ、少しずつ……そう、少しずつ翼の頭は狂い始めていた。そして、この時から翼の人生全てが崩れ去ろうとしていたのだ。
認めなかった。認めたくなかった。しかし、最愛の妹である佐藤愛は鬼達の手によって捕まって行った。十四年ぶりに再会した翼と愛にとってはあまりに悲劇で早すぎる別れとなってしまった……。
翼は自分を必要以上に責めていた。
自分のせいだ。
愛が捕まってしまったのは自分の責任だ。
全て自分が。と……。
しばらくの間、翼は今の状態を茫然と維持したまま動こうとはしなかった。それ以後の記憶は翼自身、全く覚えてはいなかった……。
六日目のリアル鬼ごっこ≠焉Aとうとう終了し、残すところはラスト一日。それで全ての日程が終了する。そう、王国中を大きく騒がせたこの計画も明日で最後。明日、翼の運命が下されようとしていた……。
十二月二十三日、土曜日リアル鬼ごっこ§Z日目……終了。
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クリスマスの最終日
十二月二十四日、日曜日。王国では、ついにリアル鬼ごっこ″ナ終日となる朝を迎えていた。六日目の時点で報告されていた生き残りの佐藤≠ウんの数は実に五万人。王国一の数を誇った佐藤という名字も今ではどんな名字よりも少なくなってしまっていた。一人また一人と佐藤さんが減っていく喜びに王様は一人興奮しており、最終日の事を考えるだけでワクワクしてしまったのか、昨夜は全く深い眠りに就けなかった。しかし王様が何より願う事はただ一つ……全ての佐藤≠ニいう名字が消えてくれればそれで満足なのだ。そんな自分勝手でわがままな発想がこんな馬鹿げた計画を実行させたのだが。しかし、それより何より、一番気に掛かるのは昨日の終了時点で更に何人の佐藤さん達が犠牲になったかであろう。佐藤愛を含めて何人の犠牲者が。じいはそれをいち早く王様の耳に報告しに行った。
王様は王座にもたれかかりいまだ眠たそうにまぶたを擦る。ときに大きなあくびをかいていた。今日で自分が提案した計画全ての日程が終わろうとしているのに、何も関心がわかないのであろうか? こんな様子じゃ計画が終了してからの王国の何とも恐ろしい光景が目に浮かぶ。恐らく今以上に荒れ果てていくだろう。このまま一般市民も黙っている訳にはいかないだろうに。特に佐藤さんに関係する者達の気持ちが収まるはずも無かった。ヤツを殺してやりたい! 心の中ではそう唱えているに違いない……。
「王様……」
じいは忍び寄る様にして王様に近寄った。その声に王様は目を重たそうに開くと、
「おお、じいか……どうかしたか?」
何とも偉そうな口調で言った。
「はい、最終日という事で、色々お話が……」王は頷く。
「そうだったな。ところで……現在、生き残っている佐藤はどのくらいいるのだ?」
やはり気に掛かるのであろう。王様はじいが言おうとしている事を奪い取った。じいは言いにくそうに、
「その事ですが……昨日の終了時点でかなりの数を捕まえました。恐らく、生き残っている者は・・…・数える程度に……」
じいは俯き、それより先は口に出して言わなかった。側近達もその言葉を聞いて一瞬驚き目を伏せていた。しかし、王様は一瞬にして生き生きとした表情に変わると声を張って、
「そうか! とうとうそこまで減らしたか!」言った。
「はい……」
じいは力無く言った。王様はそんなじいに問いかける。
「ん? 何だ? 何か不満でもあるのか?」
王様は眉を持ち上げそう聞くと、じいはハッとして苦し紛れに微笑んだ。
「い、いえ、大変、喜ばしい限りにございます」
じいが言うと王様は機嫌良さそうに大声で笑った。
「はっはっは! そうか! お前もそう思うか! 今日の最終日が楽しみだのう」
言った後も王様は大声で笑っている。じいは一つ質問を投げかけた。
「それよりも王様……」
「ん? 何だ?」
動作をピタリと止めて王様は言った。
「最終日を終えて、もし、万が一……万が一、生き残った者がいたならば……どのようなお考えを?」
王様は表情を歪ませ、
「何だ、私を疑っているのか?」
じいは両手を振ってそれを慌てて否定した。
「い、いえ、そう言う意味で言った訳じゃ、ただ、どのようにお考えなのかと……」
口調が必死だった。王は目を閉じ鼻でフッと笑うと
「私も男だ。この最終日に生き残った者には約束通り何でも願いを叶えてやろう」妙に自信満々な口調で言うと、途端に目を鋭くさせて、
「しかし、じい!」
明らかに口調を強めてじいに言うと、じいは背筋をピンと張り
「は、はい!」言葉を震わせそう答えると、王様は人さし指をじいに向けて、
「今日で最終日……分かっているな?」
それだけだった。だが、じいはこの短いセリフで王様が何を言おうとしているのか、自分に何を命令しているのかがすぐに理解が出来た。出来たとはいえ、じいは本心からは頷けなかった。しかし、
「承知いたしました。王様の期待に背くことのないよう、今日中に全ての者達を……捕まえます」言うとじいは深々と頭を下げて王様の前から姿を消して行った。確信を得た王様は、
「よし! これで……これで私の目標が一つ達成する」
そう呟くと王様はほくそ笑み、次第に口元から笑い声が洩れた。やがてそれは大きな馬鹿笑いへと変わっていった。王様の思い描いた結末になってしまうのか。その答えはラストのリアル鬼ごっこ≠ノ委ねられていた……。
一方、巷では六日間続いていたリアル鬼ごっこ≠ェ今日で最終日とあってか、大きくと騒がれていた。どの朝刊も一面にどでかく掲載され、何処のチャンネルを回してもそれ♀ヨ連のニュースや情報一色で普通の番組などは一切放送されていなかった。リアル鬼ごっこ以外のどんな情報も、入り込ませなかった。そして、どのテレビ局のアナウンサーも、『ついに! ついに今日で最終日を迎えるリアル鬼ごっこ、果たして現在のところ、何人の佐藤さん達が生存し、そして、何人の人達が生き残るのでありましょうか? それはいまだ予測もつきません!』
アナウンサーも必要以上に興奮していた。当たり前である。これ程までの犠牲者を出した計画が今日で最終日とあれば、大スクープ。興奮せずにはいられない。しかし、心の何処かでは興味津々といったところも見受けられる。何人の人達が生き残るかと……。
町中が騒がしい理由がもう一つあった。タイミングよくリアル鬼ごっこの最終日と重なり、話題が薄れてしまっているのだが、今日は年に一度のクリスマスであった。カップルが待ち望んでいた最高の日である。ただクリスマスに関心の無い一般市民はこの日がクリスマスだということを忘れていた。
何故かは言うまでもないが。尤も町中の色々な所ではクリスマスの準備が行われていた。しかし、どうであろう。この日、幸せな夜を過ごす人々がいれば、同じ時刻に恐怖と戦いながら必死になって逃げなければならない人がいる。同じ国に住んでいながらこれ程の差があろうとは……王国は既に狂ってしまっていた。
最終日とあってか、リアル鬼ごっこと一切関係のない町中の人々の意見もそれぞれだった。
『は〜やっと今日で終わるのか〜。何だか長かったよ』
実行中の一時間、全国一斉通行止めの規制が発せられており、その間は関係のない人々も細心の注意を払わなければならなかった。確かに精神的にも疲れたであろう。他には、『今日で終わりかー。そう言えばあれほど続いた犯罪もピタリと止まったね』
確かにトチ狂った佐藤達の凶悪犯罪も既に一つもなくなっていた。それほど佐藤姓が少なくなっている証拠だ。この日で全滅の可能性も大いにあり得る。それとは逆に、『何人の人達が生き残るんだろう?』
こんな声も聞こえて来た。確かに生き残ればその佐藤さんはヒーローとなり、自分の願いを叶えてもらえる。しかし、そんな人が果たして存在するのであろうか。そんなにも甘くはないだろう。何せ、六日目の朝の時点で生存する佐藤さんは五万人。昨日の六日目終了時には更にそれは減っていっただろう。それは誰もが予測出来る事で内心では逃げ切れない。そう思っているに違いなかった。
「絶対無理だろ』とはっきりと言葉に出して言う市民も多かった。と、色々な意見があるにせよ、一般市民も今日までという日々がどれ程長く感じられた事か、王国中には疲れ果てた、ため息がどこからともなく聞こえていた。しかし、そんな人々よりもそれ以上に今日までが長く感じられたであろう、一人の男がここにいた。場面は変わり……。
「こらあ! 前見てあるかんかい!」
肩がぶつかるとやくざ風の男が乱暴な口調で文句を言った。
「……」翼は放心のままコクリと頷くだけだった……。
最愛の妹、愛を失ってしまった翼は何もかもが分からなくなってしまい、一晩中、町申を一人彷徨っていた。その間、自分が何処をふらつき、どんな行動をとっていたのかも覚えてはいない。ただ覚えているとすれば、愛が鬼に連れられていくシーンが頭の中で繰り返し繰り返し映っている……それだけだった。なおもその映像は翼の脳裏から離れる事はなかった。両腕を下にダランと垂らし、俯き加減でフラフラ歩く。瞳からは完全に輝きを失い。全てが真っ暗ですさんでいた。まるで虐待を受けていたあの頃の様に。いや今の翼はあの頃以上に心がすさんでいた。翼の全てが狂い始め、何も考える事が出来なかった。
自然と体が動いて行く、前へ前へ……。
