ブログ連載小説『ドアD』
山田悠介
プロローグ 2006年12月06日(水)
ボサボサに乱れた髪。薄汚れた素足。ゲッソリと窶れた顔。首には引っ掻き傷。
そして、うつろな瞳……。
絶望の淵に立たされた優奈に射した一筋の光が、心に温かく染み渡る。緊張から解放された瞬間、感情が溢れたわけではないのに、一滴の涙がこぼれた。
生暖かいその滴は大地に落ち、じわりと広がり蒸発する。
突風が吹き荒れると砂埃が舞い、目の前の景色が完全に閉ざされた……。
予測不能な、いや、到底理解できないこの状況に松浦優奈は絶句した。
突如現れたいくつもの影。幻覚ではない。地面に映し出された影はこちらへやってくる。五感の研ぎ澄まされた優奈は、微かに血の臭いを感じた。
「……どうなってんだ」
影の人物が怯えたような声を発した。まるで、化け物でも見ているかのように。
優奈も同じだった。あまりのことに声が出ない。指先が震え、呼吸が乱れる。ただそれぞれの顔を見ることしか……。
全身からスッと力が抜け、優奈は立っていられなくなり崩れ落ちた。 誰も駆け寄ってはこない。心配する声もない。優奈は、顔を上げられなかった。
一体どうなっているのか。
優奈は一から振り返る。
そう、始まりからすでにおかしかった。
あの夜は、凍えそうなほど冷たい風が吹いていた……。
2006年、12月6日。水曜日。
日付や曜日はもちろん、8人が集まった時刻、それにあの日の天気まで鮮明に憶えている。なのに、みんなと別れてからの記憶がない。まるで、時計の針が12月6日、午後10時でストップしてしまったかのようだ……。
テニスサークルの2年生だけで飲もうと言いだしたのは、いつもどおり城島豊だった。彼は大勢で飲むのが好きで、週に一度はサークルのメンバーに声をかけている。少し風邪気味だった優奈も、豊の強い押しに負け、飲み会に参加することに決めたのだった。
いつもの居酒屋に7時。そういう約束だったが、優奈はバイトの都合で30分遅れて店に着いた。
平日とはいえ店内は賑わっている。全国に展開している有名なチェーン店で、お酒や料理が他店よりも安いのを売りにしている。そのため、客層は大学生中心、いっても若手のサラリーマンばかりである。
7人がいる座敷に優奈が顔を見せたと同時に、豊から大声が上がる。
「はい、皆さん! 優奈ちゃんが到着しましたよ!」
優奈は全員から注目を浴び、大きな拍手で迎えられた。優奈は苦笑を浮かべ、
「いつもいつも大げさだって」
と言いながら、大学で一番仲の良い加納千佳の隣りに座った。
「バイト?」
千佳にそう聞かれ、優奈は顔をしかめる。
「時間過ぎてんのに帰してくれないんだもん。こっちは風邪気味だっていうのに」
「まだ風邪治らないの? 長くない?」
「薬は飲んでんだけどね。なかなかよくならないよ」
一週間前から咳が止まらない。今日は少し熱っぽい。これくらいならと放っておいたのだが、さすがに病院に行こうかと考えていた。だが、そんな時間はない。毎日授業で忙しいし、地元の岐阜を離れ東京に出てきているので、生活費を稼ぐためにバイトだってしなければならない。メンバーとのつき合いも大切だ。だから身体を休める暇がないのだ。
「それより千佳。小野君の隣りに行かなくていいわけ?」
そう言うと、千佳は頬を真っ赤にし、
「やだやだ何言ってんの」
と照れ隠しする。
「クリスマス誘った?」
そう言いながら二人とも一番奥に座る小野照之を一瞥する。
「誘って……ないけど」
「ダメじゃん! もっと積極的にいかないとさ」
千佳は指をモジモジさせながら、
「分かってるんだけど、なかなか言いだせなくて」
と弱気に答える。
「小野くんモテるんだから、早くしないと誰かに取られちゃうよ」
「わかってるって」
そうは言うが動きださない千佳の肩を優奈は押し出す。
「ほらほら! 隣り行って!」
「う、うん」
千佳は恥ずかしそうに小野の隣りに座り、遠慮がちに話しかける。その光景を見て、優奈は微笑む。
千佳は大学に入ってからずっと小野のことが好きなのだが、いまだ告白には至っていない。
髪には金のメッシュ。耳にはいくつものピアス。そして濃い化粧。見た目は派手で遊んでいそうな千佳だが、実はかなり奥手なのだ。
小野くんはテニスをやっている時が一番格好いい。
思いやりがあるし、正義感も強い。そんな彼が大好き。
千佳から毎日毎日聞かされる台詞だ。
小野がいないところでは自慢話ばかりするくせに、本人がいると縮こまってしまう。それが千佳のかわいい部分でもある。二人がつき合うことになれば最高なのだが、この調子だとかなり先のことになりそうだ……。
テーブルに置いてあるおしぼりで手を拭いていると、向かいに座っている山岡友一がメニューを差し出してくれた。
「何飲む?」
優奈は適当にメニューを見て、
「ちょっと風邪っぽいから、ウーロン茶にする」
と答える。友一は、
「OK」
と返し、店員に注文してくれた。
「ありがとう」
礼を言うと友一は笑みを浮かべて軽く手を上げる。
「それより、風邪大丈夫? 確かにちょっと顔色悪いけど」
「ほんの少し怠いけど、全然平気」
「そう。ならよかった。でもあまり無理するなよ。テニスの練習は控えたほうがいいよ」
「うん。ありがと」
そこで会話がとぎれると、
「俺、トイレ行ってくるわ」
と友一は立ち上がった。
優奈は彼の後ろ姿を見ながら、友一は大人だなと思う。落ち着いているし、気遣いが上手だし、誰にでも優しいし。さわやかなのも好感を抱く理由の一つだ。背が高くて、髪はサラサラで、テニスが一番うまくて、女性に好かれそうなアイドル系の顔。父親が医者だと知って、妙に納得した時のことを今でも憶えている。
容姿、ステータスともに言うことのない彼に、いまだに彼女がいないのがおかしいくらいだ。サークルの後輩数人から告白されているらしいが、全部断っているそうだ。きっと、好きな人がいるに違いない。それか、相当な面食いか。そうだとしたら、査定は少し落ちるが……。
「みなさん飲んでますか!」
ずっと立ちっぱなしの豊がビールの入ったジョッキを天井にかかげ、大声を上げた。
いつの間に脱いだのか、上半身裸になっている。それを見て大笑いする千佳や小野を横目に、優奈は呆れてしまった。仲間だと思われるのが恥ずかしい。ただただ溜息しか出てこなかった。友一とは大違いだ。この男がテニスサークルにいること自体が疑問だ。単に騒がしいばかりの猿男ではないか。恐らく、ただモテたいがために入ったのだろう。
優奈以上に恥ずかしがっているのは、豊のすぐ傍に座っているメガネ少女、野々村美紀だ。彼女の場合、優奈とは違って、豊が上半身裸でいるのが恥ずかしいらしい。顔を赤らめ、俯いてしまっている。その反応を面白がって、豊はしつこく迫っていく。美紀は、
「やめてよ」
と言って手で顔を覆い隠す。美紀が嫌がれば嫌がるほど豊は興奮する。皆が笑っているから余計調子に乗るのだ。エスカレートする冗談に、注意を促したのは男性店員だった。
「すみません。他のお客様がいらっしゃいますので」
豊は気まずそうに服を着る。優奈は、
「バカ」
と呟いた。美紀は心底ホッとしているようだ。今まで男性とつき合ったことのないであろう彼女にとっては、やはり過激すぎたのだ。
それにしても美紀の存在も不思議である。大人しくて運動神経の鈍い彼女がどうしてテニスを選んだのか。経験者ならともかく、テニスをやるのは初めてだったそうだ。もう少し自分に合ったサークルがあったと思うのだが……。
「おいおい!」
美紀に気をとられていた優奈は、牧田竜彦の強い口調に反応した。一瞬にして、場が静まり返る。彼は、男性店員を鋭く睨みつけている。注意されたのが面白くなかったのだろう。
竜彦は立ち上がり、店員に歩み寄る。そして、ちんぴら口調で店員に文句を言い始めた。
「こっちは楽しんでるんだからいいだろうが!」
竜彦の剣幕に、店員は気圧されてしまったようだ。困り果てた様子で、
「すみません」
と頭を下げる。
「マジで調子のってんじゃねえぞコラ」
よほど不愉快だったのか、竜彦は本気で怒っている。
険悪な空気に店内は凍りついた。さすがの優奈も、怖くて止めに入ることができなかった。
その2 2006年12月07日(木)
その場を抑えたのは、メンバーのリーダー的存在である清田翔太であった。翔太は竜彦の肩にそっと手を置いた。
「ほら竜彦やめろ。落ち着けって。迷惑じゃねえか」
「でもコイツがよ!」
「騒いだこっちが悪いんだ。みんな引いてるぞ」
その言葉に竜彦は辺りを見渡し、空気を感じ取ったのか、ようやく静かになった。
「すみませんね、店員さん」
翔太が謝罪すると店員は、
「……いえ」
と少ししょげた様子で下がっていった。
騒動がおさまり、千佳と美紀は安堵の息を吐いた。優奈は、竜彦に冷たい視線を送り続ける。
彼の悪い癖だ。つまらないことですぐにキレる。サークルのメンバーともめるのはしょっちゅうだ。
短気で、愛想がなくて、自己中心的で、空気を読めない竜彦が、優奈はどうしても好きになれなかった。できることならサークルから抜けてほしいのだが、さすがに口に出しては言えない。そんなことを言ったら何をされるか……。
せっかく盛り上がっていた飲み会が、竜彦のせいで台無しになってしまった。
タイミングが良いのか悪いのか、何も知らない友一が、トイレから戻ってきた。雰囲気がガラリと変わっているのは一目瞭然だった。友一は怪訝な表情を浮かべ、
「どうしたの? みんな」
と声をかける。優奈はウーロン茶に口をつけ、友一と目を合わせないようにする。
「優奈ちゃん?」
名を呼ばれ、優奈は、
「さ、さあ……」
と首を傾げる。
気まずい空気を誤魔化すように、豊は友一の首に腕を巻き、
「いやいや何でもないんだよ。気にするなって」
と言い聞かせ、強引に座らせた。そして、
「さあみんな! 飲もう飲もう!」
とジョッキをかかげ、無理に場を盛り上げようとする。妙にソワソワしているところを見ると、豊は自分にも責任があると痛感しているに違いなかった。
しかしその後は、さすがに気持ちよく飲むことはできず、微妙な雰囲気のまま9時40分に飲み会は終了。その10分後には全員、店の外に出ていた。
12月の夜は非常に寒く、優奈たちは身体を揺らしながら、寒空の下、意味もなく輪を作っていた。
「どうする? この後どこか行く? それとも帰る?」
翔太が7人に尋ねる。優奈と千佳は顔を見合わせる。
「俺は……どっちでもいいよ」
最初に答えたのは小野だった。それを聞き、千佳が続く。
「私も、みんなに合わせる」
「じゃあ、カラオケでも行っちゃう? 俺バンバン唄っちゃうよ!」
必死にテンションを上げようとする豊だが、あんなことがあったのだ。彼に合わせる者は誰一人としていない。
「美紀ちゃんは?」
美紀は翔太の質問にハッキリと答えず、メガネの位置を直すばかりだ。その仕草に翔太は坊主頭をボリボリと掻き、困った様子を見せる。
「おい竜彦。どうする」
「別に」
そのふてくされた態度にますます不快を感じた優奈は、
「私は、今から遊んだら電車がなくなっちゃうから帰るわ」
と翔太に言った。
「そっか。分かった。他はどうする?」
友一も、優奈と同じ意見を述べた。
「電車なくなっちゃったらマズいしな。俺も、帰るよ」
「じゃあ、俺も」
と小野が手を上げる。
「私も」
と千佳。
「4人もいなくなったらつまらないし、今日は解散するか」
「なんだよ。つまらないの」
豊一人が不満そうだったが、8人は駅に向かって歩き始めた。ゆっくりと歩いていたせいか、3分以内で着くはずが5分以上かかってしまった。その間、会話を交わしていたのは優奈と千佳と翔太だけ。あとの5人はずっと黙りこくっていた。
駅に着くと、優奈は千佳に軽く手を上げる。
「じゃあね千佳。また明日」
「うん。バイバイ」
「みんなも、また明日ね」
優奈は別路線の仲間に手を振り、美紀、豊と一緒に自分たちが乗る線のほうに歩き始めた。
「ちょっと待って、優奈ちゃん!」
その声に振り向くと、そこには友一が立っていた。走ってきたのか、息が乱れている。
「どうしたの?」
聞いても、友一は答えない。何か迷っているようだが、優奈には見当もつかない。
「山岡くん?」
再び声をかけると友一はハッとして、作り笑いを見せた。いつもの友一らしくない。妙に様子がおかしいが、どうしたというのだろう?