頭の中に洋が殺されて行った映像や愛が捕まっていく映像が翼の精神を蝕んでいく。自分の為に死んでいった一人の親友。自分のせいで捕まって行った一人の妹。短い間とはいえ、この町では辛すぎる事が多すぎた。二度と味わいたくない仲間の死。そして兄妹の死。その感情が翼を左右した。いつの間にか、翼は自分の生まれ育った町へと帰る事に決めていた。いや、勝手に体が動いてしまっていた。それでも自分を見失っていた翼は自分のとっている行動を全く認識しておらず、ただ茫然と歩きながら新大阪駅へと向かっていた……。
駅に着くと気づかぬうちに新幹線へと乗り込んでいた。乗り込んでからも座席に座って、ただ茫然と窓から景色を見つめているだけだった。しかし、外からの景色は翼の瞳には映っておらず、愛が引きずられて行く映像だけが映っていた。自分への怒り、愛への悲しみ、それが交じり合い、複雑な思いで一杯となった。結局愛を生まれ故郷に連れて帰る事が出来ず、後悔の念が深まり、愛を死に追いやった、あまりのやりきれなさから、
「愛……」
小さく声を洩らす。言葉を発すといえばそれだけで、たびたびそれが続いていた。そして、翼は必要以上に自分を責め続け、奈落の底まで追いやった。今は愛の事以外は頭に浮かんで来なかった。この日が最後のリアル鬼ごっこ≠ニいう事さえも。その間も、新幹線はひた走る……。
翼が新幹線に乗り込んで、数時間が経っていた。
その頃、翼の通う大学の陸上部はトラックの周りを何人もの部員が必死な表情を浮かべて走り続ける。練習などやっている場合ではないと誰もが思いつつも、やはり翼の事を考えると練習でもしていなければ落ち着かなかった。翼が帰ってくる事を信じて一人ひとりが練習に励んでいた。でも、心の何処かには不安を隠しきれない部分も確かにあった。それでも翼がケロッと帰って来る事を皆は信じて止まなかった。
監督がトラックに顔を出すと久保田が皆に号令をかけた。
「集合! みんな集まれ!」
パンパンと手を叩き部員を集めた。それに反応した部員達全員が集まり、監督を囲むようにして輪になった。監督の口からどんな内容が出てくるのか大体見当がついていた。各々の表情は暗かった。案の定、監督の口から出た言葉はこうだった。
「今日で……終わりみたいだな」
監督が陸上競技以外の事について触れるのは珍しい事なのだが、そんな事、誰も気に留めなかった。
「そうみたいですね」
久保田がため息交じりにそう答える。監督は部員達を見回して、
「誰か……佐藤とは連絡取れたのか?」
その問いに皆は顔を見合わせ、
「いえ……それも……」
再び久保田が答えると、
「そうか……そうとなると……」
監督はそこで言葉を切って俯いた。皆も同時に俯くと、監督の何とも弱気な発言に大介が前に出た。
「監督! 翼は、翼は絶対に戻って来ますよ! 監督がそんな弱気になってどうするんですか! 信じましょう。翼が帰って来ることを」
大介の言葉に監督は目を奪われていた。そして情けない自分に気がつき、
「そ、そうだな、すまん」語尾を歯切れ良く切った。それからしばらくの沈黙が訪れると一人の部員が遙か遠くを見据えている。この時、部員達にとって信じられない光景が目に飛び込んできた。
「お、おい……あれ……まさか」
一人の部員が遙か遠くに指さすと皆が一斉に視線を向けた。久保田が思わず声を洩らす、
「う、ウソだろ?」
「あれ……佐藤先輩だよな」
後輩達が確かめ合うと、皆が息を呑んで見守った。遠くの影から徐々に近、つき、段々人物がはっきりしだした。上下が白のジャージに運動シューズ、フラフラになりながら少しずつ少しずつ近づいて来る……。
「翼だ! 翼が帰って来た!」
確信すると大介は俄然興奮し、翼の所まで全力で駆けて行った。ただ翼の変わった様子が大介は気がかりだったが、今はそんな事、どうでも良かった。それに続いて部員全員が大介の後を追った。皆、表情が生き生きしてきた。監督も少し遅れてやれやれと苦笑いを浮かべながら駆け寄った。
地元に着いた翼は無意識のうちに大学のグラウンドを歩いていた。やはりこの場所が恋しかったのか体が吸い込まれていた。無気力に周りを見渡す翼。何だか全ての風景が懐かしかった。八日前までは自分もここで走っていたというのに。それも遠い昔の様な。
ふと気がつけば、何やら前方から叫び声が聞こえてくる。ゆっくり視線を向けると、大勢の部員達が自分に向かって全力で走って来る。一瞬、鬼と錯覚してしまったのだがそうではなかった。翼はボーっと見守っていた。そして、アッという間に翼はみんなに囲まれていた。何だ? どうしたんだろう……みんな……。大介や他の部員達は興奮しており、多少息を弾ませている。そして、翼の顔に視線を置いたとき、皆の顔が一斉にギョッとなった。八日ぶりに再会した翼は、髪を乱し、身なりも汚れている。表情は異常なまでに死んでおり、目は一つも輝きを発していない。そんな変わり果てた翼に言葉を失ってしまった部員達。これは翼じゃない。生き生きとした佐藤翼が今は消えてしまっていた。これが現実か。これがリアル鬼ごっこなのか。大介は怒りを必死に噛み締め、そっと翼に声をかけた。
「翼……おかえり」
多少大介の目が潤んでいた。翼は大介を数秒見つめた後、
「大介……」
放心のままコクリと頷いた。その様子に哀れみを感じた大介はグッと目を伏せた。
「翼……長かったな」
久保田が同情するかの様に優しく声をかける。それにも同じ素振りを見せて、
「久保田……」
言ってコクリと頷いた。あまりにも重い空気の中、それ以後、誰一人として声をかける者はいなかった。そのうちに監督が翼の目の前にたどり着いた。監督は翼の肩に手を置いて、
「佐藤、辛かったろう。今まで……よく頑張った」
監督も優しく声をかけた。しかし、
「監督……」
翼の反応は同じだった。それ以上言葉を発する事はなかった。それから再び沈黙が訪れた。
皆、変わり果てた翼を見ているのが苦しくて苦しくて耐えきれなかった。全てはあんな計画の為に、あんなにも明るかった人間がここまで変わり果てるなんて。これ以上どんな言葉をかけてあげれば良いのか、正直、皆迷っていた。その時大介に最終日≠アの言葉がとっさに浮かんできた。途端に表情をキリッと変えて両手を翼の肩に強く置くと、
「翼! 絶対! 絶対逃げ切ってくれ! 俺達の為にも絶対に! みんな……信じてるぞ」
言って穏やかな笑みを浮かべた。それを皮切りに部員達が翼にエールを送り始めた。
「佐藤!」
「先輩!」
久保田も、
「負けるな! 翼」
様々な声が飛び交った。そして、監督は翼に向かって深く頷いた。しかし、翼の反応は虚しかった。
「ああ……」
小さく言って頷くだけだった。それどころか翼は皆の言葉が耳に入っていないかの如くに、
「俺……もう……行かなきゃ」
ポツリと言うと皆に言葉を与える間もなく翼は後ろを振り返った。
「お、おい……」大介が声をかけても翼はピクリとも反応しなかった。翼はただ茫然とグラウンドを歩いて行き、部員達との距離も少しずつ遠ざかって行く。その光景に誰も呼び止める事は出来なかった。その光景に、皆が一斉に深いため息を吐いた。しかし、翼を責める理由は一つもなかった。翼があんな状態になってしまったのも全てはヤツのせいだ。ヤツのせいで翼は……。
部員達全員が王様に対する怒りを表情へと出していた。それでも何も出来ない自分に苛立ちが募り、拳をグッと握り締め、歯を食いしばり、それを必死に抑えていた。後は翼を信じる事しか出来なかった。自分たちには何も出来ない、全ては翼にかかっている。心の中でそう思っている問に翼の姿は部員達の視界から完全に消えて行った……。
日も暮れ始め、今日で最後である鬼ごっこの時間も刻一刻と迫っていた。やはりどことなく町中の雰囲気が違う。報道陣も何やら中継を行なっている様だ。町中が騒がしかった。それに、様々な所にツリーも立てられ、本当はクリスマスの準備などしている場合ではないのだが、そっちの雰囲気も漂わせている。
そして、翼の心とは裏腹に町中の全てが騒がしい中、気がつけば翼は自宅前に突っ立っていた。辺りはシンと静まり返っており、翼はどんよりした目で一度自宅を見回した。あれから五日しか経っていないにもかかわらず、ずっと昔に住んでいた様な気がした。翼にとってはそれだけ苦しい五日間だったという事だ。しかし、別に呼吸を正す訳でもなく、決心する訳でもない。玄関前までゆっくり歩くと、おもむろに財布を取り出し、そこからカギを抜き取った。そして、鍵穴に差し込むとガチャッと音をたててドアが静かに開かれた。その瞬間、翼の体に冷たい風が吹き込んだ。それでも表情を一切変える事なく、翼は静かに扉を閉めた。
扉を閉めた途端、部屋中が真っ暗闇に包まれた。
翼は靴を脱ぎ捨て、明かりをつける事なく居間へと移動した。真っ暗闇の部屋の中、翼は居間の中心に茫然と立っていた。部屋中はガランとしていてとても虚しかった。誰の声も聞こえない。誰も自分を迎えてくれない。当然、輝彦の怒鳴り声も今は聞こえて来やしない。一人だった。翼は独りぼっちになっていた。いつの間にか翼の側には誰もいなくなっていた。
しばらくの間、暗闇の中で茫然と立ち尽くしていた翼はフッと居間から出て行った。静かに階段を上り、上り切った翼は自分の部屋に入ろうとドアノブに手を置いた。ノブを回すと扉が開いた。放心状態のまま、翼は部屋へと足を踏み入れると、ドアを閉めた。閉まった途端に翼は小さな一つの空間に閉じ込められた気がした。なおも明かりをつけず、翼は小さな部屋をぐるりと見回す。暗闇のなかでも、何ら変わっていない事が分かる。しかし、翼の周りは百八十度大きく変化した。もう、失ったものは二度と取り戻せない。そう、思うと翼はベッドにグッタリと腰を置いた。ただ、ボーっとしていた翼は思い出した様にポケットから財布を取り出した。そして一枚の、愛と一緒に映っている一枚の写真を抜き出すと、自分の目の高さまで持って行った。俺は、俺は一人の妹さえも助ける事が、救ってやる事が出来なかった。それなのに自分一人が生き残ってる。俺はなんて人間なんだ……。