「いや、何でもない。気をつけて帰って」
訳が分からず、優奈は首を傾げた。何でもないはずはないのだが……。
「う、うん。ありがとう」
妙な気分のまま、優奈は終電を気にしながら、再び歩きだした。しばらくは背中に友一の視線を感じていたが、優奈は振り向くこともなく歩き続けた……。
その3 2006年12月08日(金)
一方、優奈の後ろ姿を見つめていた友一は、不甲斐ない自分に情けなさを感じていた。
せっかく二人きりになれたのに、どうして肝心な台詞が出てこなかったのか。好きだという気持ちは溢れているのに。
たかだか、今月の24日か25日のどちらか空いてないか聞くだけではないか。それがどうしてできないのだ……。
優奈は改札を抜けて、ホームへ行ってしまう。彼女の姿が視界から消え去り、友一は深い溜息をついた。
「何やってんだ、俺」
昔からそうだ。男のくせに、好きな人を目の前にすると緊張してしまう。自然に接することばかり考えているうちに、他のことに頭が回らなくなり、パニックに陥り、逃げだしてしまう。
居酒屋のあの時だって、トイレに行きたかったわけではない。気持ちを落ち着かせるために逃げ込んだのだ。
彼女はまだ近くにいる。もう一度追いかけろ。
そうしたいのだが、足がいうことをきいてくれない。目の前に、大きな壁が立ちはだかっている。イメージばかりが先行して、行動に移すことができない。
「……帰るか」
結局、壁を乗り越えることはできず、友一は踵を返し、数分前に走った道を今度はトボトボと歩き始めた。
優奈に特別な想いを抱くようになって早一年半。初めて会ったのは構内ではなく、サークルでだった。最初のうちは特別な想いもなかったのだが、日々、接していくうちに、目が奪われるようになっていった。気づけば、瞳には彼女しか映っていなかった。
今までつき合ってきた女性は全て共通している。みんな美紀のような、おっとりとしていて大人しい子ばかりだ。優奈のように明るく、サバサバとしていて、格好も今時のギャル風の女性を好きになるのは初めてだ。だから余計、誘いづらいのかもしれない。
だが、このまま片思いで終わらせるつもりはない。
友一は心に誓う。明日は必ず、クリスマスの予定を聞く。絶対にだ……。
二人になった時を想像するだけで胸が苦しくなる。このモヤモヤを言葉に出してスッキリとしたい。次はあと何時間で彼女に会えるか。たかが十時間程度か。それがもの凄く長く感じられる。
その時、友一は明日が来ることを疑いもしなかった。
「おい友一! 早くしろよ」
帰りの線が同じである翔太に急かされ、友一は小走りで彼の元へ向かう。その刹那、友一はふと立ち止まる。そして両手を広げ、空を見上げる。
「……雨」
そこからは何も、憶えていない……。
第一の扉
目が覚めた優奈は、まず寒さを感じた。
次に襲ってきた違和感。
アパートのベッドで寝ているはずなのにここは違う。
寒さに身を縮めながら床を見る。
どうして私はコンクリートの上で寝ているのだろうか。
ここは……。
辺りを見渡した優奈の目に、あちらこちらに眠っているサークルのメンバーの姿が飛び込んできた。
合宿なんかしたっけ?
状況が把握できず、茫然自失となってしまった。
夢……?
そうでなければおかしいこの風景。
だが違う。こんなハッキリしているはずはない。これは現実だ。
コンクリートで作られた正方形の部屋。広さは十帖ほどか。どこにも窓がないため、朝なのか夜なのか全く分からない。
部屋の端っこには照明のスイッチだろうか? 赤いボタンが設置されている。その横には、拳がすっぽりと入るくらいの穴。その正反対の壁には鉄の扉。ただそれだけ。
優奈は改めて七人の姿を確認する。
私たちはどうしてこんな場所にいるのか?
いくら記憶を辿っても思い出せない。
飲み会の後、駅で別れた時の記憶が最後だ。服はその時のままだった。
髪型も一緒だ。みんなもそうだ。それなのに、あの飲み会が遠い昔のようにも思える。しかし、駅で別れたあとの映像は出てこない。記憶をスッポリ抜き取られたようなそんな感じ。
不思議なのは、〈あの日〉は風邪気味で調子が悪かったのに、今は完全に回復していることだ。
一体ここはどこ? 私たちはどうやってこの場所にやってきたの?
ダメだ。出てこない。
まさか、拉致されたとか? 事件に巻き込まれた……?
拉致という言葉が浮かんだ瞬間、優奈の身体に恐怖がこみ上げる。一人で考えているのが不安で、隣りにいる千佳を起こす。
「千佳……ねえ千佳、起きて」
肩を強く揺すると、千佳は眠たそうに起きあがった。
「優奈? あれ? 何で? みんなも……」
はじめのうちボーッとしていた彼女も、辺りを見渡し完全に目が覚めたようだ。
「ここ、どこ?」
怯えた声を洩らし、怪訝な表情で聞いてくる。優奈は大きく首を振り、か細い声で答える。
「分からない。目が覚めたらここに……」
「どういうこと?」
千佳はそう呟いて黙り込んだ。みんなと別れた後のことを必死に思い出そうとしているのだろう。だが、結果は優奈と同じである。
「私も分からないの。何でここにいるのか。とにかく、みんなを起こさないと」
そう言っても、混乱が収まらないのか、千佳は微動だにしない。
その4 2006年12月11日(月)
優奈は冷静になれ、と自分に言い聞かせ、友一、翔太、美紀、照之、豊、そして竜彦の順番で声をかけていった。一人、また一人と目を覚まし、コンクリートの部屋の中をぐるりと見渡す。不可解なこの状況に、皆、声が出ない。
ふと、友一と目が合った。彼は怪訝な表情を見せ、改めて部屋を確認し始めた。
次第に、優奈以外の七人のざわつきは大きくなっていく。最初に立ち上がったのは豊だった。
「おいおい、何だよここ!」
文句を吐きながら、鉄の扉のほうに足を進める。そして、銀色のドアノブに手を伸ばし、勢いよく引く。が、扉は開かない。押しても同じである。
「ふざけんなよ!」
苛立ちが募り、豊は扉を蹴りだした。それを見ていた翔太が言った。
「誰かに……閉じこめられた」
その言葉で豊は動作を止め、こちらを振り返る。部屋中が、しんと静まり返った。
「バカ言ってんじゃねえよ!」
地面を強く叩き、立ち上がったのは竜彦だ。翔太の考えに納得がいかないのか、扉に猛然と駆け寄り、足で思いきり蹴り上げる。バンという大きな音が部屋に響くが、それくらいでは扉はビクともしない。今度は、拳を何度も叩きつける。
「おい! 誰か出てこい! ここ開けろよ! 開けろ!」
喚き散らすが、人がやってくる気配はない。しばらくすると竜彦は、大きく息を吐いてその場に座り込んでしまった。
「何なんだよ、ここは!」
「助けを呼ぼう」
そう提案したのは友一で、すぐに携帯を取り出した。が、一瞬にして表情が曇る。
「どうしたの?」
優奈が尋ねると、友一は液晶画面を見せてきた。
「ダメだ。電源が切れてる」
「え?」
優奈もポケットを探る。が、携帯がない。
「……カバンの中」
しかし、肝心のカバンはどこにも見当たらなかった。
「俺のも電源が入らねえよ」
と豊。
「俺のもだよ!」
光が灯らない携帯を、竜彦は床に投げつけた。
「携帯が使えなきゃ、助けは呼べない……」
友一はそう洩らして肩を落とした。
「なあ俺たち、どうしてこんな所にいるんだよ」
照之が疑問を口にした。
「みんなもそうなの? 憶えてない?」
「確か」
まだ冷静さを失っていない友一が口を開く。
「飲み会で別れて……なぜかその先が思い出せない」
「美紀ちゃんは……どう?」
美紀に問いかけても無駄だった。恐怖と不安で身体がガクガクと震えている。消え入りそうな声で、神様、神様と唱えている。
「ほんの少しでもいい。みんな何か憶えてないの?」
「みんなみんなって、お前はどうなんだよ。思い出せよ」
嫌いな人物に命令され、優奈はキッと睨みつける。が、すぐに怒りをおさえる。
「私も憶えてない。全く」
しばらくの沈黙。
「私たち、どうなっちゃうの?」
不安ばかり口にする千佳に、竜彦は乱暴な口調で言い放つ。
「知るかよ!」
すかさず優奈は割って入る。
「そういう言い方ないでしょ!」
「何だと?」
怒りに満ちた目。興奮する優奈は引かず、睨み返す。狭い部屋に、険悪な空気が流れる。止めに入ったのは翔太だ。
「いい加減にしろ。仲間割れしたって仕方ないだろ」
そのとおりだ。優奈は深呼吸し、竜彦から視線をそらす。竜彦はこちらに聞こえるくらいの大きな舌打ちを鳴らす。
「とにかくよ、ここから出ることを考えようぜ」
そう、一刻も早くここから出たいと思っているのはみんな同じなのだ。
「でも、どうやって出るんだよ。扉には鍵がかかってるんだぜ」
豊の言うように、鍵を開けない限り出られない。他に脱出場所があればよいのだが、天井にも壁にも窓はないし、スイッチの横にある穴からはとても抜けられない。
「どこかに鍵があるんじゃないのか?」
照之のその言葉に希望の光が灯る。が、それを打ち消したのは友一だった。
「鍵はない」
断定したような口調だった。竜彦は友一に歩み寄り突っかかっていった。
「おい。どうしてそんなことが分かるんだよ。え?」
友一は残念そうに、扉を指さす。
「どこにも、鍵穴がないじゃないか。向こう側から鍵がかかってるんだよ」
全員の視線が、扉のノブに向けられる。確かに鍵穴はどこにも見当たらなかった。
「じゃあ、どうしたら出られるの?」
千佳の質問に、答えられる者はいなかった。
「助けが来るのを待つしかない……そういうことかよ」
翔太の言うように、ひたすら待つしかないのか?
「でも、ずっと誰も来なかったら……」
優奈はつい、絶望的なことを口にしてしまった。その途端、震えていた美紀が崩れ落ちる。
「美紀!」
優奈と千佳が駆け寄り、美紀の上半身を起こす。彼女はもう、失神寸前にまで追い込まれている。
「大丈夫……大丈夫だから」
自分にもそう言い聞かせる。絶対にここから出られる。
「落ち着いて脱出方法を考えよう」
友一が七人をまとめる。優奈は強く頷き、まずは一つ深呼吸した。
「おい山岡」
せっかく全員の気持ちが一つになろうとしているのに、竜彦がまた水をさす。
「そんなこと言ってるけどよ、本当に出られる方法なんてあんのかよ。お前が言ったんだぜ? 鍵はどこにもないって」
「だから今から考えるんじゃないか」
その答えに納得のいかない竜彦は不満を爆発させた。
「そもそもおかしいじゃねえか。気づいたらこんな所にいて、全員の記憶がねえだ? 本当は何か知ってる奴がいるんじゃねえのかよ!」
和を乱す竜彦に対して、ついに翔太が怒声を放った。
「いい加減にしろ! そんなわけないだろ。お前が何も憶えていないように、みんなだって憶えてないんだ。混乱してるんだよ。なのにみんなを疑ってどうすんだよ。そんな下らねえことを言う前に、脱出する方法を考えろ!」
こっぴどく叱られた竜彦は、ブツブツと何事かを繰り返している。こんな奴は無視するに限ると、優奈も脱出方法に頭を働かせる。
すると、扉近くにいる豊が、右手を正面に上げて何かを指さした。
その5 2006年12月12日(火)
照明のスイッチだと思い込んでいたため、そこには注意を向けていなかった。
「押して……みるか」
恐る恐る翔太が近づく。その彼にしても、押したら余計、悪い展開が待っているのではないかと思っているに違いない。
スイッチを押すことによって、仮に爆発でもしたら……。
優奈は咄嗟に止めに入る。
「待って! 本当に押して大丈夫?」
隣りにいる千佳が囁く。
「どういうこと?」
「押しちゃいけないボタンっていう可能性もあるよね」
「……確かに」
と豊。その時反対の意見を述べたのは竜彦だった。
「押しちまえよ。別にどうってことねえだろ」
すぐに千佳が反論した。
「でも優奈の言うとおり、慎重に行動したほうがいいんじゃない。罠かもしれないし……」
「憶病者は黙ってろ!」
今になって気がついた。竜彦は自分よりも強い者には逆らえず、弱い者だけを攻撃するらしい。どちらにせよ最低の男だ。
全員の視線が赤いスイッチに集まった。空白の時間が長く続く。決断したのは翔太だった。
「押してみよう」
そう言って、翔太は他のメンバーの意見を聞かずにすたすたと歩を進める。その判断に賛成はできないが、優奈が止める間もなく、翔太は赤いスイッチを押してしまった。すると、扉のほうから小さな音が聞こえた。全員はそれぞれに顔を見合わせ、鍵が開いたと確信した。しかし、再び〈カチ〉と音がする。
豊は扉に駆け寄り、ドアノブを押している。
期待は裏切られた。扉はビクともしない。
「ダメだ。開いたと思ったんだけどな」
「どういうことだろう?」
友一は腕を組み、再び考え込んでしまった。
気づいたのは翔太だった。
「もしかして」
と呟いた翔太は再びボタンを押す。
扉の鍵が、解除される。もう一度豊がドアノブに手を伸ばして引くと、扉は簡単に開いたのだ。
「よし! 出られるぞ!」
部屋に歓喜の声が広がる。優奈はホッと息を吐き、出口に向かう。
その時だ。豊の手からドアノブがもの凄い勢いで離れ、バタンと大きな音を立てて閉まってしまった。
「どうして?」
そう言いながら、優奈が振り向くと、スイッチから3歩ほど離れた所に翔太が立っていた。
「……まさか」
何かに気づいたのか、翔太はもう一度スイッチに手を伸ばした。今度は、押したまま指を離さない。
翔太の考えは正解だった。どうやら、スイッチを押している間だけ鍵が解除されるようだ。
優奈は、扉の向こう側を確認する。5メートルほどのコンクリートの通路があり、その先にはまたしても鉄の扉が立ちはだかっている。
あそこを開けば外に出られるの?
だが、一つ問題がある。皆、気づいているが、あえて口にしなかった。それを言葉にしたのは友一だ。
「スイッチから扉まで数メートル。押し続けていないと閉まってしまうということは、誰かがここに残ることになるんじゃ……」
目の前が真っ暗になる。全身から脂汗がジワリと噴き出してくる。
「おい竜彦! 友一!」
そんなの認めないというように、豊は表情を強張らせながら2人を呼んだ。
「三人で、扉が閉まるのを阻止するんだ。翔太はボタンを押しててくれ」
翔太は息を呑んで頷いた。3人は力強く扉を引っ張る。
「翔太! 離せ!」
合図とともに、翔太は指を離した。その瞬間、扉を支える三人は派手に吹っ飛んだ。コンクリートに全身を打ったのだろう。3人とも身体の所々を押さえて顔をしかめる。
もろくも崩れ去った豊の策。
部屋は絶望感で満たされた。
突然、悲鳴を上げた美紀が頭を抱えてうずくまる。そしてか細い声でこう呟く。
「やっぱり1人がここに残るということじゃない……」
優奈ですら、安心させてやることができない。
一人が、ここに……。
本当に、そうなの?
「他に何かいい方法はねえのかよ!」
豊の叫び声が響いたその時だった。予測すらしていなかったことが起こった。
スイッチの横にあった黒い穴から凄まじい勢いで水が噴き出てきた。
突然の事態に8人は顔面蒼白となって後ずさった。おぼつかない足取りの美紀は躓いて倒れている。
やむことなく流れ出てくる水は、コンクリートにビタビタと跳ねる。心臓にまで響いてくる不気味な音。8人はただ、立ち尽くしていた。
部屋のどこにも隙間はない。言うまでもなく、徐々に水は溜まっていく。このまま時間が経てば、最悪の結果が待っている。
その6 2006年12月13日(水)
死が、近づいている。
「やべえよ! どうすんだよ!」
豊が裏返った声を上げる。真っ先に動いたのは友一だ。自分の着ているダウンジャケットを脱ぎ、
「みんなも上着を脱いで!」
と命令した。何に使うか聞く暇もなく、7人は友一の言うとおりにした。
全員の上着を持った友一は、
「翔太、ボタン押して!」
と大声を上げる。
「お、おう」
扉を開けた友一は大量の衣服を足元に置き、
「離して!」
と指示を出す。洋服で閉まるのを阻止するのだ。
しかし、閉まる方向に動いた扉は、衣服を真っ二つに切り裂き、8人の行き場をシャットアウトした。友一のダウンジャケットから飛び出た白い羽毛が、ユラリユラリと宙を舞っている。
「くそ」
と吐き捨てながらも友一はまだ諦めなかった。足元に散らばった羽毛を集めて、スイッチに向かった。
優奈たちはただ、友一の行動を見守ることしかできない。喋りかける余裕は誰にもない。
友一は、スイッチの隙間に羽毛をつめ、人間の指を使うことなく扉を開ける方法に出たのだ。
「豊! 開いたか?」
友一の動きを見守っていた豊は我に返り、ドアノブを引く。が、開いてはくれない。
あくまで、人間の指でないと作動しない仕組みということか……。
「どうすんのよ! このままじゃみんな死んじゃう!」
千佳が悲鳴を上げた。
優奈が冷たさを感じて下を見ると、いつの間にか水は踝よりも上にきている。
この状態だと、呼吸をしていられるのも時間の問題だ……。
「どうする! 山岡くん」
一番冷静なのは彼だ。しかし、友一の脱出策はそこで尽きた。
「無理だ……これじゃ全員出られない」
魔の水が、段々と部屋を支配していく。
水はアッという間に膝下までやってきた。
「冗談じゃねえぞ。こんな所で死んでたまるかよ」
壁に貼りついたまま、竜彦が怒鳴った。
「……山岡くん!」
頼れるのは友一のみだ。しかし優奈が声をかけても、友一は反応せず、膝上にまでやってきた水をただ呆然と見つめているだけだった。
皆、パニックに陥って思考がまとまらないのだ。
優奈の頭の中に、死という文字が浮かぶ。
誰か……誰か来て。
夢なら早く覚めて!
優奈は目をギュッと閉じ、神に祈る。だが必死の願いも虚しく、水は溜まっていく一方だった。
このまま助からないのか。諦めかけた、その時だ。ずっと黙っていた照之が、ポツリとこう言ったのだ。
「俺が残るよ……。だから、みんなは逃げてくれ」
言葉とは裏腹に、緊張に満ちた声だった。突然の台詞に全員の視線が照之に向けられる。何を言っているのかと、優奈と千佳は水を掻き分けて照之の元へ行った。
「どうしてそんなこと言うの? みんなで脱出するんでしょ!」
優奈がそう説得しても、照之は何も言わない。彼を一番死なせたくないと思っているのは千佳だ。照之の腕をギュッと掴み懸命に声をかける。
「そうだよ。お願いだからそんなこと言わないでよ!」
照之は顔を伏せ、こう言った。
「でもこのままじゃ、みんな死んじまうだろ。だったら一人が犠牲になったほうがいい。それで7人が助かるならそのほうがいいだろ」
「……照之」
友一が寂しそうに呟く。
「だからって、小野くんが死ぬことないでしょ!」 優奈の言葉に照之は首を振った。
「俺でいいんだ。そういう役は、俺が一番似合ってるから」
照之の決意に、千佳が悲鳴を上げた。
「いや!」
そして照之にすがりつく。
「私はいや! 小野くんには死んでほしくない! ねえ一緒に逃げよう?」
泣き喚く千佳の頭を、照之は優しくなでた。
「ありがとう加納。でも俺も、お前には死んでほしくないんだ。助けたいんだよ」
「小野くんを見捨ててまで私は助かりたくない! だったら私が残ったほうが……」
その7 2006年12月14日(木)
「バカ野郎! 女を死なせられるか! いいからお前は黙ってここから逃げろ!」
厳しく言い放った後、照之は皆に笑顔を見せた。
「俺のことは……気にすんな」
千佳は子供のように泣き喚いている。優奈は、そんな彼女の姿を見ていられず、目を背けた。
照之の表情は、不思議なほど穏やかだった。誰が何を言っても彼の決意を揺るがすことはできそうにない。彼はそれだけの覚悟を決めたのだ。
止めるのは無理だ……。
刻一刻と時間は迫っている。水はすでに、優奈の腰の辺りにまできていた。
照之は何も言わず、スイッチのほうに足を進める。そして、皆のために扉を開けてくれた。
「さあ、行ってくれ」
優奈は彼に一歩近づく。
「本気なの?」
照之は何の迷いも見せず頷いた。
「ああ。早く行ってくれ」
だが、誰も動こうとはしない。
水は、胸にまで到達している。
このままでは全員が死ぬ。分かってはいるが、どうしても扉を開くことができなかった。しかし、最初に動きだしたのは、竜彦だった。
「本当に、いいんだな?」
「気にすんな」
改めて確認した竜彦は、
「悪いな……照之」
と言って扉に手をかける。悪い、と言う割には竜彦は照之に簡単に背を向ける。申し訳なさなど微塵も感じていないようだった。きっと、照之が自ら犠牲になると言いだした時、好都合だと思い、心の中で笑ったに違いない。
一体、仲間を何だと思っているのだ。
ここまで卑怯な男、見たこともない。
「照之がこう言ってくれてるんだ。行こうぜ、みんな」
皆の前でいい人ぶる竜彦をぶん殴ってやりたい気持ちで一杯だった。しかし、他の人間は竜彦の言葉に心を動かされてしまった。
「ごめん……照之」
豊が扉に身体を向ける。
「優奈ちゃん、千佳ちゃん、美紀ちゃんも」
友一までもが、照之を置いてここから出るという選択をしたのだ。
その8 2006年12月15日(金)
みんな、どうして?
友一が優奈と美紀を引っ張っている。優奈は信じられない思いでいたが、かといって何の抵抗もできなかった。
竜彦の手で扉が開かれると、大量の水が通路に流れた。が、通路に排水口はなく、溢れていくばかり。部屋から出た優奈の目に、ただ一人残っている千佳の姿が映る。千佳は諦められず、照之の傍から離れないのだ。
「おい加納!」
叫び声を上げながら豊が千佳の元へ急ぐ。そして、泣き叫ぶ千佳の腕を取って乱暴に引っ張る。
「いや! 離して! 離してよ!」
千佳は叫び声を上げながら抵抗していたが、男の力にはかなわず、とうとう部屋から連れ出される。
「小野くん!」
照之はこちらを見ながら強く頷き、ボタンを離した。その瞬間、優奈の瞳から照之の姿は消え去った。通路には、千佳の泣き声がいつまでも響いていた……。
自らの意志で7人と別れた照之は、これでよかったんだと、大きく息を吐いた。自分は、使命を果たしたんだ……。
見つめる先はただ一点。固く閉ざされた扉。向こう側にはまだ7人がいるようだ。千佳の叫びが微かに聞こえてくる。
照之は水をかき分けながら、千佳たちが出て行った扉に近づいた。
彼女の台詞一つひとつが蘇る。あの時、もの凄く嬉しかった。あんなにも自分のことを思って泣いてくれる子がすぐ近くにいたなんて……。
気づくのが遅すぎた。
でも、千佳や仲間たちを助けることができたのだ。それで満足だ。
しかしまだ分からない。どうしてこんなことになったのだろうか。自分たちはいつ、どうやってここへ連れてこられたのだろうか。
犯人は、誰なのか……?