そんな翼とは裏腹に暗闇にぼんやりと見える写真の中に写っている愛は何の不安も感じさせないくらいの笑みを浮かべていた。もう、愛との思い出はこの一枚の写真一つとなってしまった。これから一緒に暮らしていくはずだったのに、これから楽しい思い出を作っていくはずだったのに、愛はいない。愛は二度と自分の前には現れない。
「愛……」
そっと言葉を洩らすだけで涙の一つもあふれなかった。翼は人生に、この世に疲れ果ててしまっていた。もう、感情の一つも表す事が出来なくなった。しかし、翼は何としてもヤツに制裁を加えてやりたいと思っていたから、死にたい≠アの肝心な言葉は一度も発しなかった。それだけが唯一の救いだった。
それからも翼はベッドに腰を置いたままぼんやりと見える愛の写真を見つめているだけであった。それ以上の動作は行わず、意味のない時間をただ、過ごしているだけであった。そうしている問にも無情に時は過ぎて行きリアル鬼ごっこ″ナ終日の時間が少しずつ少しずつ音もなく近づいてきた……。
場面は変わり……。
「王様、もうじき最後の鬼ごっこが開始されますね」
じいは言った。
「おう。何だかこっちまでワクワクするのう」
王の胸はときめいていた。
「長かったですね王様」
じいは心にも無い事を言って王様のご機嫌をとる。
「ふふふ、明日からが楽しみで仕方がないわ」
嫌みそうに言うとじいは、
「王様、今の町の状況を確認してみましょう」
言うと王様の前方に位置する百インチはあるであろう大画面のスクリーンがじいの合図で一気に映し出された。そこには一人のアナウンサーが映っていた。場面は変わり……。
『間もなく、間もなく最後のリアル鬼ごっこが開始されようとしています。ご覧の通り、町中ではクリスマスという事でカップル達が幸せそうに手をつなぎ歩いております。しかし一方で、残り少なくなった全国の佐藤さん達はこれから恐怖の一時間を過ごす事になるのです! 一体何人の佐藤さんがこの最終日に逃げ切るのでしょうか!』
アナウンサーは興奮した喋り方でカメラに向かってそう言った。
ついに、ついに最後の鬼ごっこが王国中で始まろうとしていた。六回続いていたこの鬼ごっこも残すところはあと一回。なおも生き残っている佐藤≠ウん達は今どんな心境に立たされているのであろうか、恐らく、『意地でも捕まるもんか!』
そう思っているに違いないだろう。それに翼だけじゃないはずだ。今も生き残っている佐藤さん達だって六日間の間、過酷で辛い日々を送ってきたに違いない。家族を失った者、友人を失った者、子供を妻を失った者、恋人を失った者、そして、兄妹を失った者……皆、それぞれが一番大切な物を失ってきただろう。普通の日々を送りながら生き残っている者は誰一人いないはずだ。それが故に必ず自分は生き残って死んでいったそれぞれの大切な人達の死は絶対に無駄にしない! そう胸に誓っているだろう。誰もがそう誓っているはずだった。しかし……。
翼の体もいつしか、習慣付いていた。気がつけば自宅から一歩外に出ていたのだ。しかし、今の翼には、絶対逃げ切ってやろう≠ネどという闘志は一つもわいていなかった。ただ、何となく……。今はそんな感じであった。別に時計を確認する訳でもないし、心臓が早まる訳でもない。ただ、思い出すのは初日の鬼ごっこが始まる時だった。あの時、こうして同じ様に外に出て一週間後の自分を描いていた。逃げ切ってやる! 絶対に逃げ切って見せる! と……。
実際、今こうして生き延びている自分がいる。しかし、あの時の自分は何処へ消え去ってしまったのであろう。そう心の何処かで思うものの、別に危機感すら感じなかった。翼の全てがおかしくなっていた。これはもう、収拾がつかないかも知れない。それは一生かかってもだ……。
翼が無気力に夜空を見上げたその時だった。最終日とあってか、スピーカーから久々のアナウンスが聞こえて来たのだ。
『王国中の残り少ない佐藤さん、準備はよろしいですか? 間もなく、最後の鬼ごっこが開始されます。そして、逃げ切った佐藤さんには王様が何でも願いを叶えて下さると言う素晴らしいご褒美が待っております』アナウンスは淡々と流れており、翼は遙か上空をボーっと見つめていた。
『それでは、そろそろ時間です。明日の閉会式≠ナお会いしましょう……』
プツッと放送が切れた。その直後だった。これが最後である、始まりの長いサイレンが王国中に響き渡った。
十二月二十四日、日曜日。リアル鬼ごっこ″ナ終日……スタート。
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ラスト鬼ごっこ
サイレンが鳴らされてからの翼の心境は全く変わらなかった。現在、鬼ごっこが始まっている実感も、体をこわばらせ、鬼を警戒する事もない。恐怖のかけらも感じていなかった。いかにも彷徨い続けている子羊達の様に翼はただ茫然とふらついていた。時々、愛の事が頭をかすめると、
「愛……」
そう寂しげに呟くだけで、それ以上の言葉は一切発しなかった。ただ、静かな住宅街を一人彷徨っているだけであった。
しかし、翼の心境が大きく変化したのは彷徨い続けてから、その直後であった。何処を見渡しても閑静な住宅が建ち並ぶ十字路にさしかかった時、今の翼でさえも奇妙な気配を感じていた。別に体がビクリと反応する訳でもなかったのだが、十字路の真ん中で何を思ったのか翼はピタリと足を止めた。
そして、気の抜けた様子で左右に首を往復させると、再び足を動かした。別に何の意味もない行動だったと思わせたその瞬間、翼の耳にコツコツと小さな足音が左右同時に聞こえて来たのだ。それでも体をビクリともさせない翼は再び足をその場に止めて、もう一度、静かに首を左右へと振った。
瞳に映っている映像に翼の眼孔が多少大きくなった。そう、鬼が左右同時に翼の方へと歩いて来る。
ゆっくりゆっくり、その光景を目の当たりにしている翼はいまだに逃げ出そうとはしなかった。決して足がすくんだ訳でもない。脳から、逃げろ、と体に指示が伝わっていなかった。鬼との距離が段々狭まる。今度は左に首を向ける。同じように鬼が静かに近づいてくる。翼は左右挟まれる形となっていた。そして、鬼が段々と近づいて来るにつれて、翼が今までに経験してきた数々の悲劇が脳裏に飛び込んで来たのだ。父、輝彦が死んでいった映像。親友、洋が銃で撃たれて死んでいった映像。そして、愛が鬼に捕まって、ここから先は想像なのだが、静かに殺されていく映像が。その一つ一つの悲劇のシーンが翼を今以上におかしくさせていった。いやだ……俺は……。
鬼が徐々に迫り来る。いまだに翼は足を動かそうとしていなかった。いやだ……いやだ……俺は。
翼の目が少しずつ大きくなっていく、ある程度の距離に達した所で鬼が両方ともピタリと足を止めた。緊張感が一瞬にして張りつめる。輝彦が、洋が、そして、愛が死んでいった。いやだ……俺は……俺は……死にたくない。そう。
死にたくない≠ニ小さく口にした途端、翼の表情は一気に震えだした。それが全身に広がっていくと、翼は怯える様にして、そこから前方へと猛ダッシュで駆け出した。間もなく、左右同時に、ういいいいいいん≠ニ警戒発信が発せられた。この日、初めての鬼ごっこが今、幕を開けた……。
翼は狂ったかの様に鬼から全力で逃げていた。もう、大切なものを全て失い、これ以上失うものがなくなった翼の足は異常な程に速かった。改めて翼の速さを鬼達に見せつけた。といっても今、追いかけている鬼達は初めて翼の速さを目の当たりした鬼達であろう。どちらにせよ、この鬼達も翼の足の速さには驚きを隠せなかったに違いない。さすが今まで生き残っただけあると。そう感じていただろう。一瞬にして鬼達との距離が遠ざかった。しかし、翼は後ろを一度も振り返る事はせず、
「嫌だ、死にたくない……」
と怯えた様子でこの言葉を洩らすだけだった。完全に翼は壊れてしまっていた。しかし、鬼ごっこはこの程度で終わるはずも無く、最終日の恐ろしさはここからが本番だった。気がおかしくなった翼の異常とも言える速さに先程の鬼達もさすがについて来れなかった。いつしか鬼達の姿も消えていた。
気づけばそこは、砂利道になっていた。そういえば足の裏が痛かった。翼が大きく息を洩らし、うつうな目で後方に振り向いたその時だった。突然、警戒発信が鳴らされた。既に一人の鬼が走って来ている。体をビクッと反応させ、再び怯えた表情に移り変わると翼はとっさに足を走らせた。翼は砂利道の中を足の痛みに耐えながらも必死になって走った。
「う、うわあああ!」
翼は狂い叫んだ。人一人もいない、この砂利道に翼の叫び声が大きく響く。後ろから圧迫される様に足音が聞こえて来る。更に危機感を感じた翼はスピ! ドを思いっきり速めた。今の翼は今までのどんな翼より速かったかも知れない。人間がここまで精神的に追い込まれるとここまでの力が出るなんて、まさに今の翼がそれだった。誰よりも、どんな佐藤さん達よりも一番早かった。
追いかけっこが続く中、翼は一面芝生の広がる大きな大きな広場へと入った。アスレチック(ブランコやすべり台)等も何もないこの広場は日曜になればサッカーの練習や、野球の試合が行われる様な広場で、放課後になると様々な子供達がこの大きな広場で追いかけっこや色々な遊びをしていた。翼はフッと思い出した。そういえば俺……小さいときに鬼ごっこなんて一度もしなかったなと、こんな状況にもかかわらず突然妙な事が浮かんできた。確かに小学時代、誰にも心を開かず真っ暗だった翼には誰一人友達もおらず、毎日独りぼっちの生活を送ってきた。それ故に一度も鬼ごっこなんてやった事がなかったのだ。しかし、あの頃、本当は友達が欲しかった。みんなが群になって遊んでいるのをいつも遠目で眺めていた翼はみんなが羨ましくてたまらなかった。それでも翼は、
「僕も仲間に入れてよ」
とは決して言えなかった。広場を必死に駆け抜けながらあの頃の自分を思い出していると翼の耳に陰の声が聞こえて来た。
『あいつ、暗いよな』
『あいつさー、何かおかしくない?』
『なんかねー噂によると、虐待に遭っているらしいぜ』
翼に関する様々な悪口が今の翼に聞こえて来た。その色々な声が重なりあって、翼の脳裏に重く響いていた。
「やめろ……やめてくれ!」そう翼が叫んでも決して耳から離れて行かなかった。翼は両手で頭を抱えると
「うわああああ!」またも大きく叫ぶともう、自分で自分が分からなくなっていた。その声をかき消すように更に更にスピードを速めると目の前の金網に突き当たった。翼は足を緩める事なく、その勢いで金網に飛びかかった。足をかけ、簡単に上り切るとそこから、地面へとジャンプ。着地すると今度は一面に畑が広がっていた。明かり一つない真っ暗闇の畑の中を翼は駆け出していた。そのうちに鬼も金網を乗り越えて、畑の中を追ってくる。暗闇から音が響いて来る。翼は地面を気にする事なくひたすら駆け抜けていった。いまだ鬼も諦めずに追ってくる。アッという問に畑を抜けると左右に道が分かれていた。今はどちらでも良いと、左に体を向けた矢先にまたもや別の鬼が警戒発信を発しながら追いかけて来た。
「ああ……あああ……」
震えてこれしか言葉が出なかった。翼は向きを逆に変えて右方向に進路を取って、休む間もなくひたすら・駆け出した。畑から抜け出した鬼がなおも翼を追ってくる。しつこかった。
細い道路をひたすら逃げていた翼は初めて後ろを振り向いた。一人が先頭に、もう一人がやや後ろに陣取って追いかけて来る。時間はまだまだ十分に残されている。早く……早く終わって欲しかった……。更に走り続ける翼の目には大きなトンネルが見えてきた。別にどおってことないのだが、今はそこしか道がない。翼はトンネルの中へと入った。一瞬にして視界が暗闇で閉ざされた。曖昧な視界のまま、翼はトンネルの中を一直線に突っ走る。後ろからもコツコツコツコツと二つの激しい足音が交互に聞こえて来る。しかし、翼は一度も振り返る事はしなかった。しばらく長いトンネルの中を一直線に走り続け、ようやく出口が見えてきた。そして、トンネルを抜けた瞬間、光り眩しい幻覚に翼は包まれた。
高校では最後の全国大会。百メートル競技で見事その切符を手に入れた翼は決勝まで勝ち残っていた。過去に決勝までには何度も残っていたのだが、肝心の優勝を勝ち取った事は一度もなかった。高校最後の全国大会。この大会で必ず優勝すると決めていた翼。とうとう、その時がやって来たのだ。第一コースから順番に選手の名前が告げられていく。翼の緊張も高まっていく。そして、『第八コース、佐藤翼君!』
翼は平静を保ち、軽く右手を上げると一斉に皆がスタートについた。会場中が一気に静まり返る。翼はこの十秒あまりの為に血のにじむような努力をしてきたのだ。ほんのタイムを縮める為に。そして、選手達の緊張もピークに達した時、ピストルの、パン、という音が会場中に響き渡った。一気に選手達が飛び出した。特に目立っていたのはやはり翼であった。圧倒的な走りを選手達に見せつけた。会場中に騒然としたどよめきが走る。翼はぐんぐん加速していき、瞬く間に一着でゴール。会場からは大きな拍手が、そして、仲間達も詰め寄った。翼は生きている中で最高の喜びを感じていた。どんなものよりも代え難い最高の喜び。
表彰式が盛大に行われた。この年、翼は大会の記録を更新するという快挙を成し遂げ見事全国優勝を成し遂げたのだ。人生うまくいっていた。何もかもがうまくいっていたのだ。しかし……。
再び光に包まれると今度は現実の世界に引き戻された。栄光の時代から一気にどん底に突き落とされた気がした。翼は走りながら思った。あの頃の自分は全てが輝かしかったと。でも、今はどうだ。意味のない追いかけっこをして、これに捕まってしまえば、全ての努力が散ってしまう。こんな馬鹿げた話ってあるのか? これでいいのか? こんな人生で俺は満足なのか? 翼は多少ではあるが、自分を取り戻しかけていた。無駄にしたくない。今まで生きていた全てを無駄にはしたくない。もし死ぬのなら最後に意味のある事をやり遂げて死にたい。ここで捕まってしまえば俺はただの犬死にだ。それだけは……それだけは絶対に……。
翼は一度後ろを振り向くと、歯を食いしばり力を全て出し切った。鬼は仰天したはずだ。あれだけ走り続けた翼がスピードをぐんぐんと上げているのだから。さすがの鬼も根気負けした。それを見た途端に走る気力がなくなったのか、二人の鬼達はピタリと足を止めると、膝に手をつき、苦しそうに息を吐いている。
「へ……へへへ」
薄笑いを浮かべると鬼は翼から姿を消した。勝った。鬼達に翼ハは勝ったのだ。そう思い込んでいた。
鬼が姿を消した場所を確認した所で翼は一度立ち止まり、苦しそうに息を吐いた。一、二分が経ち、ようやく落ち着きを取り戻した翼は足を動かした。静かな道路は変わりないのだが、すぐさま一つの音が翼を襲った。グルッと振り向いた翼の目には追いかけてくる一人の鬼が映っていた。最終日とあって、ウンザリする程の鬼の数。そんな事を考える間もなく、再び翼は走り出した……。
一方、裏の王国で必死に逃亡を繰り返していた王国中の生き残りの佐藤さんが一人。また一人と、捕まっていった。鬼達のなすがままに。捕まる際に激しく暴れる者。泣き叫ぶ者。そこで諦めグッタリとする者。行動は様々であるが、王国中に佐藤≠ウん達の叫び声がどこからともなく聞こえて来る。
そして、惜しくも最終日に捕まっていった佐藤さん達はそれぞれの思いを残し、呆気なく殺されていってしまうのだ。何の主張もすることなく……。その度に王様の顔には憎たらしい笑みが浮かび上がる。
無情にも佐藤という名字が減っているのは紛れもない事実。そう、今もまた一人捕まっているかも知れない。徐々に徐々に数が減っていき、全滅の時もすぐそこまで迫っていた……。
「じい、じい」
王様は専用の大きなベッドに仰向けになりながらじいを呼んだ。すかさずじいが早足でやって来る。
「王様、どうかいたしましたか?」
じいは尋ねた。王様は天井を見つめながら、
「今頃、また一人、同じ姓が消えているんだと思うと興奮して眠れないのだが」
じいは困った様子で、
「それは、困りましたね。明日、王様にはやるべき事が一杯詰まってるというのに……」
語尾を引きずりじいは頭を悩ませると、
「王様、ワインでもお召し上がりになったらどうですか?」
じいが言うと王様は、
「おう。持って来てくれ」
「かしこまりました」
深く頭を下げると両手を頭の上にあげ、パンパン、と叩いてメイドに合図した。すかさずメイドが慌てた様子でワインとグラスを持って来た。
「さあ、王様」
グラスを渡し、ワインを注いだ。
「うむ」言うと王様はワインを一気に飲み干した。そして、もう一杯。
「もうよい。これで気持ちよく眠れそうだ」
頬を赤くし、王様は再びベッドへと仰向けになった。じいはワインをメイドに片付けさせると、静かに王様の側から身をどけた。早くも熟睡モードに入っていた王様は小さく寝言を洩らした。
「明日が楽しみだ……」
それから王様は大きな寝息をたてながら気持ちよく眠りに就いた。それを確認するとじいは部屋を後にする。一面に広がる廊下に出たじいは深いため息を一つ吐いた。
「じい……」
不意に呼びかけられ、全く気を緩めていたじいはビクッと過敏に反応した。
じいはまさか、王様では? と思う。顔を上げる。途端にじいはホッとした息を洩らした。そこには王様の弟である王子が立っていたからだ。
「お、王子……どうかなされましたか?」
じいの問いに王子は俯いたまま黙っている。何か深刻そうな表情だった。
「王子?」もう一度じいが問いかけると王子は俯いたまま、
「す、すまぬ……」
申し訳なさそうにじいに言った。じいは心底驚いた。と、いうより疑問を感じていた。
「王子? 一体……どうなされたというのです」なおも王子は俯いたまま口を開く。
「私のせいだ。こんな事になったのも本当は私のせいなのだ」
「そ、それは……一体どういう事なのです?」
「実は、王がこんな計画を実行しようと決めた前の夜、私は王にこう言った。今、王国の中でもっとも多い姓は佐藤だと。それは喜ばしい事だと。そう言ったのだ。それが王には気にくわなかったのだろう……。そして、こんな事に……」
「王子……」
「あの時、本当は止めるべきだった。自分の命を犠牲にしてでも王を止めなければならなかったのだ。あの時、何も言わなかった為に王国中の佐藤姓は……全滅する。全て私のせいなのだ」
「王子……自分を責めてはなりませぬ」