結局全ては謎のままだった。
生き残った7人が真相を突きとめてくれることを願うしかない。
夢なら、冗談なら早く水を止めてほしいが……。
こんな時にそんなことを思う自分がおかしかった。照之はフッと笑って天井を見上げた。すると不思議なことに、様々な思い出がそこに映りだした。
友達と公園で追いかけっこしたり、鉄棒で逆上がりを頑張っている自分。
中学、高校とテニス部で汗を流していたあの頃が懐かしい。
そして大学に入り、今の仲間と知り合った。
短い人生だったと改めて思う。もう少し生きていたかった。将来の夢なんて何もなかったが、もっと色々なことを経験したかった……。
ふと、家族の顔が脳裏を過ぎる。
せめて、別れの言葉だけでも言いたかった。だが事件の真相を知れば、両親だってきっと分かってくれるだろう。無駄な死ではなかった。息子らしいと……。
水の高さはみるみるうちに上昇し、とうとう唇の上までやってきた。しかし照之は背伸びしてまで回避しようとはせず、ドアノブに掴まり、じっと構えていた。格好悪い死に方だけはしたくなかった。男らしく終わりたい。とはいえ身体は正直だ。魂まで抜けてしまうような、大きな大きな息を吐き出した照之は、震えを抑えるために拳を強く握りしめる。堂々としているが、今にも気を失いそうだった。
その9 2006年12月18日(月)
辛うじて息ができる状態。だが、その時間も長くは続かなかった。
数分後、部屋は水で満たされた。照之の拳が弱々しく開き、重い身体が浮き上がったのは、それから間もなくのことだった……。
第二の扉
水の噴き出る音が、ピタリと止まった。その意味を悟った優奈は静かに目を閉じ、悲痛な声を洩らした。そして、すすり泣く千佳を優しく包み込んだ。ショックが強すぎて、痙攣してしまっている。優奈はどんな言葉をかけたらよいのか分からなかった。ただ、抱きしめることしかできない。
悲しいし悔しいが、もう照之が帰ってくることはない。自分たちに何ができるのか。
彼の無念を晴らし、そして彼の分まで一生懸命生きること。千佳はこの先、辛い人生を歩むことになるかもしれないが、照之はそんなことを願ってはいない。今以上に強くなってほしい、と思っているはずだ。自分はそれを千佳に教えなければならない。だが今、千佳の心の傷は大きすぎる。
どんなことを言っても無駄だろう。当分はそっとしておいてあげるのがいいのかもしれない……。
「千佳……」
それ以上は何も言わず、優奈は千佳の手をそっと取った。7人はそれぞれの想いを胸に、出口に進んでいった。薄暗い通路に、水のはねる音が響く。
優奈の脳裏には、照之の面影が映っていた。
千佳がずっと想いを寄せていた人だったから、特に印象が強い。
彼は本当に正義感が強く男らしい人で、一緒にいるだけで心が落ち着くような、そんな存在だった。弱い者や困っている者を目の前にすると放っておけない彼は、〈ヒーロー〉のイメージそのままだった。テニスの練習中に怪我人が出た時、皆が慌てている中、おぶって医務室に連れていったのは彼だったし、優奈自身も助けられたことがあった。一年ほど前、サークルの飲み会で、別のテーブルにいた酔った客から強引にナンパされたことがあり、その時に止めに入ってくれたのが照之だった。追い払った後、彼がホッとしたように息を吐き出したのを今でも憶えている。
その他にも様々な思い出がある。それが走馬灯のように巡る。
優奈の頬を、熱いモノが伝った。
自分たちは、大きな存在を失ってしまった……。
彼は最後の最後まで、正義感が強かった。いや、強すぎたのだ……。
優奈は、無意識のうちに千佳の袖を力強く握りしめていた。
自分たちをこんな目にあわせた人間が憎い。出口を見据える優奈の瞳は怒りに満ちていた。
7人は、扉の前で立ち止まる。
ドアの中央には『D』と刻印されている。
豊が『D』の文字を指でなぞりながら、
「これ、どういう意味だ?」
と呟いた。
「……もしかしたら、〈Dead〉とか〈Death〉って意味なんじゃないか」
友一がそう口にした瞬間、豊は触ってはいけないものを触ってしまったかのように、手を引っ込めた。
ドアノブに手をかけたのは竜彦だった。犠牲になった照之を気にかける様子もなく、彼は全身の体重をのせて扉を開く。周囲に、錆びついた音が広がった。
外の明かりが、あるいは月の光が7人を照らす。はずだった……。
目の前に広がる光景は、願いとは裏腹にあまりにも殺風景であり、〈死〉の気配が漂っていた。
鼻を掠(かす)めるコンクリートの臭い。身体中に染みつく冷気。
7人の目には確かに、正方形に作られた、先ほどと同じ部屋と扉が映っていた。通路に溜まっていた水がまるで躍るように部屋に流れ込む。そして床の細かい砂や埃と混ざり合い、ユラユラと揺れる。
不気味なほど静まり返っているこの部屋と、最初の部屋が重なり合う。
魔の水が噴き出し、部屋はまるで巨大な水槽と化していく。閉じこめられた自分たちは金魚のように口をパクパクさせながら死んでいく……。
信じられない光景に、7人は一歩を踏み出すことができない。
「おい。ここから出られるんじゃなかったのかよ!」
状況が一転し、狼狽する竜彦の言葉に豊が答えた。
「さっきの部屋で終わりじゃない、ってことか?」
「ふざけんな! 出られるに決まってんだろ!」
怒りをまき散らしながら荒々しく部屋に入り、前の部屋と同じ位置にある扉を開こうとした。が、扉はビクとも動かない。
「くそが!」
竜彦が助走をつけて壁を蹴り上げると、その振動がこちらにまで伝わってくる。驚いた美紀が、小さな悲鳴を上げた。
「皆さん」
ただ一人部屋の中にいる竜彦が両手を広げ、注目を集める。自棄になっているのか、不気味な笑みを浮かべ、ある部分を指さした。通路にいる6人からは死角になっていて見えないが、優奈は大体予測がついていた。
「そこに、またスイッチと小さな穴がありますよ」
まるで他人事のように、皮肉な口調で竜彦は言った。
その10 2006年12月19日(火)
優奈の胸で泣き続けている千佳だけが状況を把握していない。
また、一人が犠牲になる。確実にこの中から。そういうことなのか……。
無言のまま、翔太、豊が部屋に足を踏み入れる。友一はこちらを振り返り、
「俺らも行こう」
と言ってきた。だが優奈や美紀は躊躇う。中に入れば、また誰か死ぬことが決まっているのだ。
そうだ。通路にいれば時間が稼げるし安心なのではないか? また水が出てきたとしても、扉を閉めていれば安全は確保できる。ずっと通路にいれば、やがて助けが来るのではないか。来なければ餓死する可能性があるが、すぐに決断を下すよりはそのほうが……。
「ねえ山岡くん!」
期待を抱く優奈に、なぜか友一は残念そうに首を振る。そして、
「上を見て」
と、天井に人差し指を向けた。優奈は、指されるままに〈そこ〉を見上げた。最初は友一の言わんとするところが分からなかった。しかしよく見ると、天井にポツリと小さな穴が開いているのだ。薄暗いので全く気づかなかった。 そんなに甘くはなかったのだ。
あとは容易に想像がついた。
助かる場所はどこにもないのか……。
通路にいても無駄だと諦めた優奈は、千佳と美紀とともに部屋に入る。7人が中央に集まった途端、開いていた扉に強い力が働き、心臓に響くほどの大きな音を立てて閉じられた。
密室となった部屋に、千佳の泣き声が響き渡る。いつまで経っても泣きやまない千佳に、竜彦は明らかに苛立っている。そして我慢は長くは続かなかった。彼女の耳元で怒声を放った。
「わーわーうるせえんだよ! 何とかしてやろうって考えてんのに集中できねえだろが!」
人の気持ちを考えようともしない竜彦を、優奈はキッと睨みつけた。
「何だその目は?」
「最低!」
その途端、激しい勢いで竜彦の手が優奈の肩を掴んだ。
「殺すぞ」
と脅されても、優奈は一歩も引かなかった。
「やれば」
「ああ?」
横に立っていた友一が突然、竜彦の胸ぐらを掴んで壁に押しつけた。
「彼女に手ぇ出すんじゃねえ。次やったら俺が殺すぞ」
いつも穏やかな友一が目を剥き、青筋を立て、ピクピクと小刻みに震え興奮している。その顔はまるで鬼のようだった。
こんな彼を見たことがなかった。他のみんなも、今の状況を忘れて唖然としている。それくらい、意外な行動だった。
友一に怖じ気づいた竜彦は、優奈からゆっくり手を離し背を向けて唾を吐く。
優しい表情に戻った友一は、
「大丈夫?」
と声をかけてくれた。優奈は弱々しく頷いた。
「……ありがと」
「今度こそ、みんなで脱出しよう。照之のためにも」
「うん」
そうは言ってみたものの、妙案は浮かばなかった。焦りが募るばかりだ。
その11 2006年12月20日(水)
「何か方法はないのかよ。早くしないと……」
翔太はそこから先の言葉を呑み込む。
「やっぱり、ここでまた……」
弱気になる豊を優奈は勇気づける。
「諦めちゃダメよ。助かることだけを考えようよ」
「さっきだってそんなこと言って、結局、照之は死んじまったじゃないか」
それを言われてしまうと返す言葉がない。大切な仲間を失ってしまったのは確かだ。
「何とかならないのかよ、友一」
いつも皆を引っ張っていく翔太も、さすがにお手上げの様子だった。
「全員が出られる方法……」
友一が悩んでいると、竜彦が横から茶々を入れてきた。
「仮に全員がこの部屋から出られたってよ、どうせまた同じような部屋が待ってるんじゃねえの?」
認めたくないが、そうかもしれない。でもこの部屋の脱出方法が分かれば、たとえ次に部屋があったとしても、同じ方法で出口まで一気に突き進むことができるかもしれない……。
「どうなんだ、友一。何も思いつかないんだろ?」
先ほどの仕返しのつもりだろうか、竜彦は友一に突っかかった。友一は何も聞かないようにしているのか、ただじっと扉のほうを見つめている。
「いくら考えたって無駄なんだよ」
友一はあくまで考えに集中している。
「だったらよ!」
竜彦の口調が更に荒々しくなる。そんな彼に優奈は異変を感じる。
何をするつもりか、竜彦はスイッチから一歩二歩と離れ、反対側の壁に背中を貼りつけた。
「こんなスイッチ、ブッ壊せばいいんだよ!」
叫ぶと同時に、スイッチ目がけて走りだした。そして、扉を開くスイッチを靴の踵で潰すという暴挙に出たのだ。
「何やってんだよ竜彦!」
すかさず、翔太と豊が止めに入る。取り押さえられた竜彦はなおも暴れ回る。
「離せ! 離せ、くそ! どうせ俺らは死ぬんだろ! 同じことだ!」
「いい加減、目を覚ませよ!」
自棄になる竜彦を、翔太は思いきり殴りつけた。殴られて吹っ飛んだ竜彦は、翔太を睨んだまま立ち上がろうとはしなかった。
「いつまでウジウジしてんだ! 頼むから違うことに頭を働かせてくれよ!