王子はその言葉にも表情を変える事なく深刻に俯いたまま、ただ一言。
「すまぬ……」
と言ってじいに背を向けトボトボと歩いて行った。
じいはその後ろ姿をやるせない表情で見守っていた。場面は変わる……。
最後の鬼ごっこも既に四分の三が終わろうとしていた。いまだに辛うじて生き延びている翼は鬼をどうにか突き放すと、辺りが物静かな壁にグッタリ寄りかかり、激しく呼吸を乱していた。もう、この日だけで何人の鬼達に追いかけられているであろうか、翼の持久力も既にピ! クに達していた。心臓も今に張り裂けそうだった。逃げ出したかった。こんな世の中から翼は自分だけでも逃げ出したかつた。しかし、それは出来なかった。現実としてそれは無理な話なのだ。そして、なおも激しく呼吸をする。現在捕まっていない事が奇跡的ともいえるこの状況に、またも翼は恐怖のどん底へと突き落とされた。
グッター2したまま激しいテンポで呼吸をしている目の端からチラリと鬼が二匹いるのを翼はとらえた。幸いな事に鬼達はいまだ翼の存在には気づいていない。途端に翼は口に手を当て、必死に激しい呼吸をこらえた。しかし、いまだに翼の呼吸は回復していない。苦しかった。死ぬほど苦しい表情を浮かべながら翼は鬼に目を配り、静かに壁から立ち上がった。大丈夫。まだ気づかれていない。しかし、気づかれるのも時間の問題だった。翼は完全に立ち上がり、気づかれる前にと翼は後ろ歩きで鬼を確認しながら一歩、二歩と静かに歩んだ。そして、三歩目で一気にダッシュしようと試みたのだ。その時だった。タイミング悪く一人の鬼と目が合ってしまった。鬼がもう一人の鬼の方を合図し翼に何やら指をさし耳元で何かをささやいている。翼は素早く前向きになると、途端にそこから
「気に駆け出した。後ろで聞き飽きるほど聞いたあれ≠ェ響き渡った。鬼達も翼の後ろを必死に追いかけて来た。翼と二人の鬼達は表通りの広い道路に出ようとしていた……。王国中の佐藤さん達を苦しめ続けてきたリアル鬼ごっこ最終日。そのラスト鬼ごっこもついに大詰めを迎えていた。今までに大切なものを全て犠牲にし、どうにか生き延び続けた佐藤翼。その彼にとってここからが最も辛く、苦しい戦いになっていくのだった。そして、最後の最後に何とも意外な結末が翼を待っていようとは。翼自身、今の段階では考えてもみなかった……。
町中が騒然となった。翼が右三車線、左三車線の大きな道路に出た途端、周りにいた一般市民の目が一気に翼へと集中した。次いでその目は後ろの鬼達へと向けられた。翼は歩道の上をひた走る。今日はクリスマスイブである。深夜でも多くの人が歩いているので、鬼達も市民を乱暴にかき分けながら、翼を必死に追いかけて来る。その光景に目を奪われていた。
苦しかった。翼の持久力も既に限界に達しようとしていた。激しい呼吸を繰り返しながら、それでも翼は必死に鬼から逃げ続けた。鬼も辛そうだ。しかし更なる追い打ちが翼の心臓を圧迫させた。反対の歩道から不意に警戒発信が発せられた。
翼はそれに反応すると表情をビクビクと震わせ、
「殺される……嫌だ……死にたくない」
翼の精神状態はやはり、狂ったままだった。
裏返った声でそう叫ぶと翼は死に物狂いに走り続けた。一般市民はそんな翼を哀れんだ表情で見つめている。後ろからは三人の鬼達が襲ってくる。一度後ろを振り向く翼の耳には町から流れるクリスマスソングが聞こえて来る。空からはふわふわと雪が降ってきた。そうか……今日はクリスマスか……忘れてたよ……そんな日があった事なんて……それに……今の俺には関係ないし……。
クリスマスソングが聞こえる中、翼は走って走って走り続けた。捕まる。殺される。何度も心で唱えていた翼には先の一点しか見えていなかった。周りのカップル達など一切目に入っておらず、今は嫌みにも聞こえるクリスマスソングと、周りから聞こえる悪魔の声。決して周りは翼の事を悪く言っていない。しかし、今の翼には幻聴が聞こえており、幸せそうに歩くカップルが憎くて憎くてたまらなかった。翼はそんなカップル達の仲を裂くようにして突進していった。肩にぶつかり倒れる女性も多かった。しかし、そんな事には当然、気に留めない翼は、
「はあーはあーはあ!」
苦しそうに呼吸を繰り返すだけで、息を吐いては白い煙が舞っては消える。限界をゆうに超えていた翼の耳には全く音が聞こえなくなっていた。クリスマスソングも、周りの声も。鬼の激しい足音も。
そして、心臓の鼓動さえも。そう、何も聞こえなくなっていた。翼はまるで別世界に立たされている様だった。何もかもが分からなくなっていた……。
そして、残り十分を切った。翼は捕まってはいない。しかし、全てはボロボロに壊れ果てた。目も。
耳も。鼻も。口も。手も。足も。そして、脳も。今、翼は何も考えてはいない。
翼を動かしているのは死への恐怖≠スだそれだけだ。それ以外は何もない。勝手に反応していた翼の足は先程とは違う裏の静かな道路へと迷い込む。そして、暗闇の中へと消えて行った。
これがリアル鬼ごっこ最後の最後であった……。
いまだに三人の鬼達が追いかけて来る。しかし、その鬼達もヘロヘロだ。翼も死にそうな程に苦しかったのだが、このままうまくいけば翼が生き延びられる可能性も十分あり得る。しかし、そううまくはいかなかった……。
翼が何も考えずに左へ曲がったと同時に一人の鬼が瞳の奥に飛び込んだ。慌てて翼は足を止めると再び一直線に走り続けた。しばらく走ったその直後だった。今度は前方から一人の鬼がやって来る。翼はすぐ右に体を向けた。最悪だった。右の方にも鬼が一人追いかけて来るではないか。
「ああ……ああああ……」
すぐさま体を戻し、目の前に左へと曲がれる道がある。そこまで猛然とダッシュした。今は前方に一人、すぐ後方には五人の鬼達が。残り時間はまだ八分少々残されている。翼の持久力も限界。両手も下にダランと垂れており、走り方もおぼつかない。絶体絶命の大ピンチ。それでもやはり翼の足は速かったのであろうか、鬼はなかなか、翼を捕まえる事は出来なかった。
曲がり角にさしかかると、すぐさま翼は左へと曲がった。まだ七分は残っている。時計を確認した訳ではないのだが、恐らくそれくらいであろう。
そのまま一直線に走る翼、後ろには六人の鬼達が、そして、今度は十字路でまたもや、しかも両方の曲がり角に一人ずつ鬼が立っている。そして、追って来る。翼の目にはその一つ一つの映像がスローモーションとなって映っていた。翼は愕然とそのまま前方に走り続けた。残り六分……。
もう、明らかに鬼達は迫っていた。翼には全くのスピードが感じられない。徐々に徐々に鬼との距離も狭まっていく。鬼ごっこの終了まで時間は十分残っている。残り五分間。
フラフラになりながらも、それでも翼の足は走り続けていた。もう、駄目だ! とか。いや、諦めるな! とか、自分をも左右できなくなった翼の足はそれでも勝手に走り続けていた。しかし、このままでは捕まるのも時間の問題。七日間の苦労が、そして、輝彦、洋、愛のそれぞれの死が無駄になってしまう。かといって、今の翼に何らかの秘策がある訳でもないし、持久力はゼロ。まさに万事休す。
しかも更なる追い打ちが翼を襲う……今、走っている前方からも、一人の鬼がやって来た。すぐさま警戒発信が鳴らされる。それでも翼の足は止まらなかった。タイミングよく右の曲がり角にさしかかるとすぐに翼は体の向きを変えた。走った。走った。死ぬまで走り続けた。
リアル鬼ごっこの最後の最後。残り時間も五分を切ろうとしていた。後ろには過去最高である九人の鬼達が一人の佐藤を追いかけてやって来る。翼の何処かにあともう少し≠ニ浮かんだその時だった……リアル鬼ごっこ残り四分……佐藤翼の人生が今、幕を閉じようとしていた……。
愕然となった。一直線に走り続けていた翼の目には一つの大きな壁が映ったのだ。その瞬間、全てが崩れ去った。最悪の光景だった。これ以上前には進めないのだ。そう。
行き止まり≠セったのだ。時間はまだまだ残されている。終わった。何もかもが静かに終わろうとしていた。呆気ない人生だった。何もかもが……。
アッという間に壁へと勢い良くブチ当たった翼は手のひらを壁に張り付かせ、上を見上げた。とても登り切れる高さではない。途端にクルッと全身を振り向かせると九人の鬼達が、手こずらせやがって、と言わんばかりにゆっくりと静かに翼の目の前へと歩いて来る。一歩、二歩と、ゆっくりゆっくり……翼はその光景に壁を背中に張り付かせズルズルっと地面に落ちた。鬼は容赦なく歩いて来る。これだけの数だと威圧感も相当なものだった。そして、翼は覚悟を決めた。目をギュッと瞑ると、唇を力一杯噛み締めて、拳も握った。自分の人生、最後の覚悟を決めたのだ。静かな足音だけが聞こえて来る。そして……。
とうとうこの時がやって来た。九人の足跡がピタリと止まった。翼の前に九人の鬼達が立ちはだかり、これから翼を捕まえようとしている。そう認識した翼は更に目をギュッと瞑った。
翼の覚悟は決まっていた。しかし、数秒経っても何の変化も感じられない。更に数秒間、翼は覚悟を決めたままだった。しかし、同じく、鬼達は翼の体すら触れようとはせず、捕まえようともしない。
何かがおかしい……と気づいた翼は地面に落ちたまま恐る恐る、目を開いた……。そして、開いた瞬間、翼はハッと驚いた。そこには目の前に九人の鬼達が翼を囲むようにして全ての鬼が地面に落ちた翼をゴーグル越しに見据えている。何が……何が起こったというのか? 時間はまだまだ残されているのに、どうして?
翼と九人の鬼達は数秒間の間、見つめ合っていた。
翼の全身はガクガクと震えており、もの凄い緊張感が張りつめる。翼の頭はパニックになっていた。
たまらず
「う、う……」思わず言葉が洩れていた。そして、その直後だった。一番先頭の鬼が探知機ゴーグル≠目から外し、それを地面に軽く落としたのだ。その不可解な行動に、
「え?……」
再び翼は言葉を洩らしていた。そして、それから数分後、終了の合図が王国中に響き渡った。
十二月二十四日、日曜日リアル鬼ごっこ¢S日程終了……。
[#改ページ]
閉会式での願い事
七日目最後の合図が王国中に鳴り響いてから、十五分程が経過していた。佐藤翼はいまだに背中を壁に張り付かせ、放心状態のまま地面にグッタリ落ちていた。翼は身をガタガタと震わせながら心の中で言っていた。何が……何が起こったというのか? あの時、鬼達との間に何が起こったというのだろうか? それにどうして俺は今この場にこうしていられるんだ? どうして俺は生き延びているんだ? 分からない……どうして? 翼は頭が真っ白に混乱していて、思考回路も働かず、何が何だか今の段階ではさっぱり理解が出来ていなかった。茫然としてピクリとも動かなかった。
翼の目の前に九人もいた鬼達がすっかり姿を消している。先程の緊迫した雰囲気とは全く違って物静かな雰囲気が辺りには漂っていた。そして、翼の呼吸が完全に落ち着くと、一つだけ理解する事が出来た。それは、七日間続いたリアル鬼ごっこがようやく全日程を終えた事。明日からは何もかもが以前の王国に戻るのだ(平和は取り戻せないにしろ)。そう頭では分かっているものの、いまだに実感がわかなかった。そして、過酷な七日間を逃げ抜いた自分が居る。
あの時♂スがあったにせよ自分は生き残ったのだ。何もかも失い自分は生き延びている。そして、全てが終わった。これで、リアル鬼ごっこも静かに幕を閉じた。何だか終わりは呆気なかった。
更に数分後、ようやく翼は立ち上がると彷徨うかの如くに自宅へ帰ろうと足が勝手に判断していた。
既に頭が空っぽだった翼は自宅までの記憶を全く覚えていなかった。ただ、自分が奇跡的に生き延びている事実だけが存在していた。そして、数十分後……。
ハッと気づけば翼は自宅前にポツリと立っている。
ボ! っと家の周りに目を注いでいた。明日からは普段の生活が送れる。朝起きて、大学に行って、そして、思い切り走る事が出来るのだ。それなのに、それにもかかわらず、翼は何も喜びを感じていなかった。翼は愛と一緒にこれから生活する事を思い描いていた。しかし、現実はまるで違った。思い描いていたものとは正反対だったからだ。翼は思った。生きていく糧を失い、これから先、自分は何の為に生きていくんだろう……と、切なくそう感じていた。
俯きながら重い足取りで一歩二歩と玄関前までたどり着いた翼は改めてカギを開け、そーっと静かにドアを開いた。部屋の中は翼の心と同じ冷たい風が吹く。軽く息をつくと、もうこれから使う事はないだろう運動シューズを翼は思い残す事のないかの様に脱ぎ捨てた。そして、翼は居間のドアを静かに開けた。やはり、明かりをつけずというより、つけたくなかった翼は居間の真ん中にボーっと立ち尽くした。翼の中で再び全てが終わったと大きなため息と共にそれを感じた途端、翼は全身の力が一気に抜けて、ガクッと膝が倒れた。そして、再び大きく息を吐くと翼は深く俯いた。
しばらくすると、翼は再び顔を上げ、放心状態のまま瞬きもせずに一点先をボーっと見つめていた。
そうしているうちに今まで体験してきたリアル鬼ごっこが鮮明に翼の脳裏へと蘇って来た。それは初日から最終日にいたるまで、翼の脳裏に全て蘇ってきたのだ。並々ならぬ過酷な体験は一言では言い表す事は出来ない。ましてや数分間で全てを思い出す事は全く不可能だった。翼は思い出す。初日、二日目と過酷さを増していった鬼ごっこ、三日目で親友との奇跡の再会、そして、四日目での親友の死。
五日目でとうとう愛に再会し、そして、六日目に……。その映像は一つも欠ける事はなく、一時間、二時間と翼は何度も何度も繰り返し繰り返し思い出していた。一睡もする事なくそれでも繰り返し思い出しているうちに時間は流れて行き、気づけば朝を迎えていた。少しずつ朝日が昇り眩しい光が窓に差し込むと翼の顔に直撃した。そこでプツリと映像が途絶え、翼はうつろな表情で窓から差し込む太陽に目を注いだ。綺麗だった。新鮮だった。今の王国が荒れ果てているのに、太陽は汚れなき光を放っている。それを見ているうちに翼も嫌な事を少しは忘れる事が出来そうだった。しばらく翼は眩しい太陽を見つめたままだった。そして、王国は新しい朝を迎えた……。
一方、王国では全日程を終えたリアル鬼ごっこの集計結果が出ようとしていた。最終日に捕まっていった佐藤さん達の王国が管理している一人ひとりのデータは消されていき、それに六日間までに消されていった全データを付け加えた。昨日の夜にかけて行っていた集計結果は全て終了し、その結果はじいの耳へと伝わった。その驚くべき結果にじいは驚き、不安と焦りを感じていた。王様の反応が怖かったからだ。しかし、この結果は紛れもない事実。今更どうにかなるものでもないと、じいは一つ息を吐き、覚悟を決めると王様の待つ宮殿へと急いだ。
その頃、宮殿内は慌ただしかった。興奮して早朝から目を覚ましていた王様は落ち着かない素振りで行ったり来たりを繰り返し、じいの帰りを待ちわびていた。
「じいはまだか!」
王様は突然にそう叫ぶ。
一人の側近が背筋を正して、
「は、はい! もうじき到着するとの事ですが」
勢いこもった語調でそう答えた。
「おう! そうか!」
声を高く張ると再びウロチョロと動き出し、
「それにしても遅いのー」
と言いながら王様は胸をときめかせていた。結果を知らないにもかかわらず、既に王様はそう決めつけていた。逃げ切った者など誰一人いるもんか。そう、思うと内心ワクワクしていてそれが張り詰めていた。
「早く帰って来んかのー」
と視線を横に向けたとき、王様の目が光り輝いた。
「じい! ようやく帰って来たか!」
かん高い声が大きな部屋中に鳴り渡った。目をキラキラさせながら王様はじいの元へと急いで駆け寄った。
「じい! どうだった? 全ての結果が出たのであろう?」
興奮していた王様の口調が早まる。しかし、その問いかけに対してもじいは浮かない表情で俯いたままだった。王様もそれにいち早く気づいた。
「どうした? 何があったというのだ?」
「は、はい……」
目を王様にチラリと向けると再びじいは俯いてしまった。
「どうしたというのだ? 何でも申してみよ」
王が言うとじいは重たく頭を持ち上げ何とも言いにくそうな仕草で王様に話した。
「じ、実は……一人だけ……」
その瞬間、俯きっぱなしの王子は瞬時に顔をハッと上げた。
じいは語尾を引きずり最後のセリフを言おうとした時、王様が奪い取った。
「一人だけ……逃げ切った者がおると言うのか?」
声を潜めながら王様は言った。するとじいは深く俯き、
「は、はい……申し訳ございません。全データの中に一人の男だけが残りまして……」
「ひ、一人……」
王様は信じられない様な表情を浮かべると、
「名前は? 名前は何と申すのだ?」
じいに問うた。
「はい、佐藤……翼にございます。年は二十一歳の現在大学三年。データにはそう記されておりました」
王様は深く考えた様子で口を小さく開いた。
「そうか……一人か……一人残ってしまったか」
「も、申し訳ございません! あれほどの事を言っておきながら王様の期待に背いた形と……」
「じい!」
厳しい口調で王様が割って入ると、
「は、はい!」
言葉を震わせ背筋をピンと張った。一瞬にして緊張が張り詰める。じいの心臓はばくばくと音をたてていた。手に汗を握るじいに王様は表情穏やかに、
「よくやったではないか」
王様の何とも意外な反応に、
「へ? 今……何とおっしゃいました?」
口調がしどろもどろだった。王様はフッと笑って再び、
「よくやった。さすがはじいだ」
王様はじいを強調させた。続けた。
「まあ、一人だけというのが何とも惜しい結果になったがな」
「そ、それではお許し下さるのですか?」
必死な表情で王様に問うた。王様は優しく頷いた。
「ああ、許そうとしよう。それに、生き残った者は私と同い年。同じ姓の中にそれ程の男がいようとは……私も男だ。潔く認めよう」
何だか今までの王様と雰囲気がまるで違い気味悪かった。