このままじゃマジで全員死んじまうぞ!」
翔太の必死の言葉に、竜彦はションボリと俯いてしまった。そして、小さく呟いた。
「悪かったよ……少しパニクッちまったんだよ」
竜彦が全員に謝るなんて、意外だった。驚きはしたが、優奈はホッと胸をなで下ろす。時間はかかったが、これでみんなの気持ちは一つになった。
が、その直後だった。7人の耳に、どこからか空気の漏れるような音が聞こえてきたのだ。
「なんだ?」
と豊が音の出所を見回す。
「静かに」
友一は人差し指を立てて耳を澄ます。そして、ゆっくりと一歩踏み出した。
彼の向かった先は、スイッチの横にある小さな穴。どうやらそこから空気が漏れているようだ……。
その12 2006年12月21日(木)
頭に浮かぶのは、悪い状況ばかり。脈拍が段々と速くなる。優奈たちは、友一の動きを固唾を呑んで見守っていた。
「山岡くん?」
沈黙に耐えきれず、優奈が声をかけたその時、友一は咄嗟に穴から後ずさり、血相を変えて声を張り上げた。
「ガ、ガスだ! みんな離れろ!」
その言葉を聞いた瞬間、額、首筋、背中からドッと汗が滲み、ツーッと滴が垂れる。
事態を把握できずに立ち尽くしている6人に、友一は再度呼びかけた。
「みんな早く! できるだけその穴から離れて!」
優奈は呆然としたまま千佳の腕を引き、友一の傍に移動する。部屋の隅に全員が集まったところで、友一は次の指示を出す。
「みんな、床に伏せるんだ!」
ガスを吸い込まないように、優奈たちは床に貼りついた。頬に、ヒンヤリと冷たさが走るとともに、恐怖で心臓がギュッと強く締めつけられた。
その時だ。優奈は咄嗟に立ち上がった。まだ、千佳が姿勢を低くしていないのだ。放心状態の千佳は、照之が眠る部屋のほうを見つめている。
「ち、千佳!」
優奈は強引に彼女を俯(うつぶ)かせ、頭を押さえつける。
千佳はもう生きていないようだった。無表情のまま、ただ息をしているだけだ。全ての感情を、失ってしまっている……。
「千佳! しっかりしてよ! お願いだから!」
肩を強く揺すっても、意識は照之に向けられたままだ。いくら声をかけても返ってくる言葉は、小野君、のただ一言だけで、優奈の姿は全く映っていない。
「おい……どうする」
豊が皆に意見を求める。友一と翔太は顔を見合わせ、竜彦は鋭い目でガスの出てくる穴を見据えている。美紀は、顔全体を両手で覆い、助けてくださいと繰り返している。
「友一。本当にガスなのかよ?」
翔太の問いかけに友一は小刻みに頷いた。
「どうにかならないのかよ……」
情けない声を出す豊に友一が厳しく言い放つ。
「あまり喋るな」
「だってよ……」
一瞬ではあるが、優奈はガスの臭いを捉えた。初めのうちは微かに臭う程度だったが、時間が経つにつれ、衣服に臭いがしみ込み、両手で口と鼻をしっかりとガードしているにもかかわらず、身体がガスに包み込まれるようだ。
目を閉じても、洩れ出すガスの音は途切れることなく聞こえてくる。誰かが犠牲になるまで、やむことはないのだろうか……。
徐々に、部屋がガスで満たされていく。ここまで窮地に追い込まれても、優奈にはどうすることもできない。刻一刻と、時間は過ぎていく。何もせず、死を待つことしかできないのだろうか。焦りと悔しさがこみ上げる。
優奈は、友一にすがりつくような視線を送った。
すると、じっとしていられないというように、突然、友一が立ち上がった。
「……山岡くん?」
優奈は彼の動きを目で追った。
何をするのかと思っていると、友一は自分の着ているセーターを脱ぎ、それを穴に突っ込んだ。友一の意図を悟り、翔太と豊も衣服を脱いで、穴の中に押し込んだ。
その13 2006年12月22日(金)
ガスの出所を塞ぐと、先ほどまでの音は聞こえなくなった。しかし、ただそれだけのことで、単なる時間稼ぎにしかならないと誰もが分かっていた。今もガスは微かに漏れているはずなのだ。なのに、まだ脱出方法が見つからない。時間ばかりが過ぎていく。
結局はこのまま意識が遠のき、死んでいくのではないだろうか。優奈が一瞬描いたその光景が、いよいよ現実のものになろうとしていた……。
ガスが出始めて約二十分。穴を塞いでいるとはいえ、やはりガスは漏れているようだ。その証拠に、頭がクラクラし始め、吐き気が襲ってくる。それだけではない。重い荷物を背負っているかのように、いつしか身体がいうことをきかなくなっている。
「優奈ちゃん! 大丈夫か? しっかりして!」
ぐったりと横たわる優奈を見て、友一は懸命に声をかけてきた。隣りに友一がいなければ、意識を保つことはできなかったろう。
「……大丈夫」
と辛うじて返事をする。
しかし、さらに数分が経つと、友一からの言葉もなくなってしまった。目の前がかすれ、意識が朦朧とし始める。皆もそうなのだろう。魂の抜けたような瞳で、それぞれ幻覚を見ているのだろうか。いつ気を失ってもおかしくない状態であった。
「お父さん……お母さん」
優奈は、岐阜で暮らす両親の姿を見ていた。二人が助けに来てくれたのだと、心の底から安堵する。
父と母が、そっと手を差し伸べてくれる。優奈は二人の手を取り、重い身体を全て預けた。両親の温もりが、心に染み渡る。安心した優奈は、涙をこぼした。
その14 2006年12月22日(金)
父と母に支えられた優奈は、自分がまだ生きているのだと改めて思った。そして、これからも生きていけることにありがたみを感じた。
父が扉を開くと、すぐ先には眩しいほどの光が溢れている。出口だ。
優奈は、力を振り絞って母の手を握る。母は、握り返してくれた。見つめ合い、微笑む。
3人はゆっくりと出口に進んでいく。
助かった。
優奈はそう呟き、深い眠りに入る。いつまでも両親の温かさを感じていた……。
「優奈ちゃん! おい優奈ちゃん! 大変だ!」
幻を見ていたのだろうか。突然、耳元で男の人の声が聞こえた。
「山岡……くん?」
弱々しい声を出しながら、何とか現実に引き戻された優奈は、違和感を覚えた。何かが足りない。ふと横を見ると、そこに千佳の姿がなかった。
前を見上げると、千佳は何かに取り憑かれたように、フラフラとスイッチのほうに向かっている。
優奈は、千佳を呼び止めようとした。が、声に力が入らない。声が届かなかったのか、千佳は止まるどころか振り返ってもくれない。
自分の名を呼ばれていることに気づいていないようでもある。
「……千佳」
立ち上がろうとしても力が入らず、優奈はグッタリと床に突っ伏した。その時唇が切れ、微かに血の味を感じる。
「山岡くん……千佳を」
友一は弱々しく頷く。
「……分かった」
友一が起きあがろうとしたその時であった。
「来ないで!」
千佳は大声を張り上げ、友一の動きを止めた。そしてスイッチに手を伸ばした。カチリと鍵の開く音が聞こえると、千佳はこちらに向き直り、改めて、今度は静かにこう言った。
「お願い……来ないで」
決意はもう固まっている、そんな口調であった。
その15 2006年12月25日(月)
「千佳……やめて……戻ってきて」
優奈が説得しても、千佳の心は変わらなかった。首を横に振り、俯(うつむ)きながらこう言うのだ。
「こうさせてほしい。優奈、分かって」
それで納得できるはずもなく、優奈は懇願した。
「そんな悲しいこと言わないで。お願い……」
「無理だよ。私はもう無理。小野くんと一緒に死ねるなら、それでいい」
「……千佳」
「だからみんな行って。私のことはもういいから」
「どうして……どうして諦めるのよ!」
千佳は照之を失い、自分を見失っているだけなのだ。なぜそう簡単に死を受け入れてしまうのか。ただただ悔しかった。なのに気力と体力が残っていないせいか、引き留めることができない。
「ごめん……優奈」
ガスに体力を奪われている千佳は今にも倒れそうだ。最後の力を振り絞ってスイッチを押し、扉を開けてくれている。その姿に熱いものがこみ上げる。
涙が溢れ、千佳の姿がぼやけてくる。
何を言っても、千佳の決意は揺るがないだろう。しかし、親友を置き去りにしていくことはできない。それなら私も残ろう。優奈はそう決めていた。
「行くぞ……豊」
何の躊躇(ためら)いも未練もなく、竜彦と豊は立ち上がり、蹌踉(よろ)けながら扉を開き、通路へ出てしまった。翔太や美紀でさえ、千佳に一切の言葉をかけず、部屋を去っていった。それだけ皆、極限状態に追い込まれていたのだ。
「優奈も山岡くんも、早く……行って」
息をするのがやっとのはずの千佳はスイッチを押し続け、必死になって堪えている。
二人とも早く部屋から出て私を楽にさせてほしい。そんな思いが伝わってきたが、優奈は絶対に立ち上がるまいと決めていた。
「千佳ちゃん……ごめん」
また一人、部屋を後にしようとしている。友一が立ち上がったのだ。
彼もいなくなってしまうのか。
しかし裏切り者だとは思わない。ただ、友一に視線も向けなかったし、何の言葉もかけなかった。彼がいなくなるのを待った。が、扉の開く音はなかなか聞こえてこなかった。
「優奈ちゃん! 来るんだ!」
座り込んだまま頑として動かなかった優奈は、友一に腕を取られた。
「な、何するの」
「来るんだ!」
彼の手を振りほどきたくても、腕が動いてくれない。
「いや……触らないで」
「山岡くん、優奈を助けてあげて」
千佳の言葉に、友一はしっかりと頷いた。
「千佳……どうして」
「さあ、優奈ちゃん」
友一は優奈をグイグイ引っ張っていく。それに抵抗する力は、もうどこにも残っていなかった。
「離して、山岡くん」
「ダメだ!」
友一の視線は、出口の扉だけに向けられていた。
彼の手で扉が開かれた。その音が、千佳との別れの合図のようであった。
優奈は友一によって、通路に引っ張り出された。
「千佳!」
彼女はこちらを見つめ、小さく口を開いた。
「ありがとう……優奈」
これが千佳の最後の言葉だった。もう一度叫ぼうとした途端に扉は閉じられ、千佳の姿は視界から消えた。
優奈は地面に崩れ落ち、弱々しく扉を叩く。
「千佳! 千佳、開けて!」
何度呼びかけても、反応はない。
その16 2006年12月26日(火)
間もなく、千佳が倒れた音が、微かに耳に伝わってきた。その瞬間、優奈の手は、ダラリと垂れた。
優奈の叫びは、通路だけではなく千佳のいる部屋にまで響いた……。
スイッチを離し、床に倒れるまでの間、時はゆっくりと流れているようだった。一瞬の出来事のはずなのに、これまでの人生が蘇り、倒れた途端、泡のように消え去った。
喘ぎながら、千佳はみんなが出ていった扉を見つめたが、目に映る光景は正常ではなくなっている。辺りは歪み、色彩が濁っている。遂には視界の端々に黄色い靄がかかりだした。少しずつ身体の機能が破壊されていくのが分かる。
もうほんの数秒遅れていたら、優奈まで死なせてしまうところだった。この先、何が待ち受けているか分からないが、とりあえず間に合ってよかった。出口に辿り着ける可能性だってあるのだから。残った六人が助かることを祈ろう。
ここは一体何だったのかと思うが、もうそんなことはどうでもよかった。残り少ない時間は照之のことを思っていたい。
「小野くん……」
地面に頬をつけて、小さく声に出す。すると、目の前に彼が現れてくれた。千佳は嬉しくて、満面の笑みを浮かべる。弱々しく手を伸ばすと、暖かい手で握ってくれた。安心感が身体を包む。死ぬことが全く怖くなくなった。
目を閉じると、彼が話しかけてくれた。千佳は心の中で答える。やっと恋人同士になれた。千佳はこれが最後だからと、照之の姿を目に焼きつける。
二人の会話に終わりはなかった。彼とこんなに話したのは初めてだ。嬉しくて、楽しくて、いつまでもこの時間が続くことが幸せだった。
が、所詮、妄想の世界。その映像はプツリと切れた。目の前に広がっているのは、冷たい部屋……。
もう一度瞳を閉じて、照之を思い浮かべる。
ずっと好きだったのに、想いを伝えることがどうしてもできなかった。今までで一番、愛した人だったのに……。
千佳は自分なりの理想をずっと思い描いていた。これは、優奈にも一度も話したことがない。
照之とつき合って、プロポーズされて結婚して子供を産み、専業主婦として家庭を守る。そして、彼が定年退職したら一緒にフラワーショップを開く。それが夢だった。しかし、もうその日が来ることはない。せめて、一回だけでいいから手をつないでデートしてみたかった。どこでもいい。彼と二人で歩いてみたかった……。
心残りはたくさんある。しかし、彼と一緒に死ねるのだ。もしかしたら自分は幸せなのかもしれない。
少しでも彼に近づこう。
そう思い、千佳は扉を目指して懸命に這っていった。確実に彼との距離は縮まっているはずだ。それでも、千佳の気力と体力はそう長くは保たなかった。
糸が切れたように動きが止まり、千佳は力尽きた。
千佳は最後に照之と手をつなぐ自分を見ていた。二人とも、楽しそうに微笑み合っていた……。
その17 2006年12月27日(水)
第三の扉
「さあ、優奈ちゃん」
泣き崩れる優奈に、友一がそっと手を差し伸べてきた。しかし優奈はそれを振り払った。ここから離れたくなかった。このまま千佳の傍にずっといたかった。
「分かってくれ。君まで死なせることはできなかったんだよ」
それでも置いていってほしかった。自分だけ生き続けるなんて辛すぎる。
「彼女だって君を助けたかったんだ。だからそんなに自分を責めないでほしい」
千佳の死を受け入れられない。これ以上先へは進めない……。
いつまでも現実を見ようとしない優奈に、友一の語気が強くなる。
「ずっとそうしてるつもりか? 君は、彼女の分まで生きなきゃいけないんだぞ? その責任があるんだ」
千佳の分まで……。
涙を抑えることはできないが、優奈は顔を上げる。そして友一の目を見つめた。
それは照之を失ってショックを受けている千佳に、自分が言おうとしていた言葉だ。
改めて自分の弱さを実感した瞬間だった。
彼の言うとおり、千佳の分まで生きていかなければならない。何も考えず、死を望むなんて、命を懸けて助けてくれた千佳に申し訳ない。我を見失っていた自分が恥ずかしかった。
「さあ、立とう」
友一はもう一度、手を差し伸べてくれた。
優奈は彼の手を借り、ゆっくりと立ち上がる。心の傷はしばらく癒えることはないだろうが、それでも現実を見つめなければならない。
千佳……。
彼女と過ごした日々が、頭の中に鮮明に浮かび上がってきた。
何といっても大学に入り、一番最初に仲良くなったのが千佳だった。
あの頃は田舎から出てきたばかりでなかなか都会に馴染めず、ずっと独りぼっちだった。そんなある日の授業中、千佳がノートを写させてほしいと声をかけてきた。それが彼女との出会いだった。
その18 2006年12月28日(木)
かなり遊んでそうな子、という第一印象だった。髪には金のメッシュが入っているし、両耳には合わせて五個以上ものピアスをつけていたのだから。だが外見とは裏腹に、千佳は純粋で、誰よりも思いやりのある子だった。
そんな彼女と話していくうちに優奈は段々と打ちとけていった。右も左も分からない自分に、彼女は色々なことを懇切丁寧に教えてくれた。彼女から誘われなければサークルに入ることもなかったろう。
学校にいる間は、ほとんどの時間を千佳と過ごしていたはずだ。休日に会うことも多かった。
渋谷で映画を観たり、ショッピングしたり、代官山で食事したり、ディズニーランドへ行ったり、思い出が多すぎて、数えきれないくらいだ。彼女がいたからこそ、ここまで楽しい生活を送ることができたのだ。