「王様……ありがとうございます」
じいは深々と頭を下げた。内心ではこう思った。本当に言葉通りの事を思っているのであろうか? と。すると王様は両手を横一杯に大きく広げて、
「さあ、皆の者! これから閉会式を盛大に行う! 今回だけは特別に全ての報道陣を許可しよう。直ちに伝えるのだ! そして、全ての者は閉会式の準備に取りかかれ!」
厳しい口調で次々に命令を下す王様。まず、報道陣の出入りを許可するのは異例の事だった。それだけこの閉会式を盛大に行いたかった証拠。そして、王は側近に指さし、
「よし! 逃げ切った者を連れて参れ! 私が直々に願いを叶えてやろう」
言ったその直後であった。
王様はじいに振り向き、ニヤリと不気味な笑みを浮かばせた。そして何か≠目で合図した。この時、じいは全てを悟っていた。じいはやむを得ず頷くだけだった……。
場面は変わり……。
町中がどよめき騒然となっていた。結果がテレビや号外、町に据え付けられているハイビジョンテレビで放送されていたからだ。それぞれの市民がアナウンサーのその言葉に耳を疑った。
『昨夜、最後の鬼ごっこが終了し、集計結果が報告されました。その報告によりますと、七日間逃げ切った佐藤さんが奇跡的に一人だけ確認されています。名前は佐藤翼。佐藤翼。年齢二十一歳。現在大学三年生の学生という事です。尚、今回の計画で虐殺されていった佐藤さんの数は実に五百一万三千二百二十二人。繰り返します。五百一万三千二百二十二人の佐藤さん達が捕まっていき、虐殺されました』
アナウンサーは重い口調でそう言うと気を取り直し、再び口を開いた。
『そして、この後、宮殿郊外で閉会式を行うと報告が入っております。何処のチャンネルも閉会式の模様を放送するとの事です。それでは……』
そうである。裏を返せばこれだけの佐藤さん達が犠牲になっていった。あの有名人も、あのスポーツ選手も、そして、今までに翼が出会ってきた数々の佐藤達が……その全ての佐藤さん達がこの王国から姿を消したのだ。あまりに酷い結果に町中のどよめきはしばらく止むことはなかった……。
王国中が騒然とした渦に包まれる中、あれから虚しい時を過ごしていた翼は居間の小さな空間の中、ひっそりと息をしながら茫然と座っていた。テレビや新聞を見ていない翼は当然、王国がどれ程騒いでいるか、そして自分一人が生き残っている事も知らなかった。ただ意味のない時間を一人過ごしていたのだ。そして、しばらくしてからだった。家のドアがガチャッと開くとドカドカドカと慌ただしい足音が床に響いた。何事かと思い、翼はスーッと顔を上げ、視線を向けると三人の兵士達が勝手に上がり込み、翼の前に立ちはだかった。そんな光景にも表情一切変えない翼はじっと兵士達を見守っていた。すると一人の兵士が口を開いた。
「佐藤翼! 国王がお呼びだ! 来い!」
ハキハキとした口調で翼にそう命令すると翼は無気力に小さく頷いた。
「さあ、立て!」
違う兵士が翼の体を起き上がらすと、
「さあ、こっちだ!」
更にもう一人の兵士が翼に促す。翼は兵士に連れられるまま居間から出ると玄関前で靴に履き替え、一歩外に出た。そこには見たこともないような派手な車が一台止まっている。
「これに乗るんだ! さあ!」
兵士が後ろのドアを開けて翼に指示した。言われた通りに翼が車内に乗り込もうとした時、後ろで大きな叫び声が聞こえた。
『おーい! 翼! 羽異!』
それに反応した翼は一旦動作を止めて、後ろを振り向いた。
「み、みんな……」
翼が目にした先には大勢の部員達が走りながら手を振り、翼の元へと向かって来る。そして、部員達はアッという間に翼の前にたどり着いた。多少息を切らしながら大介が安心した笑みを浮かべ、
「つ、翼……さっき、ニュース見たよ。驚いた。まさか、その一人が翼だったなんて……」
大介は興奮していた。
そんな大介とは対照的に翼は冷静に、=人……そうか……」
大介は一瞬戸惑い。
「ま、まあ、とにかく、これかららしいな、閉会式」大介が聞くと翼は軽く頷いた。
「ああ……みたいだな……」
喋り方も無気力なままだった。大介はまたも戸惑い。
「そ、そうか……ま、まあ、とにかくだ! 明日からはまた走っていこう! な!」
大介は無理に明るさを装って気を紛らわした。しかし、翼の反応は虚しかった。
「ああ……そうだな」
翼が発したこの言葉を最後に一人の兵士が翼に言った。
「さあ、そろそろ時間だ! 早く乗れ!」
厳しい口調で翼を急かすと翼も軽く頷いた。
「つ、つばさ……」
大介が寂しげに言うと最後に翼は深く頷いた。そして、翼は再び車内へと乗り込んだ。その様子を部員達は黙って見つめていた。バタンとドアが閉められると三人の兵士達も車に乗り込み、エンジンが掛けられた。そして、車は動き出した。大介達は車を追いかけたが、すぐに足を止めた。翼と大介達の距離が遠ざかると、アッという間に車の姿は見えなくなった。車内にいた翼は一度も後ろを振り向くことはせず、胸元に手を当てると、俄然目が鋭くなった。こうして翼を乗せた車は閉会式が行われる宮殿郊外へと走って行った。華やかな景色。数百人の楽器演奏者。永遠と続く赤いじゅうたん。そのじゅうたんを歩き、階段を上っていくと豪華な壇上が。そこで王様が翼に何らかのセリフを述べるのであろう。これで何もかも準備は全て整った。とうとうリアル鬼ごっこ閉会式が行われようとしていたのだ。宮殿郊外に集まった報道陣やマスコミの数はゆうに二千を超えていた。カメラも数え切れない数である。式が始まっていない今もアナウンサーが何やら取材を行っている。その人だかりで会場はこったがえしていた。ざわめきが絶えなかった。今、この様子も全てのチャンネルで放送されている。閉会式の時と同じ、強制放送だ。誰もが今の様子を目にしているに違いない。そして、今か今かと誰もが待ちわびたその時、会場が一気に静まり返った。全ての市民が唾をゴクリと飲み、その光景に釘付けとなる緊張の=瞬だった。王様が壇上に姿を現したのだ。その途端、カメラのフラッシュが王様に襲いかかった。王様は眩しそうに目を細める。次いでじいが壇上に上がるとすぐにそれを制した。するとフラッシュが一瞬にして止んだ。再び静けさを取り戻すとアナウンサーがテレビカメラに向かって実況する。
『今、我が国王が壇上の上に姿を現しました。これからリアル鬼ごっこ閉会式が行われようとしています』
そう一般市民に状況を説明すると再びアナウンサーはテレビカメラの前から姿を消した。それからしばらく沈黙が続いた。
不気味な程に会場中が静まり返るとじいがマイクに向かって、こう告げた。
「これより、閉会式を行う」
言ってすぐさま、
「王国国歌斉唱」
じいが言うと一斉に演奏が始まった。この王国国家はこの王国が成立以来変わることなく今に受け継がれたものである。皆が口を揃えて斉唱し、アッという間に演奏は終了した。じいは一つ咳して、
「次に我が国王から一言」
言うと一歩下がった。交代する様に今度は王様が一歩前に出ると再び無数のフラッシュが。それが止んでから王様が口を開いた。
「皆の者、ご苦労である……」
それから王様は淡々と言葉を述べていくと後ろを振り返り、再びじいとバトンタッチした。そして、ここからが閉会式最大のイベントでもあった。
「それでは、これより、七日間逃げ切った者への褒美を与える儀式に移る」
じいはそう言うと兵士達に合図した。その瞬間、会場中が一気に静まった。いや王国中全てが静まっていた。緊張の一瞬だ。会場にいた全ての者が遙か遠くに目を向けた。そして、微かな人影が見えるのを皆が一斉に確認した。影が歩いてくる。徐々に徐々に。皆は息を吸うことさえ忘れてその光景に釘付けとなっていた。そして、とうとう影は現れた。両側を兵士達に固められた、一人の男が……。
そう、佐藤翼の姿がハッキリと画面に映り始めた。その瞬間、会場中でもの凄く大きなどよめきが起こった……。
数千人の人に囲まれる翼の足が赤いじゅうたんを踏んだ瞬間、一斉に華やかな演奏が奏でられた。そのボリュームといったら耳をふさいでもハッキリと聞こえてくるぐらいの盛大な演奏だった。翼はゆっくりゆっくり、一歩一歩噛み締めながら赤いじゅうたんの上を歩いて行った。壇上には王様が翼を見守っている。ゆっくりゆっくり歩く翼にこれまた無数のフラッシュがぱしゃばしゃと光を放つ。アナウンサーは興奮状態のままその様子をテレビの前の市民に伝えている。