本当にいい友達だった……。
最後に彼女はこう言った。
ありがとう、と。
本来なら、自分が伝えなければならない言葉だったのに……。
優奈はあえて別れは告げず、
「千佳……ありがとう」
と心の底から思いを伝え、前で待つ5人に身体を向けた。
「みんな、ごめん」
冷静さを取り戻した優奈を見て、翔太や友一は安堵したようだ。しかし、安心するのはまだ早い。
薄暗い通路の正面にそびえ立つ扉の向こうは天国か、それとも地獄か。6六人は運命の岐れ道に立たされている。
どうか、残った6人に一筋の光が射し込みますように……。
優奈は扉を見据えてひたすら祈った。
これ以上、誰も失いたくはない……。
「開けるぞ」
扉に手をかけたのは翔太だ。5人は固唾を呑んで、運命の時を待った。
錆びた音を立てながら扉が開かれる。先ほどのことがあるので優奈はなかなか顔を上げることができない。絶望感を覚えたのは、隣りに立つ友一の深い溜息が聞こえてきたからだ。
ゆっくりと顔を上げた優奈の瞳には、青く澄んだ大空は映らない。灰色の、壁と天井。その先には、またしても同じ扉。
運命の線路を走っていた列車は、地獄のほうを進んだというわけか……。
自分たちは、いつ助かるというのだ。
誰も口にはしないが、皆予測している。ここでまた一人、犠牲になるのだ……。
辺りを警戒しながら、6人は〈死の部屋〉に足を踏み入れる。
先ほどと同じく、全員が部屋に入った途端、扉は閉ざされた。その音に美紀が小さな悲鳴を上げている。
「今度は……何だ?」
豊は音を立てぬよう、辺りを見回す。優奈も、全体に目を配る。そこであることに気づいた。
今までと違うことが二つだけある。これまで部屋にあった、扉の鍵を解除するためのスイッチと、その横にあるはずの小さな穴がここにはない。
友一もそれに気づいていた。
「どうやって、ここから出るんだ?」
そう呟いて、先に続く扉に手を伸ばしたが、扉には鍵がかかっている。
「無理だ……やっぱり閉められている」
鍵穴もスイッチもない。今度ばかりは友一も、どのように解除するのか、その謎を解くことはできないようだ。
「ここでは一体どんな仕掛けが待ってるんだ?」
その19 2007年01月05日(金)
翔太は天井や壁を念入りに確認していたが、目につくようなモノは何もないようだ。かといって、何も起こらず勝手に開くはずはないのだが……。
皆の不安がピークに達する中、黙り続けてきた竜彦が固く閉ざされた扉の前に立ち、こう呟いた。
「長期戦か?」
全員の視線が竜彦に向けられる。
「どういう意味だよ」
困惑気味の豊に、竜彦は背を向けたまま答えた。
「今までは必ず誰か一人が犠牲にならなければならなかっただろ。きっとここも例外じゃない。誰か1人が死ぬまで、この扉は開かないはずだ。でも今まで水やガスが出てきた穴は、この部屋のどこにもない。ということは長期戦。誰かが餓死するまで開かないんじゃないのか」
妙に平静を保っている竜彦に豊は、
「餓死?」
と聞き返す。
「ああ。俺の予想ではな」
こちらに背を向けている竜彦の表情は見えないが、その雰囲気から恐怖や不安は一切感じ取れない。むしろ、どこか自信がみなぎっているようにも思える。すでに2人が犠牲になっていて、次は自分の番かもしれないのに、どうしてこんなにも堂々としていられるのだろうか。しばらく大人しかったので少しは安心していたが、今の態度で余計彼が分からなくなった。不気味なほど、静かすぎやしないか……。
「餓死するまでの……戦い」
まだそうと決まったわけではないのに、豊は力尽きたように腰を下ろす。まるで、竜彦にマインドコントロールされているようであった。
「ちょっと待ってよ」
竜彦は優奈の反論を予想していたようだ。
「もちろん。長期戦と決まったわけじゃないが」
2人の視線が重なり合う。何かにつけて優奈に絡んできた竜彦だったが、余裕の笑みを浮かべ視線をそらした。
先ほどとは打って変わり、お前など相手にしない、というような表情だ。
何を考えている? どす黒いオーラが漂っているようにも見える。
地べたに座っている豊が、ポツリと洩らした。
「俺、思うんだけどよ。結局、誰も助からないんじゃないのか?」
一瞬の沈黙。誰もが心のどこかで予測していたことだった。だが、これまで口には出さず必死に呑み込んでいた。
「そんなこと、ないよ」
「だってよ」
「進んでも進んでも外に出られねえじゃねえか。ここでも1人。次でも1人。俺たち、全滅するんだよ……」
2人が犠牲になったのは事実だ。誰も、励ましの言葉をかけられない。
やはり自分たちの想像どおりの結末になるのかと、優奈たちは気を落とす。
いつの間にか、全員が助かる方法を考えようとする者はいなくなった。どこにも脱出方法が見当たらないのだ。ただ、時の流れに任せるしかなかった。
自分たちはまるで死刑囚だ。次は自分の番かとビクビクしている。罪など、犯していないのに……。
それからどのくらい経ったのだろう。この部屋では何も起こる気配がない。
竜彦の推測どおり、長期戦になるのかと思われた。
しかし次の瞬間、驚いたことに、出口の扉が勝手に開いたのだ。相変わらず地面に座っていた豊は、その音に過敏に反応して立ち上がる。
その20 2007年01月09日(火)
誰も犠牲にならずここから出られると、優奈も表情に力がこもる。
全員が助かるかもしれない、と期待したその矢先であった。
通路から、小さな影がスッと伸びてきた。何が起ころうとしているのか考える間もなく、部屋に青いトレーナーに半ズボン姿の一人の男の子が現れたのだ。
突然の闖入者に、6人は驚きの色を隠せなかった。
男の子は静かに扉を閉め、部屋の真ん中に進んできた。6人は、無意識のうちに後ずさっていた。
部屋の中央で立ち止まった男の子は、顔は一切動かさず、一人ひとりを舐め回すように見つめる。まるで獲物を吟味するかのように。
美紀、友一、そして優奈の番が回ってきた。視線が重なり合っている間は生きた心地がしなかった。呼吸するのも忘れてしまうくらい緊張はピークに達した。単なる子供だとは思えない。
その後、男の子は豊、翔太、竜彦の順で顔を確認していく。検査するかのような作業を終えると、なぜか男の子は顔を伏せ、目を閉じて動かなくなってしまった。まるでスイッチをオフに切り替えられたロボットのように。胸の微かな動きも感じ取れない。呼吸すらしていないようだった。
姿形は人間そのものだが、精密な機械で作られているのではないかと思うくらい、男の子は妙に不自然である。子供だというのに感情がないのだ。喜怒哀楽を知らないというより、心がない?
男の子を凝視する優奈は、男の子のある特徴に気がついた。
皮膚だ。よく見ると羨ましいほどの艶を放つ男の子の皮膚だが、そこに皺や細かい模様がない。
まるで、マネキンのような……。
6人は顔を見合わせ、再び男の子に目をやる。沈黙を破ったのは翔太だ。子供を見ながら小声を洩らす。
「どうなってんだよ……おい」
「扉開いてんのかな。こんなガキ、無視して行っちゃっていいんじゃねえの?」
豊は言うが、動こうとはしなかった。
「山岡くん、どう思う?」
優奈がそう聞くと、友一は難しい顔を見せた。
「あまり、安易に動かないほうがいいような気がするけど」
「……だよね」
「じゃあどうすんだよ。一生睨めっこしてろっていうのかよ」
豊が多少声を張っても、男の子は身動きもしない。
優奈はふと、竜彦を一瞥する。彼はじっと男の子を見据えている。決して自分の意見は述べず、他の5人の動きを窺っているような……。
優奈は、竜彦に探りを入れてみた。
「牧田くんは、どう思うの?」
すると竜彦はヌラリとこちらに顔を向け、
「さあ」
と言って上唇を浮かした。そのあまりの不気味さに、優奈は思わず視線をそらしてしまった。
「そ、そう」
まだ、竜彦のネットリとした視線を感じる。心を読まれたのではないかと優奈は動揺する。揺らぐ気持ちを隠そうとしたが、口をついて出たのは不自然な台詞だった。
「この子、どこから来たのかしら?」
人を小バカにしたような竜彦の笑い声が聞こえた。
その21 2007年01月10日(水)
「そんなこと……今はどうでもいいわよね」
全身から心地悪い汗がドッと噴き出してくる。竜彦を意識すればするほど、心臓の鼓動は激しさを増していった。
気まずい空気を紛らわしてくれたのは、意外にも美紀であった。
「ねえ、僕?」
近寄りはしないが、美紀は中腰になって男の子にか細い声をかける。しかし、子供からの反応はない。美紀は、ほつれた髪を耳にかき上げ、メガネの位置を直すと、再度呼びかける。
「僕? お話聞かせてもらえないかな」
優しい口調で声をかけるのだが、やはり結果は同じである。眠っているのか、それとも聞こえていないフリをしているのか。何か特殊な合い言葉を言わなければ、もしくは決められた動作をしなければ目を覚まさないような、そんな雰囲気だ。
「僕?」
全く手応えがないのに、美紀は諦めようとはしなかった。いつも大人しい彼女がここまで熱心に話しかけるなんて、と意外さを感じていたが、よく考えてみれば、別段驚くようなことでもなかった。
前に一度、美紀は合宿先で自分の夢を語ったことがある。
将来、小学校の先生か保育士になりたいと。子供が好きで好きで、公園で遊んでいる子供たちを見ると優しい気持ちになれるのだそうだ。一生、大勢の子供に囲まれて過ごしたいと、静かながらも一生懸命話していた。
あの時は正直、彼女には向いていない仕事なのではないかと思った。美紀は大人しすぎるし、人見知りも激しい。そんな子が学校の先生や保育士など務まるはずがないのだ。しかし状況はどうあれ、目の前にいる子供に接する彼女を見て、自分の考えが間違っていたことに気づいた。
美紀は心の底から子供を愛している。真剣に、子供に関わる仕事に就きたいと考えているのだ。
「聞こえてるかな?」
そう尋ねながら、美紀は恐る恐る男の子に近寄っていく。
その行動に、優奈はどこか危険なものを感じた。考えすぎだろうか、悪い予感ばかりする。
「美紀! 待って!」
しかし、彼女は優奈の言葉を聞き入れなかった。大丈夫だといわんばかりに、男の子の顔を覗きながら徐々に距離を縮めていく……。
「美紀!」
優奈の声は壁に反射し響き渡る。動揺する優奈に対し、美紀はいたって普通だ。
「僕?」
美紀は男の子の前で屈み、目線を合わせた。優奈は恐ろしくて見ていられず、顔を伏せてしまった。
「僕は、どうしてここにいるのかな?」
「…………」
「分からないかな?」
「…………」
その22 2007年01月11日(木)
もうやめて! 優奈は心の中で叫ぶ。恐怖で今にも押し潰されそうだ。
「ねえ僕?」
「…………」
話しかけるのを一向にやめようとしない美紀に我慢の限界に達した優奈は、彼女を子供から引き離そうと立ち上がる。
しかし同時に、らちの明かない会話に痺れを切らした豊も動きだした。優奈よりも先に美紀に駆け寄って、彼女を押しのけた。
「おい、くそガキ! てめえ何か知ってんじゃねえのかよ!」
と子供の肩を両手で鷲掴みにして乱暴に言い放った。しかしその途端、豊は小さな悲鳴を上げ、まるで触ってはいけないモノに触れてしまったかのように、子供から手を離し、一歩二歩と後ずさり始めた。
子供には特別、変わった様子はない。豊は一体何に怯えているのだろう……。
「おい、どうした?」
不思議に思った翔太が声をかけると、豊は首を小刻みに振りながらこう言った。
「コイツの身体……変だ」
「変?」
「か、固い……」
優奈は思わず身を引いた。ずっと目を閉じていた男の子が突然パッと目を開いたのだ。こちらを振り返りながら後ずさる豊をじっと睨みつけている。
単なる子供の表情ではない。怒りに、いや殺意に満ち満ちている。
「豊!」
友一が警告を発したが遅かった。子供は軽快にジャンプした。艶のあるサラサラの髪の毛がフワリと躍る。そして、まるでコアラが木に抱きつくように、細い両腕で豊の首に巻きついた。
思いがけず首を絞めつけられた豊は目を剥き、もがき苦しんでいる。みるみるうちに顔色は青ざめ、ミミズのような血管が浮かび上がってくる。
「は……せ」
豊はまさしく死にものぐるいで動き回っているが、子供は離れようとはしない。背中から壁に突進して頭を強く打ちつけられても全く動じる気配はない。
「お、おい……豊!」
翔太や友一が助けに入ろうとするが、2人ともなかなか一歩を踏み出せない。優奈は美紀を連れて部屋の隅に移動した。竜彦は、観察するように突っ立っている。
頸動脈を絞め続けられている豊の動きは弱る一方で、顔は真っ白く変色してしまっている。
舌が不気味にベロリと垂れ下がり、そこからネットリとした涎が地面にポツポツと落ちる。
優奈と美紀は思わず顔を背けた。
「たす……て」
優奈は耳を塞ぐ。
その23 2007年01月12日(金)
微かな声で、仲間に助けを求めた直後、豊の動きが止まった。そのまま、床に倒れ込んだ。
子供は依然、豊に巻きついたままだった。
優奈たちは呆然と豊を見つめた。まるで時が止まってしまったかのように、誰も動かなかった。いや動けない。息をするのも忘れてしまうくらい、頭の中が真っ白になっていた。
すると、水から上げられた弱った魚が最後の力を振り絞って跳ねるように、突然、豊の身体がピクリと動いた。
「ゆ、豊?」
まだ助かるかもしれない。
翔太が一歩を踏み出そうとしたその時だった。
目が眩むほどの発光、そして凄まじい轟音を身体に感じた時にはすでに5人は爆風で吹き飛ばされていた。
壁に頭を強く打ちつけられた優奈たちは朦朧とする意識の中、何が起きたのかを理解しようとする。しかし、部屋中が白い煙に包まれているため、辺りの様子が全く分からない。近くにいるであろう美紀の姿も確認できないほどだった。
「みんな……大丈夫か?」
しばらくすると、友一の、力のない声が聞こえてきた。優奈は額や背中を押さえ、グッタリと天井を仰ぎながら、
「なんとか」
と返した。
「大丈夫だ」
「俺もだ」
翔太や竜彦も相当なダメージを受けているようだった。
「……美紀ちゃん?」
この衝撃で気を失ったのか、美紀からだけは返事がなかった。手探りするが、美紀を見つけることはできない。
爆発により部屋中を覆い尽くした白い煙は少しずつ薄れていく。どこかに換気口があるのだろうか。うっすらとではあるが、美紀の姿を確認できた。部屋の隅で、やはり意識を失っているようだ。
「美紀ちゃん!」
歩み寄ろうとした優奈は目の前に飛び込んできたモノに寒気を感じ、ビクリと足を止めた。
壁一面に飛び散った血と、赤黒い肉。そして床に散らばる豊のボロボロになった衣服と、粉々になった白い骨。豊の上半身は、引き裂かれたかのように、なくなっていた。残っているのは、もろに飛び出している内臓と、下半身。そして、豊の特徴である天然パーマの髪の毛……。
想像を絶する光景に優奈たちは声を失った。まさに地獄絵図であった。
優奈はふと頬に違和感を覚え、右手で〈それ〉を拭うと、指先にネチャリとした物体がひっついた。
豊の肉だ。赤い血に染まった肉の破片。優奈は悲鳴を上げ、思わずそれを投げ捨ててしまった。
「……豊」
信じられないというように、翔太が豊のいた部屋の中央に歩み寄る。そして、焼けこげた衣服を拾い集め、ギュッと胸に当てる。
友一は辛そうに顔を伏せ、竜彦は翔太を見据えている。冷静に現実を受け止めているような、そんな表情だ。
優奈の脳裏に、あの子供の顔がフラッシュバックする。
人間じゃなかったんだ。きっと、触れると爆発する仕組みになっていた……機械?
一瞬にして血の海と化した死の部屋。どこを見ても血や飛び散った肉などが目に入る。
胃液がこみ上げ、優奈は口に手を当てて必死に堪えた。涙で視界がぼやけるが、そのほうがよっぽど楽だった。
「もう……いや」
一人、また一人と殺されていく。
お願いだからもう許して……。
誰か助けて……。
優奈は立っていられなくなり、その場にしゃがみ込んで頭を抱えた。しかしいくら願ったところで、夢のように急に場面が変わるはずもなく、ただ無意味に時間が過ぎていくだけだった。
煙が完全に消えたところで、出口の扉がカチリと音を立てた。
その24 2007年01月15日(月)
一人が死ねば鍵が自然に開くという、人を人とも思っていないその機械的な仕組みに、優奈は怒りとともに恐怖を覚えた。
「行くしか、ないのか」
豊の衣服をそっと置き、翔太は呟く。
「美紀ちゃん、どうしよう?」
まだ目を覚ましていない、血に汚れた美紀に目をやりながら、優奈は意見を求める。
「こんなの……見せられないよね」
「とりあえず」
友一は美紀に歩み寄り、
「この部屋からは出よう。通路で目を覚まさせてあげればいい」
と言って、美紀を抱き上げた。そして決意のこもった声で、
「行こう」
と出口へ向かった。
扉を開けたのは竜彦だ。彼は一切振り返りはしなかった。この残酷な光景を見るのが辛かったのではない。逃げ出したかったわけでもない。背中が、心残りなどないといっている。竜彦が一番、豊と仲が良かったはずなのに……。
竜彦は優奈たちのことなど気にもとめず扉を閉めた。優奈は、仲間の死を何とも思っていない竜彦に、ある種の薄気味悪さを感じるようになっていた。友一もそうなのかもしれない。声には出さないが、こちらに意味ありげな視線を送ってきた。
「ほら、2人とも」
翔太が扉を開けてくれているのに気づき、優奈はハッと視線をそらす。美紀を担ぐ友一の背中を見ながら、優奈はつい振り返ってしまった。
部屋中に充満する血の臭い。
壁一面を赤く彩った肉片と皮膚。そして、部屋の真ん中にポツリと残っている下半身。
その一つひとつが目に、記憶に焼きついていく。優奈は眩暈(めまい)に襲われ、膝から崩れ落ちそうになった。そして逃げ出すかのように、部屋を後にした……。
通路では、友一が懸命に美紀に声をかけていた。その様子を見ながら、優奈の脳裏には豊の笑った顔が浮かんでいた。
豊はさわやかさはなかったけれど、サークルのムードメーカーで、いるだけで全体が明るくなるような、そんな雰囲気を持っていた。〈お調子者〉のイメージそのままの豊は、時に羽目を外しすぎてみんなに迷惑をかけることもたびたびあった。が、あの子供のような純粋な笑顔を見せられると、ついつい許してしまう。腹を立てても、誰もが内心ではこう思っていたはずだ。憎めなくて、かわいい奴だと……。
それに、豊はああ見えて家族思いなのだ。直接本人から聞いたわけではないが、母子家庭で生活が苦しいため、授業料はもちろん、生活費までバイトで稼いでいると。いつも明るく振る舞っていたのは、ともすれば塞ぎ込んでしまう自分を忘れたかったから、なのかもしれない……。
今思えば、正直、豊との思い出はあまりなく、笑っている顔だけが残っているのだった。
「美紀ちゃん? 大丈夫か、美紀ちゃん?」
声をかけ続けて数分。美紀は深い眠りから覚めるように、そっと目を開けた。そして、ここはどこ、というように辺りを見渡した。
やがて思い出したのか、美紀の表情は落胆の色を映す。
ひとまず安心した友一は美紀の肩に手を置き、
「まだ無理しなくていい。どこか痛む?」
「ちょっと」
「そうか。でも意識を取り戻してホッとしたよ。もの凄い爆発……」
友一が言葉に詰まった。思い出したくない映像が瞳をスッと掠(かす)める。
すると美紀が弾かれたように顔を上げた。
「爆発?」
友一は重い口を開く。
「ああ。俺たちは」
美紀は気づいたようだった。また1人、いなくなっていることに。
「そうなんだ。今度は、豊が犠牲に……」
美紀はすぐ意味を理解したようだ。涙を浮かべ、口に手を当てながら震え始めた。
「大丈夫……きっと」
そう言ってみても、まるで説得力がない。これまで、3人も犠牲になっているのだから。
友一は立ち上がると、次の扉に目を移した。
残り5人となってしまった。
その25 2007年01月16日(火)
この先も、まだ部屋は続いているのだろうか。そしてこの中からまた1人、犠牲者が出ることに……。
悔しいが、現実を受け止めなければならない。良い方法が見つかれば別だが。
まるで映画のような、ゲームのような、不条理で残酷なこの闇から、自分たちはいつ脱出できるのだろうか。
全滅するまで行われるのか。それとも……。
だとしたら俺は全力で優奈を守る。自分の命を落とすことになってもだ。それで彼女が助かるなら本望だ。
他の三人には悪いが、自分の中では優奈の命が一番重い。最後まで生きていてほしいと思う。
しかし、助かる者が出る可能性を考えること自体、無謀なのかもしれない。 僅かかもしれないが、希望を託して、この扉を開こう……。
第四の扉
3人が死んだというのに、時の流れは異様なほど静かだ。
美紀の体力が回復したところで、友一は皆に視線を送り、
「開けるぞ」
と扉に手を伸ばす。その声に迷いはない。しかし、どこか怯えが混じっているのを、優奈は感じた。
「開けろよ」
躊躇(とまど)いなど一切感じられない竜彦の声が聞こえた。先を焦っているような感すらある。
この自信に満ち溢れた態度は何なのだろう。
考えれば考えるほど、彼が分からなくなっていく。何かを企んでいるのは、確かだと思うのだが……。
友一が、鉄の扉に手をかける。優奈は、これが出口への扉であることを祈り続けた。
目の前に広がる光景を見た瞬間、優奈は胸を弾ませた。
出口だ! そう思ったのもつかの間、ただの勘違いであることを理解し、心を沈ませる。
今までよりも倍以上の広さだったため、これはもしや、と期待してしまったのだ。しかしよく見れば、やはり〈死の部屋〉に違いはなかった。殺風景すぎる室内には、殺伐とした空気が漂っている。優奈は、自分が服の袖を力強く握りしめているのに気づき、溜息を吐きながら力を抜いた。少しでも期待した自分がバカみたいだった。
友一は重い足取りで部屋に入る。次いで竜彦、翔太、美紀と、次々と進んでいく。
無意識のうちに、優奈の足も動いていた。後ろから誰かに背中を押されているような錯覚に陥る。
今までの部屋と違うのは広さだけではなく、床の作りにも変化があった。
コンクリートではなく、一面が黒いガラス張りだった。
真ん中に蛍光色に光る1本の線が入っているのは、何を意味しているのだろうか?
この部屋も先ほどと同様、扉を開くスイッチはない。何かが出てくるような小さな穴もない。しかし、一瞬の油断も許されない。必ず動きがあるはずだ……。
友一は天井、壁、床を念入りに確認しながら慎重に1歩、2歩と進んでいく。
「みんな、気をつけろよ」
翔太は顔をしかめ、友一の後ろに続く。竜彦もこの時だけは警戒している様子だ。
優奈はふと、どこからか軋むような音が聞こえてくるのに気づく。
足元からだ。1歩足を踏み出すたびに、ガラスがギシギシと音を立てている。それが耳障りで、寒気がしてくる。
思わず屈み込んで、ガラスに目を凝らす。そこには、恐怖に怯える自分の顔が映っていた。この数10分で、頬がゲッソリ痩せこけている。
まるでドクロのようではないか。とても自分だとは思えない酷い顔つきに、優奈はゾッとする。
「今度は一体……何だ!」
そう言って翔太が突然振り返った。思わず優奈はひっと飛び上がる。
「ど、どうしたの!」
妙な気配を感じるのか、翔太は優奈の肩ごしに、あらぬ何かを見つめている。
「清田くん?」
問いかけると、翔太は首を傾げた。
「……気のせいか。豊がこっちを見ていた気がしたんだよ」
思い過ごしではあったにせよ、第六感まで研ぎ澄まされている証拠だ。
「やめてよ!」
口から心臓が飛び出そうだった。
精神状態はもうとっくにピークを超えているというのに、死よりも先に、気を失ってしまいそうだ。
友一、翔太、竜彦、美紀の4人は部屋の中央で一度立ち止まる。
「……優奈ちゃん」
早く隣りに来てというように、美紀が不安げな声を洩らす。
この時、優奈はふと違和感を覚えた。
そういえば、美紀に名前で呼ばれたのは初めてではないか。ずっと松浦さんと呼ばれていた気がする。こんな場所で彼女との距離が縮まるなんて、皮肉なものだ。
この状況にもかかわらず、どうでもいいことを考えている自分を不思議に思う。少しでも気を紛らわせたいのかもしれない。
気持ちを落ち着かせるため一つ息を吐き、優奈は神経を集中させて、4人がいる中央部に進んでいく。美紀の隣りに立つと、美紀はこちらの袖を強く握りしめてきた。
微かな震えが伝わってくる。優奈は、
「大丈夫」
と囁き、美紀の右手を優しく包んだ。本当は、他人を安心させる余裕などないのだが、そう言葉をかけることで、一番安心感を得ているのは自分自身だった。
部屋の中央で輪を作った5人はお互いに背を向けて立ち、いつ何が起こってもいいように、万全の態勢を整えた。しかし、3つの部屋で、それぞれ必ず一人が犠牲になってきたことを思うと、〈助け合い〉という言葉は存在しないのかもしれない。だがこれ以上、犠牲者は出したくないし、自分だって死にたくない。何もできず、ただ待つだけの時間がこれほど辛いとは思わなかった。
その26 2007年01月17日(水)
5人は息を殺し、空気に触れる以外、無の状態を続ける。まるで時が止まっているかのように、部屋には一切の音がなくなっていた。
誰かがゴクリと息を呑んだ。その音すら大きく聞こえ、それだけで背筋がゾッと反応した。全身に鳥肌が立つのを、どうしても抑えられない。
極限状態に耐えられなくなったのか、翔太が口を開いた。
「おい……何も起こらないぞ」
何も起こらないのなら、それに越したことはないが、動きがないと逆に不安を感じるという妙な心境だった。
「また、変な子供がやってくるってことはないだろうな」
翔太は扉に目をやった。
それはあり得ないだろう。これまでの部屋のデータを基にすれば、ここでも別の〈恐怖〉が襲いかかってくるのは必至だろう。だが、それが何か分からないが故に、様々な想像が膨らみ、不安と恐ろしさは倍増した。
何も変化がないまま、さらに数分が経過した。時間にすれば、5分くらいだったろうが、全員が激しいプレッシャーを感じていた。温度の低い部屋の中でじっと立っているだけだ。それなのに、優奈の額からはベットリとした汗がツーッとこめかみに流れてきた。
汗を拭うという動作でさえ、生命の危険につながるのではないか。そんな気がしてならない。
その時だ。
床の真っ黒いガラスが、ギシ……ギシと音を立て始めた。咄嗟(とっさ)に5人は足元に目をやる。
ギシ、ギシ。音の間隔は短くなる。
ギシギシギシ……。
微かに揺れを感じた。優奈はバランスを失い、友一の肩にしがみついた。
「な、何よ」
優奈の視界に、床の中央部に描かれた1本の線が飛び込んでくる。別に深い意味はないと思い込んでいた。
しかし今になって気づいた。
まさか……が!