『今! 今、七日間の鬼ごっこを逃げ切った唯一の青年。佐藤翼がゆっくりと赤いじゅうたんの上を歩いていきます! 壇上には国王が佐藤翼を見守っています! そして、徐々に階段へと近づいていきます!』
今の翼を何人の人達がテレビ越しに見守っているだろう、大介や久保田、監督達はどんな思いで翼の姿を見詰めているのであろう。それは計り知れない思いで一杯だったに違いない。そして、翼は今、どんな事を思い浮かべているのであろう。恐らくは今までの過酷な日々をもう一度繰り返しているのかも知れないが。
そして、盛大な演奏、無数のフラッシュ、そして、全国民が見守る中、翼はとうとう階段にさしかかった。上る前にいったん立ち止まり、息を大きく吸ってから翼は階段を一歩踏み締めた。それからもう一歩。更に一歩と、静かに王様の待つ壇上へと上がっていく。一瞬たりとも見逃せないこの光景に段々と市民の鼓動も激しく音をたてる。それは少しずつ早まっていく。そして。
翼は最後の一歩を思い切り溜めると力強く踏み込んだ。そして、壇上に上がった翼は大きく頭を上げて、王様と見つめ合った。この時、お互い何を考えていたのかは今の段階では知る由もなかった。
王様が演奏者達に合図すると一斉に演奏が止んだ。再び会場中が静まると王様が翼に向かって一歩二歩と歩いて行く。そして、翼の目の前に王様が立つと、
「おめでとう。君は素晴らしい」
王様は翼に握手を求めた。それに対し翼は深くお辞儀をして、丁寧に握手をした。その光景に再びフラッシュが飛び散った。数秒間見つめ合いながら握手を交わした、片や国の国王、片や普通の一般市民。この異様な光景に皆が複雑な思いで一杯となっていた。しばらくしてお互いの手と手が離れた。
王様は翼から一歩引いて、とうとうこの言葉を口にしたのだ。そう、誰もが待ち望んでいたこの言葉それは……。
「よし、それでは、約束事を叶えよう」
王様のその言葉で皆が一斉に息を呑んだ。続けた。
「さあ、一つだけ願い事をこの私に述べるがよい」
言うと全ての住民が翼の願い事に耳を澄ました。世紀の一瞬だ。しかし、あまりに話が大きすぎて戸惑っていたのか翼は俯いてしまった。王様が眉を持ち上げ
「うん? どうした? 何でも良いそ」言った。
「な、何でも……」
翼は俯きながらそう言葉を洩らした。
「そうだ。何でも私が叶えてやる。さあ、言ってみよ」翼は俯きながら頷くと顔を上げた。そして、静かに口を開いた。
「はい。でもその前に一つだけ、よろしいですか?」
王様の目を見つめながら翼は言った。王様は一つ問を開けて答えた。
「何だ? 言ってみよ」
翼は頷いた。そして言った。
「僕はこの鬼ごっこを通して、様々な佐藤≠ウん達に出会いました。明るい者、暗い者、強気な者、弱気な者。姓が同じ佐藤でも様々な佐藤がいるんだなって。そして、僕もそのうちの一人です。でも……」
皆は翼の話に聞き入った。
「でも……?」
王様が聞き返す。
「でも……その全ての佐藤さん達はいなくなった。そう、全ての人達が殺されていったんだ……」
「そ、そうさ、しかし、お前は逃げ切った」
翼は間髪入れずにそれを否定した。
「違います! 僕は逃げ切ってなんかいない。一人じゃ決して逃げ切れなかった、僕は色々なものを失って、僕だけが今生き残ってる。今僕にあるのはその一人ひとりの佐藤さんに対する罪悪感。これだけです……」
「しかし、もう、その者達は帰っては来ないのだぞ?」
「はい、そうです。だから……だから僕はその全ての人達≠フ願いを叶える事にしました……」
その時、その様子を陰で見守っていた王子はハッと顔を上げた。王様は間を大きく開けて、
「全ての願い? どういう事だ?」
「はい、僕の願いは……」
そこで言葉を切って翼は白いジャージのチャックを多少下に下ろした。何をするのかと皆がその行動に一つも目をそらさない。そして、翼は徐々に拳銃≠取り出したのだ。そして……。
「王様……死んで下さい」
翼は銃口を王様に突きつけた。まさかの光景にじいや全ての者の体が硬直した。王様も驚きのあまり言葉を洩らしていた。
「な、な、な、何を……」
王様は後ずさる。そして、翼は最後の言葉を王様に告げた。
「バイバイ……王様」
言って翼は一つの間も与える事なく王様の心臓に弾を撃ち込んだ。パンと乾いた音が一つ。もう一つ、パン、更に一つ、パン、計三発が王様の体を突き抜けた。その瞬間、心地よい風が通り過ぎた。そして、王様はドサッと倒れ込んだ。その光景に周りの人間はもちろん、テレビを見ている全国民が言葉を失った。大介も久保田も監督も口をポカリと開けていた。
その音のない光景に数秒間そのままだったじいはハッと気づいて
「お、お、王様!」
言葉を震わせながら王様に近寄った。
「王様!」
王様はじいの言葉に反応した。
「し、死にたくない。死にたくないよ」
それが王様の最後の言葉だった。王様の手からは力が抜け、ダランと下に垂れた。その様子に実の弟である王子は駆け寄る事もしなかった。ただ、哀れむような目でじっと見詰めていた。
「王様! 王様!」
必死に体を揺らしても王様はピクリとも動かず、既に死んでしまっていた。じいは翼に振り向き、
「こやつを撃て! 撃ち殺せ! 撃ち殺すのじゃ!」その合図と共に銃を持って隠れていた数人の兵士がさっそうと姿を現すと、
「う、撃て!」
その合図で一つの銃声が再び会場中に響き渡った。パン≠サの銃弾は翼の心臓を突き抜いた。その瞬間、翼の音声が全て途絶えた。微かに翼の表情が歪むと二発三発と銃弾が撃ち込まれていく。四発五発。翼は壇上で激しく踊った。最後の一発で翼は横に倒れていく。一瞬の出来事がそれはスローモーションの如く、全国民の瞳にはそう映っていた。ゆっくりゆっくりと倒れていくうちに輝彦の顔が。益美の顔が。洋の顔。愛の笑顔が。そして……。
あの時≠フ事が……。
あの時、九人の鬼に囲まれた翼。何が目的なのか鬼は翼に色々な質問をしてきたのだ。今までに体験してきたリアル鬼ごっこの事全てを。それに対し翼は今までにどの様な苦しみを味わってきたか全て話した。そして、それを聞いた一人の鬼から銃を受け取ったのだ。
「お前……どっちにしろ死ぬなら、これでヤツに仕返ししないか?」
「え? でも……」
翼は何故か鬼達を気遣った。
「構わない。俺達だってもう、耐えきれない。捕まえた人間が殺されていくのは……耐えきれないんだ」
鬼は続けた。
「だから、だからお前が国民代表となって、これでヤツを殺すんだ。全国民の怒りを苦しみをこれで……」
そう言って九人の鬼達は姿を消して行った。それで翼はあの時から決めていた。犠牲になった佐藤さん達の怒りをしょって立とうと……。
場面は変わる。
ゆっくりと沈んでいく翼は静かに横倒しの状態となった。いまだ意識は残っている。音声が途絶えた翼の目にはじいがなおも王様の横で口をパクパクとさせている。翼はごく小さな笑みを浮かべると静かに目を閉じた。浮かんで来た。生まれてから今までの思い出深い全ての映像が。思い起こすと早かった。あまりに早過ぎた。
そして、翼の映像がそこでプツリと途絶えた。
佐藤翼の波乱な人生もここで終わった……。
こうして閉会式は誰もが予測すらしていなかった事態に終わり、全ての幕がここで閉じた。そして、まさか自分が殺されるとは予想もしておらず、王様の計画は一人の佐藤≠フ為にもろくも失敗に終わっていった。そして、この話は人々の問とともに長く受け継がれていく。王国を救った佐藤翼という名前を。これは忘れ去られる事のない名前となった。
その後、実の弟である王子が国王に即位する。だが、皮肉なものであった。あれほど責任を感じていた人物が最後の最後に残っているのだから……。
その事自体に責任を感じていた王子は国の事を、そして、住民の事第一に考え、政治を行う。
その後、王国は以前の様な平和な国に戻っていった……。
こうして、人口約一億人、そのうちの五百万人以上が佐藤≠セったこの王国には、王子以外を除く佐藤姓は誰一人としていなくなった……。
[#地付き](おわり)
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著者プロフィール
山田悠介(やまだ・ゆうすけ)
昭和56年6月8日生まれ。
本作『リアル鬼ごっこ』がデビュー作となる。
リアル鬼《おに》ごっこ
2001年12月15日 初版第1刷発行
2002年9月13日 初版第5刷発行
著 者 山田 悠介
発行者 瓜谷 綱延
発行所 株式会社 文芸社
平成十九年一月三日 適当 ぴよこ