優奈が答えを出した時にはすでに遅かった。
床のガラスが真ん中から真っ二つに開いた。
全員の悲鳴が重なる。
足場を失った5人は、一気に真下に落とされた。
待ちかまえているのは水? 炎? それとも、そのまま転落……。
ほんの1秒か2秒の間に、様々な画が駆けめぐる。しかし目の前に現れたのは優奈の想像を遥かに超えるものだった。
砂地だ。5人は茶色い砂場に落とされた。しっかりと着地できた、友一、竜彦、翔太の3人に比べ、優奈と美紀はバランスを崩し尻餅をつく。
視界を遮るほどの砂埃が舞う。優奈は激しく咳き込みながらも、砂程度でよかったとひとまず息を吐いた。
「今度は何よ?」
優奈は声を震わせながら、辺りを見渡す。
「ふざけやがって」
竜彦が体についていた砂を鬱陶しそうに手で払い除けながら言った。
「野々村、大丈夫か?」
と翔太は美紀に手を貸した。
「ありがとう」
友一は足下の砂を見ながら、
「今のうちに逃げよう」
と、斜面の上にある出口のドアに歩もうとした。
その時だ。5人は同時に異変に気づいた。
身体が、みるみる砂の中に沈んでいく。蟻地獄のように吸い込まれていく。落ちた時のまま腰を下ろしていた優奈は、すでに靴が砂に埋まってしまっているのを見て、背筋が凍った。砂の中に引き込まれないよう、慌てて立ち上がる。
「ま、まずいぞ!」
翔太が声を荒らげて、もがき始めた。優奈は沈んでいく足を引っ張り上げるが、吸い込む力は思いの外強かった。
その力は、さらに勢いを増した。
まるで砂に喰われているかのように、あっという間に膝上まで埋まっていた。
全身に、サーッと冷たい感覚が走る。優奈は、溺れまいとするかのように、必死で両手をバタつかせ、何とか這い上がろうとする。だが、思うように身体が動かず、呑み込まれる一方だ。
「優奈ちゃん! 大丈夫か!」
まだ多少余裕のある友一に何とか引っ張り出された。しかし、息を吐く間もなく呑み込まれていく。
誰もが自分のことで精一杯で、狂乱する美紀の叫び声など耳に入っていなかった。
「みんな! 上に!」
吸い込まれていく身体を引き上げながら、翔太が指示を出した。扉の手前にはガラスでできた足場があり、どうやらそこが安全スペースのようだ。
あそこに上れば、助かる……。
その27 2007年01月18日(木)
希望を見出した優奈は息を荒らげながらも、汗だくになって砂を掻き分け、少しずつ、少しずつ前へ進んでいった。
汗が目に滲み、腕や足が悲鳴を上げる。それでも必死に扉を目指して身体を動かした。
まず初めにガラスの床を掴み、扉の前に到達したのは竜彦だった。次に翔太。そして、友一だ。
友一はすぐに振り返り、
「優奈ちゃん!」
と下に手を差し出してくれた。優奈はグッと腕を伸ばし、友一の手を掴もうとしたが、まだ手が届く距離にまでは到達していなかった。
一瞬動きを止めただけで、みるみる身体が埋まっていく。
「もう少し! 頑張るんだ!」
友一が優奈を見つめて叫んでいる。
優奈は体勢を整え、徐々に距離を縮めていく。
ここならと、優奈は再度腕を伸ばした。
届きそうで、届かない。まだ、数センチ足りない。微妙な距離に歯軋りしたい思いだった。何とかもう少し進んだところで手を伸ばすと友一の指に触れた。優奈は指先に神経を集中させる。腕の血管が破裂しそうなほど、目一杯伸ばす。
2人の手が、ようやく繋がった。
「よし!」
友一は気合いを入れると、唇を噛みしめ、グイグイと優奈を引き寄せ始めた。その友一が再び砂場に持っていかれないようにと、翔太が後ろから腰を押さえていた。
数秒遅かったら、どうなっていただろう。
腰まで砂に埋まっていた優奈は友一に引き上げられ、何とか、扉の前に到達することができた。
しかし、それで終わりではなかった。
助けを求める美紀の声に、慌てて下を見た。
美紀の身体は、胸の辺りまで呑み込まれてしまっている。両手をバタつかせ、必死にもがいている。しかし、もう彼女だけの力ではどうしようもできないことは、誰の目にも明らかだった。
もがいたせいで、いつもはきちんとしているはずの髪はボサボサに乱れ、表情には鬼気迫るものがあった。見慣れていたメガネも、どこかへいってしまっている。
いつも静かで穏やかな美紀は、そこにはいなかった。
「山岡くん!」
美紀を助けてくれるよう友一に求めたが、竜彦が即座に言いきった。
「やめとけ」
耳を疑うようなその言葉に、優奈は厳しい視線を投げつけた。
「いい加減分かるだろう。必ず1人が犠牲にならなければ、扉は開かない。もしあいつを助ければ、どうなるんだ? お前が落ちるのか?」
そう言った竜彦は、今度は友一に視線を向ける。
「お前は松浦を助けた。それがどういう意味か、自分でも分かってるだろ」
その言葉は鋭い槍の如く、友一の胸に突き刺さった。友一は何も言い返せず、視界から美紀を消すように背を向けた。
4人の耳に、美紀の金切り声が響く。肩まで埋まってしまった美紀の、顔は真っ青で泣き叫びながら助けを待っている。
その時、間近に迫りつつある死に怯える美紀と、目が合ってしまった。
頼れるのはあなただけ。ねえ助けてお願い。死にたくない。彼女の目がそう訴えている。
優奈は辛くて見ていられず、
「ごめん」
と呟いて顔を伏せた。自ら仲間を見捨てた瞬間だった。
「お願い、助けて!」
それが彼女の最期の叫びだった。同時に、左右に開いていた床のガラスが元の位置に戻り始めた。
優奈が顔を上げると、渦巻く砂に呑み込まれつつある漆黒の髪の毛が見えた。
その髪の毛には、彼女の怨念が宿っているように思えてならなかった。
見殺しにしたあなたたちを許さない……。
やがて、その黒髪も砂の中に消え、後には穏やかな砂地だけが残った。
優奈は自分のとった行動が恐ろしくなり、助けを求める彼女の瞳を忘れようと、消えた美紀に背を向けた。
ガラスの床が元の位置に戻ると、扉の鍵が開いた。しかし優奈はそのことに気がつかない。
美紀だけではない。豊も私たちを恨んでいるはずだ。もしかしたら、照之や千佳さえも……。
美紀の死は、悲しみよりも恐怖を生んだ。
突然、肩を叩かれた優奈は小さな悲鳴を上げ、その手を振り払った。振り返るとそこには友一の驚いた顔があった。
「優奈ちゃん……大丈夫?」
落ち着くように自分に言い聞かせたが、動揺は隠せなかった。優奈は目を泳がせながら、
「行きましょう」
と自ら扉を開けた。
逃げたかった。彼女の怒りと哀しみの渦巻くこの部屋から一刻も早く。
優奈は逃げるかのように通路に出た。しかし、いつまでも、美紀の泣き声が耳から離れない。耳を塞いでも、消えてはくれなかった。
優奈は、自分が素足になっていることに、まだ気づいてはいなかった……。
ブログ編 最終回 2007年01月19日(金)
ここは一体どこなのか。そして犯人は誰か。
1人の死と引き替えに部屋の扉が開くという理不尽な仕組みに、初めは恐怖を覚え取り乱したが、今となってはもうどうでもいい。
上等だ。受け入れてやる。
薄い暗闇の中、竜彦は不気味な笑みを浮かべていた。
これで残りは4人になった。
生き残るのは何人だ? 全滅するのではないかと恐れている奴もいるようだが、俺はそうは思わない。必ず助かる者が出る。
それがこの俺だ。どう考えたって俺しかいないだろう。こんなカスども、死んだってどうってことない。生き残る価値はない。
だが俺にはある。
俺は将来を期待されているんだ。全国に展開している大手アパレル企業の社長である父からその座を譲り受け、多くの部下を従え天下をとる。頂点に立てば、全ては思いのままだ。牧田グループの名を、さらに世に轟かすことができる。
幼い頃からそう教え込まれた。
いわば、使命である。
こんな、訳の分からないところで死ぬわけにはいかない。ここで人生を終わらせてはならない。
だから誰にも邪魔はさせない。生き残るためには何でもする。そう、殺しだって何だって……。
竜彦の脳裏に、パニックに陥った美紀の姿が過ぎる。
砂場に落とされ、身体が沈んでいくことに全員が気づき混乱していた時、俺は美紀の肩を押しつけた。這い上がることに必死だった友一たちは勿論、美紀自身も、そうされていることに気づいていないようだった。
あの時の俺は、どんな顔をしていたのだろう。こいつを殺せば俺は助かると、まるで悪魔のような表情をしていたに違いない。
あの最期の叫び声に、かつてない興奮を感じ、全身がゾクゾクした。狂気に満ちている自分に快感すら覚えた。
人が苦しんでいるのを見ると、不思議と血が騒いだ。
自分がこんなにも恐ろしい人間だったなんて……。
だが悪い気はしない。
竜彦は、優奈の背中を見つめている友一にほくそ笑んだ。
どうやらコイツはこの女に惚れているらしい。だから美紀を見捨てて優奈を助けた。
友一のことだ。自分の命を犠牲にしてでも女を助けるだろう。だがそうはさせない。2人とも地獄に突き落としてやる。一緒に死ねるんだ。友一だってそのほうが嬉しいだろう。
この先、どんな壁が立ちはだかっているか分からない。だが俺は決して死なない。こいつらを踏み台にしてでも。
次は、松浦優奈の番だ。
前から気に入らなかったんだ。何かにつけてこの俺様につっかかってくる。そんなに俺が嫌いなら、お前が消えればいいんだ。
真の恐怖を味わわせてやる……。
優奈を見据える竜彦の瞳が、不気味な光を放った……。
ブログ編 ドアD 了
ニュースです。 2007年01月24日(水)
ニュースです。
山田悠介さんのブログ連載小説『ドアD』をご覧いただいた皆様、ご愛読ありがとうございました。ただ、ブログ編の続きが気になって仕方がないという方もきっと多いことかと思います。
そんな皆様にニュースです。
この度、1月26日に幻冬舎より、ブログ編のその後も書かれた書籍『ドアD』が発売されることになりました。さらなる盛り上がりをみせる、『ドアD』ブログ編の続きを、ぜひともお楽しみください。
なお、はじめてこのサイトに来訪していただいた方は、右下にある[プロローグ]をクリックしていただければ、第1話から読むことができます。
よろしくお願いいたします。 (オリコンスタッフより)
http://blog.oricon.co.jp/door-d/